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      ○ ELEVATER FOR AMERICA.       ○ 三羽の鶏は蛇紋石の階段である。ルンペンと毛布。       ○ ビルデイングの吐き出す新聞配達夫の群。都市計画の暗示。       ○ 二度目の正午サイレン。       ○ シヤボンの泡沫に洗はれてゐる鶏。蟻の巣に集つてコンクリヒトを食べてゐる。       ○ 男を挪ぶ石頭。 男は石頭を屠獣人を嫌ふ様に嫌ふ。       ○ 三毛猫の様な格好で太陽群の隙間を歩く詩人。 コケコツコホ。  途端 磁器の様な太陽が更一つ昇つた。       ○
底本:「李箱作品集成」作品社    2006(平成18)年9月15日第1刷発行 底本の親本:「朝鮮と建築 第十一集第七号」朝鮮建築会    1932(昭和7)年7月 初出:「朝鮮と建築 第十一集第七号」朝鮮建築会    1932(昭和7)年7月 ※底本は横組みです。 入力:坂本真一 校正:春日井ひとし 2017年12月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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海兵ガ氾濫シタ 海兵ガ―― ――軍艦ガ靴ノ様ニ 脱ギ捨テラレテアツタ
底本:「李箱詩集」花神社    2004(平成16)年4月1日初版1刷 ※本文末の蘭明氏による注は省略しました。 入力:坂本真一 校正:hitsuji 2021年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 夏場の市はからきし不景気で、申ツ半時分だと露天の日覆の影もそう長くは延びていない頃だのに、衢は人影もまばらで、熱い陽あしがはすかいに背中を焙るばかりだった。村のものたちはあらかた帰った後で、ただ売れはぐれの薪売りの組がはずれの路傍にうろうろしているばかりだが、石油の一と瓶か乾魚の二三尾も買えばこと足りるこの手合を目当にいつまでも頑張っている手はなかった。しつこくたかってくる蠅と餓鬼共もうるさい。いもがおで左利きの、太物の許生員は、とうとう相棒の趙先達に声をかけた。  ――たたもうじゃねえかよ。  ――その方が気が利いてるだ。蓬坪の市で思うようにはけたこたあ一度だってありゃしねえ。明日は大和の市じゃで、もりかえしてやるだよ。  ――今夜は夜通し道中じゃ。  ――月が出るぜ。  銭をじゃらじゃら鳴らせ、売上高の勘定を始めるのを見ると、許生員は𣏾から幅ったい日覆を外し、陳列してあった品物を手繰り寄せた。木綿類の畳物と綢類の巻物で、ぎっしり二た行李に詰った。筵の上には、屑物が雑然と残った。  市廻りの連中は、おおかたみせをあげていた。逸疾く出発して行くのもいた。塩魚売りも、冶師も、飴屋も、生姜売りも、姿は見えなかった。明日は珍富と大和に市が立つ。連中はそのどちらかへ、夜を徹し六七里の夜道をてくらなければならなかった。市場は祭りの跡のようにとり散らかされ、酒屋の前では喧嘩がおっ始まっていたりした。酔痴れている男たちの罵声にまじって、女の啖呵が鋭く裂かれた。市日の騒々しさは、きまって女の啖呵に終るのだった。  ――生員。俺に黙ってるだが、気持あ解るだよ。……忠州屋さ。  女の声で、思い出したらしく、趙先達は北叟笑みをもらした。  ――画の中の餅さ。役場の連中を、相手じゃ、勝負にならねえ。  ――そうばかりもゆくめえ。連中が血道を上げてるのも事実だが、ほら仲間のあの童伊さ、うまくやってるらしいで。  ――なに、あの若僧が。小間物ででも釣っただべえ、頼母しい奴だと思ってただに。  ――その道ばかりゃあ判んねえ。……思案しねえと、行ってみべえ。俺がおごるだよ。  すすまないのを、跟いて行った。許生員は女にはとんと自信がなかった。いもがおをずうずうしくおしてゆくほどの勇気もなかったが、女の方からもてたためしもなく、忙しいいじけた半生だった。忠州屋のことを、思って見ただけで、いい年して子供のようにぽっとなり、足もとが乱れ、てもなくおびえ竦んでしまう。忠州屋の門をくぐり酒の座席で本当に童伊に出会わした時にはどうしたはずみでか、かっと逆上せてしまった。飯台の上に赭い童顔を載せ、いっぱし女といちゃついているところを見せつけられたから、我慢がならなかった。しゃらくせえ野郎、そのだらしねえ様は何だ、乳臭え小僧のくせに、宵の口から酒喰らいやがって、女とじゃれるなあ、みっともねえ、市廻りの恥曝しだ、それでいておいらの仲間だと言えるかよ。いきなり若者の前に立ちふさがると、頭ごなしに呶鳴りつけた。大きにお世話だと云わぬばかりに、きょとんと見上げる赤い眼にぶっつかると、どうしても頬打を喰わしてやらずにはおれなかった。童伊はさすがにかっとなって立ち上ったが、許生員は構わず言いたいだけを言ってのけた。――どこの何者だかは知んねえが、貴様にもててはたまるべえ、そのはしたねえ恰好見せつけられたら何と思うかよ、商売は堅気に限る、女なんてもっての外だ、失せやがれ。さっさと失せやがれ。  しかし一言も歯向かわず悄らしく出てゆくのをみると、いじらしくなって来た。まだ顔覚えな仲間にすぎない、まめな若者だったのに、こっぴどすぎたかなあ、と何か身につまされて気にかかった。随分勝手だわ、同じ客同志なのに、若いからって息子同様の相手をとらえて意見したり乱暴したりするほうってないわよ。忠州屋は唇を可愛くひんまげ、酒を盛る手つきも荒々しかったが、若えものにゃあその方が薬になるだよと、その場は趙先達がうまくとりつくろってくれた。お前、あいつに首ったけだな、若えのをしゃぶるなあ罪だぜ。ひとしきり敦圉いた後とて度胆も坐ってきた上に、なぜかしらへべれけに酔ってみたい気持もあって、許生員は差される盃は大抵拒まなかった。酔が廻るにつれ、しかし女のことよりは若者のことが一途に気になってきた。儂風情が女を横取りしてどうなるというのだ、愚にもつかないはしたなさを、はげしくきめつけるこころも一方にはあった。だからどれほど経ったか、童伊が息をきらしながら慌てて呼びに来た時には、飲みかけの盃を抛り、われもなくよろめきながら、忠州屋をとび出したのだった。  ――生員の驢馬が、綱をきってあばれ出したんだ。  ――餓鬼共のいたずらに違いねえ。  驢馬もさることながら、童伊の心掛けが胸にしみて来た。すたこらすたこら衢をぬけて走っていると、とろんとした眼が熱くなりそうだった。  ――伝法な野郎共ときたら、全くしまつにおえねえ。  ――驢馬を嫐る奴あ、ただではおかねえぞ。  半生を共にしてきた驢馬だった。一つ宿に寝、同じ月を浴び、市から市をてくり廻っているうち、二十年の歳月がめっきり老を齎らしてしまった。すりきれたくしゃくしゃの鬣は、主のそそけた髪にも似て来、しょぼしょぼ濡れている眼は、主のそれと同じくいつも目脂をたたえていた。箒みたいに短くなった尻尾は、蠅をおっ払うため精一杯振ってももう腿には届かなかった。次の道中にそなえるため、すり減った蹄を削り削り何度新しい鉄を嵌め換えたか知れない。だがもう蹄は延びなくなり、すり切れた鉄のすきまからは痛々しく血がにじみ出ていた。匂で主人が判った。いつも訴えるような仰山な嘶き声で迎える。  よし、よし、と赤児でもあやす気持ちで頸筋を撫でてやると、驢馬は鼻をびくつかせながら口をもってきた。水っ洟が顔に散った。許生員は馬煩悩だった。よっぽど悪戯がきいたと見え、汗ばんだ躯がびくびく痙攣りなかなか昂奮のおさまらぬ面持だった。馬勒がとれ、鞍もどこかへ落ちてしまっている。やい、しょうちのならねえ餓鬼共、と許生員は我鳴り立ててもみたが、連中はおおかた散り失せたあとで、数少くとり残されたのが権幕に気圧されあたりから遠のいているだけだった。  ――いたずらじゃねえ。雌を見て、ひとりで暴れ出したんだ。  洟っ垂の一人が、不服そうに遠くから呶鳴り返してきた。  ――なにこきやがる、黙れ。  ――ちがう、ちがうだよ。あばたの許哥め。金僉知の驢馬が行っちまうと、土を蹴ったり、泡をふいたり、気違いみてえに狂い出したんだ。おいら面白がって見ていただけだい。お腹の下をのぞいてみい。  小僧はませた口吻で、躍気になってわめきながら、きゃっきゃっ笑い崩れた。許生員は我知らず、忸怩と顔を赧らめた。あけすけな無遠慮な部分は、まだ踊り狂っている残忍な視線からかばい匿すように、許生員はその前に立ちはだからねばならなかった。  ――おいぼれのくせに、いろ気違いだよ、あのけだものめ、  許生員は、はっとなったが、とうとう我慢がならず、みるみる眉をひきつらすと、鞭をふりあげ遮二無二小僧をおっかけた。  ――追っかけてみるがええ。左利きが殴れるかい。  韋駄天に走り去る小僧っ子には、おいつきようもなかった。左利きは全く子供にも叶わない。許生員は破れかぶれに鞭を抛ってしまうより外なかった。酔も手伝ってからだが無性に火照り出した。  ――ええ加減出発した方がましだよ。奴等を相手じゃきりがねえ。市場の餓鬼共ときたら怖ろしいやつらばかりで、大人よりもませてやがるだでな。  趙先達と童伊は、めいめいの驢馬に鞍をかけ、荷物を載せはじめていた。陽も大分傾いたようだった。  太物の行商を始めてから二十年にもなるが、許生員は滅多に蓬坪の市を逸らしたことはなかった。忠州や堤川あたりの隣郡をうろついたり、遠く嶺南地方にのびたりすることもあるにはあったが、江陵あたりへ仕入れに出掛ける外は、始終一貫郡内を廻り歩いた。五日毎の市の日には月よりも正確に面から面へ渡って来る。郷里が清州だと、誇らしげに言い言いしてはいたが、そこへおちついたためしはない。面から面への美しい山河が、そのまま彼にはなつこい郷里でもあった。小半日もてくって市場のある村にほぼ近づき、ほっとした驢馬が一と声景気よく嘶く時には――殊にそれが晩方で、村の灯がうす闇の中にちらちらでもする頃合だと、いつものことながら許生員はきまって胸を躍らせた。  若い時分には、あくせく稼いで一と身代拵えたこともあったが、邑内に品評会のあった年大尽遊びをしたり博打をうったりして、三日三晩ですっからかんになってしまった。驢馬まで売りとばすところだったが、なついて来るいじらしさにそれだけは歯を喰いしばって思い止った。結局元の木阿弥のまま行商をやり直す外はなかった。驢馬をつれて邑内を逃げ出した時には、お前を売りとばさんでよかった、と道々男泣きに泣きながら、伴侶の背中を敲いたものだった。借金が出来たりすると、もう身代を拵えようなんてことは思いもよらず、いつも一杯一杯で、市から市へ追いやられるばかりだった。  大尽遊びとはいえ、女一匹ものにしたことはない。そっけないつれなさに、わが身の情なさをしみじみ悟らされるばかりで、このからだじゃ生涯縁がないものと、観念しなければならなかった。近しい身内のものとては、前にも後にも一匹の驢馬があるきりだった。  それにしても、たった一つの最初の想出があった。あとにもさきにもない、一度きりの、奇しき縁ではあった。蓬坪に通い出して間もない、うら若い時分のことだったが、それを思い出す時ばかりは、彼も、生甲斐を感じた。  ――月夜だっただが、どうしてそねえなことになったか、今考えてもどだい解りゃしねえ。  許生員は今宵もまたそれをほぐし出そうとするのである。趙先達は相棒になって以来、耳にたこの出来るほど聞かされている。またか、またかとこぼすけれども、許生員はてんでとりあわずに繰返すだけは繰返した。  ――月の晩にゃ、そういう話に限るだよ。  さすがに趙先達の方を振り返ってはみたが、気の毒がってではない、月のよさに、しみじみ感動してであった。  虧けてはいたが、十五夜を過ぎたばかりの月は柔和な光をふんだんにふり濺いでいた。大和までは七里の道のりで、二つの峠を越え一つの川を渉り、後は原っぱや山路を通らなければならなかったが、道は丁度長いなだらかな山腹にかかっていた。真夜中をすぎた頃おいらしく、静謐けさのさなかで生きもののような月の息づかいが手にとるように聞え、大豆や玉蜀黍の葉っぱが、ひときわ青く透かされた。山腹は一面蕎麦の畑で、咲きはじめたばかりの白い花が、塩をふりかけたように月に噎せた。赤い茎の層が初々しく匂い、驢馬の足どりも軽い。狭い路は一人のほか通さないので、三人は驢馬に乗り、一列に歩いた。鈴の音が颯爽と蕎麦畑の方へ流れてゆく。先頭の許生員の話声は、殿の童伊にはっきりと聞きとれなかったが、彼は彼自身で爽やかな気持に浸ることも出来た。  ――市のあった、丁度こねえな晩だったが、宿の土間はむさ苦しゅうてなかなか寝つかれも出来ねえ、とうとう夜中に一人でぬけて川へ水を浴びに行っただ。蓬坪は今もその時分も変りはねえがどこもかしこも蕎麦の畑で、川べりは一面の白い花さ。川原の上で結構宜かっただに、月が明るすぎるだで着物を脱ぎに水車小屋へ這入ったさ。ふしぎなこともあればあるものじゃが、そこで図らずも成書房の娘に出会しただよ。村いっとうの縹緻よしで、評判の娘だっただ。  ――運てやつだべ。  そうには違いねえ、と相槌に応じながら、話の先を惜しむかのように、しばらく煙管を吸い続けた。紫の煙が香ばしく夜気に溶け込んだ。  ――儂を待ってたわけじゃねえが、外に待つ人があったわけでもねえ。娘は泣いてるだよ。うすうす気はついていただが、成書房はその時分くらしがえろうてほどほど弱ってるらしかっただ。一家のことだで娘にだって屈託のねえはずはねえ。ええとこがあればお嫁にもゆかすのだが、お嫁はてんでいやだときてる、……だが泣いてる女って格別きれいなものじゃ。はじめは驚きもした風だったが、滅入っている時にゃ気持もほぐれ易いもので、じき知合のように話し合っただ。……愉しい怖え夜じゃった。  ――堤川とかへずらかったなあ。あくる日だっただな。  ――次の市日に行った時にゃ、もう一家はどろんを極めていなくなっただよ。まちは大変な噂で、きっと酒屋へ売られるにきまってると、娘は皆から惜しまれてただ。幾度も堤川の市場をうろついてはみただが、女の姿はさらに見当らねえ、縁の結ばれた夜が、縁の切れ目だっただ。それからというもの蓬坪が好きんなって、半生の間通い続けさ。一生忘れっこはねえ。  ――果報者だよ。そねえにうめえ話って、ざらにあるものじゃねえ。大抵つまらねえ女と否応なし一緒んなって、餓鬼共ふやして、考えただけでうんざりする。……だがいつまでも市廻りでくらすのも豪うてな、俺あこの秋までで一先ずきりあげ、どこかへ落着こうかと思うだよ。家のもの共呼び寄せ、小さな店をもつだ。道中はもうこりごりだでな。  ――昔の女でも見付け出しゃ、一緒にもなろうが。……儂あ、へたばるまで、この道てくってこの月眺めるだよ。  山腹を過ぎ、道も展けて来たので、殿の童伊も前へ寄って出た。驢馬は横に一列をつくった。  ――お前も若えじゃで、うまうやりおるべえ。忠州屋ではついのぼせてあねえなしまつになっただが、悪う思わんどくれよ。  ――ど、どうして、かえって有りがてえと思っとるくらいだ。女なんて柄にもねえ、おふくろのことで今一杯なんだ。  許生員の物語でつい考え込んでいた矢先だったので、童伊の口調はいつになく沈んでいた。  ――てては、と云われて、胸を裂かれる思いだったが、俺にはそのてておやがねえんだよ。身内のものとては、おふくろ一人っきりだ。  ――亡くなっただか。  ――始めからねえんだ。  ――そねえな莫迦な。  二人の聴手がからからと仰山に笑うと、童伊はくそ真面目に抗弁しなければならなかった。  ――恥かしゅうて云うめえと思ったが、本当なんだ。堤川の田舎で月足らずのててなし児を産みおとすと、おふくろは家を追い出されてしまったんだ、妙な話だが、だから今までてておやの顔を見たこともなければ、居処さえも知らずにいる。  峠の麓へさしかかったので、三人は驢馬を下りた。峠は嶮しく、口を開くのも臆劫で、話も途切れた。驢馬はすべりがちで、許生員は喘ぎ喘ぎ幾度も脚を歇めなければならなかった。そこを越える毎に、はっきりと老が感じられた。童伊のような若者が無性に羨しかった。汗が背中をべっとり濡らした。  峠を越すとすぐ川だったが、夏の大水で流失された板橋の跡がまだそのままになっているので、裸で渉らなければならなかった。下衣を脱ぐと帯で背中に括りつけ、半裸の妙な風体で水の中に跳び込んだ。汗を流したやさきではあったが、夜の水は骨を刺した。  ――で全体、誰に育てて貰ったんだよ。  ――おふくろは仕方なく義父のところへやられて、酒屋を始めたんだ。のんだくれで、ええ義父ではなかった。ものごころがついてからというもの、俺は殴られ通しだった。おふくろも飛ばっちりを喰って、蹴られたり、きられたり、半殺しにされたり、さ。十八の時家をとび出してからというもの、ずっとこの稼業の仲間入りだよ。  ――道理でしっかりしてるたあ思っただが、聞いてみりゃ気の毒な身の上じゃな。  流れは深く、腰のところまでつかった。底流も案外に強く、足裏にふれる石ころはすべすべして、今にもさらわれそうだった。驢馬や趙先達は早くも中流を渡りきり岸に近づいていたが、童伊は危っかしい許生員を劬わりがちで、ついおくれなければならなかった。  ――おふくろの里は、もとから堤川だったべえか。  ――それが違うだよ。何もかもはっきり言ってくれねえから判んねえが、蓬坪とだけは聞いている。  ――蓬坪。で、その生みのてておやは、何ていう苗字だよ。  ――不覚にも、聞いておらねえ。  そ、そうか、とそそかしく呟きながら眼をしょぼしょぼさせているうち、許生員は粗忽にも足を滑らしてしまった。前につんのめったと思う間に、体ごとさらわれてしまった。踠くだけ無駄で、童伊がいけねえっと近よってきた時には、早くも数間流されていた。着物ごとぬれると、犬ころよりもみじめだった。童伊は水の中で易々と大人をおぶることが出来た。びしょ濡れとはいえ、痩せぎすの体は背中に軽かった。  ――こねえにまでして貰ってすまねえ。儂今日はどうかしてるだよ。  ――なに、しっかりなせえ。大丈夫だい。  ――で、おふくろというなあ、父を探してはおらねえかよ、  ――生涯一度会いたいとは云ってるだが。  ――いま何処にいる。  ――義父とももう別れて、堤川にいるんだが、秋までに蓬坪へ連れてきてやろうと思うんだ。なに、まめに働けば何とかやってける。  ――殊勝な心掛けだ。秋までにね。  童伊のたのもしい背中を、骨にしみて温く感じた。川を渡りきった時にはものさびしく、もっとおぶって貰いたい気もした。  ――一んちどじばかり踏んで、どうしただよ。生員。  趙先達はとうとう笑いこけてしまった。  ――なに、驢馬さ。あいつのこと考えてるうち、うっかり足を辷らしちゃっただ。話さなかっただが、あいつあれでも仔馬産ませやがってな。邑内の江陵屋んとこの雌馬にさ。いつも耳きょとんと欹て、すたこらすたこら駈け歩いて、可愛い奴だ。儂あそいつ見たさに、わざわざ邑内へ廻ることがあるだよ。  ――なるほど大した仔馬だ。人間を溺れさすほどの代物なら。  許生員はいい加減しぼって着始めた。歯ががたがた鳴り、胸が震え、無性に寒かったが、心は何となくうきうきとうわつき、軽かった。  ――宿のあるところまで急ぐだ、庭に焚火して、一服しながらあたるだよ。驢馬にゃ熱い秣をたらふく喰わしてやる。明日の大和の市がすんだら、堤川行きだでな。  ――生員も堤川へ。  ――久方振りで行きとうなった。お伴すべえよ、童伊。  驢馬が歩き出すと、童伊の鞭は左手にあった。長い間迂闊であった許生員も、今度ばかりは童伊の左利きを見落すわけにはゆかなかった。  足なみも軽く、鈴がひときわ爽かに鳴り響いた。  月が傾いていた。
底本:「〈外地〉の日本語文学選3 朝鮮」新宿書房    1996(平成8)年3月31日第1刷発行 底本の親本:「文学案内」    1937(昭和12)年2月号 初出:「文学案内」    1937(昭和12)年2月号 ※底本の編者による脚注は省略しました。 入力:坂本真一 校正:hitsuji 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 子供の頃「坊やん」と謂はれて居た小悧好な男があつた。彼の家はさして生計が豊かといふわけではなかつたが、さうかといつて苦しいといふわけではなく、田畑も少しは人にも貸して尚自分の家でも充分な耕作をして居たやうなところから、女ばかり引きつゞいて生れた後にひよつこり男の子として彼が生れた家庭は、ひた愛でに愛でつくして、某といふりつぱな名前があるにも拘らず「坊や、坊や」と呼び呼びした。隣家のものが先づ「坊やん」と呼び出した。何時の間にか村中誰彼となく「坊やん、坊やん」と呼ぶやうになつてしまつた。  坊やんは頭が少しくおでこで、ひきしまつた口元から、頬のあたりがほんのりと薄くれなゐの色をおび、すゞしげな眼をもつた容子が如何様紅顔の美少年であつた。どんな他愛ない事柄でも必ず面白さうに話すおぢいさんの肩車に乗つて、時には大きな蟇を赤裸にしたのをぶら下げたり鰻を棒の先きにくゝりつけて田圃路を帰つて来ることなどもあつた。坊やんはこのおぢいさんのみならず家族のすべてに可愛がられ山間の僻村は僻村だけに珍といふ珍、甘いといふ甘いものを喰はせられた。鰻の如きは焼き方から蒸しの具合に好味があらうけれども蟇の如きに至つては、焼いて醤油をたらすや即ち彼のぜいたくな大谷光瑞伯をして舌鼓を打たしむる底の妙味を有するといへば坊やんさぞ満足して舌鼓を打ちつゝ大きくなつたことであらうと思ふ。  坊やんが青年期に入らんとするとき、坊やんの父は病を得て死んだ。養蚕に熱心なあまり、夜半の天候を気づかひつゝ毎夜々々庭前に筵を敷いて、わざと熟睡の境に入ることが出来ないやうに木枕をして寝て居た。空が僅かにかき曇つて雨がぽつりと仰向いた顔へ落ちたかと見ると忽ち坊やんの父は跳ね起きて桑の用意にかゝつた。そんな事からからだを弱くして死んでしまつたと近隣のものが言ひ伝へた。  坊やんは蟇や鰻でそだてられたお蔭にめき〳〵大きく丈夫な体格になつていつて、多くの青年の間へ交つても天晴かゞやかしい風丰を見せるやうになつた。  又、おぢいさんがころりと死んだ。其のおぢいさんが鳩や雉子を打つ為めに、打つて坊やんに与ふる為めに、あやまつて自分の掌を打ち貫いた為めに、瓢軽な童謡にのこされたおぢいさんは他愛もなく病死してしまつたのである。と又翌くる年の夏、大出水の為めに谷川ばたの畑へ水防に出て居た坊やんの母が、どんぶり濁流へ落ちるとそのまゝ川下へ流れて行つて溺死してしまつた。山間僻村の最低地域をたゞ一筋流れて居る谷川ばたに其処に一つ此処に一つ僅かにくつ付いて居る畑の水防などに出るものは、坊やんの母とその時一緒に行つて居た坊やんの家の傭人との外には絶えてなかつた。坊やんの母といはるゝ人も平常はさほど慾深な――少しの荒畑の畔がかけるのを惜むものゝやうに思はれても居なかつたのであるが――。  昔、坊やんの家の菩提寺の所有であつた古墓地を、坊やんのおぢいさんが手に入れてだん〳〵それを開墾し今は上等な桑畑になつて居る。髑髏の大きな眼窩や梭のやうな肋骨の間へ根を張つた桑は附近の桑畑より余分に青々と茂つて居た。そんな無縁仏に罪をつくつて居るが為めに凶事がつゞくのだといふやうに口さがない山賤が茶を飲みあふにつけ煙草を吸ひあふにつけ話しあつた。  それから二三年過ぎると「坊やん」が一度神がくしにあつた。村人がさがしに行くと坊やんは青ざめた顔をして渓流を隔てた向ふの山の中腹に立ちつくして居た。軈て坊やんは妻をめとる幸運に向つて、その花妻がまた村人のほめものであつた。美しいかほかたちをそなへた上に人並すぐれた働きもので、坊やんと坊やんのおばあさんと坊やんの妹たち二三人の家庭の中に女王のやうに振舞つた。坊やんは身も世もなく妻を可愛がつた。  二三年可も不可もなく坊やんの家庭が平穏につゞけられていつた。其の中に坊やんが時々病気が起つて卒倒するといふやうな噂がたつた。事実病気の為めに苦しめられた坊やんはさんざん田舎医師へ通ひつめた末、人のすゝめるまゝに灸をすえてみたり滝にうたれてみたり、神詣でをしたりした。其の間に、美しいかほかたちの大きな体格をもつた妻のところへ、坊やんの甥が時々遊びに来た。甥とは言ひながら坊やんの長姉である人の子は坊やんと年齢の差が僅かに二ツ三ツであつた。村人の風評に上るやうになつてから間もなく坊やんの妻は、坊やんの甥に手を引かれて隣国の信濃へしばらく身をかくした。坊やんはそれからといふもの次第に精神が錯乱していつて、鉈をもつてわけもなく家族を逐ひ廻してみたり、日傭取りの男女をつかまへて擲ぐりつけたりした。気狂ひとして村人から取扱はれてから三四年の月日が過ぎた。坊やんの妻であつた女と、坊やんの甥である男も今は人の噂を踏みにぢつて、大ぴらに村へ帰つてから空家を借りて睦まじく生活をつゞけて居た。坊やんは火をつける事を好んで、毎日家族の油断をねらひすましては燧火をすつて藁屋敷の廂などへつけ〳〵したが、いつも家族の誰かに発見せられては消されてしまつた。  丁度、立秋の気がみなぎつて来た或る日の正午頃、山村の中所に吊られた鐘が慌しく鳴らされた。  私も庭前へ出て見た。  坊やんの家のあたりから天へ高く沖する煙が見えた。矢庭に馳せていつて見ると、坊やんの大きな藁家は天井一杯火になつて、東の窓口から濛々と黒煙が焔を交へて吐き出されて居た。桑摘みに出かけた家族の留守をねらつて坊やんは麦藁の束に火をかけ、その火の束を振りかざして屋内どこと定めず天井へまでかけ上つて焔を移して歩いた。而うして見る見る焼けつくさんとする我が家を仰いで、倒れんばかり身を傾けつゝ満面よろこびの色を呈して踊り歩いた。身内の男がかけつけて来て力まかせに坊やんの頭といはず背といはず叩きつけて居る下に坊やんは酔どれのやうに身をぐた〳〵させて手をたゝきながらつきせず踊つた。  海嘯のやうに人の波が押し寄せる中に家は火の海になつて燃え落ちた。
底本:「日本の名随筆37 風」作品社    1985(昭和60)年11月25日第1刷発行    1997(平成9)年2月20日第13刷発行 底本の親本:「山盧随筆」宝文館    1958(昭和33)年11月 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年11月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "055131", "作品名": "秋風", "作品名読み": "あきかぜ", "ソート用読み": "あきかせ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-01-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/card55131.html", "人物ID": "001695", "姓": "飯田", "名": "蛇笏", "姓読み": "いいだ", "名読み": "だこつ", "姓読みソート用": "いいた", "名読みソート用": "たこつ", "姓ローマ字": "Iida", "名ローマ字": "Dakotsu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-04-26", "没年月日": "1962-10-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆37 風", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1985(昭和60)年11月25日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年2月20日第13刷", "校正に使用した版1": "1997(平成9)年2月20日第13刷", "底本の親本名1": "山盧随筆", "底本の親本出版社名1": "宝文館", "底本の親本初版発行年1": "1958(昭和33)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/files/55131_ruby_49646.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/files/55131_49647.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 秋が来る。山風が吹き颪す。欅や榎の葉が虚空へ群がってとびちる。谷川の水が澄みきって落栗が明らかに転びつつ流れてゆく。そうすると毎年私の好奇心が彼の大空へ連なり聳えた山々のふところへ深くもひきつけられる。というのは其の連山のふところにはさまざまの茸が生えていて私の訪うのを待っていて呉れる。この茸は全く人間味を離れて自然の純真な心持を伝え、訪問者をして何時の間にか仙人化してしまう。その仙人化されてゆくところに私は大なる興味をおぼえ、快い笑みを浮べつつ歓喜の心を掻き抱く。私の感受性にうったうる自然の感化は山国生活の最も尊重すべき事の一つである。  で、私は好晴の日を見ては屡々山岳の茸を訪問する。敢て訪問するというのは、毒茸が多くて食すべき大獲物に接し得ないことと、前述の意味に出発点を置くところから狩るというような残忍な語を使用したくないので云う言葉である。茸訪問については屡々私は一人の案内者を伴うことがある。案内者の名を仮に粂吉と呼ぶ。幾春秋山中の日に焦かれた彼の顔は赤銅色を呈している。翁の面のようにも見える。長い眉毛が長寿不老というような語を思わせる。明治十二三年頃買って其の儘用い来ったという陣笠のような猟帽を頭へ戴いて、黒い古紐が面のような顔をキリリと結んでいる。彼の歩みは私のようにせせこましく歩くことなしに緩々と鷹揚な運びである。それでいて私よりも迅い。  先ず、端山の楢や櫟などの生い茂った林からはいり始める。林にはどこにも見るような萓や女郎花、桔梗、萩などの秋草が乱れ咲いて朝露が粒だって葉末にとまっている。落葉がかなり散り敷いて草の葉末にも懸ったりして見える中に、桜落葉は最も早くいたいたしく紅葉したのが其の幹を取り巻いて、一と所ずつ殊に多く濃い色彩を放って見える。そんなところに偶々シメジと呼ぶ白い茸が早く簇生していることがあるので、注意深い眼を見張って桜の幹に片手をかけつつ、くるりと向うへ繞って行く粂吉を見ることがある。私もしばらくの間は必ず一度は粂吉の眼をつけたところへ眼をつけて、彼が通って行くところと余り離れない場所を踏んで登って行くのを常とするのであるが、一二時間の後にはもう自分自身の道を見出して進んでゆきつつあることに気がつく。  草鞋の軽い足どりに蹴返さるる落葉の音が四辺の静かさを破ってひっきりなしに続いてゆく。朝露が裾一尺ばかりを湿して草鞋はだんだん重たくなってくる。朝日がようよう高い東嶺を抜け出て樹々の葉を透してくる。眼前がきらきらして一しきりこれと定めて物を見極めにくくなる。そんな時俄にけたたましい音がして、落葉樹の間から山鳥が飛びあがることがある。彼の羽色は濃い茶褐色で落葉の色に似通っているところから、草叢の間を歩いているときなどは余程近くに在っても中々見定めにくいのであるが、その牡鳥は多くは二尺位もある長々しい尾を持っているので、飛んで行く後ろ影を眺めわたすと、鮮かに他の鳥と区別することが出来る。その長い尾を曳いて両翼を拡げつつ露の中を翔んで行くさまは、非常に迅速であるが又もの静けさの極みである。粂吉は近寄って来て、「今のは大丈夫撃てやしたね」というようなことを言う。今はやめて居るにしても、昔からつい四五年前まで甲斐東方のあらゆる深山幽谷を跋渉し尽した彼は、猟銃をとっては名うての巧者である。眺望の好い場所を択んで先ず一服という。煙草を吸うのである。煙管が二三服吸っている中につまってしまうことなどがある。彼は腰を伸ばして傍らに生い立った萓の茎を抜き取る。滑らかに細長い萓の茎はいいあんばいに煙管の中を通りぬけて苦もなく旧に復し、又彼をして好い工合に煙草を吸わせる。煙草の煙は白い輪を画いて、彼の猟帽の端から頭近くのぞいた楢の葉に砕かれたり、或は薄々と虚空へ消えていったりする。立ち上ってこれから先きの連山に対してあれかこれかと選択する。山国の秋ほどすがすがしく澄みわたることはなかろう。山々峰々が碧瑠璃の虚空へ宛然定規など置いたように劃然と際立って聳えて見える。その一つ一つを選択するのである。すぐに決定する。歩み出すとき、軽々しい足取りが思わず大空の遠い薄雲を眺めさしたり、連峰の肩に鮮かに生い立った老松の影をなつかしいものの限りに見詰めさせたりする。  松林へはいってゆく。そうすると今までもの静かであった四辺が俄に騒々しいような気がして、何となく左顧右眄せしめらるるような気がしてくる。粂吉も連れず一人でそんなところを歩いているとき、不図綺麗な松落葉の積った箇所を見つけ出して緩々と腰かけて憩んで居るときなどその騒々しい気分がよく了解されてくる。多くは極めて幽かな山風が松の梢を渡って行くために起る松籟が耳辺を掠めてゆくのである。そうしたことが知れるとその騒々しさは忽ち静寂な趣に変ってゆく。仰いで大空を蔽う松葉を眺めると、その間に小さな豆のような小禽が囀りながら虫をあさっている。豆のような小禽とはいうものの枳殻の実ほどはある。それに、躯に比較しては長過ぎる二三寸の尾を動かしながら頻りに逆に松の枝へ吊さっては餌をむさぼる。尾に触れ嘴に打たれて、小さな松の皮、古松葉などがはらはらと落ちて来る。そのうちにはどうかすると遠い海嘯のような大きな音をたてる烈しい松籟が押し寄せることがある。彼等は慌しく吹き飛ばさるるように何処ともなく消え去ってしまう。人間によって彼は松毟鳥と名づけられた。  登るともなくだんだん登って行って、ふり返って見ると、何時しか案外高いところへ登って来ていることに気がつく。又一休みしようかなどと思う。そんな時不図傍らを見ると、背を薄黒く染めて地に低く生え立った猪の鼻と呼ぶ茸が、僅に落葉の間から顔を出している。私はその時急速に上体をかがめて近寄り、すぐに手を出したくなるのであるが、じっとその心を制えて一休みすることにする。ポケットから取り出される煙草が火を点けられる。煙草の煙の中から見張る眼に、次ぎ次ぎに茸の親族が見え出してくる。この猪の鼻という茸は単に一本生えているということは尠い、多くは十数本もしくは数十本数百本の夥しきに及ぶことがある。親しげな情を動かして一本一本静かにこれを抜き取ってから、予め用意してきた嚢の中へ入れる。  そうした時もし粂吉と一緒であるならば、私は何時もきまって大きな声をあげて彼を呼ぶ。いい工合にすぐ近傍に彼を見出すときはいいが、どうかすると非常に遠く離れていることがある。その時は二声も三声も呼ぶ。山彦が遥かの峰から応えて、少し後れながら淋しい趣きをそえつつ同じ声をもって来る。時とするとはっきり全く違った応えを送って来ることもある。それは山彦ではない。我等と同じように茸訪問に遊ぶやからが悪戯にするか、もしくは矢張り伴にはぐれたために呼び合う声であることが解る。そんなことで粂吉と離れ離れになって終ったことも屡々あった。どうかするとつい近傍ではありながら、峰の背後などにいたため全く聴きとれないことなどもたまにはある。そうして帰り路に横道から姿を現わして来る粂吉に逢うようなこともある。私の呼ぶ声を聴き得たとき、粂吉は心もち急ぎ足で近寄って来るのを常とする。近寄って来て先ず得物のあったことを讚歎し、自分も落葉に腰をおろして私にも休憩を勧める。  粂吉は、虚空の日を仰いでは時の頃を察するを常とする。それがまた不思議にもよく正確な時刻に合うので、彼が昼飯にしたいと言うときは、私も同意して握飯を取り出して昼飯を済まそうとする。先ず二つに割って食べようとする握飯へ蟻が落ちて来たりすることがある。ふり仰いで見ると、背後の山鼻から生えた老松の枝がさし出して直ぐ頭の上まで来ていることに気がつく。秋の日に照らされて心持ちなまなましい気を失った水筒の水が、握飯を食い終えた喉を下ってゆく。昼飯を終えた眼に静かに見渡すあたりは、ひとしきり風も無く、寂として日影が色濃くすべてのものに沁み入っている。  粂吉は立ち上ってつかつかと岩鼻へ出かけて行く。其処の岩鼻は直下数百尋の渓谷を瞰下する断崖の頂きで岩は一面に微細な青苔に蔽われている。彼は青苔に草鞋をしっかと着け、軽々しく小便を洩らすことなどがある。秋日に散らばり、渓谷へ霧の如く落ち散る小便の色彩は実に美しいものであった。  午過ぎの歩行は午前中に比してひどく疲労を感ぜしめられる。それは既に長距離を歩いて来た為ばかりではない。南方の天空へ廻って来た日輪は、南面の山腹へ対して万遍なくその光を直射しその熱をふりそそぎ、為に山肌に敷かれた松の落葉や、楢、櫟、榛などの落葉がからからに乾からびて、一歩一歩踏んで行く草鞋をややもすると辷らせようとする。一二尺はおろか時によると二三尋も辷り落つることがある。辛うじて木株や松の根方などで踏み止まる。踏み止まるというより其処で支えられるのである。その危険をふせぐために、両足の指先へ力をこめて登って行かねばならぬ。少しく急な傾斜を持つところになると、眼前へあらわれてくる一つ一つの樹幹のうち最も手頃と速断さるるものを掴まえて登って行く。汗がいち早く頸のほとりを湿してくる。次いで額から湧き出でて両頬を伝うて流れ下るようになる。拭っている暇がない。暇がないというよりは寧ろ拭い去る必要を感じない。眼などへ沁み込んで多少刺戟さるることもあるが、それらはやや痛快の感をおぼえつつ登って行くのである。あの頂き、あの楢や栗の生え茂った絶頂へ行って一休しよう、その辺の疎らな松木立の中に猪の鼻か松茸がひそんでいるかもしれないと想う念がぐんぐん力をつけて一層両脚を急がせてくる。絶頂に近くなるにしたがって汗が背を湿すようになる。絶頂と眼ざしたところへ登って行くと案外にも其処は絶頂ではなく、猶幾多のそそりたった峰が左右の空へ連なっていたりする。ともかくも芝草を敷いて休憩することにする。傍らに兎の糞がある。兎の糞は私の山登りする事のなかに見出さるる最も興味をそそるものの一つである。多くは軟かな芝草が茂った中に、数十粒清浄な形影を示してまとまっている。見る眼にものの糞というような感じは更に起らない。小鳥の卵を数多く集めたもののようにも見える。私は、少年の頃屋後の山に遊んで、この兎の糞を見出してものめずらしげにこれを眺めたが、遂に二三粒ずつ拾い取って掌に乗せ、更に親しみの情をそそいだ。そうして結局全部を一つ一つ綺麗に拾い集めて家に持ち帰ったことを今だに覚えている。そうした少年の頃の思い出も、この兎の糞に接するごとにそそられるのである。汗が何時の間にかひき去って背が少し冷々するようになる。あたりの草びらに山風が極めて穏かにおとずれて静寂の微動を見せている。と思うと、遥かの渓底にあたって大木の倒れた響が聞えることなどがある。樵夫が材木を取るのである。一度俄にすさまじく湧き起った響が四山へ轟きわたって、その谺は少時の間あたりにどよめいている。時とすると、そのあたりの杉木立の中に遊んでいた鵯などが、強く短いきれぎれな声をあげて飛び去ることがある。彼の声は如何にも深山幽谷の気分をもたらすに充分である。澄みわたった山中の空を飛び去るところを見ていると、一声鳴いてはついと飛び上り、又一声鳴いては飛び上りつつ翔ってゆく。偶々自分の休んで居る樹間に翔って来ることなどもある。そんなとき、じっと静かにして見ていると、比較的細長い躯を軽々と枝にささえ、用心深い顔をあたりにくばる。落ち残った紅葉の間から躯のこなしを様々にかえる。その中に自分の居ることを発見し、驚愕譬えようがないといった風に慌てて枝を離れて、一声高く鳴き声を山中の気に顫わして矢の如く飛び去ってしまう。彼は鳥類の中でかなり臆病なたぐいの一つである。  私が立って行こうとするとき、草鞋がたわいなく踏み応えのないふかふかしたような地面を踏んだ感じを覚ゆることがある。ふりかえって見るとそれは蟻の塔である。蟻の塔は、よく松の大樹などを伐り倒して材木を取ったあとなどに見らるるものである。秋日が隈なくさす草の間に伐り残した松がところどころ樹っている。その中に軽い土くれと松落葉を集めて洋傘高に盛り上っている。試みに杖などであばいて見ると、その中には山蟻が一杯群をなしている。彼等は決して人間に害を加えようとはしない。食いつきもしなければ刺しもしない。こんな場合嫌悪の感を催すことなしに寧ろいたいけな可憐な感をおぼゆるものである。草鞋の踏みすぎたあとの蟻の塔はずんと凹んで、その凹んだ草鞋のあとは、幾山雨のため数箇月の後には平らめにならされ、軈てまた新たなる蟻の塔が此の無人の境に建設されてゆく。  峰頂を踏んで、躑躅や山吹、茨などの灌木の間を縫うて行くことは、疲労を忘れしめるほどの愉快を感ずるものである。幾春秋の雨露風雪に曝された大峰の頂上は清浄な岩石を露出して、殆ど塵一つとどめない箇所を見出すところがある。多少の風が好晴のおだやかさの中に動いている。どうかして躑躅の根株の間を眺めたりすると、其処に案外沢山のめざましい彼の猪の鼻を見つけ出すようなことがある。いったい茸は、初秋だけ山岳の中合以下に多く、晩秋に赴くにしたがって頂上に近く生えるようになる。そうして晩秋に生まるる茸だけしっかりした形を保って中々腐れようとしない。夏季に生ずる茸はもとより初秋にかけて生ずるものは、質もやや脆くすぐに腐敗し易いのに反し、晩秋の茸は霜を戴いて猶食し得るものが多い。初茸、シメジ、獅子茸の類は初秋のものに属し、椎茸は仲秋(椎茸は総じて秋季に生ずるものにめざましいものは少く、却って春季に生ずるものを尊ぶ)に生じ、松茸、猪の鼻、舞茸、玉茸の類は仲秋から晩秋にかけて多いようである。  峰の茸を採り終えて、さてこんな場合私の眼を欣ばしめるものは、渓谷深く生い立った松の樹幹とそうして其の葉の色彩である。何の支障するものなく自然に極めて自由に生い育った彼は、その樹幹の茶褐色の濃さ、その葉の緑青の濃さ艶々しさ、吹き起る微風と共にあたりに仙気がむらがって見える。時とすると遥かの山肩に居た白雲が次第々々に動き移って、忽ちの間にその展望を没し去ることなどもある。私はいつの間にか白雲中の人となり終っている。身に近い栗の木、榛の木などの幹にも枝にも綿のように垂れ下った猿麻桛がしろじろと見ゆるばかりである。長く下ったものは一尺余りもある。手近の杜松の枝などから毟り取って見ると、すぐに其処へ捨てようと云う気になれない。少くとも暫くの間は手すさびに指へ絡んでみたり掌中へまるめてみたりする。  僅に咫尺を弁じ得る濃い白雲の中を、峰伝いに下っては登り登っては下って行く。四十雀や山陵鳥が餌をあさりながら猿麻桛の垂れ下った樹間に可憐な音をころがしつつ遊んでいる。いたずらに小石や落ち散った木枝などを拾うて擲げつけても、身に当らない限りはさして驚き易く逃げようとはしない。白雲の退き去るにしたがって彼等も晴々しい心になるかして、少しく活溌な身のこなしを見せる。  私は峰伝いに峠路へ下って帰路に就こうとする。峠路で時々炭売の婦たちに出あうことがある。彼女等は一様に誰も皆山袴を穿き、負子に空俵を結びつけてあったり提灯や菅笠などを吊してあったりする。すこやかな面もちをした口に駄菓子などが投げこまれて、もぐもぐと舐りながら峠路を登って来る。一日の仕事を終え帰路につきつつある彼女等は決して急ごうとはしない。のさりのさりと緩やかな歩みを運んで行く。峠を下る頃、全く紅葉し尽した大嶺の南面一帯が、今、沈もうとする秋日の名残を受けて眩しく照り輝いている。日筋が蒼天に流れわたって、ふり仰ぐ真上にあかあかと見渡される。群を抜く鋒杉が見えると思うと茜色に梢を染められ、それがまた非常に鮮かに虚空にうかんで見える。四山の紅葉を振い落そうとするような馬の嘶きが聞えることもある。草刈が曳き後れた馬の嘶きである。時とすると秋天の変り易い天候が忽ちの間に四辺をかき曇らせ、見る見る霧のような小雨を運んで来ることもある。寒冷の気が俄に肌を掠めて来る。路の辺に紅の玉をつけた梅もどきの枝に尾を動かしている鶲は、私の近寄るのも知らぬげに寒さに顫えている。行き逢う駄馬が鬣を振わして雨の滴を顔のあたりへ飛ばせて来ることもある。蕭条たる気が犇々と身に応えてくる。不図行手を眺めると、傍らの林間に白々と濃い煙が細雨の中を騰って行く光景に出遭う。炭売りから帰る婦たちが大樹の下などに集って、焚火に暖をとる為の仕業であることがわかる。私も近寄って仲間に加わることがある。燃えしぶっていた焚火が俄に明るく燃え上り、火焔がすさまじい音と共に濠々と立つ白煙を舐め尽して終う。人の輪が少し後ろへ下って、各々の顔に束の間の歓びの情が溢れて見える。  知らず知らず時が過ぎ去って、樹間を立ち騰る薄煙のあたりに、仄かに輝きそめた夕月が見えたりする。人々は名残惜しい焚火と別れて散り散りに退散する。細雨をくだした秋天がいつの間にか晴れ渡っていたのである。  夕山風が古葉をふるわして樹々の間を掠めてくる。落つるに早い楓、朴、櫨の類は、既に赤裸々の姿をして夕空寒く突き立って見える。彼の蘇子瞻の「霜露既降木葉尽脱 人影在地仰見明日」というような趣きが沁々と味われる。山間の自分の村落に近づくにしたがって、薄い夕闇を透して灯火の影がなつかしい色を放ってちらちらと見え出してくる。そうするといつの間にか人煙を恋いつつある私自身を見出さずに措かれないことに気がつくのである。 (一九一八)
底本:「花の名随筆10 十月の花」作品社    1999(平成11)年9月10日初版第1刷発行 底本の親本:「飯田蛇笏集成 第六巻 随想」角川書店    1995(平成7)年3月 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年11月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 暦の上では、もう初秋だとは云ふものの、まだ残暑がきびしく、風流を心にたゝむ十数人の男女を打交へた一団にとつて、横浜の熱閙を避けた池廼家の句筵は、いくぶん重くるしさを感ぜしめた。細長い路地に、両側を楆かなにかの生籬にしてあるのはいゝとして、狭い靴脱から、もう縁板がいやに拭き光りがしてをり、廊下を踏んでゆくと、茶黒い光沢を帯びたものが韈を吸ひとるやうにひつぱるのである。料理屋へ、風流気に出かけて先づ天井を眺めるなどは、嘗て一度さへ体験にとゞめたとも覚えない。それであるのに、不思議に、煤けた天井板が、ずんと脳天へひゞき、圧せられるやうな懶い一種廃頽的な感じが身をとりまいた。 「情死でもあつたのかな、こいつは」と、心でそんな想像をしてみたりしながら、予定されてあつた座に着いたのである。二間をぶつ通した天井は煤けた上に実際低過ぎた。かうした落着いた会席ではあるものの、世故を離れた虚心坦懐な気持で、冗談の一つや二つ飛ぶのは当りまへである。さうすると、男女の笑ひさゞめく声が、しばらくの間、低い天井下の空間に満ちわたり、おのづから此方へも微笑を強要してくるに違ひないのだが、さて、微笑を洩らすうちにも、一枚頑固に剥ぎとれないものは、くすんだ悒鬱である。  夕陽は影をひそめたかして、部屋の隅々が仄かな陰を漂はせはじめ、人と人との間には、親しみをひとしほ濃やかならしめるやうな陰影が横たはつてゐることを感じた。さつき誰か起ち上つて紙片をなげしへ貼りつけたやうに思つたが、その紙片の文字に眼をとめて見ると、この句筵の課題が示されてゐるのであつた。その課題により、まづ案じ入らうとしてじつと心を落ちつけようとすると、仏臭い線香の匂がぷうんと鼻を掠めた。見るともなく座辺に眼をとめると、蚊遣線香が窓内へ置かれてある。溝の匂が、蒸し蒸しする薄暮の暑気に交つて流れてくる中に、かぼそい薄煙を漂はせてゐるのである。さうした匂のほかになにか獣臭い匂が、たま〳〵鼻を掠めるやうに感じたので、不審に思つてゐると、窓から少し離れた箇所に座を占めてゐる一人の老作家と、若うして窈窕たる女性とが、ぽつ〳〵とシェパードの獰猛性に就いて話してゐるのである。で、さつきから、なにかぱた〳〵と小団扇で肌を叩くやうな音がすると思つたが、それは、直ぐ窓外の小舎に猛犬のシェパードが飼はれてをり、時々肢で蚊を追ふために頸輪を打つ音だといふことがはじめて判つた。畜類の悪臭も、其処から薄暮の空気に漂ひ流れるものであつた。 秋を剃る頭髪土におちにけり と、こんなのが一つ出来あがつた。現在の呼吸に直接するものではなく、山寺かなにかの樹蔭で、坊主頭に、髪を剃りこくつてゐる、極端に灰色をした人生が思ひに浮んだのである。しかし、これは現在こゝろざすところに、余りにも遠く離れすぎてゐるものなので、別に心へとゞめることとして、 あらがねの土秋暑き通り雨 を得てこの方を切短冊へ認める。  掛軸からぬけ出したやうに、歌麿式の凄艶な容姿の婦がやつて来て、蚊遣香をつぎ足したので、又ひとしきり、仏臭い匂があたりに強く流れた。窓越しに、淡墨をふくんだ瑠璃の夕空が重く淀んでをり、すこしも風の気とてない蒸暑く鬱滞した陋巷の空気が泥水のやうに動かずにゐた。年寄らしい声で、シェパードを相手に何か云ふ優しい言葉がきこえたが、誰も耳をかす者はなかつた。唯、シェパードが夕餉でも与へられるために、しばらく、蒸暑い小屋から開放され、散歩することだらうと思はれ、事実それに相違なかつたやうである。一座の人々の誰もが、筆と白紙を前にして、首を傾け気味に、沈黙して何も云はうとはしなかつた。 身ほとりにたゝみて秋の軽羅かな の一句を得た。しばらくすると、又、 新塟掘る土に押されて曼珠沙華 といふ一句を得た。 街裏の布施ひそやかに秋暑かな これは、街並として余り繁華でもない裏通りの、とある一戸で、行脚托鉢の者に、女房などがひそかにお布施してゐる、折柄残暑どきで、午後の日影がオレンヂ色に漲り、その光景をくつきりと浮み出してゐる。そんな場合が念頭に浮び上つたものであつた。 「陰暦何日ごろになるのでせうかしら。」  側にゐた清楚なすがたをした年増の女性が誰に云ふともなく、暮れゆく窓の空を仰ぎ気味に私語した。陰暦何日頃になるのか、その女性も、悒鬱で、陰惨な感じさえそく〳〵と身を襲ふところから、耐へがたく窓外の空にぽつかり麗はしい月でも浮び上るのを望んだことであらうと推測された。しかし、明月はおろかのこと、さつきから煙のやうな糠雨が舞つてゐることを、ひどい近眼のその女性は知らずにゐたのである。 「雨が降りだしましたな。」 と、茶黒い短羽織を一着した白髪の老作家が云つた。この年寄は、さつきから、ものに憑かれたやうな貌をして、上座の床壁に見入つてゐたが、白扇をしづかにうごかしながら座を起ち、つく〴〵と床を眺めた。その床に飾られてある、徳川末期の作とおぼしい春画にちかいやうな淫らな美人画を鑑賞するのかと思つてゐると、 「この壁の色は?」 と、しばらく後の言葉を継がずに、じつと眺め入つた。さうして、かすかに唸るやうな語気を帯び、 「妖怪めいた感じを与へるものすごいものですな、これは。この天狗の羽団扇みたいな八ツ手を印したりした風情も。」 と、それとなく私を顧みた。私もそれを肯いた。古代の墳墓を発掘すると、その内壁面が一種の朱泥に塗りつぶされてあるのに出逢ふことがある。その、くすんだやうな永遠の色ともいふべき暗澹たる茜が、薄暮の光を映ずる明暗。それは、まさに一種ものすごい感じを与へるものに相違なかつた。私も、偶〻その事実に出逢ひ、ついさきごろ、 古墳発掘 春仏石棺の朱に枕しぬ かげろふや上古の瓮の音をきけば といふやうな作品を得たことが、まざ〳〵と念頭に甦るのである。現実に程遠い幾世紀かのかなたにある様相が、唐突にも眼前へまざ〳〵と展開をしめすのは、うべなはるべき感覚の真実さであるに相違なかつた。  蚊遣香のにほひが、またひとしきり強く漂つてきた時、窓の外で、何やらこと〳〵と不祥事を予感せしめるやうな音が伝はり、さきの齢老いた爺とおぼしい声で、 「この野郎また捕つてきやがつた。」 しかし、世に何でもなく、この言葉が現実の塵一つ動かすほどの力のものではないやうな平凡極まる響のものだつた。 「何を捕つたのだらう?」 言葉には出さずに、さう心が動いた。詩美の探求に一心不乱であつた私の水のやうに静かであつた心が、にはかに現実的にめざめ、すぐ眼の前に窈窕たる女性が、これも同様に柳眉を寄せ、深く考へこんでゐる顔を眺めた。さうして、他の老女をも、床壁を見入つた老作家をも、老女の陰に柱へ凭れかゝつてゐる紳士をも、はげしく一通り不審を警報するやうな気持を含んだ眼つきで見廻した。 「野郎!」と、老爺はまだ何かぶつ〳〵言つてゐる。  シェパードと云ふ獰猛な家畜が、不図強く頭へ来た私は、耐へがたくなつて座を起ち上らうとすると、女性たちも老作家も矢張りそれと感付いたかして相前後してたち上り、薄暮の塵芥臭い裏庭へ開け放たれた窓越しに覗いてみた。すると、逸早く窓外に展開された凄じい光景を見てとつた若い女性は、くね〳〵と体を歪め気味にしながら、咄嗟のおそろしい叫喚の声をあげたやうであつたが、その声を聴きとるいとまもなく、老作家も私も相前後して、 「やあ、猫を捕つて来た。」 「こんな大きな斑猫を!」 と歎声を上げ、喫驚仰天した。白毛と黒毛が斑になつてゐる大きな猫が、揉みに揉みぬかれ、よれ〳〵になつた図体を莫迦長く伸ばしてしまひ、シェパードが前肢をつんと立てて此方を眺めてゐる顎の下に、土まみれになつて横はつてゐるのである。シェパードは眼を輝かし、巨口をひきしめた脣から、時々べろり〳〵と薄紅い舌をのぞかせながら、威猛高に功名顔を薄暮の中にさらしてゐた。それが、丁度猫が鼠を捕り、むさぼる前にしばらくさらしておく状態と酷似してゐた。 「こんな光景に私は産れてはじめて接した」と、驚いた儘の正直の表情でその通りを告げて私が退いたあとへ、十数人の風流に遊ぶ文人墨客が犇々とつめかけて来て、たちまち窓を蔽うてしまつた。人々のなかには、誇張して驚きの声をあげる者もあるし、ものの奇異とも思はず笑ひながらシェパードの特性を称讚するものもあつた。  私の妙に陰惨な悒鬱の感情は、なにかこれで一くぎりされたやうな状態にあつた。さうして、即興の一句を静かに切短冊へしたゝめた。 秋暑く家畜にのびし草の丈
底本:「日本の名随筆 別巻25 俳句」作品社    1993(平成5)年3月25日第1刷発行    1999(平成11)年11月20日第6刷発行 底本の親本:「土の饗宴」小山書店    1939(昭和14)年7月 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年11月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "055133", "作品名": "薄暮の貌", "作品名読み": "はくぼのかお", "ソート用読み": "はくほのかお", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-01-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/card55133.html", "人物ID": "001695", "姓": "飯田", "名": "蛇笏", "姓読み": "いいだ", "名読み": "だこつ", "姓読みソート用": "いいた", "名読みソート用": "たこつ", "姓ローマ字": "Iida", "名ローマ字": "Dakotsu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-04-26", "没年月日": "1962-10-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆 別巻25 俳句", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年3月25日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年11月20日第6刷", "校正に使用した版1": "1999(平成11)年11月20日第6刷", "底本の親本名1": "土の饗宴", "底本の親本出版社名1": "小山書店", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年7月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/files/55133_ruby_49678.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001695/files/55133_49679.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にある可らずと雖ども、世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり。蓋し帝室の性質を知らざるが故ならん。過般諸新聞紙に主權論なるものあり。稍や帝室に關するが如しと雖ども、其論者の一方は百千年來陳腐なる儒流皇學流の筆法を反覆開陳するのみにして、恰も一宗旨の私論に似たり。固より開明の耳に徹するに足らず。又一方は直に之を攻撃せんとして何か憚る所ある歟、又は心に解せざる所ある歟、其立論常に分明ならずして文字の外に疑を遺し、人をして迷惑せしむる者少なからず。畢竟論者の怯懦不明と云ふ可きのみ。福澤先生茲に感ありて帝室論を述らる。中上川先生之を筆記して通計十二篇を成し、過日來之を時事新報社説欄内に登録したるが、大方の君子高評を賜はらんとて、近日に至る迄續々第一篇以來の所望ありと雖ども、新報既に缺號して折角の需に應ずること能はず。今依て全十二篇を一册に再刊し、同好の士に頒つと云。 明治十五年五月編者識
底本:「福澤諭吉全集 第5卷」岩波書店    1959(昭和34)年8月1日初版発行    1970(昭和45)年2月13日再版発行 底本の親本:「福澤全集第五卷」時事新報社    1898(明治31)年5月13日発行 初出:「帝室論」時事新報社    1882(明治15)年5月 入力:小澤晃 校正:フクポー 2020年11月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "018362", "作品名": "帝室論緒言", "作品名読み": "ていしつろんしょげん", "ソート用読み": "ていしつろんしよけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「帝室論」時事新報社、1882(明治15)年5月", "分類番号": "NDC 288", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-12-01T00:00:00", "最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001953/card18362.html", "人物ID": "001953", "姓": "飯田", "名": "平作", "姓読み": "いいだ", "名読み": "へいさく", "姓読みソート用": "いいた", "名読みソート用": "へいさく", "姓ローマ字": "Iida", "名ローマ字": "Heisaku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1849", "没年月日": "1940-12-01", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "福澤諭吉全集 第5卷", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1959(昭和34)年8月1日", "入力に使用した版1": "1970(昭和45)年2月13日再版", "校正に使用した版1": "1970(昭和45)年2月13日再版", "底本の親本名1": "福澤全集第五卷", "底本の親本出版社名1": "時事新報社", "底本の親本初版発行年1": "1898(明治31)年5月13日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小澤晃", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001953/files/18362_ruby_72242.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001953/files/18362_72290.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
人 ピイタア・ギレイン マイケル・ギレイン   ピイタアの長男、近いうちに結婚しようとしている パトリック・ギレイン  マイケルの弟、十二歳の少年 ブリヂット・ギレイン  ピイタアの妻 デリヤ・ケエル     マイケルと婚約の女 まずしい老女 近所の人たち 一七九八年、キララに近い農家の内部、ブリヂットは卓に近く立って包をほどきかけている。 ピイタアは炉のわきに腰かけ、パトリック向う側に腰かけている。 ピイタア  あの声は何だろう? パトリック  俺にはなんにも聞えない。(聴く)ああ、きこえる。何か喝采しているようだ。(立って窓にゆき外を見る)何を喝采してるんだろう。だれも見えやしない。 ピイタア  投げっくらしているんじゃないか。 パトリック  今日は投げっくらなんかありゃしない。町の方で喝采しているらしい。 ブリヂット  若い衆たちが何かスポーツをやってるのだろう。ピイタア、こっちへ来てマイケルの婚礼の着物を見て下さい。 ピイタア  (自分の椅子を卓の方にずらせて)どうも、たいした着物だ。 ブリヂット  あなたがわたしと一着になった時にはこんな着物は持っていませんでしたね、日曜日だってほかの日と同じようにコートも着られなかった。 ピイタア  それは本当だ。われわれの子供が婚礼する時こんな着物が着られようとは思いもしなかった。子供の女房をこんなちゃあんとした家に連れて来られようと思いもしなかった。 パトリック  (まだ窓のところに立って)往来を年寄の女が歩いて来るよ。ここの家へ来るんだろうか? ブリヂット  だれか近所の人がマイケルの婚礼のことを聞きに来たんだろう。だれだか、お前に分るかい? パトリック  よその土地の人らしい、この家へ来るんじゃない。坂のところで曲がってムルチインと息子たちが羊の毛を切ってる方へ行った(ブリヂットの方へ向いて)こないだの晩四つ角のウイニイが言ってた事を覚えているかい。戦争か何かわるい事が起る前に不思議な女が国じゅう歩きまわるという話を? ブリヂット  ウイニイの話なんぞどうでもいいよ、それより、兄さんに戸を開けておやり。いま帰って来たらしい。 ピイタア  デリヤの持参金を無事に持って来たろうな、おれがせっかく取り極めた約束を、向うでまた変えられちゃ困るよ、ずいぶん骨を折って極めた約束だ。 (パトリック戸を開ける、マイケル入る) ブリヂット  何で手間がとれたのマイケル? さっきからみんなで待っていたんだよ。 マイケル  神父さんとこへ寄って明日結婚さして貰えるように頼んで来た。 ブリヂット  何とかおっしゃったかい? マイケル  神父さんは非常に良い縁だって言ってた、自分の教区のどの二人を結婚させるよりも俺とデリヤ・ケエルを結婚させるのを喜んでいた。 ピイタア  持参金は貰って来たか? マイケル  ここにある。 (マイケル卓の上に袋をおき向う側に行って煙突の側面に寄りかかる。このあいだ中ブリヂットは着物をしらべて縫目をひっぱって見たりポケットの裏を見たりしていたが、着物を台の上に置く) ピイタア (立ち上がって袋を取り上げ金を出す)おれはお前のためにうまく取り極めてやったよ、マイケル。ジョン・ケエルおやじはこの金のうち幾らかをまだ手放したくはなかったらしい。はじめての男の子が生まれるまで、この半分だけわしが持っていたいのだが、と云うんだ。そりゃいけない、男の子が生まれても生まれなくても、お前さんの娘を家へ連れて来る前に百ポンドの全部をマイケルに渡して貰わなくちゃと俺が云った。それからおふくろが口をきいて、あの男もとうとう承知した。 ブリヂット  お金を手に持ってひどく嬉しそうですねえ。 ピイタア  まったくね、俺も俺の女房と一緒になった時、百ポンドでも、二十ポンドでも、貰いたかったよ。 ブリヂット  そりゃ、わたしは何も持って来なかったけれど、此処の家だって何もありゃしなかった。わたしがあなたのとこへ来た時あなたが持ってたのは鶏が何羽か、自分でその世話をしていましたね、それから二三匹の羊、それを自分でバリナの市までひっぱって行ったでしょう。(彼女不愉快になって水入を料理台の上に音をさせて置く)わたしが持参金を持って来なかったところで、それだけの物は自分の体で働き出しましたよ、赤ん坊を藁の束の上に寝かしておいて、今そこに立ってるマイケルをね、そして馬鈴薯を掘りましたよ、立派な着物も何も欲しいと云わずにただ働いて来たんですよ。 ピイタア  それはそうだよ、ほんとうに。 (ピイタア彼女の手を撫で叩く) ブリヂット  構わないで下さいよ、わたしは片づけ物をしなくっちゃ、嫁がうちに来る前に。 ピイタア  お前はアイルランド中でいちばんの女だよ、だが、金も好いね。(もう一度金をいじりながら腰掛ける)俺は自分の家のなかでこれ程たくさんの金を見ようと思わなかった。これだけあれば我々もたいした事が出来るな。ジェムシイ・デンプシイが死んでから欲しいと思っていたあの十エーカアの田地も手に入れて牧場にすることが出来る。その家畜もバリナの市に出かけて行って買えばいい。デリヤはこの金のうち幾らか自分の小づかいに欲しいとでも云ってたかい、マイケル? マイケル  いいえ、何とも云いません。金のことに就いてはあまり考えていないようで、まるで見むきもしなかった。 ブリヂット  それはあたり前だよ。なんだってあの女が金なんぞ見ているものかね、お前というものを見ているんだから、立派な若い男のお前を見ているんだから。お前と一緒になるのをどんなに悦んでるだろう、お前は真面目な好い息子でこの金も無駄に使ったり飲んでしまったりしないで、ちゃあんと役に立てて行けるだろうから。 ピイタア  マイケルだってあんまり持参金の事は考えなかったろう、娘がどんな顔をしているか、そればかり考えていたのだろう。 マイケル  (卓の方に来る)そりゃ、誰だって綺麗な好い娘に側にいて貰いたいよ、自分と並んで歩いて貰いたいよ。持参金なんてちょっとの間のものだ、女房はいつまでもいるんだから。 パトリック  (窓から此方に向き)また下の街ではやしているよ。エニスクローンから馬が来たのを上げているんじゃないかな、馬が上手に泳ぐのを喝采しているんだろう。 マイケル  馬じゃあるまい。何処にも市がないから馬の連れてき場がないよ。町へ行って見て来な、パトリック、何が始まってるんだか。 パトリック  (出ようとして戸をあける、暫時入口に立止まる)デリヤは覚えているだろうか、ここの家に来る時おれに猟犬の仔犬を持って来てくれる約束をしたんだが? マイケル  覚えているよ、だいじょうぶ。 (パトリック出て行く。戸をあけっぱなしにして) ピイタア  今度はパトリックが財産を探す番だが、あの子はそう容易に手に入れることは出来まい、自分の地所も持っていないんだから。 ブリヂット  わたしは時々考えますよ、わたしたちも段々らくになって来るし、ケエルの家もこの区ではずいぶん力になるだろうし、デリヤの叔父さんで牧師もあるし、パトリックをいまに牧師にしてやったらどんなもんですかね、あんなに学校の出来もいいんだから。 ピイタア  まあゆっくりだ、ゆっくりだ。お前の頭はいつも計画でいっぱいだね、ブリヂット。 ブリヂット  わたしたちはあの子に十分な学問をさせてやれますよ、人の同情で生きてる苦学生みたいに国中歩き廻らせなくともいいんですから。 マイケル  まだ喝采している。 (戸口に行きしばらくそこに立っている、片手を眼の上にかざして) ブリヂット  何か見えるかい? マイケル  年寄の女がこの路を上がって来る。 ブリヂット  何処の人だろう? 先刻パトリックが見た知らない女じゃないかね。 マイケル  とにかく近所の人じゃないらしい、上着を顔にかぶっている。 ブリヂット  何処かの貧乏な女が、わたしたちが婚礼の支度をしているのを聞いて、貰いに来たのかも知れない。 ピイタア  金はしまった方がいいな。何処の知らない人が来ても見られるように出しとく必要はない。 (隅にある大きな函に行き、それを開けて財布を中に入れ錠をいじっている) マイケル  お父さん、そら、そこへ来たよ。(一人の老女ゆっくり窓の外を通る、通るときにマイケルをじっと見る)知らない人にうちへ来て貰いたくないな、おれの婚礼の前夜に。 ブリヂット  戸をおあけ、マイケル、かわいそうな女の人を待たせないで。 (老女入り来る。マイケル彼女の通りみちをあけようとして傍に退いて立つ) 老女  こんちは。 ピイタア  こんちは。 老女  好いお家だね。 ピイタア  さあさあ、何処ででも、おやすみ。 ブリヂット  火の側にお掛けよ。 老女  (手を温める)そとはひどい風だ。 (マイケル入口から好奇心を以て彼女を見ている。ピイタア卓の方に来る) ピイタア  きょうは遠くから来たのかい? 老女  遠くから、たいへん遠くから来たよ、わたしほど遠いとこを旅をして来たものはどこにもありゃしない、そしてわたしを家に入れてくれない人がいくらもあるよ。丈夫な息子たちを持ってる人で、わたしの知った人があったが、羊の毛を切っていて、わたしの言うことなんぞ聞いてくれないんだ。 ピイタア  だれでも、自分の家がないというのは、なさけないことだ。 老女  ほんとうにそうだよ、わたしがまごつき歩いてるのも長いことさ、初めて無宿者になったときから。 ブリヂット  そんなに長く放浪をしていてそんなに弱りもしないのは不思議だわねえ。 老女  時々は足が草臥れて手も静かになってしまうけれど、わたしの心の中は静かじゃない。わたしが静かになってるのを人が見ると、年寄になってすっかり働きがなくなったのだと思うかもしれないが、心配が来ればわたしは自分の友だちに話をするよ。 ブリヂット  どうした訳で放浪を始めたの? 老女  あんまり大勢の他人が家にはいって来たので。 ブリヂット  ほんとうに、お前さんも苦労したらしいね。 老女  ほんとうに、苦労したよ。 ブリヂット  何が苦労の初めだったね? 老女  土地を取られてしまったのだ。 ピイタア  たくさんの土地を取られたのかい? 老女  わたしの持っていた美しい緑の野を。 ピイタア  (ブリヂットに小声でいう)いつぞやキルグラスの地所から追い出されたというケイシイの後家ででもあるだろうか? ブリヂット  そうじゃありませんよ わたしは一度バリナの市でケイシイの後家さんを見たけど肥った若々しい人でした。 ピイタア  (老女に)喝采している声を聞いたかね、丘を上がって来るとき? 老女  むかしわたしの友だちがわたしを訪ねて来た時にいつでも聞いたような声をいま聞いたと思った。(自分ひとりだけに小声でうたい始める) わたしもあの女と一緒に泣きましょう 髪の黄ろいドノオが死んだ 麻縄を襟かざりに 白いきれを頭に載せて マイケル  (入口から近づく)お前がうたってるのは何の唄だい、おばあさん? 老女  むかしわたしの知ってた男のことをうたっているんだよ。ガルウヱイで絞罪になった黄ろい髪のドノオのことさ。 (うたいつづける、前よりも高い声で) わたしの髪は巻きもしず結びもしず お前と一緒に泣きに来ました 畑のあかい土を掘り返して あの人が自分の畑をたがやしてる姿が見える 石に漆喰つけて 丘のうえに納屋を建ててる姿が見える おお、その絞首台を倒そうものを エニスクロオンであったことなら マイケル  その人は何のために死んだんだい? 老女  わたしを愛するために死んだ。わたしを愛するために大勢の人が死んだよ。 ピイタア  (ブリヂットにいう)苦労したために気が変になってるんだ。 マイケル  その唄が出来たのは古いことかい? その人が死んだのは古いことかい? 老女  古いことじゃない、古いことじゃない。だが、ずうっと昔、わたしを愛するために死んだ人もあったよ。 マイケル  それはお前の近所の人たちかい? 老女  わたしの側へおいで、その人たちの話をするから。(マイケル炉のそばに彼女のわきに腰かける)北にはオドウネル家の強い人がいたよ、南にはオサリヷン家の人があったし、それから、海のそばのクロンタアフで生命をおとしたブライアンという人もあった。西にも沢山あったよ、何百年も前に死んだ人たちが。それに明日死のうとする人たちもある。 マイケル  西の方かい、明日人が死ぬのは? 老女  もっと側に、もっとわたしの側にお寄り。 ブリヂット  正気だろうか? それとも、この世の人じゃないのかしら? ピイタア  自分の言ってることが自分によく分らないんだ、あんまり苦労したり食わずにいたりしたので。 ブリヂット  かわいそうに、親切にしてやりましょうよ。 ピイタア  牛乳でも飲ませて麦の菓子を食わしてやれ。 ブリヂット  それにもう少し何か添えてやったらどうでしょう、旅費にするように。ペニイかそれともシリング一つでも、家にこんなにお金があるんだろう。 ピイタア  そりゃわれわれが余分に持ってるなら惜しみはしないが、持ってるものをどんどん出してゆくと、あの百ポンドも直きにくずすことになるだろう、それは惜しいよ。 ブリヂット  たしなみなさいよ、ピイタア。シリングをおやんなさい、あなたの祝福を添えて、それでないとわたしたちの幸運だって逃げていくかもしれない。 (ピイタア函の方に行き一シリング取り出す) ブリヂット  (老女に)おばあさん、牛乳を飲むかい? 老女  食べる物や飲む物は欲しくない。 ピイタア  (シリングを出して)すこしだが上げる。 老女  こういう物は欲くない。わたしは銀貨が欲しいんじゃない。 ピイタア  何が欲しいんだ? 老女  誰でもわたしを助けようと思えば、自分自身をわたしにくれなけりゃ、わたしに全部くれなけりゃ。 (ピイタア卓の方に行く、手に載せたシリングを途方にくれたように見つめながら、そして其処に立っていてブリヂットにひそひそ話している) マイケル  そんなに年をとってるのに誰も世話をする人はないのかい、おばあさん? 老女  誰もいない。わたしを愛してくれた人はそんなに大勢あったが、わたしはだれの為にも床の支度はしなかったよ。 マイケル  放浪をしていたら寂しいだろうね、おばあさん? 老女  わたしはいろいろな事を考えていろいろな事を望んでいるよ。 マイケル  どんな事をのぞんでいるんだい? 老女  わたしの美しい土地を取り返す希望と、それから、他人を家から追い出そうという希望と。 マイケル  どうすればそれが出来る? 老女  わたしを助けてくれるいい友達があるから。わたしを助けようとして今みんなが集まるところだ。わたしはおそれやしない。もしあの人たちが今日負けても明日は勝つだろうから(立ち上る)わたしの友だちに会いに行ってやろう。わたしを助けに来てくれるところだからあの人たちのむかえに行ってやらなければ。近所の人たちを呼び集めて出迎えに行ってやろう。 マイケル  一しょに行って上げよう。 ブリヂット  マイケル、お前が迎えに行くのはこの人の友だちじゃないよ、お前はここの家へ来ようとする娘を迎えに行かなくっちゃならないよ。お前の仕事がたくさんあるじゃないか。食べる物も飲む物も家へ取って来てくれなけりゃならないよ。家へ来る娘は空手で来るんじゃないから。お前も空っぽの家へあの人を迎えては済まない。(老女に)おばあさん、あなたは知らないだろうが、うちの息子は明日結婚するのよ。 老女  結婚しようとする男に助けて貰おうとは思いやしないよ。 ピイタア  (ブリヂットに)いったい、この人は誰だと思う? ブリヂット  おばあさん、まだお前さんの名を聞かなかったね。 老女  ある人はわたしのことを「かわいそうな老女」と云っている、ある人は「フウリハンの娘のカスリイン」とも言っている。 ピイタア  そういう名の人を聞いたことがあるように思う。はてな、誰だったか? だれか俺の子供の時分に知ってた人らしい。いや、いや、思い出した、唄で聞いた名前だ。 老女  (入口に立っていて)この人たちはわたしのために唄が作られたのに驚いている。わたしのために作られた唄は沢山ある。今朝もひよつ風にきこえたようだった。 (うたう) あんまりみんなで泣くにはおよばぬ 明日お墓を掘る時に しろいスカアフの騎手をよぶな 明日死人を葬るときに よその人たちにふるまいするな 明日お通夜をするときも いのりのために金をやるな 明日死にゆく死人のために  いのりの必要はない、その人たちの為に祈りの必要はない。 マイケル  その唄の意味はおれには分らないが、何かおれに出来る事があれば言っておくれ。 ピイタア  マイケル、此方へ来なさい。 マイケル  だまって。お父さん、あの人のいうことを聞いておいでなさい。 老女  わたしを助けてくれる人たちはつらい仕事をしなくっちゃならないよ。いま赤い頬をしてる人たちも蒼い顔になってしまう。丘も沼も沢も自由に歩きまわっていた人たちは遠くの国にやられてかたい路を歩かせられるだろう。いろんな好い計画は破れ、せっかく金を溜めた人も生きていてその金を使うひまがなく、子供が生まれても誕生祝いの時その子の名をつける父親がいないかも知れない。赤い頬の人たちはわたしの為に蒼い頬になる、それでも、その人たちは十分な報いを受けたと思うだろう。 (老女出て行く、彼女のうたう声が外にきこえる) いつまでも忘られず いつまでも生きて いつまでも口をきく その人たちの声を国民はいつまでも聞く ブリヂット  (ピイタアに)ピイタア、あの子を御覧なさい、何かに憑かれたような顔をしています。(声を高くして)これを御覧よ、マイケル、婚礼の服を。ずいぶん立派だねえ! いま着て見た方がいいよ、もし明日着て体に合わないと困るから、若い衆たちに笑われちまうよ。これを持ってって、向うの部屋で着てみておくれ。 (彼女マイケルの腕に服を持たせる) マイケル  何の婚礼の話をしているんだい? あすおれがどんな服を着るって話だい? ブリヂット  あしたお前がデリヤ・ケエルと結婚する時に着る服じゃないか。 マイケル  忘れていた。 (服を見て奥の部屋の方に行こうとする、そとでまた喝采す声がすると立止る) ピイタア  あの声がうちの前まで来た。何が始まったんだろう? (近所の人たちどやどや入って来るパトリックとデリヤも彼等と一しょにいる) パトリック  港に船が来ているよ、フランス人がキララに上陸するとこだ! (ピイタア煙管を口からはなし帽子を取って、立つ。マイケルの腕から婚礼の服がすべり落ちる) デリヤ  マイケル! (マイケル気がつかない)マイケル! (マイケル彼女の方に向く)どうしてあたしを知らない人みたいに見るの? (彼女マイケルの手をはなしブリヂット彼女のそばに行く) パトリック  若いものはみんな丘を駈けおりてフランス人と一緒になりに行くよ。 デリヤ  マイケルはフランス人と一緒になりに行きやしないでしょう。 ブリヂット  (ピイタアに)行くなと云って下さい、ピイタア。 ピイタア  言ったって駄目だ。われわれの言ってることは一言も聞いてやしない。 ブリヂット  何とか言って火の側へ連れてって下さいな。 デリヤ  マイケル、マイケル! あたしを捨ててゆきはしないでしょう。フランス人と一緒になりはしないでしょう、あたしたちは結婚するとこじゃありませんか! (デリヤ腕を彼の身に巻く、マイケル彼女の方に向いてその意に従おうとする) (家のそとに老女の声がする) いつまでも口をきく その人たちの声を国民はいつまでも聞く (マイケル、デリヤから身を振りはなして暫時入口に立つ、やがて駈け出す、老女の声のあとを追って。ブリヂット静かに泣いているデリヤを自分の腕に抱く) ピイタア  (パトリックの腕に片手をかけて訊く)年よりの女がそこの路を下りてゆくのを見なかったか? パトリック  見なかった、若い娘が行ったよ。女王のように歩いていた。
底本:「近代劇全集 第廿五卷愛蘭土篇」第一書房    1927(昭和2)年11月10日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 入力:館野浩美 校正:岡村和彦 2019年2月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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       Ⅰ 宝石を食ふもの  平俗な名利の念を離れて、暫く人事の匆忙を忘れる時、自分は時として目ざめたるまゝの夢を見る事がある。或は模糊たる、影の如き夢を見る。或は歴々として、我足下の大地の如く、個体の面目を備へたる夢を見る。其模糊たると、歴々たるとを問はず、夢は常に其赴くが儘に赴いて、我意力は之に対して殆ど其一劃を変ずるの権能すらも有してゐない。夢は夢自らの意志を持つて居る。そして彼方此方と揺曳して、其意志の命ずるまゝに、われとわが姿を変へるのである。  一日、自分は隠々として、胸壁をめぐらした無底の大坑を見た。坑は漆々然として暗い。胸壁の上には無数の猿がゐて、掌に盛つた宝石を食つてゐる。宝石は或は緑に、或は紅に輝く。猿は飽く事なき饑を以て、ひたすらに食を貪るのである。  自分は、自分がケルト民族の地獄を見たのを知つた。己自身の地獄である。芸術の士の地獄である。自分は又、貪婪止むを知らざる渇望を以て、美なる物を求め奇異なる物を追ふ人々が、平和と形状とを失つて、遂には無形と平俗とに堕する事を知つた。  自分は又他の人々の地獄をも見た事がある。其一つの中で、ピイタアと呼ばるゝ幽界の霊を見た。顔は黒く唇は白い。奇異なる二重の天秤の盤の上に、見えざる「影」の犯した悪行と、未行はれずして止んだ善行とを量つてゐるのである。自分には天秤の盤の上り下りが見えた。けれ共ピイタアの周囲に群つてゐる多くの「影」は遂に見る事が出来なかつた。  自分は其外に又、ありとあらゆる形をした悪魔の群を見た。魚のやうな形をしたのもゐる。蛇のやうな形をしたのもゐる。猿のやうな形をしたのもゐる。犬のやうな形をしたのもゐる。それが皆、自分の地獄にあつたやうな、暗い坑のまはりに坐つてゐる。そして坑の底からさす天空の、月のやうな反射をぢつと眺めてゐるのである。        Ⅱ 三人のオービユルンと悪しき精霊等  幽暗の王国には、無量の貴重な物がある。地上に於けるよりも、更に多くの愛がある。地上に於けるよりも、更に多くの舞踏がある。そして地上に於けるよりも、更に多くの宝がある。太初、大塊は恐らく人間の望を充たす為に造られたものであつた。けれ共、今は老来して滅落の底に沈んでゐる。我等が他界の宝を盗まうとしたにせよ、それが何の不思議であらう。  自分の友人の一人が或時、スリイヴ、リイグに近い村にゐた事がある。或日其男がカシエル、ノアと呼ぶ砦の辺を散歩してゐると、一人の男が砦へ来て地を掘り始めた。憔悴した顔をして、髪には櫛の目もはいつてゐない。衣服はぼろぼろに裂けて下つてゐる。自分の友人は、傍に仕事をしてゐた農夫に向つて、あの男は誰だと訊ねた。「あれは三代目のオービユルンです」と農夫が答へた。  それから五六日経つて、かう云ふ話をきいた。多くの宝が異教の行はれた昔から此砦の中に埋めてある。そして悪い精霊の一群が其宝を守つてゐる。けれ共何時か一度、其宝はオービユルンの一家に見出されて其物になる筈になつてゐる。がさうなる迄には三人のオービユルン家のものが、其宝を見出して、そして死なゝければならない。二人は既にさうした。第一のオービユルンは掘つて掘つて、遂に宝の入れてある石棺を一目見た。けれ共忽、大きな、毛深い犬のやうなものが山を下りて来て、彼をずたずたに引裂いてしまつた。宝は翌朝、再深く土中に隠れて又と人目にかゝらないやうになつて仕舞つた。それから第二のオービユルンが来て、又掘りに掘つた。とう〳〵櫃を見つけたので、蓋を擡げて中の黄金が光つてゐるのまで見た。けれ共次の瞬間に何か恐しい物を見たので、発狂すると其まゝ狂ひ死に死んでしまつた。そこで宝も亦土の下へ沈んでしまつたのである。第三のオービユルンは今掘つてゐる。彼は、自分が宝を見出す刹那に何か恐しい死方をすると云ふ事を信じてゐる。けれ共又呪が其時に破れて、それから永久にオービユルン家のものが昔に変らぬ富貴になると云ふ事も信じてゐる。  近隣の農夫の一人は嘗て此宝を見た。其農夫は草の中に兎の脛骨の落ちてゐるのを見つけた。取上げてみると穴が明いてゐる。其穴を覗いて見ると、地下に山積してある黄金が見えた。そこで、急いで家へ鋤をとりに帰つたが、又砦へ来てみると、今度は何うしてもさつきそれを見た場所を見つける事が出来なかつた。        Ⅲ 女王よ、矮人の女王よ、我来れり  或夜、一生を車馬の喧噪から遠ざかつて暮した中年の男と、其親戚の若い娘と、自分との三人が、遠い西の方の砂浜を歩いてゐた。此娘は野原の上、家畜の間に動く怪し火の一つをも見逃さない能力があると云はれてゐる女であつた。自分たちは「忘れやすき人々」の事を話した。「忘れやすき人々」とは時として、精霊の群に与へらるゝ名前である。話半に、自分たちは、精霊の出没する場所として名高い、黒い岩の中にある浅い洞窟へ辿りついた。濡れた砂の上には、洞窟の反影が落ちてゐる。  自分は其娘に何か見えるかと聞いた。それは自分が「忘れやすき人々」に訊ねやうと思ふ事を、沢山持つてゐたからである。娘は数分の間静に立つてゐた。自分は彼女が、目ざめたる夢幻に陥つて行くのを見た。冷な海風も今は彼女を煩はさなければ、懶い海のつぶやきも今は彼女の注意を擾さない。  自分は其時、声高く大なる精霊たちの名を呼んだ。彼女は直に岩の中で遠い音楽の声が聞えると云つた。それから、がやがやと人の語りあふ声や、恰も見えない楽人を賞讃するやうに、足を踏鳴らす音が、きこえると云つた。それ迄、もう一人のつれは、二三間はなれた所を、あちこちと歩いてゐたが、此時自分たちの側を通りながら、急に、「何処か岩の向ふで、小供の笑ひ声が聞えるから、きつと邪魔がはいりませう」とかう云つた。けれ共、此処には自分たちの外に誰もゐない。これは彼の上にも亦、此処の精霊が既に其魅力を投げ始めてゐたのである。  忽、彼の夢幻は娘によつて更につよめられた。彼女は、どつと人々の笑ふ声が、楽声や、がやがやした話し声や、足音にまぢつて聞えはじめたと云つた。それから又、今は前よりも深くなつたやうに見える洞窟から流れ出る明い光と、紅の勝つた、さま〴〵の色の衣裳を着て、何やら分らぬ調子につれて踊つてゐる侏人の一群とが見えると云つた。  自分は彼女に侏人の女王を呼んで、自分たちと話しをさせるやうに命じた。けれ共彼女の命令には何の答も来なかつた。そこで自分は自ら声高く其語を繰り返した。すると忽、美しい、丈の高い女が洞窟から出て来た。此時には、自分も亦既に夢幻の一種に陥つてゐたのである。此夢幻の中にあつては空華と云ひ鏡花と云ふ一切のものが、厳として犯す可からざる真を体して来る。自分は、其女の黄金の飾がかすかにきらめくのも、黒ずんだ髪にさしてゐる、ほの暗い花も見ることが出来た。  自分は娘に、此丈の高い女王に話して其とも人たちを、本来の区劃に従つて、整列させるやうに云ひつけた。それは自分が、彼等を見度かつたからであつた。けれ共、矢張又前のやうに自分は此命令を自ら繰返さなければならなかつた。  すると、其もの共が洞窟から出て来た。そして、もし自分の記憶が誤らないならば、四隊を作つて整列した。其一隊は手に手に山秦皮樹の枝を持つてゐる。もう一隊は、蛇の鱗で造つたやうに見える首環をかけてゐた。けれ共、彼等の衣裳は自分の記憶に止つてゐない。それは自分があのかがやく女に心を奪はれてゐたからである。  自分は彼女に、是等の洞窟が此近傍で最、精霊の出没する所になつてゐるかどうかを、つれの娘に話してくれと願つた。彼女の唇は動いたが、答を聞きとる事は出来なかつた。自分は娘に手を、女王の胸に置けと命じた。さうしてからは、女王の云ふ事が娘によくわかつた。いや、此処が、最、精霊の集る所ではない。もう少し先きに、更に多く集る所がある。自分はそれから、精霊が人間をつれてゆくと云ふ事が真実かどうか、真実ならば、精霊がつれて行つた霊魂の代りに、他の霊魂を置いてゆくと云ふ事があるかどうかを訊ねた。「我らは形をかへる」と云ふのが女王の答であつた。「あなた方の中で今までに人間に生まれた方がありますか。」「ある。」「来生以前にあなた方の中にゐたものを、私が知つてゐますか。」「知つてゐる。」「誰です。」「それを知る事はお前に許されてゐまい。」自分はそれから女王と其とも人とが、自分等の気分の劇化ではないかどうかと訊ねた。「女王にはわかりません、けれ共精霊は人間に似てゐますし、又大抵人間のする事をするものだと云ひます」とかう自分の友だちが答へた。  自分は女王に、まだ色々な事を訊ねた。女王の性質をきいたり、宇宙に於ける彼女の目的をきいたりしたのである。けれ共それは唯彼女を苦めたやうに思はれた。  遂に女王は堪へきれなくなつたと見えて、砂の上にかう書いて見せた。――幻の砂である。足下に音を立ててゐる砂ではない。――「心づけよ、余りに多くわれらが上を知らむと求むる勿れ。」女王を怒らしたのを見て、自分は彼女の示してくれた事、話してくれた事を彼女に感謝した。そして又元の通り彼女を洞窟に帰らせた。暫してつれの娘が其夢幻から目ざめ、再此世の寒風を感じて、身ぶるひを始めた。  自分は是等の事を出来得る限り正確に話すのである。そして又話を傷けるやうな、何等の理論をも之に加へない。畢竟するにすべての理論は、憐む可きものである。そして自分の理論の大部は既に久しい以前に其存在を失つて仕舞つてゐる。  自分は、如何なる理論よりも、扉を啓く「象牙の門」の響を熱愛してゐる。そして又、其薔薇を撒く戸口をすぎたものゝみが、「角の門」の遠きかがやきを捕へ得る事を信じてゐる。われらがもし、占星者リリイがウインゾアの森に発した叫び―― REGINA, REGINA PIGMEORUM, VENI(女王よ。矮人の女王よ。我来れり。)の声をあげ、彼と共に神は夢に幼な児を訪れ給ふ事を記憶するなら、それは恐らくわれらの為に幸を齎すであらう。丈高く、光まばゆき女王よ。願くは来りて、再、汝が黒める髪にかざせしほの暗き花を見せしめよ。
底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店    1995(平成7)年11月8日発行 初出:「新思潮 第一巻第三号」    1914(大正3)年4月1日発行 ※初出時の表題は、「「ケルトの薄明」より(イエーツ)」。署名は、柳川隆之介。 ※原章題は、「宝石を食ふもの」が「The Eaters of Precious Stones」、「三人のオービユルンと悪しき精霊等」が「The Three O'Byrnes and the Evil Faeries」、「女王よ、矮人《わいじん》の女王よ、我来れり」が「Regina, Regina, Pigmeorum, Veni」。 入力:もりみつじゅんじ 校正:浅原庸子 2004年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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人 マアチン・ブルイン  父 ブリヂット・ブルイン 母 ショオン・ブルイン  マアチンの子 メリイ・ブルイン   ショオンの妻 神父ハアト フェヤリイの子供 遠いむかし アイルランド、スリゴの地、キルマックオエンの領内にあったこと 部屋の右の方に深い凹間がある、凹間の真中に炉。凹間には腰掛とテイブルあり、壁に十字架像がある。炉の火の光で凹間の中が明るい。左手に戸口、戸があいている、その左に腰掛。戸口から森が見える。よるではあるが、月かあるいは夕日の消え残ったうすあかりか樹々のあいだにほのかなひかりがあって、見る人の眼をとおくのぼんやりした不思議な世界にみちびく。マアチンとショオンとブリヂットの三人が凹間のテイブルの側や火の側に腰かけている。古いむかしの服装。その側に神父ハアト腰かけている。僧服をつけて。テイブルの上に食物と酒。  若き妻メリイ戸のそばに立って本を読んでいる。彼女が本から眼をあげて見れば戸口から森の中まで見えるのである。 ブリヂット 夕食の支度に鍋を洗えといいますと 屋根うらからあんな古い本を出して来ました それから読みつづけております。 神父様、彼女をほかの人たちのように働かせましたら どんなに苦しがったり泣いたりいたしましょう わたしのように夜明から起きて縫いものをしたり掃除をしたり また、あなたのように尊いお器と聖いパンをお持ちになって あらい夜も馬でお歩きになる、そのようにしろといいましたら ショオン お母さん、あなたはやかまし過ぎる ブリヂット お前は夫婦だから 彼女の気に逆うまいと思って、彼女の味方ばかりする マアチン (神父ハアトに向って) 若いものが若い者の味方をするのは当前で 彼女は時々わたしの家内と喧嘩もやります 今はあのとおり古い本に夢中になっていますが しかしあまりお叱り下さるな、彼女もいまに 木に生えたやぶだまのように静かになりましょう 新婚の夜の月が夜明になりやがて消えて それを十遍もくり返しているうちには ハアト 彼等の心は荒い 鳥どもの心と同じように、子供が生れるまでは ブリヂット 薬缶の湯を入れるでもなし、牛の乳をしぼるではなし 食事の支度の切れをかけたりナイフを並べることもしません ショオン お母さん、もし―― マアチン これには半分しか酒がないよ、ショオン、 行って家にある一ばん良い酒の壜を持って来てくれ ハアト いままで彼女が本を読んでるのを見たことはなかったが 何の本だろう マアチン (ショオンに) 何を待っているのだ 口をあけるとき壜を振ってはいけない 大切な酒だ、気をつけておくれ(ショオン行く) (神父に向って) オクリスの岬でスペイン人が難船したことがありました わたしの若い時のことですが、まだその時の酒が残っています 倅は彼女の悪くいわれるのを聞いていられないと見えます。あの本は この五十年来、屋根うらに置いてあったのです わたしの父の話では祖父がそれを書いたのだそうで 牡犢を殺してその皮で本のおもてを拵えたのだそうです―― 夕食の支度が出来ました、食べながらお話しましょう 祖父はあの本のために何もよい事は来なかったようです 家のなかは、旅の胡弓ひきや 旅の唄うたいの人たちでいっぱいになりました そこにあなたの前に焼パンがあります。 むすめや、どんな不思議な事がその本にあるのだい パンがつめたくなるまで夢中で読んでいるほどの? もしわたしや わたしのおやじがそんな本を読んだり書いたりしていたらば わたしが死んだあと、黄ろい金貨のいっぱい詰まった靴足袋を ショオンやお前に残してやることは出来なかったろう ハアト ばからしい夢を頭に入れてはいけないよ 何を読んでいるのだい メリイ 王女イデーンという アイルランドの王のむすめが、きょうと同じ 五月祭の前の夜、誰かのうたってる歌の声をききました 王女は覚めてるような眠ってるような気持でその声を追って フェヤリイの国に行きました その国はだれも年とったりしかつめらしくなったり真面目になったりしない だれも年とったりずるくなり賢くなったりしない だれも年とったり口やかましくなったりしない国なのです 王女はまだ今でもそこにいていつも踊っているそうです 森の露ふかい蔭や 星の歩く山のいただきで マアチン その本を捨てるようにむすめにおっしゃって下さい わたしの祖父はちょうど同じような事をいっていました それで犬や馬を見分ける眼も持たず どんななまけ者の若い衆のお世辞にものせられました あなたのお考えをあれにおっしゃって下さい ハアト むすめよ、その本は捨てておしまい 神はわれわれの上に天を大きな翼のようにお拡げなされ 生きて暮してゆく日の小さなくりかえしをお与え下さる そこに、堕された天使たちが来て罠をかけて 愉快な希望や真実らしい夢で人を釣るのだ 釣られた者の心は誇りにふくらんで おそれたり喜んだりして神の平和から離れて行く それは堕されて、涙に目のくもった天使たちの一人であったろう そのイデーンの心に楽しい言葉でとり入ったのは むすめよ、わしは心の落ちつかない苛々した 娘たちを見たこともあるが、年つきが過ぎて かれらも隣近所の人たちと同じようになり、よろこんで 子供たちの世話をしたりバタを拵えたり 婚礼や通夜の噂ばなしをするようになってしまった 人のいのちは夢の赤い輝きから出て 平凡な月日の平凡なひかりの中にはいってゆくのだ 老年がふたたびその赤い輝きを持って来てくれるまで マアチン それは本当です――しかしそれが本当だとは、彼女のような若いものには分かりません ブリヂット 遊んだりなまけたりしているのが 悪いということぐらいは分かる年齢です マアチン わたしは彼女をとがめはしません 倅が畑に出ていると彼女はぼんやりしているようです それと、あるいは家内の口小言に追われて 彼女は自分の夢のなかに隠れるようになったのでしょう 子供たちが夜具の中に暗黒から隠れるように ブリヂット 彼女は何一つしやしませんわたしが黙っていたらば マアチン こういう五月祭の前の夜、フェヤリイの世界の人たちのことを 考えるのは自然かも知れない。それはそうと、むすめよ 祝福の山櫨子の枝があるか 家のなかに幸運が来るようにと 女のひとたちが入口の柱にかける山櫨子の枝は 五月祭の前夜の日がくれては フェヤリイは新しくよめいりした花嫁でも盗みに来るかも知れない 炉辺で年寄の女たちの話すことは うそばかりでもあるまいから ハアト それは本当のことかも知れない 神がなにかの不思議な目的のために 魔の霊どもにどれだけの力をお許しおきなさるかは 我等には分らない。それがよろしい(メリイに) むかしからの罪のない習慣は守る方がよろしい (メリイ・ブルイン山櫨子の枝を腰掛から取り上げて入口の柱の釘にかける。見なれない服装の、不思議なみどり色の衣を着た女の子が森から来てその枝を取る) メリイ あの枝を釘にかけるが早く 子供が風のなかから駈けて来て 枝を取っていじっています 夜明の前の水のように青い顔をした子供です ハアト どこの子供だろう マアチン 何処の子でもないでしょう 彼女は時々たれかが通ったように思うのです 風がひと吹き吹いただけでも メリイ 祝福の山櫨子の枝を取って行ってしまったから ここの家には幸運は来ないかもしれない でもわたしはあの人たちに親切にしてやって嬉しい あの人たちも、やっぱり、神の子供たちでしょう ハアト むすめよ、彼等は悪魔の子供たちだよ 彼等は最後の日まで力を持っている 最後の日に神は彼等と大なる戦いをなされて 彼等をこなごなにお砕きなさるだろう メリイ 神は微笑なさるかも知れません ハアト そして神父様、神は天の戸を開けておやりになるかも知れません 悪の天使たちはその戸を見るだけで 無限の平和に打れて亡びるだろう その天使たちがわれわれの戸を叩く時 いでて彼等と共に行くものはおなじ暴風の中も彼等と共に行かなければならぬ (瘠せて老人じみた手が柱のかげから出て叩いたり手招きしたりする。それが銀いろの光にはっきり見える。メリイ・ブルイン戸口に行きその光の中に暫らく立っている。マアチン・ブルインは神父の皿に何か盛るのに忙しい。ブリヂット・ブルイン火をいじる) メリイ  (テイブルの方に来る) だれか外にいてわたしを手招きしています 杯でも持ってるように手をあげて 飲む手つきをします、きっと 何か飲みたいのでしょう (テイブルから乳を取って戸口に持ってゆく) ハアト 何処の子でもあるまいとお前がいったその子供だろう ブリヂット それでも神父様、この人のいうことは本当かも知れません 一年のうちに二度とはございません 今夜のように悪い晩は マアチン 何も悪いことが来る筈はない 神父様がうちの屋根の下にいて下さるあいだは メリイ みどり色の着物を着た小さい奇妙な年寄の女です ブリヂット フェヤリイの人たちも乳と火を貰いに歩くといいます 五月祭の前夜には――それをやった家は災難です 一年のあいだその家はフェヤリイの力の下にあるといいます マアチン 黙って、黙っていなさい ブリヂット 彼女は乳をやってしまった わたしは彼女がこの家に悪いことを持って来るだろうと思っていた マアチン どんな人だった メリイ 言葉も顔つきも異っていました マアチン 前の週にクロオバア・ヒルに外国の人たちが来たそうだ その女はその人たちの一人かもしれない ブリヂット わたしは恐ろしい ハアト 十字架があすこにかかっているあいだは どんなわざわいもここの家には来ない マアチン むすめよ、ここに来てわたしの側におかけ 物たりなさの夢は忘れてくれ わたしはお前に自分の老年を明るくしてもらいたいのだ その泥炭の燃えてるように明るく。わたしが死ねば お前はこの辺いちばんの金持になれる、むすめよ わたしは黄ろい金貨のいっぱい詰まった靴足袋を 誰も見つけ出せないところに隠して持っているのだよ ブリヂット お前は綺麗な顔には直ぐだまされる わたしは物惜しみをしたりけちにしなければならないのか、倅のよめが いろいろなリボンを頭につけるために マアチン 腹を立てるな、彼女はまったくいい娘だ バタはあなたのお手の側に、神父様 むすめよ、運も時も変も わたしとそこにいるブリヂット婆さんのためにはうまく行ったと思わないか わたしらはよい田地の百エーカアも持っている そして火のそばに並んで腰かけている ありがたい神父さまを自分の友だちにし お前の顔を見、倅の顔も見ていられる―― あれの皿をお前の皿の側に置いたよ――そら、あれが来た そしてわれわれがたった一つ不足にしていたものを持って来てくれた 好い酒をたくさん (ショオン登場)火を掻き立ててくれ 燃え上がるように新しい泥炭を入れて 火からうず巻いてのぼる泥炭の煙をながめ 心に満足と智慧を感じる これが人生の幸福だ、われわれ若いときは 前にだれも蹈んだことのない道を蹈んで見たがるものだ しかし尊い古い道を愛のなかから 子を思う心の中から見つけ出す、そしてその道を行くのだ 運と時と変とにさよならを言うときまで (メリイ炉から泥炭の一塊を取り戸口から外に出る、ショオン彼女の後に行き、内にはいって来る彼女と会う) ショオン あのうすら寒い森に何しに行ったのだ 樹の幹と幹のあいだに光がある 身ぶるいがするような光が メリイ 小さな変な年よりが わたしに手真似をして火が欲しいというんです 煙草を吸うために ブリヂット お前は乳と火をやったね 一年じゅうのいちばん悪い晩に、そしてきっと この悪に家いことを来させるのだろう 結婚前にはお前はなまけもので上品で 頭にリボンをつけて歩き𢌞っていた そして今――いいえ、神父様、いわせて下さいまし これは誰の女房にもなれる人ではないんです ショオン 静かにしないか、お母さん マアチン お前は気むずかし過ぎるよ メリイ わたしは構いはしません、もしこの家を 一日じゅうにがい言葉ばかり聞かせられる この家をフェヤリイの力に陥しいれたところで ブリヂット お前もよく知ってる筈だ あの人たちの名を呼び あの人たちの噂をするだけでも その家にいろいろな災難の来るということは メリイ おいで、フェヤリイよ、このつまらない家からわたしを連れ出しておくれ わたしの失くしたすっかりの自由をまた持たせておくれ 働きたい時にはたらき遊びたい時に遊ぶ自由を フェヤリイよ、来てわたしをこのつまらない世界から連れ出しておくれ わたしはお前たちと一緒に風の上に乗って行きたい みだれ散る波のうえを駈けあるき 火焔のように山の上でおどりたい ハアト お前は自分の言葉の意味が分らないのだ メリイ 神父様、わたしは四つの言葉にあきあきしました あんまりこすいあんまり賢い言葉と あんまりありがたいあんまり真面目すぎる言葉と 海の潮よりもっとにがい言葉と ねぶたい愛に充ちた、ねぶたい愛とわたしの牢屋の話ばかりする 親切な言葉に、あきあきしました (ショオン彼女を戸口の左の席につれてゆく) ショオン わたしのことを怒らないでおくれ、わたしはたびたび夜中に目をさましていて お前の美しい頭をかき乱すいろいろな事を考えて見る うつくしいね――雲みたいにぼやけた髪の毛の下の ひろい真白なお前の額は わたしの側におすわり――あの人たちは年をとりすぎているのだ 一度は自分たちも若かったということを忘れている メリイ ああ、あなたはこの家の大きな門柱です そしてわたしは祝福の山櫨子の枝 もし出来ることならわたしは自分をあの柱の上にかけて この家に幸運を来させたいとおもいます (腕をショオンの身にかけようとして恥かしそうに神父の方を見て、力なく手を垂れる) ハアト むすめよ、その手を持っておやり――ただ愛によって 神は我々を神と家とに結んで下さる 神の平和の届かない荒野の 狂わしい自由と目もくるめく光からわれわれを隔てて下さる ショオン この世界がわたしの物であったら、世界もお前にやりたい 静かな炉辺ばかりでなく、その上に 光と自由のすべてのまぶしさも もしお前が欲しければ、お前にやりたい メリイ わたしは世界を持って それをわたしの両手でこなごなに砕いて そのくずれて行くのを眺めてあなたが微笑うのを見たい ショオン そしたら、わたしは火と露との新しい世界を造りたい にがい心のものも真面目なものも賢すぎるものもない お前の邪魔をする醜いものも年とったものもいない世界を そして空の静かな歓喜に蝋燭を立てつづけて お前のさびしい顔を照らして見たい メリイ あなたのお眼があれば、わたしにはほかの蝋燭は入りません ショオン 前には、日の線のなかに飛ぶ羽虫も あかつきの中から吹く微風も お前の心をだれも知らない夢で充すことが出来た しかし今は、解きがたい聖い誓いが 気高くつめたいお前の心を永久に わたしの温い心と交ぜてしまった。日も月も 消えて天が巻物のように巻き去られるときも お前の白い霊はやっぱりわたしの霊のそばに歩いて行くだろう (森の中にうたう声する) マアチン だれか歌っているようだ。子供のようだ 「さびしい心の人が枯れる」とうたっている 子供がうたうには不思議な歌だ、だが好い声でうたっている お聞き、お聞き (戸口に行く) メリイ どうかわたしをしっかり抑えていて下さい 今夜わたしは悪いことを言いましたから 声   (うたう) 日の門から風がふく さびしい心の人に風が吹く さびしい心の人が枯れる そのときどこかでフェヤリイがおどる しろい足を輪に踏み しろい手を空に振って 老人もうつくしく かしこいものもたのしく物いう国があると わらいささやきうたう風をフェヤリイはきく クラネの蘆がいう 風がわらいささやきうたう時 さびしいこころの人が枯れる マアチン 自分が幸福だから、わたしはほかの人も幸福にしてやりたい あの子をそとの寒いとこから内に入れよう (フェヤリイの子を内に連れて来る) 子供 風と水と青い光に、あたしあきあきしました マアチン それももっともだ、夜が来れば 森はさむくて路も分からない ここにいるがいいよ 子供 ここにいます あたしがこの温かい小さい家に倦きる時分には ここに一人出てゆく人がありますよ マアチン あの夢のような不思議な話を聞いてやれ さむくはないかい 子供 あたしあなたの側でやすみましょう 今夜とおい遠い路を駈けて来たの ブリヂット お前は美しい子だね マアチン お前の髪は濡れている ブリヂット お前の冷たい足を温ためて上げよう マアチン お前はほんとうに遠い 遠いとこから来たのだろう――お前の美しい顔を わたしは前に見たことがない――疲れてひもじいだろう ここにパンと葡萄酒があるよ 子供 おばあさん、何かあまい物はないの 葡萄酒はにがいわ ブリヂット 蜂蜜がある (ブリヂットとなりの部屋にゆく) マアチン お前は機嫌をとるのがうまいな お婆さんは機嫌がわるかったよ、お前が来るまで (ブリヂット蜂蜜を持って戻って来て茶椀に乳を充たす) ブリヂット いい家の子供だろう、ごらん この白い手と綺麗な着物を わたしは新しい乳をお前に持って来て上げたよ、だがすこしお待ち 火にかけてあたためて上げよう わたしたち貧乏人にはおいしい物でも お前のようないい家の子供には気に入るまい 子供 夜明から起きて、火を吹きおこして お前は手の指の折れるまで働くのね、お婆さん 若い人たちは床にいて夢を見たり希望を持ったりできるけれど お前は指の折れるまで働くのね お前の心が年をとっているから ブリヂット 若いものはなまけものだよ 子供 おじいさん、お前は年の功で利口ねえ 若いものは夢や希望のために溜息をつくけれど お前は利口ね、お前の心が年をとっているから (ブリヂット彼女にもっとパンと蜜を与える) マアチン 珍らしいことだな、こんな若いむすめが 年よりや智慧者を大事がるのは 子供 もう沢山よ、おばあさん マアチン ぽっちりしか食べないな! 乳が出来た (乳を彼女に渡す) ぽっちりしか飲まないね 子供 靴をはかせて頂戴、おばあさん あたし食べたから今度は踊りたいの クラネの湖のそばで蘆も踊っているのよ 蘆も白い波も踊りつかれて眠ってしまうまで あたしも踊っていたい (ブリヂット靴をはかせる。子供は踊ろうとして不意に十字架像を見つける。叫んで眼を覆う) あの黒い十字架の上のいやなものは何 ハアト お前はたいへん悪いことを言ってるんだよ あれはわれわれのおん主なのだ 子供 あれを隠して頂戴 ブリヂット わたしは又怖くなって来た 子供 隠して頂戴 マアチン それは悪いことだ ブリヂット 神様を汚すことだよ 子供 あの苦しがってるもの あれを隠して頂戴 マアチン この子に教えない親がいけないのだ ハアト あれは神の子のお姿だ 子供  (神父にすがりつき) 隠して頂戴、隠して頂戴 マアチン いけない、いけない ハアト お前はそんなに小さくて木の葉のそよぎにも おどろく鳥のようなものだから わしはあれを取り下ろしてあげよう 子供 隠して頂戴 見えないような思い出せないようなところに隠して頂戴 (神父ハアト壁から十字架像を取り奥の部屋に持ってゆこうとする) ハアト お前もこの土地に来たからには ありがたい教の道にわしが導いて上げる お前はそんなに賢いのだからすぐに覚えてしまう (他の人たちに向って) すべてつぼみのような若いものに対してわれわれは優しくしなければならない 神はカルバリイの悲しみのために あかつきの星どもの最初の歌をさまたげはなさらなかった (奥の部屋に十字架を持ってゆく) 子供 ここは平だから踊るのにいい。あたし踊りましょう (うたう) 日の門から風が吹く 風がさびしい心の人に吹く さびしい心の人が枯れる (子供おどる) メリイ  (ショオンに) 今あの子がそばに来た時、床のうえに ほかの小さい足音がひびくのを聞いたと思います そして風の中にかすかに音楽が流れて 眼に見えない笛があの子の足に調子をつけてるように思いました ショオン わたしにはあの子の足音だけしか聞えない メリイ いま聞えます 聖くない霊がここの家のなかで踊っているのです マアチン ここへおいで、もしお前がわたしに 神さまのことで勿体ないことをいわないと約束すれば お前に好いものを上げるよ 子供 ここまで持ってらっしゃいよ、おじいさん マアチン 倅の嫁にと思ってわたしが町から買って来た リボンがある――彼女もこれをお前に上げるのを承知するだろう 風が散らばしたその乱れた髪を結ぶのに 子供 あのねえ、あなたはあたしが好き マアチン うん、わたしはお前が好きだ 子供 ああ、それでもあなたはこの火の側が好きでしょう。あなたはあたしが好き ハアト 神がこれほどたくさんに 御自分の無限の若さをお分けなされた一人のひとを 見ることは愛することだ 子供 それでも、あなたは神様も好き ブリヂット 神を涜している 子供 それから、あなたも、あたしが好き メリイ わたしは知らない 子供 あなたはあすこにいるあの若い人が好きなのでしょう それでも、あたしはあなたを風に乗らせたり 散る波の上を駈けさせたり 火焔のように山の上で踊らせて上げることも出来るのに メリイ 天使たちと優しい聖者たちの女王さまお守り下さい 何か恐ろしい事が起りそうだ。先刻 あの子は山櫨子の枝を持って行ってしまった ハアト お前はあの子のわけの分らない話を怖がっている あれよりほかに知らないのだよ。小さい人、お前はいくつだい 子供 冬の眠が来る時分はあたしの髪が薄くなって 足もよろよろになるの。木の葉が目をさます時分は あたしの母が金いろの腕にあたしを抱いてくれますよ あたしは直きに大人になって結婚します 森や水の霊と。でも誰にも分らないわ あたしが始めて生れて来た時のことは。あたしは バリゴオレイの山で眼をまばたきしまばたきしている あの雄鷲よりもよっぽど年よりらしいの 月の下であの鷲がいちばんの年よりだけれど ハアト おお、フェヤリイの仲間か 子供 呼んだ人がいるの あたしは乳と火を貰いに使をよこすと また呼ばれたから、来ましたよ (ショオンとメリイのほかは保護されようとして神父の後に集まる) ショオン (立つ) お前はここにいるみんなを従わせたが まだわたしの眼を惑わして、お前に力を与えるような 物にしろ願望にしろわたしから取ったものはない わたしがお前をこの家から追い出そう ハアト いや、わしが向って見よう 子供 あなたがあの十字架像を取ってしまったから あたしは強い、あたしが許さなければ あたしの足が踊ったところ、あたしの指さきの動いたところを だれも通ることは出来ない (ショオン彼女に近づこうとして、進むことが出来ない) マアチン 見ろ、見ろ 何かあれを止めるものがある――そら、手を動かしている まるでガラスの壁にでもこすりつけているように ハアト わしはこの力づよい霊に一人で向おう おそれなさるな、「父」はわれわれと共にいて下さる 聖なる殉教者たち。罪なき幼児たちも また甲鎧をつけてひざまずく東方の聖人たちも 死にて三日の後よみがえりたまいし「彼」も また、ありとあらゆる天使の群も (子供は長椅子の上のメリイの側に跪き両腕を彼女にかける) むすめよ、天使と聖徒たちを呼びなさい 子供 花嫁さん、あたしと一しょにおいで そしてもっと愉快な人たちを見るのよ しろい腕のヌアラ、鳥の姿のアンガス さかまく波のフアックラ、それから 西を治めているフィンヷラと 心のゆきたがるあの人たちの国があります そこでは美しいものに落潮もなく、滅びるものに昇潮も来ない そこでは智慧が歓びで、「時」が無限の歌なの あたしがお前に接吻すると世界は消えてゆく ショオン そのまぼろしから醒めて――ふさいでおいで お前の眼と耳を ハアト 彼女は眼で見、耳で聞かなければならぬ 彼女の霊の選択のみがいま彼女を救うことが出来るのだ むすめよ、わしの方に来て、わしのそばに立っておいで この家とこの家に於けるお前のつとめを考えておくれ 子供 ここにいてあたしと一緒においで、花嫁さん お前があの人のいうことを聞けば、お前もほかの人たちと同じようになるよ 子供をうみ、料理をし、乳をかき𢌞し バタや鶏や玉子のことで喧嘩をし やがてしまいには、年をとって口やかましくなり あすこにうずくまって顫えながら墓を待つようになるよ ハアト むすめよ、わしは天への道をお前に教えている 子供 あたしはお前を連れて行って上げるわ、花嫁さん 誰も年をとったり狡猾になったりしない 誰も年をとったり信心ぶかくなったり真面目になったりしない 誰も年をとったり口やかましくなったりしないところへ そして親切な言葉が人を捕虜にしないところへ まばたきするとき人の心に飛んで来る 考えごとでもあたしたちはすぐその通りにするのよ ハアト 十字架の上のお方の愛する御名によって わしは命令する、メリイ・ブルイン、わしの方においで 子供 お前の心の名によって、あたしは、お前を止める ハアト 十字架像を取りのけたから わしが弱いのだ、わしの力がないのだ もう一度ここへ持って来よう マアチン (彼にすがりついて) いけません ブリヂット わたしたちを捨てていらしってはいけません ハアト おお、わしを放してくれ、取り返しがつかなくなる前に こんな事にしたのはみんなわしの罪なのだ (そとに歌の声) 子供 あの人たちの歌がきこえるよ「おいで、花嫁さん おいで、森と水と青い光へ」とうたっている メリイ わたしあなたと一緒にゆく ハアト 駄目か、おお 子供  (戸口に立って) お前にまつわる人間の希望は捨てておしまい 風に乗り、波の上をはしり 山の上でおどるあたしたちは 夜あけの露よりもっと身が軽いのだから メリイ どうぞ、一しょに連れてって下さい ショオン 愛するひと、わたしはお前を止めておく わたしは言葉ばかりではない、お前を抑えるこの腕がある あらゆるフェヤリイのむれがどんな事をしようと この腕からお前を放すことは出来まい メリイ 愛する顔、愛する声 子供 おいで、花嫁さん メリイ わたしはいつもあの人たちの世界が好きだった――それでも――それでも 子供 しろい鳥、しろい鳥、あたしと一緒においで、小さい鳥 メリイ わたしを呼んでいる 子供 あたしと一しょにおいで、小さい鳥 (遠くで踊っている大勢の姿が森に現われる) メリイ 歌と踊りがきこえる ショオン わたしのところにいておくれ メリイ わたしはいたいと思うの――それでも――それでも 子供 おいで、金の冠毛の、小さい鳥 メリイ  (ごく低い声で) それでも―― 子供 おいで、銀の足の、小さい鳥 (メリイ・ブルイン死ぬ、子供出てゆく) ショオン 死んでしまった ブリヂット その影から離れておしまい、体も魂ももうないのだよ お前が抱いているのは吹き寄せた木の葉か 彼女の姿に変っている秦皮の樹の幹かもしれない ハアト 悪い霊はこうして彼等の餌を奪ってゆく 殆ど神の御手の中からさえ 日ごとに彼等の力は強くなり 男も女も古い道を離れてゆく、慢りの心が来て瘠せた拳で心の戸を叩くとき (家の外に踊っている人たちの姿が見える、そして白い鳥も交っているかも知れない、大勢のうたう歌がきこえる) 日の門から風が吹く さびしい心の人に風がふく さびしい心の人が枯れる そのときどこかでフェヤリイが踊る しろい足を輪に踏み しろい手を空に振って 老人もうつくしく かしこいものもたのしく物いう国があると 笑いささやきうたう風をフェヤリイは聞く クラネの蘆がいう 風がわらいささやき歌うとき さびしい心の人が枯れる ――幕――
底本:「近代劇全集 第廿五卷愛蘭土篇」第一書房    1927(昭和2)年11月10日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ※「そして神父様、神は天の戸を開けておやりになるかも知れません」がメリイでなくハアトのセリフになっているのは、底本通りです。WB Yeats の原作では、メリイのセリフです。 入力:館野浩美 校正:岡村和彦 2019年1月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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人 三人の楽人  仮面のやうに顔をつくる 井戸の守り  仮面のやうに顔をつくる 老人     仮面をかぶる 青年     仮面をかぶる アイルランド英雄時代 舞台は何処でも差支ない、何もないあき場、正面の壁の前に模様ある衝立を立てる。劇が始まる前に、衝立のすぐ前に太鼓と銅鑼と琵琶など置く。場合によつては、見物が着席してから第一の楽人が楽器を持ち込んでもよい、もし特別の照明が必要ならば第一の楽人がその世話をすべきである。私どもが試演の時は、舞台のそと側の両角の柱の上にデユラツク氏考案の二つの提灯をつけた。しかしそれだは光が足りなかつた、大きなシヤンデリヤの光で演する方がよかつたやうである。今までの私の経験では、われわれの部屋に見馴れた光がいちばん効果があるやうに思ふ。見る人と役者とを隔てる何等機械的の工夫もない方が却つて仮面の役者たちをより奇怪なものに思はせるやうである。 第一の楽人は畳んだ黒布を持つて登場、舞台の真中に来て見物に向つて動かずに立つてゐる。両手のあひだから畳んだ布を垂れさげて。 ほかの二人の楽人登場、舞台の両側に暫時立つて、それから第一の楽人の方に行き布をひろげる、ひろげながら、うたふ。 こころの眼もて見よ ひさしく水涸れて荒れたる井戸 風にさらされたるはだかの木の枝 こころの眼もて見よ 象牙のごとくあをき顔 すさみても気だかきすがた ひとりの人のぼり来たる 海の潮風はだかに吹き荒したるところに 二人の楽人が布をひろげる時すこし後方に退く、さうすると拡げられた布と壁とが布の真中を持つてゐる第一の楽人を頂点にして三角形になるのである。 黒布の上には鷹の形を金の模様であらはす。第二と第三の楽人ゆつくりと再び布をたたみ始める、リズムを以て腕をうごかし第一の楽人の方に歩みよりながら、うたふ。 いのちは忽ちにをはる そは得ることかうしなふことか 九十年の老の皺よる 身を二重に火の上にかがむ わが子を見てはたらちねの 母はなげかむ、むなしきかな わがすべてののぞみすべての恐れ わが子を生みしくるしみも 布が拡げられてゐるあひだに、井戸の守り登場、地の上に蹲つてゐる、黒色の上衣で全身を包んでゐる。三人の楽人は壁に沿うて各々の楽器のそばの自分等の持場にゆく、役者のうごくにつれて楽器を鳴らす。 第一の楽人  (うたふ) はしばみの枝うごき 日は西におちてゆく 第二の楽人  (うたふ) こころ常に醒めてあらむとねがひ こころ休息を求めつつ 彼等は布を巻きながら舞台の一方にゆく。 四角な青い切で井戸を現はした側に一人の少女がゐる。動かずにゐる。 第一の楽人  (ことば) 日がくれて 山かげは暗くなる 榛のかれ葉が 井戸の涸れた床をなかば埋めてゐる 井戸の守りはそのそばの 灰いろのふる石に腰かけてゐる 涸れたみづ床を掘るにつかれて 落葉をかき集めるに疲れてゐる 彼の女のおもい眼は 何も見ず、ただ石の上ばかり見てゐる 海から吹く風が そばにかきよせられた落葉をふき立てる 落葉はがさがさ散つてゆく 第二の楽人 ここは恐ろしいところだ 二人の楽人  (うた) こころは叫ぶ、われ眠りてあらめや 風、潮かぜ、海かぜ そらの雲をふきまくる われは常に風のごとくさまよはましを (一人の老人見物の中を通つて登場) 第一の楽人  (ことば) あの老人がここへ登つて来る 彼はこの井戸のそばで見張つてゐた この五十年のあひだ 老年で腰がすつかり曲がつてゐる いま登つて来る岩山の 茨の老木もおなじやうに曲がつてゐる 老人は舞台の横の方に暫時不動のまま首をうなだれて立つ。太鼓をかるく一つ叩くと彼は首を上げる。 太鼓の音につれて舞台の前の方に進む。そこにしやがんで火をおこすやうな手つきをする。 この劇のほかの登場者と同じく、老人の動作は、操人形をおもはせる。 第一の楽人  (ことば) 老人は落葉の小さい山をつくつた 葉のうへに枯枝を載せ さむさに顫へながら火打棒と 棒さしをその孔から取り出す 火を出すために火打を振りまはす 枯枝に火がもえついた 火が燃え立つてかがやく 榛と水のない井戸の上に 楽人たち  (うた) ああ風よ、潮かぜよ、海風よ ねむるべき時なるものをと、心はさけぶ 求むるもの得がたきに何時までかさまよふ はや年老いて眠るこそよけれ 老人  (ことば) なぜお前は口をきかない? なぜ言つてくれない 枯枝を集めるのに倦きはしませんかと 指が冷たくはありませんかと、お前は一言もいはない きのふお前は三度口をきいた。お前は言つた 榛の葉で井戸が埋まつてゐると。お前は言つた 風が西から吹くと。それから 雨が降れば泥になると けふお前は魚のやうにぼんやりしてゐる いや、もつと、もつと悪い、魚より無言で魚ほどに生き生きしてはゐない (近くゆく) お前の眼はぼんやりして力がない。もし精が この井戸を掃き清めて家畜どもを追ひ払ふために 守りを置くとならば、誰かほかのものを 愉快に人の相手になれるものを選べばよい せめて一日に一度でも口をきくものを。なぜそんなに見つめる お前は前にもさういふ無表情の眼つきをしてゐた この前あの事が起つた時に。お前は何か知つてゐるのか 老人は気ちがひになつてしまふ 一日ぢゆうこの砕けた岩と 荒い茨の木と愚かしい一つの顔を眺めて 話しかけても何の返事もきかれないでは 青年 (この老人の言葉のあひだに見物の中を通つて登場) それでは私に話をしてくれ わかい者は老人よりなほさら辛抱づよくはない 私はもう半日もこの岩山を踏み歩いたが 求めに来たものを見つけ出せない 老人 誰だ、私にものをいふのは 誰だ、突然ここにやつて来たのは 何一つ生きてゐないここに来たのは? 頭と足につけた金と 上着に光るかざりによつて判断すれば お前は生きた世界を憎む人たちの一人ではないやうだ 青年 私はクウフリンといふもの、サルタムの子だ 老人 そんな名は聞いたことがない 青年 無名な名でもない 私は海の彼方に祖先からの古い家を持つてゐる 老人 いかなる悪戯がここまでお前をひき出したのか? お前は 人の血をながすために 女の愛のために、夢中になつてゐる人らしい 青年 ある噂が私をひき出した 夜明まで続いた酒宴の席で聞いた話だ 私は食卓から立つて、小舟を見つけ出し、舟に帆を張り 折からの風を帆にあてて まやかしのあるかと見える波を越えて、この岸に着いた 老人 ここらの山には荒らすべき家もない、掠奪すべき美人もゐない 青年 お前はここの生れか、その荒い調子が この荒い土地にふさはしい。あるひは、お前が 私の探してゐるところへ連れて行つてくれるかもしれぬ、それは、井戸だ、そこに三本の榛が実をおとし枯葉をおとし 灰いろの円石のあひだに一人の寂しい少女が その井戸を守つてゐるさうだ。人の話に、その奇蹟の水を 飲む人は永久に生きるといふことだ 老人 いまこの瞬間お前の眼前にありはしないか 灰いろの円石と一人のさびしい少女と 葉のない三本の榛とが 青年 しかし、井戸はない 老人 向うに何かが見えないか 青年 私が見るものは 石のあひだに枯葉に半ば埋まつた穴ばかり 老人 お前はそれほどの尊い賜物が見つけ出されると思ふのか ただ舟に帆をひろげるだけの骨折で 険しい山を登るだけの骨折で? ああ、わかきもののおろかさ あの空つぽの穴がなぜお前のために水を溢れさせよう 私のためには水を溢れさせなかつたのに? 私は待ちに待つたが もう五十年以上も井戸は涸れてゐて 海の非情の風が 朽葉をふき散らすのを見るばかりだつた 青年 それでは ある時あの井戸に水の出て来ることがあると見える 老人 それはこのさびしい山にをどる 聖い影ばかりが知つてゐる神秘の一瞬間だ 人間は誰も知らない、その瞬間が来て 水がいま湧き出したと思ふと、すぐその瞬間が過ぎてしまふ 青年 私はここに立つて待つ。サルタムの子の好運が いま私を見捨てやしまい。まだ今日まで 私は何物の為にも長く待つたことはない 老人 いや! この呪はれた場所から帰つてくれ、ここは 私と、あすこにゐる少女と、そのほか 人間をまどはす者どもだけの住家なのだ 青年 お前は何者だ、みんなが祝福するあの踊り手たちをわるくいふお前は何者だ 老人 その踊り手たちのまどはした一人だ 私もお前と同じやうに 身も心もわかいとき、幸運の風に 吹かれたつもりでここに来た 井戸は涸れてゐた、私は井戸の端に坐つて 奇蹟の水の湧くのを待つてゐた、私は待つた とし月が経つて自分が枯れてしまふまで 私は鳥を捕り、草を食ひ 雨を飲み、曇りにも晴れにも 水の湧く音を聞きはづすまいと遠くにも行かずにゐた それでも、踊り手たちは私をまどはした。三度 不意の眠りから目が覚めて 私は石が濡れてゐるのに気がついた 青年 私の運はつよい 私の運は長くは私を待たせまい、それにまた 石の上に踊る人たちも私を眠らせることは出来まい もしねむけがきざしたら私は自分の足を突き刺す 老人 いや、足は突くな、足はかよわい 足は痛みを強く感じる。それよりは、もう一度その帆舟を見つけて この井戸を私に残して行つてくれ、この井戸は 老年と枯れたものとに属するのだ 青年 いや、私はここにゐる (少女、鷹のなき声を出す) またあの鳥が 老人 鳥はゐやしない 青年 不意に鷹が鳴いたやうに聞えたが つばさの影は見えない。私がここに来るとき 大きな灰いろの鷹が空から舞ひおりた 私はよい鷹をいくつも持つてゐて、それをこの世に無類なものと 思つてゐたが、その鷹ほどのは見たことがなかつた。鷹は飛んで来て 嘴で私をひき裂くか 大きな翼で私の目を打ちつぶしさうに見えた 剣を抜いて追ひ払ふと 鷹は岩から岩に飛んだ 私は三十分以上も石を投げつけてゐたが ちやうどあすこの大岩を曲がつてこの場所を 見つけたとき、鳥はどこかに消えてしまつた どうにか打ちおとす工夫があれば捕へてやるのだが 老人 それは精の女だ 山に住む魔の女で、静まることのない影なのだ いつもこの山かげにまよひ歩いて 人を惑はしたり亡ぼしたりする。その女が 山国の女軍の女たちにその鳥の姿で 現はれる時は彼等は捧げものをして 戦さの支度をする。呪ひがかかるのだ その女のうるほひのない眼で見つめられたものには だから、お前も早くここを去れ、その強さうな歩きつきと 自信のある声を持つてゐるうちに。生きてゐる人はだれも もてあそびにするほど余分の好運を持つてゐやしない 長く生きようとするものは彼女を最も恐れなければならない 老人はもうすでに呪はれてゐる。その呪ひは、あるひは 女の愛を得てその愛をながく保ち得ぬといふ呪ひか あるひは、愛のなかにいつも憎みを交へるか あるひは、愛した女がお前の子供等を殺すか 咽を裂かれ血に濡れた子供等をお前が見つけるか あるひは、お前の心が狂ひ立つて自分の子を自分で殺すかもしれない お前自身の手で 青年 お前はここに来るものすべてをおどかして 追ひ払ふためにここに置かれてゐるのか お前はその枯葉や枯枝と同じやうにひからびて 生にすこしの部分もないやうに見える (少女また鷹の叫び声をする) あの声! またあの声がする。あの女だ だが、なぜあの女は鷹の鳴くやうな声をするのだらう 老人 声はあの女の口から出たのだが、あの女が叫んだのではない あの影があの女の口のうしろで叫んだのだ いま解つた、あの女がこの一日ぢゆう ぼんやりして重い眼つきをしてゐたわけが あの顫へかたを見よ、恐ろしい生命が あの女の血管の中に流れ込んだのだ。取りつかれたのだ あの女は誰かを殺すかだますかもしれない そのあとで何も知らずに目を覚まして 木の葉をかき集めてゐるだらう、そのとき木の葉が濡れてゐるだらう 水が湧いてまた引いてしまつてゐるだらう あの女の顫へるのが兆だ。ああ、帰つてくれ 水が湧く音がもう今きこえるかも分らない お前が善人ならば、水はそのままにして行つてくれ。私は老人 いま飲まなければ、もう飲めないだ 私は一生のあひだ見張つてゐたのだ、あるひは ただ小さい杯いつぱいの水しか出ないかもしれぬ 青年 私の両手でその水をすくひ上げ、二人で飲まう もしたつた数滴の水しかなくても 二人で分けよう 老人 先きに私に飲ませると誓つてくれ 若いものはむさぼる、もしさきにお前が飲めば お前はみんな飲んでしまふ。ああ、お前はあの女を見た あの女はお前に見られたのを知つて此方に眼を向けた あの女の眼が恐ろしい、あれはこの世の人の眼ではない うるほひがなく、まじろぎもしない、あれは少女の眼ではない (老人頭を被ふ。井戸の守りの少女上着をぬぎ捨てて立つ、上着の下は鷹をおもはせる服装である) 青年 なぜ、鷹の眼をして私を見る 私は恐れない、お前が鳥でも、女でも、魔の女でも (少女が離れた井戸のそばに行く) したいことをしろ、私は此処を離れない 私がお前と同じ不死の身にならないうちは (青年そこに腰かける、少女、鷹のやうな動作で踊りはじめる。老人眠る。踊りはしばらくつづく) 第一の楽人  (うた) ああ神われを救ひたまへ 血のなかに忽ちに滑り入る おそろしき不死のいのちより (踊りまだしばらく続く。青年徐かに立つ) 第一の楽人  (ことば) 狂熱がいま彼にうつつた 彼は青い顔になつてよろよろ立つた (踊りがまだ続く) 青年 何処へでも飛べ 灰いろの鳥よ、お前は私の腕にとまるのだ 女王と呼ばれた人たちも、私の腕にとまつてゐた (踊りが続く) 第一の楽人  (ことば) 水の湧き出す音がした、水が出る、水が出る 石のあひだに光つてゐる、彼も水音を聞いた 彼は顔を向けた (鷹は退場する。青年夢を見てゐるやうに槍をおとして退場) 楽人たち  (うた) かれのおくつき築かれて すべての歴史をはるまで ふたたび得がたきものを失ひしかな 膝のうへに老いたる犬の首をのせ 子らと友とのなかに やすき世をおくりてもあらましを (老人井戸のそばに忍び寄る) 老人 あの呪はしい影が私をだました 石は濡れて黒いが、水はない 私が眠つてゐるうちに水が出てまた引いたと見える 私の一生のあひだお前らは私をだましてゐた 呪はしい踊り手たち、お前らは私の生命を盗んだ 影にそれほどの悪があり得るか 青年  (登場) あの女は逃げて岩の中に隠れてしまつた 老人 あの女はお前を泉からひき離しただけだ。あれを見よ 水が流れたところだけ石と葉が黒くなつてゐる だが、一滴も飲む水はない (楽人たちエイフア! エイフア! と叫び銅鑼を鳴らす) 青年 あの叫び声は何か 山々に沿うて聞えるあの物音は 楯に剣をぶつけてゐるのは誰だらう 老人 あの女は山国の強い女たち、エイフアとその女軍を 騒がし立ててお前の生命を取らうとしてゐる 今からは地のなかに寝る時まで お前は休息することは出来まい 青年 また、武器の触れあふ音 老人 ああ行かないでくれ! 山は呪はれてゐるのだ 私と一しよにここにゐてくれ、私はもう何も失くすものもないのだ もう今からお前を欺かうとはしない 青年 私は彼等に向はう (夢が醒めたやうに、槍を肩にして叫びながら退場) 今ゆく、サルタムの子クウフリン、いま行くぞ (楽人等立ち上がり、一人が真中に行き畳んだ布を持つてゐる、ほかの二人がそれをひろげる。 ひろげながら、うたふ、うたのあひだに、その布にかくれて老人退場。 デユラツク氏の音楽によつてこの劇が上演された時は楽人たちは「にがき生命」といふ言葉をうたひ終つてから立ち上がり布をひろげた) (布をひろげる時とたたむ時のうた) われに来よ、うつし世の人々の顔 なつかしきおもひいでも われ荒野にありて おそろしき眼を見たり まじろがす、うるほひなき眼を われはただ痴かさをめづ われわがものとして痴かさを選ぶ ただひと口の空気なれば われ安んじて消えさらん われはただひと口のかぐはしき空気なれば ああかなしき影 争闘のかそかなる深み われはのどかなる牧場の たのしき生命を選ばむ 智慧あるものぞにがきいのちを生くる (布をたたむ、その時またうたふ) 水なき井戸のいひけるは ゐごころよきわが家の戸に 牝牛を呼ぶには 鈴一つ鳴らせば足る かかる世をおくる 人はほむべきかな 痴人ならで誰かはほめむ 井戸のなかのかわける石を 葉のなき樹のいひけるは 妻をめとり ふるき炉のそばに落ちつきて 子供らと床の上なる犬のみを たからと頼む 人はほむべきかな 痴人ならで誰かはほめむ ふゆがれの樹を (楽人等退場)
底本:「近代劇全集 第廿五卷愛蘭土篇」第一書房    1927(昭和2)年11月10日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。 入力:館野浩美 校正:岡村和彦 2018年12月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058706", "作品名": "鷹の井戸(一幕)", "作品名読み": "たかのいど(ひとまく)", "ソート用読み": "たかのいと(ひとまく)", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "AT THE HAWK'S WELL", "初出": "", "分類番号": "NDC 932", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-01-28T00:00:00", "最終更新日": "2019-01-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001085/card58706.html", "人物ID": "001085", "姓": "イエイツ", "名": "ウィリアム・バトラー", "姓読み": "イエイツ", "名読み": "ウィリアム・バトラー", "姓読みソート用": "いえいつ", "名読みソート用": "ういりあむはとらあ", "姓ローマ字": "Yeats", "名ローマ字": "William Butler", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1865-06-13", "没年月日": "1939-01-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "近代劇全集 第廿五卷愛蘭土篇", "底本出版社名1": "第一書房", "底本初版発行年1": "1927(昭和2)年11月10日", "入力に使用した版1": "1927(昭和2)年11月10日", "校正に使用した版1": "1927(昭和2)年11月10日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "館野浩美", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001085/files/58706_ruby_66708.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-12-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001085/files/58706_66759.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-12-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 一人の老人が瞑想に耽りながら、岩の多い岸に坐つてゐる。顔には鳥の脚のやうに肉がない。処はジル湖の大部を占める、榛の林に掩はれた、平な島の岸である、其傍には顔の赭い十七歳の少年が、蠅を追つて静な水の面をかすめる燕の群を見守りながら坐つてゐる。老人は古びた青天鵞絨を、少年は青い帽子に粗羅紗の上衣をきて、頸には青い珠の珠数をかけてゐる。二人のうしろには、半ば木の間にかくれた、小さな修道院がある。女王に党した涜神な人たちが、此僧院を一炬に附したのは、遠い昔の事である。今は此少年が再び燈心草の屋根を葺いて、老人の残年を安らかにすごすべきたよりとした。僧院の周囲にある庭園には、少年の鋤の入らなかつた為であらう。僧人の植ゑのこした百合と薔薇とが、一面にひろがつて、今では四方から此廃園を侵して来る羊歯と一つになりながら、百合も薔薇も入り交つて、うつくしく咲いてゐるのである。百合と薔薇との彼方には、爪立つて歩む子供の姿さへ隠れんばかりに、羊歯が深く茂つてゐる。羊歯を越えると榛と小さな檞の木の林になる。  少年が云ふ、「御師匠様、此長い間の断食と、日が暮れてから秦皮樹の杖で、山の中や、榛と檞との中に住む物を御招きになる戒行とは、あなたの御力には及ばない事でござります。暫くそのやうな勤行はおやめになさいまし。何故と申しますと、あなたの御手は何時よりも重く、私の肩にかかつて居りますし、あなたのおみ足は何時もより確でないやうでございます。人の話すのを聞きますと、あなたは鷲よりも年をとつてゐらつしやると申すではございませんか。それでもあなたは、老年にはつきものになつて居る休息と云ふものを、お求めなさらないのでございます。」  少年は熱心に情に激したやうに云ふ。恰も其心を瞬刻の言と思とにこめたやうに云ふのである。老人は遅々として迫らぬ如く答へる。恰も其心を遠き日と遠き行とに奪はれた如く答へるのである。 「己はお前に、己の休息する事の出来ない訣を話して聞かせよう。何も隠す必要はない。お前は此五年有余の年月を、忠実に、時には愛情を以て己に仕へてくれた。己は其おかげで、何時の世にも賢哲を苦める落莫の情を、僅なりとも慰める事が出来たのだ。其上己の戒行の終と心願の成就とも、今は目の前に迫つてゐる。それ故お前は一層此訣を知る必要があるのだ。」 「御師匠様、私があなたにおたづね申したいやうに思召して下さいますな。火をおこして置きますのも、雨の洩らぬやうに茅葺を緊くして置きますのも、遠い林の中へ風に吹飛されませぬやうに茅葺きを丈夫にして置きますのも、皆私の勤でございます。重い本を棚から下しますのも、精霊の名を連ねた大きな画巻を其隅から擡げますのも、其間は純一な敬虔な心になつて居りますのも、亦皆私の勤でございます。それは神様が其無量の智慧をありとあらゆる生き物にお分ちなさいましたのを、私はよく存じて居るからでございます。そしてそのやうな事を致しますのが、私の智慧なのでございます。」 「お前は恐れてゐるな。」老人の眼はかう云つた。さうしてその眼は一瞬の怒に煌いた。 「時によりますと夜、あなたが秦皮樹の杖を持つて、本をよんでお出になりますと、私は戸の外に不思議な物を見ることがございます。灰色の巨人が榛の間に豕を駆つて行くかと思ひますと、大ぜいの矮人が紅い帽子をかぶつて、小さな白い牝牛を、其前に逐つて参ります。私は灰色の人ほど、矮人を怖くは思ひませぬ。それは矮人が此家に近づきますと、牛の乳を搾つて其泡立つた乳を飲み、それから踊りをはじめるからでございます。私は踊の好きな者の心には、邪のないのをよく知つて居ります。けれども私は矢張矮人が恐しうございます。それから私は、あの空から現れて、静に其処此処をさまよひ歩く、丈の高い、腕の白い、女子たちも怖うございます。あの女子たちは百合や薔薇をつんで、花冠に致します。そしてあの魂のある髪の毛を左右に振つてゐるのでございます。其女子たちの互に話すのをききますと、その髪は女子たちの心が、動きますままに、或は四方に乱れたり、或は頭の上に集つたりするのだと申します。あの女子たちはやさしい、美しい顔をして居りますが、エンガスよ、フオビスの子よ、私はすべてあのやうな物が怖いのでございます。私は精霊の国の人が怖いのでございます。私はあのやうな物をひきよせる、秘術が怖いのでございます。」 「お前は古の神々を恐れるのか。あの神々が、戦のある毎に、お前の祖先の槍を強うしてくれたのだぞ。お前はあの矮人たちを恐れるのか。あの矮人たちも昔は夜になると、湖の底から出て来て、お前の祖先の炉の上で、蟋蟀と共に唄つたのだぞ。此末世になつても、猶彼等は地上の美しさを守つてゐるのだ。が、己は先づ他人が老年の眠に沈む時に、己一人断食もすれば戒行もつとめて来た。其訳をお前に話して聞かさなければならぬ。それは今一度お前の扶を待たなくては、己の断食も戒行も成就する事が出来ないからだ。お前が己の為に此最後の事を為遂げたなら、お前は此処を去つて、お前の小屋を作り、お前の畑を耕し、誰なりとも妻を迎へて、あの神々を忘れてしまふがよい。己は伯爵や騎士や扈従から贈られた金貨と銀貨とを悉く貯へて置いた。それは己が彼等を蠱眼や恋に誘はうとする魔女共の呪咀から、守つてやつた為に贈られたのだ。己は伯爵や騎士や扈従の妻から贈られた金貨と銀貨とを悉、貯へて置いた。それは己が精霊の国の人たちが彼等の飼つてゐる家畜の乳房を干上らしてしまはぬやうに、彼等の攪乳器の中から牛酪を盗んでしまはぬやうに、守つてゐてやつたら贈られたのだ。己は又之を己の仕事の終る日の為に貯へた。其終も間近くなつたからは、お前の家の棟木を強うする為にも、お前の窖や火食房を充たす為にも、お前は金貨や銀貨に不足する事はない。己は、己の全生涯を通じて、生命の秘密を見出さうとしたのだ。己は己の若い日を幸福に暮さなかつた。それは己が、老年の来ると云ふ事を知つてゐたからであつた。この様にして己は青年と壮年と老年とを通じて、この大いなる秘密を求むる為に一身を捧げたのだ。己は数世紀に亘るべき悠久なる生命にあこがれて、八十春秋に終る人生を侮蔑したのだ。己は此国の古の神々の如くにならうと思つた。――いや己は今もならうと思つてゐる。己は若い時に己が西班牙の修道院で発見した希伯来の文書を読んで、かう云ふ事を知つた。太陽が白羊宮に入つた後、獅子宮を過ぎる前に、不死の霊たちの歌を以て震へ動く一瞬間がある。そして誰でも此瞬間を見出して、其歌に耳を傾けた者は必、不死の霊たちとひとしくなる事が出来る。己は愛蘭土にかへつてから、多くの精霊使ひと牛医とに此瞬刻が何時であるかと云ふことを尋ねた。彼等は皆之を聞いてゐた。けれども砂時計の上に、其瞬刻を見出し得る者は一人もなかつた。其故に己は一身を魔術に捧げて、神々と精霊との扶けを得んが為に生涯を断食と戒行とに費した。そして今の精霊の一人は遂に其瞬刻の来らんとしてゐる事を己に告げてくれた。それは紅帽子を冠つて、新らしい乳の泡で唇を白くしてゐる精霊が、己の耳に囁いてくれたのだ。明日黎明後の第一時間が終る少し前に、己は其瞬間を見出すのだ。それから、己は南の国へ行つて、橙の樹の間に大理石の宮殿を築き、勇士と麗人とに囲まれて、其処にわが永遠なる青春の王国に入らうと思ふ。けれど己が其歌を悉、聞くために、お前は多くの青葉の枝を運んで来て、それを己の室の戸口と窓とにつみ上げなければならぬ。――これは唇に新しい乳の泡をつけてゐる矮人が己に話してくれたのだ。――お前は又新らしい緑の燈心草を床に敷き、更に卓子と燈心草とを、僧人たちの薔薇と百合とで掩はなければならぬ。お前は之を今夜のうちにしなければならぬ。そして夜が明けたら、黎明後の第一時間の終に此処へ来て己に逢はなければならぬ。」 「其時にはすつかり若くなつてお出になりませうか。」 「己は其時になればお前のやうに若くなつてゐるつもりだ。けれども今は、まだ年をとつてもゐれば疲れてもゐる。お前は己を己の椅子と本との所へ、つれて行つてくれなければならぬ。」  少年はフオビスの子エンガスを其室に残して、其魔術師の工夫した、異花の馨のやうなにほひを放つ燈火に火を点じると、直に森に行つて、榛からは青葉の枝を切り、小さな岩がなだらかな砂と粘土とに移つてゐる島の西岸からは、燈心草の大きな束を刈り始めた。要るほどのものを切つた時には、もう日が暮れてゐた。そして、最後の束を家の中に運んで、再び薔薇と百合とをとりに返つて来た時には、既に夜半に近かつた。それはすべての物が宝石を刻んだ如くに見える、温な、美しい夜の一つであつた。スルウスの森は遠く南に至るまで緑柱石を刻んだ如くに見え、それを映す水は亦青ざめた蛋白石の如く輝いてゐた。少年の集めてゐる薔薇は燦めく紅宝石の如く、百合はさながら真珠の鈍い光りを帯びてゐた。あらゆるものが其上に不死なる何物かの姿を止めてゐるのである。ただかすかな炎を、影の中に絶えずともしてゐる蛍のみが、生きてゐるやうに思はれる。人間の望みの如く何時かは死する如く思はれる。  少年は薔薇と百合とを両腕に抱へきれぬほど集めた。そして蛍をも其真珠と紅宝石との中に押し入れて、それを老人のまどろんでゐる室の中へ運んで来た。少年は一抱へづつ薔薇と百合とを床の上と卓子の上とに置いた。それから静に戸を閉ぢて、燈心草の床の上に横になつた。彼は此床の上に、傍に其選んだ妻を持ち、耳にその子供たちの笑ひ声を聞き、平和な壮年の時代を夢みようとするのである。黎明に少年は起きて、砂時計を携へながら湖の岸に下りた。彼は小舟の中へパンと一瓶の葡萄酒とを入れた。それは彼の主人が悠久の途に上るのに際して、食物に不足しない為であつた。それから彼は坐つて其第一時間が黎明を去るのを待つてゐた。次第に鳥が唄ひはじめた。かくて砂時計の最後の砂が落ちてゐた時に、忽ちすべてのものは其音楽を以て溢るゝやうに見えた。これは其年の中の最も美しい、最も生命に満ちた時期であつた。そして今や何人も其中に鼓動する春の心臓に耳を傾けることが出来たのである。少年は立つて、其主人を見に行つた。青葉の枝が戸口を塞いでゐる。彼はそれを押しのけて、はいらなければならなかつた。彼が室に入つた時に、日の光は環をなしてゆらめきながら、床の上や壁の上に、落ちてゐた。あらゆる物が柔な緑の影に満たされてゐるのである。  けれ共、老人は薔薇と百合との束を、緊く抱きながら坐つてゐた。頭は胸の上に低れてゐる。左手の卓子の上に、金貨と銀貨とに満ちた皮袋ののつてゐるのは、旅に上る為であらう。右手には長い杖があつた。少年は老人にさはつてみた。けれ共彼は動かなかつた。またその手を上げて見た。けれ共それは冷かつた。そして又力なく垂れてしまつた。 「御師匠様は外の人のやうに、珠数を算へたり祈祷を唱へたりして、いらつしやればよかつたのだ。御師匠様のお尋ねなすつた物は、御心次第で御行状や御一生の中にも見当つたものを。それを不死の霊たちなどの中に、お探しなさらなければよかつたのだ。ああ、さうだ。祈祷をなすつたり、珠数に接吻したりしていらつしやればよかつたのだ。」  少年は老人の古びた青天鵞絨を見た。そしてそれが薔薇と百合との花粉に掩はれてゐるのを見た。そして彼がそれを見てゐるうちに、窓につみ上げてある青葉の枝に止つてゐた一羽の鶫が唄ひ始めた。
底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店    1995(平成7)年11月8日発行 底本の親本:「梅・馬・鶯」新潮社    1926(大正15)年12月25日発行 初出:「新思潮」第一巻第五号    1914(大正3)年6月1日発行 ※初出時の表題は、「春の心臓――W.B.Yeats――」。署名は、押川隆之介(目次では、柳川隆之介)。 入力:もりみつじゅんじ 校正:j.utiyama 1998年11月30日公開 2004年3月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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昨日四石ひいたら 奴今日五石ふんづけやがった 今日正直に五石ひいたら 奴 明日は六石積むに違いねい おら坂へ行ったら 死んだって生きたってかまわねい すべったふりして ねころんでやるベイ そしたら橇がてんぷくして  橇にとっぴしゃがれて ふんぐたばるべ おれが口きかないともって 畜生 明日はきっとやってやる (『弾道』一九三〇年三月号に発表)
底本:「日本プロレタリア文学集・39 プロレタリア詩集(二)」新日本出版社    1987(昭和62)年6月30日初版 初出:「弾道」    1930(昭和5)年3月号 入力:坂本真一 校正:雪森 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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北海道の樺太 「北海道のカラフト」 みんな、そこの長屋をそう呼んでいた、 谷間に並べ建てられたカラフト長屋、一日中ろくすっぽ陽があたらず、 どっちり雪の積んでいる屋根から、 煙突が線香を並べたように突き出ていた、 俺は時々自分の入口を間違い、他家の戸口を開けた、 屋根の煙突の何本目、そいつを数えて這入るのが一番完全であった 「来年の四月頃になれば陽があたりますよ」 古くから此処の長屋に住んでいる工夫の妻がそう言い俺達に聞かしてくれた。 来年の四月、 その四月がとても待ち遠しかった。 八号の一 親父さんは昼番 嬶は夜番 親父さんが帰って来る時嬶は家に居なかった 嬶が帰って来る時親父さんは家に居なかった 仕事から帰って来ると二人は万年床に代る代る寝た 年の暮の三十日の晩、公休で二人共家にいた 僕に遊びに来え来え言うので僕が行くと 親父さんはもう酔うて顔をほてらしていた 「いや、大将  共稼ぎって奴はね……………  今日は久濶で嬶にお目にかかってさ  まるで俺あ色女にでも会ったような気持よ  大将、人間っていうものは、いくつになっても気持はおんなじですぜ」 嬶は下をつんむいた位にして やっぱりうれしそうな いくらか気の毒そうな笑いをもらしていた。 十号の七 親父はハッパ場の小頭 子供が大ぜいで、何時でも酒ばかり飲んでいた 或る日針金貸してくれって来たから たぶん煙突でも吊るに必要なのだと思って貸してやったら 山へ兎ワナかけて、兎を捕ってきては酒の肴にした 借りた針金は忘れてしまったのか 俺達は兎はウマイ話ばかり聞かされていた それでもお正月には糯米一俵引いて来た 引いて来たはいいが それからこっち野菜も米も買われない日が 一週間も二週間も続いた そして毎日餅ばかり噛っていた。 十号の五 或る日瀬戸物のぶちわれる音がした 同時に女のヒステリカルな叫び声が壁を突き抜いた 「ナナナナナントスンベ  こん畜生よオ  たった五つしか無い茶碗三つ壊しやがってよオ」 どすんどすん蹴り飛ばす音がして 「カンニンシテヨオ」の 幼き者の声がした。 八号の三 八号の三は坑内の馬追い 酒精中毒らしい舌は何時でもまわらなかった 袢天も帽子もドロドロにし 馬と一緒に暗い坑内から出てくると まわらぬ舌を無理にまわして 妻に胸のいらいらをぶちまけていた 酔がまわるに従って、だんだん声が高くなるのが常だった。 「いったい、てめいは、せがれが高等を卒業したらどうするつもりだ?」 「何を毎日酒ばかし食ってけつがって  子供の教育とはよく出来た  わしが男だったら、立派に教育さしてみせら」 「なななんだど 畜生  なまいきぬかすと承知しねいゾ  酒はもとより好きではのまぬ、あわのつらさでやけてのむ。わからんか 畜生、  えへ、金、金だよ、金さえありゃ中学でも大学でも、  一日一円や二円の出面取りが  どうして子供を大学へなんぞやられると思う?  わかったようなわからない生いきぬかすない」 壁一重の対話が夜中まで繰り返され 仲々寝つかれない晩があった。 九号の二 働き盛りの兄貴と親父は失業者 一日を五十銭で働くおっかあと 一日六十銭で働く二番目が稼でいた 「働くのもいらいけれど  遊んでいるのもいろうですわい」 一家七人の鼻の下がかわく日が多かった。 九号の四 人間があまるんだとサ 人間があまっているんだとサ 首になって 今日屋根にのぼり煙突はずしていたが うよ、うよ子供を引きつれ 雪の中を 何処へどう流れて行ったもんだか 家の子供は僕に言う 「何処へ行くんだべか。」 十号の八 ろくすっぽ会って話したこともないのだが 自分の家の煙突掃除をやると いつでも屋根づたいにやってき 僕のところの煙突を黙って掃除してくれる その男は僕に言う 「ボヤを出すと首だからねイ」 九号の七 「この不景気に稼がして貰えるのは有難ていこってすよ  あんたさんの方は公休日にも稼げるからいいですなア」 山の裏手の方から吹いて来た風のような言葉に 僕は返す言葉に当惑した。 八号の二 ムッチリして、ろくに物を言わぬ男がいた 開墾さんにしては少し物のわかった 水と油とどっか色合のちがった 仲間を悪化する者であり、会社の秘密をアバク者なりと会社が彼をきめてしまったのは 彼が自著の詩集を友達にくれたその日からだ 彼は会社から蛇の如く、毛虫の如く嫌われ 会社の犬はうるさく彼をつき纒った 圧迫、更に圧迫 彼はまるで罪人扱いの毎日を送っていた 彼はその悲喜劇の中で じっと明日を考えていた 彼の布団の下には仲間からの手紙があった クロポトキンやバクーニンがあった 布団を冠り、コツコツ何かをノートへ記していた (一九三一年十一月北緯五十度社刊『北緯五十度詩集』に発表)
底本:「日本プロレタリア文学集・39 プロレタリア詩集(二)」新日本出版社    1987(昭和62)年6月30日初版 初出:「北緯五十度詩集」北緯五十度社    1931(昭和6)年11月 入力:坂本真一 校正:雪森 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一  私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問れて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文學青年の文學談であつた。  その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ〳〵やるのも常例であつた。  談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ〳〵と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。  貧乏人の私などは遊廓の味をまだ知らなかつたが、永井君は既に知つて居るやうだつた。永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英國公使館裏に快樂亭と云ふ瀟洒な西洋料理店があつて、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があつた。當時四谷見附け外にあつた學習院の若い公達が非常に快樂亭を贔負にして、晝も夜も食事に來て居た。料理も相應なものであつたが、それよりもお富ちやんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快樂亭へは能く出懸けて往つた。此のお富ちやんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになつた。今一人永井君へ想ひを寄せる女があつた。招魂社横の通りに江戸前の散髮屋があつて、兄息子の散髮師が上海歸りで外人の刈り方の通を云ふところから仲々繁昌し、私達仲間も行きつけであつたが、其處の看板娘が荷風君を戀ひ慕つたのである。近所が富士見町の藝者屋町なので、その娘にしても華美な花柳界の態に染まり、いつも髮を島田髷に結ひ、黒繻子の衿の懸つた黄八丈の着物を着て、白粉も濃く塗つて居た。私達金がないので風采も揚らない止むを得ざる謹直組は、荷風君のかうした艷聞をどんなに羨ましく思つたことか。此の看板娘は今も日比谷公園近くに盛大に或種の店舖を構へ、いつも店頭にすつかり皺くちや婆になつた顏で坐つて居るので、私が時折今の荷風君に、 『君を戀した女、君も嫌ひでなく芝居へ連れていつてやつたりした女を見に往かうぢやないか。』  銀座の茶房で逢つたりする折に云ふと、流石に嫌がつて言葉を外らして了ふのである。  荷風君や私達は巖谷小波先生の宅で開かれる木曜會へ毎木曜日に出席して、各自に創作したものを朗讀して、お互に讀んで批評して研鑚し合つて居た。木曜會は小波先生を中心にして久留島武彦君、今の名古屋新聞副社長になつて居る森一眞君、木戸孝允公と深い縁故のある前滿鐵鑛山課長の木戸忠太郎君。夫に黒田湖山君、西村渚山君、井上唖々君やゝ遲れて押川春浪君も加はつて來て總人數は廿人餘り集つて居た。荷風君は前に廣津柳浪子の許へ教へを乞ひに往つて居たのが、木曜會の方へ移つて來たのである。時代は硯友社全盛で、尾崎紅葉先生がまだ金色夜叉を書かず、多情多恨で滿都の人氣を集めて居た。荷風君は文章體でなく、書く小説は柳浪張りの會話を主體としたものであつた。その木曜會員は紅葉先生が中心になつて出來て居た俳句會の紫吟社へ出席し得られたので、荷風君にしても其處で私同樣硯友社の多くの先輩を知り、鏡花、風葉、秋聲、春葉氏等と、知り合ふやうになつたのである。  私は京都から東京へ出て來た當時、小波先生の家でお厄介になつて居たのを、小石川原町の一行院と云ふ寺に寄宿するやうになつたが、麹町戀しく、殆ど隔日位ゐに麹町へ出て行き、出て行く度毎に一番町の荷風氏を訪れ、能く夕飯のお馳走に預かつた。然うして時折母堂の居室へ往つて話を伺ひ、現在は農學博士となつて居る末弟の伊三郎君、母方の鷲尾家へ養子に行つて早世した次の弟の人も知合つた。小波先生の引きで博文館の少年世界や其他の雜文で漸く衣食の資を得て居た私から見ると、生活の苦勞が少しもなくて悠々小説に精進して居られる荷風君は羨望に堪えない地位で、私がいつもそれを口にすると、 『それは淺見だよ、之で僕には僕丈けの悲みや苦勞があるんだよ。』  之は文學者となるのを好まぬ父君との間の隔離を仄めかしたものである。それでも私は羨ましかつた。其中に私は衣食の爲に神戸新聞へ務めるやうになり、荷風君初め木曜會員に送られて往つたが、社會部長の江見水蔭氏と仲合が善くなく僅に一ヶ月にして歸京して來て、又一行院へ這入つたが、直に麹町の五番町の下宿屋へ移轉した。其處は荷風君の家と相距る四丁程であつた。それから三番町の一心館と云ふのに轉宿したが、其處はより多く永井君の家と近かつた。此の下宿で私は新小説に文壇の初陣した團扇太鼓を書いたのであるが、永井君は既にその前年に、中村春雨、田村松魚君と一緒に、新小説の懸賞小説に當選して掲載され、文壇人として認められて居た。  文壇の天下は紅葉先生が金色夜叉を書出して一世を風靡して居たが同時に鏡花、風葉、秋聲、春葉、宙外、天外、花袋と新進作家が轡を並べて居て華やかなものであつた。私は依然一心館に居て大學館と云ふ書肆から發行する活文壇と云ふ文學雜誌を、井上唖々君の助力で編輯して居たが、荷風君は私に取つて善い編輯の助言者であつた。小栗風葉君が時々此一心館へ、私を訪れて來た。併しそれは風葉君が態々私を訪問してくれたのでなく、富士見町に狎妓があつて、待合で遊び疲勞れた姿を見せるのであつた。その待合は一心館の直ぐ横町なので、時には私を呼出すのである。或日私を呼出し、同時に謹直な蒲原有明君と永井荷風君を呼んだ。文壇花形の風葉君からの使なので、兩君もやつて來たが、惡戯好きの風葉君は兩君へ女を取持たうとした。然う云ふ場面に馴れない蒲原君は愕いて、自分が酒を飮んだ丈けの金を拂ふと云つて持合せの金を差出して這々の體で遁げたが、荷風君は悠々と落附き、女が來たにかゝはらず厠へ行くやうな顏をして、するりと歸つて了つた。風葉君の口惜しがるまいことか。その夜を泊つた風葉君は翌日又も私等三人を呼び、眞晝間大勢の藝者を連れて、天河天神の向側のいろは牛肉店へ歩いて飯を食ひに行くのに同行を強ひられ、蒲原君も私も知人の多い麹町なので遲れて歩き、流石の風葉君も通行人に見らるゝにてれて私達の側へ來たのに、荷風君一人平然として藝者に取捲れ、談笑して歩く大膽さに一同は舌を捲いて了つた。  側から見て此頃が荷風君の經歴で暗黒時代でないかしらと思はるゝのは、當時の文士の登龍門である文藝倶樂部や新小説へ時々作品を發表して居るにかゝはらず、他の方向へ身を轉換しようとしたのである。文壇に思ふやうに作品を公にせられないのに焦慮した失望か、それとも家庭が面白くないのでそんな決心をしたのか、福地櫻痴居士を訪問れて、歌舞伎座の作者部屋へ這入つて黒衣を着て見たり、かと思ふと落語家の大家を訪問して門下生にならうとしたり、私は後で唖々君から聞いたのであるが、何うやら家を出て生活しようとしたのである。或る事件――それは戀愛問題であつたかもしれない、父君と衝突して家に居るのが面白くなかつたらしい。併し此の兩方の務口も永井君の豫想と反して居たので中止して、やはり家へ落着くやうになつた。家に落附くと小説道へ一層精進の心を燃し、ゾラのルウゴン・マツカアル叢書を英文で讀み出したのである。  私はツルゲネフを崇拜して、手當り次第にツルゲネフの飜譯を集めて熟讀した。永井君もツルゲネフは嗜好であつた。蒲原君もツルゲネフやドウデ黨であつた。私達は顏を合すとツルゲネフの作品を論じ合つたが、或日私と荷風君と黒田湖山、西村渚山、紅葉門下の藤井紫溟それから平尾不孤その他二人程で芝公園へ遊びに出懸け、其處の山上で文壇を論じ、硯友社の傾向を罵倒し、假令現在は容られずとも歐洲大家の作品に倣つて勉強し未來の文壇に覇を稱へようと熟議したのであつたが、その望みを達したのは永井君一人であるのを思ふと、私は忸怩とせざるを得ない。此の芝公園の議論は誰かゞ雜誌で素破拔いたので、硯友社の先輩から睨まれて、當座擽つたい思ひをしたものであつた。  木曜會の黒田湖山君は何うしたものか、硯友社の先輩に作品價を認められず、紅葉門下の勢力圈の新小説へ作品を送つても掲載されないのに業を煮やし、川上眉山氏の許に居て時折木曜會へ顏出して居た赤木巴山君を説附け、赤木君の資本で美育社と名づける出版社を設け、先づ自身の作品から初めて、知人の作品を單行本として出版してくれた。第二に選ばれたのは永井君の地獄の花であつた。永井君が暫時友人とも離れてゾラを讀んだ後の創作である。それを讀んだ時私は全く驚かされたし、恐れもした。それ迄永井君の作品は云つては惡いが内容も外形も柳浪式であつて私はそんなに重きを置いて居なかつたが、地獄の花は文章にしても、内容にしても、今迄永井君が書いたものと、全然異なつて居て、戀愛物語の小説から一歩も二歩も踏出したものであつた。批評家は擧て賞讃したし、從來の朋友は違つた眼で荷風君を見るやうになつた。ゾラを讀んだ影響が永井君の心境を一變さしたのである。永井君がモウパツサンを推賞するやうになつたのは、此の時期である。不思議な因縁は此の美育社の資本主の赤木巴山君は、永井君に戀した散髮屋の看板娘を當時愛人として居たことである。 二  永井君の創作態度の變化に驚かされた私達は、永井君の性質が外は極めて柔でありながら内は正反對の剛で粘靱性に富んで居るのに眼を瞠り出した。例はいろいろとあるが、如何に父君に反對されても文學者たらんとする意を曲げようとしないのもその一つである。知人に對して怒つた顏を見せたことはなく、他人からいくら説かれても意に滿たなければ、微笑の中に行はうとしない。と云つて少しも隱險な心地はなく、友人には明るく情誼を盡しはするが、私のやうな單純で、くわつと熱して物事を裁いたり、行ふたりする者には喰足りなく思はれた行状が屡々あつた。つまり青年らしく一所に躍つてくれないのである。話は少し以前に溯るが小波先生が獨身時代、惡性な藝者に附纏はれ、紅葉先生の諫めも聞入れず同棲したことがあつた。  先生思ひの木曜會員はそれを非とし、小波先生の側近からその女を退けようとして種々智惠を絞つても甲斐がなかつた。その時分我武者羅の私が我慢しかねてその女と爭論し、それからその女の惡徳を算へて先生に追放を迫つた。久留島武彦君と私が紅葉先生の許に走せて事情を述べて應援を乞ふと、 『諾矣、善くやつた。直ぐ巖谷に逢つて女を退治してやらう。』  かうした紅葉先生の言葉を聞いて、小波先生の家に集つて居た木曜會員に報告して悦こばしたのであつたが、ひとり荷風君は私が訪問して示威だから來てくれと頼んでも、 『小波先生が好きで然うして居るんだから、放擲つて置けばいゝぢやないか。』  然う云つて何としても顏出してくれなかつた。事件は紅葉先生の盡力で、女は出て行くやうになつて解決したが、永井君の此の態度は可なり私を失望せしめたが、後になつて性格の相違でもあり、自由主義者である永井の心地も解つたが、兎に角青年時代から永井君は今と同じく他人に干渉するのが嫌ひで、自分が動かうとしない以上、他人の言葉で動かなつた。  私にしても小説家として何うかこうか生活出來るやうになつたので麹町の下宿を引拂ひ、千駄ヶ谷に傭婆を使つて一軒些やかな住居を構へた。先住者として黒田湖山が千駄ヶ谷に居た。小波先生も結婚して麹町から青山北町三丁目へ移轉されたし、永井君の家も麹町を去つて大久保余丁町へ引越して往つた。永井君の家は樹木が欝蒼として居て廣く玄關は大名の敷臺のやうに廣かつた。父君の室とは放れた裏側の庭に面した室が荷風君の書齋であつた。私達は相變らず繁く往來して居た。押川春浪君が木曜會へ這入つて來てからは、荷風君は春浪君と仲善しになり、遊びの行動を共にして居た。それと云ふのが春浪君も親懸りで、人氣のあつた冒險小説の單行本を出版して得た金は總て小遣として使用し得られたし、永井君にしても得た原稿料は總て小遣ひなので自然と二人は近くならざるを得なかつた。その餘慶を蒙るやうに私と井上唖々君が、自分の財布では行けない場所へ誘はれた。然うして、日と月が經つて行く中に、永井君は父君の命令で、亞米利加へ留學するやうになつたのである。  之より先き小波先生は獨逸へ旅立たれて、滿二年在獨して歸つて來られ、久留島武彦君も歐米漫遊の旅に上り永井君は木曜會からは三人目の洋行でありはしたが、どんなに私達は羨んだものか。考えると私はその頃も今も此後とても生涯永井君を羨み通して死んで行くことであらうと思ふ。私達は心ばかりの別宴を張つて永井君を送つたのであつた。  旅立つて行つた先から永井君は度々手紙を寄せてくれた。筆不精な人であるのに海外の寂しい生活の行爲か、長い手紙であつた。私も絶えず返辭を書いた。日本の文壇の動きに就ては絶えず注意の眼を瞠つて居るらしく、いろ〳〵と日本の文壇人の作の批評を寄越した。私が文藝倶樂部に川波と題する小説を掲戴したのに、譽め言葉をくれたのは飛上る程悦しかつた。然うして思掛けなかつたことは永井君がキリスト教を信仰するやうになり、毎日曜には寺參りをして説教を聽聞して居るとの報知せであつた。從つて來る手紙の中には若し神許宥し給ふならばと云ふやうな嚴肅な言葉が書かれて居た。如何に米國が宗教國であるにしても永井君が神の教えを信ずるとはと、私ばかりでなく木曜會同人一同の愕きであつた。 『永井君は變つた。歸朝したら純潔な處女と交際したり、處女の戀愛を求めるやうになるだらう。』  唖々君の言葉であつた。日本に居た時荷風君は境遇が然うさしたのかも知れないが素人女をば女性でないやうに思つて交際しやうとせず、專ら柳暗花明の巷の女にのみ接して青春を過したからである。  亞米利加から能く作品を小波先生の許へ送つて來た。それを私か唖々君が木曜會の席上で朗讀し、一同批判した後、小波先生の手で文藝倶樂部や新小説へ送つて掲戴せられる手續きを取つた。亞米利加物語も然うした順序を經て、之は博文館から出版された。  荷風君の洋行中に木曜會員は大抵結婚したが、私は依然として獨身で、荷風君が亞米利加から佛蘭西へ渡り、在留合せて三ヶ年の日を過して、日露戰爭が終り、日本の民衆がポウツマウス條約に不服で日比谷公園の暴動を起した日に歸朝したのを迎へた。歸朝後の永井君は眞に素晴らしく、態度に重味を加え、然うして朝日新聞に紅茶の後を連戴して、外遊中に蘊蓄醗酵した清新な情操を日本の文壇へ齎らした。其の後の永井君は總てが順風滿帆で慶應大學が新に文科を設けた際、森鴎外先生の推薦で教授になり、生活樣式もそれに連れて規則正しく、洋行前の永井君と別人の觀があつた。永井君に取つて何よりも嬉ばしいことは、父君との和解で、父君は自己の交遊社會や親戚の前で、初めて自分の息子を文學者として認める言を發するやうになつたのである。  引換へて其頃の私は不幸であつた。私の作品は風俗壞亂と當局から睨まれて、單行本も短篇も發賣禁止となり、書肆は私の原稿を危んで買つてくれないやうになつた。そんな中で私は結婚したのであつたが、結婚後四ヶ月目に中耳炎に罹り、膿が頭腦を犯した爲め、知覺も認識力も不足し、醫師からは今後恐らく執筆は難かしからうと宣告を受けたばかりでなく、病中二度迄も裁判所へ召喚されて發賣禁止となつた私の作品に就て公判を受けねばならなかつた。それは罰金刑で濟みはしたが、爾後病は一進一退し極端な神經衰弱症となり、文壇と離れて四年間湘南の地に蟄居せねばならぬやうになつた。從つて荷風君との交際も絶たれて居たが此間に荷風君は、父母の撰んだ妻君を迎へて盛大な結婚式を擧げたのである。  一度病中の私が上京して新婚後間もない荷風君を訪問れ、高島田に結つた美貌の新夫人を見はしたが、一年と經ない中にその破婚が湘南に居る私の耳に傳つて來た。何うして破婚になつたか、唖々君さへも知らなかつた。ずつと後に荷風君に逢つて訊くと、その問題に觸るゝを厭ひ、かへりみて他を云ふ態なので、家庭の祕事として私は重ねて問はず今以て、委しい事情を知らない。只しかし荷風君はその以後深窓に育つた處女を再び厭ふやうになり、昔に返つて商賣人の女を相手にし、商賣人の女でなくては話相手とするに足りないと云ふやうになつたのは事實である。何かしら烈しい失望を感じたのであらうとは私に察せられるのである。  私の結婚にしても破局に終り、明治四十三年の年の暮に東京へ歸つて來た時は獨身者であつた。泉岳寺側に住居を構へ、破婚の寂しさを紛らはさん爲に知人や朋友を集めて文學談話會をこしらへると、永井君は二度ばかり出席してくれた。永井君は妻に別れた影響など微塵なく、慶應大學で教へる傍ら三田文學を主宰して、文壇の輝かしい存在であつた。私達は以前の交際を取返して日夕往來したが私がその頃の新劇運動の中心舞臺であつた有樂座と關係が生じたので、劇壇に深い興味を持つ永井君は絶えず有樂座へ姿を見せ、劇場が閉場た後は、銀座裏のプランタンへ集つて無駄話に時を過した。小山内薫君や吉井勇君も同じグループだつた。  此のプランタンで永井君に取つても私に取つても新聞の三面欄を賑はす餘り芳しからぬ事件が生じた。或晩永井君が有樂座に或る新劇團の興行があつて見物にやつて來て居ると後に永井君の正夫人になつた新橋藝者の巴屋の八重次が見物に來て居た。永井君が妻と別れて以來、八重次と關係を生じて居るのは私も知つて居た。八重次は永井君の側へ寄つて往つて閉場後プランタン行きを勸めた。私も八重次とは永い間の知己なので連立つこととなり、それから田中榮三君達がやつて居る劇壇に屬する女優の小泉紫影が側に居たので誘つて同行するやうになつた。  プランタンへ行くと押川春浪君が阿武天風君外二人の青年を連れて盃を擧げて居た。荷風君も私も酒は飮まないし女連れなので押川君に眼で會釋した丈けで二階の席へ上つて往つた。それが押川君の氣に障つた。荷風君と押川君とは舊く仲善しであつたのに、押川が深酒をするのを厭つて荷風君と少し疎遠になつて居たし、それに悲憤慷慨家の押川君は荷風君が慶應大學の教職にあるのに、藝者と馴染を重ね、世間から兎や角と云はれながらも何等省るところがないと指摘して、遭遇つたら忠告すると平生から意氣込んで居たのに顏を合したのが否けなかつた。私達が食事しかけて居る處へ押川君一人やつて來たが、單に氣色ばんで居る限りで何事もなかつたのに押川君を追つてやつて來た醉つて居た青年二人は、押川君の意中を勝手に推量して粗暴な擧動を見せ、特に八重次に向つて狼藉を働いたのである。醉つて居ない阿武天風君が上つて來てくれたので後事を托し、各自にプランタンを遁れ出たのであつたが、醉つた青年二人は八重次を苛め足らなかつたらしく、八重次の屋號の巴屋を目當てに家を探し、街燈を壞し、看板を割つたりなどしたんだが、その巴屋は八重次の家の巴屋でなく、全く關係のない待合だつたので、警官が出張して青年二人は拘引せられたのを、誇張して二つの新聞に大きく書かれたのである。  私の見るところでは此事あつて以來、荷風君の心は八重次へ一層寄つて往つたやうであつた。押川君の非難に對する抗辯として、何故に藝者がそんなに賤しいか、彼女達は家族を養ひ一家を支えて居る生活の鬪士ではないか、日本の現在の結婚制度の妻にしたつても、何れ丈け藝者と光榮を爭ふ價値があるか、或意味で娼婦と遠からざる存在ではないか――之は私が永井君の意中を忖度した丈けの言葉で、永井君から聽いたのではないから間違つて居るかもしれない。もう一つ私が永井君で感じて居るのは、自分が強いて結婚を求めようとしない心地から、接する女を單に快樂の目標物とのみしようとする殘酷さである。此の事に就てはもつと後に述べやう。 三  プランタンの事があつた數ヶ月後、私は外遊の途に上るやうになつたので、又も荷風君との交遊は斷たれた。私は外遊中に荷風君の父君の卒然の逝去を聞いた。それから八重次に藝者を止さして、靜枝の本名を名乘らして四谷區に圍つて居ると唖々君が伯林に居る私へ報知して來た。軈て又荷風君は遂に靜枝と結婚するやうになり、媒酌者は左團次君夫妻であつて、今は宏壯なあの家に靜枝は新夫人となつて納つて居るとやはり唖々君から便りがあつた。私は何故かしら畏友荷風君に温良貞淑な良家の處女を娶らしたいと願つて居たので、此結婚を左程目出度いものに思はれなかつた。すると半年程した後に、永井君は靜枝と別れたと、之は黒田湖山君からの手紙であつた。私が歸朝後、荷風君からも聽いたし、唖々君初め荷風君の知人達の話を綜合して靜枝さんとの結婚が荷風君に取つては非常に高價なものであるのを知つた。  高價な第一は未亡人の母堂が家を去つたことである。第二は弟の農學博士伊三郎君初め名門揃ひの親戚と仲違ひしたことである。母堂は荷風君と靜枝さんとの結婚を無論初めは反對であつたが、或人が仲に這入つて説いた爲め、結婚式に列席せぬのを條件にして諾意を見せた。荷風君は在來通り母堂と新夫婦は一所に住むものとのみ思つて居たのに、結婚式から歸つて來ると母堂は伊三郎君の家に去つて了つて居た。弟の伊三郎君なりその夫人は共に堅い基督教信者であつて、靜枝さんの經歴を賤しみ姉と呼ぶに堪難いと云つて籍さへ脱いて別戸主となつたのである。親戚達は母堂の意嚮や伊三郎君に追從して往來を絶つやうになつたので、永井君は總ての血縁者に背かれて了つたのである。  かうしようと思ふと必ず遂行する強い永井君ではあるが、果して平心であつたらうか。他人の意を損ずるのが嫌ひであつた性質だし殊に母堂思ひなので相當苦痛であつたに違無からう。結婚半年にして靜枝さんと別れたのは、靜枝さんも強い性格で我意を張つたのであらうが永井君のかうした苦痛の反射が働き懸けないとは思はれない。然うして後日永井君が偏倚館なぞと自宅に名稱を附して門戸を閉ぢたのも、母堂とは直ぐに和解したが、他の血縁者とは今以て和解が出來ず、孤立し續けた心の影響がさしたことと、私は思つて居る。  私が外遊三年の旅を終へて歸つて來て、永井君を大久保余丁町に訪問すると、在來の家と棟續きに瀟洒な數奇屋好みの小家が建築されてある中に、唯一人座して居た。全く唯一人座して居たので、女中さへ居ないのである。何うした理由かと問ふと、女中は今朝歸つて往き、今一人居た女も昨日から歸つて來ないとの答へであつた。廣い母家の方の雨戸は總て閉されたまゝで、樹木の多い庭は荒れ果て、永井君は其の日は仕出し屋から食事を取寄せて自分を賄つて居る容子が其邊に顯はれて居た。昨日から歸つて來ない今一人居た女と云ふのは神樂坂から請出した藝者であるのを、私は唖々君から聞いて知つて居た。 『今一人の女つて請出した藝者なんだらう。』 『然うだよ。』 『君は藝者を請出して之で三人目と云ふぢやないか。みんな直ぐ嫌になつて別れて了ふんだつてね。』 『然うぢやない。女の方から去つて往つて了ふんだよ。』  悉しい話を聞くと、寂しさについ遊びに出懸けて一人の藝者を知る。身上を打明けられて身受けを強請されるので、憐を覺えて借金を拂つてやつて、親元へ預けるなり何處かへ圍つて置いたりする。と次に必ず無法な要求を持出して來たり、惡が附いて居るので、遠退いて了ふんだと、そんな女に對して未練も執着もなく、當座々々の悠々たる遊びであるのが解つた。それにまして費用が勿體ないではないかと云ふと、勿體ないからもう止めようと思ふとの返辭であつた。別れた靜枝さんの話に觸れたが、言葉の裏に自身は夫婦と云ふものを持續して行く資格がないかの樣にすつかり結婚を思諦めて居る心地が讀まれた。その時此の邸宅が餘りに廣く、掃除にも困るし、女中は夜など寂しがつたり怖がつたりして、その爲め居附かないと云ふ話だつた。  私は澁谷に家を持つたのであつたが、外國生活の疲勞が出たのでもあるまいに、以前の神經衰弱が再發して、二ヶ年程は思ふやうに書きものが出來なかつた。その間永井君とも稀にしか遇はなかつた。唖々君の口から永井君が莫大な金額ではあつたが時價よりは安く大久保の邸宅を賣放して、築地へ借宅したと聞かされた。慶應大學へ教えに往くことも止して、此頃は清元を習ひ出して居るとの風聞をも聽いた。此築地の家へは私は一度も訪問する機會がなかつた。私の病ひが怠つて永井君に遇つたのは、永井君が有樂座で清元のお浚ひ會に、一段語る日であつた。その次に遇つたのは劇場關係の人が外國へ旅立つて行くのを中央停車場へ見送りに行つた時であつたが永井君の姿を見て私は吃驚りさせられた。私等小兒の時分に町内の老人連が着て居るのを見はしたが、今は芝居の舞臺の上でなくては見得られない小紋の羽織を着て居るではないか。着物、帶、持物とそれに準じ煙管筒から煙管を拔いて煙草を吸ふ容子に、私ばかりか他の誰もが眼を瞠つて居た。  趣味で然うした服裝をするにしても、餘りとは時代と逆行したものだと私は非難する思ひに燃えたが、不圖考え直してクツ〳〵とひとりでに笑はれて來た。清元を習ひ出すと氣分迄も清元にしようとする凝り性の顯はれだと解つたのである。他人が笑はふと非難しやうとそんなことを念頭に置かないのが荷風式だと思ひもした。小山内君が側に居て、 『變つて居るね。』  私に囁いた。併しそんな服裝も清元も永く續かなかつた。築地から現在の麻布市兵衞町に西洋館を新築して移轉すると、家に居る時も洋服を着るやうになつた。私は病も怠つたので二度目の結婚をしたが、永井君は相變らずの獨身で、外國でした學生生活の樣式で生活するやうになつた。  荷風君と私との往來が繁くなつたのは、青年時代からわれ俺で交際して居た永井君の舊い友人が唖々君を初め、春浪、湖山、薫と漸次に死んで往つたので、隔てなく昔を語り合はれるのは、私位ゐなものになつて了つたからである。それに私は二度目の妻が震災の年から今以て脊髓を患つて足腰が立たず、獨身同樣な寂しさがあるまゝ、自然獨身者の永井君と話も合ひ、散歩も共にせらるゝのである。  荷風君が今以て萬年筆を使はず毛筆で原稿を書いて居るのは世間周知の事實であるが、清元を習ふと小紋の羽織を着る迄徹底さす氣分に外ならないので、自分の文章は毛筆でなくては生れないものとして居る。全く一章句たりとも苟くもしない遲筆で、何遍も書直しもする。然うして稿が成つても猶氣に入らないと机の曳出しに納ひ込んで了ふので、そんな未定稿は數あると思ふ。市兵衞町へ引越して間もない時のこと、私が書齋へ這入つて行くと、荷風君は一つの稿を前に置いて沈吟して居た。然うして書上げたものが氣に入らないから發表せない心算だと云ふ。讀んで聞かし給へと勸めて、荷風君の朗讀を聽いたのだが、私は名文に感心して發表を強いたんだがそれは見果てぬ夢の短篇であつた。牡丹の客も然うであつた。女には放膽な荷風君も、事文學に這入るとそれ程細心で、チミツドなのである。彼氏が大名を唱はれるのは故あるかなである。  世間でいろ〳〵と風評される女との關係にしても、私の見る目は違ふ。若い時代はいざ知らず、近時の荷風君對女問題は、荷風君の方が利得して居るので、世間の風評を腹の底で笑つて居るかもしれない。それと云ふのが女を總て試驗臺にして居るからで、私が荷風君を女に冷酷だと評するのは然うした點も含まれて居る。女が惡であれば惡でよし、それに近接して凝と見据えて取材にして居る。女が彼氏に嫉妬のないのを氣味惡がつたり、怒るのは然うした理由である。花袋氏は女に對して相當情熱をもつて進み、それを客觀視したが永井君は然うではない。それであるのに荷風君に近寄られると、女の方は自惚れ、永井君の内剛なるを知らずに、表面些つと女性的に見えて柔しいので、甘く見てかゝり、無理な強請りなどしての破綻である。近く荷風君と噂を立てられたタイガアのお久にしても富士見町の女にしても、然うである。  私の氣が附くところでは、永井君は女に放膽ではあるが能く自分を守つて居る。決して彼女に尻尾を押へられるやうな言動を示したことがない。無論物惜しみをせず女に物資をくれてやり得らるるからではあるが、女に損を爲せないと云ふのが永井式やり方である。之は友人や知人にも用ゆる手で、他人に迷惑を懸けるのは大嫌ひで、恐く今迄に他人をそんな目に遇はしたことはなからう。いつだつてちやんと心の獨立と矜恃をもつて居たので用意周到なものである。いざと云ふ場合對手に一口だつて突込まれない戰鬪準備をして居ると云つてもいゝので、冷靜そのものである。  私が永井君に飽足らぬものが一つある。それは眞の貧乏の味を知らないことで、若し君にして生活苦を知つて居たなら、作品は違つたであらうし、社會や人を見る眼も違つたらうと思ふ。もう一つ殘念なのは純な處女との戀愛を知らぬことで、それも作品に大きな影響を及ぼして居る。若し荷風君がそんな娘と結婚し、人の子の父であつたならば、もつともつと違つた作品が生れ出たであらう。更に若し父君が初から永井君を文學者になるのを許容して居たなら、違つた荷風氏が生れ出て居ただらうと思ふ。 (完) (昭和十年十月号)
底本:「「文藝春秋」八十年傑作選」文藝春秋    2003(平成15)年3月10日第1刷    2003(平成15)年4月5日第3刷 初出:「文藝春秋」文藝春秋社    1935(昭和10)年10月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。 入力:sogo 校正:きりんの手紙 2018年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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『幸福』よ、巷で出逢つた見知らぬ人よ、 お前の言葉は私に通じない! 冷たい冷たいこの顔が、私の求めてゐたものだらうか? お前の顔は不思議な親みのないものに見える、 そんなにお前は廿年、遠国をうろついてたんだ、 お前はもはや私の『望』にさへ忘れてしまはれた! よしやお前が私の許嫁であつたにしても、 あんまり遅く来た『幸福』を誰が信じるものか! 私は蒼ざめた貧しい少女の手に眠る、 少女よ、どんなにお前は軟かく、枕のやうに 夜毎痛む頭をさゝへてくれるだらう! 少女よ、お前の名前は何と云ふ? もしか『嘆き』と云やせぬか? そんなら行つて『幸福』に言つてくれ、 お前さんの来るのがあんまり遅いので もはや私があの人のお嫁になりましたと!
底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社    1970(昭和45)年4月15日初版発行    1979(昭和54)年11月20日新訂版発行 底本の親本:「霊魂の秋」新潮社    1917(大正6)年12月15日発行 入力:hitsuji 校正:The Creative CAT 2022年4月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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我が生涯はあはれなる夢、 我れは世界の頁の上の一つの誤植なりき。 我れはいかに空しく世界の著者に その正誤をば求めけん。 されど誰か否と云ひ得ん、 この世界自らもまた あやまれる、無益なる書物なるを。
底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社    1970(昭和45)年4月15日初版発行    1979(昭和54)年11月20日新訂版発行 底本の親本:「霊魂の秋」新潮社    1917(大正6)年12月15日発行 入力:hitsuji 校正:The Creative CAT 2022年4月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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或る肉体は、インキによつて充たされてゐる。 傷つけても、傷つけても、常にインキを流す。 二十年、インキに浸つた魂の貧困! 或る魂は、自らインキにすぎぬことを誇る。 自分の存在を隠蔽せんがために 象徴の烏賊は、好んでインキを射出する。 或る蛇は、常に毒液を蓄へてゐる。 至大の恐怖に駆られると、蛇は噛みつく。 致命の毒を対象に注入しながら 自らまた力尽きて斃れる旱魃の河! 或る蛇の技術は、自己防衛とその喪失、 夏夕の花火、一瞬の竜と天上する。 或る貝は、海底に幻怪な宮殿を築く。 あらゆる苦悩は重く、不幸は塩辛く、 利刃に刺された傷口は甘く涙を流す。 或る真珠の涙は、清雅な復讐である。 奸黠な商売の金庫に光空しく死せども、 美しい夫人の手に彼の涙は輝く。 或る植物は、常にじめじめした湿地に生え、 その身をあまりに夥多なる液汁に包む。 深夜、或る暗い空洞から空洞へ注ぎこまれ、 その畸形なる尻尾を振つて游泳する 或る菌はしばしば死と復讐の神である。 漠雲の中哄笑する、目に見えぬものは神である。
底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社    1970(昭和45)年4月15日初版発行    1979(昭和54)年11月20日新訂版発行 底本の親本:「象徴の烏賊」第一書房    1930(昭和5)年6月 入力:hitsuji 校正:The Creative CAT 2023年4月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 今日来て見ると、Kさんの書卓の上に、ついぞ見なれぬ褐色のきたない三六版ほどの厚い書物が載っていた。 「先生、それは何です?」と訊くと、 「まあ見たまえ」と、ワイルドの『デ・プロフンディス』や、Kさんの大好きなスウィンバアンやアーサア・シモンズの詩集の下から引出して、僕の手に渡してくれた。見るといかにも古色蒼然たるものだ。全部厚革で、製本はひどく堅牢だ。革はところどころはげたり、すりむけたりしている。縁も煤けている。何だかこう漁師町の娘でも見るような気がする。意外に軽い。  無雑作に開いて見ると、これは聖書だった。細い字が隙間なしに植えてある。まんざら漁師町に関係のないこともないと思って、 「聖書ですね」とKさんを見ると、Kさんのその貴族的な、いかにも旗本の血統を承けているらしいすっきりした顔は、微笑にゆるんで、やや得意の色があった。 「掘出し物だ。ヴィクトリア朝のものじゃない、どうしても百年前のものだね」 「へえ」と今更感心して見る。 「夜店で買ったんだ。初め十銭だって云ったが、こんなもの買う人はありゃしない、五銭に負けろと、とうとう五銭で買って来た。さあ、どうしてあんなところにあったものかなァ」 「へえ、五銭……夜店で」と僕は驚いたような声を出した。この貴族的な詩人が五銭で聖書を買っている光景を眼前に描き出して、何とも云えず面白い気持がした。が、そのすぐあとから、自分が毎日敷島を二つ宛喫うことを思出して、惜しいような気がした。何が惜しいのかわからないが、兎に角惜しいような気がする。  むやみにいじくって見る。何やら古い、尊い香がする。――気が付くと、Kさんの話はいつの間にかどしどしイプセンに進んでいた。イプセンと聖書、イプセンは常に聖書だけは座右を離さなかったというから、これもまんざら関係がないでもないと思う。  Kさんが立って呼鈴を押すと、とんとんとんと、いかにも面白そうに調子よく階段を踏んで、女中さんが現れた。僕がこっそり好きな女中さんで、頬っぺたがまるく、目が人形のようにぱっちりしていて、動作がいかにもはきはきしていて、リズミカルだ、さすがに詩人の家の女中さんだと来る度に感心する。  僕は聖書を書卓の上に置いて、目の前にあった葉巻を一本取上げた。「さあ、葉巻はどうです」と二度ほど勧められて、もう疾くに隔ての取れた間なのに、やっぱり遠慮していたその葉巻だ。女中さんは妙にくすりと云ったような微笑をうかべて僕の手つきを見て、それから若旦那の方を見て、 「あの、御用でございますか?」 「あのね、奥の居間の押入にね、ウィスキイとキュラソオの瓶があった筈だから、あれを持っておいで」  女中さんが大形のウィスキイの瓶と妙な恰好をしたキュラソオの瓶とを盆に載せて持って来た時、Kさんは安楽椅子にずっと反身になって、上靴をつけた片足を膝の上に載せて、肱をもたげて半ば灰になった葉巻を支えながら、壁に掲げたロセッティの受胎告知の絵の方をじっと見ていると、僕も丁度その真似をするように、同じく椅子の上に身を反らして、片足を膝の上に載せたはいいが、恥しながら真黒な足袋の裏を見せて、やっぱり葉巻をささげて、少し首を入口の方へふり向けてロセッティを見ていた。この頗る冥想的な場面に女中さんの紅くふくれた頬が例の階段上の弾奏を先き触れにして現れた、と思うと、いきなりぷっと噴き出した。 「おや、どうした?」とKさんは冥想を破られて言った。  僕は女中さんの顔を見ると、ひどくきまり悪そうに丸い頬を一層紅くして、目を落してしまった。これはきっと僕に何かおかしいところがあったのに違いないと思って、僕もすっかり照れて、ふと手の葉巻を見ると火が消えていた。急いでそれを灰皿につっこんで、僕はまた例の聖書を手に取った、真黒な足袋の裏をあわてて下におろしながら。  どうも僕の様子はまずこの聖書ぐらいは見すぼらしいに違いない。それが立派な旗本で、今は会社の重役の次男なる主人公と同じ貴族的な態度ですまし込んでいたのだ、と思うと、僕は顔が真紅になるような気がした。だが、女中さんの噴き出したのは、ただ何がなしにその場のシテュエーションの然らしめたところだろう、若い女というものは箸が転んでも笑うと云うではないか、尠くともそれは僕に対する嘲笑ではない筈だ、それは彼女の目がよく証明している、などと僕はひとりでしきりに推究した。なお進んでは、此家の主人公がこの白銅一個を以て購い得た古書に無限の価値を見出して賞玩するように、このかわいらしい女中さんも僕の見すぼらしさの中から何等かの価値を見出してくれているかも知れないなどと、例の詩人らしいいい気な自惚れに没頭していると、 「さあ、今日は酒でも飲みながらゆっくり話そう」と云って、Kさんは二つの杯になみなみとウィスキイをついだ。  僕はすぐ酔ってしまった。Kさんのふだんはぼんやりと霞がかかったようにやわらかな顔が、輪廓がはっきりして来て、妙に鋭くなっている。Kさんが酔うといつもこうだ。二人の話は愈々はずみ出した。僕は調子に乗って、象徴詩を罵り始めた。 「僕は詩壇をあやまるものは今の象徴詩だと思います。象徴詩は人間を殺します、一体今の象徴詩などを作るには何も一個の人間であるを要しません、ただ綺麗な言葉をたくさん知っていて、それをいい加減に出鱈目に並べさえすればいいんです。それでいて詩人の本当の人間らしい叫びを説明だなどと貶すのは僭越じゃありませんか。シェレイの『雲雀の歌』などを持って来て、意味ありげな言葉をつなぎ合せて、でっち上げたばかりの自分の象徴詩を弁護しようなんて滑稽じゃありませんか。象徴詩なんて、要するに空虚な詩工には持って来いの隠れ場で、彼等はその中で文字の軽業をやってるだけです」  僕は口がだるくなって止めにした。Kさんは時々「ふむ、ふむ」と受けながら、穏かな微笑を浮べて聞いていたが、「まあそんなに憤慨しなくてもいいよ。つまらないまやかし物は時の審判の前には滅びてしまうのだから。早い話が、基督はいくら十字架にかけられても」と聖書を手に取上げて、「その精神は今日此中に生きているじゃないか。いくら圧迫されても無視されてもいいから、本当の詩を書かなくちゃいけない」と云ってまたそれを下に置いた。僕はこの先輩の声援にすっかりいい気持になって、その聖書をまた手に取ってしきりに引っくり返しながら、いつになく盛んに気焔を挙げた。  帰る時に、僕があまりその聖書を熱心にいじくっていたものだから、 「何なら持って行きたまえ」とKさんは云ってくれたが、僕は、 「いえ、なに」と立上りながら云った。御馳走ではないものだから、Kさんは「遠慮したもうなよ」とまでは勧めなかった。下へおりると、奥の方で賑かな女の人の笑声がした。門を出ようとして、横の方を見ると台所の窓のところから、例の女中さんの顔が此方を覗いていた。僕は玄関に立っている主人に云う風をして、「さようなら」と、一寸彼女の方に頭をさげた、何だか彼女がにっこり笑ったように思われた。僕はひどく愉快な、はしゃいだ気持になって、「Kさんは珍らしいものを見つけたものだな」と心に呟いて、あの聖書のことを考えているつもりでいながら、いつか女中さんのことを考えながら、そのぷっと噴き出したのはどうした訳だったろうと、いろいろな想像を逞しくしながら、本郷三丁目までてくてく歩いた。
底本:「日本の名随筆 別巻100 聖書」作品社    1999(平成11)年6月25日第1刷発行 底本の親本:「生田春月全集 第六巻」新潮社    1931(昭和6)年9月 入力:加藤恭子 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年5月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一 我が肢は甘くたるみて 痛む頭もこゝろよし、 この頭くらく、めくるめくとき、 失ひし楽園は幻に見ゆ。 二 手はふるひ、足はよろめく さながら、酔ひどれが 家路へかへるにも似て、 地獄の門に倒れ入らん。 三 滅びよ、滅びよ、いとしき我が身、 急げよ、たのしき地獄の門へ。 すべてのものゝ存在せざる 其処にこそ我が失ひし楽園はあれ。
底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社    1970(昭和45)年4月15日初版発行    1979(昭和54)年11月20日新訂版発行 底本の親本:「霊魂の秋」新潮社    1917(大正6)年12月15日発行 入力:hitsuji 校正:The Creative CAT 2023年2月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "060964", "作品名": "滅亡の喜び", "作品名読み": "めつぼうのよろこび", "ソート用読み": "めつほうのよろこひ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2023-03-12T00:00:00", "最終更新日": "2023-02-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000227/card60964.html", "人物ID": "000227", "姓": "生田", "名": "春月", "姓読み": "いくた", "名読み": "しゅんげつ", "姓読みソート用": "いくた", "名読みソート用": "しゆんけつ", "姓ローマ字": "Ikuta", "名ローマ字": "Shungetsu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-03-12", "没年月日": "1930-05-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の詩歌 26 近代詩集", "底本出版社名1": "中央公論社", "底本初版発行年1": "1970(昭和45)年4月15日", "入力に使用した版1": "1979(昭和54)年11月20日新訂版", "校正に使用した版1": "1979(昭和54)年11月20日新訂版", "底本の親本名1": "霊魂の秋", "底本の親本出版社名1": "新潮社", "底本の親本初版発行年1": "1917(大正6)年12月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "hitsuji", "校正者": "The Creative CAT", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000227/files/60964_ruby_77100.zip", "テキストファイル最終更新日": "2023-02-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000227/files/60964_77099.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2023-02-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 たとへ大多数の通俗社会主義的民主々義的批評家等や、彼等の無反省な白人的優越感と近代的先入見とから遠くかけ離れてゐないアナトール・フランス、バアナアド・シヨオ程度の著作家等が、私達のこの日本に関してどんな事を言ひ来たつてゐたにもせよ、今尚言ひ続けてゐるにもせよ尚且つ厳密に天才者と言はるべき程の天才者等は、全く何等の除外例もなく、悉く皆、内面的な意味での貴族主義者であり、従つてさうした意味での貴族主義精神の「本場」である日本に対して日本的な一切の物に対して、限りなく深い憧憬と愛着とを持つてゐた。  さて、彼等の中に於ても私共の特別に愛着してゐる者に就て言へば、第一はハインリツヒ・ハイネである。即ち、その同国人から、並びに同時代者から最も理解され難く、最も誤解され易い素質と、超独逸人的に驚く可き程の素晴らしい天分とを有つてゐた点に於て、又自分自身さへも独逸的なものに嘔気を感ずると屡々思つたり口に出して言つたりしながらも、尚且つその実内密な愛着を有ち乍ら、他の何人よりも大きな寄与を独逸人と独逸語とに対してなしてゐたその業績や、反語的な運命の学校から、結局たゞ自己愚弄の形式で以て、所謂道化者の如くにのみ語ることを学ばなければならなかつたその運命などに於て、我がフリイドリツヒ・ニイチエと特殊の非常に深い類縁関係を持つて居り、又或意味ではニイチエの一原型とも称すべきところの、あのハイネは、恐らく僅かにかの有名なシイボルトの「日本誌」とか、ロシアの某提督の「紀行」とか言つた位の、極めて乏しい材料を通して見たに過ぎなかつたであらうけれど尚且つ、その不可思議な天才的直感に助けられての事であらうか、意外にもよく日本といふものゝ本質的な長所を見抜いてゐて、そして世上の所謂日本贔屓なぞに見る如き、薄つぺらなものとは全く異つた。私共日本人から本当に嬉し涙の自然に流れ落ちるやうな、優れた理解と愛着とをこの日本へ対して有つてゐてくれたとのことである。  ニイチエがその健全な意識を失くしたのは、一八八〇年代の終りであつて、それまでには、憲法制定の準備の為に出掛けて行つた伊藤博文一行だとか、それに前後して行つた数多くの外交官だとか留学生だとかいふやうな日本の知識階級から直接にさへ、独逸の知識階級も、既にかなりによく日本といふもの並びに日本的な様々のものを、学び知つてゐたらうと推察される。  従つてニイチエがハイネの場合と比較も出来ない程日本へのよりよき理解を有ち得てゐたことに不思議もないが、兎に角ニイチエの日本精神、日本文化、日本美術、その他あらゆる日本的なものに対して、全く情熱的な愛着偏好を示してゐてくれるのは、これ又実に私共にとつての大なる喜びである。  一八八五年十二月二十日ニイスから彼の「駱馬」(妹のことを彼はかう呼んでゐる)へあてゝニイチエから書き送つた手紙の中には次の如く書かれてゐる――「若し私がもつと健康で、十分に金を持つてゐるならば、私は単に尚快活であり得る為ばかりにも、日本へ移住したであらう。(私の最も大に驚いた事には、ザイトリツツもその内面生活の上にかうした変化を経験したのだ。彼は芸術家的に、今の所最初の独逸的日本人である――同封の、彼に関する新聞記事を読んで御覧!)  私はヹネチアにゐるのが好きだ。あそこでは易々と日本風にやつて行けるからだ――つまり、それをやるのに必要な二三の条件があそこにあるんだよ」  アレヴイイのニイチエ伝によれば、ニイチエは右の手紙の書かれたより少し以前に、独逸を去るに先立つて、彼の旧友ザイトリツツ男爵をミユンヘンに訪ねた。そして日本美術の珍らしい蒐集を見せて貰つて、稍羨望を禁じ難かつた程の深い興味を覚えたといふのである。  シヨオペンハウエルの有名な「意志及び表象としての世界」が、仏教思想をその根本的基礎にとつてゐるといふことに就いては、読者諸君の殆んど総てが、少くとも何程かを耳にされて居ることであらうと思ふ。  ところで、私の見るところを言へば、我がフリイドリツヒ・ニイチエの哲学がまた、表面上波斯の古代宗教思想の継承でゞもあつたかの如く見えてゐるにも拘らず、内実はそれよりも、ずつと余計に、仏教思想と深い縁類関係を有つて居ることを知らなければならぬ。  然も、シヨオペンハウエルは一八六二年に死んで居り、ニイチエの健全な意識が失はれるに至つたのは同じく八十九年の事であり、その間に少くとも三十年近い歳月が流れて居り、即ちその間に欧羅巴に於ける印度学上の著しい発達を見、殊にニイチエがその親友としてドイツセン博士の如き優秀な印度哲学者を持ち得た丈けのことはあつて、此の二人の思想家の仏教思想に対する理解は、殆ど同日に談ずることを許されない程にも、その深浅の程度を異にしてゐるのである。  加之、曾つて一度びはあだかも師弟の関係とも言はる可き程のものを有つてゐた彼の二人の偉大な思想家等が、彼等の仏教思想を理解することの深い浅いに殆ど正比例して、一方のより低い哲学に対して他方のより高い哲学を、我々の前に提示してゐるといふのは一の興味ある事柄であり、殊に、より忌憚なく言へば、シヨオペンハウエルの理解した仏教思想の頂点が、其儘彼の哲学の到達し得たる最後の限界であり、これに対してニイチエの理解し得た限りの仏教が、結局に於て到達し得た高さまでは、彼の哲学も亦到達し得たと言ふに止まつてゐるといふのは、否、更に今一つを加へて言ふならば、其最も根本的な傾向に於て、畢竟シヨオペンハウエルが彼の言葉遣ひに於ける仏教徒より他の何物でもなく、それに対してニイチエが、彼の言葉遣ひに於ける仏教徒より以外の何物でもなかつたといふのは、前よりも一層興味ある事柄であると言ふ可きであらう。  蓋し、シヨオペンハウエルに依れば、カントの所謂デイング・アン・ウント・ヒユウル・ジヒ、即ち実在若しくは本体は「生への意志」と称する一つの盲目意志であり、そして斯うした盲目意志の展開、又はその展開の所産としての、此の世界は最悪の世界であり、此の世界の中に営まれる此の生は最悪の生であらねばならぬ。  従つて、斯の如き最悪の世界から自らを救ひ出し、斯の如き最悪の生から解脱する為めの方法は、右の「生への意志」といふ一の盲目意志を滅却し、又は停止し去るより他にあり得ない。然かも斯うした「生への意志」を否定し去るのは一は芸術的享楽に依る意志否定であり、他は宗教的禁慾に依る意志否定である。  より詳しくは、芸術的享楽に依る意志否定といふのは、所謂天才的直感を通じての芸術的陶酔が、少くともその刹那に於て、私共をカント哲学なぞに言ふところの無関心な状態に置き、従つて私共の生への意志を一時的にもせよ、否定の状態に置いて呉れることを意味するのである。  勿論、斯うした芸術に依る意志否定が単に一時的なものに過ぎないのに対して本当に恒久的に生への意志を否定し去つて呉れるものは、宗教的禁慾に依るところの方法であり、それより他に如何なる方法もあり得ない。  扨て其の本当の意志否定が如何にして為されるかといふに、先づ諸行無常とも言ふ可き厭世観の徹底が、快楽追及の無益なることを感得せしめ、諸法無我にも比す可き、汎神論的世界観の徹底が、我と云ひ彼といふ如き個体的生存の、単なる幻覚的迷妄に過ぎないことを、証悟さして呉れる。  次には、右の如き感得と証悟とは、必然に個体的生命の否定を意味する素食と、種族保存の否定を意味する貞潔と、利己心の否定を意味する清貧と、此の三種の戒律的実践へ導いて呉れる。  そして最後に、斯うした戒律的実践、即ち禁慾の絶間なき反復持続が、遂に生への意志と称する一の盲目意志を、完全に否定し得るといふのである。  処で、かのシヨオペンハウエルの唯一の、完全な解脱方法としての戒律的実践は、彼自ら禁慾といふ言葉を以て呼んではゐるが、私共を以て見れば、それは寧ろ苦行的と言はれるのが、より適はしくはないかと思はれる程のものである。  少くともそれは、私共の解する限りに於ての、釈尊自身の中道、又は八正道と呼ばれたところのもの等に較べて、かなり苦行的な色調を帯びたものと見らるべきであらう。  委しく言へば、釈尊が思想の上に有無の二見に着することを戒め、生活の上に苦楽の二辺から離れることを勧められたのに対して、シヨオペンハウエルはその観念的態度に於て中正を失つて「無」に、否定に偏してゐる如く、戒行的態度に於て「苦」に、苦行に走ることを免れてゐないのである。即ち、要するに釈尊自身の所謂中道的態度の如きに比して、かなり趣を異にしたものなのである。  抑々、外的関係に於て仏陀とより近き関係に立ちながら、単に仏陀の教の形骸をのみ捕へて、その内部的な、実質的な生命を洞察し理解し得ないものが所謂小乗の徒であるならば、反対に外的関係に於てこそ仏陀からより遠い所に立つてゐやうとも、彼の教の形骸ならぬ生命を、真実の精神を洞察し得てゐるところのものは、所謂大乗の徒と言はるべきであらう。  そしてこの意味からすれば、シヨオペンハウエルが、その哲学の土台として取つたところの仏教は、かなり思ひ切つて小乗的なものであつたと言はれることを免れ得ないであらう。  処で、仏陀を卓越した生理学者であると見、彼の教を、世にも比類なく、科学的に進歩した養生法に他ならないと見てゐるところの我がニイチエは、シヨオペンハウエルなぞと比較して見た場合、如何に仏陀が彼の中道又は八正道の根本態度を重要視してゐたかを、同日に談じ難きまでに、実により正しく、より深く理解してゐるやうに思はれる。  即ち、かうした限りに於て、ニイチエはシヨオペンハウエルが小乗仏教を仏教として見てゐたゞけ、丁度それだけニイチエは大乗仏教を仏教として見ることが出来たのである。而も、所謂中道なり、八正道なりが、苦行乃至楽行に較べて、或はあまねく凡俗人等の日常生活に較べてより多く所謂養生法にかなつた生活(此処には狭義の生活及び思想を生活の一語に一括して言ふのだが)であり、従つて厳密により喜ばしき生活であり、又より真なる、より善なるものであると共に、より美なる生活は畢竟より芸術的な生活でもあり得るとしたならば仏陀の真実の教は、シヨオペンハウエルの場合なぞと異つて、所謂この生からの解脱を、結局よりよき生への精進と見てゐるものであり、而もその精進の方法が芸術的な生活、若しくは芸術に於ける努力そのものと全く一のものであると見てゐるものである。  そしてかくの如く見て来れば、生への意志を否定しようとしたシヨオペンハウエルに対して、所謂権力への意志を押立てゝ、再び、而もより力強く生への意志を肯定しようとしたところのニイチエは、右の如き見地からする時それだけシヨオペンハウエルから遠ざかつて、丁度又それだけ大乗的仏教思想の方へ近付いて来てゐるものと言ふべきではなからうか。  勿論、ニイチエはあのやうに強調して生の肯定を言つて居り、大乗仏教若しくは大乗的な目で見た仏陀の教は、少くともそれが仏教である限りに於て、兎も角も生を肯定するよりもむしろ、否定したと、然う言はざるを得ないであらう。  併し乍ら、ニイチエもあんなに屡々没落を愛するものとして超人を説き、また奴隷道徳に対する支配者道徳としての、賤民道徳に対する貴族道徳としての、あの特殊な自制や、克己や、悲壮に生きることや、太陽の温熱を分つが如く施与することの美徳をさへ主張してゐる点からすれば少くともその限りに於て彼の所謂「大いなる生の肯定」へ、何等かの制限を加へてゐると、見られないこともないであらう。  然もこれに対して仏教は、所謂生を否定するに際しても、唯素樸に単純に否定してゐるのではなく、先づ否定し次に否定したのを再び否定し、また次に再び否定したものを三度目に否定し、かくして無限の否定を重ねて行き乍ら否定するのである。されば、斯うした方法に於ける否定は或る意味に於て、一種の肯定であるとも言へなくはない。勿論、それは単純素樸な肯定にはなり得ないけれども否定を否定することに依つての肯定を、無限に持続して行くものだと見れば、茲に仏教特有の不可思議な、甚だ手の込んだ生の肯定が自らにして否定の深淵の底から、水沫の如く浮き上つて来るやうにも思へるではないか。  そして斯の如く見て来れば、大乗仏教に於ける私の所謂、否定的肯定若しくは肯定的否定の態度は、その表現の外観如何に関係無く唯本質と本質との比較から見た場合、彼のニイチエ等の所謂「大いなる生の肯定」と、余りに違つたものでないのみならず、むしろ可なりに相近いものを有つてゐるやうにさへ思はれて来るではないか。  改めて言ふ迄も無く、所謂大乗的な仏教も、釈尊入滅後数世紀乃至十数世紀の間に釈尊の郷土であるところの印度に於て、次々に現はれてゐる。そして、其れ等のものはこれが印度に出現したと略同じ順序に於て余り間を置かずして、また次々に支那へは入つて来てゐる。  併し乍ら、印度及び支那に於ける此等の大乗仏教は忌憚なく言へば、単に宗教学的な秀抜な天分を有つた学者等の経、論、釈等として単なる理論学説として、謂はゞ単なる哲学としてのみ存在してゐたに過ぎない観がある。  そしてそれ等の単なる哲学が再び哲学以上のものとなり、所謂思想に於ても生活に於ても、仏陀の真精神を我々に頒ち与へるものとして現はれ来つたのは、これが我が日本へ渡来してから後のこと、より詳しくは大凡そ鎌倉期に入つて、道元、明恵、法然、親鸞、日蓮の如き他の民族の歴史にあつては、千年二千年の間に唯一人の出現を期待することすら容易でない程の、夫々に全く釈尊其人の御再来かとも思はれる程の、あの崇高偉大な宗教的人格が相次いで降臨されるに至つてから後のことでなければならぬ。  ところで、斯の如く大乗的仏教が我が日本へ渡つて来てからそれは単に哲学から宗教にまで自らを広くし、且高くした丈けではない。かの思想の単なる哲学から宗教になつたことの変化は同時にそれが宗教と芸術とを通じて普く我々日本人の生活の全局面へ、日本文化の全般にまで浸潤して来たところの大いなる推移其物であつた。  序乍ら大凡そ日本人の独創性と天才性とは、所謂理論を、学説を、思想を新しく発明し工夫し出すところにあるよりも、むしろ単なる理論や学説や思想に過ぎない所のものを、生活其物の、文化其物の真生命にまで霊化して来るところにあるのである。  所謂思想は、それが単なる思想である限り単なる抽象的概念に過ぎない。我々日本人が概念の代りに事物其物を、少くとも象徴化されたものを産むといふのに誇張があるとするならば、少くとも他の民族等が単なる概念としてのみ育ち得てゐたところのものを、我々日本人が象徴化して具体化して、生活其物にまで変へて見せることが出来ると言はう。  ともあれ、東洋的な、種々の所謂思想丈けならば、既に実際に証拠立てられてゐる如く、稍優秀な頭脳を有つた丈けの欧羅巴人の誰彼によつてゞも、容易く理解され、そしてもてはやされることすらも出来るであらう。けれ共、日本人の生活に具体化されてゐるところの、象徴化されてゐるところの、また然うしてこの他何処にも存在し得ないところの東洋的なものが、我がフリイドリツヒ・ニイチエの如き欧羅巴人に依つてのみ、本当に理解され、そして熱愛され得たことの偶然ならぬことを思ふとき、彼に対する私共の謝恩の情と、好知己の感とは、改めてまた彼にまでずつとより近く、私共を引きつけられるやうに思ふことを禁じ得ないのである。
底本:「近代浪漫派文庫 14 登張竹風 生田長江」新学社    2006(平成18)年3月12日初版発行 入力:田中敬三 校正:門田裕志 2009年11月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総ての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥けた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅をのみ纏ふて今、彼一人の爽かな径を行つてゐる。  他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固より許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。  彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。  今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。  嗚呼、この心憎き、羨望すべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。 『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。 一九二三年一月十四日 生田長江 月をわび身を佗びつたなきをわびてわぶとこたへんとすれど問ふ人もなし。 芭蕉翁尺牘より
底本:「現代日本文學大系 42 佐藤春夫集」筑摩書房    1969(昭和44)年6月25日初版第1刷発行    2000(平成12)年1月30日初版第14刷発行 初出:「我が一九二二年」新潮社    1923(大正12)年2月18日 入力:阿部哲也 校正:noriko saito 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 ○「大山にや、雪が降つたかしらん、お宮の銀杏の葉がフラフラふる頃になあと大山にや雪がおりるけんなア」△「シェンセイは久古言葉をようおぼえちよんなはあますなア」○「ようおぼえちようわい、大山の麓ほどええとかアないけん。ところでお前パーマをかけたなア、嫁さんに貰ひてががいにああちゆうけんなア、えしこやれよ」△「嫁さんにやいきましェん」○「うそつけ、嫁さんに行きたうて行きたうてどげんならんちゆうて顔に書いたる。子供が三人出来たらやつて来いよ。わすも元気でまつちようけんなア」△「嫁さんのこたアこらへてつかアさい」○「はづかすがつちようなア、いんだら手紙ごしないよ」  鳥取県西部の出雲方言混入、小生三十年ばかり郷里に帰らず、去年中学卒業の某女見習に上京す、このたび帰国するに当りての会話。久古は部落名。  ○「大山には、雪が降つたらうか、神社の銀杏の葉がヒラヒラ散る頃になると大山には雪が下の方まで降つて来るからね」△「先生は久古の言葉をよく覚えてをられますね」○「よく覚えてゐるとも、大山の麓ほどよい所はないからね。ところで君パーマネントをかけたね、嫁さんに貰ひ手がたくさんあるといふ噂だからね、うまい具合にやれよ」△「私は結婚しません」○「うそをつきなさんな。結婚したくてたまらんと顔に書いてあるぢやないか。子供が三人出来たら東京にやつて来なさい。わたしも元気で待つてゐるからね」△「ひやかすことは許して下さい」○「恥かしがつてるね。国に帰つたら手紙をくれるんだぞ」  わたくしは鳥取県の一寒村三方山に囲まれた所で大きくなつた。尋常五年の時に大山の麓に帰つて来た。それからまた中等教育を受けるために鳥取市に出向いたので、比較的お国なまりといふものから解放される生ひ立ちをもつた。しかし、郷に入つては郷にしたがへといふので、三十年後の今日郷土人と話をする時には無論、国語教育をやつてゐるくせに方言がなつかしくてたまらない。田舎の友達がいいおぢいちやんになつたり、いいお婆ちやんになつたりして、東京に来て、方言そのままに話をするのは実に気持がいいものだ。電車の中でもバスの中でも、かうした善意の人達、は遠慮会釈もなくしやべりちらす、降りる時には、「ヘエ皆さんさやうなら」と挨拶をして降りる。実意に満ちた人達だ。  前掲お国言葉の実例の中に出て来る「つかアさい」について、古典学究の理窟を一こと述べさせていただかう。「つかはす」といふのは遣すであつて、その言葉自身に敬意がこもつてゐる。強ひていふなら遣したまふといふ意味だ。「下す」も、「仰す」も同様だ。源氏物語などには、天皇の行為についても「遣す」「下す」「仰す」で処理してゐる。鎌倉時代になつてこれ等の言葉の下に「給ふ」といふ敬語がつくやうになる。元来「遣す」と「下す」とは最高の権威者が下に向つてはたらきかける行為で、「給ふ」などといふ敬語を必要としないものだ。それが社会の秩序の混乱とともに命令系統がいくつも現はれるやうになり、「給ふ」といふ敬語の動詞を必要とするに至つたのだ。面白いことにこの動詞は、命令形として生きのこり、「遣はさい」「下さい」といふ風につかはれる。地方によつては「くらッせエ」「つかンせエ」「つかアさんせ」「ごつさんせ」など転訛する事があるがみな古典語の変形である。「ごせ」といふ言葉の変化の系列はどうも確かでないが、「下さい」と目下の者に要求する意味である。中国地方の山間部にはたくさんの古語が残つてゐる。今のうちに蒐集整理しておかないと亡びてしまふ。近頃ラヂオが発達して標準語の勢力を広めてゐるので、なかなかこの仕事は大変な仕事になるだらう。国語政策の方面からいふと方言は撲滅した方がいいらしいが、長い歳月にわたつて素朴な土の香りと暖かい人間の真心によつて育てられた方言は、さう簡単に捨て去られるものではない。  わたくしが少年時代に、或る村のKさんが入営した、そのKさんが二ヶ年の服務を終へて村の村長さん、助役さんその外多くの人達に迎へられて帰郷した。わたくしも小学校の生徒の身で迎へに行つた。Kさんは出て行つた時と同じで星一つの二等兵で帰つて来た。K二等兵殿は、意気揚々たるものであつた。折から、田圃のほとりの道を牛が通つた。牛もK二等兵殿を歓迎するやうに、モーとないた。するとKさんはエヘンとせき払ひしながら、「村長殿、あのモーとなくムシはなんちゆふムシでありますか」とやつた。みんな一度にどつと笑つた。牛もまたそれに和してモーとないた。村長さんは頭をかいて、「いやどうも……」と苦笑した。二ヶ年で牛とムシを間違へるこの二等兵殿は二年かかつても、やはり星一つの仲間だつたんだな、と幼な心にも大いに感じた。古里の言葉は忘れないでゐたいものである。
底本:「大きな活字で読みやすい本 新編・日本随筆紀行 心にふるさとがある7 歌の調べ 方言の響き」作品社    1998(平成10)年4月25日第1刷発行 底本の親本:「日本随筆紀行第一四巻 福井|鳥取|島根 山影につどふ神々」作品社    1989(平成元)年3月31日第1刷発行 入力:岩下恵介 校正:noriko saito 2017年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 余が化学を修め始めたるは明治十三年余が十七歳の時にして、主としてロスコー、ファウン=ミルラー、ミューアなどの英書に就きて斯学の初歩を講じたるものなるが、多くもあらぬ小遣銭は尽く薬品器具の購入に費し、家人の迷惑をも顧みず酸類にて衣服や畳に孔を穿ち又硫化水素などを弄びて実験を行ふを唯一の楽とせり。余は当時大阪衛生試験所長兼造幣局技師たりし村橋次郎先生に就きて毎週一回講学上の疑を質し実験上にも指導を蒙りたること少からず。余は其の頃殆ど純正化学と応用化学との別を弁へず化学上の事柄は其の理論的たると応用的たるとに論なく均しき興味を以て之を学びたり。明治十五年大学予備門に入るに及び大学の学風に薫化せられて眼界の頓に開展するを覚え知識的興味は多様となりたるも化学に対する執着は変ることなく寄宿舎に於ても試験管を弄するを止めざりき。進て大学理学部に入るに及んで桜井教授の薫陶を受け理論化学を専攻することとなりたるも応用化学に対する興味は依然として之を持続せり。されば余が大学に於て物理化学を講ずるに当りて相律、反応速度論、化学平衡等に於て実例を挙ぐる場合には諸種の製造法即ち応用化学的工程を説示するに勉めたり。  今日に於てこそ純正化学と其の応用との関係は稍々世人に理解せらるるに至りたれども二十年三十年前に在ては純正化学は数学、星学などと同じく工業とは頗る縁遠きものと一般に認められ居たり。此の事実は純正化学を修めたる大学卒業者の就職と密接の関係を有し当時の卒業者は大学、高等工業学校、高等学校等の教職を除きては殆んど就職の途なき有様を呈せり。唯当時卒業者の数少く而して新設せらるゝ学校の数多かりしを以て現今の如く就職難を訴ふることなかりしと雖も其の前途に於ける活動分野の狭隘なりしことは余が常に憂慮したる所にして余は機会あらば自から応用方面に於て成績を挙げ純正化学者が工業上より見て無用の長物に非ざることを例示せんと窃に企図し居たり。  明治四十年五二会の競進会より余が妻は一束の好良なる昆布を求め来れり。余之を見て思へらく眼を悦ばす美麗なる色素や嗅覚を楽ましむる馥郁たる香料は化学工業によりて数多く製造されつゝあれども味覚に訴ふる製品はサッカリンの如き恠し気なる甘味料を除きては殆んど稀なり、昆布の主要呈味成分の研究は或は此の欠点を補ふ一助たるべきなりと。即ち其の昆布を携へて実験室に至り浸出液を造り粘質物を除き無機塩類及びマンニットを結晶せしめて除去したるに呈味物質は依然として残液中に存し、種々之を分離せんと試みたるも其の目的を達せず、当時他の研究に多忙の際なりしかば此の専門外の実験は一時之を中止することとせり。  翌四十一年に至り東洋学芸雑誌上に於て三宅秀博士の論文を読みたるに佳味が食物の消化を促進することを説けるに逢へり。余も亦元来我国民の栄養不良なるを憂慮せる一人にして如何にして之を矯救すべきかに就て思を致したること久しかりしが終に良案を得ざりしに此の文を読むに及んで佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむることも亦此の目的を達する一方案なるに想到し、前年来中止せる研究を再び開始する決意を為せり。  貧は諸道の妨なりといふ俚諺は若冠の頃より係累多く絶えず窮鬼と戦ひつゝありし余の痛切に体験したる所にして、此の窮境を脱せんとの願望も亦余をして応用方面に転向せしめたる一の潜在動機たりしことを否む能はず。昆布の主要呈味成分の研究は案外容易に成功せり、前に記したる残液(約十貫目の最良昆布より製したるもの)に鉛塩を加へて生ずる沈澱よりグルタミン酸約三十瓦を製し得たることによりて問題は解決せられ、其の余は単に最も有利なる製造の諸条件及び使用上最も便利なる製品を決定するに止まり、学術上より見れば余の発明は頗る簡単なる事柄なりしなり。 「味の素」が広く世に行はれ幾分にても国民栄養の上に貢献する所ありとせば其は主として製造者たる鈴木氏の宣伝の功に帰せざるべからず、余は唯当初の目的の過半達成せられたるを欣ぶものなり。
底本:「池田菊苗博士追憶録」池田菊苗博士追憶会    1956(昭和31)年10月1日発行 初出:「人生化学」龜高徳平著、丁未出版社    1933(昭和8)年3月発行 ※底本ではこの作品の末尾に、「(本編は故理学博士龜高徳平著「人生化学」(昭和八年三月発行)の中から再録したものである)」との一節が添えられています。 入力:小林 徹・聡美 校正:富田倫生 2004年10月16日作成 2009年1月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043623", "作品名": "「味の素」発明の動機", "作品名読み": "あじのもとはつめいのどうき", "ソート用読み": "あしのもとはつめいのとうき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「人生化学」龜高徳平著、丁未出版社、1933(昭和8)年3月", "分類番号": "NDC 588", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-11-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001160/card43623.html", "人物ID": "001160", "姓": "池田", "名": "菊苗", "姓読み": "いけだ", "名読み": "きくなえ", "姓読みソート用": "いけた", "名読みソート用": "きくなえ", "姓ローマ字": "Ikeda", "名ローマ字": "Kikunae", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1864", "没年月日": "1936-05-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "池田菊苗博士追憶録", "底本出版社名1": "池田菊苗博士追憶会", "底本初版発行年1": "1956(昭和31)年10月1日", "入力に使用した版1": "1956(昭和31)年10月1日", "校正に使用した版1": " 1956(昭和31)年10月1日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林徹、小林聡美", "校正者": "富田倫生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001160/files/43623_txt_16740.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-01-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001160/files/43623_16769.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-01-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 よっぽど古いお話なんで御座いますよ。私の祖父の子供の時分に居りました、「三」という猫なんで御座います。三毛だったんで御座いますって。  何でも、あの、その祖父の話に、おばあさんがお嫁に来る時に――祖父のお母さんなんで御座いましょうねえ――泉州堺から連れて来た猫なんで御座いますって。  随分永く――家に十八年も居たんで御座いますよ。大きくなっておりましたそうです。もう、耳なんか、厚ぼったく、五分ぐらいになっていたそうで御座いますよ。もう年を老ってしまっておりましたから、まるで御隠居様のようになっていたんで御座いましょうね。  冬、炬燵の上にまあるくなって、寐ていたんで御座いますって。  そして、伸をしまして、にゅっと高くなって、 「ああしんど」と言ったんだそうで御座いますよ。  屹度、曾祖母さんは、炬燵へ煖って、眼鏡を懸けて、本でも見ていたんで御座いましょうね。  で、吃驚致しまして、この猫は屹度化けると思ったんです。それから、捨てようと思いましたけれども、幾ら捨てても帰って来るんで御座いますって。でも大人しくて、何にも悪い事はあるんじゃありませんけれども、私の祖父は、「口を利くから、怖くって怖くって、仕方がなかった。」って言っておりましたよ。  祖父は私共の知っておりました時分でも、猫は大嫌いなんで御座います。私共が所好で飼っておりましても、 「猫は化けるからな」と言ってるんで御座います。  で、祖父は、猫をあんまり可愛がっちゃ、可けない可けないって言っておりましたけれど、その後の猫は化けるまで居た事は御座いません。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房    2007(平成19)年7月10日第1刷発行 底本の親本:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂    1911(明治44)年12月 初出:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂    1911(明治44)年12月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2008年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 私の祖父は釣が所好でして、よく、王子の扇屋の主人や、千住の女郎屋の主人なぞと一緒に釣に行きました。  これもその女郎屋の主人と、夜釣に行った時の事で御座います。  川がありまして、土堤が二三ヶ所、処々崩れているんだそうで御座います。  其処へこう陣取りまして、五六間離れた処に、その女郎屋の主人が居る。矢張り同じように釣棹を沢山やって、角行燈をつけてたそうです。  祖父が釣をしていると、川の音がガバガバとしたんです。  それから、何だろうかと思っていると、旋てその女郎屋の主人が、釣棹を悉皆纏めて、祖父の背後へやって来たそうです。それで、「もう早く帰ろう。」というんだそうです。 「今漸く釣れて来たものを、これから? 帰るのは惜しいじゃないか。」と言ったが、何でも帰ろうというものですから、自分も一緒に帰って来たそうです。  途中で、「何うしたんだ。」と言ったが、何うしても話さなかったそうです。その内千住の通りへ出ました。千住の通りへ出て来てから、急に明るくなったものですから、始めてその主人が話したそうです。  つまり「釣をしていると、水底から、ずっと深く、朧ろに三尺ほどの大きさで、顔が見えて、馬のような顔でもあり、女のような顔でもあった。」と云うのです。  それから、気味が悪いなと思いながら、依然釣をしていると、それが、一度消えてなくなってしまって、今度は判然と水の上へ現われたそうです。  それが、その妙な口を開いて笑ったそうです。余程気味が悪かったそうです。  それから、この釣棹を寄せて、一緒にして、その水の中をガバガバと掻き廻したんだそうです。  その音がつまり、私の祖父の耳に聞えたんです。それから、その女郎屋の主人は、祖父の処へ迎いに来たんです。  楼へ帰ってからその主人は、三月ほど病いました。病ったなり死んでしまいました。  夜釣に行くくらいだからそう憶病者ではなかったのです。水の中も掻き廻わしたくらいなのですけれど、千住へ来るまでは怖くって口も利けなかったと言ってたそうです。  それから私の祖父も釣を止しました。大変好きだったのですが止してしまいました。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房    2007(平成19)年7月10日第1刷発行 底本の親本:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂    1911(明治44)年12月 初出:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂    1911(明治44)年12月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2008年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 ❶農林省案と政調会案とはどちらが妥当か。  正しいとかどうかという問題じやない。政調会長として…そんなこと質問にならんですよ。  ❷農産物の二重価格制を採用すべきかどうか。  二重価格とはどんなことなのですか。改進党が主張してるつて?改進党がどういつてるか僕は分らん。こういう問題、一概にはいえませんよ。  ❸農相の任免をめぐつて首相の側近人事という風評があるが……  知りません。総理大臣が任命されるんだから、長老とか役員とか相談してやつてるだろう。僕は当時三役でなかつたから知らない。  ❹内田氏と保利氏とどちらが適任か。  両方とも適任、立派な人です。総理大臣が任命されることだから。  ❺大政調会制度で閣僚がロボット化し、各省の責任の所在が稀薄にはならないか。  自由党の内閣だから両者のちがいはないはず。できるだけ党の公約を内閣へ申出るが、内閣を拘束するものではない。内閣と党とが調整していく。政調会には練達の士や、専門家がいて熱心にやつている。官僚ハダシですよ。  ❻もつと麦を食べろという議論をどう思うか。  僕は自分で実行している、サアどのくらい混ぜてるかナ? ただ小麦を輸入する場合は、小麦が食えるようなタンパク、脂肪がないといけない。その問題で、経団連の意見はそのまま実行できぬという政調会副会長の意見だつた。
底本:「週刊朝日 7月12日号 第58卷第29号」朝日新聞社    1953(昭和28)年7月12日発行 ※この文章は、「農相のイス アンケート」への回答です。 ※太字による設問は、底本編集部によるものです。 ※底本掲載時の著者名は「自由党政調会長 池田勇人氏」です。 入力:かな とよみ 校正:持田和踏 2022年11月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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1  嘉吉は山の温泉宿の主人だった。この土地では一番の物持で、山や畑の広い地所を持っていた。山には孟宗の竹林が茂り、きのこ畑にきのこが沢山とれた。季節になると筍や竹材を積んだトラックが、街道に砂埃をあげ乍ら、七里の道を三島の町へ通って行った。  嘉吉はまだ三十をちょっと越したばかりの若い男だった。親父が死んだので、東京の或る私立大学を止めて、この村へ帰って来た。  別段にする事もなく、老人を集めては、一日、碁を打っていた。余っ程閑暇の時は、東京で病みついたトルストイの本を読んでいた。それから時々は、ぶらぶらと、近くにある世古の滝の霊場に浸かり旁々山や畠を見まわった。  嘉吉は人が好くて、大まかで、いつもにこにことしていた。小作人が、時折、畠の山葵をとって、沼津あたりからやって来る行商人に、そっと売ったりしても、めったに怒ったりすることはなかった。だから、しまりやの先代よりはずっと下の気受けがよく、雇人達は皆んなよく働いた。その度に何かと賞めてやるので、皆んなどうかして、この主人に対して忠僕となろうと心掛けていた。  ただ、久助だけは、ちっとばかり、度が過ぎやしめえか、と心配していた。久助はもう五十に手がとどく、先代からの雇人だった。 2  先代の在世中には殆んど縁切り同様だった先代の弟、今の嘉吉には叔父に当る男が、この頃はちょくちょくと、沼津から顔を出した。その度に久助は苦い顔をした。  その男は、来るときまって、嘉吉さんや、と甘ったるい声を出しては、幾ばくの金を借りて行った。今度沼津へ草競馬を始めようかと思ってな、そりゃお前、ど偉い儲けだ。それでその少しばかり、運動の資金が要るんじゃが、どうだろう、え? と云われると、嘉吉はいつものように人の好い顔を崩して、そりゃ良さそうですな。そして三島の銀行の小切手を書いてやるのだった。  叔父は沼津の芸者を落籍いて、又三月程経った、乗合に乗ってぽかぽかと、この山の宿へやって来た。  ブリキの鑵へ印刷する工場を作りたいのじゃがどうだろう、え? 嘉吉さん、……  主人と沼津の男の会話が、開け放たれた二階の窓から洩れて来る。と、久助は忌々しそうに舌打ちをしては、釣竿をかついで川へ出た。  この土地は低い山の懐に抱かれていた。その底を、石の多い谷の河原に、綺麗な水が瀬をなして流れていた。久助は片手にひっかけ鉤をつけた釣竿を持ち、片手に覗眼鏡を動かしては、急湍をすかせながら腰まで浸かして川を渉った。こうやって釣った鮎は毎日の客の膳に上るのだった。  久助は先代の時から、毎日この鮎だけを釣るのが仕事だった。この村で鮎を釣るのは一番だと云われていた。多い日には二十本もあげた。  久助は今、岩に腰をかけて、煙管でぷかぷかと一服休んでいる。紫色の煙が澄み切った秋の空気の中を静かに上っている。赤蜻蛉がすいすいと飛んでいる。  向う岸の竹藪に夕陽がわびしくさしているのを眺めながら、久助はぼんやりと考えていた。  あんなお人好しで、人を信じる事だけしか知らない若主人じゃ、今にあの竹藪もなあ、と深い溜息を吐いた。  その時、丁度頭の上で、ガタガタと音がした。久助はびっくりして空を見あげた。  川べりに生えた栗の大木の梢に、釣橋がガタガタと揺れている。青白い女の顔が、山と山で細長く区切られた夕暮の空の中で、晴れやかに笑っている。  久助は煙管をぽんと岩角にぶっつけて、おしまかと云った。  釣橋のたもとに一軒家があった。土地の曖昧宿で、久助は給金を皆んなそこで飲んでしまった。おしまはそこのお酌だった。久助は惚れていたが、おしまは何とも思っていなかった。  久助さんにゃ、鮎は釣れてもおしまは釣れめえ、と朋輩がからかった。久助は怒って、三日も口をきかなかった。  久助はどうしても今晩おしまに会い度いと思ったが、まだ給金を貰っていなかった。水を入れた木箱の中の鮎を数えると、彼は立上った。そして岩を飛び飛び、憂鬱な顔をして宿へ帰って来た。  開け放たれた二階の窓からは、ブリキの鑵へ印刷する工場の話がまだ続いていた。大分お酒がまわっているらしく、陽気な男の笑い声が聞えていた。久助はグビグビと咽喉を鳴らした。  流れを引いたいけすに鮎を放つと、板場の註文だけに網にいれて台所へ渡し、自分の部屋に帰って着物を着更え、冷えた身体をお湯に浸かした。釣橋の上から笑ったおしまの身体が、そこの湯気の中から白く浮んで彼を招いた。  ぼんやりと部屋に帰った久助はぼんやりと朋輩の行李を開けていた。そして、その底に入れてあった蟇口の中から、五円の札を一枚抜きとると、そのままぼんやりと夜道を歩いて行った。  夜中。――ぐでんぐでんに酔払って帰って来た久助は、宿の裏口で、いきなり朋輩の男に殴られた。何をするんでえ、と云うと又殴られた。そこへ主人が起きて来て朋輩の男を宥めた。その男は五円の札を主人から貰って、ぶつぶつ云いながら、寝て了った。久助も身体を曲げて、隅の方に酔い寝して了った。 3  翌朝、ケロリとした顔をして、久助は主人の前へ呼び出された。  主人は、人間の性が如何に善であるかを、諄々として説いてやった。皆んな一時の出来心で悪い事をするのだ、お前だってそうだろう、と云った。  その通りです、と久助がぴょこんと頭を下げた。眼の中に一杯涙を溜めていた。  そうだろう、そうだろう、私しゃお前を信じている。お前は私の信頼を決して裏切るような男じゃない。その証拠をお前はきっと見せてくれるだろう。――そして主人は日頃読んでいる、トルストイの「ポリクシュカ」と云う小説を思い出した。  彼は立上って、やがて帳場の金庫から財布を持って出て来た。中から十円札を三十枚数えると、それを久助に渡して、云った。それじゃわしは、お前に今日、大切な用件を頼むよ。昼から、孟宗の荷を三島へ出すから、お前が従いて行って、いつもの丸久へ売り渡し、その代金と、それからこの三百円を一緒に、三島の銀行へ預けて来ておくれ。良いかい?  主人は出来るだけ優しい言葉を使った。そうやって久助の良心の中に、しっかり監視をつけてやった。  久助は涙をぽろぽろと流し乍ら、かしこまりましたと云った。主人は、これで良い、と思った。これでこの男も真人間になれる。 4  竹材を一杯積んだトラックが、川に沿った街道をガタガタと走って行った。  代金を受取った久助は、丸久の店を出るとそのまま、銀行の前をさっさっと通り越して、真直ぐに駅の方へ歩いて行った。彼はそこで東京行の切符を買った。  箱根の山が、車窓の外でグルグル廻っていた。  俺が無事に今日の役目を果して帰れば、あの若主人の信念はますます固くなるばかりだ。これであの人も、人を信ずる事の愚かさを知る事が出来ただろう。そう思えばこんな三四百の金なんか安いもんだ。これであの竹林も、山葵畠も、皆んな無事に済むのだから。  そして久助は、出がけに彼の眼瞼を熱くした、あの不覚の涙に溺れなかった為に、今こうやって自分が、朋輩の誰よりかも、一番忠僕になれた事を考えて、鮎ずしを頬張りながら、思わずひとりで微笑んだ。
底本:「日本掌編小説秀作選 下 花・暦篇」光文社文庫、光文社    1987(昭和62)年12月20日初版1刷発行 入力:sogo 校正:noriko saito 2015年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     1  人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活の流れの上に溶けていた。  黄昏が街の灯火に光りを添えながら、露路の末まで浸みて行った。  雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のように瞬いていた。  果物屋の店の中は一面に曇った硝子の壁にとり囲まれ、彼が毛糸の襟巻の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとったら、ひょっこり靄の中から蜜柑とポンカンが現われた。女の笑顔が蜜柑の後ろで拗ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつんとして、ナプキンの紙で拵えた人形に燐寸の火をつけていた。人形は燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子の上に散らかっていた。 ――遅かった。 ――…… ――どうかしたの? ――…… ――クリイムがついていますよ、口の廻りに。 ――そう? ――僕は窓を見ていると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗しい象徴だと思うのです。 ――そう? ――今も人のうようよと吐きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴です自動車の頭灯です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢く、ちょうど海の底の魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消えているのです。建物の輪廓が靄の中に溶けこんで、まるで空との境が解らないのです。すると、ぽつんと思いがけない高い所に、たった一つ、灯がはいっているのです。あすこの事務室で、きっと残務をとっている人々なのでしょう。僕は、…… ――まあ、お饒舌りね、あんたは。どうかしてるんじゃない、今日? ――どうしてです。 ――だって、だって眼にいっぱい涙をためて。 ――霧ですよ。霧が睫毛にたまったのです。 ――あなたは、もう私と会ってくださらないおつもりなの? ――だって君は、どうしても、橋の向うへ僕を連れていってくれないんですもの。だから、……  女はきゅうに黙ってしまった。彼女の顔に青いメランコリヤが、湖の面を走る雲の影のように動いて行った。しばらくして、 ――いらっしてもいいのよ。だけど、……いらっしゃらない方がいいわ。  町の外れに橋があった。橋の向うはいつでも霧がかかっていた。女はその橋の袂へ来ると、きまって、さよなら、と言った。そうして振り返りもせずに、さっさと橋を渡って帰って行った。彼はぼんやりと橋の袂の街灯に凭りかかって、靄の中に消えて行く女の後姿を見送っている。女が口吟んで行く「マズルカ」の曲に耳を傾けている。それからくるりと踵を返して、あの曲りくねった露路の中を野犬のようにしょんぼりと帰ってくるのだった。  炭火のない暗い小部屋の中で、シャツをひっぱりながら、あの橋の向うの彼女を知ることが、最近の彼の憧憬になっていた。だけど、女が来いと言わないのに、彼がひとりで橋を渡って行くことは、彼にとって、負けた気がしてできなかった。女はいつも定った時間に、蜜柑の後ろで彼を待っていた。女はシイカと言っていた。それ以外の名も、またどう書くのかさえも、彼は知らなかった。どうして彼女と識り合ったのかさえ、もう彼には実感がなかった。      2  夜が都会を包んでいた。新聞社の屋上庭園には、夜風が葬式のように吹いていた。一つの黒い人影が、ぼんやりと欄干から下の街を見下していた。大通りに沿って、二条に続いた街灯の連りが、限りなく真直ぐに走って、自動車の頭灯が、魚の動きにつれて光る、夜の海の夜光虫のように交錯していた。  階下の工場で、一分間に数千枚の新聞紙を刷りだす、アルバート会社製の高速度輪転機が、附近二十余軒の住民を、不眠性神経衰弱に陥れながら、轟々と廻転をし続けていた。  油と紙と汗の臭いが、新大臣のお孫さんの笑顔だとか、花嫁の悲しげな眼差し、あるいはイブセン、蒋介石、心中、保険魔、寺尾文子、荒木又右衛門、モラトリアム、……等といっしょに、荒縄でくくられ、トラックに積みこまれて、この大都会を地方へつなぐいくつかの停車場へ向けて送りだされていた。だから彼が、まるで黒いゴム風船のように、飄然とこの屋上庭園に上ってきたとて、誰も咎める人などありはしない。彼はシイカの事を考えていた。モーニングを着たらきっとあなたはよくお似合になるわよ、と言ったシイカの笑顔を。  彼はそっとポケットから、クララ・ボウのプロマイドを取りだして眺めた。屋上に高く聳えた塔の廻りを、さっきから廻転している探海灯が、長い光りの尾の先で、都会の空を撫でながら一閃するたびに、クララ・ボウの顔がさっと明るく微笑んだが、暗くなるとまた、むっつりと暗闇の中で物を想いだした。彼女にはそういうところがあった。シイカには。  彼女はいつも、会えば陽気にはしゃいでいるのだったが、マズルカを口吟みながら、橋の向うへ消えて行く彼女の後姿は、――会っていない時の、彼の想い出の中に活きている彼女は、シイカは、墓場へ向う路のように淋しく憂鬱だった。  カリフォルニヤの明るい空の下で、溌溂と動いている少女の姿が、世界じゅうの無数のスクリンの上で、果物と太陽の香りを発散した。東洋人独特の淑やかさはあり、それに髪は断ってはいなかったが、シイカの面影にはどこかそのクララに似たところがあった。とりわけ彼女が、忘れものよ、と言って、心持首を傾げながら、彼の唇を求める時。シイカはどうしても写真をくれないので、――彼女は、人間が過去というものの中に存在していたという、たしかな証拠を残しておくことを、なぜかひどく嫌やがった。彼女はそれほど、瞬間の今の自分以外の存在を考えることを恐れていた。――だから、しかたなく彼はそのアメリカの女優のプロマイドを買ってきて、鼻のところを薄墨で少し低く直したのであった。  彼がシイカといつものように果物屋の店で話をしていた時、Sunkist という字が話題に上った。彼はきっと、それは太陽に接吻されたという意味だと主張した。カリフォルニヤはいつも明るい空の下に、果物がいっぱい実っている。あすこに君によく似たクララが、元気に、男の心の中に咲いた春の花片を散らしている。――貞操を置き忘れたカメレオンのように、陽気で憂鬱で、……  すると、シイカがきゅうに、ちょうど食べていたネーブルを指さして、どうしてこれネーブルって言うか知ってて? と訊いた。それは伊太利のナポリで、……と彼が言いかけると、いいえ違ってよ。これは英語の navel、お臍って字から訛ってきたのよ。ほら、ここんとこが、お臍のようでしょう。英語の先生がそう言ったわよ、とシイカが笑った。アリストテレスが言ったじゃないの、万物は臍を有す、って。そして彼女の真紅な着物の薊の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺れて揺れて、……こんなことを想いだしていたとてしかたがなかった。彼は何をしにこんな夜更、新聞社の屋上に上ってきたのだったか。  彼はプロマイドを蔵うと、そっと歩きだした。鳩の家の扉を開けると、いきなり一羽の伝書鳩を捕えて、マントの下にかくした。      3  デパアトメントストオアには、あらゆる生活の断面が、ちょうど束になった葱の切口のように眼に沁みた。  十本では指の足りない貴婦人が、二人の令嬢の指を借りて、ありったけの所有のダイヤを光らせていた。若い会社員は妻の購買意識を散漫にするために、いろいろと食物の話を持ちだしていた。母親は、まるでお聟さんでも選ぶように、あちらこちらから娘の嫌やだと言う半襟ばかり選りだしていた。娘はじつをいうと、自分にひどく気に入ったのがあるのだが、母親に叱られそうなので、顔を赤くして困っていた。孫に好かれたい一心で、玩具の喇叭を万引しているお爺さんがいた。若いタイピストは眼鏡を買っていた。これでもう、接吻をしない時でも男の顔がはっきり見えると喜びながら。告示板を利用して女優が自分の名前を宣伝していた。妹が見合をするのに、もうお嫁に行った姉さんの方が、よけい胸を躍らせていた。主義者がパラソルの色合いの錯覚を利用して、尾行の刑事を撒いていた。同性愛に陥った二人の女学生は、手をつなぎ合せながら、可憐しそうに、お揃いの肩掛を買っていた。エレベーターがちょうど定員になったので、若夫婦にとり残された母親が、ふいと自分の年を想いだして、きゅうに淋しそうに次のを待っていた。独身者が外套のハネを落す刷毛を買っていた。ラジオがこの人混みの中で、静かな小夜曲を奏していた。若い女中が奥さんの眼をかすめて、そっと高砂の式台の定価札をひっくり返してみた。屋上庭園では失恋者が猿にからかっていた。喫煙室では地所の売買が行われていた。待ち呆けを喰わされた男が、時計売場の前で、しきりと時間を気にしていたが、気の毒なことに、そこに飾られた無数の時計は、世界じゅうのあらゆる都市の時間を示していた。…………  三階の洋服売場の前へひょっこりと彼が現れた。 ――モーニングが欲しいんだが。 ――はあ、お誂えで? ――今晩ぜひ要るのだが。 ――それは、……  困った、といった顔つきで店員が彼の身長をメートル法に換算した。彼は背伸びをしたら、紐育の自由の女神が見えはすまいかというような感じだった。しばらく考えていた店員は、何か気がついたらしく、そうそう、と昔なら膝を打って、一着のモーニングをとりだしてきた。じつはこれはこの間やりました世界風俗展で、巴里の人形が着ていたのですが、と言った。  すっかり着こむと、彼は見違えるほどシャンとして、気持が、その粗い縞のズボンのように明るくなってしまった。階下にいる家内にちょっと見せてくる、と彼が言った。いかにも自然なその言いぶりや挙動で、店員は別に怪しみもしなかった。では、この御洋服は箱にお入れして、出口のお買上品引渡所へお廻しいたしておきますから、……  ところが、エレベーターはそのまま、すうっと一番下まで下りてしまった。無数の人に交って、ゆっくりと彼は街に吐きだされて行った。  もう灯の入った夕暮の街を歩きながら彼は考えた。俺は会社で一日八時間、この国の生産を人口で割っただけの仕事は充分すぎるほどしている。だから、この国の贅沢を人口で割っただけの事をしてもいいわけだ。電車の中の公衆道徳が、個人の実行によって完成されて行くように、俺のモーニングも、……それから、彼はぽかんとして、シイカがいつもハンケチを、左の手首のところに巻きつけていることを考えていた。  今日はホテルで会う約束だった。シイカが部屋をとっといてくれる約束だった。 ――蒸すわね、スチイムが。  そう言ってシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の灯火が溶けている街の風景を見下しながら、彼女がいつものマズルカを口吟んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のように、彼女の口を漏れてくると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだった。ことに橋を渡って行くあの別離の時に。 ――このマズルカには悲しい想い出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にしたことがあった。 ――黒鉛ダンスって知ってて?  いきなりシイカが振り向いた。 ――いいえ。 ――チアレストンよりもっと新らしいのよ。 ――僕はああいうダァティ・ダンスは嫌いです。 ――まあ、おかしい。ホホホホホ。  このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たった二人で向い合っている時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残してきていようなどとはどうして思えようか。彼女は春の芝生のように明るく笑い、マクラメ・レースの手提袋から、コンパクトをとりだして、ひととおり顔を直すと、いきなりポンと彼の鼻のところへ白粉をつけたりした。 ――私のお友だちにこんな女があるのよ。靴下止めのところに、いつも銀の小鈴を結えつけて、歩くたびにそれがカラカラと鳴るの。ああやっていつでも自分の存在をはっきりさせておきたいのね。女優さんなんて、皆んなそうかしら。 ――君に女優さんの友だちがあるんですか? ――そりゃあるわよ。 ――君は橋の向うで何をしてるの? ――そんなこと、訊かないって約束よ。 ――だって、…… ――私は親孝行をしてやろうかと思ってるの。 ――お母さんやお父さんといっしょにいるんですか? ――いいえ。 ――じゃ? ――どうだっていいじゃないの、そんなこと。 ――僕と結婚して欲しいんだが。  シイカは不意に黙ってしまった。やがてまた、マズルカがリラリラと、かすかに彼女の唇を漏れてきた。 ――だめですか? ――…… ――え? ――おかしいわ。おかしな方ね、あんたは。  そして彼女はいつものとおり、真紅な着物の薊の模様が、ふっくらとした胸のところで、激しい匂いを撒き散らしながら、揺れて揺れて、笑ったが、彼女の瞳からは、涙が勝手に溢れていた。  しばらくすると、シイカは想いだしたように、卓子の上の紙包みを解いた。その中から、美しい白耳義産の切子硝子の菓子鉢を取りだした。それを高く捧げてみた。電灯の光がその無数の断面に七色の虹を描きだして、彼女はうっとりと見入っていた。  彼女の一重瞼をこんなに気高いと思ったことはない。彼女の襟足をこんなに白いと感じたことはない。彼女の胸をこんなに柔かいと思ったことはない。  切子硝子がかすかな音を立てて、絨氈の敷物の上に砕け散った。大事そうに捧げていた彼女の両手がだらりと下った。彼女は二十年もそうしていた肩の凝りを感じた。何かしらほっとしたような気安い気持になって、いきなり男の胸に顔を埋めてしまった。  彼女の薬指にオニックスの指輪の跡が、赤く押されてしまった。新調のモーニングに白粉の粉がついてしまった。貞操の破片が絨氈の上でキラキラと光っていた。  卓上電話がけたたましく鳴った。 ――火事です。三階から火が出たのです。早く、早く、非常口へ!  廊下には、開けられた無数の部屋の中から、けたたましい電鈴の音。続いてちょうど泊り合せていた露西亜の歌劇団の女優連が、寝間着姿のしどけないなりで、青い瞳に憂鬱な恐怖を浮べ、まるでソドムの美姫のように、赤い電灯の点いた非常口へ殺到した。ソプラノの悲鳴が、不思議な斉唱を響かせて。……彼女たちは、この力強い効果的な和声が、チァイコフスキイのでもなく、またリムスキイ・コルサコフのでもなく、まったく自分たちの新らしいものであることに驚いた。部屋の戸口に、新婚の夫婦の靴が、互いにしっかりと寄り添うようにして、睦しげに取り残されていた。  ZIG・ZAGに急な角度で建物の壁に取りつけられた非常梯子を伝って、彼は夢中でシイカを抱いたまま走り下りた。シイカの裾が梯子の釘にひっかかって、ビリビリと裂けてしまった。見下した往来には、無数の人があちこちと、虫のように蠢いていた。裂かれた裾の下にはっきりと意識される彼女の肢の曲線を、溶けてしまうように固く腕に抱きしめながら、彼は夢中で人混みの中へ飛び下りた。 ――裾が裂けてしまったわ。私はもうあなたのものね。  橋の袂でシイカが言った。      4  暗闇の中で伝書鳩がけたたましい羽搏きをし続けた。  彼はじいっと眠られない夜を、シイカの事を考え明すのだった。彼はシイカとそれから二三人の男が交って、いっしょにポオカアをやった晩の事を考えていた。自分の手札をかくし、お互いに他人の手札に探りを入れるようなこの骨牌のゲームには、絶対に無表情な、仮面のような、平気で嘘をつける顔つきが必要だった。この特別の顔つきを Poker-face と言っていた。――シイカがこんな巧みなポオカア・フェスを作れるとは、彼は実際びっくりしてしまったのだった。  お互いに信じ合い、恋し合っている男女が、一遍このポオカアのゲームをしてみるがいい。忍びこんだメフィストの笑いのように、暗い疑惑の戦慄が、男の全身に沁みて行くであろうから。  あの仮面の下の彼女。何んと巧みな白々しい彼女のポオカア・フェス!――橋の向うの彼女を知ろうとする激しい欲望が、嵐のように彼を襲ってきたのは、あの晩からであった。もちろん彼女は大勝ちで、マクラメの手提袋の中へ無雑作に紙幣束をおし込むと、晴やかに微笑みながら、白い腕をなよなよと彼の首に捲きつけたのだったが、彼は石のように無言のまま、彼女と別れてきたのだった。橋の所まで送って行く気力もなく、川岸へ出る露路の角で別れてしまった。  シイカはちょっと振り返ると、訴えるような暗い眼差しを、ちらっと彼に投げかけたきり、くるりと向うを向いて、だらだらと下った露路の坂を、風に吹かれた秋の落葉のように下りて行った。……  彼はそっと起き上って蝋燭をつけた。真直ぐに立上っていく焔を凝視ているうちに、彼の眼の前に、大きな部屋が現れた。氷ったようなその部屋の中に、シイカと夫と彼らの子とが、何年も何年も口一つきかずに、おのおの憂鬱な眼差しを投げ合って坐っていた。――そうだ、ことによると彼女はもう結婚しているのではないかしら?  すると、今度は暗い露路に面した劇場の楽屋口が、その部屋の情景にかぶさってダブってきた。――そこをこっそり出てくるシイカの姿が現れた。ぐでんぐでんに酔払った紳士が、彼女を抱えるようにして自動車に乗せる。車はそのままいずれへともなく暗の中に消えて行く。……  彼の頭がだんだんいらだってきた。ちょうど仮装舞踏会のように、自分と踊っている女が、その無表情な仮面の下で、何を考えているのか。もしそっとその仮面を、いきなり外してみたならば、女の顔の上に、どんな淫蕩な多情が、章魚の肢のように揺れていることか。あるいはまた、どんな純情が、夢を見た赤子の唇のようにも無邪気に、蒼白く浮んでいることか。シイカが橋を渡るまでけっして外したことのない仮面が、仄の明りの中で、薄気味悪い無表情を示して、ほんのりと浮び上っていた。  彼は絶間ない幻聴に襲われた。幻聴の中では、彼の誠意を嗤うシイカの蝙蝠のような笑声を聞いた。かと思うと、何か悶々として彼に訴える、清らかな哀音を耳にした。  蝋涙が彼の心の影を浮べて、この部屋のたった一つの装飾の、銀製の蝋燭立てを伝って、音もなく流れて行った。彼の空想が唇のように乾いてしまったころ、嗚咽がかすかに彼の咽喉につまってきた。      5 ――私は、ただお金持ちの家に生れたというだけの事で、そりゃ不当な侮蔑を受けているのよ。私たちが生活の事を考えるのは、もっと貧しい人たちが贅沢の事を考えるのと同じように空想で、必然性がないことなのよ。それに、家名だとか、エチケットだとか、そういう無意義な重荷を打ち壊す、強い意志を育ててくれる、何らの機会も環境も、私たちには与えられていなかったの。私たちが、持て余した一日を退屈と戦いながら、刺繍の針を動かしていることが、どんな消極的な罪悪であるかということを、誰も教えてくれる人なんかありはしない。私たちは自分でさえ迷惑に思っている歪められた幸運のために、あらゆる他から同情を遮られているの。私、別に同情なんかされたくはないけど、ただ不当に憎まれたり、蔑まれたりしたくはないわ。 ――君の家はそんなにお金持なの? ――ええ、そりゃお金持なのよ。銀行が取付けになるたびに、お父さまの心臓はトラックに積まれた荷物のように飛び上るの。 ――ほう。 ――この間、いっしょに女学校を出たお友だちに会ったのよ。その方は学校を出るとすぐ、ある社会問題の雑誌にお入りになって、その方で活動してらっしゃるの。私がやっぱりこの話を持ちだしたら、笑いながらこう言うの。自分たちはキリストと違って、すべての人類を救おうとは思っていない。共通な悩みに悩んでいる同志を救うんだ、って。あなた方はあなた方同志で救い合ったらどう? って。だから、私がそう言ったの。私たちには自分だけを救う力さえありゃしない。そんなら亡んでしまうがいい、ってそう言うのよ、その女は。それが自然の法則だ。自分たちは自分たちだけで血みどろだ、って。だから、私が共通な悩みっていえば、人間は、ちょうど地球自身と同じように、この世の中は、階級という大きな公転を続けながら、その中に、父子、兄弟、夫婦、朋友、その他あらゆる無数の私転関係の悩みが悩まれつつ動いて行くのじゃないの、って言うと、そんな小っぽけな悩みなんか踏み越えて行ってしまうんだ。自分たちは小ブルジョア階級のあげる悲鳴なんかに対して、断然感傷的になってはいられない。だけど、あなたにはお友だち甲斐によいことを教えてあげるわ。――恋をしなさい。あなた方が恋をすれば、それこそ、あらゆる倦怠と閑暇を利用して、清らかに恋し合えるじゃないの。あらゆる悩みなんか、皆んなその中に熔かしこんでしまうようにね。そこへ行くと自分たちは主義の仕事が精力の九割を割いている。後の一割でしか恋愛に力を別たれない。だから、自分たちは一人の恋人なんかを守り続けてはいられない。それに一人の恋人を守るということは、一つの偶像を作ることだ。一つの概念を作ることだ。それは主義の最大の敵だ。だから、……そんなことを言うのよ。私、何んだか、心のありかが解らないような、頼りない気がしてきて、…… ――君はそんなに悩み事があるの? ――私は母が違うの。ほんとのお母さんは私が二つの時に死んでしまったの。 ――え? ――私は何んとも思っていないのに、今のお継母さんは、私がまだ三つか四つのころ、まだ意識がやっと牛乳の罎から離れたころから、もう、自分を見る眼つきの中に、限りない憎悪の光が宿っているって、そう言っては父を困らしたんですって。お継母さんはこう言うのよ。つまり私を生んだ母親が、生前、自分の夫が愛情を感ずるあらゆる女性に対して懐いていた憎悪の感情が、私の身体の中に、蒼白い潜在意識となって潜んでいて、それがまだあどけない私の瞳の底に、無意識的に、暗の中の黒猫の眼のように光っているんだ、ってそう言うのよ。私が何かにつけて、物事を僻んでいやしないかと、しょっちゅうそれを向うで僻んでいるの。父は継母に気兼ねして、私の事は何んにも口に出して言わないの。継母は早く私を不幸な結婚に追いやってしまおうとしているの。そしてどんな男が私を一番不幸にするか、それはよく知っているのよ。継母は自分を苦しめた私を、私はちょっともお継母さんを苦しめたことなんかありはしないのに、私が自分より幸福になることをひどく嫌がっているらしいの。そんなにまで人間は人間を憎しめるものかしら。……中で、私を一番不幸にしそうなのは、ある銀行家の息子なの。ヴァイオリンが上手で、困ったことに私を愛しているのよ。この間、仲人の人がぜひその男のヴァイオリンを聞けと言って、私に電話口で聞かせるのよ。お継母さんがどうしても聞けって言うんですもの。後でお継母さんが出て、大変けっこうですね、今、娘が大変喜んでおりました、なんて言うの。私その次に会った時、この間の軍隊行進曲はずいぶんよかったわね、ってそ言ってやったわ。ほんとはマスネエの逝く春を惜しむ悲歌を弾いたんだったけど。皮肉っていや、そりゃ皮肉なのよ、その人は。いつだったかいっしょに芝居へ行こうと思ったら、髭も剃っていないの。そう言ってやったら、すました顔をして、いや一遍剃ったんですが、あなたのお化粧を待っているうちに、また伸びてしまったんですよ。どうも近代の男は、女が他の男のために化粧しているのを、ぽかんとして待っていなければならない義務があるんですからね、まったく、……って、こうなのよ。女を軽蔑することが自慢なんでしょう。軽蔑病にかかっているのよ。何んでも他のものを軽蔑しさえすれば、それで自分が偉くなったような気がするのね。近代の一番悪い世紀病にとっつかれているんだわ。今度会ったら紹介してあげるわね。 ――君は、その人と結婚するつもり?  シイカは突然黙ってしまった。 ――君は、その男が好きなんじゃないの?  シイカはじっと下唇を噛んでいた。一歩ごとに振動が唇に痛く響いて行った。 ――え?  彼が追っかけるように訊いた。 ――ええ、好きかもしれないわ。あなたは私たちの結婚式に何を送ってくださること?  突然彼女がポロポロと涙を零した。  彼の突き詰めた空想の糸が、そこでぽつりと切れてしまい、彼女の姿はまた、橋の向うの靄の中に消えてしまった。彼の頭の中には疑心と憂鬱と焦慮と情熱が、まるでコクテイル・シ※(小書き片仮名ヱ)ークのように攪き廻された。彼は何をしでかすか解らない自分に、監視の眼を見張りだした。  川沿いの並木道が長く続いていた。二人の別れる橋の灯が、遠く靄の中に霞んでいた。街灯の光りを浴びた蒼白いシイカのポオカア・フェスが、かすかに微笑んだ。 ――今日の話は皆んな嘘よ。私のお父さんはお金持でもなければ何んでもないの。私はほんとは女優なの。 ――女優? ――まあ、驚いたの。嘘よ。私は女優じゃないわ。女が瞬間に考えついたすばらしい無邪気な空想を、いちいちほんとに頭に刻みこんでいたら、あなたは今に狂人になってしまってよ。 ――僕はもう狂人です。こら、このとおり。  彼はそう言いながら、クルリと振り向いて、女と反対の方へどんどん、後ろも見ずに駈けだして行ってしまった。  シイカはそれをしばらく見送ってから、深い溜息をして、無表情な顔を懶げに立てなおすと、憂鬱詩人レナウのついた一本の杖のように、とぼとぼと橋の方へ向って歩きだした。  彼女の唇をかすかに漏れてくる吐息とともに、落葉を踏む跫音のように、……   君は幸あふれ、   われは、なみだあふる。      6  いつもの果物屋で、彼がもう三十分も待ち呆けを喰わされていた時、電話が彼にかかってきた。 ――あなた? ごめんなさい。私、今日はそっちへ行けないのよ。……どうかしたの? ――いいえ。 ――だって黙ってしまって、……怒ってるの? ――今日の君の声はなんて冷たいのかしら。 ――だって、雪が電線に重たく積っているんですもの。 ――どこにいるの、今? ――帝劇にいるの。あなた、いらっしゃらないこと? ……この間話したあの人といっしょなのよ。紹介してあげるわ。……今晩はチァイコフスキイよ。オニエギン、…… ――オニエギン? ――ええ。……来ない? ――行きます。  その時彼は電話をとおして、低い男の笑声を聞いた。彼は受話器をかけるといきなり帽子を握った。頬っぺたをはたかれたハルレキンのような顔をして、彼は頭の中の積木細工が、不意に崩れて行くかすかな音を聞いた。  街には雪が蒼白く積っていた。街を長く走っている電線に、無数の感情がこんがらかって軋んで行く気味の悪い響が、この人通りの少い裏通りに轟々と響いていた。彼は耳を掩うように深く外套の襟を立てて、前屈みに蹌踉いて行った。眼筋が働きを止めてしまった視界の中に、重なり合った男の足跡、女の足跡。ここにも感情が縺れ合ったまま、冷えきった燃えさしのように棄てられてあった。  いきなり街が明るく光りだした。劇場の飾灯が、雪解けの靄に七色の虹を反射させていた。入口にシイカの顔が微笑んでいた。鶸色の紋織の羽織に、鶴の模様が一面に絞り染めになっていた。彼女の後ろに身長の高い紳士が、エチケットの本のように、淑やかに立っていた。  二階の正面に三人は並んで腰をかけた。シイカを真中に。……彼はまた頭の中の積木細工を一生懸命で積み始めた。  幕が開いた。チァイコフスキイの朗らかに憂鬱な曲が、静かにオーケストラ・ボックスを漏れてきた。指揮者のバトンが彼の胸をコトン、コトン! と叩いた。  舞台一面の雪である。その中にたった二つの黒い点、オニエギンとレンスキイが、真黒な二羽の鴉のように、不吉な嘴を向き合せていた。  彼は万年筆をとりだすと、プログラムの端へ急いで書きつけた。 (失礼ですが、あなたはシイカをほんとに愛しておいでですか?)  プログラムはそっと対手の男の手に渡された。男はちょっと顔を近寄せて、すかすようにしてそれを読んでから、同じように万年筆をとりだした。 (シイカは愛されないことが愛されたことなのです。) ――まあ、何? 二人で何を陰謀をたくらんでいるの?  シイカがクツクツと笑った。プログラムは彼女の膝の上を右へ左へ動いた。 (そんな無意義なパラドックスで僕を愚弄しないでください。僕は奮慨しているんですよ。) (僕の方がよっぽど奮慨してるんですよ。) (あなたはシイカを幸福にしてやれると思ってますか。) (シイカを幸福にできるのは、僕でもなければ、またあなたでもありません。幸福は彼女のそばへ近づくと皆んな仮面を冠ってしまうのです。) (あなたからシイカの事を説明していただくのは、お断りしたいと思うのですが。) (あなたもまた、彼女を愛している一人なのですか。) ――うるさいわよ。  シイカがいきなりプログラムを丸めてしまった。舞台の上では轟然たる一発の銃声。レンスキイの身体が枯木のように雪の中に倒れ伏した。 ――立て!  いきなり彼が呶鳴った。対手の男はぎくとして、筋を引いた蛙の肢のように立上った。シイカはオペラグラスを膝の上に落した。彼はいきなり男の腰を力任かせに突いた。男の身体はゆらゆらと蹌踉めいたと思ったら、そのまま欄干を越えて、どさりと一階の客席の真中に墜落してしまった。わーっ! という叫び声。一時に立上る観客の頭、無数の瞳が上を見上げた。舞台では、今死んだはずのレンスキイがむっくりと飛び上った。音楽がはたと止った。客席のシャンドリエに灯火が入った。叫び声!  シャンドリエの光が大きく彼の眼の中で揺れ始めた。いきなり力強い腕が彼の肩を掴んだ。ピントの外れた彼の瞳の中に、真蒼なシイカの顔が浮んでいた。広く瞠いた瞳の中から、彼女の感情が皆んな消えて行ってしまったように、無表情な彼女の顔。白々しい仮面のような彼女の顔。――彼はただ、彼女が、今、観客席の床の上に一箇所の斑点のように、圧しつぶされてしまったあの男に対して、何んらの感情も持ってはいなかったことを知った。そして、彼女のために人を殺したこの自分に対して、憎悪さえも感じていない彼女を見た。      7  街路樹の新芽が眼に見えて青くなり、都会の空に香わしい春の匂いが漂ってきた。松の花粉を浴びた女学生の一群が、ゆえもなく興奮しきって、大きな邸宅の塀の下を、明るく笑いながら帰って行った。もう春だわね、と言ってそのうちの一人が、ダルクローズのように思いきって両手を上げ、深呼吸をした拍子に、空中に幾万となく数知れず浮游していた蚊を、鼻の中に吸いこんでしまった。彼女は顰め面をして鼻を鳴らし始めた。明るい陽差しが、軒に出された風露草の植木鉢に、恵み多い光りの箭をそそいでいた。  取調べは二月ほどかかった。スプリング・スーツに着更えた予審判事は、彼の犯行に特種の興味を感じていたので、今朝も早くから、友人の若い医学士といっしょに、ごく懇談的な自由な取調べや、智能調査、精神鑑定を行った。以下に書きつけられた会話筆記は、その中から適宜に取りだした断片的の覚書である。 問。被告は感情に何かひどい刺戟を受けたことはないか? 答。橋の向うの彼女を知ろうとする激しい慾求が、日夜私の感情をいらだたせていました。 問。それを知ったら、被告は幸福になれると確信していたのか? 答。かえって不幸になるに違いないと思っていました。 問。人間は自分を不幸にすることのために、努力するものではないと思うが。 答。不確実の幸福は確実な不幸より、もっと不幸であろうと思います。 問。被告の知っている範囲で、その女はどんな性格を持っていたか? 答。巧みなポオカア・フェスができる女でした。だが、それは意識的な悪意から来るのではないのです。彼女は瞬間以外の自分の性格、生活に対しては、何んらの実在性を感じないのです。彼女は自分の唇の紅がついたハンケチさえ、私の手もとに残すことを恐れていました。だから、彼女がすばらしい嘘をつくとしても、それは彼女自身にとっては確実なイメエヂなのです。彼女が自分を女優だと言う時、事実彼女は、どこかの舞台の上で、華やかな花束に囲まれたことがあるのです。令嬢だと言えば、彼女は寝床も上げたことのない懶い良家の子女なのです。それが彼女の強い主観なのです。 問。そう解っていれば、被告は何もいらいら彼女を探ることはなかったのではないか。 答。人間は他人の主観の中に、けっして安息していられるものではありません。あらゆる事実に冷やかな客観性を与えたがるものなのです。太陽が地球の廻りを巡っている事実だけでは満足しないのです。自分の眼を飛行機に乗せたがるのです。 問。その女は、被告のいわゆる橋の向うの彼女について、多く語ったことがあるか? 答。よく喋ることもあります。ですが、それは今言ったとおり、おそらくはその瞬間に彼女の空想に映じた、限りない嘘言の連りだったと思います。もしこっちから推理的に質問を続けて行けば、彼女はすぐと、水を離れた貝のように口を噤んでしまうのです。一時間でも二時間でも、まるで彼女は、鍵のかかった抽斗のように黙りこんでいるのです。 問。そんな時、被告はどんな態度をとるのか? 答。黙って爪を剪っていたり、百人一首の歌を一つ一つ想いだしてみたり、……それに私は工場のような女が嫌いなのです。 問。被告は自分自身の精神状態について、異常を認めるような気のしたことはないか? 答。私を狂人だと思う人があったなら、その人は、ガリレオを罵ったピザの学徒のような譏りを受けるでしょう。 問。被告は、女が被告以外の男を愛している事実にぶつかって、それで激したのか。 答。反対です。私は彼女が何人の恋人を持とうと、何人の男に失恋を感じようと、そんなことはかまいません。なぜならば彼女が私と会っている瞬間、彼女はいつも私を愛していたのですから。そして、瞬間以外の彼女は、彼女にとって実在しないのですから。ただ、彼女が愛している男ではなく、彼女を愛している男が、私以外にあるということが、堪えられない心の重荷なのです。 問。被告が突き落した男が、彼女を愛していたということは、どうして解ったか? 答。それは、彼がちょうど私と同じように、私が彼女を愛しているかどうかを気にしたからです。 問。彼女の貞操観念に対して被告はどういう解釈を下すか。 答。もし彼女が貞操を守るとしたら、それは善悪の批判からではなく、一種の潔癖、買いたてのハンケチを汚すまいとする気持からなのです。持っているものを壊すまいとする慾望からです。彼女にとって、貞操は一つの切子硝子の菓子皿なのです。何んかの拍子に、ひょっと落して破ってしまえば、もうその破片に対して何んの未練もないのです。……それに彼女は、精神と肉体を完全に遊離する術を知っています。だから、たとえ彼女が、私はあなたのものよ、と言ったところで、それが彼女の純情だとは言えないのです。彼女は最も嫌悪する男に、たやすく身を任せたかもしれません。そしてまた、最も愛する男と無人島にいて、清らかな交際を続けて行くかもしれません。 問。判決が下れば、監獄は橋の向うにあるのだが、被告は控訴する口実を考えているか? 答。私は喜んで橋を渡って行きましょう。私はそこで静かに観音経を読みましょう。それから、心行くまで、シイカの幻を愛し続けましょう。 問。何か願い事はないか? 答。彼女に私の形見として、私の部屋にある鳩の籠を渡してやってください。それから、彼女に早くお嫁に行くようにすすめてください。彼女の幸福を遮る者があったなら、私は脱獄をして、何人でも人殺しをしてやると、そう言っていたことを伝えてください。 問。もし何年かの後、出獄してきて、そして街でひょっこり、彼女が仇し男の子供を連れているのに出遇ったら、被告はどうするか。 答。私はその時、ウォタア・ロオリイ卿のように叮嚀にお辞儀をしようと思います。それからしゃっとこ立ちをして街を歩いてやろうかと思っています。 問。被告のその気持は諦めという思想なのか。 答。いいえ違います。私は彼女をまだ初恋のように恋しています。彼女は私のたった一人の恋人です。外国の話しにこんなのがあります。二人の相愛の恋人が、山登りをして、女が足を滑らせ、底知れぬ氷河の割目に落ちこんでしまったのです。男は無限の憂愁と誠意を黒い衣に包んで、その氷河の尽きる山の麓の寒村に、小屋を立てて、一生をそこで暮したということです。氷河は一日三尺くらいの速力で、目に見えず流れているのだそうです。男がそこに、昔のままの十八の少女の姿をした彼女を発見するまでには、少なくも三四十年の永い歳月が要るのです。その間、女の幻を懐いて、嵐の夜もじっと山合いの小屋の中に、彼女を待ち続けたというのです。たとえシイカが、百人の恋人を港のように巡りつつ、愛する術を忘れた寂寥を忘れに、この人生の氷河の下を流れて行っても、私はいつまでもいつまでも、彼女のために最後の食卓を用意して、秋の落葉が窓を叩く、落漠たる孤独の小屋に、彼女をあてもなく待ち続けて行きましょう。  それから若い医学士は、被告の意識、学力、記憶力、聯想観念、注意力、判断力、感情興奮性等に関して、いろいろ細かい精神鑑定を行った。  女を一番愛した男は? ショペンハウエル。Mの字のつく世界的音楽家は? ムゥソルグスキイ、モツァルト、宮城道雄。断髪の美点は? 風吹けば動的美を表す。寝沈まった都会の夜を見ると何を聯想するか? ある時は、鳴り止まったピアノを。ある時は、秋の空に、無数につるんでいる赤蜻蛉を。等々々、……      8  シイカは川岸へ出るいつもの露路の坂を、ひとり下って行った。空には星が冷やかな無関心を象徴していた。彼女にはあの坂の向うの空に光っている北斗七星が、ああやって、いつものとおりの形を持していることが不自然だった。自分の身に今、これだけの気持の変化が起っているのに天体が昨日と同じ永劫の運行を続け、人生がまた同じ歩みを歩んで行くことが、なぜか彼女にとって、ひどく排他的な意地悪るさを感じさせた。彼女は今、自分が残してきた巷の上に、どんよりと感じられる都会のどよめきへ、ほのかな意識を移していた。  だが、彼女の気持に変化を与え、彼女を憂愁の闇でとざしてしまった事実というのは、劇場の二階から突き落されて、一枚の熊の毛皮のように圧しつぶされてしまった、あのヴァイオリンを弾く銀行家の息子ではなかった。また、彼女のために、殺人まで犯した男の純情でもなかった。では?……  彼女が籠に入れられた一羽の伝書鳩を受け取り、彼に、さよなら、とつめたい一語を残してあのガランとした裁判所の入口から出てきた時、ホテルへ向うアスファルトの舗道を、音もなく走って行った一台のダイアナであった。行き過ぎなりに、チラと見た男の顔。幸福を盛ったアラバスタアの盃のように輝かしく、角かくしをした美しい花嫁を側に坐らせて。……  彼女の行いがどうであろうと、彼女の食慾がどうであろうと、けっして汚されはしない、たった一つの想い出が、暗い霧の中に遠ざかって行く哀愁であった。  心を唱う最後の歌を、せめて、自分を知らない誰かに聞いてもらいたい慾望が、彼女のか弱い肉体の中に、生を繋ぐただ一本の銀の糸となって、シイカは小脇に抱えた籠の中の鳩に、優しい瞳を落したのだった。      9  一台の馬車が、朗かな朝の中を走って行った。中には彼ともう一人、女優のように華手なシャルムーズを着た女が坐っていた。馬車は大きな音を立てながら、橋を渡って揺れて行った。彼の心は奇妙と明るかった。橋の袂に立っている花売の少女が、不思議そうな顔をして、このおかしな馬車を見送っていた。チュウリップとフリイヂヤの匂いが、緑色の春の陽差しに溶けこんで、金網を張った小いさな窓から、爽かに流れこんできた。  何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋している。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行ったとて、この金網の小窓からは、何がいったい見られよう。……  三階建の洋館が平屋の連りに変って行った。空地がそこここに見えだした。花園、並木、灰色の道。――たった一つのこの路が、長く長く馬車の行方に続いていた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のように、巍然として聳えていた。彼はそれを監獄だと信じていた。  やがて馬車は入口に近づいた。だが、門の表札には刑務所という字は見つからなかった。同乗の女がいきなり大声に笑いだした。年老った門番の老人が、悲しそうな顔をして、静かに門を開けた。錆びついた鉄の掛金がギイと鳴った。老人はやはりこの建物の中で、花瓶にさした一輪の椿の花のように死んでしまった自分の娘の事を考えていた。男の手紙を枕の下に入れたまま、老人が臨終の枕頭へ行くと、とろんとした暗い瞳を動かして、その手を握り、男の名前を呼び続けながら死んで行った、まだ年若い彼のたった一人の娘の事を。最後に呼んだ名前が、親の自分の名ではなく、見も知らない男の名前だった悲しい事実を考えていた。      10  シイカは朝起きると、縁側へ出てぼんやりと空を眺めた。彼女はそれから、小筥の中からそっと取りだした一枚の紙片を、鳩の足に結えつけると、庭へ出て、一度強く鳩を胸に抱き締めながら、頬をつけてから手を離した。鳩は一遍グルリと空に環を描き、今度はきゅうに南の方へ向って、糸の切れた紙鳶のように飛んで行った。  シイカは蓋を開けられた鳥籠を見た。彼女の春がそこから逃げて行ってしまったのを感じた。彼女は青葉を固く噛みしめながら、芝生の上に身を投げだしてしまった。彼女の瞳が涙よりも濡れて、明るい太陽が彼女の睫毛に、可憐な虹を描いていた。  新聞社の屋根でたった一人、紫色の仕事着を着た給仕の少女が、襟にさし忘れた縫針の先でぼんやり欄干を突っつきながら、お嫁入だとか、電気局だとかいうことを考えていた。見下した都会の底に、いろいろの形をした建物が、海の底の貝殻のように光っていた。  無数の伝書鳩の群れが、澄みきった青空の下に大きく環を描いて、新聞社の建物の上を散歩していた。そのたびに黒い影が窓硝子をかすめて行った。少女はふと、その群から離れて、一羽の鳩が、すぐ側の欄干にとまっているのを見つけた。可愛い嘴を時々開き、真丸な目をぱちぱちさせながら、じっとそこにとまっていた。あすこの群の方へははいらずに、まるで永い間里へやられていた里子のように、一羽しょんぼりと離れている様子が、少女には何か愛くるしく可憐しかった。彼女が近づいて行っても、鳩は逃げようともせずにじっとしていた。少女はふとその足のところに結えつけられている紙片に気がついた。      11  四月になったら、ふっくらと広い寝台を据え、黒い、九官鳥の籠を吊そうと思っています。  私は、寝台の上に腹這い、頬杖をつきながら、鳥に言葉を教えこもうとおもうのです。   君は幸あふれ、   われは、なみだあふる。  もしも彼女が、嘴の重みで、のめりそうになるほど嘲笑しても、私は、もう一度言いなおそう。   さいはひは、あふるべきところにあふれ、   なみだ、また――  それでもガラガラわらったら、私はいっそあの皺枯れ声に、   あたしゃね、おっかさんがね、   お嫁入りにやるんだとさ、  と、おぼえさせようとおもっています。      12  明るい街を、碧い眼をした三人の尼さんが、真白の帽子、黒の法衣の裾をつまみ、黒い洋傘を日傘の代りにさして、ゆっくりと歩いて行った。穏やかな会話が微風のように彼女たちの唇を漏れてきた。 ――もう春ですわね。 ――ほんとに。春になると、私はいつも故国の景色を想いだします。この異国に来てからもう七度の春が巡ってきました。 ――どこの国も同んなじですわね、世界じゅう。 ――私の妹も、もう長い裾の洋服を着せられたことでしょう。 ――カスタニイの並木路を、母とよく歩いて行ったものです。 ――神様が、妹に、立派な恋人をお授けくださいますように! ―― Amen! ―― Amen!  (11に挿入した句章は作者F・Oの承諾による)
底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社    1970(昭和45)年1月25日発行 入力:土屋隆 校正:林幸雄 2003年2月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 琉球の那覇市の街端れに△△屋敷と云ふ特種部落がある。此処の住民は支那人の子孫だが、彼等の多くは、寧ろ全体と云ってもよいが、貧乏で賎業に従事して居る。アタピースグヤーと云って田圃に出て行って、蛙を捕って来て、その皮を剥いで、市場に持って行って売る。蛙は那覇、首里の人々には美味な副食物の一つに数へられて居るのだ。それから、ターイユトウヤー(鮒取)サバツクヤー(草履造)、帽子編…………さう云ふ職業に従事して居る。彼等は斯う云う賎業(?)に従事して居て、那覇市の他の町の人々には△△屋敷人と軽蔑されて居ても、その日常生活は簡易で、共同的で、随って気楽である。  榕樹、ビンギ、梯梧、福樹などの亜熱帯植物が亭々と聳え、鬱蒼と茂り合った蔭に群った一部落。家々の周囲には竹やレークの生籬が廻らしてある。その家が低い茅葺で、穢しい事は云ふ迄もない。朝、男達が竿や網を持って田圃へ出掛けて行くと、女達は涼しい樹蔭に筵を敷いて、悠長で而かも一種哀調を帯びた琉球の俗謡を謡ひながら帽子を編む。草履を作る。夕暮になって男達が田圃から帰って来ると、その妻や娘達が、捕って来た蛙や鮒を売りに市場へ行く。それをいくらかの金銭に代へて、何か肴と一合ばかりの泡盛を買って、女達はハブに咬まれないやうに炬火を点して帰って来る。男達は嬉しさうにそれを迎へて、乏しい晩飯を済ますと、横になって、静かに泡盛を啜る。さう云ふ生活を繰り返して居る彼等は、自分達の生活を惨めだとも考へない。貧しい人達は模合(無尽)を出し合って、不幸がある場合には助け合ふやうにして居る。南国のことで、冬も凌ぎにくいと云ふ程の日はない。斯うして彼等は単純に、平和に暮して居るのである。  だが、斯う云ふ人達にとっても、わが奥間百歳が巡査と云ふ栄職に就いた事は奥間一家の名誉のみならず、△△屋敷全部落の光栄でなければならなかった。支那人の子孫である彼等、さうして貧しい、賎業に従事して居る彼等にとっては、官吏になると云ふ事は単なる歓びと云ふよりも、寧ろ驚異であった。  そこで、奥間百歳が巡査を志願してると云ふ事が知れ渡ると、部落の人々は誰も彼も我が事のやうに喜んで、心から彼の合格を祈った。彼の父は彼に仕事を休んで勉強するやうに勧めた。彼の母は巫女を頼んで、彼方此方の拝所へ詣って、百歳が試験に合格するやうにと祈った。百歳が愈々試験を受けに行くと云ふ前の日には、母は彼を先祖の墓に伴れて行って、長い祈願をした。  かうして、彼自身と家族と部落の人々の念願が届いて、百歳は見事に試験に合格したのである。彼と家族と部落民の得意や察すべしだ。彼等は半日仕事を休んで、百歳が巡査になった為の祝宴を催した。男達は彼の家の前にある、大きな榕樹の蔭の広場に集って昼から泡盛を飲んだり、蛇皮線を弾いたりして騒いだ。若い者は組踊の真似をしたりした。  それは大正△年の五月の或日の事であった。もう芭蕉布の着物を来ても寒くない頃だった。梯梧の赤い花が散り初めて、樹蔭の草叢の中から百合の花が、彼方此方に白く咲き出て居る。垣根には、南国の強い日光を受けて仏桑華の花がパッと明るく燃えて居た。  男達が、肌を抜いて歌ったり、踊ったり、蛇皮線を弾いたりして居る周囲には、女達が集って来て、それを面白さうに眺めて居た。その騒ぎの中に、わが奥間百歳は凱旋将軍のやうに、巡査の制服制帽をつけ、帯剣を光らせて、何処から持って来たのか、珍らしく椅子に腰を掛けて居た。娘達はあくがれるやうな、また畏れるやうな眼付で、彼の変った凜とした姿を凝視めて居た。  かうして此の饗宴は夜更まで続いた。静かな夜の部落の森に、歌声、蛇皮線の響、人々のさざめき合ふ声が反響して、何時までも止まなかった。  奥間巡査は講習を終へると隔日勤務になった。彼は成績が良好な為め本署勤務を命じられた。それから彼は一日置きに警察署へ出て、家に居る時は大抵、本を読んで居た。家族は彼が、制服制帽をつけて家を出入するのが嬉しかった。さうして時々、家に来る人々が百歳が制服制帽で何処其処を歩いて居たと珍らしさうに話すのを聞くと、彼等は隠し切れない喜悦の感情を顔に表はした。さう云ふ人々はさも、彼に逢ふと云ふ事その事だけでも異常な事であるかのやうに喜んで話すのだった。さうして、中には、家の子供も将来は巡査になって貰はなければならないと云ふ者もあった。  月の二十五日には、百歳はポケットに俸給を入れて帰った。彼は初めて俸給を握る歓びに心が震へて居た。右のポケットに入ったその俸給の袋を固く握り乍ら、早足に彼は歩いた。家に着くと、彼は強いて落着いて、座敷へ上ってから、平気な風に、その俸給袋を出して、母に渡した。 「まあ」  と嬉しさうにそれを押し戴いて、母は中を検めて見た。さうして紙幣を数へて見て、 「ああ、千百五十貫(二十三円)やさやあ。」  と云った。俸給はそれだけあると聞いて居たが、彼女は現金を見ると、今更ながら驚いたと云ふ風であった。  二、三ケ月は斯うして平和に過ぎた。だが、家族はだんだん彼の心が自分達を離れて行くのを感じ出した。彼はまた、部落の若者達を相手にしなくなった。すると、部落の人々も何時とはなしに彼に対して無関心になって行った。今や彼の心の中には、巡査としての職務を立派に果すと云ふ事と、今の地位を踏台にして、更に向上しようと云ふ事の外に何物もなかった。  その上に彼はだんだん気難かしくなって来た。家に帰って来ると、始終、家が不潔だ、不潔だと云った。さうしてその為めに屡々厳しく妹を叱った。殊に一度、彼の同僚が訪ねて来てからは一層、家の中を気にするやうになった。彼が怒り出すと、どうしてあんなに温順しかった息子が斯うも変ったらうかと母は目を睜って、ハラハラし乍ら、彼が妹を叱るのを見て居た。  それが嵩じると、彼は部落の人々の生活に迄も干渉を始めた。彼は或日祭礼のあった時、部落の人々が広場に集ったので、さう云ふ機会の来るのを待ち兼ねて居たやうに、その群衆の前に出て話を初めた。それを見ると、彼等は百歳が部落の為めに何か福音を齎らすのであらうと予期した。何故なら、彼等は、彼等の部落民の一人である所の奥間百歳を巡査に出したことに依って、彼等は百歳を通して「官」から何か生活上の便宜を得るであらうと予想して居たのだったから。――租税を安くして貰ふとか、道路を綺麗にして貰ふとか、無料で病気を治療して貰ふとか……さう云ふ種類の事を漠然と想像して居たのであった。  所が、彼の話はすっかり彼等の期待を裏切ってしまった。彼は斯う云った。 「毎日、怠らずに下水を掃除しなければならない。夏、日中、裸になる事を平気で居る者が多いが、あれは警察では所罰すべき事の一つになって居る。巡査に見付かったら科料に処せられるのである。自分も巡査である。今後は部落民だからと云って容赦はしない。われ〳〵官吏は「公平」と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。」  さう云ふ種類の事を――彼等の間ではこれまで平気で行はれて居た事を――彼は幾つも挙げて厳しく戒めた。さうして最後に斯う云ふ意味の事を云った。 「それから、夜遅くまで飲酒して歌を歌ふ事も禁じられて居る。酒を飲む事を慎んで、もっと忠実に働いて、金銭を貯蓄して今よりも、もっと高尚な職業に就くやうにしなけれはならない。」  彼がだん〳〵熱を帯びて、声を上げて、こんな事を言ひ続けて居るのを部落民は不快さうな眼付で見て居た。彼等は、彼が彼等と別の立場にある事を感じずには居られなかった。祭礼が終って、酒宴が始ってからも、誰も彼に杯を献す者はなかった。  時々、彼の同僚が訪ねて来ると、百歳はよく泡盛を出して振舞った。彼の家に遊びに来る同僚は可成り多かった。中には昼からやって来て、泡盛を飲んで騒ぐのが居た。どれもこれも逞しい若者で、話の仕方も乱暴だった。此の辺の人のやうに蛇皮線を弾いたり、琉球歌を歌ったりするのでなしに、茶腕や皿を叩いて、何やら訳の解らぬ鹿児島の歌を歌ったり、詩吟をしたり、いきなり立ち上って、棒を振り廻して剣舞をする者もあった。  おとなしい百歳の家族は、さう云ふ乱暴な遊び方をする客に対してはたヾ恐怖を感ずるばかりで、少しも親しめなかった。さうして、そんなお客と一緒に騒ぐ百歳を疎しく感ずるのであった。  部落の人々は巡査といふものに対しては、長い間、無意識に恐怖を持って居た。そこで、初めの中こそ百歳が巡査になった事を喜んだものの、彼の態度が以前とはガラリと違ったのを見ると不快に思った。その上に彼の家へ屡々、外の巡査が出入するのを烟たがった。その巡査達は蹣けて帰り乍ら、裸かになって働いて居る部落の人を呶鳴り付けたりした。そんな事が度重なると、彼等は百歳の家の存在をさへ呪はしくなった。部落の人達はあまり彼の家に寄り付かなくなった。  さう云ふ周囲の気分がだん〳〵百歳にも感ぜられて来た。さうなると彼は家に居ても始終焦々して居た。また途中で出逢った部落の人の眼の中に冷たさを感じると、自分の心の中に敵意の萠して来るのを覚えた。何となく除者にされた人の憤懣が、むら〳〵と起って来るのを、彼は如何ともする事が出来なかった。  それに、彼は此の部落の出身であるが為めに同僚に馬鹿にされて居ると感ずる事が度々あった。 「△△屋敷の人間」  さう云ふ言葉が屡々、同僚の口から洩れるのを聞くと、彼は顔の熱るのを感じた。百歳には此の部落に生れて、この部落に住んで居る事が厭はしい事になった。  そこで、彼は家族に向って、引越の相談をしたが、家族はそれに応じなかった。長い間住み慣れた此の部落を離れると云ふことは、家族にとっては此の上もない苦痛であった。それは感情的な意味ばかりでなしに、生活の上から見ても、殊に模合や何か経済上の関係から見ても不利益であったので。  さうなると、百歳は自分が部落に対して感じ出した敵意を如何にも処置することが出来なかった。彼は寂しかった。と云って、彼は同僚の中には、ほんとうの友情を見出すことは出来なかった。彼の同僚は多くは鹿児島県人や佐賀県人や宮崎県人で、彼とは感情の上でも、これまでの生活環境でも大変な相違があった。さう云ふ人達とは一緒に、泡盛を飲んで騒ぐ事は出来ても、しみ〴〵と話し合ふ事は出来なかった。彼は署内で話をし乍らも、度々、同僚に対して、 「彼等は異国人だ。」  と、さう心の中で呟く事があった。彼等もまた、彼を異邦人視して居るらしいのが感じられて来た。彼は孤独を感ぜずには居られなかった。  それでも、彼の同僚が、彼の家に来て、泡盛を飲んで騒ぎ廻る事に変りはなかった。  その歳の夏は可成り暑かった。長い間、旱魃が続いた。毎日晴れ切った南国の眩しい日光が空一杯に溢れて居た。土や草のいきれた香が乾き切った空気の中に蒸せ返った。街の赤い屋根の反射が眼にも肌にも強く当った。――那覇の街の屋根瓦の色は赤い。家々の周囲に高く築かれた石垣の上に生えた草は萎えてカラ〳〵に乾いて居た。その石垣の中から蜥蜴の銀光の肌が駛り出したかと思ふと、ついとまた石垣の穴にかくれた。午頃の巷は沙漠のやうに光が澱んで居た。音のない光を限り無く深く湛へて居た。  その中に、如何かして、空の一方に雲の峯がむくり〳〵と現はれて、雲母の層のやうにキラ〳〵光って居るのを見ると、人々はあれが雨になればよいと思った。午後になって、夕日がパッとその雲の層に燃え付いて、青い森や丘に反射してるのを見ると、明日は雨になるかも知れないと予期された。明るく暮れて行く静かな空に反響する子供達の歌声が、慵く夢のやうに聞えた。  アカナー ヤーヤ  ヤキタン ドー  ハークガ ヤンムチ  コーティ  タックワー シー  夕焼があると、何時でも子供達が意味の解らぬなりに面白がって歌ふ謡である。だが日が暮れ切ってしまふと、その雲の層は何処へやら消えて行って、空が地に近づいて来たやうに、銀砂子のやうな星が大きく光って居るのが見えた。  さう云ふ昼と夜とが続いて、百歳も草木の萎えたやうに、げんなり気を腐らせて居た。職務上の事でも神経を振ひ立たせ(る)程の事はなかった。何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じて居た。  こんな気持に倦み切って居た或晩、彼は鹿児島生れの同僚の一人に誘はれて、海岸へ散歩に出た。  珊瑚礁から成って居る此の島の海岸の夜色は其処に長く住んで居る者にも美しい感じを与へた。巌が彼方此方に削り立って居るが、波に噛まれた深い凹みは真暗に陰って居た。渚に寄せて来る波がしらが、ドッと砕ける様が蒼い月光の下に仄白く見えた。何処か丘のあたりや、磯辺で歌って居る遊女の哀婉の調を帯びた恋歌の声が水のやうに、流れて来た。その声が嬌めかしく彼の胸を唆った。海の面から吹いて来る涼しい風は彼の肌にまつはりついた。彼の坐って居る前を、時々、蒼白い月光の中に、軽い相板らしい着物を纏った遊女の顔が、ぼんやりと白く泳いで行った。  その夜、散歩の帰りがけに百歳はその友達に誘はれて、始めて「辻」と云ふ此の市の廓へ行った。  高い石垣に囲まれた二階家がずっと連って居る。その中から蛇皮線の音、鼓の響、若い女の甲高い声が洩れて来た。とある家の冠木門を潜ると、彼の友達はトントンと戸を叩いて合図をした。するとやがて、 「誰方やみせえが。」  と云ふ女の声が聞えて、戸が開いた。女は友達の顔を見ると、二コリと笑って見せた。 「入みそー、れー、たい。」  二人は「裏座」に導かれて行った。其処は六畳の間で、床には支那の詩を書いた軸物が掛って居るし、その傍には黒塗の琴が立てられてあった。片方の壁の前には漆塗りの帳箪笥が据ゑられて、真鍮の金具が新しく光って居る。その傍には低い膳棚が、これも未だ新しくて漆の香がとれないやうに見えた。その反対の側には六双の屏風が立てられて居るが赤い花の咲き乱れた梯梧の枝に白い鸚鵡が止って居る画が描かれてあった。  百歳の眼には凡てのものが美しく珍らしく見えた。  やがて、女達が朱塗の膳に戴せて酒肴を運んで来た。二人が酒を酌み交して居る間、女達は蛇皮線を弾いたり、歌を歌ったりした。十四、五に見える美しい妓が赤いけばけばした模様の着物を着て出て来て、扇を持って舞ったり、薙刀をもって踊ったりした。  百歳は始めの中はてれて居たが、泡盛の酔が廻ると、自分でも珍らしい程はしゃぎ出した。終に彼は冗談を云って女達を笑せたり、妙な手つきで其処にあった鼓を叩いたりした。  その夜、百歳は始めて女を買った。彼の敵娼に定ったのは、「カマルー小」と云って、未だ肩揚のとれない、十七位の、人形のやうに円いのっぺりした顔をした妓であった。何処となく子供らしい甘へるやうな言葉付が彼の心を惹いたのであった。だが、酒宴を止めて愈々、その妓の裏座に伴れて行かれた時、彼は流石に、酔が覚めて、何とも知れぬ不安が萠して来るのを覚えた。彼は火鉢の猫板に凭りかかって、女が青い蚊帳を吊ったり、着物を着換てるのを、見ぬ振をして見て居た。着物を着換てる時、女のむっくり白く肉付いた肩の線が、彼の視線に触れた。しなやかな長い腕の動きが、彼の睚眦に震へを感じさせた。  薄い寝巻に着換へた女は、蚊帳の吊手を三方だけ吊った儘、彼の側へ寄って来た。彼は黙って土瓶の水を茶碗に注いで飲んだ。女は団扇を取り上げたが、扇ぎはせずに、矢張り火鉢に凭りかゝって、火鉢の中の白い灰を見入って居た。時々、女が深く息を吐くのが、彼の耳に聞えて居た。  翌朝、彼は青い蚊帳の中に、女の側に寝て居る自分を見出した。軽い驚駭と羞恥と、横隔膜の下からこみ上げて来る喜悦とを一緒に感じた。然し、女が眼を覚ましてからは、極り悪い感じをより多く感じた。「仲前」まで、女に送られて、 「また、明日ん、めんそーり、よー。」 と云はれた時、彼は何物かに逐はれるやうな気持がして、急いで其処を出ると、人通りの少ない路次を通って家へ帰った。その日は家の人に顔を見られるのも極り悪い思ひがした。彼は何でもない事だと思ひ返さうとしても、如何しても、自分が悪い事をしてしまったやうな感じがするのを打ち消す事は出来なかった。  もう二度と行くまいと思ったが、彼は友達に紹介されて、その女を買ったので、未だ女に金銭をやってはなかった。その金銭だけは持って行ってやらなければと考へて、その月の俸給を貰った晩、彼はそっと一人で、その女の居る楼に行った。彼は女の「裏座」に入ってから、碌に話もしないで、立て続けにお茶を二、三杯飲むと、(琉球人は盛んに支那茶を飲む)極り悪さうに、財布から五円札を一枚出して、女に渡した。女はそれを手にも取らないで、彼が帰りたさうにして居るのを見て取って、彼を引き留めた。恰度、其処へ入って来た女の朋輩も、 「遊びみ、そーれー、たい。」  と云って一緒に彼を引き留めた。とう〳〵彼はその晩も其処で泡盛を飲んで、女の「裏座」に泊った。  百歳は翌日、家に帰った時、母に俸給の残り十八円を渡して、後の五円は郵便貯金をしたと云った。さうして彼は母に、郵便貯金とは斯様々々のものであると云ふ事を可成り悉しく話した。母は黙って領いて居た。  それから百歳は行くともなしに、二、三遍、女の所へ行った。逢ふ事が度重なるに随ってその女の何処となしに強く彼を惹き付ける或物を感じた。それは女の、柔かい美しい肉体だか、善良な柔順な性格だか、或ひは女の住んで居る楼の快い、華やかな気分だか、彼には解らなかった。彼はたゞ、磁石のやうに女に惹き付けられる気持をだん〳〵判然、感じて来た。  その女は――カマルー小は、田舎では可成り田地を持って居る家の娘だったが、父が死んでから、余り智慧の足りない兄が、悪い人間に欺されて、さま〴〵の事に手を出して失敗した為め、家財を蕩尽した上に、少からぬ負債を背負ったので、家計の困難や、その負債の整理の為めに、彼女は今の境涯に落ちたと云ふ事であった。さう云ふ話をする時の彼女は、初めに見た時とは違って、何処となくしんみりした調子があったが、それが却って百歳に強い愛着を感じさせた。  その歳は長い旱魃が続いた為めに、一般に景気が悪かった。随って此の廓でも、どの楼でも客が途絶え勝ちであった。カマルー小の所に通って来る客も二、三人しかなかったが、その客もだん〳〵足が遠くなって行った。その女を訪ねて行くと、百歳は何時でも、「仲前」で彼の来るのを待ち兼ねて居る彼女を見出した。彼は、女がさう云ふ態度を見せるに随って、自分の愛着がだん〳〵濃かになって行くのを感じながら、それを抑制しょうとする気も起らなかった。  百歳は次の月の俸給日の晩には、女の楼へ行くと、思ひ切って十円札二枚をカマルー小の手に渡した。女はそれを見ると 「こんなに沢山貰っては、貴方がお困りでせう。一枚だけでいいわ。」 と、さう云って、後の一枚を押し返すやうにした。百歳は、 「貰っとけよ。もっとやる筈だが、また、今度にするさ。」 と云って、彼はその札を女の手に押し付けた。  翌日、家へ帰ると、彼は母に、今月の俸給は、非常に困って居る同僚があったので、それに貸してやった。が、来月は屹度返して呉れるだらうと云った。さう云ふ時、彼は顔が熱って、自分の声が震へるのを感じた。母は不審さうな眼付で彼の顔を視て居たが、何にも云はなかった。  その月、九月の二十七日の午後から、風が冷たく吹き出した。百歳は警察で仕事をし乍ら、雨でも降り出すかと思ってる所に、測候所から暴風警報が来た。 「暴風ノ虞アリ、沿海ヲ警戒ス」  石垣島の南東百六十海里の沖に低気圧が発生して北西に進みつゝあると云ふのであった。  夕方から風が吹き募った。警察署の前の大榕樹の枝に風の揺れて居るのが、はっきり見えた。雀の子が遽しく羽を飜して飛び廻った。柘榴の樹の立ってるあたりに黄ろい蜻蛉がいくつとなく群を成して、風に吹き流されて居た。街の上を遠く、かくれがを求めて鳴いて行く海烏の声が物悲しく聞えた。  百歳はその晩、警察で制服を和服に着換へて女の楼に行った。女達は暴風雨の来る前の不安で、何かしら慌だしい気分になって居た。其処らの物が吹き飛ばされないやうに、何も彼も家の中に取り入れた。  日が暮れて間もなく、風と一緒に、ザッと豪雨が降り出した。戸がガタ〳〵鳴って、時々壁や柱がミシリ〳〵と震へた。電燈が消えてしまったので、蝋燭を点してあったが、仄暗いその火影に女の顔は蒼褪めて見えた。女は戸が強くガタン〳〵と鳴り出すと、怯えたやうに、 「如何ん、無えんが、やあたい。」  と云って彼に寄り添うた。ヒューッと風がけたたましく唸るかと思ふと、屋根瓦が飛んで、石垣に強く打突かって砕ける音がした。  暴風雨は三日三晩続いた。彼は中の一日を欠勤して三晩、其処に居続けた。烈しい風雨の音の中に対ひ合って話し合ってる中に、二人は今迄よりは一層強い愛着を感じた。二人はもう一日でも離れては居られない気持がした。彼は、何とかして二人が同棲する方法はないものかと相談を持ち出したが、二十三円の俸給の外に何の収入もない彼には結局如何にもならないと云ふ事が解ったばかりであった。彼は金銭が欲しいと思った。一途に金銭が欲しいと思った。  その時、彼には女の為めに罪を犯す男の気持が、よく解るやうに思はれた。自分だって若し今の場合、或る機会さへ与へられたら――さう思ふと彼は自分自身が恐ろしくなった。  四日目に風雨が止んだので、彼は午頃女の楼を出て行ったが、自分の家へ帰る気もしなかったので、行くともなしに、ブラ〳〵とその廓の裏にある墓原へ行った。  広い高台の上に、琉球式の、石を畳んで白い漆喰を塗った大きな石窖のやうな墓が、彼方此方に点在して居た。雨上りの空気の透き徹った広い墓原には人影もなく寂しかった。  彼は当途もなく、その墓原を歩いて居た。  所が、彼が、とある破風造りの開墓の前を横切らうとした時、その中で何か動いて居る物の影が彼の眼を掠めた。彼が中をよく覗いて見ると、それは一人の男であった。彼は突如、中へ飛び込んで行って男を引き擦り出して来た。その瞬間に、今までの蕩児らしい気分が跡方も無く消え去って、すっかり巡査としての職業的人間が彼を支配して居た。 「旦那さい。何ん、悪事お、為びらん。此処かい、隠くゐていど、居やびいたる。」  彼が無理無体に男の身体を験べて見ると、兵児帯に一円五十銭の金銭をくるんで持って居た。彼は、的切り窃盗犯だと推定した。男に住所や氏名を聞いても決して云はなかった。たゞ、 「悪事お、為びらん、旦那さい。」  と繰り返すばかりであった。彼はその男を引き擦るやうにして警察署に引張って行った。  彼はその男を逃すまいと云ふ熱心と、初めて犯人を逮捕して来たと云ふ誇りで夢中になって居た。まるで犬か何かのやうに其の男を審問室に押し込めると、彼は監督警部の所へ行って報告した。熱い汗が彼の額から両頬へ流れた。  彼の報告を聞くと監督警部は軽く笑って、 「ふむ、初陣の功名ぢゃな、御苦労だった。おい、渡辺部長。」 と、彼は一人の巡査部長を呼んで、その男を審問するやうにと命じた。  奥間巡査は、その部長が審問する間、傍に立会ってそれを聞いて居た。さうして部長の審問の仕方の巧妙なのに感心した。彼はその男が本当の窃盗犯であって呉れゝばよいと思った。若し此の男が何の罪も犯して居なかったら、自分の不手際を表はす事になる。さう云ふ不安が時々、彼の心を掠めた。然し審問の進むに随って、その男が窃盗を働いてると云う事が解って来た。男はとう〳〵斯う云ふ事を白状した。 「自分は△△村の物持の息子であったが、色々の事に手出しをした為めに失敗して田畑を売り払った。素からの貧乏人でも窃盗でもない。然し自分の家が零落した上に、不作続きの為めに生活が苦しくなったので、大東島へ出稼人夫になって行く為めに、那覇へ来たのであるが、医師の健康診断の結果、何か伝染病があると云ふので不合格になった。(多分肺結核であらう。男は話をし乍らも、何遍も咳入った)そこで仕方なしに、那覇で仕事の口を捜さうとしてる中に有金を使ひ果して宿屋を逐ひ出された。それから当途もなく街を歩いてる中に、あの嵐になったのでかくれがを探して、あの開墓に入った。その中にあんまり餓くなったので、今朝、雨が小止みになったのを幸ひ、その開墓を出て街に行った。さうして水を貰ふ為めに、ある酒店に入らうとした時、其処の酒樽の上に紙幣のあるのを見て、ふと、我れ知らず、それを盗み取ったのである。然し、その紙幣を手に取ると急に恐ろしくなったので、後をも見ずに、また、あの開墓に逃げ込んだ。決して自分はもとからの窃盗ではない。自分の妹は辻に居て立派な娼妓になって居る。自分も妹の所へ行きさへすれば何とか方法も就くのだったけれど、あまり服装が悪かったので、妹の思惑を恐れて行かなかったのである。もう二度とこんなことは致しませんから、どうぞ赦して下さい。」  男はさう云ふ意味の事を田舎訛りの琉球語で話して居る中に、だん〳〵声が震へて、終には涙が彼の頬を流れた。 「旦那さい、赦ちくゐみ、そーれー、さい。」  さう云って男は頭を床に擦り付けた。  部長はそれを見ると勝ち誇ったやうに、笑声を上げた。 「奥間巡査、どうだ。正に君の睨んだ通りだ。立派な現行犯だよ。ハッハッハッ」  然し、奥間巡査は笑へなかった。息詰るやうな不安が塊のやうに彼の胸にこみ上げて来た。  部長はきつい声で訊いた。 「それで、お前の名前は何と云ふのだ。」  男はなか〳〵名前を云はなかった。奥間巡査は極度の緊張を帯びた表情で、その男の顔を凝視めた。すると思ひ做しか男の顔が、彼の敵娼の、先刻別れたばかりのカマルー小の顔に似て居るやうに思はれた。  部長に問い詰められると、男はとう〳〵口を開いた。 「うう、儀間樽でえびる。」  奥間巡査はぎくりとした。  男は名前を云ってしまふと、息を吐いて、それから、自分の年齢も、妹の名前も年齢も住所も話した。さうして、彼はまた赦して呉れと哀願した。  男は奥間巡査の予覚して居た通り、カマルー小の兄に違ひなかった。彼は此の男を捉へて来たことを悔恨した。自分自身の行為を憤ふる気持で一杯になった。先刻、此の男を引張って来た時の誇らしげな自分が呪はしくなった。その時、部長は彼の方を向いて云った。 「おい、奥間巡査、その妹を参考人として訊問の必要があるから、君、その楼へ行って同行して来給へ。」  それを聞くと、奥間巡査は全身の血液が頭に上って行くのを感じた。彼は暫時の間、茫然として、部長の顔を凝視めて居た。やがて、彼の眼には陥穽に陥ちた野獣の恐怖と憤怒が燃えた。(完)
底本:「池宮城積宝作品集」ニライ社    1988(昭和63)年4月1日発行 入力:大野晋 校正:松永正敏 2002年1月3日公開 2005年11月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 数日前、船頭の許に、船を用意せしめおきしが、恰も天気好かりければ、大生担、餌入れ岡持など提げ、日暮里停車場より出て立つ。時は、八月の二十八日午后二時という、炎暑真中の時刻なりし。  前回の出遊には、天気思わしからず、餌も、糸女のみなりしに、尚二本を獲たりし。今日の空模様は、前遊に比べて、好くとも悪しき方には非ず。殊に袋餌の用意有り、好結果必ず疑い無し。料理界にてこそ、鯉は川魚中の王なれ、懸りて後ちの力は鱸の比に非ず。其の姿よりして軽快に、躍力強健に、綸に狂ひ、波を打ち、一進一退、牽けども痿えず、縦てども弛まず、釣客をして、危懼しながらも、ぞくぞく狂喜せしむるものは只鱸のみにて、釣界中、川魚の王は、これを除きてまた他に求むべからず、今日品川沖に赤目魚釣に往きし忘筌子、利根川(江戸川)に鯉釣に出でし江東子に、獲物を見せて愕かし呉るるも一興なり。など空想を描きつつ窓によりて進む。  田の面一般に白く、今を盛りと咲き競うは、中稲にて、己に薄黒く色つき、穂の形を成せるは早稲にやあらん、田家の垣には、萩の花の打ち乱れて、人まち顔なるも有り、青無花果の、枝も撓わわに生りたる、糸瓜の蔓の日も漏さぬまでに這い広がり、蔭涼しそうなるも有り、車行早きだけ、送迎に忙わし。  成田線なる木下駅にて下車す。船頭待ち居て、支度は既に整えりという。喜びて共に河辺に至る。洋々たる水は宛がら一大湖水を湛わし、前岸有れども無きが如くにして、遠く碧天に接し、上り下りの帆影、真艫に光を射りて、眩きまでに白し。其の闊大荘重の景象、自ら衆川の碌々に異れり。  乗り移るや否、船頭直に櫓を執り、熟地に向う、漁史膝を抱きて、四辺を眺めながら、昨日一昨日の漁況は如何なりしと問えば、『一昨夜は、例の浅草の旦那と出でたりしが、思わざる事件持ち上りたり』という。『事件とは何ぞ』と問えば、『近来の椿事なり』とて、語る。 『旦那がお出になって、例の処で始めますと、昼の雨が利いたのでしょう、打ち込むや否懸り始めて、三年四年以上の計り、二十一本挙げました。只の一本でも、無雑作に挙るのが有りませんでしたから、近くに繋ってた船にも、能く知れますのです。土地の漁師の船も、近くで行ってましたが、奴等は、赤っ腹位捕って喜んでる手合計しで、本物は、何時も江戸の方に抜いてかれてますので、内心縄張内を荒らされてる様な気が仕てます、矢先へ二十一本というものを、続けざまに拝見させられましたから、焼餅が焼けて堪らなかったと見え、何でも一時ごろでしたろう、十杯許の船が一緒になって、文句を言いに来たです。』 漁『それは、怖いこったね。』 船『全く怖かったです。此地の船を取り巻いて、「おい、お前は何処の漁師だ」と、斯ういう切っかけです。「何処の漁師でもない、素人だ」と言いますと、「其様なに隠さずとも好いだろう、相見互だもの、己等の付合も為てくれたって、好さそうなもんだ」など、嫌味を言って、強請がましいことを、愚図々々言ってますのです。私も顔を知らない中では無し、黙っても居られませんから、宥めてやりましたので、何事も無くて済みましたが、お客を預かってて、若しもの事でも有れば、此の松吉の顔が立ちませんから、ちと心配しましたよ。ただ、何の事は無い、「素人で左様釣っては、商売人の顔を踏み付けた仕打ちだ、大抵好い加減に釣ってれば好いに」という、強談なのです。』 漁『上手な釣師も険呑だね、僕等では、其様な談判を持ち込まるる心配も無いが。アハハ……。』 船『私も随分永く此川に、釣を商売にしてますが、ああいう大釣は、これまでに無いですよ。何だって、一本五貫ずつにしましても十二両、十貫にすりゃ二十一両の仕事ですもの。どうも、お茶屋さんは、えらいですよ。』 漁『そう当っては、素人釣とは言われないね。立派な本職だ。』 船『本職が何時も敵はないんですもの。』  お茶屋主人の好く釣ること、聴く毎に嘆賞すべきことのみにて、釣聖の名あるも空しからざるを知りぬ。 船『私どもを連れて来ましても、船を扱わせるだけで、場所の見立ては、何時も御自身なのです。も一尺岡によれとか、三尺前に進めろとか、鈎先はそりゃ喧ましいです。それだから又釣れますので、幾ら名人でも、地が分らなくては釣れっこ無しです。時によると、遙々お出になっても、水色が気に入りませんと、鈎をおろさずにふいとお帰りになります。こればかりでも並のお方の出来ないことですよ。』 『左様だて、来た以上は、少し位水色が悪かろうが、天気が悪かろうが、鈎おろさずに帰るということは出来ないさ。聴けば聴く程感心な、奇麗な釣だね。』  釣り場は、僅数町の上流なるにぞ、間も無く漕ぎ着きぬ。漁史は、錨綱を繰り放つ役、船頭は牁突く役にて、前々夜、夫のお茶屋釣聖のかかりという、切っぷの大巻きに鈎尖の漂う加減に舟を停めぬ。日光水面を射て、まぶしさ堪えがたかりしも、川風そよそよと衣袂を吹き、また汗を拭う要無し。  仕掛、座蒲団などを舳の間に持ち往きて、座を定め、水色を見ながら、錐打ち鈴刺す快心、得も言われず。 漁『ランプの油やマッチは、受合だろうね。』 船『出る前に、すっかり見て置きました。』 漁『それなら好いが……。松さんの前で、そう言っちゃ何だが、でも船頭に限って吃度忘れ物をするのでね。水を忘れた、餌入を忘れた、焚付を忘れたなんて、忘れ物をされると、折角楽みに来ても、却って腹立てる様になるからね。此の前、鱚の時に、僕の品匡を忘れられて、腹が立って立って堪らんから、そのまま漕ぎ戻らせて仕舞ったこと有ったが。』 船『何一つ不足でも、思う様な戦争出来ませんよ。釣だと思うからですが、生命のやり取りをする戦争だと思えば、淦取一つでも忘れられる筈無いですが。』 漁『ほんに、其の心がけでやってくれるから、嬉しいね。ア、餌入れ、日に当てない様にして下さい。』 船『半天かけておきましたから、大丈夫です』 漁『それなら好いが……。今日は、袋持って来たよ。』 船『袋は結構です。どうしても、えら物が来るようです。お茶屋さんも、袋でした。』  小桶の水に漬け置ける綸巻取り出し、そろそろ用意を始む。鈎は、四分なれば、其の太さ燐寸の軸木ほどにて、丈け一寸に近く、屈曲の度は並の型より、懐狭く、寧ろひょっとこに近く、怪異なり。漁史自ら「鈎政」に型を授けて、特に造らせしものに係る。これを結びたる天糸は、本磨き細手の八本撚りにて、玲瓏たる玉質、水晶の縄かとも見るを得べく、結び目の切り端の、処々に放射状を為すは、野蚕の背毛の一叢の如し。十五匁程の鉛錘は進退環によりて、菅絲に懸る。綸は太さ三匁其の黒き事漆の如く、手さわりは好くして柔かなるは、春風に靡く青柳の糸の如し。されども之を夫の鮒鱮を釣る織細の釣具に比する時は、都人士の夢想にも及ばざる粗大頑強のものたるは言うまでもなし。  さて、小出し桶に受取りし餌を摘み取り、糸女、沙蚕三十筋ばかりと、袋餌数筋を刺す。其の状、恰も緋色の房の如く、之を水に投ずれば、一層の艶を増して鮮かに活動し、如何なる魚類にても、一度び之を見れば、必ず嚥下せずには已むまじと思われ、愈必勝を期して疑わず。  二仕掛を左右舷に下し終り手を拭いて烟を吹く時。後の方には、船頭の鈴を弄する声す。亦投綸に取りかかりたるを知る。  彼是する間に、水光天色次第に金色に変じ、美しさ言うばかり無し。常の釣には暮色に促されて竿を収め、日の短きを恨みて、眷々の情に堪えざるを、今日のみは、これより夜を徹せん覚悟なれば、悠々として帰心の清興を乱す無く、殊に愈本時刻に入るを喜ぶは、夜行して暁天に近づくを喜ぶに同じく、得意の興趣、水上に投射せる己が影の長きより長し。  舷に倚り手を伸べて右の示指に綸を懸け、緩く進退しながら、 漁『松さん、鈴よりか、指の方が、脈を見るに確だね。』 船『左様です。始終、指だけで済みますなら、それに越したこと有りませんよ。鈴の方は、先ず不精釣ですもの……。』 船『どうも、そうの様だて。鈴では、合せる呼吸を取り損ねる気がして……。』 船『此間、根岸の旦那と、植木やの親方の来ました時、後で大笑いなのです。』 漁『お二人一緒に釣ってまして、植木やさんが水押に出てお小用してますと、「チリン」、と一つ来ましたので、旦那が、「おい、お前のに来てるよ」と、仰有る内に、綸をするするするする持ってきますが、植木やさんは、少し痲の気でお小用が永いですから、急に止める訳にもいかず、此方を振り反って見て、「おいおい、そう引くな、少し待って呉れ」と言ってたというのです。』 船『旦那は、余程、合せてやろうかと、一旦は手を伸べたそうですが、若しも逸らして、後で恨まれてはと、思いなすって、「おいおい引いてくよ、引いてくよ」と、仰有るだけなもんでしたから、植木屋さんは、猶々気が気で無く、やっとの事で降りて来ましたが、綸は、ずっと延びてますので、引いて好いのか、出さなければ悪いのか、一寸は迷って仕舞って、綸に手をかけて見たものの、仕様無かったと、言ってました。』 漁『水押の上では、随分、気を揉んだろう。見てやりたかったね。どうしたろ。挙ったか知ら。』 船『挙ったそうでした。三歳が……。』 漁『運の好い時には、そういうことも有るんだね。』 船『全く運ものですよ。此間、お茶屋の旦那の引懸けたのなどは、引いては縦ち、引いては縦ち、幾ら痿やそうとしても、痿えないでしよう。やや暫くかかって漸く抄い上げて見ると、大きな塩鮭程なのでしょう。私が急いで雑巾を取るか取らないに、(顎の骨にて手を傷つけらるるを恐れ、鱸をおさえるには、皆雑巾を被せておさえる習いなり)ずとんと、風を切って一つ跳ねるが最後、苫を突きぬいて、川中へ飛び込んで仕舞ったです。全で落語家の咄しっても無いです。が、綸はまだ着いてましたので、旦那は急いで綸を執る、私は苫を解すで、又二度めの戦争が始まりましたが、どうかこうか抄い上げました。其時私は、思はず鱸の上に四ん這いになって、「今度は逃がすものか、跳ねるなら跳ねて見ろ」って、威張りましたよ。旦那が、後で、「お前が腹這いになった時の様子っては無かった。鱸と心中する積りだったのだろう」って、お笑いでしたが、あれらは、能くよく運の尽きた鱸でしたろう、不思議に鈎が外れないでましたもの。』 漁『それは、珍らしい取組みだったね。三尺といっちゃ、聴いただけでも、ぞくぞくするね。其様な化物が出るから、此地で行りつけると、中川や新利根のは、鱸とは思われないのだね。』  斯ること相話しながら、神を二本の綸に注ぎ、来るか来るかと、待ちわびしが、僅に、当歳魚五六尾挙げしのみにて、終に一刻千金と当てにしたりし日も暮れぬ。  薄暗き小ランプを友として、夕飯を喫す。西天を彩れる夕映の名残も、全く消え果て、星の光は有りとは言へ、水面は、空闊にして、暗色四面を鎖し、いよいよ我が船の小なるを想うのみ。眼に入るものは、二三の漁火の星の如く、遠くちらつくと、稀に、銚子行汽船の過ぐるに当り、船燈長く波面に揺き、金蛇の隠現する如きを見るのみにして、樹林無く、屋舎無く、人語馬声無く、一刻一刻、人間界より遠ざかる。唯、蚊の襲来の多からざると、涼風衣袂に満ちて、日中の炎塵を忘るるとは、最も快適の至りにして、殊に、ここ暫くの勝負と思えば、神新に気更に張る。  されば、更るがわる鈎を挙げて、餌を更め、無心にして唯中りを待ちけるに、一時間許り経ける時、果して鈴に響く。直ちに、綸を指して試むれば、尚放れざるものの如く、むずむずと二つ三つ感じたり、即ちそと引きて合せたるに、正に手応えありて懸りたるを知る。 『来たよ。』と叫びながら、両手にて手繰り始むれば、船頭直ちに、他の一仕掛を挙げ尽し、鈴をも併せ去りて、搦まるを予防しつつ、 『大きがすか。』という。身を少し前に屈め、両手を、船の外に伸べて、綸を手繰れる漁史は、喜ぶ如く、悲む如く、 『幾ら大きいか知れないよ。船でも引き寄せるようだ』と答えれば、船頭已に玉網を手にして起ち、『急いではいけません、十分で弱りきるまで痿やして。』と言いつつ例の如く、直ちに水押の上に俯して、半身殆ど船外に出し、左手を伸べて、綸を拇指と示指の間に受け、船底にかき込まるるを防ぎ、右手に玉網の柄を執りて、介錯の用意全く成れり。  漁史は、手応の案外強きに呆れ、多少危懼せざるに非ざれども、手繰るに従いて、徐々相近づくにぞ、手を濡らしつつ、風強き日の、十枚紙鳶など手繰る如く、漸く引き寄す。  思の外、容易に近づくか知らと、喜ぶ時、船前五間許の処にて、がばがばと水を撥ねたるは、十貫目錨を投じたる程の水音にて、船は為めに揺られて上下せり。  これと同時に、敵は全力を振いて、延し始めたれば、素より覚悟のこととて、左右三指ずつにて、圧を加えながら繰り出す、その引力の強き、指さきの皮剥けんかと思うばかりなり。  彼是二十尋ばかり引き去りて、止まりたれば、即ち又手繰れるに、ごつごつと、綸に従きて近づく様明に知れ、近づきては又急に延し、其の勢いの暴き、綸はびんびん鳴りて、切るるか切るるかと、胸を冷せしことを一再のみならず。漁史綸を出しながら小声に、『何だって、馬鹿に強いよ。』と言えば、死したる如く、水押に俯伏して動かざる船頭、 『左様でしょう。六年ですよ。此の調子では、また一寸には痿えますまい。』と声を低めて言う。 漁『切られるかと思って、何だか怖くなって来た。』 船『なアに大丈夫です。気永くおやりなさい。』  漁史の動悸は、一秒毎に高まり来り、嬉しいには相違なきも、危惧の念亦一層強く、たとえ十分信頼せる釣具にせよ、首尾よく挙げ得るや否やを、気遣うことも頻りなり。  引き寄せては引かれ、寄せては引かれ、数回くり返せども、敵の力は、少しも衰えず。其の引き去るに当りては、一気直に海洋まで逸し去らんとするものの如く、綸の弾力部を全く引き尽して、また余力を存せず、屡、奇声を発す。されども、暗中ながら、綸を紊すことも無く、力に従いて相闘いしかば、三十分許りの後には、船頭の助けを得て、沈を手元に引き留むるを得たり。  既に沈を上げし上は一安心なり、早く挙げ終りて、船頭の苦みを除きたしと、引く時は、敵を怒らしめざるように処女の如く引き、引かるる時は、船まで引き去られん勢に逢い、鰓洗う声の、暗中に発する毎に、胸を刺さるる如き思いを為し、口食ひしめ、眼見張りて、両手は殆んど水に漬け続けなり。  ただ、根競べにて、勝を制せんと思うものから、急らず逼らず、擒縦の術を尽せしが、敵の力や多少弱りけん、四五間近く寄る毎に、翻然延し返したる彼も、今回は、やや静かに寄る如く、鈎𧋬の結び目さえ、既に手元に入りたれば、船頭も心得て、玉網を擬し、暗流を見つめて、浮かば抄わんと相待つ。此方は、成るべく、彼を愕かさじと、徐々と、一尺引き五寸引き、次第に引き寄せしが、船前六尺ばかりにて、がばと水を扇りて躍り、綸の張り卒然失せぬ。逸し去りしなり。 『ちェッ』と舌打ちして、二三秒間、綸を手にせるまま、船前を見つめしが、次で船内にどっと打ち伏して無言なり。今まで、一時間近く、水押に水を漬せる船頭は、玉網片手にすごすご身を起し来りて。 『どうなさりました。』と、漁史の肩に手かけ、少し揺りつつ問えども、答えず。実は、泣き居しなりき。拳を振りしめたるに顔を当て、思えば思う程、腸は煮返る如くにて、熱涙は自ら禁ぜず。  船頭は、悄然として再び、『お気の毒でしたね。』と慰む。伏したる漁史の口よりは、微かに、『どうも、お前にも気の毒で。』 船『なアに、私などに、其様な御遠慮はいりませんよ。水ものですもの、何方だって……。』  漁史は、これには、返辞無かりし。船頭は急病人の看護者の如く、暫く其の側を離れざりしが、『また幾らも来ますから……』とて、静に坐に直り、綸を埋めて、更め投下しぬ。  漁史は、徐に身を起し、両腕拱きて首を垂れしまま、前に輪を為せる綸を埋めんともせず、小ランプに半面を照されて、唯深く思いに沈むのみなり。  茶屋の主人なる人常に言えり。世人、釣り落せし魚は、大きなるものなりと、嘲り笑えども、釣師の掛直のみならず、釣り落せしは実に大きなり。一尺のものを目当てに釣るに、三尺なるが懸る故に逸らすなり。されども、この三尺なるは、頻々懸るものに非ざれば、之を挙げ得て、真の釣の楽みあるなり。故に、釣具にも、術にも、十分の注意を要するなりと言えり。  彼の人又言えり。釣に適したる水加減、天気工合の、申し分無き日とては、一年に僅三日か五日なり、此の、僅の日に釣りたるだけにて、一年の釣楽は十分なりと。実に、彼の人は、夏の土用より、彼岸までに、出遊する日は、僅に指を屈するに過ぎず。彼岸となれば、釣具を深く蔵めて、釣の話しだにせず、世の紛々たる、釣師の、数でこなす派のものを、冷眼に見て、笑えり。其の代り、彼の人の出遊する毎に、必ず満籃の喜び有り、一たび鈎を投ずるを惜むこと金の如く、投ずれば、必ず好結果を期待して誤らず。恰も、台湾生蕃の、銃丸を惜むこと生命の如く、一丸空しく発せず、発せば必ず一人を殪すに似たり。実に、思えば思う程、男らしき釣なり。  その代り、釣具其の他に対する注意も、極めて周到緻密にして、常人に同じからず。たとえば、鈎は自ら新型を工夫して、製作せしめたるを、一本ずつ、其の力を試験したる上ならざれば用いず、それすら、一尾釣り挙げし毎に、新物に改めて再び用いしことなし、綸の如きも、出遊毎に、数寸ずつ切り棄てて、𧋬との結びめを新にし、疲れたる綸𧋬を用いず、言わば、一尾を釣る毎に、釣具を全く新にするなり。鈎をおろすに方りて、大事とること総て此の如くなれば、一旦懸りたる魚は、必ず挙げざる無く、大利根の王と推称せらるるも理りなり。  よし、三つ児のおろせし餌にせよ、魚の呑むには変り無し、ただ之を拳ぐるが六ヶしきにて、釣師の腕の巧拙は、多くここに在り。然るに、予が今の失敗は何事ぞ、鈎折れしか、𧋬切れしか、結び目解けしか、或は懸りの浅かりしにや、原因の何れにあるを問わず、一旦懸りしものを逸らせしは、返す返すも遺憾なり。ああ口惜しきことしたり、此の取り返しは、一生の中に、又と望むべからず、思えば思うほど残念なり。其の癖、綸は、今年おろして間も無く、腐蒸居るべしとも思われず、綸の長く延び居る際は、思いの外安全なれども、近く寄せて格闘する際に、不覚を取ること多きは、予も知らざるに非ず。されば、沈より先きなる𧋬は、大事の上にも大事を取り、上○の八本よりを用いたれば、容易に切るるべしとは思わず。水にふやけて弛みし節の解けたるにや。一回毎に切り棄てることを敢てせざりし為めに、鈎近くの𧋬の疲れ居て、脆く切れたるにや、何れにしても、偶に来れる逸物を挙げ損ねたるは、釣道の大恥辱なり。ただ一尾の魚を惜むに非ず。釣道の極意を得ざりしを惜むなり。と、兎さま角さまに、苦悶し、懊悩し、少時は石像木仏の如し。船頭、余り気を落せるを見て、 『旦那如何です。此の潮の好い処を、早くお行りになりませんか。』と励ませども身体は尚少しも動かず、『そうだね』と力無き返事せるのみにて、気乗りせず、尚悔恨の淵に沈む。  やがて、豁然として我に返り、二タ仕掛の綸を、餌入の上に致し、一箱のマッチを傾けて火を点ずれば、濡れたるものながら、火燄を高めてぱっと燃え、奇臭鼻をつく。船頭見て愕き、走り来りて、 『どうなさいますのです。何かお腹立ちなのですか。』と、燃え残りの綸屑𧋬屑を掻き集めて、再び燃さんとせし漁史の手をおさえて言う。 漁『其様なわけでないのだから、決して悪く思って呉れては困るよ。僕は、今夜はよす。』 船『其様な気の弱いことっては有りますか。お行りなさい、私の仕掛も有りますし。』 漁『仕掛は、僕の方にも有るが、もう行らない。彼是一時間かかって痿やしたものを、逸らすなんて、余り気の利かない話しだから、記念の為めに、今夜は帰るよ。』 漁『どんなのでも、懸ったら最後、逃しっこ無しというが、真の釣だろう。それを、中途で逸らすようでは、岡っ張で、だぼ沙魚を対手にしてる連中と、違い無いさ。随分永らく釣を行った癖に、今夜の不首尾は、自分ながら呆れるよ。それやこれやに就て、思えば思う程、浅草の方は感心で堪らぬ。彼の人の様に、僅五日三日きり出ずとも、他人の一年間釣る量よりも多い程釣り挙げて、十分楽むのが本当だろう。僕も、今日以後は、念には念を入れて、苟もしないと言う方針を取り、粗相だの、不注意だのということは、薬にしたくも無い様にしよう、折角出て貰って、ここで帰るのは残念だが、跡の薬になるから、今夜は戻ろう。』  と、理を説きて帰航を促したれば、船頭も、意解けて、釣具を納め、錨を挙げ、暗流を下りけるが、更に再遊を約して、相分れき。  再び汽車に乗り、家に帰りしは、十時近にして、廊下に涼を納れ居たる家族は、其の思いがけ無き早帰りを訝りぬ。されども、漁史は、発刺たる鮮鱗以外、大なる獲物を挙げしを喜び、此の夜は、快き夢を結びき。
底本:「日本の名随筆4 釣」作品社    1982(昭和57)年10月25日第1刷発行    1990(平成2)年10月31日第16刷発行 底本の親本:「釣師気質」博文館    1906(明治39)年12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:冬木立 校正:noriko saito 2010年7月14日作成 2011年4月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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  上  元日に雨降りし例なしといふ諺は、今年も亦中りぬ。朝の内、淡雲天を蔽ひたりしが、九時ごろよりは、如何にも春らしき快晴、日は小斎の障子一杯に射して、眩しき程明るく、暖かさは丁度四五月ごろの陽気なり。  数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。  机の前の座に着けば、常には、書損じの反故、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、特に小さつぱりなれば、我ながら嬉し。  頬杖をつき、読みさしの新聞に対ひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字ばかりなるにて、終うと〳〵睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさし覘けば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶は可なり飛颺して見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、些しも揺がず。  扨も〳〵穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日とては、真に指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和なれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、熨したる如く、船も竿も静にて、毛ほどの中りも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、嘸好かるべし。この陽気にては、入れ引に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃は嘸面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭の孤舟に騁せ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。  やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自ら創めしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。併し、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝ念を霽らし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車を勢よく奔らせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、詮ずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり〳〵、往かう〳〵と、同しきことを黙想す。  されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかた仁にて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、故ら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、予の留守にて、空しく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をも為ぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、兎さま角さま思ひ煩ひし上句、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。  一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題を、所謂ヌーボー流に描き、五遍七遍の色版を重ねて、金朱絢爛たるも有り。さて〳〵凝りしものかな、とは思ふものゝ、何と無く気乗りせず、返事は晩にせんと、其のまゝ揃へて、又机の上に重ぬ。  顔のほてりは未だ醒めず、書読むも懶し、来客もがなと思へど、客も無し。障子に面して、空しく静座すれば、又四日の出遊は、岡釣にすべきか、船にすべきか、中川に往かんか、利根川(本名江戸川)にせんかなど、思ひ出す。これと同時に、右の手は無意識に自ら伸びて、座右の品匣(釣の小道具入)を引き寄せぬ。綸巻を取り出しぬ。検め見れば、鈎※(虫+糸)、沈、綸など、紊れに紊れ、処々に泥土さへ着きて、前回の出遊に、雪交りの急雨に降ひ、手の指亀みて自由利かず、其のまゝ引きくるめ、這々の体にて戻りし時の、敗亡の跡歴然たり。  銅盥に湯を取らせ、綸巻を洗ひかけしに、賀客の訪ふ声あり。其のまゝ片隅に推しやり、手を拭ひながら之を迎へ入る。客は、時々来る年少技術家にて、白襟の下着に、市楽三枚重ね、黒魚子五つ紋の羽織に、古代紫の太紐ゆたかに結び、袴の為めに隠れて、帯の見えざりしは遺憾なりしも、カーキー色のキヤラコ足袋を穿ちしは明なりし。先づ、新年おめでたうより始まりて、祝辞の交換例の如く、煮染、照りごまめも亦例の如くにて、屠蘇の杯も出でぬ。   下  客は早くも、主人の後方なる、品匣に目をつけて、『釣の御用意ですか。』 と、釣談の火蓋を切りぬ。主人は、ほゝ笑みながら、 『どうも、狂が直らんので……。斯の好い天気を、じツと辛抱する辛さは無いです。責めては、道具だけも見て、腹の虫を押へようと思ツて、今、出しかけた処なんです。』と、又屠蘇をさしぬ。  客は更に、『只今釣れますのは、何です。』 と、問ひ返しぬ。この質問は、来る客毎に、幾十回か発せられし覚え有り、今斯く言ふ客にも、一二回答へしやうには思ふものゝ、此の前に答へし通りとも言ひ兼ねて、 『鮒ですよ。鱮は小さくて相手に足りないし、沙魚も好いですが、暴風が怖いので……。』と、三種を挙げて答へぬ。  客『この寒さでは、とても、餌を食ふ気力無さゝうに思はれますが、よく釣れたものですね。』  主『鮒の実際餌つきの好いのは、春の三四月に限るですが、寒い間でも、潮のさす処なら、随分面白く餌つくです。他の魚は、大抵餌つきの季節が有ツて、其の季節の外には、釣れないですが、鮒計りは、年中餌つくです。だから、能く〳〵好きな者になると、真夏でも何でも、小堀を攻めて、鮒を相手に楽んでるです。食べては、寒に限るですが…………。』  客『どうも寒鮒は特別ですね。』  主『さうです。まア十一月頃から、春の三月一杯が、鮒釣の旬でせう。其の外の季節のは骨は硬し味はまづし、所詮食べられんです。  主『千住の雀焼が、彼の通り名物になツてゝ、方々で売ツてゝも、評判の中兼だけは、常の月には売らんです、十一月後のでなくては…………。』  客『銃猟に出る途で、よく千住の市場に、鮒を持ち出す者に逢ふですが、彼れは養魚池からでも、捕ツて来るのでせうか、』  主『なアに、皆柴漬です。それでなくては、彼様なに揃ひやう無いです。』  客『柴漬ツて何ですか。』  主『柴漬ですか。秋の末に、枝川や用水堀の処々に、深い穴を堀り、松葉や竹枝などを入れて置くです。すると、寒くなり次第、方々に散れてる鮒が、皆この、深くて防禦物の多い、穴の内に寄るです。其れを、お正月近くの直の良い時に、掻い掘ツて大仕掛に捕るです。鯉、鯰、其の外色々のものも、一緒に馬鹿々々しく多く捕れるさうです。  主『枝川や、汐入りの池の鮒は、秋の末の出水と共に、どん〴〵大川の深みに下ツて仕舞ふです。冬の閑な間、慰み半分に、池沼の掻掘りをやる者も、大川に続いてるか、続いてないかを見て、さうしてやるです。若し、続いてるのをやツたのでは、損ものです。既に大川に下りきツて、何も居らんですから。柴漬は、この、大川に下るのを引き止めておく、鮒の溜りなのです。  主『柴漬といへば、松戸のさきに、坂川上といふて、利根川(本名は江戸川)に沿ふて、小河の通ツてる処あるです。村の者が、こゝに柴漬して、莫大の鮒を捕るのですが、又、此処を狙ツてる釣師もあるです。見つけても叱らないのか、見付かツたら三年目の覚悟でやるのか、何しろ馬鹿に釣れるです。  主『丁度今が、其処の盛りですが、どんな子供でも、三十五十釣らんものは無いです。彼処の釣を見ては、竿や綸鈎の善悪などを論じてるのは、馬鹿げきツてるです。  主『葭の間を潜ツて、その小川の内に穴(釣れさうな場処)を見つけ、竿のさきか何かで、氷を叩きこわし、一尺四方許りの穴を明けるです。そこへ、一間程の綸に鈎をつけ、蚯蚓餌で、上からそーツとおろすです。少し中りを見て、又そーツと挙げさへすれば、屹度五六寸のが懸ツて来るです。挙げ下げとも、枯枝、竹枝の束などに引ツかけないやうに、徐かにやるだけの辛抱で、幾らも釣れるです。彼処の釣になると、上手も下手も有ツたもんで無く、只、氷こわし棒の、長いのでも持ツてる者が、勝を取るだけですから…………。』 此の時、宛も下婢の持ち出でゝ、膳の脇に据えたる肴は、鮒の甘露煮と焼沙魚の三杯酢なりしかば、主人は、ずツと反身になり、 『珍らしくも無いが、狂の余禄を、一つ試みて呉れ給へ。煖かいのも来たし…………。』 と、屠蘇を燗酒に改め、自らも、先づ箸を鮒の腹部につけ、黄玉の如く、蒸し粟の如き卵を抉り出しぬ。客は、杯を右手に持ちながら、身を屈めて皿中を見つめ、少し驚きしといふ風にて、 『斯ういふ大きいのが有るですか。』と問ふ。 客の此一言は、薪に加へし油の如く、主人の気焔をして、更に万丈高からしめ、滔々たる釣談に包囲攻撃せられ、降伏か脱出かの、一を撰ばざるべからざる応報を被る種となりしぞ、是非なき。  主『誰でも、此間釣ツたのは大きかツたといふですが、実際先日挙げたのは、尺余りあツて、随分見事でした。此れ等は、また、さう大きい方で無いです。併し、此様なのでも、二十枚も挙げると、…………さうですね、一貫目より出ますから、魚籃の中は、中々賑かですよ。鮒は全体おとなしい魚で、たとひ鈎に懸ツても、余り暴れんです。寒中のは殊にすなほに挙るですが、此の位になると、さう無雑作にからだを見せず、矢張鯉などの様に、暫くは水底でこつ〳〵延してるです。其れを此方は、彼奴の力に応じて、右に左にあしらツて、腹を横にしても、尚時々暴れるのを、だまして水面を徐にすーツと引いて来て、手元に寄せる、其の間の楽みといふたら、とてもお話しにならんですな。』  客『此の身幅は、全で黒鯛の恰好ですね。』 客も亦、箸を付けて、少しくほぐす。  主『鮒は、大きくなると、皆此様な風になるです。そして、泥川のと違ひ、鱗に胡麻班など付いてなくて、青白い銀色の光り、そりやア美しいです。話し許りじやいかんから、君解してくれ給へ。』  客『え、自由に頂きます。此れは、何処でお釣りになツたのです。』  主『江戸川です。俗に利根利根といふてる行徳の方の…………。』  客『随分遠方までお出になるですな。四里は確にございませう。』  主『その位は有るでせう。だが、行徳行の汽船が、毎日大橋から出てるので、彼れに乗るです。船は方々に着けるし、上ると直ぐ釣場ですから、足濡らさずに済むです。彼の船の一番発は、朝の六時半でして、乗客の六七分は、何時も釣師で持ち切りです。僕等はまだ近い方で、中には、品川、新宿、麻布辺から、やツて来る者も大分有るです。まア、狂の病院船でせう。』 主人の雄弁、近処合壁を驚かす最中、銚子を手にして出で来れるは、細君なり。客と、印刷的の祝詞の交換済みて、後ち、主人に、 『暖い処をお一つ。』と、勧むるにぞ、 主人、之を干して、更に客に勧むれば、客は、 『まだ此の通り…………』と、膳上の杯を指して辞退しつゝ受く。  細『何もございませんが、どうぞ、召上つて…………。』  客『遠慮なしに、沢山頂戴しました。此の鮒は、どうも結構ですな。珍らしい大きなのが有ツたもんですな。』  細『昨日も宿と笑ひましたのでございます。鮒釣鮒釣と申しまして、此の寒いに、いつも暗い内から出まして、其れも、好く釣れますならようございますが、中々さうも参りません。  細『これは、昨日何時も川魚を持ツて来ます爺やから取りましたのでございますが、さう申しては不躾ですけれども、十仙に二枚でございます。家にじツとしてゝ取ります方が、何の位お廉いか知れませんです。』 と、鮒の出処の説明に取りかゝる。 主人は、口を特に結びて、睨みつけ居たりしが、今、江戸川にて自ら釣りしといひし鮒を、魚屋より取りしと披露されては、堪へきれず、其の説の終るを待たず、怒気を含みて声荒々しく、 『おい〳〵、此の鮒は、僕の釣ツたのだらう。』  細『左様じやございませんよ。昨日、千住の爺やが持ツて参ツたのでございます。』  主『僕の釣ツたな、どうして。』  細『何時まで有るもんですか。半分は、焼きます時に金網の眼からぬけて、焦げて仕舞ひましたし、半分は、昨日のお昼に、召し上りましたもの。』  主『さうか。これは千住のか。道理で骨が硬くて、肉に旨味が少いと思ツた。さきから、さう言へば好いに…………。』 きまり悪さの余り、旦那といふ人格を振り廻して、たゞ当り散らす。客は気の毒此の上なく、 『千住でも、頗る結構です。』など、 言ひ紛らせども、細君は、其の仔細を知る由なく、唯もみ手して、もぢ〴〵するのみなり。一座甚だ白けたりければ、細君は冷めたる銚子を引きてさがる。主人、更に杯を勧めて、 『此様な不美のを買ツたりして、気の利かないツて無いです。』と罪を細君に嫁す。客は、 『大分結構ですよ。』と、なだめしが、此の場合、転換法を行ふに如かずと思量してか、 『随分お好きの方が多いですが、其様なに面白いものでせうか。』と 木に竹を接ぐ問を起す。 『骨牌、茶屋狂ひ、碁将棋よりは面白いでせう。其れ等の道楽は、飽きて廃すといふこともあるですが、釣には、それが無いのですもの。』 至つて真面目に答へたりしが、酔も次第に廻り来りしかば、忽ち買入鮒以前の景気に直り、息荒く調子も高く、  主『深さは、幾尋とも知れず、広さは海まで続いてる水の世界に、電火飛箭の運動を為てる魚でせう。其れを、此処に居るわいと睨んだら、必ず釣り出すのですから、面白い筈です。  主『物は試しといふから、騙されたと思ツて、君もたツた一度往ツて見給へ。彼奴を引懸けて、ぶるぶるといふ竿の脈が、掌に響いた時の楽みは、夢にまで見るです。併し、其れが病みつきと為ツて、後で恨まれては困るが…………。』  客『幾らか馴れないでは、だめでせう。』  主『なアに釣れるですとも。鮒ほど餌つきの良い魚は無いですから、誰が釣ツても上手下手無く、大抵の釣客は、鮒か沙魚で、手ほどきをやるです。鯉は、「三日に一本」と、相場の極ツてる通り、溢れることも多いし、鱚、小鱸、黒鯛、小鰡、何れも、餌つきの期間が短いとか、合せが六ヶしいとか、船で無ければやれないとか、多少おツくうの特点有るですが、鮒つりばかりは、それが無いです。長竿、短竿、引張釣、浮釣、船に陸に何れでもやれるし、又其の釣れる期間が永いですから、釣るとして不可なる点なしで、釣魚界第一の忠勤ものです。  主『殊に、其の餌つき方が、初め数秒間は、緩く引いて、それから、徐かにすうツと餌を引いてく。其の美妙さは、全で詩趣です。  主『沙魚も、餌つきの方では、卑下を取らず、沢庵漬でも南京玉でも、乱暴に食い付く方ですが。其殺風景は、比べにならんです。仮令ば、沙魚の餌付は、でも紳士の立食会に、眼を白黒して急き合ひ、豚の骨を舐る如く、鮒は妙齢のお嬢さんが、床の間つきのお座敷に座り、口を細めて甘気の物を召し上る如く、其の段格は全で違ツてるです。  主『合せ方(引懸けるを合せといふ)といふて、外に六ヶしいことなく、第一段で合せて、次段で挙げる丈けですが…………。』 と言ひかけしが、起ちて、椽側の上に釣れる竿架棚の上なる袋より、六尺程の竿一本を抽き取り来りて、之を振り廻しながら、  主『竿は長くても短くても、理窟は同しですが、斯う構へて中りを待ツてるでせう。やがて、竿頭の微動で、来たなと思ツても、食ひ込むまで、構はず置くです。鮒ですから…………。幾らか餌を引いてくに及んで始めて合せるです。合せるとは引くことで、たとへば、竿の手元一寸挙げれば、竿頭では一尺とか二尺挙り、ふわりと挙げると、がしツと手応へし、鈎は確かに彼奴の顎に刺さツて仕舞ひ、竿頭の弾力は、始終上の方に反撥しようとしてるので、一厘の隙も出来ず、一旦懸ツたものは、外れツこ無しです。竿の弾力も、この為めに必要なのです。斯う懸けてさへ仕舞へば、後はあわてずに、綸を弛めぬ様に、引き寄せるだけで、間違ひ無いです。  主『然るを、初心の者に限ツて、合せと挙るを混同し、子供の蛙釣の様に、有るツ丈けの力で、かう後の方へ、蜻蛉返り打せるから…………。』 と立膝に構へて、竿を宙に跳る途端に、竿尖は楣間の額面を打ちて、みりツと折れ、仰ぎ見て天井の煤に目隠しされ、腰砕けてよろ〳〵と、片手を膳の真只中に突きたれば、小皿飛び、徳利ころび、満座酒の海となれり。主人は、尚竿を放たず、 『早く〳〵、手拭持つて来い。早く〳〵。』 と大に叫ぶ。客は身をひねりて、座布団の片隅を摘み上げ、此の酒難を免れんとしたりしが、其の時既に遅く、羽織と袴の裾とは、酒浸しとなり、 『少しきり、濡れませんでした。』 と、自ら手拭出して拭きたりしも、化学染めの米沢平、乾ける後には、定めて斑紋を留めたらん。気の毒に。 主人は、下婢に座席を拭かせ、膳を更めさせながら又話しを続けたり。  主『合せが頑固ですと、斯様な失敗を食ふです。芝居の御大将計りで無く、釣は総て優悠迫らず有りたいです。此処にさへ御気が付けば、忽ち卒業です。どうです、一度往ツて見ませんか。僕は此の四日に往くですが…………。』  客『竿は、何様なのが好いです。一本も持ちませんが。』 少しは気の有りさうなる返事なり。  主『あの通り、やくざ竿が、どツさり有るですから、彼れを使ひ給へ。使はんでおくと、どうせ虫くふていかんです。』と、竿架棚を指し言ふ。  客『只の一疋でも、釣れゝば面白いですが、釣れませうか。』 此れ、釣りせざる者の、必ず言ふ口上なり。  主『そりア、富籤と違ツて、屹度釣れる保証をするです。若し君が往くとすれば、僕は必勝を期して、十が十まで、必ず釣れる方策に従ふから、大丈夫です。此の節の鮒釣には、河の深みで大物を攻めるのと、浅みに小鮒を攻めるのと、又用水堀等の深みで、寄りを攻めるのなど、いろ〳〵有るですが、必ず外れツこ無しを望むには、型の小さいを我慢して、この第二法をやるです。君が釣ツても、一束は楽に挙り、よく〳〵の大風でもなければ、溢れる気使ひは決して無いです。朝少し早く出かけて、茅舎林園の、尚紫色、濛気に包まれてる、清い世界を見ながら、田圃道を歩く心地の好いこと、それだけでも、獲物は已に十分なのです。それから、清江に対して、一意専心、竿頭を望んでる間といふものは、実に無我無心、六根清浄の仏様か神様です。人間以上の動物です。たツた一度試して見給へ。二度目からは、却ツて、君が勧めて出るやうにならうから…………。』 と、元来の下戸の得には、僅一二杯の酒にて、陶然酔境に入り、神気亢進、猩々顔に、塩鰯の如き眼して、釣談泉の如く、何時果つべしとも測られず。客は、最初より、其の話を碌々耳にも入れず、返辞一点張りにて応戦し、隙も有らば逃げ出さんと、其の機を待てども、封鎖厳重にして、意の如くならず、時々の欠伸を咳に紛らし、足をもぢ〴〵して、出来得る限り忍耐したりしも、遂に耐へられずして、座蒲団を傍に除け、 『車を待たせて置きましたから…………。』 と辞して起たんとす。主人は、少しも頓着せず、  主『僕も、車を待たせて、釣ツたことあるです。リウマチを病んでた時、中川の鮒が気になツて堪らず、といふて往復に難義なので、婚礼の見参と、国元の親爺の停車場送りの外は、絶えて頼んだことの無い宿車を頼んで、出かけたです、土手下に車を置かせ僕は川べりに屈んで竿をおろしたでせう。  主『初めの内は、車夫が脇に付いてゝ、「旦那まだ釣れませんか、まだ釣れませんか」と、機嫌を取りながら、餌刺の役を勤めてゝ呉れたが、二三時間の後には、堤根腹に昼寝して仕舞ひ、僕は結句気儘に釣ツてたです。  主『生憎大風が出て来て、鱮位のを三つ挙げた丈で、小一日暮らし、さて夕刻還らうとすると、車は風に吹き飛ばされたと見え、脇の泥堀の中へ陥ツてたです。引き上げさせて見ると、すツかり泥塗れでとても乗れやしない。さればといふて、歩いて還ることの出来ない貨物なので、已を得ず、氷のやうな泥の中に、乗り込んで、還ツたことあるですが、既に釣を以て楽しまうとする上は、此の位の辛抱は、何とも思はんです。』  客『まだ御飯前ですから、失礼いたします。』  主『釣を始めると、御飯などは頓と気にならず、一度や二度食べずとも、ひだるく思はんのが不思議です。それに、万事八釜しいことを言はぬやうになるのが、何より重宝です。度々釣に出かけると、何だか知れないが、家の者に気兼するやうな風になツて、夜中に、女どもを起すでも無いと、自分独り起きて炊事することも有るですし、よし飯焚を為ないにしても、朝飯とお弁当は、お冷でも善い、菜が無いなら、漬物だけでも苦しうない、といふ工合で、食ぱんのぽそ〳〵も、噎ツたいと思はず、餌を撮んだ手で、お結びを持ツても、汚いとせず、極構はず屋に成るから、内では大喜びです。』 と、何が何やら分らぬ話しながら、続けざまの包囲攻撃に、客は愈逃げ度を失ひて、立膝になり、身をもぢ〴〵して、 『少し腹痛しますから、失礼します。』 と腹痛の盾をかざして起たんとす。主人は尚、  主『腹痛なら、釣に限るです。釣ほど消化を助くるものは無いですから、苦味丁幾に重曹跣足で逃げるです。僕は、常に、風邪さへ引けば釣で直すです。熱ある咳が出るとしても、アンチピリンや杏仁水よりは、解熱鎮咳の効あるです。リウマチも、釣を勉めて、とう〳〵根治したです。竿の脈の響を、マツサアージなり、電気治療なりとし、終日日に照されるを、入湯と見れば、廻り遠い医者の薬よりは、其の効神の如しです。殊に呼吸器病を直すには、沖釣に越す薬無いと、鱚庵老の話しでしたが、実際さうでせう。空気中のオゾンの含量が、全で違ツてるですもの。』 立膝のまゝなる客は、ほと〳〵困りて揉手をしながら、 『まだ二三ヶ所寄る所ありますから…………。』 と、一つ頓首すれども、主人は答礼どころか、  主『野釣は、二三ヶ所に限らず、十ヶ所でも、二十ヶ所でも、お馴染みの場所に、寄ツて見んければいかんです。其の中にぶツつかるですから…………。併し、不精者にはだめです。要所々々を、根よく攻めて歩かんければならんですもの。』 と、右の手を水平に伸べ、緩かに上下して、竿使ふ身振りしながら、夢中に語り続けて、何時已むべしとも見えず。立往生の客ばかり、哀れ気の毒に見えたりしが、恰も好し、某学校の制服着けたりし賀客両人、入り来りしかば、五つ紋の先客は、九死の場合に、身代りを得たる思を為し、匆々辞して起ちたりしが、主人は尚分れに臨み、 『それなら、四日の朝四時までに、僕の家に来給へ。道具も竿も、此方で揃ひてやるから、身体ばかり…………。霜が、雪の様に有ツてくれゝば、殊に好いがね。』 と、橛をさしぬ。 この翌日届きし、賀状以外の葉書に、 『拝啓。昨日は永々御邪魔仕り、奉謝候。帰宅候処、無拠用事出来、乍残念、来四日は、出難く候間、御断申上候。此次御出遊の節、御供仕度楽み居り候。頓首。』 と、有りければ、主人は之を見ながら、 『又拠ろ無き用事か。アハヽヽヽヽヽ。』
底本:「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」作品社    1995(平成7)年8月10日第1刷発行 底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館    1906(明治39)年12月発行 ※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 人は、遊ばんが為めに職業に勉むるに非ず、職業に勉めしが為めに遊ぶなり。釣遊に、前後軽重の分別有るを要す。 日曜一日の休暇は、其の前六日間職業に勉めし賞与にして、其の後六日間の予備に非ず。若し、未だ勤苦せざるに、先づ休養を名として釣遊に耽らば、身を誤り家を破るの基、酒色の害と何ぞ択ばん。  単に、魚のみを多く獲んことを望むべからず、興趣多きを望むべし。 釣遊の目的は、素より魚を獲るにあれども、真の目的物は、魚其の物に非ずして、之を釣る興趣にあり。故に、風候水色の好適なる裡に、細緡香餌を良竿に垂れ、理想の釣法を試むことを得ば、目的こゝに達したるなり。魚の多少と大小は、また何ぞ問ふを須ひん。  釣遊は、養神摂生の為めのみ。養神摂生に害あるは釣遊の道に非ず。 不快の言を聴き、不快の物を見れば、神を害し、険を冒し危を踏めば、生を害す。異臭ある地に釣り、汚池に釣り、禁池に釣り、鈎さきを争ひて釣り、天候を知らずして海上に釣り、秋の夜露に打たれて船に釣り、夏の午日に射られて岡に釣り、早緒朽ちたる櫓を執り、釘弛みたる老船に乗りて釣る如きは、総て釣遊の道に非ず。  金銭にけちなる釣遊は、却て不廉なる釣遊なり。 僅々一二銭の餌を買へば、終日岡釣して楽むべく、毎日出遊するも、百回一二円の出費に過ぎず、これ程至廉の遊楽天下に無しと言ふ者あり。されども、これ愚人の計算にて、家業を荒廃し、堕落を勧むる魔言と謂ふべし。吾輩の惜む所は、餌代船賃に非ずして、職業を忘るゝ損害の大なるにあり。たとひ、一回の出遊に一二円を費すとも、度数を節して遊ぶべき日にのみ遊ぶ時は、其の暢情快心の量却ツて大きく、費す所は至ツて小なり。至廉とは、彼に当つべき価に非ずして、此に当つべき価なり。  十分確信したる釣日和に非ざれば、出遊せず。 水色なり、風向なり、気温なり、気圧なり、総て想ふ所に適ひ、必勝疑はざる日には、宵立して数里の遠きに遊ぶも好し。それにてさへ、まゝ想はざる悪水悪天候に遭ひ、失敗すること少からず。况して初めより、如何あらんと疑弐する日に出でゝ、興趣を感ずべき筈なし、徒に時間と金銭を費すに過ぎず。如かず十全の日を待ちて、遺憾無く興趣を釣り、悠々塵外の人となりて、神を養ひ身を休め、延年益寿の真訣を得んには。
底本:「集成 日本の釣り文学 第一巻 釣りひと筋」作品社    1995(平成7)年6月30日第1刷発行 底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館    1906(明治39)年12月発行 ※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046573", "作品名": "研堂釣規", "作品名読み": "けんどうちょうき", "ソート用読み": "けんとうちようき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 787", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-12-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001252/card46573.html", "人物ID": "001252", "姓": "石井", "名": "研堂", "姓読み": "いしい", "名読み": "けんどう", "姓読みソート用": "いしい", "名読みソート用": "けんとう", "姓ローマ字": "Ishii", "名ローマ字": "Kendo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1865", "没年月日": "1943", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "集成 日本の釣り文学 第一巻 釣りひと筋", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年6月30日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年6月30日第1刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年6月30日第1刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001252/files/46573_ruby_24469.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-10-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001252/files/46573_24655.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-10-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 中川の鱸に誘き出され、八月二十日の早天に、独り出で、小舟を浮べて終日釣りけるが、思はしき獲物も無く、潮加減さへ面白からざりければ、残り惜しくは思へども、早く見切りをつけ、蒸し暑き斜陽に照り付けられながら、悄々として帰り途に就けり。  農家の前なる、田一面に抽き出でたる白蓮の花幾点、かなめの樹の生垣を隔てゝ見え隠れに見ゆ。恰も行雲々裡に輝く、太白星の如し。見る人の無き、花の為めに恨むべきまでに婉麗なり。ジニアの花、雁来紅の葉の匂ひ亦、疲れたる漁史を慰むるやに思はれし。  小村井に入りし時、兼て見知れる老人の、これも竿の袋を肩にし、疲れし脚曳きて帰るに、追ひ及びぬ。この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、曾て二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。  甲者は言へり。『彼の老人は、横網にて、釣好きの隠居とさへ言へば、巡査まで承知にて、年中殆んど釣にて暮らし、毎月三十五日づゝ、竿を担ぎ出づ』といふ『五日といふ端数は』と難ずれば、『それは、夜釣を足したる勘定なり』と言ひき。  又乙者は言へり。『彼の老人の家に蓄ふる竿の数は四百四本、薬味箪笥の抽斗数に同じく、天糸は、人参を仕入るゝ序に、広東よりの直輸入、庭に薬研状の泉水ありて、釣りたるは皆之に放ち置く。若し来客あれば、一々この魚を指し示して、そを釣り挙げし来歴を述べ立つるにぞ、客にして慢性欠伸症に罹らざるは稀なり。』と言ふ。  兎も角、釣道の一名家に相違無ければ、道連れになりしを、一身の誉れと心得、四方山の話しゝて、緩かに歩を境橋の方に移したりしに、老人は、いと歎息しながら一条の物語りを続けたり。 『この梅園の前を通る毎に、必ず思ひ起すことこそあれ。君にだけ話すことなれば、必ず他人には語り伝へ給ふべからず。 『想へば早数年前となりぬ。始めて釣道に踏み入りし次の年の、三月初旬なりしが、中川の鮒釣らんとて出でたりし。尺二寸、十二本継の竿を弄して、処々あさりたりしも、型も見ざりければ、釣り疲れしこと、一方ならず、帰らんか、尚一息試むべきかと、躊躇する折柄、岸近く縄舟を漕ぎ過ぐるを見たり。「今捕るものは何ぞ」と尋ねしに、「鯉なり」と答ふ。「有らば売らずや」と言へば、「三四本有り」とて、舟を寄せたり。魚槽の内を見しに、四百目許りなるを頭とし、都合四本見えたりし。「これにて可し」とて、其の内最も大なるを一本買ひ取りしが、魚籃は少さくして、素より入るべきやうも無かりければ、鰓通して露はに之を提げ、直に帰り途に就けり。 『さて田圃道を独り帰るに、道すがら、之を見る者は、皆目送して、「鯉なり鯉なり、好き猟なり」と、口々に賞讃するにぞ、却つて得意に之を振り廻したれば、哀れ罪なき鯉は、予の名誉心の犠牲に供せられて、嘸眩暈したらんと思ひたりし。 『やがて、今過ぎ来りし、江東梅園前にさし掛りしに、観梅の客の、往く者還る者、織る如く雑沓したりしが、中に、年若き夫婦連れの者あり。予の鯉提げ来りしを見て追ひかけ来り、顔を擦るまで近づきて打ち眺め、互に之を評する声聞こゆ。婦人の声にて、「貴方の、常にから魚籃にて帰らるゝとは、違ひ候」など言ひしは、夫の釣技の拙きを、罵るものと知られたり。此方は愈大得意にて、故に徐に歩めば、二人は遂に堪へ兼ねて、言葉をかけ、予の成功を祝せし後、「何処にて釣り候ぞ」と問へり。初めより、人を欺くべき念慮は、露無かりしなれども、こゝに至りて、勢ひ、買ひたるものとも言ひ兼ねたれば、「平井橋の下手にて」と、短く答へたり。当時は、予未だ、鯉釣を試みしこと無かりしかば、更に細かに質問せらるゝ時は、返答に差支ふべきを慮り、得意の中にも、何となく心安からざりし。 『後にして之を想へば、よし真に自ら釣りしとするも、彼の時携へし骨無し竿にて、しかも玉網も無く、之を挙げんことは易きに非ず。先方は案外かけ出しの釣師にて、それに気づかざりしか、或は黒人なりしかば、却て不釣合の獲物に驚歎せしか、何れにしても、物に怖ぢざる盲蛇、危かりしことかなと思ひき。 『これより宅に還るまで、揚々之を見せびらかして、提げ歩きしが、予の釣を始めて以来、凡そ此時ほど、大得意のことなく、今之を想ふも全身肉躍り血湧く思ひあり。 『この時よりして、予は出遊毎に、獲物を買ひて帰り、家人を驚かすことゝはなれり。秋の沙魚釣に、沙魚船を呼ぶはまだしも、突船けた船の、鰈、鯒、蟹も択ぶ処なく、鯉釣に出でゝ鰻を買ひ、小鱸釣に手長蝦を買ひて帰るをも、敢てしたりし。されども、小鮒釣の帰りに、鯉を提げ来りしをも、怪まざりし家の者共なれば、真に釣り得し物とのみ信じて露疑はず、「近来、めツきり上手になり候」とて喜び、予も愈図に乗りて、気焔を大ならしめき。 『一昨年の夏、小鱸釣に出でゝ、全く溢れ、例の如く、大鯰二つ買ひて帰りしが、山妻之を料理するに及び、其口中より、水蛭の付きし「ひよつとこ鈎」を発見せり。前夜近処より、糸女餌を取らせ、又小鱸鈎に※(虫+糸)を巻かせなどしたりしかば、常に無頓着なりしに似ず、今斯る物の出でしを怪み、之を予に示して、「水蛭にて釣らせらるゝにや」と詰れり。 『こは、一番しくじつたりとは思へども、「否々、慥に糸女にて釣りしなり、今日は水濁り過たれば、小鱸は少しも懸らず、鯰のみ懸れるなり。其の如きものを呑み居しは、想ふに、その鯰は、一旦置縄の鈎を頓服し、更に、吐剤か、養生ぐひの心にて、予の鈎を呑みしものたるべし」と胡麻かせしに、「斯く衛生に注意する鯰は、水中の医者にや、髭もあれば」と言ひたりし。 『同年の秋、沙魚釣より還りて、三束余の獲物を出し、その釣れ盛りし時の、頻りに忙がしかりしことを、言ひ誇りたりしが、翌朝に至り、山妻突然言ひけるは、「昨日の沙魚は、一束にて五十銭もすべきや」となり。実際予は、前日、沖なる沙魚船より、その価にて買ひ来れるなれば、「問屋直にてその位なるべし、三束釣れば、先づ日当に当らん」と言ひしに、予の顔を見つめて、くつ〳〵笑ひ出す。「何を笑ふ」と問へば、「おとぼけは御無用なり、悉く知りて候」といふにぞ、「少しもとぼけなどせじ、何を知り居て」と問へば、「此の節は、旦那の出らるゝ前に、密かに蟇口の内を診察いたしおき候。買ひし物を、釣りたりと粧はるゝは上手なれども、蟇口の下痢にお気つかず、私の置鈎に見事引懸り候。私の釣技は、旦那よりもえらく候はずや」と数回の試験を証とし、年来の秘策を訐かれたりし。その時ばかりは、穴にも入りたき心地し、予の釣を始めて以来、これ程きまり悪しかりしことなし。斯る重大のことを惹き起せしも、遠因は、「ひよつとこ鈎」に在りと想へば早く歯科医に見せざりし、鯰の口中こそ重ね重ねの恨みなれ。 『これよりは、必ず、蟇口検定を受けて後ち、出遊することに定められたれば、釣は俄かに下手になり、大手振りて、見せびらかす機会も無くて』と、呵々と大笑す。  予も亦、銃猟者の撃ち来れる鴨に、黐の着き居し実例など語りて之に和し、脚の疲れを忘れて押上通りを過ぎ、業平にて相分れしが、別るゝに臨みて、老人、『その内に是非お遊びに』と言ひかけしが、更に改めて、『併し御承知の通りなれば、雨の日にて無くば』と断りき。無邪気なる老人の面影、今尚目に在り、其の後逢はざれども、必ず健全ならん。
底本:「集成 日本の釣り文学 第二巻 夢に釣る」作品社    1995(平成7)年8月10日第1刷発行 底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館    1906(明治39)年12月発行 ※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 騒擾と違警罪  明治三十八年九月五日の、国民大会より、「警察焼打」といふ意外の結果を来せしかば、市内は俄に無警察の状態に陥り、これ見よといふ風に、態々袒ぎて大道を濶歩するもの、自慢げに跣足にて横行するもの、無提灯にて車を曳くものなど、違警罪者街上に充ち、転た寒心すべきこと多かりし。  されば、人心恟々として、安き心も無く、後日、釣船の宿にて聴く所によれば、騒擾の三日間ばかりは、釣に出づる者とては絶えて無く、全く休業同様なりしといふ。左もあるべし。然るに、此の騒々しきどさくさ紛れを利用して、平日殺生禁断の池に釣垂れて、霊地を汚し、一時の快を貪りし賤民の多かりしは、嘆かはしきの至りなりし。当時、漁史の見聞せし一二事を摘録して、後日の記念とせんか。  釣竿、奇禍を買はんとす  六日の昼、来客の話に「僕は昨日、危く災難を蒙る所であッたが、想へば、ぞッとする」といふ。「国民大会見物にでも出掛けて……」と問へば、「否深川へおぼこ釣に出かけ、日暮方、例の如く釣竿を担ぎ魚籃を提げて、尾張町四丁目の角から、有楽町に入ると、只事ならぬ騒らしい。変だとは思ッたが、ぶら〴〵電車の路に従いて進むと、愈混雑を極めてたが、突然後方から、僕の背をつゝく者が有ッた。振り返ッて見ると、四十ばかりの商人体の男が、『彼方、其様な刀の様な物を担いで通ッたら、飛んだ目に逢ひませう』と注意された。『何か有るのですか』と聞いたら、『今しも、内務大臣官邸はこれ〳〵で、』と、官民斬りつ斬られつの修羅を話された。『では、袋を外し、竿剥き出しにして、往きませう』と言ふと、『それが好いでせう』と、賛成してくれるので、篤く礼を述べて別れ、それから、竿の袋を剥き、魚籃を通して担ぎ、百雷の様な吶喊の声、暗夜の磯の怒濤の様な闘錚の声を、遠く聞きながら無難に過ぎることが出来た。若し、奇特者の忠告無く、前の様で、うッかり通ッたもんなら、何様な奇禍を買ッたか知れなかッたが」と言へり。危かりしことかな。  浅草公園の公開? 釣堀  六日の夜は、流言の如く、又焼打の騒ぎあり、翌七日には、市内全く無警察の象を現はしけるが、浅草公園の池にては、咎むる者の無きを機とし、鯉釣大繁昌との報を得たり。釣道の記念に、一見せざるべからずとなし、昼飯後直ちに、入谷光月町を通り、十二階下より、公園第六区の池の端に、漫歩遊観を試みたり。  到り観れば、話しに勝る大繁昌にて、池の周囲には、立錐の余地だに無く、黒山の人垣を築けり。常には、見世物場の間に散在して営業する所の「引懸釣」、それさへ見物人は、店内に充溢するに、増して、昨日一昨日までは礫一つ打つことならざしり泉水の、尺余の鯉を、思ふまゝに釣り勝ち取り勝ちし得べき、公開? 釣堀と変りたることなれは、数百の釣手、数千の見物の、蟻集麕至せしも、素より無理ならぬことにて、たゞ、盛なりといふべき光景なるに呆れたり。  竿持てる人々  中島に橋、常に、焼麩商ふ人の居し辺は、全く往来止めの群衆にて、漁史は、一寸覗きかけしも足を進むべき由なく、其のまゝ廻りて、交番の焼け跡の方に到り、つま立てゝ望む。  東西南北より、池の心さして出でたる竿は、幾百といふ数を知らず、継竿、丸竿、蜻蛉釣りの竿其のまゝ、凧の糸付けしも少からず見えし。片手を岸なる松柳にかけたるもの、足を団石の上に進め、猿臂を伸ばせる者、蹲踞して煙草を吹く者、全く釣堀の光景其のまゝなり。  竿持てる者には、腹がけに切絆天、盲縞の股引したる連中多く、むさぐるしき白髪の老翁の、手細工に花漆をかけたという風の、竹帽子を被れるも見え、子供も三四分一は居たりしならん。獲物の獲物だけに、普通の小魚籃にては、役に立たざる為めか、或は、一時の酔興に過ぎざる為めか、魚籃の用意あるは少かりし。たヾ、二尺五六寸有らんかと思はれし、棕櫚縄つきの生担を、座右に備へし男も有りしが、これ等は、一時の出来心とも言ひ難く、罪深き部類の一人なりしなるべし。  万歳の声  平日、焼麩一つ投ずれば、折重りて群れを成し、噞喁の集団を波際に形作る程に飼ひ馴らせる鯉なれば、之を釣り挙ぐるに、術も手練も要すべき筈なく、岩丈の仕掛にて、力ッこに挙げさへすれば、寝子も赤子も釣り得べきなり。目の前なる、三十歳近くの、蕎麦屋の出前持らしき風体の男、水際にて引きつ引かれつ相闘ひし上、二尺許のを一本挙げたりしが、観衆忽ち百雷の轟く如き声して「万歳」を叫べり。  続きて、対ふ岸にて又一本挙げしが、又「万歳」の声起れり。一本を挙ぐる毎に、この歓声を放つ例なるべしと思ひき。  この衆き釣師、見物人の外に、一種異りたる者の奔走するを見る。長柄の玉網を手にし、釣り上ぐる者を見る毎に、即ち馳せて其の人に近寄り、抄ひて手伝ふを仕事とする、奇特者? なり。狂態も是に至りて極まれり。  釣師の偵察隊  彼方此方にて、一本を挙ぐる毎に「万歳」の叫びを聴きしが、此時、誰の口よりか「来た〳〵」といふ声響く。一同は、竿を挙げて故らに他方を向き、相知らざる様を粧ひたり。何事ぞと思ひしに、巡査の来れるなりし。偵察隊より「巡査見ゆ」との信号を受け、一時釣を休めしものと知られたり。さて其の過ぎ行くに及び、又忽ち池を取り囲みて鈎をおろせしは、前の如し。哨兵つきの釣とは、一生に再び見ること能はざるべし。  間も無く、「万歳」声裡に、又一本を挙げたる者ありしが、少しも喜べる色なく、「何だ緋鯉か。誰にかやらう」といふ声の下より、十歳許の小児、「伯父さん私に頂戴」と乞ふ。「なァに食べられないことは無いよ。肉が少し柔いが……。」と、之を外し与ふれば、小児は裾に包み、一走りに走り去れり。  此の男、又一本釣り挙げしが、「型が気に喰はぬ」とて、亦、傍に見物せる男に与へたり。普通の釣師は、三日四日の辛抱にて、「跳ッ返り」一本挙げてさへ、尺璧の喜びにて、幾たびか魚籃の内を覗き愛賞措かざるに、尺余の鯉を、吝気もなく与へて、だぼ沙魚一疋程にも思はざるは、西行法師の洒脱にも似たる贅沢無慾の釣師かなと感じき。聴けば、一人にて、七八本を貰ひたる者も少からずといふ。  鯉の当り年か  歩を移し、対ふ岸に立ちて観ける内、目の前なる老人、其の隣りなる釣り手に向ひ「随分の釣手だね。釣堀も、此位に繁昌すれば大中りだが」と言ひけるに、「此れだけの大中りを占められたら、開業二三日で破産しませうよ。其処な小僧奴なんざ、朝から十六七本挙げやがッたから、慥かに三四円の働きは為てますわ」とて、指させる小僧を見れば、膝きりのシャツ一枚着たる、十二三歳の少年なりし。想ふに、此の界隈の家々、此処二三日の総菜ものは鯉づくめの料理なりしなるべし。彼のお鯉御前は、大臣のお目に留り、氏無くして玉の馬車に乗り、此の公園の鯉は、罪無くして弥次馬の錆鈎に懸り、貧民窟のチャブ台を賑はす。真に今歳は、鯉の当り年なるかななど、詰らぬ空想を馳せて見物す。  放生池の小亀  たとひ自らは、竿を執らざるにせよ、快き気もせざれば、間もなく此処を去りしが、観音堂手前に到りて、亦一の狼籍たる様を目撃せり。即ち、淡島さま前なる小池は、田圃に於ける掻堀同様、泥まみれの老若入り乱れてこね廻し居けり。されば、常に、水の面、石の上に、群を成して遊べる放生の石亀は、絶えて其の影だに無く、今争ひ捜せる人々も、目的は石亀に在りしや明なりし。中には、「捕ても構えねいだが、捕りたくも亀は居ねいのだ」など高笑ひの声も聴ゆ。  三時過ぎ、家に帰りけるが、後に聞く所によれば、此日、市ヶ谷見付辺の濠渠も、夥しき釣客なりしとぞ。戒厳令布かれたる号外売る鈴の音喧き裡に在りて、泰然釣を垂れ、世事を一笑に附し去りて顧みず。釣者誠に仙客なるかな仙客なるかな。
底本:「集成 日本の釣り文学 第九巻 釣り話 魚話」作品社    1996(平成8)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「釣遊秘術 釣師気質」博文館    1906(明治39)年12月発行 ※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 鬼才小出楢重が逝いてから早くも五年になろうとする。そうして今ここに彼の随筆集『大切な雰囲気』が刊行されることになった。これには『めでたき風景』に漏れた、昭和二年から四年へかけての二三篇「国産玩具の自動車」「挿絵の雑談」「二科会随想」等も含まれはするが、其大部分は其最も晩年なる五年中に書かれたものである。  体質の弱い彼は一年の間に画作に適する時季を極めて僅かしか持たなかったと毎々言って居たが、随筆には時季を選ばなかったのであろうか。五年には相当の分量を書いて居る。  小出の随筆にはユーモアと警句とが頻出する。例えば大久保作次郎君の印象を書いた短文のなかに、「君子は危きに近よらずとか申しますが、危きに内心ひそかに近よりたがる君子で、危い所には何があるかもよく御存じの君子の様な気もします。とに角ものわかりのよい、親切、丁寧、女性に対してものやさしきいい君子かも知れません」と云う如きは、随分大久保君の痛い所を突いて居るにも拘わらず、其言葉のもつユーモアの為めに人を怒らしめぬ徳がある。素人のする漫談を痛罵して「結び目なき話の尻は走ったままの電車であり、幕の閉まりそこねた芝居でもある」と云い、日本の近代洋画を談じては「どうやら手数を省いて急激に人の眼と神経をなぐりつけようとする傾向の画風と手法が発達しつつあり」と云い、立秋奈良風景を描いては猿沢池から春日へ爪先あがりのかんかん照りの坂道を「丁度張物板を西日に向って立てかけてあるのと同じ角度に於て太陽に向って居る」と云い、又尖端的な世界にあっては清潔第一、垢が禁物であることを論じては「それは手術室の如く埃と黴菌を絶滅し、エナメルを塗り立てて、渋味、雅味、垢、古色、仙骨をアルコオルで洗い清め、常に鋭く光沢を保たしめねばならない。断髪の女性にして二三日風邪で寝込むとその襟足の毛が二三分延びてくる。すると尼さんの持つ不吉なる雅味を生じてくる」と述ぶるが如き、みな彼独特のユーモアと警句とでないものはない。  渡欧に際し猿股のことばかり考えて居て絵具箱を携帯する事を忘れて了ったと、私は神戸の埠頭に於て彼から直接聴いたのであるがそれは彼として決して不自然ではないらしい。「猿股の紐通し機械を売る婆さんは、猿股へ紐を通しては引出し、また通しては引出している。私は時に猿股の紐がぬけた時、あれを買っとけばよかったと思うことがある。さてその前へ立った時、どうも買う勇気は出ない」(阪神夜店歩き)と云うその告白が猿股についての彼が関心を如実にあらわして居る。  彼の画がそうであるように、其随筆も亦彼の鋭い神経と敏い感受性とをよく示して居る。随分突飛なことを言って居るようでありながら、それが常識を逸して居らず、妥当性を失って居ないのは、彼の特異な体質と感性とに基づいての観察を飾りなしに極めて自然に表白して居るためであろう。彼の随筆には古いもの伝統的なものに憧れる都会人と機械美を好む尖端人との交錯が窺われる。そうして古いものの完き姿が現代に求められなくなり、磨きのかかって居なければならぬ尖端ものに彼の所謂埃や垢が附いて居ることは、絶えず彼の神経を刺激し、彼をして顔を顰めさせたようである。 石井柏亭
底本:「大切な雰囲気」昭森社    1936(昭和11)年1月6日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 入力:小林繁雄 校正:米田進 2008年12月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 この雑誌にこんなことを書くと、皮肉みたいに思われるかもしれないが、西洋の諺、「飢えは最善のソース」には、相当の真理が含まれている。  一流の料理人が腕をふるってつくり上げたソースをかけて食えば、料理はうまいにきまっているが、それよりも腹のへった時に食うほうがうまい、という意味である。  六十年を越す生涯で、いろいろな場合いろいろなものを食ってきたが、今でも「うまかった」と記憶しているものはあまり沢山ない。そのなかで飢えをソースにしたものをちょっと考えてみると、中学校の時、冬休みに葉山へ行っていて、ある日の午後何と思ってか横須賀まで歩いた。着いた時は日暮れ時で寒く、駅前のそば屋で食った親子丼が実にうまかった。しかしこれは飢えばかりでないプラス寒気で、湯気を立てる丼飯を私の冷えた体が歓迎したのだろう。  大人になってからも似たような経験をした。毎日新聞の記者として芦屋に取材に出かけ、晩方の九時頃仕事を済ませて、やはり駅に近いそば屋でテンプラそばを食った。これも冬だったが、七味唐辛子をウンと振り込み、最後に汁を呑んで咽喉がヒリヒリしたことまでおぼえている。これは飢えプラス寒さプラス仕事を終った満足感である。  大正十二年の大震災の時には大阪にいたが、生れ故郷が東京なのですぐ行けと命令され、中央線廻りで上京した。その途中笹子のあたりで山津波があり、汽車が半分埋まってしまった。その泥の流れのなかを歩いてぬけて、ちょっとした高台にある村にたどりつき、一軒の飲み屋で酒を所望すると、ぜんまいを一緒に出した。もちろん干したぜんまいをもどし、煮干しで味をつけた物だが、その煮干しのガサガサした歯ざわりさえ憶えているのだから、相当感銘したに違いない。この場合は飢えプラス山津波を逃れた安心感だろう。親子丼、テンプラそば、ぜんまいと、実にありふれた食物だが、飢えプラス何物かが最上のソースになったのである。  私が冒頭で「相当の真理」といったのはこれなのである。つまり飢え単独では腹がはった満足はあっても、決して「うまい」とは感じない。         *  私が若い頃登った山には、番人のいる小舎が極めてすくなく、大体水に近い場所にテントを張り、飯をたいて食事をしたものである。食物としては米、味噌が主で、味噌の実にはそこらに生えている植物をつかった。罐詰類は重いので、せいぜい福神漬か大和煮を、それもたくさんは持っていかず、動物性蛋白質は干鱈だった。飯をたき味噌汁をつくった焚火のおきに、縦半分にさいた干鱈をのせ、アッチアッチと言いながら指でちぎって食うのである。満腹はするがちっともうまくないので、東京へ帰ったら何を食おう、あれを食おうと、第一日の晩から食物の話ばかりで、事実東京へ帰って腹をこわしたりした。それでいて翌年の夏には同じことを繰り返すのだから、山の魅力は大したものである。  いつだったか本格的なアルピニストであるI・A・リチャーズ夫妻と一緒に、後立山を歩いたことがある。籠川を入っていくと松虫草が咲いていた。暑い日で一同かなり参っていたが、リチャーズはこの花を見て、外側に滴が露になってついているカクテル・グラスを思い出し、「初日からそんなことを言い出すとは、out of form だ」と奥さんに叱られた。こうなると英国人も日本人も同じである。ところがこの旅で、番人のいる唯一の小舎に罠でとった兎があり、その肉を持参のバタでいため、はこび上げてあったビールで流し込んだ時、リチャーズはこんなに贅沢な山小舎は世界じゅうにないと感激した。         *  太平洋戦争の末期に近く、私は北部ルソンのジャングルの中にかくれて生活していた。大きな部隊が移動した後に入り込んだ狙いはあやまたず、ここには米と塩がかなりたくさん残してあった(もっとも終戦がもう一週間もおくれたら、私は餓死していたことだろう)。だがそれ以外の食物は、すべりひゆと筍――長くのびた奴の頭のほう二寸ばかり――に昼顔の葉である。私は現在インダストリアル・デザイナアとして活動している柳宗理君と組んで、盛んに食物をさがした。まず川のカニである。あれを飯盒に入れて火にかけると、最初はガサガサ音を立てるがやがて静かになる。真赤な奴を食うのだが、とにかくその辺をはいまわっているカニだから、肉など全然なく、ちっともうまくない。私はすっかり歯を悪くしてしまった。  その数年後阿佐ヶ谷の飲み屋で、伊勢のどこかでとれるカニを出された。一年じゅうでとれる日が一週間とか十日とかに限られているそうである。これも小さいカニで肉はないが、足や鋏はカリカリしていていい味がする。  ちょっと余談になるが、食いしんぼうの私は、ほかの人たちよりも食える物をよく見つけ出した。野生のレモン、唐辛子――わが国で「鷹の爪」と呼ぶ種類――、れいしがそれである。そしてパパイヤの木のしんが大根そっくりで、すこし古くなるとオナラ臭くなることまで発見したので、これを刻み、太い竹の筒にこれも刻んだ唐辛子の葉と実、れいし――緑、黄、赤と順々に色が変る――、レモンの皮とまぜて押し込み、塩をして一晩おいた。これはとても素晴らしい漬物でいつか有名になり、貰いに来る人がふえるようになった。         *  いよいよ終戦投降ときまると、自殺用に持っていた手りゅう弾のつかいみちがない。これも私が主張して、かくれ場の近くの川の深淵にいくつか投げ込み、下流の浅瀬で待っていると、大小の魚が無数に目を廻して流れてきた。みんな大喜びをしたが、特に私たちはヒネしょうがとにんにくを持っていたので、ぼらのさしみをつくり、その骨でダシを取って結びさよりのお吸物をつくり、鰺の塩焼その他で夜中の十時近くまで大御馳走を食った。この時のごとき、まったく飢えプラス「もう負けてしまったんだから仕方がないや、どういうことが起るか、とにかく捕虜になって見よう」という気持と、こちらが変な真似をしなければ、米国人は捕虜を虐待したりしない人間である、という私の知識経験が、このジャングルでの晩飯を、記憶すべくうまい物にしたのである。         *  だから飢えだけが「最善のソース」ではない。これで私のお話は終る。 (いしかわ きんいち、毎日社友・評論家、三三・三)
底本:「「あまカラ」抄2」冨山房百科文庫、冨山房    1995(平成7)年12月6日第1刷発行 底本の親本:「あまカラ 3月号 第七十九号」甘辛社    1958(昭和33)年3月5日発行 初出:「あまカラ 3月号 第七十九号」甘辛社    1958(昭和33)年3月5日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:砂場清隆 校正:芝裕久 2020年2月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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山へ入る日・山を出る日  山へ入る日の朝は、あわただしいものである。  いくら前から準備していても、前の晩にルックサックを詰めて置いても、いざ出発となると、きっと何か忘れ物があったのに気がつく。忘れ物ではなくとも、数の足りぬ物があるような気がしたりする。すっかり足ごしらえをした案内や人夫が、自転車で走り廻る有様はちょっと面白い。  それもまア、どうにかこうにか片づいて、いよいよ歩き出す。たいていの場合、町なり村なりを離れると、林の中か野原を横切って行くのだが、二、三時間も歩くと、くたびれて了う。一つには身体の鍛練が出来ていないからで、二つには暑いからである。草のいきれ程うれしからぬ物はない。  時々馬にあう。林の中の路を、荷をつけた馬だけがポカポカやって来るので、驚いていると、大分あとから呑気そうな顔をして、樵夫が来たりする。一本路だし、馴れてはいるし、すてといても馬は家へ帰るのであろう。路はだんだん狭くなる。馬の糞も落ちていないようになる。と、思いがけぬところに林を開いて桑が植えてあったりする。落葉松、白樺等の若葉が美しく、小さな流れの水を飲んでは木陰に休む。野いちごの実を見つけて食うこともある。  昼の弁当をつかう頃には、水もつめたくなっている。  かくて一歩一歩、山へ入って行くのだが、比較的路が容易なので連れがあれば話をするし、無ければ何か考えながら行く。連れがあっても、そう立て続けにしゃべるわけには行かない。時々は考えこんで了う。  私は大して臆病ではないつもりだが、山へ入る前には不思議に山のアクシデントを考える。何か悪いことが起りそうな気がしてならぬのである。そんな気持ちを持っていられる間は山もたのしみだろうと、ある友人がいったが、まったくそうかも知れない。一種のアドベンチュアをやっている気なのだから……。従って山へ入る日の私は、決して陽気ではない。むしろ憂鬱な位である。そして最初の夜は、殊にそれが野営であれば、とても淋しく、パイプをくわえたまま吸いもしないで、ボンヤリ焚火の火を見つめては、子供のことを考えたりする。  山を出る日は、恐ろしく景気がいい、天幕をたたむにしても、山小舎の中を片づけるにしても、非常に迅速に仕事がはかどる。平素無口な案内者までが冗談口をたたいたりする。  もちろん山によって違うであろうが、たいていの路は尾根を走らず谷によっている。で、山を出るにしても、先ず谷へ下るのであるが、これが川の生長に伴うのだから面白い。朝、雪解の水が点々と滴り落ちているあたりを立って、昼には広い河原で最後の弁当を食い、夜は大河の畔の宿屋で寝ていたりすることがよくある。  山へ入る時憂鬱な私は、出る時は、多くの場合陽気である。もちろん山に別れる悲哀はあるが、これはむしろ翌日汽車の窓から振りかえる時に多く感じるので、現に山を下りつつある時には、ひたすら、一刻も早く、麓の町に着こうと努める。やはり、人が恋しいのだろう。  山から下りながら、人間の力が如何に山にはい上りつつあるかを見るのは、まことに興味が深い。一本二本、木が伐ってある。急な斜面に粟がつくってある。掘立小舎、芝土を置いた橋、小さな祠、そして最後に人家。  一昨年の六月、信州から立山を越して富山へ出た最後の日には、女が目についた。紺の香りも新しい揃いの単衣に、赤いたすき、姉さんかぶりで田植をしているのを見た時には、美しいとさえ思った。立山温泉から芦峅寺まで、人のいやがる長い路だが、一里ごとに人間の仕事の跡が増して行って面白かった。だんだん路幅が広くなり、馬糞の数がふえ、ついに夕暮の芦峅寺へ着くと、村唯一の銭湯の前に田植馬の湯銭は三銭とか書いた札がはってあった。  いよいよ麓の町にさしかかる。多くの人は山に登って来たというので、一種のエクザルテーションを感じるらしい。凱旋将軍のような気持ちになるらしい。私は、初めて白馬に登って大町に帰って来た人が、対山館の三階で酔いつぶれたのを見た。学生を率いた中学校の先生が、部屋が無いというので怒号しているのを見た。かかる種類の興奮は、もちろん人にもよるのだろうが、山に登る数と反比例して減じて行く。  去年上高地へ行った帰りには大阪のある女学校の生徒たちと一緒になった。男の先生二人とは名前を予ねて知り合っていたので、岩魚留メで名乗り合い、松本まで後になり先になりして歩いたが、流石に娘たちは男の学生みたいに騒ぎも威張りもせず、誠に気持ちがよかった。島々へ入るすこし手前で、ルックサックからスカートを出して、ブルーマースの上からはいていたりしたが、如何にも山を下りて里へ出る有様をあらわして、私は思わず微笑した。島々から電車は満員で、先に乗った男の生徒や案内者が坐って了った為に、立っていた娘も多かったが、私が連れて行った大町の老案内は、私が立ったのを見て、自分も娘の一人に席を譲ってくれた。  六月になった。この頃湿気の多い、いやな日が続く。早く山へ行きたくて仕方がない。山の話を書くことが苦痛なくらい、山を思っている。 平の二夜  こころみに地図を開いて見る。信州と越中との国境は、南は標高二八四一米のレンゲ岳(三ツ叉)に始まり、うねうねと屈曲していはするものの、大体において真北を指し、野口五郎、烏帽子、蓮華、針ノ木、爺、鹿島槍、五龍、唐松等を経て北、三千米に近い白馬岳に至る約二十里の山脈の上を走っている。故に信州から直接越中へ出るには、どうしてもどこかで山を越さねばならぬ。大黒(二四〇五)を越して祖母谷、猿飛へ出るのもよい。中房から東沢乗越を経て高瀬川の上流へと下り烏帽子へかかって南沢から黒部川へ出ることも出来る。籠川入りをして扇沢から爺(二六六九)の西南に当る棒小屋乗越を越し、棒小屋沢を下って黒部川に落ち合うのも一つの路である。だがこれらのルートは、いずれも長く、且つ困難であるから、単に登山の目的で採用するのならとにかく、実用としては適していない。もっとも実用といえば、汽車のある今日、長野から直江津を経由して富山へ出れば一日で楽々と行けるが、比較的興味があり深山幽谷の気分が充分味わえ、而も大した労力なしに信州から越中へぬける路は、やはり昔ながらの針ノ木越えによることである。  松本から北へ、信濃鉄道の高速度電車で約一時間行くと、大町へ出る。大町のすこし手前で、レールは長い橋を渡っているが、この橋の下を流れている水は、鹿島川、籠川、高瀬川の三流が合したものである。くわしくいうと、鹿島、籠の二川は高瀬川の支流であるが、そんなことはどうでもいい。要するに川が三つ。従って谷が三つ、鹿島入り、籠川入り、高瀬入りと呼んで、この三つが大町から北アルプスへ入る自然の道路を、なしているのである。  針ノ木峠へ行くには、籠川入りをしなくてはならぬ。籠川は加賀川から来たのであるという。この川を溯って行くと加賀の国へ出るというので、加賀川と呼んでいたのが、いつの間にか籠川になったのであろう。石ころの多い磧をゴロゴロと歩いて、足を痛くしたのは昔のことで、今は立派な道が左岸を走っている。白沢、黒沢、扇沢、丸石沢などという激流が、左右から白い泡を吹いて落ちこんでいるのを見ながら行くと、一日で大沢の小舎まで行くことが出来る。女でも楽に行ける。  大沢の小舎は標高約二千米のところにあるから、夏でも寒い。ここに一泊して翌朝はすぐ針ノ木峠へかかる。たいてい雪が小舎のすぐ上まで来ている。所謂針ノ木の雪渓で、上の方は中中急である。何しろ直線を引けば僅か二十町くらいのところを、二、三時間かかって七、八百米登って行くのだから。  針ノ木峠は蓮華岳(二七九八)と針ノ木岳(二八二〇)との中間の鞍部にある。峠といっても二千五、六百米の高さを持っているのだから、下手な山よりは遥かに高い。峠の茶屋とか、「雲雀より上に」の俳句なんぞを考えて来る人は吃驚して了う。偃松と赤土と岩ばかりである。だから大抵の人はここで弁当をつかわず、鎗(三一七九)や穂高の大観を眺めた後、すぐ峠を下りはじめる。一歩下りかければそこは越中で、所謂針ノ木谷が、つんのめるように黒部川へ落ちている。弁当は紫丁場でつかうがよい。雪解けの水が小さな滝をなしている。  針ノ木谷を流れる水は、南沢を合して勢を増し、飛ぶようにして黒部の本流へ流れ込む。その合流点にささやかな、而も黒部の渓谷では唯一の平地があり、ここが平なのである。標高約千四百米。人々はここで一泊して、翌日は温谷をさかのぼり、右手にスカイラインをなす刈安峠を越して更にザラ峠を越し、湯川の谷を下って立山温泉に一泊、常願寺川に添って芦峅、千垣から汽車で富山へ出る。  この針ノ木越えの歴史は古いものである。戦国時代の勇者、佐々成政が軍勢をひきいて、冬十二月にこのルートを通過して以来(もっともこれは歴史的に証明はされていない)明治になっても十何年代までは物資を積んだ牛が、夏には列をなして針ノ木越えをやった。現にその時代の道路の一部が残っているし、また牛小舎の遺物もある。  大町から富山まで、大沢、平、立山温泉と三泊であるが、三ヶ所ともに立派な小舎があり、食料、寝具は勿論、すべての物資がふんだんにあるから、大した苦労をしないで旅行することが出来る。刈安、ザラの二峠で参った人や、山の好きな人は、ザラ峠を下るかわりに五色ヶ原に出ればよい。ここにも小舎がある。一泊して翌日は雄山(立山神社がある。二九九二米)に登ると面白かろう。  以上長々と針ノ木越えの説明をした。これ位のことは山岳好きの人ならば誰でも知っているであろうが、まるで山のことを知らぬ人や、山に登って見たいが、どこがよかろう等と考えている人もあることと思って、すこしくどい位くわしく書きしるした。  この平で今年(大正十五年)の六月のはじめ、大町の百瀬慎太郎君と、案内者の北沢清志氏と、それから私と、三人が二夜とまった記録を、以下数枚にわたって、書こうと思う。針ノ木越えは十数年前に一度と、今回と、都合二回で、大して珍らしくもないが、平の泊りにはいろいろと面白いことがあったから…… 第一夜  大沢小屋から平までは、楽な一日行程であるが、朝出発するのが遅かったのと、途中で――殊に針ノ木谷を下りる途中――気持のいい所がある度ごとに長いこと休んで駄弁ったのと、只でさえ歩きにくい路の所々に残雪がかかって径を閉鎖していた為に、つまらぬ迂回を屡々行ったのとで、黒部の本流に出たのはもう七時に近かった。今迄歩いて来た渓谷に比べると、ここはさすがにあかるい。すばらしい水量で激しく流れて行く川の向う岸には、消えかけた雪の中に板づくりの家が二軒見える。上手の小さいのは毎日新聞が県に寄贈した小舎で、下手の大きいのは日本電力の出張所である。あすこには人がいる筈なので、こちら側にある東信電気の小舎の前を素通りして、急な絶壁へ取りかかった。  平で黒部川を越す方法は従来二つ。一つは有名な籠渡しによるので、もう一つは籠渡しの少し上流を徒渉するのである。籠渡しは太い針金に滑車をかけ、滑車から縄でぶら下げた板に乗って、ブランブランと向う岸へ渡るのである。徒渉とはいう迄もなく、ザブザブと水の中を歩いて渡ることである。夏向きでよかろうなどと思う人はやって見るがいい。深い所は腰の上まで、川底はゴロゴロな石で、流れは疾い。ともすれば足をすくわれる。すくわれたら最後、手足がそろって日本海へ出られれば幸福である。もう十何年か前になるが、私は朝九時頃にここを徒渉した。盛夏で、水の量はすくなかったが、それでも一行八人、向う岸へ着いた時は唇を紫色にしていた。今は水の多い最中で、おまけに水温も気温も低い。とうてい徒渉は出来ぬ。籠渡しもこわれている。だが幸い、昨年の秋、二町ばかりの下流に吊り橋がかけられた。我々はこの吊り橋を渡るべく、細い路に足を踏み入れたのであった。  二町下流といい、川添の路というと、黒部を知らぬ人は五、六分にして吊り橋に達し得ると思うであろう。だが黒部川は「その水源地より愛本に至り、山地を離るるまで蜒々約二十里の間は、本邦稀に見る絶壑を成し、滔々として奔流の両崕に激越せるを見る。其の立山・白馬両山脈の間は、地域狭隘にして支流の発育極めて短く、直ちに本流に注ぐを以て、至る処に懸谷がある。」――(吉沢庄作氏著「立山」)――ので、この路も絶壑をからみ、懸谷を横切っている。而も幅は僅か一尺か二尺、ある場所は露出した岩石に、足跡をつけた程度である。我々は先ず小さな残雪を越して、木の生い茂った崖にとっついた。北沢、百瀬、私の順序で行く。もう薄暗くなって来て足もとがあぶない。疲れてもいる。朝から午後四時頃まで、絶えず雪の上を歩いていたので、軽度の日射病にでもかかったらしく、頭が痛む。唇がカサカサになる。黙々として一歩一歩、注意しながら進むと、小さな谷にでくわした。吉沢氏の所謂懸谷で、いずれ路はついているのであろうが、雪が残っているので判らぬ。慎太郎さんが先に立って、ステップを切りながら越した。雪を渡り切ると一間ばかり砂土が露出している、足がかかると共にザザラ! と音がして、砂ごと身体が下へ落ちる。その身体に落ちるだけの時間を与えず、ヒョイと二の足を踏み出して、続いてヒョイヒョイと下へ引っぱる力に敢て抵抗するでもなく、なかば落ちながら身体は前に進めて、無事に土砂の斜面を渡り切る。  渓のこちら側に立って、バットに火につけてこれを見ていた私はいやな路だなと思わざるを得なかった。雪のグラディエントは、素人の目には六十度近くに見える。とても上り下りは出来ぬくらい急である。然しステップが切ってある以上、又夕暮と共に雪が幾分固くなっている以上横切ることは大して苦にならぬ。よしんば辷っても、ピッケルの使用法をあやまらなければ、自分一人の身体くらいはとめることが出来る。雪は平気だが、あんな風に露出した土砂は、実にいやである。一度すべったら手も足もピッケルも用をなさぬ。下を見ると、水が狼の牙のような白い泡を、噴き上げている。落ちた日には、助かりっこない……と考えはしたものの、そこがやはり山を知る者の強味で、別に恐怖を感じるでもなく、雪渓にさしかかる。グン、グンと靴さきをステップに打ち込んで渡り切る。片足を砂にかける。ザラッ! と落ちる。ザザザザと通過して了う。しっかりした路についた時には、やれやれと思った。  路は崖のかたちそのままに、急に右へ入っている。ここにも谷が切れ込んでいるのである。Vの字を水平に置いたようなきれ込みである。こちらには路があるが、向う側は一面の砂土で――一体が風化しやすい岩石なのであろう。それが雪をかぶって更にもろくなった所へ、上から雪崩が落ちて来たので、ザラザラになっている――その灰色の断崖には、いくら見ても、どう考えても、路らしいものが見えぬ。  Vの字の底には固い雪が残っている。北沢は荷を下して、雪の所まで様子を見に行った。私と慎太郎さんとは、立ったまま、ルックサックを唐檜の根にもたせかけて、休んだ。非常に傾斜の急なところに路をつくったので、こんなことが出来るのであろう。 「おい。その辺に下へおりてる路はねえかい。」  北沢がこう声をかけたので、私は二、三間引きかえして見た。 「ないよ。」 「上へ行ってる路もあるめえな。」 「ない。」 「向うにゃ路がねえだな。」 「雪崩で崩れちまったんだろう。」 「どうするかね。」「どうしましょうね?」――これは慎太郎さんが私に聞いたのである。 「さあ。」  北沢が帰って来た。日電の小舎には、人がいないのじゃあるまいかという。なるほど燈火が見えない。一度呶鳴って見ようというので北沢がオーイ、オーイと大きな声を出したが、返事もなければ燈火を出して見せるでもない。  再び、どうしようという相談が起った時に私は言った――「帰りましょう。こんな所でウロウロしていても仕方がない。大分つかれて来たし、足もとが悪いから、若し辷りでもしようものなら莫迦げている。今晩は東信の小舎で泊って、あしたゆっくり路をさがしましょう。日電の小舎が面白かったら、あした一日遊んでもいいし、若しいよいよ路が分らなければ大町へ引きかえしてもいいんだから……」  籠渡しの二、三丁下に、吊り橋の出来ていることは知っている。路があるにせよ無いにせよ、とにかく右岸を伝って、吊り橋に出られることは知っている。現に五日の日、富山から大町にぬけて来た法政と商大との学生は、日電の小舎から吊り橋を渡って、針ノ木谷、針ノ木峠、大沢と、我等の路を逆に来たのである。対山館で泊り合わしたのだから、あの二人、ことに芦峅から案内して来た光次郎に、もっとよく聞けばよかったのだが、こちら三人、殊に慎太郎さんと北沢とは、平の附近をよく知っているので、行けば判るだろう、で出て来たのであった。もちろん行けば判るのだが、こう暗くなって来ては、如何な山男でも猫か梟でない限り、視力が利かなくなる。 「そうですか。それじゃ帰りましょう。別に急ぐんでもなし……」と慎太郎さんは私の提議に同意した。三人は引きかえした。  東信の小舎は東西に長く、十何畳ぐらいは敷けるであろう。西、即ち黒部の本流に面した方が入口になっていて、さし出した屋根の下には四角な風呂桶、燃料等が置いてある。ガタビシャな戸を明けると、中は鼻をつままれても判らぬ程のくらやみで、キキキと鼠が鳴く。とりあえずルックサックを投げ出した私は、日と雪でピリピリする顔の筋肉を収縮させて、ニヤリとした。私の知人で鼠を非常に嫌う人が二人いる。往来を歩いていて鼠の死骸でも落ちていると、横丁へ曲って了うくらい嫌いなのである。私がニヤリとしたのは、この二人を思い出したからである。「慎太郎さんと俺でなくて、MさんとBちゃんとがここに立ったら、二人はどうするだろう。入らないで、熊笹の上に寝るかしら」と、詰らぬことを考えたからである。  とりあえず蝋燭に火をつけて、まっくらな小舎の内に入ると、中央が土間兼囲炉裏で、左右がアンペラ敷きになっている。その土間に足を置いたまま、アーンとアンペラの上にねころがる。今宵の宿もきまったという安心に、急につかれが出て、靴をぬぐのも億劫になる。 「御免よ!」と北沢が焚木をかかえて入って来た。火をつける、勢よく燃える。「ゆんべとちがって乾いているので、よく燃えるだ」と言ったのは、前晩泊った大沢小屋が雪に埋れていた為にしめっぽく、火を燃しつけるのに三十分ばかりかかったからである。  燃え上る焔に照らされて、小舎の内部がハッキリする。奥の方には夜具やら米俵やらが屋根に届くまで積み上げられ、上から大きなキャンヴァスがかけてある。  ふと天井からつるしたランプに気がつく。どうやら石油が入っているらしい。急いで靴をぬぎ、しめった靴下三足をむしり取って、ランプを見に行く。果して石油が入っているので、こいつは豪遊! と、学生みたいなことを言いながら、火をつけた。  小舎の隅から鍋をさがし出して、それを洗いに行った北沢が帰って来た。山独活と、ウト蕗と袮するすこぶる香の高い草とを手に持っている。このくらやみで、どうしてこんなものを発見して来たのか、我々には見当もつかぬ。  前夜泊った大沢の小舎は、雪のために水に不自由したが、ここはすぐ前を雪解の水が流れているので、至って便利である。慎太郎さんのと私のと、二人の飯盒に半分以上も入っている昼飯の残りを鍋で煮て、ミンチビーフの鑵詰をあけ、うまいのだかまずいのだか、ちょっと判断に苦しむようなオジヤをこしらえた。これと、独活及びウト蕗の味噌汁と、干鱈の焼いた奴とで晩飯にする。北沢はどこからか目覚時計をみつけて来て、しきりにいじくり廻していたが、「四時半に鳴るようにしてくれねえか」と言うから、焚火ごしに手をのばして、アラームを調節する。あしたは四時半に起きて路をさがしに行くとのことであった。  飯が済むとすることが無い。濡れた靴下を炉の上につるし、長々とアンペラに横たわって寝る。  焚火が消えかけると足が寒い。新しい薪をくべると、やけどしそうになる。夜中に何度も目が覚めた。鼠が騒ぐ。柱の釘にかけた私の上衣の、襟の裏についているひつかけが切れてドサンと顔の上に落ちて来た。風の音、黒部の瀬の音。 第二日  目をさますと、向う側にねていた北沢がいない。ランプの光に、目覚時計だけが光っている。眼鏡をかけて見ると五時ちょっと前。囲炉裏のとろ火には味噌汁とお茶とがかけてある。  まだ早いから、もう一度ねようかと思ったが、目が覚めて了うと小舎の中の煙っぽくて埃っぽい空気がたまらなくなる。お茶を一杯と、横にころがった瀬戸引きの水飲みを取り上げると、中には灰が沢山入っている。ズボンのポケットから、前二日間の汗と水っぱなとでヨレヨレになったハンケチを出し、それで拭って茶を飲む。きたないことが平気になるから山は不思議といわねばならぬ。  慎太郎さんはよく眠っている。この人も私同様、宵っぱりで朝寝坊だから、いかに山でも六時や七時には目をさまさぬ。私が早く起きたのも、実はお腹がいたかったからである。  昼間のままの服装で寝るのだから、起きるにしても手がかからない。上衣をひっかけ、素足に靴をはいて小舎を出る。小舎の前の、幅一尺ぐらいの流れで顔を洗う。口をゆすぐ。……と、誰でもやることを不思議そうにいうのには理由がある。我々は山に入ると、めったに顔を洗わないからである。  ぐずぐずしていると寒くなって来た。いそいで小舎にもぐり込み、白樺の太い枝を炉にくべる。ねころがって、さてすることがない。靴下を外して見ると乾いている。さるおがせのような油煙がついている。それを丁寧に払い落してはく。スウェッタアを着て、また戸外へ出る。  ふと見ると黒部川の向う岸に、人が二人立っている。一人は北沢で、もう一人は羽織を着た人である。二人は話をしながら上の方へ行く。籠渡しの所で立ちどまった。こちら岸の籠渡しまで行くには、大分広い雪を歩かねばならぬ。私は急いで靴の紐を結び直した。小舎の入口の、風呂桶の上においたピッケルを取りに戻った。  私がピッケルを取りに戻っている間に、向う岸の二人は籠渡しの針金に添うて目を走らせた。二人は当然その針金の終りにいる私に気がつく。私は右手を上にあげて挨拶した。和服の人は腰をかがめた。  見ていると北沢が、籠渡しの板に乗った。破損して用をなさぬと聞いていたが、これで見ると役に立つかも知れぬ。私は、「占めたぞ!」と思った。籠渡しが使用出来さえすれば、昨日のようないやな路を通らなくても済む。北沢はブランブランと針金を伝い始めた。長い針金が、重みにつれてさがる。板はスラスラと四、五間河の中央へ近づく。和服の人は何か言いながら、盛に縄を繰り出す。  そのうちに、バッタリ板がとまって了った。どうやらちっとも動かぬらしい。と、向う岸の人が縄を手ぐり込む。北沢は両手を横に振って見せる。右手をあげて、こちら岸の崖を指し、ずうっと下の方へ動かす。籠渡しは駄目だから、崖をへずって下流の吊り橋を渡って来いという信号なのであろう。二、三度腰をかがめたと思うと北沢は狭い河原へ飛び下りた。そしてスタスタと下って行く。和服の人は上の路を、小舎の方へ歩く。  小舎に帰って、まだ眠っている慎太郎さんを起した。籠渡しの一件を話している所へ北沢が帰って来た。彼等山男は、七、八貫の荷を背負って我々と一緒に歩くのであるから、空身だと飛ぶように早い。「飛ぶように」ではなく、実際、石でも岩でも丸木橋でも、ヒョイヒョイと飛んで行くのである。  山としては遅い朝飯を食いながら、北沢が向う岸の人の話をする。「大将みてえな人が一人と」――あの和服を着ていた人か? と聞くと、ウン、あの人だと答えた。――「越中の衆が一人いただ」という。あんまり口を利かない、おとなしい男だろう? と慎太郎さんが聞く。 「ああ、若え男だ。」「そんなら重吉だ。」「あれが重吉かね。」  北沢は四時半に起きて、飯の仕度をしてから小舎を出たのである。前夜引きかえした所まで行くと、前につき出した崖を廻った所に、新しい吊り橋が見えた。路が無いと思った面には果して路が無い。引きかえして、前晩ステップを切った雪渓の横を登り、谷を一つ越して、急な藪をすべり下り、存外容易に吊り橋に出ることが出来た。日電の小舎へ着いたら大将みたいな人が、腹がへったろうと言って、麦飯を喰わしてくれたが……「へえ、うまかったでえ……。えれえいい小舎だな。大きな熊の皮なんぞが敷いてあってな、新聞屋と宿屋のむすことを連れて来たと言ったら、そりゃあ面白い、早く来な、御馳走するぞってた!」  慎太郎さんと私とは、この「新聞屋と宿屋のむすこ」に至って、顔を見合わせて苦笑した。なるほど慎太郎さんは大町の対山館の長男であり、私は新聞やであるが、こんな山の中まで、かかる商売――それも一般からは、あまり柄がよくないように思われている――がつきまとうのであっては、いささかニヤリとせざるを得ない。  小舎の内外を綺麗に片づけて、出かけたのは九時半ごろであった。前日に比較すると、身体が疲れていないだけ、悪い道も楽に歩けたが、それでもいやな場所が多かった。雪解の水が流れている狭い谷を登る時なぞは、袖口や襟から、泥と水とが流れ込んで、気持が悪くて仕方がなかった。ずいぶん危険な所もあった。が最後に、若い木と熊笹とが茂った急斜面を、がむしゃらに辷り降りて、大きな落葉松の林に、まだ誰の足跡もついていない雪田を踏んで立った時には、うれしかった。雪を渡り切ると五、六尺の崖、すぐ下は川であるが、極めて浅い。砂利が出ている所もある。ストンと下りて、先ず一口、黒部川の水を飲む。  二、三間歩いて岩の鼻を廻ると、吊り橋である。ユラユラと左右にゆれながら渡る。三人そろって日本電力の出張所へ入り込んだ。 平の半日  向う岸からこっち側まで、二時間ばかりもかかったので、かなりつかれた。あてがわれた二階の部屋に通って窓から見ると、すぐ目の前に大毎の小舎が、白い雪に対して殊に黒く、きたなく立っている。私は何故か dilapidated という英語を思い出した。さっき崖を登る時、上から墜ちて来た岩で膝を打った北沢が、メンソレータムを貰いに入って来る。 「打ち傷にはこの方がいいだろう。」と沃度を持って、宮本さんが入って来られた。今朝の和服の人で、日本電力の出張員である。この山の中に住んで、黒部川の水量、速度、温度等を測定しておられるのである。 「どうです。もうお昼に近いしするから、今から温泉まではちょっと無理でしょう。今日は遊んでいらっしゃい。岩魚でも釣ったら半日ぐらいはすぐ立ちましょう。」  私どもは大いによろこんで了った。実はこちらから、今日一日遊ばせて下さいと言いたい所だったのである。第一小舎が気に入った。第二に平で遊ぶということが、またと得られぬ快いことのような気がしていた。  小舎――それも富山から十二哩汽車に乗り千垣で下車してから芦峅まで二十町。この芦峅から一里半で藤橋に出る。藤橋には人家が五、六軒もあろうか。あとは常願寺川に添うて登ること三里半、ここが立山温泉。ザラ峠を登って下りて、又急な刈安峠を上下する都合四里。富山から平地としても十五里半の山の中にある小舎は、果してどんなものであるか、想像もつかぬ人が多いであろう。私はノートを出して、この小舎の部屋の配置をうつしとった。実は、自分もこんな小舎を、山の中に一軒持ちたいと思ったからである。「南北三間、東西五間。二階建、下は土間で、南側が炊事場。他は薪炭糧食置場。西北隅にある階段は二階に通ず。外側の同じ位置にも階段があり、これはバルコンに達している。板敷き、畳敷き、押入を中心に、西は大きな押入と人夫室兼用食堂。東は事務所と寝室とになる。二階の天井に戸がついているのは、二階の窓まで雪に埋った時の出入口。屋根及び東西面羽目(二階天井より高く)出入口あり。」――私の手帳には二階のプランの横に、こう書いてある。  昼飯を済ましてから慎太郎さんと二人で、すぐ向うにある大毎の小舎を見に行った。この小舎は雪の中に建っている。南の方の入口から入る。ひどくなっているが、人が来ればすぐ綺麗になるであろう。二階――と言ってもアティックだが――に酒の空瓶がゴロゴロしているには驚いた。  日電の小舎に帰ると宮本さんが「今夜、岩魚を御馳走したいが、あいにく昨日の残りが二匹しかいません。重君を案内に釣って来られたらどうです」と言われる。岩魚釣とは面白い、品右衛門の話も思い出す。さァ出かけようと我々三人、重吉のあとをついて行く。もっとも釣竿は四人に対して二本である。  しばらくは若芽の美しい林の中を、雪を踏んで歩く。林がつきて岩になる。岩の下は黒部の水。……あの水の美しさは、只見た人のみがこれを知る……三人から、はるかに後れて、岩をいくつもいくつも越したり、一坪か二坪ばかりの白い砂地に靴のあとをつけたりして行くうちに、ふと、大きな、丸い岩にはらんばいになって、しきりに下の水をのぞいている北沢の姿を発見した。「つれたかい」というと、左手を後に廻して、むやみに振りながら「静かに! 静かに!」と小声でいう。足音を忍ばせて、私も岩に登る。はらんばいになってのぞくと、下は水が物凄いたまりをなして、くるくる渦をまいている。 「あすこにいるだ。」  北沢は岩魚に聞かれると困ると思ったのであろう。むやみに小さな声を出す。まなこを凝らして見ていると、大きな渦が一つ、するすると本流の方へ流れ出して、その後が油のようにトロリとする瞬間、キラリと蒼黒い魚が二匹、底に近く姿を現わす。北沢は急いで竿を動かし、蚊針を魚のいる方へ近づける。又、渦が来て、スイスイと針を押し出す。 「駄目じゃないか。」 「ああ。岩魚を釣るなあむつかしい。」 「君は今迄に釣ったことがあるのかい。」 「無いだ。」 「そんなとこへ針を下して釣れるのかい。」 「これでいいずら。石川さん釣って見るかね。」 「かして見な。」  今度は私が針を下したが、中々喰いつかぬ。近くまで来たと思うと、ひょいと逃げる。針が流されて了う。  考えて見るとどうも蚊針なるものを深淵に沈めて魚をつるとは変である。元来が蚊の形をしている針だから、水面をヒョイヒョイやっている内に、これを蚊と間違えて魚が飛びつくのではあるまいか。私は立ち上って岩を下り、流れに近く立った。ザブザブと白い水沫を飛ばしている瀬にフワリと針を投げる。面白いようにピョンピョン跳るが、魚は一向飛びつかぬ。  同じ釣れないのなら、魚の顔が見えた方がまだ面白い。私はもとの岩に帰った。二、三度岩魚をだましにかかったが、やはり駄目なので、釣は断念し、岩の上に長々と寝そべって煙草を吸った。目の上の唐檜に、恐ろしく長いサルオガセがぶら下っている。ブランブランと風にゆれる。河の音がする。私はねむくなって来た。  突然頭の上で、 「オーイ!」と声がした。ねころがったままで「オーイ」と呶鳴ると「なんだそこにいたんですか」と慎太郎さんが姿を現わす。「どこへ行っちまったのかと思った」という。まったくこの黒部川は断崖絶壁が多いので、ちょっとした岩の鼻の向うにいる人でも見えぬことがよくある。我々は二、三間はなれた所で休んでいたのであるが、お互にどこへ行っちまったのかと思っていた。  流れに添ってすこし下ると、長い吊り橋がある。重吉と北沢とは各々、釣竿を持って、ドンドン橋を渡って行く。向う岸(右岸)の路は、大分高い崖の中腹についている。私どもは写真をうつしたり、話をしたりしながら、あとからついて行った。  丸い石のゴロゴロした河原に坐って、小さな石を河の中にほうり込んでいると、世間を忘れて了う、何が何でもいいような気がする。まことに呑気である。汗水を流して雪渓を登っているより余程いい。刈安峠なんぞを越えないで、三日も四日もここで遊んでいたいと思う。「こうやっているといい気持ちですね。」「よござんすね。」なんて言っている内に、針ノ木岳の方に当って黒い雲が出て来た。見る見る空にひろがる。ポツン! と勢のいい奴が手の甲にあたる。河の水が黒くなる。こいつはいけない! と言いはしたものの、急ぐでもなし、また急いだ所で岩や崖の路や吊り橋や雪では、すべって転ぶくらいなものである。悠々として帰路につく。上衣、シャツ、ズボン、みな濡れる。濡れても小舎には火があるから平気だ。小舎の近くの雪の林では、雪から盛に湯気を出していた。あれは湯気とは言わぬかも知れないが……  小舎に着いた時は、いくらか雨も小降りになっていた。早速二階に上り、はだかになって衣類を乾かす。寒くて仕方がないから毛布を身体にまきつける。 「お風呂が沸いたからお入りなさい」と言われて、洋服に下駄、頭からレインコートをかぶって戸外に出る。磧に近く据えた角風呂、雨が降るので白樺の枝を切り、天幕をかけて急造の屋根が出来ている。そこ迄行きはしたものの、さて上衣やシャツやズボン下を置く場所がない。もう一度小舎に戻って、猿股一つになり、雨の中を走って風呂場に行く。猿股を、なるべく雨のかからぬような、枝にひっかける。蓋を外ずして手をつっこむと熱い。恐ろしく熱い。そこで今度はスッ裸で、馬尻を持って河まで水を汲みに行く。雨は中々つめたい。つめたいわけである。すぐ横にはまだ雪が残っているのだから……  首まで湯につかって、いい気持になっていると、雨がこぶりになって、雲が上り始めた。黒部の下流の方から、山が一つずつ現われる。もう夕闇がせまっているので、すべての色は黒と白とである。濃淡の墨絵である。信じられぬ程、日本画そのままである。 「日本画によくこんな景色がある――」私は加減のいい湯で、身体中の筋肉が一つ一つやわらかくなるのを感じながら考えた。――「たいていの人は絵空事だと思う。そして、こまかい写生や複雑な色彩を土台とした西洋画の方が自然に忠実だと思う。だが山の中にはかくの如き景色がある。何百年か前に、すでに深山幽谷を歩き廻ってスケッチしていた日本画家がいたのであろう。」――どうでもいいようなことを考えていると、北沢が、 「風呂加減はどうだね?」と、雨の中を聞きに来てくれた。  やがてランプがついて、男ばかり五人、飯の卓に向う。岩魚は重吉が二匹、北沢が二匹、都合四匹その日釣り上げたのと、前日のが二匹残っていたのとで六匹。串にさして火にかざすと何とも言えぬ香がする。  食卓の向う側では重吉が、大きな鍋からモヤモヤと湯気の立つ物を皿に盛りわけている。熊の肉である。岩魚と熊の肉と、いずれも私にとっては初物だから、百五十日生きのびる勘定になる。  さて岩魚は、何と言ってよいか判らぬ程うまかった。鮎よりも、もうちっと油があって肉が多い。何、山の中で食ったのだから……という人があるかも知れぬが、同じ山の中で食ったのにしても、熊の肉だけは珍味ながら一片か二片で閉口して了った。  もっとも岩魚は釣ったばかりである。熊は冬とった奴の塩漬である。かるが故に比較は出来ぬであろう。  この熊は大きなものであったに相違ない。二階に敷いてある皮は、長さが六尺以上ある。雌で、子供を二匹連れていた。その二匹は宮本さんが犬のようにして飼っているが、翌朝までは出すことが出来なかった。運動時間がきまっているのである。  食事が済むとすることがない。下の釜から山のように火を持って来て炉に入れ、ゴロゴロとねそべって話をする。狸の話に始まって怪談に終った。  狸の話には我々三人、顔を見合せて笑った。即ち前晩八時近く、宮本さんと重吉とが一日の仕事を終えて一と休みと炉をかこんでいた時、中ノ谷の方向に当って「オーイ!」と呼ぶ声が聞えた。これは変だ、今頃立山から人が来るには、いささか遅いし、それに越中の衆が「オーイ」と呼ぶ訳がない。きっと誰か案内者を連れぬ登山者が、路に迷ってウロウロしているに相違ない。見に行こうと小舎を出て、呶鳴っても返事がない。バルコニイにランプを置いて、この火を見たらどうにかこうにか歩いて来るだろうと、いつ迄待っても誰もやって来ない。  オーイ! とやったのはもちろん我々である。これが黒部の対岸から聞えずに、反対側の中ノ谷の方から聞えたのは、山の反響であろう。越中の人夫がオーイと言わぬのならば、宮本さん達も反響ということに気がついて、黒部川の方に注意しそうなものと思われるが、宮本さんにして見れば、今ごろ信州からぬけて来る奴がいるとは知る由もない。今年になってから二組平を訪れたが、いずれも富山から来ている。  我々は我々で北沢が呶鳴っても燈が見えないので(ランプは小舎の向う側に置かれた)、ハテ、日電の人はいないのかな、とも思い、そこで東信の小舎まで引き返した次第であるが、宮本さんと重吉とは気味が悪くなって来た。こんな山の中で人のいる筈がないのに、妙な所から妙な声がして、それっきりである。ふと重吉が「ありや狸だ。狸に違いない!」と言い出した。そこで何時になく戸締をして寝たという話。  スイスの山地やティロールのある場所にはヨードル(Yodel)なる歌のうたいようがある。はじめは普通に歌っているのだが、突然調子が高くなる。音響学上から見たらどうか知らぬが、我々が聞くとオクターブを二つ三つ飛び上ったような具合である。もちろんあたり前の男に、そんな高い声が出る筈がない。裏声とでもいうのか、すこぶる細く、そしてよく「通る」声である。崖にひびき、岩にぶつかり、遠くの方まで聞えて行く。  越中の山男は「オーイ!」とは言わぬ。「ヨーホホホオーイ!」と言ったような、妙な声を出す。この「ヨー」が普通の声で「ホ」以下がヨードルになる。  スイスのヨードルも、いずれ越中の「ヨーホホホイ」みたいな呼び声から発達したのであろう。山が深いと、どうしても遠くに響く呼び声を考え出す。洋の東西にかかわらず、周囲の況態が似ていると、人間は同じようなことをやる。人間ばかりではない。植物でも、日本アルプス一万尺の高峯に咲く花が、千島やカムチャッカでは海岸に咲いているという。  怪談をしている内に十時になった。久しぶりに、あたたかい布団に、軽い毛布をかけて安眠した。あらゆる意味において平の二夜が、まことに面白かったことを慎太郎さんと話し合っている内に、いつか眠って了った。 可愛い山  岩と土とから成る非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、或は行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。  この山、その名を雨飾山といい、標高一九六三米。信州の北境、北小谷、中土の両村が越後の根知村に接するところに存在する。元より大して高い山ではないし、また所謂日本アルプスの主脈とは離れているので、知っている人はすくなかろう。あまり人の知らぬ山を持って来て喋々するのはすこしいやみだが、私としてはこの山が妙に好きなので、而もその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。  たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝ちの、妙な神経衰弱的厭世観に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。  大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖あたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。  ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬を登っていた。如何にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れて了ったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気ていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。  一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻で雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっちの岸の岩を三つ四つ、横っ飛びに、下流の方へ走った。手をのばして、流れて行く人の手だか足だかをつかまえた。  さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、その為に引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。  一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、蝋燭で岩に線を引いて見た。伝って来た雫が、ここまで来て蝋にぶつかり、その線に添うて横にそれるだろうとの案であった。しばらくはこれも成功したが、間もなく役に立たなくなる。我々は窮屈な思いをしながら、一日中むだ話をして暮した。  次の朝は綺麗に霽れた。雨に洗われた山の空気は、まことに清浄それ自身であった。Mさんはよろこんで、早速草鞋をはいた。然し一日の雨ごもりで、すっかり気を腐らした私には、もう山に登る気が起らない。もちろん大町へ帰っても、東京へ帰っても仕方がないのだが、同様に、山に登っても仕方がないような気がする。  それに糧食も、一日分の籠城で、少し予定に狂いが来ている筈である。私は帰ると言い出した。慎太郎さんもすぐ賛成した。何でも、同じ白馬に十四度登っても仕方がないというような、大町を立つ前から判り切っていた理窟を申し述べたことを覚えている。かくて我々二人は一行に別れて下山の途についたのである。  私は、いささか恥しかった。というより、自分自身が腹立たしかった。前年、友人二人と約十日にわたる大登山をやり、大町に帰るなりまた慎太郎さんと林蔵と三人で爺から鹿島槍に出かけたのに比して、たった一年間に、何という弱りようをしたものだろうと思ったからである。だが、朝の山路はいい。殊に雨に洗われた闊葉樹林の路を下るのはいい。二人はいつの間にか元気になって、ストンストンと速足で歩いた。  この下山の途中である。ふと北の方を眺めた私は、桔梗色に澄んだ空に、ポッカリ浮ぶ優しい山に心を引かれた。何といういい山だろう。何という可愛らしい山だろう! 雨飾山という名は、その時慎太郎さんに教わった。慎太郎さんもあの山は大好きだといった。  この、未完成の白馬登山を最後として、私は長いこと山に登らなかった。間もなく私の外国生活が始まったからである。一度日本に帰った時には、今つとめている社に入ったばかりなので、夏休をとる訳にも行かなかった。翌年の二月には、再び太平洋を渡っていた。  だが雨飾山ばかりは、不思議に印象に残っていた。時々夢にも見た。秋の花を咲かせている高原に立って、遥か遠くを見ると、そこに美しい山が、ポカリと浮いている。空も桔梗色で、山も桔梗色である。空には横に永い雲がたなびいている。  まったく雨飾山は、ポカリと浮いたような山である。物凄いところもなければ、偉大なところもない。怪奇なところなぞはいささかもない。只優しく、桔梗色に、可愛らしい山である。  大正十二年の二月に帰って来て、その年の四月から、また私は日本の山と交渉を持つようになった。十三年には久しぶりで、大沢の水を飲み、針ノ木の雪を踏んだ。十四年の夏から秋へかけては、むやみに仕事が重なって大阪を離れることが出来なかった。だが、翌年はとうとう山に登った。  六月のはじめ、慎太郎さんと木崎湖へ遊びに行った。ビールを飲んで昼寝をして、さて帰ろうか、まだ帰っても早いし、という時、私はここまで来た序に、せめて神城村の方まで行って見ようと思いついた。一つには新聞社の用もあったのである。北アルプスの各登山口について、今年の山における新設備を聞く必要があった。そこで自動車をやとって出かけることにした。  木崎湖を離れてしばらく行くと、小さな坂がある。登り切ると、ヒョイと中綱湖が顔を出す。続いてスコットランドの湖水を思わせるような青木湖、その岸を走っている時、向うにつき出した半島の、黒く繁った上に、ポカリと浮んだ小さな山。「ああ、雨飾山が見える!」と慎太郎さんが叫んだ。「見える、見える!」と私も叫んだ。  左手はるかに白馬の山々が、恐ろしいほどの雪をかぶっている。だが私どもは、雪も何も持たぬ、小さな、如何にも雲か霞が凝って出来上ったような、雨飾山ばかりを見ていた。  青木湖を離れると佐野坂、左は白樺の林、右手は急に傾斜して小さな盆地をなしている。佐野坂は農具川と姫川との分水嶺である。この盆地に湛える水は、即ち日本海に流れ入るのであるが、とうてい流れているものとは見えぬぐらい静かである。  再び言う。雨飾山は可愛い山である。実際登ったら、あるいは藪がひどいか、水が無いかして、仕方のない山かも知れぬ。だが私は、一度登って見たいと思っている。信越の空が桔梗色に澄み渡る秋の日に、登って見たいと思っている。若し、案に相違していやな山だったら、下りて来る迄の話である。山には登って面白い山と、見て美しい山とがあるのだから…… 山を思う心  初めて岩を抱き、夏の雪を踏んでから、もう十数年になるが、私の山を思う心は、その時も今もまったく同じである。  この十数年間に、私は二度海外の旅をした。私は学校を出て所謂社会の人となった。私は結婚をして二人の親となった。私は色々な経験をし、その経験は私の趣味や思想や人生に対する態度を非常に変化させた。一言でいえば、私はこの十数年間に「変った」のである。人間として進化か退化かは知らぬが、とにかく変ったのである。だが、たった一つ変らぬもの――それは即ち私の山を思う心である。  十数年前、明けて行く三等車の窓から、寝不足な眼を見張って、遠く朝日に輝く山の雪に高鳴りをした私の心は、今や寝台車の毛布をはねのけ深緑色のブラインドを引き上げて、同様に高鳴る。十数年前、二高の北に面した窓から泉ヶ岳を眺めてボンヤリした私の心は、今や輪転機が轟々として鳴り響く新聞社の窓から、ふと僅かな青空を仰ぎ、その空の下にあるものが、新聞社や商館や乗合自動車ばかりではないことを感じて、ボンヤリするのである。  花の香漂う宴遊のむしろならぬ四畳半、訳の判らぬ癇癪と我儘に若い妓たちが脅えたような顔を白く並べる時、金屏をもれる如月の宵の寒い風が頸に当って、突然脳裡を横切る黄金色の雲の一片と、その下にそそり立つ真紅のピーク。夕陽にやけているのである。打てば火花を散らす色である。私は一種のさむけが全身に通過するのを覚える。身をねじると役げ入れの彼岸桜が……。私は救われるのである。 「信濃の国は 夏の王国 落葉松の 林を行けば ふりそそぐ 緑の雨」  こんなもの覚えていますか――と慎太郎さんに聞かれてびっくりしたのは先日の話。若い昔のことである。「国境」と称する同人雑誌をつくり、山岳文芸を創立する気で諸方に勧誘書を出したが、賛成者僅かに十名でそのままになった。そのころ書いて慎太郎さんに送った詩が、この「信濃の国は」である。  病気をして、丁度一週間会社を休んだ。父も風邪のあとでブラブラしていたので色々と昔話をしたが、それによると私の先祖は大して古くない時代に信州から江戸に出て来たのらしく、まだ信州のどこかには、お墓があるそうである。曽祖父欣次衛門(私の欣一はこの字を貰った)の父か祖父かが江戸に出たので、それ迄は信州でみすずを刈っていたか、戦争をしていたか、何にしても碌なことはしていなかったのであろう。どこか信州の山の中に、先祖が「これは欣次衛門の曽孫にして山を好む者に与えるものなり」と条件つけた土地を、五、六万町も残していないかな。  今やジャパニーズ・マウンテンクラフトの進歩は駸々として止る所を知らず、新聞でも「ウェスト・リッジのジャンダルムでアンザイレンし、フェースをトラヴァースしてコルに出で、アイスピッケルをルックサックにトラーゲンしてガレにハッケンを打ち込み、ザイルがアブゲシュニットしたので……」とばかり、英独仏の三ヶ国語をごちゃまぜに入れないと山岳記事ではないような有様になった。かかる人のパレードを、我々は横によけて見送るが、さりとて大した反感を持つ訳でもない。如何なる人が如何なる態度で登ろうと、山は山。山を思う心に浮ぶのは、秀麗な、嶮峻な山だけで、アイスピッケルをトラーゲンしてフェースをトラヴァースする人々の姿は見えはしない。  山を思う心は以前とすこしも変らぬが、山に登ることは段々苦しくなって来る。年齢の関係で致し方あるまい。幸い山は登るばかりが面白いのでなく、登った山を下から見ることも面白いのだから、命のある間に、せめて大町から見える山は皆登っておこう。もう大したことはない。ひと夏かふた夏かがあれば充分である。  今年の夏は鹿島槍に登ろう。大沢を出てマヤクボで泊り――これは三時間位で登れるが、天幕を張っておいてから針ノ木岳あたりで遊ぶのだ――次の日は棒小舎乗越泊。ここには野営地がある。次の日は爺を登ってツベタに出、午後は雪解けの池に棲むハコネサンショウウオを追いまわして遊ぶ。翌日は鹿島槍、これもゆっくりやる。越中側の斜面には高山植物が多いから、若返って信濃の国の詩でもつくるのだ。それからノロノロと八峰のキレットを越し、五龍大黒、唐松を参り、白馬まで行って女学生に一場の講演をやり(あそこにはたいてい女学生が登山している)一気に四谷に下って自動車で大町へ。対山館でドライ・マチニ。いいなあ! 天幕を必要とするから人夫二人、全部で十日と見積って人夫五十円、その他五十円、合計百円は辛い。何とかしなくてはなるまい。  心に浮ぶ山の姿は、前にちょっと書いた夕陽のピークと、偃松の樹脂の香と、尾根越しに吹く風の触感と、痩せた肩にめり込むルックサックの革や、ボロボロな岩でブルブル慄える両足や、カンカラに乾いた咽喉や、天幕を漏る雨滴や、下から上って来る湿気や、霧にくもる眼鏡や……そんなことは、毎年経験していながら、すっかり忘れて了って、借金なんぞして山へ行くのだから、すこし変である。  思い出す、オーバーバイエルンはガーミッシの寒村、李の花が咲いて鶏が遊ぶ教会の墓地には、山で死んだ人達の十字架が一面に白かった。土地の人の墓は五つ六つ。そうだろう、家は二、三軒しかないのだから。だが、あのツーグスピッツェにもケーブル・カーが出来たと聞く。それはエンジニヤリングの驚異だという。どうでもいい。 よき山旅の思い出  ほんの子供の時、葉山に小さな家があって、夏冬には出かけたものである。  私の家は海岸から大分遠いところにあった。ある夏の日、泳ぎに行くかわりに、何ということはなく、一人で山に登って見た。  朝晩見ていた山ではあるが、登ったのは初めてであった。細い路を尾根に出ると、驚いたことに、反対側の斜面は茅の一面生えで、そこに点々と大きな白百合が咲いていた。強い香気だった。あまりに茅が深いので、あまりに百合の香気が強いので、そしてその二つが、吹き上げる風に、まるで生あるかの如く揺れているので、恐ろしくなった。だが、家に帰った小学生の私は、日記に「これから三浦半島の山をすっかり登る決心をした」と書いたものである。  中学の二年の時だったかしら、私は筑波山に登った。初夏だった。天気はよかったのだが、下山の途中、突然霧がわいて来た。私達はぶなの林の中を歩いていた。霧はつめたく、ぶなの木は生れてはじめてだった。これが山の霧に洗礼された最初だった。その後何十回も、霧の中を歩いたが、この時、ぶなの木が見えたりかくれたりした有様は、いまだにはっきり覚えている。  その次の夏、私は日光に行った。何とかいう滝を見に、草の生えた丘をやたらに歩いた。丘を縦に小川が幾筋も流れ、野ばらが咲いていた。日はカンカン照っていたが、高原の風が吹いて一向に暑くはない。私は川のほとりに、ゴロリと横になって空を流れる雲を眺めた。筑波山で山の霧の洗礼を受けた私は、ここで高原の太陽と風とが、如何に楽しいものであるかを知った。このように、極めて自然に、徐々に、私は山に近づき、山に親しんで行ったのである。  次のステップは私を日本アルプスに導いた。白馬で私は雪渓に狂喜し、高山植物に心を打たれた。それから数年間、年から年中、夜も昼も山を思う時代が続いた。まったく私は若く、壮健であった。がりがりと、山を歩きまわった。だが、この時代にあっても、山の霧のつめたさと太陽と風とを愛する念は私を去らなかった。私は好んで針ノ木岳やスバリ岳のあたりの、アルプに似た草原で、のびのびとした数時間を送った。ひとつには、あの辺が登山家に取りのこされていて静かだったのと、なんだかのんびりしているのに適したような気がしたからである。  同じ山に何度も行っている結果、私は山の人々を知るようになった。家が面白くないといって東京の私の宅にやって来た若い案内者などもいた。晩春の独活、秋の小鳥、冬の山どり、雉……そんな物を、山の人達は送ってくれた。私の生活に山は欠くべからざるものとなった。シーズンを外ずして、私はよく山へ出かけた。  一度、九月も末になった頃、小谷温泉へ行った。本当は雨飾山へ登ろうとしたのだが、雨で駄目になった。だが却って、静かな、いい両三日を送ることが出来た。  糸魚川街道をバスで下瀬まで、崖に生えた萩が、花をバスの中に散らした。下瀬から温泉までの路は、雨もよいの午後の光の中で美しかった。温泉では古いラジオをかこんで糸魚川の尼さんやら、近くのお百姓さんやらが、都会人である私の横暴に白い眼を向けたというのが、丁度その晩、AKから私の親友がフランス文学に関する放送をすることになっていたので、私はその時間に、BKの浪花節をスイッチ・オフしたのである。  翌日、昼すぎまで雨に降られ、すっかり退屈してしまった私は、面白半分馬にのって下瀬まで出た。途中で雨はやみ、谷の奥に虹がかかった。  十一月の終り、突然大町へ行ったことがある。すっかり枯れ切った林をわけて、東山を登り、日の暮れ方に、何というか名は忘れたが、小さな部落に出た。一軒の雑貨店の囲炉裡にふんごんで、漬菜でビールをのんだ。家の前が街道、その向うが松林。林は街道に向ってゆるく傾斜している。傾斜に添うて妙に白々とした光が流れて来、どこかで子供が歌っていた―― 夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる  十数年来のよき山の友である大町のSは「ああ、石川さんも山へ来て子供のことを考えるようになった」と、淋しそうだった。まったく、私はその時、家に残した子供のことを考えていたのである。  最後に登った高い山は、針ノ木岳である。これも九月、小暇を得て出かけた。大沢小舎のすこし上、盛夏雪渓の終るあたりに、たった一本咲いていた紅百合。マヤクボの上の方は、りんどうの花ざかり。その晩は峠から白馬が、うそみたいに美しい色に見えた。  翌日は、いつもは滝で下りられない沢を、がむしゃらに下りた。真田紐でズボンの下を靴にしばりつけ、土砂が靴の中に入らぬようにしながら、私は黒部の渓谷の向うに見える立山の峯峯に見入っていた。何故だか、もう二度と再びこんな山旅は出来ないぞという予感がしたのである。人夫が、ザラザラと岩片を落しながら沢を下って行く。最後まで私は尾根にいた。私は恐らく溜息をついたことであろう。思いきって身投げをするように、尾根から沢へ飛び下りた。  その夜、午前一時というのに、私は大沢小舎で、大町から登って来た二人の人夫に起された。「日清戦争が起ったからすぐ帰れ」と東京から電話がかかったというのである。夜明を待って、露の深い径を下った。しとど、私は露にぬれた。蜘蛛の巣が顔にかかった。満州事変が勃発したのである。その時から今日までに、私は米国へ行き、英国へ行った。太平洋の汽船で、シベリアの汽車で、私は時々針ノ木の雪渓の下、ゴロタ石の中に咲いていた赤い百合と、峠に近く咲いていたりんどうとを思った。秋の山の静けさを慕った。  忙しい最中に、一月元旦、三国山へ登った。山はすっかり凍りついていた。頂上では樹氷の花が咲いていた。私はピッケルを振り廻しながら凍った斜面を滑っておりた。気持のいい時は、相当乱暴な真似をしても怪我なんぞしないものである。  今度帰って来て、大町のK・Kという案内者が死んだことを知った。奉納相撲で行司なんぞして元気な男だったが――  もちろん二十年以上の山の旅だ。死ぬ人があるのも当然だが、やはり多少は気がめいる。  高等学校の時、その頃としては大旅行たった針ノ木――立山――剣――小黒部――大黒――大町のコースに行った人夫の中で、年もとっていたが落着いて親切だったSというのは、山へ入るのをやめて、どうなったか誰も知らない。兵隊から帰ったばかりの、その頃では所謂インテリだったKは、発狂して座敷牢で死んだ。  酒の好きな、猥談の上手な、ニコニコしていながら妙に理屈っぽいT老は、最後に針ノ木へ私が行った秋、長い間の病気のあげく、弱り果てて死んだ。稲田が軒先まで来ている家へ見舞に行ったら、起きるなというのに起きて来て、もう一度石川さんと暢気に山へ遊びに行きたいといっていたが、素人の私にも、もう治りそうにもないと思われた。  今度はK・Kだ。六月はじめ立山から富山にぬけた時、立山温泉では湯があついといって、スコップで雪を湯槽にたたき込み、富山の旅館では、遊びに来た若い文学少女が「私、八十さんが好きですわ」といったのを、部屋の隅で足の底の皮をむきながら、「お前、この辺は門徒じゃねえのか」と、これは洒落でも何でもなく、真面目で質問したK・Kだったが――  死んだといえば有明のNも雪崩でやられた。兵隊靴を背負って歩き、里へ出ると草鞋を靴にはきかえたりしていた男だった。  山への私のイニシエーションは極めて自然であった。山頂ばかりでなく、山麓の丘や村や、そこに住む人々とも、自然に親しくなっていった。知人が死ぬのは悲しいが、これはやむを得ない。私はまだまだ、嶺や丘や森に、よい旅を持つことだろう。(「大阪弁」) 鹿島槍の月  たけかんばの密林中で熊の糞を踏んづけたり、唐檜の下を四ツンばいに匐ったり、恐ろしく急な雪渓をカンジキもはかずに登ったり、岩角にチョコナンと坐って人の顔を見ると同時に「キャッ!」といって逃げたおこじょを追っかけたり――つまり、所謂登山法の本には書いてないような乱暴といえば乱暴だが、元気にまかせて心ゆくまで山と戯れたような登りようをして、鹿島槍の南の尾根に取りかかろうとする地点の野営地に着いたのは、たしか五時頃であった。  まったく今から考えると、我れながらうらやましくなる程の元気であった。友人二人、案内や人夫五人、合計七人にリーダー格として、大町、針ノ木峠、平、刈安峠、佐良峠、五色ヶ原、立山、剱、祖母谷、大黒という当時としてはかなり大きな旅行を済ませたばかりであるのに、二人の友人が東京へ帰るのを見送ると共に、また山に入ったのだから。おまけに、同行者が、都会人ならばとにかく、大町のN君と、日本アルプスの案内者としては、その当時大臣級で今は元老であるところの林蔵。山中二泊の旅とはいえ、三人分の食糧と草鞋と、それから旧式な天幕、毛布等で、随分重い荷物があった。それを「なアに人夫なんざ入らねえだ」といって、ひっしょってた林蔵は偉かったが、私共も相当に荷を分けて背負った。それに、さっきもいったように、おこじょを追っかける、熊の糞をふんづける……雪渓ですべることが恐怖よりも先ず哄笑を惹き起したような、ほがらかな健康に充ちた気持の一行だった。  で、とにかく、あたり前の登山者よりも余程早く予定の野営地に着くと、お客もなければ案内者もない、ごちゃまぜの我々である。誰が天幕を張ったか、草を刈ったか、偃松の枯枝をひろったか分らぬ内に、チャンと今宵の宿が出来上った。すなわち、生乾きの、香しい草が厚さ一尺、その上に着茣蓙を敷いた一坪ばかりの座敷、屋根は純白の天幕である。いつ夜になってもいいように、ポールには小田原提灯がぶら下っている。毛布は皺をのばして、一隅に重ねてある。  すべての準備は整った。盛な焚火がパチパチと音を立て始めた。林蔵は、まっ黒な薬鑵に、どこからか、水をいっぱい満たして持って来た。太い白樺の枝を、斜めに地面につきさす。針金で薬鑵を火の上にぶら下げる。米をとぐ。玉葱の皮をむいて味噌汁を作る……  その間、我々は、濡れた足袋を乾いた足袋にかえ、グシャグシャになった草鞋を新しい藁草履にかえ、天幕から二、三間はなれた草地に腰を下して、四周を眺めていた。鹿島槍は信濃と越中との境界をなす山脈中の一つである。東は北安曇の平原を見下し、西は黒部の渓谷をへだてて立山の山彙と相対する。山の景色としては申分ない。  鹿島槍それ自身の主峯は、我々の右手に聳えている。まっ黒な岩の尾根、危くかかる雪、絶壁、これが信州側である。なだらかな土砂の傾斜面、草地、偃松――ここには高山植物が多い――越中側は、このように穏やかである。  やがて飯が出来た。味噌汁、干鱈、それ以外には何の御馳走もなかったが、三人は野獣のようによく喰った。岩つばめが低く飛ぶ、黒部の瀬の音が時々聞える、いつの間にか日が暮れた。  食器類を洗って了うと、我々は焚火をかこんで、山の話にふけった。キャッ! といったおこじょの嗚き声は、何度真似をしてもおかしかった。鹿島入りを下駄ばきで、たった一人、立山様に参るのだといって歩いて行った老婆の話は、神秘的で物すごかった。もう寒い。天幕から毛布を出して、それにくるまって話にふけった。いつの間にか空に、満月がかかっていた。いつの間にか……本当にいつの間にかである、我々は、濃い、ムクムクした白い雲によって、完全に下界と絶縁されていた。安曇の平野から、また黒部の谷から起った雲は、べっとりと一面に、中空に敷きつめたのである。その雲の上にあるものは、明かな月と稀なる星と、鹿島槍の中腹以上と、我々三人だけとであった。  私は急に恐ろしくなった。自然の大を感じたとか、我が身の小を知ったとかいうのではない。只、社会を組織する本能を持つ「人」がその社会――ある時はうるさく思い、いまわしく思う――から、絶対的に切り離された淋しさが身にこたえたのである。  月は静かであった。鹿島槍も静かであった。我々も黙っていた。ふと、近くの草地で、ゴソゴソとかすかな音がした。林蔵は、 「や、兎の奴、小便をなめに来ただな」 と沈黙を破って、手近の枯枝を一本、焚火に投げ込んだ。  生れてから今迄に、諸処方々で、随分いろんな月を見た。だが何といっても、この月の思い出が一番深い。いまだに鹿島槍が大好きで、一年に一度は必ず、見るだけでもいいから、この山に近づきたいと思うのには、こんな思い出も関係しているのであろう。 たらの芽  信州から「たらの芽」を送って来た。「うど」に似ている。「うど」と同じように葉のさきを取り、あっさりとゆでて食った。本当は胡桃あえがうまいのだが、県外移出禁止とかで手に入らず、胡麻味噌にして食った。 「たらのき」はこの近くにも生えている。根元から上まで太さに変化なく、枝などは出さずに幹一面長い針をつけた馬鹿みたいな木だ。春になると頂上に芽を出す。その芽をつけ根から綺麗に切りとったものが「たらの芽」である。  面白半分に植物の本を調べたら、これは山野に自生する亜喬木で五加科に属するとある。五加科とは何と読むのかと思って、同じ仲間の植物二、三について読んでいると、五加というのがあり、「うこぎ」とある。八ツ手なども同じ仲間である。 「たらのき」は馬鹿みたいな木だが、ラテン名はアラリア・シネンシスで、ちょっと優美な感がする。別名が「うどもどき」。これは明瞭に芽の味と形から来ているのだろう。  もう一つの異名はイカラポカラという。これは植物の本には書いてない。かつて仙台にいた時、早春郊外を散歩していたら、一緒に行った男の子が「これはイカラポカラという」と教えてくれた。長いトゲがやたらに出ているのが如何にもイカラポカラという感じで、面白いことをいうものだなと思った。 「近く香味とうとぶきも送ります」と、手紙に書いてあった。香味は当字で本当は「こごみ」だろうという。「ぜんまい」の大きなようなもので多肉柔軟、田舎ではせいぜいおひたしだが、僕はホワイトソースであたたかいうちに食う。夏山でもよく味噌汁のみにするが、そのころは固くなってしまって、さきだけしか食えない。このごろのは根の近くまで食える。 「うとぶき」もいずれ何とかいう名があるのだろうが、うどの香と蕗の歯ざわりを一緒にしたような山菜である。  この「うとぶき」や「あざみ」は、うまく塩につけると一年中新しい緑の色をしている。信州式に後からついでくれるお茶のお茶受に、指でつまんで食うのはたのしいことだ。  山の食物に「あけび」の蔓がある。バスケットに編むような丈夫な奴はもちろん歯が立たぬが、出たばかりの若い蔓は松葉のような色でシャリシャリして、うまいとかまずいとかいうよりさきに、何よりも洒落ている。シャリシャリといえば花の咲く前の蕎麦の軸も、ちょっと赤味がかった美しさで、おひたしには持って来いである。 「またたび」の実も塩漬にするとオリーブに似て、もうすこし仙骨というか俳味というか、とにかく日本的な味がする。僕は上越地方へスキーをやりに行って一瓶買った。  薬屋で売っている「またたび」はこの実におできが出来たような物らしい。火をつけて隣近所の猫を集めたことがある。ところが驚いたことに塩漬の実を庭に投げ出すと、やはりどこからともなく猫が集って来て、狂態ともいうべき大騒ぎをやった。  これからは根曲竹の筍が美味になる。丁度いまごろ妙高山麓に旅をして、こいつはうまいとほめたら、何から何まで筍づくめの料理を出されて、のぼせたことがある。おまけに後から一俵も送ってくれたが、大半はむれてくさり、ズルズルになっていた。すべてこのようなものは少量を珍重するに限る。 「たらの芽」から思いついて、いろいろと山菜のことを書いている内に、山に行きたくなって来た。まったく梅雨前の山はいい。残雪は多く、きれいで、日は永く、鳥は盛んに鳴き、おまけに何やかや、食える植物がふんだんにある。秋の山もいいが、どうも悲しい気持がする。これに反して初夏の山はワーッと景気がいいのだ。青春の山という感じが満ちているのだ。 (「樫の芽」) 初夏の高原――信州大町から――  もう六月に入ったのに、まだ、れんげ草が咲いている。菜の花も盛りを過ぎてはいない。昨日裏山へ登ったら、素晴らしく大きなつつじが咲いていた。この辺では、鬼つつじと呼ぶんだそうである。  山の斜面、木を切ったあとを歩いていると、鶯、ほととぎす、カッコウ鳥。ほととぎすは、やっぱり「一声は月が鳴いたか」の方がいい。昼ひなか、こう方々で、キ、キャッコ・カッケッキョーキ、キャッコ・カッケッキョとやられると、うるさくなる。  高原のまひる、燃えるような落葉松の若葉の色に、ボンヤリしている時、どこからか聞えて来る、あの間ののびたカッコウ鳥の声は、私をねむたがらせる。「夏が来た。クックウよ、声高く鳴け!」という、古いイギリスの詩を思い出させる。私は山腹のくぬぎの林に坐って、カッコウ鳥の声を聞いた。目の下は平地でそこには大町の町が南北に長く、その向うは山である。連華、爺、鹿島槍、五龍……大変な雪だ。真白で、目が痛い。やがて梅雨になると、その雪は大部分とけて了う。惜しい。だが、雪のとけるのを待っている、いろいろな草のことを考えると、大して惜しくもない。  まっ白な雪渓に、すこしばかり茶色がかった「ザラ」の見えるのがある。それは雪崩が持って来たザラである。やがて人が上を行くようになると、雪はだんだんきたなくなる。 「爺の種蒔き爺さんはあれです」と、一緒に行った慎太郎さんが指さして教えてくれるが、一向判らない。そこでマッチの軸で地面に絵をかく。なるほど、三つある爺のピークの、左二つの間に、そういわれればそうと見える雪の消えた場所。左向きのプロファイルだ。鍬をかついで、笊を持って。よく見ていると元気そうなおじいさんにも見えるし、またとんでもない物、例えば出来そこなったビール瓶とも思われる。ポロニアスに同情する。  こうみ――香味か――というものの、おひたしを食った。細いわらびみたいなもので中々うまい。だがそれよりうまかったのは、鹿島入りから炭焼きのじいさんが持って来たという、生の椎たけであった。やわらかくて、あまくって、――それに、第一鹿島入りから持って来たというのが気に入って了った。  青々とした木の枝を積んだ馬が山から下りて来る。田に入れて肥料とする青葉である。すれちがうと緑の香が鼻を打つ。むかし、景気のよかった江戸は、いけぞんざいな鰹売りの声に夏を感じた。昔でも今でも、大して景気のよくないらしい大町は、このかるしきがもたらす緑の香に夏を感じ、爺ヶ岳の種蒔き爺さんを見ると、めんくらって、豆を蒔くのである。  山の麓のささやかな平地に、ゴタゴタと家が建っている大町だが、それでも人が住んでいる以上は、いろんなことが起る。釣の好きな小間物屋の主人公は、二月ばかり前に細君を貰った。赤いてがらをかけて、二階を掃除している所をチラリと見た。これはお芽出度い話だが、悲しい話も二つほどある。一つは巡査と芸者の心中で、一つは山の案内人の狂死である。どっちも慎太郎さんに聞いた。 「そこで金につまって、官金消費てな事になったんですか。」 「いや、原因というのが、どこかへ転勤になって、もう逢えないからなんです。若い、元気な巡査でね、青年野球だなんてと、いつでもピッチャをしていましたが……」慎太郎さんと私とはこんな話をした。  今から十年あまりも昔のこと。まだトリコニイとかクリンケルとか、ザイルとかラテルネとかいったような、物すさまじい登山用の七つ道具が我が敷島のあきつ島に乱人しないで、山も平和だったその頃、大町から針ノ木を越して立山へ出、剣に登って大黒――大町と、一週間あまりの山の旅をした私が連れて行ったGという男。若くって、軍隊式で、すこぶる気に入ったものだが、果してその後、私が外国をウロウロしている間に一人前の案内者になった。この男が去年の秋、気がちがって死んで了った。気ちがいになった直接の原因がある。それを聞いて、私はいささか暗涙を催した。何でも二、三年前に、あるお客を山へ案内して行った時、ふとした機でその人の荷物を川に落したことがあり、それを非常に気にやんでいたが、いよいよ気がちがってからも「俺は山へ行って金の塊を取って来るだで」と、しきりに言っていたという。金の塊でお客に損害賠償をする気でいたものらしい。もともと正直な、小心な男だったから。  今でもよく覚えているが、あの旅の時、針ノ木を下ると黒部川で、籠渡しがこわれていて徒渉ということになった。だが流れは早し、雪どけの水は冷たくはあるし、一同いささかためらっていると、「よオシ」とか何とか言って、素っぱだかになったこのGが、大きな荷物を肩の上へしょい上げて、奮然、ザブザブやり出した。ものの二、三間も水を渡ったかと思うと振り向いたが「水がつめたいで、きんたまが腹ン中へへいっちまったぞ」と、白い歯を見せて笑いながら、ブルブル震えて見せた。  いよいよ本式に発狂すると、乱暴をして仕方がないので、座敷牢みたいなものをつくって、中へ入れた。それでも夜具、布団、衣類、そんなものをすべてズタズタに裂いて了う。寒いのに裸でいる。家のものがこまって、「※(「仝」の「工」に代えて「丁」、屋号を示す記号)の兄さん」なら言うことを聞くずらと、慎太郎さんのところへ頼みに来た。行って見ると身体中生傷だらけで、何だかしきりにしゃべっている。それでも慎太郎さんの顔が判り、もらったキャラメルを子供のようによろこんで食ったという。で、「お前は今、あんばいが悪いんだから、おとなしくしてねていなくってはいけない」と言って聞かせると、おとなしくねようとするんだが夜具はズタズタだ。それをまるめて、縄のようになって、さて何と思ってか荷づくりをする手つきを盛にやるんだが、それがまるで山でキャンプを引き払って出発する時の恰好にそっくり。そして「もうそろそろ山へ行く時分だ。お客があったら知らしておくんなさいよ。俺どこへでも飛んで行くから」――これはこの辺の方言で聞かねば本当の味が出ない――と、くりかえし、くりかえし頼んだということ。こう書いていても、私には達者だったGの顔が見える。とにかく兵隊から帰ったばかりで、多少は文字も解し、且つは五万分の一の地図が「読める」ので、こいつは大いに有望と思って、東京へ帰るなり、隼町の小林へ買いに行って、この辺の山の地図を送ってやったりしたものだ。  今さら古めかしいが、人生いろんなことがある。山だけは昔のままだが……。 偃松の臥榻  一度、偃松のカウチに横たわったことのある人は、一生その快さを忘れぬであろう。  雪渓を登ること半日、初めの間こそは真夏の雪の珍らしさに、用もないのにステップを切って見たり、わざわざ四、五間も向うのクレヴァスをのぞきに行ったりするが、やがて傾斜が急になり、ある場所では実際必要があってステップを切ったりするようになると、もう面白味よりも労苦の方が多くなる。襟くびに太陽が痛い。雪眼鏡はくもって来る。僅か一貫五百目のルックサックが、大磐石でも背負っているかのように、肩にこたえる。両手が妙にふくれて見える。咽喉がヒリヒリする。どこかで水の音はするが、目には見えない。雪を口に入れれば、冷くはあるが一時に口が熱して来る。喘ぎ喘ぎ振るアイスアックスに、キラリと雪片が飛んで、眼鏡に当ってすぐとける。その水気を拭ひ取ろうとして出すハンケチは、もう汗でベトベトである。こうなると、口も利かず、峰も仰がず、ただ「自然」と闘う気で、一歩に一息、一息に一歩と登るだけである。いよいよ苦しくなると、俺は何の必要があってこんな莫迦な真似をしているんだろうと思ったりする。涼しい風の吹き通す二階で、籘椅子にねそべって、ウイスキー・グラスにシュッと冷えたサイフォンの音を立てつつある奴が、あっちにもこっちにもいるような気がする。癪にさわる。  だが、このような二、三時間をすごして、最後に、文字通り胸をつく急斜面を斜めに登り切って、尾根越しの風を真向に感じる時の気持! 雪の平地にカンジキの跡をつけて二、三間行くと土が出ている。アイスアックスは雪につき立てる。両手を後に廻してルックサックをゆすぶり落す。帽子を向うの岩にたたきつけて、さて雪眼鏡を外ずすと、一時に夜が明けたように、前にひろがる雪の峰、岩の巓の大パノラマ。その中のどれが槍であろうが薬師であろうが、今の自分には無関係である。自分には別の用事がある。  右手のピークから続いている細い尾根、その上にベタッと繁った偃松。私は帽子をひろって、その偃松の方へ歩み寄る。恰好な場所を見つけて、長い身体を枝の上に横たえる。枝はしなって、やわらかく身体を受ける。思わず「フーッ」と息をつく。  雲片一つだに見えぬ大空、風、岩燕の声、血を新たにするような松脂の香、黄金の花粉、もつれ合って咲いている石楠花の白くつめたい花弁、すぐ向うの黒い岩塊、風に乗って来る渓谷の水音、どこかで岩の崩れ落ちる音、下で湯をわかしているらしい焚火の煙、……これ等のすべてがいつの間にか見えなくなり聞えなくなり、私は帽子を顔にのせたまま、世にも美しいユートピアの眠りに落ちるのである。十数年前の、世間を知らず酒を知らず恋をも知らぬ学生時代から、三十の坂を越してすでに二人の親になっている今日にいたるまで、夏が来ると山を思い、山に行けぬと鬱々として楽しまぬのは、実に山が偃松のカウチというアトラクションを持っているからである。 嘆きの花嫁――山での話――  ちょっと映画の題――それも五、六年前にでも流行したらしい――を思わせるし、山と花嫁とどんな関係があるのかと不審に思う読者もあろう……と、それをねらった味噌ではなく、この「嘆きの花嫁」は、うそ偽りの更にない Mourning Bride の直訳である。  自慢にはならぬが、僕は極めて物覚えが悪い。記憶力はゼロである。だから中学時代から、歴史では落第点に近いものばかり取っていた。人の名前など、すぐ忘れて了う。いや、名前は覚え、顔も覚えるのだが、その二つを正確に関連させて覚えていることが困難なのだ。人は胡麻塩の僕の頭を見て、「お年のせいですよ」という。お年のせいならいいが、僕のは昔からそうなんだから救われない。而もこれが人の名前ばかりでなく、動物、植物、鉱物の三王国を通じてのことなのである。  今日、昭和医専の人たちが来て、白馬に高山診療所を設けて以来五年間の、いろいろな経験を話して行った。今度、立山にも同じような設備をつくりたいという。その話は別問題として、白馬岳の山小舎には一泊十円の部屋があるという。僕はびっくりして了って、僕が白馬に行った時の小舎といえば云々……と、つまり時代に取残された人間が、誰でもいうような事をしゃべったが、さて僕が最後に白馬に行ったのは今から二十年を遥かに越している。そして、僕はいまだに山が好きで、山に登り、時に老人らしく冬山でころんで怪我なぞしているのだが、要するに二十数年、山に登っていながら、山の名を覚えねば、高山植物の名も覚えないというのは、「お年のせい」ではない、それについての「記憶力ゼロ」がたたっているのであろう。  やたらに話の範囲をひろげて行っても仕方がないから、「嘆きの花嫁」に関係のある高山植物に限定すると、僕は、二十年も山に登っているのだから、自然、無数の高山植物を見、無数の名前を知っている。が、その中で、どこにあっても、明確に実物と名前とを一致させ得るのは、松虫草だけである、それで口の悪い一人の山友達は松虫草を「石川さんの植物学」と呼ぶ。石川さんの植物学の知識はこれにつきるの意味なんだろう。  ところで、松虫草は高山植物ではない。北海道から本州、四国、九州に至る山野に生ずる……というのだから、何でもない雑草だ。しかし最初に松虫草を意識して見てその名を知ったのが、北アルプスの山々へ入る第一日であったため、どうしても松虫草と山とを離して考えることが出来ない。千葉の海岸の松林の中にも咲いているが、若しもそれを最初に見たものなら、恐らく僕は「日本アルプスの麓に、千葉の海岸にある花が咲いてやがらア」と感心したことであろう。  大町から籠川の谷に入るのに、若い稲の水田の間を歩き、大出という部落を過ぎると、雑木まざりの松林に入る。松蝉が嗚き、かけすがギャーギャーいって瑠璃色の羽根を落す。この雑木林に、松虫草が沢山咲いている。  僕は何回この林をぬけて山へ入ったことだろう。山へ入る第一日のたのしさ。空はあかるく荷は重く、はきなれぬ草鞋は足の底で妙にデコボコする。歩き出して一時間、小さな流れがあって、そこで第一回の休息をする。水は生ぬるいが、その日の晩方には、もう、手を入れるとちぎれそうな雪どけの水が流れる、大沢の小舎に着いているのだ。  この林に来て、背の高い松虫草を見るたびごとに、僕は「今年も山に来た」としみじみ思うのである。  ある時、とても暑い八月の一日、もうお昼近くであった。一緒に行った英国人の登山家は、ここの松虫草を見て「君、表面にこまかく露がうき出したグラスに、シャートルーズでつくったカクテルを充たし、その上にこの花を浮かべたらどうだろう」といった。山が好きで、時間をつぶし、銭を費し、精力を消粍して山に入りながら、その第一日の朝から人間は食物、のみ物の話をする。人情、東西相同じとでもいうか。  新渡戸先生のお伴をして米国へ行った時、ハドソン河上流のトロイという小さな都会に先生の友人がいて、そこのロータリイ・クラブの昼飯に講演をしてほしいと申し出た。先生はウイリアムスタウンにおられたが、自動車でトロイに行かれ、一晩とまってあくる日講演ということになった。  先生の友人は老婦人で、小さな家に住んでいた。僕は二、三軒はなれた家に泊ったが、翌朝食事のためにその老婦人の家へ行くと、驚いたことに、食卓に松虫草が、花瓶一ぱい盛りあげてある。この松虫草は大きく、而も純白である。 「へー、こんな花があるのか。これは何といいますか」 とたずねると、老婦人は「自分は知らないが、この花をくれた人は園芸が好きで、花の名前ならなんでも知っている。聞いて上げましょう」といって、電話で聞いてくれた返事が「モーニング・ブライド」。  気持のいい、朝の食事に盛り上げられた花は、まったく「朝の花嫁」のように健康で、美しかった。朝顔が「モーニング・グローリイ」で松虫草が「モーニング・ブライド」。なんと素晴らしい名前だ! だが冗談半分、「これは morning bride ですか、mourning bride ですか」)と聞くと、どっちか分らぬとのこと。どこでもそうだが、別して米国の知識階級の家庭だ、しっかりした辞書が二つや三つあるのに、引きもしなかったが、数年後の今日、辞書を引くと、「Mourning bride ナベナ属の装飾用栽培草木、羽状深裂の葉、通常濃紫色のひらべったい頭の花を持つ」とある。学名は Scabiosa atropurea。これがスタンダード辞典。英和辞典には単に「まつむしそう」とある。大丈夫なんだろうが「僕の植物学」では teazel family(辞典のいわゆる「ナベナ属」)がどんなものか判らないし、念のために大百科辞典というのを引くと Scabiosa japonica Miq. と学名が出ている。間違もなく mourning bride は松虫草なのだ。  だが、これは一体何という名なのだろう。松虫草のどこに「嘆きの花嫁」の感じがあるのだろう。何か伝説でもあるのだろうか。  夏の山には、ずいぶん長い間御無沙汰している。籠川の入口の松虫草も、長いこと見ていない。だが米国から帰って、僕は方々で松虫草を見た。松虫草との因縁は中々につきない。  楽に日帰りが出来て、割合に面白いところから、僕は小仏峠に何度も行ったが、あすこから尾根をつたって出る景信山の頂上を、東の方へちょっと下ったところに、松虫草がウンと咲いている。はじめてこれを見た時にはうれしかったが、同時に、「なんだ、こんな所にまで咲いていやがる」という気持もした。  更に前に書いたが、千葉の海岸に咲いているのを見るに至って、僕は松虫草の無節操に憤慨した。もちろん憤慨する方が間違っているんだが、――千葉あたりになると、色はいやに白ちゃけて、ほこりぽく、見るも無残である。「北は北海道から、本州、四国……」云々の花であっても、高地に咲くものほど、色はあざやかである。  去年の秋、僕は朝鮮を旅行した。新義州まで直行し、引きかえした京城から半島を横断して清津に行ったが、その最後の宿り塲は朱乙温泉であった。朝鮮にいること二週間、何ともいえぬいい天気の連続で、紫外線が強いのかどうか知らぬが、我れながら呆れるほど立派な写真がとれたりした。  朱乙には早朝着き、その晩の夜行で京城経由帰京する筈だったが、二週間の強行旅行に、さすがにつかれを覚えたので、すすめられるまま、朱乙温泉一泊と腹をきめ、朱乙川でヤマメ釣りをこころみた。古い文句だが、水晶をとかしたような水がほとばしって流れている川の、瀬になった場所を選び、その上方のとろみに、鮭のたまごを餌につけた針を投げ込むと、針は流れて瀬の石を越す。と、あたりがある。僕を案内してくれた人は名人だから、竿を持つ手首のひねり具合で、完全に魚を釣るのだが、こっちはなにぶんかけだしの、釣魚といえば武州金沢で二、三寸の沙魚をつったことしか無いのだから、手ごたえにあわてて了い、エイッ! とばかり竿を持ちあげる。ヤマメは頭の上で、昼間の三日月みたいに光って背後の河原に落ちる。そこには白砂に小松が生え、九月もなかばを過ぎたのに、松虫草とハマナスが咲いていたが、およそ、こんなにあざやかな色の松虫草は、見たことが無い。やはり紫外線の関係だろう。高山植物の色をしていた。  今、拙宅の庭の一隅に、松虫草が四本、ヘナヘナしている。過日新宿の夜店で買ったものだ。コヤシをウンとやったら、トロイのみたいに大きな花を咲かすかも知れない。多年生草本だというからには、毎年咲くことだろう。たのしみにしている。(昭和十一年「夏ひとむかし」) 山の秋  林の小径、踏みしめて行く一歩一歩に木の葉が落ちる。丸いかつらの葉、細い白樺の葉、それよりも粗末に出来たまかんばの葉。いずれも黄色い。  この朝、風がまるで無いので、木の葉は、ふんわりと、自分勝手に落ちて来る。或る木の葉は帽子にあたる。別の木の葉は小径に落ちる。また、林の下草をなす、羊歯と、つはぶきに似た草と、いろいろな蔓草とにひっかかる葉もある。  夜中降った雨が、やっと上った所である。白樺の幹は艶々と白く、落葉松の幹は濡れて、ひとしお黒い。こまかい小梨の実の一つ一つには、まだ雨の滴が残っている。  径は、雨上りでしっとり濡れて……といいたいが、山の雨だ、急な坂だ、ゴロゴロと石が出ている。ガジリ、ガジリ、靴の底に打った鋲が音を立てる。その一歩一歩に、木の葉が散り、その一歩一歩が、重いルックサックと私とを、山から都会へ近づける。もっと地理的に説明すれば、上高地から松本へと、徳本峠を越えつつある私……  峠の中途で、丸太のベンチに荷物を下して、振り向いた。雲にかくれて山は見えない。見えるものは、明神岳の裾と、それに続く梓川の白い河床、白っぽい川柳の木立。疲れ切った私の心は、過去の上高地と、現在の上高地と、近き将来における上高地との三つを、ひたすらに思うのであった。過去といっても一月ばかり前と、十日ばかり前と、将来というのが、さア、今日は八月の三十日、あと一月で十月に入る、すると先ず、やっぱり一月ばかりさきのことになる。  一月前の上高地には、美しい乙女たちの面影が多い。雨のはれ間を、清水屋の座敷からすぐ前の広場へまろび出た十五、六名は、S女学校の生徒たちである。みんな、さっぱりした、派手な浴衣を着ていた。そこへ、声高く語りながら入って来た二、三人の外国人。男の子ばかりだと思っていたが、一人びしょ濡れの帽子をかなぐり棄て、器用な手つきで思い切り短くボッブした頭髪をかき上げた。山で見たからばかりでない、本当に美しい少女であった。  十日ばかり前の上高地にいた私は、焦躁と混乱とに、旅舎五千尺の帳場をウロウロした私である。高貴なお方の御登山を報道すべく特派された私である。東京から、大阪から、大町から、集って来た社の関係者が六人、臨時に委嘱した人が一人、仕方がない、一緒にお出でなさいで連れて行った社外の人が一人、これ等八人に対する案内と人夫とが十七人、通信用として上高地から出す予定になっていた人夫が五、六名……合計三十名を越える人達の、防寒具、食料、草鞋。涸沢へは誰々が先発する、人夫が何人ついて行く、米は何斗持って行く。飛脚が何人帰って来る、何時頃五千尺に着く、島々からはもう電車が無い、自動車に乗って行け。松本から電話がかかって来た、誰か清水屋へ聞きに行ってくれ。……殿下が帰ってこられた、障子をしめろ。写真を持って行かせろ。いや、S君のも一緒に送ろう、S君はどこへ行ってしまったんだ。「石川さん、今風呂で聞いたんですが、あしたA社の人は西穂高へ行くそうです。」「だってNとKとを連れて行かれたら、あとがこまる。」「火事場へ飛び込むようなもんだ。」……コッヘルを忘れるなよ。薪は小舎へ行って貰えばいい。米袋に穴が明いていた……  で、とにかく、それから十日たって、御登山は終えた。上高地は現在の上高地になる。昨日の昼すぎ、飛騨から中尾峠を越して入った上高地は、泣きたくなるくらい静かであった。帰るべき人は帰り、帰すべき人夫は帰した後の我々は、山の友人M君と、私が愛し且つ信頼している老案内勝野玉作と私との三人きりであった。清水屋もガランとしていた。五千尺もガランとしていた。そのガランとした五千尺の帳場に尊く見えるほど蒼白なMさんの顔を見出した時、「Mさん、帰って来ました」といった私の語尾は、我ながらいやになるくらい震えていた。あの焦躁と混乱との十日前にくらべて、これはまた何と静かな、秋の上高地なのであろう。疲れ切った私の神経には、堪え得ぬ程の静けさである。山の秋である。白樺の幹に抱きついて大声をあげて泣くか、明神池の藻の花の間に顔をつっこんで絶息する迄じっとしているか……三十を越して、二人の子供まである私は、子供が母に甘えるように秋の山に甘えたのである。山の秋に。  木の葉が散る。落葉は日ましに数を増すであろう。時雨。ななかまどの紅に、落葉松の黄金。一月はたたぬ内に、山には雪が来るであろう。そして、誰もいなくなる上高地……  山の旅を終えて、所謂下界に下りる時、人は誰でもある種のエクザルテーションを感じる。北アルプス登山口の一つなる大町に、多くの夏を送った私は、よくこれを知っている。また私自身、そのような経験を持っている。だがこの日、私はただ憂鬱であった。  峠を登り切る。下りにかかる。岩魚留メ、島々、松本……この辺の路、掌に地図を持っているようにくわしい。その地図に、赤い鉛筆で記号を書き入れるように、私は私自身の感情の動きを予知した。松本通信部で新聞を見る。きっと違ったことが書いてある。A社はきっと西穂高行きを大きく書いている。大町へ行って天幕を返し、人夫賃を払う。あすこには親しい山の友達が二、三人待っていてくれる筈だ。せめて一日はゆっくりしよう。だが、それから大阪。旅費の精算、いくらやっても間違う計算。ルーティン・ワーク。毎日きまった時間に出勤して、きまり切った顔を見て、きまり切った判を、同じような原稿に押して……  私はのび上って、梓川の岸に咲く松虫草を見ようとした。もちろん見えはしない。私は目をつぶって、槍の肩に咲く千島桔梗の花を思った。朝風にそよいでいる。また深山龍胆は、小さなベルを鳴らし、つがざくらは私のためにクッションになるとて腰をかがめ、すべて秋の山は私を呼ぶのである。  Komm' her zu mir, Geselle, hier find'st du deine Ruh'!  このままに五千尺へ帰ろうか。登山具はすべて持っている。常になく、ザイルさえも持って来ている。せめて二、三日は、一週間は、十日は……  ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子―― 「玉さん、出かけよう。もうすぐだ」  私は急な坂を、一目散に、徳本峠の頂上まで、息もつかずに登った。折から降って来た雨に、臍まで濡れながら一と休みもしないで、島々へ。走って来た乗合自動車に荷物ごところげ込んで島々駅へ。雨のあがった松本へ。ラジオのジャズが往来へ流れる松本へ。クリンケルが三つ四つふっ飛んだ私の登山靴は、重いルックサックと、五尺八寸五分の私とをのせたまま、ジャズに合せて妙なステップを踏んでいた。 秋の山  やっと都合をつけた土曜日と日曜日。金曜の午後大阪を立って名古屋で乗りかえ、塩尻で目をさまして窓を覗くと空は真暗である。松本下車、いやにあたたかい。これはいけない、折角の二日間を雨にでも降られた日にはことだ……と思いながら、一時間ばかり経って大町行きの一番電車に乗った。十一月六日のことである。  電車が動き出す頃には、まったく夜が明けた。果して雨模様である。東の方はまだいくらかましだが西の方は大変な雲で、前山のあたり、渦を巻いていたりする。もちろん山は見えない。  もうすっかり冬の景色である。綺麗に刈りとられた水田はカラカラに乾き、真白く霜さえ見える。借金までして山を見に来たのに、この調子では先ず絶望らしい。仁科の炬燵にもぐり込んで白馬錦をのみながら、ばあさんの濁み声でも聞くのが関の山かと思う。「仁科」はうどんや。「白馬錦」とは地酒の名である。大町から山に登る人は大勢あっても、こんな妙なことを知っている人は、たんとはあるまいと、威張ったところでうどんやと地酒では仕方がない。  穂高、有明、安曇追分と行くうちに、突然空の一部分が口をあいて、安曇平野の一部に、かなり強い日光を投げつけた。直径約一里ぐらいであろうか。山の裾と、山に入って行く広い谷の一部分とを含む不規則な円形。そこは、他の場所の鼠色に比較して、毒々しいまでに鮮かな色彩を見せた。全体の調子は、もう全く枯れ切った雑草や灌木の、黒ずんだ褐色である。それに、何の木か、血のような紅葉、更に浮き上るような黄色い落葉松。我々が大阪附近でいうもみじは、如何に多くかたまっていても、こう一時に紅葉しないから、たとえ一本の樹であっても、紅、赤、黄、緑、茶というような色々の色彩が集って、何とも形容の出来ない、やわらかな美しさを見せる。それに反して、ここ信州も北の方の高原では、紅葉するものは何から何まで一度に紅葉してしまい、二度三度と霜が来るに従って、むやみに色を濃くする。殊にこの朝、灰鼠色の天地の中に、ポカリと浮いた木々の紅葉は、植物というよりも何か動物の臓腑を見ているようで気味が悪かった。  大町に着いて電車を下り、クルリと空を眺め廻す。天頂いささか雲切れがして青が見えるが、それでも雲の動きが早いので、いつ隠れるか判らない。冬外套の襟を立てて、ガランとした広い路を歩く。  対山館の三階の山に面した部屋。三重に覆いをかけた大きな炬燵に肩までもぐり込んで、S、K両氏と話をする。一昨日は悪い天気で心配したが、昨日は実にいい天気で、この調子なら二、三日は大丈夫と思っていたのに今日はまたこんなありさま、だが午後からは晴れるかも知れないと、亀の子のように首をのばして、硝子ごしに北西の方角を見ると、籠川のあたり濛々と霧雨が渦をまいている。時々、バラバラと時雨れて来る。これが山では雪、カラッと晴れると、本当に綺麗な雪の尾根が見えるんだが……と言ったところで、カラリと晴れないのは仕方が無い。バットを喫い茶をのみ、むなしく数時間を送ったが、さりとて無聊に苦しんだのでもない。半年ぶりに逢った友達とは、かなり話の種がわいて来る。  昼からちょっと東の方の山へ行った。この山、乗越を越えた所に鳥焼きの場所があり、実は天気さえよければ天幕をかついで出かけ、明日未明に鳥がカスミにかかるのを見て帰るつもりだったが、第一天気はこの通り、おまけにヒューヒュー風が吹くので、山の裾から引っ返して予定の如く仁科へ寄り、店の炬燵にがんばって、じいさま、ばあさまの昔話を聞いた。座敷があるのに通らず、店に坐り込んで只の茶を飲むことを、大阪のお茶屋でも油むしというそうだが、その油むしをやった訳になる。だが、じいさまも――名古屋の生れで大阪にいたり大連にいたりした――ばあさまも一向いやな顔をせず、その中に若い芸者が遊びに来たので、ますます昔話がはずんだ。ところへ隣から薬湯をわかしたからとの招待が来た。ばあさま、我等に向って、 「今日は早くけえって、あすまた遊びにおいで。」  往来に出ると、もう暗い。カサカサになった桑の葉に、冬の風が音を立てる。Sさんと私とは、並んで立小便をした。  旅のつかれに、いささかなる酒の酔が加わって私はグッスリ眠った。そして暁近く、何故ともなく目をさまして、見ると障子のガラスと硝子戸とを通して、黒い空に白い山。白い山と、後で知ったからこそ言うが、その時は只一面に白いものが、北西の方に当って黒い空をさえぎると思った丈であった。  またひとねいり、話声に目をあけると、あたりは明るい。頭をもたげる……ハッとばかりに飛び起きて、床の間に置いた眼鏡をかけた。何という素晴らしい景色だったろう。  私は寝間着のまま廊下に出た。硝子戸をくって物干台に出る。霜を踏む。寒い空気が身体をとりまく。それ等のみの故にもあらず、私は異常な緊張を感じて、骨の髄まで身を震わせた。蓮華、爺、鹿島槍、五龍……とのびて、はるか北、白馬の鑓にいたるまで、折からの朝日を受けて桜色というか薔薇色というか、澄み切った空にクッキリと聳えているではないか。里の時雨は山の雪、その雪は恐らく金曜日の夜から始まって土曜日一日降りつづけ夜半に至って止んだのであろう。降ったばかりの雪、それも高い山の、煙も埃もない空気を通じて降った雪である。何が清浄潔白だと言って、これほど綺麗なものはあるまい。  しばらくしてから私は、真赤な足と真赤な手と――恐らくは真赤な鼻とを部屋に持ち帰った。いつの間にか炬燵に火が入っている。もぐり込んで、身震いしながら考えた。面白くない、下らない日を送っては徒らに酒をのんで身体を腐らしている私に、万一ほんのチョビッとでも、いわゆる真善美を信じる心がありとすれば、それは一年に一度か二度接する山の、このような素晴らしい景色によって続けられつつあるのではあるまいか。  寒い国は朝が遅い。仕度が出来て対山館を出かけた時は、かれこれ十一時に近かったであろう。ルックサックに登山靴というSさん、肘やお尻のピカピカする背広の私、饅頭やによって鳥焼きの話を聞いていると(饅頭やさんが冬になると小鳥も売る)チリンチリンと音がして、Kさんが自転車で通った。一足さきに行っているから……という後姿を見ると、これまた登山服にルックサック。荷物をすっかり二人に持たせて了った私は、さしずめ殿様の格である。  製糸場、養鯉池、田。田はもう庭しめ(恐らく庭仕舞であろう。すっかり稲を刈り取ったことをいう)を終えてカチカチになっている。前の日ここを歩いた時は、実に荒涼たる光景であったが、この時は正午に近い陽が、うららかに照るので、何とも言えず陽気である。小さな谷その谷の南に向いた方を、路が上って行く。日溜りに風さえ除けて、額のあたり汗ばむ程あたたかい。だが、谷の向う側は北を受けて、枯れた羊歯の葉に霜が白く光っている。あの霜は一日中消えないのであろう。  路が急に曲った。かん高い女の唄声と笑声とが耳に入る。見ると左手にちょっとした枯草の平地があって、年頃の娘が五、六人、登って来る我々には気がつかぬらしく、しきりに歌を唄いながら踊っている。「安曇踊りの稽古をしている!」と誰かが言った。我々は立ち止って、小さな楢の木のこちらから、踊の稽古を見た。どこかの工女か何からしい。野暮な、派手な襟巻が草の上に投げ出してある。カルメンのような櫛が光る。  ふと一人が叫び声をあげた。一同は歌と踊をやめた。我々が見ているのに気がついたのである。キャッとか、ワッとか言ったかと思うと、中には草に身を投げて、ゴロゴロころがりながら笑うのもある。大胆らしいのが「鳥焼きにつれてってくれ!」と叫んだ。ひとしきり、若い笑声が小山の沈黙を破った。  しばらく行くと一杯水。路の右手は雑木林の急斜面、左は芝の平地が約十坪、それに続く、雑木林の上に大きな落葉松が、まっ黄色な針葉をつけて、スックリ立っている。  我々はここ迄来て休んだ。歩くのをやめるとさすがに冷える。と、一陣の風が谷から吹き上げた。枯れ切った林の木の葉が、一時にざわめく。ざわめくと言って了えばそれ迄だが、木によって音が違う。ガサガサ言うのもあれば、サラサラと言うのもある。何か囁くもの、不平らしいもの、いろいろな声である。Sさんはここで弁当をつかった。Kさんは鎌を振って杖をつくった。私は芝の上にねころがって、落葉松を見上げた。落葉松の梢から、目が痛くなる程澄んだ空を見た。  山の中腹に、たった一本生えた落葉松である。高さ何十尺か。幹がすーっとのびて、その幹には犬の毛が植えたように、短い枝が密生している。上は見事にひらいて、箒草の形である。元来が短い、細い葉だから、枝から生えたというよりも、枝に巻きつけた気持がする。若葉の時は、まるで煙のよう。黄葉は金粉。  灌木の中に二間ばかりの栗の木が立っている。栗は気が早い。すっかり葉を落して了っているが、枝のさきに毬を二つ三つつけているので、ガサガサと根もとまで登って見た。  草を分けると毬は沢山ちらばっている。だが実は一つも見えない。どうしたのだろう、こんな小さな栗を拾いに来る人もあるまいし、また落葉に埋れた筈はなし……と思っていると、下からKさんが声をかけた。 「栗は無いでしょう。栗鼠がみんな持ってっちまうから。」  栗鼠が栗を持って行く。冬の仕度に、自分の家へ、貯蔵庫へ、両手でかかえて行く。私はその姿を思い浮べながら、一生懸命にさがし求めた。そしてやっと見つけたのは、私の拇指の爪より小さい奴三つ。栗鼠の忘れた栗――これ丈が家へのおみやげである。大切に、チョッキのポケットへしまい込んだ。  尾根に近く落葉松の林を歩いた。  落葉松の林には下生えがしない。只一面に針葉の絨氈。しかもこれは余程上等の絨氈である。柔く、適度の弾力をもって足に触れる。また太陽は頭上から、黄金色の梢を通して照る。静かな、あたたかい、高貴な光線が我々をつつむ。何だか宮殿にいるような気持がした。  登りつくとズラリと山のパノラマ。左手、前山の肩から首を出す鹿島槍から、右手かすかに霞む浅間まで、遠い山、近い山、高い山、低い山、まっ白な山、雪の筋を持つ山、茶褐色の山。真正面に当る妙高は、いくらか姿を見せているが、雨飾山は雲にかくれて、僅か左の山腹だけしか出していない。  半日の山歩き。霜柱を踏んだり落葉を蹴ちらしたり、またはカスミを張って鳥を取る人を小舎に訪れたり。そして山の裾に家が五、六軒かたまった相川という部落へ出たのは、日の暮れかたであった。  ここからトンネルが山を貫いて大町への道をなす。我々は最初から相川の茶屋でビールを飲もうときめていたので、軒の低い、すすけた家まで来て立ち止った。  家の前は道路、その向うが松林、銀鼠の薄明がつめたく流れる。松林の中から、子供の歌が聞えて来た―― 夕焼こやけで日が暮れる 山のお寺の鐘が鳴る お手々つないでみな帰ろ――  Sさんと私とは、何故か顔を見合せた。  家の中はまっくらであった。炉べりで串にさした鳥を焼いていたお内儀さんは、不意にドヤドヤ人って来た三人の洋服姿に、ちょっと驚いたらしかったが、それでも愛想よく、 「さア、踏んごんであたっておくんなせえよ」と、炉に松の根を投げ込んだ。  板の間に大きく切った炉、まさに踏ん込むことが出来るようになっている。パチパチと松が燃えて、つぐみの腹から脂肪が滴る。  折からの停電に、お内儀さんは蝋燭を酒樽の上に立てた。菜の漬物でビール二本。風が障子を鳴らして、蝋燭の焔がゆらゆら振れる。  出がけに、ルックサックを背負いながらKさんが言った――「お内儀さん、ここらは朝がいいだろうね。」お内儀さんは、変なことを聞く人だという調子で、しばらく黙っていたが、「寒いでね」と、しみじみ言った。 峠の秋 「峠の秋」と書いただけで、私の心には高い空と、汗ばんだ膚を撫でる涼風と、強い日光とを感じる。小仏峠、長尾峠、十国峠、三国峠、徳本峠、針ノ木峠……即座に思い出す秋の峠のいくつかである。  小仏峠は東京から日帰りが楽なので、何度か行った。浅川からも越え、与瀬からも越えた。春秋夏冬、季節にかかわらず訪れたが、秋は麓のおとぎり草、中腹の梅鉢草、頂上近くの松虫草、また美女谷へ下りる急坂が、雑木紅葉してあけびが口をあいていたのは晩秋の思い出である。  長尾峠の秋の一日は、あいにくの雲で富士は見えず、その上御殿場へ下る途中、猛雨に襲われた。バスが来る迄、橋の下で雨をさけようという人や、用心よく持って来た雨外套を小松の枝にかけ、その下にかたまり合えば三、四人は濡れずにいられるという人や、十人に近い一行が、めいめい勝手なことをいったが、結局一同ぬれ鼠で御殿場に着き、駅前の旅館で衣服をかわかした。丁度東京では早慶戦が行われていて、ラジオが興奮しきった声を立てていた。  十国峠はあたたかい枯草の香と海の色。三国峠は法師温泉の朝の冷たい水と囲炉裏の焔、温泉の端れの橋は霜、登りにかかる林道は露がしげかった。峠は猛烈な霧が越後側から捲き上げて、苗場山は見えなかったが、その霧の中へ、いわば遮二無二とび込んで、二十町下の浅貝は、明るすぎる秋の日の中に、うら悲しい灰色の姿を浮せていた。  上高地は、ホテルが出来、自動車が通う今日よりも、徳本のバカツ峠を上下した昔の方が、煙が深かったような気がする。何度か越した徳本だが、別して、一度、長い辛い山旅を終り、もうすっかり静かになった上高地を後に、今は故人になった大町の玉作老人とここを越えた時は、一歩一歩に木の葉が散り、私はそれから出て行って生活せねばならぬ都会と、後に残して行く山との二つに、板ばさみになった自身の心を見出して、足は重かった。  針ノ木峠の小舎を根拠地に、蓮華、針ノ木、スバリ等の山遊びをした数日はたのしかった。朝晩こそ寒かったが、日中の空気はシャンペンのように甘く濃く、岩も日中はポカポカして、昼寝するには持って来いだった。この清澄の秋の空気に浮き上る山々は、槍も白馬も、まるで絵空ごとの如く美しかった。  高山植物は盛りを過ぎ、僅かにきばなのこまのつめが、偃松の根もとに咲き残るに過ぎなかったが、苺は触れるとポロリと落ちるまでに熟し、この上もなく美味だった。  針の木峠にいた時、満洲事変が突発し、わが国の情勢は一変した。私の身辺も、また大変化を来した。これを最後に、私は日本アルプスに行っていない。もう、これ切りということはあるまいが、それにしても、当分の間の最後の山旅に、いい場所を選んだものだ。  右の二つは思い出話であり、いずれも針ノ木が僕の最後の山だったことを語っている。本当に最後の山になっても一向構わない。すでに、読者は御存知の通り、僕の子供が登っているのだ。思えば不思議な気持ちがする。すくなくとも「山」に関する限り、後継者が出来たのだから。而も彼等の山に対するイニシエーションは、先ず一夏を麓の人々に可愛がって貰って送り、その翌年、本当の遊びに登山しているのだから、これほど自然な方法はない。 晩秋の山麓  十一月のはじめ大町へ行った。私はもう何十回か行っているが、家内は大町を知らず、従って高い山を見たことが無いので、鳥焼きにさそわれた機会に、家内と家内の姉と姪と、つまり女性を三人案内して出かけたのだった。そろそろ老境に入ったものと見え、がりがりと登山するよりも、こうやって麓から山の名前を説明する方が、具合がよくなって来た。  大町見物の第一楷梯は仁科三湖である。百瀬慎太郎君と五人で四家まで自動車を走らせたが、曇っていて白馬は見えなかった。前山の所々、別して尾根に山毛欅が白髪のような、きたない色を見せている。一番早く落葉して了ったのだ。冬には樹氷を咲かせる木である。  晩方から寒くなって、山はすっかり晴れた。友人、平林卓爾君が経営する林檎園に行った時には、太陽が蓮華岳の向うに落ちかけ、鹿島槍の尾根に雪が輝いていた。この雪は、まるで冗談みたいに、尾根に一線を描いている。越中から吹きつける雪が、尾根越しに信州の領分をのぞいているので、これがやがて雪庇にと成長する。  林檎園を流れる水は澄んでつめたく、また晩生種の国光はまったく枝が下るほど沢山なっていた。枝から下っている林檎に噛りついたら定めし美味だろうと思ったが、消毒液がふきつけてあるので、それは出来なかった。  林檎園から山案内の桜井一雄の家へ行った時は、もうあたりは真暗だった。桜井君はこの朝山へ御夫婦の登山者を案内して行って、駅でちょっと立話をしただけだったが、是非家へよってくれとのことだった。丁度田の仕事が終ったばかりで、あした来てくれといっていたが、その明日はどんなことになるか分らぬので、不意打ちに訪問したのである。お父さんも嫁さんも留守で、お母さんが一人でいたが、よろこんで炉ばたに座布団を敷いてくれた。火は勢よく燃え、そこで栗やいなごや蜂の子や漬物を御馳走になった。いなごと蜂の子は、女の人達にも好評を博した。  翌朝はまたうそのようによく晴れた。鳥屋場として、なるべく歩かずに済む場所をというので、相川のトンネルの向うまで、一行七人、自動車からはみ出しそうになって乗って行った。握飯、外套、煮しめ等が相当のかさになるので、老案内の伊藤久之丞が来てくれた。自動車を下りて、山妻は雪ばかまをはいた。紅葉した樹々の間を歩くと、赤い実が沢山なっている。実にいろいろな木が赤い実をつけている。ぐみも赤くなっていたが、これはまだ渋かった。  鳥屋場は東側の斜面にあり、裏が雑木林で前が蕎麦畑、右手にちょっとした松林がある。カスミ網は蕎麦畑の下に三ヶ所に張ってあったが、もうお昼に近いので小鳥は二羽しかかかっていず、朝早く取れた分と、大町から持って来た分とを料った。羽根をむしり、鋏で腹をさいてワタを出す一方、久さんは対山館から持参した破れ雨傘の骨を削って一本に四羽ずつさし込むのであった。もちろん焚火はとっくに出来ていて、いざ焼こうという時には灰になって了っていた。  竹串からジージーと油とたれが滴り始めた頃、私は串にささぬ小鳥をベーコンでいためた。東京から忍ばせて行ったベーコンだ。フライパンは対山館のを借りた。松の木や白樺は、生れて初めてベーコンの香をかいだことだろう。この小鳥のベーコン焼きがとてもうまく、大町の人たちもよろこんで、これは大発見だといった。ところがベーコンが薄く切ってあるので、いくらでも出て来る。慎太郎さんは「なるほどこれがベーコン不滅ですね」といったが、大町の駄洒落としては傑作である。久さんはニコニコと、まめに働いた。  みんなで一升の酒をのみ、握飯をたいてい平げてから、鳥屋場の小母さんに礼をいって発足した。この小母さんは、トンネルの出口に雑貨店をやっていて、よほど以前、この日もここに来た曾根原耕造氏と百瀬君と僕と三人、あれは十一月もなかばを過ぎていた頃だが、東山めぐりをやり、日暮れにこの小母さんの店の炉にふんごんで、ビールを飲んだことがある。丁度停電で、蝋燭をつけ、鳥をやき、菜漬で飲んだ。そしてトンネルを出ると、目の前に爺ヶ岳が、すごい光線を背に受けてそびえていた。  我々は植物をいろいろと採集しながら、秋晴れの山路を切久保の部落の方へ歩いた。途中大根をぬいていたお婆さんが、曾根原氏の知り合いで、大根を五、六本くれた。久さんの荷物はえらく大きくなって了った。  南鷹狩山の山腹を、ゆっくらゆっくら歩きながらも、我々は植物から目を離さなかった。姉が植物が好きで、妙なものの名を知っているものだから、一同俄然植物学に興味を持った次第である。それで山牛蒡の枯れたのや、一杯に実を持ったグミの大枝や、とにかくマクベスなら林が動き出したと思うであろう位を、めいめいが持って、日暮れの大町へ帰った。役にも立たぬものばかり背負って来たと、町の人々は思ったことであろう。  もう百姓は田の仕事を終り、大町は冬籠りの準備をしていた。朝晩は寒く、食事はすべてひろぶたの上でする。昼間はあたたかいが、それでも鳥焼きをした時、木の下に入るとひやりとつめたかった。日本で一番いい秋を、秋が一番いい信濃の高原で経験したことは、とてもいいことだった。そして、要するに、苦しんで山に登るよりも、気の合った者と山の麓や低い山を歩いている方が、呑気でいいということを確認したのだった。(昭和十年「ひとむかし」) 山の初雪  山に関するニュースは多いが、どこそこに初雪が降ったということは、他のあらゆるニュースよりも私に大きな感動をあたえる。ナンダ・デヴィの成功、ナンガ・パルバットの悲劇、日本人がK2に登る計画を立てていること、その他、本当にスリリングなものがあるのに、どういうものか、それには、あまり心を惹かれない。恐らく、あまりに大きく、激しく、私の山についての経験では、その真の意味をつかむことが出来ないからであろう。  ひと頃、スキーに夢中になっていた時、スキーのシーズンが来たという点で、その前ぶれとしての初雪の記事をたのしんだ。まったく、まだ清水トンネルが出来ていない頃だが、午後の汽車で水上まで行き、猫額大ともいうべき百姓家の裏の土地でラテルネをつけて一時間ばかりすべり、最終列車で東京へ帰って来たことがあるが、こんな時代には花の便りがうらめしく、もう世の中にたのしみというものが無くなったかのように、内濠の柳の芽にため息をついたものである。初雪のニュースに祝盃を上げたのも当然であろう。  だが、この頃は、もちろん正当な時間があれば依然スキーをたのしみはするものの、初雪と聞いても、そんな風な、心のはずむ喜びは感じない。静かな喜びであり、考え方によっては、しんみりとさえしている。私は時雨を、炬燵を囲炉裏を思うのである。稲の取入れ、軒端に積んだ薪、土聞の馬鈴薯……冬が山から下りて来る、その冬に対して里が、いわば長い合戦の準備を終えた心強さと、内に籠ることのあたたかさとを、都会に住んでいて想像するのである。  山に登っていて初雪にあったことは、只の一度しか無い。十五年ばかり前の秋、ドイツにいてリーゼンゲビルゲの麓に行き、シュネーコップフというのに登った。初めの間はいい天気だったが、八合目あたりから霧により、登るに従って霙まじりの猛烈な風に変った。一体霙というと、雪と水の合の子みたいなものだが、この時のは雪よりも氷に近く、手や頬が痛く、その烈しい吹き降りの中を、平な頂上で路に迷い、女をまぜての六人の一行だったが、悲鳴をあげた者さえあった。それでもやっと下山口が見つかり、草地から樅の森をぬけると、あかるい日が照っていた。朝から七時間も歩いて、ヘトヘトになった一行は、大きなホテルのガランとした食堂で弁当をくい、珈琲よりも豆の方が多いようなカフェをのんだ。このカフェが、すくなくとも私には素晴らしく利いて、そこから三時間ばかり麓の宿屋に着く迄、ほかの人のルックサックを背負ったりした。  あくる日は快晴、樅の梢の上に頂上が真白に光っていた。熱を出してねこんで了った一人を残して、我々は森の中へブラウベーレという小粒の木の果を摘みに行った。ジャムにするのである。  実際初雪が降っている山を歩いたのは、この時きりだ。今年は十月のはじめに高瀬川を入って槍に行く予定で、すでに同行者もきまっていたのだが、シナの事件で駄目になった。行っていたら、どこかで初雪、あるいは二番目の雪にあったことであろう。厳冬ではないが、アノラックだけは持って行く気でいた。  山の麓にいて初雪を見たことは、何回かある。大抵の場合、里は時雨れていて、夜など、どうにも寒い、炬燵でのむ酒が思わず定量をすぎる。こんな時だ、朝、目をさますと山は雪。粉砂糖をふりかけたように見える。中腹は黒ずんだ紅葉、麓はあざやかな黄や紅。たびたび時間が訪れ、はれ上るたびに雪が山を下りて来て、ついには里も冬になる。日本アルプスだけではない。私が今住んでいる場所でもそうだ。これから追々冬になるにつれ、とても冷える夜など、六甲はきっと雪だと思い、翌日はやく目をさますと、六甲は晴れていれば果たして雪。雲がかかっていればきっと雪が降りつつあるのだ。スキーをかつぎ出す人もある。  箕面の山の初雪は、今年の二月に降った。丁度日曜日の午後で、二階の窓をあけ、時雨を見ていると、それが霙になった。私の宅からは一キロぐらいの所が箕面渓谷の入口で、そこからほぼ西へ、三百米ぐらいの山がのびて猪名川で終っている。時雨がやみ、山をかくしていた雲がすこしずつ消え、登って行くと山の上の方の松に雪がかかっていた。低い山なので雪はベトリとしていたので、すぐ見えなくなったが、ここでも、小さいながらに、「里の時雨は山の雪」を見せたのである。  山を愛する人は多く、その中には、どうしても登らずにはいられぬ人がある。いくつになっても青年時代と同じ情熱を持つ羨ましい人々である。また、ある年齢に達すると、実際登ることはやめ、文献を集め始める人もある。いい趣味だと思う。自分のことをいうならば、私は登ってもよし、登らなくてもいいのである。というのは、山に登れば確かに気持ちはいいが、さりとて時間や体力に無理をして迄、山に登ろうとは思わない。だが、高い山を見ないで暮すことは苦痛である。それで私は休みの日には、一日ついやしていい時は靴をはいて、二、三時間しか無い時には下駄ばきで、所謂摂北の山を歩き廻るし、一年に一度か二度は、単に爺や鹿島槍を見るだけの目的で大町へ出かける。見る対象としての山の最も好もしいのは初雪の頃である。早朝炬燵から首だけ出して、バラ色に光る「雪庇の子供」を見るのもよし、鳥屋場の枯草にねころがって、葡萄酒のような空気に、ぽっとしながら、落葉松の幹の間に眺めやるのも悪くはない。現在の私には、これが何よりも、たのしみである。そして、このたのしみは、恐らく死ぬまで続くことだろう。そう思うと、「生」はたのしいものだ。 山湯ところどころ  八ヶ岳の本沢温泉、蔵王山の遠刈田、青根、黒部の祖母谷、上高地、蒲田等々、考えると、これでも相当方々の山の温泉に行っている。それらの中で本沢温泉こそは僕が最初に登った山らしい山の温泉なのだが、大きな樅の林の中に板屋根の家屋があったことだけしか印象に残っていない。二十名を越す団体だったので、何か用事を持ち、その方に気をとられていたのかも知れない。  祖母谷は、今はどんな風だろうか。もう二十五年に近い昔のこと、大町から針ノ木を越して剣に登り、池ノ平、猿飛を経て、大黒を越え細野へ出ようという旅の途中で一泊した。まだ日の高い内に着いて見ると、無残に崩壊した建造物が残っていて、ブクブクの畳や水ぶくれの坊主様が薄気味悪かったが、泊り準備は人夫衆にまかせ、僕等は河原の砂を掘って浅い浴場をつくり、砂の中から出て来る湯が、あまり熱くなると、川の水を流し込んではうめた。その夜は残りすくない食糧を、ありったけ出し、ひろって来たビールの空瓶に蝋燭を立てて盛大な宴会を開いた。あすの晩は大黒鉱山で泊めて貰える見込がついていたからである。地熱のせいか、この付近には大きなガマが沢山いて、僕等は泉鏡花の話などしたものである。  蔵王山は二高にいた時登ったが、遠刈田や青根でブラブラしたのは高等学校から大学へうつる間の夏休みだった。その頃の遠刈田は不潔で蚤が多く、青根の宿は部屋と部屋との境が紙よりも穴の方が多い障子で――「その頃の」というよりも、「当時の僕が通された部屋は」といった方が穏当かも知れない――一向に有難くなかったが、両方の中間にある早川牧場で暮したいく日かは、温泉こそ無けれ、いまだに楽しい思い出である。僕はここで霧の深い朝晩を送り迎え、掛樋の水にひたした野生の菜のたぐいの美しさに心をひかれ、更に長い乾燥し切った昼間は牧場に出て草にねころび、何とかいう名の中年輩の牧夫と長話をした。この牧夫は、どういう了見か知らぬが、兵隊帽の庇のとれたのをかぶっていた。三年間の仙台生活で東北弁も了解できたのであろう。ながっぱなしの内容はもちろん忘れて了ったが、まざまざと思い出すのは空を動く雲の形の面白さと、大小厚薄の異なる雲が山に投げかける蔭の美しさとである。後年メレディスの詩を読み、描写された自然の美をいきなり感得した素質の一部分は、恐らくこの東北の牧場で身につけたことだろうと思う。  飛騨の蒲田に一泊したのも、長い山旅の終りであった。而もそれは新聞社の特派員として、あるお方のお伴をした山であったし、とにかく、相当以上に気づかれのした山だった。それが無事に終って、高貴のお方は蒲田で御中食後、直ちに高山方面へと出発され、随員、警察官、新聞記者団合計四十名も前後にしたがったが、僕は万事を岐阜通信部に一任して、蒲田から上高地に引返すことにした。  その日の中に、中尾峠を越して上高地へ出られぬこともなかったのだが、僕は蒲田がとても好きになり、ここに一泊ときめた。嵐のあとみたいに静かになった蒲田の部落は、午後の太陽の中で、如何にもねむそうだった。百日草が咲き、玉蜀黍の葉が風に鳴り、日かげは秋である。ここの温泉も河津波で流されたばかりで、道路を下った河原のゴロタ石の間に深さ一尺ばかりの溜り水に過ぎなかったが、日暮れに近く、長々と身をよこたえて、あれで三十分ものびていたことだろうか。その晩の食事に、一尺を越す岩魚とささげが、大きな吸物椀のふたから首尾を出していたことは忘れられぬ。岩魚はもちろん焼いて串にさし天井裏にさして置いたものである。便所には紙が無く、きれいに削った杉の板片が揃って箱に入っていた。  伊香保も箱根も山の温泉には違いないが、少々便利すぎて僕等の所謂「山」に入るかどうか、これは考えものだと思う。浅間温泉も同様、山の温泉といえるかどうか知らぬが、ここは山への出入以外には寄らないので、すくなくとも僕にとっては、このカテゴリイに入れてもいいような気がする。それだけにまた有名な浅間情緒は全く知らない。殊にこの頃は大変の繁昌だそうで、山のドタ靴などはいて行ったら、恐らく玄関ばらいを食うことだろう。幸か不幸か、僕は不況時代にばかり行っているので、いつも大事にされた。だから浅間温泉の悪口を聞くと不思議なような気がする。  ある年の夏、友達三人で西石川に泊った。あしたから山へ入ろうという前晩である。風呂に入り、軽く一杯やって床に入ると、大雨がふって来た。こんなにいい温泉の出るいい宿屋があるのに、俺達は何を好んで櫛風沐雨の生活に身を投じようとするのかとか、何とかゴテゴテいい合ったものだが、翌朝の島々行初発電車には、もうニコニコと乗込む我々であった。  妙高温泉と沓掛の星野温泉は、高原の温泉といった方がいいだろうが、妙なことで印象に残っている。妙高温泉へは初夏の候、高田に講演に行った帰りによったのだが、それ迄両三回スキーに行った時のことを考えると、まるで別の所へ来たように感じられたし、閑散だったからでもあろうが、真実家族的に大事にしてくれた。星野温泉は盛夏、軽井沢に出張して一泊、まだ日の暮れきらぬ内に入浴していると、高原特有の物すごい雷鳴があり、硝子一枚の浴室で素裸になっていた僕は、雷に臍を取られる心配をした。というと変だが、何も着ていないで自然の暴威に立ち向うことが、如何に恐ろしいかを経験し、人間は着物を着ていなくては仕方が無いように馴致された動物だ、ということを、しみじみ感じた。  最後に上越国境の法師温泉。考えると、もう六、七年も行っていない。その間にどんな風に変ったか思いもよらぬが、あそこは春行っても夏行っても冬行っても、何かしら山の温泉らしいいいところがあった。一緒に行った人も、紹介した人もみんなよろこんでいたが、近頃はどんな工合か。東京にはちょいちょい出かけるが、いつもギリギリ一杯で、法師まで足をのばす時間が無いのは残念である。(「樫の芽」) 山に登る理由  山の旅から帰って来ると、どうもあとがよくない。いろいろなことが詰らなくなる。何をしていいのか判らない。「ワーッ!」と騒ぎでもしないと、やり切れないような気がする。仕事が手につかぬ。――つまり急激な変化が生活に起こった後だからであろう。心とからだとのエクイリブリウムが打ちこわされるからであろう。  まったくこれぐらい、急激な変化はあるまい。山の道具をつめたスーツケースを梅田の駅にあずけておいて、自分は会社に出る。所謂五分の隙もない夏服、ネクタイ、靴下、白い靴、その晩は二等の寝台にねて、翌朝はもう山の麓である。宿屋なり、友人の家なりに着くとスーツケースをあけて、登山の仕度をする。夏帽子は古いフェルトに変る。瀟洒な夏服は、十年着古したホームスパンに変る。やわらかい、薄いシャツは、ゴバゴバしたカーキのシャツになる。クロックスの入った絹の靴下を脱いで、あつぼったい、不細工な、ウールの靴下を三足もはく。白い、どうかするとダンスでも踊りそうな靴のかわりに、大きな鋲をベタ一面に打った登山靴をはく。一年中ペンと箸とナイフぐらいしか持ったことのない右手は、アイスアックスの頭を握る。かくて山へ!  すでに一歩山へ入ると、その前日までコクテールグラスの外側に浮く露を啜っていた唇は、直接に雪解けの渓流に触れる。大阪ホテルのシャトウブリヤンを塩からいと思っていた舌は、半煮えの飯を食道に押し込み、固い干鱈の一片を奥歯の方へ押してやる。更に夜となれば、前夜寝台車のバースがでこぼこで眠れなかったという背中が、あるいは小舎のアンペラに、又は礫まじりの砂の上に、平気で横たわって平気でねる。  夜があける。顔を洗うでもなければ、歯をみがくでもない。一つには水がつめたくて手を入れたり、口にふくんだり出来ないからもあるが、それよりも「ここは山だ、顔なんぞ洗わなくってもいいんだ!」という気がするからである。髯はもちろん剃らぬ。これが自宅にいると、顎の下に三本残っても気にする性質の男なのである。  今度私は山へ行って、つくずくと考えて見た。自分は一体何をしに登山するのだろうかと。  もちろん六根清浄を唱える宗教的なものではない。岩石や植物を研究するには素養が足りぬ。遊覧を目的とするにしては、労働が激し過ぎる。「征服する」べく、北アルプスの山々はあまりに親し過ぎる。高い所に登ることが、別に精神修養になるとは思わぬ。三十を越した私に取っては、深夜酒に酔って尾崎放哉の句を読む方が、よほど精神修養になる。もとより山岳通にならんが為ではない。ローカルカラーを得る為でもない。  要するに何の目的もないのに私は登山する。常に登山がしたい。絶えず山を思っている。  山、山、というと大きいが、実を言えば私の登っている山の数は至ってすくなく、また地方的にもかぎられている。即ち、蔵王、磐梯、赤城、筑波、八ヶ岳その他若干の低い山を除いては、信州大町から針ノ木峠、五色ヶ原、立山温泉と線を引いた、その線の北の方ばかりである。これは原因がある。即ち白馬は私が最初に登った高山であり、従って、自然、あの方面に引きつけられるのと、十数年前最初に白馬に登った時以来のよき友、百瀬慎太郎が大町に住んでいるのとの二つである。  かくの如く私の知っている山はすくないが、山を愛する心は人一倍深い。何故であろうか。  私は第一に私自身が、完全なる休息を楽しまんが為に山に登るのであることに気がついた。即ち、ありとあらゆる苦しみをして山を登って行く。平素運動をすこしもしていないのだから、ひどく疲れる。日光と風と雪の反射だけでも疲れる。汗水を流して登って行くと、咽喉は乾く、ルックサックが肩に食い入る。かかる時、例えば針ノ木峠のてっぺんに着いてあのボコボコした赤土の上に、ルックサックを投げ出し、横手に生えた偃松に、ドサリと大の字になった気持ち。あれこそ完全に休息、Complete rest である。  もっとも疲れて休むことを望むのならば何もわざわざ山に登る必要はない。庭で草をむしってから、縁側に腰をかけてもいいし、須田町から尾張町まで電車と競争してから、カフェー・タイガアに入ってもいい。いいわけだが違う。まるで違う。  Complete rest は自宅の縁側や、カフェーの椅子では得られない。  その理由は、私が思いついた第二の目的に関係している。私は考えた。私が山に登りたいのには、野蛮な真似、換言すれば原始的な行為を行いたい希望が、私の心の中にひそんでいるからではあるまいかと。  都会における私は一個の文明人である。衣食住すべて、現代の日本が許すかぎり、また私の収入において可能なる丈、文明的にやっている。また衣食住以外の不必要品――而も一個の文明人にあっては必要品である所のものについても、かなりな程度のディスクリミネーションを持っている。ワイングラスで酒を飲まず、リキュールグラスにコクテールを注がぬ等の知識は、生活には不必要にして而も必要なことなのである。  ところが一度山へ入ると、先ず第一にかくの如き「文明人なるが故に必要な条件」が、ことごとく不必要になる。単純に生きることだけを営めばよいのである。都会にあっては、銀のシェーカーを振る指も、山では岩角につかまる。つかまらなければ下の雪渓に墜ちて死ぬからである。かなり洗練された、うるさい口も、山では半煮え飯を平気で喰う。喰わなければ腹が空って、死んで了うからである。寝台車のバースを固いという身体が、小舎の板の上で安眠する。その日の運動につかれた身体は、また次の日の労働を予期して、文明人のディスクリミネーション以上に睡眠を強いるからである。タクシーはスプリングが悪いから、ハイヤーに限ると言っている脚も、山では無理に歩かせられる。どうでもこうでも、野営地まで着かなくては仕方がないからである。(こう書いて来ると如何にも私が贅沢な、豪奢な生活をしているようだが、実はそうでない、ここには只「文明人」としての私の半面を高調したにとどまる。)  万事かくの如くである以上、山に入る服装は極端に「人としての必要品だけ」を標準として行われる。文明人としての必要品は、一切不用なのである。帽子は、日光や雨や風をよける為にかぶるので、文明人だからかぶるのではない。靴は、素足では痛いからはくのである。登山服は、普通の背広よりも丈夫で、且つ便利だから着るのである。アイスアックスは手が淋しいから持つのではなく、急な雪渓にステップを切る必要があるから持つのである。  服装は人の心を支配する。都会にいる時には、椅子に腰をかけるにもズボンの折目を気にする人も、山に入れば古ズボンをはいているのだから、平気で土の上に膝を折る。また、如何に新しい登山服を着ていても、「この岩の横裂面は、四つん匐いにならなくては通れぬ」とすればズボンなどは構っていられなくなる。命にかかわるからである。  服装、準備、その他がすべて必要品だけであるから、登山者も、必要品だけを使用して必要なことだけを行い、必要なことだけを考える。むつかしく言えば原始的になる。瀬戸引のコップ一つが水飲みになり、汁椀になり、茶碗になり。ある時は傷を洗う盤になる。一本のナイフが肉を切り、枝を切り、独活の根を掘り、爪を切る。一着の衣服が寝間着になり、昼着になる。山中で人に逢えば即ち訪問服となる。これらはみな人類の先祖がやっていたことである。  更に、疲れたらどこでも構わず腰を下し、小便がしたかったらどこへでもジャージャーやる自由さ――人間としては当然のことであるが、文明人としてはゆるされていない。――殊に星空の下、火をたいて身体をあたためる快楽については、いずれも我等の先祖が経験したところのものである。  私がいた頃、米国では盛に Back to nature ――自然にかえる――ということが流行した。何をしたかというと、きたない着物を着て、野原や林へ出て行くだけである。つまり野蛮な真似がしたいのである。又、ボーイスカウトなんてものも、やっている連中はいろいろと七面倒な規則や理屈をつけるかも知れぬが、要するに、路をさがしたり、焚火をしたり、つまり子供の持っている野蛮生活へのあこがれを、巧に利用した企てなのである。  米国ついでに、もう一つ米国の話を持ち出すと、私のいた大学、プリンストンの寄宿舎には全部ではないが、オープン・ファイヤプレースを持つ部屋が沢山あった。大きな薪を燃やす炉である。寄宿舎にはもちろん完全なスチームが通っているのであるから、何も顔ばかりほてって背中の寒い炉を置く必要はないようだが、それでも、わざわざスチームを閉め切って、薪を燃す連中が沢山いた。何故薪の方がいいのか判らぬ。どうも人間、あまりに文明的になると、反対に野蛮な生活が恋しくなるものらしい。すくなくとも私はそうである。そして、最も野蛮に近い生活が許されるが故に、私は山に登るのである。 アル中種々相 総論  このアル中は、アルコール中毒ではなくて、アルプス中毒である。  アルプス中毒とは何かというに、それは登山者が登山中、又は時として都会生活(日常生活の意味)中に示す、一種のマニアックなシンプトンによって、それと知られる一種のマニアで、所謂山岳病が肉体的で異常であるのに対し、これは精神的の異常である。従って精神的山岳病と呼んでもいい訳だが、アル中の方が人が間違いそうで面白いから、わざとこうしておいた。  以下、各項にわけて、アル中の各シンプトンを詳説するに当り、一言申し述べたいことがある。登山者の性癖を、あるいはメタルオンチとか、道具オンチとかに分類し、もってキャンプ・ファイヤの談笑の材料とすることは、決して新しいことではなく、すでに、すくなくとも、僕等の間にあっては、数年前から行われている。僕は然し、それをここに蒸しかえそうとはしない。事実、その後の数年間における登山界の進歩は目ざましいもので、登山者の数が増すと共に以前は精々「オンチ」で済んでいたのが、今ではマニアになった患者が多い。だから、昔ながらのシンプトン以外に、新しいものが大分多くなって来た。  最後に、筆者としての僕の立場について、多少の説明をする。ある本屋さんの新聞広告によると、僕は「最もスマートな山男」だそうだが、そんなことはなく、僕は「最も懶惰なる山男」で、即ち山は登るよりも、その中腹の草原にねころがって、煙草を吸った方が遥かにいいと思い、且つそれを実行している。そんなことなら、山へ行かなくてもよさそうなものだが、僕自身がかなりアル中患者なので、どうもやはり、山へ行かぬと気が済まぬ。このような僕だから、かなりの同情と理解を以て、アルプス中毒のことを書き得ることと思っている。 アル中種々相  1 徒渉マニア  学名を Hydromania といい、恐水病の反対の親水病である。山中渓流にあえばジャブジャブと徒渉しなくては気が済まぬ。丸木橋なんぞ渡らず、石から岩へ飛んで落ちたりする。時に命を失うことあり。監視を要す。  2 道具マニア  学名を Equipomania といい、運道具店のカタログに出ている品全部、及びそれ以上を山に持ち込む患者である。金満家の子供が最もこの素質を持っている。生命には危険は無いが、人夫賃がかかる。  3 抱付マニア  性欲的に抱き付くのではないから、警察の御厄介になることは稀であるが、都会でこれを行う――例えば東京駅の東ジャンダルムに抱きついたり、自宅の石垣を深夜登攀したりする――とひっつかまる。  この患者は、自然的なると人工的なるとを問わず、岩さえ見れば抱きついて了うのである。学名を IVmania という。IV は即ち Ivy で、蔦が岩にからむことは、先刻御承知の通りである。生命に危険甚し。  4 ケーザリズム  これは学名で通用する。ユリウス・ケーザルが、かつて、Veni, vidi, vici, と叫んだことから来ているので、高いものさえ見れば、敢然その頂角を征服せねば気が済まぬのである。主として山だが、立木でも、煙出しでも、屋根でも、土手でも、ゴミためでも、何でもかまわぬ。  山麓或は都会では、ヴィーナス山脈を征服したりする。  5 国粋マニア  学名 Ducmania は、恐らくムッソリニから来ているのだろう。新しい名である。この患者は日常生活では洋服を着、靴をはいているが、いざ山へ入るとなると、草鞋、脚絆、股引、ドンブリ、半纏、向う鉢巻で、ルックサックの代りに山伏が使用するような物を背負い、山頂快晴ならば日の丸の鉄扇を振って快を叫び、霧がまいて来ると梅干をしゃぶり、いよいよ路に迷うと鰹節を囓り糒を噛む。  6 外国マニア  学名はない。5と反対に何から何まで外国製品を使用し、霧がまいて来ると酸っぱいドロップをしゃぶり、路に迷うとサラミを囓り、ドッグ・ビスケットを噛み、キャンプでは、味噌汁のかわりにビーフ茶を飲み、キャベツにマギ・ソースをぶっかけて食う。5と6が同じ場所で野営すると面白い。  7 リーダーマニア  リーダーの責任の重大と、隊員が絶対服従を守らねばならぬこととを痛感する余り、途中で隊員が無断小便しても怒りつける患者。  8 迅速マニア  俗称スピードマニア。七月一日午前六時松本着。六時三分松本発信鉄にて七時三分大町着。途中汽車弁を食い、大町から自動車で大出着。七時三十分。直ちに歩き出して午後零時五十分大沢小舎通過。午後五時十九分針ノ木峠の頂上から二丁下まで行って、へたばって了い、上から下りて来た越中の人夫に荷物ぐるみ背負って貰って午後七時大沢小舎着。ヘドを吐き青くなる。  9 落着マニア  学名を Nombilism といい、シンプトンとしては非常に屡々立ちどまり、景色に感心し、煙草を吸い、写真をうつし、靴と靴下を脱いで素足に風をあて、小便をし、だべる。同行者あまりに早く歩けば、「近頃耳に入れた」猥談を好餌として引きとめ、人が一日で行くところに三日費し、これでなくては山の面白味はわからぬと放言する。  10 地図マニア  Mappanism ――断然五万分一の地図を信用し、地図に万一間違いがあると、深い谷にまぎれ込んで了う。単独マニア患者に多い。  11 単独マニア  真に山を理解するには単独登山に限るというマニアックで、どこへでも一人で出かける。従って荷物多くなり、時にペシャンコになることあり。  12 メダルマニア  この患者は近来激減した。やたらに何々山岳会に入り、そのメダルを帽子や襟につけて歩く病人で、ドイツ・タイプである。  13 セオリスト  学名を theoromania と呼び、中年者に多い病気である。とにかく、とても理論にくわしく、岩登りをやったことが無いのに、マウエルハーケンと木製楔との関係を知っていたり、氷河を歩いたことも無いのに、クレヴァスに墜ちた時の処分法を論じたり、進んではシェンクのピッケルの力学的優秀点を知っていたりする。  少々うるさいが勝手にしゃべらせておけば他人に害は加えない。  14 謙遜マニア  セオリストの反対で、何でも知っているのに、何も言わず、ニヤニヤしている患者。薄気味悪し。  15 縦走マニア  学名 Onoemania ――初めから二番目の o には、ウムラウトが着くのが本当だが、そんな活字はあるまいと思って e をつけておいた。この患者は、とにかく尾根ばかり縦走して歩くのであって、毎年、白馬――唐松――五龍――鹿島槍――針ノ木――蓮華――烏帽子――野口五郎――三俣蓮華――黒部五郎――上ノ岳――楽師――鷲岳――雄山――大汝――別山――剣……といったような計画を立てるが、費用や時間の関係でうまく行かない。はじめから、費用も時間も不足であることを知りながら、計画を立てるところが、即ちマニアである所以で、これを実行している人は、普通の、立派な山岳家である。  16 本マニア  Bibiliomania はアル中に限った訳でもないが、要するに山の本をウンと集め、洋の東西と時の古今を問わぬ。これは奨励すべきマニアである。  17 感激マニア  何にでも感激して了うのである。山に感激し、雷に感激、雷鳥に感激し……そこ迄はいいが、山の案内者がみな英雄で、山であった女がみな美人で、山小舎の主人がみな聖人みたいに見えるに至っては、立派なマニアックである。  18 非感激マニア  これはまた、何にも感激しない。至って詰らなそうに見える。而も毎年山へ入るところから考えると、まんざらでもないらしい。 結論  鬼も十八、番茶も出花という十八に達したから、ここ等でやめにしよう。まだこの他にいろいろあるが、あまり微に入り細を穿つと、自分の悪口を自分で書いているような、所謂自ら墓穴を掘ることになる。御退屈さまでした。僕も、メランコリックになって了いました。病人のことばかり書いていたので……。(「山・都会・スキー」) 山を急ぐこと  我々が最も愛する山の本、バドミントン・ライブラリーのマウンテニヤリングに、マセウ氏が「一登山家の思い出」なる一章を寄せていることは、知っている人も多かろうと思う。今、この一章の中から、次の数行を書写し、それについて私が平素考えていることをいささか書きたいと思う。  He was a mountaineer of old school, and feats were not in his way. The woods, the meadows, and the flowers charmed him as much as the rocks and snows. He enjoyed a fine climb with all his heart, but seemed equally happy on a quiet day.  ――彼は旧派の登山家であり、目覚ましい芸当というようなことは、彼の畠ではなかった。彼にとっては、森や牧場の花が、岩や雪と同じ程度の魅力を持っていた。彼は心からよき登攀を楽しんだが、然し静かな一日にあっても、同様に幸福そうに見えた。  右の翻訳において、feats を「目覚ましい芸当」としたについては、異議を申立てる人があるかも知れぬ。事実、この「芸当」なる言葉には多少侮蔑の念が入っているようであるが、これは三省堂の英和大辞典によったので、即ち該書には、 一、目ザマシイ芸当、力芸、離レワザ、妙技、早ワザ、軽ワザ、曲芸。 二、武勲、勲業、偉業、云々。 とある。それはとにかく mountaineering に於ける feats とは、如何なることを言うのであろうか。日本でいえば、槍の肩から穂先まで十三分三十秒で往復したとか、小槍のてっぺんにザイルを結びつけ、そのザイルを振子として、身自らを肩の小舎に投げ出したとか(若しそんなことが可能なりとせば)いうことがあれば、それは即ち feats であろう。これらは正に「芸当」であり、「離れ業」である。西洋でいうならば――西洋のことは知らぬが――この「彼」即ち Thomas Woodbine Hinchliff がしなかったようなことが feats なのであろう。  ウインパアのマッタアホーン、槙さんのアイガア、浦松氏のウェッターホーン等は、やはり feats だろうと思う。だが、これらは同じ feats でも、「早ワザ、軽ワザ、曲芸」等の同類項に入る性質のものではない。科学的の知識に基礎を置いているからである。もちろん空中ででんぐり返しを打つ曲芸でも、科学的の法則に従って行っているのは事実である。小槍からザイルで肩の小舎へ飛びつくのだって、若し出来るとすれば、それは物理的に可能だからである。曲芸は、多く練習によってこれを行い、行った結果である所の feats を、後から解剖して見て科学的の基礎が発見されるのであるが、曲芸に対する「勲業」、即ちウィンパーや槙さんがやったことは、最初から意識して科学的の法則を探究し、それを一歩一歩実行化したものである。  が、これは飛んでもない横路へ入り込んで了った。とにかく「彼」は旧式な登山家で、「曲芸」にせよ「勲業」にせよ、目覚ましいようなこと、人をあっといわせるようなこと、新聞や雑誌に出るようなことはしなかったのである。これで feats 問題は打切ろうと思う。私が今日ペンを執った最大原因は、実は「彼」のノンビリした態度に感心したからであった。  近頃我国の登山界には、非常にいやな傾向が見られる。むやみに山を急ぐことである。他の登山口はいざ知らず、大町口においては、これが顕著である。  私はこの夏、二度大町へ行った。第一回は六月の終りで、これは会社の用事で行ったのであり、第二回は八月の初め、休暇をとって行ったのである。  大町では対山館にとまる。対山館の百瀬慎太郎さんとは、親しい間である。従って――こんなことは書かなくてもいいようだが書くだけの理由はある――対山館における私は、お客様と友人をゴチャマゼにした変な存在なのである。多くの場合、私は三階の客間の床柱によっかかって傲然としていはせず、帳場附近でゴロゴロしている。不意にお客が入って来ると、いらっしゃい、おつかれ様! くらいなことはいう。殊に対山館食堂では、注文を聞く。時々帳場の前に置いてある絵葉書をくすねるが――これは脱線した。  夏の初めには、対山館へ登山に関する問い合せの手紙、端書、電報等が、ウンと来る、オホマチニコメミソロウソクアリヤという電報も来たというが、これは見なかった。これらの問い合せはいう迄もなく、大町を登山口とする山々に関するもので、十中八、九迄は私にも返事が出来る。そこで、慎太郎さんがあまり忙しい時には、私が返信を手伝う。もっとも必ず同君の検閲を受けてから投函するから、大丈夫間違いはない。  ところで驚くことは、これらの手紙をよこす人の殆ど全部が、何故だが非常に急いだ、切りつめた日程を立てている。山中の日程は、恐らく信濃山岳会の登山要項なり、あるいはそれに依った他の登山日程なりを、そのまま採用したものであろう。登山要項としては、無用な時間を日程につけ加える必要はないから、切りつめたと迄は行かなくとも、先ず普通、山に登れるだけの健康を持つ人の体力を標準に、どこからどこ迄何時間という風に発表する。それを採用するのは当然だから、第一日大町――大沢。第二日大沢――平。第三日平――立山温泉。第四日立山温泉――富山という日程を書いてよこされても、私は何とも思わぬが、一番びっくりするのは登山前後のあわただしさである。  関東方面からも関西方面からも、夜行を利用すると、早朝松本へ着く。信濃鉄道に乗換えて大町へ着くのが、先ず八時とする。駅から対山館まで十五分とすると、登山者の大部分は、案内者をやとう人であれば、八時四十五分には対山館を出て行こうとする。「何時何分大町着、直ちに出発するから間違えなく人夫一人準備してくれ……」という手紙がそれである。  人夫はもちろん朝早くから来て待っている。お客様の荷物を受取り、しょいこにくくりつけている間、お客様は対山館の食堂でお茶位のんでいる。多くの場合慎太郎さんが「ああお手紙は拝見しました。人夫はここにいます。黒岩といって、あっちの方面はよく知っています」という。お客様は黒岩に向って「よろしく」という。そこでガリガリズラズラ出かけて行って了う。人夫をやとわぬ人は、対山館に寄る必要はないが、それでも草鞋を買ったり、礼をいったりする為にちょっと顔を出す。この方は、然し、もっと早く、入口に腰をかけるだけで出て行く。朝飯は松本の汽車弁当。昼の弁当も汽車弁当を持って来るのが多い。  勿論目的は山である。だから大町みたいな麓には、いる必要もなければ、いたくもない……という気持も、分らぬことはない。だが夜汽車でゆられて来た、いい加減フラフラした頭で、いきなり高瀬なり籠川なりへ入って了って、何か面白いんだろう。せめて一日の「静かな日」を楽しむ余裕は、あってもよいと思う。  麓は山の始りである。麓に無関心で、いきなり山へ入り込むのは、女の心に無関心でいきなり身体を我が物にしようとするようなものである。もっとも、「だまされているのが遊び」の「遊び」をまだるっこしとなし、玉ノ井へ直行する方がいいといえばそれ迄の話。これは各人の自由ではあろうが、我々のとるところではない。  朝着いたら、対山館で靴をぬぐべきである。(対山館でなくてもよい。ほかに宿屋も多い。また大町ばかりの話ではない。が話の都合上、大町を主にして述べて行く。)そして部屋へ通り、ゆっくり顔でも洗い、荷物を全部部屋へはこんだ上、連れてゆく人夫に来て貰って、荷物のふわけ、その他を相談すべきである。  昼飯後は人夫をつれて大町公園にでも行き、目の前にそびえる山々の名を聞き、籠川と高瀬川と鹿島川との三つの谷をポイント・アウトして貰うとよい。  晩には湯に入り、食事後は人夫に安曇踊にでも案内して貰うがよい。  何故、右のようにした方がよいか?  第一、一日の休養は必要ある。誰だって一晩中汽車に乗っていれば疲れる。身体が余計疲れる人と、頭が余計疲れる人との別はあろうが、疲れることは事実である。そんな疲れた心身で、登山の第一歩を踏み出しては勿体ない。  次に、登山前に山を見て置くことは、必要である。大体を見ずに、いきなり細部へとつついて行くことは、莫迦気てもいるし、危険も多い。  ここにいう迄もないが、大町から見ると、蓮華の長い尾根が一つ手前へのびて、籠川の谷と高瀬の谷とを別けている。誰が見ても、これは間違いのない事である。然るに、この籠川の谷へ、どうしても入れぬ人がある。田の畦や林の中をクルクル廻って、大町へ帰って来るのはまだしも、高瀬の谷へ入って了い、気がついて尾根を越したら日が暮れたナンテのもある。如何にもウソみたいだが、現に今年そういうことをした青年がある。私は実にナイーヴな、可愛い所のある彼の手紙を持っている。  何故こんな莫迦な真似をするか。つまり大体を見ず、五万分の一の地図ばかり見て行くからである。山に入る登山家山を見ず、足もとばかり見て行くからである。  勿論案内なり人夫なりをつれて行けば、このようなことは絶対にないが、それにしても、先ず地形の大体を見るということは、RECONNOITRING の第一条件として、養成しておくべき習慣である。  第三に、これは人夫をつれて行く場合の話であるが、せめて一日はゆっくりして、彼、或は彼等と知り合いになっておく方がよい。人夫をつれぬ人は、ことさら登山前の休養を要するし、また登山路その他について、慎太郎さんなり、あるいは帳場附近でゴロゴロしている者共(たいてい二、三人はいる。慎太郎さんの弟の孝男さんとか、彼等の友人とか)に、よく地図について説明して貰うべきである。  時間できりつめる人々は、同時に経費の上でも極度のきりつめを行う。この点でもノンビリした所が更にない。即ち、案内者をやとう方がいいのだが、費用がないから連れずに行くとか、小舎へ泊る費用を倹約して携帯天幕をひっかぶって野営するとか、ひどいのになると、「案内をやとう費用が無い。二十日乃至二十五日間に、大町を出発して立山方面へ向う登山者中、案内を連れて行く人があったら至急乞御通知。あとからついて行く」とかいうのもある。  ガイデッドとガイドレスとの優劣問題は、ここに論じるべくあまりに長く且つ専門的であるが、「案内者は必要と思うが費用がない」場合には、全然山へ入らぬがよい。この論断があまりに苛酷ならば、案内者を必要としない山へ入るべしと、モディファイしてもいい。例えば天気のいい日に白馬へ登るとか、燕へ行くとか、上高地から槍へ行って帰って来るとかすればよい。  ここで一言したい。私は山の案内者を、単に、路の案内をするだけの者と思うことは、大間違いであると信じている。路は判っていても、「山」を知らぬ我々は、濃霧にまかれたりすると、路まで判らなくなる。小さな事故にも面喰って、更に大きな事故を引き起したりする。案内者を連れて行った登山者に、如何に事故がすくなく、またあったにしても程度が軽微であったかは、統計的に立証出来るであろう。  以上長々と、時間と費用とを切りつめること、即ち山を急ぐことについて饒舌を弄したが、このような人は、実際山へ入っても只無茶苦茶に目的地へ着くことばかり考えていて、はたから見ると、まるで一刻も早くこの苦難から逃れたいとあせっているかの如くである。麓の牧場、中腹の森、岩角の花……それらは全然目に入らぬらしい。いや、事実、目に入る時間もないであろう。これが多いのを見ると、Hinchliff の如きは「旧派」――現にそう書いてある――で山を急ぐ人々が「新派」なのかも知れぬ。新旧いずれが優れているか判らぬが、私には旧派の方がうれしい。私自身は、断然旧派に属する。 山の道具  私はここ数年間毎夏必ず山に登っている。登り始めたのはもっと昔のことだが、途中で外国へ行っていた為に中絶した。それから、これも高等学校時代に一度か二度やったことのあるスキーを改めてやり出した。ところが登山もスキーも、私が中絶していた間に長足の進歩をなし、いろいろな道具類が容易に手に入るようになった。それで私も若干の道具を持っているが、これらが登山期及びスキー期以外に如何なる役目を演じているかを考え、何とかこじつけて「山の道具とホーム・エコノミックス」といったような小論文をでっち上げて見ようと思う。うまく行くかどうかは、やって見なくては判らぬ。  山及びスキーの道具として、最もポピュラーなのはルックサックであろう。御承知の如き四角な袋で背中に負うように幅の広い紐がついており、そしてよく出来た物は軽くて完全な防水がほどこしてある。  私はルックサックを二つ持っている。一つは墺国製でノッペラ棒だが、他は日本製で外側にポケットが二つあり内側の背中に当る所にもポケットがある。この日本製の奴が最近非常に役に立った話をする。  この前の日曜日に妻子を連れて熱海へ行った。あるいは一晩泊るような都合になるかも知れないと思ったので、子供の寝間着やその他こまごました物を中型のスーツケースに入れたが中中入り切れぬ。女房はあけびのバスケットをもう一つ持って行くといい出したが、上の子が四つで下は赤坊なのだから荷物が二つになっては大変である。そこで私はルックサックを持ち出して、これに荷物全部を楽々と入れ、そして出かけた。  汽車に乗ると子供づれだから中々手がかかる。キャラメルがほしくなったり、おしめが入用になったり、水っぱなをふく為に紙を出したりしておやじ立ったり坐ったりだったが、ルックサックの有難さに、網棚の上にあげて置いた儘で必要の品を出すことが出来る。キャラメル? キャラメルは右の外ポケットに入れておいた! とばかりに、棚の上に手をのばせば、手さぐりでキャラメルが取れる。……といった次第である。品物によって入れるポケッ卜をきめておき、それを手さぐりで取り出すのは狭いテントの内などで自然癖になることでもあるが、一々棚からカバンを下し、蓋をあけて内部をかき廻すことに比べて非常に便利である。おまけ万一汽車が崖から落ちたなんて時には、赤坊や上の子供ぐらいはスッポリと入るから、背中に背負えば両手を使って岩角を登ることも出来る。  次に便利なのはスイス製の畳み提灯である。これは雲母とアルミニュームとから出来ていて非常に軽く、雨にも風にも消えぬ。停電の時、急用が出来て雨中外出する時等にも適しているが、殊に便利なのは軽いので口で柄を啣え得ることである。夜、高い戸棚の奥に入っている品を探す時大いに役立つ。  以前住んでいた大阪郊外の家は電力で井戸水をタンクに入れ、そこから家々にパイプで配水する仕掛けになっていたが、このスイッチがどうかして故障を起すと、誰か梯子を登ってスイッチ・ボード迄行かなくてはならぬ。一度とても偉い雨風吹き降りの夜、故障が起ったことがある。提灯は駄目、懐中電灯では片手しか使えぬ、大騒ぎをしていた時、畳み提灯を口に啣えて梯子を登った私が見事故障を直した(といったところでちょっとしたレヴァーを引張るだけの話だが)ことがある。  それから飯をたく飯盒、焚火の上にかけてうまい飯が出来るのだから、大地震の後なぞは定めし調法だろうと思うが、そんな経験はしたくない。  今度はスキーの話になって、スキーその物ばかりは如何にこじつけても家庭内にあっては何の役にも立たぬが、修繕用の七つ道具、プライヤ、スパナー、ねじ廻し等はどの家庭に備えつけてあってもいい品物である。またスキーの裏に白蝋を塗る小さな鏝(内部に固形アルコールを入れて熱する)はちょっとしたアイロニングに非常に能率的である。我々階級のサラリーマンはよく経験するが、出がけになってソフトカラーに鏝がかかっていないことを発見し、急いで電気アイロンを出すと停電で駄目だなんてことがある。そうでなくとも何故昨夜鏝をかけておかなかったとばかり女房の横っ面を張ったりする代りに、メタをポキンと半分に折ってマッチで火をつければ、カラーの一本や二本なら食卓の上ででもアイロニングが出来る。どうだ、お前は俺がスキーの道具ばかり買って子供の靴下を買わないとて腹を立てたが、パラ一丁あれば云々とばかり、家庭円満。  ここらで結論を開始すると、そもそも山の道具類はすべて自然のエレメントに対抗して負けぬように出来ている――負けるのもあるが、それは製作者が悪い。また軽く、且つ使用法によっては、いろいろな用途に役立つ。この事を頭に置いて我々の実生活を考えると、我々は家屋によって雨風等から離れて住み、電灯によって夜と昼とを同じもののように思い、汽車は切符代さえ払えば完全に目的地まで我々をつれて行くものと信じているのだが、さていつ地震があって家が潰れるか分らず、暴風雨の夜モモンガーが高圧線にひっかかって東京中が闇になるか知れず、汽車が決して崖から転り落ちぬものとは神様でも断言出来まい。つまり我々――殊に都会人――はあまり文明なるものに馴れて、常に我々の周囲にある自然のエレメントのポテンシャル暴力を忘れて了っている。で、一朝その暴力があらわれると、かかる場合に対して造られた山の道具が非常に役に立つということになる。そこで皆さん山に登らなくっても山の道具だけはお買いなさいなんて莫迦なことは決して申さぬが、如何なる大都会にも自然の暴威は手をのばすことを忘れてはいけません……とまア、変な決着になって了ったが、実は今朝パラでカラに鏝を当てたことから思いついて以上の如き雑文一篇。 アイスアックス 「私のアイスアックスはチューリッヒのフリッシ製」……と書き出すと、如何にも「マッタアホーン征服の前日ツェルマットで買った」とか、「アルバータを下りて来た槙さんが記念としてくれた」とかいうことになりそうであるが、何もそんな大した物ではなく、実をいうと数年前の夏、大阪は淀屋橋筋の運動具店で、貰ったばかりのボーナス袋から十七円をぬき出して買ったという、甚だ不景気な、ロマンティックでない品なのである。だが、フリッシ製であることだけは本当で、持って見ると中々バランスがよく取れている。その夏、真新しくて羞しくもあり、また、如何に勇気凜々としていたとは言え、アイスアックスをかついで大阪から汽車に乗りこむわけにも行かないので、新聞紙に包んで信州大町まで持って行った。この時は針ノ木峠から鹿島槍まで、尾根を伝うのだから大した雪がある筈は無く、真田紐で頭を縛って偃松の中や岩の上をガランガラン引きずって歩いたもんだから、石突きの金員や、その上五、六寸ばかりのところがザラザラになって了った。  この年から大正十五年の六月まで、私のアイスアックスは大町の対山館に居候をしていた。居候と言っても只安逸な日を送っていたのではなく、何度か対山館のM氏に伴われて山に行った筈である。今年六月、まる二年振りで対山館へ行って見たら、土間の天井に近い傘のせ棚に、大分黒くなった長い身体を横たえていた。即ちこれを取り下ろし、大町から針ノ木峠、平、刈安峠、五色ヶ原、立山温泉、富山という旅行に使用した。非常な雪で、また大町――富山の大正十五年度最初の旅行だったので、アイスアックスが大いに役に立った。  富山から同行者二人は長野経由で大町へ帰り、私は直接大阪へ帰ることになった。従ってアイスアックスも大阪へ帰って来たが、何もすることがない。戸棚の隅でゴロゴロしているだけである。時々令夫人が石突きで石油の缶をあけたり、立てつけの悪い襖をアックスを用いてこじあけたりする。山ですべてを意味するアイスアックスも、大阪郊外の住宅地では、かくの如く虐待されている。  ところで、私はアイスアックスが非常に好きである。時々酔っぱらうと戸棚から出して来て愛撫したりする。アイスアックスが登山のシンボルであるような気がするからである。元来私が、氷河の無い日本の山を、而も夏に限って登るのに(将来あるいは冬登るかもしれないが)大して必要でないばかりか、ある時には却って邪魔になるアイスアックスなんぞ買い込んだ理由は、実にこれなのであった。刀剣の好きな人が、日本刀に大和魂を見るように、私はアイスアックスに登山者の魂を見出す。それにまた、冬の夜長など、心しきりに山を思う時、取り出して愛撫する品としては、アイスアックス以外に何も無い。  登山者としての私は、道具音痴ではないから、あまり色々な物を持っていはしないが、それにしても若干ある登山具を、一つ一つ考えて見る、座敷に持ち込んで愛撫し得るものは、アイスアックスだけである。登山靴――これはツーグスピッツェの麓なるパルテンキルヘンで買った本場物には相違ないが、酒盃片手に泥靴を撫で廻すことは出来まい。ルックサック――これも登山にはつきものであるが、空の頭陀袋を前に置いた所で、何の感興も起らぬ。たかだか山寺の和尚さんみたいに、猫でも押し込んでポンと蹴る位が関の山であろう。飯盒――飯盒はいたる処で、私の為にふっくらした飯を提供してくれたが、さりとて食卓の上にのせて見ると、どうもしようがない。お箸でたたくとカチンカチン音を立てるから、赤ン坊はよろこぶが、一家の主人として威厳を保つ必要がある身分として、そんなことは出来ない。然らばロープか。ロープは一昨年の春、大阪の人西岡氏がいろいろ考えたあげくつくったものを百呎ばかり、使って見てくれとて持って来られたのがある。ロープこそはアルプスのシンボルと言えよう。登山、ことにロック・クライミングには必要欠くべからざる品である。現にアブラハム氏の「コムプリート・マウンテニヤ]の第三章「登山具」を読むと、第一に登山靴、第二にロープ、次でアイスアックス、ルックサックなる順序に説明してある。また、かの有名なるウインパアが、マッタアホーン登攀に成功した話、下山の途中起った悲劇、それらに関してロープが如何に重大な役目をつとめているかと思えば、これこそ登山具中の王者とも言うべきである。だが不幸にして私は本式のロック・クライミングをやったこともなければ、実際ロープを必要とするような山を登ったこともない。その上、如何に山を思えばとて、直径五、六分もある太い縄を百呎、座敷へかつぎ込んだ日には、井戸替え屋の新年宴会みたいで、面白くも何ともない。  そこでいよいよアイスアックスが出て来る。アックスは鋼鉄を冠った鍛鉄である。柄はグレインの通ったアッシで出来ている。長さ三尺、重量は手頃と来ているから、よしんば振り廻しても大したことはない。右手に持ち、左手に持ち、あるいは柄の木理を研究し、アックスをカチカチ爪でたたいて盃の数を重ねて行けば、いつか四畳半の茶の間も見えなくなり、白皚々たる雪を踏んで大雪原に立つ気になったりする。寒風身にしみて嚏をし、気がついたらうたた寝をしていたなどというのでは困るが、とにかくアイスアックスは、我をして山を思わしめ、山を思えば私はアイスアックスを取り出して愛撫する。  一九〇二年のことである。モン・ブランの頂上から四人の登山者が下りて来た。内二人はスイスのガイドであった。グラン・プラトーと呼ばれる地点まで来た時、突然物凄い雪嵐が一行を襲い、進むことも退くことも出来なくなって了った。止むを得ず、アイスアックスで雪に穴を掘り、四人がかたまって一夜をあかすことにしたが、気温は下降する一方で、ついに暁近く二人は凍死した。  翌日はうららかに晴れ渡った。残った二人は、とにかく急いで下山することにしたが、あまり急いだので、その中の一人が深いクレヴァスに落ちて了った。クレヴァスとは氷河や雪田に出来る裂目である。深いのも浅いのもあるが、この男の落ちたのは二百尺近くもあったという。そんな処に落ち込めば、命は無いものであるが、この人は不思議に、大した怪我もせずにいた。  一行四人が、今はたった一人になった。この最後の一人は、これは大変だ、どうしたろうと、しきりにクレヴァスをのぞいている内に足をすべらして、自分もまた同じクレヴァスに落ち込んだ。同じクレヴァスと言ったところで万古の堅氷に、電光のように切れ込む裂目である。もちろん前に落ちた男は、自分の仲間がクレヴァスに落ちて即死したとは知る由も無い。どっちを見ても氷ばかりの狭い場所で、早くあいつが麓に着いて、救援隊をよこしてくれればいいとばかり思いつづけた。だがその、救援隊を求むべき人は、今はもう死んでいるのである。これほど頼り無い、心細い話は無い。  ところでその地点から一万尺下に、シャモニの町がある。この町には非常に強力な望遠鏡が据えつけてあり、この日もある人が晴れ渡ったモン・ブランを山嶺から山麓まで、しきりに観察していると、ふとレンズに入ったグラン・プラトーの人の姿。どうやらクレヴァスを覗き込んでいるらしい。はてな、今頃たった一人で、何をしているんだろう、と思った次の瞬間、もう黒い姿は、どこをさがしても見えない。  グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちた。すぐ救助に行かなくてはならぬ。この叫び声によって救援隊は立ちどころに組織された。選りぬきのガイド達、手足まといの登山客がいないだけに足が早い。羚羊のように岩を飛び雪を踏んで、遮二無二に急ぐ。  一方、グラン・プラトーの上方に五、六人のガイドが、無事に前夜を送った登山者達と一緒に休んでいたが、ふと気がつくと麓から一群の人々が登って来る。只登って来るのなら何の不思議もないが、恐ろしく足が早い。とても普通の登山ではない。何か起ったに相違ない。応援に行こう、とばかり山を下りかけた。  数時間の後、救援隊とガイド達とは落ち合った。グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちたと言う。それでは一緒にさがして見ようということになって、さてグラン・プラトーに来て見はしたものの、果たしてどのクレヴァスのどの辺に落ちたのかハッキリしない。あちらこちら覗き込んでは呶鳴って見ても、一向返事がない。さては死んで了ったのか、さっき望遠鏡で見た時から、七時間余も経っている。よしんば即死しなかったにしても、もう死んだのだろう。仕方がない、帰ろう……と話し合っていると、どこか変なところで変な声がする。まだ生きている! と一同急に元気を出して、又、あちらこちらと覗いては呶鳴り、呶鳴っては覗くうちに、とうとう落ちている場所を発見した。そら、ここにいる。縄を下ろせ。だが、どのくらい深いところにいるのか判らぬ。一番長い奴を下ろせ。かくて百五十呎が、スルスルと氷の裂目に呑まれて行った。すると下から声がする――まだ四十呎ばかり足りないと言う。そこで五十呎のをつぎ足した。都合二百呎である。 「よし、引っ張ってくれろ!」という声を聞いて、一同は力を合せて縄を引いた。二百呎の氷の裂目を、ブランブランと上るのは、危険至極である。氷の壁にたたきつけられたら、頭を割るか、足を折るか、とにかく碌なことは無い。だが、どこ迄も運のいいこの男は、無事に表面まで出て来た。  前夜、すくなくとも十時間は雪に埋った穴の中で凍え、二人に死なれ、たった一人でクレヴァスにうずくまること八時間、たいていの人間なら、もう山は沢山、ガイドなんぞするよりは、山麓のホテルで門番でもした方がいいと思うであろうが、この男はどこからどこ迄アルプスのガイドに出来上っていた。もう弱り切って、ヒョロヒョロしているにもかかわらず、「誠に申訳ないが、もう一度縄でしばって、クレヴァスに降してくれ」という。救援隊の声を聞いた悦しさに、つい夢中になって、アイスアックスをクレヴァスの底に忘れて来て了ったのである。懇望するままに、また二百呎の縄を彼の胴に縛りつけて、クレヴァスに降してやる。後生大事にアイスアックスをかかえ込んだ男が、再びクレヴァスの口に顔をだしたのは、それからしばらく経ってのことである。  この話はコリンスという人の書いた「マウンテン・クライミング」なる本に出ている。アルプスのガイド達は登山中如何なる事情があってもアイスアックスを置きざりにしてはならぬという不文律を、固く守るのだそうである。ちょっと面白い話だから、うそか本当か知らないが――まさかうそではあるまいけれど、コリンス先生の著述目録を見るとカメラ、ワイヤレス、飛行機、山、等、いろいろな物に関して本を出しているので、いささか当世流行の大衆向きライタアらしく、従って面白く書くことを目的としているから、ひょっとしたらこの話も又聞きぐらいかも知れぬ。――アイスアックスの話のついでに紹介する。 山と酒  広い世間には一を読んで十を考える人が随分いるらしい。私がパイプの話を書くと、私なる者は朝から晩までパイプを啣えっきりにしているに違いないと思ったり、酒が好きだとどこかに書いたのを読んで、私のことを年がら年中酒ばかり飲んでいる野郎と思い込んだりする。このような人がどうにかして、私が山に登ることを知ると、「お前のように酒をのんでも山に登れるかい」なんて質問をする。  山登りばかりでなく、如何なる運動にも、酒のよくないことは判っている。私とてもちろん登山の最中に酒をのみはしない。一日の行程を終えて山の小屋なり野営地なりに着いた時、若し酒があれば極めて小量を摂取するだけである。それにしても山と酒……但し私ひとりの経験にとどまるが……という問題を考え出すと、かなりいろいろなことがある。  そもそも私が一番最初に山に持って入った酒はウイスキーであった。そのウイスキーが何であったかを覚えていない。これは出発に際して父がいわゆる気つけとして、小さな平瓶にいれてくれたものである。  気つけとしてウイスキーなりブランデーなりを山に持って行くことは、合理的であり、且つ必要である。水にあたって急に腹が痛くなったりした時、シャツであろうと手拭であろうとルックサックであろうと、何でもかでも腹にまきつけ、そして熱い湯をわったウイスキーかブランデーをグッと飲むと、たいていは治る。  この故を以て十数年前、仙台の第二高等学校で第一回山岳部講演会兼展覧会をやった時、展覧会場の一隅にしつらえた「登山必要品」の中には、片パンやウェーファースやコールゲートの練歯磨と共にウイスキーの平瓶が一つ置かれた。片パン及びウェーファースには、およそ山に入っている間は、いつ、どんなことで、連れとわかれるかも知れぬ、たった一人で深山幽谷を迷って歩くような場合に陥るかも知れぬ、かかる時取り出して食うためで、決しておやつの代りにがりがり噛るべきものではないという説明書を、つけたような気がする。噛るといえば鰹節も同じ意味で必要品に加えたように記憶する。コールゲートの練歯磨に至っては、実にびっくりすべきもので、その当時誰だったか日本山岳会の一員が、甲州の山で路に迷い、流れに従って下れば必ず里に出るとの信念を以て、ある渓流に添うて下るうち、一日二日三日と、ビスケットも食っちまい、ドロップスもしゃぶり尽し、ヘトヘトになった時、ルックサックの底にコールゲートの練歯磨が入っているのを発見、これを舐めては水を飲み、水を飲んではこれを舐め、ついに命を全うして里に着いたという話が伝わっていた。我々二高の山岳部幹事は、いたくこの話に感激し、さてこそ練歯磨のチューブを陳列したものである。  ところでウイスキーの話に立ちかえると、この展覧会非常な大盛況で、二日だか三日だか続いたが、これでいよいよお了いという時、ウイスキーの瓶を見ると、大分内容が減っているばかりでなく、変なあぶくが浮いている。誰か見物人が……恐らく二高の生徒であろう……そっと手をのばして喇叭をやったに違いない。会が済んだら飲んでやろうと、実は心まちに待っていた我々幹事は、大いに憤慨した。飲んだ奴が判っていれば弁償させるなり何なり方法もあるが、それは判らず、第一きたないや、なんて言っていたが、その内に誰がのむともなく飲み始めて、とうとう空にして了ったことがある。  今年(大正十五年)の六月、百瀬慎太郎氏と二人、案内者北沢清志をつれて大町から富山へぬけた時、二人とも至って酒が好きなくせに、およそアルコール分を含んだものとては一滴も持たずに出かけたものである。何故またそんな真似をしたのかというと、すくなくとも私自身は、それまでさんざん酒をのんで、詰らない、下らない日を送っていたのだから、せめて山の中では酒精分は一切口に入れまいと思った。  これは誠にいい決心であったが、さて大沢の小舎に着いて炉で火が燃え、鍋で白い飯がフツフツいい出すと一杯やりたくなる。どこかに残っていやあしないかと、心は同じ両人が薄暗い蝋燭の光をたよりに、鼠の糞や埃で一杯の小舎の内をゴソゴソかき廻して、樽という樽、缶という缶をゆすぶって見たが、コトンともドブンとも音を立てぬ。泥まみれの瓶を見つけ出して、やああったぞとばかり、苦心惨憺、栓をぬいて嗅ぐと醤油だったりした。仕方がない、あしたは平で、日電の小舎には屹度酒があるだろうと、その日はそのまま寝て了い、さてその翌日、針ノ木峠から蓮華の裏の大雪渓を通って平に着く。日が暮れて路が判らず、東信の空小舎を借りて一泊するのにも、若しやどこかに酒がありはしまいかと、キョロキョロした。次の日は対岸の日本電力の出張所で、手あつい歓待を受け、岩魚や熊の肉の晩飯となる。一行三人、キチンと坐ると出張所長の宮本さんが、お酒を上げたいがあいにく切らして……と言われる。いいえ、一向不調法でして……と言いはしたものの、また実際酒があった所で、とても恐縮でそう呑めはしないにきまっているものの、とにかく世界中にこんな美味いものはあるまいと迄伝えられる黒部川の岩魚が、ジジリ、ジジリと焼けて、その香が鼻を打つと、家にしあれば一升瓶だが、あの徳利にコクコクと移して銅壺につける。北ではあすこの酒場のおやじが、松竹梅、白鷹、菊正宗、都菊とそろえているのを、私が行けばむろん「菊」。徳利を持ち上げて、如何にももっともらしく底にさわって見る。南のあの家では桜正宗、青磁色の猪口で……と、実に意地のきたない話ながら大阪の酒が目の前にチラチラして、今頃酒をのんでいるであろうところの、日本国中の何十万人かが、皆不倶戴天の仇のような気がして来た。  その次の日は立山温泉どまり。刈安峠から尾根をつたって五色ヶ原、佐良峠、一日中雪の上ばかり歩いていた。そしてはるか下に温泉の低い屋根を見た時、我々は今夜こそ酒がのめるぞ! と口に出して言った。若しまだ番人が来ていなかったら、錠前をねじ切って倉庫に入っても酒をのんでやろう等と、物騒な考えを起したりした。  温泉には番人と若い男と二人いた。だが、まだ時期が早いので、何の準備も出来ていない。ヘトヘトに疲れて口をきく気もしない身体を炉のわきに横たえながらも「おじさん、酒はあるかね」と聞いたものである。さあ、あるか無いか、蔵へ行って見なくては判らないという心細い返事に、済みませんが行って見ておくんなさい、若しあったら二合瓶を二本ばかり頼みますと言っておいて、ようやく掃除の出来た部屋へ行く。そこへ、温泉に入りに入った北沢が二合瓶を二本さげて帰ってきた。温泉というのが野天で、あつくて什方がねえからスコップで雪を三杯たたき込んだという素晴らしいもの。(もっともこれは、まだ温泉場を開いていなかったからの話で、本式に始めればここから湯を引いた立派な浴場が出来る。立山温泉の名誉のために、一言弁じておく。)それはともかく、そら酒が来たというので急に元気づいて、見ればそのレッテルの色もあざやかな桜正宗である。早速燗をして飲んで見ると、うまくも何ともない。苦くって、ピリピリして、猫いらずを溶いた水を飲んでいるような気がする。三人かかってやっと二合瓶を一本あけた頃には、頭がガンガンして来た。二本目は封を切っただけで、番人たちに贈呈して了った。  あんなに飲みたかった酒が、どうして飲めないのだろう――我々は不思議に思った。だが考えて見ると相当な理由がある。第一桜正宗が非常にいい酒であるとしても、二合瓶につめられて大阪から富山へ送られ、それから何里かの山路を立山温泉まで持って来られる内には、多少どうかするに決っている。つづいて冬、どんな倉庫だか知らないが、いずれ雪に埋って一冬を送るのだから、酒の味それ自体もすこしは変ろう。だがそれ以外に、私たちの身体の状態が、どんな酒を飲んでもうまいとは感じないようになっていたのではあるまいか。  要するに日本酒は浅酌低唱というところ、小さな猪口を口にふくんで、気長にチビリチビリやるべき性質の飲料である。盃洗でひっかけたり、デカンショに合わせてあおったりするのは邪道である。衣食足って――礼節の方は知らぬが――銀行に特別当座預金でもあろうという泰平の逸民が、四畳半の投げ入れを見ながら、一杯一杯、「河豚汁や」を考えて、頭からピシャピシャやって飲むべきものである。  かくの如き日本酒を、立山温泉で飲んだ我々は、一体どんな「我々」だったろう。三日も四日も激しい労働をやって、而も紫外線の多いという高山の日光と雪の照りかえしとで、手や顔の皮がむける程まっ黒になっていた。自然のぼせる。唇には縦に罅が入って、笑ったり、欠伸をしたりすると血が吹き出す。口腔はネチネチして、いくら水やお茶を飲んでも平常状態にならぬ。両眼は雪眼鏡をかけていたにもかかわらず、やはり充血している。歯はみがかず鬚は生えっぱなし。こんな野蛮人にでくわしては、酒の方から忌避しても、一向不思議でない。  過激な筋肉労働をする人々が、一日の仕事を終えると、電気ブランとか焼酎とかいう強烈な酒を呑むのには、あるいはこれらの酒が日本酒に比べると安価で、早く酔いがまわるという原因もあるであろう。だが、あるいはそれ以外に、肉体の疲労が甚だしい時には、燗をした日本酒のチビチビ飲みが、何等の快楽を持ち来たさぬというような理由も存在するのかも知れぬ。  大正十三年の夏、黒岩直吉の兄弟と、針ノ木から鹿島槍まで行った時には、ウイスキーを一瓶持って行った。大瓶一本、山ではかなりの荷物になる。やめようかとも思ったが、何、俺が持ってゆくというので黒岩に頼んだ。第一夜大沢。天幕も張れ、飯も出来たという時コルクをぬいて、氷のような水に割って一息に飲んだ。冷たい水が胃の腑に達すると同時に、ふーっと、何とも言えぬ酔が出て来て、疲れが一時に消えて行く。飯もうまければ元気も出る。その後マヤクボ、棒小舎の乗越し、冷ノ池と三個所で野営するごとに皆で――と言って、主に黒岩と私だが――一杯ずつやり、とうとう一本空にして了った。棒小舎乗越のウイスキーは、もう二年半になる今日、まだ忘れられぬくらいうまかった。元来、前夜はマヤクボで野営する筈ではなかったのに、雨が降って来たため急に予定を変更したのである。従って乗越に着いた時は、まだ日が高かった。早速天幕を張る。いつでも寝られるようにしておく。塹壕のような形をした窪地に火を焚いて、その上に太い枝をさしかける。黒岩の兄は近くの水溜りへ米を洗いに行った。同行者のT君は、如何にも光線が面白いからというので、写真器を持って天幕のまわりをウロウロしている。私はウイスキーの瓶と瀬戸引のコップとをさげて、黒岩の横に腰を下した。  コップを差出しながら「直吉さん、どうだね、一杯」と言うと、びっくりしたような顔をして、「そうかね、えれえ済まねえな」といいながら、底に一寸ばかり受ける。そいつをキュッ! 「うめえね」と手の甲で口を拭く。  私も一息にやってから、コロリと草の上に長くなった。この辺の草はまことに短く、そして柔かい。風もなければ鳥も鳴かぬ日暮れ時。足のさきでパチパチはねる枯枝の音を聴きながら、ウイスキーの酔が、適度につかれた身体中の筋肉を一つ一つ、ほぐして行くのを感じる。山に登るたのしみ! 私は前人未踏の所謂処女峰を征服しようも思わないし、エヴェレストの絶頂に日章旗を押し立てようとも望まない。かくの如き草の柔かい場所にねころがって、野営地をさがす心配もなく、飯をたく水に不自由もせず、ウイスキーの軽い酔を感じていさえすれば、私は満足する。 山と女  酒の話のすぐ次に、女の話が出て来ると、すこし、よろしくないようだが、婦人と登山とについて心に浮ぶままを、ボツリボツリ書いて見ようかと思うのである。 「婦人と登山」と言えば日本体育叢書の第十五篇「登山」において、著者田中薫君は「婦人の登山者の為に」なる見出しの下に、詳細に服装のことを書いている。どうもブラウスとかナイトキャップとかワンピースとか富士絹とか、いやにくわしいと思っていたら、今年の夏は婦人同伴鹿島槍に登っている。これではくわしいのがあたり前である。  閑話休題――と言ったところで私の話、ことごとく閑話ならざるはなしだが――ここに英国ケジックの住人、ジョージ・アブラハム氏の著『コムプリート・マウンテニヤ』は、日本にも沢山来ているから、たいていの登山家は知っているであろうが、一九〇七年の十一月に第一版を出し、翌年二月、ただちに第二版を出した。飛んで一九二三年に改訂第三版が出たことは、著者自身も書いているように、一般向きとは言えぬ登山なるスポーツ界ではエポックとも考えるべきである。然し別の考えようをすれば、この『コムプリート・マウンテニヤ』は、山登りの技術だけを書いた本なのではなく、いろいろなアネクドートや、エピソードが沢山入っているので、いわゆる読物としても面白く、従ってよく売れたのであろう。  それはとにかく、『コムプリート・マウンテニヤ』を開くと、先ずリッフェルアルプから見たマッタアホーンの写真、タイトルページ、それに続いて全一頁のまん中に小さく     TO HER WHOM I MET  ON THE ROCKS と、三行にわけて印刷してある。申す迄もない、デディケーションで、著者ジョージ・D・アブラハムはこの本を「岩の上で逢ったところの彼女に」ささげているのである。  私はアブラハム氏の私生活を知らないから、「岩の上」の彼女が誰だか、もちろん判らぬが、このデディケーション、ちょっと気になる。気が利いているような、思わせぶりなような、変な文句ではないか。高等学校の山岳部員が感激しそうである。いや、事実、高等学校時代の吾人は、大いに感激して、いろいろと岩頭の彼女を空想したものである。だがその頃、富士や筑波はいざ知らず、いわゆる日本アルプスに登る女は至って少数であった。たまに登る人は奥さん方で、これでは著述をデディケートするわけにも行かない。  その後十数年、今日では大分女の登山者が増加した。女学生の洋服、女子スポーツの隆盛が今後ますます若い娘をして登山せしめるようになるものと思う。すると、これからさきの若い登山家たちは、「岩の上で逢った彼女」に、著書なり一生涯なりを捧げる機会を多く持つようになるので、これはまことにうらやましい話だ。何もここで婦人問題を論じようとは思わないが、元来登山なるものは、平素運動をしている人にとっては、その性の如何を問わず、大して過激なものではない。というより、登山は、プランの立てように依っては、比較的楽な、愉快なスポーツである。だから、夏休みなり何なりに、夫婦でルックサックを背負って山に出かけることはまことに面白いと思う。  余程以前、ウェールスの山、スノードンに登ったことがある。この山、高さは僅か三千五百七十呎だが――それでもイングランドとウェールスでは一番高い――、実にいい形をしているので、普通「ブリティッシュ・マウンテンスの女王」と呼ばれている。殊にワッツ・ダントンの小説『エルウイン』に出て来るので、私は大分昔から、いわゆる憧憬を持っていた。  ところでこのスノードンは、ロック・クライミングで有名な山であると同時に山岳鉄道が麓から絶頂まで走っていて、おまけにその絶頂にはホテルが建っている。アブラハムの言によれば「絶頂に達する壑の中の若干は、今や頂上ホテルのゴミ卸樋になって了い、如何に登山術を心得た人でも、スノードンの秀麗なる北側面を殆ど絶え間なく落ちて来るジンジャ・ビアの空瓶や、鰯の空缶や、その他の物品を避けるだけの技能は持ち合わさぬ」のであり、また「ラスキンのいわゆる『山の憂鬱と山の栄光』とは不信心な旅行者の群をはこび上げる、キーキーいう煙だらけな山岳鉄道によって攪乱されている」のである。私もこの「不信心な旅行者」の一人として、ある美しい秋の日の午後、スノードンの峰に立った。別に弁解するのでもないが、その後一月足らずで日本へ帰る時だったので、金も無く時間も無く、とても悠々と山を登っている訳に行かなかったのである。  やがて汽車が出るというので、停車場の方へ足を運んだ時、突然横手の岩角から、かなり大きなルックサックとロープとを背負った男があらわれた。登山服、登山靴、汗ばんだ顔。ああ、ガリースの一つを登って来たのだなと思う間も無く、続いて今度は、まったく男と同じような身なりをした女が顔を出した。頭をキリッと絹のハンカチで捲いている。引きしまった身体つき、日に焼けた頬。その晩は恐らくホテルで泊るのであろう。下山する汽車には目もくれず、大股に絶頂の方に歩いて行った。  私と一緒の汽車で下りる人々は、いずれも不思議そうな、好奇的なまなざしで両人を見送っていたが、私はうらやましかった。時間さえあれば、金の方はどう都合つけても、エルウインの路をたどってスノードニアを歩いて見たいと思った。  それから日本へ帰ってからのある夏。私は久しく登る機会を得なかった鹿島槍を再び訪れるべく、信州大町へ向った。暑い七月の終り、寝不足な身体を信濃鉄道のせまい窓にもたらせて、松本から大町まで、汽車の速度の極めて遅々たるのに、いささか癇癪を起こしていると、とあるステーションで、こちらの汽車を待避していた列車。キャー、ワーという黄色い叫び声にびっくりして見ると、丁度真向に当る車室は一杯の女学生である。鼠色によごれた上衣、紺のスカート、ナイト・キャップみたいな帽子、中には鉢まきをしている娘もある。「白馬登山の女学生が帰って来た!」と同室の地方人の話に、なる程この連中、白馬へ行ったのかと知ると同時に、汗くさい、日向っ臭い女学生数十名に、一どきに絶頂を踏んづけられた白馬が可哀そうになった。「岩の上の彼の女」は単数にかぎる。若し「彼女等」になるならば、せいぜい二人か三人までのこと。数十名の彼女等に取りかこまれた日には、如何なる Lusty knight of Alpenstock も、たじたじになることであろう。 山と煙草  酒の話を書いたからには、煙草のことも書かねば義理が悪い――という訳でもないが、筆のついでに一言して見たい。  G・W・YOUNG氏の編纂した『マウンテン・クラフト』は、いろいろな意味において私の愛読書である。読み物としての面白味からいえば、ジョージ・アブラハム氏の著書の方に遥かに面白いのがあるが、登山のテクニックに関する知識を得る点から見ると、このマウンテン・クラフトが一般的の役に立つような気がする。  話はいささか横路に入るが、ヤング氏がこの本に書いた緒言は愉快な言葉で始っている――「この本はマウンテニヤスの為に書かれたものである。而してマウンテニヤとは登山をする人だけを指すのでは無く、好んで山の周囲を歩き、好んで山のことを読み、且つ考える人の誰もをいうのである。」  私はこの言葉が非常に気に入った。そこでマウンテニヤなる英語は果して何を意味するのか、調べて見ようと思い、手近の辞書類をひっくり返して次の結果を得た。  第一に三省堂の「模範新英和大辞典」。これによると名詞の一が「山住みの人、山人」。二が「登山者」。別に「山に登る」なる自動詞があげてある。  次に中学校時代かに使用した斎藤秀三郎氏の「英和中辞典」を見ると「山国の人、山人、登山(業)者」としてある。三省堂のに比較すると自動詞以外は殆ど同じだが、ただ「登山(業)者」として、登山者と登山を職業にする者とをわけたところが面白い。  これ丈で沢山なのだが、どうせ乗りかけた船だと、机の引き出しに入っているのだしするから、ウェブスターのリットル・ジェム・ディクショナリイを引いて見ると、マウンテンには「丘より高い高所」と説明してあるが、「マウンテニヤ」は只かかる語があることを示してあるだけで説明はしてない。  そこで最後に英語の字引としてはこれ以上のものが無いといわれる、ジェームス・マレー喞の「新英語辞典」を、図書館に出かけて読んで見ると、 (一)山間の土民、あるいは住人。 (二)マウンテン党の一員。 (三)登山(マウンテン・クライミング)に熟練せる人、あるいは登山を職業とする人。 と、こう三通り出ている。第二を除くと斎藤さんのと同じになる。しかもこの(二)は、フランス革命時代の山岳党(la montagne)のことだから、この場合吾人とは無関係なのである。  かくの如くどの辞書によっても、マウンテニヤとは山間に住む人か、山に登る人かになるが、ヤング氏の緒言があるので、私もこんな風なことをマウンテニヤの為に書いていると意識することが出来て、甚だ有難いのである。  ところで道草ばかり食っていないで、煙草の話にうつると、「マウンテン・クラフト」の第一章が「管理と指導」「食料飲料」と二つ区分があって、その次に「喫煙」の項が出ている。この章はヤング氏自身が執筆しているが、同氏の意見によると、煙草を吸うとか吸わないとかいう問題は各人がそれぞれ決定すべきことで、別に一定の規則は立てられぬ。但し実際山を登りながらパイプを吸うことは「肺にとって不愉快、パイプ・ステムにとって費多し」と書いている。続いて次のような文句が現れて、大いに私をよろこばせる。私ばかりでなく、世のパイプ党、並びにマウンテニヤ達をよろこばせそうだから書いて見る―― 「パイプは食物、飲料、あるいは睡眠の、よき一時的代用品となる。それは待つことのつめたき幾多の瞬間を慰め、困難に際しては心をやすめてくれる助言者になる。煙草を吸い得ること、従って登山者の真の親交を特長づけるところの努力なき沈黙中に彼自身を支持し得ることは、如何なる登山仲間も持っていねばならぬ資格である。」  この訳は、夏目さんの「巨人引力」みたいだが、意味は判るだろうと思う。またヤング氏が恐らくパイプを好むであろうことも想像出来る。パイプを吸うものは沈黙を愛する――これは登山家ばかりではない、誰でもそうである。もちろんパイプを啣えたまま話をすることは出来ぬからであろう。  それはそうとして、まったく、目的の峰に達した時、ルックサックを下に置いてから、手頃の岩に腰をかけて吸う一服は、恐らく最もうまい煙草の吸いようであろう。ことに天気がよくて、遠近の山々がいわゆる手に取るように見える時なぞは、どの山が何だとか、どこの尾根がどうとかしゃべられると、うるさくて仕方がない。かかる時には、只、黙って紫の煙を空に吹き上げるに限る。  私はパイプとシガレットとを山に持って行く。シガレットは上衣のポケットに入れておいて時々吸うが、パイプはルックサックに入れて、大休みする時、例えば目的地に達した時か、昼飯の時かに吸うようにしている。一日中雪を踏んだり岩を匐ったりして野営地に着く。先ず上衣を脱いで厚いスウェッタアを着込み、天幕を張ってから、パイプを啣えて焚火の傍らに坐る時の気持は、ちょっと説明出来ない。説明を試みてもそれは山を知らぬ人にはピッタリ来まいと思う。かかる時、煙草を吸わぬ人が、しみじみと「ああ、俺も煙草が吸えたら……」と、よくいうことだけを記してこの稿を終えよう。 山の本  僕が持っている山の本のことを、何ということなしに書いてみようと思う。  先ず第一にウインパアの『スクランブルス』の初版をあげねばなるまい。どうもそれが順序であるような気がする。ロンドンのバンパスで買った。幾らだか覚えていないが、Rev. J. J. Muir というスコットランドの名前が書いてある。  Rev. で思い出すのはウェストンさんだが、そのことは後廻しとして、『スクランブルス』の初版に関連して不思議な本が二冊、僕の書架におさまっている。大きさはどちらも二三×一六センチ、表紙の背には Scrambles amongst the Alps by Edward Whymper ――一方のは背の下に J. B. Lippincott Co. とあるが、一冊には何ともしてない。『スクランブルス』に間違いないのだが、タイトル・ページをあけると SCRAMBLES AMONGST THE ALPS,/BY/EDWARD WHYMPER;/AND/DOWN THE RHINE,/BY/LADY BLANCHE MURPHY/WITH ILLUSTRATION/PHILADELPHIA:/J.B. LIPPINCOTT & CO. と、これはリッピンコットの方だが、もう一つには出版者の名は明記してなく、ただ巻尾の広告が THE BURROWS BROTHERS CO., CLEAVELAND, OHIO 出版の書物で、速記術とかなんとか、そんな風な詰らぬ本の間に、この本の名も見えていることでバロウス兄弟が出版したことが知られる。どちらにも出版のデートは無く、頁数は『スクランブルス』だけが一六四(原書は四三二)、活字は小さくし、行間をつめ、新聞一コラムぐらいの幅で二段ぐみにしたものである。リッピンコットの方は挿画など、まだまだ鮮明だが、バロウスの方はぐちゃぐちゃで、これを Mutilation といわずして何ぞやである。買価一弗、買ったのが一九三二・六・一二、場所はフィラデルフィアの LEARY ――日本人にはいいにくい名だ。いやに詳細をきわめるようだが、実は本の中から受取が出て来たのだ。その頃の米国は相当ひどいことをやったもので、パイレート版の見本によかろうと思って買って来た。研究したい方には貸して上げてもいい。  貸すといえばウエストンさんの『日本アルプス』が見つからぬ。誰かに貸した覚えはあるのだが……これにはウエストンさんが聖書の中の文句を書いてくれた。  コンウエーの『カラコラム・ヒマラヤ』(二冊本。署名入。百二十一部限定)は、自慢してもいいだろう。誰が持っていたのか、名前は書いてないが、おそらくこまかく読んだもので、二冊とも巻頭の白紙は、旅程の書きぬきでベッタリ埋っているばかりか、第二巻の最後のインデックスに Lamayuru, 617-20, 662 とある最後の2が1に直してある。本もそうまで読めば本格的だ。恐らくはカラコラムに入ろうとしたか、又は入った人が、調査の材料にしたのであろう。  登山のテクニックを書いた本では、バドミントンがとてもうれしい。もちろんバドミントンはその後改訂されはしたが、一八九二年のもので、一九三四年に出版されたロンスデール・ライブラリイのマウンテニヤリングとは比較にはならぬであろうが、ごろんと横になって読むにはもって来いである。我々四十前後の者にとって、バドミントンの名が大きな魅力を持っていること、これは否定出来ぬ事実である。  テクニックに関する数冊を比較すると面白い結果が出るであろうが、あまり専門的になる危険があるから、それはやめにしよう。アブラハムの The Complete Mountaineer など、今では「ケジックの写真やか」とか何とかいわれて、誰も相手にしないが、相当これで我々の血をわかしたものである。  How to Become an Alpinist なんて本、今日でも読む人があるかしら。著者はバーリンガム。タイトル・ページにも口絵の写真にも、The Man who Cinematographed the Matterhorn としてある。先生曰く、  そもそも、誰でもがアルピニストになれるものではない。身体がズングリしてよく働く心臓を持つ人々のみが、このような激しい骨折仕事をなすべきである。めまいをする傾向の者は牝牛がしばしば訪れる頂上にかぎって登るべし。肉体的且つ精神的に資格ある初心者は、高さと断崖とに馴れる迄は簡単な登高を、騾馬路を外れずに行うべし。そこで馴れたら山羊路を歩いてもよろしい。  牝牛、騾馬、山羊と三段にわけたあたり、「鹿も四肢、馬も四肢」と叫んだ源氏の大将より、よほど動物学の知識はあるが、これ、少々コハイみたいな訓示である。  一番はじめに米国のパイレート・エディションの話を書いたが、米国だからとて、ちゃんとした本も出している。その例の一つが、ティンダル教授の著述をアップルトンが出したもの(1896)INTERNATIONAL SCIENCE SERIES の第一巻が同教授の The Form of Water であるが、立派にオーソライズされているし、又スクリブナア The Out of Door Library の Mountain Climbing(1897)の如き、コンウェーをはじめ一流どころの書き下しである。  僕は蔵書家でも愛書家でもないらしい。こう書いて来て、まだティンダルの本があったような気がし、書架をさぐったら Hours of Exercise in the Alps が出て来た。ウインパアの版画が二枚入った一八七一年の初版で、これは大切な本として扱わねばならぬと思った。一弗と鉛筆で書いてある。やはり例の Leary で買ったものだ。忙しい旅の最中に買い込み、ろくに調べもしなかったのである。  とても面白いのは、一度紹介したこともあるが Anthony Bertram の To the Mountains という本だ。ひとりで面白がっていやがると思われては心外だから、ここに書いておくが、深田久弥氏に話したら是非かしてくれとのこと。大分経ってから同氏わざわざ自身で返しに来られ、面白かった礼として『わが山々』をくれた。バートラムの『山へ』はツーグスピッツェ、もちろん山としては大したことはないのだが、本全体の構成が実に奇抜で、ちょっとトリストラム・シャンデイといった点があり、写真はつまらぬがカットが素晴らしい。丸善で偶然ひろった本である。  I have heard a man complain of German Girl because, when she reached the summit, she cried, “Ah, that is beautiful, that is wonderful. I must my sausage eat.”  But how right she was! Only those who go up in funiculars stand and blather. When you have climbed, when you have conquered, then indeed should you sit down and your sausage eat. Let joy be unconfined ……  僕はこよなく、この本を愛する。  まだこの他に英語の本は沢山あるが、カタログをつくるのではあるまいし、この辺でいい加減に打ち切ることにしよう。さて英語の次はドイツ語だが、これはあまりよく出来ないので、よほど、さしせまった必要がない限り精読せず、従って厚い本は写真のきれいなのや挿絵が沢山入っているものという、甚だ恐縮な次第である。  薄い本は相当あるが、その一つの DAS SKIBUCH 一九二二年ウインで出版され、エマ・ボルマンという婦人の木版画と詩とを満載している。詩の方は手紙の型式になったスキーの教則だというが、大したこともなく、それより木版画の方を御紹介したいが、文章ではちょっと手に負えぬ。一本杖、両杖半分ぐらいの時代で、とても変てこりんな漫画式のものだが、おかしなことに、現代日本の各ゲレンデで、この本にあるような変てこりんなシーロイファを、ちょいちょい見受ける。  ヘンリ・ヘックの『雪・太陽・スキー』は私の好きな本の一つだ。大分知られているので、改めて紹介する必要もあるまいが、高山の春を書いたもの、写真が――製作技術はあまりよくないが――実にいい場所を撮影してあり、我々をして、ひたすらに山を思わせずにはおかない。――例えば十三頁にある「太陽の中で憇ふ(アロサ)」の如き、ゆるい傾斜の草原には一面にクローカス、花咲く草地に接して雪田、その雪にスキーを立て、草原には若い男女が五人ねころがっている。雪田の向うは雪が残る岩山……僕等は、何度「ああ、いいなあ!」と叫んだことだろう。この本の写真は、みんなきれいで、みんな小さく、「見てくれ」のおどかしが一向に無い。  およそ溌剌、颯爽たる女性スキーヤァを見たかったら、ドイツの雑誌 DER WINTER を買いたまえ。この頃は少々地味になって来たが、三、四年前までは、素晴らしい色刷りの表紙で、素晴らしいシーロイフェリンが、素晴らしいポーズをしていた。こんな人達と一緒にスキーに行ったら、Stemm! Stemm! とソプラノ……むしろアルトかな……でいうのが、Je t'aime, je t'aime! と聞えそうで――この辺でやめておこう。四十を越しての被恋妄想など、おかしくも何ともないから。 「シュテム!」と「ジュテム!」なんざ、中々芸がこまかいだろう。残念ながら、僕の思いつきではなく、フランスの雑誌に出ていたと教えてくれた人があったのだ。その話を応用して書くと、どこかでそれを発見し、「原稿料を半分頂戴」といって来たには恐れ入る。今度は印税を半分と来るだろう。油断もすきもならぬ世の中だ。 山へ 一  私は丸善へ行くと、たいていの場合、先ず第一に伝記のところを見、次にエッセイの部を眺め、新刊書の棚の両側に目を走らせ、それが済むとお隣のスポーツの部を瞥見する。先日、といっても二月前だが、この順序で最後のスポーツへ到達したら、時しも頃は若人の心が高きに向う晩春なので、山の本が沢山来ていた。私はその中の一冊、To the Mountains つまり『山へ』というのに特に目をつけ、取り上げて頁をパラパラ拾い読みすると、マルセーユのライセンスド・クオータアのことや、貨物船のことばかりが目についた。妙な本だと思って買って帰ったが、事実これは妙な本で、而も面白い本である。 二  特にこの表題に注意を引かれたのには、大きな原因がある。去年私は主として山に関する雑文を集め、『山へ入る日』という題をつけた小さい本にした。この表題に相似ている。私のこの本の名については、あるスマートな現代的青年が、「これは足下が山へ入るその日のことを意味するや、又は西へ沈む太陽を意味するや」と質問した。それは本を読めば判ることだから買って読み給え……と、私は答えたが、青年は単に会話を社交のために使用したものと見え、その後、本は買っていないらしい。  閑話休題、『山へ』の著者はアンソニー・バートラム、小説家で芸術批評家、『ソード・フォールス』『ペーター・パウル・ルーベンス伝』等の著述あり……と書いて来ると、如何にも調べ上げたようだが、これは同書のジャケットに書いてあることで、これだから本の上被い紙はやたらに棄てるわけに行かぬ。事実世間でいわゆる「物知り」なるものは、雑誌の広告や、新聞の切抜きや、あるいは往来でくばるビラみたいな物を沢山集め、他人が忘れたか、又は全然看過している種類のインフォーメーションを、豊富に持ち合している人間であるらしい。 三 『山へ』の山はツーグスピッツェである。著者はジェレミーと呼ぶ友人と一緒にこの山に登るのであるが、途中いたる所で何かにひっかかっては、以前の経験を思い出し、横路へ入り込んで了う。トリストラム・シャンデー、ちょっとあんな調子だが、もちろんあんなに七面倒ではない。以前の経験というのが、いずれも旅のそれで、しかもカフェーやビヤ・ガルデンの話が多い。山の本としてはこれだけでもいい加減変っていて、いわゆる「厳格な、教義と実行とを持つ」登山者並に山岳文学者は、寛大な微苦笑を以て、「他愛ない」という前に、先ず憤慨しそうであるが、読物としては確かに面白く、殊に著者が旅行しながらこの本を書いていることが意識的に明瞭に出してある点、甚だ愉快である。 四  文壇の現状では、あんな物は許されまいが、昔ある文士が十何枚かの原稿を依頼され、机に向いはしたものの何も書くことが無い。締切は迫っているし、これを書かねば米櫃は空のままでいなくてはならぬ。何とかしなくてはならぬと困っていると、遠くで工場の汽笛が鳴ったり、天井で鼠が騒いだり、そんなことを、べんべんだらだら書いて雑誌に発表したのを読んだ覚えがある。あれ、或いは写生文とでもいう性質のものだったかも知れぬが、今度の『山へ』にも、追々と本が出来て行く過程が書きしるしてある。 五  二百七十頁ばかりの本で、その百五十六頁に来て、初めて「山へ」という題がきまる。場所は目的の山、ツーグスピッツェを一目に見るパルテンキルヘン。内容的にいえば、第五章「葡萄酒と食物とについて」の第十三節。著者は原稿を書いている内に、かつてロンドンのコヴェント・ガーデンで食った朝飯のことを読者に知らせたくなる。ジェレミーの言葉で第十二節は終っている―― 「そうかい、そんなら君のその下らぬ話を、何でも構わないから読者に話して了えよ。それが済んだら寝ることにしよう。」  第十三節 コヴェント・ガーデンの朝飯 「考えて見ると話すだけの価値は無さそうだが、要するに、ある時コヴェント・ガーデンで朝飯を食っていたらね、僕の真向いに、まるで無言劇の野蛮人が使用する藁の腰巻みたいな、だらりと下った髭を生やした男がいてね、茶托からコーヒーを飲んでいるんだ。見ると髭が何本か、心配のある触手みたいにコーヒーの表面を漂っている。と突然この男が――おめえの飲んでるなあ、そりゃ茶じゃねえかい? といった。僕はその通りだと白状した。すると――コーヒーの方がどんなにいいか判らねえ。飲んでみな……っていって、茶托を僕の唇にさし出した。かなたの岸には依然髭が漂流している。だが君、僕あそこのコーヒー飲んだよ。飲まないわけに行かないじゃないか。いや、まったく、恐ろしいことだった。」 「で、話というのはそれだけかい?」 「ああ、これだけだよ」 「そうかい」と彼は立ち上りながらいった。「僕あ寝るよ、あした僕等は山へ行くんだからね。」 「そうだ、それが……」と私は勝ち誇っていった。「僕のタイトルになるんだ。」 「何がさ?」 「山へ。」 六  この本は著者とジェレミーとがツーグスピッツェの登山を終えて、ホッホ・アルム・ヒュッテという山小舎へ帰って来たところから始まり、前に書いたような経過で、再びこの山小舎へ下りて来たところで終っている。小舎には「小父さん」と呼ばれる太った老人や、学校の先生や、若い娘や、案内者のイシドルやがいて、二人の英国人を愛想よく迎え入れ、盛に麦酒をのんではドイツ式の歌を唄っていると、案内者が一人入って来て、何か話す。すると――  奇妙な沈黙が起った。不安な気分である。微笑は消え去り、真面目な調子の会話が行われた。そこで小父さんが我々のところへやって来た。彼さえも真面目な顔つきをしていたが、これは何故か悲哀的なものだった。 「登山家が四人ツーグスピッツェで行方不明になったのです」と彼はいった。「案内者は捜索に行かねばなりません。昨日の晩方以来行方不明なのです。」 「どこで?」私は真顔で訊ねた。 「ヘレンタールへの路でです。氷河の上で路に迷ったに違いないということです。霧が起って来ましたからな。」 「そうですね。知っています」と私はいった。  ジェレミーと私とは顔を見合せた。 七  二人が危険な氷河を外れると殆ど同時に、霧がまいて来たのだった。だから二人は思わず顔を見合せたのである。ツーグスピッツェは頂上に大きなホテルがあり、またケーブルカー(もっともこれはエリアル・ケーブル)で容易に頂上に達することが出来るが、而も危険な山で、毎年相当な人数が遭難する。 八  山の麓のパルテンキルヘン―― 「バヴァリアとビヤ」と私は考えながらいった。「これ以上美しい言葉の組合せを見つけることは困難だろう。バヴァリア――山岳――刺繍したシャツ――波をうつ羽根――太った、陽気な娘たち――ゲミュートリッヒカイト――。ビヤ――ああそうだよ。」  私はグーッと麦酒を飲んで、絶対的幸福を感じた。人間が絶対的幸福を感じることは極めて稀だと思う。人間は時々幸福を感じなければならぬのだと考え、そしてどうやらこうやら幸福だということにして了うが、全人間か否抵抗的に完全に、素晴らしく光り輝く幸福に照り映えるように思われることが、如何に稀であるか。私は山から離れていては、殆どこんな経験は持たぬ。山以外では、これほど豊富な感情がコンセントレートすることは出来ない。山では完全な肉体的健全、つまり我々の骨と血と肉との力と驚異の意識があり、我々を昂然たらしめる所の継続的努力があり、激流やそそり立つ峰々が構成する荘厳との親交があり、足がかりの正確な形や構造、我々がすがりつく草の一群の正確な性質、岩と氷とガレとの正確な触感……それらを鋭敏に理解する点に、自然との親交があり、また誇るべき孤独(中略)山巓と、暑い太陽と、冷たい風との狂喜、空気の天蓋を支持する冷静な峰々の驚異がある。  だが、こんなことをいっていても役に立たぬ……  ある男が、あるドイツの娘について苦情をいった事がある。山巓に着くと彼女は、「ああこれは美しい、これは驚くべき景色だ。私はソーセージを喰わねばならぬ」と叫んだというのだ。  だが、如何にも彼女は正しい。立ち上ってツベコベやるのは、索条鉄道で登って来た者達だけだ。本当に登攀し、本当に勝った者は、まったく腰を下してソーセージを食う…… 九  山に近くいて感じる本当の幸福。バヴァリアとビヤ。数年前の私自身を思い出す。五月、私はたった一人でパルテンキルヘンを訪れた。朝十時頃着いて宿屋に荷を下すなり、窓の真向いに聳えるツーグスピッツェからドライ・トア・スピッツェ迄の山容に、私は狂喜して写真をやたらにうつした。午後は足ならしに、重い靴をはいて四里の路を歩いた。晩には色の濃い、味の濃い麦酒を何本かあけた。このベルリン出来の靴のおかげで右足の腱を痛め、ツーグスピッツェにはとうとう登れなかったが、それは後の話で、要するに最初の一夜を熟睡したその翌朝である、私は山腹の牧場へ行く羊のベルで目を覚ました。  何百か何千か分らぬ程の鈴の音がする。カラン、カランと朗らかなテナアに交って、チリン、チリンと甲高い、然し澄んだソプラノが聞える。時々犬が狂喜したように吠えて、性急にカラカラチリチリと乱れる他、ある一定のリズムを持って際限なく聞えて来る。しばらくは夢心地であったが、やがて明け放した窓から冷たい朝風に送られて、桜の花の香が忍び込んでいるのに気がつく。そこで目を開くと、身体を起す迄もない、ツーグスピッツェが聳え立つ。私は生きていることを感謝した。  当時の旅行記に、私はこう書いた。否抵抗的な、完全な、素晴らしい幸福でなくて、これが何だろう。(「山・都会・スキー」) 雪線の下にて  ダグラス・フレッシフィールドの『雪線の下にて』―― Below the Snow Line: Douglas W. Freshfield ――名前は前から聞いていたが、実物は今日初めて手に入れた。別の用で丸善へ行ったらあったのである。コンステブル発行で、コンステブル式に高価だが、それでも私の貧弱な「山の図書」が一冊増したと思えばうれしい。  うれしいといえば、この本の序文には、うれしいことが書いてある。前半を訳して見る。  ――生涯を通じて私は山については、私のより厳格な教義と実行とを持つ登攀の友人達が「人の顧みぬ詰らぬことを拾い上げる」と称する者であった。私は雪線の上で登攀したり、エッチラオッチラ歩いたりしたのと同じぐらい屡々、雪線の下をぶらぶらした。私は体操術の範囲を含まぬ容易な登山に興味を見出した。私は時としてアイスアックスの代りにアンブレラを持って山へ行ったことさえあるのを自白する。一言でいえば私は登攀者であると同程度に旅人だったのである。  ところで、人はしょっ中最高の伴侶ばかりと一緒にいる訳には行かぬ。岩と雪とだけしか無いことが、単調に思われる時もある。人はヒマラヤやロッキースへ、ちょいちょい手軽に出かけることは出来ぬ。又、いつになったら霜の気に満ちたコーカサスの山々に再遊することが出来るであろうか。我々の親しきアルプスでも、如何な季節に於ても登るという訳には行かぬ。我々がヤンガー・ジェネレーションの為に、アルプスの冬季の魅力と富源とを発見して教えたことは事実だが、復活祭の休暇に於けるアルプスは僅かなアトラクションと多くの危険とを持っている。より低い場所は雪のマンテルを失って、而もまだ緑色ではなく、褐色の芝土の背地の上に、よごれた白色の筋と綴布とを見せるだけである。より高い雪の間では雪崩が重々しく落ち、そこ迄行く人は突然な、そして不面目な埋葬(a sudden and inglotious entombment)の危険を冒して行くのである。この季節にアルプスとピレネーとの両方を試みた私は、経験無しで以上を語るのではない。―― 『雪線の下にて』は一九二二年出版の本である。今さら新刊紹介ということも出来ないし、翻訳することは時間が許さぬ。つまり、ここに訳出した序文の上半部が説明しているような態度で書かれた本で、「日本の僻路」なる一章もあり、我々にも興味は深い。  この序文に「アイスアックスの代りにアムブレラを持って山へ行った」とある一事は私に二つの事実を思わせる。その一つはジェームス・ブライス卿がアムブレラを持ってアララットへ登ったこと――もっとも途中でアイスアックスに代えた――で、これはもう既に詳しく書いたから、ここでは書かぬ。その二は、百瀬孝男君と私とが番傘を持って槍ヶ岳へ行ったことである。  孝男君は慎太郎さんの弟で、山を歩くことにかけては、昔の慎太郎さんに髣髴たるものがある。といったところで、昔の慎太郎さんも今の孝男君も知らぬ人には見当もつくまいが、簡単にいえば実によく歩き、よく頑張り、そして夜になると木の根草の根石の上、何でもかまわず癪にさわる程よく睡る人なのである。去年の夏、ある用事を帯びて、二人で上高地から槍の肩まで行ったことがある。実はもっと遠く迄行ったのだが、それは書く必要がない。ところが上高地を出かける朝、どうも天気模様が面白くない。今にも降って来そうに思われた。そこで、靴もはき、ルックサックも背負って了って、さて五千尺の玄関で丸山さんに、 「丸山さん、番傘を一本かして下さいませんか」と申し出た。  丸山さんは二人が清水屋へでも行くものと思ったらしい。用があるなら使いをやりますといわれた。いいえ、山へ持って行くのです、というと、いささか呆れたらしいが、それでも大きな番傘を一本かして下さった。  孝男さんと私とはその二、三日前、島々から徳本峠を越して上高地まで五時間あまりでかけつけた元気を以て――これはウソみたいな話だが本当である。二人ともかなり重いルックサックを背負っていた――雨傘を振り振り五千尺を出発した。牧場をぬけ、一ノ俣で弁当を喰い、さて槍沢の小舎を過ぎると沛然たる大雨である。有名なる私の「晴天防水」――雨が降ると役に立たなくなるレインコート――なんぞは何にもならぬ。二人は早速傘をひろげ、アイスアックスを結びつけ急造の屋根をつくった。アックスを地面に立て、石をひっくりかえして乾いた方を出し、それに坐って雨にけむる四方の景色を眺めながら扱ったパイプの味は、いまだに忘れられぬ。  この雨は、やがて小降りになったが、晩まで続いた。二人は相々傘で雪のまるで無い槍沢を登った。片袖濡れたる筈が無いとか何とか、鼻歌で槍を登るのは、すこ敬虔を欠いたやり方だったかも知れぬが、濡れずに済んで大助かりだった。大槍の小舎なんぞで入口をがらりと明け、今日は! とすぼめた傘の滴を切る気持は、ちょっと面白かった。  殺生小舎の下は急である。二人はいつか離れて了った。私は杖にすがって登ったが、孝男君は相変らず傘をさし、医科大学へ通学する靴をはいて、いやな石ころの上を「長いまつ毛がホオーッソリと」と、いやにセンチメンタルな歌を歌いながら元気で歩いて行った。  我々が番傘をさして槍ヶ岳へ行ったことを以て山を冒涜するものと做す登山家――「より厳格な教義と実行を持つ人々」――もあるかも知れぬ。実は孝男君と私も、そんな気がしないでもなかった。気持の問題ばかりではなく、密林中や尾根は、とても傘なんぞさして歩けはしない。だが、上高地から槍沢を通って槍へ行く途中には、ウソみたいに良い路が多く、かつその日は風が余り強くなかったので、こんな真似も出来たのである。とにかくユニークな経験ではあった。 ノアの山  ここに述べる迄もないが手近に聖書があるから書きぬいて見よう――  亦淵の源と天の戸閉塞りて天よりの雨止ぬ。是に於て水次第に地より退き百五十日を経てのち水減り、方舟は七月に至り其月の十七日にアララテの山に止りぬ。  ――すなわち「人の悪の地に大なると其心の思念の都て図維る所の恒に惟悪しきのみなるを見たまへ」るエホバが、地上の生物すべてを洪水で亡そうとしたが、ノアの家族だけは方舟にのせて救った話。その方舟がアララテの山、アララット山の山巓にひっかかったというのだから、私はつい近頃まで、アララットなる山は上野の山か愛宕山――どちらも東京の――くらいな岡だとばかり思っていた。ところが、ふとしたことで小アジアの地図を見ると、中々どうして、アララットは富士山なんぞよりずっと高い。欧州第一の高嶺、モン・ブランよりも高い。大変な山である。これに興味を感じて、あれやこれや、本をひっくり返して集めた知識を、ささやかながらここに書いて見ようと思う。ノアの洪水の話、方舟がアララットに坐礁した話を知っている人は世に多いが、そのアララットの正確な所在地や高さを知っている人は余り多くはあるまいと思うから。  アララットはアルメニヤとトルコとペルシャとの三国が合する地点に聳えている。どんな風に聳えているか、私は見たことがないから困るが、何でもあの辺は一帯プラトーで、その最高地点が、アララットの大塊になっているらしい。この大塊は大体に於て孤立しているのだが、北西に当って六千九百呎ばかりの col があり、それが火山性の山々の長い尾根につながっているのだそうである。  この col という語は、よく山の話に出て来る。峠を意味するフランス語だが、鞍部とでもいった方が判りが早いであろう。つまり二つの高い峰をつなぐ尾根の最低部を指すのである。  ところで、このマシーフから峯が二つ立ち上っている、その高い方が大アララットで、高さ一万七千呎*――「大きな、肩幅の広い塊で、円錐と呼ぶよりも寧ろ円屋根と言いたい」と記述されている。低い方、即ち小アララットは一万二干八百四十呎、これは前者に比較すると形もよく、険しい面を持つ峰であるという。  アララットの雪線は極めて高く、一万四千呎。降雨量がすくないのと、麓なるアラレックスの平原から乾燥した空気が吹き上げるからである。  山それ自体の説明はこの位にしておいて、アララットに関する伝説と登山の歴史とを簡単に紹介しよう。  アララットの伝説は、ノアの方舟に関するもの以外に何もない。然るに、幸か不幸か、私は基督教信者では無く、殊に聖書の歴史に関しては全然無知であるから、変てこな本を拾い読みしては間違ったことを書く恐れがある。むしろ別所梅之助先生の「運命以外の一路」の一節を拝借した方がよいらしい。別所先生はこの著述中「背景としての山」なるチャプタアに於て、次のように言われている――  スメリアの文明は、ユーフラテス、チグリス両河の流域に起れるもの乍ら、神々の怒りに洪水来りて、全地の人溺れ死せるをり、「人種の保存せる者」といふ英雄の、一家と共に難を船に避けて、遂に山に住んだといふ伝へがある。このつたへがバビロニヤのギルガメシの詩の中に収められて「生を見いでたる者」といふ英雄が、人皆の大水に土と化せるをり、御座船やうの大船をニシルといふ山につないで、生を得たとなり、それが更に旧約書中に入つては、方舟をアララットの山によせたノアの物語となつてをる。  如何にもそうであろう。大洪水がどんなに大規模であろうと、一万七干尺の山をかくす程の水が出たとは思われぬ。だが、それにしても、黒海とカスピアン・シイとのほぼ中間に、アラクセスの平原を北に、メソポタミヤの平原を南にしてよこたわるこの一大プラトー中、最も高く、最も荘厳な山を仰ぐ人々が、ここから我等人類の祖先が下って来たと思ったのは、無理のない話である。伝説はアララットの附近に、大洪水に関係のある多くの場所を持ち来した。エデンの園はアラクセスの谷に、ノアの妻の墳墓はマーランドに、という風にされている。またアーフユリにはノアが最初に植えた葡萄の木なるものがあった。これは一八四〇年に地震があり、山の上から落ちて来た岩と氷と雪とが、アーフユリの村も、そこにあったセント・ジェームスの僧院も、また葡萄畑も押しつぶして了うまでは、見ることが出来たという。創世記の第九章には「爰にノア農夫となりて葡萄園を植ることを始めしが、葡萄酒を飲て酔ひ天幕の中にありて裸になれり」ということが記してある。素裸になって眠って了い、忰のハムに醜体を見られるのである。やがて「ノア酒さめて其若き子の已に為したる事を知れり。是に於て彼言ひけるはカナン詛はれよ、彼は僕等の僕となりて其兄弟に事へん」と言っている。ハムはカナンの父であるが、ハムの父ノアは、自分が酔っぱらって醜体を演じながら、「カナン詛はれよ」もないもんだと言うような気がする。  それはどうでもいいとして、とにかくアララットはこんな山であるから、アルメニアの僧侶達は長い間、この山の「秘密の頂」には神聖な遺物があり、人間は登ってはならぬものと、信じていた。山の上に何か神聖な、恐るべき物があって、登ってはならぬという迷信は、大分方方にあったらしい。マッタアホーンの如きもそうである。麓の住人たちは、マッタアホーンの頂上には荒廃した都会があり、悪魔が住んでいるものと思っていた。地質構造上、この山は時時大きな岩片を落すが、それは悪魔の仕業だと信じていた。  最初にアララットの頂を極めたのはパロット教授の率いた一隊である。彼は一七九二年に生れて一八四〇年に死んだドイツ人で、当時ロシヤの政府に雇われていた。このパロットが一八二九年の九月二十七日「永遠の氷が形づくる円屋根」に立ったのである。第一夜を山腹の僧院で送って、翌朝、山の東面を登り、一万二千尺の地点まで行った時、険しい氷の斜面に出喰わして引返した。それで今度は北西の方からとっついて見た。第一日に雪線まで達し、翌朝は一同、昼までには山嶺に達するつもりで、大元気で出かけたが、又しても急な傾斜面にぶつかって、立往生して了った。この時は一万四千四百十呎の点まで達したと言われる。  パロットは第三回の登山を計画した。今度は人員も増し、道具類も前より多く準備した。それ迄の経験によって、氷雪の斜面は斧でステップを切って登り、それに天気もよかったので、絶頂を極めることが出来た。この時パロットが観察したところによって、アララットは火山であったこと、恐らくアジア大陸で一番古い山であること、ノアの遺物は何も無いこと等が判った。  これが一八二九年の話で、引き続き一八三四、四三、四五、五〇、五六、六八、七六、という年に登山が行われた。場所がらロシヤ人が一番多く登っているが、中にも一八五〇年にコーディケ、カニコヴ、モリッツ等が、ロシヤにつかえるコザックの一隊を引率して登山したことと、一八七六年に有名なジェームス・ブライスが、たった一人でブラブラ登山したことは、色色な点で人の注意を引いている。前者は非常な困難をしながらも――あと九百歩で絶頂という所で三日二晩を天幕で送ったりした――ついに大きな十字架と重い測量機械等を山嶺まで運び上げた。コーディケは彼の報告書の最後に「アララット登山がこれほど困難であることから考えると、どうもノアの方舟がこの山の絶頂に流れついたという説は本当らしくない。何故かというに、かかる急な、険しい雪の斜面を下るということは獣類の多数にとっては致命的であったに違いないからである」と書いている。御承知の通り、ノアは彼の妻、子、子の妻と共に方舟に入ったばかりでなく、鳥獣昆虫その他すべての「生物、総て肉なる者を」一番ずつ連れ込んだ。そしていよいよ洪水がひくと、これらのすべてを率いて方舟から出、そして山を下ったことになっている。  これらの登山家が遭遇した困難に対して、ブライス卿――有名な歴史家、外交官なるジェームス・ブライスに関しては何も書く必要があるまい――のアララット登山は、あっけ無い程、呑気なものである。先ず武装したロシヤ兵士六人、案内者二人、通弁一人と、都合九人を引きつれて麓を歩いて行くと、恐ろしく暑い。そこで洋傘をさした。一万七千呎の山に登ろうという人が、洋傘をさすというのだから面白い。その日は八千八百呎ばかりのところで野営。翌日は何でも早く出発するに限るというので、夜中に起きて一時には登り始めた。傾斜はかなり急だったが別に大したこともなく、間もなく一万三千呎の点まで来た時、困ったことが起った。それは兵隊や案内や通弁共が、それぞれ異なる人種に属するのでお互に意思の疎通を欠き、仲間喧嘩を始めたのである。  この地方における人種、従って言語が複雑していることについては、ハロルド・レーバン氏も『マウンテンクラフト』――一九二〇年出版――に書いている。バベルの塔はこの附近にあったそうだが、今でもバクの市ではすくなくとも百種の異なる言語と方言とが使用されていると。  ブライス卿は、手のつけようが無いから、黙って仲間喧嘩を見ていたが、その中にどうやら話がまとまったらしいと思うと、もうこれよりは一足も上に登らないということである。そこで彼は「そんなら俺一人で行く」とばかり、アイスアックスを提げてスタスタ登り出した。外套も持たねば毛布もかつがず、あたり前のトゥイードの服を着た丈であったという。この調子で、寒くなれば上衣にボタンをかけ、霧の中を磁石を頼りに登って行くと、やがて岩の斜面に出た。恐ろしく寒い上に、霧がひどくて見当がつかぬ。迷いでもしたらそれっ切りだから、とにかくこれから一時間登って見て、どこ迄行くか判らぬがどこからでも引き返そうと思っていると、突然岩が無くなって平坦な雪田に出た。そこで、帰途に迷わぬよう、アイスアックスを引きずって、雪に跡をつけながら進んで行く内に、どうやら下り加減になった。こいつは変だな、と思っていると、この時パッと霧が晴れた。見るとアララット山の絶頂に立っていたという。  ブライス卿はこの旅行に関して Transcaucasia and Ararat なる著述をしている。雪線近く大きな丸太を見つけ、これこそノアの方舟の破片だろうと笑ったことなど、有名な話である。  最後にこの山、普通にアララットと呼ばれるがこれはもちろん聖書から来た名で、アルメニア、トルコ、ペルシャにそれぞれ異なる名を持っている。中にもトルコの Fgri Dagh は「苦しみ多き山」を意味し、ペルシャの Koh-i-Nuh は「ノアの山」を意味するという。「ノアの山」! いつか一度は登って見たい山である。 * 前に書いたコリンスは一万七千二百六十呎という数字を出しているが大英百科辞典によると一万七千呎。エンサイクロペディア・アメリカナも同様一万七千呎。ニュー・インターナショナル・エンサイクロペディアは「一万六千九百十二呎。但し別の測量によれば一万七千二百十二呎と書いている。更にマイエルのレキシコンによれば、大アララットが五一六五米で、小アララットが四〇三〇米。ラルースだと大が五二一一米で小が三九六〇米となっている。 アルプスの思い出 ―― ON HIGH HILLS: Geoffrey W. Young  これはサブタイトルの「アルプスの思い出」でもわかる通り、著者ヤング氏の思い出の記である。高い丘というと低い山々のことみたいだが、出て来るのはモン・ブランといいワイスホーンといい、いずれもアルプス第一流の高山である。それをわざわざ「高い丘」といったのは著者の謙遜であろうか。それとも静かな炉辺でパイプをくわえながら思い出にふける時には、一万五千フィートを越える山々も高い丘のように思われるであろうか。如何に困難な嶮峻な山でも、一度その気まぐれな情緒を呑み込んでしまうと、高い丘として思い出に浮ぶものである。恐らくヤング氏――英国が生んだ偉大なる登山家の一人、また文筆の才にかけては比類すくない人――は、謙譲の念からばかりでなく、この親しみやすい表題を選んだものであろう。  この本は、単なる記録の連続ではない。自然の最も崇高なる産物「山」に登り、或はそのふところに抱かれる「人」が、山の容貌なり情調なりの変化に如何に反応するかを書いた本である。ヤング氏は「自分はこれを書く時、山及び山に登る理由に興味を持つ人々を念頭に置いた」といっているが、「我々が山に登る理由」を知りたい人にとっては登山路の説明や岩登りのテクニックは、それが如何に詳細を極めていようとて何にもならぬ。この点で我々はこの本が限られた登山家だけに読まれず、ひろく一般に、いわゆる「よき本」として愛読せらるべきだと信ずる。 「登山の一日を通じて経験の線はただ一本だが、それは我々が行いつつあること、我々が見つつあるもの、我々が感じつつあるもの、この三つのストランド(線)が撚り合って出来たものである。」序文に、このようなことが書いてある。この三つを同時に書き現すことは出来ないが、然しいずれも欠いてはならぬ。これでこの著に対するヤング氏の態度は不充分ながら了解出来ようと思う。「三つのストランドが撚り合って」……を読む人は、英国人が世界に誇る岩登り用のロープが、事実三本のストランドをより合わせてつくったものであることを思い出し、心地よく微笑する。  本文三百六十余頁、巻頭の「丘と男の子」から巻末の「最後のアルプス登山」に至るまでの十六の異なった章を含む。挿絵は二十四枚、口絵は「暁」と呼び、アルプスの雲海の写真、最後のは「日暮の雲」と呼び、暮れかかるマッターホーンのピークに吹きつける雲の写真、その他いずれも山を知る者にはなつかしい思い出の急激な苦痛を、山を知らぬ者には憧憬の念を起させるほど美しいものである。  この本で特に私が好きなのは、ヤング氏が描き出した山の案内者達の身体と心との肖像である。例えば「ヒョロヒョロして思いがけぬ所に妙な角度が見える身体つき」をしていながら「ひとたび岩に触れ氷を踏む」となると、「こんな調子の悪さがすべてなだらかな力のカーヴに変る」オーバーランドの山案内クレメンツ・ルッペン。それからヨセフ・クヌーベル――誰でもかれを好きにならざるを得ない――その他の簡単な、しかも要所をつかんだ写生。「我々が山に登る理由」の一つに、かかる案内者兼好伴侶があることを誰が否定しよう。 「我等に先立ちたる、我等と共にある、我等の後に来るべき、すべての登山者に」この本はデディケートしてある。が、その最後の条件にある登山家に向っても、ヤング氏は「我々がこうしたようにせよ」とも「我々がこうしたことをするな」ともいっていない。かれはただ Go ahead and do something というのである。それだけで充分である。 あとがき         *  ここに集めた随筆の一つでも書いたように、私は大正のはじめの頃いわゆる日本アルプスへ行き、それから夢中になって山を歩いたが、間もなく米国へ行ったため、しばらく山から遠ざかった。然し帰国してからは、又しばしば山――といっても、山麓もこめて――を訪れた。大町の百瀬慎太郎君との友情が、私をひきつけたようなものである。同君の話は、何度もこの本に現れる。         *  さてエヴェレスト、アンナプルナ等の高山が次々に征服され、わが国からもヒマラヤに登山隊が出ている今日、私の登山というのはまことに他愛がなく、頼りなく、いわば滑稽千万である。それにどういう訳か、私の山に対する態度は、いわば厚顔無恥にセンティメンタルである。「山のアクシデント」などといっているが、アンナプルナのフランス隊や、K2の国際登山隊が遭遇したアクシデントを考えると、それこそ「バッカじゃなかろうか」である。今は山についてばかりでなく、一般について、こんなにセンティメンタルではなくなった。敗けた戦争や、その戦争末期の比島のジャングルの中での生存――生活とはいえない――が、私をタフにしたのだろうか。それとも大正の終りから昭衵のはじめにかけての、いわゆる「善き古き日々」が、われわれ日本人を全体に甘い人間にしたのだろうか。         * 「ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子――」  この男の子は大阪郊外の牧落という所で生れた。これを書いた翌年、私は東京に勤任になり、仙台の高等学校でちょっとやったスキーを、再び、今度は本式に、やり始めた。一度東京で大雪が降り、玄関から門までスキーを走らせたことがある。この時は子供が三人になっていて、上の二人は家の中で物差しや鰯の味醂干にのって畳の上を歩き、まだ歩けない赤ん坊は、女中さんにおぶさったまま、「アーバカバカ」と興奮して連呼した。それがこの本にカットを描いた貞二である。貞二は結婚しているが、上の二人ももちろん結婚し、女の子には子供が二人いる。今後まさか子供たちを、ライフ・ラインにしようとは思わないが、とにかく皆大きくなり、「妻」はいまだに小学校の先生になる資格を欠いていても、私が死んでも子供たちが何とかするだろう。存外こんなことが原因して、私の感傷癖は、どこかへ行って了ったのかも知れない。         *  忘れない内に書いておきたいのは、カバーのことである。お分りだろうと思うが、これは梅鉢草であって、その花は純高山植物ではない。割合低い場所に群って咲く。亜高山植物とでもいうべきだろう。それにしても、この本に出て来る松虫草でも、いわば私の山――中山、低山――の花であって、氷雪や岩の山には縁が遠い。エーデルワイスなどは、おこがましくてとても出せない本だから、梅鉢草にした。         *  日本アルプス登山は、この本の中の一つの文章でも書いた通り、満洲事変の年の秋のが最後になった。その後秋が深い頃、大町へ行って山麓を歩き、晩方慎太郎さんと一杯やっていると、又しても東京から電話で、ロンドン支局長として二週間以内に出発すべし、という新聞社の命令を伝えて来た。  一番最後に登った山は富士山である。京大の人たちがデマヴェンドへ行く計画を立て、いろいろな実験をやるので、私もついて行った。御殿場から二つ塚まで行き、そこをベイス・キャンプにして、十日間近く、呑気な生活をした。四月で、往きには馬返しから雪があったが、復りには雪はなく、その代り木々の芽が一時に出て、実にきれいだった。  いよいよ戦争が始まると、比島へ派遣され、負け戦となるとルソン島を、北へ北へと逃げた。山岳州という山ばかりのプロヴィンスを、昼間は飛行機がこわいので夜歩いたが、やはり昔山を歩いていたせいか、存外つかれず、それよりも自分で飯をたいたり、竹やぶの中でねたりすることが、楽しくはなかったがちっとも苦にならなかった。これは昔風の登山、つまり匐松の枝を結び、その上にゴザと油紙をかけて寝たり、川の水をくんで自分で食事を準備したりした経験が、口を利いたのだろうと思う。「これは乞食の生活だ」という人もいたが、私はちっとも乞食になったような気がしなかった。  それから、いよいよバギオを出て、これから放浪の旅が始まるという時、私は自分でシュラーフ・ザックを縫った。顔だけの蚊帳もつくった。それかあらぬか、あとで新聞通信報道関係の人、三十数名と一緒にジャングルの中にかくれた時にも、私だけはデングにもマラリアにもかからなかった。若い時の山登りが、こんなことの役に立ったわけである。         *  さて戦争が済んで捕虜になって送還され、一年近く単身、横須賀の山の中で自炊生活をした。子供の時登って驚いた山――といっても低いものだが――を歩いたりしている内に、大町からしきりに来ないか、といって来たが、何しろあの交通事情だし、その後も忙しくて東京を離れることが出来ずにいる内に、慎太郎さんが死んだ。丁度大阪へ出張する用事があったので、中央線廻りとし、夜行で新宿を立つと、朝の松本は曇天。それが大糸南線で大町へ近づくと、突然空がはれて、三月はじめの雪を頂く爺と鹿島槍が、全貌を現した。これこそ私が「鹿島槍の月」で書いて、その後何度も行った山なのである。然るにその日の午後、いよいよ埋葬となると、大変な雪になって、山は勿論かくれた上に、「友人二人、案内や人夫五人合計七人」でやった山の旅の、案内者の筆頭が、何と墓掘人夫――専門の――になって、水っぱなをすすり上げているので、実に情ない気がした。         *  去年の秋、私は松本へ講演に行った。入山辺の霞山荘からは、槍その他がよく見えるが、逆光線ではっきりせず、反対側の袴腰とか、王ヶ鼻とかいう山をスケッチした。本当によく晴れた午後で、あしたは早く起きて……とたのしみにしていたのに、そのあしたの朝は大変な雨だった。その雨の中を松本に出て、講演の始まる前に軽く昼飯といわれて寄った家が、松本第一の蕎麦屋ということだったが、何とこれが昔は大町にあったのである。         *  ところで山と私とは、将来如何なる関係を持つことになるだろう。慎太郎さんのいない大町が、従って北安曇の山々と山麓が、魅力をなくして了ったことは事実である。やたらに忙しくて、日曜も祭日も仕事をしていることも事実である。さりとて人間の能力には限度があり、今みたいに働いてばかりいては早晩へたばることだろう。するとやはりレクリエーションの意味で、ひまをつくってどこかへ出かけることになるだろうが、それもせいぜい日帰りの、まずは梅鉢草や松虫草の山だろう。         *  そんな予告はどうでもいい。私はこの本を読んで下さった方に感謝し、失望なさらなかったであろことを心から希望する。 昭和二十九年六月
底本:「可愛い山」白水社    1987(昭和62)年6月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「雪解」と「雪解け」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「可愛い山」中央公論社、1954(昭和29年)年7月15日発行の表記にそって、あらためました。 入力:富田晶子 校正:雪森 2016年2月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 岩と土とからなる非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、あるいは行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。  この山、その名を雨飾山といい、標高一九六三米。信州の北境、北小谷、中土の両村が越後の根知村に接するところに存在する。元より大して高い山ではないし、またいわゆる日本アルプスの主脈とは離れているので、知っている人はすくなかろう。あまり人の知らぬ山を持って来て喋々するのはすこしいやみだが、私としてはこの山が妙に好きなので、しかもその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。  たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝ちの、妙な神経衰弱的厭世観に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。  大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖あたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。  ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬を登っていた。如何にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れてしまったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気ていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。  一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻で雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっち岸の岩を三つ四つ、横っ飛びに、下流の方へ走った。手をのばして、流れて行く人の手だか足だかをつかまえた。  さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、そのために引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。  一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、蝋燭で岩に線を引いて見た。伝って来た雫が、ここまで来て蝋にぶつかり、その線に添うて横にそれるだろうとの案であった。しばらくはこれも成功したが、間もなく役に立たなくなる。我々は窮屈な思いをしながら、一日中むだ話をして暮した。  次の朝は綺麗に霽れた。雨に洗われた山の空気は、まことに清浄それ自身であった。Mさんはよろこんで、早速草鞋をはいた。しかし一日の雨ごもりで、すっかり気を腐らした私には、もう山に登る気が起らない。もちろん大町へ帰っても、東京へ帰っても仕方がないのだが、同様に、山に登っても仕方がないような気がする。  それに糧食も、一日分の籠城で、少し予定に狂いが来ているはずである。私は帰ると言い出した。慎太郎さんもすぐ賛成した。何でも、同じ白馬に十四度登っても仕方がないというような、大町を立つ前から判り切っていた理窟を申し述べたことを覚えている。かくて我々二人は一行に別れて下山の途についたのである。  私は、いささか恥しかった。というより、自分自身が腹立たしかった。前年、友人二人と約十日にわたる大登山をやり、大町に帰るなりまた慎太郎さんと林蔵と三人で爺から鹿島槍に出かけたのに比して、たった一年間に、何という弱りようをしたものだろうと思ったからである。だが、朝の山路はいい。殊に雨に洗われた闊葉樹林の路を下るのはいい。二人はいつの間にか元気になって、ストンストンと速足で歩いた。  この下山の途中である。ふと北の方を眺めた私は、桔梗色に澄んだ空に、ポッカリ浮ぶ優しい山に心を引かれた。何といういい山だろう。何という可愛らしい山だろう! 雨飾山という名は、その時慎太郎さんに教わった。慎太郎さんもあの山は大好きだといった。  この、未完成の白馬登山を最後として、私は長いこと山に登らなかった。間もなく私の外国生活が始まったからである。一度日本に帰った時には、今つとめている社に入ったばかりなので、夏休をとる訳にも行かなかった。翌年の二月には、再び太平洋を渡っていた。  だが雨飾山ばかりは、不思議に印象に残っていた。時々夢にも見た。秋の花を咲かせている高原に立って、遥か遠くを見ると、そこに美しい山が、ポカリと浮いている。空も桔梗色で、山も桔梗色である。空には横に永い雲がたなびいている。  まったく雨飾山は、ポカリと浮いたような山である。物凄いところもなければ、偉大なところもない。怪奇なところなぞはいささかもない。ただ優しく、桔梗色に、可愛らしい山である。  大正十二年の二月に帰って来て、その年の四月から、また私は日本の山と交渉を持つようになった。十三年には久しぶりで、大沢の水を飲み、針ノ木の雪を踏んだ。十四年の夏から秋へかけては、むやみに仕事が重なって大阪を離れることが出来なかった。だが、翌年はとうとう山に登った。  六月のはじめ、慎太郎さんと木崎湖へ遊びに行った。ビールを飲んで昼寝をして、さて帰ろうか、まだ帰っても早いし、という時、私はここまで来た序に、せめて神城村の方まで行って見ようと思いついた。一つには新聞社の用もあったのである。北アルプスの各登山口について、今年の山における新設備を聞く必要があった。そこで自動車をやとって出かけることにした。  木崎湖を離れてしばらく行くと、小さな坂がある。登り切ると、ヒョイと中綱湖が顔を出す。続いてスコットランドの湖水を思わせるような青木湖、その岸を走っている時、向うにつき出した半島の、黒く繁った上に、ポカリと浮んだ小さな山。「ああ、雨飾山が見える!」と慎太郎さんが叫んだ。「見える、見える!」と私も叫んだ。  左手はるかに白馬の山々が、恐ろしいほどの雪をかぶっている。だが私どもは、雪も何も持たぬ、小さな、如何にも雲か霞が凝って出来上ったような、雨飾山ばかりを見ていた。  青木湖を離れると佐野坂、左は白樺の林、右手は急に傾斜して小さな盆地をなしている。佐野坂は農具川と姫川との分水嶺である。この盆地に湛える水は、即ち日本海に流れ入るのであるが、とうてい流れているものとは見えぬぐらい静かである。  再び言う。雨飾山は可愛い山である。実際登ったら、あるいは藪がひどいか、水が無いかして、仕方のない山かも知れぬ。だが私は、一度登って見たいと思っている。信越の空が桔梗色に澄み渡る秋の日に、登って見たいと思っている。もし、案に相違していやな山だったら、下りて来るまでの話である。山には登って面白い山と、見て美しい山とがあるのだから……
底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店    2003(平成15)年11月14日第1刷発行    2007(平成19)年8月6日第5刷発行 底本の親本:「山へ入る日」中央公論社    1929(昭和4)年10月 入力:川山隆 校正:門田裕志 2009年6月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 一 先ず第一に現在の私がこの著述の訳者として適当なものであるかどうかを、私自身が疑っていることを申し上げます。時間が不規則になりやすい職業に従事しているので、この訳も朝夕僅かな暇を見ては、ちょいちょいやったのであり、殊に校正は多忙を極めている最中にやりました。もっと英語が出来、もっと翻訳が上手で、そして何よりも、もっと翻訳のみに費す時間を持つ人がいるに違いないと思うと、私は原著者と読者とに相済まぬような気がします。誤訳、誤植等、自分では気がつかなくても、定めし存在することでしょう。御叱正を乞います。  二 原著はマーガレット・ブルックス嬢へ、デディケートしてあります。まことに穏雅な、親切な、而もエフィシェントな老嬢で、老年のモース先生をこれ程よく理解していた人は、恐らく他に無かったでしょう。  三 Morse に最も近い仮名はモースであります。私自身はこの文中に於るが如く、モースといい、且つ書きますが、来朝当時はモールスとして知られており、今でもそう呼ぶ人がありますから、場合に応じて両方を使用しました。  四 人名、地名は出来るだけ調べましたが、どうしても判らぬ人名二、三には〔?〕としておきました。また当時の官職名は、別にさしつかえ無いと思うものは、当時の呼び名によらず、直訳しておきました。  五 翻訳中、( )は原著にある括弧、又はあまり長いセンテンスを判りやすくするためのもの。〔 〕は註釈用の括弧です。  六 揷絵は大体に於て原図より小さくなっています。従って実物大とか、二分の一とかしてあるのも、多少それより小さいことと御了解願い度いのです。  七 価格、ドル・セントは、日本に関する限り円・銭ですが、モース先生も断っておられますし、そのままドル・セントとしました。  八 下巻の巻尾にある索引、各頁の上の余白にある内容指示、上下両巻の巻頭にある色刷の口絵は省略しました。  九 先輩、友人に色々と教示を受けました。芳名は掲げませんが、厚く感謝しています。  一〇 原著は一九一七年十月、ホートン・ミフリンによって出版され、版権はモース先生自身のものになっています。先生御逝去後これは令嬢ラッセル・ロッブ夫人にうつりました。この翻訳はロッブ夫人の承諾を受けて行ったものです。私は先生自らが Kin-ichi Ishikawa With the affectionate regards of     Edw. S. Morse Salem  June 3. 1921 と書いて贈って下さった本で、この翻訳をしました。自分自身が適当な訳者であるや否やを疑いつつ、敢てこの仕事を御引き受けしたのには、実にこのような、モース先生に対する思慕の念が一つの理由になっているのであります。 昭和四年  夏 訳者
底本:「日本その日その日1〔全3巻〕」東洋文庫、平凡社    1970(昭和45)年9月15日初版第1刷発行    1972(昭和47)年4月15日初版第4刷発行 底本の親本:「日本その日/\(上)」科学知識普及会    1929(昭和4)年11月3日発行 初出:「日本その日/\(上)」科学知識普及会    1929(昭和4)年11月3日発行 入力:富田晶子 校正:雪森 2016年12月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 松本から信濃鉄道に乗って北へ向かうこと一時間六分、西に鹿島槍の連峰、東には東山の山々を持つ大町は安曇高原の中心として昔から静かに、ちんまりと栄えて来た町である。もちろん信州でも北方に位するので、雪は落葉松の葉がまだ黄金色に燃えているころからチラチラと降り始めるが、昨年(昭和二年)は概していうと雪の来ることがおそかった。が、来るべきものは来ずにはおかぬ。十二月二十三日の晩から本式に降り出して翌日も終日雪。その翌日、即ち二十五日の朝、信濃鉄道の電車は十一人の元気な若者たちを「信濃大町」の駅へ吐き出した。いずれもキリッとしたスキーの服装に、丈夫なスキーを携え、カンジキを打った氷斧を持って、大きな荷物はトボガンにのせ、雪を冒して旅館対山館に向かった。彼らの談笑の声はこたつにかじりついていた町の人々の耳を打った。ああ、早稲田の学生さんたちが来ただ! 町の人々はこういって、うれしく思うのであった。ここ三年間、毎年冬になると雪が降る、雪が降ると早稲田の学生さんたちが大沢の小屋へスキーの練習に入る。で、今年が四度目。雪に閉じ込められて、暗い、寂しい幾月かを送る町の人々にとっては、この青年たちが来ることが一種の興奮剤となり、かつ刺激となるのである。         *  対山館のあがりかまちに積まれた荷物の質と量とは、山に慣れた大町の人々をも驚かすほどであった。食糧、防寒具、薬品、修繕具その他……すべて過去における大沢小屋こもりと針ノ木付近の山岳のスキー登山とから来た尊い経験が、ともすれば危険を軽視しようとする年ごろの彼らをして、あらゆる点に綿密な注意を払わしめた。人間は自己の体力と知力とのみをたよりに、凶暴なる自然のエレメントと対抗しようとする時、その凖備についてのみでも、ある種の感激を持たずにはいられない。この感激が人を崇高にし、清白にする。この朝大町に着いた若い十一人は、かくの如き感激を胸に秘めた幸福な人々であったのである。         *  対山館の宿帳には左の如く記された。 近藤  正   二十四 渡辺 公平   二十一 河津 静重   二十一 山田 二郎   二十三 江口 新造   二十二 富田 英男   二十三 家村 貞治   二十三 上原 武夫   二十 有田祥太郎   二十一 関  七郎   二十三 山本 勘二   二十二  この宿帳に早大山岳部員の名前が十一人そろったのはこれが最後である。年がかわって、宿帳に書き込まれた名も激増したが、そのどのページをくっても、家村、上原、関、山本四氏の名は見あたらない!         *  荷物を置いて身軽になった一行は、八日丁の通りを東へ、東山の中腹にある大町公園へスキーの練習に出かけた。狭いけれども雪の質は申しぶんない。一同は心ゆくまですべるのであった。テレマーク、クリスチャニヤ、ジャムプ・ストップ……近藤リーダアは時おり注意を与えた。もっと右に体重をかけて! 腰はこういうふうに曲げるんだよ! 長い二本のスキーが、まるでからだの一部分みたいにいうことを聞いて、公園の処女雪には何百本のみごとなスプールが残された。         *  大町の盆地をへだてた向こうには籠川入りがふぶきの中で大きな口を黒くあけて待っていた。川に沿って岩茸岩まで二里半、畠山の小屋まで三里、大沢の小屋まで五里、そこから夏でも三、四時間はかかる針ノ木峠にさしかかって頂上をきわめると、右には針ノ木岳、左には蓮華岳……スキー登山のすばらしいレコードをつくった去年のことを考えて、心の踊るのを禁じ得なかった人もあろう。         *  その晩には信鉄沿線の有明村から案内者大和由松が来て一行に加わった。大和はスキーが出来るので、大沢の小屋で一同の用事をすることになっていたのである。         *  二十六日の朝九時ごろ、ガッチリと荷物を背負った一行は、例のトボガンをひっぱって、大町を立った。大和を入れた十二名に大町の案内者黒岩直吉ほか三人が加わり(この四人は畠山の小屋まで荷物を持って送って行ったのである)バラバラと降る雪の中を一列になって歩いて行った。見送る町の人々は彼らが一月十日ごろ、まっ黒になって帰って来る姿を想像しながらも、年越しの支度に心は落ち着かなかった。         *  十一人を送り出した大町は、またもとの静けさに帰った。霏々として降る雪の下で、人々は忙しく立ち働いた。二十七、二十八、二十九、三十日の夜はことに忙しく、対山館の人々が床についたのは三十一日の二時を過ぎていた。家内ではねずみも鳴かず、屋根では雪もすべらぬ四時過ぎ、雪まみれになった二つのフィギュアが対山館の前までたどり着いたのを知っている人はだれもなかった。         *  二人は叫んだ、二人は戸をたたいた。「百瀬さん、百瀬さん、起きて下さい」――何度叫んだことであろう、何度たたいたことであろう。夜明け前の、氷点下何度という風は、雪にまみれた二人を更に白くした。「百瀬さん、百瀬さん!」         *  ふとんの中で百瀬慎太郎氏は目をさました。深いねむりに落ちていたのであるが、声を聞くと同時に何事かハッと胸を打つものがあったという。とび起きて大戸のくぐりを引きあけると、まろび込んだのが大和由松、「どうした?」というまもなく近藤氏が入って来た。 「どうした?」「やられた!」         *  遭難当時の状況は早大山岳部が詳細にわたって発表した。要するに大沢小屋に滞在して蓮華、針ノ木、スバリ等の山々に登る予定であったが、雪が降り続くので登山の見込みがつかず、わずかに小屋の外で練習をするにとどまった。しかるに三十日は、雪こそ多少降っていたが大した荒れではないので、すこし遠くへ出かけようと思って針ノ木の本谷を電光形に登って行った。そして十一時ごろ赤石沢の落ち口の下で(通称「ノド」という狭いところ、小屋から十町ばかり上)第五回目かのキック・ターンをしようとしている時(渡辺氏はすでにターンを終わり右に向かっていた)リーダアの近藤氏が風のような音を聞いた。なだれだな! と直感して、「来たぞ!」と叫ぶまもなく、もうからだは雪につつまれていた。         *  近藤氏の「来たぞ!」を聞いて最も敏感になだれを感じたのはおそらく山田氏であろう。反射運動的にしゃがんでスキーの締具をはずそうとしたが、もうその時は雪に包まれ、コロコロところがって落ちていたという。         *  何秒か何分かの時がたって、スバリ岳方面から二十町ばかりを落ちて来たらしいなだれは、落ちつく所で落ちついた。十一人全部埋まったのであるが、河津、有田両氏は自分で出られるほどの深さであったのでただちに起き上がり、手や帽子の出ているのを目あてに、夢中で雪を掘って友人を救い出した。近藤氏は片手が雪面上に出ていたから自分で顔だけ出した所へ二人が来たので、おれはかまわないからほかの人を早く掘れといった。そこで山田氏を掘り出す。近藤氏は山田氏に早く大和を呼んで来いといった。山田氏は凍傷を恐れ、ゲートルを両手に巻きつけて、雪の上をはって小屋まで行った。         * (なだれたばかりの雪の上は、とうてい歩けるものではない。四つばいにならざるを得ない。自然両手は凍傷を起こす。山田氏がこの際それに気がついて、ゲートルをはずして手に巻いたとは、なんという沈着であろう。また、顔は出ているとはいえ、刻一刻としめつけ、凍りついて行く雪にからだの大部分を埋められながら「ほかの人からさきに掘れ」といった近藤氏のリーダアとしての責任感は、なんと荘厳なものであろう。私はこの話を聞いて涙を流した。)         *  小屋では大和がゴンゾ(わら靴)をはいて薪を割っていたが、山田氏の話を聞いて非常にびっくりし、ゴンゾのままでとび出しかけて気がつき、ただちにスキーにはきかえ、スコップを持って現場にかけつけた。そこでは山田氏を除く六人が狂人のように友人をさがしていたが、なにせ最初に出た河津氏と、最後にスキーの両杖の革ひもによった発掘された江口氏(人事不省になっていた)との間は三町余もあり、なだれの幅も四十間というのでとうてい見当がつかない。一同は二時半ごろひとまず現場を引き上げて小屋に帰った。         * (この日の午後、更に赤石沢からなだれが来て、スバリの方から落ちて来たやつの上にかさなったという。これに加うるに雪は降り続く。死体捜査の困難さも察し得よう。)         *  とにかく一刻も早く急を大町に報ぜねばならぬ。そこで近藤氏と大和とは残っていたスキーをはいて三時半ごろ小屋を出た。夜半には大町に着く予定であったが、思いのほかに雪が深く、斜面に来てもスキーをはいたまま膝の上までズブズブと埋まってしまうという始末。二人は無言のままラッセルしあいながら、おぼろな雪あかりをたよりに午前三時半ごろ野口着、駐在所に届けて大町へ、警察署に立ちよってから対山館へ着いたのが四時過ぎであった。         *  時刻が時刻だから、火の気というものは更にない。百瀬氏はとりあえず二人を食堂に招き入れて、ドンドンとストーヴに石炭を投げ込んだ。話を聞くと小屋に残して来た生存者六名中、江口氏は凍傷がひどいので心配だが、他の人々は大丈夫だ。埋ずまった四人はとても助かるまい。が、掘り出すのは容易だろう。とにかく人夫を二十人至急に送ろうということになった。         *  大町は電気で打たれたように驚いた。八千五百に余る老幼男女が、ひたすらに雪に埋ずまった四名を救い出すことのみを思いつめた。こうなれば暮れもない。正月もない。人は黎明の雪を踏んで右に左に飛びかった。警察署長は野口に捜査本部をうつし自ら出張、指揮をとった。署長の命で小笠原森林部長、丸山、遠藤両巡査が現場に向かって出発した。対山館で集めた人夫十一人と、警察から出した二人とが先発した。慎太郎氏の弟、百瀬孝男氏は、その朝関から来た森田、二出川両氏とともに凍傷の薬、六人分の手袋、雪めがね等(いずれも近藤氏の注意によって)をルックサックに納めてスキーで出発。三十一日に大沢に入るはずの早大第二隊の森氏は大町に残り、近藤、百瀬両氏とともに百方に救援の電報を打つのであった。         *  スキーで出た三人は四時半畠山着。あとから来る人夫たちの指揮を孝男氏に託し、両氏はひた走りに走って八時半大沢小屋に到着した。その時のありさまは想像にかたくない。同時に警察側の三氏、野口村の消防組六名も大沢に着いた。         *  孝男氏は畠山小屋で待っていたが大町の人夫が来たので八時出発、十一時に大沢小屋に着いた。非常な努力である。         *  一方大町には各方面から関係者が続々と集まって来た。長野県を代表して学務課長と保安課の人とが来る。深い哀愁にとざされて関氏の遺族が到着する。松本から島々を経て穂高岳に行く途中の鈴木、長谷川、四谷の三先輩は、急を聞いて三十一日晩大町にかけつけ、ただちに現場に向かったがその夜は野口一泊。翌日大沢小屋に着いた。         *  あくれば昭和三年一月元旦である。空はうららかに晴れ渡り、餓鬼から白馬にいたる山々はその秀麗な姿を現わした。町の人々は、しかし、正月を祝うことも忘れていた。         *  朝の空気をふるわせて、けたたましい自動車の号笛が聞こえた。松本から貸切りでとんで来た大島山岳部長の自動車である。対山館には「早大山岳部」なる札がはられた。いよいよ対山館が組織的に本部となったのである。         *  山では五十余名の人夫がスコップをふるって雪を掘った。なだれの最下部から三十間の幅で五尺掘るのであるが、凍りついた雪のこととて磐石の如く堅い。作業は思い通りに行かぬ。平村の消防組が三部協力してやったのである。大町の人夫は糧食その他の運搬や、炊事等につとめた。         *  対山館では大島部長を中心に、遺族の人々がいろいろと発掘方法を考えた。鉄板を持って行って、その上で焚火をしたら雪がとけるだろうとの案も出た。ポンプで水をかけたらよかろうと考えた遺族もある。山の人々は同情の涙にむせびながら、それらの方法の全然不可なるを説いた。雪はとけよう。だが、とけた雪は即刻凍ってしまう。現に、さぐりを入れるために数十本作って現場に送った、長さ二間の鉄のボートが、なんの役にもたたぬというではないか。やっとのことで一尺ばかり雪の中に入れたと思うと、今度はもう抜き出すことが出来ぬという始末ではないか……。         *  一日はかくて暮れ、晩には関で練習中のスキー部の連中が大町にかけつけた。二日からは大雪、それを冒して大町警察署長の一行が現場に向かった。山本氏の令兄も行を同じくせられ、自らスコップを握って堅氷を掘ってみられたが、なんの甲斐もなかった。  発掘方法も相談の上変更し、深さ七尺ずつを三尺おきにみぞみたいに掘ってみたのである。しかし掘る一方雪が降り積む。スキーの先端、靴のひもだに現われなかった。         *  二日には近藤氏を除く六人の生存者が、無理に……まったく追い立てられるようにして、大沢の小屋を離れた。なき四人の体駆を自ら発見せねば、なんの顔あってか里にくだろうとの意気はかたかったが、なだめられ、すすめられ、涙を流しながら、踏みかためられた雪を歩いて野口まで下り、そこから馬そりで大町へ向かった。  いかなる困難に出会うとも、四人のなきがらをリカヴァーせねばおかぬとの志は火と燃えたが、たたきつけ、押しつけ、凍りついた雪は頑強にその抵抗を継続した。遺族の人々も現場に赴いて、まったく手の下しようのないことを知った。かくて三日、作業を中止するに至ったのである。後ろ髪ひかれる思いとはこのことであろう。大沢から畠山、岩茸岩、野口と、長蛇の列はえんえんと続いた。そのあゆみはおそかった。         *  三日の晩、遭難者中の四人がまず帰京した。その状況は当時の新聞紙に詳しい。         *  四日、関氏の遺族八名は籠川をさかのぼって岩茸岩付近の川原まで行き、ここで山に向かって香華をささげた。感きわまったのであろう、だれかのすすり泣きをきっかけに、一同はついに声をあげて泣いたという。         *  五日朝、ドンヨリと曇った雪空の下を、関氏遺族一同は大町を引き上げた。停車場まで送ったもの、百瀬孝男氏を初め、大和由松、大町の案内者玉作、茂一、直吉等。  続いて大島山岳部長が帰京。晩の七時三十分の電車では近藤、山田、富田三氏及び他の部員全部が引き上げた。ピーッという発車の笛は、人々の胸を打った。針ノ木峠の下、大沢小屋の付近に埋ずもれている四人の胸にも、この笛の音は響いたことであろう。         *  大町はもとの静けさにかえった。人々はこたつにもぐりこんで、あれやこれやと早稲田の人々を惜しんだ。八日、九日、みごとに晴れ渡った山々を仰いでは、あの美しい、あの気高い山が、なぜこんなむごいことをしたのだろうと、いぶかり合うのであった。
底本:「日本山岳名著全集8」あかね書房    1962(昭和37)年11月25日第1刷 底本の親本:「山へ入る日」中央公論社    1929(昭和4)年10月 入力:富田晶子 校正:岡村和彦 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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Ⅰ 比島投降記 投降  昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。 「朝日」「読売」各三名、「同盟」「日映」各一名、その他は「毎日」関係者。カピサヤンといっても地図に出ていないから若干説明する。ルソン島の北端、アパリ近くでバシー海峡に流れ入る大河がカガヤン河。カガヤン渓谷――黒部渓谷などを連想しては大変な間違いで、実に広く大きな平原である――を流れて、そこを豊饒な土地にしている。この河に沿って、国道第五号線というのが、アパリから南下し、もちろん途中で河はなくなってしまうが、マニラにまで行っている。アパリから約二十キロにラロがあり、さらに二十キロ南下すると、東の方からドモン河という支流が合流する。このドモン河を溯ること約三十キロの地点にある小村落がカピサヤンで、我々は、そこからもっと上流のサッカランという場所から、投降のために下りて来たのである。元来我々新聞関係者の一部は新聞社の飛行機が台湾から救出に来るというので、五号線をもっと南へ行った処のツゲガラオ――ここは日本軍が最後まで守っていた飛行場所在地である――に三月末集合したのだが、米機の銃爆撃は激しくなるし、河向うからはゲリラが迫撃砲を撃込んで来るし、台湾、沖縄等の状況から判断しても、民間機の飛来など可能の余地が全くないので、五月末日、警備隊のS大佐の意見を参考として行動を起し、北上してドモン河の中流クマオ地区に移動したのである。この時軍の南下に従って南下したもの、ツゲガラオにとどまったもの、五号線を避けて――空からの襲撃と河向うからの銃砲撃のために、この国道筋は決して安全ではなかった――山伝いに北方へ行こうとしたもの等もあったが、僕等は真直ぐクマオに逃げこんだ。この地、河の両側約一キロが平地で、丘陵地帯がこれに接している。その丘陵も右岸のは密林におおわれ、敵機の攻撃に対しては安全だったが、地上部隊がすごい勢いで進撃してくるので、七月二十日前後から、野戦病院を初め、多くの非実戦部隊や我々みたいな非戦闘員が、さらに上流地区へ移動し、大密林の中で山蛭にくいつかれながら、いわゆる現地自活をやっていたのである。その内に終戦となり、師団参謀A中佐が米軍と連絡をとった結果、九月五日の病院と婦女子の隊をトップとして、約一週間にわたってドモン流域の各部隊が次々にカピサヤンで投降することになった。いわばこれは筋書を立て、スケジュールによる投降だったのである。向うから雨霰と大砲や小銃を撃って来る中を、白旗を振り廻して降参したというような、劇的な場面とは違って、至極事務的に、スムーズに行われたのである。このことについては、米軍当局の理解や好意、A中佐の努力等も、大きに関係したであろうが、僕としてはA中佐の通訳をつとめた本社〔毎日新聞社〕のE・M君の貢献すくなからざりしを信じて疑わぬ。その場に居合せたのではないから、もちろんはっきりしたことはいえないが、M君は本当に英語の出来る人である。いわゆるインタープレターも多く見たが、いい加減なのが多い。隔靴掻痒そのものである。投降の打合せというような場合には、それでは困るのである。本当に英語の出来る人が通訳として働いたことは、大きくいえば、ドモン流域所在の我々全体にとって、幸福だったといえよう。  さて六日午前七時、我々はドモン河を徒渉してカピサヤンに入った。僕はまず立派な道路がいつの間にか出来ているのに驚き、次に蠅がまるでいないのに驚いた。(その後も驚いてばかりいたから、「驚く」という動詞が今後何回出て来るか分らない。あらかじめお断りしておいた方がよさそうだ。)僕がクマオから上流地区に「転進」した時には、せいぜい水牛の通る小径だったのが、また、この時とて、渡河点の東岸までは、依然として小径なのが、こっち側へ来ると、舗装こそしてないが、六輪大型トラックが二輛ならんで通って、まだ余地のある大道になっている。その路の両側に一列に並び、装具を前に、武器を出して米軍の来るのを待った。もっとも武器といった所で、僕等の一行は二挺の拳銃を護身用として持っていただけだから、話は簡単である。それまで移動の途中、あちこちでひろった手榴弾が五つ六つあったけど、それ等はすでにサッカラン附近の深淵に投込まれてあった。  我々の宿営地に近く、とても満々と水をたたえた淵があり、いかにも魚がいそうな場所だったし、魚なんて一年近くも食っていないので、やって見ようという訳で、敵機の来ぬ時を狙って野球選手(どこのチームか知らない)のK君が裸になって河に入り、手榴弾を叩きこんだ。すると不発もあったが、そうでないのは大効果を現し、ボラ、コノシロ、鰺、サヨリ等々、別して前二者は一尺五寸以上の奴もあり、悪童どもは大饗宴を張ったことである。コノシロとか鰺とか、海の魚が河にいるのは変だが、事実いたのだから仕方がない。サヨリなんぞは群をなして泳いでいた。  さて、米軍側がいつ到着してもいいように、一同遠くへ行かぬように、隊列をみださぬように注意して、ボソボソ話をしていると、九時頃、自動車の爆音が聞え、大型のトラックが何台か現れた。それと前後して乗用車も着き、数名の米軍将校が日本の連絡将校と一緒にやって来た。M君の姿も見られた。間もなく、作業服の米兵が、チューイング・ガムを噛みながら、呑気な顔をして我々の前を歩いて過ぎ、引続いて武器の没収が終ると、トラックに四十人ずつだか乗れという命令が出た。僕は二台目のに乗り、側面のベンチに腰を下した。 米国の成人  自動小銃を持った兵士が最後に乗りこみ、トラック隊は動き出した。一月半ほど前に、一月分の糧食と身廻品とを背負い、鼻をつままれても分らぬような暗い路を、何の罰でか、「落伍者はたたき斬るぞ」と指揮の将校に脅かされながら――この移動は軍命令によって行われたのである――、何十回も川を徒渉して歩いた、その同じ路に違いないのだが、昼間トラックで通ると、まるで感じが違う。カピサヤン以西は家屋の破壊したのもすくなく、樹木も満足なのが多い。バナナにもパパヤにも果実がついたままである。  ある場所でトラック隊が停止した。前のトラックから米兵が連絡に来て「このさきの集落で昨日、比島人がトラックに石を投げ、日本のプリゾナーが数人怪我をした。同じことが再び起ってはならぬと指揮官はいっている。注意しろよ」と運転手と警乗兵に話した。こいつはひどいことだと僕は頸を縮めた。果してそこから百メートルばかり先の、家が五、六軒固まった所へさしかかると「バカヤロー、ドロボー」と待ってました! とばかりの声が飛んで来た。英語の出来るらしいのは「ジャパン・ノー・モール」といい、のぞき上げた二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。  この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。米国兵だけではない、比島兵も――比島兵が警乗したことは、僕はたった一度、ゴンサカという所へ行った時しか経験していないが――忠実に職務を遂行した。  既にプリゾナーとなり、保護に身をゆだねた者は、どこまでも保護するという態度は、喧嘩相手が「参った」といって地に倒れた上は、それをいかに憎み怨んでいたにせよ、ツバをひっかけたり、足蹴にしたりしないという、フェア・プレイの精神のあらわれであろう。但し、地に倒れて「参った」といいながら、隙をうかがって足に食いついたりしたら今度は徹底的に敵をのしてしまうにきまっている。  途中何度も何度もバカヤロー、ドロボーをあびせかけられはしたが、警乗兵のおかげで大した事故も起らず、我々はラロに着いた。ここの煙草工場が仮収容所になっている。コンクリート建築で、屋根は比島の建物がすべてそうであるように、トタンである。爆撃をくったと見え、大穴小穴がいっぱいあいている。大きな建物が二つに小さいのが一つ。その小さいのは病院で、重症患者が入っていた。丁度僕が腰をかけて足がブラブラする程度の高さに、割った竹を張った床が出来ていて、ひとまずそこに荷を下し、ナイフ、千枚通し、鋏、剃刀等、先端のとがった物や物騒な品は全部取上げられた。日章旗も出せとのことで、何かそんな規則があるのかと思ったが、これは記念品として、個人的にほしがるのだということが間もなく分った。  話が前後するが、日章旗について面白い挿話が一つある。御承知の通り、我国では英語が中等教育の重大科目になっていた。今度の戦争が起ってからは、英語なんぞはやめてしまえということになったが、それにしても、いわゆる中等、あるいは高等教育を受けた人は、英語の勉強をしたのである。ところがその英語教育が、これまた皆さん御承知の通りのものなんだから、時々変なことが起る。ラロの収容所で知合になったI少尉は、米兵に「お前は蛙か」と聞かれて大いに憤慨したが、後からよく考えたら「お前は旗を持っているか」と聞かれたのだと分り、自分ながら笑止に思ったそうである。つまり Have you a flag ? のユーとフラッグだけが聞きとれ、日本人に共通のRとLの混乱から、旗が蛙に聞えたのである。  ラロでの出来ごとである。ある夜、便所に行き、建物の別の入口から入ろうとすると、米兵が三、四人かたまっていた。その一人が、「おい、小父さん、ちょっとの違いで、すごい御馳走を棒にふったぜ」と声をかけたので、何かと思って僕もしゃがみこむと、非番の兵隊が集まって「戦争の終ったのを祝って」一杯やった所だという。まだ残っているはずだから、小父さんにも飲ませなよ――このごろ〔昭和二十一年〕英語の勉強がすごく流行しているが、これを兵隊英語に訳して御覧なさい、なかなかむずかしいから――と、そこら辺りをゴソゴソさがし廻った兵隊もいたが、結局飲んでしまった後で、僕は御馳走になれなかった。しかしこの「戦争の終ったのを祝って」という言葉を、僕はしみじみと味わってみた。彼等は戦争に「勝った」のをよろこんでいるのではない。よろこんでいるかも知れないが、それよりも戦争の終った方がうれしいのである。これは僕をして感慨にふけらした。というのが、僕は第一次世界戦争の最中に第一回の渡米をし、十一月十一日の終戦日をはさんでから翌年の夏まで米国にいた。その時米国内では「戦争に勝ったのは我々だ」―― We won the War. という言葉が燎原の火のようにひろまった。今ここで僕が説明するまでもなく、第一次世界大戦は、米国の参戦によって形勢が一変したようなものなのだから、米国人が「戦争に勝ったのは我々だ」といっても一向に不思議ではないが、いたる所でこれを見、これを聞き、おしまいにはセルロイドのバッジにしてボタン・ホールにさして歩き廻る人々さえ出て来るに及んで、この戦争に最初から参加し、あらゆる苦難をなめた他の国の人は、どんな感じがすることだろうと、内心、若干気になっていた。  さらに話は前後するが、参戦ときまるや否や、ほとんど全米をあげて、反ドイツ運動が行われた。その最も卑近な例は料理の名を変えたことである。ハンバーグ・ステークという、例の牛と豚の挽肉に玉葱やパン屑をまぜた料理、あれはドイツの地名ハンブルグから来た名前なので、リバティ・ステークと改名した。細いソーセージのフランクフルターズも、フランクフルトというドイツの地名から来ているというので、名前を変えた。それから戦争が終った年の冬、ニューヨークのメトロポリタン劇場でワグナーのオペラをやることになったら、制服の水兵が正面入口に頑張って、ドイツのオペラを見に来るとは非愛国的だといって、入場を阻止しようとした。このように、ドイツの物は何でも悪かったのである。丁度わが国で米英の物が何でも悪いとされたのと同様である。ところが、その後二十数年の今日、米国人はハンバーグ・ステークをリバティ・ステークと改名したり、ドイツの物は何でも悪いというような馬鹿な真似はしないようになった。レーションの缶詰には HAMBURGER, FRANKFURTERS とちゃんと印刷してあるし、またその後僕に向って自分の名を告げ、「これはジャーマン・ネイム」だと註釈をつけた兵隊が三、四人はいた。ラロではローレライを歌い、わざわざむずかしいドイツ文字でそれを書いて友達に教えていた若い兵隊もいたし、アパリの収容所長をしていたG中尉は僕がドイツで暮したことを知ると、ドイツ語で話しかけた。G中尉はドイツ系ではないが、大学ではじめかけたドイツ語の復習をしようという訳なのである。このような事実からして、米国人の戦争目的がはっきりしていたことが了解出来ると同時に、僕は米国が二十年間に国として成人した、大人になったということを深く感じた。まだ若い、どうかするとダブル・ネガティヴを使ったり He don't といったりする兵隊までが We won the War. の大威張りをやらず、小児病的なドイツ憎悪から離脱しているのである。それと同時に祝酒をやっていながらも、その静かなことは、事実声をかけられるまで、彼等が何をしているのか、僕には見当がつかなかった位である。  この行儀のよさも、感心したことのひとつである。用事があって、狭い通路を歩いて行く途中、日本の捕虜がウロウロしていても、決して突き飛ばしたり「そこをどけ」と怒鳴ったりしない。相手は捕虜なんだから、蹴飛ばしても一向差支えなさそうだが、多くの場合大きな身体を小さくして通るか、捕虜の方で気がついて横に寄るまで待っているかである。後から来てぶつかって行くのは、十中十まで日本人である。ぶつかって詫言をいうのでもない。元来日本人は礼儀が正しいことになっているが、どうも、その「礼儀」が、非常に狭い範囲――例えば家庭内とか知人間――とかに限って行われる傾向が多い。僕は、このことについては、前から書いたり放送したりして来たが、力が足りぬのか熱が足りぬのか、一向に効果があがっていないばかりか、このごろは前よりもひどくなったようだ。  話が横道に入った。もとに戻そう。ラロの仮収容所に入った我々は、装具検査が終ると次に登録を受けた。一人ずつ姓名、階級、所属部隊名をいって紐のついたカード(小包用のエフ)に書きこんで貰う。それを持って次の机へ行くと、そこではこのエフの記載を原帳に控え、帳簿の番号をエフに書き込む。エフの紐を上衣、あるいはシャツの左ポケットに結びつける。姓名や階級を聞いて書き込む第一の机には、英語の出来る日本人が坐っていた。エフにはその左上の隅に投降時日(僕の場合九月六日)、場所(カピサヤン)、擒致者(歩兵一二九聯隊)が、あらかじめ書き入れてある。擒致者とはキャプターズを訳したのである。この札を米軍では「犬の鑑札」という。例の蛙の話みたいに、今度は人間を犬扱いにすると憤慨する向きもあるかも知れないが、米国の兵隊は自分達がつけている認識票のことも「ドッグ・タッグ」と呼んでいるので、別に我々を侮辱したのではない。 若い少佐  タッギングが終ると我々は別の建物に移された。一体どういうことになるのか分らぬままに、ボンヤリしていると、いかにもひまそうな兵隊が来て、何だかんだと話しかける。英語の出来る人は相手になって、冗談をいって笑っている。僕は疲れが出てウトウトしていた。すると「あなたは英語が分るそうだが……」と話しかけた人がある。目をあけると非常に若く、しかも美しい少佐が立っている。細面で、しなやかで、物腰すこぶる優しい。僕は Yes, I do, Major. と礼儀正しく答えた。通訳として自分を助けてくれないかとの話である。年の若さと美貌とに驚いた僕は、その丁寧さにも驚いた。お役に立つならばよろこんで何でもしますが、実は新聞通信関係者二十数名のリーダーに選ばれた以上、一行から離れることは困るのですというと、その人達は今日明日にもサン・ホセ経由でマニラに送られるが、あなたも用が済んだらすぐ一緒になれるようにしてあげる、だから、一同には、心配しないようにお話しなさいとのこと。しかも、ここはこんな竹の床で設備が悪いから、自分達のいるアパリで寝起きするようにしよう、向うにはコット(折畳式のベッド)もあるし、第一海岸だから気持がいい、朝は自分と一緒にジープで来て、晩に帰ればいいだろうとのことである。竹だろうが木だろうが、ちっとも構いませんといって、僕はT、Hの両君と一緒に、通訳として残ることになった。ラロの仮収容所では、夜でも用事が起るので、結局アパリから通勤することは実行出来なかったが、収容所の一隅にテントを張り、そこにコットを置いて、僕等の住居をつくってくれた。  この若い少佐が、所長なのかどうかは知らないが、とにかく、ここでの最上官だ。その人が自分で歩き廻って、向うから通訳になってくれぬかと頼んだことは、日本の軍隊とはまるで違う。僕の極めて僅かな見聞からしても、日本の将校はそんなことはしない。いばりくさって、兵隊を使いによこすぐらいが関の山だ。僕は自分の倅に毛の生えた程度の中尉や少尉、ひどい時には東北の、聞いたこともないような専門学校から学徒出陣をして来たという見習士官なんぞに、さんざんいばり散らされたり厭味をいわれたりして、不愉快な思いばかりして来た。一月二十七日〔昭和二十一年〕の朝日新聞(大阪)「声」欄の投書中に「年齢的にも知的にも世情に通ずる点でも君より数段上にある部下に単に軍人としての階級の上位というだけの理由で……」という言葉があったが、部下でもない僕に、単に自分が軍人であるというだけの理由で糞威張りをするのであった。いばられたこと位は屁とも思わないが、上の者ほど仕事をしない(軍隊ばかりでなく、役所でもどこでもそうだ)日本の習慣は、ある階級に達した者が自分で仕事をすると、何だあの野郎はチョコマカして威厳がないという非難を引き起すのだった。上役はふんぞり返って豪傑笑いをしている方が立派でもあり、政治性があるということにもなっていた。その内に時勢が変り、社長が工場廻りをすると、陣頭指揮だといって持上げたりしたが、陣頭指揮はあたり前のことで、面白くもおかしくもない。実際、考えて見ると、下らないことばかりやって戦争に負けたものだ。  またしても道草をくったが、ラロのは本当の仮収容所で、タッギングの終った者は次々にトラックで出て行き日本側としては、病院関係者と、通訳と、T中尉を指揮者とする十数名の使役兵とが、常住することになった。T中尉は士官学校を出た、まだ若い人で、非常に良心的によく働いた。 米軍の給与  我々は数日分の米を持っていたが、ラロに着いた日から米軍の給与を受けた。陸軍の糧食にはABCDKの五種類と、Ten-in-one というのがあり、CDKは個人向け、最後のは十人前一日分が一箱で、この四種は携行糧食である。Aは国内兵営での食事、Bは例えば比島での根拠地等でやっているように、大きな缶詰の野菜や、本国から送って来る冷凍肉、馬鈴薯、鶏卵等を野戦炊事場で料理した食事、Dは強行軍等に持って行く甘味料(これは一度も見たことがない)だそうである。もっともこの話は、兵隊に聞いたので、その後確かめる機会がなかったから、間違いがあるかも知れない。CとKとテン・イン・ワンとにはお世話になったので、僕もよく知っている。最初に貰ったのはKレーションで、平ったいボール紙の箱に入っている。ブレークファスト、ディナー、サパーで一日分だが、ラロでは一日二回の給与であった。内容はそれぞれに缶詰一個、ビスケット、甘味品を主体とし、そのままで湯なり水なりに溶ける珈琲、ココア、レモン(あるいはオレンジ・ジュース)、巻煙草、マッチ、便所の紙等が入っている。缶詰は朝がハムエッグス(といっても、缶をあけると目玉卵が出て来るのではない。鶏卵はこまかにかき廻してあり、ハムも小さく刻んである)、ディナーは挽肉、サパーはチーズである。浄水剤も入っていた。色々な物にマラリアに関する注意が印刷してある。文句は皆同じで「蚊にさされるとマラリアになる。マラリア流行地ではシャツを着用し、かつ袖をまくり上げぬこと。日没から夜明けまで、戸外にいる時は、駆蚊薬を使用すべし」と書いてある。これ等一式がすごく厚い蝋紙の箱に入り、それがまたボール紙の箱に入っているのである。  この米軍の給与以外に、米を持っている者は飯盒炊事をしてもいいということで、長方形の穴の上に鉄格子を横たえた場所が準備された。レーションの空箱や河岸に流れつく木や竹を燃し、格子の上に飯盒をのせて飯をたくのである。この設備をしたのが米軍のSという衛生兵で、猫背の、いかにも映画に出て来る薬屋の主人みたいな中年の男だったが、はじめ格子の上に、苦心して見つけ出した鉄板を置いたのに、日本人は態々その鉄板を取りのけて炊事をする、だから飯盒が真黒に煤ける。煤けると河岸へ行き、砂をつけてゴシゴシこするが、何故あんなことをするのか、自分には理解出来ぬという。それは焔が飯盒の上の方にまで達した方が飯がよく出来るからだというと、だって、ライスをクックするのは熱であって、焔ではないじゃないかとのこと。事実その通りで、炭火はおろか電気コンロだって飯盒飯はうまくたける。しかし長い間の習慣で、どうも赤い焔がメラメラしていないと、飯がたけぬような気がするものらしい。  この鉄板問答がいい例だが、初めて日本人に接触した米兵の多くは、色々と妙なことを見聞し、日本人が自分達と違ったことをやるのを不思議に思いはしても、習慣の相違ということを考慮に入れる度量を持っている。もちろんそれが西洋式の便所の上に泥靴のままであがるとか、どこでもかまわず残飯を棄てるとかいうようなこと――事実それが時として行われ、ラロでもT中尉以下の常備使役兵や僕等などは、何度も注意したが――であれば、即座に禁止するが、そうでない場合には「何故こんなことするのだろう」と、一応は問いただした上で、何とか行動をとる。  ラロでの僕の仕事は主としてタッギングであった。ある日アパリで用事があるから来いという命令で、十一時ごろジープに乗って出かけた。途中一人の老女が竹竿に太刀魚をかけて乾物をつくっていたが、その生乾きの具合がいかにもうまそうなので、米国給与のものすごい御馳走になっていはしたものの、黄金色の沢庵やパリパリする白菜の漬物などと一緒に、熱い番茶をかけてサラサラやる白米の御飯を思い出し、ちょっとよだれが出そうになった。  ジープは一直線に海岸に出た。実にきれいな海である。静かな波が打っている。沖合はるかには富士山のような形をした島がいくつか浮んでいる。何といういい場所だろうと思った。しかし、これは路を間違えたので、すぐ引返し、もっと東にある聯隊本部へ向った。天幕が沢山並んでいる。その一つへ我々は案内された。竹で簡単な柵みたいな物が出来ていて、それには食器が日に乾してある。まず昼食を済ましてから仕事にかかるから、そこにある食器を持って来いという。ステインレスの飯盒と蓋とコップとフォークと匙――進駐軍の兵士が持っているのを御覧になった方もあると思うが、飯盒は小判形で、片方はフライパンになるし、蓋は長軸にそって両側にくぼみがあり、二種の異なる食物を入れることが出来る。コップは水筒の底にはまり込むようになっている。また長方形の金属板に、形の異なるくぼみがいくつか並んだのもある。くぼみの一つ一つに違った料理を入れる――、つまり食器一式を持って、炊事場へ行くと、その入口にドラム缶が据えてあり、熱湯がぐらぐら沸いている。食器はフライパン(飯盒の蓋)の柄に環や穴(匙にもフォークにも、柄の末端に穴があけてある)によって通せるように出来ているので、それ等すべてを熱湯に入れて消毒する。それから台所へ行って食器を差出すと、大きな鍋を横に置いた料理当番が、無造作に食物を入れてくれる。この日は兵隊語で「馬の何とか」――この「何とか」は分っているが、英語にせよ日本語にせよ、書いたり印刷したり話したりしない方がいいと思う――と称する大型ソーセージの薄い輪切二、三片とその添物のザワクラウト、ベーコンと豆、玉蜀黍、それにバタをゴテリと叩きつけたパン一片――パンは「たった一片でいいのかい。もっと食いなよ」と当番がいったが、一つで十分だというと、その上に木匙でバタを塗るのでなく山盛一ぱいのせてくれた――最後にパイナップルを、これまた、あれよあれよという間もなく、十枚近く入れてくれた。それから冷したお茶。それを持って、食堂にあてられたテントへ行き、空席に腰を下して食事をした。  だいぶん後でG中尉にこの時のことを話したら、「馬の何とか」で腹をかかえて笑ったあげく、そんなことをしたのかと、若干驚いていた所から察すると、捕虜が米軍の食堂で米兵と同じ物を食うなんてことは、よしんば禁止事項ではないにしても、よほど珍しいことであるらしい。だが炊事場でも、また食堂でも、僕等を連れて行ったAさんという二世の曹長に声をかける者はあっても、「おい、その変てこな奴は何だい」といったり、敵意ないしは好奇心のまなざしを向けたりする人は、ただの一人もいなかった。僕等が反対の立場にあったとしたら、どんなことが起ったであろうか……何度も何度も考えたことだが、この時も僕はしみじみと考え込んでしまった。  明治の初年にわが国を訪れたE・S・モースは、随時随所で日本人の行儀のよさ、物腰のしとやかさ、「自分勝手でなく、そして他人の感情を思いやること」の深さに触れ、いく度か「またしても私自身に、どっちの国民(米国人と日本人と)の方が、より高く文明的であるかを訊ねるのであった」とその著書「日本その日その日」に書いている。モースの日本びいきは大変なものだが、あれ程観察の鋭い彼が、日本人のこの面に関してのみ、観察を誤ったとは思われない。日本人は確かにそうだったのであろう。「他人の感情を思いやる」―― Consideration for the feeling of others ――ことは、日本人の特色であり、日本人の間の日常生活では、ある時は度を越して、面倒臭くなる程度にまで重要視されるのである。しかるに何故これが、一度他国人に対すると全然失われ、野蛮なことが行われたのだろうか。もちろん米国人は勝利者としていい気持であり、自然気持も大まかに、ゆたかになっているのだともいえよう。しかし、いわゆる大東亜戦争の初期にあっては、日本人は勝利者であった。あるいは戦争だけの勝利者で、精神的、人道的には徹頭徹尾敗北者であったのかも知れない。 ジャップ  食事が終ってテントを出ると、そこにドラム缶が数個並んでいる。第一のには重油が燃えていて、これに食い残しの食品を出来るだけ丁寧に、そそぎ込む。火力は強く、ザワクラウトのように水分の多いものでも、片端から燃えてしまう。次の二つの缶には石鹸水が煮立っていて、食器をこれにひたし、長さ一尺五寸位の刷毛でこする。これを二回繰返した上で、最後はただの熱湯でゆすぐと、食器はきれいになり、湯があついのでカラカラに乾燥する。次の食事時間までそれを太陽にてらし、風に吹かせておくのだから、実に清潔なものである。  食事を済ませて一服してから、我々は仕事にとりかかった。簡単なタッギングだから直ぐ終り、ジープで送って貰ってラロに帰った。  ラロでの給与は数日にしてCレーションに変った。それは一回分が缶詰二個ずつで、一つにビスケット、砂糖で包んだ南京豆等の菓子、珈琲(ココア、レモン・ジュースの粉)、砂糖など。もう一つのは肉で、例えばハムとライマ・ビーンズ、鶏肉と野菜、挽肉とウドン、前にちょっと書いたフランクフルターズと豆などである。肉の缶詰はどれをいつ食おうと勝手だが、ビスケット入の方は朝飯、ディナー、サパーに分れていて、朝飯にはレディ・ツー・イート・シリアルというのが入っている。このシリアルというのは穀類、穀物食糧等を意味する英語で、米国の朝飯にはつきもの。日本で知られているオートミールもその一つだが、米国には調理しないでそのまま食える――皿にのせ、砂糖をかけ、牛乳かクリームを注いですぐ食う――種類のが非常に多い。コーンフレークスとかシュレデッド・フィートとかいうのがそれである。Cレーションのは厚いセロファンに包んであり、そのままボソボソ食ってもいいし、もみつぶして食器に入れ、水をかけてもいい。これには砂糖と粉牛乳が入っていて、水にとかすととてもうまい。こんなものに初めてお目にかかる日本の兵隊は、これをハッタイ粉だとか「おこし」だとかいってよろこんでいた。  Cレーションは、八人前四十八個の缶詰が、一つの箱に収めてある。この箱には、内側に銀紙をはった大型の封筒が八つ入っていて、その各々にシガレット九本、マッチ、浄水薬、便所の紙、チューインガム一個が入れてある。つまり缶詰六個とこの封筒一個で、一人一日分の給与を構成する。例のマラリアに関する注意は、封筒にもマッチにも印刷してある。便所の紙も、缶の外側も、ついでだからいうが、タオルも下着類も、全部緑の勝ったカーキー色をしていて、こまかい所にまで注意が行き届いていることを思わせる。  我々はラロでテントの中にコットを置いた所に寝起きしたと書いたが、これは数日で中止になった。よそにいた在留邦人の婦女子が二十名来たので、その人達のためにテントを譲り、我々は一般捕虜と同じ場所へ移った。トタン屋根は穴だらけなので、雨が降ると滝のように水が落ちる場所が二、三あり、また一時に何百人も入って来ると、いくら詰めても竹を張った床には並びきれないで、コンクリートの上にじかに寝なくてはならぬ人達が出来た。雨でも降るとみじめなことになるのだが、病人や我々以外は、どんどん移動して行くので、長期にわたって水びたしになる人はいなかった。  問題は婦女子だった。赤坊四人と大人十六人で、大体我々にはどんな程度、種類の女性を含んでいるのか、一目瞭然だが、米国兵はこの人達をレディスと呼んで、すこぶる大事にする。レディスがまたれっきとしたレディスぞろいだから、幕舎内外の掃除まで、使役の兵隊にやらせて、平然としている。だいぶん不平不満の声もあったが、一人一人の素性を洗って、本当の貴婦人と非貴婦人とに区別する訳にも行かないので、ほっておいた。  ラロはカガヤン河に沿った町で、仮収容所の裏を河が流れている。我々はここで水浴をやり、洗濯をし、また食器類を洗ったのであるが、折からの雨で濁水が流れ、手拭や越中は洗った後の方が黄色くなるのだった。それでも、水浴すると気持がいいので、雨のはれ間を見ては、河岸へ行った。  ある日将校が四、五人やって来た。僕と話がしたいというので行くと、その一人はカンザスだかの新聞社長で、階級は少佐だったが、「田舎の新聞だ、君はその名前も知らないだろう」といっていた。彼と一緒にいた別の少佐は「お前は新聞記者か。米国の海軍は全滅したので、太平洋の水位が一インチ高くなったなんて書いた口だな」と笑っていた。後で聞いたことだが、対米宣伝放送をやった「東京のバラ」嬢というのが、盛んにこんなことをいったそうである。ローズ・オヴ・トーキョウは、最初に米国でも一般家庭にはないようないいレコードを聞かせ、続いて米兵をホームシックにするようなことを凄くきれいな声で、また流暢な英語で、放送したそうである。一度アパリで若い将校が数名集まり、バラ嬢は戦争犯罪者として処罰されるべきだろうかどうかを議論していたが、輿論は寧ろ勲章をやった方がいい位だというのに傾いた。いい音楽を聞かせたこともあるが、それにもまして、あまり見えすいたウソをいうので面白くって仕方がなく、これを聞くと悄気ていた兵隊もゲラゲラ笑い出したりした結果、士気昂揚に役立ったというのである。太平洋の水位もその一例で、この時にもその話が出た。それはそれとして、ラロに来た別の将校は「米国は十六歳以上の日本人を、全部去勢するという宣伝が、日本で行われたそうだが、君はまだ無事か」と聞いてウィンクして見せた。最後に「ライフ」に出すんだからといって、僕の写真を二、三枚写したが、甚だ頼りない写真機で、おまけに雨天だったから、写ったかどうか、少々怪しいものである。  最後に、僕の方から質問をすることを許して貰った。その一は、それまでのところ、すくなくとも我々に直接に交渉のあった米軍の将兵が、ジャップというのを一度も聞いたことがないが、ジャップといってはいけないと注意でもしたのか。その二は、我々に接触する人達が非常にコンシダレートだが、特にそういう人達を選んだのかということである。返事はどちらに就いても否定で、特に第二の質問に対しては「米国人は誰に対してもそうなんだ」ということだった。その後の経験からすると、これは愚問だったが、その時は本当に疑問に思っていたのである。この二つ以外にも色々と質問したが、僕が新聞記者であり、将来何か書くかも知れず、恐らく書くであろうことを理解してか、面倒臭そうな顔もせずに、よく説明してくれた。  ジャップの一件は中々興味がある。時には話に夢中になって、僕がジャップであることを忘れてしまい、「その時ジャップが顔を出しやがったんで……」と手柄話をした兵隊もいたが、すくなくとも正式の会話で、例えば僕への命令とか、向うの将校同士での打合せに僕が居合せた時とかには、決してジャップといわず、必ずジャパニーズという。米国内では、恐らく百人が百人、ジャップということだろう。新聞や雑誌でもジャップが多い。ところが我々に向っては、ジャパニーズと、不便を忍んでいうのは、もし上からの方針でないとすれば、戦敗者に対しても「思いやり」を持つ一つの例ではあるまいかと思う。  これに関聯して、十数年前、我が国名を英語でいう場合、ジャパンをやめてニッポンにしようという話がまとまった時、タイムス東京特派員のヒュー・バイヤス氏が、一体ジャパニーズの略称のジャップと、当然出来ると見ねばならぬニッポニーズの略称のニップス、あるいはニッピーズとの間に、もし上下があるならば、どっちがいいと思うかと、書いたのを記憶している。ニップ、ニップス、ニッピーズ等、それぞれ、小さいもの、下らぬもの等を意味する英語があるのだから始末が悪い。ジャップばかりを問題にするとは少々滑稽だと、僕自身もおかしく思ったのだが、今度もニップ、ニッピーズを時々耳にして、バイヤス氏の随筆を思い出した。 通訳イシ  さて、九月六日にラロの仮収容所に入って、そこに幾日いたのか、どうもはっきりしないが、二十日ちょっと前に、よく僕達と話をする番兵が「俺たちは近くここを引揚げ、かわりに水陸両用戦車隊がお前達の番をすることになる。今度の奴等は恐ろしく規律が厳重で、おまけに八〇パーセントが大学卒業生であり smart guy がそろっているから気をつけなよ」といった。なるほどいつか警備兵も変ったと思うと、ある日大きなタンクがガラガラ走って来て目の前を過ぎ、右に曲るのを見ると、プロペラも舵もついていて、空中でその舵が右に曲っている。タンクは飲料水をはこんで来たのである。ついでにいうと、水はリスター・バッグというズック製の袋に入れ(その底に近く飲口がついている)収容所の各所に置かれてあるが、十数キロの地点まで汲みに行った上に、浄水薬で消毒したのを飲ませるのである。リスターとはどんな意味か、誰かに聞こうと思いながら忘れていたが、英国にリスター卿という予防医学だかの大家がいたので、その人の考えた装置なのかも知れない。飲口の栓を押すと水が流れ出すので、水に直接容器なり、ないしは人間が口をつけたりして、水を汚染する危険がない。そういう風に出来ているのに、何と思ってか、蓋をあけて袋の内に飯盒を入れ、水を汲もうとする兵隊を再三見て、僕は注意を与えた。「そこの栓を押せば水が出ますよ」というと「そんなことは知っているが、水が出ないから蓋をあけたのだ」と口返答をする。栓を押して出ないのは、袋の中に水が無くなっているからである。無い水は無い。もし水があるとすれば、それに飯盒を入れてはリスター・バッグが何の役にも立たぬことが分らぬとは、マラリアの高熱か何かで、頭が変になったのだろう。  頭が変といえば、こちらも随分ボンヤリしていて申訳ない話だが、何でも二十三日だかに、病院が全部アパリに移ることになった。通訳としてH君が行くというので、僕はゴロゴロしていたら、突然「もう一人のインタープレターやって来い」と大きな声が聞えた。どういう理由か知らぬが、H君はやめになり、僕が行くことになったのである。大した荷物がある訳ではなし、毛布と寝袋(これはバギオでカーキー地を買ってつくった。登山用のシュラーフ・ザックから思いついたので、逃避行にはとても便利だった)をT中尉の部下に巻いて貰い、もうエンジンをかけて待っている中型トラックに乗ると、あまり若くない米兵が僕の向いに腰をかけ、トラックは走り出した。衛生兵五名に一般使役兵六名が、すでに乗っていたので、僕は一番尻に、辛うじて腰を下したのである。警乗兵も僕も黙っていたが、やがてトラックが物すごい穴を突破し、僕は跳上げられズックの屋根で頭をぶった。するとこの兵隊は「おい、運転手、気をつけてくれよ。そっちはよくっても後の方は猛烈にはねるから」といって、僕の顔を見て笑った。 アパリの病院  トラックは三十分ほど走って、アパリの海岸に着いた。二間ばかりの柱を立て、有刺鉄線をはり廻した内に、天幕が行儀よく並んでいる。入口で下車すると、若い中尉がいて、「誰が通訳か」といきなりいう。「私です、中尉」と答えると「君の名前は?」「石川」「自分はここの主任でG中尉という。スペルはこうだ。話が通じないで閉口していた」という。こっちへ来いというので、一同装具を持って診療所にあてられた天幕へ行くと、十三、四と思われる比島の少年が「Eさーん!」と、すっとん狂な声を立てて、E衛生曹長に飛びついた。こんな子供が、アパリの病院で、何をしていたのか知らない。恐らく日本語が出来るので、通訳の代理でもしていたのだろう。出来るといったところで、大した日本語でも英語でもないのだが、それをチャンポンにして、誰に向っていうともなく喋舌るのを聞くと、この子の家族はツゲガラオに住んでいて、そのころE君もツゲガラオの病院にいた。  学校が再開されたが、ノートも鉛筆もなくて困っていると、E君がそれ等をどこからか手に入れて来ては、子供達にやったというのである。「日本の兵隊は悪いがEさんはいい人だ」というようなことを、この少年は一生懸命に喋舌っていた。ノートや鉛筆ばかりではあるまいと思って、その後E君に聞いて見たが「何、大したことはありません」というだけで、何も話してくれなかったが、日本の兵隊だからとて百人が百人、悪いことばかりした訳ではないのだ。  この日以来、僕はG中尉の通訳となり、一ヶ月余というものは、毎日何等かの交渉を持った。その結果、G中尉は僕にとって、忘れることの出来ぬ人になった。もちろん国は違い、境遇も違い(平時でも違うが、現在ではこちらは敗北した国の投降者である!)、年齢はこっちが五十で、向うはその半分である。捕虜の分際として「友情」などと、おこがましい言葉を使うことは避けるが、単に向うは向う、こっちはこっちで、それぞれ忠実に仕事をしたということ以外に、何かしら友情に近い感を、すくなくとも僕は抱くようになり、いまだにそれを抱いている。  ここでハッキリ申しておきたいのは、密林の中やなんかで、さんざん苦労したあげく、国は破れて捕虜になり、あちらこちらで虐待されて、心身ともにヘトヘトになっていた時G中尉が現れ、親切にしてくれたので、その恩を感じたというような、センティメンタリズムに立脚して、僕が、こんな風な感情を抱いたのではないということである。今まで書いたことからでもお分りだろうが、僕はそれまでに一回も虐待されていない。激しい言葉をかけられたこともない。密林の中での生活は、決して楽ではなかったが、幸いにしてマラリアもデングも、軍隊でいわゆる「熱発」もしていない――これは稀有な例である――。空腹を感じたことは何度かあるが、それは飢餓ではなく、健康者が普通に持つ空腹感であった。だから、肉体的には、へたばっていなかった。精神的には、敗戦は大きな打撃だったが、それよりも、今後の日本と日本人とに関する関心と希望の方が大きかった。またG中尉は親切ではあったが、それこそ No favoritism : no monkey business で、僕に対する親切や思いやりは、捕虜全体に対するものと同じであった。僕としても一人前以上英語が出来、通訳として監督将校たるG中尉やその部下の下士官、兵の連中と、時には冗談もいうような立場にいたが、それを利用して自分ひとりが得をしようというような了見は、爪の垢ほども持ったことがない。これだけは大威張りでいえることだが、シガレット一本くれといったことさえない。後でアパリの収容所に病院が合併した時、どうやらイシ(いつの間にか僕の名前から「川」が落ちて、僕は「イシ」になってしまっていた)には一日一箱二十本入のシガレットをやれということになったらしかったが(当直の米兵が「お前、今日はシガレットを貰ったか」とか「昨日はやるのを忘れていた」とか、ちょいちょいいったところから推測すると)貰わない時でも、また持っていたのを人にやって無くなってしまった時でも、目の前で向うがプカプカやっても、一本くれと手を出したりせず、無ければないで吸わずにいた。「米国人は察しが悪いから、ほしいものはどんどんほしいといえば呉れる、黙っているのは馬鹿だ」という軍属の通訳殿もいた。僕も米国は知っているし、米国人も知っているつもりだが、生命にかかわることならとにかく、煙草とか菓子とか、無くてもいい嗜好品をほしがったり、通訳という位置を利用したりするのは、卑しいことだと思ったのである。ちゃんと分って見れば、理窟にならぬ戦争を始めて、そして負けた――これ以上の大きな恥辱はないのだから、その上日本人はやたらに物をほしがるとか、不潔だとか、だらしがないとか見られて、恥の上塗りをするようなことはやめようではないか――これは僕の考えであり、アパリの収容所では一緒に働いてくれた台湾軍のT中尉(ラロのとは別人)やW軍曹とも話し合ったことなのである。ところが、こんな風に考える人はあまり多くはないらしく、殊に内地に帰って見ると、恥っかきばかりが目について、どうも面白くない。もっとも、内地といっても、東京と大阪の表口ばかりしか知らないのだから、まだまだ悲観しては早すぎるのかも知れない。  さて、病院に着いた我々は、めいめい毛布一枚、タオル一枚、石鹸一個と蚊帳ひとはりを受領した。蚊帳は細長い一人用である。軍医、衛生兵、使役兵と私とは、二張のテントに分れて住むことになり、ここで一応病院関係の人間が揃ったので、G中尉はまず日課表をきめた。朝飯七時、昼飯十二時、晩飯五時。午後六時半には必ず蚊帳を下すこと。昼寝の時間は、大体十二時から一時までで、それ以外の時、健康者がコットに横になっていることは許さぬ。水浴時間は、病人は必要に応じていつでもいいが、健康人は午後二時ということになった。病院は、前にも書いた通り、海岸にあり、正面の入口から二、三十間も行けば海になる。病人は、どこでもそうだったが、マラリア患者と下痢患者が大多数で、尾籠な話だが、垂れ流しがあり、そんな人達は衛生兵がコットごと、あるいは担架に乗せたまま、海の中に入れて身体を洗ってやる。軍医の方が残念ながら、どうも一生懸命にならぬ傾向があり、G中尉もはじめの間「米国陸軍としては、早く患者が治って帰国出来ることを念願し、そのためには必要な薬品は出来るだけ入手しようとしているのだ。癒すも癒さんも日本の軍医の責任であるのに、どうも熱が足りないように思われる。日本の軍医とはこんなものなのか。同じ日本人でありながら、どうしてこう冷淡なのだろう」といっていたぐらいであったが、衛生兵の方は実によく患者の面倒を見た。もちろん数は多く、中にはひどい人間もいたには違いないが、僕と一緒にいた人達の絶対多数は、骨身を惜しまず働いた。これには、日本の軍医制度そのものに欠点があったのかも知れない。たとえば開業十数年で学位を持っている人が応召すると見習士官で、はるかに年齢も下で、経験はほとんど皆無でも、軍医学校を出た者が中尉だったりして、「くさってしまう」場合が多かったのだろうが、それにしても、兵隊の命を粗末にするとしか考えられぬことや、いかにも親切気が足りぬと思われることが度々あった。軍医側にして見れば、僕が素人であるがゆえに、死とか苦痛とかに対して、素人的に過敏なのだというかも知れない。そのいい分も、一応は立つが、まんざら、そうばかりともいえない。やはり妙な階級意識が、兵隊の生命を軽く見る傾向を生じたのではあるまいかと思われる。夜中に病人が変なことになると、その幕舎を受持っている衛生兵は、まず僕を起しに来る。直接軍医のところへ行っても、相手にしてくれないからである。僕が軍医に起きて貰って、一緒に患者を見舞うのだった。  具体的の例をあげよう。一人の兵隊が、夜中の一時ごろに、変な風になった。マラリアの熱が頭に来たらしく、青年学校の校長がどうしたとか、灯火が暗いから蝋燭をつけろとか、大声でわめくのである。それでありながら、自分が病院にいることは知っていて「衛生兵殿」と呼びかけては、何かと哀訴嘆願する。僕にして見れば可哀相で仕方がない。何とかしてやれないものかと思うが、軍医殿は平気らしく、事実手の打ちようがないのかも知れないが、優しい言葉ひとつかけるでもない。下らない素人のセンティメンタリズムか人道主義かは知らぬが、同じ日本人が、同じ捕虜という境遇に陥って、高熱のために頭が変になっている――この患者は両三日後に死亡した――のに対して、無関心でいることが科学的の態度であるならば、僕はそんな科学はすててしまった方がいいと思う。風がビュービュー吹いて、テントの布をバタバタいわせる夜半、裸蝋燭を手でかこって、こんな病人が狂うのを見ると、まったく暗い気持にならざるを得ない。同時に僕は、しばしばワルト・ウィットマンを思った。何もウィットマンを気取った訳ではないが、ウィットマンも何度かこんな経験をしたのだな……と考え、かつて平和の日、わざわざキャムデンまで彼の旧宅を見に行ったことなど思い出した。  別の病人は、朝の四時ごろ、きまって変なことをいい出すのだった。自分の左脚が細く細くなり、見ているうちになくなってしまうという恐怖を、九州弁で説明する。「見て下さい。脚がなくなるではありませんか。早くどうかして下さい」と泣声を立てる。医療的には、どうすることも出来ないのかも知れず、また相手になることは、却って悪影響をおよぼすのかも知れないが、狂っていても話せば分るので「大丈夫、そんなことはない」というと「でも、見ている内に無くなります。ああ、もう無くなってしまいました」と泣くのである。僕は夜光時計を見せた。「今、五時ちょっと前。六時半には朝飯を持って来てあげる。朝飯を食えば、君の脚はもと通りになるから、安心していたまえ」といって聞かせると「そうでしょうか。お願いします」と、静かになるのである。「あれも人の子樽ひろい」というが、妻子もあるに違いない老兵が、痩せた股と脚を撫でながら、それが無くなってしまったなどというのを、黙って聞いている訳には行かない。  だいぶん後の話だが、中部ルソンから東海岸をめざして山の中に逃げ込んだ兵隊が、多い時は十数名、すくない時は三、四名と、収容所に現れるようになった。われわれみたいに、団体として、米軍と打合せて投降したのではないから、諸所方々で持っている物を取られたり、食物と交換したり、それだけでも惨憺たるものだが、多くは栄養不足と病気とで、見る影もない哀れさである。中には即刻入院させねばならぬ人がいるのだが、その判断がわれわれにはつかぬので、軍医に見て貰うことにした。すると、一人の軍医は、何と思ってか、ひどく乱暴な口を利くのである。部隊はどこだとか、階級は何だとか、簡単なことを質問されても、頭がボンヤリしているのでとんちんかんな返事をするのがいる。「何をいうのか。誰がそんなことを聞いているか」とか「この間抜野郎」とか、聞く僕としては、医は仁術であっても、兵隊に対する軍医は、すくなくとも、このM大尉は、断じて仁者ではないことを、しみじみと感ぜざるを得なかった。疲労困憊している人間に優しい言葉をかけると、ガックリ行ってしまうといって態々激しい言葉で叱り飛ばすということは聞いているが、この軍医殿のは、そんな風に「気合をかける」のとは違い、単に将校対兵隊の馬鹿威張りを一歩も出ていない。米軍の給与を受け、身体も丈夫な――しかも時々、給与のビスケットでは足りないなどと、僕に文句をいった――人間が、立っていることもようやくと思われる人間に、こんな意味のない威張り方をすると、僕は実に腹が立つのだった。  患者の水浴から話が横にそれた。われわれは二時になると、ほとんど裸体になって柵内に並び、番号をとった上で、正門を出て海に入る。米国の兵隊が小銃を持って見張っているが、それはわれわれが逃げるのを防ぐよりも、比島人が悪さをするのを防ぐためであった。砂浜はきれいだし、海もきれいだし、遠く近くに浮ぶ島々を見て、大きな波に打たれながら、身体を洗ったり、洗濯したり、泳いだりするのは、すこぶる快適だった。ただし塩水で、あとがべとつくことは、やむを得なかった。  ところが、ラロから婦女子が移って来るにおよんで、水浴が問題になった。時間は午前十時、場所は病院から五、六町西へよった所、と決めたG中尉は、「警備の兵は、一同が水浴している間、陸の方を向いているべし」と命令して笑った。それで問題は解決した訳だが、どういう理由か、いわゆる婦女子はあまり海に入らなかった。波が怖かったのかも知れない。 ビンタ事件  われわれがアパリへ行った翌日だかに、実に恥しい事件が起った。  G中尉は毎朝八時には病院に来て、僕を随伴して、各幕舎から便所から塵埃棄場から、すっかり見て廻るのだった。病舎を見廻る時には、M軍医大尉が、ここでの最上級士官としてついて来たが、この朝一つの幕舎から他の幕舎へ行く途中、誠に下らぬことで興奮したM大尉は口返答をしたという理由でA兵長のビンタを張った。するとA兵長も黙ってはいず、M大尉につかみかかった。大きに驚いたG中尉は警備兵を呼び「上官はいかなる場合にも部下をスラップしてはならぬ。スラップせねば命令に従わせ得ぬような上官は、上官たるの資格を全然欠いているのだ。部下が上官と争うことも言語道断である。二人は一日の絶食を命じる。今後二人が撲り合うならばさらに厳重に処罰する」と申し渡した。  その午後、G中尉は僕にいった――「米国陸軍では絶対にスラップすることを許さないし、軍服の袖を引っぱっても罰せられる。しかるにM大尉は部下をスラップした。あんな野蛮なことが日本の陸軍では行われるのか」と。僕は「日本の軍隊では、スラッピングは非常に簡単に、かつしばしば行われる習慣であり、撲る方も撲られる方も、そう重大に考えないのである。今朝、兵隊が将校を撲り返したが、あれは日本軍がこんな状態になって、軍紀を喪失したことを、如実に示している。人間としてのM大尉とA兵長についての批判は、私はこれを避ける。見ておられれば、御自分で批判出来ることと思うからである。だが、何にしてもスラッピングはいい習慣ではない。比島人は最もこれを嫌い、日本軍も比島人をスラップしてはならぬと教えたが、習い性になって、よくピシャリとやっては問題を起し、怨恨の種子を蒔いた」といった。  この、G中尉のいわゆるMインシデント〔事件〕それ自体が、僕には顔から火の出るほど恥しかったが、翌日、それに輪をかけたようなことが起り、僕は古風な物のいい方だが、全く穴があったら入りたいような気がした。G中尉はやって来るなり、M大尉を呼んでくれといい、今から自分のいうことは逐語(word by word)翻訳しろと僕に命じた。日本軍隊におけるスラッピングの習慣については、昨日石川から聞いた。さらにアパリの仮収容所で、昨晩、向うにいる通訳を通じて、T中将の意見を聞いた所が、石川とまったく同じことを答えた。すると、自分はM大尉とAとに、USアーミイの習慣に基づいて罰を加えたことになる。習慣の相違を知らずに処罰したことは、自分の間違いだから、これを取消す……というのである。まだ若いG中尉のこの態度と言葉とに、僕はこれはかなわないと思った。 DDT  G中尉はボストンの人で、M大学の二年の時、陸軍に入った。一体僕はいくつに見えると聞かれて、大体二十四というところでしょうと答えたが、まさにその通りであった。非常に真面目で、誰にもましてよく働いた。例えばある朝、水運搬の車が来ず、リスター・バッグが全部からになった時の如き、何度も何度も本部に電話をかけて催促し、昼飯のために本部に帰るや否や「まだ水は着かないか」と、病院に電話して来た。丁度その時トラックが着いたので、当番の米兵曹長がその旨答えたが、仕事については、こんな風だった。  僕等より一足さきに、病院に着いたM中尉は、英語が出来ず、薬の話などするのに困ったが、G中尉が薬名が分らないと、例の亀の甲みたいな化学記号を書くので「あの人は薬剤師か何かではないでしょうか」といっていた。そのことを話すと「僕はM大学を出たら、ハーヴァードの医学校に入り、医者になろうと思っていた。従って化学の勉強もしている。日本が戦争を起しさえしなければ、僕は今ごろはドクターになっているのだ」と笑って答えた。  病院での衛生兵の仕事の一つに、DDTの撒布があった。五ガロン入の丸缶の内身を、ドラム缶入のディーゼル・オイルとまぜ、別のドラム缶と、交互に入れかえること二十回、長い竹の棒でよくかきまぜた上、二十四時間放置したのを霧ふきで、ふきかけるのである。すごく利く殺虫剤で、現在は、まだ、一般市場には売出していないとのことであった。その後DDTに関して色々と聞いたことを綜合すると、大体次のようである。わが国でも進駐軍が方々で使用しているので、このごろはDDTのことが、新聞や何かに時々出る。参考のために、聞いた話を書いておく。  DDTは DICHLORO-DIPHENYL-TRICHLOROETHANE の略称である。一九四二年、フロリダ州のオルランドで、陸海軍と農林省とが――それも極めて少数の軍医と昆虫学者だけが知っていた――試験を始めたが、結果が良好なので、北アフリカ、ナポリ等の戦線で使用し、サイパン島では、上陸前に、飛行機からこれを撒いた。市販の殺虫剤は多いが、DDTはそれ等のどれとくらべても、殺す虫の種類が多いこと、殺虫率がほとんど百パーセントであること、一体どの位長い間有効なのか、まだよく分らぬ程、有効期間が長いこと、という三つの特点を備えている。  この第一と第二の特色で、人間に一番害をする虱、蚊、蠅の九五ないし一〇〇パーセントをDDTは殺す。虱はチブスを、蚊(アノフェレスと一筋まだら蚊)はマラリアとデングを媒介する。普通の家蠅は色々の細菌をはこんで廻るが(すくなくとも三十種類の病菌が蠅によって伝播される結果、北米合衆国で一年に七万五千人の死者を生ずる由。米国みたいに衛生設備のととのった国でこれだとすると、他の国では大変な数になるであろう)これ等三つの害虫に対して、DDTはひとしく有効である。  蚊については実際の数が分っている。一九四四年、アーカンソー州のスツットガート市で、一八平方マイルの地域にDDTを撒布した。スツットガートは蚊が多いので、米国での「蚊の首府」と呼ばれているそうだが、DDTを一回まいただけで、この一八平方マイル区域外の建物一につき、成育した蚊が平均三〇九匹見出されたに対して、区域内では、たった三匹しかいず、しかもこれが五、六、七、八、九の五ヶ月にわたってのことである。  第三の特色、即ちDDTの有効期間の長いことについては、次のような話がある。一九四二年オルランドの研究所で、木綿のシャツの袖に、DDTの五パーセント溶液をつけ、それに毎朝、「健康な虱」の一群が植民された。翌朝検査すると、虱は一匹残らず死んでいる。それに、また「健康な虱」の一群を植えつけ、翌朝調べると、これまた全部死んでいる。これを毎日繰返すこと、六百十九日(報告書作成の日)、その間にこのシャツを八回洗濯したが、DDTの効力は一向減っていない。だから、DDTの有効期間は、まさか無限ということもあるまいが、とにかく非常に長い。(一言お断りしておく。ここにあげた数字は話を聞いてすぐノートしたので、万、間違いはあるまいと思うが、かりにあったとしても、ひどい違いはないと信じる。この点、読者諸兄に安心して頂けると思う。)  ところでDDTは誰がつくったかというと、今から七十年もの昔、ドイツの一化学者が作ったのが最初である。何という人かは聞きもらしたが、彼は単にその化学的構造を記載したのみで、何もしなかった。飛んで一九四〇年かに、スイスのJ・R・ガイギーという会社が、家畜にたかる蠅を殺す薬を製造し「ゲサロール」と名づけて販売したが、それは七十年前、ドイツの化学者が発明したものの商品化だった。これが米国へ渡ったについては、色々と面白い話があるらしいが、あまりはっきりしないから、ここには書かぬことにしよう。  このDDTを毎日、便所やゴミ棄場を始めとして、各病棟に撒布するので、蠅や蚊はまったくいなくなる。その後、アパリの収容所でも同じことが行われ、最後に移されたマニラ南方の収容所でも、DDTは盛んに使用された。最後の収容所といえば、そこに着いて毛布を受取り、一晩寝て起きると、身体がムズムズする。話をしていた本社の同人が、「石川さん、失礼」といって手をのばし、僕のシャツの襟から虱を一匹つまみ上げたにはゾッとした。それでDDTの撒布係が来た時シャツの背中にふっかけて貰った。この薬は身体に附着するとかぶれるといい、従って衣類に付くことも警戒していたが、僕はオルランド研究所での話を聞いていたので「いいんですか」「大丈夫」という訳で、シャーシャーやって貰った。果してその後、虱は一匹も発生せず、帰国のリバティ船では千五百人の兵隊とゴロ寝で、その兵隊の中には、甲板での虱潰しを日課にしている者も多かったが、僕には虱がつかなかった。驚くべき薬が出来たものである。なお米国で雑草や有害植物を根絶すること、DDTの害虫におけるのと同様に強力な薬が、戦争中に発明製造されたとのことで、その話も聞いたが、折悪しくノートを持っていなかったので、詳しいことは忘れてしまった。ただ、DDTが利き過ぎて、たとえば花粉の媒介をする有用昆虫も殺してしまうように、この薬も、また、有用植物をひっくるめて枯らすので、撒布方法に深い注意を払わねばならぬという事実は、興味深く聞いた。DDTの話はこのくらいにしておくことにする。 兵隊と民主主義  アパリの海岸病院は長く続かなかった。というのが、折から九月下旬の颱風季で、海が荒れ始め、とうとうしまいには波が病院構内に打込むようになった。病院といっても、砂の上にコットを並べただけなので、幕舎によってはコットの下を波が洗い、砂地ではあるが、所々に水溜りが出来た。砂が水を吸い込む程度以上に、水が入って来るのだから、始末が悪い。ある朝、トラックがドンゴロスの袋を何千とはこんで来て、われわれ健康者は総出で砂嚢をつくり、三個積み上げたものを二列にして、病院の正面海岸に並べたが、波はそれを飛び越したり、洗い流したりする。午後遅く颱風警報が出るとともに、G中尉は、今晩中に病院を移転しようと決心した。丁度、颱風のピークが、この地区を通過するのが深夜で、それが同時に満潮にあたる。愚図愚図していると、病院が流されてしまうかも知れないのである。それで、晩飯が終ると、トラックが続々とやって来た。正面は波が打込んで通れないので、裏の方の鉄線を切って出入口をつくり、まず婦女子をはこび出し、次に担送患者と独歩患者とをはこんだ。吹き降りの夜、僅かな懐中電灯とヘッドライトとで行うこの作業は、病人相手であるだけに、ある程度の混雑を伴ったが、みんな一生懸命にやったので、二時間で片づき、最後にG中尉と僕とが、構内くまなく見廻って異状なきを確かめ、それで海岸の病院は閉鎖になった。  移転さきは、同じアパリの海岸だが、自然か人工か、高さ二間ほどの堤防があるので、海は見えず、もちろん波が打込むというような危険はない。  それのみか、前の敷地が、草のまるで生えていない砂地で――防風みたいな草が若干あったが食って見たら苦かった――風が吹くとこまかい砂が食器やコットの中に舞いこんで弱ったが、今度の場所は草地でしかも水はけがよく、この点めぐまれた。  アパリのストケードは広かった。柵はなくて、アコーディオン・ワイヤをめぐらし、その外側に十二のポストを置いて比島兵が警備していた。アコーディオン・ワイヤというのは、路上に横たえて自動車等の通行を邪魔する有刺鉄線で、捲くと小さくなり、引張ると延びる具合が手風琴に似ているので、こう呼ばれる。鉄線の外、ところどころに電灯がつき、なお電灯は正面入口――といって、出入口は一つしかない――や診療所、その他二、三の幕舎にも引いてあった。  正面入口から向って右に二列に並べた天幕が病院、その前の広い通路をへだてた左側とつきあたりにズラリと並べた天幕が、一般PWの住所、便所と塵埃焼場は、正面を除いた三方に適宜に配置され、非常にしばしば埋めては新しいのを掘った。便所はいわゆるラットリン(聯繋便所と訳す)。バーラップでかこい、長い板二枚を固定し、一尺ほどの間隙には、針金を取手とする可動式の板を置いて蓋とした。使用後は空缶で砂をかけ、蓋をする上に、毎日例のDDTで消毒するから、きれいなものである。塵埃焼場も深い穴で、可燃物と空缶類とは別々の穴に投入れることにした。そしてHという衛生兵が、毎日ガソリンか重油を注いで焼くことを仕事にしていた。  Hは床やさんである。海岸の病院で、あまりに頭の毛の伸びた者やすごい鬚面が多かったので、特にラロの仮収容所から呼びよせた。米国の兵隊は身ぎれいにしている。鬚なども丁寧に剃っている。実は僕自身も、二十数年間来、毎朝鬚を剃る習慣であったが、逃避行の間に乃木大将みたいに鬚が生え、収容所でもその癖がついて、剃刀(安全剃刀は持っていても差支えなかった)を使うことが、ひどく億劫になってしまった。ある時、三日ばかりも鬚をそらずにいたら、G中尉に注意された。「身体的清潔の手本にならねばならぬ君がそれでは困る」といわれ、早速H君に剃って貰い、その後は出来るだけ、身ぎれいにするようにした。タオルや手拭を首にまいたり、鉢巻をしたり腰にぶら下げたりすることもやめるようにしたし、服なども出来るだけ修理するように、お互に注意した。これは病院だけの話ではなく、仮収容所全般を通じてのことである。  というのが、海岸から移って行った仮収容所の、一般PWの方は、その後転任になったが、DというS大学出身の中尉が長をしており、病院の方は、すでに御承知の通り、G中尉が長だった。そして一般ストケードに兵隊さんの通訳が二人、病院の通訳は僕だったが、年齢の関係か、僕に両方ひっくるめての首席通訳になれといわれ、単に通訳であるよりも、一種の総支配人みたいになってしまった。京大出身のT中尉と東大出身のW軍曹とが主になって収容所のアドミニストレイションに当っていたが、二人とも気持のいい人で、愉快に仕事を手伝ってくれた。  W軍曹はハーモニカが上手だった。夜など、よくハーモニカをふいたが、流行歌からいわゆる軽音楽、ビゼーはまだよしとするもワグナーまでハーモニカで吹きこなすには、少々吃驚した。レコード仕込みにしては、大したものである。ある晩の如き、僕はマイスタアジンガーの話に夢中になり、十二時近くまで喋舌り込んだ。捕虜収容所でも、みんなとんがらがっていたばかりではない。その後の経験によっても、アパリのここが、一番和気藹々としていたようである。G中尉の厳格ながらリベラルな態度が、このような雰囲気をかもし出したのである。日本側の捕虜収容所で次々に起った虐待事件が、あかるみに出ているが、もし米国で、模範的捕虜収容所長を表彰するようなことがあれば、僕はG中尉をその候補者にあげようと思っている。別して、初めて米人に接する日本の兵隊に、真のデモクラシーが如何なるものであるか、身をもって教えた、いわば、無言の教訓は、大きなものである。「米国では将校でもあんな風なんだな」とか「日本の将校とはまるで違うな」とか、よく兵隊が感心していた。物を書いたり、ラジオで放送したりするよりも、わが国の民主化に、この方がどれほど効果的であるかは、いうまでもない。  D中尉がS大学出身、G中尉がM大学というので、ラロで聞いた話を思い出し、「この大隊の将兵の八〇パーセントはカレッジ・グラデュエートだといいますが」と質問したら、大学卒業生や大学生が他にくらべて多いことは事実だが、八〇パーセントは少々話が大きすぎるとのことだった。兵隊の噂話は、どの国でも似たりよったりだと思った。  この両中尉の上に、Mという少佐がいた。いかにも精悍そのもので、いつも乗馬用の鞭を持って歩き、初めは近より難いような感を与えたが、追々と英語でいわゆる「ドライ・ユーモア」の持主であることが分った。  これは、ユーモアとは何の関係もない話だが、ある時、北部ルソンの山の中を三週間あまり、食うや食わずで迷い歩いた兵隊が七、八名、比島人につれられて収容所に着いた。元来ここの収容所には、カミギン、フガ、ダルピリ、カラヤン、バブヤン、バタアン群島――最後のは全く同じ名なのでよく混同されるが、マニラ湾の西北方にのびているバタアン半島とは違う――等の、バシー海峡の島々からの捕虜が多く、空襲を受けたことを別として、戦闘はしていない上に、舟艇で直接アパリに着いたので、装具はたっぷり優秀なのを持っており、元気もよかった。これにくらべると、山の中を歩き廻った人達は、惨めなものである。この数名も、半分はすぐ病院へ入れた程弱っていた。それでも一行中の中尉と少尉とは、いくらかしゃんとしていたが、着いた翌日、M少佐の所へ若い将校が四、五人来て、収容所を見学し、質問したいことがあるが差支えないかとG中尉に申込んだ。G中尉は「紳士諸君がサード・ディグリー〔拷問〕さえやらなければ……」と冗談をいった上で、二人の日本側の将校を呼んだ。収容所を入ってすぐ左手の天幕を、我々は事務所にしていたので、そこに二人は現れた。長い机をへだててベンチと椅子若干。机の上にはルソン島の地図がひろげてあり、M少佐は机の一端に、僕は彼の右に坐り、米軍の将校達はその辺に立ったり坐ったりしていた。  伝令に導かれて入って来た二人は、どんな目にあうのか分らないので、オドオドしていたが、「お坐りなさい」とベンチに腰をかけさせ、シガレットなど渡してから「いつ、どこで、どんな戦闘をしたか」「その時の数はどのくらいだったか」等、軍人の質問らしい質問がいくつかあった上で、大体、どこからどんな道を通ってここに来たかという質問が出た。詳しいことをここに書く必要はないけど、とにかく大変な密林の中を、雨に叩かれ、増水した渓流を数十回も徒渉し、病死者や渓流に溺れた者が次々に出る……という逃避行をしたのである。すると一人の中尉が「それは苦しい行軍だったろう」といった。その言葉が終るか終らぬかに、M少佐が「これはどうだ?」How about this ? と、ひとりごとのように低い声でいって、シャープ鉛筆の尻で、コツンコツンと地図をたたいた。見ると鉛筆の尻は、サンフェルナンドの附近に当っている。バタアンからカバナツアンに至る、いわゆる「死の行軍」を意味したのである。将校達には、これが聞えなかったらしく話はいつか、まるでほかのことに移って行き、日本の将校はポカンとしていた。  米国民のわが国に対する憎悪の念は相当に強いものと思わねばならぬ。だが米国人は執念深く怨みを持ち続けるような人々ではない。いつかは戦争のことも忘れるであろう。しかしバタアンの「死の行軍」と、真珠湾の奇襲(米国人はスニーク・アタックと呼んでいる)とは、いつまでも彼等の心に残ると思う。前者は日本人が残酷であるということで。後者は日本人が決して信用することの出来ぬ国民だということで。(Sneak という語は小さな英和辞書にも出ているが、こそこそと小悪事をはたらいたり、裏をかいたりすることである。) 投降勧告  話はかわる。九月二十九日、突然ゴンサカへ行けという命令が出た。アパリからちょっと南へ下り、東方へ入ること約四十キロの地点の町がゴンサカで、その附近の山中に日本兵が四、五十名出没し、掠奪を働くという情報が入った。恐らくこれ等の日本兵は、終戦を知らぬらしい。彼等と連絡し、投降を勧告せねばならぬ。ついては日本軍の将校を派遣し、僕に通訳として同行せよというのであった。日本の将校が日本軍と連絡するのに、通訳を必要とするのは変だと思ったが、これは僕の誤解で、事実は次にお話しするようなものだった。  若い少尉二人と一緒に僕はトラックに乗り、比島兵が一人、警衛に乗込んだ。大隊本部へ行くと、M少佐が玄関に出て来て改めて命令を伝え、別の少佐(太った人で工兵の襟章をつけていた)がジープを運転して走る後から、トラックはついて行った。五号幹線を外れると、ひどい路で、僕の身体は何回か宙に飛び上ったりした。後でG中尉にこの話をしたら「そうだろう、あの路はトーチュア・トレイル〔拷問街道〕という位だ」といっていたが、まったく骨がバラバラになるような気がした。  ジープから随分遅れてゴンサカに着くと、ここは静かな、豊かそうな町であった。ジープを取巻いていた比島人が数十名、今度はわれわれを取巻いた。ゴンサカ町長の話で、日本兵はここからさらに二十キロばかり離れた山中に、直径約十キロにわたって出没すること、はじめアパリに伝わった情報とは違って死傷者は出ていないこと、比島人を襲撃したことなどなく、食物をさがしに空家荒しをやっていること等が判明した。その地点に一番近いバリオ〔村・区〕は、ここからトーチュア・トレイルを二キロほど引返し、南方へ小径をたどること数キロの所にあり、ゴンサカ町長はそこのバリオ・プレシデント宛に手紙を書き(イロカノ語であって、僕に理解出来たのは「日本将校二人」ということだけだった。ついでだから書いておくが、比島には方言が沢山あるが、「数」はどの方言でもほとんど同じである)、「日本将校二名がこれこれの用向きを帯びて貴地に赴くについては、十分保護して目的達成に助力してくれ」と伝えるのであった。町長ともなれば英語はよく分る。僕に手紙を訳してくれた上、決して心配はないといった。さらにアパリから来た比島兵が、このバリオの出身者なので、案内と警備を兼ねて一緒に行くことになり、僕は町長にも、この警備兵にも、日本の将校が米軍の命令で行動するのであることと、全く武器を持っていないこととをよく説明し、万全の保護を依頼した。  ところで、僕自身はどうするのか。若い少尉の一人は英語は分るが不完全である。僕は山の中に入るつもりで足ごしらえもして来たが、勝手に行動することは出来ない。工兵少佐に「自分はどうするのですか」と聞いたら「通訳はここにいる用はない。アパリへ帰るのだ」とのこと。十月一日正午に、ゴンサカの町はずれにあるクリークの、向う岸にまでトラックをよこすから、日本兵はそこで投降すること。連絡が取れなければ、手ぶらのままでやはり十月一日にはゴンサカまで引返して来ること……このように話がきまり、少尉二人はCレーションを袋に入れて再びトラックに乗った。僕は途中で二人を降し、運転台に乗って日暮時、アパリのストケードに帰った。  十月一日、僕は朝から落着かなかった。あの二人がどうしたかが心配になっていたのである。比島人に襲われていはしないか。友軍から射撃されてはいはしないか。連絡が取れたにしても、うまく説得することが出来たかどうか。ミイラ取りがミイラになって、山の中へ一緒に逃げ込んでしまったり、あるいは例の「玉砕」で刺しちがえて死んだりしたのではあるまいかなどと、年よりにありがちの取越苦労という奴で、あれやこれやと思いめぐらすのであった。約束の一時までにゴンサカに着くためには、遅くとも十時には出発していなくてはならぬ。しかるに十時が十一時になっても、正午を過ぎても、何の話もない。前に書いた通り、我々は入口のすぐ左手のテントを事務所にしていたので、僕はここを離れず、三時頃までも入口に注意を払っていたが、それらしい投降者はやって来ない。すると三時半頃、一台のジープが走って来て、すぐ大隊本部へ来いとの命令である。本部まで五分もかからない。着いて見ると、ガランとした部屋にゴンサカへ行った少尉が二人、落着きなく立っており、その一隅ではM少佐が大きな声で電話をかけている。「どうしました」と聞くと「連絡出来ませんでした」と答える。やがてM少佐が電話を終り、工兵の襟章をつけた太った少佐も、どこからか葉巻を啣えて現れると、報告が始った。詳しい地図を書いての説明によると、山の中を小川が流れており、その支流、分流の各所に民家があり、住民はエヴァキュエート〔避難〕して空家になっている。日本兵はその家々を転々として訪れ、ある家には宿泊し、ある家では炊事した形跡があるが、炊事の後などから判断すると、すくなくとも、ここ二週間はこの附近に来ていないらしい。所定の時日が迫ったので、それ以上山中に入ることが出来ず、主要な家四軒に貼り紙をして来た。もう一度引返してよければ、何とかして連絡を取るとのことだったが、M少佐は、今の所はそれでよかろう、これ以上することはないといった。  ストケードに着くや否や、僕は二人に聞いた。「比島人はどんな具合でしたか」と。二人とも無事に帰って来た以上、襲撃事件などがなかったことはもちろんだが、それにしても、どんな扱いを受けたかは「ドロボー、バカヤロー」が盛んであるだけに、僕が最も関心を持っていたことなのである。ところが、これは二人にとっても意外なことだったらしいが、実によくしてくれたそうである。比島兵は親切だったし、バリオ・プレシデントは自分の家に泊めて、毛布がわりの布をかしたばかりか、飯を炊いてくれた。Cレーションはおみやげにして皆で食ったが、向うでも、おかずをつくったし、果物や酒も出したという。僕はゴンサカで数十名の老幼男女に取りまかれた時、すでに感じていたが、米国の少佐もドライバーもどこかへ行ってしまい、つまり僕を保護する立場の人は一人もいなかったのだが、何らの敵意を示すものもいなかった。これ、あるいは僕が米軍の通訳であることが知られていたが故であるかも知れず、また誰が見ても僕がシヴィリアンであることが分ったからであるかも知れない。しかし山に入った少尉二人の場合は違う。第一、二人とも軍服、それも島から来たのでパリッとした新品を身につけている上に、階級章までつけている。また一人は、英語は出来るが、片言程度であり、イロカノ語にいたっては僕以上に知らないのだから、自分等の立場を説明することなど困難だったろう。すると、これは、ゴンサカ町長が引受けたことが正しく、かつ厳重に守られたのと(「そして」、ならびに「あるいは」)この附近に、もし米軍上陸以前に日本軍が駐屯したことがありとして、その軍がよほど比島人に対して正当、かつは人道的な態度をとっていたかの、一つ、あるいは両方が原因していると思う以外に解釈はつかない。何にしても気持のいい話である。 収容所の生活  アパリのストケード生活も、いつか軌道に乗って来た。朝、病院側から移動の報告があり、その人数に応じた糧食の配給が行われる。衛生兵が Ten-in-one の箱をかついで病院事務所に集まり、そこで箱をあけて、幕舎別にビスケットや缶詰を分配する。流動食を必要とする病人のために簡単な炊事場が設備され、ここで熱いスープや前に書いたシリアルを煮たものなどが調理された。G中尉の心づかいで濠洲産のコンデンスド・ミルクが贈られたこともあり、重病人や赤坊たちは大よろこびであった。  病院側が終ると、次には一般PWからの申告があって、同様のことが行われた。食物は豊富であり、水も十分にはこばれた。  僕たちはストケード内の清潔と衛生に全力をそそいだ。その結果、大きくいえば塵ひとつとどめぬ程きれいになった。それについては、こんな話がある。  ある日、若い将校が二、三人参観に来て、G中尉と僕とが案内をした。一人の将校は構内が非常に清潔なのに感心して、「米軍のキャンプでも中々こんなにきれいではない」といった。G中尉は少々くすぐったかったらしく「そういってくれるのは有難いが、ここにいるのはPWで、ほかに何もすることがなく、掃除ばかりしているから、こんなに奇麗なのだ」といった。  ある時用事があって米軍の事務所(柵外)へ行くと、机の上に読み古した本が一冊おいてあった。オニイルの LONG JOURNEY HOME である。僕はとびついて「これを貸してくれないか」と当番の兵隊にたのんだ。「誰のだか知らない、持って行きなよ」との返事に、僕はよろこんで自分のテントに持って帰り、夢中になって読んだ。僕にとっては、なつかしい本なのである。  恥をあかせば「ロング・ジャーニイ・ホーム」がオニイルの海洋小説集であることを、僕はアパリの収容所で初めて知ったのである。マニラで沢村勉君〔シナリオライター、当時報道班員としてマニラ在〕にすすめられて一緒にこの映画の特別試写を見て、監督ジョン・フォードにすっかり感心したのだが、少々遅刻したために、当然原作者の名が出ているはずの字幕を見落し、所々、これは何時か何処かで読んだことがあるな……等と思いながら、実はそのころある事情から映画の「演出」方面に興味が片よっていたので「原作」にまで注意が及ばなかった。その原作を、図らずもここで読むことが出来たのである。僕がよろこんだのも無理ではあるまい。  フォードの作としては、もう一つ HOW GREEN WAS MY VALLEY を、これもマニラで見た。「タバコ・ロード」と「怒りの葡萄」もフォードが手がけたことは知っていたが、この二つは見る機会がなかった。僕はここでフォード論をしようとは思わない。「家路」と「緑の谷」〔「わが谷は緑なりき」〕とでフォードが並々ならぬ人物であることを知ったと書くだけで、今の場合、満足しなければならぬ。話は面白い方向に展開して行くのである。  夢中になって「ロング・ジャーニイ」を読んでいた僕は、G中尉が横に立っているのに気がつかなかった。「そんなに一生懸命になって何を読んでいるのか」と声をかけられ驚いて立上り、オニイルもさることながら、ジョン・フォードに惚れ込んだことを話すと、G中尉もフォードの崇拝者を、場所もあろうにアパリで、しかも捕虜の間に見出したことに驚き、M大学でフォードの息子と同室であった関係上、父のフォードもよく知っているといった。「こんな本をどこで手に入れた」「オフィスの机の上で」……G中尉はタイトル・ページに書いてある名を見て「この兵隊は帰国した。本は置いて行ったのだろう。君が読み終ったら僕も読みたいから廻してくれ給え」といい、その日はフォードの話をしながら構内を巡視した。  G中尉は「ロング・ジャーニイ」と引かえに A TREE GROWS IN BROOKLYN という小説をかしてくれた。その後映画雑誌の古いのを見ていて、これも映画になったことを知った。この二冊と、バギオに逃げていた時読んだロバート・ネーザンの ONE MORE SPRING と、その後上陸用舟艇で読んだ THE MOUNTAINS WAIT ――ナルヴィックの市長だった人が書いたナチ治下のノルウェーの話――との四冊は、それぞれ異なった意味で僕に深い感銘を与えた。逃避行の間に、またPW生活にあっても、いい本を読むことが出来たのは、僕のよろこびであり、米国が文化問題について深い考慮を払っている証明にもなる。というのが LONG JOURNEY も A TREE GROWS も、特に遠征軍の将兵用として著者と出版者の許可を受け、小型の仮綴に複製したものなのである。雑誌類も広告を取りのぞいた小型版が沢山出来ている。このようにして容積と重量とを節約した本や雑誌をフンダンに前線に送る。日本文化を南方に紹介するとは名ばかりで、将校用の料理屋に敷く畳を送るのに船舶を用い、船が足りないから本が送れないなどといっていた日本は、何が精神文化の国だっただろうか。  話は変るが Ten-in-one にはキャメル、チェスターフィールド、ラッキー・ストライク等の煙草が入っている。またチョコレートその他のキャンディも入っている。ところで前にも書いたように十人分を十五人で分配するので、煙草にしても菓子にしても、毎日全員に一箱ずつ行きわたる訳には行かず、殊に煙草は十本入と二十本入があるので、不公平になることを避けるため、それ等は全部引揚げ、一定数に達した時、改めて分配することにした。大体一人あたり一日六本ないし九本で、また菓子類は人によっては多すぎた位である。僕など煙草は別として、食物はいつも残した。今から考えると惜しいような気がする。 墓参  在留邦人の婦女子の中には、どこをどう歩いてか、マニラから来た女もいたが、その大部分は北部ルソンの、例えばツゲガラオや、また現に彼等が収容されているアパリで、雑貨商をいとなんでいたりした者の家族であった。そのアパリ組の一人が、ある時僕に次のようなことをいった。 「私はここで家を持ち、赤坊が生れたが、すぐ死んだので、ここの墓地にうめてあります。ここにいる間に一度墓参りをしたいと思うのですが、許してはくれないでしょうか。聞いて下さいませんか」  承知しましたと答えたものの、いかにお墓参りとはいえ、収容所から外に出ることは、常識的に考えても困難である。それに米軍側があまりよくしてくれるので、甘えるように思われるのも心苦しく、僕はしばらくそのままにしておいたが、十月もなかばを過ぎ、どうやら移動がありそうな気配になったので、ある日G中尉に聞いてみた。すると考えていたこととは全く反対に、それでは兵隊をつけてやるから、今すぐ行くようにいい給えとのことで、その旨を伝えに婦女子のテントへ行った。僕は用事の関係上、すぐ引返して構外の事務所にいたが、ふと気がつくと、当の婦人を先頭に、五つになる女の子やお婆さんや、何と六人もゾロゾロと門から出ようとしている。私は「ア・ウーマン」といったのに、これでは「ア・グループ・オヴ・ウイメン・エンド・チルドレン」である。大きに話が違うので出かけて行き「お墓参りはあなた一人ではないのですか」と質ねると、「この人は赤坊が生れた時から知っているし、この人には病気の時親切にして貰ったし、この子は母親と一緒に行きたがって承知しないし……」という長話が始まった。「ちょっと待って下さいよ」と僕は責任上、もう一度事務所に引返し、丁度居合わせたG中尉に、「御覧の通りのパーティが出来てしまったんですが、かまいませんか」と聞いた。G中尉は「これは少々ツー・メニイだ」といって、入口の所へ行き、前から命令を受けていた米国兵一人のほかに比島兵一人に新たに命令を出し、都合二人の兵隊がエスコートすることになった。この老幼の婦人パーティはまるでピクニックでも行くように、嬉々として砂地の路を墓地の方へ歩いて行った。きれいに着かざった女の子や、日本でも近頃はあまり見受けないアッパッパを着込んだ婆さんやが構成する一団体が、ストケードから出て行く光景は、けだし珍妙なものだった。僕と、友軍投降勧告のためにゴンサカへ行った二人の若い少尉を除いては、ストケードから外出した日本人は、この一群だけである。  外出ではないが、ここから南方へ移動させられたPWは多い。出て行く者に比して、入って来る者はまるでいなくなった。移動は時として一時に数百名にも達し、そんな時は我々はテンテコ舞をしたが、追々馴れて来て、短時間に手際よく処理した。病死者もほとんど無く、アパリのストケードには平穏な日が続いた。喧嘩口論などは、ただの一回も起らず、米軍側の命令はよく徹底した。G中尉は万事を僕にまかせた。僕はこの信任を裏切らなかった。これは天地神明に向って、大威張でいえることである。ある時の如き、G中尉は僕に向って「自分はこのストケードのほかに、米国兵の営倉も受持っている。そこには酔っぱらい常習の兵が一人入っているが、兵隊が三人自分の下で働いている。ここには三千人もいるが、ここの方がよっぽど世話がやけない」といった。  この平穏をかき乱したのは、時々やって来る颱風である。猛烈な雨を伴い気温もまた下る。そんな時我々は褌まで濡らして、天幕の縄をしめ、杭を打ちこむのであった。しかし、海岸の病院とは違って、前にも書いたように堤防があるので、海水が入って来る心配はなく、下は草の生えた砂地なので水はけもよかった。それに、何より有難いのは、雨水で行水をつかったり、洗濯をしたりしたことである。ここでも天気のいい日には海水浴をしたが、どうも塩水ではサッパリしないし、それにこの海岸に近く、悪い底流があって、ちょっと危険なので、女や子供は海に入ることを躊躇していた。だから大雨は、一失一得を伴い得の方が大きかったかも知れない。  特に颱風のひどかった翌朝、G中尉が「とてもおかしなことがあった」と話した。夜中に部下の兵隊が便所に行ったところが、天井にしてあるテントがつぶれ、周囲をかこっているバーラップ――日本の兵隊はドンゴロスと呼ぶ。これはオランダ語か何かかも知れない――も吹き飛ばされて、兵隊はクルクル簀捲きにされてしまった。もがいても動いてもどうにもならず、今朝便所がつぶれているので五、六人の兵隊が片づけに行き、エンヤエンヤと布を引張ったら、中からズボンを下ろしたままのねぼけた兵隊が、ころがり出したというのである。これはおかしかったろう。  G中尉とはよく話をした。バタアン半島の「死の行軍」のあとは、証拠がために実地踏査をした。いまだに米兵の死骸がころがっている所もあり、比島人に何故埋めないのかと聞いたら、埋葬すると日本人が怒るからだと答えたという。マニラでの暴行から、さかのぼってはいわゆる「南京のレープ」に関する新聞記事まで想起して、日本人はどうしてこんなに残酷なのだ、人間とはいえないではないか。これについては、ニューヨークの有名な神学校を出たという軍の通訳、某に質問したところが、彼は「日本は正しいことをしたのだ」というばかりで、すこしも考えようとしなかった。しかも彼は軍の通訳として比島に来る迄は、教会の牧師をしていたという。とんでもない牧師がいたものだと、まだ若いG中尉は、本気になって憤慨していた。僕は「死の行軍」については何も知らず、マニラがどんなになったかも見ていないから、あなたの言葉をそのまま信用するよりほかに道はない。焦土戦術―― Scorched-earth policy という英語を僕は胴忘れしていたが、「あの、退却する前に、敵に渡すよりは、よしんば味方のシヴィリアンを犠牲にしても……」と僕がいいかけると、G中尉は、「ああ、君は Scorched-earth のことを意味するのか」と、即座にいった――は、ナポレオンのロシア遠征の時にも行われ、中国ではしょっ中あった。ロシアは「顔は西を向き、心は東を向く」と昔からいわれているように、多分に東洋的な心理を持っている。すると、焦土戦術は、あなた方西欧人には理解出来ぬ東洋人の心理かも知れない。南京事件も僕は従軍したのではないから、何ともいえないが、あの頃は underdog であった中国への同情が、実際よりも大きく、米国への報道になったのであろうことも考えられる。日本人はもともとそんなに残酷な人間ではない。モースの JAPAN DAY BY DAY は、よほど前から絶版になっているが、図書館にはあるでしょう。帰国したら読んで御覧なさいといった。(アパリを去る日、G中尉は忙しい最中に僕に向って「君がいつかいっていたセーラムの人の本は何といったっけ? これに書名と著者名とを書いてくれないか」と、手帳をさし出した。G中尉は本当に読むつもりだろう。僕は随分色々な将校と話を交えたが、G中尉ほど真面目に、真剣に、僕の考えを聞こうとした人は他にはいなかった。もっともそんな長話をする機会にめぐまれたのは、彼と共にあったアパリの仮収容所だけだったのも事実だが。)米国だって、かつてはニカラガあたりでひどいことをしたことがある。クライヴ、ヘースティングの時代に英国がインドでいかなることをしたかも、よく知られている。ただ、違う点は、米国でも英国でも、ある分子が行ったそのような行為を取りあげ、厳正に批判し、堂々と非難する別の分子が常に存在し、我々でも読むことが出来る書籍として発行されているのに反して、近年の日本ではそういう風な言論の自由がまったく閉鎖されてしまった。そこに英国や米国の、殊に米国の方に、僕が、すくなくとも今日までの経験によって、はっきりいえることだが、人道的の進歩がある。と、こんな風な話を夜更までしていると、いつか僕は自分がPWで、向うが収容所の所長であることを忘れ、いつだったかケンブリッジの寄宿舎で、若い学生と熱心に話しこんだことがあるが、それと同じような気持になるのだった。(ちょっとお断りしておくが、僕はテクニカルにはPW即ち PRISONER OF WAR ではなく、CI即ち CIVILIAN INTERNEE なのであった。しかしこれは法規上の区別で、僕のいた所は常に PW STOCKADE あるいは PW CAMP だったから、僕自身も、自分のことをPWと書いている。) 水に浮ぶ  アパリにも、G中尉にも、また親しくなった米国の兵隊数名にも、別れる日が来た。十月二十六日、あしたはこのストケードの全員がマニラへ移される、病人や婦女子にとっては、十数時間もトラックでゆられ、さらに無蓋貨車でマニラへ行くことは、とても大変だから、LST〔戦車揚陸艦〕で海路マニラへ送るようにする、そのことを伝えよとの命令が出た。何ということなくストケードは活気づいた。マニラへ行くということは日本へ帰れることを意味する。南へ下るのは、それだけ北へ近くなることである。あちらでもこちらでも、悦しそうな声が聞え、荷物の整理が始まった。僕は無茶苦茶に忙しくなり、自分の荷物どころの騒ぎではなかった。  二十七日の朝、G中尉は早くやって来た。ここでも僕は最後まで残り、きれいに片付き、人員に完全にあやまりのないことを確かめてから、立去ることになった。テントは次々と倒され、たたまれ、ただ三つ残った倉庫用のテントに積み上げられた。コットも、蚊帳も、毛布も、タオルも、同様である。リスター・バッグも木の三脚から外された。一方T中尉とW曹長は、このストケードとLSTが横づけになっているカガヤン河の河口とを往復する数台のトラックに、人々をチェックして積みこむのに懸命になっていた。  最後にT中尉以下の使役兵二十数名と僕だけが残った。G中尉と僕とは、最後の見廻りをした。便所と塵焼場の埋め残しが、それぞれ一つあったが、G中尉は別に叱言もいわなかった。単に使役兵に埋めることを命じ、それを待つま、ポケットからシガレット四箱とパイプ・タバコ二箱を出した。「これは君に上げる。君は非常によく働いてくれた。それからこれは……」と、機械化部隊の袖章を出した中尉は、「ヨーコにやってくれ給え」といった。いつか家族の話をしたことを記憶していたのであろう。三角形の中に、歩、騎、工の三兵科を示す赤と青と黒の三色があり、その中央にタンクと稲妻とが刺繍してある。僕は心から感謝して、「この袖章は必ず陽子〔著者の娘〕に渡します」といった。  たった一台残ったトラックには、使役兵が全員乗って、僕の来るのを待っていた。G中尉は、僕も船まで行くといってジープに乗りこんだ。G中尉は前日も、またその日の朝も打合せのために、数回河口に行っている。もう行かないでもよさそうなものだが、一人残らず海軍に引渡すまでは、仕事が終らないと思ったのであろう。  トラックは三十分ばかり走って、カガヤン河の河口に着いた。風が強く海からは黄色い波が打ちよせる。LSTが二艘、砂に乗り上げている。一艘は船尾がパクリと二つに割れて、そこから鉄板の舷梯が出ており、もう一艘のは左舷に、これも鉄の ramp が出ている。僕等はその後者に乗るようにいわれた。コンクリートの防波堤をすこし歩き、粗末な木の梯子で砂地に下りる。そこには比島人の子供が二十名ばかりいて、例のバカヤロー! をあびせかけた。  G中尉も僕の船に入って来た。いろいろといいたいことがあるが、さて改まって何といっていいか分らない。おまけに用事が沢山あり、それにまぎれている間に、G中尉はどこかへ行ってしまった。  このLSTで「ハロー・イシ!」と声をかけたのが、後で名前を知ったのだが、副長のB中尉である。年はG中尉と同じ位だが、実に楽天家らしくふとっていて、はじめから百年の知己の如く僕を扱ってくれた。恐らくG中尉が僕のことを話したのだろうと思うが、ほかに軍の通訳が二人いたのに、特に僕には色々と打ちあけて話をした。通訳の一人がウソをついたということが、最初の話だった。  それは、次のようなことである。このLSTには船艙が三つあり、その一つにはサックと称するキャンヴァス製のコットがはめこみになっていた。ここに病人と婦女子をねかせ、一般PWは他の船艙に入ってもいいし、また甲板にいてもいいことにした。サックに余分なのがあるが、それにはインタープレターが寝るようにした。ところがPWの士官がサックの一つに横になっているのを誰かが発見し、艦長が僕でないインタープレターにこれはどうしたことだと聞いたら、あのオフィサー、つまり俺が、そうしてもいいといったと答えた。いかにも俺が艦長の命令を自分勝手に変更したようなことになって具合が悪い。とんでもないインタープレターだと、B中尉は僕に話すのであった。その通訳はもう一艘の方に行ってしまったが、君からよくPWの士官にいってくれよとのことで、僕は「よく分りました」と返事した。  艦長からのこまかい注意や船内の規則を、主としてT中尉を通じて皆に伝えたりしている内に、日が暮れかけ、LSTはガラガラとランプを引き上げて出帆した。大きな颱風が去ったばかりなので、波は相当に高い。病人はもちろんのこと、婦女子は全部、船艙に入ってしまった。陸ではあんなに元気だったT君やW君も、海に出るとから意気地がなく、引上げたランプの上に毛布をしいて、もう横になっている。折角あけた Ten-in-one も、あまり食う人がいない。因果なことに、船が揺れると食慾の出る僕は、グリン・ピースの大きな缶詰をほとんど一人で平げ、リスター・バッグの水でつくったココアをコップに一杯のんでから船艙に下りて行き、一番隅の、一番上のサックに横たわった。そして、あちらこちらの船暈の音を聞きながら、波の揺籃に、すこぶる健康な眠りに陥った。 SORRY ISHI!  二夜をすごした三日目の朝、我々はコレヒドールの横を走っていた。一行は海に馴れた上に、もうシナ海のうねりもないので元気になり、上陸の準備にかかった。マニラ湾には米国の艦船がいっぱいで、その中には砲を取外した日本の駆逐艦も五、六隻いた。軍艦旗はもちろん揚げていない。サイドに日の丸を描き、ローマ字で名前を大きく表示している。それから無数の沈没船!  港務所に近い桟橋を素通りして、LSTはトンドの岸に着いた。両方の船から次々と上陸するPWは、次々とトラックに乗って出て行った。アパリでは見たことのないMPやSPが、警備についていた。  B中尉からPW二十名残れという命令が出た。船内の使役である。曹長以下二十二名の一団が残ることになった。もとの分隊だか何だかで、二人だけ離れるのはいやだという。そんな風な旧組織は、捕虜になった時から全部解消しているのだが、これこれでと申出ると、B中尉は二人位多くてもいいよ、但し本当に働ける者でなくては困るといって許してくれた。  それから五日間、我々は防波堤外に仮泊して仕事をした。まずサックの石鹸洗いから始まり、甲板、ドアなどの錆を落して錆どめを塗り、上にペンキを塗ることなどが仕事だった。戦争が終ったので軍艦も平時色に戻る。僕は何もすることがないので、ぶらぶらしていた。何かしましょうかといったのだが、B中尉は「君は本でも読んでいればいいのだ」といって取りあわなかった。僕は艦長の命令で、仕事を開始した時間と終了した時間とを控え、それを報告することだけしかしなかった。  LSTではよくしてくれた。Ten-in-one だけでも充分なのに米をくれたり、鰯や鯖の缶詰や――米軍の携行糧食には魚がまったく入っていない――濠洲製のクラフト・チーズや、時にはグレープ・フルーツ・ジュースの大缶をくれたりした。三十分に一回AR――という水夫長が銀皿にシガレットを入れて来て「休めよ」といった。すこし気をつめて仕事を続けると、誰かが、Take it easy ! と声をかけた。  使役兵の大将をしていた下士官は、とても真面目な人だった。ある時B中尉が「あの男には閉口する。何時、どこででも、僕が通ると飛び上って気を付けをする。窮屈で仕方がない。あんなことをしないように君からいってくれ」といった。日本の兵隊としてはありそうなことだ。僕がニヤニヤしていると、B中尉は「本当だよ、本当にそういってくれよ」と念を押した。それでその晩、甲板で車座になって食事をした時「君達は朝、将校にあったら敬礼し給え。その後はしないでもいい」といって聞かせたが、長い間の習慣で、下士官君は最後まで jump to attention をやった。  仕事が終って、船は再びトンドの海岸についた。艦長は仕事をした時間をタイプで打って、これであの人達は給金を貰うのだといった。彼等は装具を整理し、上陸命令の出るのを待っていた。僕はまだ上陸出来ない。新しい命令が出たのである。それを話すと兵隊達は心細がった。「石川さんは一緒に来てくれないんですか」という。「僕がいなくったって大丈夫。向うにだって通訳はいるんだから、心配しなくってもいい」といった。  丁度日暮方で、僕はランプの上にある鉄の太い杭に腰かけていた。すると一人のMPがドカドカとランプを上って来て、いきなり僕に「お前は日本語分るか」といった。日本人に日本語が分るかと聞くのは少々変だが、その時は何とも思わず、「ああ、分る」というと、「よし、ついて来い。俺はジャップに質問したいことがある」といい、一番近くにいた若いPWに「お前は米国人がこわいか」と聞いた。すると彼は「いいえ、こわくはありません」と答えた。 「何、こわくない。さては手前はまだ米国人をリック〔やっつける〕することが出来ると思ってやがるんだな」と、MPは大きな声を出した。日本兵としては、投降して以来、別してLSTでは、米国兵が親切にしてくれるので、有難いとは思っても、別に恐怖すべき経験をしていないから、「こわくない」と答えたのだが、MPはそんな意味で聞いたのではなかった。次いで「そうか。手前は一体何人米国人を殺したか、いって見ろ!」と怒鳴るに至って、僕はこのMPが酔っていることを知った。こいつは困ったことだと思い、「このPWはバシー海峡の島から来たので、コンバットは一度もしていない。従って米国人を殺したことなどありはしないのだ」といった。この時には、僕等は米国の水兵やアパリから警備に来た陸軍兵に、取りかこまれていたが、その誰かが会話を引取って「君はどこから来た」と直接にMPに質問し、別の人は「そうだ、イシ、このボーイは何歳なのか聞けよ」といい、不穏になりそうな形勢を変えようとした。MPはニューギニアで戦ったといい、まだ何かいいそうにしたが、別のMPが来て腕をつかまえ、ランプから陸へ連れて行ってしまった。  突然、僕の前に現れて“Sorry, Ishi !”といったのが、アパリから警備隊長として乗船して来た少尉である。N大学の経済科にいたということ以外何も僕は知らない。いつも黙ってパイプを吸い、本を読んでいた青年だが、何とPWの僕に向って「済まなかったな、イシ!」というではないか。僕は何と返事していいか分らなかった。そこへB中尉も、どこからか、血相を変えて飛んで来た。「何かトラブルが起ったそうだが……」といい「スキッパー〔艦長〕が晩飯に呼んだMPが……」と誰かがいうと、「いや、そのMPはまだ食堂にいる。別の人間が勝手に入って来たのだ。よし、俺が行ってつかまえてやる」と、帽子をかぶり直すなり、大股でランプを下りて行った。いつもニコニコ笑っている陽気なB中尉が、こんなにまで怒るかと不思議に思う位だった。それ迄あっけに取られていた使役兵達が「どうしたんですか」と聞いたが、僕は「いや、何でもないんです」と答えただけである。  その夜、たった一人、広い船艙の一隅に、たった一つ吊ったサックに横になって、僕は中々ねつかれなかった。“Sorry, Ishi !”という言葉が僕の耳を去らぬのである。何という立派な、男らしい態度だろう。どうして、僕と何等かの交渉のある米国将兵は、こんなに善良な人ばかりなのだろう?――いまでも僕はそのことを考えている。僕は米国人が、百人が百人まで天使だとはいわない。現に勤務中に酔っぱらったMPだっている。事実ありのままを書いているので、何にも米国に頌徳表を奉ったり、お世辞をつかったりするのではない。だが、それにしても、何故、こう頭を下げざるを得ないような経験ばかりしたのだろう。僕だけが幸運だったのかしら? 考えねばならぬことが多い。多すぎて困ってしまう。  B中尉は翌朝、「昨日は本当に気の毒なことをした」といった。僕は「いいえ、いいんです。あのMPはニューギニアで親友か兄弟でも失ったのでしょう」と、考えたままをいった。B中尉は「それにしても彼はここでトラブルを起すビジネスは持っていない。戦争中は戦争中だ。いまは条件が違う。あんな大きな拳銃なんぞぶら下げて、ひどい奴だ」と、まだ怒っていた。 南の海  僕の乗っていたLSTと僚艦とは、マニラで水や食料を積込んだ上、東海岸のカシグランという所へ向うことになった。ルソン島の中北部で山の中へ逃げこんだ邦人のほとんど唯一の希望は、東海岸に出るということだった。海岸へ出れば塩水はある、魚もある、貝もある、食える海草もあるだろう。ロビンソン・クルーソーみたいな生活をしている内には、戦争も終るだろうと考えたものである。僕なども真面目にそんなことを考え、玉蜀黍から豆、さてはひでり草の種子まで準備した。実際問題としては、中部ルソンから東海岸へぬける路は、一本か二本しかなく、それがゲリラによって阻止されているとすれば、山越えをしなくてはならない。高い山は西海岸の方にあるが、山は低くとも猛烈なジャングルをくぐって、果して海岸まで行けるかどうか。また行ったところで、タヤバス州の中部から北は、断崖絶壁つづきで、人間の住むような場所があるのかどうか、分ったものではないが、とにかく「東海岸へ! 東海岸へ!」というのが、ひとつの流行言葉にさえなっていた。事実、東海岸への探検に向った隊もあるが、クマオ地区から出た隊は、僅か二キロ程行っただけで、どうにも動きがとれず、引返して来た。この附近のジャングルは、向うの見透しはきくのだが、とげの生えた蔓草が多く――竹も枝を出し、それにはとげがある――おまけにどこもかしこも同じようで、迷うにはもって来いである。  東海岸ほどの「人気」はなかったが、ゴンサカ街道ということも、よくいわれた。ゴンサカのことは前にもちょっと書いたが、国道五号線に出られないので、それにほぼ並行した間道を北へとり、ゴンサカに出ようというのである。出てどうするつもりか知らぬが、そっちの方へ逃げこんだ人々も決してすくなくはない。それやこれや考えると、まだ相当な数の日本人が、山の中にいるのではあるまいかと思われる。  それはともかく、中部ルソンから東海岸へぬける路の一本の終点がカシグランなのである。そこに日本の兵隊が四十人と、比島のゲリラが五百人だかいるが、兵隊はみんな担送患者であり、ゲリラも雨季に入って山越が出来ないので、これを収容に行けという命令が出たのである。連絡は飛行機で行ったのだが、その後どうなっているか分らない。万事は行って見ての上のことだという話で、マニラを出港したのである。僚艦にも通訳が一人乗りこんでいた。  マニラから南下して、ルソン島の南端を通った。天気のいい日もあり、雨の日もあった。島に近く航海する時は穏かだったが、随分揺れた時もある。僕は全くすることがなく、毎日三度三度すごい御馳走になっては本を読んだ。水兵の食堂の棚がライブラリで、そこには詰らぬ本もあったが、前に書いた THE MOUNTAINS WAIT のような、いい本も何冊かあった。  食糧不足の今日、こんなことを書くと怨まれるかも知れないが、軍艦の食事は、アパリの米営舎での昼飯よりもはるかに大したものだった。ある朝は、大きなホットケークに本物のメープル・シラップをだぶだぶとかけて食った。日曜日の昼飯はフライド・チキンで、しかも一羽の完全な半分であり、これにマッシド・ポテトにグリン・ピースが山ほど添えてあった。パンは米国でビスケットというマフィンみたいな物で、熱いのを食う。ブラックベリイの煮たのがデザート、コーヒは飲み放題。いつだか昼飯に大きなビフテキが出た時は、流石の僕も晩飯が食えなかった位である。  こんな御馳走を食って、濃紺の海を航海していると、なんだか今日さまに相済まぬような気が起る。比島の島々はまことに美しく、飛魚はとぶし、空はきれいだし、ああ、一体何年ぶりでの船旅だろうかと、すっかり、のんびりしてしまうのだった。  ひどい吹き降りの日があった。僕は終日サックに横たわって本を読んだが、ふとスカイライトから黄色い日光がさしているのに気がつき、甲板に出た。すると左手に、まっかな夕焼の空を背景に、富士山よりも、もうすこし鋭い斜面を持つ、完全な円錐形の山が見えた。「ああ、マヨン火山だ」と僕はすぐ気がついた。マヨンが左手に見えるとすると、いつの間にかルソン島の南端を廻って、北上していることになる。「あれがマヨンだ。あれは活火山だ」と話し合っている水兵や陸軍の兵隊と一緒に、しばし僕は舷側によりかかって、この美しい、あまりに形が整い過ぎた山を眺めた。まったく、敗戦のおかげで、山岳州を歩き廻り、大密林の中に住み、今度は名山、マヨンまで見ることが出来たのである。そうでなかったら、僕の比島生活は、マニラだけで終ったことであろう。 カシグラン  ルソン島の地図を御覧になると、東海岸のほぼ中央に非常に長い岬が、まるでフィヨルドか何かのように、南北に走っているのに注意されるであろう。サン・イルデフォンソ岬といい、その一番奥にあるのがカシグランである。我々は波のまるでない湾内を静かに航行して、朝早くカシグランについた。両側は密林が海にせまり、正面には白い砂浜が見える。海水は極めてきれいで、底の砂も見える。それはいいのだが、すごい遠浅で、吃水の浅い上陸用舟艇も、どうにもならんようになってしまった。どこかに桟橋か何かあるとよいがと、士官連中はしきりに望遠鏡でさがしたが、何も見えない。  その中に、遠くの方に、バンカが現れた。こっちへ来いといくら呼んでも知らん顔をしている。僕はとっておきのタガログ語で「ハリカ・リト!」とどなった。「ここへ来い」という意味である。それが通じたのか、あるいは何か用事が終ったのか、恐らく後者だろうと思うが、バンカはノロノロと近づいて来た。老人と、利口そうな顔をした少年とが乗っている。この少年は英語が少々分る。「桟橋は無い。カシグランの町はこの海岸から一キロばかりの所にある。日本兵はいる」大体この位のことが分ったので、我々は昼飯を済ませてから上陸することになった。  僕の乗っていた艦には、ボートが無い。僚艦がボートを下したが、すごく古いボートで、下したとたんに水が入った。僕の艦からは艦長と、Rという陸軍大尉と僕が乗り、僚艦からは海軍中尉が乗った。乗組の水兵や陸兵は、あんまりボートが水びたしなので、面白がって見下している。最後に僕が乗ると、艦長が“Can you swim, Ishi ?”といった。僕は“Yes, sir”と元気に答えた。甲板からは大笑が起った。R大尉がオールを握り、艦長は舳に立って、一本のオールで砂をつついた。僕の仕事はあき缶で水を汲み出すことだったが、いくら汲み出しても後から後から水が入って来るので、何の役にも立たない。そればかりか、一丁も行ったら、今度はボートの底が砂にめりこんでしまった。「こいつはどうにもならん。下りよう」という訳で、四人そろってジャブジャブと水の中に入った。艦の方では口笛を吹いたり、何かいって笑ったり、盛んに我々をひやかしている。我々は苦笑しながら、ボートを引張ったり押したりして、やっとのことで岸に着いた。  ところが我々を町まで案内するといったバンカは、ここに流れ込んでいる相当な大きさの川を、どんどんこいで溯って行く。「歩いて行くと橋がない、川をボートで行った方が早い」というようなことをいうので、我々は再び水びたしのボートに乗って、川をさかのぼった。増水しているのか、いつでもそうなのか知らぬが、この川にははっきりした岸というものが無く、両岸は林が水の中に立っている。大汗を流して、行けども行けども目的地らしいものに着かない。一キロなどとは出鱈目だったのである。みんなブーブーいったが、どうにもならず、一生懸命にバンカを追った。すると右手にちょっとした支流があり、そこの赤土の岸にバンカがついた。我々もボートをつけ、そこからグチャグチャな小径を、ものの二キロも歩いて、やっと村の入口らしい所についた。  比島の田舎で普通に見受ける景色だ。椰子の木立があり、カモテやカモテン・カホイの畑があり、そこにニッパの小屋が立っている、そんな家が二、三軒あった。そこは、さっきボートで上って来た川の右岸だが、相当大きな、頑丈な橋を渡って左岸へ行くと、そこから突如幅の広い道路が始まり、木造家屋の町になる。いつの間にか我々四人は、数名の比島人にとりかこまれていた。町長の家というのに案内される。ここで日本兵は約四十名いるが、病人は一人も出ていないこと、彼等は附近の農家で働いていること、ゲリラは五百人でこの村の人口は五千人、食物がなくて困っていることなどを知った。とりあえず日本の指揮官を呼んでくれと、R大尉がいうと、それではこっちへ来なさいという訳で、別の家へ行った。そこの二階のヴェランダみたいな所に椅子を持ち出し、米軍の将校は腰を下したが、僕は手摺によりかかっていた。ツバという酒を持って来て、これはフィリピン・ビールだから飲んで下さいといったが、将校たちは飲まず、なにやかやと話していた。すると一人の、目付の鋭い比島人が僕の横に来て「お前は日本人か」と聞いた。実はさっきから、仲間同士で、ちょいちょいこっちを見ては何か喋舌っているので、ははん、僕の噂をしているなと思っていたのだ。「そうだ」と答えると、「階級は何だ?」と聞く。「僕は階級は持たない。シヴィリアンだから」というと「何故日本人は捕虜になると皆シヴィリアンだというのか」と、勢いこんで訊問した。これには僕も困った。この比島の愛国者が日本人を何人捕虜にしたか知らぬが、僕自身一度しか捕虜になっていない上に、事実軍人ではないのだから、シヴィリアンだといった迄のことである。仕方がないから黙っていると、今度は「お前は比島に何年いたか」、「三年」、「三年もいれば比島語が出来る筈だ。出来るか?」僕は完全に兜を脱いだ。まったく、その通りなのである。僕は昭和十八年の一月十八日マニラに着き、一月二十九日にタガログ語の先生に紹介され、二月一日から毎週三回稽古をしたのだが、どうも怠者で、ろくろく勉強をしなかったので、平易な日常会話すら出来ないのである。はじめから田舎にでも住めば、タガログ語も上手になったろうが、マニラで英語のよく出来る人達とばかり交際していたもんだから、その点損をした。そんなことをいっても仕方がないから黙っていると、今度は「お前は英語が分るらしいが、マニラに三年しかいなかったにしては、よく英語が分るようになったな」とほめてくれた。  こんな話をしていると、「キャプテンが来た!」という声がして、日本人がやって来た。階級章は取外しているが、将校の軍服であり、但し帽子は比島のそれ、足は素足である。このN少尉を通じて、担送患者は一人もいない事実をたしかめ、明日早朝全員乗艦するように、今夜中に命令を伝達することをいい、僕等はその家を去った。  ボートは依然として水びたしだったが、海は満汐で、今度は歩かないで済んだ。六時頃にLSTに帰り、いつ迄たっても「イシ、チャウ!」の声がかかって来ない。僕はビスケットもチーズもチョコレートも、とても二度や三度では食べ切れぬ位持っていたが、もし晩飯が出来ているんだと無駄になると思い、折から通りかかったB中尉に「晩飯はどうしたものでしょうか」と聞いて見た。「君はまだ食っていないのかい。もう済んだと思っていた。一緒に来給え」といって、B中尉は僕を調理室へつれて行った。当番の水兵が一人皿を洗っている。「イシがまだサパーを食っていない。何か残っているか」とB中尉が聞いたが、生憎何も残っていないのである。「いいんです。僕はチーズもビスケットも持っていますから」といったが、B中尉は耳にかけず、戸棚をあけたり何かしていた。水兵は「卵はどうだい」と、鶏卵の箱を出した。そんな面倒な真似をしてくれないでもいいのである。だが彼はフライパンを下し、「どんな料理をしようか」と聞く。僕は参ってしまって黙っていた。すると「スクランブルではどうだ」と示唆してくれた。「ああ結構」というと、大きな卵を三個割ってスクランブルド・エッグスをつくり、トーストと缶詰の桃とでサパーの準備をしてくれた。一方B中尉は自分でコップを持ってコーヒわかし器からコーヒを出しかけたが、「これはいけない。ぬるいや」といって調理室を出て行った。  熱いコーヒに砂糖とクリームをウンと入れて飲んでいると、前から何やかや話をしていたPが通りかかり、「何だよ、今まで飯を食わなかったのか。ああ、ARがねこんでしまったので忘れていたのだな」と入って来た。Pは戸棚の一つをあけて、厚さ五寸、直径二尺くらいのまるくて平べったいチーズを出した。それを大きく切って僕に食えという。ついでにビールも一本くれた。B中尉やPとは乗艦以来何等かの交渉があったが、卵料理をした水兵とは、この時はじめて口をきいた。そんな人達が、まるで学校の友達が遊びに来た時みたいに、大事にしてくれる。僕はPWであり、こんなに大事にして貰う理由はすこしもないのである。大事にされればされる程自分自身が、また捕虜を虐待したり殺したりしたという日本人が、小さくなって行くような気がして、やりきれなくなるのだった。  翌朝は早くから無数のバンカが二隻の軍艦を取りまいた。PWは乗艦し、百二、三十名のいわゆるゲリラも便乗した。「いわゆる」というのは、この人達が本当のゲリラでなく、避難者であることがすぐ分ったからである。「五百人いるといったが、どこへ行ったのだ」と艦長が艦まで来た町長に質問したら、バンカでどこ迄行ったとか、歩いて行った者が何人いるとか答えていた。  PWの人達は山越をして来る途中、所持品を食物と交換し、ほとんど無一物でカシグランに着いた。仕方がないので、あちらこちらの百姓家に、泊りこんだり通ったりして、手伝をしていた。二週間ばかりもそんな生活をしている所へ、我々が迎えに行ったのである。家によってはとても大事にしてくれたそうで、皆元気だった。まだまだカシグランをめざして行軍して来る将兵が多いといっていたが、その人達はどうするのか。Y大佐を長とする百名あまりの一団が、順調に行けば今日明日にも着く頃だとの話で、僕はY大佐を知っているばかりか、比島で知合って好きになった軍人の極めて少数の中の一人なので、何とかしたいと思い、R大尉にその旨を伝えたのだが、「それはまた別の機会に譲らねばならぬ。我々は、命令に従って行動しているのだから、とにかく今回はこのままで引上げる」とのことだった。  R大尉は船に強くなく、しょっ中引籠っていたので、それ迄は碌に話もしなかったが、復航にはローリング、ピッチングにも馴れたと見えて、よく甲板に出て来た。ちょっと小肥りの、極めて静かな人で、もういい年だろうと思う。マニラに着いて上陸しようとしている時、僕の所へ来て、「君は damn good work をした」といい、シガアを一本くれた。三年あまり比島煙草ばかり吸っていたのだが、ハバナはやはり軽くてうまい。そんなことはどうでもいいが、毎日御馳走になってブラブラしていただけなのに「よく働いた」などといわれたには恐縮した。まったく、あっちでもこっちでも、恐縮ばかりしていたような始末である。  なおR大尉は「君はジャーナリストだそうだが、帰国して本でも書いたら一冊送ってくれないか」と僕の手帳にアドレスを書いた。英語は喋舌るし、書くことも出来るのだが、日本に帰ると英語を使うのが億劫になっていけない。まア、しかし、R大尉ばかりでなく、ほかにも好意を示してくれた人々が多いので、これ以外にお礼のしようがない以上、すこし暇になったら、英語で何か書くことにしようと思う。億劫がっていては相済まない。 「英霊何個」  十一月の十一日にマニラに帰り着いた。入港するとみんな忙しい。碌に挨拶をする時間もなく、トラックでカンルバン近くの収容所へ送られた。ここはとても大きく、それに僕は最も遅れて着いた一人なので、組織がすっかり整っていて、もう通訳の仕事もなかった。毎日CIの一人として軽い労働――草むしりなど――をした。社の同人や、あちこちで知合いになった人々にも再会した。ここでは「先輩」と称する、早く投降した人達が、ひどく横暴を極め、不愉快なこともあったが、それは忘れてしまうことにしよう。キャンプは三回変ったが、どのキャンプからもマキリン山とラグナ湖が見えた。火山灰の赤黒い畑にはPWが栽培する大根や豆が青々としていて、涼しい朝など、日本の春を思わせるような小鳥の鳴声が聞えた。  ここはルソン全島のPWやCIが最後に収容され、調べられる場所なので、帰国する人が、だいぶん多かった。僕は二ヶ月あまりもあちらこちらで働いて入所が遅れ、番号も二三五五〇という、非常に多い数字だった。従って釈放されるのも、恐らく一番ビリになるものと覚悟していた。  十二月の九日に、二世の曹長が来て、簡単な訊問をした。変名を使ったことはないか、マニラでは何をしていたか等のことを聞かれた。翌朝四人のCIと共に呼び出され、本部と呼ばれるキャンプで一泊した上、一千五百名のPWの群と一緒に無蓋貨車でマニラへ送られた。僕よりも早く入所した人々がまだ多数残っているのに、僕の方が早く帰国出来ることは、少々済まないような気がした。  列車はマニラ港の海岸に着いた。そこからギッシリ、艀に積みこまれた。一月ぶりで、また海に出るのである。どんな船に乗るのか、日本ではどこへ着くのか、まったく分らない。向うの方にリバティ船が二隻かかっていて、その一隻には ROBERT LOUIS STEVENSON と船名が大きく書いてある。スティヴンソン――なつかしい名である。英語に早熟だった僕は、中学校の四年の頃、すでにスティヴンソンを愛読した。「宝島」は春の休みに、三浦三崎で読んだ。その後も、何度か繰返して読んだ。まったく、スティヴンソンは、なつかしい名である。窮屈な艀の中から、僕はこの船を、しげしげと眺めた。ところが艀がそのスティヴンソン号に横づけになり、これが僕を日本に送ってくれるのだと知った時、僕は実に何ともいえぬ気持がした。  どういう訳か、ひどくせき立てられて、グラグラするタラップを登り切ると、正面の鉄板に白墨で LIBERTY EXPIRES DECEMBER 11th. と書いてある。とたんに、何故かは知らず Lasciate ogni speranza, voi ch'entrate.〔ダンテの神曲より「ここから入る者はすべての望みを捨てよ」の意〕という句が僕の脳裡をかすめた。不思議なことに、このように「ピンと来る」ことが、僕にとっては多くの場合、事実となって現れる。船内十日の生活で、日本人とは、こんなに程度が低いのかと思わせられるようなことが、次々に起った。僕は口を利く気もせず、昼間は甲板で日向ぼっこをし、夜は船艙で毛布にくるまって眠った。Cレーションはたっぷり給与になり、寒くなると共に甲板に水を充したドラム缶を持ち出し、これにスチームを通してくれたので、水筒の水を熱くしてコーヒをつくることも出来たし、缶詰をあたためて食うことも出来た。スティヴンソンは地獄船ではなかった。そこの生活を、僕にとっての地獄にしたのは、かえって無敵皇軍と自称した人々の、無反省と鈍感と卑屈とである。  いよいよ明日は目的地に着くという晩、僕等のいた第三船艙に臨時に設備した木の階段を、中頃まで下りて来て、大声で注意を与えた男がある。色々なことをいったあげく、「この中に英霊を持っている人があったら、何個あるか、その数を届けて下さい」といって立去った。僕は身体中が震えた。英霊は荷物か。僕は立上って、この船艙の小隊長をしている人の所へ行った。「あの男は何ですか」「輸送隊長です」。この若い、恐らく少尉か何かをしていたらしい人物は、僕の権幕にあっけに取られたように答えた。「名前を知っていますか」「A大尉といいます」「あなたはA大尉が、たった今、英霊何個といったのを聞きましたか」「ああ、そういえば、そんなことをいっていましたね」……。  僕は甲板に出た。目の前に、水をへだてて浦賀の火が見える。眼鏡がこわれてしまったので、灯火はうるんで瞬いていた。「英霊何個! 英霊何個!」僕は涙が出て、その涙がいつまでもとまらないので困った。冬の風は、夏服しか着ていない僕につめたかった。しかし「王さん待ってて頂戴な」という、ダミ声の合唱が聞えて来る船艙に、下りて行く気はしなかった。いかに不注意とはいえ、英霊を何個と呼ぶ大尉、それを変だとも無礼だとも思わぬ人達。昭和二十年十二月二十一日、浦賀港の入口で、五十一歳の僕はさめざめと泣いた。 Ⅱ アメリカ兵の印象  米軍の通訳をしていた二ヶ月半の間に、ラロおよびアパリの病院や仮収容所で、あるいは上陸用舟艇の艦上で、僕が出会った米兵の数は多いが、その中でも記憶に残っている数名の素描を試みる。もう一度あいたいと思う人々ばかりである。 N  Nはワシントンで新聞記者をしていた。といったところで、僅か六ヶ月のリポーター生活だから、僕が一九二〇年以来、たった一つの新聞社に働いているということは、驚くべき歴史的事実として彼の目に映じたらしい。二十五年間の出来ごとを、あれやこれやと興味をもって聞くのであったが、ある時「君は日本に帰ったら何をする気か」と質問した。「もし“毎日”〔新聞〕が爆撃でつぶされているか、あるいは女房や子供が死んでいるとしたら、僕は米国兵相手のバアを開くつもりだ。日本に来ることがあったら是非よって一杯やってくれないか」というと、「それはいい考えだ。君はグッド・リスナーだし、世間に関する経験も深い。日本にいるGIが淋しくなったりトラブルに陥ったりしたら、君はいい相談相手になるだろう」と笑っていたが、数日後、仕事が変って当分あえないから……と挨拶したあげく「僕はこの間いったことを取消す。君はバアの主人になるより、やはり新聞記者として日本の民主化に努める方が本当だ」と真顔になっていうのであった。Nは僕が収容所の中で日本の将校とほとんど接触せず、兵隊とばかり一緒にいるのを知って「君はアーニー・パイルみたいだ」といった。僕はNによって、従軍記者として米国で最も人気があり、沖縄で戦死したアーニー・パイルのことを知った。 ハッピイ 「君がイシか。あえてうれしい。僕の名はハッピイだ」と、警備の当番にあたって病院へ来るなり僕と握手した兵隊は、十九だ二十一だという若い連中が大多数であるのに、もう三十は越していたことと思う。イシカワがいつの間にかイシになり、寒村アパリで退屈している兵隊の一部に、妙な日本人がいるということにでもなったのであろう。  ハッピイが病院に来た晩、大型の輸送機が不時着した。はじめ低空で東へ飛んだのが引返して来て、アパリの上空を、何回も旋回したり、はるか西方の空に姿を消したかと思うと再び爆音を立てて現れたりした。最後に赤い信号弾を発射し、病院のテントを引っかけはしまいかと思う程低く飛んだ。ハッピイはいつの間にか入口の衛兵所を離れて僕たちと一緒になり「ああ可哀相に、何をしているんだろう? また帰って来た! 着陸場が見つからないのかしら。乗ってる人達はどんな気持でいるだろう?」と、しきりに心配していたが、興奮しながらも、兵隊がのべつ幕無しに使用するスウェアの言葉をただの一つも出さない。やがて飛行機が二、三哩向うとも思われる地点に着陸すると、ハッピイはほっとしたように僕のコットに腰をおろし、何と思ってか「自分は物心がついてから、ただの一度も教会へ行かなかったということがない。戦争が始まってからは教会へ行くことも自然不規則になったが、今朝は――その日は丁度日曜だった――アパリのメソディスト教会へ行って来た」と話した。アメリカの兵隊で、宗教の話をしたのは、ハッピイだけである。  間もなく僕はコットに横になって眠った。この寝入ばなを起しに来たのがハッピイである。日本の捕虜が柵に登っているのを見つけて制止したが、何の為にそんなことをしたのか聞いてくれというのである。病院の周囲は高さ二間ぐらいの柱に有刺鉄線を張り渡したものでかこんである。この柵に登ったとは厄介なことが起ったものだと思いながら、靴をはいて柵に一番近いテントに出向いた。患者約二十人と衛生兵一人とが、それぞれのテントにいる。「誰かこの中で柵に登った人がいるそうだが……」というと、「自分です」と出て来たのが衛生兵である。何故そんなことをしたのかと聞くと、さっき飛行機が不時着したが自分のいた所からはよく見えなかった。気がつくと右の方で米兵が柵に登って見ているので、自分も真似をしましたとの返事である。少々あきれ返った話だが、その通り訳して聞かせると、ハッピイは「柵に登ることは逃亡と見られる。射殺されても仕方がない。事実比島兵が発見したならば、この兵隊は死人になっているだろう。好奇心は、人間誰でも持っているが、“好奇心が猫を殺した”ということもある。これからそんなことをするなといってくれ給え」といった。当然銃の曳金を引いてもいいのに、「何の為にそんなことをしたのか」まず知ろうとしたところに、ハッピイの人間味がある。  ハッピイはその翌日交代したまま、再び病院に来なかったが、数日後、病院が一哩ばかり離れた仮収容所の一部に移転した時、また出会った。十哩ほど東方にあたるゴンサカという町に近い山中に、日本兵が出没して掠奪を働く、終戦を知らないらしいから、投降勧告に行けという大隊本部の命令で、ゴンサカまで出かけた帰りである。乗っていたジープが仮収容所の入口でとまると、丁度三百名ばかりのPWがバタアン群島の島から着いて、地面に腰を下し、その近くに米兵が数名かたまっていたが「イシが来た!」と飛び出して来たのが彼である。ゴンサカ行の噂を聞いていたのであろう。ゴンサカ行に際して、こちらはもちろん文字通り寸鉄をだに帯びていない。ゲリラからも、また友軍からも、襲撃される危険は十分あったのである。「イシ! イシ! よく帰って来た!」と、ハッピイは僕を抱かんばかりにした。日本の兵隊さんは不思議そうに見ている。米兵は二人のまわりに集まって来た。ハッピイはうれしそうに「これがイシだ」といい、何と思ってか「イシキーだ」と繰返した。それまでに会ったことのない若い兵隊が「お前、英語を話すか」と僕に聞いた。間髪を容れず「お前より英語がうまいぞ」とハッピイがいったので、大笑いになった。  国に帰ったら手紙をよこしなといって、アドレスを僕の手帳に書いた兵隊もあるが、ハッピイはそんなことはしていない。ハッピイというのはもちろんニックネームで、僕は彼の本名さえ知らないのである。特徴のある顔でもなし、今後万一どこかで出喰わすことがあっても、お互にレコグナイズ〔認識〕するかどうかは疑問である。それにしても何故ハッピイは僕がゴンサカから無事に帰ったことをあんなによろこんだのだろう? 恐らくハッピイとしては、僕でなくとも、誰であろうと、危険な場所から無事で帰れば、心からよろこんだのであろう。それが米人であろうと、比島人であろうと、日本人であろうと、とにかく人間である以上は、同様だろうと思う。ハッピイのことだから、馬や犬に対しても、同じ感情を持っているとしても、僕は驚かない。 坑夫  アパリ仮収容所の、入口に一番近いテントには、邦人婦女子が寝起きしていた。晩方など、用のない米兵が遊びに来て、小さい子供にバナナやチョコレートをやったりする。比島兵は柵外の警備、米国兵も遊びに来てはいけないことになっていたのだが、とにかく入口のすぐ右手にテントがあるので、三々五々、入って来ては、何だかんだと賑やかに騒ぐものもあった。  ところが、いつからともなく、晩の六時頃になるときまって入口にしゃがんで、子供たちの方をじーっと見ている兵隊のいるのに、僕は気がついた。いかにも精悍な感じの中年男で、誰とも口を利かず、いつもひとりきりでしゃがんでいる。何か腹を立てているのかと思った程である。  ある晩、用があって入口の近くを通りかかると、その兵隊が僕に声をかけた。向うがしゃがんだままなので、僕もしゃがみこむと「あの子にバナナをやりたいとおもって持って来たんだが、呼んでくれないか」という。あの子というのは、五つになる可愛い女の子で、人気者になっていたが、呼ぶとすぐやって来た。すると兵隊は黙ってバナナを差出し、ニコリともしないで、女の子に手渡した。女の子が「お母ちゃん、バナナ貰ったよ」と走って行く後を見送りながら、兵隊はキャメルを僕にくれ、自分も一本咥えて、まず僕のにライターで火をつけてから、話を始めた。俺はヴァージニアの坑夫で、家は丘の中腹にあり、すぐ前を鉄道が通っている。女の子が二人いて下の子はあの子と同じ位だ。女房の手紙によると、子供は汽車がダディを連れて行ったと思っている。だから汽車がダディを連れて帰って来るといって、汽車が通るたびごとに窓の所へ走って行く……という話から、兄弟のこと、細君の兄弟のこと、誰かと喧嘩したことなど、およそ三十分も、南部なまりで喋った。  このヴァージニアの坑夫とは、その後二、三回会った。柵外に事務所と呼ばれるテントがあり、色々な用事で僕は一日に数回そこへ行ったが、ある時そのテントに、彼を入れて三人の米兵が集まり、何が一番食いたいか話していた。若い男は「お袋のつくるパイだ」――これは米国での月並文句である――といい、もう一人はフライド・チキンだといった。どうしてこうしてと、微細に話すのを、黙って聞いていた坑夫は、僕に向って「俺が一番ほしいのは山の渓流の水だ」といった。突然ポッツリ口を切ると、後はまったく山の渓流のように喋り出すのが、この男である。この時も山の水の讃美――僕も山に登った経験があるので、水の美味はよく知っている――から始めて、若い時、ウェスト・ヴァージニアに拳銃を持ちこんでどうとかしたということまで、一生懸命に話して聞かせた。「どうとかした……」は頼りないが、話に夢中になると恐ろしく早口になり、訛がまざって、僕にはよく分らぬことがあるのだった。  彼に最後に会ったのは、仮収容所が閉鎖される前日だった。例の事務所へ行くと、丁度居合わせて、今日郵便が届いてワイフからこんなに沢山手紙が来たといい、五、六通の航空便を見せた。「いよいよ君ともグッドバイらしい」というと、上衣やズボンのポケットに手を入れて、しきりに物をさがしていたが、最後にシャープ鉛筆の尻をひねって何本かの芯を取出し、「何も無いからこれをお前にやる」といった。いかにもブッキラ棒ないいようだったが、それだけに僕は感動させられた。だが、僕のは極めて旧式なシャープで、芯の太さがあわないのである。「いや、いい。君に会ったことと、君の思出だけで十分僕はうれしいのだ」といって別れた。ハッピイだったら握手したことだろうが、この男はただ「そうか」といっただけ。山間の渓流の水の如く淡々として別れた。 ルイジアナ・サム  Bという不思議な兵隊がいた。彼はルイジアナ生れで、その名が示す通り、フランス系の市民である。すごいガニ股で、妙に上半身を振って歩くと思ったら、カウボーイが職業だった。英語が、また、一風変っていて、ニューイングランドや英国の言葉に馴染みの深い僕には、分らぬことが度々あった。我々は「地下鉄サム」から思いついて、彼を「ルイジアナ・サム」と呼んだ。PWの一人である僕が、彼のことを「ヘイ、サム!」などと呼ぶことは、甚だ異様だが、それ程サムは、僕にとって、親しみやすい青年だったのである。  サムはアパリの収容所勤務兵として、例の事務所テントに、ほとんど毎日やって来た。一体米国の兵隊には呑気者が多く、彼も極めて呑気であり、しょっ中歌をうたっていたが、面白いことに、サムが歌うと、どの歌もみんな同じように聞えた。  サムの得意は「クレージイ・ウォア」という歌だった。一度僕に教えるといって、書簡箋に書いたのを見せた。何でも、兵隊になれといわれてなりはしたものの、小銃をうって見るとちっともあたらないで、キャプテンに叱られたり何かするので「こんなことなら女の子に生れて来ればよかった」というような文句もあり、一節ごとに「クレージイ・ウォア」という折返しがつく。いまこれを書いていても、調子はずれなサムの声を思い出す。日本の兵隊が歌ったら――兵隊でない一般人でも――反戦思想といわれて、銃殺されたことだろう。  ある晩、フラリと僕のテントへ遊びに来た。一体サムは非番の時、よく僕の所へ遊びに来たが、この晩も例の如く、身体をブラブラと振って入って来るなり、「俺はもうスルーだ」と宣言した。何がお仕舞いなのかと思うと、ガール・フレンドが一向手紙をよこさないというのである。サムは十八の時に結婚して一年で離婚し、出征するまで仲よくしていたガールがいるのだが、ここ四週間もその子から手紙が来ない。「自分の方からはせっせと書いているのに、ひどい女もいるものだ」――これがそれだと、サムは札入のセロファンの中に入っている写真を見せた。「俺はもうスルー・ウィズ・ハアだ。今度帰ったら別のモリーと仲よくするからそう思えと書いてやる」としきりに憤慨する。僕はまんざら冗談でもなく、「僕は人相を見るが、この娘は忠実な顔をしている。君を裏切ったりするような娘ではない。病気をしているかも知れず、そんな手紙は書かない方がいいだろう」といった。サムはそれ以来、彼のガールの話をしなくなった。恐らく再び手紙が来るようになったのだろう。  別の晩、やって来た時「サムよ、君はそのクレージイ・ウォア以外に何か歌を知らないのか」と聞くと「知っているさ」という訳で、新しい歌をうたった。曲はクレージイ・ウォアとどこが違うのか、僕には分らなかったが、その中に「将校は鶏の胸の肉と脚の肉を食い兵隊は翼と尻とを食わされる」という文句があり、僕は大きに笑った。米本国のことはいざ知らず、比島の野戦陣地では、将校も、下士官も、プライヴェート〔兵〕も、まったく同じ食物である。将官でなければ、いわゆる当番兵はつかない。兵隊と同じように食器を持って炊事場に並び、食事する場所は違うが、食前の食器消毒も、食後の清掃も、自分でするのである。これが本当のデモクラシーだと思っていたが、プライヴェートにすれば、同じ鶏にしても、将校にばかり胸の白い肉や脚の赤い肉が行くと、ひがむのであろう。  と、こう書いて来ると、いかにもサムはイージイ・ゴーイングな、歌ばかりうたっている兵隊みたいだが、中々どうして、サムぐらい真面目に勤務する男は珍しかった。彼はいつも大きな拳銃をぶら下げて、雨が降ろうと夜中であろうと、何かあるとすぐ飛出して行くのであった。アパリの仮収容所はすこぶる広く、アコーディオン・ワイヤを張りめぐらした外側に、携帯テントを張ったり空箱を置いたりして、比島兵が十二箇所で張番しているのだが、夜など、どうかすると、そのポストを離れるのがいる。サムはどこで見張っているのか知らぬが、そんな時、必ず、おっ取り刀ならぬおっ取り拳銃で駈けつけては、注意するのだった。  これ等の比島兵は、謂う所の事務所から、二十メートルばかり離れた所に、大型のテントを張り、三交代で勤めていた。朝昼晩、トラックが食事をはこんで来ると、食器を持ってテントから出て来るのだが、当番の兵隊が見張場所から飛び出して来ることもあった。ある時サムがこれを発見し、平素に似合わぬ厳格な態度で、そんな兵隊をそれぞれのポストに追い返したばかりか、トラックをかこんでワイワイいっている連中を、一列に整列させた。アコーディオン・ワイヤのこっち側からそれを見て我々は「サムは大したものだ。中々やるじゃないか」とほほえましくも感心した。  どういう訳か、サムはほかのGIにくらべて、事務所勤務の度数が多かった。それに、とにかく面白い男ではあり、いよいよお別れという時、僕は何か記念品をやりたいと思ったが、捕虜の身分で、もちろん何も持っていはしなかった。とうとう僕は、たった一本しか持っていなかったパイプを、サムに贈呈した。このパイプは初代のマニラ新聞社長、故松岡正男さんが二十二年前ぼくにくれたので、僕としては愛着も持ち、また手離しては困ることは分っていたのだが、それでも、何だか、何かしらサムに、それによって僕を記憶して貰えるような品物を、贈りたい気持で、一杯だったのである。サムは別にうれしそうな顔もしなかったが、僕にそんな気持を起させ、そんなことをさせたのは、何かしら、サムに人徳とでもいうものが、あったのだろう。まったくサムは不思議な青年である。 AB  頭文字をAとする兵隊三人と知合になった。AB――が陸軍、AS――とAR――とが海軍である。  ラロの仮収容所から、病院の一部がアパリの海岸に移転し、僕は病院の通訳をすることを命じられた。はじめは、新聞社の同人H君が行くというので、僕は安心していたが、どういう訳か、突然「別のインタープレター出て来い」という声がかかり、あわてて装具をまとめて、入口へ走って行ったのである。  中型の幌トラックは、もうエンジンをかけていた。両側のベンチには、衛生兵と一般使役兵とが、ぎっしり腰をかけている。装具を中央に投げ込み、すこし席を譲って貰って一番端っこに腰を下すと、あまり若くない兵隊がやって来て、僕の真向に窮屈そうに腰をかけた。二枚目ばりではないが、しっかりした、いい顔をしている。そればかりか態度がとても真面目なのである。自動小銃を膝によこたえ、端然として腰をかけている。トラックは国道五号線を北へ走った。概ね良好な道路だが、所々に穴があいている。ある場所でトラックは猛烈にバウンドし、僕は天井に頭をぶつけた。警乗兵は「おい、ドライバー、気をつけてくれよ。そっちはよくっても後の方にはひどく来るからな」といい、僕の顔を見てニコリと笑った。  ABとはこんな風にして知合になったが、その後ほとんど毎日彼に会った。本当は、会わないで済めば、それに越したことはなかったのである。というのが、彼はいつからか、病死者の遺骸を運搬する役を引受けていたからである。  病院での僕の仕事の一つは、毎朝八時現在の報告書を出すことだった。それまでの二十四時間に、何人が入院し、退院し、死亡したかが、報告書の主要点であり、死亡者は氏名、階級、病名をも書きこむ。この報告書を持って、事務所テントへ行くと、本部へ電話で申告し、死亡者のある場合には、その日の中にトラックが迎えに来る。死骸は古い担架にのせ、毛布をかぶせて、トラックに積みこむのだが、十中八九素足が毛布からはみ出し、これまた十中八九マラリアか、あるいはマラリアを併発しての病気なので、黄色い皮膚が南国の太陽に照らされ、いたましい光景を呈するのを常とした。親しい戦友か、あるいは常備使役の兵隊が四人、スコップと十字鍬を持って乗りこむ。埋葬地はどこか、とにかく、病院や収容所からは見えぬ所にあった。  アパリの収容所事務を扱ったのは、独立水陸両用戦車大隊の一中隊であった。ABは戦車の運転手だったそうで、いわば歴戦の勇士なのだが、実に物静かで、黙々と死体の運搬をやった。いやな仕事に違いないのに、いやな顔をするでもなし、文句をいうでもなかった。  ある時、死亡した患者の遺骸を、埋葬するまで、日陰に安置しておいたのではあるが、暑気が激しいので、早くも臭いがして来て、埋葬に行く日本の兵隊が「くさいくさい」という程だったが、ABは何ともいわず、僕の前を通る時右手をハンドルから外して、鼻のさきの空気を払いのける手つきをして見せただけである。表情たっぷりな米国人としては、珍しいといわねばならぬ。すぐ愛人の写真を見せたり、家庭の事情を話したりする兵隊が多いのに、ABは最後までそんなことをしなかった。いかにも大人という感じだった。 F 「おとな」という感じを与えたもう一人はFである。年もとっていたが、落着いていて、しかもいい英語を話した。はじめは伍長だったが、間もなくサージェントに昇級し、そのクラスも短期間にもう一つ上った。  アパリでは Ten-in-one という糧食が給与になった。これは十人一日分の食糧(煙草や便所の紙も入っている)が大きな箱に入っているのだが、PWはほとんど何の仕事もしないし、分量も米国人ほどは食わないので、一箱を十五人でわけることになっていた。で、毎朝の現在人数を事務所に届け、その人数分だけの糧食を受取るのであるが、しょっ中異動があり、また百五十人とか三百人とか、十五できちんと割り切れる数になることはめったにないので、そのたびごとに計算する必要があった。  これはどういう理由か知らぬが、少くとも僕と交渉のあった米兵は、みんな揃って算術が下手だった。レーションの計算といった処で、そう大してむずかしいことはなく、数学が至って不得手な僕でも、ちょっと鉛筆を持って計算すれば、すぐ正しい数字が出るのに、たいていの兵隊が勘定を間違える。間違えない兵隊はなかったといってもいい位である。僕の片腕みたいになって、よく働いてくれたE衛生曹長は「米国では計算器が発達しているから、暗算や算術は出来ないのでしょう」といっていたが、いくら米国でも、一般家庭にまで計算器がある訳ではない。これはいまだに疑問として残っている。  ところが暗算が早く、しかも決して間違えなかったのがFである。話を聞くと、ロスアンゼルスで、どこか会社につとめていたとのこと。カウボーイや坑夫よりも、その方の心得があったのも自然である。  ある時このFが、僕にたのみたい用があるといった。どうして手に入れたのか、戦争中日本で出版された時局漫画集の説明を、英語に訳してくれというのである。百二十五頁ばかりの小冊子で、一頁に一つずつ出ている漫画が、稚拙そのものであるのはまずいいとしても、チャーチルがベソをかいたりルーズヴェルトが頭をかかえていたり、戦争に負けてしまった今日となっては、恥かしくて見ていられぬようなものばかりである。「どうも、これを訳すことは困るが……」というと、Fは自分が決して単なる好奇心から、翻訳をたのむのではないと、前置きして、次のように語った。  Fの細君はロスアンゼルスで図書館の司書をしている。その図書館には、前大戦中米国で製作されたポスターが、無数に集めてあり、現在から見ると、戦争中の国民は、こんなプロパガンダに踊らされたのかと思うようなのもある。だから日本のこのパンフレットの中に、いかに馬鹿げきった漫画があろうとも、それを恥じる必要は絶対にない。のみならず、この中には、国民に元気をつける意図で書かれたに違いないが、すこし考える人から見れば、戦慄すべき事実としか受取れぬものさえ含まれている。例えば――といって、Fは一枚の漫画を示した。国民学校卒業生の何百万人だかが、校門から直接工場へ、列をくんで入って行く画であり、上にローマ数字でその総数が示してある――「例えばこの漫画だ。下に書いてある日本語は自分には分らないが、この建物は学校らしく、このチムネーがいくつか出ている建物は、工場に違いない。こんな子供が工場で働かねばならぬとは、米国では夢想だにも出来ぬことであり、日本がいかにマン・パワーの不足に苦しんでいるかを何よりもよく示している。プロパガンダをする者がよく考えなくてはならぬ点ではあるまいか」と、理路整然たるものだった。 AS  アパリの仮収容所が閉鎖され、病人と婦女子と一般将兵とは、二艘の上陸用舟艇で、マニラに送られることになった。それまでに、陸軍はいいが海軍は乱暴で、腕時計をとったり、何もしないのに蹴飛ばしたりするという噂が、どこからともなく伝わってひろがっていたので、心配する人もあったが、実際はまったくそんなことがなかった。  僕は一隻に通訳として乗込んだ。病人と婦女子は第一船艙の壁に取外しの出来るズック製の物――米海軍ではサックと呼んでいる――を三重につるしてそこに寝る。ほかの者は船艙に入ってもいいし、甲板に寝てもいいということだった。が、何がさて、足の踏み場もないほどに積込まれた上に、荒天続きの後を受けて、決して穏かな海ではない。便所だって、人数に対しては不十分である。船酔いが出たら――当然出るべきものと考えねばならぬことだ――どうするか。女と男の便所使用時間をきめるかどうか。あっちこっち、無茶苦茶によごすのではあるまいか……これ等の心配は、海軍側の頭痛の種子でもあった。僕は乗艦するなり、相当厳重な心得をいい渡された。幸なことに、みんなよくその心得を守ってくれたが、はじめはどうなることかと思った。殊に直接、私に何かと指図する水兵長がものすごく恐ろしい顔で、口の利きようもきびしく、これはえらいことになったぞと、それまでアパリで、あまり呑気にやって来ただけに、心中大きに恐れをいだいたのである。この水兵長がASである。  アパリからマニラまでは二晩かかった。その二晩目、つまり明朝はマニラに入港するという時、ASが僕に「君はコーヒが好きか」と聞いた。「好きだ」と答えると、「砂糖とクリームが入っている方がいいか」とさらにたずねた。「しかり」と僕はいった。「プレンティ・オヴ・クリーム?」「イエス」。それでは明朝、そのようなコーヒをつくってやろうというのである。  船中での食事も、例の Ten-in-one であり、これにはコーヒもココアも入っている。だが、湯というものがなく、リスター・バッグと称するズック製の水袋に、消毒した飲料水が入っているのを使用するので、コーヒにしてもココアにしても、つめたいのしか作ることが出来ない。熱い国のことだから、もちろんそれで結構なんだが、朝の一杯は、フーフー吹いて飲むようなのに、越したことはない。ASの申出を私は大きによろこんだ。  翌朝は、入港と上陸の準備で、ゴタゴタした。朝飯も早目にすませたが、ASも忙しいらしく、姿を見せなかった。見せたところで僕は「コーヒはどうした」と聞く図々しさは、持ち合せていなかったが……。  船が防波堤の内に入ると、ASがやって来た。作業服を脱いで、パリッとした白の水兵服である。ちょっとこっちへ来いと、僕を甲板の一隅に連れて行ったが、手には大きな空缶を持っていて、それには一杯コーヒが入り、いい香がする。約束通りのキャフェ・オ・レーである。あたり前のスープ匙よりも、余程大きな銀の匙で、缶の中をかきまわしながら「俺は急に下船して国に帰ることになった。君も早く国に帰れることを希望する。帰ったら便りをくれ」と、紙片に書いたアドレスを渡した。ケンタッキーの古い都会である。  僕は礼をいい「あなたが早く家庭に帰れることを、僕は非常にうれしく思う。家族はいるのか」と聞くと、「女の子が二人……」といいかけて、突然銀の匙の滴を切り、「これをポケットに入れて行きなよ」といったまま、急いで向うの方へ行ってしまった。(その後、別の場所で書く機会があると思うが、実に色々なことが起って、僕は所持品のほとんど全部を失ったが、この匙と、アパリでG中尉に貰った機械化部隊の徽章と、同じ船の別の水兵がくれたシャツ一枚とだけは、いわば肌身を離さず、持って帰った。)  その日の午後、一同は上陸したが、僕はそれから二週間ばかりも、この船にとどまった。ある時、副長のB中尉にASの話をすると、「あれも気の毒なことに、家庭にトラブルが起って、ひとつはそれで、早く帰国することになったのだ」といった。子供が二人もいるのに、留守中に細君が家出をしたというのだ。まんざらお世辞ではなく、僕は彼が早く帰国出来ることをよろこぶ、といったのだが、そのホームも、どんなことになっているのか、ASにはよろこばしさよりも、心痛の方が強かったであろう。B中尉は、さらに、ASが非常によく働く男で、海軍でも類がない位であること、酒をのむと手に負えぬ程のトラにはなるが、どんなに酔っていても、自分のいうことだけには必ず服従する、という話をした。ASが酔っぱらうのも、あるいは、家庭生活の心配が、原因になっていたのかも知れない。どんな理由で細君が家出したのか知る由もないが、僕は、戦争が終り、ASが帰国したのを機会に、細君も元の枝に帰って、あたたかい家庭生活の再出発を開始するようになったら、どんなにいいだろうかと、心から希望している。  ――(B中尉の名前を出したついでに、ちょっと書いておきたいことがある。この拙文を読まれる方々もお考えのことと思うが僕は、PWとして、すくなくとも米国の兵隊との間柄においては、ユニークな経験をした一人であろう。これには、アパリのG中尉とLSTのB中尉とが、大きに関係している。いずれ近く書きたいと思っているが、ここでも一言触れておきたい。) AR  アパリから来た人々は全部マニラで上陸したが、僕は二十名あまりの兵隊が使役のために残るので、通訳として残ることを命じられた。甲板の錆を落し、ペンキを塗るのが主な仕事だったが、それに五日かかった。上陸用舟艇は防波堤の外に出て行き、そこから僕はマニラの市街を眺めた。大きな建物はほとんど全部残っているし、小さい建物はあるのか無いのか見えないから、マニラは以前と同じような外見を呈している。港務所、市役所の塔、さてはアルハンブラ、ペラルタ、ベイヴュウ等、海岸通に並ぶ高級アパート等を見やって、僕はかつてのマニラ生活を思い浮べた。  艦内での仕事の指揮者は副長のB中尉だったが、直接指図したのはAR――水兵長である。僕より背の低い、ちょっといなせな男で、一向に口を利かないが、よく気がついた。毎朝甲板で Ten-in-one の食事が終ると、道具を持ち出し、どこで何々をしろと命令する。はじめの間は一々通訳していたが、仕事が仕事で至極簡単だから、二日目の午后あたりから、もう僕の用事はなくなってしまった。さりとて皆が日のあたる甲板で働いているのに、僕一人日かげで本を読んでいる訳にも行かないから、時々はスクレーパーを持って鉄板をガシャガシャやったり、箒を持って錆を掃いたりすると、B中尉かARかのどちらかが発見し、「イシ、君はそんなことをしなくてもいいのだ」と制止するのであった。  ARは三十分おき位に銀盆にシガレットを入れて持ち出し、皆に休むようにいってくれといった。シガレットは Ten-in-one から沢山出て来るので、それだけでも充分だったが、十一月とはいえマニラは暑く、おまけに海水の照り返しがきびしかったので、使役の兵隊はよろこんで一服した。まったくARは無愛想で、しかもよく気がついた。  ある日B中尉が僕に「本艦は米をウンと持っているのだが誰も食わない。日本人は米を食うそうだが皆にやったらよろこぶだろうか」と聞いた。兵隊達は三度三度、Ten-in-one の御馳走を食いながらも、彼等のいわゆる「主食」がビスケットなので「ああ、これで飯があったら……」と感慨を洩していた。B中尉の申出が彼等をよろこばせたことは想像以上であった。早速炊事場のあいている時、飯を炊かせて貰うことにした。炊事場が狭いので下士官一人が代表になって炊くことにしたのだが、すっかり準備をし、僕が甲板に出て仕事を手伝っていると、間もなくやって来た彼が「石川さん、何かいっていますから一寸来て下さい」という。台所へ行くとARがレンジの前にたっていて「イシ、この男は米を煮るのに塩も砂糖も入れない。牛乳をやろうかといっても分らないらしい。必要な物があればやるから、そう通訳してくれ」といった。僕は好意は有難いが、日本人は水だけで飯をたくのだと説明した、ARは「そんなものがうまいのか」といった。やがて飯が出来、めいめい甲板に車座になって飯盒の蓋や何かに飯を分け始めると、水兵や警備の兵隊がゾロゾロと見に来た。  Ten-in-one は前にもいったように、十人前が一箱に入っている。アパリではそれを十五人で分けた。この船では二十三、四人だかで分配するので、アパリでやっていたように帳面で計算して、二箱あけると何回分残るから明日は一箱あけて云々とやると、ARは必要なだけ食えばいいので―― Sure, you go ahead ! と針金切を渡すのだった。  仕事が終って使役兵は上陸したが、僕はさらに東海岸へ行くことになった。たった一人だから Ten-in-one をあけるまでのこともない、軍艦の食事をすればいいということで、三度三度ARが食事を甲板に持って来てくれた。B中尉がそうきめたのか、ARが自分で仕事を買って出たのか、そこは分らないが、何ということなしに、ARは僕の世話係みたいになった。朝などきまって僕のねている前甲板の船艙の天窓から「イシ、チャウ〔メシ〕!」と声をかける。余計なことはまったく喋舌らずしかもちゃんちゃんとすることはしてくれた。 P  Pというドイツ系の名を持つもう一人の水兵長も、どういう訳か、とてもよくしてくれた。そして、ARと同じように、細君のことや家庭のことは、いっさい喋舌らなかった。陸軍にくらべて、年が多いせいか、あるいはこれが海軍の伝統なのか、とにかく陸軍の兵隊がすぐに細君や恋人の話をするのとはだいぶん違っている。  Pは大きな男で、何かいってはニヤリと笑う癖があった。そして、一体に僕と何等かの交渉があった米国の兵隊は、みんな親切だったが、Pはまったく何故か知らぬが、特に親切にしてくれた。  艦では午后になるとビールを売った。一本十仙で、別に制限はないらしい。Pはビールが好きだと見えて、毎日五、六本も買い込んでは飲んでいたが、時々僕に一本か二本くれる。冷凍室の入口、ロビイと呼ばれる小部屋においてあるビールは、適当に冷えていてとてもうまい。これは有難かった。  ルソン島の南端を廻って、目的地のカシグランに着き、海軍の士官二名と陸軍のR大尉とが上陸するのに、僕も通訳としてついて行ったが、ここが物すごい遠浅で、ボートが砂に坐り込んでしまい、四人ともジャボジャボ水の中を歩いた。用事を済ませて帰り、ズボンだけは余分のがあったのではきかえたが、靴は一足しかないので素足でいたら、Pがそれを見つけ、「代りをさがしてやるから一緒に来い」といって水兵の部屋へ僕をつれて行った。そして大きな物入袋をひっくり返し、新しい靴やシャツを取出しはしたものの、シャツの背中にステンシルした頭文字に気がつくと「ああ、いけねえや、こいつはまだこの艦に乗ってやがる」といいながら、泡を食って仕舞い込んだ。僕は「P、僕の靴は明朝になれば乾くから心配しないでくれ」といって、自分の部屋に帰った。  もう九時すぎていた。久振りでボートをこいだり、陸地を歩いたりして疲れていたので、僕は電灯を消して眠っていた。その電灯がパチッとついて「ヘイ、イシ!」とPが鉄のはしごを下りて来た。半靴と白い靴下と下シャツとカーキのシャツを持っている。「下シャツは少々よごれているが、よかったら着ていな」というのである。  数日後、再びマニラに入港した時、僕はこれ等の品をPに返そうとした。水が無くて洗うことが出来ず済まないが……というと、Pはいかにも意外だという顔をして、「俺は君にそれ等を持っていて貰いたいのだ」といった。官給品は一つもなく、みんな自分個人の物だから返すには及ばないという。Pのくれたカーキのシャツは、いまだに着ている。両方のポケットと背中に、Pの頭文字がステンシルしてあるのもいい記念である。  その日の午后、上陸用舟艇は防波堤の外に仮泊していた。いつの間にか白い服に着かえたPがやって来て、「一寸来い」といった。舳の所が高くなり、ここに高射砲があり、その周囲は一方を残してまるく鉄板でかこってある。その内側に入ってしゃがむと、艦の他の場所からも、また艦橋からも、そこは完全にかくれる。Pはいった――「俺は今から上陸する。君は誰かに手紙を出したくはないか。封筒と切手を持って来たから、何か書くことがあったら早く書きなよ。陸へ上ってポストに入れてやるから」と。そして彼は航空郵便用の封筒と六仙の切手を二枚僕に渡した。捕虜である僕に文通の自由が許されている訳はない。Pはそれを察して、僕の代りに投函してやろうというのである。だが僕はさしあたって誰に手紙を出すあてもなかった。そういうと、「それならそれでいい。その内に役に立つかも知れないから、封筒と切手は持っていなよ」といった。この封筒も僕はPの友情の記念として、いまだに保存している。  つづいてPはポケットから比島の紙幣を三枚ばかり取出した。何かの必要があるかも知れないから、これを持って行けというのである。これも僕は断った。上陸してPWの収容所へ送られれば、金は持っていても何にもならぬからである。するとPは、何か本当にいる物はないかと聞くのであった。「君は何も持っていないじゃないか。困るぞ」という。「いや、大丈夫だ。何もいらない、本当にいらない。だが、君の親切はとても有難い」というと、「本当にいいのかい」と念を押していたが、やがてランチが来たので舳を去り、後甲板に横付けになったランチに飛びのった。僕は砲塔の上から下を走って行くランチを見下した。Pは僕の顔を見て、ニヤリとした。それきりPにはあっていない。  何度も同じことをいうが、僕にはPが、どうしてこんなに親切にしてくれたのか分らない。この軍艦で、僕は礼儀正しくしていたが(例えば朝晩の軍艦旗のあげさげに、気がつけば必ず直立不動の姿勢をとった)また、捕虜の身分を忘れず、万事控目に遠慮深くしていたが、僕のこととてお世辞をつかうでもなく、お追従をいうでもなかった。もちろん卑屈な真似はしなかった。Pばかりではなく、米国兵の誰に対しても、強いて気に入られようとつとめたりしたことは一度もないのに、どうしてこんなに大事にしてくれたのか、自分でも分らないが、新聞記者であることと、逃避行の間にひどく白くなった僕の頭髪が、同情をひいたのかも知れない。  Pの姿が見えなくなると、僕は船艙に下りて行った。大体あしたは君も上陸することになるだろうといわれていたので、僅かではあるが荷物を整理しておこうと思ったのである。すると僕を追いかけるようにして鉄梯子を下りて来たのが、ポーランド系の名前を持った陸軍の警備兵である。数度話したことがあるが、ペンシルヴェニヤの田舎のハイスクールを出たばかりの、酒も煙草ものまず、太ったお母さんの写真を持っている素直で可愛らしい子供だった。「イシ、君にこれを上げる」といって、ビールの瓶を二本出した。一本ずつ飲むつもりだろうと思って、「おや、君はビールはのまないんじゃないか」と聞くと「僕はのまないよ、ビールを買ったのも今日が初めてだ。二本とも君のだよ」といった。僕はなんだか瞼の裏があつくなって来て、二本ビールを立てつづけにラッパのみにした。四、五日前に、この青年は「日本に帰ったら絵はがきを送ってくれ」といって、自分のアドレスを僕の手帳に書き込んだ。早く米国に通信が出来るようになるといいと思っている。僕には絵はがきを出したい相手が多数いるのだから……。 サージェントG  ルソン島の東海岸カシグランに、山越しをして来た日本兵がいて、その四十名が担送患者だという情報に、僕が乗っていたLSTは僚艦と共にルソン島の南端をまわって、カシグランへ航行することになった。陸軍側からR大尉が、Gというテック・サージェント以下数名を引率して乗込み、マニラ湾を出帆した。日本人は僕一人である。それで、乗組員と同じ食事をすることになった。士官と水兵の食事が終る頃、きまってARという水兵長が「イシ、チャウ」と知らせに来る。僕は遠慮して甲板でひとりで食事をした。この時のことは既に書いた通りである。  ある朝、ひどい時化で甲板にいられず、兵員の食堂で食事をした。オイルクロースを張った食卓の一番端に、皿を持って行って坐ると、丁度食事を終って立上ったGが、実にさりげなく、塩と胡椒の小瓶を右手の甲で押して食卓の上をすべらし、僕の前に置いて出て行った。  朝飯にはベーコン・エッグスが出た。塩と胡椒は僕からすこし離れた所にあり、そこには水兵が二、三人まだ食事をしていたから「取ってくれ」といえば取ってくれたに違いないが、PWである僕は遠慮していたのである。それと察してかどうか、Gは出がけに、黙って僕に親切をしてくれたのである。特に捕虜に情をかけるとか、武士の思いやりとかいうのではなく、なんということなく、習慣みたいに、こんなことをしたのである。これは何が原因しているのだろう。家庭の躾であるとしか、僕には思われない。それにしても、何といういい躾だろう。僕にはGの家庭が、目に見えるような気がした。僕の胸には、何か暖かい霞みたいなものが、一ぱいになった。 J・G  エル・パソを故郷とするJ・Gのことも、忘れられない。  その名が示す通り、彼はメキシコ人で、国境を越したテキサス州にうつり、米国市民になったのである。僕は通訳として彼と知合ったのではない。帰国する時に乗せられたリバティ船に、護送兵の一人として乗込んだ彼と、それもたった一度、話をしただけである。話をしたというよりも、彼のモノローグを聞いたといった方が、真実に近い。  僕は千五百人のPWと一緒に、リバティ船に乗り、正式な通訳もいるので、何の仕事もしないでいた。ある晩、甲板に出て煙草を吸っていると、丁度当番をしていたGが、ふらりとやって来て、僕の横に腰を下した。彼の名は、銃の負革に書いてあったので、知っていたが、それまでに話をしたことはなく、僕が英語を知っていることなど、Gが知っている筈はなかったのである。  黙って煙草をふかしていたGが、突然口をきいた。向うの舷板によりかかっている、若いPWの方に顎をしゃくって見せ、彼は「ザット・ボーイ」といった。 That boy don't want to kill me : I don't want to kill him.  といい出したのである。 「あのボーイは、何も俺を殺したいと思っていやしない、俺だって、あのボーイを殺そうと思いもしない。だが、上の方にいる大物が戦争をしろというので、あのボーイは俺を殺さなければ自分が殺されるので俺を殺したいと思い、俺だって同じことだ。戦争っていやなものだ。俺は嫌いだ」と一気にいって、そのまま黙りこんでしまった。僕に聞かせるというよりも、単にひとりごとをいったのであろう。「君のホームはどこだ」と聞くと、なんだ、お前、英語が分るのか、というような顔をしていたが、「エル・パソだ」と答えた。He don't は文法的に間違っているけど、こんな間違いはざらにあるし、我々だって、必ずしも、文法的に正確な日本語ばかりを話していはしない。この一事で、米国の兵隊は無学だなぞと、早呑込みをしないように、ちょっと断っておく。  それはそうと、Jは無口な男で、それきり僕にあっても何もいわないし、僕も黙っていた。浦賀で上陸する日の朝、さよなら! といっただけである。だが、あの晩の「ザット・ボーイ」だけは、僕はいつまでも忘れないだろうと思う。
底本:「比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦」中公文庫、中央公論社    1995(平成7)年2月18日発行 底本の親本:「比島投降記」大地書房    1946(昭和21)年11月 初出:「比島投降記」大地書房    1946(昭和21)年11月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※〔 〕内の註は、著者の子息石川周三氏による加筆です。 入力:富田晶子 校正:雪森 2017年1月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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アイスアックス 「私のアイスアックスはチューリッヒのフリッシ製」……と書き出すと、如何にも「マッターホーン征服の前日ツェルマットで買った」とか、「アルバータを下りて来た槇さんが記念として呉れた」とかいう事になりそうであるが、何もそんな大した物ではなく、実をいうと数年前の夏、大阪は淀屋橋筋の運動具店で、貰ったばかりのボーナス袋から十七円をぬき出して買ったという、甚だ不景気な、ロマンティックでない品なのである。だが、フリッシ製であることだけは本当で、持って見ると仲々バランスがよく取れている。その夏、真新しくて羞しくもあり、また、如何に勇気凛々としていたとは言え、アイスアックスをかついで大阪から汽車に乗りこむ訳にも行かないので、新聞紙に包んで信州大町まで持って行った。この時は針ノ木峠から鹿島槍まで、尾根を伝うのだから大した雪がある筈は無く、真田紐で頭を縛って偃松の中や岩の上をガランガラン引ずって歩いたもんだから、石突きの金具や、その上五六寸ばかりの処がザラザラになって了った。  この年から大正十五年の六月まで、私のアイスアックスは大町の対山館に居候をしていた。居候と云っても只安逸な日を送っていたのではなく、何度か対山館のM氏に伴われて山に行った筈である。今年六月、まる二年振りで対山館へ行って見たら、土間の天井に近い傘のせ棚に、大分黒くなった長い身体を横たえていた。即ちこれを取り下し、大町から針ノ木峠、平、刈安峠、五色ガ原、立山温泉、富山という旅行に使用した。非常な雪で、また大町――富山の大正十五年度の最初の旅行だったので、アイスアックスが大いに役に立った。  富山から同行者二人は長野経由で大町へ帰り、私は直接大阪へ帰ることになった。従ってアイスアックスも大阪へ帰って来たが、何もすることがない。戸棚の隅でゴロゴロしている丈である。時々令夫人が石突きで石油の鑵をあけたり、立てつけの悪い襖をアックスを用いてこじあけたりする。山ですべてを意味するアイスアックスも、大阪郊外の住宅地では、かくの如く虐待されている。  所で、私はこのアイスアックスが非常に好きである。時々酔っぱらうと戸棚から出して愛撫したりする。アイスアックスが、登山のシンボルであるような気がするからである。元来私が、氷河の無い日本の山を、而も夏に限って登るのに(将来あるいは冬登るかもしれないが)大して必要でないばかりか、ある時には却って邪魔になるアイスアックスなんぞを買い込んだ理由は、実にこれなのであった。刀剣の好きな人が、日本刀に大和魂を見るように、私はアイスアックスに登山者の魂を見出す。それにまた、冬の夜長など、心しきりに山を思う時、取り出して愛撫する品としては、アイスアックス以外に何も無い。  登山者としての私は道具オンチではないから、あまり色々な物を持っていはしないが、それにしても若干ある登山具を、一つ一つ考えて見るに、座敷に持ち込んで愛撫し得るものは、アイスアックス丈である。登山靴――これはツーグスピッツェの麓なるパルテンキルヘンで買った本場物には相違ないが、酒盃片手に泥靴を撫で廻すことは出来まい。ルックサック――これも登山にはつきものであるが、空の頭陀袋を前に置いた所で、何の感興も起らぬ。たかだか山寺の和尚さんみたいに、猫でも押し込んでポンと蹴る位が関の山であろう。飯盒――飯盒はいたる処で、私の為にふっくらした飯を提供してくれたが、さりとて食卓の上にのせて見ると、どうもしようがない。お箸でたゝくとカチンカチン音をたてるから、赤ん坊はよろこぶが、一家の主人として威厳を保つ必要がある身分として、そんなことは出来ない。然らばロープか。ロープは一昨年の春、大阪の人西岡氏がいろいろ考えたあげくつくったのを百呎ばかり、使って見てくれとて持って来られたのがある。ロープこそはアルプスのシンボルと云えよう。登山、ことにロック・クライミングには必要欠く可からざる品である。現にアブラハム氏の「コムプリート・マウンテニヤ」の第三章「登山具」を読むと、第一に登山靴、第二にロープ、次でアイスアックス、ルックサックなる順序に説明してある。また、かの有名なるウィンパアが、マッターホーン登攀に成功した話、下山の途中起った悲劇、それ等に関してロープが如何に重大な役目をつとめているかを思えば、これこそ登山具中の王者とも云う可きである。だが不幸にして私は本式のロック・クライミングをやったこともなければ、実際ロープを必要とするような山に登ったこともない。その上、如何に山を思えばとて、直径五六分もある太い綱を百呎、座敷へかつぎ込んだ日には、井戸替え屋の新年宴会みたいで、面白くも何ともない。  そこでいよいよアイスアックスが出て来る。アックスは鋼鉄を冠った鍛鉄である。柄はグレインの通ったアッシで出来ている。長さ三尺、重量は手頃と来ているから、よしんば振り廻しても大したことはない。右手に持ち、左手に持ち、あるいは柄の木理を研究し、アックスをカチカチ爪でたたいて盃の数を重ねて行けば、いつか四畳半の茶の間も見えなくなり、白皚々たる雪を踏んで大雪原に立つ気になったりする。寒風身にしみてくさめをし、気がついたらうたゝ寝をしていたなどというのでは困るが、とにかくアイスアックスは、我をして山を思わしめ、山を思えば私はアイスアックスを取り出して愛撫する。  一九〇二年のことである。モン・ブランの頂上から四人の登山者が下りて来た。内二人はスイスのガイドであった。グラン・プラトーと呼ばれる地点まで来た時、突然物凄い雪嵐が一行を襲い、進むことも退くことも出来なくなって了った。止むを得ず、アイスアックスで雪に穴を堀り、四人がかたまって一夜をあかすことにしたが、気温は下降する一方で、ついに暁近く二人は凍死した。  翌日はうらゝかに晴れ渡った。残った二人は、とにかく急いで下山することにしたが、あまり急いだので、その中の一人が深いクレヴァスに落ちて了った。クレヴァスとは氷河や雪田に出来る裂目である。深いのも浅いのもあるが、この男の落ちたのは二百尺近くもあったという。そんな所に落ち込めば、命は無いものであるが、この人は不思議に、大した怪我もせずにいた。  一行四人が、今はたった一人になった。この最後の一人は、これは大変だ、どうしたろうと、しきりにクレヴァスをのぞいている内に足をすべらして、自分もまた同じクレヴァスに落ち込んだ。同じクレヴァスと云った所で万古の堅氷に、電光のように切れ込む裂目である。勿論前に落ちた男は、自分の仲間がクレヴァスに落ちて即死したとは知る由も無い。どっちを見ても氷ばかりの狭い場所で、早くあいつが麓に着いて、救援隊をよこしてくれゝばいゝとばかり思いつづけた。だがその、救援隊を求む可き人は、今はもう死んでいるのである。これ程頼り無い、心細い話は無い。  所でその地点から一万尺下に、シャモニの町がある。この町には非常に強力な望遠鏡が据えつけてあり、この日もある人が晴れ渡ったモン・ブランを山嶺から山麓まで、しきりに観察していると、ふとレンズに入ったグラン・プラトーの人の姿。どうやらクレヴァスを覗き込んでいるらしい。はてな、今頃たった一人で、何をしているんだろ、と思った次の瞬間、もう黒い姿は、どこをさがしても見えない。  グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちた。すぐ救助に行かなくてはならぬ。この叫び声によって救援隊は立ちどころに組織された。選りぬきのガイド達、手足まといの登山客がいないだけに足が早い。羚羊のように岩を飛び雪を踏んで、遮二無二に急ぐ。  一方、グラン・プラトーの上方に五六人のガイドが無事に前夜を送った登山者達と一緒に休んでいたが、ふと気がつくと麓から一群の人々が登って来る。只登って来るのなら何の不思議もないが、恐ろしく足が早い。とても普通の登山ではない。何か起ったに相違ない。応援に行こう。とばかり山を下りかけた。  数時間の後、救援隊とガイド達とは落ち合った。グラン・プラトーのクレヴァスに人が落ちたと云う。それでは一緒にさがして見ようということになって、さてグラン・プラトーに来て見まわしたものの果してどのクレヴァスのどの辺に落ちたのかハッキリしない。あちらこちら覗き込んでは呶鳴って見ても、一向返事がない。さては死んで了ったのか、さっき望遠鏡で見た時から、七時間余も経っている。よしんば即死しなかったにしても、もう死んだのだろう。仕方がない帰ろう――と話し合っていると、どこか変な処で変な声がする。まだ生きている!と一同急に元気を出して、又、あちらこちらと覗いては呶鳴り、呶鳴っては覗くうちにとうとう落ちている場所を発見した。そら、こゝにいる。繩を下せ。だが、どの位深いところにいるか判らぬ。一番いい奴を下せ。かくて百五十呎の繩が、スルスルと氷の裂目に呑まれて行った。すると下から声がする――まだ四十呎ばかり足りないと云う。そこで五十呎のをつぎ足した。都合二百呎である。「よし、引っ張ってくれろ!」という声を聞いて、一同は力を合せて繩を引いた。二百呎の氷の裂目を、ブランブランと上るのは、危険至極である。氷の壁にたゝきつけられたら、頭を割るか、足を折るか、とにかく碌なことは無い。だが、どこ迄も運のいゝこの男は、無事に表面まで出て来た。  前夜、すくなくとも十時間は雪に埋った穴の中で凍え、二人に死なれ、たった一人でクレヴァスにうづくまること八時間、たいていの人間なら、もう山は沢山、ガイドなんぞするよりは、山麓のホテルで門番でもした方がいゝと思うであろうが、この男はどこからどこ迄アルプスのガイドに出来上っていた。もう弱り切って、ヒョロヒョロしているにもかゝわらず、「誠に申訳ないが、もう一度繩でしばって、クレヴァスに降して呉れ」という。救援隊の声を聞いた悦しさについ夢中になってアイスアックスをクレヴァスの底に忘れて来て了ったのである。懇望するまゝに、また二百呎の繩を彼の胴に縛りつけて、クレヴァスに降してやる。後生大事にアイスアックスをかゝえ込んだ男が、再びクレヴァスの口に顔を出したのは、それからしばらく経ってのことである。  この話はコリンスという人の書いた「マウンテン・クライミング」なる本に出ている。アルプスのガイド達は登山中如何なる事情があってもアイスアックスを置きざりにしてはならぬという不文律を固く守るのだそうである。一寸面白い話だから、うそか本当か知らないが――まさかうそではあるまいけれど、コリンス先生の著述目録を見るとカメラ、ワイヤレス、飛行機、山、等いろいろな物に関して本を出しているので、いさゝか当世流行の大衆向きライタアらしく、従って面白く書くことを目的としているから、ひょっとしたらこの話も又聞き位かも知れぬ。――アイスアックスの話の序に紹介する。 クレメンツ・ルッペン  クレメンツ・ルッペンはその時すでに五十の坂を越していた筈である。ヒョロヒョロして、思いがけぬ所に妙な角度が見える奇怪な身体つき、そしてオープン・アンクルの靴が彼の固い、やせた脛の後から、変な格好につき出ている。而もひとたび岩に触れ、氷を踏み、通路も碌に無い場所を疲れず倦まず大股に急ぐとなると、こんな風な調子の悪さはすべてなだらかな「力」のカーヴに変るように思われ、彼は屈強なフォームの確かさと優美さとを以て動いて行くのであった。山の農夫のはげしい生活は、彼を肉体的にも心理的にも、磨り耗らし曲げ歪めたが、彼の快活な精神には手を触れなかった。  彼は若い時ティンダル教授のもとで訓練されたのであって、その影響はホテルの顧客をたよりとして暮した三十年間に、彼の身にしみ込んだマナリズムにさえも――このマナリズムは山に入っている間は全く影を消すがホテルの廊下に一歩足がかゝると同時に、ほとんど喜劇的にあらわれる――打ち消されないのであった。抑えても抑え切れぬ子供らしさと、冒険に対する華美なユーモアとは、彼の貧乏が彼に、子供は一人もいず牝牛を九頭持っている彼の競争がたきのトニイ・ワルデンの方が、牝牛二頭に子供九人の彼自身よりも如何に好運そうに見えるかをしみじみ思わせる時にでも、彼が煙ったい小屋で私と一緒に次の登山を玄妙不可思議に企画しつゝ、私の耳に如何にもわるさかしげに Habe was neues fur Sie, Herr Jung ! と囁く時にでも、教室を逃げた所を捕まった生徒のような見えすいた無関心で、彼が「発見」した背稜をふざけまわる時にでも、あるいは――これは最も見馴れた画である――夕方我々が家路に向い、そして例の致命的なピアザに近づく時、肩ごしに私に一瞥をくれ、我々の勝利による彼の大恐悦を請願的な Sind Sie zufrieden, Herr ? に和げ鎮める時にでも常に彼の気むずかしい隅々をつゝみ、彼の瘤や皺から洩れ出ていた。彼の両眼は彼の性格と世渡りの方法との通弁であった。胡桃みたいに皺のよった、褐色の頭と顔とについた細い曲った二つの裂目には、悪戯と計画との薄青い噴火山が、限定された出口に取って余りに生々と明光を発していた。  クレンメンツはあらゆる場合に、ローンの溪谷越しにペンナインスを指しては、自分は「あすこにいる連中みたいな一流のガイドではない」と主張するのであった。が然し彼自身の山々は、後向きに歩くことも出来る位よく知っていた。彼はもっと人の大勢行く地方にいたのならば、必ず有名になったに違いない。彼はその時すでにアレッチホーンを百回ばかり登っており、ネストホーンに至っては何度登ったか覚えていられない程であった。この年令でより安全な、より敏捷な岩と氷の巨匠が、この奇妙な動作態度でより勇敢な、よりしっかりした冒険者が、山を、それが幾許の金銭をもたらしたが故にでなく、単に山その物として愛すること、彼の如きは他に類を見ない。  この彼に、晩年に近く、一つの機会が与えられた。それは導くべき一少年である。登山の規範とロマンスにあこがれを持った一少年である。彼はこの上もなく陽気な交友関係をそれからつくり上げた。夜あけ前の暗い時に、私はいつも方言の咽喉言――喉よりむしろ肺の言葉で、私にとっては常に山の正しい言語である――によって起される。私が本当に寝台を離れ、着物を着て了う迄は、白髪まじりの頭が、用心深く開かれたドアから、のぞいたり引っこんだりしつづける。我々のザックは前の晩に殆ど準備されてあった。そこで我々は闇の中を歩き出す。近くのスロープを上下すると、足の方では草と百合の新しい湿った匂がし、また夜明け前の風のつめたい戦慄は灰色の光の約束を横切って身動きし、しっとりした衣服の下から睡眠の殿軍を追い払う。私にとっては、アルプスに於ける「短い」一日の思い出は、必ず露にぬれた草や、松の枯葉や、氷の上の濡れたモレイン砂礫の早期の匂いに、先に行く影のような姿から来る、泥炭にいぶされたフェルトやダッフル(一種の粗羅紗)の暗示が、気持悪くなく交ったものに関連している。恰度「大きな」一日の思出が、太陽の照らさぬ氷河から吹く夜風が舌に与える清冽な「石に似た」味に、前方にある、あるいは私が手にぶら下げたランタンの、焦げた金具と蝋燭脂の、親しみ深い、頭痛を起させるような香とが混じり合ったものであるように。(G. W. YOUNG より) 鮎と泥鱒  播州の山の中に、Sという温泉場がある。山陽線を姫路で乗りかえて北へ向うこと約一時間、A駅で下車してから一里西へ向って歩く。そこでB川という水の綺麗な、夏だと盛んに河鹿の鳴く川にぶつかる。川添いの道を南へ四丁、左に曲ってものゝ二三丁も山道を登ると、そこにS温泉がある。宿屋一軒、駐在所。不便なとこへ持ってって、西向きの山の斜面を一寸ひらいた場所だから、夏はあつかろうし、冬は恐らく寒いだろう。おまけに温泉とはいえこの辺によくある――というより、この辺一般に然るが如く、井戸の水を汲み上げてそれを沸す式のものだから、伊香保や箱根や山陰の各温泉に馴れている目から見ると、不景気なこと夥しい。その代り少女歌劇もなく、芸者の連れ込みもなく、静かなこともこの上なしである。  何故またこんな温泉を私が知っているかといえば、ほかでもない、大正十×年の初夏、播州S山がロック・クライミングに適した岩壁を多く持っていることを聞き込み、どんな具合だか見に行こうじゃないかと、T君という若い人と一緒に出かけた。その時発見したのである。もっとも、どこからどう行ったらいゝのか、まるで見当がつかぬ。やむを得ず陸地測量部の地図を四五枚買って来て、シーツの上の蚤をさがすようなあんばい式にキョロキョロ眺めると、なる程S山という山が出ている。ジャガジャガと引っ掻いた傷みたいな符号は岩壁、道路を伝って南に下ると播但線のA駅に出る。これで大体のことは判ったが、次に一晩とまる所を考えねばならぬ。で、駅から山まで五六里の間をさがすと、所々に人家はあるが部落らしいのはたった一つ。こゝには村役場も郵便局もあるから、たぶん木賃宿位あるだろう……よし、第一日はこゝ泊り、第二日朝早く出て山に登り、出来れば即日姫路まで引き上げよう。と、こう話をしながら、ふと見ると、この部落の南に温泉の符号がある。「おや君、こんな処に温泉があるんだぜ。こゝで泊ることにしょう。」といゝはしたものの、その温泉も、符号と、ちょびっとした家の黒マークが一つあるきりで、古い地図ではあるし、すこぶる頼りない。  所で大正十×年六月何日、日の暮れがたに姫路から和田山行きの二等に乗り込んだT君と私、相手がどんな山だか見当がつかぬだけに、仕度もいく分仰々しかった。登山服、何やかや詰め込んだルックサック、鋲を打った靴、私のルックサックのポケットにはロック・クライミングの教科書が入れてあった。これはこの本の写真を見て、その通りの格好をして私が岩を登る処をT君が撮影する手筈になっていたこと迄喋舌って了うと、正直すぎて莫迦らしくなる。とにかく二人は車室内の視線をあびて――もっとも三四人しか乗っていなかった――いささか照れていると、前に坐った中年の男が、たまり兼ねたと見えて口を切った。「どちらへお越しです?」  槍とか穂高とかいうのなら即座に返答するのだが、前にもいったように相手はいまだ正体の判明しない山である。なんだい、Sに登るのにこんななりをして……といわれそうな気がしたので、私は「ちょっとAまで行きます。」と下車駅の名を云った。そして「あなたは?」と問い返すと、「わしもAまでです」との返事。いきなりポケットから地図を出して「恰度いい都合ですから伺いますが、こゝに温泉の符号がありますね。どんな温泉だか御存知ですか。」  するとこの男は立ち上って、私の横に腰を下した。そしてT君と私とをかわりばんこに見ながら、S温泉の説明をしてくれた。すなわち湯は打身切傷、胃腸心臓何にでも効く上に、B川は螢の名所で鮎の名所。「是非御一泊なさい。こんな大きさの」――こゝで大将、両手を二尺ばかりひろげて見せた――「鮎があります。A駅からは乗合が出ます。今からだと貸切になりますが、私が話して、やすくさせましょう。」  やがて二人は五人乗のフォードに楽々と乗って、平坦な道路を走っていた。B川にぶつかって左へ。一軒の百姓家の前でとまると、こゝからはもう自動車が行きませんという訳。ルックサックを肩に、クリンケルだか、トリコニだかで馬糞を踏んで、間もなく大きな一軒家の前に立った。玄関、右手が台所、左手は庭で、長い縁側と部屋が五つか六つ。二階はあったか無かったか忘れて了った。今晩は!一晩とめて下さい。というと、女中が出て来てどうぞこちらへと、縁側をトントン歩いて一番すみの部屋の障子をあけた。我々は庭からその部屋へ。  とりあえず生温い、綺麗なんだかきたないんだか暗くって判らない風呂に入って部屋へ帰ると、庭とは反対の方の障子があいて、十七八の娘さんが現れた。御飯は?まだです。お酒は? のみます。何本? さァ、二本位。さっと引き下ったあとで――「君、とても、ヒナマレだね。」「いゝですね。」「あのヒナマレのお酌で鮎の塩焼か。悪くないな。S山なんぞよして、明日一日ここにいようか。」「駄目ですよ。そんなことを云い出しちゃあ。」  間もなくさっきのヒナマレ――鄙には稀なるの意味である――が朱塗のお膳を二つ運んで来た。玉子焼、湯葉と高野豆腐、その他いろいろといった処で二皿位だが……「あの、鮎はとれませんか。」「とれますけどお客様がないと腐りますから――。泥鰌でよければ……」「へー。」「今お酒を持って参ります。」トントントン。トントン。ガタリコトンと障子があいて美しい娘さんが、二合はたっぷり入る徳利を二本。あとからさっきの女中がお櫃。「ごゆるりとお上り」で、二人とも行って了った。  部屋の中では我々二人、しばらく顔を見合わせて黙っていた。とりつく島もないじゃありませんか。  その夜は固い布団二枚の間に身をよこたえ――かけ布団が身体を中軸にシーソーをしていたっけ――あくる朝早く、赤ン坊の頭位ある握り飯を二つずつ貰って御勘定一人前八十銭。素敵な勢でS山の岩をはい上ったことはいう迄もなし。  その後、「一泊旅行をしたいが金が無い」という人があるたびには、私はS温泉へ行きたまえ、夏なら河鹿、鮎、螢。秋は紅葉に松たけ、しめじ。冬は知らないが温泉は万病に効いて一泊八十銭。「しかも君、すごい美人がいてね……フヽヽ。」と話して聞かせる。たいていの奴は、この「フヽヽ」を変な意味に解釈して「お安くないぜ。そんな処へは断然行かぬ。」というが、こっちにとってはそれが幸い。人を莫迦にしやがってとか何とか、あとで怒られたり撲られたりしないで済むから。 秋になる 一  柚子がだんだん大きくなって、酒がうまくなる。酒はどうしても秋から冬にかけてである。ことに宵、あたりの沈黙を聴きながら、ゆっくりと、ほんの一合か二合。 二  蚊帳をつるのをやめた夜、暁近くの肩のあたりに寒さを覚えて、戸棚から出す小掻巻に、かび臭いような、古めかしい香が、ほんのりとまとわりついているのは、いゝものである。かゝる朝は朝顔の花が、殊に小さく、数知れず咲く。 三  余程前のこと――  ボストンの北に当るセーラムで、このセーラムが生んだ最も有名なる人物、ナザニエル・ホーソンの孫という老婦人を訪れたことがある。九月の末の、月のいゝ晩であった。  お婆さんは、ミセス何とか言ったが忘れて了った。忘れたといえば、このお婆さんがホーソンの孫だったか、従兄弟の孫だったか、それも覚えていない。甚だ「頼りない」話だが、それは要するにどうでもいゝので、私が覚えているのは、お婆さんがもう九十いくつかで、ブリキのラウドスピーカーみたいな物を耳に当てゝは、私の喋舌る覚束無い英語を聞いたことゝ、その晩恰もその家に遊びに来ていた、マーガレット何とかいう、隣の家の娘のことである。  一通り話が済むとお婆さんが、私の庭は荒れているが、ナザニエル・ホーソンが遊びに来たことがある庭だから、見たらどうだ。マーガレット、お前御案内おしなさい。と云った。  マーガレットは、すこぶる気軽に立ち上った。十六か七位だろう。すらりとした娘で、「カム・オン!」とか何とか云って、ポーチの階段を下りて行く。――月がいゝので、私どもは部屋に入らず、東南に面したポーチに坐っていたのである。  ポーチを下りると石を敷いた路が、家に添って裏の庭に通じている。その庭は、どの位の広さがあるのか、また何が植えてあるのか、陰影が多くて判らない。南瓜の大きな葉に、露がキラキラ輝いていた。  マーガレットは靴のさきで南瓜の葉の下をかき廻していたが、やがてしゃがんで、大きな林檎を一つひろった。「これはこの林檎の樹」――なる程南瓜のまん中に林檎の木が立っている――「から落ちたので……おゝ冷たい。露で冷えている。」こう云いながら、カリッと音を立てゝ林檎を噛った。―― Have a bite !  さし出した林檎を、私も一口噛って見た。冷たかった。  話はそれ丈だが、考えて見ると呑気なものである。生れて初めて逢った日本人を、陰影の多い裏庭に案内して、おまけに自分の噛った林檎を噛らせるのだから。 四  信州の友人から、しょっ中、山の便りがある。春は雪が解けたと云って来る。夏は登山者が多いと云って来る。冬は炬燵に入ってこの手紙を書くと云って来る。その、いずれの時節の便りにも私は心を引かれ、山を思うのであるが、一番誘惑の強いのは秋の便りである。――霜が降りた。白樺の葉が黄色くなった。梅擬の枝を山からとって来た。そろそろ鳥焼きが始る。昨日は落葉松の林で時雨を聴いた。青木湖の水がますます澄んで行く。――かゝる文句に接するごとに、私は鼻の穴を大きくして、――甚だ芸術的でない、妙な言葉だが――馬が若草の香を嗅ぐように、北安曇高原の秋の空気を嗅ごうとする。私の目には、鋼鉄のように光る空と、その空にクッキリ、アウトラインを見せる山々とが見える。長い、暑い、忙しい夏に疲れ切った心は、今晩にでも大阪を立って信州へ行こうと思う、だが、いつも金がないか、時間がないか、あるいは両方が無いかして、その儘になる。私は仕方がないから酒をのむ。「秋の高原」なる、素晴らしい随筆が、いつ迄も世の光を見ずにいることを自ら惜しみ、訳の分らぬことを云いながら寝て了う。 五  四五年前の秋、スコットランドのアクレイ湖畔で摘んだヘザアの花、小さな額ぶちに入れて置いたが、いつか忘れていた。四五日前、ふと思い出した戸棚をさがしたら、硝子が割れて、只さえ乾いた花や葉は、ボロボロになっていた。この次、思い出して見る時には恐らく鼠が喰っちまっていることであろう。なまなましい心の痛手も三鞭の泡のように景気のいゝ恋愛も、その思出となるといつの間にか黴が生えたり、鼠に喰われたりする。いわゆる人生のこと、よくは判らないが、大方これでいゝのだろう。  秋といっても十一月。スコットランドは冬が長い。ストーヴのそばを離れると寒くてやり切れぬような季節である。  朝、九時近くなってトロサックス・ホテルの人気の無いヴェランダに立った私は、まっ向から照りつける太陽に、いさゝか面喰ったが、ズラリと並んだ籐椅子の一つに腰を下してシガレットに火をつけると同時に、太陽の光が極めて強いのに似合わず、空気は霜を含んで恐ろしく寒いのに気がついた。と見る、ヴェランダからだらだらと傾斜した芝生。芝生に接してコンクリートの大道、それから長い草の原がちょっと見えて、あとは一面に乳白色の霧である。霧の上に岩と、茶褐色の草とに掩われた山巓が浮き上るのは、恐らくベン・ベニュウであろう。  前の晩、暗くなってから着いたのだから、実は何が何やら判らぬ筈ではあるが、旅に馴れた身の、ベッドの中でトロサックスの地図を開いて、いさゝかあたりの地理を調べて見た。それによると、この乳白色の濃霧は、アクレイ湖の上に漂っているのに相違ない。九時半、十時、十時半と、太陽が昇るに従って霧が散り、やがて美しい秋晴れになるのであろう。だが、あの、往来の向うの草の中で動いているのは、一体何だろう?  両手を上衣のポケットにつっこんだ儘、私はヴェランダを下りた。芝生を横切って道路に出る。もう靴は露で濡れている。道路の向うの原には……足を踏み込む気がしなかった。長い、膝位までは充分ありそうな、枯れた羊歯に露と、それから針の様な霜とが一面に着いている。見る見る霧は上って行く。恰度大きな毛布を巻くような有様である。突然ガサッと音がして、私の前に立ち現われたのは、一匹の羊であった。長い、黒い毛。ふくふくと太って、顔がむやみに小さく見える。その小さい顔を曲げて、しばらくは私とにらめっこである。 Baa, baa, black sheep, Have you any wool ?  あんまりいつ迄も私の顔を見るので、すこし顔負けして、いきなり私はこう云ってやった。羊は吃驚したらしく、ちょっと首を振ったが、ガサリと草を分けて霧の中にかくれた。  それから三十分ばかり、私は湖畔の路を歩いた。いたるところ、ヘザアの花の盛りである。二三本摘んで手帳にはさむ。いつの間にか霧はすっかり上って、アクレイ湖にさゞなみも立たぬ美しい日になった。  ――考えて見ると、あれが大正十一年の秋だから、この秋でまる四年になる。忘れるにしては早すぎるようだが、私の記憶には大分黴が生えた。 六  二三日前の朝、今年はじめての百舌の声を聞いた。珍らしく早く起きて、と云っても七時頃、ねまきのまゝで新聞を読んでいると、ギー、ジュルジュル!という声。  私は新聞を持ったまゝ、あけ放した窓の所に行って見た。するとすぐ前の電線に、肩をいからし、胸を張って、ギー、キーン!と威張っている鳥、バックは澄んだ空と、松の丘である。前にひらける景色は、私の家と、はるか向うの山である。若い勇士が得意になるのも当然ではあるまいか。  私は大きなアームチェアにポコンと埋って、大人しくパンを噛っている子供を抱き上げた。子供は抱いて貰った嬉しさに、足をバタバタさせて笑った。 「陽ちゃん、あれを御覧!」  子供は窓わくに立って、私の指さす方を見た。電線にとまる鳥の姿は、すぐ彼女の目に映じた。パンをつかんだまゝ、右手をのばして百舌を指さす。目を見張って、一挙一動を見守る。  見物人があると知ったからでもあるまいが、百舌は盛んに高い声を出した。子供はパンを忘れて見詰めた。  突然、パッと百舌は飛び立った。私の家の屋根を越して西北の方へ。あとには電線が空で揺れた。  子供はほっとしたように私の顔を見て、「にゃいにゃ、にゃいにゃ。」と云った。無くなったの意味である。 「あゝ、どこかへ行って了ったね。」――私は彼女をもとのアームチェアに下しながら云った。  去年の夏生れた私の長女が、初めて、意識して聞いた秋の声と、意識して見た秋の姿は、実にこの百舌である。やがて生長して行く彼女にとって、秋が悲しいものになるか、うれしいものになるか。私はしばらく、新聞も読まずに彼女を見た。もう百舌のことなぞは忘れて了ったらしく、私の方にパンを差し出して、しきりに「あん、あん、あん」とうなづいている。私に呉れるというのである。 スキー場の親子  お父さんは××会社の重役、お嬢さんは××学園の二年生、北信××温泉の裏山へ、スキーをやりに来た。お父さんは数年来スキーに親しんでいるそうだが、お嬢さんはこれが最初である。  こゝで一寸、この××温泉のスキー場を説明したい。手取早くいえば、Vの字に、もう一つサイドをつけた形なのである。即ち温泉宿のある所から、急な坂を登って行くと、なだらかな斜面が目の下を下って行き、斜面の底部からは、自分の立っている所と相向って急な斜面が、かなりな高さでかゝっている。この二つの斜平面と交るのが右側の斜面で、こいつは恐しく急であり、シャンツェが出来ている。これで三つの側が出来た。残る一つの側は小さな谷口にひらけ、なだらかで狭い路がついている。  地形がこのようになっている以上、スキーをする人達が巧拙に依って各々その斜面を選ぶのは理の当然である。即ち最も上手な青年達は、シャンツェのある側へ行き、それ程でない人達は向う側の斜面で滑ったり止ったりし、一番下手な我々は、こちら側の斜面をころびながら上下し、より下手な連中はまるで斜面にさしかゝらず、その上の、平坦な場所で、立ったり坐ったりするのであった。  坂の上までたどりついたお嬢さんは、器用にスキーをはいた。恐らく東京で練習して来たのであろう。お父さんは先ずお嬢さんの写真をうつした。そして、写真機を革の箱に仕舞い込むと、 「さあ、杖をこう持って、グンと押して御覧!」といゝながら、ズルズルと、かなり固く踏まれた雪の上を滑って行った。お父さんはもう会社の小使さんにやってもいゝような外套を着、狐の毛皮を首にまいた上に、絵葉書型のコダックを肩にかけ、外套の裾から長靴下を出している。どうもスキーに来た重役というよりも、兵営建築用の材木を見に来た陸軍御用商人といった形である。それはとにかく、二三間滑ったかと思うと、ドサリと倒れて了った。  お嬢さんはほがらかな声を立てゝ笑った。  お父さんは雪まみれになって呶鳴った――「笑う人がありますか、スキーは三千遍ころばなくっちゃ上手になれないのだ。何より先に、ころびようと起きようとを練習しなくてはならぬ。起きる時には足をこう揃えて……」というのだが、外套の裾や狐の皮やコダックが邪魔をして、中々起きることが出来ない。お嬢さんは、 「パパ。だって……だって……」といゝながら、雪眼鏡を外して涙を拭う程笑った。  やっと起き上ったお父さんは、旧式な八字鬚のさきに雪をつけたまゝ、「さあ××ちゃん、こゝ迄来て御覧!」といった。  お嬢さんは僕達が見ているので幾分てれたようだったが、それでも勇敢に両脚をそろえてズルズルと滑った。そして、一間ばかり行った所で、ヘタと雪の中に坐って了った。そこは雪がやわらかかった。お父さんは盛んに「スキーを揃えて、膝をおなかに引きよせて……」と教えるが、中々そううまくは行かぬ。お嬢さんはニッカースもスウェッターもまっ白にした。まだ起きられぬ。いくら××学園で無邪気だとはいえ、もう十六七になるのだから、知らぬ男の前で雪の上をころがるのは、いゝ加減恥しいであろう。僕達は二人をそこに残したまゝ、青年達が飛ぶのを見るために、斜面の中程まで下りて行った。  その日の晩方、チラチラと粉雪が降って来たので、もう帰ろうかなと、二三人で谷底から上って来ると、上からお嬢さんが滑って来た。大分しっかりしている。底部まで行ってバタンと横に倒れた。スキーを揃え、うまく起き上った。僕達はお嬢さんが上って来るのを待って、一緒に上まで行った。もう誰もいない平坦地には、お父さんが水っぱなをたらして待っていた。お嬢さんはその横まで行って、「パパ、今度は下まで倒れずに行けたわよ」と、如何にもうれしそうに叫んだ。お嬢さんの赤くほてった頬が、白い雪と、白いスウェッターと、白い帽子とに、可愛らしく輝いた。お父さんは、僕達がいなかったら、その頬っぺたにキスしたかも知れぬ。  その翌日、僕達は、僕達だけで温泉宿の裏山へ行ったが、翌々日、僕だけ午後の汽車で発つので、そろって、例のスキー場へ行って見た。丁度お昼前で、あまり人がいない。坂を登りきると、例の平坦地に、あのお父さんが一人で立っている。不相変長外套、鳥打帽子、狐の毛皮といういで立ちだが、写真機はもっていなかった。  僕達の仲間で、このお父さんをよく知っているのが、 「××さん、今日は。お嬢さんは?」というと、 「それが君、どこかへ行って了ったんですよ」という返事である。どこかといっても手前の斜面は一目で見下ろせる、真正面のは急すぎる。さりとてスキーをはいて三日目のお嬢さんが、ジャムプをやりに、右側の急斜面を登る筈はない。左の方の谷へまぎれ込んだとすれば、あすこには川があり、若し落ちでもすれば大変である。僕達は一寸緊張した。お父さんを知っている友人は、すぐさま斜面を滑り下り、左へ曲って谷へ姿を消した。  僕は雪眼鏡を外した。キラキラして目が痛い。出来るだけしかめっ面をして、真向うの斜面を見上げ見下しすると、はるか上の方を、えらい勢で滑り下りる人がいる。その辺は段々になっているので、見えたり見えなかったりするが、どうもお嬢さんらしい。白いスウェッターの襟から、下に着た赤いスウェッターがチラリと見えている。  素敵な勢で滑って来たお嬢さんは、段の一つに来て、ザラザラと転げ落ちた。左の方にはジグザグな路がある。お嬢さんは、恐らくそこを登って行ったのであろうが、コントロールを失っているから、どこでも構わず滑り落ちるのであろう。 「××さん、お嬢さんはあすこにいますよ」僕の指さす方向を、これもしかめっ面をして眺めたお父さんは、 「や、や、大変な所へ行ったもんだ。仕方のない子だ」といゝながら、滑り出そうとしたが、考えなおしたと見えて、 「大丈夫でしょうな、大丈夫なら見ていましょう」といった。  お嬢さんが、無事に段々の箇所を通りぬけた時、我々は底まで滑って行った。丁度左手の谷をさがしに行った男も帰って来たので我々四人、上を向いていると、ヒョッコリ、上の棚みたいな所にお嬢さんが身体を出した。 「ヨホー!」と叫ぶとお嬢さんは片方の杖を大きく振って、勇敢に滑り始めた。ころぶ、起き上る、ヒョロける、ころぶ、滑る。そして間もなく、帽子も雪眼鏡もふっ飛ばした雪達摩みたいなお嬢さんが我々の横に立った。 「お前は一体何て真似をする。お父さんに心配かけて!」お父さんは水っぱなをすゝりながらいった。お嬢さんは、それに構わず、 「パパ、お腹で雪がとけて冷たいわよ」といった。  その日の晩方、暮れて行く千曲川にそって走る汽車の中で僕は四日前の晩、スキーを背負い出す僕を玄関まで送った娘のことを思い続けた。彼女はピョンピョン跳ねながら、 「お父ちゃん、お弁当持ってスキーに行くのね。陽ちゃんも学校に入ったら、お弁当持ってお父ちゃんとスキーに行くのよ」と、繰り返していったものである。僕はこの陽子をつれてスキーに行く僕自身と、××さんとを思いくらべた。  陽子があのお嬢さん位になる時には、僕は五十近くになっている。僕も狐の毛皮を首にまくか知ら……と思ったら、腹の底から笑がこみ上げて来て、何とも始末が悪いことであった。 中年者の幻想 一  何というあたゝかさだ。このまゝ春になって了うのだろうか。そして、もう十一時だというのに、どこの子供だ、往来で騒いでいるのは。あたゝかい晩には火の番の拍子木の音があまり聞えないから妙だ。  今日会社では、参観に来た一群の女学生が階段をあがって来るのを見て、ませた給仕が二人、ゲラゲラ笑いながら廊下でつきとばしっこをしていた。春なんだ、テニソンがいった「若者の幻想がやわらかく恋の思いに向いて行く」春なんだ。蛙が繁殖作用をいとなみ、オホイヌフグリ――変な名である――が瑠璃色の花を咲かせ、中学二年生の額ににきびの出来る春なんだ。僕も今日は終日、頭の中で歌をうたっていた。ヴァレンシヤ、ラモナ、バルセロナ。だが三十五になると、春の幻想も恋の思い出には向いて行かぬ。もう駄目だ。 二  信州にいる僕の親友、三十七になるのが、このお正月スキーに行った時、いったことがある―「つくづく駄目だと思う。毎朝新聞を読んでいるが、強盗、掏摸、喧嘩、殺人、なぐり込み、すべて三面に出ている奴等の年令を見ると、みんな僕より年下だ。たまに年上のがあるかと思うと、せいぜい詐欺だ。僕なんぞこんな山の中にいて、善いことも悪いことも何もしないで老人になって了うんだ」と。その時は笑ったが、三十五、六、七という年令は、まったく憂鬱を感じさせる。気は若いが、山登りをしても、スキーをしても夜更しをしても、酒を飲んでも、すぐ参る。四十になったら仕事にばかり夢中になることも出来よう。だが、僕等の年令は中途半端だ。二月の末に春めけば、バルセロナを歌う若さの残りと、何ひとつやらずに死んで了うに違いないという、妙な暗示の始まりとが、こんがらかっているんだから。  ピータア・パンには「二つのエンドのビギニングである」という文句がある。が、本当の終末の端緒は三十五だ。 三  蛙の繁殖作用は、浅間しいの凄じいのというのを通り越して、むしろサブライムである。僕は子供の時、四谷の家から永田町の幼稚園へ行っていたので、毎朝清水谷公園の前を通ったが、あすこの大きな溝が、春になると、蛙の死骸で一杯になった。  二三年前の六月上旬、信州から越中へ山を越えた時、一日黒部川の平で遊んだ。岩魚を釣りに、左岸の岩を伝わって行くと、とある岩の水たまりに蛙が沢山いて、例のいとなみをやっていた。こんな山の中でさえもと、蛙という動物が平素人間に近く住んでいるものであるだけに、変な気持がした。  南米には助産蛙というのがいる。雌が産卵する時、雄は上から押したり、腹をさすったりして、それを助ける。「妻君がお産をする時、亭主が安居酒屋へビールを飲みに行ったりする人間よりも、余程感心ではありませんか」――これは動物学教授が講義の中にはさむユーモアの一例である。 四  こう暖かくては雪もとけるだろう。いよいよスキーも駄目になる。僕等のようにスキーが好きで、而も一年に一度か二度しかスキーに行けぬ都会の勤め人は、どうしてもスキーの道具をいじったり、ビンディングの優劣を考えたりばかりするようになる。従ってセオリストになり、道具オンチになるが、これはやむを得ない。  赤城山のシャンツェで、諾威の選手や日本の選手が、秩父、高松両殿下にジャンプをお目にかけた時、ある新聞が「アプローチ君八十米を飛ぶ」という見出しで記事を載せた。日本人の名前にはさまって、ヘルセット、スネルスルード、コルテルード等の外国名が入って来るのだから、アプローチを外国選手の名前と考えたのであろうが、これはいさゝか世界記録的の間違いである。アプローチとは出発点から飛び台の踏切りまでをいうので、この長さが増せば飛ぶ時のはずみも増すから、飛跳距離も大きくなる。赤城の記事は三回飛んだ最後に、アプローチを八十米にしたら、A選手三十何米、B選手四十何米というのであった。この新聞の編輯者はそこを間違えたのである。  だが、如何にも間違えそうな間違いである。かく申す僕なんぞも、偶然このテクニカル・タームを知っていたから、こんなこともいえるが、専門以外のことは、どんな間違いをしているか判ったものでない。 五  春のスキーは素敵にいゝらしい。今年は何とかして経験したいと思っている。あたゝかい日に、半裸体ですべり、疲れたら緑の草原にねころがって休む――なんていうのは、実に理想的である。ヘンリー・ヘックの「雪・太陽・スキー」には、そんな写真が沢山入っている。晴れた夜の星みたいにクローカスが咲いている所の写真もある。この本はいゝ本だ。 六  一月六日の夜、信州の大町から二里ばかり北の、国道に添った山の中のヒュッテに泊った時の経験は、容易に消え去らぬ印象を僕に与えた。  元来この小屋はスキー客のために建てたのであるが、山中ではあり、温泉は無し、東京から出かけて行く人なんぞ丸でなく、却って国道を通行する人の避難小屋として、主な存在理由を持っているのである。  あれは八時頃だったろうか。猛烈な吹雪で屋根も飛びそうな最中、突然戸があいて、雪まみれの男がよろめき入った。この小屋から更に一里あまり北にある一寒村の青年で、大町へ買物に行った荷馬車と一緒に来たのだが、吹雪のために馬がとまって了い、蝋燭も燃えつくした。蝋燭があるなら売って貰いたいというのである。小屋には蝋燭が無かったが、私のルックサックにはフォールディング・ランタンと一緒に数本の蝋燭が入っていた。それを二三本出すと、彼は銭を払うといったが、そんな詰らん心配はするなという訳で、彼――小屋番の話では兵隊から帰ったばかりで村の青年団長をしているそうである。どうりで言葉つき等もはっきりしていた。――は持ってきた提灯に火をつけ、吹雪の中ですくんでいる馬子と馬と車との所へ引きかえした。しばらくすると今度は村から、帰りつかぬ荷馬車を案じて三人の男がやって来た。これこれと話すると、それで一安心、先ずこゝで待とうと、落葉松の薪をどんどん焚くストーヴをかこんで、所謂四方山の話だ。僕は固い布団の中から、スウェッターを頸にまいた頭だけ出して、半分ウトウトしながら話を聞いていたが、何でも年内に婚礼があるので村中でその準備をしていると、急病人が出来て死んだ。村中が今度はそっちの方の手伝いで忙殺され、婚礼は日延になった。所が連日の大雪で、大町から来る筈の坊さまがやって来ない。待つのは一向かまわぬが、掘った墓穴が雪で埋り、何度も何度も雪をかき出している。この荷馬車も、実は葬式と婚礼との両方に使用する品を買いに行く序に、坊さまも呼びに行ったのだが、この吹雪ではとても坊さまは来まい。墓はまた埋ったろう。……僕達がねている頭の上で、彼等は遠慮会釈もない大声を出した。殊にさっきの青年と、馬子とが辿りつくと、話は余計盛んになった。が、僕は一向気にかけなかった。  一週間ばかり前に、この小屋の番人が蕎麦粉を送ってくれた。婚礼と葬式とがかち合ったあの寒村は、蕎麦の名産地なのである。買ったのか貰ったのか、手紙には只「手に入れましたから」と書いてあったが、三十五才のロマンティストなる僕は、この蕎麦粉が、あの吹雪の夜の蝋燭に対するお礼として、あの村の人々から贈られたものゝような気がしてならぬ。 七  帰りのバスに、とても変な洋装の女性がのっていた。派手なので、こんでいる間は若い人だろうと思っていたが、麹町六丁目で急にすいて、後の座席から僕のすぐ前へ坐り直した――それもよろけて、短いスカートの下から膝の上の肉を出した。――のを見ると、どうしても四十は越している。  洋服は粋であった。靴下は肉色の絹であった。帽子は深いトークであった。四十を越していなければ、それから頸にフワフワな、寒冷紗みたいな絹の布をまいていなければ、―― tulle だろうって?  御冗談でしょう、あれは安芸者が、白粉の衿につくのをふせぐ為に使うもので、夜店へ行けば廿銭位で売っています。――そして御同伴の紳士に、あゝ迄ペチャペチャ、表情たっぷりで話さなければ、あたゝかい晩だ、あるいは彼女、僕の幻想を「やわらかく恋の思いに向けた」かも知れない。その時も僕は頭の中で「バールセロナの、乙女子よ、来ませずや我が胸に!」と歌っていたのだから……。 八  日曜と、病気でねている時とを除いて、一週間に十二回、僕は大木戸と有楽町の間をバスで通行する。市営、青バス両方の回数券を持っていて、さきへ来た方に乗るのだが、青バスには築地行があるので、同じ三円の回数券でも、自然市営バスの切符の方が早くなくなる。  僕は孔子様みたいに品行方正だが、それでも一週間に十二回乗るバスの車掌に、全然無関心ではあり得ない。往きには築地行のバスにばかり、復りには渋谷行のバスの方に、美しい車掌が乗っているような気がする。これはヒューマン・ネーチュアだ。  暖かになって一番有難いのは、二重廻しを着る人のへることである。二重廻しはパクパクして、公共の乗物に着て入るべき品ではない。坐れば両方にひろがる。その上に腰をかけると、たいていの人は怒る。立っていれば坐っている者の鼻さきを、袖が撫でる。元来和服、下駄等は、ひとりでブラブラなり、シャナリシャナリなり、往来を歩くには適しているだろうが、多数の人が乗る電車やバスに着て乗っては、他人は迷惑であり、当人にとっては危険である。 九  女車掌に無関心であり得ぬ僕は、同様に運転手に無関心であり得ぬ。幸にして今迄一度も僕の自動車が衝突したり、人を轢いたりしたことが無いから、そんな風に心配を抱きはしないが、万一運転中の運転手が、突然目をまわしたり、心臓麻痺を起したりしたら、どんなことになるだろうとは、しょっ中考えている。  いう迄でもないが新宿から行くと、麹町三丁目から傾斜して半蔵門にいたり、あすこを直角に曲ると三宅坂まで、かなり急な坂である。麹町三丁目あたりでウンといったら、果してどうなるだろう。更に半蔵門を曲った所でそんな事変が起ったら、バスよ、汝は何処へ行く? である。乗客中に自動車の操縦を知っている人があれば無事である。車掌がかゝるエマージェンシイに処する知識を持っていれば、これは結構である。さもなくば大変な結果になるにきまっている。こんな事を考えているので、数日前夢を見た。僕がバスのハンドルを握って、文字通り夢中でそれを廻しているのである。ハンドルを右へ廻せば車体も右へ廻る。が、廻しきりでは理論上、車体は円を描いて了うから、一度方向が変ったら、すぐ元へもどさねばならぬ。これは僕も知っていた。然し止めようを知らぬ。右の方に二三本出ている棒を、いくら押しても引張っても、何のききめも無い。仕方がないから運を天にまかせて、あのお堀ばたの坂を突破し、電車の線路がY字形になっている所で桜田門の方へ行かず、まっすぐに参謀本部の裏口の坂へのし上げた。するとバスはうまく止ったが、止ると同時に逆行しはじめた。こいつはいけないと思う途端に目が覚めた。 一〇  紐育の地下鉄道――恐らく他の都市のもそうであろうが――は、運転手に万一のことが起る場合、直ちに自動停車をするようになっている。何でも運転手は制動機のハンドルを常に押えつけているので、この力がゆるむと電流が切れ、従って電車は停車するとのことである。これは僕が紐育にいた時、ひどい事故が起り、その時新聞に出ていた話なのであるが、すべての地下鉄道、路面電車、電気機関車が、そんな仕掛になっているのかどうか、僕は知らぬ。事実そうであるとしても、僕は当然だと思う。  紐育にいた時に起った、一番面白い事件は、エレヴェーター・ボーイ達のストライキであった。彼等にもユニオンとノンユニオンとがあり、従って紐育中のエレヴェーターがとまって了ったのではないが、所謂ダウンタウンの何十階という建物のが動かなくなったには、閉口した人が多かった。十階、二十階と口でいえば何でもないが、余程の登山家ならばとにかく、普通のビジネスマンに取っては、エッサエッサ登って行くことは、容易ではない。  その時の噂によると、ストライキを起したくても、口実を持たぬオペレータア達は、一策を案じ、その一人の、ウルウオース・ビルディングだかに勤めていたのが、婦人の客に乱暴を働いた。表面的には婦人天下の米国のことだから、この乱暴というのも、あるいは客の前で「ダム」とか、「ヘル」とかいった程度なのかも知れない。あるいはもっと、すくなくとも男として得をした程度の乱暴だったかも知れぬ。何にしても婦人は大きに怒り、地階に達するや否や巡査にこれを訴えた。その結果、この男は首になり、彼に同情してストライキが始ったとのことであった。この話、あるいはストライキ・ブレーカア達の悪宣伝かも知れぬが、中々面白い。 一一  エドワード・エス・モース氏は明治十年から十六年にわたって、三度日本を訪れた生物学者で、同時に陶器の蒐集をした人であるが、同氏の著述「ジャパン・デー・バイ・デー」を読むと、日本人はみな正直で、杉憲や説教強盗はまるでいないようなことが書いてある。如何に太陽の黒点が活躍しなかった頃とはいえ、これ程日本がよかっとも思われない。日本が好きで、万事に同情を持って日本を見たから、このようなことに成ったのであろう。何にしてもうれしい話である。  日本人で外国へ行き、一から十まで外国をいゝと思う人とまるで外国をけなす人と、両方ある。が、それ等のどちらもが一致するのは、外国、殊に米国の辻便所その他に、楽書が無いということである。  僕の経験によっても、それは事実だ。便所の壁が、多くはツルツルしたタイル張りで、楽書が出来ぬというのも事実である。  ペンシルヴェニア鉄道でニュー・ジャーシイの首府トレントンへ行くと、この都のはずれに短いトンネルがあるが、そのトンネルの内部の楽書は、ひどく猥雑なものである。楽書は勿論他所にも沢山あるが、こゝは日本の旅行家が通るところだから、一例としてあげる。もっとも今は消したかも知れない。 一二  ある倶楽部で聞いた話――。東京の社交界、ことにダンス場や高級な西洋料理屋の常連から、クイーンと呼ばれていた若夫人が、三度目兼最後に働いた不義の相手は、活動写真の監督だか俳優だかであった。三度目が最後になったというのは、旦那様に見つかって離縁になったからである。それはとにかく、男との最初のランデヴーに横浜へ出かけた夫人は、二千円をバッグへ入れて持って行った。監督だか俳優だかが、これは有難いと思っていると、横浜へ着くなり夫人は自動車をとても贅沢な店へ乗りつけ、目を廻している男の前で、一千円のファーコートを買った。千円や二千円のファーコートはざらにある。目を廻した男も男だが、やがて事実を知って、夫人を実家にかえした旦那様が、夫人の居間や寝室の戸棚を調べると、驚くなかれ税金たった一万円ではないが、洋服が百二十五着、帽子が八十七個、靴が七十八足、靴下が三十ダース(この数字はもちろん正確ではない、いく分大袈裟だろうと思う)という始末である。旦那様は見るも目のけがれとばかりそれを全部夫人の実家へ送りとゞけたが、汝ふたたびこれ等の綺羅を飾り、世人を迷わすことなきようにと、洋服、帽子、靴下には鋏で、靴は斧で、一寸きざみ五分きざみにしてから風呂敷に包んだという。支那にも衣類を裂いたり、小刀で穴をあけたりした男があった。この旦那様も、多少はそんな感でこれを行ったかも知れぬが、何にしても豪勇な話である。 一三  ある席で「キング・オブ・キングス」といったら、居合わせた一人が「君、あれは本当にいゝのかい」といゝ、他の一人は「あいつは、値段の割にうまくないや」といった。僕は映画の話をしかけていたのである。これだから話が面倒になるが、映画「キング・オブ・キングス」は、恐しく大がかりで、そして、同名のウィスキーみたいに、値段の割にうまくなく、同名の薬みたいに、本当にいゝのかどうか判らぬ。よしんば本当にいゝにしても、いさゝか「大がかりさ」に圧迫された気味である。  これの試写を見ていて僕は、しきりにオーバアマガウの受難劇を思った。あれは純真であり素朴である。中央の舞台の左右の翼には、本当の窓が明いていて、そこからは初夏の丘が見え燕が出たり入ったりした。僕はまた外国へ行き度くなって来た。考えると、二度目の外遊を終えて帰ってから、まる六年になる。何も外国がいゝとは思わぬが、バイエルンの初夏や、スコットランドの晩秋には、忘れられぬことが多い。スカンジナヴィヤやスペインはまだ知らぬ。だがその時と違って、今では家庭を持ち、今度の所得税は子供三人いるから三百円控除して貰えるぞ、なんて思っている僕である。これでは行ったとこで、暑さ寒さにつけて子供のことを心配し、神経衰弱になるかも知れない。 一四  まだ二月の末なのに、何というあたゝかさだろう。このまゝ春になって了うのか知ら。それとも、また寒くなるのか知ら。とにかく今晩は、蚯蚓も鳴こうというあたゝかさだ。  子供の時には、こんな晩のあくる朝、きっと輜重兵第一大隊か、近衛四聯隊から喇叭が聞え、そして風がすこし強いと、喇叭と一緒に練兵場の砂ほこりが舞い込んで、二階の縁側がザラザラになったものである。中学時代には、こんな晩、テニソンの詩を読んで、「若者の幻想」云々にアンダー・ラインを引いた。高等学校時代には、ハイネの「すべての蕾がめぐむ時」を口吟みながら、我が胸の一隅に恋愛の種子をはぐくんだ。これでも僕は詩人だったのである。今だって、こう急にあたゝかい日が来れば、四五日さきの月末に支払う可き金や返すべき金のことはすっかり忘れて、幻想にふけりはする。だが如何にクレーヴン・ミックスチュアの紫煙に見入っても、それは、BAH! 要するに中途半端な、中年者の幻想に過ぎないのである。 針ノ木のいけにえ  松本から信濃鉄道に乗って北へ向うこと一時間六分、西に鹿島槍の連峰、東には東山の山々を持つ大町は、安曇高原の中心として昔から静かに、ちんまりと栄えて来た町である。もちろん信州でも北方に位するので、雪は落葉松の葉がまだ黄金色に燃えている頃から、チラチラと降り始めるが、昨年(昭和二年)は概していうと雪の来ることが晩かった。が、来るべきものは来ずにはおかぬ。十二月二十三日の晩から本式に降り出して翌日も終日雪。その翌日、即ち二十五日の朝、信濃鉄道の電車は十一人の元気な若者たちを「信濃大町」の駅へ吐き出した。いずれもキリッとしたスキーの服装に、丈夫なスキーを携え、カンジキと、アイスアックスを持って、大きな荷物はトボガンにのせ、雪を冒して旅館対山館に向った。彼等の談笑の声は炬燵にかじりついていた町の人々の耳を打った。ああ、早稲田の学生さんたちが来ただ! 町の人々はこういって、うれしく思うのであった。こゝ三年間、毎年冬になると雪が降る、雪が降ると早稲田の学生さん達が大沢の小屋へスキーの練習に入る。で、今年が四度目。雪に閉じ込められ、暗い、淋しい幾月かを送る町の人々にとっては、この青年達が来ることが一種の興奮剤となり、かつ刺激となるのである。           ◇  対山館のあがりかまちに積まれた荷物の質と量とは、山に馴れた大町の人々をも驚ろかす程であった。食糧、防寒具、薬品、修繕具その他……すべて過去における大沢小屋籠りと針ノ木付近の山岳のスキー登山とから来た尊い経験が、ともすれば危険を軽視しようとする年頃の彼等をして、あらゆる点に綿密な注意を払わしめた。人間は自己の体力と智力とのみをたよりに、兇暴なる自然のエレメントと対抗しようとする時、その準備についてのみでも、ある種の感激を持たずにはいられない。この感激が人を崇高にし、清白にする。この朝大町に着いた若い十一人はかくの如き感激を胸に秘めた幸福な人々であったのである。           ◇  対山館の宿帳には左の如く記された。 近藤  正   二十四 渡辺 公平   二十一 河津 静重   二十一 山田 二郎   二十三 江口 新造   二十二 富田 英男   二十三 家村 貞治   二十三 上原 武夫   二 十 有田祥太郎   二十一 関  七郎   二十三 山本 勘二   二十二  この宿帳に早大山岳部員の名前が十一人そろったのはこれが最後である。年がかわって、宿帳に書き込まれた名も激増したが、そのどのページを繰っても、家村、上原、関、山本四氏の名は見あたらない!           ◇  荷物を置いて身軽になった一行は、八日町の通りを東へ、東山の中腹にある大町公園へスキーの練習に出かけた。狭いけれども雪の質は申分ない。一同は心ゆくまですべるのであった。テレマーク、クリスチャニア、ジャンプ・ストップ……近藤リーダーは時おり注意を与えた。もっと右に体重をかけて! 腰はこういう風に曲るんだよ! 長い二本のスキーが、まるで身体の一部分みたいにいうことを聞いて、公園の処女雪には何百本もの見事なスプールが残された。           ◇  大町の盆地をへだてた向うには籠川入りが吹雪の中で大きな口を黒くあけて待っていた。川に添って岩茸岩まで二里半、畠山の小屋まで三里、大沢の小屋まで五里、そこから夏でも三四時間はかかる針ノ木峠にさしかゝって頂上を極めると、右には針ノ木岳、左には蓮華岳……スキー登山の素晴らしいレコードをつくった去年のことを考えて、心の踊るのを禁じ得なかった人もあろう。           ◇  その晩には信鉄沿線の有明村から案内者大和由松が来て一行に加わった。大和はスキーが出来るので、大沢の小屋で一同の用事をすることになっていたのである。           ◇  二十六日の朝九時頃、ガッチリと荷物を背負った一行は、例のトボガンをひっ張って、大町を立った。大和を入れた十二名に大町の案内者黒岩直吉ほか三人が加わり(この四人は畠山の小屋まで荷物を持って送って行ったのである)バラバラと降る雪の中を一列になってあるいて行った。見送る町の人々は彼等が一月の十日頃、まっ黒になって帰って来る姿を想像しながらも、年越の仕度に心は落ちつかなかった。           ◇  十一人を送り出した大町は、またもとの静けさに帰った。霏々として降る雪の下で、人々は忙しく立ち働いた。二十七、二十八、二十九、三十日の夜は殊に忙しく、対山館の人々が床についたのは三十一日の二時を過ぎていた。家内では鼠も鳴かず、屋根では雪も滑らぬ四時過ぎ、雪まみれになった二つの姿が対山館の前まで辿り着いたのを知っている人は誰もなかった。           ◇  二人は叫んだ、二人は戸を叩いた。「百瀬さん、百瀬さん、起きて下さい」――何度叫んだことであろう。何度叩いたことであろう。夜あけ前の、氷点下何度という風は、雪にまみれた二人を更に白くした。「百瀬さん、百瀬さん!」           ◇  布団の中で百瀬慎太郎氏は目を醒ました。深いねむりに落ちていたのであるが、声を聞くと同時に何事かハッと胸を打つものがあったという。とび起きて大戸のくぐりを引あけると、まろび込んだのが大和由松、「どうした?」という間もなく近藤氏が入って来た。 「どうした?」「やられた!」           ◇  遭難当時の状況は早大山岳部が詳細にわたって発表した。要するに大沢小屋に滞在して蓮華、針ノ木、スバリ等の山々に登る予定であったが、雪が降り続くので登山の見込みがつかず、僅かに小屋の外で練習をするにとゞまった。然るに三十日は、雪こそ多少降っていたが大した荒れではないので、すこし遠くへ出かけようと思って針ノ木の本谷を電光形に登って行った。そして十一時頃赤石沢の落ち口の下で(通称「ノド」という狭いところ、小屋から十町ばかり上)第五回目かのキック・ターンをしようとしている時(渡辺氏はすでにターンをおわり右に向っていた)リーダーの近藤氏が風のような音を聞いた。雪崩だな! と直感して、「来たぞ!」と叫ぶ間もなく、もう身体は雪につつまれていた。           ◇  近藤氏の「来たぞ!」を聞いて最も敏感に雪崩を感じたのは恐らく山田氏であろう。反射運動的にしゃがんでスキーの締具を外そうとしたが、もうその時は雪に包まれ、コロコロところがって落ちていたという。           ◇  何秒か何分かの時がたって、スバリ岳方面から二十町ばかりを落ちて来たらしい雪崩は、落ちつく処で落ちついた。十一人全部埋ったのであるが、河津、有田両氏は自分で出られる程の深さであったので直に起き上り、手や帽子の出ているのを目あてに、夢中で雪を掘って友人を救い出した。近藤氏は片手が雪面上に出ていたから自分で顔だけ出した所へ二人が来たので、俺はかまわないから他の人を早く掘れといった。そこで山田氏を掘り出す。近藤氏は山田氏に早く大和を呼んで来いといった。山田氏は凍傷を恐れ、ゲートルを両手に巻きつけて、雪の上を這って小屋まで行った。           ◇ (雪崩れたばかりの雪の上は、とうていあるけるものではない。四つばいにならざるを得ない。自然両手は凍傷を起こす。山田氏がこの際それに気がついて、ゲートルを外して手に巻いたとは、何という沈着であろう。また、顔は出ているとはいえ、刻一刻としめつけ、凍りついて行く雪に身体の大部分を埋められながら「他の人からさきに掘れ」といった近藤氏のリーダーとしての責任感は、何と壮厳なものであろう。私はこの話を聞いて涙を流した。)           ◇  小屋では大和がゴンゾ(藁靴)をはいて薪を割っていたが、山田氏の話を聞いて非常に吃驚し、ゴンゾのまゝで飛び出しかけて気がつき、直ちにスキーにはきかえ、スコップを持って現場にかけつけた。そこでは山田氏を除く六人が狂人のように友人をさがしていたが、何せ最初に出た河津氏と、最後にスキーの両杖の革紐によって発掘された江口氏(人事不省になっていた)との間は三町余もあり、雪崩の巾も四十間というのでとうてい見当がつかない。一同は二時半頃一先ず現場を引上げて小屋に帰った。 (この日の午後、更に赤石沢から雪崩が来て、スバリの方から落ちて来た奴の上にかさなったという。これに加うるに雪は降り続く。死体捜査の困難さも察し得よう。)           ◇  とにかく一刻も早く急を大町に報ぜねばならぬ。そこで近藤氏と大和とは残っていたスキーをはいて三時半頃小屋を出た。夜半には大町に着く予定であったが、思いの外に雪が深く、斜面に来てもスキーをはいたまゝ膝の上までズブズブと埋ってしまうという始末。二人は無言のまゝラッセルしあいながら、おぼろな雪あかりをたよりに午前三時半頃野口着、駐在所に届けて大町へ、警察署へたちよってから対山館へ着いたのが四時過ぎであった。           ◇  時刻が時刻だから、火の気というものは更にない。百瀬氏はとりあえず二人を食堂に招き入れて、ドンドンとストーヴに石炭を投げ込んだ。話を聞くと小屋に残して来た生存者六名中、江口氏は凍傷がひどいので心配だが、他の人々は大丈夫だ。埋った四人はとても助かるまい。が、掘り出すのは容易だろう。とにかく人夫を二十人至急に送ろうということになった。           ◇  大町は電気で打たれたように驚いた。八千五百に余る老幼男女が、ひたすらに雪に埋った四名を救い出すことのみを思いつめた。こうなれば暮もない。正月もない。人は黎明の雪を踏んで右に左に飛び交った。警察署長は野口に捜査本部をうつし自ら出張、指揮をとった。署長の命で小笠原森林部長、丸山、遠藤両巡査が現場に向って出発した。対山館で集めた人夫十一人と、警察から出した二人とが先発した。慎太郎氏の弟、百瀬孝男氏は、その朝関から来た森田、二出川両氏と共に凍傷の薬、六人分の手袋、雪眼鏡等(いずれも近藤氏の注意によって)をルックサックに納めてスキーで出発。三十一日に大沢に入る筈の早大第二隊の森氏は大町に残り、近藤、百瀬両氏と共に百方に救援の電報を打つのであった。           ◇  スキーで出た三人は四時半畠山着。あとから来る人夫たちの指揮を孝男氏に託し、両氏はひた走りに走って八時半大沢小屋に到着した。その時の有様は想像に難くない。同時に警察側の三氏、野口村の消防組六名も大沢に着いた。           ◇  孝男氏は畠山小屋で待っていたが、大町の人夫が来たので八時出発、十一時に大沢小屋に着いた。非常な努力である。  一方大町には各方面から関係者が続々と集まって来た。長野県を代表して学務課長と保安課の人とが来る。深い哀愁にとざされて関氏の遺族が到着する。松本から島々を経て穂高岳に行く途中の鈴木、長谷川、四谷の三先輩は、急を聞いて三十一日晩大町にかけつけ、直に現場に向ったがその夜は野口一泊、翌日大沢小屋に着いた。           ◇  あくれば昭和三年一月元旦である。空はうらゝかに晴れ渡り、餓鬼から白馬にいたる山々はその秀麗な姿をあらわした。町の人々は、然し、正月を祝うことも忘れていた。           ◇  朝の空気をふるわせて、けたゝましい自動車の号笛が聞えた。松本から貸切りでとんで来た大島山岳部長の自動車である。対山館には「早大山岳部」なる札がはられた。いよいよ対山館が組織的に本部となったのである。  山では五十余名の人夫がスコップを揮って雪を掘った。雪崩の最下部から三十間の巾で五尺掘るのであるが、凍りついた雪のこととて、磐石の如く堅い。作業は思い通りに行かぬ。平村の消防組が三部協力してやったのである。大町の人夫は糧食その他の運搬や、炊事等につとめた。           ◇  対山館では大島部長を中心に、遺族の人々がいろいろと発掘方法を考えた。鉄板を持って行って、その上で焚火をしたら雪がとけるだろうとの案も出た。ポンプで水をかけたらよかろうと考えた遺族もある。山の人々は同情の涙にむせびながら、それ等の方法の全然不可なるを説いた。雪はとけよう。だが、とけた雪は即刻凍ってしまう。現に、さぐりを入れるために数十本を作って現場に送った長さ二間の鉄のボートが、何の役にも立たぬというではないか。やっとのことで一尺ばかり雪の中に入れたと思うと、今度はもう抜き出すことが出来ぬという始末ではないか……。           ◇  一日はかくて暮れ、晩には関で練習中のスキー部の連中が大町にかけつけた。二日からは大雪、それを冒して大町警察署長の一行が現場に向った。山本氏の令兄も行を同じくせられ、自らスコップを握って堅氷を掘って見られたが、何の甲斐もなかった。  発掘方法も相談の上変更し、深さ七尺ずつを三尺おきに溝みたいに掘って見たのである。然し掘る一方雪が降りつむ。スキーの尖端、靴の紐だに現れなかった。           ◇  二日には近藤氏を除く六人の生存者が、無理に……まったく追い立てられるようにして、大沢の小屋を離れた。なき四人の体躯を自ら発見せねば、なんの顔あってか里に下ろうとの意気はかたかったが、なだめられ、すゝめられ、涙を流しながら、踏みかためられた雪をあるいて野口まで下り、そこから馬橇で大町へ向った。  如何なる困難に出あうとも、四人のなきがらをリカヴァーせねばおかぬとの志は火と燃えたが、たゝきつけ、圧しつけ、凍りついた雪は頑強にその抵抗を継続した。遺族の人々も現場に赴いて、まったく手の下しようのないことを知った。かくて三日、作業を中止するに至ったのである。後髪ひかれる思いとはこのことであろう。大沢から畠山、岩茸岩、野口と、長蛇の列は蜿々と続いた。そのあゆみは遅かった。           ◇  三日の晩、遭難者中の四人が先ず帰京した。その状況は当時の新聞紙に詳しい。           ◇  四日、関氏の遺族八名は籠川を遡って岩茸岩付近の河原まで行き、こゝで山に向って香華をささげた。感極まったのであろう、誰かの啜り泣きをきっかけに、一同はついに声をあげて泣いたという。           ◇  五日朝、ドンヨリと曇った雪空の下を、関氏遺族一同は大町を引上げた。停車場まで送ったもの、百瀬孝男氏を初め、大和由松、大町の案内者玉作、茂一、直吉等。  続いて大島山岳部長が帰京。晩の七時三十分の電車では近藤、山田、富田三氏および他の部員全部が引上げた。ピーッという発車の笛は、人々の胸を打った。針の木峠の下、大沢小屋の附近に埋れている四人の胸にも、この笛の音は響いたことであろう。           ◇  大町はもとの静けさにかえった。人々は炬燵にもぐりこんで、あれやこれやと早稲田の人々を惜しんだ。八日、九日、見事に晴渡った山々を仰いでは、あの美しい、気高い山が、なぜにこんな酷いことをしたのだろうと、いぶかり合うのであった。 新道・旧道  昭和四年六月末から七月のはじめにかけて上州から越後へぬける旅をした。主な目的は工事中の清水隧道を見ることで、それと同時に、所謂清水越をやって見ようと思ったのである。新道は清水隧道、旧道は清水越である。清水越は地図で見るのとは大違いの廃道で歩けなかったが、三国越をやって越後へ出た。以下はその簡単な記録である。 禁芸術売買 ――むさし野の花は白い。栗、ごぼう、ねぎ、レールに添う鉄道草、街路の生垣になってほこりをあびた……こゝまで書いて手帳には大きな? がついている。名を知らぬ木にぶつかったからである。こまかい白い花を沢山つける、あまり品のよくない木である。? に続いて――目に痛く青いものは生薑の葉、麦は根まで枯れていて、畑の一隅に火をつけたら、ボーッと燃え上ってしまいそう――と、  こんなことを手帳に書くために出て来た旅ではないが、恐ろしく暑い日で、昼近い水上行の汽車の中へ、それが進行中であるにも関わらず、風さえ吹き込まぬ。高崎までの退屈な三時間、仮睡するなり、本を読むなり、時間を潰す方法はあるが、それでは余り無責任なような気もして、窓から外を見ると、それがこの「むさし野の花は白い」になる、といった次第。  然し高崎からは景色がよくなった。右が赤城、左は榛名、榛名は雲でよく見えなかったが、赤城の裾の線には、まったくのんびりしてしまう。その間を流れて来る利根川を、渋川のさきの「第一利根川橋梁」で越して敷島駅を過ぎると、山が両方から迫って来て、川と線路とがからみ合う。第三橋梁棚下トンネル、第四橋梁と、殆ど連続しているあたりの景色、殊にこの棚下トンネルを出て鉄橋にさしかゝった時、右には切り立った岩壁、下には紺碧の瀞水、そして左にやゝひらいた沼田の、いわば盆地ともいうべき小平原と、その向うの葉山茂山の上に雪をいたゞく谷川岳あたりの山とを見た時、それがほんの一瞬間であっただけに、思わずあっ!と声を立てた。  沼田に着くと、駅まで来た友人Uに、文字通り引ずり下された。バスで勢いよく急坂を上り、Uの家で冷水一杯、汗をふくと同時に空のルックサックを背負ってまた靴をはいた。沼田は真田信幸の居城、利根川の東にて片品、薄根の二水を南北に帯び……というと古めかしいが、赤城山が北東にのばした緩やかな大裾野を、以上の三川が切りきざんで残した不規則のテーブル・ランド、攻めるに難い上に、この丘陵の上から豊富に清水がわき出すのだから、いざ籠城という時にも至極便利だったろうと思う。今でも昔ながらの碁盤目の街路、何度も大火はあったが、このプランだけは変っていない。このような真直な通の一つを、ものゝ一丁も行くと、もう急坂だ。それを下り片品川をあぶない吊橋で渡って糸井の部落まで一里。散在する家々は養蚕で忙しく、初夏の静かな空気にさわさわと蚕が桑をかむ音さえ伝わる。この青空、赤城山、桑の広葉、黒く赤い漿果! われわれは塵をあげて路を急いだ。  こゝに清雲寺という禅寺がある。迦葉山にある龍華院彌勒寺の末寺で、非常に背の高い萱葺の山門があり、その前の、普通葷酒の山門に入るを禁ずることをきざんだ石には、筆太に「禁芸術売買」としたのがきざんである。かゝる文句が諸方の寺にあるものか、またこれが仏教の方で果して如何なる意味を持っているのか、寡聞にして知らぬが、これをこの文字通りに解釈して、さて何かしら頭をなぐられたような気持にならざるを得なかった。  この附近にも水のわく段丘があり、われわれはそこで蚊に刺されながら指で地面をひっかき廻した。石斧、石鏃、石匙、繩紋のある土器の破片、動物の骨等がこゝから出るのである。赤城の裾に住んでいた太古の人々、かれ等の生活、恋愛……泥だらけな手でバットを吸いながら、われわれはとりとめもない話にふけった。 藤原盆と「心」  何百年か前に建てられたまゝの、釘をまるで使わず、何から何までくさびどめのUの家の一間で、言葉は出せず、ウーンとうなって、目の前の壁に立てかけられた、驚嘆すべき品物を見た。ほかでもない木の盆で……。  直径は三尺にあまる。丸く、菊の花のような模様がついている。が、これ、模様というような生やさしいものではない。熟達の生む恐るべき正確と放胆とを以て、中心から外辺へ、力まかせに刀で刳った痕跡である。そしてそれに塗った漆の色は、いさゝか唐突で気恥かしいが、最も佳良なダンヒルのパイプが持つ、あの濃赤紫である。これこそ腕力の工芸品、見て力を感じる。  大利根の原流地、二千メートルを越える山々の麓にかたまった藤原の部落、鬱蒼たる処女林の中で、霧の深い朝夕、山刀をたっつけの腰に結びつけた男が、グイグイと木を刳ってこれを作ったのだ。大小角円いろいろな盆、相当の数に達すると背に負って、湯檜曾へ三里、沼田へ八里、売りに出たのを、人々は別に何とも思わず買い求めては使用し、使用しては壊していた。が、今ではもう藤原盆は出来ない。轆轤細工の安い品がどんどん製造されるからである。事実、その後三国越の宿々で、轆轤の音は聞き、あのこまかい木屑は見たが、二本の腕で刀を振う人は見受けなかった。聞いて見ても、そんなことをする者はいなかった。藤原盆ばかりではない、本当の芸術は売買を禁じられたのでなく、売買されなくなったのである。それにしても何も知らず何も思わず、このような盆を三度の食事に使用していた頃の人が羨しい。  芸術といえば、あの禁芸術売買の清雲寺の本山というのが、沼田の北三里余の迦葉山にある龍華院彌勒寺で初祖は天台の慈覚大師(円仁)、中興は慈運律師云々と書いたところで大した面白味もなかろうが、迦葉山は日本三天狗の一、大峰(大和)小峰(下野)の間に位する中峰、開運の神として附近の尊敬をあつめている。糸井への途中二三人の男が旅姿で路を急ぐのを見た。その一人が腰に天狗の面を下げていたのを、子供へのみやげだろう位に思っていたが、あれは迦葉山へ参るので、毎年蚕を当てるために参詣し、紙張りの天狗の面を借りて来ては翌年返しに行き、新しいのを借りて来るのだと聞いた。  開運の神であるが故に、迦葉山では金を貸す。神様がお寺で金貸業をやっているとは如何にも出鱈目みたいだが、これがいわゆる縁起で、種銭と称し、金額は普通廿銭程度、せいぜい五十銭どまり、証文も入れねば何もしない。円の中に「心」とした紙に包んで貸してくれるのを、翌年倍にして返す。つまり心を抵当に……といって語弊があるなら良心による貸借で、いつ頃から行われて来たのかは知らぬが、興味の深い習慣である。  迦葉山を信仰する者が非常に多数である一つの大きな原因に、現住職――この辺では御前と呼んでいる――清水浩龍師の人格があることは疑いない。師は絶対無妻、社会事業にもいろいろと尽力され、殊に不遇な男の子、例えば孤児とか、片親の無い子とかを集めて育てあげ、現にそのような子供が三十人以上に達していると。 清水隧道 (上)  先ず第一に数字をあげる。清水隧道は六百五十万円の工費を投じ大正十一年の夏から着手したもの、総延長が三万一千八百三十一呎八、これは九七〇二米に当る。こゝに世界の主な隧道所在地や長さを列記して見ると(単位米) シンプロン(アルプス)    一九、七三〇 サン・ゴタルド(同)     一四、九九〇 レッチベルグ(同)      一四、六〇六 アプリ水道(アペニン)    一二、七三〇 モン・スニ(西アルプス)   一二、二三三 アールベルグ(墺)      一〇、二七〇 リッケン(スイス)       八、六〇三 という具合だから、清水隧道はアールベルグとリッケンとの間に入り、世男第七位、アプリを除けば第六位になる。現在日本で一番長い笹子隧道は四六五六米で第廿五位、生駒山は三三八〇米で第丗六位、また難工事で有名な丹那は七八〇七米、出来上れば七米の差でフランスのピレネーの上に位し、清水、アプリを入れて世界で十五番目のトンネルになる。  このトンネルが出来て、上越南北両線が結びつくようになると、現在信越線による上野長岡間の距離が約六十マイル短縮される。と同時に信越線は海面上最高基面高が軽井沢三〇八六・四四呎であるのに、上越線は土合土樽間の二二三〇・七八呎で、その最急勾配に非常な差があるから、線路換算延長は上越線において百六十四マイルの逓減を見ることになる。この他、こまかい数字を羅列すればきりが無いが、この位にしておこう。トンネルの両端にそれぞれ一つづつのループがある。そしてその各々が二個のトンネルから出来上っている。突然ループといってはわからぬ人もあるかも知れぬが、これはレヴェルの著しく異なる点へ出る一つの方法で、俵藤太に退治された百足のように、山をくるりと一巻きまき、より上方の地点で今来た線路の上に出るのである。現在では鹿児島線に大きなのがあるが、今度はこれが二つ出来る。またトンネルは、北線に現在の終点越後湯沢からトンネル入口の土樽信号所まで約九マイルの間に二つ(ループをなすもの)南線には水上駅から土合信号所まで約七マイルの間にループをなすトンネル以外に二つある。  はじめ東京鉄道事務所の好意になる地図を見た時、湯沢の方のこのトンネルループの存在理由が了解出来なかった。湯沢から中里を経て土樽信号所まで、魚野川の相当に広い平地で極めてゆるい上りであるにも拘らず、線路は正面山の麓の平沢部落まで来て急に東へ折れ、この平地を横断して魚野川の流域の右の山裾を走り、中里の部落から再び川を越し、松川第二トンネルで用もない山のどてっ腹にもぐり込み、ループをなして松川第一トンネルに出現し、三度魚野川を越して土樽へ行っている。真っすぐに行ってしまったらよさそうな物をと思ったが、三国峠を越して湯沢へ行き、軽便鉄道――それは魚野川に沿って、いわゆる真っすぐに走っている――の窓から工事を眺めながら土樽まで行って来て、さて改めて工事中の線路を朱で書き込んだ地図を見るに至って、はじめてこの疑問が氷解した。即ち線路は平沢から松川まで、正面山東側の急な斜面からの雪崩を避けて東方へ逃げ、土樽信号所と近いレヴェルに達するために松川第二トンネルでループをなし、再び雪崩を避けるため松川第一トンネルで山の裾を抜け、恐ろしく高い鉄橋で魚野川を渡って一直線に土樽へ向っているのである。このような例は諸所にあるだろう。気がつかずに走ってしまえばそれまでの事だが、また専門家の眼からは当然のことだろうが、素人はこんなことに気がついて、ちよっといゝ気持になる。 (下)  上越の国境には相当に高い山が並んでいる――と、こう書いていわゆる微苦笑をもらした。高い山脈があるからこそ、それが国境になったのだ。それはとにかく、西南方の稲包山から東北方の朝日岳にいたる山脈中の、最も低い場所を求めて、人が山越をしたのは当然のことである。然し山の横腹に穴をあけるとなれば、山の高低は敢て問う所ではない。かくて清水隧道は一九七八米の茂倉岳の直下を、遠慮会釈もなく一直線につらぬいているのである。だが何ゆえ、特にこゝを選んだのか。  廿七日朝、水上まで汽車、そこから自動車みたいにガソリンで動く軽便鉄道で土合の建設事務所へ着いて、次席技師の内田氏にあった時、この点を質問した。すると、それには色々技術上の問題もあるが、何はとまれ、土合、土樽間が四点で見通しのつくことが、この上もない強みだとのことであった。即ち土合の信号所から茂倉岳の頂上が見え、頂上から山中のある一点が見え、そこからは土樽信号所が見下せるという。これは一つの啓示であった。  所で、土合へ来て驚いたのは、狭い谷を埋めつくした家である。湯檜曾にも鉄道関係の人は多数いるが、これは昔ながらの部落であった。しかるに土合は大正十一年この工事がはじまるまでは、人家とて碌にありはしなかったのが、いまでは二千人ばかりが集っていて、病院、学校、倶楽部等があり、この附近では最も文化的設備がとゝのっているのだが、さて隧道が貫通すると、あとには信号所が残るだけで、またもとの山猿の遊び場になってしまう。これは土樽とても全く同様である。  思いがけなかっただけに面白かったのは、糞尿焼却装置である。いさゝか話が尾籠になるが、これだけの人類の糞尿が、狭い湯檜曾川へ流れ込んだ日には、岩魚ややまめばかりでなく、下流に住む人々までが、とても生きてはいられまい。そこでゴ式焼却器という、大きな釜をそなえつけ、すべてこゝで処分してしまう。  学校は先生三人に生徒百六十五人の複式教育。生徒は日本中から来ていて、朝鮮人の子供も多い。教室に電燈が下っているので、夜学でもするのかと思ったがそうではなく、冬は屋根まで雪に埋ってしまうので、こういう設備がしてあるとのことであった。高等科の子供は湯檜曾へ通うのだが、トロッコなので、一つには工事中の岩石等が飛んで来るのを防ぐため、頑丈な金網が張ってあり、子供達は鶏みたいにその中に入って学校へ行く。越後側の土樽も、先生、生徒の数は偶然ながら土合のと殆んど同じである。  内田さんの案内で隧道の一番奥まで、約一万四千尺入って見た。途中坑口から九千尺ばかりの所で、素敵な勢いで水がふき出している。大正十五年十一月、こゝまで掘って来て断層に逢い、猛烈な噴水のために工事を中止して別に九千呎に近い排水隧道をつくった。今隧道入口の左手に盛んに水を吐き出しているのがそれである。  隧道の一番奥の光景は、物凄いものであった。六名の鑿岩夫、六名の「さき手」以下数名が濛々たる岩粉、轟々たる音響の中で鑿岩機を使用して、固い岩に穴をあけると、その後ではマイヤーホーレーが不気味な恰好で岩屑をすくい上げる。二尺乃至二尺五寸間隔で五尺ほどの深さに四個穴をあけ(これを真ヌキという)その周囲に廿四個小さいのをあけると、ダイナマイトを填めて先ず真ヌキを爆破させ、丗秒位してから周囲の廿四を同時に爆破させる。そこで坑内の空気を吸い出し、新鮮な空気を送り、あらためて鑿岩機の活動がはじまる。たゞ今のところ現場交代で四交代、昼夜兼行、工事を急いでいる。  一時間ばかりいて坑外へ出たら夏の日ざしに目がくらんだ。事務所の前に給料をもらう人達が列をつくっている。ふと、今日はわが社でも月給と上半期のボーナスとが出る日だなと思った。 奥利根の温泉  土合から湯檜曾まで軽便鉄道で来て、こゝの宿で遅い昼飯を済ませ、温泉に入った。それから驟雨の中を自動車で水上へ、上牧で途中下車して、新しく出来た大室温泉に入って見た。後者の方が湯は綺麗だが、古い湯の宿の趣は前者の方が遙かにすぐれている。湯檜曾の宿の若い主人は、この冬は貸スキーも五六十台置くつもりだから、是非来てくれと、しきりにいっていた。トンネルが出来て、夜行が通るようになるとこの辺は便利なスキー場になる。  沼田から湯檜曾までの間、利根川に添っていたる処に温泉がある。上越線の開通をあて込んで温泉掘鑿願いを出したものや許可を得たものが九十数件。あちらこちら、石油を掘るように温泉を掘っている。そんなに沢山温泉をつくってどうする積りだか。勿論湯が出たら権利を売ろうといった手合も多いのであろう。  翌日は後閑から赤谷川に添う三国街道を入った。汽車の中から川――利根の本流――向いの崖の上に浅黄の布を周囲にさげた、何の面白味もない社が見える。これが磔茂左衛門を祭った地蔵で以前は崖の下の小さな地蔵さんであったが、藤森成吉氏や築地小劇場のために(まさか!)大きく、また殺風景になったとのことである。  一体この辺には、対照の奇妙な史跡が多い。三国街道を月夜野、押出、廻戸と一里歩いて下新田へ行くと塩原太助の生家があり(代議士生方大吉氏の厳父太吉氏等によって遺跡保存会が設けられ、倉庫には遺物が蒐集してある)、後閑、上牧間には高橋お伝の生家が現存し、利根の右岸、即ち線路の対岸には白木屋お駒がかくれ住んだと伝えるお駒堂がある。講談愛好者にとってはこの辺は地上の天国であろう。  鬱陶しい梅雨空の下を、ルックサックを背負ってボソボソ歩いた。昔ながらの三国街道である。広い道の両側に並ぶ、屋根に石を置いた大きな家は、一様に黒ずんだ褐色をしていて、所々の軒にさがったエナメル・ペンキ塗の売薬やその他の看板が、不気味な程鮮かに目立つ。新治村の役場で村長さんにあい、猿ガ京の関所のことや、三国峠の話を聞き、役場の裏の麦畑の畔で完全な石鏃を二つ見つけた。この辺、山河のたゝずまい、どこか京都の裏の、出石、豊岡附近に髣髴たるものがある。  低い空から雨が落ちはじめた。大きな月見草が真昼、頭をもたげて咲き、河鹿の声が街道に添う川からしきりに聞える。鬱蒼たる木立の中に立ちぐされる大きな家、崩れる荒壁、太い柱……、何かしら旅愁に近いものを感じ出した時、後から猿ガ京行の乗合が走って来た。とめて乗ると人絹の靴下をはいた女車掌、前橋あたりから新婚旅行にでも来たらしい男女。湯宿の温泉も相俣の宿もぐらぐらゆれて過ぎ、笹の湯で夫婦者が下りると間もなく猿ガ京。待っていたフオードに乗って永井の宿――こゝには大きな本陣がある――から本街道を離れ、V字形をなす西川の溪谷の、Vの右斜線の上を走って法師温泉へ二里余。 法師温泉  後閑から猿ガ京までの道は、田舎とは思えぬ位、良好である。猿ガ京から法師温泉までの路は、いさゝか良好でない。その代り景色はいゝ。  われわれの乗ったフオードは、山の中腹を、右に曲り左に折れて進んだ。右は山で左は谷。所々谷の方が赤く崩れていたり、また坂になっていてその最低部に路と直角に欄干の無い橋がかゝっていたりした。  運転手は馴れているので、話をしながらハンドルをあやつる。「こないだ東京のお客が来てさ、こわくなって了って、賃銀を倍出すから下してくれといったよ。」  川が細くなり谷が浅くなる。お仕舞には川と路とが同じレヴェルになり、突然急な丘を登って下りると杉の林、くすぶった家が二軒。そして小雨の法師温泉。  温泉めぐりをして歩く年頃でもないが、割に旅をしているので、各地の温泉を知っている。だが、今迄のところ、一番気に入ったのはこの法師温泉である。  赤谷川の景色はいゝ。が、法師温泉まで来ると、水源に近いので、ハイネの所謂「後向きにでも飛び越せる」位の川になって了って、一向面白味はない。眺望といっても別に何もない。食物は山の中、勿論何といって御馳走がある筈はない。然らば何が気に入ったか。  法師温泉の宿は長寿館というのがたった一軒だが、これが三軒から出来ている。即ち自動車がとまると、そこに玄関があり、その玄関のある、いわば母家と称すべき二階建が一軒、この母家の二階から渡り廊下で往来を越すと、崖の上に平家が一軒、平家だが崖の上にあるので二階だての位置になる。それから、往来をもう少し行くと、また大きな二階建が一軒ある。  長寿館の経営者は岡村氏という。越後の人で先代は有名な代議士だった。上越鉄道の計画をした程の人で、三国峠の北側には岡村家の「お助け小舎」というのがあったりする。冬、吹雪に悩む人のために建てた頑丈な小舎である。温泉はこの岡村氏の経営に移ってから、恐らく二軒の家を合併し、崖の上の平家を増築したのだろうが、とにかく三軒家がとりとめもなく建っているのが、間がぬけていて面白い。  玄関を上ると、右手に階段があり、左手は大きな台所。囲炉裡にドンドン火が燃えている。天井から並んで下っているランプに頭をぶつけながら階段を登り、太い樅の木を近く見て渡り廊下を越すと、恐らく長寿館では一番いゝ部屋が並んでいるのであろう所の、崖の上の平家に出る。  この平家の、一番とっつきの部屋に、Uと私とは通された。部屋のまん中の長火鉢に近く、どてらを着ていても暖かすぎはしない。  鍵の手になった障子の、今入って来たのでない方のをあけると、山でガレと呼ぶ、三角石の堆積で、その上には白い菊みたいな花が五六本咲き、ガレの向うは荒壁のなかば崩れ落ちた大きな納屋。  長い夏の日ではあるが、小雨が降って暮れは早く思えた。川の音以外には、何の物音もしない。台所の囲炉裡から出る煙が、木造で屋根のついた、四角い煙出しから出て、そして風が無いので屋根を這っている。およそ落つくといって、こゝ位落つく場所もすくないであろう。落つかざるを得ないのだから……。  こゝの湯がまた素晴しいものである。浴槽は二カ所、その一つは滝といって、大きさも普通の浴槽位なものだが、普通の方は、何間に何間か、測量もしなかったけれど、大した大きさで、それに量が豊富であり、驚く程清く澄んでいる。浴槽の底は天然の岩、その間から噴き出すのと、浴槽の辺を越して流れ込むのと、両方なので、底に湯垢がたまるということは無い。  浴槽を横切って丸太棒が一本かゝっている。これは両端に切り込みがあり、浴槽の辺を自由に動くようになっている。この棒に後頭部をのせ、両足を辺にかけて、何十分でもつかっていることが出来る。同じ大きさの浴槽が男湯に二つ、女湯に二つ、夜は薄暗い石油ランプが一つつくきりなので一人でつかっていると物すごい気もする。 三国峠を越す  湯檜曾まで行ったのではあるし、いわばトンネルの上を歩くことになるから、本来ならば清水峠を越すべきであった。陸地測量部の地図「湯沢」を見ると「清水越」とした大きな国道が九十曲り百曲りして上州から越後へぬけている。この道は現在では雪崩のために殆ど跡をとゞめず、必要あって山越をする人は湯檜曾川をさかのぼって一二八五米の白樺小屋址に出、七ツ小屋と茂倉岳との鞍部を越えて蓬沢を下り、土樽に出る。またその昔、上杉謙信が上州へ出た時には魚野川の支流大源太川をさかのぼったらしく、現に滝ノ又の南には「謙信目当ての松」という独立樹がある。  この謙信の話は六日町の今成準一郎氏によるものである。更に、昔から下越後の大名が参勤交代に通行した三国街道があるのに、なぜこんな大きな工事を起したかについても今成氏は興味ある話をされた。即ち明治初年、新潟と東京とをつなぐ鉄道が問題になった時、清水越は碓氷越(信越線)と同時に候補地としてあげられたのであるが、政治的に勢力を持っていなかった越後は信濃にその権利を奪われてしまい、その、いわばコムペンゼーションとして清水越の国道工事がはじまった。明治十八年竣工、北白川宮の台臨を仰いで開道式を行ったが、前にも書いた雪崩で間もなく駄目になった。一方、依然として清水越に鉄道を敷く計画はあり、岡村貢氏等は会社を起しさえしたが、遂に実現に至らず、そのまゝになっていた。今度の鉄道省のプランが、岡村氏のと殆ど同じであるのは興味が深い。  さて法師から三国峠の頂上まで折からの霧雨の中を、何の苦もなく登ったのはよいが、肝心の景色がまるで見えず、おまけに風さえ吹きつのるので、ほんの煙草一服で越後へ入り、割合にいい道を下りて来ると、突然霧がはれて、前山の向うに大きな山が現れた。山の高さからいっても、方向からいっても苗場山(二一四五)に違いないが、こゝから見えたのは恐らく神楽ガ峰(二〇二九)で、主峰は長く美しい尾根の、もっと左にあるのであろう。大きな雪渓、カール状の雪田、今年になって、まだ一度も山に登っていないので、足がムズムズした。  気がつくと目の下に、石を置いた屋根が見える。下りは早い。一里の道をもう浅貝へ来たのである。三股、二居と共に三宿と呼ばれ、信越線開通までも繁昌した部落であるが、今はひどくさびれ、(三十六年六十戸あったのが現在は十八戸になっている)大きな家が夏の日ざしの中にガランと建っている。こゝの本陣、戸長綿貫氏の家で、かたく、美味なそばで早い昼飯をしながら、いろいろと話を聞いた。今でも残っている上段の間、乗物通し、宝暦年間の隠密帳……家の前には九輪草が咲いて風は涼しかった。  二居、三股、それぞれ清津川に沿うて二里。いずれにも本陣があり、いずれもさびれている。三股からは川を離れて芝原峠を越える。珍らしく澄んだ空の下、白い路を登りきると、突如目の前に飯士山、目の下には芝原の部落と段になった水田!峠の面白さは予期せざりしを見るところにある。  上越北線の終点、越後湯沢に着いたのは、五時頃だったろうか。峠を二つ越して、よく歩いたものである。  湯沢で一泊、こゝの温泉は駅から一寸離れた丘の上にあり、従って家の建て方などに面白い点もあるが、惜しいことには外湯なので、気分が落つかない。翌日はトンネルを見て柏崎へ。木食上人の作品を見、三階節の由来を聞き、佐渡ガ島を空しく海上面に求めて、この旅を終った。 素材三つ  いつか小説風に書いて見たいと思いながら、時間と根気とが無いのでそのまゝにしてある、いわば山の小説の未加工原料が三つ。別にパテントを取っているのでもないし、誰かゞ本当の小説にしてしまうと困るが、まァ発表することにする。 一、麓の娘  北アルプスの、ある有名な登山中心地、これをAとする。Aへ行くには省線の鉄道でDまで、こゝから電車か自動車でBという小村まで、そこからは峠を越して六里。Bは電車が出来るまでは人家が二三軒の寒村だった。電車が出来てからも、人家は四五軒になったゞけ、一番大きな建物は終点であるところの停車場と乗合自動車の発着場。  駅のすぐ前に旅館兼休憩場で、煙草を売ったり、親子どんぶりを食わせたりする家がある。登山者は大勢Bの村落を通過するが、泊る人はめったになく、親子どんぶりを食う人もすくない。山から下りて来る人の方が、むしろこの家に立寄ることが多い。電車の出る一時間前に着いてしまったりして、退屈まぎれにこの家の土間で駄菓子を食う人もある。また六里の峠を雨で濡れて、土間で洋服を乾す人もある。  この旅館に娘がいる。ちょっと綺麗な顔をしているので、一部の登山者仲間では評判になっている。当人もそれを知っているのだが、また毎年きまってBを通過する登山者の中には、妙に彼女の印象に残って仕方のない人もいるのだが、勿論どうすることも出来ない。  Bには夏になると荷物かつぎをする若者が二三人いる。その一人がこの娘に惚れている。惚れたといっても山の中のことだから、ラヴ・レターを書いたり、音楽会へ招待したり、そんなことはしない。第一音楽会はないし、ラヴ・レターを書いたところで、Dまで投函に行き、それが電車に積まれてBへ帰って来て娘の家の前を通過し、半みち離れたBの本村の三等郵便局へ行き、そこから一日一回の配達が娘の家まで持って来るような有様だ(もっともこんな莫迦話は本物の小説には書かない。)せいぜい娘の家の背戸へ来て尺八を吹いたり、娘が行水をつかっているのをカボチャの葉がくれにのぞいて娘の親爺にぶん撲られたり、まアそんな真似をしている。  娘は婦人雑誌を読んでいるからロマンチストでセンチメンタリストだ。都会の生活にあこがれを持っている。村の男に対しては非常に冷淡でお高くとまっている。然し夏になると、この男にひどく親切にする。男が山から帰って来ると冷い水を汲んでやったり、長さ三寸位な貧弱な玉蜀黍――山だから大した玉蜀黍は出来ない――を焼いてやったりする。男はよろこんで、たまに登山者の荷物を持ってDまで行ったりすると、何かしら手みやげを買って来る。だが男はこの娘の親切が、都会の登山者がいる時にかぎられていることに気がつかぬ。娘はハッキリした意思もなしに、都会の人々に自分にも恋愛があることを示したいような気持がして、それで男に親切にしてやるのである。  やがて秋になり、桑の葉がカサカサ鳴るようになると、娘は憂鬱になってしまう。男など見向きもしない。男は相当に悩み、ある日山へ入ってあけびを沢山とって来る。日暮れ、埃っぽい路をポクポク歩いて娘の家へ帰って来ると、娘は五燭の電燈を低くさげて、一人で雑誌を読んでいる。上りかまちから声をかけても、娘は知らん顔をしている――「おい、お千代さん」と二度目にやゝ声高く叫んだ時、お千代は顔も上げずにいった「何さ?」「俺あ朝から大滝山の北谷へ入ってな、見な、あけびを籠一杯とって来た」「籠一杯のあけびをどうする気だね」お千代はプイと立って隣の座敷へ行ってしまった。――こんな風な結末にしようかと思っている。 二、彼  これは四五年前、丗枚ばかり書いたまゝ中止した話である。いつかまた書くかも知れないが、恐らく素材だけを頭に持って、書かずにしまうことだろう。  主人公は山の案内者、山には剛胆だが、人間としては正直すぎる程正直で小心な四十男を選ぶ。第一の神さんが病気で死に、後妻にもらった若い女が、結婚後一年ばかりで内職に駄菓子屋を始めたが、どうもそれは近所の若い男たちを集める一種の口実であるらしく、面白くない噂が立っているが、女が気が強くて喋舌り立てる上に、尻尾を押えられるような間抜けではないので、何ともいたし方がない。それやこれやでポシャポシャしているもんだから、よく物を忘れたり何かする。気がめいって弱っていると、東京の山田さん――前に半分書いた時、何故ともなく、山田という名を使用した――から手紙が来て、この夏は夫婦で山へ行く、案内者組合の方へも通知しておいたが、出来れば君に行ってもらいたいといって来る。  これで見違える程元気が出た……というのは、山田さんは中学校の時以来彼を知っているので、高等学校、大学と、六七度一緒に山へ入り、彼とは登山者対金銭でやとわれる山案内以上に親しい関係になっていたからである。大学を出ると山田さんは二年ばかり外国へ行き、去年三年ぶりで一緒に登山したが、今年は会社に入った上、春にはお嫁さんをもらったので、とても駄目だろうと思っていたのである。その山田さんが奥さんをつれて、彼が十数年前、はじめて案内した鹿島槍へ天幕を持って行くというのだから、神さんに厭味をいわれるくらい、彼ははしゃいでしまう。  彼は死んだ女房の弟の十九になるのをつれて、山田さん夫婦を鹿島槍へ案内する。鹿島槍と来れば吉田絃二郎さんの「静夜曲」に出て来る「O町」以上に、信州の大町であることがハッキリ判るだろうが、別にそこにモデルがある訳ではない。が、ヒントはある。数年前、Kという案内者が発狂して死んだ……たゞこれだけの事実である。  自分を信頼しきっている三人の若い男女をつれ、彼等に対する全責任を負って山へ入ることは、彼に新しい元気と体力とを与えた。が、何かしら彼は重大な忘れ物をしたような気がしてならぬのである。しきりに考えるが、どうしても思い出せぬ。時々トンチンカンな返事をして笑われる程、一所懸命に考えるのだが、何を忘れたのか、どうも見当がつかない。  鹿島川の岸で弁当にする時、彼は突然思い出した。マッチを忘れて来たのだ。四人の一行に対して山田さんが一箱と彼が一箱、いずれも煙草用のを持っているだけである。炊事、焚火等に、これでは足りない。いや、マッチ一本あれば雨中生木で焚火をすることも出来るが、何かの場合、これでは心細い。自分はとにかく、また義弟はとにかく、更に山田さんはとにかく、万一山田さんの奥さんに不自由な思いをさせては申訳ない。彼は山田さんにあやまり、その晩の夜営地を最初の予定地より二里ばかり手前にしてもらって、弁当も食わずに大町まで飛んで帰る。荷物は磧の石の間にかくした。空身だからとても早い。間もなく大町の旅館につくと、旅館の主人に「お前が出るとすぐ神さんが来て山の案内賃を三日分前借して行った」といわれる。  これは不愉快なことだった。そんな真似をしてはいけないと固く申し渡してあったのだ。が、まア或いは親類に病人でも出来たのかも知れぬと思って、一寸自宅に寄って見た彼は、恐ろしいものを見てしまった。女房がまっぴる間、若い男を引き入れて、いわゆる不義の快楽にふけっていたのである。  気がつかずにいる不義の二人のみだらな姿に、かっとなった彼は納屋から鉈を取り出して台所に忍びよったが、ふと太陽を横切った雲が地上に投げた影に、空を仰ぐと思いもかけぬ雷雲が現れている。彼は鉈を投げ出し、近所の荒物屋で油紙を一枚買うとそれでマッチを包み、一目散に山をめがけて走り出した。電光、雷鳴、沛然たる豪雨、彼は狂人みたいに走った。朝から何も食わず、おまけにひどい精神的打撃を受け、心身ともに疲労困憊している彼の頭の中で、善玉と悪玉が猛烈に争った。悪玉はぽってりした彼の女房である。悪玉はこの雷雨を幸に、雨戸をしめて更に不義の快楽をくりかえしていることだろう。これに反して善玉は、若くてスラリとした山田さんの奥さんだ。奥さんは定めしこの雨に苦しんでいることだろう。救わねばならぬ……保護せねばならぬ……という気持でいるのが、いつの間にか自分の子供みたいな年齢の奥さんが、自分を救ってくれ、保護してくれる観音様みたいな気がして来た。まろびつ、ころげつ、彼は走った。いつか雨はやんだ。そして日の暮れ方、とある野営地に山田さんの緑色のテントが張られ、その前には焚火が勢いよく燃えさかり、白いスウエッターを着た山田さんの奥さんが虹を見上げているのを見ると、彼はクタクタと濡れたいたどりのしげみの中に膝をついてしまった。まっかに充血した目に、涙がうかび出た。 三、写真機  これは「彼」の第二部になるか、独立したものになるか、まだ見当がついていない。彼は山田さん夫妻と死んだ女房の弟とをつれて山へ入った。女房が間男をしている暗く淫な場面は依然頭にこびりついているが、山に馴れぬ義弟を自分の後継者として教育することと、山田さんの昔にかわらぬ気持と、別して山田さんの奥さんの清浄な美しさと無邪気さと、この若くて美しい奥さんの世話を焼くことの愉快さとが、彼の心を明るくすることが多い。彼はしみじみ、自分の結婚生活を思い出し、また考える。同じ夫婦という名で結ばれていても、山田さん夫婦と自分達とは何という相違だろう。境遇か、学問か……と、いろいろ考えるが、どうも漠然としてよく判らない。  山の上で、山田さん夫婦が写真をうつしてくれという。岩の上に立って並んだのを見て、彼はまたしても夫婦という問題を考える。と、自分の立っていた岩がぐらりと動いたように感じ、ハッとした途端、写真機を落してしまう。これはフィアンセーユ時代、山田さんが奥さんに買ってやったので、二人にとっては結婚生活の一つの重大なランドマークになる性質のものであった。これを知っている彼は山田さんが驚いてとめる間もなく、岩角から下のガレに飛び下り、急な雪渓をすべり下りて、はるか下の岩にひっかゝっている写真機を取り戻す。ガレに飛び下りた時、彼は後頭部を岩に打ちつける。頭から血が出るが、彼は写真機をさがすのに夢中になっていて、そんなことに気がつかない。が、こわれた写真機を見つけると、腰が立たない。心配した山田さんと義弟が横の方の岩を下りて来て見ると、彼は莫迦みたいな顔をしてニヤニヤしている。  天気はいゝし、もっと山の上で遊んでいる予定であったが、彼の状態に不安を抱いた山田さんは、もう帰ろうといゝ出した。いざ天幕をたゝみ、荷ごしらえをするとなると、彼は昔の彼にかえった。何という手際だろう。ピシピシと荷をまとめ、繩でしばって背負子にくゝりつけ、しっかりした足取りで急な雪渓を下りて行く。「晩にや女房のおまんまが食える」などというので、山田さんは安心するが、実はもう頭がすこし変になって来たのである。  彼は大町に帰っても、自分の家に泊らず、一晩を死んだ女房の実家で送り、あくる日山田さん夫婦を見送る。間もなく女房は叩き出した。  彼は大酒をのみ始めた。そして秋、高原にさわやかな風が吹き渡る時、とうとう彼は発狂してしまった。親類の者が集って座敷牢をつくって入れると、彼は着物でも何でも皆引きさいては繩に綯ってしまう。首をくゝるのではない。存在しない荷物をまとめて、それを背負子にくゝりつけるのである。数日、あるいは十数日、はげしい山歩きをして、今日はいよいよ山を出るという、その最後の朝を、彼は夢みているのである。座敷牢の中で陽気にしているのだから、これは悲惨だ。里では女房が待っている。竈の前で、丸まげに結った頭を向うに向けて、飯をたいている。叩き出した女房ではない、死んだ女房だ。荷ごしらえは出来た。米も味噌も草鞋もウンと減ったので荷は軽い。さア行こうぜ!と立ち上る。そこでボンヤリして「俺は何か忘れたぜえ」といゝ出す。忘れて来たのは山田さんの奥さんの写真機だ。「奥さん、内蔵助平にウンと金が埋めてあるので来年はその金を掘って来るからね。それで写真機を買っておくれや」……毎日、これをくりかえしている内に、秋が深くなった。二日時雨が続いた。三日目の朝、カラリと雲が上ると、後立山の山々には、初雪が輝いている。その朝東京から着いた山田さんの夫妻が、彼の死んだ神さんの弟の案内で座敷牢へ見舞に行くと、彼は襤褸で綯った繩を両手で持ったまゝ死んでいた。義弟は持って来た朝飯を縁側に置いて、手ばなしに泣き出した。そして山田さんに生きている内に見舞に来てくれたら、兄貴は定めし悦んだでしょうが……といった。然し本当に悦んだかどうかは判らない。 四、財布  以上の二つが一つの小説になるものならば、素材の第三はこの「財布」である。  黒部川に落ち込んでいる沢の一つに小舎をかけて、しゝ撃ちの猟師が五人生活している。しゝとは羚羊のことである。今は禁猟になっているが、昔は自由に猟することが出来た。冬深い雪の中で、あらゆる危険を冒して猟したものである。  もう一週間になるが不猟で、三頭しか取れない。その晩、疲れ果てゝ帰って来た四人の一人が、小舎に残して行った財布が見えないといって、留守番をしていた男を責める。男も負けてはいない。誰かほかの奴が盗んだのかも知れぬという。濛々たる煙の中で、雪やけの顔を焼酎で醜くした五人が、口角泡をとばして口論する。里にいる女の話まで出て、まるで獣物みたいにつかみ合う者さえある。その内に財布を失った男が、ある一人の荷物を勝手にさがすと、財布が出て来る。見つけた男、見つけられた男、疑られた男三人が物すごい勢で山鉈を取り上げ、とめに入った男の右手から血がほとばしった刹那、雪崩が落ちて来て、四人までが梁に圧される。一人残った男は財布の持主で、梁の下から出た手が握っている財布をひきむしるが、彼もまた二度目に落ちて来た雪崩でやられてしまう。  この小説を実際書く場合が来れば僕は先ず第一にこれが純然たる小説であることを明瞭にことわるだろう。何故かといえば、数年前しゝ撃ちの猟師が棒小屋沢で雪崩にやられたことがあり、何等かの思い違いで僕がそのことを書いたと思う人があると困るからである。次に僕は冬季の雪崩について、もっと詳しい研究をしてから執筆するだろう。冬季、春に出るような雪崩が出たりしては、あまりに滑稽だから……。 山で困った話  山で困ったことはあるが苦しんだことは只の一度もない。というと如何にも大きく出るようだが、実は苦しむ――つまり自分の体力なり資金なりの範囲以外に出るような山へは、行ったことが無いのである。  勿論へたばったり、大雨で猿股まで濡れて了ったり、白馬尻の岩小屋で二日間雨にとじ込められ、小屋の中まで水びたりになった為に、まるで鶏みたいに石の上にとまっていたり――これは十数年前の話である――そんな時には苦しいとも思った。だが後から考えると、苦しみよりも愉快さの方が多い。           ◇  恐らく一番困ったのは「山で」ではなく「山に就て」であろう。大阪にいた頃、大阪市に近いある郡で一年に一回神主さんの会合があり、それには毎年きまって毎日新聞社の人が講演に行くことになっていた。これに引張り出された。何でもいゝから、山に就て話せという命令なのである。会場は淀川にそった古い町の神社、崖の上にあるので、とても景色がよく、凉しくていゝ気持だったが、講演会場が社務所。入って行って驚いた。無慮三四十名の聴衆がみんな御老体ばかりで、白い鬚をしごきながらしゃちこばっている。当方夏向の膝をキチンと折って上座に坐ると、そろってサーッとお辞儀をされた。何か一言いうたびごとに、ハヽーン!と頭をさげる人が多い。ことごとく面喰って、急に日本アルプスの話を富士山の話にし、木華開耶姫命のことや何かでお茶を濁しはしたものゝ、満喫した凉風にもかゝわらず、背中にしみ出る程汗をかいた。           ◇  大町から立山をぬけて富山まで酒を求めて歩いた時も、相当に困った。勿論山で酒を飲もうなんていうのが悪いので、それに、この旅は始めから終りまで、儼正アルピニズムの立場から見れば、批評外ともいうべき邪道であった。だが、何等の職務を帯びず、また責任も持たずに、気の合った友達と、まだ本当の登山期に入っていない時、いわばブラブラと山へ入ったのだから、呑気になったのもやむを得まい。  一行は三人、大町のM君と案内者のK、それに僕で、いずれも多年の交遊がある。六月一日だかに大町を立った。雪の多い年で、扇沢を渡る頃からポツポツ雪が現れ、大沢の小屋には排雪して窓から入った。          ◇  こゝで一つ、とんでもない余談だが、近年山岳文学の最高ナンセンスともいうべき小話を紹介する。今年の一月、劔沢で遭難事件があった時、富山県から出た捜索隊が強行して立山室堂に着き、一同「排泄した上小屋に入った」という記事が都下の大新聞に麗々しく出ていた。やれやれというので関東の連小便をやってから室堂に入ったようだが、そんなこと迄新聞に書く必要はあるまい。これは勿論雪に埋っている室堂の入口の雪をかきわけ、つまり排雪して入口を求めたことなのだが、富山あたりから電話か電報で「ハイセツ」と来たのを、冬の山についてまるで知識も想像も持たぬ東京本社にいる社員が、排泄として了ったにきまっている。           ◇  我々も二種類のハイセツをして小屋に入り、ストーヴに火を焚し、炉に鍋をかけて飯の仕度をした。我々にとっては、一番楽しい時である。煙草を吸いながらボンヤリしていたら、酒が飲み度くなって来た。すこしは残っていそうな物だというので、ありとあらゆる瓶や樽をゆすぶって見たが、コトンともジャブンともいわぬ。あしたは平の日電の小屋だ、あすこには酒がワンワンとあるに違いないと思って大人しくしていた。           ◇  その翌日、針ノ木峠を越して黒部川の岸まで来はしたものゝ、雪崩で路が墜ちて了って薄明では危険で吊橋まで行くことが出来ぬ。対岸に日電小屋の燈……それはあらゆるコンフオートと、酒とを意味していた……が輝くのを見ながら、我々は東信の小屋という笹の葉で葺いたような掘立小屋を一夜の宿とした。  こゝでもあやしげな蝋燭の光をたよりに、手さぐりで酒をさがした。小さな樽がジョボンジョボンといったので狂喜して詮をぬき掌にうけて見たら醤油だったりした。           ◇  翌日は九時頃日電の小屋に着いたのだが、盛んにとめられるまゝに、一日遊ぶことにした。さて晩方、釣り上げたばかりの岩魚の塩焼、熊の肉とキャベツの煮込み――ところで酒がない、ないとなると余計ほしくなって、その翌日は素敵な勢で立山温泉まで雪を踏んで歩いた。           ◇  前にも書いたが、これは邪道である。登山とはこんな物ではない。山で酒がなくて困ったなど云っていると今に本当にひどい目にあうかも知れぬが、こんな風な山歩きも思出の一つになっている。 夏と旅  もし時間が自由になる身分ならば、私は夏よりも秋か晩春かに旅行をしたいと思う。海・山・平地……どの旅行にも夏は向かない。           ◇  旅行のシーズンとしての夏の缺点は、暑いことである。寒い所へ旅行すればいゝにきまっているが、例えば東京から北海道へ行くとしても、途中は暑いし、また暑い東京へ帰って来なくてはならず、その時の苦痛は大したものである。殊にトンネルの多い汽車の旅行は、たまったものではない。  大阪にいた時、毎夏信州へ山登りに行った。名古屋から中央線で、木曽の谷へ入って行く景色はいゝが、あすこもトンネルが多く、相当につらい。更に東京から松本までの中央線は、まったく殺人的のトンネルと煤煙である。早く電化してくれないとやり切れない。           ◇  昨年の夏は、二度富士山麓の山中湖へ行った。山梨県ではあるが御殿場から行った方が便利なので、最初は帰りにも御殿場へ出たが、二回目には吉田へ出た。山中湖から富士吉田へ二里、ほこりっぽい路だが高原の風が乗合自動車に吹き込んで、涼しい。それが富士電気軌道で、小沼、谷村と桂川の谷を下りて来ると、一駅ごとに暑さが加り、大月に着いた時には、まったく釜の中にでもいるような気がした。それから汽車が一苦労。が、小仏のトンネルをぬけて浅川を離れると青々とした水田から午後五時の、素晴しい風が吹き込んだ。まったく、これは、どういう吹き廻しか、ほとんど一陣の疾風ともいうべき風だった。網棚にのせた誰かの麦藁帽子を窓から吹きとばし、座席の頭に当る場所にかけた麻の白布を天井に吹きつけた程の風だった。扇風器が面喰ったように、カリカリと音を立てた。           ◇  暑いと汽車弁が不安心になって来る。また駅々で売っている怪しげなアイスクリームなる品を、子供などに買ってやっているのを見ると、他人事ながら気がもめてならぬ。すべて食物が腐敗しやすい時に、自宅を離れて食いつけぬ物を食わねばならぬのは、考えものである。           ◇  高い山への旅は、本当は夏がよい。日が永いし、割合に寒気を感じることがすくないし、高山植物は多く咲いているし、雨はすくないし……。だが多くの場合、裾野の草原の草いきれがひどく、又はいよ〳〵山へかゝる迄の路が遠く暑く(例えば立山の、千垣から常願寺川に添う路)又は都会から山までへの鉄道にトンネルが多く、おまけに山は満員で、静寂という気持が全然味えぬ場所さえある。これは「見て来たような」でなく、事実見て来た話だが、夏の盛りの上高地の夕方よりも、神宮外苑に沿う信濃町・権田原のあたりの方が、遙かに静かで、深山幽谷の感がある。           ◇  秋の山をひとりで歩いて見たい気持がしきりに起る。またこの新緑の頃に、奥上州の、利根川の上流地方をポツリポツリ歩いて見度い。           ◇  はじめて太平洋を横断し、ことにホノルルへ寄港する汽船(或はモーター船、例えば浅間秩父等)に乗る人は、夏より冬を選ぶべきである。私は三度ホノルルに立寄った。その中の一度は真夏、アメリカからの帰りで、他の二回は冬、日本からの途中であった。その第一回の印象は、もう十年以上も前のことだが、いまだに新鮮である。           ◇  横浜を出た時は雪が降っていた。それが一日々々と暖くなり、そして十日目の朝、ポートホールから外を見ると、これは何と青々とした半島が目の前にあったことだろう!緑の丘、ヒビスカスの花、小鳥、椰子の葉をバサバサいわせる風、ワイキキの浜での水泳。よくいう常夏の国だ。日本や米国が夏である時に行っては、一向面白くない。           ◇  どう考えても夏は旅行のシーズンではない。が、日が永いのと、休暇があるのと(私のような会社員にあっては、僅か十日足らずではあるが)それから六月末に貰うボーナスで何とかやりくりがつくのとで、私はやはり夏に旅行することが一番多い。今年はどこへ行こうかと、今からしきりに考えている。           ◇  子供が段々大きくなるので、避暑というよりも、広い所で自由に遊ばせ度くて、夏の転地を考えるようになる。昨年も一昨年も親類がいるので、千葉の海岸へやった。東京から近いから、ちょいちょい見に行くことも出来て便利だが、理想的な海とはいえぬ。どこか山の中で、綺麗な水が流れていて、而も東京から比較的近い場所はあるまいかと考えている。このような条件を具えているのは、先ず上越線開通後の、沼田の奥あたりだろうと思う。現在では汽車が不便だが、急行が通るようになると、東京から楽に行けて、いゝだろうと思う。           ◇  子供達はどこか涼しい場所で遊ばせておき度い。自分は旅行をしたい。と、こうなって来ると、如何にも財産の無いのが、邪魔になるが、同時にありあまる財産を持ちながら、それを、実に愚劣な方法で浪費したり、あるいは、全然使用しないでいる人々が、すこし可哀想にもなって来る。           ◇  これも気のせいかも知れぬが、私はこの頃、私ひとりの問題ならば、苦しんで旅行するよりも、夏は子供達をよそへやって、キチンと取り片づけた自宅に、静にしている方が、遙かにいゝのではあるまいかと思うようになって来た。 今年はどちらへ           ◇ 「今年はどちらへ?」と聞く人がある。その人は私が今年も山へ行くものと思っているのだから、私が「エヴェレストへ行きます」と答えたとすれば、「いや! それは大変ですね」といゝはするものゝ「逗子へ家族づれで泳ぎに行きます」と答える程驚きはしない。逗子へ――鎌倉でも静浦でもどこでもいゝが――行きますというと、この人は必ず目を見はり、急に暑くなったので、自分の頭か、私の頭かどっちかにすこし罅が入ったのではないかを確める可く、頭を振った後、いうのである――「へえ、あなたが逗子へ?」或は考えたあげく、「逗子アルプス御登山ですか?」           ◇  私は山に登った。そして山のことを書いた。ひとつには書くことが好きだったからであり、ひとつには山のことを書くべく登山したことも二三あったからである。いつの間にか私は山岳家にされてしまった。尤も聰明なる社会は、私が前人未踏の、いわゆる処女峰の征服もしていなければ、冬の山で遭難もしてもいないので先ず三流どころの山岳家と認めているらしい。三流どころの山岳家を最もよろこばせるのは、「今年はどちらへ」と質問することである。山岳家は、それが晩䬸の席上であるならば、テーブル・クロスにフォークの柄で谷を書き、塩をひっくり返して山をつくり、「北穂」の第三ピークと第四ピークとの関係を説明するであろうし、それがカフェーであるならば、コックテールをつくる氷の一片を貰い受け、女給のヘヤ・ピンでそれに穴をあけては、この夏行かんとする劔岳の平蔵谷の上方の、ステップの切りようを語って、女給の胆と自分の財布とを寒くすることであろう。           ◇  もちろん私はテーブルマウンテニヤでもなければ、カフェーアルピニストでもない。だが三流の登山家であることは、聰明な世間も、愚昧な私自身も知っている。そこで世間は私に「今年はどちらへ?」といゝ、私は非常な犯罪、例えば殺人を、打ちあけでもするかのように、声を低くし、世間の耳に口を近づけて――「誠に相済みませんが、今年は会社が忙しく、その上赤ん坊がまた一人殖えたので、山へ行く費用が出来ません。ですから女房と子供とは千葉にある女房の実家へやり、私は時々浅い海でボシャボシャやりに行くつもりです。」というのである。           ◇  山も好きだが、海とても嫌いではない。只、海岸の生活――夏の――に、いろいろと気に入らぬ点が多い。潮風がベトつくし、ねむくなるし、おまけにマック・セネットのバッシング・ガールみたいなのが横行濶歩して、マック・セネットのバッシング・ボーイみたいなのと、ふざけ廻るし、とにかく宜しくないです。           ◇  バッシング・ガールにはおどろいた。映画専門の雑誌に出ているのを見た時には、一寸見当がつかなかったが、「マック・セネットの」とあるので之は Bathing Girl のことだと知られた。読みも読んだりバッシング! 所が、どうやら、バッシング・ガールという言葉が出来てしまったらしい。プロマイド、スチール、オーゲストラ等と同じく、正確に、又はより原語に近く、発音しては、通じない言葉である。           ◇  それはとにかく、私は海それ自身は好きである。すでに太平洋を渡ること三度――と、大きく出ましたネ――は、どうでもいゝが、この前の日曜日、真鶴岬の突端まで行った時など、本当に海を讃美した。何十尺かの断崖を下りると、岩の磯で、そこの烈日の下で裸になった私は、ピョンピョン跳ねた。岩が熱かったからばかりでは無い、子供のようにうれしかったのである。太陽と南風とを膚に感じて、今新しく生れたような気がしたのであった。人が見ていたら、私はこの磯で、極めてリディキュラスな骸骨踊を演じたことであろうが、手をあげ、足をあげ、岩からいきなり海へ飛び込んだ。  水は深く澄んでいる。海藻、魚、かに……私自身の足が青白く綺麗に見えた。波はほとんど無かったが、大島の方から相当大きなうねりが来て、入江のようなこゝには、かなり強い水の起伏があった。泳ぎ得る者のみが持つ自信で、私は私を海にゆだねた。こゝの岩と、水と、海藻と魚とはベックリンの領域である。マーメードはいなかったが、それはそれでよかったことである。 峠  ボツボツと、ひまにまかせて、あちらこちらの峠を歩いて見たら、面白いことだろうと思う。この「ひま」がいつになったら出来るか判らぬが、また出来たにしても、日本中に峠と名のつくものは大変な数だろうから、果して生きている内に、そのいくつを越すことが出来るやら、見当もつかぬが、とにかく私は、時々そんなことを考える。           ◇  今日、普通に行われる形式の登山、即ちスポーツの一つとして山に登ることは、比較的最近の流行である。それ迄の、長い時代を通じて、山、あるいは山脈は、邪魔物でこそあれ、人間の憧憬の対象とはならなかった。邪魔物である山は、同時に魔物であった。山は恐るべきものであった。そこは悪魔の住居であった。人は何かの――商業軍事その他――必要があって、山の向うの地へ赴かんとする時、その山脈中で、最も越えやすい点を求め、こゝを通った。           ◇  最も越えやすい点は最も低い地点である。だが必ずしも、最低ということばかりが条件になりはしない。そこに達する迄の地形、地質が大いに関係する。とても登れぬような谷があったり、必ず雪崩の墜る斜面を通ったり、路をつけ得ぬような土砂の場所を横ぎらねばならぬのでは、そこを通る人は全然無いか、あるいは追々減って行くかする。そして、最低ならずとも、これ等の条件のよい地点が選ばれるに至ろう。要するに山脈を越えるのに最も都合のよい地点が峠になる。  いつの間にか単に山嶺を極めるということに興味を失いかけた私は――これは私の登山生活に対する一種の哀歌であるかも知れぬ――山嶺と山嶺との間に位し、一地方と他地方とを結ぶ峠に興味を感じ出した。もっともこれは私ばかりでなく、山の友達の、殊に私位の年配の人の大部分がそうであるらしいが、所謂前人未踏、又はそれに近い氷雪の峰に立ってグローリイを感じるよりも、昔から多くの人が通った峠の路を歩いて、そしてそれ等の人々のやったことや、考えたことや、感じたことを漠然と、リトロスペクテイブに空想する方が、面白くなって来たのである。           ◇  何故この山脈を越すのに、この特定の一点を選んだか……地図でいろ〳〵と考え、さて実際歩いて見、土地の古老に質問を発すると、交通、政治、その他のあらゆる方面から興味深い解決が与えられることがある。或山脈の鞍部の一地点が、峠として選ばれたのが、必ずしも前に書いたような純粋な地理的、地質的の原因ばかりによらぬことが、意外に多いのを発見し、我々は「人間」、ことに昔の支配階級、大名とか地方の有力者、政治家とかいう人々の心の動きに、不思議を感じたりする。  理窟をぬきにして、峠の面白味は、予期せざりしを見ることである。これは必ずしも峠にかぎったことではない。山の峰、尾根、どこへ到達しても、同様であるが、峠はむかしながら「人」に縁が深いので、大きくいえば人文的な面白味に富むこと、他に比して多い。  今年の六月、上州から三国峠を越して越後へ入った。上越南線の後閑から谷に沿って、その谷のどんずまりの法師温泉というのに一泊、翌日は急な、山蛭の多いという間道を登って三国峠へ。ひどい風と雨を含む濃霧とで、景色はまるで見えなかったが、温泉を先発し、峠の権現堂で我々を待っていた、三国峠を越すことこれで十三回という一人旅のおばあさんから、この峠に関する最もエロティックな怪談を聞きながら、広い、庭芝を植えたような道を、浅貝の宿へ下った。(このおばあさんは、立場立場で洒々と恰で昔の雲助みたいで、うるさくて仕方が無いから、やがて別れた。)  かくて期待していた三国峠は、まるで駄目だったが、そこから六里ばかり下った芝原峠というので、私は予期せざる興奮と喜悦とを味ったものである。第一曇り勝だった空が晴れて、北国には珍しい、澄んだ色を見せた。午後四時、幅の広い、白い道を、何度か大きく曲って登りつめると、突如目の下に、美しい水田!それから人家、目の前に上田富士の秀麗な姿。それ迄、米も出来ず、畑のものも出来ず、昔は三国越しで賑っていたが、今では見る影もなく衰微したいわば灰色がかった街道をボツボツと歩いて来た私にとって、この、田植を終ったばかりの水田が、日に輝く有様は、プロスペリテイその物のように見えたのであった。           ◇  東京附近から始めて、大小とり〴〵の峠を歩いて見たいと思っている。両三日前、松井幹雄氏から「大菩薩連嶺」という著述を贈られた。大菩薩、小仏………先ずあの辺の秋をさぐろうか。 (四・一〇) 雪と氷の誘惑  ウィンター・スポーツにもいろいろあるが、いずれも雪か氷かを必要とするものであり、従って冬が暖くて、雪が降らなかったり、氷が張らなかったりすると、ウィンター・スポーツマンは上ったりである。もっとも氷は四季を通じて人工的に出来るから、夏、両国の国技館でスケートをやったりすることもあるし、また伯林や倫敦では、雪の代用品を製造し、百貨店の中でスキーをやっているそうだが、スケートはとにかく、スキーは屋内でやっては本当の味は出ないにきまっている。           ◇  こゝ数年間にスキーが流行して来たことは、誰でも知っているが、驚くばかりである。世間には流行というと一も二もなく渋面をつくる人があるが、スキーの流行は大いに結構だと思う。暮から正月の休を、金があっても無くても、酒を飲んで廻ったり、百人一首で畳の埃を吸いながら夜更ししたのに比べれば、一日中紫外線の多い雪の上を動き廻り、夜は疲れて早く寝る方が、どんなに健康に適しているか、素人考えでも判る。おまけにこれが、六才乃至六十才の人々に出来るスポーツだから余計いゝ。           ◇  スキーは安くなった。日本でいゝスキーが出来るようになった。関税が下ったので、舶来のスキーも安くなったが、和製で結構間に合うようになった。  ジャパン・キャンプ・クラブという会でスキーをやる人約百名に手紙を出し、スキーは舶来と和製とどっちがいゝかと質問した。その返事中、どうしても舶来には負ける……という意味のはたった一人で、あとは全部和製でいゝ、いや和製の方がいゝ位だというのだった。  もっともこれはスキーだけの話で、これが締具、つまりスキーを靴に取りつける金具と革とでつくった品の問題になると、恐らく舶来品に信用をおく人の数がもっとウンと増加したろうと思う。           ◇  スキーが流行する当然の結果として、スキーのポスターや漫画が盛んに出現して来た。その多くが、スキーをやらぬ人の手になっているらしいのも見逃せぬ事実である。漫画に締具をまるで無視して、これではどうしてスキーと靴とが仲よくしていられるか判らぬようなのがあるのは、まだいゝとして、堂々たるスキー場の宣伝ポスターに、こんな形では転倒せざるを得ぬスキーヤーが描いてあるのは、こんなに下手でも安全に、かつ面白く滑れることを暗示しているのならばとにかく、いさゝか微苦笑を禁じ得ない。           ◇  妙高山麓の、非常に有名なスキー場へ来たお金持らしい夫婦づれ。一台四十円もするような舶来のスキーをはいているのに、どうしてもうまく滑れない。練習不足もあるにはあろうが、第一スキーがねっから雪の上を滑らない。……というのである。相談されてスキーの底を見ると、まるで足駄の歯の間に雪が詰ったような工合に、五寸ばかりスキーの全長にわたって雪がくっついている。何か塗りましたねというと、えゝ、ワックスを塗りましたの返事。ポケットから出したのが、固い急斜面を登るにはもって来いのワックス、それをコテコテ塗って、フワ〳〵な、やわらかい新雪の積った緩傾斜をすべり下りようとするから、雪はよろこんでスキーにくっついたのである。何故またこんなワックスを塗ったんです? と聞くと、だって某運動具店でスキーを買った時、そこの店員が、スキーにはワックスが絶対に必要です、これもお買いなさいと云って、これを八十銭で売ったのですとのこと。           ◇  スキーの流行はいゝ。だが、あまり流行するスキー場は困ったものである。  第一宿屋が、六畳に五人、八畳に十人。これは我慢するとして、スキーをやる場所が夏の由比ガ浜か、晩方の銭湯みたいに混雑するのは、我慢出来ない。  こんな場所で、すこし出来る人が、所謂初心者から立て続けに受ける質問は、どうしたら止れますか、どうしたら曲れますか。  曲るも止るも、先ず真っすぐに滑れてからのことではありませんかというと、だってこう人が多くては、真っすぐには滑れませんとの返事。  この節、温泉は無くとも、雪の質のいゝ、変化に富む斜面の多い場所へ行く人が多くなったのも、もっともなことゝ思う。 スキー・マニア種々相 序論  世にスポーツの数は多けれど、スキー位人を夢中にするものは無い。年齢、性、社会的の位置、その他すべての区別無しに、一度スキーをはくと、スキー・マニアになって了い、一年中、ねても覚めても、スキーのことばかし考えるようになる。これ一つには、スキーが冬に限り、而も特定の、即ち雪の多い地方に限って可能なので、いつ、どこでも出来る訳に行かぬから、人のあこがれの念を強くするのであろうが、何といっても、あの豪壮な味は、特別なものである。芥川龍之介氏の死を惜しんで、ある将軍は「文芸春秋」に、もし芥川氏にしてスキーをやっていたら、自殺はしなかったろうと発表された。これにはいさゝか痛み入らぬでもなかったが、事実スキーの好きな人は、これ程の信念を持つことさえある。  僕はスキーは駈け出しならぬ滑り出しで、二三年前の正月、信州の野沢温泉でやったのが初めてだが、もう立派なスキー・マニアになって了って、どうにもこうにもならぬ。スキーを足につけたのは、十数年昔、仙台の高等学校にいた時だが、これは「やった」とはいえまいと思う。高田の聯隊にいた大尉殿が兵式体操の先生としてやって来て、二三の有志に所謂スキーを教えたが、物干しに使用するサンマタみたいな竹の棒を斜にかまえ、両膝を「その間にはさんだハンケチが決して落ちぬ」程度にくっつけ、いわばサンマタを呑んだように、シャチコバッテ、只さえ雪のすくない仙台で、凍った積雪や枯れた草の上を、ザラザラ撫でて歩いたのだから、こいつはスキーではない。要するに、二度目に改めてスキーをやってから、僕は実に数回、ひまをつくり、金を工面してはスキーをかつぎ出したものである。上手にでもなるのならとにかく、いまだクリスチャニアとテレマークの区別さえ出来兼ねる位下手糞でありながら、もうこの冬のスキーを楽しみに、寒い風が吹くとワクワクしている位のマニアだ。このマニアが、浅い経験から、スキー・マニアの種々相を書くというのだから、こいつも、すさまじい話であるなんめりではあるまいか。閑話休題―― 1 練習マニア 「あの時は、あすこで右のスキーをもっと前へ出せば、うまく行ったんだな……」と年がら年中、どこかの斜面でテレマークをやりそこなったことばかり考えているので、つい処を選ばず所謂テレマーク・ボジションをやるような病人。電車の中では、つり革につかまらず、両脚を変な恰好にしてバランスをとり、会社の廊下のリノリュームに油を塗ったばかりだと、そこを滑って重役に衝突し、日曜日には縁側から張板を庭にかけ渡した上でクラウチの真似をやり、事務所の回転椅子では、ジャークド・クリスチャニアを練習する。 2 直滑降マニア  六十度の斜面――実はせいぜい六度か七度――を、雪煙り立てゝ直滑降した時の気持が忘れられず、酔っぱらっては場所錯誤で、天婦羅屋の二階から、段々をドサドサと墜ちるマニア。 3 研究マニア  物事万事研究にしくはないが、やたらにスキーのそこを削り、こゝに板をはりつけ、そこに漆を塗り、こゝに墨をつけ、さて、これが物理的には雪の面にこうなり、どうなるに違いないと、誰をつかまえても研究発表を始めれば、もうマニアックである。 4 防水マニア  雪はもともと、水だから、ころべば濡れる。濡れるのがいやだとて、まるで難船をたすけて暗夜出かける水難救助隊員みたいに、防水服、防水帽子、レインコート、手首足首をゴム・バンドで締めてスキーをする人。雪は入らぬが汗が蒸発しないから、結局グショグショになる。 5 コーチ・マニア  所謂ゲレンデで、斜面の中途に立ちどまり、知人、不知人の差別なく、コーチするマニア。「そこんとこは、君、こういう風にやるんだよ」で、ドサンと倒れたりする。 6 用心マニア  いつ、どこで、雪崩にあうか分らぬからとて、赤い雪崩紐を引きずってゲレンデを上下、左右し、常に腰にショベルを下げているマニア。 7 道具マニア  これも一種の用心のマニアだが、スキーの修繕道具を無闇に沢山持って出かけるマニアである。やっとこ、ナイフ、錐、針金位迄は無事だが、スパナァ、メートル尺、鉄床になると、もう病人だ。面白いのは、スキーの宿で道具マニアが道具をひろげ、その講釈をするのを聞くこと。 8 ワックス・マニア  スキー・マニアこゝに侵入すれば、鍼薬も施すべからずである。元来、ワックスとは、スキーの裏に塗りつけ、上登に際して後すべりを除き、下降に際して滑りをよくし、また雪がスキーにくっつくのを防ぐ為に使用するものであるが、温度や雪の質によって種類を異にし、スキー大会等で一軍の監督が最も苦心する所である。然るにこれを、我々程度の素人が、いろいろと買っては試用する迄はいいが、自分で考えて、アラビアゴム、蜂蜜、蝋燭、ポマード、コーンスターチ、布海苔の混合物をスキーに塗ったら、底に雪が一尺もくっついて了ったなんてのは、まさに大病人といわねばならぬ。 9 お手製マニア  初めの間は、修繕道具を入れる袋を自分で考えてつくる位だが、第二期になるとスキー杖の輪をつくり、第三期に達すると雨戸をひっぺがしてスキーをつくり、そこで成仏する。 10 セオリー・マニア  主としてバア、カフェー等にてスキーのセオリーを論じ、時にジャンプ・ストップを実演して隣の客の卓子を倒し、撲られることあり。 11 手入れマニア  これは春夏秋の三季節中、毎日、靴や締具にヴィスコール、スキーに麻の実油、修繕具に機械油と、油ばかり塗り込んでいるマニアで火事でも起れば、まっ先にポーッと焼けて了う人。 12 スリー・サウザンド・マニア  三千度ころばねばスキーは上達せぬという言葉を固く信じ、右手にナンバリング・マシン、左手に手帳を持ってはやたらに転んでカチン、カチン、顛倒数が三千に達するのをよろこぶマニア。 13 スプール・マニア  さーっ!とテレマークをやり、えっちらおっちら其の地点まで上って行き、雪上のスプールを見、さてHOW TO SKIをルックサックから出して、それに出ているテレマークの写真と自分のスプールとを比較し、泣いたり、笑ったりするマニア。他人がそのスプールの上を走ると、激怒する。 14 済みませんマニア 「君、済みませんがこゝに立っていて、僕のクリスチャニアを見て下さい。この絵とどう違うか……」とて、知らぬ人に「スキーイング・ターンス」の説明カードを手渡しその前で何度もクリスチャニアをやるマニア。こんなのに出くわしたら、カードを棄てゝ逃げないと肺炎になります。 結論  恋を思案のほかとして八百八病スキー・マニアも数多いが、こゝらでやめる。以上十四のシンプトン、ことごとく実験済みとは、僕のスキー・マニアも膏盲に入ったものなり。 山を思う           ◇  暑くなると私は山を思う。そして、もう随分長いこと山に行っていないなと嘆く。これは、然し、正確な嘆きではない。現に今年の四月、私は京都帝大の人々と富士山へ行った。頂上へは行かなかったが、御殿場口の二子山という場所で十日に近い楽しいキャンプ生活をした。それなのに、そんなことは忘れてしまうのはどういう訳だろう。           ◇  もう廿年も前のことである。私はニューヨークにいた。あすこで下町と呼ぶ商業区域を、何のあてもなく歩いていた七月のはじめ、高層ビルの間から遠くの空に白い雲がむくむくと立っているのに気がついたとたん、私は日本郵船の支店へ行って横浜までの船室を予約した。こんな所にいないで、早く山のある日本へ帰ろうと思ったのである。米国にだって山はあるが、大西洋岸には、夏でも雪の残る山はない。私はそこに三年近くもいたのである。           ◇ 「夏でも雪の残っている山」……私が考える山はこれであるらしい。  だから四月にスキーで登った富士山のことを、とかく忘れ勝ちなのだろう。と同時に、「苦しい登攀」という条件もある。今までに何度か登った針ノ木の雪渓にしても、一番よく覚えているのは、一番辛かった時のことである。           ◇  私は米の飯は一日二回で十分といわれる坐業者の一人である。平素肉体を酷使することは全くない。かるがゆえに、肉体の全力を傾けて山に登ることは、深く印象に残る。上高地から槍ガ岳の肩までの路にしても、カンカン照りに重い荷を負って行った時の印象の方が、秋の初め、時雨を番傘でよけて行った時のそれよりも、はるかに生々と記憶に残っている。  大町から富山にぬけたのは、大正何年だったろうか。梅雨前で籠川の谷は扇沢の下のあたりから一面の雪、大沢小屋には窓の雪を掻きよせて入った。勿論番人はいない。翌朝早く出発しようと予定は出来ていたが、跡片附けに時間を取り、いよいよ出かけたのは十時に近かった。照りつける日光も激しかったが、雪の反射がまた大変で、汗は出る、雪は食えず、やっとの思いで針ノ木峠の頂上に着いた時には、口も利かずルックサックを落し、はいまつの上に大の字にねころがった。昼飯時はとっくに過ぎているのだが、飯を食う気もしない。平の小屋の方へ下りるのさえ、実はいやいやだったが、紫丁場と呼ばれる水呑場へ来た時のうれしさは、まったく言葉ではいゝ現わし得ぬほどであった。           ◇  雪と太陽と水と……この三つがふんだんにある山はたのしい。夏の山のいゝところはそこにある。この点で私は針ノ木岳に近いマヤクボというところを好む。けわしい岩が屏風のように立ち、その下が草地、草地の隣に大きな雪田がある。雪田の下の方では水がチロチロと溶けて流れている。私はこの草地で、半日を完全にのびていたことがある。まだ針ノ木峠に小屋の出来る前で、テントはマヤクボの小さい鞍部に張っておき、下の草地へ遊びにいったのである。シナノキンバイとハクサンイチゲの花盛りだった。           ◇  山登りは楽ではない。汗が出る、息が切れる、心臓はドキンドキンと鳴る。ルックサックが肩にめり込む……それだけに山での休息が有難く、うれしく、生きていることをしみじみと感じる。草の上、平な岩の上、はいまつの枝の上、どこにでも長々とねてしまいたがるのだ。はいまつには、たいてい、石楠花がからみあっている。はいまつの黄金色の花粉がむせるように舞い立つところ、石楠花のつめたい花弁が頬にふれたりすると、詩人めいた気持が起って来る。           ◇  山の真昼は静かである。聞えるものはアブの羽音と、場所によっては遠く深い瀬の音だけである。時々、カラカラと音がするのは、どこかで石が落ちるのだ。山は石を落す。変らぬような山だが、その実、絶間なく小さな変化が起りつつあるのだ。切りたった岩壁がすこしずつ崩れて、その下に扇形のガレが出来る。そのガレに、いつの間にか、ミヤマハンノキとかタケカンバとかいう木が生える。           ◇  静かな山の真昼時、私は不思議な音を聞いた。ヒューヒューと、まるで笛である。峰を渡る風でもないし、岩燕の声でもなし、およそ私がそれまでに聞いたどんな音よりも可憐でもあり微妙でもある。何だろうと耳を傾け、息をとめると、その音はやむが、間もなく、また聞えて来る。が、しばらくして、私は馬鹿みたいにゲラゲラ笑った。この音は、私自身の鼻息だったのである。乾燥しきった高山の空気に、さっきまで汗と一緒に流れていた水っぱなが乾き、その一片が鼻毛にこびりついて、オルガンの瓣の役をしていたのである。           ◇  八月に入って暑さはいよいよ激しくなって来た。私は、今年も行くことの出来ない山を思っている。山を急ぐことの嫌いな私は、短い休暇では山に登れないのである。 「短い休暇」とあるが、考えて見ると満洲事変の起った時以来、僕は夏休みをとっていない。旧体制式の夏休みというようなものを我々にゆるさぬ程、日本は大変動を続けているのである。それがたのしみで、一向に休みをとりたいと思わない。どうやら工面していた正月の休みも、こゝ数年来は中絶である。それでも富士山へ行ったり、近くの山を歩いたり、昔のことを考えたり、依然として山々との縁は切れていないから面白い。 旅を思う           ◇  秋が来て涼しくなると、身体はしゃんとするが、精神は意気地なくだらけてしまう。夏中忙しかったし、こんな暑さに負けてたまるかと、意識しないながらも頑張っていた。その緊張の反動なのだろう、朝飯が済むと、もうねむくなる。煙草に火をつけて縁側に坐り、空をながめては、ぼんやりと旅を思うのである。           ◇  九月廿日――丁度昨日か今日のことだ。遅くとった夏休みに、北アルプスの針ノ木岳に登り、妙な谷を我武者羅に大沢まで下った。そこの山小屋で、山での最後の夜、窓硝子に、灯かげがさしたので「誰だ?」というと「石川さんはいるかや?」との質問。大町の案内が二人、夜路をかけて私を迎えに来たのだった。東京から電話で日清戦争が始ったし、関東地方は大地震だからすぐ帰れといって来た。大沢にいなければ針ノ木峠の小屋でも、どこでも、とにかく石川さんを見つける迄は登る決心をして来たと、二人は三日分の大きな握飯を出して見せた。満洲がゴタゴタしていたことは知っていたが、日清戦争は少々唐突であり、山の頂上で小さな地震は感じたが、関東大震災ならば東京から大町まで電話が通じる筈はない。詳しい事情を聞こうと思っても、二人は何にしても石川さんを見つけて早く帰れと伝えることばかりに一所懸命で、その理由は、本当にそんな電話があったのか、大町での流言蜚語なのか、更に要領を得ない。とまれ、一刻も早く大町に引き返そうと、しらじら明けを待って大沢小屋を出た。露が深く腰のあたりまで濡れた。これが満洲事変の始まりだったのである。この事変が原因して私は米国へ行き、帰国して一年足らずで英国へ行った。このようなあわたゞしい生活の出発号令は、実に日本アルプスの山小屋へ、夜道をかけてやって来た二人の山案内が、ゲット・セット・ドン! とやったようなものである。           ◇  モスクワ、ミンスク、ネゴレロエ――国際列車は愚図々々と執念深く、ポーランドへ近づいて行く。ネゴレロエがソ連の国境駅でポーランドのそれはストロプセである。冬のさなか、赤松の林に雪が凍りつき、国境の警備は極めて厳重であった。やぐらの上から機関銃で列車の屋根を狙う兵隊、レールの横にはいつくばって汽車の底を見守る兵隊、あの兵隊どもはどうしたろう。ソ連兵は恐らく勢よくポーランドに入って行き、ポーランド兵は闇雲に逃げて了ったろう。           ◇  ドイツとチェッコスロヴァキアの国境をなすリーゼンゲビルゲに行ったのも、思えば昔のことである。八月だか九月だか、よく憶えていないが、相当に寒く、山頂で雹にでくわしたことから考えると、八月ならば終りに近く、あるいは、あれも九月の今頃だったかも知れない。快晴の樅の森を登って行くと、霧がまいて来た。登ったのにリーゼンゲビルゲ(巨人山脈)中のシュネーコップフ(雪頭山)である。もう頂上も近かろうと思われる頃、横なぐりの風が霧と一緒に雹を吹きつけて来たのである。「頭」を以て呼ばれる山だけあって頂上は平な草原で、別に国境監視兵がいるとは思えなかった。           ◇  この年の春、私は碌にドイツ語も出来ぬのに、たった一人で南ドイツの旅をした。ガーミッシュパルテンキルヘンでは林檎の花盛り。ツーグスピッツェの氷河はつめたく岩は黒かった。もともとこの山に登ろうとして出かけたのだが、伯林で買った登山靴に足をやられ、やとった案内者まで解雇せざるを得ず、まことに残念だったが、却ってその方がよかったかも知れない。というのは、私はパルテンキルヘンの靴屋がつくった丈夫な半靴を一足買い、山麓を歩き廻ったからである。樅の森、牧場の草地、大きな九輪草、白壁に聖書の中のエピソードを画いた農家、皮の半ズボンを刺繍したズボンつりでつった男、緑と赤と白のこまかい模様の衣服を身につけた健康そうなチロル娘――山の向うはオーストリアだといっていたが、あの国境線も現在では無くなって了った。           ◇  ミュンヘンからニュールンベルグ、ローテンブルグ、そしてこの旅はチューリンゲンの森で終った。ニュールンベルグはライラックの花がお城の空堀に咲き――あゝ、マイスタアジンガァの甘美な音楽とハンス・ザックスの店における若い二人の最初の出合い。あの素晴らしいオペラも今日は欧洲には行われぬことであろう。それとも伯林では、このシーズン、要塞の名につけたジーグフリードを主人公とするライン河のオペラを盛大にやるか。ヒットラーはワグナアが好きだ――ローテンブルグでは城門のそと、大道の真中に立つカスタニアの大木が、あふれるばかりに白い花をつけていた。           ◇  チューリンゲンに入っては、タンホイザアのワルトブルク、ゲーテが「さすらいの夜の唄」を書いたキッケルハーン……ひとりの旅であっただけに印象が鮮かである。           ◇  そういえば、晩秋初冬の頃の、スコットランドの旅も一人だった。朝鮮の旅も一人だった。どうも旅は一人に限るらしい。淋しさをしみじみ味わおうとか何とか、そんな感傷的な意味ではなく、一人だと景色にも人間にも、全身をあげて、立ち向うことが出来るからだ。新婚旅行、愛人との逃避行、どっちもやったことが無いからよくは分らぬが、相手に心を奪われることの方が多くなるのではあるまいか。よしんば男同士の、どんなに気のあった友達でも、やはり同伴者がいると対人要素が入りすぎる傾向が認められる。           ◇  今年の夏、私は男の子二人を信州の大町へ連れて行った。日曜の夜向うに着き、月曜日には汽車で梁場へ行った。こゝは青木湖の水が中綱湖へ流れ込む場所で、まことにやなをかけるに適したところである。大町を出ると山が見え、木崎湖が見え、やがて中綱湖がとろりとした水面を見せる。数十回通った路ではあるが、それだけになつかしく、子供はほったらかしておいても、兄貴の方は大町は三年目なので弟に何か教えてやっているから、ひとりで景色をながめていた。が、ふと気がつくと、恐らく白馬にでも行くのだろう、軽い登山姿の若い男女が斜め向うの席にいる。はじめ私は女学校の生徒が先生に連れられて行くのかと思ったが、それにしても一対一は変だし、結局これは若い細君が女学生時代のセーラーを着て来たのだろうと判定した。それはどうでもいゝが、この二人がねっから湖水も山も見ていない。喋々喃々と、お喋舌りばかりしている。別に羨ましかった訳でもないが、あれでは二人で山に登って下りて来て「どこで君が何をしておかしかった」「どこであなたが何と云って面白かった」以外に、何の印象も残るまいと思われた。ひとのことだからそれだっていゝ。何も小言をいう筋は無いが、少々下らないような気がした。           ◇  私は随分長い間、山に登っている。その記憶の中で一番、はっきりしているのは、ある尊いお方が穂高から槍へ行かれるのに、新聞記者としてお伴した時のことである。私の社だけで社員が八人、これに連絡係や荷物持ちの人夫が、何でも四十人に近かった。一行が穂高に登られるのについて私も登り、前穂の一枚岩と呼ばれる所から私一人上高地へ引き返した。上高地から鳩や写真の材料や食料を持つ人夫の一群を引率して、谷ぞいに槍へ向うためであった。この一枚岩から上高地までの短い時間が、まるで水に洗われたボヘミア硝子のように、鋭く、明るく、あざやかな印象として残っているのだ。それ迄は大人数だったのがたった一人になった。その対照もあるだろうが、あの朝の晴れ渡った空、乗鞍の山のひだ、同じ山の肩に浮ぶ小さな雲の塊(いやな雲だと思ったが、果してその日の午後は猛烈な雷雨になり、私は「五千尺」の囲炉裡で居ても立ってもいられぬ気持がした)――両手を上衣のポケットに入れて、ポッコリポッコリ山を下りて来た時は、本当にたのしかった。           ◇  新婚旅行は羨ましく、愛人との逃避行は洒落ていると思う。だが、今迄の経験からすると、旅は一人にかぎる。 繰返していう           ◇  今までに何回かいったことだが、夏山の季節に入ったについてまたしても繰返していゝたいのは、登山の注意である。           ◇  今年の春、上越の谷川岳では致命的な遭難が多く、しかも名家の子弟が犠牲者の一人だったりしたので、社会の関心も大きく、新聞雑誌でも取上げて問題にしていた。あの山には悪い岩場があり、雪崩の恐ろしいのが出る。一般人がこれから出かける山には、岩場はあっても雪崩は出ない。だから、先ず危険は半分である。だが、時勢の変化を考慮に入れると、夏山の危険は以前にくらべて、増しこそすれ、減じたとは思われない。           ◇  夏の山での遭難原因は十中八九が「無理」から来ていると僕はいう。それは体力に関する無理と、技術に関する無理との二つに分つことが出来る。技術に関する無理とは、たとえば岩を登って墜ちたり、雪渓をグリセードして転倒したりすることである。一口に岩登りといっても難易はいろいろだが、基礎的な練習が必要なのだ。それをいきなり、映画や写真の真似をすれば、あぶないにきまっているし、なまじロープがあるだけに、却って他の人々に被害をおよぼすことさえある。           ◇  雪渓に両足を揃え、杖を後斜めに構えてすべり下るグリセードは、誰にでも出来そうだが、子供の時から馴れている人は別として、やはり相当な練習を必要とする。雪や草地の急斜面の横断、丸木橋の渡り方――このような場合に事故を起すのは、技術的な無理をあえてするからである。           ◇  体力に関する無理とは文字その通りで、別に説明することはあるまいと思うが、たとえば普通一日行程六時間とされている山路を、身体が弱っていたために八時間かかったとすると、最後の二時間は全く無理をしていることになる。また身体の条件はよくとも、途中崖崩れがあって、一旦とんでも高所に登る必要があったりして、体力と時間を予定以上に消費する場合も、同じことになる。身体が弱ってい、あるいは弱って来ると、ちよっとした石に蹴つまづいてもひどくころんだり、雨を伴う寒気や空腹が極度にこたえ、致命的な結果に陥ることがある。           ◇  右の二つはしばしばコンビとなってやって来る。これだけでも相当危険性が多いのに、特に今年は装備について考えねばならぬ点が多い。新しく登山具類を買った人は大きなハンディキャップを持っている。これに加うるに、どこも同じ人不足で、案内人も山小屋の従業員もウンと減っているから、自然登山者へ払われる注意の質も量も減っている理窟だ。           ◇  いわゆる日本アルプスの登山はたしかに便利になった。夜行で立ち、バスを利用し、その日のうちに三千メートルに近い山頂に達することも可能である。事実そのようなプランを立てる人が多い。平素鍛錬の出来ている人々にはこれでもよかろうが、事務室やら、工場から、突如出かけて行く人々は、よほど考えてくれないと困る。汽車の中で眠れればまだしも、何時間も立ち通しということも、或は当然とされる昨今、くれぐれも無理をしないようにしてほしい。           ◇  山はいゝ、山ほどいゝものはない。出来る人はみな山へ行って貰いたい。また山に入った以上は、多少の無理も忍ばねばならぬ。あるいは無理があるのが登山の魅力の一つであるともいえよう。だがあとから冷静に見て、どうも遭難者の手落が原因だったとしか思われぬような事故は、断然これを避ける工夫をして行かなくてはならない。いつでもそうだが、殊にただ今は人的資材の重要な時だ。僕みたいな登山道の隠居役がこんなことを繰返していう真意は、実にそこにあるのだ。 山の湯ところ〴〵  八ガ岳の本沢温泉、蔵王山の遠刈田、青根、黒部の祖母谷、上高地、蒲田等々、考えると、これでも相当方々の山の温泉に行っている。それ等の中で本沢温泉こそは僕が最初に登った山らしい山の温泉なのだが、大きな樅の林の中に板屋根の家屋があったことだけしか印象に残っていない。二十名を越す団体だったので、何か用事を持ち、その方に気をとられていたのかも知れない。           ◇  祖母谷は、今はどんな風だろうか。もう二十五年に近い昔のこと、大町から針ノ木を越して劔に登り、池ノ平、猿飛を経て、大黒を越え細野へ出ようという旅の途中で一泊した。まだ日の高い中に着いて見ると、無残に崩壊した建造物が残っていて、ブクブクの畳や水ぶくれの坊主枕が薄気味悪かったが、泊り準備は人夫衆にまかせ、僕等は河原の砂を掘って浅い浴場をつくり、砂の中から出て来る湯が、あまり熱くなると、川の水を流し込んではうめた。その夜は残りすくない食糧を、ありったけ出し、ひろって来たビールの空瓶に蝋燭を立てゝ盛大な宴会を開いた。あすの晩は大黒鉱山で泊めて貰える見込がついていたからである。地熱のせいか、この附近には大きなガマが沢山いて、僕等は泉鏡花の話などしたものである。           ◇  蔵王山は二高にいた時登ったが、遠刈田や青根でブラブラしたのは高等学校から大学へうつる間の夏休みだった。その頃の遠刈田は不潔で蚤が多く、青根の宿は部屋と部屋との境が紙よりも穴の方が多い障子で――「その頃の」というよりも、「当時の僕が通された部屋は」といった方が穏当かも知れない――一向に有難くなかったが、両方の中間にある早川牧場で暮したいく日かは、温泉こそ無けれ、いまだに楽しい思い出である。僕はこゝで霧の深い朝晩を送り迎え、懸樋の水にひたした野生の菜のたぐいの美しさに心をひかれ、更に長い乾燥し切った昼間は牧場に出て草にねころび、何とかいう名の中年輩の牧夫と長話をした。この牧夫は、どういう了見か知らぬが、兵隊帽の庇のとれたのをかぶっていた。三年間の仙台生活で東北辯も了解できたのであろう、ながっぱなしの内容は勿論忘れて了ったが、まざまざと思い出すのは空を動く雲の形の面白さと、大小厚薄の異る雲が山に投げかける蔭の変化の美しさとである。後年メレディスの詩を読み、描写された自然の美をいきなり感得した素質の一部分は、恐らくこの東北の牧場で身につけたことだろうと思う。           ◇  飛騨の蒲田に一泊したのも、長い山旅の終りであった。而もそれは新聞社の特派員として、あるお方のお伴をした山であったし、とにかく、相当以上に気づかれのした山だった。それが無事に終って、高貴のお方は蒲田で御中食後、直ちに高山方面へと出発され、随員、警察官、新聞記者団合計四十名も前後して去ったが、僕は万事を岐阜通信部に一任して、蒲田から上高地に引返すことにした。  その日の中に、中尾峠を越して上高地へ出られぬこともなかったのだが、僕は蒲田がとても好きになり、こゝに一泊ときめた。嵐のあとみたいに静かになった蒲田の部落は、午後の太陽の中で、如何にもねむそうだった。百日草が咲き、玉蜀黍の葉が風に鳴り、日かげは秋である。こゝの温泉も河津浪で流されたばかりで、道路を下った河原のゴロタ石の間に深さ一尺ばかりの溜り水に過ぎなかったが、日暮に近く、長々と身をよこたえて、あれで三十分ものびていたことだろうか。その晩の食事に、一尺を越す岩魚とさゝげが、大きな吸物椀のふたから首尾を出していたことは忘れられぬ。岩魚はもちろん焼いて串にさし天井裏にさして置いたものである。便所には紙が無く、きれいに削った杉の板片が揃って箱に入っていた。           ◇  伊香保も箱根も山の温泉には違いないが、少々便利すぎて僕等の所謂「山」に入るかどうか、これは考えものだと思う。浅間温泉も同様、山の温泉といえるかどうか知らぬが、こゝは山への出入以外には寄らないので、すくなくとも僕にとっては、このカテゴリイに入れてもいゝような気がする。それだけにまた有名な浅間情緒は全く知らない。殊にこの頃は大変な繁昌だそうで、山のドタ靴などはいて行ったら、恐らく玄関ばらいを食うことだろう。幸か不幸か、僕は不況時代にばかり行っているので、いつも大事にされた。だから浅間温泉の悪口を聞くと不思議のような気がする。  ある年の夏、友達三人で西石川に泊った。あしたから山へ入ろうという前晩である。風呂に入り、軽く一杯やって床に入ると、大雨がふって来た。こんなにいゝ温泉の出るいゝ宿屋があるのに、俺達は何を好んで櫛風沐雨の生活に身を投じようとするのかと、何とかゴテゴテいい合ったものだが、翌朝の島々行初発電車には、もうニコニコと乗込む我々であった。           ◇  妙高温泉と沓掛の星野温泉は、高原の温泉といった方がいゝだろうが、妙なことで印象に残っている。妙高温泉へは初夏の候、高田に講演に行った帰りによったのだが、それ迄両三回スキーに行った時のことを考えると、まるで別の所へ来たように感じられたし、閑散だったからでもあろうが、真実家族的に大事にしてくれた。星野温泉は盛夏、軽井沢に出張して一泊、まだ日の暮れきらぬ内に入浴していると、高原特有の物すごい雷鳴があり、硝子一枚の浴室で素裸になっていた僕は、雷に臍を取られる心配をした。というと変だが、何も着ていないで自然の暴威に立ち向うことが、如何に恐ろしいかを経験し、人間は着物を着ていなくては仕方が無いように馴致された動物だ、ということを、しみじみ感じた。           ◇  最後に上越国境の法師温泉。考えると、もう六七年も行っていない。その間に、どんな風に変ったか思いもよらぬが、あすこは春行っても冬行っても、何かしら山の温泉らしいいゝところがあった。一緒に行った人も、紹介した人もみんなよろこんでいたが、近頃はどんな工合か。東京にはちょいちょい出かけるが、いつもギリギリ一杯で、法師まで足をのばす時間が無いのは残念である。 冬の山野  いよいよ本当の冬になりました。秋の間、盛んに郊外散歩をしていた人々は家にとじこもり、火鉢にかじりついたり、背中を丸くしてこたつに入ったりしているのでしょう。この頃は野も山も静かになって来ました。  勿論寒い時には、着物を沢山着て、温かい部屋にとじこもり、静かにしているのもいゝものでありましょう。しかしながら、外に出て、少々汗ばむぐらい歩き廻るのも中々悪くないものであります。私は、とかくひきこもりがちな女の人達に、冬の山が持つ面白さと楽しさをお知らせしようと思います。それによって、一人でも二人でも、冬の山登りに出かける方が多くなれば、私は本望を達したという訳になります。  冬の山と申しても、富士山や日本アルプス、或はその他の、雪や氷におおわれた高い山をいうのではありません。この様な高い山の冬の登山は、事実面白くもあり、又楽しくもありますが、これは専門家にまかせておいた方がいゝでしょう。第一、支度が大変です。先ず麓から或程度の高さまでは、スキーで登りますが、これとて所謂スキー場で、遊び半分やるのとは、全く趣を異にします。どう違うかはくわしくお話すると長くなりますから略しますが、重いルックサックを背負っているので、身体のバランスがとりにくいことや、場所によって雪の変化が甚しいことなどが関係すると御了解ねがい度いものです。さてスキーが使用出来ぬ程雪が堅く凍りついている場所へ来るとスキーをぬいで、シュタイグアイゼンというものを、靴に結びつけます。これは鉄で出来ていて、六本、八本、或は十本の鋭い歯を持つカンヂキを、麻のさなだ紐で靴に結びつけるのであります。この鋭い歯がサックサックと堅い雪につきさゝって靴がすべるのをふせぎます。これは非常に大切な登山道具なので、万一はずれたりすると大変なことになります。それで、さなだ紐の結び方にも、一定の方法があります。  またこのような場所では、アイスアックスというものが、絶対に必要です。これは直訳しますと氷斧で、皆さんも運動具店やデパートで御覧になったことがあるでしょうが、頑丈なトネリコのステッキの石突と頭とに鉄がついている、その頭の方が斧になっていて、そこで氷をたゝき割って足場を作りながら山を登るのです。どうかして足をすべらした時などこのアイスアックスで、滑り落ちるのをふせぐという、大切な道具です。それで山登りをする人は、まるで武士が日本刀を大切にするように、アックスを大切にし、ステッキには常にアマニ油をぬり、鉄の部分はピカピカ光らせておきます。この放送の原稿を書きながら、私のアックスはどんなになっているかと思った所が、物置のスミの方に蜘蛛の巣にまみれ、赤く錆びているのを発見しましたが、これでは山のお話をする資格はありません。  ところが、先程申したシュタイグアイゼンも、このアイスアックスも、とにかく堅い氷に突きさゝるように出来ているものですから、余程取扱いになれていないと危いのでして、転んだはずみにおなかにつきさゝったり、足に怪我をしたりします。ですから、このような道具を使用する高い山へ行くことは、先ず専門家にまかせておく方が無難だろうと思います。登る登ると申しましたが、山のテッペンで一生を送るのでない以上、山をおりるのにも同様の道具が必要になり、而も技術的に申しますと、下山の方が登山よりはるかに困難で危険な場合が多いのです。  又このような山へ行くと、温度も零点下何度、或は十何度と降ることがありますから、防寒具も充分持って行かねばならず、よしんば山小屋があっても、設備は不完全ですから、自然、食糧、寝具、場合によっては燃料や、テントまで持って行かねばならず、如何に人夫をやとうにしても、相当な荷物は、自分でしよって行くことになりますから中中大変です。もっとも、男に負けず、男以上の荷物をしよって、どしどし山に登って行く女の方も、あるにはありますが、大抵の御婦人、殊に家庭をもっておられる方々には、この様なことにおすゝめも出来ないし、実際問題として、無理だろうと思います。体力的に無理であるばかりか、時間的にも無理でしょう。と申しますのは、こんな山では、いつ吹雪にあうかも知れず、そのような時にはテントの中なり山小屋なりでいく日でもスクンデいなくてはなりません。大体いく日の山旅をするという予定は立ててあっても、それがどう変化するか見当がつかぬのであります。そうすれば、一家の主婦ともあろうものが無鉄砲にウチをあけておくことが不可能である以上、このような登山はこれまた不可能ということになります。  私がおすゝめする山は、東京で申せば高尾山、あるいは三浦半島の背骨をなす山、大阪で申せば箕面、池田、六甲等北摂の山々、或は河内の山などであります。日帰りで楽に行ける山、或は丘と申した方がいゝかもしれませんが、このような低い山に下駄ばきで、御希望とあらば、ステッキの一本も持って、気軽に出かけて頂きたいのです。  山歩きばかりでなく、すべての運動に洋服がむいていることは、申すまでもありませんが、そのために洋服を作り、おばあちゃんがダンブクロみたいなものを着て、靴ずれの出来た足をひきずって歩くなんてのは、如何に体位向上の今日でも、余り見られたものではありませんから、和服でお出かけになったらいゝでしようが、和服はとかく歩きにくゝ、さりとてしりっぱしょりも少々お色気がなさすぎますから、モンペをはくといゝと思います。話がいさゝか脱線しますが、私は以前からモンペ礼讃者でありました。従ってこの頃方々でモンペが使用されているのを見て誠にうれしく思います。ところが、例えば座談会などで私がモンペの話を始めると、あんな変なものを着て、往来が歩けますかという声が御婦人の間で盛んにおこります。座談会というのは不便なもので、しゃべりたい人が大勢いるものですから、私一人で長い時間話をするわけにはゆきません。それでいつもウヤムヤになってしまいます。今日は幸い放送で、誰も邪魔をしないから、諜舌りたいだけモンペ論をやらせて貰いますが、元来モンペというものは、仕事着なのであります。銀座や心斎橋筋を歩く時、或は人を訪問する時に着るものではありません。東北地方や信州あたりのモンペを常用している場所でも、仕事をする時以外にはモンペははきません。ですから、何もモンペをはいて都会の町を歩けというのではない。そら、地震だ、火事だ、空襲だという時に、不断着の上からはけばいゝのです。その為に、モンペを作っておき、どんな暗やみでも分るような場所に置いておけばいゝと思うのです。  中にはモンペという名前が気にくわないという神経質な人もあります。モンペというのはある地方での呼び名で、地方によってタチ方が違うように、名もちがいます。タッツケ、雪袴などとも呼ばれます。雪袴などは、風流な、いゝ名だと思いますが、どんなもんでしょう。タッツケと申すのも人形芝居で、現に人形つかいが用いている服装なのです。  さて、話をもとにもどしますと、山歩きには四季を通じてモンペが便利ですが、特に冬は、これが温くていゝそうであります。朝、ウチを出る時からモンペをはくことはありません。お弁当の風呂敷づつみなり、あるいは御主人のルックサックの中なりに入れて行き、いざ人里はなれて、山にかゝるという時出してはけばよろしい。そして、はき物は下駄に限ります。草履はすべっていけない。あとがけをすればいゝそうですが、兎角冬の山道は、日中になると霜がとけてぬかるみますから、この点から申しましても草履は不向です。  これで山登りに一番大切な足ごしらえは出来ました。あとは出掛けるばかりです。夏と違って大して汗をかきもしませんから、余り大きな水筒を持って行く必要もありますまいが、魔法瓶に熱いお茶でも入れていらっしやい。お弁当も夏と違ってくさる危険はありませんが、御飯等どうかするとひどくつめたくなりますから、熱い飲物が一入うれしく感じられます。  さて冬の山の楽しさは色々ありますが、先ず第一に温かいことが挙げられます。日蔭の道には一日中霜柱が立っていたりして、これは本当に寒いのですが、一度そのような所を通りぬけ、日向の風をよけた場所に出ますと、こゝは又驚く程温かいものです。枯草が太陽の熱を思う存分吸い込み、吸い込み過ぎてその熱をはき出しているという感じさえします。このような枯草や落葉をかき分けて見ますと、弱々しい緑色の草の芽がひそんでいたりします。冬のさなかというのに、自然は、もう春の支度をしているのであります。  同じようなことが樹木についても見られます。常磐木以外の木はすべて葉を失った裸木ですが、細かに見れば、今年の葉が落ちたあとには、もう来年の葉の赤ん坊がちゃんと出来ています。勿論厚い外套をかぶり、一寸見ては葉だか何だか分りませんが、一陽来復とともに、この赤ん坊は外套をぬぎすて、のびのびと手足をのばすのであります。葉が落ちたのは、来年の新しい葉の邪魔をしてはならないから、つまり新しい葉に場所をゆずったのだということを感じます。大きなことをいう様ですが、人間の死ぬこと生れることも、何かこれに似ているのではないでしょうか。木は万遍なく日の光を浴びて立っている。あなた方は裸の木をよく見たことがありますか。これ程無駄のない、しっかりした芸術品は、人間には造ることが出来そうにもありません。  色々な枯草の姿も亦面白いものです。山牛蒡や山法師などという草が、枯れてしかもシャンとしているのを見ると、墨一色の版画を思い出します。それに又、木や草の葉が落ちたので、小鳥の巣を、よく見かけます。どんな鳥がどんな卵をこゝに生み、どんな雛をかえしたのだろうなどと、想像するのも楽しいものです。序に申上げますが、今申した山牛蒡や山法師などという草は、葉も実も枯れたような色をしていますが、これを取って、持って帰りますと、面白い生花が出来ます。ことにリスリンを少々加えた水につけておきますと、一冬は十分もちます。  冬の山はまことに静かであります。たまに小鳥が鳴くくらいで、その他には何の物音もきこえません。小鳥は木の葉が落ちてしまっているので、思いがけない姿を現わすことがあります。その声をきゝ、その姿を見ると、自然その名前を知りたくなって来る。小鳥研究とまでは行かなくても、我々は、こゝで又、自然に対する愛情が、一つ増えたことを感じるのであります。  冬の空の美しさも忘れることが出来ません。幾月も霧がかゝったり、吹雪がふき荒れたりする地方は別ですが、我々の住む関西地方の冬の空は、どうかすると、全く雲が一つも見えぬ位晴れ渡ることが珍らしくありません。この様に空気が澄んでいますから、遠くの方がよく見えます。山の上から見おろす景色程我々に地理の観念をよく与えるものはありません。郷土を愛する心はこの様にして養成されるのでありましょう。  休んでいると、いくら暖かいといっても、とにかく、冬の山ですから、寒くなることがあります。しかし焚火は絶対にいけません。山での焚火は、いつでも禁物ですが、ことにお天気続きの冬は、枯草や枯葉に火が付いたら、とんでもないことになります。  冬の山には蛇とか、毛虫とか、芋虫とかいうような、いやらしいものは全くいません。ですから気軽に、草の上に寝ころがることも出来れば、ガサガサと藪の中をくゞることも出来ます。そして軽く汗ばんだころ、時間でいえば先ず午後二時半か三時頃には、山をおりるのです。日が暮れると急に寒くなりますから、初めから日暮れ時には家に帰っているように、プランを立てることです。  この放送をきいて下さる方は、主として御婦人方だと思います。御婦人方は一家の兵糧係と、昔からきまっています。それで、山登りのお弁当について、若干ウンチクをかたむけようかと思います。お料理の時間のようで一寸気がひけますが、私のうちには子供が沢山いて、よく遠足などに出かけるので、お弁当の研究は相当なものです。さて何といっても日本人にはお米の御飯、さるかに合戦以来のおむすびが第一ですが、これに一寸趣向を加えて見ますと、先ず海苔をやいて半分に切り、それで包める位の大きさに御飯をにぎります。この時お醤油を手に付けながらむすぶと、いゝ味がします。この海苔むすびの中に色々なものを入れ、品数を多くしますと、大人も子供も大喜びです。塩昆布、キャラ蕗、芹の味噌漬、小魚や三度豆の佃煮、でんぶ、鰹節などですが、豆をあまく煮つめたものなども、意外に歓迎されます。梅干は勿論結構ですが、私共銃後の国民はなるべく梅干を戦地に送るようにしなくてはなりません。  普通の海苔巻を作る時、中に沢庵を細長くきざんで入れると、干瓢や高野豆腐とちがって、煮る世話が省けるばかりか、水気があって山登りのお弁当などには持って来いです。  私は、よく子供のお弁当箱を借りて行きます。子供が学校へ持って行くお弁当を作って貰って、持って行きますが、新聞紙二三枚で丁寧にくるんでおけば、御飯がひどくひえることはありません。おまけに、新聞紙は、晩方など、急に寒くなった時、チョッキの下、胸と背中にあてがいますと、とても暖かですし、家へ持って帰ってしわをのばしておけば、一貫目四拾銭で売ることが出来ます。  山登りのお弁当にはサンドイッチにしましても、わざわざハムやソーセージを買って来ることはありません。前の晩の豚カツや魚のフライや焼魚の残ったのに、ちよっとソースか醤油をつけてはさむとか、或はじゃがいもをゆでてつぶしたものに、この様な肉類をまぜてはさむとか、色々方法はあります。一番簡単で又うまいのは前の晩、コロッケを少し沢山作っておき、翌朝これをつぶしてサンドイッチにすることです。あまいジャムサンドイッチも、少し作って持って行けば、お菓子の代りになります、但しパンはトーストにしないと、ジャムの水気をパンがすいこんで、ビショビショになります。さあ、どうぞ皆さん、この次の日曜日からでも、冬の山野にお出かけ下さい。「まず健康」――まったく我々は、大人も子供も、男も女も、丈夫で暮さなくてはいけないのであります。  昭和十三年の初冬「家庭の時間」に表題のような放送を頼まれた。この時は珍しく――事実この時以外やったことが無いが――時計を前において僕が喋舌るのを、家内がその通り筆記した。それがこの全文である。勿論書く方が喋舌るより遅いから、口述筆記の時間は放送時間の四倍くらいかゝったが、大体枚数が分っているので、あとですらすら読んで見ると、時間はきっちりあった。  この放送が原因してかどうかは知らないが、翌年早々「春の山野」について何か書いてくれという註文があった。それが即ちこの次の一文で、読みかえして見ると山野、別して「山」はまったくのお添え物、釣の話が主になっている。 春の山野  冬の初めに「冬の山野」という題で放送をした。家庭講座だったので、山といっても東京ならば三浦半島の背骨をなす丘や、せいぜい高くて高尾山、大阪ならば生駒連山、二上山、箕面の山を目標として、これ等の山歩きが如何に楽しいかを語った。秋の間、盛んに山野を歩いていた人々が、冬になると家に引き籠って了うが、それではいけない。冬こそは真に自然に近づき親しみ観察すべき季節である――というのが僕の結論だった。勿論今でもそう思っている。  だが、いよいよ春になって見ると、春の山野も悪くない。如何にも場あたりをいうようで、少々きまりが悪いけど、実際問題として、日本内地は、四季を通じて所謂気候温和、暑いといい寒いといっても、殺人的なことはめったに無く、従って、いつだって気軽に戸外に飛びだすことが出来るのだ。  二月十九日の日曜日に、吉野川まで釣に出かけた。下市口で電車を下り、三時間ばかり右岸の諸々方々を歩き廻ったが、気温が高い割合に水温が低く、魚はまるで釣れなかった。釣れぬとなると煙草に火をつけて景色をながめる。大天井や山上ガ嶽にはまだ雪が残っているが、姿の美しい高見山には霞がかゝり、電車の線路には陽炎が立っていた。その線路の横に、おほいぬふぐりの花が咲いていたのに気がつき、「まるで本当の春だな」という友人に、「もう草の花が咲いているからね」と合槌を打ったが、信用しない。それなら見せようと、竿も魚籠もおいたまゝで広い河原を横断して、わざわざ線路の所まで歩いて行った。おほいぬふぐりやはこべを先頭に、花はどんどん咲いて行く。春の進行はすこぶる速い。だから、「たれこめて春の行方も知らぬ間に」などと、悠長なことをいっていないで、山や川や野や原へ出かけて行くにかぎる。  僕みたいに、休みの日には必ずそとへ出る者にとって、一番有難いのは、日が長くなることである。四時半、五時、六時になってもまだあかるいことは、甚だ気持を落ちつかせ、のんびりさせる。これが北欧のように、九時になっても十時になっても明るいとなると、却って間がぬけるが、この辺では丁度いゝ工合の時間に暗くなり、電燈がつく。その頃にはいゝ加減つかれて家に帰り、風呂に入っていっぱいやる。酒ばかりは、どうも、灯がつかないとうまくない。  あたゝかいのも有難いことだ。寒さそれ自体は僕にとっては何等の苦痛でなく、こんな骨皮筋右衛門でいながら、暑い方に負けるが、とにかく服装が身軽になるのがいゝ気持だ。  現在の僕としては、魚が釣れ出すのが何よりもうれしい。寒バエ釣は玄人の芸だなどといわれ、冬中あちこち歩き廻ったが、釣れないこと、おびたゞしい。考えて見ると、猪名川では鼓ガ滝、多田神社の下、武庫川では宝塚の上下約一里半、それから、遠っ走りをして吉野川、どこへ行っても魚はかたまっているし、人間もかたまっている。近所の人々で毎日来るといった手合が、自転車で乗りつけるのだから、僕みたいなサンデー・アングラアは駄目にきまっている。それを、「好きこそ物の上手なれ」ならぬ「下手の横好き」で出かけるのだから、魚が釣れたらどうかしている。  たまに誰もいないと思うと、六甲の方からひどい吹雪が来たりする。何を糞とばかり、首を縮めて竿を持っているのは楽でない。魚が釣れでもするのならば、こいつは悪くないだろうが、ピンともシンとも来ぬ奴を、痩我慢で河岸に頑張っている中に、いつか暮色蒼然、凍えた手で糸を竿から外すと、水っぱながポタポタたれる――こんな真似をしていたが、さて、春ともなれば魚が動くのだ。一寸の麦、三寸の菜種、そのような畑のへりを流れる小川に、モロコやタナゴがピチピチとして、小さなウキの動きにあわせると、仕掛がこまかいから、ピリピリ、存外強く手に来て、よしんば十匹や廿匹でもうれしくなって了う。  昔のことを考えると、仙台の春。あのあたりは先ず五月にならねば春とはいえない位だが、郊外の丘に雪がとけて、そこにもろもろの草の芽が萠え出す。土はしめっていて空には雲雀の声。いちどきに花が咲く。カッコウの鳴きかわす声が聞える森には、いつの間にかかたくりの花がちらほらする。東京で生れて東京で大きくなった僕が、本当に春の呼吸を感じたのは、高等学校の三年間であった。  昔のことはとにかく、今では、至極温暖な関西に住み、物を見る目と感じる心をさえ持っていれば、冬でも緑の草にめぐまれた生活をしているのだが、それにしても、何かしらやはり特に心を打たれる春の現象はある。吉野川のおほいぬふぐりがその一つだし、今晩帰宅して、猫額大の畑にある高菜に、こまかい蕾がいっぱいついていると聞いたのも、その一つである。  菜といえば、大阪近郊の菜種――菜の花の盛りの頃は、電車の中にまでその香がたゞよい、朝の通勤に思わずウトウトしたくなったりすることがある。工場と住宅が多くなり、今では昔ほどのことは無いが、まったく大した菜の花だ。  菜の花のお花見をするのは、雀くらいなものだろう。梅は風流人、桜は有象無象。所謂お花見で騒ぐ人達は、染井吉野を対象とする。本当の桜の味は山桜だ。これは公園や遊園地にはすくなく、昔ながらの山や丘に自生している。  僕は現在、大阪府豊能郡箕面村牧落という所に住んでいる。こゝは箕面の山を北にし、豊中市との境をなす丘陵を南にした一種の高原――といったところで、海抜六十米位のものだが――で、自らゆるい傾斜をなしている関係上、相当大きな貯水池が、あちらこちらにある。  去年の春のことだ。日曜日のこととて箕面公園は大変な人出で、大きくいえば人声が聞える程だ。だが、牧落は至って静かなので、子供をつれてフラリとモロコ釣りに出かけると、ある貯水池で非常に愉快な光景を見た。  下萠はしているが、見たところまだ枯草ばかりの池畔に、お婆さんが二人、めいめい木綿の風呂敷をしいて坐り、二合瓶でお酒盛をしていたのである。年の頃は五十か六十だろう。重詰の弁当を間におき、いゝ気持そうにやっている。空には雲雀が囀り、池の土手にはしどめが咲き、池から流れる小川には芹の根が白い。僕は大きなビルディングで便所を掃除したり、床をこすったりするお婆さん達のくすんだ姿を思い浮かべ、何とはなしに涙ぐましい気持になった。J・M・バリイが日本人だったら、この酒盛をしているお婆さんを主人公に、いゝ脚本を書くだろうという気がした。  だが、これは、大阪人をよく知らぬ僕の誤謬だったかも知れぬ。存外大金持の、而も小金を貸して暮しているという婆さんだったかも知れない。そのような人達が、こんな風に、つゝましく、静かに春をたのしむことが、大阪では比較的多く行われているのだ。  とまれ、春になれば、誰でも戸外に出かける。冬と違って強いて思いをこらし「さアさア皆さん、山野を跋渉しなさい」と放送する必要は更に無い。ほっといても人々は山野に出る。名所や旧蹟は満員となり、汽車や電車は超満員で、酔っぱらいが騒いだり喧嘩が勃発したりする。さればこそ、貯水池の土手に坐っていたお婆さんの気持は尊重すべきであり、人出をさけたルートを考えて歩くハイキングをおすゝめすることも、まんざら無意義ではあるまいと思ったりする。 山に登る理由  山の旅から帰って来ると、どうもあとがよくない。いろいろなことが詰らなくなる。何をしていゝのか判らない。「ワーッ!」と騒ぎでもしないと、やり切れないような気がする。仕事が手につかぬ。――つまり急激な変化が生活に起った後だからであろう。心とからだとエクイリブリゥムが打ちこわされるからであろう。  まったくこれ位、急激な変化はあるまい。山の道具をつめたスーツケースを梅田の駅にあずけておいて、自分は会社に出る。所謂五分の隙もない夏服、ネクタイ、靴下、白い靴、その晩は二等の寝台にねて、翌朝はもう山の麓である。宿屋なり、友人の家なりに着くとスーツケースをあけて、登山の仕度をする、夏帽子は古いフェルトに変る。蕭洒な夏服は、十年着古したホームスパンに変る。やわらかい、薄いシャツは、ゴバゴバしたカーキのシャツになる。クロックスの入った絹の靴下を脱いで、あつぼったい、不細工な、ウールの靴下を三足もはく。白い、どうかするとダンスでも踊りそうな靴のかわりに、大きな鋲をベタ一面に打った登山靴をはく。一年中ペンと箸とナイフ位しか持った事のない右手は、アイスアックスの頭を握る。かくて山へ! すでに一歩山へ入ると、その前日までコクテールグラスの外側に浮く露を啜っていた唇は、直接に雪解けの渓流に触れる。大阪ホテルのシャトウブリヤンを塩からいと思っていた舌は、半煮えの飯を食道へ押し込み、固い干鱈の一片を奥歯の方へ押してやる。更に夜となれば、前夜寝台車のバースがでこぼこで眠れなかったという背中が、あるいは小屋のアンペラに又は礫まじりの砂の上に平気で横たわって平気でねる。  夜があける。顔を洗うでもなければ、歯を磨くでもない。一つには水がつめたくて手を入れたり、口にふくんだり出来ないからもあるが、それよりも「こゝは山だ。顔なんぞ洗わなくってもいゝんだ!」という気がするからである。髯は勿論剃らぬ。これが自宅にいると、顎の下に三本残っても気にする性質の男なのである。  今度私は山へ行って、つくづくと考えて見た。自分は一体何をしに登山するのだろうかと。  勿論六根清浄を唱える宗教的のものではない。岩石や植物を研究するには素養が足りぬ。遊覧を目的とするにしては、労働が激し過ぎる。「征服する」べく、北アルプスの山々はあまりに親し過ぎる。高い所に登ることが、別に精神修養になるとも思わぬ。三十を越した私に取っては、深夜酒に醉って尾崎放哉の句を読む方が、よほど精神修養になる。もとより山岳通にならんが為ではない。ローカルカラーを得る為でもない。  要するに何の目的もないのに私は登山する。常に登山がしたい。絶えず山を思っている。山、山、というと大きいが、実を言えば私の登っている山の数は至ってすくなく、また地方的にもかぎられている。即ち、蔵王、磐梯、赤城、筑波、八ガ岳その他若干の低い山を除いては、信州大町から針ノ木峠、五色ガ原、立山温泉と線を引いた、その線の北の方ばかりである。これは原因がある。即ち白馬は私が最初に登った高山であり、従って、自然、あの方面に引きつけられるのと、十数年前最初に白馬に登った時以来のよき友、百瀬慎太郎が大町に住んでいるのとの二つである。  かくの如く私の知っている山はすくないが、山を愛する心は人一倍深い。何故であろうか。  私は第一に私自身が、完全なる休息を楽しまんが為に山に登るのであることに気がついた。即ち、ありとあらゆる苦しみをして山を登って行く。平素運動をすこしもしていないのだから、ひどく疲れる。日光と風と雪の反射だけでも疲れる。汗水流して登って行くと、咽喉は乾く、ルックサックが肩に喰い入る。かゝる時、例えば針ノ木峠のてっぺんに着いてあのボコボコした赤土の上に、ルックサックを投げ出し、横手に生えた偃松に、ドサリと大の字になった気持。あれこそは完全な休息、Complete rest である。  もっとも疲れて休むことを望むのならば何もわざわざ山に登る必要はない。庭で草をむしってから、縁側に腰かけてもいゝし、須田町から尾張町まで電車と競走してから、カフェータイガーに入ってもいゝ。いゝ訳だが違う、まるで違う。  Complete rest は自宅の縁側や、カフェーの椅子では得られない。  その理由は、私が思いついた第二の目的に関係している。私は考えた。私が山に登り度いのは、野蛮な真似、換言すれば原始的な行為を行いたい希望が、私の心の中にひそんでいるからではあるまいか。  都会に於ける私は一個の文明人である。衣食住すべて、現代の日本が許すかぎり、またまた私の収入に於いて可能なる丈、文明的にやっている。また衣食住以外の不必要品――而も一個の文明人にあっては必要品である所のものに就いても、かなりな程度のディスクリミネーションを持っている。ワイングラスで酒を飲まず、リキュールグラスにコクテールを注がぬ等の知識は、生活には不必要にして而も必要なことなのである。  所が一度山へ入ると、先ず第一にかくの如き「文明人なるが故に必要な条件」が、ことごとく不必要になる。単純に生きること丈を営めばよいのである。都会にあっては、銀のシェーカアを振る指も、山では岩角につかまる。つかまらなければ下の雪渓に墜ちて死ぬからである。かなり洗煉された、うるさい口も、山では半煮飯を平気で喰う。喰わなければ腹が空って、死んで了うからである。寝台車のバースを固いという身体が、小屋の板の上で安眠する。その日の運動につかれた身体は、また次の日の労働を予期して、文明人のディスクリミネーション以上に睡眠を強いるからである。タクシーはスプリングが悪いから、ハイヤーに限ると言っている脚も、山では無理に歩かせられる。どうでもこうでも、野営地まで着かなくては仕方がないからである。(こう書いて来ると如何にも私が贅沢な、豪奢な生活をしているようだが、実はそうでない、こゝには只「文明人」としての私の半面を高調したにとどまる。)  万事かくの如くである以上、山に入る服装は極端に「人としての必要品だけ」を標準として行われる。文明人としての必要品は、一切不用なのである。帽子は、日光や雨や風をよける為にかぶるので、文明人だからかぶるのではない。靴は、素足では痛いからはくのである。登山服は、普通の背広よりも丈夫で、且つ便利だから着るのである。アイスアックスは手が淋しいから持つのではなく、急な雪渓にステップを切る必要があるから持つのである。  服装は人の心を支配する。都会にいる時には、椅子に腰をかけるにもズボンの折目を気にする人も、山に入れば古ズボンをはいているのだから、平気で土の上に膝を折る。また、如何に新しい登山服を着ていても、「この岩の横裂面は、四つ匐いにならなくては通れぬ」とすれば、ズボンなどは構っていられなくなる。命にかゝわるからである。  服装、準備、その他がすべて必要品だけであるから、登山者も、必要品だけを使用して必要なこと丈を行い、必要なこと丈を考える。六カ敷く言えば原始的になる。瀬戸引のコップ一つが水飲みになり、汁椀になり、茶碗になり、ある時は傷を洗う盤になる。一本のナイフが肉を切り、枝を切り、独活の根を掘り、爪を切る。一着の衣服が寝間着になり、昼着になる。山中で人に逢えば即ち訪問服となる。これ等はみな人類の先祖がやっていたことである。  更に疲れたらどこでも構わず腰を下し、小便がしたかったらどこへでもジャージャーやる自由さ――人間としては当然のことであるが、文明人としてはゆるされていない。――殊に星空の下、火をたいて身体をあたゝめる快楽に至っては、いずれも我等の先祖が経験した処のものである。  私がいた頃、米国では盛んに Back to nature ――自然にかえる――ということが流行した。何をしたかというと、きたない着物を着て、野原や林へ出て行く丈である。つまり野蛮な真似がしたいのである。又、ボーイスカウトなんてものも、やっている連中はいろいろと七面倒な規則や理屈をつけるかも知れぬが、要するに、路をさがしたり、焚火をしたり、つまり子供の持っている野蛮生活へのあこがれを、巧に利用した企なのである。  米国ついでに、もう一つ米国の話を持ち出すと、私のいた大学、プリンストンの寄宿舎には、全部ではないが、オープンファイアプレースを持つ部屋が沢山あった。大きな薪を燃やす炉である。寄宿舎には勿論完全なスティームが通っているのであるから、何も顔ばかりほてって背中の寒い炉を置く必要はないようだが、それでも、態々スティームを閉め切って、薪を燃す連中が沢山いた。何故薪の方がいゝのか判らぬ。どうも人間、あまり文明的になると、反対に野蛮な生活が恋しくなるものらしい。すくなくとも私はそうである。そして、最も野蛮に近い生活が許されるが故に、私は山に登るのである。 あとがき  昭和十三年の放送原稿などもありはするものゝ、大体この一冊に集めたのは、もっと古い昭和のはじめに書いたものである。だからチューリッヒのフリッシ製のアイスアックスが十七円で買えたり、鉱泉宿で酒が二本つく晩飯と朝飯と弁当の一泊が八十銭だったり、とにかくおかしなことばかり書いてある。おかしいといえばその頃丗歳を越したばかりの私が、いやに老成ぶっていて、還暦の今日考えもしないような、ヂヂむさいことをいっているし、山に関する態度も甚だ不真面目である。ロープを座敷に持込めば「井戸替え屋の新年宴会」だ、雪彦山ではロッククライミングの本の写真の真似をして写真をうつすのだ、などと、碌でもないことばかり書いて、誠に申訳ない次第である。  又読み直して訂正しようか、と思った箇所もある。ハイキングの弁当に「梅干は勿論結構ですが、私共銃後の国民はなるべく梅干を戦地へ送るようにしなくてはなりません」とか、ヒットラーワグナーを聞いているかも知れないとか、今日となっては飛んでもない話なので、何とかせねばなるまいと一応は考えたが、そんな時代が事実あった以上、そのまゝにしておくことにした。「スキー場の父子」の文化学院のお嬢さんはどうしただろう。名前も何も忘れてしまったが、あの時十六としてももう四十六だから、孫があるかも知れない。ウチの陽子はその後女学校へ行く頃この文章を読み、社会に公表した以上スキーにつれて行けといった。それで一、二度つれて行ったが、時勢が悪くなって間もなくスキーも出来なくなった。その陽子に今では子供が二人いて、上の男の子は今年から小学校である。  山に関する態度はしばしば不謹慎だが、山は本当に好きだったし、山の人々にも心からなる興味は持つていた。 「素材三つ」など読んで下されば、これは御理解になると思う。そして今でもこの気持は変っていない。  それにしても、こんな昔に書いたものが何故一冊の本になるのか、そして売れるのか、私には分らないが、読んで下さる方があるのは、有難いことである。 昭和丗年 五月
底本:「山を思う」山渓山岳新書、山と渓谷社    1955(昭和30)年5月20日発行 ※「ワグナア」と「ワグナー」の混在は、底本通りです。 入力:富田晶子 校正:雪森 2018年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 もう一月ばかり前から、私の庭の、日当りのいい一隅で、雪割草がかれんな花を咲かせている。白いのも、赤いのも、みんな元気よく、あたたかい日の光を受けると頭をもたげ、雪なんぞ降るといかにもしょげたように、縮みあがる。この間、よつんばいになってかいでみたら、かすかな芳香を感じた。蝶もあぶもいないのに、こんな花を咲かせて、どうするつもりなのか、見当もつかぬが、あるいは神の摂理とかいうものが作用して、これでも完全に実を結ぶのかもしれぬ。         *  この花、本名は雪割草でないらしい。別所さんの「心のふるさと」には、  植木屋さんが雪割草というのは、スハマソウのことである。福寿草とともに、お正月の花のようにいわれるけれど、自然のままでは、東京の三月に咲く。  と書いてある。         *  去年の十一月、私はわずかな暇をぬすんで、信州へ遊びに行った。まったく黄色くなった落葉松の林、ヨブスマの赤い実、山で焼いた小鳥の味、澄んだ空気、それから、すっかり雪をいただいた鹿島槍の連峰……大阪に帰って来てからも、しばらくは仕事に手がつかなかった。万事万端、灰色で、きたなくて、わずらわしかった。これは山の好きな人なら、だれでも経験する気持ちであろう。         *  このような気持ちでいたある日、五時半ごろに勤めさきの会社を出ると、空はすっかり曇って、なんともいえぬ暗い、陰湿な風が吹いている。ますます変な気持ちになってしまった。そこで、偶然いっしょになった同僚のN君と、一軒の居酒屋へ入り、ここで酒を飲んだ。で、いささか元気がついて、梅田の方へ歩いて行くと、植木屋の店頭で見つけたのが「加賀の白山雪割草、定価十銭」         *  十銭といったところで、単位が書いてないから、一株十銭なのか、一たば十銭なのか、わからない。とにかく五十銭出すと、小僧さんが大分たくさんわけてくれた。新聞紙で根をつつみ、大切にして持って帰った。         *  あくる日は、うららかに晴れて風もなく、悠々と草や木を植えるには持ってこいであった。私は新聞紙をとき、更に根を結んであった麦わらを取り去って、数十本の雪割草を地面にならべた。見るとつぼみに著しい大小がある。今にも咲きそうなのが五、六本ある。  そこで私は、この、今にも咲きそうなのを鉢に植えて、部屋の中で育てようと思った。そうしたら、年内に咲くかもしれぬ。私の家は東南に面して建っているので、日さえ当たっていれば、温室のように暖かい部屋が二つあるのである。         *  私は去年朝顔が植えてあった鉢を持ち出して、まずていねいに外側を洗った。次にこの鉢を持って裏の畑へ行き、最も豊饒らしい土を一鉢分失敬した。だが、いくら豊饒でも、畑の土には石や枯れ葉がまざっている。それをいちいち取りのけて、さて植えるとなると、なかなかめんどうくさい。  雪割草を買った人は知っているだろうが、ちょっと見ると上に芽があり、下に長い根がついているらしいが、よく見ると下についているものの大部分は、根でなくて、葉を押しまげたものなのである。おそらく丈夫な葉が、スクスク延びているのを、そのままでは送りにくいので、無慙にも押っぺしょってくるくると縛りつけたのであろう。  私が第一に遭遇した問題は、この葉をいかに取り扱うべきかであった。取ってしまうと、根らしい部分がほとんどなくなる。さりとてそのままでは、バクバクして、いくら土を押えても、根がしまらない。二、三度入れたり出したりしたが、結局めんどうくさいのをがまんして、葉をつけたまま植えた。たっぷり水をやって、ガラス戸の内側に入れる。なんだか、大きな仕事をやりあげたような気がした。これだけで、大分ウンザリした。したがって、残り何十本は、庭のすみに、いい加減な穴を掘って、植えた。         *  それから、寒い日が続いた。一体、私の住んでいる所は寒いので有名だが、この冬はことに寒いような気がした。毎朝、窓ガラスに、室内の水蒸気が凍りついて、美しい模様を描き出した。  だが部屋の中は暖かかった。雪割草のつぼみは、目に見えてふくらんで行った。ただ、一向茎らしいものが出ない。きっと、福寿草のように、土にくっついて花が咲き、あとから茎がのびて葉を出すのだろう。それにしても、早く咲きそうだ。このぶんなら、お正月には確かに花を見ることが出来るだろう。と、私は大いによろこんでいた。         *  ところがある朝ふと気がつくと、一番大きなつぼみが見えない。チラリと赤い色を見せていたつぼみは、きれいにもぎ取られている。さてはねずみが食ったなとその晩から、夜はねずみの入らぬ部屋に置くことにした。         *  それにもかかわらず、つぼみはドンドン減って行く。もともと数えるぐらいしかなかったのだから、四、五日目には、一つか二つになってしまった。毎朝、私は雪割草の鉢を間にして、女房とけんかをした。 「おまえ、またゆうべ忘れたな」 「忘れやしません。ちゃんと入れときました」 「だって、また一つ減ってるぞ」 「でも、ゆうべだってしまいましたよ」 「ほんとうか」 「あなたは酔っぱらって寝てしまうから知らないんです」 「ばかなことをいえ」 「そんなら自分でおしまいなさい」 「やかましい!」         *  ある朝、例の通り寝坊をして、目をこすりこすり起きた私は一年半になる私の長女が、雪割草の鉢の前にチョコンとすわって、口をモガモガさせているのを見た。わきへ行くと、くるりと横を向いて、いきなりチョロチョロ逃げ出した。二足三足で追いついて、 「陽ちゃん、なにを食べている?」  と聞くと、いつでも悪い物を口に入れて発見された時にするように、アーンと口をあいて見せた。みがき上げた米粒のような歯に、雪割草の赤い花片と黄色いしべとがくっついている。紛失事件の鍵はきわめて容易に見つかった。陽子が毎朝、おめざに一つずつ食っていたのである。         *  私が夫婦げんかをしてまで大事にしていた鉢の雪割草は、この小さな野蛮人――美食家なのかもしれぬ――のために、ついに一つも咲かずにしまった。だが、こんな騒ぎをしているうちに庭に植えた分は皆、スクスクと健全な発育をとげて、毎日、次から次へと新しい花を咲かせている。
底本:「日本山岳名著全集8」あかね書房    1962(昭和37)年11月25日第1刷 底本の親本:「山へ入る日」中央公論社    1929(昭和4)年10月 初出:「家事と衛生」家事衛生研究会    1927(昭和2)年4月 入力:富田晶子 校正:岡村和彦 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 芙美子さん  大空を飛んで行く鳥に足跡などはありません。淋しい姿かも知れないが、私はその一羽の小鳥を訳もなく讃美する。  同じ大空を翔けつて行くやつでも、人間の造つた飛行機は臭い煙を尻尾の様に引いて行く。技巧はどうしても臭気を免れません。  大きくても、小さくても、賑やかでも、淋しくても、自然を行く姿には真実の美がある。魂のビブラシヨンが其儘現はれる。それが人を引きつけます。それが人の心をそそります。  それです。私は芙美子さんの詩にそれを見出して感激してゐるのです。文芸といふものに縁の遠い私は、詩といふものを余り読んだことがありません。その私が、何時でも、貴女の書かれたものに接する度に、貪る様に読みふけるのです。  私は文芸としての貴女の詩を批評する資格はありません。また其様な大それた考を持ち合せて居りません。けれども愛読者の一人として私の感激を書かして頂くのです。  芙美子さん、  貴女はまだ若いのに隨分深刻な様々な苦労をなされた。けれども貴女の魂は、荒海に転げ落ちても、砂漠に踏み迷つても、何時でも、お母さんから頂いた健やかな姿に蘇へつて来た。長い放浪生活をして来た私は血のにじんでゐる貴女の魂の歴史がしみじみと読める心地が致します。  貴女の詩には、血の涙が滴つてゐる。反抗の火が燃えてゐる。結氷を割つた様な鋭い冷笑が響いてゐる。然もそれが、虚無に啼く小鳥の声の様に、やるせない哀調をさへ帯びてゐる。  芙美子さん  私は貴女の詩に於て、ミユツセの描いた巴里の可愛ひ娘子を思ひ出す。そのフランシな心持、わだかまりの無い気分! 私は貴女の詩をあのカルチエ・ラタンの小さなカフエーの詩人達の集りに読み聞かせてやりたい。  だがね芙美子さん、貴女の唄ふべき世界はまだ無限に広い。その世界に触れる貴女の魂のビブラシヨンは是れから無限の深さと、無限の綾をなして発展しなければなりません。これからです。どうか世間の事なぞ顧みないで、貴女自身の魂を育ぐむことに精進して下さい。それは、どんな偉い人でも、貴女以外の誰にも代ることの出来ない貴女一人の神聖な使命です。   昭和四年三月十六日夜 石川三四郎
底本:「蒼馬を見たり」日本図書センター    2002(平成14)年11月25日初版第1刷発行 底本の親本:「蒼馬を見たり」南宋書院    1929(昭和4)年6月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:noriko saito 2008年10月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049430", "作品名": "蒼馬を見たり", "作品名読み": "あおうまをみたり", "ソート用読み": "あおうまをみたり", "副題": "01 序", "副題読み": "01 じょ", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 911 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-11-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/card49430.html", "人物ID": "001170", "姓": "石川", "名": "三四郎", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "さんしろう", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "さんしろう", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Sanshiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1876-05-23", "没年月日": "1956-11-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "蒼馬を見たり", "底本出版社名1": "日本図書センター", "底本初版発行年1": " 2002(平成14)年11月25日", "入力に使用した版1": " 2002(平成14)年11月25日初版第1刷", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年11月25日初版第1刷", "底本の親本名1": "蒼馬を見たり", "底本の親本出版社名1": "南宋書院", "底本の親本初版発行年1": "1929(昭和4)年6月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/49430_txt_32357.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-10-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/49430_33320.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-10-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
     ○ クロポトキンの反対  社会主義者、無政府主義者中にて、分業制度を最も悪んだものはピエール・クロポトキンであらう。エドワアド・カアペンタアの如きも、諸種の仕事を兼業する自作小農を以て社会の健全分子だとしてゐるが、クロポトキン程には分業制を排斥しなかつた。クロは多くの社会主義者がこの分業制を支持するのを見て「さしも社会に害毒ある、さしも個人に暴戻なる、さしも多くの悪弊の源泉たる此原則」と言つてゐる。分業は吾々を白き手と黒き手との階級に別けた。土地の耕作者は機械に就ては何にも知らない。機械に働くものは農業に就て全然無知である。一生涯ピンの頭を切ることを仕事にする労働者もある。単なる機械補助者になつて、而も機械全体に就て何の考へも持たない。かくて彼等はそれによつて労働愛好心を破壊し、近代産業の初期に、吾々自身の誇りである機械を創造したところの発明能力を喪失した、とクロポトキンは言つてゐる。(チヤツプマン版『パンの略取』二四七頁―二四九頁)  更にクロポトキンは曰ふ。個人間に行はれた分業は国民間にも遂行されやうとした。分業の夢を追つて行つた経済学者や政治学者は、われ〳〵に教へて言つた。「ハンガリイやロシヤはその性質上からして工業国を養ふために穀物を作るべく運命づけられてをり、英国は世界市場に綿糸、鉄製品、及び石炭を供給すべく、ベルギイは毛織物を等々……加るに各国民の中に於ても各地方は各々自身の専業を持たなければならない。」併しながら「知識は人工的政治的の境界を無視する。産業上に於ても亦然りである。人類現下の形勢は、有り得べき凡ての工業を農業と共に歩一歩と各々の国内及び各地の地方に結び着けるにある。……われ〳〵は一時的分業の利益の数々は認めなければならないが、然し今は労働の綜合を絶叫すべき時であることを容易に発見する。」(能智修彌氏訳『田園・工場・仕事場』五頁―七頁)      ○ セエとコント  分業の弊害を認めた学者は古くからあつた。アダム・スミスが「分業」といふ文字を作り、それを学理的に論じてから間もなく、仏国のジヤン・バチスト・セエ(一七六七―一八三二年)は一人の人間が常に針の十八分の一の部分だけを作つて暮らすなぞといふことは人間性の尊厳を堕落させるものだと言つてゐる。ルモンテイ(一七六二―一八二六年)は又分業に関して、近代労働者の生活と未開人の広い自由な生活とを比較して、未開人の方が遙かに恵まれてゐると考へた。オーギユスト・コント(一七九八―一八五七年)も之に就て言つてゐる。「物質方面に於て、労働者が、その生涯の間、小刀の柄や留針の頭の製造に没頭する運命が悲しまれるのは当然であるが、然らば、知識の方面に於て、或る方程式の決定とか、又は或昆虫の分類のみに、人間の一つの脳髄を永続的に使用するといふことは、健全な哲学から見て、同様に悲しむべきことではないか。その道徳的結果は不幸にして何れの場合に於ても同様である。即ち解決すべき方程式の問題や製造すべき留針の仕事が常に存在すれば、世事一般の成行などに就ては悲しむべき無関心に陥らしめられるのである。」(拙訳『実証哲学』下巻一〇二頁)  然るにコントは他の所に於ては、寧ろ分業を以て社会の優越性の徴証としてゐる。「動物学の研究によれば、動物身体の優越性は各種機関が益々分化して而も連帯するに従て各種の機能が益々専門的になるといふ点にある。社会組織の特徴もまた同じで、それが全然個人組織に超駕する所以である。各人が特殊な生存をなして或る程度までは独立でその才能とその性質とが各々異なつてゐるに係はらず、また互に評議もせずに、たゞ自分達の個人的衝動に服従するのみと信じて、最も多くの場合、大多数の人が気の付かぬ間に、自ら全体の発展の為に協力すべく傾向してゐるといふ、かうした多数個人の協調よりも以上に驚くべき事態が他にあるであらうか? ……社会が複雑になるに従て益々顕著になる所の共働と分業との調和は、家庭的観点から社会的観点に向上した場合の人間の施設の特質をなすものである。」(前掲書九八頁)      ○ 分業是否の諸問題  吾々はこの近代文化の本質とも見るべき分業制度を如何に取扱ふべきか。この制度は吾々の社会生活が発展して行くに連れて益々増大するであらうか。さうした極度の分業生活は人間としての尊厳を傷つけるに至らぬであらうか。或はさうでなく、或る程度に分業が達すれば自然にその分化は停止して却て綜合的にまたは兼業的に向ふであらうか。それとも自発的には分業の発展が停止しなくても人為的に防止すべく努力すべきであるか。更らにまた翻へつて、分業そのものに弊害がある訳ではなく、病的に発達した場合のみが悪いのであるか。病理学的研究によつて社会的生理を明かにし、それによつて分業制の是非を決定すべきであるか。  凡そこれ等の問題にそれ〴〵正確な答へを与へるには簡単な記述では出来ない。近代仏蘭西に於ける社会学の一権威デユルケムの大著『社会的分業論』は是等の諸問題に対して先づ首肯せらるべき解決を与へてゐるが、併し、それでも尚ほ人間の社会生活の半面をしか見てゐない様な感を懐かされる。従て此論文には可なり多量にデユルケムの思想や言葉が採用されるであらうが、それに対する他の半面があり、且つそれが甚だ重要であることを断つて置く。  私は前掲の諸問題について一々論じて見たいのであるが、それは此小紙面では到底容れられない。已を得ず、それ等に対して自ら解答になるであらうやうに、先づ人間社会に如何にして分業が起り、如何に変遷して来たか、といふ点から説明し、それから分業と社会連帯性との関係に及び、社会の進歩との関係に及び、更に進んで分業の得失を論じ、理想的分業制にまで論歩を進めたいと思ふ。      ○ 分業の起源  分業は何故に起つたか? 最も広く行はれてゐる説によると、分業の原因は、人間が絶えず幸福の増加を要求するところのその慾望にあるといふ。併し幸福とは何ぞやといふ問題も可なり不確定な観念を以て成立する。そこで幸福の内容如何は問はず、ただ人間が楽しみ赴くところを幸福と称するといふことにして、さてさうした心理的法則は何れの社会にも行はれてゐるが、分業制は必ずしも一様には進歩しない。勿論、幸福の慾望は分業制生起の一要素にはなるであらうが、それには他の条件が備はらねばならぬ。即ち幸福の慾望が自我意識の覚醒に伴はなければならない。デユルケムは「分業は社会の積量と密度とによつて直ちに変化する。そして若し分業が社会発展の過程に於て継続的に進歩するとすれば、それは社会が規則的により稠密になり、また一般的により大きくなるからである」といふ定則を作つてゐる。更に進んでデユルケムは言ふ、社会がより大きくより稠密になるに従つて事業が益々分化するのは、それは生存のための闘争がより緊張するからであると。それは諸人が同様な目標を立てて進めば競争が激しくなるが、異なつた目標に進む時は競争はないからである。けれどもデユルケムのこの議論は些かダアヸニズムの一面に固着した傾きがありはしないか。  生存競争なぞは甚だしくなくても、自我意識が発達する場合には自ら分業が起つて来たのではないか。特に工業と美術とが分離しない時代に於ては、芸術的自尊心によつて諸種の工芸がその天才の家系に一種の秘伝として伝はり、従て諸家の間に自ら分派、分業が起つたであらう。学問、知識に於ても矢張り同様に、或は陰陽術、或は文章学等の諸知識が家伝として分業的に伝はりもした。『古事記』神代紀、天の石屋戸会議の条に、「八百万神、天安之河原に、神集ひて……イシコリドメの命に科せて鏡を作らしめ、タマノオヤの命に科せて八尺の勾玉の五百津の御頻麻流の玉を作らしめ云々」とあるは、日本に於ける分業制の最も古き記録と見るべきで、これから段々「家業」といふものが伝はつてゐる。家業とは家に伝はつた職業である。      ○ 階級的分業  分業の最初が生存競争の為に起つたといふよりは、寧ろ自我意識の発達に基くと見らるべき徴証は他にもある。そして分業の発端に於ては、それは一種の独占業として又は階級として表はれてゐる。例へば一部落の長老中に特に知力と記憶力との発達したものがあるとする。太古の暦を持たない民衆にとつては呪はしい酷寒の冬の期節、即ちサムソン――サムソンはアラビア語のシユムシと語源を同じくしセミチツク語の太陽といふことである――の健康の最も衰へる時期には民衆の悲哀は極点に達したに相違ないが、その時、智能の優れた長老が、その長い経験と記憶とに基いてやがてサムソンの体力復活の時期、吾々を救ふために暖い春の日を持つて来る時期を予言したとすればどうであらう。或は初夏の「雪しろ水」を予告し、或は二百十日の暴風を予言したとすればどうであらう。心の単純な部落の全民衆はその長老を救主として神様の如く尊崇したであらう。そしてそれに自分等の持つてゐる最も善きものを捧げたであらう。かくて長老は生活のために労働もせずに専らその長じた研究に従事して益々智能を啓発したであらう。そして、その集積された学的知識は自然にその子孫に伝へられ、漸くにして特殊階級としての一家族が出来たであらう。これが或は戦争の場合の武将ともなり、又は武将と結託することにもなつたであらう。王様の起源をだづねると此くの如くである。かうして王様が出来るまでには、幾代も経過したであらうが、兎に角それが民衆一般の生活から分業的に卓出したものであることは疑はれない。  ハアバート・スペンサーは説いてゐる。「社会進化の過程のごく初めの期間に於て、我等は統治者と統治者との間の萌芽的分化を見出すものである。……然し乍ら最初の間は、この事はまだ不定限にして不確実であつた。……最初の統治者は自分で獲物を殺し、自分で自分の武器を作つた。自分で自分の小屋を建てた。そして経済的に考察すれば彼の部族に属する他の人々と何等差異がなかつたのである。征服と諸部族集合とに従て、両者の対照はより決定的になつた。優越的権力は或る家族に世襲となつてくる。酋長は最初軍事的であるが後には政治的になつて来て、自分でその慾望に応じて獲得することを已めて、他の人々から支給をうけるやうになる。」(沢田謙氏訳『第一原理』「世界大思想全集」四二八頁)これも分業が独占的階級的差別となつた原始的事例である。      ○ 近代産業の分業  然るに近代に至り、交通機関や印刷器械の発達につれて知識の普及が急速に行はれ、次で諸種の新産業が勃興して来たので、旧来の特権制度や、家伝的分業法はこの新興勢力と新興技能とに対抗することが出来なくなつて崩潰した。鬱然として諸種の事業が興り、様々な改革や、発明や、発見や、絶えず生起する新現象は旧来の特権的事業を破壊して諸事業は自然に新興民衆の手に帰するのであつた。かくて宗教革命から政治革命となり、旧来の特権的分業は民衆間の分業となつた。そして産業革命までを経過して、現代の立憲政治と資本主義経済組織とを成就するに至つた。殊にかうした産業革命を齎らした主要原因たる機械産業の特徴は従来の事業の種目的分割ではなくて、技術実行上の分業であつた。近代の産業革命の警鐘を鳴らせしものと称せられるアダム・スミスの『国富論』は、実に此「分業」といふ文字を初めて使用し、それによつて世界の知識人は漸く意識的にこの分業とその結果とを見るに至つたのである。前段に掲げたるクロポトキンや、セエ等の分業悲観論は主としてこの工業的労働の細分割にある。  即ち大組織の機械を運転する補助者として使用せられる賃金労働者は、僅かに生命を維持し得るだけの賃金を受けて、一生涯、終日、極めて単純な一労作を反覆連続することを務めとせねばならぬ。そして人間としての全面的生活を味はひもせぬは勿論のこと、機械の全機構さへも了解しない。労働者は単にその機械をして多大の余剰価値を生産せしめて資本家に捧げしめる道具に過ぎなくなつた。      ○ 地理的分業  然るに以上の如く、人或は家による事業の分担と並んで、土地の事情に基く地方的分業が古から自然に発達した。自然現象に支配せられること多き古代人には殊にこの事実が著しかつた。前者を歴史的分業と称すべくんば、後者は地理的分業と言ひ得るであらう。海浜に於ける漁業、山地に於ける牧畜、熱帯湿地に於ける米作、熱帯乾燥地に於ける橄欖樹オレンヂ栽培等数へ挙げれば限りもなく多くの地方的特産事業があり、またそれに伴ふ産業が地方的に分業せられる。  ところが地理的または歴史的の理由に因つて、或は地方間の交通が開け、或は地方住民の移住が行はれ、更に或は戦争の結果として、或る地方民が他の民族に服従するに至ると、未知の技術を持つた外来民族又は新付民族の刺激によつて、そこに新らしい事業が起り、そこにまた新らしい分業事実が増加するのである。  かくて古代に於ては地理的自然の支配によつて職業を限定せられた人間も、近代に至つては社会的環境の影響に応じて自我意識を明確にし、自己の才能と周囲社会との関係を認識して、自分の占むべき社会上の地位と職分とを発見する。それが芸術的傾向による決定でも、生存の為の努力でも、要するに個性の発揮といふことが其間を貫く一事実である。従てかうした分業は自由を求むる心意の発露であると言ふべきである。  然るに近代の機械的産業文化の本質たる分業制は最初に述べたる如く諸学者の批難を受けるほどに悪弊を醸し、人間性に反して徒らに労働者を虐げ、徒らに富者のみの富を益々増加して其堕落費を奉納するの手段となつた。  そもそも、それは何故であるか。ここに近代社会の病理的研究の必要がある。然るにオーギユスト・コントは病理学の原則に就て次の如く言つてゐる。「ブルツセエの天才によつて創始せられた実証的病理学の原則によれば、病理学的状態(病症)と生理学的状態(健康状態)との間には根本的の差異はない。病理学的状態とは常態にある生物の各現象に固有な、そして或は高等な或は下等な変化の限界の単なる延長であるに過ぎない。病理学的状態は或る程度に於ては純生理学的状態との類似を持つてゐないが、決して真の新らしい現象を生むものではない(註)。」この原則は今日の病理学の原則としても是認せられるやうであり、且つこれを社会の病理的現象を考察するの標準ともなし得るであらう。  註、拙訳『実証哲学』上巻三四八頁      ○ 分業の病理的現象  分業が人類の社会生活を営むための必要条件として発達せることは前段に述べたところによつて略ぼ察せられるであらうが、尚ほ一段の深い意義を分業に見出すべき事実が別に存在する。それは吾々の社会生活が、器械的の結合から漸次に有機的結合へと発達して行く主要素としての分業の役目である。吾々の社会生活に器械的結合要素が多大な時期に於ては、その結紐となつたものは刑罰法であり、従てそれを保持するものは絶対的な強権であつた。然るに個人の社会的覚醒が発達し、政治にも産業にも学問にも分化(分業)作用が行はれるにつれて、強権的刑罰法が吾々の日常生活に干渉することは漸く減少し、之に反して協同主義的或は相互主義的法規が益々多く広く吾々の生活を規定するやうになつた。民衆に与へられる自由は漸く拡張せられ、知識の普及とともに、各自が自分を大成するの希望とその世界とが開けた。  かくて各個人は従来の族党又は藩閥、或は王侯貴族の覊絆を脱して、直接大きな国家的社会に連帯生活を始めた。各個人の分業的職能は国家的社会の有機的(不完全或は部分的ではあるが)生活に直接的連帯を形成する主要素となつた。各個人の自我意識とその自主的行動は同時に全社会の連帯生活と利益を同じくするやうに、社会発展の方針は向けられた。  然るに、この自我意識に基く分業を全社会と連帯せしむべき流通路は再び法律によつて遮断された。それは所有権の特別的保護即ち資本主義の維持である。かく強権の保護によつて成立せる資本主義的機械産業は一般社会生活と隔離せる、換言すれば社会的連帯生活から遮断したる、特殊な独立な機械的分業制を以て営まれることになつた。それはカアペンタアが疾病の徴証とせるところ、即ち「部分的な中心が全一体に服従しないで自らを樹立拡張する」のである。資本家が社会から分立して創立したるこの分業的工業は労働者の自我意識に基く分業ではなくて、却て其自我を削殺する純機械的分業である。「賃金か餓えか」に強迫せらるゝ奴隷的分業である。かうした強迫的機械的集合生活に階級的闘争のみあつて、連帯性のないのも、相互精神のないのも当然である。そして此近代文明の主要素たる機械的強迫的分業制が全社会に反映する結果は更らに恐るべきものがある。それは総ゆる方面に於ける社会の最も新鋭分子たるべき若き人々の自我と個性を削殺するに至るのである。  以上に記するところによつて読者は社会的分業の生理的現象と病理的状態とを略ぼ了察し得たであらう。即ち読者は分業制そのものは寧ろ吾々の社会的連帯生活に欠くべからざるものであるが、これを強制的に行ふことは却て反社会的の為方であり、社会連帯性の破壊であつて、階級闘争を激発するものであることが了解されるであらう。デユルケムがその名著『社会的分業論』に於て、「分業を最大限度に行へといふに非ず、必要の限度に実現せよ……」と説いたのは、かうした理由によるのである。      ○ 分業と社会  若し万人が同じ生業を営み、自給自足をするとせば――その様なことはあり得ないが――その人間社会は機械的の結合しか出来ず、連帯性は極めて薄弱で、些かの困難又は外患によつても忽ちに破壊されて了ふであらう。そして外来又は内発の強権力に統一される運命に陥ゐるであらう。諸生物が所謂高等になるに従て諸機関の分業的組織が複雑になり、各部が自働的連帯性を現す如く、人類社会もまた発達するに従て分業が複雑になり、諸機関の間の連絡も益々緊密になる。兎は臭覚と視覚との連絡を持たないが犬の両感覚神経には統一がある。即ち意識が発達してゐるのである。分業による自我意識の生活は、その儘にして社会に有機的に連帯し、それによつて利己は其まゝ利他と一致するに至る。社会と個人とは物質的にも精神的にも一致するに至る。スクレタンが「自己完成とは、自分の役目を学ぶことだ。自分の職務を充すべく有能者となることだ!……」と言つたのはこれだ。  この分業的役割の思想を離れた従来の漠然たる「円満な人物」或は「人格者」といふ様なものは、自由な平等な無強権な社会生活には一種の不具者として寧ろ影をひそめるであらう。社会生活に於ける何等かの労務に服さない英雄的賢人的「人物」や「人格者」は強権時代、階級時代、英雄崇拝時代の遺物に過ぎない。  分業による差別性によつて社会連帯性が益々鞏固になるといふデユルケムの説に対しては些かの反対意見がある。シヤルル・ジイド教授の如きはその一人だ。ジイドは「かうした差別の真理を否定しないにしても、吾々はその類似による連帯性の軽視や、差異による連帯性への乗気を正しいとは思はない。吾々は寧ろ反対に、類似性こそ連帯の為に未来を持つものであることを希望する」とて社会の各方面に於て、階級間にも、地方間にも、風俗や、言葉や、心の持方まで、旧来の差異が薄らいで益々近似すべく進んでゐると説く。そしてデユルケムは吾々の社会的結合の模型を労働組合に採らうとするに対して、ジイドはこれを消費組合に採らうとする。(ジイド、リスト共著『経済学説史』七一〇頁―七一一頁)      ○ 差別と平等  デユルケムも人間の類似による結合を無視した訳ではない。「同類相集まる」といふ俚言を引いて、さうした事実を認めてゐる。けれども彼が重点を置いたのは差異性による社会連帯にある。同じ目標を持つた者の間には生存の闘争があるが、目標を異にするものの間には闘争が少ない、といふのが彼の観点である。  併し、交通機関の発達によつて、従来著しかつた民族間又は国民間の諸差異が漸次抹削されつゝあることは事実である。併し又、その差異が抹削されるのは民族間或は階級間のそれであつて、その差異が除去されると同時に自然人としての個人間の差異が著しく眼に付くやうになる。また政治的歴史的地方色に代つて自然的地方色といふものが顕はれてくる。  かうして現はれる自然的差異は却て国境を超え、階級を無視して、人類としての平等観を顕揚するものである。なぜなら同じ階級人にも自然人としては非常に異り、却て他階級人に酷似する者を見出し、同国人と異国人との間にも同様の事実が見られるからである。そして国民間又は階級間の差別が意義のないことを示すからである。  差異観は平等観によつてのみ明白にされるのである。平等は差別の鏡である。外国に行つて初めて祖国が明知される如く、社会的連帯を見て初めて自己の地位が分る。分業は自発的な連帯によつてのみ維持されるのである。個人の自由は相互主義の道徳によつてのみ保持されるのである。連帯なき分業は翼のない飛行機のやうなもので、発動機は如何に運転しても社会といふ大気の中に有機的に浮ばない。生産のない消費はあり得ない故に、生産者の組合を斥けて消費者の組合のみを模型にするといふのも、片輪である。      ○ 分業と農業  尚ほ大機械工業に於ける分業制の弊に就ても、シヤルル・フウリエの如きは今から百余年前に注意し、労働の班列制を考案し、園芸と工業とを種々の部分に別けて、一定時間に交替すべきことを説いてゐる。また此頃大機械工業そのものも、或る種類にあつては、却て小規模組織に変ずるを利ありとする意見が出て来た。電気動力の使用の如きは、その主要原因をなすであらう。  フウリエは大機械工業主義を賛成し、その代り右の如き交替制を案出したのであるが、それは農業に於ても、同様な案を立てゝゐる。然るに工業に於ては細かな分業制も已を得ぬと認める人々も、農業の分業制は不利の場合が多いと説くものが少くない、クロポトキンも、カアペンタアも、それである。  カアペンタアは言つてゐる。「私の経験では、小農者は地方住民中で最善、最優なるものである。私がこゝに小農者といふのは、四十エーカー以下の地を耕作する者を言ふ。(一エーカーは約四反歩)彼等は一般に多芸多能であつて、種々な仕事に変通自在で器用である。そして是れは、狭い場所にて一切を自分で処理せねばならない処から、その必要に迫られて器用にもなり、変通自在にもならしめられる為なのである。かうした人達は、農耕の外に牧畜や斬毛にも携はり、多少は鍛冶屋の仕事も出来る。自分で小屋の修繕もすれば、新らしく建てもする。(自作農の場合には)……若し其耕地が充分でない場合には外に出て労働もする。或は石屋の仕事もすれば、左官屋の仕事もする。此種の人達は多く技能に富み、仮令読み書きの方には不得意でも、或る意味に於て、善く教育された者と言ふことが出来る。」(カ翁著『自由産業の方へ』九九頁)更に言つてゐる。「大農制に於ては、大抵分業が過ぎる。例へば一人は牛方、一人は犁持、一人は馬力、といふ工合に種々に分業が行はれる。そして其結果として、彼等はその分業の溝の中にはまつて了ひ、その限界と活動とは制限される。……その結果として、彼等本来の事務の大部分に就て無知になり、才能も亦萎縮して了ふのである。……ただ此理由によりて、小農は大いに奨励すべきである。」(同前書)  クロポトキンの『田園、工場、仕事場』に説くところも矢張り同様である。      ○ 吾等のコムミユン  併し、クロポトキンでもカアペンタアでも総て一律に自給自足せよといふのではない。都市の理想的組織でも、農村のそれでも、個人でも、集団でも、画一的に生活し得るべきものでなく、環境と利害とに従て千差万別の形体を持つべきである。そして、それ〴〵の分業的差異が実現さるべきである。  クロは言つてゐる。「吾々の需要は非常に多様であり、非常な速力を以て発生し、それはやがて、只一つの聯合では万人を満足させることが出来なくなるであらう、そのとき、コムミユンは他の同盟を結び、他の聯合に加入する必要を感ずるであらう。たとへば食糧品の買入れには、一の団体に加入し、その他の必要品を得るためには第二の団体員とならねばならないであらう。次で金属品のためには第三の団体、布や芸術品のためには第四の団体の必要があるであらう。……生産業と種々の物産の交換地帯は相互に入り込み、互に縺れ合ひ、互に重なり合つてゐる。同様にコムミユンの聯盟も、若しその自由な発達に従つたならば、やがて互に縺れ合ひ、互に入り乱れ、互に重なり合つて、『一にして不可分な』網を成すであらう。」 「吾々に於ては、『コムミユン』は決して地域的集団ではない。寧ろ境界も、防壁も知らない、通有的名詞である、『平等者の集団』と同意語である。この社会的コムミユンはやがて画然と限定されたものでなくなるであらう。コムミユンの各集団は他のコムミユンの同種の諸集団の方に必然的に引寄せられるであらう。そしてそれ等の集団と、少くとも同市民に対すると同程度の強い関係で結合し、一つの利益を目的とするコムミユンを構成するであらう。そして、その加入者は多くの都市や村々に分散してゐるであらう。」(以上、拙訳『反逆者の言葉』七四―七六頁)  以上によつて、クロポトキンの理想するコムミユンが、消費組合としても労働(生産)組合としても、決して単一に地域的にのみ形成されるものでなくて、同時に分業的又は種別的に構成されるものであることが分るであらう。かくすれば、前段に紹介したジイドとデユルケムとの意見の相違点はここに自ら融合せられるであらう。蓋し、諸々の生産労働組合は各々地位を異にし利害を異にするが、消費組合は一般的に同類であつて、全社会を包容する資格があるといふジイドの説にも不都合は生ずるであらう。そして自然発生的に成立する自由の消費組合にはまた色々な種類が現はれるであらう。されば吾々は言ふことが出来る。以上の如くしてこそ、生産団体と消費団体は互に縺れ合つた連帯網を構成して、そこに有機的無強権的自治的にして而も極めて鞏固な社会生活が成立するのであると。
底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社    1978(昭和53)年8月10日発行 初出:「ディナミック」    1931(昭和6)年3月1日 ※「(註)」は底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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今より丁度八年前、私が初めて旧友エドワアド・カアペンタア翁を英国シエフイールドの片田舎、ミルソープの山家に訪ふた時私は翁の詩集『トワアド・デモクラシイ』に就いて翁と語つたことがある。そして其書名「デモクラシイ」の語が余りに俗悪にして本書の内容と些しも共鳴せぬのみならず、吾等の詩情にシヨツクを与ふること甚しきを訴へた。スルと其時、カ翁は「多くの友人から其批評を聞きます」と言ひながら、書架より希臘語辞典を引き出して其「デモス」の語を説明して呉れた。其説明によるとデモスとは土地につける民衆といふことで、決して今日普通に用ゐらるゝ様な意味は無かつた。今日の所謂「デモクラシイ」は亜米利加人によりて悪用された用語で本来の意味は喪はれて居る。ソコで私は今、此「デモス」の語を「土民」と訳し、「クラシイ」の語を「生活」と訳して、此論文の標題とした。即ち土民生活とは真の意味のデモクラシイといふことである。          一  人間は、自分を照す光明に背を向けて、常に自分の蔭を追ふて前に進んで居る。固より其一生を終るまで、遂に其蔭を捉へ得ない。之を進歩と言へば言へるが、又同時に退歩だとも言へる。長成には死滅が伴ふ。門松は冥途の旅の一里塚に過ぎない。  人間は、生きやう、生きやう、として死んで行く。人間は、平和を、平和を、と言ひながら戦つて居る。人間は、自由よ、自由よ、と叫びながら、囚はれて行く。上へ、上へ、とばかり延びて行つた果樹は、枝は栄え、葉は茂つても遂に実を結ばずして朽ち果てる。輪廻の渦は果し無く繰返へす。エヴオリユシヨンといふも、輪廻の渦に現はるゝ一小波動に過ぎない。進化は常に退化を伴ふものである。夜無しには昼を迎へ得ない。日の次には夜が廻て来る。          二  人間は、輪廻の道を辿つて果しなき旅路を急いで居る。自ら落着くべき故郷も無く、息ふべき宿も無く、徒らに我慾の姿に憧憬れて、あえぎ疲れて居る。旅の恥はかき棄てと唱へて、些かも省みる処なく、平気で不義、破廉恥を行ふ。今の世の総ての人は、悉く異郷の旅人である。我が本来の地、我が本来の生活、我が本来の職業、といふ如き思想は、之を今の世の人に求めても得られない。彼等の生活は悉く是れ異郷の旅に外ならぬ。総ての職務と地位とは腰掛けである。今の世の生活は不安の海に漂よふ放浪生活に外ならぬ。放浪生活に事務の挙る訳が無い。教師も牧師も官吏も商人も百姓も大臣も、我が故郷を認め得ずして生涯旅の恥をかき棄てゝ居る。旅の恥をかゝんが為に競ひ争ふて居る。疲れ果てゝ地に倒れたる時、我蔭の消ゆると共に人は幻滅の悲哀に打たるゝであらう。国家、社会が、幻滅の危機に遭遇したる時、乃ち○○○○○○〔大変革が来る〕のである。          三  国民共同生活の安全と独立と自由とを維持する為に軍隊は造られたものである。其れが、隣国の同胞の共同生活の安全と独立と自由とを破壊する為に用ゐられる。個人と個人との間の、地方と地方との間の、国民と国民との間の、物資の有無を融通し、需要と供給とを調和する為に商業は行はるべきである。其れが、其有無の融通を妨害し、供給を壟断する為に行はれる。暴力の横行を防禦して人民の自由、平安を保護せんが為に設けられたる警察は、自ら暴力を用ゐて人民の平和的自由を妨圧する。人民の熱望と熟慮によりて選択せらるべき筈の代議士は、自ら詐欺、脅迫、誘惑の「選挙運動」を敢てして省みない。政府も、学校も、工場も、賭場も、女郎屋も、淫売屋も、教会も、寺院も、悉く是れ吾等自ら幻影を追ふて建設したる造営物に過ぎない。かくて偉大なる近代的バベルの塔は科学と工学の知識を傾倒して築かれた。          四  人間は自ら建てたバベルの塔に攀ぢ登らん為に競ひ苦しむ。されど其塔は吾等自らの蔭である。幻影である。吾等疲れ果てゝ地上に倒るゝの時、吾等自身の蔭も亦自ら消滅し去る。幻滅の悲劇とは即ち是れである。吾等は生れながらにして無明の慾を有つて居る。身を養はんが為の食物を過度にして、吾等は却て其胃を毀ふ。徳に伴ふべき名声を希ふて、吾等は却て吾が徳を損ふ。美に誇るより醜きものは無いであらう。無明の慾を追ふて、吾等自身の蔭を追ふて生きるものは、幻滅の悲劇を見ねばならぬ。  抑も吾等は地の子である。吾等は地から離れ得ぬものである。地の回転と共に回転し、地の運行と共に太陽の周囲を運行し、又、太陽系其ものの運行と共に運行する。吾等の智慧は此地を耕やして得たるもので無くてはならぬ。吾等の幸福は此地を耕やすにあらねばならぬ。吾等の生活は地より出で、地を耕し、地に還へる、是のみである。之を土民生活と言ふ。真の意味のデモクラシイである。地は吾等自身である。          五  地を離れて吾等如何にか活きん? 地を離れて吾等何処にか食を求めん? 地は吾等に与ふべき総てを産む。私が仏国ドルドオニ県に土民生活を営んで居た時、私は一九一七年五月五日の日記に次の如く書いた。 「芽が生へた。昨夕まで地の面に一点の緑も見へなかつたのに、今朝は翠い芽が一面に地からハジけ出て居る。右はアリコ(インゲン)左はポア(豌豆)何といふ勢ひであろう! 意気天を突くといふは、ホンとに今の彼等のことである」。 「芽が俄かに生へた。人が眠つて居る間に、地面を突破して現はれた。アの新鮮な大気を呼吸する前に! 種子は私が蒔いたのだ。インゲンには肥料をウンと置いてヤツた。二週間前に蒔いたのが今日生へたのだ。蒔いた私は芽の生へるのが待遠しかつた。アの元気ある萌芽を見ると今更ら希望に充される」。 「昨日は馬鹿に暑かつた。木も草も芽も種も枯れ果てるであろうと気づかはれた。種子は地下にあつて定めしもがいたであろう。ケレども熱い日の夜には露が降りる。ソウだ、昨夜の露、アの無声の露が、地を潤ほして、軟かにしてくれたので、稚い芽は自らを延ばし得たのだ」。 「昨日の日光の熱さは、実にタイラントの暴政の如く吾々を苦めた。柔かい種子も地下でモガイたに相違無い。然しアのタイラントは却つて若い種に活動の元気を与へた。夜露の降りたのも、実はアのタイラントの御蔭である。昨日はアのタイラントの烈暑の為に枯れ果てるであろうと思はれた種が、今朝は鬱勃たる希望に充ちて萌え出て居る。ミラクルの様だ。併し是れが自然だ」。 「種が無ければ芽は生へぬ、蒔いた種は時を得て生へる。花を愛し実を希ふものは、先づ種を蒔かねばならぬ。恐るべきタイラントも却て地層突破の動機たることを思へば、不幸の間にも希望がある。恐怖の間にも度胸が坐る。種を蒔く者は幸いだ」。  然り、種を蒔く者は幸福である。地は吾等に生活を与ふべく、吾等に労作を要求する。地は吾等自身であることを忘れてはならぬ。          六  地は吾等に生活を与へるばかりで無く、吾等の心を美に育む。一九一七年四月廿六日の日記に、私は次の如く書いて居る。 「マルゲリトの小さな花が一面に咲いて居る。清らかな、純白な、野菊に似た無数のマルゲリトは、柔かい青芝生の広庭一面に、浮織の様に咲き揃ふて居る。私は今、其自然の美しい生きた毛氈の上に身を横へて暫し息ふて居る」。 「稚い緑りの草の葉は、時々微風に戦いで幽かに私語くことさへあるが、マルゲリトは何時も静かに深い沈黙に耽つて居る。其小さな清らかな、謙遜な面を揚げて、高い大空と何かしら、無語の密話を交はして居る。空には一点の雲も無い。色彩を好む我々には頼りない程澄み渡つて居る。彼の際涯無き大空に対して、アの細やかなマルゲリトは抑も何事を語るであろう」。 「マルゲリトの沈黙の深いこと! 彼女の面は太陽の光を受けて輝やいて居る。無数の姉妹が一斉に輝やいて居る。天の星が太陽の光に蔽はれて居る間、彼等は地の星の如く光り輝いて居る。大空の深きが如く、彼等の沈黙の深いこと! 其美しい沈黙! 其美しい輝やき! マルゲリトは地の子である。謙遜なる地の子である」。          七  コウした自然の中に、井を掘りて飲み、地を耕やして食う。人間の生活は其れにて充分である。其れが人生の総てである。人間は地と共に生きるの外に、何事をも為し得ぬものである。地の与ふる美の外に、人間は些かの創作をも成し得ぬものである。吾等は地に依りてのみ天を知り、地によりてのみ智慧を得る。地独り吾等の教育者である。地独り真の芸術家である。地を耕すは、即ち地の教育を受くるに外ならぬ。地の養育を受くるに外ならぬ。而して地を耕すは、又、地の芸術に参与することである。然り地を耕すは、即ち吾等自身を耕す所以である。          八  社会の進歩、とは、社会と其個人とが、地の恩沢を正しく充分に享受すると言ふことで無くてはならぬ。希臘は地の利を得て勃興した。而して希臘人が其地利を乱用して却て地を離れ地を忘れたる時、頽廃に帰した。強大なる羅馬帝国も、土臭を厭へる貴族や富豪の重量の為に倒潰したのである。ヨリ多くの地をヨリ善く耕すことは吾等の名誉、吾等の幸福である。其れと同時に、自ら耕さざる地面を領有するのは、不名誉にして罪悪である。領土の大を誇る虚栄心は、即ち多くを耕すといふ名誉の幻影に過ぎない。          九  吾等が地に着き、地を耕すのは、是れ天地の輪廻に即する所以である。工業も、貿易も、政治も、教育も、地を耕す為に、地を耕す者の為に行はるべき筈のものである。吾等の理想の社会は、耕地事業を中心として、一切の産業、一切の政治、教育が施され、組織せられねばならぬ。換言すれば、土民生活を樹つるにある。若し土民生活者の眼を以て今日の社会を見んか、如何に多くの無益有害なる設備と組織とが大偉観を呈して存在するかが、分るであろう。そして其為に如何に多くの人間が無益有害なる生活を営むかゞ分るであろう。そして其為に如何に多くの有為の青年壮年が幻影を追ふて生活するかゞ分るであろう。今や、世界を挙げて全人類は生活の改造を叫呼して居る。されど其多くは幻影を追ふてバベルの塔を攀ぢ登るに過ぎない。ミラアジを追ふて喧騒するに過ぎない。幻滅の夕、彼等が疲れ果てて地上に倒るゝの時、地は静かに自ら回転しつゝ太陽の周囲を廻つて居る。そして謙遜なる土民の鍬と鎌とを借りて、地は彼等に平和と衣食住とを供するであろう。          十  然り、地の運行、ロタシヨンとレボリユシヨンの運行、是れ自然の大なる舞曲である。律侶ある詩其ものである。楽其ものである。俗耳の聴く能はざる楽、俗眼の見る能はざる舞、俗情の了解し能はざる詩である。梢上に囀づる小鳥の声も、渓谷を下る潺閑たる流も、山端に吹く松風の音も、浜辺に寄する女波男波のさゝやきも、即ち是れ地のオーケストラの一部奏に過ぎない。地は偉大なる芸術者である。  吾等は地の子、土民たることを光栄とする。吾等は日本歴史中「土民起る」の句に屡々遭遇する。又、世人革命を語るに必ず「蓆旗竹鎗」の語を用ゐる。蓆旗竹鎗は即ち土民のシムボルである。其「土民起る」の時、其蓆旗竹鎗の閃めく時、社会の改造は即ち地のレボリユシヨンと共鳴する。幻影の上に建てられたるバベルの塔は其高さが或る程度に達したる時、地の回転運動の為に振り落されるのである。其幻滅のレボリユシヨンは即ち地のドラマである。          十一  地のロタシヨンは吾等に昼夜を与へ、地のレボリユシヨンは吾等に春夏秋冬を与へる。此昼夜と春夏秋冬とに由りて、地は吾等に産業を与へる。地の産業は同時に又地の芸術である。芸術と産業とは地に於ては一である。地の子、土民は、幻影を追ふことを止めて地に着き地の真実に生きんことを希ふ。地の子、土民は、多く善く地を耕して人類の生活を豊かにせんことを希ふ。地の子、土民は、地の芸術に共鳴し共働して穢れざる美的生活を享楽せんことを希ふ。土民生活は真である、善である、美である。
底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社    1977(昭和52)年11月25日発行 初出:「社会主義」    1920(大正9)年12月号 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     ルクリュ家へ  一九一三年の初夏のころであつた。或る土曜日の午後私はベルギーの首都ブリュッセル東北隅のエミール・バンニング町にポール・ルクリュ翁を訪問した。ベルを鳴らすと翁自身が扉を開いて迎へてくれた。ネクタイもカラも著けず上衣も著けず、古びたチョッキと縞もわからないシャツを纒うて 「よく來てくれました、待つてゐました。ツ・ミン・イ君は?」  といひながら、私を應接室に導いてくれた。前の土曜日に支那の友人楮民誼君に伴はれて初めて同家を訪問したが、その時は忙しくて話をしてゐられないから、次の土曜日に來てくれといふことであつたのだ。 「ツ・ミン・イ(楮民誼)君は急用でパリに行つたので、一人で伺ひました」  といふと 『ああ、さう!』とうなづきながら、廊下に出て、階上に向つて大きな聲で『日本の石川君が來たから、降りて來なさい!』と怒鳴つた。二階か三階か、上の方から、『はい!』といふ答が反應のやうに響いてきた。かねて話し合つてゐたものと見える。やがて降りて來たのはマルグリト・ルクリュ夫人であつた。ポール翁は私と並んで同じカナッペ(長椅子)に座を占め、マルグリト夫人はわれわれに向つて腰をおろした。そして、どうしてルクリュ家を訪問する氣になつたか、と問ふのであつた。  私は豫てからエリゼ・ルクリュの名を慕ひ、私の獄中で書いた『西洋社會運動史』にもルクリュがボルドー附近のサント・フォア・ラ・グランドで生まれたことが書いてあり、この地にお住ひと聞いて是非お眼にかかりたいと楮民誼たち支那學生に紹介方を頼んだ次第だ、と答へた。そしてちやうど持つて行つた私の赤表紙の著書を出してルクリュの名の出てゐる箇所を開いて見せると 「こんな立派な書物を獄中で書くことが許されたのですか?」  と些か驚きのていであつた。その間、ポール翁は別室に行つて一葉の寫眞を持つて來て 「これを知つてゐますか?」  と私の前に突き出した。それは最初の平民社當時、たしか共産黨宣言が發禁になり、瀧野川の園遊會が禁止された時、記念のために撮影した堺・幸徳・西川・石川四人の寫眞であつた。 「知つてゐるどころか、私自身がこの中にゐる」  と私がいふと 「それは私も豫て支那の學生達から聞いて知つてゐる。しかしそれにしても、どうして君は死刑を免れたか?」  とたたみかけて質問する。 「幸徳の事件が勃發した時は、他の三人は皆監獄の中にゐたからあの事件には關係がなかつた」  と答へると、また翁は直ちに 「そして君は、どんな風にして脱獄することができたか?」  と熱心に問ひ返すのであつた。ルクリュ翁が、かう熱心に質問するのも無理ではなかつた。翁の親しかつたバクニンでも、クロポトキンでも、みな脱獄者であつた。ルクリュ翁自身が、二十年の重懲役の宣告を受けて、祖國を脱出して現に亡命生活中の人であつたのだ。  そこで私は刑期が滿ちて正當に出獄し、大逆事件で再び捕へられたが釋放されたこと、『西洋社會運動史』は發禁になつたこと、周圍の情勢は緊迫して身動きもならぬ有樣になつた時、支那及びベルギーの友人の熱心な勸告と援助とによつて幸運にも故國を脱出することができたこと、などを説明した。  その間にマダムは茶を入れて來た。それから三人の間には、茶菓を喫しながらの樣々の談話がかはされた。そして最後にルクリュはフランス語の國に來て生活するには先づ第一必要條件としてフランス語を知らねばならぬとて、エリゼ・ルクリュの大著『世界新地理學』の東亞の卷を書架から引出し、その中の日本の記事のところを開いて『ここを讀んで御覽なさい』といふのであつた。そして私に解らないところを英語で説明してくれるのであつた。  初對面からこんな有樣で、私はこの家の一族のやうに扱はれた。しかし私自身はまだ交際に慣れない野ばん人で、英國のカ翁のところへ行つたり、ブリュッセルの合理的社會主義の一派ギリヨーム氏のところへ行つたりして、職業を求めてゐた。けれども獨立生活の道は容易に見つからない。私は遂に行きづまつてルクリュ翁に訴へると『なぜ早くいうてくれなかつたか』と小言のやうな口調で『すぐ來い、室をあけて待つてゐる』といふ手紙を英國で受取つた。  かうして私がルクリュ家の一家族となつたのは一九一四年四月であつた。私は一同志の紹介でペンキ職になつた。白いブルースもその同志が寄付してくれて、毎日十時間勞働で、どうやら生活の道が立つといふ自信ができたときは『おれもこれで一人前の人間になれた』と私は心中に叫んだ。そして大空に向つて大威張りで腹一ぱいの呼吸ができた。  この時から私は毎晩、食後の一時間をルクリュ老夫妻とともにすごし、いつもフランス語のけいこを兼ねて、私の身の上ばなしを續けた。しかし私の對話は主としてマダムとの間に行はれ、翁は寧ろ傍聽者の格であつた。わたしはこれから、その時の物語を思ひ出づるまにまに再記して見たい。今はなきルクリュ翁夫妻の思ひ出ともなり、私にとつてはまた感慨の盡きぬものがある。      ことばの失敗 「どうです? 少しは慣れましたか?」  勞働生活を始めてから五日目頃、晩餐後の團欒時のマダムの發言であつた。最初に當てられた私の仕事は兩梯子の頂上に立つて高い天井に下塗りをすることであつた。左手に白色ペンキを滿たしたバケツをさげ、右手に大きな刷毛を持つて、毎日十時間も左官の仕事をすることは、私にとつては可なりの苦痛であつた。最初の二三日は發熱して夜分もよく眠れなかつた。殊に梯子の頂上に立つ足の緊張とその疲勞は甚だしかつた。一度すべれば生命はなくなる。あぶない藝たうだ。けれどもこの場に及んでは一心不亂であうた。今思つても戰慄を禁じ得ない仕事が事もなく遂行された。環境が私を鍛へてくれたのだ。 「もう大丈夫です。仕事にも慣れ、授かる仕事もいささか昇級のかたちです」  就職して五日目には、壁面に大理石の模樣を付ける少々藝術的な仕事を擔任するやうになつた。かうして私の身體と心とに餘裕ができて來たので、語學の勉強を兼ねて、毎晩マダムとの對話が續けられることになつた。 「あなたが、ここに來られると聞いたので、私はルドビリ・ノドオといふ人の『近代日本』を讀みました。その中に、あなたの名も出てゐる。イシカハ・ケンといふ地方名もある。縣名を姓にする位だから、あなたの家の家がらは地方の貴族なのでせう?」  といふマダムの質問が出たのもその時だつた。なるほど『近代日本』には、日本の社會不安を序した章に、ニシカハ及びイシカハの『日本社會黨』が解散を命ぜられたことが書かれ(これは何かの間ちがひであらう)すぐその次の頁にイシカハ・ケンの紡績工のストライキが述べられてある。 「いえ、私の家は地方の農家です」  と答へれば、マダムは直ぐに言ふ。 「それではペイザン・アリスト(農村の貴族)なのでせう」 「私の生まれた家は石川ではなくて五十嵐といひ、農村の舊い貴族と云へるでせうが、石川の方は貧しい農家です」 「ああさうですか。イシカハよりはイガラシの方が、發音が美しいですね。ところで、イシカハやニシカハのシカハとは何を意味しますか? 二つ姓がただイとニとで區別されるのはどういふ譯ですか?」  マダムはフランス語を私に教へるかたはら日本語の研究を始めるのであつた。 「これは石と西とで區別される川を意味する名稱です」 「はあ、ピエール・ド・リビエール(川の石)と、ウエスト・ド・リビエール(川の西)ですか」  とマダムは速解する。フランス語では形容詞を名詞の後に置くのが常例なので、石川を『川の石』西川を『川の西』と解釋したのであつた。  次にマダムから發せられた質問は、『妻君はどうしてゐるか?』といふことであつた。 「私は結婚してゐないから、身輕です」  と言へば、 「どうして結婚しないのですか? 獨身主義なのですか?」  とせめ立てる。 「いや獨身主義ではありませんが結婚の機會を逸したのです。それに私の今の考へでは、結婚は財産權と同じく排斥すべきだと思ひます」  少々うしろめたい氣持でもあつたが、かう言つてのけた。マダムの氣にさはりはせぬかと不安であつたが、意外にも賛成らしい面持で、愉快さうに 「さうですか、この國にも、さういふ論者が澤山あります。しかし、それでこの世の生活が淋しくはないですか?」 「しかし、わたしは、戀はしました。そのために些か狂ひもしましたが、遂に結婚生活はできませんでした。そして今では、自分の妻だの夫だのといふ符牒が、何だか馬鹿げて感じられるやうになつたのです」 「そりや、あなたの仰しやる通りよ。けれどもね、わたし達のやうな友愛生活になると、ちつともさういふ不愉快はありませんよ」  室の一隅に長椅子の上に横たはつてゐるルクリュ翁を顧みて 「ねえ、さうでせう! ポール」  と同意を求めた。  ポール翁は横臥したまゝ、そんなことには答へもせず 「フランス語の稽古をやらんのかい、その方が大切だよ」  と大きな聲で怒鳴るのであつた。  わたし達の對話は英語とフランス語とがちやんぽんに使はれ、話がこみ入つて來ると、英語の方が主になり勝ちであつた。ルクリュ翁の怒鳴つたのはその點についてであつた。そこでマダムはフランス語の發音法にうつり、フランス語は舌の先で發音しないでアゴでするやうになど、自ら實演して教へてくれる、そして仕事のあひまに動詞の變化を暗誦しなさい、と文法書の一頁を開示してくれるのであつた。  こんな有樣で、わたし達の對話は殆ど毎晩續けられた。そしてその話題は、わたしの生ひ立ちなどが、最も深くマダムの興味を引いたので、自然にそれが多かつた。時には地圖まで出して日本の社會状勢の變遷などを物語ることもあつた。そして、そんな時はルクリュ翁ものりだして來て、話しの仲間に入るのであつた。  ここでこの最初の會話に於てわたしが大失敗を冒したことを付け加へたい。それは四、五年の後、ほんたうにルクリュ家に親しくなり農業生活をするやうになつてからマダムに教へられて初めて知つたことであつた。それは私が『戀はしました』(ジェイ・フェイ・アムール)といつた、その一語であつた。フランス語ではこれは『女と寢る』こと『色をする』ことを意味するので婦人の前などで發音すべき言葉ではないのだ。しかし私が英語の『アイ・ドウ・ラヴ』を佛譯したものとマダムは想像したので、餘り氣にも留めなかつたし、私のフランス語の勇氣をくじかぬやうにと考へて特に不問にふしたのだといふ。普通の婦人の前で、こんな言葉を口ばしつたら、激怒されるか顏を背けられるところであつた。かうした失敗は、七、八年も同居してゐる間に幾度くりかへしたことか、その度毎に親切に戒められたことを、今も思ひ出して私は有り難さの感激を新たにするのである。      生家の思ひ出 「あなたは、どうして無政府主義者になりましたの?」  マダムの話題は當然この問題に到達した。この問に答へるには、わたしの精神史と環境史とを語らねばならぬことを説明すると 「話して下さい。それは日本の社會、日本の近代史を知る上に、興味ある資料となるでせう。是非話して下さい。私達が結婚する時の第一の條件が、東洋諸國殊に日本に旅行し、日本を研究することであつたのです。いま日本人のあなたから、直接にあなたとあなたの國とについて、お話を伺ふのは、ほんたうに愉快です」 「それは私の全半生の物語になり、マダムはきつと退屈されるでせう」 「ノー、ノー、ノー、私達のあこがれの國の物語よ! 話して! 話して!」 「では話しませう、少しづつお疲れにならない程度に……」  こんな仕儀で、私はふなれな言葉で、ぼつりぼつりと、兎の糞の落ちるやうな話を續けた。  私の故郷は日本最大の關東平野の一角で、武藏と上野との境を流れてゐる利根川べりの一船着場でありました。そして私の生家はその地方の漕運業を獨占してゐた問屋であり、村の名主でありました。徳川幕府の江戸城下から西北方に百キロメートルを隔てた土地で、利根川の流水に惠まれて、この地方と江戸との間の交通を一手に支配した特權階級でありました。  ところが、私の生まれる十年以前に、日本には大革命が行はれました。徳川氏の封建制が倒れ、いはゆる明治維新が成立して、ヨーロッパ模倣の近代國家が組織せられました。この結果、この封建制の保護の下に存在した特權階級たる私の生家の威光も漸く衰へ始めました。私がもの心を覺える頃になると、家の中に何となく暗い陰がさして來たやうに、子供心に感じられたことを今も思ひ出します。  村中の者がほとんど全部と言つてよいほど私の家で働く船乘りか又はそれに連なる職業を渡世にしてゐました。そして利根川の水が東に流れ、太陽が東から登る間は米びつに米は絶えない。宵越の金を使ふのは黴の生えた食物を食ふよりも馬鹿。かういふ哲學で村中の人が生きてゐたのです。ところが、私が八九歳になつた頃、即ち明治十七年頃、舊江戸の東京から利根川上流の高崎まで鐵道が敷かれました。これは地方の經濟生活に大革命を齎らさずには置きませんでした。殊に船着場であつた私の村は、全村失業状態となり、軒の傾かぬ家、雨のもらぬ家は、稀にしかないやうになりました。利根川河口の銚子町との間に河蒸汽を通はせることも試みられたが、もともと徳川幕府への御年貢米の運搬が特權の主要素であつたのにそれが喪はれて、自由競爭の世になつたので、何を試みても成功はしないのです。村の中にも眼先の利くものの叛逆が既に起りました。父は汽車ができると同時に半里ほど隔つた本庄驛の停車場の一番よい所に運送店を開きましたが、それも瞬く間に、多くの借金を殘して失敗して了ひました。永い間幕府の特權に保護されて來た舊家にとつて、維新以來の政治的、經濟的の荒浪は、餘りに高く餘りに烈しかつたのです。それに上品な父は、經驗の無い放蕩の長兄と分家の當主とに事業を任せて自身は舊い家に引込んでゐたのです。家道は益〻傾くばかりでありました。  しかし、それにもかかはらず、舊い習慣と社會的の墮力とが、まだ殘つてゐて、私の父は村の戸長であり、私の家は戸長役場でありました。そして、その村がまた、近隣のどこの村でも持つてゐない金色燦然たる神輿を持ち、立派な山車を持ち、それが、とても大きな村の誇りであり、私の家の誇りでありました。鎭守の祭りの時はその山車も、その神輿も、鎭守の森から出て、私の家の庭前に來て止まるのを例としました。寺なども私の生家が獨自で建立したもので、棟木にはその事が書かれてあつたといふことでした。宗旨は眞言宗で、住職の法印は可なり有徳の老僧でありました。私の家の二階の一室には護摩壇が備へてあつて、毎月一、二回その老法印が來て護摩を焚き、不動、慧智の修法を行ふのでありました。  ところが、私は或る時、この護摩壇の奧にある本尊樣を摘發して子供心を驚かせたことがあります。それは錦の袋に包まれた二重の筒で、その筒も金色に輝いてゐました。私は恐る恐る、その筒を開けると、何ぞ計らん、現はれ出でたのは象の形を具へた二體の怪物が相抱擁してゐる姿でありました。私は最初それは不動尊像ででもあらうかと想像したのであるが、意外の祕密が顯はれたので、子供ながら些かの羞恥と驚きとを感じ、急いでそれを元通りのところに据ゑました。家人は護摩壇のあるところを聖天樣とも云つてゐましたから、この怪物は多分大聖歡喜天像で、おそらく生殖の神を象徴したものでありませう。これは御不動樣と聖天樣とを混同したのかどうか、私は知らないが、火を焚いて祈願するのは拜火教から始つた修法かも知れません。  少年のころ父の物語に聞いたことでありますが、父が近隣町村の人々と大勢打連れて成田山に參けいし護摩の修法を要請したところ山僧達は代る代る出て接待に努めたが、終り頃に出て來た老僧は父の住所氏名に眼を止めて、些か驚いた樣で態度も改まり、やがて別室に招じ入れて大へん懇ろにもてなしてくれたとのことであります。成田山と何か特別の關係でもあつたのでありませう。成田不動の開帳が高崎市に營まれた際など、その大きな本尊の出張が汽車便に頼らずに、わざわざ利根川の船便を利用し、特に私の家に二三泊して、それからその巨大な厨子を村人達がかついで本庄驛に運び、そこで初めて汽車に遷しました。こんな方法を採つた事を思ひ合はせると、何かその間に特別な關係があつたのかも知れません。  このやうに私の生家は私の少年時代にはまだ隨分賑はひました。それが兄の代になりますと、家も屋敷も人手に渡り、今はその痕跡さへも留めなくなりました。そのうへ因縁の深かつた菩提の寺も火事で燒失して、私には故郷そのものまでが亡くなつた感じを懷かせます。      土着した祖先 「故郷(ペーイ・ナタル)を懷かしむ君の心持は吾々には珍しいことだ。江戸に遠くない所だといふが、その江戸といふ地名とエゾといふ名稱とには何か關係がないものだらうか、エゾとはアイヌの別名であるやうにも聞いたが、果してさうかね?」  今度はポール翁が乘りだして來た。 「さあ、江戸とエゾとは或は語源を同じくするかも知れない。極く舊い頃には關東地方は『毛の國』と稱せられ、多毛人種の國であることを表明してゐたし、その多毛のアイヌを蝦夷と名づけ、江戸の地方は勿論エゾの住地であつたのだから、エゾが江戸に變つたのかも知れない。ただ近代ではエゾは北海道を意味し、北海道だけにしか純エゾ人は生存しない」  と答へると 「ああ、さうか、しかし君の相貌はエゾ人種のそれであらうか、それとも他のモンゴール型か? どちらであらう?」  と反問する。 「わたしの故郷の方面には古來朝鮮人が澤山に移住して來た歴史があり、僕の血統には恐らく朝鮮型が多分に混入してゐる」 「成るほど、さうか、高麗型か。それでは、君の故郷は朝鮮にも滿洲にもあらうし、或は海上遙かに遠いポリネシヤにも、インドネシヤにもある譯だらう」  涯しもない廣いところに話は擴がつて行つた。そこで私は再びアイヌのことに戻り、利根川の名もフジ山の名も、皆アイヌ語から由來したもので、詳しく研究すると、日本の大部分の地名はアイヌ語に基くらしいといふことを語ると、ルクリュ翁は非常に興味深く感じ、 「ロシヤ及びシベリヤのムジクと日本のアイヌとは親密な血統關係があると説く學者もあるが、相貌の上から言へば、確かにさう言へるだらうね」  と言ふのであつた。そして 「わたしの生家の五十嵐といふ姓なども或はアイヌ語系の名稱かも知れない。北國に多い姓であることも、その一徴證と言へる」  といふ私の言葉を興味深きもののやうに聞いてゐた。曾てロンドンに國際博覽會が開かれた時、日本から送つたアイヌがそこで働いてゐたが、いつしか『東亞のトルストイ』といふ綽名が付せられて有名になつた。皮膚の色から見ればアイヌは白皙人種である。瞳の青いのも北歐人に似てゐる。このアイヌ種は日本の全部に先住し、或は沖繩までも足跡を延ばしてゐるらしく、日本の人種的基本は實にアイヌ種であるかも知れない。  こんな話の時はマダムは寧ろ傍聽者であるが、しかし、言語を差しはさんで來る。 「エゾの名づけた利根川の岸邊に成長したエゾの五十嵐の家の子が今は西ヨーロッパまで來てゐる譯ですが、北歐のフィン人も東歐のハンガリア人もアイヌ人に近い血族ではありませんか。民族移動の波は、社會變遷の浪と互に錯節して樣々の歴史がくり擴げられましたのね。石川さんの歴史の浪をもつと話して下さい」  くはしいことは御退屈さまですから省きますが、原始社會の開拓生活の樣が記録にのこつてゐますから、それを參考に供しよう。それは『本庄村開發舊記』と題する原稿で四、五葉のものですが、仲々に興味があります。この小部落を開拓した一味は六百年前に新田義貞といふ一人の英雄とともに勤王の師を起して鎌倉幕府を打つた人々でありますが、新田氏が亡びて、故郷の上野(古代の毛の國)に蟄伏し、子孫代々好機の到るのを待つたのでせうが遂にその望を失ひ永祿三年(西紀一五六〇年)に私の出生地たる埼玉縣兒玉郡山王堂村に移轉して來たものです。兒玉黨といふ武人の團體は日本の歴史上に有名な存在ですが、われわれの祖先もその一味であつたのでせう。當時兄弟二人と二三の親類とで移住して來たらしく、その兄を五十嵐大膳長國といひ、弟は同苗九十九完道と稱し、田畑を開發したり、諸方を廻つて兵法や算書の指南をしたり、その間は利根川にて魚を取つたりして渡世したと開發舊記にあります。然るに半里ほど隔つた本庄村の方の仲間から頻りに、その村方の開發に加勢せんことを要請して來るので、親類相談の上、弟の九十九完道は依然山王堂村に留まり、兄の大膳長國一家が本庄村西部に移つて大勢の人夫を督して開墾することになりました。當時この地方は茅野や藪野が廣く、猪や鹿が多くゐて作物を喰ひ荒し難儀至極であるといふ仲間の訴へに基き、援に赴いた譯であります。この開拓により、後の中仙道が漸く開通する端緒が始められた譯であります。  ところが、この間に日本の政治組織と社會生活とに一大變化が齎されました。即ち、足利氏が倒れ、戰國時代が去つて徳川氏の統一事業が完成せられたことこれであります。そして全國各地の大小名は徳川氏への歸順を證明するために年々參勤交代することになりました。この參勤の通路として本庄驛を通過する中仙道は重要な役割を持つことになりました。新田氏譜代の面々は徳川家康の旗下に列した者も多かつたが、吾々の祖先達は『最早年久しく業家にありて世の治亂にかかはらず、安樂に住すること此上の望み御座無く候儘恐れながら御斷申上候』と云つて、いづれも世の榮華を顧みず百姓になりすましたのです。そして慶長十七年には、五十嵐大膳は百姓太郎右衞門となつてゐました。  本庄村の同僚達の村高や屋敷の廣さが銘々に詳記され、また文書の署名の肩書にまで明記されてあるのは家の格式を物語るものか? それによると五十嵐太郎右衞門は本庄村最大の地主物持でありました。 一、五十嵐太郎右衞門屋敷、堅(表間に)は六十五間五尺、裏行三十間、田畑山林共水越石とも持高百七十五石所持有之候得共、江戸表年々日増しに御繁昌に相成、京都宮樣方初め大阪表並に諸國御大名、御旗本方、寺院方、御參勤御荷物繼ぎ送り往還通り宿に相定り宿場通り家々間口に應じ日々御傳馬役相掛り、右者(五十嵐のこと――筆者)表口多分に所持致し、難儀致居候云々  と『本庄村開發舊記』にあり、課役、經費が年々かかるので到底堪へられなくなつたのであります。      勇躍、東京へ  マダムは言葉を差はさんで言ふ。 「政治的生活の興亡盛衰の波に眼もくれずに、永遠の土の生活に誇りを持たれた、イガラシの祖先は賢くも善き模範を子孫に示したものではありませんか」  ところが、本庄村の五十嵐太郎右衞門は、何しろ同僚中で一番廣く間口を擴げたので、課役經費は年々嵩むばかり、その上何代か續く間に段々虚榮心も高まり、自然におごりの生活に慣れるやうになつたでありませう。遂に家門を維持することができなくなり、屋敷の一部分を或は鎭守に、或は威徳院といふ寺に分讓し、更に『間口八間を譜代召遣ひ候五助に居屋敷として遣し候、相殘り候は諸方より來り候者共方へ三間々口づつ相讓り、その身渡世も致さず寶永十九年迄に田畑山林屋敷まで不殘賣拂ひ、譜代召遣ひ候家來五助方へ夫婦引取り承應三年まで扶助致し置き、兩人共病死致退轉候』(開發舊記)といふことになりました。  此地に引移つた永祿三年(一五六〇年)から沒落の承應三年(一六五四年)までは百年近くなるが、その間に三代か四代かの承繼ぎが行はれたでありませう。その最後の百姓太郎右衞門夫妻が『譜代召つかひ候家來』の家に引取られて退轉したといふ『開發舊記』の記事が如何にも人生の有爲轉變を物語り、頗るドラマチックの光景を髣髴たらしめます。  かうして、兄の五十嵐大膳の子孫は絶えましたが、弟の九十九完道の子孫は今も細々と家系を繼續してゐます。勿論それは文字通り細々と、であつて、前にも言ひました通り祖先傳來の家も屋敷も無くなり、寺も神輿も灰燼に歸し、村そのものも昔の面影を全然失ひました。『國亡びて山河あり』といふ言葉がありますが、日本の政治も社會組織も、わが村の生活も幾變遷、幾興亡を重ねて今日に至りながら、北に赤城、西に榛名、妙義の諸秀峰を望む私の生地、利根、吾妻、烏、諸川が合流して大利根河を成せる、その急流に臨む私の故郷の自然は、昔ながらの悠揚たる姿を依然として展開してゐます。この急流に足をさらはれて、あつぷ、あつぷともがく間に不思議にも身體が浮かび、瞬間的に遊泳の術を覺えたのも五六歳の幼年時でした。遠い山しか見たことのない私は、山は青くなめらかなものと信じてゐました。幼時から『山高きが故に尊からず、木あるを以て尊しとす』といふ『實語教』を素讀しながら、山に木の生えてゐることを初めて見て驚いたのは十一二歳の頃秩父郡に旅行した時でありました。  私たち同郷の少年たちは、河の水は必ず西から東に流れるものと信じてゐました。或る夏のこと、川邊の砂原で五六人の仲間が眞つくろに日やけした背中を並べて甲らを干してゐましたが、何かの話の序に、一人の少年が河は西方へも流れる、と言ひ出して大論爭になりました。その少年は越後から移つて來たものなので私達は一齊に『この越後つぺい、生意氣なことをいひやがる。越後だつてどこだつて、水が西に流れるつて法があるかえ馬鹿野郎! 水はかみからしもへ流れるにきまつてらい!』とののしるのであつた。私の郷里では西がかみで東がしもなのであつた。多勢と一人ではさすがの越後少年も對抗し得ず、齒がみしてくやしがつてゐた。しかし、彼は何か一案を得たものの如く、俄にその砂原を兩手でかいて、渚から西方に向けて一線の溝を掘つた。そしてそこにあつた小さな水たまりに河水を導き流した。『どうだ、見ろやい、利根の水だつて西の方へ流れるぢやねえか』彼はいういう迫らず勝利者の態度でかういひました。世間見ずの私どもは一言もなく沈默を守るより他に仕方がありませんでした。  私が初めて東京に出たのは、十五歳の時でした。その時一番に驚いたのは人間の多いことでしたが、次に驚かされたのは東京灣の海面の廣大なことでした。自然界に對する知識がこのやうにあはれにも貧しかつたのは、全く當時の教育法の缺かんであつたと思ひますが、人間界のことについては可なり進んだ知識を與へられたやうに考へます。  私の父は子供達の教育には並々ならぬ注意を拂つたらしく、常に家庭教師を招いて兄達の勉強を助けました。養蠶期或は暑夏期に小學校が數週間休校の時には特に學校の先生方を聘して、私達兄弟と村童達のために特殊學校を開いてくれました。父は何かの用事があつて屡〻東京・横濱に行きましたが、置時計を買つて來て村人を驚かしたことが私の幼年のころの思ひ出にのこつてゐます。父はその頃から洋服をきることがありました。明治十八年(一八八五年)の頃だと思ひます。初めて利根川に船橋が架設せられ、本庄町(埼玉)と伊勢崎町(群馬)との街道が直通し、縣知事や郡長が馬車で巡視した時架橋者總代たる父は例の洋服で案内役をしたことを今も幽かに覺えてゐます。云はばハイカラの田舍紳士であつた父は自由民權論の急先鋒板垣退助の讃美者で、板垣の大きな肖像などが家に飾つてありました。それは私どもの小學校の先生で後には地方の政治運動の大先輩になつた持田直といふ人が自由黨であつたためかも知れません。福澤諭吉の『學問のすすめ』なども次々に取り寄せて兄に讀ませ聞くのを父は非常に樂しみにしてゐたやうです。  私が十五歳の時、私を東京に呼んでくれたのは、郷里の先輩、茂木虎次郎(後に佐藤となる)といふ米國法學士の新歸朝者で、私の家に來てくれて、直接私に出京を促すので私はうれしくて飛びたつばかりでした。明治廿三年(一八九〇年)右の茂木氏とその同窓の橋本義三氏(後の粕谷氏、衆議院議長)との共同家庭の玄關番になつたのは、それから間もないことでありました。そこで初めて社會主義の話を聞き、佐藤氏がアメリカで見聞したシカゴ無政府主義者の大ストライキの物語などを聞いて私は少年の血を湧かしました。      叛逆への興味  ルクリュ翁は興味をそそられて長椅子から起き上り 「一八九〇年に早くもシカゴ・アナキストの話を聞いたとは驚いたが、當時あの事件がどんな影響を日本に與へたらうか」 「さあ、僕は十五歳の少年であつたから何も分らなかつたが、それから間もなく、國會議事堂に爆彈を持ちこんだものがあつたとか色々物騷な噂が傳へられた」 「議會に爆彈が?」  翁は益〻驚いたやうであつた。ヴィヤン青年がフランス國會に、而も議事進行中に爆彈を投じたのは一八九三年で、その教唆者と見なされて重懲役二十年の刑を受けて現に祖國亡命中の翁が驚くのも尤もな次第だ。もちろん翁は自分の重大事件などを口にはしなかつた。私はただ當時の翁の態度を思ひ出して、今、自ら合點するのである。マダムもいささか激動の樣子であつたが、やがて冷靜に返つていふ。 「そこで、あなたは無政府主義者になつたといふ譯ですか?」  いえ、いえ、わたしが無政府的社會主義者になつたのは、それから十數年を經過した後のことでそれまでには、生活の上にも、思想の上にも、樣々な變遷があり、浮き沈みがありました。この弱小な生命の上には容赦なく浮世の荒浪が襲ひかかつて來たので、今その過去をふり返つて見て、自分ながら、よくもこれまで、自分を保つて來たものだと驚くばかりです。  私の父は次兄を東京に遊學させるために、母をも共に上京させ同郷の青年學徒達の食事の世話をさせましたが、漸く東京の生活に慣れた母は、下宿屋の看板を出して、より多くの人を止宿させるやうになりました。そこへ下宿したのが同郷の新歸朝者茂木虎次郎、橋本義三の兩氏で、この兩氏がやがて一戸を持つことになつたので私はその家に招かれたのです。その時、茂木氏等は土佐の板垣門下の人々と『自由新聞』といふのを創刊して人民自由のために大いに活躍し始めたのです。最初の衆議院議長中島信行といふ人を始め、江口三省、直原守次郎などいふ急進的自由主義者が屡〻來訪し、後には信州飯田事件の首謀者櫻井平吉氏も同居者となり、ほとんど毎晩、社會問題の議論が沸騰しました。江口氏は自由黨の綱領中に勞働者解放の一項を加へんことを主張して容れられず、遂に自由黨を脱退した人なのです。また自由新聞の方も、橋本(粕谷)茂木(佐藤)等と板垣派とは意見が合はず遂に腕力沙汰に及んで茂木氏はしたたか襲撃せられました。私は呼ばれて茂木氏の避難所を見舞ひましたが、それはこんぱる(金春)の藝者屋か或は待合であつたと思はれ、美しい姉さん達が幾人も付き添つてゐました。私が室に入ると茂木氏は寢臺から起きあがり、家は無事ぢやつたか己れはこんなにやられた、と、ずたずたに引裂かれたフロックや切られた時計の金鎖などを示すのでありました。私は社會主義のことなどは能くわからないが、かうした鬪爭には頗る引きつけられ、茂木(佐藤)氏はこの世の一番偉大な英雄であるやうに感じました。  ところが、かうして自由新聞はめちやくちやになり、茂木氏は中島信行夫人(有名な湘烟女史)の媒介で紀州の素封家佐藤長右衞門氏の女婿となり、橋本氏は同郷の粕谷家に入婿となりました。一家離散と決定して淋しき未來が待ちまうける如く見えた私は、同じ米國歸りの福田友作氏に引き渡されることになりました。福田氏は中村敬宇先生の同人社に教鞭を執ると同時に、社會運動などにも關係してゐました。福田氏の住居は新婚の家庭であつた筈ですが、新夫人は留守がちで私と他の一青年とはいつも同人社の食堂で食事をすませました。それから間もなく同人社社長中村敬宇先生は死去し、同人社は閉鎖され、福田氏はその家をもたたむことになり、私は母の許に歸りました。  丁度その時、勃發したのが埼玉硫酸事件といふ地方の政爭で、私の兄二人親戚など二人と、兄の學友二人と、都合六人が刑事被告人となつて鍛冶橋監獄に投じられました。私の一家は自由黨であつて縣政上の改進黨と爭ひ、最後の手段として政敵を上野、王子間を進行中の汽車の中で襲ひ、これに硫酸を浴びせて、下手者は車窓から飛び下りたのです。すべての計畫は私の次兄が發案したことで、彼はまだ十九歳の青年で、今の中央大學の前身、東京法學院の學生でありました。兄の命令で私も一度はその硫酸を買ひ求めに遣られましたが、子供の故を以て、藥屋は賣つてくれませんでした。そして、こんどは長兄が出かけて遂に一罎の毒藥を入手することが出來ました。いよいよ決行の前夜、五人の同志は最後の晩餐といふべき酒宴を張りましたが、その時の光景は悲痛を極めた眞劍なものでありました。下手者に選ばれた男は自ら進んで其任に當つたのですが、さすがに涙ぐんだりして、私の兄に叱られた樣など、今も眼に見るやうに思ひ出されます。決行の列車が王子驛に着くと直ぐに警察官が出張し、間もなく兄達四人の同志は捕獲され、下手者もその日の内に捕へられました。その三日目頃、家宅搜さが來て、家中を掻き亂しました。私が硫酸を買ひに行つて無駄になつた購入書が火鉢の引出にあることに氣づいた母は、何とかして處分したいと思つたが、刑事が眼前にゐるので如何ともすることが出きず、隙を見て口に入れて飮下しようとしたがうまく行かず、遂に煮たつてゐた鐵びんの中に投じて發見を免れたといふ悲喜劇もありました。この事件で次兄と學友二人と親類のもの一人とは無罪になりましたが、長兄と下手者とは一ヶ年と三ヶ年との刑を被るに至りました。どの被告も口を割らないので未決が一年半もかかりました。次兄も初審で一年の禁錮を宣告されたが、再審で江木衷氏の辯護によつて無罪になつたのです。それは明治二十六年六月頃のことです。  このやうな事件に遭遇する度ごとに、私は、叛逆的行動に興味をそそられるやうになりました。兩兄が出獄し、次兄が法學院を卒業して母とともに歸郷したので、私は同じ家にゐた先輩の世話になることになつたが、間もなくその先輩に叛逆して、その家を飛び出し再びさきの福田友作氏の家に寄食することになりました。その時、福田氏は先妻と離別して、大阪國事犯のヒロイン景山英子氏と結婚して既に男の子を儲けてゐました。      變轉の若き日  三男に生まれた上、生まれ出ると間もなく形式ながら他家の養子にされた私は、いはば一家の餘分ものでした。況んや、家道の傾いた父から學資を送つて貰ふことはできませんでした。從つて周圍に起つてくるめまぐるしい變轉の浪に伴つて、わたしの生活も浮動するのでした。いろいろと自活の道を見出させようとして父は私に内職の仕事などを探させましたがうまく行きませんでした。その間においても、私は時間の都合を計らつて、國語や漢文や數學や英語などを一通り勉強しました。もちろん不規則な勉強ですから上達しませんでした。いま私の印象に殘つてゐる當時の修業の中では、帝國教育會(辻新次氏會長)内文學會における根本通明老師の論語や詩經の講義、畠山健氏の枕の草子の講義や立花銑三郎氏と元良勇次郎氏の倫理學などが、最も多くの影響をわたしの心に遺してくれました。二三ヶ月通學した山本芳翠畫塾の思ひ出も、出京後最初の勉強であつたことを理由として、深い懷しさの對象になつてゐます。先輩塾生中には湯淺一郎、白瀧幾之助、大内青也(?)などといふ、日本の洋畫界では最も古い人々がをりました。しかし環境の變るに隨つて、私の修業も變りました。交通の便もなし、自修の資材を缺いた當時では、自分の思ふやうには行きませんでした。國語傳習所といふところで、落合直文や、小中村義象や、關根正直やの講義を聞いたり、右の文學會でいささか哲學じみた講義を聞いて、私の心持はその方向に傾き、今の東洋大學の前身である哲學館に入學しました。しかし在學僅か一ヶ年餘りにして、私は殘念ながら郷里に歸らねばならなくなりました。それは再び寄食した福田家の生活が非常な困窮状態に陷つたためでありました。  福田氏は栃木縣の可なりの資産家で、その家の長男である友作氏が、ささやかな家庭を維持する經費ぐらゐは、問題にもならぬほど些細なことであつたに相違ありません。ところが兩親の氣に入りの嫁を出して、景山英子といふ變り種と同棲するに至つた友作氏の行動は、當時としてはまさに兩親への叛逆でありました。殊に家付の娘であつた母親が許しませんでした。勿論、自由行動を採つた友作氏は自主生活を營むべきは當然でありました。ところが金持の息子さんの悲しさで、貧乏骨ずゐに達しながらも、最後には生家の方からどうにかしてくれるものといふ依頼心が無意識に潜んでゐたのでありませう。ただ不平不滿でその日その日を送るといふ有樣でした。明治二十七年(一八九四年)の大晦日にはお正月の餅を近所の餅屋に注文したが、その餅代が調達できないで、折角持つて來られた餅をまた持ち歸られました。ところが、その大晦日の夜、わたしの父が、わたしに新調の手織木綿の羽織と小倉のハカマとを持つて來てくれました。わたしは折を見て父に福田家の窮状を話すと、父はそつと懷から五十圓とり出して、御用にたてばよいが、と申しました。福田氏夫妻のよろこびはもちろん言語に絶するほどでした。そして父が歸ると、すぐにお正月の酒と餅とが買ひこまれました。  この五十圓の金は米一升十錢の當時としては可なりの助力になりながら、しかし燒石に水であつたことは當然でありました。わたしの新調の羽織と袴も、永らくは手許に留まらず、質屋の繩に縛られて、お倉の奧に幽囚せられました。夏になつても蚊帳がなく、知人の紹介で、損料で二はりの蚊帳を借り、家への途中、一はりを質に入れてお米を買つて歸つたこともあります。牛込天神町の福田家から下谷黒門町の知人のところに行き、借り受けをし、神田表神保町の質屋に廻つて歸るのですから、大へんです。電車もバスも無し、人力車に乘るのも惜し、大ていは徒歩のお使ひです。かうした貧しい中にも、景山女史が大切に持つてゐた軸物がありました。それは朝鮮の革命志士金玉均が特に女史のために詠じた詩を絹地に書いた見ごとな懸物でした。景山氏福田夫人は『ぐづぐづしてゐれば、こんな物もいづれは無くなるであらうから』と、わたしの父に感謝の意をこめて寄贈してしまひました。父はまたその時の景山氏の手翰を額にして奧座敷に飾つて置いたほどそれを喜んで居りました。  どういふ意味で私は福田家を去つて故郷に歸つたのか、その時の事情を忘れてしまひましたが、一家を維持することが困難になつたことが主要な原因であつたと思ひます。赤子を負うて栃木縣の郷家に歸つてゐた福田氏の居を訪問したのがその時の別れになつたことを思へば、福田氏夫婦は既に郷家に入ることになつたのかも知れません。兎に角、かうして私も故郷に歸り間もなく友人の紹介によつて上州榛名山麓の室田村といふ所で小學校代用教員になりました。この小學校教員の職は私に眞の生きがひを感じさせました。自分の心がすぐに兒童に反映します。兒童は自分の鏡の如くです。世に教師殊に小學校教師ほど生き甲斐のある生活が他にあらうかと私は感じました。私は眞に感激の中で一ヶ年を過ごしました。殊に村童達と野に行き山に遊ぶ時などは天國を感じさせられました。ワラビとりに相馬山に登つて一望千里の關東平野をながめた時の感興は、今も忘れられません。はるかに霞をへだてて銀の線の如く見えるのは、わが幼ななじみの利根川ではないか、すべては夢の國に遊ぶごとく感じさせられるのでありました。然るにその私が赤痢病になつて歸郷し、私の病氣が父に感染して父は死去しました。私は再び小學校教員に戻り、しばらくその職を續けましたが、何とかして確乎たる職位を持たなくては永久性のある生活に就けないと感じました。二年ほど代用教員を勤めてゐる間に教育といふものに興味を感じたためでしたが、中等教員の檢定試驗を受けて見る氣になり、一度これを試みましたが、全然失敗に終りました。それは明治三十年のことであつたと思ひます。中等教員の試驗は科目が少なく自分で選擇ができるのでその方を試みることになつたのです。この失敗に反撥して、再び苦學生活を試みるべく上京を決心したのであります。丁度これと時を同じくして例の福田氏が上京して新たに一家をかまへるに至りました。そしてわたしにもう一度上京せよと促すのでありました。そこで私は、暫時福田氏のところにゐて、友人、先輩、親戚等に頼んで、毎月少々づつ學資を貰ふことを約束するに成功しました。後には粕谷義三氏からも毎月送金してくれるやうになりました。そして當時上京してゐた從弟の下宿に同居することになりました。かうして私は明治三十一年に今の中央大學の前身東京法學院に入學し、三十四年に卒業するまで、極貧ながら專心勉強することができました。法律の研究など素より好んだ譯ではないですが、學資の補給を得るには、これが最上の手段であつたのです。私の本心は英語や哲學に傾いてゐたので、法律學校の講師の中には遂に一度も顏を見ずに過ぎ去つた人がある位でした。それでも卒業の時には可なりの成績であつたのは不思議なほどでした。      生涯の轉機  明治三十一年から三十四年までの私の生活は、私の一生涯の運命を決すべき樣々な激浪と渦卷とに飜弄されてゐた。それから學校を卒業して萬朝報記者となり、次で平民社の一員となつてからも、私の精神生活は決して明朗でなく、常に不安と焦燥に驅られてゐたが、しかし、それは學生時代に受けた衝撃の餘波に過ぎなかつた。  自分の古い傷をいま再びさらけ出すのは不愉快極まるが、その時代の自分を語るには、どうしても、それをぬきにする譯にはゆかない。いやなことでも意地になつて語らねばならない。私はすべてをマダムに打ち明けて物語つた。  明治三十一年の九月に今の中央大學の前身である東京法學院に入學し、それと同時に築地の立教學校の分校である英語專修學校(神田錦町)といふのに入學して自分のおくれてゐた英語の力を急増することに努めました。素より充分の學資がないので從弟の下宿(飯田町)に同居して、私は朝から晩まで英語學校と圖書館とに暮しました。從弟の室が三疊で、そこに机を二つ並べ、本箱を置いてあるのだから、言はば、そこらの警察の留置所にゐるやうなものでありました。その下宿も所謂素人下宿といふ奴で、水戸の藩士の未亡人と老孃との三人のお婆さんが細ぼそと營んでゐたのでありました。  明治三十二年のお正月元日に、われわれはこの下宿の親戚の家に當時流行のカルタ會に招かれて行きました。それは本郷の新花町といふ粹なところでありました。みんな興に乘じて夜の更けるのを忘れ、たうとう翌朝の初荷の聲を聞きながら飯田町の下宿に歸りました。ところが、これが縁になつてその家で私を養子にほしいといふことになりました。その家には男女の子供が澤山あるのですが、主人が年老いてゐるので子供達の助力者になつてほしいといふのでありました。殊にその姓が僕と同じの石川氏であるから、法律上には長女を娶つてくれればよいといふのです。僕が餘りに貧しい生活をしてゐて、しかも一心に勉強するのに同情してくれたのでせう。それは從弟を通しての申し入れであつたので、私は郷里の母や兄に意見を問うてやると、兩方とも、應諾せよ、といふ答へでありました。  わたしの生活と生活氣分とは、かうして俄かに變りました。養父は幾つかの鑛山を持つて居り、上野公園にパノラマを經營し、銀行の創立をも計畫してゐました。鑛石見本を携へて横濱に行き、西洋人に賣り込むべく奔走したり、試掘權維持のために仙臺方面に飛んで行つたり、銀行創立の一委員となつて福田友作氏の出資(一萬圓)を獲得したり、學生の身である私の生活としては餘りに横道にそれて行きました。教場で鼻血を出すまで英語の勉強に熱中した昨日までの生活を顧みると自分ながら驚かされるほどでありました。しかし、金さへ儲かれば、すぐに洋行ができるといふ希望が與へられたので私はその生活に滿足でありました。  ところが思はぬ方面から魔の手は伸びてきました。飯田町に大きな家を構へてゐた福田氏は俄かに居を轉じて郊外の角筈にささやかな家に住むことになりました。銀行家として生活するには愼ましい態度こそ必要だと考へたのかも知れません。所用で福田家を訪問すると、時には歸りの汽車が無くなることもありました。その頃の角筈は一面が野原であり、新宿驛も淋しい小さな一軒家でありました。そして汽車が無くなれば泊るよりほかに致し方がない。それに遙々訪れると福田氏は必ずお酒を出して御馳走するのです。わたしは餘り飮めないので、いはば福田氏のお酒の肴にされるやうなものでありました。けれども福田氏はわたしを歸さない、無理に引留められるのは可いが、夏の夜は蚊帳の中に寢なければならない。魔の影はこの蚊帳の中にひそんでゐました。福田夫妻は奧の間に寢て、酒に醉うた私は若い娘と四疊半の小さな室に一つ蚊帳の中に寢せられました。その時私は二十三歳、娘は十九の若ざかり、婚約の人がアメリカに行つてゐるので、暫し福田家に托された人。夏の夜の短い夢ではあつたが、若ものたちの青春の血は漲り注いで醍醐の海を湛へるのでありました。  最初は已を得ず泊めてもらつたのですが、それからは、こちらから泊めてもらふやうに時間を見計つて行くこともありました。この間に福田家に一凶事が起りました。それは福田氏が突然發狂したことであります。醫師の診斷では腦梅毒の結果で不治の病氣だといふ。新立銀行に出資された一萬圓の金も返し、看護のお手傳ひに頻々と福田家に行くやうになりました。かうした不幸を見るにつけて私の感情も冷靜な反省を呼ぶやうになりました。しかし氣の毒な娘は益〻熱中してゆく樣子でありました。福田家には病人の看護やなにかで男手の必要を感じ、屈強の若い男子を手傳ひに頼みました。私はその若者にいささかのしつとを感じました。その内に娘は祕かに身おもになつたことを告げるのであつたが、私は自身のしつと心に打ちまけて、それは私の責任ではあるまい、と反ばくさへしました。さうした時には娘はくやし涙にくれるのでありました。  福田氏は遂に逝去しました。その混雜があると同時に娘は何れへか姿を隱しました。福田未亡人は、きつとあの若者のさしづだと私に告げるのでありました。私は何とも答へやうがありませんでした。ところがそれから幾週間かたつた時、私の下宿に私の留守中に未知の來訪者があり、近所の某所に待つてゐるから來てくれと言ひおいた、すぐに行つて見ると、それは向島の業平町の木賃宿の主人で、娘の依頼でやつて來たのです。もう産月に近いのだといふことを聞いて私は今さらながら驚天しました。明日を約してその男を歸し、直ちに行李の中から眼ぼしい衣類全部を包み出して質屋に飛び、三四十圓の金をこしらへました。そして兎も角も翌早朝、向島まで車を飛ばし、お腹の大きい娘に會つて一時しのぎにと約束の金を渡しました。喜び涙ぐむ娘に暫しの辛棒を説いて私は一まづそこを辭し去りました。      若き日の苦惱  福田未亡人から聞いた若者への疑ひが晴れた譯ではないが、娘が私に訴へる以上は私に責任があります。どうしてこの娘を助けたらよいか。名義だけにしろ他家に養子になつた身で既に婚約の娘もある自分であれば、自由の行動もできません。思案に餘つて、それを福田未亡人に打ち明けました。福田未亡人は私の打ち明けたことを非常に喜んで、すぐに知人の慈惠大學講師に事情を告げて、慈惠病院に入れてくれました。そして間もなく安らかに分娩することができました。數日にして、その母と子とは福田氏に引き取られました。憐むべきその赤子は、私の郷里の兄夫婦の養育に委ねられることになり、やがて上京した兄夫婦に引き渡されました。  かうして難問題は一つかたづきました。けれども私の精神上のなやみは、深まるばかりでした。赤子は引き取つたが、その母を如何にすべきか。福田氏は私がその母と結婚することに賛成しない。私としては養家の娘に對する義理もある。こんな不しだらをしながら學資を貰つてゐることは一日も堪へられない。私は斷然決心をして養子縁組の解消を石川家の父親に懇願しました。しかし事情を打ち明ける譯に行かないので、唯だ私が石川家の恩顧を受ける資格なきこと、今までの御恩は決して忘れず、一人前の人間になつたら、必ず御恩報じをします、など言ひわけしたが、勿論先方では譯がわからなかつた。親戚の人々が來て私の心をなだめもしました。婚約の娘も來ていろいろと私の氣持を柔げることに努めました。それに對する私の心は悲痛のどん底にありました。私はその娘を熱愛するといふほどではなかつたが、しかし、いやではありませんでした。養母はその娘と私とを伴うて、よく諸方の盛り場に行きました。十六歳の少女であつた娘は、なまめかしい素振りなどいささかも示しませんでした。その少女が、この問題に會つてからは、すつかり大人らしくなつて私のところに訪れるやうになり、それが私には殊に痛ましく感じられました。わたしは一そ自分の失敗をうち明けようかとも思ひました。しかし氣の弱い、僞善のわたしには、それをどうしても決行し得なかつたのです。  それに私は所謂『實業家』のやうな生活が私の本性に合はないことを氣づき始めました。わたしは矢張り貧困の中で勉強した方が、自分の本分であるやうに感じ始めました。しかしたとへ一年間でも父と呼び母と呼んだ養父母に對しては、何と言ひ譯することもできない理由で、縁組解消を請ふのは、何としても、つらいことでした。それはほんたうに泣き別れでありました。  そこで一方にかうした離別を強行した私は、他方の娘に對しても甘い考へを持つ譯に行きませんでした。わたしはここで一切の過去から斷ち離されて、眞に新しい生活に入らねばならぬと考へました。しかし、それは理性で靜かに考へる時の心のさまであつて、物に觸れ、ことに感じては、身も心も狂ひなやまざるを得ませんでした。かうして私が狂ふさまを見ては、母になつた彼の女も些か私の行動にあきれた樣子でありました。そして突然福田家から姿を消してしまひました。彼女に對する愛情が私にないものと感じたのかも知れません。それも彼女としては無理ではなかつたのです。私が心身を狂はした眞情を察することは、彼女にとつては不可能であつたのです。  一波は萬波を呼ぶ。一つの波が消え靜まつたと思ふと、そのあとは幾つもの波が起つてゐました。犯した罪から免がれようとする私はそのために悶え狂つて、どこにでも慰安を求めようとする。急の夕立に追ひまくられて、どんな木蔭、どんな軒端をも頼みにして驅けるやうに、少しでもやさしい異性を見ると、すぐにそれに近づくやうになりました。 『男らしく一本立ちになつて、勉強しなさい』と元氣づけてくれるのは福田未亡人でありました。從つて福田氏は私が養子縁組みを解消することには賛成でした。ところで縁組を解消する以上は、その親戚である今までの下宿に居るわけに行かない。私は學校に近い猿樂町の下宿屋に轉居しました。しかし、そこにも長くは居れませんでした。生活費が餘りに高まるからです。私は一人の友人と相談して普通の家庭の一間の二階に同宿することになりました。生活費は今までの下宿屋の半分で足りるので、學校を卒業するまでの視透しも出來るやうになりました。  その家は飯田町の中阪に近いところでありました。老母と二人娘と末の男の子と四人の家庭でありました。その家の次女は高等師範の生徒なので日曜日毎に家に歸るだけでありました。從つて平生は近所の小學校教師の長女と、中學生の息子と、その母親との三人暮しでありました。父親はどういふ事情か二ヶ月に一度ぐらゐしか姿を見せませんでした。横濱に住んでゐたやうでした。この家に移つてからは、粕谷義三氏から毎月十圓づつ送つてくれるやうになり、不足は親戚や友人から補充されることになつたので、私は安心して勉強し得るやうになりました。  ある時法學院に全校學生の討論會が催されました。この學校へは餘り顏を出さない私ではあるが、いささか討論に興味をそそられてそれに參加しました。勿論優勝など豫期した譯ではなかつたが、原嘉道、馬場愿治兩氏の審判で、不思議にも二等賞が授けられました。大いばりで歸宅して、宿の老母にそれを見せると、お婆さんは、わがことのやうに喜んでくれました。その當時南洋から歸つた佐藤虎次郎氏や粕谷義三氏の手紙が屡〻來著する、景山氏として有名な福田英子氏は頻繁に來訪する。こんなことから、家のお婆さんの私に對する態度は、漸く變つて來ました。明治三十四年七月、私が法學院を卒業した時には、お赤飯をたき大きな鯛の頭付を添へて祝意を表してくれました。その時、その母親の言葉に『これは澄子の志しなんですよ』といふ一語がありました。私ははつと思ひました。暑中休暇で高師の寄宿舍から歸つた澄子さんがお勝手元で働いてゐるのです。そして、靜かにこちらに向いて手をついて『お芽でたう御座います』といふ。それは靜肅そのものでありました。私は胸のときめくのを抑へて、ただ『有りがたう』と答へたのみでありました。      戀する心 「婚約者がありながら、他の娘さんに關係するなんて、たちがわるいですね。そしてまたその兩方と別れてしまふ、そんな馬鹿げたことがありますか?」  マダムは眞劍であつた。マダムは二心といふことが非常に嫌ひなのだ。それにフィヤンセーと分れたなら、子の母と結婚すればよい。その人とも別れるのは二重に罪を犯すことになる。自分の心を輕くするために他の苦しみを顧みないエゴイズムだ。と、マダムは責めてくる。私は答へた。  けれども、その當時の私としては、かうした失敗の生活を一切清算したかつたのです。勿論それは質のわるいエゴイズムに相違なかつたでせう。今考へて見ると、わたしは性の問題については全然無教育であつたことに氣がつきます。いや無教育どころか、非常な惡教育を環境から與へられたのです。十六、七歳から遊廓に入りびたつてゐた兄やその友達の男女關係は放蕩を極めたものでした。さうした人々の行動や談話に自然に感化されたのでせう、わたしも遂に前後をも顧みずに失敗を重ねるやうになりました。  しかし、いかに墮落し惡化しても心が靜まると、また烈しい良心の聲が身に迫つて來るのでした。それに、せつかく學問に心身を打ち込んだのも僅か半年たらずで、生活環境はがらりと一變しました。その新しい生活も、また長つづきせず、わたしの心は地獄の底に轉落してしまひました。惱みに堪へず、いつとはなしに、耶蘇の教會に足を運ぶやうになりました。はつきり意識した譯ではないが、『救ひ』を求めていつたのです。そして曾て經驗したことのない光明と元氣とを與へられたのが、本郷教會の海老名彈正先生の説教でありました。わたしは全我を傾けて海老名先生に沒頭しました。そして洗禮を受けました。それは東京法學院を卒業してから間もない時でした。  澄子さんとの間に愛の誓ひが交はされたのも、その當時でありました。同宿の友は暑中休暇で歸郷したので一人で二階にゐたわたしは、澄子さんと談らふ時間と自由とを心ゆくまで與へられました。しかし、過ちを再びしてはならない。敗殘の身、けがれた身ではあるが、心だけは淨らかにして、この戀は遂げなければならない。かう私は決心しました。わたしは天にも登るやうな嬉しさで眞に過去の惱みから救はれたことを感じました。  澄子さんは、或る時言ひました。高等官にでも辯護士にでもなられるやうに、試驗を受けて下さい。さうしないと親達にも話せないから。わたしは、そのことを快よく承諾しました。そして、大勇みで勉強にとりかかりました。學校になど稀にしか出たことのない私ではあるが、しかし自信だけは持つてゐたのです。法律なんていふものは人間の造つたもので、それに頭をつかふのは元來が低能者のすることと、きめてゐたのです。安心しきつて辯護士試驗を受けました。家に歸つて、問題とわたしの答案とを引き合はして見て、無論及第だらうと信じてゐました。ところが、何ぞ計らん、幾週間の後になつても何の通知も來ませんでした。それは何かの間違ひだらうと何時までも考へたのですが、遂にあきらめざるを得ませんでした。  次で司法官の試驗にも應ずる積りで願書を出したのですが、冷い牛乳にあてられて大腸カタルに罹り、幾日幾夜かを澄子さんの手厚い看護に浴した幸福には感謝したが、大切な試驗には行けませんでした。そして、かうして二つの試驗に失敗したことは、わたしにとつても、澄子さんにとつても、暗い不安の種になりました。澄子さんはやがて學校に歸り、わたしは獨立生活の道を樹てなくてはなりません。それは漸く惱み悶えの戀に變つて行くのでした。  しかし私は試驗についてはまだ失望しなかつたのです。試驗官の方で私の答案に落第したのだ、とかう考へてゐました。時のたつのは早いもので、間もなく翌年の試驗期になり、今度は高文の試驗に應じました。提出論文は及第の通知に接しましたが、次の筆記試驗はまた落第でした。この時わたしは既に澄子さんの家から他に引越してゐました。澄子さんの姉さんにお婿さんができたので、室を明ける必要ができたのです。  それから間もなく、私は堺利彦、花井卓藏兩先輩の紹介で萬朝報社に入社することになりました。明治三十五年初秋でありました。花井氏とは、わたしがまだ母のところにゐた十五六歳の頃から知り合ひになり、花井氏の長男節雄君が死去した時には私は香爐を持つて葬列に加はりました。堺氏と知り合ひになつたのは、同氏が福田氏の隣家に引越して來られたことが因縁になつたのです。堺氏の何かの文章を讃美したもの(何かの雜誌に掲載したもの)を福田氏に見せると『堺さんは家のお隣に越して來たの』といひ、すぐ堺氏を呼んで來てご馳走しながら紹介してくれました。兎に角、かうして私は萬朝報社の記者にさして貰ひました。そして最初のうちは社長黒岩周六氏の祕書を兼ねてゐました。  堺氏は私を萬朝報記者にしてくれると同時に、私を試驗地獄から救つてくれました。私は學校を卒業するまで、あの樣な試驗を受けるつもりはなかつたのです、まつたく戀ゆゑに迷ひこんだ横道でありました。この試驗を思ひ切るといふことは何でもないが、そのために、天にも地にも、かけがへのない生命そのものである戀をも思ひ斷たねばならなくなるであらうといふ不安がありました。しかし『そんな馬鹿氣たことは止めたまへ』といふ堺氏の忠告には眞實がこもつてゐました。恐らく堺氏は福田氏から私の心の惱みを聞き知つたのかも知れません。堺氏の言葉に從つて私はその年の試驗のみならず、永遠にそれを斷念しました。しかし私の戀心はつのるばかりでした。先方は私が新聞記者になつたことに失望を感じたらしく學校を卒業して高等女學校の教諭になつたばかりで病臥する身となりました。私はそれを見舞ひたかつたのですが、澄子さんや母親の心持が、私を快く受け容れてくれるかどうかわからないので思ひ止まりました。唯澄子さんの弟を通して私の心を傳へるのみでありました。弟は常に私のところに出入してゐましたから。      萬朝報時代 「辯護士だの、裁判官だのにならないで、あなたは助かりました。ほんたうに、人間として生きることができたのです。その意味でムッシュウ堺こそ、ほんたうにあなたの救主ですよ」  マダムには、私の戀愛問題など問題ではない。それよりは生まれた子供こそ大切だと考へて、そのことを問ひ詰めて來る。子供は私の母が孫娘として愛育しましたと答へると 「ああ、さう! それで安心しました」  といかにも喜ばしさうに破顏微笑するのであつた。そして 「それから基督教のあなたはどうなつたんです?」  耶蘇教ぎらひのマダムはまた些か興奮するのだつた。  わたしが萬朝報社に入つた時、同社の外廓團體として理想團といふものがありました。その中には若い辯護士達や新進の思想家などが加はつてゐましたが、何と言つても、その思想的支柱となつてゐた人は特異な信仰の持主として有名な内村鑑三氏其他二、三の萬朝報社員でありました。毎日新聞の木下尚江氏も有名なメンバーの一人でありました。屡〻理想團講演會が東京及び地方で開かれましたが、雄辯家木下氏の名は缺くことのできない看板でありました。私は社長の祕書であつた關係上、また理想團の事務も執らされました。諸方に飛んで講演會の準備工作の手傳もしました。この理想團で私は初めて公開演説をさせられて大みそをつけたことを記憶してゐます。それは四谷見附外の三河屋といふスキヤキ店の二階でした。私の前座が餘り長談議になつたので、聽衆はアクビする、私は結論に達すべく焦せるが、どうしても結びの言葉が出てこない。やつとのことで言葉を絶つて、樂屋に歸つた時は、汗びつしよりになつてゐました。  この演説會が終つて、奧の室で黒岩社長以下牛肉のスキ燒の御馳走を食べてゐると、さきの會場には新たに多くの青年が車座になつて首を集めてゐました。それは漸く流行し始めた百人一首のカルタ會でありました。黒岩社長は、いたくその光景にうたれ、『これは面白い』の嘆聲を連發するのでありました。萬朝報がカルタ會の肝煎になつたのは、これから始まつたことであります。  社の仕事に少し慣れた頃でした。私は社長の家に屡〻招かれました。それは黒岩社長が當時執筆中であつた『天人論』の原稿を整理淨寫する仕事の御手傳をするなどのためでありました。しかし社長は私には筆耕をさせずに何時も議論を吹つかけるのです。デカルトの『われ思ふ故にわれあり』から、カントの『實踐理性』論から、『至上命令』論に及び、議論はなかなか盡きませんでした。わたしはしばしば夜中の十二時を聞いてから車で送られて歸宿するのでありました。そんな時は、いつも角筈の福田氏の家に行くことを常としました。素人下宿の家に夜更けて歸ると厭な顏をされるので、つひさうなつたのであります。  當時の青年は、多く哲學的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。  萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。  ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明治三十六年(一九〇三年)の夏には日本の國論が沸騰して猛烈な勢で對露開戰論が唱道されました。萬朝報社でも黒岩社長や主筆格の圓城寺天山氏は開戰論者でありました。これに對して客員である内村鑑三氏や社會主義の幸徳秋水、堺枯川兩氏は非戰論を主張しました。私は會議室の隣で事務を執つてゐたので、兩派の對論をしばしば聞くことが出來ました。新參の若者であつた私は、その議論に加はり得なかつたのは勿論、その議論を聞くことも遠慮がちにせざるを得ませんでした。しかし私のほのかに察するところでは、堺氏の論鉾が最も鋭かつたやうに思はれます。内村氏は以前自ら非常な難局に遭遇した際に黒岩氏の厚い援助を受けた關係があり、幸徳氏は黒岩氏と同國人であり、かつ、その文才を愛せられて特に高給を與へられてゐた關係にあり、ともに黒岩氏に對しては極めて遠慮がちでありました。退社の際なども、堺氏がぐんぐん二人を引つぱつたらしく私には感じられました。堺氏は退社の直後私にいひました、『人間は決して腕前一ぱいの給料を取るものではない。いつ扶持にはなれても何處へ行つても自力で生活できる自信を持ち得ないと弱くなつて恥をかく』。非戰論で退社する時の堺氏の意氣を追想して私は『ははーなるほど』と感じたことでした。  幸徳、堺兩氏と内村鑑三氏とは二つの退社の辭を萬朝報第一面に掲載してこの思ひ出多かるべき新聞と別れました。それが日本の進歩的知識階級に非常な衝撃を與へたことは言ふまでもありません。それは三十六年十月十二日のことでありました。やがて十一月十五日には、堺、幸徳兩氏協力の週刊『平民新聞』が創刊されました。それがまた非常なセンセーションを日本の青年社會に興起せしめ創刊號は再版まで發行するに至りました。剛腹そのもののやうな黒岩氏も何とかして退社の人々と和解の道はないものかと考へてゐたらしく、私にもそれとなく意中を漏らしたこともありましたが『平民新聞』創刊のことを聞いて、初めて斷念したやうに見えました。私は『平民』紙創刊の議が一決すると同時にこれに入社を許され、同十一月二十九日の同紙三號に入社の辭が掲げられました。      基督教の影響 「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」  ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。 「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」  マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。 「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」  これに應じてわたしはまた語を續けた。  わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章を寄せました。しかし、ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてでありました。海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの、三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。  わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生から授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。せめて二十歳前に、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。  このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』に入つたので入社當時、感激に滿ちてゐる間は何も不都合を感じなかつたが、時のたつに從つて些かの心理的摩擦を覺えることもありました。殊に幸徳氏は眞向から私の基督教を打破しようと攻撃の鋒を向けるのでありました。そして堺氏は中間にあつて、儒・佛・耶すべてがよろしいと、われわれを丸めるのでありました。  兎も角も、わたしは幸徳、堺兩先輩の招き、といふよりは、私自ら志願して平民社に入れて貰ひました。花井氏は大いに反對して萬朝報に留まることを勸告してくれたのですが、福田氏は入社せよとすすめてくれました。かうして『平民新聞』第三號には次のやうな入社の辭が掲載されました。      予、平民社に入る 旭山 石川三四郎  予今平民社に入る、入らざるを得ざるもの存する也、何ぞや、曰く夫の主義てふものあり、夫の理想てふものあり、然りと雖ども予の自ら禁する能はざるものは啻に是れにのみに非ず、否寧ろ他に在て存する也、堺、幸徳兩先輩の心情即ち是れのみ、彼の南洲をして一寒僧と相抱きて海に投ぜしめしは是れに非ずや、彼の荊軻をして一太子の爲めに殉せしめしは是れに非ずや、徒らに理想と言ふ勿れ、主義と呼ぶ勿れ、吾は衷心天來の鼓吹を聞けり、曰く人生意氣に感ずと、  まことに不思議な文章です。萬朝報の編集局長松井柏軒氏などは素晴らしい名文だと褒めてくれたのですが、今日では、私自身でさへ、別世界の人の言葉としか思へないから、他人さまはさぞ不可解に感じられるでありませう。しかし、よくよく咀嚼して見ると、耶蘇教でもなく社會主義でもない私自身のその時の心情がにじみ出てゐると思ひます。おそろしく古風な、しかも可なりにひねくれた心の持ち方が現はれてゐます。これは恐らく少年時代の古い型の先輩達から受けた感化と、有爲轉變のはげしい浪に飜弄されて來た生活環境から育成された性格でありませう。まことに自ら醜いとは思ふのですが未だにこれを脱却し得ないのです。全我を捧げて平民社に飛び込んでいつたのでありますが、このひねくれのために同志先輩とソリの合はないことも多く、殊に堺、幸徳の兩先輩を困らせたことも多かつたと思ひます。  平民新聞の讀者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に應援してくれました。平民社發行の繪ハガキが、マルクス、クロポトキン、ベーベル、エンゲルス、トルストイの肖像を一組にしたのでも、平民新聞の思想的態度が察せられます。  或る時、わたしは、『平民』紙上に『自由戀愛私見』といふ一小論文を出しました。夫婦生活には戀愛が至上命令である、それが消えたら直ちに離別することこそ眞の貞操だといふのでありました。多くのクリスチャンを讀者に持つてゐたので、この文章に對する讀者の非難はものすごいものでした。社内でも幸徳、西川兩君は『こんな文章を出すと讀者の志氣を弱める』とて非難しました。捨て置きがたくなつて、堺君は全ページに亙る大論文を出して解説補充してくれました。  これと時を同じうして、私は本郷教會の日曜日の夜の傳道説教に右の論文と同じやうな演説を試みました。その日の朝海老名彈正先生の説教が『貞操論』であつたのに對して、わたしの話は正反對のものでありました。若い時には前後も左右も顧みず、非禮の行動にも氣づかず、思はぬ失敗を招くものです。いつも私の説教の後には先生が立つて握手してくれるのに、その時には、それがありませんでした。はつと氣がついた時、先生は内ヶ崎君に耳うちし、直ちに内ヶ崎君が演壇に立つて私の自由戀愛論を反ぱくするのでした。なるほど私は海老名先生の朝の説教を反ぱくしたことになつたのだ、と氣がつきました。格別わる氣があつた譯ではなく、私の個人的な強烈な要求をおさへ得なかつたためでしたが、爾來わたしは同教會と縁が切れてしまひました。      寄せくる浪の姿 「耶蘇教徒のあなたが自由戀愛を説くなんて、をかしな譯ですが、しかし、そのために教會から破門されたことは、まことに結構ではありませんか」  マダムは大喜びである。それは私の精神的解放だといふのである。しかし私は決して解放された譯ではなかつた。苦悶懊惱やるせなさの結果が、あの小論文となつたわけであるが、しかし私の戀愛は決して自由ではなかつた。わたしの心はただ益〻囚はれてゆくばかりであつた。わたしは語を續けた。  フランシ(素直)を第一義とするマダムの道義觀からすれば、わたしは如何にも解放されたやうに見えるでありませうが、東洋のわれわれの心持はなかなか、さう簡單に行きません。わたしの魂を金しばりにした戀愛の苦惱は、どんな理屈でも解消しませんでした。あの『自由戀愛私見』といふ文章は、英國の社會主義者ブラッチフォードに示唆を得て、いはば自分に言ひ聞かせるやうに、また一面には欝憤を晴らすために、書いたものなのであります。わたし自身少しも自由になつては居らず、實に半狂亂の戀であつたのです。かうした激情は青年男女に通ずるところがあると見えて、本郷教會のわたしの演説が、先生方の反撃を受けたにかかはらず、二三の青年女子聽衆から熱烈な同情の手紙を貰ひました。しかし、私のなやみは、つのるばかりでありました。  多忙を極めた平民社の仕事に携はりながら、心身ともに自分の思ふままにならず、先輩や同志諸君に對して申譯がないと感じつつもつい狂態が續くのでした。堺君には屡〻諭されました。いま社會運動の中心になつてゐる平民社の中堅であるべき君が、同志の集會や演説會に極めて稀にしか出席しないやうでは、まことに申譯なくはないか、といはれるのでした。それは有り難い友情の表はれであることを百も承知してゐながら、すなほに感謝することができないで、いつも棄てぜりふでこれに答へるのでした。當時、平民社に頻繁に出入する山路愛山であつたかと思ひますが、わたしの狂態を聞いて『それは些か犬王だね』と言つたさうです。犬王とは犭へんに王、即ち狂を意味するのでした。  銀座など散歩して、二十歳前後の娘さんに行き會ふと、わたしは無意識にその娘さんに視線を奪はれて、まはれ右までして、それをじつと見おくるのでした。銀座などを行けば、その頃でも往き交ふ娘さんは數多くありました。私の散歩は多忙でした。電車に乘つても同じことでした。三錢均一(當時の電車賃)で戀をする、なんて冗談を言ひました。然し、わたしの心は寂しさに堪へられなかつたのです。わたしの腦裏にある澄子さんの姿が、行き會ふ娘さんの上に投影して、それが、わたしの魂をひつさらふのでありました。そして、一瞬の後には、その幻影は忽ち消えて、ただ寂しさのみがわたしの周圍を閉ざすのでありました。馬鹿々々しいが、仕方がなかつたのです。  ある時は、些かながら血痰を見るに至り、そのことが平民社の客員であり、援護者の一人であるドクトル加藤時次郎氏の耳に入り、兎も角も同氏の療養所であり、別莊でもある小田原海岸の家に招かれました。若い美しい咲子夫人の懇ろな御もてなしを受けて勿體なさは身にしみるばかりでした。晩餐の時など新鮮なお肴に冷いビールを傾けて、心ゆくまで勞つて下さる絶世の佳人と差し向ひになつて、わたしの魂は、忽然他の彼女のところに飛ぶのでした。この別莊に滯在中、平生たしなむ水泳を試みようと、裸體になつて、浪うつ濱べに足を入れては見ましたが、何かしら寄せくる浪の姿の怖ろしさに戰慄して、深入りすることができませんでした。死の一歩手前にあることを無意識に感じたのであらうか、いまだに、その時の心持が、いかにも病的な心持が、忘れ得ないのであります。  餘りにわたし個人の情哀史を物語りましたが、今かへり見ると、かうした惱みに纒はられるのも、その原因は最初の失敗から由來するものです。みな身から出た錆なのです。全我を傾けて社會運動に投じようと決心しながら、かうした事情から思ふ半分も活動し得なかつたことは今日かへり見ても殘念でたまりません。しかしまた他の一方から考へて見ると、この氣むづかしい心の状態から、わたしは自然に内省的になり思索的生活に傾いて行つたのであらうと思ひます。普通選擧の請願運動などの代表者になりながら、所謂政治家的の氣分に接すると、堪まらなく、いやになるのでした。或る時、幸徳と堺と揃つて世間話をしてゐた際に 「これから普通選擧が實施される時代も來るであらうが、その時代に最も幸福な境涯に立つものは石川君、君等だよ」  と幸徳が唱へ、堺がそれに和するのでした。そんな言葉を聞くと矢つ張りこの人達は政治家なんだと神經的にいや氣がさすのでした。ひねくれて、いぢけた當時の私には、ものごとを神經的に判斷することしか出來ませんでした。他の人の地位に立つて、その人の意向なり去就なりを、推量することが出來ませんでした。そして自分の殼を造つてその殼の中に閉ぢこもるやうに傾いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。  明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。      平民社の思想 「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」  ルクリュ翁は興味深げであつた。 「一たんポリチックに足を踏みこんだら、それこそ泥沼に落ちたも同じことよ。それから脱け出ることは容易でなく、その上、正直では決してうだつの揚らぬところ、あなたの戀愛病があなたを救つたのよ」  とマダムは得意であつた。  マダムの仰しやる通り、わたしは大病だつたのです。その病人を棄てもせずに、深い友情をもつて、引き立ててくれた平民社の先輩達には今も心から感謝せずには居れません。平民社同人の思想的態度は、今から見れば極めて素朴なもので、またロマンチックであつたに相違ないが、しかし、あの黎明期に於ける混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹してゐた點は、今も忘れることのできない美しさでありました。日本に於ける社會主義、共産主義、無政府主義等の稱を宿してゐた、あの温床は可なりに健全であり、豐饒であつたと思ひます。  日本の社會思潮の上から見ればあの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲み盡すことのできない清冽な泉にも喩へらるべきであります。それはあの當時に於ける思想や主義の社會的價値にも由るでせうが、しかしあの峻烈嚴酷な鬪爭の中にも、常に明朗な陽春の雰圍氣を湛へて、若い男子が集り來り、協力を惜まなかつたのは何としても平民社の中心であつた先輩達の人格の致すところであつたと思ひます。幸徳と堺とは、實に好きコンビでした。堺は強かつた。幸徳は鋭かつた。堺はまるめ、幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀の如く、堺は櫛の如く、剃刀は鈍なるべからず、櫛は滑かに梳るを要します。平民社は良き理容所でありました。およそ彼處に出入するほどの青年男女は、それぞれの個性に於て、その容姿を整へられました。  永井柳太郎などは、その點において、平民社の畸形兒となつて世に出た一人でせう。不肖の子とまではいへないにしても、少々できそこなつたものといへるでありませう。大杉榮だの、荒畑寒村だの、先づ平民社の手にかかつた逸材であります。藝術の方では小川芋錢、平福百穗、竹久夢二などいふ名物がみな平民社から首途したのであります。中里介山や、白柳秀湖などいふ人々が、平民社の親しい友であつたことも忘れることはできません。この他に今日なほ生存してゐたならば、立派に各〻の場面において活躍を續けてゐるであらうと思はれる人物が澤山にあります。  平民社關係から世に出た新進の才人が多かつたと同時に、或は平民社に同情を持ち、或はこれを援護した人物の多かつたことも忘れ得ない重要事であります。西園寺公、中江兆民等の親友であつた小島龍太郎や、ドクトル加藤時次郎や、ユニテリヤン教會の佐治實然や、毎日新聞の木下尚江や、早稻田大學の安部磯雄や、いづれも皆平民社の相談役でありました。齋藤緑雨、田岡嶺雲、小泉三申、山路愛山、石川半山、斯波貞吉、杉村楚人冠、久津見蕨村などいふ人々は、屡〻平民社を訪れて、或は舌に、或は筆に、平民新聞を賑はしてくれた同情者でありました。いづれも皆錚々たる人物で平民社の背景が如何に賑やかであつたかを推想せしめるものがあります。  平民社は今の日本劇場あたりにあつたと思ひますが、その平民社の前から神田橋まで電車が開通したのは、明治三十七年末か三十八年の初期であつたと思ひます。それまで私は飯田町から毎日徒歩で通つてゐました。最初の内は毎週一回校正のため徹夜をしましたが、慣れない仕事で骨が折れました。築地の國光社といふ印刷所から深夜まで自轉車でゲラ刷を持つて往復する小僧さんにも同情が寄せられました。しかし、だんだん人手も多くなり、校正の助力者も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。  平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。  明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。  その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。      田中正造翁 『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。  田中翁は決して自ら宗教や道徳を説きませんでした。しかし、翁の生活そのものが、その巨大な人格の中に温かい光明と熾烈な情熱とをたたへて、わたしを包んでくれるのでした。木下尚江はその著『田中正造翁』の中に『旭山は、翁に對しては殆ど駄々ッ児のやうに親しんでゐた』と書いてゐますが、わたしは翁に尾して活動することを眞に幸福に感じました。谷中村の農家に翁と同じ蚊帳の中に寢せられ、ノミに喰はれて眠られず、隣でスヤスヤ眠る翁がうらやましかつたが、そのことを翌朝翁に談ると『珍客を愛撫してくれるノミの好意は有難く受けるものでがすよ』と笑はれました。それから栃木縣の縣會議員の船田三四郎といふ人の家に一泊か二泊して御馳走になりながら、縣の政治書類を檢討させて貰ひ、さまざまな醜いカラクリを數字によつて明白にすることができて、大へん翁に喜ばれた時などは、とても嬉しく感じました。  わたしは、翁の思ひ出や、翁自身の思想の變遷やについて、機會のある毎に聞いては筆記しておいたのですが、今は皆散逸して無くなりました。しかし、今わたしの記憶に遺つてゐる翁の全生涯は翁が自ら教育して來た修業史である、といふことです。翁にとつては、政治でも、社會現象でも、自然現象でもすべてが、天授の教訓であります。或る時、翁は、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入り、木下と私と面會に行くと、最初に要求されたのが聖書でありました。わたし達が種々の註解書によつて聖書の研究をするのに對し、翁はただ自分で直讀するのですが、その解釋がまた活きてゐました。翁は善いと思つたことは直ぐに言行に移し表明するのを常としました。ところが、その直觀に就いての説明には、いつも苦しみました。或る時、翁は谷中村のある農家に『人道教會』といふ看板を掲げました。それは今までの政治運動をきつぱり止めて、人道の戰ひと修業とを始めるといふのでありました。ところが、その『人道』とは何ぞや、といふことになつて簡單明瞭な説明が見當らず、私が訪問すると、すぐにその質問です。わたしが『人道とは人情を盡すの道といふことです』といふと膝を打つて喜びました。それから、わたしが、人情の説明にとりかかると翁はそれを制していひました『いや、人情といふことで充分です。それ以上につけ加へる必要はありません』まことに單刀直入を喜ぶのでありました。  谷中村を政府が買收して貯水池にするには、先づ住民を生活不可能状態に逐ひこまねばならない。ところが住民は隣接の赤麻沼に面する堤防缺潰箇所を自費で修築しました。縣廳の方では政府の許可なくしてこの樣な工事を營むのは不都合千萬だから、打ちこはす、と言ふ。明日はその破壞工作に縣の土木課の役人等が來るといふ、その前夜、田中翁は新紀元社に泊られました。わたしは東京の學生や青年達と共に田中翁を擁して防禦戰に赴くことに決定しました。翁と二人で枕を並べて寢についたが、明日の抗戰がどうなるかと思ひめぐらして眠れませんでした。土木の工夫や役人とわれわれとの間に亂鬪が展開されるのは必然と見られたのです。堤防の上に血の雨を降らすであらうことは想像されるが、見ぐるしい終局にさせたくない、それが私の心配でした。實は怯懦な私自身のことが心配なのです。この時も田中翁は寢るとすぐ高いびきです。翌朝眼を覺ますと、『風を引かないやうに氣をつけやんせう』。四月といふに寒い朝だつたのです。  この日、谷中村に同行した青年達は十八名ばかりでした。谷中の住民約三十名と勢揃ひして假築堤防上に赴いた時には、しよぼしよぼと春雨が降り始めました。  しかるに豫期した幽靈は出て來ませんでした。わたしどもは拍子ぬけの體でありましたが、しかし、かうした機會を無益に過してはならない、わたしは皮切りに激勵の演説を試みました。青年諸君も熱辯を振ひました。雨中の屋外集會は、ただそのままで既に悲壯の極みでありました。  この日は何の事もなく歸京することができました。しかし、わたしは、自分の心持をかへり見て、いささか不安でありました。若し、あの堤防上に亂鬪が起つたとして自分は果して泰然とこれを乘切ることが出來たであらうか? 苟も十字架を負うて社會運動に身を投じたと稱するものが、びくびくしたのでは見つともない、だが、私はそのびくびくの方らしい。私は歸京の翌日箱根太平臺の内山愚童君を訪うて、このことを訴へました。愚童君は暫時の靜坐を勸めてくれました。愚童君の寺は小さな寺ではあるが、見晴らしのよい、靜かなところで、和尚一人の生活であるから、瞑想、靜觀を妨げる何ものもなかつた。わたしが與へられた室で瞑目端座してゐると、何時の間にか、鼻先に芳はしい線香のかをりがただよつて來る。愚童君の心づかひでありました。心はしーんとして閑寂の底に沈む。その時です、突如として心の窓が開け『十字架は生まれながら人間の負うたものだ』と氣がつきました。それは、眞に觀天喜地のうれしさでありました。その時、製茶に專心してゐる和尚のところに行つてこれを告げると『ああ、その通り、それだよ、それだよ!』とうなづきました。それは一週間の坐禪の中ごろのことでした。      伸びる買收の手 「ボンズ(坊主)とクレチャン(基教徒)とが寄つて、アナルシスムの修業をするなんて、東洋でなくては見られない風景だネ」  ルクリュ翁はいかにも興味深げであつたが、マダムはわたしの執えうな基教思想に不滿の面持であつた。 「アナルシストが十字架で惱むなんて、およそ意味がないではありませんか?」  これに對する答はむづかしい。わたしの語學の力では明答し得ない。しかし、既に長い交際が續けられて來たので意は自ら言外に通ずる。不立文字、以心傳心とでもいふところであらう。おぼろげながら、理解は進められた。  ボンズの心理的鍛練には仲々むづかしい難解な點も多いのですが、クレチャンなどの經驗しない別の世界があるのです。内山愚童君はこの鍛練によつて、眞に生死を超越したのです。幸徳等とともに死刑に處せられた時でも、いささかも心を動かす樣子さへ現はさず、極めて平靜に且ほがらかに、絞首臺に登つたといふことです。立會つた教誨師も、これには頭を下げたさうであります。  田中正造翁もたしかに生死を超越してをりました。翁には、しかし、愚童と異つた人格が輝いてゐました。田中翁には最初から生死の問題はなかつたやうです。一生涯を人道の戰ひに捧げて寸分の隙もなかつた翁の心裡には生死の問題などを顧る餘地がなかつたのでありませう。もちろん養生には注意して人道に獻身せねばならないのですが、それすら翁にとつては自然生活であつて、特殊の問題ではありませんでした、翁は世俗の人から見れば非常に特殊な人物ですが、翁においてはそのすべてが自然でありました。畸人だの、義人だのといふ名稱は、翁においては如何にも不似合に感じられます。あるひはこの自然人としての翁こそ實は非常な異色をなすものであるかも知れません。翁は天成の無政府主義者でありました。  私が田中翁に尾して熱心に奔走したことは、時の政權にとつていささか眼ざはりになつたと見えて、わたしの身邊に樣々な黒い手が伸べられてきました。それは田中翁自身に對しても久しい間試みられたことですから、當然のことともいへるでありませう。それは買收の奸策であります。翁の買收額は十萬圓、二十萬圓、三十萬圓と時とともに騰貴して行きました。正當な方法では、あの政府の罪惡を國民の前にかくすことができないのであります。何とかして、どんなくらい醜い方法を以てしても、資本と政權との抱合による大罪惡を隱ぺいしたいのです。田中翁の周圍にゐた栃木縣の政治家達は大部分が買收され、遂には翁を強制的に幽閉して、收賄の罪名を被らしめようとまで企てました。この陰謀から田中翁を救つたのはある遊女屋の樓主でありました。その結果、栃木縣の政治屋たちの間で、收賄金分前の奪ひ合ひが起り、ピストル騷動まで引きおこすに至りました。かういふ有樣ですから、私のやうな青年にも、その闇の魔手が近づいて來たのは當然です。それは何時も警視廳のトンネルをくぐつて來るのです。わたしが政治のからくりといふものを眞に身を以て體驗したのは、この時が始めてでありました。そして政治そのものが人間の罪惡の現はれであることをつくづく見せつけられました。特高課の部長級が種々な口實を設けて、わたしを官房主事または總監に引き合はせようとしたことは幾度か知れないが、ある時は、官房主事が自ら來訪したことさへありました。  僅かに一年間の運動でありましたが、新紀元社の運動は、わたしにとつてよい修業になりました。そして思想上に於ても、從來考えてゐなかつた樣々な疑問が生起して來て、社會主義も基督教も何も解つてゐないことに氣がつきました。しかし、毎週一回『新紀元』講演があり、毎月一回社會研究會があり、隔週ごとに聖書研究會を開き、その間に於て、田中翁と東西に奔走したので、わたしの生活は隨分繁忙を極めました。それも月刊雜誌の經營と編集とを擔當したうへのことですから、骨も折れましたが、生きがひも感じました。  しかし、『新紀元』の一ヶ年間の運動中には、同人の思想的動搖が甚だしい急調を帶びて行はれました。最初に徳富蘆花、蘆花はただ一回『黒潮』の續篇を出したのみで、伊香保に隱れてしまひました。夫婦間のもつれた感情の整理、兄蘇峰との和睦等、いづれも蘆花自身の平和思想の徹底から派生する外廓現象でありました。蘆花としては『黒潮』の續篇など書いてゐる心の餘裕がなくなつたのです。彼自身の生命の緊迫した問題に逢着したのであります。それが遂にパレスチナ及びヤスナヤ、ポリヤナへの巡禮となつた譯であります。そして『新紀元』は遂に蘆花の文章を得ることができなくなりました。  次は『新紀元』の主柱であつた木下尚江の思想の變化であります。蘆花の場合は新紀元社の事業に殆ど影響を及ぼさなかつたが、木下の場合はさうは行かない。これにはいささか困りました。『光』一派の社會主義者が殊更基督教を嘲弄するのを見て、木下は遂に社會主義者に對して袂別の辭を書くに至りました(明治三十九年十月發行『新紀元』第十二號)。もつともこれを書くに至つた木下の心持は複雜であつたと思ひます。堺が發起した社會黨に入ることを謝絶して『堺兄に與へて政黨を論ず』といふ私の長文を『新紀元』に掲げたのが八月で、それに對して幸徳が(既に米國から歸つて)また長文を寄せて『政黨なるものが、單に議會の多數を占めるを目的とする黨派、即ち選拳の勝利のみを目的とする者ならば、其弊や確かに君のいふ通り』だ。しかし『君のいふ如き政黨たらしむるか、將た革命的たらしむるかは、一に我等の責任に存することと思ふ』とあるのが、九月號であります。そして、この社會黨に參加した木下としては明白に去就を決する責任を感じたものでありませう。それに蘆花が『巡禮紀行』を書き百姓生活を始めて、時の青年達の間に大きなセンセーションを起したことも、木下の精神生活に多少の影響を與へたでありませう。この時に當つて『日刊平民新聞』創立の議が起り、私にも參加せよといふ要求がありました。      日刊平民新聞  幸徳がアメリカから歸つて來て間もなく、西川、堺等とともに『日刊平民新聞』創立の相談を始めました。それには竹内兼七といふ若い金持が資金を出すことになつて急速に計畫が進んだのです。そして堺、幸徳兩兄から私にも創立者の一人になれといふ相談が持ち込まれました。わたしは兩兄の變らぬ友情にとても嬉しく感じたが、しかし、私に最も適した『新紀元』を棄てて、最も不得手な新聞記者になることは、どうかと思はれました。それに新刊の平民新聞には外部から盡力させて貰つたらどうか、こんな考へから、一應、參加を謝絶したのですが、兩兄は強ひて參加を要望するのでありました。兩兄の言ふには『今回の事は、啻に君一身の問題に非ず、從來何とは無しに對立の形勢をなせる基督教徒、非基督教徒の兩派の社會主義者が相融和するか否かの問題に係はる』ことであるから、とくと社中社外の同志と協議してくれとのことでありました。  當時木下は思想の動搖のために上州伊香保温泉に行つてゐたので社中の赤羽巖穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬の諸君に諮り諸君は安部磯雄氏を訪うてその意見を質しました。そして兎も角も、日刊平民の創立に參加せよ、といふ衆議が成立しました。勿論『新紀元』の編集、發行等は諸同志が協力して繼續するといふことでありました。ところが、木下が伊香保から歸つて、十名ばかりの諸同志が相會して最後の決定を計らうとしたが、主役の木下が繼續に同意しないので、遂に廢刊といふことに逆轉して了ひました。木下は『新紀元』の終刊號に 『慚謝の辭』を掲げて 「新紀元は一個の僞善者なりき。彼は同時に二人の主君に奉事せんことを欲したる二心の佞臣なりき。彼は同時に二人の情夫を操縱せんことを企てたる多淫の娼婦なりき」  と絶呼しました。  まことに傍若無人の態度で『慚謝』の心情など些かも窺はれない放言でありますが、ここが木下の人柄とでも言ふべきでありませう。一年間、熱心に『新紀元』に應援または協力して來た青年同志達は或は失望し、或は憤激し、或は呆れましたが、どうすることも出來ませんでした。(木下は最期の息を引きとるまで、かうした性格を持ちつづけたやうであります。偉大な天才でありましたが、かうした性格から、よき同志を發見し得なかつたので、その才能を充分に發揮し得なかつたのだと思ひます。)  兎も角も、『新紀元』と『光』とは同時に廢刊して、双方の同志が新發足の日刊『平民新聞』に協力することになりました。前記の堺、幸徳、西川、竹内と私との五人が創立人となり、編集局には山口孤劍、荒畑寒村、山川均、深尾韶、赤羽巖穴等の諸君が入りました。そして京橋區新富町の有名な劇場、新富座の隣りの可なり大きな家に陣どりました。新富座は昔は最も有名な劇場であり、千兩役者ばかり出場する格式の高い芝居小屋でありました。  この日刊平民の創立は可なりのセンセーションを日本の社會と政府とに起しました。西洋諸國の社會主義者間にもまた少からぬ感動を與へたらしく、諸國の革命家の來訪に接しました。就中ロシヤの革命家ゲルショニといふ巨大な體躯の持主の出現は平民社中に深い印象を與へました。『新紀元』時代にもロシヤの亡命者ピルスツスキイが現はれて、幾度か會食などしたが、今度のゲルショニはさういふことは致しませんでした。ゲルショニは本國の牢獄を脱して來たらしく、餘り落ちついてはゐられなかつたのでありませう。明白な記憶はないが、ブハーリンなども來訪したのではなかつたかと思ひます。印刷機械まで据ゑつけて日刊紙を刷りはじめたのですから、政府の方でも少々眼を見はつたやうでありました。  この新聞紙上で幸徳は始めから自分の『思想の變化』を發表して、公然無政府主義的主張を宣言しました。それは創刊號から間もない十五、六號の頃で普通選擧制、議會政策を無益な運動となし、勞働者の團結訓練と直接行動とを主張するのでありました。この主張も可なりの衝激を世間一般に與へ、また社會主義者間にも議論を沸騰せしめました。新紀元にも平民新聞にも有力な援助者となつた田添鐵二君は議會政策論者として、正面から幸徳に對立しました。  幸徳が直接行動論を宣言したのと時を同じくして、足尾銅山の鑛夫達の暴動が勃發しました、たしか二月四日の夕方でした。平民社經營上の相談のために、幸徳、堺、西川三君と私とで、近所の鳥屋に晩餐を喫してゐると、新聞の號外賣りがチリチリ鈴を鳴らして來る。足尾の暴動が益〻激化して來たといふ報道でありました。これはこのまま棄ておく譯には行かないといふことになり、さしづめ西川君が急行して樣子を見たり、通信を書いたり、對策の施すべきことがあれば、適當の處置を講ずる、といふことになり、その夜すぐ出發と決定しました。晩餐もそこそこに濟ませて西川君は先づ家に走り、私は號外を持つて平民社に歸り既に大組を終つて印刷にとりかからうとする工場に行つて、二號活字の大見出しで、暴動記事を付加へました。六日には暴動のますます猛烈なこと、鑛山事務所長は猛火と動亂との包圍に會つて死去したこと、遂に高崎連隊が鎭壓のために出動し戒嚴令がしかれたこと、などが大々的に都下諸新聞に報ぜられました。七日には、平民新聞社と堺、幸徳、西川、石川、竹内等五人の家々に、一齊搜索が行はれました。同じ日に、平民新聞紙上には足尾鑛山勞働者至誠會の南助松、永岡鶴松その他五、六名の幹部が平民紙を抱へ、大旗を樹て整列せる寫眞を掲載しました。同じ日に、衆議院では、武藤金吉が大竹貫一他三十名の賛成を以て政府に詰問しました。 「……大暴動は鑛業主と勞働者との間に起りたる一椿事に過ぎずといへども、而も交通を遮斷し、電話、電燈、電信の電線を切斷し、道路、橋梁、鐵道、家屋建物を破壞燒失し、終に多數の人命を傷ふに至らしめ、數百の警察官を以つて鎭撫する能はず、なほ高崎連隊より出兵するに至りたるは、政府當局者の無責任にあらずや云々」  この時、西川君は既に現地で拘引されて了ひました。      平民廢刊まで  西川君が拘引されたといふ報に接して、すぐにその仕事を續ける人を送らねばならぬことになりました。選ばれたのは編集局の最年少者、荒畑勝三(寒村)君でした。しかし荒畑君が足尾に着くと間もなく暴動は鎭まつたと思ひます。  足尾の暴動は鎭まつたが、政府の暴動は鎭まらず、平民新聞の上に矢つぎ早やに、火矢を放射し始めました。わたしは編集局の番頭さんにされ、かつ、發行兼編集の名義人にもなつたので、僅か三ヶ月の間に四つの事件の被告人になりました。そして最後に發行禁止の宣告となつたのです。  この間に社會黨内に議會政策と直接行動との是非の議論がやかましくなり、わるくすると、分裂にまで押し進みはせぬかと危ぶまれるほどでありましたが、まるめることの上手な堺が在り、堺と幸徳との厚い友交の關係もあり、その危機は逸しました。しかし、大會の決議と、その時の幸徳の演説とを載せた平民新聞は告發され、同時に發賣を禁止され、社會黨そのものも禁止されました。わたしも何とかして分裂を避けたいといふ念願から、社會黨員に對する私見をも平民紙上に掲げ、大會當日になつて入黨までしました。大會の決議は折衷的な評議員案が成立して無事終了しましたが、黨そのものが禁止されたので、いささかとびに油揚をさらはれた形になりました。皮肉なことに政黨ぎらひな私が大會の席上、堺と二人で幹事に選ばれ、そのまた皮肉をこつ稽にまで持つて行くべく、私は社會黨禁止令を拜受しに警察にまで呼び出されました。  明治四十年二月二十三日の平民新聞の『平民社より』に堺が次のやうに書いてをります。 「△今日は石川君と僕と二人、本郷警察署に呼び出された。僕は差支があつて、石川君だけ恐る恐る出頭した。御用の筋は社會黨黨則改正屆出遲延のお叱りで、全體社會主義者は公私を混合してイカン。一昨日堺に出頭を申遣はして置いたに、編集が忙しいの何のと勝手なことばかり言つて、而も電話なんぞかけて警察を馬鹿にしてゐる、況んや屆書は早速差出すと云ひながら郵便で以てソロリソロリと送つてよこす、實以て怪しからん次第だと御意あつた、所が旭山、是式の事で罰金を取られては叶ふまじと、僕の代りに恐惶頓首再拜してヤットの事でお詫びが濟んだ△ヤレヤレこれ丈であつたかと、旭山胸撫でおろして罷らんとする其時、警部君チョットと呼びとめ、實は今一ツ御達しすることがある(サア來た)是は少し御迷惑かも知れぬがと厭にニヤニヤして猫撫聲で仰せられる。旭山謹んで承たまはるに、それこそ即ち社會黨禁止の達しであつたのだ△序に今少し旭山を紹介する、彼は昨夜深更、如何なる物の哀を感じてにや、ふらふらと家をさまよひ出で(この一句深尾韶案出)半圓の月に浮れて十二社の森に遊び、少々風を引いて歸つたよし」  この最後の一節には覺えがないが、當時の激しい鬪爭の中で、平民社の内部の空氣が至極ほがらかであつたことを思ひ出させます。もう一つ堺の『平民社より』を紹介しませう。 「△活版の工場にリュウちやんといふ十ばかりの可愛らしい女の子が居る――石川さんモウ原稿は出ないこと? ――などといつて使に來る、われわれの事業にもコンナ小兒勞働を必要とするかと思へば情なくなる」 「△旭山は控訴なんぞ面倒だから仕方ないといつて居る、檢事の方でも眞逆やりは仕まい、すると判決言渡より五日の後、即ち三十一日に確定となつて『明日檢事局に出頭しろ』といふ樣な通知が一日にくるとすれば、多分二日から入監することになるだらう」  この三十一日には、京橋區北槇町の池の尾といふところで、『石川君片山君送迎茶話會』といふのが開かれました。わたしの事件は檢事が控訴したので入獄が延期になり、片山潛は一ヶ月以上も前に歸國してゐたので、送るには早く、迎へるには遲すぎる會であつたが、カナダの社會主義者ジョン・レーなども出席して、にぎやかでありました。  まだ入獄期は確定してはゐないが、どつち道、數重なる告發を受けてゐることで、いづれ暫時の離別は免れぬとあつて、諸方からの御招待に接し、わたしは些か甘えたやうな氣分にもなりました。三月廿九日の堺の『平民社より』に次のやうな記事があります。 「△旭山は入獄の準備やら、送別の招待やらで大ぶん忙がしい樣だ、昨日は丸善から何かの本を二、三册買つて來た△昨日と云へば秩序壞亂で又やられた、あんなものが何うして、と云つた所で仕方がない、お上の遊ばされる事だ△今夜はお隣の新富座の伊井蓉峰君から招かれて、霞外と旭山と僕と三人で見物に行く、旭山は河合武雄が好で、入獄前に一度見たいと云ふのだ△又月末になつた、ノンキな事ばかり云つて居れない」  伊井と河合のよいコンビで演ぜられた『瀧の白糸』に感動せしめられて、わたしは思はず瞼を熱くしました。樂屋に通されて伊井と河合とに會談したことも愉快でした。河合が、 「芝居でしてさへ囚人の役は骨が折れますもの、あなた樣もこれからさぞ御苦勞遊ばすことで御座いませうねえ」  など言うて、慰めてくれるのにつり込まれて、ほつと異性の温みに接する心地がするのでした。彼は樂屋に於ても、その動作から言葉使ひまで全然女性のやうでありました。  こんな呑氣な生活をしてゐる間に、山口孤劍君の『父母を蹴れ』といふ文章が朝憲紊亂罪に問はれ發行禁止の宣告を受けるに至りました。それは四月十三日のことであつたが、平民新聞は裁判の確定を待たずに、翌十四日を以て自ら廢刊するに至りました。社の内外ともに餘りに突然の決定で驚いたらしいが、無理をせずに玉碎主義を採つた譯でありました。幸徳と堺とは、既に幾度か平民社の維持方法に就いて相談もしたのであるが、前掲の堺の『平民社より』に『月末になつた、ノンキな事ばかり云つてをれない』とあるやうに五、六十人の世帶を維持するのは容易ではなかつたのです。資金補給を申し出た向もあつたのですが、ほんたうに主義のために出資してくれるのでなければ、後の煩ひになるので謝絶したのであります。そして政府が發行を禁止したので、其機をとらへて廢刊を斷行した譯であります。でなければ、廢刊も實は非常な難事であつたのです。      獄内での修業 「不意につかまつて、拘引されるならとに角、自分で進んで獄中へ行くなんて、隨分いやな氣持でせうね」  マダムはわたしの話をさへぎつて、かう聞くのであつた。二十年前に、自分の夫、即ち現在のルクリュ翁が、懲役二十年の缺席判決を受けて、英國に脱走した時のことを思ひ出したのであらう。マダムにとつては興味が深刻なのであつた。ルクリュ翁は深い沈默で依然として傍でこれを聞くのであつた。  いや、それほど、いやとも思ひませんでした。既に堺が行き、幸徳、西川が行つた後のことで、恐ろしくも思はず、むしろ好奇心にさそはれた方でした。それに先に私の文章で幸徳、西川の刑期を幾週間か長びかした責任も感じてゐた私は、晴ればれしい氣持で入獄しました。  最初は十一ヶ月の豫定でありましたが、幾つもの事件が重なつてゐましたし、赤衣を着けて幾度か法廷に立ち、幸徳の直接行動論に就いての辯論も自分で思ふ存分やつたので、刑期はまた延長して十三ヶ月になりました。入獄した最初は市ヶ谷の東京監獄に一ヶ月ゐましたが、それから巣鴨監獄に移されました。  東京監獄に入つた時、最初の二、三日間は、どうしても、飯が咽を通りませんでした。うつはは汚なし、異樣な臭氣はするし、辨當の箱を口のところに持つてゆくと嘔吐を催して、どうにも食ふ氣になれませんでした。それが四日目ぐらゐから、空腹に堪へられなくなり、三度の食事がうまくて待ちどほしくなりました。人間の生理生活には、どんなに彈力性、融通性があるものかと驚かされるのでありました。  入獄の時は、同志山口孤劍君と一しよでした。『父母を蹴れ』といふ山口の論文が告發されて、それが二人に何ヶ月かを食はしたのです。東京監獄に行くと勿論二人は引き離されました。眞つ暗なブタ箱から、やがて夜具を抱へて獨房に入れられ、後からガチャンと鍵をかけられた瞬間の氣分といふものは、まつたく『大死一番』といふ心境、または『一切他力』の實感を、體驗させられるのでありました。窓は高くて外は見えず終日終夜面壁の修業です。  東京監獄から巣鴨監獄に移されると、いささか格式が上つたやうに感じられました。今までは木造の小さな獨房であつたのが、今度は鐵の扉の岩窟のやうな冷たい室になりました。食物もずつと澤山に御馳走があるやうに感じられました。それから、間もなく別棟の十一監といふところに移されました。ここはまた木造で、昔の牢屋を思はせるやうな、大きな格子に圍まれた室でした。ここでは山口と隣りして居を定められたので、毎日の生活がいささかくつろいできました。さらに、暫くすると大杉が入つて來ました。山口はわたしの左室、大杉は右室に入れられました。わたし達は輕禁錮で、勞役がないので、終日讀書ができて、こんな仕合せはないと思つてゐましたら、さらに机を新調して與へられ、ペンとノートの携帶をも許可されたので、わたしは希望の光明に充たされました。そして、すぐに勉強の方針を樹て、第一に西洋の社會運動史を順序だてて檢討しようと志しました。それは、從來のわたしの心裡において、宗教と社會主義と人生觀との間に存在した、多くの不統一點、無融合點を照らすべき新しい光明が、この勉強によつて與へられるであらうと考へたからであります。  先づイリー教授の書とカーカップの歴史を讀み、マルクスの『資本論』に喰ひつきました。面白い點も少くはないが、マルクスといふ男は、何といふ頭の惡い人間だらうと呆れました。思想がくどくて愚痴つぽいのです。勿論讀了どころか半分も讀めませんでした、そして、ジョン・レーの『現代社會主義』中のマルクス紹介で資本論をも卒業しました。マルクスに比してクロポトキンの『パンの略取』は實に愉快でした。これは少しも退屈することなく一氣に讀了することができました。しかし、この書が愉快きはまるにかかはらず、わたしはこの書に滿腔の信頼を捧げることができませんでした。その革命の道筋に於て、人生觀そのものに於て、いささか過超樂天的なところが見られました。その時わたしの出會つた思想家エドワード・カアペンターは、不思議にも、わたしの從來の一切の疑問に全的解決を與へてくれました。カアペンターの『文明、その原因と救治』及び『英國の理想』は、わたしの數年來の煩悶懊惱を一刀の下に切開してくれました。  勿論カ翁の書が解決を與へてくれたのは、わたしの勉強の進んだ一ポイントに丁度的中した一刀が、翁によつて與へられたことを意味するのです。マルクス歴史主義、歴史必然論が、人類解放の觀點から全くナンセンスであることに氣づいた私は、カアペンターの特殊な人生史觀によつて救はれたやうに感じました。人類の社會生活の變遷とその種々相を、自我分裂の事實によつて説明し、内なる統一と外なる統一とを全く不可分のものとし、遂に宇宙的意識に復歸することに於て、無政府にして共同的にして同時に貴族的なる眞の民主生活が實現せらるるものとするカ翁の説は、從來の宗教思想も社會思想も藝術も農工業も、すべてを一つの熔爐に入れて、新しい自由の全一の世界を創造する捷徑を明示するのでありました。  また碧巖録を讀み、論語、孟子、バイブルを讀み、古事記を反覆する間に、個人も、社會も、物質も、精神も、野蠻も、文明も、皆それぞれの面に於て『人間』といふ生命活動の一表現であつて、その自然の姿は終始一貫して『美即善』を追求してゐることが解るのでありました。カ翁の宇宙的意識といふのは、哲學者のいふ意識とは雲泥の相違があつて、それは宇宙的生命そのものであり、『人間』そのものであり、『眞善美』そのものであり、一面虚無であり、同時に實存でありました。  巣鴨監獄内の一年間の冥想は私にとつて、よき修業になりました。      巣鴨の幽居 「あなたのお話を聞いてゐると、監獄は樂しいところのやうに思はれて、何だか同情の念が薄らいでくる恐れがありますね」  ええ、ある點からいへば、あすこは私達の樂園でありました。毎日三度三度の食事は供へてくれますし、社會のやうに、あくせく働かないでも、生活の心配はなし、いささかも心が散らず、勉學に專心し、終日終夜、面壁靜坐默想に耽ることもできるし、こんな贅澤な生活は、外界では到底できません。  田中正造翁は面會に來てくれた時、立會の看守の顏を横目で見ながら『あなたは善いことをしてここにおいでになつたのだから、ここはあなたにとつて天國です。それ故、ここのお頭さんを典獄と申されます』と駄じやれて呵々大笑しました。翁に伴はれて來た二、三の友人も私も聲をあげて笑ひ合つたので、看守君も苦笑をかみ殺してゐました。  片山潛君も面會に來てくれましたが、あの人は正造翁のやうなユーモアがなく、何となく悲痛な面持ちで餘り多くを語らず立ち去りました。  自稱豫言者宮崎虎之助君も來てくれたらしいが、面會も許されず『健康を祈る』といふ看守長の言傳によつて、それを知りました。看守長は宮崎が白布に豫言者と書いてたすきがけにしてゐたと言ひ『あれはほんたうの豫言者かね』と問ふのでありました。『本人がさういふのですから間違ひはないでせう』とわたしがいふと、老看守長『さういへば、それまでさなあ』と意味のありさうな、またなささうな返事をして行きました。度々面會に來て、差入物や内外連絡のことを引受けて世話してくれたのは福田英子姉でありました。入獄の際、わたしの書物や荷物は悉く福田氏のところに托して置いたので、監獄當局へも福田氏のところをわたしの社會生活の本據として屆けたのであります。  かうして在獄中もいささかのさびしさも感ぜず、大した不便も感ぜずに勉強ができました。親友逸見斧吉君は高價な洋書を丸善に注文して買つてくれ、それを福田氏に托して差入れてくれました。差入れられたノートも、積り積つて十五册になりました。それは自然に一卷の『西洋社會運動史』を構成したのであります。今日大册を成して世に出てゐるのは實にそれであります。  この獄中生活はわたしの思想に多くの生産を與へました。第一に進化論否定の萠芽を産み、第二に古事記神話の新解釋に目標を與へました。進化論に懷疑し始めたのは、カアペンターの『文明論』とクロポトキンの『相互扶助』とを讀んだ結果であります。クロはダーヰンの進化論の一部面を強調するために『相互扶助』を書いたのであるが、不思議にも、それが私に進化論否定の動機を與へたのであります。あの書を讀むと、諸動物間に行はれる相互扶助は人間界に行はれるそれよりも一層純粹に本能的であつて有力であり、その點から言へば、少くとも今日の人間界は或る動物より遙かに退歩したものと言へるのであります。人間でも古代の人間の方が近代人よりは一層純一であり、道義的であつたと言へるのであります。それはカ翁の『自我の分裂』の歴史『人類墮落の意義』と對照して、深い考察點を指示するものであります。わたしは新世界の鐵の扉が開かれたやうな氣持で眼を見ひらきました。  次に獄中で讀んだ書物中でわたしを喜ばしたのは『古事記』でした。わたしの第一に驚いたのは、古事記の言葉使ひが自由であること、從つて如何にも豐富であること、思想と言葉とが自由で自然で豐富であつて、その中に含まれた事實には寒帶地から熱帶地に及ぶ多くの地方色が伺はれること等これでありました。わたしの『古事記神話の新研究』の萠芽はこの時から生起したのであります。  こんな譯で、わたしの巣鴨監獄における生活は可なり多忙でありました。思想生活に於て右にのべたやうに繁忙であつた上に、赤衣を着て屡〻裁判所に引き出されました。それはわたしにとつて一種樂しい旅行でもありました。早朝に監房から出されて、草鞋を穿かされて、徒歩で東京監獄まで送られるのです。それから他の囚徒とともに法廷に馬車で送られるのでした。一人の看守に付添はれてさわやかな外氣に觸れながら巣鴨の町を歩くのは愉快でした。朝起きて店先を掃いてゐる婦人などが何と美しいことか! 婦人といふ婦人は大てい美人に見えました。それに引きかへて、男といふ男は悉くのろまに見えました。獄中では看守は勿論のこと、囚人でも、面つきにすきまがありません。常に緊張してゐる看守達の顏ばかり見てゐるわたし達の眼に映る社會の男の面が如何にも馬鹿面に見えたのは自然なのでありませう。  赤衣で深編笠を冠つて街を歩いてゐると、可なり人目をひくと見えて、街の人々の眼を見ひらく樣がをかしいほどでした。わたしが眼鏡をかけてゐたので『あの懲役人は眼鏡をかけてらあ』などと怒鳴る若者もありました。わたしは、そのやうな『旅行』にも手錠はかけられませんでした。特別な計らひであつたのです。教誨師などの口添があつたのではないかと思ひます。  かうして、裁判所に出ると、少くとも往復三、四日の旅行になります。長い時は一週間ぐらゐになります。そんな時は、早く――巣鴨の――家に歸りたくなります、不思議なもので、自分の居處と定まつた『巣鴨の幽居』が慕しくなるのです、そして巣鴨の鐵門をくぐり、衣服を全部改めて古巣に入れられると『やれやれ無事に歸れてよかつた』といふ安心感に滿たされます。  この古巣には、最初大杉と山口とが、右と左の兩室にゐたが、山口が病氣になつて病監に移され、次で大杉が怪我をしたとかで矢張り病監に行きました。私にも病監のなぞがかけられましたが、遂にあのこく寒の室に頑張り通しました。兩手の甲と耳たぼとは凍傷でひどくなり、遂には皮膚がカサぶたになつて脱落するに至りました。  暫らくすると、今度は堺と大杉とが入つて來て、右に堺、左に大杉が据ゑられました。大杉は一旦出獄して、また新事件でやつてきたのです、數週前に東京監獄から手紙をくれた堺が、自分の姿を見せてくれたので嬉しかつたが、二人は間もなく出獄して、私はまた一人ぼつちになりました。丁度その時讀んでゐた『平家物語』の島流しの俊寛は、二人の同志がゆるされて故郷に歸る時、その船に取りすがつて海水が首に達するまで離さなかつたといふ。出獄期の定まつてゐる私には、それほどでもないが、俊寛君に同情が寄せられました。      赤旗事件のことども  明治四十一年五月十九日、わたしは刑期が滿ちて巣鴨監獄の鐵門を出ました。携へ出たものの中に十五册千五百頁のノートがありました。それの大部分は後日の『西洋社會運動史』および『虚無の靈光』となつたのであります。そのうち『虚無の靈光』はわたしの獄中の瞑想の結果を綴つたもので、幼稚ではあるが信仰告白ともいふべきものでありました。然るに出獄後直ちに印刷して百頁餘りの小册子ができたのであるが、『虚無』といふ名稱が警視廳の忌諱に觸れて、製本がいまだ完成されない内に全部押收されてしまひました。これは警視廳も見當ちがひであつたことに氣がついたであらうが、諸新聞にも非難の文字が現はれました。わたしは印刷所に頼んで『破れ』を集めて辛うじて三册を製本することができましたが、その後わたしが放浪してゐる間に一部も無くなりました。原稿のノートも散逸して跡かたもなく消失した譯であります。ほんたうの虚無になつてしまひました。  さてわたしは、多くの同志に迎へられて獄門を出ましたが、入獄の際に家を引拂つたので、一先づ福田英子姉のところに落ちつくことになりました。當時福田氏は隨分貧乏してゐましたが、さきの『新紀元』が廢刊された時に創刊した『世界婦人』といふ月刊リーフレットの編集に當らせるべく喜んで迎へられました。この『世界婦人』に、わたしの獄中で執筆したクロポトキンの『自敍傳』と『パンの略取』とを一度に發表しましたが、その増頁號は飛ぶやうに賣れて、忽ち品切れになりました。クロポトキンのまとまつた紹介として、日本における最初のものであつたためであらうと思ひます。『世界婦人』は安部磯雄氏等の後援執筆で多少良妻賢母主義のにほひがあつたところへ、突然クロの紹介が出たので、從來の讀者は餘ほど驚いたやうでした。  わたしの出獄を聞いていち早く飛んで來てくれたのは、田中正造翁でした。懷から金五圓也を出して『お小遣ひに困るでがせうから、ハハ……』といふのでありました。入獄の際、福田氏に托して置いたわたしの衣類その他の品物も、差入れの費用のために大かたは質札に換へられてあつたほどで、わたしは心から翁の意中に感謝しました。(五圓といふ金は今では小どものアメだま一つにも價しないが、あの當時は可なりのご馳走を二、三人で食べることができました。)ことに平常無收入で無一物な田中翁が、どこからか工面して呉れたのだと思ふと、涙がこぼれるほど嬉しく感じました。  それから間もなく、たしか上野の三宜亭でわたしの出獄歡迎會が開かれました。それは西川光次郎君一派が主催したもので、堺君一派の人々は參加しませんでした。わたしの下獄以來、西川、赤羽、片山、田添(鐵二)等の一派と、堺、幸徳、大杉、荒畑、山川等の一派とは分裂して、大ぶ惡口を言ひ合つた樣子でした。最初のうちは思想傾向の相違で分れたらしかつたが、だんだんに感情的に他を排撃し合ふやうになつたのです。ところが西川、赤羽等と、片山、田添等とは更に分裂して、今度は初めから喧嘩になつたらしく思ひます。三宜亭の歡迎會に出席した高島米峰君は『石川君の同じ友人であり同志である堺君等がこの席に列ならないのは甚だ淋しい。議論は議論として、このやうな場合には皆一堂に會して共同の友を迎へたらどうだ』と一矢を放ちました。  こんなことがあつたので、私より一ヶ月おくれて出獄した山口義三君の歡迎會は、わたしが發起人になつて西川一派と堺一派との合同の形で開催しました。會場は神田の錦輝館の二階でありました。當時の錦輝館は政治演説會や大衆會合の場所として、東京隨一の名所でありました。伊藤痴遊の講談だの、サツマ琵琶だの、少年劍舞だのがあつて、すこぶるにぎやかでありましたが、肝腎の參會者の氣分が融和しませんでした。これは失敗したと氣がついた時は後の祭りでした、早く解散するに如かずと考へて、わたしが立つて閉會の辭と感謝の辭とを述べ始めると大杉と荒畑とは『無政府共産』『革命』等の白色文字を現した赤旗をふり、やがて私の言葉が終るや否や、高らかに革命歌を唄ひ始めました。まだ餘興が進行しつつあるとき、神田署の特高刑事は私のところに來て 「あの赤旗を卷いて貰ふ譯には行きませんか」  と要求するのでありましたが 「張り切つてゐるのだから、とても駄目だ、すてて置きなさい」  とわたしは答へました。 「それでは宜しいです」  といふ刑事の言葉にはいやに力が入つてゐました。  堺をはじめ、大杉、荒畑その他の面々はあたかも凱歌でもあげるやうに元氣一ぱいで會場を出て行きました。わたしは發起人として後始末をせねばならぬのでその事務を執つてゐると、館前の街は甚だ騷がしい。『大へんですよ』と告げてくれる人があつたので、バルコンに出て見ると、錦町の街路は、數丁の間黒山の人で一ぱいでした。これはしまつた、と強いショックを受けたが如何することもできません。  赤旗を擁護して戰つた人々の中には若い娘さん達もゐました。山川均前夫人、大須賀里子さんは柔道の達人で、巡査を街頭に投げ飛ばしたといふ評判でした。神川松子孃も常に肩を張つて天下を横行する人でした。小暮禮子といふ當時十六、七歳の少女も加はつてゐました。小暮孃は後の銀座襲撃事件の主動者となつた黒色青年の山崎眞道を産んだ人です。  どうしてこんな事件が勃發したか? 世間では大分揣摩臆説した向もあつたやうでした。反動政治家山縣有朋が當時の西園寺内閣に對する反間苦肉の策だと如何にもうがつた説を立てる人もありました。ことほど左樣にこの『赤旗事件』は不可解な大騷動になりました。けれども私の見るところでは至極簡單な合戰であつたと思ひます。先に出獄した山口義三を上野驛に迎へた吾々は同驛前で警官隊と小ぜり合ひをしました。交番に引つぱられた一同志を奪還したことも先方にはくやしかつたらうが、廣小路を練つて行く間も、私に付そうて行く指揮官警部の頭を後方からステッキで擲つたものがあり――それは年少な荒畑寒村であつたと思ふ――警部の制帽は地上にとんで落ちました。警部はまつ赤な顏をしてその帽子を拾ひ上げるのでした。如何にも殘念さうに見えたが、上司からの特殊な訓令があつたものか、沈默して私の側を離れず行進するのでした。錦輝館前の赤旗事件はそれから數日後のことであり、神田署は五十名餘りの警官を豫め伏せておいたのです。前後の關係はすぐにうなづけるでありませう。      再度の入獄  赤旗事件が勃發してから間もなく幸徳は上京したと思ひます。バルセローナでフランシスコ・フェレルが死刑になつた時(明治四十二年十月)記念のあつまりでも開きたいと思つて、幸徳のところに相談に行つたとき、幸徳は新宿驛にちかい新町二丁目に居をかまへてゐました。上京當時は巣鴨の方にゐたのであるが、最近新町に移轉してきたのです。門前には常に五、六名の警官が立番してゐるので、フェレル記念會を開いても動きがとれないであらう、といふのでやめになりました。それに當時幸徳は管野幽月と同棲してゐたので工合がわるかつたのかも知れません。幸徳は殆んど一人で『自由思想』といふ新聞型の月刊ものを出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。  わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。  さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『この世は墓場のやうなものだ、生きた人間はめつたにゐないで、幽靈や惡鬼どもが、墓石の間から、ぬけでて來て到るところに陰險な惡事をはたらいてゐる』といふやうなことを書いたのではないかと思ひます。いろいろの都合で裁判をひきのばし、刑が確定していよいよ入獄となつたのは明治四十三年三月ごろであつたと思ひます。  わたしの入獄がきまつた時、わたしは母の突然の死に會ひました。なにしろ二度目の入獄なので、母はよほど心にこたへたと見えて、『わたしはお前が惡人だとは、どうしても思へない。警察へ行つて談判してやる』と言つてくやしがつてゐました。兄がなだめて『お母さんが幾ら談判しても、三四郎の罪がゆるされるものでも、輕くなるものでもないから、それは無駄です、三四郎の仕事は後世にのこる、歴史的な大きな仕事なんだから、お母さんは自慢してよいのです』と、いつもと變つてねんごろに説くのでありました。二人の兄が刑事事件で、長く獄中に生活し、今度は三男のわたしが、二度までも入獄するといふので、老母は相當に心を惱ましたらしいのです。當時上京して、兄とともに飯田町に居を卜してゐた母は、突然腦溢血でたふれ、わたしが飛んで行つたときには、もう意識がありませんでした。朝おきて元氣に水くみなどしてゐたが、子供に『水をおくれ』と命じ、子供が水を持つていつた時は、すでに、たふれて、意識もなくなつてゐたさうです。だから、兄の家族も、だれ一人最期のお別れを言ふことができなかつたのです。これは、わたしにとつては、つらいことでした。しかし入獄中でなくて、まだしも、よかつたと諦めました。貨車一臺借りぎりで、遺骸を郷里埼玉に運び、貧しいながら兄弟相あつまつて、葬式をすますことができて、いささか心のおちつきを得ました。  わたしの裁判の判決を聞いて、幸徳は管野とともに、新橋の富貴亭といふ普茶料理で、靜かな別離の宴を催してくれました。何ぞはからん、これが幸徳等との最後の別れであつたのです。今にして思へば、あの時の會食がいかにも淋しさうで、わたしの在獄中におこつた、大逆事件の豫感が、あの人人の間にもあつたのではなかつたか。それはただ、後日になつてのわたしの幻想かも知れません。  市ヶ谷の東京監獄に入つてまもなく、突然浴場で内山愚童に出會したのは、まことに奇遇でありました。入浴を終つて、浴場をでようとすると、ひよつこり、そこに現はれたのが愚童ではありませんか。『やあ』『やあ』と一言かはしたばかりで、彼は浴場におしやられてしまひましたが、何の事件で彼がやつてきたのか聞きえなかつたのが殘念でした。しかも、この浴場での『やあ』『やあ』が、彼との永遠の別れのことばになつたのです。彼は何かの出版法違反事件で入つたのでせうが、そのまま幸徳等の大逆事件に連座するにいたつたのです。また東京監獄にゐる間に赤羽巖穴が面會にきて、これから旅にでるとて暫しの別れをつげるのでありましたが、彼はその直後、『農民の福音』といふ小册子を出版した件で、捕へられて入獄しました。そして、この鐵網へだてた面會が彼との永遠の別れになりました。わたしはそれから間もなく、千葉監獄に護送され、そこで赤旗事件で先入してゐた堺、大杉、荒畑、山川や、別口の西川などと久しぶりで對面し、入浴と體操でいつも一しよになりました。彼等がいづれも赤ばんてんに股引の勇ましい姿をして、元氣らしく見えるのが、うらやましいほどでした。それに引きかへ、事件の性質上輕禁錮であつたので、わたしは、じよなじよなと長衣をまとうてゐたので運動も思ふにまかせず、諸君がうらやましくてなりませんでした。わたしが六ヶ月の刑ををへて東京に歸つたあとに、おそらく赤羽は千葉に送られたのでありませう。暫らくすると、赤羽から千葉監獄差出しの手紙が屆きました。その後間もなく赤羽は病氣になり、看守の與へる藥も受けずに、ハンガー・ストライキをやつて遂に獄死しました。      大逆事件の餘波  明治四十三年九月、わたくしは刑期が滿ちて千葉監獄を出ました。通信で仄かにそれと察してはゐたのであるが、大逆事件を聞いてちよつと驚きました。迎へに來てくれた渡邊政太郎君その他の人々は、わたしが意外に元氣であつたのを喜んでくれました。入獄前に亡母を葬るべく寒い夜中に貸車内の遺骸を守つて埼玉縣本庄驛まで行つたが、それが凍るやうな寒さであつたので、わたしはひどい風邪に罹りました。入獄の際も咳がはげしく、毛細氣管支炎をわづらつてゐたので友人達は非常に氣づかつて迎へてくれたのでした。その病氣はまだ全治したわけではないが、兎も角も元氣で出獄し得たのは吾も人もうれしかつたのです。  出獄すると間もなく、家宅搜索がやつてきました。幸徳等の大逆事件に關連した取り調べであつたのです。手紙その他の書類を車に載せて持つて行き、同時に私も警視廳に引つぱられました。その搜索の際でした。判事か檢事か知らないが若い男が、わたしの大切にしまつて置いた澄子さんの寫眞と手紙とを探し出し、わたしの顏とその寫眞と手紙とを幾度も見かへすのです。神聖なものを汚がされたやうに感じたので、わたしはいささか怒氣を帶びましたが、若ものはそれに氣づいたと見えてていねいに元どほりたたんで包みました。  警視廳における警戒はかつて經驗したことのない嚴重さでありました。その夜は留置所ではなくて大廣間に刑事二人がわたしの寢床の前後につきそうて不眠看守を續けるのでした。押收書類は徹夜で調べたのでせう。翌朝は早くから訊問を受けました。訊問の中心は皇室に對するわたしの考へを質すにありました。長い訊問應答においてわたしの述べた大體の意見は次のやうなものでした。 「學校の國際法の講義であなたがたも論究したことであらうが、將來世界が一つになる時、それを共和制に統一するか、君主制を以てするか、といふことが問題になるであらう。さうなれば日本の國體などは問題でなくなります。ではさしあたり、皇室に對して如何なる態度をとるか。わたしは暴力沙汰を排斥する、それは決して效果がないからである」  こんな要領の答をすると、檢事は一通の手紙を出してわたしに示すのでした。それは木下尚江が赤羽巖穴に送つたもので、わたしの留守中に赤羽が預けて置いた行李の中から見出されたものでありました。その手紙の要旨は 「先日石川が來て、今度入獄すれば病中の自分は必ず獄死するであらう。もし死んだら遺骸を引き取つて、二重橋外に晒してくれ、と言つてゐた。しかし僕はそのやうなことはしないで、普通に葬つてやるつもりだ」  といふやうなものでありました、そして檢事は 「皇室に對して激しい敵意を持つてゐるやうであるがどうか」  と、つめ寄つてくるのでありました。わたしはハッと驚きました。何しろ大逆事件の際であるし、また幸徳の家には屡〻出入してゐたので、事件に卷きこまれはせぬかと恐れたのです。 「何しろ天皇の名において刑の宣告が言ひわたされるのだから、わたしが木下にそのやうなことを計つたとすれば、それは自然の感情の發露でありませう」  とわたしは答へました、そして更に加へました。 「昨日わたしのところで押收なされた『虚無の靈光』の中に、マルクス主義や無政府主義についてのわたしの意見が書いてあるから、それを讀んでいただきたい」  この小書の中に次のやうなことが書いてありました。 「マルクスの歴史主義革命論も、クロポトキンの理想主義的革命論も、ともに自由解放の運動としては一種の空想である。歴史過程に沿うて強權を以て社會政策を行つても解放にはならない。また單に暴力革命によつて自由平等の理想社會を打開しようとしても、それは不可能だ」  こんな文句のあるページを開いて檢事に示すと、彼は納得したらしく、訊問を止めて世間話にうつり 「昨夜から御苦勞でした。何かお辨當を取るから喰べて下さい」  と、それにて放免になつたらしい。お辨當など喰べずに早く歸らうとも思つたが、晝食時を少し過ぎたので出された『うなどん』を食うて、心も落ちついて歸途につきました。前夜もその朝も『天どん』の御馳走であつたが、心がおちつかないので、あまりうまくなかつたが、最後の『うなどん』ですつかり元氣になりました。  歸宅すると皆が非常によろこんでくれました。都下の新聞などもわたしの拘引を書きたてたほどですから、友人達も少し心配になつたのでせう。當時すでに千葉から歸つてゐた堺ははがきをよこして、見舞に行きたいと思ふが、こんな際だからおとなしく引つこんでゐると書いてきました。アメリカの新聞は幸徳の事件に連座するものとして、わたしの拘引を報じ、福田氏の寫眞まで掲げて記事をにぎはせました。それは平民社時代に日本に來てゐたフライシュマンといふ男が書いたものでありませう。當時アメリカにゐた前田河廣一郎君から、その新聞を送つてくれたのであります。  明治四十四年一月二十四日の朝、社會主義仲間の名物男齋藤兼次郎君があたふたとやつて來ました。朝から何の用ですか、と尋ねると、上氣して赤い顏した齋藤君は 「やられてゐるさうです」  といふ。 「何がです?」 「いちがやで!」 「ああ! ほんとですか?」  わたしは、ぐつと胸がつまつてきました。 「たうとうやるか。とにかく堺のところに行きませう。先に行つて下さい。わたしは後から行きますから」  實を言ふとわたしも一しよに行きたかつたのですが、小心なわたしは胸がせまつて、動きがとれなくなつたのです。何とかして落ちつきたいと考へて、飯を食つてみようと試みたが、どうしても咽を通りません。お茶をかけて漸く一ぱいの飯を呑みこみましたが、不思議にも少し平靜になつたので、堺家に行きました。氣の小さい自分を省みて、少し恥かしい思ひであつたが、行つて見ると皆が興奮してゐるので、自分ばかりではないとやや安心しました。  幸徳等の遺骸を受取つて落合火葬場に送つたのはその翌日でした。十二名が死刑、他の十二名は刑一等を減じられて無期懲役になつたのです。その無期刑者のうち、坂本清馬君の所持品が私に宅下げになつたので、監獄に受取りに行きました。その時、いろいろの手續に沒頭してゐる間に、坂本君に對する減刑言渡書が紛失しました。驚いて諸方を探してゐると松崎天民といふ新聞記者が風呂敷包の中からそつと引きぬいて書き寫してゐました。恐しい奴だと思つたが怒りもされず、寫眞にとるなら貸してあげるから、用のすみ次第、すぐ返しなさい、といふと喜んで持つて行きました。      生活の逼塞  幸徳は死刑になる直前に端書をよこして支那の同志張繼の所在を問うて來ました。わたしはすぐに支那革命黨の本部である民報社に行つて、それを問ひましたが、張繼はその時歸國してゐたらしかつた。民報社には、その時、章炳麟や汪兆銘や何天炯等がゐましたが、章は幸徳に手紙をあげたいが、屆けられるだらうかと問ひ、わたしが送つてあげると答へましたので、すぐに半紙に細字で慰問の手紙を書きました。わたしはすぐに張繼に關する返事とともにそれを幸徳に送るつもりでしたが、つひに間にあはず、幸徳は刑死してしまひました。  章炳麟は支那學の大家で、滿洲、朝鮮排撃の急先鋒として、つとに光復會を起した人であります。呉稚暉だの蔡元培だのといふ、さうさうたる人物がその門下から出てゐます。呉、蔡兩氏は無政府主義的理想家としてともに支那青年層に多大の感化力を持つに至りました。これ等の人々の先輩である章炳麟は當時『民報』の主筆として故國の革命を鼓吹してゐましたが、その『民報』が告發せられて東京地方裁判所の法廷に被告として立つことになりました。わたしはそれに辯護士を紹介してあげた關係から、付添人の格で法廷に出席しました。黄興や宋教仁や汪兆銘もそのとき一しよに行きました。法廷が開かれると一人の辯護士が章氏は精神異常者であるから精神鑑定をしてもらひたいと申請したので、わたしはその辯護士(それはわたしの紹介した人ではなかつた)に抗議し、章氏は偉大な學者であり、その性格や素行に常軌を逸するところがあつても、決して精神異常者ではない、いまの申請はとりさげて下さい、といふとその人はその申請をとり下げると同時に退廷してしまひました。怒つたのです。法廷が終つて、黄興、宋教仁、章炳麟とわたしと、四人で日比谷公園の松本亭で午餐をともにした時、黄興は言ひました。 「章さんは少々精神異常者というてもよろしい、辯護士さん氣の毒なこといたしました」  さすがに黄さんは人間が大きいなと思ひました。この裁判事件は、わたしが巣鴨監獄を出て間もない時分のことであつたと思ひます。  さて、大逆事件があつて以來、わたしどもの生活の道は八方ふさがりになりました。進退まつたく谷まりました。わづかに内密の代筆や飜譯で口を糊するに過ぎませんでした。刑事二人が晝も夜も家居の時も、外出の時も、常にわたしどもに離れず警戒を續けるので、知人を訪問することも遠慮せねばならなくなりました。この時わたしに屡〻代筆の仕事を與へてくれたのは辯護士花井卓藏氏でありました。花井のところには、わたしは十五、六歳の時から出入し、同博士の長男節雄君が死んだときには、香爐を持つてその棺を送つたほどでしたが、この生活難に際しても隨分世話になりました。かつて木下尚江が發行するところの『野人語』に、わたしは花井邸訪問の一齣を次のやうに書いてゐます。 「この堂々たる訪客(堺利彦、野依秀市兩君)の中に、十年着ふるしたるハゲがすりの、この夏一度も洗濯せざる單衣をまとへる予の、いかにみすぼらしく見えしよ。加ふるに予は昨年入獄の際より呼吸器に微恙を得て、やつれし小躯を湘東の一漁村に養ふの身の上である。二十年舊知の花井博士の眼にはこの光景が如何に映じたであらうか。  堺、野依の兩君は所用を濟ませて辭し去つた。暫くして予もまた所用をすませて當に座を立たうとした。その時花井氏は聲を懸けて 『ちよつと……』  といふ。何時になく沈んだ聲である。 『失敬だけど、はなはだ失敬だけれど、着物を一枚あげたいが、着てくれますか……』  予は子路のやうな豪傑ではないが、さりとて衣服の粗末なるを恥ぢらふほどに世俗的でもない。たゞこの頃中から種々なる無理な無心を申し出でてたびたび迷惑をかけた揚句に、この優しい言葉に接して、俄かに心臟の血がワクワクするのを覺えた。 『えゝ、ありがたう』  と予が答へるのを聞いて、花井氏は、すたすたとドアを排して出ていつた。すぐに歸つて來た。新聞紙にくるんだ物を小脇にかゝへては入つて來た。 『失敬なやうだけれど、君と僕との間だから、惡るく思うて呉れたまふな』 『いえ、どう致しまして』 『僕がちよつと着たのだから、きたなくはない』 『結構です、どうも着物のことなど少しも關はんものですから……』 『關はないのはよろしいが、あんまり、ひどいや』  花井氏は顏をしかめてかう言ふ。その澁い底力のある聲は少しくうるんでゐる樣子であつた。 『恐縮です』  博士自らていねいに包みなほして、カタン糸にてゆはいて呉れたのを予はいただくやうに受取つた。予は拜領の包を抱へて椅子から立つた。花井氏はまた一語を送るのである。 『早く身體を丈夫にしてね……』  予は花井邸の玄關をそこそこに出て、ほつと一息した。平生『敞衣褞袍、興衣狐狢立、而不恥者、其申也歟』など言うて、いささか誇りにしてゐた予も、人情の不意討を喰うて不覺の涙さへ禁じ得なんだ」  當時の私の状態がいかに哀れなものに見えたかが想像せられます。わたしに飜譯の仕事を世話してくれたり、いろいろ助力をしてくれた同郷の先輩、佐藤虎次郎氏――この人のことは前にも書いた――は或る時わたしに勸告して 「もし君が暫く社會運動から遠ざかるなら洋行もできるし、歸國の上は立派な就職もできるが、考へて見ないか」  と言ひました。それは當時の文部大臣小松原英太郎の前で粕谷義三、花井卓藏兩氏立會の上で一言ちかへば、文相自ら喜んで引受けてくれるといふのでした。佐藤氏は親切心で言つてくれたのであらうが、わたしは甚だ不滿でした。 「わたしに初めて社會主義の話をしてくれたのは、あなたではありませんか、そのあなたから、その樣な勸告を受けるのは心外です」  と斷りました。佐藤氏はあきれたらしく、わたしもそれ以來、助勢を乞ふことができなくなりました。      脱出、放浪の旅へ  明治四十四年夏、わたしは呼吸器の病氣を癒すために横濱の根岸海岸に一小屋を借り、同志大和田忠太郎君のところで食事の世話になり、毎日海に入り、河童のやうな生活を續けながら、飜譯などしてゐました。『哲人カアペンター』を公けにしたのもこの時でありました。この書はわたしにとつて眞の處女作と言つてもよろしいもので、自分では可なり心力を注入したつもりであつたが、賣れませんでした。しかし、カ翁をシェフィールドのかたゐなかに訪問した記事が萬朝報にでると、この本も少し賣れ始めたやうですが、その時は既に『かず本』になつて市場に投げられた後なので出版者西村氏は大ぶ損をしたらしいです。  明治四十五年には秋山氏といふ一人の同情者が現はれて、わたしの獄中作『西洋社會運動史』の自費出版が着手されました。ところが元來この計畫は、西園寺内閣であつたので可能性がみとめられたのであつたのに、意外にも同内閣が倒れて、われわれに苦手の桂太郎が内閣を組織するに至りました。『これはいかん! 發禁は必定だ!』と思つたが、しかし、印刷も半ばでき上つたので如何ともすることができず、この上はことを極祕裡に運ぶにしかずとかんがへ、製本も年末におしつまつて出來あがるやうにして、官僚どもが年末の多忙と正月の屠蘇醉との夢中にある間に、書籍を處分することに決しました。  そこで奧付は大正元年(明治四十五年)十二月二十五日印刷、大正二年一月一日發行といふことにし、殆ど全部の書を、同志渡邊政太郎君と共に深夜、大雪の中を荷車で、製本所から直ちに某友の土藏の三階に運搬しました。また多くの同志や知友にも贈りました。それは年末三十日ごろのことであつたと思ひます。内務省檢閲課へは丁度大晦日に屆くやうに發送しました。わたしの豫想は過たず、官僚が屠蘇の醉ひからさめると同時に發禁の命令が横濱警察に來ました。警視廳は西村氏の東雲堂に書籍差押に行つたが、そこには勿論五、六册しかありません。奴等はやつきになりました。わたしのところにも一册もありません。已を得ずわたしを警察署に引つぱりました。わたしは夜具の毛布を背負つて横濱警察に行きました。 「書籍をどこへかくしたか?」  といふ、きつい訊問です。 「公然屈けいでた出版物です。何の必要があつてかくしませう」 「でもどこにも無いぢやないか?」 「もう出來てから一週間になります、大部分は支那の同志が支那に持つて行きました。今時分は船の中で黄海あたりを渡航中でせう。もう少し早くお知らせを下さればよかつたですが、外國船に積み込まれたのでどうすることも出來ません」  署長さんも今更怒つてもしかたがないと思つたか、ことやはらかに 「それでは歸つてもよろしい」  と來た。かうして、たわいなく事件は經過し去りました。この事件が因縁になつて、わたしの日本脱走が發起されるに至りました。  明治四十五年の夏、福田氏一家は東京角筈の家にゐられなくなつて、一まづわたしのところに來ることになりました。それには渡邊政太郎君が容易ならぬ骨折りで悲劇喜劇を演じながら兎も角も無事に移轉ができたのです。貧乏の結果、借金取りの包圍に會つて家財の運搬など思ひもよらぬ有り樣であつたのを渡邊君が一切引きうけて始末をつけてくれたのです。  四十五年は半ばで大正元年になりましたが、その年の大晦日に渡邊とともに出版書の始末を終つたところに、裏口の方から『石川さんこちらですか』といふ聲がかかりました。田中正造翁の聲です。飛びだして見ると翁は人力車から降りるところです。 「やれやれ見つかつてよかつた。あちこちと一時間あまりも探しましたぜ!」  二週間ほど前に海岸通りから少し高臺に移轉したために翁をまごつかせた譯です。しかし一家一族が大喜びで翁を迎へたので、翁はとても嬉しさうに、懷から十圓札を一枚だして 「これで皆さんと一しよにお正月をさせておくんなんしよ」  といふのです。われわれに對する翁の愛情の深いのには、いつも感激させられます。横濱まで來てお正月をしようといふ翁の心の中には、貧困の極にあるわれわれがこの年の瀬を如何にして越しうるか、といふ心やりもあつたのでせう。無一物の翁なればこそ、無一物のわれわれに同情が持てるのです。わたしは何時もながら眞心から翁に感激しました。  翁は元日から若いものどもにかしづかれながら、屠蘇に醉うて大元氣でした。唐紙がせん紙を翁の前に並べると、翁は一ぱいきげんで盛んに書きなぐりました。 「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしの轍のあとかたもなし」 「天地大野蠻」 「壯士髮冠をつく日の出酒」 「若いもの見てはうれしき今朝の春」 「餘り醉ふことはなりません屠蘇の春」  といふやうな文句は今でも記憶してゐます。翁は大はしやぎにはしやいで三日に東京の方に行きました。家の無い翁の後姿はいかにも淋しさうに見えました。  翁が去つて二、三日たつと前述の發賣禁止事件でわたしは横濱の警察に引致されました。それを聞いた支那の革命少女T君はベネジクティンの大壜を携へて來訪されました。T君は民國の第一革命を横取りした袁世凱の暗殺を企てて失敗し、危く捕へられようとした時ベルギーの領事G君に救はれ、G君に伴はれて日本に來た人です。G君はかねて二、三度わたしの家に來訪したことがあり、このG君から私のことを知つたのです。(この人のことは『爆彈の少女』として幾度か紹介したことがあるから、ここには述べますまい。) 「あなたは、かうして、ぐづぐづしてゐると、幸徳のやうにくびられてしまひます。早くこの國から脱走しなさい。旅費はわたしが出します」  と勢こめてT君は言ふのです。この少女の情熱にほだされて、わたしの日本脱走は決せられたのです。  このことは渡邊と堺と二人に知らせたのみで、他のすべての同志には祕密でした。堺は送別のためにとて、有樂座の文藝協會演出アルト・ハイデルベルヒに招待してくれ、わたしは最初にして最後に松井須磨子を見ました。  三月一日、わたしはひそかに佛國の巨船ポール・ルカ號に乘り込みました。渡邊から特に知らされて見送つてくれた青年山本一藏は岸壁に唯一人とどまつて、いつまでも見送つてくれましたが、それが永遠の別れになりました。彼は早稻田を優秀の成績で卒業しながら、間もなく鐵道自殺を遂げました。田中翁はわたしの脱走を聞いて些か淋しさうでしたが『わたしはヨーロッパに行つて、必ずあなたの傳記を書いて、あちらの人達に知らせてやります』といふ一言をもつて、わたしは翁にお別れしました。そしてそれが永遠のお別れになりました。 (永々紙面を汚しました「浪」は限りなくつづくのですが、一先づこれで……) (昭和二十三年五月―十二月)
底本:「日本現代文學全集 32 社會主義文學集」講談社    1963(昭和38)年12月19日発行 初出:「平民新聞 第73号~第102号」    1948(昭和23)年5月24日~12月27日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:林 幸雄 校正:仙酔ゑびす 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 此ごろ農本主義といふものが唱へられる。二十年来、土に還れと説いて来た私にとつては、とても嬉しい傾向に感じられる。たゞ『哲人カアペンタア』を書いて以来、私の考へ且つ実践して来た土民生活の思想と、今日流行の農法主義とは、些か相違するところがあるから、それを極めて簡略に説明して置きたい。  私は先づこの両思想の相違点を大体三点に分けて見る。第一に、農本思想は治者、搾取者の側から愛撫的に見た「農は天下の大本なり」といふ原則から出たものであるが、土民思想は歴史上に現はれた「土民起る」といふ憎悪侮蔑的の言語から採つたものである。第二に、農本思想は農民を機械的に組織して他の工業及び交換の重要事業との有機的自治組織を考へないが、土民生活に於ては一切の産業が土着するが故に農工業や交換業が或は分業的に或は交替的に行はれて鞏固な有機生活が実現される。第三に、農本思想は階級制度下に無闘争の発展を遂げようとする百年前のユトピヤ社会主義者と同一系統に属するものであるが、「土民」思想は其名それ自身が示す如く階級打破の闘争無しには進展し得ない性質を持つてゐる。          ◇  以上の三点を更に少しく詳細に説明しよう。第一に言葉は原理を表現するものである。原理と言つても、形而上的原理とちがつて、規範的実践的原理には知的要素とゝもに情的要素が同様に包含される。従て、その原理を表現する名称には単に理論ばかりでなく気分が現はれてゐるものだ。権藤成卿氏の『自治民範』によると崇神天皇は誓誥を発せられて「民を導くの本は教化にあり、農は天下の大本なり、民の以て生を恃む所なり。多く池溝を開き民業を寛ふせよ。船は天下の利用なり、諸国に令して之を造らしめよ」と勅語せられたといふことだ。農本主義者が現存の階級的闘争を否定し、寧ろ民族的統制のもとに農民の自治的生活を助長しようとするのは、極めて自然のことと言ふべきだ。それは簡単に言へば、農民愛撫主義である。近頃の言葉でいへば温情主義である。農本思想には治者が大御宝を、または民草を、大切にして皇化に浴せしめる、といふ気分が自づからにじみ出てゐる。それが武力的革命にまで急発展すると否とに係はらず、かうした気分は顕著である。  然るに「土民」思想には些かもそうした気分が現はれてゐない。歴史上に於ける「土民」の名称は叛逆者に与へられたものだ。殊にそれは外来権力者、または不在支配者に対する土着の被治被搾取民衆を指示する名称だ。「土民」とは野蛮、蒙昧、不従順な賤民をさへ意味する。温情主義によつて愛撫されない民衆だ。その上、土着の人間、土の主人公たる民衆だ。懐柔的教化に服さず、征服者に最後迄で反抗する民だ。日本の歴史に「土民起る」といふ文句が屡々見出されるが、その「土民」こそ土民思想の最も重要な気分を言ひ現はしてゐる。  土民は土の子だ。併しそれは必ずしも農民ではない。鍛冶屋も土民なら、大工も左官も土民だ。地球を耕し――単に農に非ず――天地の大芸術に参加する労働者はみな土民だ。土民とは土着の民衆といふことだ。鍬を持つ農民でも、政治的野心を持つたり、他人を利用して自己の利慾や虚栄心を満足するものは土民ではない。土民の最大の理想は所謂立身出世的成功ではなくて、自分と同胞との自由である。平等の自由である。          ◇  第二に、農本思想は農民を主とするが故に他の民衆を考慮に入れる余地がない。「農本」といふ言葉其ものが、既に他の職業人を第二位に置くことを予想させる。そこで農本主義者は農民の如何なる社会組織を予想するかゞ問題になる。農本主義とは他の職業よりも農を重しとするものであらうが、それが果して可能であるか。崇神帝の「農は天下の大本なり」といふ勅は決して他の職業を蔑視したものではあるまい。なぜなら直ぐ次に「船は天下の利用なり」とあり、交通機関としての船の重大性を同様に認めてゐるからである。然るに今日の農本主義者はたゞ農民のみを重んじ、農民のみによつて社会改造を成就しようとする。それは農民の機械的の組織を予想させるものではないか。  土民思想に於ては、職業によつて軽重を樹てない。たゞ総ての職業が土着することを理想とする。自治は土着によつてのみ行はれる。然るに他の諸々の職業人と有機的に連帯しない農民のみの土着は不可能だ。その土着生活は必ず他の職業に依頼せねばならないので、再び動揺を起さねばなるまい。総ての職業が土着するには、金融相場師がなくなるを要する。総ての職業が土着すれば、そこに信用が確立し、投機が行はれなくなる。そして其職業が職業別に全国的、全世界的連帯を樹立すると同時に、地方的に他の全職業と連帯する。そこに有機的な地方土着生活と有機的な世界生活とが相関聯して複式網状体を完成する。          ◇  第三に農本主義は現在の強権的統制をそつとしておいて農本的自治を行ふことに依て社会改造の目的を達しようとする。それは百年前にユトピヤ社会主義者が考へたと同じ考へ方だ。意識的に或は無意識的に治者、搾取者の地位から農民を教化し向上せしめようとする考へから出発したこの思想には、無産農民自身の身になつた感情が動いてゐない。どつちへ向いても手足を延ばす余地を持たず、資本と強権との鉄条網をめぐらされて、機関銃と爆撃飛行機とに威迫されて、最後の生命線まで逐ひつめられてゐる無産窮民――即ち土民の心情とは縁遠いものだ。  現制度の下で何か現実的にまとまつた仕事を達成しようとするには農本主義もよろしからう。けれども、それは解放の事業ではない。「土民」は先づ鉄条網を断ち切らなければ団結も共働も自由にはできないのだ。先づ鉄条網を寸断することだ。如何にして周囲の鉄条網を切断するか、それが解放の最初の問題だ。最大緊急な問題だ。  鉄条網に繞らされた土民はいま機関砲も爆撃機も持つてゐない。絶対絶命の土民はたゞ鍛えられた肉弾を持つてゐるのみだ。土民仲間にあつては「爆弾三勇士」なぞは常に到処に見出される。
底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社    1978(昭和53)年8月10日発行 初出:「ディナミック」    1932(昭和7)年9月1日 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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         一  私の今から申し上げやうとすることは政談演説や労働運動の講演会といふ様なものではなくて、ごくじみな話であります。初に農民自治の理論を話して、次にその実際を話したいと思ひます。  理論としては第一に自治といふことの意義、第二に支配制度、政治制度の不条理なこと、第三に土地と人類との関係、即ち自治は結局は土着生活であること、土着のない自治制度はないこと、土民生活こそ農民自治の生活であることを述べたいと思つてをります。実際としてはこの理論の実行方法とそれへの歩みを述べるために、第一社会的方法、第二個人的方法に分けてお話いたします。          二  地上の全生物は自治してをります。単に動物だけではなく植物もみな自治生活を営んで居ります。  蟻は何万、何十万といふ程多数のものが自治協同の生活をしてをります。蟻の中には諸君も御存知のやうに戦争をするのもありますが、それでも自分たちの仲間の間では相互扶助的な美くしい生活をしてをります。春から夏へかけて一生懸命に働いて沢山の食糧を集め、冬越の用意をいたします。土の下に倉庫を造り、科学的方法で貯へて、必要に応じてそれを使ひます。お互の間には礼儀もあり規律もあり、その社会制度は立派なものであります。しかし他部落の者が襲撃して来た時などには勇敢に戦争をいたします。私はその戦争をみたことがあります。  丁度フランスにゐた時のことであります。  フランスの家はみな壁が厚くて二尺五寸位もあります。あの千尺も高い絶壁の様な上に私どもの村がありました。そこのある一軒の家に住つて百姓をしてをりました。その頃は忙しい時には朝から夜の十二時頃までも働いて居りました。ある夜、遅く室に帰つて来て床につきましたが、何だか気持がわるいので起きてランプをつけてみると大へん。十畳ばかりの室の半分は真黒になつて蟻が戦争をして居ります。盛んに噛み合つてゐる有様は身の毛がよだつばかりでした。蟻を追ひ出さうと思つてにんにくを刻んで撒いたがなか〳〵逃げない。翌日も戦ひ通してゐましたが、その噛み着いてゐる蟻の腹をつぶしてみても、決して離さないで、噛みつかれた方は其敵に噛みつかれた儘かけ廻つてゐた位であります。然しその翌朝になると戦がすんだと見えて、一匹残らず退いてしまひ、死骸もみんな奇麗に片づけてしまひました。蟻は支配のない社会生活を営み乍ら、協同一致して各自の社会の幸福と安寧をはかり、その危険に際しては実に勇敢に戦ひます。  蜂の社会に支配者はありません。暖い日には一里も二里も遠く飛び廻り、足の毛に花粉をつけては持つてかへつて冬越の為に貯へます。かうして皆がよく働いて遊人といふものがありません。但し生殖蜂といふものがありますが、これは目的を達した後には死んでしまつて、後には労働蜂と雌蜂とだけが残ります。「働かざる者食ふべからず」といふことは人間社会では新しい言葉のやうに言つてゐますが、動物社会には昔からあつたことであります。  進化論者は人間は最も進歩したものだといふが、蟻や蜂の方が遙に道徳的であつて、人間は悪い方へ進歩して居ります。殊に此頃では資本家だとか役人だとかいふ者が出来て、この人間社会を益々悪い方へ進歩させて居ります。蜂は巣の中においしい蜜を貯へて居りますが、他の群から襲はれる時には実に猛烈に戦つて、討死するも省みないのであります。マーテルリンクは『蜂の生活』といふ本を書きましたが、その中には蜂の愛国心、或は愛巣心といふべきものが如何に強いものであるかを詳に説いて居ります。これは我々にしてみれば愛郷心、愛村心ともいふべきものであります。然るにそれ程までに死力をつくして守つた巣も、自分たちの若い子孫にゆずる時には、蜜を満してをいて自分たちの雌蜂を擁護して、そつと他の新しい場所へ出ていきます。人間社会によくある様に「俺の目玉の黒い中は……」なんて親が子に相続させないで喧嘩する様なことはありません。  此外、鳥にしても他の動物にしてもみな同じことで、美くしい社会組織をもつて自治生活をつゞけてをります。  単に自分たちの種類の中だけではなく、他のいろ〳〵な種類とも共同生活をして居るのもあります。中央アメリカ旅行者の記録によると、人間に家の周囲は恰も動物園の如き有様ださうであります。主人と客とを見分け、自分の家と家族の人たちをよく覚えてをります。他人が来ると警戒して喧しく鳴き立てます。又、狼、豹等も住民に馴れてゐるし、小鳥は樹上で囀つてゐる、殊に若い娘はよく猛獣と親しみ、その耳や頭の動かし方、声の出し方などでその心理を理解するし、動物もよく娘の心理を理解します。かうして野蛮人の家が丁度動物園の如き奇観を呈し、動物と人との共同の村落生活を実現してゐるさうであります。  植物の自治生活については私の申し上げるまでもありません。春は花が咲き、秋には実り、自らの力で美くしい果実を実らせます。そしてだん〴〵自分の種族を繁殖させます。  七八十年来、進化論が唱へられ、生存競争が進化の道であると言はれて居ります。この進化論はワレスやダーウヰンが唱え出したものでありますが、之に対してクロポトキンは相互扶助こそ文明進歩の道であるといふことを唱へて居ります。生存競争論では強い者が勝つて、他を支配するといふのであります。しかし支配といふことは動物社会には事実存在しないことであります。他の団体に餌を求めていくことはあつても、その団体を支配することなどは事実としてはないことであります。  今、植物の例にうつります。桃の木を自然の生育に委せてをくと多くの花が咲きますが、その三分の一ばかりが小さな実を結びます。それから成熟して立派な実となるのは、又その三分の一ばかりであります。進化論者はこれも生存競争の為だといふかもしれませんが、それは一の既定概念による判断に過ぎないのであります。見方によつては生存競争といふよりも、むしろ相互扶助の精神の現はれと考へることも出来ます。林檎や梨の木も同様であります。  皆さんも御存知の通り木の皮の下には白い汁が流れて居ります。あの液汁が余りに盛んに下から上へ上ると花は咲きません。たゞ木が大きくなり葉が茂るばかりであります。今その枝を少し曲げて水平にすると花が咲き、又多く実ります。これは光線と液汁との調和が取れるからであります。この時に落ちていく花は競争に負けたのではなくして、太陽の光線との調和の為めに多く咲き、後には他を実らす為に犠牲になつたと考へたいと思ひます。多く咲くのは調節のためであります。戦争に於て第一線に立つて金鵄勲章をもらふ者のみが国防の任に当るのではなく、後方の電信隊、運搬者、農夫等も必要な任務をつくしてゐると同様に、実つたもののみが使命をつくしてゐるのではなく、落ちた花にも使命があると考へたいのであります。戦争の時に第一線の者だけが勇者で、人知れぬ所で弾丸に当つて斃れた者が勇者でないとするやうな考へ方には共鳴出来ません。しかるに今の社会組織が生存競争主義になつてゐるから、殊に其様に間違つた考へ方、間違つた事実が生ずるのであります。  日露戦争当時、私はある事件で入獄してをりましたが、その時にある看守はこんな事をいひました。「お前たちは幸福なものである。我々は毎日十六時間づゝ働いてゐる。而も二時間毎に二十分づゝ腰掛けることが出来るだけで、一寸でも居眠でもすると三日分の俸給を引かれる。然るにお前たちは毎日さうして読書してゐることが出来る。実に幸福なものである」といつて我々を羨むのでありました。そういひ乍ら我々を大切に世話してくれます。彼等からいふと我々は商品の様なものであります。司法大臣でも廻つてくる時に少しでも取扱方に落度があればすぐに罰俸を喰ふのであります。  さて或る時お上からお達しが監獄へ来て、「戦争の折であるから倹約をせよ」といつて来ました。そこで監獄の役人たちはいろ〳〵と相談を致しましたが、囚人の食物を減ずることも出来ないので、看守の人員を減ずるより仕方ないといふことになり、百五十人を百人に減じました。看守さんたちは眠いのを辛抱して以前にも増して働きましたが、その結果として典獄さん一人が表彰されたのみで他の看守さんたちは何一つも賞められなかつたのであります。その典獄さんは実際よい人でありました。私やその当時隣の室にゐた大杉などを側へ呼びよせて「お前たちは立派な者だ、社会のために先覚者として働いて貴い犠牲となつたのだ」とて、大そう親切にしてくれました。この典獄さんが表彰されたことはお目出たいことでしたが、「俺たちは太陽の光で新聞を読んだことがない」といつてゐる看守たちが少しの恩典にも浴することが出来なかつたのは何としたことでせうか。賞与をもらはなかつた看守も国家のためになつてゐることは明かですが、生存競争主義で組織された世の中であるから上の者だけが賞与にあづかるのも己むをえないのであります。こゝに来てゐらつしやる巡査さんもこのことはよく御承知の筈だと思ひます。  このごろ東京では泥棒がつかまらないので巡査を何千人か増員するといつてをりますが、下の巡査が能率をあげれば上の人が褒美をもらふまでゞあります。これは単に警察や監獄の中だけではなく、会社でも、学校でも、銀行でも、又農村でも到る所同様であります。だから皆が何でも偉い者にならうとしてあせつて、一つづつ上へ〳〵と出世をしたがります。平教員よりも校長に、巡査よりも部長にといふのが今の世の中の総ての人々の心理であります。  然し上の位の人だけが手柄があるのかといふとさうではありません。どんなに下の位の者でもみなそれ〴〵の働きをしなければ、いくら上の人が命令をしても何一つまとまつた仕事は出来ないのであります。然るに今日の生存競争の考へからすれば馬鹿と悧※(りっしんべん+巧)とが出来るのであるが、人といふ見地からすれば一人で総てを兼ねることは出来ません。どんなに馬鹿と見えても必ず誰にも代表されない特長を持つてゐるものであります。特別の体質と性質とを持つてゐて、そこに個人としての特別の価値を持つてをります。悧※(りっしんべん+巧)とか馬鹿とかいふが甲の国で悧※(りっしんべん+巧)な人、必ずしも乙の国で悧※(りっしんべん+巧)とは限らず、乙の時代に悧※(りっしんべん+巧)な人、必ずしも丙の時代に適するとは限らないものであります。この通り、総ての動物総ての植物に至るまで、みなそれ〴〵の使命を持つてゐることは人間におけると同様であります。  こゝで人間社会のことを考へてみませう。だが近代社会のことは言はぬことにいたします。それはあまり悪現象に充ち満ちてゐるからであります。太古、ヨーロツパ文明にふれない野蛮人の生活についてゞあります。  モルガンといふ社会学者はアメリカに渡り、土着人の社会生活を研究して『古代社会』といふ本を書いてをります。彼の研究によると、米国の一地方に住居したエロキユアス人種といふのは支配なく統治なく、四民平等の自治協同の生活をしてをつたといふことであります。この人たちはある事柄を決するのに皆が決議参与権を持つて居ります。日本では今頃になつて普通選挙などゝ騒いでゐるが、この人種は既に全部の人が参与権を持つて居りました。そして村は村として一つの独立の団体であつて、決して大きな全体の一機構ではなかつたのであります。  フランス革命の時には自由、平等、博愛を標語として叫びましたが、この土人たちはとつくの昔から其を実行してゐたのであります。人間が誤つた思想や学問に支配されない前には、みんな自由、自治の生活をしてをつたのであります。これはアメリカだけではなくしてヨーロツパでも、アジアでも太古の社会はみなさうでありました。支那の昔、唐の時代の詩人に白楽天といふ人がありました。彼の詩にはよくこれが現はれてゐます。「朱陳村」といふ詩などには軍隊も警察もなく、而もよく自治して生を楽しんでゐる村の有様が現はれてをります。フイリツピンのルソン島も今のように征服されない以前には自由、平等、博愛の社会を造つてをりました。巡査なども不必要であつたことは勿論であります。尊ばれるものは武器を携へてゐる人ではなくて長老であります。長老は知識があり経験があつて、村落生活を助け導いてくれることが多いからであります。しかし長老たちは権威をもつて支配するやうなことはありません。文明社会には元老院、枢密院などいつて老人が権威を振ふ場所がありますが、其昔にはありませんでした。然るに此社会はアメリカ人の為に滅されて了ひました。  次に日本自身について考へてみます。天照大神に関する神話の中、素盞嗚尊の行為についてはいろいろの解釈があり、社会学上でいへば一の社会革命であるが、神話のまゝで見れば暴行であります。兎に角その暴行のために天照大神が天の岩戸の中に隠れてしまはれたので世間が暗闇となりました。そこで八百万の神々は一大会議を開いて、素盞嗚尊を流刑にすることゝ天照大神に出ていたゞいて世間を明るくすることゝを決議しました。その神々の間には位の上下等もなく、皆平等であつて、皆が決議権を持ち、階級的差別はありませんでした。その時に八罪といつて八つの重な罪を決めましたが、不思議なことには盗みや詐欺等私有財産に関する罪といふものがありません。想ふにその頃は部落共産制であつて私有財産といふものが無かつた為に盗みなどといふこともなかつたのであらうと思ひます。日本の古典として最も貴重な『古事記』に現はれた日本の国体はこれであります。先刻述べましたエロキユアスと同様な社会生活であつて、統治なく支配なき社会でありました。八百万神とは今でいへば万民であります。万民が一所に集つて相談をしたのであります。人間本来の生活はみな之であります。総ての民族が太古にはこうした生活を続けて来たにも関はらず、何故に支配といふことが出来てきたか。これは重要な問題であります。  故に私は茲に支配制度の発生について考へてみたいと思ひます。  バビロンの歴史は今を去る四五千年前のものでありますが、その遺物に王様の像の彫刻があります。又、バビロン人の出る前にはアツカド人、スメリヤ人などといふ人種があつて、前者は高原に後者は平原に住んで居りましたが、彼等の遺物の中にも王様の像があります。但し王様の像といつても別に金の冠をいたゞいてゐるわけではなく、多くの人と共に土を運んでゐるのであります。たゞ他の人より大きな体に刻んであるのと、その側の文字によつてそれと想像出来るのであります。その頃の王様とは総代又は本家といふ様なものであつて、支配する人といふ意味はなかつたのであります。王様であると同時に労働者の頭であり、自らも労働する人であつたのであります。労働の中心人物が王様であつたのであります。その後二三百年乃至五六百年たつてからの王様の像をみますと、共に土を運ぶ様なことはなく、労働者の側にあつて測量器械の様なものを持つてをります。 〔以下五百二十字分原稿空白〕  その間の変化を考へてみると極めて興味ある事実が潜んでゐます。最初は天文も分らなければ暦も無かつたことは言ふまでもありません。だん〴〵日が短くなる、寒くなる、天気は毎日陰気になる。人々はどうなることかと心配してゐる。こんな時に経験に富んだ老人があつて「何も心配することはない。もう幾日位辛抱しろ。すると又暖い太陽がめぐつてくる」と教へて人々の不安を慰めたとする。又、作物の種子を播く時期や風の方向の変る時期、或は大風の吹く時期なども老人は知つたでせう。二百十日もかうして人々に知られるようになつたと思ひます。かゝる長老は村の生活になくてはならぬ人で村人に尊敬をされるのは自然であります。村人は或は彼を特別の才能ある者と思ひ、或は天と交通ある者と考へるかもしれません。そこで長老は喜んで自分の経験を多くの村人に伝へないで、自分の子孫、或は特別の関係ある者にのみ伝へて秘伝とするやうになります。村人はその秘伝の一族に贈物、或は捧物をして御利益を受けやうとする様になります。そこで彼等は労働しないでもその秘伝のお蔭によつて生活が出来る様になります。彼等は毎日遊んでゐて専ら自分の研究を続けることも出来れば、他のいろんな高等な学術の研究に没頭することも出来る様になります。徳川時代までは薬や剣術等にこの秘伝、或は一子相伝などが多かつたことは皆さんが御存知の通りであります。  こんな現象が永続すると自然に特別の階級が出来て、特権を持つと同時に、閑もあるし資力もあるから知識が進歩して益々自分達の生活に都合のよいことを考へる様になるでありましやう。初めは民衆の為であつた知識が後には自分のためとなり、初めは民衆のためになるから尊敬されたものが、後には単に之を所有するが故に尊敬される様になり、遂には偉くない者でも其秘伝を受けついだものは搾取が出来るやうになり、全く無意義なことになりました。  階級の確立、支配者の出現が社会生活に及ぼした影響をみるに、第一、経済や政治の組織の中に無益なことが生じて来ました。第二には道徳的には非常な不義が行はれる様になり、悪事が世を支配する様になりました。第三には人々が自然に対する美を感じなくなり、美的生活から離れて行きました。今その一つづゝについて詳しく話して見ましやう。  第一、経済的無益について。  あるものが他を支配する結果として、即ち生存競争の結果としてこんな事が生ずるのであります。国際的の例について考へてみるに、英国は紡績事業に於ては世界の産業を支配してをります。印度の綿をマンチエスターへ持つて帰つてそれを綿布に造ります。そして又これを印度へ持つていつて印度人に売りつけて搾取をしてをりますが、これは印度征服の結果であります。印度で産する綿は印度の土地で印度人の手によつて綿糸、綿布等として、印度人のために用ふればよいと思ひます。支那で出来る綿は支那人のために、日本で出来る綿は日本人のために用ひてこそ当然なのであります。然るに日本も支那で出来る綿花を内地へ持つて来て日本の女工を虐待し、多くの石炭や人間や機械力を費して更に之を輸出してをります。これは資本家の搾取、支配慾の発揮であります。然しこれが永続きをするとは思はれません。此頃は印度人が自ら工場を建て、自らの機械、自らの技術を用ひて経営する様になりました。英国人も亦、印度に英国人の工場を建てる様になりました。支那に日本の工場が出来だしたのも同じ理由からであります。これはよい一つの例ですが、之に類似したことで幾多の経済的無用事が行はれてゐることは数へることも出来ない位であります。それに目ざめて来てか英国の各属領は殆んど独立自治国となつてしまひました。  国内における小さな例をあげてみます。家を建てる為には、その土地に存在する材料を使つて、その土地の人が造れば経済でありますが、事実はさうではありません。東京の東の端に家を建てるのに西の端から大工さんが行き、南のはてから材料を運んで行きます。なぜそうなるか、其れはみな「俺が利益しやう」といふ野心があるからであります。この様な不経済は大したものであります。仮りに一人の大工さんが其為に一時間づゝ無駄に費すとすれば五十人では五十時間の無駄が出来るわけであります。もし人々が真に土着して自治するならば、こんな無駄も出来ない筈であります。  第二に美くしさの失はれたことを申します。昔はどんな村にでも組合制度があつて、冠婚葬祭等を協同でやつたものであります。然し支配制度が徹底するに従つて人心が荒んで来て無闇に隣人よりも偉くならうとする様になります。他人を蹴落しても自分が出世したいといふのが今の文明人の願ひであります。文明人はすきのない顔をしてゐるが、つまり人相がわるいのであります。儲けようとか出世しやうとか、勝たうとか、一生懸命に考へてゐるから自然に人相が悪くなるのであります。監獄へはいつてゐて外へ出してもらふと、世間の人がみなぼんやりに見えます。これは監獄の中では囚人と看守がお互にすきをねらつて寸分の余裕もなく、一寸ひまがあれば話をするとか、何か悪戯をしやうと考へてゐるので自然に険悪な顔になつてくるのです。都会人よりも田舎者の方が人相がおだやかで、善いのも自然であります。  又、織物などでは今の人は三越や松坂屋から買つたものが最上の物の様に考へてゐて、手織物の美しさなどを省みる者はない様であります。先年私は十年振りでヨーロツパから帰つて来て悪趣味の下劣な日本婦人の服装に驚いたのであります。昔は服装にも建築にも深い哲学があつたのでありますが、近代商業主義のためにすつかり壊されてしまひました。昔の哲学は近代の商人により学者により商店員により、ずん〴〵と破壊されて了ひました。そして東京は最悪の都会となつてしまひました。同じ都会でも上海などはまだ立派であります。それはヨーロツパ文明の伝統が残つてゐるからであります。そこには自ら哲学が潜んで居ります。然るに、東京はたゞ利益を支配のために出来た都会で、少しも美を発見することは出来ません。  フランスにパンテオンといふ立派なお寺がありますが、こゝには国家の功労者の死骸が沢山祭つてあります。先は亡くなつた社会党のジヤン・ジヨレスの死骸もこゝに祭られました。この寺が出来る時のことであります。技師が見事なひさしを考案してくつゝけた処、どうしたはずみか完成に近づいた時、突然落ち潰れて了いました。それを見た技師は驚き且嘆いてその結果死んでしまつたのであります。一つのひさしにもこれだけの真心をこめてゐた技師の心は何と羨しいではありませんか。更に私が感心することは、その後を受けついだ技師が、前任技師の設計をそのまゝ用ひて寸分違はずに前任者の計画通りに実現したといふことであります。もし後任技師が支配慾の強い人であつたならば、必ず前任者の案を葬り自分の設計を用ひたであらうと思ひます。実に美くしい名工の心であります。  昨夜も小山〔四三〕君に聞いたのですが、小山君の着物はお母様の手織ださうであります。その純な色と模様とは実に立派なものであります。どんな田舎にもこんな立派なものがあるのに、地方の人たちは何故これに気づかないで醜い反物を三越などから求めるのでありませうか。これ明かに資本主義から来た間違つた思想に支配されるからであります。然るに茲に面白いことは、貴族の奥様方なぞになると、あのケバ〳〵しい柄合ひの反物を憎んで態々大金をかけて、手織縞の様な反物を求め、そして自分の優越感を満足して居ります。之が真に審美観から来たものならば結構でありますが、そうでない。唯だ自分が一般人よりも渋いもので而も高価なものを身に着けてゐるといふ誇りを感じたい為に過ぎないのであります。然るに渋さを誇らんが為に計らずも田舎縞、手織縞に帰着する点が実に面白いと思ひます。田舎のお媼さんが何の技巧も用ゐずに唯丈夫にしやうと織り出した反物が、却て貴族方の美的模範となるのは不思議の様であるが、実は自然の勝利であります。自分が材料を作り、自分が意匠をこらして、自分の手で織り上げる、それはどんなに美しい価値のある仕事でありましやうか。  然るに前に言つた様な無益な非美的なことが到る所に無数に行はれてゐるのでありますが、真の自治生活はこんな間違つた美的生活を廃して、真実の人間的な美的生活を打ち立てることであります。  第三、真の自治は土民生活において徹底すること。  その順序としてまず土地と人類との関係を述べたいと思ひますが、人類は土地とは離すべからざる関係があります。アナトール・フランスはある本に「人類は地表に現はれた蛆虫の様なものである」と書いてあります。人間といふものは地に生れ、地に生きて、地に葬られていく生物であります。どうして地表に生命が生じたかといふことは略して、地表に人間が生れてゐる事実を考へてみませう。  人は地から離れられぬのみならず、地からいろ〳〵の感化を受けてをります。地から離れる時には真の美も道徳も経済も失はれてしまふのであります。  地理的に考へてみても人が環境から支配されることは著しいものであります。山地の人と平原の人とは体の組織から形まで違つてくるのであります。山地の人は空気が稀薄であるから胸廓も広く、坂道を歩くから自然に足が曲つてきますし背も低いのが普通であります。然し平原の人は足も伸び背も高くなります。身体上においてもさうでありますから、精神上にいろ〳〵な影響があることは当然であります。美くしい所に生れたら詩的になり、詩人や画家となるものが出来ることは人のよく知つてゐるところであります。昨夜もいつたのでした。この雄大な浅間山や烏帽子嶽の眺望に接してゐる御牧村に生れて詩人でないものは、よほど無能な人であるに相違ないと。但し所謂詩を作るに限つたことはありません。心持が詩的になり、詩を感ずるといふ状態になつてをればよいのであります。淋しい野中の一軒家に生活しながら何等の不平もなく、自分で働き自分で食ふといふ人たちは、詩人の心持に恵まれてゐるのだと思ひます。然し今の社会ではそれを望むことも無理であれば、見ることも困難であります。どんなに美くしい自然の中に生れても食うためには都会に出なければならず、工場にも通はなければなりません。又、そんな必要のない人でも金を儲けるために都会へ出たり、都会人と結托して仕事を始めます。みんな美に背いた生活であります。昔の詩人は田園を詩的な所だと歌つたが、今の田園には詩的な趣を見出さうとしてもなか〳〵困難であります。  然しこうした事情の中に於ても農民自治会の講習会が開かれるといふことは、誰か先覚者があつてこの美しい中に美しい生活を打ち立てやうではないかと唱へだした為であつて、それは立派な自然の感化であると思ひます。農民自治会の最初の講習会がこゝで出来るといふことは、この土地の感化といふものが知らず〳〵の間に働いてゐることゝ思ひます。  あらゆる虚偽と邪悪との都会の中で巨万の富を積んでも何にならう、たゞ五十年の幻にすぎない。真実に人間らしい生活にかへり、人間本来の面目を発揮しやうといふ様に考へてくるのには、やはり地理的感化が必要であります。暑い国の人も寒い国の人もみなこの地理的感化をうけてをります。  エスキモー人種は北極に近い雪の中に生活してをります。四五ヶ月は全く雪で造つた家の中に生活してゐて、一時に多くの油を食ふことは驚くばかりで、一度に一升位も飲み、一週間位は断食しても平気だといふことであります。常にオツトセイを捕へて食べるので、その顔がオツトセイに似てゐるといふことは面白いことであります。ヨーロツパ人は、ばくろは馬に似た顔をして居ると言ひます。又、アフリカの南部にデンカ族といふ種族の住んでゐる、その附近には沼地があつて、鷺が多く住んで居りますが、デンカ族の人たちが魚を捕へるためにヤスといふ道具を持ち、片足を上げて沼のほとりに佇んでゐる姿は鷺によく似てゐるといはれてをります。みんなその環境に影響をうけたのであります。  石の多い地方には石工が多く、木の多い地方には木工が沢山あります。西洋で家を建てるのには石工が多く働き、日本では大工が多いのはその国の地理的影響によるのであります。西洋では家の壁から先に築いていきますが、日本では屋根を先に造ります。又、西洋では昔から石に人の肖像を彫りますが、日本では木に彫りつけます。所によつて家の建て方から美術工芸品の製作に至るまでみんな違つてをります。人間はいろんな技術や経済生活に至るまで何一つとして地から離れることは出来ません。この地に即し、地を愛し、大地の精神を汲んでいくところに郷土精神があり、そこに郷土芸術、郷土文芸が発達して来るのであります。而してこの郷土的なものが人間として最も美くしく、且つ健全であり、真実であります。この郷土的な意味を真実に発達させていくのが農民自治の精神であります。  各地方の事情を重んじ郷土精神を発揮することに努めると、全体としてまとまりのない社会になりはしないかと心配する人があるかもしれませんが、この郷土的な全体を綜合することによつて初めてよい社会が出来るのであります。総ての人、総ての地方が器械的に同様であつたならば、日本も実につまらぬ国であります。各地方の個性を認めて、その綜合をはかるところに国家としても真の意義を発揮することが出来るのであります。真の国粋主義は真の地方自治主義に基づかなくては成り立たないのであります。同時に真の国家主義は真の世界主義であります。真に豊な人間生活場としての世界をつくることこそ、真の国家主義であります。  甲の国の文化と乙の国の文化とは違つてをります。その相互の対象によつて初めて相互の価値が生ずるのであります。私も欧洲諸国を旅行して来て初めて日本といふ国がわかりました。孤立してゐては何も分らないし、真の文化を作ることも出来ません。これは個人についても、一村一家についてもみな同じことであります。自分の村から出てみて初めて身分の村の地位、文化等がよく分るのであります。これは自分の姿が鏡をみることによつて初めて明かにわかるのと同じことであります。  真の郷土精神の発展は真の国粋主義であり、真の国粋主義は真の世界主義と一致することになります。今日言はれてゐる様な国粋ではなくして郷土精神に基づく国粋であつたならば、其郷土がどんなに住み心地よくなるか分らないのであります。  以上は人間が地理的事情に支配されるといふことを説いたのでありますが、次には歴史的事情の方から考へてみたいと思ひます。  我々は日本といふ地理的の土地に支配されてゐると共に、歴史的の諸事情にも支配されてゐます。 〔以下六十字分原稿空白〕  歴史的にみるに土着精神が強烈であつた国家社会ほど健全でありました。すると土着精神の高揚を説く農民自治会が盛んになることは、とりも直さず日本の社会の健全な発達を促すわけになります。  例へばギリシヤであります。高原から下りて来てスパルタやアデンに移住して来た殖民の始めた文化が、ギリシヤ文明として華を開いたのであります。彼等は土地平分を行ひましたが、それが各人の所有となつて土地を愛する心が生じ、こゝに土着心が盛んになつたのであります。この土着心があつて初めてギリシヤ文化の華が開いたのであります。然るに後に到りギリシヤ人が土着を嫌ふやうになつて遂にローマに亡ぼされてしまひました。  ギリシヤには貴族等の唱へた共産主義の思想もあつたが、あのさん然たる文化の華を開いたのはそれよりも土地平分が基礎となつてをります。  モンテスキユといふフランスの学者は、三権分立を唱へた人で、其思想は日本の明治改革にも多大の影響を与へてゐます。そしてその著書に『ローマ盛衰記』といふのがあります。その中に「ローマ人は少数の人種であつた。それが広大な領土を支配したのは、その土着精神の旺盛によるものである」といつてをります。今日の学者の意見では、どんな国でもその人口の百分の一以上の軍隊を備へつけては国が立ちゆかないといふことを言つてをります。然るにローマでは人口の八分の一以上の軍隊を維持してをりました。それが出来たのはローマでは兵士に土地を平等に配分したからであります。所謂土着兵であるから、自分の土地を守るのに命がけで戦ふから強いのであります。然るにローマ文明の旺盛になるに従つて、土着精神が商工者に卑しめられ、貴族は都会に集つてデカダンの生活に陥入いる様になつて来ました。この時、蛮人に攻められて遂に滅亡したのであるが、よく考へてみるとローマを滅ぼしたものは蛮人ではなくて、ローマ人自身であります。都会主義に陥入つた羅馬人自身であります。日本も今のまゝでいけば滅亡してしまひます。 〔以下原稿なし〕
底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社    1977(昭和52)年11月25日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 自然ほど良い教育者はない。ルソオが自然に帰れと言ふた語の中には限り無く深い意味が味はれる。自然は良い教育者であると同時に、又無尽蔵の図書館である。自然の中に書かれた事実ほど多種多様にして、而も明瞭精確な記録はあるまい。音楽が人間の美魂の直射的表現である点に於て、諸他の芸術に勝る如く、自然の芸術ほど原始的にして直射的な美神の表現は他に存在しない。自然は良教育者にして、大芸術家にして、又、智識の包蔵者である。  こんな風に、五六年間仏蘭西で百姓した後、こんな風に感ぜられて、私はうれしかつた。  実際、百姓をし始めて、自分の無智に驚いた時ほど、私は自分の学問の無価値を痛感したことは無い。学校の先生の口を通じて聞いた智識、書斎の学者のペンを通じて読んだ理論、其れが絶対に無価値だとは勿論言へないが、併し私達の生活には余り効能の多くないものである。殊に平生室内にばかり引込み勝ちであつた私は、自然に対して無智、無感興であつたことに驚かされたのである。          ◇  一九一五年二月、私は独逸軍占領のブルツセル市を脱け出して、和蘭の国境を超へ、英国に渡り、更に海峡を過つて仏蘭西に落ち延びた。そして北仏の戦線に近い、リアンクウルと言ふ小さな町に細い命を継いで行くことになつた。  暫らくする内に、社会主義者中の一部に、講和論が起つて来た。そして又、誰言ふと無く、革命が起るかも知れない、といふ噂が伝へられた。  私はブルツセル市在住中からチヨと知り合になつて居た人の家の留守番として、身を此家に落着けたのである。此家には可なり広い温室もあり、又勿体ない程、良く設備された大庭園があつた。其立派な庭園の外に広い畠もあつて、林檎や梨や葡萄やが栽培され、野菜ものゝ為にも広い地面があけてあつた。「革命が起るとすれば、最初に必要なものは食物だ」と私は考へた。そこで直に人蔘やカブラやインゲン豆抔を蒔き、殊に多くの馬鈴薯を蒔いた。勿論近所の人に教はつて蒔いたのだが、併し、蒔かれたものは不思議に皆よく発生した。豆や馬鈴薯が、乾いた地面を突破つて、勢力の充実した翠芽を地上に突出して来る有様は、小気味の好いこと譬へやうも無い程であつた。若い豆の葉が、規則正しく葉並を揃へて、浮彫の様に地上を飾る時分は、毎朝早起して露つぽい畠を見舞ふのが何よりも楽しみであつた。 「不思議なものだ!」  幾度、私はコウ独語したことであらう。生れて初めて種蒔といふことを行つて見たのである。勿論私に取つては是れは直接生活問題に係はるので、可なり真剣に蒔付労働に熱中したのではあるが、今此スバラシい勢で発生する植物の姿を見ては、自然の創造力の不可思議なのに驚異を感ぜずには居られなかつた。是迄、自然といふものに全然無智であつたことも、亦一層私に「不可思議!」の感を懐かしめたのであらう。          ◇  私の家は戦線に近かつたので、兵隊さんが絶えず来宿した。大きな厩があつたので、馬の宿にも当てられた。其為に肥料として最も佳い馬糞が有り余るほど貯へられてあつた。畠をうなふ前に私はブルエツト(小車)で何十回といふ程、其馬糞を運び入れた。今、其馬糞が土地を温め、若い植物を元気づけて居るのである。  人蔘もカブラもインゲンも非常に立派に出来た。私一人ではトテも喰べきれないので、好便の度毎に巴里に居る家主の処へ送つてやつた。肉類の余り新らしいのは甘くないが、野菜物ばかりは畠から取りたてに限る。私の巴里に送つた野菜物は、全然八百屋の物とは味が違ふのであつた。甘い果物や野菜物を味い得るのは、是れは田園生活者の特に恵まれたる幸福である。  仏蘭西に、予期された革命は来なかつたが、私の蒔いた種は、予期されたよりは立派に発生した。馬鈴薯などはズンズン延びて、林の様に生ひ茂つた。そして其濃い緑葉の中に、星の様に輝やいた美しい花をも開いた。此馬鈴薯は、当国ではパンに次いでの重要な食料である。其重要な食料が立派に発育したので、私の喜びは非常なものであつた。  処が其馬鈴薯は、九月の末になると、花も落ち、葉の色も褪せて了つた。十月の末になると見る蔭も無く枯れ果てた。更に十一月の末になると枯れた茎も腐つて了つた。景気ばかり立派だつたが、是は失敗だつた、と私は思つた。ケレども曽て入獄の際、一年有余、馬鈴薯の御馳走にばかりなつた結果として、之を喰ふことが嫌ひになつた私は、左程残念にも思はなかつた。それに革命は来そうにもないし、馬鈴薯なんぞは入らない、と観念した。  其時分、巴里から、家主の妻君が遊びに来た。家の掃除になど来る女中も来て、一しよに庭園や畠を見廻はつた。馬鈴薯畑の処を通りながら、女中は私にコウ言ふた。 「石川様、馬鈴薯を取入れなくては、イケませんよ」  私は、此女め、己を嘲弄するのだな、有りもしない馬鈴薯を収穫することが出来やうか、と少々腹立たしく感じた。 「オヽ、ポム・ド・テエル! 皆無です! 皆無です!」 と、頗る神経立つて私は答へた。 「皆無です? 貴方は掘つて見たのですか?」 「ノオヽマダム」 「掘つても見ないでドウして分ります?」  コウ言ひながら女中は手で以て土を掻いた。そして忽ち、ハチ切れる様に充実した、色沢の生々した、大きなポム・ド・テエルをコロコロと掘り出した。 「ホホオ! ホホオ!」 と、私は驚異の眼を見張りながら叫んだ。其れを見た夫人は又叫んだ。 「立派に出来ました、大成効!」  私は不思議な程に感じながら、 「私は知らなかつた! 私は知らなかつた!」 と言ふと、マダムはさへぎつて、 「何を?」 「其れが地の中に出来ることをです」  コウ私が答へると、マダムも女中も腹を抱へて笑ひ崩れた。私は少年の頃、一度や二度は馬鈴薯の耕作を見たこともあつたろうし、能く考へて見れば、馬鈴薯が地中に成熟する位のことは脳髄のドコかに知つて居たに相違無いが、当時はそれを思ひ出せなかつたのだ。マダムは笑から漸く脱して、そして説明する様に言ふた。 「地の中に出来るからこそ、ポム・ド・テエル(地中の林檎)と言ふのぢやありませんか」  此一語に私はスツかり感服させられて、 「成る程!」 の一語を僅かに洩すのみであつた。          ◇  私は其翌年の初夏に、此戒厳地を去つて、巴里から西南方に四百キロメートルも隔つたドルドオニ河の辺に移住することになつた。風光明媚なドルドオニ河域、其昔聖者フエネロンを出し、近く碩学エリイ、エリゼ、オネシム、ポオル等のルクリユ四兄弟を出し、社会学者のタルドを出した此渓流は、到処に古いシヤトオと古蹟とあり、気候も温暖にして頗る住居に好い処であつた。殊に私の居を定めたドム町は、四面断崖絶壁を繞らした三百メートル以上の高丘上に建てられた封建城市で、今も尚ほ中古の姿を多く其儘に保存した古風な町である。渓間の停車場で下車し、馬車を持て出迎へられたマダム・ルクリユに伴はれて、特に馬車を辞して蜿々たる小径を攀じ登つた時、其れは真に「人間に非ざる別天地」である、と私は感歎せざるを得なかつた。忘れもせぬ、其れは一九一六年六月十一日であつた。 「貴方の来るのを毎日待つて居たのですけれども、到頭待ち切れないで、近所の子供に採らせて了いました」  可なりに荒れて居る庭園を私に示しながらマダムは大きな二本の桜の木を見上げてコウ言つた。 「何と甘いのだつたか、其れは想像も出来ないほど美味いのでした。貴方に味つて戴けないのは残念でした」  戒厳地帯の旧住居を去るには、厳重な複雑な手続を経て旅券を交附されねばならなかつた。其為に私のドム町行きは予定よりも一ヶ月も遅れて了つたのだ。「石川さんが来るから、とマダムは毎日お待ちして居ましたが、到頭御間に合ひませんでした」と女中も言葉を添へた。見事な美味い桜の実は、私の着く一週間前に採入れねばならなかつた。  庭園は一町余りの処に、大部分は葡萄が植え付けられてあつた。尤も其中には数十本の果樹類も成長して居た。そして野菜畑は其中の三分一位に過ぎなかつた。此家の今の主人は、宗教史の権威エリイ・ルクリユの長子ポオル・ルクリユ氏で、私が白国ブルツセル市滞在中止宿したのも此人の家庭であつた。ポオル氏は叔父エリゼの後を継いで、ブ市新大学の教授となり、又同叔父の遺業たる同大学高等地理学院を主幹して居た人である。開戦の後、同氏夫婦は身を以てブルツセル市を脱去つたのである。その後、二人の子は出征し、ポオル氏は造兵廠に働き、夫人独り此山家にわびしい生活を送るのであつた。  其庭園を耕すべく、一人の老農夫が時々働きに来た。英独語は勿論のこと、伊西両語をも操つるといふ学者の夫人は、あらくれ男の様に鋤鍬を執つて働くのを好んで居た。 「是れは私の蒔いたのです」 とマダムは鍬を持つて葡萄のサクの間の人蔘を掘つて見せる。私のリアンクウルで作つたのに比すれば、見る蔭も無い程あわれなものではあつたが、そうも言はれず、 「大そう可愛らしいですな」 と挨拶すれば、 「小さいけれども、それは美味いです」 と御自慢であつた。成程晩餐の食卓で、其人蔘の煮ころばしを戴いたが、それはホンとにリアンクウルのよりは美味だつた。岩床の上に置かれた土の深さは五尺にも足らない、といふ畑地で、而も日光の熾烈な為に、地熱が強い。其強い地熱で刺激されるので、自然と高い香と甘い味とが、貯へられるのであらう。此庭園で出来るものは、果実でも野菜でも、全く他所では味ふことの出来ない美味を含んで居た。  此庭園を耕やしに来る老人は田舎には珍らしいほど芸術精神に富んだ農夫であつた。此老人が葡萄樹を愛することと言ふたら、実に我子にでも対する様であつた。或る冬、葡萄の栽培をやつて居る時のこと、老人は太いこぶした古枝を鋸で引いて居たが、其葡萄樹を撓はめやうとすると、不幸にして樹は其切口から半ば割れて了つた。老人は何時も口癖にする呪詛の声を揚げて、 「フウトルルツ」 と叫んだが、直ぐ様、自分の着て居るシヤツの裳の処をズボンの中から出して、それをビリビリ引き裂いて、葡萄樹の場所に繃帯を施してやツた。そして、つぶやく様に言つた。 「ヘツ、ポオブル! サバ、ビヤン!」  是れは「可愛そうに、是れで良かろう!」といふ様な意味だ。其繃帯で折れた樹の凍症を防ぐことが出来やうと言ふのであつた。私は此光景を見て、彼の腰の曲つた、皺くちやの、老人の頬ぺたをキツスしてやりたいと思つたほど深い感動を与へられた。此老人は私に取つては良教師であつた。老人得意の葡萄栽培は勿論のこと、トマト耕作の秘伝、葡萄酒造り込みの秘伝など、学校で教へられない種々なことを私は老人から稽古した。  併し、此老人にも増して、私の自然に対する趣味を助長してくれたのは家主のマダム・ルクリユであつた。夏の夕暮には、何時も庭前の大木アカシヤ・ド・ジヤポンの天を蔽ふばかりに長く延ばした立派な枝の下に、青芝生の上に食卓を据ゑて、いつも晩餐を摂るのを例とした。終日の労働に疲れ果てた身も、行水に体の汗を拭いて、樹下の涼風を浴びながら、手製の葡萄酒に喉を潤ほす心地といふものは、未だに忘れ難い幸福な瞬間であつた。柔かい、ハーモニヤスな、チヤーミング・カラアの周囲の風光を賞しながら、閑寂を極めたあのクラポオの鳴く声を聞く夕べなど、私は甘へながら自然の懐に抱かれて居る様な心地がした。そしてコウした私の感情を優しく看護してくれた者はマダム・ルクリユであつた。          ◇  八年間の私の漂浪生活には、可なり悲しいことも、辛らいことも、多かつた。併しコウした優しい環境の中に生活して、私は従来経験したことの無い長閑さと幸福とを享楽することが出来た。そして其間にも毎日必ず何か新らしい事実を学んで、身体と感情とを鍛へるばかりか、殊に此の五年間の百姓生活ほど、私の智識を向上させてくれたことは、私の生涯中に曽て無いことであつた。  私はドム町に着いた其年から老人のフエリクスに伝授されて、トマトの耕作には非凡な成功を得た。町中の評判にもなり、百里を隔てた巴里にも送つて好評を博した。処が三年目の初秋の頃であつた。私の蒔いた馬鈴薯は、曽て初めてリアンクウル町で耕作した時の様に立派に成長したが、不思議なことにその馬鈴薯が茎の末に実を持つた。そして実が全然トマトと同じなのである。 「是れはどうしたんだろう?」  私は心の中で叫んだ。曽てリアンクウルでは馬鈴薯が花の跡に実るものかと思つて、其無智なのに自ら呆れたが、今度は却て其馬鈴薯の花に実が成つたのである。トマトが成つたのである。 「是より不思議なことがあらうか?」 と驚きの胸を抱へながら、家に走つて此事をマダムに告げた。然るに豈に計らんや、マダムは些かも驚かない。 「其ういふことも有るものです」  極めて平静にコウ答へられて、私は少々気脱した気味であつたが、併し、其奇異な現象に対する私の驚異は尚ほ久しく私の血を胸に堪へしめた。 「一体ドウしたんでしやう?」  コウ私が問ふと、マダムは、馬鈴薯もトマトも本来同じフアミリイに属する植物で、根元に出来る実が、茎上の花の跡に成るとそれはトマトと同形同色の実になること、其れは或は近所に花咲いたトマトの花粉を受胎して其の結果を齎らしたのかも知れないこと、抔を説明してくれた。  三年間の実験で大抵なことは知つた積りの処、今又新らしい事実に遭遇して、私は又自分の無智に驚かされた。自然は智識の無尽蔵だと、私は其時も深く感歎した。「地中の林檎」は茎上のトマトに化けて私を再び驚かしたのである。  自然は時に化けさへもする。
底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社    1977(昭和52)年11月25日発行 初出:「我等 第5巻第5号」    1923(大正12)年5月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである。ちようど今から二十二三年前の話で、――それ迄と言ふものは全く空気を呼吸してゐても空気と言ふものに何の感じもなく、自然と言ふものに対しても親しみをも感じ得なかつた。それが獄の一室にあつて以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあつたことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるやうになつたのである。  それと同時に私は思想上の悩みに逢着してゐた。それは私はキリスト教的精神と、社会主義的精神の不調和に挟まれてゐたのである。これを私は獄中で統一しやうと努力したが、エドワード・カーペンターの著書を読んで、自分の行くべき道を考へ得たのである。先づ私はその『文明論』を見た。そして次に、クロスビーの書いた「カーペンターの伝記」を読むだのである。カーペンターが山家の一軒家で生活してゐると言ふことを読んで、其の生活を知り、同時に其の思想に触れて、私の思想の上に大きな変化を与へて呉れた。  それから出獄してからなほ、内外の上の戦ひ――社会運動の戦ひや、貧乏の上の戦ひをせねばならなかつた。間もなく幸徳事件が起る、私共の生活は呼吸のつまるやうな生活であつた。それから私はある事情のもとに日本を脱出せねばならなくなつた。勿論、一文なしのことであるから、フランスの船に飛び込むで、ベルギーに行つたのである。そして、そこで私は労働生活を始めたのである。先づ行きたては百姓生活も出来ないで、ペンキ屋、つまり壁塗りを一ヶ月ばかりして、其後、室内装飾などをした。その内、機会を得て、英国にカーペンターの清らかなる百姓生活を見廻ることが出来た。さうかうしてゐる中に、ヨーロツパの大戦争が起つたのである。私は黄色人種であるので、七ヶ月間ブラツセルに籠城したが、後、オランダからイギリスに渡り、更にフランスに落ちのびたのである。其処で、以前から知つてゐた、ブラツセルの新大学教授で、無政府主義者ルクリユ氏の一族と共に百姓生活を始めたのである。  ルクリユ氏は非常に百姓生活に興味を持ち、私も共々、農業の本を読むだり、耕作したり、それはあらゆる種類のものを実地に研究したのである。私は此処で足掛け六年間の生活をしたのであるが、私の生涯中、これ程感激に満ちた幸福な生活はこれ迄なかつた。  あの欧州戦争の結果、従来の社会組織、経済組織が根本的に狂つてしまつて人間の生活が赤裸々になつた時に、真実な生活そのものがハツキリと目の前に残され、あらゆる虚偽の生活、幻影を追つた生活が全く覆へされ、真の人間生活がヒシ〳〵とわかつて、百姓ほど強いものはないと言ふ事、真に強い土台になつたものは百姓であることがわかつた。権力や組織に依つて生活を維持してゐた人は全く足場を失つて、非常な窮状に落ち入つた。然るに百姓だけは寧ろ機会に於いて実力を自覚し発揮することが出来た。  そこで、私はさう言ふ風な事実を見せられると同時に、自然の中に自分が生き、太陽と地球と、木や草や、鳥や、けだものを相手にして、そして自給自足の生活を立てゝゐる間に、私の知識は、今までに経験した事のない力と光りとを持つて、私の心を開き、引き立てゝ呉れた。ほんとうに自然は無限の図書館である。無尽蔵の知識の籠であるやうに私には感じられた。私の六年間生活した土地は、パリーから七八十里も西南のボルドオの近所であつた。断崖絶壁をめぐらした三百米突の高い立場の村落で、城の跡であり、風光明媚、四季常に遊覧の雅人があとをたゝないと言ふ位の地方であつた。  さう言ふ所に居た私は、単に自然の与へる知識ばかりでなく、自然の美、自然の音楽、自然の画、と言ふ風なものに常に感激を受けながら働くことが出来た。  私はフランスを帰る時、日本に来ても斯うした百姓生活をしたいと思つて帰つたのである。  然るに、事、志しと違つて、生活にばかり追はれて、今日迄騒がしい生活を送つて来たのである。もと〳〵一角の土地を持つた人間でないのだから、百姓をしやうと思つたつてそれは不可能のことであつた。それも激しい筋肉労働に堪へるだけの体力を持つたならそれ専門に百姓になれるのだが、それも出来ぬのは文筆労働に生活を立てゝ来た懲罰だ。半農生活するより成り立たない。  今日、私がやり始めやうとする百姓生活は、ほんのまだ試験の第一歩なのである。この試験に依つてこの農業がどうなるか――葡萄が出来るなら葡萄も作り、それから葡萄酒も作つて見たい。林檎が出来るなら林檎酒も作りたい。それから、鶏、豚、山羊、兎も飼つて見たい。出来るなら、もつと山奥へ這入つて人の捨てゝ行つた土地を耕してやり度いのである。しかし、それで生活も立てられまいから、文筆労働もやらなければなるまい。今日の資本主義のもとに事業をやらうと思へば、どうしても資本主義になるから、さう言ふことはやり度くない。自分の生活は出来るかぎり原始的な自給自足で労働をする。それは、一人ではいけないから、仲間があれば共にやり、それが私の社会運動になれば面白いと思ふのである。  そこで斯う言ふ……現代社会思想を検討すると、ジヤン・ジヤツク・ルーソー以来、今日に至る迄自然生活に帰れと言ふ感想と生活とが、非常な勢ひをもつて近代人を動かしつゝあることに気がつく。ルーソーは自然に帰れと教へたが、ルーソーの思想はフランス大革命を起させたが、それは起させただけで、その思想を実現しないでわきへそれた。そこでその後に生れた社会主義の鼻祖と言はれるシヤルル・フーリエは更に一歩を進んで、土に帰れと教へた。イギリスの社会主義の父と言はれる、ロバート・オーエンの実現しやうとしたところも、主農的共同生活であつた。  かうした思想の傾向はずん〳〵延びて来て、イギリスで言へばラスキンとか、ウイリヤム・モリス、それから先に言つたカーペンターなどは皆この傾向に属して、近代機械文明を呪つて自然に帰れ、土に帰れ、と教へたのである。トルストイの如きもそれである。ルクリユの如きもそれである。クロポトキンの如きもやはりその系統に属するのである。  かうした思想は今日真実を求むる人々の生活の上に深く喰ひ込むで来て、実際の生活として、若くは生活運動として、力強い発展を示して居る。  今日は無産政党の盛んの時だけれど、私は余りこれに興味を持たなくなつて、何だか隠遁生活じみてゐるやうだが、決して隠遁するつもりではないのである。寧ろ、これからほんとの私の積極的の生活になつて行くと信じて居る、バヴヱルの塔を望んで狂奔してゐたのでは、百年千年待たうとも、落ち着く先は見当らぬ。
底本:「石川三四郎著作集第三巻」青土社    1978(昭和53)年8月10日発行 初出:「読売新聞」    1927(昭和2)年3月21日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046456", "作品名": "半農生活者の群に入るまで", "作品名読み": "はんのうせいかつしゃのむれにはいるまで", "ソート用読み": "はんのうせいかつしやのむれにはいるまて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「読売新聞」1927(昭和2)年3月21日", "分類番号": "NDC 121 309", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-11T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/card46456.html", "人物ID": "001170", "姓": "石川", "名": "三四郎", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "さんしろう", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "さんしろう", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Sanshiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1876-05-23", "没年月日": "1956-11-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川三四郎著作集第三巻", "底本出版社名1": "青土社", "底本初版発行年1": "1978(昭和53)年8月10日", "入力に使用した版1": "1978(昭和53)年8月10日", "校正に使用した版1": "1978(昭和53)年8月10日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田中敬三", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/46456_ruby_25599.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001170/files/46456_25651.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
     私の農事実験所  欧羅巴に漂浪のみぎり、私は五六年の間、仏蘭西で百姓生活を営んで来た。馬鈴薯が枝に実ると思つた程無智な素人が、トマト、オニオン、メロン、コルフラワアから、人蔘、カブラ、イチゴ、茄子、隠元、南瓜まで、立派に模範的に作れる様になつた。果樹の栽培もやつた。葡萄酒も造つた。林檎酒も造つた。町の人々が来て、私の畠を、農事試験場の様だと評したほど種々なものを試みた。米も、落花生も作つて見たが、之は全然失敗に終つた。  労働も可なり激しかつた。殊に夏は、最も繁激な時期である。朝四時から夜の十二時まで働き通すことが屡々あつた。収穫から、罎詰、殺菌まで一日の間に成し終らねばならぬ物になると、どうしても斯うならざるを得ないのである。其代り、斯うして青い物を保存して置くと、真冬の間でも、新鮮な青物を常に食膳に載せることが出来る。主として菜食主義の生活をするものには、之は必要欠く可からざる仕事であつた。  先づ、こんな風にして、兎に角、五六年の間、殆んど自給自足の生活を送つて来た。此百姓生活の日々の出来事を朦朧たる記憶を辿つて書いて見やうと言ふのだが……。諸君如何でしやう? 少しは面白そうでしやうか。何かの為になるでしやうか。兎に角、一回見本を出して、果して此狭い紙面に割込ますだけの価値があるかどうか、伺ひをたてる事に致します。      種まき  馬鈴薯が枝に成るものと思つた失敗談は、『我等』に書き、拙著『非進化論と人生』にも載せたから、此処には省略する。  種の蒔きかた。是はぞうさなさそうで、仲々六ヶしいもの。大豆、小豆、隠元の様なものは難かしいことも無いが、細かい種、殊に人蔘の種蒔は、ちよと六ヶしい、仏蘭西で某る農学校の校長さんが、「人蔘の種蒔は、此学校の先生よりは、隣りの畠の婆さんの方がよつぽど上手です」と歎息した話を聞いたが、其通りだ。  種蒔は、深すぎても浅すぎても不可ない。しめり過ぎた処に蒔けば腐る。燥いた処に蒔いた後で永く雨が降らなければ枯れて了ふ。だから、百姓する第一要件として天候気象の判識力を要する。東京の気象台の天気予報の様な判識力では、先づ百姓様になる資格はないと言つて可い。実際田舎の百姓老爺に伺ひを立てゝ見ると、博士さん達の予報よりは、よつぽど確かだ。隠元の葉が竪になれば雨が降り、横になれば、日でり、向ふの山の端に白雲がかゝれば風が起る。暴風の襲来せんとする時は、小鳥でも鶏でも、居処がちがふ。殊に雛を持つ雌鶏のこうした事に敏感なことは神秘なものである。バロメエタアも大きな標準にはなるが、動物の直感は更に鋭敏で間違が無い。常に自然の中に生活する百姓は、自然と同情同感になつて居るので、自ら気象学者になつて居る。眼に一丁字無き百姓婆さんも、こうしてそこらの博士さん達よりも本当の学者になつて居る。此に於て、農学博士さんも人蔘の種蒔では、到底無学の婆さんに及ばない訳。農学博士が多くなるに従つて、其国の田園が益々荒蕪する訳。  無文字の婆さんは、直覚的に、適当な時機と場所とを選んで、適当な種を蒔く。生きた婆さんの直覚的判断は、生きた自然とぴつたり一致して共に真実の創造的芸術が行はれる。科学は無知の法則だ、と英国の百姓仲間のカアペンタアは言つたが、今の所謂学問なぞすればするほど無知になる。そして三年も農学を勉強すると人蔘も大根も作れなくなる。之が今日の教育だ。  ……おや、おや、是れは、とんだ失礼を申上げて申訳ない。私は初めから、右の婆さん式で百姓して来たので、些か農学者達に反感を持つて居る。そして此見本も体を失ふに至つた次第、今更、如何とも致方が無い、今日の処は御容赦を乞ふ。  最後に諸君、今は畠を深く鋤耕して深く太陽の光を地下に注ぎ、諸播種の場所を用意する時です。果樹の枝を裁断する時、樹皮を掃除し払拭して病菌や寄生虫を駆除する時期、地にうんと肥料を注いで来るべき収穫の約束を結び置くべき時期、一年の成効と失敗とは今日に於て決せられるのです。諸君大いに奮発努力を誓ひましやう。          ◇  動物の観察 是は前回に書いたが更に補足して置く。猫が面を洗ひ化粧する時、水鳥が羽ばたきする時、諸鳥が羽を磨く時、めん鶏が砂をかぶつて蠢動する時は雨が降る。又、雨が近づくと、クロバの様な草類の茎が直立し、「われもこう」の花が開き、夜間は閉ぢらるべき「シベリアちさ」の花が開いた儘でゐ、朝になつて開くべき「アフリカ金盞花」は開かずにゐる。  空模様の観察 空が異常に透明な時、遠方の物音が平常よりも明かに響く時、星の閃きが鋭い時は、雨の報せと知れ、月が朦にぼけた時、切れ切れの雲が地平線上に現はれる時、は風の報せと知れ、月や日が傘をかぶつた時は、必ず風つきの雨が襲つて来る。  俚諺のかず〳〵  三月は、お母さんの綿を買つて、(まだ寒い期節)三日後には売り飛ばす。(天気が定まらぬ)  三月は気ちがい。(天気が定まらぬ)  三月は同じ日が二度とない。  四月は泣いたり、(降雨)笑つたり。(晴天)  四月一ぱいは薄着をするな。  五月には泥棒が生れる。(野に果物野菜が出来始める。草木が叢生して泥棒が匿れ易い)  聖バルナベ(六月十一日)には、鎌を持つてマレム(牧畜の地方)に行け。  八月の太陽は野菜畑の女を弥く。(立派な野菜を枯らすので)  聖ミシエル(九月廿九日)に暑気は天に登る。  聖シモン(十月廿八日)に、扇子は休む。  ツスサン(十一月二日)には、マンシヨン(手被ひ)と手袋。  聖カテリン(十一月廿五日)に、牝牛は乳場へ行く。  一月に生れ、二月に柔ぎ、三月に芽ぐみ、四月に〔一字欠字〕び、五月に茂る。(栗の発育)  一月の酷寒、二月のしけ、三月の風、四月の細雨、五月の朝露、六月の善い収穫、七月の好い麦打ち、八月の三度の雨、それはソロモン王の位よりも尊い。  杜鵑が鳴く頃は、湿つた日もあり、燥いた日もある。  黒つぐみが鳴くと冬は行く。  以上の外、伝説的俚諺を列挙すれば際限も無いが、余り長くなるから今回は此で止める。百姓は自ら自然の気候を解得して、農作の順序を過らない。農事の成功不成功が半ばは此気象観察に基くことを知らば、之れは決して、軽視にできない。          ◇ ▲希望と歓喜 五月六月は、農園の地面が最も美しい時期です。葡萄畑では若い緑葉の間に芳烈な力と味とを孕んだ花が隠れて居る。ジヨメトリツクといふ程では無いが、規則正しいトマトの葉並が、星の様な花をちりばめて、落着いた軟かい色と形を地上に蔽い飾る。地殻を破つて突き出た様な隠元の芽生えが、漸く葉並を揃へて幾筋もの直線の行列を作ると、地の面は、宛ながら可愛い乙女達のマツス・ゲエムを見る様に、希望と歓喜とに満される。 ▲サクランボ 五月の末から六月の初には、桜の実が熟す。仏蘭西のサクランボ、殊に私の居た南仏のサクランボ、それは地球上の何れの涯に行つても味ひ得ぬであらう、と思はれる程甘くて風味がある。幾つもの大木に鈴成りになつてゐるのを、腕白小僧の様に高い処に登て食う。毎日幾升食うことやら。何しろ長く取つて置けない果物だから、三人や五人では食べ切れない。ジヤムを造るのだが、仲々造りきれない。そこで、おまんまの代りに食う。善く成熟したものは幾ら食つても腹を傷める様なことは無い。傷めるどころか、胃も腸も善くなる。血液も清められる。こうして、都会人の知らない恵みを、自然は百姓に秘かに施してくれるのだ。 ▲トマトの植付 五月半ば頃、トマトは苗床から畑に移植される。三尺位の間隔を置いて、一尺立方位の穴を穿つて、それに半分位、自然肥料を詰めて、其上に一二寸ほど土をかけて、其処へトマトの苗を植えつける。其取トマトの苗は、最初の内は穴の底に殆ど隠れてゐる。茲にトマトを早く成長させる秘術がある。仏蘭西でも普通の百姓は知らない事で、こゝに書くのは惜しい様だが、『農民自治』の読者へ特別の奉仕として書いて置く。それは極めて簡単で鳥の羽を肥料の上に五分通りも布いて其上に土を被せるのである。其羽も殺菌なぞした古い羽では役に立たない。矢張り生の羽で無くてはならぬ。此秘術を施すと、少くとも十日か一週間は他の苗よりも早く、果実が成熟する。そして出来栄も目立つて好い。  六月末にはトマトに丈夫な支柱を与へる必要がある。其支柱に緊かりトマトの茎を結び付けても、まだ其果実の重量で枝が折れる。従て枝も亦支へてやらねばならぬ事もある。 ▲芽枝剪栽法 最初のトマトの花が大てい咲いた時、其儘に置くと、其花は実らずに萎んで了ふ。それは其花枝の分枝点から出る心芽が全精力を吸収して上へ上へとばかり延びやうとするからである。故に、其最初の花枝に咲く全部の花に立派な果実を成熟させる為には、其心芽を摘み取らねばならぬ。此剪栽法は図に示せば容易に了解できるが今は其方便がない。兎に角、こうして上部の心芽が摘み去られると、今度は最初の花枝よりも一段下の処から新芽を吹き出す。此新芽が成長して第二の花を持つことになる。其花が咲く頃には、最早第一枝のトマトが果実になつて居るから差支ない。然るに第二の花枝の根元に又心芽が発生するから其れを又摘み取らねばならぬ。すると又第二の花枝よりも一段下の処から新芽を吹き出す様になる。こうして又第三の花枝が出来る。で、是れ以外の新芽は決して延ばさしては不可ない。其れは徒らに勢力を浪費するからである。此好期節に書きたいことが沢山あるが今日は遠慮しやう。
底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社    1977(昭和52)年11月25日発行 初出:「あをぞら」    1926(大正15)年2月10日号    「農民自治 第2、3号」    1926(大正15)年5月10日、6月25日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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         一  清い艶やかな蓮華草は、矢張り野の面に咲き蔽ふてこそ美しいのである。谷間に咲ける白百合の花は、塵埃の都市に移し植うべく、余りに勿体なくはないか。跫音稀なる山奥に春を歌ふ鶯の声を聞いて、誰か自然の歌の温かさを感じないで居られやう。然るに世の多くの人々が、此美しい野をも山をも棄てゝ、宛がら「飛んで火に入る夏の虫」の如く、喧騒、雑踏、我慾、争乱の都会に走り来たるのは何故であらうか。          二  支那太古の民、壤を撃ちながら歌つた「日出でゝ作り、日入つて息ひ、井を鑿て飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらんや」と。「帝力我に何かあらんや」なぞと如何にも不忠の民の様に聞え、堯の聖代の事実としては受取れない様に思れるが、決して、さうでは無い。是は堯の如き聖者の下に於ては、余り善く世の中が治つて、其恵が行き渡つて居ることを記したものである。宛も太陽の恵を吾々が忘れて居る如く、天子の威力が眼立たないのである。こうして農民が鼓腹撃壤して人生を享楽することが出来るならば、農村は誠に明るい楽しい処となり、哀れな忙はしい都会なぞには行きたいとも思はないであらう。夏の虫が火を眼がけて飛び込むのは、暗い夜のことである。我慾の猛火が漲つてゐる都会に、世の人々が引き付けられるのも、矢張り暗黒の時代に限つて居る。  自然は美しい。山下林間の静寂地に心の塵を洗ひ、水辺緑蔭の幽閑境に養神の快を貪るといふ様な事は、誰しも好ましく思ふ処である。然るに今日の農民は、美しい自然の中に生活しながら、其れを享楽することが出来ない。山紫水明の勝地は傷ましくも悉く都会のブルジヨア、金持達の蹂躙する処となつて、万人の共楽を許さない。資産ある者は、文明の利益をも、美しい自然をも、悉く独占して、その製造と耕作とに従事する労働者や農夫等は、却て其文明の為に、自然の為に、又資産家、地主の為に、徒らに労働の切売をして居る。之に於て、農夫も一箇の商人となつた。右手に鍬を持ち左手に算盤を弾く商人となつた。殊に其精神に於て全然商人と化して了つた。如何に能く地を耕やし、如何に善き収穫を得んか、といふことが問題ではなくて、唯だ如何に多くの利益(金銭)を得やうか、といふことのみが重大なのである。農夫の心は既に土地其ものから離れたのである。土地への愛着を喪つて、只管金儲を夢見る農民が、夏虫の火中に飛び込む如く、黄金火の漲る都会を眼がけて走り寄るのは当然である。          三  素町人の商人と区別せられた昔の農民は、今日は既に存在の跡を絶つて了つた。「機梭の声札々たり。牛驢走りて紛々たり。女は澗中の水を汲み、男は山上の薪を採る。県遠くして官事少く、山深くして人俗淳し、財あれども商を行はず、丁あれども軍に入らず、家々村業を守つて、頭白きまで門を出でず」(白楽天の「朱陳村」)といふ様な美しい生活は地を払つて無くなつた。こう考へて見ると、今日は最早や、農民問題も、農村問題も無いのである。天下悉く商民商村と化した今日、特に農民自治などを叫ぶのは宛も時代錯誤ではないか。  それは、その通り、時代錯誤に相違ない。今日の問題は、農民の自治といふことでは無くて、商を転じて真農と化するにある。然るに、同じく商と称するも、鍬鋤を顧みない純商人と、未だ鍬鋤を棄て得ない商人、即ち現在の農夫とは些か其境遇に差異がある。其心は兎に角として、其境遇が土着して居る吾等農夫は、尚ほ祖先の地を去り難く、一種の覊絆に繋がれて居る。吾等は生存競争、金力万能の風潮に溺るゝことを怖れつゝ、尚ほ吾等を生んだ土地を耕やして、美しい墳墓までも用意しやうと執着して居る。此執着心深き吾等をして、吾等の父母たる天地の恵みを充分に享楽せしめよ。他人の懐と他人の生産との間に介在して自己の利益をのみ貪る我利商人たることを避けて、吾等をして直ちに天地の創造に参与する農産業に没頭せしめよ。是が吾等農民の真の希願である。          四  然らば此希願は如何にして成就し得るか。其第一要件は即ち自治である。自治は万物自然の生活法則で、此法則は人間にも実現されねばならぬ筈である。鳥は飛び、魚は泳ぎ、地球は自転して昼夜をなし、太陽の周囲を廻つて春夏秋冬をなし、禽獣草木、風雨、山河、互に連帯関係を保つて互に自治し、無礙自在であつて滞る処が無い。人間同志の生活もかうありたいものではないか。極めて少数の例として生物相食むの事実があるの故も以て、人間が自ら静思熟慮の上之を模倣して全生活の原則とする如きは、誠に浅ましい次第では無いか。蟻の集団が如何に宏大なる共同倉庫を造り、如何に巧妙に冬越しの食物を貯蔵するかを見よ。蜜蜂の活動が春から夏にかけて如何に激しきかを知る者は、直ちに其蜂殿に蓄積せられる蜜の豊かにして甘いことに想ひ到るであらう。彼等が其共同生活の為に一糸乱れず自治的労働にいそしむ様は、実に涙ぐましい程立派なものである。個々の者が自治の精神に生きなければ、真の共同生活は成立しない。此間に威力の干渉が加へられると共同も自治も共に傷けられる。蜂の営舎にも、蟻の村落にも、威権といふものは行はれない。かうして工業と農業とを綜合したる此等小動物社会の生活こそ、哀れにも疲れ果てた吾等人間の苦境を改善すべき好箇の模範では無いか。  世界は今や生存競争主義の都会文化、商業精神に依つて暗黒になつて居る。自然から善いものを恵まれやう、世の為に善き物を生産しやう、自分の技術の為に全生命を打ち込まう、といふ様な精神は今の商業時代には存在し得ない。宗教も、教育も、産業も、芸術も、悉く一種の商売と化して世の中は陰欝暗憺たる修羅の街となつた。そして此暗い世の中を明るくし得るの第一の方法は、先づ吾等農民が自ら眼覚めて真に土の民衆たる本来の自己に立ち還へることである。自ら土の民衆となつて、世界の農作と工業と生産と交換とを自分自身の掌中に回復することである。蜜蜂の如く、蟻群の如く。          五  生存競争、金力万能の幻影的近代思想が築き上げたるバベルの塔は、即ち今の商業主義の都会文化である。何物をも生産することなしに、他人の懐を当にして生活する寄生虫の文化である。吾等は最早此バベルの塔に惑はされてはならぬ。吾等は野を蔽へる蓮華草の如く平等、平和の協同生活に立ち帰り、谷間に咲ける百合の如く、自然の芸術の芳烈なる生活を自ら誇るべきである。  新しい春の陽光は、今当に山深き谷間をも照して来た。清浄無垢なる可憐な小鶯が伝へる喜びの福音をして、断じて都会の塵風に汚さしむる勿れ。
底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社    1977(昭和52)年11月25日発行 初出:「自治農民 第1号」    1926(大正15)年4月10日 入力:田中敬三 校正:松永正敏 2006年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一、櫻島の地理 【湧出年代に關する舊記】  櫻島は鹿兒島縣鹿兒島郡に屬し、鹿兒島市の東約一里錦江灣頭に蹲踞せる一火山島にして、風光明媚を以て名あり、其海中より湧出したる年代に關しては史上傳ふる所によれば靈龜四年と云ひ、或は養老二年と云ひ、或は和銅元年と云ひ、或は天平寳字八年と云ひ諸説紛々として一定せず、顧ふに斯くの如き火山島は决して單に一回の噴出によりて成りたるものには非ずして、前記數回の大噴火によりて大成したるものなるべし。 【櫻島の各部落】  島は略々圓形を爲し、周回九里三十一町、東西櫻島の兩村あり、西櫻島村には赤水、横山、小池、赤生原、武、藤野、松浦、西道、二俣、白濱の十大字あり、東櫻島村には野尻、湯之、古里、有、脇、瀬戸、黒神、高免の八大字あり、大正二年度に於て戸數三千百三十五戸、人口二萬一千九百六十六人を有せり。 【櫻島の地形】  櫻島の地形は大體に於て整然たる截頭圓錐状を呈し、遠く裾野を引き、緩斜面を以て錦江灣に臨み、村落は何れも海岸に發達せり、山頂は略島の中央に位し三峯より成り、何れも圓形又は橢圓形の火口を有せり、北にあるを北嶽(海拔千百三十三米突)南にあるを南嶽(海拔千〇六十九米突)中央なるを兩中(海拔千百〇五米突)と云ふ、平時多少の噴烟ありしは南嶽にして、兩中には水を湛へたり。  全山輝石安山岩及び其集塊岩より成り、中腹以下は大部火山灰及び灰石の被覆する所となる、只西方の裾野に卓子状を爲せる城山(俗稱袴腰)は凝灰集塊岩より成り櫻島本體と其成立を異にせり。  櫻島の海岸には往々岩骨峩々として削壁を爲せる所あり、是昔時の熔岩流の末端にして、黒神村の北方に突出せる大燃崎、野尻、持木兩部落の間なる燃崎、湯之、古里兩部落の間にある觀音崎及び其東方湯の濱の間に在る辰崎は何れも文明年度の迸發に係る熔岩流にして、東北海岸高免の東なる西迫鼻より浦の前に至る間は安永熔岩流の末端なり。  櫻島近海の島嶼中西南海中に於て今回の熔岩流下に沒したる烏島及び其東南の沖小島は共に文明年間の湧出に係り、沖島は角閃輝石安山岩より成れり、櫻島の東北海中に散布せる燃島(一名安永島)猪ノ子島、ドロ島、中ノ島、硫黄島、濱島の諸島は何れも安永八年大破裂の際新造せられたるものなり。 【噴火口】  櫻島の西側には主なる爆裂火口三あり、第一は北嶽の西南に近きものにして、其位置最も高く、第二に引平(海拔五百五十三米突)の東にあるもの、第三は四百米突高地の南にあるものにして、新噴火口は實に其中にあり。  櫻島の東側に於て東方に開ける半圓形を畫せるを鍋山側火口とす、今回櫻島の東部に於ける新噴火口は何れも其南方に開口せり、北嶽の北側には略々南北に走れる二條の顯著なる峻谷あり、恰かも地割れの状を爲せり、今回の地變により多少崩壞し、岩骨を曝露したる形跡あり。  鹿兒島造士館篠本講師は今回の地變により櫻島の地體に西々北より東々南に走る幾多の地割れを生じたるを目撃したりと云ふも、予輩の踏査區域は主に熔岩流の附近なりしかば是等の地割れを觀察するの機會を逸したるは遺憾なり、只黒神村より熔岩縁に沿ひ瀬戸に至る間に於て西々北より東々南に走る一條の小段違(落差二三尺)あるを目撃せり。 二、噴火の沿革 【噴火の舊記】  舊記に依るに今を去ること千二百六年和銅元年始て隅州向島湧出せりとあり、其後靈龜、養老、天平、應仁、文明年間にも或は噴火し、或は温泉湧出し、新島突如として沿海に隆出せり等の記事あり、大日本地震史料によれば天平九年十月二十三日大隅國大地震、次に天平神護二年六月五日大隅國神造新島地震動止まず居民多く流亡せりとあり、是より以後慶長元年に至る迄大隅、薩摩に大地震の記事なし。  慶長元年閏七月九日豐後薩摩地大震、次で慶長九年十二月十六日薩摩、大隅地大震とあり、又寛文二年九月十九日日向、大隅地大震とあり。  近代に於る櫻島大噴火は文明三年九月十二日、文明七年八月十五日、同八年九月十二日、寛永十九年三月七日、安永八年九月晦日に起りたるものにして、就中猛烈を極めたりしは安永八年九月晦日より十月朔日に及べる大噴火とし、之に次ぐものを文明三年、同七年の噴火とす、文明より安永に至る間は約三百年にして、安永八年は大正三年より百三十五年前なり、斯くの如く大噴火は數百年を距てて起れども、其間に之に次げる噴火あり、大抵六七十年を週期として消長するものの如し。  大日本地震史料によれば安永八年十月一日辛亥大隅國櫻島前夜より鳴動し地震ふこと強く、是日山巓兩中の地爆裂して火を噴き砂石泥土を迸流し山麓の諸里落是が爲めに蕩盡せられ人畜の死傷せるもの夥し是時島の近海に新嶼を生ぜり、後名けて安永島と謂ふとあり、當時の地變に死者合計百四十八人(内男八十二人、女六十六人)を出せり、梅園拾遺には今年(安永己亥)九月廿九日の夜より翌十月朔日南に當て雷の如くして雷にあらず(云  云)櫻島の南北端より火起り(乃  至)去年以來伊豆大島なども燒くる由沙汰せりとあり、又地理纂考には文明七年八月十五日野尻村の上より火を發し砂石を雨らし此邊凡て燃石なりとあり、是等の記事により察するに、安永八年の大噴火は新月の時に起り、文明七年及び今回の破裂は共に滿月の頃に起れり、而して安永及び文明の地變は共に北々東より南々西に走れる地盤の弱線即ち霧島火山脈の方向に活動を逞うしたるものの如く、主として災害を蒙りたるは北岸にては高免、白濱、南岸にては野尻、持木、湯之、古里、の諸部落なりしが、今回の變災は西々北より東々南の方向に走れる弱線に沿ひ暴威を振ひたるものの如く、新噴火口の位置を連結すれば正に此方向に一致し、又鹿兒島市及び其西北伊集院方面が地震最も強烈なりし事實に徴するも思半ばに過ぐるものあり、從て櫻島西岸に於て最も慘害を蒙りたるは横山、赤水、小池、赤生原、調練場の諸部落にして、東南岸に於て最も慘怛たる状況を呈せるは瀬戸、脇、有の諸部落なりとす。  現に鹿兒島市に於て南北又は是に近き方向の石垣は大部分倒壞又は大損害を被りたるにも係はらず東西若くは是に近き方向に延長せる石垣に損害少なきを觀ても西々北より東々南の方向に振動したる地震が最も強大なりしを察知するに難からず。 三、噴火の前兆 (一)、地震 【噴火の前兆たる地震】  大正三年一月十日頃より頻繁に鹿兒島市附近に地震ありたり、今鹿兒島測候所に於て觀測の結果を示せば左の如し。 十一日  二三八回  十二日  二三一回  十三日  五回 十四日    二回  十五日    九回  十六日 一一回 十七日    三回  十八日    六回  十九日  〇回 二十日    一回 二十一日    二回  但十二日午後六時廿九分烈震後十五日午後一時四十二分まで缺測、  鹿兒島測候所の記録によれば一月十一日午前三時四十一分無感覺の地震あり、爾後地震頻繁にして十二日午前十時迄に總計四百十七回の地震あり、其多數は微震にして弱震は三十三回あり、其震動は主に水平動にして、上下動は極て輕微なるも性質稍々急なりきと。  抑も火山噴火に伴ふ地震の多數は左の如き特徴あり。 (一)、初期微動及び終期動短くして著しからず、主要動のみ著し (二)、主要動は水平動に比し上下動割合に顯著なること多し (三)、下より衝き上るが如き衝動と轟鳴を伴ふ (四)、震域狹小にして震央よりの半徑二里を出でざること多し (五)、頻繁に續發し性質急なり  是を前記の事實に適用して考察するに、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山性のものたりしを推知するに難からず、只其水平動に比し上下動の輕微なりしは震央よりの離距遠きに因るものと思考せざるを得ず。 他の特徴は何れも具備したるが如し。 (二)、温泉并に井水の異状 【地震以外の噴火の前兆】  鹿兒島造士館篠本講師に宛たる加治木中學校長田代善太郎氏の通信によれば、加治木温泉は一月七日頃より温度を増加し、又加治木、國分附近の井水は其の水量増加せりと。  避難民の言によれば、櫻島の北岸白濱に於ては爆發前井水涸れたりと云ふ。  鹿兒島市外西田、武、新照院附近の井水は濁り又は涸渇せる事實あり。 (三)、地割  入來温泉附近にては著しき地割を生じたりと云ふ。 (四)、水産物の斃死  一月十一日頃瀬戸、有村、附近沿海に海老類の夥く斃死せるを觀たりと云ふ。 四、破裂當時の概況 【今回の破裂】  大正三年一月十日頃より鹿兒島市附近に地震續發し人心恟々たりしが、十二日午前八時東櫻島鍋山の西方より噴煙を初め、數分の後御嶽の右側に於て雲霧状の白煙上り、横山村の上方海拔約五百米突許りの處よりも噴煙を初めたり、九時十分南嶽の頂上より白煙の騰るを認めたり。  十二日午前十時十五分赤水部落の直上海拔約三百五十米突乃至四百米突の谷間(噴火口?)より一團の黒煙を望み、轟鳴と共に火光の燦然として射出するを目撃せり。  午前十一時に至り黒煙高く天に沖し、其雲頂の高さは約三千米突に達す、同三十分頂上より盛に岩石の噴出落下を觀、戸障子は震動によりて鳴り初めたり、午後二時三十分黒煙白煙全山を包圍し、鳴轟次第に猛烈と爲り、同三時三十分より初めて爆聲起る、同六時三十分激震と同時に火影擴大し、鳴轟強大と爲り、同十時より爆聲亦次第に強し、翌十三日午前一時前後最も猛烈を極め、同六時より稍々輕减せしも、日中は猶間斷なく鳴轟あり、午後五時より風位南轉し、右側の島影初めて現はる、同八時十四分大噴火盛に熔岩を流出し、火の子山頂より村落に連り、鳴動轟々爆聲を連發し、黒煙東方に棚曳て閃電縱横に放射し、北岸一帶に火災を發す、同八時三十分爆聲止む、續て鳴轟斷續するに至る、戸障子の鳴轟亦止む。  十四日午後一時以後噴煙は尚盛なるも、鳴轟稍々遠し、同七時熔岩の噴出爆發盛なるを觀る、此熔岩を流下し城山の上方約五町許りの距離迄押出し、其幅員約二十町厚さ數十尺に及べり、城山より沖の小島附近の海面は一帶に輕石充滿し、黒灰色を呈せしも、正午頃までには皆南方に流去せり、午後五時頃より熔岩の迸發稍々衰ふ、十四日夜間の活動は主に横山の正東に當り海拔約二百米突の所に在る噴火口よりし、其勢力は日中に比し衰頽せり、十五日朝より十六日に至る噴火の状況は著しき異状なきも、噴煙は稍々减少せるが如し、大熔岩を徐々流下して海邊に切迫しつゝあり斯くして、赤水、横山方面は遂に海中に突き入りて烏島に及べり、十五日午前十時四十五分愛宕山上より黒煙噴出、同十一時より鳴轟稍々強大と爲る、午後二時十分大噴煙、同五時十五分轟聲一時止む、夜に入り山麓熔岩上の爆發盛なり、同十時噴火大に衰へ鳴轟微なり、同十時十分山麓熔岩上一列に七個の噴口現はれ、音響強し、十六日午前一時四十分鳴轟一時止む、同四時五十分鳴轟強く噴火盛なり。 以上の記事は鹿兒島測候所に於る當時の記録に據りたるものなり。  爾後日日の噴煙鳴轟に多少の消長はありたる模樣なるも、大勢は日を經るに順ひ漸次靜穩と爲り、以て實査當時に及べり。  新噴火口開口の順序は東櫻島に於る新噴火口は其開口の時刻及順序稍明確を缺くも、當時注意して實況を觀測したりし篠本造士館講師の報告によれば、同島の西側に於ける噴火口一の開口は十二日午前八時、二は同八時二十分、三は十二日午後一時、四は十二日午後四時頃より噴煙を初めたり、而して三は爾後三四日間活動最も旺盛にして、活動の時間亦最も長かりき。(大森佐藤兩氏の地圖參照) 五、實査當時の概況 新噴火口 【新噴火口】  大正三年一月廿七日より同三十日に至る踏査に際し、盛に活動せる噴火口は西側なる二個の噴火口にして十五分乃至二十分毎に轟鳴と共に灰より成れる黒烟と水蒸氣より成れる白烟とを盛に噴出せるを目撃せり、東側の活動は西側よりも遙に猛烈にして鍋山の南に於ける六個の噴火口より盛に噴烟し、烟霧遠く東南に棚引て半天を蔽ひ暗憺として灰を雨下し、轟々たる地鳴は連續して百雷の一時に落ち來るが如き感あり、就中一噴火口は約十分毎に白晝尚赫耀たる赤熱熔岩を溢流し、之に次ぐに爆然たる轟鳴と古綿の如き黒烟の猛烈なる射出を以てし、光景頗る凄壯を極めたり。  櫻島の東西兩側に於ける約十一個の新噴火口を連結したる線は西北より東南に走りて此の地方に於る地盤弱線の方向を示せり、今回の地變は實にこの弱線に沿て起りたるものの如し、この弱線は日本弧島の地質構造線及び之に平行なる弱線たる霧島火山脈と直角以上の角度を以て相交叉するものにして、前者を地體の同心状弱線と見做せば此弱線は放射状弱線と見做すべきものなり、されば櫻島の今回の大噴火は南日本に於る放射状弱線に沿ひ活動を初めたるものにして幾干もなく中部日本に於る一大放射状弱線と稱すべき富士火山脈の一部硫黄島附近に於て新島の海中噴出を報ぜるは頗る注意すべき現象と謂ふべく、この方面に於ける火山が方に活動期に入りたるを想像するに足れり、之に反し同心状弱線上に座せる火山は霧島山、開聞岳の如き櫻島との距離遠からざるに係らず、全く今回の噴火に雷同の形跡なきのみならず、東霧島山の如き平時よりも一層靜穩の状態にあるものの如し。 熔岩流 【熔岩流】  櫻島今回の噴火に初めて熔岩を迸流したるは一月十三日午後なりしものの如く、熔岩を噴出せる火口は西側にては二箇にして、東側にては五個の新噴火口何れも多少熔岩を迸流したるものの如し、熔岩原の面積は西側に於るもの約二百萬坪にして、東側に於るもの約二百七萬坪に達せり、熔岩流の厚さは七十尺以上百尺内外なり。  横山方面の熔岩流は引平の下より愛宕山を包み横山、赤水兩部落の全部及び調練塲の西半部を其下に埋沒し、海中に突出すること約十五町、一部烏島によりて支へられ多少凹處を生ぜり、櫻島東側の熔岩流は鍋山の東南に溢流して二分し、一は瀬戸部落を埋沒して瀬戸海峽に押し出し、一月二十八日に於ては從來約六町の幅員を有せし海峽の幅僅に六間許に减じたりしが、其後の押出しにより遂に對岸早崎に連續し海峽は全く閉塞するに至れり。  他の一は南方に流出して脇、有の二部落を全然埋沒し、海中に約七八町突出せり。  海中に突入せる熔岩流は水深二三十尋の處に於て尚海面上十尺以上其頭角を露はし、海水と接せる部分は水蒸氣の白煙濛々として咫尺を辨ぜず。  城山の東麓に於ては熔岩流が下方を堰塞したる爲め一部は水を潴溜して小池を形成せり、赤生原に於る熔岩流の厚さは八十尺乃至百尺なり、熔岩流の表面は、犬牙状を爲して凸凹錯綜甚しく、其縁邊は急峻なる絶壁を爲せり、時々岩塊の一部崩壞落下し同時に紅塵の高く上昇するを觀る。  熔岩が噴火口より迸流する際は殆んど白熱の状態にある粘著性熔液として火口上に盛り上り遂に倒れ崩るるの状を爲して下方に流下するや否や火口底には爆然たる轟鳴起り同時に火山灰より成れる黒烟驀然として恰も砲門より古綿を發射するが如く高く空中に擲出せられ、尋で熱蒸氣より成る白烟猛烈に噴出するを觀る、熔岩は熱の不良導體なるを以て其表面は數日にして冷固すれども、内部は容易に冷却せず、故に割れ目より崩れたるとき其内部を窺へば尚赫耀として赤熱の状態にあり、故に熔岩流の附近に到れば著く熱氣を感じ、熔岩塊に手を觸るれば著く熱を感ず、一月廿七日城山西南麓に於て試に熔岩片の堆積中に攝氏寒暖計を揷入したるに直に百度に上りたり。  熔岩流下の速度は其分量の多少、流動性の強弱、地面の傾斜によりて異れり、山麓に於て大森博士の實測によれば一時間約一尺許なりしと云ふ。  熔岩の色は千態萬状なるも主に赭色のものと黝黒色のものとの二種に大別すべく、何れも多少多孔質にして鑛𨫃状を呈し、拍木状に結晶せる斜長石の散點せる外往々橄欖石、黄鐵鑛の介在せるを觀る、他の有色鑛物は肉眼にては之を識別することを得ず、之を鏡檢すれば紫蘇輝石、輝石、角閃石、橄欖石、磁鐵鑛、赤鐵鑛、黄鐵鑛、を識別すべし、本熔岩は縞状又は流理を呈し、往々著く玻璃質のものあり、輕石又は他の岩片を包有し、角礫状又は集塊岩樣の構造を呈せるものあり、特に熔岩流の縁邊に多しとす。 【熔岩の分析】  黒神村の上方に流下せる黝黒色熔岩の一片を採り比重を測りたるに二、五二九なる結果を得たり、  又前記熔岩を福岡鑛務署に於て分析したる結果左の如し。 SiO2=58.72   CaO=6.68 Al2O3=21.83   MgO=0.20 Fe2O3=3.62   Na2O=1.21 FeO=6.37    K2O=0.47 Moisture(Free)=0.31  この分析の結果によれば熔岩の質は安山岩なるも玄武岩に近しとす。  今熔岩流の占有せる全面積を四百萬坪とし其平均厚さを十三間、比熱を〇、二温度を攝氏八〇〇度、比重を二、五として其總重量及び熱量を概算したるに左の結果を得たり。 總重量 十二億六千四百萬佛噸 總熱量 二百十二兆二千四百億大「カロリー」 火山噴出物 浮石並に火山灰 【浮石並に火山灰】  破裂の當初最も盛に噴出したるは浮石並に火山灰にして、之に次では火山岩塊、石彈なりしが如し、浮石は一時櫻島四周の海面に充滿したりと稱せらるるも、一月廿七日頃に於ては櫻島の東方黒神附近の海中に一部浮石の浮ぶを觀たるのみにして、他には海面上には浮石を觀ざりき、浮石の累々として堆積せるは櫻島の西北部小池、赤生原より西道に至る海岸一帶の地にして、村落は火災の爲めに全滅し、今は只浮石の崔嵬たる荒原と爲れり。  火山灰が雪の如く堆積せるは全島一般なるも、就中其量多きは鍋山より黒神村に至る地域にして、黒神村に於ては浮石の厚さ約五六尺に達し、其上厚さ約一尺は全く火山灰の被覆する所と爲れり。  東櫻島村黒神小學校に隣れる神社の石華表は其上方の一部のみを灰の上に露はせり、この附近の人家は何れも全く浮石と灰の下に埋沒し、熱の爲めに蒸し燒と爲れる状實に慘鼻を極めたり。  城山、赤生原附近の植物は灰浮石等噴出物落下の爲め折れ或は倒れ、樹皮は剥離せられ、枝葉は降灰の重量の爲め垂下し或は脱落し、宛然枯木の觀を呈せり、白濱より高免の上を經て黒神村に至る間の樹木亦然り、城山に於ける甘蔗は全然地上に押倒され其方向は何れも西々北に向へり。  一月十二日破裂の當時以後毎日西々北の風卓越せるを以て、降灰は櫻島の東南方に當れる大隅國牛根、垂水方面に甚しく、厚さ二三尺に達したる處あるも、西方鹿兒島市附近は十七日に著く降灰ありしのみにて甚だ少く、北方に於ても國分村以東は厚さ四寸に達せるも加治木附近にては厚さ二寸、重富附近にては厚さ五分に過ぎず。  櫻島噴煙の高さは一月十五日水雷驅逐艇がトランシツトを用て觀測したる結果によれば海面上二萬三千尺なりき、依て十二日の最も猛烈なる噴出は約三萬尺に達せしを想像するに足る、其當時下層の風は北西にして垂水の方面に灰を吹き送りたるが、上層氣流は南にして約二萬五千尺の高さより北方に向ひ灰を吹き送れり、降灰の大阪、東京方面に及びたるは恐くはこの上層氣流によりたるものなるべし、鹿兒島市附近に於て降灰の最も激甚なりしは一月十七日にして午前中晦冥咫尺を辨ぜず室内燈火を使用せり。  一月廿七日頃に於る噴煙の勢は破裂當時の約百分一とも謂ふべき程度なりと云ふ。  今回噴出したる灰を篠本造士館講師の鏡檢したる所によれば其形状丸みを帶びたるものと多角状のものとありと云ふ、多角状のものは固形體を爲せし岩石の粉碎せられたるものにして、主として、熔岩迸發以前に噴出したるものに多く、丸みを帶びたる灰は熔融體の分散冷固したるものと推考せられ、熔岩の迸發と同時又は其以後に噴出したるものに多し。  鹿兒島縣農事試驗塲(鹿兒島市上荒田にあり)に於て同場内に降りたる火山灰の定性分析を爲したる結果は左の如し。  試料二十瓦を五〇〇立方糎の水又は鹽酸にて處理したり。  反應は強酸性にして三酸化硫黄SO3、アルミニウム、鐵、カルシウム、五酸化燐(微量)、酸化カリウム(K2O)(痕跡)及び鹽素を含有せり。  一月十七日鹿兒島縣廳構内天幕上に堆積せる降灰に就き同縣廳勸業課肥料係に於て定性分析を爲したる結果は左の如し。  硫酸、亞硫酸、鹽素、鐵、硅酸、アルミニウム、カルシウム、を含有せり、砒素、鉛、銅の三者は存在せず五酸化燐及び酸化カリウムは多少存在せるも、肥料として價値なしと。 火山岩塊 【火山岩塊】  火山岩塊の最も夥く落下したるは城山附近にして、其東北側には落下の爲めに生じたる小穴數多散在し、其大なるものは直徑三間深さ約六尺に及べり、穴の底には熔岩片の一部露出せるものと全然土灰中に沒せるものとあり。 噴出瓦斯 【瓦斯】  火口より噴出せる瓦斯は熱蒸氣、亞硫酸瓦斯及び鹽素瓦斯其主要なるものものにして、一月廿七日城山に上りて亞硫酸瓦斯の臭氣を感じ、翌廿八日白濱より黒神村上方の高地に至る間時々鹽素臭を少しく感じたり。 六、要結 (一)、今回の櫻島破裂は破壞的爆發にあらず、普通の火山破裂の稍猛勢なるものに過ぎず。 (二)、今回の破裂は北々東より南々西に走る霧島火山脈の活動にはあらずして是に交叉し西々北より東々南に走る地盤の弱線に沿て起れる火山活動にして、新噴火口は其線上に配列せり。 (三)、鹿兒島市及び伊集院村方面に地震強かりしは前記弱線の方向に當れるを以てなり。 (四)、鹿兒島市に於て地震の最大震動は任意地點と震源地とを連ぬる方向の震動即ち縱波にして、其方向は西々北、東々南なりしものゝ如し。 (五)、今回迸流したる熔岩流の量は天明三年淺間山噴火の際迸流したる熔岩流の量に比し約二と三の割合にして、面積約四百萬坪を占め、重量約十二億佛噸にして、世界に於ける一年間石炭總産額と略相近似せり。 (六)、噴出したる熔岩は斜長石、紫蘇輝石、輝石、角閃石、橄欖石、磁鐵鑛、赤鐵鑛、黄鐵鑛等より成り鑛𨫃状にして、二、五二餘の比重を有し、複輝石安山岩に屬せり。 (七)、大噴火當時の下層氣流は西々北なりしを以て東々南に位せる大隅國肝屬郡、囎唹郡方面は降灰最も多く、薩摩方面は降灰少なかりしが、上層氣流は南西にして、降灰は遠く大阪並に東京に及べり、昔安永八年十月の大噴火の際も亦然り。 (八)、安永八年十月朔櫻島大噴火の際既に火山の破裂は多く望朔の交に起るものなりと唱道する學者ありしこと當時の記録に見えたるが、今回の噴火は文明七年八月の噴火と同じく滿月の頃に起れり、是望朔の頃は太陽太陰が地球に及ぼす引力の影響最も強大なる時なればなり。 (九)、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山地震の特徴を帶べるものなりき。 (十)、噴火の順序は安永八年十月の時と全然同一にして、地震、地鳴續發の後新噴火口開口するや灰、熱蒸氣の大噴出を以て初まり、次に浮石並に火山岩塊、火山石彈の噴出あり、尋で熔岩の迸流と爲り、時日を經過するに從ひ漸次勢力减退せり、鹿兒島市民は大に海嘯の襲來を恐れたること安永年度と同樣なるも其襲來なかりしこと亦安永の噴火と同じ。 (十一)、文明並に安永年度の噴火には附近海中に新島の湧出ありたれども、今回は附近の海中に新島の湧出なきが如し。 (十二)、文明並に安永年間櫻島大噴火と前後して富士火山脈中の火山にて一二の活動ありしが、今回も櫻島の大噴火に次ぎ、小笠原島の南硫黄島附近に新島の湧出を聞く、是に依り火山活動の消長が一の時期を劃するものなることを推知するに足る。 (十三)、古來の記録に徴するに、櫻島活動の週期は約六七十年にして、安永八年以後百三十五年を距てたる今回の噴火はこの週期の二倍に相當する者ならん。 (十四)、今回の地變により櫻島住民中より僅に十八人の死者を出したるに過ぎざりしは不幸中の幸と謂ふべく、石垣又は懸崖崩壞の爲め鹿兒島市附近に數十人の死傷者を出したるは甚だ遺憾にして、今後土木、建築上今回の變災により大に學ぶ所無かるべからず。(完)
底本:「地學論叢 第六輯」東京地學協會    1915(大正4)年9月6日発行 ※「塲」と「場」の混在は、底本の通りです。 ※底本掲載時の署名は「理學士 石川成章」です。 ※欄外の見出しは【】をつけて表記しました。 ※「六、要結」の「(十一)」「(十二)」「(十三)」「(十四)」は漢数字の部分は縦組みで括弧を含めた全体としては横組みです。 入力:しだひろし 校正:岡村和彦 2017年5月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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台所は暗くものの焦げる匂ひがした。 前掛ばかり白い婦のひとは、 一日たわしのやうに濡れて汚なく、 一日叱られながら働き疲れ、 若さを洗濯板のやうに減らすのであつた。 夕暮いつも露路へ滲んでくる、 人脂を炙るやうな重いものは、 その人の生が乾いてゆく匂ひであつた。
底本:「日本の詩歌 26 近代詩集」中央公論社    1970(昭和45)年4月15日初版発行    1979(昭和54)年11月20日新訂版発行 底本の親本:「亜寒帯」原尚進堂    1936(昭和11)年 入力:hitsuji 校正:かな とよみ 2022年4月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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盆火紀元  玻璃器の和蘭魚が、湯のやうな水にあえいでゐた、蒸暑い室を出て政宗は新しい青葉の城楼に立ち、黄昏の市を眺めてゐた。光は次第に影つてしまひ、暗に町は沈んで行つた。兵は長い戦も終へ、静かな心のゆとりの中に、かすかな信仰の願ひさへ芽ぐんでゐた。広瀬川原は河鹿のなく、寂びまいぞ寂びまいぞと張る感情に、何時しか京洛外の、典雅な焚事の思ひ出が写つてゐた。「ああ」「府下一家一炬を出して施火せよ街衢に冥界の霊を迎火せよ送火せよ」  急ぎ役徒は、戸毎に汗をふきながら告知した。黒い樹蔭のはるか彼方此方に、やがて仏火の聖く炎ゆるをみた。老僧は七月の夜天に高く、盂蘭盆経を唱へ三世諸仏の御名を讃へた。 七夕祭  日時計は午后を指してゐる、西班牙国せびゐるびとそてろは物珍しげに、竹に金銀短冊をさげ、晴衣をさげ、折鶴をさげ、軒軒に挿し、さては花火をあげ、はるか、宙の乳街を祝ふ異風の祭の中にたたづんでゐた。あやめ色の空の下で、士も、町人も、婦童も着飾つて、七夕や、七夕やと、喚き町を流れて行つた。華やかな、﨟たる伊達模様の優雅さ、この美麗な豪奢はそてろに蕩魔の試みでないかとさへ思はれた。ふと、支倉六右衛門の面へ作笑ひを送つたが、乾いた喉の中では、幾度も、天帝聖瑪利亜 童女聖瑪利亜と叫んでゐた。  ささとなる竹の葉、色紙細工、紅白の長い吹流し、北から来る、かすかな季節風は、この都に、はや夕暮を告げてゐた。人形台には灯烙がともり多彩な幾つもの車楽や飾車は、群集にゆれながら近づいて来るのであつた。  古城は川瀬に何をなげく、今も蜩のなく森の市、昔の行事は次第に廃れて、わづかに旧家の中に名残をとどめるばかりだ、何時か、あれら風雅も午睡の夢や物語となるであらう。私の様な懶い零落末裔は、廃寺、無縁の石仏に、水打ち慰めたり、蝙蝠の飛ぶ、士族屋敷の土塀のかげに、団扇して、遠い空しい昔ばかりを語るきりだ。
底本:「日本随筆紀行第四巻 岩手|宮城|福島 川面燦めき岸辺萌ゆ」作品社    1987(昭和62)年12月10日第1印発行 底本の親本:「石川善助作品集 ※[#ローマ数字1、1-13-21]散文篇」駒込書房    1980(昭和55)年12月 入力:浦山敦子 校正:noriko saito 2022年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 冬の長い國のことで、物蔭にはまだ雪が殘つて居り、村端れの溝に芹の葉一片青んでゐないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消の路の泥濘の處々乾きかゝつた上を、春めいた風が薄ら温かく吹いてゐた。それは明治四十年四月一日のことであつた。  新學年始業式の日なので、S村尋常高等小學校の代用教員、千早健は、平生より少し早目に出勤した。白墨の粉に汚れた木綿の紋附に、裾の擦り切れた長目の袴を穿いて、クリ〳〵した三分刈の頭に帽子も冠らず――渠は帽子も有つてゐなかつた。――亭乎とした體を眞直にして玄關から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方から驅けて來て、恭しく渠を迎へる。中には態々渠に叩頭をする許りに、其處に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其數が多かつた。平生の三倍も四倍も……遲刻勝な成績の惡い兒の顏さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦を想うた。そして、何がなく心が曇つた。  渠はその朝解職願を懷にしてゐた。  職員室には、十人許りの男女――何れも穢ない扮裝をした百姓達が、物に怖えた樣にキョロ〳〵してゐる尋常科の新入生を、一人づゝ伴れて來てゐた。職員四人分の卓や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに狹くなつてゐる室は、其等の人數に埋められて、身動きも出來ぬ程である。これも今來た許りと見える女教師の並木孝子は、一人で其人數を引受けて少し周章いたといふ態で、腰も掛けずに何やら急がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。  そして、健が入つて來たのを見ると、 『あ、先生!』と言つて、ホッと安心した樣な顏をした。  百姓達は、床板に膝を突いて、交る〴〵先を爭ふ樣に健に挨拶した。 『老婆さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から來た學齡簿の寫しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰めて、古手拭を冠つた一人の老女に言つてゐる。 『ハア。』と老女は當惑した樣に眼をしよぼつかせた。 『無い筈はないでせう。尤も此邊では、戸籍上の名と家で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙を容れた。そして老女に、 『芋田の鍛冶屋だつたね、婆さんの家は?』 『ハイ。』 『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と屆けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて來ないもんですから、薩張分りませんの。』 『可怪いなア。婆さん、役場から眞箇に通知書が行つたのかい? 子供を學校に出せといふ書附が?』 『ハイ。來るにア來ましたども、弟の方のな許りで、此兒(と顎で指して、)のなは今年ア來ませんでなす。それでハア、持つて來なごあんさす。』 『今年は來ない? 何だ、それぢや其兒は九歳か、十歳かだな?』 『九歳。』と、その松三郎が自分で答へた。膝に補布を當てた股引を穿いて、ボロ〳〵の布の無尻を何枚も〳〵着膨れた、見るから腕白らしい兒であつた。 『九歳なら去年の學齡だ。無い筈ですよ、それは今年だけの名簿ですから。』 『去年ですか。私は又、其點に氣が附かなかつたもんですから……。』と、孝子は少しきまり惡氣にして、其兒の名を別の帳簿に書き入れる。 『それぢや何だね、』と、健は又老女の方を向いた。『此兒の弟といふのが、今年八歳になつたんだらう。』 『ハイ。』 『何故それは伴れて來ないんだ?』 『ハイ。』 『ハイぢやない。此兒は去年から出さなけれアならないのを、今年まで延したんだらう。其麽風ぢや不可い、兄弟一緒に寄越すさ。遲く入學さして置いて、卒業もしないうちから、子守をさせるの何のつて下げて了ふ。其麽風だから、此邊の者は徴兵に採られても、大抵上等兵にも成らずに歸つて來る。』 『ハイ。』 『親が惡いんだよ。』 『ハイ。そでごあんすどもなす、先生樣、兄弟何方も一年生だら、可笑ごあんすべアすか?』と、老女は鐵漿の落ちた齒を見せて、テレ隱しに追從笑ひをした。 『構うもんか。弟が内務大臣をして兄は田舍の郡長をしてゐた人さへある。一緒な位何でもないさ。』 『ハイ。』 『婆さんの理窟で行くと、兄が死ねば弟も死なゝけれアならなくなる。俺の姉は去年死んだけれども俺は恁して生きてゐる。然うだ。過日死んだ馬喰さんは、婆さんの同胞だつていふぢやないか?』 『アッハヽヽ。』と居並ぶ百姓達は皆笑つた。 『婆さんだつて其通りチャンと生きてゐる。ハヽヽ。兎に角弟の方も今年から寄越すさ。明日と明後日は休みで、四日から授業が始まる。その時此兒と一緒に。』 『ハイ。』 『眞箇だよ。寄越さなかつたら俺が迎ひに行くぞ。』  さう言ひながら立ち上つて、健は孝子の隣の卓に行つた。 『お手傳ひしませう。』 『濟みませんけれど、それでは何卒。』 『あ、もう八時になりますね。』と、渠は孝子の頭の上に掛つてゐる時計を見上げた目を移して、障子一重で隔てた宿直室を、顎で指した。『まだ顏を出さないんですか?』  孝子は笑つて點頭いた。  その宿直室には、校長の安藤が家族――妻と二人の子供――と共に住んでゐる。朝飯の準備が今漸々出來たところと見えて、茶碗や皿を食卓に竝べる音が聞える。無精者の細君は何やら呟々子供を叱つてゐた。  新入生の一人々々を、學齡兒童調書に突合して、健はそれを學籍簿に記入し、孝子は新しく出席簿を拵へる。何本を買はねばならぬかとか、石盤は石石盤が可いか紙石盤が可いかとか、塗板ももたせねばならぬかとか、父兄は一人々々同じ樣な事を繰返して訊く。孝子は一々それに答へる。すると今度は健の前に叩頭をして、子供の平生の行状やら癖やら、體の弱い事などを述べて、何分よろしくと頼む。新入生は後から〳〵と續いて狹い職員室に溢れた。  忠一といふ、今度尋常科の三年に進んだ校長の長男が、用もないのに怖々しながら入つて來て、甘える樣な姿態をして健の卓に倚掛つた。 『彼方へ行け、彼方へ。』と、健は烈しい調子で、隣室にも聞える樣に叱つた。 『は。』と、言つて、猾さうな、臆病らしい眼附で健の顏を見ながら、忠一は徐々と後退りに出て行つた。爲樣のない横着な兒で、今迄健の受持の二年級であつたが、外の教師も生徒等も、校長の子といふのでそれとなく遠慮してゐる。健はそれを、人一倍嚴しく叱る。五十分の授業の間を隅に立たして置くなどは珍しくない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除當番を吩附ける。其麽時は、無精者の母親がよく健の前へ來て、抱いてゐる梅ちやんといふ兒に胸を披けて大きい乳房を含ませながら、 『千早先生、家の忠一は今日も何か惡い事しあんしたべすか?』などゝ言ふことがある。 『は。忠一さんは日増しに惡くなる樣ですね。今日も權太といふ子供が新しく買つて來た墨を、自分の机の中に隱して知らない振りしてゐたんですよ。』 『こら、彼方へ行け。』と、校長は聞きかねて細君を叱る。 『それだつてなす、毎日惡い事許りして千早先生に御迷惑かける樣なんだハンテ、よくお聞き申して置いて、後で私もよく吩附けて置くべと思つてす。』  健は平然として卓隣りの秋野といふ老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言ひたげにして、上吊つた眉をピリ〳〵させながら其處に立つてゐる。然うしてるところへ、掃除が出來たと言つて、掃除監督の生徒が通知に來る。 『黒板も綺麗に拭いたか?』 『ハイ。』 『先生に見られても、少しも小言を言はれる點が無い樣に出來たか?』 『ハイ。』 『若し粗末だつたら明日また爲直させるぞ。』 『ハイ。立派に出來ました。』 『好し。』と言つて、健は莞爾して見せる。『それでは一同歸しても可い。お前も歸れ。それからな、今先生が行くから忠一だけは教室に殘つて居れと言へ。』 『ハイ。』と、生徒の方も嬉しさうに莞爾して、活溌に一禮して出て行く。健の恁麽訓導方は、尋常二年には餘りに嚴し過ぎると他の教師は思つてゐた。然しその爲に健の受持の組は、他級の生徒から羨まれる程規律がよく、少し物の解つた高等科の生徒などは、何彼につけて尋常二年に笑はれぬ樣にと心懸けてゐる程であつた。  軈て健は二階の教室に上つて行く。すると、校長の妻は密乎と其後を跟けて行つて、教室の外から我が子の叱られてゐるのを立ち聞きする。意氣地なしの校長は校長で、これも我が子の泣いてゐる顏を思ひ浮べながら、明日の教案を書く……  健が殊更校長の子に嚴しく當るのは、其兒が人一倍惡戲に長て、横着で、時にはその先生が危ぶまれる樣な事まで爲出かす爲めには違ひないが、一つは渠の性質に、其麽事をして或る感情の滿足を求めると言つた樣な點があるのと、又、然うする方が他の生徒を取締る上に都合の好い爲めでもあつた。渠が忠一を虐めることが嚴しければ嚴しい程、他の生徒は渠を偉い教師の樣に思つた。  そして、女教師の孝子にも、健の其麽行動が何がなしに快く思はれた。時には孝子自身も、人のゐない處へ忠一を呼んで、手嚴しく譴めてやることがある。それは孝子にとつても或る滿足であつた。  孝子は半年前に此學校に轉任して來てから、日一日と經つうちに、何處の學校にもない異樣な現象を發見した。それは校長と健との妙な對照で、健は自分より四圓も月給の安い一代用教員に過ぎないが、生徒の服してゐることから言へば、健が校長の樣で、校長の安藤は女教師の自分よりも生徒に侮られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舍を出てから二年とは經たず、一生を教育に獻げようとは思はぬまでも、授業にも讀書にもまだ相應に興味を有つてる頃ではあり、何處か氣性の確固した、判斷力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも齒痒い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顏を合してゐながら、碌すつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、萬事に生々とした健の烈しい氣性――その氣性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の樣に無邪氣に、眞摯な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、寫眞版などで見た奈勃翁の眼に肖たと思つてゐた。)――その眼が此學校の精神ででもあるかのやうに見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に隨つて動く樣になつてゐる事は、氣が附かずにゐた。  齡から云へば、孝子は二十三で、健の方が一歳下の弟である。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小兒も有つた。そして其家が時として其日の糧にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隱す風も見せなかつた。或る日、健は朝から浮かぬ顏をして、十分の休み毎に欠伸許りしてゐた。 『奈何なさいましたの、千早先生、今日はお顏色が良くないぢやありませんか?』 と孝子は何かの機會に訊いた。健は出かゝかつた生欠伸を噛んで、 『何有。』と言つて笑つた。そして、 『今日は煙草が切れたもんですからね。』  孝子は何とも言ふことが出來なかつた。健が平生人に魂消られる程の喫煙家で、職員室に入つて來ると、甚麽事があらうと先づ煙管を取り上げる男であることは、孝子もよく知つてゐた。卓隣りの秋野は其煙草入を出して健に薦めたが、渠は其日一日喫まぬ積りだつたと見えて、煙管も持つて來てゐなかつた。そして、秋野の煙草を借りて、美味さうに二三服續け樣に喫んだ。孝子はそれを見てゐるのが、何がなしに辛かつた。宿へ歸つてからまで其事を思出して、何か都合の好い名儀をつけて健に金を遣る途はあるまいかと考へた事があつた。又去年の一夏、健が到頭古袷を着て過した事、それで左程暑くも感じなかつたといふ事なども、渠自身の口から聞いてゐたが、村の噂はそれだけではなかつた。其夏、毎晩夜遲くなると、健の家――或る百姓家を半分劃つて借りてゐた――では、障子を開放して、居たたまらぬ位杉の葉を燻しては、中で頻りに團扇で煽いてゐた。それは多分蚊帳が無いので、然うして蚊を逐出してから寢たのだらうといふ事であつた。其麽に苦しい生活をしてゐて、渠には些とも心を痛めてゐる風がない。朝から晩まで、眞に朝から晩まで、子供等を對手に怡々として暮らしてゐる。孝子が初めて此學校に來た秋の頃は、毎朝昧爽から朝飯時まで、自宅に近所の子供等を集めて「朝讀」といふのを遣つてゐた。朝な〳〵、黎明の光が漸く障子に仄めいた許りの頃、早く行くのを競つてゐる子供等――主に高等科の――が戸外から聲高に友達を呼び起して行くのを、孝子は毎朝の樣にまだ臥床の中で聞いたものだ。冬になつて朝讀が出來なくなると、健は夜な〳〵九時頃までも生徒を集めて、算術、讀方、綴方から歴史や地理、古來の偉人の傳記逸話、年上の少年には英語の初歩なども授けた。此二月村役場から話があつて、學校に壯丁教育の夜學を開いた時は、三週間の期間を十六日まで健が一人で教へた。そして終ひの五日間は、毎晩裾から吹き上げる夜寒を怺へて、二時間も三時間も教壇に立つた爲に風邪を引いて寢たのだといふ事であつた。  それでゐて、健の月給は唯八圓であつた。そして、その八圓は何時でも前借になつてゐて、二十一日の月給日が來ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持つて行つた校長が、役場から歸つて來ると、孝子は大抵紙幣と銀貨を混ぜて十二圓渡される。檢定試驗上りの秋野は十三圓で、古い師範出の校長は十八圓であつた。そして、校長は氣の毒相な顏をし乍ら、健にはぞんざいな字で書いた一枚の前借證を返してやる。渠は平然としてそれを受取つて、クル〳〵と圓めて火鉢に燻べる。淡い焔がメラ〳〵と立つかと見ると、直ぐ消えて了ふ。と、渠は不揃ひな火箸を取つて、白くなつて小く殘つてゐる其灰を突く。突いて、突いて、そして上げた顏は平然としてゐる。  孝子は氣の毒さに見ぬ振りをしながらも、健の其態度をそれとなく見てゐた。そして譯もなく胸が迫つて泣きたくなることがあつた。其麽時は、孝子は用もない帳簿などを弄つて、人後まで殘つた。月給を貰つた爲めに怡々して早く歸るなどと、思はれたくなかつたのだ。  孝子の目に映つてゐる健は、月給八圓の代用教員ではなかつた。孝子は或る時その同窓の女友達の一人へ遣つた手紙に、この若い教師のことを書いたことがある。若しや詰らぬ疑ひを起されてはといふ心配から、健には妻子のあることを詳しく記した上で、 『私の學校は、この千早先生一人の學校と言つても可い位よ。奧樣やお子樣のある人とは見えない程若い人ですが、男生でも女生でも千早先生の言ふことをきかぬ者は一人もありません。そら、小野田教諭がいつも言つたでせう――教育者には教育の精神を以て教へる人と、教育の形式で教へる人と、二種類ある。後者には何人でも成れぬことはないが、前者は百人に一人、千人に一人しか無いもので、學んで出來ることではない、謂はば生來の教育者である――ツて。千早先生はその百人に一人しかない方の組よ。教授法なんかから言つたら、先生は亂暴よ、隨分亂暴よ。今の時間は生徒と睨めツくらをして、敗けた奴を立たせることにして遊びましたよなどゝ言ふ時があります。(遊びました)といふのは嘘で、先生は其麽事をして、生徒の心の散るのを御自分の一身に集めるのです。さうしてから授業に取り懸るのです。偶に先生が缺勤でもすると、私が掛持で尋常二年に出ますの。生徒は決して、私ばかりでなく誰のいふことも、聞きません。先生の組の生徒は、先生のいふことでなければ聞きません。私は其麽時、「千早先生はさう騷いでも可いと教へましたか?」と言ひます。すると、直ぐ靜肅になつて了ひます。先生は又、教案を作りません。その事で何日だつたか、巡つて來た郡視學と二時間許り議論をしたのよ。その時の面白かつたこと! 結局視學の方が敗けて胡麻化して了つたの。 『先生は尋常二年の修身と體操を校長にやらして、その代り高等科(校長の受持)の綴方と歴史地理に出ます。今度は千早先生の時間だといふ時は、鐘が鳴つて控所に生徒が列んだ時、その高等科の生徒の顏色で分ります。 『尋常二年に由松といふ兒があります。それは生來の低腦者で、七歳になる時に燐寸を弄んで、自分の家に火をつけて、ドン〳〵燃え出すのを、手を打つて喜んでゐたといふ兒ですが、先生は御自分の一心で是非由松を普通の子供にすると言つて、暇さへあればその由松を膝の間に坐らせて、(先生は腰かけて、)上から昵と見下しながら肩に手をかけて色々なことを言つて聞かせてゐます。その時だけは由松も大人しくしてゐて、終ひには屹度メソ〳〵泣き出して了ひますの。時として先生は、然うしてゐて十分も二十分も默つて由松の顏を見てゐることがあります。二三日前でした、由松は先生と然うしてゐて、突然眼を瞑つて背後に倒れました。先生は靜かに由松を抱いて小使室へ行つて、頭に水を掛けたので子供は蘇生しましたが、私共は一時喫驚しました。先生は、「私の精神と由松の精神と角力をとつて、私の方が勝つたのだ。」と言つて居られました。その由松は近頃では清書なんか人並に書く樣になりました。算術だけはいくら骨を折つても駄目ださうです。  秀子さん、そら、あの寄宿舍の談話室ね、彼處の壁にペスタロッヂが子供を教へてゐる畫が掲けてあつたでせう。あのペスタロッヂは痩せて骨立つた老人でしたが、私、千早先生が由松に物を言つてるところを横から見てゐると、何といふことなくあの畫を思ひ出すことがありますの。それは先生は、無論一生を教育事業に獻げるお積りではなく、お家の事情で當分あゝして居られるのでせうが、私は恁麽人を長く教育界に留めて置かぬのが、何より殘念な事と思ひます。先生は何か人の知らぬ大きな事を考へて居られる樣ですが、私共には分りません。然しそのお話を聽いてゐると、常々私共の行きたい〳〵と思つてる處――何處ですか知りませんが――へ段々連れて行かれる樣な氣がします。そして先生は、自分は教育界の獅子身中の蟲だと言つて居られるの。又、今の社會を改造するには先づ小學教育を破壞しなければいけない、自分に若し二つ體があつたら、一つでは一生代用教員をしてゐたいと言つてます。奈何して小學教育を破壞するかと訊くと、何有ホンの少しの違ひです、人を生れた時の儘で大きくならせる方針を取れや可いんですと答へられました。 『然し秀子さん、千早先生は私にはまだ一つの謎です。何處か分らないところがあります。ですけれども、毎日同じ學校にゐて、毎日先生の爲さる事を見てゐると、どうしても敬服せずには居られませんの。先生は隨分苦しい生活をして居られます。それはお氣の毒な程です。そして、先生の奧樣といふ人は、矢張り好い人で、優しい、美しい(但し色は少し黒いけれど)親切な方です……。』 と書いたものだ。實際それは孝子の思つてゐる通りで、この若い女教師から見ると、健が月末の出席歩合の調べを怠けるのさへ、コセ〳〵した他の教師共より偉い樣に見えた。  が、流石は女心で、例へば健が郡視學などと揶揄半分に議論をする時とか、父の目の前で手嚴しく忠一を叱る時などは、傍で見る目もハラ〳〵して、顏を擧げ得なかつた。  今も、健が聲高に忠一を叱つたので、宿直室の話聲が礑と止んだ。孝子は耳敏くもそれを聞き附けて忠一が後退りに出て行くと、 『まア、先生は。』と低聲に言つて、口を窄めて微笑みながら健の顏を見た。 『ハハヽヽ。』と、渠は輕く笑つた。そして、眼を圓くして直ぐ前に立つてゐる新入生の一人に、 『可いか。お前も學校に入ると、不斷先生の斷りなしに入つては不可といふ處へ入れば、今の人の樣に叱られるんだぞ。』 『ハ。』と言つて、其兒はピョコリと頭を下げた。火傷の痕の大きい禿が後頭部に光つた。 『忠一イ。忠一イ。』と、宿直室から校長の妻の呼ぶ聲が洩れた。健と孝子は目と目で笑ひ合つた。  軈て、埃に染みた、黒の詰襟の洋服を着た校長の安藤が出て來て、健と代つて新入生を取扱つた。健は自分の卓に行つて、その受持の教務にかかつた。  九時半頃、秋野教師が遲刻の辯疏を爲い〳〵入つて來て、何時も其室の柱に懸けて置く黒繻子の袴を穿いた時は、後から〳〵と來た新入生も大方來盡して、職員室の中は空いてゐた。健は卓の上から延び上つて、其處に垂れて居る索を續け樣に強く引いた。壁の彼方では勇しく號鐘が鳴り出す。今か今かとそれを待ちあぐんでゐた生徒等は、一しきり春の潮の樣に騷いだ。  五分とも經たぬうちに、今度は秋野がその鐘索を引いて、先づ控所へ出て行つた。と、健は校長の前へ行つて、半紙を八つに疊んだ一枚の紙を無造作に出した。 『これ書いて來ました。何卒宜しく願ひます。』  笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さゝうな顏をした安藤は、臆病らしい眼附をして其紙と健の顏を見比べた。前夜訪ねて來て書式を聞いた行つたのだから、展けて見なくても解職願な事は解つてゐる。  そして、妙に喉に絡まつな聲で言つた。 『然うでごあんすか。』 『は。何卒。』  綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其疊んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは豫々聞いてゐた爲めであらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。 『何と申して可いか……ナンですけれども、お決めになつてあるのだば爲方がない譯でごあんす。』 『何卒宜しく、お取り計ひを願ひます。』 と言つて健は、輕く會釋して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。  控所には、級が新しくなつて列ぶべき場所の解らなくなつた生徒が、ワヤ〳〵と騷いでゐた。秋野は其間を縫つて歩いて、『先の場所へ列ぶのだ、先の場所へ。』と叫んでゐるが、生徒等は、自分達が皆及第して上の級に進んだのに、今迄の場所に列ぶのが不見識な樣にでも思はれるかして、仲々言ふことを聞かない。と見た健は、號令壇を兼ねてゐる階段の上に突立つて、『何を騷いでゐる。』と呶鳴つた。耳を聾する許りの騷擾が、夕立の霽れ上る樣にサッと收つて、三百近い男女の瞳はその顏に萃まつた。 『一同今迄の場所に今迄の通り列べ。』  ゾロ〳〵と足音が亂れて、それが鎭まると、各級は皆規則正しい二列縱隊を作つてゐた。闃乎として話一つする者がない。新入生の父兄は、不思議相にしてそれを見てゐた。  渠は緩りした歩調で階段を降りて、秋野と共に各級をその新しい場所に導いた。孝子は新入生を集めて列を作らしてゐた。  校長が出て來て壇の上に立つた。密々と話聲が起りかけた。健は後ろの方から一つ咳拂ひをした。話聲はそれで又鎭まつた。 『えゝ、今日から明治四十年度の新しい學年が始まります……』と、校長は兩手を邪魔相に前で揉みながら、低い、怖々した樣な聲で語り出した。二分も經つか經たぬに、『三年一萬九百日。』と高等科の生徒の一人が、妙な聲色を使つて言つた。 『叱ツ。』と秋野が制した。潜笑ひの聲は漣の樣に傳はつた。そして新しい密語が其に交つた。  それは丁度今の並木孝子の前の女教師が他村へ轉任した時――去年の十月であつた――安藤は告別の辭の中で「三年一萬九百日」と誤つて言つた。その女教師は三年の間この學校にゐたつたのだ。それ以來年長の生徒は何時もこの事を言つては、校長を輕蔑する種にしてゐる。丁度この時、健もその事を思ひ出してゐたので、も少しで渠も笑ひを洩らすところであつた。  密語の聲は漸々高まつた。中には聲に出して何やら笑ふのもある。と、孝子は草履の音を忍ばせて健の傍に寄つて來た。 『先生が前の方へ被入ると宜うござんす。』 『然うですね。』と渠も囁いた。  そして靜かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立つた。場内はまた水を打つた樣に闃乎とした。  不圖渠は、總有生徒の目が、諄々と何やら話を續けてゐる校長を見てゐるのでなく、渠自身に注がれてゐるのに氣が附いた。例の事ながら、何となき滿足が渠の情を唆かした。そして、幽かに脣を歪めて微笑んだ。其處にも此處にも、幽かに微笑んだ生徒の顏が見えた。  校長の話の濟んで了ふまでも、渠は其處から動かなかつた。  それから生徒は、痩せた體の何處から出るかと許り高い渠の號令で、各々その新しい教室に導かれた。  四人の職員が再び職員室に顏を合せたのは、もう十一時に間のない頃であつた。學年の初めは諸帳簿の綴變へやら、前年度の調べ物の殘りやらで、雜務が仲々多い。四人はこれといふ話もなく、十二時が打つまでも孜々とそれを行つてゐた。 『安藤先生。』と孝子は呼んだ。 『ハ。』 『今日の新入生は合計で四十八名でございます。その内、七名は去年の學齡で、一昨年のが三名ございますから、今年の學齡で來たのは三十八名しかありません。』 『然うでごあんすか。總體で何名でごあんしたらう?』 『四十八名でございます。』 『否、本年度の學齡兒童數は?』 『それは七十二名といふ通知でございます、役場からの。でございますから、今日だけの就學歩合では六十六、六六七にしか成りません。』 『少ないな。』と、校長は首を傾げた。 『何有、毎年今日はそれ位なもんでごあんす。』と、十年もこの學校にゐる土地者の秋野が喙を容れた。 『授業の初まる日になれば、また二十人位ア來あんすでア。』 『少ないなア。』と、校長はまた同じ事を言ふ。 『奈何です。』と健は言つた。『今日來なかつたのへ、明日明後日の中に役場から又督促さして見ては?』 『何有、明々後日にならば、二十人は屹度來あんすでア、保險附だ。』と、秋野は鉛筆を削つてゐる。 『二十人來るにしても、三十八名に二十……殘部十五名の不就學兒童があるぢやありませんか?』 『督促しても、來るのは來るし、來ないのは來なごあんすぜ。』 『ハハヽヽ。』と健は譯もなく笑つた。『可いぢやありませんか、私達が草鞋を穿いて歩くんぢやなし、役場の小使を歩かせるのですもの。』 『來ないのは來ないでせうなア。』と、校長は獨語の樣に意味のないことを言つて、卓の上の手焙の火を、煙管で突ついてゐる。 『一學年は並木さんの受持だが、御意見は奈何ですか?』  然う言ふ健の顏に、孝子は一寸薄目を與れて、 『それア私の方は……』と言ひ出した時、入口の障子がガラリと開いて、淺黄がかつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ〳〵と入つて來た。 『やア、誰かと思つたば東川さんか。』と、秋野は言つた。 『其麽に吃驚する事はねえさ。』  然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、 『やアお急しい樣でごあんすな。好いお天氣で。』と、一同に挨拶した。そして、手づから椅子を引き寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら氣の急ぐ態度であつた。その横顏を健は昵と凝視めてゐた。齡は三十四五であるが、頭の頂邊が大分圓く禿げてゐて、左眼が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖つて、見るから一癖あり相な、拔け目のない顏立ちである。 『時に。』と、東川は話の斷れ目を待ち構へてゐた樣に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』 『何です?』 『實は其用で態々來たのだがなす、先生、もう出したすか? 未だすか?』 『何をです?』 『何をツて。其麽に白ばくれなくても可ごあんすべ。出したすか? 出さねえすか?』 『だから何をさ?』 『解らない人だなア。辭表をす。』 『あゝ、その事ですか。』 『出したすか? 出さねえすか?』 『何故?』 『何故ツて。用があるから訊くのす。』  よくツケ〳〵と人を壓迫ける樣な物言ひをする癖があつて、多少の學識もあり、村で健が友人扱ひをするのは此男の外に無かつた。若い時は青雲の夢を見たもので、機會あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒らに村の物笑ひになつた。今では村會議員に學務委員を兼ねてゐる。 『出しましたよ。』と、健は平然として答へた。 『眞箇ですか?』と東川は力を入れる。 『ハハヽヽ。』 『だハンテ若い人は困る。人が甚麽に心配してるかも知らないで、氣ばかり早くてさ。』 『それ〳〵、煙草の火が膝に落ちた。』 『これだ!』と、呆れたやうな顏をしながら、それでも急いで吸殼を膝から拂ひ落して、『先生、出したつても今日の事だから、まだ校長の手許にあるベアハンテ、今の間に戻してござれ。』 『何故?』 『いやサ、詳しく話さねえば解らねえが、……實はなす。』 と穩かな調子になつて、『今日何も知らねえで役場さ來てみたのす。そすると種市助役が、一寸別室で呼ぶだハンテ、何だと思つて見だば先生の一件さ。昨日逢つた時、明日辭表を出すつてゐだつけが、何しろ村教育も漸々發展の緒に就いた許りの時だのに、千早先生に罷められては誠に困る。それがと言つて今は村長も留守で、正式に留任勸告をするにも都合が惡い。何れ二三日中には村長も歸るし、七日には村會も開かれるのだから、兎も角もそれまでは是非待つて貰ひたいと言ふのです。それで畢竟は種市助役の代理になつて、今俺ア飛んで來たどごろす。解つたすか?』 『解るには解つたが、……奈何も御苦勞でした。』 『御苦勞も糞も無えが、なす、先生、然う言ふ譯だハンテ、何卒一先づ戻して貰つてござれ。』  戻して貰へ、といふ、その「貰へ」といふ語が矜持心の強い健の耳に鋭く響いた。そして、適確した調子で言つた。 『出來ません、其麽事は。』 『それだハンテ困る。』 『御好意は十分有難く思ひますけれど、爲方がありません、出して了つた後ですから。』  秋野も校長も孝子も、鳴を潜めて二人の話を聞いてゐた。 『出したと言つたところです、それが未だ學校の中にあるのだば、謂はば未だ内輪だけの事でアねえすか?』 『東川さん、折角の御勸告は感謝しますけれど、貴方は私の氣性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何あつても、譬へそれが自分に不利益であつても取り戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其麽事は考へません。』  然う言つた健の顏は、もう例の平然とした態に歸つたゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退かぬ健の氣性は、東川もよく知つてゐた。  東川は突然椅子を捻ぢ向けた。 『安藤先生。』  その聲は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。嚇すナ、と健は思つた。 『は?』と言つて、安藤は目の遣り場に困る程周章いた。 『先生ア眞箇に千早先生の辭表を受け取つたすか?』 『は。……いや、それでごあんすでば。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙するのも惡いと思つて、默つてあんしたが、先刻その、號鐘が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻で緩くりお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此處にお預りして置いた譯でごあんす。何しろ思ひ懸けないことでごあんしてなす。ハ。』 『その書式を教へたのは誰だ?』と健は心の中で嘲笑つた。 『然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ風に言つた。『千早先生も又、甚麽御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜うごあんべアすか?』 『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辭表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』 『ハ。然うでごあんす。何れ後刻でお話しようと思つて、受け取つた譯でアごあせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』 『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する樣な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた樣な譯で今それを出されでア困りあんすでば。』 『ハ、奈何せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顏を曇らして言つて、頬を凹ませてヂウ〳〵する煙管を強く吸つた。戻すも具合惡く、戻さぬも具合惡いといつた態度である。  健は横を向いて、煙管の煙をフウと長く吹いた。 『お戻しやれ、俺ア學務委員の一人として勸告しあんす。』  安藤は思ひ切り惡く椅子を離れて、健の前に立つた。 『千早さん、先刻は急しい時で……』と諄々辯疏を言つて、『今お聞き申して居れば、役場の方にも種々御事情がある樣でごあんすゝ、一寸お預りしただけでごあんすから、兎に角これはお返し致しあんす。』  然う言つて、解職願を健の前に出した。その手は顫へてゐた。  健は待つてましたと言はぬ許りに急に難しい顏をして、霎時、昵と校長の揉手をしてゐるその手を見てゐた。そして言つた。 『それでは、直接郡役所へ送つてやつても宜うございますか?』 『これはしたり!』 『先生。』『先生。』と、秋野と東川が同時に言つた。そして東川は續けた。 『然うは言ふもんでアない。今日は俺の顏を立てゝ呉れても可いでアねえすか?』 『ですけれど……それア安藤先生の方で、お考へ次第進達するのを延さうと延すまいと、それは私には奈何も出來ない事ですけれど、私の方では前々から決めてゐた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは厭ですよ。それも私一人の爲めに村教育が奈何の恁うのと言ふのではなし、却つてお邪魔をしてゐる樣な譯ですからね。』と言つて、些と校長に横眼を與れた。 『マ、マ、然うは言ふもんでア無えでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、茲はまア村の頼みを肯いて呉れても可いでアねえすか? それも唯、一週間か其處いら待つて貰ふだけの話だもの。』 『兎に角お返ししあんす。』と言つて、安藤は手持無沙汰に自分の卓に歸つた。 『安藤先生。』と、東川は又喰つて掛る樣に呼んだ。『先生もまた、も少し何とか言ひ方が有りさうなもんでアねえすか? 今の樣でア、宛然俺に言はれた許りで返す樣でアねえすか? 先生には、千早先生が何れだけこの學校に要のある人だか解らねえすか?』 『ハ?』と、安藤は目を怖々さして東川を見た。意氣地なしの、能力の無い其顏には、あり〳〵と當惑の色が現れてゐる。  と、健は、然うして擦つた揉んだと果てしなく諍つてるのが――校長の困り切つてるのが、何だか面白くなつて來た。そして、つと立つて、解職願を又校長の卓に持つて行つた。 『兎に角之は貴方に差上げて置きます。奈何なさらうと、それは貴方の御權限ですが……』と言ひながら、傍から留めた秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に歸つて來た。 『困りあんしたなア。』と、校長は兩手で頭を押へた。  眇目の東川も、意地惡い興味を覺えた樣な顏をして、默つてそれを眺めた。秋野は煙管の雁首を見ながら煙草を喫んでゐる。  と、今迄何も言はずに、四人の顏を見廻してゐた孝子は、思ひ切つた樣に立ち上つた。 『出過ぎた樣でございますけれども……あの、それは私がお預り致しませう。……千早先生も一旦お出しになつたのですから、お厭でせうし、それでは安藤先生もお困りでせうし、役場には又、御事情がお有りなのですから……』  と、心持息を逸ませて、呆氣にとられてゐる四人の顏を急しく見廻した。そして膨りと肥つた手で靜かにその解職願を校長の卓から取り上げた。 『お預りしても宜しうございませうか? 出過ぎた樣でございますけれど。』 『は? は。それア何でごあんす……』と言つて、安藤は密と秋野の顏色を覗つた。秋野は默つて煙管を咬へてゐる。  月給から言へば、秋野は孝子の上である。然し資格から言へば、同じ正教員でも一人は檢定試驗上りで、一人は女ながらも師範出だから、孝子は校長の次席なのだ。  秋野が預るとすると、男だから、且つは土地者だけに種々な關係があつて、屹度何かの反響が起る。孝子はそれも考へたのだ。そして、 『私の樣な無能者がお預りしてゐると、一番安全でございます。ホホヽヽ。』と、取つてつけた樣に笑ひながら、校長の返事も待たず、その八つ折りの紙を袴の間に挾んで、自分の席に復した。その顏はぽうツと赧らんでゐた。  常にない其行動を、健は目を圓くして眺めた。 『成程。』と、その時東川は膝を叩いた。『並木先生は偉い。出來した、出來した、なアる程それが一番だ。』と言ひながら健の方を向いて、 『千早先生も、それなら可がべす?』 『並木先生。』と健は呼んだ。 『マ、マ。』と東川は手を擧げてそれを制した。『マ、これで可いでば。これで俺の役目も濟んだといふもんだ。ハハヽヽ。』  そして、急に調子を變へて、 『時に、安藤先生。今日の新入學者は何人位ごあんすか?』 『ハ!……えゝと……えゝと、』と、校長は周章いて了つて、無理に思ひ出すといふ樣に眉を萃めた。 『四十八名でごあんす。然うでごあんしたなす。並木さん?』 『ハ。』 『四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少ない方すか?』  話題は變つて了つた。 『秋野先生。』と言ひながら、胡麻鹽頭の、少し腰の曲つた小使が入つて來た。 『お家から迎えが來たアす。』 『然うか。何用だべな。』と、秋野は小使と一緒に出て行つた。  腕組をして昵と考へ込んでゐた健は、その時つと上つた。 『お先に失禮します。』 『然うすか?』と、人々はその顏――屹と口を結んだ、額の廣い、その顏を見上げた。 『左樣なら。』  健は玄關を出た。處々乾きかゝつてゐる赤土の運動場には、今年初めての黄ろい蝶々が二つ、フハ〳〵と縺れて低く舞つてゐる。隅の方には、柵を潜つて來た四五羽の雞が、コッ〳〵と遊んでゐた。  太い丸太の尖を圓めて二本植ゑた、校門の邊へ來ると、何れ女生徒の遺失したものであらう、小さい赤櫛が一つ泥の中に落ちてゐた。健はそれを足駄の齒で動かしでみた。櫛は二つに折れてゐた。  健が一箇年だけで罷めるといふのは、渠が最初、知合ひの郡視學に會つて、昔自分の學んだ郷里の學校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言つてゐた事で、又、渠自身は勿論、渠を知つてゐるだけの人は、誰一人、健を片田舍の小學教師などで埋もれて了ふ男とは思つてゐなかつた。小さい時分から霸氣の壯んな、才氣の溢れた、一時は東京に出て、まだ二十にも足らぬ齡で著書の一つも出した渠――その頃數少なき年少詩人の一人に、千早林鳥の名のあつた事は、今でも記憶してゐる人も有らう。――が、侘しい百姓村の單調な其日々々を、朝から晩まで、熱心に又樂しさうに、育ち卑しき涕垂しの兒女等を對手に送つてゐるのは、何も知らぬ村の老女達の目にさへ、不思議にも詰らなくも見えてゐた。  何れ何事かやり出すだらう! それは、その一箇年の間の、四圍の人の渠に對する思惑であつた。  加之、年老つた兩親と、若い妻と、妹と、生れた許りの女兒と、それに渠を合せて六人の家族は、いかに生活費のかゝらぬ片田舍とは言へ、又、儉約家の母親がいかに儉つてみても、唯八圓の月給では到底喰つて行けなかつた。女三人の手で裁縫物など引き受けて遣つてもゐたが、それとても狹い村だから、月に一圓五十錢の收入は覺束ない。  そして、もう六十に手の達いた父の乘雲は、家の慘状を見るに見かねて、それかと言つて何一つ家計の補助になる樣な事も出來ず、若い時は雲水もして歩いた僧侶上りの、思ひ切りよく飄然と家出をして了つて、この頃漸く居處が確まつた樣な状態であつた。  健でないにしたところが、必ず、何かもつと收入の多い職業を見附けねばならなかつたのだ。 『健や、四月になつたら學校は罷めて、何處さか行ぐべアがな?』と、渠の母親――背中の方が頭より高い程腰の曲つた、極く小柄な渠の母親は、時々心配相に恁う言つた。 『あゝ、行くさ。』と、其度渠は恁麽返事をしてゐた。 『何處さ?』 『東京。』  東京へ行く! 行つて奈何する? 渠は以前の經驗で、多少は其名を成してゐても、詩では到底生活されぬ事を知つてゐた。且つは又、此頃の健には些とも作詩の興がなかつた。  小説を書かう、といふ希望は、大分長い間健の胸にあつた。初めて書いてみたのは、去年の夏、もう暑中休暇に間のない頃であつた。『面影』といふのがそれで、晝は學校に出ながら、四日續け樣に徹夜して百四十何枚を書き了へると、渠はそれを東京の知人に送つた。十二三日經つて、原稿はその儘歸つて來た。また別の人に送つて、また歸つて來た。三度目に送る時は、四錢の送料はあつたけれども、添へてやる手紙の郵税が無かつた。健は、何十通の古手紙を出してみて、漸々一枚、消印の逸れてゐる郵劵を見つけ出した。そしてそれを貼つて送つた。或る雨の降る日であつた。妻の敏子は、到頭金にならなかつた原稿の、包紙の雨に濡れたのを持つて、渠の居間にしてゐる穢しい二階に上つて來た。 『また歸つて來たのか? アハヽヽヽ。』と渠は笑つた。そして、その儘本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかつた。  何時の間にか、渠は自信といふものを失つてゐた。然しそれは、渠自身も、周圍の人も氣が附かなかつた。  そして、前夜、短い手紙でも書く樣に、何氣なくスラスラと解職願を書きながらも、學校を罷めて奈何するといふ決心はなかつたのだ。  健は例の樣に亭乎とした體を少し反身に、確乎した歩調で歩いて、行き合ふ兒女等の會釋に微笑みながらも、始終思慮深い目附をして、 『罷めても食へぬし、罷めなくても食へぬ……』と、その事許り思つてゐた。  家へ入ると、通し庭の壁際に据ゑた小形の竈の前に小く蹲んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、『歸つたか。お腹が減つたべアな?』と、強ひて作つた樣な笑顏を見せた。今が今まで我家の將來でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。  縞目も見えぬ洗ひ晒しの双子の筒袖の、袖口の擦り切れたのを着てゐて、白髮交りの頭に冠つた淺黄の手拭の上には、白く灰がかゝつてゐた。 『然うでもない。』と言つて、渠は足駄を脱いだ。上框には妻の敏子が、垢着いた木綿物の上に女兒を負つて、頭にかゝるほつれ毛を氣にしながら、ランプの火屋を研いてゐた。 『今夜は客があるぞ、屹度。』 『誰方?』  それには答へないで、 『あゝ、今日は急しかつた。』と言ひながら、健は勢ひよくドン〳〵梯子を上つて行つた。(その一、終) (予が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰ひたい。そして、予は今、予にとつての新らしい覺悟を以てこの長篇を書き出して見た。他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ。――啄木)
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 初出:「スバル 第二号」    1909(明治42)年2月1日発行 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2003年10月23日作成 2012年9月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残つて居り、村端の溝に芹の葉一片青んではゐないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消の路の泥濘の処々乾きかゝつた上を、春めいた風が薄ら温かく吹いてゐた。それは明治四十年四月一日のことであつた。  新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健は、平生より少し早目に出勤した。白墨の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリ〳〵した三分刈の頭に帽子も冠らず――渠は帽子も有つてゐなかつた。――亭乎とした体を真直にして玄関から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方から駆けて来て、敬しく渠を迎へる。中には態々渠に叩頭をする許りに、其処に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其数が多かつた。平生の三倍も四倍も……遅刻勝な成績の悪い児の顔さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦を想うた。そして、何がなく心が曇つた。  渠はその朝解職願を懐にしてゐた。  職員室には、十人許りの男女――何れも穢い扮装をした百姓達が、物に怖えた様にキヨロ〳〵してゐる尋常科の新入生を、一人づゝ伴れて来てゐた。職員四人分の卓や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに狭くなつてゐる室は、其等の人数に埋められて、身動ぎも出来ぬ程である。これも今来た許りと見える女教師の並木孝子は、一人で其人数を引受けて少し周章いたといふ態で、腰も掛けずに何やら急がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。  そして、健が入つて来たのを見ると、 『あ、先生!』 と言つて、ホツと安心した様な顔をした。  百姓達は、床板に膝を突いて、交る〴〵先を争ふ様に健に挨拶した。 『老婆さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰めて、古手拭を冠つた一人の老女に言つてゐる。 『ハア。』と老女は当惑した様に眼をしよぼつかせた。 『無い筈はないでせう。尤も此辺では、戸籍上の名と家で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙を容れた。そして老女に、 『芋田の鍛冶屋だつたね、婆さんの家は?』 『ハイ。』 『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と届けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて来ないもんですから、薩張分りませんの。』 『可怪いなア。婆さん、役場から真箇に通知書が行つたのかい? 子供を学校に出せといふ書付が?』 『ハイ。来るにア来ましたども、弟の方のな許りで、此児(と顎で指して、)のなは今年ア来ませんでなす。それでハア、持つて来なごあんさす。』 『今年は来ない? 何だ、それぢや其児は九歳か、十歳かだな?』 『九歳。』と、その松三郎が自分で答へた。膝に補布を当てた股引を穿いて、ボロ〳〵の布の無尻を何枚も〳〵着膨れた、見るから腕白らしい児であつた。 『九歳なら去年の学齢だ。無い筈ですよ、それは今年だけの名簿ですから。』 『去年ですか。私は又、其点に気が付かなかつたもんですから……』と、孝子は少しきまり悪気にして、其児の名を別の帳簿に書入れる。 『それぢや何だね、』と、健は再老女の方を向いた。『此児の弟といふのが、今年八歳になつたんだらう。』 『ハイ。』 『何故それは伴れて来ないんだ?』 『ハイ。』 『ハイぢやない。此児は去年から出さなけれアならないのを、今年まで延したんだらう。其麽風ぢや不可い、兄弟一緒に寄越すさ。遅く入学さして置いて、卒業もしないうちから、子守をさせるの何のつて下げて了ふ。其麽風だから、此辺の者は徴兵に採られても、大抵上等兵にも成らずに帰つて来る。』 『ハイ。』 『親が悪いんだよ。』 『ハイ。そでごあんすどもなす、先生様、兄弟何方も一年生だら、可笑ごあんすべアすか?』 と、老女は黒漿の落ちた歯を見せて、テレ隠しに追従笑ひをした。 『構うもんか。弟が内務大臣をして兄は田舎の郡長をしてゐた人さへある。一緒な位何でもないさ。』 『ハイ。』 『婆さんの理屈で行くと、兄が死ねば弟も死なゝけれアならなくなる。俺の姉は去年死んだけれども俺は恁うして生きてゐる。然うだ。過日死んだ馬喰さんは、婆さんの同胞だつていふぢやないか?』 『アツハヽヽ。』と、居並ぶ百姓達は皆笑つた。 『婆さんだつて其通りチヤンと生きてゐる。ハヽヽ。兎に角弟の方も今年から寄越すさ。明日と明後日は休みで、四日から授業が始まる。その時此児と一緒に。』 『ハイ。』 『真箇だよ。寄越さなかつたら俺が迎ひに行くぞ。』  さう言ひながら立ち上つて、健は孝子の隣の卓に行つた。 『お手伝ひしませう。』 『済みませんけれども、それでは何卒。』 『アもう八時になりますね。』と、渠は孝子の頭の上に掛つてゐる時計を見上げた目を移して、障子一重で隔てた宿直室を、顎で指した。『まだ顔を出さないんですか?』  孝子は笑つて点頭いた。  その宿直室には、校長の安藤が家族――妻と二人の小供――と共に住んでゐる。朝飯の準備が今漸々出来たところと見えて、茶碗や皿を食卓に並べる音が聞える。無精者の細君は何やら呟々小供を叱つてゐた。  新入生の一人々々を、学齢児童調書に突合して、健はそれを学籍簿に記入し、孝子は新しく出席簿を拵へる。何本を買はねばならぬかとか、石盤は石石盤が可いか紙石盤が可いかとか、塗板も有たせねばならぬかとか、父兄は一人々々同じ様な事を繰返して訊く。孝子は一々それに答へる。すると今度は健の前に叩頭をして、小供の平生の行状やら癖やら、体の弱い事などを述べて、何分よろしくと頼む。新入生は後から〳〵と続いて狭い職員室に溢れた。  忠一といふ、今度尋常科の三年に進んだ校長の長男が、用もないのに怖々しながら入つて来て、甘える様の姿態をして健の卓に倚掛つた。 『彼方へ行け、彼方へ。』 と、健は烈しい調子で、隣室にも聞える様に叱つた。 『ハ。』 と言つて、猾さうな、臆病らしい眼付で健の顔を見ながら、忠一は徐々と後退りに出て行つた。為様のない横着な児で、今迄健の受持の二年級であつたが、外の教師も生徒等も、校長の子といふのでそれとなく遠慮してゐる。健はそれを、人一倍厳しく叱る。五十分の授業の間を教室の隅に立たして置くなどは珍しくもない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除当番を吩付ける。其麽時は、無精者の母親がよく健の前へ来て、抱いてゐる梅ちやんといふ児に胸を披けて大きい乳房を含ませながら、 『千早先生、家の忠一は今日も何か悪い事しあんしたべすか?』  などゝ言ふことがある。 『ハ。忠一さんは日増に悪くなる様ですね。今日も権太といふ小供が新らしく買つて来た墨を、自分の机の中に隠して知らない振してゐたんですよ。』 『コラ、彼方へ行け。』と、校長は聞きかねて細君を叱る。 『それだつてなす、毎日悪い事許りして千早先生に御迷惑かける様なんだハンテ、よくお聞き申して置いて、後で私もよツく吩付けて置くべと思つてす。』  健は平然として卓隣りの秋野といふ老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言ひたげにして、上吊つた眉をピリ〳〵させながら其処に立つてゐる。然うしてるところへ、掃除が出来たと言つて、掃除監督の生徒が通知に来る。 『黒板も綺麗に拭いたか?』 『ハイ。』 『先生に見られても、少しも小言を言はれる点が無い様に出来たか?』 『ハイ。』 『若し粗末だつたら、明日また為直させるぞ。』 『ハイ。立派に出来ました。』 『好し。』と言つて、健は莞爾して見せる。『それでは一同帰しても可い。お前も帰れ。それからな、今先生が行くから忠一だけは教室に残つて居れと言へ。』 『ハイ。』と、生徒の方も嬉しさうに莞爾して、活溌に一礼して出て行く。健の恁麽訓導方は、尋常二年には余りに厳し過ると他の教師は思つてゐた。然しその為に健の受持の組は、他級の生徒から羨まれる程規律がよく、少し物の解つた高等科の生徒などは、何彼につけて尋常二年に笑はれぬ様にと心懸けてゐる程であつた。  軈て健は二階の教室に上つて行く。すると、校長の妻は密乎と其後を跟けて行つて、教室の外から我が子の叱られてゐるのを立聞する。意気地なしの校長は校長で、これも我が子の泣いてゐる顔を思ひ浮べながら、明日の教案を書く……  健が殊更校長の子に厳しく当るのは、其児が人一倍悪戯に長けて、横着で、時にはその生先が危まれる様な事まで為出かす為には違ひないが、一つは渠の性質に、其麽事をして或る感情の満足を求めると言つた様な点があるのと、又、然うする方が他の生徒を取締る上に都合の好い為でもあつた。渠が忠一を虐めることが厳しければ厳しい程、他の生徒は渠を偉い教師の様に思つた。  そして、女教師の孝子にも、健の其麽行動が何がなしに快く思はれた。時には孝子自身も、人のゐない処へ忠一を呼んで、手厳しく譴めてやることがある。それは孝子にとつても或る満足であつた。  孝子は半年前に此学校に転任して来てから、日一日と経つうちに、何処の学校にもない異様な現象を発見した。それは校長と健との妙な対照で、健は自分より四円も月給の安い一代用教員に過ぎないが、生徒の服してゐることから言へば、健が校長の様で、校長の安藤は女教師の自分よりも生徒に侮られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舎を出てから二年とは経たず、一生を教育に献げようとは思はぬまでも、授業にも読書にもまだ相応に興味を有つてる頃ではあり、何処か気性の確固した、判断力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも歯痒い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顔を合してゐながら、碌そつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、万事に生々とした健の烈しい気性――その気性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の様に無邪気に、真摯な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、写真版などで見た奈勃翁の眼に肖たと思つてゐた。)――その眼が此学校の精神でゞもあるかの様に見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に随つて動く様になつてゐる事は、気が付かずにゐた。  齢から言へば、孝子は二十三で、健の方が一歳下の弟である。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小児も有つた。そして其家が時として其日の糧にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隠す態も見せなかつた。或日、健は朝から浮かぬ顔をして、十分の休み毎に呟呻許りしてゐた。 『奈何なさいましたの、千早先生、今日はお顔色が良くないぢやありませんか?』 と孝子は何かの機会に訊いた。健は出かゝつた生呿呻を噛んで、 『何有。』 と言つて笑つた。そして、 『今日は煙草が切れたもんですからね。』  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それでゐて、健の月給は唯八円であつた。そして、その八円は何時でも前借になつてゐて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持つて行つた校長が、役場から帰つて来ると、孝子は大抵紙幣と銀貨を交ぜて十二円渡される。検定試験上りの秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であつた。そして、校長は気毒相な顔をしながら、健には存在な字で書いた一枚の前借証を返してやる。渠は平然としてそれを受取つて、クル〳〵と円めて火鉢に燻べる。淡い焔がメラ〳〵と立つかと見ると、直ぐ消えて了ふ。と、渠は不揃な火箸を取つて、白くなつて小く残つてゐる其灰を突く。突いて、突いて、そして上げた顔は平然としてゐる。  孝子は気毒さに見ぬ振をしながらも、健のその態度をそれとなく見てゐた。そして訳もなく胸が迫つて、泣きたくなることがあつた。其麽時は、孝子は用もない帳簿などを弄つて、人後まで残つた。月給を貰つた為に怡々して早く帰るなどと、思はれたくなかつたのだ。  孝子の目に映つてゐる健は、月給八円の代用教員ではなかつた。孝子は或る時その同窓の女友達の一人へ遣つた手紙に、この若い教師のことを書いたことがある。若しや詰らぬ疑ひを起されてはといふ心配から、健には妻子のあることを詳しく記した上で、 『私の学校は、この千早先生一人の学校といつても可い位よ。奥様やお子様のある人とは見えない程若い人ですが、男生でも女生でも千早先生の言ふことをきかぬ者は一人もありません。そら、小野田教諭がいつも言つたでせう――教育者には教育の精神を以て教へる人と、教育の形式で教へる人と、二種類ある。後者には何人でも成れぬことはないが、前者は百人に一人、千人に一人しか無いもので、学んで出来ることではない、謂はば生来の教育者である――ツて。千早先生はその百人に一人しかない方の組よ。教授法なんかから言つたら、先生は乱暴よ、随分乱暴よ。今の時間は生徒と睨めツクラをして、敗けた奴を立たせることにして遊びましたよなどゝ言ふ時があります。(遊びました)といふのは嘘で、先生は其麽事をして、生徒の心を散るのを御自分の一身に集るのです。さうしてから授業に取かゝるのです。偶に先生が欠勤でもすると、私が掛持で尋常二年に出ますの。生徒は決して私ばかりでなく、誰のいふことも、聞きません。先生の組の生徒は、先生のいふことでなければ聞きません。私は其麽時、「千早先生はさう騒いでも可いと教へましたか?」と言ひます。すると、直ぐ静粛になつて了ひます。先生は又、教案を作りません。その事で何日だつたか、巡つて来た郡視学と二時間許り議論をしたのよ。その時の面白かつたこと? 結局視学の方が敗けて胡麻化して了つたの。 『先生は尋常二年の修身と体操を校長にやらして、その代り高等科(校長の受持)の綴方と歴史地理に出ます。今度は千早先生の時間だといふ時は、鐘が鳴つて控所に生徒の列んだ時、その高等科の生徒の顔色で分ります。 『尋常二年に由松といふ児があります。それは生来の低脳者で、七歳になる時に燐寸を弄そんで、自分の家に火をつけて、ドン〳〵燃え出すのを手を打つて喜んでゐたといふ児ですが、先生は御自分の一心で是非由松を普通の小供にすると言つて、暇さへあればその由松を膝の間に坐らせて、(先生は腰かけて、)上から眤と見下しながら、肩に手をかけて色々なことを言つて聞かせてゐます。その時だけは由松も大人しくしてゐて、終ひには屹度メソ〳〵泣出して了ひますの。時として先生は、然うしてゐて十分も二十分も黙つて由松の顔を見てゐることがあります。二三日前でした、由松は先生と然うしてゐて、突然眼を瞑つて背後に倒れました。先生は静かに由松を抱いて小使室へ行つて、頭に水を掛けたので小供は蘇生しましたが、私共は一時喫驚しました。先生は、「私の精神と由松の精神と角力をとつて、私の方が勝つたのだ。」と言つて居られました。その由松は近頃では清書なんか人並に書く様になりました。算術だけはいくら骨を折つても駄目ださうです。 『秀子さん、そら、あの寄宿舎の談話室ね、彼処の壁にペスタロツヂが小供を教へてゐる画が掲けてあつたでせう。あのペスタロツヂは痩せて骨立つた老人でしたが、私、千早先生が由松に物を言つてるところを横から見てゐると、何といふことなくあの画を思出すことがありますの。それは先生は、無論一生を教育事業に献げるお積りではなく、お家の事情で当分あゝして居られるのでせうが、私は恁麽人を長く教育界に留めて置かぬのが、何より残念な事と思ひます。先生は何か人の知らぬ大きな事を考へて居られる様ですが、私共には分りません。然しそのお話を聴いてゐると、常々私共の行きたい〳〵と思つてる処――何処ですか知りませんが――へ段々連れて行かれる様な気がします。そして先生は、自分は教育界獅子身中の虫だと言つて居られるの。又、今の社会を改造するには先づ小学教育を破壊しなければいけない、自分に若し二つ体があつたら、一つでは一生代用教員をしてゐたいと言つてます。奈何して小学教育を破壊するかと訊くと、何有ホンの少しの違ひです、人を生れた時の儘で大きくならせる方針を取れや可いんですと答へられました。 『然し秀子さん、千早先生は私にはまだ一つの謎です。何処か分らないところがあります。ですけれども、毎日同じ学校にゐて、毎日先生の為さる事を見てゐると、どうしても敬服せずには居られませんの。先生は随分苦しい生活をして居られます。それはお気毒な程です。そして、先生の奥様といふ人は、矢張好い人で、優しい、美しい(但し色は少し黒いけれど、)親切な方です。……』 と書いたものだ。実際それは孝子の思つてゐる通りで、この若い女教師から見ると、健が月末の出席歩合の調べを怠けるのさへ、コセ〳〵した他の教師共より偉い様に見えた。  が、流石は女心で、例へば健が郡視学などと揶揄半分に議論をする時とか、父の目の前で手厳しく忠一を叱る時などは、傍で見る目もハラ〳〵して、顔を挙げ得なかつた。  今も、健が声高に忠一を叱つたので、宿直室の話声が礑と止んだ。孝子は耳敏くもそれを聞付けて忠一が後退りに出て行くと、 『マア、先生は!』 と低声に言つて、口を窄めて微笑みながら健の顔を見た。 『ハヽヽヽ。』と、渠は軽く笑つた。そして、眼を円くして直ぐ前に立つてゐる新入生の一人に、 『可いか。お前も学校に入ると、不断先生の断りなしに入つては不可いといふ処へ入れば、今の人の様に叱られるんだぞ。』 『ハ。』と言つて、其児はピヨコリと頭を下げた。火傷の痕の大きい禿が後頭部に光つた。 『忠一イ。忠一イ。』と、宿直室から校長の妻の呼ぶ声が洩れた。健と孝子は目と目で笑ひ合つた。  軈て、埃に染みた、黒の詰襟の洋服を着た校長の安藤が出て来て、健と代つて新入生を取扱かつた。健は自分の卓に行つて、その受持の教務にかゝつた。  九時半頃、秋野教師が遅刻の弁疏を為い〳〵入つて来て、何時も其室の柱に懸けて置く黒繻子の袴を穿いた時は、後から〳〵と来た新入生も大方来尽して、職員室の中は空いてゐた。健は卓の上から延び上つて、其処に垂れて居る索を続様に強く引いた。壁の彼方では勇しく号鐘が鳴り出す。今か〳〵とそれを待ちあぐんでゐた生徒等は、一しきり春の潮の湧く様に騒いだ。  五分とも経たぬうちに、今度は秋野がその鐘索を引いて、先づ控所へ出て行つた。と、健は校長の前へ行つて、半紙を八つに畳んだ一枚の紙を無造作に出した。 『これ書いて来ました。何卒宜しく願ひます。』  笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さ相な顔をした安藤は、臆病らしい眼付をして其紙と健の顔を見比べた。前夜訪ねて来て書式を聞いて行つたのだから、展けて見なくても解職願な事は解つてゐる。  そして、妙に喉に絡まつた声で言つた。 『然うでごあんすか。』 『は。何卒。』  綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其畳んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは予々聞いてゐた為であらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。 『何と申して可いか……ナンですけれども、お決めになつてあるのだば為方がない訳でごあんす。』 『何卒宜しく、お取り計ひを願ひます。』 と言つて健は、軽く会釈して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。  控所には、級が新しくなつて列ぶべき場所の解らなくなつた生徒が、ワヤワヤと騒いでゐた。秋野は其間を縫つて歩いて、 『先の場所へ列ぶのだ、先の場所へ。』 と叫んでゐるが、生徒等は、自分達が皆及第して上の級に進んだのに、今迄の場所に列ぶのが不見識な様にでも思はれるかして、仲々言ふことを聞かない。と見た健は、号令壇を兼ねてゐる階段の上に突立つて、 『何を騒いでゐる。』 と呶鳴つた。耳を聾する許りの騒擾が、夕立の霽れ上る様にサツと収つて、三百近い男女の瞳はその顔に萃まつた。 『一同今迄の場所に今迄の通り列べ。』  ゾロ〳〵と足音が乱れて、それが鎮ると、各級は皆規則正しい二列縦隊を作つてゐた。鬩乎として話一つする者がない。新入生の父兄は、不思議相にしてそれを見てゐた。  渠は緩りした歩調で階段を降りて、秋野と共に各級をその新しい場所に導いた。孝子は新入生を集めて列を作らしてゐた。  校長が出て来て壇の上に立つた。密々と話声が起りかけた。健は背後の方から一つ咳払ひをした。話声はそれで再鎮つた。 『えゝ、今日から明治四十年度の新しい学年が始まります……』 と、校長は両手を邪魔相に前で揉みながら、低い、怖々した様な声で語り出した。二分も経つか経たぬに、 『三年一万九百日。』 と高等科の生徒の一人が、妙な声色を使つて言つた。 『叱ツ。』 と秋野が制した。潜笑ひの声は漣の様に伝はつた。そして新しい密語が其に交つた。  それは恰度今の並木孝子の前の女教師が他村へ転任した時――去年の十月であつた。――安藤は告別の辞の中で「三年一万九百日」と誤つて言つた。その女教師は三年の間この学校にゐたつたのだ。それ以来年長の生徒は何時もこの事を言つては、校長を軽蔑する種にしてゐる。恰度この時、健もその事を思出してゐたので、も少しで渠も笑ひを洩らすところであつた。  密語の声は漸々高まつた。中には声に出して何やら笑ふのもある。と、孝子は草履の音を忍ばせて健の傍に寄つて来た。 『先生が前の方へ被入ると宜うござんす。』 『然うですね。』と渠も囁いた。  そして静かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立つた。場内はまた水を打つた様に𨶑乎とした。  不図渠は、諸有生徒の目が、諄々と何やら話し続けてゐる校長を見てゐるのでなく、渠自身に注がれてゐるのに気が付いた。例の事ながら、何となき満足が渠の情を唆かした。そして、幽かに唇を歪めて微笑んで見た。其処にも此処にも、幽かに微笑んだ生徒の顔が見えた。  校長の話の済んで了ふまでも、渠は其処から動かなかつた。  それから生徒は、痩せた体の何処から出るかと許り高い渠の号令で、各々その新しい教室に導かれた。  四人の職員が再び職員室に顔を合せたのは、もう十一時に間のない頃であつた。学年の初めは諸帳簿の綴変へやら、前年度の調物の残りやらで、雑務が仲々多い。四人はこれといふ話もなく、十二時が打つまでも孜々とそれを行つてゐた。 『安藤先生。』 と孝子は呼んだ。 『ハ。』 『今日の新入生は合計で四十八名でございます。その内、七名は去年の学齢で、一昨年ンのが三名ございますから、今年の学齢で来たのは三十八名しかありません。』 『然うでごあんすか。総体で何名でごあんしたらう?』 『四十八名でございます。』 『否、本年度の学齢児童数は?』 『それは七十二名といふ通知でございます、役場からの。でございますから、今日だけの就学歩合では六十六、六六七にしか成りません。』 『少いな。』と校長は首を傾げた。 『何有、毎年今日はそれ位なもんでごあんす。』と、十年もこの学校にゐる土地者の秋野が喙を容れた。『授業の始まる日になれば、また二十人位ア来あんすでア。』 『少いなア。』と、校長はまた同じ事を言ふ。 『奈何です。』と健は言つた。『今日来なかつたのへ、明日明後日の中に役場から又督促さして見ては?』 『何有、明々後日になれば、二十人は屹度来あんすでア。保険付だ。』と、秋野は鉛筆を削つてゐる。 『二十人来るにしても、三十八名に二十……残部十四名の不就学児童があるぢやありませんか?』 『督促しても、来るのは来るし、来ないのは来なごあんすぜ。』 『ハハヽヽ。』と健は訳もなく笑つた。『可いぢやありませんか、私達が草鞋を穿いて歩くんぢやなし、役場の小使を歩かせるのですもの。』 『来ないのは来ないでせうなア。』と、校長は独語の様に意味のないことを言つて、卓の上の手焙の火を、煙管で突いてゐる。 『一学年は並木さんの受持だが、御意見は奈何です?』  然う言ふ健の顔に、孝子は一寸薄目を与れて、 『それア私の方は……』 と言出した時、入口の障子がガラリと開いて、浅黄がゝつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ〳〵と入つて来た。 『やあ、誰かと思つたば東川さんか。』と、秋野は言つた。 『其麽に喫驚する事はねえさ。』  然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、 『やあお急しい様でごあんすな。好いお天気で。』 と、一同に挨拶した。そして、手づから椅子を引寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら気の急ぐ態度であつた。その横顔を健は眤と凝視めてゐた。齢は三十四五であるが、頭の頂辺が大分円く禿げてゐて、左眼が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖つて、見るから一癖あり相な、抜目のない顔立である。 『時に、』と、東川は話の断目を待構へてゐた様に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』 『何です?』 『実は其用で態々来たのだがなす、先生、もう出したすか? 未だすか?』 『何をです?』 『何をツて。其麽に白ばくれなくても可ごあんすべ。出したすか? 出さねえすか?』 『だから何をさ?』 『解らない人だなア。辞表をす。』 『あゝ、その事ですか。』 『出したすか? 出さねえすか?』 『何故?』 『何故ツて。用があるから訊くのす。』  よくツケ〳〵と人を圧迫ける様な物言をする癖があつて、多少の学識もあり、村で健が友人扱ひをするのは此男の外に無かつた。若い時は青雲の夢を見たもので、機会あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒らに村の物笑ひになつた。今では村会議員に学務委員を兼ねてゐる。 『出しましたよ。』と、健は平然として答へた。 『真箇すか?』と東川は力を入れる。 『ハヽヽヽ。』 『だハンテ若い人は困る。人が甚麽に心配してるかも知らないで、気ばかり早くてさ。』 『それ〳〵、煙草の火が膝に落ちた。』 『これだ!』と、呆れた様な顔をしながら、それでも急いで吸殻を膝から払ひ落して、『先生、出したつても今日の事だがら、まだ校長の手許にあるベアハンテ、今の間に戻してござれ。』 『何故?』 『いやサ、詳しく話さねえば解らねえが……実はなす、』 と穏かな調子になつて、『今日何も知らねえで役場さ来てみたのす。そすると種市助役が、一寸別室、て呼ぶだハンテ、何だど思つて行つて見だば先生の一件さ。昨日逢つた時、明日辞表を出すつてゐだつけが、何しろ村教育も漸々発展の緒に就いた許りの時だのに、千早先生に罷められては誠に困る。それがと言つて今は村長も留守で、正式に留任勧告をするにも都合が悪い。何れ二三日中には村長も帰るし、七日には村会も開かれるのだから、兎も角もそれまでは是非待つて貰ひたいと言ふのでなす、それで畢竟は種市助役の代理になつて、今俺ア飛んで来たどころす。解つたすか?』 『解るには解つたが、……奈何も御苦労でした。』 『御苦労も糞も無えが、なす、先生、然う言ふ訳だハンテ、何卒一先戻して貰つてござれ。』  戻して貰へ、といふ、その「貰へ」といふ語が驕持心の強い健の耳に鋭く響いた。そして、適確した調子で言つた。 『出来ません、其麽事は。』 『それだハンテ困る。』 『御好意は充分有難く思ひますけれど、為方がありません、出して了つた後ですから。』  秋野も校長も孝子も、鳴を潜めて二人の話を聞いてゐた。 『出したと言つたところです、それが未だ学校の中にあるのだば、謂はゞ未だ内輪だけの事でアねえすか?』 『東川さん、折角の御勧告は感謝しますけれど、貴方は私の気性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何あつても、譬へそれが自分に不利益であつても取戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其麽事は考へません。』  然う言つた健の顔は、もう例の平然とした態に帰つてゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退かぬ健の気性は、東川もよく知つてゐた。  東川は突然椅子を捻向けた。 『安藤先生。』  その声は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。嚇すナ、と健は思つた。 『ハ?』と言つて、安藤は目の遣場に困る程周章いた。 『先生ア真箇に千早先生の辞表を受取つたすか?』 『ハ。……いや、それでごあんすでは。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙するのも悪いと思つて、黙つてあんしたが、先刻その、号鐘が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻で緩りお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此処にお預りして置いた訳でごあんす。何しろ思懸けないことでごあんしてなす。ハ。』 「その書式を教へたのは誰だ?」と健は心の中で嘲笑つた。 『然うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ態に言つた。『千早先生も又、甚麽御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜うごあんすべアすか?』 『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辞表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』 『ハ、然うでごあんす。何れ後刻でお話しようと思つて、受取つた訳でアごあんせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』 『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する様な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた様な訳で、今それを出されでア困りあんすでば。』 『ハ。奈何せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顔を曇らして言つて、頬を凹ませてヂウ〳〵する煙管を強く吸つた。戻すも具合悪く、戻さぬも具合悪いといつた態度である。  健は横を向いて、煙草の煙をフウと長く吹いた。 『お戻しやれ、俺ア学務委員の一人として勧告しあんす。』  安藤は思切り悪く椅子を離れて、健の前に立つた。 『千早さん、先刻は急しい時で……』と諄々弁疏を言つて、『今お聞き申して居れば、役場の方にも種々御事情がある様でごあんすゝ、一寸お預りしただけでごあんすから、兎に角これはお返し致しあんす。』  然う言つて、解職願を健の前に出した。その手は顫へてゐた。  健は待つてましたと言はぬ許りに急に難しい顔をして、霎時、眤と校長の揉手をしてゐるその手を見てゐた。そして言つた。 『それでは、直接郡役所へ送つてやつても宜うございますか?』 『これはしたり!』 『先生。』『先生。』と、秋野と東川が同時に言つた。そして東川は続けた。 『然うは言ふもんでアない。今日は俺の顔を立てゝ呉れても可いでアねえすか?』 『ですけれど……それア安藤先生の方で、お考へ次第進達するのを延さうと延すまいと、それは私には奈何も出来ない事ですけれど、私の方では前々から決めてゐた事でもあり、且つ、何が何でも一旦出したのは、取るのは厭ですよ。それも私一人の為めに村教育が奈何の恁うのと言ふのではなし、却てお邪魔をしてる様な訳ですからね。』と言つて、些と校長に流盻を与れた。 『マ、マ、然うは言ふもんでア無えでばサ。前々から決めておいた事は決めて置いた事として、茲はマア村の頼みを訊いて呉れても可いでアねえすか? それも唯、一週間か其処いら待つて貰ふだけの話だもの。』 『兎に角お返ししあんす。』と言つて、安藤は手持無沙汰に自分の卓に帰つた。 『安藤先生。』と、東川は再喰つて掛る様に呼んだ。『先生もまた、も少し何とか言方が有りさうなもんでアねえすか? 今の様でア、宛然俺に言はれた許りで返す様でアねえすか? 先生には、千早先生が何れだけこの学校に要のある人だか解らねえすか?』 『ハ?』と、安藤は目を怖々さして東川を見た。意気地なしの、能力の無い其顔には、あり〳〵と当惑の色が現れてゐる。  と、健は、然うして擦つた揉んだと果しなく諍つてるのが、――校長の困り切つてるのが、何だか面白くなつて来た。そして、ツと立つて、解職願を再校長の卓に持つて行つた。 『兎に角これは貴方に差上げて置きます。奈何なさらうと、それは貴方の御権限ですが……』 と言ひながら、傍から留めた秋野の言葉は聞かぬ振をして、自分の席に帰つて来た。 『困りあんしたなア。』と、校長は両手で頭を押へた。  眇目の東川も、意地悪い興味を覚えた様な顔をして、黙つてそれを眺めた。秋野は煙管の雁首を見ながら煙草を喫んでゐる。  と、今迄何も言はずに、四人の顔を見巡してゐた孝子は、思切つた様に立上つた。 『出過ぎた様でございますけれども……アノ、それは私がお預り致しませう。……千早先生も一旦お出しになつたのですから、お厭でせうし、それでは安藤先生もお困りでせうし、お役場には又、御事情がお有りなのですから……』と、心持息を逸ませて、呆気にとられてゐる四人の顔を急しく見巡した。そして、膨りと肥つた手で静かにその解職願を校長の卓から取り上げた。 『お預りしても宜敷うございませうか? 出過ぎた様でございますけれど。』 『ハ? ハ。それア何でごあんす……』と言つて、安藤は密と秋野の顔色を覗つた。秋野は黙つて煙管を咬へてゐる。  月給から言へば、秋野は孝子の上である。然し資格から言へば、同じ正教員でも一人は検定試験上りで、一人は女ながらも師範出だから、孝子は校長の次席なのだ。  秋野が預るとすると、男だから、且つは土地者だけに種々な関係があつて、屹度何かの反響が起る。孝子はそれも考へたのだ。そして、 『私の様な無能者がお預りしてゐると、一番安全でございます。ホヽヽヽ。』 と、取つてつけた様に笑ひながら、校長の返事も待たず、その八つ折りの紙を袴の間に挾んで、自分の席に復した。その顔はポウツと赧らんでゐた。  常にない其行動を、健は目を円くして眺めた。 『成程。』と、その時東川は膝を叩いた。『並木先生は偉い。出来した、出来した、なアる程それが一番だ。』 と言ひながら健の方を向いて、 『千早先生も、それなら可がべす?』 『並木先生。』と健は呼んだ。 『マ、マ。』と東川は手を挙げてそれを制した。『マ、これで可いでば。これで俺の役目も済んだといふもんだ。ハヽヽヽ。』  そして、急に調子を変へて、 『時に、安藤先生。今日の新入学者は何人位ごあんすか?』 『ハ?……えゝと……えゝと、』と、校長は周章いて了つて、無理に思出すといふ様に眉を萃めた。『四十八名でごあんす。然うでごあんしたなす。並木さん?』 『ハ。』 『四十八名すか? それで例年に比べて多い方すか、少い方すか?』  話題は変つて了つた。 『秋野先生、』 と言ひながら、胡麻塩頭の、少し腰の曲つた小使が入つて来た。 『お家から迎えが来たアす。』 『然うか。何用だべな。』と、秋野は小使と一緒に出て行つた。  腕組をして眤と考込んでゐた健は、その時ツと立上つた。 『お先に失礼します。』 『然うすか?』と、人々はその顔――屹と口を結んだ、額の広い、その顔を見上げた。 『左様なら。』  健は玄関を出た。処々乾きかゝつてゐる赤土の運動場には、今年初めての黄い蝶々が二つ、フワ〳〵と縺れて低く舞つてゐる。隅の方には、柵を潜つて来た四五羽の鶏が、コツ〳〵と遊んでゐた。  太い丸太の尖を円めて二本植ゑた、校門の辺へ来ると、何れ女生徒の遺失したものであらう、小さい赤櫛が一つ泥の中に落ちてゐた。健はそれを足駄の歯で動かしてみた。櫛は二つに折れてゐた。  健が一箇年だけで罷めるといふのは、渠が最初、知合の郡視学に会つて、昔自分の学んだ郷里の学校に出てみたい、と申込んだ時から、その一箇年の在職中も、常々言つてゐた事で、又、渠自身は勿論、渠を知つてゐるだけの人は、誰一人、健を片田舎の小学教師などで埋もれて了ふ男とは思つてゐなかつた。小い時分から覇気の壮んな、才気に溢れた、一時は東京に出て、まだ二十にも足らぬ齢で著書の一つも出した渠――その頃数少き年少詩人の一人に、千早林鳥の名のあつた事は、今でも記憶してゐる人も有らう。――が、侘しい百姓村の単調な其日々々を、朝から晩まで、熱心に、又楽し相に、育ち卑しき涕垂しの児女等を対手に送つてゐるのは、何も知らぬ村の老女達の目にさへ、不思議にも詰らなくも見えてゐた。  何れ何事かやり出すだらう! それは、その一箇年の間の、四周の人の渠に対する思惑であつた。  加之、年老つた両親と、若い妻と、妹と、生れた許りの女児と、それに渠を合せて六人の家族は、いかに生活費の費らぬ片田舎とは言へ、又、倹約家の母がいかに倹つてみても、唯八円の月給では到底喰つて行けなかつた。女三人の手で裁縫物など引受けて遣つてもゐたが、それとても狭い村だから、月に一円五十銭の収入は覚束ない。  そして、もう六十に手の達いた父の乗雲は、家の惨状を見るに見かねて、それかと言つて何一つ家計の補助になる様な事も出来ず、若い時は雲水もして歩いた僧侶上りの、思切りよく飄然と家出をして了つて、この頃漸く居処が確まつた様な状態であつた。  健でないにしたところが、必ず、何かもつと収入の多い職業を見付けねばならなかつたのだ。 『健や、四月になつたら学校は罷めて、何処さか行ぐべアがな?』 と、渠の母親――背中の方が頭よりも高い程腰の曲つた、極く小柄な渠の母親は、時々心配相に恁う言つた。 『あゝ、行くさ。』と、其度渠は恁麽返事をしてゐた。 『何処さ?』 『東京。』  東京へ行く! 行つて奈何する? 渠は以前の経験で、多少は其名を成してゐても、詩では到底生活されぬ事を知つてゐた。且つは又、此頃の健には些とも作詩の興がなかつた。  小説を書かう、といふ希望は、大分長い間健の胸にあつた。初めて書いてみたのは、去年の夏、もう暑中休暇に間のない頃であつた。『面影』といふのがそれで、昼は学校に出ながら、四日続け様に徹夜して百四十何枚を書了へると、渠はそれを東京の知人に送つた。十二三日経つて、原稿はその儘帰つて来た。また別の人に送つて、また帰つて来た。三度目に送る時は、四銭の送料はあつたけれども、添へてやる手紙の郵税が無かつた。健は、何十通の古手紙を出してみて、漸々一枚、消印の逸れてゐる郵券を見つけ出した。そしてそれを貼つて送つた。或雨の降る日であつた。妻の敏子は、到頭金にならなかつた原稿の、包紙の雨に濡れたのを持つて、渠の居間にしてゐる穢しい二階に上つて来た。 『また帰つて来たのか? アハヽヽヽ。』 と渠は笑つた。そして、その儘本箱の中に投げ込んで、二度と出して見ようともしなかつた。  何時の間にか、渠は自信といふものを失つてゐた。然しそれは、渠自身も、四周の人も気が付かなかつた。  そして、前夜、短い手紙でも書く様に、何気なくスラスラと解職願を書きながらも、学校を罷めて奈何するといふ決心はなかつたのだ。  健は、例の様に亭乎とした体を少し反身に、確乎した歩調で歩いて、行き合ふ児女等の会釈に微笑みながらも、始終思慮深い眼付をして、 「罷めても食へぬし、罷めなくても食へぬ……。」 と、その事許り思つてゐた。  家へ入ると、通し庭の壁側に据ゑた小形の竈の前に小さく蹲んで、干菜でも煮るらしく、鍋の下を焚いてゐた母親が、 『帰つたか。お腹が減つたつたべアな?』 と、強ひて作つた様な笑顔を見せた。今が今まで我家の将来でも考へて、胸が塞つてゐたのであらう。  縞目も見えぬ洗晒しの双子の筒袖の、袖口の擦切れたのを着てゐて、白髪交りの頭に冠つた浅黄の手拭の上には、白く灰がかゝつてゐた。 『然うでもない。』 と言つて、渠は足駄を脱いだ。上框には妻の敏子が、垢着いた木綿物の上に女児を負つて、顔にかゝるほつれ毛を気にしながら、ランプの火屋を研いてゐた。 『今夜は客があるぞ、屹度。』 『誰方?』  それには答へないで、 『あゝ、今日は急しかつた。』 と言ひながら、健は勢ひよくドン〳〵梯子を上つて行つた。 ((その一、終)) (予が今までに書いたものは、自分でも忘れたい、人にも忘れて貰ひたい、そして、予は今、予にとつての新らしい覚悟を以てこの長編を書き出してみた。他日になつたら、また、この作をも忘れたく、忘れて貰ひたくなる時があるかも知れぬ。――啄木) 〔「スバル」明治四十二年二月号〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 底本の親本:「スバル 第二号」    1909(明治42)年2月1日発行 初出:「スバル 第二号」    1909(明治42)年2月1日発行 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年10月18日作成 2012年9月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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人聲の耳にし入らば、このゆふべ、 涙あふれむ、――  もの言ふなかれ。(哀果) 「妻よ、子よ、また我が老いたる母よ、どうか物を言はないで呉れ、成るべく俺の方を見ないやうにして呉れ、俺はお前達に對して怒つてるのぢやない、いや、誰に對しても怒つてなぞゐない。だが今は、何とか言葉でもかけられると、直ぐもうそれを切掛けに泣き出しさうな氣持なのだ。さうでなければ、また何日かのやうに、何の事もないのに酷く邪慳な事を爲出して、お前達を泣かせなくてはならんやうになりさうなのだ。どうか默つて俺には構はずにゐて呉れ、一寸の間――この食事を濟まして俺が書齋に逃げ込んでしまふまでの間で可いから。」  かう言つたやうな心を抱きながら、無言で夕の食事をしたゝめてゐる男がある。年は二十七八であらう。濃い眉を集め、さらでだに血色のよくない顏を痛々しい許り暗くして、人の顏を見る事を何よりも恐れてゐるやうな容子を見ると、神經が研ぎすました西洋剃刀の刄のやうに鋭くなつてゐて、皿と皿のカチリと觸れる音でさへ、電光のやうに全身に響くらしい。 書を閉ぢて 秋の風を聽く、  カアテンの埃汚れのひどくなれるかな。  書といふのは、あの不思議な形をした金色の文字が濃青の裝布の背に落着いた光を放つてゐる。北歐羅巴の大國の新しい物語の本でがなあらう。日暮時から讀み出したのだが、幽かにインキの匂ひの殘つてゐる手觸りの粗い紙の間に、使い馴れた象牙の紙切を入れる毎に面白みが増して、すぐに返事を出さねばならぬ手紙の來てゐた事も忘れ、先程女中の代へて行つた珈琲のすつかり冷え切つたにも心付かずに、つい一息に終末まで讀んでしまつた。靜かに閉ぢた表紙の上にその儘手を載せて、ぢつと深い考へに落ちようとすると、今迄は知らずにゐたが更紗の卓子掛でも揉むやうなザワ〳〵といふ物音がする。「風が出たのか知ら。」かう思ひながら、カアテンの隙から窓を透して見ると、外は眞暗で何も見えないが、庭の一本の古榎木の秋風に顫へてゐる樣は手にとるやうに分る。もう大分夜も更けたと見えて、そのザワ〳〵といふ淋しい音の外には、カミン爐の上の置時計の時を刻むチクタクが聞える許り、先刻まで聞えてゐたやうだつたミシン機の音さへ止んでゐるのは、目を覺ました子に添乳して妻のそれなり眠入つたのでもあらう。耳をすましてゐると、風の音はだん〳〵烈しくなつてゆくやうに思はれる。今讀んだ物語の中のアトラクチイヴな光景が心に浮んで來る。不圖、明るい瓦斯の光に照らされたカアテンの汚れが彼の目に付いた。「隨分ひどくなつたなあ……これを取代へたのは去年の春だつたか知ら? いや、一昨年だつたらうか?」かう思ひながら、目はその儘、手だけを靜かに飮料の茶碗の方へ差延べる。(明治四十五年一月稿)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に關する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに對する自己の見解を辨明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその擔當辯護人たる磯部四郎、花井卓藏、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。  初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に豫期の如き(豫期! 然り。帝國外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を豫斷したる言辭を含む裁判手續説明書を、在外外交家及び國内外字新聞社に配布してゐたのである)判決を下されたかの事件――あらゆる意味に於て重大なる事件――の眞相を暗示するものは、今や實にただこの零細なる一篇の陳辯書あるのみである。  これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに寫し取つて置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出來ない。ペンを走らせてゐると、遠く何處からか歌加留多の讀聲が聞えた。それを打消す若い女の笑聲も聞えた。さうしてそれは予がこれを寫し終つた後までもまだ聞えてゐた。予は遂に彼が嘗て――七年前――「歌牌の娯樂」と題する一文を週刊平民新聞の新年號に掲げてあつたことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君――恰もその同じ新年號の而も同じ頁に入社の辭を書いた――から借りて來てゐた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以て結ばれてゐた。『歌がるたを樂しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に從ひて、食と眠りを忘れしこと屡々なりき。今や此樂しみなし。嗚呼、老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす。』  しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである。  文中の句讀は謄寫の際に予の勝手に施したもの、又或る數箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び假名づかひの誤謬は之を正して置いた。  明治四十四年五月 H, I,    ~~~~~~~~~~~~~~~~  磯部先生、花井、今村兩君足下。私共の事件の爲めに、澤山な御用を抛ち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて亂臣賊子の辯護をするとて種々の迫害も來ることでせう。諸君が内外に於ける總ての勞苦と損害と迷惑とを考へれば、實に御氣の毒に堪へません。夫れにつけても益々諸君の御侠情を感銘し、厚く御禮申上げます。  扨て頃來の公判の摸樣に依りますと、「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、此多數の被告を出した罪案の骨子の一となつてゐるにも拘らず、檢事調に於ても、豫審に於ても、我等無政府主義者が革命に對する見解も、又其運動の性質なども一向明白になつてゐないで、勝手に臆測され、解釋され、附會されて來た爲めに、餘程事件の眞相が誤られはせぬかと危むのです。就ては、一通り其等の點に關する私の考へ及び事實を御參考に供して置きたいと思ひます。 無政府主義と暗殺  無政府主義の革命といへば、直ぐ短銃や爆彈で主權者を狙撃する者の如くに解する者が多いのですが、夫は一般に無政府主義の何者たるかが分つてゐない爲めであります。辯護士諸君には既に承知になつてる如く、同主義の學説は殆ど東洋の老莊と同樣の一種の哲學で、今日の如き權力、武力で強制的に統治する制度がなくなつて、道徳、仁愛を以て結合せる、相互扶助、共同生活の社會を現出するのが、人類社會必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするのには、此大勢に從つて進歩しなければならないといふに在るのです。  隨つて無政府主義者が壓政を憎み、束縛を厭ひ、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世に彼等程自由、平和を好むものはありません。彼等の泰斗と目せらるるクロポトキンの如きも、判官は單に無政府主義者かと御問ひになつたのみで、矢張亂暴者と思召して御出かも知れませんが、彼は露國の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、後ち科學を研究し、世界第一流の地質學者で、是まで多くの有益な發見をなし、其他哲學、文學の諸學通ぜざるなしです。二十餘年前、佛國里昂の勞働者の爆彈騷ぎに關係せる嫌疑で入獄した際、歐州各國の第一流の學者、文士連署して佛國大統領に陳情し、世界の學術の爲めに彼を特赦せんことを乞ひ大統領は直ちに之を許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸學者も總て之に加はり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーなども特に數行を書添へて署名しました。以て其の學者としての地位、名聲の如何に重きかを知るべしです。そして彼の人格は極めて高尚で、性質は極めて温和、親切で、決して暴力を喜ぶ人ではありません。  又クロポトキンと名を齊しくした佛蘭西の故エリゼー・ルクリユス(Ruclus)の如きも、地理學の大學者で、佛國は彼が如き大學者を有するを名譽とし、市會は彼を紀念せんが爲めに巴里の一道路に彼の名を命けた位です。彼は殺生を厭ふの甚だしき爲め、全然肉食を廢して菜食家となりました。歐米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獸をすら殺すに忍びざる者、何ぞ人の解する如く殺人を喜ぶことがありませうか。  此等首領と目さるる學者のみならず、同主義を奉ずる勞働者は、私の見聞した處でも、他の一般勞働者に比すれば、讀書もし、品行もよし、酒も煙草も飮まぬものが多いのです。彼等は決して亂暴ではないのであります。  成程無政府主義者中から暗殺者を出したのは事實です。併し夫れは同主義者だから必ず暗殺者たるといふ譯ではありません。暗殺者の出るのは獨り無政府主義者のみでなく、國家社會黨からも、共和黨からも、自由民權論者からも、愛國者からも、勤王家からも澤山出て居ります。是まで暗殺者といへば大抵無政府主義者のやうに誣ひられて、其數も誇大に吹聽されてゐます。現に露國亞歴山二世帝を弑した如きも、無政府黨のやうに言はれますが、アレは今の政友會の人々と同じ民權自由論者であつたのです。實際歴史を調べると、他の諸黨派に比して無政府主義者の暗殺が一番僅少なので、過去五十年許りの間に全世界を通じて十指にも足るまいと思ひます。顧みて彼の勤王家、愛國家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、我日本のみにして殆ど數十人或は數百人を算するではありませんか。單に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言はば、勤王論、愛國思想ほど激烈な暗殺主義はない筈であります。  故に暗殺者の出るのは、其主義の如何に關する者でなくて、其時の特別の事情と、其人の特有の氣質とが相觸れて、此行爲に立至るのです。例へば、政府が非常な壓制をやり、其爲めに多數の同志が言論、集會、出版の權利自由を失へるは勿論、生活の方法すらも奪はるるとか、或は富豪が横暴を極めたる結果、哀民の飢凍悲慘の状見るに忍びざるとかいふが如きに際して、而も到底合法平和の手段を以て之に處するの途なきの時、若しくは途なきが如く感ずるの時に於て、感情熱烈なる青年が暗殺や暴擧に出るのです。是彼等にとつては殆ど正當防衞ともいふべきです。彼の勤王、愛國の志士が時の有司の國家を誤らんとするを見、又は自己等の運動に對する迫害急にして他に緩和の法なきの時、憤慨の極暗殺の手段に出ると同樣です。彼等元より初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、皆自己の氣質と時の事情とに驅られて茲に至るのです。そして其歴史を見れば、初めに多く暴力を用うるのは寧ろ時の政府、有司とか、富豪、貴族とかで、民間の志士や勞働者は常に彼等の暴力に挑發され、酷虐され、窘窮の餘已むなく亦暴力を以て之に對抗するに至るの形迹があるのです。米國大統領マツキンレーの暗殺でも、伊太利王ウンベルトのでも、又西班牙王アルフオンソに爆彈を投じたのでも、皆夫れ夫れ其時に特別な事情があつたのですが、餘り長くなるから申しません。  要するに、暗殺者は其時の事情と其人の氣質と相觸るる状況如何によりては、如何なる黨派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者は皆平和、自由を好むが故に、暗殺者を出すことは寧ろ極めて少なかつたのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が、「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪へませぬ。 革命の性質  爆彈で主權者を狙撃するのでなければ、無政府的革命はドウするのだといふ問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲姓の天子が天命を受けて乙姓の天子に代るを革命といふのだから、主に主權者とか、天子とかの更迭をいふのでせうが、私共の革命はレウオルーシヨンの譯語で、主權者の變更如何には頓着なく、政治組織、社會組織が根本に變革されねば革命とは申しません。足利が織田にならうが、豐臣が徳川にならうが、同じ武斷封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。夫れも天子及び薩長氏が徳川氏に代つたが爲めに革命といふのではなく、舊來凡百の制度、組織が根底から一變せられたから革命といふのです。一千年前の大化の新政の如きも、矢張り天皇は依然たるも、又人民の手でなく天皇の手に依つて成されても、殆ど革命に近かつたと思ひます。即ち私共が革命といふのは、甲の主權者が乙の主權者に代るとか、丙の有力な個人若しくは黨派が丁の個人若しくは黨派に代つて政權を握るといふのでなく、舊來の制度、組織が朽廢衰弊の極崩壞し去つて、新たな社會組織が起り來るの作用を言ふので、社會進化の過程の大段落を表示する言葉です。故に嚴正な意味に於ては、革命は自然に起り來る者で、一個人や一黨派で起し得るものではありません。  維新の革命に致しても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社會の發達に伴はなくて、各方面に朽廢を見、破綻を生じ、自然に傾覆するに至つたのです。此舊制度、舊組織の傾覆の氣運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもドウすることも出來ません。彼等をして今二十年早く生れしめたならば、矢張り吉田松陰などと一處に馘られるか、何事もなし得ずに埋木になつて了つたでせう。彼等幸ひに其時に生れて其事に與り、其勢ひに乘じたのみで、決して彼等が起したのではありません。革命の成るのは何時でも水到渠成るのです。  故に革命をドウして起すか、ドウして行ふかなどといふことは、到底豫め計畫し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に變じて、何人も端睨、揣摩し得る者はありませんでした。大政返上の建白で平和に政權が引渡されたかと思ふと、伏見、鳥羽の戰爭が始まる。サア開戰だから江戸が大修羅場になるかと思へば、勝と西郷とで此危機をソツとコハして仕まつた。先づ無事に行つたかと思ふと、又彰義隊の反抗、奧羽の戰爭があるといふ風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷の如き人物が双方へ一時に出たから良かつたものの、此千載稀れな遇合が無かつたら、ドンな大亂に陷つてゐたかも知れぬ。是れ到底人間の豫知す可からざる所ではありますまいか。左すれば識者、先覺者の豫知し得るは、來るべき革命が平和か、戰爭か、如何にして成るかの問題ではなくして、唯だ現時の制度、組織が、社會、人文の進歩、發達に伴はなくなること、其傾覆と新組織の發生は不可抗の勢ひなること、封建の制がダメになれば、其次には之と反對の郡縣制にならねばならぬこと、專制の次には立憲自由制になるのが自然なること等で、此理を推して、私共は、個人競爭、財産私有の今日の制度が朽廢し去つた後は、共産制が之に代り、近代的國家の壓制は無政府的自由制を以て掃蕩せらるるものと信じ、此革命を期待するのです。  無政府主義者の革命成るの時、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、夫れも我々が指揮、命令すべきことでありません。皇室自ら決すべき問題です。前にも申す如く、無政府主義者は武力、權力に強制されない萬人自由の社會の實現を望むのです。其社會成るの時、何人が皇帝をドウするといふ權力を持ち、命令を下し得るものがありませう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手に其尊榮、幸福を保つの途に出で得るので、何等の束縛を受くべき筈はありません。  斯くて我々は、此革命が如何なる事情の下に、如何なる風に成し遂げられるかは分りませんが、兎に角萬人の自由、平和の爲めに革命に參加する者は、出來得る限り暴力を伴はないやうに、多く犧牲を出さぬやうに努むべきだと考へます。古來の大變革の際に多少の暴力を伴ひ、多少の犧牲を出さぬはないやうですが、併し斯かる衝突は常に大勢に逆抗する保守、頑固の徒から企てられるのは事實です。今日ですら人民の自由、平和を願ふと稱せられてゐる皇室が、其時に於て斯かる保守、頑固の徒と共に大勢に抗し、暴力を用ゐらるるでせうか。今日に於て之を想像するのは、寛政頃に元治、慶應の事情を想像する如く、到底不可能のことです。唯だ私は、無政府主義の革命とは直ちに主權者の狙撃、暗殺を目的とする者なりとの誤解なからんことを望むのみです。 所謂革命運動  革命が水到渠成るやうに自然の勢ひなれば、革命運動の必要はあるまい、然るに現に革命運動がある。其革命運動は即ち革命を起して爆彈を投ぜんとするものではないか、といふ誤解があるやうです。  無政府主義者が一般に革命運動と稱してゐるのは、直ぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。誰だ來らんとする革命に參加して應分の力を致すべき思想、智識を養成し、能力を訓練する總ての運動を稱するのです。新聞、雜誌の發行も、書籍、册子の著述、頒布も、演説も、集會も皆此時勢の推移し、社會の進化する所以の來由と歸趨とを説明し、之に關する智識を養成するのです。そして勞働組合を設けて諸種の協同の事業を營むが如きも、亦革命の新生活を爲し得べき能力を訓練し置くに利益があるのです。併し日本從來の勞働組合運動なるものは、單に眼前勞働者階級の利益増進といふのみで、遠き將來の革命に對する思想よりせる者はなかつたのです。無政府主義者も日本に於ては未だ勞働組合に手をつけたことはありません。  故に今一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといつても、直ちに天皇暗殺若しくは暴擧の目的を以て運動せりと解して之を責めるのは殘酷な難題です。私共の仲間では、無政府主義の學説を講ずるのでも、又此主義の新聞や引札を配布してゐるのでも、之を稱して革命運動をやつてるなどといふのは普通のことです。併し之は革命を起すといふこととは違ひます。  革命が自然に來るのなら、運動は無用の樣ですが、決してさうではありません。若し舊制度、舊組織が衰朽の極に達し、社會が自然に崩壞する時、如何なる新制度、新組織が之に代るのが自然の大勢であるかに關して、何等の思想も智識もなく、之に參加する能力の訓練もなかつた日には、其社會は革命の新しい芽を吹くことなくして、舊制度と共に枯死して了ふのです。之に反して智識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たなる芽が出るのです。羅馬帝國の社會は、其腐敗に任せて何等の新主義、新運動のなかつた爲めに滅亡しました。佛蘭西はブルボン王朝の末年の腐敗がアレ程になりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキュー等の思想が新生活の準備をした爲めに、滅亡とならずして革命となり、更に新しき佛蘭西が生れ出た。日本維新の革命に對しても其以前から準備があつた。即ち勤王思想の傳播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の國學も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼等は徳川氏の政權掌握てふことが漸次日本國民の生活に適しなくなつたことを直覺し、寧ろ直感した。彼等は或は自覺せず、或は朧氣に自覺して革命の準備を爲したのです。徳川家瓦解の時は、王政復古に當つてマゴつかない丈けの思想、智識が既に養成せられてゐた。斯くて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。若し是等の革命運動が其準備をしてゐなかつたなら、當時外人渡來てふ境遇の大變に會つて、危い哉、日本は或は今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社會が遂に獨立を失つたのは、永く其腐敗に任せ、衰朽に任せて、自ら振作し、刷新して、新社會、新生活に入る能力、思想のなかつた爲めであると思ひます。  人間が活物、社會が活物で、常に變動進歩して已まざる以上、萬古不易の制度、組織はあるべき筈がない。必ず時と共に進歩、改新せられねばならぬ。其進歩、改進の小段落が改良或は改革で、大段落が革命と名づけられるので、我々は此社會の枯死、衰亡を防ぐ爲めには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、即ち革命運動の必要があると信ずるのです。 直接行動の意義  私はまた今回の檢事局及び豫審廷の調べに於て、直接行動てふことが、矢張暴力革命とか、爆彈を用うる暴擧とかいふことと殆ど同義に解せられてゐる觀があるのに驚きました。  直接行動は英語のヂレクト・アクシヨンを譯したので、歐米で一般に勞働運動に用うる言葉です。勞働組合の職工の中には無政府黨もあり、社會黨もあり、忠君愛國論者もあるので、別に無政府主義者の專有の言葉ではありません。そして其意味する所は、勞働組合全體の利益を増進するのには、議會に御頼み申しても埒が明かぬ、勞働者のことは勞働者自身に運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして勞働者自身が直接に運動しよう、即ち總代を出さないで自分等で押し出さうといふのに過ぎないのです。今少し具體的に言へば、工場の設備を完全にするにも、勞働時間を制限するにも、議會に頼んで工場法を拵へて貰ふ運動よりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるといふので、多くは同盟罷工のことに使はれてゐるやうです。或は非常の不景氣、恐慌で、餓孚途に横はるといふやうな時には、富豪の家に押入つて食品を收用するもよいと論ずる者もある。收用も亦直接行動の一ともいへぬではない。又革命の際に於て、議會の決議や法律の協定を待たなくても、勞働組合で總てをやつて行けばよいといふ論者もある。是も直接行動とも言へるのです。  併し、今日直接行動説を贊成したといつても、總ての直接行動、議會を經ざる何事でも贊成したといふことは言へませぬ。議會を經ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐僞でも皆直接行動ではないか、といふ筆法で論ぜられては間違ひます。議會は歐米到る處腐敗してゐる。中には善良な議員が無いでもないが、少數で其説は行はれぬ。故に議院をアテにしないで直接行動をやらうといふのが、今の勞働組合の説ですから、やるなら直接行動をやるといふので、直接行動なら何でもやるといふのではありません。同じく議會を見限つて直接行動を贊する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するといふ樣に、其人と其場合とによりて目的、手段、方法を異にするのです。故に直接行動を直ちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしといふことを今回の事件の有力な一原因に加へるのは、理由なきことです。 歐州と日本の政策  今回の事件の眞相と其動機とが何處に在るかは姑く措き、以上述ぶるが如く、無政府主義者は決して暴力を好む者でなく、無政府主義の傳道は暴力の傳道ではありません。歐米でも同主義に對しては甚だしき誤解を抱いてゐます。或は知つて故らに曲解し、讒誣、中傷してゐますが、併し日本や露國のやうに亂暴な迫害を加へ、同主義者の自由、權利を總て剥奪、蹂躝して、其生活の自由まで奪ふやうなことはまだありません。歐州の各文明國では無政府主義の新聞、雜誌は自由に發行され、其集會は自由に催されてゐます。佛國などには同主義の週刊新聞が七八種もあり、英國の如き君主國、日本の同盟國でも、英文や露文や猶太語のが發行されてゐます。そしてクロポトキンは倫敦にゐて自由に其著述を公にし、現に昨年出した「露國の慘状」の一書は、英國議會の「露國事件調査委員會」から出版いたしました。私の譯した「麺麭の略取」の如きも、佛語の原書で、英、獨、露、伊、西等の諸國語に飜譯され、世界的名著として重んぜられてゐるので、之を亂暴に禁止したのは、文明國中日本と露國のみなのです。  成程、無政府主義は危險だから、同盟して鎭壓しようといふことを申出した國もあり、日本にも其交渉があつたかのやうに聞きました。が、併し、此提議をするのは、大概獨逸とか、伊太利とか、西班牙とかで、先づ亂暴な迫害を無政府主義者に加へ、彼等の中に激昂の極多少の亂暴する者あるや、直ちに之を口實として鎭壓策を講ずるのです。そして此列國同盟の鎭壓條約は、屡々提議されましたが、曾て成立したことはありません。いくら腐敗した世の中でも、兎に角文明の皮を被つてる以上、さう人間の思想の自由を蹂躝することは出來ない筈です。特に申しますが、日本の同盟國たる英國は何時も此提議に反對するのです。 一揆暴動と革命  單に主權者を更迭することを革命と名づくる東洋流の思想から推して、強大なる武力、兵力さへあれば何時でも革命を起し、若しくは成し得るやうに考へ、革命家の一揆暴動なれば總て暴力革命と名づくべきものなりと極めて了つて、今回の「暴力革命」てふ語が出來たのではないかと察せられます。併し私共の用うる革命てふ語の意義は前申上ぐる通りで、又一揆暴動は文字の如く一揆暴動で、此點は區別しなければなりません。私が大石、松尾などに話した意見(是が計畫といふものになるか、陰謀といふものになるかは、法律家的ならぬ私には分りませんが)には、曾て暴力革命てふ語を用ゐたことはないので、是は全く檢事局或は豫審廷で發明せられたのです。  大石は豫審廷で、「幸徳から巴里コンミユンの話を聞いた」と申立てたといふことを、豫審判事から承はりました。成程私は巴里コンミユンの例を引いたやうです。磯部先生の如き佛蘭西學者は元より詳細御承知の如く、巴里コンミユンの亂は、一千八百七十一年の普佛戰爭媾和の屈辱や、生活の困難やで人心恟々の時、勞働者が一揆を起して巴里を占領し、一時市政を自由にしたことであります。此時も政府内閣はヴエルサイユに在つて、別に顛覆された譯でもなく、唯だ巴里市にコンミユン制を一時建てただけなんです。から、一千七百九十五年の大革命や、一千八百四十八年の革命などと同樣の革命といふべきではなく、普通にインサレクシヨン即ち暴動とか、一揆とか言はれてゐます。公判で大石はまた佛蘭西革命の話など申立てたやうですが、夫れは此巴里コンミユンのことだらうと思ひます。彼はコンミユンの亂を他の革命の時にあつた一波瀾のやうに思ひ違へてゐるのか、或は單に巴里コンミユンといふべきを言ひ違へたのであらうと思はれます。  コンミユンの亂ではコンナことをやつたが、夫れ程のことは出來ないでも、一時でも貧民に煖かく着せ、飽くまで食はせたいといふのが話の要點でした。是れとても無論直ちに是を實行しようといふのではなく、今日の經濟上の恐慌、不景氣が若し三五年も續いて、餓孚途に横はるやうな慘状を呈するやうになれば、此暴動をなしても彼等を救ふの必要を生ずるといふことを豫想したのです。是は最後の調書のみでなく、初めからの調書を見て下されば、此意味は十分現れてゐると思ひます。  例へば、天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪の物を收用するのは、政治的迫害に對して暗殺者を出すが如く、殆ど彼等の正當防衞で、必至の勢ひです。此時にはこれが將來の革命に利益あるや否やなどの利害を深く計較してゐることは出來ないのです。私は何の必要もなきに平地に波瀾を起し、暴動を敢てすることは、財産を破壞し、人命を損し、多く無益の犧牲を出すのみで、革命に利する處はないと思ひます。が、政府の迫害や富豪の暴横其極に達し、人民溝壑に轉ずる時、之を救ふのは將來の革命に利ありと考へます。左ればかかることは利益を考へてゐて出來ることではありません。其時の事情と感情とに驅られて我れ知らず奮起するのです。  大鹽中齋の暴動なども左樣です。飢饉に乘じて富豪が買占を爲る、米價は益々騰貴する。是れ富豪が間接に多數の殺人を行つてゐるものです。坐視するに忍びないことです。此亂の爲めに徳川氏の威嚴は餘程傷けられ、革命の氣運が速められたことは史家の論ずる所なれど、大鹽はそこまで考へてゐたか否か分りません。又「彼が革命を起せり」といふことは出來ないのです。  然るに、連日の御調に依つて察するに、多數被告は皆「幸徳の暴力革命に與せり」といふことで公判に移されたやうです。私も豫審廷に於て幾回となく暴力革命云々の語で訊問され、革命と暴動との區別を申立てて文字の訂正を乞ふのに非常に骨が折れました。「名目はいづれでも良いではないか」と言はれましたが、多數の被告は今や此名目の爲めに苦しんで居ると思はれます。私の眼に映じた處では、檢事、豫審判事は先づ私の話に「暴力革命」てふ名目を附し、「決死の士」といふ六ヶしい熟語を案出し、「無政府主義の革命は皇室をなくすることである。幸徳の計畫は暴力で革命を行ふのである。故に之に與せるものは大逆罪を行はんとしたものに違ひない」といふ三段論法で責めつけられたものと思はれます。そして平生直接行動、革命運動などいふことを話したことが、彼等に累してゐるといふに至つては、實に氣の毒に考へられます。 聞取書及調書の杜撰  私共無政府主義者は、平生今の法律裁判てふ制度が完全に人間を審判し得るとは信じないのでしたけれど、今回實地を見聞して更に危險を感じました。私は唯だ自己の運命に滿足する考へですから、此點に就いて最早呶々したくはありませんが、唯だ多數被告の利害に大なる關係があるやうですから、一應申上げたいと思ひます。  第一、檢事の聞取書なるものは、何と書いてあるか知れたものでありません。私は數十回檢事の調べに會ひましたが、初め二三回は聞取書を讀み聞かされましたけれど、其後は一切其場で聞取書を作ることもなければ、隨つて讀み聞かせるなどといふこともありません。其後豫審廷に於て、時々、檢事の聞取書にはかう書いてあると言はれたのを聞くと、殆ど私の申立と違はぬはないのです。大抵、檢事が斯うであらうといつた言葉が、私の申立として記されてあるのです。多數の被告に付いても皆同樣であつたらうと思ひます。其時に於て豫審判事は聞取書と被告の申立と孰れに重きを置くでせうか。實に危險ではありませんか。  又檢事の調べ方に就いても、常に所謂「カマ」をかけるのと、議論で強ひることが多いので、此カマを看破する力と、檢事と議論を上下し得るだけの口辯を有するにあらざる以上は、大抵檢事の指示する通りの申立をすることになると思はれます。私は此點に就いて一々例證を擧げ得ますけれど、クダクダしいから申しません。唯だ私の例を以て推すに、他の斯かる場所になれない地方の青年などに對しては、殊にヒドかつたらうと思はれます。石卷良夫が「愚童より宮下の計畫を聞けり」との申立を爲したといふことの如きも、私も當時聞きまして、また愚童を陷れむが爲めに奸策を設けたなと思ひました。宮下が爆彈製造のことは、愚童、石卷の會見より遙か後のことですから、そんな談話のある筈がありません。此事の如きは餘りに明白で直ぐ分りますけれど、巧みな「カマ」には何人もかかります。そして「アノ人がさう言へば、ソンナ話があつたかも知れません」位の申立をすれば、直ぐ「ソンナ話がありました」と確言したやうに記載されて、之がまた他の被告に對する責道具となるやうです。こんな次第で、私は檢事の聞取書なる者は、殆ど檢事の曲筆舞文、牽強附會で出來上つてゐるだらうと察します。一讀しなければ分りませんが。  私は豫審判事の公平、周到なることを信じます。他の豫審判事は知らず、少くとも私が調べられました潮判事が公平、周到を期せられたことは明白で、私は判事の御調べに殆ど滿足してゐます。  けれど、如何に判事其人が公平、周到でも、今日の方法制度では完全な調書の出來る筈はありません。第一、調書は速記でなくて、一通り被告の陳述を聞いた後で、判事の考へで之を取捨して問答の文章を作るのですから、申立ての大部分が脱することもあれば、言はない言葉が揷入されることもあります。故に被告の言葉を直接聞いた豫審判事には被告の心持がよく分つてゐても、調書の文字となつて他人が見れば、其文字次第で大分解釋が違うて參ります。  第二は、調書訂正の困難です。出來た調書を書記が讀み聞かせますけれど、長い調べで少しでも頭腦が疲勞してゐれば、早口に讀み行く言葉を聞き損じないだけがヤツトのことで、少し違つたやうだと思つても、咄嗟の間に判斷がつきません。それを考へる中に讀聲はドシドシ進んで行く。何を讀まれたか分らずに了ふ。そんな次第で、數ヶ所、十數ヶ所の誤りがあつても、指摘して訂正し得るのは一ヶ所位に過ぎないのです。それも文字のない者などは適當の文字が見つからぬ。「かう書いても同じではないか」と言はれれば、爭ふことの出來ぬのが多からうと思ひます。私なども一々添削する譯にも行かず、大概ならと思つて其儘にした場合が多かつたのです。第三には、私初め豫審の調べに會つたことのない者は、豫審は大體の下調べだと思つて、左程重要と感じない、殊に調書の文字の一字、一句が殆ど法律條項の文字のやうに確定して了ふ者とは思はないで、孰れ公判があるのだから其時に訂正すれば良い位で、強いて爭はずに捨て置くのが多いと思ひます。是は大きな誤りで、今日になつて見れば、豫審調書の文字ほど大切なものはないのですけれど、法律裁判のことに全く素人なる多數の被告は、さう考へたらうと察します。こんな次第で豫審調書も甚だ杜撰なものが出來上つてゐます。私は多少文字のことに慣れてゐて隨分訂正もさせました。けれど、それすら多少疲れてゐる時は面倒になつて、いづれ公判があるからといふので其儘に致したのです。況んや多數の被告をやです。  聞取書、調書を杜撰にしたといふことは、制度の爲めのみでなく、私共の斯かることに無經驗なるより生じた不注意の結果でもあるので、私自身は今に至つて其訂正を求めるとか、誤謬を申立てるとかいふことは致しませんが、どうか彼の氣の毒な多數の地方青年の爲めに御含み置きを願ひたいと存じます。    ~~~~~~~~~~~~~~~~  以上、私の申上げて御參考に供したい考への大體です。何分連日の公判で頭腦が疲れてゐる爲めに、思想が順序よく纒まりません。加ふるに、火のない室で、指先が凍つて了ひ、是まで書く中に筆を三度取落した位ですから、唯だ冗長になるばかりで、文章も拙く、書體も亂れて、嘸ぞ御讀みづらいでありませう。どうか御諒恕を願ひます。  兎に角右述べました中に、多少の取るべきあらば、更に之を判官、檢事諸公の耳目に達したいと存じます。  明治四十三年十二月十八日午後 東京監獄監房にて幸徳傳次郎 EDITOR'S NOTES *一 幸徳はこれを書いてから數日の後、その辯護人の勸めによつて、この陳辯書と同一の事を彼自ら公判廷に陳述したさうである。'V NAROD' SERIES の編輯者は、此事を友人にして且同事件の辯護人の一人であつた若い法律家 H――君から聞いた。 *二 亂臣賊子の辯護をするのは不埓だといふ意味の脅迫的な手紙が二三の辯護士の許に屆いたのは事實である。さうしてさういふ意見が無智な階級にのみでなく、所謂教育ある人士の間にさへ往々にして發見されたのも事實である。編輯者は當時その勤めてゐる新聞社の編輯局で遭遇した一つの出來事に今猶或る興味を有つてゐる。それはもう晝勤の人々が皆歸つて了つて、數ある卓子の上に電燈が一時に光を放つてから間もなくの時間であつた。予の卓子の周圍には二人の人――マスター・オヴ・アーツの學位を有する外電係と新しく社會部に入つた若い、肥つた法學士――とが集つてゐた。この若い法學士は何處までも「若い法學士」――何事に對しても、たとへば自分の少しも知らぬ事に對しても、必ず何等かの「自分の意見」を持ち出さずには止まれぬ――の特性を發揮した人で、社會部の次席編輯者が數日前の新聞のこの事件の記事に「無政府共産黨陰謀事件」といふ標題を附けたことに就いて頻りに攻撃の言葉を放つた。彼の言ふ處によると、無政府共産黨といふ言葉は全く意味を成さぬ言葉で、この滑稽な造語を敢てした次席編輯者(彼は法學士ではなかつた)は屹度何か感違ひをしてゐるのであらうといふことであつた。さうして彼はその記事の出た朝の新聞を見た時には、思はず吹き出したのださうである。予はこの何事にも自信の強い人の自信を傷けることを遠慮しながら、クロポトキンの或る著述の或る章の標題にたしか Anarchist Communism と書いてあつた筈だと話したが、「法學士」は無論自分の讀んだことのない本のことを自分より無學な者の話すのに耳を傾ける人ではなかつた。『しかし「無政府」といふことと「共産」といふこととは全く別なことなんだから、それを一しよにするのはどうしても滑稽だなあ』これ彼の最後の言葉であつた。彼にとつては、政治は政治、經濟は經濟、さうして又宗教(彼は基督教徒であつた)は宗教、實際生活は實際生活で、その間に何等の内部的關係なく、人生は恰も歌牌の札の如く離れ離れなものであつた。しかし予はもうこの上彼の自信を傷けることはしなかつた。又その所謂滑稽な言葉は、犯罪の動機及性質に就いて檢事總長から各新聞社に對して發表した文書(すでに記事として掲載された)にあつたので、次席編輯者がそれを襲用したに過ぎぬといふことも言はなかつた。何故なれば、予はその時、假りにこの法學士の用ゐた論理を借りると、或る面白い結論を得るといふことに氣が付いたからである。さうして予はただ笑つた。彼の論理に從へば、「尊王攘夷」とか、「忠君愛國」とか、「立憲君主制」とかいふ言葉がすべて滑稽な、矛盾した言葉になる許りでなく、「日本の道徳は忠孝を本とす」といふことさへ「吹き出」さねばならぬことになるのである。  やがて、卓子の端に腰かけて片足をぶらぶらさしてゐた外電係兼國際論文記者が口を開くべき機會を得た。この學者――實際この人は、何事にも退嬰的な態度をとることと、その癖平生は人の意見には頓着なしに自分の言ひたいことだけを言ふといつた風な傾きのあることとの二つの學者的な習癖を除いては、殆ど全く非難すべき點のない、温厚な、勤勉な、頭の進んだ學者で、現に東京帝國大學に講師となり、繁劇な新聞の仕事をやる傍ら、其處の商科に社會學及社會政策の講義をしてゐるが、しかしその最も得意とする處は寧ろ國際法學であつて、特にその米國に關する國際法に於ては自分が日本のオオソリチイであると、嘗て彼自ら子供らしい無邪氣を以て語つたことがあつた。彼の論文は時々彼等少數の國際法學者の學會から發行する機關雜誌の卷頭を飾ることがあり、且つ彼の從事してゐる新聞は國際的事件に關する評論を掲ぐること最も多き新聞である。さうして彼はまた十數年以前に於て、日本に於ける最初のバイロン傳の著者であつた。――この學者は、その專門的な立場から、今度の事件に對する日本政府の處置の如何が如何に國際上に影響するかといふことに就いて話し出した。若し噂の如く彼等二十六人をすべて秘密裁判の後に死刑に處するといふやうなことになれば、思想の自由を重んずる歐米人の間に屹度日本に對する反感が起るに違ひない。反感は一度起つたら仲々消えるものでない。さうしてその反感――日本が憎むべき壓制國だといふ感情が一度起るとすれば、今後日本政府の行爲――たとへば朝鮮に於ける――が今迄のやうに好意的に批評される機會がなくなるかも知れぬ。間接ではあるけれども、かういふ影響は却つて豫期しない程の損失を外交上齎すことがないと言へぬといふのであつた。さうして彼は恰もその講座に立つて學生に話す時のやうに、指の短い小さい手を以て一種の調子をとりながら、以上の意見に裏書すべき一つの事實について語り出した。それは露佛同盟が何故その最初の提議から數箇年の後まで締結されなかつたかといふ事情であつた。當時佛國の上下には、露國政府の殘酷な壓制に苦しんでゐる同國の自由主義者及び波蘭人に對する同情が非常に盛んであつた。駐佛露國公使を主賓とした或る宴會に於て、佛國の小壯議員が公使の面前に一齊に盃を擧げて「波蘭萬歳」を叫び、爲めに公使が宴半ばに密かに逃げ出したといふやうな事さへあつた。この事情こそ、實に、兩國の當時の國勢に於て、一方は國債市場を得る意味から、一方は對獨關係から、全く必至の要求であつた所の同盟を、猶且つ數年の間延期せしめた眞の理由であつた。何故なれば、時の佛國政府にして若しも早急にこの同盟を締結しようとすれば、それに先立つて先づ、「壓制者の黨與」てふ惡名を負はされ、おまけにその内閣の椅子を空け渡すだけの決心をする必要があつたのである――。  恰度比處まで彼の語り來つた時に、やや離れた卓子にゐた一人の記者――その編輯してゐる地方版の一つの大組が遲れた爲めに殘つてゐた――が、何を思つたか、突然椅子を離れて、だらしなく腰に卷いた縮緬の兵子帶の前に兩手を突込み、肩を怒らした歩き方で我々の方に近づいて來た。さうして、謠曲で鍛へた錆のある聲で、叱るやうに言つた。 『さういふ議論は可かん。さういふ議論を聞くと、吾輩も大いに口を出さねばならん』  彼は故落合直文の門下から出て新聞記者になつた人で、年はまだ三十八九にしかならぬ癖に大分頭の禿げてゐると同じく、その記者としての風格、技倆も何時か知ら時代の進歩に伴はなくなつてゐた。ただ彼は主筆の親戚であつた。さうして彼の癖は醉うて謠曲を唸ることと、常に東洋豪傑的の言語、擧動を弄ぶことであつた。  我々三人は一樣にその聲に驚かされた。さうして默つて彼の顏を見上げた。彼は直ぐまた口を尖らして吒るやうな言葉を續けた。『ああいふ奴等は早速殺して了はなくちや可かん。全部やらなくちや可かん。さうしなくちや見せしめにならん。一體日本の國體を考へて見ると、彼奴等を人並に裁判するといふのが既に恩典だ………諸君は第一此處が何處だと思ふ。此處は日本國だ。諸君は日本國に居つて、日本人だといふことを忘れとる。外國の手前手前といふが、外國の手前が何だ。外國の手前ばかり考へて初めから腰を拔かしてゐたら何が出來る。僕が若し當局者だつたら、彼等二十六名を無裁判で死刑にしてやる、さうして彼等の近親六族に對して十年間も公民權を停止してやる。のう、△△君、彼等は無政府主義だから、無裁判でやつつけるのが一番可いぢやないか。』  名指された予は何とも返事のしようがなかつた。ただ苦笑した。我が國際法學者はこの時漸くその不意を食つた驚きから覺めたやうに物靜かに笑つた。 『しかし日本も文明國なさうだからなあ』 『さうさ、文明國さ』「日本人」は奪ひ取るやうに言つた。『しかし考へて見たまへ。建國の精神を忘れるのが若し文明なら、僕は文明に用はない。その精神を完全に發揮してこそ眞の文明ぢやないか。文明、文明といつて日本の國體を忘れてるやうな奴は、僕は好かん。第一僕は今度のやうな事の起つた際に、花井だの何だのいふ三百代言共が、その辯護を引受けるのが可かんと思ふのだ。何處を辯護する。辯護すべき點が一つもないぢやないか。貴樣達のやうな事をする奴を辯護する者は日本に一人もゐないぞといふことを示してやらなくちや可かん……』 『それあさういふ極端な保守主義の議論も』と、コツコツ卓子を叩いてゐた鉛筆を左の胸のポケツトに揷して、法學士が言つた。『日本といふこの特別の國には無くちやならんさ。寧ろ大いに必要かも知れん。僕は君のやうに無裁判で死刑にするの、罪を六族に及ぼすのといふことは贊成しない。すでに法律といふもののある以上は何處までもそれによつて處置して行かなくちやならんと思ふが、しかし日本が特別の國柄だといふことは、議論でなくて事實である。――』 『君は僕の議論を極端な保守主義といふが、何處が極端だ。若し僕の言ふ事が保守主義の議論とすれば、進歩主義の議論とは何か。幸徳傳次郎に同情することか』 『そんな無茶な事を言つては困る。僕はちつとも彼等に同情してゐないさ。歐羅巴でならああいふ運動もそれぞれ或る意義があるけれども、日本でやらうといふのは飛んでもない間違だからなあ』  辨當屋の小僧が岡持を持つて入つて來た。それは予がこの話の初まる前に給仕に誂へさしたものであつた。小僧は丼と香の物の皿とを予の前に併べた。予等の話を聞いてゐた給仕の一人は茶をいれるべく立つて行つた。我が國際法學者はこの時漸くこの不愉快な場所から離れるべき機會を得た。『さうだ、僕も飯を食つて來なくちやならなかつた』さう言ひながら卓子から辷り落ちて、いそいそと二重𢌞しを着て出かけて行つた。法學士も大きな呿呻を一つして自分の椅子に歸つた。予は默つて丼の蓋を取つた。あたたかい飯から立騰る水蒸氣と天ぷらの香ばしいにほひとが柔かに予の顏を撫でた。  地方版編輯記者も遂に予の卓子を離れねばならなかつた。予は恰度、予の前に立ちはだかつてゐた一疋の野獸が、咆え、さうして牙を鳴らしただけで、首を𢌞らして林の中に入つて行つたやうな安心を感じた。彼は自分の椅子に歸らずに、ストオヴの前に進んで行つた。『日本人にして日本人たることを忘れとる奴がある。』突然かういふ獨語が彼の口から聞かれた。それは出て行つた人と予とに對する漫罵であつた。さうして直ぐ、『貴樣も日本人だから、日本人だといふことを忘れちやいかん。のう、貴樣は犬の頭のやうな平つたい頭をしとるけれども日本人ぢや。のう。』かういひながら、椅子に腰かけて雜誌を讀んでゐた給仕の肩に手をかけて、烈しく搖り動かしてゐるのが見えた。予は「日本人」に對する深い憐れみを以て靜かに箸を動かした。  しかしかういふ極端に頑迷な思想は、或る新聞などによつてやや誇大に吹聽されてゐるに拘らず、ごく少數者の頭脳を司配してゐたに過ぎなかつた。それはこの事件に對して殆ど何等の國民的憎惡の發表せられなかつた事實に見ても明らかである。國民の多數は、かういふ事件は今日に於ても、將來に於ても日本に起るべからざるもの、既に起つたからには法律の明文通り死刑を宣告されなければならぬものとは考へてゐた。彼等は彼の法學士と同じく決して彼の二十六名に同情してはゐなかつたけれども、而してまた憎惡の感情を持つだけの理由を持つてゐなかつた。彼等は實にそれだけ平生から皇室と縁故の薄い生活をしてゐるのである。また彼等は、一樣にこの事件を頗る重大なる事件であるとは感じてゐたが、その何故に重大であるかの眞の意味を理解するだけの智識的準備を缺いてゐた。從つて彼等は、彼等の所謂起るべからずして起つた所のこの事件(大隈伯さへこの事件を以て全く偶發的な性質のものと解したことは人の知る所である)は、死刑の宣告、及びそれについで發表せらるべき全部若しくは一部の減刑――即ち國體の尊嚴の犯すべからざることと天皇の宏大なる慈悲とを併せ示すことに依つて、表裏共に全く解決されるものと考へてゐたのである。さうしてこれは、思想を解せざる日本人の多數の抱いた、最も普遍的な、且精一杯の考へであつた。  ただこれに滿足することの出來ぬ、少くとも三つの種類の人達が別に存在してゐた。その一は思想を解する人々である。彼等はこの事件を決して偶發的なものであるとは考へ得なかつた。彼等は日本が特別な國柄であるといふことは、議論ではなくして事實だといふことを知る上に於て、決してかの法學士に劣らなかつた。ただ彼等はその「事實」のどれだけも尊いものでないことを併せ知つてゐた。その二は政府當局者である。彼等はその數年間の苦き經驗によつて、思想を彈壓するといふことの如何に困難であるかを誰よりもよく知つてゐた。かくて彼等はこの事の起るや、恰も獨帝狙撃者の現れた機會を巧みに社會黨鎭壓に利用したビスマアクの如く、その非道なる思想抑壓手段を國民及び觀察者の耳目を聳動することなくして行ひ得る機會に到達したものとして喜んだのである。さうしてその三は時代の推移によつて多少の理解を有つてゐる教育ある青年であつた。彼等は皆一樣にこの事件によつてその心に或る深い衝動を感じた。さうしてその或る者は、社會主義乃至無政府主義に對して強い智識的渇望を感ずるやうになつた。予は現に帝國大學の法科の學生の間に、主としてこの事件の影響と認むべき事情の下に、一の秘密の社會主義研究會が起つたことを知つてゐる。また嘗て予を訪ねて來た一人の外國語學校生徒の、學生の多くが心ひそかに幸徳に對して深い同情をもつてゐることを指摘し、「幸徳の死は最も有力なる傳道であつた」と言つたのを聞いた。また或る日、本郷三丁目から須田町までの電車の中に於て、二人の大學生――二人共和服を着てゐたから何科の學生であるかは解らなかつたが――が、恰度予と向ひ合つて腰かけて、聲高に、元氣よくこの事件について語るのを聞いた。話は電車に乘らぬ前からの續きらしかつた。車掌に鋏を入れさせた囘數切符を袂に捻じ込むや否や、小柄な、嚴しい顏をした一人が、その持前らしい鋭い語調で、『第一、君、日本の裁判官なんて幸徳より學問が無いんだからなあ。それでゐて裁判するなどは滑稽さ。そこへ持つて來て政府が干渉して、この機會に彼等を全く撲滅しようといふやうな方針でやつたとすれば、もう君、裁判とは言はれんぢやないか』 『まあさうだね。それが事實だとすれば』と、顏の平つたい、血色の惡い、五分許りに延びた濃い頬髯を生やした一人が落付いた聲で言つた。『兎に角今度のやうな事件は、いくら政府が裁判を秘密にしたり、辯護を試みたりしたつて默目だよ。かういふ事件が起つたといふことだけで、ただそれだけでも我々の平生持つてゐた心の平和を搖がすに充分なんだからなあ。人の前ぢや知らん顏してるけれど、僕の方の奴にも大分搖がされてるのが有るやうだぜ』 『さうだよ。昨夜山本(予はこの姓を明瞭に記憶してゐる。何故なればそれは予の姉の姓と同じであるから)に會つたら、幸徳のお蔭で不眠症にかかつたつて弱つてゐたつけ』 『不眠症とは少し御念が入り過ぎたね』 『何でも四五日前に誰かと夜遲くまで議論したんだそうだよ――無論今度の事件についてだね。するとその晩どうしても昂奮してゐて眠れなかつたんださうだが、それが習慣になつて次の晩から毎晩眠られないんだそうだ。君もそんなに昂奮することがあるのかつてからかつてやつたら、これでも貴樣より年は一つ若いぞとか何とか言つて威張つてゐたつけがね』  かう話してゐる二人の聲はあまりに高かつた。予はひそかに彼等のために、若しや刑事でも乘客の中にゐはしないかと危んだ。しかしそれらしい者は見付からなかつた。二人の會話は須田町に近づくまでも同じ題目の上を行きつ戻りつしてゐた。予は其處で他の車に乘換へなければならなかつた。  かかる間に、彼等の檢擧以來、政府の所謂危險思想撲滅手段があらゆる方面に向つてその黒い手を延ばした。彼等を知り若しくは文通のあつた者、平生から熱心なる社會主義者と思はれてゐた者の殆どすべては、或ひは召喚され、或ひは家宅を搜索され、或ひは拘引された。或る學生の如きは、家宅搜索をうけた際に、その日記のただ一ヶ所不敬にわたる文字があつたといふだけで、數ヶ月の間監獄の飯を食はねばならなかつた。さうしてそれらのすべては晝夜角袖が尾行した。社會主義者の著述は、數年前の發行にかかるものにまで遡つて、殆ど一時に何十種となく發賣を禁止された。  かくてこの事件は從來社會改造の理想を奉じてゐた人々に對して、最も直接なる影響を與へたらしい。即ち、或者は良心に責められつつ遂に強權に屈し、或者は何時となく革命的精神を失つて他の温和なる手段を考へるやうになり(心懷語の著者の如く)、或者は全くその理想の前途に絶望して人生に對する興味までも失ひ(幸徳の崇拜者であつた一人の青年の長野縣に於て鐵道自殺を遂げたことはその當時の新聞に出てゐた)、さうして或者はこの事件によつて層一層強權と舊思想とに對する憎惡を強めたらしい。亂臣賊子の辯護をするといふ意味の脅迫状を受取つた辯護士達は、又實に同時に、この最後の部類に屬する人々からの、それとは全く反對な意味の脅迫状及び嘆願的の手紙を受取らねばならなかつたのである。 *三 國民の多數は勿論、警察官も、裁判官も、その他の官吏も、新聞記者も、乃至はこの事件の質問演説を試みた議員までも、社會主義と無政府主義との區別すら知らず、從つてこの事件の性質を理解することの出來なかつたのは、笑ふべくまた悲しむべきことであつた。予が某處に於いてひそかに讀むを得たこの事件の豫審決定書にさへ、この悲しむべき無智は充分に表はされてゐた。日本の豫審判事の見方に從へば、社會主義には由來硬軟の二派あつて、その硬派は即ち暴力主義、暗殺主義なのである。 *四 幸徳が此處に無政府主義と暗殺主義とを混同する誤解に對して極力辯明したといふことは、極めて意味あることである。蓋しかの二十六名の被告中に四名の一致したテロリスト、及びそれとは直接の連絡なしに働かうとした一名の含まれてゐたことは事實である。後者は即ち主として皇太子暗殺を企ててゐたもので、此事件の發覺以前から不敬事件、秘密出版事件、爆發物取締規則違反事件で入獄してゐた内山愚童、前者即ちこの事件の眞の骨子たる天皇暗殺企畫者管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作であつた。幸徳はこれらの企畫を早くから知つてゐたけれど、嘗て一度も贊成の意を表したことなく、指揮したことなく、ただ放任して置いた。これ蓋し彼の地位として當然の事であつた。さうして幸徳及他の被告(有期懲役に處せられたる新田融新村善兵衞の二人及奧宮健之を除く)の罪案は、ただこの陳辯書の後の章に明白に書いてある通りの一時的東京占領の計畫をしたといふだけの事で、しかもそれが單に話し合つただけ――意志の發動だけにとどまつて、未だ豫備行爲に入つてゐないから、嚴正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであつたに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相聯絡なき三箇の罪案を打つて一丸となし、以て國内に於ける無政府主義を一擧に撲滅するの機會を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。予はこの事をこの事件に關する一切の智識(一件書類の秘密閲讀及び辯護人の一人より聞きたる公判の經過等より得たる)から判斷して正確であると信じてゐる。されば幸徳は、主義のためにも、多數青年被告及び自己のためにも、又歴史の正確を期するためにも、必ずこの辯明をなさねばならなかつたのである。  一切の暴力を否認する無政府主義者の中に往々にしてテロリズムの發生するのは何故であるかといふ問ひに對して、クロポトキンは大要左の如く答へてゐるさうである。曰く、「熱誠、勇敢なる人士は唯言葉のみで滿足せず、必ず言語を行爲に飜譯しようとする。言語と行爲との間には殆ど區別がなくなる。されば暴政抑壓を以て人民に臨み、毫も省みる所なき者に對しては、單に言語を以てその耳を打つのみに滿足されなくなることがある。ましてその言語の使用までも禁ぜられるやうな場合には、行爲を以て言語に代へようとする人々の出て來るのは、實に止むを得ないのである。」云々。  猶予は此處に、虚無主義と暗殺主義とを混同するの愚を指摘して、虚無主義の何であるかを我々に教へてくれたクロポトキンの叙述を、彼の自傳(‘MEMOIRS OF A REVOLUTIONIST’)の中から引用して置きたい。それはこの事件にも、はた又無政府主義そのものにも、別に關係するところのない事ではあるが、かの愛すべき露西亞の青年の長く且つ深い革命的ストラツグルが、その最初如何なる形をとつて現はれたかを知ることは、今日の我々に極めて興味あることでなければならぬ。文章は即ち次の如くである。――  A formidable movement was developing in the meantime amongst the educated youth of Russia. Serfdom was abolished. But quite a network of habits and customs of domestic slavery, of utter disregard of human individuality, of despotism on the part of the fathers, and of hypocritical submission on that of the wives, the sons, and the daughters, had developed during the two hundred and fifty years that serfdom had existed. Everywhere in Europe, at the beginning of this century, there was a great deal of domestic despotism―the writings of Thackeray and Dickens bear ample testimony to it―but nowhere else had that tyranny attained such a luxurious development as in Russia. All Russian life, in the family, in the relations between commander and subordinate, military chief and soldier, employer and employee, bore the stamp of it. Quite a World of customs and manners of thinking, of prejudices and moral cowardice, of habits bred by a lazy existence, had grown up; and even the best men of the time paid a large tribute to these products of the serfdom period.  Law could have no grip upon these things. Only a vigorous social movement, which would attack the very roots of the evil, could reform the habits and customs of everyday life; and in Russia this movement―this revolt of the individual―took a far more powerful character, and became far more sweeping in its criticisms, than anywhere in Western Europe or America, “Nihilism” was the name that Turguéneff gave it in his epoch-making novel, “Fathers and Sons.”  The movement is often misunderstood in western Europe, in the press, for example, Nihilism is confused with terrorism. The revolutionary disturbance which broke out in Russia toward the close of the reign of Alexander II., and ended in the tragical death of the Tsar, is constantly described as Nihilism. This is, however a mistake. To confuse Nihilism with terrorism is as wrong as to confuse a philosophical movement like Stoicism or Positivism with a political movement, such as, for example, republicanism. Terrorism was called into existence by certain special conditions of the political struggle at a given historical moment. It has lived, and has died. It may revive and die out again, But Nihilism has impressed its stamp upon the whole of the life of the educated classes of Russia, and that stamp will be retained for many years to come. It is Nihilism, divested of some of its rougher aspects―which were unavoidable in a young movement of that sort―which gives now to the life of a great portion of the educated classes of Russia a certain peculiar character which we Russians regret not to find in the life of Western Europe. It is Nihilism, again, in its various manifestations which gives to many of our writers that remarkable sincerity, that habit of “thinking aloud”, which astounds western European readers.  First of all, the Nihilist declared war upon what may be described as the “conventional lies of civilized mankind”. Absolute sincerity was his distinctive feature, and in the name of that sincerity he gave up, and asked others to give up, those superstitions, prejudices habits, and customs which their own reason could not justify. He refused to bend before any authority except that of reason, and in the analysis of every social institution or habit he revolted against any sort of more or less masked sophism.  He broke, of course, with the superstitions of his fathers, and in his philosophical conceptions he was a positivist, an agnostic, a Spencerian evolutionist, or a scientific materialist; and while he never attacked the simple, sincere religious belief which is a psychological necessity of feeling, he bitterly fought against the hypocrisy that leads people to assume the outward mask of a religion which they continually throw aside as useless ballast.  The life of civilized people is full of little conventional lies. Persons who dislike each other, meeting in the street, make their faces radiant with a happy smile; the Nihilist remained unmoved, and Smiled only for those whom he was really glad to meet. All those forms of outward politeness which are mere hypocrisy were equally repugnant to him, and he assumed a certain external roughness as a protest against the smooth amiability of his fathers. He saw them wildly talking as idealist sentimentalists, and at the same time acting as real barbarians toward their wives, their children, and their serfs; and he rose in revolt against that sort of sentimentalism, which, after all, so nicely accommodated itself to the anything but ideal conditions of Russian life. Art was involved in the same sweeping negation. Continual talk about beauty, the ideal, art for art's sake, aesthetics, and the life, so willingly indulged in―while every object of art was bought with money exacted from starving peasants or from underpaid workers, and the so-called “worship of the beautiful” was but a mask to cover the most commonplace dissoluteness―inspired him with disgust; and the criticisms of art which one of the greatest artists of the century, Tolstōy, has now so powerfully formulated, the Nihilist expressed in the sweeping assertion, “A pair of boots is more important than all your Madonnas and all your refined talk about Shakespeare”.  Marriage without love and familiarity without friendship were repudiated. The Nihilist girl, compelled by her parents to be a doll in a doll's house, and to marry for property's sake, preferred to abandon her house and her silk dresses; she put on a black woollen dress of the plainest description, cut off her hair, and went to a high school, in order to win there her personal independence. The woman who saw that her marriage was no longer a marriage―that neither love nor friendship connected any more those who were legally considered husband and wife―preferred to break a bond which retained none of its essential features; and she often went with her children to face poverty, preferring loneliness and misery to a life which, under conventional conditions, would have given a perpetual lie to her best self.  The Nihilist carried his love of sincerity even into the minutest details of everyday life. He discarded the conventional forms of society talk, and expressed his opinions in a blunt and terse way, even with a certain affectation of outward roughness.  We used in Irkūtsk to meet once a week in a club, and to have some dancing, I was for a time a regular visitor at these soirées, but gradually, having to work, I abandoned them. One night, as I had not made my appearance for several weeks in succession, a young friend of mine was asked by one of the ladies why I did not come any more to their gatherings. “He takes a ride now when he wants exercise”, was the rather rough reply of my friend, “But he might come to spend a couple of h'ours with us, without dancing”, one of the ladies ventured to say. “What would he do here ?” retorted my Nihilist friend, “talk with you about fashions and furbelow ? He has had enough of that nonsense”. “But he sees occasionally Miss So-and-So”, timidly remarked one of the young ladies present, “Yes, but she is a studious girl”, bluntly replied my friend, “he helps her with her German”. I must add that this undoubtedly rough rebuke had the effect that most of the Irkūtsk girls began next to besiege my brother, my friend, and myself with questions as to what we should advise them to read or to study. With the same frankness the Nihilist spoke to his acquaintances, telling them that all their talk about “this poor people” was sheer hypocrisy so long as they lived upon the underpaid work of these people whom they commiserated at their ease as they chatted together in richly decorated rooms: and with the same frankness a Nihilist would inform a high functionary that he (the said functionary) cared not a straw for the welfare of those whom he ruled, but was simply a thief !  With a certain austerity the Nihilist would rebuke the woman who indulged in small talk, and prided herself on her “womanly” manners and elaborate toilette. He would bluntly say to a pretty young person: “How is it that you are not ashamed to talk this nonsense and to wear that chignon of false hair ?” In a woman he wanted to find a comrade, a human personality―not a doll or “muslin girl”―and he absolutely refused to join those petty tokens of politeness with which men surrounded those whom they like so much to consider as “the weaker sex”. When a lady entered a room a Nihilist did not jump off his seat to offer it to her―unless he saw that she looked tired and there was no other seat in the room. He behaved towards her as he would have behaved towards a comrade of his own sex: but if a lady―who might have been a total stranger to him―manifested to desire to learn something which he knew and she knew not, he would walk every night to the far end of a great city to help her with his lessons. The young man who would not move his hand to serve a lady with a cup of tea, would transfer to the girl who came to study at Moscow or St. Petersburg the only lesson which he had got and which gave him daily bread, simply saying to her: “It is easier for a man to find work than it is for a woman. There is no attempt at knighthood in my offer, it is simply a matter of equality”.  Two great Russian novelists, Turguéneff and Goncharōff, have tried to represent this new type in their novels, Goncharōff, in Precipice, taking a real but unrepresentative individual of this class, made a caricature of Nihilism. Turguéneff was too good an artist, and had himself conceived too much admiration for the new type, to let himself be drawn into caricature painting; but even his Nihilist, Bazāroff, did not satisfy us. We found him too harsh, especially in his relations with his old parents, and, above all, we reproached him with his seeming neglect of his duties as a citizen. Russian youth could not be satisfied with the merely negative attitude of Turguéneff's hero. Nihilism, with its affirmation of the rights of the individual and its negation of all hypocrisy, was but a first step toward a higher type of men and women, who are equally free, but live for a great cause. In the Nihilists of Chernyshévsky, as they are depicted in his far less artistic novel, “What is to be Done ?” they saw better portraits of themselves.  “It is bitter, the bread that has been made by slaves”, our poet Nekràsoff wrote. The young generation actually refused to eat that bread, and to enjoy the riches that had been accumulated in their father's houses by means of servile labour, whether the labourers were actual serfs or slaves of the present industrial system.  All Russia read with astonishment, in the indictment which was produced at the court against Karakōzoff and his friends, that these young men, owners of considerable fortunes, used to live three or four in the same room, never spending more than ten roubles (one pound) apiece a month for all their needs, and giving at the same time their fortunes for co-operative associations co-operative workshops (where they themselves worked), and the like. Five years later, thousands and thousands of the Russian youth―the best part of it―were doing the same. Their watchword was, “V narōd !” (To the people; be the people.) During the years 1860―65 in nearly every wealthy family a bitter struggle was going on between the fathers, who wanted to maintain the old traditions, and the sons and daughters, who defended their right to dispose of their life according to their own ideals. Young men left the military service, the counter, the shop, and flocked to the university towns. Girls, bred in the most aristocratic families, rushed penniless to St. Petersburg, Moscow, and Kieff, eager to learn a profession which would free them from the domestic yoke, and some day, perhaps, also from the possible yoke of a husband. After hard and bitter struggles, many of them won that personal freedom. Now they wanted to utilize it, not for their own personal enjoyment, but for carrying to the people the Knowledge that had emancipated them.  In every town of Russia, in every quarter of St. Petersburg, small groups were formed for self-improvement and self-education; the works of the philosophers, the writings of the economists, the researches of the young Russian historical school, were carefully read in these circles, and the reading was followed by endless discussions. The aim of all that reading and discussion was to solve the great question which rose before them: In what way could they be useful to the masses ? Gradually, they came to the idea that the only way was to settle amongst the people and to live the people's life. Young men went into the villages as doctors, doctors' assistants, teachers, villagescribes, even as agricultural labourers, blacksmiths, woodcutters, and so on, and tried to live there in close contact with the peasants. Girls passed teachers' examinations, learned midwifery or nursing, and went by the hundred into the villages, devoting themselves entirely to the poorest part of the population.  They went without even having any ideals of social reconstruction or any thought of revolution; merely and simply they wanted to teach the mass of the peasants to read, to instruct them, to give them medical help, or in any way to aid to raise them from their darkness and misery, and to learn at the same time from them what were their popular ideals of a better social life.  When I returned from Switzerland I found this movement in full swing. △クロポトキンの瑞西より歸つたのは千八百七十三年か四年であつた。 △文中にあるカラコオゾフといふのは、千八百六十六年四月、亞歴山二世がサムマア・ガアデンから出て來て馬車に乘らうとしてるところを狙撃し、狙ひがはづれたために目的を達せずして捕縛された男。  相互扶助(ソリダリチイ)といふ言葉は殆どクロポトキンの無政府主義の標語になつてゐる。彼はその哲學を説くに當つて常に科學的方法をとつた。彼は先づ動物界に於ける相互扶助の感情を研究し、彼等の間に往々にして無政府的――無權力的――共同生活の極めて具合よく行はれてゐる事實を指摘して、更にそれを人間界に及ぼした。彼の見る處によれば、この尊い感情を多量に有することに於いても他の動物より優れてゐる人類が、却つて今日の如くそれに反する社會生活を營み、さうしてそのために苦しんでゐるのは、全く現在の諸組織、諸制度の惡いために外ならぬのである。權力といふものを是認した結果に外ならぬのである。  この根柢を出發點としたクロポトキン(幸徳等の奉じたる)は、その當然の結果として、今日の諸制度、諸組織を否認すると同時に、また今日の社會主義にも反對せざるを得なかつた。政治的には社會全體の權力といふものを承認し、經濟的には勞働の時間、種類、優劣等によつてその社會的分配に或る差等を承認しようとする集産的社會主義者の思想は、彼の論理から見れば、甲に與へた權力を更に乙に與へんとするもの、今日の經濟的不平等を來した原因を更に名前を變へただけで繼續するものに過ぎなかつた。相互扶助を基礎とする人類生活の理想的境地、即ち彼の所謂無政府共産制の新社會に於いては、一切の事は、何等權力の干渉を蒙らざる完全なる各個人、各團體の自由合意によつて處理されなければならぬ。さうしてその生産及び社會的利便も亦何等の人爲的拘束を受けずに、ただ各個人の必要に應じて分配されなければならぬ。彼はかういふ新組織、新制度の決して突飛なる「新發明」でなく、相互扶助の精神を有する人類の生活の當然到達せねばならぬ結論であること、及びそれが決して「實行し得ざる空想」でないことを證明するために、今日の社會に於いてさへさういふ新社會の萌芽が段々發達しつつあることを擧げてゐる。權力を有する中央機關なくして而もよく統一され、完成されつつある鐵道、郵便、電信、學術的結社等の萬國的聯合は自由合意の例で、墺地利に於ける鐵道賃銀の特異なる制度、道路、橋梁、公園等の自由使用、圖書館などに於ける均一見料制等は必要による公平分配の例である。これらの事に關する彼の著書にして更に數年遲れて出版されたならば、彼はこれらの例の中に、更に萬國平和會議、仲裁裁判、或る都市に實行されて來た電車賃銀の均一等の例を加へ得たに違ひない。『今日中央鐵道政府といふやうなものがなくして、猶且つ誰でも一枚の切符で、安全に、正確に、新橋から倫敦まで旅行し得る事實を見てゐながら、人々は何故何時までもその「政府といふ權力執行機關がなくては社會を統一し、整理することが出來ぬ」といふ偏見を捨てぬのであらうか。又、本の册數や、種類や、それを讀む時間によつてでなく、各人の必要の平等であることを基礎として定められた今日の圖書館の均一見料制を是認し、且つ便利として一言の不平も洩らさぬ人々が、如何してそれとは全く反對な、例へば甲、乙の二人があつて、その胃嚢を充たすに、甲は四箇の麺麭を要し、乙は二箇にて足るといふやうな場合に、その胃を充たさんとする必要に何の差等なきに拘らず、甲は乙の二倍の代償を拂はねばならぬといふ事實を同時に是認するであらうか。更に又同じ理に於いて、電車の均一賃銀制を便利とする人々が、その電車を運轉するに要する人員の勤務の、その生活を維持するの必要のためである點に於いて、相等しきこと、猶彼等が僅か三町の間乘る場合も、終點から終點まで三里の間乘りつづける場合も、その「乘らねばならぬ」といふ必要に差等なきに同じきに拘らず、如何してそれらの勤務者の所得に人為的の差等を附して置くのであらうか。』クロポトキンの論理はかういつた調子である。  編輯者の現在無政府主義に關して有する知識は頗る貧弱である。
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本では副題の「‘V NAROD’ SERIES’」が「‘V NAROD’ SERIFS’」と誤植されています。 ※クロポトキンの‘MEMOIRS OF A REVOLUTIONIST’の後に、底本では、石川啄木の原稿にはない訳文が添えられています。「大杉榮譯『革命家の思出』から抄出」したとあるこの部分は、入力しませんでした。 ※「囘」と回、「贊」と「賛」の混在は底本通りです。 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 2012年8月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048164", "作品名": "A LETTER FROM PRISON", "作品名読み": "ア レター フロム プリズン", "ソート用読み": "あれたあふろむふりすん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 915", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-04-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card48164.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "啄木全集 第十卷", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1961(昭和36)年8月10日", "入力に使用した版1": "1961(昭和36)年8月10日新装第1刷 ", "校正に使用した版1": "1961(昭和36)年8月10日新装第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "蒋龍", "校正者": "阿部哲也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48164_txt_47148.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-08-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48164_47278.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-08-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
一  郁雨君足下。  函館日々新聞及び君が予の一歌集に向つて與へられた深大の厚意は、予の今茲に改めて滿腔の感謝を捧ぐる所である。自分の受けた好意を自分で批評するも妙な譯ではあるが、實際あれ丈の好意を其著述に對して表された者は、誰しも先づ其の眞實の感謝を言ひ現はすに當つて、自己の有する語彙の貧しさを嘆かずにはゐられまい。函館は予の北海放浪の最初の記念の土地であつた。さうしてまた最後の記念の土地であつた。予は函館にゐる間、心ゆくばかり函館を愛しまた愛された。予と函館との關係が予と如何なる土地との關係よりも温かであつた事、今猶ある事は、君も承認してくれるに違ひない。予もまた常に一つの悲しみ……其温かい關係の續いてゐるのは、予が予自分の爲にでなく、火事といふ全く偶然の出來事の爲に去つたからだといふ悲しみを以て、その關係を了解し、追想し感謝してゐる。隨つて、予は予の一歌集を公にするに當つても、心ひそかに或好意をその懷しき土地に期待してゐたことは、此處に白状するを辭せざる所である。しかも其好意の愈々事實として現はるゝに及んで、予は遂に予の有する語彙の如何に感謝の辭に貧しいかを嘆かずにはゐられなかつた。予は彼の君の長い〳〵親切な批評と、それから彼の廣告の載つた新聞を友人に示した時の子供らしい誇りをも、單に子供らしいといふことに依つて思ひ捨てたくはなかつたのである。……然し此事に就いては既に君に、又大硯君にも書き送つた筈である。それに對する君の返事も受取つてゐる。予はもうこれ以上に予に取つて極めて不慣れなる御禮の言葉を繰返すことを止めよう。  さて予は今君に告ぐべき一つの喜びを持つてゐる。それは外ではない。予が現在かういふ長い手紙を君に書き送り得る境遇にゐるといふ事である。予は嘗て病氣……なるべく痛くも苦しくもない病氣をして、半月なり一月なり病院といふものに入つて見たいと眞面目に思つたことがあつた。蓋し病氣にでもなる外には、予は予の忙がしい生活の壓迫から一日の休息をも見出すことが出來なかつたのである。予は予のかういふ弱い心を殊更に人に告げたいとは思はない。  しかし兎も角も予のその悲しい願望が、遂に達せられる時機が來たのである。既に知らした如く、予は今月の四日を以てこの大學病院の客となつた。何年の間殆ど寧日なき戰ひを續けて來て、何時となく痩せ且つ疲れた予の身體と心とは、今安らかに眞白な寢臺の上に載つてゐる。  休息――しかし困つた事には、予の長く忙がしさに慣れて來た心は、何時の間にか心ゆくばかり休息といふことを味ふに適しないものになつてゐた。何かしなくては一日の生命を保ちがたい男の境遇よりもまだみじめである。予は予のみじめなる心を自ら慰める意味を以て……そのみじめなる心には、餘りに長過ぎる予の時間を潰す一つの方法としてこの手紙を書き出して見たのである。 二  郁雨君足下、  予は今病人である。しかしながら何うも病人らしくない病人である。予の現在の状態を仔細に考へて見るに、成程腹は膨れてゐる。膨れてはゐるけれども痛くはない。さうして腹の膨れるといふことは、中學時代に友人と競走で薯汁飯を食つた時にもあつたことである。たゞそれが長く續いてゐるといふに過ぎない。それから日に三度粥を食はされる。かゆを食ふといふと如何にも病人らしく聞えるが、實はその粥も與へられるだけの分量では始終不足を感ずる位の病人だから、自分ながら餘り同情する所がない。晝夜二囘の𢌞診の時は、醫者は定つて「變りはありませんか?」と言ふ。予も亦定つて「ありません」と答へる。 「氣分は?」 「平生の通りです。」  醫者はコツ〳〵と胸を叩き、ボコ〳〵と腹を叩いてみてさうして予の寢臺を見捨てゝ行く。彼は未だかつて予に對して眉毛の一本も動かしたことがない。予も亦彼に對して一度も哀憐を乞ふが如き言葉を出したことがない。予にも他の患者のやうに、色々の精巧な機械で病身の測量をしたり、治療をして貰ひたい好奇心がないではないが、不幸にして予の身體にはまださういふ事を必要とするやうな病状が一つもないのである。入院以來硝子の容器に取ることになつてゐる尿の量も、段々健康な人と相違がなくなつて來た。枕邊に懸けてある温度表を見ても、赤鉛筆や青鉛筆の線と星とが大抵赤線の下に少しづゝの曲折を示してゐるに過ぎない。  郁雨君足下。君も若し萬一不幸にして予と共に病院を休息所とするの、かなしき願望を起さねばならぬことが今後にあるとするならば、その時はよろしく予と共にあまり重くない慢性腹膜炎を病むことにすべしである。これほど暢氣な、さうして比較的長い間休息することの出來る病氣は恐らく外にないだらうと思ふ。  若し強いて予の現在の生活から動かすべからざる病人の證據を擧げるならば、それは予が他の多くの病人と同じやうに病院の寢臺の上にゐるといふことである。さうして一定の時間に藥をのまねばならぬといふことである。それから來る人も〳〵予に對して病人扱ひをするといふことである。日に二人か三人は缺かさずにやつて來る彼等は、決してそのすべてがお互ひに知つた同志ではないのに何れも何れも相談したやうに餘り長居をしない。さうして歸つて行く時は、恰度何かの合言葉ででもあるかのやうに色々の特有の聲を以て「お大事に」と云つて行く。彼等の中には、平生予が朝寢をしてゐる所へズン〳〵押込んで來て「もう起き給へ〳〵。」と言つた手合もある。それが此處へ來ると、寢臺の上に起き上らうとする予を手を以て制しながら、眞面目な顏をして「寢てゐ給へ〳〵。」と言ふ。予はさういふ來訪者に對しては、わざと元氣な聲を出して「病氣の福音」を説いてやることにしてゐる。――かうした一種のシニツクな心持は予自身に於ても決して餘り珍重してゐないに拘らず何時かしら殆ど予の第二の天性の如くなつて來てゐるのである。  などと御託をならべたものの、予は遂に矢つぱり病人に違ひない。これだけ書いてもう額が少し汗ばんで來た。 三  郁雨君足下  人間の悲しい横着……證據により、理窟によつて、その事のあり得るを知り、乃至はあるを認めながら、猶且つそれを苦痛その他の感じとして直接に經驗しないうちは、それを切實に信じ得ない、寧ろ信じようとしない人間の悲しい横着……に就いて、予は入院以來幾囘となく考へを費してみた。さうして自分自身に對して恥ぢた。  例へば、腹の異常に膨れた事、その腹の爲に内臟が晝となく夜となく壓迫を受けて、殆んど毎晩恐ろしい夢を見續けた事、寢汗の出た事、三時間も續けて仕事をするか話をすれば、つひぞ覺えたことの無い深い疲勞に襲はれて、何處か人のゐない處へ行つて横になりたいやうな氣分になつた事などによつて、予はよく自分の健康の著るしく均整を失してゐることを知つてゐたに拘らず、「然し痛くない」といふ極めて無力なる理由によつて、一人の友人が來てこれから大學病院に行かうと居催促するまでは、まだ眞に醫者にかゝらうとする心を起さずに居た。また同じ理由によつて、既に診察を受けた後も自分の病氣の一寸した服藥位では癒らぬ性質のものであるを知りながら、やつぱり自分で自分を病人と呼ぶことが出來なかつた。  かういふ事は、しかしながら、決して予の病氣についてのみではなかつたのである。考へれば考へる程、予の半生は殆んどこの悲しい横着の連續であつたかの如く見えた。予は嘗て誤つた生活をしてゐて、その爲に始終人と自分とを欺かねばならぬ苦しみを味はひながら、猶且つその生活をどん底まで推し詰めて、何うにも斯うにも動きのとれなくなるまでは、その苦しみの根源に向つて赤裸々なる批評を加へることを爲しかねてゐた。それは餘程以前の事であるが、この近い三年許りの間も、常に自分の思想と實生活との間の矛盾撞着に惱まされながら、猶且つその矛盾撞着が稍々大なる一つの悲劇として事實に現はれてくるまでは、その痛ましき二重生活に對する自分の根本意識を定めかねてゐたのである。さうしてその悲しむべき横着によつて知らず識らずの間に予の享けた損失は、殆んど測るべからざるものであつた。  更に最近の一つの例を引けば、予は予の腹に水がたまつたといふ事を、診察を受ける前から多分さうだらうと自分でも想像してゐたに拘らず、入院後第一囘の手術を受けて、トラカルの護謨の管から際限もなく流れ落つる濃黄色の液體を目撃するまでは、確かにさうと信じかねてゐた。 四  それは予が予の身體と重い腹とを青山内科第十八號室の眞白な寢臺の上に持ち運んでから四日目の事であつた。晝飯が濟むと看護婦とその二人の助手とはセツセと色々の器械を予の室に持ち込んだ。さうして看護婦は「今日は貴下のお腹の水を取るのよ。」と言つて、自分の仕事の一つ増えたのを喜ぶやうに悦々として立働いてゐる。檢温器と聽診器との外には、機械といふものを何一つ身體に當てられた事のない予も、それを聞くと何か知ら嬉しいやうな氣になつた。やがて𢌞診の時間になると受持の醫者がいつものやうに一わたり予の病氣の測量をやつた後で「今日は一ツ水を取つて見ませう。」と言出した。予は寢臺の縁に腰掛けさせられた。一人の年若い雜使婦が寢臺の上に上つて、予を後から抱くやうにしてよりかゝらせた。看護婦は鋭き揮發性の透明な液體をガアゼに浸して、頻りに予の膨れた腹の下の方を摩擦した。 「穴をあけるんですか?」と突然予はかういふ問を發した。「えゝ、然し穴といふほどの大きな穴ぢやありません。」と醫者は立ちながら眞面目に答へた。後から予を押へてゐた雜使婦は予の問と共にプツと吹き出してさうしてそれが却々止まなかつた。若い女の健康な腹に波打つ笑ひの波は、その儘予の身體にまで傳はつて來て、予も亦遂に笑つた。看護婦も笑ひ、醫者も笑つた。そのうちに醫者は、注射器のやうな物を持つて來て、予のずつと下腹の少し左に寄つた處へチクリと尖を刺した。さうして拔いて窓の光に翳した時は二寸ばかりの硝子の管が黄色になつてゐた。すると看護婦は滿々と水のやうなものを充たした中に、黒い護謨の管を幾重にも輪を卷いて浸してある容器を持つて來た。 「今度は見てゐちや駄目、」と後の女はさう言つて予の兩眼に手を以て蓋をした。「大丈夫、そんな事をしなくても……」さう云ひながら、予は思はず息を引いた。さうして「痛い。」と言つた。注射器のやうな物が刺されたと恰度同じ處に、下腹の軟かい肉をえぐるやうな、鈍くさうして力強い痛みをズブリと感じた。 五  予は首を振つて兩眼の手を拂ひのけた。醫者は予の腹に突き込んだトラカルに手を添へて推しつけてゐた。穴はその手に隱されて見えなかつたけれども、手の外によつて察する穴は直徑一分か一分五厘位のものに過ぎないらしかつた。予は其時思つた。 「これつぱかりの穴を明けてさへ今のやうに痛いのだから、兎ても俺には切腹なんぞ出來やしない。」  見ると看護婦は、トラカルの護謨の管を持つてその先を目を盛つた硝子の容器の中に垂らしてゐた。さうして其の眞黒な管からはウヰスキイのもつと濃い色の液體が音もなく靜かに流れ出てゐた。予はその時初めて予の腹に水がたまつてゐたといふ事を信じた。さうして成程腹にたまる水はかういふ色をしてゐねばならぬ筈だと思つた。  予は長い間ぢつとして、管の先から流れ落つる濃黄色の液體を見てゐた。予にはそれが、殆んど際限なく流れ落つるのかと思はれた。やがて容器に一杯になつた時、「これでいくらです。」と聞いた。「恰度一升です。」と醫師は靜かに答へた。  一人の雜使婦は手早くそれを別の容器に移した。濃黄色の液體はそれでもまだ流れ落ちた。さうして殆んどまた容器の半分位にまで達した時、予は予の腹がひとり手に極めて緩漫な運動をして縮んでゆくのを見た。同時に予の頭の中にある温度が大急ぎで下に下りて來るやうに感じた。何かかう非常に遠い處から旅をして來たやうな氣分であつた。頭の中には次第に寒い風が吹き出した。「どうも餘り急に腹が減つたんで、少しやりきれなくなりました。」と予は言つた。言つてさうして自分の聲のいかにも力ない、情ない聲であつたことに氣がついた。そこで直ぐまた成るたけ太い聲を出して、「何か食ひたいやうだなあ。」と言つた。しかしその聲は先の聲よりも更に情ない聲であつた。四邊は俄かに暗く淋しくなつて行つた。目の前にゐる看護婦の白服が三十間も遠くにあるものゝやうに思はれた。「目まひがしますか?」といふ醫者の聲が遠くから聞えた。  後で聞けばその時の予の顏は死人のそれの如く蒼かつたそうである。しかし予は遂に全く知覺を失ふことが出來なかつた。トラカルを拔かれたことも知つてゐるし、頭と足を二人の女に持たれて、寢臺の上に眞直に寢かされたことも知つてゐる。赤酒を入れた飮乳器の細い口が仰向いた予の口に近づいた時、「そんな物はいりません。」と自分で拒んだことも知つてゐる。  この手術の疲勞は、予が生れてから經驗した疲勞のうちで最も深く且つ長い疲勞であつた。予は二時間か二時間半の間、自分の腹そのものが全く快くなつたかの如く安樂を感じて、ぢつと仰向に寢てゐた。さうして靜かに世間の悲しむべき横着といふ事を考へてゐた。  さうしてそれは、遂に予一人のみの事ではなかつたのである。 六  郁雨君足下 神樣と議論して泣きし 夢を見ぬ…… 四日ばかりも前の朝なりし。  この歌は予がまだ入院しない前に作つた歌の一つであつた。さうしてその夢は、予の腹の漸く膨れ出して以來、その壓迫を蒙る内臟の不平が夜毎々々に釀した無數の不思議な夢の一つであつた。――何でも、大勢の巡査が突然予の家を取圍んだ。さうして予を引き立てゝ神樣の前へ伴れて行つた。神樣は年をとつたアイヌの樣な顏をして、眞白な髯を膝のあたりまで垂れ、一段高い處に立つて、ピカ〳〵光る杖を揮りながら何事か予に命じた。何事を命ぜられたのかは解らない。その時誰だか側らにゐて「もう斯うなつたからには仕方がない。おとなしくお受けしたら可いだらう。」と言つた。それは何でも予の平生親しくしてゐる友人の一人だつたやうだが、誰であつたかは解らない。予はそれに答へなかつた。さうして熱い〳〵涙を流しながら、神樣と議論した。長い間議論した。その時神樣は、ぢつと腕組みをして予の言葉を聞いてゐたが、しまひには立つて來て、恰度小學校の時の先生のやうに、しやくり上げて理窟を捏ねる予の頭を撫でながら、「もうよし〳〵。」と言つてくれた。目のさめた時はグツシヨリと汗が出てゐた。さうして予が神樣に向つて何度も何度も繰返して言つた、「私の求むるものは合理的生活であります。たゞ理性のみひとり命令權を有する所の生活であります。」といふ言葉だけがハツキリと心に殘つてゐた。予は不思議な夢を見たものだと思ひながら、その言葉を胸の中で復習してみて、可笑しくもあり、悲しくもあつた。  入院以來、殊に下腹に穴をあけて水をとつた以來、夢を見ることがさう多くはなくなつた。手術を受けた日の晩とその翌晩とは確かに一つも見なかつたやうだ。長い間無理矢理に片隅に推しつけられて苦しがつてゐた内臟も、その二晩だけは多少以前の領分を囘復して、手足を投げ出してグツスリと寢込んだものと見える。その後はまたチヨイ〳〵見るやうになつた。とある木深い山の上の寺で、背が三丈もあらうといふ灰色の大男共が、何人も〳〵代る〴〵出て來て鐘を撞いた夢も見た。去年の秋に生れて間もなく死んだ子供の死骸を、郷里の寺の傍の凹地で見付けた夢も見た。見付けてさうして抱いて見ると、パツチリ目をあけて笑ひ出した。不思議な事には、男であつた筈の子供がその時女になつてゐた。「區役所には男と屆けた筈だし、何うしたら可いだらうか。」「さうですね。屆け直したら屹度罰金をとられるでせうね。」「仕方がないから今度また別に女が生れた事にして屆けようか。」予と妻とは凹地の底でかういふ相談をしてゐた。 七  つい二三日前の明方に見た夢こそ振つたものであつた。予はナポレオンであつた。繪や寫眞版でよく見るナポレオンの通りの服裝をして、白い馬に跨つた儘、この青山内科の受付の前へ引かれて來た。戰に敗けて捕虜になつた所らしかつた。「此處で馬を下りて下さい。」と馬の口を取つて來た男が言つた。「いやだ。」と予は答へた。「下りないとお爲になりませんよ。」と男がまた言つた。予はその時、この板敷の廊下に拍車の音を立てゝ歩いたら氣持が可からうと思つた。さうして馬から飛び下りた。それから後のところは一寸不明である。やがて予はこの第五號室、(予は數日前に十八號室から移つたのだ。)の前の廊下に連れて來られた。と、扉を明けて朝日新聞の肥つた會計が出て來て、「今すぐ死刑をやりますから少し待つてゐて下さい。」と言ふ。「何處でやるんです。」と聞くと、「この突當りの室です。」と答へて扉を閉めた。突當りの室では予即ちナポレオンの死刑の準備をしてゐると見えて、五六人の看護婦が忙がしく出つ入りつしてゐた。(それが皆名も顏も知つた看護婦だから面白い。)そのうちに看護婦が二人がゝりで一つの大きい金盥を持ち込むのが見えた。「あゝ、あれで俺の首を洗ふのだ。」と思ふと予は急に死ぬのがいやになつた。せめて五時間(何から割出したか解らない。)でも生き延びたいと思つた。で、傍らに立つてゐる男に、可成ナポレオンらしく聞えるやうな威嚴を以て、「俺は俺の死ぬ前に、俺の一生の意義を考へてみなければならん、何處か人のゐない室で考へたいから、お前これから受持の醫者へ行つて都合をきいて來てくれ。」と言つた。男は、「ハイ直ぐ歸つて來ますからお逃げになつてはいけませんよ。」と言つて、後を見い〳〵廊下を曲つて行つた。逃げるなら今だと思つて後先を見𢌞してゐると、運惡く朝日新聞の會計がまた扉を開けた。そこで予はテレ隱しに煙草をのまうと思つて袂を探したが、無い。無い道理、予は入院以來着てゐる袖の開いた寢卷を着てゐたのである。それから後は何うなつたか解らない。  君、ナポレオンが死ぬのをいやがつたり、逃げ出さうと思つた所が、いかにも人間らしくて面白いではないか。 終  郁雨君足下。  俄に來た熱が予の體内の元氣を燃した。醫者は予の一切の自由を取りあげた。「寢て居て動くな」「新聞を讀んぢやあいけない」と云ふ。もう彼是一週間になるが、まだ熱が下らない。かくて予のこの手紙は不意にしまひにならねばならなかつた。  彼は馬鹿である。彼は平生多くの人と多くの事物とを輕蔑して居た。同時に自分自身をも少しも尊重しなかつた。隨つてその病氣をもあまり大事にしなかつた。さうして俄かに熱が出たあとで、彼は初めて病氣を尊重する心を起した馬鹿ではないか。  丸谷君が來てくれて筆をとつてやるから言へ、と言ふのでちよつとこれ丈け熱臭い口からしやべつた。(三月二日朝)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:小林繁雄 2009年9月10日作成 2012年8月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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函館なる郁雨宮崎大四郎君 同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。 著者 明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。 我を愛する歌 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず 大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに ひと夜さに嵐来りて築きたる この砂山は 何の墓ぞも 砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日 砂山の裾によこたはる流木に あたり見まはし 物言ひてみる いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ しっとりと なみだを吸へる砂の玉 なみだは重きものにしあるかな 大という字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり 目さまして猶起き出でぬ児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな ひと塊の土に涎し 泣く母の肖顔つくりぬ かなしくもあるか 燈影なき室に我あり 父と母 壁のなかより杖つきて出づ たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず 飄然と家を出でては 飄然と帰りし癖よ 友はわらへど ふるさとの父の咳する度に斯く 咳の出づるや 病めばはかなし わが泣くを少女等きかば 病犬の 月に吠ゆるに似たりといふらむ 何処やらむかすかに虫のなくごとき こころ細さを 今日もおぼゆる いと暗き 穴に心を吸はれゆくごとく思ひて つかれて眠る こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ こみ合へる電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ 浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心 愛犬の耳斬りてみぬ あはれこれも 物に倦みたる心にかあらむ 鏡とり 能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ 泣き飽きし時 なみだなみだ 不思議なるかな それをもて洗へば心戯けたくなれり 呆れたる母の言葉に 気がつけば 茶碗を箸もて敲きてありき 草に臥て おもふことなし わが額に糞して鳥は空に遊べり わが髭の 下向く癖がいきどほろし このごろ憎き男に似たれば 森の奥より銃声聞ゆ あはれあはれ 自ら死ぬる音のよろしさ 大木の幹に耳あて 小半日 堅き皮をばむしりてありき 「さばかりの事に死ぬるや」 「さばかりの事に生くるや」 止せ止せ問答 まれにある この平なる心には 時計の鳴るもおもしろく聴く ふと深き怖れを覚え ぢっとして やがて静かに臍をまさぐる 高山のいただきに登り なにがなしに帽子をふりて 下り来しかな 何処やらに沢山の人があらそひて 鬮引くごとし われも引きたし 怒る時 かならずひとつ鉢を割り 九百九十九割りて死なまし いつも逢ふ電車の中の小男の 稜ある眼 このごろ気になる 鏡屋の前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに歩むものかも 何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし 空家に入り 煙草のみたることありき あはれただ一人居たきばかりに 何がなしに さびしくなれば出てあるく男となりて 三月にもなれり やはらかに積れる雪に 熱てる頬を埋むるごとき 恋してみたし かなしきは 飽くなき利己の一念を 持てあましたる男にありけり 手も足も 室いっぱいに投げ出して やがて静かに起きかへるかな 百年の長き眠りの覚めしごと 呿呻してまし 思ふことなしに 腕拱みて このごろ思ふ 大いなる敵目の前に躍り出でよと 手が白く 且つ大なりき 非凡なる人といはるる男に会ひしに こころよく 人を讃めてみたくなりにけり 利己の心に倦めるさびしさ 雨降れば わが家の人誰も誰も沈める顔す 雨霽れよかし 高きより飛びおりるごとき心もて この一生を 終るすべなきか この日頃 ひそかに胸にやどりたる悔あり われを笑はしめざり へつらひを聞けば 腹立つわがこころ あまりに我を知るがかなしき 知らぬ家たたき起して 遁げ来るがおもしろかりし 昔の恋しさ 非凡なる人のごとくにふるまへる 後のさびしさは 何にかたぐへむ 大いなる彼の身体が 憎かりき その前にゆきて物を言ふ時 実務には役に立たざるうた人と 我を見る人に 金借りにけり 遠くより笛の音きこゆ うなだれてある故やらむ なみだ流るる それもよしこれもよしとてある人の その気がるさを 欲しくなりたり 死ぬことを 持薬をのむがごとくにも我はおもへり 心いためば 路傍に犬ながながと呿呻しぬ われも真似しぬ うらやましさに 真剣になりて竹もて犬を撃つ 小児の顔を よしと思へり ダイナモの 重き唸りのここちよさよ あはれこのごとく物を言はまし 剽軽の性なりし友の死顔の 青き疲れが いまも目にあり 気の変る人に仕へて つくづくと わが世がいやになりにけるかな 龍のごとくむなしき空に躍り出でて 消えゆく煙 見れば飽かなく こころよき疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる後のこの疲れ 空寝入生呿呻など なぜするや 思ふこと人にさとらせぬため 箸止めてふっと思ひぬ やうやくに 世のならはしに慣れにけるかな 朝はやく 婚期を過ぎし妹の 恋文めける文を読めりけり しっとりと 水を吸ひたる海綿の 重さに似たる心地おぼゆる 死ね死ねと己を怒り もだしたる 心の底の暗きむなしさ けものめく顔あり口をあけたてす とのみ見てゐぬ 人の語るを 親と子と はなればなれの心もて静かに対ふ 気まづきや何ぞ かの船の かの航海の船客の一人にてありき 死にかねたるは 目の前の菓子皿などを かりかりと噛みてみたくなりぬ もどかしきかな よく笑ふ若き男の 死にたらば すこしはこの世さびしくもなれ 何がなしに 息きれるまで駆け出してみたくなりたり 草原などを あたらしき背広など着て 旅をせむ しかく今年も思ひ過ぎたる ことさらに燈火を消して まぢまぢと思ひてゐしは わけもなきこと 浅草の凌雲閣のいただきに 腕組みし日の 長き日記かな 尋常のおどけならむや ナイフ持ち死ぬまねをする その顔その顔 こそこその話がやがて高くなり ピストル鳴りて 人生終る 時ありて 子供のやうにたはむれす 恋ある人のなさぬ業かな とかくして家を出づれば 日光のあたたかさあり 息ふかく吸ふ つかれたる牛のよだれは たらたらと 千万年も尽きざるごとし 路傍の切石の上に 腕拱みて 空を見上ぐる男ありたり 何やらむ 穏かならぬ目付して 鶴嘴を打つ群を見てゐる 心より今日は逃げ去れり 病ある獣のごとき 不平逃げ去れり おほどかの心来れり あるくにも 腹に力のたまるがごとし ただひとり泣かまほしさに 来て寝たる 宿屋の夜具のこころよさかな 友よさは 乞食の卑しさ厭ふなかれ 餓ゑたる時は我も爾りき 新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓ゑたる腹に沁むがかなしも かなしきは 喉のかわきをこらへつつ 夜寒の夜具にちぢこまる時 一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと 我に似し友の二人よ 一人は死に 一人は牢を出でて今病む あまりある才を抱きて 妻のため おもひわづらふ友をかなしむ 打明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな 人並の才に過ぎざる わが友の 深き不平もあはれなるかな 誰が見てもとりどころなき男来て 威張りて帰りぬ かなしくもあるか はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る 何もかも行末の事みゆるごとき このかなしみは 拭ひあへずも とある日に 酒をのみたくてならぬごとく 今日われ切に金を欲りせり 水晶の玉をよろこびもてあそぶ わがこの心 何の心ぞ 事もなく 且つこころよく肥えてゆく わがこのごろの物足らぬかな 大いなる水晶の玉を ひとつ欲し それにむかひて物を思はむ うぬ惚るる友に 合槌うちてゐぬ 施与をするごとき心に ある朝のかなしき夢のさめぎはに 鼻に入り来し 味噌を煮る香よ こつこつと空地に石をきざむ音 耳につき来ぬ 家に入るまで 何がなしに 頭のなかに崖ありて 日毎に土のくづるるごとし 遠方に電話の鈴の鳴るごとく 今日も耳鳴る かなしき日かな 垢じみし袷の襟よ かなしくも ふるさとの胡桃焼くるにほひす 死にたくてならぬ時あり はばかりに人目を避けて 怖き顔する 一隊の兵を見送りて かなしかり 何ぞ彼等のうれひ無げなる 邦人の顔たへがたく卑しげに 目にうつる日なり 家にこもらむ この次の休日に一日寝てみむと 思ひすごしぬ 三年このかた 或る時のわれのこころを 焼きたての 麺麭に似たりと思ひけるかな たんたらたらたんたらたらと 雨滴が 痛むあたまにひびくかなしさ ある日のこと 室の障子をはりかへぬ その日はそれにて心なごみき かうしては居られずと思ひ 立ちにしが 戸外に馬の嘶きしまで 気ぬけして廊下に立ちぬ あららかに扉を推せしに すぐ開きしかば ぢっとして 黒はた赤のインク吸ひ 堅くかわける海綿を見る 誰が見ても われをなつかしくなるごとき 長き手紙を書きたき夕 うすみどり 飲めば身体が水のごと透きとほるてふ 薬はなきか いつも睨むラムプに飽きて 三日ばかり 蝋燭の火にしたしめるかな 人間のつかはぬ言葉 ひょっとして われのみ知れるごとく思ふ日 あたらしき心もとめて 名も知らぬ 街など今日もさまよひて来ぬ 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ 何すれば 此処に我ありや 時にかく打驚きて室を眺むる 人ありて電車のなかに唾を吐く それにも 心いたまむとしき 夜明けまであそびてくらす場所が欲し 家をおもへば こころ冷たし 人みなが家を持つてふかなしみよ 墓に入るごとく かへりて眠る 何かひとつ不思議を示し 人みなのおどろくひまに 消えむと思ふ 人といふ人のこころに 一人づつ囚人がゐて うめくかなしさ 叱られて わっと泣き出す子供心 その心にもなりてみたきかな 盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ 心はかなし かくれ家もなし 放たれし女のごときかなしみを よわき男の 感ずる日なり 庭石に はたと時計をなげうてる 昔のわれの怒りいとしも 顔あかめ怒りしことが あくる日は さほどにもなきをさびしがるかな いらだてる心よ汝はかなしかり いざいざ すこし呿呻などせむ 女あり わがいひつけに背かじと心を砕く 見ればかなしも ふがひなき わが日の本の女等を 秋雨の夜にののしりしかな 男とうまれ男と交り 負けてをり かるがゆゑにや秋が身に沁む わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く くだらない小説を書きてよろこべる 男憐れなり 初秋の風 秋の風 今日よりは彼のふやけたる男に 口を利かじと思ふ はても見えぬ 真直の街をあゆむごとき こころを今日は持ちえたるかな 何事も思ふことなく いそがしく 暮らせし一日を忘れじと思ふ 何事も金金とわらひ すこし経て またも俄かに不平つのり来 誰そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ やとばかり 桂首相に手とられし夢みて覚めぬ 秋の夜の二時 煙 一 病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも 己が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし 青空に消えゆく煙 さびしくも消えゆく煙 われにし似るか かの旅の汽車の車掌が ゆくりなくも 我が中学の友なりしかな ほとばしる喞筒の水の 心地よさよ しばしは若きこころもて見る 師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因 教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな 不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 かなしみといはばいふべき 物の味 我の嘗めしはあまりに早かり 晴れし空仰げばいつも 口笛を吹きたくなりて 吹きてあそびき 夜寝ても口笛吹きぬ 口笛は 十五の我の歌にしありけり よく叱る師ありき 髯の似たるより山羊と名づけて 口真似もしき われと共に 小鳥に石を投げて遊ぶ 後備大尉の子もありしかな 城址の 石に腰掛け 禁制の木の実をひとり味ひしこと その後に我を捨てし友も あの頃は共に書読み ともに遊びき 学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず 花散れば 先づ人さきに白の服着て家出づる 我にてありしか 今は亡き姉の恋人のおとうとと なかよくせしを かなしと思ふ 夏休み果ててそのまま かへり来ぬ 若き英語の教師もありき ストライキ思ひ出でても 今は早や吾が血躍らず ひそかに淋し 盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我を倚らしめ 神有りと言ひ張る友を 説きふせし かの路傍の栗の樹の下 西風に 内丸大路の桜の葉 かさこそ散るを踏みてあそびき そのかみの愛読の書よ 大方は 今は流行らずなりにけるかな 石ひとつ 坂をくだるがごとくにも 我けふの日に到り着きたる 愁ひある少年の眼に羨みき 小鳥の飛ぶを 飛びてうたふを 解剖せし 蚯蚓のいのちもかなしかり かの校庭の木柵の下 かぎりなき知識の慾に燃ゆる眼を 姉は傷みき 人恋ふるかと 蘇峯の書を我に薦めし友早く 校を退きぬ まづしさのため おどけたる手つきをかしと 我のみはいつも笑ひき 博学の師を 自が才に身をあやまちし人のこと かたりきかせし 師もありしかな そのかみの学校一のなまけ者 今は真面目に はたらきて居り 田舎めく旅の姿を 三日ばかり都に曝し かへる友かな 茨島の松の並木の街道を われと行きし少女 才をたのみき 眼を病みて黒き眼鏡をかけし頃 その頃よ 一人泣くをおぼえし わがこころ けふもひそかに泣かむとす 友みな己が道をあゆめり 先んじて恋のあまさと かなしさを知りし我なり 先んじて老ゆ 興来れば 友なみだ垂れ手を揮りて 酔漢のごとくなりて語りき 人ごみの中をわけ来る わが友の むかしながらの太き杖かな 見よげなる年賀の文を書く人と おもひ過ぎにき 三年ばかりは 夢さめてふっと悲しむ わが眠り 昔のごとく安からぬかな そのむかし秀才の名の高かりし 友牢にあり 秋のかぜ吹く 近眼にて おどけし歌をよみ出でし 茂雄の恋もかなしかりしか わが妻のむかしの願ひ 音楽のことにかかりき 今はうたはず 友はみな或日四方に散り行きぬ その後八年 名挙げしもなし わが恋を はじめて友にうち明けし夜のことなど 思ひ出づる日 糸切れし紙鳶のごとくに 若き日の心かろくも とびさりしかな 二 ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく やまひある獣のごとき わがこころ ふるさとのこと聞けばおとなし ふと思ふ ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを 三年聴かざり 亡くなれる師がその昔 たまひたる 地理の本など取りいでて見る その昔 小学校の柾屋根に我が投げし鞠 いかにかなりけむ ふるさとの かの路傍のすて石よ 今年も草に埋もれしらむ わかれをれば妹いとしも 赤き緒の 下駄など欲しとわめく子なりし 二日前に山の絵見しが 今朝になりて にはかに恋しふるさとの山 飴売のチャルメラ聴けば うしなひし をさなき心ひろへるごとし このごろは 母も時時ふるさとのことを言ひ出づ 秋に入れるなり それとなく 郷里のことなど語り出でて 秋の夜に焼く餅のにほひかな かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川 田も畑も売りて酒のみ ほろびゆくふるさと人に 心寄する日 あはれかの我の教へし 子等もまた やがてふるさとを棄てて出づるらむ ふるさとを出で来し子等の 相会ひて よろこぶにまさるかなしみはなし 石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに ふるさとの 村医の妻のつつましき櫛巻なども なつかしきかな かの村の登記所に来て 肺病みて 間もなく死にし男もありき 小学の首席を我と争ひし 友のいとなむ 木賃宿かな 千代治等も長じて恋し 子を挙げぬ わが旅にしてなせしごとくに ある年の盆の祭に 衣貸さむ踊れと言ひし 女を思ふ うすのろの兄と 不具の父もてる三太はかなし 夜も書読む 我と共に 栗毛の仔馬走らせし 母の無き子の盗癖かな 大形の被布の模様の赤き花 今も目に見ゆ 六歳の日の恋 その名さへ忘られし頃 飄然とふるさとに来て 咳せし男 意地悪の大工の子などもかなしかり 戦に出でしが 生きてかへらず 肺を病む 極道地主の総領の よめとりの日の春の雷かな 宗次郎に おかねが泣きて口説き居り 大根の花白きゆふぐれ 小心の役場の書記の 気の狂れし噂に立てる ふるさとの秋 わが従兄 野山の猟に飽きし後 酒のみ家売り病みて死にしかな 我ゆきて手をとれば 泣きてしづまりき 酔ひて荒れしそのかみの友 酒のめば 刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき 村を遂はれき 年ごとに肺病やみの殖えてゆく 村に迎へし 若き医者かな ほたる狩 川にゆかむといふ我を 山路にさそふ人にてありき 馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨を思へり 都の雨に あはれ我がノスタルジヤは 金のごと 心に照れり清くしみらに 友として遊ぶものなき 性悪の巡査の子等も あはれなりけり 閑古鳥 鳴く日となれば起るてふ 友のやまひのいかになりけむ わが思ふこと おほかたは正しかり ふるさとのたより着ける朝は 今日聞けば かの幸うすきやもめ人 きたなき恋に身を入るるてふ わがために なやめる魂をしづめよと 讃美歌うたふ人ありしかな あはれかの男のごときたましひよ 今は何処に 何を思ふや わが庭の白き躑躅を 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ わが村に 初めてイエス・クリストの道を説きたる 若き女かな 霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ 汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも ふるさとの土をわが踏めば 何がなしに足軽くなり 心重れり ふるさとに入りて先づ心傷むかな 道広くなり 橋もあたらし 見もしらぬ女教師が そのかみの わが学舎の窓に立てるかな かの家のかの窓にこそ 春の夜を 秀子とともに蛙聴きけれ そのかみの神童の名の かなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと ふるさとの停車場路の 川ばたの 胡桃の下に小石拾へり ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな 秋風のこころよさに ふるさとの空遠みかも 高き屋にひとりのぼりて 愁ひて下る 皎として玉をあざむく小人も 秋来といふに 物を思へり かなしきは 秋風ぞかし 稀にのみ湧きし涙の繁に流るる 青に透く かなしみの玉に枕して 松のひびきを夜もすがら聴く 神寂びし七山の杉 火のごとく染めて日入りぬ 静かなるかな そを読めば 愁ひ知るといふ書焚ける いにしへ人の心よろしも ものなべてうらはかなげに 暮れゆきぬ とりあつめたる悲しみの日は 水潦 暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ 秋雨の後 秋立つは水にかも似る 洗はれて 思ひことごと新しくなる 愁ひ来て 丘にのぼれば 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実 秋の辻 四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の あと見えずかも 秋の声まづいち早く耳に入る かかる性持つ かなしむべかり 目になれし山にはあれど 秋来れば 神や住まむとかしこみて見る わが為さむこと世に尽きて 長き日を かくしもあはれ物を思ふか さらさらと雨落ち来り 庭の面の濡れゆくを見て 涙わすれぬ ふるさとの寺の御廊に 踏みにける 小櫛の蝶を夢にみしかな こころみに いとけなき日の我となり 物言ひてみむ人あれと思ふ はたはたと黍の葉鳴れる ふるさとの軒端なつかし 秋風吹けば 摩れあへる肩のひまより はつかにも見きといふさへ 日記に残れり 風流男は今も昔も 泡雪の 玉手さし捲く夜にし老ゆらし かりそめに忘れても見まし 石だたみ 春生ふる草に埋るるがごと その昔揺籃に寝て あまたたび夢にみし人か 切になつかし 神無月 岩手の山の 初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ ひでり雨さらさら落ちて 前栽の 萩のすこしく乱れたるかな 秋の空廓寥として影もなし あまりにさびし 烏など飛べ 雨後の月 ほどよく濡れし屋根瓦の そのところどころ光るかなしさ われ饑ゑてある日に 細き尾を掉りて 饑ゑて我を見る犬の面よし いつしかに 泣くといふこと忘れたる 我泣かしむる人のあらじか 汪然として ああ酒のかなしみぞ我に来れる 立ちて舞ひなむ 蛼鳴く そのかたはらの石に踞し 泣き笑ひしてひとり物言ふ 力なく病みし頃より 口すこし開きて眠るが 癖となりにき 人ひとり得るに過ぎざる事をもて 大願とせし 若きあやまち 物怨ずる そのやはらかき上目をば 愛づとことさらつれなくせむや かくばかり熱き涙は 初恋の日にもありきと 泣く日またなし 長く長く忘れし友に 会ふごとき よろこびをもて水の音聴く 秋の夜の 鋼鉄の色の大空に 火を噴く山もあれなど思ふ 岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる虫を何と聴くらむ 父のごと秋はいかめし 母のごと秋はなつかし 家持たぬ児に 秋来れば 恋ふる心のいとまなさよ 夜もい寝がてに雁多く聴く 長月も半ばになりぬ いつまでか かくも幼く打出でずあらむ 思ふてふこと言はぬ人の おくり来し 忘れな草もいちじろかりし 秋の雨に逆反りやすき弓のごと このごろ 君のしたしまぬかな 松の風夜昼ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に ほのかなる朽木の香り そがなかの蕈の香りに 秋やや深し 時雨降るごとき音して 木伝ひぬ 人によく似し森の猿ども 森の奥 遠きひびきす 木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来し 世のはじめ まづ森ありて 半神の人そが中に火や守りけむ はてもなく砂うちつづく 戈壁の野に住みたまふ神は 秋の神かも あめつちに わが悲しみと月光と あまねき秋の夜となれりけり うらがなしき 夜の物の音洩れ来るを 拾ふがごとくさまよひ行きぬ 旅の子の ふるさとに来て眠るがに げに静かにも冬の来しかな 忘れがたき人人 一 潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや たのみつる年の若さを数へみて 指を見つめて 旅がいやになりき 三度ほど 汽車の窓よりながめたる町の名なども したしかりけり 函館の床屋の弟子を おもひ出でぬ 耳剃らせるがこころよかりし わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな 船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば 目を閉ぢて 傷心の句を誦してゐし 友の手紙のおどけ悲しも をさなき時 橋の欄干に糞塗りし 話も友はかなしみてしき おそらくは生涯妻をむかへじと わらひし友よ 今もめとらず あはれかの 眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし 女教師よ 友われに飯を与へき その友に背きし我の 性のかなしさ 函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花 ふるさとの 麦のかをりを懐かしむ 女の眉にこころひかれき あたらしき洋書の紙の 香をかぎて 一途に金を欲しと思ひしが しらなみの寄せて騒げる 函館の大森浜に 思ひしことども 朝な朝な 支那の俗歌をうたひ出づる まくら時計を愛でしかなしみ 漂泊の愁ひを叙して成らざりし 草稿の字の 読みがたさかな いくたびか死なむとしては 死なざりし わが来しかたのをかしく悲し 函館の臥牛の山の半腹の 碑の漢詩も なかば忘れぬ むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき とるに足らぬ男と思へと言ふごとく 山に入りにき 神のごとき友 巻煙草口にくはへて 浪あらき 磯の夜霧に立ちし女よ 演習のひまにわざわざ 汽車に乗りて 訪ひ来し友とのめる酒かな 大川の水の面を見るごとに 郁雨よ 君のなやみを思ふ 智慧とその深き慈悲とを もちあぐみ 為すこともなく友は遊べり こころざし得ぬ人人の あつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかな かなしめば高く笑ひき 酒をもて 悶を解すといふ年上の友 若くして 数人の父となりし友 子なきがごとく酔へばうたひき さりげなき高き笑ひが 酒とともに 我が腸に沁みにけらしな 呿呻噛み 夜汽車の窓に別れたる 別れが今は物足らぬかな 雨に濡れし夜汽車の窓に 映りたる 山間の町のともしびの色 雨つよく降る夜の汽車の たえまなく雫流るる 窓硝子かな 真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢の古き痍あと 札幌に かの秋われの持てゆきし しかして今も持てるかなしみ アカシヤの街樾にポプラに 秋の風 吹くがかなしと日記に残れり しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ わが宿の姉と妹のいさかひに 初夜過ぎゆきし 札幌の雨 石狩の美国といへる停車場の 柵に乾してありし 赤き布片かな かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ 泣くがごと首ふるはせて 手の相を見せよといひし 易者もありき いささかの銭借りてゆきし わが友の 後姿の肩の雪かな 世わたりの拙きことを ひそかにも 誇りとしたる我にやはあらぬ 汝が痩せしからだはすべて 謀叛気のかたまりなりと いはれてしこと かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな 椅子をもて我を撃たむと身構へし かの友の酔ひも 今は醒めつらむ 負けたるも我にてありき あらそひの因も我なりしと 今は思へり 殴らむといふに 殴れとつめよせし 昔の我のいとほしきかな 汝三度 この咽喉に剣を擬したりと 彼告別の辞に言へりけり あらそひて いたく憎みて別れたる 友をなつかしく思ふ日も来ぬ あはれかの眉の秀でし少年よ 弟と呼べば はつかに笑みしが わが妻に着物縫はせし友ありし 冬早く来る 植民地かな 平手もて 吹雪にぬれし顔を拭く 友共産を主義とせりけり 酒のめば鬼のごとくに青かりし 大いなる顔よ かなしき顔よ 樺太に入りて 新しき宗教を創めむといふ 友なりしかな 治まれる世の事無さに 飽きたりといひし頃こそ かなしかりけれ 共同の薬屋開き 儲けむといふ友なりき 詐欺せしといふ あをじろき頬に涙を光らせて 死をば語りき 若き商人 子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな 敵として憎みし友と やや長く手をば握りき わかれといふに ゆるぎ出づる汽車の窓より 人先に顔を引きしも 負けざらむため みぞれ降る 石狩の野の汽車に読みし ツルゲエネフの物語かな わが去れる後の噂を おもひやる旅出はかなし 死ににゆくごと わかれ来てふと瞬けば ゆくりなく つめたきものの頬をつたへり 忘れ来し煙草を思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き雪の野の汽車 うす紅く雪に流れて 入日影 曠野の汽車の窓を照せり 腹すこし痛み出でしを しのびつつ 長路の汽車にのむ煙草かな 乗合の砲兵士官の 剣の鞘 がちゃりと鳴るに思ひやぶれき 名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の 宿屋安けし 我が家のごと 伴なりしかの代議士の 口あける青き寐顔を かなしと思ひき 今夜こそ思ふ存分泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな 水蒸気 列車の窓に花のごと凍てしを染むる あかつきの色 ごおと鳴る凩のあと 乾きたる雪舞ひ立ちて 林を包めり 空知川雪に埋れて 鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりゐき 寂莫を敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を送る人もあり いたく汽車に疲れて猶も きれぎれに思ふは 我のいとしさなりき うたふごと駅の名呼びし 柔和なる 若き駅夫の眼をも忘れず 雪のなか 処処に屋根見えて 煙突の煙うすくも空にまよへり 遠くより 笛ながながとひびかせて 汽車今とある森林に入る 何事も思ふことなく 日一日 汽車のひびきに心まかせぬ さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな こほりたるインクの罎を 火に翳し 涙ながれぬともしびの下 顔とこゑ それのみ昔に変らざる友にも会ひき 国の果にて あはれかの国のはてにて 酒のみき かなしみの滓を啜るごとくに 酒のめば悲しみ一時に湧き来るを 寐て夢みぬを うれしとはせし 出しぬけの女の笑ひ 身に沁みき 厨に酒の凍る真夜中 わが酔ひに心いためて うたはざる女ありしが いかになれるや 小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり よりそひて 深夜の雪の中に立つ 女の右手のあたたかさかな 死にたくはないかと言へば これ見よと 咽喉の痍を見せし女かな 芸事も顔も かれより優れたる 女あしざまに我を言へりとか 舞へといへば立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひにたふるるまでも 死ぬばかり我が酔ふをまちて いろいろの かなしきことを囁きし人 いかにせしと言へば あをじろき酔ひざめの 面に強ひて笑みをつくりき かなしきは かの白玉のごとくなる腕に残せし キスの痕かな 酔ひてわがうつむく時も 水ほしと眼ひらく時も 呼びし名なりけり 火をしたふ虫のごとくに ともしびの明るき家に かよひ慣れにき きしきしと寒さに踏めば板軋む かへりの廊下の 不意のくちづけ その膝に枕しつつも 我がこころ 思ひしはみな我のことなり さらさらと氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな 死にしとかこのごろ聞きぬ 恋がたき 才あまりある男なりしが 十年まへに作りしといふ漢詩を 酔へば唱へき 旅に老いし友 吸ふごとに 鼻がぴたりと凍りつく 寒き空気を吸ひたくなりぬ 波もなき二月の湾に 白塗の 外国船が低く浮かべり 三味線の絃のきれしを 火事のごと騒ぐ子ありき 大雪の夜に 神のごと 遠く姿をあらはせる 阿寒の山の雪のあけぼの 郷里にゐて 身投げせしことありといふ 女の三味にうたへるゆふべ 葡萄色の 古き手帳にのこりたる かの会合の時と処かな よごれたる足袋穿く時の 気味わるき思ひに似たる 思出もあり わが室に女泣きしを 小説のなかの事かと おもひ出づる日 浪淘沙 ながくも声をふるはせて うたふがごとき旅なりしかな 二 いつなりけむ 夢にふと聴きてうれしかりし その声もあはれ長く聴かざり 頬の寒き 流離の旅の人として 路問ふほどのこと言ひしのみ さりげなく言ひし言葉は さりげなく君も聴きつらむ それだけのこと ひややかに清き大理石に 春の日の静かに照るは かかる思ひならむ 世の中の明るさのみを吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど 真白なるラムプの笠の 瑕のごと 流離の記憶消しがたきかな 函館のかの焼跡を去りし夜の こころ残りを 今も残しつ 人がいふ 鬢のほつれのめでたさを 物書く時の君に見たりし 馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花を好きたまふらむ 山の子の 山を思ふがごとくにも かなしき時は君を思へり 忘れをれば ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる 忘れかねつも 病むと聞き 癒えしと聞きて 四百里のこなたに我はうつつなかりし 君に似し姿を街に見る時の こころ躍りを あはれと思へ かの声を最一度聴かば すっきりと 胸や霽れむと今朝も思へる いそがしき生活のなかの 時折のこの物おもひ 誰のためぞも しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ 死ぬまでに一度会はむと 言ひやらば 君もかすかにうなづくらむか 時として 君を思へば 安かりし心にはかに騒ぐかなしさ わかれ来て年を重ねて 年ごとに恋しくなれる 君にしあるかな 石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散りてやあらむ 長き文 三年のうちに三度来ぬ 我の書きしは四度にかあらむ 手套を脱ぐ時 手套を脱ぐ手ふと休む 何やらむ こころかすめし思ひ出のあり いつしかに 情をいつはること知りぬ 髭を立てしもその頃なりけむ 朝の湯の 湯槽のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかな 夏来れば うがひ薬の 病ある歯に沁む朝のうれしかりけり つくづくと手をながめつつ おもひ出でぬ キスが上手の女なりしが さびしきは 色にしたしまぬ目のゆゑと 赤き花など買はせけるかな 新しき本を買ひ来て読む夜半の そのたのしさも 長くわすれぬ 旅七日 かへり来ぬれば わが窓の赤きインクの染みもなつかし 古文書のなかに見いでし よごれたる 吸取紙をなつかしむかな 手にためし雪の融くるが ここちよく わが寐飽きたる心には沁む 薄れゆく障子の日影 そを見つつ こころいつしか暗くなりゆく ひやひやと 夜は薬の香のにほふ 医者が住みたるあとの家かな 窓硝子 塵と雨とに曇りたる窓硝子にも かなしみはあり 六年ほど日毎日毎にかぶりたる 古き帽子も 棄てられぬかな こころよく 春のねむりをむさぼれる 目にやはらかき庭の草かな 赤煉瓦遠くつづける高塀の むらさきに見えて 春の日ながし 春の雪 銀座の裏の三階の煉瓦造に やはらかに降る よごれたる煉瓦の壁に 降りて融け降りては融くる 春の雪かな 目を病める 若き女の倚りかかる 窓にしめやかに春の雨降る あたらしき木のかをりなど ただよへる 新開町の春の静けさ 春の街 見よげに書ける女名の 門札などを読みありくかな そことなく 蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて 夕となりぬ にぎはしき若き女の集会の こゑ聴き倦みて さびしくなりたり 何処やらに 若き女の死ぬごとき悩ましさあり 春の霙降る コニャックの酔ひのあとなる やはらかき このかなしみのすずろなるかな 白き皿 拭きては棚に重ねゐる 酒場の隅のかなしき女 乾きたる冬の大路の 何処やらむ 石炭酸のにほひひそめり 赤赤と入日うつれる 河ばたの酒場の窓の 白き顔かな 新しきサラドの皿の 酢のかをり こころに沁みてかなしき夕 空色の罎より 山羊の乳をつぐ 手のふるひなどいとしかりけり すがた見の 息のくもりに消されたる 酔ひうるみの眸のかなしさ ひとしきり静かになれる ゆふぐれの 厨にのこるハムのにほひかな ひややかに罎のならべる棚の前 歯せせる女を かなしとも見き やや長きキスを交して別れ来し 深夜の街の 遠き火事かな 病院の窓のゆふべの ほの白き顔にありたる 淡き見覚え 何時なりしか かの大川の遊船に 舞ひし女をおもひ出にけり 用もなき文など長く書きさして ふと人こひし 街に出てゆく しめらへる煙草を吸へば おほよその わが思ふことも軽くしめれり するどくも 夏の来るを感じつつ 雨後の小庭の土の香を嗅ぐ すずしげに飾り立てたる 硝子屋の前にながめし 夏の夜の月 君来るといふに夙く起き 白シャツの 袖のよごれを気にする日かな おちつかぬ我が弟の このごろの 眼のうるみなどかなしかりけり どこやらに杭打つ音し 大桶をころがす音し 雪ふりいでぬ 人気なき夜の事務室に けたたましく 電話の鈴の鳴りて止みたり 目さまして ややありて耳に入り来る 真夜中すぎの話声かな 見てをれば時計とまれり 吸はるるごと 心はまたもさびしさに行く 朝朝の うがひの料の水薬の 罎がつめたき秋となりにけり 夷かに麦の青める 丘の根の 小径に赤き小櫛ひろへり 裏山の杉生のなかに 斑なる日影這ひ入る 秋のひるすぎ 港町 とろろと鳴きて輪を描く鳶を圧せる 潮ぐもりかな 小春日の曇硝子にうつりたる 鳥影を見て すずろに思ふ ひとならび泳げるごとき 家家の高低の軒に 冬の日の舞ふ 京橋の滝山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな よく怒る人にてありしわが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ あさ風が電車のなかに吹き入れし 柳のひと葉 手にとりて見る ゆゑもなく海が見たくて 海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に たひらなる海につかれて そむけたる 目をかきみだす赤き帯かな 今日逢ひし町の女の どれもどれも 恋にやぶれて帰るごとき日 汽車の旅 とある野中の停車場の 夏草の香のなつかしかりき 朝まだき やっと間に合ひし初秋の旅出の汽車の 堅き麺麭かな かの旅の夜汽車の窓に おもひたる 我がゆくすゑのかなしかりしかな ふと見れば とある林の停車場の時計とまれり 雨の夜の汽車 わかれ来て 燈火小暗き夜の汽車の窓に弄ぶ 青き林檎よ いつも来る この酒肆のかなしさよ ゆふ日赤赤と酒に射し入る 白き蓮沼に咲くごとく かなしみが 酔ひのあひだにはっきりと浮く 壁ごしに 若き女の泣くをきく 旅の宿屋の秋の蚊帳かな 取りいでし去年の袷の なつかしきにほひ身に沁む 初秋の朝 気にしたる左の膝の痛みなど いつか癒りて 秋の風吹く 売り売りて 手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る 夏の末かな ゆゑもなく憎みし友と いつしかに親しくなりて 秋の暮れゆく 赤紙の表紙手擦れし 国禁の 書を行李の底にさがす日 売ることを差し止められし 本の著者に 路にて会へる秋の朝かな 今日よりは 我も酒など呷らむと思へる日より 秋の風吹く 大海の その片隅につらなれる島島の上に 秋の風吹く うるみたる目と 目の下の黒子のみ いつも目につく友の妻かな いつ見ても 毛糸の玉をころがして 韈を編む女なりしが 葡萄色の 長椅子の上に眠りたる猫ほの白き 秋のゆふぐれ ほそぼそと 其処ら此処らに虫の鳴く 昼の野に来て読む手紙かな 夜おそく戸を繰りをれば 白きもの庭を走れり 犬にやあらむ 夜の二時の窓の硝子を うす紅く 染めて音なき火事の色かな あはれなる恋かなと ひとり呟きて 夜半の火桶に炭添へにけり 真白なるラムプの笠に 手をあてて 寒き夜にする物思ひかな 水のごと 身体をひたすかなしみに 葱の香などのまじれる夕 時ありて 猫のまねなどして笑ふ 三十路の友のひとり住みかな 気弱なる斥候のごとく おそれつつ 深夜の街を一人散歩す 皮膚がみな耳にてありき しんとして眠れる街の 重き靴音 夜おそく停車場に入り 立ち坐り やがて出でゆきぬ帽なき男 気がつけば しっとりと夜霧下りて居り ながくも街をさまよへるかな 若しあらば煙草恵めと 寄りて来る あとなし人と深夜に語る 曠野より帰るごとくに 帰り来ぬ 東京の夜をひとりあゆみて 銀行の窓の下なる 舗石の霜にこぼれし 青インクかな ちょんちょんと とある小藪に頬白の遊ぶを眺む 雪の野の路 十月の朝の空気に あたらしく 息吸ひそめし赤坊のあり 十月の産病院の しめりたる 長き廊下のゆきかへりかな むらさきの袖垂れて 空を見上げゐる支那人ありき 公園の午後 孩児の手ざはりのごとき 思ひあり 公園に来てひとり歩めば ひさしぶりに公園に来て 友に会ひ 堅く手握り口疾に語る 公園の木の間に 小鳥あそべるを ながめてしばし憩ひけるかな 晴れし日の公園に来て あゆみつつ わがこのごろの衰へを知る 思出のかのキスかとも おどろきぬ プラタヌの葉の散りて触れしを 公園の隅のベンチに 二度ばかり見かけし男 このごろ見えず 公園のかなしみよ 君の嫁ぎてより すでに七月来しこともなし 公園のとある木蔭の捨椅子に 思ひあまりて 身をば寄せたる 忘られぬ顔なりしかな 今日街に 捕吏にひかれて笑める男は マチ擦れば 二尺ばかりの明るさの 中をよぎれる白き蛾のあり 目をとぢて 口笛かすかに吹きてみぬ 寐られぬ夜の窓にもたれて わが友は 今日も母なき子を負ひて かの城址にさまよへるかな 夜おそく つとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな 二三こゑ いまはのきはに微かにも泣きしといふに なみだ誘はる 真白なる大根の根の肥ゆる頃 うまれて やがて死にし児のあり おそ秋の空気を 三尺四方ばかり 吸ひてわが児の死にゆきしかな 死にし児の 胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心 底知れぬ謎に対ひてあるごとし 死児のひたひに またも手をやる かなしみのつよくいたらぬ さびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども かなしくも 夜明くるまでは残りゐぬ 息きれし児の肌のぬくもり
底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社    1967(昭和42)年9月12日初版発行    1972(昭和47)年9月10日9版発行 底本の親本:「一握の砂」東雲堂書店    1910(明治43)年12月1日刊行 ※冒頭の献辞と自序は、「啄木全集 第一巻」筑摩書房、1970(昭和45)年5月20日初版第4刷発行から、補いました。 ※底本巻末の小田切進による注解は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:浜野智 1998年8月11日公開 2017年10月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 其身動く能はずして其心早く一切の束縛より放たれたる著者の痛苦の聲は是也。  著者の歌は從来青年男女の間に限られたる明治新短歌の領域を擴張して廣く讀者を中年の人々に求む。 (明治44・1・1「秀才文壇」十一ノ一)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 復啓、以前は夕方に燈火のつく頃と、夜が段々更けて十二時が過ぎ、一時となり一時半となる頃が此上なき樂しきものに候ひしが、近頃はさる事も無御座候。樂しき時刻といふもの何日よりか小生には無くなり候、拂曉に起き出でて散歩でもしたら氣が清々するかと存じ候へども、一度も實行したことはなし、何か知ら非常に急がしき事の起り來るを待設くる樣の氣持にて、其日々々を意氣地なく送り居候、然し、強ひて言へば、小生にも三つの樂しき時刻(?)あり、一つは毎日東京、地方を合せて五種の新聞を讀む時間に候、世の所謂不祥なる出來事、若くは平和ならざる事件の多ければ多き程、この世がまだ望みある樣にて何がなく心地よく、一つは尾籠なお話ながら、雪隱に入つてゐる時間にて誰も見る人なければ身心共に初めて自由を得たる如く心落付き候、これらも樂しみといはゞ樂しみなるべきか、殘る一つは日毎に電車にて往復する時間に候、男らしき顏、思切つた事をやりさうな顏、底の知れぬ顏、引しまりたる顏、腹の大きさうな顏、心から樂しさうな顏、乃至は誇らしげなる美人、男欲しさうな若き女などの澤山乘合せたる時は、おのづから心樂しく、若しその反對に擧措何となく落付きがなく、皮膚の色唯黄にて、如何にも日本人らしき人のみなる時は日本人と生れたる此身つくづくいやに成り候。早々 (明治42・9・24「東京毎日新聞」)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「東京毎日新聞」    1909(明治42)年9月24日 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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秋風死ぬる夕べの 入日の映のひと時、 ものみな息をひそめて、 さびしさ深く流るる。 心のうるみ切なき ひと時、あはれ、仰ぐは 黄金の秋の雲をし まとへる丘の公孫樹。 光栄の色よ、など、さは 深くも黙し立てるや。 さながら、遠き昔の 聖の墓とばかりに。 ま白き鴿のひと群、 天の羽々矢と降りきて、 黄金の雲にいりぬる。―― あはれ何にかたぐへむ。 樹の下馬を曳く子は たはれに小さき足もて 幹をし踏みぬ。――あゝこれ はた、また、何ににるらむ。 ましろき鴿のひと群 羽ばたき飛びぬ。黄金の 雲の葉、あはれ、法恵の 雨とし散りぞこぼるる。 今、日ぞ落つれ、夜ぞ来れ。―― 真夜中時雨また来め。―― 公孫樹よ、明日の裸身、 我、はた、何に儔へむ。 十一月十七日夜
底本:「花の名随筆11 十一月の花」作品社    1999(平成11)年10月10日初版第1刷発行 底本の親本:「石川啄木全集 第二巻 詩集」筑摩書房    1979(昭和54)年6月 入力:岡村和彦 校正:阿部哲也 2012年10月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。 A そうか。君は来るたんび引越しの披露をして行くね。 B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するような事件が無いからだ。 A 葉書でも済むよ。 B しかし今度のは葉書では済まん。 A どうしたんだ。何日かの話の下宿の娘から縁談でも申込まれて逃げ出したのか。 B 莫迦なことを言え。女の事なんか近頃もうちっとも僕の目にうつらなくなった。女より食物だね。好きな物を食ってさえいれあ僕には不平はない。 A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿はうまい物を食わせるのか。 B 三度三度うまい物ばかり食わせる下宿が何処にあるもんか。 A 安下宿ばかりころがり歩いた癖に。 B 皮肉るない。今度のは下宿じゃないんだよ。僕はもう下宿生活には飽き飽きしちゃった。 A よく自分に飽きないね。 B 自分にも飽きたさ。飽きたから今度の新生活を始めたんだ。室だけ借りて置いて、飯は三度とも外へ出て食うことにしたんだよ。 A 君のやりそうなこったね。 B そうかね。僕はまた君のやりそうなこったと思っていた。 A 何故。 B 何故ってそうじゃないか。第一こんな自由な生活はないね。居処って奴は案外人間を束縛するもんだ。何処かへ出ていても、飯時になれあ直ぐ家のことを考える。あれだけでも僕みたいな者にゃ一種の重荷だよ。それよりは何処でも構わず腹の空いた時に飛び込んで、自分の好きな物を食った方が可じゃないか。(間)何でも好きなものが食えるんだからなあ。初めの間は腹のへって来るのが楽みで、一日に五回ずつ食ってやった。出掛けて行って食って来て、煙草でも喫んでるとまた直ぐ食いたくなるんだ。 A 飯の事をそう言えや眠る場所だってそうじゃないか。毎晩毎晩同じ夜具を着て寝るってのも余り有難いことじゃないね。 B それはそうさ。しかしそれは仕方がない。身体一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦痛じゃないか。 A 飯のたんびに外に出なくちゃならないというのと同じだ。 B 飯を食いに行くには荷物はない。身体だけで済むよ。食いたいなあと思った時、ひょいと立って帽子を冠って出掛けるだけだ。財布さえ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くって気持は実に可いね。 A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く気持はどうだね。ああ眠くなったと思った時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。 B それあ可いさ。君もなかなか話せる。 A 可いだろう。毎晩毎晩そうして新しい寝床で新しい夢を結ぶんだ。(間)本も机も棄てっちまうさ。何もいらない。本を読んだってどうもならんじゃないか。 B ますます話せる。しかしそれあ話だけだ。初めのうちはそれで可いかも知れないが、しまいにはきっとおっくうになる。やっぱり何処かに落付いてしまうよ。 A 飯を食いに出かけるのだってそうだよ。見給え、二日経つと君はまた何処かの下宿にころがり込むから。 B ふむ。おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。きっとやってみせるよ。 A 細君を持つまでか。可哀想に。(間)しかし羨ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。 B そうだろう。おれはどうも初め思いたった時、君のやりそうなこったと思った。 A 今でもやりたいと思ってる。たった一月でも可い。 B どうだ、おれん処へ来て一緒にやらないか。可いぜ。そして飽きたら以前に帰るさ。 A しかし厭だね。 B 何故。おれと一緒が厭なら一人でやっても可いじゃないか。 A 一緒でも一緒でなくても同じことだ。君は今それを始めたばかりで大いに満足してるね。僕もそうに違いない。やっぱり初めのうちは日に五度も食事をするかも知れない。しかし君はそのうちに飽きてしまっておっくうになるよ。そうしておれん処へ来て、また引越しの披露をするよ。その時おれは、「とうとう飽きたね」と君に言うね。 B 何だい。もうその時の挨拶まで工夫してるのか。 A まあさ。「とうとう飽きたね」と君に言うね。それは君に言うのだから可い。おれは其奴を自分には言いたくない。 B 相不変厭な男だなあ、君は。 A 厭な男さ。おれもそう思ってる。 B 君は何日か――あれは去年かな――おれと一緒に行って淫売屋から逃げ出した時もそんなことを言った。 A そうだったかね。 B 君はきっと早く死ぬ。もう少し気を広く持たなくちゃ可かんよ。一体君は余りアンビシャスだから可かん。何だって真の満足ってものは世の中に有りやしない。従って何だって飽きる時が来るに定ってらあ。飽きたり、不満足になったりする時を予想して何にもせずにいる位なら、生れて来なかった方が余っ程可いや。生れた者はきっと死ぬんだから。 A 笑わせるない。 B 笑ってもいないじゃないか。 A 可笑しくもない。 B 笑うさ。可笑しくなくったって些たあ笑わなくちゃ可かん。はは。(間)しかし何だね。君は自分で飽きっぽい男だと言ってるが、案外そうでもないようだね。 A 何故。 B 相不変歌を作ってるじゃないか。 A 歌か。 B 止めたかと思うとまた作る。執念深いところが有るよ。やっぱり君は一生歌を作るだろうな。 A どうだか。 B 歌も可いね。こないだ友人とこへ行ったら、やっぱり歌を作るとか読むとかいう姉さんがいてね。君の事を話してやったら、「あの歌人はあなたのお友達なんですか」って喫驚していたよ。おれはそんなに俗人に見えるのかな。 A 「歌人」は可かったね。 B 首をすくめることはないじゃないか。おれも実は最初変だと思ったよ。Aは歌人だ! 何んだか変だものな。しかし歌を作ってる以上はやっぱり歌人にゃ違いないよ。おれもこれから一つ君を歌人扱いにしてやろうと思ってるんだ。 A 御馳走でもしてくれるのか。 B 莫迦なことを言え。一体歌人にしろ小説家にしろ、すべて文学者といわれる階級に属する人間は無責任なものだ。何を書いても書いたことに責任は負わない。待てよ、これは、何日か君から聞いた議論だったね。 A どうだか。 B どうだかって、たしかに言ったよ。文芸上の作物は巧いにしろ拙いにしろ、それがそれだけで完了してると云う点に於て、人生の交渉は歴史上の事柄と同じく間接だ、とか何んとか。(間)それはまあどうでも可いが、とにかくおれは今後無責任を君の特権として認めて置く。特待生だよ。 A 許してくれ。おれは何よりもその特待生が嫌いなんだ。何日だっけ北海道へ行く時青森から船に乗ったら、船の事務長が知ってる奴だったものだから、三等の切符を持ってるおれを無理矢理に一等室に入れたんだ。室だけならまだ可いが、食事の時間になったらボーイを寄こしてとうとう食堂まで引張り出された。あんなに不愉快な飯を食ったことはない。 B それは三等の切符を持っていた所為だ。一等の切符さえ有れあ当り前じゃないか。 A 莫迦を言え。人間は皆赤切符だ。 B 人間は皆赤切符! やっぱり話せるな。おれが飯屋へ飛び込んで空樽に腰掛けるのもそれだ。 A 何だい、うまい物うまい物って言うから何を食うのかと思ったら、一膳飯屋へ行くのか。 B 上は精養軒の洋食から下は一膳飯、牛飯、大道の焼鳥に至るさ。飯屋にだってうまい物は有るぜ。先刻来る時はとろろ飯を食って来た。 A 朝には何を食う。 B 近所にミルクホールが有るから其処へ行く。君の歌も其処で読んだんだ。何でも雑誌をとってる家だからね。(間)そうそう、君は何日か短歌が滅びるとおれに言ったことがあるね。この頃その短歌滅亡論という奴が流行って来たじゃないか。 A 流行るかね。おれの読んだのは尾上柴舟という人の書いたのだけだ。 B そうさ。おれの読んだのもそれだ。然し一人が言い出す時分にゃ十人か五人は同じ事を考えてるもんだよ。 A あれは尾上という人の歌そのものが行きづまって来たという事実に立派な裏書をしたものだ。 B 何を言う。そんなら君があの議論を唱えた時は、君の歌が行きづまった時だったのか。 A そうさ。歌ばかりじゃない、何もかも行きづまった時だった。 B しかしあれには色色理窟が書いてあった。 A 理窟は何にでも着くさ。ただ世の中のことは一つだって理窟によって推移していないだけだ。たとえば、近頃の歌は何首或は何十首を、一首一首引き抜いて見ないで全体として見るような傾向になって来た。そんなら何故それらを初めから一つとして現さないか。一一分解して現す必要が何処にあるか、とあれに書いてあったね。一応尤もに聞えるよ。しかしあの理窟に服従すると、人間は皆死ぬ間際まで待たなければ何も書けなくなるよ。歌は――文学は作家の個人性の表現だということを狭く解釈してるんだからね。仮に今夜なら今夜のおれの頭の調子を歌うにしてもだね。なるほどひと晩のことだから一つに纏めて現した方が都合は可いかも知れないが、一時間は六十分で、一分は六十秒だよ。連続はしているが初めから全体になっているのではない。きれぎれに頭に浮んで来る感じを後から後からときれぎれに歌ったって何も差支えがないじゃないか。一つに纏める必要が何処にあると言いたくなるね。 B 君はそうすっと歌は永久に滅びないと云うのか。 A おれは永久という言葉は嫌いだ。 B 永久でなくても可い。とにかくまだまだ歌は長生すると思うのか。 A 長生はする。昔から人生五十というが、それでも八十位まで生きる人は沢山ある。それと同じ程度の長生はする。しかし死ぬ。 B 何日になったら八十になるだろう。 A 日本の国語が統一される時さ。 B もう大分統一されかかっているぜ。小説はみんな時代語になった。小学校の教科書と詩も半分はなって来た。新聞にだって三分の一は時代語で書いてある。先を越してローマ字を使う人さえある。 A それだけ混乱していたら沢山じゃないか。 B うむ。そうすっとまだまだか。 A まだまだ。日本は今三分の一まで来たところだよ。何もかも三分の一だ。所謂古い言葉と今の口語と比べてみても解る。正確に違って来たのは、「なり」「なりけり」と「だ」「である」だけだ。それもまだまだ文章の上では併用されている。音文字が採用されて、それで現すに不便な言葉がみんな淘汰される時が来なくちゃ歌は死なない。 B 気長い事を言うなあ。君は元来性急な男だったがなあ。 A あまり性急だったお蔭で気長になったのだ。 B 悟ったね。 A 絶望したのだ。 B しかしとにかく今の我々の言葉が五とか七とかいう調子を失ってるのは事実じゃないか。 A 「いかにさびしき夜なるぞや」「なんてさびしい晩だろう」どっちも七五調じゃないか。 B それは極めて稀な例だ。 A 昔の人は五七調や七五調でばかり物を言っていたと思うのか。莫迦。 B これでも賢いぜ。 A とはいうものの、五と七がだんだん乱れて来てるのは事実だね。五が六に延び、七が八に延びている。そんならそれで歌にも字あまりを使えば済むことだ。自分が今まで勝手に古い言葉を使って来ていて、今になって不便だもないじゃないか。なるべく現代の言葉に近い言葉を使って、それで三十一字に纏りかねたら字あまりにするさ。それで出来なけれあ言葉や形が古いんでなくって頭が古いんだ。 B それもそうだね。 A のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分解することが出来る。歌の調子はまだまだ複雑になり得る余地がある。昔は何日の間にか五七五、七七と二行に書くことになっていたのを、明治になってから一本に書くことになった。今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首各異った調子がある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。 B そうすると歌の前途はなかなか多望なことになるなあ。 A 人は歌の形は小さくて不便だというが、おれは小さいから却って便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑している。軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしている。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。 B 待てよ。ああそうか。一分は六十秒なりの論法だね。 A そうさ。一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。(間)おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。(間)しかしその歌も滅亡する。理窟からでなく内部から滅亡する。しかしそれはまだまだ早く滅亡すれば可いと思うがまだまだだ。(間)日本はまだ三分の一だ。 B いのちを愛するってのは可いね。君は君のいのちを愛して歌を作り、おれはおれのいのちを愛してうまい物を食ってあるく。似たね。 A (間)おれはしかし、本当のところはおれに歌なんか作らせたくない。 B どういう意味だ。君はやっぱり歌人だよ。歌人だって可いじゃないか。しっかりやるさ。 A おれはおれに歌を作らせるよりも、もっと深くおれを愛している。 B 解らんな。 A 解らんかな。(間)しかしこれは言葉でいうと極くつまらんことになる。 B 歌のような小さいものに全生命を託することが出来ないというのか。 A おれは初めから歌に全生命を託そうと思ったことなんかない。(間)何にだって全生命を託することが出来るもんか。(間)おれはおれを愛してはいるが、そのおれ自身だってあまり信用してはいない。 B (やや突然に)おい、飯食いに行かんか。(間、独語するように)おれも腹のへった時はそんな気持のすることがあるなあ。
底本:「石川啄木集(下)」新潮文庫、新潮社    1950(昭和25)年7月15日発行    1970(昭和45)年6月15日25刷改版    1991(平成3)年3月5日48刷 底本の親本:「啄木全集第4巻 評論 感想」筑摩書房    1967(昭和42)年9月30日 初出:「創作 第一巻第九号」    1910(明治43)年11月1日 入力:青空文庫 校正:鈴木厚司 2004年8月11日作成 2016年4月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 少年の頃、「孝」といふ言葉よりも、「忠」といふ言葉の方が強く私の胸に響いた。「豪傑」といふ言葉よりも、「英雄」といふ言葉の方に親しみがあつた。そして、「聖人」とか「君子」とかいふ言葉は、言ふにしても書くにしても、他處行の着物を着るやうな心持が離れなかつた。 「豪傑」といふ言葉には、肥つた人といふ感じが伴つてゐた。私は幼い時から弱くて、痩せて小さかつた。同じ理由から高山彦九郎を子平よりも君平よりも好きではあつたが、偉いとは思へなかつた。私は彦九郎は背の高い男だつたらうと想像してゐた。あの單純な狂熱家が少年の頭には何となく喜劇的に見えたのは主として其爲であつた。彦九郎が三條の橋に平伏して皇居を拜したと聞くと體が顫へて涙が流れた、と同時にひよろひよろとした長い體を橋の上に折り疊んだと思ふと、感激の中に笑ひの波が立つた。平伏した彦九郎の背が三尺もあつたやうに思へた。 「女」といふ考へが頭の底にこびり着くのは、男の一生の痛ましい革命の始まりである。十七八歳の頃から「詩人」といふ言葉が、赤墨汁のやうに私の胸に浸み込んだ。「天才」といふ言葉が、唐辛子のやうに私の頭を熱くした。髮の毛の柔かい、眼の生々した、可愛らしいセキソトキシンの中毒者は「無限」「永遠」「憧憬」「權威」などといふ言葉を持藥にしてゐた。それは明治三十五年頃からの事である。  何方も惡魔の口から出たものには違ひないが、「英雄」といふ言葉は劇藥である。然し「天才」といふ言葉は毒藥――餘程質の惡い毒藥である。一度それを服んで少年は、一生骨が硬まらない。(明治四十二年十二月)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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(一)  二三日前の事である。途で渇を覺えてとあるビイヤホオルに入ると、窓側の小さい卓を圍んで語つてゐる三人連の紳士が有つた。私が入つて行くと三人は等しく口を噤んで顏を上げた。見知らぬ人達で有る。私は私の勝手な場所を見付けて、煙草に火を點け、口を濕し、そして新聞を取上げた。外に相客といふものは無かつた。  やがて彼等は復語り出した。それは「今度の事」に就いてゞ有つた。今度の事の何たるかは固り私の知らぬ所、又知らうとする氣も初めは無かつた。すると、不圖手にしてゐる夕刊の或一處に停まつた儘、私の眼は動かなくなつた。「今度の事は然し警察で早く探知したから可かつたさ。燒討とか赤旗位ならまだ可いが、彼樣な事を實行されちやそれこそ物騷極まるからねえ。」さう言ふ言葉が私の耳に入つて來た。「僕は變な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年から散々味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのを態と彼樣に新聞で吹聽させたんだつて噂も有るぜ。」さう言ふ言葉も聞えた。「然し僕等は安心して可なりだね。今度のやうな事がいくら出て來たつて、殺される當人が僕等で無いだけは確かだよ。」さう言つて笑ふ聲も聞えた。私は身體中を耳にした。――今度の事有つて以來、私はそれに就いての批評を日本人の口から聞くことを、或特別の興味を有つて待つてゐた。今三人の紳士の取交してゐる會話は即ちそれで有る。――今度の事と言ふのは、實に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈彈事件の事だつたのである。  私の其時起した期待は然し何れだけも滿たされなかつた。何故なれば彼の三人は間もなく勘定を濟して出て行つたからで有る。――明治四十年八月の函館大火の際、私も函館に在つて親しく彼の悲壯なる光景を目撃した。火事の後、家を失つた三四萬の市民は、何れも皆多少の縁故を求めて、燒殘つた家々に同居した。如何に小さい家でも二家族若くは三家族の詰込まれない家は無かつた。其時私は平時に於て見ることの出來ない、不思議な、而も何かしら愉快なる現象を見た。それは、あらゆる制度と設備と階級と財産との攪亂された處に、人間の美しき性情の却つて最も赤裸々に發露せられたことで有つた。彼等の蒙つた強大なる刺戟は、彼等をして何の顧慮もなく平時の虚禮の一切を捨てさせた。彼等はたゞ彼等の飾氣なき相互扶助の感情と現在の必要とに據つて、孜々として彼等の新らしい家を建つることに急いだ。そして其時彼等が、其一切の虚禮を捨てる爲にした言譯は、「此際だから」といふ一語であつた。此一語はよく當時の函館の状態を何人にも理解させた。所謂言語活用の妙で有る。――そして今彼の三人の紳士が、日本開闢以來の新事實たる意味深き事件を、たゞ單に「今度の事」と言つた。これも亦等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言方だらう!」私は快く冷々する玻璃盃を握つた儘、一人幽かに微笑んで見た。  間もなく私も其處を出た。さうして兩側の街燈の美しく輝き始めた街に靜かな歩みを運びながら、私はまた第二の興味に襲はれた。それは我々日本人の或性情、二千六百年の長き歴史に養はれて來た或特殊の性情に就いてゞ有つた。――此性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ廣いもので有る。彼の偏へに此性情に固執してゐる保守的思想家自身の値踏みしてゐるよりも、もつともつと深く且つ廣いもので有る。――そして、千九百餘年前の猶太人が耶蘇基督の名を白地に言ふを避けて唯「ナザレ人」と言つた樣に、恰度それと同じ樣に、彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して唯「今度の事」と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかつた。 (二)  蓋し無政府主義と言ふ語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機會は、今日までの所、前後二囘しか無い。無政府主義といふ思想、無政府黨といふ結社の在る事、及び其黨員が時々兇暴なる行爲を敢てする事は、書籍に依り、新聞に依つて早くから我々も知つてゐた。中には特に其思想、運動の經過を研究して、邦文の著述を成した人すら有る。然しそれは洋を隔てた遙か遠くの歐米の事で有つた。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間に其主義を信じ、其黨を結んでゐる者の在る事を知つた機會は遂に二囘しかない。  其の一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白晝不穩の文字を染めた紅色の旗を飜して、警吏の爲に捕はれた者の中には、數名の年若き婦人も有つた。其婦人等――日本人の理想に從へば、穩しく、しとやかに、萬に控へ目で有るべき筈の婦人等は、嚴かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言つた。それを傳へ聞いた國民の多數は、目を丸くして驚いた。  然し其驚きは、仔細に考へて見れば決して眞の驚きでは無かつた。例へば彼の事件は、藝題だけを日本字で書いた、そして其白の全く未知の國語で話される芝居の樣なもので有つた。國民の讀み得た藝題の文字は、何樣耳新らしい語では有つたが、耳新らしいだけそれだけ、聞き慣れた「油地獄」とか「吉原何人斬」とか言ふものよりも、猶一層上手な、殘酷な舞臺面を持つてゐるらしく思はれた。やがて板に掛けられた所を見ると、喜び、泣き、嬌態を作るべき筈の女形が、男の樣な聲で物を言ひ、男の樣に歩き、男も難しとする樣な事を平氣で爲た。觀客は全く呆氣に取られて了つた。言ひ換へれば、舞臺の上の人物が何の積りで、何の爲にそんな事をするのかは少しも解することが出來ずに、唯其科の荒々しく、自分等の習慣に戻つてゐるのを見て驚いたのである。隨つて其芝居――藝題だけしか飜譯されてゐなかつた芝居は、遂に當を取らずに樂になつた。又隨つて觀客の方でも間もなく其芝居を忘れて了つた。  尤もそれは國民の多數者に就いてゞ有る。中に少數の識者が有つて、多少其芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社會主義者諸君、諸君が今にしてそんな輕率な擧動をするのは、決して諸君の爲では有るまい。そんな事をするのは、漸く出來かゝつた國民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。これは當時に有つては、確かに進歩した批評の爲方であつた。然し今日になつて見れば、其所謂識者の理解なるものも、決して徹底したもので有つたとは思へない。「我は無政府主義者なり。」と言ふ者を、「社會主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを證明してゐるでは無いか。 (三)  さうして第二は言ふまでもなく今度の事である。  今度の事とは言ふものゝ、實は我々は其事件の内容を何れだけも知つてるのでは無い。秋水幸徳傳次郎といふ一著述家を首領とする無政府主義者の一團が、信州の山中に於て密かに爆烈彈を製造してゐる事が發覺して、其一團及び彼等と機密を通じてゐた紀州新宮の同主義者が其筋の手に檢擧された。彼等が檢擧されて、そして其事を何人も知らぬ間に、檢事局は早くも各新聞社に對して記事差止の命令を發した。如何に機敏なる新聞も、唯敍上の事實と、及び彼等被檢擧者の平生に就いて多少の報道を爲す外に爲方が無かつた。――そして斯く言ふ私の此事件に關する智識も、遂に今日迄に都下の各新聞の傳へた所以上に何物をも有つてゐない。  若しも單に日本の警察機關の成績といふ點のみを論ずるならば、今度の事件の如きは蓋し空前の成功と言つても可からうと思ふ。啻に迅速に、且つ遺漏なく犯罪者を逮捕したといふ許りで無く、事を未然に防いだといふ意味に於て特に然うで有る。過去數年の間、當局は彼等所謂不穩の徒の爲に、啻に少なからざる機密費を使つた許りでなく、專任の巡査數十名を、たゞ彼等を監視させる爲に養つて置いた。斯くの如き心勞と犧牲とを拂つてゐて、それで萬一今度の樣な事を未然に防ぐことが出來なかつたなら、それこそ日本の警察が其存在の理由を問はれても爲方の無い處で有つた。幸ひに彼等の心勞と犧牲とは今日の功を收めた。  それに對しては、私も心から當局に感謝するものである。蓋し私は、あらゆる場合、あらゆる意味に於て、極端なる行動といふものは眞に眞理を愛する者、確實なる理解を有つた者の執るべき方法で無いと信じてゐるからで有る。正しい判斷を失つた、過激な、極端な行動は、例へば導火力の最も高い手擲彈の如きものである。未だ敵に向つて投げざるに、早く已に自己の手中に在つて爆發する。これは今度の事件の最もよく證明してゐる所で有る。さうして私は、たとひ其動機が善であるにしろ、惡であるにしろ、觀劇的興味を外にしては、我々の社會の安寧を亂さんとする何者に對しても、それを許す可き何等の理由を有つてゐない。若しも今後再び今度の樣な計畫をする者が有るとするならば、私は豫め當局に對して、今度以上の熱心を以てそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。  然しながら、警察の成功は遂に警察の成功で有る。そして決してそれ以上では無い。日本の政府が其隸屬する所の警察機關のあらゆる可能力を利用して、過去數年の間、彼等を監視し、拘束し、啻に其主義の宣傳乃至實行を防遏したのみでなく、時には其生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加へたに拘はらず、彼等の一人と雖も其主義を捨てた者は無かつた。主義を捨てなかつた許りでなく、却つて其覺悟を堅めて、遂に今度の樣な兇暴なる計畫を企て、それを半ばまで遂行するに至つた。今度の事件は、一面警察の成功で有ると共に、又一面、警察乃至法律といふ樣なものゝ力は、如何に人間の思想的行爲に對つて無能なもので有るかを語つてゐるでは無いか。政府並に世の識者の先づ第一に考へねばならぬ問題は、蓋し此處に有るであらう。 (四)  歐羅巴に於ける無政府主義の發達及び其運動に多少の注意を拂ふ者の、先づ最初に氣の付く事が二つ有る。一つは無政府主義者と言はるゝ者の今日迄に爲した行爲は凡て過激、極端、兇暴で有るに拘はらず、其理論に於ては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問はず、殆ど何等の危險な要素を含んでゐない事で有る。(唯彼等の説く所が、人間の今日に於ける生活状態とは非常に距離の有る生活状態の事で有るだけで有る)。も一つは、其等無政府主義者の言論、行爲の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の關係を保つてゐる事で有る。――これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの樣な有名な地理學者が有るからといふ洒落ではない。  前者に就いては、私は何も此處に言ふ可き必要を感じない。必要を感じない許りでなく、今の樣な物騷な世の中で、萬一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身亦無政府主義者で有るかの如き誤解を享ける樣な事が有つては、迷惑至極な話である。そして又、結局私は彼等の主張を誤りなく傳へる程に無政府主義の内容を研究した學者でもないのである。――が、若しも世に無政府主義といふ名を聞いただけで眉を顰める樣な人が有つて、其人が他日彼の無政府主義者等の所説を調べて見るとするならば、屹度、入口を間違へて別の家に入つて來た樣な驚きを經驗するだらうと私は思ふ。彼等の或者にあつては、無政府主義といふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで發達した状態に對する、熱烈なる憧憬に過ぎない。又或者にあつては、相互扶助の感情の圓滿なる發現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言つてるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言ひ、相互扶助の感情と言ふが如きは、如何に固陋なる保守的道徳家に取つても決して左迄耳遠い言葉で有る筈が無い。若し此等の點のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき兇暴なる人間と見られてゐる無政府主義者と、一般教育家及び倫理學者との間に、何れだけの相違も無いので有る。人類の未來に關する我々の理想は蓋し一で有る――洋の東西、時の古今を問はず、畢竟一で有る。唯一般教育家及び倫理學者は、現在の生活状態の儘で其理想の幾分を各人の犧牲的精神の上に現はさうとする。個人主義者は他人の如何に拘はらず先づ自己一人の生涯に其理想を體現しようとする。社會主義者にあつては、人間の現在の生活が頗る其理想と遠きを見て、因を社會組織の缺陷に歸し、主として其改革を計らうとする。而して彼の無政府主義者に至つては、實に、社會組織の改革と人間各自の進歩とを一擧にして成し遂げようとする者で有る。――以上は餘り不謹愼な比較では有るが、然し若しも此樣な相違が有るとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、其理論の堂々として而して何等危險なる要素を含んでゐないに拘らず、未だ調理されざる肉を喰ふが如き粗暴の態と、小兒をして成人の業に就かしめ、其能はざるを見て怒つて此れを蹴るが如き無謀の擧あるは敢て怪しむに足らぬので有る。 (五)  若夫れ後者――無政府主義の地理的分布の一事に至つては、此際特に多少の興味を惹起すべき問題でなければならぬ。地理的分布――言ふ意味は、無政府主義と歐羅巴に於ける各國民との關係といふ事で有る。  凡そ思想といふものは、其思想所有者の性格、經驗、教育、生理的特質及び境遇の總計で有る。而して個人の性格の奧底には、其個人の屬する民族乃至國民の性格の横たはつてゐるのは無論である。――端的に此處に必要なだけを言へば、或民族乃至國民と或個人の思想との交渉は、第一、其民族的、國民的性格に於てし、第二、其國民的境遇(政治的、社會的状態)に於てする。そして今此無政府主義に於ては、第一は主として其理論的方面に、第二は其實行的方面に關係した。  第一の關係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考へる時に、直ぐ氣の付く所で有る。蓋しスチルネルの所説の哲學的個人主義的なる、プルウドンの理論の頗る鋭敏な直感的傾向を有して、而して時に感情に趨らんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各の屬する國民――獨逸人、佛蘭西人、露西亞人――といふ廣漠たる背景を考ふることなしには、我々の正しく理解する能はざる所で有る。  そして第二の關係――其國の政治的、社會的状態と無政府主義との關係は、第一の關係よりも猶一層明白である。(昭32・10雑誌「文学」にはじめて発表)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「文学」    1957(昭和32)年10月10日 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年6月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     (一) ○日毎に集つて來る投書の歌を讀んでゐて、ひよいと妙な事を考へさせられることがある。――此處に作者その人に差障りを及ぼさない範圍に於て一二の例を擧げて見るならば、此頃になつて漸く手を着けた十月中到着の分の中に、神田の某君といふ人の半紙二つ折へ横に二十首の歌を書いて、『我目下の境遇』と題を付けたのがあつた。 ○讀んでゐて私は不思議に思つた。それは歌の上手な爲ではない。歌は字と共に寧ろ拙かつた。又その歌つてある事の特に珍らしい爲でもなかつた。私を不思議に思はせたのは、脱字の多い事である。誤字や假名違ひは何百といふ投書家の中に隨分やる人がある。寧ろ驚く位ある、然し恁麽に脱字の多いのは滅多にない。要らぬ事とは思ひながら數へてみると、二十首の中に七箇所の脱字があつた。三首に一箇所の割合である。 ○歌つてある歌には、母が病氣になつて秋風が吹いて來たといふのがあつた。僻心を起すのは惡い〳〵と思ひながら何時しか夫が癖になつたといふのがあつた。十八の歳から生活の苦しみを知つたといふのがあつた。安らかに眠つてゐる母の寢顏を見れば涙が流れるといふのがあつた。弟の無邪氣なのを見て傷んでゐる歌もあつた。金といふものに數々の怨みを言つてゐるのもあつた。終日の仕事の疲れといふことを歌つたのもあつた。 ○某君は一體に粗忽しい人なのだらうか? 小學校にゐた頃から脱字をしたり計數を間違つたり、忘れ物をする癖があつた人なのだらうか? ――恁麽事を問うてみるからが既に勝手な、作者に對して失禮な推量で、隨つてその答へも亦勝手な推量に過ぎないのだが、私には何うもさうは思へなかつた。進むべき路を進みかねて境遇の犧牲となつた人の、その心に消しがたき不平が有れば有る程、元氣も顏色も人先に衰へて、幸福な人がこれから初めて世の中に打つて出ようといふ歳頃に、早く既に醫しがたき神經衰弱に陷つてゐる例は、私の知つてゐる範圍にも二人や三人ではない。私は「十八の歳から生活の苦しみを知つた人」と「脱字を多くする人」とを別々に離して考へることは出來なかつた。 ○某君のこの投書は、多分何か急がしい事のある日か、心の落付かぬ程嬉しい事でもある日に書いたので、斯う脱字が多かつたのだらう。さうだらうと私は思ふ。然し若し此處に私の勝手に想像したやうな人があつて、某君の歌つたやうな事を誰かの前に訴へたとしたならば、その人は果して何と答へるだらうか。 ○私は色々の場合、色々の人のそれに對する答へを想像して見た。それは皆如何にも尤もな事ばかりであつた。然しそれらの叱咜それらの激勵、それらの同情は果して何れだけその不幸なる青年の境遇を變へてくれるだらうか。のみならず私は又次のやうな事も考へなければならなかつた。二十首の歌に七箇所の脱字をする程頭の惡くなつてゐる人ならば、その平生の仕事にも「脱字」が有るに違ひない。その處世の術にも「脱字」があるに違ひない。――私の心はいつか又、今の諸々の美しい制度、美しい道徳をその儘長く我々の子孫に傳へる爲には、何れだけの夥しい犧牲を作らねばならぬかといふ事に移つて行つた。さうして沁々した心持になつて次の投書の封を切つた。      (二) ○大分前の事である。茨城だつたか千葉だつたか乃至は又群馬の方だつたか何しろ東京から餘り遠くない縣の何とか郡何とか村小學校内某といふ人から歌が來た。何日か經つて其の歌の中の何首かが新聞に載つた。すると間もなく私は同じ人からの長い手紙を添へた二度目の投書を受け取つた。 ○其の手紙は候文と普通文とを捏ね交ぜたやうな文體で先づ自分が「憐れなる片田舍の小學教師」であるといふ事から書き起してあつた。さうして自分が自分の職務に對し兎角興味を有ち得ない事、誰一人趣味を解する者なき片田舍の味氣ない事、さうしてる間に豫々愛讀してゐる朝日新聞の歌壇の設けられたので空谷の跫音と思つたといふ事、近頃は新聞が着くと先づ第一に歌壇を見るといふ事、就いては今後自分も全力を擧げて歌を研究する積だから宜しく頼む。今日から毎日必ず一通づつ投書するといふ事が書いてあつた。 ○此の手紙が宛名人たる私の心に惹起した結果は、蓋し某君の夢にも想はなかつた所であらうと思ふ。何故なれば、私はこれを讀んでしまつた時、私の心に明かに一種の反感の起つてゐる事を發見したからである。詩や歌や乃至は其の外の文學にたづさはる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のやうに思ふ迷信――それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或反感を呼び起さずに濟んだことはない。「歌を作ることを何か偉い事でもするやうに思つてる、莫迦な奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程自ら言ふ如く憐れなる小學教師に違ひないと思つた。手紙には假名違ひも文法の違ひもあつた。 ○然しその反感も直ぐと引込まねばならなかつた。「羨ましい人だ。」といふやうな感じが輕く横合から流れて來た爲めである。此の人は自分で自分を「憐れなる」と呼んでゐるが、如何に憐れで、如何にして憐れであるかに就いて眞面目に考へたことのない人、寧ろさういふ考へ方をしない質の人であることは、自分が不滿足なる境遇に在りながら全力を擧げて歌を研究しようなどと言つてゐる事、しかも其歌の極平凡な叙事叙景の歌に過ぎない事、さうして他の營々として刻苦してゐる村人を趣味を解せぬ者と嘲つて僅に喜んでゐるらしい事などに依つて解つた。己の爲る事、言ふ事、考へる事に對して、それを爲ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面に其問題に立向つて底の底まで究めようとせずにゐられぬ心、日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾とを發見して、さうして其の發見によつて却て益自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に對する羨みの感は私のよく經驗する所のものであつた。 ○私はとある田舍の小學校の宿直室にごろ〳〵してゐる一人の年若き准訓導を想像して見た。その人は眞の人を怒らせるやうな惡口を一つも胸に蓄へてゐない人である。漫然として教科書にある丈の字句を生徒に教へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認し、漫然として今後大に歌を作らうと思つてる人である。未だ嘗て自分の心内乃至身邊に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日毎に新聞を讀みながらも、我々の心を後から〳〵と急がせて、日毎に新しく展開して來る時代の眞相に對して何の切實な興味をも有つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私のそれよりも屹度多いだらうと思つた。 ○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に毎日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。ある時は投函の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緒に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにゐられるかに興味を有つて、それとはなしに毎日待つてゐた。 ○それが確七日か八日の間續いた。或日私は、「とう〳〵飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君の墨の薄い肩上りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。 ○私はこの事を書いて來て、其後某君は何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばただ文藝欄や歌壇や小説許りに興味を有つて讀んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或動かすべからざる隱れたる事實を承認する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌になるであらうと。      (三) ○うつかりしながら家の前まで歩いて來た時、出し拔けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚した。こん畜生!」と思はず知らず口に出す――といふやうな例はよく有ることだ。下らない駄洒落を言ふやうだが、人は吃驚すると惡口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチでいゝではないか――若し必ず何とか言はなければならぬのならば。 ○土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、 燒あとの煉瓦の上に syoben をすればしみじみ 秋の氣がする といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。(小便といふ言葉だけを態々羅馬字で書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在來の漢字で書いた時に伴つて來る惡い連想を拒む爲であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。) ○さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雜誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風を罵つてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた。勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度讀み返しても惡い歌にはならない。評者は何故この鋭い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度歌といふものに就いて或狹い既成概念を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な概念を形成つてさうしてそれに捉はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的な既成概念の袖にむづと噛み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとても何も吃驚するには當らないではないか。 ○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌として存在の權利を有つてゐない事は自分でも知つてゐる。 ○故獨歩は嘗てその著名なる小説の一つに「驚きたい」と云ふ事を書いてあつた。その意味に於ては私は今でも驚きたくない事はない。然しそれと全く別な意味に於て、私は今(驚きたくない)と思ふ。何事にも驚かずに、眼を大きくして正面にその問題に立向ひたいと思ふ。それは小便と桂首相に就いてのみではない。又歌の事に就いてのみではない。我々日本人は特殊なる歴史を過去に有してゐるだけに、今正に殆どすべての新しい出來事に對して驚かねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百囘「こん畜生」を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつてくれるだらうか。 ○歴史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に將來に向つてまで維持しようとして一切の「驚くべき事」に手を以て蓋をする時、其保守的な概念を嚴密に究明して來たならば、日本が嘗て議會を開いた事からが先ず國體に牴觸する譯になりはしないだらうか。我々の歌の形式は萬葉以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何處までも我々の今日の歌である。我々の明日の歌も矢つ張り何處までも我々の明日の歌でなくてはならぬ。      (四) ○机の上に片肘をついて煙草を吹かしながら、私は書き物に疲れた眼を置時計の針に遊ばせてゐた。さうしてこんな事を考へてゐた。――凡そすべての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて來た時、我々はその不便な點に對して遠慮なく改造を試みるが可い。またさう爲るのが本當だ。我々は他の爲に生きてゐるのではない、我々は自身の爲に生きてゐるのだ。たとへば歌にしてもそうである。我々は既に一首の歌を一行に書き下すことに或不便、或不自然を感じて來た。其處でこれは歌それ〴〵の調子に依つて或歌は二行に或歌は三行に書くことにすれば可い。よしそれが歌の調子そのものを破ると言はれるにしてからが、その在來の調子それ自身が我々の感情にしつくりそぐはなくなつて來たのであれば、何も遠慮をする必要がないのだ。三十一文字といふ制限が不便な場合にはどし〴〵字あまりもやるべきである。又歌ふべき内容にしても、これは歌らしくないとか歌にならないとかいふ勝手な拘束を罷めてしまつて、何に限らず歌ひたいと思つた事は自由に歌へば可い。かうしてさへ行けば、忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない。假に現在の三十一文字が四十一文字になり、五十一文字になるにしても、兎に角歌といふものは滅びない。さうして我々はそれに依つて、その刹那々々の生命を愛惜する心を滿足させることが出來る。 ○こんな事を考へて、恰度秒針が一囘轉する程の間、私は凝然としてゐた。さうして自分の心が次第々々に暗くなつて行くことを感じた。――私の不便を感じてゐるのは歌を一行に書き下す事ばかりではないのである。しかも私自身が現在に於て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐなものである。謂はゞ何うでも可いやうな事ばかりである。さうして其他の眞に私に不便を感じさせ苦痛を感じさせるいろ〳〵の事に對しては、一指をも加へることが出來ないではないか。否、それに忍從し、それに屈伏して、慘ましき二重の生活を續けて行く外に此の世に生きる方法を有たないではないか。自分でも色々自分に辯解しては見るものゝ、私の生活は矢張現在の家族制度、階級制度、資本制度、知識賣買制度の犧牲である。 ○目を移して、死んだものゝやうに疊の上に投げ出されてある人形を見た。歌は私の悲しい玩具である。(四十三年十二月) (明43・12・10―20「東京朝日新聞」)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「東京朝日新聞」    1910(明治43)年12月10日~20日 入力:蒋龍 校正:小林繁雄 2009年8月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 私はこの集の著者に一度も會つたことが無い。その作つた歌もあまり讀んだことが無い。隨つてどんな性格の人、どんな傾向の人かも知る筈が無い。しかし斯ういふことは容易に想像することが出來る――この集の著者も年をとり、經驗を重ねるに隨つて、人生に對する態度が變つて來るに違ひない。人生に對する態度が變つて來れば、この集に對する態度も變つて來るに違ひない。  實際變るに違ひない。また變らなければ嘘である。然しそれにしても、現在に於て、谷君が歌といふものを自己表現の唯一若くは最良の方法と信じてゐること、及びその作つた歌を輯めてこの集を出版するといふことを自分自身の家を新しく建てる人の熱心を以て計畫してゐるといふことは、事實である。假令他人の立場からは幾多の批評を加へる餘地が有るにしても、少くとも現在の谷君にとつては動かすべからざる眞實である。歌が拙いとか上手だとかいふことも問題にならない。歌そのものゝ價値といふことも問題にならない。何人もこの眞實を否むことが出來ない。さうして何人にも谷君の心を左右する權利がない。  谷君。君は或ひは他日この集を燒きたくなるやうな日にめぐり合せるかも知れない。また或ひはそんなことが無くて濟むかも知れない。しかしそれは結局現在の君に於て考へる必要の無いことである。今私の心より君に望む所の一つは、ただ、君がいつまで經つても自己に忠實なる人であらむことである、何事をなすにも先づ自己に聽き、何事を言ふにも、はた歌ふにも先づ自己に聽かむことである。さうしてその自己の常に若く、常に新しく、因仍と苟安とに累せられざらむことである。 明治四十三年十二月二十九日 東京にて  石川啄木
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048137", "作品名": "歌集「嘲笑」序文", "作品名読み": "かしゅう「ちょうしょう」じょぶん", "ソート用読み": "かしゆうちようしようしよふん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 911 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-04-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card48137.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "啄木全集 第十卷", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1961(昭和36)年8月10日", "入力に使用した版1": "1961(昭和36)年8月10日新装第1刷", "校正に使用した版1": "1961(昭和36)年8月10日新装第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "蒋龍", "校正者": "阿部哲也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48137_ruby_47158.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-03-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48137_47283.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-03-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
『何か面白い事はないか?』 『俺は昨夜火星に行って来た』 『そうかえ』 『真個に行って来たよ』 『面白いものでもあったか?』 『芝居を見たんだ』 『そうか。日本なら「冥途の飛脚」だが、火星じゃ「天上の飛脚」でも演るんだろう?』 『そんなケチなもんじゃない。第一劇場からして違うよ』 『一里四方もあるのか?』 『莫迦な事を言え。先ず青空を十里四方位の大さに截って、それを圧搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ』 『それが何だい?』 『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ、壁と壁との間が唯五間位しかないが、無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の糸の様に見える』 『五間の舞台で芝居がやれるのか?』 『マア聞き給え。その青い壁が何処まで続いているのか解らない。万里の長城を二重にして、青く塗った様なもんだね』 『何処で芝居を演るんだ?』 『芝居はまだだよ。その壁がつまり花道なんだ』 『もう沢山だ。止せよ』 『その花道を、俳優が先ず看客を引率して行くのだ。火星じゃ君、俳優が国王よりも権力があって、芝居が初まると国民が一人残らず見物しなけやならん憲法があるのだから、それはそれは非常な大入だよ、そんな大仕掛な芝居だから、準備にばかりも十カ月かかるそうだ』 『お産をすると同じだね』 『その俳優というのが又素的だ。火星の人間は、一体僕等より足が小くて胸が高くて、そして頭が無暗に大きいんだが、その中でも最も足が小くて最も胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる。だから君、火星のアアビングや団十郎は、ニコライの会堂の円天蓋よりも大きい位な烏帽子を冠ってるよ』 『驚いた』 『驚くだろう?』 『君の法螺にさ』 『法螺じゃない、真実の事だ。少くとも夢の中の事実だ。それで君、ニコライの会堂の屋根を冠った俳優が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ』 『花道から看客を案内するのか?』 『そうだ。其処が地球と違ってるね』 『其処ばかりじゃない』 『どうせ違ってるさ。それでね、僕も看客の一人になってその花道を行ったとし給え。そして、並んで歩いてる人から望遠鏡を借りて前の方を見たんだがね、二十里も前の方にニコライの屋根の尖端が三つばかり見えたよ』 『アッハハハ』 『行っても、行っても、青い壁だ。行っても、行っても、青い壁だ。何処まで行っても青い壁だ。君、何処まで行ったって矢張青い壁だよ』 『舞台を見ないうちに夜が明けるだろう?』 『それどころじゃない、花道ばかりで何年とか費るそうだ』 『好い加減にして幕をあけ給え』 『だって君、何処まで行っても矢張青い壁なんだ』 『戯言じゃないぜ』 『戯言じゃないさ。そのうちに目が覚めたから夢も覚めて了ったんだ。ハッハハ』 『酷い男だ、君は』 『だってそうじゃないか。そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ』
底本:「石川啄木集(下)」新潮文庫、新潮社    1950(昭和25)年7月15日発行    1970(昭和45)年6月15日25刷改版    1991(平成3)年3月5日48刷 底本の親本:「啄木全集第2巻 歌集2」筑摩書房    1967(昭和42)年8月30日 初出:「明星」    1908(明治41)年7月 入力:青空文庫 校正:鈴木厚司 2004年8月11日作成 2016年4月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043070", "作品名": "火星の芝居", "作品名読み": "かせいのしばい", "ソート用読み": "かせいのしはい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「明星」1908(明治41)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-09-11T00:00:00", "最終更新日": "2016-04-26T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card43070.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川啄木集(下)", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1950(昭和25)年7月15日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年3月5日48刷", "校正に使用した版1": "1986(昭和61)年4月10日44刷", "底本の親本名1": "啄木全集第2巻 歌集2", "底本の親本出版社名1": "筑摩書房", "底本の親本初版発行年1": "1967(昭和42)年8月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "青空文庫", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/43070_ruby_16276.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-04-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/43070_16332.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-04-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
◎本年四月十四日、北海道小樽で逢つたのが、野口君と予との最後の会合となつた。其時野口君は、明日小樽を引払つて札幌に行き、月の末頃には必ず帰京の途に就くとの事で、大分元気がよかつた。恰度予も同じ決心をしてゐた時だから、成るべくは函館で待合して、相携へて津軽海峡を渡らうと約束して別れた。不幸にして其約束は約束だけに止まり、予は同月の二十五日、一人函館を去つて海路から上京したのである。 ◎其野口君が札幌で客死したと、九月十九日の読売新聞で読んだ時、予の心は奈何であつたらう。知る人の訃音に接して悲まぬ人はない。辺土の秋に客死したとあつては猶更の事。若し夫野口君に至つては、予の最近の閲歴と密接な関係のあつた人だけに、予の悲みも亦深からざるを得ない。其日は、古日記などを繙いて色々と故人の上を忍びながら、黯然として黄昏に及んだ。 ◎野口君と予との交情は、敢て深かつたとは言へないかも知れぬ。初めて逢つたのが昨年の九月二十三日。今日(二十二日)で恰度満一ヶ年に過ぎぬのだ。然し又、文壇の中央から離れ、幾多の親しい人達と別れて、北海の山河に漂泊した一年有半のうちの、或一時期に於ける野口君の動静を、最もよく知つてゐるのは、予の外に無いかとも思ふ。されば、故人を知つてゐた人々にそれを伝へるのは、今日となつては強ち無用の事でもない。故人の口から最も親しき人の一人として聞いてゐた人見氏の言に応じて、予一個の追悼の情を尽す旁々、此悲しき思出を書綴ることにしたのは其為だ。 ◎予は昨年五月の初め、故山の花を後にして飄然北海の客となつた。同じ頃野口君が札幌の北鳴新聞に行かれた事を、函館で或雑誌を読んで知つたが、其頃は唯同君の二三の作物と名を記してゐただけの事。八月二十五日の夜が例の大火、予の仮寓は危いところで類焼の厄を免がれたものの、結果は同じ事で、其為に函館では喰へぬ事になつて、九月十三日に焼跡を見捨てて翌日札幌に着いた。 ◎札幌には新聞が三つ。第一は北海タイムス、第二は北門新報、第三は野口君の居られた北鳴新聞。発行部数は、タイムスは一万以上、北門は六千、北鳴は八九百(?)といふ噂であつたが、予は北門の校正子として住込んだのだ。当時野口君の新聞は休刊中であつた。(此新聞は其儘休刊が続いて、十二月になつて北海道新聞と改題して出たが、間もなく復休刊。今は出てるか怎うか知らぬ。) ◎予を北門に世話してくれたのは、同社の硬派記者小国露堂といふ予と同県の人、今は釧路新聞の編輯長をしてゐる。此人が予の入社した五日目に来て、「今度小樽に新らしい新聞が出来る。其方へ行く気は無いか。」と言ふ。よし行かうといふ事になつて、色々秘密相談が成立つた。其新聞には野口雨情君も行くのだと小国君が言ふ。「甚麽人だい。」と訊くと、「一二度逢つたが、至極穏和い丁寧な人だ。」と言ふ。予は然し、実のところ其言を信じなかつた。何故といふ事もないが、予は、新体詩を作る人と聞くと、怎やら屹度自分の虫の好かぬ人に違ひないといふ様な気がする。但し逢つてみると、大抵の場合予の予想が見ン事はづれる。野口君の際もそれで、同月二十三日の晩、北一条西十丁目幸栄館なる小国君の室で初めて会した時は、生来礼にならはぬ疎狂の予は少なからず狼狽した程であつた。気障も厭味もない、言語から挙動から、穏和いづくめ、丁寧づくめ、謙遜づくめ。デスと言はずにゴアンスと言つて、其度些と頭を下げるといつた風。風采は余り揚つてゐなかつた。イをエと発音し、ガ行の濁音を鼻にかけて言ふ訛が耳についた。小樽行の話が確定して、鮪の刺身をつつき乍ら俗謡の話などが出た。酒は猪口で二つ許り飲まれた様であつた。予は三つ飲んで赤くなる。小国君も下戸。モ一人野口君と同伴して来た某君、(此人は後日まで故人と或る密接な関係のあつた人だ。)病後だとか言つて矢張あまり飲まなかつた。此某君は野口君と総ての点に於て正反対な性格の人であるが、初め二人が室に入つて来た時、予は人違ひをして、「これが野口か。」と腹の中で失望して肩を聳かした事を記憶してゐる。十二時頃に伴立つて帰つたが、予は早速野口君を好い人だと思つて了つた。其後一度同君の宅を訪問した時は、小樽の新聞の主筆になるといふ某氏の事に就いて、或不平があつて非常に憤慨してゐた。「事によつたら断然小樽行を罷めるかも知れぬ。」と言ふ。予は腹の中で「其麽事はない。」と信じ乍ら、これは面白い人だと思つた。予は年が若いから、憤慨したり激語したりする人を好きなのだ。 ◎予と札幌との関係は僅か二週間で終を告げた。二十七日に予先づ小樽に入り、三十日に野口君も来て、十月一日は小樽日報の第一回編輯会議。此新聞は、企業家としては随分名の知れてゐる山県勇三郎氏が社主、其令弟で小樽にゐる、これも敏腕の聞え高き中村定三郎氏が社主を代表して、社長は時の道会議員なる老巧なる政客白石義郎氏(今年根室郡部から出て代議士となつた。)、編輯は主筆以下八名。初号は十五日に出す事、主筆が当分総編輯をやる事、其他巨細議決して、三面の受持は野口君と予と、モ一人外交専門の西村君と決つた。 ◎此会議が済んで、社主の招待で或洋食店に行く途中、時は夕方、名高い小樽の悪路を肩を並べて歩き乍ら、野口君と予とは主筆排斥の隠謀を企てたのだ。編輯の連中が初対面の挨拶をした許りの日、誰が甚麽人やらも知らぬのに、随分乱暴な話で、主筆氏の事も、野口君は以前から知つて居られたが、予に至つては初めて逢つて会議の際に多少議論しただけの事。若し何等かの不満があるとすれば、其主筆の眉が濃くて、予の大嫌ひな毛虫によく似てゐた位のもの。 ◎此隠謀は、野口君の北海道時代の唯一の波瀾であり、且つは予の同君に関する思出の最も重要な部分であるのだが、何分事が余り新らしく、関係者が皆東京小樽札幌の間に現存してゐるので、遺憾ながら詳しく書く事が出来ない。最初「彼奴何とかしようぢやありませんか。」といふ様な話で起つた此隠謀は、二三日の中に立派(?)な理由が三つも四つも出来た。其理由も書く事が出来ない。兎角して二人の密議が着々進んで、四日目あたりになると、編輯局に多数を制するだけの味方も得た。サテ其目的はといふと、我々二人の外にモ一人硬派の○田君と都合三頭政治で、一種の共和組織を編輯局に布かうといふ、頗る小供染みた考へなのであつたが、自白すると予自身は、それが我々の為、また社の為、好い事か悪い事かも別段考へなかつた。言はば、此隠謀は予の趣味で、意志でやつたのではない。野口君は少し違つてゐた様だ。 ◎小樽は、さらでだに人口増加率の莫迦に高い所へ持つて来て、函館災後の所謂「焼出され」が沢山入込んだ際だから、貸家などは皆無といふ有様。これには二人共少なからず困つたもので、野口君は其頃色内橋(?)の近所の或運送屋(?)に泊つてゐた。予は函館から予よりも先に来てゐた家族と共に、姉の家にゐたが、幸ひと花園町に二階二室貸すといふ家が見付つたので、一先其処に移つた。此を隠謀の参謀本部として、豚汁をつついては密議を凝らし、夜更けて雨でも降れば、よく二人で同じ蒲団に雑魚寝をしたもの。或夜も然うして寝てゐて、暁近くまで同君の経歴談を聞いた事があつた。そのうちには男爵事件といふ奇抜な話もあつたが、これは他の親友諸君が詳しく御存知の事と思ふから書かぬ。 ◎野口君は予より年長でもあり、世故にも長けてゐた。例の隠謀でも、予は間がな隙がな向不見の痛快な事許りやりたがる。野口君は何時でもそれを穏かに制した。また、予の現在有つてゐる新聞編輯に関する多少の知識も、野口君より得た事が土台になつてゐる。これは長く故人に徳としなければならぬ事だ。 ◎それかと云つて、野口君は決して [明治四十一年九月二十一日起稿]
底本:「石川啄木全集 第四巻 評論・感想」筑摩書房    1980(昭和55)年3月10日初版第1刷発行    1982(昭和57)年11月30日初版第3刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※新聞の雨情逝去の報道で、直ちに執筆しはじめたが、誤報とわかり中断しています。 入力:林 幸雄 校正:noriko saito 2010年5月18日作成 2018年7月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049676", "作品名": "悲しき思出", "作品名読み": "かなしきおもいで", "ソート用読み": "かなしきおもいて", "副題": "(野口雨情君の北海道時代)", "副題読み": "(のぐちうじょうくんのほっかいどうじだい)", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-06-04T00:00:00", "最終更新日": "2018-07-19T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card49676.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川啄木全集第四巻 評論・感想", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1980(昭和55)年3月10日", "入力に使用した版1": "1982(昭和57)年11月30日初版第3刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年2月1日初版第5刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/49676_ruby_38268.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-07-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/49676_39284.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-07-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。  凩よりもさびしきその音! 眼閉づれど、 心にうかぶ何もなし。  さびしくも、また、眼をあけるかな。 途中にてふと気が変り、 つとめ先を休みて、今日も、 河岸をさまよへり。 咽喉がかわき、 まだ起きてゐる果物屋を探しに行きぬ。 秋の夜ふけに。 遊びに出て子供かへらず、 取り出して 走らせて見る玩具の機関車。 本を買ひたし、本を買ひたしと、 あてつけのつもりではなけれど、 妻に言ひてみる。 旅を思ふ夫の心! 叱り、泣く、妻子の心! 朝の食卓! 家を出て五町ばかりは、 用のある人のごとくに 歩いてみたれど―― 痛む歯をおさへつつ、 日が赤赤と、 冬の靄の中にのぼるを見たり。 いつまでも歩いてゐねばならぬごとき 思ひ湧き来ぬ、 深夜の町町。 なつかしき冬の朝かな。 湯をのめば、 湯気がやはらかに、顔にかかれり。 何となく、 今朝は少しく、わが心明るきごとし。 手の爪を切る。 うっとりと 本の挿絵に眺め入り、 煙草の煙吹きかけてみる。 途中にて乗換の電車なくなりしに、 泣かうかと思ひき。 雨も降りてゐき。 二晩おきに、 夜の一時頃に切通の坂を上りしも―― 勤めなればかな。 しっとりと 酒のかをりにひたりたる 脳の重みを感じて帰る。 今日もまた酒のめるかな! 酒のめば 胸のむかつく癖を知りつつ。 何事か今我つぶやけり。 かく思ひ、 目をうちつぶり、酔ひを味ふ。 すっきりと酔ひのさめたる心地よさよ! 夜中に起きて、 墨を磨るかな。 真夜中の出窓に出でて、 欄干の霜に 手先を冷やしけるかな。 どうなりと勝手になれといふごとき わがこのごろを ひとり恐るる。 手も足もはなればなれにあるごとき ものうき寝覚! かなしき寝覚! 朝な朝な 撫でてかなしむ、 下にして寝た方の腿のかろきしびれを。 曠野ゆく汽車のごとくに、 このなやみ、 ときどき我の心を通る。 みすぼらしき郷里の新聞ひろげつつ、 誤植ひろへり。 今朝のかなしみ。 誰か我を 思ふ存分叱りつくる人あれと思ふ。 何の心ぞ。 何がなく 初恋人のおくつきに詣づるごとし。 郊外に来ぬ。 なつかしき 故郷にかへる思ひあり、 久し振りにて汽車に乗りしに。 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど―― 考へれば、 ほんとに欲しと思ふこと有るやうで無し。 煙管をみがく。 今日ひょいと山が恋しくて 山に来ぬ。 去年腰掛けし石をさがすかな。 朝寝して新聞読む間なかりしを 負債のごとく 今日も感ずる。 よごれたる手をみる―― ちゃうど この頃の自分の心に対ふがごとし。 よごれたる手を洗ひし時の かすかなる満足が 今日の満足なりき。 年明けてゆるめる心! うっとりと 来し方をすべて忘れしごとし。 昨日まで朝から晩まで張りつめし あのこころもち 忘れじと思へど。 戸の面には羽子突く音す。 笑う声す。 去年の正月にかへれるごとし。 何となく、 今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風無し。 腹の底より欠伸もよほし ながながと欠伸してみぬ、 今年の元日。 いつの年も、 似たよな歌を二つ三つ 年賀の文に書いてよこす友。 正月の四日になりて あの人の 年に一度の葉書も来にけり。 世におこなひがたき事のみ考へる われの頭よ! 今年もしかるか。 人がみな 同じ方角に向いて行く。 それを横より見てゐる心。 いつまでか、 この見飽きたる懸額を このまま懸けておくことやらむ。 ぢりぢりと、 蝋燭の燃えつくるごとく、 夜となりたる大晦日かな。 青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、 眼閉ぢ、眼を開け、 時を惜めり。 何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る。 過ぎゆける一年のつかれ出しものか、 元日といふに うとうと眠し。 それとなく その由るところ悲しまる、 元日の午後の眠たき心。 ぢっとして、 蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる 心もとなさ! 手を打ちて 眠気の返事きくまでの そのもどかしさに似たるもどかしさ! やみがたき用を忘れ来ぬ―― 途中にて口に入れたる ゼムのためなりし。 すっぽりと蒲団をかぶり、 足をちぢめ、 舌を出してみぬ、誰にともなしに。 いつしかに正月も過ぎて、 わが生活が またもとの道にはまり来れり。 神様と議論して泣きし―― あの夢よ! 四日ばかりも前の朝なりし。 家にかへる時間となるを、 ただ一つの待つことにして、 今日も働けり。 いろいろの人の思はく はかりかねて、 今日もおとなしく暮らしたるかな。 おれが若しこの新聞の主筆ならば、 やらむ――と思ひし いろいろの事! 石狩の空知郡の 牧場のお嫁さんより送り来し バタかな。 外套の襟に頤を埋め、 夜ふけに立どまりて聞く。 よく似た声かな。 Yといふ符牒、 古日記の処処にあり―― Yとはあの人の事なりしかな。 百姓の多くは酒をやめしといふ。 もっと困らば、 何をやめるらむ。 目さまして直ぐの心よ! 年よりの家出の記事にも 涙出でたり。 人とともに事をはかるに 適せざる、 わが性格を思ふ寝覚かな。 何となく、 案外に多き気もせらる、 自分と同じこと思ふ人。 自分よりも年若き人に、 半日も気焔を吐きて、 つかれし心! 珍らしく、今日は、 議会を罵りつつ涙出でたり。 うれしと思ふ。 ひと晩に咲かせてみむと、 梅の鉢を火に焙りしが、 咲かざりしかな。 あやまちて茶碗をこはし、 物をこはす気持のよさを、 今朝も思へる。 猫の耳を引っぱりてみて、 にゃと啼けば、 びっくりして喜ぶ子供の顔かな。 何故かうかとなさけなくなり、 弱い心を何度も叱り、 金かりに行く。 待てど待てど、 来る筈の人の来ぬ日なりき、 机の位置を此処に変へしは。 古新聞! おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり、 二三行なれど。 引越しの朝の足もとに落ちてゐぬ、 女の写真! 忘れゐし写真! その頃は気もつかざりし 仮名ちがひの多きことかな、 昔の恋文! 八年前の 今のわが妻の手紙の束! 何処に蔵ひしかと気にかかるかな。 眠られぬ癖のかなしさよ! すこしでも 眠気がさせば、うろたへて寝る。 笑ふにも笑はれざりき―― 長いこと捜したナイフの 手の中にありしに。 この四五年、 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。 かうもなるものか? 原稿紙にでなくては 字を書かぬものと、 かたく信ずる我が児のあどけなさ! どうかかうか、今月も無事に暮らしたりと、 外に欲もなき 晦日の晩かな。 あの頃はよく嘘を言ひき。 平気にてよく嘘を言ひき。 汗が出づるかな。 古手紙よ! あの男とも、五年前は、 かほど親しく交はりしかな。 名は何と言ひけむ。 姓は鈴木なりき。 今はどうして何処にゐるらむ。 生れたといふ葉書みて、 ひとしきり、 顔をはれやかにしてゐたるかな。 そうれみろ、 あの人も子をこしらへたと、 何か気の済む心地にて寝る。 『石川はふびんな奴だ。』 ときにかう自分で言ひて、 かなしみてみる。 ドア推してひと足出れば、 病人の目にはてもなき 長廊下かな。 重い荷を下したやうな、 気持なりき、 この寝台の上に来ていねしとき。 そんならば生命が欲しくないのかと、 医者に言はれて、 だまりし心! 真夜中にふと目がさめて、 わけもなく泣きたくなりて、 蒲団をかぶれる。 話しかけて返事のなきに よく見れば、 泣いてゐたりき、隣の患者。 病室の窓にもたれて、 久しぶりに巡査を見たりと、 よろこべるかな。 晴れし日のかなしみの一つ! 病室の窓にもたれて 煙草を味ふ。 夜おそく何処やらの室の騒がしきは 人や死にたらむと、 息をひそむる。 脉をとる看護婦の手の、 あたたかき日あり、 つめたく堅き日もあり。 病院に入りて初めての夜といふに、 すぐ寝入りしが、 物足らぬかな。 何となく自分をえらい人のやうに 思ひてゐたりき。 子供なりしかな。 ふくれたる腹を撫でつつ、 病院の寝台に、ひとり、 かなしみてあり。 目さませば、からだ痛くて 動かれず。 泣きたくなりて、夜明くるを待つ。 びっしょりと寝汗出てゐる あけがたの まだ覚めやらぬ重きかなしみ。 ぼんやりとした悲しみが、 夜となれば、 寝台の上にそっと来て乗る。 病院の窓によりつつ、 いろいろの人の 元気に歩くを眺む。 もうお前の心底をよく見届けたと、 夢に母来て 泣いてゆきしかな。 思ふこと盗みきかるる如くにて、 つと胸を引きぬ―― 聴診器より。 看護婦の徹夜するまで、 わが病ひ、 わるくなれとも、ひそかに願へる。 病院に来て、 妻や子をいつくしむ まことの我にかへりけるかな。 もう嘘をいはじと思ひき―― それは今朝―― 今また一つ嘘をいへるかな。 何となく、 自分を嘘のかたまりの如く思ひて、 目をばつぶれる。 今までのことを みな嘘にしてみれど、 心すこしも慰まざりき。 軍人になると言ひ出して、 父母に 苦労させたる昔の我かな。 うっとりとなりて、 剣をさげ、馬にのれる己が姿を 胸に描ける。 藤沢といふ代議士を 弟のごとく思ひて、 泣いてやりしかな。 何か一つ 大いなる悪事しておいて、 知らぬ顔してゐたき気持かな。 ぢっとして寝ていらっしゃいと  子供にでもいふがごとくに  医者のいふ日かな。 氷嚢の下より まなこ光らせて、  寝られぬ夜は人をにくめる。 春の雪みだれて降るを  熱のある目に  かなしくも眺め入りたる。 人間のその最大のかなしみが  これかと ふっと目をばつぶれる。 廻診の医者の遅さよ! 痛みある胸に手をおきて  かたく眼をとづ。 医者の顔色をぢっと見し外に 何も見ざりき――  胸の痛み募る日。  病みてあれば心も弱るらむ! さまざまの 泣きたきことが胸にあつまる。 寝つつ読む本の重さに  つかれたる 手を休めては、物を思へり。 今日はなぜか、  二度も、三度も、  金側の時計を一つ欲しと思へり。 いつか是非、出さんと思ふ本のこと、 表紙のことなど、  妻に語れる。 胸いたみ、 春の霙の降る日なり。  薬に噎せて、伏して眼をとづ。 あたらしきサラドの色の  うれしさに、 箸をとりあげて見は見つれども―― 子を叱る、あはれ、この心よ。  熱高き日の癖とのみ  妻よ、思ふな。 運命の来て乗れるかと  うたがひぬ―― 蒲団の重き夜半の寝覚めに。 たへがたき渇き覚ゆれど、  手をのべて  林檎とるだにものうき日かな。 氷嚢のとけて温めば、 おのづから目がさめ来り、  からだ痛める。 いま、夢に閑古鳥を聞けり。  閑古鳥を忘れざりしが  かなしくあるかな。 ふるさとを出でて五年、  病をえて、 かの閑古鳥を夢にきけるかな。 閑古鳥――  渋民村の山荘をめぐる林の  あかつきなつかし。 ふるさとの寺の畔の  ひばの木の いただきに来て啼きし閑古鳥! 脈をとる手のふるひこそ かなしけれ――  医者に叱られし若き看護婦! いつとなく記憶に残りぬ―― Fといふ看護婦の手の  つめたさなども。 はづれまで一度ゆきたしと  思ひゐし かの病院の長廊下かな。 起きてみて、 また直ぐ寝たくなる時の  力なき眼に愛でしチュリップ! 堅く握るだけの力も無くなりし やせし我が手の  いとほしさかな。 わが病の  その因るところ深く且つ遠きを思ふ。  目をとぢて思ふ。 かなしくも、  病いゆるを願はざる心我に在り。 何の心ぞ。 新しきからだを欲しと思ひけり、  手術の傷の  痕を撫でつつ。 薬のむことを忘るるを、  それとなく、 たのしみに思ふ長病かな。 ボロオヂンといふ露西亜名が、  何故ともなく、 幾度も思ひ出さるる日なり。 いつとなく我にあゆみ寄り、  手を握り、 またいつとなく去りゆく人人! 友も妻もかなしと思ふらし――  病みても猶、  革命のこと口に絶たねば。 やや遠きものに思ひし テロリストの悲しき心も――  近づく日のあり。 かかる目に  すでに幾度会へることぞ! 成るがままに成れと今は思ふなり。 月に三十円もあれば、田舎にては、 楽に暮せると――  ひょっと思へる。 今日もまた胸に痛みあり。  死ぬならば、  ふるさとに行きて死なむと思ふ。 いつしかに夏となれりけり。  やみあがりの目にこころよき  雨の明るさ! 病みて四月――  そのときどきに変りたる  くすりの味もなつかしきかな。 病みて四月――  その間にも、猶、目に見えて、  わが子の背丈のびしかなしみ。 すこやかに、 背丈のびゆく子を見つつ、  われの日毎にさびしきは何ぞ。 まくら辺に子を坐らせて、 まじまじとその顔を見れば、  逃げてゆきしかな。 いつも子を  うるさきものに思ひゐし間に、 その子、五歳になれり。 その親にも、  親の親にも似るなかれ―― かく汝が父は思へるぞ、子よ。 かなしきは、  (われもしかりき)  叱れども、打てども泣かぬ児の心なる。 「労働者」「革命」などといふ言葉を  聞きおぼえたる  五歳の子かな。 時として、  あらん限りの声を出し、 唱歌をうたふ子をほめてみる。  何思ひけむ―― 玩具をすてておとなしく、 わが側に来て子の坐りたる。 お菓子貰ふ時も忘れて、  二階より、  町の往来を眺むる子かな。 新しきインクの匂ひ、 目に沁むもかなしや。  いつか庭の青めり。 ひとところ、畳を見つめてありし間の  その思ひを、 妻よ、語れといふか。 あの年のゆく春のころ、 眼をやみてかけし黒眼鏡――  こはしやしにけむ。 薬のむことを忘れて、  ひさしぶりに、 母に叱られしをうれしと思へる。 枕辺の障子あけさせて、 空を見る癖もつけるかな――  長き病に。 おとなしき家畜のごとき  心となる、 熱やや高き日のたよりなさ。 何か、かう、書いてみたくなりて、  ペンを取りぬ―― 花活の花あたらしき朝。 放たれし女のごとく、 わが妻の振舞ふ日なり。  ダリヤを見入る。 あてもなき金などを待つ思ひかな。  寝つ起きつして、  今日も暮したり。 何もかもいやになりゆく この気持よ。  思ひ出しては煙草を吸ふなり。 或る市にゐし頃の事として、  友の語る 恋がたりに嘘の交るかなしさ。 ひさしぶりに、  ふと声を出して笑ひてみぬ―― 蝿の両手を揉むが可笑しさに。 胸いたむ日のかなしみも、  かをりよき煙草の如く、  棄てがたきかな。 何か一つ騒ぎを起してみたかりし、  先刻の我を  いとしと思へる。 五歳になる子に、何故ともなく、 ソニヤといふ露西亜名をつけて、  呼びてはよろこぶ。    * 解けがたき 不和のあひだに身を処して、  ひとりかなしく今日も怒れり。 猫を飼はば、 その猫がまた争ひの種となるらむ、  かなしきわが家。 俺ひとり下宿屋にやりてくれぬかと、  今日もあやふく、  いひ出でしかな。 ある日、ふと、やまひを忘れ、 牛の啼く真似をしてみぬ、――  妻子の留守に。 かなしきは我が父!  今日も新聞を読みあきて、  庭に小蟻と遊べり。 ただ一人の をとこの子なる我はかく育てり。  父母もかなしかるらむ。 茶まで断ちて、 わが平復を祈りたまふ  母の今日また何か怒れる。 今日ひょっと近所の子等と遊びたくなり、 呼べど来らず。  こころむづかし。 やまひ癒えず、 死なず、  日毎にこころのみ険しくなれる七八月かな。 買ひおきし 薬つきたる朝に来し  友のなさけの為替のかなしさ。 児を叱れば、 泣いて、寝入りぬ。  口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな。 何がなしに 肺が小さくなれる如く思ひて起きぬ――  秋近き朝。 秋近し!  電燈の球のぬくもりの  さはれば指の皮膚に親しき。 ひる寝せし児の枕辺に 人形を買ひ来てかざり、  ひとり楽しむ。 クリストを人なりといへば、  妹の眼がかなしくも、  われをあはれむ。 縁先にまくら出させて、  ひさしぶりに、  ゆふべの空にしたしめるかな。 庭のそとを白き犬ゆけり。  ふりむきて、  犬を飼はむと妻にはかれる。
底本:「日本文学全集12 国木田独歩・石川啄木集」集英社    1967(昭和42)年9月7日初版発行    1972(昭和47)年9月10日9版発行 入力:j.utiyama 校正:浜野智 1998年8月3日公開 2005年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     ○ 『何か面白い事は無いかねえ。』といふ言葉は不吉な言葉だ。此二三年來、文學の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何囘この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顏さへ見れば、さう言はずにゐられない樣な氣がする事もあつた。 『何か面白い事は無いかねえ。』 『無いねえ。』 『無いねえ。』  さう言つて了つて口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な氣持が滓の樣に殘る。恰度何か拙い物を食つた後の樣だ。そして其の後では、もう如何な話も何時もの樣に興を引かない。好きな煙草さへ甘いとも思はずに吸つてゐる事が多い。  時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何處かへ行きたくつても、何處といふ行くべき的が無い。世界の何處かには何か非常な事がありそうで、そしてそれと自分とは何時まで經つても關係が無ささうに思はれる。しまひには、的もなくほつつき𢌞つて疲れた足が、遣場の無い心を運んで、再び家へ歸つて來る事になる。――まるで、自分で自分の生命を持餘してゐるやうなものだ。  何か面白い事は無いか!  それは凡ての人間の心に流れてゐる深い浪漫主義の嘆聲だ。――さう言へば、さうに違ひない。然しさう思つたからとて、我々が自分の生命の中に見出した空虚の感が、少しでも減ずる譯ではない。私はもう、益の無い自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了つた。それだけ私の考へは、實際上の問題に頭を下げて了つた。――若しも言ふならば、何時しか私は、自分自身の問題を何處までも机の上で取扱つて行かうとする時代の傾向――知識ある人達の歩いてゐる道から、一人離れて了つた。 『何か面白い事は無いか。』さう言つて街々を的もなく探し𢌞る代りに、私はこれから、『何うしたら面白くなるだらう。』といふ事を、眞面目に考へて見たいと思ふ。      ○  何時だつたか忘れた。詩を作つてゐる友人の一人が來て、こんな事を言つた。――二三日前に、田舍で銀行業をやつてゐる伯父が出て來て、お前は今何をしてゐると言ふ。困つて了つて、何も爲ないでゐると言ふと、學校を出てから今迄何も爲ないでゐた筈がない、何んな事でも可いから隱さずに言つて見ろと言つた。爲方が無いから、自分の書いた物の載つてゐる雜誌を出して見せると、『お前はこんな事もやるのか。然しこれはこれだが、何か別に本當の仕事があるだらう。』と言つた。―― 『あんな種類の人間に逢つちや耐らないねえ。僕は實際弱つちやつた。何とも返事の爲やうが無いんだもの。』と言つて、其友人は聲高く笑つた。  私も笑つた。所謂俗人と文學者との間の間隔といふ事が其の時二人の心にあつた。  同じ樣な經驗を、嘗て、私も幾度となく積んだ。然し私は、自分自身の事に就いては笑ふ事が出來なかつた。それを人に言ふ事も好まなかつた。自分の爲事を人の前に言へぬといふ事は、私には憤懣と、それよりも多くの羞恥の念とを與へた。  三年經ち、五年經つた。  何時しか私は、十七八の頃にはそれと聞くだけでも懷かしかつた、詩人文學者にならうとしてゐる、自分よりも年の若い人達に對して、すつかり同情を失つて了つた。會つて見て其の人の爲人を知り、其の人の文學的素質に就いて考へる前に、先づ憐愍と輕侮と、時としては嫌惡を注がねばならぬ樣になつた。殊に、地方にゐて何の爲事も無くぶらぶらしてゐながら詩を作つたり歌を作つたりして、各自他人からは兎ても想像もつかぬ樣な自矜を持つてゐる、そして煮え切らぬ謎の樣な手紙を書く人達の事を考へると、大きな穴を掘つて、一緒に埋めて了つたら、何んなに此の世の中が薩張するだらうとまで思ふ事がある樣になつた。  實社會と文學的生活との間に置かれた間隔をその儘にして笑つて置かうとするには、私は餘りに「俗人」であつた。――若しも私の文學的努力(と言ひ得るならば)が、今迄に何等かの効果を私に齎してゐたならば、多分私も斯うは成らなかつたかも知れない。それは自分でも悲い心を以て思ひ𢌞す事が無いでもない。然し文學的生活に對する空虚の感は、果して唯文壇の劣敗者のみの問題に過ぎないのだらうか。  此處では文學其物に就いて言つてるのではない。  文學と現實の生活とを近ける運動は、此の數年の間我々の眼の前で花々しく行はれた。思慮ある作家に取つては、文學は最早單なる遊戲や詠嘆や忘我の國ではなくなつた。或人はこれを自家の忠實なる記録にしようとした。或人は其の中に自家の思想と要求とを託さうとした。又或人にあつては、文學は即ち自己に對する反省であり、批評であつた。文學と人生との接近といふ事から見れば、假令此の運動にたづさはらなかつた如何なる作家と雖も、遂に此運動を惹起したところの時代の精神に司配されずにゐる事は出來なかつた。事實は何よりの證據である。此意味から言へば、自然主義が確實に文壇を占領したといふのも敢て過言ではないであらう。  觀照と實行の問題も商量された。それは自然主義其物が單純な文藝上の問題でなかつた爲には、當然足を踏み入れねばならぬ路の一つであつた。――然し其の商量は、遂に何の滿足すべき結論をも我等の前に齎さなかつた。嘗て私は、それを自然主義者の墮落と觀た。が、更に振返つて考へた時に、問題其物のそれが當然の約束でなければならなかつた。と言ふよりは、寧ろ自然主義的精神が文藝上に占め得る領土の範圍――更に適切に言へば、文藝其物の本質から來るところの必然の運命でなければならなかつた。  自然主義が自然主義のみで完了するものでないといふ議論は、其處からも確實に認められなければならない。隨つて、今日及び今日以後の文壇の主潮を、自然主義の連續であると見、ないと見るのは、要するに、實に唯一種の名義爭ひでなければならない。自然主義者は明確なる反省を以て、今、其の最初の主張と文藝の本性とを顧慮すべきである。そして其の主張が文藝上に働き得るところの正當なる範圍を承認すると共に、今日までの運動の經過と、それが今日以後に及ぼすところの効果に就いて滿足すべきである。  それは何れにしても、文學の境地と實人生との間に存する間隔は、如何に巧妙なる外科醫の手術を以てしても、遂に縫合する事の出來ぬものであつた。假令我々が國と國との間の境界を地圖の上から消して了ふ時はあつても、此の間隔だけは何うする事も出來ない。  それあるが爲に、蓋し文學といふものは永久に其の領土を保ち得るのであらう。それは私も認めない譯には行かない。が又、それあるが爲に、特に文學者のみの經驗せねばならぬ深い悲しみといふものがあるのではなからうか。そして其の悲みこそ、實に彼の多くの文學者の生命を滅すところの最大の敵ではなからうか。  すでに文學其物が實人生に對して間接的なものであるとする。譬へば手淫の如きものであるとする。そして凡ての文學者は、實行の能力、乃至は機會、乃至は資力無き計畫者の樣なものであるとする。  男といふ男は女を欲する。あらゆる計畫者は、自ら其の計畫したところの事業を經營したいと思ふ。それが普通ではなからうか。 (假令世には、かの異常な手段に依つてのみ自己の欲望を充たしてゐる者が、それに慣れて了つて、最早正當な方法の前には何の感情をも起さなくなる樣な例はあるにしても。)  故人二葉亭氏は、身生れて文學者でありながら、人から文學者と言はれる事を嫌つた。坪内博士は嘗てそれを、現在日本に於て、男子の一生を託するに足る程に文學といふものの價値なり勢力なりが認められてゐない爲ではなからうか、といふ樣に言はれた事があると記憶する。成程さうでもあらうと私は思つた。然し唯それだけでは、あの革命的色彩に富んだ文學者の胸中を了解するに、何となく不十分に思はれて爲方がなかつた。  又或時、生前其の人に親しんでゐた人の一人が、何事によらず自分の爲た事に就いて周圍から反響を聞く時の滿足な心持といふ事によつて、彼の獨歩氏が文學以外の色々の事業に野心を抱いてゐた理由を忖度しようとした事があつた。同じ樣な不滿足が、それを讀んだ時にも私の心にあつた。  又、これは餘り勝手な推量に過ぎぬかも知れぬけれども、内田魯庵氏は嘗て文學を利器として實社會に肉薄を試みた事のある人だ。其の生血の滴る樣な作者の昂奮した野心は、あの『社會百面相』といふ奇妙な名の一册に書き止められてゐる。その本の名も今は大方忘られて了つた。そして内田氏は、それ以後もう再び創作の筆を執らうとしなかつた。其處にも何か我々の考へねばならぬ事があるのではなからうか。  トルストイといふ人と内田氏とを并べて考へて見る事は、此際面白い對照の一つでなければならない。あの偉大なる露西亞人に比べると、内田氏には如何にも日本人らしい、性急な、そして思切りのよいと言つた風のところが見える。      ○  自分の机の上に、一つ濟めば又一つといふ風に、後から後からと爲事の集つて來る時ほど、私の心臟の愉快に鼓動してゐる時はない。  それが餘り立込んで來ると、時として少し頭が茫乎として來る事がある。『こんな事で逆上せてなるものか!』さう自分で自分を叱つて、私はまた散りさうになる心を爲事に集る。其の時、假令其の爲事が詰らぬ仕事であつても、私には何の慾もない。不平もない。頭腦と眼と手と一緒になつて、我ながら驚くほど敏活に働く。  實に好い氣持だ。『もつと、もつと、もつと急がしくなれ。』と私は思ふ。  やがて一しきり其の爲事が濟む。ほつと息をして煙草をのむ。心よく腹の減つてる事が感じられる。眼にはまだ今迄の急がしかつた有樣が見えてゐる樣だ。『ああ、もつと急がしければ可かつた!』と私はまた思ふ。  私は色々の希望を持つてゐる。金も欲しい、本も讀みたい、名聲も得たい。旅もしたい、心に適つた社會にも住みたい、自分自身も改造したい、其他數限りなき希望はあるけれども、然しそれ等も、この何にまれ一つの爲事の中に沒頭してあらゆる慾得を忘れた樂みには代へ難い。――と其の時思ふ。  家へ歸る時間となる。家へ歸つてからの爲事を考へて見る。若し有れば私は勇んで歸つて來る。が、時として差迫つた用事の心當りの無い時がある。『また詰らぬ考へ事をせねばならぬのか!』といふ厭な思ひが起る。『願はくば一生、物を言つたり考へたりする暇もなく、朝から晩まで働きづめに働いて、そしてバタリと死にたいものだ。』斯ういふ事を何度私は電車の中で考へたか知れない。時としては、把手を握つたまま一秒の弛みもなく眼を前方に注いで立つてゐる運轉手の後姿を、何がなしに羨ましく尊く見てゐる事もあつた。  ――斯うした生活のある事を、私は一年前まで知らなかつた。  然し、然し、時あつて私の胸には、それとは全く違つた心持が卒然として起つて來る。恰度忘れてゐた傷の痛みが俄かに疼き出して來る樣だ。抑へようとしても抑へきれない、紛らさうとしても紛らしきれない。  今迄明かつた世界が見る間に暗くなつて行く樣だ。樂しかつた事が樂しくなくなり、安んじてゐた事が安んじられなくなり、怒らなくても可い事にまで怒りたくなる。目に見、耳に入る物一つとして此の不愉快を募らせぬものはない。山に行きたい、海に行きたい、知る人の一人もゐない國に行きたい、自分の少しも知らぬ國語を話す人達の都に紛れ込んでゐたい……自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然さを心ゆく許り嘲つてみるのは其の時だ。 (明治43・6「新小説」十五ノ六)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「新小説 十五ノ六」    1910(明治43)年6月 入力:蒋龍 校正:小林繁雄 2009年8月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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(一) (「閑天地」は実に閑天地なり。野㯙雲に舞ひ、黄牛の草に眠るが如し。又春光野に流れて鳥初めて歌ひ、暮風清蔭に湧いて蜩の声を作すが如し。未だ許さず、生きんが為めにのみ生き、行かんがためにのみ行くが如き人の、この悠々の世界に入るを。啄木、永く都塵に埋もれて、旦暮身世の怱忙に追はれ、意ならずして故郷の風色にそむくうちに、身は塵臭に染み、吟心また労をおぼえぬ。乃ち茲に暫らく閑天地を求めて、心頭に雲を放ち、胸底に清風を蔵し、高眠安臥、興を暮天の鐘にさぐり、思を緑蔭の流光に托し、風鈴に和して吟じ、雨声を友として語り、この夏中百日を暢心静居の界に遊ばんとす。我がなつかしき故山の読者よ、卿等若し胸に一点の閑境地ありて、忙中なほ且つ花を花と見、鳥を鳥と聴くの心あらば、来つてこの埒もなき閑天地に我みちのくの流人と語るの風流をいなむ勿れ。記してこの漫録百題のはしがきとす。) (二) 落人ごゝろ  このたびの我が旅故郷の閑古鳥聴かんがためとも人に云ひぬ。塵ばみたる都の若葉忙しさ限りもなき陋巷の住居に倦み果てゝとも云ひぬ。何はともあれ、素袷さむき暁の風に送られて鉄車一路の旅、云ひがたき思を載せたるまゝに、小雨ふる仙台につきたるは五月廿日の黄昏時なりしが、たゞフラ〳〵と都門を出で来し身の、もとより心さへ身さへ定まらぬみちのくの放浪児、古への宮城野の跡の、目もはるなる眺め仲々に捨てがたく、若葉衣の袖かろく心もすが〳〵なるに、たへがたき思ひする身も聊かはなぐさみて、さつき晴なる折々は広瀬川の畔にもさまよひ青野の涯に海を見る天主台、むかひ山などにものぼりぬ。尻上りのそこの語もきゝなれては、さまでに耳に悪しからず、晩翠湖畔花郷臥城など、親しうする友達の情にほだされて、つひうか〳〵と十日許りを旅館に打ち過ごしたり。兎角うする間に、一人居の物淋しき暇々、沈み行く心いかにか引きかへさめと、足弱机ひきよせて旅硯呑みさしの茶に磨り、料紙の小半紙皺のべて、心ともなく筆を染めける小詩の二つ三つ、初夏の落人が詩心たゞ何となきそゞろぎのすさびなれば、心たかうして人に示すものにはあらねど、また来ん夏の思出に、忍草の若芽うらめしきまで見すぼらしきもかへりて興あらめと、五城楼下の記念、かき認めてこゝに『おちうどごゝろ』とは題しつ。   夏は来ぬ 海こえて夏は来ぬ―― 三千里波を御す 白駒の青きいぶきに 世は今樹々も若いばえ さなりその、青の国 山こえて夏は来ぬ―― さくら色うすべにや 羅の裾の『春』の跡追ふ 若武士の太刀姿 さなりその、息もゆる 野をこえて夏は来ぬ―― 生々し黒瞳の 二人なりかろき足並 まばゆき生命もとむるや さなりその、恋の国 森こえて夏は来ぬ―― 八寸の星形に さきほこる百合の国より 海経てきぬる微風の さなりその、香は甘し 空こえて夏は来ぬ―― 銀の光さす 白日のつばさを負ひて 高天がける青竜や さなりその、強光 南より我は来ぬ―― 夏の日を讃ぜむに わが心絃はほそしと 秀歌の都のがれきて さなりその、落人や 一百里我はきぬ―― 夜の鳥の声遠き 静夜の揺るゝ灯影に ひとり泣かむとみちのくへ さなりその、一百里 ゆめ心我は来ぬ―― いにしへの宮城野の さすらひや(あゝ淀の水) よどむ暫しの岸の宿 さなりその、川青し にげ心我は来ぬ―― 息きれてのぼりける 天主閣――流をも見たり 遠野も見たり――夏は来ぬ さなりその、夏は来ぬ 天地に夏はきぬ―― 打ちいたみ来て眠れば たびやかたこの落人に 似たりしば啼くほととぎす さなり、その夜の鳥 (三) 落人ごゝろ (つゞき)  維新回天の時漸く迫れるの頃、長刀短袴の青年にして、文天祥が正気之歌を知らざる者なかりしが如く、今の世、杖を学林に曳くものにして、未だ『天地有情』を知らざるものはあらじ。広瀬河畔の晩翠を知らむと欲せば、必ずしも之を詩を知る者に聞くを要せざる也。僻陬の村夫子猶且つ彼が名を記して幸福なる詩人と云ふ。  二千余年の長夜の暗漸やく明けて、この国に新らしき生命の光もゆるや、彼も亦単身孤塁、吟杖を揮つて赤門校裡の書窓より新声を絶叫したるの一人なりき。み空の花なる星、この世の星なる花、黙々として千古語らざれども、夜々綢繆の思ひ絶えざる彷彿一味の調は、やがて絶海の孤島に謫死したる大英雄を歌ふの壮調となり五丈原頭凄惨の秋を奏でゝは人をして啾々の鬼哭に泣かしめ、時に鏗爾たる暮天の鐘に和して、劫風ともにたえざる深沈の声を作し。長城万里に亘り荒蕪落日に乱るゝの所、悵たる征驂をとゞめて遊子天地に俯仰すれば、ために万巻の史書泣動し、満天の白雲凝つて大地を圧するの思あり。若し夫れ、銅絃鉄撥、劈雲の調に激して黒竜江畔にひゞけば、大水忽ちに止まつて血涙の色をなせりき。我は今こゝに彼が詩をあげつらふを好まずと雖ども、我が詩壇の暁鐘として又、壮大の詩風を独占したる観あるに於て彼が名や少なくとも永く日本詩史の上に伝らざるべからざる也。我幼にして嘗て初めて彼が詩巻を友に借り、深夜孤燈の下、去吟来興にたへずして、案を打つて高唱したりし時の事、今猶胸に刻まれて記憶に新たなるを覚ゆ。京に入りてより、嘲風氏に聞き、竹風君と話して彼が性行の一端を覗がひ、逢ふて詩談を交へんとするの情あり。我仙台に入るや、招かれて一夜大町の居にこの幸福なる詩人を訪ふ。(未完) (四) 落人ごゝろ (つゞき)  燈光燦として眩ゆき所、地中海の汐風に吹かれ来しこの友の美髯、如何に栄々しくも嬉しげに輝やきしか、我は実になつかしき詩人なりと思ひぬ。又、現代の詩人にして此人程何等の臭味なき詩人はあらじと思ひぬ。共にラフアエルの画集をひもどきて我、これらの画にある背景の人酔はしむる趣こそ北伊太利あたりの景色を彼が神筆に写し取りたるものとか聞く。その美しき国にしたしく遊びたりし時の君の想ひは如何なりしか、と云へば、美髯を一捻して主人の静かに答ふらく、然りアルノの河の畔など、伊太利の風光もさる事乍ら、然も我にはかの瑞西の楽天地、アルペン山の又なき神々しさを拝みたる許り嬉しき時はなかりき。勇みに勇める我が心も、かのアルペンを仰ぎ見たる時は、小蜘蛛の如く小さくなりて、渾身の血も凍るかと許り、口は開きたるまゝに言葉も得出でざりき。如何なる霊筆を持てるものも、誰かは彼の様なる自然の大威力に圧せられてはその腕戦のかざるべき、と。かくて更らに幾葉の写真など取り出して、これこそはアルペンぞ、こなたの丘の上は我は半日あまりも立ちつくしたる事なり、など、云ひ〳〵てその美しき国の事遽かに恋しくやなりけむ、暫し目を瞑ぢて、レナウが歌とおぼゆるを口吟み居たりき。話頭詩に転ずるや、彼曰く、我は如何なる人の作たるを問はず、一特長ある詩ならば日夕愛誦に資するに躊躇せずと。又曰く、林外の夏花少女は驚嘆すべし、我は彼を以て泣菫君と兄たりがたく弟たりがたしと思ふと。又曰く、我は国詩の格調に於て七五調本位を以て正道なりと思惟すと。我は不幸にしてこの詩人の詩論に賛ずる能はざりき。然れども我は少なくとも彼を解しえたりと思ひぬ。時は移つて夢の如く談は流れて水の如し。杜鵑もいくたびか聴きぬ。夜更けての後なり、ふとしたる事より、はしなく談音楽の上に移るや、伯林よりの土産とか云ふ秘蔵の蓄音機を取り出して、特に我がために数番の曲を撰んで聞かせられたり。南欧近代の楽聖と云はるゝヰルヂーが『トロバヅウル』の曲もありき。ワグネルが『タンホイゼル』の第三齣、『フアウスト』歌劇中のローマンマーチ、さてはかの名高き『ウヰルヘルム・テル』の管絃楽『ローヘングリン』の花嫁の進行曲もありき。ロンドンの流行唄、雷鳴の曲もありき。生命なき一ヶの機械にすぎざれど、さすがにかの欧米の天に雷の如く響きわたりたる此等楽聖が深潭の胸をしぼりし天籟の遺韻をつたへて、耳まづしき我らにはこの一小機械子の声さへ、猶あたゝかき天苑の余光の如くにおぼえぬ。  夜も一時をすぎつる頃なり。辻車も見あたらねば、ひとりトボ〳〵と淋しき大路を宿にかへるに、常には似ぬ安けさの我胸に流れ、旅心恍として一味の慰楽をむさぼり得たり。あくる日、匇々筆を取つて一首のソネツトを得、使を走せて晩翠君に送りぬ。      ○ 初日は上りぬ、あな〳〵この国には、 光の使の鳥さへえ鳴かぬや、と、 うつけし声々亜細亜を領ず時し、 聞いたり、――東の花苑花を踏みて、 崇さ、雄々しさ、王者のほこり見する、 雞ほがらに鳴きぬる其初声――、 あかつき残れる夜影の雲もつひて、 あゝ其声よりこの国朝と成りぬ。 見よ今、歌苑に花降る朝ぼらけを、 覚めずや、いざ、とぞ促す御宣ありと、 稚き心の夢の瞳ひらきぬれば、 貴なり、大苑生花啄みつつ、 歌ふて立ちぬるくだかけ――其冠に、 天の日燃えたり――我たゞ眺め入りぬ。(此項をはり) (五) 世の教育者よ  一友あり、嘗て我に語るらく、余の都門に入りてより茲に五年、其間宿を変ふる事十数回に及びぬ。或時は黄塵煙の如き陋巷に籠り、或時は故郷を忍ぶたつきありと物静かなる郊外に住みつる事もありき。然もかの駒込の奥深き一植木屋の離亭借りたる時許り、やさしくも親しき待遇享けし事はあらず、と。我しづかに思へらく、然るか、然るか、あゝ夫れ実に然らむ也。  人よ、これを単に他愛もなき坐談の一節なりとて、軽々に看過する勿れ。尊とむべき教訓は、豈かの厳たる白堊校堂裡、鹿爪らしき八字髯の下よりのみ出づる者ならむや。日常瑣々の事、猶且つ味はひ来れば無限の趣味あり、無限の秘密あり、無限の教訓ありて、我等をして思はず忸怩として無謀の行動を敢てせざらしむる者也。  植木屋の離亭を借りて親切なる待遇を得たりとのみ云はゞ、誰かその偶然なる一事に、しかく深奥の教訓ありと思ふものあらむや。然も世に真に偶然なるの事はなし。たとへ人の偶然事のみとして雲煙看過するの事件も、仔細に観来れば奥底必ず不動の磐坐のあるありて、未だかの長汀波上の蜃気楼台の如からず。宇宙万般の事万般を貫くの理法ありて、洩さず、乱れず、発しては乃ち不可不の因を成し、収まつては乃ち不許不の果を作る。  我をして先づ想はしめよ、見せしめよ、聞かしめよ、而して教へられしめよ、彼植木屋は何ぞ。彼はこれ一箇市井の老爺、木を作り、花を作り、以て鬻いで生計を立つる者のみ。等しく生計を立つるが為めなりと雖ども、然も彼の業は、かの算珠盤上に心転々し、没索たる生活に日夕を埋めて、四時の発落さへも知らぬが如き非興のものに非ず。早春風やはらいで嫩芽地上に萌ゆるより、晩冬の寒雪に草根の害はれむを憂ふるまで、旦暮三百六十日、生計の為めにすなる勤行は、やがて彼が心をして何日しか自然の心に近かしめ、凭らしめ、親しましめ、相抱かしめ、一茎の草花、一片の新葉に対するも、猶彼が其子女に対するが如き懸念と熱心と愛情とを起すに至らしめたるにはあらざるか。かくして自然は彼の心に住し、彼の心は一茎の草花にも洽ねき恵みと美との自然の大慈悲心に融合するに至り、茲に微妙なる心情の変化は、遂に彼をして其厭ふべき没人情の都塵の中にあり乍ら、猶且つ枯れざるの花を胸に咲かせ、凋まざる温雅の情操を持して、利害の打算に維れ余念なき現時の市中に、其高く優しき行為を成すに至らしめしにはあらざるか。吾人を以て殊更に詭弁を弄するものとなす勿れ。吾人は実に斯く考へ来つて、かの一友が逢会したりし偶然事、其永久に彼をして感謝せしむる清き記憶の中に、この注目すべき不可不の因を見、更にこの因のもたらす尊とき不許不の果の、我等に教ふる事こよなくも深きを感ぜずんばあらず。  翻つて問ふ。世の教育者、特に小学教育者諸子よ。諸子はこゝまで読み至つて何の感慨をか得たる。諸子既に人を教ふるの賢明あり、以てかの無学なる植木屋の老爺に比すべからず。剰さへ諸子の花苑には、宇宙の尤も霊妙なる産物たる清浄無垢の美花あり。その花、開いては天に参し、地を掩ふの姿にも匂ひぬべく、もとより微々たる一茎一枝の草樹に比すべからず。然れども諸子よ、ひるがへつて乞ひ問はむ、諸子が其霊妙純聖の花を育てながら、よく彼の一老爺が草花より得たると同じ美しき心をば各々の胸に匂はせつゝありや。諸子は其多数が比々として表白しつゝある不浄と敗亡と乱倫とを如何せんとするや。あゝ我は多く云はじ、たゞ一言を記して、世の聖人たらざるべからずして、然も未だ成れるを聞かざる小学教育者諸子に呈す、諸子先づ三尺の地を割いて一茎の花を植ゑよ。朝に水をかひ、夕に虫をはらふて、而して、一年なれ、二年なれ、しかる後に静かに其花前に跼いて、思へよ、恥ぢよ、悔いよ。かくて初めて汝の双肩にかゝれる崇高絶大の天職も、意義あり、力あり、生命あり、光あるに至らむ也。(六月十二日夜) (六) 信念の巌  世に、最も恐るべき、最も偉大なる、最も堅牢なる、而して何物の力と雖ども動かし能はざるものあり。乃ち人の信念也。ソクラテス、雅典の子弟を迷はすの故を以て法廷に引かるゝや、曰く、我は雅典の光なり、罪すべくんば罪せよと。又再び物言はず。かくて遂に死せりき。日蓮が首の座に据ゑらるゝや又同じ。基督の方伯の前に立てる時も又同じ。彼等は何事をも自らのために弁ぜざりき。然も其緘黙は蓋しこの世に於ける最大の雄弁たりし也。信念の巌は死もこれを動かす能はず、況んや区々たる地上の権力をや。大哲スピノザ、少壮にして猶太神学校にあるや、侃々の弁を揮つて教条を議し、何の憚る所なし。教官怒つて彼を放逐したれども、スピノザは遂にスピノザなりき。ユーゴーがナポレオン三世のために追放せられたるも同じ。詩人シエレーが『無神論の必要』を著はして牛津大学を追はれたるも同じ。信念の一字は実にこの世界の最も堅牢なる城廓にてある也。  仏国羅曼的文学の先鋒にスタヱル夫人あり。彼女は実に一箇巾幗の身を以て、深窓宮裡花陰の夢に耽るべき人乍ら、雄健の筆に堂々の議論を上下し、仏蘭西全国の民を叱咤する事、猶猛虎の野に嘯くが如くなりき。かるが故に大奈翁を以てしても遂に彼の一婦人を如何ともする能はず。全欧洲を席捲したる巨人のために恐るゝ所となりき。彼女常に曰く、偉大なる人物を見んがためには妾は、千里万里の路をも遠しとせずして行かん也と。意気の壮なる、実に斯くの如し。人は往々彼女を以て婦人の力のよく男子に遜らざるの例とすれども、静かに思へ、人の信念の力や実にかくの如し。一度其赫灼たる霊光の人の胸中に宿るや嬋妍たる柳眉玉頬の佳人をして、猶且つ這般天馬空を行くの壮事あらしむる也。夫れ信念は霊界の巨樹也。地上の風に其一葉をだもふるひ落さるゝ事なし。又、坤軸に根ざすの巌なり。地殻層上の力、其杆如何に強しと雖ども、又動かすに由なし、人生最大の権威、一にこの信念の巌上に建てらる。  人よ、汝若し一念心に信ずる所あらば、外界の紛紜に迷ふ事勿れ。躊躇する事勿れ。顧慮する勿れ。敵たるを敵とせよ。我が最強の味方は我なりと知れ。心眼をひらいて自家胸中の宇宙を仔細に観よ。そこに永劫に枯れざるの花あり、これ汝の尤も美しき恋人にあらずや。そこに永劫に絶えざるの清風吹く、これ汝の尤も親しき友にあらずや。兄弟にあらずや。そこに永劫に暮るゝ事なき日輪ありて輝けり、これ汝の尤も尊とき父にあらずや。母にあらずや。一字不滅の『信』あり。汝須らく汝の自負に傲慢なれ、不遜なれ、大水の声をあげて汝みづからの為に讃美し、謳歌して可也。 正誤「閑天地」四の終り、土井晩翠君に与ふる詩の七行目、「夜影の雲もつひて」は「夜影の雲もつひえ」の誤植也、茲に正誤す。 (七) 権威は勝利者の手にあり  一昨年の夏なりきと覚ゆ。我猶籠りて岩手山麓の白鹿詩堂にあり。一日郷校に村人の会するあるや、壇に上つて『文明史上より見たる日露関係』の一題を口演し、新時代の世界文明は東西の文化を融合して我が極東帝国の上に聚り、桜花爛漫として旭光に匂ふが如き青史未載の黄金時代を作るべきを論じて、狂暴なる露人の東方政策は明らかにこの吾人に下れる最大の自覚に対する魔軍の妨害、また世界悠久の進運に対する不祥の禍根なりとし、吾人と共に斯の如き大自覚を有する者は、正に天帝の告敕の下に剣戟を手にすべきの時期に臨めるを痛説する所ありき。越えて昨年に入り、早春二月の初めより、羽檄四方に飛び、急電到る事頻々、遂に仁川旅順の勝報伝はるに及んで、天下惨として感激の声に充ち、日露国際の関係は断絶せられたり。我は猶記憶す、当時嘲風博士に寄せし書中に記せし語を。曰く『民衆は皆肩を聳かし、眉をあげて、北天を望めり。見よ、七星の光肥えて炬の如からずや。村巷を辿れば、かしこに此処に群童の幾集団ありて、竹杖を剣に擬し日章の旗を振り声を合せて「万歳」を連呼せり。室に入れば野人斗酒を酌んで樽を撃ち、皿を割り、四壁に轟く濁声をあげて叫んで曰く、ザールの首を肴にせむと。この声を聞かずや、無限の感激は迸しつて迅雷の如く四大を響動せんとす。あゝ願くは詩人啄木をしてたゞ一箇の愛国の赤子たらしめよ。裸々の愛国児として、硯を擲ち、筆を折り、以て彼等感激せる民衆と共に樽をうち、皿を割るの狂態を敢てするを許せ。我は如何にしてこの興奮せる心情を発表すべきかを知らず。若しわが手に五大洲を描けるの地図あらば、焼いて粉にして民と共に、万石の酒に呑まむかな』と。  爾後世界の歴史は匇々兵馬の声を載せて其鉄筆に五百有余頁を記し了んぬ。長くも亦短かゝりし一歳半の日子よ。海に戦へば海に、陸に闘へば陸に、皇軍の向ふ所常に勝てり。かの虚心なる国民――表面の結果のみを示す公報を読むの外又他意なき国民の多数が夢想する如く、勝利はしかく易々たるものに非ざりき。戦ふ毎に悪戦ならざるはなく、勝つ毎に甚大の犠牲を払はざるはなかりき。然も国民的自覚の大意力は凝つて百錬の氷鉄の如く、発して焦天の大火焔の如く、旗裂けて怯まず、馬倒れて屈せず、剣折れて撓まず、砲弾と共に躍進して遂に随所に凱歌を奏し得たり。あゝ驚くべき此の回天動地の大成功や。此の成功は世界に於ける最も恐るべき大破壊なり。而して又最も恐るべき大建設なり。破壊されたるものは世界国勢の衡器なり、否、世界三千年を司配したる歴史神の道路なり。(未完) (八) 権威は勝利者の手にあり (続)  而して今茲に有生十五億を眩目せしむるの巨光、而して又、世界第二の文明を経営すべき参天の巨柱は建設せられたる也。読者よ、今暫らく詩人が空想の霊台に来りて彼が心に負へる無象の白翼を借り、高く吾人の民族的理想の頂上より一円の地球を下瞰せずや。彼方はるかに白浪の咆ゆる所、檣折れ舷砕けたる廃船の二つ三つ漂へるはバルチツクの海ぞ、そこの岸辺に近く、嘗て実弾の祝砲を見舞はれたる弾痕の壁の下、薄暗き深宮に潜々乎として其妻と共に落涙又落涙、悲しげなる声をあげて祈り、祈りては又泣く一箇蒼顔痩躯の人を見ずや。彼こそは実に一時の不覚より終生を暗き涙の谷に埋むるに至りし露国皇帝其人なれ。又見よ、かの中央亜弗利加の黒奴がすなる如く、吾人の足に接吻しては礼拝幾度か低頭し、ひたすらに吾人の愛顧の衰へざらむことを憂ふるものは英吉利にあらずや。かの巴里新流行とか云ふ淡緑の衣着けたる一美人を左手にかばひつゝ、ライン河の南岸に立ちて、大空に驕る巨鵬の翼の己が頭上を掠めざらむ事を維れ恐るゝ状をなすものは仏蘭西にあらずや。又其北岸城砦の上一葉の地図を前にひらいて世界の色の看す〳〵東方の桜光に染まり行くを諦視し、左に持ちたる『膠洲湾』の盃の毒酒にや酔ひけむ、顔色段々青くなり、眼光のみ物すごきまで燃え来りて、遂に狂へる如く其地図を靴底に蹂躙し、右手に握れる彼の宝典『世界政策』の一冊をさへ寸裂して河中に投ずるに至り、逆八の字の髯を掻きむしつて悶々する者は、かの所謂新興国独逸にあらずや。更に目を転ぜば、遠く米国ありて、あたらぬ神に障りなしとお世辞タラ〳〵、嫣然として我等をさしまねくあり。これ等は実に一瞬間に吾人の眼に映じ来る世界演劇の大舞台の光景也。この宏壮限りもなき活劇詩の主人公や誰。乃ち我等日本民族にあらずや。躍る心を推し鎮めて今暫し五大洲上を見渡せ。無数の蠢々たる生物ありて我等の胸間より発する燦爛の光に仰ぎ入れるあらむ。諸君よ、諸君は彼等の口の余りに大なるを以て無数の蛙群なりと誤る勿れ。彼等は乃ち口をあいて茫然自失せる十五億の蒼生にてある也。  あゝ驚くべきかな、この新光景や。これ実に愕心瞠目すべき大変転也。歴史の女神は嘗て常に欧洲の天を往来して、未だ殆んど東洋の地に人間あるを知らざりき。今や彼女は俄かに其五彩の鳳輦を進めて、鵬程万里の極、我が日出の宝土に来らざるべからずなれり。世界外交の中心は既に欧洲より動き去れり。数十年の前まで、一葉の扁舟さへ見難かりし太平洋は、今や万国商業の湊合する一港湾となり、横浜の埠頭と桑港の金門を繋ぐ一線は、実に世界の公路となれり。世界が日本を中心として新時代の文明を経営すべき未曽有の時期は正に迫らむとす。吾人の民族的理想は満翼風を孕んで高く九皐の天に飛揚せんとする也。(未完) (九) 権威は勝利者の手にあり (続)  斯くの如きは、吾人が一歳有半の間、上下一致、民族的和協の実をあげて遂行したる猛烈の健闘によりて、漸やく贏得するに至れる帝国現下の状勢也。吾人は非常の驚喜と傲慢とを以て這の事実を自認す。  然れども人の最大なる得意の時代は、やがてまた最大の失意を胚胎し来るの時代たるなからむや。物は圧せられざれば乃ち膨脹す。膨脹は稀薄となり、稀薄は弛怠となり無力となる。吾人は今少なくとも有史以来の『得意』の舞台に大踏歩しつゝあり、と共に又未だ嘗て知らざる大恐怖の暗雲を孕み来りつゝあり。この恐怖は、必ずしも天才的民族の神経過敏より来るにあらずして、実に殆んど無限なる吾人の自負の、賢明なる内省より生れ出でたるの結果也。吾人の自負は未だ舞台の広大なるに眩目する程に小心ならざる也。既に斯くの如し。故にこの恐怖の吾人に要求する所は、躊躇にあらず、顧慮に非ず、因循に非ず、退嬰に非ず、自失の予感に非ず、小成の満足に非ずして、実に完全なる努力の充実を促がすの戒心なり。この戒心は刻一刻吾人を鞭撻して吾人の偉大性を発揚せしめつゝあり。かくて吾人は今、新らしき舞台の変化を迎へて、最も真面目にこの内省の戒心に聞くべきの時期に遭遇せり。何ぞや、曰く、世界の驚嘆と嫉視の焦点に於ける外交時期の一転舵なり。吾人の尊敬する偉人ルーズベルトが、両国交戦国に与へたる平和談判開始の警告也。  吾人は初めより惟へらく、この日露両国を主人公とする大活劇は、旅順の陥落に第一幕を終り、波羅的艦隊の全滅に第二幕を終らむと。この予想は過去一歳有半の長舞台に於て遺憾なく実現せられたり。而して其第二幕が玄海洋上の大立廻りに幕となるや、看客の拍手の声未だ収まらざるに、第三次の幕は突如として開かれたり、舞台は急転したり。銃砲の響遥かに聞え、剣戟の光又遠く見ゆ。背景は誰が名匠の筆ぞ。左は浪高く狂へる中に檣砕け甲板死屍を積める二三の廃艦を浮べたる露国最後の運命の海にして、右には、落日大旗を照し、壮士惨として驕らざる北満洲の天地を描き出せる也。両主人公は今兀として左右よりこの舞台に上り来れり。彼等は何を語らむとするか。如何なる新色彩を脚色の上に施さむとするか、看客は汗手して二人の一挙一動に凝視せり。  吾人はこの第三幕が、単に中間の一揷画たりや、はた大詰の幕たるやを知らず。また今にして早くそを知らむとする程小成の満足に齷齪たるものに非ざる也。蓋しこの運命は恐らくは優人自身と雖ども予知せざる所。吾人何んぞ今にして其前途のために小心なる妄想を逞くせんや。然れどもこの新光景が今後の舞台に重大の変化を与ふるの動機たるは何人と雖ども拒み難き所、吾人が甚大の戒心を要すと云ふは乃ち此の点にありて存す。  変現出没譎詐縦横を以て外交の能事了れりとなすの時代は既に去れり。否、斯くの如きは少くとも大自覚の磐上に理想の玉殿を建設せむとする者の採用すべき路にあらず。吾人は、何人が大使として今回の談判を開くに至るやを精密に知る所なし。桂首相よし、伊藤老侯よし、小村外相よし、果た又無名の一野老なるもよし。たゞ其任にある者、よくこの日東民族の大自覚に内省して、今回の事たる、たゞに東洋の平和のためのみならず、たゞに自家の利権保護のためのみならず、世界悠久の文明の進運の為めに、吾人が負へる民族的使命の下に健闘しつゝあるの一事を忘却するなく、最も大胆に、最も赤裸々に、最も荘厳に、吾人の要求を告白するの人たれば足る。顧慮する勿れ、因循なる勿れ、姑息なる勿れ。夫れ権威は勝利者の手中にあり。この権威は使命と共に来る。使命を自覚したる者は権威の体現者なり。吾人は完全なる努力の充実を全うせんがために、吾人の民族的理想の基礎を牢固ならしめむがために、勝てる者の天与の権威を、大胆に、赤裸々に、充分に発揮せしめざるべからず。吾人は今度の新舞台を以て人生最大の荘厳なる舞台たらしめむ事を期す。吾人の期望にして成らずんば、手に三尺の利剣あり、一揮豈難んずる所ならむや。(了) (十) 我が四畳半 (一の上)  我が室は四畳半なりと聞かば、読者は、『閑天地』の余りに狭きに驚きやすらむ。昔者カーライル、弊衣を着、破帽をいたゞいて、一日馬車を竜動街頭に駆る。一市民見て声をあげて笑ふて曰く、かの乞丐の如くして傲然車上にあるは誰ぞ、と。傍人慌てゝ彼をとゞめて曰く、君よ口を慎しめ、かの破れたる帽子の下に宇宙は包まれてありと。この口吻を借りて云へば、我が閑天地がむさくるしき四畳半の中にありと云ふも何の驚く所かあらむや。夫れ人、内に一の心あり、我が宇宙は畢竟ずるに我が心のみ。若し我相場師とならば、喧囂雑踏極まりもなき牡蠣殻町の塵埃の中にも、我が閑天地を見出し得ん。若し又暇をえて狐森の煉瓦塀内に客とならば、その陰暗たる方三尺の監房にも心雲悠々たる閑天地を発見するに難からじ。  四畳半とし云へば、何やら茶人めいたる清淡雅致の一室を聯想すべけれど、我が居室は幸にして然る平凡なるものにあらず。と云へば又、何か大仕掛のカラクリにてもある様なれど、さにもあらず。有体に自白すれば、我が四畳半は、蓋し天下の尤も雑然、尤もむさくるしき室の一ならむ。而して又、尤も暢気、尤も幸福なるものゝ一ならむ。一間半の古格子附いたる窓は、雨雲色に燻ぶりたる紙障四枚を立てゝ、中の二枚に硝子嵌まり、日夕庭の青葉の影を宿して曇らず。西向なれば、明々と旭日に照らさるゝ事なくて、我は安心して朝寝の楽を貪り得る也。午前十時頃に起きて、朝餐と昼餐を同時に喰ふは趣味多き事なれど、この頃は大抵九時頃に起床を余儀なくせらる。枕の上にて新聞を読み、五六行読みては天井を眺め、又読みては又眺むる許り面白き事はあらじ。かくて三十分位は夢の名残のあたゝかき臥床の中に過す也。我が四畳半を蓋へる紙天井も亦こよなく趣味深き珍らしきものなり。二坪と四分一の面積の中に、長方形の貼紙したる箇所新旧凡そ二十許り、裂けたるまゝにまだ紙貼らぬ所も二つ三つ、天井界の住人黒皮忠兵衛殿が一夜潜かに領内巡察の砌り、あやまつて大道に放尿したる違警罪の罪跡が、歴然として雲形に五六の斑点を印し、総体が濃淡の染分に煤びわたりて、若しこれを枕上より睡眼朧ろに仰ぎあぐれば、さながら世界滅尽の日の大空も斯くやと疑はる。 (十一) 我が四畳半 (二)  大抵の家の畳は青波静かなる海の色なるものなれど、我が室のは薄き焦茶色なり。この色、年頃なる女の浴衣の染などに用ゐては至つてハデに好きものなれど、畳の色にしては好まぬ人多し。されど数多の美しき人の真白き足に擦れて斯くなりたりと思へば、さまで悪しきものにてもあらじ。窓の下に方一尺五寸に切りたる炉あり、一日に一度位は豆大の火種もなくなりて、煙草を吸ひつけるに燐寸を擦る事はあれど、大方は昼も夜も、五合入りの古鉄瓶に嘈々として断続調を成す松風の楽を聴く、この古鉄瓶も又興こそあれ。これ我が老いたる慈親が初めて世帯もちたる時、伯父にあたる北山あたりの老僧に貰へる物とか、されば我が家の物となりてよりも、既に少なくとも四十年一万四千六百日の間、一日の障りなしに断へず楽しき団欒の室に白湯の香を漲らせ、清閑の韻をひゞかせたる永き歴史を有するなり。この室に起居を同うする者三人あり。一人は我なり、二人は女なり、その内の一人は妹なり。従つて三脚の机あり。一脚は左の隅の窓の下にありて、日影門あたりの女学校の教科書と新旧の女の雑誌二三と『歌の栞』など埒もなく本挟に立てられ、『水汲むギリシヤ少女』と云ふ名画の写真や一重芍薬の艶なるを掴み揷しにしたる水瓶など筆立や墨汁壺に隣りて無雑作に列べらる。右の隅の一脚には、数冊の詩集、音楽の友、明星、楽譜帖などが花形役者にて、小説もあり、堅くるしき本もあり。日本大辞林が就中威張つて見ゆれども、著者のひが目には『あこがれ』尤も目につく。これらの堆かき中に、クミチンキと貼札したる薬瓶あり。知らぬ人は、私は大食をして胃病に相成り候ふと広告するが如しとも見るならん。秘蔵のヴアイオリン時として此等の上に投げ出されてある事あり。奥ゆかしきは小瓶にさしたる淡紅の野茨の花、風吹けば香ひ散つて其主のほつれ髪をそよがすに、更に〳〵奥ゆかしきは一封の、披かば二十間もやありぬらむ、切手五枚も貼りたる厚き古手紙也。発信人は誰なりしや、何事が封じ込まれてあるにや。我は知らず。知れども知らず。流石の我もこの天機だけは洩らしかぬる也。 (十二) 我が四畳半 (三)  室の中央、机に添ふて一閑張の一脚あり。これこそは、此処の主人が毎日「閑天地」を草する舞台にて、室は共有なれども、この机のみは我が独占也。筆を生命の我が事業は凡てこの一脚を土台にして建設せらる。何日も見て居乍ら、何時見ても目さむる様の心地せらるゝは、朝顔形に瑠璃色の模様したる鉢に植ゑし大輪の白薔薇なり。花一つ、蕾一つ、高薫氤氳、発して我が面をうち、乱れて一室の浮塵を鎮め去る。これはお向の孝さんの家からの借物なれど、我が愛は初めて姉に女の児の生れたりし時よりも増れる也。其下に去月仙台にて湖畔、花郷二兄と共に写し来れる一葉の小照を立てかけたり。本が有りさうで無いのは君の室なりと誰やら友の云へる事ありし。一度読んだものを忘れるやうでは一人前の仕事が出来るものにあらず。そんな人は一生復習許りして、辞書に成つて墓穴に這入るにや、など呑気な考へを以て居れば、手にしたものは皆何処かに失くしてしまへど、さりとて新らしい本を切々買ひ込むなどゝ云ふ余裕のある読書家にあらず。この机の上を見ても知らるべし、物茂卿の跋ある唐詩選と襤褸になりたる三体詩一巻、これは何れも百年以上の長寿を保ちたる前世紀の遺物なり。今より六代の前、報恩寺に住持たりし偉運僧正が浄書したりと云ふ西行法師の山家集、これは我が財産中、おのれの詩稿と共に可成盗まれたくなしと思ふ者なり。外にモウパツサンが心理小説の好作『ピール・エンド・ジエン』をクラヽ・ベルが英訳したる一書あり。我が十二三歳の頃愛読したりし漫録集にして永く雲隠れしたりしものを、数日前はしなく父の古本函より発見したる、南城上野雄図馬が『人物と文学』あり。今の人南城を知れる者なし。我も亦この一書によつて彼の名を記憶するに止まれども、彼の才あつて然も杳として天下に知られざるは心惜しき思せらる。今既に死せりや。猶生きてありや。彼の文は蘇峰の筆に学び得たりと思はるゝ節なきにあらねど、一種の独創あり、趣味あり、観察あり、感慨あり、教訓あり、仙骨あり。我之を繙どきてさながら永年相見ざりし骨肉の兄に逢ひたる様の心地したり。この書を読みて俄かに往時の恋しさ堪へがたく、漸やく探し出したる少年時代の歌稿文稿またこの机上に堆かく積まる。書と云ふものこの外になし。新作の詩数篇、我ならでは読まれぬ様に書き散らしたるが、その儘浄書もせずにあり。硯は赤間石のチヨイとしたるのなれど、墨は丁子墨なり。渋民の小学校にありし頃よく用ひし事あり、丁子と云ふ名はよけれど、之を硯に擦るに、恰も軽石に踵の垢を磨く時の如き異様の音す。筆を取らむとする毎に感じよからぬはこれ也。 (十三) 我が四畳半 (四)  壁は蒼茫たる暮靄の色をなし、幾十の年光に侵蝕せられて、所々危うげなる所なきにあらず。我常に之に対して思ふ。今の学者何か新発見をして博士号を得んと汲々たれども、発見とはさまでむづかしき事にあらず。たとへば顕微鏡を持ち来つてこの壁を仔細に検視せよ、恐らくは人を代ふるも数ふる能はざる程の無数のバチルスありて、刻々生々滅々しつゝあらむ。これらのうちには未だ人の知らざる種類も亦なしと云ふ事あらざらむ。バチルスを発見すると否とはさまで吾人の人生に関与する所なしと雖ども、要するに、問題と秘密とは、図書館の中にあらず、浩蕩の天際に存せずして、却つて吾人の日常生活の間に畳々として現在せり。我嘗て、夕ぐれ野路を辿りて黄に咲ける小花を摘み、涙せきあへざりし感懐を叙したるの詩あり。結句に曰く、 あゝこの花の心を解くあらば 我が心また解きうべし。 心の花しひらきなば また開くべし見えざる園の門。  と、蓋しこれ也。問題と秘密とは、微々たる一茎の草花にも宿り、瑣々たる一小事にも籠る。然るを何者の偏視眼者流ぞ、徒らに学風を煩瑣にし、究理と云ひ、探求と称して、貴とき生命を空しく無用の努力に費やし去る。斯くして彼等の齎し来る所謂新学説とは何ぞ、曰く無意義、然らずんば無用、たゞこれのみ。あゝたゞ之れのみ。我等は我等の生涯をして生ける論理学たらしめむ事を願ふ能はず。又冷灰枯木の如き倫理学的生活、法律学的生活を渇仰する能はず。我は実に不幸にして今の学者先生を我が眼中に置くの光栄を有せざる也。読者よ許せ、我が面壁独語ははしなくも余岐にわたりぬ。然れどもこれこそは実に我が四畳半の活光景たる也。ひと度我を訪はむものは、先づ斯くの如き冗語を忍びきくの覚悟を有せざるべからず。  この惨憺たる壁際には、幾著の衣類、袴など、黙然として力なく吊り下れり。其状たとへば、廃寺の残壁の下、怨みを負へる亡霊の其処此処とさまよふなる黄昏の断末魔の如し。若し沙翁の『ハムレツト』を読んで、其第一幕のうち、ハムレツトが父王の亡霊と語るあたりの、戦慄を禁ぜざる光景を真に味はむと欲する者あらば、来つて我が四畳半に入れ。蓋しこの壁際の恐るべき有様に対しつゝそを読まば、ロンドンの宮廷劇場にアービングが演ずる神技を見んよりも、一層其凄寥の趣を知るに近からむなり。袖口の擦りきれたる羽織あり。裾より幾条の糸条を垂れたる袴あり。縫はれて五年になん〳〵とする単衣あり。これらは、よしや真の亡霊に似ずとするも、誰かその少なくとも衣服の亡霊たるの事実を否定し得んや。然れども、時に之等に伍して、紅絹裏などのついたる晴やかの女着の衣裳の懸けらるゝ事なきにあらず。恰も現世の人の路を踏み誤つて陰府に迷ひ入れるが如し。かゝる時の亡霊共の迷惑思ひやらる。何となれば、彼等も亦我が如く、自己の世界に他人と肩を並ぶるを嫌ふ事、狂人の親が狂人の話を嫌ふよりも甚しければ也。 (十四) 我が四畳半 (五)  我が絳泥色の帽子も亦、この壁上にあり。この帽子の我が頭にいたゞかるゝに至りてより満二年四ヶ月の歴史は、曠量我の如くして猶且つ何人と雖ども侮辱するを許さゞる所。試みに思へ、世界何処にか最初より古物たるものあらむ。之れも初めて神田小川町の、とある洋物店より我が撰目に入りて購ひ取られたる時は、目も鮮やかなるコゲ茶色の仲々に目ざましき一物なりき。我は時としてこの帽子或は我が運命を司どるにあらずやと思ふ事あり。何となれば、一昨年早春、病骨を運んで故山に隠れし時を始めとして、爾来この帽子の行く所、必ず随所に我も亦寒木の如き痩躯を運び行けば也。嘗て美しかりしコゲ茶色は、今何故に斯くも黯然たる絳泥色に変色したりや。其理由は足掛三年間の我が運命の多端なりし如く、又実に多端なり。先づ初めに東都の街塵に染みぬ。次は上野駅より好摩駅まで沿道三百六十余哩の間の空気に染みぬ。或は当時同車したりし熊の如き髯武者、巡査、田舎婆、芸者らしき女、などの交々吐き出したる炭酸瓦斯も猶幾分か残り居るべし。次は岩手山下の二十ヶ月なり。渋民の村の平和なる大気最も多く沁みたるべし。そこの禅房の一室なりける我が書斎の茶煙や煙草の煙に燻りたるも少なからじ。詩堂とお医者様の玄関及び郷校のオルガンある室との間を最も繁く往来したりければ、薬の香り、楽声の余韻なども沁みこみてありと知るべし。時々は盛岡の朝風暮色をも吸はせぬ。雨降れる行春の夜、誰やら黒髪長き人と蛇の目傘さして公園を通り、満地泥ににじめる落花を踏むを心惜しと思ひし事もありしが、その時の雨の匂ひなど猶残りてあらば、世にも床しき想出の種なりかし。禅房の一室夜いたくも更け渡りて孤燈沈々たる時、我ひとり冷えたる苦茗を啜つて、苦吟又苦吟、額に汗を覚ゆる惨憺の有様を、最も同情ある顔付して柱の上より見守りたるもこの帽子なり。鶴飼橋畔の夜景に低廻して、『わが詩の驕りのまのあたりに、象徴り成りぬる栄のさまか』と中天の明月に浩歌したりし時、我と共に名残なくその月色を吸ひたるもこれ也。或時は村内の愛弟愛妹幾人となく引きつれて、夏の半ばの風和き夜な〳〵、舟綱橋あたりに螢狩りしては、団扇の代理つとめさせられて数知れぬ流螢を生擒したる功労もこれにあり。野路を辿りて、我れ草花の香を嗅げば、この帽子も亦、共にその香に酔ひたる日もありき。価安かりけれど、よく風流を解したる奴なり。彼の忠勤は夜を徹するも仲々かき尽し難き程ある中に、茲に特筆すべきは、我由来傘を嫌ふ事、立小便の癖ある人が巡査を嫌ふよりも甚しく、強からぬ雨の日には家人の目を盗んで傘なしに外出し、若し又途中より降り出らるゝ事あるも、心小さき人々の如く尻端折りて下駄を脱ぎ、鳥羽絵にある様の可笑しき姿して駈け出すなどの事、生れてより未だ一度もあらねば、この一ヶの帽子我が脳天を保護すれば足るだけの帽子ながら、常に雨に打たれて傘の代用までも勤めたる事あり。また一年の前なり、その村の祝勝提灯行列の夜、幾百の村民が手に手に紅燈を打ふりて、さながら大火竜の練り行くが如く、静けき村路に開闢以来の大声をあげて歓呼しつゝ家国の光栄を祝したる事あり。黄雲の如き土塵をものともせず、我も亦躍然として人々と共に一群の先鋒に銅羅声をあげたりき、これこの古帽先生が其満腔の愛国心を発表しえたる唯一の機会なりし也。 (十五) 我が四畳半 (六)  昨年の秋となりぬ。九月の末、遽かに思ひ立ちて、吟心愁を蔵して一人北海に遊びぬ。途すがら、下河原沼の暁風、野辺地の浦の汐風、浜茄子の香など、皆この古帽に沁みて名残をとゞめぬ。陸奥丸甲板上の五時間半、青森より函館まで、秋濤おだやかなりし津軽海峡を渡りて、我も帽子も初めて大海を吹きまはる千古の劫風を胸の奥まで吸ひぬ。あくる日、函館より乗りたる独逸船ヘレーン号の二十時間、小樽の埠頭までの航路こそ思出づるさへ興多かり。この帽子と羊羹色になりたる紋付羽織とのために、同船の一商人をして我を天理教の伝道師と見誤らしめき。又、むさくるしき三等船室の中に、漲ぎりわたる一種名状すべからざる異様の臭気を吸ふて、遂に眩暈を感じ、逃ぐるが如く甲板に駈け上りたるも我とこの帽子也。波は神威崎の沖合あたりもいと静かなりき。上甲板の欄干に凭りて秋天一碧のあなた、遠く日本海の西の波に沈まむとする落日を眺めつゝ、悵然たる愁懐を蓬々一陣の天風に吹かせ、飄々何所似、天地一沙鴎と杜甫が句を誦し且つ誦したる時、その船の機関長とか云ふ赭髯緑眼の男来つて、キヤン、ユウ、スペーク、エングリツシ?、我答へて曰く、然り、然れども悪英語のみ、と。これより我と其独人との間に破格なる会話は初められぬ。談漸やく進み、我問ふて曰く、この船の船員は皆急はしげに働きつゝあるに、君一人は何故しかく閑ある如く見ゆるや、と。彼得意気に鼻をうごめかして答ふらく、余はこの船の機関長なり、船長の次なり、と。我は潜かに冷笑一番を禁ぜざりき。あゝ名誉ある一商船の機関長閣下よ。彼、君は学生なりや、若しくは如何なる職業に従事するや。我、我は詩人なり、と云ひて笑ひぬ。更に語をついで云ふ、日本人は凡て皆詩人ならざるなし、日本の国土が既に最美の詩篇たるなりと。彼異様なる感情をその顔面に動かしつゝ、君はゲーテの名を知るや。我、我は独逸話を知らざれど、英訳によりて彼の作物の幾分は朧ろげ乍ら味はひたる事あり。彼更に曰く、君はハイネの作を読めりや、欧羅巴の年若き男女にしてハイネの恋の詩を知らざるはなし、彼等は単に我が祖国の光栄たるのみならず、また実に世界の詩人なり、と。我、悪謔一番して曰く、然り、彼等は少なくとも今の独逸人よりは偉大なり。彼は苦笑しぬ。我は哄笑しぬ。この時、我が帽子も亦我と共にこの名誉なる一商船の機関長閣下をも憚らず、傲然として笑へるが如くなりき。その夜、マストにかゝる亥中の月の、淋しくも凍れるが如き光にも我と共に浴びぬ。あくる日、小樽港に入りて浮艇に乗り移れる時、ヘレーン号と其機関長とに別意を告げて打ふりたるもこの帽子なり。滞樽二週の間、或時は満天煙の如く潮曇りして、重々しき風と共に窓硝子うつ落葉の二片三片もうら悲しく、旅心漫に寂寥を極めて孤座紙に対するに堪へず、杖を携へて愁歩蹌踉、岸うつ秋濤の響きに胸かき乱され、たどり〳〵て防波堤上の冷たき石に伏し、千古一色の暮風、濛々として波と共に迫る所、荒ぶる波に漂ひてこなたに寄せくる一隻の漁船の、舷歌はなはだ悲涼、 忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで。  と、寂びたる櫓の音に和し、陰惨たる海風に散じ、忡々たる憂心を誘ふて犇々として我が頭上に圧し来るや、郷情欝として迢遞悲腸ために寸断せらるゝを覚えて、惨々たる血涙せきもあへず、あはれ暮風一曲の古調に、心絃挽歌寥々として起るが如く、一身ために愁殺され了んぬるの時、堤上に石と伏して幾度か狂瀾の飛沫を浴びたるも、我と此古帽なりき。 (十六) 我が四畳半 (七)  帰りには、函樽鉄道開通三日目と云ふに函館まで二等車に乗りて、列車ボーイの慇懃なる手に取られ、刷毛に塵を払はれたる事もあり。二度目の津軽海峡は、波高く風すさび、白鴎絹を裂くが如く悲鳴して、行きし時には似ぬシケ模様に、船は一上一下さながら白楊の葉の風にひるがへるが如く、船室は忽ちに嘔吐の声氛氳として満ち、到底読書の興に安んじがたく、乃ちこの古帽と共に甲板に出れば、細雨蕭条として横さまに痩頬を打ち、心頭凛として景物皆悲壮、船首に立ち、帆綱を握つて身を支へ、眦を決して顧睥するに、万畳の波丘突如として無間の淵谷と成り、船幽界に入らむとして又忽ちに雲濤に乗ぜんとす。右に日本海左に太平洋、一望劫風の極まる所、満目たゞ之れ白浪の戦叫充ち、暗潮の矢の如きを見る。洪濛たる海気三寸の胸に入りて、一心見る〳〵四劫に溢れ、溢れて無限の戦の海を包まんとすれば、舷に砕くるの巨濤迸しつて急霰の如く我と古帽とに凛烈の気を浴びせかけたる事もありき。三週の北遊終つて、秋を兼ぬるの別意涙に故山の樹葉を染め、更に飄として金風一路南へ都門に入りぬ。古帽故郷に入つて喜びしや否や。弥生ヶ岡の一週、駿河台の三週、牛門の六閲月、我が一身の怱忙を極めたる如く、この古帽も亦旦暮街塵に馳駆して、我病める日の外には殆んど一日も休らふ事能はざりき。その多端なりし生活は今遽かに書き尽すべくもあらず。蓋しこの古帽先生も亦、得意と失意との聯鎖の上に一歩一歩を進めて、内に満懐の不平と野心と、思郷病と、屈しがたき傲慢とを包んで、而して外は人並に戯れもし、笑ひもしつゝ、或時は陋巷月を踏んで惆悵として咨嗟し、或時は高楼酒を呼んで家国の老雄と縦談横議し、又時に詩室塵を払ふて清興茶話、夜の明けなむとするをも忘れ、而して又、四時生活の条件と苦闘して、匇々半余歳、塵臭漸やく脱し難からむとするに至つて、乃ち突如として帰去来を賦しぬ。飄々たる天地の一沙鴎かくて双翼思を孕んで一路北に飛び、広瀬河畔に吟行する十日、神威犯しがたき故苑の山河に見えんがために先づ宮城野の青嵐に埃痕を吹き掃はせて、かくて、嵐の海をたゞよひ来し破船の見覚えある岸の陸に入るが如く、我見の櫂を折り、虚栄の帆を下して、何はともあれ、心のほほゑみ秘めもあへず、静かにこの四畳半に入りて閑天地を求め得ぬ。我は古き畳の上に、忠勤なる古帽は煤びし壁の上に、各々かくて人生の怱忙を暫しのがれて、胸の波さへ穏やかなる安心の蓮台に休らふを得るに至れる也。我は今静かに彼を壁上に仰いで、実に廻燈籠の如き無限の感慨にうたれざるをえず。世の人若し来つて、我等は理想の妻として如何なるものか撰むべき、と問ふものあらば、我立所に答へて云はむ、其標準たるべきもの此四畳半に二あり、一は乃ちこの古帽なり。彼は実に他の一の標準とすべきものゝ如く、誠心にして忠実、我と如何なる運命をも共にして毫も倦まず撓まざるの熱愛を有すればなり、と。 (十七) 我が四畳半 (八)  諸君よ、我が四畳半は実に斯くの如くなりき、なりき? 然り、幸か不幸か、我は今この『四畳半』の稿未だ了らざるに、はしなくもなりきと云ふ過去の語を用ゐざるべからざるの運命を有せり。我は昨日、その四畳半を去つて、一家と共にこゝの中津川の水の音涼しくも終夜枕にひびく新居に移りぬ。あゝ夢の如くも楽しく穏かなりしそこの三週日よ。それはた今や、我と我が古帽との歴史に、一ヶの美しき過去として残さるゝに過ぎずなれり。  かの室にて、日毎に心耳を澄まして聞くをえしヴアイオリンは、この新居にても亦聞きえざるにあらず。我が書きたるものに振仮名を附くる事と、日毎の新聞より『閑天地』切り抜くを勤めなりけるその人も、亦今我と共にこゝにあり。老いたる二柱の慈親も小さき一人の妹も、いと健やかにて我と共に移りぬ。剰さへ今迄の住居に比べて、こゝは蚊も少なく、余りに喧しかりし蛙の声もなく、畳も襖も障紙も壁も皆新しくて、庭には二百年も経ぬらしと思はるゝ伽羅の樹あり。薔薇も咲き、紫陽花も咲き、嘈々たる川の音絶えざれば、風さへいと涼けきに、人々も我も居心地こよなく好しと喜び合ひはすれど、しかも我が胸の何処かに猶かくれたる一の心ありて、念々として、かのむさくるしかりし四畳半を追慕しやまず。かしこにて、腹や傷めむと叱らるゝ老母の目を盗んでは、潜かに庭の青梅竿に落して心を洗ふ様なる其味を賞せし事は叶はずなりたれど、わが幸福の増しこそはすれ。心の富の貧しくなりたるにあらぬを、など斯くは我が心かの陋巷の窮居を慕ふや。  蓋し過去は常に人に追慕さる。過去はこの世に於て最も己を知る者也。過去を慕ふの情は、やがて自己――最も親しくして然も其真面目を知る事最も難き自己――の後に曳ける影によつて現在、また未来に繋がるゝ自己の面影を認めむとするの情也。  かくて追懐は、慰藉を生み、教訓を生み、力を生み、生命を生み、遂に吾人の一生を作る向上の努力を生まずんばあらず。『今般帷子小路の四畳半より加賀野川原町四番戸に転居仕候』と云ふ知人への知らせの端書に何の事はなけれど、然もこの表面は何の事もなき変化が、やがて人生と云ふ大走馬燈の一齣々々を成し行くものなるを思へば、我は実に其変化の内容に重大の意義あり、活動あり、目的あるの事実を驚嘆し、顧慮せずんばあらず。人やゝもすれば、人生を夢幻と云ひ、空華と云ふ、一念茲に至れば、空華の根柢に充実せる内容あり、夢幻の遷転影裡猶且つ煢然たる永久の覚醒あり。吾人の心一度この隠れたるの声に触るゝや、乃ち襟を正し、粛然又森然として『歴史の意義』の尊厳に打たる。人はこの刹那に於て、夢幻空華の生活より一躍直ちに真人の力と生命とを孕み来る也。あゝ人生は最大の事実也。醒めたるが上にも醒めしめよ。充実せるが上にも更に其内容を充実せしめよ。年少なる我は今、斯くの如く信じ、斯くの如く勇んで、我が未来の遼遠なるに鼓舞し雀躍す。而して将にこの稿を了らむとするに当り、僅か三週の間なりしとは云へ、我が半生に於ける最大の安慰と幸福とを与へたりしかの陋苦しき四畳半が、この追懐によりて今また重大なる経験と智慧と勇気とを恵んで惜まざるに感謝し、同時に、我が生涯をして停滞せしむる事なく、さながら最良なる教師の如く、常に刺激と興奮の動機を与へて倦まざるの天に謝す。かくて我は、我が家の貧と、我が心の富に於て、独り自ら帝王の如く尊大なる也。(此稿終り) (十八) 霊ある者は霊に感応す 『不思議の事も候ふものかな、小生が大兄の夢に入り候ふ前、一日小生咯血の事あり、今日やう〳〵此筆を執る位に相成候。一種の霊的感応と存候。青葉が中に埋もれ玉へる御境涯を想ひやりては、小生も何となう青嵐に胸吹き払はるゝ心地いたし候。云々』  これ我が杜陵に入りて間もなく、一夜暁近き小枕の夢に、京に病める畏友綱島梁川君と語ると見て覚めける日、心何となく落ちつかぬを覚えて、匇々一葉の端書に病状を問ひたるものに答へたる同氏の美しき墨色の冒頭一節なり。  あゝ、一種の霊的感応乎。読者よ、読者は如何の心を以てかこの一語を読める。世界を挙げて生命なき物質の集団たる今の時、人は蓋しこの語を以て無意義なる妄想幻視の類となさむ。然れども読者よ、我は実に読んでこの一語に至り、何者か一閃氷の如き鋭斧に胸をうたれたる如く、慄然襟を正して暫らく熱祈黙祷に沈まざるを得ざりき。あゝ世には不思議なる事もあるものかな。然もこの不思議や、静かに考へ来れば、遂に不思議にあらず、幻怪にあらず、況んや無意義の妄想幻想をや。我等はこの不思議を不思議とする世の人の心を以て却つて不思議なりと云はむ。読者よ、これ実に我等の生活の最も意義ある現示、この世の隠れたる源の泉より湧き出づる奥秘の声なるぞかし。  夫れ霊あるものは霊に感応す。我嘗て、人性に第一我(物我、肉我)と第二我(神我、霊我、本来我)あるの論を立して、霊肉の抱合もしくは分離争鬩より来る人生の諸有奇蹟を解釈し、一日姉崎博士と会して之を問ふ。博士曰く、第一と云ひ第二と云ふ等級的差別を劃せんよりは、寧ろ如かんや、意識以下の我、及び意識以上の我と呼ぶの、用語に於て妥当なるに、と。然り、第一第二の別はたゞ我が弁説の上に煩なきの故を以てしか称呼したるのみ。人は仮令へば樹木の如し。其幹や枝や、見て以て直ちに意識するを得るものは乃ち意識以下の我也、第一我也、肉我也、物我也、差別我也。吾人の霊性の、飄として捉へがたく、杳として目覩しがたきものは、其樹木の根の如し。根は隠れて見えず、見えざれども在り、何処に在るや、地中にあり。それ地球は一ありて二なし。乃ち唯一の地心は万木の生命の根ざす所、千態万容の世界の樹木は、其姿こそ各々異なれ、皆同一の生命を営なみつゝある也。人間も亦実に然り。其意識以上の我は深く宇宙の中心に根ざせり。神と云ひ、仏と云ひ、根本意識と云ふ者皆之也。人は顔容に於て、思想に於て、性格に於て各々異なれども、一度其霊性の天地に入るや、俄然として茲に無我の境に達す。無我は畢竟超越也、解脱也。小我乃ち物我を没して大我乃ち神我に合一する也。遂に自己の死滅にあらず。あらゆる差別、時間、空間を遊離して、永遠無窮の宇宙大に発展する也。  碧巌録に、泥牛海に入つて消息なし、と云ふもの、乃ちこの境の妙諦を教へて実に遺憾なし。あゝ泥牛海に入つて消息なし、しかも其消息や宇宙に遍満せる也。既に宇宙に遍満す、万人の霊我、神明の懐に入つて何の差別なく距離なく、完たく無量無辺四劫に亘るの天寿を呼吸して合一す。故にその生命や共通也。故に又互に交通し、感孚し、応報す。茲に至つて人生の大音楽はその最高調に上り、思議すべからざるの神秘は明々たる白日の奇蹟として現はる。究理の利剣もその刃脆くも地にこぼれ、科学の斧も其力を揮ふに由なく、たゞ詩と信仰のみ最大の権威を以て天啓の如く世界を司配す。  あゝ霊ある者は霊に感応す。我はこの一語によつて血を吐くの熱考を読者に要求するの権威あり。読者以て如何となすや。 (十九) 病と貧と  ギリシヤの昔、一哲人あり。蓬頭垢面、襤褸を身に包み、妻子なく、家産なく、たゞ一ヶの大桶をコロガシ歩いて、飄遊風の如く、其処の花蔭、此処の樹下と、一夜一夜の宿りも定まらず。覚めて桶の中に坐りて背を日向に曝らし、夕さりくれば又其桶の中に衾もなく安寝し、瞑想幽思、ひとり孤境の閑寂を楽んで何の求むる所なく、烟霞をこそ喰はね、その生活淡々として実に神仙に似たり。時の大帝アレキサンドル、この桶中哲人を思慕する事甚だ深く、一日彼を緑したゝる月桂樹の下蔭に訪ふや、暖かき日光を浴びて桶中に胡坐し、彼は正に其襤褸を取りひろげて半風子を指端に捻りつゝありき。大帝其前に立ち、辞を卑うして云ふやう、我が尊敬する哲人よ、君若し何等か欲する所あらば、願くは我に言へよかし。若しこの世界にて叶ふものならば、我は如何なるものと雖ども必ず君のために速かに調へむ、と。哲人暫らくして漸やく懶げに答ふらく、我にたゞ一の願あり。乞ふらくは其処を立ち去りて我に暖かき日光を遮る勿れ、と。茲に於てか、征馬鉄蹄に世界を蹂躪し、大名長く青史を照せる一世の雄傑アレキサンドルも、遂に一語の発すべきなく、静かに跼いて彼の垢づける手を把り、慇懃に其無礼を謝したりと云ふ。この一話、操觚者流の寓意譚にあらず、永く西欧の史籍に載りて人の能く伝唱する所、唯これ一片の逸話に過ぎずと雖ども、然も吾人に誨ふる事甚だ深しとなす。夫れ貧困は現世の不幸の尤なる者也。然もこの不幸や遂に現世の不幸たるに留まる。不幸は不幸なりと雖ども、既に現世を超越せる者に取りては畢竟何の痛痒をも感ずる者にあらざる也。かの桶中の哲人の如きは、蓋しそれこの世界が生みたる最も尊貴なる人間の一人たるなからむや。彼は其一ヶの木桶の外に何物をも有する勿りき。彼の貧困は云ふ迄もなくその極度にありき。然もかれはこの物質上の貧困によつて却つて現世の念慾を絶つを得、瞑思一徹、心に無限の富を得るに至つて、彼や、人の悶々措く能はざる極貧の境涯に淡然として安住するを得るに至れり。かくて彼が世界の大帝王に希求する所は、たゞ其暖かき日光を遮るなからむ事のみなりき。彼は運命を戦へり、戦つて而して運命を超越せり。彼が五尺の痩躯は陋なき木桶の中にあり乍ら、然も彼の心は飄悠として宇宙に高遊せり。貧困は彼に於て最良の、而して又最愛の友なりき。彼はこの最愛者によつて一念悟達するの尊とき所縁を得たる也。 (二十) 病と貧と (続)  噫、貧困は実に天才を護育するの揺籃なりき。敬虔なる真理の帰依者スピノザも亦斯くの如くなりき。彼は眼鏡磨臼をひいて一生を洗ふが如き赤貧のうちに、静かに自由の思索に耽れり。詩人ウオルズウオルスも、亦ライダルの賤が家に愛妹ドロセヤと共に見るかげもなき生活を営みて、然も安らかに己が天職に奮進したりき。シルレル、若うして一友と共に潜かに郷関を脱走するや、途中一片の銅銭もなく一ヶのパンもなく飢と労れに如何ともすることなく人里遠き林中に倒れむとしたり。ゴールドスミスは一管の笛を帯びて、洽ねく天下を放浪したり。我がリヒヤード・ワグネルも亦、愛妻ミンナと愛犬ルツスを率ゐ、飄然として祖国を去つて巴里に入るや、淋しき冷たき陋巷の客舎にありて具さに衣食の為めに労苦を嘗めぬ。而して彼が従来の歌劇を捨て、其の芸術綜合の信念と目的とを表現したる初めての獅子吼『タンホイゼル』は、実にこの惨憺たる悲境に於て、彼の頭脳に胚胎したりし者なる也。例を現代に取るも、人の普く知る如くマキシム・ゴルキーは、露国最下の賤民たる放浪の徒たりき。白耳義のマルビキユーリ、銷麗の文才を抱いて然も一家の生計を支ふる能はず、ひとり片田舎に隠れて其驚異すべき処女作小説を脱稿するや、之を都に残せるその妻に送らむがために、彼は実に郵税先払を以てせざるを得ざりき。米国の一文人嘗て驚嘆して曰く、あゝ我が国の丸木小屋は夫れ大人物を出すの揺籃か、と。然り、彼の英傑ガーフイルドも亦、狼の声さへ聞ゆる林中のさゝやかなる丸木小屋に育ちたりし也。あゝ大人物と丸木小屋乎! 偉人と貧困の親善なる何ぞそれ斯くの如きや。這般の実例をつまびらかに叙せんとせば、我は実にこの『閑天地』を百千回するも猶且つ足らざる者あらむ。(未完) (二十一) 十一夜会の記  陰暦水無月の十一夜、月いと美しき夜なりき。夕方たづね来し花京君の主唱にて、一燈光あざやかなる下、字を結び、興を探りて、互に吟腸を披瀝しぬ。あつまれるは残紅、花京、せつ子、みつ子、啄木の五人。八時頃より初めて、詠出、互撰、評語、終れるは子の刻も過ぎつる頃と覚ゆ。中津川の水嵩減りたる此頃、木の間伝ひの水の声たえ〴〵なれど、程近き水車の響、秋めいたる虫の音を織りまぜて、灯影ほのめく庭の紫陽花の風情の云ひがたきなど、珍らしく心地すぐれたる夜なりき。人界に降ること稀なる歌苑の神も、この夜のみは、いといつくしく我が草堂に宿りつらめ、と。後にて人と語り興じぬ。  字を結んで、五人二題づゝ、あはせて十題を得たり。月の影、川風、思、画堂、青潮、水の音、初夏、中津川、ほたる、杜鵑……これはと思ふ心地よき題もなきに、我まづ聊かひるみたれど、稚なきものも交れる今宵なればと、人々心したりと見ゆ。  筆噛みてあからめもせず燈火うちまもるあり。黙然として団扇の房をまさぐるあり。白扇ばたつかせて、今宵の蚊のせはしさよと呟やくあり。胡栗餅頬ばりて、この方が歌よりうまいと云ふあり。兎角するうちに半紙八つ切りの料の紙、小さく折られたるが雲形塗のお盆の上に堆たかくなりぬ。  人々手をわけて浄書すみぬれば、五つ輪の円座、居ずまひ直して、総数四十幾首より各々好める歌ぶり十首許り撰み入るゝなり。朗唱の役は我、煙草に舌荒れて声思ふやうに出ず。節づけ拙けれど、人々の真面目に聴きいる様は、世の大方の人が、信ぜぬ乍らも己が厄運にかゝはる卜をばいと心こめてきくにも似たり。  読み上ぐる毎に、作者名のり出る規定なり。その咏風に大方は誰と知らるゝが多かれど、時に予想外なるがありて、こは君なりしかとうち驚かる。杜鵑の歌に 鏽斧に樹をきる如きひゞきして人を死ねよと鳴くほとゝぎす(花京) 狂ひ女が万古の暗に高空の悲哀よぶとか啼く杜鵑(残紅)  前の歌の才気めざましきはさもある事乍ら、人を死ねよのわざとらしきは、後の歌の、句様は余り有難からねど、よく杜鵑の意に叶ひたるには兄たる能はずやと云はむ。さはれ我が 舟がゝりほとゝぎす待つ夜の江や帆もつくろひぬ篝の影に  の窮したるには、もとより同列にあげつらふべくもあらじ。月の影の歌に 幽り宮月のかげせしひと夜ゆゑ恋ひつゝわびぬこの年頃を(残紅) 苑古き木の間に立てる石馬の脊とわが肩の月の影かな(啄木)  の二首撰に入りたれど、幽宮の幽趣たとしへもなき調、月光ほのかに心に沁みわたるにも似て、この君ならではと思はるゝ優しさ、桂の枝に背うちまゐらせむのたはぶれも、ゆめねたみ心にはあらずと知り玉へかし。(つゞく) [「岩手日報」明治三十八年六月九、十、十一、十三、十四、十五、十六、十七、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十七、二十八、二十九、三十、七月六、七、十八日]
底本:「石川啄木全集 第四巻 評論・感想」筑摩書房    1980(昭和55)年3月10日初版第1刷発行    1982(昭和57)年11月30日初版第3刷発行 初出:「岩手日報」    1905(明治38)年6月9日~11日、13日~17日、20日~25日、27日~30日、7月6日、7日、18日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「蹂躙」と「蹂躪」の混在は、底本通りです。 入力:林 幸雄 校正:阿部哲也 2012年10月31日作成 2019年5月13日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049677", "作品名": "閑天地", "作品名読み": "かんてんち", "ソート用読み": "かんてんち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「岩手日報」1905(明治38)年6月9日~11日、13日~17日、20日~25日、27日~30日、7月6日、7日、18日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-12-26T00:00:00", "最終更新日": "2019-05-13T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card49677.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川啄木全集 第四巻 評論・感想", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1980(昭和55)年3月10日", "入力に使用した版1": "1982(昭和57)年11月30日初版第3刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年5月20日初版第6刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "阿部哲也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/49677_ruby_49019.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-05-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/49677_49237.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-05-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "3" }
一  私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度一月下旬の事、寒さの一番酷しい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に頥を埋めた首卷が、呼氣の濕氣で眞白に凍つた。翌朝目を覺ました時は、雨戸の隙を潜って空寒く障子を染めた曉の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、心を細めて置いた吊洋燈が昨夜の儘に薄りと點つて居たが、茶を注いで飮まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に轉げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身體を縮めて床の中で待つて居たが、寒國の人は總じて朝寢をする、漸々女中の入つて來たのは、ものの一時間半も經つてからで、起きて顏を洗ひに行かうと、何氣なしに取上げた銀鍍金の石鹸函は指に氷着く、廊下の舖板が足を移す毎にキシ〳〵と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顏を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。  雪は五寸許りしか無かつたが、晴天續きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄えた樣にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鐵の板を踏む樣な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如く滑かで、少し油斷をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相應に見える程、厚い立派な防寒外套を着けて、輕々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狹霧の樣な呼氣を被つて氷の玉を聨ねた鬣を、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。  二三日して私は、洲崎町の或下宿へ移つた。去年の春までは、土地で少しは幅を利かしたさる醫師の住つて居た家とかで、室も左程に惡くは無し、年に似合はず血色のよい、布袋の樣に肥滿つた、モウ五十近い氣丈の主婦も、外見によらぬ親切者、女中は小さいのを合せて三人居た。私が移った晩の事、身體の馬鹿に大きい、二十四五の、主婦にも劣らず肥滿つた小さい眼と小さい鼻を掩ひ隱す程頬骨が突出て居て、額の極めて狹い、氣の毒を通越して滑稽に見える程不恰好な女中が來て、一時間許りも不問語をした。夫に死なれてから、一人世帶を持つて居て、釧路は裁縫料の高い所であれば、毎月若干宛の貯蓄もして居たのを、此家の主婦が人手が足らぬといふので、強ての頼みを拒み難く、手傳に來てからモウ彼是半年になると云つた樣な話で、「普通の女中ぢやない。」といふ事を、私に呑込ませようとしたらしい。後で解つたが、名はお芳と云つて、稼ぐ時は馬鹿に稼ぐ、怠る時は幾何主婦に怒鳴られても平氣で怠ける、といふ、隨分氣紛れ者であつた。  取分けて此下宿の、私に氣に入つたのは、社に近い事であつた。相應の賑ひを見せて居る眞砂町の大逵とは、恰度背中合せになつた埋立地の、兩側空地の多い街路を僅か一町半許りで社に行かれる。  社は、支廳坂から眞砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角に立つて居て、小さいながらも、ツイ此頃落成式を擧げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える樣な新しい煉瓦の色の、廓然と正しい輪廓を描いてるのは、何樣木造の多い此町では、多少の威嚴を保つて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告見たいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶の美觀を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶えて居る。玄關から上ると、右と左が事務室に宿直室、奧が印刷工場で、事務室の中の階段を登れば、二階は應接室と編輯局の二室。  編輯局には、室の廣さに釣合のとれぬ程大きい煖爐があつて、私は毎日此煖爐の勢ひよく燃える音を聞き乍ら、筆を動かしたり、鋏と糊を使ふ。外勤の記者が、唇を紫にして顫へ乍ら歸つて來ると、腰を掛ける前に先づ五本も六本も薪を入れるので、一日に二度か三度は、必ず煖爐が赤くなつて、私共の額には汗が滲み出した。が、夕方になつて宿に歸ると、何一つ室を賑かにして見せる裝飾が無いので、割合に廣く見える。二階の八疊間に、火鉢が唯一個、幾何炭をつぎ足して、青い焔の舌を斷間なく吐く程火をおこしても、寒さが背から覆被さる樣で、襟元は絶えず氷の樣な手で撫でられる樣な氣がした。字を五つ六つ書くと、筆の尖がモウ堅くなる。インキ瓶を火鉢に縁に、載せて、瓶の口から水蒸氣が立つ位にして置いても、ペンに含んだインキが半分もなくならぬうちに凍つて了ふ、葉書一枚書くにも、それは〳〵億劫なものであつた。初めての土地で、友人と云つては一人も無し、恁う寒くては書を讀む氣も出ぬもので、私は毎晩、唯モウ手の甲をひつくり返しおつくり返し火に焙つて、火鉢に抱付く樣にして過した。一週間許り經つて、私は漸々少し寒さに慣れて來た。  二月の十日頃から、怎やら寒さが少しづつ緩み出した。寒さが緩み出すと共に、何處から來たか知らぬが、港内には流氷が一杯集つて來て、時々雪が降つた。私が來てから初めての記者月例會が開かれたのも、恰度一尺程もの雪の積つた、或る土曜日の夕であつた。 二  釧路は、人口と云へば僅か一萬五千足らずの、漸々發達しかけた許りの小都會だのに、怎したものか新聞が二種出て居た。  私の居たのは、「釧路日報」と云つて、土地で人望の高い大川道會議員の機關であつた。最初は紙面が半紙二枚程しかないのを、日曜々々に出して居たのださうだが、町の發達につれて、七年の間に三度四度擴張した結果、私が行く一週間許り前に、新築社屋の落成式と共に普通の四頁新聞になつた。無論これまでに漕ぎつけたのは、種々な關係が結びついた秘密の後援者があるからで、新聞獨自の力では無いが、社の經濟も案外巧く整理されて居て、大川社長の人望と共に、「釧路日報」の信用も亦、町民の間に餘程深く植ゑつけられて居た。編輯局には、主筆から校正まで唯五人。  モ一つは「釧路毎日新聞」と云つて、出來てから漸々半年位にしかならず、社も裏長屋みたいな所で、給料の支拂が何時でも翌月になるとか云ふ噂、職工共の紛擾が珍しくなく、普通の四頁の新聞だけれど、廣告が少くて第四面に空所が多く、活字が足らなくて假名許り澤山使ふから、見るから醜い新聞であつた。それでも記者は矢張五人居た。  月例會と云ふのは、此兩新聞の記者に、札幌、小樽、旭川などの新聞の支社に來て居る人達を合せて、都合十三四人の人が、毎月一度宛集るといふので、此月のは、私が來てから初めての會ではあり、入社の挨拶を新聞に載せただけで、何處へも改めては顏を出さずに居たから、知らぬ顏の中へ行くんだと云つた氣が、私の頭腦を多少他所行の心持にした。午後四時からと云ふ月番幹事の通知だつたので、三時半には私が最後の原稿を下した。 『今日は鹿島屋だから、市子のお酌で飮める譯だね。』 と云つて、主筆は椅子を暖爐に向ける。 『然し藝妓も月例會に出た時は、大變大人しくして居ますね。』 と八戸君が應じた。 『その筈さ、人の惡い奴許り集るんだもの。』 と笑つて、主筆は立上つた。『藝者に記者だから、親類同志なんだがね。』 『成程、何方も洒々としてますな。』 と、私も笑ひながら立つた。皆が硯箱に蓋をしたり、袴の紐を締直したり、莨を啣へて外套を着たりしたが、三面の外交をして居る小松君が、突然。 『今度また「毎日」に一人入つたさうですね。』と言つた。 『然うかね、何といふ男だらう?』 『菊池ツて云ふさうです。何でも、釧路に居る記者の中では一番年長者だらうツて話でしたよ。』 『菊池兼治と謂ふ奴ぢやないか?』と主筆が喙を容れた。 『兼治? 然うです〳〵、何だか武士の樣な名だと思ひました。』 『ぢや何だ、眞黒な顋鬚を生やした男で、放浪者みたいな?』 『然うですか、私はまだ逢はないんですが。』 『那麽男なら、何人先方で入れても安心だよ。何日だツたか、其菊池が、記者なり小使なりに使つて呉れツて、俺の所へ來た事があるんだ。可哀相だから入れようと思つたがね。』と、入口の方へ歩き出した。『前に來た時と後に來た時と、辻褄が合はん事を云つたから、之は怪しいと思つて斷つたさ。』  私は然し、主筆が常に自己と利害の反する側の人を、好く云はぬ事を知つて居た。「先方が六人で、此方よりは一人増えたな。」と云つた風な事を考へて玄關を出たが、 『君、二面だらうか、三面だらうか?』 と歩きながら小松君に問ひかけた時は、小松君は既に別の事を考へて居た。 『何がです?』 『菊池がさ。』 『さあ何方ですか。櫻井の話だと、今日から出社する樣に云つてましたがね。』  私共がドヤ〳〵と鹿島屋の奧座敷に繰込んだ時は、既七人許り集つて居た。一人二人を除いては、初對面の人許りなので、私は暫時の間名刺の交換に忙がしかつたが、それも一しきり濟んで、莨に火をつけると、直ぐ、眞黒な顋鬚の男は未だ來てないと氣がついた。人々はよく私にも話しかけて呉れた。一座の中でも、背の低い、色の黒い、有るか無きかの髭を生やした、洋服扮裝の醜男が、四方八方に愛嬌を振舞いては、輕い駄洒落を云つて、顏に似合はぬ優しい聲でキャッ〳〵と笑ふ。  十分許り經つて、「毎日」の西山社長と、私より一月程前に東京から來たといふ日下部編輯長とが入つて來た。日下部君は、五尺八寸もあらうかといふ、ガッシリした大男で、非常な大酒家だと聞いて居たが、如何樣眼は少しドンヨリと曇つて、服裝は飾氣なしの、新らしくも無い木綿の紋付を着て居た。  西山社長は、主筆を兼ねて居るといふ事であつた。七子の羽織に仙臺平のりうとした袴、太い丸打の眞白な紐を胸高に結んだ態は、何處かの壯士芝居で見た惡黨辯護士を思出させた。三十五六の、面皰だらけな細顏で、髭が無く、銀縁の近眼鏡をかけて居たが、眼鏡越に時々猜疑深い樣な目付をする。 『徐々始めようぢやありませんか、大抵揃ひましたから。』 と、月番幹事の志田君、(先ほどから愛嬌を振舞つてゐた、色の黒い男)が云ひ出した。  軈て膳部が運ばれた。「入交になつた方が可からう。」と云ふ、私の方の主筆の發端で、人々は一時ドヤドヤと立つたが、 『男振の好い人の中に入ると、私の顏が一層惡く見えて不可けれども。』 と笑ひながら、志田君は私と西山社長との間に坐つた。  酒となると談話が急に噪ぐ。其處にも此處にも笑聲が起つた。五人の藝妓の十の袂が、銚子と共に忙がしく動いて、艶いた白粉の香が、四角に立てた膝をくづさせる。點けた許りの明るい吊洋燈の周匝には、莨の煙が薄く渦を卷いて居た。  親善を厚うするとか、相互の利害を議するとか、連絡を圖るとか、趣旨は頗る立派であつたけれど、月例會は要するに、飮んで、食つて、騷ぐ會なので、主筆の所謂人の惡い奴許りだから、隨分と方々に圓滑な皮肉が交換されて、其度にさも面白相な笑聲が起る。意外事を素破拔かれた藝妓が、對手が新聞記者だけに、弱つて了つて、援助を朋輩に求めてるのもあれば、反對に藝妓から素破拔かれて頭を掻く人もある。五人の藝妓の中、其處からも此處からも名を呼び立てられるのは、時々編集局でも名を聞く市子と謂ふので、先刻膳を運ぶ時、目八分に捧げて、眞先に入つて來て、座敷の中央へ突立つた儘、「マア怎うしよう、私は。」と、仰山に驚いた姿態を作つた妓であつた。それは私共が皆一團になつて、障子際に火鉢を圍んで居たから、御膳の据場所が無かつたからで。十六といふ齡には少し老せて居るが、限りなき愛嬌を顏一杯に漲らして、態とらしからぬ身振が人の氣を引いた。  志田君は、盃を下にも置かず、相不變愛嬌を振舞いて居たが、お酌に𢌞つて來た市子を捉へて私の前に坐らせ、兩手の盃を一つ私に獻して、 『市ちやん、此方は今度「日報」へお出になつた橘さんといふ方だ、お年は若し、情は深し、トまでは知らないが、豪い方だからお近付になつて置け。他日になつて惡い事は無いぞ。』 『アラ然うですか。お名前は新聞で承はつてましたけれど、何誰かと思つて、遂……』と優容に頭を下げた。下げた頭の擧らぬうちに、 『これはおかめ屋の市ちやん。唯三度しか男と寢た事が無いさうです。然うだつたね、市ちやん?』 『おかめ屋なんて、人を。酷い事旦那は。』 と市子は怖い目をして見せたが、それでも志田君の貸した盃を受取つて、盃洗に淨めて私に獻した。 『印度の炭山の旦那のお媒介ですから、何卒末長く白ツぱくれない樣に……』 『印度の炭山の旦那は酷い。』と志田君の聲が高かつたので、皆此方を見た。『いくら私は色が黒いたつて、隨分念を入れた形容をしたもんだ。』  一座の人は聲を合せて笑つた。  私は初めての事でもあり、且つは、話題を絶やさぬ志田君と隣つて居る故か、自と人の目について、返せども返せども、盃が集つて來る。生來餘り飮ぬ口なので、顏は既ポツポと上氣して、心臟の鼓動が足の裏までも響く。二つや三つなら未だしもの事、私の樣な弱い者には、四つ五つと盃の列んだのを見ると、醒め果てた戀に向ふ樣で、モウ手も觸けたくない。藝妓には珍しく一滴も飮まぬ市子は、それと覺つてか、密と盃洗を持つて來て、志田君に見られぬ樣に、一つ宛空けて呉れて居たが、いつしか發覺して例の圓轉自在の舌から吹聽に及ぶ。「市ちゃんも仲々腕が上つた」とか、「今の若い者は、春秋に富んで居る癖に惚れ方が性急だ」とか、「橘さんも隅に置けぬ」とか、一座は色めき立つて囂々と騷ので、市子は、 『私此方の爲にしたんぢやなくて、皆さんが盃を欲しさうにして被居るから空けて上げたのですわ。』 と防いで見たが、遂々顏を眞赤にして次の室へ逃げた。私も皆と一緒になつて笑つた。暫時してから市子は輕い咳拂をして、怎やら取濟した顏をして出て來たが、いきなり復私の前に坐つた。人々は、却つて之を興ある事にして、モウ市子々々と呼び立てなくなつた。 『菊池さんて方が。』と女中が襖を開けて、敷居際に手をついた。話がバタリと止んで、視線が期せずして其方に聚る。ヌッと許り鬚面が入つて來た。  私は吸差の莨を灰に差した、人々は盃を下に置いた。西山社長は忙がしく居住ひを直して、此新來の人を紹介してから、 『馬鹿に遲いから來ないのかと思つて居た。』 と、さも容態ぶつて云つた。 『え、遲くなりました。』 と菊池君は吃る樣に答へて、變な笑ひを浮べ乍ら、ヂロヂロ一座を見𢌞したが、私とは斜に一番遠い、末席の空席に悠然と胡坐をかく。  皆は、それとなく此人の爲す所を見て居たが、菊池君は兩手に膝頭を攫んで、俯向いて自分の前の膳部を睨んで居るので、誰しも話しかける機會を失つた。私は、空になつて居た盃を取上げて、「今來た方へ。」と市子に渡した時、志田君も殆ど同時に同じ事を云つて盃を市子に渡した。市子は二つ捧げて立つて行つたが、 『彼方のお方からお取次で厶います。』 『誰方?』 と、菊池君は呟く樣に云つて顏を擧げる。 『アノ』と、私を見た盃を隣へ逸らして、『志田さんと仰しやる方。』  菊池君は、兩手に盃を持つた儘、志田君を見て一寸頭を下げた。 『モ一つは其お隣の、…………橘さん。』と目を落す。  菊池君は私には叩頭をして、滿々と酌を享けたが、此擧動は何となく私に興を催させた。  放浪漢みたいなと主筆が云つた。成程、新聞記者社會には先づ類の無い風采で、極く短く刈り込んだ頭と、眞黒に縮れて、乳の邊まで延びた頬と顋の鬚が、皮肉家に見せたら、顏が逆さになつて居るといふかも知れぬ。二十年も着古した樣で、何色とも云へなくなつた洋服の釦が二つ迄取れて居て、窄袴の膝は、兩方共、不手際に丸く黒羅紗のつぎが當ててあつた。剩へ洋襪も足袋も穿いて居ず、膝を攫んだ手の指の太さは、よく服裝と釣合つて、放浪漢か、土方の親分か、何れは人に喜ばれる種類の人間に見えなかつた。然し其顏は、見なれると、鬚で脅して居る程ではなく、形の整つた鼻、澁みを帶びて威のある眼、眼尻に優しい情が罩つて、口の結びは少しく顏の締りを弛めて居るけれど、若し此人に立派な洋服を着せたら、と考へて、私は不意に、河野廣中の寫眞を何處かで見た事を思出した。  菊池君から四人目、恰度私と向合つて居て、藝妓を取次に二三度盃の献酬をした日下部君は、時々此方を見て居たが、遂々盃を握つて立つて來た。ガッシリした身體を市子と並べて坐つて不作法に四邊を見𢌞したが、 『高い聲では云へぬけれど。』と低くもない聲で云つて、 『僕も新參者だから、新しく來た人で無いと味方になれん樣な氣がする。』 『私の顏は隨分古いけれど、今夜は染直したから新しくなつたでせう。』と、志田君は、首から赤銅色になつた醉顏を突出して笑つた。  市子は、仰ぐ樣にして横から日下部君の顏を見て居たが、 『私一度貴方にお目にかかつてよ、ねえ。』 『さうか、僕は氣が附かなかつた。』 『マア、以前も家へ入しつた癖に、…………薄情な人ね、此方は。』 と云つて、夢見る樣な目を私に向けて、微かな笑ひを含む。 『橘さんは餘り飮らん方ですね。』と云つた樣な機會から、日下部君と志田君の間に酒の論が湧いて、寢酒の趣味は飮んでる時よりも飮んで了つてからにある、但しこれは獨身者でなくては解りかねる心持だと云ふ志田君の説が、隨分と立入つた語を以て人々に腹を抱へさせた。日下部君は朝に四合、晩に四合飮まなくては仕事が出來ぬといふ大酒家で、成程先刻から大分傾けてるに不拘、少しも醉つた風が見えなかつたが、 『僕は女にかけては然程慾の無い方だけれど、酒となつちや然うは行かん。何處かへ、一寸飮みに行つても、銚子を握つて見て、普通より太いと滿足するが、細いとか輕いとかすると、モウ氣を惡くする。錢の無い時は殊にさうだね。』 『アッハハハ。』 と突然大きな笑聲がしたので、人々は皆顏をあげた。それは菊池君であつた。 『私もそれならば至極同感ですな。』 と調子の重い太い聲。手は矢張胡坐の兩膝を攫んで、グッと反返つて居た。  菊池君はヤヲラ立ち上つて、盃を二つ持つて來たが、「マア此方へ來給へ。菊池君。」と云ふ西山社長の聲がしたので、盃を私と志田君に返した儘其方へ行つて了つた。西山は何時しか向うの隅の方へ行つて、私の方の主筆と、「札幌タイムス」の支社長と三人で何か話合つて居た。  座敷の中央が、取片付けられるので、何かと思つたら、年長な藝妓が三人三味線を抱へて入口の方に列んだ。市子が立つて踊が始まる。 「香に迷ふ」とか云ふので、もとより端物ではあるけれど、濃艶な唄の文句が醉ふた心をそれとなく唆かす。扇の銀地に洋燈の光が映えて、目の前に柔かな風を匂はせる袂長く、そちら向けば朱の雲の燃ゆるかと眩しき帶の立矢の字、裾の捌きが青疊に紅の波を打つて、トンと輕き拍子毎に、チラリと見える足袋は殊更白かつた。戀に泣かぬ女の眼は若い。  踊が濟んだ時、一番先に「巧い。」と胴間聲を上げて、菊池君はまた人の目を引いた。「實に巧い、モ一つ、モ一つ。」と雀躍する樣にして云つた小松君の語が、三四人の反響を得て、市子は再立つ。  此度のは、「權兵衞が種蒔けや烏がほじくる。」とか云ふ、頗る道化たもので「腰付がうまいや。」と志田君が呟いて居たが、私は、「若し藝妓の演藝會でもあつたら此妓を賞めて書いてやらう。」と云つた樣な事を、醉うた頭に覺束なく考へて居た。  踊の濟むのを機會に飯が出た。食ふ人も食はぬ人もあつたが、飯が濟むと話がモウ勢んで來ない。歸る時、誰やらが後から外套を被けて呉れた樣だつたが、賑やかに送り出されて、戸外へ出ると、菊池君が、私の傍へ寄つて來た。 『左の袂、左の袂。』 と云ふ。私は、何を云ふのかと思ひ乍ら、袂に手を入れて見ると、何かしら柔かな物が觸つた。モウ五六間も門口の瓦斯燈から離れてよくは見えなかつたが、それは何か美しい模樣のある淡紅色の手巾であつた。 『ウワッハハハ。』と大きな聲で笑つて、菊池君は大跨に先に立つて行つたが、怎やら少しも醉つて居ない樣に見えた。  休坂を下りて眞砂町の通りへ出た時は、主筆と私と八戸君と三人限になつて居た。『隨分贅澤な會を行りますねえ。』と私が云ふと、 『ナニあれでも一人一圓五十錢位なもんです。藝者は何の料理屋でも、ロハで寄附させますから。』と主筆が答へた。私は何だか少し不愉快な感じがした。  一二町歩いてから、 『可笑な奴でせう、君。』 と主筆が云ふ。私は、市子の事ぢやないかと、一寸狼狽へたが、 『誰がです?』 と何氣なく云ふと、 『菊池ツて男がさ。』 『アッハハハ。』 と私は高く笑つた。 三  翌日は日曜日、田舍の新聞は暢氣なもので、官衙や學校と同じに休む。私は平日の如く九時頃に眼を覺した。恐ろしく喉が渇いて居るので、頭を擡げて見𢌞したが、下に持つて行つたと見えて鐵瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも變だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其處へ醜女の芳ちやんが、新聞を持つて入つて來たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、 『まだ早いから寢て居なされよ、今日は日曜だもの。』 と云つて出て行く。 『オイ〳〵、喉が渇いて仕樣が無いよ。』 『そですか。』 『そですかぢやない。眞に渇くんだよ、昨晩少し飮んで來たからな。』 『少しなもんですか。』 と云つたが、急にニヤ〳〵と笑つて立戻つて來て、私の枕頭に膝をつく。また戯れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲團の襟を敲いて、 『私に一生のお願ひがあるで、貴君聽いて呉れますか?』 『何だい?』 『マアさ。』 『お湯を持つて來て呉れたら、聽いてやらん事もない。』 『持つて來てやるで。あのね、』と笑つたが『貴方好え物持つてるだね。』 『何をさ?』 『白ッぱくれても駄目ですよ。貴方の顏さ書いてるだに、半可臭え。』 『喉が渇いたとか?』 『戯談ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る樣子。それは昨晩の淡紅色の手巾であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。 『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がぴこづいて、目が恍惚と細くなる。恁麽好い香を知らないんだなと思つて、私は何だか氣の毒な樣な氣持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。 『私貰つてくだよ、これ。』と云ふ語は、滿更揶揄ふつもりでも無いらしい。 『やるよ。』 『本當がね。』と目を輝かして、懷に捻じ込む眞似をしたが、 『貴方が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾を私の顏にかけた儘、バタ〳〵出て行つた。  目を瞑ると、好い香のする葩の中に魂が包まれた樣で、自分の呼氣が温かな靄の樣に顏を撫でる。懵乎として目を開くと、無際限の世界が唯モウ薄光の射した淡紅色の世界で、凝として居ると遙か遙か向うにポッチリと黒い點、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近づいて來て、大きくなつて、世界を掩ひ隱す樣な翼が、目の前に來てパット消えた。今度は楕圓形な翳が横合から出て來て、煙の樣に、動いて、もと來た横へ逸れて了ふ。ト、淡紅色の襖がスイと開いて、眞黒な鬚面の菊池君が……  足音がしたので、急いで手を出して手巾を顏から蒲團の中へ隱す。入つて來たのは小い方の女中で、鐵瓶と茶器を私の手の屆く所へ揃へて、出て行く時一寸立止つて枕頭を見𢌞した。芳の奴が喋つたなと感付く。怎したものか、既茶を入れて飮まうと云ふ氣もしない。  昨晩の事が歴々と思出された。女中が襖を開けて鬚面の菊池君が初めて顏を出した時の態が目に浮ぶ。巖の樣な日下部君と芍藥の樣な市子の列んで坐つた態、今夜は染直したから新しくなつたでせうと云つて、ヌット突出した志田君の顏、色の淺黒い貧相な一人の藝妓が、モ一人の袖を牽いて、私の前に坐つて居る市子の方を顋で指し乍ら、何か密々話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて來て、西山から聲をかけられた時、怎やら私達の所に坐りたさうに見えた事、雀躍する樣に身體を搖がして、踊をモ一つ所望した小松君の横顏、……それから、市子の顏を明瞭描いて見たいと云ふ樣な氣がして、折角努めて見たが、怎してか浮んで來ない。今度は、甚麽氣がしてアノ手巾を私の袂に入れたのだらうと考へて見たが、否、不圖すると、アレは市子でなくて、名は忘れたが、ソレ、アノ何とか云つた、色の淺黒い貧相な奴が、入れたんぢやないかと云ふ氣がした。が、これには自分ながら直ぐ可笑くなつて了つて、又しても「左の袂、左の袂」を思ひ出す。…… 「ウワッハハ」と高く笑つて、薄く雪明のした小路を、大跨に歩き去つた。――其後姿が目に浮ぶと、(此朝私の頭腦は餘程空想的になつて居たので、)種々な事が考へられた。  大跨に、然うだ、菊池君は普通の足調でなく、屹度大跨に歩く人だ。無雜作に大跨に歩く人だ。大跨に歩くから、時としてドブリと泥濘へ入る、石に躓く、眞暗な晩には溝にも落こちる、若しかして溝が身長よりも深いとなると、アノ人の事だから、其溝の中を大跨に歩くかも知れない。 「溝の中を歩く人、」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐えた、腐つた、溝の中の汚水の臭氣で那麽に變色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた證據だ。激しい勞働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再口の中で云つて見たが、此語は、吾乍ら鋭い錐で胸をもむ樣な連想を起したので、狼狽へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。  何にしても菊池君は失敗を重ねて來た人だ、と、勝手に斷定して、今度は、アノ指が確かに私の二本前太いと思つた。で、小兒みたいに、密と自分の指を蒲團の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の對手を西山社長にした。何と云ふ譯もないが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑深い目付きとが、怎しても菊池君と調和しない樣な氣がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で惡く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片を擲る。社長は蹣跚と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカポカと拳骨が飛ぶ、社長は卓子の下を這つて向うへ拔けて拔萃に使ふ鋏を逆手に握つて眞蒼な顏をして、「發狂したか?」と顫聲で叫ぶ。菊池君は兩手を上衣の衣嚢に突込んで、「馬鹿な男だ喃。」と吃る樣に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ來て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず聲を立てて私は笑つた。  が、此妄想から、私の頭腦に描かれて居る菊池君が、怎やら、アノ鬚で、權力の壓迫を春風と共に受流すと云つた樣な、氣概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帶びて現れた。私は、小い時に讀んだ三國史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に當嵌めようとしたが、不圖、「馬賊の首領に恁麽男は居ないだらうか。」と云ふ氣がした。  馬賊……滿州……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ鬚面が初めて現れた時は、菊池は何處か遠い所から來たのぢや無かつたらうかと思はれる。考が直ぐ移る。  昨晩の座敷の樣子が、再鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、餘程の間隔がある。「ウワッハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて來たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて來て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向效力が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐をかいた膝頭を、兩手で攫んで、凝然として居る人だ。……………  ト、今度は、菊池君の顏を嘗て何處かで見た事がある樣な氣がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵がパッと目に浮ぶ。中學の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髮床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級の友人のお父親の鬚だつたと氣がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家に泊つて居た鬚……違ふ、アノ鬚なら氣仙郡から來た大工だと云つて、二ヶ月も遊んで喰逃して北海道へ來た筈だ。ト、以前私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭が腦に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白澤屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確なので、ハテ、何處だつたかと、氣が少し苛々して來て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と言へば、直ぐ須田町――東京中の電車と人が四方から崩れる樣に集つて來る須田町を頭腦に描くが、アノ雜沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乘る所を、私は餘程遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接けるのは無理だ。…… 『モウ起きなさいよ、十一時が打つたから。那麽に寢てて、貴方何考へてるだべさ。』 と、取つて投げる樣な、癇高い聲で云つて、お芳が入つて來た。ハッとすると、血が頭からスーッと下つて行く樣な、夢から覺めた樣な氣がして、返事もせず、眞面目な顏をして默つて居ると、お芳も存外眞面目な顏をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、皹だらけの、赤黒い不恰好な手が、忙がしさうに、細い眞鍮の火箸を動す。手巾を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲團の中で、胸の上にシッカリ握つてる事に氣がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて來たので、對手にそれを云ひ出す機會を與へまいと、寢返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に酷似てると思つた。不思議だナと考へて、半分𢌞しかけた頭を一寸戻して、再お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似て居る筈が無いサと胸の中で云つて、思ひ切つて寢返りを打つ。 『私の顏など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』 『何を云ふんだい。』 と私は何氣なく云つたが、ハハア、此女が、存外眞面目な顏をしてる哩と思つたのは、ヤレ〳〵、これでも一種の姿態を作つて見せる積りだつたかと氣が附くと、私は吹出したくなつて來た。 『フン』 とお芳が云ふ。  私は、顏を伏臥す位にして、呼吸を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雜巾で火鉢の縁を拭いている樣だつたが、軈て鐵瓶の蓋を取つて見る樣な音がする、茶器に觸る音がする。 『喉が渇いて渇いて、死にそだてからに、湯は飮まねえで何考えてるだかな。』 と、獨語の樣に云つて、出て行つて了つた。 四  社長の大川氏も、理事の須藤氏も、平生「毎日」の如きは眼中に無い樣な事を云つて居て、私が初めて着いた時も、喜見とか云ふ、土地で一番の料理屋に伴れて行かれて、「毎日」が例令甚麽事で此方に戈を向けるにしても、自體對手にせぬと云つた樣な態度で、唯君自身の思ふ通りに新聞を拵へて呉れれば可い。「日報」の如く既に確實な基礎を作つた新聞は、何も其日暮しの心配をするには當らぬと云ふ意味の事を懇々と説き聞かされた。高木主筆は少し之と違つて居て、流石は創業の日から七年の間、「日報」と運命を共にして來て、(初めは唯一人で外交も編輯も校正も、時としては發送までやつたものださうだが、)毎日々々土地の生きた事件を取扱つて來た人だけ、其説には充分の根據があつた。主筆は、北海道の都府、殊にも此釧路の發達の急激な事に非常の興味をもつて居て、今でこそ人口も一萬五千に滿たぬけれど、半年程前に此處と函館とを繋いだ北海道鐵道の全通して以來、貨物の集散高、人口の増加率、皆月毎に上つて來て居るし、殊に中央の政界までも騷がして居る大規模の築港計畫も、一兩年中には着手される事であらうし、池田驛から分岐する網走線鐵道の竣工した曉には釧路、十勝、北見三國の呑吐港となり、單に地理的事情から許りでなく、全道に及ぼす經濟的勢力の上でも釧路が「東海岸の小樽」となる日が、決して遠い事で無いと信じて居た。されば、此釧路を何日まで「日報」一つで獨占しようとするのは無理な事で、其爲には、却つて「毎日」の如き無勢力な新聞を、生さず殺さずして置く方が、「日報」の爲に恐るべき敵の崛起するのを妨げる最良の手段であると云ふのが此人の對「毎日」觀であつた。  にも不拘、此三人の人は、怎したものか、何か事のある毎に、「毎日」の行動に就いて少からず神經過敏な態度を見せて、或時の如きは、須藤氏が主として關係して居る漁業團體に、内訌が起つたとか起りさうだとか云ふ事を、「毎日」子が何かの序に仄めかした時、大川氏と須藤氏が平生になく朝早く社にやつて來て、主筆と三人應接室で半時間も密議してから、大川社長が自分で筆を執つて、「毎日」と或關係があると云はれて居る私立銀行の内幕を剔つた記事を書いた。  が、私が追々と土地の事情が解つて來るに隨れて、此神經過敏の理由も讀めて來た。ト云ふのは、大川氏が土地の人望を一身に背負つて立つた人で、現に町民に推されて、(或は推させて、)道會議員にもなつて居るけれど、町が發達し膨脹すると共に種々な分子が入交んで來て、何といふ理由なしに新しい人を欲する希望が、町民の頭腦に起つて來た。「毎日」の西山社長は、正に此新潮に棹して彼岸に達しようと焦慮つて居る人なので、彼自身は、其半生に種々な黒い影を伴つて居る所から、殆ど町民に信じられて居ぬけれど、長い間大川氏と「日報」の爲に少からぬ犧牲を拂はされて來て、何といふ理由なしに新しい人を望む樣になつた一部の勢力家、――それ自身も多少の野心をもたぬでもない人々が、表面には出さぬけれど自然西山を援ける樣になつて來た。私が大分苦心して集めた材料から、念の爲に作つて見た勢力統計によると、前の代議士選擧に八分を占めて居た大川氏の勢力は、近く二三ヶ月後に來るべき改選期に於て、怎しても六分、――未知數を味方に加算して、六分五厘位迄に墮ちて居た。大川氏は前には其得點全部を期日間際になつて或る政友に譲つたが、今度は自身で立つ積りで居る。最も、殘餘の反對者と云つても、これと云ふ統率者がある譯で無いから、金次第で怎でもなるのだが。  で、「毎日」は、社それ自身の信用が無く、隨つて社員一個々々に於ても、譬へば料理屋へ行つて勘定を月末まで待たせるにしても、餘程巧みに談判しなければ拒まれると云つた調子で、紙數も唯八百しか出て居なかつたが、それでも能く續けて行く。「毎日」が先月紙店の拂ひが出來なかつたので、今日から其日々々に一連宛買ふさうだとか、職工が一日になつても給料を拂はれぬので、活字函を轉覆して家へ歸つたさうだとか云ふ噂が、一度や二度でなく私等の耳に入るけれど、それでも一日として新聞を休んだ事がない。唯八百の讀者では、いくら田舍新聞でも維持して行けるものでないのに、不思議な事には、職工の數だつて敢て「日報」より少い事もなく、記者も五人居た所へ、また一人菊池を入れた。私の方は千二百刷つて居て、外に官衙や銀行會社などの印刷物を一手に引受けてやつて居るので、少し宛積立の出來る月もあると、目の凹んだ謹直家の事務長が話して居たが。……  私は、這麽事情が解ると共に、スッカリ紙面の體裁を變へた。「毎日」の遣り方は、喇叭節を懸賞で募集したり、藝妓評判記を募つたり、頻りに俗受の好い様にと焦慮つてるので、初め私も其向うを張らうかと持出したのを、主筆初め社長までが不賛成で、出來るだけ清潔な、大人らしい態度で遣れと云ふから、其積りで、記事なども餘程手加減して居たのだが、此頃から急に手を變へて、さうでもない事に迄「報知」式にドン〳〵二號活字を使つたり、或る酒屋の隱居が下女を孕ませた事を、雅俗折衷で面白可笑しく三日も連載物にしたり、粹界の材料を毎日絶やさぬ樣にした。詰り、「毎日」が一生懸命心懸けて居ても、筆の立つ人が無かつたり、外交費が無かつたりして、及びかねて居た所を、私が幸ひ獨身者には少し餘る位收入があるので、先方の路を乘越して先へ出て見たのだ。最初三面主任と云ふ事であつたのを、主筆が種々と土地の事業に關係して居て忙しいのと、一つには全七年間同じ事許りやつて來て、厭きが來てる所から、私が毎日總編輯をやつて居たので。  土地が狹いだけに反響が早い。爲る事成す事直ぐ目に附く、私が編輯の方針を改めてから、間もなく「日報」の評判が急によくなつて來た。  恁うなると滑稽もので、さらでだに私は編輯局で一番年が若いのに、人一倍大事がられて居たのを、同僚に對して氣耻かしい位、社長や理事の態度が變つて來る。それ許りではない、須藤氏が何かの用で二日許り札幌に行つた時、私に銀側時計を買つて來て呉れた。其三日目の日曜に、大川氏の夫人が訪ねて來たといふので吃驚して起きると、「宅に穿かせる積りで仕立さしたけれど、少し短いから。」と云つて、新しい仙臺平の袴を態々持つて來て呉れた。  袴と時計に慢心を起した譯ではないが、人の心といふものは奇妙なもので、私は此頃から、少し宛現在の境遇を輕蔑する樣になつた。朝に目を覺まして、床の中で不取敢新聞を讀む。ト、私が來た頃までは、一面と二面がルビ無しの、時としては艶種が二面の下から三面の冒頭へ續いて居る樣な新聞だつたのが、今では全然總ルビ附で、體裁も自分だけでは何處へ出しても耻かしくないと思ふ程だし、殊に三面――田舍の讀者は三面だけ讀む。――となると、二號活字を思切つて使つた、誇張を極めた記事が、賑々しく埋めてある。フフンと云つた樣な氣持になる。若しかして、記事の排列の順序でも違つてると、「永山の奴仕樣がないな、いくら云つても大刷校正の時順序紙を見ない。」などと呟いて見るが、次に「毎日」を取つて見るといふと、モウ自分の方の事は忘れて、又候フフンと云つた氣になる。「毎日」は何日でも私の方より材料が二つも三つも少かつた。取分け私自身の聞出して書く材料が、一つとして先方に載つて居ない。のみならず、三面だけにルビを附けただけで、活字の少い所から假名許り澤山に使つて、「釧路」の釧の字が無いから大抵「くし路」としてあつた。新聞を見て了つて、起きようかナと思ふと、先づ床の中から兩腕を出して、思ひ切つて悠暢と身延をする。そして、「今日も亦社に行つてと……ええと、また二號活字を盛んに使うかナ。」と云ふ樣な事を口の中で云つて見て、そして今度は前の場合と少し違つた意味に於て、フフンと云つて、輕く自分を嘲つて見る。「二號活字さへ使へば新聞が活動したものと思つてる、フン、處世の秘訣は二號活字にありかナ。」などと考へる。  這麽氣がし出してから、早いもので、二三日經つと、モウ私は何を見ても何を聞いても、直ぐフフンと鼻先であしらふ樣な氣持になつた。其頃は私も餘程土地慣れがして來て、且つ仕事が仕事だから、種々の人に接觸して居たし、隨つて一寸普通の人には知れぬ種々な事が、目に見えたり、耳に入つたりする所から、「要するに釧路は慾の無い人と眞面目な人の居ない所だ。」と云つた樣な心地が、不斷此フフンといふ氣を助長けて居た。  モ一つ、それを助長けるのは、厭でも應でも毎日顏を見では濟まぬ女中のお芳であつた。私が此下宿へ初めて移つた晩、此女が來て、亭主に別れてから自活して居たのを云々と話した事があつたが、此頃になつて、不圖した事から、それが全然根も葉も無い事であると解つた。亭主があつたのでも無ければ、主婦が強つて頼んだのでもなく、矢張普通の女中で、額の狹い、小さい目と小さい鼻を隱して了ふ程頬骨の突出た、土臼の樣な尻の、先づ珍しい許りの醜女の肥滿人であつた。人々に向つて、よく亭主があつた樣な話をするのは、詰り、自分が二十五にもなつて未だ獨身で居るのを、人が、不容貌な爲に拾手が無かつたのだとでも見るかと思つてるからなので、其麽女だから、何の室へ行つても、例の取て投げる樣な調子で、四邊構はず狎戲る、妙な姿態をする。止宿人の方でも、根が愚鈍な淡白者だけに面白がつて盛んに揶揄ふ。ト、屹度私の許へ來て、何番のお客さんが昨晩這麽事を云つたとか、那麽事をしたとか、誰さんが私の乳を握つたとか、夏になつたら浴衣を買つてやるから毎晩泊りに來いと云つたとか、それは〳〵種々な事を喋り立てる。私はよく氣の毒な女だと思つてたが、それでも此滑稽な顏を見たが最後、腹の蟲が喉まで出て來て擽る樣で、罪な事とは知り乍ら、種々な事を云つて揶揄ふ。然も、怎したものか、生れてから云つた事のない樣な際敏い皮肉までが、何の苦もなく、咽喉から矢繼早に出て來る。すると、芳ちゃんは屹度怒つた樣な顏をして見せるが、此時は此女の心の中で一番嬉しい時なので、又、其顏の一番滑稽て見える時なのだ。が、私は直ぐ揶揄ふのが厭になつて了ふので、其度、 『モウ行け、行け。何時まで人の邪魔するんだい、馬鹿奴。』 と怒鳴りつける。ト、芳ちゃんは小さい目を變な具合にして、 『ハイ行きますよ。貴方の位隔てなくして呉れる人ア無えだもの。』 と云つて、大人しく出て行く。私は何日か、此女は、アノ大きな足で、「眞面目」といふものの影を消して歩く女だと考へた事があつた。  社に行くと、何日でも事務室を通つて二階に上るのだが、餘り口も利かぬ目の凹んだ事務長までが、私の顏を見ると、 『今日は橘さんへ郵便が來て居なんだか。』 と受付の者に聞くと云つた調子。編輯局へ入つても、兎角私のフフンと云ふ氣持を唆る樣な話が出る。  其麽話を出さぬのは、主筆だけであつた。主筆は、體格の立派な、口髭の嚴しい、何處へ出しても敗をとらぬ風采の、四十年輩の男で、年より早く前頭の見事に禿げ上つてるのは、女の話にかけると甘くなる性な事を語つて居た。が、平生は至つて口少なな、常に鷹揚に構へて、部下の者の缺點は隨分手酷くやッつけるけれども、滅多に煽動る事のない人であつた。で、私に對しても、極く淡白に見せて居たが、何も云はねば云はぬにつけて、私は又此人の頭腦がモウ餘程乾涸て居て、漢文句調の幼稚な文章しか書けぬ事を知つて居るので、それとなく腹の中でフフンと云つて居る。  一體此編輯局には、他の新聞には餘り類のない一種の秩序――官衙風な秩序があつた。それは無論何處の社でも、校正係が主筆を捉へて「オイ君」などと云ふ事は無いものだけれど、それでも普通の社會と違つて、何といふ事なしに自由がある。所が、此編輯局には、主筆が社の柱石であつて動かすべからざる權力を持つて居るのと、其鷹揚な官吏的な態度とが、自然さう云ふ具合にしたものか、怎かは知らぬが、主筆なら未だしも、私までが「君」と云はずに「貴方」と云はれる。言話のみでなく、凡ての事が然う云つた調子で、隨つて何日でも議論一つ出る事なく、平和で、無事で、波風の立つ日が無いと共に、部下の者に抑壓はあるけれど、自由の空氣が些とも吹かぬ。  私は無論誰からも抑壓を享けるでもなく、却つて上の人から大事がられて、お愛嬌を云はれて居るので、隨分我儘に許り振舞つて居たが、フフンと云ふ氣持になつて、自分の境遇を輕蔑して見る樣になつて間もなくの事――其麽氣がし乍らも職務には眞面目なもので、毎日十一時頃に出て四時過ぎまでに、大抵は三百行位も書きこなすのだから、手を休める暇と云つては殆ど無いのだが、――時として、筆の穂先を前齒で輕く噛みながら、何といふ事なしに苦蟲を噛みつぶした樣な顏をして居る事があつた。其麽時は、恰度、空を行く雲が、明るい頭腦の中へサッと暗い影を落した樣で、目の前の人の顏も、原稿紙も、何となしに煤んで、曇つて見える。ハッと氣が附いて、怎して這麽氣持がしたらうと怪んで見る。それが日一日と數が多くなつて行く、時間も長く續く樣になつて行く。  或日、須藤氏が編輯局に來て居て、 『橘君は今日二日醉ぢやないか。』 と云つた。恰度私が呆然と例の氣持になつて、向側の壁に貼りつけた北海道地圖を眺めて居た時なので、ハッとして、 『否』 と云つた儘、テレ隱しに愛想笑ひをすると、 『さうかえ、何だか氣持の惡さうな顏をして居るから、僕は又、何か市子に怨言でも言はれたのを思出してるかと思つた。』 と云つて笑つたが、 『君が然うして一生懸命働いてくれるのは可いが。、其爲に神經衰弱でも起さん樣にして呉れ給へ。一體餘り丈夫でない身體な樣だから。』  私は直ぐ腹の中でフフンと云ふ氣になつたが、可成平生の快活を裝うて、 『大丈夫ですよ。僕は藥を飮むのが大嫌ひですから、滅多に病氣なんかする氣になりません。』 『そんなら可いが、』と句を切つて、『最も、君が病氣したら、看護婦の代りに市子を頼んで上る積りだがね、ハハハ。』 『そら結構です、何なら、チョイ〳〵病氣する事にしても可いですよ。』  其日は一日、可成くすんだ顏を人に見せまいと思つて、頻りに心にもない戲談を云つたが、其麽事をすればする程、頭腦が暗くなつて來て、筆が溢る、無暗矢鱈に二號活字を使ふ。文選小僧は「明日の新聞も景気が可えぞ。」と工場で叫んで居た。  何故暗い陰影に襲はれるか? 訝しいとは思ひ乍ら、私は別に深く其理由を考へても見なかつた。が、詰り私は、身體は一時間も暇が無い程忙がしいが、爲る事成す事思ふ壺に篏つて、鏡の樣に凪いだ海を十日も二十日も航海する樣なので、何日しか精神が此無聊に倦んで來たのだ。西風がドウと吹いて、千里の夏草が皆靡く、抗ふ樹もなければ、遮る山もない、と、風は野の涯に來て自ら死ぬ。自ら死ぬ風の心を、若い人は又、春の眞晝に一人居て、五尺の軒から底無しの花曇りの空を仰いだ時、目に湧いて來る寂しみの雲に讀む。戀ある人は戀を思ひ、友ある人は友を懷ひ、春の愁と云はるる「無聊の壓迫」を享けて、何處かしら遁路を求めむとする。太平の世の春愁は、肩で風切る武士の腰の物に、態と觸つて見る市井の無頼兒である。世が日毎に月毎に進んで、汽車、汽船、電車、自動車、地球の周圍を縮める事許り考へ出すと、徒歩で世界を一週すると言ひ出す奴が屹度出る。――詰り、私の精神も、徒歩旅行が企てたくなつたのだ、喧嘩の對手が欲しくなつたのだ。  一月の下旬に來て、唯一月經つか經たぬに這麽氣を起すとは、少し氣早い――不自然な樣に思ふかも知れぬが、それは私の性行を知らぬからなので……私は、北海道へ來てから許りも、唯九ヶ月の間に、函館、小樽、札幌で四つの新聞に居て來た。何の社でも今の樣に破格の優遇はして呉れなかつたが、其代り私は一日として心の無聊を感じた事が無い。何か知ら企てる、でなければ、人の企てに加はる。其企てが又、今の樣に何の障害なしに行はれる事が無いので、私の若い精神は絶間もなく勇んで、朝から晩まで戰場に居る心地がして居た。戰ひに慣れた心が、何一つ波風の無い編輯局に來て、徐々睡氣がさす程「無聊の壓迫」を感じ出したのだ。  這麽理由とも氣が附かず、唯モウ暗い陰影に襲はれると、自暴に誇大な語を使つて書く、筆が一寸躓くと、くすんだ顏を上げて周圍を見る。周邊は何時でも平和だ、何事も無い。すると、私は穗先を噛んでアラヌ方を眺める。  主筆は鷹揚に淡白と構へて居る。八戸君は毎日役所𢌞りをして來て、一生懸命になつて五六十行位雜報を書く。優しい髭を蓄へた、色白の、女に可愛がられる顏立で、以前は何處かの中學の教師をした人なさうだが、至極親切な君子人で、得意な代數幾何物理の割に筆は立たぬけれど、遊郭種となると、打つて變つて輕妙な警句に富んだものを書く、私の心に陰影のさした時、よく飛沫の叱言を食ふのは、編輯助手の永山であつた。永山はモウ三十を越した、何日でも髮をペタリとチックで撫でつけて居て、目が顏の兩端にある、頬骨の出た、ノッペリとした男で、醉つた時踊の眞似をする外に、何も能が無い、奇妙に生れついた男もあればあるもので、此男が眞面目になればなる程、其擧動が吹き出さずに居られぬ程滑稽に見えて、何か戲談でも云ふと些とも可笑しくない。午前は商況の材料取に店𢌞りをして、一時に警察へ行く。歸つてから校正刷の出初めるまでは、何も用が無いので、東京電報を譯さして見る事などもあるが、全然頭に働きが無い、唯五六通の電報に三十分も費して、それで間違ひだらけな譯をする。  少し毛色の變つてるのは、小松君であつた。二十七八の、髭が無いから年よりはズット若く見えるが、大きい聲一つ出さぬ樣な男で居て、馬鹿に話好きの、何日でも輕い不安に襲はれて居る樣に、顏の肉を痙攣けらせて居た。  此小松君は又、暇さへあれば町を歩くのか好きだといふ事で、市井の細かい出來事まで、殆んど殘りなく聞込んで來る。私が、彼の「毎日」の菊池君に就いて、種々の噂を聞いたのも、大抵此小松君からであつた。  其話では、――菊池君は贅澤にも棧橋前の「丸山」と云ふ旅館に泊つて居て、毎日草鞋を穿いて外交に𢌞つて居る。そして、何處へ行つても、 『私は「毎日新聞」の探訪で、菊池兼治と云ふ者であります。』 と挨拶するさうで、初めて警察へ行つた時は、案内もなしにヅカ〳〵事務室へ入つたので、深野と云ふ主任警部が、テッキリ無頼漢か何か面倒な事を云ひに來たと見たから、『貴樣は誰の許可を得て入つたか?』 と突然怒鳴りつけたと云ふ事であつた。菊池君は又、時々職工と一緒になつて酒を飮む事があるさうで、「丸山」の番頭の話では、時として歸つて來ない晩もあると云ふ。其麽時は怎も米町(遊廓)へ行くらしいので、現に或時の晩の如きは職工二人許りと連立つて行つた形跡があると云ふ事であつた。そして又、小松君は、聨隊區司令部には三日置位にしか材料が無いのに、菊池君が毎日アノ山の上まで行くと云つて、笑つて居た。  四時か四時半になると、私は算盤を取つた、順序紙につけてある行數を計算して、 『原稿出切。』 と呼ぶ。ト、八戸君も小松君も、卓子から離れて各々自分の椅子を引ずつて煖爐の周邊に集る。此時は流石に私も肩の荷を下した樣で、ホッと息をして莨に火を移すが、輕い空腹と何と云ふ事の無い不滿足の情が起つて來るので大抵一本の莨を吸ひきらぬ中に歸準備をする。  宿に歸ると、否でも應でもお芳の滑稽た顏を見ねばならぬ。ト、其何時見ても絶えた事のない卑しい淺間しい飢渇の表情が、直ぐ私に 『オイ、家の別嬪さんは今日誰々に秋波を使つた?』 と云ふ樣の事を云はせる。 『マア酷いよ、此人は。私の顏見れば、そんな事許り云つてさ。』 と、お芳は忽ちにして甘えた姿態をする。 『飯持つて來い、飯。』 『貴方、今夜も出懸けるのかえ。』 『大きに御世話樣。』 『だつて主婦さんが貴方の事心配してるよ。好え人だども、今から酒など飮んで、怎するだべて。』 『お嫁に來て呉れる人が無くなるッテ譯か?』 『マアさ。』 『ぢやね、芳ちやんの樣な人で、モ些と許りお尻の小さいのを嫁に貰つて呉れたら、一生酒を禁めるからツてお主婦さんにそ云つて見て呉れ。』 『知らない、私。』と立つて行く。  夕飯が濟む。ト、一日手を離さぬので筆が仇敵の樣になつてるから、手紙一本書く氣もしなければ、書など見ようとも思はぬ。凝然として洋燈の火を見つめて居ると、斷々な事が雜然になつて心を掠める。何時しか暗い陰影が頭腦に擴つて來る。私は、恁うして何處へといふ確かな目的もなく、外套を引被けて外へ飛び出して了ふ。  這麽氣持がする樣になつてから、私は何故といふ理由もなしに「毎日」の日下部君と親しく往來する樣になつた。ト共に、初め材料を聞出す積りでチョイ〳〵飮みに行つたのが、此頃では其麽考へも無しに、唯モウ行かねば氣が落付かぬ樣で、毎晩の樣に華やかな絃歌の巷に足を運んだ。或時は小松君を伴れて、或時は日下部君と相携へて。  星明りのする雪路を、身も心もフラ〳〵として歸つて來るのは、大抵十二時過であるが、私は、「毎日」社の小路の入口を通る度に、「僕の方の編輯局は全然梁山伯だよ。」と云つた日下部君の言葉を思出す。月例會に逢つた限の菊池君が何故か目に浮ぶ。そして、何だか一度其編集局へ行つて見たい樣な氣がした。 五  三月一日は恰度日曜日。快く目をさました時は、空が美しく晴れ渡つて、東向の窓に射す日が、塵に曇つた硝子を薄温かに染めて居た。  日射が上から縮つて、段々下に落ちて行く。颯と室の中が暗くなつたと思ふと、モウ私の窓から日が遁げて、向合つた今井病院の窓が、遽かにキラ〳〵とする。午後一時の時計がチンと何處かで鳴つて、小松君が遊びに來た。 『昨晩怎でした。面白かつたかえ?』 『隨分な入でした。五百人位入つた樣でしたよ。』 『釧路座に五百人ぢや、棧敷が危險いね。』 『ええ、七時頃には木戸を閉めツちやツたんですが、大分戸外で騷いでましたよ。』 『其麽だつたかな。最も、釧路ぢや琵琶會が初めてなんださうだからね。』 『それに貴方が又、馬鹿に景氣をつけてお書きなすツたんですからな。』 『其麽事もないけれども……訝しげなもんだね。一體僕は、慈善琵琶會なんて云ふ「慈善」が大嫌ひなんで、アレは須らく僞善琵琶會と書くべしだと思つてるんだが、それでも君、釧路みたいな田舎へ來てると、怎も退屈で退屈で仕樣がないもんだからね。遂ソノ、何かしら人騷がせがやつて見たくなるんだ。』 『同意ですな。』 『孤兒院設立の資金を集るなんて云ふけれど、實際はアノ金村ツて云ふ琵琶法師も喰せ者に違ひないんだがね。』 『でせうか?』 『でなけや、君……然う〳〵、君は未だ知らなかつたんだが、昨日彼奴がね、編集局へビールを、一打寄越したんだよ。僕は癪に觸つたから、御好意は有難いが此代金も孤兒院の設立資金に入れて貰ひたいツて返してやつたんだ。』 『然うでしたか、怎も……』 『慈善を餌に利を釣る、巧くやつてるもんだよ。アノ旅館の贅澤加減を見ても解るさ。』 『其麽事があつた爲ですか、昨晩頻りに、貴方がお出にならないツて、金村の奴心配してましたよ。』 『感付かれたと思つてるだらうさ。』 『然う〳〵、まだ心配してた人がありましたよ。』 『誰だえ?』 『市ちやんが行つてましてね。』 『誰と?』 『些とは心配ですかな。』 『馬鹿な……ハハハ。』 『小高に花助と三人でしたが、何故お出にならないだらうツて、眞實に心配してましたよ。』 『風向が惡くなつたね。』 『ハッハハ。だが、今夜はお出になるでせう?』 『左樣、行つても好いけどね。』 『但し市ちやんは、今夜來られないさうですが。』 『ぢや止さうか。』 と云つて、二人は聲を合せて笑つた。 『立つてて聞きましたよ。』 と、お芳が菓子皿を持つて入つて來た。 『何を?』 『聞きましたよ、私。』 『お前の知つた人の事で、材料が上つたツて小松君が話した所さ。』 『嘘だよ。』 『高見さんを知つてるだらう?』と小松君が云ふ。 『知って居りますさ、家に居た人だもの。』 『高見ツてのは何か、以前社に居たとか云ふ……?』 『ハ、然うです。』 『高見さんが怎かしたてのかえ?』 『したか、しないか、お前さんが一番詳しく知つてる筈ぢやないか?』 『何云ふだべさ。』 『だつて、高見君が此家に居たのは本當だらう。』 『居ましたよ。』 『そして』 『そしてツて、私何も高見さんとは怎もしませんからさ。』 『ぢや誰と怎かしたんだい?』 『厭だ、私。』 と、足音荒くお芳が出て行く。 『馬鹿な奴だ。』 『天下の逸品ですね、アノ顏は。』 『ハハハ。皆に揶揄れて嬉しがつてるから、可哀相にも可哀相だがね。餓ゑたる女と云ふ奴かナ。』 『成程。ですけど、アノ顏ぢや怎も、マア揶揄つてやる位が一番の同情ですな。』 『それに餘程の氣紛れ者でね。稼ぎ出すと鼻唄をやり乍ら滅法稼いでるが、怠け出したら一日主婦に怒鳴られ通しでも平氣なもんだ。それかと思ふと、夜の九時過に湯へ行つて來て、アノ階段の下の小さな室で、一生懸命お化粧をしてる事なんかあるんだ。正直には正直な樣だがね。』 『そら然うでせう。アノ顏で以て不正直と來た日にや、怎もなりませんからね。』 と云つて、小松君は暫らく語を切つたが、 『さう〳〵、「毎日」の菊池ですね。』 『呍。』 『アノ男は怖い樣な顏してるけれど正直ですな。』 『怎して?』 『昨晩矢張琵琶會に來てましたがね。』
底本:「石川啄木作品集 第二巻」 昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 ※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本では、一部新旧漢字が混在している箇所がありますが、旧漢字に統一しました。仮名遣いも旧仮名に統一しました。 ※底本91頁上段10行目の※[#「りっしんべん+曹」]は、※[#「りっしんべん+「夢」の「タ」に代えて「目」」、第4水準2-12-81]に置き換えました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:松永正敏 2003年3月20日作成 2010年11月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     一  私が釧路の新聞へ行つたのは、恰度一月下旬の事、寒さの一番酷しい時で、華氏寒暖計が毎朝零下二十度から三十度までの間を昇降して居た。停車場から宿屋まで、僅か一町足らずの間に、夜風の冷に頤を埋めた首巻が、呼気の湿気で真白に凍つた。翌朝目を覚ました時は、雨戸の隙を潜つて空寒く障子を染めた暁の光の中に、石油だけは流石に凍らぬと見えて、心を細めて置いた吊洋燈が昨夜の儘に薄りと点つて居たが、茶を注いで飲まずに置いた茶碗が二つに割れて、中高に盛り上つた黄色の氷が傍に転げ出して居た。火鉢に火が入つて、少しは室の暖まるまでと、身体を縮めて床の中で待つて居たが、寒国の人は総じて朝寝をする、漸々女中の入つて来たのは、ものの一時間半も経つてからで、起きて顔を洗ひに行かうと、何気なしに取上げた銀鍍金の石鹸函は指に氷着く、廊下の舗板が足を移す毎にキシ〳〵と鳴く、熱過ぎる程の湯は、顔を洗つて了ふまでに夏の川水位に冷えた。  雪は五寸許りしか無かつたが、晴天続きの、塵一片浮ばぬ透明の空から、色なき風がヒユウと吹いて、吸ふ息毎に鼻の穴が塞る。冷たい日光が雪に照返つて、家々の窓硝子を、寒さに慄えた様にギラつかせて居た。大地は底深く凍つて了つて、歩くと鋼鉄の板を踏む様な、下駄の音が、頭まで響く。街路は鏡の如く滑かで、少し油断をすると右に左に辷る、大事をとつて、足に力を入れると一層辷る。男も、女も、路行く人は皆、身分不相応に見える程、厚い、立派な防寒外套を着けて、軽々と刻み足に急いで居た。荷馬橇の馬は、狭霧の様な呼気を被つて氷の玉を聯ねた鬣を、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭を喰つて勢ひよく駈けて居た。  二三日して、私は、洲崎町の或下宿へ移つた。去年の春までは、土地で少しは幅を利かした、さる医師の住つて居た家とかで、室も左程に悪くは無し、年に似合はず血色のよい、布袋の様に肥満つた、モウ五十近い気丈の主婦も、外見によらぬ親切者、女中は小さいのを合せて三人居た。私が移つた晩の事、身体の馬鹿に大きい、二十四五の、主婦にも劣らず肥満つた、小い眼と小い鼻を掩ひ隠す程頬骨が突出て居て、額の極めて狭い、気の毒を通越して滑稽に見える程不恰好な女中が来て、一時間許りも不問語をした。夫に死なれてから、一人世帯を持つて居て、釧路は裁縫料の高い所であれば、毎月若干宛の貯蓄もして居たのを、此家の主婦が人手が足らぬといふので、強ての頼みを拒み難く、手伝に来てからモウ彼是半年になると云つた様な話で、「普通の女中ぢや無い。」といふ事を、私に呑込ませようとしたらしい。後で解つたが、名はお芳と云つて、稼ぐ時は馬鹿に稼ぐ、怠ける時は幾何主婦に怒鳴られても平気で怠ける、といふ、随分な気紛れ者であつた。  取分けて此下宿の、私に気に入つたのは、社に近い事であつた。相応の賑ひを見せて居る真砂町の大逵とは、恰度背中合せになつた埋立地の、両側空地の多い街路を僅か一町半許りで社に行かれる。  社は、支庁坂から真砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角に立つて居て、小いながらも、ツイ此頃落成式を挙げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の、北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える様な新しい煉瓦の色の、廓然と正しい輪廓を描いてるのは、何様木造の多い此町では、多少の威厳を保つて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告みたいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶の美観を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶えて居る。玄関から上ると、右と左が事務室に宿直室、奥が印刷工場で、事務室の中の階段を登れば、二階は応接室と編輯局の二室。  編輯局には、室の広さに釣合のとれぬ程大きい暖炉があつて、私は毎日此暖炉の勢ひよく燃える音を聞き乍ら、筆を動かしたり、鋏と糊を使ふ。外勤の記者が、唇を紫にして顫へ乍ら帰つて来ると、腰を掛ける前に先づ五本も六本も薪を入れるので、一日に二度か三度は、必ず暖炉が赤くなつて、私共の額には汗が滲み出した。が、夕方になつて宿に帰ると、何一つ室を賑かにして見せる装飾が無いので、割合に広く見える。二階の八畳間に、火鉢が唯一個、幾何炭をつぎ加して、青い焔の舌を断間なく吐く程火をおこしても、寒さが背から覆被さる様で、襟元は絶えず氷の様な手で撫でられる様な気持がした。字を五つ六つ書くと、筆の尖がモウ堅くなる。インキ瓶を火鉢に縁に載せて、瓶の口から水蒸気が立つ位にして置いても、ペンに含んだインキが半分もなくならぬうちに凍つて了ふ、葉書一枚書くにも、それは〳〵億劫なものであつた。初めての土地で、友人と云つては一人も無し、恁う寒くては書を読む気も出ぬもので、私は毎晩、唯モウ手の甲をひつくり返しおつくり返し火に焙つて、火鉢に抱付く様にして過した。一週間許り経つて、私は漸々少し寒さに慣れて来た。  二月の十日頃から、怎やら寒さが少しづつ緩み出した。寒さが緩み出すと共に、何処から来たか知らぬが、港内には流氷が一杯集つて来て、時々雪が降つた。私が来てから初めての記者月例会の開かれたのも、恰度一尺程も雪の積つた、或土曜日の夕であつた。      二  釧路は、人口と云へば僅か一万五千足らずの、漸々発達しかけた許りの小都会だのに、怎したものか新聞が二種出て居た。  私の居たのは、「釧路日報」と云つて、土地で人望の高い大川道会議員の機関であつた。最初は紙面が半紙二枚程しかないのを、日曜々々に出して居たのださうだが、町の発達につれて、七年の間に三度四度拡張した結果、私が行く一週間許り前に、新築社屋の落成式と共に普通の四頁新聞になつた。無論これまでに漕ぎつけたのは、種々な関係が結びつけた秘密の後援者があるからで、新聞独自の力では無いが、社の経済も案外巧く整理されて居て、大川社長の人望と共に、「釧路日報」の信用も亦、町民の間に余程深く植ゑつけられて居た。編輯局には、主筆から校正までで唯五人。  モ一つは「釧路毎日新聞」と云つて、出来てから漸々半年位にしかならず、社も裏長屋みたいな所で、給料の支払が何日でも翌月になるとか云ふ噂、職工共の紛擾が珍しくなく、普通の四頁の新聞だけれど、広告が少くて第四面に空所が多く、活字が足らなくて仮名許り沢山使ふから、見るから醜い新聞であつた。それでも記者は矢張五人居た。  月例会と云ふのは、此両新聞の記者に、札幌、小樽、旭川などの新聞の支社に来て居る人達を合せて、都合十三四人の人が、毎月一度宛集るといふので、此月のは、私が来てから初めての会ではあり、入社の挨拶を新聞に載せただけで、何処へも改めては顔を出さずに居たから、知らぬ顔の中へ行くんだと云つた様な気が、私の頭脳を多少他所行の心持にした。午後四時からと云ふ月番幹事の通知だつたので、三時半には私が最後の原稿を下した。 『今日は鹿島屋だから、市子のお酌で飲める訳だね。』 と云つて、主筆は椅子を暖炉に向ける。 『然し芸妓も月例会に出た時は、大変大人しくして居ますね。』 と八戸君が応じた。 『その筈さ、人の悪い奴許り集るんだもの。』 と笑つて、主筆は立上つた。『芸者に記者だから、親類同志なんだがね。』 『成程、何方も洒々としてますな。』 と、私も笑ひながら立つた。皆が硯箱に蓋をしたり、袴の紐を締直したり、莨を啣へて外套を着たりしたが、三面の外交をして居る小松君が、突然、 『今度また「毎日」に一人入つたさうですね。』と言つた。 『然うかね、何といふ男だらう?』 『菊池ツて云ふさうです。何でも、釧路に居る記者の中では一番年長者だらうツて話でしたよ。』 『菊池兼治と謂ふ奴ぢやないか?』と主筆が喙を容れた。 『兼治? 然うです〳〵、何だか武士の様な名だと思ひました。』 『ぢや何だ、真黒な腮髭を生やした男で、放浪者みたいな?』 『然うですか、私は未だ逢はないんですが。』 『那麽男なら、何人先方で入れても安心だよ。何日だツたか、其菊池が、記者なり小使なりに使つて呉れツて、俺の所へ来た事があるんだ。可哀相だから入れようと思つたがね、』と、入口の方へ歩き出した。『前に来た時と後に来た時と、辻褄が合はん事を云つたから、之は怪しいと思つて断つたさ。』  私は、然し、主筆が常に自己と利害の反する側の人を、好く云はぬ事を知つて居た。「先方が六人で、此方よりは一人増えたな。」と云つた風な事を考へて玄関を出たが、 『君。二面だらうか、三面だらうか?』 と、歩きながら小松君に問ひかけた時は、小松君は既に別の事を考へて居た。 『何がです?』 『菊池がさ。』 『さあ何方ですか。桜井の話だと、今日から出社する様に云つてましたがね。』  私共が、ドヤ〳〵と鹿島屋の奥座敷に繰込んだ時は、既七人許り集つて居た。一人二人を除いては、初対面の人許りなので、私は暫時の間名刺の交換に急がしかつたが、それも一しきり済んで、莨に火をつけると、直ぐ、真黒な腮鬚の男は未だ来て居ないと気がついた。人々はよく私にも話しかけて呉れた。一座の中でも、背の低い、色の黒い、有るか無きかの髯を生やした、洋服扮装の醜男が、四方八方に愛嬌を振舞いては、軽い駄洒落を云つて、顔に似合はぬ優しい声でキヤツ〳〵と笑ふ。  十分許り経つて、「毎日」の西山社長と、私より一月程前に東京から来たといふ日下部編輯長とが入つて来た。日下部君は、五尺八寸もあらうかといふ、ガツシリした大男で、非常な大酒家だと聞いて居たが、如何様眼は少しドンヨリと曇つて、服装は飾気なしの、新らしくも無い木綿の紋付を着て居た。  西山社長は、主筆を兼ねて居るといふ事であつた。七子の羽織に仙台平のリウとした袴、太い丸打の真白な紐を胸高に結んだ態は、何処かの壮士芝居で見た悪党弁護士を思出させた。三十五六の、面皰だらけな細顔で、髯が無く、銀縁の近眼鏡をかけて居たが、眼鏡越に時々狐疑深い様な目付をする。 『徐々始めようぢやありませんか、大抵揃ひましたから。』 と、月番幹事の志田君(先程から愛嬌を振舞つてゐた、色の黒い男)が云ひ出した。  軈て膳部が運ばれた。「入交になつた方が可からう。」と云ふ、私の方の主筆の発議で、人々は一時ドヤドヤと立つたが、 『男振の好い人の中に入ると、私の顔が一層悪く見えて不可けれども。』 と、笑ひながら、志田君は私と西山社長との間に座つた。  酒となると談話が急に燥ぐ、其処にも此処にも笑声が起つた、五人の芸妓の十の袂が、銚子と共に急がしく動いて、艶いた白粉の香が、四角に立てた膝をくづさせる。点けた許りの明るい吊洋燈の周匝には、莨の煙が薄く渦を巻いて居た。  親善を厚うするとか、相互の利害を議するとか、連絡を図るとか、趣意は頗る立派であつたけれど、月例会は要するに、飲んで、食つて、騒ぐ会なので、主筆の所謂人の悪い奴許りだから、随分と方々に円滑な皮肉が交換されて、其度にさも面白相な笑声が起る。意外事を素破抜かれた芸妓が、対手が新聞記者だけに、弱つて了つて、援助を朋輩に求めてるのもあれば、反対に芸妓から素破抜かれて頭を掻く人もある。五人の芸者の中、其処からも此処からも名を呼び立てられるのは、時々編輯局でも噂を聞く市子と謂ふので、先刻膳を運ぶ時、目八分に捧げて、真先に入つて来て、座敷の中央へ突立つた儘、「マア怎うしよう、私は。」と、仰山に驚いた姿態を作つた妓であつた。それは、私共が皆一団になつて、障子際に火鉢を囲んで居たから、御膳の据場所が無かつたからで。十六といふ齢には少し老せて居るが、限りなき愛嬌を顔一杯に漲らして、態とらしからぬ身振が人の気を引いた。  志田君は、盃を下にも置かず、相不変愛嬌を振舞いて居たが、お酌に廻つて来た市子を捉へて私の前に座らせ、両手の盃を一つ私に献して、 『市ちやん、此方は今度「日報」へお出になつた橘さんといふ方だ、お年は若し、情は深し、トまでは知らないが、豪い方だからお近付になつて置け。他日になつて悪い事は無いぞ。』 『アラ然うですか。お名前は新聞で承はつてましたけれど、何誰かと思つて、遂……』と優容に頭を下げた。下げた頭の挙らぬうちに、 『これはおかめ屋の市ちやん。唯三度しか男と寝た事が無いさうです。然うだつたね、市ちやん?』 と云つて、志田君はキヤツ〳〵と笑ふ。 『おかめ屋なんて、人を。酷い事旦那は。』 と市子は怖い目をして見せたが、それでも志田君の貸した盃を受取つて、盃洗に浄めて私に献した。 『印度の炭山の旦那のお媒介ですから、何卒末長く白ツぱくれない様に……。』 『印度の炭山の旦那は酷い。』と志田君の声が高かつたので、皆此方を見た。『いくら私が色が黒いたつて、随分念を入れた形容をしたもんだ。』  一座の人は声を合せて笑つた。  私は初めての事でもあり、且つは、話題を絶やさぬ志田君と隣つて居る故か、自と人の目について、返せども、〳〵、盃が集つて来る。生来余り飲ぬ口なので、顔は既ポツポと上気して、心臓の鼓動が足の裏までも響く。二つや三なら未だしもの事、私の様な弱い者には、四つ、五つと盃の列んだのを見ると、醒め果てた恋に向ふ様で、モウ手も触けたくない。芸妓には珍しく一滴も飲まぬ市子は、それと覚つてか、密と盃洗を持つて来て、志田君に見られぬ様に、一つ宛空けて呉れて居たが、いつしか発覚して、例の円転自在の舌から吹聴に及ぶ。「市ちやんも仲々腕が上つた」とか、「今の若い者は、春秋に富んで居る癖に惚れ方が性急だ」とか、「橘さんも隅には置けぬ」とか、一座は色めき立つて囂々と騒ぐので、市子は、 『私此方の為にしたんぢやなくて、皆さんが盃を欲しさうにして被居るから、空けて上げたのですわ。』 と防いでも見たが、遂々顔を真赤にして次の室へ逃げた。私も皆と一緒になつて笑つた。暫時してから市子は軽い咳払をして、怎やら取済した顔をして出て来たが、いきなり復私の前に坐つた。人々は、却つて之を興ある事にして、モウ市子〳〵と呼び立てなくなつた。 『菊池さんて方が。』と、女中が襖を開けて、敷居際に手をついた。話がバタリと止んで、視線が期せずして其方に聚る。ヌツと許り髭面が入つて来た。  私は吸差の莨を灰に差した、人々は盃を下に置いた。西山社長は急しく居住を直して、此新来の人を紹介してから、 『馬鹿に遅いから来ないのかと思つて居た。』 と、さも容体ぶつて云つた。 『え、遅くなりました。』 と、菊池君は吃る様に答へて、変な笑ひを浮べ乍ら、ヂロ〳〵一座を見廻したが、私とは斜に一番遠い、末座の空席に悠然と胡坐をかく。  皆は、それとなく此人の為す所を見て居たが、菊池君は両手に膝頭を攫んで、俯いて自分の前の膳部を睨んで居るので、誰しも話しかける機会を失つた。私は、空になつて居た盃を取上げて、「今来た方へ。」と市子に渡した時、志田君も殆んど同時に同じ事を云つて盃を市子に渡した。市子は盃を二つ捧げて立つて行つたが、 『彼方のお方からお取次で厶います。』 『誰方?』 と、菊池君は呟く様に云つて顔を挙げる。 『アノ』と、私を見た盃を隣へ逸らして、『志田さんと仰しやる方。』  菊池君は、両手に盃を持つた儘、志田君を見て一寸頭を下げた。 『モ一つ其お隣の、…………橘さん。』と目を落す。  菊池君は私にも叩頭をして、満々と酌を享けたが、此挙動は何となく私に興を催させた。  浮浪漢みたいなと主筆が云つた。成程、新聞記者社会には先づ類の無い風采で、極く短く刈り込んだ頭と、真黒に縮れて、乳の辺まで延びた頬と顋の髭が、皮肉家に見せたら、顔が逆さになつて居るといふかも知れぬ。二十年も着古した様で、何色とも云へなくなつた洋服の、上衣の釦が二つ迄取れて居て、窄袴の膝は、両方共、不手際に丸く黒羅紗のつぎが当ててあつた。剰へ洋襪も足袋も穿いて居ず、膝を攫んだ手の指の太さは、よく服装と釣合つて、浮浪漢か、土方の親分か、何れは人に喜ばれる種類の人間に見せなかつた。然し其顔は、見なれると、髭で脅して居る程ではなく、形の整つた鼻、滋みを帯びて威のある眼、眼尻に優しい情が罩つて、口の結びは少しく顔の締りを弛めて居るけれど、──若し此人に立派な洋服を着せたら、と考へて、私は不意に、河野広中の写真を何処かで見た事を思出した。  菊池君から四人目、恰度私と向合つて居て、芸妓を取次に二三度盃の献酬をした日下部君は、時々此方を見て居たが、遂々盃を握つて立つて来た。ガツシリした身体を市子と並べて坐つて、無作法に四辺を見廻したが、 『高い声では云へぬけれど、』と低くもない声で云つて、『僕も新参者だから、新しく来た人で無いと味方になれん様な気がする。』 『私の顔は随分古いけれど、今夜は染直したから新しくなつたでせう。』と、志田君は、首から赤銅色になつた酔顔を突出して笑つた。  市子は、仰ぐ様にして横から日下部君の顔を見て居たが、 『私一度貴方にお目にかかつてよ、ねえ。』 『さうか、僕は気が附かなかつた。』 『マア以前も家へ入しつた癖に、……薄情な人ね、此方は。』 と云つて、夢見る様な目を私に向けて、微かな笑ひを含む。 『橘さんは余り飲らん方ですね。』と云つた様な機会から、日下部君と志田君の間に酒の論が湧いて、寝酒の趣味は飲んでる時よりも、飲んで了つてからに有る、但しこれは独身者でなくては解りかねる心持だと云ふ志田君の説が、随分と立入つた語を以て人々に腹を抱へさせた。日下部君は、朝に四合、晩に四合飲まなくては仕事が出来ぬといふ大酒家で、成程先刻から大分傾けてるに不拘、少しも酔つた風が見えなかつたが、 『僕は女にかけては然程慾の無い方だけれど、酒となつちや然うは行かん。何処かへ一寸飲みに行つても、銚子を握つて見て、普通より太いと満足するが、細いとか軽いとかすると、モウ気を悪くする。銭の無い時は殊にさうだね。』 『アツハハハ。』 と突然大きな笑声がしたので、人々は皆顔をあげた。それは菊池君であつた。 『私もそれならば至極同感ですな。』 と調子の悪い太い声。手は矢張胡坐の両膝を攫んで、グツと反返つて居た。  菊池君はヤヲラ立ち上つて、盃を二つ持つて来たが、「マア此方へ来給へ、菊池君。」と云ふ西山社長の声がしたので、盃を私と志田君に返した儘其方へ行つて了つた。西山は何時しか向うの隅の方へ行つて、私の方の主筆と、「札幌タイムス」の支社長と三人で何か話合つて居た。  座敷の中央が、取片付けられるので、何かと思つたら、年長な芸妓が三人三味線を扣へて入口の方に列んだ。市子が立つて踊が始まる。 「香に迷ふ」とか云ふので、もとより端物ではあるけれど、濃艶な唄の文句が酔ふた心をそれとなく唆かす。扇の銀地に洋燈の光が映えて、目の前に柔かな風を匂はせる袂長く、そちら向けば朱の雲の燃ゆるかと眩しき帯の立矢の字、裾の捌きが青畳に紅の波を打つて、トンと軽き足拍子毎に、チラリと見える足袋は殊更白かつた。恋に泣かぬ女の眼は若い。  踊が済んだ時、一番先に「巧い。」と胴間声を上げて、菊池君はまた人の目を引いた。「実に巧い、モ一つ、モ一つ。」と雀躍する様にして云つた小松君の語が、三四人の反響を得て、市子は再立つ。  此度のは、「権兵衛が種蒔けや烏がほじくる、」とか云ふ、頗る道化たもので「腰付がうまいや。」と志田君が呟やいて居たが、私は、「若し芸妓の演芸会でもあつたら此妓を賞めて書いてやらう。」と云つた様な事を、酔ふた頭に覚束なく考へて居た。  踊の済むのを機会に飯が出た。食ふ人も食はぬ人もあつたが、飯が済むと話がモウ勢んで来ない。帰る時、誰やらが後から外套を被けて呉れた様だつたが、賑やかに送り出されて、戸外へ出ると、菊池君が私の傍へ寄つて来た。 『左の袂、左の袂。』 と云ふ。私は、何を云ふのかと思ひ乍ら、袂に手を入れて見ると、何かしら柔かな物が触つた。モウ五六間も門口の瓦斯燈から離れて居るので、よくは見えなかつたが、それは何か美しい模様のある淡紅色の手巾であつた。 『ウアツハハハ。』と大きな声で笑つて、菊池君は大跨に先に立つて行つたが、怎やら少しも酔つて居ない様に見えた。  休坂を下りて真砂町の通りへ出た時は、主筆と私と八戸君と三人限になつて居た。『随分贅沢な会を行りますねえ。』と私が云ふと、 『ナニあれでも一人一円五十銭位なもんです。芸妓は何の料理屋でも、ロハで寄附させますから。』と主筆が答へた。私は何だか少し不愉快な感じがした。  一二町歩いてから、 『可笑な奴でせう、君。』 と主筆が云ふ。私は、市子の事ぢやないかと、一寸狼狽へたが、 『誰がです?』 と何気なく云ふと、 『菊池ツて男がさ。』 『アツハハハ。』 と私は高く笑つた。      三  翌日は日曜日、田舎の新聞は暢気なもので、官衙や学校と同じに休む。私は平日の如く九時頃に目を覚ました。恐ろしく喉が渇いて居るので、頭を擡げて見廻したが、下に持つて行つたと見えて鉄瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも変だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其処へ醜女の芳ちやんが、新聞を持つて入つて来たので、知つてる癖に『モウ何時だい』と聞くと、 『まだ早いから寝て居なされよ、今日は日曜だもの。』 と云つて出て行く。 『オイ〳〵、喉が渇いて仕様が無いよ。』 『そですか。』 『そですかぢやない。真に渇くんだよ、昨晩少し飲んで来たからな。』 『少しなもんですか。』 と云つたが、急にニヤ〳〵と笑つて立戻つて来て、私の枕頭に膝をつく。また戯れるなと思ふと、不恰好な赤い手で蒲団の襟を敲いて、 『私に一生のお願ひがあるで、貴方聴いて呉れますか?』 『何だい?』 『マアさ。』 『お湯を持つて来て呉れたら、聴いてやらん事もない。』 『持つて来て上るで。あのね、』と笑つたが『貴方好え物持つてるだね。』 『何をさ?』 『白ツぱくれても駄目ですよ。貴方の顔さ書いてるだに、半可臭え。』 『喉が渇いたとか?』 『戯談ば止しなされ。これ、そんだら何ですか。』と手を延べて、机の上から何か取る様子。それは昨晩の淡紅色の手巾であつた。市子が種蒔を踊つた時の腰付が、チラリと私の心に浮ぶ。 『嗅んで見さいな、これ。』と云つて自分で嗅いで居たが、小さい鼻がひこづいて、目が恍然と細くなる。恁麽好い香を知らないんだなと思つて、私は何だか気の毒な様な気持になつたが、不意と「左の袂、左の袂」と云つた菊池君を思出した。 『私貰つてくだよ。これ。』と云ふ語は、満更揶揄ふつもり許りでも無いらしい。 『やるよ。』 『本当がね。』と目を輝かして、懐に捻じ込む真似をしたが、 『貴方が泣くべさ。』と云つて、フワリと手巾を私の顔にかけた儘、バタ〳〵出て行つた。  目を瞑ると、好い香のする葩の中に魂が包まれた様で、自分の呼気が温かな靄の様に顔を撫でる。懵乎として目を開くと、無際限の世界が、唯モウ薄光の射した淡紅色の世界で、凝として居ると遙か〳〵向ふにポツチリと黒い点、千里の空に鷲が一羽、と思ふと、段々近いて来て、大きくなつて、世界を掩ひ隠す様な翼が、目の前に来てパツと消えた。今度は楕円形な翳が横合から出て来て、煙の様に動いて、もと来た横へ逸れて了ふ。ト、淡紅色の襖がスイと開いて、真黒な髭面の菊池君が……  足音がしたので、急いで手を出して手巾を顔から蒲団の中へ隠す。入つて来たのは小い方の女中で、鉄瓶と茶器を私の手の届く所に揃へて、出て行く時一寸立止つて枕頭を見廻した。お芳の奴が喋つたなと感付く。怎したものか、既茶を入れて飲まうと云ふ気もしない。  昨夜の事が歴々と思出された。女中が襖を開けて髭面の菊池君が初めて顔を出した時の態が、目に浮ぶ。巌の様な日下部君と芍薬の様な市子の列んで坐つた態、今夜は染直したから新しくなつたでせうと云つて、ヌツト突出した志田君の顔、色の浅黒い貧相な一人の芸妓が、モ一人の袖を牽いて、私の前に坐つて居る市子の方を顋で指し乍ら、何か密々話し合つて笑つた事、菊池君が盃を持つて立つて来て、西山から声をかけられた時、怎やら私達の所に座りたさうに見えた事、雀躍する様に身体を揺がして、踊をモ一つと所望した小松君の横顔、……それから、市子の顔を明瞭描いて見たいと云ふ様な気がして、折角努めて見たが、怎してか浮んで来ない。今度は、甚麽気がしてアノ手巾を私の袂に入れただらうと考へて見たが、否、不図すると、アレは市子でなくて、名は忘れたが、ソレ、アノ何とか云つた、色の浅黒い貧相な奴が、入れたんぢやないかと云ふ気がした。が、これには自分ながら直ぐ可笑くなつて了つて、又しても「左の袂、左の袂」を思ひ出す。…… 「ウアツハハ」と高く笑つて、薄く雪明のした小路を、大跨に歩き去つた。――其後姿が目に浮ぶと、(此朝私の頭脳は余程空想的になつて居たので、)種々な事が考へられた。  大跨に、然うだ、菊池君は普通の足調でなく、屹度大跨に歩く人だ。無雑作に大跨に歩く人だ。大跨に歩くから、時としてドブリと泥濘へ入る、石に躓く、真暗な晩には溝にも落こちる。若しかして溝が身長よりも深いとなると、アノ人の事だから、其溝の中を大跨に歩くかも知れない。 「溝の中を歩く人。」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐えた、腐つた、溝の中の汚水の臭気で那麽に変色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた証拠だ。烈しい労働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再口の中で云つて見たが、此語は、我乍ら鋭い錐で胸をもむ様な、連想を起したので、狼狽へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。  何にしても菊池君は失敗を重ねて来た人だ、と、勝手に断定して、今度は、アノ指が確かに私のの二本前太いと思つた。で、小児みたいに、密と自分の指を蒲団の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の対手を西山社長にした。何と云ふ訳も無いが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑深い目付とが、怎しても菊池君と調和しない様な気がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で悪く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片を擲る。社長は蹣跚と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカ〳〵と拳骨が飛ぶ、社長は卓子の下を這つて向うへ抜けて、抜萃に使ふ鋏を逆手に握つて、真蒼な顔をして、「発狂したか?」と顫声で叫ぶ。菊池君は両手を上衣の衣嚢に突込んで、「馬鹿な男だ喃。」と吃る様に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ来て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず声を立てて私は笑つた。  が、此妄想から、私の頭脳に描かれて居る菊池君が、怎やら、アノ髭で、権力の圧迫を春風と共に受流すと云つた様な、気概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帯びて現れた。私は、小い時に読んだ三国史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に当嵌めようとしたが、不図、「馬賊の首領に恁麽男は居ないだらうか。」と云ふ気がした。  馬賊……満洲……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ髯面が初めて現れた時は、菊池君は何処か遠い所から来たのぢや無かつたらうかと思はれる。考へが直ぐ移る。  昨夜の座敷の様子が、再鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、余程の間隔がある。「ウアツハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて来たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて来て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向効力が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐をかいた膝頭を、両手で攫んで、凝然として居る人だ。……………  ト、今度は、菊池君の顔を嘗て何処かで見た事がある様な気がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵がパツと目に浮ぶ。中学の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髪床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級の友人のお父様の髭だつたと気がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家に泊つて居た髭……違ふ、違ふ、アノ髭なら気仙郡から来た大工だと云つて、二ヶ月も遊んでから喰逃して北海道へ来た筈だ。ト、以前私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭が頭脳に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白沢屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確なので、ハテ、何処だつたかと、気が少し苛々して来て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と云へば、私は直ぐ、須田町――東京中の電車と人が四方から崩れる様に集つて来る須田町を頭脳に描くが、アノ雑沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乗る所を、私は余程遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接けるのは無理だ……。 『モウ起きなさいよ、十一時が打つたから。那麽に寝てて、貴方何考へてるだべさ。』 と、取つて投げる様な、癇高い声で云つて、お芳が入つて来た。ハツとすると、血が頭からスーツと下つて行く様な、夢から覚めた様な気がして、返事もせず、真面目な顔をして黙つて居ると、お芳も存外真面目な顔をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、皸だらけの、赤黒い不恰好な手が、急がしさうに、細い真鍮の火箸を動かす。手巾を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲団の中で、胸の上にシツカリ握つてる事に気がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて来たので、対手にそれを云ひ出す機会を与へまいと、寝返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に酷似てると思つた。不思議だナと考へて、半分廻しかけた頭を一寸戻して、再お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似る筈が無いサと胸の中で云つて、思切つて寝返りを打つ。 『私の顔など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』 『何を云ふんだい。』 と私は何気なく云つたが、ハハア、此女が、存外真面目な顔をしてる哩と思つたのは、ヤレ〳〵、これでも一種の姿態を作つて見せる積りだつたかと気が付くと、私は吹出したくなつて来た。 『フン。』 とお芳が云ふ。  私は、顔を伏臥す位にして、呼吸を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雑巾で火鉢の縁を拭いてる様だつたが、軈て鉄瓶の蓋を取つて見る様な音がする。茶器に触る音がする。 『喉が渇いて渇いて、死にそだてがらに、湯ば飲まねえで何考へてるだかな。』 と、独語の様に云つて、出て行つて了つた。      四  社長の大川氏も、理事の須藤氏も、平生「毎日」の如きは眼中に無い様な事を云つて居て、私が初めて着いた時も、喜見とか云ふ、土地で一番の料理屋に伴れて行かれて、「毎日」が仮令甚麽事で此方に戈を向けるにしても、自頭対手にせぬと云つた様な態度で、唯君自身の思ふ通りに新聞を拵へて呉れれば可い、「日報」の如く既に確実な基礎を作つた新聞は、何も其日暮しの心配をするには当らぬと云ふ意味の事を懇々と説き聞かされた。高木主筆は少し之と違つて居て、流石は創業の日から七年の間、「日報」と運命を共にして来て、(初めは唯一人で外交も編輯も校正も、時としては発送までやつたものださうだが、)毎日々々土地の生きた事件を取扱つて来た人だけ、其説には充分の根拠があつた。主筆は、北海道の都府、殊にも此釧路の発達の急激な事に非常の興味をもつて居て、今でこそ人口も一万五千に満たぬけれど、半年程前に此処と函館とを繋いだ北海道鉄道の全通して以来、貨物の集散高、人口の増加率、皆月毎に上つて来て居るし、殊に中央の政界までも騒がして居る大規模の築港計画も、一両年中には着手される事であらうし、池田駅から分岐する網走線鉄道の竣工した暁には、釧路、十勝、北見三国の呑吐港となり、単に地理的事情から許りでなく、全道に及ぼす経済的勢力の上でも釧路が「東海岸の小樽」となる日が、決して遠い事で無いと信じて居た。されば、此釧路を何日までも「日報」一つで独占しようとするのは無理な事で、其為には、却つて「毎日」の如き無勢力な新聞を、生さず殺さずして置く方が、「日報」の為に恐るべき敵の崛起するのを妨げる最良の手段であると云ふのが此人の対「毎日」観であつた。  にも不拘、此三人の人は、怎したものか、何か事のある毎に、「毎日」の行動に就いて少からず神経過敏な態度を見せて、或時の如きは、須藤氏が主として関係して居る漁業団体に、内訌が起つたとか起りさうだとか云ふ事を、「毎日」子が何かの序に仄めかした時、大川氏と須藤氏が平生になく朝早く社にやつて来て、主筆と三人応接室で半時間も密議してから、大川社長が自分で筆を執つて、「毎日」と或関係があると云はれて居る私立銀行の内幕を剔つた記事を書いた。  が、私が追々と土地の事情が解つて来るに随れて、此神経過敏の理由も読めて来た。ト云ふのは、大川氏が土地の人望を一身に背負つて立つた人で、現に町民に推されて、(或は推させて、)道会議員にもなつて居るけれど、町が発達し膨脹すると共に種々な分子が入交んで来て、何といふ事もなしに、新しい人を欲する希望が、町民の頭脳に起つて来た。「毎日」の西山社長は、正に此新潮に棹して彼岸に達しようと焦慮つて居る人なので、彼自身は、其半生に種々な黒い影を伴つて居る所から、殆ど町民に信じられて居ぬけれど、長い間大川氏と「日報」の為に少からぬ犠牲を払はされて来て、何といふ理由もなしに新しい人を望む様になつた一部の勢力家、――それ自身も多少の野心をもたぬでもない人々が、表面には出さぬけれど自然西山を援ける様になつて来た。私が大分苦心して集めた材料から、念の為に作つて見た勢力統計によると、前の代議士選挙に八分を占めて居た大川氏の勢力は、近く二三ヶ月後に来るべき改選期に於て、怎しても六分、――未知数を味方に加算して、六分五厘位迄に堕ちて居た。(大川氏は前には其得点全部を期日間際になつて或る政友に譲つたが、今度は自身で立つ積りで居る。)最も、残余の反対者と云つても、これと云ふ統率者がある訳で無いから、金次第で怎でもなるのだが。  で、「毎日」は、社それ自身の信用が無く、随つて社員一個々々に於ても、譬へば料理屋へ行つて勘定を月末まで待たせるにしても、余程巧みに談判しなければ拒まれると云つた調子で、紙数も唯八百しか出て居なかつたが、それでも能く続けて行く。「毎日」が先月紙店の払ひが出来なかつたので、今日から其日々々に一聯宛買ふさうだとか、職工が一日になつても給料を払はれぬので、活字函を転覆して家へ帰つたさうだとか云ふ噂が、一度や二度でなく私等の耳に入るけれど、それでも一日として新聞を休んだ事がない。唯八百の読者では、いくら田舎新聞でも維持して行けるものでないのに、不思議な事には、職工の数だつて敢て「日報」より少い事もなく、記者も五人居た所へ、また一人菊池を入れた。私の方は、千二百刷つて居て、外に官衙や銀行会社などの印刷物を一手に引受けてやつて居るので、少し宛積立の出来る月もあると、目の凹んだ謹直家の事務長が話して居たが。……  私は、這麽事情が解ると共に、スツカリ紙面の体裁を変へた。「毎日」の遣り方は、喇叭節を懸賞で募集したり、芸妓評判記を募つたり、頻りに俗受の好い様にと焦慮つてるので、初め私も其向うを張らうかと持出したのを、主筆初め社長までが不賛成で、出来るだけ清潔な、大人らしい態度で遣れと云ふから、其積りで、記事なども余程手加減して居たのだが、此頃から急に手を変へて、さうでもない事に迄「報知」式にドン〳〵二号活字を使つたり、或る酒屋の隠居が下女を孕ませた事を、雅俗折衷で面白可笑しく三日も連載物にしたり、粋界の材料を毎日絶やさぬ様にした。詰り、「毎日」が一生懸命心懸けて居ても、筆の立つ人が無かつたり、外交費が無かつたりして、及びかねて居た所を、私が幸ひ独身者には少し余る位収入があるので、先方の路を乗越して先へ出て見たのだ。最初三面主任と云ふ事であつたのを、主筆が種々と土地の事業に関係して居て急しいのと、一つには全七年の間同じ事許りやつて来て、厭きが来てる所から、私が毎日総編輯をやつて居たので。  土地が狭いだけに反響が早い、為る事成す事直ぐ目に付く。私が編輯の方針を改めてから、間もなく「日報」の評判が急によくなつて来た。  恁うなると滑稽もので、さらでだに私は編輯局で一番年が若いのに、人一倍大事がられて居たのを、同僚に対して気恥かしい位、社長や理事の態度が変つて来る。それ許りではない、須藤氏が何かの用で二日許り札幌に行つた時、私に銀側時計を買つて来て呉れた。其三日目の日曜に、大川氏の夫人が訪ねて来たといふので吃驚して起きると、「宅に穿かせる積りで仕立さしたけれど、少し短いから。」と云つて、新しい仙台平の袴を態々持つて来て呉れた。  袴と時計に慢心を起した訳ではないが、人の心といふものは奇妙なもので、私は此頃から、少し宛、現在の境遇を軽蔑する様になつた。朝に目を覚まして、床の中で不取敢新聞を読む。ト、私が来た頃までは、一面と二面がルビ無しの、時としては艶種が二面の下から三面の冒頭へ続いて居る様な新聞だつたのが、今では全紙総ルビ付で、体裁も自分だけでは何処へ出しても恥かしくないと思ふ程だし、殊に三面――田舎の読者は三面だけ読む。――となると、二号活字を思切つて使つた、誇張を極めた記事が、賑々しく埋めてある。フフンと云つた様な気持になる。若しかして、記事の排列の順序でも違つてると、「永山の奴仕様がないな、いくら云つても大刷校正の時順序紙を見ない。」などと呟いて見るが、次に「毎日」を取つて見るといふと、モウ自分の方の事は忘れて、又候フフンと云つた気になる。「毎日」は何日でも私の方より材料が二つも三つも少かつた。取分け私自身の聞出して書く材料が、一つとして先方に載つて居ない。のみならず、三面だけにルビを附けただけで、活字の少い所から仮名許り沢山に使つて、「釧路」の釧の字が無いから大抵「くし路」としてあつた。新聞を見て了つて、起きようかナと思ふと、先づ床の中から両腕を出して、思ひ切つて悠暢と身延をする。そして、「今日も亦社に行つてと……ええと、また二号活字を盛んに使ふかナ。」と云ふ様な事を口の中で云つて見て、そして今度は前の場合と少し違つた意味に於て、フフンと云つて、軽く自分を嘲つて見る。「二号活字さへ使へば新聞が活動したものと思つてる、フン、処世の秘訣は二号活字にありかナ。」などと考へる。  這麽気がし出してから、早いもので、二三日経つと、モウ私は何を見ても何を聞いても、直ぐフフンと鼻先であしらふ様な気持になつた。其頃は私も余程土地慣れがして来て、且つ仕事が仕事だから、種々な人に接触して居たし、随つて一寸普通の人には知れぬ種々な事が、目に見えたり、耳に入つたりする所から、「要するに釧路は慾の無い人と真面目な人の居ない所だ。」と云つた様な心地が、不断此フフンといふ気を助長けて居た。  モ一つ、それを助長けるのは、厭でも応でも毎日顔を見では済まぬ女中のお芳であつた。私が此下宿へ初めて移つた晩、此女が来て、亭主に別れてから自活して居たのを云々と話した事があつたが、此頃になつて、不図した事から、それが全然根も葉も無い事であると解つた。亭主があつたのでも無ければ、主婦が強つて頼んだのでもなく、矢張普通の女中で、額の狭い、小さい目と小さい鼻を隠して了ふ程頬骨の突出た、土臼の様な尻の、先づ珍しい許りの醜女の肥満人であつた。人々に向つて、よく亭主があつた様な話をするのは、詰り、自分が二十五にもなつて未だ独身で居るのを、人が、不容貌な為に拾手が無かつたのだとでも見るかと思つてるからなので、其麽女だから、何の室へ行つても、例の取て投げる様な調子で、四辺構はず狎戯る、妙な姿態をする。止宿人の方でも、根が愚鈍な淡白者だけに面白がつて盛んに揶揄ふ。ト、屹度私の許へ来て、何番のお客さんが昨晩這麽事を云つたとか、那麽事をしたとか、誰さんが私の乳を握つたとか、夏になつたら浴衣を買つてやるから毎晩泊りに来いと云つたとか、それは〳〵種々な事を喋り立てる。私はよく気の毒な女だと思つてたが、それでも此滑稽な顔を見たら最後、腹の虫が喉まで出て来て擽る様で、罪な事とは知り乍ら、種々な事を云つて揶揄ふ。然も、怎したものか、生れてから云つた事のない様な際敏い皮肉までが、何の苦もなく、咽喉から矢継早に出て来る。すると、芳ちやんは屹度怒つた様な顔をして見せるが、此時は此女の心の中で一番嬉しい時なので、又、其顔の一番滑稽て見える時なのだ。が、私は直ぐ揶揄ふのが厭になつて了ふので、其度、 『モウ行け、行け。何時まで人の邪魔するんだい、馬鹿奴。』 と怒鳴りつける。ト、芳ちやんは小さい目を変な具合にして、 『ハイ行きますよ。貴方の位隔てなくして呉れる人ア無えだもの。』 と云つて、大人しく出て行く。私は何日か、此女は、アノ大きな足で、「真面目」といふものの影を消して歩く女だと考へた事があつた。  社に行くと、何日でも事務室を通つて二階に上るのだが、余り口も利かぬ目の凹んだ事務長までが、私の顔を見ると、 『今日は橘さんへ郵便が来て居なんだか。』 と受付の者に聞くと云つた調子。編輯局へ入つても、兎角私のフフンと云ふ気持を唆る様な話が出る。  其麽話を出さぬのは、主筆だけであつた。主筆は、体格の立派な、口髯の厳しい、何処へ出しても敗をとらぬ風采の、四十年輩の男で、年より早く前頭の見事に禿げ上つてるのは、女の話にかけると甘くなる性な事を語つて居た。が、平生は至つて口少なな、常に鷹揚に構へて、部下の者の欠点は随分手酷くやツつけるけれども、滅多に煽動る事のない人であつた。で、私に対しても、極く淡白に見せて居たが、何も云はねば云はぬにつけて、私は又此人の頭脳がモウ余程乾涸て居て、漢文句調の幼稚な文章しか書けぬ事を知つて居るので、それとなく腹の中でフフンと云つて居る。  一体此編輯局には、他の新聞には余り類のない一種の秩序――官衙風な秩序が有つた。それは無論何処の社でも、校正係が主筆を捉へて「オイ君」などと云ふ事は無いものだけれど、それでも普通の社会と違つて、何といふ事なしに自由がある。所が此編輯局には、主筆が社の柱石であつて動かすべからざる権力を持つて居るのと、其鷹揚な官吏的な態度とが、自然さう云ふ具合にしたものか、怎かは知らぬが、主筆なら未だしも、私までが、「君」と云はずに「貴方」と云はれる。言語のみでなく、凡ての事が然う云つた調子で、随つて何日でも議論一つ出る事なく、平和で、無事で、波風の立つ日が無いと共に、部下の者に抑圧はあるけれど、自由の空気が些とも吹かぬ。  私は無論誰からも抑圧を享けるでもなく、却つて上の人から大事がられて、お愛嬌を云はれて居るので、随分我儘に許り振舞つて居たが、フフンと云ふ気持になつて、自分の境遇を軽蔑して見る様になつて間もなくの事、――其麽気がし乍らも職務には真面目なもので、毎日十一時頃に出て四時過ぎまでに、大抵は三百行位も書きこなすのだから、手を休める暇と云つては殆んど無いのだが、――時として、筆の穂先を前歯で軽く噛みながら、何といふ事なしに苦虫を噛みつぶした様な顔をして居る事があつた。其麽時は、恰度、空を行く雲が、明るい頭脳の中へサツと暗い影を落した様で、目の前の人の顔も、原稿紙も、何となしに煤んで、曇つて見える。ハツと気が付いて、怎して這麽気持がしたらうと怪んで見る。それが日一日と数が多くなつて行く、時間も長く続く様になつて行く。  或日、須藤氏が編輯局に来て居て、 『橘君は今日二日酔ぢやないか。』 と云つた。恰度私が呆然と例の気持になつて、向側の壁に貼りつけた北海道地図を眺めて居た時なので、ハツとして、 『否。』 と云つた儘、テレ隠しに愛想笑ひをすると、 『さうかえ、何だか気持の悪さうな顔をして居るから、僕は又、何か市子に怨言でも云はれたのを思出してるかと思つた。』 と云つて笑つたが、 『君が然うして一生懸命働いてくれるのは可いが、其為に神経衰弱でも起さん様にして呉れ給へ。一体余り丈夫でない身体な様だから。』  私は直ぐ腹の中でフフンと云ふ気になつたが、可成平生の快活を装うて、 『大丈夫ですよ。僕は薬を飲むのが大嫌ひですから、滅多に病気なんかする気になりません。』 『そんなら可いが、』と句を切つて、『最も、君が病気したら、看護婦の代りに市子を頼んで上る積りだがね。ハハハ。』 『そら結構です、何なら、チヨイ〳〵病気する事にしても可いですよ。』  其日は一日、可成くすんだ顔を人に見せまいと思つて、頻りに心にもない戯談を云つたが、其麽事をすればする程、頭脳が暗くなつて来て、筆が渋る、無暗矢鱈に二号活字を使ふ。文選小僧は『明日の新聞も景気が可えぞ。』と工場で叫んで居た。  何故暗い陰影に襲はれるか? 訝しいとは思ひ乍ら、私は別に深く其理由を考へても見なかつた。が、詰り私は、身体は一時間も暇が無い程急がしいが、為る事成す事思ふ壺に篏つて、鏡の様に凪いだ海を十日も二十日も航海する様なので、何日しか精神が此無聊に倦んで来たのだ。西風がドウと吹いて、千里の夏草が皆靡く、抗ふ樹もなければ、遮る山もない、ト、風は野の涯に来て自ら死ぬ。自ら死ぬ風の心を、若い人は又、春の真昼に一人居て、五尺の軒から底無しの花曇りの空を仰いだ時、目に湧いて来る寂しみの雲に読む。恋ある人は恋を思ひ、友ある人は友を懐ひ、春の愁と云はるる「無聊の圧迫」を享けて、何処かしら遁路を求めむとする。太平の世の春愁は、肩で風切る武士の腰の物に、態と触つて見る市井の無頼児である。世が日毎に月毎に進んで、汽車、汽船、電車、自動車、地球の周囲を縮める事許り考へ出すと、徒歩で世界を一周すると云ひ出す奴が屹度出る。――詰り、私の精神も、徒歩旅行が企てたくなつたのだ、喧嘩の対手が欲しくなつたのだ。  一月の下旬に来て。唯一月経つか経たぬに這麽気を起すとは、少し気早い――不自然な様に思ふかも知れぬが、それは私の性行を知らぬからなので……私は、北海道へ来てから許りも、唯九ヶ月の間に、函館、小樽、札幌で四つの新聞に居て来た。何の社でも今の様に破格の優遇はして呉れなかつたが、其代り私は一日として心の無聊を感じた事がない。何か知ら企てる、でなければ、人の企てに加はる。其企てが又、今の様に何の障害なしに行はれる事が無いので、私の若い精神は断間なく勇んで、朝から晩まで戦場に居る心地がして居た。戦ひに慣れた心が、何一つ波風の無い編輯局に来て、徐々眠気がさす程「無聊の圧迫」を感じ出したのだ。  這麽理由とも気が付かず、唯モウ暗い陰影に襲はれると自暴に誇大な語を使つて書く、筆が一寸躓くと、くすんだ顔を上げて周匝を見る。周匝は何時でも平和だ、何事も無い。すると、私は穂先を噛んでアラヌ方を眺める。  主筆は鷹揚に淡白と構へて居る。八戸君は毎日役所廻りをして来て、一生懸命になつて五六十行位雑報を書く。優しい髯を蓄へた、色白の、女に可愛がられる顔立で、以前は何処かの中学の教師をした人なさうだが、至極親切な君子人で、得意な代数幾何物理の割に筆は立たぬけれど、遊廓種となると、打つて変つて軽妙な警句に富んだものを書く、私の心に陰影のさした時、よく飛沫の叱言を食ふのは、編輯助手の永山であつた。永山はモウ三十を越した、何日でも髪をペタリとチツクで撫でつけて居て、目が顔の両端にある、頬骨の出た、ノツペリとした男で、酔つた時踊の真似する外に、何も能が無い。奇妙に生れついた男もあればあるもので、此男が真面目になればなる程、其挙動が吹き出さずに居られぬ程滑稽に見えて、何か戯談でも云ふと些とも可笑しくない。午前は商況の材料取に店廻りをして、一時に警察へ行く。帰つてから校正刷の出初めまでは、何も用が無いので、東京電報を訳さして見る事などもあるが、全然頭に働きが無い。唯五六通の電報に三十分も費して、それで間違ひだらけな訳をする。  少し毛色の変つてるのは、小松君であつた。二十七八の、髯が無いから年よりはズツト若く見えるが、大きい声一つ出さぬ様な男で居て、馬鹿に話好きの、何日でも軽い不安に襲はれて居る様に、顔の肉を痙攣けらせて居た。  此小松君は又、暇さへあれば町を歩くのか好きだといふ事で、市井の細かい出来事まで、殆んど残りなく聞込んで来る。私が、彼の「毎日」の菊池君に就いて、種々の噂を聞いたのも、大抵此小松君からであつた。  其話では、――菊池君は贅沢にも桟橋前の「丸山」と云ふ旅館に泊つて居て、毎日草鞋を穿いて外交に廻つて居る。そして、何処へ行つても、 『私は「毎日新聞」の探訪で、菊池兼治と云ふ者であります。』 と挨拶するさうで、初めて警察へ行つた時は、案内もなしにヅカ〳〵事務室に入つたので、深野と云ふ主任警部が、テツキリ無頼漢か何か面倒な事を云ひに来たと見たから、 『貴様は誰の許可を得て入つたか?』 と突然怒鳴りつけたと云ふ事であつた。菊池君は又、時々職工と一緒になつて酒を飲む事があるさうで、「丸山」の番頭の話では、時として帰つて来ない晩もあると云ふ。其麽時は怎も米町(遊廓)へ行くらしいので、現に或時の晩の如きは職工二人許りと連立つて行つた形跡があると云ふ事であつた。そして又、小松君は、聯隊区司令部には三日置位にしか材料が無いのに、菊池君が毎日アノ山の上まで行くと云つて、笑つて居た。  四時か四時半になると、私は算盤を取つて、順序紙につけてある行数を計算して、 『原稿出切。』 と呼ぶ。ト、八戸君も小松君も、卓子から離れて各々自分の椅子を引ずつて暖炉の周匝に集る。此時は流石に私も肩の荷を下した様で、ホツと息をして莨に火を移すが、軽い空腹と何と云ふ事の無い不満足の情が起つて来るので、大抵一本の莨を吸ひきらぬ中に帰準備をする。  宿に帰ると、否でも応でもお芳の滑稽た顔を見ねばならぬ。ト、其、何時見ても絶えた事のない卑しい浅間しい飢渇の表情が、直ぐ私に、 『オイ、家の別嬪さんは今日誰々に秋波を使つた?』 と云ふ様な事を云はせる。 『マア酷いよ、此人は。私の顔見れば、そな事許り云つてさ。』 と、お芳は忽ちにして甘えた姿態をする。 『飯持つて来い、飯。』 『貴方、今夜も出懸けるのがえ?』 『大きに御世話様。』 『だつて主婦さんが貴方の事心配してるよ。好え人だども、今から酒など飲んで、怎するだべて。』 『お嫁に来て呉れる人が無くなるツテ訳か?』 『マアさ。』 『ぢやね、芳ちやんの様な人で、モ些と許りお尻の小さいのを嫁に貰つて呉れたら、一生酒を禁めるからツてお主婦さんにそ云つて見て呉れ。』 『知らない、私。』と立つて行く。  夕飯が済む。ト、一日手を離さぬので筆が仇敵の様になつてるから、手紙一本書く気もしなければ、書など見ようとも思はぬ。凝然として洋燈の火を見つめて居ると、断々な事が雑然になつて心を掠める。何時しか暗い陰影が頭脳に拡つて来る。私は、恁うして何処へといふ確かな目的もなく、外套を引被けて外へ飛び出して了ふ。  這麽気持がする様になつてから、私は何故といふ理由もなしに「毎日」の日下部君と親しく往来する様になつた。ト共に、初め材料を聞出す積りでチヨイ〳〵飲みに行つたのが、此頃では其麽考へも無しに、唯モウ行かねば気が落付かぬ様で、毎晩の様に華やかな絃歌の巷に足を運んだ。或時は小松君を伴れて、或時は日下部君と相携へて。  星明りのする雪路を、身も心もフラ〳〵として帰つて来るのは、大抵十二時過ぎであるが、私は、「毎日」社の小路の入口を通る度に、「僕の方の編輯局は全然梁山泊だよ。」と云つた日下部君の言葉を思出す。月例会に逢つた限の菊池君が何故か目に浮ぶ。そして、何だか一度其編輯局へ行つて見たい様な気がした。      五  三月一日は恰度日曜日。快く目をさました時は、空が美しく晴れ渡つて、東向の窓に射す日が、塵に曇つた硝子を薄温かに染めて居た。  日射が上から縮つて、段々下に落ちて行く。颯と室の中が暗くなつたと思ふと、モウ私の窓から日が遁げて、向合つた今井病院の窓が、遽かにキラ〳〵とする。午後一時の時計がチンと何処かで鳴つて、小松君が遊びに来た。 『昨晩怎でした。面白かつたかえ?』 『随分な入りでした。五百人位入つた様でしたよ。』 『釧路座に五百人ぢや、桟敷が危険いね。』 『ええ、七時頃には木戸を閉めツちやツたんですが、大分戸外で騒いでましたよ。』 『其麽だつたかな。最も、釧路ぢや琵琶会が初めてなんだからね。』 『それに貴方が又、馬鹿に景気をつけてお書きなすツたんですからな。』 『其麽事もないけれども……訝しなもんだね。一体僕は、慈善琵琶会なんて云ふ「慈善」が大嫌ひなんで、アレは須らく偽善琵琶会と書くべしだと思つてるんだが、それでも君、釧路みたいな田舎へ来てると、怎も退屈で退屈で仕様がないもんだからね。遂ソノ、何かしら人騒がせがやつて見たくなるんだ。』 『同意ですな。』 『孤児院設立の資金を集めるなんて云ふけれど、実際はアノ金村ツて云ふ琵琶法師も喰せ者に違ひないんだがね。』 『でせうか?』 『でなけや、君、……然う〳〵、君は未だ知らなかつたんだが、昨日彼奴がね、編輯局へビールを、一打寄越したんだよ。僕は癪に触つたから、御好意は有難いが此代金も孤児院の設立資金に入れて貰ひたいツて返してやつたんだ。』 『然うでしたか、怎も……』 『慈善を餌に利を釣る。巧くやつてるもんだよ。アノ旅館の贅沢加減を見ても解るさね。』 『其麽事があつた為ですか、昨晩頻りに、貴方がお出にならないツて、金村の奴心配してましたよ。』 『感付かれたと思つてるだらうさ。』 『然う〳〵、まだ心配してた人がありましたよ。』 『誰だえ?』 『市ちやんが行つてましてね。』 『誰と?』 『些とは御心配ですかな。』 『馬鹿な……ハハハ。』 『小高に花助と三人でしたが、何故お出にならないだらうツて、真実に心配してましたよ。』 『風向が悪くなつたね。』 『ハツハハ。だが、今夜はお出になるでせう?』 『左様、行つても好いけどね。』 『但し市ちやんは、今夜来られないさうですが。』 『ぢや止さうか。』 と云つて、二人は声を合せて笑つた。 『立つてて聞きましたよ。』 と、お芳が菓子皿を持つて入つて来た。 『何を?』 『聞きましたよ、私。』 『お前の知つた人の事で、材料が上つたツて小松君が話した所さ。』 『嘘だよ。』 『高見さんを知つてるだらう?』と小松君が云ふ。 『知つて居りますさ、家に居た人だもの。』 『高見ツてのは何か、以前社に居たとか云ふ……?』 『ハ、然うです。』 『高見さんが怎かしたてのかえ?』 『したか、しないか、お前さんが一番詳しく知つてる筈ぢやないか?』 『何云ふだべさ。』 『だつて、高見君が此家に居たのは本当だらう。』 『居ましたよ。』 『そして。』 『そしてツて、私何も高見さんとは怎もしませんからさ。』 『ぢや誰と怎かしたんだい?』 『厭だ、私。』 と、足音荒くお芳が出て行く。 『馬鹿な奴だ。』 『天下の逸品ですね、アノ顔は。』 『ハハハ。皆に揶揄れて嬉しがつてるから、可哀相にも可哀相だがね。餓ゑたる女と云ふ奴かナ。』 『成程。ですけれど、アノ顔ぢや怎も、マア揶揄つてやる位が一番の同情ですな。』 『それに余程の気紛れ者でね。稼ぎ出すと鼻唄をやり乍ら滅法稼いでるが、怠け出したら一日主婦に怒鳴られ通しでも平気なもんだ。それかと思ふと、夜の九時過に湯へ行つて来て、アノ階段の下の小さな室で、一生懸命お化粧をしてる事なんかあるんだ。正直には正直な様だがね。』 『そら然うでせう。アノ顔で以て不正直と来た日にや、怎もなりませんからね。』 と云つて、小松君は暫らく語を切つたが、 『さう〳〵、「毎日」の菊池ですね。』 『呍。』 『アノ男は怖い様な顔してるけれど正直ですな。』 『怎して?』 『昨晩矢張琵琶会に来てましたがね。』 〔生前未発表・明治四十一年五月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 ※生前未発表、1908(明治41)年5月執筆のこの作品の本文を、底本は、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿によっています。 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年10月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     一  六月三十日、S――村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常の如く極めて活気のない懶うげな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。大方今は既四時近いのであらうか。といふのは、田舎の小学校にはよく有勝な奴で、自分が此学校に勤める様になつて既に三ヶ月にもなるが、未だ嘗て此時計がK停車場の大時計と正確に合つて居た例がない、といふ事である。少なくとも三十分、或時の如きは一時間と二十三分も遅れて居ましたと、土曜日毎に該停車場から、程遠くもあらぬ郷里へ帰省する女教師が云つた。これは、校長閣下自身の弁明によると、何分此校の生徒の大多数が農家の子弟であるので、時間の正確を守らうとすれば、勢ひ始業時間迄に生徒の集りかねる恐れがあるから、といふ事であるが、実際は、勤勉なる此辺の農家の朝飯は普通の家庭に比して余程早い。然し同僚の誰一人、敢て此時計の怠慢に対して、職務柄にも似合はず何等匡正の手段を講ずるものはなかつた。誰しも朝の出勤時間の、遅くなるなら格別、一分たりとも早くなるのを喜ぶ人は無いと見える。自分は? 自分と雖ども実は、幾年来の習慣で朝寝が第二の天性となつて居るので……  午後の三時、規定の授業は一時間前に悉皆終つた。平日ならば自分は今正に高等科の教壇に立つて、課外二時間の授業最中であるべきであるが、この日は校長から、お互月末の調査もあるし、それに今日は妻が頭痛でヒドク弱つてるから可成早く生徒を帰らしたい、課外は休んで貰へまいかという話、といふのは、破格な次第ではあるが此校長の一家四人――妻と子供二人と――は、既に久しく学校の宿直室を自分等の家として居るので、村費で雇はれた小使が襁褓の洗濯まで其職務中に加へられ、牝鶏常に暁を報ずるといふ内情は、自分もよく知つて居る。何んでも妻君の顔色が曇つた日は、この一校の長たる人の生徒を遇する極めて酷だ、などいふ噂もある位、推して知るべしである。自分は舌の根まで込み上げて来た不快を辛くも噛み殺して、今日は余儀なく課外を休んだ。一体自分は尋常科二年受持の代用教員で、月給は大枚金八円也、毎月正に難有頂戴して居る。それに受持以外に課外二時間宛と来ては、他目には労力に伴はない報酬、否、報酬に伴はない労力とも見えやうが、自分は露聊かこれに不平は抱いて居ない。何故なれば、この課外教授といふのは、自分が抑々生れて初めて教鞭をとつて、此校の職員室に末席を涜すやうになつての一週間目、生徒の希望を容れて、といふよりは寧ろ自分の方が生徒以上に希望して開いたので、初等の英語と外国歴史の大体とを一時間宛とは表面だけの事、実際は、自分の有つて居る一切の智識、(智識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の経験、一切の思想、――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭となつて迸しる。的なきに箭を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齢の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つ許りに紅血の油を盛つた青春の火盞ではないか。火箭が飛ぶ、火が油に移る、嗚呼そのハツ〳〵と燃え初むる人生の烽火の煙の香ひ! 英語が話せれば世界中何処へでも行くに不便はない。たゞこの平凡な一句でも自分には百万の火箭を放つべき堅固な弦だ。昔希臘といふ国があつた。基督が磔刑にされた。人は生れた時何物をも持つて居ないが精神だけは持つて居る。羅馬は一都府の名で、また昔は世界の名であつた。ルーソーは欧羅巴中に響く喇叭を吹いた。コルシカ島はナポレオンの生れた処だ。バイロンといふ人があつた。トルストイは生きて居る。ゴルキーが以前放浪者で、今肺病患者である。露西亜は日本より豪い。我々はまだ年が若い。血のない人間は何処に居るか。……あゝ、一切の問題が皆火の種だ。自分も火だ。五十幾つの胸にも火事が始まる。四間に五間の教場は宛然熱火の洪水だ。自分の骨露はに痩せた拳が礑と卓子を打つ。と、躍り上るものがある、手を振るものがある、万歳と叫ぶものがある。完たく一種の暴動だ。自分の眼瞼から感激の涙が一滴溢れるや最後、其処にも此処にも声を挙げて泣く者、上気して顔が火と燃え、声も得出さで革命の神の石像の様に突立つ者、さながら之れ一幅生命反乱の活画図が現はれる。涙は水ではない、心の幹をしぼつた樹脂である、油である。火が愈々燃え拡がる許りだ。『千九百○六年……此年○月○日、S――村尋常高等小学校内の一教場に暴動起る』と後世の世界史が、よしや記さぬまでも、この一場の恐るべき光景は、自分並びに五十幾人のジヤコビン党の胸板には、恐らく「時」の破壊の激浪も消し難き永久不磨の金字で描かれるであらう。疑ひもなく此二時間は、自分が一日二十四時間千四百四十分の内最も得意な、愉快な、幸福な時間で、大方自分が日々この学校の門を出入する意義も、全くこの課外教授がある為めであるらしい。然し乍ら此日六月三十日、完全なる『教育』の模型として、既に十幾年の間身を教育勅語の御前に捧げ、口に忠信孝悌の語を繰返す事正に一千万遍、其思想や穏健にして中正、其風采や質樸無難にして具さに平凡の極致に達し、平和を愛し温順を尚ぶの美徳余つて、妻君の尻の下に布かるゝをも敢て恥辱とせざる程の忍耐力あり、現に今このS――村に於ては、毎月十八円といふ村内最高額の俸給を受け給ふ――田島校長閣下の一言によつて、自分は不本意乍ら其授業を休み、間接には馬鈴薯に目鼻よろしくといふマダム田島の御機嫌をとつた事になる不面目を施し、退いて職員室の一隅に、児童出席簿と睨み合をし乍ら算盤の珠をさしたり減いたり、過去一ヶ月間に於ける児童各自の出欠席から、其総数、其歩合を計算して、明日は痩犬の様な俗吏の手に渡さるべき所謂月表なるものを作らねばならぬ。それのみなら未だしも、成績の調査、欠席の事由、食料携帯の状況、学用品供給の模様など、名目は立派でも殆んど無意義な仕事が少なからずあるのである。茲に於て自分は感じた、地獄極楽は決して宗教家の方便ではない、実際我等の此の世界に現存して居るものである、と。さうだ、この日の自分は明らかに校長閣下の一言によつて、極楽へ行く途中から、正確なるべき時間迄が娑婆の時計と一時間も相違のある此の蒸し熱き地獄に堕されたのである。算盤の珠のパチ〳〵〳〵といふ音、これが乃ち取りも直さず、中世紀末の大冒険家、地獄煉獄天国の三界を跨にかけたダンテ・アリギエリでさへ、聞いては流石に胆を冷やした『パペ、サタン、パペ、サタン、アレツペ』といふ奈落の底の声ではないか。自分は実際、この計算と来ると、吝嗇な金持の爺が己の財産を勘定して見る時の様に、ニコ〳〵ものでは兎ても行れないのである。極楽から地獄! この永劫の宣告を下したものは誰か、抑々誰か。曰く、校長だ。自分は此日程此校長の顔に表れて居る醜悪と欠点とを精密に見極めた事はない。第一に其鼻下の八字髯が極めて光沢が無い、これは其人物に一分一厘の活気もない証拠だ。そして其髯が鰻のそれの如く両端遙かに頤の方向に垂下して居る、恐らく向上といふ事を忘却した精神の象徴はこれであらう。亡国の髯だ、朝鮮人と昔の漢学の先生と今の学校教師にのみあるべき髯だ。黒子が総計三箇ある、就中大きいのが左の目の下に不吉の星の如く、如何にも目障りだ。これは俗に泣黒子と云つて、幸にも自分の一族、乃至は平生畏敬して居る人々の顔立には、ついぞ見当らぬ道具である。宜なる哉、この男、どうせ将来好い目に逢ふ気づかひが無いのだもの。……数へ来れば幾等もあるが、結句、田島校長=0といふ結論に帰着した。詰り、一毫の微と雖ども自分の気に合ふ点がなかつたのである。  この不法なるクーデターの顛末が、自分の口から、生徒控処の一隅で、残りなく我がジヤコビン党全員の耳に達せられた時、一団の暗雲あつて忽ちに五十幾個の若々しき天真の顔を覆ふた。楽園の光明門を閉ざす鉛色の雲霧である。明らかに彼等は、自分と同じ不快、不平を一喫したのである。無論自分は、かの妻君の頭痛一件まで持ち出したのではない、が、自分の言葉の終るや否や、或者はドンと一つ床を蹴つて一喝した、『校長馬鹿ツ。』更に他の声が続いた、『鰻ツ。』『蒲焼にするぞツ。』最後に『チエースト』と極めて陳腐な奇声を放つて相和した奴もあつた。自分は一盻の微笑を彼等に注ぎかけて、静かに歩みを地獄の門に向けた。軈て十五六歩も歩んだ時、急に後の騒ぎが止んだ、と思ふと、『ワン、ツー、スリー、泥鰻――』と、校舎も為めに動く許りの鬨の声、中には絹裂く様な鋭どい女生徒の声も確かに交つて居る。余りの事に振向いて見た、が、此時は既に此等革命の健児の半数以上は生徒昇降口から嵐に狂ふ木の葉の如く戸外へ飛び出した所であつた。恐らく今日も門前に遊んで居る校長の子供の小さい頭には、時ならぬ拳の雨の降つた事であらう。然し控処には未だ空しく帰りかねて残つた者がある。機会を見計つて自分に何か特にお話を請求しようといふ執心の輩、髪長き児も二人三人見える、――総て十一二人。小使の次男なのと、女教師の下宿して居る家の児と、(共に其縁故によつて、校長閣下から多少大目に見られて居る)この二人は自分の跡から尾いて来たまま、先刻からこの地獄の入口に門番の如く立つて、中の様子を看守して居る。  入口といふのは、紙の破れた障子二枚によつて此室と生徒控処とを区別したもので、校門から真直の玄関を上ると、すぐ左である。この入口から、我が当面の地獄、――天井の極く低い、十畳敷位の、汚点だらけな壁も、古風な小形の窓も、年代の故で歪んだ皮椅子も皆一種人生の倦怠を表はして居る職員室に這入ると、向つて凹字形に都合四脚の卓子が置かれてある。突当りの並んだ二脚の、右が校長閣下の席で、左は検定試験上りの古手の首座訓導、校長の傍が自分で、向ひ合つての一脚が女教師のである。吾校の職員と云つぱ唯この四人だけ、自分が其内最も末席なは云ふ迄もない。よし百人の職員があるにしても代用教員は常に末席を仰せ付かる性質のものであるのだ。御規則とは随分陳腐な洒落である。サテ、自分の後は直ちに障子一重で宿直室になつて居る。  此職員室の、女教師の背なる壁の掛時計が懶うげなる悲鳴をあげて午後三時を報じた時、其時四人の職員は皆各自の卓子に相割拠して居た。――卓子は互に密接して居るものの、此時の状態は確かに一の割拠時代を現出して居たので。――二三十分も続いた『パペ、サタン、アレツペ』といふ苦しげなる声は、三四分前に至つて、足音に驚いて卒かに啼き止む小田の蛙の歌の如く、礑と許り止んだ。と同時に、(老いたる尊とき導師は震なくダンテの手をひいて、更に他の修羅圏内に進んだのであらう。)新らしき一陣の殺気颯と面を打つて、別箇の光景をこの室内に描き出したのである。  詳しく説明すれば、実に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不図した転機から思付いて、このS――村小学校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた様な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時、自分が呱々の声をあげて以来二十一年、実際初めてゞあるに関らず、恥かし乍ら自白すると、出来上つたのを声の透る我が妻に歌はせて聞いた時の感じでは、少々巧い、と思はれた。今でもさう思つて居るが……。妻からも賞められた。その夜遊びに来た二三の生徒に、自分でヰオリンを弾き乍ら教へたら、矢張賞めてくれた、然も非常に面白い、これからは毎日歌ひますと云つて、歌詞は六行一聯の六聯で、曲の方はハ調四分の二拍子、それが最後の二行が四分の三拍子に変る。斯う変るので一段と面白いのですよ、と我が妻は云ふ。イヤ、それはそれとして、兎も角も自分はこれに就いて一点疚しい処のないのは明白な事実だ。作歌作曲は決して盗人、偽善者、乃至一切破廉恥漢の行為と同一視さるべきではない。マサカ代用教員如きに作曲などをする資格がないといふ規定もない筈だ。して見ると、自分は相不変正々堂々たるものである、俯仰して天地に恥づる処なき大丈夫である。所が、豈何んぞ図らんや、この堂々として赤裸々たる処が却つて敵をして矢を放たしむる的となつた所以であつたのだ。ト何も大袈裟に云ふ必要もないが、其歌を自分の教へてやつた生徒は其夜僅か三人(名前も明らかに記憶して居る)に過ぎなかつたが、何んでもジヤコビン党員の胸には皆同じ色――若き生命の浅緑と湧き立つ春の泉の血の色との火が燃えて居て、唇が皆一様に乾いて居る為めに野火の移りの早かつたものか、一日二日と見る〳〵うちに伝唱されて、今日は早や、多少調子の違つた処のないでもないが、高等科生徒の殆んど三分の二、イヤ五分の四迄は確かに知つて居る。昼休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇のポロテージ行進が始つて居た。彼是百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである。然し何も自分の作つたものが大勢に歌はれたからと云つて、決して恥でもない、罪でもない、寧ろ愉快なものだ、得意なものだ。現に其行進を見た時は、自分も何だか気が浮立つて、身体中何処か斯う擽られる様で、僅か五分間許りではあるが、自分も其行進列中の一人と迄なつて見た位である。……問題の鍵は以後である。  午後三時前三―四分、今迄矢張り不器用な指を算盤の上に躍らせて、『パペ、サタン、パペ、サタン』を繰返して居た校長田島金蔵氏は、今しも出席簿の方の計算を終つたと見えて、やをら頭を擡げて煙管を手に持つた。ポンと卓子の縁を敲く、トタンに、何とも名状し難い、狸の難産の様な、水道の栓から草鞋でも飛び出しさうな、も少し適切に云ふと、隣家の豚が夏の真中に感冒をひいた様な奇響――敢て、響といふ、――が、恐らく仔細に分析して見たら出損なつた咳の一種でゝもあらうか、彼の巨大なる喉仏の辺から鳴つた。次いで復幽かなのが一つ。もうこれ丈けかと思ひ乍ら自分は此時算盤の上に現はれた八四・七九といふ数を月表の出席歩合男の部へ記入しようと、筆の穂を一寸と噛んだ。此刹那、沈痛なる事昼寝の夢の中で去年死んだ黒猫の幽霊の出た様な声あつて、 『新田さん。』 と呼んだ。校長閣下の御声掛りである。  自分はヒヨイと顔を上げた。と同時に、他の二人――首座と女教師も顔を上げた。此一瞬からである、『パペ、サタン、パペ、サタン、アレツペ』の声の礑と許り聞えずなつたのは。女教師は黙つて校長の顔を見て居る。首席訓導はグイと身体をもぢつて、煙草を吸ふ準備をする。何か心に待構へて居るらしい。然り、この僅か三秒の沈黙の後には、近頃珍らしい嵐が吹き出したのだもの。 『新田さん。』と校長は再び自分を呼んだ。余程厳格な態度を装ふて居るらしい。然しお気の毒な事には、平凡と醜悪とを「教育者」といふ型に入れて鋳出した此人相には、最早他の何等の表情をも容るべき空虚がないのである。誠に完全な「無意義」である。若し強ひて厳格な態度でも装はうとするや最後、其結果は唯対手をして一種の滑稽と軽量な憐愍の情とを起させる丈だ。然し当人は無論一切御存じなし、破鐘の欠伸する様な訥弁は一歩を進めた。 『貴君に少しお聞き申したい事がありますがナ。エート、生命の森の……。何でしたつけナ、初の句は? (と首座訓導を見る、首座は甚だ迷惑といふ風で黙つて下を見た。)ウン、左様々々、春まだ浅く月若き、生命の森の夜の香に、あくがれ出でて、……とかいふアノ唱歌ですて。アレは、新田さん、貴君が秘かに作つて生徒に歌はせたのだと云ふ事ですが、真実ですか。』 『嘘です。歌も曲も私の作つたには相違ありませぬが、秘かに作つたといふのは嘘です。蔭仕事は嫌ひですからナ。』 『デモ、さういふ事でしたつけね、古山さん、先刻の御話では。』と再び隣席の首座訓導をかへり見る。  古山の顔には、またしても迷惑の雲が懸つた。矢張り黙つた儘で、一閃の偸視を自分に注いで、煙を鼻からフウと出す。  此光景を目撃して、ハヽア、然うだ、と自分は早や一切を直覚した。かの正々堂々赤裸々として俯仰天地に恥づるなき我が歌に就いて、今自分に持ち出さんとして居る抗議は、蓋しこれ泥鰻金蔵閣下一人の頭脳から割出したものではない。完たく古山と合議の結果だ。或は古山の方が当の発頭人であるかも知れない。イヤ然うあるべきだ、この校長一人丈けでは、如何して這麽元気の出る筈が無いのだもの。一体この古山といふのは、此村土着の者であるから、既に十年の余も斯うして此学校に居る事が出来たのだ。四十の坂を越して矢張五年前と同じく十三円で満足して居るのでも、意気地のない奴だといふ事が解る。夫婦喧嘩で有名な男で、(此点は校長に比して稍々温順の美徳を欠いて居る。)話題と云つぱ、何日でも酒と、若い時の経験談とやらの女話、それにモ一つは釣道楽、と之れだけである。最もこの釣道楽だけは、この村で屈指なもので、既に名人の域に入つて居ると自身も信じ人も許して居る。随つて主義も主張もない、(昔から釣の名人になる様な男は主義も主張も持つてないと相場が極つて居る。)随つて当年二十一歳の自分と話が合はない。自分から云はせると、校長と謂ひ此男と謂ひ、栄養不足で天然に立枯になつた朴の木の様なもので、松なら枯れても枝振といふ事もあるが、何の風情もない。彼等と自分とは、毎日吸ふ煙草までが違つて居る。彼等の吸ふのは枯れた橡の葉の粉だ、辛くもないが甘くもない、香もない。自分のは、五匁三銭の安物かも知れないが、兎に角正真正銘の煙草である。香の強い、辛い所に甘い所のある、真の活々した人生の煙だ。リリーを一本吸ふたら目が廻つて来ましたつけ、と何日か古山の云ふたのは、蓋し実際であらう。斯くの如くして、自分は常に此職員室の異分子である。継ツ子である、平和の攪乱者と目されて居る。若し此小天地の中に自分の話相手になる人を求むれば、それは実に女教師一人のみだ。芳紀やゝ過ぎて今年正に二十四歳、自分には三歳の姉である。それで未だ独身で、熱心なクリスチアンで、讃美歌が上手で、新教育を享けて居て、思想が先づ健全で、顔は? 顔は毎日見て居るから別段目にも立たないが、頬は桃色で、髪は赤い、目は年に似合はず若々しいが、時々判断力が閃めく、尋常科一年の受持であるが、誠に善良なナースである。で、大抵自分の云ふ事が解る、理のある所には屹度同情する。然し流石に女で、それに稍々思慮が有過ぎる傾があるので、今日の様な場合には、敢て一言も口を出さない。が、其眼球の軽微なる運動は既に充分自分の味方であることを語つて居る。況んや、現に先刻この女が、自分の作つた歌を誰から聞いたものか、低声に歌つて居たのを、確かに自分は聴いたのだもの。  さて、自分は此処で、かの歌の如何にして作られ、如何にして伝唱されたかを、詳らかに説明した。そして、最後の言葉が自分の唇から出て、校長と首座と女教師と三人六箇の耳に達した時、其時、カーン、カーン、カーン、と掛時計が、懶気に叫んだのである。突然『アーア』といふ声が、自分の後、障子の中から起つた。恐らく頭痛で弱つて居るマダム馬鈴薯が、何日もの如く三歳になる女の児の帯に一条の紐を結び、其一端を自身の足に繋いで、危い処へやらぬ様にし、切炉の側に寝そべつて居たのが、今時計の音に真昼の夢を覚されたのであらう。『アーア』と再聞えた。  三秒、五秒、十秒、と恐ろしい沈黙が続いた。四人の職員は皆各自の卓子に割拠して居た。この沈黙を破つた一番槍は古山朴の木である。 『其歌は校長さんの御認可を得たのですか。』 『イヤ、決して、断じて、認可を下した覚えはありませぬ。』と校長は自分の代りに答へて呉れる。  自分はケロリとして煙管を啣へ乍ら、幽かな微笑を女教師の方に向いて洩した。古山もまた煙草を吸ひ初める。  校長は、と見ると、何時の間にか赤くなつて、鼻の上から水蒸気が立つて居る。『どうも、余りと云へば自由が過ぎる。新田さんは、それあ新教育も享けてお出でだらうが、どうもその、少々身勝手が過ぎるといふもんで……。』 『さうですか。』 『さうですかツて、それを解らぬ筈はない。一体その、エート、確か本年四月の四日の日だつたと思ふが、私が郡視学さんの平野先生へ御機嫌伺ひに出た時でした。さう、確かに其時です。新田さんの事は郡視学さんからお話があつたもんだで、遂私も新田さんを此学校に入れた次第で、郡視学さんの手前もあり、今迄は随分私の方で遠慮もし、寛裕にも見て置いた訳であるが、然し、さう身勝手が過ぎると、私も一校の司配を預かる校長として、』と句を切つて、一寸反り返る。此機を逸さず自分は云つた。 『どうぞ御遠慮なく。』 『不埓だ。校長を屁とも思つて居らぬ。』  この声は少し高かつた。握つた拳で卓子をドンと打つ、驚いた様に算盤が床へ落ちて、けたたましい音を立てた。自分は今迄校長の斯う活気のある事を知らなかつた。或は自白する如く、今日迄は郡視学の手前遠慮して居たかも知れない。然し彼の云ふ処は実際だ。自分は実際此校長位は屁とも思つて居ないのだもの。この時、後の障子に、サと物音がした。マダム馬鈴薯が這ひ出して来て、様子如何にと耳を澄まして居るらしい。 『只今伺つて居りました処では、』と白ツぱくれて古山が口を出した、『どうもこれは校長さんの方に理がある様に、私には思はれますので。然し新田さんも別段お悪い処もない、唯その校歌を自分勝手に作つて、自分勝手に生徒に教へたといふ、つまり、順序を踏まなかつた点が、大に、イヤ、多少間違つて居るのでは有るまいかと、私には思はれます。』 『此学校に校歌といふものがあるのですか。』 『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』 『今では?』  今度は校長が答へた。『現にさう云ふ貴君が作つたではないか。』 『問題は其処ですて。物には順序……』  皆まで云はさず自分は手をあげて古山を制した。『問題も何も無いぢやないですか。既に私の作つたアレを、貴君方が校歌だと云つてるぢやありませぬか。私はこのS――村尋常高等小学校の校歌を作つた覚えはありませぬ。私はたゞ、この学校の生徒が日夕吟誦しても差支のない様な、校歌といつたやうな性質のものを試みに作つた丈です。それを貴君方が校歌といふて居られる。詰り、校歌としてお認め下さるのですな。そこで生徒が皆それを、其校歌を歌ふ。問題も何も有つた話ぢやありますまい。この位天下泰平な事はないでせう。』  校長と古山は顔を見合せる。女教師の目には満足した様な微笑が浮んだ。入口の処には二人の立番の外に、新らしく来たのがある。後の障子が颯と開いて、腰の辺に細い紐を巻いたなり、帯も締めず、垢臭い木綿の細かい縞の袷をダラシなく着、胸は露はに、抱いた児に乳房啣せ乍ら、静々と立現れた化生の者がある。マダム馬鈴薯の御入来だ。袷には黒く汗光りのする繻子の半襟がかゝつてある。如何考へても、決して余り有難くない御風体である。針の様に鋭どく釣上つた眼尻から、チヨと自分を睨んで、校長の直ぐ傍に突立つた。若しも、地獄の底の底で、白髪茨の如き痩せさらぼひたる斃死の状の人が、吾児の骨を諸手に握つて、キリ〳〵〳〵と噛む音を、現実の世界で目に見る或形にしたら、恐らくそれは此女の自分を一睨した時の目付それであらう。此目付で朝な夕な胸を刺される校長閣下の心事も亦、考へれば諒とすべき点のないでもない。  生ける女神――貧乏の?――は、石像の如く無言で突立つた。やがて電光の如き変化が此室内に起つた。校長は、今迄忘れて居た厳格の態度を、再び装はんとするものの如く、其顔面筋肉の二三ヶ所に、或る運動を与へた。援軍の到来と共に、勇気を回復したのか、恐怖を感じたのか、それは解らぬが、兎に角或る激しき衝動を心に受けたのであらう。古山も面を上げた。然し、もうダメである。攻勢守勢既に其地を代へた後であるのだもの。自分は敵勢の加はれるに却つて一層勝誇つた様な感じがした。女教師は、女神を一目見るや否や、譬へ難き不快の霧に清い胸を閉されたと見えて、忽ちに俯いた。見れば、恥辱を感じたのか、気の毒と思つたのか、それとも怒つたのか、耳の根迄紅くなつて、鉛筆の尖でコツ〳〵と卓子を啄いて居る。  古山が先づ口を切つた。『然し、物には総て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛に陸軍大将にも成れぬ訳ですて。』成程古今無類の卓説である。  校長が続いた。『其正当の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものでも未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序も考へぬとは、余りといへば余りな事だ。』  云ひ終つて堅く唇を閉ぢる。気の毒な事には其への字が余り恰好がよくないので。  女神の視線が氷の矢の如く自分の顔に注がれた。返答如何にと促がすのであらう。トタンに、無雑作に、といふよりは寧ろ、無作法に束ねられた髪から、櫛が辷り落ちた。敢て拾はうともしない。自分は笑ひ乍ら云ふた。 『折角順序々々と云ふお言葉ですが、一体如何いふ順序があるのですか。恥かしい話ですが、私は一向存じませぬので。……若し其校歌採用の件とかの順序を知らない為めに、他日誤つて何処かの校長にでもなつた時、失策する様な事があつても大変ですから、今教へて頂く訳に行きませぬでせうか。』  校長は苦り切つて答へた。『順序といつても別に面倒な事はない。第一に(と力を入れて)校長が認定して、可いと思へば、郡視学さんの方へ届けるので、それで、ウム、その唱歌が学校生徒に歌はせて差支がない、といふ認可が下りると、初めて校歌になるのです。』 『ハヽア、それで何ですな、私の作つたのは、其正当の順序とかいふ手数にかけなかつたので、詰り、早解りの所が、落第なんですな。結構です。作者の身に取つては、校歌に採用されると、されないとは、完たく屁の様な問題で、唯自分の作つた歌が生徒皆に歌はれるといふ丈けで、もう名誉は充分なんです。ハヽヽヽヽ。これなら別に論はないでせう。』 『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番だ。『その学校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一応其歌の意味でも話すとか、或は出来上つてから見せるとかしたら穏便で可いと、マア思はれるのですが。』 『のみならず、学校の教案などは形式的で記す必要がないなどと云つて居て、宅へ帰れば、すぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人とは呆れる外はない。実に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、学校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術国語地理歴史は勿論の事、唱歌裁縫の如きでさへ、チアンと細目が出来て居ます。私共長年教育の事業に従事した者が見ますと、現今の細目は実に立派なもので、精に入り微を穿つ、とでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範学校で勉強して居た時分、其頃で早や四十五円も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小学校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ実にお話にならぬ、冷汗です。で、その、正真の教育者といふものは、其完全無欠な規定の細目を守つて、一毫乱れざる底に授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教へる生徒の父兄、また高い月給を支払つてくれる村役場にも甚だ済まない訳、大にしては我々が大日本の教育を乱すといふ罪にも坐する次第で、完たく此処の所が、我々教育者にとつて最も大切な点であらうと、私などは既に十年の余も、――此処へ来てからは、まだ四年と三ヶ月にしか成らぬが、――努力精励して居るのです。尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻から古山さんも頻りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支がない。若しさうでなくば、只今諄々と申した様な仕儀になり、且つ私も校長を拝命して居る以上は、私に迄責任が及んで来るかも知れないのです。それでは、如何もお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷ける様になる。』 『大変な事になるんですね。』と自分は極めて洒々たるものである。尤も此お説法中は、時々失笑を禁じえなんだので、それを噛み殺すに不些少骨を折つたが。『それでつまり私の作つた歌が其完全無欠なる教授細目に載つて居ないのでせう。』 『無論ある筈がないでサア。』と古山。 『ない筈ですよ。二三日前に作つた許りですもの。アハヽヽヽ。先刻からのお話は、結局あの歌を生徒に歌はせては不可、といふ極く明瞭な一事に帰着するんですね。色々な順序の枝だの細目の葉だのを切つて了つて、肝胆を披瀝した所が、さうでせう。』  これには返事が無い。 『其細目といふ矢釜敷お爺さんに、代用教員は教壇以外にて一切生徒に教ふべからず、といふ事か、さもなくんば、学校以外で生徒を教へる事の細目とかいふものが、ありますか。』 『細目にそんな馬鹿な事があるものか。』と校長は怒つた。 『それなら安心です。』 『何が安心だ。』 『だつて、さうでせう。先刻詳しくお話した通り、私があの歌を教へたのは、二三日前、乃ちあれの出来上つた日の夜に、私の宅に遊びに来た生徒只の三人だけになのですから、何も私が細目のお爺さんにお目玉を頂戴する筈はないでせう。若しあの歌に、何か危険な思想でも入れてあるとか、又は生徒の口にすべからざる語でもあるなら格別ですが、……。イヤ余程心配しましたが、これで青天白日漸々無罪に成りました。』  全勝の花冠は我が頭上に在焉。敵は見ン事鉄嶺以北に退却した。剣折れ、馬斃れ、矢弾が尽きて、戦の続けられる道理は昔からないのだ。 『私も昨日、あれを書いたのを栄さん(生徒の名)から借りて写したんですよ。私なんぞは何も解りませんけども、大層もう結構なお作だと思ひまして、実は明日唱歌の時間にはあれを教へやうと思つてたんでしたよ。』  これは勝誇つた自分の胸に、発矢と許り投げられた美しい光栄の花環であつた。女教師が初めて口を開いたのである。      二  此時、校長田島金蔵氏は、感極まつて殆んど落涙に及ばんとした。初めは怨めしさうに女教師の顔を見て居たが、フイと首を廻らして、側に立つ垢臭い女神、頭痛の化生、繻子の半襟をかけたマダム馬鈴薯を仰いだ。平常は死んだ源五郎鮒の目の様に鈍い眼も、此時だけは激戦の火花の影を猶留めて、極度の恐縮と嘆願の情にやゝ湿みを持つて居る。世にも弱き夫が渾身の愛情を捧げて妻が一顧の哀憐を買はむとするの図は正に之である。然し大理石に泥を塗つたやうな女神の面は微塵も動かなんだ。そして、唯一声、『フン、』と云つた。噫世に誰か此のフンの意味の能く解る人があらう。やがて身を屈めて、落ちて居た櫛を拾ふ。抱いて居る児はまだ乳房を放さない。随分強慾な児だ。  古山は、野卑な目付に憤怒の色を湛へて自分を凝視して居る。水の面の白い浮標の、今沈むかと気が気でない時も斯うであらう。我が敬慕に値する善良なる女教師山本孝子女史は、いつの間にかまた、パペ、サタン、を始めて居る。  入口を見ると、三分刈りのクリ〳〵頭が四つ、朱鷺色のリボンを結んだのが二つ並んで居た。自分が振り向いた時、いづれも嫣然とした。中に一人、女教師の下宿してる家の栄さんといふのが、大きい眼をパチ〳〵とさせて、一種の暗号祝電を自分に送つて呉れた。珍らしい悧巧な少年である。自分も返電を行つた。今度は六人の眼が皆一度にパチ〳〵とする。  不意に、若々しい、勇ましい合唱の声が聞えた。二階の方からである。 春まだ浅く月若き 生命の森の夜の香に あくがれ出でて我が魂の 夢むともなく夢むれば……  あゝ此歌である、日露開戦の原因となつたは。自分は颯と電気にでも打たれた様に感じた。同時に梯子段を踏む騒々しい響がして、声は一寸乱れる。降りて来るな、と思ふと早や姿が現はれた。一隊五人の健児、先頭に立つたのは了輔と云つて村長の長男、背こそ高くないが校内第一の腕白者、成績も亦優等で、ジヤコビン党の内でも最も急進的な、謂はば爆弾派の首領である。多分二階に人を避けて、今日課外を休まされた復讐の秘密会議でも開いたのであらう。あの元気で見ると、既に成算胸にあるらしい。願くは復以前の様に、深夜宿直室へ礫の雨を注ぐ様な乱暴はしてくれねばよいが。  一隊の健児は、春の暁の鐘の様な冴え〴〵した声を張り上げて歌ひつゞけ乍ら、勇ましい歩調で、先づ広い控処の中央に大きい円を描いた。と見ると、今度は我が職員室を目掛けて堂々と練つて来るのである。 「自主」の剣を右手に持ち、 左手に翳す「愛」の旗、 「自由」の駒に跨がりて 進む理想の路すがら、 今宵生命の森の蔭 水のほとりに宿かりぬ。 そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標、 音なき河は千載に 香る名をこそ流すらむ。 此処は何処と我問へば、 汝が故郷と月答ふ。 勇める駒の嘶くと 思へば夢はふと覚めぬ。 白羽の甲銀の楯 皆消えはてぬ、さはあれど ここに消えざる身ぞ一人 理想の路に佇みぬ。 雪をいただく岩手山 名さへ優しき姫神の 山の間を流れゆく 千古の水の北上に 心を洗ひ……  と此処まで歌つた時は、恰度職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ処である。歌は止んだ。此数分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つて居たのである。――然も心の声のあらん限りをしぼつて。  不図気がつくと、世界滅尽の大活劇が一秒の後に迫つて来たかと見えた。校長の顔は盛んな山火事だ。そして目に見える程ブル〳〵と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて、飢饉に逢つた仁王様の様に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い静脈が顔一杯に脹れ出して居る。  栄さんは了輔の耳に口を寄せて、何か囁いて居る。了輔は目を象の鼻穴程に睜つて熱心に聞いて居る。どちかと云へば性来太い方の声なので、返事をするのが自分にも聞える。 『……ナニ、此歌を?……ウム……勝つたか、ウム、然うさ、然うとも、見たかつたナ……飲まないつて、酒を?……然し赤いな、赤鰻ツ。』  最後の声が稍々高かつた。古山は激した声で、 『校長さん。』 と叫んだ。校長は立つた。転機で椅子が後に倒れた。妻君は未だ動かないで居る。然し其顔の物凄い事。 『彼方へ行け。』 『彼方へお出なさい。』  自分と女教師とは同時に斯う云つて、手を動かし、目で知らせた。了輔の目と自分の目と合つた。自分は目で強く圧した。  了輔は遂に駆け出した。 そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標、  と歌ひ乍ら。他の児等も皆彼の跡を追ふた。 『勝つた先生万歳』 と鬨の声が聞える。五六人の声だ。中に、量のある了輔の声と、栄さんのソプラノなのが際立つて響く。  自分の目と女教師の目と礑と空中で行き合つた。その目には非常な感激が溢れて居る。無論自分に不利益な感激でない事は、其光り様で解る。――恰も此時、  恰も此時、玄関で人の声がした。何か云ひ争ふて居るらしい。然し初めは、自分も激して居る故か、確とは聞き取れなかつた。一人は小使の声である。一人は? どうも前代未聞の声の様だ。 『……何云つたつて、乞食は矢ツ張乞食だんべい。今も云ふ通り、学校はハア、乞食などの来る所でねエだよ。校長さアが何日も云ふとるだ、癖がつくだで乞食が来たら何ねエな奴でも追払つてしまへツて。さつさと行かつしやれ、お互に無駄な暇取るだアよ。』と小使の声。  凛とした張のある若い男の声が答へる。『それア僕は乞食には乞食だ、が、普通の乞食とは少々格が違ふ。ナニ、強請だんべいツて? ヨシ〳〵、何でも可いから、兎に角其手紙を新田といふ人に見せてくれ。居るツて今云つたぢやないか。新田白牛といふ人だ。』  ハテナ、と自分は思ふ。小使がまた云ふ。 『新田耕助先生ちふ若けエ人なら居るだが、はくぎうなんて可笑しな奴ア一人だつて居ねエだよ。耕助先生にア乞食に親類もあんめエ。間違エだよ。コレア人違エだんべエ。之エ返しますだよ。』 『困つた人だね、僕は君には些とも用はないんだ。新田といふ人に逢ひさへすれば可。たゞ新田君に逢へば満足だ、本望だ。解つたか、君。……お願ひだから其手紙を、ね、頼む。……これでも不可といふなら、僕は自分で上つて行つて、尋ぬる人に逢ふ迄サ。』  自分は此時、立つて行つて見ようかと思つた。が、何故か敢へて立たなかつた。立派な美しい、堂々たる、広い胸の底から滞りなく出る様な声に完たく酔はされたのであらう。自分は、何故といふ事もなく、時々写真版で見た、子供を抱いたナポレオンの顔を思出した。そして、今玄関に立つて自分の名を呼んで逢ひたいと云つて居る人が、屹度其ナポレオンに似た人に相違ないと思つた。 『そ、そねエな事して、何うなるだアよ。俺ハア校長さアに叱られ申すだ。ぢやア、マア待つて居さつしやい。兎に角此手紙丈けはあの先生に見せて来るだアから。……人違エにやきまつてるだア。俺これ迄十六年も此学校に居るだアに、まだ乞食から手紙見せられた先生なんざア一人だつて無エだよ。』  自分の心は今一種奇妙な感じに捉へられた。周囲を見ると、校長も古山も何時の間にか腰を掛けて居る。マダム馬鈴薯はまだ不動の姿勢を取つて居る。女教師ももとの通り。そして四人の目は皆、何物をか期待する様に自分に注がれて居る。其昔、大理石で畳んだ壮麗なる演戯場の桟敷から罪なき赤手の奴隷――完たき『無力』の選手――が、暴力の権化なる巨獣、換言すれば獅子と呼ばれたる神権の帝王に対して、如何程の抵抗を試み得るものかと興ある事に眺め下した人々の目付、その目付も斯くやあつたらうと、心の中に想はるる。  村でも「仏様」と仇名せらるる好人物の小使――忠太と名を呼べば、雨の日も風の日も、『アイ』と返事をする――が、厚い唇に何かブツ〳〵呟やき乍ら、職員室に這入つて来た。 『これ先生さアに見せて呉れ云ふ乞食が来てますだ。ハイ。』 と、変な目をしてオヅ〳〵自分を見乍ら、一通の封書を卓子に置く。そして、玄関の方角に指さし乍ら、左の目を閉ぢ、口を歪め、ヒヨツトコの真似をして見せて、 『変な奴でがす。お気を付けさつしやい。俺、様々断つて見ましたが、どうしても聴かねエだ。』 と小言で囁く。  黙つて封書を手に取り上げた。表には、勢のよい筆太の〆が殆んど全体に書かれて、下に見覚えのある乱暴な字体で、薄墨のあやなくにじんだ『八戸ニテ、朱雲』の六字。日附はない。『ああ、朱雲からだ!』と自分は思はず声を出す。裏を返せば、『岩手県岩手郡S――村尋常高等小学校内、新田白牛様』と先以て真面目な行書である。自分は或事を思ひ出した、が、兎も角もと急いで封を切る。すべての人の視線は自分の痩せた指先の、何かは知れぬ震ひに注がれて居るのであらう。不意に打出した胸太鼓、若き生命の轟きは電の如く全身の血に波動を送る。震ふ指先で引き出したのは一枚の半紙、字が大きいので、文句は無論極めて短かい。 爾後大に疎遠、失敬、  これ丈けで二行に書いてある。 石本俊吉此手紙を持つて行く。君は出来る丈けの助力を此人物に与ふべし。小生生れて初めて紹介状なる物を書いた。 六月二十五日 天野朱雲拝 新田耕サン  そして、上部の余白へ横に (独眼竜ダヨ。)と一句。  世にも無作法極まる乱暴な手紙と云つぱ、蓋し斯くの如きものの謂であらう。然も之は普通の消息ではない。人が、自己の信用の範囲に於て、或る一人を、他の未知の一人に握手せしむる際の、謂はば、神前の祭壇に読み上ぐべき或る神聖なる儀式の告文、と云つた様な紹介状ではないか。若し斯くの如き紹介状を享くる人が、温厚篤実にして万中庸を尚ぶ世上の士君子、例へば我が校長田島氏の如きであつたら、恐らく見もせぬうちから玄関に立つ人を前門の虎と心得て、いざ狼の立塞がぬ間にと、草履片足で裏門から逃げ出さぬとも限らない。然も此一封が、嘗てこのS――村に呱々の声を挙げ、この学校――尤も其頃は校舎も今の半分しか無く、教師も唯の一人、無論高等科設置以前の見すぼらしい単級学校ではあつたが、――で、矢張り穏健で中正で無愛想で、規則と順序と年末の賞与金と文部省と妻君とを、此上なく尊敬する一教育者の手から、聖代の初等教育を授けられた日本国民の一人、当年二十七歳の天野大助が書いたのだと知つたならば、抑々何の辞を以て其驚愕の意を発表するであらうか。実際これでは紹介状ドコロの話ではない。命令だ、しかも随分乱暴な命令だ、見ず知らずの独眼竜に出来る限りの助力をせよといふのだもの。然し乍ら、この驚くべき一文を胸轟かせて読み終つた自分は、決して左様は感じなんだ。敢て問ふ、世上滔々たる浮華虚礼の影が、此手紙の何の隅に微塵たりとも隠れて居るか。⦅一金三両也。馬代。くすかくさぬか、これどうぢや。くすといふならそれでよし、くさぬにつけてはたゞおかぬ。うぬがうでには骨がある。⦆といふ、昔さる自然生の三吉が書いた馬代請求の付状が、果して大儒新井白石の言の如く千古の名文であるならば、簡にしてよく其要を得た我が畏友朱雲の紹介状も亦、正に千古の名文と謂つべしである。のみならず、斯くの如き手紙を平気で書き、又平気で読むといふ彼我二人の間は、真に同心一体、肝胆相照すといふ趣きの交情でなくてはならぬ。一切の枝葉を掃ひ、一切の被服を脱ぎ、六尺似神の赤裸々を提げて、平然として目ざす城門に肉薄するのが乃ち此手紙である。此平然たる所には、実に乾坤に充満する無限の信用と友情とが溢れて居るのだ。自分は僅か三秒か四秒の間にこの手紙を読んだ。そして此瞬間に、躍々たる畏友の面目を感じ、其温かき信用と友情の囁きを聞いた。 『よろしい。此室へお通し申して呉れ。』 『乞食をですかツ。』 と校長が怒鳴つた。 『何だつてそれア余りですよ。新田さん。学校の職員室へ乞食なんぞを。』  斯う叫んだのは、窓の硝子もピリ〳〵とする程甲高い、幾億劫来声を出した事のない毛虫共が千万疋もウヂヤ〳〵と集まつて雨乞の祈祷でもするかの様な、何とも云へぬ厭な声である。舌が無いかと思はれたマダム馬鈴薯の、突然噴火した第一声の物凄さ。  小使忠太の団栗眼はクル〳〵〳〵と三廻転した。度を失つてまだ動かない。そこで一つ威嚇の必要がある。 『お通し申せ。』 と自分は一喝を喰はした。忠太はアタフタと出て行つた、が、早速と復引き返して来た。後には一人物が随つて居る。多分既に草鞋を解いて、玄関に上つて居たつたのであらう。 『新田さん、貴君はそれで可のですか。よ、新田さん、貴君一人の学校ではありませんよ。人ツ、代用のクセに何だと思つてるだらう。マア御覧なさい。アンナ奴。』  馬鈴薯が頻りにわめく。自分は振向きもしない。そして、今しも忠太の背から現はれむとする、「アンナ奴」と呼ばれたる音吐朗々のナポレオンに、渾身の注意を向けた。朱雲の手紙に「独眼竜ダヨ」と頭註がついてあつたが、自分はたゞ単に、ヲートルローの大戦で誤つて一眼を失つたのだらう位に考へて、敢て其為めに千古の真骨頭ナポレオン・ボナパルトの颯爽たる威風が、一毫たりとも損ぜられたものとは信じなんだのである。或は却つて一段秋霜烈日の厳を増したのではないかと思つた。忠太は体を横に開いてヒヨコリと頭を下げる。や否や、逃ぐるが如く出て行つてしまつた。  天が下には隠家もなくなつて、今現身の英傑は我が目前咫尺の処に突兀として立ち給ふたのである。自分も立ち上つた。  此時、自分は俄かに驚いて叫ばんとした。あはれ千載万載一遇の此月此日此時、自分の双眼が突如として物の用に立たなくなつたではないか。これ程劇甚な不幸は、またとこの世にあるべきでない。自分は力の限り二三度瞬いて見て、そして復力の限り目を睜つた。然しダメである。ヲートルローの大戦に誤つて流弾の為めに一眼を失ひ、却つて一段秋霜烈日の厳を加へた筈のナポレオン・ボナパルトは、既に長しなへに新田耕助の仰ぎ見るべからざるものとなつたのである。自分の大く睜つた目は今、数秒の前千古の英傑の立ち止つたと思ふた其同じ処に、悄然として塵塚の痩犬の如き一人物の立つて居るのを見つめて居るのだ。実に天下の奇蹟である。いかなる英傑でも死んだ跡には唯骸骨を残すのみだといふ。シテ見れば、今自分の前に立つて居るのは、或はナポレオンの骸骨であるかも知れない。  よしや骸骨であるにしても、これは又サテ〳〵見すぼらしい骸骨である哩。身長五尺の上を出る事正に零寸零分、埃と垢で縞目も見えぬ木綿の袷を着て、帯にして居るのは巾狭き牛皮の胴締、裾からは白い小倉の洋袴の太いのが七八寸も出て居る。足袋は無論穿いて居ない。髪は二寸も延びて、さながら丹波栗の毬を泥濘路にころがしたやう。目は? 成程独眼竜だ。然しヲートルローで失つたのでは無論ない。恐らく生来であらう、左の方が前世に死んだ時の儘で堅く眠つて居る。右だつて完全な目ではない。何だか普通の人とは黒玉の置き所が少々違つて居るやうだ。鼻は先づ無難、口は少しく左に歪んで居る。そして頬が薄くて、血色が極めて悪い。これらの道具立の中に、独り威張つて見える広い額には、少なからず汗の玉が光つて居る。涼しさうにもない。その筈だ、六月三十日に袷を着ての旅人だもの。忠太がヒヨツトコの真似をして見せたのも、「アンナ奴」と馬鈴薯の叫んだのも、自身の顔の見えぬ故でもあらうが、然し左程当を失して居ない様にも思はれる。  斯う自分の感じたのは無論一転瞬の間であつた。たとへ一転瞬の間と雖ども、かくの如きさもしい事を、この日本一の代用教員たる自分の胸に感じたのは、実に慚愧に堪へぬ悪徳であつたと、自分の精神に覚醒の鞭撻を与へて呉れたのは、この奇人の歪める口から迸しつた第一声である。 『僕は石本俊吉と申します。』  あゝ、声だけは慥かにナポレオンにしても恥かしくない声だ。この身体の何処に貯へて置くかと怪まれる許り立派な、美しい、堂々たる、広い胸の底から滞りなく出る様な、男らしい凛とした声である。一葉の牡蠣の殻にも、詩人が聞けば、遠き海洋の劫初の轟きが籠つて居るといふ。さらば此男も、身体こそ無造作に刻まれた肉塊の一断片に過ぎぬが、人生の大殿堂を根柢から揺り動かして響き渡る一撞万声の鯨鐘の声を深く這裏に蔵して居るのかも知れない。若しさうとすると、自分を慚愧すべき一瞬の悪徳から救ひ出したのは、此影うすきナポレオンの骸骨ではなくて、老ゆる事なき人生至奥の鐘の声の事になる。さうだ、慥かにさうだ。この時自分は、その永遠無窮の声によつて人生の大道に覚醒した。そして、畏友朱雲から千古の名文によつて紹介された石本俊吉君に、初対面の挨拶を成すべき場合に立つて居ると覚悟をきめたのである。 『僕が新田です。初めて。』 『初めて。』 と互に一揖する。 『天野君のお手紙はどうも有難う。』 『どうしまして。』  斯う云つて居る間に、自分は不図或る一種の痛快を感じた。それは、随分手酷い反抗のあつたに不拘、飄然として風の如く此職員室に立ち現れた人物が、五尺二寸と相場の決つた平凡人でなくて、実に優秀なる異彩を放つ所の奇男子であるといふ事だ。で、自分は、手づから一脚の椅子を石本に勧めて置いて、サテ屹となつて四辺を見た。女教師は何を感じてか凝然として此新来の客の後姿に見入つて居る。他の三人の顔色は云はずとも知れた事。自分は疑ひもなく征服者の地位に立つて居る。 『一寸お紹介します。この方は、私の兄とも思つて居る人からの紹介状を持つて、遙々訪ねて下すつた石本俊吉君です。』  何れも無言。それが愈々自分に痛快に思はれた。馬鈴薯は『チヨッ』と舌打して自分を一睨したが、矢張一言もなく、すぐ又石本を睨め据ゑる。恐らく余程石本の異彩ある態度に辟易してるのであらう。石本も亦敢て頭を下げなんだ。そして、如何に片目の彼にでも直ぐ解る筈の此不快なる光景に対して、殆んど無感覚な位極めて平気である。どうも面白い。余程戦場の数を踏んだ男に違ひない。荒れ狂ふ獅子の前に推し出しても、今朝喰つた飯の何杯であつたかを忘れずに居る位の勇気と沈着をば持つて居さうに思はれる。  得意の微笑を以て自分は席に復した。石本も腰を下した。二人の目が空中に突き当る。此時自分は、対手の右の目が一種抜群の眼球を備へて居る事を発見した。無論頭脳の敏活な人、智の活力の盛んな人の目ではない。が兎に角抜群な眼球である丈けは認められる。そして其抜群な眼球が、自分を見る事決して初対面の人の如くでなく、親しげに、なつかしげに、十年の友の如く心置きなく見て居るといふ事をも悟つた。ト同時に、口の歪んで居る事も、独眼竜な事も、ナポレオンの骸骨な事も、忠太の云つた「気をつけさつしあい」といふ事も、悉皆胸の中から洗ひ去られた。感じ易き我が心は、利害得失の思慮を運らす暇もなく、彼の目に溢れた好意を其儘自分の胸の盃で享けたのだ。いくら浮世の辛い水を飲んだといつても、年若い者のする事は常に斯うである。思慮ある人は笑ひもしやう。笑はば笑へ、敢て関する所でない。自分は年が若いのだもの。あゝ、青春幾時かあらむ。よしや頭が禿げてもこの熱かい若々しい心情だけは何日までも持つて居たいものだと思つて居る。何んぞ今にして早く蒸溜水の様な心に成られやう。自分と石本俊吉とは、逢会僅か二分間にして既に親友と成つた。自分は二十一歳、彼は、老けても見え若くも見えるが、自分よりは一歳か二歳兄であらう。何れも年が若いのだ。初対面の挨拶が済んだ許りで、二人の目と目が空中で突当る。此瞬間に二つの若き魂がピタリと相触れた。親友に成る丈けの順序はこれで沢山だ。自分は彼も亦一箇の快男児であると信ずる。  然し其風采は? 噫其風采は!――自分は実際を白状すると、先刻から戦時多端の際であつたので、実は稍々心の平静を失して居た傾がある。随つて此新来の客に就いても、観察未だ到らなかつた点が無いと云へぬ。今、一脚の卓子に相対して、既に十年の友の心を以て仔細に心置きなく見るに及んで、自分は今更の如く感動した。噫々、何といふ其風采であらう。口を開けばこそ、音吐朗々として、真に凛たる男児の声を成すが、斯う無言の儘で相対して見れば、自分はモウ直視するにも堪へぬ様な気がする。噫々といふ外には、自分のうら若き友情は、他に此感じを表はすべき辞を急に見出しかねるのだ。誠に失礼な言草ではあるが、自分は先に「悄然として塵塚の痩犬の如き一人物」と云つた。然しこれではまだ恐らく比喩が適切でない。「一人物」といふよりも、寧ろ「悄然」其物が形を表はしたといふ方が当つて居るかも知れぬ。  顔の道具立は如何にも調和を失して居る、奇怪である、余程混雑して居る。然し、其混雑して居る故かも知れぬが、何処と云つて或る一つの纏まつた印象をば刻んで居ない。若し其道具立の一つ〳〵から順々に帰納的に結論したら、却つて「悄然」と正反対な或るエツクスを得るかも知れない。然し此男の悄然として居る事は事実だから仕様がないのだ。長い汚ない頭髪、垢と塵埃に縞目もわかぬ木綿の古袷、血色の悪い痩せた顔、これらは無論其「悄然」の条件の一項一項には相違ないが、たゞ之れ丈けならば、必ずしも世に類のないでもない、実際自分も少なからず遭遇した事もある。が、斯く迄極度に悄然とした風采は、二十一年今初めてである。無理な語ではあるが、若し然云ふをうべくんば、彼は唯一箇の不調和な形を具へた肉の断片である、別に何の事はない肉の断片に過ぎぬ、が、其断片を遶る不可見の大気が極度の「悄然」であるのであらう。さうだ、彼自身は何処までも彼自身である。唯其周囲の大気が、凝固したる陰欝と沈痛と悲惨の雲霧であるのだ。そして、これは一時的であるかも知れぬが、少なからぬ「疲労」の憔悴が此大気をして一層「悄然」の趣を深くせしむる陰影を作して居る。或は又、「空腹」の影薄さも這裏に宿つて居るかも知れない。  礼を知らぬ空想の翼が電光の如くひらめく。偶然にも造化の悪戯によつて造られ、親も知らず兄弟も知らずに、虫の啼く野の石に捨てられて、地獄の鉄の壁から伝はつてくる大地の冷気に育くまれ、常に人生といふ都の外濠伝ひに、影の如く立ち並ぶ冬枯の柳の下を、影の如くそこはかと走り続けて来た、所謂自然生の放浪者、大慈の神の手から直ちに野に捨てられた人肉の一断片、――が、或は今自分の前に居る此男ではあるまいか。さうとすると、かの音吐朗々たる不釣合な声も、或日或時或機会、螽を喰ひ野蜜を嘗め、駱駝の毛衣を着て野に呼ぶ予言者の口から学び得たのかと推諒する事も出来る。又、「エイ、エイツ」と馬丁の掛声勇ましき黒塗馬車の公道を嫌つて、常に人生の横町許り彷徨いて居る朱雲がかゝる男と相知るの必ずしも不合理でない事もうなづかれる。然し、それにしては「石本俊吉」といふ立派な紳士の様な名が、どうも似合はない様だ。或は又、昔は矢張慈母の乳も飲み慈父の手にも抱かれ、愛の揺籃の中に温かき日に照され清浄の月に接吻された児が、世によくある奴の不運といふ高利貸に、親も奪はれ家も取られ、濁りなき血の汗を搾り搾られた揚句が、冷たい苔の上に落ちた青梅同様、長しなへに空の日の光といふものを遮られ、酷薄と貧窮と恥辱と飢餓の中に、年少脆弱、然も不具の身を以て、健気にも単身寸鉄を帯びず、眠る間もなき不断の苦闘を持続し来つて、肉は落ち骨は痩せた壮烈なる人生の戦士――が、乃ち此男ではあるまいか。朱雲は嘗て九円の月俸で、かゝる人生の戦士が暫しの休息所たる某監獄に看守の職を奉じて居た事がある。して見れば此二人が必ずしも接近の端緒を得なんだとはいへない。今思ひ出す、彼は嘗て斯う云ふた事がある、『監獄が悪人の巣だと考へるのは、大いに間違つて居るよ、勿体ない程間違つて居るよ。鬼であるべき筈の囚人共が、政府の官吏として月給で生き剣をブラ下げた我々看守を、却つて鬼と呼んで居る。其筈だ、真の鬼が人間の作つた法律の網などに懸るものか。囚人には涙もある血もある、又よく物の味も解つて居る、実に立派な戦士だ、たゞ悲しいかな、一つも武器といふものを持つて居ない。世の中で美い酒を飲んでる奴等は、金とか地位とか皆それ〴〵に武器を持つて居るが、それを、その武器だけを持たなかつた許りに戦がまけて、立派な男が柿色の衣を着る。君、大臣になれば如何な現行犯をやつても、普通の巡査では手を出されぬ世の中ではないか。僕も看守だ、が、同僚と喧嘩はしても、まだ囚人の頬片に指も触つた事がない。朝から晩まで夜叉の様に怒鳴つて許り居る同僚もあるが、どうして此僕にそんな事が出来るものか。』  然し此想像も亦、敢て当れりとは云ひ難い。何故となれば、現に今自分を見て居るこの男の右の眼の、親しげな、なつかしげな、心置きなき和かな光が、別に理由を説明するでもないが、何だか、『左様ではありませぬ』と主張して居る様に見える。平生いかに眼識の明を誇つて居る自分でも、此咄嗟の間には十分精確な判断を下す事は出来ぬ。が兎も角、我が石本君の極めて優秀なる風采と態度とは、決して平凡な一本路を終始並足で歩いて来た人でないといふ事丈けは、完全に表はして居るといつて可。まだ一言の述懐も説明も聞かぬけれど、自分は斯う感じて無限の同情を此悄然たる人に捧げた。自分と石本君とは百分の一秒毎に、密接の度を強めるのだ。そして、旅順の大戦に足を折られ手を砕かれ、両眼また明を失つた敗残の軍人の、輝く金鵄勲章を胸に飾つて乳母車で通るのを見た時と、同じ意味に於ての痛切なる敬意が、また此時自分の心頭に雲の如く湧いた。  茲に少しく省略の筆を用ゐる。自分の問に対して、石本君が、例の音吐朗々たるナポレオン声を以て詳しく説明して呉れた一切は、大略次の如くであつた。  石本俊吉は今八戸(青森県三戸郡)から来た。然し故郷はズツト南の静岡県である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の様な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲惨な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獣の如き貪婪が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鉄を突き立てたのだといふ。兄は立派な体格を備へて居たが、日清の戦役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです、』と俊吉は附加へた。両親は仲々勤勉で、何一つ間違つた事をした覚えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて来た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小学校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有に移つて、少許の田と家屋敷が残つて居た丈けであつた。其年の秋、年上な一友と共に東京へ夜逃をした。新橋へ着いた時は懐中僅かに二円三十銭と五厘あつた丈けである。無論前途に非常な大望を抱いての事。稚ない時から不具な為めに受けて来た恥辱が、抑ゆべからざる復讐心を起させて居たので、この夜逃も詰りは其為めである。又同じ理由に依つて、上京後は労働と勉学の傍ら熱心に柔道を学んだ、今ではこれでも加納流の初段である。然し其頃の悲惨なる境遇は兎ても一朝一夕に語りつくす事が出来ない、餓ゑて泣いて、国へ帰らうにも旅費がなく、翌年の二月、さる人に救はれる迄は定まれる宿とてもなかつた位。十六歳にして或る私立の中学校に這入つた。三年許りにして其保護者の死んだ後は、再び大都の中央へ礫の如く投げ出されたが、兎に角非常な労働によつて僅少の学費を得、其学校に籍だけは置いた。昨年の夏、一月許り病気をして、ために東京では飯喰ふ道を失ひ、止むなく九月の初めに、友を便つて乞食をしながら八戸迄東下りをした。そして、実に一週間以前までは其処の中学の五年級で、朝は早く『八戸タイムス』といふ日刊新聞の配達をし、午後三時から七時迄四時間の間は、友人なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を焼き、都合六円の金を得て月々の生命を繋ぎ、又学費として、孤衾襟寒き苦学自炊の日を送つて来たのだといふ。年齢は二十二歳、身の不具で弱くて小さい所以は、母の胎内に七ヶ月しか我慢がしきれず、無理矢理に娑婆へ暴れ出した罰であらうと考へられる。  天野朱雲氏との交際は、今日で恰度半年目である。忘れもせぬ本年一月元旦、学校で四方拝の式を済ましてから、特務曹長上りの予備少尉なる体操教師を訪問して、苦学生の口には甘露とも思はれるビールの馳走を受けた。まだ酔の醒めぬ顔を、ヒユーと矢尻を研ぐ北国の正月の風に吹かせ乍ら、意気揚々として帰つてくると、時は午後の四時頃、とある町の彼方から極めて異色ある一人物が来る。酒とお芽出度うと晴衣の正月元日に、見れば自分と同じ様に裾から綿も出ようといふ古綿入を着て、羽織もなく帽子もなく、髪は蓬々として熊の皮を冠つた如く、然も癪にさはる程悠々たる歩調で、洋杖を大きく振り廻し乍ら、目は雪曇りのした空を見詰めて、……。初めは狂人かと思つた。近づいて見ると、五分位に延びた漆黒の鬚髯が殆んど其平たい顔の全面を埋めて、空を見詰むる目は物凄くもギラ〳〵する巨大なる洞穴の様だ。随分非文明な男だと思ひ乍ら行きずりに過ぎやうとすると、其男の大圏に振つて居る太い洋杖が、発矢と許り俊吉の肩先を打つた。 『何をするツ。』と身構へると、其男も立止つて振返つた。が、極めて平気で自分を見下すのだ。癪にさはる。先刻も申上げた通り、これでも柔術は加納流の初段であるので、一秒の後には其非文明な男は雪の堅く氷つた路へ摚と許り倒れた。直ぐ起き上る。打つて来るかとまた身構へると、矢張平気だ。そして破鐘の様な声で、怒つた風もなく、 『君は元気のいい男だね!』  自分の満身の力は、此一語によつて急に何処へか逃げて了つた。トタンに復、 『面白い。どうだ君、僕と一しよに来給へ。』 『君も変な男だね!』 と自分も云つて見た。然し何の効能も無かつた。変な男は悠々と先に立つて歩く。自分も黙つて其後に従つた。見れば見る程、考へれば考へる程、誠に奇妙な男である。此時まで斯ういふ男は見た事も聞いた事もない。一種の好奇心と、征服された様な心持とに導かれて、三四町も行くと、 『此処だ。独身ぢやから遠慮はない。サア。』 「此処」は、広くもあらぬ八戸の町で、新聞配達の俊吉でさへ知らなかつた位な場処、と云はば、大抵どんな処か想像がつかう。薄汚ない横町の、昼猶暗き路次を這入つた突当り、豚小舎よりもまだ酷い二間間口の裏長屋であつた。此日、俊吉が此処から帰つたのは、夜も既に十一時を過ぎた頃であつた。その後は殆んど夜毎に此豚小舎へ通ふやうになつた。変な男は乃ち朱雲天野大助であつたのだ。『天野君は僕の友人で、兄で、先生で、そして又導師です。』と俊吉は告白した。  家出をして茲に足掛八年、故郷へ還つたのは三年前に妹が悲惨な最後を遂げた時唯一度である。家は年々に零落して、其時は既に家屋敷の外父の所有といふものは一坪もなかつた。四分六分の残酷な小作で、漸やく煙を立てて居たのである。老いたる母は、其儘俊吉をひき留めやうと云ひ出した。然し父は一言も云はなかつた。二週間の後には再び家を出た。その時父は、『壮健で豪い人になつてくれ。それ迄は死なないで待つて居るぞ。石本の家を昔に還して呉れ。』といつて、五十余年の労苦に疲れた眼から大きい涙を流した。そして、何処から工面したものか、十三円の金を手づから俊吉の襯衣の内衣嚢に入れて呉れた。これが、父の最後の言葉で、又最後の慈悲であつた。今は再びこの父をこの世に見る事は出来ない。  と云ふのは、父は五十九歳を一期として、二週間以前にあの世の人と成つたのである。この通知の俊吉に達したのは、実に一週間前の雨の夕であつた。 『この手紙です。』といつて一封の書を袂から出す。そして、打湿つた声で話を続ける。 『僕は泣いたです。例の菓子屋から、傘がないので風呂敷を被つて帰つて来て見ると、宿の主婦さんの渡してくれたのが此手紙です。いくら読み返して見ても、矢張り老父が死んだとしか書いて居ない。そんなら何故電報で知らして呉れぬかと怨んでも見ましたが、然し私の村は電信局から十六里もある山中なんです。恰度其日が一七日と気がつきましたから、平常嫌ひな代数と幾何の教科書を売つて、三十銭許り貰ひました。それで花を一束と、それから能く子供の時に老父が買つて来て呉れました黒玉――アノ、黒砂糖を堅くした様な小さい玉ですネ、あれを買つて来て、写真などもありませんから、この手紙を机の上に飾つて、そして其花と黒玉を手向けたんです。……其時の事は、もう何とも口では云へません。残つたのは母一人です、そして僕は、二百里も遠い所に居て矢張一人ポッチです。』  石本は一寸句を切つた。大きい涙がボロ〳〵と其右の眼からこぼれた。自分も涙が出た。何か云はうとして口を開いたが、声が出ない。 『その晩は一睡もしませんでした。彼是十二時近くだつたでせうが、線香を忘れて居たのに気が付きまして、買ひに出掛けました。寝て了つた店をやう〳〵叩き起して、買ふには買ひましたが、困つたです、雨が篠をつく様ですし、矢張風呂敷を被つて行つたものですから、其時はもうビシヨ濡れになつて居ます。どうして此線香を濡らさずに持つて帰らうかと思つて、薬種屋の軒下に暫らく立つて考へましたが、店の戸は直ぐ閉るし、後は急に真暗になつて、何にも見えません。雨はもう、轟々ツと鳴つて酷い降り様なんです。望の綱がスツカリ切れて了つた様な気がして、僕は生れてから、随分心細く許り暮して来ましたが、然し此時の位、何も彼もなくたゞ無暗にもう死にたくなつて、呼吸もつかずに目を瞑る程心細いと思つた事はありません。斯んな時は涙も出ないですよ。 『それから、其処に立つて居たのが、如何程の時間か自分では知りませんが、気が付いた時は雨がスツカリ止んで、何だか少し足もとが明るいのです。見ると東の空がボーツと赤くなつて居ましたつけ。夜が明けるんですネ。多分此時まで失神して居たのでせうが、よくも倒れずに立つて居たものと不思議に思ひました。線香ですか? 線香はシツカリ握つて居ました、堅く。しかし濡れて用に立たなくなつて居るのです。 『また買はうと思つたんですが、濡れてビシヨ〳〵の袂に一銭五厘しか残つて居ないんです。一把二銭でしたが……。本を売つた三十銭の内、国へ手紙を出さうと思つて、紙と状袋と切手を一枚買ひましたし、花は五銭でドツサリ、黒玉も、たゞもう父に死なれた口惜まぎれに、今思へば無考な話ですけれども、十五銭程買つたのですもの。仕方がないから、それなり帰つて来て、其時は余程障子も白んで居ましたが、復此手紙を読みました。所が、可成早く国に帰つて呉れといふ事が、繰り返し〳〵書いてあるんです。昨夜はチツとも気がつかなかつたですが、無論読んだには読んだ筈なんで、多分「父が死んだ」といふ、たゞそれ丈けで頭が一杯だつた故でせう。成程、父と同年で矢張五十九になる母が唯一人残つたのですもの、どう考へたつて帰らなくちやならない、且つ自分でも羽があつたら飛んで行きたい程一刻も早く帰り度いんです。然し金がない、一銭五厘しか無い、草鞋一足だつて二銭は取られまさアね。新聞社の方も菓子屋の方も、実は何日でも月初めに前借してるんで駄目だし、それに今月分の室賃はまだ払つて居ないのだから、財産を皆売つた所で五銭か十銭しか、残りさうも無い。財産と云つたものの、蒲団一枚に古机一つ、本は漢文に読本に文典と之丈、あとの高い本は皆借りて写したんですから売れないんです。尤もまだ毛布が一枚ありましたけれども、大きい穴が四ツもあるのだから矢張駄目なんです。室賃は月四十銭でした、長屋の天井裏ですもの。児玉――菓子屋へ行つて話せば、幾何か出して貰へんこともなかつたけれど、然し今迄にも度々世話になつてましたからネ。考へて考へて、去年東京から来た時の経験もあるし、尤も余り結構な経験でもありませんが、仕方が無いから思ひ切つて、乞食をして国まで帰る事に遂々決心したんです。貧乏の位厚顔な奴はありませんネ。此決心も、僕がしたんでなくて、貧乏がさせたんですネ。それでマア決心した以上は一刻の猶予もなりませんし、国へは直ぐさう云つて手紙を出しました。それから、九時に学校へ行つて、退校願を出したり、友人へ告別したりして。尤も告別する様な友人は二人しかありませんでしたが、……処が校長の云ふには、「君は慥か苦学して居る筈だつたが、国へ帰るに旅費などはあるのかナ。」と、斯ういふんです。僕は、乞食して行く積りだつて、さう答へた処が、「ソンナ無謀な破廉恥な事はせん方が可だらう。」と云ひました。それではどうしたら可でせうと問ひますと、「マア能く考へて見て、何とかしたら可ぢやないか。」と抜かしやがるんです。癪に触りましたネ。それから、帰りに菓子屋へ行つて其話をして、新聞社の方も断はつて、古道具屋を連れて来ました。前に申上げた様な品物に、小倉の校服の上衣だの、硯だのを加へて、値踏みをさせますと、四十銭の上は一文も出せないといふんです。此方の困つてるのに見込んだのですネ。漸やくの次第で四十五銭にして貰つて、売つて了つたが、残金僅か六銭五厘では、いくら慣れた貧乏でも誠に心細いもんですよ。それに、宿から借りて居た自炊の道具も皆返して了ふし、机も何もなくなつてるし、薄暗い室の中央に此不具な僕が一人坐つてるのでせう。平常から鈍い方の頭が昨夜の故でスツカリ労れ切つてボンヤリして、「老父が死んで、これから乞食をして国へ帰るのだ」といふ事だけが、漠然と頭に残つてるんです。此漠然として目的も手段も何もない処が、無性に悲しいんで、たゞもう声を揚げて泣きたくなるけれども、声も出ねば涙も出ない。何の事なしにたゞ辛くて心細いんですネ。今朝飯を喰はなかつたので、空腹ではあるし、国の事が気になるし、昨夜の黒玉をつかんで無暗に頬ばつて見たんです。 『それから愈々出掛けたんですが、一時頃でしたらう、天野君の家へ這入つたのは。天野君も以前は大抵夜分でなくては家に居なかつたのですが、学校を罷めてからは、一日外へ出ないで、何時でも蟄居して居るんです。』 『天野は罷めたんですか、学校を?』 『エ? 左様々々、君はまだ御存じなかつたんだ。罷めましたよ、遂々。何でも校長といふ奴と、――僕も二三度見て知つてますが、鯰髯の随分変梃な高麗人でネ。その校長と素晴しい議論をやつて勝つたんですとサ。それで二三日経つと突然免職なんです。今月の十四五日の頃でした。』 『さうでしたか。』と自分は云つたが、この石本の言葉には、一寸顔にのぼる微笑を禁じ得なかつた。何処の学校でも、校長は鯰髯の高麗人で、議論をすると必然敗けるものと見える。  然し此微笑も無論三秒とは続かなかつた。石本の沈痛なる話が直ぐ進む。 『学校を罷めてからといふもの、天野君は始終考へ込んで許り居たんですがネ。「少し散歩でもせんと健康が衰へるでせう。」といふと、「馬鹿ツ。」と云ふし、「何を考へて居るのです。」ツて云へば、「君達に解る様な事は考へぬ。」と来るし、「解脱の路に近づくのでせう。」なんて云ふと、「人生は隧道だ。行くところまで行かずに解脱の光が射してくるものか。」と例の口調なんですネ。行つた時は、平生のやうに入口の戸が閉つて居ました。初めての人などは不在かと思ふんですが、戸を閉めて置かないと自分の家に居る気がしないとアノ人が云つてました。其戸を開けると、「石本か。」ツて云ふのが癖でしたが、この時は森として何とも云はないんです。不在かナと思ひましたが、帰つて来るまで待つ積りで上り込んで見ると、不在ぢやない、居るんです。居るには居ましたが、僕の這入つたのも知らぬ風で、木像の様に俯向いて矢張り考へ込んで居るんですナ。「何うしました?」と声をかけると、ヒヨイと首を上げて、「石本か。君は運命の様だナ。」と云ふ。何故ですかツて聞くと、「さうぢやないか、不意の侵入者だもの。」と淋しさうに笑ひましたツけ。それから、「なんだ其顔。陰気な運命だナ。そんな顔をしてるよりは、死ね、死ね。……それとも病気か。」と云ひますから、「病気には病気ですが、ソノ運命と云ふ病気に取り付かれたんです。」ツて答へると、「左様か、そんな病気なら、少し炭を持つて来て呉れ、湯を沸すから。」と再淋しく笑ひました。天野君だつて一体サウ陽気な顔でもありませんが、この日は殊に何だか斯う非常に淋しさうでした。それがまた僕には悲しいんですネ。……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷国へ帰る処だツて、何から何まで話したのですが、天野君は大きい涙を幾度も〳〵零して呉れました。僕はモウ父親の死んだ事も郷国の事も忘れて、コンナ人と一緒に居たいもんだと思ひました。然し天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、実に不幸な男だ。が然し、余り元気を落すな。人生の不幸の滓まで飲み干さなくては真の人間に成れるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、処々に都会といふ骸骨の林があるツ限。それにまぎれ込んで出路を忘れちや可けないぞ。そして、脚の下にはヒタ〳〵と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻まれたからと云つて、其儘帰つて来ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戦闘だ。戦ふには元気が無くちや可かん。だから君は余り元気を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壮烈な最後を遂げるまで、戦つて呉れ給へ。血と涙さへ涸れなければ、武器も不要、軍略も不要、赤裸々で堂々と戦ふのだ。この世を厭になつては其限だ、少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。今までも君と談合つた通り、現時の社会で何物かよく破壊の斧に値せざらんやだ。全然破壊する外に、改良の余地もない今の社会だ。建設の大業は後に来る天才に譲つて、我々は先づ根柢まで破壊の斧を下さなくては不可。然しこの戦ひは決して容易な戦ひではない。容易でないから一倍元気が要る。元気を落すな。君が赤裸々で乞食をして郷国へ帰るといふのは、無論遺憾な事だ、然し外に仕方が無いのだから、僕も賛成する。尤も僕が一文無しでなかつたら、君の様な身体の弱い男に乞食なんぞさせはしない。然し君も知つての通りの僕だ。たゞ、何日か君に話した新田君へ手紙をやるから、新田には是非逢つて行き給へ。何とか心配もして呉れるだらうから。僕にはアノ男と君の外に友人といふものは一人も無いんだから喃。」と云つて、先刻差上げた手紙を書いてくれたんです。それから種々話して居たんですが、暫らくしてから、「どうだ、一週間許り待つて呉れるなら汽車賃位出来る道があるが、待つか待たぬか。」と云ふんです。如何してと聞くと、「ナーニ僕の財産一切を売るのサ。」と云ひますから、ソンナラ君は何うするんですかツて問ふと、暫し沈吟してましたつけが、「僕は遠い処へ行かうと思つてる。」と答へるんです。何処へと聞いても唯遠い処と許りで、別に話して呉れませんでしたが、天野君の事ツてすから、何でも復何か痛快な計画があるだらうと思ひます。考へ込んで居たのも其問題なんでせうね。屹度大計画ですよ、アノ考へ様で察すると。』 『さうですか。天野はまた何処かへ行くと云つてましたか。アノ男も常に人生の裏路許り走つて居る男だが、甚麽計画をしてるのかネー。』 『無論それは僕なんぞに解らないんです。アノ人の言ふ事行る事、皆僕等凡人の意想外ですからネ。然し僕はモウ頭ツから敬服してます。天野君は確かに天才です。豪い人ですよ。今度だつて左様でせう、自身が遠い処へ行くに旅費だつて要らん筈がないのに、財産一切を売つて僕の汽車賃にしようと云ふのですもの。これが普通の人間に出来る事ツてすかネ。さう思つたから、僕はモウ此厚意だけで沢山だと思つて辞退しました。それからまた暫らく、別れともない様な気がしまして、話してますと、「モウ行け。」と云ふんです。「それでは之でお別れです。」と立ち上りますと、少し待てと云つて、鍋の飯を握つて大きい丸飯を九つ拵へて呉れました。僕は自分でやりますと云つたんですけれど、「そんな事を云ふな、天野朱雲が最後の友情を享けて潔よく行つて呉れ。」と云ひ乍ら、涙を流して僕には背を向けて孜々と握るんです。僕はタマラナク成つて大声を揚げて泣きました。泣き乍ら手を合せて後姿を拝みましたよ。天野君は確かに豪いです。アノ人の位豪い人は決してありません。……(石本は眼を瞑ぢて涙を流す。自分も熱い涙の溢るるを禁じ得なんだ。女教師の啜り上げるのが聞えた。)それから、また坐つて、「これで愈々お別れだ。石本君、生別又兼死別時、僕は慇懃に袖を引いて再逢の期を問ひはせん。君も敢てまたその事を云ひ給ふな。たゞ別れるのだ。別れて君は郷国へ帰り、僕は遠い処へ行くまでだ。行先は死、然らずんば戦闘。戦つて生きるのだ。死ぬのは……否、死と雖ども新たに生きるの謂だ。戦の門出に泣くのは児女の事ぢやないか。別れよう。潔く元気よく別れよう。ネ、石本君。」と云ひますから、「僕だつて男です、潔くお別れします。然し何も、生別死別を兼ぬる訳では無いでせう。人生は成程暗い坑道ですけれど、往来皆此路、君と再び逢ふ期が無いとは信じられません。逢ひます、屹度再逢ひます。僕は君の外に頼みに思ふ人もありませんし、屹度再何処かで逢ひます。」と云ひますと、「人生は左様都合よくは出来て居らんぞ。……然し何も、君が死にに行くといふではなし、また、また、僕だつて未だ死にはせん。……決して死にはせんのだから、さうだ、再逢の期が遂に無いとは云はん。たゞ、それを頼りに思つて居ると失望する事がないとも限らない。詰らぬ事を頼りにするな。又、人生の雄々しき戦士が、人を頼りにするとは弱い話だ。……僕は此八戸に来てから、君を得て初めて一道の慰藉と幸福を感じて居た。僅か半歳の間、匇々たる貧裡半歳の間とは云へ、僕が君によつて感じ得た幸福は、長なへに我等二人を親友とするであらう。僕が心を決して遠い処へ行かんとする時、君も亦飄然として遙かに故園に去る、――此八戸を去る。好し、行け、去れ、去つて再び問ふこと勿れ。たゞ、願はくは朱雲天野大助と云ふ世外の狂人があつたと丈けは忘れて呉れ給ふな。……解つたか、石本。」と云つて、ジツと僕を凝視るのです。「解りました。」ツて頭を下げましたが、返事が無い。見ると、天野君は両膝に手をついて、俯向いて目を瞑つてました。解りましたとは云つたものの、僕は実際何もかも解らなくなつて、只斯う胸の底を掻きむしられる様で、ツイと立つて入口へ行つたです。目がしきりなく曇るし、手先が慄へるし、仲々草鞋が穿けなかつたですが、やう〳〵紐をどうやら結んで、丸飯の新聞包を取り上げ乍ら見ると、噫、天野君は死んだ様に突伏してます。「お別れです。」と辛うじて云つて見ましたが、自分の声の様で無い、天野君は突伏した儘で、「行け。」と怒鳴るんです。僕はモウ何とも云へなくなつて、大声に泣き乍ら駆け出しました。路次の出口で振返つて見ましたが、無論入口に出ても居ません。見送つて呉れる事も出来ぬ程悲しんで呉れるのかと思ひますと、有難いやら嬉しいやら怨めしいやらで、丸飯の包を両手に捧げて入口の方を拝んだと迄は知つてますが、アトは無宙で駆け出したです。……人生は何処までも惨苦です。僕は天野君から真の弟の様にされて居たのが、自分一生涯の唯一度の幸福だと思ふのです。』  語り来つて石本は、痩せた手の甲に涙を拭つて悲気に自分を見た。自分もホツと息を吐いて涙を拭つた。女教師は卓子に打伏して居る。 〔生前未発表・明治三十九年七月稿、十一月補稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 初出:「啄木全集 第一巻 小説」新潮社    1919(大正8)年4月21日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※生前未発表、1906(明治39)年7月執筆、同年11月補稿のこの作品の本文を、底本は、土岐善麿氏所蔵啄木自筆原稿によっています。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2008年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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      一  六月三十日、S――村尋常高等小學校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常の如く極めて活氣のない懶うげな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが學校教師の單調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。大方今は既四時近いのであらうか。といふのは、田舍の小學校にはよく有勝な奴で、自分が此學校に勤める樣になつて既に三ヶ月にもなるが、未だ嘗て此時計がK停車場の大時計と正確に合つて居た例がない、といふ事である。少なくとも三十分、或時の如きは一時間と二十三分も遲れて居ましたと、土曜日毎に該停車場から程遠くもあらぬ郷里へ歸省する女教師が云つた。これは、校長閣下自身の辯明によると、何分此校の生徒の大多數が農家の子弟であるので、時間の正確を守らうとすれば、勢い始業時間迄に生徒の集りかねる恐れがあるから、といふ事であるが、實際は、勤勉なる此邊の農家の朝飯は普通の家庭に比して餘程早い。然し同僚の誰一人、敢て此時計の怠慢に對して、職務柄にも似合はず何等匡正の手段を講ずるものはなかつた。誰しも朝の出勤時間の、遲くなるなら格別、一分たりとも早くなるのを喜ぶ人は無いと見える。自分は? 自分と雖ども實は、幾年來の習慣で朝寢が第二の天性となって居るので……  午後の三時、規定の授業は一時間前に悉皆終つた。平日ならば自分は今正に高等科の教壇に立つて、課外二時間の授業最中であるべきであるが、この日は校長から、お互月末の調査もあるし、それに今日は妻が頭痛でヒドク弱つてるから可成早く生徒を歸らしたい、課外は休んで貰へまいかという話、といふのは、破格な次第ではあるが此校長の一家四人――妻と子供二人と――は、既に久しく學校の宿直室を自分等の家として居るので、村費で雇はれた小使が襁褓の洗濯まで其職務中に加へられ、牝鷄常に曉を報ずるといふ内情は、自分もよく知つて居る。何んでも妻君の顏色の曇つた日は、この一校の長たる人の生徒を遇する極めて酷だ、などいふ噂もある位、推して知るべしである。自分は舌の根まで込み上げて來た不快を辛くも噛み殺して、今日は餘儀なく課外を休んだ。一體自分は尋常科二年受持の代用教員で、月給は大枚金八圓也、毎月正に難有頂戴して居る。それに受持以外に課外二時間宛と來ては、他目には勞力に伴はない報酬、否、報酬に伴はない勞力とも見えやうが、自分は露聊かこれに不平は抱いて居ない。何故なれば、この課外教授といふのは、自分が抑々生れて初めて教鞭をとつて、此校の職員室に末席を涜すやうになつての一週間目、生徒の希望を容れて、といふよりは寧ろ自分の方が生徒以上に希望して開いたので、初等の英語と外國歴史の大體とを一時間宛とは表面だけの事、實際は、自分の有つて居る一切の知識、(知識といつても無論貧少なものであるが、自分は、然し、自ら日本一の代用教員を以て任じて居る。)一切の不平、一切の經驗、一切の思想――つまり一切の精神が、この二時間のうちに、機を覗ひ時を待つて、吾が舌端より火箭となつて迸しる。的なきに箭を放つのではない。男といはず女といはず、既に十三、十四、十五、十六、といふ年齡の五十幾人のうら若い胸、それが乃ち火を待つばかりに紅血の油を盛つた青春の火盞ではないか。火箭が飛ぶ、火が油に移る、嗚呼そのハッ〳〵と燃え初むる人生の烽火の煙の香ひ! 英語が話せれば世界中何處へでも行くに不便はない。ただこの平凡な一句でも自分には百萬の火箭を放つべき堅固な弦だ。昔希臘といふ國があつた。基督が磔刑にされた。人は生れた時何物をも持つて居ないが精神だけは持つて居る。羅馬は一都府の名で、また昔は世界の名であつた。ルーソーは歐羅巴中に響く喇叭を吹いた。コルシカ島はナポレオンの生れた處だ。バイロンといふ人があつた。トルストイは生きて居る。ゴルキーが以前放浪者で、今肺病患者である。露西亞は日本より豪い。我々はまだ年が若い。血のない人間は何處に居るか。……ああ、一切の問題が皆火の種だ。自分も火だ。五十幾つの胸にも火事が始まる。四間に五間の教場は宛然熱火の洪水だ。自分の骨露はに痩せた拳が礑と卓子を打つ。と、躍り上るものがある、手を振るものがある。萬歳と叫ぶものがある。完たく一種の暴動だ。自分の眼瞼から感激の涙が一滴溢れるや最後、其處にも此處にも聲を擧げて泣く者、上氣して顏が火と燃え、聲も得出さで革命の神の石像の樣に突立つ者、さながら之れ一幅生命反亂の活畫圖が現はれる。涙は水ではない、心の幹をしぼつた樹脂である、油である。火が愈々燃え擴がる許りだ。『千九百○六年……此年○月○日、S――村尋常高等小學校内の一教場に暴動起る』と後世の世界史が、よしや記さぬまでも、この一場の恐るべき光景は、自分並びに五十幾人のジャコビン黨の胸板には、恐らく「時」の破壞の激浪も消し難き永久不磨の金字で描かれるであらう。疑ひもなく此二時間は、自分が一日二十四時間千四百四十分の内、最も得意な、愉快な、幸福な時間で、大方自分が日々この學校の門を出入する意義も、全くこの課外教授がある爲めであるらしい。然し乍ら此日六月三十日、完全なる『教育』の模型として、既に十幾年の間身を教育勅語の御前に捧げ、口に忠信孝悌の語を繰返す事正に一千萬遍、其思想や穩健にして中正、其風采や質樸無難にして具さに平凡の極致に達し、平和を愛し温順を尚ぶの美徳餘つて、妻君の尻の下に布かるゝをも敢て恥辱とせざる程の忍耐力あり、現に今このS――村に於ては、毎月十八圓といふ村内最高額の俸給を受け給ふ――田島校長閣下の一言によつて、自分は不本意乍ら其授業を休み、間接には馬鈴薯に目鼻よろしくといふマダム田島の御機嫌をとつた事になる不面目を施し、退いて職員室の一隅に、兒童出席簿と睨み合をし乍ら算盤の珠をさしたり減いたり、過去一ヶ月間に於ける兒童各自の出缺席から、其總數、其歩合を計算して、明日は痩犬の樣な俗吏の手に渡さるべき所謂月表なるものを作らねばならぬ。それのみなら未だしも、成績の調査、缺席の事由、食料携帶の状況、學用品供給の模樣など、名目は立派でも殆んど無意義な仕事が少なからずあるのである。茲に於て自分は感じた、地獄極樂は決して宗教家の方便ではない、實際我等の此の世界に現存して居るものである、と。さうだ、この日の自分は明らかに校長閣下の一言によつて、極樂へ行く途中から、正確なるべき時間迄が娑婆の時計と一時間も相違のある此の蒸し熱き地獄に墮されたのである。算盤の珠のパチ〳〵〳〵といふ音、これが乃ち取りも直さず、中世紀末の大冒險家、地極煉獄天國の三界を跨にかけたダンテ・アリギエリでさへ、聞いては流石に膽を冷した『パペ、サタン、パペ、サタン、アレッペ』といふ奈落の底の聲ではないか。自分は實際、この計算と來ると、吝嗇な金持の爺が己の財産を勘定して見る時の樣に、ニコ〳〵ものでは兎ても行れないのである。極樂から地獄! この永劫の宣告を下したものは誰か、抑々誰か。曰く、校長だ。自分は此日程此校長の顏に表れて居る醜惡と缺點とを精密に見極めた事はない。第一に其鼻下の八字髯が極めて光澤が無い、これは其人物に一分一厘の活氣もない證據だ。そして其髯が鰻のそれの如く兩端遙かに頥の方面に垂下して居る、恐らく向上といふ事を忘却した精神の象徴はこれであらう。亡國の髯だ、朝鮮人と昔の漢學の先生と今の學校教師にのみあるべき髯だ、黒子が總計三箇ある、就中大きいのが左の目の下に不吉の星の如く、如何にも目障りだ。これは俗に泣黒子と云つて、幸にも自分の一族、乃至は平生畏敬して居る人々の顏立には、ついぞ見當らぬ道具である。宜なる哉、この男、どうせ將來好い目に逢ふ氣づかひが無いのだもの。……數へ來れば幾等もあるが、結句、田島校長=0という結論に歸着した。詰り、一毫の微と雖ども自分の氣に合ふ點がなかつたのである。  この不法なるクーデターの顛末が、自分の口から、生徒控處の一隅で、殘りなく我がジャコビン黨全員の耳に達せられた時、一團の暗雲あつて忽ちに五十幾個の若々しき天眞の顏を覆うた。樂園の光明門を閉ざす鉛色の雲霧である。明らかに彼等は、自分と同じ不快、不平を一喫したのである。無論自分は、かの妻君の頭痛一件まで持ち出したのではない、が、自分の言葉の終るや否や、或者はドンと一つ床を蹴つて一喝した、『校長馬鹿ツ。』更に他の聲が續いた、『鰻ツ。』『蒲燒にするぞツ。』最後に『チェースト』と極めて陳腐な奇聲を放つて相和した奴もあつた。自分は一盻の微笑を彼等に注ぎかけて、靜かに歩みを地獄の門に向けた。軈て十五歩も歩んだ時、急に後の騷ぎが止んだ、と思ふと、『ワン、ツー、スリー、泥鰻――』と、校舍も爲めに動く許りの鬨の聲、中には絹裂く樣な鋭どい女生徒の聲も確かに交つて居る。餘りの事に振向いて見た、が、此時は既に此等革命の健兒の半數以上は生徒昇降口から風に狂ふ木の葉の如く戸外へ飛び出した所であつた。恐らく今日も門前に遊んで居る校長の子供の小さい頭には、時ならぬ拳の雨の降つた事であらう。然し控處にはまだ空しく歸りかねて殘つた者がある。機會を見計つて自分に何か特にお話を請求しようといふ執心の輩、髮長き兒も二人三人見える、――總て十一二人。小使の次男なのと、女教師の下宿して居る家の兒と、(共に其縁故によつて、校長閣下から多少大目に見られて居る)この二人は自分の跡から尾いて來たまゝ、先刻からこの地獄の入口に門番の如く立つて、中の樣子を看守して居る。  入口といふのは、紙の破れた障子二枚によつて此室と生徒控處とを區別したもので、校門から眞直の玄關を上ると、すぐ左である。この入口から、我が當面の地獄、――天井の極く低い、十疊敷位の、汚點だらけな壁も、古風な小形の窓も、年代の故で歪んだ皮椅子も皆一種人生の倦怠を表はして居る職員室に這入ると、向つて凹字形に都合四脚の卓子が置かれてある。突當りの並んだ二脚の、右が校長閣下の席で、左は檢定試驗上りの古手の首座訓導、校長の傍が自分で、向ひ合つての一脚が女教師のである。吾校の職員と云へば唯この四人だけ、自分が其内最も末席なは云ふ迄もない。よし百人の職員があるにしても代用教員は常に末席を仰せ付かる性質のものであるのだ。御規則とは隨分陳腐な洒落である。サテ、自分の後は直ちに障子一重で宿直室になつて居る。  此職員室の、女教師の背なる壁の掛時計が懶うげなる悲鳴をあげて午後三時を報じた時、其時四人の職員は皆各自の卓子に相割據して居た。――卓子は互に密接して居るものの、此時の状態は確かに一の割據時代を現出して居たので。――二三十分も續いた『パペ、サタン、アレッペ』といふ苦しげなる聲は、三四分前に至つて、足音に驚いて卒かに啼き止む小田の蛙の歌の如く、礑と許り止んだ。と同時に、(老いたる尊とき導師は震なくダンテの手をひいて、更に他の修羅圈内に進んだのであらう。)新らしき一陣の殺氣颯と面を打つて、別箇の光景をこの室内に描き出したのである。  詳しく説明すれば、實に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不圖した轉機から思附いて、このS――村小學校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた樣な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時、自分が呱々の聲をあげて以來二十一年、實際初めてゞあるに關らず、恥かし乍ら自白すると、出來上つたのを聲の透る我が妻に歌はせて聞いた時の感じでは、少々巧い、と思はれた。今でもさう思つて居るが……。妻からも賞められた。その夜遊びに來た二三の生徒に、自分でヰオリンを彈き乍ら教へたら、矢張賞めてくれた、然も非常に面白い、これからは毎日歌ひますと云つて。歌詞は六行一聯の六聯で、曲の方はハ調四分の二拍子、それが最後の二行が四分の三拍子に變る。斯う變るので一段と面白いのですよ、と我が妻は云ふ。イヤ、それはそれとして、兎も角も自分はこれに就いて一點疚しい處のないのは明白な事實だ。作歌作曲は決して盜人、僞善者、乃至一切破廉恥漢の行爲と同一視さるべきではない。マサカ代用教員如きに作曲などをする資格がないといふ規定もない筈だ。して見ると、自分は不相變正々堂々たるものである、俯仰して天地に恥づる所なき大丈夫である。所が、豈曷んぞ圖らんや、この堂々として赤裸々たる處が却つて敵をして矢を放たしむる的となつた所以であつたのだ。ト何も大袈裟に云ふ必要もないが、其歌を自分の教へてやつた生徒は其夜僅か三人(名前も明らかに記憶して居る)に過ぎなかつたが、何んでもジャコビン黨員の胸には皆同じ色――若き生命の淺緑と湧き立つ春の泉の血の色との火が燃えて居て、脣が皆一樣に乾いて居る爲めに野火の移りの早かつたものか、一日二日と見る〳〵うちに傳唱されて、今日は早や、多少調子の違つた處のないでもないが、高等科生徒の殆んど三分の二、イヤ五分の四迄は確かに知つて居る。晝休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一蛇のポロテージ行進が始つて居た。彼是百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである。然し何も自分の作つたものが大勢に歌はれたからと云つて、決して恥でもない、罪でもない、寧ろ愉快なものだ、得意なものだ。現に其行進を見た時は、自分も何だか氣が浮立つて、身體中何處か斯う擽られる樣で、僅か五分間許りではあるが、自分も其行進列中の一人と迄なつて見た位である。……問題の鍵は以後である。  午後三時前三――四分、今迄矢張り不器用な指を算盤の上に躍らせて、『パペ、サタン、パペ、サタン』を繰返して居た校長田島金藏氏は、今しも出席簿の方の計算を終つたと見えて、やをら頭を擡げて煙管を手に持つた。ポンと卓子の縁を敲く、トタンに、何とも名状し難い、狸の難産の樣な、水道の栓から草鞋でも飛び出しさうな、――も少し適切に云ふと、隣家の豚が夏の眞中に感冒をひいた樣な奇響――敢て、響といふ――が、恐らく仔細に分析して見たら出損なつた咳の一種でゞもあらうか、彼の巨大なる喉佛の邊から鳴つた。次いで復幽かなのが一つ。もうこれ丈けかと思ひ乍ら自分は此時算盤の上に現はれた八四・七九という數を月表の出席歩合男の部へ記入しようと、筆の穗を一寸噛んだ。此刹那、沈痛なる事晝寢の夢の中で去年死んだ黒猫の幽靈の出た樣な聲あつて、 『新田さん。』 と呼んだ。校長閣下の御聲掛りである。  自分はヒョイと顏を上げた。と同時に、他の二人――首座と女教師も顏を上げた。此一瞬からである、『パペ、サタン、パペ、サタン、アレッペ』の聲の礑と許り聞えずなつたのは。女教師は默つて校長の顏を見て居る。首席訓導はグイと身體をもぢつて、煙草を吸ふ準備をする。何か心に待構へて居るらしい。然り、この僅か三秒の沈默の後には、近頃珍らしい嵐が吹き出したのだもの。 『新田さん。』と校長は再び自分を呼んだ。餘程嚴格な態度を裝うて居るらしい。然しお氣の毒な事には、平凡と醜惡とを「教育者」といふ型に入れて鑄出した此人相には、最早他の何等の表情をも容るべき空虚がないのである。誠に完全な「無意義」である。若し強いて嚴格な態度でも裝はうとするや最後、其結果は唯對手をして一種の滑稽と輕量な憐愍の情とを起させる丈だ。然し當人は無論一切御存じなし、破鐘の欠伸する樣な訥辯は一歩を進めた。『貴男に少しお聞き申したい事がありますがナ。エート、生命の森の……。何でしたつけナ、初の句は?(と首座訓導を見る、首座は、甚だ迷惑といふ風で默つて下を見た。)ウン、左樣々々、春まだ淺く月若き、生命の森の夜の香に、あくがれ出でて、……とかいふアノ唱歌ですて。アレは、新田さん、貴男が祕かに作つて生徒に歌はせたのだと云ふ事ですが、眞實ですか。』 『嘘です。歌も曲も私の作つたには相違ありませぬが、祕かに作つたといふのは嘘です。蔭仕事は嫌ひですからナ』 『デモさういふ事でしたつけね、古山さん先刻の御話では。』と再び隣席の首座訓導を顧みる。  古山の顏には、またしても迷惑の雲が懸つた。矢張り默つた儘で、一閃の偸視を自分に注いで、煙を鼻からフウと出す。  此光景を目撃して、ハヽア、然うだ、と自分は早や一切を直覺した。かの正々堂々赤裸々として俯仰天地に恥づるなき我が歌に就いて、今自分に持ち出さんとして居る抗議は、蓋し泥鰻金藏閣下一人の頭腦から割出したものではない。完たく古山と合議の結果だ。或は古山の方が當の發頭人であるかも知れない。イヤ然うあるべきだ、この校長一人丈けでは、如何して這麽元氣の出る筈が無いのだもの。一體この古山といふのは、此村土着の者であるから、既に十年の餘も斯うして此學校に居る事が出來たのだ。四十の坂を越して矢張五年前と同じく十三圓で滿足して居るのでも、意氣地のない奴だといふ事が解る。夫婦喧嘩で有名な男で、(此點は校長に比して稍々温順の美徳を缺いて居る。)話題と云へば、何日でも酒と、若い時の經驗談とやらの女話、それにモ一つは釣道樂、と之れだけである。最もこの釣道樂だけは、この村で屈指なもので、既に名人の域に入つて居ると自身も信じ人も許して居る。隨つて主義も主張もない、(昔から釣の名人になるやうな男は主義も主張も持つてないと相場が極つて居る。)隨つて當年二十一歳の自分と話が合はない。自分から云はせると、校長と謂ひ此男と謂ひ、營養不足で天然に立枯になつた朴の木の樣なもので、松なら枯れても枝振といふ事もあるが、何の風情もない。彼等と自分とは、毎日吸ふ煙草までが違つて居る。彼等の吸ふのは枯れた橡の葉の粉だ、辛くもないが甘くもない、香もない。自分のは、五匁三錢の安物かも知れないが、兎に角正眞正銘の煙草である。香の強い、辛い所に甘い所のある、眞の活々した人生の煙だ。リリーを一本吸うたら目が𢌞つて來ましたつけ、と何日か古山の云うたのは、蓋し實際であらう。斯くの如くして、自分は常に職員室の異分子である。繼ツ子である、平和の攪亂者と目されて居る。若し此小天地の中に自分の話相手になる人を求むれば、それは實に女教師一人のみだ。芳紀やゝ過ぎて今年正に二十四歳、自分には三歳の姉である。それが未だ、獨身で熱心なクリスチァンで、讃美歌が上手で、新教育を享けて居て、思想が先づ健全で、顏は? 顏は毎日見て居るから別段目にも立たないが、頬は桃色で、髮は赤い、目は年に似はず若々しいが、時々判斷力が閃めく、尋常科一年の受持であるが、誠に善良なナースである。で、大抵自分の云ふ事が解る。理のある所には屹度同情する。然し流石に女で、それに稍々思慮が有過ぎる傾があるので、今日の樣な場合には、敢て一言も口を出さない。が、其眼球の輕微なる運動は既に十分自分の味方であることを語つて居る。況んや、現に先刻この女が、自分の作つた歌を誰から聞いたものか、低聲に歌つて居たのを、確かに自分は聽いたのだもの。  さて、自分は此處で、かの歌の如何にして作られ、如何にして傳唱されたかを、詳らかに説明した。そして、最後の言葉が自分の脣から出て、校長と首座と女教師と三人六箇の耳に達した時、其時、カーン、カーン、カーン、と掛時計が、懶氣に叫んだのである。突然『アーア』といふ聲が、自分の後、障子の中から起つた。恐らく頭痛で弱つて居るマダム馬鈴薯が、何日もの如く三歳になる女の兒の帶に一條の紐を結び、其一端を自身の足に繋いで、危い處へやらぬ樣にし、切爐の側に寢そべつて居たのが、今時計の音に眞晝の夢を覺されたのであらう。『アーア』と又聞えた。  三秒、五秒、十秒、と恐ろしい沈默が續いた。四人の職員は皆各自の卓子に割據して居た。この沈默を破つた一番鎗は古山朴の木である。 『其歌は校長さんの御認可を得たのですか。』 『イヤ、決して、斷じて、許可を下した覺えはありませぬ。』と校長は自分の代りに答へて呉れる。  自分はケロリとして煙管を啣へ乍ら、幽かな微笑を女教師の方に向いて洩した。古山もまた煙草を吸ひ始める。  校長は、と見ると、何時の間にか赤くなつて、鼻の上から水蒸氣が立つて居る。『どうも、餘りと云へば自由が過ぎる。新田さんは、それあ新教育も享けてお出でだらうが、どうもその、少々身勝手が過ぎるといふもんで……。』 『さうですか。』 『さうですかツて、それを解らぬ筈はない。一體その、エート、確か本年四月の四日の日だつたと思ふが、私が郡視學さんの平野先生へ御機嫌伺ひに出た時でした。さう、確かに其時です。新田さんの事は郡視學さんからお話があつたもんだで、遂私も新田さんを此學校に入れた次第で、郡視學さんの手前もあり、今迄は隨分私の方で遠慮もし、寛裕にも見て置いた譯であるが、然し、さう身勝手が過ぎると、私も一校の司配を預かる校長として、』と句を切つて、一寸反り返る。此機を逸さず自分は云つた。 『どうぞ御遠慮なく。』 『不埓だ。校長を屁とも思つて居らぬ。』  この聲は少し高かつた。握つた拳で卓子をドンと打つ、驚いた樣に算盤が床へ落ちて、けたゝましい音を立てた。自分は今迄校長の斯う活氣のある事を知らなかつた。或は自白する如く、今日迄は郡視學の手前遠慮して居たかも知れない。然し彼の云ふ處は實際だ。自分は實際此校長位は屁とも思つて居ないのだもの。この時、後の障子に、サと物音がした。マダム馬鈴薯が這ひ出して來て、樣子如何にと耳を濟まして居るらしい。 『只今伺つて居りました處では、』と白ツぱくれて古山が口を出した、『どうもこれは校長さんの方に理がある樣に、私には思はれますので、然し新田さんも別段お惡い處もない、唯その校歌を自分勝手に作つて、自分勝手に生徒に教へたといふ、つまり、順序を踏まなかつた點が、大に、イヤ、多少間違つて居るのでは有るまいかと、私には思はれます。』 『此學校に校歌といふものがあるのですか。』 『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』 『今では?』  今度は校長が答へた。『現にさう云ふ貴君が作つたではないか。』 『問題は其處ですて。私には順序……』  皆まで云はさず自分は手をあげて古山を制した。 『問題も何も無いぢやないですか。既に私の作つたアレを、貴男方が校歌だと云つてるぢやありませぬか。私はこのS――村尋常高等小學校の校歌を作つた覺えはありませぬ。私はたゞ、この學校の生徒が日夕吟誦しても差支のない樣な、校歌といふやうな性質のものを試みに作つた丈です。それを貴君方が校歌というて居られる。詰り、校歌としてお認め下さるのですな。そこで生徒が皆それを、其校歌を歌ふ。問題も何も有つた話ぢやありますまい。此位天下泰平な事はないでせう。』  校長と古山は顏を見合せる。女教師の目には滿足した樣な微笑が浮んだ。入口の處には二人の立番の外に、新らしく來たのがある。後の障子が颯と開いて、腰の邊に細い紐を卷いたなり、帶も締めず、垢臭い木綿の細かい縞の袷をダラシなく着、胸は露はに、抱いた子に乳房啣せ乍ら、靜々と立現れた化生の者がある。マダム馬鈴薯の御入來だ。袷には黒く汗光りのする繻子の半襟がかゝつてある。如何考へても、決して餘り有難くない御風體である。針の樣に鋭どく釣上つた眼尻から、チョと自分を睨んで、校長の直ぐ傍に突立つた。若しも、地獄の底で、白髮茨の如き痩せさらぼひたる斃死の状の人が、吾兒の骨を諸手に握つて、キリ〳〵〳〵と噛む音を、現實の世界で目に見る或形にしたら、恐らくそれは此女の自分を一睨した時の目付それであらう。此目付で朝な夕な胸を刺されたる校長閣下の心事も亦、考へれば諒とすべき點のないでもない。  生ける女神――貧乏の?――は、石像の如く無言で突立つた。やがて電光の如き變化が此室内に起つた。校長は今迄忘れて居た嚴格の態度を再び裝はんとするものの如く、其顏面筋肉の二三ヶ所に、或る運動を與へた。援軍の到來と共に、勇氣を回復したのか、恐怖を感じたのか、それは解らぬが、兎に角或る激しき衝動を心に受けたのであらう。古山も面を上げた。然し、もうダメである。攻勢守勢既に其地を代へた後であるのだもの。自分は敵勢の加はれるに却つて一層勝誇つた樣な感じがした。女教師は、女神を一目見るや否や、譬へ難き不快の霧に清い胸を閉されたと見えて、忽ちに俯いた。見れば、恥辱を感じたのか、氣の毒と思つたのか、それとも怒つたのか、耳の根迄紅くなつて、鉛筆の尖でコツ〳〵と卓子を啄いて居る。  古山が先づ口を切つた。『然し、物には總て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛びに陸軍大將にも成れぬ譯ですて。』成程古今無類の卓説である。  校長が續いた。『其正當の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものであつても未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序を考へぬとは、餘りといへば餘りな事だ。』  云ひ終つて堅く口を閉ぢる。氣の毒な事に其への字が餘り恰好がよくないので。  女神の視線が氷の矢の如く自分の顏に注がれた。返答如何にと促がすのであらう。トタンに、無雜作に、といふよりは寧ろ、無作法に束ねられた髮から、櫛が辷り落ちた。敢て拾はうともしない。自分は笑ひながら云うた。 『折角順序々々と云ふお言葉ですが、一體何ういふ順序があるのですか。恥かしい話ですが、私は一向存じませぬので。……若し其校歌採用の件とかの順序を知らない爲めに、他日誤つて何處かの校長にでもなつた時、失策する樣な事があつても大變ですから、今教へて頂く譯に行きませぬでせうか。』  校長は苦り切つて答へた。『順序と云つても別に面倒な事はない。第一に(と力を入れて)校長が認定して、可いと思へば、郡視學さんの方へ屆けるので、それで、ウム、その唱歌が學校生徒に歌はせて差支へない、と云ふ認可が下りると、初めて校歌になるのです。』 『ハヽア、それで何ですな、私の作つたのは、其正當の順序とかいふ手數にかけなかつたので、詰り、早解りの所が、落第なんですな。結構です。作者の身に取つては、校歌に採用されると、されないとは、完く屁の樣な問題で、唯自分の作つた歌が生徒皆に歌はれるといふ丈けで、もう名譽は十分なんです。ハヽヽヽヽ。これなら別に論はないでせう。』 『然し、』と古山が繰り出す。此男然しが十八番だ。『その學校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一應其歌の意味でも話すとか、或は出來上つてから見せるとかしたら隱便で可いと、マア思はれるのですが。』 『のみならず、學校の教案などは形式的で記す必要がないなどと云つて居て、宅へ歸ればすぐ小説なぞを書くんださうだ。それで教育者の一人とは呆れる外はない。實に、どうも……。然し、これはマア別の話だが。新田さん、學校には、畏くも文部大臣からのお達しで定められた教授細目といふのがありますぞ。算術、國語、地理、歴史は勿論の事、唱歌、裁縫の如きでさへ、チヤンと細目が出來て居ます。私共長年教育の事業に從事した者が見ますと、現今の細目は實に立派なもので、精に入り微を穿つとでも云ひませうか。彼是十何年も前の事ですが、私共がまだ師範學校で勉強して居た時分、其の頃で早や四十五圓も取つて居た小原銀太郎と云ふ有名な助教諭先生の監督で、小學校教授細目を編んだ事がありますが、其時のと今のと比較して見るに、イヤ實にお話にならぬ、冷汗です。で、その、正眞の教育者といふものは、其完全無缺な規定の細目を守つて、一毫亂れざる底に授業を進めて行かなければならない、若しさもなければ、小にしては其教へる生徒の父兄、また月給を支拂つてくれる村役場にも甚だ濟まない譯、大にしては我々が大日本の教育を亂すといふ罪にも坐する次第で、完たく此處の所が、我々教育者にとつて最も大切な點であらうと私などは、既に十年の餘も、――此處へ來てからは、まだ四年と三ヶ月にしか成らぬが、――努力精勵して居るのです。尤も、細目に無いものは一切教へてはならぬといふのではない。そこはその、先刻から古山さんも頻りに主張して居られる通り、物には順序がある。順序を踏んで認可を得た上なれば、無論教へても差支へがない。若しさうでなくば、只今諄々と申した樣な仕儀になり、且つ私も校長を拜命して居る以上は、私に迄責任が及んで來るかも知れないのです。それでは、何うもお互に迷惑だ。のみならず吾校の面目をも傷ける樣になる。』 『大變な事になるんですね。』と自分は極めて洒々たるものである。尤も此お説法中は、時々失笑を禁じえなんだので、それを噛み殺すに少からず骨を折つたが。『それでつまり私の作つた歌が其完全無缺なる教授細目に載つて居ないのでせう。』 『無論ある筈がないでサア。』と古山。 『ない筈ですよ。二三日前に作つた許りですもの。アハヽヽヽ。先刻からのお話は、結局あの歌を生徒に歌はせては不可ん、といふ極く明瞭な一事に歸着するんですね。色々の順序の枝だの細目の葉だのを切つて了つて、肝膽を披瀝した所が、さうでせう。』  これには返事が無い。 『其細目といふ矢釜敷お爺さんに、代用教員は教壇以外にて一切生徒に教ふべからず、といふ事か、さもなくんば、學校以外で生徒を教へる事の細目とかいふものが、ありますか。』 『細目にそんな馬鹿な事があるものか。』と校長は怒つた。 『それなら安心です。』 『何が安心だ。』 『だつて、さうでせう。先刻詳しくお話した通り、私があの歌を教へたのは、二三日前、乃ちあれの出來上つた日の夜に、私の宅に遊びに來た生徒只の三人だけなのですから、何も私が細目のお爺さんにお目玉を頂戴する筈はないでせう。若しあの歌に、何か危險な思想でも入れてあるとか、又は生徒の口にすべからざる語でもあるなら格別ですが、……。イヤ餘程心配しましたが、これで青天白日漸々無罪に成りました。』  全勝の花冠は我が頭上に在焉。敵は見ン事鐵嶺以北に退却した。劍折れ、馬斃れ、彈丸盡きて、戰の續けられる道理は昔からないのだ。 『私も昨日、あれを書いたのを榮さん(生徒の名)から借りて寫したんですよ。私なんぞは何も解りませんけれども、大層もう結構なお作だと思ひまして、實は明日唱歌の時間にはあれを教へようと思つたんでしたよ。』  これは勝誇つた自分の胸に、發矢と許り投げられた美しい光榮の花環であつた。女教師が初めて口を開いたのである。       二  此時、校長田島金藏氏は、感極まつて殆んど落涙に及ばんとした。初めは怨めしさうに女教師の顏を見てゐたが、フイと首を𢌞らして、側に立つ垢臭い女神、頭痛の化生、繻子の半襟をかけたマダム馬鈴薯を仰いだ。平常は死んだ源五郎鮒の目の樣に鈍い目も、此時だけは激戰の火花の影を猶留めて、極度の恐縮と嘆願の情にやゝ濕みを持つて居る。世にも弱き夫が渾身の愛情を捧げて妻が一顧の哀憐を買はむとするの圖は正に之である。然し大理石に泥を塗つたやうな女神の面は微塵も動かなんだ。そして、唯一聲、『フン、』と云つた。噫世に誰か此フンの意味の能く解る人があらう。やがて身を屈めて、落ちて居た櫛を拾ふ。抱いて居る兒はまだ乳房を放さない。隨分強慾な兒だ。  古山は、野卑な目付に憤怒の色を湛へて自分を凝視して居る。水の面の白い浮標の、今沈むかと氣が氣でない時も斯うであらう。我が敬慕に値する善良なる女教師山本孝子女史は、いつの間にかまた、パペ、サタン、を初めて居る。  入口を見ると、三分刈のクリ〳〵頭が四つ、朱鷺色のリボンを結んだのが二つ並んで居た。自分が振り向いた時、いづれも嫣然とした。中に一人、女教師の下宿してる家の榮さんといふのが、大きい眼をパチ〳〵とさせて、一種の暗號祝電を自分に送つて呉れた。珍らしい悧巧な少年である。自分も返電を行つた。今度は六人の眼が皆一度にパチ〳〵とする。  不意に、若々しい、勇ましい合唱の聲が聞えた。二階の方からである。 春まだ淺く月若き 生命の森の夜の香に あくがれ出でて我が魂の 夢むともなく夢むれば……  あゝ此歌である、日露開戰の原因となつたは。自分は颯と電氣にでも打たれた樣に感じた。同時に梯子段を踏む騷々しい響がして、聲は一寸亂れる。降りて來るな、と思ふと早や姿が現はれた。一隊五人の健兒、先頭に立つたのは了輔と云つて村長の長男、背こそ高くないが校内第一の腕白者、成績も亦優等で、ジャコビン黨の内でも最も急進的な、謂はば爆彈派の首領である。多分二階に人を避けて、今日課外を休まされた復讐の祕密會議でも開いたのであらう。あの元氣で見ると、既に成算胸にあるらしい。願くば復以前の樣に、深夜宿直室へ礫の雨を注ぐ樣な亂暴はしてくれねばよいが。  一隊の健兒は、春の曉の鐘の樣な冴え〴〵した聲を張り上げて歌ひつゞけ乍ら、勇ましい歩調で、先づ廣い控處の中央に大きい圓を描いた。と見ると、今度は我が職員室を目蒐けて堂々と練つて來るのである。 「自主」の劍を右手に持ち、 左手に翳す「愛」の旗、 「自由」の駒に跨がりて 進む理想の路すがら、 今宵生命の森の蔭 水のほとりに宿かりぬ。 そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標、 音なき河は千載に 香る名をこそ流すらむ。 此處は何處と我問へば、 汝が故郷と月答ふ。 勇める駒の嘶くと 思へば夢はふと覺めぬ。 白羽の甲銀の楯 皆消えはてぬ、さはあれど ここに消えざる身ぞ一人 理想の路に佇みぬ。 雪をいただく岩手山 名さへ優しき姫神の 山の間を流れゆく 千古の水の北上に 心を洗ひ…… と此處まで歌つたときは、恰度職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ處である。歌は止んだ。此數分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つてゐたのである。――然も心の聲のあらん限りをしぼつて。  不圖氣がつくと、世界滅盡の大活劇が一秒の後に迫つて來たかと見えた。校長の顏は盛んな山火事だ。そして目に見ゆる程ブル〳〵と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて飢饉に逢つた仁王樣の樣に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い靜脈が顏一杯に脹れ出して居る。  榮さんは了輔の耳に口を寄せて、何か囁いて居る。了輔は目を象の鼻穴程に睜つて熱心に聞いて居る。どちらかと云へば生來太い方の聲なので、返事をするのが自分にも聞える。 『……ナニ、此歌を?……ウム……勝つたか、ウム、然うさ、然うとも、見たかつたナ……飮まないつて、酒を?……然し赤いな、赤鰻ツ。』  最後の聲が稍高かつた。古山は激しい聲で、 『校長さん。』 と叫んだ。校長は立つた。轉機で椅子が後に倒れた。妻君は未だ動かないで居る。然し其顏の物凄い事。 『彼方へ行け。』 『彼方へお出なさい。』  自分と女教師とは同時に斯う云つて、手を動かし、目で知らせた。了輔の目と自分の目と合つた。自分は目で強く壓した。  了輔は遂に驅け出した。 そびゆる山は英傑の 跡を弔ふ墓標、 と歌ひ乍ら。他の兒等も皆彼の跡を追うた。 『勝つた先生萬歳』 と鬨の聲が聞える。五六人の聲だ。中に、量のある了輔の聲と、榮さんのソプラノなのが際立つて響く。  自分の目と女教師の目と礑と空中で行き合つた。その目には非常な感激が溢れて居る。無論自分に不利益な感激でない事は、其光り樣で解る。――恰も此時、  恰も此時、玄關で人の聲がした。何か云ひ爭うて居るらしい。然し初めは、自分も激して居る故か、確とは聞き取れなかつた。一人は小使の聲である。一人は? どうも前代未聞の聲の樣だ。 『……何云つたつて、乞食は矢ツ張乞食だんべい。今も云ふ通り、學校はハア、乞食などの來る所でねエだよ。校長さアが何日も云ふとるだ、癖がつくだで乞食が來たら、何ねエな奴でも追拂つてしまへツて。さツさと行かつしやれ、お互に無駄な暇取るだアよ。』と小使の聲。  凛とした張のある若い男の聲が答へる。『それア僕は乞食には乞食だ、が、普通の乞食とは少々格が違ふ。ナニ、強請だんべいツて? ヨシ〳〵、何でも可いから、兎に角其手紙を新田といふ人に見せてくれ。居るツて今云つたぢやないか。新田白牛といふ人だ。』  ハテナ、と自分は思ふ。小使がまた云ふ。 『新田耕助先生ちう若けエ人なら居るだが、はくぎうなんて可笑しな奴ア一人だつて居ねエだよ。耕助先生にア乞食に親類もあんめエ。間違エだよ。コレア人違エだんべエ。之エ返しますだよ。』 『困つた人だね、僕は君には些とも用はないんだ。新田といふ人に逢ひさへすれば可い。たゞ新田君に逢へば滿足だ、本望だ。解つたか、君。……お願ひだから其手紙を、ね、頼む。……これでも不可といふなら、僕は自分で上つて行つて、尋ねる人に逢ふ迄サ。』  自分は此時、立つて行つて見ようかと思つた。が、何故か敢へて立たなかつた。立派な美しい、堂々たる、廣い胸の底から滯りなく出る樣な聲に完たく醉はされたのであらう。自分は、何故といふ事もなく、時々寫眞版で見た、子供を抱いたナポレオンの顏を思出した。そして、今玄關に立つて自分の名を呼んで逢ひたいと云つて居る人が、屹度其ナポレオンに似た人に相違ないと思つた。 『そ、そねエ事して、何うなるだアよ。俺ハア校長さアに叱られ申すだ。ぢやア、マア待つて居さつしやい。兎に角此手紙丈けはあの先生に見せて來るだアから。……人違エにやきまつてるだア。俺これ迄十六年も此學校に居るだアに、まだ乞食から手紙見せられた先生なんざア一人だつて無エだよ。』  自分の心は今一種奇妙な感じに捉へられた。周圍を見ると、校長も古山も何時の間にか腰を掛けて居る。マダム馬鈴薯はまだ不動の姿勢をとつてゐる。女教師ももとの通り。そして四人の目は皆、何物をか期待する樣に自分に注がれて居る。其昔、大理石で疊んだ壯麗なる演戲場の棧敷から、罪なき赤手の奴隷――完たき『無力』の選手――が、暴力の權化なる巨獸、換言すれば獅子と呼ばれたる神權の帝王に對して、如何程の抵抗を試み得るものかと興ある事に眺め下した人々の目附、その目附も斯くやあつたらうと、心の中に想はるる。  村でも「佛樣」と仇名せらるる好人物の小使――忠太と名を呼べば、雨の日も風の日も、『アイ』と返事をする――が、厚い脣に何かブツ〳〵呟やき乍ら、職員室に這入つて來た。 『これ先生さアに見せて呉れ云ふ乞食が來てますだ。ハイ。』 と、變な目をしてオヅ〳〵自分を見乍ら、一通の封書を卓子に置く。そして、玄關の方角に指ざし乍ら、左の目を閉ぢ、口を歪め、ヒョットコの眞似をして見せて、 『變な奴でがす。お氣を附けさつしやい。俺、樣々斷つて見ましたが、どうしても聽かねエだ。』 と小言で囁く。  默つて封書を手に取上げた。表には、勢のよい筆太の〆が殆んど全體に書かれて、下に見覺えのある亂暴な字體で、薄墨のあやなくにじんだ『八戸ニテ、朱雲』の六字。日附はない。『ああ、朱雲からだ!』と自分は思はず聲を出す。裏を返せば『岩手縣岩手郡S――村尋常高等小學校内、新田白牛樣』と先以て眞面目な行書である。自分は或事を思ひ出した、が、兎も角もと急いで封を切る。すべての人の視線は自分の痩せた指先の、何かは知れぬ震ひに注がれて居るのであらう。不意に打出した胸太鼓、若き生命の轟きは電の如く全身の血に波動を送る。震ふ指先で引き出したのは一枚の半紙、字が大きいので、文句は無論極めて短かい。 爾來大に疎遠、失敬。  これ丈けで二行に書いてある。 石本俊吉此手紙を持つて行く。君は出來る丈けの助力を此人物に與ふべし。小生生れて初めて紹介状なるものを書いた。 六月二十五日 天野朱雲拜 新田耕サン  そして、上部の餘白へ横に (獨眼龍ダヨ。)と一句。  世にも無作法極まる亂暴な手紙と云へば、蓋し斯くの如きものの謂であらう。然も之は普通の消息ではない。人が、自己の信用の範圍に於て、或る一人を、他の未知の一人に握手せしむる際の、謂はば、神前の祭壇に讀み上ぐべき或る神聖なる儀式の告文、と云つた樣な紹介状ではないか。若し斯くの如き紹介状を享くる人が、温厚篤實にして萬中庸を尚ぶ世上の士君子、例へば我校長田島氏の如きであつたら、恐らく見もせぬうちから玄關に立つ人を前門の虎と心得て、いざ狼の立塞がぬ間にと、草履片足で裏門から逃げ出さぬとも限らない。然も此一封が、嘗てこのS――村に呱々の聲を擧げ、この學校――尤も其頃は校舍も今の半分しか無く、教師も唯の一人、無論高等科設置以前の見すぼらしい單級學校ではあつたが、――で、矢張り穩健で中正で無愛憎で、規則と順序と年末の賞與金と文部省と妻君とを、此上なく尊敬する一教育者の手から、聖代の初等教育を授けられた日本國民の一人、當年二十七歳の天野大助が書いたのだと知つたならば、抑々何の辭を以て其驚愕の意を發表するであらうか。實際これでは紹介状ドコロの話ではない。命令だ、しかも隨分亂暴な命令だ、見ず知らずの獨眼龍に出來る限りの助力をせよといふのだもの。然し乍ら、この驚くべき一文を胸轟かせて讀み終つた自分は、決して左樣は感じなんだ。敢て問ふ、世上滔々たる浮華虚禮の影が、此の手紙の隅に微塵たりとも隱れて居るか。⦅一金三兩也。馬代。くすかくさぬか、これどうぢや。くすといふならそれでよし、くさぬにつけてはたゞおかぬ。うぬがうでには骨がある。⦆といふ、昔さる自然生の三吉が書いた馬代の請求の附状が、果して大儒新井白石の言の如く千古の名文であるならば、簡にしてよく其要を得た我が畏友朱雲の紹介状も亦、正に千古の名文と謂つべしである。のみならず、斯くの如き手紙を平氣で書き、亦平氣で讀むという彼我二人の間は、眞に同心一體、肝膽相照すといふ趣きの交情でなくてはならぬ。一切の枝葉を掃ひ、一切の被服を脱ぎ、六尺似神の赤裸々を提げて、平然として目ざす城門に肉薄するのが乃ち此手紙である。此平然たる所には、實に乾坤に充滿する無限の信用と友情とが溢れて居るのだ。自分は僅か三秒か四秒の間にこの手紙を讀んだ。そして此瞬間に、躍々たる畏友の面目を感じ、其温かき信用と友情の囁きを聞いた。 『よろしい。此室へお通し申して呉れ。』 『乞食をですかツ』 と校長が怒鳴つた。 『何だつてそれア餘りですよ。新田さん。學校の職員室へ乞食なんぞを。』  斯う叫んだのは、窓の硝子もピリ〳〵とする程甲高い、幾億劫來聲を出した事のない毛蟲共が千萬疋もウヂャウヂャと集まつて雨乞の祈祷でもするかの樣な、何とも云へぬ厭な聲である。舌が無いかと思はれたマダム馬鈴薯の、突然噴火した第一聲の物凄さ。  小使忠太の團栗眼はクル〳〵〳〵と三𢌞轉した。度を失つてまだ動かない。そこで一つ威嚇の必要がある。 『お通し申せ。』 と自分は一喝を喰はした。忠太はアタフタと出て行つた、が、早速と復引き返して來た。後には一人物が隨つて居る。多分既に草鞋を解いて、玄關に上つて居つたのであらう。 『新田さん、貴君はそれで可いのですか。よ、新田さん、貴君一人の學校ではありませんよ。人ツ、代用のクセに何だと思つてるだらう。マア御覽なさい。アンナ奴。』  馬鈴薯が頻りにわめく。自分は振向きもしない。そして、今しも忠太の背から現はれむとする、「アンナ奴」と呼ばれたる音吐朗々のナポレオンに、渾身の注意を向けた。朱雲の手紙に「獨眼龍ダヨ」と頭註がついてあつたが、自分はたゞ單に、ヲートルローの大戰で誤つて一眼を失つたのだらう位に考へて、敢て其爲めに千古の眞骨頭ナポレオン・ボナパルトの颯爽たる威風が、一毫たりとも損ぜられたものとは信じなんだのである。或は却つて一段の秋霜烈日の嚴を増したのではないかと思つた。  忠太は體を横に開いて、ヒョコリと頭を下げる。や否や、逃ぐるが如く出て行つてしまつた。  天が下には隱家もなくなつて、今現身の英傑は我が目前咫尺の處に突兀として立ち給うたのである。自分も立ち上つた。  此時、自分は俄かに驚いて叫ばんとした。あはれ千載萬載一遇の此月此日此時、自分の双眼が突如として物の用に立たなくなつたのではないか。これ程劇甚な不幸は、またとこの世にあるべきでない。自分は力の限り二三度瞬いて見て、そして復力の限り目を睜つた。然しダメである。ヲートルローの大戰に誤つて流彈の爲めに一眼を失なひ、却つて一段秋霜烈日の嚴を加へた筈のナポレオン・ボナパルトは、既に長しなへに新田耕助の仰ぎ見るべからざるものとなつたのである。自分の大きく睜つた目は今、數秒の前千古の英傑の立ち止つたと思うた其同じ處に、悄然として塵塚の痩犬の如き一人物の立つて居るのを見つめて居るのだ。實に天下の奇蹟である。いかなる英傑でも死んだ跡には唯骸骨を殘すのみだといふ。シテ見れば、今自分の前に立つてゐるのは、或はナポレオンの骸骨であるのかも知れない。  よしや骸骨であるにしても、これは又サテ〳〵見すぼらしい骸骨である哩。身長五尺の上を出る事正に零寸零分、埃と垢で縞目も見えぬも木綿の袷を着て、帶にして居るのは巾狹き牛皮の胴締、裾からは白い小倉の洋袴の太いのが七八寸も出て居る。足袋は無論穿て居ない。髮は二寸も延びて、さながら丹波栗の毬を泥濘路にころがしたやう。目は? 成程獨眼龍だ。然しヲートルローで失つたのでは無論ない。恐らく生來であらう。左の方が前世に死んだ時の儘で堅く眠つて居る。右だつて完全な目ではない。何だか普通の人とは黒玉の置き所が少々違つて居るやうだ。鼻は先づ無難、口は少しく左に歪んで居る。そして頬が薄くて、血色が極めて惡い。これらの道具立の中に、獨り威張つて見える廣い額には、少なからず汗の玉が光つて居る、涼しさうにもない。その筈だ、六月三十日に袷を着ての旅人だもの。忠太がヒョットコの眞似をして見せたのも、「アンナ奴」と馬鈴薯の叫んだのも、自身の顏の見えぬ故でもあらうが、然し左程當を失して居ない樣にも思はれる。  斯う自分の感じたのは無論一轉瞬の間であつた。たとへ一轉瞬の間と雖ども、かくの如きさもしい事を、此の日本一の代用教員たる自分の胸に感じたのは、實に慚愧に堪へぬ惡徳であつたと、自分の精神に覺醒の鞭撻を與へて呉れたのは、この奇人の歪める口から迸しつた第一聲である。 『僕は石本俊吉と申します。』  あゝ、聲だけは慥かにナポレオンにしても恥かしくない聲だ。この身體の何處に貯へて置くかと怪まれる許り立派な、美しい、堂々たる、廣い胸の底から滯りなく出る樣な、男らしい凛とした聲である。一葉の牡蠣の殼にも、詩人が聞けば、遠き海洋の劫初の轟きが籠つて居るといふ。さらば此男も、身體こそ無造作に刻まれた肉魂の一斷片に過ぎぬが、人生の大殿堂を根柢から搖り動かして轟き渡る一撞萬聲の鯨鐘の聲を深く這裏に藏して居るのかも知れない。若しさうとすると、自分を慚愧すべき一瞬の惡徳から救ひ出したのは、此影うすきナポレオンの骸骨ではなくて、老ゆる事なき人生至奧の鐘の聲の事になる。さうだ、慥かにさうだ。この時自分は、その永遠無窮の聲によつて人生の大道に覺醒した。そして、畏友朱雲から千古の名文によつて紹介された石本俊吉君に、初對面の挨拶を成すべき場合に立つて居ると覺悟をきめたのである。 『僕が新田です。初めて。』 『初めて。』 と互に一揖する。 『天野君のお手紙はどうも有難う。』 『どうしまして。』  斯う言つて居る間に、自分は不圖或一種の痛快を感じた。それは、隨分手酷い反抗のあつたに不拘、飄然として風の如く此職員室に立ち現はれた人物が、五尺二寸と相場の決つた平凡人でなくて、實に優秀なる異彩を放つ所の奇男子であるといふ事だ。で、自分は、手づから一脚の椅子を石本に勸めて置いて、サテ屹となつて四邊を見た。女教師は何と感じてか凝然として此新來の客の後姿に見入つて居る。他の三人の顏色は云はずとも知れた事。自分は疑ひもなく征服者の地位に立つて居る。 『一寸御紹介します。この方は、私の兄とも思つて居る人からの紹介状を持つて、遙々訪ねて下すつた石本俊吉君です。』  何れも無言。それが愈々自分に痛快に思はれた。馬鈴薯は『チョッ』と舌打して自分を一睨したが、矢張一言もなく、すぐ又石本を睨め据ゑる。恐らく餘程石本の異彩ある態度に辟易してるのであらう。石本も亦敢て頭を下げなんだ。そして、如何に片目の彼にでも直ぐ解る筈の此不快なる光景に對して、殆んど無感覺な位極めて平氣である。どうも面白い。餘程戰場の數を踏んだ男に違ひない。荒れ狂ふ獅子の前に推し出しても、今朝喰つた飯の何杯であつたかを忘れずに居る位の勇氣と沈着をば持つて居さうにも思はれる。  得意の微笑を以て自分は席に復した。石本も腰を下した。二人の目が空中に突當る。此時自分は、對手の右の目が一種拔群の眼球を備へて居る事を發見した。無論頭腦の敏活な人、智の活力の盛んな人の目ではない。が兎に角拔群な眼球である丈けは認められる。そして其拔群な眼球が、自分を見る事決して初對面の人の如くでなく、親しげに、なつかしげに、十年の友の如く心置きなく見て居るといふ事をも悟つた。ト同時に、口の歪んで居る事も、獨眼龍な事も、ナポレオンの骸骨な事も、忠太の云つた「氣をつけさつしあい」といふ事も、悉皆胸の中から洗ひ去られた。感じ易き我が心は、利害得失の思慮を運らす暇もなく、彼の目に溢れた好意を其儘自分の胸の盃で享けたのだ。いくら浮世の辛い水を飮んだといつても、年若い者のする事は常に斯うである。思慮ある人は笑ひもしよう。笑はば笑へ、敢て關するところでない。自分は年が若いのだもの。あゝ、青春幾時かあらむ。よしや頭が禿げてもこの熱かい若々しい心情だけは何日までも持つて居たいものだと思つて居る。曷んぞ今にして早く蒸溜水の樣な心に成られるよう。自分と石本俊吉とは、逢會僅か二分間にして既に親友と成つた。自分は二十一歳、彼は、老けても見え若くも見えるが、自分よりは一歳か二歳兄であらう。何れも年が若いのだ。初對面の挨拶が濟んだ許りで、二人の目と目とが空中で突當る。此瞬間に二つの若き魂がピタリと相觸れた。親友に成る丈けの順序はこれで澤山だ。自分は彼も亦一個の快男兒であると信ずる。  然し其風采は? 噫其風采は!――自分は實際を白状すると、先刻から戰時多端の際であつたので、實は稍々心の平靜を失して居た傾がある。隨つて此の新來の客に就いても、觀察未だ到らなかつた點が無いと云へぬ。今、一脚の卓子に相對して、既に十年の友の心を以て仔細に心置きなく見るに及んで、自分は今更の如く感動した。噫々、何といふ其風采であらう。口を開けばこそ、音吐朗々として、眞に凛たる男兒の聲を成すが、斯う無音の儘で相對して見れば、自分はモウ直視するに堪へぬ樣な氣がする。噫々といふ外には、自分のうら若き友情は、他に此感じを表はすべき辭を急に見出しかねるのだ。誠に失禮な言草ではあるが、自分は先に「悄然として塵塚の痩犬の如き一人物」と云つた。然しこれではまだ恐らく比喩が適切でない。「一人物」といふよりも、寧ろ「悄然」其物が形を現はしたといふ方が當つて居るかも知れぬ。  顏の道具立は如何にも調和を失して居る、奇怪である、餘程混雜して居る。然し、其混雜して居る故かも知れぬが、何處と云つて或る一つの纒まつた印象をば刻んで居ない。若し其道具立の一つ〳〵から順々に歸納的に結論したら、却つて「悄然」と正反對な或るエックスを得るかも知れない。然し此男の悄然として居る事は事實だから仕樣がないのだ。長い汚ない頭髮、垢と塵埃に縞目もわからぬ木綿の古袷、血色の惡い痩せた顏、これらは無論其「悄然」の條件の一項一項には相違ないが、たゞ之れ丈けならば、必ずしも世に類のないでもない、實際自分も少からず遭遇した事もある。が、斯く迄極度に悄然とした風采は、二十一年今初めてである。無理な語ではあるが、若し然云ふを得べくんば、彼は唯一箇の不調和な形を具へた肉の斷片である、別に何の事はない肉の斷片に過ぎぬ、が、其斷片を遶る不可見の大氣が極度の「悄然」であるのであらう。さうだ、彼自身は何處までも彼自身である。唯其周圍の大氣が、凝固したる陰鬱と沈痛と悲慘の雲霧であるのだ。そして、これは一時的であるかも知れぬが、少なからぬ「疲勞」の憔悴が此大氣をして一層「悄然」の趣きを深くせしむる陰影を作して居る。或は又、「空腹」の影薄さも這裏に宿つて居るかも知れない。  禮を知らぬ空想の翼が電光の如くひらめく、偶然にも造花の惡戯によつて造られ、親も知らず兄弟も知らずに、蟲の啼く野の石に捨てられて、地獄の鐵の壁から傳はつてくる大地の冷氣に育くまれ、常に人生といふ都の外濠傳ひに、影の如く立ち並ぶ冬枯の柳の下を、影の如くそこはかと走り續けて來た、所謂自然生の大放浪者、大慈の神の手から直ちに野に捨てられた人肉の一斷片、――が、或は今自分の前に居る此男ではあるまいか。さうすると、かの音吐朗々たる不釣合な聲も、或日或時或機會、螽を喰ひ野蜜を甞め、駱駝の毛衣を着て野に呼ぶ豫言者の口から學び得たのかと推諒する事も出來る。又、「エイ、エイッ」と馬丁の掛聲勇ましき黒塗馬車の公道を嫌つて、常に人生の横町許り彷徨いて居る朱雲がかゝる男と相知るの必ずしも不合理でない事もうなづかれる。然し、それにしては「石本俊吉」といふ立派な紳士の樣な名が、どうも似合はない樣だ。或は又、昔は矢張慈母の乳も飮み慈父の手にも抱かれ、愛の搖籃の中に温かき日に照され清淨の月に接吻された兒が、世によくある奴の不運といふ高利貸に、親も奪はれ家も取られ、濁りなき血の汗を搾り搾られた揚句が、冷たい苔の下に落ちた青梅同樣、長しなへに空の日の光といふものを遮られ、酷薄と貧窮と恥辱と飢餓の中に、年少脆弱、然も不具の身を以て、健氣にも單身寸鐵を帶びず、眠る間もなき不斷の苦鬪を持續し來つて、肉は落ち骨は痩せた壯烈なる人生の戰士――が、乃ち此男ではあるまいか。朱雲は嘗て九圓の月俸で、かゝる人生の戰士が暫しの休息所たる某監獄に看守の職を奉じて居た事がある。して見れば此二人が必ずしも接近の端緒を得なんだとはいへない。今思ひ出す、彼は嘗て斯う云うた事がある、『監獄が惡人の巣だと考へるのは、大いに間違つて居るよ、勿體ない程間違つて居るよ。鬼であるべき筈の囚人共が、政府の官吏として月給で生き劍をブラ下げた我々看守を、却つて鬼と呼んで居る。其筈だ、眞の鬼が人間の作つた法律の網などに懸るものか。囚人には涙もある、血もある、又よく物の味も解つて居る、實に立派な戰士だ、たゞ悲しいかな、一つも武器といふものを持つて居ない。世の中で美い酒を飮んでゐる奴等は、金とか地位とか、皆それ〴〵に武器を持つて居るが、それを、その武器だけを持たなかつた許りに戰がまけて、立派な男が柿色の衣を着る。君、大臣になれば如何な現行犯をやつても、普通の巡査では手を出されぬ世の中ではないか。僕も看守だ、が、同僚と喧嘩はしても、まだ囚人の頬片に指も觸れた事がない。朝から晩まで夜叉の樣に怒鳴つて許り居る同僚もあるが、どうして此僕にそんな事が出來るものか。』  然し此想像も亦、敢て當れりとは云ひ難い。何故となれば、現に今自分を見て居るこの男の右の眼の、親しげな、なつかしげな、心置きなき和かな光が、別に理由を説明するでもないが、何だか、『左樣ではありませぬ』と主張して居る樣に見える。平生いかに眼識の明を誇つて居る自分でも、此咄嗟の間には十分精確な判斷を下す事は出來ぬ。が兎も角、我が石本君の極めて優秀なる風采と態度とは、決して平凡な一本路を終始並足で歩いて來た人でないといふ事丈けは、完全に表はして居るといつて可い。まだ一言の述懷も説明も聞かぬけれど、自分は斯う感じて無限の同情を此悄然たる人に捧げた。自分と石本君とは百分の一秒毎に、密接の度を強めるのだ。そして、旅順の大戰に足を折られ手を碎かれ、兩眼また明を失つた敗殘の軍人の、輝く金鵄勳章を胸に飾つて乳母車で通るのを見た時と同じ意味に於ての痛切なる敬意が、また此時自分の心頭に雲の如く湧いた。  茲に少し省略の筆を用ゐる。自分の問に對して、石本君が、例の音吐朗々たるナポレオン聲を以て詳しく説明して呉れた一切は、大略次の如くであつた。  石本俊吉は今八戸(青森縣三戸郡)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。兩親は仲々勉強で、何一つ間違つた事をした覺えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて來た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小學校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有に移つて、少許の田と家屋敷が殘つて居た丈けであつた。其年の秋、年上な一友と共に東京に夜逃をした。新橋へ着いた時は懷中僅かに二圓三十錢と五厘あつた丈けである。無論前途に非常な大望を抱いての事。稚ない時から不具な爲めに受けて來た恥辱が、抑ゆべからざる復讐心を起させて居たので、この夜逃も詰りは其爲めである。又同じ理由に依つて、上京後は勞働と勉學の傍ら熱心に柔道を學んだ。今ではこれでも加納流の初段である。然し其頃の悲慘なる境遇は兎ても一朝一夕に語りつくす事が出來ない、餓ゑて泣いて、國へ歸らうにも旅費がなく、翌年の二月、さる人に救はれる迄は定まれる宿とてもなかつた位。十六歳にして或る私立の中學校に這入つた。三年許りにして其保護者の死んだ後は、再び大都の中央へ礫の如く投げ出されたが、兎に角非常な勞働によつて僅少の學費を得、其學校に籍だけは置いた。昨年の夏、一月許り病氣をして、ために東京では飯喰ふ道を失ひ、止むなく九月の初めに、友を便つて乞食をしながら八戸迄東下りをした。そして、實に一週間以前までは其處の中學の五年級で、朝は早く『八戸タイムス』といふ日刊新聞の配達をし、午後三時から七時迄四時間の間は、友人なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き、都合六圓の金を得て月々の生命を繋ぎ、又學費として、孤衾襟寒き苦學自炊の日を送つて來たのだといふ。年齡は二十二歳、身の不具で弱くて小さい所以は、母の胎内に七ヶ月しか我慢がしきれず、無理矢理に娑婆へ暴れ出した罰であらうと考へられる。  天野朱雲氏との交際は、今日で恰度半年目である。忘れもせぬ本年一月元旦、學校で四方拜の式を濟せてから、特務曹長上りの豫備少尉なる體操教師を訪問して、苦學生の口には甘露とも思はれるビールの馳走を受けた。まだ醉の醒めぬ顏を、ヒューと矢尻を研ぐ北國の正月の風に吹かせ乍ら、意氣揚々として歸つてくると、時は午後の四時頃、とある町の彼方から極めて異色ある一人物が來る。酒とお芽出度うと晴衣の正月元日に、見れば自分と同じ樣に裾から綿も出ようといふ古綿入を着て、羽織もなく帽子もなく、髮は蓬々として熊の皮を冠つた如く、然も癪にさはる程悠々たる歩調で、洋杖を大きく振り𢌞し乍ら、目は雪曇りのした空を見詰めて、……。初めは狂人かと思つた。近づいて見ると、五分位に延びた漆黒の鬚髯が殆んど其平たい顏の全面を埋めて、空を見詰むる目は物凄くもギラギラする巨大なる洞穴の樣だ。隨分非文明な男だと思ひ乍ら行きずりに過ぎようとすると、其男の大圈に振つて居る太い洋杖が、發矢と許り俊吉の肩先を打つた。『何をするツ』と身構へると、其男も立止つて振返つた。が、極めて平氣で自分を見下すのだ。癪にさはる。先刻も申上げた通り、これでも柔術は加納流の初段であるので、一秒の後には其非文明な男は雪の堅く凍つた路へ摚と許り倒れた。直ぐ起き上る。打つて來るかとまた身構へると、矢張平氣だ。そして破鐘の樣な聲で、怒つた風もなく、 『君は元氣のいい男だね!』  自分の滿身の力は、此一語によつて急に何處へか逃げて了つた。トタンに復、 『面白い。どうだ君、僕と一しょに來給へ。』 『君も變な男だね!』 と自分も云つて見た。然し何の效能も無かつた。變な男は悠々と先に立つて歩く。自分も默つて其後に從つた。見れば見る程、考へれば考へる程、誠に奇妙な男である。此時まで斯ういふ男は見た事も聞いた事もない。一種の好奇心と、征服された樣な心持とに導かれて、三四町も行くと、 『此處だ。獨身ぢやから遠慮はない。サア。』 「此處」は廣くもあらぬ八戸の町で、新聞配達の俊吉でさへ知らなかつた位な場處、と云はば、大抵どんな處か想像がつかう。薄汚ない横町の、晝猶暗き路次を這入つた突當り、豚小舍よりもまだ酷い二間間口の裏長屋であつた。此日、俊吉が此處から歸つたのは、夜も既に十一時を過ぎた頃であつた。その後は殆んど夜毎に此豚小舍へ通ふやうになつた。變な男は乃ち朱雲天野大助であつたのだ。『天野君は僕の友人で、兄で先生で、そして又導師です。』と俊吉は告白した。  家出をして茲に足掛八年、故郷へ歸つたのは三年前に妹が悲慘な最後を遂げた時唯一度である。家は年々に零落して、其時は既に家屋敷の外父の所有といふものは一坪もなかつた。四分六分の殘酷な小作で、漸やく煙を立てて居たのである。老いたる母は、其儘俊吉をひき留めようと云ひ出した。然し父は一言も云はなかつた。二週間の後には再び家を出た。その時父は、『壯健で豪い人になつてくれ。それ迄は死なないで待つて居るぞ。石本の家を昔に還して呉れ。』といつて、五十餘年の勞苦に疲れた眼から大きい涙を流した。そして何處から工面したものか、十三圓の金を手づから俊吉の襯衣の内衣嚢に入れて呉れた。これが、父の最後の言葉で又最後の慈悲であつた。今は再び此父を此世に見る事は出來ない。  と云ふのは、父は五十九歳を一期として、二週間以前にあの世の人と成つたのである。この通知の俊吉に達したのは、實に一週間前の雨の夕であつた。『この手紙です。』といつて一封の書を袂から出す。そして、打濕つた聲で話を續ける。 『僕は泣いたです。例の菓子屋から、傘がないので風呂敷を被つて歸つて來て見ると、宿の主婦さんの渡してくれたのが、此手紙です。いくら讀み返して見ても、矢張り老父が死んだとしか書いて居ない、そんなら何故電報で知らして呉れぬかと怨んでも見ましたが、然し私の村は電信局から十六里もある山中なんです。恰度其日が一七日と氣がつきましたから、平常嫌ひな代數と幾何の教科書を賣つて、三十錢許り貰ひました。それで花を一束と、それから能く子供の時に老父が買って來て呉れました黒玉――アノ、黒砂糖を堅くした樣な小さい玉ですネ、あれを買つて來て、寫眞などもありませんから、この手紙を机の上に飾つて、そして其花と黒玉を手向けたんです。…………其時の事は、もう何とも口では云へません。殘つたのは母一人です、そして僕は、二百里も遠い所に居て、矢張一人ポッチです。』  石本は一寸句を切つた。大きい涙がボロ〳〵と其右の眼からこぼれた。自分も涙が出た。何か云はうとして口を開いたが、聲が出ない。 『その晩は一睡もしませんでした。彼是十二時近くだつたでせうが、線香を忘れて居たのに氣が附きまして、買ひに出掛けました。寢て了つた店をやう〳〵叩き起して、買ふには買ひましたが、困つたです、雨が篠つく樣ですし、矢張風呂敷を被つて行つたものですから、其時はもうビショ濡れになつて居ます。どうして此線香を濡らさずに持つて歸らうかと思つて、藥種屋の軒下に暫らく立つて考へましたが、店の戸は直ぐ閉るし、後は急に眞暗になつて、何にも見えません。雨はもう、轟々ツと鳴つて酷い降り樣なんです。望の綱がスッカリ切れて了つた樣な氣がして、僕は生れてから、隨分心細く許り暮して來ましたが、然し此時位、何も彼もなくたゞ無暗にもう死にたくなつて、呼吸もつかずに目を瞑る程心細いと思つた事はありません。斯んな時は涙も出ないですよ。 『それから、其處に立つて居たのが、如何程の時間か自分では知りませんが、氣が附いた時は雨がスッカリ止んで、何だか少し足もとが明るいのです。見ると東の空がボーッと赤くなつて居ましたつけ。夜が明けるんですネ。多分此時まで失神して居たのでせうが、よくも倒れずに立つて居たものと不思議に思ひました。線香ですか? 線香はシッカリ握つて居ました、堅く、しかし濡れて用に立たなくなつて居るのです。 『また買はうと思つたんですが、濡れてビショ〳〵の袂に一錢五厘しか殘つて居ないんです。一把二錢でしたが……。本を賣つた三十錢の内、國へ手紙を出さうと思つて、紙と状袋と切手を一枚買ひましたし、花は五錢でドッサリ、黒玉も、たゞもう父に死なれた口惜まぎれに、今思へば無考な話ですけれども、十五錢程買つたのですもの。仕方がないから、それなり歸つて來て、其時は餘程障子も白んで居ましたが、復此手紙を讀みました。所が可成早く國に歸つて呉れといふ事が、繰り返し〳〵書いてあるんです。昨夜はチッとも氣がつかなかつたのですが、無論讀んだには讀んだ筈なんで、多分「父が死んだ」といふ、たゞそれ丈けで頭が一杯だつた故でせう。成程、父と同年で矢張五十九になる母が唯一人殘つたのですもの、どう考へたつて歸らなくちやならない、且つ自分でも羽があつたら飛んで行きたい程一刻も早く歸り度いんです。然し金がない、一錢五厘しか無い、草鞋一足だつて二錢は取られまさあアね。新聞社の方も菓子屋の方も、實は何日でも月初めに前借してるんで駄目だし、それに今月分の室賃はまだ拂つて居ないのだから、財産を皆賣つた所で五錢か十錢しか、殘りさうも無い。財産と云つたものの、布團一枚に古机一つ、本は漢文に讀本に文典と之丈け、あとの高い本は皆借りて寫したんですから賣れないんです。尤もまだ毛布が一枚ありましたけれども、大きい穴が四ツもあるのだから矢張駄目なんです。室賃は月四十錢でした、長屋の天井裏ですもの。兒玉――菓子屋へ行つて話せば、幾何か出して貰へんこともなかつたけれど、然し今迄にも度々世話になつてましたからネ。考へて考へて、去年東京から來た時の經驗もあるし、尤も餘り結構な經驗でもありませんが、仕方が無いから思ひ切つて、乞食をして國まで歸る事に到頭決心したんです。貧乏の位厚顏な奴はありませんネ。此決心も、僕がしたんでなくて、貧乏がさせたんですネ。それでマア決心した以上は一刻の猶豫もなりませんし、國へは直ぐさう云つて手紙を出しました。それから、九時に學校へ行つて、退校願を出したり、友人へ告別したりして。尤も告別する樣な友人は二人しかありませんでしたが、……所が校長の云ふには、「君は慥か苦學して居る筈だつたが、國へ歸るに旅費などはあるのかナ。」と、斯ういふんです。僕は、乞食して行く積りだつて、さう答へた所が、「ソンナ無謀な破廉恥な事はせん方が可いだらう。」と云ひました。それではどうしたら可でせうと問ひますと、「マア能く考へて見て、何とかしたら可ぢやないか。」と拔かしやがるんです。癪に觸りましたネ。それから、歸りに菓子屋へ行つて其話をして、新聞社の方も斷つて、古道具屋を連れて來ました。前に申上げたやうな品物に、小倉の校服の上衣だの、硯だのを加へて、値踏みをさせますと、四十錢の上は一文も出せないといふんです。此方の困つてるのに見込んだのですネ。漸やくの次第で四十五錢にして貰つて、賣つて了つたが、殘金僅か六錢五厘では、いくら慣れた貧乏でも誠に心細いもんですよ。それに、宿から借りて居た自炊の道具も皆返して了ふし、机も何もなくなつてるし、薄暗い室の中央に此不具な僕が一人坐つてるのでせう。平常から鈍い方の頭が昨夜の故でスッカリ勞れ切つてボンヤリして、「老父が死んで、これから乞食をして國へ歸るのだ」といふ事だけが、漠然と頭に殘つてるんです。此漠然とした目的も手段も何もない處が、無性に悲しいんで、たゞもう聲を揚げて泣きたくなるけれども、聲も出ねば涙も出ない。何の事なしにたゞ辛くて心細いんですネ。今朝飯を喰はなかつたので、空腹ではあるし、國の事が氣になるし、昨夜の黒玉をつかんで無暗に頬ばつて見たんです。 『それから愈々出掛けたんですが、一時頃でしたらう、天野君の家へ這入つたのは。天野君も以前は大抵夜分でなくては家に居なかつたのですが、學校を罷めてからは、一日外へ出ないで、何時でも蟄居して居るんです。』 『天野は罷めたんですか、學校を?』 『エ? 左樣々々、君はまだ御存じなかつたんだ。罷めましたよ、到頭。何でも校長といふ奴と、――僕も二三度見て知つてますが、鯰髭の隨分變梃な高麗人でネ。その校長と素晴しい議論をやつて勝つたんですとサ。それでに二三日經つと突然免職なんです。今月の十四五日の頃でした。』 『さうでしたか。』と自分は云つたが、この石本の言葉には、一寸顏にのぼる微笑を禁じ得なかつた。何處の學校でも、校長は鯰髭の高麗人で、議論をすると屹度敗けるものと見える。  然し此微笑も無論三秒とは續かなかつた。石本の沈痛なる話が直ぐ進む。 『學校を罷めてからといふもの、天野君は始終考へ込んで許り居たんですがネ。「少し散歩でもせんと健康が衰へるんでせう。」といふと、「馬鹿ツ。」と云ふし、「何を考へて居るのです。」ツて云へば、「君達に解る樣な事は考へぬ。」と來るし、「解脱の路に近づくのでせう。」なんて云ふと、「人生は隧道だ。行くところまで行かずに解脱の光が射してくるものか。」と例の口調なんですネ。行つた時は、平生のやうに入口の戸が閉つて居ました。初めての人などは不在かと思ふんですが。戸を閉めて置かないと自分の家に居る氣がしないとアノ人が云つてました。其戸を開けると、「石本か。」ツて云ふのが癖でしたが、この時は森として何とも云はないんです。不在かナと思ひましたが、歸つて來るまで待つ積りで上り込んで見ると、不在ぢやない、居るんです。居るには居ましたが、僕の這入つたのも知らぬ風で、木像の樣に俯向いて矢張り考へ込んで居るんですナ。「何うしました?」と聲をかけると、ヒョイと首を上げて「石本か。君は運命の樣だナ。」と云ふ。何故ですかツて聞くと、「さうぢやないか、不意の侵入者だもの。」と淋しさうに笑ひましたツけ。それから、「なんだ其顏。陰氣な運命だナ。そんな顏をしてるよりは、死ね、死ね。……それとも病氣か。」と云ひますから、「病氣には病氣ですが、ソノ運命と云ふ病氣に取附かれたんです。」ツて答へると、「左樣か、そんな病氣なら、少し炭を持つて來て呉れ、湯を沸すから。」と又淋しく笑ひました。天野君だつて一體サウ陽氣な顏でもありませんが、この日は殊に何だか斯う非常に淋しさうでした。それがまた僕は悲しいんですネ。……で、二人で湯を沸して、飯を喰ひ乍ら、僕は今から乞食をして郷國へ歸る所だツて、何から何まで話したのですが、天野君は大きい涙を幾度も〳〵零して呉れました。僕はモウ父親の死んだ事も郷國の事も忘れて、コンナ人と一緒に居たいもんだと思ひました。然し天野君が云つて呉れるんです、「君も不幸な男だ、實に不幸な男だ。が然し、餘り元氣を落すな。人生の不幸を滓まで飮み干さなくては眞の人間になれるものぢやない。人生は長い暗い隧道だ、處々に都會といふ骸骨の林があるツ限り。それにまぎれ込んで出路を忘れちや可けないぞ。そして、脚の下にはヒタ〳〵と、永劫の悲痛が流れて居る、恐らく人生の始よりも以前から流れて居るんだナ。それに行先を阻まれたからと云つて、其儘歸つて來ては駄目だ、暗い穴が一層暗くなる許りだ。死か然らずんば前進、唯この二つの外に路が無い。前進が戰鬪だ。戰ふには元氣が無くちや可かん。だから君は餘り元氣を落しては可けないよ。少なくとも君だけは生きて居て、そして最後まで、壯烈な最後を遂げるまで、戰つて呉れ給へ。血と涙さへ涸れなければ、武器も不要、軍略も不要、赤裸々で堂々と戰ふのだ。この世を厭になつては其限だ。少なくとも君だけは厭世的な考へを起さんで呉れ給へ。今までも君と談合つた通り、現時の社會で何物かよく破壞の斧に値せざらんやだ、全然破壞する外に、改良の餘地もない今の社會だ。建設の大業は後に來る天才に讓つて、我々は先づ根柢まで破壞の斧を下さなくては不可。然しこの戰ひは決して容易な戰ひではない。容易でないから一倍元氣が要る。元氣を落すな。君が赤裸々で乞食をして郷國へ歸るといふのは、無論遺憾な事だ、然し外に仕方が無いのだから、僕も賛成する。尤も僕が一文無しでなかつたら、君の樣な身體の弱い男に乞食なんぞさせはしない。然し君も知つての通りの僕だ。ただ、何日か君に話した新田君へ手紙をやるから新田には是非逢つて行き給へ。何とか心配もしてくれるだらうから、僕にはアノ男と君の外に友人といふものは一人も無いんだから喃。」と云つて、先刻差上げた手紙を書いてくれたんです。それから種々話して居たんですが、暫らくしてから、「どうだ、一週間許り待つて呉れるなら汽車賃位出來る道があるが、待つか待たぬか。」と云ふんです。如何してと聞くと、「ナーニ此僕の財産一切を賣るのサ。」と云ひますから、ソンナラ君は何うするんですかツて問ふと、暫し沈吟してましたつけが、「僕は遠い處へ行かうと思つてる。」と答へるんです。何處へと聞いても唯遠い處と許りで、別に話して呉れませんでしたが、天野君の事ツてすから、何でも復何か痛快な計畫があるだらうと思ひます。考へ込んで居たのも其問題なんでせうネ。屹度大計畫ですよ、アノ考へ樣で察すると。』 『さうですか。天野はまた何處かへ行くと云つてましたか。アノ男も常に人生の裏路許り走つて居る男だが、甚麽計畫をしてるのかネー。』 『無論それは僕なんぞに解らないんです。アノ人の言ふ事行る事、皆僕等凡人の意想外ですからネ。然し僕はモウ頭ツから敬服してます。天野君は確かに天才です。豪い人ですよ。今度だつて左樣でせう、自身が遠い處へ行くに旅費だつて要らん筈がないのに、財産一切を賣つて僕の汽車賃にしようと云ふのですもの。これが普通の人間に出來る事ツてすかネ。さう思つたから、僕はモウ此厚意だけで澤山だと思つて辭退しました。それからまた暫らく、別れともない樣な氣がしまして、話してますと、「モウ行け。」と云ふんです。「それでは之でお別れです。」と立ち上りますと、少し待てと云つて、鍋の飯を握つて大きい丸飯を九つ拵へて呉れました。僕は自分でやりますと云つたんですけれど、「そんな事を云ふな、天野朱雲が最後の友情を享けて潔よく行つて呉れ。」と云ひ乍ら、涙を流して僕には背を向けて孜々と握るんです。僕はタマラナク成つて大聲を擧げて泣きました。泣き乍ら手を合せて後姿を拜みましたよ。天野君は確かに豪いです。アノ人の位豪い人は決してありません。……(石本は眼を瞑ぢて涙を流す。自分も熱い涙の溢るるを禁じ得なんだ。女教師の啜り上げるのが聞えた。)それから、また坐つて、「これで愈々お別れだ。石本君、生別又兼死別時、僕は慇懃に袖を引いて再逢の期を問ひはせん。君も敢てまたその事を云ひ給ふな。ただ別れるのだ。別れて君は郷國へ歸り、僕は遠い處へ行くまでだ。行先は死、然らずんば戰鬪。戰つて生きるのだ。死ぬのは……否、死と雖ども新たに生きるの謂だ。戰の門出に泣くのは兒女の事ぢやないか。別れよう。潔く元氣よく別れよう。ネ、石本君。」と云ひますから、「僕だつて男です、潔くお別れします。然し何も、生別死別を兼ぬる譯では無いでせう。人生は成程暗い坑道ですけれど、往來皆此路、君と再び逢ふ期がないとは信じられません。逢ひます、屹度再び逢ひます、僕は君の外に頼みに思ふ人もありませんし、屹度再た何處かで逢ひます。」と云ひますと、「人生はさう都合よくは出來て居らんぞ。……然し何も、君が死にに行くといふではなし、また、また、僕だつて未だ死にはせん……決して死にはせんのだから、さうだ、再逢の期が遂に無いとは云はん。ただ、それを頼りに思つて居ると失望する事がないとも限らない。詰らぬ事を頼りにするな。又、人生の雄々しき戰士が、人を頼りにするとは弱い話だ。……僕は此八戸に來てから、君を得て初めて一道の慰藉と幸福を感じて居た。僅か半歳の間、匇々たる貧裡半歳の間とは云へ、僕が君によつて感じ得た幸福は、長なへに我等二人を親友とするであらう。僕が心を決して遠い處へ行かんとする時、君も又飄然として遙かに故園に去る、――此八戸を去る。好し、行け、去れ、去つて再び問ふこと勿れ。たゞ、願はくは朱雲天野大助と云ふ世外の狂人があつたと丈けは忘れて呉れ給ふな。……解つたか、石本。」と云つて、ヂッと僕を凝視るのです。「解りました。」ツて頭を下げましたが、返事がない。見ると、天野君は兩膝に手をついて、俯向いて目を瞑つてました。解りましたとは云つたものの、僕は實際何もかも解らなくなつて、唯斯う胸の底を掻きむしられる樣で、ツイと立つて入口へ行つたです。目がしきりなく曇るし、手先が慄へるし、仲々草鞋が穿けなかつたですが、やう〳〵紐をどうやら結んで、丸飯の新聞包を取り上げ乍ら見ると、噫、天野君は死んだ樣に突伏してます。「お別れです。」と辛うじて云つて見ましたが、自分の聲の樣で無い、天野君は突伏した儘で、「行け。」と怒鳴るんです。僕はモウ何とも云へなくなつて、大聲に泣きながら驅け出しました。路次の出口で振返つて見ましたが、無論入口には出ても居ません。見送って呉れる事も出來ぬ程悲しんで呉れるのかと思ひますと、有難いやら嬉しいやら怨めしいやらで、丸飯の包を兩手に捧げて入口の方を拜んだとまでは知つてますが、アトは無宙で驅け出したです。……人生は何處までも慘苦です。僕は天野君から眞の弟の樣にされて居たのが、自分一生涯の唯一度の幸福だと思ふのです。』  語り來つて石本は、痩せた手の甲に涙を拭つて悲氣に自分を見た。自分もホッと息を吐いて涙を拭つた。女教師は卓子に打伏して居る。
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 ※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:松永正敏 2003年3月20日作成 2005年11月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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雲間寸觀 大木頭 ◎二十三日の議會は豫報の如く所謂三派連合の氣勢の下に提出せられたる内閣不信任の決議案の討議に入り、小氣味よき活劇を演出したるものの如く候。同日午后一時十分開會、諸般の報告終りてより首相の施政方針演説あり、續いて松田藏相より豫算編制に關する長々しき説明ありたる後、憲政本黨の澤代議士より政府の中心何處にあるやとの質問出で首相は政府の中心に政府あり、現政府は上御一人の御信任を負ひ、且つ斯くの如き大政黨を有せりと答へて傲然と政友會の議席を指さし、それより二三の質問ありて後、税法整理案其他の日程に移り、何れも特別委員會附托となり愈々當日の最大問題たる決議案の日程に入る時に午后三時前五分 ◎議長は先づ書記をして決議案を朗讀せしむれば拍手は先づ傍聽席の一隅より起り島田三郎氏は提出者の一人として急霰の如き拍手の裡に登壇し例の長廣舌を揮つて民黨聯合軍が勇敢なる進撃の第一聲を揚げ今日の問題は決して黨派の關係感情の問題に非ず、去れば政友會の諸君も衷心を欺かず賛同せよと喝破して降壇せんとするや政友會の院内總理元田肇氏は島田氏に質問ありと叫び君の辯舌が餘りに巧妙なる故趣意の存する所を知るに苦しむ。詰る所現内閣を信任せずとの意に歸する乎と述べしに島田氏は唯靜に然りと答へて微笑しつゝ拍聲手裡に壇を下り、それより元田氏の熱心なる駁論ありしも屡々民黨より嘲笑をあびせかけられたるは實に氣の毒なりし由に候 ◎元田氏に續いて大同派の臼井哲夫氏登壇し余等の決議案は島田氏等のそれと多少異なる所なきにあらざれども現内閣不信任と云ふ點に於ては其目的を同うす故に此決議案に賛成すと述べて本論に入らむとせしに、スワこそ一大事民黨三派連合の事實上に成立したりとて、政友會の議席は少なからざる騷擾を始め、森本駿氏は走せて書記官長席に赴き何事か談じ、元田氏また發言を求めて何事か爲さんと企てたるも遂げず遂に財政委員會席に赴き原内相と共に一時場外に退出せる等形勢刻一刻に切迫する間に臼井氏降壇、横井(政)加藤(憲)竹越(政)の諸氏亦騷然たる動搖の間に激烈なる辯論を交換し、憲政本黨の大石正巳氏亦熱心なる賛成演説を試み、立川雲平氏の皮肉なる駁論あり、少なからず民黨の諸將を激昂せしめたる由に候 ◎此時松田藏相發言を求めて登壇し内閣の總名代と云つた樣な格にて聯合軍の矢表に立ち島田臼井諸氏に一矢を酬ゐたる後、昨年七八月頃までは増税せず募債せずと宣言し居りしを今になつて増税案を提出したるは不信義なりとの決議案の骨子に對し今や内外の經濟共通となれる時代に際しては世界經濟市場の景況を基本として財政の計畫も亦之に準ぜざるべからざるを以て到底一二年の未來をも豫想する能はず畢竟増税を非とするは道理なきものなりと撃卓勵聲して降壇したる態度は意氣甚だ軒昂、眼中反對者なきものの如かりし由に候。斯くて長谷場純孝氏の提議にて討論終結の動議成立し、杉田議長採決を宣したるに出席總數三百四十五票中 決議案を可とする者 百六十八票 否とする者     百七十七票 にて戰は僅々九票の差にて政府黨の勝利に歸し申候。 ◎不信任案は僅々九票の差なりしとは云へ兎も角も政府黨の勝利に歸して否決となり西園寺内閣の運命は茲に強固なる基礎に置かれし如くなるも曩に總辭職の噂傳へられて其一角既に崩落し二十三日の議會に於ては現内閣成立當時の原則たる山西兩系の政治的均勢明白に破壞され、別に又東京商業會議所を代表とせる實業界の強硬なる増税反對あり、今日以後の政局の趨勢果して奈何。之實に刻下に於ける最も重要にして且つ趣味ある問題なるべく候 ◎山西兩系の政治的均勢が破壞されたるは之を奈何なる方面より見るも事實として報導すべき充分の理由あり、且つ現内閣成立當時より兩系の間にありて調停の勞を取り好意ある姑の如き地位にありし桂侯も現内閣並びに之を推戴する政友會が往々侯の意表に向つて挑戰的態度に出ること稀ならざるより近時政局の形勢侯の胸中を平靜ならしむる能はず、大同派より提出したる不信任案に對しても自ら雌黄を加へ、餘り面目に關する如き字句を修正したりとさへ消息通の間に傳へられ居れば所謂前内閣系の野心家が遠からず何等かの形式によつて現内閣の運命を威嚇するに至るべく而して其時期は蓋し第二十四議會閉會と同時なるべしとは多數の觀察者の一致する所に候。 ◎蓋し、帝國の政府が今にして其の大方を一變せざる限り數年來、否十數年來執り來れる方針の當然の結果として國際上に於ける帝國の地位に鑑み、増税若くは募債の一事は此際遂に免るべからざるものなるべく然かも之を斷行せんとせば必ずや先ず國民全部の怨嗟の的となる覺悟なかるべからず、之即ち前内閣系の野心家が現内閣の生命を議會閉會後まで延ばし置かんとする第一の原因にして敵をして此一難局を處理せしめ然る後に己れ取つて代らんとする心事稍陋とすべし。彼の現内閣が袂を連ねて野に下らんとしたるに際し、伊藤公が聖旨を奉じて總辭職は其時機にあらずと云へる者蓋し又此大勢を視て帝國の前途の爲めに必至なりとせらるゝ此度の増税を比較的無事の間に決せしめむとしたるものに非ざるか。 ◎吾人は必ずしも現内閣に悦服する者に非ず。然れども現内閣は彼の藏遞兩相の挂冠と共に一層政黨内閣たる旗幟鮮明となり今や議會に一の政友會を率ゐたるのみにて嘗ては其庇護を受けし山縣桂等の徒黨と勇敢なる政戰を開始したり。吾人は遙かに此中央の風雲を觀望して多大の興味を感ずるものに候。 (明治40・1「釧路新聞」) 雲間寸觀 三十日正午 大木頭 ◎豫算委員總會 二十五日の第一囘總會は同日午前十時半開會首相藏相の挨拶に亞いで、江藤新作氏の軍事費に關する質問あり、寺内陸相之に答へ早速整爾氏の事業繰越に關する質問には、水町大藏次官より説明する所ありて正午散會、何事もなかりし由に候が、二十七日の第二囘總會には不取敢再昨の紙上に電報を以て報じたる如く民黨の重鎭大石正巳氏より噴火山的大質問あり舌端火を吐いて政府に肉薄するの活劇を演じ藏相陸相外相の三相亦熱心なる答辯を試みて正午一先づ休憩したる由に候が大石氏質問の要旨に曰く今囘の財政計畫は反て財政の基礎を不鞏固にする者なり、抑も政府の豫算案には二箇の病根あり此の病根即ち基礎を不確實にするものなり、二箇の病根とは何ぞ一に曰く借金政策二に曰く事業繰延即ち是のみ所謂繰延は既定年限内に於ける繰延に過ぎずして更に年限を延長することなし、又政府當局は外國財界の不況の故を以て公債募集の不能なるを云ふも一億二億の公債は何時にも募集し得らるゝ筈なり或は國内に於ても之を募集し得べし而かも募集し能はざるの事情は内外財界の不況に基くにあらずして財界の不確實なるが故なり、財政の基礎薄弱にして如何でか内外に信用を維持し得べき政府は歳入の目的増加ありと云ふも此の如き不確實なるものを以て到底財政上の信用を得る能はず一時凌ぎの計畫は國家を誤るものなり、政府當局が平和の今日僅かに數千萬圓の公債をも募集し得ざるが如き地位に日本帝國を置きて安心せらるゝは何ぞや、日本の豫算は政治家眼を以て編成せるにあらず又帝國の境遇の如何と事件の緩急とを計りて立てたるものと爲すを得ざるなり抑財政をして最も困難ならしむるものは國防なり、是れ豫算を軍人眼を以て立つるに因る、從て益々經費を軍事に吸收せられ財政は益々困難に陷らざるを得ず。若し外交上より解剖するときは豫算の立て方を明かにするを得べし。首相は日英同盟は益々鞏固なる上日佛日露の協約成りて日本の地位は鞏固になれる旨を演説せられたり。然り日英同盟は益々鞏固にして日露及び日佛協約は愈々日英同盟を鞏固にならしめたり、日佛協約は滿洲北清の方面に於ける危險を免れしめたり。加之英露の協約は殆ど世界の平和を保障せり。然らば日本の東洋に於ける地位が、益々安全鞏固を致せるは何人も疑を容れず斯の如く平和の保障せられ地位の安全なる時に於て財政を整理し民力を休養せずんば單だ何れの日に之を望まん。次に外交の不振に就て質問せん、先づ日清間は如何。ポーツマス條約に伴ふ日清間の交渉は殆んど總て未決の儘に在るにあらずや、清國は可成日本の利益に反する態度を採れるの傾きあり日本は清國に對して一と通りの責任に止まらず指導の重任に膺り清國に向つて大なる恩惠を與へたるにも拘らず清國をして兎角日本の利益に反する態度を採らしむるに至るは外交機關の振はざるに因る、通商貿易に於ても又此の如し移民排斥の如き日本の外交の振はざるが爲めなり、又排斥熱の起れる後に於ても萬事手緩き感あるに非ずや云々と述べ更に交通機關に就て質問せんとしたるに原遞相まだ出席なかりし爲め之れにて一先づ質問を止めたる由に候が、之れに對し松田藏相は斷乎として豫算の編成が軍人眼に出でたりとするは否なりと答へ、寺内陸相は滿洲駐屯軍を二ヶ師團のみに止めたる實例を引きて帝國の軍備が財政を眼中に置かずとの非難は無存なりと論じ、又我國をして今日の状態に至らしめたるは兵力の結果なるが故に軍備が不生産的なりといふ事は出來ぬと怒鳴り、林外相は例の悠揚迫らざる體度にて勢力は之を加ふる方によきも加へらるる方では惡しきものなりとて清國問題に公平穩健なる意見を吐露し、對米問題に關しては、日本人は益々安全なる地位にありと確言したる由に候 ◎同上二十八日總會 翌二十八日總會も亦活劇を演出したる由にて島田三郎氏軍備の爲め凡ての事業を犧牲とするも兵器を活用する財政上の基礎ありやと、質問せしに松田藏相は何れの國と雖ども開戰準備金を設くるものならず只萬一の際は國民愛國心に訴ふる外なしと遣込め、早速氏と水町次官との問答中、望月右内氏(政)煩瑣聞くに堪へずと之を攻撃するや、其後席にありし進歩黨の神崎、東尾二氏奮然唸りを發し中にも神崎氏は望月氏と掴み合ひを始めむとするに至り政友會の野田氏が中に飛び込みて怒號慢罵の聲喧しく大立𢌞となりしが、幸にして大岡委員長の制止にて鎭靜に歸し次で望月小太郎氏(猶)より日米關係につき説明を求むるため祕密會を要求せしも成立せずして散會したる由に候 ◎韓宮の低氣壓 韓國内閣の動搖に關しては一昨日の本欄に多少記載する所ありしが、悲しむべし京城の内外陰時常ならずして一團の低氣壓四大門上を去らず宮内府にては近日女宮を廢し李宮相の歸國を待ちて雅悲四千餘名解散し根本的の肅清を圖ると揚言しつゝありて庶政漸く其緒につくものの如しと雖ども社面には幾多の暗流横溢するものと見え廿八日京城發電は嚴妃の姉聟にあたる閔某が太皇帝及び嚴妃の密旨を受けて大金を携帶し、上海より銃器彈藥を密輸し以て暴徒を幇助せむとせし陰謀發覺し、仁川に於て縛に就ける旨報じ來り候、自ら末路を早むる所以なるを知らざる韓廷の擧措吾人は寧ろ愍情に堪へざるものに候 ◎露國議會の解散 凡露國政府は若し國民議會にして海軍再興費を否決するに於ては斷然解散すべしと各議員を威嚇しつゝある由倫敦電報によりて報ぜられ候若し同案を遂行するとせば十ヶ年間に亘り三億一千九百萬磅を要すべく全國の輿論は全たく之に反對しつゝありと申す事に候、現時の世界に於て何處如何なる國の人民も過大なる軍事費の爲めに膏血を絞られざるはなし、こは抑々何事ぞや、心ある者と宣しく一考再考否百考千考すべき所なるべく候。 (明治40・2・1「釧路新聞」)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「釧路新聞」    1907(明治40)年1月、2月1日 ※初出時の署名は「大木頭」です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「先づ」と「先ず」の混在は、底本通りです。 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 2012年8月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     一  一年三百六十五日、投網打の帰途に岩鼻の崖から川中へ転げ落ちて、したたか腰骨を痛めて三日寝た、その三日だけは、流石に、盃を手にしなかつたさうなと不審がられた程の大酒呑、酒の次には博奕が所好で、血醒い噂に其名の出ぬ事はない。何日誰が言つたともなく、高田源作は村一番の乱暴者と指されてゐた。それが、私の唯一人の叔父。  我々姉弟は、「源作叔父様」と呼んだものである。母の肉身の弟ではあつたが、顔に小皺の寄つた、痩せて背の高い母には毫も肖た所がなく、背がずんぐりの、布袋の様な腹、膨切れる程酒肥りがしてゐたから、どしりどしりと歩く態は、何時見ても強さうであつた。扁い、膩ぎつた、赤黒い顔には、深く刻んだ縦皺が、真黒な眉と眉の間に一本。それが、顔全体を恐ろしくして見せるけれども、笑ふ時は邪気ない小児の様で、小さい眼を愈々小さくして、さも面白相に肩を撼る。至つて軽口の、捌けた、竹を割つた様な気象で、甚麽人の前でも胡坐しかかいた事のない代り、又、甚麽人に対しても牆壁を設ける事をしない。  少年等が好きで、時には、厚紙の軍帽やら、竹の軍刀板端の村田銃、其頃流行つた赤い投弾まで買つて呉れて、一隊の義勇兵の為に一日の暇を潰す事もあつた。気が向くと、年長なのを率れて、山狩、川狩。自分で梳いた小鳥網から叉手網投網、河鰺網でも押板でも、其道の道具は皆揃つてゐたもの。鮎の時節が来れば、日に四十から五十位まで掛ける。三十以上掛ける様になれば名人なさうである。それが、皆、商売にやるのではなくて、酒の肴を獲る為なのだ。  妙なところに鋭い才があつて、勝負事には何にでも得意な人であつた。それに、野良仕事一つ為た事が無いけれど、三日に一度の喧嘩に、鍛えに鍛えた骨節が強くて、相撲、力試し、何でも一人前やる。就中、将棋と腕相撲が公然の自慢で、実際、誰にも負けなかつた。博奕は近郷での大関株、土地よりも隣村に乾分が多かつたさうな。  不得手なのは攀木に駈競。あれだけは若者共に敵はないと言つてゐた。脚が短かい上に、肥つて、腹が出てゐる所為なのである。  五間幅の往還、くわツくわと照る夏の日に、短く刈込んだ頭に帽子も冠らず、腹を前に突出して、懐手で暢然と歩く。前下りに結んだ三尺がだらしなく、衣服の袵が披つて、毛深い素脛が遠慮もなく現はれる。戸口に凭れてゐる娘共には勿論の事、逢ふ人毎に此方から言葉をかける。茫然立つてゐる小児でもあれば、背後から窃と行つて、目隠しをしたり、唐突抱上げて喫驚さしたりして、快ささうに笑つて行く。千日紅の花でも後手に持つた、腰曲りの老媼でも来ると、 『婆さんは今日もお寺詣りか?』 『あいさ。暑い事たなす。』 『暑いとも、暑いとも。恁麽日にお前みたいな垢臭い婆さんが行くと、如来様も昼寝が出来ねえで五月蠅がるだあ。』 『エツヘヘ。源作さあ何日でも気楽で可えでヤなあ。』 『俺讃めるな婆さん一人だ。死んだら極楽さ伴れてつてやるべえ。』と言つた調子。  酔つた時でも別段の変りはない。死んだ祖父に当る人によく似たと、母が時々言つたが、底無しの漏斗、一升二升では呼気が少し臭くなる位なもの。顔色が顔色だから、少し位の酒気は見えないといふ得もあつた。徹夜三人で一斗五升飲んだといふ翌朝でも、物言ひが些と舌蕩く聞える許りで、挙動から歩き振りから、確然としてゐた。一体私は、此叔父の蹣跚した千鳥足と、少しでも慌てた態を見た事がなかつた。も一つ、幾何酔つた時でも、唄を歌ふのを聞いた事がない。叔父は声が悪かつた。  それが、怎して村一番の乱暴者かといふに、根が軽口の滑稽に快く飲む方だつたけれど、誰かしら酔ひに乗じて小生意気な事でも言出すと、座が曝けるのを怒るのか、 『馬鹿野郎! 行けい。』 と、突然林の中で野獣でも吼える様に怒鳴りつける。対手がそれで平伏れば可いが、さもなければ、盃を擲げて、唐突両腕を攫んで戸外へ引摺り出す。踏む、蹴る、下駄で敲く、泥溝へ突仆す。制める人が無ければ、殺しかねまじき勢ひだ。滅多に負ける事がない。  それは、三日に一度必ずある。大抵夜の事だが、時とすると何日も何日も続く。又、自分が飲んでゐない時でも、喧嘩と聞けば直ぐ駆出して行つて、遮二無二中に飛込む。  喧嘩の帰途は屹度私の家へ寄る。顔に血の附いてる事もあれば、衣服が泥だらけになつてる事もあつた。『姉、姉、姉。』と戸外から叫んで来て、『俺ア今喧嘩して来た。うむ、姉、喧嘩が悪いか? 悪いか?』と入つて来る。  母は、再かと顔を顰める。叔父は上框に突立つて、『悪いなら悪いと云へ。沢山怒れ。汝の小言など屁でもねえ!』と言つて、『馬鹿野郎。』とか、『この源作さんに口一つ利いて見ろ。』とか、一人で怒鳴りながら出て行く。其度、姉や私等は密接合つて顫へたものだ。 『源作が酒と博奕を止めて呉れると喃!』 と、父はよく言ふものであつた。『そして、少し家業に身を入れて呉れると可えども。』と、母が何日でも附加へた。  私が、まだ遙と稚なかつた頃、何か強情でも張つて泣く様な時には、 『それ、まだ源作叔父様が酔つて来るぞ。』と、姉や母に嚇されたものである。      二  村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村に逼塞したのだ。  其一軒は、東といつて、眇目の老人の頑固が村人の気受に合はなかつた。剰に、働盛りの若主人が、十年近く労症を煩つた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地も大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃――私の稚かつた頃――は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其理由は、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。  東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳位の時、愛宕神社の祭礼だつたか、盂蘭盆だつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「呀ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶えてゐる。私は目を円くして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、お銭を呉れた。其翌日、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈けて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊※(羔/((美-大)/人))をどつさり呉れて行つた事がある。其以後といふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密で一寸々々、東の店に痰切飴や氷糸糖を買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。  残余の二軒は、叔父の家と私の家。  高田家と工藤家――私の家――とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸の城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取も二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃ふ時も、両家で相談した上で、多少の所有地のあつたのを幸ひ、此村に土着する事に決めたのださうな。私の母は高田家の総領娘であつた。  尤も、高田家の方が私の家よりも、少し格式が高かつたさうである。寝物語に色々な事を聞かされたものだが、時代が違ふので、私にはよく理解めなかつた。高田家の三代許り以前の人が、藩でも有名な目附役で、何とかの際に非常な功績をしたと言ふ事と、私の祖父さんが鉄砲の名人であつたと言ふ事だけは記憶えてゐる。其祖父さんが殿様から貰つたといふ、今で謂つたら感状といつた様な巻物が、立派な桐の箱に入つて、刀箱と一緒に、奥座敷の押入に蔵つてあつた。  四人の同胞、総領の母だけが女で、残余は皆男。長男も次男も、不幸な事には皆二十五六で早世して、末ツ子の源作叔父が家督を継いだ。長男の嫁には私の父の妹が行つたのださうだが、其頃は盛岡の再縁先で五人の子供の母親になつてゐた。次男は体の弱い人だつたさうである。其嫁は隣村の神官の家から来たが、結婚して二年とも経たぬに、唖の女児を遺して、盲腸炎で死んだ。其時、嫁のお喜勢さん(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、嫂のお喜勢さんと夫婦になつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。  私の物心ついた頃、既に高田家に老人が無かつた。私の家にもなかつた。微かに記憶えてゐる所によれば、私が四歳の年に祖父さんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、室から室と跳歩いたものだ。  道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端から田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家が怎うならうと、妻子が甚麽服装をしようと、其麽事は従頭念頭にない。自分一人、誰にも頭を下げず、言ひたい事を言ひ、為たい事をして、酒さへ飲めれば可かつたのであらう。  それに引代へて私の家は、両親共四十の坂を越した分別盛り、(叔父は三十位であつた。)父は小心な実直者で、酒は真の交際に用ゆるだけ。四書五経を読んだ頭脳だから、村の人の信頼が厚く、承諾はしなかつたが、村長になつて呉れと頼込まれた事も一度や二度ではなかつた。町村制の施行以後、村会議員には欠けた事がない。共有地の名儀人にも成つてゐた。田植時の水喧嘩、秣刈場の境界争ひ、豊年祭の世話役、面倒臭がりながらも顔を売つてゐた。余り壮健でなく、痩せた、図抜けて背の高い人で、一日として無為に暮せない性質なのか、一時間と唯坐つては居ない。何も用のない時は、押入の中を掃除したり、寵愛の銀煙管を研いたりする。田植刈入に監督を怠らぬのみか、股引に草鞋穿で、躬ら田の水見にも廻れば、肥料つけの馬の手綱も執る。家にも二人まで下男がゐたし、隣近所の助勢も多いのだから、父は普通なら囲炉裏の横座に坐つてゐて可いのだけれど、「俺は稼ぐのが何よりの楽だ。」と言つて、露程も旦那風を吹かせた事がない。  随つて、工藤様といへば、村の顔役、三軒の士族のうちで、村方から真実に士族扱ひされたのは私の家一軒であつた。敢て富有といふではないが、少許は貸付もあつた様だし、田地と信用とは、増すとも減る事がない。穀蔵に広い二階立の物置小屋、――其階下が土間になつてゐて、稲扱の日には、二十人近くの男女が口から出放題の戯談やら唄やらで賑つたものだ。庭には小さいながらも池があつて、赤い黒い、尺許りの鯉が十尾も居た。家の前には、其頃村に唯一つの衡門が立つてゐた。叔父の家のは、既に朽ちて了つたのである。  母と叔父とは、齢も十以上違つて居たし、青い面長と扁い赤良顔、鼻の恰好が稍肖てゐた位のものである。背の婷乎とした、髪は少し赤かつたが、若い時は十人並には見えたらうと思はれる容貌。其頃もう小皺が額に寄つてゐて、持病の胃弱の所為か、膚は全然光沢がなかつた。繁忙続きの揚句は、屹度一日枕についたものである。愚痴ぽくて、内気で、苦労性で、何事も無い日でも心から笑ふといふ事は全たくなかつた。わけても源作叔父の事に就いては、始終心を痛めてゐたもので、酔はぬ顔を見る度、何日でも同じ様な繰事を列べては、フフンと叔父に鼻先であしらはれてゐた。見す見す実家の零落して行くのを、奈何ともする事の出来ない母の心になつて見たら、叔父の道楽が甚麽に辛く悲く思はれたか知れない。  恁麽両親の間に生れた、最初の二人は二人とも育たずに死んで、程経て生れた三番目が姉、十五六で、矢張内気な性質ではあつたが、娘だけに、母程陰気ではなかつた。姉の次に二度許り流産が続いたので、姉と私は十歳違ひ。      三  記憶は至つて朧気である。が、私の両親は余り高田家を訪ふ事がなかつた様である。叔父だけは毎日の様に来た。叔母も余り家を出なかつた。  私は五歳六歳の頃から、三日に一度か四日に一度、必ず母に呍吩かつて、叔父の家に行つたものである。餅を搗いても、団子を拵へても、五目鮨を炊いても、母は必ず叔父の家へ分けて遣る事を忘れない。或時は裏畑から採れた瓜や茄子を持つて行つた。或時は塩鮭の切身を古新聞に包んで持つて行つた。又或時は、姉と二人で、夜になつてから、五升樽に味噌を入れて持つて行つた事もある。下男に遣つては外聞が悪いと、母が思つたのであらう。  私は、叔父の家へ行くのが厭で厭で仕様がなかつた。叔父が居さへすれば何の事もないが、大抵は居ない。叔母といふ人は、今になつて考へて見ても随分好い感じのしない女で、尻の大きい、肥つた、夏時などは側へ寄ると臭気のする程無精で、挙動から言葉から、半分眠つてる様な、小児心にも歯痒い位鈍々してゐた。毛の多い、真黒な髪を無造作に束ねて、垢染みた衣服に細紐の検束なさ。野良稼ぎもしないから手は荒れてなかつたけれど、踵は嘗て洗つた事のない程黒い。私が入つて行くと、 『謙助(私の名)さんすか?』 と言つて、懈さうに炉辺から立つて来て、風呂敷包みを受取つて戸棚の前に行く。海苔巻でも持つて行くと、不取敢それを一つ頬張つて、風呂敷と空のお重を私に返しながら、 『お有難う御座んすてなツす。』 と懶げに言ふのである。愛想一つ言ふでなく、笑顔さへ見せる事がなかつた。  顴骨の高い、疲労の色を湛へた、大きい眼のどんよりとした顔に、唇だけが際立つて紅かつた。其口が例外れに大きくて、欠呻をする度に、鉄漿の剥げた歯が醜い。私はつくづくと其顔を見てゐると、何といふ事もなく無気味になつて来て、怎うした連想なのか、髑髏といふものは恁麽ぢやなからうかと思つたり、紅い口が今にも耳の根まで裂けて行きさうに見えたりして、謂ひ知れぬ悪寒に捉はれる事が間々あつた。  古い、暗い、大きい家、障子も襖も破れ放題、壁の落ちた所には、漆黒に煤けた新聞紙を貼つてあつた。板敷にも畳にも、足触りの悪い程土埃がたまつてゐた。それも其筈で、此家の小児等は、近所の百姓の子供と一緒に跣足で戸外を歩く事を、何とも思つてゐなかつたのだ。納戸の次の、八畳許りの室が寝室になつてゐたが、夜昼蒲団を布いた儘、雨戸の開く事がない。妙な臭気が家中に漂うてゐた。一口に謂へば、叔父の家は夜と黄昏との家であつた。陰気な、不潔な、土埃の臭ひと黴の臭ひの充満たる家であつた。笑声と噪いだ声の絶えて聞こえぬ、湿つた、唖の様な家であつた。  その唖の様な家に、唖の児の時々発する奇声と、けたたましい小児等の泣声と、それを口汚なく罵る叔母の声とが、折々響いた。小児は五人あつた。唖のお政は私より二歳年長、三番目一人を除いては皆女で、末ツ児は猶乳を飲んでゐた。乳飲児を抱へて、大きい乳房を二つとも披けて、叔母が居睡してる態を、私はよく見たものである。  五人の従同胞の中の唯一人の男児は、名を巡吉といつて、私より年少、顳顬に火傷の痕の大きい禿のある児であつたが、村の駐在所にゐた木下といふ巡査の種だとかいふので、叔父は故意と巡吉と命名けたのださうな。其巡吉は勿論、何の児も何の児も汚ない扮装をしてゐて、頸から手足から垢だらけ。私が行くと、毛虫の様な頭を振立てゝ、接踵出て来て、何れも母親に肖た大きい眼で、無作法に私を見ながら、鼻を顰めて笑ふ奴もあれば、「何物持つて来たべ?」と問ふ奴もある。お政だけは笑ひもせず物も言はなかつた。私は小児心にも、何だか自分の威厳を蹂躙られる様な気がして、不快で不快で耐らなかつた。若しかして叔母に、遊んで行けとでも言はれると、不承不承に三分か五分、遊ぶ真似をして直ぐ遁げて帰つたものだ。  私の母は、何時でも「那麽無精な女もないもんだ。」と叔母を悪く言ひながら、それでも猶何に彼につけて世話する事を、怠らなかつた。或時は父に秘してまでも実家の窮状を援けた。  時としては、従同胞共が私の家へ遊びに来る。来るといつても、先づ門口へ来て一寸々々内を覗きながら彷徨してゐるので、母に声を懸けられて初めて入つて来る。其都度、私は左右と故障を拵へて一緒に遊ぶまいとする。母は憐愍の色と悲哀の影を眼一杯に湛へて、当惑気に私共の顔を等分に瞰下すのであつたが、結局矢張私の自由が徹つたものである。  叔父は滅多に家に居なかつた。飲酒家の癖で朝は早起であつたが、朝飯が済んでから一時間と家にゐる事はない。夜は遅くなつてから酔つて帰る。叔母や従同胞等は日が暮れて間もなく寝て了ふのだから、酔つた叔父は暗闇の中を手探り足探りに、己が臥床を見つけて潜り込むのだつたさうな。時としては何処かに泊つて家へは帰らぬ事もあつたと記憶えてゐる。そして、日がな一日、塵程の屈托が無い様に、陽気に物を言ひ、元気に笑つて、誰に憚る事もなく、酒を呑んで、喧嘩をして、勝つて、手当り次第に女を弄んで、平然としてゐた。叔父は、叔母や従同胞共を愛してゐたとは思はれぬ。叔母や従同胞共も亦、叔父を愛してはゐなかつた様である。さればといつて、家にゐる時の叔父は、矢張平然としたもので、別段苦い顔をしてるでもなかつた。      四  時として、叔父は三日も四日も、或は七日も八日も続いて、些とも姿を見せぬ事があつた。其麽事が、収穫後から冬へかけて殊に多かつた様である。  飄然と帰つて来ると、屹度私に五十銭銀貨を一枚宛呉れたものである。叔父は私を愛してゐた。  加之、其麽時は、何処から持つてくるものやら、鶏とか、雉子とか、鴨とか、珍らしい物を持つて来て、手づから料理して父と一緒に飲む。或年の冬、ちらちらと雪の降る日であつたが、叔父は例の如く三四日見えずにゐて、大きい雁を一羽重さうに背負つて来た事がある。父も私も台所の入口に出てみると、叔父は其雁を上框の板の上に下して、 『今朝隣村の鍛冶の忰の奴ア、これ二羽撃つて来たで、重がつけども一羽背負つて来たのせえ。』 と母に言つて、額の汗を拭いてゐた。 『大ぎな雁だ喃。』 と父は驚いて、鳥の首を握つて持上げてみた。私の背の二倍程もある。怖る〳〵触つて見ると、毛が雪に濡れてゐるので、気味悪く冷たかつた。横腹のあたりに、一寸四方許り血が附いてゐたので、私は吃驚して手を引いた。鉄砲弾の痕だと叔父は説明して、 『此方にもある。これ。』と反対の脇の羽の下を見せると、成程其所にも血があつた。 『五匁弾だもの。恁う貫通されでヤ人だつて直ぐ死んで了ふせえ。』  人だつて死ぬと聞いて、私は妙な身顫を感じた。  軈て父は廻状の様なものを書いて、下男に持たしてやると、役場からは禿頭の村長と睡さうな収入役、学校の太田先生も、赧顔の富樫巡査も、皆莞爾して遣つて来て、珍らしい雁の御馳走で、奥座敷の障子を開け放ち、酔興にも雪見の酒宴が始まつた。  其時も叔父は、私にお銭を呉れる事を忘れなかつた。母は例の如く不興な顔をして叔父を見てゐたが、四周に人の居なくなつた時、 『源作や。』と小声で言つた。 『何せえ?』 『お前、まだ善くねえ事して来たな?』と怨めしさうに見る。 『可えでば、黙つてるだあ。』 『そだつてお前、過般も下田の千太爺の宅で、巡査に踏込まれて四人許り捕縛られた風だし、俺ア真に心配で……』 『莫迦な。』 『何ア莫迦だつて? 家の事も構ねえで、毎日飲んで博つて許りゐたら、高田の家ア奈何なるだべサ。そして万一捕縛られでもしたら……』 『何有、姉や心配無えでヤ。何の村さ行つたて、俺の酒呑んでゐねえ巡査一人だつて無えがら。』 『そだつてお前……』 『可えでヤ。』と言つた叔父の声は稍高かつた。『それよりや先づ鍋でも掛けたら可がべ。お静ツ子(私の姉)、徳利出せ、徳利出せ。俺や燗つけるだ。折角の雁汁に正宗、綺麗な白い手でお酌させだら、もつと好がべにナ。』と一人で陽気になつて、三升樽の口栓の抜けないのを、横さまに拳で擲つてゐた。  母は気が弱いので、既う目尻を袖口で拭つて、何か独りで囁呍吩けられたなりに、大鍋をガチヤ〳〵させて棚から下してゐた。それを見ると私は、妙に母を愍む様な気持になつて、若し那麽事を叔父の顔を見る度に言つて、万一叔父が怒る様な事があつたら、母は奈何する積りだらうと、何だか母の思慮の足らないのが歯痒くて、それよりは叔父が恁うして来た時には、口先許りでも礼を言つて喜ばせて置いたら可からう、などと早老た事を考へてゐた。それと共に、母の小言などは屁とも思はぬ態度やら、赤黒い顔、強さうな肥つた体、巡査、鉄砲、雁の血、などが一緒になつて、何といふ事もなく叔父を畏れる様な心地になつた。然しそれは、酒を喰ひ、博奕をうち、喧嘩をするから畏れるといふのではなく、其時の私には、世の中で源作叔父程豪い人がない様に思はれたのだ。土地でこそ左程でもないが、隣村へでも行つたら、屹度衆人が叔父の前へ来て頭を下げるだらう。巡査だつて然うに違ひない。時々持つて来る鶏や鴨は、其巡査が帰りの土産に呉れてよこしたのかも知れぬ。今朝だつて、鍛冶の忰といふ奴が、雁を二羽撃つて来た時、叔父が見て一羽売らないかと言ふと、「お前様ならタダで上げます。」と言つて、怎うしてもお銭を請取らなかつただらう、などと、取留もない事を考へて、畏る畏る叔父を見た。叔父は、内赤に塗つた大きい提子に移した酒を、更に徳利に移しながら、莞爾いた眼眸で眤と徳利の口を瞶めてゐた。      五  巡吉の直ぐ下の妹(名前は忘れた。)が、五歳許りで死んだ。三日許り病んで、夜明方に死んだので何病気だつたか知らぬが、報知の来たのは、私がまだ起きないうちだつた。父は其日一日叔父の家に行つてゐた。夕方になつて、私も母に伴れられて行つた。(未完) 〔生前未発表・明治四十一年七月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1986(昭和61)年12月15日初版第6刷発行 ※生前未発表、1908(明治41)年5~6月執筆のこの作品の本文を、底本は、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿によっています。 入力:林 幸雄 校正:川山隆 ファイル作成: 2008年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 親しい人の顔が、時として、凝乎と見てゐる間に見る見る肖ても肖つかぬ顔――顔を組立ててゐる線と線とが離れ〳〵になつた様な、唯不釣合な醜い形に見えて来る事がある。それと同じ様に、自分の周囲の総ての関係が、亦時として何の脈絡も無い、唯浅猿しく厭はしい姿に見える。――恁うした不愉快な感じに襲はれる毎に、私は何の理由もなき怒り――何処へも持つて行き処の無い怒を覚える。  双肌脱いだ儘仰向に寝転んでゐると、明放した二階の窓から向ひの氷屋の旗と乾き切つた瓦屋根と真白い綿を積み重ねた様な夏の雲とが見えた。旗は戦と風もない炎天の下に死んだ様に低頭れて襞一つ揺がぬ。赤い縁だけが、手が触つたら焼けさうに思はれる迄燃えてゐる。  私も、手も足も投出した儘動かなかつた。恰も其氷屋の旗が、何かしら為よう〳〵と焦心り乍ら、何もせずにゐる自分の現在の精神の姿の様にも思はれた。そして私の怒りは隣室でバタ〳〵団扇を動かす家の者の気勢にも絶間なく煽られてゐた。胸に湧出る汗は肋骨の間を伝つてチヨロリ〳〵と背の方へ落ちて行つた。  不図、優しい虫の音が耳に入つた。それは縁日物の籠に入れられて氷屋の店に鳴くのである。――私は昔自分の作つた歌をゆくりなく旅先で聴く様な気がした。そして、正直のところ、嬉しかつた。幼馴染の浪漫的――優しい虫の音は続いて聞えた――  それも暫時。夏ももう半ばを過ぎるのだと思ふと、汗に濡れた肌の気味の悪さ。一体何を自分は為る事があるのだらうと思ひ乍ら、私は復死んだ様な氷屋の旗を見た。
底本:「日本の名随筆18 夏」作品社    1984(昭和59)年4月25日第1刷発行 底本の親本:「石川啄木全集 第四巻」筑摩書房    1980(昭和55)年3月 初出:「東京毎日新聞」    1909(明治42)年8月 入力:砂場清隆 校正:菅野朋子 2000年6月3日公開 2005年11月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000811", "作品名": "氷屋の旗", "作品名読み": "こおりやのはた", "ソート用読み": "こおりやのはた", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東京毎日新聞」1909(明治42)年8月", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-06-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card811.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆18 夏", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月25日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "石川啄木全集 第四巻", "底本の親本出版社名1": "筑摩書房", "底本の親本初版発行年1": "1980(昭和55)年3月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "菅野朋子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/811_ruby_20503.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/811_20504.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
  夏の街の恐怖 焼けつくやうな夏の日の下に おびえてぎらつく軌条の心。 母親の居睡りの膝から辷り下りて 肥った三歳ばかりの男の児が ちょこ〳〵と電車線路へ歩いて行く。 八百屋の店には萎えた野菜。 病院の窓掛は垂れて動かず。 閉された幼稚園の鉄の門の下には 耳の長い白犬が寝そべり、 すべて、限りもない明るさの中に どこともかく、芥子の花が死落ち 生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。 病身の氷屋の女房が岡持を持ち、 骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、 横町の下宿から出て進み来る、 夏の恐怖に物も言はぬ脚気患者の葬りの列。 それを見て辻の巡査は出かゝった欠伸噛みしめ、 白犬は思ふさまのびをして 塵溜の蔭に行く。 焼けつくやうな夏の日の下に、 おびえてぎらつく軌条の心。 母親の居睡りの膝から辷り下りて 肥った三歳ばかりの男の児が ちょこ〳〵と電車線路へ歩いて行く。   起きるな 西日をうけて熱くなった 埃だらけの窓の硝子よりも まだ味気ない生命がある。 正体もなく考へに疲れきって、 汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、 硝子越しの夏の日が毛脛を照し、 その上に蚤が這ひあがる。 起きるな、起きるな、日の暮れるまで。 そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。 何処かで艶いた女の笑ひ声。   事ありげな春の夕暮 遠い国には戦があり…… 海には難破船の上の酒宴…… 質屋の店には蒼ざめた女が立ち、 燈光にそむいてはなをかむ。 其処を出て来れば、路次の口に 情夫の背を打つ背低い女―― うす暗がりに財布を出す。 何か事ありげな―― 春の夕暮の町を圧する 重く淀んだ空気の不安。 仕事の手につかぬ一日が暮れて、 何に疲れたとも知れぬ疲がある。 遠い国には沢山の人が死に…… また政庁に推寄せる女壮士のさけび声…… 海には信天翁の疫病 あ、大工の家では洋燈が落ち、 大工の妻が跳び上る。   柳の葉 電車の窓から入って来て、 膝にとまった柳の葉―― 此処にも凋落がある。 然り。この女も 定まった路を歩いて来たのだ―― 旅鞄を膝に載せて、 やつれた、悲しげな、しかし艶かしい、 居睡を初める隣の女。 お前はこれから何処へ行く?   拳 おのれより富める友に愍まれて、 或はおのれより強い友に嘲られて くゎっと怒って拳を振上げた時、 怒らない心が、 罪人のやうにおとなしく、 その怒った心の片隅に 目をパチ〳〵して蹲ってゐるのを見付けた―― たよりなさ。 あゝ、そのたよりなさ。 やり場にこまる拳をもて、 お前は 誰を打つか。 友をか、おのれをか、 それとも又罪のない傍らの柱をか
底本:「日本の文学15」中央公論社    1967(昭和42)年6月5日初版発行    1973(昭和48)年7月30日10版発行 ※旧仮名の拗音、促音を小書きする底本本文の扱いを、ルビにも適用しました。 入力:蒋龍 校正:川山隆 2008年5月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047891", "作品名": "心の姿の研究", "作品名読み": "こころのすがたのけんきゅう", "ソート用読み": "こころのすかたのけんきゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 911", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-06-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card47891.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の文学 15 石川啄木・正岡子規・高浜虚子", "底本出版社名1": "中央公論社", "底本初版発行年1": "1967(昭和42)年6月5日", "入力に使用した版1": "1973(昭和48)年7月30日10版", "校正に使用した版1": "1967(昭和42)年6月5日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "蒋龍", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47891_ruby_30729.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-05-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47891_31511.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-05-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 半生を放浪の間に送つて來た私には、折にふれてしみじみ思出される土地の多い中に、札幌の二週間ほど、慌しい樣な懷しい記憶を私の心に殘した土地は無い。あの大きい田舍町めいた、道幅の廣い物靜かな、木立の多い洋風擬ひの家屋の離れ〴〵に列んだ――そして甚麽大きい建物も見涯のつかぬ大空に壓しつけられてゐる樣な石狩平原の中央の都の光景は、やゝもすると私の目に浮んで來て、優しい伯母かなんぞの樣に心を牽引ける。一年なり、二年なり、何時かは行つて住んで見たい樣に思ふ。  私が初めて札幌に行つたのは明治四十年の秋風の立初めた頃である。――それまで私は凾館に足を留めてゐたのだが、人も知つてゐるその年八月二十五日の晩の大火に會つて、幸ひ類燒は免れたが、出てゐた新聞社が丸燒になつて、急には立ちさうにもない。何しろ、北海道へ渡つて漸々四ヶ月、内地(と彼地ではいふ)から家族を呼寄せて家を持つた許りの事で、土地に深い親みは無し、私も困つて了つた。其處へ道廳に勤めてゐる友人の立見君が公用旁々見舞に來て呉れたので、早速履歴書を書いて頼んで遣り、二三度手紙や電報の往復があつて、私は札幌の××新聞に行く事に決つた。條件は餘り宜くなかつたが、此際だから腰掛の積りで入つたがよからうと友人からも言つて來た。  私は少し許りの疊建具を他に讓る事にして旅費を調へた。その時は、凾館を發つ汽車汽船が便毎に「燒出され」の人々を滿載してゐた頃で、其等の者が續々入込んだ爲に、札幌にも小樽にも既う一軒の貸家も無いといふ噂もあり、且は又、先方へ行つて直ぐ家を持つだけの餘裕も無しするから、家族は私の後から一先づ小樽にゐた姉の許へ引上げる事にした。  九月十何日かであつた。降り續いた火事後の雨が霽ると、傳染病發生の噂と共に底冷のする秋風が立つて、家を失ひ、職を失つた何萬の人は、言ひ難き物の哀れを一樣に味つてゐた。市街の大半を占めてゐる燒跡には、假屋建ての鑿の音が急がしく響き合つて、まだ何處となく物の燻る臭氣の殘つてゐる空氣に新らしい木の香が流れてゐた。數少ない友人に送られて、私は一人夜汽車に乘つた。  翌曉小樽に着く迄は、腰下す席もない混雜で、私は一晩車室の隅に立ち明した。小樽で下車して、姉の家で朝飯を喫め、三時間許りも假寢をしてからまた車中の人となつた。車輪を洗ふ許りに涵々と波の寄せてゐる神威古潭の海岸を過ぎると、錢凾驛に着く。汽車はそれから眞直に石狩の平原に進んだ。  未見の境を旅するといふ感じは、犇々と私の胸に迫つて來た。空は低く曇つてゐた。目を遮ぎる物もない曠野の處々には人家の屋根が見える。名も知らぬ灌木の叢生した箇處がある。沼地がある――其處には蘆荻の風に騷ぐ状が見られた。不圖、二町とは離れぬ小溝の縁の畔路を、赤毛の犬を伴れた男が行く。犬が不意に驅け出した。男は膝まづいた。その前に白い煙がパッと立つた――獵犬だ。蘆荻の中から鴫らしい鳥が二羽、横さまに飛んで行くのが見えた。其向ふには、灌木の林の前に茫然と立つて汽車を眺めてゐる農夫があつた。  恁くして北海道の奧深く入つて行くのだ。恁くして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇しい戰ひを戰つてゐる北海道の生活の、だん〳〵底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。――その時はまだ私の心も單純であつた。既にその劇しい戰ひの中へ割込み、底から底と潜り拔けて、遂々敗けて歸つて來た私の今の心に較べると、實際その時の私は單純であつた。――  小雨が音なく降り出した來た。氣が付くと、同車の人々は手廻りの物などを片付けてゐる。小娘に帶を締直して遣つてゐる母親もあつた。既う札幌に着くのかと思つて、時計を見ると一時を五分過ぎてゐた。窓から顏を出すと、行手に方つて蓊乎として木立が見え、大きい白いペンキ塗の建物も見えた。間もなく其建物の前を過ぎて、汽車は札幌驛に着いた。  乘客の大半は此處で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乘降庭に立つと、二歳になる女の兒を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに來て呉れた。 『君の家は近いね?』 『近い? どうして知つてるね?』 『子供を抱いて來てるぢやないか。』  改札口から廣場に出ると、私は一寸停つて見たい樣に思つた。道幅の莫迦に廣い停車場通りの、兩側のアカシアの街樾は、蕭條たる秋雨に遠く〳〵煙つてゐる。其下を往來する人の歩みは皆靜かだ。男も女もしめやかな戀を抱いて歩いてる樣に見える、蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。 『この逵は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼處に大きい煉瓦造りが見える。あれは五番館といふのだ。………奈何だ、氣に入らないかね?』 『好い! 何時までも住んでゐたい――』  實際私は然う思つた。  立見君の宿は北七條の西何丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を營んでゐる林といふ寡婦の家に室借りをしてゐた。立見君は其室を『猫箱』と呼んでゐた。臺所の後の、以前は物置だつたらしい四疊半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊へて立てなかつた。其狹い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰辨の立見君は、細君と女兒と三人で其麽室にゐ乍ら、時々藤村調の新體詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三册、舊新約全書、それから、今は忘れて讀めなくなったと言ふ獨逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い記念があるのだらう――などが載つてゐた。  私もその家に下宿する事になつた。尤も空間は無かつたから、停車場に迎へに來て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。  宿の内儀は既う四十位の、亡夫は道廳で可也な役を勤めた人といふだけに、品のある、氣の確乎した、言葉に西國の訛りのある人であつた。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒョロ高い、愛嬌のない寂しい顏をしてゐる癖に、思ふ事は何でも言ふといつた樣な淡白な質で、時々間違つた事を喋つては衆に笑はれて、ケロリとしてゐる兒であつた。  姉は眞佐子と言つた。その年の春、さる外國人の建ててゐる女學校を卒業したとかで、體はまだ充分發育してゐない樣に見えた。妹とは肖ても肖つかぬ丸顏の、色の白い、何處と言つて美しい點はないが、少し藪睨みの氣味なのと片笑靨のあるのとに人好きのする表情があつた。女學校出とは思はれぬ樣な温雅かな娘で、絶え〴〵な聲を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。學校では大分宗教的な教育を享けたらしい。母親は、妹の方をば時々お轉婆だ〳〵と言つてゐたが、姉には一言も小言を言はなかつた。  その外に遠い親戚だという眇目な男がゐた。警察の小使をした事があるとかで、夜分などは『現行警察法』といふ古い本を繙いてゐる事があつた。その男が内儀さんの片腕になつて家事萬端立働いてゐて、娘の眞佐子はチョイ〳〵手傳ふ位に過ぎなかつた。何でも母親の心にしては、末の手頼にしてゐる娘を下宿屋の娘らしくは育てたくなかつたのであらう。素人屋によくある例で、我々も食事の時は一同茶の間に出て食卓を圍んで食ふことになつてゐたが、内儀はその時も成るべく娘には用をさせなかつた。  或朝、私が何か搜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない繪葉書が一枚出た。青草の中に罌粟らしい花が澤山咲き亂れてゐる、油繪まがひの繪であつた。不圖、其處へ妹娘の民子が入つて來て、 『マア、綺麗な…………』 と言つて覗き込む。 『上げませうか?』 『可くつて?』  手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、 『これ、何の花?』 『罌粟。』 『恁麽花、いつか姉ちやんも畫いた事あつてよ。』  すると、其日の晝飯の時だ。私は例の如く茶の間に行つて同宿の人と一緒に飯を食つてゐると、風邪の氣味だといつて學校を休んで、咽喉に眞綿を捲いてゐる民子が窓側で幅の廣い橄欖色の飾紐を弄つてゐる。それを見付けた母親は、 『民イちやん、貴女何ですそれ、また姉さんの飾紐を。』 『貰つたの。』とケロリとしてゐる。 『嘘ですよウ。其麽色はまだ貴女に似合ひませんもの、何で姉さんが上げるものですか?』 『眞箇。ホラ、今朝島田さんから戴いた綺麗な繪葉書ね、姉ちやんが、あれを取上げて奈何しても返さないから、代りに此を貰つたの。』 『そんなら可いけど、此間も眞佐アちやんの繪具を那麽にして了うたぢやありませんか』  私は列んでゐた農科大學生と話をし出した。  それから、飯を濟まして便所に行つて來ると、眞佐子は例の場所に座つて、(其處は私の室の前、玄關から續きの八疊間で、家中の人の始終通る室だが、眞佐子は外に室がないので其處の隅ッコに机や本箱を置いてゐた。)編物に倦きたといふ態で、片肘を机に突き、編物の針で小さい硝子の罎に插した花を突ついてゐた。豌豆の花の少し大きい樣な花であつた。 『何です、その花?』と私は何氣なく言つた。 『スヰイトピーです。』  よく聞えなかつたので聞直すと、 『あの遊蝶花とか言ふさうで御座います。』 『さうですか、これですかスヰイトピーと言ふのは。』 『お好きで被入いますか?』 『さう!可愛らしい花ですね。』  見ると、耳の根を仄のり紅くしてゐる。私は其儘室に入らうとすると、何時の間にか民子が來て立つてゐて、 『島田さん、もう那麽繪葉書無くつて?』 『ありません。その内にまた好いのを上げませう。』 『マア、お客樣に其麽事言ふと、母さんに叱られますよ。』と、姉が妹を譴める。 『ハハヽヽヽ。』と輕く笑つて、私は室に入つて了つた。 『だつて、折角戴いたのは姉ちやんが取上げたんだもの…………』と、民子が不平顏をして言つてる樣子。  眞佐子は、口を抑へる樣にして何か言つて慰めてゐた。  私は毎日午後一時頃から社に行つて、暗くなる頃に歸つて來る。その日は歸途に雨に會つて來て、食事に茶の間に行くと外の人は既う濟んで私一人限だ。内儀は私に少し濡れた羽織を脱がせて、眞佐子に切爐の火で乾させ乍ら、自分は私に飯を裝つて呉れてゐた。火に翳した羽織からは湯氣が立つてゐる。思つたよりは濡れてゐると見えて却々乾せない。好い事にして私は三十分の餘も内儀相手にお喋舌をしてゐた。  その翌日、私の妻が來た。既う凾館からは引上げて小樽に來てゐるのであるが、さう何時までも姉の家に厄介になつても居られないので、それやこれやの打合せに來たのだ。私の子供は生れてやつと九ヶ月にしかならなかつたが、來ると直ぐ忘れないでゐて私に手を延べた。  が、心がけては居たのだが、空家、せめて二間位の空間と思つても、それすらありさうになかつた。困つて了つて宿の内儀に話をすると、 『然うですねえ。それでは恁うなすつちや如何でせう。貴方のお室は八疊ですから、お家の見付かるまで當分此處で我慢をなさる事になすつては? さうなれば目形さんには別の室に移つて頂くことに致しますから。何で御座いませう、貴方方もお三人限……?』 『まだ年老つた母があります。外にもあるんですが、それは今直ぐ來なくても可いんです。』 『マァ然うですか、阿母さんも御一緒に! ………それにしても立見さんの方よりは窮屈でない譯ですわねえ、當分の事ですから。』  話はそれに決つて、妻は二三日中に家財を纏めて來ることになつた。女同志は重寶なもので、妻は既う内儀と種々生計向の話などをしてゐる。  眞佐子は、妻の來るとから私の子供を抱いて、のべつに頬擦りをし乍ら、家の中を歩いたり、外へ行つたりしてゐた。泣き出しさうにならなければ妻の許に伴れて來ない。 『小便しては可けませんから。』と妻が言つても、 『否、構ひませんから、も少し借して下さい。』と言つて却々放さない。母親は笑つて居た。  二人限になつた時、妻は何かの序に恁麽事を言つた。 『眞佐子さんは少し藪睨みですね。穩しい方でせう。』  軈て出社の時刻になつた。玄關を出ると、其處からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた眞佐子が立つてゐた。私を見ると、 『あれ、父樣ですよ。父樣ですよ。』と言つて子供に教へる。 『重くありませんか、其麽に抱いてゐて?』 『否、孃ちやん、サア、お土産を買つて來て下さいツて、マア何とも仰しやらない!』 と言ひながら、耐らないと言つた態に頬擦りをする。赤兒を可愛がる處女には男の心を擽る樣な點がある。私は二三歩眞佐子に近づいたが、氣がつくと玄關にはまだ妻が立つてるので、其儘門外へ出て了つた。  歸つて來た時は、小樽へ歸る私の妻を停車場まで見送りに行つた眞佐子も、今し方歸つた許りといふところであつた。その晩は、立見君は牧師の家に出かけて行つたので、私は室にゐて手紙などを書いた。茶の間からは女達の話聲が聞える。眞佐子は私の子供の可愛かつた事を頻りに數へ立てゝてゐる、立見君の細君もそれに同じてはゐたが、何となく氣の乘らぬ聲であつた。  翌日は社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になつた。後藤君はその日缺勤した。歸つて來て寢ころんでゐると、後藤君が相變らずの要領を得ない顏をして入つて來て、 『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ來給へ。僕は他を廻つてそれ迄に歸つてるから。』 と言つて出て行つた。直ぐ戻つて來て私を玄關に呼出すから、何かと思ふと、 『君、祕密な話だから、一人で來てくれ給へ。』 『好し、一體何だね? 何か事件が起つたのかね?』 『君、聲が高いよ。大に起つた事があるさ。吾黨の大事だ。』と、黄色い齒を出しかけたが、直ぐムニャ〳〵と口を動かして、『兎に角來給へ。成るべく僕の處へ來るのを誰にも知らせない方が好いな。』  そして右の肩を揚げ、薄い下駄を引擦る樣にして出て行つて了つた。「よく祕密にしたがる男だ!」と私は思つた。  私はその晩の事が忘られない。  夕飯が濟むと、立見君と目形君は、教會に行くと言つて、私にも同行を勸めた。私は社長の宅へ行く用があると言つて斷つた。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行つた。  座にはS――新聞の二面記者だといふ男がゐた。後藤君は私を其男に紹介した。私は、その男が所謂「祕密の相談」に關係があるのか、無いのか、一寸判斷に困つた。片目の小さい、始終唇を甜め廻す癖のある、鼻の先に新聞記者がブラ下つてる樣な擧動や物言ひをする、可厭な男であつた。  少し經つと、後藤君は私に、 『君は既う先に行つたのかと思つてゐた。よく誘つて呉れたね。』  これで了解めたから、私も可加減にバツを合せた。そして、 『まだ七時頃だらうね?』 『奈何して、奈何して、既う君八時ぢやないか知ら。』 『待ち給へ。』とS――新聞の記者が言つて、帶の間の時計を出して見た。『七時四十分。何處かへ行くのかね?』 『あゝ、七時半までの約束だつたが――』 『然うか。それでは僕の長居が邪魔な譯だね。近頃は方々で邪魔にしやがる。處で行先は何處だ?』 『ハハヽヽ。然う一々他の行先に干渉しなくても可いぢやないか。』 『祕すな! 何有、解つてるよ、確乎と解つてるよ。高が君等の行動が解らん樣では、これで君、札幌は狹くつても新聞記者の招牌は出されないからね。』 『凄じいね。ところで今夜はマアそれにして置くから、お慈悲を以て、これで御免を蒙らして頂かうぢやないか?』 『好し、好し、今歸つてやるよ。僕だつて然う沒分曉漢ではないからね、先刻御承知の通り。處でと――』と、腕組をして凝乎と考へ込む態をする。 『何を考へるのだ、大先生?』 『マ、マ、一寸待つてくれ。』 『金なら持つてないぜ。』 『畜生奴! ハハヽヽ、先を越しやがつた。何有、好し、好し、まだ二三軒心當りがある。』 『それは結構だ。』 『冷評すない。これでも△△さんでなくては夜も日も明けないツて人が待つてるんだからね。然うだ、金崎の處へ行つて三兩許り踏手繰てやるか。――奈何だい、出懸けるなら一緒に出懸けないか?』 『何有、惡い處へは行かないから、安心して先に出て呉れ給へ。』 『莫迦に僕を邪魔にする! が、マア免して置け。その代り儲かつたら、割前を寄越さんと承知せんぞ。左樣なら。』  そして室を出しなに後を向いて、 『君等ア薄野(遊廓)に行くんぢやないのか?』と狐疑深い目付をした。  その男を送出して室に歸ると、後藤君は落膽した樣な顏をして眉間に深い皺を寄せてゐた。 『遂々追出してやつた、ハハヽヽ。』と笑ひ乍ら座つたが、張合の拔けた樣な笑聲であつた。そして、 『あれで君、彼奴はS――社中では敏腕家なんだ。』 『可厭な奴だねえ。』 『君は案外人嫌ひをする樣だね。あれでも根は好人物で、訛せるところがある。』 『但し君は人を訛すことの出來ない人だ。』 『然うか…………も知れないな。』と言つて、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、 『近頃此處が痛くて困る。少し長い物を書いたり、今の樣な奴と話をしたりすると、屹度痛くなつて來る。』 『神經痛ぢやないか知ら。』 『然うだらうと思ふ。神經衰弱に罹つてから既う三年許りになるから喃。』 『醫者には?』 『かゝらない、外の病氣と違つて藥なんかマア利かないからね。』 『でも君、構はずに置くよりア可かないか知ら。』 『第一、醫者にかゝるなんて、僕にア其麽暇は無い。』  然う言つて首を擡げたが、 『暇が無いんぢやない、實は金が無いんだ。ハハヽヽ。あるものは借金と不平ばかり。然うだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなつたからかも知れない。』  後藤君は取つてつけた樣に寂しい高笑ひをした。そして冷え切つた茶碗を口元まで持つて行つたが、不圖氣が付いた樣に、それを机の上に置いて、 『ヤア失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかつた。』 『茶なんか奈何でも可いが、それより君、話ツてな何です?』 『マア、マア、男は其麽に急ぐもんぢやない。まだ八時前だもの。』  然う言つて藥鑵の葢をとつて見ると、湯はある。出がらしになつた急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい鐵葉の茶壺を取出したが、その手付がいかにも懶さ相で、私の樣な氣の早い者が見ると、もどかしくなる位緩々してゐる。  ギシ〳〵する茶壺の葢を取つて、中葢の取手に手を掛けると、其儘後藤君は凝乎と考へ込んで了つた。左の眉の根がピクリ、ピクリと神經的に痙攣けてゐる。  やゝやあつてから、 『君、』と言つて中葢を取つたが、その儘茶壺を机の端に載せて、 『僕等も出掛けようぢやないか! 少し寒いけれど。』 『何處へ?』 『何處へでも可い。歩きながら話すんだ。此室には、(と聲を落して、目で壁隣りの室を指し乍ら、)君、S――新聞の主筆の從弟といふ奴が居るんだ。恁麽處で一時間も二時間も密談してると人に怪まれるし、第一此方も氣が塞る、歩き乍らの方が可い。』 『何をしてるね、隣の奴は?』 『其麽聲で言ふと聞えるよ。何有、道廳の學務課へ出てゐる小役人だがね。昔から壁に耳ありで、其麽處から計畫が破れるかも知れないから喃。』 『一體マア何の話だらう? 大層勿體をつけるぢやないか? 葢許り澤山あつて、中に甚麽美味い饅頭が入つてるんか、一向アテが付かない。』 『ハハヽヽ。マア出懸けようぢやないか?』  で、二人は戸外に出た。後藤君は既う葢を取つた茶壺の事は忘れて了つた樣子であつた。私は、この煮え切らぬ顏をした三十男が、物事を恁うまで祕密にする心根に觸れて、そして、見窄らしい鳥打帽を冠り、右の肩を揚げてズシリ〳〵と先に立つて階段を降りる姿を見下し乍ら、異樣な寒さを感じた。出かけない主義が、何も爲出かさぬ間に、活力を消耗して了つた立見君の半生を語る如く、後藤君の常に計畫し常に祕密にしてゐるのが、矢張またその半生の戰ひの勝敗を語つてゐた。  札幌の秋の夜はしめやかであつた。其邊は既う場末で、通り少なき廣い街路は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いてゐる十八九日許りの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、蟲が鳴いてゐた。家々の窓の火光だけが人懷しく見えた。 『あゝ、月がある!』然う言つて私は空を見上げたが、後藤君は默つて首を低れて歩いた。痛むのだらう。吹くともない風に肌が緊つた。  その儘少し歩いて行くと、區立の大きい病院の背後に出た。月が雲間に隱れて四邊が陰つた。 『やアれ、やれやれやれ――』といふ異樣の女の叫聲が病院の構内から聞えた。 『何だらう?』と私は言つた。 『狂人さ。それ、其處にあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まで那の聲が聞える事がある。』  その狂人共が暴れてるのだらう、ドン〳〵と板を敲く音がする。ハチ切れた樣な甲高い笑聲がする。 『疊たゝいて此方の人――これ、此方の人、此方の人ッたら、ホホヽヽヽヽ。』  それは鋭い女の聲であつた。私は足を緩めた。 『狂人の多くなつた丈、我々の文明が進んだのだ。ハハヽヽ。』と後藤君は言出した。『君はまだ那麽聲を聞かうとするだけ若い。僕なんかは其麽暇はない。聞えても成るべく聞かぬ樣にしてる。他の事よりア此方の事だもの。』  然うしてズシリ〳〵と下駄を引擦り乍ら先に立つて歩く。 『實際だ。』と私も言つたが、狂人の聲が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離が其時ズッと接近して來てる樣な氣がした。『後藤君も苦しいんだ!』其麽事を考へ乍ら、私は足元に眼を落して默つて歩いた。 『ところで君、徐々話を始めようぢやないか?』と後藤君は言出した。 『初めよう。僕は先刻から待つてる。』と言つたが、その實、私は既う大した話でも無い樣に思つてゐた。 『實はね、マア好い方の話なんだが、然し餘程考へなくちや決行されない點もある――』  然う言つて後藤君の話した話は次の樣なことであつた。――今度小樽に新らしい新聞が出來る。出資者はY――氏といふ名のある事業家で、創業資は二萬圓、維持費の三萬圓を年に一萬宛注込んで、三年後に獨立經濟にする計畫である。そして、社長には前代議士で道會に幅を利かしてゐるS――氏がなるといふので。 『主筆も定つてる。』と友は言葉を亞いだ。『先にH――新聞にゐた山岡といふ人で、僕も二三度面識がある、その人が今編輯局編成の任を帶びて札幌に來てゐる。實は僕にも間接に話があつたので、今日行つて打突つて見て來たのだ。』 『成程。段々面白くなつて來たぞ。』 『無論その時君の話もした。』と熱心な調子で言つた。暗い町を肩を並べて歩き乍ら、稀なる往來の人に遠慮を爲い〳〵密めた聲も時々高くなる。後藤君は暗い中で妙な手振をし乍ら、『僕の事はマア不得要領な挨拶をしたが、君の事は君さへ承知すれば直ぐ決る位に話を進めて來た。無論現在よりは條件も可ささうだ。それに君は家族が小樽に居るんだから都合が可いだらうと思ふんだ。』 『それア先アさうだ。が、無論君も行くんだらう?』 『其處だテ。奈何も其處だテ――』 『何が?』 『主筆は十月一日に第一囘編輯會議を開く迄に顏觸れを揃へる責任を受負つたんで、大分焦心つてる樣だがね。』 『十月一日! あと九日しかない。』 『然うだ。――實はね、』と言つて、後藤君は急に聲を高くした。『僕も大いに心を動かしてる。大いに動かしてゐる。』  然うして二度許り右の拳を以て空氣を切つた。 『それなら可いぢやないか?』と私も聲を高めた。『奈何せ天下の浪人共だ。何も顧慮する處はない。』 『其處だ。君はまだ若い、僕はも少し深く考へて見たいんだ。』 『奈何考へる?』 『詰りね、單に條件が可いから行くといふだけでなくね。――それは無論第一の問題だが――多少君、我々の理想を少しでも實行するに都合が好い――と言つた樣な點を見付けたいんだ。』(未完)
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 ※底本の「『奈何《どうせ》せ」は、「『奈何《どう》せ」」にあらためました。 ※疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2003年10月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 半生を放浪の間に送つて来た私には、折にふれてしみ〴〵思出される土地の多い中に、札幌の二週間ほど、慌しい様な懐しい記憶を私の心に残した土地は無い。あの大きい田舎町めいた、道幅の広い、物静かな、木立の多い、洋風擬ひの家屋の離れ〴〵に列んだ――そして甚麽大きい建物も見涯のつかぬ大空に圧しつけられてゐる様な、石狩平原の中央の都の光景は、やゝもすると私の目に浮んで来て、優しい伯母かなんぞの様に心を牽引ける。一年なり、二年なり、何時かは行つて住んで見たい様に思ふ。  私が初めて札幌に行つたのは明治四十年の秋風の立初めた頃である。――それまで私は函館に足を留めてゐたのだが、人も知つてゐるその年八月二十五日の晩の大火に会つて、幸ひ類焼は免れたが、出てゐた新聞社が丸焼になつて、急には立ちさうにもない。何しろ、北海道へ渡つて漸々四ヶ月、内地(と彼地ではいふ。)から家族を呼寄せて家を持つた許りの事で、土地に深い親みは無し、私も困つて了つた。其処へ道庁に勤めてゐる友人の立見君が公用旁々見舞に来て呉れたので、早速履歴書を書いて頼んで遣り、二三度手紙や電報の往復があつて、私は札幌の××新聞に行く事に決つた。条件は余り宜くなかつたが、此際だから腰掛の積りで入つたがよからうと友人からも言つて来た。  私は少し許りの畳建具を他に譲る事にして旅費を調へた。その時は、函館を発つ汽車汽船が便毎に「焼出され」の人々を満載してゐた頃で、其等の者が続々入込んだ為に、札幌にも小樽にも既う一軒の貸家も無いといふ噂もあり、且は又、先方へ行つて直ぐ家を持つだけの余裕も無しするから、家族は私の後から一先づ小樽にゐた姉の許へ引上げる事にした。  九月十何日かであつた。降り続いた火事後の雨が霽ると、伝染病発生の噂と共に底冷のする秋風が立つて、家を失ひ、職を失つた何万の人は、言ひ難き物の哀れを一様に味つてゐた。市街の大半を占めてゐる焼跡には、仮屋建ての鑿の音が急がしく響き合つて、まだ何処となく物の燻る臭気の残つてゐる空気に新らしい木の香が流れてゐた。数少い友人に送られて、私は一人夜汽車に乗つた。  翌暁小樽に着く迄は、腰下す席もない混雑で、私は一夜車室の隅に立ち明した。小樽で下車して、姉の家で朝飯を喫め、三時間許りも仮寝をしてからまた車中の人となつた。車輪を洗ふ許りに涵々と波の寄せてゐる神威古潭の海岸を過ぎると、銭函駅に着く。汽車はそれから真直に石狩の平原に進んだ。  未見の境を旅するといふ感じは、犇々と私の胸に迫つて来た。空は低く曇つてゐた。目を遮ぎる物もない曠野の処々には人家の屋根が見える。名も知らぬ灌木の叢生した箇処がある。沼地がある――其処には蘆荻の風に騒ぐ状が見られた。不図、二町とは離れぬ小溝の縁の畔路を、赤毛の犬を伴れた男が行く。犬が不意に駆け出した。男は膝まづいた。その前に白い煙がパツと立つた――猟夫だ。蘆荻の中から鴫らしい鳥が二羽、横さまに飛んで行くのが見えた。其向ふには、灌木の林の前に茫然と立つて、汽車を眺めてゐる農夫があつた。  恁くして北海道の奥深く入つて行くのだ。恁くして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇しい戦ひを戦つてゐる北海道の生活の、だん〳〵底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。――その時はまだ私の心も単純であつた。既にその劇しい戦ひの中へ割込み、底から底と潜り抜けて、遂々敗けて帰つて来た私の今の心に較べると、実際その時の私は、単純であつた――  小雨が音なく降り出した来た。気が付くと、同車の人々は手廻りの物などを片付けてゐる。小娘に帯を締直して遣つてゐる母親もあつた。既う札幌に着くのかと思つて、時計を見ると一時を五分過ぎてゐた。窓から顔を出すと、行手に方つて蓊乎とした木立が見え、大きい白ペンキ塗の建物も見えた。間もなく其建物の前を過ぎて、汽車は札幌駅に着いた。  乗客の大半は此処で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乗降庭に立つと、二歳になる女の児を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに来て呉れた。 『君の家は近いね?』 『近い。どうして知つてるね?』 『子供を抱いて来てるぢやないか。』  改札口から広場に出ると、私は一寸立停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤの街樾は、蕭条たる秋の雨に遠く〳〵煙つてゐる。其下を往来する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様に見える。蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。 『この逵は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼処に大きい煉瓦造りが見える。あれは五号館といふのだ。……奈何だ、気に入らないかね?』 『好い! 何時までも住んでゐたい――』  実際私は然う思つた。  立見君の宿は北七条の西○丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を営んでゐる林といふ寡婦の家に室借りをしてゐた。立見君は其室を「猫箱」と呼んでゐた。台所の後の、以前は物置だつたらしい四畳半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊へて立てなかつた。其狭い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰弁の立見君は、細君と女児と三人で其麽室にゐ乍ら、時々藤村調の新体詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三冊、旧新約全書、それから、今は忘れて読めなくなつたと言ふ独逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い紀念があるのだらう――などが載つてゐた。  私もその家に下宿する事になつた。尤も明間は無かつたから、停車場に迎へに来て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。  宿の内儀は既う四十位の、亡夫は道庁で可也な役を勤めた人といふだけに、品のある、気の確乎した、言葉に西国の訛りのある人であつた。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒヨロ高い、愛嬌のない寂しい顔をしてゐる癖に、思ふ事は何でも言ふといつた様な淡白な質で、時々間違つた事を喋つては衆に笑はれて、ケロリとしてゐる児であつた。  姉は真佐子と言つた。その年の春、さる外国人の建てゝゐる女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育してゐない様に見えた。妹とは肖ても肖つかぬ丸顔の、色の白い、何処と言つて美しい点はないが、少し藪睨みの気味なのと片笑靨のあるのとに人好きのする表情があつた。女学校出とは思はれぬ様な温雅かな娘で、絶え〴〵な声を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。母親は、妹の方をば時々お転婆だ〳〵と言つてゐたが、姉には一言も小言を言はなかつた。  その外に遠い親戚だという眇目な男がゐた。警察の小使をした事があるとかで、夜分などは「現行警察法」といふ古い本を繙いてゐる事があつた。その男が内儀の片腕になつて家事万端立働いてゐて、娘の真佐子はチヨイ〳〵手伝ふ位に過ぎなかつた。何でも母親の心にしては、末の手頼にしてゐる娘を下宿屋の娘らしくは育てたくなかつたのであらう。素人屋によくある例で、我々も食事の時は一同茶の間に出て、食卓を囲んで食ふことになつてゐたが、内儀はその時も成るべく娘には用をさせなかつた。  或朝、私が何か捜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない絵葉書が一枚出た。青草の中に罌粟らしい花の沢山咲き乱れてゐる、油絵まがひの絵であつた。不図、其処へ妹娘の民子が入つて来て、 『マア、綺麗な……』 と言つて覗き込む、 『上げませうか?』 『可くつて?』  手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、 『これ、何の花?』 『罌粟。』 『恁麽花、いつか姉ちやんも画いた事あつてよ。』  すると、其日の昼飯の時だ。私は例の如く茶の間に行つて同宿の人と一緒に飯を食つてゐると、風邪の気味だといつて学校を休んで、咽喉に真綿を捲いてゐる民子が窓側で幅の広い橄欖色の飾紐を弄つてゐる。それを見付けた母親は、 『民イちやん、貴女何ですそれ、また姉さんの飾紐を。』 『貰つたの。』とケロリとしてゐる。 『嘘ですよウ。其麽色はまだ貴女に似合ひませんもの、何で姉さんが上げるものですか?」 『真箇。ホラ、今朝島田さんから戴いた綺麗な絵葉書ね、姉ちやんがあれを取上げて奈何しても返さないから、代りに此を貰つたの。』 『そんなら可いけれど、此間も真佐アちやんの絵具を那麽にして了うたぢやありませんか?」  私は列んでゐた農科大学生と話をし出した。  それから、飯を済まして便所に行つて来ると、真佐子は例の場所に坐つて、(其処は私の室の前、玄関から続きの八畳間で、家中の人の始終通る室だが、真佐子は外に室がないので、其処の隅ツコに机や本箱を置いてゐた。)編物に倦きたといふ態で、片肘を机に突き、編物の針で小さい硝子の罎に揷した花を突ついてゐた。豌豆の花の少し大きい様な花であつた。 『何です、その花?』と私は何気なく言つた。 『スヰイトビインです。』  よく聞えなかつたので聞直すと、 『あの、遊蝶花とか言ふさうで御座います。』 『さうですか。これですかスヰイトビインと言ふのは。』 『お好きで被入いますか?』 『さう! 可愛らしい花ですね。』  見ると、耳の根を仄のり紅くしてゐる。私は其儘室に入らうとすると、何時の間にか民子が来て立つてゐて、 『島田さん、もう那麽絵葉書無くつて?』 『有りません。その内にまた好いのを上げませう。』 『マア、お客様に其麽事言ふと、母さんに叱られますよ。』 と、姉が妹を譴める。 『ハハヽヽ。』と軽く笑つて、私は室に入つて了つた。 『だつて、切角戴いたのは姉ちやんが取上げたんだもの……』と、民子が不平顔をして言つてる様子。  真佐子は、口を抑へる様にして何か言つて慰めてゐた。  私は毎日午後一時頃から社に行つて、暗くなる頃に帰つて来る。その日は帰途に雨に会つて来て、食事に茶の間に行くと、外の人は既う済んで私一人限だ。内儀は私に少し濡れた羽織を脱がせて、真佐子に切炉の火で乾させ乍ら、自分は私に飯を装つて呉れてゐた。火に翳した羽織からは湯気が立つてゐる。思つたよりは濡れてゐると見えて却々乾せない。好い事にして私は三十分の余も内儀相手にお喋舌をしてゐた。  その翌日、私の妻が来た。既う函館からは引上げて小樽に来てゐるのであるが、さう何時までも姉の家に厄介になつても居られないので、それやこれやの打合せに来たのだ。私の子供は生れてやつと九ヶ月にしかならなかつたが、来ると直ぐ忘れないでゐて私に手を延べた。  が、心がけては居たつたが、空家、せめて二間位の空間と思つても、それすら有りさうになかつた。困つて了つて宿の内儀に話をすると、 『然うですねえ。それでは恁うなすつちや如何でせう、貴方のお室は八畳ですから、お家の見付かるまで当分此処で我慢をなさる事になすつては? さうなれば目形さんには別の室に移つて頂くことに致しますから。何で御座いませう、貴方方もお三人限……?』 『まだ年老つた母があります。外にもあるんですが、それは今直ぐ来なくても可いんです。』 『マア然うですか、阿母さんも御一緒に! ……それにしても立見さんの方よりは窮屈でない訳ですわねえ、当分の事ですから。』  話はそれに決つて、妻は二三日中に家財を纏めて来ることになつた。女同志は重宝なもので、妻は既う内儀と種々生計向の話などをしてゐる。  真佐子は、妻の来るとから私の子供を抱いて、のべつに頬擦りをし乍ら、家の中を歩いたり、外へ行つたりしてゐた。泣き出しさうにならなければ妻の許に伴れて来ない。 『小便しては可けませんから。』と妻が言つても、 『否、構ひませんから、も少し借して下さい。』と言つて却々放さない。母親は笑つてゐた。  二人限になつた時、妻は何かの序に恁麽事を言つた。 『真佐子さんは少し藪睨みですね。穏しい方でせう。』  軈て出社の時刻になつた。玄関を出ると、其処からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立つてゐた。私を見ると、 『あれ、父様ですよ、父様ですよ。』と言つて子供に教へる。 『重くありませんか、其麽に抱いてゐて?』 『否、嬢ちやん、サア、お土産を買つて来て下さいツて。マア何とも仰しやらない!』 と言ひながら、耐らないと言つた態に頬擦りをする。赤児を可愛がる処女には男の心を擽る様な点がある。私は二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立つてるので、其儘門外へ出て了つた。  帰つて来た時は、小樽へ帰る私の妻を停車場まで見送りに行つた真佐子も、今し方帰つた許りといふところであつた。その晩は、立見君は牧師の家に出かけて行つたので、私は室にゐて手紙などを書いた。茶の間からは女達の話声が聞える。真佐子は私の子供の可愛かつた事を頻りに数へ立てゝゐる、立見君の細君もそれに同じてはゐたが、何となく気の乗らぬ声であつた。  翌日は社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になつた。後藤君はその日欠勤した。帰つて来て寝ころんでゐると、後藤君が相変らずの要領を得ない顔をして入つて来て、 『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ来給へ。僕は他を廻つてそれ迄に帰つてるから。』 と言つて出て行つた。直ぐ戻つて来て私を玄関に呼出すから、何かと思ふと、 『君、秘密な話だから、一人で来てくれ給へ。』 『好し。一体何だね? 何か事件が起つたのかね?』 『君、声が高いよ。大に起つた事があるさ。吾党の大事だ。』と、黄色い歯を出しかけたが、直ぐムニヤ〳〵と口を動かして、『兎に角来給へ。成るべく僕の処へ来るのを誰にも知らせない方が好いな。』  そして、右の肩を揚げ、薄い下駄を引擦る様にして出て行つて了つた。「よく秘密にしたがる男だ!」と私は思つた。  私はその晩の事が忘られない。  夕飯が済むと、立見君と目形君は教会に行くと言つて、私にも同行を勧めた。私は社長の宅へ行く用があると言つて断つた。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行つた。  座にはS――新聞の二面記者だといふ男がゐた。後藤君は私を其男に紹介せた。私は、その男が所謂「秘密の相談」に関係があるのか、無いのか、一寸判断に困つた。片目の小さい、始終唇を甜め廻す癖のある、鼻の先に新聞記者がブラ下つてる様な挙動や物言ひをする、可厭な男であつた。  少し経つと、後藤君は私に、 『君は既う先に行つたのかと思つてゐた。よく誘つて呉れたね。』  これで了解めたから、私も可加減にバツを合せた。そして、 『まだ七時頃だらうね?』 『奈何して、奈何して、既う君八時ぢやないか知ら。』 『待ち給へ。』とS――新聞の記者が言つて、帯の間の時計を出して見た。『七時四十分。何処かへ行くのかね?』 『あゝ、七時半までの約束だつたが――』 『然うか。それでは僕の長居が邪魔な訳だね。近頃は方々で邪魔にしやがる。処で行先は何処だ?』 『ハハヽヽ。然う一々他の行先に干渉しなくても可いぢやないか。』 『秘すな! 何有、解つてるよ、確乎と解つてるよ。高が君等の行動が解らん様では、これで君、札幌はいくら狭くつても新聞記者の招牌は出されないからね。』 『凄じいね。ところで今夜はマアそれにして置くから、お慈悲を以てこれで御免を蒙らして頂かうぢやないか?』 『好し、好し。今帰つてやるよ。僕だつて然う没分暁漢ではないからね、先刻御承知の通り。処でと――』と、腕組をして凝乎と考へ込む態をする。 『何を考へるのだ、大先生?』 『マ、マ、一寸待つてくれ。』 『金なら持つてないぜ。』 『畜生奴! ハハヽヽ、先を越しやがつた。何有、好し、好し、まだ二三軒心当りがある。』 『それは結構だ。』 『冷評すない。これでも△△さんでなくては夜も日も明けないツて人が待つてるんだからね。然うだ、金崎の処へ行つて三両許り踏手繰てやるか。――奈何だい、出懸けるなら一緒に出懸けないか?』 『何有、悪い処へは行かないから、安心して先に出て呉れ給へ。』 『莫迦に僕を邪魔にする! が、マア免して置け。その代り儲かつたら割前を寄越さんと承知せんぞ。左様なら。』  そして室を出しなに後を向いて、 『君等ア薄野(遊廓)に行くんぢやないのか?』と狐疑深い目付をした。  その男を送出して室に帰ると、後藤君は落胆した様な顔をして、眉間に深い皺を寄せてゐた。 『遂々追出してやつた、ハハヽヽ。』と笑ひ乍ら坐つたが、張合の抜けた様な笑声であつた。そして、 『あれで君、彼奴はS――社中では敏腕家なんだ。』 『可厭な奴だねえ。』 『君は案外人嫌ひをする様だね。あれでも根は好人物で、訛せるところがある。』 『但し君は人を訛すことの出来ない人だ。』 『然うか……も知れないな。』と言つて、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、 『近頃此処が痛くて困る。少し長い物を書いたり、今の様な奴と話をしたりすると、屹度痛くなつて来る。』 『神経痛ぢやないか知ら。』 『然うだらうと思ふ。神経衰弱に罹つてから既う三年許りになるから喃。』 『医者には?』 『かゝらない、外の病気と違つて薬なんかマア利かないからね。』 『でも君、構はずに置くよりア可かないか知ら。』 『第一、医者にかゝるなんて、僕にア其麽暇は無い。』  然う言つて首を擡げたが、 『暇が無いんぢやアない、実は金が無いんだ。ハハヽヽ。有るものは借金と不平ばかり。然うだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなつたからかも知れない。』  後藤君は取つてつけた様に寂しい高笑ひをした。そして、冷え切つた茶碗を口元まで持つて行つたが、不図気が付いた様に、それを机の上に置いて、 『ヤア失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかつた。』 『茶なんか奈何でも可いが、それより君、話ツてな何です?』 『マア、マア、男は其麽に急ぐもんぢやない。まだ八時前だもの。』  然う言つて、薬罐の蓋をとつて見ると、湯はある。出からしになつた急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい葉鉄の茶壺を取出したが、その手付がいかにも懶さ相で、私の様な気の早い者が見ると、もどかしくなる位緩々してゐる。  ギシ〳〵する茶壺の蓋を取つて、中蓋の取手に手を掛けると、其儘後藤君は凝乎と考へ込んで了つた。左の眉の根がピクリ、ピクリと神経的に痙攣けてゐる。  やゝあつてから、 『君、』と言つて中蓋を取つたが、その儘茶壺を机の端に載せて、 『僕等も出掛けようぢやないか? 少し寒いけれど。』 『何処へ?』 『何処へでも可い。歩きながら話すんだ。此室には、(と声を落して、目で壁隣りの室を指し乍ら、)君、S――新聞の主筆の従弟といふ奴が居るんだ。恁麽処で一時間も二時間も密談してると人にも怪まれるし、第一此方も気が塞る。歩き乍らの方が可い。』 『何をしてるね、隣の奴は?』 『其麽声で言ふと聞えるよ。何有、道庁の学務課へ出てゐる小役人だがね。昔から壁に耳ありで、其麽処から計画が破れるか知れないから喃。』 『一体マア何の話だらう? 大層勿体をつけるぢやないか? 蓋許り沢山あつて、中には甚麽美味い饅頭が入つてるんか、一向アテが付かない。』 『ハハヽヽ。マア出懸けようぢやないか?』  で、二人は戸外に出た。後藤君は既う蓋を取つた茶壺の事は忘れて了つた様であつた。私は、この煮え切らぬ顔をした三十男が、物事を恁うまで秘密にする心根に触れて、そして、見悄らしい鳥打帽を冠り、右の肩を揚げてズシリ〳〵と先に立つて階段を降りる姿を見下し乍ら、異様な寒さを感じた。出かけない主義が、何も為出かさぬ間に活力を消耗して了つた立見君の半生を語る如く、後藤君の常に計画し常に秘密にしてゐるのが、矢張またその半生の戦ひの勝敗を語つてゐた。  札幌の秋の夜はしめやかであつた。其辺は既う場末の、通り少なき広い街路は森閑として、空には黒雲が斑らに流れ、その間から覗いてゐる十八九日許りの月影に、街路に生えた丈低い芝草に露が光り、虫が鳴いてゐた。家々の窓の火光だけが人懐かしく見えた。 『あゝ、月がある!』然う言つて私は空を見上げたが、後藤君は黙つて首を低れて歩いた。痛むのだらう。吹くともない風に肌が緊つた。  その儘少し歩いて行くと、区立の大きい病院の背後に出た。月が雲間に隠れて四辺が蔭つた。 『やアれ、やれやれやれ――』といふ異様の女の叫声が病院の構内から聞えた。 『何だらう?』と私は言つた。 『狂人さ。それ、其処にあるのが(と構内の建物の一つを指して、)精神病患者の隔離室なんだ。夜更になると僕の下宿まで那の声が聞える事がある。』  その狂人共が暴れてるのだらう、ドン〳〵と板を敲く音がする。ハチ切れた様な甲高い笑声がする。 『畳たゝいて此方の人――これ、此方の人、此方の人ツたら、ホホヽヽヽヽ。』  それは鋭い女の声であつた。私は足を緩めた。 『狂人の多くなつた丈、我々の文明が進んだのだ。ハハヽヽ。』と後藤君は言出した。『君はまだ那麽声を聞かうとするだけ若い。僕なんかは其麽暇はない。聞えても成るべく聞かぬ様にしてる。他の事よりア此方の事だもの。』  然うしてズシリ〳〵と下駄を引擦り乍ら先に立つて歩く。 『実際だ。』と私も言つたが、狂人の声が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離が其時ズツと接近して来てる様な気がした。『後藤君も苦しいんだ!』其麽事を考へ乍ら、私は足元に眼を落して黙つて歩いた。 『ところで君、徐々話を初めようぢやないか?』と後藤君は言出した。 『初めよう。僕は先刻から待つてる。』と言つたが、その実私は既う大した話でも無い様に思つてゐた。 『実はね、マア好い方の話なんだが、然し余程考へなくちや決行されない点もある――』  然う言つて後藤君の話した話は次の様なことであつた。――今度小樽に新らしい新聞が出来る。出資者はY――氏といふ名の有る事業家で、創業費は二万円、維持費の三万円を年に一万宛注込んで、三年後に独立経済にする計画である。そして、社長には前代議士で道会に幅を利かしてゐるS――氏がなるといふので。 『主筆も定つてる。』と友は言葉を亜いだ。『先にH――新聞にゐた山岡といふ人で、僕も二三度面識がある。その人が今編輯局編成の任を帯びて札幌に来てゐる。実は僕にも間接に話があつたので、今日行つて打突つて見て来たのだ。』 『成程。段々面白くなつて来たぞ。』 『無論その時君の話もした。』と、熱心な調子で言つた。暗い町を肩を並べて歩き乍ら、稀なる往来の人に遠慮を為い〳〵、密めた声も時々高くなる。後藤君は暗い中で妙な手振をし乍ら、『僕の事はマア不得要領な挨拶をしたが、君の事は君さへ承知すれば直ぐ決る位に話を進めて来た。無論現在よりは条件も可ささうだ。それに君は家族が小樽に居るんだから都合が可いだらうと思ふんだ。』 『それア先アさうだ。が、無論君も行くんだらう?』 『其処だテ。奈何も其処だテ――』 『何が?』 『主筆は十月一日に第一回編輯会議を開く迄に顔触れを揃へる責任を受負つたんで、大分焦心つてる様だがね。』 『十月一日! あと九日しかない。』 『然うだ。――実はね、』と言つて、後藤君は急に声を高くした。『僕も大いに心を動かしてる。大いに動かしてゐる。』  然うして二度許り右の拳を以て空気を切つた。 『それなら可いぢやないか?』と私も声を高めた。 『奈何せ天下の浪人共だ。何も顧慮する処はない。』 『其処だ。君はまだ若い。僕はも少し深く考へて見たいんだ。』 『奈何考へる?』 『詰りね、単に条件が可いから行くといふだけでなくね――それは無論第一の問題だが――多少君、我々の理想を少しでも実行するに都合が好い――と言つた様な点を見付けたいんだ。』 〔生前未発表・明治四十一年八月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 ※底本解説で、小田切秀雄が、1908(明治41)年8月と執筆時期を推測する、生前未発表のこの作品のテキストは、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿「底外三篇」によっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「漸々《やうやう》四ヶ月」(P.188-上-1)をのぞいて、大振りにつくっています。 ※「欖の14かく目の「一」が「丶」」は「デザイン差」と見て「欖」で入力しました。 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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曠野  路に迷つたのだ! と氣のついた時は、此曠野に踏込んでから、もう彼是十哩も歩いてゐた。朝に旅籠屋を立つてから七八哩の間は潦に馬の足痕の新しい路を、森から野、野から森、二三度人にも邂逅した。とある森の中で、人のゐない一軒家も見た。その路から此路へ、何時、何處から迷込んだのか解らない。瞬きをしてゐる間に、誰かが自分を掻浚つて來て恁麼曠野に捨てて行つたのではないかと思はれる。  足の甲の草鞋摺が痛む。痛む足を重さうに引摺つて、旅人は蹌踉と歩いて行く。十時間の間何も食はずに歩いたので、粟一粒入つてゐない程腹が凹んでゐる。餓と疲勞と、路を失つたといふ失望とが、暗い壓迫を頭腦に加へて、一足毎に烈しくなる足の痛みが、ずきり、ずきり、鈍つた心を突く。幾何元氣を出してみても、直ぐに目が眩んで來る。耳が鳴つて來る。  戻らうか、戻らうか、と考へながら、足は矢張前に出る。戻る事にしよう。と心が決めても、身體が矢張前に動く。  涯もない曠野、海に起伏す波に似て、見ゆる限りの青草の中に、幅二尺許りの、唯一條の細道が眞直に走つてゐる。空は一面の灰色の雲、針の目程の隙もなく閉して、黒鐵の棺の蓋の如く、重く曠野を覆うてゐる。  習との風も吹かぬ。地球の背骨の大山脈から、獅子の如く咆えて來る千里の風も、遮る山もなければ抗ふ木もない、此曠野に吹いて來ては、おのづから力が拔けて死んで了ふのであらう。  日の目が見えぬので、午前とも午後とも解らないが、旅人は腹時計で算へてみて、もう二時間か三時間で日が暮れるのだと知つた。西も東も解らない。何方から來て何方へ行くとも知れぬ路を、旅人は唯前へ前へと歩いた。  軈てまた二哩許り辿つてゆくと、一條の細路が右と左に分れてゐる。  此處は恰度曠野の中央で、曠野の三方から來る三條の路が、此處に落合つてゐる。落合つた所が、稍廣く草の生えぬ赤土を露はしてゐて、中央に一つ潦がある。  潦の傍には、鋼線で拵へた樣な、骨と皮ばかりに痩せて了つた赤犬が一疋坐つてゐた。  犬は旅人を見ると、なつかしげにぱたぱた細い尾を動かしたが、やをら立上つて蹌踉と二三歩前に歩いた。  涯もない曠野を唯一人歩いて來た旅人も、犬を見ると流石になつかしい。知らぬ國の都を歩いてゐて、不圖同郷の人に逢つた樣になつかしい。旅人も犬に近いた。  犬は幽かに鼻を鳴らして、旅人の顏を仰いだが、耳を窄めて、首を低れた。  そして、鼻端で旅人の埃だらけの足の甲を撫でた。  旅人はどつかと地面に腰を下した。犬も三尺許り離れて、前肢を立てゝ坐つた。  空は曇つてゐる。風が無い。何十哩の曠野の中に、生命ある者は唯二箇。  犬は默つて旅人の顏を瞶めてゐる。旅人も無言で犬の顏を瞶めてゐる。  若し人と犬と同じものであつたら、此時、犬が旅人なのか、旅人が犬なのか、誰が見ても見分がつくまい。餓ゑた、疲れた、二つの生命が互に瞶め合つてゐたのだ。  犬は、七日程前に、恁した機會かで此曠野の追分へ來た。そして、何方の路から來たのか忘れて了つた。再び人里へ歸らうと思つては出かけるけれども、行つても、行つても、同じ樣な曠野の草、涯しがないので復此處に歸つて來る。三條の路を交る交る、何囘か行つてみて何囘か歸つて來た。犬は七日の間何も喰はなかつた。そして、犬一疋、人一人に逢はぬ。三日程前に、高い空の上を鳥が一羽飛んで行つて、雲に隱れた影を見送つた限。  微かな音だにせぬ。聞えるものは、疲れに疲れた二つの心臟が、同じに搏つ鼓動の響きばかり。――と旅人は思つた。  軈て、旅人は袂を探つて莨を出した。そして燐寸を擦つた。旅人の見た犬の目に暫時火花が映つた。犬の見た旅人の目にも暫時火花が閃めいた。  旅人は、燐寸の燃殼を犬の前に投げた。犬は直ぐそれに鼻端を推つけたが、何の香もしないので、また居住ひを直して旅人の顏を瞶めた。七日間の餓は犬の瞼を重く懈怠くした。莨の煙が旅人の餓を薄らがした。  旅人は、怎やら少し暢然した樣な心持で、目の前の、痩せ果てた骨と皮ばかりの赤犬を、憐む樣な氣になつて來た。で手を伸べて犬を引寄せた。  頭を撫でても耳を引張つても、犬は目を細くして唯穩しくしてゐる。莨の煙を顏に吹かけても、僅かに鼻をふんふんいはす許り。毛を逆に撫でて見たり、肢を開かして見たり、地の上に轉がして見たり、痩せた尖つた顏を兩膝に挾んで見たりしても、犬は唯穩しくしてゐる。終には、細い尾を右に捻つたり、左に捻つたり、指に卷いたりしたが、少し強くすると、犬はスンと喉を鳴らして、弱い反抗を企てる許り。  不圖、旅人は面白い事を考出して、密と口元に笑を含んだ。紙屑を袂から出して、紙捻を一本糾ふと、それで紙屑を犬の尾に縛へつけた。  犬はぱたぱたと尾を振る。旅人は、燐寸を擦つて、其紙屑に火を點けた。  犬は矢庭に跳上つた。尾には火が燃えてゐる。犬は首をねぢつて其を噛取らうとするけれども、首が尾まで屆かぬので、きやん、きやんと叫びながらぐるぐる𢌞り出した。  旅人は、我ながら殘酷な事をしたと思つて、犬の尾を抑へて其紙屑を取つてやらうと慌てて立上つたが、犬は聲の限りに叫びつづけて、凄じい勢ひでぐるぐる𢌞る。手も出されぬ程勢ひよく迅く𢌞る。旅人も、手を伸べながら犬の周圍を𢌞り出した。  きやん、きやんといふ苦痛の聲が、旅人の粟一粒入つてゐない空腹に感へる。それはそれは遣瀬もない思ひである。  尾の火が間もなく消えかかつた。と、犬の𢌞り方が少し遲くなつたと思ふと、よろよろと行つて、潦の中に仆れた。旅人は棒の如く立つた。  きやん、きやんといふ聲も、もう出ない。犬は痛ましい斷末魔の苦痛に水の中に仆れた儘、四本の肢で踠いて、すんすんと泣いたが、其聲が段々弱るにつれて、肢も段々動かなくなつた。  餓ゑに餓ゑてゐた赤犬が、恁うして死んで了つた。  淺猿しい犬の屍を構へた潦の面は、小波が鎭まると、宛然底無しの淵の如く見えた。深く映つた灰色の空が、何時しか黄昏の色に黝んでゐたので。  棒の如く立つてゐた旅人は、驚いて周圍を見た。そこはかとなき薄暗が曠野の草に流れてゐる。其顏には、いふべからざる苦痛が刻まれてゐた。  日が暮れた! と思ふ程、路を失つた旅人に悲しい事はない。渠は、急がしく草鞋の紐を締めなほして、犬の屍を一瞥したが、いざ行かうと足を踏出して、さて何處へ行つたものであらうと、黄昏の曠野を見𢌞した。  同じ樣に三度見𢌞したが、忽ち、 『噫、』  と叫んで、兩手を高くさしあげたと思ふと、大聲に泣き出した。 『俺の來た路は何方だつたらう⁈』  三條の路が、渠の足下から起つて、同じ樣に曠野の三方に走つてゐる。 白い鳥、血の海  變な夢を見た。――  大きい、大きい、眞黒な船に、美しい人と唯二人乘つて、大洋に出た。  その人は私を見ると始終俯いて許りゐて、一言も口を利かなかつたので、喜んでるのか、悲んでるのか、私には解らなかつた。夢の中では、長い間思ひ合つてゐた人に相違なかつたが、覺めてみると、誰だか解らない。誰やらに似た横顏はまだ頭腦の中に殘つてゐるやうだけれど、さて其誰やらが誰だか薩張當がつかない。  富士山が見えなくなつてから、隨分長いこと船は大洋の上を何處かに向つてゐた。それが何日だか何十日だか矢張解らない。或は何百日何千日の間だつたかも知れない。  其、誰とも知れぬ戀人は、毎日々々、朝から晩まで、燃ゆる樣な紅の衣を着て、船首に立つて船の行手を眺めてゐた。  それは其人が、己れの意志でやつた事か、私が命令してやらした事か明瞭しない。  或日のこと。  高い、高い、眞黒な檣の眞上に、金色の太陽が照つてゐて、海――蒼い、蒼い海は、見ゆる限り漣一つ起たず、油を流した樣に靜かであつた。  船の行手に、拳程の白い雲が湧いたと思ふと、見る間にそれが空一面に擴つて、金色の太陽を掩して了つた。――よく見ると、それは雲ぢやなかつた。  鳥である。白い、白い、幾億萬羽と數知れぬ鳥である。  海には漣一つ起たぬのに、空には、幾億萬羽の白い鳥が一樣に羽搏をするので、それが妙な凄じい響きになつて聞える。  戀人は平生の如く船首に立つて紅の衣を着てゐたが、私は船尾にゐて戀人の後姿を瞶めてゐた。  凄じい羽搏の響きが、急に高くなつたと思ふと、空一面の鳥が、段々舞下つて來た。  高い、高い、眞黒な檣の上部が、半分許りも群がる鳥に隱れて見えなくなつた。と、其鳥どもが、一羽、一羽、交る〴〵に下りて來て、戀人の手の掌に接吻してゆく。肩の高さに伸ばした其手には、燦爛として輝くものが載つてゐた。よく見ると、それは私が贈つた黄金の指環である。  鳥は普通の白い鳥であるけれども、一度其指環に接吻して行つたのだけは、もう普通の鳥ではなくて、白い羽の生えた人の顏になつてゐた。  程なくして、空中の鳥が皆人の顏になつてしまつた。と、最後に、やや大きい鳥が舞下りて來て、戀人の手に近づいたと見ると、紅の衣を着た戀人が、一聲けたたましく叫んで後に倒れた。  黄金の指環を喞へた鳥は、大きい輪を描いて檣の周匝を飛んだ。怎したのか、此鳥だけは人の顏にならずに。  私は、帆綱に懸けておいた弓を取るより早く、白銀の鏑矢を兵と許りに射た。  矢は見ン事鳥を貫いた。  鳥の腹は颯と血に染まつた。 と、其鳥は石の落つる如く、私を目がけて落ちて來た。私はひらりと身を飜して、劍の束に手をかけると、鳥は船尾の直ぐ後の海中に落ちた。  白銀の矢に貫かれた白鳥の屍! 其周匝の水が血の色に染まつたと見ると、それが瞬くうちに大きい輪になつて、涯なき大洋が忽ちに一面の血紅の海!  唯一點の白は痛ましげなる鳥の屍である。と思つた、次の瞬間には、それは既に鳥の屍でなくて、燃ゆる樣な紅の衣を海一面に擴げた、戀人の顏であつた。  船が駛る、駛る。矢の如く駛る。海中の顏は瞬一瞬に後に遠ざかる。……  空には數知れぬ人の顏の、羽搏の響きと、帛裂く如く異樣な泣聲。…… 火星の芝居 『何か面白い事はないか?』 『俺は昨夜火星に行つて來た。』 『さうかえ。』 『眞個に行つて來たよ。』 『面白いものでもあつたか?』 『芝居を見たんだ。』 『さうか。日本なら「冥途の飛脚」だが、火星ぢや「天上の飛脚」でも演るんだらう?』 『其麼ケチなもんぢやない。第一劇場からして違ふよ。』 『一里四方もあるのか?』 『莫迦な事を言へ。先づ青空を十里四方位の大さに截つて、それを壓搾して石にするんだ。石よりも堅くて青くて透徹るよ。』 『それが何だい?』 『それを積み重ねて、高い、高い、無際限に高い壁を築き上げたもんだ、然も二列にだ。壁と壁との間が唯五間位しかないが無際限に高いので、仰ぐと空が一本の銀の絲の樣に見える。』 『五間の舞臺で芝居がやれるのか?』 『マア聞き給へ。其青い壁が何處まで續いてゐるのか解らない。萬里の長城を二重にして、青く塗つた樣なもんだね。』 『何處で芝居を演るんだ?』 『芝居はまだだよ。その壁が詰り花道なんだ。』 『もう澤山だ。止せよ。』 『その花道を、俳優が先づ看客を引率して行くのだ。火星ぢや君、俳優が國王よりも權力があつて、芝居が初まると國民が一人殘らず見物しなけやならん憲法があるんだから、それは〳〵非常な大入だよ。其麼大仕掛な芝居だから、準備に許りも十ヶ月かかるさうだ。』 『お産をすると同じだね。』 『其俳優といふのが又素的だ。火星の人間は、一體僕等より足が小くて胸が高くて、最も頭の大きい奴が第一流の俳優になる。だから君、火星のアアビングや團十郎は、ニコライの會堂の圓天蓋よりも大きい位な烏帽子を冠つてるよ。』 『驚いた。』 『驚くだらう?』 『君の法螺にさ。』 『法螺ぢやない。眞實の事だ。少くとも夢の中の事實だ。それで君、ニコライの會堂の屋根を冠つた俳優が、何十億の看客を導いて花道から案内して行くんだ。』 『花道から看客を案内するのか?』 『さうだ。其處が地球と違つてるね。』 『其處ばかりぢやない。』 『怎せ違つてるさ。それでね、僕も看客の一人になつて其花道を行つたとし給へ。そして、並んで歩いてる人から望遠鏡を借りて前の方を見たんだがね、二十里も前の方にニコライの屋根の尖端が三つ許り見えたよ』 『アツハハハ。』 『行つても、行つても、青い壁だ。行つても、行つても、青い壁だ。何處まで行つても青い壁だ。君、何處まで行つたつて矢張青い壁だよ。』 『舞臺を見ないうちに夜が明けるだらう?』 『それどころぢやない、花道ばかりで何年とか費るさうだ。』 『好い加減にして幕をあけ給へ。』 『だつて君何處まで行つても矢張青い壁なんだ。』 『戲言ぢやないぜ。』 『戲言ぢやない。さ、そのうちに目が覺めたから夢も覺めて了つたんだ。ハツハハ。』 『酷い男だ、君は。』 『だつて然うぢやないか。さう何年も續けて夢を見てゐた日にや、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大團圓になるぢやないか。俺だつて青い壁の涯まで見たかつたんだが、そのうちに目が覺めたから夢も覺めたんだ。』 二人連  若い男といふものは、時として妙な氣持になる事があるものだ。ふわふわとした、影の樣な物が、胸の中で、右に左に寢返りをうつてじたばたしてる樣で、何といふ事もなく氣が落付かない。書を讀んでも何が書いてあるやら解らず。これや不可と思つて、聲を立てて讀むと何時しか御經の眞似をしたくなつたり、薩摩琵琶の聲色になつたりする。遠方の友達へでも手紙を書かうとすると、隣りの煙草屋の娘が目にちらつく。鼻先を電車が轟と驅る。積み重ねておいた書でも崩れると、ハツと吃驚して、誰もゐないのに顏を赤くしたりする。何の爲に恁うそわそわするのか解らない。新しい戀に唆かされてるのでもないのだ。  或晩、私も其麼氣持になつて、一人で種々な眞似をやつた。讀さしの書は其方のけにして、寺小屋の涎くりの眞似もした。鏡に向つて大口を開いて、眞赤な舌を自由自在に動かしても見た。机の縁をピアノの鍵盤に擬へて、氣取つた身振をして滅多打に敲いても見た。何之助とかいふ娘義太夫が、花簪を擲げ出し、髮を振亂して可愛い目を妙に細くして見臺の上を伸上つた眞似をしてる時、スウと襖が開いたので、慌てて何氣ない樣子をつくらうて、開けた本を讀む振をしたが、郵便を持つて來た小間使が出て行くと、氣が附いたら本が逆さになつてゐた。  たまらなくなつて、帽子も冠らず戸外へ飛出して了つた。暢然歩いたり、急いで歩いたり、電車にも乘つたし、見た事のない、狹い横町にも入つた。車夫にも怒鳴られたし、ミルクホールの中を覗いても見た。一町ばかり粹な女の跟をつけても見た。面白いもので、何でも世の中は遠慮する程損な事はないが、街を歩いても此方が大威張で眞直に歩けば、徠る人も、徠る人も皆途を避けてくれる。  妻を持つたら、決して夜の都の街を歩かせるものぢやない、と考へた。華やかな、晝を欺く街々の電燈は、怎しても人間の心を浮氣にする。情死と決心した男女が恁麼街を歩くと、屹度其企てを擲つて驅落をする事にする。  さらでだにふらふらと唆かされてゐる心持を、生温かい夏の夜風が絶間もなく煽立てる。  日比谷公園を出て少許來ると、十間許り前を暢然とした歩調で二人連の男女が歩いてゐる。餘り若い人達ではないらしいが何方も立派な洋裝で、肩と肩を擦合して行くではないか、畜生奴!  私は此夜、此麼のを何十組となく見せつけられて、少からず憤慨してゐたが、殊にも其處が人通の少い街なので、二人の樣子が一層睦じ氣に見えて、私は一層癪に觸つた。  と、幸ひ私の背後から一人の若い女が來て、急足で前へ拔けたので、私は好い事を考へ出した。  私は、早速足を早めて、其若い女と肩を並べた。先刻から一緒に歩いてゐる樣な具合にして、前に行く二人連に見せつけてやる積りなのだ。  女は氣の毒な事には、私の面白い計畫を知らない。何と思つたか、急に俯いて一層足を早めた。二人連に追付くには結句都合が可いので、私も大股に急いで、肩と肩を擦れさうにした。女は益々急ぐ、私も離れじと急ぐ。  たまらない位嬉しい。私は首を眞直にして、反返つて歩いた。  間もなく前の二人連に追付いて、四人が一直線の上に列んだ。五六秒經つと、直線が少許歪んで、私達の方が心持前へ出た。  私は生れてから、恁麼得意を覺えた事は滅多にない。で、何處までも末頼母しい情人の樣に、態度をくづさず女の傍に密接いて歩きながら滿心の得意が、それだけで足らず、些と流盻を使つて洋裝の二人連を見た。其麼顏をしてけつかるだらうと思つて。  私は不思首を縮めて足を留めた。  親類の結婚式に招ばれて行つた筈の、お父さんとお母さんが、手をとり合つて散歩ながらに家に歸る所だ! 『おや光太郎(私の名)ぢやないか! 帽子も冠らずに何處を歩いてゐるんだらう!』  とお母さんが……  私は生れてから、恁麼酷い目に逢つた事は滅多にない! 祖父  とある山の上の森に、軒の傾いた一軒家があつて、六十を越した老爺と五歳になるお雪とが、唯二人住んでゐた。  お雪は五年前の初雪の朝に生れた、山桃の花の樣に可愛い兒であつた。老爺は六尺に近い大男で、此年齡になつても腰も屈らず、無病息災、頭顱が美事に禿げてゐて、赤銅色の顏に、左の眼が盲れてゐた。  親のない孫と、子のない祖父の外に、此一軒家にはモ一箇の活物がゐた。それはお雪より三倍も年老つた、白毛の盲目馬である。  老爺は重い斧を揮つて森の木を伐る。お雪は輕い聲で笑つて、一人其近間に遊んでゐる。  大きい木が凄じい音を立てて仆れる時、お雪危ないぞ、と老爺が言ふ。小鳥が枝の上に愉しい歌を歌ふ時、『祖父さん鳥がゐる、鳥がゐる。』とお雪が呼ぶ。  丁々たる伐木の音と、嬉々たるお雪の笑聲が毎日、毎日森の中に響いた。  其森の奧に、太い、太い、一本の山毛欅の木があつて、其周匝には粗末な木柵が𢌞らしてあつた。お雪は何事でも心の儘に育てられてゐるけれど、其山毛欅の木に近づく事だけは、堅く老爺から禁められてゐた。  老爺は伐仆した木を薪にして、隔日の午前に、白毛の盲目馬の背につけては、麓の町に賣りにゆく。其都度、お雪は老爺に背負はれて行く。  雨の降る日は老爺は盡日圍爐裏に焚火をして、凝と其火を瞶つて暮す。お雪は其傍で穩しく遊んで暮す。  時として老爺は 『お雪坊や、お前の阿母はな、偉えこと綺麗な女だつたぞ。』 と言ふ事がある。  其阿母が何處へ行つたかと訊くと、遠い所へ行つたのだと教へる。  そして、其阿母が歸つて來るだらうかと問ふと、 『歸つて來るかも知れねえ。』 と答へて、傍を向いて溜息を吐く。  お雪は、左程此話に興を有つてなかつた。  五歳になる森の中のお雪が何よりも喜ぶのは、 『祖父さん、暗くして呉れるよ。』 と言つて、可愛い星の樣な目を、堅く、堅く、閉づる事であつた。お雪は自分に何も見えなくなるので、目を閉づれば世界が暗くなるものと思つてゐた。  お雪が一日に何度となく世界を暗くする。其都度、老爺は笑ひながら 『ああ暗くなつた、暗くなつた。』 と言ふ。  或時お雪は、老爺の顏をつくづく眺めてゐたが、 『祖父さんは、何日でも半分暗いの?』 と問うた。 『然うだ。祖父さんは左の方が何日でも半分暗いのさ。』 と言つて、眇目の老爺は面白相に笑つた。  又或時、お雪は老爺の頭顱を見ながら、 『祖父さんの頭顱には怎して毛がないの?』 『年を老ると、誰でも俺の樣に禿頭になるだあよ。』  お雪にはその意味が解らなかつた。『古くなつて枯れて了つたの。』 『アツハハ。』と、老爺は齒のかけた口を大きく開いて笑つたが、『然うだ、然うだ。古くなつて干乾びたから、髮が皆草の樣に枯れて了つただ。』 『そんなら、水つけたら再生えるの?』 『生えるかも知れねえ、お雪坊は賢い事を言ふだ喃。』 と笑つたが、お雪は其日から、甚麼日でも忘れずに、必ず粗末な夕飯が濟むと、いかな眠い時でも手づから漆の剥げた椀に水を持つて來て、胡坐をかいた老爺の頭へ、小い手でひたひたとつけて呉れる。水の滴りが額を傳つて鼻の上に流れると、老爺は、 『お雪坊や、其麼に鼻にまでつけると、鼻にも毛が生えるだあ。』 と笑ふ。するとお雪も可笑くなつて、くつくつ笑ふのであるが、それが面白さに、お雪は態と鼻の上に水を流す。其都度二人は同じ事を言つて、同じ樣に笑ふのだ。  夕飯が濟み、毛生藥の塗抹が終ると、老爺は直ぐにお雪を抱いて寢床に入る。お雪は桃太郎やお月お星の繼母の話が終らぬうちにすやすやと安かな眠に入つて了ふのであるが、老爺は仲々寢つかれない。すると、密り起きて、圍爐裏に薪を添へ、パチパチと音して勢ひよく燃える炎に老の顏を照らされながら、一つしか無い目に涙を湛へて、六十年の來し方を胸に繰返す。――  生れる兒も、生れる兒も、皆死んで了つて、唯一人育つた娘のお里、それは、それは、親ながらに惚々とする美しい娘であつたが、十七の春に姿を隱して、山を尋ね川を探り、麓の町に降りて家毎に訊いて歩いたけれど、掻暮行方が知れず。媼さんは其時から病身になつたが、お里は二十二の夏の初めに飄然と何處からか歸つて來た。何處から歸つたのか兩親は知らぬ。訊いても答へない。十月末の初雪の朝に、遽かに産氣づいて生み落したのがお雪である。  翌年の春の初め、森の中には未だ所々に雪が殘つてる時分お里は再見えなくなつた。翌日、老爺は森の奧の大山毛欅の下で、裸體にされて血だらけになつてゐる娘の屍を發見した。お雪を近づかせぬ山毛欅がそれだ。  二月も經たぬうちに媼さんも死んで了つた。――  雨さへ降らなければ、毎日、毎日、丁々たる伐木の音と邪氣ないお雪の清しい笑聲とが、森の中に響いた。日に二本か三本、太い老木が凄じい反響を傳へて地に仆れた。小鳥が愉しげな歌を歌つて、枝から枝へ移つた。  或晴れた日。  珍らしくも老爺は加減がよくないと言つて、朝から森に出なかつた。  お雪は一人樹蔭に花を摘んだり、葉に隱れて影を見せぬ小鳥を追ふたりしたが、間もなく妙に寂しくなつて家に歸つた。  老爺は圍爐裏の端に横になつて眠つてゐる。額の皺は常よりも深く刻まれてゐる。  お雪は密りと板の間に上つて――、老爺の枕邊に坐つたが遣瀬もない佗しさが身に迫つて、子供心の埒もなく、涙が直ぐに星の樣な目を濕した。それでも流石に泣聲を怺へて、眤と老爺の顏を瞶つてゐた。  暫時經つと、お雪は自分の目を閉ぢて見たり、開けて見たりしてゐた。老爺の目が二つとも閉ぢてゐるのに、怎したのかお雪は暗くない。自分の目を閉ぢなければ暗くない。………  お雪は不思議で不思議で耐らなくなつた。自分が目を閉づると、祖父さんは何日でも暗くなつたと言ふ。然し、今祖父さんが目を閉ぢてゐるけれども、自分は些とも暗くない。……祖父さんは平常嘘を言つてゐたのぢやなからうかといふ懷疑が、妙な恐怖を伴つて小い胸に一杯になつた。  又暫時經つと、お雪は小さい手で密と老爺の禿頭を撫でて見た。ああ、毎晩、毎晩、水をつけてるのに、些ともまだ毛が生えてゐない。『此頃は少許生えかかつて來たやうだ。』と、二三日前に祖父さんが言つたに不拘まだ些とも生えてゐない。……  老爺がウウンと苦氣に唸つて、胸の上に載せてゐた手を下したのでお雪は驚いて手を退けた。  赤銅色の、逞ましい、逞ましい老爺の顏! 怒つた獅子ツ鼻、廣い額の幾條の皺、常には見えぬ竪の皺さへ、太い眉と眉の間に刻まれてゐる。少許開いた唇からは、齒のない口が底知れぬ洞穴の樣に見える。  お雪は無言で其顏を瞶つてゐたが、見る見る老爺の顏が――今まで何とも思はなかつたのに――恐ろしい顏になつて來た。言ふべからざる恐怖の情が湧いた。譬へて見ようなら見も知らぬ猛獸の寢息を覗つてる樣な心地である。  するとお雪は、遽かに、見た事のない生みの母――常々美しい女だつたと話に聞いた生みの母が、戀しくなつた。そして、到頭聲を出してわつと泣いた。  其聲に目を覺ました老爺が、 『怎しただ?』 と言つて體を起しかけた時、お雪は一層烈しく泣き出した。  老爺は、一つしかない目を大きく睜つて、妙に顏を歪めてお雪――最愛のお雪を見据ゑた。口元が痙攣けてゐる。胸が死ぬ程苦しくなつて嘔氣を催して來た。老い果てた心臟はどきり、どきり、と、不規則な鼓動を弱つた體に傳へた。 (明治四十一年六月二十二、三日)
底本:「啄木全集 第二卷」岩波書店    1961(昭和36)年4月13日新装第1刷発行 ※「散文詩」は、底本編集時に、斎藤三郎が設けたまとまりです。 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年6月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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  啄木鳥 いにしへ聖者が雅典の森に撞きし、 光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて 鋳にたる巨鐘、無窮のその声をぞ 染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。 聞け、今、巷に喘げる塵の疾風 よせ来て、若やぐ生命の森の精の 聖きを攻むやと、終日、啄木鳥、 巡りて警告夏樹の髄にきざむ。 往きしは三千年、永劫猶すすみて つきざる『時』の箭、無象の白羽の跡 追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が 浄きを高きを天路の栄と云ひし 霊をぞ守りて、この森不断の糧、 奇かるつとめを小さき鳥のすなる。   隠沼 夕影しづかに番の白鷺下り、 槇の葉枯れたる樹下の隠沼にて、 あこがれ歌ふよ。――『その昔、よろこび、そは 朝明、光の揺籃に星と眠り、 悲しみ、汝こそとこしへ此処に朽ちて、 我が喰み啣める泥土と融け沈みぬ。』―― 愛の羽寄り添ひ、青瞳うるむ見れば、 築地の草床、涙を我も垂れつ。 仰げば、夕空さびしき星めざめて、 しぬびの光よ、彩なき夢の如く、 ほそ糸ほのかに水底に鎖ひける。 哀歓かたみの輪廻は猶も堪へめ、 泥土に似る身ぞ。ああさは我が隠沼、 かなしみ喰み去る鳥さへえこそ来めや。   マカロフ提督追悼の詩 (明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を迎撃せむとし、倉皇令を下して其旗艦ペトロパフロスクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を共にしぬ。) 嵐よ黙せ、暗打つその翼、 夜の叫びも荒磯の黒潮も、 潮にみなぎる鬼哭の啾々も 暫し唸りを鎮めよ。万軍の 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 今、大水の響に我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて、千古の浪狂ふ、 弦月遠きかなたの旅順口。 ものみな声を潜めて、極冬の 落日の威に無人の大砂漠 劫風絶ゆる不動の滅の如、 鳴りをしづめて、ああ今あめつちに こもる無言の叫びを聞けよかし。 きけよ、――敗者の怨みか、暗濤の 世をくつがへす憤怒か、ああ、あらず、―― 血汐を呑みてむなしく敗艦と 共に没れし旅順の黒漚裡、 彼が最後の瞳にかがやける 偉霊のちから鋭どき生の歌。 ああ偉いなる敗者よ、君が名は マカロフなりき。非常の死の波に 最後のちからふるへる人の名は マカロフなりき。胡天の孤英雄。 君を憶へば、身はこれ敵国の 東海遠き日本の一詩人、 敵乍らに、苦しき声あげて 高く叫ぶよ、(鬼神も跪づけ、 敵も味方も汝が矛地に伏せて、 マカロフが名に暫しは鎮まれよ。) ああ偉いなる敗将、軍神の 選びに入れる露西亜の孤英雄、 無情の風はまことに君が身に まこと無情の翼をひろげき、と。 東亜の空にはびこる暗雲の 乱れそめては、黄海波荒く、 残艦哀れ旅順の水寒き 影もさびしき故国の運命に、 君は起ちにき、み神の名を呼びて―― 亡びの暗の叫びの見かへりや、 我と我が威に輝やく落日の 雲路しばしの勇みを負ふ如く。 壮なるかなや、故国の運命を 担うて勇む胡天の君が意気。 君は立てたり、旅順の狂風に 檣頭高く日を射す提督旗。―― その旗、かなし、波間に捲きこまれ、 見る見る君が故国の運命と、 世界を撫づるちからも海底に 沈むものとは、ああ神、人知らず。 四月十有三日、日は照らず、 空はくもりて、乱雲すさまじく 故天にかへる辺土の朝の海、 (海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、 敵も味方も汝が鋒地に伏せて、 マカロフが名に暫しは跪づけ。) 万雷波に躍りて、大軸を 砕くとひびく刹那に、名にしおふ 黄海の王者、世界の大艦も くづれ傾むく天地の黒漚裡、 血汐を浴びて、腕をば拱きて、 無限の憤怒、怒濤のかちどきの 渦巻く海に瞳を凝らしつつ、 大提督は静かに沈みけり。 ああ運命の大海、とこしへの 憤怒の頭擡ぐる死の波よ、 ひと日、旅順にすさみて、千秋の うらみ遺せる秘密の黒潮よ、 ああ汝、かくてこの世の九億劫、 生と希望と意力を呑み去りて 幽暗不知の界に閉ぢこめて、 如何に、如何なる証を『永遠の 生の光』に理示すぞや。 汝が迫害にもろくも沈み行く この世この生、まことに汝が目に 映るが如く値のなきものか。 ああ休んぬかな。歴史の文字は皆 すでに千古の涙にうるほひぬ。 うるほひけりな、今また、マカロフが おほいなる名も我身の熱涙に。―― 彼は沈みぬ、無間の海の底。 偉霊のちからこもれる其胸に 永劫たえぬ悲痛の傷うけて、 その重傷に世界を泣かしめて。 我はた惑ふ、地上の永滅は、 力を仰ぐ有情の涙にぞ、 仰ぐちからに不断の永生の 流転現ずる尊ときひらめきか。 ああよしさらば、我が友マカロフよ、 詩人の涙あつきに、君が名の 叫びにこもる力に、願くは 君が名、我が詩、不滅の信とも なぐさみて、我この世にたたかはむ。 水無月くらき夜半の窓に凭り、 燭にそむきて、静かに君が名を 思へば、我や、音なき狂瀾裡、 したしく君が渦巻く死の波を 制す最後の姿を観るが如、 頭は垂れて、熱涙せきあへず。 君はや逝きぬ。逝きても猶逝かぬ その偉いなる心はとこしへに 偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。 ああ、夜の嵐、荒磯のくろ潮も、 敵も味方もその額地に伏せて 火焔の声をあげてぞ我が呼ばふ マカロフが名に暫しは鎮まれよ。 彼を沈めて千古の浪狂ふ 弦月遠きかなたの旅順口。   眠れる都 (京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匇々筆を染めけるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき) 鐘鳴りぬ、 いと荘厳に 夜は重し、市の上。 声は皆眠れる都 瞰下せば、すさまじき 野の獅子の死にも似たり。 ゆるぎなき 霧の巨浪、 白う照る月影に 氷りては市を包みぬ。 港なる百船の、 それの如、燈影洩るる。 みおろせば、 眠れる都、 ああこれや、最後の日 近づける血潮の城か。 夜の霧は、墓の如、 ものみなを封じ込めぬ。 百万の つかれし人は 眠るらし、墓の中。 天地を霧は隔てて、 照りわたる月かげは 天の夢地にそそがず。 声もなき ねむれる都、 しじまりの大いなる 声ありて、霧のまにまに ただよひぬ、ひろごりぬ、 黒潮のそのどよみと。 ああ声は 昼のぞめきに けおされしたましひの 打なやむ罪の唸りか。 さては又、ひねもすの たたかひの名残の声か。 我が窓は、 濁れる海を 遶らせる城の如、 遠寄せに怖れまどへる 詩の胸守りつつ、 月光を隈なく入れぬ。   東京 かくやくの夏の日は、今 子午線の上にかかれり。 煙突の鉄の林や、煙皆、煤黒き手に 何をかも攫むとすらむ、ただ直に天をぞ射せる。 百千網巷巷に空車行く音もなく あはれ、今、都大路に、大真夏光動かぬ 寂寞よ、霜夜の如く、百万の心を圧せり。 千万の甍今日こそ色もなく打鎮りぬ。 紙の片白き千ひらを撒きて行く通魔ありと、 家家の門や又窓、黒布に皆とざされぬ。 百千網都大路に人の影暁星の如 いと稀に。――かくて、骨泣く寂滅死の都、見よ。 かくやくの夏の日は、今 子午線の上にかかれり。 何方ゆ流れ来ぬるや、黒星よ、真北の空に 飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯、天路に聳る 層楼の屋根にとまれり。唖唖として一声、――これよ 凶鳥の不浄の烏。――骨あさる鳥なり、はたや、 死の空にさまよひ叫ぶ怨恨の毒嘴の鳥。 鳥啼きぬ、二度。――いかに、其声の猶終らぬに、 何方ゆ現れ来しや、幾尺の白髪かき垂れ、 いな光る剣捧げし童顔の翁あり。ああ、 黒長裳静かに曳くや、寂寞の戸に反響して、 沓の音全都に響き、唯一人大路を練れり。 有りとある磁石の針は 子午線の真北を射せり。   吹角 みちのくの谷の若人、牧の子は 若葉衣の夜心に、 赤葉の芽ぐみ物燻ゆる五月の丘の 柏木立をたもとほり、 落ちゆく月を背に負ひて、 東白の空のほのめき―― 天の扉の真白き礎ゆ湧く水の いとすがすがし。―― ひたひたと木陰地に寄せて、 足もとの朝草小露明らみぬ。 風はも涼し。 みちのくの牧の若人露ふみて もとほり心角吹けば、 吹き、また吹けば、 渓川の石津瀬はしる水音も あはれ、いのちの小鼓の鳴の遠音と ひびき寄す。 ああ静心なし。 丘のつづきの草の上に 白き光のまろぶかと ふとしも動く物の影。―― 凹みの埓の中に寝て、 心うゑたる暁の夢よりさめし 小羊の群は、静かにひびき来る 角の遠音にあくがれて、 埓こえ、草をふみしだき、直に走りぬ。 暁の声する方の丘の辺に。―― ああ歓びの朝の舞、 新乳の色の衣して、若き羊は 角ふく人の身を繞り、 すずしき風に啼き交し、また小躍りぬ。 あはれ、いのちの高丘に 誰ぞ角吹かば、 我も亦この世の埓をとびこえて、 野ゆき、川ゆき、森をゆき、 かの山越えて、海越えて、 行かましものと、 みちのくの谷の若人、いやさらに 角吹き吹きて、静心なし。   年老いし彼は商人 年老いし彼は商人。 靴、鞄、帽子、革帯、 ところせく列べる店に 坐り居て、客のくる毎、 尽日や、はた、電燈の 青く照る夜も更くるまで、 てらてらに禿げし頭を 礼あつく千度下げつつ、 なれたれば、いと滑らかに 数数の世辞をならべぬ。 年老いし彼はあき人。 かちかちと生命を刻む ボンボンの下の帳場や、 簿記台の上に低れたる 其頭、いと面白し。 その頭低るる度毎、 彼が日は短くなりつ、 年こそは重みゆきけれ。 かくて、見よ、髪の一条 落ちつ、また、二条、三条、 いつとなく抜けたり、遂に 面白し、禿げたる頭。 その頭、禿げゆくままに、 白壁の土蔵の二階、 黄金の宝の山は (目もはゆし、暗の中にも。) 積まれたり、いと堆かく。 埃及の昔の王は わが墓の大金字塔を つくるとて、ニルの砂原、 十万の黒兵者を 二十年も役せしといふ。 年老いしこの商人も 近つ代の栄の王者、 幾人の小僧つかひて、 人の見ぬ土蔵の中に きづきたり、宝の山を。―― これこそは、げに、目もはゆき 新世の金字塔ならし、 霊魂の墓の標の。   辻 老いたるも、或は、若きも、 幾十人、男女や、 東より、はたや、西より、 坂の上、坂の下より、 おのがじし、いと急しげに 此処過ぐる。 今わが立つは、 海を見る広き巷の 四の辻。――四の角なる 家は皆いと厳めしし。 銀行と、領事の館、 新聞社、残る一つは、 人の罪嗅ぎて行くなる 黒犬を飼へる警察。 此処過ぐる人は、見よ、皆、 空高き日をも仰がず、 船多き海も眺めず、 ただ、人の作れる路を、 人の住む家を見つつぞ、 人とこそ群れて行くなれ。 白髯の翁も、はたや、 絹傘の若き少女も、 少年も、また、靴鳴らし 煙草吹く海産商も、 丈高き紳士も、孫を 背に負へる痩せし媼も、 酒肥り、いとそりかへる 商人も、物乞ふ児等も、 口笛の若き給仕も、 家持たぬ憂き人人も。 せはしげに過ぐるものかな。 広き辻、人は多けど、 相知れる人や無からむ。 並行けど、はた、相逢へど、 人は皆、そしらぬ身振、 おのがじし、おのが道をぞ 急ぐなれ、おのもおのもに。 心なき林の木木も 相凭りて枝こそ交せ、 年毎に落ちて死ぬなる 木の葉さへ、朝風吹けば、 朝さやぎ、夕風吹けば、 夕語りするなるものを、 人の世は疎らの林、 人の世は人なき砂漠。 ああ、我も、わが行くみちの 今日ひと日、語る伴侶なく、 この辻を、今、かく行くと、 思ひつつ、歩み移せば、 けたたまし戸の音ひびき、 右手なる新聞社より 駆け出でし男幾人、 腰の鈴高く鳴らして 駆け去りぬ、四の角より 四の路おのも、おのもに。 今五月、霽れたるひと日、 日の光曇らず、海に 牙鳴らす浪もなけれど、 急がしき人の国には 何事か起りにけらし。   無題 札幌は一昨日以来 ひき続きいと天気よし。 夜に入りて冷たき風の そよ吹けば少し曇れど、 秋の昼、日はほかほかと 丈ひくき障子を照し、 寝ころびて物を思へば、 我が頭ボーッとする程 心地よし、流離の人も。 おもしろき君の手紙は 昨日見ぬ。うれしかりしな。 うれしさにほくそ笑みして 読み了へし、我が睫毛には、 何しかも露の宿りき。 生肌の木の香くゆれる 函館よ、いともなつかし。 木をけづる木片大工も おもしろき恋やするらめ。 新らしく立つ家々に 将来の恋人共が 母ちゃんに甘へてや居む。 はたや又、我がなつかしき 白村に翡翠白鯨 我が事を語りてあらむ。 なつかしき我が武ちゃんよ、―― 今様のハイカラの名は 敬慕するかはせみの君、 外国のラリルレ語 酔漢の語でいへば m…m…my dear brethren !―― 君が文読み、くり返し、 我が心青柳町の 裏長屋、十八番地 ムの八にかへりにけりな。 世の中はあるがままにて 怎かなる。心配はなし。 我たとへ、柳に南瓜 なった如、ぶらりぶらりと 貧乏の重い袋を 痩腰に下げて歩けど、 本職の詩人、はた又 兼職の校正係、 どうかなる世の中なれば 必ずや怎かなるべし。 見よや今、「小樽日々」 「タイムス」は南瓜の如き 蔓の手を我にのばしぬ。 来むとする神無月には、 ぶらぶらの南瓜の性の 校正子、記者に経上り どちらかへころび行くべし。 一昨日はよき日なりけり。 小樽より我が妻せつ子 朝に来て、夕べ帰りぬ。 札幌に貸家なけれど、 親切な宿の主婦さん、 同室の一少年と 猫の糞他室へ移し この室を我らのために 貸すべしと申出でたり。 それよしと裁可したれば、 明後日妻は京子と 鍋、蒲団、鉄瓶、茶盆、 携へて再び来り、 六畳のこの一室に 新家庭作り上ぐべし。 願くは心休めよ。 その節に、我来し後の 君達の好意、残らず せつ子より聞き候ひぬ。 焼跡の丸井の坂を 荷車にぶらさがりつつ、  (ここに又南瓜こそあれ、) 停車場に急ぎゆきけん 君達の姿思ひて ふき出しぬ。又其心 打忍び、涙流しぬ。 日高なるアイヌの君の 行先ぞ気にこそかかれ。 ひょろひょろの夷希薇の君に 事問へど更にわからず。 四日前に出しやりたる 我が手紙、未だもどらず 返事来ず。今の所は 一向に五里霧中なり。 アノ人の事にしあれば、 瓢然と鳥の如くに 何処へか翔りゆきけめ。 大したる事のなからむ。 とはいへど、どうも何だか 気にかかり、たより待たるる。 北の方旭川なる 丈高き見習士官 遠からず演習のため 札幌に来るといふなる たより来ぬ。豚鍋つつき 語らむと、これも待たるる。 待たるるはこれのみならず、 願くは兄弟達よ 手紙呉れ。ハガキでもよし。 函館のたよりなき日は 何となく唯我一人 荒れし野に追放されし 思ひして、心クサクサ、 訳もなく我がかたはらの、 猫の糞癪にぞさわれ。 猫の糞可哀相なり、 鼻下の髯、二分程のびて 物いへば、いつも滅茶苦茶、 今も猶無官の大夫、 実際は可哀相だよ。 札幌は静けき都、 秋の日のいと温かに 虻の声おとづれ来なる 南窓、うつらうつらの 我が心、ふと浮気出し、 筆とりて書きたる文は 見よやこの五七の調よ、 其昔、髯のホメロス イリヤドを書きし如くに すらすらと書きこそしたれ。 札幌は静けき都、夢に来よかし。    反歌 白村が第二の愛児笑むらむかはた 泣くらむか聞かまほしくも。 なつかしき我が兄弟よ我がために 文かけ、よしや頭掻かずも。 北の子は独逸語習ふ、いざやいざ 我が正等よ競駒せむ。 うつらうつら時すぎゆきて隣室の 時計二時うつ、いざ出社せむ。   四十年九月二十三日              札幌にて 啄木拝 並木兄 御侍史   無題 一年ばかりの間、いや一と月でも 一週間でも、三日でもいい。 神よ、もしあるなら、ああ、神よ、 私の願ひはこれだけだ。どうか、 身体をどこか少しこはしてくれ痛くても 関はない、どうか病気さしてくれ! ああ! どうか…… 真白な、柔らかな、そして 身体がフウワリと何処までも―― 安心の谷の底までも沈んでゆく様な布団の上に、いや 養老院の古畳の上でもいい、 何も考へずに(そのまま死んでも 惜しくはない)ゆっくりと寝てみたい! 手足を誰か来て盗んで行っても 知らずにゐる程ゆっくり寝てみたい! どうだらう! その気持は! ああ。 想像するだけでも眠くなるやうだ! 今著てゐる この著物を――重い、重いこの責任の著物を 脱ぎ棄てて了ったら(ああ、うっとりする!) 私のこの身体が水素のやうに ふうわりと軽くなって、 高い高い大空へ飛んでゆくかも知れない――「雲雀だ」 下ではみんながさう言ふかも知れない! ああ!     ―――――――――――――― 死だ! 死だ! 私の願ひはこれ たった一つだ! ああ! あ、あ、ほんとに殺すのか? 待ってくれ、 ありがたい神様、あ、ちょっと! ほんの少し、パンを買ふだけだ、五―五―五―銭でもいい! 殺すくらゐのお慈悲があるなら!   新らしき都の基礎 やがて世界の戦は来らん! 不死鳥の如き空中軍艦が空に群れて、 その下にあらゆる都府が毀たれん! 戦は永く続かん! 人々の半ばは骨となるならん! 然る後、あはれ、然る後、我等の 『新らしき都』はいづこに建つべきか? 滅びたる歴史の上にか? 思考と愛の上にか? 否、否。 土の上に。然り、土の上に、何の――夫婦と云ふ 定まりも区別もなき空気の中に 果て知れぬ蒼き、蒼き空の下に!   夏の街の恐怖 焼けつくやうな夏の日の下に おびえてぎらつく軌条の心。 母親の居睡りの膝から辷り下りて、 肥った三歳ばかりの男の児が ちょこちょこと電車線路へ歩いて行く。 八百屋の店には萎えた野菜。 病院の窓の窓掛は垂れて動かず。 閉された幼稚園の鉄の門の下には 耳の長い白犬が寝そべり、 すベて、限りもない明るさの中に どこともなく、芥子の花が死落ち、 生木の棺に裂罅の入る夏の空気のなやましさ。 病身の氷屋の女房が岡持を持ち、 骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門を出れば、 横町の下宿から出て進み来る、 夏の恐怖に物言はぬ脚気患者の葬りの列。 それを見て辻の巡査は出かかった欠呻噛みしめ、 白犬は思ふさまのびをして、 塵溜の蔭に行く。   起きるな 西日をうけて熱くなった 埃だらけの窓の硝子よりも まだ味気ない生命がある。 正体もなく考へに疲れきって、 汗を流し、いびきをかいて昼寝してゐる まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、 硝子越しの夏の日が毛脛を照し、 その上に蚤が這ひあがる。 起きるな、超きるな、日の暮れるまで。 そなたの一生に冷しい静かな夕ぐれの来るまで。 何処かで艶いた女の笑ひ声。   事ありげな春の夕暮 遠い国には戦があり…… 海には難破船の上の酒宴…… 質屋の店には蒼ざめた女が立ち、 燈火にそむいてはなをかむ。 其処を出て来れば、路次の口に 情夫の背を打つ背低い女―― うす暗がりに財布を出す。 何か事ありげな―― 春の夕暮の町を圧する 重く淀んだ空気の不安。 仕事の手につかぬ一日が暮れて、 何に疲れたとも知れぬ疲れがある。 遠い国には沢山の人が死に…… また政庁に推寄せる女壮士のさけび声…… 海には信夫翁の疫病…… あ、大工の家では洋燈が落ち、 大工の妻が跳び上る。   騎馬の巡査 絶間なく動いてゐる須田町の人込の中に、 絶間なく目を配って、立ってゐる騎馬の巡査―― 見すぼらしい銅像のやうな――。 白痴の小僧は馬の腹をすばしこく潜りぬけ、 荷を積み重ねた赤い自動車が その鼻先を行く。 数ある往来の人の中には 子供の手を曳いた巡査の妻もあり 実家へ金借りに行った帰り途、 ふと此の馬上の人を見上げて、 おのが夫の勤労を思ふ。 あ、犬が電車に轢かれた―― ぞろぞろと人が集る。 巡査も馬を進める……   はてしなき議論の後(一) 暗き、暗き曠野にも似たる わが頭脳の中に、 時として、電のほとばしる如く、 革命の思想はひらめけども―― あはれ、あはれ、 かの壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。 我は知る、 その電に照し出さるる 新しき世界の姿を。 其処にては、物みなそのところを得べし。 されど、そは常に一瞬にして消え去るなり、 しかして、この壮快なる雷鳴は遂に聞え来らず。 暗き、暗き曠野にも似たる わが頭脳の中に 時として、電のほとばしる如く、 革命の思想はひらめけども――   はてしなき議論の後(二) われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、 しかしてわれらの眼の輝けること、 五十年前の露西亜の青年に劣らず。 われらは何を為すべきかを議論す。 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、 ‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。 われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、 また、民衆の求むるものの何なるかを知る、 しかして、我等の何を為すべきかを知る。 実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、 ‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。 此処にあつまれる者は皆青年なり、 常に世に新らしきものを作り出だす青年なり。 われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。 見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、 ‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。 ああ、蝋燭はすでに三度も取りかへられ、 飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、 若き婦人の熱心に変りはなけれど、 その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。 されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、 ‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。   ココアのひと匙 われは知る、テロリストの かなしき心を―― 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、 奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を、 われとわがからだを敵に擲げつくる心を―― しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。 はてしなき議論の後の 冷めたるココアのひと匙を啜りて、 そのうすにがき舌触りに われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を。   書斎の午後 われはこの国の女を好まず。 読みさしの舶来の本の 手ざはりあらき紙の上に、 あやまちて零したる葡萄酒の なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。 われはこの国の女を好まず。   激論 われはかの夜の激論を忘るること能はず、 新らしき社会に於ける「権力」の処置に就きて、 はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと 我との間に惹き起されたる激論を、 かの五時間に亙れる激論を。 「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」 かれは遂にかく言ひ放ちき。 その声はさながら咆ゆるごとくなりき。 若しその間に卓子のなかりせば、 かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。 われはその浅黒き、大いなる顔の 男らしき怒りに漲れるを見たり。 五月の夜はすでに一時なりき。 或る一人の立ちて窓を明けたるとき、 Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。 病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、 雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。 さてわれは、また、かの夜の、 われらの会合に常にただ一人の婦人なる Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。 ほつれ毛をかき上ぐるとき、 また、蝋燭の心を截るとき、 そは幾度かわが眼の前に光りたり。 しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。 されど、かの夜のわれらの議論に於いては、 かの女は初めよりわが味方なりき。   墓碑銘 われは常にかれを尊敬せりき、 しかして今も猶尊敬す―― かの郊外の墓地の栗の木の下に かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。 実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、 すでにふた月は過ぎ去りたり。 かれは議論家にてはなかりしかど、 なくてかなはぬ一人なりしが。 或る時、彼の語りけるは、 「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。 われは議論すること能はず、 されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」 「彼の眼は常に論者の怯懦を叱責す。」 同志の一人はかくかれを評しき。 然り、われもまた度度しかく感じたりき。 しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。 かれは労働者――一個の機械職工なりき。 かれは常に熱心に、且つ快活に働き、 暇あれば同志と語り、またよく読書したり。 かれは煙草も酒も用ゐざりき。 かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、 かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。 かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ、 なほよく死にいたるまで譫話を口にせざりき。 「今日は五月一日なり、われらの日なり。」 これ、かれのわれに遺したる最後の言葉なり。 この日の朝、われはかれの病を見舞ひ、 その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。 ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、 しかして、また、かの生を恐れざりしごとく 死を恐れざりし、常に直視する眼と、 眼つぶれば今も猶わが前にあり。 彼の遺骸は、一個の唯物論者として かの栗の木の下に葬られたり。 われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、 「われは何時にても起つことを得る準備あり。」   古びたる鞄をあけて わが友は、古びたる鞄をあけて、 ほの暗き蝋燭の火影の散らぼへる床に、 いろいろの本を取り出だしたり。 そは皆この国にて禁じられたるものなりき。 やがて、わが友は一葉の写真を探しあてて、 「これなり」とわが手に置くや、 静かにまた窓に凭りて口笛を吹き出したり。 そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。   げに、かの場末の げに、かの場末の縁日の夜の 活動写真の小屋の中に、 青臭きアセチレン瓦斯の漂へる中に、 鋭くも響きわたりし 秋の夜の呼子の笛はかなしかりしかな。 ひょろろろと鳴りて消ゆれば、 あたり忽ち暗くなりて、 薄青きいたづら小僧の映画ぞわが眼にはうつりたる。 やがて、また、ひょろろと鳴れば、 声嗄れし説明者こそ、 西洋の幽霊の如き手つきして、 くどくどと何事を語り出でけれ。 我はただ涙ぐまれき。 されど、そは、三年も前の記憶なり。 はてしなき議論の後の疲れたる心を抱き、 同志の中の誰彼の心弱さを憎みつつ、 ただひとり、雨の夜の町を帰り来れば、 ゆくりなく、かの呼子の笛が思ひ出されたり。 ――ひょろろろと、 また、ひょろろろと―― 我は、ふと、涙ぐまれぬ。 げに、げに、わが心の餓ゑて空しきこと、 今も猶昔のごとし。   わが友は、今日も 我が友は、今日もまた、 マルクスの「資本論」の 難解になやみつつあるならむ。 わが身のまはりには、 黄色なる小さき花片が、ほろほろと、 何故とはなけれど、 ほろほろと散るごときけはひあり。 もう三十にもなるといふ、 身の丈三尺ばかりなる女の、 赤き扇をかざして踊るを、 見世物にて見たることあり。 あれはいつのことなりけむ。 それはさうと、あの女は―― ただ一度我等の会合に出て それきり来なくなりし―― あの女は、 今はどうしてゐるらむ。 明るき午後のものとなき静心なさ。   家 今朝も、ふと、目のさめしとき、 わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、 顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、 つとめ先より一日の仕事を了へて帰り来て、 夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、 むらさきの煙の味のなつかしさ、 はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る―― はかなくもまたかなしくも。 場所は、鉄道に遠からぬ、 心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。 西洋風の木造のさっぱりとしたひと構へ、 高からずとも、さてはまた何の飾りのなしとても、 広き階段とバルコンと明るき書斎…… げにさなり、すわり心地のよき椅子も。 この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、 思ひし毎に少しづつ変へし間取りのさまなどを 心のうちに描きつつ、 ランプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、 その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、 泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、 そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。 さて、その庭は広くして草の繁るにまかせてむ。 夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に 音立てて降るこころよさ。 またその隅にひともとの大樹を植ゑて、 白塗の木の腰掛を根に置かむ―― 雨降らぬ日は其処に出て、 かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、 四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の 本の頁を切りかけて、 食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、 また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる 村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく…… はかなくも、またかなしくも、 いつとしもなく、若き日にわかれ来りて、 月月のくらしのことに疲れゆく、 都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、 はかなくも、またかなしくも なつかしくして、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ、 そのかずかずの満たされぬ望みと共に、 はじめより空しきことと知りながら、 なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付して、 妻にも告げず、真白なるランプの笠を見つめつつ、 ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。   飛行機 見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。 給仕づとめの少年が たまに非番の日曜日、 肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、 ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ…… 見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを。
底本:「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社    1967(昭和42)年9月7日初版    1972(昭和47)年9月10日9版 親本:初版本 入力:j.utiyama 校正:八巻美惠 1998年11月11日公開 2005年12月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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     一  数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈がそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖し、検覈することを、そうしてそれが彼らの確執を最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁とが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。  自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠のついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬が彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽を強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲を我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造していることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。  それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳しく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸したことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正を試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。  今日我々のうち誰でもまず心を鎮めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。      二  むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧を感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有なる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税の費途なども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究を始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。  しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」  かの早くから我々の間に竄入している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。  かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵が実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合(矛盾せる両思想の)は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。(後段参照)  魚住氏はさらに同じ誤謬から、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。  すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる検覈を加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想から来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。      三  むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎められる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。  見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露、無解決、平面描写、劃一線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって推讃の辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに一見して矛盾に見えるばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、刻一刻に身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや? その中心はどこにありや?」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも起ってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。  さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。  魚住氏はこの一見収攬しがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。曰く、「この奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の利いた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を犯さねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という冠詞をつけて呼ばねばならなくなるのである。  この論者の誤謬は、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と称えらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった(一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった)ことに起因していたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた)に起因しているのである。そうしてさらに詳しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。  かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その同棲者が無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。      四  かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。  見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。  時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。  我々青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。  かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買、淫売買、ないし野合、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。  そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾なくその美しさを発揮しているかを。  かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである。      五  明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。  その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。  けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤として一部の間に認められているごとく、樗牛の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)  樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。  この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐の天に飛翔することを許さなかったのである。  第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」  かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。  さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。  文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
底本:「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社    1967(昭和42)年9月7日初版発行    1972(昭和47)年9月10日9版発行 入力:j.utiyama 校正:浜野智 1998年8月1日公開 2005年11月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一  杜陵を北へ僅かに五里のこの里、人は一日の間に往復致し候へど、春の歩みは年々一週が程を要し候。御地は早や南の枝に大和心綻ろび初め候ふの由、満城桜雲の日も近かるべくと羨やみ上げ候。こゝは梅桜の蕾未だ我瞳よりも小さく候へど、さすがに春風の小車道を忘れず廻り来て、春告鳥、雲雀などの讃歌、野に山に流れ、微風にうるほふ小菫の紫も路の辺に萌え出で候。今宵は芝蘭の鉢の香りゆかしき窓、茶煙一室を罩め、沸る湯の音暢やかに、門田の蛙さへ歌声を添へて、日頃無興にけをされたる胸も物となく安らぎ候まゝ、思ひ寄りたる二つ三つ、䗹々たる燈火の影に覚束なき筆の歩みに認め上げ候。  近事戦局の事、一言にして之を云へば、吾等国民の大慶この上の事や候ふべき。臥薪十年の後、甚だ高価なる同胞の資財と生血とを投じて贏ち得たる光栄の戦信に接しては、誰か満腔の誠意を以て歓呼の声を揚げざらむ。吾人如何に寂寥の児たりと雖ども、亦野翁酒樽の歌に和して、愛国の赤子たるに躊躇する者に無御座候。  戦勝の光栄は今や燎然たる事実として同胞の眼前に巨虹の如く横はれり。此際に於て、因循姑息の術中に民衆を愚弄したる過去の罪過を以て当局に責むるが如きは、吾人の遂に忍びざる所、たゞ如何にして勝ちたる後の甲の緒を締めむとするかの覚悟に至りては、心ある者宜しく挺身肉迫して叱咤督励する所なかるべからず候。近者北米オークランド湖畔の一友遙かに書を寄せて曰く、飛電頻々として戦勝を伝ふるや、日本人の肩幅日益日益広きを覚え候ふと。嗚呼人よ、東海君子国の世界に誇負する所以の者は、一に鮮血を怒涛に洗ひ、死屍を戦雲原頭に曝して、汚塵濛々の中に功を奏する戦術の巧妙によるか。充実なき誇負は由来文化の公敵、真人の蛇蝎視する所に候。好んで酒盃に走り、祭典に狂する我邦人は或は歴史的因襲として、アルコール的お祭的の国民性格を作り出だしたるに候らはざるか。斯の千載一遇の好機会に当り、同胞にして若し悠久の光栄を計らず、徒らに一時の旗鼓の勝利と浮薄なる外人の称讃に幻惑するが如き挙に出でしめば、吾人は乃ち伯叔と共に余生を山谷の蕨草に托し候はむかな。早熱早冷の大に誡しむべきは寧ろ戦呼に勇む今の時に非ずして、却りて戦後国民の覚悟の上にあるべくと存候。万邦環視の中に一大急飛躍を演じたる吾国は、向後如何なる態度を以てか彼等の注目を迎へむとする。洋涛万里を破るの大艦と雖ども、停滞動く事なくむば汚銹腐蝕を免かれ難く、進路一度梶を誤らば遂に岩角の水泡に帰せむのみ。況んや形色徒らに大にして設備完たからざる吾現時の状態に於てをや。 二  惟ふに、少しく夫に通暁する者は、文化の源泉が政治的地盤に湧出する者に非ざるの事実と共に、良好なる政治的動力の文化の進程に及ぼす助長的効果の事実をも承認せざる能はず候。而して斯の如き良好なる政治的動力とは、常に能く国民の思潮を先覚し誘導し、若しくは、少なくともそれと併行して、文化の充実を内に収め、万全の勢威を外に布くの実力を有し、以て自由と光栄の平和を作成する者に有之、申す迄もなく之は、諸有創造的事業と等しく、能く国民の理想を体達して、一路信念の動く所、個人の権威、心霊の命令を神の如く尊重し、直往邁進毫も撓むなき政治的天才によつて経緯せらるゝ所に御座候。吾人が今世界に発揚したる戦勝の光栄を更に永遠の性質に転じて、古代希臘の尊厳なる光輝を我が国土に復活せしめ、吾人の思想、文学、美術、学芸、制度、風気の凡てをして其存在の意義を世界文化史上に求めむが為めに、之が助長的動力として要する所の政治者は固より内隠忍外倨傲然も事に当りて甚だ小胆なる太郎内閣に非ず、果たかの伊藤や大隈や松方や山県に非ずして、実に時勢を洞観する一大理想的天才ならざる可からず候。一例をあぐれば、其名独逸建国の歴史を統ぶる巨人ビスマルクの如きに候ふ可く、普仏戦争に際して、非常の声誉と、莫大の償金と、アルサス、ローレンスと、烈火の如き仏人の怨恨とを担ふて、伯林城下に雷霆の凱歌を揚げたる新独逸を導きて、敗れたる国の文明果して劣れるか、勝たる国の文明果して優れるかと叫べるニイチエの大警告に恥ぢざる底の発達を今日に残し得たる彼の偉業は、彼を思ふ毎に思はず吾人をして讃嘆せしむる所に候はずや。嗚呼今や我が新日本は、時を変へ、所を変へ、人種を変へて、東洋の、否世界の、一大普仏戦争に臨み、遠からずして独逸以上の光栄と、猜疑と、怨恨と、報酬とを千代田城下に担ひ来らむとす。而も吾人はこの難関に立たしむべき一人のビ公を有し候ふや否や。あらず、彼を生み出したる独逸の国民的自覚と、民族的理想と自由の精気と堅忍進取の覚悟の萌芽を四千余万の頭脳より搾出し得べきや否や。勝敗真に時の運とせば、吾人は、トルストイを有し、ゴルキイを有し、アレキセーフを有し、ウヰツテを有する戦敗国の文明に対して何等後へに瞠若たるの点なきや否や。果た又、我が父祖の国をして屈辱の平和より脱せむが為めに再び正義の名を借りて干戈を動かさしむるの時に立ち至らざるや否や。書して茲に至り吾人は実に悵然として転た大息を禁ずる能はざる者に候。嗚呼今の時、今の社会に於て、大器を呼び天才を求むるの愚は、蓋し街頭の砂塵より緑玉を拾はむとするよりも甚しき事と存候。吾人は我が国民意識の最高調の中に、全一の調和に基ける文化の根本的発達の希望と、愛と意志の人生に於ける意義を拡充したる民族的理想の、一日も早く鬱勃として現はれ来らむ事を祈るの外に、殆んど為す所を知らざる者に御座候。 (四月廿五日夜) 三  四月二十六日午後一時。  夜来の春雨猶止まずして一山風静かに、窓前の柳松翠色更に新たなるを覚え、空廊に響く滴水の音、濡羽をふるふ鶯の声に和して、艶だちたる幽奥の姿誠に心地よく候。この雨収まらば、杜陵は万色一時に発く黄金幻境に変ず可くと被存候。  今日は十時頃に朝餐を了へて、(小生の経験によれば朝寝を嫌ひな人に、話せる男は少なき者に御座候呵々)二時間許り愛国詩人キヨルネルが事を繙読して痛くも心を躍らせ申候。張り詰めたる胸の動悸今猶静め兼ね候。抑々人類の「愛」は、万有の生命は同一なりてふ根本思想の直覚的意識にして、全能なる神威の尤も円満なる表現とも申す可く、人生の諸有経緯の根底に於て終始永劫普遍の心的基礎に有之候へば、国家若しくは民族に対する愛も、世の道学先生の言ふが如き没理想的消極的理窟的の者には無之、実に同一生命の発達に於ける親和協同の血族的因縁に始まり、最後の大調和の理想に対する精進の観念に終る所の、人間凡通の本然性情に外ならず候。熱情詩人、我がキヨルネルの如きは、この沈雄なる愛国の精神を体現して、其光輝長へに有情の人を照らすの偉人と被存候。  時は千八百十三年、モスコーの一敗辛くも巴里に遁れ帰りたる大奈翁に対し、普帝が自由と光栄の義戦を起すべく、三月十七日、大詔一下して軍を国内に徴するや、我がキヨルネルは即日筆を擲つて旗鼓の間に愛国の歩調を合し候ひき。彼は祖国の使命を以て絶大なる神権の告勅を実現するにありとしたり。されば彼に於ては祖国の理想と自由の為めに、尊厳なる健闘の人たるは実に其生存の最高の意義、信念なりき。彼乃ち絶叫して曰く、人生に於ける最大の幸福の星は今や我生命の上に輝きたり。あゝ祖国の自由のために努力せむには如何なる犠牲と雖ども豈尊としとすべけむや。力は限りなく我胸に湧きぬ。さらば起たむ、この力ある身と肉を陣頭の戦渦に曝さむ、可ならずや、と。斯の如くして彼は、帝室劇詩人の栄職を捨て、父母を離れ、恋人に袂別して、血と剣の戦野に奮進しぬ。陣中の生活僅かに十六旬、不幸にして虹の如き二十有三歳を一期に、葉月二十六日曙近きガデブツシユの戦に敵弾を受けて瞑したりと雖ども、彼の胸中に覚醒したる理想と其健闘の精神とは、今に生ける血となりて独逸民族の脈管に流れ居候。誰か彼を以て激情のために非運の最期を遂げたる一薄倖児と云ふ者あらむや。ゲーテ、シルレル、フユヒテ、モムゼン、ワグネル、ビスマルク等を独逸民族の根と葉なりとせば、キヨルネルは疑ひもなく彼等の精根に咲き出でたる、不滅の花に候。鉄騎十万ラインを圧して南下したるの日、理想と光栄の路に国民を導きたる者は、普帝が朱綬の采配に非ずして、実にその身は一兵卒たるに過ぎざりし不滅の花の、無限の力と生命なりしに候はずや。剣光満洲の空に閃めくの今、吾人が彼を懐ふ事しかく切なる者、又故なきに非ず候。  日露干戈を交へて将に三閲月、世上愛国の呼声は今殆んど其最高潮に達したるべく見え候。吾人は彼等の赤誠に同ずるに於て些の考慮をも要せざる可く候。然れども強盛なる生存の意義の自覚に基かざる感激は、遂に火酒一酔の行動以上に出で難き事と存候。既に神聖なる軍国の議会に、露探問題を上したるの恥辱を有する同胞は、宜しく物質の魔力に溺れむとする内心の状態を省みる可く候。省みて若し、漸く麻痺せむとする日本精神を以て新たなる理想の栄光裡に復活せしめむとする者あらば、先づ正に我がキヨルネルに学ばざる可からず候はざるか。愛国の至情は人間の美はしき本然性情なり。個人絶対主義の大ニイチエも、普仏戦争に際しては奮激禁ぜず、栄誉あるバアゼルの大学講座を捨てゝ普軍のために一看護卒たるを辞せざりき、あゝ今の時に於て、彼を解する者に非ざれば、又吾人の真情を解せざる可く候。身を軍籍に措かざれば祖国のために尽すの路なきが如き、利子付きにて戻る国債応募額の多寡によつて愛国心の程度が計らるゝ世の中に候。嗟嘆、頓首。 四  四月二十八日午前九時  今日は空前の早起致し候ため、実は雨でも降るかと心配仕り候処、春光嬉々として空に一点の雲翳なき意外の好天気と相成、明け放したる窓の晴心地に、壁上のベクリンが画幀も常よりはいと鮮やかに見られ候。只今三時間許り、かねて小生の持論たる象徴芸術の立場より現代の思想、文芸に対する挑戦の論策を編まむ下心にて、批評旁々、著者嘲風先生より送られたる「復活の曙光」繙読致候。然しこれは、到底この短き便りに述べ尽し難き事に候へば、今日は品を代へて一寸、盛中校友会雑誌のために聊か卑見申進むべく候。或は之れ、なつかしき杜陵の母校の旧恩に酬ゆる一端かとも被存候。  此雑誌も既に第六号を刊行するに至り候事、嬉しき事に候へど、年齢に伴なふ思想の発達著るしからざるに徴すれば、精神的意義に乏しき武断一偏の校風が今猶勢力を有する結果なるべくと、婆心また多少の嗟嘆なき不能候。嘗て在校時代には小生もこれが編輯の任に当りたる事有之候事とて、読過の際は充分の注意を払ひたる積りに御座候。  論文欄は毎号紙数の大多部を占むると共に、又常に比較的他欄より幼稚なる傾向有之候が、本号も亦其例外に立ち難く見受けられ候。然れども巻頭の中館松生君が私徳論の如きは、其文飛動を欠き精緻を欠くと雖ども、温健の風、着実の見、優に彼の気取屋党に一頭地を抜く者と被存候。斯くの如き思想の若し一般青年間に流布するあらば、健全なる校風の勃興や疑ふ可からず候。同君の論旨が質朴謙遜に述べられてある丈、小生も亦其保守的傾向ある所謂私徳に対して仰々しく倫理的評価など下すまじく候。  此文を読みて小生は、論者の実兄にして吾等には先輩なる鈴木卓苗氏を思出だし候ひき。荒川君の史論は、何等事相発展の裡面に哲理的批判を下す文明的史眼の萌芽なきを以て、主観的なる吾等には興味少なく候へ共、其考証精密なる学者風の態度は、客気にはやる等輩中の一異色に候。小生は、単に過去の事蹟の記録統計たるに留まらば、歴史てふ興味ある問題も人生に対して亳も存在の意義を有せざる者なる事に就きて、深沈なる同君の考慮を煩はしたく存候。吾人の標準とか題したる某君の国家主義論は、推断陋劣、着眼浅薄、由来皮相の国家主義を、弥益皮相に述べ来りたる所、稚気紛として近づく可からず候。筆を進めて其謬見の謬見たる所以を精窮するは評家の義務かも知れず候へど、自明の理を管々しく申上ぐるも児戯に等しかるべく候に付、差控へ申候。相沢活夫君の論は、此号の論客中尤も文に老練なる者と可申、君の感慨には小生亦私かに同情に堪へざる者に有之候。既にこの気概あり、他日の行動嘱目の至りに御座候。(以下次号) [「岩手日報」明治三十七年四月二十八、二十九、三十、五月一日]
底本:「石川啄木全集 第四巻 評論・感想」筑摩書房    1980(昭和55)年3月10日初版第1刷発行    1982(昭和57)年11月30日初版第3刷発行 初出:「岩手日報」    1904(明治37)年4月28日~5月1日 入力:林 幸雄 校正:noriko saito 2010年5月18日作成 2018年7月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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校友歌 澁民尋常小學校生徒のために。 丙午七月一日作歌。 一 文の林の淺緑 樹影しづけきこの庭に 桂の庵の露むすび 惠みの星を迎ぎ見て 春また春といそしめば 心の枝も若芽すも。 二 芽ぐめる枝に水そそぎ また培ふや朝夕に 父母のなさけを身にしめて 螢雪の苦をつみゆかば 智慧の木の實の味甘き 常世の苑も遠からじ。 三 導びく人の温かき み手にひかれて睦み合ふ 我が三百の兄弟よ 木枯ふけど雪ふれど きえぬ學びの燈の 光を永久に守らまし。 四 雪をいただく岩手山 名さへ優しき姫神の 山の間を流れゆく 千古の水の北上に 心を洗ひ筆洗ふ この樂しみを誰か知る。 五 山は秀でて水清く 秀麗の氣をあつめたる このみちのくの澁民の 母校の友よいざさらば 文の林の奧深く 理想の旗を推し立てむ。 別れ 澁民小學校卒業式に歌へる。 譜「荒城の月」に同じ。 一 心は高し岩手山 思ひは長し北上や こゝ澁民の學舍に むつびし年の重りて 二 梅こそ咲かね風かほる 彌生二十日の春の晝 若き心の歌ごゑに わかれのむしろ興たけぬ 三 あゝわが友よいざさらば 希望の海に帆をあげよ 思ひはつきぬ今日の日の つどひを永久の思ひ出に (明治四十年三月作)
底本:「啄木全集 第二卷」岩波書店    1961(昭和36)年4月13日新装第1刷発行 ※「唱歌」は、底本編集時に、斎藤三郎が設けたまとまりです。 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年6月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 木下尚江著小説「墓場」。  明治四十一年(一九〇八)十二月十三日東京本郷弓町一丁目二番地昭文堂宮城伊兵衞發行。翌四十二年二月再版。著者の著作の順序からいへば「乞食」の後、「勞働」の前。  著者の小説は概して二つの種類に分けることが出來る。一は或思想を説明若くは主張する爲に其處に或事件を空想的に脚色したもの、さうして他は著者自身の實際の事歴を經として叙述したもの。――この墓場は、それに書かれた色々の事件が、著者の告白書「懺悔」及び平民社一派の歴史的事實と間々吻合してゐる點から見て、假令其處には隨分多量に作爲の跡を見るにしても、後者の系統に屬するものであることは明かである。しかしそれが著者自身に於ての最も重要な時期――嘗て平民社の有力者、第一期日本社會主義の代表者の一人として活動した著者が、遂にその社會主義を棄てて宗教的生活に入るに至つたまでの――思想の動搖を一篇の骨子としてゐる上に於て、日本に於ける社會主義的思潮の消長を研究する立場からも極めて眞面目な興味を注ぎ得べき作である。又單に一箇の小説として見ても、著者の作中では最も優れたものの一つである。同じ傾向に立つ「勞働」のやうに散慢でなく、反對の系統にある「乞食」などのやうに獨斷的な厭味もない。故郷に歸つて追憶をほしいまゝにするといふ結構それ自身が、何人の興味をも集め得る傳習的の手段であるとはいひながら、間々鋭い批評を含んだ叙述の筆にも讀者を最後の頁まで導く魅力は確かにある。尤もその長所がやがてまた此の小説の短所――詮じつめて言へば著者それ自身の短所のある所である。即ち、彼は既に一箇の小説として格好な題材を捉へ、且つそれを表現すべき格好な形式を作り出しながら、それを小説として完成すべく、その創作的態度の上に餘りに露骨に批評家としての野心を見せ過ぎてゐる。若し彼にして眞に忠實なる一小説家であつたならば、必ず其處に一つの小説が有すべき力學的要素と其量に就いて適當な按配を試みたに違ひない。しかく色々の過去の事物及び半過去の領域に屬してゐる故郷の現状に執着する代りに、もつと強く且つ深く現實の壓迫を描いたに違ひない。(書中に於ては、主人公が目前に用事を控へてゐながらふらりと故郷に歸つて來て十日も經つのに、東京の妻からたゞ一通の手紙が來た外に、何等その現實の生活との交渉が語られてゐない。)さうして其處に此の小説の本旨が却つて一番強く且つ深く達せられたに違ひない。  種々の事實によつて推察するに、この小説の時期は明治三十九年(一九○六)六月である。  日本に於ける第一期社會主義運動は不思議にも日露戰爭と密接な關係を以て終始した。戰爭の前年(三十六年、一九〇三)十月、萬朝報社の非戰主義者の内村鑑三、幸徳傳次郎、堺枯川の三氏は社長黒岩周六の開戰不可避論を承認することが出來なくて連袂退社を決行した。さうして三氏の中の社會主義者幸徳、堺二氏は、その年十一月を以て社會主義協會の人々と共に週刊「平民新聞」を起した。著者もその同志の一人であつた。しかも文筆に於て辯論に於て、實に最も有力なる同志の一人であつた。啻に文筆辯論に於けるばかりでなく、同志の獄に引かるる者ある毎に、著者はその職業の故を以て常に法廷に辯護の勞を執ることに盡してゐた。三十八年(一九〇五、この小説の時期の前年)五月には同志から推されて東京市衆議院議員補缺選擧の候補にも立つた。  然しながらこの平民社は、たとひその經濟上の破綻が原因をなさぬまでも、遂に一度は解體さるべきものであつた。其處には著者の如き基督教信者もあれば、徹底した意識を有つた唯物論者もあつた。またその何れにも屬することの出來ない實際的社會主義者――即ち眞の社會主義者――もゐた。三十八年八月を以て戰爭が終結すると共に、社會主義者の氣勢は漸く鈍つた。十月に至つて平民社は遂に解散を餘儀なくされた。十一月十四日を以て幸徳は北米に去つた。著者はこの頃すでに社會主義者としての自己の立場に不安と動搖とを感じてゐたらしく見える。幸徳の去ると同時に、以前の同志は二分され、一派は十一月二十日を以て半月刊「光」を起し、著者は安部磯雄、石川三四郎二氏と共に月刊「新紀元」に基督教的社會主義の旗幟を飜した。かくて第一期社會主義運動は衰頽の氣運と共に明治三十九年を迎へた。  近世社會主義はその平等思想に於て在來の一切の宗教、一切の人道的思想に共通してゐる。無論基督教にも共通してゐる。然しながら近世社會主義は所詮近世産業時代の特産物である。其處に掩ふべからざる特質がある。從つて社會主義と基督教との間には、或調和の保たれる餘地は充分にあるが、然しその調和は兩方の特質を十分包含し得る程の調和ではあり得ない。基督教社會主義とは畢竟その不十分なる調和に名付けられた名に過ぎない。――予はさう思ふ。さうして「墓場」の著者の煩悶も亦其處にあると思ふ。時は戰爭後であつた。平民社解散後であつた。人は誰しも或活動の後には一度必ず自分自身とその自分の爲した事とを靜觀するものである。さうして、その時、大抵の人は、殊に單純な性格の人は、失望に捉へられるものである。  恰度その時、五月六日(「懺悔」による)著者はその母を喪つた。母の死は孝心深き著者(著者の孝心の深かつたことは著者の多くの著作によつて窺はれる)にどれだけの打撃であつたか知れない。著者の精神的動搖は頂點に達した。小説「墓場」は其處に筆を起してゐる。  次のやうな序文がついてゐる。 昔時「パリサイ」の師「ニコデモ」、夜窃かに耶蘇に來りて道を問ふ。耶蘇答へて曰く、「人若し生まれ替はるに非れば、神の國を見ること能はず」。而して「ニコデモ」遂に之を解せざりき。嗚呼人生まれ替はるに非れば、神の國を見る能ず。然り。今や諸氏大懺悔の時なり。 僞善の帷帳、裂けし響か、雁かねの 夜渡る聲か、枕に惑ふ。 千九百八年十一月廿九日霜白き曉                 木下尚江 三河島の菜園に於て
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 2012年8月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 本誌の編輯は各月當番一人宛にてやる事に相成り、此號は小生編輯致し候。隨つて此號編輯に關する一切の責任は小生の負ふ所に候。  締切までに小生の机上に堆積したる原稿意外に多く爲めに會計擔任者と合議の上、紙數を増す事豫定より五十頁の多きに達し、從つて定價を引上ぐるの止むなきに到り候ひしも、猶且その原稿の全部を登載する能はず、或は次號に𢌞し、或は寄稿家に御返却したるものあり。謹んで其等執筆諸家に御詫申上候。  また本號の短歌は總て之を六號活字にしたり。此事に關し、同人萬里君の抗議別項(一一九頁)にあり。茲に一應短歌作者諸君に御詫び申上候。  萬里君の抗議に對しては小生は別に此紙上に於て辯解する所なし。つまらぬ事なればなり、唯その事が平出君と合議の上にやりたるに非ずして、全く小生一人の獨斷なる事を告白致置候。平出君も或は紙數を儉約する都合上短歌を六號にする意見なりしならむ。然れども六號にすると否とは一に小生の自由に候ひき。何となれば、各號は其當番が勝手にやる事に決議しありたればなり。  活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになつて讀者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。  小生は第一號に現はれたる如き、小世界の住人のみの雜誌の如き、時代と何も關係のない樣な編輯法は嫌ひなり。その之を嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とによる。小生の時々短歌を作る如きは或意味に於て小生の遊戲なり。  小生は此第二號を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭みを此號より驅除せむとしたり。然れどもそは遂に大體に於て思つただけにてやみぬ。筆録に於て、口語詩、現時の小説等に對する小生の意見を遠慮なく發表せむとしたれども、それすら紙數の都合にて遂に掲載する能はざりき。遺憾この事に御座候。僅かに短歌を六號活字にしたる事によりて自ら慰めねばならぬなり。白状すれば、雜録を五號にしたるも、しまひに付ける筈なりし小生の『一隅より』を五號にするため、實は前の方のも同活字にしただけなり。敢て六號にすれば遲れますよと活版屋が云つた爲にあらず。それは一寸した口實なり。  愚痴は措く。兎も角も毎號編輯者が變る故、毎號違つた色が出て面白い事なるべく候。  末筆ながら、左の二氏より本誌の出版費中へ左の通り寄附ありたり。謹んで謝意を表しおき候。 一金五圓也 上原政之助氏 一金一圓也 柏田蕗村氏 (校了の日 印刷所の二階にて 啄木生) (明42・2「スバル」二)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「スバル」    1909(明治42)年2月 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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『惡少年を誇稱す 糜爛せる文明の子』  諸君試みに次に抄録する一節を讀んで見たまへ。      ○  しばらくは若い人達の笑聲が室の中にみちて、室の中は蒸すやうになつた。その中に頼んだ壽司とサイダーが運ばれたので、みんな舊の席へかへつた。舊の席に就いて、それから壽司とサイダーを飮み乍らまた談話が開始された。それからそれへといろ〳〵おもしろい話の花が咲く。瓦斯が明るく室中をてらして、かうして若い人達の並んでゐるところを見ると、そゞろに腕の鳴るのを覺える。何か新らしい事業をしたい、新らしい運動、新らしい努力を詩歌壇にやつて見たい…………さういふ念が頻りに起つて來る。 『これだけ居れば何でも出來るね』  集つてゐるところをぢつと眺めてゐた△△氏が、感に堪へたやうな聲でかう云ひ出した。期せずして同じ樣な笑聲が皆の口から出た。 『惡少年のかたまりか………』  さう誰かゞ云つた。 『惡少年』  さう誰かゞ應じてまた面白そうに笑ひ出した。      ○  これは『創作』といふ短歌專門の雜誌で去月十六日誌友小集を開いた時の記事の一節で同誌八月號に載つてゐるものである。此處に所謂『惡少年』の何を意味するかは嘗て本紙に出た『滿都の惡少年』といふ記事を讀んだ人には直解るに違ひない。人の話に聞くと佛蘭西十九世紀末の頽唐派の詩人共は批評家から彼等はデカダンだと言はれた時、そいつは面白いといふので早速取つて以て自分等の一派の詩風の代名詞にしたとやら、若しそれ等の肉慾の亡者、酒精中毒者の一團が最も尊敬すべき近代的詩人の標本であるならば、この惡少年だと言はれて喜んでゐる日本の若い歌よみ達も大層偉い人達なのかも知れない。  所が同じ雜誌を讀んでゐて記者は驚いて了つた、六十八、九頁に『黄と赤と青の影畫』と題して三十四首の短歌が載つてゐる、作者は近藤元 潮なりの滿ちし遊廓にかろ〴〵と われ投げ入れしゴム輪の車 潮なりにいたくおびゆる神經を しづめかねつゝ女をば待つ 新内の遠く流れてゆきしあと 涙ながして女をおこす といふやうな歌がある、潮鳴りの滿ちし遊廓といふと先づ洲崎あたりだらう、洲崎! 洲崎! 實にこの歌は洲崎遊廓へ女郎買ひに行つた歌だつたのだ。 寢入りたる女の身をば今一度 思へば夏の夜は白みけり といふのがある やはらかきこの心持明け方を 女にそむき一しきり寢る といふのがある、若し夫れ 空黄色にぽうつと燃ゆる翌朝の たゆき瞼をとぢてたゝずむ に至つては何うだ。聞く所によると作者近藤元といふ歌人はまだ下宿住ひをしてゐる廿一二の少年なそうだ、さうして同じ雜誌には又この人の第二歌集『凡ての呼吸』の豫告が出てゐる、其廣告文の中に次のやうな一節がある。  狂ほへる酒に夢みる情緒と、あたゝかき抱擁に微睡む官能とは、時來るや突如として眼覺め、振盪して微妙なる音樂を節奏し、閃めき來つて恍惚たる繪畫を點綴す。  著者は糜爛せる文明が生める不幸兒なり。本書は現實に浮かび出でんとして藻掻きながらも底深くいや沈みゆく著者の苦しき呼吸なり、凡ての呼吸なり。  最も新しき短歌を知らんと欲する人々にこの集を薦む。  糜爛せる文明の不幸兒! 最も新らしき短歌! プウ! 『現代人の疲勞』といふべきべらんめえ君の一文を讀んだ人は此處に最もよい例を見出したであらう、記者はたゞ記者の驚きを讀者に傳へるまでゞある、次の時代といふものに就いての科學的、組織的考察の自由を奪はれてゐる日本の社會に於ては斯ういふ自滅的、頽唐的なる不健全なる傾向が日一日若い人達の心を侵蝕しつゝあるといふ事を指摘したまでゞある。 (明治43・8・6「東京朝日新聞」)
底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 初出:「東京朝日新聞」    1910(明治43)年8月6日 入力:蒋龍 校正:小林繁雄 2009年8月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 凹凸の石高路 その往還を左右から挾んだ低い茅葺屋根が、凡そ六七十もあらう。何の家も、何の家も、古びて、穢なくて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒り合つて辛々支へてる樣に見える。家の中には生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明ならぬ程に燻つて、それが、日一日破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。兩側の狹い淺い溝には、襤褸片や葫蘿蔔の切端などがユラユラした涅泥に沈んで、黝黒い水に毒茸の樣な濁つた泡が、ブク〳〵浮んで流れた。  駐在所の髯面の巡査、隣村から應援に來た今一人の背のヒョロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の醫師、赤焦けた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒具を携へた二人の使丁、この人數は、今日も亦家毎に強行診斷を行つて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一片飛ばぬ日和であるが、稀に室外を歩いてるものは、何れも何れも申合せた樣に、心配氣な、浮ばない顏色をして、跫音を偸んでる樣だ。其家にも、此家にも、怖し氣な面構をした農夫や、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青脹れた女などが門口に出で、落着の無い不恰好な腰附をして、往還の上下を眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。子供等さへ高い聲も立てない。時偶胸に錐でも刺された樣な赤兒の悲鳴でも聞えると、隣近所では妙に顏を顰める。素知らぬ態をしてるのは、干からびた鹽鱒の頭を引擦つて行く地種の痩犬、百年も千年も眠つてゐた樣な張合のない顏をして、日向で欠伸をしてゐる眞黒な猫、往還の中央で媾んでゐる雞くらゐなもの。村中濕りかへつて巡査の靴音と佩劍の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を傳へた。  鼻を刺す石炭酸の臭氣が、何處となく底冷えのする空氣に混じて、家々の軒下には夥しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲來を被つた山間の荒村の、重い恐怖と心痛に充ち滿ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態は、一度その境を實見したんで無ければ、迚も想像も及ぶまい。平常から、住民の衣、食、住――その生活全體を根本から改めさせるか、でなくば、初發患者の出た時、時を移さず全村を燒いて了ふかするで無ければ、如何に力を盡したとて豫防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫が猖獗を極めた時、所轄警察署の當時の署長が、大英斷を以て全村の交通遮斷を行つた事がある。お蔭で他村には傳播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々何の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隱蔽して置いて牻牛兒の煎藥でも服ませると、何時しか癒つて、格別傳染もしない。それが、萬一醫師にかゝつて隔離病舍に收容され、巡査が家毎に呶鳴つて歩くとなると、噂の擴がると共に疫が忽ち村中に流行して來る――と、實際村の人は思つてるので、疫其者より巡査の方が嫌はれる。初發患者が見附かつてから、二月足らずの間に、隔離病舍は狹隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家を借り上げ、それも滿員といふ形勢で、總人口四百内外の中、初發以來の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診斷の結果で又二名増えた。戸數の七割五分は何の家も患者を出し、或家では一家を擧げて隔離病舍に入つた。  秋も既う末――十月下旬の短かい日が、何時しかトップリと暮れて了つて、霜も降るべく鋼鐵色に冴えた空には白々と天の河が横はつた。さらでだに蟲の音も絶え果てた冬近い夜の寥しさに、まだ宵ながら、戸がピッタリと閉つて、通る人もなく、話聲さへ洩れぬ。重い〳〵不安と心痛が、火光を蔽ひ、門を鎖し、人の喉を締めて、村は宛然幾十年前に人間の住み棄てた、廢郷かの樣に闃乎としてゐる。今日は誰々が顏色が惡かつたと、何れ其麽事のみが住民の心に徂徠してるのであらう。  其重苦しい沈默の中に、何か怖しい思慮が不意に閃く樣に、此のトッ端の倒りかゝつた家から、時時パッと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鐵砧を撃つ鏗い響が、地の底まで徹る樣に、村の中程まで聞えた。  其隣がお由と呼ばれた寡婦の家、入口の戸は鎖されたが、店の煤び果てた二枚の障子――その處々に、朱筆で直した痕の見える平假名の清書が横に逆樣に貼られた――に、火花が映つてゐる。凡そ、村で人氣のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端れ近い役場と、雜貨やら酒石油などを商ふ村長の家の四軒に過ぎない。  ガタリ、ガタリと重い輛の音が石高路に鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一臺、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スッポリと赤毛布を被つた馬子が胡坐をかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない聲に高く低く節附けた歌が聞える。 『あしきをはらうて救けたまへ、天理王のみこと。……この世の地と、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露臺。』  歌に伴れて障子の影法師が踊る。妙な手附をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦乎と映り、或は小く分明と映る。 『チヨッ。』と馬子は舌鼓した。『フム、また狐の眞似演てらア!』 『オイ お申婆でねえか?』と、直ぐ又大きい聲を出した。丁度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四邊を憚る樣に答へた。『隣の兄哥か? 早かつたなす。』 『早く歸つて寢る事た。恁麽時何處ウ徘徊くだべえ。天理樣拜んで赤痢神が取附かねえだら、ハア、何で醫者藥が要るものかよ。』 『何さ、ただ、お由嬶に一寸用があるだで。』と、聲を低めて對手を宥める樣に言ふ。 『フム。』と言つた限で荷馬車は行き過ぎた。  お申婆は、軈て物靜かに戸を開けて、お由の家に姿を隱して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。 『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。 『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。 『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』  横川松太郎は、同じ縣下でも遙と南の方の、田の多い、養蠶の盛んな、或村に生れた。生家はその村でも五本の指に數へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、體も脾弱く、氣も因循で學校に入つても、勵むでもなく、怠るでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の學校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、丁度その頃、暴風の樣な勢で以て、天理教が附近一帶の村々に入り込んで來た。  或晩、氣弱者のお安が平生になく眞劒になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の附くものは何でも嫌ひな舊弊家の、剩に名高い吝嗇家だつた作松は、仲々それに應じなかつたが、一月許り經つと、打つて變つた熱心な信者になつて、朝夕佛壇の前で誦げた修證義が、「あしきを攘うて救けたまへ。」の御神樂歌と代り、大和の國の總本部に参詣して來てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所有地全體賣拂つて、工事總額二千九百何十圓といふ、巍然たる大會堂を、村の中央の小高い丘陵の上に建てた。神道天理教會××支部といふのがそれで。  その爲に、松太郎は兩親と共に着のみ着の儘になつて、其會堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りで罷めて了つた。)最初、朝晩の禮拜に皆と一緒になつて御神樂を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、氣羞しくて厭だと言つては甚麽に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程經つて近所に火事のあつた時、人先に水桶を携つて會堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴な殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳經つて、腦貧血を起して死んだ。  兩親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他から鄭重に悼辭を言はれると、奈何して俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その會堂に起臥して、天理教の教理、祭式作法、傳道の心得などを學んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、惡い事はカラ出來ない性なのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常可愛がつて使つたものだ。また渠は、一體其麽人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮發心の出ない性で、從つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶、雜誌の口繪で縹緻の好い藝妓の寫眞を見たり、地方新聞で金持の若旦那の艶聞などを讀んだりした時だけは、妙に恁う危險な――實際危險な、例へば、密々とこの會堂や地面を自分の名儀に書き變へて、裁判になつても敗けぬ樣にして置いて、突然賣飛ばして了はうとか、平常心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然理由の無い反抗心を抱いたものだが、それも獨寢の床に人間並の出來心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。  兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ會堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其處で三ヶ月修業して、「教師」の資格を得て歸ると、今度は、縣下に各々區域を定めて、それ〴〵布教に派遣されたのだ。  さらでだに元氣の無い、色澤の惡い顏を、土埃と汗に汚なくして、小い竹行李二箇を前後に肩に掛け、紺絣の單衣の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る樣な足取で、松太郎が初めて南の方から此村に入つたのは、雲一つ無い暑さ盛りの、丁度八月の十日、赤い〳〵日が徐々西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齡こそ人並に喰つてはゐるが、生來の氣弱者、經驗のない一人旅に、今朝から七里餘の知らない路を辿つたので、心の膸までも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものゝ、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的の無い旅だ!」と言つたやうな、朦乎した悲哀が、粘々した唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかゝる痩犬を半分無意識に怕い顏をして睨み乍ら、脹けた樣な頭を搾り、あらん限りの智慧と勇氣を集めて、「兎も角も、宿を見附る事た。」と決心した。そして、口が自からポカンと開いたも心附かず、臆病らしい眼を怯々然と兩側の家に配つて、到頭、村も端れ近くなつた邊で、三國屋といふ木賃宿の招牌を見附けた時は、渠には既う、現世に何の希望も無かつた。  翌朝目を覺ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼附をした老爺と其娘だといふ二十四五の、旅疲勞の故か張合のない淋しい顏の、其癖何處か小意氣に見える女。(何處から來て何處へ行くのか知らないが、路銀の補助に賣つて歩くといふ安筆を、松太郎も勸められて一本買つた。)――その二人は既う發つて了つて穢ない室の、補布だらけな五六の蚊帳の隅つこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰けに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寢た女の寢息や寢返りの氣勢に酷く弱い頭を惱まされて、夜更まで寢附かれなかつた事も忘れて、慌てゝ枕の下の財布を取出して見た。變りが無い。すると又、突然褌一つで蚊帳の外に跳び出したが、自分の荷物は寢る時の儘で壁側にある。ホッと安心したが、猶念の爲に内部を調べて見ると、矢張變りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。 「さて、何う爲ようかな?」恁う渠は、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤に攻められて一面に紅らんだ横腹を自暴に掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷か何かで左手の指が皆内側に曲つた宿の嬶の待遇振が、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由もなく此村が氣に入つて、一つ此地で傳道して見ようかと思つてゐたのだ。 「さて、何う爲ようかな?」恁う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が附かない。「奈何爲よう。奈何爲よう。」と、終ひには少し懊つたくなつて來て、愈々以て決心が附かなくなつた。と、言つて、發たうといふ氣は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此處に落つる。「兎も角も、村の樣子を見て來る事に爲よう。」と決めて、朝飯が濟むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。  前日通つた時は百二三十戸も有らうと思つたのが數へて見ると、六十九戸しか無かつた。それが又穢ない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに氣強くなつて來た。渠には自信といふものが無い。自信は無くとも傳道は爲なければならぬ。それには、成るべく狹い土地で、そして成るべく教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に歸つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入り込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出來るだけ勿體を附けて自分の計畫を打ち明けて見た。  三國屋の亭主といふのは、長らく役場の小使をした男で、身長が五尺に一寸も足らぬ不具者で、齡は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が兩方から吸込まれて、物言ふ聲が際立つて鼻にかゝる。それが、『然うだなツす……』と、小苦面に首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、『何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア! 神樣さア喜捨る錢金が有つたら石油でも買ふべえドラ。』 『それがな。』と、松太郎は臆病な眼附をして、『何もその錢金の費る事で無えのだ。私は其麽者で無え。自分で宿料を拂つてゐて、一週間なり十日なり、無料で近所の人達に聞かして上げるのだツさ。今のその、有難いお話な。』  氣乘りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉遣ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女子供合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衞。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋附羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を澁團扇で追ひ乍ら、教祖島村美支子の一代記から、一通りの教理まで、重々しい力の無い聲に出來るだけ抑揚をつけ諄々と説いたものだ。 『ハハア、そのお人も矢張りお嫁樣に行つたのだなツす?』と、乳兒を抱いて來た嬶が訊いた。 『左樣さ。』と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、『お美支樣が丁度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生家から、三眛田村の中山家へ御入輿に成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、總てで以て十四荷――一荷は擔ぎで、畢竟平たく言へば十四擔ぎあつたと申す事ぢや。』『ハハア、有り難い事だなツす。』と、飛んだところに感心して、『ナントお前樣、此地方ではハア、今の村長樣の嬶樣でせえ、箪笥が唯三竿――、否全體で三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなッす。』  二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた子供連と、鍛冶屋の重兵衞、三太が二三人朋輩を伴れて來た。その若者が何彼と冷評しかけるのを、眇目の重兵衞が大きい眼玉を剥いて叱り附けた。そして、自分一人夜更まで殘つた。  三日目は、午頃來の雨、蚊が皆家の中に籠つた點燈頃に、重兵衞一人、麥煎餅を五錢代許り買つて遣つて來た。大體の話は爲て了つたので、此夜は主に重兵衞の方から、種々の問を發した。それが、人間は死ねば奈何なるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出來ないとか、天理王の命も魚籃觀音の樣に、假に人間の形に現れて蒼生を濟度する事があるとか、概して教理に關する問題を、鹿爪らしい顏をして訊くのであつたが、松太郎の煮え切らぬ答辯にも多少得る所があつたかして、 『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎を恁う呼ぶ事にした、)俺にも餘程天理教の有難え事が解つて來た樣だな。耶蘇は西洋、佛樣は天竺、皆渡來物だが、天理樣は日本で出來た神樣だなッす?』 『左樣さ。兎角自國のもんでないと惡いでな。加之何なのぢや、それ、國常立尊、國狹槌尊、豐斟渟尊、大苫邊尊、面足尊惺根尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、それから大日靈尊、月夜見尊、この十柱の神樣はな、何れも皆立派な美徳を具へた神樣達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神樣の美徳を悉皆具へて御座る。』 『成程。それで何かな、先生、お前樣は一人でも此村に信者が出來ると、何處へも行かねえつて言つたけが、眞箇かな? それ聞かねえと飛んだブマ見るだ。』 『眞箇ともさ。』 『眞箇かな?』 『眞箇ともさ。』 『愈々眞箇かな?』 『ハテ、奈何して嘘なもんかなア。』と言ひは言つたが、松太郎は餘り冗く訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。 『先生、そンだらハア。』と、重兵衞は、突然膝を乘出した。『俺が成つてやるだ。今夜から。』 『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。 『然うせえ。外に何になるだア!』 『重兵衞さん、そら眞箇かな?』と、松太郎は筒拔けた樣な驚喜の聲を放つた。三日目に信者が出來る、それは渠の豫想しなかつた所、否、渠は何時、自分の傳道によつて信者が出來るといふ確信を持つた事があるか?  この鍛冶屋の重兵衞といふのは、針の樣な髯を顏一面にモヂャ〳〵さした、それは〳〵逞しい六尺近い大男で、左の眼が潰れた、『眇目鍛冶』と子供等が呼ぶ。齡は今年五十二とやら、以前十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞などの荒道具が得意な代り、此人の鍛つた包丁は刄が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他所者といふが第一、加之、頑固で、片意地で、お世辯一つ言はぬ性なもんだから、兎角村人に親しみが薄い。重兵衞はそれが平常の遺恨で、些つとした手紙位は手づから書けるのを自慢に、益々頭が高くなつた。規定以外の村の費目の割當などに、最先に苦情を言ひ出すのは此人に限る。其處へ以て松太郎が來た。聽いて見ると間違つた理窟でもなし、村寺の酒飮和尚よりは神々の名も澤山に知つてゐる。天理樣の有難味も了解んで了解めぬことが無ささうだ。好矣、俺が一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を拔いてやらうと、初めて松太郎の話を聽いた晩に寢床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衞の遠縁の親戚が二軒、遙と隔つた處にゐて、既から天理教に歸依してるといふ事は、豫て手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が來て重兵衞も改宗を勸められた事があつた。但し此事は松太郎に對して噎にも出さなかつた。  翌朝、松太郎は早速××支部に宛てて手紙を出した。四五日經つて返書が來た。その返書は、松太郎が逸早く信者を得た事を祝して其傳道の前途を勵まし、この村に寄留したいといふ希望を聽許した上に、今後傳道費として毎月五圓宛送る旨を書き添へてあつた。松太郎はそれを重兵衞に示して喜ばした上で、恁ういふ相談を持ち掛けた。 『奈何だらうな、重兵衞さん。三國屋に居ると何んの彼ので日に十五錢宛貪られるがな。そすると月に積つて四圓五十錢で、私は五十錢しか小遣が殘らなくなるでな。些し困るのぢや、私は神樣に使はれる身分で、何も食物の事など構はんのぢやが、稗飯でも構はんによつて、もつと安く泊める家があるまいかな。奈何だらうな、重兵衞さん、私は貴方一人が手頼ぢやが……』 『然うだなア!』と、重兵衞は重々しく首を傾げて、薪雜棒の樣な腕を拱いだ。月四圓五十錢は成程この村にしては高い。それより安くても泊めて呉れさうな家が、那家、那家と二三軒心に無いではない。が、重兵衞は何事にまれ此方から頭を下げて他人に頼む事は嫌ひなのだ。  翌朝、家が見附かつたと言つて重兵衞が遣つて來た。それは鍛冶屋の隣りのお由寡婦が家、月三圓でその代り粟八分の飯で忍耐しろと言ふ。口に似合はぬ親切な爺だと、松太郎は心に感謝した。 『で、何かな、そのお由さんといふ寡婦さんは全くの獨身住かな?』 『然うせえ。』 『左樣か、それで齡は老つてるだらうな?』 『ワッハハ。心配する事ア無え、先生。齡ア四十一だべえが、村一番の醜婦の巨女だア、加之ハア、酒を飮めば一升も飮むし、甚麽男も手餘にする位の惡醉語堀だで。』と、嚇かす樣に言つたが、重兵衞は、眼を圓くして驚く松太郎の顏を見ると俄かに氣を變へて、 『そだどもな、根が正直者だおの、結句氣樂な女せえ喃。』  善は急げと、其日すぐお由の家に移轉つた。重兵衞の後に跟いて怖々と入つて來る松太郎を見ると、生柴を大爐に折燻べてフウ〳〵吹いてゐたお由は、突然、 『お前が、俺許さ泊めて呉ろづな?』と、無遠慮に叱る樣に言ふ。 『左樣さ。私はな……』と、松太郎は少し狼狽へて、諄々初對面の挨拶をすると、 『何有ハア、月々三兩せえ出せば、死るまでも置いて遣べえどら。』  移轉祝の積りで、重兵衞が酒を五合買つて來た。二人はお由にも天理教に入ることを勸めた。 『何有ハア、俺みたいな惡黨女にや神樣も佛樣も死る時で無えば用ア無えどもな。何だべえせえ。自分の居ツ家が然でなかつたら具合が惡かんべえが? 然だらハア、俺ア酒え飮むのさ邪魔さねえば、何方でも可いどら。』 と、お由は鐵漿の剥げた穢ない齒を露出にして、ワッハヽヽと男の樣に笑つたものだ。鍛冶屋の門と此の家の門に、『神道天理教會』と書いた、丈五寸許りの、硝子を嵌めた表札が掲げられた。  二三日經つてからの事、爲樣事なしの松太郎はブラリと宿を出て、其處此處に赤い百合の花の咲いた畑徑を、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅頭笠を伏せた樣な芝山で、逶迤した徑が嶺に盡きると、太い杉の樹が矗々と、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社の祠。  その祠の階段に腰を掛けると、此處よりは少し低目の、同じ形の西山に眞面に對合つた。間が淺い凹地になつて、浮世の廢道と謂つた樣な、塵白く、石多い、通り少ない往還が、其底を一直線に貫いてゐる。兩つの丘陵は中腹から耕されて、夷かな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰下される。  その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく並んで、毎日午近くなると、調子面白い喇叭の音を澄んだ山國の空氣に響かせて、赤く黄ろく塗った圓太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍り込んだものだ。その喇叭の音は、二十年來礑と聞こえずなつた。隣村に停車場が出來てから通りが絶えて、電信柱さへ何日しか取除かれたので。  その頃は又、村に相應な旅籠屋も三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎のやうに置かれ、畑仕事は女の内職の樣に閑却されて、旅人對手の渡世だけに收入も多く人氣も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔かに、老人達の追憶談に殘つて、村は年毎に、宛然藁火の消えてゆく樣に衰へた。生業は奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰り、増えるのは子供許り。唯一輛殘つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅の折れた其俥は、遂この頃まで其家の裏井戸の側で見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、晝でも鼠が其處に遊んでゐる。今では三國屋といふ木賃が唯一軒。  松太郎は其麽事は知らぬ。血の氣の薄い、張合の無い、氣病の後の樣な弛んだ顏に眩い午後の日を受けて、物珍し相にこの村を瞰下してゐると、不圖、生れ村の父親の建てた會堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。  取り留めのない空想が一圖に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顏が少し色ばんで、鈍い眼も輝いて來た。渠は、自分一人の力でこの村を教化し盡した勝利の曉の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歡喜を心に描き出した。 「會堂が那處に建つ!」と、屹と西山の嶺に瞳を据ゑる。 「然うだ、那處に建つ!」恁う思つただけで、松太郎の目には、その、純白な、繪に見る城の樣な、數知れぬ窓のある巍然たる大殿堂が鮮かに浮んで來た。その高い、高い天蓋の尖端、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。  渠は又、近所の誰彼、見知り越しの少年共を、自分が生村の會堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて來て、周圍に人無きを幸ひ、其等に對する時の嚴かな態度をして見た。 「抑々天理教といふものはな――」 と、自分の教へられた支部長の聲色を使つて、眼の前の石塊を睨んだ。 「すべて、私念といふ陋劣い心があればこそ、人間は種々の惡き企畫を起すものぢや。罪惡の源は私念、私念あつての此世の亂れぢや。可いかな? その陋劣い心を人間の胸から攘ひ淨めて、富めるも賤きも、眞に四民平等の樂天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな?」  恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の嶺を見、また、凹地の底の村を瞰下した。古の尊き使徒が異教人の國を望んだ時の心地だ。壓潰した樣に二列に列んだ茅葺の屋根、其處からは雞の聲が間を置いて聞えて來る。  習との風も無い。最中過の八月の日光が躍るが如く溢れ渡つた。氣が附くと、畑々には人影が見えぬ。丁度、盆の十四日であつた。  松太郎は何がなしに生き甲斐がある樣な氣がして、深く深く、杉の樹脂の香る空氣を吸つた。が、霎時經つと眩い光に眼が疲れてか、氣が少し焦立つて來た。 「今に見ろ! 今に見ろ!」  這麽事を出任せに口走つて見て、渠はヒョクリと立ち上り、杉の根方を彼方此方、態と興奮した樣な足調で歩き出した。と、地面に匐つた太い木の根に躓いて、其機會にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと斷れた。チョッと舌皷して蹲踞んだが、幻想は迹もない。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸くとそれをすげた。そしてトボ〳〵と山を下つた。  穗の出初めた粟畑がある。ガサ〳〵と葉が鳴つて、 『先生樣ア!』 と、若々しい娘の聲が、突然、調戯ふ樣な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑と足を留めて、キョロ〳〵周圍を見廻した。誰も見えない。粟の穗がフイと飛んで來て、胸に當つた。 『誰だい?』 と、渠は少し氣味の惡い樣に呼んで見た。カサとの音もせぬ。 『誰だい?』  二度呼んでも答が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、 『ホホヽヽ。』 と澄んだ笑聲がして、白手拭を被つた小娘の顏が、二三間隔つた粟の上に現れた。 『何だ、お常ツ子かい!』 『ホホヽヽ。』と又笑つて、『先生樣ア、お前樣、狐踊踊るづア、今夜俺と一緒に踊らねえすか? 今夜から盆だす。』 『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周圍を見廻した。 『なツす、先生樣ア。』とお常は飽迄曇りのないクリクリした眼で調戯つてゐる。十五六の、色の黒い、晴れやかな邪氣無い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯ふ。落花生の殼を投げることもある。  渠は不圖、別な、全く別な、或る新しい生き甲斐のある世界を、お常のクリ〳〵した眼の中に發見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣つた樣な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。  この事あつて以來、松太郎は妙に氣がそはついて來て、暇さへあれば、ブラリと懷手をして畑徑を歩く樣になつた。わが歩いてる徑の彼方から白手拭が見える。と、渠は既うホク〳〵嬉しくてならぬ。知らん振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯つて行き過ぎる。 『フフヽヽ。』 と、恁うまア、自分の威嚴を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に歸ると例になく食慾が進む。  近所の人々とも親しみがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何處かへ振舞酒にでも招ばれると、こつそりと娘を連れ込む事もある。娘の歸つた後、一人ニヤニヤと厭な笑ひ方をして、爐端に胡座をかいてると、屹度、お由がグデン〳〵に醉拂つて、對手なしに惡言を吐き乍ら歸つて來る。 『何だ此畜生奴、奴ア何故此家に居る? ウン此狐奴、何だ? 寢ろ? カラ小癪な!默れ、この野郎、默れ默れ、默らねえか? 此畜生奴、乞食、癩病、天理坊主! 早速と出て行け、此畜生奴!』  突然、這麽事を口汚く罵つて、お由はドタリと上り框の板敷に倒れる。 『まア、まア。』 と言つた調子で、松太郎は、繼母でも遇ふ樣に、寢床の中擦り込んで、布團をかけてやる。渠は何日しか此女を扱ふ呼吸を知つた。惡口は幾何吐いても、別に抗爭ふ事はしないのだ。お由は寢床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に呶鳴り散らして、それが止むと、太平な鼾をかく。翌朝になれば平然としたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。  此家の門と鍛冶屋の門の外には、「神道天理教會」の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教もする、それが又、奈何でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰の嬶が、子供が腹を病んでるからと言つて、御供水を貰ひに來た。三四日經つと、麥煎餅を買つて御禮に來た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。  二百十日が來ると、馬のある家では、泊り懸けで馬糧の萩を刈りに山へ行く。其若者が一人、山で病附いて來て醫者にかゝると、赤痢だと言ふので、隔離病舍に收容された。さらでだに、岩手縣の山中に數ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出來事は村中の顏を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌はしき疫が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女を信じ狐を信ずる住民の迷信を煽り立てた。御供水は酒屋の酒の樣に需要が多くなつた。一月餘の間に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて來た。  が、漸々病勢が猖獗になるに從れて、渠自身も餘り丈夫な體ではなし、流石に不安を感ぜぬ譯に行かなくなつた。其時思ひ出したのは、五六年前――或は渠が生れ村の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒の廣告の中に、傳染病豫防の效能があると書いてあつたのを讀んだ事だ。渠は恁ういふ事を云ひ出した。『天理樣は葡萄がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病氣なんかするものぢやないがな。』  流石に巡査の目を憚つて、日が暮れるのを待つて御供水を貰ひに來る嬶共は、有乎無乎の小袋を引敝いて葡萄酒を買つて來る樣になつた。松太郎はそれを犧卓に供へて、祈祷をし、御神樂を踊つて、その葡萄酒を勿體らしく御供水に割つて、持たして歸す。殘つたのは自分が飮むのだ。お由の家の臺所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も竝んだ。  奈何したのか、鍛冶屋の響も今夜は例になく早く止んだ。高く流るゝ天の河の下に、村は死骸の樣に默してゐる。今し方、提灯が一つ、フラ〳〵と人魂の樣に、役場と覺しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。  お由の家の大爐には、チロリ〳〵と焚火が燃えて、居並ぶ種々の顏を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遲れて來たお申婆もゐた。  祈祷も御神樂も濟んだ。松太郎は、トロリと醉つて了つた、だらしなく横座に胡坐をかいてゐる。髮の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗などが四邊に散亂つてゐる。『其麽に痛えがす? お由殿、寢だら可がべす。』と、一人の顏のしやくんだ嬶が言つた。 『何有!』  恁う言つて、お由は腰に支つた右手を延べて、燃え去つた爐の柴を燻べる。髮のおどろに亂れかゝつた、その赤黒い大きい顏には、痛みを怺へる苦痛が刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追出して遣つた惡黨女ながら、養子の金作が肺病で死んで以來、口は減らないが、何處となく衰へが見える。亂れた髮には白いのさへ幾筋か交つた。 『眞箇だぞえ。寢れば癒るだあに。』とお申婆も口を添へる。 『何有!』とお由は又言つた。そして、先刻から三度目の同じ辯疏を、同じ樣な詰らな相な口調で附け加へた、『晩方に庭の臺木さ打倒つて撲つたつけア、腰ア痛くてせえ。』 『少し揉んで遣べえが!』とお申。 『何有!』 『ワッハハ。』氣懈い笑ひ方をして、松太郎は顏を上げた。 『ハッハハ。醉へエばアア寢たくなアるウ、(と唄ひさして、)寢れば、それから何だつけ? 呍、何だつけ? ハッハハ。あしきを攘うて救けたまへだ。ハッハハ。』と又グラリとする。 『先生樣ア醉つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。 『眞箇にせえ。歸るべえが?』と、その隣りのお申婆へ。 『まだ可がべえどら。』と、お由が呟く樣に口を入れた。 『こら、家の嬶、お前は何故、今夜は酒を飮まないのだ。』と松太郎は又顏を上げた。舌もよくは廻らぬ。 『フム。』 『ハッハハ。さ、私が踊ろか。否、醉つた、すつかり醉つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハッハハ。』 と、坐つた儘で妙な手附。  ドヤ〳〵と四五人の跫音が戸外に近づいて來る。顏のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。 『また隔離所さ誰か遣られたな。』 『誰だべえ?』 『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が聲を潜めた。『先刻、俺ア來る時、巡査ア彼家へ行つたけどら。今日檢査の時ア裏の小屋さ隱れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日から顏色ア惡くてらけもの。』 『そんでヤハアお常ツ子も罹つたアな。』と囁いて、一同は密と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。  松太郎は、首を垂れて、涎を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。  跫音は遠く消えた。 『歸るべえどら。』と、顏のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。  それから一時間許り經つた。  松太郎はポカリと眼を覺ました。寒い。爐の火が消えかゝつてゐる。ブルッと身顫ひして體を半分擡げかけると、目の前にお由の大きな體が横たはつてゐる。眠つたのか、小動ぎもせぬ。右の頬片を板敷にベタリと附けて、其顏を爐に向けた。幽かな火光が怖しくもチラ〳〵とそれを照らした。  別の寒さが松太郎の體中に傳はつた。見よ、お由の顏! 齒を喰縛つて、眼を堅く閉ぢて、ピリ〳〵と眼尻の筋肉が攣痙けてゐる。髮は亂れたまゝ、衣服も披かつたまゝ……。  氷の樣な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ、渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜惡に面接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の淺猿しさ!  松太郎はお由の病苦を知らぬ。 『ウ、ウ、ウ。』 とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、又ゴロリと横になつて、眼を瞑つて、息を殺した。  お由は二三度唸つて立ち上つた氣勢。下腹が痺れて、便氣の塞逼に堪へぬのだ。昵と松太郎の寢姿を見乍ら、大儀相に枕を廻つて、下駄を穿いたが、その寢姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍の情を起させた。俺が居なくなつたら奈何して飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒が心を突く。 『えゝ此嘘吐者、天理も糞も……』  これだけを、お由は苦し氣に呶鳴つた。そして裏口から出て行つた。  渠はガバ跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に驅け込んで、布團を引出すより早く、其中に潜り込んだ。  間もなくお由は歸つて來た。眠つてゐた筈の松太郎が其處に見えない。兩手を腹に支つて、顏を強く顰めて、お由は棒の樣に突つ立つたが、出掛けに言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒氣が肉體の苦痛と共に發した。 『畜生奴!』と先づ胴間聲が突つ走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者! 天理坊主! よく聽け、コレア、俺ア赤痢に取り附かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』  ドタリとお由が倒つた音。  寢床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした樣に、ピクとも動かぬ。あらゆる手頼の綱が一度に切れて了つた樣で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、獨りぼつちの塊が石塊の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑つた兩眼からは、涙が瀧の如く溢れた。瀧の如くとは這麽時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる、抑へようともせぬ。噛りついた布團の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。………………
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 初出:「スバル 創刊号」    1909(明治42)年1月1日発行 ※底本の「『晩方に庭の」の前の改行は、とりました。 ※疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2003年10月23日作成 2012年9月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004697", "作品名": "赤痢", "作品名読み": "せきり", "ソート用読み": "せきり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「スバル 創刊号」1909(明治42)年1月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-11-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card4697.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川啄木作品集 第三巻", "底本出版社名1": "昭和出版社", "底本初版発行年1": " ", "入力に使用した版1": "1970(昭和45)年11月20日発行", "校正に使用した版1": "1960(昭和35)年3月10日発行", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "Nana ohbe", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4697_ruby_13334.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-09-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4697_13505.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-09-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 凸凹の石高路、その往還を右左から挾んだ低い茅葺屋根が、凡そ六七十もあらう、何の家も、何の家も、古びて、穢くて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒り合つて辛々支へてる様に見える。家の中には、生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明ならぬ程に燻つて、それが、日一日、破風から破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。両側の狭い浅い溝には、襤縷片や葫蘿蔔の切端などがユラユラした𣵀泥に沈んで、黝黒い水に毒茸の様な濁つた泡が、プクプク浮んで流れた。  駐在所の髯面の巡査、隣村から応援に来た最一人の背のヒヨロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の医師、赤焦けた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒器具を携へた二人の使丁、この人数は、今日も亦家毎に強行診断を行つて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一片飛ばぬ日和であるが、稀に室外を歩いてるものは、何れも何れも申合せた様に、心配気な、浮ばない顔色をして、跫音を偸んでる様だ。其家にも、此家にも、怖し気な面構をした農夫や、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青脹れた女などが門口に出て、落着の無い不格好な腰付をして、往還の上下を眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。小供等さへ高い声も立てない。時偶、胸に錐でも刺された様な赤児の悲鳴でも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬ態をしてるのは、干からびた塩鱒の頭を引擦つて行く地種の痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日向で呟呻をしてゐる真黒な猫、往還の中央で媾んでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩剣の響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。  鼻を刺す石炭酸の臭気が、何処となく底冷のする空気に混じて、家々の軒下には夥しく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲来を蒙つた山間の荒村の、重い恐怖と心痛に充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態は、一度その境を実見したんで無ければ、迚も想像も及ぶまい。平常から、住民の衣、食、住――その生活全体を根本から改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫が猖獗を極めた時、所轄警察署の当時の署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行つた事がある。お蔭で他村には伝播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々何の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隠蔽して置いて牻牛児の煎薬でも服ませると、何時しか癒つて、格別伝染もしない。それが、万一医師にかゝつて隔離病舎に収容され、巡査が家毎に怒鳴つて歩くとなると、噂の拡ると共に疫が忽ち村中に流行して来る――と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方が忌はれる。初発患者が発見つてから、二月足らずの間に、隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家を借り上げ、それも満員といふ形勢で、総人口四百内外の中、初発以来の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果で復二名増えた。戸数の七割五分は何の家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入つた。  秋も既う末――十月下旬の短い日が、何時しかトツプリと暮れて了つて、霜も降るべく鋼鉄色に冴えた空には白々と天の河が横はつた。さらでだに虫の音も絶え果てた冬近い夜の寥しさに、まだ宵ながら家々の戸がピタリと閉つて、通行る人もなく、話声さへ洩れぬ。重い重い不安と心痛が、火光を蔽ひ、門を鎖し、人の喉を締めて、村は宛然幾十年前に人間の住み棄てた、廃郷かの様に𨶑乎としてゐる。今日は誰々が顔色が悪かつたと、何れ其麽事のみが住民の心に徂徠してるのであらう。  其重苦しい沈黙の中に、何か怖しい思慮が不意に閃く様に、北のトツ端の倒りかかつた家から、時々パツと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鉄砧を撃つ鏗い響が、地の底まで徹る様に、村の中程まで聞えた。  其隣がお由と呼ばれた寡婦の家、入口の戸は鎖されたが、店の煤び果てた二枚の障子――その処々に、朱筆で直した痕の見える平仮名の清書が横に逆様に貼られた――に、火光が映つてゐる。凡そ、村で人気のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端近い役場と、雑貨やら酒石油などを商ふ村長の家の四軒に過ぎない。  ガタリ、ガタリと重い輛の音が石高路に鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一台、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スツポリと赤毛布を被つた馬子が胡坐をかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない声に高く低く節付けた歌が聞える。 『あしきをはらうて、救けたまへ、天理王のみこと。……この世の地と、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露台。』  歌に伴れて障子の影法師が踊る。妙な手付をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦乎と映り、或は小く分明と映る。 『チヨツ。』と馬子は舌鼓した。『フム、また狐の真似演てらア!』 『オイ、お申婆でねえか?』と、直ぐ再大きい声を出した。恰度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四辺を憚る様に答へた。『隣の兄哥か? 早かつたなす。』 『早く帰つて寝る事た。恁麽時何処ウ徘徊くだべえ。天理様拝んで赤痢神が取付かねえだら、ハア、何で医者薬が要るものかよ。』 『何さ、ただ、お由嬶に一寸用があるだで。』と、声を低めて対手を宥める様に言ふ。 『フム。』と言つた限で荷馬車は行過ぎた。  お申婆は、軈て物静かに戸を開けて、お由の家に姿を隠して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。 『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。 『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。 『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』  横川松太郎は、同じ県下でも遙と南の方の、田の多い、養蚕の盛んな、或村に生れた。生家はその村でも五本の指に数へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、体も孱弱く、気も因循で、学校に入つても、励むでもなく、怠るでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の学校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、恰度その頃、暴風の様な勢で以て、天理教が付近一帯の村々に入込んで来た。  或晩、気弱者のお安が平生になく真剣になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の付くものは何でも嫌ひな旧弊家の、剰に名高い吝嗇家だつた作松は、仲々それに応じなかつたが、一月許り経つと、打つて変つた熱心な信者になつて、朝夕仏壇の前で誦げた修証義が、「あしきを攘うて救けたまへ。」の御神楽歌と代り、大和の国の総本部に参詣して来てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所有地全体売払つて、工事費総額二千九百何十円といふ、巍然たる大会堂を、村の中央の小高い丘陵の上に建てた。神道天理教会○○支部といふのがそれで。  その為に、松太郎は両親と共に着のみ着の儘になつて、其会堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りで罷めて了つた。)最初、朝晩の礼拝に皆と一緒になつて御神楽を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、気羞しくて厭だと言つては甚麽に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程経つて、近所に火事のあつた時、人先に水桶を携つて会堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴な殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳程経つて、脳貧血を起して死んだ。  両親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他から鄭重に悼辞を言はれると、奈何して俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その会堂に起臥して、天理教の教理、祭式作法、伝道の心得などを学んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、悪い事はカラ能ない性なのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常可愛がつて使つたものだ。また渠は、一体甚麽人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮発心の出ない性で、従つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶、雑誌の口絵で縹緻の好い芸妓の写真を見たり、地方新聞で富家の若旦那の艶聞などを読んだりした時だけは、妙に恁う危険な――実際危険な、例へば、密々とこの会堂や地面を自分の名儀に書変へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平常心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然理由の無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人間並の出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。  兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、「教師」の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域を定めて、それぞれ布教に派遣されたのだ。  さらでだに元気の無い、色沢の悪い顔を、土埃と汗に汚なくして、小い竹行李二箇を前後に肩に掛け、紺絣の単衣の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足調で、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑熱盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐々西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生来の気弱者、経験のない一人旅に今朝から七里余の知らない路を辿つたので、心の膸までも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものの、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的の無い旅だ!」と言つた様な、朦乎した悲哀が、粘々した唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかかる痩犬を半分無意識に怕い顔をして睨み乍ら、脹けた様な頭脳を搾り、有らん限りの智慧と勇気を集中めて、「兎も角も、宿を見付ける事た。」と決心した。そして、口が自からポカンと開いたも心付かず、臆病らしい眼を怯々然と両側の家に配つて、到頭、村も端近くなつた辺で、三国屋といふ木賃宿の招牌を見付けた時は、渠には既う、現世に何の希望も無かつた。  翌朝目を覚ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼付をした老爺と其娘だといふ二十四五の、旅疲労の故か張合のない淋しい顔の、其癖何処か小意気に見える女。(何処から来て何処へ行くのか知らないが、路銀の補助に売つて歩くといふ安筆を、松太郎も勧められて一本買つた。)――その二人は既う発つて了つて、穢い室の、補布だらけな五六の蚊帳の隅こに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰けに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寝た女の寝息や寝返りの気勢に酷く弱い頭脳を悩まされて、夜更まで寝付かれなかつた事も忘れて、慌てて枕の下の財布を取出して見た。変りが無い。すると又、突然褌一点で蚊帳の外に跳出したが、自分の荷物は寝る時の儘で壁側にある。ホツと安心したが、猶念の為に内部を調べて見ると、矢張変りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。 「さて、奈何為ようかな?」恁う渠は、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤に攻められて一面に紅らんだ横腹を自棄に掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷か何かで左手の指が皆内側に屈つた宿の嬶の待遇振が、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由もなく此村が気に入つて、一つ此地で伝道して見ようかと思つてゐたのだ。「さて、奈何為ようかな。」恁う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が付かない。「奈何為よう。奈何為よう。」と、終ひには少し懊つたくなつて来て、愈々以て決心が付かなくなつた。と言つて、発たうといふ気は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此処に落つる。「兎も角も、村の状態を見て来る事に為よう。」と決めて、朝飯が済むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。  前日通行つた時は百二三十戸も有らうと思つたのが数へて見ると六十九戸しか無かつた。それが又穢い家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに気強くなつて来た。渠には自信といふものが無い。自信は無くとも伝道は為なければならぬ。それには、可成狭い土地で、そして可成教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に帰つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出来るだけ勿体を付けて自分の計画を打ち明けて見た。  三国屋の亭主といふのは、長らく役場の使丁をした男で、身長が五尺に一寸も足らぬ不具者、齢は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が両方から吸込まれて、物云ふ声が際立つて鼻にかかる。それが、『然うだなツす……』と、小苦面に首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、『何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア! 神様さア喜捨る銭金が有つたら石油でも買ふべえドラ。』 『それがな。』と、松太郎は臆病な眼付をして、 『何もその銭金の費る事で無えのだ。私は其麽者で無え。自分で宿料を払つてゐて、一週間なり十日なり、無料で近所の人達に聞かして上げるのだツさ、今のその、有難いお話な。』  気乗りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉使ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女小供が合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衛。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋付羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を渋団扇で追ひ乍ら、教祖島村美支子の一代記から、一通の教理まで、重々しい力の無い声に出来るだけ抑揚をつけて諄々と説いたものだ。 『ハハア、そのお人も矢張りお嫁様に行つたのだなツす?』と、乳児を抱いて来た嬶が訊いた。 『左様さ。』と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、『お美支様が恰度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生家から三昧田村の中山家へ御入輿に成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、総てで以て十四荷――一荷は一担ぎで、畢竟平たく言へば十四担ぎ有つたと申す事ぢや。』『ハハア、有難い事だなツす。』と、意外ところに感心して、『ナントお前様、此地方ではハア、今の村長様の嬶様でせえ、箪笥が唯三竿――、否全体で三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなツす。』  二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた小供連と、鍛冶屋の重兵衛、三太が二三人朋輩を伴れて来た。その若者が何彼と冷評しかけるのを、眇目の重兵衛が大きい眼玉を剥いて叱り付けた。そして、自分一人夜更まで残つた。  三日目は、午頃来の雨、蚊が皆家の中に籠つた点燈頃に、重兵衛一人、麦煎餅を五銭代許り買つて遣つて来た。大体の話は為て了つたので、此夜は主に重兵衛の方から、種々の問を発した。それが、人間は死ねば奈何なるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出来ないとか、天理王の命も魚籃観音の様に、仮に人間の形に現れて蒼生を済度する事があるかとか、概して教理に関する問題を、鹿爪らしい顔をして訊くのであつたが、松太郎の煮切らぬ答弁にも多少得る所があつたかして、 『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎を恁う呼ぶ事にした、)俺にも余程天理教の有難え事が解つて来た様だな。耶蘇は西洋、仏様は天竺、皆渡来物だが、天理様は日本で出来た神様だなツす?』 『左様さ。兎角自国のもんでないと悪いでな。加之何なのぢや、それ、国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊、大苫辺尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊、それから大日霊尊、月夜見尊、この十柱の神様はな、何れも皆立派な美徳を具へた神様達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神様の美徳を悉皆具へて御座る。』 『成程。それで何かな、先生、お前様は一人でも此村に信者が出来ると、何処へも行かねえて言つたけが、真箇かな? それ聞かねえと意外ブマ見るだ。』 『真箇ともさ。』 『真箇かな?』 『真箇ともさ。』 『愈々真箇かな?』 『ハテ、奈何して嘘なもんかなア。』と言ひは言つたが、松太郎、余り諄く訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。 『先生、そンだらハア、』と、重兵衛は突然膝を乗出した。『俺が成つてやるだ。今夜から。』 『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。 『然うせえ。外に何になるだア!』 『重兵衛さん、そら真箇かな?』と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか?  この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、『眇目鍛冶』と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以前十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞などの荒道具が得意な代り、此人の鍛つた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他所者といふが第一、加之、頑固で、片意地で、お世辞一つ言はぬ性なもんだから、兎角村人に親みが薄い。重兵衛それが平生の遺恨で、些とした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規定以外の村の費目の割当などに、最先に苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒飲和尚よりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了解んで了解めぬことが無ささうだ。好矣、俺が一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、遙と隔つた処にゐて、既から天理教に帰依してるといふ事は、予て手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対して噎にも出さなかつた。  翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸早く信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したいといふ希望を聴許した上に、今後伝道費として毎月金五円宛送る旨を書き添へてあつた。松太郎はそれを重兵衛に示して喜ばした上で、恁ういふ相談を持掛けた。 『奈何だらうな、重兵衛さん。三国屋に居ると何の彼ので日に十五銭宛貪られるがな。そすると月に積つて四円五十銭で、私は五十銭しか小遣が残らなくなるでな。些し困るのぢや。私は神様に使はれる身分で、何も食物の事など構はんのぢやが、稗飯でも構はんによつて、モツト安く泊める家があるまいかな。奈何だらうな、重兵衛さん、私は貴方一人が手頼ぢやが……』 『然うだなア!』と、重兵衛は重々しく首を傾げて、薪雑棒の様な両腕を拱いだ。月四円五十銭は成程この村にしては高い。それより安くても泊めて呉れさうな家が、那家、那家と二三軒心に無いではない。が、重兵衛は何事にまれ此方から頭を下げて他人に頼む事は嫌ひなのだ。  翌朝、家が見付かつたと言つて重兵衛が遣つて来た。それは鍛冶屋の隣りのお由寡婦が家、月三円で、その代り粟八分の飯で忍耐しろと言ふ。口に似合はぬ親切な野爺だと、松太郎は心に感謝した。 『で、何かな、そのお由といふ寡婦さんは全くの独身住かな?』 『然うせえ。』 『左様か。それで齢は老つてるだらうな?』 『ワツハハ。心配する事ア無え、先生。齢ア四十一だべえが、村一番の醜婦の巨女だア、加之ハア、酒を飲めば一升も飲むし、甚麽男も手余にする位の悪酔語堀だで。』と、嚇かす様に言つたが、重兵衛は、眼を円くして驚く松太郎の顔を見ると俄かに気を変へて、 『そだどもな、根が正直者だおの、結句気楽な女せえ喃。』  善は急げと、其日すぐお由の家に移転つた。重兵衛の後に跟いて怖々入つて来る松太郎を見ると、生柴を大炉に折燻べてフウフウ吹いてゐたお由は、突然、 『お前が、俺許さ泊めて呉ろづな?』と、無遠慮に叱る様に言ふ。 『左様さ。私はな……』と、松太郎は少許狼狽へて、諄々初対面の挨拶をすると、 『何有ハア、月々三両せえ出せば、死るまででも置いて遣べえどら。』  移転祝の積りで、重兵衛が酒を五合買つて来た。二人はお由にも天理教に入ることを勧めた。 『何有ハア、俺みたいな悪党女にや神様も仏様も死る時で無えば用ア無えどもな。何だべえせえ、自分の居ツ家が然でなかつたら具合が悪かんべえが? 然だらハア、俺ア酒え飲むのさ邪魔さねえば、何方でも可いどら。』 と、お由は、黒漿の剥げた穢い歯を露出にして、ワツハヽヽと男の様に笑つたものだ。鍛冶屋の門と此の家の門に、『神道天理教会』と書いた、丈五寸許りの、硝子を嵌めた表札が掲げられた。  二三日経つてからの事、為様事なしの松太郎はブラリと宿を出て、其処此処に赤い百合の花の咲いた畑径を、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅頭笠を伏せた様な芝山で、逶迤した径が嶺に尽きると、太い杉の樹が矗々と、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社の祠。  その祠の階段に腰を掛けると、此処よりは少許低目の、同じ形の西山に真面に対合つた。間が浅い凹地になつて、浮世の廃道と謂つた様な、塵白く、石多い、通行少い往還が、其底を一直線に貫いてゐる。両の丘陵は中腹から耕されて、夷かな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰下される。  その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく列んで、毎日午近くなると、調子面白い喇叭の音を澄んだ山国の空気に響かせて、赤く黄く塗つた円太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍込んだものだ。その喇叭の音は、二十年来礑と聞こえずなつた。隣村に停車場が出来てから通行が絶えて、電信柱さへ何日しか取除かれたので。  その時代は又、村に相応な旅籠屋も三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎の様に置かれ、畑仕事は女の内職の様に閑却されて、旅人対手の渡世だけに収入も多く人気も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔かに、老人達の追憶談に残つて、村は年毎に、宛然藁火の消えてゆく様に衰へた。生業は奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰り、増えるのは小供許り。唯一輛残つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅の折れた其俥は、遂この頃まで其家の裏井戸の側で見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、昼でも鼠が其処に遊んでゐる。今では三国屋といふ木賃が唯一軒。  松太郎は、其麽事は知らぬ。血の気の薄い、張合の無い、気病の後の様な弛んだ顔に眩い午後の日を受けて、物珍らし相にこの村を瞰下してゐると、不図、生村の父親の建てた会堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。  取留のない空想が一図に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顔色が少許色ばんで、鈍い眼も輝いて来た。渠は、自己一人の力でこの村を教化し尽した勝利の暁の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歓喜を心に描き出した。 「会堂が那処に建つ!」と、屹と西山の嶺に瞳を据ゑる。 「然うだ、那処に建つ!」恁う思つただけで、松太郎の目には、その、純白な、絵に見る城の様な、数知れぬ窓のある、巍然たる大殿堂が鮮かに浮んで来た。その高い、高い天蓋の尖端、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。  渠は又、近所の誰彼、見知越の少年共を、自分が生村の会堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて来て、周囲に人無きを幸ひ、其等に対する時の厳かな態度をして見た。 『抑々天理教といふものはな――』 と、自分の教へられた支部長の声色を使つて、眼前の石塊を睨んだ。 『すべて、私念といふ陋劣い心があればこそ、人間は種々の悪き企画を起すものぢや。罪悪の源は私念、私念あつての此世の乱れぢや。可いかな? その陋劣い心を人間の胸から攘ひ浄めて、富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな?』  恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の巓を見、また、凹地の底の村を瞰下した。古昔の尊き使徒が異教人の国を望んだ時の心地だ。圧潰した様に二列に列んだ茅葺の屋根、其処からは鶏の声が間を置いて聞えて来る。  習との風も無い。最中過の八月の日光が躍るが如く溢れ渡つた。気が付くと、畑々には人影が見えぬ。恰度、盆の十四日であつた。  松太郎は、何がなしに生甲斐がある様な気がして、深く深く、杉の樹脂の香る空気を吸つた。が、霎時経つと眩い光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。 『今に見ろ! 今に見ろ!』  這麽事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼方此方、態と興奮した様な足調で歩き出した。と、地面に匐つた太い木根に躓いて、其機会にまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと断れた。チヨツと舌鼓して蹲踞んだが、幻想は迹もなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸々それをすげた。そしてトボトボと山を下つた。  穂の出初めた粟畑がある。ガサ〳〵と葉が鳴つて、 『先生様ア!』 と、若々しい娘の声が、突然、調戯ふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑と足を留めて、キヨロキヨロ周囲を見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。 『誰だい?』 と、渠は少許気味の悪い様に呼んで見た。カサとの音もせぬ。 『誰だい?』  二度呼んでも返答が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、 『ホホヽヽ。』 と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間隔つた粟の上に現れた。 『何ぞ、お常ツ子かい!』 『ホホヽヽ。』と再笑つて、『先生様ア、お前様狐踊踊るづア、今夜俺と一緒に踊らねえすか? 今夜から盆だず。』 『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周囲を見廻した。 『なツす、先生様ア。』とお常は厭迄曇りのないクリクリした眼で調戯つてゐる。十五六の、色の黒い、晴やかな邪気無い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通行る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯ふ。落花生の殻を投げることもある。  渠は不図、別な、全く別な、或る新しい生甲斐のある世界を、お常のクリクリした眼の中に発見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣つた様な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。  この事あつて以来、松太郎は妙に気がソワついて来て、暇さへあれば、ブラリと懐手をして畑径を歩く様になつた。わが歩いてる径の彼方から白手拭が見える、と、渠は既うホクホク嬉しくてならぬ。知らんか振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯つて行き過ぎる。 『フフヽヽ。』 と恁うマア、自分の威厳を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に帰ると例になく食慾が進む。  近所の人々とも親みがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何家かへ振舞酒にでも招ばれると、密乎と娘を連れ込む事もある。娘の帰つた後、一人ニヤニヤと可厭な笑方をして、炉端に胡坐をかいてると、屹度、お由がグデングデンに酔払つて、対手なしに悪言を吐き乍ら帰つて来る。 『何だ此畜生奴、汝ア何故此家に居る? ウン此狐奴、何だ? 寝ろ? カラ小癪な! 黙れ、この野郎。黙れ黙れ、黙らねえか? 此畜生奴、乞食、癩病、天理坊主! 早速と出て行け、此畜生奴!』  突然、這麽事を口汚く罵つて、お由はドタリと上框の板敷に倒れる。 『マア、マア。』 と言つた調子で、松太郎は、継母でも遇ふ様に、寝床の中に引擦り込んで、布団をかけてやる。渠は何日しか此女を扱ふ呼吸を知つた。悪口は幾何吐いても、別に抗争ふ事はしないのだ。お由は寝床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に怒鳴り散らして、それが息むと、太平な鼾をかく。翌朝になれば平然としたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。  此家の門と鍛冶屋の門の外には、『神道天理教会』の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教もする。それが又、奈何でも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰の嬶が、小供が腹を病んでるからと言つて、御供水を貰ひに来た。三四日経つと、麦煎餅を買つて御礼に来た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。  二百十日が来ると、馬のある家では、泊懸で馬糧の萩を刈りに山へ行く。その若者が一人、山で病付いて来て医師にかかると、赤痢だと言ふので、隔離病舎に収容された。さらでだに、岩手県の山中に数ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出来事は村中の顔を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌はしき疫が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女を信じ狐を信ずる住民の迷信を煽り立てた。御供水は酒屋の酒の様に需要が多くなつた。一月余の間に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて来た。  が、漸々病勢が猖獗になるに従れて、渠自身も余り丈夫な体ではなし、流石に不安を感ぜぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生村の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒の広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。『天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。』  流石に巡査の目を憚つて、日が暮れるのを待つて御供水を貰ひに来る嬶共は、有乎無乎の小袋を引敝いて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠卓に供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。  奈何したのか、鍛冶屋の音響も今夜は例になく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。  お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申婆も居た。  祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横座に胡坐をかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗などが四辺に散乱つてゐる。『其麽に痛えがす? お由殿、寝だら可がべす。』 と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。 『何有!』  恁う言つて、お由は腰に支つた右手を延べて、燃え去つた炉の柴を燻べる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みを怺へる苦痛が刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追出して遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。 『真箇だぞえ。寝れば癒るだあに。』とお申婆も口を添へる。 『何有!』とお由は又言つた。そして、先刻から三度目の同じ弁疏を、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、『晩方に庭の台木さ打倒つて撲つたつけア、腰ア痛くてせえ。』 『少し揉んで遣べえが』とお申。 『何有!』 『ワツハハ。』懶い笑方をして、松太郎は顔を上げた。 『ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、(と唄ひさして、)寝れば、それから何だつけ? 呍、何だつけ? ハツハハ。あしきを攘うて救けたまへだ。ハツハハ。』と、再グラリとする。 『先生様ア酔つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。 『真箇にせえ。帰るべえが?』と、その又隣りのお申婆へ。 『まだ可がべえどら。』と、お由が呟く様に口を入れた。 『こら、家の嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。』と松太郎は再顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。 『フム。』 『ハツハハ。さ、私が踊ろか。否、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。』と、坐つた儘で妙な手付。  ドヤドヤと四五人の跫音が戸外に近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。 『また隔離所さ誰か遣られるな。』 『誰だべえ?』 『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が声を潜めた。『先刻、俺ア来る時、巡査ア彼家へ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日から顔色ア悪くてらけもの。』 『そんでヤハアお常ツ子も罹つたアな。』と囁いて、一同は密と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。  松太郎は、首を垂れて、涎を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。  跫音は遠く消えた。 『帰るべえどら。』と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。  それから一時間許り経つた。  松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身顫ひして体を半分擡げかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小動ぎもせぬ。右の頬片を板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽かな火光が怖しくもチラチラとそれを照らした。  別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔! 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋肉が痙攣けてゐる。髪は乱れたまま、衣服も披かつたまま……。  氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜悪に面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅猿しさ!  松太郎はお由の病苦を知らぬ。 『ウ、ウ、ウ。』 とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再ゴロリと横になつて、眼を瞑つて、呼吸を殺した。  お由は二三度唸つて、立上つた気勢。下腹が疼れて、便気の塞逼に堪へぬのだ。眤と松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕頭を廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍の情を起させた。俺が居なくなつたら奈何して飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒が心を突く。 『ええ此嘘吐者、天理も糞も……』  これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。  渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中に潜り込んだ。  間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹に支つて、顔を強く顰めて、お由は棒の様に突立つたが、出掛に言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦痛と共に発した。 『畜生奴!』と先づ胴間声が突走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者! 天理坊主! よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』  ドタリとお由が倒つた音。  寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手頼の綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石塊の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑つた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這麽時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。………… (明治四十一年十二月四日脱稿) 〔生前未発表・明治四十一年十一月~十二月稿〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 底本の親本:「スバル 創刊号」    1909(明治42)年1月1日発行 初出:「スバル 創刊号」    1909(明治42)年1月1日発行 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年10月18日作成 2012年9月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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        一  最近数年間の文壇及び思想界の動乱は、それにたずさわった多くの人々の心を、著るしく性急にした。意地の悪い言い方をすれば、今日新聞や雑誌の上でよく見受ける「近代的」という言葉の意味は、「性急なる」という事に過ぎないとも言える。同じ見方から、「我々近代人は」というのを「我々性急な者共は」と解した方がその人の言わんとするところの内容を比較的正確にかつ容易に享入れ得る場合が少くない。  人は、自分が従来服従し来ったところのものに対して或る反抗を起さねばならぬような境地(と私は言いたい。理窟は凡て後から生れる者である)に立到り、そしてその反抗を起した場合に、その反抗が自分の反省(実際的には生活の改善)の第一歩であるという事を忘れている事が、往々にして有るものである。言い古した言い方に従えば、建設の為の破壊であるという事を忘れて、破壊の為に破壊している事があるものである。戦争をしている国民が、より多く自国の国力に適合する平和の為という目的を没却して、戦争その物に熱中する態度も、その一つである。そういう心持は、自分自身のその現在に全く没頭しているのであるから、世の中にこれ位性急な(同時に、石鹸玉のように張りつめた、そして、いきり立った老人の姿勢のように隙だらけな)心持はない。……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らしい習慣を作るが為であるという事に気が付くことが、一日遅ければ一日だけの損だというのである。そしてその損は一人の人間に取っても、一つの時代に取っても、又それが一つの国民である際でも、決して小さい損ではないと言うのである。  妻を有ちながら、他の女に通ぜねばならなくなった、或はそういう事を考えねばならなくなった男があるとする。そして、有妻の男子が他の女と通ずる事を罪悪とし、背倫の行為とし、唾棄すべき事として秋毫寛すなき従来の道徳を、無理であり、苛酷であり、自然に背くものと感じ、本来男女の関係は全く自由なものであるという原始的事実に論拠して、従来の道徳に何処までも服従すべき理由とては無いのだと考えたとする。其処までは可い。もしもその際、問題の目的が「然らば男女関係の上に設くべき、無理でなく、苛酷でなく、自然に背くものでないところの制約はどんなものであらねばならぬか」という事であるのを忘れて了って、既に従来の道徳は必然服従せねばならぬものでない以上、凡ての夫が妻ならぬ女に通じ、凡ての妻が夫ならぬ男に通じても可いものとし、乃至は、そうしない夫と妻とを自覚のない状態にあるものとして愍れむに至っては、性急もまた甚だしいと言わねばならぬ。その結果は、啻に道徳上の破産であるのみならず、凡ての男女関係に対する自分自身の安心というものを全く失って了わねば止まない、乃ち、自己その物の破産である。問題が親子の関係である際も同である。         二  右の例は、一部の人々ならば「近代的」という事に縁が遠いと言われるかも知れぬ。そんなら、この処に一人の男(仮令ば詩を作る事を仕事にしている)があって、自分の神経作用が従来の人々よりも一層鋭敏になっている事に気が付き、そして又、それが近代の人間の一つの特質である事を知り、自分もそれらの人々と共に近代文明に醸されたところの不健康(には違いない)な状態にあるものだと認めたとする。それまでは可い。もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、(その実落第者でありながら。――及第者も落第者も共に受験者である如く、神経組織の健全な人間も不健全な人間も共に近代の人間には違いない)その不健全を恃み、かつ誇り、更に、その不健全な状態を昂進すべき色々の手段を採って得意になるとしたら、どうであろう。その結果は言うまでもない。もし又、そうしなければ所謂「新らしい詩」「新らしい文学」は生れぬものとすれば、そういう詩、そういう文学は、我々――少くとも私のように、健康と長寿とを欲し、自己及自己の生活(人間及人間の生活)を出来るだけ改善しようとしている者に取っては、無暗に強烈な酒、路上ででも交接を遂げたそうな顔をしている女、などと共に、全然不必要なものでなければならぬ。時代の弱点を共有しているという事は、如何なる場合の如何なる意味に於ても、かつ如何なる人に取っても決して名誉ではない。  性急な心! その性急な心は、或は特に日本人に於て著るしい性癖の一つではあるまいか、と私は考える事もある。古い事を言えば、あの武士道というものも、古来の迷信家の苦行と共に世界中で最も性急な道徳であるとも言えば言える。……日本はその国家組織の根底の堅く、かつ深い点に於て、何れの国にも優っている国である。従って、もしも此処に真に国家と個人との関係に就いて真面目に疑惑を懐いた人があるとするならば、その人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よりも深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。そして、輓近一部の日本人によって起されたところの自然主義の運動なるものは、旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対して反抗を試みたと全く同じ理由に於て、この国家という既定の権力に対しても、その懐疑の鉾尖を向けねばならぬ性質のものであった。然し我々は、何をその人達から聞き得たであろう。其処にもまた、呪うべく愍れむべき性急な心が頭を擡げて、深く、強く、痛切なるべき考察を回避し、早く既に、あたかも夫に忠実なる妻、妻に忠実なる夫を笑い、神経の過敏でないところの人を笑うと同じ態度を以て、国家というものに就いて真面目に考えている人を笑うような傾向が、或る種類の青年の間に風を成しているような事はないか。少くとも、そういう実際の社会生活上の問題を云々しない事を以て、忠実なる文芸家、溌溂たる近代人の面目であるというように見せている、或いは見ている人はないか。実際上の問題を軽蔑する事を近代の虚無的傾向であるというように速了している人はないか。有る――少くとも、我々をしてそういう風に疑わしめるような傾向が、現代の或る一隅に確に有ると私は思う。         三  性急な心は、目的を失った心である。この山の頂きからあの山の頂きに行かんとして、当然経ねばならぬところの路を踏まずに、一足飛びに、足を地から離した心である。危い事この上もない。目的を失った心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。人生の問題を考察するという人にして、もしも自分自身の生活の内容を成しているところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己その物を軽蔑するものでなければならぬ。自己を軽蔑する人、地から足を離している人が、人生について考えるというそれ自体が既に矛盾であり、滑稽であり、かつ悲惨である。我々は何をそういう人々から聞き得るであろうか。安価なる告白とか、空想上の懐疑とかいう批評のある所以である。  田中喜一氏は、そういう現代人の性急なる心を見て、極めて恐るべき笑い方をした。曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するのであるが、これが原因を繹ねると、つまり二つに帰する。その一つは彼等が一時の状態を永久の傾向であると見ることであり、もう一つは局部の側相を全体の本質と考えることである」  自己を軽蔑する心、足を地から離した心、時代の弱所を共有することを誇りとする心、そういう性急な心をもしも「近代的」というものであったならば、否、所謂「近代人」はそういう心を持っているものならぱ、我々は寧ろ退いて、自分がそれ等の人々よりより多く「非近代的」である事を恃み、かつ誇るべきである。そうして、最も性急ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を改善し、統一し徹底すべきところの努力に従うべきである。  我々日本人が、最近四十年間の新らしい経験から惹き起されたところの反省は、あらゆる意味に於て、まだ浅い。  もしも又、私が此処に指摘したような性急な結論乃至告白を口にし、筆にしながら、一方に於て自分の生活を改善するところの何等かの努力を営み――仮令ば、頽廃的という事を口に讃美しながら、自分の脳神経の不健康を患うて鼻の療治をし、夫婦関係が無意義であると言いながら家庭の事情を緩和すべき或る努力をし、そしてその矛盾に近代人の悲しみ、苦しみ、乃至絶望があるとしている人があるならば、その人の場合に於て「近代的」という事は虚偽である。我々は、そういう人も何時かはその二重の生活を統一し、徹底しようとする要求に出会うものと信じて、何処までも将来の日本人の生活についての信念を力強く把持して行くべきであると思う。
底本:「石川啄木集(上)」新潮文庫、新潮社    1950(昭和25)年5月10日発行    1970(昭和45)年6月15日30刷改版    1991(平成3)年3月5日58刷 入力:鈴木厚司 校正:鈴木厚司 1999年5月16日公開 2005年9月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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(第一信) 岩見沢にて  一月十九日。雪。  僅か三時間許りしか眠らなかつたので、眠いこと話にならぬ。頬を脹らして顔を洗つて居ると、頼んで置いた車夫が橇を牽いて来た。車夫が橇を牽くとは、北海道を知らぬ人には解りツこのない事だ。そこ〳〵に朝飯を済まして橇に乗る。いくら踏反返つて見ても、徒歩で歩く人々に見下ろされる。気の毒ながら威張つた甲斐がない。  中央小樽駅に着きは着いたが、少しの加減で午前九時の下り列車に乗後れて了つた。仕方なさに東泉先生のお宅へ行つて、次の汽車を待つことにする。馳せ参ずる人二人三人。暖炉に火を入れてイザ取敢へずと盃が廻りはじめる。不調法の自分は頻りに煙草を吹かす。話はそれからこれへと続いたが就中の大問題は僕の頭であつた。知らぬ人は知るまいが、自分の頭は、昨年十一月の初め鬼舐頭病といふのに取付かれたので、今猶直径一寸余の禿が、無慮三つ四つ、大きくもない頭に散在して居る。東泉先生曰く、君の頭は植林地か、それとも開墾地か、後者だとすれば着々成功して居るが、植林の方だと甚だ以て不成績ぢやないか!  火を入れた暖炉の真赤になる迄火勢のよくなつた時は、人々の顔もどうやらほんのりと色づいて居た。今度こそは乗遅れぬやうにと再び停車場に駆け付ける。手にした切符は、 「ちうおうおたるよりくしろまで」  客が少くて、殊に二等室は緩りとしたもの。汽笛の鳴る迄を先生は汽車衝突の話をされる。それは戦役当時の事であつたとか。先生自身と外に一人を除いては皆軍人許り、ヒヨウと気たたましい非常汽笛が鳴ると、指揮官の少尉殿は忽ち「伏せツ」と号令を下した、軍人は皆バタ〳〵と床に伏した。そのため、機関車は壊れ死傷者も数多くあつたけれど、この一室中の人許りは誰一人微傷だもしなかつたと云ふ。汽車に乗つたから汽車衝突の話をするとは誠にうまい事と自分はひそかに考へた、そして又、衝突なり雪埋なり、何かしらこんどの旅行記を賑はすべき事件が、釧路まで行くうちに起つて呉れゝばよいがと、人に知らされぬ危険な事を思ふ。  午前十一時四十分。車は動き出して、車窓の外に立つて居た日報社の人々が見えなくなつた。雪が降り出して居る。風さへ吹き出したのか、それとも汽車が風を起したのか、声なき鵞毛の幾千万片、卍巴と乱れ狂つて冷たい窓硝子を打つ。――其硝子一重の外を知らぬ気に、車内は暖炉勢ひよく燃えて、冬の旅とは思へぬ暖かさ。東泉先生は其肥大の躯を白毛布の上にドシリと下して、心安げに本を見始める。先生に侍して、雪に埋れた北海道を横断する自分は宛然腰巾着の如く、痩せて小さい躯を其横に据ゑて、衣嚢から新聞を取出した。サテ太平無事な天下ではある。蔵逓両相が挂冠したといふ外に、広い世の中何一つ面白い事がない。  窓越しに見る雪の海、深碧の面が際限もなく皺立つて、車輛を洗ふかと許り岸辺の岩に砕くる波の徂徠、碧い海の声の白さは降る雪よりも美しい。朝里張碓は斯くて後になつて、銭函を過ぐれば石狩の平野である。  午後一時二十分札幌に着いて、東泉先生は一人下車せられた。明日旭川で落合ふといふ約束なのである。降りしきる雪を透して、思出多き木立の都を眺めた。外国振のアカシヤ街も見えぬ。菩提樹の下に牛遊ぶ「大いなる田舎町」の趣きも見えぬ。降りに降る白昼の雪の中に、我が愛する「詩人の市」は眠つて居る、※(「闃」の「目」に代えて「自」)として声なく眠つて居る。不図気がつけば、車中の人は一層少くなつて居た。自分は此時初めて、何とはなく己が身の旅にある事を感じた。  汽笛が鳴つて汽車はまた動き出した。札幌より彼方は自分の未だ嘗て足を入れた事のない所である。白石厚別を過ぎて次は野幌。睡眠不足で何かしら疲労を覚えて居る身は、名物の煉瓦餅を買ふ気にもなれぬ。江別も過ぎた。幌向も過ぎた。上幌向の停車場の大時計は、午後の三時十六分を示して居た。  雪は何時しか晴れて居る。空一面に渋い顔を披いた灰色の雪が大地を圧して、右も左も、見ゆる限りは雪又雪。所々に枯木や茅舎を点綴した冬の大原野は、漫ろにまだ見ぬ露西亜の曠野を偲ばしめる。鉄の如き人生の苦痛と、熱火の如き革命の思想とを育て上げた、荒涼とも壮大とも云ひ様なき北欧の大自然は、幻の如く自分の目に浮んだ。不図したら、猟銃を肩にしたツルゲネーフが、人の好ささうな、髯の長い、巨人の如く背の高い露西亜の百姓と共に、此処いらを彷徨いて居はせぬかといふ様な心地がする。気がつくと、自分と向合つて腰かけて居る商人体の男が、金釦の外套を着た十二三の少年を二人伴れて居る。そして二人共悧巧さうな顔をして居る。自分は思はずチヨツと舌打をした。日本人はどうして恁うせせこましい、万事に抜目のない様な、悧巧さうな、小国民らしい顔をしてるだらうと、トンダ不平を起して再び目を窓外に転じた。積雪の中に所々、恰も錆びた剣の如く、枯れた蘆の葉が頭を出して居る。  程なく岩見沢に下車して、車夫を呼ぶと橇牽が来た。今朝家を出た時の如く、不景気な橇に賃して四時頃此姉が家に着いた。途中目についたのは、雪の深いことと地に達する氷柱のあつた事、凍れるビールを暖炉に解かし、鶏を割いての楽しき晩餐は、全く自分の心を温かにした。剰さへ湯加減程よき一風呂に我が身体も亦車上の労れを忘れた。自分は今、眠りたいと云ふ外に何の希望も持つて居ない。眠りたい、眠りたい……実際モウ眠くなつたから、此第一信の筆を擱く事にする。(午後九時半) (第二信) 旭川にて  一月二十日。曇。  午前十時半岩見沢発二番の旭川行に乗つた。同室の人唯四人、頬髯逞しい軍人が三十二三の黒いコートを着た細君を伴れて乗つて居る。新聞を買つて読む、札幌小樽の新聞は皆新夕張炭鉱の椿事を伝へるに急がしい。タイムスの如きは、死骸の並んでる所へ女共の来て泣いてる様を書いた惨澹たる揷絵まで載せて居る。此揷絵を見て、軍人の細君は「マア」と云つた。軍人は唸る様に「ウウ」と答へた。  砂川駅で昼食。  ト見ると、右も左も一望の雪の中に姿淋しき雑木の林、其間々に雪を冠つた屋根の規則正しく幾列も、並んで居るのは、名にし聞ゆる空知の屯田兵村であらう。江部乙駅を過ぎて間もなく、汽車は鉄橋にかゝつた。川もないのに鉄橋とは可笑いと思つて、窓をあけると、傍人は「石狩川です」と教へて呉れた。如何様川には相違ないが、岸から岸まで氷が張詰めて居て、其上に何尺といふ雪が積つてあるのだから、一寸見ては川とも何とも見えぬ。小学校に居る頃から石狩川は日本一の大河であると思つて居た。日本一の大河が雪に埋れて見えぬと聞いたなら、東京辺の人などは何といふであらう。  此辺は、北海道第一の豊産地たる石狩平野の中でも、一番地味の饒かな所だと、傍人はまた教へて呉れた。  雑誌など読み耽つてゐるうちに汽車は何時しか山路にかゝつた。雪より雪に続いて、際限がないと思つて居た石狩の大原野も、何時の間にか尽きて了つたと見える。軈て着いた停車場は神威古潭駅と云ふ、音に高き奇勝は之かと思つて窓を明けた。「温泉へ五町、砂金採取所へ八町」と札が目についた。左の方、崖下を流るゝ石狩川の上流は雪に隠れて居る。崖によつて建てられた四阿らしいのゝ、積れる雪の重みにおしつぶされたのがあつた。「夏は好いですが喃」と軍人は此時初めて自分に声を掛けた。  汽車は川に添ふて上る。川の彼岸は山、山の麓を流に臨んで、電柱が並んで居る。所々に橋も見える。人道が通つてるのだらうが、往来の旅人の笠一つ見えぬ。鳥の声もせねば、風の吹く様子もない。汽車は何処までも何処までもと川に添うて、喘ぎ〳〵無人の境を走る。  川が瀬になつて水の激して居る所は、流石に氷りかねて居て、海水よりも碧い水が所々真白の花を咲かせて居る。木といふ木は皆其幹の片端に雪を着けて居る。――死の林とは、之ではあるまいかと思つた。幾千万本と数知れぬ樹が、皆白銀の鎧を着て動きツこもなく立往生して居る。  川が右の方へ離れて行くと、眼界が少しづつ広くなつて来た。何処まで行つても、北海の冬は雪また雪、痩せた木が所々に林をなして居て、雪に埋れて壁も戸も見えぬ家が散らばつて居る。日は西の空から、雲間を赤く染めて、はかない冬の夕の光を投げかける。  旭川に下車して、停車場前の宮越屋旅店に投じた。帳場の上の時計は、午後三時十五分を示して居た。  日の暮れぬ間にと、町見物に出かける。流石は寒さに名高き旭川だけあつて、雪も深い。馬鉄の線路は、道路面から二尺も低くなつて居る。支庁前にさる家を訪ねて留守に逢ひ、北海旭新聞社に立寄つた。旭川は札幌の小さいのだと能く人は云ふ。成程街の様子が甚だよく札幌に似て居て、曲つた道は一本もなく、数知れぬ電柱が一直線に立ち並んで、後先の見えぬ様など、見るからに気持がよい。さる四辻で、一人の巡査が恰も立坊の如く立つて居た。其周匝を一疋の小犬がグル〳〵と廻つて頻りに巡査の顔を見て居るのを、何だか面白いと思つた。知らぬ土地へ来て道を聞くには、女、殊に年若い女に訊くに限るといふ事を感じて宿に帰る。  湯に這入つた。薄暗くて立ち罩めた湯気の濛々たる中で、「旭川は数年にして屹度札幌を凌駕する様になるよ」と気焔を吐いて居る男がある。「戸数は幾何あるですか」と訊くと、「左様六千余に上つてるでせう」と其人が答へた。甚麽人であつたかは、見る事が出来ずに了つた。  夜に入つて東泉先生も札幌から来られた。広い十畳間に黄銅の火鉢が大きい。旭川はアイヌ語でチウベツ(忠別)と云ふさうな、チウは日の出、ベツは川、日の出る方から来る川と云ふ意味なさうで、旭川はその意訳だと先生が話された。  催眠術の話が出た為めか、先生は既に眠つてしまつた。明朝は六時半に釧路行に乗る筈だから、自分もそろ〳〵枕につかねばならぬ。(九時半宮越屋楼上にて)
底本:「日本随筆紀行第一巻 北海道 太古の原野に夢見て」作品社    1986(昭和61)年6月10日第1刷発行 底本の親本:「石川啄木全集 第八巻」筑摩書房    1979(昭和54)年1月 入力:mayu 校正:富田倫生 2001年8月9日公開 2005年11月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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 久し振で歸つて見ると、嘗ては『眠れる都會』などと時々土地の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは餘程その趣きを變へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と變つて、恰度自分の机の置いた邊と思はれるところへ、吊された大章魚の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共大章魚の首縊を見た。若しこれが昔であつたなら、恁う何日も賣れないで居ると、屹度、自分が平家物語か何か開いて、『うれしや水鳴るは瀧の水日は照るとも絶えず、……フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ〳〵と、襟首に落ちようと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間に、早く何處かの内儀さんが來て、全體では餘計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れゝば可に、と思つた。此家の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な〳〵學堂へ通ふ自分に、目も覺むる淺緑の此上なく嬉しかつた枳殼垣も、いづれ主人は風流を解せぬ醜男か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの祕密を此屋敷に藏して置く底の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許行くと、大澤河原から稻田を横ぎつて一文字に、幅廣い新道が出來て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路――自分の極く親しくした藻外という友の下宿の前へ出る道は、今廢道同樣の運命になつて、花崗石の截石や材木が處狹きまで積まれて、その石や木の間から、尺もある雜草が離々として生ひ亂れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懷うて見ようかとも思つたが、イヤ待て恁な晝日中に、宛然人生の横町と謂つた樣な此處を彷徨いて何か明處で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覺と思ひ返へして止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見を憚らずに何か詩的な立𢌞を始めたに違ひない。兎角人間は孤獨の時に心弱いものである。此變遷は、自分には毫も難有くない變遷である。恁な變樣をする位なら、寧ろ依然『眠れる都會』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた縣廳は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評した肴町呉服町には、一度神田の小川町で見た事のある樣な本屋や文房具店も出來た。就中破天荒な變化と云ふべきは、電燈會社の建つた事、女學生の靴を穿く樣になつた事、中津川に臨んで洋食店の出來た事、荒れ果てた不來方城が、幾百年來の蔦衣を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭に産毛が生えた樣な此舊城の變方などは、自分がモ少し文學的な男であると、『噫、汝不來方の城よ噉しつつ、……文明の儀表なり。昨の汝が松風名月の怨長なへに盡きず……なりしを知るものにして、今來つて此盛裝せる汝に對するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讃するの辭なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の樂園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く〳〵思へ、昨日杖を此城頭に曳いて、鐘聲を截せ來る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々たる草裡に落したりし者、よくこの今日あるを豫知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去來して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して蔦蘿雜草の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々開園式が濟んだ許りの、文明的な、整然とした、別に俗氣のない、そして依然昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の氣に入つたからである。可愛い兒供の生れた時、この兒も或は年を老つてから悲慘な死樣をしないとも限らないから、いつそ今斯うスヤ〳〵と眠つてる間に殺した方が可かも知れぬ、などと考へるのは、實に天下無類の不所存と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不圖次の樣な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲は何も本氣で云ふのでなくて、唯序に白状するのだから、別段差閊もあるまい。考といふと恁だ。此公園を公園でなくて、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ樣に厚い枳殼垣を繞らして、本丸の跡には、希臘か何處かの昔の城を眞似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髮をドッサリと肩に垂らして、露西亞の百姓の樣な服を着て、唯一人其家に住む。終日讀書をする。霽れた夜には大砲の樣な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の發明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸の洋食店から上等の料理を取寄せる。尤も此給仕人は普通の奴では面白くない。顏は奈何でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色か淺緑の簡單な洋服を着て、面紗をかけて、音のしない樣に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除するのは面倒だから、可成散らかさない樣に氣を附ける。そして、一年に一度、昔羅馬皇帝が凱旋式に用ゐた輦――それに擬ねて『即興詩人』のアヌンチャタが乘𢌞した輦、に擬ねた輦に乘つて、市中を隈なく𢌞る。若し途中で、或は蹇、或は盲人、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奧義を究めて置いて、)其奴の頭に手が觸つた丈で癒してやる。……考へた時は大變面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌は品格を傷ふ所以である。  立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十數哩を隔てた或る寒村に生れた。其處の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈をこの不來方城下に負ひ來つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇毎の歸省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴とした舊藩士の末娘であつたので、隨つて此舊城下蒼古の市には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また從兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁邊のものを代る〴〵喰ひ𢌞つて、そして、高等小學から中學と、漸々文の林の奧へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした澤山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顏は何處かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不圖軍人志願の心を起して毎日體操を一番眞面目にやつた時代の事や、ビスマークの傳を讀んでは、直小比公氣取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生來虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた處から、小ギポンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に譯して、かの哀れなる亡國の民に愛國心を起さしめ、獨立軍を擧げさせる、イヤ其前に日本は奈何かしてシャムを手に入れて置く必要がある。……其時は自分はバイロンの轍を踏んで、筆を劍に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の樣な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると氣が附いてから、遽かに夜も晝も香はしい夢を見る人となつて、旦暮『若菜集』や『暮笛集』を懷にしては、程近い田圃の中にある小さい寺の、巨きい栗樹の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、學校へ行つても、倫理の講堂で竊と『亂れ髮』を出して讀んだりした時代の事や、――すべて慕かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市を舞臺に取つて居る。盛岡は實に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。  十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に歸つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の檢定試驗を受けて、歴史科中等教員の免状を貰うた。唯茲に一つ殘念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試驗の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城縣第○中學の助教諭、兩親と小妹とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、餘裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。  今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を囑託せられて、一箇月半の樂しい休暇を全く其爲めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の𢌞訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく實地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には歸つて來たのである。新山堂と呼ばるる稻荷神社の直背後の、母とは二歳違ひの姉なる伯母の家に車の轅を下させて、出迎へた五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背廣姿を見上げ見下しされたのは、實に一昨日の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穩やかな黄昏時であつた。  遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峰を繞らして、近くは、月に名のある鑢山、黄牛の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の淺瀬に跨り、水音緩き北上の流に臨み、貞任の昔忍ばるる夕顏瀬橋、青銅の擬寶珠の古色滴る許りなる上中の二橋、杉土堤の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然として立つ不來方城に登つて瞰下せば、高き低き茅葺柾葺の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、實に誰が見ても美しい日本の都會の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へばあ餘り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするを好む。  この美しい盛岡の、最も自分の氣に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三を綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、餘り淋し過ぎる。一體自分は歴史家であるから、開闢以來此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くとも文字に殘されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗て、『完全なる』といふ形容詞を眞正面から冠せることの出來る奴には、一人も、一個も、一度も、出會した事がない。隨つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、たゞ拔群であれば可い。世界には隨處に『不完全』が轉がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である。歴史の生命である、人間の生命である。或る學者は『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、隨分違つた希望のために時間と勞力とを盡して、そして『進化』と正反對なる或る結果を來した例が少くない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正當なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリーズ時代の雅典以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、墮落せる希望に依る墮落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此點が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の數へ得る年限内は決して此世界に來らぬものと假定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釋して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億萬年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁いた樣な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の墮落は何でもないではないか。加之較々完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠かつた今の我々の方が、却つて〳〵大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、眞理よりも眞理を希求する心、完全よりも完全に對する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の靜けさ淋しさは愛するけれども、奈何して此三が一緒になつて三足揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出來よう。雨の夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の氣に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた爲めでがなあらう。  昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り續いた。長火鉢を中に相對して、『新山堂の伯母さん』と前夜の續きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百の話題を緯にして、話好の伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の絲を經に入れる。此はてしない、蕭やかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空氣、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時近くなつて、隣町の方から『豆腐ア』といふ、低い、呑氣な、永く尾を引張る呼聲が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にも全五年の間忘れ切つて居た『盛岡の聲』ではないか。此低い、呑氣な、尾を引張る處が乃ち、全く雨の盛岡式である。此聲が蕭やかな雨の音に漂うて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで來た。そして遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆聲で、矢張低く呑氣に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て氣が附かなかつたらしい。軈て、十二時を報ずるステーションの工場の汽笛が、シッポリ濡れた樣な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四家町の教會の鐘がガラン〳〵鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が傳はる。これは不來方城畔の鐘樓から、幾百年來同じ鯨音を陸奧の天に響かせて居る巨鐘の聲である。それが精確に十二の數を撞き終ると、今まであるかなきかに聞えて居た市民三萬の活動の響が、礑と許り止んだ。『盛岡』が今今日の晝飯を喰ふところである。 『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』 といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、 『浩さん、豆腐屋が來なかつたやうだつたね。』  此伯母さんの一擧一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。  朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い錢湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして泥汁を撥ね上げぬ樣に、極めて靜々と、一足毎に氣を配つて歩いて居るのだ。兩側の屋根、低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覺えて置いた女の、今は髮の結ひ方に氣をつける姉さんになつたのが、其處此處の門口に立つて、呆然往來を眺めて居る事もある。此等舊知の人は、決して先方から話かける事なく、目禮さへ爲る事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を發揮して居る如く感ぜられて、仲々奧床しいのである。總じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆克く雨に適して居る。人あり、來つて盛岡の街々を彷徨ふこと半日ならば、必ず何街か理髮床の前に、銀杏髷に結つた丸顏の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手と次の如き會話を交ふるを聞くであらう。  女『アノナハーン、アエヅダケァガナハーン、昨日スアレー、彼ノ人アナーハン。』  男『フンフン、御前ハンモ行タケスカ。フン、眞ニソダチナハン。アレガラナハン、家サ來ルヅギモ面白ガタンチェ。ホリヤ〳〵、大變ダタァンステァ。』  此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事實が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此會話の深い〳〵意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出來るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶氣な、氣の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。  澄み切つた鋼鐵色の天蓋を被いで、寂然と靜まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨く樂みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で歸つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の爲めに、昔の樂みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲で、古い記憶を呼び覺して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠るありて、今往時を切實に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨いて居た際に起つた大奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町、三戸町から赤川、此赤川から櫻山の大鳥居へ一文字に、畷といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境を一往返するを敢て勞としなかつた。のみならず、一寸路を逸れて、かの有名な田中の石地藏の背を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ〳〵と引返して來ると、途中で外套を著、頭巾を目深に被つた一人の男に逢つた。然し別段氣にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎足的關係のあつた花郷を訪ねて見ようと、少しく足を早めた。四家町は寂然として、唯一軒理髮床の硝子戸に燈光が射し、中から話聲が洩れたので、此處も人間の世界だなと氣の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。斷つて置く、此町の隣が密淫賣町の大工町で、藝者町なる本町通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舍の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相應に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火が射して居る。ヒョウと口笛を吹くと、矢張ヒョウと答へた。今度はホーホケキョとやる、(これは自分の名の暗號であつた。)復ヒョウと答へた。これだけで訪問の禮は既に終つたから、平生の如く入つて行かうと思つて、上框の戸に手をかけようとすると、不意、不意、暗中に鐵の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然し乍ら星明で透して見たが、外套を著て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻畷で逢つた奴に似て居る。 『立花、俺に見附つたが最後ぢやぞッ。』  驚いた、眞に驚いた。この聲は我が中學の體操教師、須山といふ豫備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地惡男の聲であつた。 『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾けて來て見ると、矢張口笛で密淫賣と合圖をしてけつかる。……』  自分は手を握られた儘、開いた口が塞がらぬ。 『此間職員會議で、貴樣が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴樣の居る仁王小路が俺の監督範圍ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓ぢや。其處で俺は三晩つづけて貴樣に尾行した。一昨夜は呉服町で綺麗な簪を買つたのを見たから、何氣なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩は古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場を見屆けたぞ。案の諚大工町ぢやつた。貴樣は本町へ行く位の金錢は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら營倉ぢや。』  自分の困憊の状察すべしである。恰も此時、洋燈片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝に堪へぬといつた樣な顏をして、盛岡辯で、 『何しあんした?』 と自分に問うた。自分は急に元氣を得て、逐一事情を話し、更に須山に向いて、 『先生、此町は大工町ではごあせん、花屋町でごあんす。小林君も淫賣婦ではごあんせんぜ。』と云つた。  須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危氣に動かし乍ら、洒脱な聲をあげて叫び出した。 『立花白蘋君の奇談々々!』 『立花、貴樣餘ッ程氣を附けんぢや――不可ぞ。よく覺えて居れッ。』 と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中に沒したのであつた  自分は既に、五年振で此市に來て目前觀察した種々の變遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此市と自分との關係から、盛岡は美しい日本の都會の一つである事、此美しい都會が、雨と夜と秋との場合に最も自分の氣に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も樂しい秋の盛岡――大穹窿が無邊際に澄み切つて、空中には一微塵の影もなく、田舍口から入つて來る炭賣薪賣の馬の、冴えた〳〵鈴の音が、市の中央まで明瞭響く程透徹であることや、雨滴式の此市の女性が、嚴肅な、赤裸々な、明皙の心の樣な秋の氣に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなつす――。』と、口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其處此處の井戸端に起る趣味ある會話や、乃至此女性的なる都會に起る一切の秋の表現、――に就いて出來うる限り精細な記述をなすべき機會に逢着した。  が、自分は、其秋の盛岡に關する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底の突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此の記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを適切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ヶ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。  實際を白状すると、自分が先刻晩餐を濟ましてから、少許調査物があるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十疊の奧座敷に立籠つて、餘り明からぬ五分心の洋燈の前に此筆を取上げたのは、實は、今日自分が偶然路上で出會した一事件――自分と何等の關係もないに不拘、自分の全思想を根柢から搖崩した一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く〳〵忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀有なる出來事に對する極度の熱心は、如何にして、何處で、此出來事に逢つたかといふ事を説明するために、實に如上數千言の不要なる記述を試むるをさへ、敢て勞としなかつたのである。  斷つて置く、以下に書き記す處は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を讀む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這麽事を眞面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出會した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁信じたからこそ、此市の名物の長澤屋の豆銀糖でお茶を飮み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする樂みをさへ擲ち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の澁りに汗ばみ乍ら此苦業を續けるのだ。  又斷つて置く、自分は既に此事件を以て親ら出會した事件中の最大事件と信じ、其爲に二十幾年養ひ來つた全思想を根柢から搖崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭に立つた。――然だ、今自分の立つて居る處は、慥かに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端を發見するに到るかも知れぬが、……否々、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼッタ石』の、表に刻まれた神聖文字は、如何にトマス・ヨングでもシャムポリヲンでも、プシウスでも、とても十年二十年に讀み了る事が出來ぬ樣に思はれる。  自分が今朝新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名殘りの水潦が路の處々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空氣を岩山の上の秋陽がホカ〳〵と温めて居た。  加賀野新小路の親縁の家では、市役所の衞生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麥煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず濕々して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸の劇しい藪路、それを東に一軒許で、天神山に達する。しん〳〵と生ひ茂つた杉木立に圍まれて、苔蒸せる石甃の兩側秋草の生ひ亂れた社前數十歩の庭には、ホカ〳〵と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鷄の聲の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然として居る。周匝にひゞく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拜殿の前近く進んで、自分は圖らずも懷かしい舊知己の立つて居るのに氣付いた。舊知己とは、社前に相對してぬかづいて居る一双の石の狛である。詣づる人又人の手で撫でられて、其不恰好な頭は黒く膏光りがして居る。そして、其又顏といつたら、蓋し是れ天下の珍といふべきであらう。唯極めて無造作に凸凹を造へた丈けで醜くもあり、馬鹿氣ても居るが、克く見ると實に親しむべき愛嬌のある顏だ。全く世事を超越した高士の俤、イヤ、それよりも一段俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた樣な顏だ。自分は昔、よく友人と此處へ遊びに來ては、『石狛よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾黨の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不恰好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を轉ずると、杉の木立の隙から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然一幅の風景畫の傑作だ。周匝には心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野といふ松原、晴れた日曜の茸狩に、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其處の松蔭、此處の松蔭と探し歩いたものであつた。――  晝餐をば御子田のお苑さんといふ從姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で濟ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。綺麗な奧樣をサ。』と樂しげに笑ふのであつた。  歸路には、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵へ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な學者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の舊師である。  幅廣き美しい内丸の大逵、師範學校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無邊際な胸から搾り出す樣な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘樓の下を西へ歩いて居た。立派な縣廳、陰氣な師範學校、石割櫻で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白の衣を着た一巨人が、地の底から拔け出た樣にヌッと立つて居る。――  これは此市で一番人の目に立つ雄大な二階立の白堊館、我が懷かしき母校である。盛岡中學校である。巨人? 然だ、慥かに巨人だ。啻に盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、總ての意味に於て巨人たるものは、實にこの堂々たる、巍然たる、秋天一碧の下に兀として聳え立つ雪白の大校舍である。昔、自分は此の巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、學校時代のシルレルとなつた事もある。嘗て十三歳の春から十八歳の春まで全五年間の自分の生命といふものは、實に此巨人の永遠なる一小部分であつたのだ。噫、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、怎やら搖ぎ出す樣に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え拔いた樣に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を著て突立つたまま。  印度衰亡史は云はずもの事、まだ一册の著述さへなく、茨城縣の片田舍で月給四十圓の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづから頭の低るるを覺えた。  白色の大校舍の正面には、矢張白色の大門柱が、嚴めしく並び立つて居る。この門柱の兩の袖には、又矢張白色の、幾百本と數知れぬ木柵の頭が並んで居る。白! 白! 白! 此白は乃ち、此白い門に入りつ出つする幾多のうら若き學園の逍遙者の、世の塵に染まぬ潔白な心の色でがなあらう。柵の前には一列をなして老いた櫻の樹が立つて居る。美しく紅葉した其葉は、今傾きかけた午後三時の秋の日に照されて、いと物靜かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と櫻樹の間には一條の淺い溝があつて、掬はば凝つて掌上に晶ともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い櫻の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭の尖端々々には、殆んど一本毎に眞赤な蜻蛉が止つて居る。  自分は、えも云はれぬ懷かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此の白門に向つて歩を進めた。溝に架した花崗岩の橋の上に、髮ふり亂して垢光りする襤褸を著た女乞食が、二歳許りの石塊の樣な兒に乳房を啣ませて坐つて居た。其周匝には五六人の男の兒が立つて居て、何か祕々と囁き合つて居る。白玉殿前、此一點の醜惡! 此醜惡をも、然し、自分は敢て醜惡と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである。市の中央の大逵で、然も白晝、穢ない〳〵女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披けて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都會に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常にある事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を發揮して見せる必要な條件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜惡を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覺えた。そして靜かに門内に足を入れた。  校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れた、ヅカ〳〵と小使室の入口に進んだ。 『鹿川先生は、モウお退出になりましたか?』  鹿川先生といふは、抑々の創始から此學校と運命を偕にした、既に七十近い、徳望縣下に鳴る老儒者である。されば、今迄此處の講堂に出入した幾千と數の知れぬうら若い求學者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛然これ生きた教員の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘、今猶しみ〴〵と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。  自分の問に對して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎時して、 『イヤ、立花さんでアごあせんか? こりや怎うもお久振でごあんした喃。』 と、聞き覺えのある、錆びた〳〵聲が應じた。ああ然だ、この聲の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以來既に三十年近く勤續して居る正直者、歩振の可笑しなところから附けられた『家鴨』といふ綽名をも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。 『今日はハア土曜日でごあんすから、先生は皆お歸りになりあしたでア。』  土曜日? おゝ然であつた。學校教員は誰しも土曜日の來るを指折り數へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアッケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の舊制を捨てて此制を採用し、ひいては今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克く研究して居る癖に、怎うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滯留三日にして早く既に盛岡人の呑氣な氣性の感化を蒙つたのかも知れない。  此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きな竈があつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯を沸らして居る。自分は此學校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた煖爐には、力の弱いところから近づく事も出來ないで、よくこの竈の前へ來て晝食のパンを噛つた事を思出した。そして、此處を立去つた。  門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で樂しく語り合つた事のある、玄關の上の大露臺を振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝に立つて居た兒供の一人が、頓狂な聲を張上げて叫んだ。 『あれ〳〵、がんこア來た、がんこア來た。』がんことは盛岡地方で『葬列』といふ事である。此聲の如何に高かつたかは、自分が悠々たる追憶の怡樂の中から、俄かに振返つて、其兒供の指す方を見たのでも解る。これは恰度、門口へ來た配達夫に、『△△さん、電報です。』と穩かに云はれるよりも、『電報ツ。』と取つて投げる樣なけたたましい聲で叫ばれる方が、一層其電文が心配なと同じ事で、自分は實際、甚麽珍しい葬列かと、少からず慌てたのであつた。  此頓狂なる警告は、嘘ではなかつた。幅廣く、塵も留めず美くしい、温かな秋の日に照された大逵を、自分が先刻來たと反對な方角から、今一群の葬列が徐々として聲なく練つて來る。然も此葬列は實に珍らしいものであつた。唯珍らしい許りではない、珍らしい程見すぼらしいものであつた。先頭に立つたのは、處々裂けた一對の高張、次は一對の蓮華の造花、其次は直ぐ棺である。此棺は白木綿で包まれた上を、無造作に荒繩で縛されて、上部に棒を通して二人の男が擔いだのであつた。この後には一群の送葬者が隨つて居る。數へて見ると、一群の數は、驚く勿れ、なつた六人であつた。驚く勿れとはいつたものの、自分は此時少なからず驚いたのである。更に又驚いたのは、此六人が、揃ひも揃つて何れも、少しも悲し氣な處がなく、靜肅な點もなく、恰も此見すぼらしい葬式に會する事を恥づるが如く、苦い顏をして遽々然と歩いて來る事である。自分は、宛然大聖人の心の如く透徹な無邊際の碧穹窿の直下、廣く靜な大逵を、この哀れ果敢なき葬列の聲無く練り來るを見て、或る名状し難き衝動を心の底の底に感じた。そして、此光景は蓋し、天が自分に示して呉れる最も冷酷なる滑稽の一であらうなどと考へた。と又、それも一瞬、これも一瞬、自分は、『これは囚人の葬列だ。』と感じた。  理由なくして囚人の葬式だナと、不吉極まる觀察を下すなどは、此際隨分突飛な話である。が、自分には其理由がある。――たしか十一歳の時であつた。早く妻子に死別れて獨身生活をして居た自分の伯父の一人が、窮迫の餘り人と共に何か法網に觸るる事を仕出來したとかで、狐森一番戸に轉宅した。(註、狐森一番戸は乃ち盛岡監獄署なり。)此時年齡が既に六十餘の老體であつたので、半年許り經つて遂々獄裡で病死した。此『悲慘』の結晶した遺骸を引取つたのは、今加賀野新小路に居る伯父である。葬式の日、矢張今日のそれと同じく唯六人であつた會葬者の、三人は乃ち新山堂の伯母さんとお苑さんと自分とであつた。自分は其時稚心にも猶この葬式が普通でない事、見すぼらしい事を知つて、行く路々ひそかに肩身の狹くなるを感じたのであつた。されば今、かの六人の遽々然たる歩振を見て、よく其心をも忖度する事が出來たのである。  これも亦一瞬。  列の先頭と併行して、櫻の樾の下を來る一團の少年があつた。彼等は逸早くも、自分と共に立つて居る『警告者』の一團を見付けて、駈け出して來た。兩團の間に交換された會話は次の如くである。 『何處のがんこだ?』『狂人のよ、繁のよ。』『アノ高沼の繁狂人のが?』『ウム然よ、高沼の狂人のよ。』『ホー。』『今朝の新聞にも書かさつて居だずでや、繁ア死んで好えごどしたつて。』『ホー。』  高沼繁? 狂人繁! 自分は直ぐ此名が決して初對面の名でないと覺つた。何でも、自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名も、たしか『高沼繁』で、そして此名が、たしか或る狂人の名であつた樣だ。――自分が恁う感じた百分の一秒時、忽ち又一事件の起るあつて少からず自分を驚かせた。  今迄自分の立つて居る石橋に土下座して、懷中の赤兒に乳を飮ませて居た筈の女乞食が、此時卒かに立ち上つた。立ち上るや否や、茨の髮をふり亂して、帶もしどけなく、片手に懷中の兒を抱き、片手を高くさし上げ、裸足になつて驅け出した。驅け出したと見るや否や、疾風の勢を以て、かの聲無く靜かに練つて來る葬列に近づいた。近づいたなと思ふと、骨の髓までキリ〳〵と沁む樣な、或る聽取り難き言葉、否、叫聲が、嚇と許り自分の鼓膜を突いた。呀ツと思はず聲を出した時、かの聲無き葬列は礑と進行を止めて居た、そして棺を擔いだ二人の前の方の男は左の足を中有に浮して居た。其爪端の處に、彼の穢い女乞食が摚と許り倒れて居た。自分と並んで居る一團の少年は、口々に、聲を限りに、『あやア、お夏だ、お夏だッ、狂女だッ。』と叫んだ。 『お夏』と呼ばれた彼の女乞食が、或る聽取り難い言葉で一聲叫んで、棺に取縋つたのだ。そして、彼の擔いで居る男に蹴倒されたのだ。この非常なる活劇は、無論眞の一轉瞬の間に演ぜられた。  噫、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初對面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女の名であつた樣だ。  以上二つの舊知の名が、端なく我頭腦の中でカチリと相觸れた時、其一刹那、或る莊嚴な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の兩眼に立ち塞がつた。  自分は今、茲に霎時、五年前の昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、處は矢張此の新山祠畔の伯母が家。  史學研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辭した日の夕方、この伯母が家に著いて、晩れ行く秋の三日四日、あかぬ別れを第二の故郷と偕に惜まれたのであつた。  一夜、伯母やお苑さんと隨分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは、遠近に一番鷄の聲を聞く頃であつたが、翌くる朝は怎うしたものか、例になく早く目が覺めた。枕頭の障子には、わづかに水を撒いた許りの薄光が聲もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に氣を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ〳〵、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛然初陣の曉と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥床を離れぬのを、何か安逸を貪る所業の樣に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに靜かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ樣に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、颯と心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。  井戸ある屋後へ𢌞ると、此處は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の廣葉や、紫の色褪せて莖許りの茄子の、痩せた骸骨を並べてゐる畝や、拔き殘された大根の剛ばつた葉の上に、東雲の光が白々と宿つて居た。否これは、東雲の光だけではない、置き餘る露の珠が東雲の光と冷かな接吻をして居たのだ。此野菜畑の突當りが、一重の木槿垣によつて、新山堂の正一位樣と背中合せになつて居る。滿天滿地、闃として脈搏つ程の響もない。  顏を洗ふべく、靜かに井戸に近いた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この曉方の神々しい靜寂を破る必要がなかつた。大きい花崗岩の臺に載つた洗面盥には、見よ〳〵、溢れる許り盈々と、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏として銀水の如く盛つてあるではないか。加之、此一面の明鏡は又、黄金の色のいと鮮かな一片の小扇さへ載せて居る。――すべて木の葉の中で、天が下の王妃の君とも稱ふべき公孫樹の葉、――新山堂の境内の天聳る母樹の枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり〳〵と舞ひ離れて來たものであらう。  自分は唯恍として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて、魂無何有の境に逍遙ふといふ心地ではない。謂はゞ、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る樣な心地だ。  較々霎時して、自分は徐ろに其一片の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴二滴の銀の雫を口の中に滴らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端に載せた。  顏を洗つてから、可成音のせぬ樣に水を汲み上げて、盥の水を以前の如く清く盈々として置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前の如くそれに浮べた。  恁して自分は、云ふに云はれぬ或る清淨な滿足を、心一杯に感じたのであつた。  起き出でた時よりは餘程明るくなつたが、まだ〳〵日の出るには程がある。家の中でも隣家でも、誰一人起きたものがない。自分は靜かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方と歩いて居た。  だん〳〵進んで行くと、突當りの木槿垣の下に、山の端はなれた許りの大滿月位な、シッポリと露を帶びた雪白の玉菜が、六個七個並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり實割れるばかり豐かな趣きを見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。  不圖、何か知ら人の近寄る樣なけはひがした。菜園滿地の露のひそめき乎? 否否、露に聲のある筈がない。と思つて眼を轉じた時、自分はひやりと許り心を愕かした。そして、呼吸をひそめた。  前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稻荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か數尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稻荷社の背面には、高い床下に特別な小龕を造られてある。これは、夜な〳〵正一位樣の御使なる白狐が來て寢る處とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干鯡、乃至は強飯の類の心籠めた供物を入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣を透して、此白狐の寢殿を内部まで窺ひ見るべき地位に立つて居たのだ。  然し、自分のひやりと許り愕いたのは、敢て此處から、牛の樣な白狐が飛び出したといふ譯ではなかつた。  此古い社殿の側縁の下を、一人の異裝した男が、破草履の音も立てずに、此方へ近づいて來る。背のヒョロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬に些の血色もない、塵埃だらけの短い袷を著て、穢れた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帶を締めて、赤い木綿の截片を頸に捲いて……、俯向いて足の爪尖を瞠め乍ら、薄笑ひをして近づいて來る。  自分は一目見た丈けで、此異裝の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪氣な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々喪狗の如く市中を彷徨いて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何か索むるものの如く同じ路を幾度も〳〵往來して居る男である事は、自分のよく知つて居る處で、又、嘗て彼が不來方城頭に跪いて何か呟やき乍ら天の一方を拜んで居た事や、或る夏の日の眞晝時、恰度課業が濟んでゾロ〳〵と生徒の群り出づる時、中學校の門前に衞兵の如く立つて居て、出て來る人ひとり〳〵に慇懃な敬禮を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の縣知事の令夫人が、招魂社の祭禮の日に、二人の令孃と共に參拜に行かれた處が、社前の大廣場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい淺黄色の破風呂敷を物をも云はず其盛裝した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不拘、常に此新山堂下の白狐龕を無賃の宿として居るといふ事も亦、自分の聞き知つて居る處である。  異裝の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして可成く彼に曉られざる樣に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の擧動に注目した。  薄笑をして俯向き乍ら歩いて來る彼は、軈て覺束なき歩調を進めて、白狐龕の前まで來た。そして礑と足を止めた。同時に『ウッ』と聲を洩して、ヒョロ高い身體を中腰にした。ヂリ〳〵と少許づつ少許づつ退歩をする。――此名状し難き道化た擧動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。  殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。  今迄毫も氣が附かなんだ、此處にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一色に穢れはてた、肩揚のある綿入を着て、グル〳〵卷にした髮には、よく七歳八歳の女の子の用ゐる赤い塗櫛をチョイと揷して、二十の上を一つ二つ、頸筋は垢で眞黒だが顏は圓くて色が白い……。  これと毫厘寸法の違はぬ女が、昨日の午過、伯母の家の門に來て、『お頼のまうす、お頼のまうす。』と呼んだのであつた。伯母は臺所に何か働いて居つたので、自分が『何處の女客ぞ』と怪しみ乍ら取次に出ると、『腹が減つて腹が減つて一足も歩かれなエハンテ、何卒何か……』と、いきなり手を延べた。此處へ伯母が出て來て、幾片かの鳥目を惠んでやつたが、後で自分に恁話した。――アレはお夏といふ女である。雫石の旅宿なる兼平屋(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が來ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに從つて段々愚かさが増して來た。此年の春早く連合に死別れたとかで獨身者の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の擧動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め〳〵、幾等叱つても嚇しても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何處を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶然歸つて來た。が其時はもう本當の愚女になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の禮さへ云はなんだ。半年有餘の間、何をして來たかは無論誰も知る人は無いが、歸つた當座は二十何圓とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして來たのであらう。此盛岡に來たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日彼樣して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然普通の女でなくなつた證據には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚麽處に寢るんですかネー。――  此お夏は今、狹い白狐龕の中にペタリと坐つて、ポカンとした顏を入口に向けて居たのだ。餘程早くから目を覺まして居たのであらう。  中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする樣に、脣を尖らして一聲『フウー』と哮んだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。  お夏は又何と思つたか、卒かに身を動かして、射に背を繁に向けた。そして何やら探す樣であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀と思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ脣へ塗りつけた。そして、チョイと恥かしげに繁の方に振向いて見た。  繁はビク〳〵と其身を動かした。  お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。  繁はグッと喉を鳴らした。  繁の氣色の稍々動いたのを見たのであらう。お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し氣にではない。身體さへ少許捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ〳〵と笑つた。紅をつけ過した爲に、日に燃ゆる牡丹の樣な口が、顏一杯に擴がるかと許り大きく見える。  自分は此時、全く現實と云ふ觀念を忘れて了つて居た。宛然、ヒマラヤ山あたりの深い深い萬仭の谷の底で、巖と共に年を老つた猿共が、千年に一度演る芝居でも行つて見て居る樣な心地。  お夏が顏の崩れる許りニタ〳〵〳〵と笑つた時、繁は三度聲を出して『ウッ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顏! 笑ふ樣でもない、泣くのでもない。自分は辭を知らぬ。  お夏は猶ニタ〳〵と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁の下まで行つて見えなくなつた。社前の廣庭へ出たのである。――自分も位置を變へた。廣庭の見渡される場所へ。  坦たる廣庭の中央には、雲を凌いで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛裝を凝して居た。葉といふ葉は皆黄金の色、曉の光の中で微動もなく、碧々として薄り光澤を流した大天蓋に鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛然金色の雲を被て立つ巨人の姿である。  二人が此公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口疾に囁いた。お夏は頷いた樣である。  忽ち極めて頓狂な調子外れな聲が繁の口から出た。 『ヨシキタ、ホラ〳〵』 『ソレヤマタ、ドッコイショ。』 とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。  踊といつても、元より狂人の亂雜である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。摚と衝き當つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打衝つて度を失ふ事もある。そして、恁ういふ事のある毎に、二人は腹の底から出る樣な聲で笑つて〳〵、笑つて了へば、『ヨシキタホラ〳〵』とか、『ソレヤマタドッコイショ』とか、『キタコラサッサ』とか調子をとつて再び眞面目に踊り出すのである。  玲々と聲あつて、神の笑ひの如く、天上を流れた。――朝風の動き初めたのである。と、巨人は其被て居る金色の雲を斷り斷つて、昔ツオイスの神が身を化した樣な、黄金の雨を二人の上に降らせ始めた。嗚呼、嗚呼、幾千萬片の數の知れぬ金地の舞の小扇が、縺れつ解けつヒラ〳〵と、二人の身をも埋むる許り。或ものは又、見えざる絲に吊らるる如く、枝に返らず地に落ちず、光ある風に身を揉ませて居る。空に葉の舞、地の人の舞! 之を見るもの、上なるを高しとせざるべく、下なるを卑しとせざるべし。黄金の葉は天上の舞を舞ふて地に落つるのだ。狂人繁と狂女お夏とは神の御庭に地上の舞を舞ふて居るのだ。  突如、梵天の大光明が、七彩嚇灼の耀を以て、世界開發の曙の如く、人天三界を照破した。先づ雲に隱れた巨人の頭を染め、ついで、其金色の衣を目も眩く許に彩り、軈て、普ねく地上の物又物を照し出した。朝日が山の端を離れたのである。  見よ、見よ、踊りに踊り、舞ひに舞ふお夏と繁が顏のかゞやきを。痩せこけて血色のない繁は何處へ行つた? 頸筋黒くポカンとしたお夏は何處へ行つた? 今此處に居るのはこれ、天の日の如くかがやかな顏をした、神の御庭の朝の舞に、遙か下界から選び上げられた二人の舞人である。金色の葉がしきりなく降つて居る。金色の日光が鮮やかに照して居る。其葉其日光のかゞやきが二人の顏を恁染めて見せるのか? 否、然ではあるまい。恐らくは然ではあるまい。  若し然とすると、それは一種の虚僞である。此莊嚴な、金色燦然たる境地に、何で一點たりとも虚僞の陰影の潜むことが出來よう。自分は、然でないと信ずる。  全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの聲で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、『狂者は天の寵兒だと、プラトーンが謂つた。』と。  お夏が聲を張り上げて歌つた。 『惚れたーアー惚れたーのーオ、若松樣アよーオー、ハア惚れたよーッ。』 『ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。』 と繁が次いだ。二人の天の寵兒が測り難き全智の天に謝する衷心の祈祷は、實に此の外に無いのであらう。  電光の如く湧いて自分の兩眼に立ち塞がつた光景は、宛然幾千萬片の黄金の葉が、さといふ音もなく一時に散り果てたかの樣に、一瞬にして消えた。が此一瞬は、自分にとつて極めて大切なる一瞬であつた。自分は此一瞬に、目前に起つて居る出來事の一切を、よく〳〵解釋することが出來た。  疾風の如く棺に取り縋つたお夏が、蹴られて摚と倒れた時、懷の赤兒が『ギャッ』と許り烈しい悲鳴を上げた。そして其悲鳴が唯一聲であつた。自分は飛び上る程吃驚した。あゝ、あの赤兒は、つぶされて死んだのではあるまいか。……
底本:「石川啄木作品集 第二巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 ※底本の疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:松永正敏 2003年3月20日作成 2011年4月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004098", "作品名": "葬列", "作品名読み": "そうれつ", "ソート用読み": "そうれつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-04-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/card4098.html", "人物ID": "000153", "姓": "石川", "名": "啄木", "姓読み": "いしかわ", "名読み": "たくぼく", "姓読みソート用": "いしかわ", "名読みソート用": "たくほく", "姓ローマ字": "Ishikawa", "名ローマ字": "Takuboku", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1886-02-20", "没年月日": "1912-04-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "石川啄木作品集 第二巻", "底本出版社名1": "昭和出版社", "底本初版発行年1": "1970(昭和45)年11月20日", "入力に使用した版1": "1970(昭和45)年11月20日発行", "校正に使用した版1": "1972(昭和47)年6月20日発行", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "Nana ohbe", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4098_ruby_7998.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-11-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/4098_9492.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-04-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 久し振で帰つて見ると、嘗ては『眠れる都会』などと時々土地の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いた辺と思はれるところへ、吊された大章魚の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首縊を見た。若しこれが昔であつたなら、恁う何日も売れないで居ると、屹度、自分が平家物語か何かを開いて、『うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ〳〵と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間に、早く何処かの内儀さんが来て、全体では余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れれば可に、と思つた。此家の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な〳〵学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此上なく嬉しかつた枳殻垣も、いづれ主人は風流を解せぬ醜男か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置く底の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新道が出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花崗石の截石や材木が処狭きまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待て恁な昼日中に、宛然人生の横町と謂つた様な此処を彷徨いて何か明処で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見を憚らずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此三の変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。恁な変様をする位なら、寧ろ依然『眠れる都会』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評した肴町呉服町には、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就中破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋食店の出来た事、荒れ果てた不来方城が、幾百年来の蔦衣を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭に産毛が生えた様な此旧城の変方などは、自分がモ少し文学的な男であると、『噫、汝不来方の城よ※(感嘆符三つ) 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。昨の汝が松風明月の怨長なへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く〳〵思へ、昨日杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々たる草裡に落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々開園式が済んだ許りの、文明的な、整然とした、別に俗気のない、そして依然昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供の生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨な死様をしないとも限らないから、いつそ今斯うスヤ〳〵と眠つてる間に殺した方が可かも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲は何も本気で云ふのでなくて、唯序に白状するのだから、別段差閊もあるまい。考といふは恁だ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳殻垣を繞らして、本丸の跡には、希臘か何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露西亜の百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。霽れた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸の洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普通の奴では面白くない。顔は奈何でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色か浅緑の簡単な洋服を着て、面紗をかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可成散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔羅馬皇帝が凱旋式に用ゐた輦――それに擬ねて『即興詩人』のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或は蹇、或は盲目、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、)其奴の頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌は品格を傷ふ所以である。  立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数哩を隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈をこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴とした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古の市には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る〴〵喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸々文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、直小比公気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈何かしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンの轍を踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、遽かに夜も昼も香はしい夢を見る人となつて旦暮『若菜集』や『暮笛集』を懐にしては、程近い田畔の中にある小さい寺の、巨きい栗樹の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂で竊と『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市を舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。  十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。  今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直背後の、母とは二歳違ひの姉なる伯母の家に車の轅を下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時であつた。  遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山、黄牛の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨り、水音緩き北上の流に臨み、貞任の昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色滴る許りなる上中の二橋、杉土堤の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然として立つ不来方城に登つて瞰下せば、高き低き茅葺柾葺の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするのを好む。  この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三を綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開闢以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗て、『完全なる』といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一人も、一個も、一度も、出会した事がない。随つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に『不完全』が転がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして『進化』と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅典以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此点が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁いた様な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の堕落は何でもないではないか。加之、較々完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠かつた今の我々の方が、却つて〳〵大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、真理よりも真理を希求する心、完全よりも完全に対する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の静けさ、雨の盛岡の淋しさ、秋の盛岡の静けさ寂しさは愛するけれども、奈何して此三が一緒になつて三足揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出来やう。雨と夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の気に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた為めでがなあらう。  昨日は、朝まだきから降り初めた秋雨が、午後の三時頃まで降り続いた。長火鉢を中に相対して、『新山堂の伯母さん』と前夜の続きの長物語――雨の糸の如くはてしない物語をした。自分の父や母や光ちやん(妹)の事、伯母さんの四人の娘の事、八歳で死んだ源坊の事、それから自分の少年時代の事、と、これら凡百の話題を緯にして、話好の伯母さんは自身四十九年間の一切の記憶の糸を経に入れる。此はてしない、蕭やかな嬉しさの籠つた追憶談は、雨の盛岡の蕭やかな空気、蕭やかな物音と、全く相和して居た。午時近くなつて、隣町の方から、『豆腐ア』といふ、低い、呑気な、永く尾を引張る呼声が聞えた。嗚呼此『豆腐ア』! これこそは、自分が不幸にも全五年の間忘れ切つて居た『盛岡の声』ではないか。此低い、呑気な、尾を引張る処が乃ち、全く雨の盛岡式である。此声が蕭やかな雨の音に漂ふて、何十度か自分の耳に怪しくひびいた後、漸やく此家の門前まで来た。そして、遠くで聞くも近くで聞くも同じやうな一種の錆声で、矢張低く呑気に『豆腐ア』と、呟やく如く叫んで過ぎた。伯母さんは敢て気が付かなかつたらしい。軈て、十二時を報ずるステーシヨンの工場の汽笛が、シツポリ濡れた様な唸りをあげる。と、此市に天主教を少し許り響かせてゐる四家町の教会の鐘がガラン〳〵鳴り出した。直ぐに其の音を打消す他の響が伝はる。これは不来方城畔の鐘楼から、幾百年来同じ鯨音を陸奥の天に響かせて居る巨鐘の声である。それが精確に十二の数を撞き終ると、今迄あるかなきかに聞えて居た市民三万の活動の響が、礑と許り止んだ。『盛岡』が今今日の昼飯を喰ふところである。 『オヤマア私とした事が、……御飯の仕度まで忘れて了つて、……』 といつて、伯母さんはアタフタと立つた。そして自分に云つた、 『浩さん、豆腐屋が来なかつたやうだつたネ。』  此伯母さんの一挙一動が悉く雨の盛岡に調和して居る。  朝行つた時には未だ蓋が明かなかつたので食後改めて程近い銭湯へ行つた。大きい蛇目傘をさして、高い足駄を穿いて、街へ出ると、矢張自分と同じく、大きい蛇目傘、高い足駄の男女が歩いて居る。皆無言で、そして、泥汁を撥ね上げぬ様に、極めて静々と、一足毎に気を配つて歩いて居るのだ。両側の屋根の低い家には、時に十何年前の同窓であつた男の見える事がある。それは大抵大工か鍛冶屋か荒物屋かである。又、小娘の時に見覚えて置いた女の、今は髪の結ひ方に気をつける姉さんになつたのが、其処此処の門口に立つて、呆然往来を眺めて居る事もある。此等旧知の人は、決して先方から話かける事なく、目礼さへ為る事がない。これは、自分には一層雨の盛岡の趣味を発揮して居る如く感ぜられて、仲々奥床しいのである。総じて盛岡は、其人間、其言語、一切皆克く雨に適して居る。人あり、来つて盛岡の街々を彷徨ふこと半日ならば、必ず何街かの理髪床の前に、銀杏髷に結つた丸顔の十七八が立つて居て、そして、中なる剃手と次の如き会話を交ふるを聞くであらう。  女『アノナハーン、アェヅダケァガナハーン、昨日スアレー、彼ノ人アナーハン。』  男『フンフン、御前ハンモ行タケスカ。フン、真ニソダチナハン。アレガラナハン、家サ来ルヅギモ面白ガタンチエ。ホリヤ〳〵、大変ダタアンステァ。』  此奇怪なる二人の問答には、少くとも三幕物に書き下すに足る演劇的の事実が含まれて居る。若し一度も盛岡の土を踏んだことのない人で、此会話の深い〳〵意味と、其誠に優美な調子とを聞き分くる事が出来るならば、恐らく其人は、大小説家若くは大探偵の資格ある人、然らずば軒の雨滴の極めて蕭やかな、懶気な、気の長い響きを百日も聞き慣れた人であらう。  澄み切つた鋼鉄色の天蓋を被いて、寂然と静まりかへつた夜の盛岡の街を、唯一人犬の如く彷徨く楽みは、其昔、自分の夜毎に繰返すところであつた。然し、五年振で帰つて僅か二夜を過した許りの自分は、其二夜を遺憾乍ら屋根の下にのみ明かして了つたのである。尤も今は電燈の為めに、昔の楽みの半分は屹度失くなつたであらう。自分は茲で、古い記憶を呼び覚して、夜の街の感想を説くことを、極めて愉快に感ずるのであるが、或一事の蟠るありて、今往時を切実に忍ぶことを遮つて居る。或る一事とは、乃ち昔自分が夜の盛岡を彷徨いて居た際に起つた一奇談である。――或夜自分は例によつて散歩に出懸けた。仁王小路から三戸町、三戸町から赤川、此赤川から桜山の大鳥居へ一文字に、畷といふ十町の田圃路がある。自分は此十町の無人境を一往返するを敢て労としなかつた。のみならず、一寸路を逸れて、かの有名な田中の石地蔵の背を星明りに撫づるをさへ、決して躊躇せなんだ。そして、平生の癖の松前追分を口笛でやり乍ら、ブラリ〳〵と引返して来ると、途中で外套を着、頭巾を目深に被つた一人の男に逢つた。然し別段気にも留めなかつた。それから急に思出して、自分と藻外と三人鼎足的関係のあつた花郷を訪ねて見やうと、少しく足を早めた。四家町は寂然として、唯一軒理髪床の硝子戸に燈光が射し、中から話声が洩れたので、此処も人間の世界だなと気の付く程であつた。間もなく花屋町に入つた。断つて置く、此町の隣が密淫売町の大工町で、芸者町なる本町通も程近い。花郷が宿は一寸職業の知れ難い家である。それも其筈、主人は或る田舎の村長で、此本宅には留守居の祖母が唯一人、相応に暮して居る。此祖母なる人の弟の子なる花郷は、此家の二階に本城を構へて居るのだ。二階を見上げると、障子に燈火が射して居る。ヒヨウと口笛を吹くと、矢張ヒヨウと答へた。今度はホーホケキヨとやる、(これは自分の名の暗号であつた。)復ヒヨウと答へた。これだけで訪問の礼は既に終つたから、平生の如く入つて行かうと思つて、上框の戸に手をかけやうとすると、不意、不意、暗中に鉄の如き手あつて自分の手首をシタタカ握つた。愕然し乍ら星明で透して見たが、外套を着て頭巾を目深に被つた中脊の男、どうやら先刻畷で逢つた奴に似て居る。 『立花、俺に見付かつたが最後ぢやぞツ。』  驚いた、真に驚いた。この声は我が中学の体操教師、須山といふ予備曹長で、校外監督を兼ねた校中第一の意地悪男の声であつた。 『先刻田圃で吹いた口笛は、あら何ぢや? 俗歌ぢやらう。後を尾けて来て見ると、矢張口笛で密淫売と合図をしてけつかる。……』  自分は手を握られた儘、開いた口が塞がらぬ。 『此間職員会議で、貴様が毎晩一人で外出するが、行先がどうも解らん。大に怪しいちふ話が出た。貴様の居る仁王小路が俺の監督範囲ぢやから、俺は赤髯(校長)のお目玉を喰つたのぢや、けしからん、不埓ぢや。其処で俺は三晩つづけて貴様に尾行した。一昨夜は呉服町で綺麗な簪を買つたのを見たから、何気なく聞いて見ると、妹へ遣るのだと嘘吐いたな。昨晩は古河端のさいかちの樹の下で見はぐつた。今夜といふ今夜こそ現場を見届けたぞ。案の諚大工町ぢやつた。貴様は本町へ行く位の金銭は持つまいもんナ。……ハハア、軍隊なら営倉ぢや。』  自分の困憊の状察すべしである。恰も此時、洋燈片手に花郷が戸を明けた。彼は極めて怪訝に堪へぬといつた様な顔をして、盛岡弁で、 『何しあんした?』 と自分に問うた。自分は急に元気を得て、逐一事情を話し、更に須山に向いて、 『先生、此町は大工町ではごあんせん、花屋町でごあんす。小林君も淫売婦ではごあんせんぜ。』と云つた。  須山は答へなかつたが、花郷は手に持つ洋燈を危気に動かし乍ら、洒脱な声をあげて叫び出した。 『立花白蘋君の奇談々々!』 『立花、貴様余ツ程気を付けんぢや不可ぞ。よく覚えて居れツ。』 と怒鳴るや否や、須山教師の黒い姿は、忽ち暗中に没したのであつた。  自分は既に、五年振で此市に来て目前観察した種々の変遷と、それを見た自分の感想とを叙べ、又此市と自分との関係から、盛岡は美しい日本の都会の一つである事、此美しい都会が、雨と夜と秋との場合に最も自分の気に入るといふ事を叙べ、そして、雨と夜との盛岡の趣味に就いても多少の記述を試みた。そこで今自分は、一年中最も楽しい秋の盛岡――大穹窿が無辺際に澄み切つて、空中には一微塵の影もなく、田舎口から入つて来る炭売薪売の馬の、冴えた〳〵鈴の音が、市の中央まで明瞭響く程透徹であることや、雨滴式の此市の女性が、厳粛な、赤裸々な、明哲の心の様な秋の気に打たれて、『ああ、ああ、今年もハア秋でごあんすなッす――。』と口々に言ふ其微妙な心理のはたらきや、其処此処の井戸端に起る趣味ある会話や、乃至此女性的なる都会に起る一切の秋の表現、――に就いて、出来うる限り精細な記述をなすべき機会に逢着した。  が、自分は、其秋の盛岡に関する精細な記述に代ふるに、今、或る他の一記事を以てせねばならぬのである。 『或る他の一記事』といふのは、此場合に於て決して木に竹をつぐ底の突飛なる記事ではないと自分は信ずる。否、或は、此記事を撰む方が却つて一層秋の盛岡なるものを的切に表はす所以であるのかも知れない。何故なれば、此一記事といふのは、美しい盛岡の秋三ヶ月の中、最も美しい九月下旬の一日、乃ち今日ひと日の中に起つた一事件に外ならぬからである。  実際を白状すると、自分が先刻晩餐を済ましてから、少許調査物があるからと云つて話好の伯母さんを避け、此十畳の奥座敷に立籠つて、余り明からぬ五分心の洋燈の前に此筆を取上げたのは、実は、今日自分が偶然に路上で出会した一事件――自分と何等の関係もないに不拘、自分の全思想を根底から揺崩した一事件――乃ち以下に書き記す一記事を、永く〳〵忘れざらむためであつたのだ。然も自分が此稀有なる出来事に対する極度の熱心は、如何にして、何処で、此出来事に逢つたかといふ事を説明するために、実に如上数千言の不要なる記述を試むるをさへ、敢て労としなかつたのである。  断つて置く、以下に書き記す処は、或は此無限の生命ある世界に於て、殆んど一顧の値だに無き極々些末の一事件であるのかも知れない。されば若し此一文を読む人があつたなら、その人は、『何だ立花、君は這麽事を真面目腐つて書いたのか。』と頭から自分を嘲笑ふかも知れない。が然し、此一事件は、自分といふ小なる一人物の、小なる二十幾年の生涯に於て、親しく出会した事件の中では、最も大なる、最も深い意味の事件であると信ずる。自分は恁信じたからこそ、此市の名物の長沢屋の豆銀糖でお茶を飲み乍ら、稚ない時から好きであつた伯母さんと昔談をする楽みをさへ擲ち去つて、明からぬ五分心の洋燈の前に、筆の渋りに汗ばみ乍ら此苦業を続けるのだ。  又断つて置く、自分は既に此事件を以て親ら出会した事件中の最大事件と信じ、其為に二十幾年来養ひ来つた全思想を根底から揺崩された。そして、今新らしい心的生涯の原頭に立つた。――然だ、今自分の立つて居る処は、慥かに『原頭』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端を発見するに到るかも知れぬが、……否々、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼツタ石』の、表に刻まれた神聖文字は、如何にトマス・ヨングでもシヤムボリヲンでも、レプシウスでも、とても十年二十年に読み了る事が出来ぬ様に思はれる。  自分が今朝新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名残の潦が路の処々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空気を岩山の上の秋陽がホカ〳〵と温めて居た。  加賀野新小路の親縁の家では、市役所の衛生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麦煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿々して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸の劇しい藪路、それを東に一町許で、天神山に達する。しん〳〵と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石甃の両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ〳〵と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然として居る。周匝にひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石の狛である。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏光りがして居る。そして、其又顔といつたら、蓋し是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹を造へた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、克く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を超脱した高士の俤、イヤ、それよりも一段俗に離れた、俺は生れてから未だ世の中といふものが西にあるか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ。自分は昔、よく友人と此処へ遊びに来ては、『石狛よ、汝も亦詩を解する奴だ。』とか、『石狛よ、汝も亦吾党の士だ。』とか云つて、幾度も幾度も杖で此不格好な頭を擲つたものだ。然し今日は、幸ひ杖を携へて居なかつたので、丁寧に手で撫でてやつた。目を転ずると、杉の木立の隙から見える限り、野も山も美しく薄紅葉して居る。宛然一幅の風景画の傑作だ。周匝には心地よい秋草の香が流れて居る。此香は又、自分を十幾年の昔に返した。郷校から程近い平田野といふ松原、晴れた日曜の茸狩に、この秋草の香と初茸の香とを嗅ぎ分けつつ、いとけなき自分は、其処の松蔭、此処の松蔭と探し歩いたものであつた。――  昼餐をば神子田のお苑さんといふ従姉(新山堂の伯母さんの二番目娘で、自分より三歳の姉である。)の家で済ました。食後、お苑さんは、去年生れた可愛い赤坊の小さい頭を撫で乍ら、『ひとつお世話いたしませうか、浩さん。』と云つた。『何をですか。』『アラ云はなくつても解つてますよ。奇麗な奥様をサ。』と楽しげに笑ふのであつた。  帰路には、馬町の先生を訪ねて、近日中に厨川柵へ一緒に行つて貰ふ約束をした。馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る、自分の旧師である。  幅広く美しい内丸の大逵、師範学校側の巨鐘が、澄み切つた秋の大空の、無辺際な胸から搾り出す様な大梵音をあげて午後の三時を報じた時、自分は恰度其鐘楼の下を西へ歩いて居た。立派な県庁、陰気な師範学校、石割桜で名高い裁判所の前を過ぎて、四辻へ出る。と、雪白の衣を着た一巨人が、地の底から抜け出でた様にヌツと立つて居る。――  これは此市で一番人の目に立つ雄大な二階立の白堊館、我が懐かしき母校である。盛岡中学校である。巨人? 然だ、慥かに巨人だ。啻に盛岡六千戸の建築中の巨人である許りでなく、また我が記憶の世界にあつて、総ての意味に於て巨人たるものは、実にこの堂々たる、巍然たる、秋天一碧の下に兀として聳え立つ雪白の大校舎である。昔、自分は此巨人の腹中にあつて、或時は小ナポレオンであつた、或時は小ビスマークであつた、或時は小ギボンであつた、或時は小クロムウエルであつた、又或時は、小ルーソーとなり、小バイロンとなり、学校時代のシルレルとなつた事もある。嘗て十三歳の春から十八歳の春まで全五年間の自分の生命といふものは、実に此巨人の永遠なる生命の一小部分であつたのだ。噫、然だ、然だつけ、と思ふと、此過去の幻の如き巨人が、怎やら揺ぎ出す様に見えた。が、矢張動かなんだ、地から生え抜いた様に微塵も動かなんだ、秋天一碧の下に雪白の衣を着て突立つたまま。  印度衰亡史は云はずもの事、まだ一冊の著述さへなく、茨城県の片田舎で月給四十円の歴史科中等教員たる不甲斐なきギボンは、此時、此歴史的一大巨人の前におのづから頭の低るるを覚えた。  白色の大校舎の正面には、矢張白色の大門柱が、厳めしく並び立つて居る。この門柱の両の袖には、又矢張白色の、幾百本と数知れぬ木柵の頭が並んで居る。白! 白! 白! 此白は乃ち、此白い門に入りつ出つする幾多うら若き学園の逍遙者の、世の塵に染まぬ潔白な心の色でがなあらう。柵の前には一列をなして老いた桜の樹が立つて居る。美しく紅葉した其葉は、今傾きかけた午後三時の秋の日に照されて、いと物静かに燃えて見える。五片六片、箒目見ゆる根方の土に散つて居るのもある。柵と桜樹の間には一条の浅い溝があつて、掬ばば凝つて掌上に晶ともなるべき程澄みに澄んだ秋の水が、白い柵と紅い桜の葉の影とを浮べて流れて居る。柵の頭の尖端々々には、殆んど一本毎に真赤な蜻蛉が止つて居る。  自分は、えも云はれぬ懐かしさと尊さに胸を一杯にし乍ら此白門に向つて歩を進めた。溝に架した花崗石の橋の上に、髪ふり乱して垢光りする襤褸を着た女乞食が、二歳許りの石塊の様な児に乳房を啣ませて坐つて居た。其周匝には五六人の男の児が立つて居て、何か秘々と囁き合つて居る。白玉殿前、此一点の醜悪! 此醜悪をも、然し、自分は敢て醜悪と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである、市の中央の大逵で、然も白昼、穢ない〳〵女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披けて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都会に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常に有る事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を発揮して見せる必要な条件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜悪を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覚えた。そして静かに門内に足を入れた。  校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れて、ヅカ〳〵と小使室の入口に進んだ。 『鹿川先生は、モウお退出になりましたか?』  鹿川先生といふは、抑々の創始から此学校と運命を偕にした、既に七十近い、徳望県下に鳴る老儒者である。されば、今迄此処の講堂に出入した幾千と数の知れぬうら若い求学者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛然これ生きた教育の儀表となつて居る。自白すると自分の如きも昔二十幾人の教師に教を享けたるに不拘、今猶しみ〴〵と思出して有難さに涙をこぼすのは、唯此鹿川先生一人であるのだ。今日の訪問の意味は、云はずと解つて居る。  自分の問に対して、三秒か五秒の間答がなかつたが、霎時して、 『イヤー立花さんでアごあせんか? これや怎うもお久振でごあんした喃。』 と聞覚えのある、錆びた〳〵声が応じた。ああ然だ、この声の主を忘れてはならぬ。鹿川先生と同じく、此校創立以来既に三十年近く勤続して居る正直者、歩振の可笑ところから附けられた、『家鴨』といふ綽名をも矢張三十年近く呼ばれて居る阿部老小使である。 『今日はハア土曜日でごあんすから、先生方は皆お帰りになりあんしたでア。』  土曜日? おゝ然であつた。学校教員は誰しも土曜日の来るを指折り数へて待たぬものがない。自分も其教員の一人であり、且つ又、この一週七曜の制は、黄道十二支と共に、五千年の昔、偉大なるアツケデヤ人の創めたもので、其後希臘人は此制をアレキサンデリヤから輸入し、羅馬人は西暦紀元の頃に八日一週の旧制を捨てて此制を採用し、ひいて今日の世界に到つたものである、といふ事をさへ、克く研究して知つて居る癖に、怎うして今日は土曜日だといふ事を忘却して居たものであらう、誠に頓馬な話である。或は自分は、滞留三日にして早く既に盛岡人の呑気な気性の感化を蒙つたのかも知れない。  此小使室の土間に、煉瓦で築き上げた大きな竈があつて、其上に頗る大きな湯釜が、昔の儘に湯を沸らし居る。自分は此学校の一年生の冬、百二十人の級友に唯二つあてがはれた暖炉には、力の弱いところから近づく事も出来ないで、よく此竈の前へ来て昼食のパンを噛つた事を思出した。そして、此処を立去つた。  門を出て、昔十分休毎によく藻外と花郷と三人で楽しく語り合つた事のある、玄関の上の大露台を振仰いだ。と、恰度此時、女乞食の周匝に立つて居た児供の一人が、頓狂な声を張上げて叫んだ。 『アレ〳〵、がんこア来た、がんこア来た。』がんことは盛岡地方で『葬列』といふ事である。此声の如何に高かつたかは、自分が悠々たる追憶の怡楽の中から、俄かに振返つて、其児供の指す方を見たのでも解る。これは恰度、門口へ来た配達夫に、『△△さん、電報です。』と穏かに云はれるよりも、『電報ツ。』と取つて投げる様なけたたましい声で叫ばれる方が、一層其電文が心配なと同じ事で、自分は実際、甚麽珍らしい葬列かと、少からず慌てたのであつた。  此頓狂なる警告は、嘘ではなかつた。幅広く、塵も留めず美くしい、温かな秋の日に照らされた大逵を、自分が先刻来たと反対な方角から、今一群の葬列が徐々として声なく練つて来る。然も此葬列は、実に珍らしいものであつた。唯珍らしい許りではない、珍らしい程見すぼらしいものであつた。先頭に立つたのは、処々裂けた一対の高張、次は一対の蓮華の造花、其次は直ぐ棺である。此棺は白木綿で包まれた上を、無造作に荒繩で縛されて、上部に棒を通して二人の男が担いだのであつた。この後には一群の送葬者が随つて居る。数へて見ると、一群の数は、驚く勿れ、たつた六人であつた。驚く勿れとは云つたものの、自分は此時少なからず驚いたのである。更に又驚いたのは、此六人が、揃ひも揃つて何れも、少しも悲し気な処がなく、静粛な点もなく、恰も此見すぼらしい葬式に会する事を恥づるが如く、苦い顔をして遽々然と歩いて来る事である。自分は、宛然大聖人の心の如く透徹な無辺際の碧穹窿の直下、広く静かな大逵を、この哀れ果敢なき葬列の声無く練り来るを見て、或る名状し難き衝動を心の底の底に感じた。そして、此光景は蓋し、天が自分に示して呉れる最も冷酷なる滑稽の一であらうなどと考へた。と又、それも一瞬、これも一瞬、自分は、『これは囚人の葬式だナ。』と感じた。  理由なくして囚人の葬式だナと、不吉極まる観察を下すなどは、此際随分突飛な話である。が、自分には其理由がある。――たしか十一歳の時であつた。早く妻子に死別れて独身生活をして居た自分の伯父の一人が、窮迫の余り人と共に何か法網に触るる事を仕出来したとかで、狐森一番戸に転宅した。(註、狐森一番戸は乃ち盛岡監獄署なり。)此時年齢が既に六十余の老体であつたので、半年許り経つて遂々獄裡で病死した。此『悲惨』の結晶した遺骸を引取つたのは、今加賀野新小路に居る伯父である。葬式の日、矢張今日のそれと同じく唯六人であつた会葬者の、三人は乃ち新山堂の伯母さんとお苑さんと自分とであつた。自分は其時稚心にも猶この葬式が普通でない事、見すぼらしい事を知つて、行く路々ひそかに肩身の狭くなるを感じたのであつた。されば今、かの六人の遽々然たる歩振を見て、よく其心をも忖度する事が出来たのである。  これも亦一瞬。  列の先頭と併行して、桜の樾の下を来る一団の少年があつた。彼等は逸早くも、自分と共に立つて居る『警告者』の一団を見付けて、駈け出して来た。両団の間に交換された会話は次の如くである。『何家のがんこだ!』『狂人のよ、繁のよ。』『アノ高沼の繁狂人のが?』『ウム然よ、高沼の狂人のよ。』『ホー。』『今朝の新聞にも書かさつて居だずでヤ、繁ア死んで好エごとしたつて。』『ホー。』  高沼繁! 狂人繁! 自分は直ぐ此名が決して初対面の名でないと覚つた。何でも、自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名も、たしか『高沼繁』で、そして此名が、たしか或る狂人の名であつた様だ。――自分が恁う感じた百分の一秒時、忽ち又一事件の起るあつて、少からず自分を驚かせた。  今迄自分の立つて居る石橋に土下座して、懐中の赤児に乳を飲ませて居た筈の女乞食が、此時卒かに立ち上つた。立ち上るや否や、茨の髪をふり乱して、帯もしどけなく、片手に懐中の児を抱き、片手を高くさし上げ、裸足になつて駆け出した、駆け出したと見るや否や、疾風の勢を以て、かの声無く静かに練つて来る葬列に近づいた。近づいたナと思ふと、骨の髄までキリ〳〵と沁む様な、或る聴取り難き言葉、否、叫声が、嚇と許り自分の鼓膜を突いた。呀ツと思はず声を出した時、かの声無き葬列は礑と進行を止めて居た、そして、棺を担いだ二人の前の方の男は左の足を中有に浮して居た。其爪端の処に、彼の穢ない女乞食が摚と許り倒れて居た。自分と並んで居る一団の少年は、口々に、声を限りに、『あれヤー、お夏だ、お夏だツ、狂女だツ。』と叫んだ。 『お夏』と呼ばれた彼の女乞食が、或る聴取り難い言葉を一声叫んで、棺に取縋つたのだ。そして、彼の担いで居る男に蹴倒されたのだ、この非常なる活劇は、無論真の一転瞬の間に演ぜられた。  噫、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初対面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女の名であつた様だ。  以上二つの旧知の名が、端なく我が頭脳の中でカチリと相触れた時、其一刹那、或る荘厳な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた。  自分は今、茲に霎時、五年前の昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、処は矢張此の新山祠畔の伯母が家。  史学研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辞した日の夕方、この伯母が家に着いて、晩れゆく秋の三日四日、あかぬ別れを第二の故郷と偕に惜み惜まれたのであつた。  一夜、伯母やお苑さんと随分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは遠近に一番鶏の声を聞く頃であつたが、翌くる朝は怎うしたものか、例になく早く目が覚めた。枕頭の障子には、わづかに水を撒いた許りの薄光が、声もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に気を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ〳〵、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛然初陣の暁と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥床を離れぬのを、何か安逸を貪る所業の様に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに静かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ様に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、颯と心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。  井戸ある屋後へ廻ると、此処は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の広葉や、紫の色褪せて茎許りの茄子の、痩せた骸骨を並べてゐる畝や、抜き残された大根の剛ばんた葉の上に、東雲の光が白々と宿つて居た。否これは、東雲の光だけではない、置き余る露の珠が東雲の光と冷かな接吻をして居たのだ。此野菜畑の突当りが、一重の木槿垣によつて、新山堂の正一位様と背中合せになつて居る。満天満地、閴として脈搏つ程の響もない。  顔を洗ふべく、静かに井戸に近いた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この暁方の神々しい静寂を破る必要がなかつた。大きい花崗石の台に載つた洗面盥には、見よ見よ、溢れる許り盈々と、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏として銀水の如く盛つてあるではないか。加之、此一面の明鏡は又、黄金の色のいと鮮かな一片の小扇をさへ載せて居る。――すべての木の葉の中で、天が下の王妃の君とも称ふべき公孫樹の葉、――新山堂の境内の天聳る母樹の枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり〳〵と舞ひ離れて来たものであらう。  自分は唯恍として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて魂無何有の境に逍遙ふといふ心地ではない。謂はば、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る様な心地だ。  較々霎時して、自分は徐ろに其一片の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴二滴の銀の雫を口の中に滴らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端に載せた。  顔を洗つてから、可成音のせぬ様に水を汲み上げて、盥の水を以前の如く清く盈々として置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前の如くそれに浮べた。  恁して自分は、云ふに云はれぬ或る清浄な満足を、心一杯に感じたのであつた。  起き出でた時よりは余程明るくなつたが、まだ〳〵日の出るには程がある。家の中でも、隣家でも、その隣家でも、誰一人起きたものがない。自分は静かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方と歩いて居た。  だん〳〵進んで行くと、突当りの木槿垣の下に、山の端はなれた許りの大満月位な、シツポリと露を帯びた雪白の玉菜が、六個七個並んで居た。自分は、霜枯れ果てた此畑中に、ひとり実割れるばかり豊かな趣を見せて居る此『野菜の王』を、少なからず心に嬉しんだ。  不図、何か知ら人の近寄る様なけはひがした。菜園満地の露のひそめき乎? 否々、露に声のある筈がない。と思つて眼を転じた時、自分はひやりと許り心を愕かした。そして、呼吸をひそめた。  前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稲荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か数尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稲荷社の背面には、高い床下に特別な小龕が造られてある。これは、夜な〳〵正一位様の御使なる白狐が来て寝る処とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干鯡、乃至は強飯の類の心籠めた供物を入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣を透して、此白狐の寝殿を内部まで覗ひ見るべき地位に立つて居たのだ。  然し、自分のひやりと許り愕いたのは、敢て此処から牛の様な白狐が飛び出したといふ訳ではなかつた。  此古い社殿の側縁の下を、一人の異装した男が、破草履の音も立てずに、此方へ近づいて来る。脊のヒヨロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬に些の血色もない、塵埃だらけの短かい袷を着て、穢れた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帯を締めて、赤い木綿の截片を頸に捲いて、……俯向いて足の爪尖を瞠め乍ら、薄笑をして近づいて来る。  自分は一目見た丈けで、此異装の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪気な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々喪狗の如く市中を彷徨いて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何か索むるものの如く同じ道を幾度も〳〵往来して居る男である事は、自分のよく知つて居る処で、又、嘗て彼が不来方城頭に跪いて何か呟やき乍ら天の一方を拝んで居た事や、或る夏の日の真昼時、恰度課業が済んでゾロ〳〵と生徒の群り出づる時、中学校の門前に衛兵の如く立つて居て、出て来る人ひとり〳〵に慇懃な敬礼を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の県知事の令夫人が、招魂社の祭礼の日に、二人の令嬢と共に参拝に行かれた処が、社前の大広場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい浅黄色の破風呂敷を物をも云はず其盛装した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不拘、常に此新山堂下の白狐龕を無賃の宿として居るといふ事も亦、自分の聞き知つて居た処である。  異装の男の何人であるかを見定めてからは、自分は平生の通りの心地になつた。そして、可成彼に暁られざらむ様に息を殺して、好奇心を以て仔細に彼の挙動に注目した。  薄笑をして俯向き乍ら歩いてくる彼は、軈て覚束なき歩調を進めて、白狐龕の前まで来た。そして、礑と足を止めた。同時に『ウツ』と声を洩して、ヒヨロ高い身体を中腰にした。ヂリ〳〵と少許づつ少許づつ退歩をする。――此名状し難き道化た挙動は、自分の危く失笑せむとするところであつた。  殆んど高潮に達した好奇心を以て、自分は彼の睨んで居る龕の内部を覗いた。  今迄毫も気が付かなんだ、此処にも亦一個の人間が居る。――男ではない。女だ。赤縞の、然し今はただ一色に穢れはてた、肩揚のある綿入を着て、グル〳〵巻にした髪には、よく七歳八歳の女の児の用ゐる赤い塗櫛をチヨイと揷して、二十の上を一つ二つ、頸筋は垢で真黒だが、顔は円くて色が白い…………。  これと毫厘寸法の違はぬ女が、昨日の午過、伯母の家の門に来て、『お頼のまうす、お頼のまうす。』と呼んだのであつた。伯母は台所に何か働いて居つたので、自分が『何家の女客ぞ』と怪しみ乍ら取次に出ると、『腹が減つて腹が減つて一足も歩かれなエハンテ、何卒何か……』と、いきなり手を延べた。此処へ伯母が出て来て、幾片かの鳥目を恵んでやつたが、後で自分に恁話した。――アレはお夏といふ女である。雫石の旅宿なる兼平屋(伯母の家の親類)で、十一二の時から下婢をして居たもの。此頃其旅宿の主人が来ての話によれば、稚い時は左程でもなかつたが、年を重ぬるに従つて段々愚かさが増して来た。此年の春早く、連合に死別れたとかで独身者の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め〳〵、幾等叱つても嚇しても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。一月許り前になつて偶然帰つて来た。が其時はモウ本当の愚女になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の礼さへ云はなんだ。半年有余の間、何をして来たかは無論誰も知る人はないが、帰つた当座は二十何円とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして来たのであらう。此盛岡に来たのは、何日からだか解らぬが、此頃は毎日彼様して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然普通の女でなくなつた証拠には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚麽処に寝るんですかネー。――  此お夏は今、狭い白狐龕の中にベタリと坐つて、ポカンとした顔を入口に向けて居たのだ。余程早くから目を覚まして居たのであらう。  中腰になつてお夏を睨めた繁は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする様に、唇を尖らして一声『フウー』と哮んだ。多分平生自分の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。  お夏も亦何と思つたか、卒かに身を動かして、斜に背を繁に向けた。そして何やら探す様であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀と思つて見て居ると、唾に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ唇へ塗りつけた。そして、チヨイト恥かしげに繁の方に振向いて見た。  繁はビク〳〵と其身を動かした。  お夏は再び口紅をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。  繁はグツと喉を鳴らした。  繁の気色の較々動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少許捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ〳〵と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。  自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛然、ヒマラヤ山あたりの深い深い万仭の谷の底で、巌と共に年を老つた猿共が、千年に一度演る芝居でも行つて見て居る様な心地。  お夏が顔の崩れる許りニタ〳〵〳〵と笑つた時、繁は三度声を出して『ウツ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分は辞を知らぬ。  お夏は猶ニタ〳〵と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁の下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場所へ。  坦たる広庭の中央には、雲を凌いで立つ一株の大公孫樹があつて、今、一年中唯一度の盛装を凝して居た。葉といふ葉は皆黄金の色、暁の光の中で微動もなく、碧々として薄り光沢を流した大天蓋に鮮かな輪廓をとつて居て、仰げば宛然金色の雲を被て立つ巨人の姿である。  二人が此大公孫樹の下まで行つた時、繁は何か口疾に囁いた。お夏は頷いた様である。  忽ち極めて頓狂な調子外れな声が繁の口から出た。 『ヨシキタ、ホラ〳〵。』 『ソレヤマタ、ドツコイシヨ。』 とお夏が和した。二人は、手に手を放つて踊り出した。  踊といつても、元より狂人の乱舞である。足をさらはれてお夏の倒れることもある。摚と衝き当つて二人共々重なり合ふ事もある。繁が大公孫樹の幹に打衝つて度を失ふ事もある。そして、恁いふ事のある毎に、二人は腹の底から出る様な声で笑つて〳〵、笑つて了へば、『ヨシキタホラ〳〵』とか、『ソレヤマタドツコイシヨ』とか、『キタコラサツサ』とか調子をとつて、再び真面目に踊り出すのである。  ※(王+倉)々と声あつて、神の笑ひの如く、天上を流れた。――朝風の動き初めたのである。と、巨人は其被て居る金色の雲を断り断つて、昔ツオイスの神が身を化した様な、黄金の雨を二人の上に降らせ始めた。嗚呼、嗚呼、幾千万片と数の知れぬ金地の舞の小扇が、縺れつ解けつヒラ〳〵と、二人の身をも埋むる許り。或ものは又、見えざる糸に吊らるる如く、枝に返らず地に落ちず、光ある風に身を揉ませて居る。空に葉の舞、地の人の舞! 之を見るもの、上なるを高しとせざるべく、下なるを卑しとせざるべし。黄金の葉は天上の舞を舞ふて地に落つるのだ。狂人繁と狂女お夏とは神の御庭に地上の舞を舞ふて居るのだ。  突如、梵天の大光明が、七彩赫灼の耀を以て、世界開発の曙の如く、人天三界を照破した。先づ、雲に隠れた巨人の頭を染め、ついで、其金色の衣を目も眩く許に彩り、軈て、普ねく地上の物又物を照し出した。朝日が山の端を離れたのである。  見よ、見よ、踊りに踊り、舞ひに舞ふお夏と繁が顔のかがやきを。痩せこけて血色のない繁は何処へ行つた? 頸筋黒くポカンとしたお夏は何処へ行つた? 今此処に居るのはこれ、天の日の如くかがやかな顔をした、神の御庭の朝の舞に、遙か下界から撰び上げられた二人の舞人である。金色の葉がしきりなく降つて居る。金色の日光が鮮かに照して居る。其葉其日光のかがやきが二人の顔を恁染めて見せるのか? 否、然ではあるまい。恐らくは然ではあるまい。  若し然とすると、それは一種の虚偽である。此荘厳な、金色燦然たる境地に、何で一点たりとも虚偽の陰影の潜むことが出来やう。自分は、然でないと信ずる。  全く心の働きの一切を失つて、唯、恍として、茫として、蕩として、目前の光景に我を忘れて居た自分が、此時僅かに胸の底の底で、あるかなきかの声で囁やくを得たのは、唯次の一語であつた。――曰く、『狂者は天の寵児だと、プラトーンが謂つた。』と。  お夏が声を張り上げて歌つた。 『惚れたーアー惚れたーのーオ、若松様アよーオー、ハア惚れたよーツ。』 『ハア惚れた惚れた惚れたよやさー。』 と繁が次いだ。二人の天の寵児が測り難き全智の天に謝する衷心の祈祷は、実に此の外に無いのであらう。  電光の如く湧いて自分の両眼に立ち塞がつた光景は、宛然幾千万片の黄金の葉が、さといふ音もなく一時に散り果てたかの様に、一瞬にして消えた。が此一瞬は、自分にとつて極めて大切なる一瞬であつた。自分は此一瞬に、目前に起つて居る出来事の一切を、よく〳〵解釈することが出来た。  疾風の如く棺に取縋つたお夏が、蹴られて摚と倒れた時、懐の赤児が『ギヤツ』と許り烈しい悲鳴を上げた。そして此悲鳴が唯一声であつた。自分は飛び上る程喫驚した。ああ、あの赤児は、つぶされて死んだのではあるまいか。…………(以下続出) 〔「明星」明治三十九年十二月号〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 底本の親本:「明星 十二号」    1906(明治39)年12月発行 初出:「明星 十二号」    1906(明治39)年12月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年10月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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