text
stringlengths
0
839k
footnote
stringlengths
161
13.1k
meta
dict
一  襖を開けて、旅館の女中が、 「旦那、」  と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。 「用かい。」  とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込んだ証拠に、襦袢も羽織も床の間を辷って、坐蒲団の傍まで散々のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐で火鉢に頬杖して、当日の東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。  その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。  たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝のほど、昨日のその講演会の帰途のほども量られる。 「お客様でございますよう。」  と女中は思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威して甲走る。  吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。 「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」  となおさら可笑がる。  謙造は一向真面目で、 「何という人だ。名札はあるかい。」 「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」 「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」  と眉を顰める。 「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜あんなに晩うくお帰りなさいました癖に、」 「いや、」  と謙造は片頬を撫でて、 「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」  ちと躾めるように言うと、一層頬辺の色を濃くして、ますます気勢込んで、 「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」  と厭な目つきでまたニヤリで、 「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」  突然川柳で折紙つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、 「旦那、まあ、あら、まあ、あら良い香い、何て香水を召したんでございます。フン、」  といい方が仰山なのに、こっちもつい釣込まれて、 「どこにも香水なんぞありはしないよ。」 「じゃ、あの床の間の花かしら、」  と一際首を突込みながら、 「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」 「串戯じゃない。何という人だというに、」 「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば分るんですもの。」 「どんな人だよ、じれったい。」 「先方もじれったがっておりましょうよ。」 「婦人か。」  と唐突に尋ねた。 「ほら、ほら、」  と袂をその、ほらほらと煽ってかかって、 「ご存じの癖に、」 「どんな婦人だ。」  と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓へ翳したのである。 「お気の毒様。」 二 「何だ、もう帰ったのか。」 「ええ、」 「だってお気の毒様だと云うじゃないか。」 「ほんとに性急でいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい姊さんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。  ところが、どうして、跛で、めっかちで、出尻で、おまけに、」  といいかけて、またフンと嗅いで、 「ほんとにどうしたら、こんな良い匂が、」  とひょいと横を向いて顔を廊下へ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜ッかけに、 「あら、まあ!」 「お伺い下すって?」  と内端ながら判然とした清い声が、壁に附いて廊下で聞える。  女中はぼッとした顔色で、 「まあ!」 「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」  と優容な物腰。大概、莟から咲きかかったまで、花の香を伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂なく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄である。 「お目にかかられますでしょうか。」 「ご勝手になさいまし。」  くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟が外れたように、その縦縞が消えるが疾いか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。 「お入ンなさい、」 「は、」  と幽かに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰いで、優い顔で、 「ご遠慮なく……私は清川謙造です。」  と念のために一ツ名乗る。 「ご免下さいまし、」  はらりと沈んだ衣の音で、早入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖、揺れつつ畳に敷いたのは、藤の房の丈長く末濃に靡いた装である。  文金の高髷ふっくりした前髪で、白茶地に秋の野を織出した繻珍の丸帯、薄手にしめた帯腰柔に、膝を入口に支いて会釈した。背負上げの緋縮緬こそ脇あけを漏る雪の膚に稲妻のごとく閃いたれ、愛嬌の露もしっとりと、ものあわれに俯向いたその姿、片手に文箱を捧げぬばかり、天晴、風采、池田の宿より朝顔が参って候。  謙造は、一目見て、紛うべくもあらず、それと知った。  この芸妓は、昨夜の宴会の余興にとて、催しのあった熊野の踊に、朝顔に扮した美人である。  女主人公の熊野を勤めた婦人は、このお腰元に較べていたく品形が劣っていたので、なぜあの瓢箪のようなのがシテをする。根占の花に蹴落されて色の無さよ、と怪んで聞くと、芸も容色も立優った朝顔だけれど、――名はお君という――その妓は熊野を踊ると、後できっと煩らうとの事。仔細を聞くと、させる境遇であるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。  不幸で沈んだと名乗る淵はないけれども、孝心なと聞けば懐しい流れの花の、旅の衣の俤に立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。  謙造はいそいそと、 「どうして。さあ、こちらへ。」  と行儀わるく、火鉢を斜めに押出しながら、 「ずっとお入んなさい、構やしません。」 「はい。」 「まあ、どうしてね、お前さん、驚いた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が痩せて、極りの悪そうに小さくなって、 「済みませんこと。」 「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚したんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」 三 「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」  と火鉢の縁に軽く肱を凭たせて、謙造は微笑みながら、 「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお世辞に云う事だったね。誰かに肖ていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと反対だったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。  そうです、確にそう云った事を覚えているよ。」  お君は敷けと云って差出された座蒲団より膝薄う、その傍へ片手をついたなりでいたのである。が、薄化粧に、口紅濃く、目のぱっちりした顔を上げて、 「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は極が悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」  謙造は親しげに打頷き、 「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」 「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな手巾を、袂の中で引靡けて、 「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……伺いました上で、それにつきまして少々お尋ねしたいと存じまして。」と俯目になった、睫毛が濃い。 「聞きましょうとも。その肖たという事の次第を話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分眩しそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張って、威張って。」 「いいえ、どういたしまして、それでは……」  しかし眩ゆかったろう、下掻を引いて座をずらした、壁の中央に柱が許、肩に浴びた日を避けて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。 「実はもうちっと間があると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜の家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程んだからそうしてはいられない。」 「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前と存じまして、お宿へ、飛だお邪魔をいたしましてございますの。」 「宿へお出は構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。  そうかと云って昨夜のような、杯盤狼藉という場所も困るんだよ。  実は墓参詣の事だから、」  と云いかけて、だんだん火鉢を手許へ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ圧して、 「お前さん、煙草は?」  黙って莞爾する。 「喫むだろう。」 「生意気でございますわ。」 「遠慮なしにお喫り、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」 「いいえ、持っておりますよ。」  と帯の処へ手を当てる。 「そこでと、湯も沸いてるから、茶を飲みたければ飲むと……羊羹がある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお撮みと……今に何ぞご馳走しようが、まあ、お尋の件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」  独りで云って、独りで極めて、 「さて、その事だが、」 「はあ、」  とまた片手をついた。胸へ気が籠ったか、乳のあたりがふっくりとなる。 「余り気を入れると他愛がないよ。ちっとこう更っては取留めのない事なんだから。いいかい、」  ともの優しく念を入れて、 「私は小児の時だったから、唾をつけて、こう引返すと、台なしに汚すと云って厭がったっけ。死んだ阿母が大事にしていた、絵も、歌の文字も、対の歌留多が別にあってね、極彩色の口絵の八九枚入った、綺麗な本の小倉百人一首というのが一冊あった。  その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。 四 「トそこに高髷に結った、瓜核顔で品のいい、何とも云えないほど口許の優い、目の清い、眉の美しい、十八九の振袖が、裾を曳いて、嫋娜と中腰に立って、左の手を膝の処へ置いて、右の手で、筆を持った小児の手を持添えて、その小児の顔を、上から俯目に覗込むようにして、莞爾していると、小児は行儀よく机に向って、草紙に手習のところなんだがね。  今でも、その絵が目に着いている。衣服の縞柄も真にしなやかに、よくその膚合に叶ったという工合で。小児の背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ移香もするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに褄を捌いて、こう引廻した裾が、小児を庇ったように、しんせつに情が籠っていたんだよ。  大袈裟に聞えようけれども。  私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと開ると、またいつでもそこが出る。  この姊さんは誰だい?と聞くと阿母が、それはお向うの姊さんだよ、と言い言いしたんだ。  そのお向うの姊さんというのに、……お前さんが肖ているんだがね――まあ、お聞きよ。」 「はあ、」  と睜った目がうつくしく、その俤が映りそう。 「お向うというのは、前に土蔵が二戸前。格子戸に並んでいた大家でね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違う上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との隔てがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、小児心には知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その姊さんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは含羞で遁げ出したように覚えている。  だから、そのお嬢さんなんざ、年紀も違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り戸外へなんか出た事のない人でね、堅く言えば深閨に何とかだ。秘蔵娘さね。  そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の挿画が真物だか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。  しかしどっちにしろ、顔容は判然今も覚えている。一日、その母親の手から、娘が、お前さんに、と云って、縮緬の寄切で拵えた、迷子札につける腰巾着を一個くれたんです。そのとき格子戸の傍の、出窓の簾の中に、ほの白いものが見えたよ。紅の色も。  蝙蝠を引払いていた棹を抛り出して、内へ飛込んだ、その嬉しさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。  惜い事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、故郷の家が近火に焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」 「まあ……」  とはかなそうに、お君の顔色が寂しかった。 「迷子札は、金だから残ったがね、その火事で、向うの家も焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。煉瓦造りなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ露出しに見えるから、かえって田舎になった気がする、富士の裾野に煙突があるように。  向うの家も、どこへ行きなすったかね、」  と調子が沈んで、少し、しめやかになって、 「もちろんその娘さんは、私がまだ十ウにならない内に亡くなったんだ。――  産後だと言います……」 「お産をなすって?」  と俯目でいた目を睜いたが、それがどうやらうるんでいたので。  謙造はじっと見て、傾きながら、 「一人娘で養子をしたんだね、いや、その時は賑かだッけ。」  と陽気な声。 五 「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ釜も洗わないといった家が、夜になると、何となく灯がさして、三味線太鼓の音がする。時々どっと山颪に誘われて、物凄いような多人数の笑声がするね。  何ッて、母親の懐で寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。父親が店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、恐いぞ、と云うから、乳へ顔を押着けて息を殺して寝たっけが。  三晩ばかり続いたよ。田地田畠持込で養子が来たんです。  その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、巌乗づくりの小造な男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、性急な人さ。  性急なことをよく覚えている訳は、桃を上げるから一所においで。姊さんが、そう云った、坊を連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。  例の巾着をつけて、いそいそ手を曳かれて連れられたんだが、髪を綺麗に分けて、帽子を冠らないで、確かその頃流行ったらしい。手甲見たような、腕へだけ嵌まる毛糸で編んだ、萌黄の手袋を嵌めて、赤い襯衣を着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか路は遠かった。  途中で負ってくれたりなんぞして、何でも町尽へ出て、寂い処を通って、しばらくすると、大きな榎の下に、清水が湧いていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には柵が結ってあってね、昼間だったから、点けちゃなかったが、床几の上に、何とか書いた行燈の出ていたのを覚えている。  そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな桑畠へ入って、あの熟した桑の実を取って食べながら通ると、二三人葉を摘んでいた、田舎の婦人があって、養子を見ると、慌てて襷をはずして、お辞儀をしたがね、そこが養子の実家だった。  地続きの桃畠へ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、姊さんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、瓜もある、西瓜も出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の児にならんか、姊さんがいい児にするぜ。  厭か、爺婆が居るから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い枝の桃の実を引もぎって一個くれたんだ。  帰途は、その清水の処あたりで、もう日が暮れた。婆がやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと振って、私の手をむずと取って駆出したんだが、引立てた腕が捥げるように痛む、足も宙で息が詰った。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。  泣出したもんだから、横抱にして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、天狗にさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で振落して一つもない。  そりゃいいが、半年経たない内にその男は離縁になった。  だんだん気が荒くなって、姊さんのたぶさを掴んで打った、とかで、田地は取上げ、という評判でね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。  その後、晩方の事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて腹這いで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この姊さんは誰? と云って聞くのがお極りのようだったがね。また尋ねようと思って、阿母は、と見ると、秋の暮方の事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、床を出て、二階の臂かけ窓に袖をかけて、じっと戸外を見てうっとり見惚れたような様子だから、遠慮をして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと涙を落した。  どうしたの? と飛ついて、鬢の毛のほつれた処へ、私の頬がくっついた時、と見ると向うの軒下に、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」  と謙造は面を背けて、硝子窓。そのおなじ山が透かして見える。日は傾いたのである。 六 「その時は、艶々した丸髷に、浅葱絞りの手柄をかけていなすった。ト私が覗いた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣きなすったっけ。  桑の実の小母さん許へ、姊さんを連れて行ってお上げ、坊やは知ってるね、と云って、阿母は横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、  こんな、お腹をして、可哀相に……と云うと、熱い珠が、はらはらと私の頸へ落ちた。」  と見ると手巾の尖を引啣えて、お君の肩はぶるぶると動いた。白歯の色も涙の露、音するばかり戦いて。  言を折られて、謙造は溜息した。 「あなた、もし、」  と涙声で、つと、腰を浮かして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震えながら、 「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私、私は、お墓もどこだか存じません。」  と引出して目に当てた襦袢の袖の燃ゆる色も、紅寒き血に見える。  謙造は太息ついて、 「ああ、そうですか、じゃあ里に遣られなすったお娘なんですね。音信不通という風説だったが、そうですか。――いや、」  と言を改めて、 「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。  私も、その頃阿母に別れました。今じゃ父親も居らんのですが、しかしまあ、墓所を知っているだけでも、あなたより増かも知れん。  そうですか。」  また歎息して、 「お墓所もご存じない。」 「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」  と言も乱れて、 「墓の所をご存じではござんすまいか。」 「……困ったねえ。門徒宗でおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」  と云い淀むと、堪りかねたか、蒲団の上へ、はっと突俯して泣くのであった。  謙造は目を瞑って腕組したが、おお、と小さく膝を叩いて、 「余りの事のお気の毒さ。肝心の事を忘れました。あなた、あなた、」  と二声に、引起された涙の顔。 「こっちへ来てご覧なさい。」  謙造は座を譲って、 「こっちへ来て、ここへ、」  と指さされた窓の許へ、お君は、夢中のように、つかつか出て、硝子窓の敷居に縋る。  謙造はひしと背後に附添い、 「松葉越に見えましょう。あの山は、それ茸狩だ、彼岸だ、二十六夜待だ、月見だ、と云って土地の人が遊山に行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居まわりの回向堂に、あなたの阿母さんの記念がある。」 「ええ。」 「確にあります、一昨日も私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴をしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」  と云って勇んだ声で、 「お身体の都合は、」  その花やかな、寂しい姿をふと見つけた。 「しかし、それはどうとも都合が出来よう。」 「まあ、ほんとうでございますか。」  といそいそ裳を靡かしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、脱ぎ棄てた衣服にハヤ手をかけた時であった。 「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して真蒼になった。  窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を背負って、むずと掴まった、大きな鳥の翼があった。狸のごとき眼の光、灰色の胸毛の逆立ったのさえ数えられる。 「梟だ。」  とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、 「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう極ったら、急がないとまた客が来る。あなた支度をして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の忙がしさ。その足許にも鳥が立とう。 七 「さっきの、さっきの、」  と微笑みながら、謙造は四辺を睜し、 「さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐がっちゃいかん。一生懸命のところじゃないか。」 「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚しましたわ。」  と、寄添いながら、お君も莞爾。  二人は麓から坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、梢に仰ぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから隧道のように薄暗い、山の狭間の森の中なる、額堂を抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は母衣さえおろすほどだったのが、梅雨期のならい、石段の下の、太鼓橋が掛った、乾いた池の、葉ばかりの菖蒲がざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと一濡れ。石段を駆けて上って、境内にちらほらとある、青梅の中を、裳はらはらでお君が潜って。  さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。 「暮れるには間があるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と威すんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。良い月夜なんぞに来ると、身体が蒼い後光がさすように薄ぼんやりした態で、樹の間にむらむら居る。  それをまた、腕白の強がりが、よく賭博なんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は仔細ないが、弱るのはこの額堂にゃ、古から評判の、鬼、」 「ええ、」  とまた擦寄った。謙造は昔懐しさと、お伽話でもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、 「鬼の額だよ、額が上っているんだよ。」 「どこにでございます。」  と何にか押向けられたように顔を向ける。 「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、小児の時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお恐しい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」  と指したのは、蜘蛛の囲の間にかかって、一面漆を塗ったように古い額の、胡粉が白くくっきりと残った、目隈の蒼ずんだ中に、一双虎のごとき眼の光、凸に爛々たる、一体の般若、被の外へ躍出でて、虚空へさっと撞木を楫、渦いた風に乗って、緋の袴の狂いが火焔のように飜ったのを、よくも見ないで、 「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、遠慮の眉は間をおいたが、前髪は衣紋について、襟の雪がほんのり薫ると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が籠った。  謙造は、その時はまださまでにも思わずに、 「母様の記念を見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」  と半ば励ます気で云った。 「いいえ、母様が活きていて下されば、なおこんな時は甘えますわ。」  と取縋っているだけに、思い切って、おさないものいい。  何となく身に染みて、 「私が居るから恐くはないよ。」 「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」  思わず背に手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。  雨の滴々しとしとと屋根を打って、森の暗さが廂を通し、翠が黒く染込む絵の、鬼女が投げたる被を背にかけ、わずかに烏帽子の頭を払って、太刀に手をかけ、腹巻したる体を斜めに、ハタと睨んだ勇士の面。  と顔を合わせて、フトその腕を解いた時。  小松に触る雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘を低く翳し、高下駄に、濡地をしゃきしゃきと蹈んで、からずね二本、痩せたのを裾端折で、大股に歩行いて来て額堂へ、頂の方の入口から、のさりと入ったものがある。 八 「やあ、これからまたお出かい。」  と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越。一昨日もちょっと顔を合わせた、峰の回向堂の堂守で、耳には数珠をかけていた。仁右衛門といって、いつもおんなじ年の爺である。  その回向堂は、また庚申堂とも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂を建立して、家々の位牌を預ける事にした、そこで回向堂とも称うるので、この堂守ばかり、別に住職の居室もなければ、山法師も宿らぬのである。 「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」  と早、離れてはいたが、謙造は傍なる、手向にあらぬ花の姿に、心置かるる風情で云った。 「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」 「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺さんは、」 「私かい。講中にちっと折込みがあって、これから通夜じゃ、南無妙、」  と口をむぐむぐさしたが、 「はははは、私ぐらいの年の婆さまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入りにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金も何にもない、南無妙、」  と二人を見て、 「ははあ、傘なしじゃの、いや生憎の雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」  とばッさり窄める。 「何、構やしないよ。」 「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの姊さんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」 「済みませんねえ、」  と顔を赤らめながら、 「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」 「私は濡れても天日で干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇じゃ、宿坊で借りて行く……南無妙、」  と押つけるように出してくれる。  捧げるように両手で取って、 「大助りです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」  と見返って、莞爾して、 「どうも、嬰児のように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」  と今の姿を見られたろう、と極の悪さにいいわけする。  お君は俯向いて、紫の半襟の、縫の梅を指でちょいと。  仁右衛門、はッはと笑い、 「おお、名物の梟かい。」 「いいえ、それよりか、そのもみじ狩の額の鬼が、」 「ふむ、」  と振仰いで、 「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂ではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋じゃ。手には小手、脚にはすねあてをしているわ……大森彦七じゃ。南無妙、」  と豊かに目を瞑って、鼻の下を長くしたが、 「山頬の細道を、直様に通るに、年の程十七八計なる女房の、赤き袴に、柳裏の五衣着て、鬢深く鍛ぎたるが、南無妙。  山の端の月に映じて、ただ独り彳みたり。……これからよ、南無妙。  女ちと打笑うて、嬉しや候。さらば御桟敷へ参り候わんと云いて、跡に付きてぞ歩みける。羅綺にだも不勝姿、誠に物痛しく、まだ一足も土をば不蹈人よと覚えて、南無妙。  彦七不怺、余に露も深く候えば、あれまで負進せ候わんとて、前に跪きたれば、女房すこしも不辞、便のう、いかにかと云いながら、やがて後にぞ靠りける、南無妙。  白玉か何ぞと問いし古えも、かくやと思知れつつ、嵐のつてに散花の、袖に懸るよりも軽やかに、梅花の匂なつかしく、蹈足もたどたどしく、心も空に浮れつつ、半町ばかり歩みけるが、南無妙。  月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳しかりけるこの女房、南無妙。」  といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐へ入れたが、身体は平気で、石段、てく、てく。 九  二ノ眼ハ朱ヲ解テ。鏡ノ面ニ洒ゲルガゴトク。上下歯クイ違テ。口脇耳ノ根マデ広ク割ケ。眉ハ漆ニテ百入塗タルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪ノ中ヨリ。五寸計ナル犢ノ角。鱗ヲカズイテ生出でた、長八尺の鬼が出ようかと、汗を流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯えずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂い顔である。 「さ、出かけよう。」  と謙造はもうここから傘ばッさり。 「はい、あなた飛んだご迷惑でございます。」 「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路はまだそんなでもないから、跣足には及ぶまいが、裾をぐいとお上げ、構わず、」 「それでも、」 「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡まって歩行悪そうだった。  極の悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」 「でも、余り、」  片褄取って、その紅のはしのこぼれたのに、猶予って恥しそう。 「だらしがないから、よ。」  と叱るように云って、 「母様に逢いに行くんだ。一体、私の背に負んぶをして、目を塞いで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳こう、辷るぞ。」  と言った。暮れかかった山の色は、その滑かな土に、お君の白脛とかつ、緋の裳を映した。二人は額堂を出たのである。 「ご覧、目の下に遠く樹立が見える、あの中の瓦屋根が、私の居る旅籠だよ。」  崕のふちで危っかしそうに伸上って、 「まあ、直そこでございますね。」 「一飛びだから、梟が迎いに来たんだろう。」 「あれ。」 「おっと……番毎怯えるな、しっかりと掴ったり……」 「あなた、邪慳にお引張りなさいますな。綺麗な草を、もうちっとで蹈もうといたしました。可愛らしい菖蒲ですこと。」 「紫羅傘だよ、この山にはたくさん吹く。それ、一面に。」  星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠になって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤が、燐火のようで凄かった。  辿る姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈み、峰に浮んで、その峰つづきを畝々と、漆のようなのと、真蒼なると、赭のごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山に添うて、ここに射返されたようなお君の色。やがて傘一つ、山の端に大な蕈のようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂へ着いたのである。  と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後に、御母様がそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違いであったろう。  框がすぐに縁で、取附きがその位牌堂。これには天井から大きな白の戸帳が垂れている。その色だけ仄に明くって、板敷は暗かった。  左に六畳ばかりの休息所がある。向うが破襖で、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居る処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸もある。  が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。  前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸漏る明を見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。  横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷を削ったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯えようと、それは閉めたままでおいたのである。 十  その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻るようにして懐がみで足を拭って、下駄を、謙造のも一所に拭いて、それから穿直して、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢で手を洗って、これは手巾で拭って、裾をおろして、一つ揺直して、下褄を掻込んで、本堂へ立向って、ト頭を下げたところ。 「こちらへお入り、」  と、謙造が休息所で声をかける。  お君がそっと歩行いて行くと、六畳の真中に腕組をして坐っていたが、 「まあお坐んなさい。」  と傍へ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子に、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手のその窓に並んだ二段に釣った棚があって、火鉢燭台の類、新しい卒堵婆が二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛った穴から、白い切のはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠が一折。その中の棚に斜っかけに乗せてあった経机ではない小机の、脚を抉って満月を透したはいいが、雲のかかったように虫蝕のあとのある、塗ったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると…… 「有った、有った。」  と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後に、端然と坐った、お君のふっくりした衣紋つきの帯の処へ、中腰になって舁据えて置直すと、正面を避けて、お君と互違いに肩を並べたように、どっかと坐って、 「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方にはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。  薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻だったのか、と大抵気を揉んだ事じゃない。  お君さん、」  と云って、無言ながら、懐しげなその美い、そして恍惚となっている顔を見て、 「その机だ。お君さん、あなたの母様の記念というのは、……  こういうわけだ。また恐がっちゃいけないよ。母様の事なんだから。  いいかい。  一昨日ね。私の両親の墓は、ついこの右の方の丘の松蔭にあるんだが、そこへ参詣をして、墳墓の土に、薫の良い、菫の花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本ばかり摘んで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親の居る時分、連立って阿母の墓参をすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様の一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記でやるくらい話がおもしろい爺様だから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯を借りて帰ることなんぞあった馴染だから、ここへ寄った。  いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中の湿気払いだと見えて、本堂も廊下も明っ放し……で誰も居ない。  座敷のここにこの机が出ていた。  机の向うに薄くこう婦人が一人、」  お君はさっと蒼くなる。 「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様だったんだから。  高髷を俯向けにして、雪のような頸脚が見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」  正面の襖は暗くなった、破れた引手に、襖紙の裂けたのが、ばさりと動いた。お君は堅くなって真直に、そなたを見向いて、瞬もせぬのである。 「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙のように見える、白き戸帳を見かえりながら、 「私がそれを見て、ああ、肖たようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾したのが、お向うのその姊さんだ、百人一首の挿画にそッくり。  はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。  私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。  がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体だし、もったいなくッて憚ったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭れて、」  と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤とどめずや、机の上は煤だらけである。 「で、何となく、あの二階と軒とで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭いた次第だった。翌晩、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前を去らない娘さんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出での時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。  しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具で、何もあなたの母様の使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。  それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。  私の母親の亡くなったのは、あなたの母親より、二年ばかり前だったろう。  新盆に、切籠を提げて、父親と連立って墓参に来たが、その白張の切籠は、ここへ来て、仁右衛門爺様に、アノ威張った髯題目、それから、志す仏の戒名、進上から、供養の主、先祖代々の精霊と、一個一個に書いて貰うのが例でね。  内ばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様婆様、切籠持参は皆そうするんだっけ。  その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻いていました。  さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。  ト同じ燈籠を手に提げて、とき色の長襦袢の透いて見える、羅の涼しい形で、母娘連、あなたの祖母と二人連で、ここへ来なすったのが、姊さんだ。  やあ、占めた、と云うと、父親が遠慮なしに、お絹さん――あなた、母様の名は知っているかい。」  突俯したまま、すねたように頭を振った。 「お願だ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私が媽々の門札を願います、と燈籠を振廻わしたもんです。  母様は、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母さんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇を畳んで、お坐んなすったのが――その机です。  これは、祖父の何々院、これは婆さまの何々信女、そこで、これへ、媽々の戒名を、と父親が燈籠を出した時。 (母様のは、)と傍に畏った私を見て、 (謙ちゃんが書くんですよ、)  とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」  と云う時、謙造は声が曇った。 「すらりと立って、背後から私の手を柔かく筆を持添えて……  おっかさん、と仮名で書かして下さる時、この襟へ、」  と、しっかりと腕を組んで、 「はらはらと涙を落しておくんなすった。  父親は墨をすりながら、伸上って、とその仮名を読んで……  おっかさん、」  いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽に、おっかさんと響いた。  ヒイと、堪えかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。  突俯したお君が、胸の苦しさに悶えたのである。  その手を取って、 「それだもの、忘、忘れるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。  ね、だからそれが記念なんだ。お君さん、母様の顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合う、きっと見える。可哀相に、名、名も知らんのか。」  と云って、ぶるぶると震える手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚き、膝を突かけ、背を抱くと、答えがないので、慌てて、引起して、横抱きに膝へ抱いた。  慌しい声に力を籠めつつ、 「しっかりおし、しっかりおし、」  と涙ながら、そのまま、じっと抱しめて、 「母様の顔は、姊さんの姿は、私の、謙造の胸にある!」  とじっと見詰めると、恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉のあたりを、ちらちらと蝶のように、紫の影が行交うと思うと、菫の薫がはっとして、やがて縋った手に力が入った。  お君の寂しく莞爾した時、寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音。  目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳のような色になった。が、やや艶やかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。  遠くで梟が啼いた。  謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭をふって、斉しく莞爾した。  その時何となく机の向が、かわった。  襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室は閉ったままで、ただほのかに見える散れ松葉のその模様が、懐しい百人一首の表紙に見えた。 (明治四十年一月)
底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房    1991(平成3年)10月20日初版発行    1995(平成7年)8月15日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店 初出:「新小説」    1907(昭和40)年1月 ※底本の編者による語注は省略しました。 入力:牡蠣右衛門 校正:門田裕志 2001年10月19日公開 2018年3月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003664", "作品名": "縁結び", "作品名読み": "えんむすび", "ソート用読み": "えんむすひ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-10-19T00:00:00", "最終更新日": "2018-03-07T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3664.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ちくま日本文学全集 泉鏡花", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3年)10月20日", "入力に使用した版1": "1995(平成7年)8月15日第2刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十一卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "牡蠣右衛門", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3664_ruby_20580.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-03-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3664_20581.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-03-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
一  これは喜多八の旅の覺書である――  今年三月の半ばより、東京市中穩かならず、天然痘流行につき、其方此方から注意をされて、身體髮膚これを父母にうけたり敢て損ひ毀らざるを、と其の父母は扨て在さねども、……生命は惜しし、痘痕は恐し、臆病未練の孝行息子。  三月のはじめ、御近所のお醫師に參つて、つゝましく、しをらしく、但し餘り見榮のせぬ男の二の腕をあらはにして、神妙に種痘を濟ませ、 「おとなしくなさい、はゝゝ。」と國手に笑はれて、「はい。」と袖をおさへて歸ると、其の晩あたりから、此の何年にもつひぞない、妙な、不思議な心持に成る。――たとへば、擽つたいやうな、痒いやうな、熱いやうな、寒いやうな、嬉しいやうな、悲しいやうな、心細いやうな、寂しいやうな、もの懷しくて、果敢なくて、たよりのない、誰かに逢ひたいやうな、焦つたい、苛々しながら、たわいのない、恰も盆とお正月と祭禮を、もう幾つ寢ると、と前に控へて、そして小遣錢のない處へ、ボーンと夕暮の鐘を聞くやうで、何とも以て遣瀬がない。  勉強は出來ず、稼業の仕事は捗取らず、持餘した身體を春寒の炬燵へ投り込んで、引被いでぞ居たりけるが、時々掛蒲團の襟から顏を出して、あゝ、うゝ、と歎息して、ふう、と氣味惡く鼻の鳴るのが、三井寺へ行かうでない、金子が欲しいと聞える。……  綴蓋の女房が狹い臺所で、總菜の菠薐草を揃へながら、 「また鼻が鳴りますね……澤山然うなさい、中屋の小僧に遣つ了ふから……」 「眞平御免。」  と蒲團をすつぽり、炬燵櫓の脚を爪尖で抓つて居て、庖丁の音の聞える時、徐々と又頭を出し、一つ寢返つて腹這ひで、 「何か甘いもの。」 「拳固……抓り餅、……赤いお團子。……それが可厭なら蝦蛄の天麩羅。」と、一ツづゝ句切つて憎體らしく節をつける。 「御免々々。」と又潛る。  其のまゝ、うと〳〵して居ると、種痘の爲す業とて、如何にとも防ぎかねて、つい、何時の間にか鼻が鳴る。  女房は鐵瓶の下を見かた〴〵、次の間の長火鉢の前へ出張に及んで、 「お前さん、お正月から唄に謠つて居るんぢやありませんか。――一層一思ひに大阪へ行つて、矢太さんや、源太さんに逢つて、我儘を言つていらつしやいな。」  と、先方が男だから可恐く氣前が好い。 「だがね……」  工面の惡い事は、女房も一ツ世帶でお互である。  二日も三日も同じやうな御惱氣の續いた處、三月十日、午後からしよぼ〳〵と雨になつて、薄暗い炬燵の周圍へ、別して邪氣の漾ふ中で、女房は箪笥の抽斗をがた〳〵と開けたり、葛籠の蓋を取つたり、着換の綻を檢べたり、……洗つた足袋を裏返したり、女中を買ものに出したり、何か小氣轉に立𢌞つて居たと思ふと、晩酌に乾もので一合つけた時、甚だ其の見事でない、箱根土産の、更紗の小さな信玄袋を座蒲團の傍へ持出して、トンと置いて、 「楊枝、齒磨……半紙。」  と、口のかゞりを一寸解いて、俯向いて、中を見せつゝ、 「手巾の洗つたの、ビスミツト、紙に包んでありますよ。寶丹、鶯懷爐、それから膝栗毛が一册、いつも旅と云ふと持つておいでなさいますが、何になるんです。」 「道中の魔除に成るのさ。」  鶯懷爐で春めいた處へ、膝栗毛で少し氣勢つて、熱燗で蟲を壓へた。 「しかし、一件は?」 「紙入に入つて居ます、小さいのが蝦蟇口……」  と此の分だけは、鰐皮の大分膨んだのを、自分の晝夜帶から抽出して、袱紗包みと一所に信玄袋に差添へて、 「大丈夫、往復の分と、中二日、何處かで一杯飮めるだけ。……宿は何うせ矢太さんの高等御下宿にお世話樣に成るんでせう。」  傳へ聞く……旅館以下にして、下宿屋以上、所謂其の高等御下宿なるものは――東區某町と言ふのにあつて、其處から保險會社に通勤する、最も支店長格で、年は少いが、喜多八には過ぎた、お友達の紳士である。で、中二日と數へたのは、やがて十四日には、自分も幹事の片端を承つた義理の宴曾が一つあつた。 「……緩り御飯をめしあがれ、それでも七時の急行に間に合ひますわ。」  澄ました顏で、長煙管で一服スツと吹く時、風が添つて、ざツざツと言ふ雨風に成つた。家の内ではない、戸外である、暴模樣の篠つく大雨。…… 二 「何うだらう、車夫、車夫――車が打覆りはしないだらうか。」  俥が霞ヶ關へ掛つて、黒田の海鼠壁と云ふ昔からの難所を乘る時分には、馬が鬣を振るが如く幌が搖れた。……此の雨風に猶豫つて、いざと云ふ間際にも、尚ほ卑怯に、さて發程うか、止めようかで、七時の其の急行の時期を過ごし、九時にも間に合ふか、合ふまいか。 「もし、些と急がないと、平常なら、何、大丈夫ですが、此の吹降で、途中手間が取れますから。」 「可し。」と決然とし、長火鉢の前を離れたは可いが、餘り爽かならぬ扮裝で、 「可厭に成つたら引返さう。」 「あゝ、然うなさいましともさ。――では、行つて入らつしやい。」で、漸つと出掛けた。  車夫は雨風にぼやけた聲して、 「大丈夫ですよ。」  雖然、曳惱んで、ともすれば向風に押戻されさうに成る。暗闇は大なる淵の如し。……前途の覺束なさ。何うやら九時のに間に合ひさうに思はれぬ。まゝよ、一分でも乘後れたら停車場から引返さう、それが可い、と目指す大阪を敵に取つて、何うも恁うはじめから豫定の退却を畫策すると云ふのは、案ずるに懷中のためではない。膝に乘せた信玄袋の名ゆゑである。願くはこれを謙信袋と改めたい。  土橋を斜に烏森、と町もおどろ〳〵しく、やがて新橋驛へ着いて、づぶ〳〵と其の濡幌を疊んで出で、𤏋と明く成つた處は、暴風雨の船に燈明臺、人影黒く、すた〳〵と疎らに往來ふ。 「間に合ひましたぜ。」 「御苦勞でした。」  際どい處か、發車には未だ三分間ある。切符を買つて、改札口を出て、精々、着た切の裾へ泥撥を上げないやうに、濡れた石壇を上ると、一面雨の中に、不知火の浮いて漾ふ都大路の電燈を見ながら、横繁吹に吹きつけられて、待合所の硝子戸へ入るまで、其の割に急がないで差支ぬ。……三分間もあだには成らない。  處へ、横づけに成つた汽車は、大な黒い縁側が颯と流れついた趣である。 「おつと、助船。」  と最う恁う成れば度胸を据ゑて、洒落れて乘る。……室はいづれも、舞臺のない、大入の劇場ぐらゐに籠んで居たが、幸ひに、喜多八懷中も輕ければ、身も輕い。荷物はなし、お剩に洋杖が細い。鯱と鯨の中へ、芝海老の如く、呑まれぬばかりに割込んで、一つ吻と呼吸をついて、橋場、今戸の朝煙、賤ヶ伏屋の夕霞、と煙を眺めて、ほつねんと煙草を喫む。  ……品川へ來て忘れたる事ばかり――なんぞ何もなし。大森を越すあたりであつた。…… 「もし〳〵、此の電報を一つお願ひ申したうございます。」  列車の給仕の少年は――逢ひに行く――東區某町、矢太さんの右の高等御下宿へあてた言句を見ながら、 「えゝ、此の列車では横濱で電報を扱ひません、――大船で打ちますから。」  と器用な手つきで、腹から拔出したやうに横衣兜の時計を見たが、 「時間外に成るんですが。」 「は、結構でございます。」 「記號を入れますよ、ら、ら、」と、紐のついた鉛筆で一寸記して、 「それだけ賃錢が餘分に成ります。」 「はい〳〵。」  此の電報の着いたのは、翌日の午前十時過ぎであつた。 三  大船に停車の時、窓に立つて、逗子の方に向ひ、うちつけながら某がお馴染にておはします、札所阪東第三番、岩殿寺觀世音に御無沙汰のお詫を申し、道中無事と、念じ參らす。  此處を、發車の頃よりして、乘組の紳士、貴夫人、彼方此方に、フウ〳〵と空氣枕を親嘴する音。……  誰一人、横に成るなんど場席はない。花枕、草枕、旅枕、皮枕、縱に横に、硝子窓に押着けた形たるや、浮嚢を取外した柄杓を持たぬものの如く、折から外のどしや降に、宛然人間の海月に似て居る。  喜多は一人、俯向いて、改良謙信袋の膝栗毛を、縞の着ものの胡坐に開けた。スチユムの上に眞南風で、車内は蒸し暑いほどなれば、外套は脱いだと知るべし。  ふと思ひついた頁を開く。――西國船の難船においらが叔父的の彌次郎兵衞、生命懸の心願、象頭山に酒を斷つたを、咽喉もと過ぎた胴忘れ、丸龜の旅籠大物屋へ着くと早や、茶袋と土瓶の煮附、とつぱこのお汁、三番叟の吸もので、熱燗と洒落のめすと、罰は覿面、反返つた可恐しさに、恆規に從ひ一夜不眠の立待して、お詫を申す處へ、宵に小當りに當つて置いた、仇な年増がからかひに來る條である。 女、彌次郎が床の上にあがり、横になつて、此處へ來いと、手招ぎをして彌次郎をひやかす、彌次郎ひとり氣を揉み「エヽ情ない、其處へ行つて寢たくてもはじまらねえ、こんな事なら立待より寢まちにすればよかつたものを。女「何ちふいはんす。私お嫌ひぢやな、コレイナアどうぢやいな。「エヽこんな間の惡い事あねえ、早く八つを打てばいゝ、もう何時だの。女「九つでもあろかい。彌次「まだ一時だな、コレ有樣は今夜おいらは立待だから寢る事がならねえ、此處へ來な、立つて居ても談が出來やす。女「あほらしい、私や立つて居て話ノウする事は、いや〳〵。彌次「エヽそんならコウ鐵槌があらば持つて來て貸しねえ。女「オホホ、鐵さいこ槌の事かいな、ソレ何ちふさんすのぢやいな。「イヤあの箱枕を此柱へうちつけて立ちながら寢るつもりだ。  考へると、(をかしてならん。)と一寸京阪の言葉を眞似る。串戲ではない。彌次郎が其の時代には夢にも室氣枕の事などは思ふまい、と其處等を眗すと、又一人々々が、風船を頭に括つて、ふはり〳〵と浮いて居る形もある。是しかしながら汽車がやがて飛行機に成つて、愛宕山から大阪へ空を翔る前表であらう。いや、割床の方、……澤山おしげりなさい。  喜多は食堂へ飮酒に行く。……あの鐵の棒につかまつて、ぶるツとしながら繋目の板を踏越すのは、長屋の露地の溝板に地震と云ふ趣あり。雨は小留みに成る。  白服の姿勢で、ぴたりと留まつて、じろりと見る、給仕の氣構に恐れをなして、 「日本の酒はござんせうか。……濟みませんが熱くなすつて。」  玉子の半熟、と誂へると、やがて皿にのつて、白服の手からトンと湧いて、卓子の上へ顯れたのは、生々しい肉の切味に、半熟の乘つたのである。――玉子は可いが、右の肉で、うかつには手が着けられぬ。其處で、パンを一切燒いて貰つた。ボリ〳〵噛みつゝ、手酌で、臺附の硝子杯を傾けたが、何故か、床の中で夜具を被つて、鹽煎餅をお樂にした幼兒の時を思出す。夜もやゝ更けて、食堂の、白く伽藍としたあたり、ぐら〳〵と搖れるのが、天井で鼠が騷ぐやうである。……矢張り旅はもの寂しい、酒の銘さへ、孝子正宗。可懷く成る、床しく成る、種痘が痒く成る。 「坊やはいゝ兒だ寢ねしな。」……と口の裡で子守唄は、我ながら殊勝である。 四  息子の性は善にして、鬼神に横道なしと雖も、二合半傾けると殊勝でなく成る。……即ち風の聲、浪の音、流の響、故郷を思ひ、先祖代々を思ひ、唯女房を偲ぶべき夜半の音信さへ、窓のささんざ、松風の濱松を過ぎ、豐橋を越すや、時やゝ經るに從つて、横雲の空一文字、山かづら、霞の二字、雲も三色に明初めて、十人十色に目を覺す。  彼の大自然の、悠然として、土も水も新らしく清く目覺るに對して、欠伸をし、鼻を鳴らし、髯を掻き、涎を切つて、うよ〳〵と棚の蠶の蠢き出づる有状は、醜く見窄らしいものであるが、東雲の太陽の惠の、宛然處女の血の如く、爽に薄紅なるに、難有や、狐とも成らず、狸ともならず、紳士と成り、貴婦人となり、豪商となり、金鎖となり、荷物と成り、大なる鞄と成る。  鮨、お辨當、鯛めしの聲々勇ましく、名古屋にて夜は全く明けて、室内も聊か寛ぎ、暖かに窓輝く。  米原は北陸線の分岐道とて、喜多にはひとり思出が多い。が、戸を開けると風が冷い。氣の所爲か、何爲もそゞろ寒い驛である。 「三千歳さん、お桐さん。」――風流懺法の女主人公と、もう一人見知越の祇園の美人に、停車場から鴨川越に、遙かに無線電話を送つた處は、然まで寢惚けたとも思はなかつたが、飛ぶやうに列車の過ぐる、小栗栖を窓から覗いて、あゝ、あすこらの藪から槍が出て、馬上に堪らず武智光秀、どうと落人から忠兵衞で、足捗取らぬ小笹原と、線路の堤防の枯草を見た料簡。――夢心地の背をドンと一ツ撲たれたやうに、そも〳〵人口……萬、戸數……萬なる、日本第二の大都の大木戸に、色香も梅の梅田に着く。  洋杖と紙入と、蟇口と煙草入を、外套の下に一所に確乎と壓へながら、恭しく切符と急行劵を二枚持つて、餘りの人混雜、あとじさりに成つたる形は、我ながら、扨て箔のついたおのぼりさん。  家あり、妻あり、眷屬あり、いろがあつて、金持で、大阪を一のみに、停車場前を、さつ〳〵と、自動車、俥、歩行くのさへ電車より疾いまで、猶豫らはず、十字八方に捌ける人數を、羨しさうに視めながら、喜多八は曠野へ落ちた團栗で、とぼんとして立つて居た。  列が崩れてばら〳〵と寄り、颯と飛ぶ俥の中の、俥の前へ漸と出て、 「行くかい。」 「へい、何方で、」と云ふのが、赤ら顏の髯もじやだが、莞爾と齒を見せた、人のよささうな親仁が嬉しく、 「道修町と云ふだがね。」 「ひや、同心町。」 「同心町ではなささうだよ、――保險會社のある處だがね。」 「保險會社ちふとこは澤山あるで。」 「成程――町名に間違はない筈だが、言ひ方が違ふかな。」 「何處です、旦那。」 「何ちふ處や。」と二人ばかり車夫が寄つて來る。當の親仁は、大な前齒で、唯にや〳〵。 「……道は道だよ、修はをさむると、……恁う云ふ字だ。」  と習ひたての九字を切るやうな、指の先で掌へ書いて、次手に道中安全、女難即滅の呪を唱へる。…… 「分つた、そりや道修町や。」 「そら、北や。」 「分つたかね。」 「へい、旦那……乘んなはれ。」 大正七年十月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「新小説 第二十三年第十号」春陽堂    1918(大正7)年10月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「種痘」に対するルビの「しゆとう」と「うゑばうさう」の混在は、底本の通りです。 ※表題は底本では、「大阪《おほさか》まで」となっています。 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2018年7月27日作成 2018年8月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050794", "作品名": "大阪まで", "作品名読み": "おおさかまで", "ソート用読み": "おおさかまて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第二十三年第十号」春陽堂、1918(大正7)年10月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-08-05T00:00:00", "最終更新日": "2018-08-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50794.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50794_ruby_65422.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-08-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50794_65466.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-08-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 人から受けた印象と云うことに就いて先ず思い出すのは、幼い時分の軟らかな目に刻み付けられた様々な人々である。  年を取ってからはそれが少い。あってもそれは少年時代の憧れ易い目に、些っと見た何の関係もない姿が永久その記憶から離れないと云うような、単純なものではなく、忘れ得ない人々となるまでに、いろいろ複雑した動機なり、原因なりがある。  この点から見ると、私は少年時代の目を、純一無雑な、極く軟らかなものであると思う。どんな些っとした物を見ても、その印象が長く記憶に止まっている。大人となった人の目は、もう乾からびて、殻が出来ている。余程強い刺撃を持ったものでないと、記憶に止まらない。  私は、その幼い時分から、今でも忘れることの出来ない一人の女のことを話して見よう。  何処へ行く時であったか、それは知らない。私は、母に連れられて船に乗っていたことを覚えている。その時は何と云うものか知らなかった。今考えて見ると船だ。汽車ではない、確かに船であった。  それは、私の五つぐらいの時と思う。未だ母の柔らかな乳房を指で摘み摘みしていたように覚えている。幼い時の記憶だから、その外のことはハッキリしないけれども、何でも、秋の薄日の光りが、白く水の上にチラチラ動いていたように思う。  その水が、川であったか、海であったか、また、湖であったか、私は、今それをここでハッキリ云うことが出来ない。兎に角、水の上であった。  私の傍には沢山の人々が居た。その人々を相手に、母はさまざまのことを喋っていた。私は、母の膝に抱かれていたが、母の唇が動くのを、物珍らしそうに凝っと見ていた。その時、私は、母の乳房を右の指にて摘んで、ちょうど、子供が耳に珍らしい何事かを聞いた時、目に珍らしい何事かを見た時、今迄貪っていた母の乳房を離して、その澄んだ瞳を上げて、それが何物であるかを究めようとする時のような様子をしていたように思う。  その人々の中に、一人の年の若い美しい女の居たことを、私はその時偶と見出した。そして、珍らしいものを求める私の心は、その、自分の目に見慣れない女の姿を、照れたり、含恥んだりする心がなく、正直に見詰めた。  女は、その時は分らなかったけれども、今思ってみると、十七ぐらいであったと思う。如何にも色の白かったこと、眉が三日月形に細く整って、二重瞼の目が如何にも涼しい、面長な、鼻の高い、瓜実顔であったことを覚えている。  今、思い出して見ても、確かに美人であったと信ずる。  着物は派手な友禅縮緬を着ていた。その時の記憶では、十七ぐらいと覚えているが、十七にもなって、そんな着物を着もすまいから、或は十二三、せいぜい四五であったかも知れぬ。  兎に角、その縮緬の派手な友禅が、その時の私の目に何とも言えぬ美しい印象を与えた。秋の日の弱い光りが、その模様の上を陽炎のようにゆらゆら動いていたと思う。  美人ではあったが、その女は淋しい顔立ちであった。何所か沈んでいるように見えた。人々が賑やかに笑ったり、話したりしているのに、その女のみ一人除け者のようになって、隅の方に坐って、外の人の話に耳を傾けるでもなく、何を思っているのか、水の上を見たり、空を見たりしていた。  私は、その様を見ると、何とも言えず気の毒なような気がした。どうして外の人々はあの女ばかりを除け者にしているのか、それが分らなかった。誰かその女の話相手になって遣れば好いと思っていた。  私は、母の膝を下りると、その女の前に行って立った。そして、女が何とか云ってくれるだろうと待っていた。  けれども、女は何とも言わなかった。却ってその傍に居た婆さんが、私の頭を撫でたり、抱いたりしてくれた。私は、ひどくむずがって泣き出した。そして、直ぐに母の膝に帰った。  母の膝に帰っても、その女の方を気にしては、能く見返り見返りした。女は、相変らず、沈み切った顔をして、あてもなく目を動かしていた。しみじみ淋しい顔であった。  それから、私は眠って了ったのか、どうなったのか何の記憶もない。  私は、その記憶を長い間思い出すことが出来なかった。十二三の時分、同じような秋の夕暮、外口の所で、外の子供と一緒に遊んでいると、偶と遠い昔に見た夢のような、その時の記憶を喚び起した。  私は、その時、その光景や、女の姿など、ハッキリとした記憶をまざまざと目に浮べて見ながら、それが本当にあったことか、また、生れぬ先にでも見たことか、或は幼い時分に見た夢を、何かの拍子に偶と思い出したのか、どうにも判断が付かなかった。今でも矢張り分らない。或は夢かも知れぬ。けれども、私は実際に見たような気がしている。その場の光景でも、その女の姿でも、実際に見た記憶のように、ハッキリと今でも目に見えるから本当だと思っている。  夢に見たのか、生れぬ前に見たのか、或は本当に見たのか、若し、人間に前世の約束と云うようなことがあり、仏説などに云う深い因縁があるものなれば、私は、その女と切るに切り難い何等かの因縁の下に生れて来たような気がする。  それで、道を歩いていても、偶と私の記憶に残ったそう云う姿、そう云う顔立ちの女を見ると、若しや、と思って胸を躍らすことがある。  若し、その女を本当に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分らないけれども、兎に角その女にもう一度、何所かで会うような気がしている。確かに会えると信じている。
底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 別卷」岩波書店    1976(昭和51)年3月26日第1刷発行 初出:「新文壇 第7巻第2号」    1912(明治45)年4月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2015年5月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048388", "作品名": "幼い頃の記憶", "作品名読み": "おさないころのきおく", "ソート用読み": "おさないころのきおく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新文壇 第7巻第2号」1912(明治45)年4月", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2015-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2015-05-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48388.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2006(平成18)年10月10日", "入力に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 別卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1976(昭和51)年3月26日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48388_ruby_57026.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-05-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48388_57068.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-05-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 僕は随分な迷信家だ。いずれそれには親ゆずりといったようなことがあるのは云う迄もない。父が熱心な信心家であったこともその一つの原因であろう。僕の幼時には物見遊山に行くということよりも、お寺詣りに連れられる方が多かった。  僕は明かに世に二つの大なる超自然力のあることを信ずる。これを強いて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。  鬼神力が具体的に吾人の前に現顕する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本脚傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外ならぬ。  鬼神力が三つ目小僧となり、大入道となるように、また観音力の微妙なる影向のあるを見ることを疑わぬ。僕は人の手に作られた石の地蔵に、かしこくも自在の力ましますし、観世音に無量無辺の福徳ましまして、その功力測るべからずと信ずるのである。乃至一草一木の裡、あるいは鬼神力宿り、あるいは観音力宿る。必ずしも白蓮に観音立ち給い、必ずしも紫陽花に鬼神隠るというではない。我が心の照応する所境によって変幻極りない。僕が御幣を担ぎ、そを信ずるものは実にこの故である。  僕は一方鬼神力に対しては大なる畏れを有っている。けれどもまた一方観音力の絶大なる加護を信ずる。この故に念々頭々かの観音力を念ずる時んば、例えばいかなる形において鬼神力の現前することがあるとも、それに向ってついに何等の畏れも抱くことがない。されば自分に取っては最も畏るべき鬼神力も、またある時は最も親むべき友たることが少くない。  さらば僕はいかに観音力を念じ、いかに観音の加護を信ずるかというに、由来が執拗なる迷信に執えられた僕であれば、もとよりあるいは玄妙なる哲学的見地に立って、そこに立命の基礎を作り、またあるいは深奥なる宗教的見地に居って、そこに安心の臍を定めるという世にいわゆる学者、宗教家達とは自らその信仰状態を異にする気の毒さはいう迄もない。  僕はかの観音経を読誦するに、「彼の観音力を念ずれば」という訓読法を用いないで、「念彼観音力」という音読法を用いる。蓋し僕には観音経の文句――なお一層適切に云えば文句の調子――そのものが難有いのであって、その現してある文句が何事を意味しようとも、そんな事には少しも関係を有たぬのである。この故に観音経を誦するもあえて箇中の真意を闡明しようというようなことは、いまだかつて考え企てたことがない。否な僕はかくのごとき妙法に向って、かくのごとく考えかくのごとく企つべきものでないと信じている。僕はただかの自ら敬虔の情を禁じあたわざるがごとき、微妙なる音調を尚しとするものである。  そこで文章の死活がまたしばしば音調の巧拙に支配せらるる事の少からざるを思うに、文章の生命はたしかにその半以上懸って音調(ふしがあるという意味ではない。)の上にあることを信ずるのである。故に三下りの三味線で二上りを唄うような調子はずれの文章は、既に文章たる価値の一半を失ったものと断言することを得。ただし野良調子を張上げて田園がったり、お座敷へ出て失礼な裸踊りをするようなのは調子に合っても話が違う。ですから僕は水には音あり、樹には声ある文章を書きたいとかせいでいる。  話は少しく岐路に入った、今再び立戻って笑わるべき僕が迷信の一例を語らねばならぬ。僕が横寺町の先生の宅にいた頃、「読売」に載すべき先生の原稿を、角の酒屋のポストに投入するのが日課だったことがある。原稿が一度なくなると復容易に稿を更め難いことは、我も人も熟く承知している所である。この大切な品がどんな手落で、遺失粗相などがあるまいものでもないという迷信を生じた。先ず先生から受取った原稿は、これを大事と肌につけて例のポストにやって行く。我が手は原稿と共にポストの投入口に奥深く挿入せられてしばらくは原稿を離れ得ない。やがてようやく稿を離れて封筒はポストの底に落ちる。けれどそれだけでは安心が出来ない。もしか原稿はポストの周囲にでも落ちていないだろうかという危惧は、直ちに次いで我を襲うのである。そうしてどうしても三回、必ずポストを周って見る。それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ間を速疾くと思うのでその気苦労は一方ならなかった。かくてともかくにポストの三めぐりが済むとなお今一度と慥めるために、ポストの方を振り返って見る。即ちこれ程の手数を経なければ、自分は到底安心することが出来なかったのである。  しかるにある時この醜態を先生に発見せられ、一喝「お前はなぜそんな見苦しい事をする。」と怒鳴られたので、原稿投函上の迷信は一時に消失してしまった。蓋し自分が絶対の信用を捧ぐる先生の一喝は、この場合なお観音力の現前せるに外ならぬのである。これによって僕は宗教の感化力がその教義のいかんよりも、布教者の人格いかんに関することの多いという実際を感じ得た。  僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らかなることはなかった。眠ろうとするに、魔は我が胸に重りきて夢は千々に砕かれる。座を起とうとするに、足あるいは虫を蹈むようなことはありはせぬかと、さすが殺生の罪が恐しくなる。こんな有様で、昼夜を分たず、ろくろく寝ることもなければ、起きるというでもなく、我在りと自覚するに頗る朦朧の状態にあった。  ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀という池に身を投げようとさえ決心したことがあった。しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他に何等の煩悶があってでもない。この煩悶の裡に「鐘声夜半録」は成った。稿の成ると共に直ちにこれを東京に郵送して先生の校閲を願ったが、先生は一読して直ちに僕が当時の心状を看破せられた。返事は折返し届いて、お前の筆端には自殺を楽むような精神が仄見える。家計の困難を悲むようなら、なぜ富貴の家には生れ来ぬぞ……その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある…… 其の胆の小なる芥子の如く其の心の弱きこと芋殻の如し、さほどに貧乏が苦しくば、安ぞ其始め彫闈錦帳の中に生れ来らざりし。破壁残軒の下に生を享けてパンを咬み水を飲む身も天ならずや。  馬鹿め、しっかり修行しろ、というのであった。これもまた信じている先生の言葉であったから、心機立ちどころに一転することが出来た。今日といえども想うて当時の事に到るごとに、心自ら寒からざるを得ない。  迷信譚はこれで止めて、処女作に移ろう。  この「鐘声夜半録」は明治二十七年あたかも日清戦争の始まろうという際に成ったのであるが、当時における文士生活の困難を思うにつけ、日露開戦の当初にもまたあるいは同じ困難に陥りはせぬかという危惧からして、当時の事を覚えている文学者仲間には少からぬ恐慌を惹き起し、額を鳩めた者もなきにしもあらずであったろう。  二十七八年戦争当時は実に文学者の飢饉歳であった。まだ文芸倶楽部は出来ない時分で、原稿を持って行って買ってもらおうというに所はなく、新聞は戦争に逐われて文学なぞを載せる余裕はない。いわゆる文壇餓殍ありで、惨憺極る有様であったが、この時に当って春陽堂は鉄道小説、一名探偵小説を出して、一面飢えたる文士を救い、一面渇ける読者を医した。探偵小説は百頁から百五十頁一冊の単行本で、原稿料は十円に十五円、僕達はまだ容易にその恩典には浴し得なかったのであるが、当時の小説家で大家と呼ばれた連中まで争ってこれを書いた。先生これを評して曰く、(お救い米)。  その後にようやく景気が立ちなおってからも、一流の大家を除く外、ほとんど衣食に窮せざるものはない有様で、近江新報その他の地方新聞の続き物を同人の腕こきが、先を争うてほとんど奪い合いの形で書いた。否な独り同人ばかりでなく、先生の紹介によって、先生の宅に出入する幕賓連中迄兀々として筆をこの種の田舎新聞に執ったものだ。それで報酬はどうかというと一日一回三枚半で、一月が七円五十銭である。そこで活字が嬉しいから、三枚半で先ず……一回などという怪しからん料簡方のものでない。一回五六枚も書いて、まだ推敲にあらずして横に拡った時もある。楽屋落ちのようだが、横に拡がるというのは森田先生の金言で、文章は横に拡がらねばならぬということであり、紅葉先生のは上に重ならねばならぬというのであった。  その年即ち二十七年、田舎で窮していた頃、ふと郷里の新聞を見た。勿論金を出して新聞を購読するような余裕はない時代であるから、新聞社の前に立って、新聞を読んでいると、それに「冠弥左衛門」という小説が載っている。これは僕の書いたもののうちで、始めて活版になったものである。元来この小説は京都の日の出新聞から巌谷小波さんの処へ小説を書いてくれという註文が来てて、小波さんが書く間の繋として僕が書き送ったものである。例の五枚寸延びという大安売、四十回ばかり休みなしに書いたのである。  本人始めての活版だし、出世第一の作が、多少上の部の新聞に出たことでもあれば、掲載済の分を、朝から晩まで、横に見たり、縦に見たり、乃至は襖一重隣のお座敷の御家族にも、少々聞えよがしに朗読などもしたのである。ところがその後になって聞いてみると、その小説が載ってから完結になる迄に前後十九通、「あれでは困る、新聞が減る、どうか引き下げてくれ」という交渉が来たということである。これは巌谷さんの所へ言って来たのであるが、先生は、泉も始めて書くのにそれでは可憫そうだという。慈悲心で黙って書かしてくだすったのであるという。それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年(二十六年)であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。  そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々ここに二度の勤めをするこの小説の由来も聞いてみたし、といって、まだ新聞社に出入ったことがないので、一向に様子もわからず、遠慮がち臆病がちに社に入って見ると、どこの受付でも、恐い顔のおじさんが控えているが、ここにも紋切形のおじさんが、何の用だ、と例の紋切形を並べる。その時僕は恐る恐る、実は今御掲載中の小説は私の書いたものでありますが、校正などに間違いもあるし、かねて少し訂正したいと思っていた処もありますから、何の報酬も望む所ではありませんが、一度原稿を見せて戴く訳には行きませんか、こう持ちかけた。実は内々これを縁に、新聞社の仕事でもないかと思わざるにしもあらずであった。ところがその返事は意外にも、「あの小説は京都の日の出から直接に取引をしたものであれば、他に少しも関係はありません」と剣もほろろに挨拶をされて、悄然新聞社の門を出たことがある。  されば僕の作で世の中に出た一番最初のものは「冠弥左衛門」で、この次に探偵小説の「活人形」というのがあり、「聾の一心」というのがある。「聾の一心」は博文館の「春夏秋冬」という四季に一冊の冬に出た。そうしてその次に「鐘声夜半録」となり、「義血侠血」となり、「予備兵」となり、「夜行巡査」となる順序である。 明治四十(一九〇七)年五月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十八卷」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日発行 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2008年10月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048329", "作品名": "おばけずきのいわれ少々と処女作", "作品名読み": "おばけずきのいわれしょうしょうとしょじょさく", "ソート用読み": "おはけすきのいわれしようしようとしよしよさく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-11-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48329.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成8", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十八卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48329_ruby_32330.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-10-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48329_33335.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-10-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 四五年といふもの逗子の方へ行つてゐたので、お花見には御無沙汰した。全體彼地では汐風が吹くせゐか木が皆小さくて稀に二三株有つても色も褪せて居るやうだから、摘草などをこそすれつい〳〵花を見る事は先づすくないのである、と言つて花時に出ても來ないし、愈々以て遠々しくは成つたものの、何もお花見だからと言つて異裝なんかする事はさう別に奬勵するにも及ばなければ、恐しく取緊る事もないと思ふ。さうしなければ樂めないといふ譯もなし、普通の身裝で普通の顏で、歡樂を擅にする事ができるのだから。  近來櫻花の下を通る女の風俗を見るに、どうも物足りない點がある、花に對する配合が惡い。たとへば上野なら上野で、清水の堂に、文金の高島田、紫の矢絣、と云つた美人が、銀地の扇か何か持つてゐるといふと、……奈何にも色彩が榮えて配合その宜しきを得てゐるが、これが今時のやうな風俗であると一寸弱る、前述のやうだとお花見らしい上野が見えると言ふもの。夫から上野にしろ向島にしろ、そこらを歩いてゐる女達が、左程迄にゆかなくつても、濃艶淡彩とり〴〵に見えるけれど、此頃の風俗ではパツと咲いてる櫻花の下に、女は唯黒ツぽく見えるばかり、打見たところ色が雜つて、或混氣のない心持のよい色だけで、身裝を飾るといふ事が出來なくなつたらしく、色の上にぼかしをかけて、ぼかし過ぎた部分へまた白粉の極彩色、工手間のかゝつた、一刷毛で埓のあかぬ化粧ぶりは、造花に配したら見劣もしまいけれど、唯妙に薄黒く見えるので、全體海老茶といふあの色がもう黒く見える。其他背負上、帶の色、混沌たる色彩を爲して、二重にも三重にも塗りつけた有樣がある。そこで其色彩が、日中の花盛砂埃を浴びて立つても水際立つて美しくあつて然るべきのが、ボーツと霞んで居る時に見ても一向鮮かに見えぬ。  酒なくて何のおのれが櫻かな、で花にはいづれも附物だが、ほんとうに花を見ようといふなら、明方の櫻か、薄月でもあつて、一本の櫻がかう明るいやうな所を見るにあると、言ふものの半ば御多分に漏れない、活きた花を見るのだが、陰氣な顏をして理窟を言つたり、くすんだりして見るよりは、派手に陽氣に櫻と競つて花見をしたら、萬都の美觀を添へるだらうと思ふ。  要するに櫻の下に行交ふ女が黒つぽいと言つて、素人らしくないといふ意味では決してない。が何も御自分勝手にさういふ風をなさるのも、異裝をするのも惡い事ではない。どんな事をしても、お樂みがあれば夫でよい譯だが、庇髮に金ピカの三枚櫛なんてものは、其上に櫻は決して調和したものではない。  たとへば第一歩く振なり容子なり、甚だ美しくなくなつた。落花の黒髮にかゝる風情、袂や裾に散る趣きも、今では皆がいきなり手を出して掴むぐらゐな意でゐる。 明治四十三年四月
底本:「鏡花全集 巻二十八」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日第1刷発行    1988(昭和63)年12月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:鈴木厚司 2003年5月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001180", "作品名": "お花見雑感", "作品名読み": "おはなみざっかん", "ソート用読み": "おはなみさつかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-06-02T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1180.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1180_ruby_10244.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1180_10283.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一 「謹さん、お手紙、」  と階子段から声を掛けて、二階の六畳へ上り切らず、欄干に白やかな手をかけて、顔を斜に覗きながら、背後向きに机に寄った当家の主人に、一枚を齎らした。 「憚り、」  と身を横に、蔽うた燈を離れたので、玉ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳見るよう、髪も容もすっきりした中年増。  これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留している、お民といって縁続き、一蒔絵師の女房である。  階下で添乳をしていたらしい、色はくすんだが艶のある、藍と紺、縦縞の南部の袷、黒繻子の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く寛いで、昼夜帯の暗いのに、緩く纏うた、縮緬の扱帯に蒼味のかかったは、月の影のさしたよう。  燈火に対して、瞳清しゅう、鼻筋がすっと通り、口許の緊った、痩せぎすな、眉のきりりとした風采に、しどけない態度も目に立たず、繕わぬのが美しい。 「これは憚り、お使い柄恐入ります。」  と主人は此方に手を伸ばすと、見得もなく、婦人は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書の用は直ぐに済んだ。  机の上に差置いて、 「ほんとに御苦労様でした。」 「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」 「憚り様ね。」 「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」 「何ね、」 「貴下、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」  謹さんも莞爾して、 「お話しなさい。」 「難有う、」 「さあ、こちらへ。」 「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」 「早速だ、おやおや。」 「大分丁寧でございましょう。」 「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」 「寝ました。」 「母は?」 「行火で、」と云って、肱を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。 「貴女にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」 「女中さんは買物に、お汁の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日は田舎料理を達引こうと思って、ついでにその分も。」 「じゃ階下は寂しいや、お話しなさい。」  お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫で、軽く衣紋を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干の前なる障子を閉めた。 「ここが開いていちゃ寒いでしょう。」 「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」  と火鉢を前へ。 「開ッ放しておくからさ。」 「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」  時に燈に近う来た。瞼に颯と薄紅。        二  坐ると炭取を引寄せて、火箸を取って俯向いたが、 「お礼に継いで上げましょうね。」 「どうぞ、願います。」 「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東京は炭が高いんですってね。」  主人は大胡座で、落着澄まし、 「吝なことをお言いなさんな、お民さん、阿母は行火だというのに、押入には葛籠へ入って、まだ蚊帳があるという騒ぎだ。」 「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」 「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。  何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷い。まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜、戸外を歩行いていたって、それで事は済みました。  内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的はないのに、夜中一時二時までも、友達の許へ、苦い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母さん、蚊が居ますかって聞くんです。  自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」  主人は火鉢にかざしながら、 「居ますかもないもんだ。  ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母には居るだろうと、口惜いくらいでね。今に工面してやるから可い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈い中に、疲れて、すやすや、……傍に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪らなくって泣きました。」  聞く方が歎息して、 「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」  顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言であった。 「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。」 「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」 「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様、どうにか蚊帳もありますから。」 「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下。」と優しい顔。 「何、私より阿母ですよ。」 「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」  と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を圧えたのである。 「私はまた私で、何です、なまじ薄髯の生えた意気地のない兄哥がついているから起って、相応にどうにか遣繰って行かれるだろう、と思うから、食物の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜がないものと極ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。  やっちまおうかと、日に幾度考えたかね。  民さんも知っていましょう、あの年は、城の濠で、大層投身者がありました。」  同一年の、あいやけは、姉さんのような頷き方。 「ああ。」        三 「確か六七人もあったでしょう。」  お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤を弾くように、指を反らして、 「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」  と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。 「じゃ、九人になる処だった。貴女の内へ遊びに行くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの濠端を通ったんですがね、石垣が蒼く光って、真黒な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに這いかかって来るように見えるじゃありませんか。  引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。  ああ、春の末でした。  あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。  自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」 「心細いじゃありませんか、ねえ。」  と寂しそうに打傾く、面に映って、頸をかけ、黒繻子の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外は月の冴えたる気勢。カラカラと小刻に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。 「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。  じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行いて、行過ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確めて見たくてならんのでしたよ。  危険千万。  だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計の代という訳で。  内で熟としていたんじゃ、たとい曳くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外へ出て、足駄穿きで駈け歩行くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上り框へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母さん、お米は? ッて聞くんです。」 「お米は? ッてね、謹さん。」  と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾やかに、 「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許するか知らなかった。  皆、親のお庇だね。  その阿母が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。  翌日のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」  と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。 「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐りたかった。」 「まあ、貴下、大抵じゃなかったのねえ。」  フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。 「謹さん、沸しましょうかね。」と軽くいう。 「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」 「お湯があるかしら。」  と引っ立てて、蓋を取って、燈の方に傾けながら、 「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」        四 「それでもね、」  とあるじは若々しいものいいで、 「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」 「あら、」  とて清しい目を睜り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直に当りながら、 「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢いに来たんじゃありませんか、酷いよ、謹さんは。」  と美しく打怨ずる。 「飛んだ事を、ははは。」  とあるじも火に翳して、 「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」 「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲いんですよ。」  あるじは、屹と頭を掉った。 「いいえ、よします。」 「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑の色はなく、別に心あって映ったのであった。 「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。  こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交らない方が気楽で可いかも知れません。お民さん、貴女がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人が居ようより、阿母と私ばかりの方が、御馳走は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」 「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生貴方、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下を置いて、他に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集って、」  と婀娜に唇の端を上げると、顰めた眉を掠めて落ちた、鬢の毛を、焦ったそうに、背へ投げて掻上げつつ、 「この髪を挘りたくなるような思いをさせられるに極ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極めて、伯母さんには内証ですがね、これでも自分で呆れるほど、了簡が据っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」 「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可いから知れやしない。」  と我儘らしく熱心に言った。  お民は言を途切らしつ、鉄瓶はやや音に出づる。 「謹さん、」 「ええ、」  お民は唾をのみ、 「ほんとうですか。」 「ほんとうですとも、まったくですよ。」 「ほんとうに、謹さん。」 「お民さんは、嘘だと思って。」 「じゃもういっそ。」  と烈しく火箸を灰について、 「帰らないでおきましょうか。」        五  我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂しい笑顔を上げた。 「ほほほほほ、その気で沢山御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭。」  といううち涙さしぐみぬ。 「謹さん、」  というも曇り声に、 「も、貴下、どうして、そんなに、優くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」 「貴女でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」 「ええ? 恩人ですって、私が。」 「貴女が、」 「まあ! 誰方のねえ?」 「私のですとも。」 「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持になったんですもの。碌に小袖一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切だった、そのお米のなかった時も、煙草も買ってあげないでさ。  後で聞いて口惜くって、今でも怨んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶れてないで、もっと顔色も可かったもの……」 「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々していたのだって、貴女、貴女の傍に居る時の他に、そうした事を見た事はありますまい。  私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。  ねえ。  先刻もいう通り、私の死んでしまった方が阿母のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。  実際私は、貴女のために活きていたんだ。  そして、お民さん。」  あるじが落着いて静にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔に、湧上るごとき血汐の色。 「切迫詰って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確に信仰していたんだね。  まあ、お民さん許で夜更しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣のなりで、寒いのも厭わないで、貴女が自分で送って下さる。  門を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗の中まで見送ってくれたでしょう。小児が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。  私はまた、曲り角で、きっと、密と立停まって、しばらく経って、カタリと枢のおりるのを聞いたんです。  その、帰り途に、濠端を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖をはずれる、背後でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確に思った。  ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」  とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈の前に落涙した。 「お民さん、」 「謹さん、」  とばかり歯をカチリと、堰きあえぬ涙を噛み留めつつ、 「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同じなんです、謹さん。慾にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。  まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」  と差俯向いた肩が震えた。  あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、 「飛んだ事を、串戯じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲(小児の名)さんをどうします。」 「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えました。そんな、そんな児を構うものか。」  とすねたように鋭くいったが、露を湛えた花片を、湯気やなぶると、笑を湛え、 「ようござんすよ。私はお濠を楽みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄い死神なら可いけれど、大方鼬にでも見えるでしょう。」  と投げたように、片身を畳に、褄も乱れて崩折れた。  あるじは、ひたと寄せて、押えるように、棄てた女の手を取って、 「お民さん。」 「…………」 「国へ、国へ帰しやしないから。」 「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」 「どうした、どうしたよ。」  という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。 「煩いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」  とはらりと立って、脛白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下へ下りたが、泣き留まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋って泣いじゃくる。  あるじは、きちんと坐り直って、 「どうしたの、酷く怯えたようだっけ。」 「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」  と頬に顔をかさぬれば、乳を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、 「鼬が、阿母さん。」 「ええ、」  二人は顔を見合わせた。  あるじは、居寄って顔を覗き、ことさらに打笑い、 「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」  小児はなお含んだまま、いたいけに捻向いて、 「ううむ、内じゃないの。お濠ン許で、長い尻尾で、あの、目が光って、私、私を睨んで、恐かったの。」  と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋めた。  また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。 「おお、そうかい、夢なんですよ。」 「恐かったな、恐かったな、坊や。」 「恐かったね。」  からからと格子が開いて、 「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。 「さあ、御馳走だよ。」  と衝と立ったが、早急だったのと、抱いた重量で、裳を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子。 「謹さん。」 「…………」 「翌朝のお米は?」  と艶麗に莞爾して、 「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」  と下を向いて高く言った。  その時襖の開く音がして、 「おそなわりました、御新造様。」  お民は答えず、ほと吐息。円髷艶やかに二三段、片頬を見せて、差覗いて、 「ここは閉めないで行きますよ。」 明治三十八(一九〇五)年六月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九巻」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003649", "作品名": "女客", "作品名読み": "おんなきゃく", "ソート用読み": "おんなきやく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3649.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成4", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年10月24日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月24日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第九巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年3月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "今井忠夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3649_ruby_12255.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-09-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3649_12116.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
     鯛、比目魚        一  素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯に酸漿を含んでいる。…… 「早瀬の細君はちょうど(二十)と見えるが三だとサ、その年紀で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺近所は官員の多い、屋敷町の夫人連が風説をする。  すでに昨夜も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可いのを撰って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎ねられて、利いた風な、と口惜がった。  面当てというでもあるまい。あたかもその隣家の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返しのほつれた鬢を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。  コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。  ちょいと吹留むと、今は寂寞として、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も居らず、雀の影もささぬ。  鼠かと思ったそうで、斜に棚の上を見遣ったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。  四辺を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽な音にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。  聞き定めて、 「おや、」と云って、一段下流の板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから駈け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽が、向うの井戸端の、柳の上から斜っかけに、遍く射込んで、俎の上に揃えた、菠薐草の根を、紅に照らしたばかり。  多分はそれだろう、口真似をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。  眉を顰めながら、その癖恍惚した、迫らない顔色で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖で音を入れる。響に応じて、コロコロと行ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方は発奮んだと見えて、コロコロコロ。  これを聞いて、屈んで、板へ敷く半纏の裙を掻取り、膝に挟んだ下交の褄を内端に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前の、下水の溜りに目を着けた。  もとより、溝板の蓋があるから、ものの形は見えぬけれども、優い連弾はまさしくその中。  笑を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ! 「蛙だね。」  と莞爾した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋を軽く拊ちながら、 「憎らしい、お源や…………」  来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧えて酸漿をまた吸った。  ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線の胴をうつかと思われつつ、静かに長くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。 「おう、」と突込んで長く引いた、遠くから威勢の可い声。  来たのは江戸前の魚屋で。        二  ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄の可い島田の女中が、逆上せたような顔色で、 「奥様、魚屋が参りました。」 「大きな声をおしでないよ。」  とお蔦は振向いて低声で嗜め、お源が背後から通るように、身を開きながら、 「聞こえるじゃないか。」  目配せをすると、お源は莞爾して俯向いたが、ほんのり紅くした顔を勝手口から外へ出して路地の中を目迎える。 「奥様は?」  とその顔へ、打着けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉んで、手を振って圧えた処へ、盤台を肩にぬいと立った魚屋は、渾名を(め組)と称える、名代の芝ッ児。  半纏は薄汚れ、腹掛の色が褪せ、三尺が捻じくれて、股引は縮んだ、が、盤台は美い。  いつもの向顱巻が、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって飲こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、 「おいでなさい、奥様、へへへへへ。」 「お止しってば、気障じゃないか。お源もまた、」  と指の尖で、鬢をちょいと掻きながら、袖を女中の肩に当てて、 「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様が、江戸に在るものかね。」 「だって、ねえ、めのさん。」  とお源は袖を擦抜けて、俎板の前へ蹲む。 「それじゃ御新造かね。」 「そんなお銭はありやしないわ。」 「じゃ、おかみさん。」 「あいよ。」 「へッ、」  と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤を立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の背を上から見て、 「相かわらず大な尻だぜ、台所充満だ。串戯じゃねえ。目量にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」 「お前さんの圧ぐらい掛ります。」 「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」 「めの字、」 「ええ、」 「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様はおよしと言うのにね。」 「おっと、そうか、」  ぺろぺろと舌を吸って、 「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可い……」 「値切らない、」 「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦じゃねえか。」 「可いよ。私が承知しているんだから、」  と眦の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿やかに見えたので、め組もおとなしく頷いた。  お源が横向きに口を出して、 「何があるの。」 「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨えものを食してやるのよ。黙って入物を出しねえな。」 「はい、はい、どうせ無代価で頂戴いたしますものでございます。めのさんのお魚は、現金にも月末にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」 「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」 「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」 「あれ、見や、島田を揺ってら。」 「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」 「いかがでございますか、婦人の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」        三 「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」  と云って、め組の蓋を払った盤台を差覗くと、鯛の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗に消えないのである。  俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅、反を打って飜然と乗る。  とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸の構に取って、 「刺身かい。」 「そうね、」  とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。 「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」  と腰を入れると腕の冴、颯と吹いて、鱗がぱらぱら。 「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」 「憚様。お客は旦那様のお友達の母様でございます。」  めの字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚れながら、お源が引取って口を入れる。  えらを一突き、ぐいと放して、 「凹んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、めの公塩が廻り過ぎたい。」 「そういや、めの字、」  とお蔦は片手を懐に、するりと辷る黒繻子の襟を引いて、 「過日頼んだ、河野さん許へ、その後廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」 「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸かい。」 「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」 「行かねえ。」 「ほんとうに、」 「行きませんとも!」 「なぜさ、」 「なぜッて、お前、あん獣ア、」  お源が慌しく、 「めのさん、」 「何だ。」 「めのさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様じゃないか、気をお着けな。」  帽子をすっぽり亀の子竦みで、 「ホイ阿陀仏、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」 「いいえね、つい一昨日あたり故郷の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」 「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」 「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」 「ああ、」 「と御維新以来、江戸児の親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すめの公も、江戸城を明渡しの、落人を極めた時分、二年越居た事がありますぜ。  馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから私が居た土地だ。大概江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。  聞きねえ。  過日もね、お前、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ行くのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、佳い魚がなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。  脛を達引け、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」  お蔦は莞爾して、 「せんこうッて誰のこったね。」 「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」  と鰭をばっさり。        四 「可いじゃねえか、お前、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟とも言ったわけじゃねえ。」  と庖丁の尖を危く辷らして、鼻の下を引擦って、 「すると何だ。肥満のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐しただろうじゃねえか。  ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚んながら私あ酒も啖わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」 「そんなに、お邪魔なら退けますよ。」  お源が俎板を直して向直る。と面を合わせて、 「はははははは、今日あ、」 「何かい、それで腹を立って行かないのかい。」 「そこはお前さんに免じて肝の虫を圧えつけた。翌日も廻ったがね、今度は言種がなお気に食わねえ。  今日はもうお菜が出来たから要らないよサ。合点なるめえじゃねえか。私が商う魚だって、品に因っちゃ好嫌えは当然だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの噯なんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一魚が可哀相だ。  こっちはお前、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女が情人を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」 「今度は私が背後を向こうか。」  とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢に伏せた目笊を取る。 「そらよ、こっちが旦の分。こりゃお源坊のだ。奥様はあらが可い、煮るとも潮にするともして、天窓を噛りの、目球をつるりだ。」 「私は天窓を噛るのかい。」  お蔦は莞爾して、め組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。 「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」  とお源は柄杓で、がたりと手桶の底を汲む。 「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替しろ、朝飯に牛はあっても、鯛の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」 「はい、はい、」  手桶を引立てて、お源は腰を切って、出て、溝板を下駄で鳴らす。 「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人が居るんだから。」 「情人がね。」 「へい、」  と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。 「溝の中に、はてな。」  印半纏の腰を落して、溝板を見当に指しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、 「変ってますね。」 「見せようか。」 「是非お目に懸りてえね。」 「お待ちよ、」  と目笊は流へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。 「ね、可愛いだろう。」  カタカタカタ! 「蛙だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」 「朧月夜の色なんだよ。」  得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。 「畜生め、拝んでやれ。」  と好事に蹲込んで、溝板を取ろうとする、め組は手品の玉手箱の蓋を開ける手つきなり。 「お止しよ、遁げるから、」  と言う処へ、しとやかに、階子段を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑に釣瓶を覆したのである。      見知越        五  続いてドンドン粗略に下りたのは、名を主税という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。 「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」  格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝なる連弾を見届けようと、やにわにその蓋を払っため組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈めて、立直った束髪は、前刻から風説のあった、河野の母親と云う女性。  黒の紋羽二重の紋着羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰が学士だ先生だというのでも、大略知れた年紀は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶が見えた。  背は高いが、小肥に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢には御難だけれども、この位な年配で、服装が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾の一ツで、貴婦人方は、菖蒲が過ぎても遊ばさるる。  直ぐに御歩行かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱いた時、襦袢の裏の紅いのがチラリと翻る。  年紀のほどを心づもりに知っため組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸を窘めた処へ、 「まだ、花道かい?」  とお蔦が低声。 「附際々々、」  ともう一息め組の首を縮める時、先方は格子戸に立かけた蝙蝠傘を手に取って、またぞろ会釈がある。 「思入れ沢山だ。いよう!」  おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。  振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。め組はつかつかと二足三足、 「おやおやおや、」  調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。 「どうしたの。」 「可訝しいぜ。」  と急に威勢よく引返して、 「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親かね、静岡だって、故郷あ、」 「ああ。」 「家は医師じゃねえかしらん。はてな。」 「どうした、め組。」  とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。 「へへへへへ、」  満面に笑を含んだ、め組は蓮葉帽子の中から、夕映のような顔色。 「お早うござい。」 「何が早いものか。もう午飯だろう、何だ御馳走は、」  と覗込んで、 「ははあ、鯛だな。」 「鯛とおっしゃいよ、見ッともない。」  とお蔦が笑う。 「他の魚屋の商うのは鯛さ、め組のに限っちゃ鯛よ、なあ、めい公。」 「違えねえ。」 「だって、貴郎は柄にないわ、主公様は大人しく鯛魚とおっしゃるもんです、ねえ、めのさん。」 「違えねえ。」  主税は色気のない大息ついて、 「何にしろ、ああ腹が空いたぜ。」 「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食らないもの。」 「違えねえ、確にアリャ、」  と、め組は路地口へ伸上る。        六 「大分御執心のようだが、どうした。」  と、め組のその素振に目を着けて、主税は空腹だというのに。…… 「後姿に惚れたのかい。おい、もう可い加減なお婆さんだぜ。」 「だって貴郎にゃお婆さんでも、め組には似合いな年紀ごろだわ。ねえ、ちょいと、」 「へへへ、違えねえ。」 「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」 「だから、確だろうと思うんでさ。」  と呟いて独で飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、 「旦那、」 「己ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を揺る。 「え、何を。」 「文でも届けてくれじゃないか。」 「御串戯。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家へ帰りそうな様子でしたかね。」 「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」 「難有え、」  額をびっしゃり。 「後を慕って、おおそうだ、と遣れ。」 「行くのかい、河野さんへ。」 「ちょっぴりね、」 「じゃ可いけれど。貴郎、」  と主税を見て莞爾して、 「めい公がね、また我儘を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」 「そうか。」  となぜか、主税は気の無い返事をする。 「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」 「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」  と荷を上げそうにするのを見て、 「待て、待て、」 「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆欲がるンだから……」 「これ、」  旦那様苦い顔で、 「端近で何の事たい、野良猫に扱いやあがる。」 「だっ……て、」 「め組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害をする婦だ。」 「肯かないよ、めの字、沢山なんだから、」 「まあ、お前、」 「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」 「驚きますな。」 「私、もう障子を閉めてよ。」 「め組、この体だ。」 「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四寸ずつ食りまし。」 「おい、待てと云うに。」 「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」 「いや、遣瀬がねえ。」  と天秤棒を心にして、め組は一ツくるりと廻る。 「お菜のあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」  と笑いながらお蔦を睨んで、 「なあ、め組。」 「ええ、」 「これから河野へ行くんだろう。」 「三枚並で駈附けまさ。」 「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」        七 「その、河野へ行くに就いてだが、」  と主税は何か、言淀んで、 「何は、」  お蔦に目配せ、 「茶はないのか。」 「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言を云う癖に、貴郎こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」  と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、 「さあ、」  め組は威勢よく、 「へい、跡は明晩……じゃねえ、翌の朝だ。」 「待なッてば、」 「可いよ、めのさん。」 「はて、どうしたら、」と首を振る。 「お前たちは、」  と主税は呆れた顔で呵々と笑って、 「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。め組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、己が話があると言えば。  そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」  と口へつけて、指で飲む真似。 「と行る一件だ。」 「め組に……」 「沢山だ、沢山だ。私なら、」  と声ばかり沢山で、俄然として蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの構になる。 「不可ません、もう飲んでるんだもの。この上煽らして御覧なさい。また過日のように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」  お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜に酔ッぱらいを、拳固で見せて、 「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」 「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地なもんだ。」 「可いから、己が承知だから、」 「じゃ、め組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退いて頂戴よ、通れやしないわね。」 「ああ、もしもし、」  主税は身を躱して通しながら、 「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」 「知りませんよ。」  とつっと入る。 「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」  もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、 「今度八丁堀の私の内へ遊びに来ておくんなせえ。一番私がね、嚊々左衛門に酒を強請る呼吸というのをお目にかけまさ。」 「女房が寄せつけやしまい、第一吃驚するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め組。」  と下流へかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、 「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」 「何です、旦、」  と吃驚するほど真顔。 「お前さんや、奥様で、私に言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。  嚊々を貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」 「打附けた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内で口を利いて行くようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合の合わない処だ。  今来た、あの母親も、何のかのって云っているからな、もう彼家へは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯奢るから。」  とまめやかに言う。        八  皆まで聞かず、め組は力んで、 「誰が、誰があんな許へ、私ア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」 「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」 「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親ッて奴を冷かしに出かける肝でさ。」 「そういう料簡だから、お前、南町御構いになるんだわ。」  と盆の上に茶呑茶碗……不心服な二人分……焼海苔にはりはりは心意気ながら、極めて恭しからず押附ものに粗雑に持って、お蔦が台所へ顕れて、 「お客様は、め組の事を、何か文句を言ったんですか。」 「文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方にあったのよ。」  と盆を受取って押出して、 「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」 「貴郎のように意地汚ではありません。め組は何にも食べやしないのよ。」 「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」  と帽子を上へ抜上げると、元気に額の皺を伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒の尾のごとく、左の人指をひょいと刎ね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐る。  主税はむしゃりと海苔を頬張り、 「め組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」 「ですから御飯になさいなね、種々な事を言て、お握飯を拵えろって言いかねやしないんだわ。」 「実は……」と莞爾々々、 「その気なきにしもあらずだよ。」 「可い加減になさいまし、め組は商売がありますよ。疾くお話しなさいなね。」 「そう、そう。いや、可い気なもんです。」  と糸底を一つ撫でて、 「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえんに知己があるようで、真に近所へ極が悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入りをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説によると、あの、魚屋の出入をする家は、どこでも工面が悪いって事たから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下から……と先ずざっとこうよ。」  め組より、お蔦が呆れた顔をして、 「わざわざその断りに来なすったの。」 「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」 「仰山だわねえ。」 「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火ぐらいには吃驚したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め組怒っちゃ不可い。」 「分った……」  と唐突に膝を叩いて、 「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴、兇状持だ。」 「ええ―」  何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと極る。 「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。  め組は、どこか当なしに睨むように目を据えて、 「それを、私ア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」        九 「ウイ、だから私が出入っちゃ、どんな事で暴露ようも知れねえという肚だ。こっちあ台所までだから、ちっとも気がつかなかったが、先方じゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。  状あ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、笑かしゃあがら。」  と大きに気勢う。 「何だ、何だ、兇状とは。」 「あの、河野さんの母様がかい。」  とお蔦も真顔で訝った。 「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」 「ほほほ、貴郎、真面目で聞くことはないんだわ。め組の云う兇状持なら、あの令夫人がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅を拵えたって、自分の女房を敵のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。めの字、何か甘いものが好なんだろう。」 「いずれ、何か隠喰さ、盗人上戸なら味方同士だ。」 「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」 「何だ、」 「馬でさ。」 「馬だと……」 「旅俳優かい。」 「いんや、馬丁……貞造って……馬丁でね。私が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗めたが、病着で、噯の出るほど食ったんだ。」  主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、 「ほんとうか、め組、ほんとうかい。」  と事を好んだ聞きようをする。 「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、めの字、滅多なことは云うもんじゃありません、他の事と違うよ、お前、」 「あれ、串戯じゃねえ。これが嘘なら、私の鯛は場違だ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧じろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に大な榎があって、榎邸と云や、お前、興津江尻まで聞えたもんだね。  今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様で、その馬丁の情婦だ。  だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、児があらあ、児が。ああ、」  また一口がぶりと遣って、はりはりを噛んだ歯をすすって、 「ねえ、大勢小児がありましょう。」 「南町の学士先生もその一人、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」 「おお、待ちねえ、その先生は幾歳だね。」 「六か、七だ。」 「二十とだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人なんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど確な事はねえ。私ア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋惣助(本名)ばかりなりだ。  はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」  ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の蓋をした。 「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁とこいつだけは、命がけでも留められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬装られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」 「ああ、お前ももうおいででない。」 「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」  と茶碗を捻くる。 「厭な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」 「おお、」  と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、 「もうちっと精しくその話を聞かせないか。」  井戸端から、婦人の凧が切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。 「旦、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」      矢車草        十  お源のその慌しさ、駈けて来た呼吸づかいと、早口の急込に真赤になりながら、直ぐに台所から居間を突切って、取次ぎに出る手廻しの、襷を外すのが膚を脱ぐような身悶えで、 「真砂町の、」 「や、先生か。」  真砂町と聞いただけで、主税は素直に突立ち上る。お蔦はさそくに身を躱して、ひらりと壁に附着いた。 「いえ、お嬢様でございます。」 「嬢的、お妙さんか。」  と謂うと斉しく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で蹴覆して、羽織の紐を引掴んで、横飛びに台所を消えようとして、 「赤いか、」  お蔦を見向いて面を撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う目色で、 「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。 「弱った。」と頭を圧える。 「朝湯々々、」と莞爾笑う。 「軍師なるかな、諸葛孔明。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。  ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、め組の惣助、満面の笑に崩れた、とろんこの相格で、 「いよう、天人。」と向うを覗く。 「不可いよ、」  と強く云う、お蔦の声が屹としたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を掻攫って、 「失礼だわ。」  と極めつける。天下大変、吃驚して、黙って天秤の下へ潜ると、ひょいと盤台の真中へ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出て行く。  もう、玄関の、格子が開きそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、 「御覧、」と目配せする。  覗くは失礼と控えたのが、遁腰で水口から目ばかり出したと思うと、反返るように引込んで、 「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」 「ええ、こちらへ、」  と裾を捌くと、何と思ったか空を望み、破風から出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。 「あれ、奥様。」 「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然と飛込む。  驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、偏に恐入ってお辞儀をする。 「御免なさいよ。」  と優い声、はッと花降る留南奇の薫に、お源は恍惚として顔を上げると、帯も、袂も、衣紋も、扱帯も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀を見るような。  め組が刎返した流汁の溝溜もこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空が、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に縋れかし。  妙子は、有名な独逸文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。  父様は、この家の主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主に当る。さればこそ、嬢様と聞くと斉しく、朝から台所で冷酒のぐい煽り、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動魔のごときが、立処に影を潜めた。  まだそれよりも内証なのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。        十一  妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、 「こんなものを持っていますから、こちらから、」  とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑み、 「お邪魔をしてね。」 「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴んで、 「あれ、お召ものが、」  と云う内に、吾妻下駄が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸地に、浅黄と赤で、撫子と水の繻珍の帯腰、向う屈みに水瓶へ、花菫の簪と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入である。 「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の香がしてねえ、」と手を放すと、揺々となる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、顔酔いて桃に似たり。 「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾する。  お源はどぎまぎ、 「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」 「ちょいと、溢したの。やっぱり悪戯な小僧さん? 犬にばっかり弄っているんでしょう、私ン許のも同一よ。」  一廉社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。 「お裾が汚れます、お嬢様。」 「いいえ、可のよ、」  と褄は上げても、袖は板の間に敷くのであった。 「あの、お惣菜になすって下さい。」 「どうも恐れ入ります。」 「旨くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」  少し途切れて、 「お内ですか。」 「はい、」 「主税さんは……あの旦那様は、」  と言いかけて、急に気が着いたか、 「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」  成程、そこまでは水口の明が取れたが、奥へ行く道は暗かった。 「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」  とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。颯と明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。  その時台所へ落着いて顔を出した、主人の主税と、妙子は面を見合わせた。 「驚かして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯を言いながら、瓶なる花と対丈に、そこに娘が跪居るので、渠は謹んで板に片手を支いたのである。 「驚かしちゃ、私厭ですよ。」 「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」 「それでもね、」  と愛々しく打傾き、 「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」 「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」 「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に見惚れている。 「同じく頂戴が出来ますんで?」 「どうしようかしら。お茶を食るんなら可けれど、お酒を飲んじゃ、可哀相だわ。」 「え、酒なんぞ。」 「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」 「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」  と遁出すような。後へするする衣の音。階子段の下あたりで、主税が思出したように、 「成程、今日は日曜ですな。」 「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」        十二  二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り蒲団。 「どうぞ、お敷きなさいまし。」  主税は更って、慇懃に手を支いて、 「まあ、よくいらっしゃいました。」 「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、我儘も言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、喧嘩もしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一でも兵子帯と扱帯ほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、毛巾を便にして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎が燃えるようなり。 「御無沙汰を致しまして済みません。奥様もお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……飲酒りますか。」 「誰か、と同一ように……やっぱり……」と莞爾。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目を反らす。  主税は額に手を当てて、 「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上せますんですよ。前刻朝湯に参りました。」 「父様もね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」  主税は胸を据えた体に、両膝にぴたりと手を置き、 「平に、奥様には御内分。貴女また、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可ませんよ。」 「ほんとうに貴郎の半分でも、父様が母様の言うことを肯くと可いんだけれど、学校でも皆が評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて冷評すわ。」 「結構じゃありませんか。」 「厭だわ、私は。」 「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食れば、それに越した事はありません。後にその筋から御褒美が出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅を買い……お茶番の孝女だ。」  と大に擽って笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。 「私は、もう帰ります。」 「御串戯をおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅だの。」 「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」 「まあ、御褒美を差上げましょう。」  と主税が引寄せる茶道具の、そこらを視めて、 「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」 「いいえ、もう帰った後です。」 「厭な人ね?」  と唐突に澄まして云う。 「見たんですか。」 「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が伏っているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下嫌だもの、父様も。」 「天晴れ御鑑定、本阿弥でいらっしゃる。」と急須子をあける。 「誰方なの?」 「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」 「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、 「学士の方じゃなくって、」 「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。 「その母様と云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面の、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」 「まったく。どうして貴女、」 「私の学校へ、参観に。」      新学士        十三 「昨日は母様が来て御厄介でした。」  と、今夜主税の机の際に、河野英吉が、まだ洋服の膝も崩さぬ前から、 「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」  と肩を揺って、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、新いだけに美しい若々しい髯を押揉んだ。ちと目立つばかり口が大いのに、似合わず声の優しい男で。気焔を吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云っても可いから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その年紀で、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも大略解る。酒に酔わずにアルコオルに中毒るような人物で。  年紀は二十七。従五位勲三等、前の軍医監、同姓英臣の長男、七人の同胞の中に英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。  南町の邸は、祖母さんが監督に附いて、英吉が主人で、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに桐楊塾と題したのである。漢詩の嗜がある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義審ならず。  英吉に問うと、素湯を飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。  説を為すものあり、曰く、桐楊の桐は男児に較べ、楊は令嬢たちに擬えたのであろう。漢皇重色思傾国……楊家女有、と同一字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいは然らむ。が男の方は、桐に鳳凰、とばかりで出処が怪しく、花骨牌から出たようであるから、遂にどちらも信にはならぬ。  休題、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓が嬢たちで、更に憚る処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ烏金の絶倍で、しばしばかいがんに及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、びきで、あおたんの掴みだと思うと、手八の蒔直しで夜泊の、昼流連。祖母さんの命を承けて、妹連から注進櫛の歯を挽くがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。 「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」  親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い挨拶も、母様で、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何と豪いか、恐入ったろう、と極めつけるがごとくに聞える。  例の調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、 「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」  机の前に鉄拐胡坐で、悠然と煙草を輪に吹く。 「しかし、君、その自から、何だろう。」  とその何だか、火箸で灰を引掻いて、 「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……  直の妹なんざ、随分脱兎のごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」  と髯を捻る。        十四 「で、何かね、母様は、」  と主税は笑いながら、わざと同一ように母様と云って、煙管を敲き、 「しばらく御滞在なんですかい。」 「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に凭掛る。 「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから真直にお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」 「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。 「相変らず辛抱が出来ないか。」 「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。賑じゃあるし、料理が上手だからお菜も旨いし、君、昨夜は妹たちと一所に西洋料理を奢って貰った、僕は七皿喰った。ははは、」  と火箸をポンと灰に投て、仰向いて、頬杖ついて、片足を鳶になる。 「御馳走と云えば内へ来るめ組だが、」  皆まで聞かず、英吉は突放したように、 「ありゃ君、もう来なくッても可いよ。余り失礼な奴だと、母様が大変感情を害したからね、君から断ってくれたまえ。」  と真面目で云って、衣兜から手巾をそそくさ引張出し、口を拭いて、 「どうせ東京の魚だもの、誰のを買ったって新鮮いのは無い。たまに盤台の中で刎ねてると思や、蛆で蠢くか、そうでなければ比目魚の下に、手品の鰌が泳いでるんだと、母様がそう云ったっけ。」  め組が聞いたら、立処に汝の一命覚束ない、事を云って、けろりとして、 「静岡は口の奢った、旨いものを食う処さ。汽車の弁当でも試たまえ、東海道一番だよ。」  主税はどこまでも髯のある坊ちゃんにして、逆らわない気で、 「いや、何か、手前どもで、め組のものを召食って、大層御意に叶ったから、是非寄越してくれと誰かが仰有るもんだから取あえず差立てたんだ。御家風を存じないでもなかったけれども、承知の上で、君がたってと云ったから、」 「僕は構わん。僕は構わんが、あの調子だもの、祖母さんや妹たちはもとよりだ。故郷から連れて来ている下女さえ吃驚したよ。母様は、僕を呼びつけて談じたです。あんなものに朋輩呼ばわりをされるような悪い事をしたか。そこいらの芸妓にゃ、魚屋だの、蒲鉾屋の職人、蕎麦屋の出前持の客が有ると云うから、お前、どこぞで一座でもおしだろう、とね、叱られたです。  僕は何、あれは通りもんです。早瀬の許へ行っても、同一く、今日は旨えものを食わせてやろう。居るか、と云った調子です、と云ったら、母様が云うにゃ、当前だ、早瀬じゃ、細君……」  と云いかけて、ぐっと支えたが、ニヤリとして、 「君、僕は饒舌りやしないよ。僕は決して饒舌らんさ。秘密で居ることを知ってるから、君の不利益になるような事は云わないがね、妹たちが知ってるんだ。どこかで聞いて来てたもんだから、ついね、」  と気の毒そう。 「まあ、可い、そんな事は構わないが、僕と懇意にしてくれるんなら、もうちっと君、遊蕩を控えて貰いたいね。  昨日も君の母様が来て、つくづく若様の不始末を愚痴るのが、何だか僕が取巻きでもして、わッと浮かせるようじゃないか。  高利を世話して、口銭を取る。酒を飲ませてお流頂戴。切々内へ呼び出しちゃ、花骨牌でも撒きそうに思ってるんだ。何の事はない、美少年録のソレ何だっけ、安保箭五郎直行さ。甚しきは美人局でも遣りかねないほど軽蔑していら。母様の口ぶりが、」  とややその調子が強くなったが、急に事も無げな串戯口、 「ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。」 「母様の来ている内は謹慎さ。」  と灰を掻きまわして、 「その代り、西洋料理七皿だ。」と火箸をバタリ。        十五 「じゃあ色気より食気の方だ、何だか自棄に食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。」 「済みやしないよ、七皿のあとが、一銚子、玉子に海苔と来て、おひけとなると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が突張るです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。」  と甘えるような身体つき、座蒲団にぐったりして、横合から覗いて云う。 「何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……」 「いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。」 「お疑いなさるは御勝手さ。癪に障ればったって、恐い事、何あるものか、君の母親が何だ?」  と云いかけて、語気をかえ、 「そう云っちまえば、実も蓋もない。痛くない腹を探られるのは、僕だって厭だ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。」 「うむ、そりゃあれです、君に逢わない内は疑っていないでもなかったがね、」  あえて臆面は無い容子で、 「昨日逢ってから、そうした人じゃないようだ、と頷いていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。」 「じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、(ようだ。)とまだ疑があるのか。」 「だってただ一面識だものね、三四度交際って見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。」 「何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。」  と横を向いて、微笑んで、机の上の本を見た。何の書だか酒井蔵書の印が見える。真砂町から借用のものであろう。  英吉は、火鉢越に覗きながら、その段は見るでもなく、 「年紀は取ってるけれど、まだ見た処は若いよ。君、婦人会なんぞじゃ、後姿を時々姉と見違えられるさ。  で、何だ、そうやって人を見る明が有るもんだから、婿の選択は残らず母様に任せてあるんだ。取当てるよ。君、内の姉の婿にした医学士なんざ大当りだ。病院の立派になった事を見たまえな。」 「僕なんざ御選択に預れまいか。」  と気を、その書物に取られたか、木に竹を接いだような事を云うと、もっての外真面目に受けて、 「君か、君は何だ、学位は持っちゃおらんけれど、独逸のいけるのは僕が知ってるからね。母様の信用さえ得てくれりゃ、何だ。ええ君、妹たちには、もとより評判が可いんだからね、色男、ははは、」  と他愛なく身体中で笑い、 「だって、どうする。階下に居るのを、」  背後を見返り、 「湯かい。見えなかったようだっけ。」  主税は堪えず失笑したが、向直って話に乗るように、 「まあ、可い加減にして、疾く一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ遊蕩も留みます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。」 「むむ、その事だがね。」  とぐったりしていた胸を起して、また手巾で口を拭いて、なぜか、縞のズボンを揃えて、ちゃんと畏まって、 「実はその事なんだ。」 「何がその事だ。」 「やっぱりその事だ。」 「いずれその事だろう。」 「ええ、知ってるのか。」 「ちっとも知らない、」  と煙管を取って、 「いや、真面目に真面目に、何か、心当りでも出来たかね。」      縁談        十六  時に河野がその事と言えば、いずれ婦に違いないが、早瀬はいつもこの人から、その収紅拾紫、鶯を鳴かしたり、蝶を弄んだりの件について、いや、ああ云ったがこれは何と、こう申したがそれは如何。無心をされたがどうしたものか、なるべくは断りたい、断ったら嫌われようか、嫌われては甚だ不好い。一体恋でありながら金子をくれろは変な工合だ、妙だよ。その意志のある処を知るに苦む、などと、※(「そろべくそろ」の合字)紅をさして、蚯蚓までも突附けて、意見? を問われるには恐れている。  誇るに西洋料理七皿をもってする、式のごとき若様であるから、冷評せば真に受ける、打棄って置けば悄げる、はぐらかしても乗出す。勢い可い加減にでも返事をすれば、すなわち期せずして遊蕩の顧問になる。尠からず悩まされて、自分にお蔦と云う弱点があるだけ、人知れず冷汗が習であったから、その事ならもう聞くまい、と手強く念を入れると、今夜はズボンの膝を畏っただけ大真面目。もっとも馴染の相談も串戯ではないのだけれども。特に更って、ついにない事、もじもじして、 「実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……」 「縁談だね、真面目な。」  珍らしそうに顔を見て、 「母様から御声懸りで、僕に相談と云う縁談の口は、当時心当りが無いが。ああ、」  と軽く膝を叩いた。 「隣家のかい。むむ、あれは別嬪だ。ちょいと高慢じゃあるが、そのかわり学校はなかなか出来るそうだ。」  英吉は小児のように頭を振って、 「ううむ、違うよ。」 「違う。じゃ誰だい。」  と落着いて尋ねると、慌てて衣兜へ手を突込み、肩を高うして、一ツ揺って、 「真砂町の、」 「真砂町⁉」  と聞くや否や、鸚鵡返しに力が入った。床の間にしっとりと露を被いだ矢車の花は、燈の明を余所に、暖か過ぎて障子を透した、富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しく活っている。  見よ、河野が座を、斜に避けた処には、昨日の袖の香を留めた、友染の花も、綾の霞も、畳の上を消えないのである。  真砂町、と聞返すと斉しく、屹とその座に目を注いだが、驚破と謂わば身をもって、影をも守らん意気組であった。  英吉はまた火箸を突支棒のようにして、押立尻をしながら、火鉢の上へ乗掛って、 「あの、酒井ね、君の先生の。あすこに娘があるんだね。」 「あるさ、」と云ったが、余り取っても着けないようで、我ながら冷かに聞えたから、 「知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、脱落はあるまいに。」 「洋燈台下暗しで、(と大に洒落れて、)さっぱり気が付かなかった。君ン許へもちょいちょい遊びに来るんだろう。」 「お成りがあるさ。僕には御主人だ。」 「じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。」  何か残惜く、かごとがましく、不平そうに謂ったのが、なぜ見せなかった、と詰るように聞えたので、早瀬は石を突流すごとく、 「縁が無かったんだろうよ。」 「ところがあります、ははは、」と、ここでまた相好とともに足を崩して、ぐたりと横坐りになって、 「思うに逢わずして思わざるに……じゃない。向うも来れば僕も来るのに、此家で逢いそうなものだったが、そうでなくって君、学校で見たよ。ああ、あの人の行く学校で、妙子さんの行く学校で。」  と、何だか話しに乗らないから、畳かけて云った。妙子、と早や名のこの男に知られたのを、早瀬はその人のために恥辱のように思って、不快な色が眉の根に浮んだ。 「どうして、学校で、」  とこの際わざと尋ねたのである。母子で参観したことは、もう心得ていたのに。        十七 「どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。先にから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃ佳いのが居ると云ったっけが、」 「じゃあその教頭、媒酌人も遣るんだな。」  と舌尖三分で切附けたが、一向に感じないで、 「遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。」 「怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と緋縮緬の交換だな。いや、可い面の皮だ。ずらりと並べて選取りにお目に掛けます、小格子の風だ。」 「可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、媒酌もしようじゃあないか。」  とこの人にして大警句。早瀬は恐入った体で、 「成程、」 「勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、」  と自若として、自分で云って、意気頗る昂然たりで、 「講堂で良妻賢母を拵えて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。」 「で何かね、」  早瀬は、斜めに開き直って、 「そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。」 「ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、優美で、品が良くって、愛嬌がある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかも可、学校も照陽女学校さ。」  と冷えた茶をがぶりと一口。浮かれの体とおいでなすって、 「はは、僕ばかりじゃない、第一母様が気に入ったさ。あれなら河野家の嫁にしても、まあまあ……恥かしくない、と云って、教頭に尋ねたら、酒井妙子と云うんだ。ちょっと、教員室で立話しをしたんだから、委いことは追てとして、その日は帰った。  すると昨日、母様がここへ訪ねて来たろう。帰りがけに、飯田町から見附を出ようとする処で、腕車を飛ばして来た、母衣の中のがそれだッたって、矢車の花を。」  と言いかけて、床の間を凝と見て、 「ああ、これだこれだ。」  ひょいと腰を擡げて、這身にぬいと手を伸ばした様子が、一本引抜きそうに見えたので、 「河野!」 「ええ、」 「それから。おい、肝心な処だ。フム、」  乗って出たのに引込まれて、ト居直って、 「あの砂埃の中を水際立って、駈け抜けるように、そりゃ綺麗だったと云うのだ。立留って見送ると、この内の角へ車を下ろしたろう。  そろそろ引返したんです、母様がね。休んでいた車夫に、今のお嬢さんは真中の家へですか。へい、さようで、と云うのを聞いて帰ったのさね。」  と早口に饒舌って、 「美人だねえ。君、」とゆったり顔を見る。 「ト遣った工合は、僕が美人のようだ、厭だ。結婚なんぞ申込んじゃ、」と笑いながら、大に諷するかのごとくに云って、とんと肩を突いて、 「浮気ものめ。」 「浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。」  また甘えるように、顔を正的に差出して、頤を支えた指で、しきりに忙く髯を捻る。  早瀬はしばらく黙ったが、思わず拱いていた腕に解くと、背後ざまに机に肱、片手をしかと膝に支いて、 「貰うさ。」 「え。」 「お貰いなさい。」 「くれようか。」 「話によっちゃ、くれましょう。」 「後継者じゃないんだね。」 「勿論後継者じゃあない。」 「じゃ、まあ、話は出来るとして、」と、澄まして云って、今度は心ありげに早瀬の顔を。 「だが、何だよ、私ア」と云った調子が変って、 「媒介人は断るぜ、照陽女学校の教頭じゃないんだから。」        十八  そうすると英吉が、かねて心得たりの態度で、媒酌人は勿論、しかるべき人をと云ったのが、其許ごときに勤まるものかと、軽んじ賤しめたように聞えて、 「そりゃ、いざとなりゃ、教育界に名望のある道学者先生の叔父もあるし、また父様の幕下で、現下その筋の顕職にある人物も居るんだから、立派に遣ってくれるんだけれど、その君、媒酌人を立てるまでに、」  と手を揃えて、火鉢の上へ突出して、じりりと進み、 「先方の身分も確めねばならず、妙子、(ともう呼棄てにして)の品行の点もあり、まあ、学校は優等としてだね。酒井は飲酒家だと云うから、遺伝性の懸念もありだ。それは大丈夫としてからが、ああいう美しいのには有りがちだから、肺病の憂があってはならず、酒井の親属関係、妙子の交友の如何、そこらを一つ委しく聞かして貰いたいんだがね。」  主税は堪りかねて、ばりばりと烏府の中を突崩した。この暖いのに、河野が両手を翳すほど、火鉢の火は消えかかったので、彼は炭を継ごうとして横向になっていたから、背けた顔に稲妻のごとく閃いた額の筋は見えなかったが、 「もう一度聞こう、何だっけな。先方の身分?」 「うむ、先方の身分さ。」 「独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。」 「むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、」 「それから、」 「遺伝さ、」 「肺病かね、」 「親族関係、交友の如何さ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然に疎くなるです。それに母様が厳しく躾れば、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った侠客風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい物費も少くない。それにゃ、評判の飲酒家だし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。」  主税は黙って、茶を注いだが、強いて落着いた容子に見えた。 「何かね、持参金でも望みなのかね。」 「馬鹿を謂いたまえ。妹たちを縁附けるに、こちらから持参はさせるが、僕が結婚するに、いやしくも河野の世子が持参金などを望むものか。  君、僕の家じゃ、何だ、女の児が一人生れると、七夜から直ぐに積立金をするよ。それ立派に支度が出来るだろう。結婚してからは、その利息が化粧料、小遣となろうというんだ。自然嫁入先でも幅が利きます。もっともその金を、婿の名に書き替るわけじゃないが、河野家においてさ、一人一人の名にして保管してあるんだから、例えば婿が多日月給に離れるような事があっても、たちまち破綻を生ずるごとき不面目は無い。  という円満な家庭になっているんだ。で先方の財産は望じゃないが、余り困っているようだと、親族の関係から、つい迷惑をする事になっちゃ困る。娘の縁で、一時借用なぞというのは有がちだから。」 「酒井先生は江戸児だ!」  と唐突に一喝して、 「神田の祭礼に叩き売っても、娘の縁で借りるもんかい。河野!」  と屹と見た目の鋭さ。眉を昂げて、 「髯があったり、本を読んだり、お互の交際は窮屈だ。撲倒すのを野蛮と云うんだ。」  お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁として、繻子の襟の烏羽玉にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢もない。  石鹸を巻いた手拭を持ったままで、そっと階子段の下へ行くと、お源は扉に附着いて、一心に聞いていた。        十九 「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。当方からお給事をしようと云うんじゃなし、第一欲しいと仰有ったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、裸体にして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。  私あ第一、河野。世間の宗教家と称うる奴が、吾々を捕えて、罪の児だの、救ってやるのと、商売柄好な事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん言種だと思ってるんです。  今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の身許検べの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免蒙る。そのかわりだ、半纏着の附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」  と調子が砕けて、 「母様の指揮だろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを見染たんだ。」 「うう、まあ……」と対手の血相もあり、もじもじする。 「惚れてよ、可愛い、可憐いものなら、なぜ命がけになって貰わない。  結婚をしたあとで、不具になろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。  まあ、何は措いて、嫁の内の財産を云々するなんざ、不埒の到だ。万々一、実家の親が困窮して、都合に依って無心合力でもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつ分るんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」  と思い入った体で、煙草を持った手の尖がぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いて首だけ垂れていたが、かえって襖の外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。  何の話? と声のはげしいのを憂慮って、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りの颯と上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように莞爾して、忍んで段を上って、上り口の次の室の三畳へ、欄干を擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、両人には気が付かずに居るのである。  と河野は自分には勢のない、聞くものには張合のない口吻で、 「だが、母さんが、」 「母様が何だ。母様が娶うんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。  君の一家は、およそどのくらいな御門閥かは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。  昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」  と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、 「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ン許の妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。  揃って容色も好、また不思議に皆別嬪だ。知ってるだろう。生れたての嬰児の時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、妙齢にするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」  主税は返す言もなく、これには否応なく頷かされたのである。蓋し事実であるから。      一家一門        二十 「それから、財産は先刻も謂った通り、一人一人に用意がしてある。病気なり、何なりは、父様も兄も本職だから注意が届くよ。その他は万事母様が預かって躾けるんだ。  好嫌は別として、こちらで他に求める条件だけは、ちゃんとこちらにも整えてあるんだから、強ち身勝手ばかり謂うんじゃない。  けれども、品行の点は、疑えば疑えると云うだろう。そこはね、性理上も斟酌をして、そろそろ色気が、と思う時分には、妹たちが、まだまだ自分で、男をどうのこうのという悪智慧の出ない先に、親の鑑定で、婿を見附けて授けるんです。  否も応も有りやしない。衣服の柄ほども文句を謂わんさ。謂わない筈だ、何にも知らないで授けられるんだから。しかし間違いはない、そこは母さんの目が高いもの。」 「すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと不可んのだね。」 「勿論さ、だから、皆円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、直の妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。皆食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、」 「妙に選取って揃えたもんだな。」 「うむ、それは父様の主義で、兄弟一家一門を揃えて、天下に一階級を形造ろうというんだ。なるべくは、銘々それぞれの収入も、一番の姉が三百円なら、次が二百五十円、次が二百円、次が百五十円、末が百円といった工合に長幼の等差を整然と附けたいというわけだ。  先ず行われている、今の処じゃ。そうしてその子、その孫、と次第にこの社会における地位を向上しようというのが理想なんです。例えば、今の代が学士なら、その次が博士さ、大博士さね。君。  謂って見れば、貴族院も、一家族で一党を立てることが出来る。内閣も一門で組織し得るようにという遠大の理想があるんだ。また幸に、父様にゃ孫も八九人出来た。姪を引取って教育しているのも三四人ある。着々として歩を進めている。何でも妹たちが人才を引着けるんだ。」  人事ながら、主税は白面に紅を潮して、 「じゃ、君の妹たちは、皆学士を釣る餌だ。」 「餌でも可い、構わんね。藤原氏の為だもの。一人や二人犠牲が出来ても可いが、そりゃ大丈夫心配なしだ。親たちの目は曇りやしない。  次第々々に地位を高めようとするんだから、奇才俊才、傑物は不可ん。そういうのは時々失敗を遣る。望む処は凡才で間違いの無いのが可いのだ。正々堂々の陣さ、信玄流です。小豆長光を翳して旗下へ切込むようなのは、快は快なりだが、永久持重の策にあらず……  その理想における河野家の僕が中心なんだろう。その中心に据ろうという妻なんだから、大に慎重の態度を取らんけりゃならんじゃないか。詰り一家の女王なんだから、」  河野は、渠がいわゆる正々堂々として説くこと一条。その理想における根ざしの深さは、この男の口から言っても、例の愚痴のように聞えるのや、その落着かない腰には似ない、ほとんど動かすべからざる、確乎としたものであった。 「いや、よく解った、成程その主義じゃ、人の娘の体格検査をせざあなるまい。しかし私は厭だ! 私の娘なら断るよ、たとい御試験には及第を致しましても、」  と冷かに笑うと、河野は人物に肖ず、これには傲然として、信ずる処あるごとく、合点んだ笑い方をして、 「でも、条件さえ通過すれば、僕は娶うよ。ははは、きっと貰うね、おい、一本貰って行くぜ。」  と脱兎のごとく、かねて計っていたように、この時ひょいと立つと、肩を斜めに、衣兜に片手を突込んだまま、急々と床の間に立向うて、早や手が掛った、花の矢車。  片膝立てて、颯と色をかえて、 「不可いよ。」 「なぜかい?」  と済まして見返る。主税は、ややあせった気味で、 「なぜと云って、」 「はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。」  と突立ったまま、ニヤリとして、 「早瀬、君がどうかしているんじゃないか、ええ、おい、妙子を。」        二十一  冷か、熱か、匕首、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようと急ったが、咄嗟に針を吐くあたわずして、主税は黙って拳を握る。  英吉は、ここぞ、と土俵に仕切った形で、片手に花の茎を引掴み、片手で髯を捻りながら、目をぎろぎろと……ただ冴えない光で、 「だろう、君、筒井筒振分髪と云うんだろう。それならそう云いたまえ、僕の方にもまた手加減があるんだ、どうだね。」  信玄流の敵が、かえってこの奇兵を用いたにも係らず、主税の答えは車懸りでも何でもない、極めて平凡なものであった。 「怪しからん事を云うな、串戯とは違う、大切なお嬢さんだ。」 「その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。」 「怪しからん事を云うなと云うのに。」 「じゃ確かい。」 「御念には及びません。」 「そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子を秘さんでも可いじゃないか。話が纏まりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の女王になるんだ。」 「幸か、不幸か、そりゃ知らん、が、私は厭だ。一門の繁栄を望むために、娘を餌にするの、嫁の体格検査をするの、というのは真平御免だ。惚れたからは、癩でも肺病でも構わんのでなくっちゃ、妙ちゃんの相談は決してせん。勿論お嬢は瑕のない玉だけれど、露出しにして河野家に御覧に入れるのは、平相国清盛に招かれて月が顔を出すようなものよ。」といささか云い得て濃い煙草を吻と吐いたは、正にかくのごとく、山の端の朧気ならん趣であった。 「なら可い、君に聞かんでも余処で聞くよ。」  と案外また英吉は廉立った様子もなく、争や勝てりの態度で、 「しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、」 「…………」 「君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、」 「…………」 「失敬、」  あわや抜き出そうとする。と床しい人香が、はっと襲って、 「不可ませんよ。」と半纏の襟を扱きながら、お蔦が襖から、すっと出て、英吉の肩へ手を載せると、蹌踉けるように振向く処を、入違いに床の間を背負って、花を庇って膝をついて、 「厭ですよ、私が活けたのが台なしになります。」  と嫣然として一笑する。 「だって、だって君、突込んであるんじゃないか、池の坊も遠州もありゃしない。ちっとぐらい抜いたって、あえてお手前が崩れるというでもないよ。」  とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の目前を、(子を捉ろ、子捉ろ。)の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。 「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」 「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」  主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、 「だってもう主のある花ですもの。」 「主がある!」と目を睜る。 「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」 「それ見ろ、早瀬、」 「何だ、お前、」 「いいえ、貴下、この花を引張るのは、私を口説くのと同一訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」  と寄ると、英吉は一足引く。 「さあ、口説いて頂戴、」  と寄ると、英吉は一足引く。微笑みながら擦り寄るたびに、たじたじと退って、やがて次の間へ、もそりと出る。      道学先生        二十二  月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑かな。書肆文求堂をもうちっと富坂寄の大道へ出した露店の、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の除れた、けばの立った、端摺の甚い、三世相を開けて、燻ぼったカンテラの燈で見ている男は、これは、早瀬主税である。  何の事ぞ、酒井先生の薫陶で、少くとも外国語をもって家を為し、自腹で朝酒を呷る者が、今更いかなる必要があって、前世の鸚鵡たり、猩々たるを懸念する?  もっとも学者だと云って、天気の好い日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながら嗅ぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。  主税とても、ただ通りがかりに、露店の古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えばそれまでである。けれども、渠は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。  且つその顔色が、紋附の羽織で、袘の厚い内君と、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と歩行っている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。  好男子世に処して、屈託そうな面色で、露店の三世相を繰るとなると、柳の下に掌を見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。  所以ある哉、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の機知で、柔能く強を制することを得たのだから、例なら、いや、女房は持つべきものだ、と差対いで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。  本来だと、朋友が先生の令嬢を娶りたいに就いて、下聴に来たものを、聞かせない、と云うも依怙地なり、料簡の狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、情婦から来た文殻が紛込んだというので、紙屑買を追懸けて、慌てて盗賊と怒鳴り兼ねまい。こちの人措いて下さんせ、と洒落にも嗜めてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花を持せたのでも、河野一家に対しては、お蔦さえ、如何の感情を持つかが明かに解る。  それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。  そうでなくっても、惚れそうな芸妓はないか。新学士に是非と云って、達引きそうな朋輩はないか、と煩く尋ねるような英吉に、厭なこった、良人が手を支いてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ引退る。処へ、幾条も幾条も家中の縁の糸は両親で元緊をして、颯さらりと鵜縄に捌いて、娘たちに浮世の波を潜らせて、ここを先途と鮎を呑ませて、ぐッと手許へ引手繰っては、咽喉をギュウの、獲物を占め、一門一家の繁昌を企むような、ソンな勘作の許へお嬢さんを嫁られるもんか。  いいえ、私が肯かないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、熱い湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどの勢。        二十三  何が大丈夫だか、主税には唐突で、即座には合点しかねるばかり、お蔦の方の意気込が凄じい。  まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、杖を支いて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて歩行く中に、誰かの口で水を注せば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。  けれども、なぜか、母子連で学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを観世物にし、またされたようで癪に障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町様へ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろと嘗められる夢を見て、今夜にも寝ていて魘されそうで、お可哀相でなりません。貴郎油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に附着かれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――  もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫ではない、臥蚕である。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫の厭うべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。  で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに岡惚をしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の令夫人にして私が追出される方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。  この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく頼母しかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉も例になく顔を見せなかった。  と一日、 (早瀬氏は居らるるかね。)  応柄のような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。  主税は、しかかっていた翻訳の筆を留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、痘痕のおあんなさいます、と一番疾く目についた人相を言ったので、直ぐ分った。  本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りが可ければと言って、渾名を名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……傍へ羅馬字で、L. Sakata.  すなわち歴々の道学者先生である。  渠の道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その痘痕と、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。  謂うまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、前の二人とも若死をして、目下のがまた顔色が近来、蒼い。  と云ってあえて君子の徳を傷けるのではない、が、要のないお饒舌をするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、盞の数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。  処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき媒妁人は少いから、呉も越も隔てなく口を利いて巧く纏める。従うて諸家の閨門に出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う風説を聞く。その袖を曳いたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の余徳であろう。もっとも出来た験はない。蓋しせざるにあらず能わざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。於爰乎、品行方正、御媒妁人でも食って行かれる……        二十四  道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くともめ組が出入りをするような家庭? へ顔出しをする筈がない。と一度は怪んだが、偶然河野の叔父に、同一道学者何某の有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。  諸家お出入りの媒妁人、ある意味における地者稼の冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。推しものの痘痕は一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、竈下炭焼であるが、身躾よく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。地の透く髪を一筋梳に整然と櫛を入れて、髯の尖から小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。  さて、お初にお目に懸りまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、と謂わないばかりな言を、けろりとして世辞に云って、衣兜から御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく中古に草臥れても同一香の香水で、追かけ追かけ香わせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯が嫌らしい手に短い延の銀煙管、何か目出度い薄っぺらな彫のあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、寛悠と構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。  甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。  それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼躾方第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たとい噯が葱臭かろうが、干鱈の繊維が挟っていそうであろうが、お楊枝を、と云うは無礼に当る。  そこで、止むことを得ず、むずむずする口を堪える下から、直ぐに、スッとまたぞうろ風を入れて、でごわりまするに就いて、かような事は、余り正面から申入れまするよりと、考えることでごわりまする……と掻つまんで謂えば、自分はいまだ一面識も無いから、門生の主税から紹介をして貰いたいと言うのである。  南無三、橋は渡った、いつの間にか、お妙は試験済の合格になった。  今は表向に縁談を申込むばかりにしたらしい。それに、自分に紹介を求めるのは、英吉に反対した廉もあり、主税は面当をされるように擽たく思ったばかりか、少からず敵の機敏に、不意打を食ったのである。  いや、お断り申しましょう、英吉君に難癖のある訳ではないが、河野家の理想と言うものが根も葉も挙げて気に入らない。余所で紹介をお求めなさるなり、また酒井先生は紹介の有り無しで、客の分隔をするような人ではないから――直接にお話しなすって、御縁があれば纏る分。心に潔しとしない事に、名刺一枚御荷担は申兼ぬる、と若武者だけに逸ってかかると、その分は百も合点で、戦場往来の古兵。  取りあえず、スースーと歯をすすって、ニヤニヤと笑いかけて、何か令嬢お身の上に就いて、下聴をするのが、御賛成なかったとか申すことでごわりましたな。御説に因れば、好いた女なら娼妓でも(と少しおまけをして、)構わん、死なば諸共にと云う。いや、人生意気を重んず、(ト歯をすすって)で、ごわりまするが、世間もあり親もあり……  とこれから道学者の面目を発揮して、河野のためにその理想の、道義上完美にして非難すべき点の無いのを説くこと数千言。約半日にして一先ず日暮前に立帰った。ざっと半日居たけれども、飯時を避けるなぞは、さすがに馴れたものである。        二十五  客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々自棄気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。  そこを一つお考え直されて、と言を残して帰った後で、アバ大人が媒妁ではなおの事。とお妙の顔が蒼くなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が可惜がる大切なお主の娘、ならば身替りにも、と云う逆上せ方。すべてが浄瑠璃の三の切を手本だが、憎くはない。  さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら奥様まで、あんな許へは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ不可ません。ちょいと、羽織を着換えて、と箪笥をがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、明日め組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、彼奴が片思いになるように鮑がちょうど可い、と他愛もない。  馬鹿を云え、縁談の前へ立って、讒口なんぞ利こうものなら、己の方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にして刎ねられた、柳橋の策不被用焉。  また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、母様と云おうが、父様と云おうが、道義上あえて差支はない、かえって結構なくらいである。  そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。  困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦も鬱ぐ。  ここへ大いなる福音を齎らし来ったのはお源で。  手廻りの使いに遣ったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひし勢よく、唯今帰りました、あの、御新造様、大丈夫でございます。  明後日出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の掻巻に、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。  この忠義ものは、二人の憂を憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の売卜者に占て貰った、と云うのであった。  対手は学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い断念めものだ、と謂いましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ発奮みました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。  まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、勿怪な顔をして、いいえ、誰方のお年も存じません。お蔦は腑に落ちない容子をして、売卜者は、年紀を聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。  当前よ、対手が学士でお前じゃ、と堪りかねて主税が云うのを聞いて、目を睜って、しばらくして、ええ! 口惜いと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。  二人は顔を見合せて、ようように笑が出た。  すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛礼に遣って、その晩は市が栄えたが。  二三日経って、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、令夫人は御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。        二十六  仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう謂うつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振ではあり、誰方も留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染が薄いから、巻莨の吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど袂を膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興に馴々しく声を懸けた者がある。  玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩い日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫。  おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕のある立派な旦那が。  来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。終にゃ、き様、お伴をするだろう、懸りつけの医師はどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。  台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう賞めて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が極りますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と燥いだ。  余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。  曲角の漬物屋、ここいらへも探偵が入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌をする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに睨むと、腰かけ込んだ学生を対手に、そのまた金歯の目立つ事。  内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜の前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに鬱ぐ。  もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。  一日措いて、主税が自分嘱まれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、頤を撫でながら、じろじろ門札を視めていたのが、坂田礼之進。  早やここから歯をスーと吸って、先刻からお待ち申して……はちと変だ。  さては誰も物申に応うるものが無かったのであろう。女中は外出で? お蔦は隠れた。……  無人で失礼。さあ、どうぞ、と先方は編上靴で手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛に、突然二階へ懸上る。段の下の扉の蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷、長刀小脇に掻込んだりな。高箒に手拭を被せたのを、柄長に構えて、逆上せた顔色。  馬鹿め、と噴出して飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。  二階の論判一時に余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を芬とさせ、居間から顕われたのはお蔦で、艾はないが、禁厭は心ゆかし、片手に煙草を一撮。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草は利が可かった。※(火+發)と煙が、むらむらと立つ狼煙を合図に、二階から降りる気勢。飜然路地へお蔦が遁込むと、まだその煙は消えないので、雑水を撒きかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。        二十七  それ熟々、史を按ずるに、城なり、陣所、戦場なり、軍は婦の出る方が大概敗ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。  ゆえ如何となれば、お厭とあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方から先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に遣ったら、邪魔をする勿であるから、御懸念無用と、男らしく判然答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。  礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫まで捜を入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧えたのであろう。  讒口は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏る縁も破ることは出来たのだったに。  ここで賽は河野の手に在矣。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。  先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。  お蔦さえ、憂慮うよりむしろ口惜がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措ても、余所ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵持足、思いなしで敷居が高い。  で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌窺いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。  愚図々々すれば、貴郎例に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒がる。  勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子、と莞爾して仰せある、優しい顔が、眩いように後退して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫、止ぬる哉。  しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。  ちと、恐怖の形で、先ず玄関を覗いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中が、唯今すやすやと御寐になっていらっしゃいます、と云う。  悄々玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中で、四ッ谷の方へ縁附いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈で、お夜食が済むと、奥方の仰に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。  それでは私も通の方を、いずれ後刻、とこれを機に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後。      男金女土        二十八  主税は、礼之進が早くも二度の魁を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露たために、先生が太く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱いて、そこともなく横町から通りへ出て、件の漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立の梢へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。  東へ、西へ、と置場処の間数を示した標杙が仄白く立って、車は一台も無かった。真黒な溝の縁に、野を焚いた跡の湿ったかと見える破風呂敷を開いて、式のごとき小灯が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明の果敢さ。三束五束附木を並べたのを前に置いて、手を支いて、縺れ髪の頸清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反って、泣寐入りに寐入ったらしい嬰児が懐に、膝に縋って六歳ばかりの男の子が、指を銜えながら往来をきょろきょろと視める背後に、母親のその背に凭れかかって、四歳ぐらいなのがもう一人。  一陣風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀な光景。浮世の影絵が鬼の手の機関で、月なき辻へ映るのである。  さりながら、縁日の神仏は、賽銭の降る中ならず、かかる処にこそ、影向して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子の上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子の声を打聞かせたまうらんよ。  健在なれ、御身等、今若、牛若、生立てよ、と窃に河野の一門を呪って、主税は袂から戛然と音する松の葉を投げて、足疾くその前を通り過ぎた。  ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管を逆に吹口でぴたり戸外を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人店前を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱、と圧えた者がある。  向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集り。寂寞したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。  主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。  リボンも顔も単に白く、かすりの羽織が夜の艶に、ちらちらと蝶が行交う歩行ぶり、紅ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長けて大人びて、愛らしいよりも艶麗であった。  風呂敷包を左手に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷だけれども、花簪の下になって、脊が低い。渾名を鮹と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺の夥多しい婦で、主税が玄関に居た頃勤めた女中どん。  心懸けの好い、実体もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主の娘に引添うて、身を固めて行く態の、その円髷の大いのも、かかる折から頼もしい。  煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打ばかりの眼球の中を、仕切て、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは憚って差控えた。  そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい前の年までは、自分が、ああして附いて出たに。  とリボンが靡いて、お妙は立停まった。  肩が離れて、大な白足袋の色新しく、附木を売る女房のあわれな灯に近いたのは円髷で。実直ものの丁寧に、屈み腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って額ずいた時、お妙の手の巾着が、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。  書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、斉く星を仰いだのである。        二十九  ○男金女土大に吉、子五人か九人あり衣食満ち富貴にして――     男金女土こそ大吉よ     衣食みちみち…………  と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕と、雨染みと、摺剥けたので分らぬが、上に、業平と小町のようなのが対向いで、前に土器を控えると、万歳烏帽子が五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。  主税は、お妙の背後姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向き勝ちに薬師堂の方へ歩行いて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、漫に手に取って、相性の処を開けたのであった。  その英吉が、金の性、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が美い指の節から、寅卯戌亥と繰出したものである。  半吉ででもある事か、大に吉は、主税に取って、一向に芽出度ない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、始わるし、中程宜しからず、末覚束なしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。  のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に蔓らんずる根ざしが見えて容易でない。  すでに過日も、現に今日の午後にも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。  ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は厭、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。  大道で話をするのが可訝ければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦もある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中とても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細も無かった。  お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評しても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような間ではないに、ぬかったことをしたよ。  なぞと取留めもなく思い乱れて、凝とその大吉を瞻めていると、次第次第に挿画の殿上人に髯が生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ凭れかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。 「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突の笑声は、当露店の亭主で、目を細うして、額で睨んで、 「大分御意に召しましたようで、えへへ。」 「幾干だい。」  とぎょっとした主税は、空で値を聞いて見た。 「そうでげすな。」  と古帽子の庇から透かして、撓めつつ、 「二十銭にいたして置きます。」と天窓から十倍に吹懸ける。  その時かんてらが煽る。  主税は思わず三世相を落して、 「高価い!」 「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」 「何だか知らんが、さんざ汚れて引断ぎれているじゃないか。」 「でげすがな、絵が整然としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」  と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。 「余り高価いよ。」と立ちかける。 「お幾干で? ええ、旦那。」  と引据えるように圧えて云った。 「半分か。」 「へい。」 「それだって廉くはない。」        三十  亭主は膝を抱いて反身になり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色で。 「半価値は酷うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」 「一体高過ぎる、無法だよ。」  と主税はその言い種が憎いから、ますます買う気は出なくなる。 「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀は秘したしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」  いよいよむっとして、 「要らない。」と、また立とうとする。 「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」  片手を開いて、肱で肩癖の手つきになり、ばらばらと主税の目前へ揉み立てる。  憤然として衝と立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの燻った明を切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。  同時に、 「要るものなら買って置け。」  と鏽のある、凜とした声がかかった。  主税は思わず身を窘めた。帽子を払って、は、と手を下げて、 「先生。」  露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を支いて、片手で銀貨を圧えながら、きょとんと見上げる。  茶の中折帽を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子に丁子巴の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短な袖を投げた風采は、丈高く痩せぎすな肌に粋である。しかも上品に衣紋正しく、黒八丈の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、眉の秀でた、ただその口許はお妙に肖て、嬰児も懐くべく無量の愛の含まるる。  一寸見には、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人は許嫁で、お妙は先生がいまだ金鈕であった頃の若木の花。夫婦の色香を分けたのである、とも云うが……  酒井はどこか小酌の帰途と覚しく、玉樹一人縁日の四辺を払って彳んだ。またいつか、人足もややこの辺に疎になって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店の大傘を圧している。  会釈をしてわずかに擡げた、主税の顔を、その威のある目で屹と見て、 「少いものが何だ、端銭をかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」  と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の昂ったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。  呆気に取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、 「へい。」  とばかり怯えるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴んで、追縋って跡に附くと、早や五六間前途へ離れた。 「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用なのじゃないのでございますから、はい、」  と最初の一喝に怯気々々もので、申訳らしく独言のように言う。  酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、 「用らないものを、何だって価を聞くんだ。素見すのかい、お前は、」 「…………」 「素見すのかよ。」 「ええ、別に、」と俯向いて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ捻くる。  少時して、酒井はふと歩を停めて、 「早瀬。」 「はい、」  とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。        三十一  名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊懸違っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言は、太く主税の胸を刺した。 「どこへ行くんだ。」  これで突放されたようになって、思わず後退りすること三尺半。  この前の、原一つ越した横町が、先生の住居である。そなたに向って行くのに、従って歩行くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、 「散歩でございます。」 「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」 「いいえ、実は……」  といささか取附くことが出来た…… 「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」  酒井がずッと歩行き出したので、たじたじと後を慕うて、 「どちらへ?」 「俺か。」 「ずッと御帰宅でございますか。」  知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。 「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」 「ええ!」と云ったが、何は措いても夜が明けたように勇み立って、 「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足引返したが、慌ててまた先へ出て、 「お車を申しましょうか。」  とそわそわする。 「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒めだ。」と、衣紋を揺って、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊めた腕組になったと思うと、林檎の綺麗な、芭蕉実の芬と薫る、燈の真蒼な、明い水菓子屋の角を曲って、猶予わず衝と横町の暗がりへ入った。  下宿屋の瓦斯は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、 「奥さんが、お風邪気でいらっしゃいますそうで、不可ませんでございます。」 「逢ったか。」 「いえ、すやすやお寐みだと承りましたから、御遠慮申しました。」 「妙は居たかい。」 「四谷へ縁附いております、先のお光をお連れなさいまして、縁日へ。」 「そうか、娘が出歩行くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」  と少し言が和らいで来たので、主税は吻と呼吸を吐いて、はじめて持扱った三世相を懐中へ始末をすると、壱岐殿坂の下口で、急な不意打。 「お前の許でも皆健康か。」  また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳であろう、と自分でも疑って、 「はい?」  と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。  で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠の夜の光景は、楽天的に視ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々と轟く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。  通りかかる時、蒸気が真白な滝のように横ざまに漲って路を塞いだ。  やがて、水道橋の袂に着く――酒井はその雲に駕して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。  無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。  萌黄の光が、ぱらぱらと暗に散ると、炬のごとく輝く星が、人を乗せて衝と外濠を流れて来た。      電車        三十二  河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜、道学者坂田礼之進は、渠が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌ったり……と云うと尾籠になる。紳士貴婦人が互に相親睦する集会で、談政治に渉ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめと襷を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児が泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明い電車に乗った。 (アバ大人ですか、ハハハ今日の午後。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。  先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更めて夫子自身を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭で手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇の見物の幹事をして、それを縁に、俳優と接吻する貴婦人もあると云うから。  もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜にして、電車に乗ったのは事実である。 「ええ、込合いますから御注意を願います。」  礼之進は提革に掴りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕を散らして、目を配って、鬢、簪、庇、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児はこの味を知るまい、と乗合の婦の移香を、楽みそうに、歯をスーと遣って、片手で頤を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然として、慄然として、膚寒うして、腰が軽い。  途端に引込めた、年紀の若い半纏着の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴んだ。  道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸が居たそうな。 「…………」  と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨む。  対手は手拭も被らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭を下げて、 「御免なすって、」と盗むように哀憐を乞う目づかいをする。 「出、出しおろう、」  と震え声で、 「馬鹿!」と一つ極めつけた。 「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」  と革に縋ったまま、ぐったりとなって、悄気返った職人の状は、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分で縊ったようである。 「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕を蠢かして、堪えず、握拳を挙げてその横頬を、ハタと撲った。 「あ、痛、」  と横に身を反らして、泣声になって、 「酷、酷うござんすね……旦那、ア痛々、」  も一つ拳で、勝誇って、 「酷いも何も要ったものか。」  哄と立上る多人数の影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に革鞄を抱きながら、車掌が甲走った早口で、 「御免なさい、何ですか、何ですか。」        三十三  カラアの純白な、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を引捉えて、出せ、出せ、と喚いているからには、その間の消息一目して瞭然たりで、車掌もちっとも猶予わず、むずと曲者の肩を握った。 「降りろ――さあ、」  と一ツしゃくり附けると、革を離して、蹌踉と凭れかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人揉重なって、車掌台へ圧されて出ると、先から、がらりと扉を開けて、把手に手を置きながら、中を覗込んでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。  御嶽山を少し進んだ一ツ橋通を右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。 「少々お待ちを……」  と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息急いて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、後退りに身を反らせて、曲者を釣身に出ると、両手を突張って礼之進も続いて、どたり。  後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、押取巻いた。二人ばかり婦も交って。  外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向いて、硝子戸から覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴の羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深く、ふらふら坐眠りをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。  けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を睜いた瞳には、一点も睡そうな曇が無い。  惟うに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄も介わず弁じられよう恐があるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。 「攫られたのかい。」 「はい、」  と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。 「何でございますか、騒ぎです。」  先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高く車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団の、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。  主客顛倒、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕は砕けた、火の出るよう。 「猿唐人め。」  あろう事か、あっと頬げたを圧えて退る、道学者の襟飾へ、斜かいに肩を突懸けて、横押にぐいと押して、 「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸だ、盗賊だと……クソを啖え。ナニその、胡麻和のような汝が面を甜めろい! さあ、どこに私が汝の紙入を掏ったんだ。  こっちあまた、串戯じゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、踵と大した違えは無えから、ははは、」  と夜の大路へ笑が響いて、 「汝の方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念めてよ。難有く思え、日傭取のお職人様が月給取に謝罪ったんだ。  いつ出来た規則だか知らねえが、股ッたア出すなッてえ、肥満った乳母どんが焦ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様の足を踏みゃ、引摺下される御法だ、と往生してよ。」  と、車掌にひょこと頭を下げて、 「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」  また礼之進に突懸る。        三十四 「掏られた、盗られたッて、幾干ばかり台所の小遣をごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝がその面で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。  へん、鈍漢。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口が有るもんかい、疾くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。  さあ、お目通りで、着物を引掉って神田児の膚合を見せてやらあ、汝が口説く婦じゃねえから、見たって目の潰れる憂慮はねえ、安心して切立の褌を拝みゃあがれ。  ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝、どうするか見ろ。」 「やあ、風が変った、風が変った。」  と酒井は快活に云って、原の席に帰った。  車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢なく戻って、がちゃりと提革鞄を一つ揺って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々揉むのを、通り過ぎ状に見て進む。  と錦帯橋の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説とりどり。  あれは掏摸の術でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂へすっこかしにして、証拠が無いから逆捻じを遣るでございます、と小商人風の一分別ありそうなのがその同伴らしい前垂掛に云うと、こちらでは法然天窓の隠居様が、七度捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。  そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服を着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘の貴下、(と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌した娘の膝を叩いて、)簪へ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この娘が恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを堪えていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。  法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、大な足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆が怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。  駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、疾の前、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客が散らずに居りゃ、私達だって関合いは抜けませんや。巡査が来て、一応検べるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄を抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁に、尻上りに弁じたのである。  いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。  あえて人の憂を見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として悲むほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説を、耳を澄まして聞き取りながら、太く憂わしげな面色で。  実際鬱込んでいるのはなぜか。  忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨むがごとくにしていることを。        三十五  鬱ぐも道理、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。  もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙んで、僥倖そこでも乗客が込んだ、人蔭になって、眩い大目玉の光から、顔を躱わして免れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件の売卜者の行燈が、真黒な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸を支いたのは、お蔦の儀。  ひとえに御目玉の可恐いのも、何を秘そう繻子の帯に極ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音は、聞覚えている。  その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特に、似たもの夫婦の譬、信玄流の沈勇の方ではないから、随分飜然と露れ兼ねない。  いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。  あいにく例のように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行いたので、とこう云う間もなかった、早や我家の路地が。  堪りかねて、先生と、呼んで、女中が寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが疾いか、(お先へ、)は身体で出て、横ッ飛びに駈け抜ける内も、ああ、我ながら拙い言分。 (待て! 待て!)  それ、声が掛った。  酒井はそこで足を留めた。  屹と立って、 (宵から寐るような内へ、邪魔をするは気の毒だ。他へ行こう、一緒に来な。)  で路が変って、先生のするまま、鷲に攫われたような思いで乗ったのが、この両国行――  なかなか道学者の風説に就いて、善悪ともに、自から思虜を回らすような余裕とては無いのである。  電車が万世橋の交叉点を素直ぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川へ流罪ものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。  と観念の眼を閉じて首垂れた。 「早瀬、」 「は、」 「降りるんだ。」  一場展開した広小路は、二階の燈と、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、蒼に、萌黄に、紅に、寸隙なく鏤められた、綾の幕ぞと見る程に、八重に往来う人影に、たちまち寸々と引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く鞠となって、八方に投げ交わさるるかと思われる。  ここに一際夜の雲の濃やかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が閃く。  我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子の軒の燈籠の、媚かしく寂寞して、ちらちらと雪の降るような数ある中を、蓑を着た状して、忍びやかに行くのであった。      柏家        三十六  やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと明い、静粛としながら幽なように、三味線の音が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、地の濡れた、軒に艶ある、その横町の中程へ行くと、一条朧な露路がある。  芸妓家二軒の廂合で、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳むと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜えた態で、すらすらと靡いている。  梅と柳の間を潜って、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜めくのを、隣家の背戸の、低い石燈籠がト踞んだ形で差覗く。  主税は四辺を見て立ったのである。  先生がその肩の聳えた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸を叩くと、ばたばたと跫音聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。  と派手な友染の模様が透いて、真円な顔を出したが、燈なしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の前の、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々と笑いかけて、黙って引込むと、またばたばたばた。  程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が颯と点くのを合図に、中脊で痩ぎすな、二十ばかりの細面、薄化粧して眉の鮮明な、口許の引緊った芸妓島田が、わざとらしい堅気づくり。袷をしゃんと、前垂がけ、褄を取るのは知らない風に、庭下駄を引掛けて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言で、はたと打った。これは、この柏屋の姐さんの、小芳と云うものの妹分で、綱次と聞えた流行妓である。 「大層な要害だな。」 「物騒ですもの。」 「ちっとは貯蓄ったか。」  と粗雑に廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、 「お珍らしいこと。」 「…………。」 「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。  主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと睨んで、そっと上って、開けた障子へ身体は入れたが、敷居際へ畏まる。  酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して入り来る綱次に、 「どうだ、色男が糶出したように見えるか。」  とずッと胸を張って見せる。 「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」 「そう目前が利かないから、お茶を挽くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可い。」 「憚様、お座敷は宵の口だけですよ。」  と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。 「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。  主税は膝の傍へ置いたままなり。  友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨ぐ体に胡坐の膝へ挟んで、口の辺を一ツ撫でて、 「敷きな、敷きな。」  と主税を見向いた。 「はい、」  とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、面を背けると端なく、重箪笥の前なる姿見。ここで梳る柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。        三十七 「お敷きなさいなね、貴下、此家へいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」  と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然としているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。  その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝で坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと扱く。 「茶を一ツ、熱いのを。」  酒井は今のを聞かない振で、 「それから酒だ。」  綱次は入口の低い襖を振返って、ト拝む風に、雪のような手を敲く。 「自分で起て。少いものが、不精を極めるな。」 「厭ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」  と言いながら、人懐かしげに莞爾して、 「ねえ、早瀬さん。」 「で、ございますかな。」とようよう膝去り出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、巻莨に火を点けたが、お蔦が物指を当てた襦袢の袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。 「ちっと透かさないか、籠るようだ。」 「縁側ですか。」 「ううむ、」  と頭を掉ったので、すっと立って、背後の肱掛窓を開けると、辛うじて、雨落だけの隙を残して、厳しい、忍返しのある、しかも真新い黒板塀が見える。 「見霽しでも御覧なさいよ。」  と主税を振向いてまた笑う。  酒井が凝と、その塀を視めて、 「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」  と擽って、独で笑った。 「しかし山焼の跡だと見えて、真黒は酷いな。俺もゆくゆくは此家へ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」  そこへ友染がちらちら来る。 「お出花を、早く、」 「はあ、」 「熱くするんだよ。」 「これ、小児ばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。民はどうした、あれは可い。小老実に働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌のある処で。」 「そんなに、若いのが好なら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」  これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。 「妙も近頃は不可くなったよ。奥方と目配をし合って、とかく銚子をこぎって不可ん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」 「貴郎には小児でも、もうお嫁入盛じゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女が、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」 「あの、嬰児をか、どこの坊やだ。」 「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃じゃありませんか。」  と何でものう云ってのけたが、主税は懐中の三世相とともに胸に支えて俯向いた。 「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」  と云いかけて莞爾として、 「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」  と横顔へ煙を吹くと、 「引掻いてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、 「どうしたんだろうねえ、電話は、」と呟いて出ようとする。 「おい、阿婆は?」 「もう寐ました。」 「いや、老人はそう有りたい。」  座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返して、 「姉さんは、もう先方は出たそうですわ。」  云う間程なく、矢を射るような腕車一台、からからと門に着いたと思うと、 「唯今!」と車夫の声。        三十八 「そうかい。」  と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖音なく、すらりと開いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。  瓜核顔の、鼻の準縄な、目の柔和い、心ばかり面窶がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際の可い、洗い髪を引詰めた総髪の銀杏返しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶の涼しさ。撫肩の衣紋つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦の母親なら、芸者家の阿婆でも、早寝をしよう、と頷かれる。 「まあ、よくいらしってねえ。」  と主税の方へ挨拶して、微笑みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着二枚袷、藍気鼠の半襟、白茶地に翁格子の博多の丸帯、古代模様空色縮緬の長襦袢、慎ましやかに、酒井に引添うた風采は、左支えなく頭が下るが、分けてその夜の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、 「御機嫌宜う、」と会釈をする。  その時、先生撫然として、 「芸者に挨拶をする奴があるか。」  これに一言句あるべき処を、姉さんは柔順いから、 「お出花が冷くなって、」  と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓から、暗い雨落へ、ざぶりと覆すと、斜めに見返って、 「大な湯覆しだな、お前ン許のは。」 「あんな事ばかり云って、」  と、主税を見て莞爾して、白歯を染めても似合う年紀、少しも浮いた様子は見えぬ。  それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。  酒井は軽く襟を扱いて、 「そこで、御馳走は、」 「綱次さんが承知をしてます。」 「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」 「どうですか。」  と横目で見て、嬉しそうに笑を含む。 「いずれ不漁さ。」  と打棄るように云ったが、向直って、 「早瀬、」と呼んだ声が更まった。 「ええ。」 「先刻の三世相を見せろ。」  一仔細なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞むべき数ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下に、先生の手に、もじもじと奉る。  引取って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色で、覗込んで、 「心当りでも出来たんですか。」  不答。煙草の喫さしを灰の中へ邪険に突込み、 「何は、どうした。」  と唐突に聞かれたので、小芳は恍惚したように、酒井の顔を視めると…… 「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨い、景気の可い、」  いいいい本を引返して、 「扱帯で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」  と凝と見られて、小芳は引入れられたように、 「蔦吉さん。」  と云って、喫いかけた煙管を忘れる。  主税は天窓から悚然とした。 「あれはどうした。」 「え、」 「俺はさっぱり山手になって容子を知らんが、相変らず繁昌か。」        三十九  小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪えて、酒井を瞻った顔が震えて、 「蔦吉さんはもう落籍ましたそうです。」  と言わせも果てずに、 「(そうです。)は可怪い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然謂え、落籍たのか!」 「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。  酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、 「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」 「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」 「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」 「…………。」 「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。  姉さんとか、小芳さんとか云って、先方でも落籍祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。  蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、亻の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記いているだろう。その婦の行先が知れない奴があるものか。  知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己のような素一歩と腐合おうと云う料簡方だから、はじめから悧怜でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可んな! 薄情は。薄情な奴は俺ら真平だ。」 「いつ、私が、薄情な、」  と口惜しく屹となる処を、酒井の剣幕が烈いので、悄れて声が霑んだのである。 「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」 「だって、貴郎。だって、先方でも、つい音信をしないもんですから、」 「先方が音信をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通はしないでも、居処が分らんじゃ、近火はどうする! 火事見舞に町内の頭も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」  姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は堪りかねて、 「先生、」  と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。  酒井は耳にも掛けないで、 「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。  堀の内へでも参詣る時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」  真蒼になって、 「先生、」 「早瀬!」  と一声屹となって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を捲いて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。  眼の光射るがごとく 「見ろ! 野郎は、素袷のすッとこ被よ。婦は編笠を着て三味線を持った、その門附の絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱ついて、三世相の盗人覗きをするにゃ当るまい。  その間抜けさ加減だから、露店の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢め!」        四十  主税はようよう、それも唾が乾くか、かすれた声で、 「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。 「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、午だとか。」  と串戯のような警抜な詰問が出たので、いささか言が引立って、 「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」  小芳はそっと酒井を見た。この間でも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。 「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を検べたのかい。」  果せる哉、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達を御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、 「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、瞼が颯と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、 「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章なさんな。  僭上だよ、無礼だよ、罰当り!  お前が、男世帯をして、いや、菜が不味いとか、女中が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体ない、一度先生が目を通して、綺麗に装ってあるのを、重箱のまま、売婦とせせり箸なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。  よく、その慈姑が咽喉に詰って、頓死をしなかったよ。  無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」  と大喝した。  主税は思わず居直って、 「邪魔を……私、私が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」 「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」 「…………」 「なぜ断った?」 「あんな、道学者、」 「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。  第一、汝のような間違った料簡で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。  何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点んでいたが、どうだ。」 「ええ! あの、痘痕が、」  と色をかえて戦いた。主税はしかも点々と汗を流して、 「他の事とは違います、聞棄てになりません。私は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」 「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」 「誰が、先生、そんな事。」 「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態をしやあがって、薄髯の生えた面を、どこまで曝して歩行いているんだ。」  と火鉢をぐいぐいと揺って。        四十一 「あっちへ蹌々、こっちへ踉々、狐の憑いたように、俺の近所を、葛西街道にして、肥料桶の臭をさせるのはどこの奴だ。  何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体に探捜を入れるのが、不都合だとか、不意気だとか言うそうだが、」  噫、礼之進が皆饒舌った…… 「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。  学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶るのだ。念を入れんでどうするものか。検べるのは当前だ。芸者を媽々にするんじゃない。  また己の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。  何が可恐い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。  よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体を秘した日にゃ、按摩の勢揃ほど道学者輩が杖を突張って押寄せて、垣覗きを遣ったって、黒子一点も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」  とまた屹と見て、 「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負猪でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。  馬鹿野郎! 俺ら弟子はいくらでもある、が小児の内から手許に置いて、飴ン棒までねぶらせて、妙と同一内で育てたのは、汝ばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。 (世間に在るやつでごわります。飼犬に手を噛まれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。  馬鹿野郎、これ、」  と迫った調子に、慈愛が籠って、 「さほどの鈍的でもなかったが、天罰よ。先生の目を眩まして、売婦なんぞ引摺込む罰が当って、魔が魅したんだ。  嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後妙の名も言うな。  生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、汝の面当にも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」 「貴郎、」  と小芳が顔を上げて、 「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」 「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒を働く。第一お前も、」  稲妻が西へ飛んで、 「同類だ、共謀だ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入に新橋を見た素丁稚のように難有いもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便を掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦を難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向いておれ。」  はっと首垂れたが、目に涙一杯。 「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」 「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」  主税は手を支いて摺って出た。 「先、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」  と大呼吸を胸で吐くと、 「黙れ! 生れてから、俺、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」        四十二 「お言葉を反しますようでございますが、」  主税は小芳の自分に対する情が仇になりそうなので、あるにもあられず据身になって、 「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。私は覚悟がございます、彼奴に対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の明は、ちっとも立つのではなかった。 「覚悟がある、何の覚悟だ。己に申訳が無くって、首を縊る覚悟か。」 「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」 「馬鹿!」  と叱して、調子を弛めて、 「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目だから悪い事を働いて、一端己の目を盗んだ気で洒亜々々としているんだ。  先刻どうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種もあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何の状だ。婆が高利貸をしていやしまい、主人の留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。  また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は暗でも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、婦の下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証でする事は客の靴へ灸を据えるのさえ秘しおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。  悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言を云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を算まして讃めてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」  これは、(攫徒)と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと支いた。 「恐入ったか、どうだ。」 「ですが、全く、その、そんな事は……」 「無い?」 「…………」 「芸者は内に居ないと云うのか。」 「はい。」  霹靂のごとく、 「帰れ!」  小芳が思わず肩を窘める。 「早瀬さん、私、私じゃ、」  と声が消えて、小芳は紋着の袖そのまま、眉も残さず面を蔽う。 「いや、愛想の尽きた蛆虫め、往生際の悪い丁稚だ。そんな、しみったれた奴は盗賊だって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!  これ、姦通にも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実でもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の児の始末をするにも、鰹節はつきものだ。談を附けて、手を切らして、綺麗に捌いてやろうと思って、お前の許へ行くつもりで、百と、二百は、懐中に心得て出て来たんだ。  この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡じゃ、汝が家を野天にして、婦とさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜しくば、おい、こうやって馴染の芸者を傍に置いて、弟子に剣突をくわせられる、己のような者になって出直して来い。  さあ、帰れ、帰れ、帰れ! 汚わしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを起たんと蹴殺すぞ!」 「あれ、お謝罪をなさいまし。」と小芳が楯に、おろおろする。  主税は、砕けよ、と身を揉んで、 「小芳さん、お取なしを願います。」と熟と瞻めて色が変った。 「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」        四十三 「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻も云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ己が追出る、お前ともこれきりだから、そう思え。」  と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を揺った。小芳は幼いもののごとく、あわれに頭を掉って、厭々をするのであった。 「姉さん、」  と思込んだ顔を擡げた、主税は瞼を引擦って、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、 「貴女は、貴女は御心配下さいませんように……先生、」  と更めて、両手を支いて、息を切って、 「申訳がございません。とんだ連累でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私を御存分になさいまして。」 「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」  と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。 「じゃ恐入ったんだな。  内に蔦吉が居るんだな。  もう陳じないな。」 「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」  と吻と息を吐いたと思うと、声が霑む。  最早罪に伏したので、今までは執成すことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計って、初心にも、袂の先を爪さぐりながら、 「大目に見てお上なすって下さいまし。蔦吉さんも仇な気じゃありません。決して早瀬さんのお世帯の不為になるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な妓が落籍祝どころじゃありません、貴郎、着換も無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁げをするようにして落籍たんですもの。  堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣ぐらい縫えますって、この間も夜晩く私に逢いに来たんですがね。」  と婀娜な涙声になって、 「羽織が無いから日中は出られない、と拗ねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地馴れないのに、臆病な妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着いて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」  と空色の、瞼を染めて、浅く圧えた襦袢の袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。 「世迷言を言うなよ。」  と膠もなく、虞氏が涙を斥けて、 「早瀬どうだ、分れるか。」 「行処もございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お見免し下さいますれば、私の外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」と半云って唾が乾く。 「いや、不可ん、許しやしないよ。」 「そう仰有って下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、私は、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、汝が勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」  と赫となって、この時やや血の色が眉宇に浮んだ。 「女学校の教師をして、媒妁をいたしましたり……それよりか、拾人の無い、社会の遺失物を内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証で置いてやりますだけのことでございますから。」 「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」        四十四  折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った帰花の風情に見えた。輝く電燈の光さえ、凩の対手や空に月一つ、で光景が凄じい。  一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はた爾く閉されているように思って、友染は簪の花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、小刻に襖の際。  川千鳥がそこまで通って、チリチリ、と音が留まった。杯洗、鉢肴などを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べる中も、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、悄れて俯向いて、ならば直ぐに、頭が打つのを圧えたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に打傾いで、熟と見て出ようとする時、 「食うものはこれだけか。」  と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓から塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然と萎んで壁の暗さに消えて行く。  慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を捌いて、慌しげに来たのは綱次。  唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺の燗を引抜いて、長火鉢の前を衝と立ち状に来た。  前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通しの縮緬、かわり色の裳を払って、上下対の袷の襲、黒繻珍に金茶で菖蒲を織出した丸帯、緋綸子の長襦袢、冷く絡んだ雪の腕で、猶予らう色なく、持って来た銚子を向けつつ、 「お酌、」  冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎に、電気の光が和いで、朧々と春に返る。 「まだ宵の口かい。」 「柏家だけではね。」と莞爾する。 「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻だな。」 「あら、なぜ?」 「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」 「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」 「いいえ、もう、」  主税は猪口を視むるのみ。 「お察しなさいよ。」  と先生にまたお酌をして、 「御贔屓の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」 「道理こそ、鎖帷子の扮装だ。」 「錣のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」  と髢に手を触る。 「いいえ、」  と云って、言の内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、 「おいしいものが、直ぐにあとから、」 「綱次姉さん、また電話よ。」  と廊下から雛妓の声。 「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、直き行って来ますから、貴下帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」  酒井は黙って頷いた。 「早瀬さん、御緩り。」  と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から面を背ける。  酒井は、杯を、つっと献し、 「早瀬、近う寄れ、もっと、」  と進ませ、肩を聳かして屹と見て、 「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離の杯にするか。」 「…………」 「それとも婦を思切るか。芳、酌いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」  銚子を挙げて、猪口を取って、二人は顔を合せたのである。        四十五  その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、 「何を愚図々々しているんだ。」 「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密と圧えながら、 「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎。  ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有るんですから、貴下もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」  と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮うのである。 「蔦吉さんが、どんなに何したって、私が知らない顔をしていれば可かったのですけれど、思う事は誰も同一だと、私、」  と襟に頤深く、迫った呼吸の早口に、 「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」 「そんな、貴女が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」  と酒井の前を庇う気で、肩に力味を入れて云ったが、続いて言おうとする、 (貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。 「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」 「ならん! この場に及んで分別も糸瓜もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦を連れて駈落をしかねない。短兵急に首を圧えて叩っ斬ってしまうのだ。  早瀬。」  と苛々した音調で、 「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦が怨んでも、泣いても可い。憧れ死に死んでも可い。先生の命令だ、切れっちまえ。  俺を棄てるか、婦を棄てるか。  むむ、この他に言句はないのよ。」 (どうだ。)と頤で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱をついた。 「婦を棄てます。先生。」  と判然云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口と相触れて、カチリと鳴った。 「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。  物をも言わず、背向きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、 「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯、もう一ツ。」  と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。 「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」  小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添うて縋り状に、 「お帰んなさるの。」 「謹が病気よ。」  と自分で雨戸を。 「それは不可ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙く巻莨を吸うのであった。  二時ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。 「お互に辛抱するのよう。」と酒気のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠は姉さんと、手をしっかりと取り合った。  時に、寂りした横町の、とある軒燈籠の白い明と、板塀の黒い蔭とに挟って、平くなっていた、頬被をした伝坊が、一人、後先を眗して、密と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後へ、……抜足で急々。 「もし、」 「…………」 「先刻アどうも。よく助けて下すったねえ。」  と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着。      誰が引く袖        四十六  土曜日は正午までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌と麗な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若よりも紫である。  年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。  阿嬢は、就中活溌に、大形の紅入友染の袂の端を、藤色の八ツ口から飜然と掉って、何を急いだか飛下りるように、靴の尖を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履穿で急いで来て、 「ああ酒井様。」  と云う。優等生で、この容色であるから、寄宿舎へ出入りの諸商人も知らぬ者は無いのに、別けて馴染の翁様ゆえ、いずれ菖蒲と引き煩らわずに名を呼んだ。 「ははい。」  と振向くと、小使は小腰を屈めて、 「教頭様が少し御用がござります。」 「私に、」 「ちょっとお出で下さりまし。」 「あら、何でしょう、」  と友達も、吃驚したような顔で眗すと、出口に一人、駒下駄を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連が、斉しく三方からお妙の顔を瞻って黙った。  この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様がまた、そこらの口が姦いと察した気転か。 「何か、お父様へ御託づけものがござりますで。」 「まあ、そう、」  と莞爾して、 「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。  お妙はずんずん小使について廊下を引返しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許を擦って見せた。 「応接室でござりますわ。」  教員室の前を通ると、背後むきで、丁寧に、風呂敷の皺を伸して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様に寝て、両肱を空に、後脳を引掴むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦は、言わずとも、体操の師匠である。  行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目になって、コトコト跫音が早くなった。階子段の裏を抜けると、次の次の、応接室の扉は、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入の、大書棚の前に、卓子に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛たる、新い洋書の中ほどを開けて読む、天窓の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶と緋縮緬の交換だ。)と主税が憤った一人である。  この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇の薫馥郁としてと云う、創作的文字をここに挟み得ることを感謝しよう。勿論、その香の、二十世紀であるのは言うまでもない。  お妙は、扉に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。  閑耕は、キラリ目金を向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯の尖をピンと立てた、頤が円い。 「こちらへ、」  と鷹揚に云って、再び済まして書見に及ぶ。  お妙は扉に附着いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。 「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮で目金が躍る。  頬桁へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込むと、睫毛を圧え込んで、驚いて、指の尖を潜らして、瞼を擦って、 「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、 「どうですな。」        四十七  もう傍へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟と立って、臈たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向いているから、威勢に怖じて、頭も得上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑を含んでいるのである。  それは、それは愛々しい、仇気ない微笑であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯いて、御前へ侍わぬだけに、人の悪い、与し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、 「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可んですよ。」  時に教頭胸を反らして、卓子をドンと拳で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面を合わせて、そのふっくりした二重瞼を、臆する色なく、円く睜って、 「御用ですか。」  と云った風采、云い知らぬ品威が籠って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向いた。  教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々生れて以来最初である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。  はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈だが、と更めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢は依然として気高いのである。 「酒井さん……」  声の出処が、倫理を講ずるようには行かぬ。  咽喉が狂って震えがあるので、えへん! と咳いて、手巾で擦って、四辺を眗したが、湯も水も有るのでない、そこで、 「小ウ使いい、」と怒鳴った。 「へ――い、」 と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大にその威厳を恢復し得て、勢に乗じて、 「貴娘に聞く事があるのですが、」 「はい。」 「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様の弟子ですな。」 「ええ、そう…………」 「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」 「知りません。」  と素気なく云った。 「知らない?」  と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、 「知らないですか。」 「ええ、前にからですもの。内の人と同一ですから、いつ頃からだか分りませんの。」 「貴娘は幾歳ぐらいから、交際をしたですか。」 「…………」  と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、 「交際って、私、厭ねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。 「内の人。」 「ええ、」と猶予わず頷いた。 「貴娘、そういう事を言っては不可ますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」  と口を開いてニヤリとする。  お妙はツンとして横を向いた、眦に優い怒が籠ったのである。  閑耕は、その背けた顔を覗込むようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、 「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の許へ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」  妙子は何にも言わなかったが、はじめて眩しそうに瞬きした。  小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は頤で教えて、 「何を、茶をくれい。」 「へい。」 「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」        四十八  扉が閉ると、教頭身構を崩して、仰向けに笑い懸けて、 「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘のためにならんから、云うのだよ。」  わざわざ立って突着けた、椅子の縁は、袂に触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼をしただけで、元の横向きに立っている。 「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を顰めて、談じつけるような調子に変って、 「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ憚るべき悪漢ですね。」  とのッそり手を伸ばして、卓子の上に散ばった新聞を撫でながら、 「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」  一言聞くと、颯と瞼を紅にして、お妙は友染の襦袢ぐるみ袂の端を堅く握った。 「見ませんか、」  と問返した時、教頭は傲然として、卓子に頤杖を支く。 「ええ、」とばかりで、お妙は俯向いて、瞬きしつつ、流眄をするのであった。 「別に、一大事に関して早瀬は父様の許へ、頃日に参った事はないですかね。或は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」  小さな声だったが判然と、 「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯で噛んだ。この時、この色は、瞼のその朱を奪うて、寂しく白く見えたのである。 「行かん筈はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘すのじゃないかね。」 「存じませんの。」  と頭を掉ったが、いたいけに、拗ねたようで、且つくどいのを煩さそう。 「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒の手伝いをする、巾着切の片割のような男ですぞ!」  簪の花が凜として色が冴えたか気が籠って、屹と、教頭を見向いたが、その目の遣場が無さそうに、向うの壁に充満の、偉なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清い瞳がうろうろする。 「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。  で、見ないんなら御覧なさい。他の二三の新聞にも記いてあるですが。このA……が一番悉しい。」  と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、 「ここにありますが、お読みなさい。」 「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦いだ。 「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、極りが悪いかね。何、知らないんなら宜しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」  と太く侮った語気を帯びて、 「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘すですもの。何で真相が解りますか。」  コツコツ廊下から剥啄をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身に伸びて、 「カム、イン、」と猶予わずに答えた。  この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。  すなわち扉を細目に、先ず七分立の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪ネクタイ、金剛石の針留の光っただけでも、天窓から爪先まで、その日の扮装想うべしで、髪から油が溶けそう。  早や得も言われぬ悦喜の面で、 「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。  扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽る。        四十九 「失敬、失敬。」  とちと持上げて、浮かせ気味に物馴れた風で、河野は教頭と握手に及んで、 「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後から、横顔をじろりと見る。  河野の調子の発奮んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、 「どこの帰りか。」 「大学(と力を入れて、)の図書館に検べものをして、それから精養軒で午飯を食うて来た。これからまたH博士の許へ行かねばならん。」  と忙しそうに肩を掉って、 「君(とわざと低声で呼んで、)この方は……」 「生徒――」と見下げたように云う。 「はあ、」 「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。 「うむ、真砂町の酒井氏の、」  と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、 「君、紹介してくれたまえ。」 「学校で、紹介は可訝かろう。」 「だってもう教場じゃないじゃないか。」 「それでは、」と真に余儀なさそうに、さて、厳格に、 「酒井さん、過般も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」  同じ文字を露した大形の名刺の芬と薫るのを、疾く用意をしていたらしい、ひょいと抓んで、蚤いこと、お妙の袖摺れに出そうとするのを、拙い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。  英吉は眼を睜って、急いでその名刺と共に、両手を衣兜へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行きに、ぐるりと地図を背負って、お妙の真正面へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦りつけて、清めた気で、くの字形に腕を出したは、短兵急に握手の積か、と見ると、揺がぬ黒髪に自然と四辺を払れて、 「やあ、はははは、失敬。」  と英吉大照れになって、後ざまに退って(おお、神よ。)と云いそうな態になり、 「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆貴女を知っているのですよ。はあ……」  と独で頷いて、大廻りに卓子の端を廻って、どたりと、腹這いになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸って、 「何を話していたのだい。」  教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨めつけ、苦き顔して、その行過を躾めながら、 「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」  お妙は色をまた染めた。 「そうだとも! ええ、酒井さん……」  黙っているから、 「酒井さん!」 「ははい、」と声がふるえて聞える。 「貴娘知らんのならお聞きなさい。頃日の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒に掏られたです。取られたと思うと、気が着いて、直に其奴を引掴えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」 「撲られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」 「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。  証拠は無かったが、怪むべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子を持っていたんだ。  ねえ、貴娘。拘引して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」  あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽匇しく、 「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」        五十 「攫徒の名も新聞に出ているがね、何とか小僧万太と云うんだ。其奴の白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来しに打攫まって、往生をしたんだが、対手が面を撲ったから、癪に障って堪らないので、ちょうど袖の下に俯向いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻に捻じたと云うんだね。  ところで、まん直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩くなってから胡乱ついていると、うっかり出合ったのが、先刻、紙入れを辷らかした男だから、金子はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心を持った時なら、浅草橋の欄干を蹈んで、富貴竈の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。  酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」  と教頭は椅子をずらして、卓子を軽く打って、 「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。  その筋じゃ、直きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈だ。しかしその申立てが、攫徒の言に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細も無く済むにゃ済んだ。  真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。  で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。  同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」  河野にも言を分けて、 「直接に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話さ。」  誰も否とは云わんのに、独りで嵩にかかって、 「紙入を手から手へ譲渡をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」 「だがね、」  とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄もしなくなったので、果は遠慮なく視めていたのが、なえた様な声を出して、 「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」 「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」 「父上に……聞いて……頂戴。」  とお妙は口惜しそうに、あわれや、うるみ声して云った。  二人密と目を合せて、苦々しげに教頭が、 「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」 「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」 「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」  お妙は気を張つめんと勤むるごとく、熟と瞶る地図を的に、目を睜って、先刻からどんなに堪えたろう。得忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。        五十一  いや、学士二人驚いた事。 「貴娘、どうしたんだ。」  と教頭が椅子から突立った時は、お妙は始からしっかり握った袂をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱を円く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。 「ええ、どうして泣くです。」  靴音高く傍へ寄ると、河野も慌しく立って来て、 「泣いちゃ不可ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」 「私は貴娘を叱ったんじゃない。」 「けれども、君の話振がちと穏でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」  と密と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……  河野英吉嬉しそうな顔をして、 「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向いた玉の頸へ、横から徐々と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦かしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂えらく、今夜の会計は河野持だ。  途端にお妙が身動をしたので、刎飛ばされたように、がたりと退る。 「もう帰っても可いんですか。」  と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言もあるまい。 「可いですとも!」  と教頭が言いも果てぬに、身を捻ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰に追っかけて、 「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜いですかね、ね。」  急いた声で賺すがごとく、顔を附着けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。 「ああ。」と、安堵の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。  河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝と抜けて、顔に当てた袖を落した。  雨を帯びたる海棠に、廊下の埃は鎮まって、正午過の早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外は麗な日なのである。  ト押重って、木の実の生った状に顔を並べて、斉しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓の這うにこそ。  真砂町の家へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。  さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様御飯、と遣って、何ですね、唯今も言わないで、と躾められそうな処。  そうではなかった。  例の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着の上に、縞の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚かしい。  寝床の上に端然と坐って、膝へ掻巻の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団に敷いている。  これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。  美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、 「遅かったね。」 「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」  優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音で、襖の外から、書生の声、 「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」      紫        五十二  お茶漬さらさら、大好な鰺の新切で御飯が済むと、硯を一枚、房楊枝を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯に手拭を挟んで、金盥をがらん、と提げて、黒塗に萌葱の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所穿を、雪の素足に突掛けたが、靴足袋を脱いだままの裾短なのをちっとも介意わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状は、踊舞台の潮汲に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。  お妙は玄関傍、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷りのある井戸流へ危気も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾が可いから、もう十一二の時分から膚についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶へ唇を押附けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片が浮ぶのであった。直に桃色の襷を出して、袂を投げて潜らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯とかかる、水が紫に、墨が散った。  宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎ねて挘りはじめたが、何を焦れたか、ぐいと引断るように邪険である。  ト構内の長屋の前へ、通勤に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装、何だか衣兜を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘さえ携えて、早瀬が前後を眗しながら、悄然として入って来たが、梅の許なるお妙を見る…… 「おお、」  と慌しい、懐しげな声をかけて、 「お嬢さん。」  お妙はそれまで気がつかなかった。呼れて、手を留て主税を見たが、水を汲んだ名残か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言なき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。 「また、水いたずらをしているんですね。」  と顔を視めて元気らしく、呵々と笑うと、柔い瞳が睨むように動き止まって、 「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」 「ああ、成程。」  と始めて金盥を覗込んで俯向いた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、 「御清書ですかい。」 「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日学校へ持って行くのを、これから描くんだわ。」 「御手本は何です、姉様の顔ですか。」 「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」  と莞爾して、独りで頷いて、 「もっと可いもの、杜若に八橋よ。」 「から衣きつつ馴れにし、と云うんですね。」  と云いかけて愁然たり。  お妙は何の気もつかない、派手な面色して、 「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」 「可哀相に。」  と苦笑いをすると、お妙は真顔で、 「だって、主税さん、先年私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下は、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」  とつけつけ云う。 「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」と更めて聞くと、心ありげに頷いて、 「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、臈たく生垣から、二階を振仰ぐ。  主税はたちまち思いついたように、 「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘を投出すごとく、井の柱へ押倒して、勢猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、 「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込むほど引掛けたと思うと、お妙がものを云う間も無かった。手を早や金盥に突込んで、 「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」        五十三 「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」  と躾めるように云って、お妙は上衣を引取って、露に白い小腕で、羽二重で結えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。 「貴娘は、先生のように癇性で、寒の中も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」 「厭ねえ、恩に被せて。誰も頼みはしないんだわ。」 「恩に被せるんじゃありません。爪紅と云って、貴娘、紅をさしたような美い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。  ああ、これは、」  と片頬笑みして、 「余り上等な墨ではありませんな。」 「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可くってよ。」 「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代に立っている処じゃありませんか。」 「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」 「相変らずだ。(と独言のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」 「どうしてね? 主税さん。」 「だって、明後日お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」 「翌日は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」 「ああ日曜ですね。」  と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟と見て振仰いで、 「その、衣兜にあります、その半紙を取って下さい。」 「主税さん。」 「はあ、」 「ほほほほ、」とただ笑う。 「何が、可笑しいんです。え、顔に墨が刎ねましたか。」 「いいえ、ほほほほ。」 「何ですてば、」 「あのね、」 「はあ。」 「もしかすると……」 「ええ、ええ。」 「ほほほ、翌日また日曜ね、貴郎の許へ遊びに行ってよ。」  水に映った主税の色は、颯と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細あって、飯田町の家はもう無かったのである。 「いらっしゃいましとも。」  と勢込んで、思入った語気で答えた。 「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」 「…………」 「この間行った時、まだ莟が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」  と云う口許こそふくらなりけれ。主税の背は、搾木にかけて細ったのである。  ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨に歩行いて来て、 「早瀬さん、先生が、」  二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。 「は、唯今、」  と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後へ廻って、足駄穿いたが対丈に、肩を抱くように着せかける。 「やあ、これは、これはどうも。」  と骨も砕くる背に被いで、戦くばかり身を揉むと、 「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」  と身動きに眉を顰めて――長屋の窓からお饒舌りの媽々の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧えて、爪立って、 「厭な、どうして、こんなに雲脂が生きて?」        五十四  主税が大急ぎで、ト引挟まるようになって、格子戸を潜った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。 「まあ、粗匇かしいこと。」  まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘と、その柄に引掛けた中折帽を忘れた。  後へ立淀んで、こなたを覗めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪形に掉って、格子を叩きながら、のそりと入った。  誰も居なくなると、お妙はその二重瞼をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背をつけて、くるりと向をかえて凭れると、学校から帰ったなりの袂を取って、振をはらりと手許へ返して、睫毛の濃くなるまで熟と見て、袷と唐縮緬友染の長襦袢のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。  ただし遣方が仇気ないから、まだ覗いている件の長屋窓の女房の目では、おやおや細螺か、鞠か、もしそれ堅豆だ、と思った、が、そうでない。  引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。  さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細に一段ばかり有ることは言うまでもない。  お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中が味噌汁を装って来る間に、膳の傍へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張ったり、畳んだり、太く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中と入違いに、洋燈棚へついと起って、剪刀を袖の下へ秘して来て、四辺を眗して、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。  母様は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他に二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉。  で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。  と書生はまた、内々はがき便見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰になったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る筈の、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆したが、いや、この悪戯、嬢的に極ったり、と怨恨骨髄に徹して、いつもより帰宅の遅いのを、玄関の障子から睨め透して待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と済したものだった。  それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時思入った風であったが、ばさばさと引裂いて、くるりと丸めてハタと向う見ずに投り出すと、もう一ツの柱の許に、その蝙蝠傘に掛けてある、主税の中折帽へ留まったので、 「憎らしい。」と顔を赤めて、刎ね飛ばして、帽子を取って、袖で、ばたばたと埃を払った。  書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、 「えへへへ。」  その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱えて、 「どこへ行くの。」 「車屋へ大急ぎでございます。」 「あら、父上はお出掛け。」 「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」      はなむけ        五十五  媒妁人は宵の口、燈火を中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。 「唯今は御使で、特にお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、来客かと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が露出。 「はははは、すなわち御持せのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、偏に御縁のごわりまする兆でごわりまするな、はあ、」  酒井も珍らしく威儀を正して、 「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、巻莨をぐっ、と抜く。 「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝れ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私もその、甚だ心配を仕りまするので、はあ、」 「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」  と先生警抜なことを云って、俯向きざまに、灰を払ったが、左手を袖口へ掻込んで胸を張って煙を吸った。礼之進は、畏ったズボンの膝を、張肱の両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、 「たかだか風邪のこじれです。」 「その風邪が万病の原じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実でな。何分御注意なさらんとなりません。」  と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、 「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」  と重々しく素引きかけると、酒井は事も無げな口吻。 「いや、相談はしましたよ。」 「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と頤を揉んで、スーと云って、 「御令室の思召はいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下より御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着けがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京に逗留いたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」  と、意気込んで、スーと忙しく啜って、 「何か、私までも、それを承りまするに就いて、このな、胸が轟くでごわりまするが、」  と熟と見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、 「他ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈はありませんが、ただ不束な娘ですから、」 「いや、いや、」  と頭を掉って、大に発奮み、 「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」 「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」  時に襖に密と当った、柔な衣の気勢があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳二室で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口の六畳の方。  礼之進はまた額に手を当て、 「いや、何とも。私大願成就仕りましたような心持で。お庇を持ちまして、痘痕が栄えるでごわりまする。は、はは、」  道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。        五十六  望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨稜々たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽ったさに、礼之進は、日一日歩行廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。  坐った膝をもじもじさして、 「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下の思召は。」  ちっとも猶予らわずに、 「私に言句のあろう筈はありません。」 「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが…… 「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」 「娘は小児です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺めてやるような縁談ですから、否も応もあったもんじゃありません。」  と小刻に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。  道学先生、堪りかねて、手を握り、膝を揺って、 「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。 「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。 「成程、就きまして、何か、別儀が。」 「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」 「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」 「住居は飯田町ですが、」  と云う時、先生の肩がやや聳えた。 「早瀬ですよ。」 「御門生。」と、吃驚する。 「掏摸一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。  礼之進、苦り切った顔色で、 「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」 「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。  道学者はアッと痘痕、目を円かにして口をつぐむ。 「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入らん。先生が立処に手を曳いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可い、と云えば、断然お断りをするまでです。」  黙ってはいられない。 「しますると、その、」  と少し顔の色も変えて、 「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚ったのを、……酒井は平然として、 「惚れていますともさ。同一家に我儘を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹のようか、従兄妹のようか、それとも師弟のようか、主従のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡でしょうか。」  と串戯のように云って、ちょっと口切ったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被せて、 「さっぱりとそうして下さい。」        五十七 「貴下、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、…… 「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召でごわりまするな。」 「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。  これにまた少なからず怯かされて、 「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」 「いや、」 「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」 「私は許嫁の方ですよ。」と酒井は笑う。 「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお在なされますので。」 「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、更らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。 「へへへ、御串戯で。御議論がちと矯激でごわりましょう!」 「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も怪まんのです。  貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極める、と云うに、不思議はありますまい。唐突に嫁入らせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩だわ、煩悶だわ、辷った、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可んのです。」 「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」 「大丈夫、」  と話は済んだように莞爾して、 「昔から媒酌人附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極ったものです。」 「はあ、」  と云って、道学者は口を開いて、茫然として酒井の顔を見ていたが、 「しかし、貴下、聞く処に拠りますると、早瀬子は、何か、芸妓風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」 「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴の返事をお聞き下さい。或は、自分、妙を欲しいではないが、他なら知らず河野へは嫁っちゃ不可ん、と云えば、私もお断だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏の御託宣と同一です。」  形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤になり、 「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、更めて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の居らるる路地を、私通りがかりに覗きますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越される、と聞きましたら、(引越すんじゃない、夜遁げだい。)と怒鳴ります仕誼で、一向その行先も分りませんが。」  先生哄然として、 「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞に来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」  ああ、媒酌人には何がなる。黄色い手巾を忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を支いて、畏って落涙しつつ居たのである。夫人も傍に。  先生はつかつかと上座に直って、 「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」        五十八  主税は心も闇だったろう、覚束なげな足取で、階子壇をみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、一室越し袋の口を開いたような明は射すが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。  さすがは酒井が注意して――早瀬へ贐、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく余所へ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。  酔ってはいないが、蹌踉と、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は真暗な穴へ落ちた思がして、がっくりとなって、諸膝を支こうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで躊躇している内に、座を立たれては恐多い、と心を引立てた腰を、自分で突飛ばすごとく、大跨に出合頭。  颯と開いた襖とともに、唐縮緬友染の不断帯、格子の銘仙の羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ年紀の長けた姿。円い透硝子の笠のかかった、背の高い竹台の洋燈を、杖に支く形に持って、母様の居室から、衝と立ちざまの容子であった。  お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に突伏すがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の台擦れに、肩を細うして指の尖を揃えて坐る、袂が畳にさらりと敷く音。  こんな慇懃な挨拶をしたのは、二人とも二人には最初で。玄関の障子にほとんど裾の附着く処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。  と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、燈火のうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらと揺めいた。 「もう帰るの?」  と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の俤は、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。  机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋を気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒そうで風采も沈んだのに、唇が真黒だったは、杜若を描く墨の、紫の雫を含んだのであろう、艶に媚めかしく、且つ寂しく、翌日の朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を掠めてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。 「お嬢さん。」 「…………」 「御機嫌宜う。」 「貴下も。」とただ一言、無量の情が籠ったのである。  靴を穿いて格子を出るのを、お妙は洋燈を背にして、框の障子に掴まって、熟と覗くように見送りながら、 「さようなら。」  と勢よく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達と別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。  格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は拗ねた状に顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく掌で擦ったが、背を捻って、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方の茶の間を覗くと、長火鉢の傍の釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中の有様。  ちょいと、風邪を引くよ、と先刻から、隣座敷の机に恁っかかって絵を描きながら、低声で気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。  お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが疾いか、身動ぎに端が解けた、しどけない扱帯の紅。        五十九 「厭よ、主税さん、地方へ行っては。」  とお妙の手は、井戸端の梅に縋ったが、声は早瀬をせき留める。 「…………」 「厭だわ、私、地方へなんぞ行ってしまっては。」  主税は四辺を見たのであろう、闇の青葉に帽子が動いた。 「直き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」 「だって、直だって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」 「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込みます積りです。」 「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」  お妙は格子戸を出るまでは、仔細らしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きを憚るごとき、低い声ではなかったのが、ここで急に密りして、 「あの、貴下、父様に叱られて、内証の……奥さん、」 「ええ!」 「その方と別れたから、それで悲くなって地方へ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」 「…………」 「それならねえ、辛抱なさいよ。母様が、その方もお可哀相だから、可い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が肯いてくれますよ。」 「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙が溢れます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢が覚ましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の越度だけれど、掏摸と、どうしたの、こうしたの、という汚名を被ては、人中へは出られません。  先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間に騒しくなるばかりです。  卑怯なようですけれど、それよりは当分地方へ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、果敢ないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の停車場に着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんな懐い東京ですが、しばらく分れねばなりません。」 「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」  言が途絶えると、音がした、釣瓶の雫が落ちたのである。  差俯向くと、仄かにお妙の足が白い。 「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな茅屋の軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、歓迎をしますから、貴娘、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。  江尻も興津も直きそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」  富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺して云った。 「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんの許へ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。口惜しいわ、攫徒の仲間だの、巾着切の同類だのって、貴郎の事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ不可いって、学校の名誉に障るって云うのよ。可うござんす、帰途に直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点を減かれるから。そうすると、お友達に負るから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、(私も掏摸かい、見て頂戴。)と、貴下の二階に居て讐を取ってやりたかったに、残念だわねえ。」  と擦寄って、 「地方へ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩に凭れて、胸へ縋ったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を指環に接けた。 「忘れません。私は死んでも鬼になって。」  君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。      巣立の鷹        六十 「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」  十二時近い新橋停車場の、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、め組の惣助。  手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。大な支那革鞄を横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の折革鞄、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、伯林の、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、瓢箪式に膝に引着け、あの右角の、三等待合の入口を、叱られぬだけに塞いで、樹下石上の身の構え、電燈の花見る面色、九分九厘に飲酒たり矣。  あれでは、我慢が仕切れまい、真砂町の井筒の許で、青葉落ち、枝裂けて、お嬢と分れて来る途中、どこで飲んだか、主税も陶然たるもので、かっと二等待合室を、入口から帽子を突込んで覗く処を、め組は渠のいわゆる(こっち。)から呼んだので。これが一言でブーンと響くほど聞えたのであるから、その大音や思うべし。 「やあ、待たせたなあ。」  主税も、こうなると元気なものなり。  ドッコイショ、と荷物は置棄てに立って来て、 「待たせたぜ、先生、私あ九時から来ていた。」 「退屈したろう、気の毒だったい。」 「うんや、何。」  とニヤリとして、半纏の腹を開けると、腹掛へ斜っかいに、正宗の四合罎、ト内証で見せて、 「これだ、訳やねえ、退屈をするもんか。時々喇叭を極めちゃあね、」  と向顱巻の首を掉って、 「切符の売下口を見物でさ。ははは、別嬪さんの、お前さん、手ばかりが、あすこで、真白にこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、見物だね。難有え。はははは。」 「馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。」  と苦笑いをして躾めながら、 「家はすっかり片附いたかい、大変だったろう。」 「戦だ、まるで戦だね。だが、何だ、帳場の親方も来りゃ、挽子も手伝って、燈の点く前にゃ縁の下の洋燈の破れまで掃出した。何をどうして可いんだか、お前さん、みんな根こそぎ敲き売れ、と云うけれど、そうは行かねえやね。蔦ちゃんが、手を突込んだ糠味噌なんざ、打棄るのは惜いから、車屋の媽々に遣りさ。お仏壇は、蔦ちゃんが人手にゃ渡さねえ、と云うから、私は引背負って、一度内へ帰ったがね、何だって、お前さん、女人禁制で、蔦ちゃんに、采を掉せねえで、城を明渡すんだから、煩かしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に引丸めたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに御新造さんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。  ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の肴屋から、鰹はござってら、鮪の活の可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が切味をお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、一が出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は鉢前で、焚火で、煮燗だ。  さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけ呼で来た。薄暗い台所を覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。彼奴背負引け。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶を済して、帰って来た、お源坊がお前さん、一枚着換えて、お化粧をしていたろうじゃありませんか。蚤取眼で小切を探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、難有え、大日如来、己が車に乗せてやる、いや、私が、と戦だね。  戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。  ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。お前さん、有象無象が声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」        六十一 「そこでお前さん、何だって、世帯をお仕舞えなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、此家の御夫婦に夜遁げなんぞさせるんじゃねえ、と一番しみったれた服装をして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。  銭金ずくなら、め組がついてる、と鉄砲巻の皿を真中へ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、御新造の方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々御尤なんだから、一言もなしに、御新造も身を退いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」 「おい、可い加減にしないかい。」 「可いやね、お前さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」 「なお、悪いぜ。」 「まあ、忍けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順に別れ話にした早瀬さんも感心だろう。  だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸が遣損なって、人中で面を打たれながら、お助け、と瞬するから、そこア男だ。諾来た、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露たんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際が面倒臭くなったから、引払って駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、皆、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」  と乗気になって、め組の惣助、停車場で手真似が交って、 「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。近火のようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様が、お前さん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度払を掛けて、縁側を拭き直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。  私は、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を惜がったから、莟を交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房とで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う思入で、城を明渡して来ましたがね。  世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」  と云いかけて、主税の扮装を、じろり。 「へへへ、今夜はお前さんも着ってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕の、お前さん、しかも大面の奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃流行るけれど、ありゃ不躾だね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒を撒いてやった、雀ッ子にだって残懐は惜いや、蔦ちゃんなんか、馴染になって、酸漿を鳴らすと鳴く、流元の蛙はどうしたろうッて鬱ぐじゃねえか。」 「止せよ、そんな事。」  と主税は帽子の前を下げる。 「まあさ、そんな中へ来やあがって、お剰に、空くのを待っていた、と云う口吻で、その上横柄だ。  誰の癪に障るのも同一だ、と見えて、可笑ゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、お前さん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、聾の真似をして、痘痕の極印を打った、其奴の鼻頭へ横のめりに耳を突かけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いた家か、と喚いたから、私ア階子段の下に、蔦ちゃんが香を隠して置いたらしい白粉入を引出しながら、空家だい! と怒鳴った。吃驚しやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、と威かすと、へへへ旦那、」  め組は極めて小さい声で、 「私ア高利貸だ、と思ったから……」  話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。        六十二  ちと黙ったか、と思うと、め組はきょろきょろ四辺を見ながら、帰天斎が扱うように、敏捷く四合罎から倒にがぶりと飲って、呼吸も吐かず、 「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕めい、差配はどこだと聞きゃあがる。差配様か、差配様は此家の主人が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色をしやがって、家賃は幾干か知らんが、前にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人と世帯を持った家だ、汝達の手に渡すもんか。め組の惣助と云う魚河岸の大問屋が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰れ、と喚くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」 「悪戯をするじゃないか。」 「だって、お前さん、言種が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時で御覧じろ、えて吉、存命は覚束ねえ。」  と図に乗って饒舌るのを、おかしそうに聞惚れて、夜の潮の、充ち満ちた構内に澪標のごとく千鳥脚を押据えて憚からぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等の傍で、駅員が一名、密と寄って、中にもめ組の横腹の辺で唐突に、がんからん、がんからん、がんからん。  「ひゃあ、」と据眼に呼吸を引いて、たじたじと退ると、駅員は冷々然として衝と去って、入口へ向いて、がらんがらん。  主税も驚いて、 「切符だ、切符だ。」  と思わず口へ出して、慌てて行くのを、 「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」 「もう買っといたか、それは豪い。」  惣助これには答えないで、 「ええ、驚いたい、串戯じゃねえ、二合半が処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」  荷物を引立てて来て、二人で改札口を出た。その半纏着と、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客はただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。  め組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ覗き越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。 「ここが可いや、先生。」 「何だ、青切符か。」 「知れた事だね、」 「大束を言うな、駈落の身分じゃないか。幾干だっけ。」  と横へ反身に衣兜を探ると、め組はどんぶりを、ざッくと叩き、 「心得てら。」 「お前に達引かして堪るものか。」 「ううむ、」と真面目で、頭を掉って、 「不残叩き売った道具のお銭が、ずッしりあるんだ。お前さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」 「それじゃ遠慮しますまいよ。」  と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――め組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁貞造の事に就いてであった。 「何分頼むよ。」 「むむ、可いって事に。」  主税は笑って、 「その事じゃない、馬丁の居処さ。己も捜すが、お前の方も。」 「……分った。」  と後退って、向うざまに顱巻を占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、 「いよ、万歳!」  傍へ来た駅員に、突のめるように、お辞儀をして、 「真平御免ねえ、はははは。」  主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。  はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背を向いた。  汽車出でぬ。        貴婦人        一  その翌日、神戸行きの急行列車が、函根の隧道を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子は別であるが、一人外国の客と、流暢に独逸語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客があった。  こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母しそうに、熟と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗かかった、かすりで揃の、袷と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児に、極めて上手な、肉叉と小刀の扱い振で、肉を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。  見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後に走る。  函嶺を絞る点滴に、自然浴した貴婦人の膚は、滑かに玉を刻んだように見えた。  真白なリボンに、黒髪の艶は、金蒔絵の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹の花、蕊に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷、薄色の褄を襲ねて、幽かに紅の入った黒地友染の下襲ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃、添えた模様の琴柱の一枚が、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環の玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼を射るのは、水晶の珠数を爪繰るに似て、非ず、浮世は今を盛の色。艶麗な女俳優が、子役を連れているような。年齢は、されば、その児の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十でも差支えはない。  婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々しい口許と、心の透通るような眼光を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、小児は手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくると環を描いた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔を視めて、同一ようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本の兄より、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。  その、不思議そうに瞳をくるくると遣った様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取って彳んだボオイさえ、莞爾した程であるから、当の外国人は髯をもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の林檎を剥きかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干に、菓物を差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身を捻じざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、 「坊ちゃん、いらっしゃい。好いものを上げますとさ。」とその言を通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、臆面なく、 「アハアハ、」と小児が笑う。  青年は、好事にも、わざと自分の腰をずらして、今度は危気なしに両手をかけて、揺籠のようにぐらぐらと遣ると、 「アハハ、」といよいよ嬉しがる。  御機嫌を見計らって、 「さあ、お来なさい、お来なさい。」  貴婦人の底意なく頷いたのを見て、小さな靴を思う様上下に刎ねて、外国人の前へ行くと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から捩取ったように、目よりも高く差上げて、覚束ない口で、 「万歳――」  ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。        二 「今のは独逸人でございますか。」  外客の、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の英語でないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。  青年は椅子をぐるりと廻して、 「僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利人だそうです。」 「はあ、伊太利の、商人ですか。」 「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話は出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」 「理学者、そうでございますか。」  小児の肩に手を懸けて、 「これの父親も、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」  さては理学士か何ぞである。  貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。 「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」  雪踏をずらす音がして、柔かな肱を、唐草の浮模様ある、卓子の蔽に曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、 「どう仕りまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」  とちょいと天窓を掻いて、 「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」 「まあ。お人の悪い。貴郎は、」  と莞爾した流眄の媚かしさ。熟と見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子越に顔の合ったのを、手招きして、 「珈琲を。」 「ああ、こちらへも。」  と貴婦人も註文しながら、 「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地の文学のお話ででもございましたんですか。」 「どういたしまして、」  と青年はいよいよ弱って、 「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」 「来年の、どんな事でございます。」 「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(日蝕があるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕だ。)と云いましたが、まだ日本には、その風説がないようでございますね。  有っても一向心懸のございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那だか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き懸た処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」 「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」 「御串戯おっしゃっては不可ません。」 「それでは、どんなお話でございましたの。」 「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」 「はあ、」 「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」  と俯向いて、低声になり、 「女俳優だ、と申しました。」 「まあ、」と清い目を睜って、屹と睨むがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。 「沢山、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」 「どちらで、」  と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、 「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」 「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」 「お湯。」  と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。        三 「静岡はどちらへお越しなさいます。」  貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、 「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋へ厄介になりますつもりで。」  もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、 「貴女、静岡は御住居でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」 「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎俳優ですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下、草深と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」  と菫色の手巾で、口許を蔽うて笑ったが、前髪に隠れない、俯向いた眉の美しさよ。  青年は少時黙って、うっかり巻莨を取出しながら、 「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手が外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、真に失礼。」  と真面目に謝罪って、 「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野さん、と云うのを御存じではございませんか。」 「河野……あの、」  深く頷き、 「はい、」 「あら、河野は私どもですわ。」  と無意識に小児の手を取って、卓子から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺ぐがごとく気を籠めて、 「そして、貴下は。」 「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税と云うものです。」  と青年は衝と椅子を離れて立ったのである。 「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾する。  主税は驚いた顔で、 「ええ、人が悪うございますって? その女俳優、と言いました事なんですかい。」 「いいえ、家が気に入らない、と仰有って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」 「…………」 「兄はもう失望して、蒼くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」  とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時更めて、略式の会釈あり。 「私は英さんの妹でございます。」 「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人でいらっしゃいますか。……これはどうも。」  静岡県……某……校長、島山理学士の夫人菅子、英吉がかつて、脱兎のごとし、と評した美人はこれであったか。  足一度静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間の森の咲耶姫に対した、草深の此花や、実にこそ、と頷かるる。河野一族随一の艶。その一門の富貴栄華は、一にこの夫人に因って代表さるると称して可い。  夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。煑たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯でも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する数か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……悉く夫人の手に受取られて、偏にその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。        四  五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市の相談をするのもある。飽かず、倦まず、撓まないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。  聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝の着痩はしたが、玉の膚豊かにして、汗は紅の露となろう、宜なる哉、楊家の女、牛込南町における河野家の学問所、桐楊塾の楊の字は、菅子あって、択ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。  当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏の上穿草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の袂に、大巌山の峰を蔽う、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から娶り得たと云う――新夫人の二人が、二つ巴の、巴川に渦を巻いて、お濠の水の溢るる勢。 「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう筈がありませんが。」  主税のこの挨拶は、真に如才の無いもので。熟々視ればどこにか俤が似通って、水晶と陶器とにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一であるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人はないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜から燐寸を出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火を見附けたほどの騒ぎ方で、 「煙草は不可んですな。」 「いや、これは。」主税は狼狽えて、くるりと廻って、そそくさ扉を開いて、隣の休憩室の唾壺へ突込んで、喫みさしを揉消して、太く恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許へ呼んで、夫人は莞爾々々笑いながら低声で何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来しを面白がったように見える。 「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初だ。」  と、半ば、独言を云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、 「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」 「どういたしまして、大恥辱。」 「旅馴れないのは、かえって江戸子の名誉なんですわ。」  ボオイが剰銭を持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、 「ここへも勘定。」  傍へ来て腰を屈めて、慇懃に小さな声で、 「御一所に頂戴いたしました、は、」 「飛んでもない、貴女、」  と今度は主税が火の附くように慌しく急って云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金の鎖が動いて、 「旅馴れた田舎稼ぎの……」 (女俳優)と云いそうだったが、客が居たので、 「女形にお任せなさいまし。」  とすらりと立った丈高う、半面を颯と彩る、樺色の窓掛に、色彩羅馬の女神のごとく、愛神の手を片手で曳いて、主税の肩と擦違い、 「さあ、こっちへいらしって、沢山お煙草を召上れ。」  と見返りもしないで先に立って、件の休憩室へ導いた。背に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳えて、主税は大跨に後に続いた。  窓の外は、裾野の紫雲英、高嶺の雪、富士皓く、雨紫なり。        五  聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留していたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児の二年姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分実家の医院においても、治療に詮議を尽したが、その効なく、一生の不幸になりそうな。断念のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途だと云う。  もとよりその女の児に取って、実家の祖父さんは、当時の蘭医(昔取った杵づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目の娘、(可哀相だわねえ、と客観的の口吻だったが、)今更大学へ行ったって、所詮効のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語が交った。  夫がまた、随分自分には我儘をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。  まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗いた。  この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木のような心地で心細くってならない処。夫が旅行で多日留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦ならなおの事、実家の手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目の娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々と笑う。  この談話は、主税が立続けに巻煙草を燻らす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。  椅子と椅子と間が真に短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、裳は長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏の尖は爪立つばかり。汽車の動揺みに留南奇が散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度も引かさね、引かさねするのであった。  主税はその盲目の娘と云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然客室の戸を開けようとして男の児が硝子扉に手をかけた時であった。――銀杏返しに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、扉を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布を着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込めて、首を萎めて、ぐったりして、その年増の膝に凭かかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の病い娘なのであった。  乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方から見透くのを、主税は何か憚かって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、太くお主の盲目なのに同情したために、自然から気が映ってなったらしく、女の児と同一ように目を瞑って、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向いて、いささかも室の外を窺う気色は無かったのである。  かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には太く倦じた体で、夫人は腕を仰向けに窓に投げて、がっくり鬢を枕するごとく、果は腰帯の弛んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻って、物打語るに疲れなかった。      草深辺        六  県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時は魔の所有に寂寞する、草深町は静岡の侍小路を、カラカラと挽いて通る、一台、艶やかな幌に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込み、友染の背当てした、高台細骨の車があった。  あの、音の冴えた、軽い車の軋る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日東京から帰った筈。それ、衣更えの姿を見よ、と小橋の上で留るやら、旦那を送り出して引込だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶の手を休めるやら、女連が上も下も斉しく見る目を聳てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人に乗初めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物なしに駈けるのであった。  ものの半時ばかり経つと、同じ腕車は、通の方から勢よく茶畑を走って、草深の町へ曳込んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房などは、若竹座へ乗込んだ俳優だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立の蔭になって差覗いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演るという新俳優の、あれは貫一に扮る誰かだ、と立騒いだ。  主税がまた此地へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放しの頭髪も洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波は争われぬ。土地の透明な光線には、(埃だらけな洋服を着換えた。)酒井先生の垢附を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴の紋着の羽織の中古なのさえ、艶があって折目が凜々しい。久留米か、薩摩か、紺絣の単衣、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦が心懸けたものであろう。  渠は昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。  仰いで、浅間の森の流るるを見、俯して、濠の水の走るを見た。たちまち一朶紅の雲あり、夢のごとく眼を遮る。合歓の花ぞ、と心着いて、流の音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸って、黒の大構の門に楫が下りた。 「ここかい。」とひらりと出る。 「へい、」  と門内へ駈け込んで、取附の格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を屈めて待つ。  冠木門は、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。  男の児が先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が帽を脱いで、雨あがりの松の傍を、緑の露に袖擦りながら、格子を潜って、土間へ入ると、天井には駕籠でも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。  と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、後の縁から射す明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、衣の色朦朧と、俤白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。  会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾して、 「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」  ちょいと車夫に声を懸けたが、 「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」  口早に促されて、急いで上る、主税は明い外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附るのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。 「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」  と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌く裳の音。        七  市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌しさ、主税は足早に続く咄嗟で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日汽車の中で、夫人を女俳優だと、外人に揶揄一番した、ああ、祟だ、と気が付いた。  気が付いて、莞爾とした時、渠の眼は口許に似ず鋭かった。  ちょうどその横が十畳で、客室らしい造だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、 「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。  主税が猶予うと、 「あら、座敷を覗いちゃ不可ません、まだ散らかっているんですから、」  と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白の紺も鮮麗に、部屋へ入っている夫人が、どこから見透したろうと驚いたその目の色まで、歴然と映っている。  姿見の前に、長椅子一脚、広縁だから、十分に余裕がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉の類、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。  薄萌葱の窓掛を、件の長椅子と雨戸の間へ引掛けて、幕が明いたように、絞った裙が靡いている。車で見た合歓の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本三本を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。  地を坤軸から掘覆して、将棊倒に凭せかけたような、あらゆる峰を麓に抱いて、折からの蒼空に、雪なす袖を飜して、軽くその薄紅の合歓の花に乗っていた。 「結構な御住居でございますな。」  ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬の縞の羽織を引掛けて、帯の弛い、無造作な居住居は、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥の前なる、鏡台の鏡の裏へ、その玉の頸に、後毛のはらはらとあるのが通って、新に薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも籠ったか、主税が坐ると馥郁たり。 「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜は旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」  と火箸を圧えたそうな白い手が、銅壺の湯気を除けて、ちらちらして、 「昨夜にも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有さが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可ないから………」  と莞爾笑って、瞥と見て、 「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前雀羅を張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で払を持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下も詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、可い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。  あの、地方の車だって疾いでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧をしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の処へ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」  返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉を仰向け、胸を反らした、片手を畳へ。 「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の直きこっちの大きな山葵の看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山喫って頂戴、お煙草。露西亜巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっとも喫みませんから……」        八  それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を焙じる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ沸らぬ、と銅壺から湯を掬む柄杓の柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛なく、抜けて柄になってしまったので、 「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透した風情は、この夫人の艶なるだけ、中指の鼈甲の斑を、日影に透かした趣だったが、 「仕様がないわね。」と笑って、その柄を投り出した様子は、世帯の事には余り心を用いない、学生生活の俤が残った。  主税が、小児衆は、と尋ねると、二人とも乳母が連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知旁々、朝早くから出向いたとある。 「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句は言わないまでも、苦い顔をして、髯の中から一睨み睨むに違いはないんですもの、難有くないわ。母様は自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと経つと帰って来ます。それまでは、私、実家へは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」  と火鉢の縁に肱をついて、男の顔を視めながら、魂の抜け出したような仇気ないことを云う。 「そりゃ、悪いでしょう。」  と主税がかえって心配らしく、 「彼方から、誰方かお来なさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」 「来るもんですか。義兄(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日は、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠って、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の病を治すより、国の病を治したい、と云う大な希望の人ですからね。過年、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様は、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。  惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに掲ったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」  と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽ついたようだったが、 「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と気もなく答える。  別に狙ったのでないらしく、 「でも、何でしょう、貴下は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」 「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」  と、なぜか気競って云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も吐かずに、番茶を呷る。 「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」  夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛を裂いたように黒目勝なので睨むようにした。 「ちょいと、吃驚して。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」  と振返りざまに背後向きに肩を捻じて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動きに、下交の褄が辷った。  そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、翳すがごとく開いて見せたは…… 「や! 読本を買いましたね。」 「先生、これは何て云うの?」 「冷評しては不可ませんな、商売道具を。」 「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」 「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」 「レエゼウッフ。」        九 「あの、何?」  と真に打解けたものいいで、 「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」 「直き読めます、」  と読本を受取って、片手で大掴みに引開けながら、 「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」 「だって……」 「いいえ、出来ます。」 「あら、ほんとに……」 「もっとも月謝次第ですな。」 「ああだもの、」  と衝と身を退いて、叱るがごとく、 「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」  茶棚の傍の襖を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺の産らしい、十六七の婢どんが、 「ふァい、奥様。」と訛って云う。  聞いただけで、怜悧な菅子は、もうその用を悟ったらしい。 「誰か来たの?」 「ひゃあ、」 「あら、厭な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」 「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代衆でござりますだ。」 「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」  と云いかけて、主税を見向いて、 「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行きましょうよ。」  衣紋を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞った婢の髪を、袂で払って、もう居ない。  トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。  はて心得ぬ、これだけの構に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺を眗したが――後で知れた――留守中は、実家の抱車夫が夜宿りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。  そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中は学校へ出ても、別に仔細は無かったろうに。  さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、 「早瀬さん――」  主税は、夫人が此室を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿りつつ返事が遅いと、 「早瀬さん、」  と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯を云ったものを。 「室数は幾つばかりあれば可くって?」 「何です、何です。」  余り唐突で解し兼ねる。 「貴下のお借りなさろうというお家よ。ちょいと、」 「ええ、そうですね。」 「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」  夫人がした通りに、茶棚の傍の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背を凭たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱も露に夫人は頬を支えていた。 「朝から戸迷いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」  と振向いた顔の、花の色は、合歓の影。 「へへへへへ」  と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金木綿の風呂敷に、浴衣地が堆い。      二人連        十  午後、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。  門際の流に臨むと、頃日の雨で、用水が水嵩増して溢るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼く飜って竜の躍るがごとく、茂の下を流るるさえあるに、大空から賤機山の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘をすぼめた。  と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡くように見えたのは、羽織なしの一枚袷という扮装のせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳く、よく似合う。ただし媚しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。  セルで足袋を穿いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸を出掛けに着換えたが、膚に、緋の紋縮緬の長襦袢。  二人の児の母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一軍人好みになりたがるが、垢抜けのした、意気の壮な、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜の花のように生暖なものではなく、雪の下もみじで凜とする。  部屋で、先刻これを着た時も、乳を圧えて密と袖を潜らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露にその長襦袢に水紅色の紐をぐるぐると巻いた形で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、 (市川菅女。)と莞爾々々笑って、澄まして袷を掻取って、襟を合わせて、ト背向きに頸を捻じて、衣紋つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒そうに天窓を引掻いていたのを見ると、 「そんな邪険な撫着けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」  と云うのを、聞かない振でさっさと引込もうとしたので、 「あれ、お待ちなさい」と、下〆をしたばかりで、衝と寄って、ブラッシを引奪ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗き込むように瞳をためて顔を見た。  胸の血汐の通うのが、波打って、風に戦いで見ゆるばかり、撓まぬ膚の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅の色は褪せぬ。  境内の桜の樹蔭に、静々、夫人の裳が留まると、早瀬が傍から向うを見て、 「茶店があります、一休みして参りましょう。」 「あすこへですか。」 「お誂え通り、皺くちゃな赤毛布が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」  と謹んで色には出ぬが、午飯に一銚子賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。 「咽喉が渇いて?」 「ひりつくようです。」 「では……」  茶店の婆さんというのが、式のごとく古ぼけて、ごほん、と咳くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人子守女に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。 「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」  夫人が彳んでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中から切立の手拭を出して、はたはたと毛布を払って、 「さあ、どうぞ、」  笑って云うと、夫人は婆さんを背後にして、悠々と腰を下ろして、 「江戸児は心得たものね。」 「人を馬鹿にしていらっしゃる。」  と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、 「やあ、甘酒がある……」        十一 「お止しなさいよ。先刻もあんなものを食ってさ、お腹を悪くしますから。」  と低声でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込んだのを見て、その時は太く嬉しがった。  得てこれを嗜むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜いが不可いそうである。 「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」  と云うと、婆さんが早耳で、 「はい、盆に一杯五厘宛でございます。」 「私は鳩と遊びましょう。貴下は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食れ。」  と前の床几に並べたのを、さらりと撒くと、颯と音して、揃いも揃って雉子鳩が、神代に島の湧いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。 「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」  早瀬はその数を算えながら、 「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」 「はいはい、あれ、まあ、御覧じまし、鳩の喜びますこと、沢山奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」  と合点々々、ほたほた笑をこぼしながら甘酒を釜から汲む。  見る見るうち、輝く玄潮の退いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟に寂寞とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢いて出た者がある。  鼻の下はさまででないが、ものの切尖に痩せた頤から、耳の根へかけて胡麻塩髯が栗の毬のように、すくすく、頬肉がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺は小さな天窓を揉込んだごとく刻んで深い。色蒼く垢じみて、筋で繋いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支いたが、さまで容子の賤しくない落魄らしい、五十近の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸の断れた、寝ン寝子を今時分。  藁草履を引摺って、勢の無さは埃も得立てず、地の底に滅入込むようにして、正面から辿って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩そうに細めた目に、あわれや、笑を湛えて、婆さんの顔をじろりと見た。 「おお、貞さんか。」  と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹となって鋭く見た。  が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。 「主あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」  と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。 「方なしじゃ、」  思いの他、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児がいやいやをすると同一に縮めた首を破れた寝ン寝子の襟に擦って、 「埒明かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除れると云うので、」  と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向いた。 「何より利くそうなが、主あ飲しったか。」 「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」  とがっくり首を掉って、 「験が見えぬじゃて。」  験なきにはあらずかし、御身の骸は疾く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢なくそこに立てるならずや。  ごほごほと頷き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾で口を圧えながら、甘酒の茶碗を、衝と傍へ奪ったのである。        十二 「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験の無い事はあるまいが、疾く快うなろうと思いなさる慾で、焦らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、主、気の持ちように依るぞいの。」  と婆さんは渠を慰めるような、自分も勢の無いような事を云う。  病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、 「この頃は病気と張合う勇もないで、どうなとしてくれ、もう投身じゃ。人に由っては大蒜が可え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、私はこう見えても癆咳とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ除れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」  愚痴のあわれや、繰返して、杖に縋った手を置替え、 「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」  と切なそうに顔を獅噛める。 「焦らっしゃる事よ、苛れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」 「ちっと休まいて貰いたいがの、」  菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、 「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然とする慄然とする、」  と重そうな頭を掉って、顔を横向きに杖を上げると、尖がぶるぶる震う。  こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾いて禁めたので黙った。 「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」  物は言わず、睡るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。 「お婆さん、」  と早瀬が調子高に呼んだ。  さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生ったようになって、 「へい、」 「今の、風説ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」  と、威しては可けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。 「いえ、一ツ心当りは無いか、家を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」 「ああ、そうね。」 「どこか、貸家はあるまいか。」 「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」 「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」 「どんなのがお望みでござりまするやら、」 「廉いのが可い、何でも廉いのが可いんだよ。」 「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧えて云う。 「長屋で可いのよ、長屋々々。」  と構わず、遣るので、また目で叱る。 「へへへ、お幾干ばかりなのをお捜しなされまするやら。」  心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行って出る。 「静岡じゃ、お米は一升幾干だい。」 「ええ。」 「厭よ、後生。」  と婆さんを避けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、 「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」 「もう、私は、」と堪りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾で半ば蔽いながら、茶店を境内へ衝と出る。        十三  どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿の親仁だの、日和下駄で尻端折り、高帽という壮佼などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。  石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗で、青葉越に緋鯉の躍る池の水に、影も映りそうに彳んだが、手巾を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、 「可い加減になさいよ、極りが悪いじゃありませんか。」 「はい、お忘れもの。」  と澄ました顔で、洋傘を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり、中には、じめじめとするのさえある。……  夫人はちょいと俯目になって、軽くその洋傘を支いて、 「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」 「はッ、主税御供仕りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」 「静岡は暢気でしょう、ほほほほほ。」 「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」 「あらまた、厭ねえ、貴下は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」 「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」 「どうせね、柳橋のようなわけには……」 「いいえ、今も、子守女めらが、貴女が手巾をお掉りなさるのを見て、……はははは、」 「何ですって、」 「はははははは。」  と事も無げに笑いながら、 「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと囃して遁げましたぜ。」  ツンと横を向く、脊が屹と高くなった。引かなぐって、その手巾をはたと地に擲つや否や、裳を蹴て、前途へつかつか。  その時義経少しも騒がず、落ちた菫色の絹に風が戦いで、鳩の羽はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向いたが、直ぐに大跨に夫人の後について、社の廻廊を曲った所で追着いた。 「夫人。」 「…………」 「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人、」 「…………」 「英吉君の御妹御、菅子さん、」 「…………」 「島山夫人……河野令嬢……不可い、不可い。」  と口の裡で云って、歩行き歩行き、 「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更独じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」  いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。  社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。  夫人はもとより口を開かぬ。  やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。  大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、 「ものを云って下さいよ。」 「…………」 「夫人、」 「…………」        十四  少時――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色でもないが、腕を拱いた態で、夫人の一足後れに跟いて行く。  裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞して、空屋かと思えば、蜘蛛の巣を引くような糸車の音が何家ともなく戸外へ漏れる。路傍に石の古井筒があるが、欠目に青苔の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥いで、流も乾びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴と黒く書いた広告の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。  振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗な隧道に樹立が塞いで、炎のように光線が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳え立って峰から哄と吹き下した。  かつ散る紅、靡いたのは、夫人の褄と軒の鯛で、鯛は恵比寿が引抱えた処の絵を、色は褪せたが紺暖簾に染めて掛けた、一軒(御染物処)があったのである。  廂から突出した物干棹に、薄汚れた紅の切が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥で埋った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋で、煤のふさふさと下った真黒な潜戸の上の壁に、何の禁厭やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗の、前脚を立てた姿が、雨浸に浮び出でて朦朧とお札の中に顕れて活るがごとし。それでも鬼が来て覗くか、楽書で捏ちたような雨戸の、節穴の下に柊の枝が落ちていた……鬼も屈まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄い。  フト立留まって、この茅家を覗めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘を袖の下へ横えると、惜げもなく、髪で、件の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前へ顔を入れた。 「御免なさいよ、御隣家の屋を借りたいんですが、」 「何でございますと、」  と、頓興な女房の声がする。 「家賃は幾干でしょうか。」 「ああ、貞造さんの家の事かね。」  余り思切った夫人の挙動に、呆気に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。 「空家ではござりませぬが。」 「そう、空家じゃないの、失礼。」  と肩の暖簾をはずして出たが、 「大照れ、大照れ、」  と言って、莞爾して、 「早瀬さん、」 「…………」 「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」  さすがに夫人もこれは離れ業であったと見え、目のふちが颯となって、胸で呼吸をはずませる。  その燃ゆるような顔を凝と見て、ややあって、 「驚きました。」 「驚いたでしょう、可い気味、」  と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行き出そうとして、その茅家をもう一目。 「しかし極が悪かってよ。」 「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉しく左右を見た。両側の伏屋の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗が……      貸小袖        十五  今来た郵便は、夫人の許へ、主人の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。  塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒好が、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯へ注ける口も苦そうに、差置いて、どうやら鬱ぐらしい。  襖が開いた、と思うと、羽織なしの引掛帯、結び目が摺って、横になって、くつろいだ衣紋の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白な線を、読みかけた玉章で斜めに仕切って、衽下りにその繰伸した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者の風がある。 「やっと寝かしつけたわ。」  と崩るるように、ばったり坐って、 「上の児は、もう原っから乳母が好いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」  と手紙を見い見い忙しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児が二人とも母様にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく勢。目の見えない娘は、寂しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着け、躱す顔の耳許へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに鬢が乱れて、面影も痩せたように、口のあたりまで振かかるのを掻い払うその白やかな手が、空を掴んで悶えるようで、(乳母来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目の、顔を見ようとしないので、元気なく微笑みながら、娘の児の手を曳くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても肯かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。  そこへ、しばらくして、郵便――だった。  すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩さそうに掻上げて、 「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏を絞られたわ。」  と急いで衣紋を繕って、 「さあ、お酌をしましょう。」  瓶を上げると、重い。 「まあ、ちっとも召喫らないのね。お酌がなくっては不可いの、ちょいと贅沢だわ。ほほほほ、家も極まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」 「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々失礼しましょう。」  と恐しく真面目に云う。 「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出なすって、幸いお知己になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。  あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」  と掌に巻き据えた手紙の上を、軽く一つとんと拍って、 「母様が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩り召食れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯と流してから喫りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可くって、」  念を入れて、やがて諾と云わせて、 「ああ、昨日も一昨日も、合歓の花の下へ来ては、晩方寂しそうに帰ったわねえ。」        十六  さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。  机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児の玩弄物も乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。  湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間を一跨ぎ、据風呂をこの空地から焚くので、雨の降る日は難儀そうな。  そこに踞んでいた、例のつんつるてん鞠子の婢が、湯加減を聞いたが上塩梅。  どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、台所をぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の設計は、この邸に似ず古びていた。  小灯の朦々と包まれた湯気の中から、突然褌のなりで、下駄がけで出ると、颯と風の通る庇間に月が見えた。廂はずれに覗いただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、裸身に颯と白銀を鎧ったように二の腕あたり蒼ずんだ。  思わず打仰いで、 「ああ、お妙さん。」  俯向いた肩がふるえて、 「お蔦!」  蹌踉いたように母屋の羽目に凭れた時、 「早瀬さん、」と、つい台所に、派手やかな夫人の声で、 「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」 「憚り、」  と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球紬の書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、桁短に腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾が摺るのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ婦物。中形模様の媚かしいのに、藍の香が芬とする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝を支いて、鉄瓶を掛けながら、 「似合ったでしょう、過日谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣に着て頂戴。」 「むざむざ新らしいのを。」  と主税は袖を引張る。 「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」 「気味が悪い、」 「…………」 「もんですか。勿体至極もござらん。」  と極ったが、何かまだ物足りない。 「帯ですか。」 「さよう、」 「これを上げましょう。」  とすっと立って、上緊をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹縮。 「…………」  目を見合せ、 「可いわ、」  とはたと畳に落して、 「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」  主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の客室の前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや跫音のするまで歩行いた。  婢が来て、ぬいと立って、 「夫人が言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」 「いや、宜しい。」 「はいい。」と念入りに返事する。 「いつも何時頃にお休みだい。」  と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。  疾い事、もう紙に両個。 「一個は乳母さんに、お前さんから、夫人に云わんのだよ。」        十七  寝たのはかれこれ一時。  膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢ないほど、夜も更けて、寂と寒くなったが、話に実が入ったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、褄を引合せて肩で押して、灰の中へ露わな肱も落ちるまで、火鉢の縁に凭れかかって、小豆ほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間歩行き廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も萎えたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒は苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯に二ツばかりの――酔さえ醒めず、黒目は大きく睫毛が開いて、艶やかに湿って、唇の紅が濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、頭に気が籠った様子で、相互の話を留めないのを、余り晩くなっては、また御家来衆が、変にでも思うと不可ませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度促しても肯入れなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、衣の裏がするりと辷った時、薄寒そうに、がっくりと頷くと見ると、早急にフイと立つ……。  膝に搦んだ裳が落ちて、蹌踉めく袖が、はらりと、茶棚の傍の襖に当った。肩を引いて、胸を反らして、おっくらしく、身体で開けるようにして、次室へ入る。  板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中に透いた処がある。乳母が両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。  トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく経っても来なかった。  早瀬は灰に突込んだ堆い巻莨の吸殻を視めながら、ああ、喫んだと思い、ああ、饒舌ったと考える。  その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等が詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯を火に翳してその血汐のごとき紅を眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛から、エルテルは後日にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。  早瀬は悉しく懺悔するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……  義理から別離話になると、お蔦は、しかし二度芸者をする気は無いから、幸いめ組の惣助の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返しなら不自由はなし、雛妓の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋へ内弟子に入って当分梳手を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに極まった。この事は、酒井先生も御承知で、内証で飯田町の二階で、直々に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく頷いて、手ずから、小遣など、いろいろ心着があった、と云う。  それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込むつもりだったが、め組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠も人目を憚って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。 (そんな時は、)  と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、 (背中合わせで、別々に。)  翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人に逢ったんだと。……      うつらうつら        十八  中途で談話に引入れられて鬱ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯を炊てくれた婦は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫、と喟然として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を煑るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。  出て来ない――夫人はどうしたろう。  がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞して、耳馴れたれば今更めけど、戸外は数万の蛙の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽く調があって、章と句と斉しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺を造って、国が暗くなる気勢がする。  時に湯気の蒸した風呂と、庇合の月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路の夜の孤旅が思出される。  渠は愁然として額を圧えた。 「どうぞお休み下さりまし。」  と例の俯向いた陰気な風で、敷居越に乳母が手を支いた。 「いろいろお使い立てます。」  と直ぐにずッと立って、 「どちらですか。」 「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と頭を下げた。  寝床はその、十畳の真中に敷いてあった。  枕許に水指と、硝子杯を伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗金蒔絵の小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花の青い花に、玉の丸火屋の残燈を包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。  じろりと視めて、莞爾して、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨の括枕を横へ取って、足を伸して裙にかさねた、黄縞の郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻を引き寄せる、手が辷って、ひやりと軽くかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。  トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。  乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、 「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」  と云ったと思うと、隔ての襖の左右より、中ほどがスーと開いたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの灯も暗いから、裳はかくれて、乳の下の扱帯が見えた。 「お休みなさい。」 「失礼。」  と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺、宙に残って、消えずに俤に立つ。  主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと睜いて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。  早瀬は起上って、棚の残燈を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢の寝た裙を通って、板戸を開けて、台所の片隅の扉から出て、小用を達して、手を洗って、手拭を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉の香がする。        十九  寝室へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢よく枕して目を閉じたが、枕許の香は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺って、幽な波を描いて恋を囁くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿って来て、和かに面を撫でる。  それを掻払うごとく、目の上を両手で無慚に引擦ると、ものの香はぱっと枕に遁げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返して、今度は軽く胸に乗る。  寝返りを打てば、袖の煽にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢、原の花片に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐高くなった。  快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々と瞳に映る。  枕に手を支き、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈の隈かと見えて、薄紫に畳を染めて、例の菫色の手巾が、寂然として落ちたのに心着いた。  薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄に敷いた畳の上に、一簇の菫が咲き競ったようになって、朦朧とした花環の中に、就中輪の大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処に羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一処にちらちらする。  早瀬は、甘い、香しい、暖かな、とろりとした、春の野に横わる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん這になって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖を支いて、恍惚した状にその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と斉しく、花の匂が懐しくなったと見える。  やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。  不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸ばかり襖が……開……い……た。  と見ると、手巾の片端に、紅の幻影が一条、柔かに結ばれて、夫人の閨に、するすると繋っていたのであった。  菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁の糸と云う。禁断の智慧の果実と斉しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属となり、畜生の浅猿しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。  いかに、この時。  隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱き蛇は、その燃ゆる色に黄金の鱗の絞を立てて、菫の花を掻潜った尾に、主税の手首を巻きながら、頭に婦人の乳の下を紅見せて噛んでいた。  颯と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺が露に見えた。残燈はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明でも、繋いだものの中は断たれず。……  ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾を出て、胸を圧えて、熟と見据えた目に、閨の内を眗して、懵としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を徜徉うごとく、裳も畳に漾ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯の我を纏えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。      思いやり        二十  妙子は同伴も無しにただ一人、学校がえりの態で、八丁堀のとある路地へ入って来た。  通うその学校は、麹町辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習っている三味線も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。  目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを睜ったお妙は、鶯の声を見る時と同一な可愛い顔で、路地に立って眗わしながら、橘に井げたの紋、堀の内講中のお札を並べた、上原と姓だけの門札を視めて、単衣の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘を支いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗き込んだ顔を赤らめて、黙って俯向いて俯目になった。口許より睫毛が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。  コトコトとその洋傘で、爪先の土を叩いていたが、 「御免なさい。」  とようよう云う、控え目だったけれども、朗に清しい、框の障子越にずッと透る。  中からよく似た、やや落着いた静な声で、 「はあ、誰方?」  お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚して顔を上げる。 「誰方、」 「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」 「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢に連れて、もの云う調子が婀娜になる。  と真正面に内を透かして、格子戸に目を押附ける。 「何ぞ御用。」  といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳い、しっとりした縞お召に、黒繻子の丸帯した御新造風の円髷は、見違えるように質素だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳であった。  立身で、框から外を見たが、こんな門には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝になって、 「あいにく出掛けて居りませんが、貴嬢、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」  瞳も離さないで視めたお妙が、後馳せに会釈して、 「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」  と指でも圧えず、惜気なく束髪の鬢を掉って、 「お師匠さんでなくっても可いんです。お弟子さんがお在なら、ちょいと結んで下さいな。」  縋って頼むように仇なく云って、しっかり格子に掴まって、差覗きながら、 「小母さんでも可いわ。」  我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、 「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」 「いいえ、遠いのよ。」 「お遠うございますか。」 「本郷だわ。」 「ええ、」 「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」 「お嬢様、まあ、」  と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧えたのも気が附かぬか、駒下駄の先を、逆に半分踏まえて、片褄蹴出しのみだれさえ、忘れたように瞻って、 「お妙様。」 「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」        二十一 「いらっしゃいまし、」  と小芳が太く更まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座へ直されていたのである。 「貴嬢、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今手拭を絞って差上げます。」  と一斉に云いかけられて、袖で胸を煽いでいた手を留めて、 「暑いんじゃないの、私極が悪いから、それでもって、あの、」  と袂を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、 「小母さんが、お蔦さん?」と低声でまた聞いた。 「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽てしまってさ。ほほほ、いうことも前後になるんですもの、まあ、御免なさいまし。  私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」 「ええ、御病気。」と憂慮しげに打傾く。 「はあ、久しい間、」 「沢山、悪くって?」 「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥っておりますから、お髪はあげられませんでしょう。ですが、御緩くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」  と擦寄って、うっかりと見惚れている。  上框が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲った処に、もう一室、障子は真中で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。  向うは余所の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ組の住居、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。  惣助の得意先は、皆、渠を称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及、作取りのただ儲け、商売で儲けるだけは、飲むも可し、打つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本で買って、それから女房の衣服で打つ。  それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上へ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、  トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に縮まって、下げ煙管の投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外ずし、沸立った湯を流へあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦で一杯を極めた。  その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末さ。どこを見てもがらんとして、間狭な内には結句さっぱりして可さそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに袂を爪繰って、 「可いのよ、小母さん、髪結さんの許だから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ結わなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」  と投出したように云って、 「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」 「姉さん、」  ト、障子の内から。 「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、 「私、そこへ行っても可いかい?」  小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。  枕についた肩細く、半ば掻巻を藻脱けた姿の、空蝉のあわれな胸を、痩せた手でしっかりと、浴衣に襲ねた寝衣の襟の、はだかったのを切なそうに掴みながら、銀杏返しの鬢の崩れを、引結えた頭重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻と今呼吸をしたのはお蔦である。        二十二  お蔦は急に起上った身体のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術なそうであった。  枕から透く、その細う捩れた背へ、小芳が、密と手を入れて、上へ抱起すようにして、 「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可いよ。」 「ああ、難有う、」  とようよう起直って、顱巻を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、 「何だか、骨が抜けたようで可笑いわ、気障だねえ、ぐったりして。」  と蓮葉に云って、口惜しそうに力のない膝を緊め合わせる。  お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって覗いていたが、 「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」  とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然と縁を切って走込むばかりの勢――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染だけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着くように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで凝と視める。  肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、 「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」 「はじめまして、」  と余り白くて、血の通るのは覚束ない頸を下げて、手を支きつつ、 「失礼でございますから、」 「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」  と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と急って云う。  その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、 「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」 「いいえ、そんなじゃありません。切なければ直きに寝ますよ。お嬢さん、難有う存じます。貴嬢、よくおいで下さいましたのね。」 「そして、よく家が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」  小芳はまた今更感心したように熟々云った。 「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極りが悪かったわ。探すのさえ煩かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」 「私たちが……」 「なぜでございますえ。」  と両方へ身を開いて、お妙を真中にして左右から、珍らしそうに顔を見ると、俯向きながら打微笑み、 「だって私は、ちっともお金子が無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」  お蔦がハッと吐息をつくと、小芳はわざと笑いながら、 「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」  となぜか、怨めしそうな、しかも優い目で瞻って、 「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」 「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」  と仇気なく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。  二人目と目を見合せて、 「極が悪い、お蔦さん。」 「姉さん、私は恥かしい。」 「もう……」 「ああ、」  思わず一所に同音に云った。 「写真なんか撮るまいよ、」――と。        二十三  お妙は時に、小芳の背後で、内証で袂を覗いていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、 「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。  だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者衆だから、ハイカラなものは不可いでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」 「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」 「まあ、」  と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、 「何を下すったい。」 「開けて見ても可いかね。」 「早く拝見おしなねえ。」 「あら! 見ちゃ可厭よ、酷いわ、小母さんは。」  と背中を推着いて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目の敵にして、小突く。  お蔦は病気で気も弱って、 「遠慮しましょうかね、」と柔順しく膝の上へ大事に置く。 「ほんとうに、お蔦さんは羨しいわねえ。」  とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から緋天鵝絨の小さな蝦蟇口を可愛らしく引出して、 「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。沢山あると可いけれど、大な銀貨(五十銭)が三個だけだわ。  先の紙入の時は、お紙幣が……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」  と驚いたような顔をして、 「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」  小芳が吃驚したらしい顔を、お蔦は振上げた目で屹と見て、 「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」 「お礼を申上げます。」  と作法正しく、手を支いたが、柳の髪の品の佳さ。頭も得上げず、声が曇って、 「どうぞ、此金で、苦界が抜けられますように。」  その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮んだ調子で、 「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」 「主税さんが好な色よ。」  と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。 「姉さん、」  と、お蔦は俯向いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染るまでその半襟を咽喉に当てて、頤深く熟と圧えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。 「私が死んだら、姉さん、経帷子も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」  と云う下から、桔梗を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。 「ええ、お前さん、そんな、まあ、拗ねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を資本にして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」  と串戯らしく言いながら、果敢ないお蔦の姿につけ、情にもろく崩折れつつ、お妙を中に面を背けて、紛らす煙草の煙も無かった。  小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛を幽に振わしつつ、 「お医者には懸っているの。」 「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」  と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色。      お取膳        二十四  その時お妙の言というのが、余り案外であったのから、小芳は慌しく銀の小さな吸口を払いて煙管を棄てたのである。 「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」  と至って真面目で、 「まずいものを内服せて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては不可いの、と種々なことを云うんですもの。  そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」  小芳が(まあ。)と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうな笑を見せて、 「お嬢さん、その貴嬢、面白いことが無いんですもの、」と勢のない呼吸をする。 「主税さんに逢えば可いでしょう。」 「え、」 「貴女、逢いたいでしょう。」  二人が黙って瞻っても、お妙は目まじろぎもしないで、 「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。  絵のお清書をする時、硯を洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の杜若なんざ、もう私、嬰児が描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」  と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔は撓まず、声も凜々と冴えた。 「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、極が悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに幾度も九段まで来て止したの。  それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度万世橋で降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。  そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も同一電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんが傍へ来て附着いて歩行くんですもの。私、斬られるかと思って可恐かったわ、ねえ、お臀の肉が薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。  もう一生懸命にここへ来て、まあ、可かった、と思ってよ。  あのね、あの、」  と蓐の綴糸を引張って、 「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、我儘を云ってやるわ。だって、自分だって、母様が不可ないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。  貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっとも肯かないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも(厭だ。)とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」  と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、 「小母さんでも可うござんす。構わないで家へいらっしゃいよ。玄関の書生さんは婦のお客様をじろじろ見るから極が悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。  私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くような大な声を出したら、そしたらもう可いわ。  是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。不可いとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんが寂しがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに可恐らしくっても、あわれな話だと直きに泣くんですもの、きっと承知するわ。  そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びに行くから、そうしたらば、あの……」  と蓐の端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、 「貴女も、私を可厭がらないで、一所に遊んで頂戴よ。前に飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」  もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッと面を伏せた。        二十五  涙を払って、お蔦が、 「姉さん、私は浮世に未練が出た。また生命が惜くなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお医師にも懸りましょう、薬も服むよ。  お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」  と身をせめて、わなわな震える。 「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」  掻巻の襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、 「ああ、勿体ない。そんなになすっては不可ません。皆がそうじゃないって言いますけれど、私は色のついた痰を吐きますから、大切なお身体に、もしか、感染でもするとなりません。」  覚悟した顔の色の、颯と桃色なが心細い。 「可いわ!」 「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」  と小芳を見て、 「何ぞ……」  と云うと、黙って頷く。 「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」 「今日は私に任かせておくれ。」 「いいえ、」 「不可ないよ、私がするんだよ。」 「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を苛めるものがあって、」 「無理ばっかり云う人だよ、私に理由があるんだから。」 「理由は私にだって有りますよ。あの、過般もお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円紙幣が三枚。勿体ないから、死んだらお葬式に使って欲しくって、お仏壇の抽斗へ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」  とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように果敢なく聞えた。 「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」 「戸外は暑かろうねえ。」 「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘をさすものか。」 「角の小間物屋で電話をお借りよ。」 「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好かろうねえ。」 「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」 「ここで皆一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」 「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」  と小芳が嬉しそうに云う。 「じゃ、私も大きいの。」 「感心、」  とお蔦が莞爾。 「驚きましたねえ。」  と立つ。 「御飯も一所よ。」 「あいよ、」  と框を下りる時、褄を取りそうにして、振向いた目のふちが腫ぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。 「お嬢さん、」  とお蔦が懐しそうに、 「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便がないんですよ。  人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ覗いて、もう見落しはしなかろうか、と隙さえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。  この頃じゃ落胆して、勢も張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。  たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」        二十六  お蔦は蓐に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄の萎えた、かよわい状は、物語にでもあるような。直ぐにその裳から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。  紙入の中は、しばらく指の尖で掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切に蔵って、小さく、整然と畳んで、浜町の清正公の出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心も無く、十年の馴染のように、横ざまに蓐に凭れながら、頸を伸して、待構えて、 「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊を助けたりなんか、不可ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」 「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」 「拝見な。」  と寝転ぶようにして、頬杖ついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗を覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を密と見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中へ、その酒井先生恩賜の紙幣の紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。  戸外を金魚売が通った。 「何でしょう。この小使は、また可訝なものじゃないの、」  とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(AB横町。)と云う標題で、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃渾名してAB横町と称える。すでに阿部郡であるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が戯にしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、粋な兄哥で、鼻唄を唱えばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で或学校に講師だった、そこで知己の小使が、便って来たものだそうだが、俳優の声色が上手で落語も行る。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分御贔屓である、と云う雑報の意味であった。  小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。  話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。  小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢に連れて蹌踉起きて出て、自慢の番茶の焙じ加減で、三人睦くお取膳。  お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛を持って、颯とお化粧を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭いて一歯入れる。  苦労人が二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗さを、飽かず視めて、小芳が幾度も恍惚気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤もな次第だけれども、余り手放しで口惜いから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……  いずれ両親には内証なんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返した小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に縋りついて、 「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人だけれど、産……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体へ袖が触る度に、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」  と、手を引入れて引緊めて、わっとばかりに声を立てると、思わず熟と抱き合って、 「あれ、しっかりおし、小芳さん、癪が起ると不可いよ。私たちは何の因果で、」  芸者なんぞになったとて、色も諸分も知抜いた、いずれ名取の婦ども、処女のように泣いたのである。      小待合        二十七 「こうこう、姉え、姉え、目を開いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸前の肴屋だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お前の方で惣菜は要らなくっても、己が方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」  と盤台をどさりと横づけに、澄まして天秤を立てかける。微酔のめ組の惣助。商売の帰途にまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。  立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、 「全くおあいにくなんですよ。」  と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、 「見ねえ、身もんでえをする度に、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子の音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の埃を払いて通るぜ。」  とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩のこなたへボカン。  声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重なると、力を得たらしく以前の女中が、 「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」 「看板を下ろせ、」  と喚いて、 「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」  と尻上りに云って、外道面の口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。 「そっちの姉は話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく面だ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」  行詰った鼻の下へ、握拳を捻込むように引擦って、 「憚んながらこう見えても、余所行きの情婦があるぜ。待合へ来て見繕いで拵えるような、べらぼうな長生をするもんかい。  おう、八丁堀のめの字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん許だ。柏屋の綱次と云う美しいのが、忽然として顕れらあ。  どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」  と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭へ突出して、 「それとも半纏着は看板に障るから上げねえ、とでも吐かして見ろ。河岸から鯨を背負って来て、汝ン許で泳がせるぞ、浜町界隈洪水だ。地震より恐怖え、屋体骨は浮上るぜ。」  女中二人が目配せして、 「ともかくお上んなさいまし、」 「どうにか致しますから。」 「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引。」  と黄声を発して、どさり、と廊下の壁に打附りながら、 「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」  で、突立って大手を拡げる。 「どうぞこちらへ、」  と廊下で別れて、一人が折曲って二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引の薄汚れたので大胡坐。 「御酒をあがりますか。」 「何升お燗をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追つくめえ。」  女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼で首を振って、チョ、舌鼓を打って、 「待ちな待ちな。大夫前芸と仕って、一ツ滝の水を走らせる、」  とふいと立って、 「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越の逆落しと遣れ。裏階子から便所だ、便所だ。」  どっかの夜講で聞いたそうな。        二十八  手水鉢の処へめ組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと眗したが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室へのっそりと入って、襖際へ、どさりとまた胡坐になる。  女中が慌しく駈込んで、 「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」  と、たしなめるように云うと、 「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」 「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」 「構わねえ、一向構わねえ。」 「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」 「可いじゃねえか、お互だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼に立つとってよ、町内が質屋で打附ったようなものだ。一ツ穴の狐だい。己あまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると魘されらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割に住んでるから、壁隣の賑かなのが頼もしいや。」 「不可ませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好んでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」 「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障は言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く燗けて来ねえよ。」  いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、 「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お肴は?」 「肴は己が盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭の鎌ン処があるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが好だったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して帰っても今日も食うめえ。」  と独言になって、ぐったりして、 「媽々に遣るんじゃ張合が無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」  女中は、気違かと危んで、怪訝な顔をしたが、試みに、 「そして綱次さんを掛けるんですか。」 「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染でも情婦でもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の室で口説いてら、しかも二人がかりだ。」 「ちょっと、」  と留めて姉さんは興さめ顔。 「こっちは一人だ、今に来たら、お前も手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、(と聞く耳立てて)純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」  と、襖にどしんと顔を当てて、 「蟻の戸渡でいやあがらあ、べらぼうめ。」 「やかましい!」  隣の室から堪りかねたか叱咤した。 「地声だ!」 「あれ、」  と女中が留めようとする手も届かず、ばたりめ組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。 「この毛唐人めら、汝、どうするか見やあがれ。」  あッと云って、真前に縁へ遁げた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕の胸づくし、釦が引ちぎれて辷った手で、背後から抱込んだ。 「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等がこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、痴の色ばなしを冷かしといて、ゆっくり撲ろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、私がこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人打挫いておやんなせえ、お打ちなせえ、お打ちなせえ。  どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で検べるッて、……沙汰の限りだ。  むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った獣だ、盆に来て礼を云え。」  と突飛ばすと、閑耕の匐った身体が、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が搦んで漾う処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓から豆を浴びせた。惣助呵々と笑って、大音に、 「鬼は外、鬼は外――」      道子        二十九  夫の所好で白粉は濃いが、色は淡い。淡しとて、容色の劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、艶を競い、美を誇る心が無いから、日向より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。  河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の俤はそれであった。  どの姉妹も活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉は丈のびても物寂しく、さした紅も、偏えに身躾らしく、装った衣も、鈴虫の宿らしい。  いつも引籠勝で、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、某孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの天幕を臨時の運動場にしつらえて、慈善市を開く。謂うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも謂つべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、推してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために宜しからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。  朝涼の内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと腕に靡いて、引緊った白の衣紋着。車を彩る青葉の緑、鼈甲の中指に影が透く艶やかな円髷で、誰にも似ない瓜核顔、気高く颯と乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、媚かず温柔して、河野一族第一の品。  嗜も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向の御新姐らしい。はたそれ途中一土手田畝道へかかって、青田越に富士の山に対した景色は、慈善市へ出掛ける貴女とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。  車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、突かけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込んで、楫棒は島山の門の、例の石橋の際に着く。  姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児達も、乳母も書生も居ないで、長火鉢の前に主人の理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の鍋が掛って、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。  気軽なら一番威かしても見よう処、姉夫人は少し腰を屈めて、縁から差覗いた、眉の柔な笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾で半ば隠しながら、 「お一人。」 「やあ、誰かと思った。」  と髯のべったりした口許に笑は見せたが、御承知の為人で、どうとも謂わぬ。  姉夫人は、やっぱり半分隠れたまま、 「滝ちゃんや、透さんは。」 「母様が出掛けるんで、跡を追うですから、乳母が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩を食わしとるですかな。」 「ではもう菅子さんは参りましたね。」 「先刻出たです。」  なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色もしないで、 「ああ、もっと早く来れば可うござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お来えなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」  と優しく云って本意なそう。一門の中に、この人ばかり、一人も小児を持たぬ。        三十  姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。  と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら寂しく、姉夫人も言なく、手を掛けていた柱を背に向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓の散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。  と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋を取った、がよっぽど腹が空いたと見えて、 「失礼します。」と碗を手にする。 「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」  と肉色の絽の長襦袢で、絽縮緬の褄摺る音ない、するすると長火鉢の前へ行って、科よく覗いて見て、 「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」  と銅壺の湯を注して、杓文字で一つ軽く圧えて、 「お装け申しましょう、」と艶麗に云う。 「恐縮ですな。」  と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶も溢さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形小紋の紋着で、味噌汁を装う白々とした手を、感に堪えて見ていたが、 「玉手を労しますな、」  と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、 「御馳走(とチュウと吸って)これは旨い。」 「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」  その挨拶もせずに、理学士は箸もつけないで、ごッくごッく。 「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭ですかね。」 「はい、お禁厭でございます。」  と云った目のふちに、蕾のような微笑を含んでいたから。 「は、は、は、串戯でしょう。」 「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」 「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」 「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代も兼ねておりますから、疾く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言を言われると不可ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」 「うんえ、」  頬ばった飯に籠って、変な声。 「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許へお出でなさい、あすこに居ましょうで。」 「しますと、あの方も御一所なんですか。」 「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄しておるでしょう、は、はは、」  と調子高に笑って、厭な顔をして、 「行って見て下さらんか。貴女、」 「はい、」  となぜか俯向いたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。 「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食りかけた処を、失礼ですが、」 「いや、もう済んだです。」  その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。  絹足袋の、静な畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の婢も、旦那様の踏みしだいて出る跫音に、ひょっこり台所から顔を見せる。 「今日は、」  と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。 「ひゃあ、」と打魂消て棒立ちになったは、出入りをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った験が無いので。  車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。 「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」 「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。        三十一  早瀬は、妹が連れて父の住居へも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う壮佼はどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と籠勝な道子は面白いものを見もし聞もしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持もして、早や大巌山が幌に近い、西草深のはずれの町、前途は直ぐに阿部の安東村になる――近来評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を廻らした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。  車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩は無い、直き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝な顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の綻びた広袖のような絣の単衣でひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返す途中になるまで、気疾に引込んでしまったので、左右の暇も無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷ったような形で、机だの、卓子だの、算を乱した中を拾って通った。  菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処にこの部屋へお姿が露れますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の傍に坐り込んで、煙草を喫もうとして、打棄って、フイと立って蒲団を持出すやら、開放しましょう、と障子を押開いたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあると宜しいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞を投り出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまた摺すやら。なぜか見苦しいほど慌しげで、蜘蛛の囲をかけるように煩く夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、と絶ず饒舌ったのである。 「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」  とその中に落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸を反らして、片手で煙を払うような振をした。  早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の背後に突立っていたので、上下に顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人の顔は、瞼に色を染めたのである。  と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、徐に巻莨を取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝に支いた、肩が聳えた。 「夫人、貴女はこれから慈善市へいらしって、貧者のためにお働きなさるんですねえ。」  と沈んで云う。  顔を見詰められたので、睫毛を伏せて、 「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」 「お願いがございます。」  と匐るがごとく、主税がはたと両手を支いた。  余り意外な事の体に、答うる術なく、黙って流眄に見ていたが、果しなく頭も擡げず、突いた手に畳を掴んだ憂慮しさに、棄ても置かれぬ気になって、 「貴下、まあ、更まって何でございますの。」  とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、遁腰の膝を浮かせる。 「失礼な事を云うようですが、今日の催はじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなく情をお懸けになりますので、旱に雨を降らせると同様の手段。萎えしぼんだ草樹も、その恵に依って、蘇生るのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間業じゃ、なかなか焼石へ如露で振懸けるぐらいに過ぎますまい。」        三十二 「広く行渉るばかりを望んで、途中で群消えになるような情を掛けずに、その恵の露を湛えて、ただ一つのものの根に灌いで、名もない草の一葉だけも、蒼々と活かして頂きたい。  大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々御一人宛で、専門に、完全に、一人を救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所の子供の世話を焼く隙に、自分の児に風邪を感かせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を勦ってやって欲しいんですが、これじゃ大掴みのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。  ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫の涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。  この事に就きましては、私は夜の目も合わないほど心を苦めまして。」  とようよう少し落着いて、 「前から、貴女の御憐愍を願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々しくお目に懸る事も出来ませんし、そうかと云って、打棄って置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、実に何とも思いがけない、不思議な御光来で、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。  どうぞ、その、遍く御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で可うございます、私の方へお配分なすってくださるわけには参りませんか。  御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に被ます。」  と拳を握り緊めて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑に開けて、深切に、しかし躾めるような優しい調子で、 「お金子が御入用なんでございますか。」  と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直にも帯の間へ辷って、懐紙の間から華奢な(嚢物)の動作である。道子はしばしば妹の口から風説されて、その暮向を知っていた。  ト早瀬の声に力が入って、 「金子にも何にも、私が、自分の事ではありません。」 「まあ、失礼な事を云って、」  と襟を合わせて面を染め、 「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」 「ええ、勿論、救って頂きたい者は他にあるんです。」 「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧しゅうございますから。」  ……差俯向いて物寂しゅう、 「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」 「いや、貴女でなくては不可んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日も待たないという容体なんです。  六十近い老人で、孫子はもとより、親類らしい者もない、全然やもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺れに摺切れているじゃありませんか。  日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人の顔が見たいと云います。」 「ええ、」 「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」  と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、 「どこの、どんな人でございますの。」 「直きこの安東村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁をしたもので、……夫人、貴女の、実の……御父上……」        三十三 「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上、英臣さんが、御出征中、貴女の母様が御宅の馬丁貞造と……」  早瀬はちょっと言を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然と一葉、半紙に書いた女文字。その玉章の中には、恐ろしい毒薬が塗籠んででもあったように、真蒼になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤深く差入れた、俤を屹と視て、 「……などと云う言だけも、貴女方のお耳へ入れられる筈のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇もありません。  で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹にいらっしゃる間には、貴女の母様が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃安八の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。  馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食んだ旧藩の御馬廻の忰で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児をなくすという恐い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁げておくんなさい。お肯入れ無く、思切った業をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経って、貴女は九月児でお在なさる。  が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中は、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。  名誉に、とお思いなすったか、それとも最初の御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上だ。  貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐で、お暇を頂いて、お邸を出たんです。  朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡が起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体、若い内から僂麻質があったそうで。旁々お邸を出るとなると、力業は出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母を一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切なり心着なり下すった幾干かの金子を資本にして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。  幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、罰は覿面だ。境内へ多時かかっていた、見世物師と密通いて、有金を攫って遁げたんです。しかも貴女、女房が孕んでいたと云うじゃありませんか。」 「まあ、」  と、夫人は我知らず嘆息した。 「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を拵えて、貸馬を行ったんですな。  貴女、それこそ乳母日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の埒に掴って、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草なんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。  阿母が死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉に二頭斃死た馬を売って、自暴酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、粥も薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附けたので雨露を凌いで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」        三十四 「私は不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人危篤なのでございます。  私でさえ、これは一番貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄幾度か病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜い、と貞造が頭を掉ります。  道理だと控えました。もっとも私も及ばずながら医師の世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお在なさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所ながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と肯きません。  清い者です。  人の悪い奴で御覧なさい、対手が貴女の母様で、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。  またちっとでも強情りがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を掛るような考があるんなら、私は誓って口は利かんのです。  そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで噛ったと言います――  その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を喫んで帰った事もあったんですが、それがいいめを見せたんで、先頃からまたどッと褥に着いて、今は断念めた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、現に言うようになったんです。  容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向いでなくっては出来ますまい。  失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。  ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀の白光とも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中真黒に下った煤も、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。  そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人。」  と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。 「貞造は、貴女の実の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」 「は……い。」 「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更けると申しますから、人目を紛らすのに仔細ありません。得難い機会です。私がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」  と片手に燐寸を持ったと思うと、片手が衝と伸びて猶予らわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、 「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」  と※(火+發)と火を摺ると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、靡きかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。  居坐を直して、更まって、 「お連れ下さいまし、どうぞ。」  がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。眩いばかりの装いで、坐りもやらず、 「まあ、姉さん!」      私語        三十五 「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」  と菅子は立ったままで急込んで云う。戸外の暑さか、駈込んだせいか、赫と逆上せた顔の色。  胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、 「先刻から待っていたんですよ。」 「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」 「何ですねえ、邪険な、和女を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」 「私は用があるわ。」 「寄道をするんですか。」 「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」  とまだ坐りもせぬ。  主税は腕組をしながら、 「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」 「承わって参りましょうか。」  と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、 「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は可いけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」  と見下す顔を、斜めに振仰いだ、蒼白い姉の顔に、血が上って、屹となったが、寂しく笑って、 「ああ、そうね、私は前に参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」  とおとなしく云って、端然と会釈して、 「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。 「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」 「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」  と声に力が籠って、 「種々お話を伺いとう存じますけれども……」 「私も、直だわ。」 「待っていますよ。」  と優しい物越、悄々と出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を蔽にして、密とその袂の端を圧えた。 「さようなら!」  勢よく引返すと、早や門の外を轣轆として車が行く。 「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」  菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺色縮緬の上〆の端を寛めた、辺は昼顔の盛りのようで、明い部屋に白々地な、衣ばかりが冷しい蔭。 「久振だわね。」 「久振じゃないじゃありませんか。今の言種は何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍で聞いていられやしない。」 「だって事実だもの。病院に入切で居ながら、いつの何時には、姉さんが誰と話をしたッて事、不残旦那様御存じなの、もう思召ったらないんですからね。  それでも大事にして置かないと、院長は家中の稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様で一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。  道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを楽みにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」 「何を云ってるんです、面白くもない。」 「今の様子ッたら何です、厭に御懇ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」 「可い加減になさい。串戯も、」 「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」 「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」        三十六  しめやかな声で、夫人が―― 「貴下……どうするのよ。」 「…………」 「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。  去年から口説通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡へ来て、私と知己になったというのを聞いて、(精一杯御待遇をなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。  母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った験は無い。こちらから結婚を申込んで刎ねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。  兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」  と一際低声で、 「ちょいと、いかな事ても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾くに兄さんへは家でお金子を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。  この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。  だってどこに転がっていたって、皆お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。  妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……  もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩も駄々で可かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪らないんだもの。  病院の義兄は養子だし、大勢の兄弟中に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家でもほんとうに困るのよ。  早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」 「ですから、ですから。」  と圧えるように口を入れて、 「決して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」  事もなげに打笑って、 「それじゃ反対だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」 「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地に、さもしいお米の価を気にするようなことを言うんだろう。  ほんとうに串戯ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい、痩せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体が萎むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。  跪いて、夫の足に接吻をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。  ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」  机に凭れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹と居直って、 「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲いと言うんですか。」 「まあ……そうよ。」 「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」        三十七 「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」 「貴女が水臭い事を言うからさ。」 「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜内を出るわけには行かず、お稽古に来たって、大勢入込みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。  過日何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵えさせたんだわ。  頭痛がしてならないから、十畳の真中へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」 「演劇のようだ。」  と低声で笑うと、 「理想実行よ。」と笑顔で言う。 「どうして渡るんです。」 「まさか橋をかける言種は、貴下、無いもの。」 「だから、渡られますまい。」 「合歓の樹の枝は低くってよ。掴って、お渡んなさいなね。」 「河童じゃあるまいし、」 「ほほほほ、」  と今度は夫人の方が笑い出したが。 「なにしろ、貴下は不実よ。」 「何が不実です。」 「どうかして下さいな。」  ――更って―― 「妙子さんを。」 「ですから色仕掛けか、と云うんです。」 「あんな恐い顔をして、(と莞爾して。)ほんとうはね、私……自ら欺むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来をしているの。  でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母にだって面を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多会時分から、有りもしない事でもありそうに疑っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」  言い言い、縋るように言う。 「詰らん言を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」 「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」 「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳を握ったのを、我を引緊められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、 「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」 「訳は無い、島山から離縁されて、」 「そんな事が、出来るもんですか。」 「出来ないもんですか。当前だ、」  と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾、 「貴下はどうしてそうだろう。」        三十八 「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食わずとさえ云うんだ。貴女、」  と主税は澄まして言い懸けたが、常ならぬ夫人の目の色に口を噤んだ。菅子は息急しい胸を圧えるのか、乳の上へ手を置いて、 「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」  と、ツンとする。 「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。  それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許へ令夫人をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。  だから貴女もそうなさい。懊悩も煩悶も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」  夫人はこれを戯のように聞いて、早瀬の言を露も真とは思わぬ様子で、 「戯談おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」  と皆まで言わせず、事も無げに答えた。 「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」 「暢気で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」 「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪えまさ。」  余の事と、夫人は凝と瞻って、 「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」 「いざと云う時、貴女を棄てて逐電でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」 「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」 「また、一も二も無いんですから、」 「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」 「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前じゃありませんか。愚図々々塗秘そうとするから、卑怯未練な、吝な、了見が起って、他と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾くに――先生……には面は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。  それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。  浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」 「じゃ……私を、」  と擦寄って、 「不埒と言わないばッかりね。」  さすがに顔の色をかえて屹と睨むと、頷いて、 「同時に私だって、」  と笑って言う。  その肩を突いて、 「まあ、仕ようの無い我儘だよ。」        三十九 「貴下は始めからそうなんだわ。……  道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口を利くのが癪に障るからって、(攫徒の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂へ入れて置いて逆捩を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」  早瀬の胸のあたりに、背向きになって、投げ出した褄を、熟と見ながら、 「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」  と自から怪むがごとく独言つと、 「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一でしょう。」 「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、譬えにも島山に言われるもんですか。  島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点がついて、系図が汚れるじゃありませんか。」 「すでに云々が有るんじゃありませんか。それを秘そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」 「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」  少し起返って、なお背向きに、 「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」  と口惜しそうに、 「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」 「ちっとも苦しめやしませんよ。」 「それだって、乱暴な事を言ってさ、」 「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」  と言う顔を斜めに視て、 「ですから、そんな打破しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易まって、良心の呵責を免れることが出来ますッて云うのにね。肯きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」 「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」 「ああ、そうよ。」と捩向いて清く目を睜く。 「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障な考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家の両親が大事だったり、他の娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。  お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄って、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」  と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、倦じた調子で、 「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋で挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇する敵だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」  夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、 「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、呟いて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。      宵闇        四十  同、日曜の夜の事で。  日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、框に腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈を背後に、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた芒も無し、絵でないから、一筆描きの月のあしらいも見えぬ。  ト忌々しいと言えば忌々しい、上框に、灯を背中にして、あたかも門火を焚いているような――その薄あかりが、格子戸を透して、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧と、雨曝の木目の高い、門の扉に映って、蝙蝠の影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また明くなる。  目も放さず、早瀬がそれを凝と視める内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて礫した波が、水の面に月輪を纏めた風情に、白やかな婦の顔がそこを覗いた。  門の扉が開くでもなしに……続いて雪のような衣紋が出て、それと映合ってくッきりと黒い鬢が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗になったのは――道子であった。  門に立忍んで、密と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。  一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、AB横町の左右を眗す趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。 「ようこそ、」と莞爾して云う。  姉夫人は、口を、畳んだ手巾で圧えたが、すッすッと息が忙しく、 「誰方も……」 「誰も。」 「小使さんは?」  ともう馴染んだか尋ね得た。 「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」 「何から何まで難有う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」  とその手巾が目に障る。 「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」 「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好い都合に、点燈頃の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下、片々蠣目のようで、その可恐らしい目で、時々振返っては、あの、幌の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時立っておりましたの。」 「お心づかい、お察し申します。」  と頭を下げて、 「島山さんの、お菅さんには。」 「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」 「いいえ。」 「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯の点きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」 「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可ません。直ぐに、これから、」 「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」 「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」  ふと心着いたように、 「お待ちなさいよ、夫人。」        四十一  早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗しい姿を視めて、 「宵暗でも、貴女のその態じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女手巾を。」  と慌しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後から夫人の肩を肩掛のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎めたがなお見好げな。  懐中からまた手拭を出して、夫人に渡して、 「姉さん冠りと云うのになさい、田舎者がするように。」 「どうせ田舎者なんですもの。」  と打傾いて、髷にちょっと手を当てて、 「こうですか。」白地を被って俯向けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢の馥の、雪に梅花を伏せたよう。  主税は横から右瞻左瞻て、 「不可い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折って、そう、不可んな。長襦袢が突丈じゃ、やっぱり清元の出語がありそうだ。」  と口の裡に独言きつつ、 「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」 「厭でございますね。」 「御免なさいよ。」  と言うが疾いか、早瀬の手は空を切って、体を踞んだと思うと、 「あれ、」  かっとなって、ふらふらと頭重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌には逸早く壁の隅なる煤を掬って、これを夫人の脛に塗って、穂にあらわれて蔽われ果てぬ、尋常なその褄はずれを隠したのであった。 「もう、大丈夫、河野の令夫人とは見えやしない。」  と、框の洋燈を上から、フッ!  留南奇を便に、身を寄せて、 「さあ、出掛けましょう。」  胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。  この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方遥かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家のそれと疑わるる。  名門の女子深窓に養われて、傍に夫無くしては、濫りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡、蓋し察するに余あり。  我は不義者の児なりと知り、父はしかも危篤の病者。逢うが別れの今世に、臨終のなごりを惜むため、華燭銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市の光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土にも増るのみか。裾端折り、頬被して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛く乗切って行く先は……実の親の死目である。道子が心はどんなであろう。  大巌山の幻が、闇の気勢に目を圧えて、用水の音凄じく、地を揺るごとく聞えた時、道子は俤さえ、衣の色さえ、有るか無きかの声して、 「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」 「しっかりと! 可い塩梅に人通りもありませんから。」  人は無くて、軒を走る、怪しき狗が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。        四十二  道子は声も徜徉うように、 「ここは野原でございますか。」 「なぜ、貴女?」 「真中に恐しい穴がございますよ。」 「ああ、それは道端の井戸なんです。」  と透しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大なる口のごとくに見えたのである。  早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦きに音高く、辿々しく四辺に響いて、やがて真暗な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦は、得堪えず倒れたであろう、あたかもその頸の上に、例の白黒斑な狗が踞っているのである。  音訪う間も無く、どたんと畳を蹴て立つ音して、戸を開けるのと、ついその框に真赤な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面の壮佼で、巾狭な単衣に三尺帯を尻下り、粋な奴を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損こねた、万太と云う攫徒である。  はたと主税と面を合わせて、 「兄哥!」 「…………」 「不可えぜ。」と仮色のように云った。 「何だ――馬鹿、お連がある。」 「やあ、先生、大変だ。」 「どう、大変。」  衝と入る。袂に縋って、牲の鳥の乱れ姿や、羽掻を傷めた袖を悩んで、塒のような戸を潜ると、跣足で下りて、小使、カタリと後を鎖し、 「病人が冷くなったい。」 「ええ、」 「今駈出そうてえ処でさ。」 「医者か。」 「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可えッて、今しがた帰ったんで。私あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」 「そんな法はない。死ぬなんて、」  と飛び込むと、坐ると同時で、ただ一室だからそこが褥の、筵のような枕許へ膝を落して、覗込んだが、慌しく居直って、三布蒲団を持上げて、骨の蒼いのがくッきり見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟としたが、 「奥さん、」  と静に呼ぶ。  道子が、取ったばかりの手拭を、引摺るように膝にかけて、振を繕う遑もなく、押並んで跪いた時、早瀬は退って向き直って、 「線香なんぞ買って――それから、種々要るものを。」 「へい、宜うがす。」  ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足のまま飛んで出た。  と見れば、貞造の死骸の、恩愛に曳かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽に唱名の声が漏れる。 「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」  手洋燈を摺らして出したが、灯が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破欞子の下に、汚れた飯櫃があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑をもった目を見据え、現の面で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋を辷って、啊呀と云う間に、袖に俯向いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫と赤くなった。  この明で、貞造の顔は、活きて眼を開いたかと、蒼白た鼻も見えたが、松明のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、 「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫となって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目を、引断れよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳の煽り、乳のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白も分かず。阿部街道を戻り馬が、遥に、ヒイインと嘶く声。戸外で、犬の吠ゆる声。 「可恐い真暗ですね。」  品々を整えて、道の暗さに、提灯を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、欞子に腰をかけて、吻として腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時。揩磨苛痒風助威。      廊下づたい        四十三  家の業でも、気の弱い婦であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍く見舞うのが勤めであった。  その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来の、自から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸ると云うが、まさかであろう。  で――この事たるや、夫の医学士、名は理順と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。  ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階の病室を済ました後、横田の田畝を左に見て、右に停車場を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞を手にした、白衣の看護婦を従えて、真中に院長夫人。雲を開いたように階子段を上へ、髪が見えて、肩、帯が露れる。  質素な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜なぞは寝衣に着換えて、浅黄の扱帯という事がある。そんな時は、寝白粉の香も薫る、それはた異香薫ずるがごとく、患者は御来迎、と称えて随喜渇仰。  また実際、夫人がその風采、その容色で、看護婦を率いた状は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶勝れず、円髷も重そうに首垂れて、胸をせめて袖を襲ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然と細って、何か目に見えぬ縛の八重の縄で、風に靡く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。  扉を開放した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白な月夜で、月の表には富士の白妙、裏は紫、海ある気勢。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。  例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明くなって、ややあって、遥かに暗い裏階子へ消える筈のが、今夜は廊下の真中を、ト一列になって、水彩色の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。  順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……  と見ると胡粉で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。  道子は間に立って、徐に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団。  ずッと離れて廊下を戻る。  道子は扉に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗くと、表階子の欄干へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人附着いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。        四十四    寝台に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。  道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄かに、顔を暗く、寝台に添うて彳んで、心を細めた洋燈のあかりに、その灰のような面を見たが、目は明かに開いていた。  ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛が震えたのである。  ややあって、 「早瀬さん、私が分りますか。」 「…………」 「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」  「お庇様で。」  と確に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。 「酷いお熱だったんでございますのねえ。」 「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬だそうで。」と瞑ったままで云う。 「宅では、東京の妹たちが、皆暑中休暇で帰って参りました。」  少し枕を動かして、 「英吉君も……ですか。」 「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。  ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜に見て、 「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」 「見ました、先刻はじめて、」  と調子が沈む。 「二通とも、」 「二通とも。」 「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」 「……病気が幸です。達者で居たって、どの面さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」 「なぜ? 貴下、」  と、熟と頤を据えて、俯向いて顔を見ると、早瀬はわずかに目を開いて、 「なぜとは?」 「…………」 「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」  と云う呼吸づかいが荒くなって、毛布を乗出した、薄い胸の、露わな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の戦くのが、雪の乱るるようであった。 「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」  早瀬は差置かれた胸の手に、圧し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その苦を払わんとするように、痩細った手で握って、幾度も口を動かしつつ辛うじて答えた。 「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」  と魚の渇けるがごとく悶ゆる白歯に、傾く鬢からこぼるるよと見えて、衝と一片の花が触れた。  颯となった顔を背けて、 「夢でなければ……どうしましょう!」  と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと笄の艶に光って、雪燈は仄かに玉のごとき頸を照らした。  これより前、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の扉が堅く鎖されると同時に、裏階子の上へ、ふと顕れた一人の婦があって、堆い前髪にも隠れない、鋭い瞳は、屹と長廊下を射るばかり。それが跫音を密めて来て、隣の空室へ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。  ――同一事が――同一事が……五晩六晩続いた。        四十五  妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。  どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。  で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣が、多時宙にかかったようになって、欄干の処に居た。  広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児、甥だの、姪だのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家も来、ヴァイオリンが聞える、洋琴が鳴る、唱歌を唄う――この人数へ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年の秋縁着いてもう児が出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親がついて、かねてこれがために、清水港に、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津、清見寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の設が有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……  さて母屋の方は、葉越に映る燈にも景気づいて、小さいのが弄ぶ花火の音、松の梢に富士より高く流星も上ったが、今は静になった。  壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退った。  来たのは院長、医学士河野理順である。  ホワイト襯衣に、縞の粗い慢な筒服、上靴を穿いたが、ビイルを呷ったらしい。充血した顔の、額に顱割のある、髯の薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁の目金越に、看護婦等を睨め着けながら、 「君たちは……」  と云うた眼が、目金越に血走った。 「道子に附いているんじゃないか。」 「は、」と一人が頭を下げる。 「どうしたか。」 「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも私どもはお附き申しませんでございます。」と爽な声で答えた。 「なぜかい。」 「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては豪そうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。 「いつもそうか。」  と尋ねた時、衣兜に両手を突込んで、肩を揺った。 「はい、いつでも、」 「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。 「あれ、主人の跫音でございます。」 「院長ですか。」  道子は色を変えて、 「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」 「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。  目も尋常ならず、おろおろして、 「両親も知りませんが、主人は酷い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘むと、 「寝台の下へお隠れなさい。可いから、」  とむっくと起きた、早瀬は毛布を飜して、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹と身構えたトタンに、 「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄く響いたのである。  理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然として、母夫人が立露れて、扉に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧えて……曰く、 「院長。」  と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、 「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」  燃ゆるがごとき嫉妬の腕を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退いた。――      蛍        四十六 「己が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」  酒井俊蔵ただ一人、臨終のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には…… 「ああ、皆居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方が無い。断念めなよ。」  と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、 「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。  己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。  早瀬に過失をさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴に魔が魅しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵だ。間をせいたって処女じゃない。真逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹したか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪えよ!  どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰ついても恢復って、生樹を裂いた己へ面当に、早瀬と手を引いて復讐をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。  もう不可まいなあ。」  と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟と見て、 「瘠せたよ。一昨日見た時よりまた半分になった。――これ、目を開きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。  なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦は持余しているんだ、世の中は面倒さな。  あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便だから、剣突を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦って貰えないのは、お前たち何の因果だ。  さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜髪を結ったそうだ。ああ、島田が好く出来た、己が見たよ。」  と云う時、次の室で泣音がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓島田は名誉の婦が、いかに、丹精をぬきんでたろう。  上らぬ枕を取交えた、括蒲団に一が沈んで、後毛の乱れさえ、一入の可傷さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。  お蔦は恥じてか、見て欲かったか、肩を捻って、髷を真向きに、毛筋も透通るような頸を向けて、なだらかに掛けた小掻巻の膝の辺に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。        四十七 「似合った、似合った、ああ、島田が佳く出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」  とじりりと膝を寄せて、その時、颯と薄桃色の瞼の霑んだ、冷たい顔が、夜の風に戦ぐばかり、蓐の隈に俤立つのを、縁から明取りの月影に透かした酒井が、 「誰か来て蛍籠を外しな、厭な色だ。」 「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、め組が継の当った千草色の半股引で、縁側を膝立って来た――婦たちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の傍に、割膝で畏って、歯を喰切った獅噛面は、額に蝋燭の流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色。時々病人の部屋が寂とするごとに、隣の女連の中へ、四ツ這に顔を出して、 (死んだか、)と聞いて、女房のお増に流眄にかけられ、 (まだか、)と問うて、また睨めつけられ、苦笑いをしては引込んで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が据らず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、 「何ですね、お前さん、」  と鼻声になっている女房に剣呑を食って、慌てて遁込む。  この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を睜いて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると…… 「皆居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の室へ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方が無い断念めな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より豪い男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も確だ、声も大い、酒も強い、借金も多い、男振もあれより増だ。女房もあり、情婦もあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫と思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀も何も要らん、一心に男の名を称えるんだ。早瀬と称えて袖に縋れ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」  と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに頸を抱いた。  トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴んで、 「咽喉が苦しい、ああ、呼吸が出来ない。素人らしいが、(と莞爾して、)口移しに薬を飲まして……」  酒井は猶予らわず、水薬を口に含んだのである。  がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚したが、 「早瀬さん。」 「お蔦。」 「早瀬さん……」 「むむ、」 「先、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」  酒井は、はらはらと落涙した。      おとずれ        四十八  病室の寝台に、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行いて厠へ行かれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩極ったように見舞ってくれた道子が、一昨日の夜の……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、扉の外になると、もう自分でも足の確なのが分って、両側のそちこちに、白い金盥に昇汞水の薄桃色なのが、飛々の柱燈に見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然して、通り過ぎた。  どこも寝入って、寂として、この二三日めっきり暑さが増したので、中には扉を明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような裙を出して、戸口に横わって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声も聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。  厠は表階子の取附きにもあって、そこは燈も明いが、風は佳し、廊下は冷たし、歩行くのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。  ざぶり水を注けながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃を見ると、月は屋の棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。  風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、靄のかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く繞って消えたのは、どこかの電燈が閃いて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。  手水と、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予って、暗い中に、昼間被かえた自分の浴衣の白いのを、視めて悚然として咳をしたが、口の裡で音には出ぬ。 「早瀬さん。」 「お蔦か、」  と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、赫となって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が大な穴のように真黒なばかりで、別に何にも無い。  瓦を噛むように棟近く、夜鴉が、かあ、と鳴いた。  鳴きながら、伝うて飛ぶのを、懵として仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。  と見ると打向い遥か斜めなる、渠が病室の、半開きにして来た扉の前に、ちらりと見えた婦の姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。  ぱたぱたと、我ながら慌しく跫音立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。  バサリと音して、一握の綿が舞うように、むくむくと渦くばかり、枕許の棚をほとんど転って飛ぶのは、大きな、色の白い蛾で。  枕をかけて陰々とした、燈の間に、あたかも鞠のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨に似た西洋花の大輪があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬嫌が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬の瓶に、ばさばさと当るのを、熟と瞻めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番明かった燈が、アワヤ消えそうになっている。  その時、蛾に向うごとく、衝と踏込む途端に、 「私ですよう引」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾がハタと落ちた。  はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊めていた、左の拳に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一尾の守宮である。  はっと開くと、雫のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮みに、蹌踉けて、片膝を支いたなり、口を開けて、垂々と濺ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡げて睨むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹と視た。        四十九  早瀬はその水薬の残余を火影に透かして、透明な液体の中に、芥子粒ほどの泡の、風のごとくめぐる状に、莞爾して、 「面白い!」  と、投げる様に言棄てたが、恐気も無く、一分時の前は炎のごとく真紅に狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、飜った腹の青い守宮を摘んで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。  なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一薬瓶があった。その一個を取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台に上って、むずと高胡坐を組んだと思うと、廊下の方を屹と見て、 「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」  と言うと斉しく、仰向けに寝て、毛布を胸へ。――鶏の声を聞きながら、大胆不敵な鼾で、すやすやと寝たのである。  暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗いて、人知れず……立去った。  早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、 「薬は召上りましたか。瓶が落ちて破れておりましたが。」  と注意をしたのは言うまでもなかった。  で、新い瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。  その日燈の点くちと前に、早瀬は帯を緊直して、看護婦を呼んで、 「お世話になりました。お庇様でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」 「はあ、大先生に……申し上げましょう。」 「どうぞ。ああ、もし、もし、」  と出掛けた白衣の、腰の肥いのを呼留めて、 「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても可うございますと。」  馴染んでいるから、黙って頷いて室を出て、表階子の方へ跫音がして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間経ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた忙しく引返して、発奮に突込むように顔を出して、 「お客様ですよ。」 「島山さんの?」  と言う、呼吸も引かず、早瀬は目を睜って茫然とした。  昨夜の事の不思議より、今目前の光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚となったも道理。  看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣の、色の薄いが鮮麗に、朱緞子に銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子の背負上げして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である! 「まあ!……」  ときょとんとして早瀬はひたと瞻めた。 「主税さん。」  と、一年越、十年も恋しく百年も可懐い声をかけて、看護婦の傍をすっと抜けて真直に入ったが、 「もう快くって?」  と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子も共に、差覗くようにした。 「お嬢さん……」とまだ懵としている。 「しばらくね。」  と前へ言われて、はじめて吃驚した顔をして、 「先生は?」 「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。        五十  寝台と椅子との狭い間、目前にその燃ゆるような帯が輝いているので、辷り下りようとする、それもならず。蒼空の星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、 「どうして来たんです。誰と。貴女。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸に慌しい。 「今日の正午の汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋さんが一所なの。」 「ええ、め組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」 「お蔦さんの事よ、」  と言いかける、口の莟が動いたと思うと、睫毛が濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌てて袂を取って、揉込むように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、振が飜って、朱鷺色の絽の長襦袢の袖が落ちる。 「今そんな事を聞いちゃ、厭!」  と突慳貪なように云った。勿、問いそそこに人あるに、涙得堪えず、と言うのである。  看護婦は心得て、 「では、あの、お言託は。」 「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、め組の奴は?」 「停車場で荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下の好なお魚を持って来たのよ。病院なら直き分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。皆、そうやって思ってるのに、貴下は酷いわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」  とまた声が曇って、黙って差俯向いた主税を見て、 「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に叱言を言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてから緩りしましょうね。」  と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、 「小刀はあって?」  余り唐突な問だったから、口も利けないで……また目を睜る。 「では、さあ、私の元結を切って頂戴。」 「元結を? お嬢さんの。」 「ええ、私の髪の、」  と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、寝台の端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は俯向いて、玉のごとき頸を差伸べ、 「お切んなさいよ、さあ、早くよ。父上も知っていてよ、可いんだわ。」  と美しく流眄に見返った時、危なく手がふるえていた。小刀の尖が、夢のごとく、元結を弾くと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりと掉ったので、颯と流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた一握の黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。  早瀬は氷を浴びたように悚然とした。 「お蔦さんに託ったの。あの、記念にね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」  と向う状に、椅子の凭に俯伏せになると、抜いて持った簪の、花片が、リボンを打って激しく揺れて、 「もうその他には逢えないのよ。」  お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと練衣の氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、左手を密と掛けながら、今はなかなかに胴据って、主税は、もの言う声も確に、 「亡くなったものの髪毛なんぞ。……  飛んでも無い。先生が可い、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをお頭へ入れて。御出世前の大事なお身体じゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」  と貴いものに触るように、静にその緑の艶を撫でた。 「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」  と勇ましく起直って、 「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」      日蝕        五十一  日盛りの田畝道には、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝から蔀を下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱には病ありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。  早朝日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。鶏卵色に濁りを帯びて、果し無き蒼空にただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその雛形のごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――  風は終日無かった。蒸々と悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、嬰児の泣音も沈み、鶏の羽さえ羽叩くに懶げで、庇間にかけた階子に留まって、熟と中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間に射し入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、身動にも払われず、物蔭にも消えず、細かに濃く引包まれたかの思がして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にも固るか、とばかり次第に息苦しい。  白昼凝って、尽く太陽の黄なるを包む、混沌たる雲の凝固とならんず光景。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者の早打、しっきりなく走るは鴉で。黒き礫のごとく、灰色の天狗のごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根を畝り、岩に躍り、渚に飜って、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に充満たり、何物の怪しき影ぞ、円なる太陽の光を蔽うやとて、大紅玉の悩める面を、拭い洗わんと、苛立ち、悶え、憤れる状があったが、日の午に近き頃には、まさにその力尽き、骨萎えて、また如何ともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せ※(さんずい+散)きを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。  一分たちまち欠け始めた、日の二時頃、何の落人か慌しき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、轟々と田舎道を、清水港の方から久能山の方へ走らして通る、数八台。真前の車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の操子で、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。  一所に東京へと云うのを……仔細あって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。  お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、め組の惣助、婦ばかりの一群には花籠に熊蜂めくが、此奴大切なお嬢の傍を、決して離れる事ではない。  これは蓋し一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとする催で。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちが遁げるのだと思ったろう。  共に清水港の別荘に居る、各々の夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へ漕ぎ寄せて、いずれもその愛人の帰途を迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。  小児たち、幼稚いのは、傅、乳母など、一群に、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、真前に手を拍って賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は就中得意であった。  と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、(島山蝕)――とさえ称えたのである。        五十二  田を行く時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の松葉牡丹に、ちらちら一行の影がさした。聯る車は、薄日なれば母衣を払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹き靡かしたごとく、死したる風も颯と涼しく、美女たちの面を払って、久能の麓へ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。  蝕あり、変あり、兵あり、乱ある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を穿った抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸を鎖して、蜻蛉も飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、寂然としているのを見て、大夫人が、 「野蛮だね。」  と嘲笑って、車夫に指揮して、一軒店を開けさして、少時休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は不残帰す事にして、さて大なる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、め組を後押えで、あの、石段にかかった。  が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。  これより前、相貌堂々として、何等か銅像の揺ぐがごとく、頤に髯長き一個の紳士の、握に銀の色の燦爛たる、太く逞き杖を支いて、ナポレオン帽子の庇深く、額に暗き皺を刻み、満面に燃るがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段を攀じて、松の梢に隠れたのがあった。  これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。  英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽に上り着いて、海面が、高くその骨組の丈夫な双の肩に懸った時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞の絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋を透し、枝には白き渚を掛け、緑に細波の葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松の許なる据置の腰掛に、長くなって、肱枕して、面を半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、懐中に入れて、枕した頭の傍に、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた一個の青年を見た。  と立向って、英臣が杖を前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔に屹と見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清く瘠せて、鶴のごとき早瀬主税。  英臣は庇下りに、じろりと視めて、 「疾かった、のう」と鷹揚に一ツ頤でしゃくる。 「御苦労様です。」  と、主税は仰ぐようにして云った。 「いや、ここで話しょうと云うたのは私じゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」  と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。  早瀬は軽く微笑みながら、 「まあ、お掛けなさいまし。」  と腰掛けた傍を指で弾いた。 「や、ここで可え。話は直き分る。」と英臣は杖を脇挟んで、葉巻を銜えた。 「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」 「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」 「申しましょうかね。」 「うむ、」  と吸いつけた唾を吐く。 「ここで極て下さいましょうか。過日、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」 「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」  と今の諧謔にやや怒気を含んで、 「私が対手じゃ、立処に解決してやる!」 「第一!」  と言った……主税の声は朗であった。 「貴下の奥さんを離縁なさい。」      隼        五十三  一言亡状を極めたにも係わらず、英臣はかえって物静に聞いた。 「なぜか。」 「馬丁貞造と不埒して、お道さんを産んだからです。」  強いて言を落着けて、 「それから、」 「第二、お道さんを私に下さい。」 「何でじゃ?」 「私と、いい中です。」 「むむ、」  と口の内で言った。 「それから、」 「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」 「なぜな。」 「私と約束しました。」 「誰と?」  はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、 「私とさ。」 「うむ、それから?」 「第四、病院をお潰しなさい。」 「なぜかい。」 「医学士が毒を装ります。」 「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。 「河野家の家庭は、かくのごとく汚れ果てた。……最早や、忰の嫁を娶るのに、他の大切な娘の、身分系図などを検べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。  就中、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を仕りました申訳が無い、とお詫びなさい。  そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込むんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」  と帽子で、そよそよと胸を煽いだ。  時に蝕しつつある太陽を、いやが上に蔽い果さんずる修羅の叫喚の物凄く響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、 「発狂人!」 「ああ、狂人だ、が、他の気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」  舌もやや釣る、唇を蠢かしつつ、 「で、私がその請求を肯かんけりゃ、汝、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を吐いたのである。 「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、遣ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」  英臣は辛うじて罵り得た。 「騙じゃのう、」 「騙ですとも。」 「強請じゃが。汝、」 「強請ですとも。」 「それで汝人間か。」 「畜生でしょうか。」 「それでも独逸語の教師か。」 「いいえ、」 「学者と言われようか。」 「どういたしまして、」 「酒井の門生か。」 「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」 「何、騙じゃ、」 「強請です。畜生です。そして河野家の仇なんです。」 「黙れ!」  と一喝、虎のごとき唸をなして、杖をひしと握って、 「無礼だ。黙れ、小僧。」 「何だ、小父さん。」  と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下す得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々と笑って、 「おい、己を、まあ、何だと思う。浅草田畝に巣を持って、観音様へ羽を伸すから、隼の力と綽名アされた、掏摸だよ、巾着切だよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」        五十四 「己が十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、塒を奥山へ出たと思いねえ。蛙の面へ打かけるように、仕かけの噴水が、白粉の禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜と出ていら。そこの釣堀に、四人連、皆洋服で、まだ酔の醒めねえ顔も見えて、帽子は被っても大童と云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。  釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の鰌だろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓から呑んでかかって、中でも鮒らしい奴の黄金鎖へ手を懸ける、としまった! この腕を呻と握られたんだ。  掴えて打ちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、一睨睨まれた時は、生れて、はじめて縮んだのさ。  こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度で、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所の税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬のような人物、ついて居た三人は下役だね。  後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染の女に逢って、 (一所に登楼るぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は情女と遊ぶんだから、お前は次の室で待ってるんだ、と名代へ追いやって、遊女と寝たと云う豪傑さね。  それッきり、細君も妬かないが、旦那も嫉気少しもなし。  いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの婦も同一だ。前から居る下役の媽々ども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀の若いのを猜んだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言をさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と情交があるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出て行け。)――と怒鳴り附けた。  誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。  どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人業じゃねえような、河野さん、貴下のお婿様連にゃ、こういうのは有りますまい。  己が掴ったのはその人だ。首を縮めて、鯉の入った籠を下げて、(魚籃)の丁稚と云う形で、ついて行くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。  学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸にも、同一ように、吸物膳。  女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少かった――縮緬のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食れ、)と優しく言って下すった時にゃ、己あ始めて涙が出たのよ。  先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり留める気になったぜ、犬畜生だけ、情には脆いのよ。  法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫れよ。)と言われて、畳に喰ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似て、今でも囀る独逸語だ。  世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方だい。  可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家の繁昌とは何事だろう。  たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪に生れたものを、一生にたった一度、生命とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥を占めるように野郎の懐へ捻込んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。  見たが可い、こう、己が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉細工で拵えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」  英臣の目は血走った。        五十五 「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児を親勝手に縁附けるほど惨たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢な女が、頭一ツ掉り得るものか。羞含んで、ぼうとなって、俯向くので話が極って、赫と逆上せた奴を車に乗せて、回生剤のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起りゃ人の女房だ。  うっかり他と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋って、光った態でもして歩行けば、親達は緋縅の鎧でも着たように汝が肩身をひけらかすんだね。  娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉を提げたって、玉の冠を被ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍の目からは筵と見えても、当人には綾錦だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。  己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」 「不埒な奴だ?」  と揺いた英臣の髯の色、口を開いて、黒煙に似た。 「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然ともしねえ。豪い、と讃めりゃ吃驚するがね。  今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許のような家風で、婿を持たした娘たちと、情事をするくらい、下女を演劇に連出すより、もっと容易いのは通相場よ。  こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖くはないと言えば、」  と微笑みながら、 「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――  おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄さそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。  己に毒薬を装らせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附けたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間が、ちゃんと材料を上げていら。  やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。  そこを言うのだ。児よりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。  なぜ手をついて懺悔をしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞のためには使いますまい。家柄を鼻にかけて他の娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。  小児一人犠牲にして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって謝んねえな。」        五十六  面も触らず言を継ぎ、 「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――  たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、私が先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな賤しい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、憧れ死をしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。  こう、お前たちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無え了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当に、河野の一家を鎗玉に挙げたんだ。  はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。  己らそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚を、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児のお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価いものよ。  お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」  と丁寧に笑って言って、 「迷惑や気の毒を勘酌して巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お前、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査ほどにも恐くはねえから、言句なしに往生するさ。軍に負けた、と思えば可かろう。  掏摸の指で突いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濛を穿って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。  お前さん、さぞ口惜かろう。打ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命だから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも寂い事はねえ、女房が先へ行って待っていら。  お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が絡い繞って、その器に非ずして濫りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。  呪詛われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」  と膝に手を置き、片面を、怪しきものの走るがごとく颯と暗くなった海に向けて、蝕ある凄き日の光に、水底のその悪竜の影に憧るる面色した時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。  英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙した。  一声高らかに雉子が啼くと、山は暗くなった。  勘助井戸の星を覗こうと、末の娘が真先に飜然と上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧として露われた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜から短銃を出して、衝と早瀬の胸を狙った。あわやと抱き留めた惣助は刎倒されて転んだけれども、渠危し、と一目見て、道子と菅子が、身を蔽いに、背より、胸より、ひしと主税を庇ったので、英臣は、面を背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、硝薬の煙とともに、蝕する日の面を仰ぎつつ、この傲岸なる統領は、自からその脳を貫いた。  抱合って、目を見交わして、姉妹の美人は、身を倒に崖に投じた。あわれ、蔦に蔓に留まった、道子と菅子が色ある残懐は、滅びたる世の海の底に、珊瑚の砕けしに異ならず。  折から沖を遥に、光なき昼の星よと見えて、天に連った一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ死骸の俤に似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手を翳した。  その夜、清水港の旅店において、爺は山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやと寐たのを見て、お蔦の黒髪を抱きながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。  早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。  その文学士河野に宛てたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬を擒にしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、謀って情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をも傷けぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の馬丁と不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を誘出し得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜蛾が燈に斃ちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。  不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その実否を正すべく、これを口にすべからざる底の条件をもって、咄嗟に雷発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は掏賊だ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、有ゆる辣手段を弄して差支えないと信じた。  要はただ、君が家系門閥の誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我は偏に、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒を惜むとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。  英吉君、能うべくは、我意を体して、より美く、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意を認めてあった。  門族の栄華の雲に蔽われて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、嗟嘆して主税に聞くべく、その頭脳は明に、その眼は輝いたのである。 早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、徒を添えたるもの。或はおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。 明治四十(一九〇七)年一~四月
底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房    1997(平成9)年1月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店    1940(昭和15)年5月15日 初出:「やまと新聞」    1907(明治40)年1~4月 入力:真先芳秋 校正:かとうかおり 2000年8月17日公開 2009年2月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001087", "作品名": "婦系図", "作品名読み": "おんなけいず", "ソート用読み": "おんなけいす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「やまと新聞」1907(明治40)年1~4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-08-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1087.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成12", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年1月23日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年1月23日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年5月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "かとうかおり", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1087_ruby_4443.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-02-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1087_34456.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-02-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  婦人は、座の傍に人気のまるでない時、ひとりでは按摩を取らないが可いと、昔気質の誰でもそう云う。上はそうまでもない。あの下の事を言うのである。閨では別段に注意を要するだろう。以前は影絵、うつし絵などでは、巫山戯たその光景を見せたそうで。――御新姐さん、……奥さま。……さ、お横に、とこれから腰を揉むのだが、横にもすれば、俯向にもする、一つくるりと返して、ふわりと柔くまた横にもしよう。水々しい魚は、真綿、羽二重の俎に寝て、術者はまな箸を持たない料理人である。衣を透して、肉を揉み、筋を萎すのであるから恍惚と身うちが溶ける。ついたしなみも粗末になって、下じめも解けかかれば、帯も緩くなる。きちんとしていてさえざっとこの趣。……遊山旅籠、温泉宿などで寝衣、浴衣に、扱帯、伊達巻一つの時の様子は、ほぼ……お互に、しなくっても可いが想像が出来る。膚を左右に揉む拍子に、いわゆる青練も溢れようし、緋縮緬も友染も敷いて落ちよう。按摩をされる方は、対手を盲にしている。そこに姿の油断がある。足くびの時なぞは、一応は職業行儀に心得て、太脛から曲げて引上げるのに、すんなりと衣服の褄を巻いて包むが、療治をするうちには双方の気のたるみから、踵を摺下って褄が波のようにはらりと落ちると、包ましい膝のあたりから、白い踵が、空にふらふらとなり、しなしなとして、按摩の手の裡に糸の乱るるがごとく縺れて、艶に媚かしい上掻、下掻、ただ卍巴に降る雪の中を倒に歩行く風情になる。バッタリ真暗になって、……影絵は消えたものだそうである。  ――聞くにつけても、たしなむべきであろうと思う。――  が、これから話す、わが下町娘のお桂ちゃん――いまは嫁して、河崎夫人であるのに、この行為、この状があったと言うのでは決してない。  問題に触れるのは、お桂ちゃんの母親で、もう一昨年頃故人の数に入ったが、照降町の背負商いから、やがて宗右衛門町の角地面に問屋となるまで、その大島屋の身代八分は、その人の働きだったと言う。体量も二十一貫ずッしりとした太腹で、女長兵衛と称えられた。――末娘で可愛いお桂ちゃんに、小遣の出振りが面白い……小買ものや、芝居へ出かけに、お母さんが店頭に、多人数立働く小僧中僧若衆たちに、気は配っても見ないふりで、くくり頤の福々しいのに、円々とした両肱の頬杖で、薄眠りをしている、一段高い帳場の前へ、わざと澄ました顔して、(お母さん、少しばかり。)黙って金箱から、ずらりと掴出して渡すのが、掌が大きく、慈愛が余るから、……痩ぎすで華奢なお桂ちゃんの片手では受切れない、両の掌に積んで、銀貨の小粒なのは指からざらざらと溢れたと言う。……亡きあとでも、その常用だった粗末な手ぶんこの中に、なおざりにちょっと半紙に包んで、(桂坊へ、)といけぞんざいに書いたものを開けると、水晶の浄土珠数一聯、とって十九のまだ嫁入前の娘に、と傍で思ったのは大違い、粒の揃った百幾顆の、皆真珠であった。  姉娘に養子が出来て、養子の魂を見取ってからは、いきぬきに、時々伊豆の湯治に出掛けた。――この温泉旅館の井菊屋と云うのが定宿で、十幾年来、馴染も深く、ほとんど親類づき合いになっている。その都度秘蔵娘のお桂さんの結綿島田に、緋鹿子、匹田、絞の切、色の白い細面、目に張のある、眉の優しい、純下町風俗のを、山が育てた白百合の精のように、袖に包んでいたのは言うまでもない。…… 「……その大島屋の先の大きいおかみさんが、ごふびんに思召しましてな。……はい、ええ、右の小僧按摩を――小一と申したでござりますが、本名で、まだ市名でも、斎号でもござりません、……見た処が余り小こいので、お客様方には十六と申す事に、師匠も言いきけてはありますし、当人も、左様に人様には申しておりましたが、この川の下流の釜ヶ淵――いえ、もし、渡月橋で見えます白糸の滝の下の……あれではござりません。もっとずッと下流になります。――その釜ヶ淵へ身を投げました時、――小一は二十で、従って色気があったでござりますよ。」 「二十にならなくったって、色気の方は大丈夫あるよ。――私が手本だ。」  と言って、肩を揉ませながら、快活に笑ったのは、川崎欣七郎、お桂ちゃんの夫で、高等商業出の秀才で、銀行員のいい処、年は四十だが若々しい、年齢にちと相違はあるが、この縁組に申分はない。次の室つき井菊屋の奥、香都良川添の十畳に、もう床は並べて、膝まで沈むばかりの羽根毛蒲団に、ふっくりと、たんぜんで寛いだ。……  寝床を辷って、窓下の紫檀の机に、うしろ向きで、紺地に茶の縞お召の袷羽織を、撫肩にぞろりと掛けて、道中の髪を解放し、あすあたりは髪結が来ようという櫛巻が、房りしながら、清らかな耳許に簪の珊瑚が薄色に透通る。……男を知って二十四の、きじの雪が一層あくが抜けて色が白い。眉が意気で、口許に情が籠って、きりりとしながら、ちょっとお転婆に片褄の緋の紋縮緬の崩れた媚かしさは、田舎源氏の――名も通う――桂樹という風がある。  お桂夫人は知らぬ顔して、間違って、愛読する……泉の作で「山吹」と云う、まがいものの戯曲を、軽い頬杖で読んでいた。 「御意で、へ、へ、へ、」  と唯今の御前のおおせに、恐入った体して、肩からずり下って、背中でお叩頭をして、ポンと浮上ったように顔を擡げて、鼻をひこひこと行った。この謙斎坊さんは、座敷は暖かだし、精を張って、つかまったから、十月の末だと云うのに、むき身絞の襦袢、大肌脱になっていて、綿八丈の襟の左右へ開けた毛だらけの胸の下から、紐のついた大蝦蟇口を溢出させて、揉んでいる。 「で、旦那、身投げがござりましてから、その釜ヶ淵……これはただ底が深いというだけの事でありましょうで、以来そこを、提灯ヶ淵――これは死にます時に、小一が冥途を照しますつもりか、持っておりましたので、それに、夕顔ヶ淵……またこれは、その小按摩に様子が似ました処から。」 「いや、それは大したものだな。」  くわっ、とただ口を開けて、横向きに、声は出さずに按摩が笑って、 「ところが、もし、顔が黄色膨れの頭でっかち、えらい出額で。」 「それじゃあ、夕顔の方で迷惑だろう。」 「御意で。」  とまた一つ、ずり下りざまに叩頭をして、 「でござりますから瓢箪淵とでもいたした方が可かろうかとも申します。小一の顔色が青瓢箪を俯向けにして、底を一つ叩いたような塩梅と、わしども家内なども申しますので、はい、背が低くって小児同然、それで、時々相修業に肩につかまらせた事もござりますが、手足は大人なみに出来ております。大な日和下駄の傾いだのを引摺って、――まだ内弟子の小僧ゆえ、身分ではござりませんから羽織も着ませず……唯今頃はな、つんつるてんの、裾のまき上った手織縞か何かで陰気な顔を、がっくりがっくりと、振り振り、(ぴい、ぷう。)と笛を吹いて、杖を突張って流して歩行きますと、御存じのお客様は、あの小按摩の通る時は、どうやら毛の薄い頭の上を、不具の烏が一羽、お寺の山から出て附いて行くと申されましたもので。――心掛の可い、勉強家で、まあ、この湯治場は、お庇様とお出入さきで稼ぎがつきます。流さずともでござりますが、何も修業と申して、朝も早くから、その、(ぴい、ぷう。)と、橋を渡りましたり、路地を抜けましたり。……それが死にましてからはな、川向うの芸妓屋道に、どんな三味線が聞えましても、お客様がたは、按摩の笛というものをお聞きになりますまいでござります。何のまた聞えずともではござりますがな。――へい、いえ、いえそのままでお宜しゅう……はい。  そうした貴方様、勉強家でござりました癖に、さて、これが療治に掛りますと、希代にのべつ、坐睡をするでござります。古来、姑の目ざといのと、按摩の坐睡は、遠島ものだといたしたくらいなもので。」  とぱちぱちぱちと指を弾いて、 「わしども覚えがござります。修業中小僧のうちは、またその睡い事が、大蛇を枕でござりますて。けれども小一のははげしいので……お客様の肩へつかまりますと、――すぐに、そのこくりこくり。……まず、そのために生命を果しましたような次第でござりますが。」 「何かい、歩きながら、川へ落こちでもしたのかい。」 「いえ、それは、身投で。」 「ああ、そうだ、――こっちが坐睡をしやしないか。じゃ、客から叱言が出て、親方……その師匠にでも叱られたためなんだな。」 「……不断の事で……師匠も更めて叱言を云うがものはござりません。それに、晩も夜中も、坐睡ってばかりいると申すでもござりませんでな。」 「そりゃそうだろう――朝から坐睡っているんでは、半分死んでいるのも同じだ。」  と欣七郎は笑って言った。 「春秋の潮時でもござりましょうか。――大島屋の大きいお上が、半月と、一月、ずッと御逗留の事も毎度ありましたが、その御逗留中というと、小一の、持病の坐睡がまた激しく起ります。」 「ふ――」  と云って、欣七郎はお桂ちゃんの雪の頸許に、擽ったそうな目を遣った。が、夫人は振向きもしなかった。 「ために、主な出入場の、御当家では、方々のお客さんから、叱言が出ます。かれこれ、大島屋さんのお耳にも入りますな、おかみさんが、可哀相な盲小僧だ。……それ、十六七とばかり御承知で……肥満って身体が大いから、小按摩一人肩の上で寝た処で、蟷螂が留まったほどにも思わない。冥利として、ただで、お銭は遣れないから、肩で船を漕いでいなと、毎晩のように、お慈悲で療治をおさせになりました。……ところが旦那。」  と暗い方へ、黒い口を開けて、一息して、 「どうも意固地な……いえ、不思議なもので、その時だけは小按摩が決して坐睡をいたさないでござります。」 「その、おかみさんには電気でもあったのかな。」 「へ、へ、飛んでもない。おかみさんのお傍には、いつも、それはそれは綺麗な、お美しいお嬢さんが、大好きな、小説本を読んでいるのでござります。」 「娘ッ子が読むんじゃあ、どうせ碌な小説じゃあるまいし、碌な娘ではないのだろう。」 「勿体ない。――香都良川には月がある、天城山には雪が降る、井菊の霞に花が咲く、と土地ではやしましたほどのお嬢さんでござりますよ。」 「按摩さん、按摩さん。」  と欣七郎が声を刻んだ。 「は、」 「きみも土地じゃ古顔だと云うが。じゃあ、その座敷へも呼ばれただろうし、療治もしただろうと思うが、どうだね。」 「は、それが、つい、おうわさばかり伺いまして、お療治はいたしません、と申すが、此屋様なり、そのお座敷は、手前同業の正斎と申す……河豚のようではござりますが、腹に一向の毒のない男が持分に承っておりましたので、この正斎が、右の小一の師匠なのでござりまして。」 「成程、しかし狭い土地だ。そんなに逗留をしているうちには、きみなんか、その娘ッ子なり、おかみさんを、途中で見掛けた――いや、これは失礼した、見えなかったね。」 「旦那、口幅っとうはござりますが、目で見ますより聞く方が確でござります。それに、それお通りだなどと、途中で皆がひそひそ遣ります処へ出会いますと、芬とな、何とも申されません匂が。……温泉から上りまして、梅の花をその……嗅ぎますようで、はい。」  座には今、その白梅よりやや淡青い、春の李の薫がしたろう。  うっかり、ぷんと嗅いで、 「不躾け。」  と思わずしゃべった。 「その香の好さと申したら、通りすがりの私どもさえ、寐しなに衣ものを着換えましてからも、身うちが、ほんのりと爽いで、一晩、極楽天上の夢を見たでござりますで。一つ部屋で、お傍にでも居ましたら、もう、それだけで、生命も惜しゅうはござりますまい。まして、人間のしいなでも、そこは血気の若い奴でござります。死ぬのは本望でござりましたろうが、もし、それや、これやで、釜ヶ淵へ押ぱまったでござりますよ。」  お桂のちょっと振返った目と合って、欣七郎は肩越に按摩を見た。 「じゃあ、なにかその娘さんに、かかり合いでもあったのかね。」        二 「飛んだ事を、お嬢さんは何も御存じではござりません。ただ、死にます晩の、その提灯の火を、お手ずから点けて遣わされただけでござります。」  お桂はそのまま机に凭った、袖が直って、八口が美しい。 「その晩も、小一按摩が、御当家へ、こッつりこッつりと入りまして、お帳場へ、精霊棚からぶら下りましたように。――もっとももう時雨の頃で――その瓢箪頭を俯向けますと、(おい、霞の五番さんじゃ、今夜御療治はないぞ。)と、こちらに、年久しい、半助と云う、送迎なり、宿引なり、手代なり、……頑固で、それでちょっと剽軽な、御存じかも知れません。威勢のいい、」 「あれだね。」  と欣七郎が云うと、お桂は黙って頷いた。 「半助がそう申すと、びしゃびしゃと青菜に塩になりましたっけが、(それでは外様を伺います。)(ああ、行って来な。内じゃお座敷を廻らせないんだが、お前の事だ。)もっとも、(霞の五番さん)大島屋さんのお上さんの他には、好んで揉ませ人はござりません。――どこをどう廻りましたか、宵に来た奴が十時過ぎ、船を漕いだものが故郷へ立帰ります時分に、ぽかんと帳場へ戻りまして、畏って、で、帰りがけに、(今夜は闇でございます、提灯を一つ。)と申したそうで、(おい、来た。)村の衆が出入りの便宜同様に、気軽に何心なく出したげで。――ここがその、少々変な塩梅なのでござりまして、先が盲だとも、盲だからとも、乃至、目あきでないとも、そんな事は一向心着かず……それには、ひけ頃で帳場もちょっとごたついていたでもござりましょうか。その提灯に火を点してやらなかったそうでござりますな。――後での話でござりますが。」 「おやおや、しかし、ありそうな事だ。」 「はい、その提灯を霞の五番へ持って参じました、小按摩が、逆戻りに。――(お桂様。)うちのものは、皆お心安だてにお名を申して呼んでおります。そこは御大家でも、お商人の難有さで、これがお邸づら……」  嚔の出損った顔をしたが、半間に手を留めて、腸のごとく手拭を手繰り出して、蝦蟇口の紐に搦むので、よじって俯むけに額を拭いた。  意味は推するに難くない。  欣七郎は、金口を点けながら、 「構わない構わない、俺も素町人だ。」 「いえ、そういうわけではござりませんが。――そのお桂様に、(暗闇の心細さに、提灯を借りましたけれど、盲に何が見えると、帳場で笑いつけて火を貸しません、どうぞお慈悲……お情に。)と、それ、不具根性、僻んだ事を申しますて。お上さんは、もうお床で、こう目をぱっちりと見てござったそうにござります。ところで、お娘ごは何の気なしに点けておやりになりました。――さて、霞から、ずっと参れば玄関へ出られますものを、どういうものか、廊下々々を大廻りをして、この……花から雪を掛けて千鳥に縫って出ましたそうで。……井菊屋のしるしはござりますが、陰気に灯して、暗い廊下を、黄色な鼠の霜げた小按摩が、影のように通ります。この提灯が、やがて、その夜中に、釜ヶ淵の上、土手の夜泣松の枝にさがって、小一は淵へ、巌の上に革緒の足駄ばかり、と聞いて、お一方病人が出来ました。……」 「ああ、娘さんかね。」 「それは……いえ、お優しいお嬢様の事でござります……親しく出入をしたものが、身を投げたとお聞きなされば、可哀相――とは、……それはさ、思召したでござりましょうが、何の義理時宜に、お煩いなさって可いものでござります。病みつきましたのは、雪にござった、独身の御老体で。……  京阪地の方だそうで、長逗留でござりました。――カチリ、」  と言った。按摩には冴えた音。 「カチリ、へへッへッ。」  とベソを掻いた顔をする。  欣七郎は引入れられて、 「カチリ?……どうしたい。」 「お簪が抜けて落ちました音で。」 「簪が?……ちょっと。」  名は呼びかねつつ注意する。 「いいえ。」  婀娜な夫人が言った。 「ええ、滅相な……奥方様、唯今ではござりません。その当時の事で。……上方のお客が宵寐が覚めて、退屈さにもう一風呂と、お出かけなさる障子際へ、すらすらと廊下を通って、大島屋のお桂様が。――と申すは、唯今の花、このお座敷、あるいはお隣に当りましょうか。お娘ごには叔父ごにならっしゃる、富沢町さんと申して両国の質屋の旦が、ちょっと異な寸法のわかい御婦人と御楽み、で、大いお上さんは、苦い顔をしてござったれど、そこは、長唄のお稽古ともだちか何かで、お桂様は、その若いのと知合でおいでなさる。そこへ――ここへでござります……貴女のお座敷は、その時は別棟、向うの霞で。……こちらへ遊びに見えました。もし、そのお帰りがけなのでござりますて。  上方の御老体が、それなり開けると出会頭になります。出口が次の間で、もう床の入りました座敷の襖は暗し、また雪と申すのが御存じの通り、当館切っての北国で、廊下も、それは怪しからず陰気だそうでござりますので、わしどもでも手さぐりでヒヤリとします。暗い処を不意に開けては、若いお娘ご、吃驚もなさろうと、ふと遠慮して立たっせえた。……お通りすがりが、何とも申されぬいい匂で、その香をたよりに、いきなり、横合の暗がりから、お白い頸へ噛りついたものがござります。」…… 「…………」 「声はお立てになりません、が、お桂様が、少し屈みなりに、颯と島田を横にお振りなすった、その時カチリと音がしました。思わず、えへんと咳をして、御老体が覗いてござった障子の破れめへそのまま手を掛けて、お開けなさると、するりと向うへ、お桂様は庭の池の橋がかりの上を、両袖を合せて、小刻みにおいでなさる。蝙蝠だか、蜘蛛だか、奴は、それなり、その角の片側の寝具部屋へ、ごそりとも言わず消えたげにござりますがな。  確に、カチリと、簪の落ちた音。お拾いなすった間もなかったがと、御老体はお目敏い。……翌朝、気をつけて御覧なさると、欄干が取附けてござります、巌組へ、池から水の落口の、きれいな小砂利の上に、巌の根に留まって、きらきら水が光って、もし、小雨のようにさします朝晴の日の影に、あたりの小砂利は五色に見えます。これは、その簪の橘が蘂に抱きました、真珠の威勢かにも申しますな。水は浅し、拾うのに仔細なかったでございますれども、御老体が飛んだ苦労をなさいましたのは……夜具部屋から、膠々粘々を筋を引いて、時なりませぬ蛞蝓の大きなのが一匹……ずるずるとあとを輪取って、舐廻って、ちょうど簪の見当の欄干の裏へ這込んだのが、屈んだ鼻のさきに見えました。――これには難儀をなすったげで。はい、もっとも、簪がお娘ごのお髪へ戻りましたについては、御老体から、大島屋のお上さんに、その辺のな、もし、従って、小按摩もそれとなくお遠ざけになったに相違ござりません、さ、さ、この上方の御仁でござりますよ。――あくる晩の夜ふけに、提灯を持った小按摩を見て、お煩いなさったのは。――御老体にして見れば、そこらの行がかり上、死際のめくらが、面当に形を顕わしたように思召しましたろうし、立入って申せば、小一の方でも、そのつもりでござりましたかも分りません。勿論、当のお桂様は、何事も御存じはないのでござります。第一、簪のカチリも、咳のえへんも、その御老体が、その後三度めにか四度めにか湯治にござって、(もう、あのお娘も、円髷に結われたそうな。実は、)とこれから帳場へも、つい出入のものへも知れ渡りましたでござります。――ところが、大島屋のお上さんはおなくなりなさいます、あとで、お嫁入など、かたがた、三年にも四年にも、さっぱりおいでがござりません。もっともお栄え遊ばすそうで。……ただ、もし、この頃も承りますれば、その上方の御老体は、今年当月も御湯治で、つい四五日あとにお立ちかえりだそうでござりますが。――ふと、その方が御覧になったら、今度のは御病気どころか、そのまま気絶をなさろうかも知れませぬ。  ――夜泣松の枝へ、提灯を下げまして、この……旧暦の霜月、二十七日でござりますな……真の暗やみの薄明に、しょんぼりと踞んでおります。そのむくみ加減といい、瓢箪頭のひしゃげました工合、肩つき、そっくり正のものそのままだと申すことで……現に、それ。」 「ええ。」  お桂もぞッとしたように振向いて肩をすぼめた。 「わしどもが、こちらへ伺います途中でも、もの好きなのは、見て来た、見に行くと、高声で往来が騒いでいました。」  謙斎のこの話の緒も、はじめは、その事からはじまった。  それ、谿川の瀬、池水の調べに通って、チャンチキ、チャンチキ、鉦入りに、笛の音、太鼓の響が、流れつ、堰かれつ、星の静な夜に、波を打って、手に取るごとく聞えよう。  実は、この温泉の村に、新に町制が敷かれたのと、山手に遊園地が出来たのと、名所に石の橋が竣成したのと、橋の欄干に、花電燈が点いたのと、従って景気が可いのと、儲るのと、ただその一つさえ祭の太鼓は賑うべき処に、繁昌が合奏を演るのであるから、鉦は鳴す、笛は吹く、続いて踊らずにはいられない。  何年めかに一度という書入れ日がまた快晴した。  昼は屋台が廻って、この玄関前へも練込んで来て、芸妓連は地に並ぶ、雛妓たちに、町の小女が交って、一様の花笠で、湯の花踊と云うのを演った。屋台のまがきに、藤、菖蒲、牡丹の造り花は飾ったが、その紅紫の色を奪って目立ったのは、膚脱の緋より、帯の萌葱と、伊達巻の鬱金縮緬で。揃って、むら兀の白粉が上気して、日向で、むらむらと手足を動かす形は、菜畠であからさまに狐が踊った。チャンチキ、チャンチキ、田舎の小春の長閑さよ。  客は一統、女中たち男衆まで、挙って式台に立ったのが、左右に分れて、妙に隅を取って、吹溜りのように重り合う。真中へ拭込んだ大廊下が通って、奥に、霞へ架けた反橋が庭のもみじに燃えた。池の水の青く澄んだのに、葉ざしの日加減で、薄藍に、朧の銀に、青い金に、鯉の影が悠然と浮いて泳いで、見ぶつに交った。ひとりお桂さんの姿を、肩を、褄を、帯腰を、彩ったものであった。  この夫婦は――新婚旅行の意味でなく――四五年来、久しぶりに――一昨日温泉へ着いたばかりだが、既に一週間も以前から、今日の祝日の次第、献立書が、処々、紅の二重圏点つきの比羅になって、辻々、塀、大寺の門、橋の欄干に顕われて、芸妓の屋台囃子とともに、最も注意を引いたのは、仮装行列の催であった。有志と、二重圏点、かさねて、飛入勝手次第として、祝賀委員が、審議の上、その仮装の優秀なるものには、三等まで賞金美景を呈すとしたのに、読者も更めて御注意を願いたい。  だから、踊屋台の引いて帰る囃子の音に誘われて、お桂が欣七郎とともに町に出た時は、橋の上で弁慶に出会い、豆府屋から出る緋縅の武者を見た。床屋の店に立掛ったのは五人男の随一人、だてにさした尺八に、雁がねと札を着けた。犬だって浮かれている。石垣下には、鶩が、がいがいと鳴立てた、が、それはこの川に多い鶺鴒が、仮装したものではない。  泰西の夜会の例に見ても、由来仮装は夜のものであるらしい。委員と名のる、もの識が、そんな事は心得た。行列は午後五時よりと、比羅に認めてある。昼はかくれて、不思議な星のごとく、颯と夜の幕を切って顕れる筈の処を、それらの英雄侠客は、髀肉の歎に堪えなかったに相違ない。かと思えば、桶屋の息子の、竹を削って大桝形に組みながら、せっせと小僧に手伝わして、しきりに紙を貼っているのがある。通りがかりの馬方と問答する。「おいらは留めようと思ったが、この景気じゃあ、とても引込んでいられない。」「はあ、何に化けるね。」「凧だ……黙っていてくれよ。おいらが身体をそのまま大凧に張って飛歩行くんだ。両方の耳にうなりをつけるぜ。」「魂消たの、一等賞ずらえ。」「黙っててくんろよ。」馬がヒーンと嘶いた。この馬が迷惑した。のそりのそりと歩行き出すと、はじめ、出会ったのは緋縅の武者で、続いて出たのは雁がね、飛んで来たのは弁慶で、争って騎ろうとする。揉みに揉んで、太刀と長刀が左右へ開いて、尺八が馬上に跳返った。そのかわり横田圃へ振落された。  ただこのくらいな間だったが――山の根に演芸館、花見座の旗を、今日はわけて、山鳥のごとく飜した、町の角の芸妓屋の前に、先刻の囃子屋台が、大な虫籠のごとくに、紅白の幕のまま、寂寞として据って、踊子の影もない。はやく町中、一練は練廻って剰す処がなかったほど、温泉の町は、さて狭いのであった。やがて、新造の石橋で列を造って、町を巡りすました後では、揃ってこの演芸館へ練込んで、すなわち放楽の乱舞となるべき、仮装行列を待顔に、掃清められた状のこのあたりは、軒提灯のつらなった中に、かえって不断より寂しかった。  峰の落葉が、屋根越に――  日蔭の冷い細流を、軒に流して、ちょうどこの辻の向角に、二軒並んで、赤毛氈に、よごれ蒲団を継はぎしたような射的店がある。達磨落し、バットの狙撃はつい通りだが、二軒とも、揃って屋根裏に釣った幽霊がある。弾丸が当ると、ガタリざらざらと蛇腹に伸びて、天井から倒に、いずれも女の幽霊が、ぬけ上った青い額と、縹色の細い頤を、ひょろひょろ毛から突出して、背筋を中反りに蜘蛛のような手とともに、ぶらりと下る仕掛けである。 「可厭な、あいかわらずね……」  お桂さんが引返そうとした時、歩手前の店のは、白張の暖簾のような汚れた天蓋から、捌髪の垂れ下った中に、藍色の片頬に、薄目を開けて、片目で、置据えの囃子屋台を覗くように見ていたし、先隣なのは、釣上げた古行燈の破から、穴へ入ろうとする蝮の尾のように、かもじの尖ばかりが、ぶらぶらと下っていた。  帰りがけには、武蔵坊も、緋縅も、雁がねも、一所に床屋の店に見た。が、雁がねの臆面なく白粉を塗りつつ居たのは言うまでもなかろう。  ――小一按摩のちびな形が、現に、夜泣松の枝の下へ、仮装の一個として顕れている――  按摩の謙斎が、療治しつつ欣七郎に話したのは――その夜、食後の事なのであった。        三 「半助さん、半助さん。」  すらすらと、井菊の広い帳場の障子へ、姿を見せたのはお桂さんである。  あの奥の、花の座敷から来た途中は――この家での北国だという――雪の廊下を通った事は言うまでもない。  カチリ……  ハッと手を挙げて、珊瑚の六分珠をおさえながら、思わず膠についたように、足首からむずむずして、爪立ったなり小褄を取って上げたのは、謙斎の話の舌とともに、蛞蝓のあとを踏んだからで、スリッパを脱ぎ放しに釘でつけて、身ぶるいをして衝と抜いた。湯殿から蒸しかかる暖い霧も、そこで、さっと肩に消えて、池の欄干を伝う、緋鯉の鰭のこぼれかかる真白な足袋はだしは、素足よりなお冷い。で……霞へ渡る反橋を視れば、そこへ島田に結った初々しい魂が、我身を抜けて、うしろ向きに、気もそぞろに走る影がして、ソッと肩をすぼめたなりに、両袖を合せつつ呼んだのである。 「半助さん……」ここで踊屋台を視た、昼の姿は、鯉を遊ばせた薄もみじのさざ波であった。いまは、その跡を慕って大鯰が池から雫をひたひたと引いて襲う気勢がある。  謙斎の話は、あれからなお続いて、小一の顕われた夜泣松だが、土地の名所の一つとして、絵葉書で売るのとは場所が違う。それは港街道の路傍の小山の上に枝ぶりの佳いのを見立てたので。――真の夜泣松は、汽車から来る客たちのこの町へ入る本道に、古い石橋の際に土をあわれに装って、石地蔵が、苔蒸し、且つ砕けて十三体。それぞれに、樒、線香を手向けたのがあって、十三塚と云う……一揆の頭目でもなし、戦死をした勇士でもない。きいても気の滅入る事は、むかし大饑饉の年、近郷から、湯の煙を慕って、山谷を這出て来た老若男女の、救われずに、菜色して餓死した骨を拾い集めて葬ったので、その塚に沿った松なればこそ、夜泣松と言うのである。――昼でも泣く。――仮装した小按摩の妄念は、その枝下、十三地蔵とは、間に水車の野川が横に流れて石橋の下へ落ちて、香都良川へ流込む水筋を、一つ跨いだ処に、黄昏から、もう提灯を釣して、裾も濡れそうに、ぐしゃりと踞んでいる。  今度出来た、谷川に架けた新石橋は、ちょうど地蔵の斜向い。でその橋向うの大旅館の庭から、仮装は約束のごとく勢揃をして、温泉の町へ入ったが、――そう云ってはいかがだけれど、饑饉年の記念だから、行列が通るのに、四角な行燈も肩を円くして、地蔵前を半輪によけつつ通った。……そのあとへ、人魂が一つ離れたように、提灯の松の下、小按摩の妄念は、列の中へ加わらずに孤影㷀然として残っている。……  ぬしは分らない、仮装であるから。いずれ有志の一人と、仮装なかまで四五人も誘ったが、ちょっと手を引張っても、いやその手を引くのが不気味なほど、正のものの身投げ按摩で、びくとも動かないでいる。……と言うのであった。  ――これを云った謙斎は、しかし肝心な事を言いわすれた、あとで分ったが、誘うにも、同行を促すにも、なかまがこもごも声を掛けたのに、小按摩は、おくびほども口を利かない。「ぴい、ぷう。」舌のかわりに笛を。「ぴいぷう」とただ笛を吹いた。――  半ば聞ずてにして、すっと袖の香とともに、花の座敷を抜けた夫人は、何よりも先にその真偽のほどを、――そんな事は遊びずきだし一番明い――半助に、あらためて聞こうとした。懸念に処する、これがお桂のこの場合の第一の手段であったが。……  居ない。 「おや、居ないの。」  一層袖口を引いて襟冷く、少しこごみ腰に障子の小間から覗くと、鉄の大火鉢ばかり、誰も見えぬ。 「まあ。」  式台わきの横口にこう、ひょこりと出るなり、モオニングのひょろりとしたのが、とまずシルクハットを取って高慢に叩頭したのは…… 「あら。」  附髯をした料理番。並んで出たのは、玄関下足番の好男子で、近頃夢中になっているから思いついた、頭から顔一面、厚紙を貼って、胡粉で潰した、不断女の子を悩ませる罪滅しに、真赤に塗った顔なりに、すなわちハアトの一である。真赤な中へ、おどけて、舌を出しておじぎをした。 「可厭だ。……ちょいと、半助さんは。」 「あいつは、もう。」  揃って二人ともまたおじぎをして、 「昼間っから行方知れずで。」  と口々に云う処へ、チャンチキ、チャンチキ、どどどん、ヒューラが、直ぐそこへ。――女中の影がむらむらと帳場へ湧く、客たちもぞろぞろ出て来る。……血の道らしい年増の女中が、裾長にしょろしょろしつつ、トランプの顔を見て、目で嬌態をやって、眉をひそめながら肩でよれついたのと、入交って、門際へどっと駈出す。  夫人も、つい誘われて門へ立った。  高張、弓張が門の左右へ、掛渡した酸漿提灯も、燦と光が増したのである。  桶屋の凧は、もう唸って先へ飛んだろう。馬二頭が、鼻あらしを霜夜にふつふつと吹いて曳く囃子屋台を真中に、磽确たる石ころ路を、坂なりに、大師道のいろはの辻のあたりから、次第さがりに人なだれを打って来た。弁慶の長刀が山鉾のように、見える、見える。御曹子は高足駄、おなじような桃太郎、義士の数が三人ばかり。五人男が七人居て、雁がねが三羽揃った。……チャンチキ、チャンチキ、ヒューラと囃して、がったり、がくり、列も、もう乱れ勝で、昼の編笠をてこ舞に早がわりの芸妓だちも、微酔のいい機嫌。青い髯も、白い顔も、紅を塗ったのも、一斉にうたうのは鰌すくいの安来節である。中にぶッぶッぶッぶッと喇叭ばかり鳴すのは、――これはどこかの新聞でも見た――自動車のつくりものを、腰にはめて行くのである。  時に、井菊屋はほとんど一方の町はずれにあるから、村方へこぼれた祝場を廻り済して、行列は、これから川向の演芸館へ繰込むのの、いまちょうど退汐時。人は一倍群ったが、向側が崖沿の石垣で、用水の流が急激に走るから、推されて蹈はずす憂があるので、群集は残らず井菊屋の片側に人垣を築いたため、背後の方の片袖の姿斜めな夫人の目には、山から星まじりに、祭屋台が、人の波に乗って、赤く、光って流れた。  その影も、灯も、犬が三匹ばかり、まごまご殿しながらついて、川端の酸漿提灯の中へぞろぞろと黒くなって紛れたあとは、彳んで見送る井菊屋の人たちばかり。早や内へ入るものがあって、急に寂しくなったと思うと、一足後れて、暗い坂から、――異形なものが下りて来た。  疣々打った鉄棒をさし荷いに、桶屋も籠屋も手伝ったろう。張抜らしい真黒な大釜を、蓋なしに担いだ、牛頭、馬頭の青鬼、赤鬼。青鬼が前へ、赤鬼が後棒で、可恐しい面を被った。縫いぐるみに相違ないが、あたりが暗くなるまで真に迫った。……大釜の底にはめらめらと真赤な炎を彩って燃している。  青鬼が、 「ぼうぼう、ぼうぼう、」  赤鬼が、 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」  と陰気な合言葉で、国境の連山を、黒雲に背負って顕れた。  青鬼が、 「ぼうぼう、ぼうぼう、」  赤鬼が、 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」  よくない洒落だ。――が、訳がある。……前に一度、この温泉町で、桜の盛に、仮装会を催した事があった。その時、墓を出た骸骨を装って、出歯をむきながら、卒堵婆を杖について、ひょろひょろ、ひょろひょろと行列のあとの暗がりを縫って歩行いて、女小児を怯えさせて、それが一等賞になったから。……  地獄の釜も、按摩の怨念も、それから思着いたものだと思う。一国の美術家でさえ模倣を行る、いわんや村の若衆においてをや、よくない真似をしたのである。 「ぼうぼう、ぼうぼう。」 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」 「あら、半助だわ。」  と、ひとりの若い女中が言った。  石を、青と赤い踵で踏んで抜けた二頭の鬼が、後から、前を引いて、ずしずしずしと小戻りして、人立の薄さに、植込の常磐木の影もあらわな、夫人の前へ寄って来た。  赤鬼が最も著しい造声で、 「牛頭よ、牛頭よ、青牛よ。」 「もうー、」  と牛の声で応じたのである。 「やい、十三塚にけつかる、小按摩な。」 「もう。」 「これから行って、釜へ打込め。」 「もう。」 「そりゃ――歩べい。」 「もう。」 「ああ、待って。」  お桂さんは袖を投げて一歩して、 「待って下さいな。」  と釜のふちを白い手で留めたと思うと、 「お熱々。」  と退って耳を圧えた。わきあけも、襟も、乱るる姿は、電燭の霜に、冬牡丹の葉ながらくずるるようであった。        四 「小一さん、小一さん。」  たとえば夜の睫毛のような、墨絵に似た松の枝の、白張の提灯は――こう呼んで、さしうつむいたお桂の前髪を濃く映した。  婀娜にもの優しい姿は、コオトも着ないで、襟に深く、黒に紫の裏すいた襟巻をまいたまま、むくんだ小按摩の前に立って、そと差覗きながら言ったのである。  褄が幻のもみじする、小流を横に、その一条の水を隔てて、今夜は分けて線香の香の芬と立つ、十三地蔵の塚の前には外套にくるまって、中折帽を目深く、欣七郎が杖をついて彳んだ。 (――実は、彼等が、ここに夜泣松の下を訪れたのは、今夜これで二度めなのであった――)  はじめに。……話の一筋が歯に挟ったほどの事だけれど、でも、その不快について処置をしたさに、二人が揃って、祭の夜を見物かたがた、ここへ来た時は。……「何だ、あの謙斎か、按摩め。こくめいで律儀らしい癖に法螺を吹いたな。」そこには松ばかり、地蔵ばかり、水ばかり、何の影も見えなかった。空の星も晃々として、二人の顔も冴々と、古橋を渡りかけて、何心なく、薬研の底のような、この横流の細滝に続く谷川の方を見ると、岸から映るのではなく、川瀬に提灯が一つ映った。  土地を知った二人が、ふとこれに心を取られて、松の方へ小戻りして、向合った崖縁に立って、谿河を深く透かすと、――ここは、いまの新石橋が架らない以前に、対岸から山伝いの近道するのに、樹の根、巌角を絶壁に刻んだ径があって、底へ下りると、激流の巌から巌へ、中洲の大巌で一度中絶えがして、板ばかりの橋が飛々に、一煽り飜って落つる白波のすぐ下流は、たちまち、白昼も暗闇を包んだ釜ヶ淵なのである。  そのほとんど狼の食い散した白骨のごとき仮橋の上に、陰気な暗い提灯の一つ灯に、ぼやりぼやりと小按摩が蠢めいた。  思いがけない事ではない。二人が顔を見合せながら、目を放さず、立つうちに、提灯はこちらに動いて、しばらくして一度、ふわりと消えた。それは、巌の根にかくれたので、やがて、縁日ものの竜燈のごとく、雑樹の梢へかかった。それは崖へ上って街道へ出たのであった。  ――その時は、お桂の方が、衝と地蔵の前へ身を躱すと、街道を横に、夜泣松の小按摩の寄る処を、 「や、御趣向だなあ。」と欣七郎が、のっけに快活に砕けて出て、 「疑いなしだ、一等賞。」  小按摩は、何も聞かない振をして、蛙が手を掙くがごとく、指で捜りながら、松の枝に提灯を釣すと、謙斎が饒舌った約束のごとく、そのまま、しょぼんと、根に踞んで、つくばい立の膝の上へ、だらりと両手を下げたのであった。 「おい。一等賞君、おい一杯飲もう。一所に来たまえ。」  その時だ。 「ぴい、ぷう。」  笛を銜えて、唇を空ざまに吹上げた。 「分ったよ、一等賞だよ。」 「ぴい、ぷう。」 「さ、祝杯を上げようよ。」 「ぴい、ぷう。」  空嘯いて、笛を鳴す。  夫人が手招きをした。何が故に、そのうしろに竜女の祠がないのであろう、塚の前に面影に立った。 「ちえッ」舌うちとともに欣七郎は、強情、我慢、且つ執拗な小按摩を見棄てて、招かれた手と肩を合せた、そうして低声をかわしかわし、町の祭の灯の中へ、並んでスッと立去った。 「ぴい、ぷう。……」 「小一さん。」  しばらくして、引返して二人来た時は、さきにも言った、欣七郎が地蔵の前に控えて、夫人自ら小按摩に対したのである。 「ぴい、ぷう。」 「小一さん。」 「ぴい、ぷう。」 「大島屋の娘はね、幽霊になってしまったのよ。」  と一歩ひきさま、暗い方に隠れて待った、あの射的店の幽霊を――片目で覗いていた方のである――竹棹に結えたなり、ずるりと出すと、ぶらりと下って、青い女が、さばき髪とともに提灯を舐めた。その幽霊の顔とともに、夫人の黒髪、びん掻に、当代の名匠が本質へ、肉筆で葉を黒漆一面に、緋の一輪椿の櫛をさしたのが、したたるばかり色に立って、かえって打仰いだ按摩の化ものの真向に、一太刀、血を浴びせた趣があった。 「一所に、おいでなさいな、幽霊と。」  水ぶくれの按摩の面は、いちじくの実の腐れたように、口をえみわって、ニヤリとして、ひょろりと立った。  お桂さんの考慮では、そうした……この手段を選んで、小按摩を芸妓屋町の演芸館。……仮装会の中心点へ送込もうとしたのである。そうしてしまえば、ねだ下、天井裏のばけものまでもない……雨戸の外の葉裏にいても気味の悪い芋虫を、銀座の真中へ押放したも同然で、あとは、さばさばと寐覚が可い。  ……思いつきで、幽霊は、射的店で借りた。――欣七郎は紳士だから、さすがにこれは阻んだので、かけあいはお桂さんが自分でした。毛氈に片膝のせて、「私も仮装をするんですわ。」令夫人といえども、下町娘だから、お祭り気は、頸脚に幽な、肌襦袢ほどは紅に膚を覗いた。……  もう容易い。……つくりものの幽霊を真中に、小按摩と連立って、お桂さんが白木の両ぐりを町に鳴すと、既に、まばらに、消えたのもあり、消えそうなのもある、軒提灯の蔭を、つかず離れず、欣七郎が護って行く。  芸妓屋町へ渡る橋手前へ、あたかも巨寺の門前へ、向うから渡る地蔵の釜。 「ぼうぼう、ぼうぼう。」 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」 「や、小按摩が来た……出掛けるには及ばぬわ、青牛よ。」 「もう。」  と、吠える。 「ぴい、ぷう。」 「ぼうぼう、ぼうぼう。」 「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」  そこで、一行異形のものは、鶩の夢を踏んで、橋を渡った。  鬼は、お桂のために心を配って来たらしい。  演芸館の旗は、人の顔と、頭との中に、電飾に輝いた。……町の角から、館の前の広場へひしと詰って、露台に溢れたからである。この時は、軒提灯のあと始末と、火の用心だけに家々に残ったもののほか、町を挙げてここへ詰掛けたと言って可い。  そのかわり、群集の一重うしろは、道を白く引いて寂然としている。 「おう、お嬢さん……そいつを持ちます、俺の役だ。」  赤鬼は、直ちに半助の地声であった。  按摩の頭は、提灯とともに、人垣の群集の背後についた。 「もう、要らないわ、此店へ返して、ね。」  と言った。 「青牛よ。」 「もう。」 「生白い、いい肴だ。釜で煮べい。」 「もう。」  館の電飾が流るるように、町並の飾竹が、桜のつくり枝とともに颯と鳴った。更けて山颪がしたのである。  竹を掉抜きに、たとえば串から倒に幽霊の女を釜の中へ入れようとした時である。砂礫を捲いて、地を一陣の迅き風がびゅうと、吹添うと、すっと抜けて、軒を斜に、大屋根の上へ、あれあれ、もの干を離れて、白帷子の裾を空に、幽霊の姿は、煙筒の煙が懐手をしたように、遥に虚空へ、遥に虚空へ――  群集はもとより、立溢れて、石の点頭くがごとく、踞みながら視ていた、人々は、羊のごとく立って、あッと言った。  小一按摩の妄念も、人混の中へ消えたのである。        五  土地の風説に残り、ふとして、浴客の耳に伝うる処は……これだけであろうと思う。  しかし、少し余談がある。とにかく、お桂さんたちは、来た時のように、一所に二人では帰らなかった。――  風に乗って、飛んで、宙へ消えた幽霊のあと始末は、半助が赤鬼の形相のままで、蝙蝠を吹かしながら、射的店へ話をつけた。此奴は褌にするため、野良猫の三毛を退治て、二月越内証で、もの置で皮を乾したそうである。  笑話の翌朝は、引続き快晴した。近山裏の谷間には、初茸の残り、乾びた占地茸もまだあるだろう、山へ行く浴客も少くなかった。  お桂さんたちも、そぞろ歩行きした。掛稲に嫁菜の花、大根畑に霜の濡色も暖い。  畑中の坂の中途から、巨刹の峰におわす大観音に詣でる広い道が、松の中を上りになる山懐を高く蜒って、枯草葉の径が細く分れて、立札の道しるべ。歓喜天御堂、と指して、……福徳を授け給う……と記してある。 「福徳って、お金ばかりじゃありませんわ。」  欣七郎は朝飯前の道がものういと言うのに、ちょいと軽い小競合があったあとで、参詣の間を一人待つ事になった。 「ここを、……わきへ去っては可厭ですよ……一人ですから。」  お桂さんは勢よく乾いた草を分けて攀じ上った。欣七郎の目に、その姿が雑樹に隠れた時、夫人の前には再びやや急な石段が顕われた。軽く喘いで、それを上ると、小高い皿地の中窪みに、垣も、折戸もない、破屋が一軒あった。  出た、山の端に松が一樹。幹のやさしい、そこの見晴しで、ちょっと下に待つ人を見ようと思ったが、上って来た方は、紅甍と粉壁と、そればかりで夫は見えない。あと三方はまばらな農家を一面の畑の中に、弘法大師奥の院、四十七町いろは道が見えて、向うの山の根を香都良川が光って流れる。わきへ引込んだ、あの、辻堂の小さく見える処まで、昨日、午ごろ夫婦で歩行いた、――かえってそこに、欣七郎の中折帽が眺められるようである。  ああ、今朝もそのままな、野道を挟んだ、飾竹に祭提灯の、稲田ずれに、さらさらちらちらと風に揺れる処で、欣七郎が巻煙草を出すと、燐寸を忘れた。……道の奥の方から、帽子も被らないで、土地のものらしい。霜げた若い男が、蝋燭を一束買ったらしく、手にして来たので、湯治場の心安さ、遊山気分で声を掛けた。 「ちょいと、燐寸はありませんか。」  ぼんやり立停って、二人を熟と視て、 「はい、私どもの袂には、あっても人魂でしてな。」  すたすたと分れたのが、小上りの、畦を横に切れて入った。 「坊主らしいな。……提灯の蝋燭を配るのかと思ったが。」  俗ではあったが、うしろつきに、欣七郎がそう云った。  そう言った笑顔に。――自分が引添うているようで、現在、朝湯の前でも乳のほてり、胸のときめきを幹でおさえて、手を遠見に翳すと、出端のあし許の危さに、片手をその松の枝にすがった、浮腰を、朝風が美しく吹靡かした。  しさって褄を合せた、夫に対する、若き夫人の優しい身だしなみである。  まさか、この破屋に、――いや、この松と、それより梢の少し高い、対の松が、破屋の横にややまた上坂の上にあって、根は分れつつ、枝は連理に連った、濃い翠の色越に、額を捧げて御堂がある。  夫人は衣紋を直しつつ近着いた。  近づくと、 「あッ、」  思わず、忍音を立てた――見透す六尺ばかりの枝に、倒に裾を巻いて、毛を蓬に落ちかかったのは、虚空に消えた幽霊である。と見ると顔が動いた、袖へ毛だらけの脚が生え、脇腹の裂目に獣の尾の動くのを、狐とも思わず、気は確に、しかと犬と見た。が、人の香を慕ったか、そばえて幽霊を噛みちらし、まつわり振った、そのままで、裾を曳いて、ずるずると寄って来るのに、はらはらと、慌しく踵を返すと、坂を落ち下りるほどの間さえなく、帯腰へ疾く附着いて、ぶるりと触るは、髪か、顔か。  花の吹雪に散るごとく、裾も袖も輪に廻って、夫人は朽ち腐れた破屋の縁へ飛縋った。 「誰か、誰方か、誰方か。」 「うう、うう。」  と寝惚声して、破障子を開けたのは、頭も、顔も、そのままの小一按摩の怨念であった。 「あれえ。」  声は死んで、夫人は倒れた。  この声が聞えるのには間遠であった。最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心に草を攀じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋の縁外の欠けた手水鉢に、ぐったりと頤をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。  横ざまに、杖で、敲き払った。が、人気勢のする破障子を、及腰に差覗くと、目よりも先に鼻を撲った、このふきぬけの戸障子にも似ず、したたかな酒の香である。  酒ぎらいな紳士は眉をひそめて、手巾で鼻を蔽いながら、密と再び覗くと斉しく、色が変って真蒼になった。  竹の皮散り、貧乏徳利の転った中に、小一按摩は、夫人に噛りついていたのである。  読む方は、筆者が最初に言ったある場合を、ごく内端に想像さるるが可い。  小一に仮装したのは、この山の麓に、井菊屋の畠の畑つくりの老僕と日頃懇意な、一人棲の堂守であった。 大正十四(一九二五)年三月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行 ※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004870", "作品名": "怨霊借用", "作品名読み": "おんりょうしゃくよう", "ソート用読み": "おんりようしやくよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-11T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4870.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年11月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "今井忠夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4870_ruby_12166.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4870_12167.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  砂山を細く開いた、両方の裾が向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞ったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路の傍に、崖に添うて、一軒漁師の小家がある。  崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄の楯を支いて、幾億尋とも限り知られぬ、潮の陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬を削る頼母しさ。砂山に生え交る、茅、芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代万代の末かけて、巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。  さればこそ、松五郎。我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を残して、日ごとに、件の門の前なる細路へ、衝とその後姿、相対える猛獣の間に突立つよと見れば、直ちに海原に潜るよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕ぎ分けて、飛ぶ鴎よりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。  留守はただ磯吹く風に藻屑の匂いの、襷かけたる腕に染むが、浜百合の薫より、空燻より、女房には一際床しく、小児を抱いたり、頬摺したり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物をあぶりもして、寂しく今日を送る習い。  浪の音には馴れた身も、鶏の音に驚きて、児と添臥の夢を破り、門引きあけて隈なき月に虫の音の集くにつけ、夫恋しき夜半の頃、寝衣に露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生の花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪の声にのみ耳を澄ませば、生憎待たぬ時鳥。鯨の冬の凄じさは、逆巻き寄する海の牙に、涙に氷る枕を砕いて、泣く児を揺るは暴風雨ならずや。  母は腕のなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計。  津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖に、北は寒く、一条路にも蔭日向で、房州も西向の、館山北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川、古川、白子、忽戸など、就中、船幽霊の千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重の遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海。  この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造り、近ごろ別家をしたばかりで、葺いた茅さえ浅みどり、新藁かけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀はまだ二十二三。  去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産で、お浜といえば砂さえ、敷妙の一粒種。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳の蒼き中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入っているが、可愛らしさは四辺にこぼれた、畳も、縁も、手遊、玩弄物。  犬張子が横に寝て、起上り小法師のころりと坐った、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳の衣紋も繕わず、姉さんかぶりを軽くして、襷がけの二の腕あたり、日ざしに惜気なけれども、都育ちの白やかに、紅絹の切をぴたぴたと、指を反らした手の捌き、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿るよう、世帯染みたがなお優しい。  秋日和の三時ごろ、人の影より、黍の影、一つ赤蜻蛉の飛ぶ向うの畝を、威勢の可い声。 「号外、号外。」        二 「三ちゃん、何の号外だね、」  と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場の馴染の奴、張ものにうつむいたまま、徒然らしい声を懸ける。  片手を懐中へ突込んで、どう、してこました買喰やら、一番蛇を呑んだ袋を懐中。微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱帯の裂けたのを、縄に捩った一重まわし、小生意気に尻下り。  これが親仁は念仏爺で、網の破れを繕ううちも、数珠を放さず手にかけながら、葎の中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗くと、いつも前はだけの胡坐の膝へ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙は違えず、真黒な羽をばさりと落して、奴、おさえろ、と見向もせず、また南無阿弥陀で手内職。  晩のお菜に、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺の因果が孫に報って、渾名を小烏の三之助、数え年十三の大柄な童でござる。  掻垂れ眉を上と下、大きな口で莞爾した。 「姉様、己の号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」 「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切の小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸していう。 「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」 「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」 「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様、」 「甘いものを食べてさ、がりがり噛って、乱暴じゃないかねえ。」 「うむ、これかい。」  と目を上ざまに細うして、下唇をぺろりと嘗めた。肩も脛も懐も、がさがさと袋を揺って、 「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己が嫁さんに遣ろうと思って、姥が店で買って来たんで、旨そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」  とくるりと、はり板に並んで向をかえ、縁側に手を支いて、納戸の方を覗きながら、 「やあ、寝てやがら、姉様、己が嫁さんは寝ねかな。」 「ああ、今しがた昼寝をしたの。」 「人情がないぜ、なあ、己が旨いものを持って来るのに。  ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児。へ、」  とのめずるように頸を窘め、腰を引いて、 「何にもいわねえや、蠅ばかり、ぶんぶんいってまわってら。」 「ほんとに酷い蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀そうなように集るんだよ。それにこうやって糊があるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許なんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干か少なかろうねえ。」 「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕えて、岡田螺とか何とかいって、お汁の実にしたいようだ。」  とけろりとして真顔にいう。        三  こんな年していうことの、世帯じみたも暮向き、塩焼く煙も一列に、おなじ霞の藁屋同士と、女房は打微笑み、 「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」  奴は心づいて笑い出し、 「ははは、所帯じみねえでよ、姉さん。こんのお浜ッ子が出来てから、己なりたけ小遣はつかわねえ。吉や、七と、一銭こを遣ってもな、大事に気をつけてら。玩弄物だのな、飴だのな、いろんなものを買って来るんだ。」  女房は何となく、手拭の中に伏目になって、声の調子も沈みながら、 「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好じゃ、小児の持っているものなんか、引奪っても自分が欲い時だのに、そうやってちっとずつ皆から貰うお小遣で、あの児に何か買ってくれてさ。姉さん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お食りなら可い、気の毒でならないもの。」  奴は嬉しそうに目を下げて、 「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己が自分で食べるより旨いんだからな。」 「あんなことをいうんだよ。」  と女房は顔を上げて莞爾と、 「何て情があるんだろう。」  熟と見られて独で頷き、 「だって、男は誰でもそうだぜ。兄哥だってそういわあ。船で暴風雨に濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉さんやお浜ッ児が雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。」 「嘘ばッかり。」  と対手が小児でも女房は、思わずはっと赧らむ顔。 「嘘じゃねえだよ、その代にゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。  なあ姉さん、己が嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、張ものをしてくんねえじゃ己厭だぜ。」 「ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。」 「え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。」  と面くらった身のまわり、はだかった懐中から、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。 「号外、号外ッ、」と慌しく這身で追掛けて平手で横ざまにポンと払くと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、 「は、」  とかけ声でポンと口。 「おや、御馳走様ねえ。」  三之助はぐッと呑んで、 「ああ号外、」と、きょとりとする。  女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。 「三ちゃん。」 「うむ、」 「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」 「何こんなものを。」  とあとへ退り、 「いまに解きます繻子の帯……」  奴は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏して、 「わい!」  日向へのッそりと来た、茶の斑犬が、びくりと退って、ぱっと砂、いや、その遁げ状の慌しさ。        四 「状を見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」  と呵々と笑って大得意。 「吃驚するわね、唐突に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」  はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。 「姉さんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸に、褄を引摺っていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」  女房は手拭を掻い取ったが、目ぶちのあたりほんのりと、逆上せた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、 「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」 「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」 「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」 「いまに解きます繻子の帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不可ねえや、ああ、お浜ッ児はこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。  女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。 「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」 「あれはッて?」と目をぐるぐる。 「だって、源次さん千太さん、理右衛門爺さんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋な小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔と改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠められておいでじゃないか。何でも、恐いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向に見られて、奴は、口をむぐむぐと、顱巻をふらりと下げて、 「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。 「見たが可い、ベソちゃんや。」  と思わず軽く手をたたく。 「だって、だって、何だ、」  と奴は口惜しそうな顔色で、 「己ぐらいな年紀で、鮪船の漕げる奴は沢山ねえぜ。  ここいらの鼻垂しは、よう磯だって泳げようか。たかだか堰でめだかを極めるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒を遣るだ。  浪打際といったって、一畝り乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽の堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様は真蒼だ。姉さん、凪の可い日でそうなんだぜ。  処を沖へ出て一つ暴風雨と来るか、がちゃめちゃの真暗やみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」  と肩を怒らして大手を振った、奴、おまわりの真似して力む。 「じゃ、何だって、何だってお前、ベソ三なの。」 「うん、」  たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻をいじくりながら、 「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」        五 「あれさ、ちょいと、用がある、」  と女房は呼止める。  奴は遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附で、 「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」 「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。」  衝と身を起こして追おうとすると、奴は駈出した五足ばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞み、立った女房の前垂のあたりへ、円い頤、出額で仰いで、 「おい、」という。  出足へ唐突に突屈まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉いた。 「何だねえ、また、吃驚するわね。」 「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」 「ああ、可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」 「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬した、目が渋そう。 「不可ねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」 「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」 「だって姉さん、ベソも掻かざらに。夜一夜亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門なんざ、己がベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を睜る。  女房はそれかあらぬか、内々危んだ胸へひしと、色変るまで聞咎め、 「ええ、亡念の火が憑いたって、」 「おっと、……」  とばかり三之助は口をおさえ、 「黙ろう、黙ろう、」と傍を向いた、片頬に笑を含みながら吃驚したような色である。  秘すほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、 「可いとも、沢山そうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」  と肩を引いて、身を斜め、捩り切りそうに袖を合わせて、女房は背向になンぬ。  奴は出る杭を打つ手つき、ポンポンと天窓をたたいて、 「しまった! 姉さん、何も秘すというわけじゃねえだよ。  こんの兄哥もそういうし、乗組んだ理右衛門徒えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖がるッていうからよ。」 「だから、皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可じゃないかね。」 「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌ったって、皆にいっちゃ不可えだぜ。」 「誰が、そんなことをいうもんですか。」 「お浜ッ児にも内証だよ。」  と密と伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳を差覗く。 「嬰児が、何を知ってさ。」 「それでも夢に見て魘されら。」 「ちょいと、そんなに恐怖い事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。 「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉さん、この五月、三日流しの鰹船で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。  野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩めに夕飯を食ったあとでよ。  昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆胴の間へもぐってな、そん時に千太どんが漕がしっけえ。  急に、おお寒い、おお寒い、風邪揚句だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫からドンと飛下りただ。  船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸へ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」  女房は打頷いた襟さみしく、乳の張る胸をおさえたのである。        六 「晩飯の菜に、塩からさ嘗め過ぎた。どれ、糠雨でも飲むべい、とってな、理右衛門どんが入交わって漕がしつけえ。  や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫で爺さまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓から褞袍被ってころげた達磨よ。  ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽に呼ばる声がするだね。  どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。  来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気がきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞まねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時でまた理右衛門爺さまが潜っただよ。  われ漕げ、頭痛だ、汝漕げ、脚気だ、と皆苦い顔をして、出人がねえだね。  平胡坐でちょっと磁石さ見さしつけえ、此家の兄哥が、奴、汝漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴は顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、 「いきなり艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷るというもんだ。  どッこいな、と腰を極めたが、ずッしりと手答えして、槻の大木根こそぎにしたほどな大い艪の奴、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。  ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。  西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝ると同一に声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。  その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒な中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。  やあ、火が点れたいッて、おらあ、吃驚して喚くとな、……姉さん。」 「おお、」と女房は変った声音。 「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間で、苫の下でいわっしゃる。  また、千太がね、あれもよ、陸の人魂で、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢わねえというんだが、十三で出っくわした、奴は幸福よ、と吐くだあね。  おらあ、それを聞くと、艪づかを握った手首から、寒くなったあ。」 「……まあ、厭じゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖いわねえ。」  とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然とする。奴の顔色、赤蜻蛉、黍の穂も夕づく日。 「そ、そんなくれえで、お浜ッ児の婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。  炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。  姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形だんべい、おらが天窓より高くなったり、船底へ崖が出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」 「………………」 「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下に底澄んで、遠いのが耳について聞えるだ。」        七 「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕いで来るだがね。  傍へ来られてはなんねえだ、と艪づかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不可え。  向うも、ふわふわと疾くなるだ。  こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打ちゃらかして、おさえて突立ってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦人がな、裾を拡げて、膝を立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。  おらあ、わい、というて、艪を放した。  そん時だ、われの、顔は真蒼だ、そういう汝の面は黄色いぜ、と苫の間で、てんでんがいったあ。――あやかし火が通ったよ。  奴、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此家の兄哥が、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈んでな、密とその火を見てやった。  ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」 「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と忙しく聞いて、女房は庇の陰。  日向の奴も、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。 「何だかちっとも分らねえが、赤目鰒の腸さ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。  どす赤いんだの、うす蒼いんだの、にちにち舳の板にくッついているようだっけ。  すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯とのして、一浪で遠くまで持って行った、どこかで魚の目が光るようによ。  おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷り出した。胴の間じゃ寂りして、幽かに鼾も聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平になっただから、おらも息を吐いたがね。  えてものめ、何が息を吐かせべい。  アホイ、アホイ、とおらが耳の傍でまた呼ばる。  黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。  厭だからな、聞くまいとして頭あ掉って、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑いて火を呼ぶだとよ。  波が平だで、なおと不可え。火の奴め、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾丸八畳敷よ。  そこら一面、波が黄色に光っただね。  その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。  あやかし火について、そんな晩は、鮫の奴が化けるだと……あとで爺さまがいわしった。  そういや、目だっぺい。真赤な火が二つ空を向いて、その背中の突先に睨んでいたが、しばらくするとな。いまの化鮫めが、微塵になったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚が、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐の海だか、天竺だか、和蘭陀だか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と奴は一息に勇んでいったが、言を途切らし四辺を視めた。  目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄の葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅なる。        八 「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈んだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴め、ぶらぶらと裾に泡を立てて、いきをついて畝って来て、今度はおらが足の舵に搦んで、ひらひらと燃えただよ。  おらあ、目を塞いだが、鼻の尖だ。艫へ這上りそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪をつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷さ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉さん、金色になって光るなら、金の船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。  時々煙のようになって船の形が消えるだね。浪が真黒に畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。  おら一生懸命に、艪で掻のめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人の裾が巻きついたようにも見えれば、爺の腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇が、腹の中へ、白張提灯鵜呑みにしたようにもあった。  こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈んだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺さまがいわっしゃる。ええ、引からまって点れくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅入った声で松公がそういっけえ。  奴や。  ひゃあ。  そのあやし火の中を覗いて見ろい、いかいこと亡者が居らあ、地獄の状は一見えだ、と千太どんがいうだあね。  小児だ、馬鹿をいうない、と此家の兄哥がいわしっけ。  おら堪んなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐怖くって泣き出したあだよ。」  いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪せていた。 「苫を上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中へ出さしった。  おれに貸せ、奴寝ろい。なるほどうっとうしく憑きやあがるッて、ハッと掌へ呼吸を吹かしったわ。  一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直に空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天窓を上げて視めるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真黒な小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。  おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。  どこだも知んねえ海の中に、船さただ一艘で、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴風雨が来ようというだに、活きて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」  女房は引入れられて、 「まあ、ねえ、」とばかり深い息。  奴は高慢に打傾き、耳に小さな手を翳して、 「轟――とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日天窓から被ったようだね。  うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲み出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。  苫も何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天窓から水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突立ったわ、手を上げると袖の中から、口い開くと咽喉から湧いて、真白な水柱が、から、倒にざあざあと船さ目がけて突蒐る。  アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」        九 「その時さ、船は八丁艪になったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。  やっぱりおなじ処に、舵についた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙が吹いて消える工合よ、すッ飛んじゃするすると浮いて行く。  難有え、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚く。やあ、どこのか船も漕ぎつけた、島がそこに、と理右衛門爺さま。直さそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗の中突貫いて大幅な樹の枝が、※(さんずい+散)のあいだに揺ぶれてな、帆柱さ突立って、波の上を泳いでるだ。  血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石塊一ツある処じゃねえ。暗礁へ誘い寄せる、連を呼ぶ幽霊船だ。気を確に持たっせえ、弱い音を出しやあがるなッて、此家の兄哥が怒鳴るだけんど、見す見す天竺へ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸へ上って呼吸が吐きたい、助け船――なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥真直に突立って、ぶるッと身震をさしっけえよ、突然素裸になっただね。」 「内の人が、」と声を出して、女房は唾を呑んだ。 「兄哥がよ。おい。  あやかし火さ、まだ舵に憑いて放れねえだ、天窓から黄色に光った下腹へな、鮪縄さ、ぐるぐると巻きつけて、その片端を、胴の間の横木へ結えつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆か、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥が、渾名に呼ばれた海雀よ。鳥のようにびらりと刎ねたわ、海の中へ、飛込むでねえ――真白な波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ――駈上るだ。  百尋ばかり束ね上げた鮪縄の、舷より高かったのがよ、一掬いにずッと伸した! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗くのやら、反りかえって、睨むのやら、口さあげて威すのやら、蔽わりかかって取り囲んだ、黒坊主の立はだかっている中へ浪に揉まれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。  やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打つける暗礁があるばかりだ、迷うな、ッていわしった。  お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆握拳で拝んだだがね。  坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。  急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。  ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆くそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽さまが上らっしたが、そこでも、姉さん、天と波と、上下へ放れただ。昨夜、化鮫の背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽の堂が目の果へ出て来ただよ。」  女房はほっとしたような顔色で、 「まあ、可かったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」 「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」 「三十里、」  とまた驚いた状である。 「何だなあ、姉さん、三十里ぐれえ何でもねえや。  それで、はあ夜が明けると、黄色く環どって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴だの、首のねえのだの、蝦蟇が呼吸吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡まっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形なものが、影燈籠見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行くだね。」        十 「あとで、はい、理右衛門爺さまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜ぐれえ執念深えあやかしの憑いた事はねえだって。  姉さん。  何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈け出して失せるだに、手許が明くなって、皆の顔が土気色になって見えてよ、艪が白うなったのに、舵にくいついた、えてものめ、まだ退かねえだ。  お太陽さまお庇だね。その色が段々蒼くなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾の方が水際で膨れたあ、蛭めが、吸い肥ったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張って、刎ねてるだ。  まあ、めでてえ、と皆で顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物が一枚出来たっぺい、あん時の鰹さ、今年中での大漁だ。  舳に立って釣らしった兄哥の身のまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」  と暮れかかる蜘蛛の囲の檐を仰いだ、奴の出額は暗かった。  女房もそれなりに咽喉ほの白う仰向いて、目を閉じて見る、胸の中の覚え書。 「じゃ何だね、五月雨時分、夜中からあれた時だね。  まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命がけで飛込んでさ。  私はただ、波の音が恐しいので、宵から門へ鎖をおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。  どんな烈しい浪が来ても裏の崖は崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打つかるごとに、崖と浪とで戦をする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾にして、冷いとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。  そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊だのの中で、内の人は海から見りゃ木の葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂れつつ、 「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫、ほろりとして、 「済まないねえ。」  奴は何の仔細も知らず、慰め顔に威勢の可い声、 「何も済まねえッて事アありやしねえだ。よう、姉さん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥がそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。  そのかわり今もいっけえよ。兄哥のために姉さんが、お膳立てしたり、お酒買ったりよ。  おら、酒は飲まねえだ、お芋で可いや。  よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡きます、あれは何ぞと問うたれば」  と、いたいけに手をたたき、 「石々合わせて、塩汲んで、玩弄のバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚くわいのだ。……よう姉さん、」  奴は急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、 「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」  女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、 「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」  と調子をかえて、心ありげに呼びかける。        十一 「ああ、」 「あのね、私は何も新しい衣物なんか欲いとは思わないし、坊やも、お菓子も用らないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他の商売にしておくれな、姉さん、お願いだがどうだろうね。」  と思い入ったか言もあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。  奴は遊び過ぎた黄昏の、鴉の鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上つき、 「姉さん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」 「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」  とそわそわするのを圧えていったが、奴はよくも聞かないで、 「姉さんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽から、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊をする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。  姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」  と烏の下で小さく躍る。 「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人の帰る嬉しさに、何事も忘れた状で、女房は衣紋を直した。 「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。  五六里の処、嗅ぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙うだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。  やあ、見さっせえ、また十五六羽遣って来た、沖の船は当ったぜ。  姉さん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」  舌打の高慢さ、 「おらも乗って行きゃ小遣が貰えたに、号外を遣って儲け損なった。お浜ッ児に何にも玩弄物が買えねえな。」  と出額をがッくり、爪尖に蠣殻を突ッかけて、赤蜻蛉の散ったあとへ、ぼたぼたと溢れて映る、烏の影へ足礫。 「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」  黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、 「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他の商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。  奴ははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、 「何だって、漁師を止めて、何だって、よ。」 「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐いじゃないか。  内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家へ入って窘んでいても、向うが強ければ捉まえられるよ。お浜は嬰児だし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」  としみじみいうのを、呆れた顔して、聞き澄ました、奴は上唇を舌で甞め、眦を下げて哄々とふき出し。 「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚が、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行いて、鰭で棹を持つのかよ、よう、姉さん。」 「そりゃ鰹や、鯖が、棹を背負って、そこから浜を歩行いて来て、軒へ踞むとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲んでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、――今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」  と女房は早や薄暗い納戸の方を顧みる。        十二 「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」  とうら寂しげな夕間暮、生干の紅絹も黒ずんで、四辺はものの磯の風。  奴は、旧来た黍がらの痩せた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径を見返り、 「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈でも点けるだよ、兄哥もそれだから稼ぐんだ。」 「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀そうだから、号外屋でも何んでもいい、他の商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可いかい、解ったの、三ちゃん。」  と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉も頷き顔。 「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈けまわるだ、帰ったら一番、爺様と相談すべいか、だって、お銭にゃならねえとよ。」  と奴は悄乎げて指を噛む。 「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然そんな事をいっちゃ不可いよ、まあ、話だわね。」  と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板をそっと撫で、 「慾張ったから乾き切らない。」 「何、姉さんが泣くからだ、」  と唐突にいわれたので、急に胸がせまったらしい。 「ああ、」  と片袖を目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。 「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」  三之助はまた笑い、 「海から魚が釣りに来ただよ。」 「あれ、厭、驚かしちゃ……」  お浜がむずかって、蚊帳が動く。 「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚かすもんだから、」  と片頬に莞爾、ちょいと睨んで、 「あいよ、あいよ、」 「やあ、目を覚したら密と見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻から辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲る。 「お逢いなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」  と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳の前で身動ぎした。 「おっと、」  奴は縁に飛びついたが、 「ああ、跣足だ姉さん。」  と脛をもじもじ。 「可よ、お上りよ。」 「だって、姉さんは綺麗ずきだからな。」 「構わないよ、ねえ、」  といって、抱き上げた児に頬摺しつつ、横に見向いた顔が白い。 「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏が、」  と縁端に遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、 「ほんとに騒々しい烏だ。」  と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽の堂を流れて出た、一団の雲の正中に、颯と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。 「三ちゃん、」 「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧えべい。」 「まあ、遊んでおいでよ。」  と女房は、胸の雪を、児に暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。        十三 「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰い、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父さんがお帰りだね。」  と顔に顔、児にいいながら縁へ出て来た。  おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外――号外――とうら寂しい。 「おや、もういってしまったんだよ。」  女房は顔を上げて、 「小児だねえ」  と独りでいったが、檐の下なる戸外を透かすと、薄黒いのが立っている。 「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴、」  と小児に打たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退った。  檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧として頭の円い、袖の平たい、入道であった。  女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。  時に身じろぎをしたと覚しく、彳んだ僧の姿は、張板の横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護られた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞いで立った。背高き形が、傍へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条海の空に残っていた。良人が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽な横雲。  それに透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠せたか、肥えたか知らぬけれども、窪んだ目の赤味を帯びたのと、尖って黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方へ続いて、且つその背のあたりが連りに息を吐くと見えて、戦いているのである。  心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁るべく海から顕われたとは、余り目のあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。  けれども、厭な、気味の悪い乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥の傍なる暗い隅へ、横ざまに片膝つくと、忙しく、しかし、殆んど無意識に、鳥目を。  早く去ってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方に控えながら、 「はい、」  という、それでも声は優しい女。  薄黒い入道は目を留めて、その挙動を見るともなしに、此方の起居を知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児を片手に、掌を差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭を下に垂れたまま、緩く二ツばかり頭を掉ったが、さも横柄に見えたのである。  また泣き出したを揺りながら、女房は手持無沙汰に清しい目を睜ったが、 「何ですね、何が欲いんですね。」  となお物貰いという念は失せぬ。  ややあって、鼠の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。  指すとともに、ハッという息を吐く。  渠飢えたり矣。 「三ちゃん、お起きよ。」  ああ居てくれれば可かった、と奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。        十四  強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。  女房は連りに心急いて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃を引寄せて、及腰に手桶から水を結び、効々しゅう、嬰児を腕に抱いたまま、手許も上の空で覚束なく、三ツばかり握飯。  潮風で漆の乾びた、板昆布を折ったような、折敷にのせて、カタリと櫃を押遣って、立てていた踵を下へ、直ぐに出て来た。 「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」  今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻口を指したまま、鱗でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮か、冴か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹を潰した渋柿に似てころりと飛んだ。  僧はハアと息が長い。  余の事に熟と視て、我を忘れた女房、 「何をするんですよ。」  一足退きつつ、 「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」  と屹といったが、腹立つ下に心弱く、 「御坊さんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。  それでは御膳にしてあげましょうか。  そうしましょうかね。  それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児に世話が焼けますのに、入相で忙しいもんですから。……あの、茄子のつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」  薄暗がりに頷いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、 「じゃ、そうしましょう〳〵。お前さん、何にもありませんよ。」  勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。  これにギョッとして立淀んだけれども、さるにても婦人一人。  ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間ももどかしく、良人の膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜かったけれども、目を瞑って、やがて嬰児を襟に包んだ胸を膨らかに、膳を据えた。 「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可ません、ようござんすか。」  と茶碗に堆く装ったのである。  その時、間の四隅を籠めて、真中処に、のッしりと大胡坐でいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆った。 「あれえ、」  と驚いて女房は腰を浮かして遁げさまに、裾を乱して、ハタと手を支き、 「何ですねえ。」  僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中にも袖で庇った、女房の胸をじりりとさしつつ、 (児を呉れい。)  と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。  我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。  こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。  その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴が号外、悲しげに浦を駈け廻って、蒼海の浪ぞ荒かりける。 明治三十九年(一九〇六)年一月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2006年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001178", "作品名": "海異記", "作品名読み": "かいいき", "ソート用読み": "かいいき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-07-11T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1178.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成4", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年10月24日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年3月20日第2刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年10月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第九卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年3月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1178_ruby_23158.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-06-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1178_23555.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-06-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一 「自分も実は白状をしようと思ったです。」  と汚れ垢着きたる制服を絡える一名の赤十字社の看護員は静に左右を顧みたり。  渠は清国の富豪柳氏の家なる、奥まりたる一室に夥多の人数に取囲まれつつ、椅子に懸りて卓に向えり。  渠を囲みたるは皆軍夫なり。  その十数名の軍夫の中に一人逞ましき漢あり、屹とかの看護員に向いおれり。これ百人長なり。海野と謂う。海野は年配三十八九、骨太なる手足飽くまで肥えて、身の丈もまた群を抜けり。  今看護員の謂出だせる、その言を聴くと斉しく、 「何! 白状をしようと思ったか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けようとしたんか。君。」  謂う言ややあらかりき。  看護員は何気なく、 「そうです。撲つな、蹴るな、貴下酷いことをするじゃあありませんか。三日も飯を喰わさないで眼も眩んでいるものを、赤条々にして木の枝へ釣し上げてな、銃の台尻でもって撲るです。ま、どうでしょう。余り拷問が厳しいので、自分もつい苦しくって堪りませんから、すっかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思いました。けれども、軍隊のことに就いては、何にも知っちゃあいないので、赤十字の方ならば悉しいから、病院のことなんぞ、悉しく謂って聞かしてやったです。が、そんなことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろって、ますます酷く苛むです。実に苦しくって堪らなかったですけれども、知らないのが真実だから謂えません。で、とうとう聞かさないでしまいましたが、いや、実に弱ったです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにゃあ。何しろ、まるでもって赤十字なるものの組織を解さないで、自分等を何がなし、戦闘員と同一に心得てるです。仕方がありませんな。」  とあだかも親友に対して身の上談話をなすがごとく、渠は平気に物語れり。  しかるに海野はこれを聞きて、不心服なる色ありき。 「じゃあ何だな、知ってれば味方の内情を、残らず饒舌ッちまう処だったな。」  看護員は軽く答えたり。 「いかにも。拷問が酷かったです。」  百人長は憤然として、 「何だ、それでも生命があるでないか、たとい肉が爛れようが、さ、皮が裂けようがだ、呼吸があったくらいの拷問なら大抵知れたもんでないか。それに、いやしくも神州男児で、殊に戦地にある御互だ。どんなことがあろうとも、謂うまじきことを、何、撲られた位で痛いというて、味方の内情を白状しようとする腰抜がどこに在るか。勿論、白状はしなかったさ。白状はしなかったに違無いが、自分で、知ってれば謂おうというのが、既に我が同胞の心でない、敵に内通も同一だ。」  と謂いつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨せり。  看護員は落着済まして、 「いや、自分は何も敵に捕えられた時、軍隊の事情を謂っては不可ぬ、拷問を堅忍して、秘密を守れという、訓令を請けた事も無く、それを誓った覚も無いです。また全くそうでしょう、袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一取扱をしようとは、自分はじめ、恐らく貴下方にしても思懸はしないでしょう。」 「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気なことを謂やがんでい。」  軍夫の一人つかつかと立かかりぬ。百人長は応揚に左手を広げて遮りつつ、 「待て、ええ、屁でもない喧嘩と違うぞ。裁判だ。罪が極ってから罰することだ。騒ぐない。噪々しい。」  軍夫は黙して退きぬ。ぶつぶつ口小言謂いつつありし、他の多くの軍夫等も、鳴を留めて静まりぬ。されどことごとく不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いずれも拳に力を籠めつつ、知らず知らず肱を張りて、強いて沈静を装いたる、一室にこの人数を容れて、燈火の光冷かに、殺気を籠めて風寒く、満洲の天地初夜過ぎたり。 二  時に海野は面を正し、警むるがごとき口気もて、 「おい、それでは済むまい。よしんば、吾々同胞が、君に白状をしろと謂ったからッて、日本人だ。むざむざ饒舌るという法はあるまいじゃないか、骨が砂利になろうとままよ。それをそうやすやすと、知ってれば白状したものをなんのッて、面と向って吾々に謂われた道理か。え? どうだ。謂われた義理ではなかろうでないか。」  看護員は身を斜めにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆を弄びて、 「いや、しかし大きにそうかも知れません。」  と片頬を見せて横を向きぬ。  海野は睜りたる眼をもて、避けし看護員の面を追いたり。 「何だ、そうかも知れません? これ、無責任の言語を吐いちゃあ不可ぞ。」  またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや俯向きつ。手なる鉛筆の尖を甞めて、筒服の膝に落書しながら、 「無責任? そうですか。」  渠は少しも逆らわず、はた意に介せる状も無し。  百人長は大に急きて、 「ただ(そうですか)では済まん。様子に寄ってはこれ、きっと吾々に心得がある。しっかり性根を据えて返答せないか。」 「どんな心得があるのです。」  看護員は顔を上げて、屹と海野に眼を合せぬ。 「一体、自分が通行をしておる処を、何か待伏でもなすったようでしたな。貴下方大勢で、自分を担ぐようにして、此家へ引込んだはどういうわけです。」  海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩を揺りて気兢いかかれり。 「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、まず聞くことを聞いてからのこととしよう。」 「は、それでは何か誰ぞの吩附ででもあるのですか。」  海野は傲然として、 「誰が人に頼まれるもんか。吾の了簡で吾が聞くんだ。」  看護員はそとその耳を傾けたり。 「じゃあ貴下方に、他を尋問する権利があるので?」  百人長は面を赤うし、 「囀るない!」  と一声高く、頭がちに一呵しつ。驚破と謂わば飛蒐らんず、気勢激しき軍夫等を一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に睨返して、 「権利は無いが、腕力じゃ!」 「え、腕力?」  看護員はひしひしとその身を擁せる浅黄の半被股引の、雨風に色褪せたる、たとえば囚徒の幽霊のごとき、数個の物体を眴わして、秀でたる眉を顰めつ。 「解りました。で、そのお聞きになろうというのは?」 「知れてる! 先刻から謂う通りだ。なぜ、君には国家という観念が無いのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしようと思う。その精神が解らない。(いや、そうかも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじゃ了見せんぞ、しっかりと返答しろ。」  咄々迫る百人長は太き仕込杖を手にしたり。 「それでどう謂えば無責任にならないです?」 「自分でその罪を償うのだ。」 「それではどうして償いましょう。」 「敵状を謂え! 敵状を。」  と海野は少しく色解てどかと身重げに椅子に凭れり。 「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰って来て、係りの将校が、君の捕虜になっていた間の経歴に就いて、尋問があった時、特に敵情を語れという、命令があったそうだが、どういうものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通して、つまりそれなりで済んだというが。え、君、二月も敵陣に居て、敵兵の看護をしたというでないか。それで、懇篤で、親切で、大層奴等のために尽力をしたそうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送ったそうだ。その位信任をされておれば、いろいろ内幕も聞いたろう、また、ただ見たばかりでも大概は知れそうなもんだ。知ってて謂わないのはどういう訳だ。あんまり愛国心がないではないか。」 「いえ、全く、聞いたのは呻吟声ばかりで、見たのは繃帯ばかりです。」 三 「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減なことを謂え。」  海野は苛立つ胸を押えて、務めて平和を保つに似たり。  看護員は実際その衷情を語るなるべし、いささかも飾気無く、 「全く、知らないです。謂って利益になることなら、何秘すものですか。またちっとも秘さねばならない必要も見出さないです。」  百人長は訝かしげに、 「してみると、何か、まるで無神経で、敵の事情を探ろうとはしなかったな。」 「別に聞いてみようとも思わないでした。」  と看護員は手をその額に加えたり。  海野は仕込杖もて床をつつき、足蹈して口惜げに、 「無神経極まるじゃあないか。敵情を探るためには斥候や、探偵が苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しようとして、十に八九は失敗るのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあって、まるでうっちゃッて、や、聞こうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」  と吐息して慨然たり。看護員は頸を撫でて打傾き、 「なるほど、そうでした。閑だとそんな処まで気が着いたんでしょうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかったです。ちっとも準備が整わないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休む間もない位で、夜の目も合わさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうしてそこどころまで、手が廻るものですか。」  といまだ謂いも果ざるに、 「何だ、何だ、何だ。」  海野は獅子吼をなして、突立ちぬ。 「そりゃ、何の話だ、誰に対するどいつの言だ。」  と噛着かんずる語勢なりき。  看護員は現在おのが身のいかに危険なる断崖の端に臨みつつあるかを、心着かざるもののごとく、無心――否むしろ無邪気――の体にて、 「すべてこれが事実であるのです。」 「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝んで、問わず、聞かず、敵のためには粉骨砕身をして、夜の目も合わさない、呼吸もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入った。その位でなければ敵から感状を頂戴する訳にはゆかんな。道理だ。」  と謂懸けて、夢見るごとき対手の顔を、海野はじっと瞻りつつ、嘲み笑いて、声太く、 「うむ、得難い豪傑だ。日本の名誉であろう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を措いて外にはあるまい。君も名誉と思うであろうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。吾々もあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあろうが、どうぞ一番、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」  と口は和らかにものいえども、胸に満たる不快の念は、包むにあまりて音に出でぬ。  看護員は異議もなく、 「確かありましたッけ、お待ちなさい。」  手にせる鉛筆を納るとともに、衣兜の裡をさぐりつつ、 「あ、ありました。」  と一通の書を取出して、 「なかなか字体がうまいです。」  無雑作に差出して、海野の手に渡しながら、 「裂いちゃあ不可ません。」 「いや、謹んで、拝見する。」  海野はことさらに感謝状を押戴き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳しつ。声を殺し、鳴を静め、片唾を飲みて群りたる、多数の軍夫に掲げ示して、 「こいつを見い。貴様達は何と思う、礼手紙だ。可か、支那人から礼をいって寄越した文だぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓を下げて、お辞義をする者は無い。殊に敵だ、吾々の敵たる支那人だ。支那人が礼をいって捕虜を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思え!」  いうことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背なる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長き人物あり。頭巾黒く、外套黒く、面を蔽い、身体を包みて、長靴を穿ちたるが、わずかに頭を動かして、屹とその感謝状に眼を注ぎつ。濃かなる一脉の煙は渠の唇辺を籠めて渦巻きつつ葉巻の薫高かりけり。 四  百人長は向直りてその言を続けたり。 「何と思う。意気地もなく捕虜になって、生命が惜さに降参して、味方のことはうっちゃってな、支那人の介抱をした。そのまた尽力というものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するように、恐ろしく親切を尽してやってな、それで生命を助かって、おめおめと帰って来て、あまつさえこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様達なら何とする?」  といまだ謂いもはてざるに、満堂たちまち黙を破りて、哄と諸声をぞ立てたりける、喧轟名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、撲れと、衆口一斉熱罵恫喝を極めたる、思い思いの叫声は、雑音意味も無き響となりて、騒然としてかまびすしく、あわや身の上ぞと見る眼危き、ただ単身なる看護員は、冷々然として椅子に恁りつ。あたりを見たる眼配は、深夜時計の輾る時、病室に患者を護りて、油断せざるに異ならざりき。看護員に迫害を加うべき軍夫等の意気は絶頂に達しながら、百人長の手を掉りて頻りに一同を鎮むるにぞ、その命なきに前だちて決して毒手を下さざるべく、かねて警むる処やありけん、地踏韜蹈みてたけり立つをも、夥間同志が抑制して、拳を押え、腕を扼して、野分は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子の上に押遣りて、 「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴等があんなに騒ぐ。殺せの、撲れのという気組だ。うむ、やっぱり取っておくか。引裂いて踏んだらどうだ。そうすりゃちっとあ念ばらしにもなって、いくらか彼奴らが合点しよう。そうでないと、あれでも御国のためには、生命も惜まない徒だから、どんなことをしようも知れない。よく思案して請取るんだ、可か。」  耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が言の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜に納まりぬ。 「取ったな。」と叫びたる、海野の声の普通ならざるに、看護員は怪むごとく、 「不可ないですか。」 「良心に問え!」 「やましいことはちっともないです。」  いと潔く謂放ちぬ。その面貌の無邪気なる、その謂うことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷うがごとき、さる心弱きものにはあらず、何等か固き信仰ありて、たといその信仰の迷えるにもせよ、断々乎一種他の力のいかんともし難きものありて存せるならむ。  海野はその答を聞くごとに、呆れもし、怒りもし、苛立ちもしたりけるが、真個天真なる状見えて言を飾るとは思われざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑いつつ、一応試に愛国の何たるかを教えみんとや、少しく色を和げる、重きものいいの渋がちにも、 「やましいことがないでもあるまい。考えてみるが可。第一敵のために虜にされるというがあるか。抵抗してかなわなかったら、なぜ切腹をしなかった。いやしくも神州男児だ、膓を掴み出して、敵のしゃッ面へたたきつけてやるべき処だ。それも可、時と場合で捕われないにも限らんが、撲られて痛いからって、平気で味方の内情を白状しようとは、呆れ果た腰抜だ。それにまだ親切に支那人の看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を蒙って、吾々同胞の面汚をしていながら、洒亜つくで帰って来て、感状を頂きは何という心得だ。せめて土産に敵情でも探って来れば、まだ言訳もあるんだが、刻苦して探っても敵の用心が厳しくって、残念ながら分らなかったというならまだも恕すべきであるに、先に将校に検べられた時も、前刻吾が聞いた時も、いいようもあろうものを、敵情なんざ聞こうとも、見ようとも思わなかったは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、そんなことあ考えてる隙もなかったなんぞと、憶面もなく謂うごときに至っては言語同断と謂わざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑ってみた日にゃあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言われた処で仕方がないぞ。」 五 「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がそうやすやす捕虜を返す法はない。しかしそれには証拠がない、強て敵に内通をしたとは謂わん、が、既に国民の国民たる精神の無い奴を、そのままにして見遁がしては、我軍の元気の消長に関するから、きっと改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加えなければならん。勿論軍律を犯したというでもないから、将校方は何の沙汰をもせられなかったのであろう。けれどもが、吾々父母妻子をうっちゃって、御国のために尽そうという愛国の志士が承知せん。この室に居るものは、皆な君の所置振に慊焉たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、そんな国賊は、きっと談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。可か。その悪むべき感謝状を、こういった上でも、裂いて棄てんか。やっぱり疚ましいことはないが、ちょっとも良心が咎めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちゃあ不可ぞ。」  看護員は傾聴して、深くその言を味いつつ、黙然として身動きだもせず、やや猶予いて言わざりき。  こなたはしたり顔に附入りぬ。 「きっと責任のある返答を、此室に居る皆に聞かしてもらおう。」  謂いつつ左右を眴したり。  軍夫の一人は叫び出せり。「先生。」  渠等は親方といわざりき。海野は老壮士なればなり。 「先生、はやくしておくんなせえ。いざこざは面倒でさ。」 「撲っちまえ!」と呼ばわるものあり。 「隊長、おい、魂を据えて返答しろよ。へん、どうするか見やあがれ。」 「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」  と口々にまたひしめきつ。四五名の足のばたばたばたと床板を踏鳴らす音ぞ聞こえたる。  看護員は、海野がいわゆる腕力の今ははやその身に加えらるべきを解したらむ。されども渠はいささかも心に疚ましきことなかりけむ、胸苦しき気振もなく、静に海野に打向いて、 「ちっとも良心に恥じないです。」  軽く答えて自若たりき。 「何、恥じない。」  と謂返して海野は眼を睜りたり。 「もう一度、きっとやましい処はないか。」  看護員は微笑みながら、 「繰返すに及びません。」  その信仰や極めて確乎たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳を握りつ。容易くはものも得いわでただ、ただ、渠を睨まえ詰めぬ。  時に看護員は従容、 「戦闘員とは違います、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願いたいです。」  謂い懸けて片頬笑みつ。 「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵というのがある筈です。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁げらるれば遁げるんですが、行り損なえばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのという、さような名称も区別も無いです。ただ病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。ちょうど自分が捕虜になって、敵陣に居ました間に、幸い依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折になる。いや名折は構わないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさっきもいいます通り、我軍と違って実に可哀想だと思います。気の毒なくらい万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、ようよう赤十字の看護員という躰面だけは保つことが出来ました。感謝状はまずそのしるしといっていいようなもので、これを国への土産にすると、全国の社員は皆満足に思うです。既に自分の職務さえ、辛うじて務めたほどのものが、何の余裕があって、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今貴下にお談し申すことも、お検べになって将校方にいったことも、全くこれにちがいはないのでこのほかにいうことは知らないです。毀誉褒貶は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまわないです。ただ看護員でさえあれば可。しかし看護員たる躰面を失ったとでもいうことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷うです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、さようなことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」  と淀みなく陳べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫なかりき。 六  見る見る百人長は色激して、砕けよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思うこと乱麻胸を衝きて、反駁の緒を発見し得ず、小鼻と、髯のみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、 「畜生、好なことを謂ってやがらあ。」  声高に叫びざま、足疾に進出て、看護員の傍に接し、その面を覗きつつ、 「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へん、しらばくれはよしてくれ。その悪済ましが気に喰わねえんだい。赤十字社とか看護員とかッて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがって、何でえ、躰よく言抜けようとしたって駄目だぜ。おいらアみんな知てるぞ、間抜めい。へん蓄生、支那の捕虜になるようじゃあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人の阿魔なんぞに惚れられやあがって、この合の子め、手前、何だとか、彼だとかいうけれどな、南京に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負をしたりして、内幕を知っててもいわねえんじゃあねえか。こう、おいらの口は浄玻璃だぜ。おいらあしょっちゅう知ってるんだ。おい皆聞かっし、初手はな、支那人の金満が流丸を啖って路傍に僵れていたのを、中隊長様が可愛想だってえんで、お手当をなすってよ、此奴にその家まで送らしておやんなすったのがはじまりだ。するとお前その支那人を介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込んだろう。面くらいやアがってつかまる処をな、金満の奴さん恩儀を思って、無性に難有がってる処だから、きわどい処を押隠して、ようよう人目を忍ばしたが、大勢押込んでいるもんだから、秘しきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、女の部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日ばかり対向いで居るあいだに、何でもその女が惚れたんだ。無茶におッこちたと思いねえ。五日目に支那の兵が退いてく時つかめえられてしょびかれた。何でもその日のこった。おいら五六人で宿営地へ急ぐ途中、酷く吹雪く日で眼も口もあかねえ雪ン中に打倒れの、半分埋まって、ひきつけていた婦人があったい。謂ってみりゃ支那人の片割ではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構うめえと思って焚火であっためてやると活返った李花てえ女で、此奴がエテよ。別離苦に一目てえんでたった一人駈出してさ、吹雪僵になったんだとよ。そりゃ後で分ったが、そン時あ、おいらッちが負って家まで届けてやった。その因縁でおいらちょいちょい父親の何とかてえ支那の家へ出入をするから、悉しいことを知ってるんだ。女はな、ものずきじゃあねえか、この野郎が恋しいとって、それっきり床着いてよ、どうだい、この頃じゃもう湯も、水も通らねえッさ。父親なんざ気を揉んで銃創もまだすっかりよくならねえのに、此奴の音信を聞こうとって、旅団本部へ日参だ。だからもう皆がうすうす知ってるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入って、御存じだから、おい奴さん。お前お検の時もそのお談話をなすったろう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けてつかわせとおっしゃらあ、恐しい冥伽だぜ。お前そんなことも思わねえで、べんべんと支那兵の介抱をして、お礼をもらって、恥かしくもなく、のんこのしゃあで、唯今帰って来はどういう了見だ。はじめに可哀想だと思ったほど、憎くてならねえ。支那の探偵になるような奴あ大和魂を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじゃあねえぞ、日本人のなかまでなけりゃ支那人も同一だ。どてッ腹あ蹴破って、このわたを引ずり出して、噛潰して吐出すんだい!」 「そこだ!」と海野は一喝して、はたと卓子を一打せり。かかりし間他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者の声を打消すばかり、熱罵を極めて威嚇しつ。  楚歌一身に聚りて集合せる腕力の次第に迫るにも関わらず眉宇一点の懸念なく、いと晴々しき面色にて、渠は春昼寂たる時、無聊に堪えざるもののごとく、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、交る交る投懸けては、その都度靴音を立つるのみ。胸中おのずから閑あるごとし。  蓋し赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠のごときにあらざるよりは、到底これ保ち得難き度量ならずや。 「そこだ。」と今卓子を打てる百人長は大に決する処ありけむ、屹と看護員に立向いて、 「無神経でも、おい、先刻からこの軍夫の謂うたことは多少耳へ入ったろうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかんを解さない非義、劣等、怯奴である、国賊である、破廉恥、無気力の人外である。皆が貴様をもって日本人たる資格の無いものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥じないか。」 「恥じないです。」と看護員は声に応じて答えたり。百人長は頷きぬ。 「可、改めて謂え、名を聞こう。」 「名ですか、神崎愛三郎。」 七 「うむ、それでは神崎、現在居る、ここは一体どこだと思うか。」  海野は太くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問われて室内を眴しながら、 「さよう、どこか見覚えているような気持もするです。」 「うむ分るまい。それが分っていさえすりゃ、口広いことは謂えないわけだ。」  顔に苔むしたる髯を撫でつつ、立ちはだかりたる身の丈豊かに神崎を瞰下ろしたり。 「ここはな、柳が家だ。貴様に惚れている李花の家だぞ。」  今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合わして二人はニタリと微笑めり。  神崎は夢の裡なる面色にてうっとりとその眼を睜りぬ。 「ぼんやりするない。柳が住居だ。女の家だぞ。聞くことがありゃどこでも聞かれるが、わざとここん処へ引張って来たのには、何か吾々に思う処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだろう。家族は皆追出してしまって、李花は吾々の手の内のものだ。それだけ予め断っておく、可か。  さ、こう断った上でも、やっぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさえすれば可、むしろ他のことはしない方が当前だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦にあたるものは戦闘員に限る、いうてみれば、敵愾心を起すのは常業のない閑人で、進で国家に尽すのは好事家がすることだ。人は自分のすべきことをさえすれば可、吾々が貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎じ詰めた処そういうのだな。」  神崎は猶予らわで、 「さよう、自分は看護員です。」  この冷かなる答を得て百人長は決意の色あり。 「しっかり聞こう、職務外のことは、何にもせんか!」 「出来ないです。余裕があれば綿繖糸を造るです。」  応答はこれにて決せり。  百人長はいうこと尽きぬ。  海野は悲痛の声を挙げて、 「駄目だ。殺しても何にもならない。可、いま一ツの手段を取ろう。権! 吉! 熊! 一件だ。」  声に応じて三名の壮佼は群を脱して、戸口に向えり。時に出口の板戸を背にして、木像のごとく突立ちたるまま両手を衣兜にぬくめつつ、身動きもせで煙草をのみたるかの真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠等を室外に出しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人後より背を推して、端麗多く世に類なき一個清国の婦人の年少なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍に推据えたる、李花は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養われて、浮世の風は知らざる身の、しかくこの室に出でたるも恐らくその日が最初ならむ、長き病に俤窶れて、寝衣の姿なよなよしく、簪の花も萎みたる流罪の天女憐むべし。 「国賊!」  と呼懸けつ。百人長は猿臂を伸ばして美しき犠牲の、白き頸を掻掴み、その面をば仰けざまに神崎の顔に押向けぬ。  李花は猛獣に手を取られ、毒蛇に膚を絡われて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂半ば天に朝して、夢現の境にさまよいながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、にわかに総の身を震わして、 「あ。」と一声血を絞れる、不意の叫声に驚きて、思わず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居にはたと僵れたり。  看護員は我にもあらで衝とその椅子より座を立ちぬ。  百人長は毛脛をかかげて、李花の腹部をむずと蹈まえ、じろりと此方を流眄に懸けたり。 「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」  同時に軍夫の一団はばらばらと立かかりて、李花の手足を圧伏せぬ。 「国賊! これでどうだ。」  海野はみずから手を下ろして、李花が寝衣の袴の裾をびりりとばかり裂けり。 八  時にかの黒衣長身の人物は、ハタと煙管を取落しつ、其方を見向ける頭巾の裡に一双の眼爛々たりき。  あわれ、看護員はいかにせしぞ。  面の色は変えたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露わさで、渠はなおよく静を保ち、おもむろにその筒服を払い、頭髪のややのびて、白き額に垂れたるを、左手にやおら掻上げつつ、卓の上に差置きたる帽を片手に取ると斉しく、粛然と身を起して、 「諸君。」  とばかり言いすてつ。  海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙より、真白く細き手の指の、のびつ、屈みつ、洩れたるを、わずかに一目見たるのみ。靴音軽く歩を移して、そのまま李花に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆疾く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花のなきがらぞ蒼かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩坐中に動ぎ出て、燈火を仰ぎ李花に俯して、厳然として椅子に凭り、卓子に片肱附きて、眼光一閃鉛筆の尖を透し見つ。電信用紙にサラサラと、  月 日  海城発 予は目撃せり。 日本軍の中には赤十字の義務を完して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。然れどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉えて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。 じょん、べるとん 英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社編輯行 明治二十九(一八九六)年一月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店    1976(昭和51)年3月26日第1刷発行 初出:「太陽 第二卷第一號」    1896(明治29)年1月5日発行 ※()内の編集者による注記は省略しました。 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年7月31日作成 2016年9月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057475", "作品名": "海城発電", "作品名読み": "かいじょうはつでん", "ソート用読み": "かいしようはつてん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「太陽 第二卷第一號」1896(明治29)年1月5日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-09-01T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57475.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成2", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年4月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 別巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1976(昭和51)年3月26日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57475_ruby_59576.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57475_59618.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一 「自分も実は白状をしやうと思つたです。」  と汚れ垢着きたる制服を絡へる一名の赤十字社の看護員は静に左右を顧みたり。  渠は清国の富豪柳氏の家なる、奥まりたる一室に夥多の人数に取囲まれつつ、椅子に懸りて卓に向へり。  渠を囲みたるは皆軍夫なり。  その十数名の軍夫の中に一人逞ましき漢あり、屹と彼の看護員に向ひをれり。これ百人長なり。海野といふ。海野は年配三十八、九、骨太なる手足あくまで肥へて、身の丈もまた群を抜けり。  今看護員のいひ出だせる、その言を聴くと斉しく、 「何! 白状をしやうと思つたか。いや、実際味方の内情を、あの、敵に打明けやうとしたんか。君。」  いふ言ややあらかりき。  看護員は何気なく、 「左様です。撲つな、蹴るな、貴下酷いことをするぢやあありませんか。三日も飯を喰はさないで眼も眩むでゐるものを、赤條々にして木の枝へ釣し上げてな、銃の台尻で以て撲るです。ま、どうでしやう。余り拷問が厳しいので、自分もつひ苦しくつて堪りませんから、すつかり白状をして、早くその苦痛を助りたいと思ひました。けれども、軍隊のことについては、何にも知つちやあゐないので、赤十字の方ならば悉しいから、病院のことなんぞ、悉しくいつて聞かして遣つたです。が、其様なことは役に立たない。軍隊の様子を白状しろつて、益々酷く苛むです。実は苦しくつて堪らなかつたですけれども、知らないのが真実だからいへません。で、とうとう聞かさないでしまひましたが、いや、実に弱つたです。困りましたな、どうも支那人の野蛮なのにやあ。何しろ、まるでもつて赤十字なるものの組織を解さないで、自分らを何がなし、戦闘員と同一に心得てるです。仕方がありませんな。」  とあだかも親友に対して身の上談話をなすが如く、渠は平気に物語れり。  しかるに海野はこれを聞きて、不心服なる色ありき。 「ぢやあ何だな、知つてれば味方の内情を、残らず饒舌ツちまう処だつたな。」  看護員は軽く答へたり。 「いかにも。拷問が酷かつたです。」  百人長は憤然として、 「何だ、それでも生命があるでないか、譬ひ肉が爛れやうが、さ、皮が裂けやうがだ、呼吸があつたくらゐの拷問なら大抵知れたもんでないか。それに、苟も神州男児で、殊に戦地にある御互だ。どんなことがあらうとも、いふまじきことを、何、撲られた位で痛いといふて、味方の内情を白状しやうとする腰抜が何処にあるか。勿論、白状はしなかつたさ。白状はしなかつたに違ないが、自分で、知つてればいはうといふのが、既に我が同胞の心でない、敵に内通も同一だ。」  といひつつ海野は一歩を進めて、更に看護員を一睨せり。  看護員は落着済まして、 「いや、自分は何も敵に捕へられた時、軍隊の事情をいつては不可ぬ、拷問を堅忍して、秘密を守れといふ、訓令を請けた事もなく、それを誓つた覚もないです。また全く左様でしやう、袖に赤十字の着いたものを、戦闘員と同一取扱をしやうとは、自分はじめ、恐らく貴下方にしても思懸はしないでせう。」 「戦地だい、べらぼうめ。何を! 呑気なことをいやがんでい。」  軍夫の一人つかつかと立懸りぬ。百人長は応揚に左手を広げて遮りつつ、 「待て、ええ、屁でもない喧嘩と違うぞ。裁判だ。罪が極つてから罰することだ。騒ぐない。噪々しい。」  軍夫は黙して退きぬ。ぶつぶつ口小言いひつつありし、他の多くの軍夫らも、鳴を留めて静まりぬ。されど尽く不穏の色あり。眼光鋭く、意気激しく、いづれも拳に力を籠めつつ、知らず知らず肱を張りて、強ひて沈静を装ひたる、一室にこの人数を容れて、燈火の光冷かに、殺気を籠めて風寒く、満州の天地初夜過ぎたり。        二  時に海野は面を正し、警むるが如き口気以て、 「おい、それでは済むまい。よしむば、われわれ同胞が、君に白状をしろといつたからツて、日本人だ。むざむざ饒舌るといふ法はあるまいぢやないか、骨が砂利にならうとままよ。それをさうやすやすと、知つてれば白状したものをなんのツて、面と向つてわれわれにいはれた道理か。え? どうだ。いはれた義理ではなからうでないか。」  看護員は身を斜めにして、椅子に片手を投懸けつつ、手にせる鉛筆を弄びて、 「いや。しかし大きに左様かも知れません。」  と片頬を見せて横を向きぬ。  海野は睜りたる眼を以て、避けし看護員の面を追ひたり。 「何だ、左様かも知れません? これ、無責任の言語を吐いちやあ不可ぞ。」  またじりりと詰寄りぬ。看護員はやや俯向きつ。手なる鉛筆の尖を嘗めて、筒服の膝に落書しながら、 「無責任? 左様ですか。」  渠は少しも逆らはず、はた意に介せる状もなし。  百人長は大に急きて、 「唯(左様ですか)では済まん。様子に寄つてはこれ、きつとわれわれに心得がある。しつかり性根を据へて返答せないか。」 「何様な心得があるのです。」  看護員は顔を上げて、屹と海野に眼を合せぬ。 「一体、自分が通行をしてをる処を、何か待伏でもなすつたやうでしたな。貴下方大勢で、自分を担ぐやうにして、此家へ引込むだはどういふわけです。」  海野は今この反問に張合を得たりけむ、肩を揺りて気兢ひ懸れり。 「うむ、聞きたいことがあるからだ。心得はある。心得はあるが、先づ聞くことを聞いてからのこととしやう。」 「は、それでは何か誰ぞの吩附ででもあるのですか。」  海野は傲然として、 「誰が人に頼まれるもんか。吾の了簡で吾が聞くんだ。」  看護員はそとその耳を傾けたり。 「ぢやあ貴下方に、他を尋問する権利があるので?」  百人長は面を赤うし、 「囀るない!」  と一声高く、頭がちに一呵しつ。驚破といはば飛蒐らむず、気勢激しき軍夫らを一わたりずらりと見渡し、その眼を看護員に睨返して、 「権利はないが、腕力じゃ!」 「え、腕力?」  看護員は犇々とその身を擁せる浅黄の半被股引の、雨風に色褪せたる、譬へば囚徒の幽霊の如き、数個の物体を眴はして、秀でたる眉を顰めつ。 「解りました。で、そのお聞きにならうといふのは?」 「知れてる! 先刻からいふ通りだ。何故、君には国家といふ観念がないのか。痛いめを見るがつらいから、敵に白状をしやうと思ふ。その精神が解らない。(いや、左様かも知れません)なんざ、無責任極まるでないか。そんなぬらくらじや了見せんぞ、しつかりと返答しろ。」  咄々迫る百人長は太き仕込杖を手にしたり。 「それでどういへば無責任にならないです?」 「自分でその罪を償ふのだ。」 「それではどうして償ひましやう。」 「敵状をいへ! 敵状を。」  と海野は少し色解てどかと身重げに椅子に凭れり。 「聞けば、君が、不思議に敵陣から帰つて来て、係りの将校が、君の捕虜になつてゐた間の経歴について、尋問があつた時、特に敵情を語れといふ、命令があつたそうだが、どういふものか君は、知らない、存じませんの一点張で押通して、つまりそれなりで済むだといふが。え、君、二月も敵陣にゐて、敵兵の看護をしたといふでないか。それで、懇篤で、親切で、大層奴らのために尽力をしたさうで、敵将が君を帰す時、感謝状を送つたさうだ。その位信任をされてをれば、種々内幕も聞いたらう、また、ただ見たばかりでも大概は知れさうなもんだ。知つてていはないのはどういふ訳だ。余り愛国心がないではないか。」 「いえ、全く、聞いたのは呻吟声ばかりで、見たのは繃帯ばかりです。」        三 「何、繃帯と呻吟声、その他は見も聞きもしないんだ? 可加減なことをいへ。」  海野は苛立つ胸を押へて、務めて平和を保つに似たり。  看護員は実際その衷情を語るなるべし、聊も飾気なく、 「全く、知らないです。いつて利益になることなら、何秘すものですか。また些少も秘さねばならない必要も見出さないです。」  百人長は訝かし気に、 「して見ると、何か、全然無神経で、敵の事情を探らうとはしなかつたな。」 「別に聞いて見やうとも思はないでした。」  と看護員は手をその額に加へたり。  海野は仕込杖以て床をつつき、足蹈して口惜げに、 「無神経極まるじやあないか。敵情を探るためには斥候や、探偵が苦心に苦心を重ねてからに、命がけで目的を達しやうとして、十に八、九は失敗るのだ。それに最も安全な、最も便利な地位にあつて、まるでうつちやツて、や、聞かうとも思はない。無、無神経極まるなあ。」  と吐息して慨然たり。看護員は頸を撫でて打傾き、 「なるほど、左様でした。閑だとそんな処まで気が着いたんでしやうけれども、何しろ病傷兵の方にばかり気を取られたので、ぬかつたです。些少も準備が整はないで、手当が行届かないもんですから随分繁忙を極めたです。五分と休む間もない位で、夜の目も合はさないで尽力したです。けれども、器具も、薬品も不完全なので、満足に看護も出来ず、見殺にしたのが多いのですもの、敵情を探るなんて、なかなかどうして其処々まで、手が廻るものですか。」  といまだいひも果ざるに、 「何だ、何だ、何だ。」  海野は獅子吼をなして、突立ちぬ。 「そりや、何の話だ、誰に対する何奴の言だ。」  と噛着かむずる語勢なりき。  看護員は現在おのが身の如何に危険なる断崖の端に臨みつつあるかを、心着かざるものの如く、無心――否むしろ無邪気――の体にて、 「すべてこれが事実であるのです。」 「何だ、事実! むむ、味方のためには眼も耳も吝むで、問はず、聞かず、敵のためには粉骨碎身をして、夜の目も合はさない、呼吸もつかないで働いた、それが事実であるか! いや、感心だ、恐れ入つた。その位でなければ敵から感状を頂戴する訳にはゆかんな。道理だ。」  といい懸けて、夢見る如き対手の顔を、海野はじつと瞻りつつ、嘲み笑ひて、声太く、 「うむ、得がたい豪傑だ。日本の名誉であらう。敵から感謝状を送られたのは、恐らく君を措いて外にはあるまい。君も名誉と思ふであらうな。えらい! 実にえらい! 国の光だ。日本の花だ。われわれもあやかりたい。君、その大事の、いや、御秘蔵のものではあらうが、どうぞ一番、その感謝状を拝ましてもらいたいな。」  と口は和らかにものいへども、胸に満たる不快の念は、包むにあまりて音に出でぬ。  看護員は異議もなく、 「確かありましたツけ、お待ちなさい。」  手にせる鉛筆を納るとともに、衣兜の裡をさぐりつつ、 「あ、ありました。」  と一通の書を取出して、 「なかなか字体がうまいです。」  無雑作に差出して、海野の手に渡しながら、 「裂いちやあ不可ません。」 「いや、謹むで、拝見する。」  海野はことさらに感謝状を押戴き、書面を見る事久しかりしが、やがてさらさらと繰広げて、両手に高く差翳しつ。声を殺し、鳴を静め、片唾を飲みて群りたる、多数の軍夫に掲げ示して、 「こいつを見い。貴様たちは何と思ふ、礼手紙だ。可か、支那人から礼をいつて寄越した文だぞ。人間は正直だ。わけもなく天窓を下げて、お辞儀をする者はない。殊に敵だ、われわれの敵たる支那人だ。支那人が礼をいつて捕虜を帰して寄越したのは、よくよくのことだと思へ!」  いふことば半ばにして海野はまた感謝状を取直し、ぐるりと押廻して後背なる一団の軍夫に示せし時、戸口に丈長き人物あり。頭巾黒く、外套黒く、面を蔽ひ、身躰を包みて、長靴を穿ちたるが、纔に頭を動かして、屹とその感謝状に眼を注ぎつ。濃かなる一脈の煙は渠の唇辺を籠めて渦巻きつつ葉巻の薫高かりけり。        四  百人長は向直りてその言を続けたり。 「何と思ふ。意気地もなく捕虜になつて、生命が惜さに降参して、味方のことはうつちやつてな、支那人の介抱をした。そのまた尽力といふものが、一通りならないのだ。この中にも書いてある、まるで何だ、親か、兄弟にでも対するやうに、恐ろしく親切を尽して遣つてな、それで生命を助かつて、阿容々々と帰つて来て、剰へこの感状を戴いた。どうだ、えらいでないか貴様たちなら何とする?」  といまだいひもはてざるに、満堂忽ち黙を破りて、哄と諸声をぞ立てたりける、喧轟名状すべからず。国賊逆徒、売国奴、殺せ、撲れと、衆口一斉熱罵恫喝を極めたる、思ひ思ひの叫声は、雑音意味もなき響となりて、騒然としてかまびすしく、あはや身の上ぞと見る眼危き、唯単身なる看護員は、冷々然として椅子に恁りつ。あたりを見たる眼配は、深夜時計の輾る時、病室に患者を護りて、油断せざるに異ならざりき。看護員に迫害を加ふべき軍夫らの意気は絶頂に達しながら、百人長の手を掉りて頻りに一同を鎮むるにぞ、その命なきに前だちて決して毒手を下さざるべく、予て警むる処やありけん、地踏韛蹈みてたけり立つをも、夥間同志が抑制して、拳を押へ、腕を扼して、野分は無事に吹去りぬ。海野は感謝状を巻き戻し、卓子の上に押遣りて、 「それでは返す。しかしこの感謝状のために、血のある奴らが如彼に騒ぐ。殺せの、撲れのといふ気組だ。うむ、やつぱり取つて置くか。引裂いて踏むだらどうだ。さうすりや些少あ念ばらしにもなつて、いくらか彼奴らが合点しやう。さうでないと、あれでも御国のためには、生命も惜まない徒だから、どんなことをしやうも知れない。よく思案して請取るんだ、可か。」  耳にしながら看護員は、事もなげに手に取りて、海野が言の途切れざるに、敵より得たる感謝状は早くも衣兜に納まりぬ。 「取つたな。」と叫びたる、海野の声の普通ならざるに、看護員は怪む如く、 「不可ないですか。」 「良心に問へ!」 「やましいことは些少もないです。」  いと潔くいひ放ちぬ。その面貌の無邪気なる、そのいふことの淡泊なる、要するに看護員は、他の誘惑に動かされて、胸中その是非に迷ふが如き、さる心弱きものにはあらず、何らか固き信仰ありて、譬ひその信仰の迷へるにもせよ、断々乎一種他の力の如何ともしがたきものありて存せるならむ。  海野はその答を聞くごとに、呆れもし、怒りもし、苛立ちもしたりけるが、真個天真なる状見えて言を飾るとは思はれざるにぞ、これ実に白痴者なるかを疑ひつつ、一応試に愛国の何たるかを教え見むとや、少しく色を和げる、重きものいひの渋がちにも、 「やましいことがないでもあるまい。考へて見るが可。第一敵のために虜にされるといふがあるか。抵抗してかなはなかつたら、何故切腹をしなかつた。いやしくも神州男児だ、腸を掴み出して、敵のしやツ面へたたきつけて遣るべき処だ。それも可、時と場合で捕はれないにも限らんが、撲られて痛いからつて、平気で味方の内情を白状しやうとは、呆れ果た腰抜だ。其上まだ親切に支那人の看護をしてな、高慢らしく尽力をした吹聴もないもんだ。のみならず、一旦恥辱を蒙つて、われわれ同胞の面汚をしてゐながら、洒亜つくで帰つて来て、感状を頂きは何といふ心得だ。せめて土産に敵情でも探つて来れば、まだ言訳もあるんだが、刻苦して探つても敵の用心が厳しくつて、残念ながら分らなかつたといふならまだも恕すべきであるに、先に将校に検べられた時も、前刻吾が聞いた時も、いひやうもあらうものを、敵情なんざ聞かうとも、見やうとも思はなかつたは、実に驚く。しかも敵兵の介抱が急がしいので、其様ことあ考へてる隙もなかつたなんぞと、憶面もなくいふ如きに至つては言語同断といはざるを得ん。国賊だ、売国奴だ、疑つて見た日にやあ、敵に内通をして、我軍の探偵に来たのかも知れない、と言はれた処で仕方がないぞ。」        五 「さもなければ、あの野蛮な、残酷な敵がさうやすやす捕虜を返す法はない。しかしそれには証拠がない、強て敵に内通をしたとはいはん、が、既に国民の国民たる精神のない奴を、そのままにして見遁がしては、我軍の元気の消長に関するから、屹と改悟の点を認むるか、さもなくば相当の制裁を加へなければならん。勿論軍律を犯したといふでもないから、将校方は何の沙汰をもせられなかつたのであらう。けれどもが、われわれ父母妻子をうつちやつて、御国のために尽さうといふ愛国の志士が承知せん。この室にゐるものは、皆な君の所置ぶりに慊焉たらざるものがあるから、将校方は黙許なされても、其様な国賊は、屹と談じて、懲戒を加ゆるために、おのおの決する処があるぞ。可か。その悪むべき感謝状を、かういつた上でも、裂いて棄てんか。やつぱり疚ましいことはないが、些少も良心が咎めないか、それが聞きたい。ぬらくらの返事をしちやあ不可ぞ。」  看護員は傾聴して、深くその言を味ひつつ、黙然として身動きだもせず、良猶予ひて言はざりき。  こなたはしたり顔に附入りぬ。 「屹と責任のある返答を、此室にゐる皆に聞かしてもらはう。」  いひつつ左右を眴したり。  軍夫の一人は叫び出せり。「先生。」  渠らは親方といはざりき。海野は老壮士なればなり。 「先生、はやくしておくむなせえ。いざこざは面倒でさ。」 「撲つちまへ!」と呼ばるるものあり。 「隊長、おい、魂を据へて返答しろよ。へむ、どうするか見やあがれ。」 「腰抜め、口イきくが最後だぞ。」  と口々にまたひしめきつ。四、五名の足のばたばたばたと床板を踏鳴らす音ぞ聞こえたる。  看護員は、海野がいはゆる腕力の今ははやその身に加へらるべきを解したらむ。されども渠は聊も心に疚ましきことなかりけむ、胸苦しき気振もなく、静に海野に打向ひて、 「些少も良心に恥ぢないです。」  軽く答へて自若たりき。 「何、恥ぢない。」  といひ返して海野は眼を睜りたり。 「もう一度、屹とやましい処はないか。」  看護員は微笑みながら、 「繰返すに及びません。」  その信仰や極めて確乎たるものにてありしなり。海野は熱し詰めて拳を握りつ。容易くはものも得いはで唯、唯、渠を睨まへ詰めぬ。  時に看護員は従容、 「戦闘員とは違ひます、自分をお責めなさるんなら、赤十字社の看護員として、そしておはなしが願ひたいです。」  いひ懸けて片頬笑みつ。 「敵の内情を探るには、たしか軍事探偵といふのがあるはずです。一体戦闘力のないものは敵に抵抗する力がないので、遁げらるれば遁げるんですが、行り損なへばつかまるです。自分の職務上病傷兵を救護するには、敵だの、味方だの、日本だの、清国だのといふ、左様な名称も区別もないです。唯病傷兵のあるばかりで、その他には何にもないです。丁度自分が捕虜になつて、敵陣にゐました間に、幸ひ依頼をうけましたから、敵の病兵を預りました。出来得る限り尽力をして、好結果を得ませんと、赤十字の名折になる。いや名折は構はないでもつまり職務の落度となるのです。しかしさつきもいひます通り、我軍と違つて実に可哀想だと思ひます。気の毒なくらゐ万事が不整頓で、とても手が届かないので、ややともすれば見殺しです。でもそれでは済まないので、大変に苦労をして、やうやう赤十字の看護員といふ躰面だけは保つことが出来ました。感謝状は先づそのしるしといつていいやうなもので、これを国への土産にすると、全国の社員は皆満足に思ふです。既に自分の職務さへ、辛うじて務めたほどのものが、何の余裕があつて、敵情を探るなんて、探偵や、斥候の職分が兼ねられます。またよしんば兼ねることが出来るにしても、それは余計なお世話であるです。今貴下にお談し申すことも、お検べになつて将校方にいつたことも、全くこれにちがひはないのでこのほかにいふことは知らないです。毀誉褒貶は仕方がない、逆賊でも国賊でも、それは何でもかまはないです。唯看護員でさへあれば可。しかし看護員たる躰面を失つたとでもいふことなら、弁解も致します、罪にも服します、責任も荷ふです。けれども愛国心がどうであるの、敵愾心がどうであるのと、左様なことには関係しません。自分は赤十字の看護員です。」  と淀みなく陳べたりける。看護員のその言語には、更に抑揚と頓挫なかりき。        六  見る見る百人長は色激して、碎けよとばかり仕込杖を握り詰めしが、思ふこと乱麻胸を衝きて、反駁の緒を発見し得ず、小鼻と、髯のみ動かして、しらけ返りて見えたりける。時に一人の軍夫あり、 「畜生、好なことをいつてやがらあ。」  声高に叫びざま、足疾に進出て、看護員の傍に接し、その面を覗きつつ、 「おい、隊長、色男の隊長、どうだ。へむ、しらばくれはよしてくれ。その悪済ましが気に喰はねえんだい。赤十字社とか看護員とかツて、べらんめい、漢語なんかつかいやあがつて、何でえ、躰よく言抜けやうとしたつて駄目だぜ。おいらア皆な知てるぞ、間抜めい。へむ畜生、支那の捕虜になるやうぢやあとても日本で色の出来ねえ奴だ。唐人の阿魔なんぞに惚れられやあがつて、この合の子め、手前、何だとか、彼だとかいふけれどな、南京に惚れられたもんだから、それで支那の介抱をしたり、贔負をしたりして、内幕を知つててもいはねえんぢやあねえか。かう、おいらの口は浄玻璃だぜ。おいらあしよつちう知つてるんだ。おい皆聞かつし、初手はな、支那人の金満が流丸を啖つて路傍に僵れてゐたのを、中隊長様が可愛想だつてえんで、お手当をなすつてよ、此奴にその家まで送らしてお遣んなすつたのがはじまりだ。するとお前その支那人を介抱して送り届けて帰りしなに、支那人の兵隊が押込むだらう。面くらいやアがつてつかまる処をな、金満の奴さん恩儀を思つて、無性に難有がつてる処だから、きわどい処を押隠して、やうやう人目を忍ばしたが、大勢押込むでゐるもんだから、秘しきれねえでとうどう奥の奥の奥ウの処の、女の部屋へ秘したのよ。ね、隠れて五日ばかり対向ひでゐるあひだに、何でもその女が惚れたんだ。無茶におツこちたと思ひねえ。五日目に支那の兵が退いてく時つかめえられてしよびかれた。何でもその日のこつた。おいら五、六人で宿営地へ急ぐ途中、酷く吹雪く日で眼も口もあかねへ雪ン中に打倒れの、半分埋まつて、ひきつけてゐた婦人があつたい。いつて見りや支那人の片割ではあるけれど、婦人だから、ねえ、おい、構ふめえと思つて焚火であつためて遣ると活返つた李花てえ女で、此奴がエテよ。別離苦に一目てえんで唯一人駈出してさ、吹雪僵になつたんだとよ。そりや後で分つたが、そン時あ、おいらツちが負つて家まで届けて遣つた。その因縁でおいらちよいちよい父親の何とかてえ支那の家へ出入をするから、悉しいことを知つてるんだ。女はな、ものずきじやあねえか、この野郎が恋しいとつて、それつきり床着いてよ、どうだい、この頃じやもう湯も、水も通らねえツさ。父親なんざ気を揉んで銃創もまだすつかりよくならねえのに、此奴の音信を聞かうとつて、旅団本部へ日参だ。だからもう皆がうすうす知つてるぜ。つい隊長様なんぞのお耳へ入つて、御存じだから、おい奴さむ。お前お検の時もそのお談話をなすつたらう。ほんによ、お前がそんねえな腰抜たあ知らねえから、勿体ねえ、隊長様までが、ああ、可哀想だ、その女の父親とか眼を懸けて遣はせとおつしやらあ、恐しい冥伽だぜ。お前そんなことも思はねえで、べんべんと支那兵の介抱をして、お礼をもらつて、恥かしくもなく、のんこのしやあで、唯今帰つて来はどういふ了見だ。はじめに可哀想だと思つたほど、憎くてならねえ。支那の探偵になるやうな奴は大和魂を知らねえ奴だ、大和魂を知らねえ奴あ日本人のなかまじやあねえぞ、日本人のなかまでなけりや支那人も同一だ。どてツ腹あ蹴破つて、このわたを引ずり出して、噛潰して吐出すんだい!」 「其処だ!」と海野は一喝して、はたと卓子を一打せり。かかりし間他の軍夫は、しばしば同情の意を表して、舌者の声を打消すばかり、熱罵を極めて威嚇しつ。  楚歌一身に聚りて集合せる腕力の次第に迫るにもかかはらず眉宇一点の懸念なく、いと晴々しき面色にて、渠は春昼寂たる時、無聊に堪えざるものの如く、片膝を片膝にその片膝を、また片膝に、交る交る投懸けては、その都度靴音を立つるのみ。胸中おのづから閑ある如し。  けだし赤十字社の元素たる、博愛のいかなるものなるかを信ずること、渠の如きにあらざるよりは、到底これ保ち得がたき度量ならずや。 「其処だ。」と今卓子を打てる百人長は大に決する処ありけむ、屹と看護員に立向ひて、 「無神経でも、おい、先刻からこの軍夫のいふたことは多少耳へ入つたらうな。どうだ、衆目の見る処、貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴である、国賊である、破廉恥、無気力の人外である。皆が貴様を以て日本人たる資格のないものと断定したが、どうだ。それでも良心に恥ぢないか。」 「恥ぢないです。」と看護員は声に応じて答へたり。百人長は頷きぬ。 「可、改めていへ、名を聞かう。」 「名ですか、神崎愛三郎。」        七 「うむ、それでは神崎、現在ゐる、此処は一体何処だと思ふか。」  海野は太くあらたまりてさもものありげに問懸けたり。問はれて室内を眴しながら、 「左様、何処か見覚えてゐるやうな気持もするです。」 「うむ分るまい。それが分つてゐさへすりや、口広いことはいへないわけだ。」  顔に苔むしたる髯を撫でつつ、立ちはだかりたる身の丈豊かに神崎を瞰下ろしたり。 「此処はな、柳が家だ。貴様に惚れてゐる李花の家だぞ。」  今経歴を語りたりし軍夫と眼と眼を見合はして二人はニタリと微笑めり。  神崎は夢の裡なる面色にてうつとりとその眼を睜りぬ。 「ぼんやりするない。柳が住居だ。女の家だぞ。聞くことがありや何処でも聞かれるが、故と此処ん処へ引張つて来たのには、何かわれわれに思ふ処がなければならない。その位なことは、いくら無神経な男でも分るだらう。家族は皆追出してしまつて、李花はわれわれの手の内のものだ。それだけ予め断つて置く、可か。  さ、断つた上でも、やつぱり看護員は看護員で、看護員だけのことをさへすれば可、むしろ他のことはしない方が当前だ。敵情を探るのは探偵の係で、戦にあたるものは戦闘員に限る、いふて見れば、敵愾心を起すのは常業のない閑人で、進で国家に尽すのは好事家がすることだ。人は自分のすべきことをさへすれば可、われわれが貴様を責めるのも、勿論のこと、ひまだからだ、と煎じ詰めた処さういふのだな。」  神崎は猶予らはで、 「左様、自分は看護員です。」  この冷かなる答を得え百人長は決意の色あり。 「しつかり聞かう、職務外のことは、何にもせんか!」 「出来ないです。余裕があれば綿繖糸を造るです。」  応答はこれにて決せり。  百人長はいふこと尽きぬ。  海野は悲痛の声を挙げて、 「駄目だ。殺しても何にもならない。可、いま一ツの手段を取らう。権! 吉! 熊! 一件だ。」  声に応じて三名の壮佼は群を脱して、戸口に向へり。時に出口の板戸を背にして、木像の如く突立ちたるまま両手を衣兜にぬくめつつ、身動きもせで煙草をのみたる彼の真黒なる人物は、靴音高く歩を転じて、渠らを室外に出しやりたり。三人は走り行きぬ。走り行きたる三人の軍夫は、二人左右より両手を取り、一人後より背を推して、端麗多く世に類なき一個清国の婦人の年少なるを、荒けなく引立て来りて、海野の傍に推据へたる、李花は病床にあれりしなる、同じ我家の内ながら、渠は深窓に養はれて、浮世の風は知らざる身の、爾くこの室に出でたるも恐らくその日が最初ならむ、長き病に俤窶れて、寝衣の姿なよなよしく、簪の花も萎みたる流罪の天女憐むべし。 「国賊!」  と呼懸けつ。百人長は猿臂を伸ばして美しき犠牲の、白き頸を掻掴み、その面をば仰けざまに神崎の顔に押向けぬ。  李花は猛獣に手を取られ、毒蛇に膚を絡はれて、恐怖の念もあらざるまで、遊魂半ば天に朝して、夢現の境にさまよひながらも、神崎を一目見るより、やせたる頬をさとあかめつ。またたきもせで見詰めたりしが、俄に総の身を震はして、 「あ。」と一声血を絞れる、不意の叫声に驚きて、思はず軍夫が放てる手に、身を支えたる力を失して後居にはたと僵れたり。  看護員は我にもあらで衝とその椅子より座を立ちぬ。  百人長は毛脛をかかげて、李花の腹部を無手と蹈まへ、ぢろりと此方を流眄に懸けたり。 「どうだ。これでも、これでも、職務外のことをせねばならない必要を感ぜんか。」  同時に軍夫の一団はばらばらと立懸りて、李花の手足を圧伏せぬ。 「国賊! これでどうだ。」  海野はみづから手を下ろして、李花が寝衣の袴の裾をびりりとばかり裂けり。        八  時に彼の黒衣長身の人物は、ハタと煙管を取落しつ、其方を見向ける頭巾の裡に一双の眼爛々たりき。  あはれ、看護員はいかにせしぞ。  面の色は変へたれども、胸中無量の絶痛は、少しも挙動に露はさで、渠はなほよく静を保ち、徐ろにその筒服を払ひ、頭髪のややのびて、白き額に垂れたるを、左手にやをら掻上げつつ、卓の上に差置きたる帽を片手に取ると斉しく、粛然と身を起して、 「諸君。」  とばかり言ひすてつ。  海野と軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫と、軍夫の隙より、真白く細き手の指の、のびつ、屈みつ、洩れたるを、纔に一目見たるのみ。靴音軽く歩を移して、そのまま李花に辞し去りたり。かくて五分時を経たりし後は、失望したる愛国の志士と、及びその腕力と、皆疾く室を立去りて、暗澹たる孤燈の影に、李花のなきがらぞ蒼かりける。この時までも目を放たで直立したりし黒衣の人は、濶歩坐中に動ぎ出て、燈火を仰ぎ李花に俯して、厳然として椅子に凭り、卓子に片肱附きて、眼光一閃鉛筆の尖を透し見つ。電信用紙にサラサラと、  月 日  海城発 予は目撃せり。 日本軍の中には赤十字の義務を完して、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれどもまた敵愾心のために清国の病婦を捉へて、犯し辱めたる愛国の軍夫あり。委細はあとより。 じよん、べるとん 英国ロンドン府、アワリー、テレグラフ社編輯行
底本:「外科室・海城発電 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1991(平成3)年9月17日第1刷発行    2000(平成12)年9月5日第18刷発行 底本の親本:「鏡花全集 別巻」岩波書店    1976(昭和50)年3月26日第1刷発行 初出:「太陽」第二巻第一号    1896(明治29)年1月 ※本文中、「恁りつ」は「凭りつ」、「※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]」は「※[#「目+句」、第4水準2-81-91]」の誤りと思われますが、底本の通りにしました。 ※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:鈴木厚司 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004557", "作品名": "海城発電", "作品名読み": "かいじょうはつでん", "ソート用読み": "かいしようはつてん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「太陽」第二巻第一号、1896(明治29)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4557.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "外科室・海城発電", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年9月17日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年9月5日第18刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年11月5日第9刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 別巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1976(昭和51)年3月26日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4557_ruby_12111.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4557_12112.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
時。 現代。 場所。 海底の琅玕殿。 人物。 公子。沖の僧都。(年老いたる海坊主)美女。博士。 女房。侍女。(七人)黒潮騎士。(多数) 森厳藍碧なる琅玕殿裡。黒影あり。――沖の僧都。 僧都 お腰元衆。 侍女一 (薄色の洋装したるが扉より出づ)はい、はい。これは御僧。 僧都 や、目覚しく、美しい、異った扮装でおいでなさる。 侍女一 御挨拶でございます。美しいかどうかは存じませんけれど、異った支度には違いないのでございます。若様、かねてのお望みが叶いまして、今夜お輿入のございます。若奥様が、島田のお髪、お振袖と承りましたから、私どもは、余計そのお姿のお目立ち遊ばすように、皆して、かように申合せましたのでございます。 僧都 はあ、さてもお似合いなされたが、いずこの浦の風俗じゃろうな。 侍女一 度々海の上へお出でなさいますもの、よく御存じでおあんなさいましょうのに。 僧都 いや、荒海を切って影を顕すのは暴風雨の折から。如法たいてい暗夜じゃに因って、見えるのは墓の船に、死骸の蠢く裸体ばかり。色ある女性の衣などは睫毛にも掛りませぬ。さりとも小僧のみぎりはの、蒼い炎の息を吹いても、素奴色の白いはないか、袖の紅いはないか、と胴の間、狭間、帆柱の根、錨綱の下までも、あなぐり探いたものなれども、孫子は措け、僧都においては、久しく心にも掛けませいで、一向に不案内じゃ。 侍女一 (笑う)お精進でおいで遊ばします。もし、これは、桜貝、蘇芳貝、いろいろの貝を蕊にして、花の波が白く咲きます、その渚を、青い山、緑の小松に包まれて、大陸の婦たちが、夏の頃、百合、桔梗、月見草、夕顔の雪の装などして、旭の光、月影に、遥に(高濶なる碧瑠璃の天井を、髪艶やかに打仰ぐ)姿を映します。ああ、風情な。美しいと視めましたものでございますから、私ども皆が、今夜はこの服装に揃えました。 僧都 一段とお見事じゃ。が、朝ほど御機嫌伺いに出ました節は、御殿、お腰元衆、いずれも不断の服装でおいでなされた。その節は、今宵、あの美女がこれへ輿入の儀はまだ極らなんだ。じたい人間は決断が遅いに因ってな。……それじゃに、かねてのお心掛か。弥疾く装が間に合うたもののう。 侍女一 まあ、貴老は。私たちこの玉のような皆の膚は、白い尾花の穂を散らした、山々の秋の錦が水に映ると同じに、こうと思えば、ついそれなりに、思うまま、身の装の出来ます体でおりますものを。貴老はお忘れなさいましたか。 貴老は。……貴老だとて違いはしません。緋の法衣を召そうと思えば、お思いなさいます、と右左、峯に、一本燃立つような。 僧都 ま、ま、分った。(腰を屈めつつ、圧うるがごとく掌を挙げて制す)何とも相済まぬ儀じゃ。海の住居の難有さに馴れて、蔭日向、雲の往来に、潮の色の変ると同様。如意自在心のまま、たちどころに身の装の成る事を忘れていました。 なれども、僧都が身は、こうした墨染の暗夜こそ可けれ、なまじ緋の法衣など絡おうなら、ずぶ濡の提灯じゃ、戸惑をした鱏の魚じゃなどと申そう。圧も石も利く事ではない。(細く丈長き鉄の錨を倒にして携えたる杖を、軽く突直す。) いや、また忘れてはならぬ。忘れぬ前に申上げたい儀で罷出た。若様へお取次を頼みましょ。 侍女一 畏りました。唯今。……あの、ちょうど可い折に存じます。 右の方闥を排して行く。 僧都 (謹みたる体にて室内を眗す。)  はあ、争われぬ。法衣の袖に春がそよぐ。 (錨の杖を抱きて彳む。) 公子 (衝と押す、闥を排きて、性急に登場す。面玉のごとく﨟丈けたり。黒髪を背に捌く。青地錦の直垂、黄金づくりの剣を佩く。上段、一階高き床の端に、端然として立つ。)  爺い、見えたか。 侍女五人、以前の一人を真先に、すらすらと従い出づ。いずれも洋装。第五の侍女、年最も少し。二人は床の上、公子の背後に。二人は床を下りて僧都の前に。第一の侍女はその背に立つ。 僧都 は。(大床に跪く。控えたる侍女一、件の錨の杖を預る)これはこれは、御休息の処を恐入りましてござります。 公子 (親しげに)爺い、用か。 僧都 紺青、群青、白群、朱、碧の御蔵の中より、この度の儀に就きまして、先方へお遣わしになりました、品々の類と、数々を、念のために申上げとうござりまして。 公子 (立ちたるまま)おお、あの女の父親に遣った、陸で結納とか云うものの事か。 僧都 はあ、いや、御聡明なる若様。若様にはお覚違いでござります。彼等夥間に結納と申すは、親々が縁を結び、媒妁人の手をもち、婚約の祝儀、目録を贈りますでござります。しかるにこの度は、先方の父親が、若様の御支配遊ばす、わたつみの財宝に望を掛け、もしこの念願の届くにおいては、眉目容色、世に類なき一人の娘を、海底へ捧げ奉る段、しかと誓いました。すなわち、彼が望みの宝をお遣しになりましたに因って、是非に及ばず、誓言の通り、娘を波に沈めましたのでござります。されば、お送り遊ばされた数の宝は、彼等が結納と申そうより、俗に女の身代と云うものにござりますので。 公子 (軽く頷く)可、何にしろすこしばかりの事を、別に知らせるには及ばんのに。 僧都 いやいや、鱗一枚、一草の空貝とは申せ、僧都が承りました上は、活達なる若様、かような事はお気煩かしゅうおいでなさりましょうなれども、老のしょうがに、お耳に入れねばなりませぬ。お腰元衆もお執成。(五人の侍女に目遣す)平にお聞取りを願わしゅう。 侍女三 若様、お座へ。 公子 (顧みて)椅子をこちらへ。 侍女三、四、両人して白き枝珊瑚の椅子を捧げ、床の端近に据う。大隋円形の白き琅玕の、沈みたる光沢を帯べる卓子、上段の中央にあり。枝のままなる見事なる珊瑚の椅子、紅白二脚、紅きは花のごとく、白きは霞のごときを、相対して置く。侍女等が捧出でて位置を変えて据えたるは、その白き方一脚なり。 僧都 真鯛大小八千枚。鰤、鮪、ともに二万疋。鰹、真那鰹、各一万本。大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、鰷身魚、目張魚、藻魚、合せて七百籠。若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの、百枚一巻九千連。鮟鱇五十袋。虎河豚一頭。大の鮹一番。さて、別にまた、月の灘の桃色の枝珊瑚一株、丈八尺。(この分、手にて仕方す)周囲三抱の分にござりまして。ええ、月の真珠、花の真珠、雪の真珠、いずれも一寸の珠三十三粒、八分の珠百五粒、紅宝玉三十顆、大さ鶴の卵、粒を揃えて、これは碧瑪瑙の盆に装り、緑宝玉、三百顆、孔雀の尾の渦巻の数に合せ、紫の瑠璃の台、五色に透いて輝きまする鰐の皮三十六枚、沙金の包七十袋。量目約百万両。閻浮檀金十斤也。緞子、縮緬、綾、錦、牡丹、芍薬、菊の花、黄金色の董、銀覆輪の、月草、露草。 侍女一 もしもし、唯今のそれは、あの、残らず、そのお娘御の身の代とかにお遣わしの分なのでございますか。 僧都 残らず身の代と?……はあ、いかさまな。(心付く)不重宝。これはこれは海松ふさの袖に記して覚えのまま、潮に乗って、颯と読流しました。はて、何から申した事やら、品目の多い処へ、数々ゆえに。ええええ、真鯛大小八千枚。 侍女一 鰤、鮪ともに二万疋。鰹、真那鰹各一万本。 侍女二 (僧都の前にあり)大比目魚五千枚。鱚、魴鮄、鯒、あいなめ、目ばる、藻魚の類合せて七百籠。 侍女三 (公子の背後にあり)若布のその幅六丈、長さ十五尋のもの百枚一巻九千連。 侍女四 (同じく公子の背後に)鮟鱇五十袋、虎河豚一頭、大の鮹一番。まあ……(笑う。侍女皆笑う。) 僧都 (額の汗を拭く)それそれさよう、さよう。 公子 (微笑しつつ)笑うな、老人は真面目でいる。 侍女五 (最も少し。斉しく公子の背後に附添う。派手に美しき声す)月の灘の桃色の枝珊瑚樹、対の一株、丈八尺、周囲三抱の分。一寸の玉三十三粒……雪の真珠、花の真珠。 侍女一 月の真珠。 僧都 しばらく。までじゃまでじゃ、までにござる。……桃色の枝珊瑚樹、丈八尺、周囲三抱の分までにござった。(公子に)鶴の卵ほどの紅宝玉、孔雀の渦巻の緑宝玉、青瑪瑙の盆、紫の瑠璃の台。この分は、天なる(仰いで礼拝す)月宮殿に貢のものにござりました。 公子 私もそうらしく思って聞いた。僧都、それから後に言われた、その董、露草などは、金銀宝玉の類は云うまでもない、魚類ほどにも、人間が珍重しないものと聞く。が、同じく、あの方へ遣わしたものか。 僧都 綾、錦、牡丹、芍薬、縺れも散りもいたしませぬを、老人の申条、はや、また海松のように乱れました。ええええ、その董、露草は、若様、この度の御旅行につき、白雪の竜馬にめされ、渚を掛けて浦づたい、朝夕の、茜、紫、雲の上を山の峰へお潜びにてお出ましの節、珍しくお手に入りましたを、御姉君、乙姫様へ御進物の分でござりました。 侍女一 姫様は、閻浮檀金の一輪挿に、真珠の露でお活け遊ばし、お手許をお離しなさいませぬそうにございます。 公子 度々は手に入らない。私も大方、姉上に進げたその事であろうと思った。 僧都 御意。娘の親へ遣わしましたは、真鯛より数えまして、珊瑚一対……までに止まりました。 侍女二 海では何ほどの事でもございませんが、受取ります陸の人には、鯛も比目魚も千と万、少ない数ではございますまいに、僅な日の間に、ようお手廻し、お遣わしになりましてございます。 僧都 さればその事。一国、一島、津や浦の果から果を一網にもせい、人間夥間が、大海原から取入れます獲ものというは、貝に溜った雫ほどにいささかなものでござっての、お腰元衆など思うてもみられまい、鉤の尖に虫を附けて雑魚一筋を釣るという仙人業をしまするよ。この度の娘の父は、さまでにもなけれども、小船一つで網を打つが、海月ほどにしょぼりと拡げて、泡にも足らぬ小魚を掬う。入ものが小さき故に、それが希望を満しますに、手間の入ること、何ともまだるい。鰯を育てて鯨にするより歯痒い段の行止り。(公子に向う)若様は御性急じゃ。早く彼が願を満たいて、誓の美女を取れ、と御意ある。よって、黒潮、赤潮の御手兵をちとばかり動かしましたわ。赤潮の剣は、炎の稲妻、黒潮の黒い旗は、黒雲の峰を築いて、沖から摚と浴びせたほどに、一浦の津波となって、田畑も家も山へ流いた。片隅の美女の家へ、門背戸かけて、畳天井、一斉に、屋根の上の丘の腹まで運込みました儀でござったよ。 侍女三 まあ、お勇ましい。 公子 (少し俯向く)勇ましいではない。家畑を押流して、浦のもの等は迷惑をしはしないか。 僧都 いや、いや、黒潮と赤潮が、密と爪弾きしましたばかり。人命を断つほどではござりませなんだ。もっとも迷惑をせば、いたせ、娘の親が人間同士の間でさえ、自分ばかりは、思い懸けない海の幸を、黄金の山ほど掴みましたに因って、他の人々の難渋ごときはいささか気にも留めませぬに、海のお世子であらせられます若様。人間界の迷惑など、お心に掛けさせますには毛頭当りませぬ儀でございます。 公子 (頷く)そんなら可――僧都。 僧都 はは。(更めて手を支く。) 公子 あれの親は、こちらから遣わした、娘の身の代とかいうものに満足をしたであろうか。 僧都 御意、満足いたしましたればこそ、当御殿、お求めに従い、美女を沈めました儀にござります。もっとも、真鯛、鰹、真那鰹、その金銀の魚類のみでは、満足をしませなんだが、続いて、三抱え一対の枝珊瑚を、夜の渚に差置きますると、山の端出づる月の光に、真紫に輝きまするを夢のように抱きました時、あれの父親は白砂に領伏し、波の裙を吸いました。あわれ竜神、一命も捧げ奉ると、御恩のほどを難有がりましたのでござります。 公子 (微笑す)親仁の命などは御免だな。そんな魂を引取ると、海月が殖えて、迷惑をするよ。 侍女五 あんな事をおっしゃいます。 一同笑う。 公子 けれども僧都、そんな事で満足した、人間の慾は浅いものだね。 僧都 まだまだ、あれは深い方でござります。一人娘の身に代えて、海の宝を望みましたは、慾念の逞い故でござりまして。……たかだかは人間同士、夥間うちで、白い柔な膩身を、炎の燃立つ絹に包んで蒸しながら売り渡すのが、峠の関所かと心得ます。 公子 馬鹿だな。(珊瑚の椅子をすッと立つ)恋しい女よ。望めば生命でも遣ろうものを。……はは、はは。 微笑す。 侍女四 お思われ遊ばした娘御は、天地かけて、波かけて、お仕合せでおいで遊ばします。 侍女一 早くお着き遊せば可うございます。私どももお待遠に存じ上げます。 公子 道中の様子を見よう、旅の様子を見よう。(闥の外に向って呼ぶ)おいおい、居間の鏡を寄越せ。(闥開く。侍女六、七、二人、赤地の錦の蔽を掛けたる大なる姿見を捧げ出づ。)  僧都も御覧。 僧都 失礼ながら。(膝行して進む。侍女等、姿見を卓子の上に据え、錦の蔽を展く。侍女等、卓子の端の一方に集る。) 公子 (姿見の面を指し、僧都を見返る)あれだ、あれだ。あの一点の光がそれだ。お前たちも見ないか。 舞台転ず。しばし暗黒、寂寞として波濤の音聞ゆ。やがて一個、花白く葉の青き蓮華燈籠、漂々として波に漾えるがごとく顕る。続いて花の赤き同じ燈籠、中空のごとき高処に出づ。また出づ、やや低し。なお見ゆ、少しく高し。その数五個になる時、累々たる波の舞台を露す。美女。毛巻島田に結う。白の振袖、綾の帯、紅の長襦袢、胸に水晶の数珠をかけ、襟に両袖を占めて、波の上に、雪のごとき竜馬に乗せらる。およそ手綱の丈を隔てて、一人下髪の女房。旅扮装。素足、小袿に褄端折りて、片手に市女笠を携え、片手に蓮華燈籠を提ぐ。第一点の燈の影はこれなり。黒潮騎士、美女の白竜馬をひしひしと囲んで両側二列を造る。およそ十人。皆崑崙奴の形相。手に手に、すくすくと槍を立つ。穂先白く晃々として、氷柱倒に黒髪を縫う。あるものは燈籠を槍に結ぶ、灯の高きはこれなり。あるものは手にし、あるものは腰にす。 女房 貴女、お草臥でございましょう。一息、お休息なさいますか。 美女 (夢見るようにその瞳を睜く)ああ、(歎息す)もし、誰方ですか。……私の身体は足を空に、(馬の背に裳を掻緊む)倒に落ちて落ちて、波に沈んでいるのでしょうか。 女房 いいえ、お美しいお髪一筋、風にも波にもお縺れはなさいません。何でお身体が倒などと、そんな事がございましょう。 美女 いつか、いつですか、昨夜か、今夜か、前の世ですか。私が一人、楫も櫓もない、舟に、筵に乗せられて、波に流されました時、父親の約束で、海の中へ捕られて行く、私へ供養のためだと云って、船の左右へ、前後に、波のまにまに散って浮く……蓮華燈籠が流れました。 女房 水に目のお馴れなさいません、貴女には道しるべ、また土産にもと存じまして、これが、(手に翳す)その燈籠でございます。 美女 まあ、灯も消えずに…… 女房 燃えた火の消えますのは、油の尽きる、風の吹く、陸ばかりの事でございます。一度、この国へ受取りますと、ここには風が吹きません。ただ花の香の、ほんのりと通うばかりでございます。紙の細工も珠に替って、葉の青いのは、翡翠の琅玕、花片の紅白は、真玉、白珠、紅宝玉。燃ゆる灯も、またたきながら消えない星でございます。御覧遊ばせ、貴女。お召ものが濡れましたか。お髪も乱れはしますまい。何で、お身体が倒でございましょう。 美女 最後に一目、故郷の浦の近い峰に、月を見たと思いました。それぎり、底へ引くように船が沈んで、私は波に落ちたのです。ただ幻に、その燈籠の様な蒼い影を見て、胸を離れて遠くへ行く、自分の身の魂か、導く鬼火かと思いましたが、ふと見ますと、前途にも、あれあれ、遥の下と思う処に、月が一輪、おなじ光で見えますもの。 女房 ああ、(望む)あの光は。いえ。月影ではございません。 美女 でも、貴方、雲が見えます、雪のような、空が見えます、瑠璃色の。そして、真白な絹糸のような光が射します。 女房 その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出遊ばす、海の御殿でございます。あれへ、お迎え申すのです。 美女 そして。参って、私の身体は、どうなるのでございましょうねえ。 女房 ほほほ、(笑う)何事も申しますまい。ただお嬉しい事なのです。おめでとう存じます。 美女 あの、捨小舟に流されて、海の贄に取られて行く、あの、(眗す)これが、嬉しい事なのでしょうか。めでたい事なのでしょうかねえ。 女房 (再び笑う)お国ではいかがでございましょうか。私たちが故郷では、もうこの上ない嬉しい、めでたい事なのでございますもの。 美女 あすこまで、道程は? 女房 お国でたとえは煩かしい。……おお、五十三次と承ります、東海道を十度ずつ、三百度、往還りを繰返して、三千度いたしますほどでございましょう。 美女 ええ、そんなに。 女房 めした竜馬は風よりも早し、お道筋は黄金の欄干、白銀の波のお廊下、ただ花の香りの中を、やがてお着きなさいます。 美女 潮風、磯の香、海松、海藻の、咽喉を刺す硫黄の臭気と思いのほか、ほんに、清しい、佳い薫、(柔に袖を動かす)……ですが、時々、悚然する、腥い香のしますのは?…… 女房 人間の魂が、貴女を慕うのでございます。海月が寄るのでございます。 美女 人の魂が、海月と云って? 女房 海に参ります醜い人間の魂は、皆、海月になって、ふわふわさまようて歩行きますのでございます。 黒潮騎士 (口々に)――煩い。しっしっ。――(と、ものなき竜馬の周囲を呵す。) 美女 まあ、情ない、お恥しい。(袖をもって面を蔽う。) 女房 いえ、貴女は、あの御殿の若様の、新夫人でいらっしゃいます、もはや人間ではありません。 美女 ええ。(袖を落す。――舞台転ず。真暗になる。)―― 女房 (声のみして)急ぎましょう。美しい方を見ると、黒鰐、赤鮫が襲います。騎馬が前後を守護しました。お憂慮はありませんが、いぎ参ると、斬合い攻合う、修羅の巷をお目に懸けねばなりません。――騎馬の方々、急いで下さい。 燈籠一つ行き、続いて一つ行く。漂蕩する趣して、高く低く奥の方深く行く。 舞台燦然として明るし、前の琅玕殿顕る。 公子、椅子の位置を卓子に正しく直して掛けて、姿見の傍にあり。向って右の上座。左の方に赤き枝珊瑚の椅子、人なくしてただ据えらる。その椅子を斜に下りて、沖の僧都、この度は腰掛けてあり。黒き珊瑚、小形なる椅子を用いる。おなじ小形の椅子に、向って正面に一人、ほぼ唐代の儒の服装したる、髯黒き一人あり。博士なり。 侍女七人、花のごとくその間を装い立つ。 公子 博士、お呼立をしました。 博士 (敬礼す。) 公子 これを御覧なさい。(姿見の面を示す。)  千仭の崕を累ねた、漆のような波の間を、幽に蒼い灯に照らされて、白馬の背に手綱したは、この度迎え取るおもいものなんです。陸に獅子、虎の狙うと同一に、入道鰐、坊主鮫の一類が、美女と見れば、途中に襲撃って、黒髪を吸い、白き乳を裂き、美しい血を呑もうとするから、守備のために旅行さきで、手にあり合せただけ、少数の黒潮騎士を附添わせた。渠等は白刃を揃えている。 博士 至極のお計いに心得まするが。 公子 ところが、敵に備うるここの守備を出払わしたから不用心じゃ、危険であろう、と僧都が言われる。……それは恐れん、私が居れば仔細ない。けれども、また、僧都の言われるには、白衣に緋の襲した女子を馬に乗せて、黒髪を槍尖で縫ったのは、かの国で引廻しとか称えた罪人の姿に似ている、私の手許に迎入るるものを、不祥じゃ、忌わしいと言うのです。  事実不祥なれば、途中の保護は他にいくらも手段があります。それは構わないが、私はいささかも不祥と思わん、忌わしいと思わない。  これを見ないか。私の領分に入った女の顔は、白い玉が月の光に包まれたと同一に、いよいよ清い。眉は美しく、瞳は澄み、唇の紅は冴えて、いささかも窶れない。憂えておらん。清らかな衣を着、新に梳って、花に露の点滴る装して、馬に騎した姿は、かの国の花野の丈を、錦の山の懐に抽く……歩行より、車より、駕籠に乗ったより、一層鮮麗なものだと思う。その上、選抜した慓悍な黒潮騎士の精鋭等に、長槍をもって四辺を払わせて通るのです。得意思うべしではないのですか。 僧都 (頻に頭を傾く。) 公子 引廻しと聞けば、恥を見せるのでしょう、苦痛を与えるのであろう。槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市を練って、やがて刑場に送って殺した処で、――殺されるものは平凡に疾病で死するより愉快でしょう。――それが何の刑罰になるのですか。陸と海と、国が違い、人情が違っても、まさか、そんな刑罰はあるまいと想う。僧都は、うろ覚えながら確に記憶に残ると言われる。……貴下をお呼立した次第です。ちょっとお験べを願いましょうか。 博士 仰聞けの記憶は私にもありますで。しかし、念のために験べまするで。ええ、陸上一切の刑法の記録でありましょうか、それとも。 公子 面倒です、あとはどうでも可い。ただ女子を馬に乗せ、槍を立てて引廻したという、そんな事があったかという、それだけです。 博士 正史でなく、小説、浄瑠璃の中を見ましょうで。時の人情と風俗とは、史書よりもむしろこの方が適当でありますので。(金光燦爛たる洋綴の書を展く。) 公子 (卓子に腰を掛く)たいそう気の利いた書物ですね。 博士 これは、仏国の大帝奈翁が、西暦千八百八年、西班牙遠征の途に上りました時、かねて世界有数の読書家。必要によって当時の図書館長バルビールに命じて製らせました、函入新装の、一千巻、一架の内容は、宗教四十巻、叙事詩四十巻、戯曲四十巻、その他の詩篇六十巻。歴史六十巻、小説百巻、と申しまするデュオデシモ形と申す有名な版本の事を……お聞及びなさいまして、御姉君、乙姫様が御工夫を遊ばしました。蓮の糸、一筋を、およそ枚数千頁に薄く織拡げて、一万枚が一折、一百二十折を合せて一冊に綴じましたものでありまして、この国の微妙なる光に展きますると、森羅万象、人類をはじめ、動植物、鉱物、一切の元素が、一々ずつ微細なる活字となって、しかも、各々五色の輝を放ち、名詞、代名詞、動詞、助動詞、主客、句読、いずれも個々別々、七彩に照って、かく開きました真白な枚の上へ、自然と、染め出さるるのでありまして。 公子 姉上が、それを。――さぞ、御秘蔵のものでしょう。 博士 御秘蔵ながら、若様の御書物蔵へも、整然と姫様がお備えつけでありますので。 公子 では、私の所有ですか。 博士 若様はこの冊子と同じものを、瑪瑙に青貝の蒔絵の書棚、五百架、御所有でいらせられまする次第であります。 公子 姉があって幸福です。どれ、(取って披く)これは……ただ白紙だね。 博士 は、恐れながら、それぞれの予備の知識がありませんでは、自然のその色彩ある活字は、ペエジの上には写り兼ねるのでございます。 公子 恥入るね。 博士 いやいや、若様は御勇武でいらせられます。入道鰐、黒鮫の襲いまする節は、御訓練の黒潮、赤潮騎士、御手の剣でのうては御退けになりまする次第には参らぬのでありまして。けれども、姉姫様の御心づくし、節々は御閲読の儀をお勧め申まするので。 僧都 もろともに、お勧め申上げますでござります。 公子 (頷く)まあ、今の引廻しの事を見て下さい。 博士 確に。(書を披く)手近に浄瑠璃にありました。ああ、これにあります。……若様、これは大日本浪華の町人、大経師以春の年若き女房、名だたる美女のおさん。手代茂右衛門と不義顕れ、すなわち引廻し礫になりまする処を、記したのでありまして。 公子 お読み。 博士 (朗読す)――紅蓮の井戸堀、焦熱の、地獄のかま塗よしなやと、急がぬ道をいつのまに、越ゆる我身の死出の山、死出の田長の田がりよし、野辺より先を見渡せば、過ぎし冬至の冬枯の、木の間木の間にちらちらと、ぬき身の槍の恐しや、―― 公子 (姿見を覗きつつ、且つ聴きつつ)ああ、いくらか似ている。 博士 ――また冷返る夕嵐、雪の松原、この世から、かかる苦患におう亡日、島田乱れてはらはらはら、顔にはいつもはんげしょう、縛られし手の冷たさは、我身一つの寒の入、涙ぞ指の爪とりよし、袖に氷を結びけり。…… 侍女等、傾聴す。 公子 ただ、いい姿です、美しい形です。世間はそれでその女の罪を責めたと思うのだろうか。 博士 まず、ト見えまするので。 僧都 さようでございます。 公子 馬に騎った女は、殺されても恋が叶い、思いが届いて、さぞ本望であろうがね。 僧都 ――袖に氷を結びけり。涙などと、歎き悲しんだようにござります。 公子 それは、その引廻しを見る、見物の心ではないのか。私には分らん。(頭を掉る。)博士――まだ他に例があるのですか。 博士 (朗読す)……世の哀とぞなりにける。今日は神田のくずれ橋に恥をさらし、または四谷、芝、浅草、日本橋に人こぞりて、見るに惜まぬはなし。これを思うに、かりにも人は悪き事をせまじきものなり。天これを許したまわぬなり。…… 公子 (眉を顰む。――侍女等斉しく不審の面色す。) 博士 ……この女思込みし事なれば、身の窶るる事なくて、毎日ありし昔のごとく、黒髪を結わせて美わしき風情。…… 公子 (色解く。侍女等、眉をひらく。) 博士 中略をいたします。……聞く人一しおいたわしく、その姿を見おくりけるに、限ある命のうち、入相の鐘つくころ、品かわりたる道芝の辺にして、その身は憂き煙となりぬ。人皆いずれの道にも煙はのがれず、殊に不便はこれにぞありける。――これで、鈴ヶ森で火刑に処せられまするまでを、確か江戸中棄札に槍を立てて引廻した筈と心得まするので。 公子 分りました。それはお七という娘でしょう。私は大すきな女なんです。御覧なさい。どこに当人が歎き悲みなぞしたのですか。人に惜まれ可哀がられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね。もし刑罰とすれば、恵の杖、情の鞭だ。実際その罪を罰しようとするには、そのまま無事に置いて、平凡に愚図愚図に生存らえさせて、皺だらけの婆にして、その娘を終らせるが可いと、私は思う。……分けて、現在、殊にそのお七のごときは、姉上が海へお引取りになった。刑場の鈴ヶ森は自然海に近かった。姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋いだ、燃草は夕霜を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子を燃え抜いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝って白玉となる、その膚を、氷った雛芥子の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅の珊瑚の中に、結綿の花を咲かせているのではないか。  男は死ななかった。存命えて坊主になって老い朽ちた。娘のために、姉上はそれさえお引取りになった。けれども、その魂は、途中で牡の海月になった。――時々未練に娘を覗いて、赤潮に追払われて、醜く、ふらふらと生白く漾うて失する。あわれなものだ。  娘は幸福ではないのですか。火も水も、火は虹となり、水は滝となって、彼の生命を飾ったのです。抜身の槍の刑罰が馬の左右に、その誉を輝かすと同一に。――博士いかがですか、僧都。 博士 しかし、しかし若様、私は慎重にお答えをいたしまする。身はこの職にありながら、事実、人間界の心も情も、まだいささかも分らぬのでありまして。若様、唯今の仰せは、それは、すべて海の中にのみ留まりまするが。 公子 (穏和に頷く)姉上も、以前お分りにならぬと言われた。その上、貴下がお分りにならなければこれは誰にも分らないのです。私にも分らない。しかし事情も違う。彼を迎える、道中のこの(また姿見を指す)馬上の姿は、別に不祥ではあるまいと思う。 僧都 唯今、仰せ聞けられ承りまする内に、条理は弁えず、僧都にも分らぬことのみではござりますが、ただ、黒潮の抜身で囲みました段は、別に忌わしい事ではござりませんように、老人にも、その合点参りましてござります。 公子 可、しかし僧都、ここに蓮華燈籠の意味も分った。が、一つ見馴れないものが見えるぞ。女が、黒髪と、あの雪の襟との間に――胸に珠を掛けた、あれは何かね。 僧都 はあ。(卓子に伸上る)はは、いかさま、いや、若様。あれは水晶の数珠にございます。海に沈みまする覚悟につき、冥土に参る心得のため、檀那寺の和尚が授けましたのでござります。 公子 冥土とは?……それこそ不埒だ。そして仇光りがする、あれは……水晶か。 博士 水晶とは申す条、近頃は専ら硝子を用いますので。 公子 (一笑す)私の恋人ともあろうものが、無ければ可い。が、硝子とは何事ですか。金剛石、また真珠の揃うたのが可い。……博士、贈ってしかるべき頸飾をお検べ下さい。 博士 畏りました。 公子 そして指環の珠の色も怪しい、お前たちどう見たか。 侍女一 近頃は、かんてらの灯の露店に、紅宝玉、緑宝玉と申して、貝を鬻ぐと承ります。 公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散った、あの貝が宝石か。 侍女二 錦襴の服を着けて、青い頭巾を被りました、立派な玉商人の売りますものも、擬が多いそうにございます。 公子 博士、ついでに指環を贈ろう。僧都、すぐに出向うて、遠路であるが、途中、早速、硝子とその擬い珠を取棄てさして下さい。お老寄に、御苦労ながら。 僧都 (苦笑す)若様には、新夫人の、まだ、海にお馴れなさらず、御到着の遅いばかり気になされて、老人が、ここに形を消せば、瞬く間ものう、お姿見の中の御馬の前に映りまする神通を、お忘れなされて、老寄に苦労などと、心外な御意を蒙りまするわ。 公子 ははは、(無邪気に笑う)失礼をしました。 博士、僧都、一揖して廻廊より退場す。侍女等慇懃に見送る。 少し窮屈であったげな。 侍女等親しげに皆その前後に斉眉き寄る。 性急な私だ。――女を待つ間の心遣にしたい。誰か、あの国の歌を知っておらんか。 侍女三 存じております。浪花津に咲くやこの花冬籠、今を春へと咲くやこの花。 侍女四 若様、私も存じております。浅香山を。 公子 いや、そんなのではない。(博士がおきたる書を披きつつ)女の国の東海道、道中の唄だ。何とか云うのだった。この書はいくらか覚えがないと、文字が見えないのだそうだ。(呟く)姉上は貴重な、しかし、少しあてっこすりの書をお拵えになったよ。ああ、何とか云った、東海道の。 侍女五 五十三次のでございましょう、私が少し存じております。 公子 歌うてみないか。 侍女五 はい。(朗かに優しくあわれに唄う。) 都路は五十路あまりの三つの宿、…… 公子 おお、それだ、字書のように、江戸紫で、都路と標目が出た。(展く)あとを。 侍女五 ……時得て咲くや江戸の花、浪静なる品川や、やがて越来る川崎の、軒端ならぶる神奈川は、早や程ヶ谷に程もなく、暮れて戸塚に宿るらむ。紫匂う藤沢の、野面に続く平塚も、もとのあわれは大磯か。蛙鳴くなる小田原は。……(極悪げに)……もうあとは忘れました。 公子 可、ここに緑の活字が、白い雲の枚に出た。――箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や――さあ、忘れた所は教えてやろう。この歌で、五十三次の宿を覚えて、お前たち、あの道中双六というものを遊んでみないか。上りは京都だ。姉の御殿に近い。誰か一人上って、双六の済む時分、ちょうど、この女は(姿見を見つつ)着くであろう。一番上りのものには、瑪瑙の莢に、紅宝玉の実を装った、あの造りものの吉祥果を遣る。絵は直ぐに間に合ぬ。この室を五十三に割って双六の目に合せて、一人ずつ身体を進めるが可かろう。……賽が要る、持って来い。 (侍女六七、うつむいてともに微笑す)――どうした。 侍女六 姿見をお取寄せ遊ばしました時。 侍女七 二人して盤の双六をしておりましたので、賽は持っておりますのでございます。 公子 おもしろい。向うの廻廊の端へ集まれ。そして順になって始めるが可い。 侍女七 床へ振りましょうでございますか。 公子 心あって招かないのに来た、賽にも魂がある、寄越せ。(受取る)卓子の上へ私が投げよう。お前たち一から七まで、目に従うて順に動くが可い。さあ、集れ。 (侍女七人、いそいそと、続いて廻廊のはずれに集り、貴女は一。私は二。こう口々に楽しげに取定め、勇みて賽を待つ。) 可いか、(片手に書を持ち、片手に賽を投ぐ)――一は三、かな川へ。(侍女一人進む)二は一、品川まで。(侍女一人また進む)三は五だ、戸塚へ行け。 (かくして順々に繰返し次第に進む。第五の侍女、年最も少きが一人衆を離れて賽の目に乗り、正面突当りなる窓際に進み、他と、間隔る。公子。これより前、姿見を見詰めて、賽の目と宿の数を算え淀む。……この時、うかとしたる体に書を落す。) まだ、誰も上らないか。 侍女一 やっと一人天竜川まで参りました。 公子 ああ、まだるっこい。賽を二つ一所に振ろうか。(手にしながら姿見に見入る。侍女等、等く其方を凝視す。) 侍女五 きゃっ。(叫ぶ。隙なし。その姿、窓の外へ裳を引いて颯と消ゆ)ああれえ。 侍女等、口々に、あれ、あれ、鮫が、鮫が、入道鮫が、と立乱れ騒ぎ狂う。 公子 入道鮫が、何、(窓に衝と寄る。) 侍女一 ああ、黒鮫が三百ばかり。 侍女二 取巻いて、群りかかって。 侍女三 あれ、入道が口に銜えた。 公子 外道、外道、その女を返せ、外道。(叱咜しつつ、窓より出でんとす。) 侍女等縋り留む。 侍女四 軽々しい、若様。 公子 放せ。あれ見い。外道の口の間から、女の髪が溢れて落ちる。やあ、胸へ、乳へ、牙が喰入る。ええ、油断した。……骨も筋も断れような。ああ、手を悶える、裳を煽る。 侍女六 いいえ、若様、私たち御殿の女は、身は綿よりも柔かです。 侍女七 蓮の糸を束ねましたようですから、鰐の牙が、脊筋と鳩尾へ噛合いましても、薄紙一重透きます内は、血にも肉にも障りません。 侍女三 入道も、一類も、色を漁るのでございます。生命はしばらく助りましょう。 侍女四 その中に、その中に。まあ、お静まり遊ばして。 公子 いや、俺の力は弱いもののためだ。生命に掛けて取返す。――鎧を寄越せ。 侍女二人衝と出で、引返して、二人して、一領の鎧を捧げ、背後より颯と肩に投掛く。 公子、上へ引いて、頸よりつらなりたる兜を頂く。角ある毒竜、凄じき頭となる。その頭を頂く時に、侍女等、鎧の裾を捌く。外套のごとく背より垂れて、紫の鱗、金色の斑点連り輝く。 公子、また袖を取って肩よりして自ら喉に結ぶ、この結びめ、左右一双の毒竜の爪なり。迅速に一縮す。立直るや否や、剣を抜いて、頭上に翳し、ハタと窓外を睨む。 侍女六人、斉しくその左右に折敷き、手に手に匕首を抜連れて晃々と敵に構う。 外道、退くな。(凝と視て、剣の刃を下に引く)虜を離した。受取れ。 侍女一 鎧をめしたばっかりで、御威徳を恐れて引きました。 侍女二 長う太く、数百の鮫のかさなって、蜈蚣のように見えたのが、ああ、ちりぢりに、ちりぢりに。 侍女三 めだかのように遁げて行きます。 公子 おお、ちょうど黒潮等が帰って来た、帰った。 侍女四 ほんに、おつかい帰りの姉さんが、とりこを抱取って下すった。 公子 介抱してやれ。お前たちは出迎え。 侍女三人ずつ、一方は闥のうちへ。一方は廻廊に退場。 公子、真中に、すっくと立ち、静かに剣を納めて、右手なる白珊瑚の椅子に凭る。騎士五人廻廊まで登場。 騎士一同 (槍を伏せて、裾り、同音に呼ぶ)若様。 公子 おお、帰ったか。 騎士一 もっての外な、今ほどは。 公子 何でもない、私は無事だ、皆御苦労だったな。 騎士一同 はッ。 公子 途中まで出向ったろう、僧都はどうしたか。 騎士一 あとの我ら夥間を率いて、入道鮫を追掛けて参りました。 公子 よい相手だ、戦闘は観ものであろう。――皆は休むが可い。 騎士 槍は鞘に納めますまい、このまま御門を堅めまするわ。 公子 さまでにせずとも大事ない、休め。 騎士等、礼拝して退場。侍女一、登場。 侍女一 御安心遊ばしまし、疵を受けましたほどでもございません。ただ、酷く驚きまして。 公子 可愛相に、よく介抱してやれ。 侍女一 二人が附添っております、(廻廊を見込む)ああ、もう御廊下まで。(公子のさしずにより、姿見に錦の蔽を掛け、闥に入る。) 美女。先達の女房に、片手、手を曳かれて登場。姿を粛に、深く差俯向き、面影やややつれたれども、さまで悪怯れざる態度、徐に廻廊を進みて、床を上段に昇る。昇る時も、裾捌き静なり。 侍女三人、燈籠二個ずつ二人、一つを一人、五個を提げて附添い出で、一人々々、廻廊の廂に架け、そのまま引返す。燈籠を侍女等の差置き果つるまでに、女房は、美女をその上段、紅き枝珊瑚の椅子まで導く順にてありたし。女房、謹んで公子に礼して、美女に椅子を教う。 女房 お掛け遊ばしまし。 美女、据置かるる状に椅子に掛く。女房はその裳に跪居る。 美女、うつむきたるまましばし、皆無言。やがて顔を上げて、正しく公子と見向ふ。瞳を据えて瞬きせず。――間。 公子 よく見えた。(無造作に、座を立って、卓子の周囲に近づき、手を取らんと衝と腕を伸ばす。美女、崩るるがごとくに椅子をはずれ、床に伏す。) 女房 どうなさいました、貴女、どうなさいました。 美女 (声細く、されども判然)はい、……覚悟しては来ましたけれど、余りと言えば、可恐しゅうございますもの。 女房 (心付く)おお、若様。その鎧をお解き遊ばせ。お驚きなさいますのもごもっともでございます。 公子 解いても可い、(結び目に手を掛け、思慮す)が、解かんでも可かろう。……最初に見た目はどこまでも附絡う。(美女に)貴女、おい、貴女、これを恐れては不可ん、私はこれあるがために、強い。これあるがために力があり威がある。今も既にこれに因って、めしつかう女の、入道鮫に噛まれたのを助けたのです。 美女 (やや面を上ぐ)お召使が鮫の口に、やっぱり、そんな可恐い処なんでございますか。 公子 はははは、(笑う)貴女、敵のない国が、世界のどこにあるんですか。仇は至る処に満ちている――ただ一人の娘を捧ぐ、……海の幸を賜われ――貴女の親は、既に貴女の仇なのではないか。ただその敵に勝てば可いのだ。私は、この強さ、力、威あるがために勝つ。閨にただ二人ある時でも私はこれを脱ぐまいと思う。私の心は貴女を愛して、私の鎧は、敵から、仇から、世界から貴女を守護する。弱いもののために強いんです。毒竜の鱗は絡い、爪は抱き、角は枕してもいささかも貴女の身は傷けない。ともにこの鎧に包まるる内は、貴女は海の女王なんだ。放縦に大胆に、不羈、専横に、心のままにして差支えない。鱗に、爪に、角に、一糸掛けない白身を抱かれ包まれて、渡津海の広さを散歩しても、あえて世に憚る事はない。誰の目にも触れない。人は指をせん。時として見るものは、沖のその影を、真珠の光と見る。指すものは、喜見城の幻景に迷うのです。  女の身として、優しいもの、媚あるもの、従うものに慕われて、それが何の本懐です。私は鱗をもって、角をもって、爪をもって愛するんだ。……鎧は脱ぐまい、と思う。(従容として椅子に戻る。) 美女 (起直り、会釈す)……父へ、海の幸をお授け下さいました、津波のお強さ、船を覆して、ここへ、遠い海の中をお連れなすった、お力。道すがらはまたお使者で、金剛石のこの襟飾、宝玉のこの指環、(嬉しげに見ゆ)貴方の御威徳はよく分りましたのでございます。 公子 津波位、家来どもが些細な事を。さあ、そこへお掛け。 女房、介抱して、美女、椅子に直る。 頸飾なんぞ、珠なんぞ。貴女の腰掛けている、それは珊瑚だ。 美女 まあ、父に下さいました枝よりは、幾倍とも。 公子 あれは草です。較ぶればここのは大樹だ。椅子の丈は陸の山よりも高い。そうしている貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜の竜頭は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱ほどに見えようと思う。 美女 あの、人の目に、それが、貴方? 公子 譬喩です、人間の目には何にも見えん。 美女 ああ、見えはいたしますまい。お恥かしい、人間の小さな心には、ここに、見ますれば私が裳を曳きます床も、琅玕の一枚石。こうした御殿のある事は、夢にも知らないのでございますもの、情のう存じます。 公子 いや、そんなに謙遜をするには当らん。陸には名山、佳水がある。峻岳、大河がある。 美女 でも、こんな御殿はないのです。 公子 あるのを知らないのです。海底の琅玕の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、更科の秋の月、錦を染めた木曾の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉を織る竜田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。知らない振をして見ないんだろう。――陸は尊い、景色は得難い。今も、道中双六をして遊ぶのに、五十三次の一枚絵さえ手許にはなかったのだ。絵も貴い。 美女 あんな事をおっしゃって、絵には活きたものは住んでおりませんではありませんか。 公子 いや、住居をしている。色彩は皆活きて動く。けれども、人は知らないのだ。人は見ないのだ。見ても見ない振をしているんだから、決して人間の凡てを貴いとは言わない、美いとは言わない。ただ陸は貴い。けれども、我が海は、この水は、一畝りの波を起して、その陸を浸す事が出来るんだ。ただ貴く、美いものは亡びない。……中にも貴女は美しい。だから、陸の一浦を亡ぼして、ここへ迎え取ったのです。亡ぼす力のあるものが、亡びないものを迎え入れて、且つ愛し且つ守護するのです。貴女は、喜ばねば不可い、嬉しがらなければならない、悲しんではなりません。 女房 貴女、おっしゃる通りでございます。途中でも私が、お喜ばしい、おめでたい儀と申しました。決してお歎きなさいます事はありません。 美女 いいえ、歎きはいたしません。悲しみはいたしません。ただ歎きますもの、悲しみますものに、私の、この容子を見せてやりたいと思うのです。 女房 人間の目には見えません。 美女 故郷の人たちには。 公子 見えるものか。 美女 (やや意気ぐむ)あの、私の親には。 公子 貴女は見えると思うのか。 美女 こうして、活きておりますもの。 公子 (屹としたる音調)無論、活きている。しかし、船から沈む時、ここへ来るにどういう決心をしたのですか。 美女 それは死ぬ事と思いました。故郷の人も皆そう思って、分けて親は歎き悲しみました。 公子 貴女の親は悲しむ事は少しもなかろう。はじめからそのつもりで、約束の財を得た。しかも満足だと云った。その代りに娘を波に沈めるのに、少しも歎くことはないではないか。 美女 けれども、父娘の情愛でございます。 公子 勝手な情愛だね。人間の、そんな情愛は私には分らん。(頭を掉る)が、まあ、情愛としておく、それで。 美女 父は涙にくれました。小船が波に放たれます時、渚の砂に、父の倒伏しました処は、あの、ちょうど夕月に紫の枝珊瑚を抱きました処なのです。そして、後の歎は、前の喜びにくらべまして、幾十層倍だったでございましょう。 公子 じゃ、その枝珊瑚を波に返して、約束を戻せば可かった。 美女 いいえ、ですが、もう、海の幸も、枝珊瑚も、金銀に代り、家蔵に代っていたのでございます。 公子 可、その金銀を散らし、施し、棄て、蔵を毀ち、家を焼いて、もとの破蓑一領、網一具の漁民となって、娘の命乞をすれば可かった。 美女 それでも、約束の女を寄越せと、海坊主のような黒い人が、夜ごと夜ごと天井を覗き、屏風を見越し、壁襖に立って、責めわたり、催促をなさいます。今更、家蔵に替えましたッて、とそう思ったのでございます。 公子 貴女の父は、もとの貧民になり下るから娘を許して下さい、と、その海坊主に掛合ってみたのですか。みはしなかろう。そして、貴女を船に送出す時、磯に倒れて悲しもうが、新しい白壁、艶ある甍を、山際の月に照らさして、夥多の奴婢に取巻かせて、近頃呼入れた、若い妾に介抱されていたではないのか。なぜ、それが情愛なんです。 美女 はい。……(恥じて首低る。) 公子 貴女を責るのではない。よしそれが人間の情愛なれば情愛で可い、私とは何の係わりもないから。ちっとも構わん。が、私の愛する、この宮殿にある貴女が、そんな故郷を思うて、歎いては不可ん。悲しんでは不可んと云うのです。 美女 貴方。(向直る。声に力を帯ぶ)私は始めから、決して歎いてはいないのです。父は悲しみました。浦人は可哀がりました。ですが私は――約束に応じて宝を与え、その約束を責めて女を取る、――それが夢なれば、船に乗っても沈みはしまい。もし事実として、浪に引入るるものがあれば、それは生あるもの、形あるもの、云うまでもありません、心あり魂あり、声あるものに違いない。その上、威があり力があり、栄と光とあるものに違いないと思いました。ですから、人はそうして歎いても、私は小船で流されますのを、さまで、慌騒ぎも、泣悲しみも、落着過ぎもしなかったんです。もしか、船が沈まなければ無事なんです。生命はあるんですもの。覆す手があれば、それは活きている手なんです。その手に縋って、海の中に活きられると思ったのです。 公子 (聞きつつ莞爾とす)やあ、(女房に)……この女は豪いぞ! はじめから歎いておらん、慰め賺す要はない。私はしおらしい。あわれな花を手活にしてながめようと思った。違う! これは楽く歌う鳥だ、面白い。それも愉快だ。おい、酒を寄越せ。 手を挙ぐ。たちまち闥開けて、三人の侍女、二罎の酒と、白金の皿に一対の玉盞を捧げて出づ。女房盞を取って、公子と美女の前に置く。侍女退場す。女房酒を両方に注ぐ。 女房 めし上りまし。 美女 (辞宜す)私は、ちっとも。 公子 (品よく盞を含みながら)貴女、少しも辛うない。 女房 貴女の薄紅なは桃の露、あちらは菊花の雫です。お国では御存じありませんか。海には最上の飲料です。お気が清しくなります、召あがれ。 美女 あの、桃の露、(見物席の方へ、半ば片袖を蔽うて、うつむき飲む)は。(と小き呼吸す)何という涼しい、爽やいだ――蘇生ったような気がします。 公子 蘇生ったのではないでしょう。更に新しい生命を得たんだ。 美女 嬉しい、嬉しい、嬉しい、貴方。私がこうして活きていますのを、見せてやりとう存じます。 公子 別に見せる要はありますまい。 美女 でも、人は私が死んだと思っております。 公子 勝手に思わせておいて可いではないか。 美女 ですけれども、ですけれども。 公子 その情愛、とかで、貴女の親に見せたいのか。 美女 ええ、父をはじめ、浦のもの、それから皆に知らせなければ残念です。 公子 (卓子に胸を凭出す)帰りたいか、故郷へ。 美女 いいえ、この宮殿、この宝玉、この指環、この酒、この栄華、私は故郷へなぞ帰りたくはないのです。 公子 では、何が知らせたいのです。 美女 だって、貴方、人に知られないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの。 公子 (色はじめて鬱す)むむ。 美女 (微酔の瞼花やかに)誰も知らない命は、生命ではありません。この宝玉も、この指環も、人が見ないでは、ちっとも価値がないのです。 公子 それは不可ん。(卓子を軽く打って立つ)貴女は栄燿が見せびらかしたいんだな。そりゃ不可ん。人は自己、自分で満足をせねばならん。人に価値をつけさせて、それに従うべきものじゃない。(近寄る)人は自分で活きれば可い、生命を保てば可い。しかも愛するものとともに活きれば、少しも不足はなかろうと思う。宝玉とてもその通り、手箱にこれを蔵すれば、宝玉そのものだけの価値を保つ。人に与うる時、十倍の光を放つ。ただ、人に見せびらかす時、その艶は黒くなり、その質は醜くなる。 美女 ええ、ですから……来るお庭にも敷詰めてありました、あの宝玉一つも、この上お許し下さいますなら、きっと慈善に施して参ります。 公子 ここに、用意の宝蔵がある。皆、貴女のものです。施すは可い。が、人知れずでなければ出来ない、貴女の名を顕し、姿を見せては施すことはならないんです。 美女 それでは何にもなりません。何の効もありません。 公子 (色やや嶮し)随分、勝手を云う。が、貴女の美しさに免じて許す。歌う鳥が囀るんだ、雲雀は星を凌ぐ。星は蹴落さない。声が可愛らしいからなんです。(女房に)おい、注げ。 女房酌す。 美女 (怯れたる内端な態度)もうもう、決して、虚飾、栄燿を見せようとは思いません。あの、ただ活きている事だけを知らせとう存じます。 公子 (冷かに)止したが可かろう。 美女 いいえ、唯今も申します通り、故郷へ帰って、そこに留まります気は露ほどもないのです。ちょっとお許しを受けまして生命のあります事だけを。 公子、無言にして頭掉る。美女、縋るがごとくす。 あの、お許しは下さいませんか。ちっとの外出もなりませんか。 公子 (爽に)獄屋ではない、大自由、大自在な領分だ。歎くもの悲しむものは無論の事、僅少の憂あり、不平あるものさえ一日も一個たりとも国に置かない。が、貴女には既に心を許して、秘蔵の酒を飲ませた。海の果、陸の終、思って行かれない処はない。故郷ごときはただ一飛、瞬きをする間に行かれる。(愍むごとくしみじみと顔を視る)が、気の毒です。  貴女にその驕と、虚飾の心さえなかったら、一生聞かなくとも済む、また聞かせたくない事だった。貴女、これ。  (美女顔を上ぐ。その肩に手を掛く)ここに来た、貴女はもう人間ではない。 美女 ええ。(驚く。) 公子 蛇身になった、美しい蛇になったんだ。 美女、瞳を睜る。 その貴女の身に輝く、宝玉も、指環も、紅、紫の鱗の光と、人間の目に輝くのみです。 美女 あれ。(椅子を落つ。侍女の膝にて、袖を見、背を見、手を見つつ、わななき震う。雪の指尖、思わず鬢を取って衝と立ちつつ)いいえ、いいえ、いいえ。どこも蛇にはなりません。一、一枚も鱗はない。 公子 一枚も鱗はない、無論どこも蛇にはならない。貴女は美しい女です。けれども、人間の眼だ。人の見る目だ。故郷に姿を顕す時、貴女の父、貴女の友、貴女の村、浦、貴女の全国の、貴女を見る目は、誰も残らず大蛇と見る。ものを云う声はただ、炎の舌が閃く。吐く息は煙を渦巻く。悲歎の涙は、硫黄を流して草を爛らす。長い袖は、腥い風を起して樹を枯らす。悶ゆる膚は鱗を鳴してのたうち蜿る。ふと、肉身のものの目に、その丈より長い黒髪の、三筋、五筋、筋を透して、大蛇の背に黒く引くのを見る、それがなごりと思うが可い。 美女 (髪みだるるまでかぶりを掉る)嘘です、嘘です。人を呪って、人を詛って、貴方こそ、その毒蛇です。親のために沈んだ身が蛇体になろう筈がない。遣って下さい。故郷へ帰して下さい。親の、人の、友だちの目を借りて、尾のない鱗のない私の身が験したい。遣って下さい。故郷へ帰して下さい。 公子 大自在の国だ。勝手に行くが可い、そして試すが可かろう。 美女 どこに、故郷の浦は……どこに。 女房 あれあすこに。(廻廊の燈籠を指す。) 美女 おお、(身震す)船の沈んだ浦が見える。(飜然と飛ぶ。……乱るる紅、炎のごとく、トンと床を下りるや、颯と廻廊を突切る。途端に、五個の燈籠斉しく消ゆ。廻廊暗し。美女、その暗中に消ゆ一舞台の上段のみ、やや明く残る。) 公子 おい、その姿見の蔽を取れ。陸を見よう。 女房 困った御婦人です。しかしお可哀相なものでございます。(立つ。舞台暗くなる。――やがて明くなる時、花やかに侍女皆あり。) 公子。椅子に凭る。――その足許に、美女倒れ伏す――疾く既に帰り来れる趣。髪すべて乱れ、袂裂け帯崩る。 公子 (玉盞を含みつつ悠然として)故郷はどうでした。……どうした、私が云った通だろう。貴女の父の少い妾は、貴女のその恐しい蛇の姿を見て気絶した。貴女の父は、下男とともに、鉄砲をもってその蛇を狙ったではありませんか。渠等は第一、私を見てさえ蛇体だと思う。人間の目はそういうものだ。そんな処に用はあるまい。泣いていては不可ん。 美女悲泣す。 不可ん、おい、泣くのは不可ん。(眉を顰む。) 女房 (背を擦る)若様は、歎悲むのがお嫌です。御性急でいらっしゃいますから、御機嫌に障ると悪い。ここは、楽しむ処、歌う処、舞う処、喜び、遊ぶ処ですよ。 美女 ええ、貴女方は楽いでしょう、嬉しいでしょう、お舞いなさい、お唄いなさい、私、私は泣死に死ぬんです。 公子 死ぬまで泣かれて堪るものか。あんな故郷に何の未練がある。さあ、機嫌を直せ。ここには悲哀のあることを許さんぞ。 美女 お許しなくば、どうなりと。ええ、故郷の事も、私の身体も、皆、貴方の魔法です。 公子 どこまで疑う。(忿怒の形相)お前を蛇体と思うのは、人間の目だと云うに。俺の……魔……法。許さんぞ。女、悲しむものは殺す。 美女 ええ、ええ、お殺しなさいまし。活きられる身体ではないのです。 公子 (憤然として立つ)黒潮等は居らんか。この女を処置しろ。 言下に、床板を跳ね、その穴より黒潮騎士、大錨をかついで顕る。騎士二三、続いて飛出づ。美女を引立て、一の騎士が倒に押立てたる錨に縛む。錨の刃越に、黒髪の乱るるを掻掴んで、押仰向かす。長槍の刃、鋭くその頤に臨む。 女房 ああ、若様。 公子 止めるのか。 女房 お床が血に汚れはいたしませんか。 公子 美しい女だ。花を挘るも同じ事よ、花片と蕊と、ばらばらに分れるばかりだ。あとは手箱に蔵っておこう。――殺せ。(騎士、槍を取直す。) 美女 貴方、こんな悪魚の牙は可厭です。御卑怯な。見ていないで、御自分でお殺しなさいまし。  (公子、頷き、無言にてつかつかと寄り、猶予わず剣を抜き、颯と目に翳し、衝と引いて斜に構う。面を見合す。)  ああ、貴方。私を斬る、私を殺す、その、顔のお綺麗さ、気高さ、美しさ、目の清しさ、眉の勇ましさ。はじめて見ました、位の高さ、品の可さ。もう、故郷も何も忘れました。早く殺して。ああ、嬉しい。(莞爾する。) 公子 解け。 騎士等、美女を助けて、片隅に退く。公子、剣を提げたるまま、 こちらへおいで。(美女、手を曳かる。ともに床に上る。公子剣を軽く取る。)終生を盟おう。手を出せ。(手首を取って刃を腕に引く、一線の紅血、玉盞に滴る。公子返す切尖に自から腕を引く、紫の血、玉盞に滴る。)飲め、呑もう。 盞をかわして、仰いで飲む。廻廊の燈籠一斉に点り輝く。 あれ見い、血を取かわして飲んだと思うと、お前の故郷の、浦の磯に、岩に、紫と紅の花が咲いた。それとも、星か。 (一同打見る。) あれは何だ。 美女 見覚えました花ですが、私はもう忘れました。 公子 (書を見つつ)博士、博士。 博士 (登場)……お召。 公子 (指す)あの花は何ですか。(書を渡さんとす。) 博士 存じております。竜胆と撫子でございます。新夫人の、お心が通いまして、折からの霜に、一際色が冴えました。若様と奥様の血の俤でございます。 公子 人間にそれが分るか。 博士 心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。 公子 お前、私の悪意ある呪詛でないのが知れたろう。 美女 (うなだる)お見棄のう、幾久しく。 一同 ――万歳を申上げます。―― 公子 皆、休息をなさい。(一同退場。) 公子、美女と手を携えて一歩す。美しき花降る。二歩す、フト立停まる。三歩を動かす時、音楽聞ゆ。 美女 一歩に花が降り、二歩には微妙の薫、いま三あしめに、ひとりでに、楽しい音楽の聞えます。ここは極楽でございますか。 公子 ははは、そんな処と一所にされて堪るものか。おい、女の行く極楽に男は居らんぞ。(鎧の結目を解きかけて、音楽につれて徐ろに、やや、ななめに立ちつつ、その竜の爪を美女の背にかく。雪の振袖、紫の鱗の端に仄に見ゆ)男の行く極楽に女は居ない。 ――幕―― 大正二(一九一三)年十二月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店    1942(昭和17)年10月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2006年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003244", "作品名": "海神別荘", "作品名読み": "かいじんべっそう", "ソート用読み": "かいしんへつそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-11-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3244.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "染川隆俊", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3244_ruby_24280.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-09-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3244_24408.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-09-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  紫の幕、紅の旗、空の色の青く晴れたる、草木の色の緑なる、唯うつくしきものの弥が上に重なり合ひ、打混じて、譬へば大なる幻燈の花輪車の輪を造りて、烈しく舞出で、舞込むが見え候のみ。何をか緒として順序よく申上げ候べき。全市街はその日朝まだきより、七色を以て彩られ候と申すより他はこれなく候。  紀元千八百九十五年―月―日の凱旋祭は、小生が覚えたる観世物の中に最も偉なるものに候ひき。  知事の君をはじめとして、県下に有数なる顕官、文官武官の数を尽し、有志の紳商、在野の紳士など、尽く銀山閣といふ倶楽部組織の館に会して、凡そ半月あまり趣向を凝されたるものに候よし。  先づ巽公園内にござ候記念碑の銅像を以て祭の中心といたし、ここを式場にあて候。  この銅像は丈一丈六尺と申すことにて、台石は二間に余り候はむ、兀如として喬木の梢に立ちをり候。右手に提げたる百錬鉄の剣は霜を浴び、月に映じて、年紀古れども錆色見えず、仰ぐに日の光も寒く輝き候。  銅像の頭より八方に綱を曳きて、数千の鬼灯提灯を繋ぎ懸け候が、これをこそ趣向と申せ。一ツ一ツ皆真蒼に彩り候。提灯の表には、眉を描き、鼻を描き、眼を描き、口を描きて、人の顔になぞらへ候。  さて目も、口も、鼻も、眉も、一様普通のものにてはこれなく、いづれも、ゆがみ、ひそみ、まがり、うねりなど仕り、なかには念入にて、酔狂にも、真赤な舌を吐かせたるが見え候。皆切取つたる敵兵の首の形にて候よし。さればその色の蒼きは死相をあらはしたるものに候はむか。下の台は、切口なればとて赤く塗り候。上の台は、尋常に黒くいたし、辮髪とか申すことにて、一々蕨縄にてぶらぶらと釣りさげ候。一ツは仰向き、一ツは俯向き、横になるもあれば、縦になりたるもありて、風の吹くたびに動き候よ。        二  催のかかることは、ただ九牛の一毛に過ぎず候。凱旋門は申すまでもなく、一廓数百金を以て建られ候。あたかも記念碑の正面にむかひあひたるが見え候。またその傍に、これこそ見物に候へ。ここに三抱に余る山桜の遠山桜とて有名なるがござ候。その梢より根に至るまで、枝も、葉も、幹も、すべて青き色の毛布にて蔽ひ包みて、見上ぐるばかり巨大なる象の形に拵へ候。  毛布はすべて旅団の兵員が、遠征の際に用ゐたるをつかひ候よし。その数八千七百枚と承り候。長蛇の如き巨象の鼻は、西の方にさしたる枝なりに二蜿り蜿りて喞筒を見るやう、空高き梢より樹下を流るる小川に臨みて、いま水を吸ふ処に候。脚は太く、折から一員の騎兵の通り合せ候が、兜形の軍帽の頂より、爪の裏まで、全体唯その前脚の後にかくれて、纔に駒の尾のさきのみ、此方より見え申し候。かばかりなる巨象の横腹をば、真四角に切り開きて、板を渡し、ここのみ赤き氈を敷詰めて、踊子が舞の舞台にいたし候。葉桜の深翠したたるばかりの頃に候へば、舞台の上下にいや繁りに繁りたる桜の葉の洩れ出で候て、舞台は薄暗く、緋の毛氈の色も黒ずみて、もののしめやかなるなかに、隣国を隔てたる連山の巓遠く二ツばかり眉を描きて見渡され候。遠山桜あるあたりは、公園の中にても、眺望の勝景第一と呼ばれたる処に候へば、式の如き巨大なる怪獣の腹の下、脚の四ツある間を透して、城の櫓見え、森も見え、橋も見え、日傘さして橋の上渡り来るうつくしき女の藤色の衣の色、あたかも藤の花一片、一片の藤の花、いといと小さく、ちらちら眺められ候ひき。  こは月のはじめより造りかけて、凱旋祭の前一日の昼すぎまでに出来上り候を、一度見たる時のことに有之候。  夜に入ればこの巨象の両個の眼に電燈を灯し候。折から曇天に候ひし。一体に樹立深く、柳松など生茂りて、くらきなかに、その蒼白なる光を洩し、巨象の形は小山の如く、喬木の梢を籠めて、雲低き天に接し、朦朧として、公園の一方にあらはれ候時こそ怪獣は物凄まじきその本色を顯し、雄大なる趣を備へてわれわれの眼には映じたれ。白昼はヤハリ唯毛布を以て包みなしたる山桜の妖精に他ならず候ひし。雲はいよいよ重く、夜はますます闇くなり候まま、炬の如き一双の眼、暗夜に水銀の光を放ちて、この北の方三十間、小川の流一たび灌ぎて、池となり候池のなかばに、五条の噴水、青竜の口よりほとばしり、なかぞらのやみをこぼれて篠つくばかり降りかかる吹上げの水を照し、相対して、またさきに申上候銅像の右手に提げたる百錬鉄の剣に反映して、次第に黒くなりまさる漆の如き公園の樹立の間に言ふべからざる森厳の趣を呈し候、いまにも雨降り候やうなれば、人さきに立帰り申候。        三  あくれば凱旋祭の当日、人々が案じに案じたる天候は意外にもおだやかに、東雲より密雲破れて日光を洩し候が、午前に到りて晴れ、昼少しすぐるより天晴なる快晴となり澄し候。  さればこそ前申上げ候通り、ただうつくしく賑かに候ひし、全市の光景、何より申上げ候はむ。ここに繰返してまた単に一幅わが県全市の図は、七色を以てなどりて彩られ候やうなるおもひの、筆執ればこの紙面にも浮びてありありと見え候。いかに貴下、さやうに候はずや。黄なる、紫なる、紅なる、いろいろの旗天を蔽ひて大鳥の群れたる如き、旗の透間の空青き、樹々の葉の翠なる、路を行く人の髪の黒き、簪の白き、手絡の緋なる、帯の錦、袖の綾、薔薇の香、伽羅の薫の薫ずるなかに、この身体一ツはさまれて、歩行くにあらず立停るといふにもあらで、押され押され市中をいきつくたびに一歩づつ式場近く進み候。横の町も、縦の町も、角も、辻も、山下も、坂の上も、隣の小路もただ人のけはひの轟々とばかり遠波の寄するかと、ひツそりしたるなかに、あるひは高く、あるひは低く、遠くなり、近くなりて、耳底に響き候のみ。裾の埃、歩の砂に、両側の二階家の欄干に、果しなくひろげかけたる紅の毛氈も白くなりて、仰げば打重なる見物の男女が顔も朧げなる、中空にはむらむらと何にか候らむ、陽炎の如きもの立ち迷ひ候。  万丈の塵の中に人の家の屋根より高き処々、中空に斑々として目覚しき牡丹の花の翻りて見え候。こは大なる母衣の上に書いたるにて、片端には彫刻したる獅子の頭を縫ひつけ、片端には糸を束ねてふつさりと揃へたるを結び着け候。この尾と、その頭と、及び件の牡丹の花描いたる母衣とを以て一頭の獅子にあひなり候。胴中には青竹を破りて曲げて環にしたるを幾処にか入れて、竹の両はしには屈竟の壮佼ゐて、支へて、膨らかに幌をあげをり候。頭に一人の手して、力逞ましきが猪首にかかげ持ちて、朱盆の如き口を張り、またふさぎなどして威を示し候都度、仕掛を以てカツカツと金色の牙の鳴るが聞え候。尾のつけもとは、ここにも竹の棹つけて支へながら、人の軒より高く突上げ、鷹揚に右左に振り動かし申候。何貫目やらむ尾にせる糸をば、真紅の色に染めたれば、紅の細き滝支ふる雲なき中空より逆におちて風に揺らるる趣見え、要するに空間に描きたる獣王の、花々しき牡丹の花衣着けながら躍り狂ふにことならず、目覚しき獅子の皮の、かかる牡丹の母衣の中に、三味、胡弓、笛、太鼓、鼓を備へて、節をかしく、かつ行き、かつ鳴して一ゆるぎしては式場さして近づき候。母衣の裾よりうつくしき衣の裾、ちひさき女の足などこぼれ出でて見え候は、歌姫の上手をばつどへ入れて、この楽器を司らせたるものに候へばなり。  おなじ仕組の同じ獅子の、唯一つには留まらで、主立つたる町々より一つづつ、すべて十五、六頭邌り出だし候が、群集のなかを処々横断し、点綴して、白き地に牡丹の花、人を蔽ひて見え候。        四  群集ばらばらと一斉に左右に分れ候。  不意なれば蹌踉めきながら、おされて、人の軒に仰ぎ依りつつ、何事ぞと存じ候に、黒き、長き物ずるずると来て、町の中央を一文字に貫きながら矢の如く駈け抜け候。  これをば心付き候時は、ハヤその物体の頭は二、三十間わが眼の前を走り去り候て、いまはその胴中あたり連りに進行いたしをり候が、あたかも凧の糸を繰出す如く、走馬燈籠の間断なきやう俄に果つべくも見え申さず。唯人の頭も、顔も、黒く塗りて、肩より胸、背、下腹のあたりまで、墨もていやが上に濃く塗りこくり、赤褌襠着けたる臀、脛、足、踵、これをば朱を以て真赤に色染めたるおなじ扮装の壮佼たち、幾百人か。一人行く前の人の後へ後へと繋ぎあひ候が、繰出す如くずんずんと行き候。およそ半時間は連続いたし候ひしならむ、やがて最後の一人の、身体黒く足赤きが眼前をよぎり候あと、またひらひらと群集左右より寄せ合うて、両側に別れたる路を塞ぎ候時、その過行きし方を打眺め候へば、彼の怪物の全体は、遥なる向の坂をいま蜿り蜿りのぼり候首尾の全きを、いかにも蜈蚣と見受候。あれはと見る間に百尺波状の黒線の左右より、二条の砂煙真白にぱツと立つたれば、その尾のあたりは埃にかくれて、躍然として擡げたるその臼の如き頭のみ坂の上り尽くる処雲の如き大銀杏の梢とならびて、見るがうちに、またただ七色の道路のみ、獅子の背のみ眺められて、蜈蚣は眼界を去り候。疾く既に式場に着し候ひけむ、風聞によれば、市内各処における労働者、たとへばぼてふり、車夫、日傭取などいふものの総人数をあげたる、意匠の俄に候とよ。  彼の巨象と、幾頭の獅子と、この蜈蚣と、この群集とが遂に皆式場に会したることをおん含の上、静にお考へあひなり候はば、いかなる御感じか御胸に浮び候や。        五  別に凱旋門と、生首提灯と小生は申し候。人の目鼻書きて、青く塗りて、血の色染めて、黒き蕨縄着けたる提灯と、竜の口なる五条の噴水と、銅像と、この他に今も眼に染み、脳に印して覚え候は、式場なる公園の片隅に、人を避けて悄然と立ちて、淋しげにあたりを見まはしをられ候、一個年若き佳人にござ候。何といふいはれもあらで、薄紫のかはりたる、藤色の衣着けられ候ひき。  このたび戦死したる少尉B氏の令閨に候。また小生知人にござ候。  あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生はさて置きて夫人のみあはれに悄れて見え候は、人いきりにやのぼせたまひしと案じられ、近う寄り声をかけて、もの問はむと存じ候折から、おツといふ声、人なだれを打つて立騒ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑ふ女たちは、水車の歯にかかりて撥ね飛ばされ候やう、倒れては遁げ、転びては遁げ、うづまいて来る大蜈蚣のぐるぐると巻き込むる環のなかをこぼれ出で候が、令閨とおよび五三人はその中心になりて、十重二十重に巻きこまれ、遁るる隙なく伏まろび候ひし。警官駈けつけて後、他は皆無事に起上り候に、うつくしき人のみは、そのまま裳をまげて、起たず横はり候。塵埃のそのつややかなる黒髪を汚す間もなく、衣紋の乱るるまもなくて、かうはなりはてられ候ひき。  むかでは、これがために寸断され、此処に六尺、彼処に二尺、三尺、五尺、七尺、一尺、五寸になり、一分になり、寸々に切り刻まれ候が、身体の黒き、足の赤き、切れめ切れめに酒気を帯びて、一つづつうごめくを見申し候。  日暮れて式場なるは申すまでもなく、十万の家軒ごとに、おなじ生首提灯の、しかも丈三尺ばかりなるを揃うて一斉に灯し候へば、市内の隈々塵塚の片隅までも、真蒼き昼とあひなり候。白く染め抜いたる、目、口、鼻など、大路小路の地の上に影を宿して、青き灯のなかにたとへば蝶の舞ふ如く蝋燭のまたたくにつれて、ふはふはとその幻の浮いてあるき候ひし。ひとり、唯、単に、一宇の門のみ、生首に灯さで、淋しく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。その夜更けて後、俄然として暴風起り、須臾のまに大方の提灯を吹き飛ばし、残らず灯きえて真闇になり申し候。闇夜のなかに、唯一ツ凄まじき音聞え候は、大木の吹折られたるに候よし。さることのくはしくは申上げず候。唯今風の音聞え候。何につけてもおなつかしく候。   月  日 ぢい様
底本:「外科室・海城発電 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1991(平成3)年9月17日第1刷発行    2000(平成12)年9月5日第18刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第三巻」岩波書店    1942(昭和17)年12月25日第1刷発行 初出:「新小説」第二年第六巻    1897(明治30)年5月 ※「読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す。」との底本の編集方針にそい、ルビの拗促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:鈴木厚司 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003648", "作品名": "凱旋祭", "作品名読み": "がいせんまつり", "ソート用読み": "かいせんまつり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説」第二年第六巻、1897(明治30)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3648.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "外科室・海城発電", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年9月17日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年9月5日第18刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年11月5日第9刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第三巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年12月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3648_ruby_12113.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3648_12114.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 枕に就いたのは黄昏の頃、之を逢魔が時、雀色時などといふ一日の内人間の影法師が一番ぼんやりとする時で、五時から六時の間に起つたこと、私が十七の秋のはじめ。  部屋は四疊敷けた。薄暗い縱に長い一室、兩方が襖で何室も他の座敷へ出入が出來る。詰り奧の方から一方の襖を開けて、一方の襖から玄關へ通拔けられるのであつた。  一方は明窓の障子がはまつて、其外は疊二疊ばかりの、しツくひ叩の池で、金魚も緋鯉も居るのではない。建物で取𢌞はした此の一棟の其池のある上ばかり大屋根が長方形に切開いてあるから雨水が溜つて居る。雨落に敷詰めた礫には苔が生えて、蛞蝓が這ふ、濕けてじと〳〵する、内の細君が元結をこゝに棄てると、三七二十一日にして化して足卷と名づける蟷螂の腹の寄生蟲となるといつて塾生は罵つた。池を圍んだ三方の羽目は板が外れて壁があらはれて居た。室數は總體十七もあつて、庭で取𢌞した大家だけれども、何百年の古邸、些も手が入らないから、鼠だらけ、埃だらけ、草だらけ。  塾生と家族とが住んで使つてゐるのは三室か四室に過ぎない。玄關を入ると十五六疊の板敷、其へ卓子椅子を備へて道場といつた格の、英漢數學の教場になつて居る。外の蜘蛛の巣の奧には何が住んでるか、内の者にも分りはせなんだ。  其日から數へて丁度一週間前の夜、夜學は無かつた頃で、晝間の通學生は歸つて了ひ、夕飯が濟んで、私の部屋の卓子の上で、燈下に美少年録を讀んで居た。  一體塾では小説が嚴禁なので、うつかり教師に見着かると大目玉を喰ふのみならず、此以前も三馬の浮世風呂を一册沒收されて四週間置放しにされたため、貸本屋から嚴談に逢つて、大金を取られ、目を白くしたことがある。  其夜は教師も用達に出掛けて留守であつたから、良落着いて讀みはじめた。やがて、 二足つかみの供振を、見返るお夏は手を上げて、憚樣やとばかりに、夕暮近き野路の雨、思ふ男と相合傘の人目稀なる横※(さんずい+散)、濡れぬ前こそ今はしも、  と前後も辨へず讀んで居ると、私の卓子を横に附着けてある件の明取の障子へ、ぱら〳〵と音がした。  忍んで小説を讀む内は、木にも萱にも心を置いたので、吃驚して、振返ると、又ぱら〳〵ぱら〳〵といつた。  雨か不知、時しも秋のはじめなり、洋燈に油をさす折に覗いた夕暮の空の模樣では、今夜は眞晝の樣な月夜でなければならないがと思ふ内も猶其音は絶えず聞える。おや〳〵裏庭の榎の大木の彼の葉が散込むにしては風もないがと、然う思ふと、はじめは臆病で障子を開けなかつたのが、今は薄氣味惡くなつて手を拱いて、思はず暗い天井を仰いで耳を澄ました。  一分、二分、間を措いては聞える霰のやうな音は次第に烈しくなつて、池に落込む小※(さんずい+散)の形勢も交つて、一時は呼吸もつかれず、ものも言はれなかつた。だが、しばらくして少し靜まると、再びなまけた連續した調子でぱら〳〵。  家の内は不殘、寂として居たが、この音を知らないではなく、いづれも聲を飮んで脈を數へて居たらしい。  窓と筋斜に上下差向つて居る二階から、一度東京に來て博文館の店で働いて居たことのある、山田なにがしといふ名代の臆病ものが、あてもなく、おい〳〵と沈んだ聲でいつた。  同時に一室措いた奧の居室から震へ聲で、何でせうね。更に、一寸何でせうね。止むことを得ず、えゝ、何ですか、音がしますが、と、之をキツカケに思ひ切つて障子を開けた。池はひつくりかへつても居らず、羽目板も落ちず、壁の破も平時のまゝで、月は形は見えないが光は眞白にさして居る。とばかりで、何事も無く、手早く又障子を閉めた。音はかはらず聞えて留まぬ。  處へ、細君はしどけない寢衣のまゝ、寢かしつけて居たらしい、乳呑兒を眞白な乳のあたりへしつかりと抱いて色を蒼うして出て見えたが、ぴつたり私の椅子の下に坐つて、石のやうに堅くなつて目を睜つて居る。  おい山田下りて來い、と二階を大聲で呼ぶと、ワツといひさま、けたゝましく、石垣が崩れるやうにがたびしと駈け下りて、私の部屋へ一所になつた。いづれも一言もなし。  此上何事か起つたら、三人とも團子に化つてしまつたらう。  何だか此池を仕切つた屋根のあたりで頻に礫を打つやうな音がしたが、ぐる〳〵渦を卷いちやあ屋根の上を何十ともない礫がひよい〳〵駈けて歩行く樣だつた。をかしいから、俺は門の處に立つて氣を取られて居たが、變だなあ、うむ、外は良い月夜で、蟲の這ふのが見えるやうだぜ、恐しく寒いぢやあないか、と折から歸つて來た教師はいつたのである。  幸ひ美少年録も見着からず、教師は細君を連れて別室に去り、音も其ツ切聞えずに濟んだ。  夜が明けると、多勢の通學生をつかまへて、山田が其吹聽といつたらない。鵺が來て池で行水を使つたほどに、事大袈裟に立到る。  其奴引捕へて呉れようと、海陸軍を志願で、クライブ傳、三角術などを講じて居る連中が、鐵骨の扇、短刀などを持參で夜更まで詰懸る、近所の仕出屋から自辨で兵糧を取寄せる、百目蝋燭を買入れるといふ騷動。  四五日經つた、が豪傑連何の仕出したこともなく、無事にあそんで靜まつて了つた。  扨其黄昏は、少し風の心持、私は熱が出て惡寒がしたから掻卷にくるまつて、轉寢の内も心が置かれる小説の搜索をされまいため、貸本を藏してある件の押入に附着いて寢た。眠くはないので、ぱちくり〳〵目を睜いて居ても、物は幻に見える樣になつて、天井も壁も卓子の脚も段々消えて行く心細さ。  塾の山田は、湯に行つて、教場にも二階にも誰も居らず、物音もしなかつた。枕頭へ……ばたばたといふ跫音、ものの近寄る氣勢がする。  枕をかへして、頭を上げた、が誰も來たのではなかつた。  しばらくすると、再び、しと〳〵しと〳〵と摺足の輕い、譬へば身體の無いものが、踵ばかり疊を踏んで來るかと思ひ取られた。また顏を上げると何にも居らない。其時は前より天窓が重かつた、顏を上げるが物憂かつた。  繰返して三度、また跫音がしたが、其時は枕が上らなかつた。室内の空氣は唯彌が上に蔽重つて、おのづと重量が出來て壓へつけるやうな!  鼻も口も切さに堪へられず、手をもがいて空を拂ひながら呼吸も絶え〴〵に身を起した、足が立つと、思はずよろめいて向うの襖へぶつかつたのである。  其まゝ押開けると、襖は開いたが何となくたてつけに粘氣があるやうに思つた。此處では風が涼しからうと、其を頼に恁うして次の室へ出たのだが矢張蒸暑い、押覆さつたやうで呼吸苦しい。  最う一ツ向うの廣室へ行かうと、あへぎ〳〵六疊敷を縱に切つて行くのだが、瞬く内に凡そ五百里も歩行いたやうに感じて、疲勞して堪へられぬ。取縋るものはないのだから、部屋の中央に胸を抱いて、立ちながら吻と呼吸をついた。  まあ、彼の恐しい所から何の位離れたらうと思つて怖々と振返ると、ものの五尺とは隔たらぬ私の居室の敷居を跨いで明々地に薄紅のぼやけた絹に搦まつて蒼白い女の脚ばかりが歩行いて來た。思はず駈け出した私の身體は疊の上をぐる〳〵まはつたと思つた。其のも一ツの廣室を夢中で突切つたが、暗がりで三尺の壁の處へ突當つて行處はない、此處で恐しいものに捕へられるのかと思つて、あはれ神にも佛にも聞えよと、其壁を押破らうとして拳で敲くと、ぐら〳〵として開きさうであつた。力を籠て、向うへ押して見たが效がないので、手許へ引くと、颯と開いた。  目を塞いで飛込まうとしたけれども、あかるかつたから驚いて退つた。  唯見ると、床の間も何にもない。心持十疊ばかりもあらうと思はれる一室にぐるりと輪になつて、凡そ二十人餘女が居た。私は目まひがした故か一人も顏は見なかつた。又顏のある者とも思はなかつた。白い乳を出して居るのは胸の處ばかり、背向のは帶の結目許り、疊に手をついて居るのもあつたし、立膝をして居るのもあつたと思ふのと見るのと瞬くうち、ずらりと居並んだのが一齊に私を見た、と胸に應へた、爾時、物凄い聲音を揃へて、わあといつた、わあといつて笑ひつけた何とも頼ない、譬へやうのない聲が、天窓から私を引抱へたやうに思つた。トタンに、背後から私の身體を横切つたのは例のもので、其女の脚が前へ𢌞つて、眼さきに見えた。啊呀といふ間に内へ引摺込まれさうになつたので、はツとすると前へ倒れた。熱のある身體はもんどりを打つて、元のまゝ寢床の上にドツと跳るのが身を空に擲つやうで、心着くと地震かと思つたが、冷い汗は瀧のやうに流れて、やがて枕について綿のやうになつて我に返つた。奧では頻に嬰兒の泣聲がした。  其から煩ひついて、何時まで經つても治らなかつたから、何もいはないで其の内をさがつた。直ちに忘れるやうに快復したのである。  地方でも其界隈は、封建の頃極めて風の惡い士町で、妙齡の婦人の此處へ連込まれたもの、また通懸つたもの、況して腰元妾奉公になど行つたものの生きて歸つた例はない、とあとで聞いた。殊に件の邸に就いては、種々の話があるが、却つて拵事じみるからいふまい。  教師は其あとで、嬰兒が夜泣をして堪へられないといふことで直に餘所へ越した。幾度も住人が變つて、今度のは久しく住んで居るさうである。 明治三十三年二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004589", "作品名": "怪談女の輪", "作品名読み": "かいだんおんなのわ", "ソート用読み": "かいたんおんなのわ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4589.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4589_ruby_26476.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4589_26583.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
   序 傳ふる處の怪異の書、多くは徳育のために、訓戒のために、寓意を談じて、勸懲の資となすに過ぎず。蓋し教のために、彼の鬼神を煩らはすもの也。人意焉ぞ鬼神の好惡を察し得むや。察せずして是を謂ふ、いづれも世道に執着して、其の眞相を過つなり。聞く、爰に記すものは皆事實なりと。讀む人、其の走るもの汽車に似ず、飛ぶもの鳥に似ず、泳ぐもの魚に似ず、美なるもの世の廂髮に似ざる故を以て、ちくらが沖となす勿れ。 泉 鏡花
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房    2007(平成19)年7月10日第1刷発行 底本の親本:「怪談会」柏舎書楼    1909(明治42)年発行 ※底本の「序」に「怪談会」を補って、「怪談会 序」を作品名としました。 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2007年11月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047336", "作品名": "怪談会 序", "作品名読み": "かいだんかい じょ", "ソート用読み": "かいたんかいしよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-12-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card47336.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2007(平成19)年7月10日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年7月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2007(平成19)年7月10日第1刷", "底本の親本名1": "怪談会", "底本の親本出版社名1": "柏舎書楼", "底本の親本初版発行年1": "1909(明治42)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/47336_ruby_28454.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-11-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/47336_28597.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-11-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 雨を含んだ風がさっと吹いて、磯の香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累った空合では、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁みるほどに薄寒い。……  木の葉をこぼれる雫も冷い。……糠雨がまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を潜って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽われたのに、雲の影が映って暗い。  縦横に道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜りの田と、荒れた畠だから――農屋漁宿、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四辺が渺として、底冷い靄に包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔が時になろうとする。  町屋の屋根に隠れつつ、巽に展けて海がある。その反対の、山裾の窪に当る、石段の左の端に、べたりと附着いて、溝鼠が這上ったように、ぼろを膚に、笠も被らず、一本杖の細いのに、しがみつくように縋った。杖の尖が、肩を抽いて、頭の上へ突出ている、うしろ向のその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。小児だか、侏儒だか、小男だか。ただ船虫の影の拡ったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。……  しょぼけ返って、蠢くたびに、啾々と陰気に幽な音がする。腐れた肺が呼吸に鳴るのか――ぐしょ濡れで裾から雫が垂れるから、骨を絞る響であろう――傘の古骨が風に軋むように、啾々と不気味に聞こえる。 「しいッ、」 「やあ、」  しッ、しッ、しッ。  曳声を揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸太棒を差荷いに、漁夫の、半裸体の、がッしりした壮佼が二人、真中に一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎縄で、尾はほとんど地摺である。しかも、もりで撃った生々しい裂傷の、肉のはぜて、真向、腮、鰭の下から、たらたらと流るる鮮血が、雨路に滴って、草に赤い。  私は話の中のこの魚を写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大鮪か、鮫、鱶でないと、ちょっとその巨大さと凄じさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟鱇がある、それだと、ただその腹の膨れたのを観るに過ぎぬ。実は石投魚である。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞しい人間ほどはあろう。荒海の巌礁に棲み、鱗鋭く、面顰んで、鰭が硬い。と見ると鯱に似て、彼が城の天守に金銀を鎧った諸侯なるに対して、これは赤合羽を絡った下郎が、蒼黒い魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。  かばかりの大石投魚の、さて価値といえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちと鬱いだほどである。が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお菜に――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄に煙を吐く艇から、手鈎で崖肋腹へ引摺上げた中から、そのまま跣足で、磯の巌道を踏んで来たのであった。  まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝添いの脛を左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚を揺って、 「しいッ、」 「やあ、」  しっ、しっ、しっ。  この血だらけの魚の現世の状に似ず、梅雨の日暮の森に掛って、青瑪瑙を畳んで高い、石段下を、横に、漁夫と魚で一列になった。  すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を厭ってか、窪地でたちまち氾濫れるらしい水場のせいか、一条やや広い畝を隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞木に打着った真中に立っている。  御柱を低く覗いて、映画か、芝居のまねきの旗の、手拭の汚れたように、渋茶と、藍と、あわれ鰒、小松魚ほどの元気もなく、棹によれよれに見えるのも、もの寂しい。  前へ立った漁夫の肩が、石段を一歩出て、後のが脚を上げ、真中の大魚の鰓が、端を攀じっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、生々と出て、横面を鰭の血で縫おうとした。  その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、 「無慙や、そのざまよ。」  と云った、眼がピカピカと光って、 「われも世を呪えや。」  と、首を振ると、耳まで被さった毛が、ぶるぶると動いて……腥い。  しばらくすると、薄墨をもう一刷した、水田の際を、おっかな吃驚、といった形で、漁夫らが屈腰に引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌が居たら押えたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁げた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あか褌にも恥じよかし。 「大かい魚ア石地蔵様に化けてはいねえか。」  と、石投魚はそのまま石投魚で野倒れているのを、見定めながらそう云った。  一人は石段を密と見上げて、 「何も居ねえぞ。」 「おお、居ねえ、居めえよ、お前。一つ劫かしておいて消えたずら。いつまでも顕われていそうな奴じゃあねえだ。」 「いまも言うた事だがや、この魚を狙ったにしては、小い奴だな。」 「それよ、海から己たちをつけて来たものではなさそうだ。出た処勝負に石段の上に立ちおったで。」 「己は、魚の腸から抜出した怨霊ではねえかと思う。」  と掴みかけた大魚腮から、わが声に驚いたように手を退けて言った。 「何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬なら、面が白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣々が立って、はあ、嘴が尖って、もずくのように毛が下った。」 「そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描いた河童そっくりだ。」  と、なぜか急に勢づいた。  絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。 「畜生。今ごろは風説にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよかった。――漁場へ遁げりゃ、それ、なかまへ饒舌る。加勢と来るだ。」 「それだ。」 「村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ引返して、しめた事よ。お前らと、己とで、河童に劫されたでは、うつむけにも仰向けにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。」 「そうだ、そうだ。いい事をした。――畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア打挫いて、欠片にバタをつけて一口だい。」  丸太棒を抜いて取り、引きそばめて、石段を睨上げたのは言うまでもない。 「コワイ」  と、虫の声で、青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴ばかりを出して、麓を瞰下しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。  その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生乱れ、どくだみの香深く、薊が凄じく咲き、野茨の花の白いのも、時ならぬ黄昏の仄明るさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢に響く波の音、吹当つる浜風は、葎を渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿深く、峰遥ならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶崖の端へ出て、ここを魚見岬とも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。  小男の頭は、この絶崖際の草の尖へ、あの、蕈の笠のようになって、ヌイと出た。  麓では、二人の漁夫が、横に寝た大魚をそのまま棄てて、一人は麦藁帽を取忘れ、一人の向顱巻が南瓜かぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、畝に暗く沈んだのである。――仔細は、魚が重くて上らない。魔ものが圧えるかと、丸太で空を切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようも知れぬ。腮が動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲りつけるほどの勇気も失せた。おお、姫神――明神は女体にまします――夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言が一致して、裸体の白い娘でない、御供を残して皈ったのである。  蒼ざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の干たような、自然の丘を繞らした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ薄明い。  右斜めに、鉾形の杉の大樹の、森々と虚空に茂った中に社がある。――こっちから、もう謹慎の意を表する状に、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、草摺の断れたような襤褸の袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。  まず聞け。――青苔に沁む風は、坂に草を吹靡くより、おのずから静ではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常盤木の落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。  のみならず。――すぐこの階のもとへ、灯ともしの翁一人、立出づるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる夜嵐の、やがて、颯と吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。  啾々と近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠の袂を敷いて、階の下に両膝をついた。  目ばかり光って、碧額の金字を仰いだと思うと、拍手のかわりに――片手は利かない――痩せた胸を三度打った。 「願いまっしゅ。……お晩でしゅ。」  と、きゃきゃと透る、しかし、あわれな声して、地に頭を摺りつけた。 「願いまっしゅ、お願い。お願い――」  正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕われると、ひらりと舞下り、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点れたように灯影が映る時、八十年にも近かろう、皺びた翁の、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎々とした禰宜いでたちで、蚊脛を絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧打袋を腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉烏帽子を頂いた、耳、ぼんの窪のはずれに、燈心はその十筋七筋の抜毛かと思う白髪を覗かせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬宝珠を背に控えたが。  屈むが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。―― 「和郎はの。」 「三里離れた処でしゅ。――国境の、水溜りのものでございまっしゅ。」 「ほ、ほ、印旛沼、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。」 「赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。」 「河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を上らしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。」 「神職様、おおせでっしゅ。――自動車に轢かれたほど、身体に怪我はあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶烏に負けんでしゅ。お鳥居より式台へ掛らずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。」 「ほ、ほう、しんびょう。」  ほくほくと頷いた。 「きものも、灰塚の森の中で、古案山子を剥いだでしゅ。」 「しんびょう、しんびょう……奇特なや、忰。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。」 「それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。」 「この老ぼれには何も叶わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。」 「薬でないでしゅ。――敵打がしたいのでっしゅ。」 「ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。」 「そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧嘩の仕返しがしたいのでっしゅ。」 「喧嘩をしたかの。喧嘩とや。」 「この左の手を折られたでしゅ。」  とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、雫の垂るのが、蓴菜に似た血のかたまりの、いまも流るるようである。  尖った嘴は、疣立って、なお蒼い。 「いたましげなや――何としてなあ。対手はどこの何ものじゃの。」 「畜生!人間。」 「静に――」  ごぼりと咳いて、 「御前じゃ。」  しゅッと、河童は身を縮めた。 「日の今日、午頃、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃巌へ。――神職様、小鮒、鰌に腹がくちい、貝も小蟹も欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯端を、八葉の蓮華に気取り、背後の屏風巌を、舟後光に真似て、円座して……翁様、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸凹凸凹凸凹と、累って敷く礁を削り廻しに、漁師が、天然の生簀、生船がまえにして、魚を貯えて置くでしゅが、鯛も鰈も、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬い残りの小こい鰯子が、チ、チ、チ、(笑う。)……青い鰭の行列で、巌竃の簀の中を、きらきらきらきら、日南ぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手唾して、……漁師が網を繕うでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞馴れぬ、すずしい澄んだ女子の声が、男に交って、崖上の岨道から、巌角を、踏んず、縋りつ、桂井とかいてあるでしゅ、印半纏。」 「おお、そか、この町の旅籠じゃよ。」 「ええ、その番頭めが案内でしゅ。円髷の年増と、その亭主らしい、長面の夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別嬪の娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清い、甘い、情のある、その声が堪らんでしゅ。」 「はて、異な声の。」 「おららが真似るようではないでしゅ。」 「ほ、ほ、そか、そか。」  と、余念なさそうに頷いた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白髪も浮世離れして、翁さびた風情である。 「翁様、娘は中肉にむっちりと、膚つきが得う言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄をくるりと。」 「危やの。おぬしの前でや。」 「その脛の白さ、常夏の花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裙をからげたでしゅ。巌根づたいに、鰒、鰒、栄螺、栄螺。……小鰯の色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……お紫と云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡い膏も、白粉も、娘の匂いそのままで、膚ざわりのただ粗い、岩に脱いだ白足袋の裡に潜って、熟と覗いていたでしゅが。一波上るわ、足許へ。あれと裳を、脛がよれる、裳が揚る、紅い帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。」 「ちと聞苦しゅう覚えるぞ。」 「口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様――処ででしゅ、この吸盤用意の水掻で、お尻を密と撫でようものと……」 「ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。」 「違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で怨恨はないでしゅ。……蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、」 「その口でか、その口じゃの。」 「ヒ、ヒ、ヒ、空ざまに、波の上の女郎花、桔梗の帯を見ますと、や、背負守の扉を透いて、道中、道すがら参詣した、中山の法華経寺か、かねて御守護の雑司ヶ谷か、真紅な柘榴が輝いて燃えて、鬼子母神の御影が見えたでしゅで、蛸遁げで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った。  沖がやがて曇ったでしゅ。あら、気味の悪い、浪がかかったかしら。……別嬪の娘の畜生め、などとぬかすでしゅ。……白足袋をつまんで。――  磯浜へ上って来て、巌の根松の日蔭に集り、ビイル、煎餅の飲食するのは、羨しくも何ともないでしゅ。娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨路へ飛ぼうとする処を、  ――まて、まて、まて――  と娘の声でしゅ。見惚れて顱が顕われたか、罷了と、慌てて足許の穴へ隠れたでしゅわ。  間の悪さは、馬蛤貝のちょうど隠家。――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、熟と覗く。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗さは、月宮殿の池ほどござり、睫が柳の小波に、岸を縫って、靡くでしゅが。――ただ一雫の露となって、逆に落ちて吸わりょうと、蕩然とすると、痛い、疼い、痛い、疼いッ。肩のつけもとを棒切で、砂越しに突挫いた。」 「その怪我じゃ。」 「神職様。――塩で釣出せぬ馬蛤のかわりに、太い洋杖でかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、這奴、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて不埒を働く。」 「ほ、ほ、そか、そか。――かわいや忰、忰が怨は番頭じゃ。」 「違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎飛んで、田打蟹が、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の沫を被って転がって遁げる時、口惜しさに、奴の穿いた、奢った長靴、丹精に磨いた自慢の向脛へ、この唾をかッと吐掛けたれば、この一呪詛によって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。――怨の的は、神職様――娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。」 「一通りは聞いた、ほ、そか、そか。……無理も道理も、老の一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。」 「御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の仇を視ながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、」  とたちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものか、知らず、駄々子がものねだりする状であった。 「忰、忰……まだ早い……泣くな。」  と翁は、白く笑った。 「大慈大悲は仏菩薩にこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、任侠の御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に縋ったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ――えいとな。……  や、や、や、横扉から、はや、お縁へ。……これは、また、お軽々しい。」  廻廊の縁の角あたり、雲低き柳の帳に立って、朧に神々しい姿の、翁の声に、つと打向いたまえるは、細面ただ白玉の鼻筋通り、水晶を刻んで、威のある眦。額髪、眉のかかりは、紫の薄い袖頭巾にほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。――紅地金襴のさげ帯して、紫の袖長く、衣紋に優しく引合わせたまえる、手かさねの両の袖口に、塗骨の扇つつましく持添えて、床板の朽目の青芒に、裳の紅うすく燃えつつ、すらすらと莟なす白い素足で渡って。――神か、あらずや、人か、巫女か。 「――その話の人たちを見ようと思う、翁、里人の深切に、すきな柳を欄干さきへ植えてたもったは嬉しいが、町の桂井館は葉のしげりで隠れて見えぬ。――広前の、そちらへ、参ろう。」  はらりと、やや蓮葉に白脛のこぼるるさえ、道きよめの雪の影を散らして、膚を守護する位が備わり、包ましやかなお面より、一層世の塵に遠ざかって、好色の河童の痴けた目にも、女の肉とは映るまい。  姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばかり、艶々と映った時、山鴉の嘴太が――二羽、小刻みに縁を走って、片足ずつ駒下駄を、嘴でコトンと壇の上に揃えたが、鴉がなった沓かも知れない、同時に真黒な羽が消えたのであるから。  足が浮いて、ちらちらと高く上ったのは――白い蝶が、トタンにその塗下駄の底を潜って舞上ったので。――見ると、姫はその蝶に軽く乗ったように宙を下り立った。 「お床几、お床几。」  と翁が呼ぶと、栗鼠よ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根の、黒檀のごとくに光沢あって、木目は、蘭を浮彫にしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。  袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひとしく、我を忘れて叫んだ。 「ああ、見えましゅ……あの向う丘の、二階の角の室に、三人が、うせおるでしゅ。」  姫の紫の褄下に、山懐の夏草は、淵のごとく暗く沈み、野茨乱れて白きのみ。沖の船の燈が二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館――桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。  が、鬼神の瞳に引寄せられて、社の境内なる足許に、切立の石段は、疾くその舷に昇る梯子かとばかり、遠近の法規が乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、鬢の房りした束髪と、薄手な年増の円髷と、男の貸広袖を着た棒縞さえ、靄を分けて、はっきりと描かれた。 「あの、三人は?」 「はあ、されば、その事。」  と、翁が手庇して傾いた。  社の神木の梢を鎖した、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、 「お爺さん――お取次。……ぽう、ぽっぽ。」  木菟の女性である。 「皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、姉分のものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。」 「や、や、千里眼。」  翁が仰ぐと、 「あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ。」  と空でいった。河童の一肩、聳えつつ、 「芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。」 「三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。」  翁ははじめて、気だるげに、横にかぶりを振って、 「芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。」 「お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。」  と河童は水掻のある片手で、鼻の下を、べろべろと擦っていった。 「おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生命を奪ろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は眇、女どもは片耳殺ぐか、鼻を削るか、蹇、跛どころかの――軽うて、気絶……やがて、息を吹返さすかの。」 「えい、神職様。馬蛤の穴にかくれた小さなものを虐げました。うってがえしに、あの、ご覧じ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大魚を、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯かけ、大な賽の目の出次第が、本望でしゅ。」 「ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。」  と云った。神に使うる翁の、この譬喩の言を聞かれよ。筆者は、大石投魚を顕わすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。  お天守の杉から、再び女の声で…… 「そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ――あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかり誘をかけますとね、ぽう、ぽっぽ――お社近まで参りましょう。石段下へ引寄せておいて、石投魚の亡者を飛上らせるだけでも用はたりましょうと存じますのよ。ぽう、ぽっぽ――あれ、ね、娘は髪のもつれを撫つけております、頸の白うございますこと。次の室の姿見へ、年増が代って坐りました。――感心、娘が、こん度は円髷、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷の鬢を撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。酷いめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相ですけど。……もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って洋杖なんかもって――あれでしょう。三郎さんを突いたのは――帰途は杖にして縋ろうと思って、ぽう、ぽっぽ。……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」  真暗な杉に籠って、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌いた、女顔の木菟の、紅い嘴で笑うのが、見えるようで凄じい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧道を覗かす状に、遥にその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が顕れた。  向う歯の金歯が光って、印半纏の番頭が、沓脱の傍にたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。捻り廻して鬱いだ顔色は、愍然や、河童のぬめりで腐って、ポカンと穴があいたらしい。まだ宵だというに、番頭のそうした処は、旅館の閑散をも表示する……背後に雑木山を控えた、鍵の手形の総二階に、あかりの点いたのは、三人の客が、出掛けに障子を閉めた、その角座敷ばかりである。  下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で歩行板を衝と渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃驚して、長靴を掴んだなりで、金歯を剥出しに、世辞笑いで、お叩頭をした。  女中が二人出て送る。その玄関の燈を背に、芝草と、植込の小松の中の敷石を、三人が道なりに少し畝って伝って、石造の門にかかげた、石ぼやの門燈に、影を黒く、段を降りて砂道へ出た。が、すぐ町から小半町引込んだ坂で、一方は畑になり、一方は宿の囲の石垣が長く続くばかりで、人通りもなく、そうして仄暗い。  ト、町へたらたら下りの坂道を、つかつかと……わずかに白い門燈を離れたと思うと、どう並んだか、三人の右の片手三本が、ひょいと空へ、揃って、踊り構えの、さす手に上った。同時である。おなじように腰を捻った。下駄が浮くと、引く手が合って、おなじく三本の手が左へ、さっと流れたのがはじまりで、一列なのが、廻って、くるくると巴に附着いて、開いて、くるりと輪に踊る。花やかな娘の笑声が、夜の底に響いて、また、くるりと廻って、手が流れて、褄が飜る。足腰が、水馬の刎ねるように、ツイツイツイと刎ねるように坂くだりに行く。……いや、それがまた早い。娘の帯の、銀の露の秋草に、円髷の帯の、浅葱に染めた色絵の蛍が、飛交って、茄子畑へ綺麗にうつり、すいと消え、ぱっと咲いた。 「酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二三杯。」と河童が舌打して言った。 「よい、よい、遠くなり、近くなり、あの破鐘を持扱う雑作に及ばぬ。お山の草叢から、黄腹、赤背の山鱗どもを、綯交ぜに、三筋の処を走らせ、あの踊りの足許へ、茄子畑から、にょっにょっと、蹴出す白脛へ搦ましょう。」この時の白髪は動いた。 「爺い。」 「はあ。」と烏帽子が伏る。  姫は床几に端然と、 「男が、口のなかで拍子を取るが……」  翁は耳を傾け、皺手を当てて聞いた。 「拍子ではござりませぬ、ぶつぶつと唄のようで。」 「さすが、商売人。――あれに笛は吹くまいよ、何と唄うえ。」 「分りましたわ。」と、森で受けた。 「……諏訪――の海――水底、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡さじ……おーもーしーろーお神楽らしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓の霞――峰の白雪。」 「それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気の疾い。」  紫の袖が解けると、扇子が、柳の膝に、丁と当った。  びくりとして、三つ、ひらめく舌を縮めた。風のごとく駆下りた、ほとんど魚の死骸の鰭のあたりから、ずるずると石段を這返して、揃って、姫を空に仰いだ、一所の鎌首は、如意に似て、ずるずると尾が長い。  二階のその角座敷では、三人、顔を見合わせて、ただ呆れ果ててぞいたりける風情がある。  これは、さもありそうな事で、一座の立女形たるべき娘さえ、十五十六ではない、二十を三つ四つも越しているのに。――円髷は四十近で、笛吹きのごときは五十にとどく、というのが、手を揃え、足を挙げ、腰を振って、大道で踊ったのであるから。――もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした草臥れた態で、真中に三方から取巻いた食卓の上には、茶道具の左右に、真新しい、擂粉木、および杓子となんいう、世の宝貝の中に、最も興がった剽軽ものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが可訝いくらい。ついでに婦二人の顔が杓子と擂粉木にならないのが不思議なほど、変な外出の夜であった。 「どうしたっていうんでしょう。」  と、娘が擂粉木の沈黙を破って、 「誰か、見ていやしなかったかしら、可厭だ、私。」  と頤を削ったようにいうと、年増は杓子で俯向いて、寂しそうに、それでも、目もとには、まだ笑の隈が残って消えずに、 「誰が見るものかね。踊よりか、町で買った、擂粉木とこの杓もじをさ、お前さんと私とで、持って歩行いた方がよっぽどおかしい。」 「だって、おばさん――どこかの山の神様のお祭に踊る時には、まじめな道具だって、おじさんが言うんじゃないの。……御幣とおんなじ事だって。……だから私――まじめに町の中を持ったんだけれど、考えると――変だわね。」 「いや、まじめだよ。この擂粉木と杓子の恩を忘れてどうする。おかめひょっとこのように滑稽もの扱いにするのは不届き千万さ。」  さて、笛吹――は、これも町で買った楊弓仕立の竹に、雀が針がねを伝って、嘴の鈴を、チン、カラカラカラカラカラ、チン、カラカラと飛ぶ玩弄品を、膝について、鼻の下の伸びた顔でいる。……いや、愚に返った事は――もし踊があれなりに続いて、下り坂を発奮むと、町の真中へ舞出して、漁師町の棟を飛んで、海へころげて落ちたろう。  馬鹿気ただけで、狂人ではないから、生命に別条はなく鎮静した。――ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、飛騨、三河、信濃の国々の谷谷谷深く相交叉する、山また山の僻村から招いた、山民一行の祭に参じた。桜、菖蒲、山の雉子の花踊。赤鬼、青鬼、白鬼の、面も三尺に余るのが、斧鉞の曲舞する。浄め砂置いた広庭の壇場には、幣をひきゆい、注連かけわたし、来ります神の道は、(千道、百綱、道七つ。)とも言えば、(綾を織り、錦を敷きて招じる。)と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、巧を凝らして、千道百綱を虹のように。飾の鳥には、雉子、山鶏、秋草、もみじを切出したのを、三重、七重に――たなびかせた、その真中に、丸太薪を堆く烈々と燻べ、大釜に湯を沸かせ、湯玉の霰にたばしる中を、前後に行違い、右左に飛廻って、松明の火に、鬼も、人も、神巫も、禰宜も、美女も、裸も、虎の皮も、紅の袴も、燃えたり、消えたり、その、ひゅうら、ひゅ、ひゅうら、ひゅ、諏訪の海、水底照らす小玉石、を唄いながら、黒雲に飛行する、その目覚しさは……なぞと、町を歩行きながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装したのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う隙あらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、装を凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る……と話す頃は、円髷が腹筋を横によるやら、娘が拝むようにのめって俯向いて笑うやら。ちょっとまた踊が憑いた形になると、興に乗じて、あの番頭を噴出させなくっては……女中をからかおう。……で、あろう事か、荒物屋で、古新聞で包んでよこそう、というものを、そのままで結構よ。第一色気ざかりが露出しに受取ったから、荒物屋のかみさんが、おかしがって笑うより、禁厭にでもするのか、と気味の悪そうな顔をしたのを、また嬉しがって、寂寥たる夜店のあたりを一廻り。横町を田畝へ抜けて――はじめから志した――山の森の明神の、あの石段の下へ着いたまでは、馬にも、猪にも乗った勢だった。  そこに……何を見たと思う。――通合わせた自動車に、消えて乗って、わずかに三分。……  宿へ遁返った時は、顔も白澄むほど、女二人、杓子と擂粉木を出来得る限り、掻合わせた袖の下へ。――あら、まあ、笛吹は分別で、チン、カラカラカラ、チン。わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目を逸らさせたほどなのであった。 「いわば、お儀式用の宝ものといっていいね、時ならない食卓に乗ったって、何も気味の悪いことはないよ。」 「気味の悪いことはないったって、一体変ね、帰る途でも言ったけれど、行がけに先刻、宿を出ると、いきなり踊出したのは誰なんでしょう。」 「そりゃ私だろう。掛引のない処。お前にも話した事があるほどだし、その時の祭の踊を実地に見たのは、私だから。」 「ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。……話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする。」 「あら、おばさん、私のようよ、いきなりひとりでに、すっと手の上ったのは。」 「まさか、巻込まれたのなら知らないこと――お婿さんをとるのに、間違ったら、高島田に結おうという娘の癖に。」 「おじさん、ひどい、間違ったら高島田じゃありません、やむを得ず洋髪なのよ。」 「おとなしくふっくりしてる癖に、時々ああいう口を利くんですからね。――吃驚させられる事があるんです。――いつかも修善寺の温泉宿で、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れた流の瀬があるでしょう。巌組にこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れが煽って、こう、颯とせく、落口の巌角を刎ね越すのは苦艱らしい……しばらく見ていると、だんだんにみんな上った、一つ残ったのが、ああもう少し、もう一息という処で滝壺へ返って落ちるんです。そこよ、しっかりッてこの娘――口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、熟と視たと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、跣足で、跣足で跨いで――お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦の廂から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をいきなりつかむと、滝の上へ泳がせたじゃありませんか。」 「説明に及ばず。私も一所に見ていたよ。吃驚した。時々放れ業をやる。それだから、縁遠いんだね。たとえばさ、真のおじきにした処で、いやしくも男の前だ。あれでは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙へ上げたんだ。――」 「知らない、おじさん。」 「もっとも、一所に道を歩行いていて、左とか右とか、私と説が違って、さて自分が勝つと――銀座の人込の中で、どうです、それ見たか、と白い……」 「多謝。」 「逞しい。」 「取消し。」 「腕を、拳固がまえの握拳で、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突出した事があるんだからね。」 「まだ、踊ってるようだわね、話がさ。」 「私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ。」 「いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人同時だ。」 「可厭ねえ、気味の悪い。」 「ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。……ここから門のすぐ向うの茄子畠を見ていたら、影法師のような小さなお媼さんが、杖に縋ってどこからか出て来て、畑の真中へぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤鍬じゃなかったんですもの。あの、持ってたもの撞木じゃありません? 悚然とする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。」 「大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、生れ生れ茄子のまじないだよ。」 「でも、畑のまた下道には、古い穀倉があるし、狐か、狸か。」 「そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段が辷るだの、お前さんたち、蛇が可恐いのといって、失礼した。――今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った――毎朝拍手は打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、千木のお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五月雨の徒然に、踊を見よう。――さあ、その気で、更めて、ここで真面目に踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。」  笛吹は、こまかい薩摩の紺絣の単衣に、かりものの扱帯をしめていたのが、博多を取って、きちんと貝の口にしめ直し、横縁の障子を開いて、御社に。――一座退って、女二人も、慎み深く、手をつかえて、ぬかずいた。  栗鼠が仰向けにひっくりかえった。  あの、チン、カラ、カラカラカラカラ、笛吹の手の雀は雀、杓子は、しゃ、しゃ、杓子と、す、す、す、擂粉木を、さしたり、引いたり、廻り踊る。ま、ま、真顔を見さいな。笑わずにいられるか。  泡を吐き、舌を噛み、ぶつぶつ小じれに焦れていた、赤沼の三郎が、うっかりしたように、思わず、にやりとした。  姫は、赤地錦の帯脇に、おなじ袋の緒をしめて、守刀と見参らせたは、あらず、一管の玉の笛を、すっとぬいて、丹花の唇、斜めに氷柱を含んで、涼しく、気高く、歌口を――  木菟が、ぽう、と鳴く。  社の格子が颯と開くと、白兎が一羽、太鼓を、抱くようにして、腹をゆすって笑いながら、撥音を低く、かすめて打った。  河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。  見返りたまい、 「三人を堪忍してやりゃ。」 「あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――藪の穴から狐も覗いて――あはは、石投魚も、ぬさりと立った。」  わっと、けたたましく絶叫して、石段の麓を、右往左往に、人数は五六十、飛んだろう。  赤沼の三郎は、手をついた――もうこうまいる、姫神様。…… 「愛想のなさよ。撫子も、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ。」  取らしょうと、笛の御手に持添えて、濃い紫の女扇を、袖すれにこそたまわりけれ。  片手なぞ、今は何するものぞ。 「おんたまものの光は身に添い、案山子のつづれも錦の直垂。」  翁が傍に、手を挙げた。 「石段に及ばぬ、飛んでござれ。」 「はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼溟に館を造る、跋難佗竜王、娑伽羅竜王、摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱の微輩。馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、劫火、敵火、爆火、手一つでも消しますでしゅ、ごめん。」  とばかり、ひょうと飛んだ。 ひょう、ひょう。  翁が、ふたふたと手を拍いて、笑い、笑い、 「漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手負が、白い脛で落ちると愍然じゃ。見送ってやれの――鴉、鴉。」     かあ、かあ。 ひょう、ひょう。     かあ、かあ。 ひょう、ひょう。  雲は低く灰汁を漲らして、蒼穹の奥、黒く流るる処、げに直顕せる飛行機の、一万里の荒海、八千里の曠野の五月闇を、一閃し、掠め去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。 ひょう、ひょう。     かあ、かあ。  北をさすを、北から吹く、逆らう風はものともせねど、海洋の濤のみだれに、雨一しきり、どっと降れば、上下に飛かわり、翔交って、 かあ、かあ。     ひょう、ひょう。 かあ、かあ。     ひょう、ひょう。 かあ、かあ。     ひょう、 ひょう。     ………… ………… 昭和六(一九三一)年九月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日第1刷発行 初出:「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房    1931(昭和6)年9月 ※初出時の題名は「貝の穴に河童が居る」です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:本山智子 校正:門田裕志 2001年7月19日公開 2012年5月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003315", "作品名": "貝の穴に河童の居る事", "作品名読み": "かいのあなにかっぱのいること", "ソート用読み": "かいのあなにかつはのいること", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房、1931(昭和6)年9月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-07-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3315.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成8", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "本山智子", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3315_ruby_19573.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-05-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3315_19574.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-05-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 ただ仰向けに倒れなかったばかりだったそうである、松村信也氏――こう真面目に名のったのでは、この話の模様だと、御当人少々極りが悪いかも知れない。信也氏は東――新聞、学芸部の記者である。  何しろ……胸さきの苦しさに、ほとんど前後を忘じたが、あとで注意すると、環海ビルジング――帯暗白堊、五階建の、ちょうど、昇って三階目、空に聳えた滑かに巨大なる巌を、みしと切組んだようで、芬と湿りを帯びた階段を、その上へなお攀上ろうとする廊下であった。いうまでもないが、このビルジングを、礎から貫いた階子の、さながら只中に当っていた。  浅草寺観世音の仁王門、芝の三門など、あの真中を正面に切って通ると、怪異がある、魔が魅すと、言伝える。偶然だけれども、信也氏の場合は、重ねていうが、ビルジングの中心にぶつかった。  また、それでなければ、行路病者のごとく、こんな壁際に踞みもしまい。……動悸に波を打たし、ぐたりと手をつきそうになった時は、二河白道のそれではないが――石段は幻に白く浮いた、卍の馬の、片鐙をはずして倒に落ちそうにさえ思われた。  いや、どうもちっと大袈裟だ。信也氏が作者に話したのを直接に聞いた時は、そんなにも思わなかった。が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。  宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、十二三人、気の置けない会合があって、狭い卓子を囲んだから、端から端へ杯が歌留多のようにはずむにつけ、店の亭主が向顱巻で気競うから菊正宗の酔が一層烈しい。  ――松村さん、木戸まで急用――  いけ年を仕った、学芸記者が馴れない軽口の逃口上で、帽子を引浚うと、すっとは出られぬ、ぎっしり詰合って飲んでいる、めいめいが席を開き、座を立って退口を譲って通した。――「さ、出よう、遅い遅い。」悪くすると、同伴に催促されるまで酔潰れかねないのが、うろ抜けになって出たのである。どうかしてるぜ、憑ものがしたようだ、怪我をしはしないか、と深切なのは、うしろを通して立ったまま見送ったそうである。  が、開き直って、今晩は、環海ビルジングにおいて、そんじょその辺の芸妓連中、音曲のおさらいこれあり、頼まれました義理かたがた、ちょいと顔を見に参らねばなりませぬ。思切って、ぺろ兀の爺さんが、肥った若い妓にしなだれたのか、浅葱の襟をしめつけて、雪駄をちゃらつかせた若いものでないと、この口上は――しかも会費こそは安いが、いずれも一家をなし、一芸に、携わる連中に――面と向っては言いかねる、こんな時に持出す親はなし、やけに女房が産気づいたと言えないこともないものを、臨機縦横の気働きのない学芸だから、中座の申訳に困り、熱燗に舌をやきつつ、飲む酒も、ぐッぐと咽喉へ支えさしていたのが、いちどきに、赫となって、その横路地から、七彩の電燈の火山のごとき銀座の木戸口へ飛出した。  たちまち群集の波に捲かれると、大橋の橋杭に打衝るような円タクに、 「――環海ビルジング」 「――もう、ここかい――いや、御苦労でした――」  おやおや、会場は近かった。土橋寄りだ、と思うが、あの華やかな銀座の裏を返して、黒幕を落したように、バッタリ寂しい。……大きな建物ばかり、四方に聳立した中にこの仄白いのが、四角に暗夜を抽いた、どの窓にも光は見えず、靄の曇りで陰々としている。――場所に間違いはなかろう――大温習会、日本橋連中、と門柱に立掛けた、字のほかは真白な立看板を、白い電燈で照らしたのが、清く涼しいけれども、もの寂しい。四月の末だというのに、湿気を含んだ夜風が、さらさらと辻惑いに吹迷って、卯の花を乱すばかり、颯と、その看板の面を渡った。  扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の諸脚の真黒な筋のごとく、二ヶ処に洞穴をふんで、冷く、不気味に突立っていたのである。  ――まさか、そんな事はあるまい、まだ十時だ――  が、こうした事に、もの馴れない、学芸部の了簡では、会場にさし向う、すぐ目前、紅提灯に景気幕か、時節がら、藤、つつじ。百合、撫子などの造花に、碧紫の電燈が燦然と輝いて――いらっしゃい――受附でも出張っている事、と心得違いをしていたので。  どうやら、これだと、見た処、会が済んだあとのように思われる。  ――まさか、十時、まだ五分前だ――  立っていても、エレベエタアは水に沈んだようで動くとも見えないから、とにかく、左へ石梯子を昇りはじめた。元来慌てもののせっかちの癖に、かねて心臓が弱くて、ものの一町と駆出すことが出来ない。かつて、彼の叔父に、ある芸人があったが、六十七歳にして、若いものと一所に四国に遊んで、負けない気で、鉄枴ヶ峰へ押昇って、煩って、どっと寝た。  聞いてさえ恐れをなすのに――ここも一種の鉄枴ヶ峰である。あまつさえ、目に爽かな、敷波の松、白妙の渚どころか、一毛の青いものさえない。……草も木も影もない。まだ、それでも、一階、二階、はッはッ肩で息ながら上るうちには、芝居の桟敷裏を折曲げて、縦に突立てたように――芸妓の温習にして見れば、――客の中なり、楽屋うちなり、裙模様を着けた草、櫛さした木の葉の二枚三枚は、廊下へちらちらとこぼれて来よう。心だのみの、それが仇で、人けがなさ過ぎると、虫も這わぬ。  心は轟く、脉は鳴る、酒の酔を円タクに蒸されて、汗ばんだのを、車を下りてから一度夜風にあたった。息もつかず、もうもうと四面の壁の息を吸って昇るのが草いきれに包まれながら、性の知れない、魔ものの胴中を、くり抜きに、うろついている心地がするので、たださえ心臓の苦しいのが、悪酔に嘔気がついた。身悶えをすれば吐きそうだから、引返して階下へ抜けるのさえむずかしい。  突俯して、(ただ仰向けに倒れないばかり)であった――  で、背くぐみに両膝を抱いて、動悸を圧え、潰された蜘蛛のごとくビルジングの壁際に踞んだ処は、やすものの、探偵小説の挿画に似て、われながら、浅ましく、情ない。 「南無、身延様――三百六十三段。南無身延様、三百六十四段、南無身延様、三百六十五段……」  もう一息で、頂上の境内という処だから、団扇太鼓もだらりと下げて、音も立てず、千箇寺参りの五十男が、口で石段の数取りをしながら、顔色も青く喘ぎ喘ぎ上るのを――下山の間際に視たことがある。  思出す、あの……五十段ずつ七折ばかり、繋いで掛け、雲の桟に似た石段を――麓の旅籠屋で、かき玉の椀に、きざみ昆布のつくだ煮か、それはいい、あろう事か、朝酒を煽りつけた勢で、通しの夜汽車で、疲れたのを顧みず――時も八月、極暑に、矢声を掛けて駆昇った事がある。……  呼吸が切れ、目が眩むと、あたかも三つ目と想う段の継目の、わずかに身を容るるばかりの石の上へ仰ぎ倒れた。胸は上の段、およそ百ばかりに高く波を打ち、足は下の段、およそ百ばかりに震えて重い。いまにも胴中から裂けそうで、串戯どころか、その時は、合掌に胸を緊めて、真蒼になって、日盛の蚯蚓でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中で目を瞑ろうとしたのである。  上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。  酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、縋って這うばかりにして、辛うじて頂上へ辿ることが出来た。立処に、無熱池の水は、白き蓮華となって、水盤にふき溢れた。  ――ああ、一口、水がほしい――  実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。  何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。  ……その冷く快かった入口の、立看板の白く冴えて寂しいのも、再び見る、露に濡れた一叢の卯の花の水の栞をすると思うのも、いまは谷底のように遠く、深い。ここに、突当りに切組んで、二段ばかり目に映る階段を望んで次第に上層を思うと、峰のごとく遥に高い。  気が違わぬから、声を出して人は呼ばれず、たすけを、人を、水をあこがれ求むる、瞳ばかり睜ったが、すぐ、それさえも茫となる。  その目に、ひらりと影が見えた。真向うに、矗立した壁面と、相接するその階段へ、上から、黒く落ちて、鳥影のように映った。が、羽音はしないで、すぐその影に薄りと色が染まって、婦の裾になり、白い蝙蝠ほどの足袋が出て、踏んだ草履の緒が青い。  翼に藍鼠の縞がある。大柄なこの怪しい鳥は、円髷が黒かった。  目鼻立ちのばらりとした、額のやや広く、鼻の隆いのが、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦の肌の香だか、芬とにおって酒臭い。 「酔ってますね、ほほほ。」  蓮葉に笑った、婦の方から。――これが挨拶らしい。が、私が酔っています、か、お前さんは酔ってるね、だか分らない。 「やあ。」  と、渡りに船の譬喩も恥かしい。水に縁の切れた糸瓜が、物干の如露へ伸上るように身を起して、 「――御連中ですか、お師匠……」  と言った。  薄手のお太鼓だけれども、今時珍らしい黒繻子豆絞りの帯が弛んで、一枚小袖もずるりとした、はだかった胸もとを、きちりと紫の結目で、西行法師――いや、大宅光国という背負方をして、樫であろう、手馴れて研ぎのかかった白木の細い……所作、稽古の棒をついている。とりなりの乱れた容子が、長刀に使ったか、太刀か、刀か、舞台で立廻りをして、引込んで来たもののように見えた。  ところが、目皺を寄せ、頬を刻んで、妙に眩しそうな顔をして、 「おや、師匠とおいでなすったね、おとぼけでないよ。」  とのっけから、 「ちょいと旦那、この敷石の道の工合は、河岸じゃありませんね、五十間。しゃっぽの旦那は、金やろかいじゃあない……何だっけ……銭とるめんでしょう、その口から、お師匠さん、あれ、恥かしい。」  と片袖をわざと顔にあてて俯向いた、襟が白い、が白粉まだらで。…… 「……風体を、ごらんなさいよ。ピイと吹けば瞽女さあね。」  と仰向けに目をぐっと瞑り、口をひょっとこにゆがませると、所作の棒を杖にして、コトコトと床を鳴らし、めくら反りに胸を反らした。 「按摩かみしも三百もん――ひけ過ぎだよ。あいあい。」  あっと呆気に取られていると、 「鉄棒の音に目をさまし、」  じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を熟と見ると、 「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」 「…………」 「それ……と、たしか松村さん。」  心当りはまるでない。 「松村です、松村は確かだけれど、あやふやな男ですがね、弱りました、弱ったとも弱りましたよ。いや、何とも。」  上脊があるから、下にしゃがんだ男を、覗くように傾いて、 「どうなさいました、まあ。」 「何の事はありません。」  鉄枴ヶ峰では分るまい…… 「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」 「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」 「ええ。」  ビルジングの三階から、ほうり出されたようである。 「しかし、師匠は。」 「あれさ、それだけはよして頂戴よ。ししょう……もようもない、ほほほ。こりゃ、これ、かみがたの口合や。」  と手の甲で唇をたたきながら、 「場末の……いまの、ルンならいいけど、足の生えた、ぱんぺんさ。先生、それも、お前さん、いささかどうでしょう、ぷんと来た処をふり売りの途中、下の辻で、木戸かしら、入口の看板を見ましてね、あれさ、お前さん、ご存じだ……」  という。が、お前さんにはいよいよ分らぬ。 「鶏卵と、玉子と、字にかくとおんなじというめくらだけれど、おさらいの看板ぐらいは形でわかりますからね、叱られやしないと多寡をくくって、ふらふらと入って来ましたがね。おさらいや、おおさえや、そんなものは三番叟だって、どこにも、やってやしませんのさ。」 「はあ。」  とばかり。 「お前さんも、おさらいにおいでなすったという処で見ると、満ざら、私も間違えたんじゃアありませんね。ことによったら、もう刎ねっちまったんじゃありませんか。」  さあ…… 「成程、で、その連中でないとすると、弱ったなあ。……失礼だが、まるっきりお見それ申したがね。」 「ええ、ええ、ごもっとも、お目に掛ったのは震災ずっと前でござんすもの。こっちは、商売、慾張ってますから、両三度だけれど覚えていますわ。お分りにならない筈……」  と無雑作な中腰で、廊下に、斜に向合った。 「吉原の小浜屋(引手茶屋)が、焼出されたあと、仲之町をよして、浜町で鳥料理をはじめました。それさ、お前さん、鶏卵と、玉子と同類の頃なんだよ。京千代さんの、鴾さんと、一座で、お前さんおいでなすった……」 「ああ、そう……」  夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に芸妓の娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏――画名は遠慮しよう、実の名は淳之助である。 (――つい、今しがた銀座で一所に飲んでいた――)  この場合、うっかり口へ出そうなのを、ふと控えたのは、この婦が、見た処の容子だと、銀座へ押掛けようと言いかねまい。……  そこの腰掛では、現に、ならんで隣合った。画会では権威だと聞く、厳しい審査員でありながら、厚ぼったくなく、もの柔にすらりとしたのが、小丼のもずくの傍で、海を飛出し、銀に光る、鰹の皮づくりで、静に猪口を傾けながら、 「おや、もう帰る。」信也氏が早急に席を出た時、つまの蓼を真青に噛んで立ったのがその画伯であった。 「ああ、やっと、思出した……おつまさん。」 「市場の、さしみの……」  と莞爾する。 「おさらいは構わないが、さ、さしあたって、水の算段はあるまいか、一口でもいいんだが。」 「おひや。暑そうね、お前さん、真赤になって。」  と、扇子を抜いて、風をくれつつ、 「私も暑い。赤いでしょう。」 「しんは青くなっているんだよ……息が切れて倒れそうでね。」 「おひや、ありますよ。」 「有りますか。」 「もう、二階ばかり上の高い処に、海老屋の屋根の天水桶の雪の遠見ってのがありました。」 「聞いても飛上りたいが、お妻さん、動悸が激しくって、動くと嘔きそうだ。下へもおりられないんだよ。恩に被るから、何とか一杯。」 「おっしゃるな。すぐに算段をしますから。まったく、いやに蒸すことね。その癖、乾き切ってさ。」  とついと立って、 「五月雨の……と心持でも濡れましょう。池の菰に水まして、いずれが、あやめ杜若、さだかにそれと、よし原に、ほど遠からぬ水神へ……」  扇子をつかって、トントンと向うの段を、天井の巣へ、鳥のようにひらりと行く。  一あめ、さっと聞くおもい、なりも、ふりも、うっちゃった容子の中に、争われぬ手練が見えて、こっちは、吻と息を吐いた。……  ――踊が上手い、声もよし、三味線はおもて芸、下方も、笛まで出来る。しかるに芸人の自覚といった事が少しもない。顔だちも目についたが、色っぽく見えない処へ、媚しさなどは気もなかった。その頃、銀座さんと称うる化粧問屋の大尽があって、新に、「仙牡丹」という白粉を製し、これが大当りに当った、祝と披露を、枕橋の八百松で催した事がある。  裾を曳いて帳場に起居の女房の、婀娜にたおやかなのがそっくりで、半四郎茶屋と呼ばれた引手茶屋の、大尽は常客だったが、芸妓は小浜屋の姉妹が一の贔屓だったから、その祝宴にも真先に取持った。……当日は伺候の芸者大勢がいずれも売出しの白粉の銘、仙牡丹に因んだ趣向をした。幇間なかまは、大尽客を、獅子に擬え、黒牡丹と題して、金の角の縫いぐるみの牛になって、大広間へ罷出で、馬には狐だから、牛に狸が乗った、滑稽の果は、縫ぐるみを崩すと、幇間同士が血のしたたるビフテキを捧げて出た、獅子の口へ、身を牲にして奉った、という生命を賭した、奉仕である。 (――同町内というではないが、信也氏は、住居も近所で、鴾画伯とは別懇だから、時々その細君の京千代に、茶の間で煙草話に聞いている――)  小浜屋の芸妓姉妹は、その祝宴の八百松で、その京千代と、――中の姉のお民――(これは仲之町を圧して売れた、)――小股の切れた、色白なのが居て、二人で、囃子を揃えて、すなわち連獅子に骨身を絞ったというのに――上の姉のこのお妻はどうだろう。興酣なる汐時、まのよろしからざる処へ、田舎の媽々の肩手拭で、引端折りの蕎麦きり色、草刈籠のきりだめから、へぎ盆に取って、上客からずらりと席順に配って歩行いて、「くいなせえましょう。」と野良声を出したのを、何だとまあ思います? (――鴾の細君京千代のお京さんの茶の間話に聞いたのだが――)  つぶし餡の牡丹餅さ。ために、浅からざる御不興を蒙った、そうだろう。新製売出しの当り祝につぶしは不可い。のみならず、酒宴の半ばへ牡丹餅は可笑しい。が、すねたのでも、諷したのでも何でもない、かのおんなの性格の自然に出でた趣向であった。  ……ここに、信也氏のために、きつけの水を汲むべく、屋根の雪の天水桶を志して、環海ビルジングを上りつつある、つぶし餡のお妻が、さてもその後、黄粉か、胡麻か、いろが出来て、日光へ駆落ちした。およそ、獅子大じんに牡丹餅をくわせた姉さんなるものの、生死のあい手を考えて御覧なさい。相撲か、役者か、渡世人か、いきな処で、こはだの鮨は、もう居ない。捻った処で、かりん糖売か、皆違う。こちの人は、京町の交番に新任のお巡査さん――もっとも、角海老とかのお職が命まで打込んで、上り藤の金紋のついた手車で、楽屋入をさせたという、新派の立女形、二枚目を兼ねた藤沢浅次郎に、よく肖ていたのだそうである。  あいびきには無理が出来る。いかんせん世の習である。いずれは身のつまりで、遁げて心中の覚悟だった、が、華厳の滝へ飛込んだり、並木の杉でぶら下ろうなどというのではない。女形、二枚目に似たりといえども、彰義隊の落武者を父にして旗本の血の流れ淙々たる巡査である。御先祖の霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――洋刀か――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、峨々たる巌石を背に、十文字の立ち腹を掻切って、大蘇芳年の筆の冴を見よ、描く処の錦絵のごとく、黒髪山の山裾に血を流そうとしたのであった。が、仏法僧のなく音覚束なし、誰に助けらるるともなく、生命生きて、浮世のうらを、古河銅山の書記になって、二年ばかり、子まで出来たが、気の毒にも、山小屋、飯場のパパは、煩ってなくなった。  お妻は石炭屑で黒くなり、枝炭のごとく、煤けた姑獲鳥のありさまで、おはぐろ溝の暗夜に立ち、刎橋をしょんぼりと、嬰児を抱いて小浜屋へ立帰る。……と、場所がよくない、そこらの口の悪いのが、日光がえりを、美術の淵源地、荘厳の廚子から影向した、女菩薩とは心得ず、ただ雷の本場と心得、ごろごろさん、ごろさんと、以来かのおんなを渾名した。――嬰児が、二つ三つ、片口をきくようになると、可哀相に、いつどこで覚えたか、ママを呼んで、ごよごよちゃん、ごよちゃま。  ○日月星昼夜織分――ごろからの夫婦喧嘩に、なぜ、かかさんをぶたしゃんす、もうかんにんと、ごよごよごよ、と雷の児が泣いて留める、件の浄瑠璃だけは、一生の断ちものだ、と眉にも頬にも皺を寄せたが、のぞめば段もの端唄といわず、前垂掛けで、朗に、またしめやかに、唄って聞かせるお妻なのであった。  前垂掛――そう、髪もいぼじり巻同然で、紺の筒袖で台所を手伝いながら――そう、すなわち前に言った、浜町の鳥料理の頃、鴾氏に誘われて四五度出掛けた。お妻が、わが信也氏を知ったというはそこなのである。が、とりなりも右の通りで、ばあや、同様、と遠慮をするのを、鴾画伯に取っては、外戚の姉だから、座敷へ招じて盃をかわし、大分いけて、ほろりと酔うと、誘えば唄いもし、促せば、立って踊った。家元がどうの、流儀がどうの、合方の調子が、あのの、ものの、と七面倒に気取りはしない。口三味線で間にあって、そのまま動けば、筒袖も振袖で、かついだ割箸が、柳にしない、花に咲き、さす手の影は、じきそこの隅田の雲に、時鳥がないたのである。  それでは、おなじに、吉原を焼出されて、一所に浜町へ落汐か、というと、そうでない。ママ、ごよごよは出たり引いたり、ぐれたり、飲んだり、八方流転の、そして、その頃はまた落込みようが深くって、しばらく行方が知れなかった。ほども遠い、……奥沢の九品仏へ、廓の講中がおまいりをしたのが、あの辺の露店の、ぼろ市で、着たのはくたびれた浴衣だが、白地の手拭を吉原かぶりで、色の浅黒い、すっきり鼻の隆いのが、朱羅宇の長煙草で、片靨に煙草を吹かしながら田舎の媽々と、引解ものの価の掛引をしていたのを視たと言う……その直後である……浜町の鳥料理。  お妻が……言った通り、気軽に唄いもし、踊りもしたのに、一夜、近所から時借りの、三味線の、爪弾で…… 丑みつの、鐘もおとなき古寺に、ばけものどしがあつまりア……  ――おや、聞き馴れぬ、と思う、うたの続きが糸に紛れた。―― きりょうも、いろも、雪おんな……  ずどんと鳴って、壁が揺れた。雪見を喜ぶ都会人でも、あの屋根を辷る、軒しずれの雪の音は、凄じいのを知って驚く……春の雨だが、ざんざ降りの、夜ふけの忍駒だったから、かぶさった雪の、その落ちる、雪のその音か、と吃驚したが、隣の間から、小浜屋の主婦が襖をドシンと打ったのが、古家だから、床の壁まで家鳴をするまで響いたのである。  お妻が、糸の切れたように、黙った。そうしてうつむいた。 「――魔が魅すといいますから――」  一番鶏であろう……鶏の声が聞こえて、ぞっとした。――引手茶屋がはじめた鳥屋でないと、深更に聞く、鶏の声の嬉しいものでないことに、読者のお察しは、どうかと思う。  時に、あの唄は、どんな化ものが出るのだろう。鴾氏も、のちにお京さん――細君に聞いた。と、忘れたと云って教えなかった。 「――まだ小どもだったんですもの――」  浜町の鳥屋は、すぐ潰れた。小浜屋一家は、世田ヶ谷の奥へ引込んで、唄どころか、おとずれもなかったのである。 (この話の中へも、関東ビルジングの廊下へも、もうすぐ、お妻が、水を調えて降りて来よう。)  まだ少し石の段の続きがある。  ――お妻とお民と京千代と、いずれも養女で、小浜屋の芸妓三人の上に、おおあねえ、すなわち、主婦を、お来といった――(その夜、隣から襖を叩いた人だが、)これに、伊作という弟がある。うまれからの廓ものといえども、見識があって、役者の下端だの、幇間の真似はしない。書画をたしなみ骨董を捻り、俳諧を友として、内の控えの、千束の寮にかくれ住んだ。……小遣万端いずれも本家持の処、小判小粒で仕送るほどの身上でない。……両親がまだ達者で、爺さん、媼さんがあった、その媼さんが、刎橋を渡り、露地を抜けて、食べものを運ぶ例で、門へは一廻り面倒だと、裏の垣根から、「伊作、伊作」――店の都合で夜のふける事がある……「伊作、伊作」――いやしくも廓の寮の俳家である。卯の花のたえ間をここに音信るるものは、江戸座、雪中庵の社中か、抱一上人の三代目、少くとも蔵前の成美の末葉ででもあろうと思うと、違う。……田畝に狐火が灯れた時分である。太郎稲荷の眷属が悪戯をするのが、毎晩のようで、暗い垣から「伊作、伊作」「おい、お祖母さん」くしゃんと嚔をして消える。「畜生め、またうせた。」これに悩まされたためでもあるまい。夜あそびをはじめて、ぐれだして、使うわ、ねだるわ。勘当ではない自分で追出て、やがて、おかち町辺に、もぐって、かつて女たちの、玉章を、きみは今……などと認めた覚えから、一時、代書人をしていた。が、くらしに足りない。なくなれば、しゃっぽで、袴で、はた、洋服で、小浜屋の店さして、揚幕ほどではあるまい、かみ手から、ぬっと来る。 (お京さんの茶の間話に聞くのである。)  鴾の細君の弱ったのは、爺さんが、おしきせ何本かで、へべったあと、だるいだるい、うつむけに畳に伸びた蹠を踏ませられる。……ぴたぴたと行るうちに、草臥れるから、稽古の時になまけるのに、催促をされない稽古棒を持出して、息杖につくのだそうで。……これで戻駕籠でも思出すか、善玉の櫂でも使えば殊勝だけれども、疼痛疼痛、「お京何をする。」……はずんで、脊骨……へ飛上る。浅草の玉乗に夢中だったのだそうである。もっとも、すぺりと円い禿頭の、護謨、護謨としたのには、少なからず誘惑を感じたものだという。げええ。大なおくび、――これに弱った――可厭だなあ、臭い、お爺さん、得ならぬにおい、というのは手製りの塩辛で、この爺さん、彦兵衛さん、むかし料理番の入婿だから、ただ同然で、でっち上る。「友さん腸をおいて行きねえ。」婆さんの方でない、安達ヶ原の納戸でないから、はらごもりを割くのでない。松魚だ、鯛だ。烏賊でも構わぬ。生麦の鰺、佳品である。  魚友は意気な兄哥で、お来さんが少し思召しがあるほどの男だが、鳶のように魚の腹を握まねばならない。その腸を二升瓶に貯える、生葱を刻んで捏ね、七色唐辛子を掻交ぜ、掻交ぜ、片襷で練上げた、東海の鯤鯨をも吸寄すべき、恐るべき、どろどろの膏薬の、おはぐろ溝へ、黄袋の唾をしたような異味を、べろりべろり、と嘗めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの熟柿の口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。お来さんが、通りがかりに、ツイとお位牌をうしろ向けにして行く……とも知らず、とろんこで「御先祖でえでえ。」どろりと寝て、お京や、蹠である。時しも、鬱金木綿が薄よごれて、しなびた包、おちへ来て一霜くらった、大角豆のようなのを嬉しそうに開けて、一粒々々、根附だ、玉だ、緒〆だと、むかしから伝われば、道楽でためた秘蔵の小まものを並べて楽しむ処へ――それ、しも手から、しゃっぽで、袴で、代書代言伊作氏が縁台の端へ顕われるのを見ると、そりゃ、そりゃ矢藤さんがおいでになったと、慌しく鬱金木綿を臍でかくす……他なし、書画骨董の大方を、野分のごとく、この長男に吹さらわれて、わずかに痩莢の豆ばかりここに残った所以である。矢藤は小浜屋の姓である。これで見ると、廓では、人を敬遠する時、我が子を呼ぶに、名を言わず、姓をもってするらしい。……  矢藤老人――ああ、年を取った伊作翁は、小浜屋が流転の前後――もともと世功を積んだ苦労人で、万事じょさいのない処で、将棊は素人の二段の腕を持ち、碁は実際初段うてた。それ等がたよりで、隠居仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内辺の某倶楽部を預って暮したが、震災のために、立寄ったその樹の蔭を失って、のちに古女房と二人、京橋三十間堀裏のバラック建のアパアトの小使、兼番人で佗しく住んだ。身辺の寒さ寂しさよ。……霜月末の風の夜や……破蒲団の置炬燵に、歯の抜けた頤を埋め、この奥に目あり霞めり。――徒らに鼻が隆く目の窪んだ処から、まだ娑婆気のある頃は、暖簾にも看板にも(目あり)とかいて、煎餅を焼いて売りもした。「目あり煎餅」勝負事をするものの禁厭になると、一時弘まったものである。――その目をしょぼしょぼさして、長い顔をその炬燵に据えて、いとせめて親を思出す。千束の寮のやみの夜、おぼろの夜、そぼそぼとふる小雨の夜、狐の声もしみじみと可懐い折から、「伊作、伊作」と女の音で、扉で呼ぶ。 「婆さんや、人が来た。」「うう、お爺さん」内職の、楊枝を辻占で巻いていた古女房が、怯えた顔で――「話に聞いた魔ものではないかのう。」とおっかな吃驚で扉を開けると、やあ、化けて来た。いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷の大年増、尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小紋の糸が透いて、膝へ紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のおでんの皿盛を白く吐く息とともに、ふうと吹き、四合壜を片手に提げて「ああ敷居が高い、敷居が高い、(鳥居さえ飛ぶ癖に)階子段で息が切れた。若旦那、お久しゅう。てれかくしと、寒さ凌ぎに夜なしおでんで引掛けて来たけれど、おお寒い。」と穴から渡すように、丼をのせるとともに、その炬燵へ、緋の襦袢むき出しの膝で、のめり込んだのは、絶えて久しい、お妻さん。…… 「――わかたなは、あんやたい――」若旦那は、ありがたいか、暖かな、あの屋台か、五音が乱れ、もう、よいよい染みて呂律が廻らぬ。その癖、若い時から、酒は一滴もいけないのが、おでんで濃い茶に浮かれ出した。しょぼしょぼの若旦那。  さて、お妻が、流れも流れ、お落ちも落ちた、奥州青森の裏借屋に、五もくの師匠をしていて、二十も年下の、炭屋だか、炭焼だかの息子と出来て、東京へ舞戻り、本所の隅っ子に長屋で居食いをするうちに、この年齢で、馬鹿々々しい、二人とも、とやについて、どっと寝た。青森の親元へ沙汰をする、手当薬療、息子の腰が立つと、手が切れた。むかいに来た親は、善知鳥、うとうと、なきながら子をくわえて皈って行く。片翼になって大道に倒れた裸の浜猫を、ぼての魚屋が拾ってくれ、いまは三河島辺で、そのばさら屋の阿媽だ、と煮こごりの、とけ出したような、みじめな身の上話を茶の伽にしながら――よぼよぼの若旦那が――さすがは江戸前でちっともめげない。「五もくの師匠は、かわいそうだ。お前は芸は出来るのだ。」「武芸十八般一通り。」と魚屋の阿媽だけ、太刀の魚ほど反って云う。「義太夫は」「ようよう久しぶりお出しなね。」と見た処、壁にかかったのは、蝙蝠傘と箒ばかり。お妻が手拍子、口三味線。  若旦那がいい声で、 夢が、浮世か、うき世が夢か、夢ちょう里に住みながら、住めば住むなる世の中に、よしあしびきの大和路や、壺坂の片ほとり土佐町に、沢市という座頭あり。…… 妻のお里はすこやかに、夫の手助け賃仕事……  とやりはじめ、唄でお山へのぼる時分に、おでん屋へ、酒の継足しに出た、というが、二人とも炬燵の谷へ落込んで、朝まで寝た。――この挿話に用があるのは、翌朝かえりがけのお妻の態度である。りりしい眉毛を、とぼけた顔して、 「――少しばかり、若旦那。……あまりといえば、おんぼろで、伺いたくても伺えなし、伺いたくて堪らないし、損料を借りて来ましたから、肌のものまで。……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」 (お京さんから、つい去年の暮の事だといって、久しく中絶えたお妻のうわさを、最近に聞いていた。)  お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。 「さ、お待遠様。」 「難有い。」 「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいかないし、遣手部屋というのがないんだもの、湯呑みの工面がつきやしません。……いえね、いよいよとなれば、私は借着の寸法だけれど、花柳の手拭の切立てのを持っていますから、ずッぷり平右衛門で、一時凌ぎと思いましたが、いい塩梅にころがっていましたよ。大丈夫、ざあざあ洗って洗いぬいた上、もう私が三杯ばかりお毒見が済んでいますから。ああ、そんなに引かぶって、襟が冷くありませんか、手拭をあげましょう。」 「一滴だってこぼすものかね、ああ助かった。――いや、この上欲しければ、今度は自分で歩行けそうです。――助かった。恩に被ますよ。」 「とんでもない、でも、まあ、嬉しい。」 「まったく活返った。」 「ではその元気で、上のおさらいへいらっしゃるか。そこまで、おともをしてもよござんす。」 「で、演っていますかね。三味線の音でも聞こえますか。」 「いいえ。」 「途中で、連中らしいのでも見ませんか。」 「人ッこ一人、……大びけ過ぎより、しんとして薄気味の悪いよう。」 「はてな、間違ではなかろうが、……何しろ、きみは、ちっともその方に引っかかりはないのでしたね。」 「ええ、私は風来ものの大気紛れさ、といううちにも、そうそう。」  中腰の膝へ、両肱をついた、頬杖で。 「じかではなくっても――御別懇の鴾先生の、お京さんの姉分だから、ご存じだろうと思いますが……今、芝、明舟町で、娘さんと二人で、お弟子を取っています、お師匠さん、……お民さんのね、……まあ、先生方がお聞きなすっては馬鹿々々しいかも知れませんが、……目を据える、生命がけの事がありましてね、その事で、ちょっと、切ッつ、はッつもやりかねないといった勢で、だらしがないけども、私がさ、この稽古棒(よっかけて壁にあり)を槍、鉄棒で、対手方へ出向いたんでござんすがね、――入費はお師匠さん持だから、乗込みは、ついその銀座の西裏まで、円タクさ。  ――呆れもしない、目ざす敵は、喫茶店、カフェーなんだから、めぐり合うも捜すもない、すぐ目前に顕われました。ところがさ、商売柄、ぴかぴかきらきらで、廓の張店を硝子張の、竜宮づくりで輝かそうていったのが、むかし六郷様の裏門へぶつかったほど、一棟、真暗じゃありませんか。拍子抜とも、間抜けとも。……お前さん、近所で聞くとね、これが何と……いかに業体とは申せ、いたし方もこれあるべきを、裸で、小判、……いえさ、銀貨を、何とか、いうかどで……営業おさし留めなんだって。……  出がけの意気組が意気組だから、それなり皈るのも詰りません。隙はあるし、蕎麦屋でも、鮨屋でも気に向いたら一口、こんな懐中合も近来めったにない事だし、ぶらぶら歩いて来ましたところが、――ここの前さ、お前さん、」  と低いが壁天井に、目を上げつつ、 「角海老に似ていましょう、時計台のあった頃の、……ちょっと、当世ビルジングの御前様に対して、こういっては相済まないけども。……熟と天頂の方を見ていますとね、さあ、……五階かしら、屋の棟に近い窓に、女の姿が見えました。部屋着に、伊達巻といった風で、いい、おいらんだ。……串戯じゃない。今時そんな間違いがあるものか。それとも、おさらいの看板が見えるから、衣裳をつけた踊子が涼んでいるのかも分らない、入って見ようと。」 「ああ、それで……」 「でござんさあね。さあ、上っても上っても。……私も可厭になってしまいましてね。とんとんと裏階子を駆下りるほど、要害に馴れていませんから、うろうろ気味で下りて来ると、はじめて、あなた、たった一人。」 「だれか、人が。」 「それが、あなた、こっちが極りの悪いほど、雪のように白い、後姿でもって、さっきのおいらんを、丸剥にしたようなのが、廊下にぼんやりと、少し遠見に……おや! おさらいのあとで、お湯に入る……ッてこれが、あまりないことさ。おまけに高尾のうまれ土地だところで、野州塩原の温泉じゃないけども、段々の谷底に風呂場でもあるのかしら。ぼんやりと見てる間に、扉だか部屋だかへ消えてしまいましたがね。」 「どこのです。」 「ここの。」 「ええ。」 「それとも隣室だったかしら。何しろ、私も見た時はぼんやりしてさ、だから、下に居なすった、お前さんの姿が、その女が脱いで置いた衣ものぐらいの場所にありましてね。」  信也氏は思わず内端に袖を払った。 「見た時は、もっとも、気もぼっとしましたから。今思うと、――ぞっこん、これが、目にしみついていますから、私が背負っている……雪おんな……」 (や、浜町の夜更の雨に――  ……雪おんな……  唄いさして、ふと消えた。……) 「?……雪おんな。」 「ここに背負っておりますわ。それに実に、見事な絵でござんすわ。」  と、肩に斜なその紫包を、胸でといた端もきれいに、片手で捧げた肱に靡いて、衣紋も褄も整然とした。 「絵ですか、……誰の絵なんです。」 「あら、御存じない?……あなた、鴾先生のじゃありませんか。」 「ええ、鴾君が、いつね、その絵を。」 (いままだ、銀座裏で飲んでいよう、すました顔して、すくすくと銚子の数を並べて。) 「つい近頃だと言いますよ。それも、わけがありましてね、私が今夜、――その酒場へ、槍、鉄棒で押掛けたといいました。やっぱりその事でおかきなすったんだけれどもね。まあ、お目にかけますわ……お待なさい。ここは、廊下で、途中だし、下へ出た処で、往来と……ああ、ちょっとこの部屋へ入りましょうか。」 「名札はかかっていないけれど、いいかな。」 「あき店さ、お前さん、田畝の葦簾張だ。」  と云った。 「ぬしがあっても、夜の旅じゃ、休むものに極っていますよ。」 「しかし、なかに、どんなものか置いてでもあると、それだとね。」 「御本尊のいらっしゃる、堂、祠へだって入りましょう。……人間同士、構やしません。いえ、そこどころじゃあない、私は野宿をしましてね、変だとも、おかしいとも、何とも言いようのない、ほほほ、男の何を飾った処へ、のたれ込んだ事がありますわ。野中のお堂さ、お前さん。……それから見りゃ、――おや開かない、鍵が掛っていますかね、この扉は。」 「無論だろうね。」 「圧してみて下さい。開きません? ああ、そうね、あなたがなすっては御身分がら……お待ちなさいよ、おつな呪禁がありますから。」  懐紙を器用に裂くと、端を捻り、頭を抓んで、 「てるてる坊さん、ほほほ。」  すぼけた小鮹が、扉の鍵穴に、指で踊った。 「いけないね、坊さん一人じゃあ足りないかね。そら、もう一人、出ました。また一人、もう一人。これじゃ長屋の井戸替だ。あかないかね。そんな筈はないんだけれど、――雨をお天気にする力があるなら、掛けた鍵なぞわけなしじゃあないか。しっかりおしよ。」  ぽんと、丸めた紙の頭を順にたたくと、手だか足だか、ふらふらふらと刎ねる拍子に、何だか、けばだった処が口に見えて、尖って、目皺で笑って、揃って騒ぐ。 「いえね、お前さん出来るわけがありますの。……その野宿で倒れた時さ――当にして行った仙台の人が、青森へ住替えたというので、取りつく島からまた流れて、なけなしの汽車のお代。盛岡とかいう処で、ふっと気がつくと、紙入がない、切符がなし。まさか、風体を視たって箱仕事もしますまい。間抜けで落したと気がつくと、鉄道へ申し訳がありません。どうせ、恐入るものをさ、あとで気がつけば青森へ着いてからでも御沙汰は同じだものを、ちっとでも里数の少い方がお詫がしいいだろうでもって、馬鹿さが堪らない。お前さん、あたふた、次の駅で下りましたがね。あわてついでに改札口だか、何だか、ふらふらと出ますとね、停車場も汽車も居なくなって、町でしょう、もう日が、とっぷり暮れている。夜道の落人、ありがたい、網の目を抜けたと思いましたが、さあ、それでも追手が掛りそうで、恐い事――つかまったって、それだけだものを、大した御法でも背いたようでね。ええ、だもんだから、腹がすけば、ぼろ撥一挺なくっても口三味線で門附けをしかねない図々しい度胸なのが、すたすたもので、町も、村も、ただ人気のない処と遁げましたわ、知らぬ他国の奥州くんだり、東西も弁えない、心細い、畷道。赤い月は、野末に一つ、あるけれど、もと末も分らない、雲を落ちた水のような畝った道を、とぼついて、堪らなくなって――辻堂へ、路傍の芒を分けても、手に露もかかりません。いきれの強い残暑のみぎり。  まあ、のめり込んだ御堂の中に、月にぼやっと菅笠ほどの影が出来て、大きな梟――また、あっちの森にも、こっちの林にも鳴いていました――その梟が、顱巻をしたような、それですよ。……祭った怪しい、御本体は。――  この私だから度胸を据えて、褌が紅でないばかり、おかめが背負ったように、のめっていますと、(姉さん一緒においで。――)そういって、堂のわきの茂りの中から、大方、在方の枝道を伝って出たと見えます。うす青い縞の浴衣だか単衣だか、へこ帯のちょい結びで、頬被をしたのが、菅笠をね、被らずに、お前さん、背中へ掛けて、小さな風呂敷包みがその下にあるらしい……から脛の色の白いのが素足に草鞋ばきで、竹の杖を身軽について、すっと出て来てさ、お前さん。」  お妻は、踊の棒に手をかけたが、 「……実は、夜食をとりはぐって、こっちも腹がすいて堪らない。堂にお供物の赤飯でもありはしないか、とそう思って覗いて、お前を見たんだ、女じゃ食われない、食いもしようが可哀相だ、といって笑うのが、まだ三十前、いいえ二十六七とも見える若い人。もう少し辛抱おしと、話しながら四五町、土橋を渡って、榎と柳で暗くなると、家があります。その取着らしいのの表戸を、きしきし、その若い人がやるけれど、開きますまい、あきません。その時さ、お前さんちょっと捜して、藁すべを一本見つけて。」  お妻は懐紙の坊さん(その言に従う)を一人、指につまんでいった。あと連は、掌の中に、こそこそ縮まる。 「それでね、あなた、そら、かなの、※(「耳」を崩した変体仮名「に」)形の、その字の上を、まるいように、ひょいと結んで、(お開け、お開け。)と言いますとね。」  信也氏はその顔を瞻って、黙然として聞いたというのである。 「――苦もなく開いたわ。お前さん、中は土間で、腰掛なんか、台があって……一膳めし屋というのが、腰障子の字にも見えるほど、黒い森を、柳すかしに、青く、くぐって、月あかりが、水で一漉し漉したように映ります。  目も夜鳥ぐらい光ると見えて、すぐにね、あなた、丼、小鉢、お櫃を抱えて、――軒下へ、棚から落したように並べて、ね、蚊を払い(おお、飯はからだ。)(お菜漬だけでも、)私もそこへ取着きましたが、きざみ昆布、雁もどき、鰊、焼豆府……皆、ぷんとむれ臭い。(よした、よした、大餒えに餒えている。この温気だと、命仕事だ。)(あなたや……私はもう我慢が出来ない、お酒はどう。)……ねえ、お前さん。―― (酒はいけない。飢い時の飯粒は、天道もお目こぼし、姉さんが改札口で見つからなかったも同じだが、酒となると恐多い……)と素早いこと、さっさ、と片づけて、さ、もう一のし。  今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い農家だけに、節穴だらけ、だから、覗くと、よく見えました。土間の向うの、大い炉のまわりに女が三人、男が六人、ごろんごろん寝ているのが。  若い人が、鼻紙を、と云って、私のを――そこらから拾って来た、いくらもあります、農家だから。――藁すべで、前刻のような人形を九つ、お前さん、――そこで、その懐紙を、引裂いて、ちょっと包めた分が、白くなるから、妙に三人の女に見えるじゃありませんか。  敷居際へ、――炉端のようなおなじ恰好に、ごろんと順に寝かして、三度ばかり、上から掌で俯向けに撫でたと思うと、もう楽なもの。  若い人が、ずかずか入って、寝ている人間の、裾だって枕許だって、構やしません。大まかに掻捜して、御飯、お香こう、お茶の土瓶まで……目刺を串ごと。旧の盆過ぎで、苧殻がまだ沢山あるのを、へし折って、まあ、戸を開放しのまま、敷居際、燃しつけて焼くんだもの、呆れました。(門火、門火。)なんのと、呑気なもので、(酒だと燗だが、こいつは死人焼だ。このしろでなくて仕合せ、お給仕をしようか。)……がつがつ私が食べるうちに、若い女が、一人、炉端で、うむと胸も裾もあけはだけで起上りました。あなた、その時、火の誘った夜風で、白い小さな人形がむくりと立ったじゃありませんか。ぽんと若い人が、その人形をもろに倒すと、むこうで、ばったり、今度は、うつむけにまた寝ました。  驚きましたわ。藁を捻ったような人形でさえ、そんな業をするんだもの。……活きたものは、いざとなると、どんな事をしようも知れない、可恐いようね、ええ?……――もう行ってる、寝込の御飯をさらって死人焼で目刺を――だって、ほほほ、まあ、そうね……  いえね、それについて、お前さん――あなたの前だけども、お友だちの奥さん、京千代さんは、半玉の時分、それはいけずの、いたずらでね、なかの妹(お民をいう)は、お人形をあつかえばって、屏風を立てて、友染の掻巻でおねんねさせたり、枕を二つならべたり、だったけれど、京千代と来たら、玉乗りに凝ってるから、片端から、姉様も殿様も、紅い糸や、太白で、ちょっとかがって、大小護謨毬にのッけて、ジャズ騒ぎさ、――今でいえば。  主婦に大目玉をくった事があるんだけれど、弥生は里の雛遊び……は常磐津か何かのもんくだっけ。お雛様を飾った時、……五人囃子を、毬にくッつけて、ぽんぽんぽん、ころん、くるくるなんだもの。  ところがね、真夜中さ。いいえ、二人はお座敷へ行っている……こっちはお茶がちだから、お節句だというのに、三人のいつもの部屋で寝ました処、枕許が賑かだから、船底を傾けて見ますとね、枕許を走ってる、長い黒髪の、白いきものが、球に乗って、……くるりと廻ったり、うしろへ反ったり、前へ辷ったり、あら、大きな蝶が、いくつも、いくつも雪洞の火を啣えて踊る、ちらちら紅い袴が、と吃驚すると、お囃子が雛壇で、目だの、鼓の手、笛の口が動くと思うと、ああ、遠い高い処、空の座敷で、イヤアと冴えて、太鼓の掛声、それが聞覚えた、京千代ちい姐。  ……ものの形をしたものは、こわいように、生きていますわね。  ――やがてだわね、大きな樹の下の、畷から入口の、牛小屋だが、厩だかで、がたんがたん、騒しい音がしました。すっと立って若い人が、その方へ行きましたっけ。もう返った時は、ひっそり。苧殻の燃さし、藁の人形を揃えて、くべて、逆縁ながらと、土瓶をしたんで、ざあ、ちゅうと皆消えると、夜あらしが、颯と吹いて、月が真暗になって、しんとする。(行きましょう、行きましょう。)ぞっと私は凄くなって、若い人の袖を引張って、見はるかしの田畝道へ。……ほっとして、 (聞かして下さいまし、どんなお方)。 (私か。) (あなた。) (森の祠の、金勢明神。) (…………) (男の勢だ。) (キャア。)  話に聞いた振袖新造が――台のものあらしといって、大びけ過ぎに女郎屋の廊下へ出ましたと――狸に抱かれたような声を出して、夢中で小一町駆出しましたが、振向いても、立って待っても、影も形も見えません、もう朝もやが白んで来ました。  それなの、あなた、ただいま行いました、小さなこの人形たちは。」  掌にのせた紙入形を凝とためて、 「人数が足りないかしら、もっとも九ツ坊さんと来りゃあ、恋も呪もしますからね。」  で、口を手つだわせて、手さきで扱いて、懐紙を、蚕を引出すように数を殖すと、九つのあたまが揃って、黒い扉の鍵穴へ、手足がもじゃ、もじゃ、と動く。……信也氏は脇の下をすくめて、身ぶるいした。 「だ……」  がっかりして、 「めね……ちょっと……お待ちなさいよ。」  信也氏が口をきく間もなく、 「私じゃ術がきかないんだよ。こんな時だ。」  何をする。  風呂敷を解いた。見ると、絵筒である。お妻が蓋を抜きながら、 「雪おんなさん。」 「…………」 「あなたがいい、おばけだから、出入りは自由だわ。」  するすると早や絹地を、たちまち、水晶の五輪塔を、月影の梨の花が包んだような、扉に白く絵の姿を半ば映した。 「そりゃ、いけなかろう、お妻さん。」  鴾の作品の扱い方をとがめたのではない、お妻の迷をいたわって、悟そうとしたのである。 「いいえ、浅草の絵馬の馬も、草を食べたというじゃありませんか。お京さんの旦那だから、身贔屓をするんじゃあないけれど、あれだけ有名な方の絵が、このくらいな事が出来なくっちゃ。」  絵絹に、その面影が朦朧と映ると見る間に、押した扉が、ツトおのずから、はずみにお妻の形を吸った。 「ああ、吃驚、でもよかった。」  と、室の中から、 「そら、御覧なさい、さあ、あなたも。」  どうも、あけ方が約束に背いたので、はじめから、鍵はかかっていなかったらしい。ただ信也氏が手を掛けて試みなかったのは、他に責を転じたのではない。空室らしい事は分っていたから。しかし、その、あえてする事をためらったのは、卑怯ともいえ、消極的な道徳、いや礼儀であった。  つい信也氏も誘われた。  する事も、いう事も、かりそめながら、懐紙の九ツの坊さんで、力およばず、うつくしいばけものの、雪おんな、雪女郎の、……手も袖もまだ見ない、膚であいた室である。  一室――ここへ入ってからの第二の……第三の妖は…………………… 昭和八(一九三三)年七月
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日発行 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003661", "作品名": "開扉一妖帖", "作品名読み": "かいひいちようちょう", "ソート用読み": "かいひいちようちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-05-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3661.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成9", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年6月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3661_ruby_22277.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-03-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3661_22422.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-03-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 孰れが前に出来たか、穿鑿に及ばぬが、怪力の盲人の物語りが二ツある。同じ話の型が変つて、一ツは講釈師が板にかけて、のん〳〵づい〳〵と顕はす。一ツは好事家の随筆に、物凄くも又恐ろしく記される。浅く案ずるに、此の随筆から取つて講釈に仕組んで演ずるのであらうと思ふが、書いた方を読むと、嘘らしいが魅せられて事実に聞こえる。それから講釈の方を見ると、真らしいけれども考えさせず直に嘘だと分る。最も上手が演ずるのを聞いたら、話の呼吸と、声の調子で、客をうまく引入れるかも知れぬが、こゝでは随筆に文章で書いたのと、筆記本に言語のまゝ記したものとを比較して、おなじ言葉ながら、其の力が文字に映じて、如何に相違があるかを御覧に入れやう。一ツは武勇談で、一つは怪談。  先づ講釈筆記の武勇談の方から一寸抜き取る。――最も略筋、あとで物語の主題とも言ふべき処を、較べて見ませう。  で、主題と云ふのは、其の怪力の按摩と、大力無双の大将が、しつぺい張くら、をすると言ふので。講釈の方は越前国一条ヶ谷朝倉左衛門尉義景十八人の侍大将の中に、黒坂備中守と云ふ、これは私の隣国。随筆の方は、奥州会津に諏訪越中と云ふ大力の人ありて、これは宙外さんの猪苗代から、山道三里だから面白い。  処で、此の随筆が出処だとすると、何のために、奥州を越前へ移して、越中を備中にかへたらう、ソレ或ひは越中は褌に響いて、強力の威厳を傷けやうかの深慮に出たのかも計られぬ。――串戯はよして、些細な事ではあるが、おなじ事でも、こゝは大力が可い。強力、と云ふと、九段坂をエンヤラヤに聞こえて響が悪い。  最も随筆の方では唯、大力の人あり、としたゞけを、講釈には恁うしてある。 (これは越前名代の強力、一日狩倉に出て大熊に出逢ひ、持てる鎗は熊のために喰折られ已む事を得ず鉄拳を上げて熊をば一拳の下に打殺しこの勇力はかくの如くであると其の熊の皮を馬標とした。) と大看板を上げたが、最う此の辺から些と怪しく成る。此の備中、一時越前の領土巡検の役を、主人義景より承り、供方二十人ばかりを連れて、領分の民の状態を察せんため、名だゝる越前の大川、足羽川のほとりにかゝる。ト長雨のあとで、水勢どう〳〵として、渦を巻て流れ、蛇籠も動く、とある。備中馬を立てゝ、 「頗る水だな。」 「御意、」と一同川岸に休息する。向ふ岸へのそ〳〵と出て来たものがあつた。 (尖へ玉のついた長杖を突き、草色、石持の衣類、小倉の帯を胸高で、身の丈六尺あまりもあらうかと云ふ、大な盲人)――と云ふのであるが、角帯を胸高で草色の布子と来ては、六尺あまりの大な盲人とは何うも見えぬ。宇都谷峠を、とぼ〳〵と行く小按摩らしい。  ――此の按摩杖を力に、川べりの水除け堤へ来ると、杖の先へ両手をかけて、ズイと腰を伸ばし、耳欹てゝ考えて居る様子、――と言ふ。  これは可い。如何にも按摩が川岸に立つて瀬をうかゞうやうに見える、が、尋常の按摩と違ひがない。  上下何百文を論ずるのぢやない、怪力を写す優劣を云ふのである。  出水だ危い、と人々此方の岸から呼ばゝつたが、強情にものともしないで、下駄を脱ぐと杖を通し、帯を解いて素裸で、ざぶ〳〵と渉りかける。呆れ果てゝ眺めて居ると、やがて浅い処で腰の辺、深い処は乳の上になる。最も激流矢を流す。川の七分目へ来た処に、大巌が一つ水を堰いて龍虎を躍らす。按摩巌の前にフト留まつて、少時小首を傾けたが、すぐに褌へ杖をさした。手唾をかけて、ヤ、曳、と圧しはじめ、ヨイシヨ、アリヤ〳〵〳〵、ザブーンと転がす。  備中驚き嘆じ、無事に渉り果てた按摩を、床几に近う召寄せて、 「あつぱれ、其の方、水にせかるゝ大巌を流に逆らひ押転ばす、凡そ如何ばかりの力があるな。」  すると按摩が我ながら我が力のほどを、自から試みた事がないと言ふ。 「汝音にも聞きつらん、予は白山の狩倉に、大熊を撲殺した黒坂備中、此の方も未だ自分に力を試さん、いざふれ汝と力競べをして見やうか。」 「へゝゝゝ、恐れながら御意にまかせ、早速おん対手」と按摩が云ふ。  さて、招魂社の観世物で、墨のなすりくらをするのではないから、盲人と相撲もいかゞなもの。 「シツペイの打くらをいたさうかの。」 「へゝゝゝ、おもしろうござります。」 「勝つたら、御褒美に銀二枚。汝負けたら按摩をいたせ、」と此処で約束が出来て、さて、シツペイの打くらと成る。 「まづ、御前様。」 「心得た。」 「へゝゝゝ」 と出した腕が松の樹同然、針金のやうな毛がスク〳〵見える。 「参るぞ。」  うん、と備中、鼻膩を引いた――とある。  宜いか按摩、と呼ばゝつて、備中守、指のしなへでウーンと打つたが、一向に感じた様子がない。さすがに紫色に成つた手首を、按摩は擦らうとせず、 「ハヽヽ、蕨が触つた。」 は、強情不敵な奴。さて、入替つて按摩がシツペイの番と成ると、先づ以つて盆の払にありつきました、と白銀二枚頂戴の事に極めてかゝつて、 「さあ、殿様お手を。」 と言ふ。其処で渋りながら備中守の差出す腕を、片手で握添へて、大根おろしにズイと扱く。とえゝ、擽つたい処の騒ぎか。最う其だけで痺れるばかり。いや、此の勢で、的面にシツペイを遣られた日には、熊を挫いだ腕も砕けやう。按摩爾時鼻脂で、 「はい御免。」 ト傍に控へた備中の家来、サソクに南蛮鉄の鐙を取つて、中を遮つて出した途端に、ピシリと張つた。 「アイタタ。」 と按摩さすがに怯む。備中苦笑ひをして、 「力は其だけかな、さて〳〵思つたほどでもない。」 と負惜みを言つたものゝ、家来どもと顔を見合はせて、舌を巻いたも道理。鐙の真中が其のシツペイのために凹んで居た――と言ふのが講釈の分である。  さて此の趣で見ると、最初から按摩の様子に、迚も南蛮鉄の鐙の面を指で張窪ますほどの力がない。以前激流に逆つて、大石を転ばして人助けのためにしたと言ふのも、第一、かちわたりをすべき川でないから石があるのが、然まで諸人の難儀とも思はれぬ。往来に穴があるのとは訳が違ふ。  処で、随筆に書いた方は、初手から筆者の用意が深い。これは前にも一寸言つた。――奥州会津に諏訪越中と云ふ大力の人あり。或一年春の末つ方遠乗かた〴〵白岩の塔を見物に、割籠吸筒取持たせ。――で、民情視察、巡見でないのが先づ嬉しい。――供二人三人召連れ春風と言ふ遠がけの馬に乗り、塔のあたりに至り、岩窟堂の虚空蔵にて酒をのむ――とある。古武士が野がけの風情も興あり。――帰路に闇川橋を通りけるに、橋姫の宮のほとりにて、丈高くしたゝかなる座頭の坊、――としてあるが、宇都谷峠とは雲泥の相違、此のしたゝかなるとばかりでも一寸鐙は窪ませられる。座頭、琵琶箱を負ひて、がたりびしりと欄干を探り居たり。――琵琶箱負ひたる丈高きしたゝかな座頭一人、人通もなき闇川橋の欄干を、杖以てがたりびしりと探る――其の頭上には怪しき雲のむら〳〵とかゝるのが自然と見える。分けて爰に、がたりびしりは、文章の冴で、杖の音が物凄く耳に響く。なか〳〵口で言つても此の味は声に出せぬ。  また此の様子を見ては、誰も怪まずには居られない。――越中馬を控へ、坐頭の坊何をする、と言ふ。坐頭聞いて、此の橋は昔聖徳太子の日本六十余州へ百八十の橋を御掛けなされし其の内にて候よし伝へうけたまはり候、誠にて候や、と言ふ。  成程それなりと言ふ。  座頭申すやう、吾等去年、音にきゝし信濃なる彼の木曾の掛橋を通り申すに、橋杭立ち申さず、谷より谷へ掛渡しの鉄の鎖にて繋ぎ置き申候。其の木曾の掛橋と景色は同じ事ながら、此の橋の風景には歌よむ人もなきやらむ。木曾の橋をば西行法師の春花の盛に通り給ひて、 生ひすがふ谷のこずゑをくもでにて     散らぬ花ふむ木曾のかけ橋 また源の頼光、中納言維仲卿の御息女を恋ひさせ給ひて、 恋染し木曾路の橋も年経なば     中もや絶えて落ぞしぬめり  此のほか色々の歌も侍るよし承り候と言ふ。――此の物語、優美の中に幻怪あり。六十余州往来する魔物の風流思ふべく、はた是あるがために、闇川橋のあたり、山聳え、花深く、路幽に、水疾き風情見るが如く、且つ能楽に於ける、前シテと云ふ段取にも成る。  越中つく〴〵聞いて、見かけは弁慶とも言ふべき人柄なれども心だての殊勝さは、喜撰法師にも劣るまじと誉め、それより道づれして、野寺の観音堂へ近くなりて、座頭傍の石に躓きて、うつぶしに倒れけるが――と本文にある処、講釈の即ち足羽川中流の石なのであるが、比較して言ふまでもなく、此の方が自然で、且つ変化の此の座頭だけに、観音堂に近い処で、躓き倒れたと云へば、何となく秘密の約束があつて、ゾツとさせる。――座頭むくと起直つて、腹を立て、道端にあつて往来の障なりと、二三十人ばかりにても動かしがたき大石の角に手をかけ、曳やつといふて引起し、目より高くさし上げ、谷底へ投落す。――いかにも是ならば投げられる、――越中これを見て胆を消し、――とあつて、 「さて〳〵御座頭は大力かな、我も少し力あり、何と慰みながら力競せまじきか。」 と言ふ。我も少し力ありて、やわか座頭に劣るまじい大力のほどが想はれる。自から熊を張殺したと名乗るのと、どちらが点首かれるかは論に及ばぬ。  座頭聞いて、 「御慰みになるべくは御相手仕るべし。」 と言ふ。其処で、野寺の観音堂の拝殿へ上り、其方盲人にて角觝は成るまじ、腕おしか頭はりくらか此の二つの中にせむ。座頭申すは、然らばしつぺい張競を仕候はんまゝ、我天窓を御張り候へと云ふ。越中然らばうけ候へとて、座頭の天窓へしたゝかにしつぺいを張る。座頭覚えず頭を縮め、面を顰め、しばし天窓を撫でゝ、 「さて〳〵強き御力かな、そなたは聞及びし諏訪越中な。さらば某も慮外ながら一しつぺい仕らむ、うけて御覧候へ。」 とて越中が頭を撫でゝ見、舌赤くニヤリと笑ひ、人さし指に鼻油を引て、しつぺい張んと歯噛をなし立上りし面貌――と云々。恁てこそ鬼神と勇士が力較べも壮大ならずや。  越中密に立つて鐙をはづし、座頭がしつぺいを鐙の鼻にて受くる。座頭乗かけ声をかけ、 「曳や、」 とはつしと張る。鐙の雉子のもゝのまがりめ二ツ三ツに張砕けたり。 「あつ、」 と越中、がたり鐙を投り出し、馬にひらりと乗るより疾く、一散に遁げて行く。座頭腹を立て、 「卑怯なり何処へ遁ぐる。」 と大音あげ、追掛しが忽ちに雲起り、真闇になり、大雨降出し、稲光烈しく、大風吹くが如くなる音して座頭はいづくに行しやらむ――と言ふのである。前の講釈のと読較べると、彼の按摩が後に侍に取立られたと云ふ話より、此天狗か化物らしい方が、却つて事実に見えるのが面白い。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店    2004(平成16)年4月23日第1刷発行 底本の親本:「桜草」文芸書院    1913(大正2)年3月18日 初出:「新小説 第十四年第六巻―第十四年第七巻」春陽堂    1909(明治42)年6月1日―7月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「怪力《くわいりき》」となっています。 ※初出時の署名は「泉鏡花」です。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057484", "作品名": "怪力", "作品名読み": "かいりき", "ソート用読み": "かいりき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第十四年第六巻―第十四年第七巻」春陽堂、1909(明治42)年6月1日―7月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-11-04T00:00:00", "最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57484.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "底本の親本名1": "桜草", "底本の親本出版社名1": "文芸書院", "底本の親本初版発行年1": "1913(大正2)年3月18日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57484_ruby_60060.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57484_60106.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 晩唐一代の名家、韓昌黎に、一人の猶子韓湘あり。江淮より迎へて昌黎其の館に養ひぬ。猶子年少うして白皙、容姿恰も婦人の如し。然も其の行ひ放逸にして、聊も學ぶことをせず。學院に遣はして子弟に件はしむれば、愚なるが故に同窓に辱めらる。更に街西の僧院を假りて獨り心靜かに書を讀ましむるに、日を經ること纔に旬なるに、和尚のために其の狂暴を訴へらる。仍て速に館に召返し、座に引いて、昌黎面を正うして云ふ。汝見ずや、市肆の賤類、朝暮の營みに齷齪たるもの、尚ほ一事の長ずるあり、汝學ばずして何をかなすと、叔公大目玉を食はす。韓湘唯々と畏りて、爪を噛むが如くにして、ぽつ〳〵と何か撮んで食ふ。其の状我が國に豌豆豆を噛るに似たり。昌黎色を勵まして叱つて曰く、此の如きは、そも〳〵如何なる事ぞと、奪つて是を見れば、其の品有平糖の缺の如くにして、あらず、美しき桃の花片なり。掌を落せば、ハラハラと膝に散る。時や冬、小春日の返り咲にも怪し何處にか取り得たる。昌黎屹と其の面を睨まへてあり。韓湘拜謝して曰く、小姪此の藝當ござ候。因りて書を讀まず又學ばざるにて候。昌黎信とせず、審に其の仔細を詰れば、韓湘高らかに歌つて曰く、青山雲水の窟、此の地是れ我が家。子夜瓊液を飱し、寅晨降霞を咀ふ。琴は碧玉の調を彈じ、爐には白珠の砂を煉る。寶鼎金虎を存し、芝田白鴉を養ふ。一瓢に造化を藏し、三尺妖邪を斬り、逡巡の酒を造ることを解し、また能く頃刻の花を開かしむ。人ありて能く我に學ばば、同くともに仙葩を看ん、と且つ歌ひ且つ花の微紅を噛む。昌黎敢て信ぜず。韓湘又館、階前の牡丹叢を指して曰く、今、根あるのみ。叔公もし花を欲せば、我乃開かしめん。青黄紅白、正暈倒暈、淺深の紅、唯公が命のまゝ也。昌黎其の放語を憎み、言ふがまゝに其の術をなせよと言ふ。  猶子先づ屏風を借り得て、庭に牡丹叢を蔽ひ、人の窺ふことを許さず。獨り其の中にあり。窠の四方を掘り、深さ其の根に及び、廣さ人を容れて坐す。唯紫粉と紅と白粉を齎らし入るのみ。恁くて旦に暮に其の根を治む。凡て一七日、術成ると稱し、出でて昌黎に對して、はじめて羞ぢたる色あり。曰く、恨むらくは節遲きこと一月なり、時既に冬にして我が思ふがまゝならずと。然れども花開いて絢爛たり。昌黎植うる處、牡丹もと紫、今は白紅にして縁おの〳〵緑に、月界の採虹玲瓏として薫る。尚ほ且つ朶ごとに一聯の詩あり。奇なる哉、字の色分明にして紫なり。瞳を定めてこれを讀めば――雲横秦嶺家何在、雪擁藍關馬不前――昌黎、時に其の意の何たるを知らず。既にして猶子が左道を喜ばず、教ふべからずとして、江淮に追還す。  未だ幾干ならざるに、昌黎、朝に佛骨の表を奉るに因り、潮州に流されぬ。八千の途、道に日暮れんとし偶雪降る。晦冥陰慘、雲冷たく、風寒く、征衣纔に黒くして髮忽ち白し。嶺あり、天を遮り、關あり、地を鎖し、馬前まず、――馬前まず。――孤影雪に碎けて濛々たる中に、唯見れば一簇の雲の霏々として薄く紅なるあり。風に漂うて横ざまに吹き到る。日は暮れぬ。豈夕陽の印影ならんや。疑ふらくは紅涙の雪を染むる事を。  袖を捲いて面を拂へば、遙に其の雲の中に、韓湘あり。唯一人、雪を冒して何處よりともなく、やがて馬前に來る。其の蓑紛々として桃花を點じ、微笑して一揖す。叔公其の後はと。昌黎、言ふこと能はず、涙先づ下る。韓湘曰く、今、公、花間の文字を知れりや。昌黎默然たり。時に後れたる從者辛うじて到る。昌黎顧みて、詢うて曰く、此の地何處ぞ。藍關にて候。さては、高きは秦嶺也。昌黎嗟嘆すること久うして曰く、吾今にして仙葩を視たり。汝のために彼の詩を全うせんと。韓文公が詩集のうちに、一封朝奏九重天―云々とあるもの則是。於茲手を取りて泣きぬ。韓湘慰めて曰く、愴むこと勿れ、吾知る、公恙あらず、且つ久しからずして朝廷又公を用ふと。別るゝ時一掬の雪を取つて、昌黎に與へて曰く、此のもの能く潮州の瘴霧を消さん、叔公、御機嫌ようと。昌黎馬上に是を受けて袖にすれば、其の雪香しく立處に花片となんぬとかや。 明治四十一年四月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004592", "作品名": "花間文字", "作品名読み": "かかんもじ", "ソート用読み": "かかんもし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4592.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日第1刷", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4592_ruby_26477.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4592_26584.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
世の中何事も不思議なり、「おい、ちよいと煙草屋の娘はアノ眼色が不思議ぢやあないか。」と謂ふは別に眼が三ツあるといふ意味にあらず、「春狐子、何うでごす、彼處の會席は不思議に食せやすぜ。」と謂ふも譽め樣を捻るのなり。人ありて、もし「イヤ不思議と勝つね、日本は不思議だよ、何うも。」と語らむか、「此奴が失敬なことをいふ、陛下の稜威、軍士の忠勇、勝つなアお前あたりまへだ、何も不思議なことあねえ。」とムキになるのは大きに野暮、號外を見てぴしや〳〵と額を叩き、「不思議だ不思議だ」といつたとて勝つたが不思議であてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理を噛分けてさ、この七不思議を讀み給へや。 東西、最初お聞に達しまするは、 「しゝ寺のもゝんぢい。」 これ大弓場の爺樣なり。人に逢へば顏相をくづし、一種特有の聲を發して、「えひゝゝ。」と愛想笑をなす、其顏を見ては泣出さぬ嬰兒を――、「あいつあ不思議だよ。」とお花主は可愛がる。 次が、 「勸工場の逆戻。」 東京の區到る處にいづれも一二の勸工場あり、皆入口と出口を異にす、獨り牛込の勸工場は出口と入口と同一なり、「だから不思議さ。」と聞いて見れば詰らぬこと。 それから、 「藪蕎麥の青天井。」 下谷團子坂の出店なり。夏は屋根の上に柱を建て、席を敷きて客を招ず。時々夕立に蕎麥を攫はる、とおまけを謂はねば不思議にならず。 「奧行なしの牛肉店。」 (いろは)のことなり、唯見れば大廈嵬然として聳ゆれども奧行は少しもなく、座敷は殘らず三角形をなす、蓋し幾何學的の不思議ならむ。 「島金の辻行燈。」 家は小路へ引込んで、通りの角に「蒲燒」と書いた行燈ばかりあり。氣の疾い奴がむやみと飛込むと仕立屋なりしぞ不思議なる。 「菓子屋の鹽餡娘。」 餅菓子店の店にツンと濟ましてる婦人なり。生娘の袖誰が曳いてか雉子の聲で、ケンもほろゝの無愛嬌者、其癖甘いから不思議だとさ。 さてどんじりが、 「繪草紙屋の四十島田。」 女主人にてなか〳〵の曲者なり、「小僧や、紅葉さんの御家へ參つて……」などと一面識もない大家の名を聞こえよがしにひやかしおどかす奴、氣が知れないから不思議なり。 明治二十八年三月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年4月24日作成 2003年5月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004147", "作品名": "神楽坂七不思議", "作品名読み": "かぐらざかななふしぎ", "ソート用読み": "かくらさかななふしき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4147.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4147_ruby_6278.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4147_6474.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一 「ここだ、この音なんだよ。」  帽子も靴も艶々と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利けものといった風采。一ツ、容子は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴の、――すらりとして派手に鮮麗な中に、扱帯の結んだ端、羽織の裏、褄はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々に薄りと蔭がさす、何か、もの思か、悩が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重る花片に、曇のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈から、幽に、行違う人を誘うて時めく。薫を籠めて、藤、菖蒲、色の調う一枚小袖、長襦袢。そのいずれも彩糸は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩せぎすな美しい女に、――今のを、ト言掛けると、婦人は黙って頷いた。  が、もう打頷く咽喉の影が、半襟の縫の薄紅梅に白く映る。……  あれ見よ。この美しい女は、その膚、その簪、その指環の玉も、とする端々透通って色に出る、心の影がほのめくらしい。 「ここだ、この音なんだよ。」  婦人は同伴の男にそう言われて、時に頷いたが、傍でこれを見た松崎と云う、絣の羽織で、鳥打を被った男も、共に心に頷いたのである。 「成程これだろう。」  但し、松崎は、男女、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸へ詣でた帰途であった。  住居は本郷。  江東橋から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌の川通りを陽炎に縺れて来て、長崎橋を入江町に掛る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。  松崎は、橋の上に、欄干に凭れて、しばらく彳んで聞入ったほどである。  ちゃんちきちき面白そうに囃すかと思うと、急に修羅太鼓を摺鉦交り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中で、屋台に山形の段々染、錣頭巾で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋の爺様が、皺くたのまくり手で、人寄せにその鉦太鼓を敲いていたのを、ちっと前に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士は銜煙管で、しゃんしゃんと轡が揺れそうな合方となる。  絶えず続いて、音色は替っても、囃子は留まらず、行交う船脚は水に流れ、蜘蛛手に、角ぐむ蘆の根を潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当の橋の暖い袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、  ――おいで、おいで――  と招いていそうで。  手に取れそうな近い音。  はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎が、どこかの手飼いの鶯交りに、音を捕うる人心を、はッと同音に笑いでもする気勢。  春たけて、日遅く、本所は塵の上に、水に浮んだ島かとばかり、都を離れて静であった。  屋根の埃も紫雲英の紅、朧のような汽車が過ぎる。  その響きにも消えなかった。        二  松崎は、――汽車の轟きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然と軽く体を躱わす、形のない、思いのままに勝手な音の湧出ずる、空を舞繞る鼓に翼あるものらしい、その打囃す鳴物が、――向って、斜違の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立の松を洩れて、朱塗の堂の屋根が見える、稲荷様と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。  けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静ったように鎖してあった。  いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響に乗って、駅と書いた本所停車場の建札も、駅と読んで、白日、菜の花を視むる心地。真赤な達磨が逆斛斗を打った、忙がしい世の麺麭屋の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。  空いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。  乗るわ、降りるわ、混合う人数の崩るるごとき火水の戦場往来の兵には、余り透いて、相撲最中の回向院が野原にでもなったような電車の体に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分歩行き廻った草臥も交って、松崎はトボンと立つ。  例の音は地の底から、草の蒸さるるごとく、色に出で萌えて留まらぬ。 「狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」 「あら、嘘ばっかり。」  ちょうどそこに、美しい女と、その若紳士が居合わせて、こう言を交わしたのを松崎は聞取った。  さては空音ではないらしい。  若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆、足洗い屋敷、埋蔵の溝、小豆婆、送り提燈とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。  言った方も戯に、聞く女も串戯らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説を、夢のように思出した。  興ある事かな。  日は永し。  今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙な医師と一般、仕事に悩んで持余した身体なり、電車はいつでも乗れる。  となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中にも、囃子の音が、間近に、判然したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。  その上、世を避けた仙人が碁を打つ響きでもなく、薄隠れの女郎花に露の音信るる声でもない……音色こそ違うが、見世ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。  向って日南の、背後は水で、思いがけず一本の菖蒲が町に咲いた、と見た。……その美しい女の影は、分れた背中にひやひやと染む。……  と、チャンチキ、チャンチキ、嘲けるがごとくに囃す。……  がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。        三  片側はどす黒い、水の淀んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵やら、炭やら、薪やら、その中を蛇が這うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。  あの鼠が太鼓をたたいて、鼬が笛を吹くのかと思った。……人通り全然なし。  片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合わせた小家続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉も居らなければ犬も居らぬ。縄暖簾も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽歩行いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。  太陽はたけなわに白い。  颯と、のんびりした雲から落かかって、目に真蒼に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。  町はそこから曲る。  と追分で路が替って、木曾街道へ差掛る……左右戸毎の軒行燈。  ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を中へ取って、白く点したらしく、真昼浮出て朦と明るい。いずれも御泊り木賃宿。  で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上、その昼行燈ばかりが目に着く。中には、廂先へ高々と燈籠のごとくに釣った、白看板の首を擡げて、屋台骨は地の上に獣のごとく這ったのさえある。  吉野、高橋、清川、槙葉。寝物語や、美濃、近江。ここにあわれを留めたのは屋号にされた遊女達。……ちょっと柳が一本あれば滅びた白昼の廓に斉しい。が、夜寒の代に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥として砂に人なき光景は、祭礼の夜に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏と化し果てたる趣あり。  絶壁の躑躅と見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓のみ、猿曵が猿に着せるのであろう。  生命の搦む桟橋から、危く傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後むきに鼠の布子の背を曲げた首の色の蒼い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛の囲の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は痩せていた。  ここに照る月、輝く日は、兀げた金銀の雲に乗った、土御門家一流易道、と真赤に目立った看板の路地から糶出した、そればかり。  空を見るさえ覗くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。  この春の日向の道さえ、寂びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明に映る……  表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の真ただ中とも思う処に、曳棄てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。  近いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。  男か、女か。  と、見た体は、褪せた尻切の茶の筒袖を着て、袖を合わせて、手を拱き、紺の脚絆穿、草鞋掛の細い脚を、車の裏へ、蹈揃えて、衝と伸ばした、抜衣紋に手拭を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐を深く被ったなりで、がっくりと俯向いたは、どうやら坐眠りをしていそう。  城の縄張りをした体に、車の轅の中へ、きちんと入って、腰は床几に落したのである。  飴屋か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……        四  屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾をひらりと釣った、下に横長な掛行燈。 一………………………………坂東よせ鍋 一………………………………尾上天麩羅 一………………………………大谷おそば 一………………………………市川玉子焼 一………………………………片岡 椀盛 一………………………………嵐  お萩 一………………………………坂東あべ川 一………………………………市村しる粉 一………………………………沢村さしみ 一………………………………中村 洋食  初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候  名の上へ、藤の花を末濃の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女に、黄色な瓢箪男、蒼い般若の可恐い面。黒の松葺、浅黄の蛤、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。  引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。  坂東あべ川、市村しるこ、渠はあまい名を春狐と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出しの狂言方であったから。―― 「串戯じゃないぜ。」  思わず、声を出して独言。 「親仁さん、おう、親仁さん。」  なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕れて、我を諷するがごとき浅黄の頭巾は?……  屋台の様子が、小児を対手で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡。 「おい、お爺い。」 と閑なあまりの言葉がたき。わざと中ッ腹に呼んでみたが、寂寞たる事、くろんぼ同然。  で、操の糸の切れたがごとく、手足を突張りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕ぐとこそ言え、これは筏を流す体。  それに対して、そのまま松崎の分った袂は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。  まだ十歩と離れぬ。  その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍の堆い屋形が一軒。斜に中空をさして鯉の鱗の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳えたのがある。  空屋か、知らず、窓も、門も、皮をめくった、面に斉しく、大な節穴が、二ツずつ、がッくり窪んだ眼を揃えて、骸骨を重ねたような。  が、月には尾花か、日向の若草、廂に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。  四辺に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀が水のぬるんだ堰に見えて、その前に、お玉杓子の推競で群る状に、大勢小児が集っていた。  おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆動揺めく。  その癖静まって声を立てぬ。  直きその物売の前に立ちながら、この小さな群集の混合ったのに気が附かなかったも道理こそ、松崎は身に染みた狂言最中見ぶつのひっそりした桟敷うらを来たも同じだと思った。  役者は舞台で飛んだり、刎ねたり、子供芝居が、ばたばたばた。        五  大当り、尺的に矢の刺っただけは新粉屋の看板より念入なり。一面藤の花に、蝶々まで同じ絵を彩った一張の紙幕を、船板塀の木戸口に渡して掛けた。正面前の処へ、破筵を三枚ばかり、じとじとしたのを敷込んだが、日に乾くか、怪い陽炎となって、むらむらと立つ、それが舞台。  取巻いた小児の上を、鮒、鯰、黒い頭、緋鯉と見たのは赤い切の結綿仮髪で、幕の藤の花の末を煽って、泳ぐように視められた。が、近附いて見ると、坂東、沢村、市川、中村、尾上、片岡、役者の連名も、如件、おそば、お汁粉、牛鍋なんど、紫の房の下に筆ぶとに記してあった……  松崎が、立寄った時、カイカイカイと、ちょうど塀の内で木が入って、紺の衣服に、黒い帯した、円い臀が、蹠をひょい、と上げて、頭からその幕へ潜ったのを見た。――筵舞台は行儀わるく、両方へ歪んだが。  半月形に、ほかほかとのぼせた顔して、取廻わした、小さな見物、わやわやとまた一動揺。  中に、目の鋭い屑屋が一人、箸と籠を両方に下げて、挟んで食えそうな首は無しか、とじろじろと睨廻わす。  もう一人、袷の引解きらしい、汚れた縞の単衣ものに、綟綟れの三尺で、頬被りした、ずんぐり肥った赤ら顔の兄哥が一人、のっそり腕組をして交る……  二人ばかり、十二三、四五ぐらいな、子守の娘が、横ちょ、と猪首に小児を背負って、唄も唄わず、肩、背を揺る。他は皆、茄子の蔓に蛙の子。  楽屋――その塀の中で、またカチカチと鳴った。  処へ、通から、ばらばらと駈けて来た、別に二三人の小児を先に、奴を振らせた趣で、や! あの美しい女と、中折の下に眉の濃い、若い紳士と並んで来たのは、浮世の底へ霞を引いて、天降ったように見えた。  ここだ、この音だ――と云ったその紳士の言を聞いた、松崎は、やっぱり渠等も囃子の音に誘われて、男女のどちらが言出したか、それは知らぬが、連立って、先刻の電車の終点から、ともに引寄せられて来たものだと思った。  時に、その二人も、松崎も、大方この芝居の鳴物が、遠くまで聞えたのであろうと頷く……囃子はその癖、ここに尋ね当った現下は何も聞えぬ。……  絵の藤の幕間で、木は入ったが舞台は空しい。 「幕が長いぜ、開けろい。遣らねえか、遣らねえか。」  とずんぐり者の頬被は肩を揺った。が、閉ったばかり、いささかも長い幕間でない事が、自分にも可笑しいか、鼻先の手拭の結目を、ひこひこと遣って笑う。  様子が、思いも掛けず、こんな場所、子供芝居の見物の群に来た、美しい女に対して興奮したものらしい。  実際、雲の青い山の奥から、淡彩の友染とも見える、名も知れない一輪の花が、細谷川を里近く流れ出でて、淵の藍に影を留めて人目に触れた風情あり。石斑魚が飛んでも松葉が散っても、そのまま直ぐに、すらすらと行方も知れず流れよう、それをしばらくでも引留めるのは、ただちっとも早く幕を開ける外はない、と松崎の目にも見て取られた。 「頼むぜ頭取。」  頬被がまた喚く。        六  あたかもその時、役者の名の余白に描いた、福面女、瓢箪男の端をばさりと捲ると、月代茶色に、半白のちょん髷仮髪で、眉毛の下った十ばかりの男の児が、渋団扇の柄を引掴んで、ひょこりと登場。 「待ってました。」  と頬被が声を掛けた。  奴は、とぼけた目をきょろんと遣ったが、 「ちぇ、小道具め、しようがねえ。」  と高慢な口を利いて、尻端折りの脚をすってん、刎ねるがごとく、二つ三つ、舞台をくるくると廻るや否や、背後向きに、ちょっきり結びの紺兵児の出尻で、頭から半身また幕へ潜ったが、すぐに摺抜けて出直したのを見れば、うどん、当り屋とのたくらせた穴だらけの古行燈を提げて出て、筵の上へ、ちょんと直すと、奴はその蔭で、膝を折って、膝開けに踏張りながら、件の渋団扇で、ばたばたと煽いで、台辞。 「米が高値いから不景気だ。媽々めにまた叱られべいな。」  でも、ちょっと含羞んだか、日に焼けた顔を真赤に俯向く。同じ色した渋団扇、ばさばさばさ、と遣った処は巧緻いものなり。 「いよ、牛鍋。」と頬被。  片岡牛鍋と云うのであろう、が、役は饂飩屋の親仁である。  チャーン、チャーン……幕の中で鉦を鳴らす。  ――迷児の、迷児の、迷児やあ――  呼ばわり連れると、ひょいひょいと三人出た……団粟ほどな背丈を揃えて、紋羽の襟巻を頸に巻いた大屋様。月代が真青で、鬢の膨れた色身な手代、うんざり鬢の侠が一人、これが前へ立って、コトン、コトンと棒を突く。 「や、これ、太吉さん、」  と差配様声を掛ける。中の青月代が、提灯を持替えて、 「はい、はい。」と返事をした。が、界隈の荒れた卵塔場から、葬礼あとを、引攫って来たらしい、その提灯は白張である。  大屋は、カーンと一つ鉦を叩いて、 「大分夜が更けました。」 「亥刻過ぎでございましょう、……ねえ、頭。」 「そうよね。」  と棒をコツン、で、くすくすと笑う。 「笑うな、真面目に真面目に、」と頬被がまた声を掛ける。  差配様が小首を傾け、 「時に、もし、迷児、迷児、と呼んで歩行きますが、誰某と名を申して呼びませいでも、分りますものでござりましょうかね。」 「私もさ、思ってるんで。……どうもね、ただこう、迷児と呼んだんじゃ、前方で誰の事だか見当が附くめえてね、迷児と呼ばれて、はい、手前でござい、と顔を出す奴もねえもんでさ。」とうんざり鬢が引取って言う。 「まずさね……それで闇がりから顔を出せば、飛んだ妖怪でござりますよ。」  青月代の白男が、袖を開いて、両方を掌で圧え、 「御道理でございますとも。それがでございますよ。はい、こうして鉦太鼓で探捜に出ます騒動ではございますが、捜されます御当人の家へ、声が聞えますような近い所で、名を呼びましては、表向の事でも極が悪うございましょう。それも小児や爺婆ならまだしも、取って十九という妙齢の娘の事でございますから。」  と考え考え、切れ切れに台辞を運ぶ。  その内も手を休めず、ばっばっと赤い団扇、火が散るばかり、これは鮮明。        七  青月代は辿々しく、 「で、ございますから、遠慮をしまして、名は呼びません、でございましたが、おっしゃる通り、ただ迷児迷児と喚きました処で分るものではございません。もう大分町も離れました、徐々娘の名を呼びましょう。」 「成程々々、御心附至極の儀。そんなら、ここから一つ名を呼んで捜す事にいたしましょう。頭、音頭を願おうかね。」 「迷児の音頭は遣りつけねえが、ままよ。……差配さん、合方だ。」  チャーンと鉦の音。 「お稲さんやあ、――トこの調子かね。」 「結構でございますね、差配さん。」  差配はも一つ真顔でチャーン。 「さて、呼声に名が入りますと、どうやら遠い処で、幽に、はあい……」と可哀な声。 「変な声だあ。」  と頭は棒を揺って震える真似する。 「この方、総入歯で、若い娘の仮声だちね。いえさ、したが何となく返事をしそうで、大に張合が着きましたよ。」 「その気で一つ伸しましょうよ。」  三人この処で、声を揃えた。チャーン―― 「――迷児の、迷児の、お稲さんやあ……」  と一列び、筵の上を六尺ばかり、ぐるりと廻る。手足も小さく仇ない顔して、目立った仮髪の髷ばかり。麦藁細工が化けたようで、黄色の声で長せた事、ものを云う笛を吹くか、と希有に聞える。  美しい女は、すっと薄色の洋傘を閉めた……ヴェールを脱いだように濃い浅黄の影が消える、と露の垂りそうな清い目で、同伴の男に、ト瞳を注ぎながら舞台を見返す……その様子が、しばらく立停ろうと云うらしかった。 「鍋焼饂飩…」  と高らかに、舞台で目を眠るまで仰向いて呼んだ。 「……ああ、腹が空いた、饂飩屋。」 「へいへい、頭、難有うござります。」  うんざり鬢は額を叩いて、 「おっと、礼はまだ早かろう。これから相談だ。ねえ、太吉さん、差配さん、ちょっぴり暖まって、行こうじゃねえかね。」 「賛成。」  と見物の頬被りは、反を打って大に笑う。  仕種を待構えていた、饂飩屋小僧は、これから、割前の相談でもありそうな処を、もどかしがって、 「へい、お待遠様で。」と急いで、渋団扇で三人へ皆配る。 「早いんだい、まだだよ。」  と差配になったのが地声で甲走った。が、それでも、ぞろぞろぞろぞろと口で言い言い三人、指二本で掻込む仕形。 「頭、……御町内様も御苦労様でございます。お捜しなさいますのは、お子供衆で?」 「小児なものかね、妙齢でございますよ。」  と青月代が、襟を扱いて、ちょっと色身で応答う。 「へい、お妙齢、殿方でござりますか、それともお娘御で。」 「妙齢の野郎と云う奴があるもんか、初厄の別嬪さ。」と頭は口で、ぞろりぞろり。 「ああ、さて、走り人でござりますの。」 「はしり人というのじゃないね、同じようでも、いずれ行方は知れんのだが。」  と差配は、チンと洟をかむ。  美しい女の唇に微笑が見えた…… 「いつの事、どこから、そのお姿が見えなくなりました。」  と饂飩屋は、渋団扇を筵に支いて、ト中腰になって訊く。        八  差配は溜息と共に気取って頷き、 「いつ、どこでと云ってね、お前、縁日の宵の口や、顔見世の夜明から、見えなくなったというのじゃない。その娘はね、長い間煩らって、寝ていたんだ。それから行方が知れなくなったよ。」  子供芝居の取留めのない台辞でも、ちっと変な事を言う。 「へい。」  舞台の饂飩屋も異な顔で、 「それでは御病気を苦になさって、死ぬ気で駈出したのでござりますかね。」 「寿命だよ。ふん、」と、も一つかんで、差配は鼻紙を袂へ落す。 「御寿命、へい、何にいたせ、それは御心配な事で。お怪我がなければ可うございます。」 「賽の河原は礫原、石があるから躓いて怪我をする事もあろうかね。」と陰気に差配。 「何を言わっしゃります。」 「いえさ、饂飩屋さん、合点の悪い。その娘はもう亡くなったんでございますよ。」と青月代が傍から言った。 「お前様も。死んだ迷児という事が、世の中にござりますかい。」 「六道の闇に迷えば、はて、迷児ではあるまいか。」 「や、そんなら、お前様方は、亡者をお捜しなさりますのか。」 「そのための、この白張提灯。」  と青月代が、白粉の白けた顔を前へ、トぶらりと提げる。 「捜いて、捜いて、暗から闇へ行く路じゃ。」 「ても……気味の悪い事を言いなさる。」 「饂飩屋、どうだ一所に来るか。」  と頭は鬼のごとく棒を突出す。  饂飩屋は、あッと尻餅。  引被せて、青月代が、 「ともに冥途へ連行かん。」 「来れや、来れ。」と差配は異変な声繕。  一堪りもなく、饂飩屋はのめり伏した。渋団扇で、頭を叩くと、ちょん髷仮髪が、がさがさと鳴る。 「占めたぞ。」 「喰遁げ。」  と囁き合うと、三人の児は、ひょいと躍って、蛙のようにポンポン飛込む、と幕の蔭に声ばかり。  ――迷児の、迷児の、お稲さんやあ――  描ける藤は、どんよりと重く匂って、おなじ色に、閃々と金糸のきらめく、美しい女の半襟と、陽炎に影を通わす、居周囲は時に寂寞した、楽屋の人数を、狭い処に包んだせいか、張紙幕が中ほどから、見物に向いて、風を孕んだか、と膨れて見える……この影が覆蔽るであろう、破筵は鼠色に濃くなって、蹲み込んだ児等の胸へ持上って、蟻が四五疋、うようよと這った。……が、なぜか、物の本の古びた表面へ、――来れや、来れ……と仮名でかきちらす形がある。  見つつ松崎が思うまで、来れや、来れ……と言った差配の言葉は、怪しいまで陰に響いて、幕の膨らんだにつけても、誰か、大人が居て、蔭で声を助けたらしく聞えたのであった。  見物の児等は、神妙に黙って控えた。  頬被のずんぐり者は、腕を組んで立ったなり、こくりこくりと居眠る……  饂飩屋が、ぼやんとした顔を上げた。さては、差置いた荷のかわりの行燈も、草紙の絵ではない。  蟻は隠れたのである。        九 「狐か、狸か、今のは何じゃい、どえらい目に逢わせくさった。」  と饂飩屋は坂塀はずれに、空屋の大屋根から空を仰いで、茫然する。  美しい女と若い紳士の、並んで立った姿が動いて、両方木賃宿の羽目板の方を見向いたのを、――無台が寂しくなったため、もう帰るのであろうと見れば、さにあらず。  そこへ小さな縁台を据えて、二人の中に、ちょんぼりとした円髷を俯向けに、揉手でお叩頭をする古女房が一人居た。 「さあ、どうぞ、旦那様、奥様、これへお掛け遊ばして、いえ、もう汚いのでございますが、お立ちなすっていらっしゃいますより、ちっとは増でございます。」  と手拭で、ごしごし拭いを掛けつつ云う。その手で――一所に持って出たらしい、踏台が一つに乗せてあるのを下へおろした。 「いや、俺たちは、」  若い紳士は、手首白いのを挙げて、払い退けそうにした。が、美しい女が、意を得たという晴やかな顔して、黙ってそのまま腰を掛けたので。 「難有う。」  渠も斉しく並んだのである。 「はい、失礼を。はいはい、はい、どうも。」と古女房は、まくし掛けて、早口に饒舌りながら、踏台を提げて、小児たちの背後を、ちょこちょこ走り。で、松崎の背後へ廻る。 「貴方様は、どうぞこれへ。はい、はい、はい。」 「恐縮ですな。」  かねて期したるもののごとく猶予らわず腰を落着けた、……松崎は、美しい女とその連とが、去る去らないにかかわらず、――舞台の三人が鉦をチャーンで、迷児の名を呼んだ時から、子供芝居は、とにかくこの一幕を見果てないうちは、足を返すまいと思っていた。  声々に、可哀に、寂しく、遠方を幽に、――そして幽冥の界を暗から闇へ捜廻ると言った、厄年十九の娘の名は、お稲と云ったのを鋭く聞いた――仔細あって忘れられぬ人の名なのであるから。―― 「おかみさん、この芝居はどういう筋だい。」 「はいはい、いいえ、貴下、子供が出たらめに致しますので、取留めはございませんよ。何の事でございますか、私どもは一向に分りません。それでも稽古だの何のと申して、それは騒ぎでございましてね、はい、はい、はい。」  で手を揉み手を揉み、正面には顔を上げずに、ひょこひょこして言う。この古女房は、くたびれた藍色の半纏に、茶の着もので、紺足袋に雪駄穿で居たのである。 「馬鹿にしやがれ。へッ、」  と唐突に毒を吐いたは、立睡りで居た頬被りで、弥蔵の肱を、ぐいぐいと懐中から、八ツ当りに突掛けながら、 「人、面白くもねえ、貴方様お掛け遊ばせが聞いて呆れら。おはいはい、襟許に着きやがって、へッ。俺の方が初手ッから立ってるんだ。衣類に脚が生えやしめえし……草臥れるんなら、こっちが前だい。服装で価値づけをしやがって、畜生め。ああ、人間下りたくはねえもんだ。」  古女房は聞かない振で、ちょこちょこと走って退いた。一体、縁台まで持添えて、どこから出て来たのか、それは知らない。そうして引返したのは町の方。  そこに、先刻の編笠目深な新粉細工が、出岬に霞んだ捨小舟という形ちで、寂寞としてまだ一人居る。その方へ、ひょこひょこ行く。  ト頬被りは、じろりと見遣って、 「ざまあ見ろ、巫女の宰取、活きた兄哥の魂が分るかい。へッ、」と肩をしゃくりながら、ぶらりと見物の群を離れた。  ついでに言おう、人間を挟みそうに、籠と竹箸を構えた薄気味の悪い、黙然の屑屋は、古女房が、そっち側の二人に、縁台を進めた時、ギロリと踏台の横穴を覗いたが、それ切りフイと居なくなった。……  いま、腰を掛けた踏台の中には、ト松崎が見ても一枚の屑も無い。        十 「おい、出て来ねえな、おお、大入道、出じゃねえか、遅いなあ。」  少々舞台に間が明いて、魅まれたなりの饂飩小僧は、てれた顔で、……幕越しに楽屋を呼んだ。  幕の端から、以前の青月代が、黒坊の気か、俯向けに仮髪ばかりを覗かせた。が、そこの絵の、狐の面が抜出したとも見えるし、古綿の黒雲から、新粉細工の三日月が覗くとも視められる。 「まだじゃねえか、まだお前、その行燈がかがみにならねえよ……科が抜けてるぜ、早く演んねえな。」  と云って、すぽりと引込む。――はてな、行燈が、かがみに化ける……と松崎は地の凸凹する蹈台の腰を乗出す。  同じ思いか、面影も映しそうに、美しい女は凝と視た。ひとり紳士は気の無い顔して、反身ながらぐったりと凭掛った、杖の柄を手袋の尖で突いたものなり。  饂飩屋は、行燈に向直ると、誰も居ないのに、一人で、へたへたと挨拶する。 「光栄なさいまし。……直ぐと暖めて差上げます。今、もし、飛んだお前さん、馬鹿な目に逢いましてね、火も台なしでござります。へい、辻の橋の玄徳稲荷様は、御身分柄、こんな悪戯はなさりません。狸か獺でござりましょう。迷児の迷児の、――と鉦を敲いて来やがって饂飩を八杯攫らいました……お前さん。」  と滑稽た眉毛を、寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃと饒舌ったが、 「や、一言も、お返事なしだね、黙然坊様。鼻だの、口だの、ぴこぴこ動いてばかり。……あれ、誰か客人だと思ったら――私の顔だ――道理で、兄弟分だと頼母しかったに……宙に流れる川はなし――七夕様でもないものが、銀河には映るまい。星も隠れた、真暗、」  と仰向けに、空を視る、と仕掛けがあったか、頭の上のその板塀越、幕の内か潜らして、両方を竹で張った、真黒な布の一張、筵の上へ、ふわりと投げて颯と拡げた。  と見て、知りつつ松崎は、俄然として雲が湧いたか、とぎょっとした、――電車はあっても――本郷から遠路を掛けた当日。麗さも長閑さも、余り積って身に染むばかり暖かさが過ぎたので、思いがけない俄雨を憂慮ぬではなかった処。  彼方の新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路遥かな思いがある。  また、余所は知らず、目の前のざっと劇場ほどなその空屋の裡には、本所の空一面に漲らす黒雲は、畳込んで余りあるがごとくに見えた。  暗い舞台で、小さな、そして爺様の饂飩屋は、おっかな、吃驚、わなわな大袈裟に震えながら、 「何に映る……私が顔だ、――行燈か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をせまいぞ。この上手前に口を利かれては叶わねえ。何分頼むよ。……面の皮は、雨風にめくれたあとを、幾たびも張替えたが、火事には人先に持って遁げる何十年以来の古馴染だ。  馴染がいに口を利くなよ、私が呼んでも口を利くなよ。はて、何に映る顔だ知らん。……口を利くな、口を利くな。」  ……と背の低いのが、滅入込みそうに、大な仮髪の頸を窘め、ひッつりそうな拳を二つ、耳の処へ威すがごとく、張肱に、しっかと握って、腰をくなくなと、抜足差足。  で、目を据え、眉を張って、行燈に擦寄り擦寄り、 「はて、何に映った顔だ知らん、行燈か、行燈か、……口を利くなよ、行燈か。」  と熟と覗く。  途端に、沈んだが、通る声で、 「私……行燈だよ。」 「わい、」と叫んで、饂飩屋は舞台を飛退く。        十一  この古行燈が、仇も情も、赤くこぼれた丁子のごとく、煤の中に色を籠めて消えずにいて、それが、針の穴を通して、不意に口を利いたような女の声には、松崎もぎょっとした。  饂飩屋は吃驚の呼吸を引いて、きょとんとしたが 「俺あ可厭だぜ。」と押殺した低声で独言を云ったと思うと、ばさりと幕摺れに、ふらついて、隅から蹌踉け込んで見えなくなった。  時に――私……行燈だよ、――と云ったのは、美しい女である事に、松崎も心附いて、――驚いて楽屋へ遁げた小児の状の可笑さに、莞爾、笑を含んだ、燃ゆるがごときその女の唇を見た。 「つい言ッちまったのよ。」  と紳士を見向く。 「困った人だね、」  と杖を取って、立構えをしながら、 「さあ、行こうか。」 「可いわ、もうちっと……」 「恐怖いよう。」  と子守の袂にぶら下った小さな児が袖を引張って言う。 「こわいものかね、行燈じゃないわ。……綺麗な奥さんが言ったんだわ。」とその子守は背の子を揺り上げた。  舞台を取巻いた大勢が、わやわやとざわついて、同音に、声を揚げて皆笑った……小さいのが二側三側、ぐるりと黒く塊ったのが、変にここまで間を措いて、思出したように、遁込んだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、どっというのが、一つ、町を越した空屋の裏あたりに響いて、壁を隔てて聞くようにぼやけて寂しい。 「東西、東西。」  青月代が、例の色身に白い、膨りした童顔を真正面に舞台に出て、猫が耳を撫でる……トいった風で、手を挙げて、見物を制しながら、おでんと書いた角行燈をひょいと廻して、ト立直して裏を見せると、かねて用意がしてあった……その一小間が藍を濃く真青に塗ってあった。  行燈が化けると云った、これが、かがみのつもりでもあろう、が、上を蔽うた黒布の下に、色が沈んで、際立って、ちょうど、間近な縁台の、美しい女と向合せに据えたので、雪なす面に影を投げて、媚かしくも凄くも見える。  青月代は飜然と潜った。  それまでは、どれもこれも、吹矢に当って、バッタリと細工ものが顕れる形に、幕へ出入りのひょっこらさ加減、絵に描いた、小松葺、大きな蛤十ばかり一所に転げて出そうであったが。  舞台に姿見の蒼い時よ。  はじめて、白玉のごとき姿を顕す……一人の立女形、撫肩しなりと脛をしめつつ褄を取った状に、内端に可愛らしい足を運んで出た。糸も掛けない素の白身、雪の練糸を繰るように、しなやかなものである。  背丈恰好、それも十一二の男の児が、文金高髷の仮髪して、含羞だか、それとも芝居の筋の襯染のためか、胸を啣える俯向き加減、前髪の冷たさが、身に染む風情に、すべすべと白い肩をすくめて、乳を隠す嬌態らしい、片手柔い肱を外に、指を反らして、ひたりと附けた、その頤のあたりを蔽い、額も見せないで、なよなよと筵に雪の踵を散らして、静に、行燈の紙の青い前。        十二  綿かと思う柔な背を見物へ背後むきに、その擬えし姿見に向って、筵に坐ると、しなった、細い線を、左の白脛に引いて片膝を立てた。  この膝は、松崎の方へ向く。右の掻込んで、その腰を据えた方に、美しい女と紳士の縁台がある。  まだ顔を見せないで、打向った青行燈の抽斗を抜くと、そこに小道具の支度があった……白粉刷毛の、夢の覚際の合歓の花、ほんのりとあるのを取って、媚かしく化粧をし出す。  知ってはいても、それが男の児とは思われない。耳朶に黒子も見えぬ、滑かな美しさ。松崎は、むざと集って血を吸うのが傷しさに、蹈台の蚊をしきりに気にした  蹈台の蚊は、おかしいけれども、はじめ腰掛けた時から、間を措いては、ぶんと一つ、ぶんとまた一つ、穴から唸って出る……足と足を摺合わせたり、頭を掉ったり、避けつ払いつしていたが、日脚の加減か、この折から、ぶくぶくと溝から泡の噴く体に数を増した。  人情、なぜか、筵の上のその皓体に集らせたくないので、背後へ、町へ、両の袂を叩いて払った。  そして、この血に餓えて呻く虫の、次第に勢を加えたにつけても、天気模様の憂慮しさに、居ながら見渡されるだけの空を覗いたが、どこのか煙筒の煙の、一方に雪崩れたらしい隈はあったが、黒しと怪む雲はなかった。ただ、町の静さ。板の間の乾びた、人なき、広い湯殿のようで、暖い霞の輝いて淀んで、漾い且つ漲る中に、蚊を思うと、その形、むらむら波を泳ぐ海月に似て、槊を横えて、餓えたる虎の唄を唄って刎ねる。……  この影がさしたら、四ツ目あたりに咲き掛けた紅白の牡丹も曇ろう。……嘴を鳴らして、ひらりひらりと縦横無尽に踊る。  が、現なの光景は、長閑な日中の、それが極度であった。――  やがて、蚊ばかりではない、舞台で狐やら狸やら、太鼓を敲き笛を吹く……本所名代の楽器に合わせて、猫が三疋。小夜具を被って、仁王立、一斗樽の三ツ目入道、裸の小児と一所になって、さす手の扇、ひく手の手拭、揃って人も無げに踊出した頃は、俄雨を運ぶ機関車のごとき黒雲が、音もしないで、浮世の破めを切張の、木賃宿の数の行燈、薄暗いまで屋根を圧して、むくむくと、両国橋から本所の空を渡ったのである。  次第は前後した。  これより前、姿見に向った裸の児が、濃い化粧で、襟白粉を襟長く、くッきりと粧うと、カタンと言わして、刷毛と一所に、白粉を行燈の抽斗に蔵った時、しなりとした、立膝のままで、見物へ、ひょいと顔を見せたと思え。  島田ばかりが房々と、やあ、目も鼻も無い、のっぺらぼう。  唇ばかり、埋め果てぬ、雪の紅梅、蕊白く莞爾した。  はっと美しい女は身を引いて、肩を摺った羽織の手先を白々と紳士の膝へ。  額も頬も一分、三分、小鼻も隠れたまで、いや塗ったとこそ言え。白粉で消した顔とは思うが、松崎さえ一目見ると変な気がした。  そこへ、件の三ツ目入道、どろどろどろと顕れけり        十三  樽を張子で、鼠色の大入道、金銀張分けの大の眼を、行燈見越に立はだかる、と縄からげの貧乏徳利をぬいと突出す。 「丑満の鐘を待兼ねたやい。……わりゃ雪女。」  とドス声で甲を殺す……この熊漢の前に、月からこぼれた白い兎、天人の落し児といった風情の、一束ねの、雪の膚は、さては化夥間の雪女であった。 「これい、化粧が出来たら酌をしろ、ええ。」  と、どか胡坐、で、着ものの裾が堆い。  その地響きが膚に応えて、震える状に、脇の下を窄めるから、雪女は横坐りに、 「あい、」と手を支く。 「そりゃ、」  と徳利を突出した、入道は懐から、鮑貝を掴取って、胸を広く、腕へ引着け、雁の首を捻じるがごとく白鳥の口から注がせて、 「わりゃ、わなわなと震えるが、素膚に感じるか、いやさ、寒いか。」と、じろじろと視めて寛々たり。  雪女細い声。 「はい……冷とうござんすわいな。」 「ふん、それはな、三途河の奪衣婆に衣を剥がれて、まだ間が無うて馴れぬからだ。ひくひくせずと堪えくされ。雪女が寒いと吐すと、火が火を熱い、水が水を冷い、貧乏人が空腹いと云うようなものだ。汝が勝手の我ままだ。」 「情ない事おっしゃいます、辛うて辛うてなりませんもの。」  とやっぱり戦く。その姿、あわれに寂しく、生々とした白魚の亡者に似ている。 「もっともな、わりゃ……」  言い掛けた時であった。この見越入道、ふと絶句で、大な樽の面を振って、三つ目を六つに晃々ときょろつかす。  幕の蔭と思う絵の裏で、誰とも知らず、静まった藤の房に、生温い風の染む気勢で、 「……紅蓮、大紅蓮、紅蓮、大紅蓮……」と後見をつけたものがある。 「紅蓮、大紅蓮の地獄に来って、」 と大入道は樽の首を揺据えた。 「わりゃ雪女となりおった。が、魔道の酌取、枕添、芸妓、遊女のかえ名と云うのだ。娑婆、人間の処女で……」  また絶句して、うむと一つ、樽に呼吸を詰めて支えると、ポカンとした叩頭をして、 「何だっけね、」  と可愛い声。 「お稲、」と雪女が小さく言った。  松崎は耳を澄ます。  と同時であった。 「……お稲、お稲さんですって、……」と目のふちに、薄く、行燈の青い影が射した。美しい女は、ふと紳士を見た。 「お稲荷、稲荷さんと云うんだね、白狐の化けた処なんだろう。」  わけもなくそう云って、紳士は、ぱっと巻莨に火を点ずる。  その火が狐火のように見えた。 「ああ、そうなのね。」  美しい女は頷いたのである。  松崎も、聞いて、成程そうらしくも見て取った。 「むむ、そのお稲で居た時の身の上話、酒の肴に聞かさんかい。や、ただわなわなと震えくさる、まだ間が無うて馴れぬからだ。こりゃ、」  と肩へむずと手を掛けると、ひれ伏して、雪女は溶けるように潸然と泣く。        十四 「陰気だ陰気だ、此奴滅入って気が浮かん、こりゃ、汝等出て燥げやい。」  三ツ目入道、懐手の袖を刎ねて、飽貝の杯を、大く弧を描いて楽屋を招く。  これの合図に、相馬内裏古御所の管絃。笛、太鼓に鉦を合わせて、トッピキ、ひゃら、ひゃら、テケレンどん、幕を煽って、どやどやと異類異形が踊って出でた。  狐が笛吹く、狸が太鼓。猫が三疋、赤手拭、すッとこ被り、吉原かぶり、ちょと吹流し、と気取るも交って、猫じゃ猫じゃの拍子を合わせ、トコトンと筵を踏むと、塵埃立交る、舞台に赤黒い渦を巻いて、吹流しが腰をしゃなりと流すと、すッとこ被りが、ひょいと刎ねる、と吉原被りは、ト招ぎの手附。  狸の面、と、狐の面は、差配の禿と、青月代の仮髪のまま、饂飩屋の半白頭は、どっち付かず、鼬のような面を着て、これが鉦で。  時々、きちきちきちきちという。狐はお定りのコンを鳴く。狸はあやふやに、モウと唸って、膝にのせた、腹鼓。  囃子に合わせて、猫が三疋、踊る、踊る、いや踊る事わ。  青い行燈とその前に突伏した、雪女の島田のまわりを、ぐるりぐるりと廻るうちに、三ツ目入道も、ぬいと立って、のしのしと踊出す。  続いて囃方惣踊り。フト合方が、がらりと替って、楽屋で三味線の音を入れた。  ――必ずこの事、この事必ず、丹波の太郎に沙汰するな、この事、必ず、丹波の太郎に沙汰するな――  と揃って、異口同音に呼ばわりながら、水車を舞込むごとく、次第びきに、ぐるぐるぐる。……幕へ衝と消える時は、何ものか居て、操りの糸を引手繰るように颯と隠れた。  筵舞台に残ったのは、青行燈と雪女。  悄れて、一人、ただうなだれているのであった。  上なる黒い布は、ひらひらと重くなった……空は化物どもが惣踊りに踊る頃から、次第に黒くなったのである。  美しい女は、はずして、膝の上に手首に掛けた、薄色のショオルを取って、撫肩の頸に掛けて身繕い。  此方に松崎ももう立とうとした。  青月代が、ひょいと覗いた。幕の隙間へ頤を乗せて、 「誰か、おい、前掛を貸してくんな、」と見物を左右に呼んだ。 「前掛を貸しておくれよ、……よう、誰でも。」  美しい女から、七八人小児を離れて、二人並んでいた子守の娘が、これを聞くと真先にあとじさりをした。言訳だけも赤い紐の前掛をしていたのは、その二人ぐらいなもので、……他は皆、横撫での袖とくいこぼしの膝、光るのはただ垢ばかり。  傍から、また饂飩屋が出て舞台へ立った。 「これから女形が演処なんだぜ。居所がわりになるんだけれど、今度は亡者じゃねえよ、活きてる娘の役だもの。裸では不可えや、前垂を貸しとくれよ。誰か、」 「後生だってば、」  と青月代も口を添える。  子守の娘はまた退った。  幼い達は妙にてれて、舞台の前で、土をいじッて俯向いたのもあるし、ちょろちょろ町の方へ立つのもあった。 「吝れだなあ。」  饂飩屋がチョッ、舌打する。 「貸してくれってんだぜ、……きっと返すッてえに。……可哀相じゃないか、雪女になったなりで裸で居ら。この、お稲さんに着せるんだよ。」  と青月代も前へ出て、雪女の背筋のあたりを冷たそうに、ひたりと叩いた…… 「前掛でなくては。不可いの?」  美しい人はすッと立った。  紳士は仰向いて、妙な顔色。  松崎の、うっかり帰られなくなったのは言うまでもなかろう。        十五 「兄さん、他のものじゃ間に合わない?」  あきれ顔な舞台の二人に、美しい女は親しげにそう云った。 「他の物って、」と青月代は、ちょんぼり眉で目をぱちくる。 「羽織では。」  美しい女は華奢な手を衣紋に当てた。 「羽織なら、ねえ、おい。」 「ああ、そんな旨え事はねえんだけれど、前掛でさえ、しみったれているんだもの、貸すもんか。それだしね、羽織なんて誰も持ってやしませんぜ。」  と饂飩屋は吐出すように云う。成程、羽織を着たものは、ものの欠片も見えぬ。 「可ければ、私のを貸してあげるよ。」  美しい女は、言の下に羽織を脱いだ、手のしないは、白魚が柳を潜って、裏は篝火がちらめいた、雁がねむすびの紋と見た。 「品子さん、」  紳士は留めようとして、ずッと立つ。 「可いのよ、貴方。」  と見返りもしないで、 「帯がないじゃないか、さあ、これが可いわ。」と一所に肩を辷った、その白と、薄紫と、山が霞んだような派手な羅のショオルを落してやる……  雪女は、早く心得て、ふわりとその羽織を着た、黒縮緬の紋着に緋を襲ねて、霞を腰に、前へすらりと結んだ姿は、あたかも可し、小児の丈に裾を曳いて、振袖長く、影も三尺、左右に水が垂れるばかり、その不思議な媚しさは、貸小袖に魂が入って立ったとも見えるし、行燈の灯を覆うた裲襠の袂に、蝴蝶が宿って、夢が徜徉とも見える。 「難有う、」 「奥さん難有う。」  互に、青月代と饂飩屋が、仮髪を叩いて喜び顔。  雪女の、その……擬えた……姿見に向って立つ後姿を、美しい女は、と視めて、 「島田も可いこと、それなりで角かくしをさしたいようだわ……ああ、でも扱帯を前帯じゃどう。遊女のようではなくって、」 「構わないの、お稲さんが寝衣の処だから、」 「ああ、ちょっと。」  と美しい女が留める間に、聞かれた饂飩屋はツイと引込む。 「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、貴方。」  と言う。紳士を顧みた美しい女の睫が動いて、目瞼が屹と引緊った。 「何、稲荷だよ、おい、稲荷だろう。」  紳士も並んで、見物の小児の上から、舞台へ中折を覗かせた。 「ねえ、この人の名は?……」  黒縮緬の雪女は、さすが一座に立女形の見識を取ったか、島田の一さえ、端然と済まして口を利こうとしないので、美しい女はまた青月代に、そう訊いた。 「嵐お萩ッてえの……東西々々。」  と飜然と隠れる。 「芸名ではない。役の娘の名を聞かしておくれ、何て云うの、よ、お前。」  と美しい女は、やや急込んで言って、病身らしく胸を圧えた。脱いだ羽織の、肩寒そうな一枚小袖の嬌娜姿、雲を出でたる月かと視れば、離れた雲は、雪女に影を宿して、墨絵に艶ある青柳の枝。  春の月の凄きまで、蒼青な、姿見の前に、立直って、 「お稲です。」  と云って、ふと見向いた顔は、目鼻だち、水に朧なものではなかった。        十六  舞台は居所がわりになるのだ、と楽屋のものが云った、――俳優は人に知らさないのを手際に化ものの踊るうち、俯向伏している間に、玉の曇を拭ったらしい。……眉は鮮麗に、目はぱっちりと張を持って、口許の凜とした……やや強いが、妙齢のふっくりとした、濃い生際に白粉の際立たぬ、色白な娘のその顔。  松崎は見て悚然とした……  名さえ――お稲です――  肖たとは迂哉。今年如月、紅梅に太陽の白き朝、同じ町内、御殿町あたりのある家の門を、内端な、しめやかな葬式になって出た。……その日は霜が消えなかった――居周囲の細君女房連が、湯屋でも、髪結でもまだ風説を絶さぬ、お稲ちゃんと云った評判娘にそっくりなのであった。 「私も今はじめて聞いて吃驚したの。」  その時、松崎の女房は、二階へばたばたと駈上り、御注進と云う処を、鎧が縞の半纏で、草摺短な格子の前掛、ものが無常だけに、ト手は飜さず、すなわち尋常に黒繻子の襟を合わせて、火鉢の向うへ中腰で細くなる……  髪も櫛巻、透切れのした繻子の帯、この段何とも致方がない。亭主、号が春狐であるから、名だけは蘭菊とでも奢っておけ。  春狐は小机を横に、座蒲団から斜になって、 「へーい、ちっとも知らなかった。」 「私もさ……今ね、内の出窓の前に、お隣家の女房さんが立って、通の方を見てしくしく泣いていなさるから、どうしたんですって聞いたんです。可哀相に……お稲ちゃんのお葬式が出る所だって、他家の娘でも最惜くってしようがないって云うんでしょう。――そう云えば成程何だわね、この節じゃ多日姿を見なかったわね、よくお前さん、それ、あの娘が通ると云うと、箸をカチリと置いて出窓から、お覗きだっけがね。」  苦笑いで、春狐子。 「余計な事を言いなさんな、……しかし惜いね、ちょっとないぜ、ここいらには、あのくらいな一枚絵は。」 「うっかり下町にだってあるもんですか。」 「などと云うがね、お前もお長屋月並だ。……生きてるうちは、そうまでは讃めない奴さ、顔がちっと強すぎる、何のってな。」 「ええ、それは廂髪でお茶の水へ通ってた時ですわ。もう去年の春から、娘になって、島田に結ってからといったら、……そりゃ、くいつきたいようだったの。  髮のいい事なんて、もっとも盛も盛だけれども。」 「幾歳だ。」 「十九……明けてですよ。」 「ああ、」と思わず煙管を落した。 「勿論、お婿さんは知らずらしいね。」 「ええ、そのお婿さんの事で、まあ亡くなったんですよ。」  はっと思い、 「や、自殺か。」 「おお吃驚した……慌てるわねえ、お前さんは。いいえ、自殺じゃないけれども、私の考えだと、やっぱり同一だわ、自殺をしたのも。」 「じゃどうしたんだよ。」 「それがだわね。」 「焦ったい女だな。」 「ですから静にお聞きなさいなね、稲ちゃんの内じゃ、成りたけ内証に秘していたんだそうですけれど、あの娘はね、去年の夏ごろから――その事で――狂気になったんですって。」 「あの、綺麗な娘が。」 「まったくねえ。」  と俯向いて、も一つ半纏の襟を合わせる。        十七 「妙齢で、あの容色ですからね、もう前にから、いろいろ縁談もあったそうですけれど、お極りの長し短しでいた処、お稲ちゃんが二三年前まで上っていなすった……でも年二季の大温習には高台へ出たんだそうです……長唄のお師匠さんの橋渡しで。  家は千駄木辺で、お父さんは陸軍の大佐だか少将だか、それで非職てるの。その息子さんが新しい法学士なんですって……そこからね、是非、お嫁さんに欲いって言ったんですとさ。  途中で、時々顔を見合って、もう見合いなんか済んでるの。男の方は大変な惚方なのよ。もっとも家同士、知合いというんでも何でもないんですから、口を利いたことなんて、そりゃなかったんでしょうけれど、ほんに思えば思わるるとやらだわね。」  半纏着の蘭菊は、指のさきで、火鉢の縁へちょいと当って、 「お稲ちゃんの方でも、嬉しくない事はなかったんでしょう。……でね、内々その気だったんだって、……お師匠さんは云うんですとさ、――隣家の女房さんの、これは談話よ。」  まだ卒業前ですから、お取極めは、いずれ学校が済んでからッて事で、のびのびになっていたんだそうですがね。  去年の春、お茶の水の試験が済むと、さあ、その翌日にでも結納を取替わせる勢で、男の方から急込んで来たんでしょう。  けれども、こっちぢゃ煮切らない、というのがね――あの、娘にはお母さんがありません。お父さんというのは病身で、滅多に戸外へも出なさらない、何でも中気か何からしいんです――後家さんで、その妹さん、お稲ちゃんには叔母に当る、お婆さんのハイカラが取締って、あの娘の兄さん夫婦が、すっかり内の事を遣っているんだわね。  その兄さんというのが、何とか云う、朝鮮にも、満洲とか、台湾にも出店のある、大な株式会社に、才子で勤めているんです。  その何ですとさ、会社の重役の放蕩息子が、ダイヤの指輪で、春の歌留多に、ニチャリと、お稲ちゃんの手を圧えて、おお可厭だ。」  と払う真似して、 「それで、落第、もう沢山。」 「どうだか。」 「ほんとうですとも。それからそのニチャリが、」 「右のな、」  と春狐は、ああと歎息する。 「ええ、ぞっこんとなって、お稲ちゃんをたってと云うの、これには嫂が一はながけに乗ったでしょう。」 「極りでいやあがる。」 「大分、お芝居になって来たわね。」 「余計な事を言わないで……それから、」 「兄さんの才子も、やっぱりその気だもんですからね、いよいよという談話の時、きっぱり兄さんから断ってしまったんですって――無い御縁とおあきらめ下さい、か何かでさ。」 「その法学士の方をだな、――無い御縁が凄じいや、てめえが勝手に人の縁を、頤にしゃぼん玉の泡沫を塗って、鼻の下を伸ばしながら横撫でに粧やあがる西洋剃刀で切ったんじゃないか。」 「ねえ……鬱いでいましたとさ、お稲ちゃんは、初心だし、世間見ずだから、口へ出しては何にも言わなかったそうだけれど……段々、御飯が少くなってね、好なものもちっとも食べない。  その癖、身じまいをする事ったら、髪も朝に夕に撫でつけて、鬢の毛一筋こぼしていた事はない。肌着も毎日のように取替えて、欠かさずに湯に入って、綺麗にお化粧をして、寝る時はきっと寝白粧をしたんですって。  皓歯に紅よ、凄いようじゃない事、夜が更けた、色艶は。  そして二三度見つかりましたとさ。起返って、帯をお太鼓にきちんと〆めるのを――お稲や、何をおしだって、叔母さんが咎めた時、――私はお母さんの許へ行くの――  そう云ってね、枕許へちゃんと坐って、ぱっちり目を開けて天井を見ているから、起きてるのかと思うと、現で正体がないんですとさ。  思詰めたものだわねえ。」        十八 「まだね。危いってないの。聞いても、ひやひやするのはね、夜中に密と箪笥の抽斗を開けたんですよ。」 「法学士の見合いの写真?……」 「いいえ、そんなら可いけれど、短刀を密と持ったの、お母さんの守護刀だそうですよ……そんな身だしなみのあったお母さんの娘なんだから、お稲ちゃんの、あの、きりりとして……妙齢で可愛い中にも品の可かった事を御覧なさい。」 「余り言うのはよせ、何だか気を受けて、それ、床の間の花が、」 「あれ、」  と見向く、と朱鷺色に白の透しの乙女椿がほつりと一輪。  熟と視たが、狭い座敷で袖が届く、女房は、くの字に身を開いて、色のうつるよう掌に据えて俯向いた。  隙間もる冷い風。 「ああ、四辻がざわざわする、お葬式が行くんですよ。」  と前掛の片膝、障子へ片手。 「二階の欄干から見る奴があるものか。見送るなら門へお出な。」 「止しましょう、おもいの種だから……」  と胸を抱いて、 「この一輪は蔭ながら、お手向けになったわね。」と、鼻紙へ密と置くと、冷い風に淡い紅……女心はかくやらむ。  窓の障子に薄日が映した。 「じゃ死のうという短刀で怪我でもして、病院へ入ったのかい。」 「いいえ、それはもう、家中で要害が厳重よ。寝る時分には、切れものという切れものは、そっくり一つ所へ蔵って、錠をおろして、兄さんがその鍵を握って寝たんだっていうんですもの。」 「ははあ、重役の忰に奉って、手繰りつく出世の蔓、お大事なもんですからな。……会社でも鍵を預る男だろう。あの娘の兄と云えば、まだ若かろうに何の真似だい。」 「お稲ちゃんは、またそんなでいて、しくしく泣き暮らしてでも、お在だったかと思うと、そうじゃないの……精々裁縫をするんですって。自分のものは、肌のものから、足袋まで、綺麗に片づけて、火熨斗を掛けて、ちゃんと蔵って、それなり手を通さないでも、ものの十日も経つと、また出して見て洗い直すまでにして、頼まれたものは、兄さんの嬰児のおしめさえ折りめの着くほど洗濯してさ。」 「おやおや、兄の嬰児の洗濯かね。」 「嫂というのが、ぞろりとして何にもしやしませんやね。またちょっとふめるんだわ。そりゃお稲ちゃんの傍へは寄附けもしませんけれども。それでもね、妹が美しいから負けないようにって、――どういう了簡ですかね、兄さんが容色望みで娶ったっていうんですから……  小児は二人あるし、家は大勢だし、小体に暮していて、別に女中っても居ないんですもの、お守りから何から、皆、お稲ちゃんがしたんだわ。」 「ははあ、その児だ……」  ともすると、――それが夕暮が多かった――嬰児を背負って、別にあやすでもなく、結いたての島田で、夕化粧したのが、顔をまっすぐに、清い目を睜って、蝙蝠も柳も無しに、何を見るともなく、熟と暮れかかる向側の屋根を視めて、其家の門口に彳んだ姿を、松崎は両三度、通りがかりに見た事がある。  面影は、その時の見覚えで。  出窓の硝子越に、娘の方が往かえりの節などは、一体傍目も触らないで、竹をこぼるる露のごとく、すいすいと歩行く振、打水にも褄のなずまぬ、はで姿、と思うばかりで、それはよくは目に留まらなかった。  が、思い当る……葬式の出たあとでも、お稲はその身の亡骸の、白い柩で行く状を、あの、門に一人立って、さも恍惚と見送っているらしかった。        十九  女房は語続けた―― 「お稲ちゃんが、そんなに美しく身のまわりの始末をしたのも、あとで人に見られて恥かしくないように躾んでいたんだわね――そして隙さえあれば、直ぐに死ぬ気で居たんでしょう、寝しなにお化粧をするのなんか。  ですから、病院へ入ったあとで、針箱の抽斗にも、畳紙の中にも、皺になった千代紙一枚もなく……油染みた手柄一掛もなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ……友達から来た手紙なんか、中には焼いたのもあるんですって、……心掛けたじゃありませんか。惜まれる娘は違うわね。  ぐっと取詰めて、気が違った日は、晩方、髪結さんが来て、鏡台に向っていた時ですって。夏の事でね、庭に紫陽花が咲いていたせいか、知らないけれど、その姿見の蒼さったら、月もささなかったって云うんですがね。――そして、お稲ちゃんのその時の顔ぐらい、色の白いって事は覚えないんですとさ――  髪結さんが、隣家の女房へ談話なんです。  同一のが廻りますからね。  隣家と、お稲ちゃん許と、同一のは、そりゃ可いけれど、まあ、飛んでもない事……その法学士さんの家が、一つ髪結さんだったんでしょう。だもんだから、つい、その頃、法学士さんに、余所からお嫁さんが来て、……箱根へ新婚旅行をして帰った日に頼まれて行って、初結いをしたって事を……可ござんすか……お稲ちゃんの島田を結いながら、髪結さんが話したんです。」 「ああ、悪い。」  と春狐は聞きながら、眉を顰めた。  同じように、打顰んで、蘭菊は、つげの櫛で鬢の毛を、ぐいと撫でた。 「……気を附けないと……何でも髪結さんが、得意先の女の髪を一条ずつ取って来て、内証で人のと人のと結び合わせて蔵っておいて御覧なさい。  世間は直ぐに戦争よりは余計乱れると、私、思うんですよ。  お稲さんは黙って俯向いていたんですって。左挿しに、毛筋を通して銀の平打を挿込んだ時、先が突刺りやしないかと思った。はっと髪結さんが抜戻した発奮で、飛石へカチリと落ちました。……  ――口惜しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。根揃え自慢で緊めたばかりの元結が、プッツリ切れ、背中へ音がして颯と乱れたから、髪結さんは尻餅をつきましたとさ。  でも、髪結さんは、あの娘の髪の事ばかり言って惜がってるそうですよ。あんな、美しい、柔軟な、艶の可い髪は見た事がないってね、――死骸を病院から引取る時も、こう横に抱いて、看護婦が二人で担架へ移そうとすると、背中から、ずッとかかって、裾よりか長うござんしたって……ほんとうに丈にも余るというんだわね。」 「ああ……聞いても惜い……何のために、髪までそんなに美しく世の中へ生れて来たんだ。」  春狐は思わず、詰るがごとく急込んで火鉢を敲いた。 「ねえ、私にだって分りませんわ。」 「で、どうしたんだい。」 「お稲ちゃんは、髪を結った、その時きり、夢中なの。別に駈出すの、手が掛るのって事はなかったんだそうですけれど、たださえ細った食が、もうまるっきり通りますまい。  賺しても、叱っても。  しようがないから、病院へ入れたんです。お医者さんも初から首をお傾げだったそうですよ。  まあね。それでも出来るだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり、……ねえ……おとむらいになってしまって――」  と薄りした目のうちが、颯とさめると、ほろりとする。        二十  春狐は肩を聳かした。 「なったんじゃない……葬式にされたんだ。殺されたんだよ。だから言わない事じゃない、言語道断だ、不埒だよ。妹を餌に、鰌が滝登りをしようなんて。」 「ええ、そうよ……ですからね、兄って人もお稲ちゃんが病院へ入って、もう不可ないっていう時分から、酷く何かを気にしてさ。嬰児が先に死ぬし、それに、この葬式の中だ、というのに、嫂だわね、御自慢の細君が、またどっと病気で寝ているもんだから、ああ稲がとりに来たとりに来たって、蔭ではそう云っていますとさ。」 「待っていた、そうだろう。その何だ、ハイカラな叔母なんぞを血祭りに、家中鏖殺に願いたい。ついでにお父さんの中気だけ治してな。」と妙に笑った。 「まあ、」  と目を睜って、 「串戯じゃないわ、人の気も知らないで。」 「無論、串戯ではないがね、女言濫りに信ずべからず、半分は嘘だろう。」 「いいえ!」 「まあさ、お前の前だがね、隣の女房というのが、また、とかく大袈裟なんですからな。」 「勝手になさいよ、人に散々饒舌らしといて、嘘じゃないわ。ねえ、お稲ちゃん、女は女同士だわね。」  と乙女椿に頬摺りして、鼻紙に据えて立つ……  実はそれさえ身に染みた。  床の間にも残ったが、と見ると、莟の堅いのと、幽に開いた二輪のみ。 「ちょっと、お待ち。」 「何、」と襖に手を掛ける。 「でも、少し気になるよ、肝心、焦れ死をされた、法学士の方は、別に聞いた沙汰なしかい。」 「先方でもね、お稲ちゃんがその容体だってのを聞いて、それはそれは気の毒がってね――法学士さんというのが、その若い奥さんに、真になって言ったんだって――お前は二度目だ。後妻だと思ってくれ。お稲さんとは、確に結婚したつもりだって――」  春狐はふと黙ってそれには答えず…… 「ああ、その椿は、成りたけ川へ。」 「流しましょうね、ちょっと拝んで、」  と二階を下りる、……その一輪の朱鷺色さえ、消えた娘の面影に立った。  が、幻ならず、最も目に刻んで忘れないのは、あの、夕暮を、門に立って、恍惚空を視めた、およそ宇宙の極まる所は、艶やかに且つ黒きその一点の秘密であろうと思う、お稲の双の瞳であった。  同じその瞳である。同じその面影である。……  ――お稲です――  と云って、振向いた時の、舞台の顔は、あまつさえ、凝えたにせよ、向って姿見の真蒼なと云う行燈があろうではないか。  美しい女は屹と紳士を振向いた。 「貴方。」  若い紳士は、杖を小脇に、細い筒袴で、伸掛って覗いて、 「稲荷だろう、おい、狐が化けた所なんだろう。」と中折の廂で押つけるように言った。  羽織に、ショオルを前結び。またそれが、人形に着せたように、しっくりと姿に合って、真向きに直った顔を見よ。 「いいえ、私はお稲です。」  紳士は、射られたように、縁台へ退った。  美しい女の褄は、真菰がくれの花菖蒲、で、すらりと筵の端に掛った…… 「ああ、お稲さん。」  と、あたかもその人のように呼びかけて、 「そう。そして、どうするの。」  お稲は黙って顔を見上げた。  小さなその姿は、ちょうど、美しい女が、脱いだ羽織をしなやかに、肱に掛けた位置に、なよなよとして見える。 「止せ!品子さん。」 「可いわ。」 「見っともないよ。」 「私は構わないの。」        二十一 「ねえ、お稲さん、どうするの。」  とまた優しく聞いた。 「どうするって、何、小母さん。」  役者は、ために羽織を脱いだ御贔屓に対して、舞台ながらもおとなしい。 「あのね、この芝居はどういう脚色なの、それが聞きたいの。」 「小母さん見ていらっしゃい。」  と云った。  その間も、縁台に掛けたり、立ったり、若い紳士は気が気ではなさそうであった。 「おい、もう帰ろうよ、暗くなった。」  雲にも、人にも、松崎は胸が轟く。 「待ってて下さい。」  と見返りもしないで、 「見ますよ、見るけれどもね、ちょっと聞かして下さいな。ね、いい児だから。」 「だって、言ったって、芝居だって、同一なんですもの、見ていらっしゃい。」 「急ぐから、先へ聞きたいの、ええ、不可い。」  お稲は黙って頭を掉る。 「まあ、強情だわねえ。」 「強情ではござりませぬ。」  と思いがけず幕の中から、皺がれた声を掛けた。美しい女は瞳を注いだ、松崎は衝と踏台を離れて立った。――その声は見越入道が絶句した時、――紅蓮大紅蓮とつけて教えた、目に見えぬものと同一であった。 「役者は役をしますのじゃ。何も知りませぬ。貴女がお急ぎであらばの、衣裳をお返し申すが可い。」  と半ば舞台に指揮をする。 「いいえ、羽織なんか、どうでも可いの、ただ私、気になるんです。役者が知らないなら、誰でも構いません。差支えなかったら聞かして下さい。一体ここはどこなんです。」 「六道の辻の小屋がけ芝居じゃ。」  と幕が動くように向うで言った。  松崎は、思わず紳士と目を見合った。小児なぞは眼中にない、男は二人のみだったから。  美しい女は、かえって恐れげもなくこう言った。 「ああ、分りました、そしてお前さんは?」 「いろいろの魂を瓶に入れて持っている狂言方じゃ。たって望みならば聞かせようかの。」 「ええ、どうぞ。」  と少々しいのが、あわれに聞えた。 「そこへ……髪結が一人出るわいの。」  松崎は骨の硬くなるのを知ったのである。 「それが、そのお稲の髪を結うわいの。髪結の口からの、若い男と、美しい女と、祝言して仲の睦じい話をするのじゃ。  その男というのはの、聞かっしゃれ、お稲の恋じゃわいの、命じゃわいの。  もうもう今までとてもな、腹の汚い、慾に眼の眩んだ、兄御のために妨げられて、双方で思い思うた、繋がる縁が繋がれぬ、その切なさで、あわれや、かぼそい、白い女が、紅蓮、大紅蓮、……」  ああ、可厭な。 「阿鼻焦熱の苦悩から、手足がはり、肉を切こまざいた血の池の中で、悶え苦んで、半ば活き、半ば死んで、生きもやらねば死にも遣らず、死にも遣らねば生きも遣らず、呻き悩んでいた所じゃ。  また万に一つもと、果敢い、細い、蓮の糸を頼んだ縁は、その話で、鼠の牙にフッツリと食切られたが、……  ドンと落ちた穴の底は、狂気の病院入じゃ。この段替ればいの、狂乱の所作じゃぞや。」  と言う。風が添ったか、紙の幕が、煽つ――煽つ。お稲は言につれて、すべて科を思ったか、振が手にうっかり乗って、恍惚と目を睜った。……        二十二 「どうするの、それから。」  細い、が透る、力ある音調である。美しい女のその声に、この折から、背後のみ見返られて、雲のひだ染みに蔽いかかる、桟敷裏とも思う町を、影法師のごとくようやく人脚の繁くなるのに気を取られていた、松崎は、また目を舞台に引附けられた。  舞台を見返す瞬間、むこうから、先刻の編笠を被った鴉ような新粉細工が、ふと身を起して、うそうそと出て来るのを認めた。且つそれが、古綿のようにむくむくと、雲の白さが一団残って、底に幽に蒼空の見える……遥かに遠い所から、たとえば、ものの一里も離れた前途から、黒雲を背後に曳いて襲い来るごとく見て取られた。  それ、もうそこに、編笠を深く、舞台を覗く。  いつの間にか帰って来て、三人に床几を貸した古女房も交って立つ。  彼処に置捨てた屋台車が、主を追うて自ら軋るかと、響が地を畝って、轟々と雷の音。絵の藤も風に颯と黒い。その幕の彼方から、紅蓮、大紅蓮のその声、舌も赤う、ひらめくと覚えて、めらめらと饒舌る。…… 「まだ後が聞きとうござりますか。お稲は狂死に死ぬるのじゃ。や、じゃが、家眷親属の余所で見る眼には、鼻筋の透った、柳の眉毛、目を糸のように、睫毛を黒う塞いで、の、長煩らいの死ぬ身には塵も据らず、色が抜けるほど白いばかり。さまで痩せもせず、苦患も無しに、家眷息絶ゆるとは見たれども、の、心の裡の苦痛はよな、人の知らぬ苦痛はよな。その段を芝居で見せるのじゃ。」 「そして、後は、」  と美しい女は、白い両手で、確と紫の襟を圧えた。 「死骸になっての、空蝉の藻脱けた膚は、人間の手を離れて牛頭馬頭の腕に上下から掴まれる。や、そこを見せたい。その娘の仮髪ぢゃ、お稲の髪には念を入れた。……島田が乱れて、糸も切もかからぬ膚を黒く輝く、吾が天女の後光のように包むを見さい。末は踵に余って曳くぞの。  鼓草の花の散るように、娘の身体は幻に消えても、その黒髪は、金輪、奈落、長く深く残って朽ちぬ。百年、千歳、失せず、枯れず、次第に伸びて艶を増す。その髪千筋一筋ずつ、獣が食えば野の草から、鳥が啄めば峰の花から、同じお稲の、同じ姿容となって、一人ずつ世に生れて、また同一年、同一月日に、親兄弟、家眷親属、己が身勝手な利慾のために、恋をせかれ、情を破られ、縁を断られて、同一思いで、狂死するわいの。あの、厄年の十九を見され、五人、三人一時に亡せるじゃろうがの。死ねば思いが黒髪に残ってその一筋がまた同じ女と生れる、生きかわるわいの。死にかわるわいの。  その誰もが皆揃うて、親兄弟を恨む、家眷親属を恨む、人を恨む、世を恨む、人間五常の道乱れて、黒白も分かず、日を蔽い、月を塗る……魔道の呪詛じゃ、何と! 魔の呪詛を見せますのじゃ、そこをよう見さっしゃるが可い。  お稲の髪の、乱れて摩く処をのう。」 「死んだお稲さんの髪が乱れて……」  と美しい女は、衝と鬢に手を遣ったが、ほつれ毛よりも指が揺いで、 「そして、それからはえ?」  と屹と言う 「此方、親があらば叱らさりょう。よう、それからと聞きたがるの、根問いをするのは、愛嬌が無うてようないぞ。女子は分けて、うら問い葉問をせぬものじゃ。」  雲の暗さが増すと、あたりに黒く艶が映す。  その中に、美しい女は、声も白いまで際立って、 「いいえ、聞きたい。」        二十三 「たって聞きたくばの、こうさしゃれ。」  幕の蔭で、間を置いて、落着いて、 「お稲の芝居は死骸の黒髪の長いまでじゃ。ここでは知らぬによって、後は去んで、二度添どのに聞かっしゃれ、二度添いの女子に聞かっしゃれ。」 「二度添とは? 何です、二度添とは。」  扱帯を手繰るように繰返して問返した。 「か、知らぬか、のう。二度添とはの、二度目の妻の事じゃ。男に取替えられた玩弄の女子じゃ。古い手に摘まれた、新しい花の事いの。後妻じゃ、後妻と申しますものじゃわいのう。」  ト一度引かかったように見えたが、ちらりと筵の端を、雲の影に踏んで、美しい女の雪なす足袋は、友染凄く舞台に乗った。  目を明かに凝と視て、 「その後妻とは、二度添とは誰れ、そこに居る人。」と肩を斜め、手を、錆びたが楯のごとく、行燈に確と置く。 「おおおお、誰や知らぬ、その二度添というのはの、……お稲が望が遂げなんだ、縁の切れた男に、後で枕添となった女子の事いの。……娑婆はめでたや、虫の可い、その男はの、我が手で水を向けて、娘の心を誘うておいて、弓でも矢でも貫こう心はなく、先方の兄者に、ただ断り言われただけで指を銜えて退ったいの、その上にの。  我勝手や。娘がこがれ死をしたと聞けば、おのれが顔をかがみで見るまで、自惚れての。何と、早や懐中に抱いた気で、お稲はその身の前妻じゃ。――  との、まだお稲が死なぬ前に、ちゃッと祝言した花嫁御寮に向うての、――お主は後妻じゃ、二度目ぢゃと思うておくれい、――との。何と虫が可かろうが。その芋虫にまた早や、台も蕊も嘗められる、二度添どのもあるわいの。」  と言うかと思う、声の下で、 「ほほほほほ」  と口紅がこぼれたように、散って舞うよと花やかに笑った。  ああ、膚が透く、心が映る、美しい女の身の震う影が隈なく衣の柳条に搦んで揺れた。 「帰ろう、品子、何をしとる。」  紳士はずかずかと寄って、 「詰らん、さあ、帰るんです、帰るんだ。」  とせり着くように云ったが、身動きもしないのを見て、堪りかねた体で、ぐいと美しい女の肩を取った。 「帰らんですか、おい、帰らんのか。」  その手は衝と袖で払われた。 「貴方は何です。女の身体に、勝手に手を触って可いんですか。他人の癖に、……」 「何だ、他人とは。」  憤気になると、…… 「舞台へ、靴で、誰、お前は。」  先刻から、ただ柳が枝垂れたように行燈に凭れていた、黒紋着のその雪女が、りんとなって、両手で紳士の胸を圧した。  トはっとした体で、よろよろと退ったが、腰も据らず、ひょろついて来て縋るように寄ったと思うと、松崎は、不意にギクと手首を持たれた。 「貴方を、伴侶、伴侶と思います。あ、あ、あの、楽屋の中が、探険、……」  紳士は探険と言った。 「た、た、探険したい。手を貸して下さい。御、御助力が願いたい。」 「それはよくない。不可ません。見物は、みだりに芝居の楽屋へ入るものではないんです。」 「そ、そんなら、妻を――人の見る前、夫が力ずくでは見っともない。貴方、連出して下さい、引張出して下さい、願います。僕を、他人だなんて僕を、……妻は発狂しました。」        二十四 「いいえ、御心配には及びません。」  松崎は先んじられた……そして美しい女は、淵の測り知るべからざる水底の深き瞳を、鋭く紳士の面に流して 「私は確です。発狂するなら貴方がなさい、御令妹のお稲さんのために。」  と、爽かに言った。 「私とは、他人なんです。」 「他人、何だ、何だ。」  と喘ぐ、 「ですが、私に考えがあって、ちょっと知己になっていたばかりなんです。」  美しい女は、そんなものは、と打棄る風情で、屹とまた幕に向って立直った。 「そこに居る人……お前さんは不思議に、よく何か知っておいでだね、地獄、魔界の事まで御存じだね。豪いのね。でも悪魔、変化ばかりではない、人間にも神通があります。私が問うたら、お前さんは、去って聞けと言いましたね。  私は即座に、その二度添、そのうわなり、その後妻に、今ここで聞きました。……  お稲さんが亡くなってから、あとのその後妻の芝居を、お前さんに聞かせましょうか。聞かせましょうか。それともお前さんは御存じかい。」  幕の内で、 「朧気じゃ、冥土の霧で朧気じゃ。はっきりした事を聞きたいのう。」 「ええ、聞かしてあげましょう。――男に取替えられた玩弄は、古い手に摘まれた新しい花は、はじめは何にも知らなかったんです。清い、美しい、朝露に、旭に向って咲いたのだと人なみに思っていました。ですが、蝶が来て、一所に遊ぶ間もなかったんです。  お稲さんの事を聞かされました。玩弄は取替えられたんです、花は古い手に摘れたんです……男は、潔い白い花を、後妻になれと言いました。  贅沢です、生意気です、行過ぎています。思った恋をし遂げないで、引込んだら断念めれば可い、そのために恋人が、そうまでにして生命を棄てたと思ったら、自分も死ねば可いんです。死なれなければ、死んだ気になって、お念仏を唱えていれば可いんです。  力が、男に足りないで、殺させた女を前妻だ、と一人極めにして、その上に、新妻を後妻になれ、後妻にする、後妻の気でおれ、といけ洒亜々々として、髪を光らしながら、鰌髭の生えた口で言うのは何事でしょうね。」 「いよいよ発狂だ、人の前で見っともない。」  紳士は肩で息をした、その手は松崎に縋っている。…… 「ええ、人の前で、見っともないと云って、ここには幾多居ます。指を折って数えるほどもない。夫が私を後妻にしたのは、大勢の前、世間の前、何千人、何万人の前だか知れません。  夫も夫、お稲さんの恋を破った。そこにおいでの他人も他人、皆、女の仇です。  幕の中の人、お聞きなさい。  二度添にされた後妻はね……それから夫の言に、わざと喜んで従いました。  涙を流して同情して、いっそ、後妻と云うんなら、お稲さんの妹分になって、お稲さんにあやかりましょう。そのうまれ代わりになりましょう、と云って、表向きつてを求めて、お稲さんの実家に行って、そして私を――その後妻を――兄さんの妹分にして下さい、と言ったんです。  そこに居る他人は、涙を流して喜びました。もっとも、そこに居るようなハイカラさんは、少い女が、兄さん、とさえ云ってやれば、何でも彼でも涙を流すに極っています。  私は精々と出入りしました。先方からも毎日のように来るんです。そして兄さん、兄さんと、云ううちには、きっと袖を引くに極っているんです。しかも奥さんは永々の病気の処、私はそれが望みでした。」  電が、南辻橋、北の辻橋、菊川橋、撞木橋、川を射て、橋に輝くか、と衝と町を徹った。        二十五 「その望みが叶ったんです。  そして、今日も、夫婦のような顔をして、二人づれで、お稲さんの墓参りに来たんです――夫は、私がこうするのを、お稲さんの霊魂が乗りうつったんだと云って、無性に喜んでいるんです。  殺した妹の墓の土もまだ乾かないのに、私と一所に、墓参りをして、御覧なさい、裁下ろしの洋服の襟に、乙女椿の花を挿して、お稲は、こういう娘だったと、平気で言います。  その気ですからね。」  紳士の身体は靴を刻んで、揺上がるようだったが、ト松崎が留めたにもかかわらず、かッと握拳で耳を圧えて、横なぐれに倒れそうになって、たちまち射るがごとく町を飛んだ。その状は、人の見る目に可笑くあるまい、礫のごとき大粒の雨。  雨の音で、寂寞する、と雲にむせるように息が詰った。 「幕の内の人、」  美しい女は、吐息して、更めて呼掛けて、 「お前さんが言った、その二度添いの談話は分ったんですか。」 「それから、」  と雨に濡れたような声して言う。 「これが知れたら、男二人はどうなります。その親兄弟は? その家族はどうなると思います。それが幕なのです。」 「さて、その後はどうなるのじゃ。」 「あら、……」  もどかしや。 「お前さんも、根問をするのね。それで可いではありませんか。」 「いや、可うないわいの、まだ肝心な事が残ったぞ。」 「肝心な事って何です。」 「はて、此方も、」  雨に、つと口を寄せた気勢で、 「知れた事じゃ……肝心のその二度添どのはどうなるいの。」  聞くにも堪えじ、と美しい女の眦が上った。 「ええ、廻りくどい! 私ですよ。」  と激した状で、衝と行燈を離れて、横ざまに幕の出入口に寄った。流るるような舞台の姿は、斜めに電光に颯と送られた。…… 「分っているがの。」  と鷹揚に言って、 「さてじゃ、此方の身は果はどうなるのじゃ。」 「…………」  ふと黙って、美しい女は、行燈に、しょんぼりと残ったお稲の姿にその眦を返しながら、 「お前さんの方の芝居は? この女はどうなる幕です。」 「おいの、……や、紛れて声を掛けなんだじゃで、お稲は殊勝気に舞台じゃった。――雨に濡りょうに……折角の御見物じゃ、幕切れだけ、ものを見しょうな。」  と言うかと思うと、唐突にどろどろと太鼓が鳴った。音を綯交ぜに波打つ雷鳴る。  猫が一疋と鼬が出た。  ト無慙や、行燈の前に、仰向けに、一個が頭を、一個が白脛を取って、宙に釣ると、綰ねの緩んだ扱帯が抜けて、紅裏が肩を辷った……雪女は細りとあからさまになったと思うと、すらりと落した、肩なぞえの手を枕に、がっくりと頸が下って、目を眠った。その面影に颯と影、黒髪が丈に乱れて、舞台より長く敷いたのを、兇悪異変な面二つ、ただ面のごとく行燈より高い所を、ずるずると引いて、美しい女の前を通る。  幕に、それが消える時、風が擲つがごとく、虚空から、――雨交りに、電光の青き中を、朱鷺色が八重に縫う乙女椿の花一輪。はたと幕に当って崩れもせず……お稲の玉なす胸に留まって、たちまち隠れた。  美しい女は筵に爪立って身悶えしつつ、 「お稲さんは、お稲さんは、これからどうなるんです、どうなるんです。」 「むむ、くどいの、あとは魔界のものじゃ。雪女となっての、三つ目入道、大入道の、酌なと伽なとしょうぞいの。わはは、」  と笑った。  美しい女は、額を当てて、幕を掴んで、 「生意気な事をお言いでない。幕の中の人、悪魔、私も女だよ、十九だよ……お稲さんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、……可哀相にお稲さんを――女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私を御覧。」  はたた、はたた神。  南無三宝、電光に幕あるのみ。 「あれえ。」と聞えた。  瞬間、松崎は猶予ったが、棄ておかれぬのは、続いて、編笠した烏と古女房が、衝と幕を揚げて追込んだ事である。  手を掛けると、触るものなく、篠つく雨の簾が落ちた。  と見ると、声のしたものは何も見えない。三つ目入道、狐、狸、猫も鼬もごちゃごちゃと小さく固まっていたが、松崎の殺進に、気を打たれたか、ばらばらと、奥へ遁げる。と果しもなく野原のごとく広い中に、塚を崩した空洞と思う、穴がぽかぽかと大く窪んで蜂の巣を拡げたような、その穴の中へ、すぽん、と一個ずつ飛込んで、ト貝鮹と云うものめく……頭だけ出して、ケラケラと笑って失せた。  何等の魔性ぞ。這奴等が群り居た、土間の雨に、引挘られた衣の綾を、驚破や、蹂躙られた美しい女かと見ると、帯ばかり、扱帯ばかり、花片ばかり、葉ばかりぞ乱れたる。  途端に海のような、真昼を見た。  広場は荒廃して日久しき染物屋らしい。縦横に並んだのは、いずれも絵の具の大瓶である。  あわれ、その、せめて紫の瓶なれかし。鉄のひびわれたごとき、遠くの壁際の瓶の穴に、美しい女の姿があった。頭を編笠が抱えた、手も胸も、面影も、しろしろと、あの、舞台のお稲そのままに見えたが、ただ既に空洞へ入って、底から足を曳くものがあろう、美しい女は、半身を上に曲げて、腰のあたりは隠れたのである。  雪のような胸には、同じ朱鷺色の椿がある。  叫んで、走りかかると、瓶の区劃に躓いて倒れた手に、はっと留南奇して、ひやひやと、氷のごとく触ったのは、まさしく面影を、垂れた腕にのせながら土間を敷いて、長くそこまで靡くのを認めた、美しい女の黒髪の末なのであった。  この黒髪は二筋三筋指にかかって手に残った。  海に沈んだか、と目に何も見えぬ。  四ツの壁は、流るる電と輝く雨である。とどろとどろと鳴るかみは、大灘の波の唸りである。 「おでんや――おでん。」  戸外を行く、しかも女の声。  我に返って、這うように、空屋の木戸を出ると、雨上りの星が晃々。  後で伝え聞くと、同一時、同一所から、その法学士の新夫人の、行方の知れなくなったのは事実とか。……松崎は実は、うら少い娘の余り果敢なさに、亀井戸詣の帰途、その界隈に、名誉の巫子を尋ねて、そのくちよせを聞いたのであった……霊の来った状は秘密だから言うまい。魂の上る時、巫子は、空を探って、何もない所から、弦にかかった三筋ばかりの、長い黒髪を、お稲の記念ぞとて授けたのを、とやせんとばかりで迷の巷。  黒髪は消えなかった。 大正二(一九一三)年五月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日発行 ※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003651", "作品名": "陽炎座", "作品名読み": "かげろうざ", "ソート用読み": "かけろうさ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3651.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十五卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3651_ruby_25794.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3651_26098.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 今も恁う云ふのがある。  安政の頃本所南割下水に住んで、祿高千石を領した大御番役、服部式部の邸へ、同じ本所林町家主惣兵衞店、傳平の請人で、中間に住込んだ、上州瓜井戸うまれの千助と云ふ、年二十二三の兄で、色の生白いのがあつた。  小利口にきび〳〵と立𢌞る、朝は六つ前から起きて、氣輕身輕は足輕相應、くる〳〵とよく働く上、早く江戸の水に染みて早速に情婦を一つと云ふ了簡から、些と高い鼻柱から手足の爪まで、磨くこと洗ふこと、一日十度に及んだと云ふ。心状のほどは知らず、中間風情には可惜男振の、少いものが、身綺麗で、勞力を惜まず働くから、これは然もありさうな事で、上下擧つて通りがよく、千助、千助と大した評判。  分けて最初、其のめがねで召抱へた服部家の用人、關戸團右衞門の贔屓と、目の掛けやうは一通りでなかつた。  其の頼母しいのと、當人自慢の生白い處へ、先づ足駄をひつくりかへしたのは、門内、團右衞門とは隣合はせの當家の家老、山田宇兵衞召使ひの、葛西の飯炊。  續いて引掛つたのが、同じ家の子守兒で二人、三人目は、部屋頭何とか云ふ爺の女房であつた。  いや、勇んだの候の、瓜井戸の姊は、べたりだが、江戸ものはころりと來るわ、で、葛西に、栗橋、北千住の鰌鯰を、白魚の氣に成つて、頤を撫でた。當人、女にかけては其のつもりで居る日の下開山、木の下藤吉、一番鎗、一番乘、一番首の功名をして遣つた了簡。  此の勢に乘じて、立所に一國一城の主と志して狙をつけたのは、あらう事か、用人團右衞門の御新姐、おくみと云ふ年は漸う二十と聞く、如何にも、一國一城に較へつべき至つて美しいのであつた。  が、此はさすがに、井戸端で名のり懸けるわけには行かない。さりとて用人の若御新姐、さして深窓のと云ふではないから、隨分臺所口、庭前では、朝に、夕に、其の下がひの褄の、媚かしいのさへ、ちら〳〵見られる。 「千助や」 と優しい聲も時々聞くのであるし、手から手へ直接に、つかひの用の、うけ渡もするほどなので、御馳走は目の前に唯お預けだと、肝膽を絞つて悶えて居た。  其の年押詰つて師走の幾日かは、當邸の御前、服部式部どの誕生日で、邸中とり〴〵其の支度に急がしく、何となく祭が近づいたやうにさゞめき立つ。  其の一日前の暮方に、千助は、團右衞門方の切戸口から、庭前へ𢌞つた。座敷に御新姐が居る事を、豫め知つての上。  落葉掃く樣子をして、箒を持つて技折戸から。一寸言添へる事がある、此の節、千助は柔かな下帶などを心掛け、淺葱の襦袢をたしなんで薄化粧などをする。尤も今でこそあれ、其の時分中間が、顏に仙女香を塗らうとは誰も思ひがけないから、然うと知つたものはない。其の上、ぞつこん思ひこがれる御新姐お組が、優しい風流のあるのを窺つて、居𢌞りの夜店で表紙の破れた御存じの歌の本を漁つて來て、何となく人に見せるやうに捻くつて居たのであつた。  時に御新姐は日が短い時分の事、縁の端近へ出て、御前の誕生日には夫が着換へて出ようと云ふ、紋服を、又然うでもない、しつけの絲一筋も間違はぬやう、箪笥から出して、目を通して、更めて疊直して居た處。 「えゝ、御新姐樣、續きまして結構なお天氣にござります。」 「おや、千助かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう、御苦勞だね。」 「何う仕りまして、數なりませぬものも陰ながらお喜び申して居ります。」 「あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂みにしてお働きよ。」  ともの優しく、柔かな言に附入つて、 「もし、其につきまして、」  と沓脱の傍へ蹲つて、揉手をしながら、圖々しい男で、ずツと顏を突出した。 「何とも恐多い事ではござりますが、御新姐樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生のお祝儀の晩、お客樣が御立歸りに成りますると、手前ども一統にも、お部屋で御酒を下さりまするとか。」 「あゝ、無禮講と申すのだよ。たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。」  と云つて莞爾した。千助、頸許からぞく〳〵しながら、 「滅相な、隱藝など、へゝゝ、就きましてでござります。其の無禮講と申す事で、從前にも向後も、他なりません此のお邸、決して、然やうな事はござりますまいが、羽目をはづして醉ひますると、得て間違の起りやすいものでござります。其處を以ちまして、手前の了簡で、何と、今年は一つ、趣をかへて、お酒を頂戴しながら、各々國々の話、土地所の物語と云ふのをしめやかにしようではあるまいか。と、申出ました處、部屋頭が第一番。いづれも當御邸の御家風で、おとなしい、實體なものばかり、一人も異存はござりません。  處で發頭人の手前、出來ませぬまでも、皮切をいたしませぬと相成りませんので。  國許にござります、其の話につきまして、其を饒舌りますのに、實にこまりますことには、事柄の續の中に、歌が一つござります。  部屋がしらは風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと云ふのを遣ります。川柳に、(歌一つあつて話にけつまづき)と云ふのがあると、何時かも笑つて居りました、成程其の通りと感心しましたのが、今度は身の上で、歌があつて蹴躓きまして、部屋がしらに笑はれますのが、手前口惜しいと存じまして、へい。」  と然も〳〵若氣に思込んだやうな顏色をして云つた。川柳を口吟んで、かむりづけを樂む其の結構な部屋がしらの女房を怪しからぬ。 「少々ばかり小遣の中から恁やうなものを、」  と懷中から半分ばかり紺土佐の表紙の薄汚れたのを出して見せる。 「おや、歌の、お見せな。」  と云ふ瞳が、疊みかけた夫の禮服の紋を離れて、千助が懷中の本に移つた。 「否、お恥かしい、お目を掛けるやうなのではござりません、それに夜店で買ひましたので、御新姐樣、お手に觸れましては汚うござります。」  と引込ませる、と水のでばなと云ふのでも、お組はさすがに武家の女房、中間の膚に着いたものを無理に見ようとはしなかつた。 「然うかい。でも、お前、優しいお心掛だね。」  と云ふ、宗桂が歩のあしらひより、番太郎の桂馬の方が、豪さうに見える習で、お組は感心したらしかつた。然もさうずと千助が益々附入る。 「えゝ、さぐり讀みに搜しましても、どれが何だか分りません。其に、あゝ、何とかの端本か、と部屋頭が本の名を存じて居りますから、中の歌も、此から引出しましたのでは、先刻承知とやらでござりませう。其では種あかしの手品同樣、慰みになりません。お願と申しましたは爰の事。お新姐樣、一つ何うぞ何でもお教へなさつて遣はさりまし。」  お組が、ついうつかりと乘せられて、 「私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。」 「へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。」  と初心らしく故と俯向いて赤く成つた。お組も、ほんのりと、色を染めた、が、庭の木の葉の夕榮である。 「戀の心はどんなのだえ。思うて逢ふとか、逢はないとか、忍ぶ、待つ、いろ〳〵あるわねえ。」 「えゝ、申兼ねましたが、其が其の、些と道なりませぬ、目上のお方に、身も心もうちこんで迷ひました、と云ふのは、對手が庄屋どのの、其の、」と口早に云ひたした。  お組は何の氣も附かない樣子で、 「お待ち、」  と少々俯向いて、考へるやうに、歌袖を膝へ置いた姿は、亦類なく美しい。 「恁ういたしたら何うであらうね、 思ふこと關路の暗のむら雲を、    晴らしてしばしさせよ月影。  分つたかい、一寸いま思出せないから、然うしてお置きな、又氣が附いたら申さうから。」  千助は目を瞑つて、如何にも感に堪へたらしく、 「思ふこと關路の暗の、     むら雲を晴らしてしばしさせよ月影。  御新姐樣、此の上の御無理は、助けると思召しまして、其のお歌を一寸お認め下さいまし、お使の口上と違ひまして、つい馴れませぬ事は下根のものに忘れがちにござります、よく拜見して覺えますやうに。」  と、しをらしく言つたので、何心なく其の言に從つた。お組は、しかけた用の忙しい折から、冬の日は早や暮れかゝる、ついありあはせた躾の紅筆で、懷紙へ、圓髷の鬢艷やかに、もみぢを流す……うるはしかりし水莖のあと。  さて祝の夜、中間ども一座の酒宴。成程千助の仕組んだ通り、いづれも持寄りで、國々の話をはじめた。千助の順に杯が𢌞つて來た時、自分國許の事に擬へて、仔細あつて、世を忍ぶ若ものが庄屋の屋敷に奉公して、其の妻と不義をする段、手に取るやうに饒舌つて、 「實は、此は、御用人の御新姐樣に。」  と紅筆の戀歌、移香の芬とする懷紙を恭しく擴げて、人々へ思入十分に見せびらかした。  自分で許す色男が、思をかけて屆かぬ婦を、かうして人に誇る術は。
底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店    1942(昭和17)年3月10日第1刷発行    1987(昭和62)年10月2日第3刷発行 ※「おくみ」と「お組」の混在は、底本通りです。 ※「一寸」に対するルビの「ちよつと」と「ちよいと」の混在は、底本通りです。 入力:門田裕志 校正:室谷きわ 2021年8月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004576", "作品名": "片しぐれ", "作品名読み": "かたしぐれ", "ソート用読み": "かたしくれ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4576.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻十四", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年3月10日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年10月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年12月2日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "室谷きわ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4576_ruby_74010.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4576_74048.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
縁日  柳行李  橋ぞろえ  題目船  衣の雫  浅緑 記念ながら      縁日        一  先年尾上家の養子で橘之助といった名題俳優が、年紀二十有五に満たず、肺を煩い、余り胸が痛いから白菊の露が飲みたいという意味の辞世の句を残して儚うなり、贔屓の人々は謂うまでもなく、見巧者をはじめ、芸人の仲間にも、あわれ梨園の眺め唯一の、白百合一つ萎んだりと、声を上げて惜しみ悼まれたほどのことである。  深川富岡門前に待乳屋と謂って三味線屋があり、その一人娘で菊枝という十六になるのが、秋も末方の日が暮れてから、つい近所の不動の縁日に詣るといって出たのが、十時半過ぎ、かれこれ十一時に近く、戸外の人通もまばらになって、まだ帰って来なかった。  別に案ずるまでもない、同町の軒並び二町ばかり洲崎の方へ寄った角に、浅草紙、束藁、懐炉灰、蚊遣香などの荒物、烟草も封印なしの一銭五厘二銭玉、ぱいれっと、ひーろーぐらいな処を商う店がある、真中が抜裏の路地になって合角に格子戸造の仕舞家が一軒。  江崎とみ、と女名前、何でも持って来いという意気造だけれども、この門札は、さる類の者の看板ではない、とみというのは方違いの北の廓、京町とやらのさる楼に、博多の男帯を後から廻して、前で挟んで、ちょこなんと坐って抜衣紋で、客の懐中を上目で見るいわゆる新造なるもので。  三十の時から二階三階を押廻して、五十七の今年二十六年の間、遊女八人の身抜をさしたと大意張の腕だから、家作などはわがものにして、三月ばかり前までは、出稼の留守を勤め上りの囲物、これは洲崎に居た年増に貸してあったが、その婦人は、この夏、弁天町の中通に一軒引手茶屋の売物があって、買ってもらい、商売をはじめたので空家になり、また貸札でも出そうかという処へ娘のお縫。母親の富とは大違いな殊勝な心懸、自分の望みで大学病院で仕上げ、今では町住居の看護婦、身綺麗で、容色も佳くって、ものが出来て、深切で、優しいので、寸暇のない処を、近ごろかの尾上家に頼まれて、橘之助の病蓐に附添って、息を引き取るまで世話をしたが、多分の礼も手に入るる、山そだちは山とか、ちと看病疲も出たので、しばらく保養をすることにして帰って来て、ちょうど留守へ入って独で居る。菊枝は前の囲者が居た時分から、縁あってちょいちょい遊びに行ったが、今のお縫になっても相変らず、……きっとだと、両親が指図で、小僧兼内弟子の弥吉というのを迎に出すことにした。 「菊枝が毎度出ましてお邪魔様でございます、難有う存じます。それから菊枝に、病気揚句だ、夜更しをしては宜くないからお帰りと、こう言うのだ。汝またかりん糖の仮色を使って口上を忘れるな。」  坐睡をしていたのか、寝惚面で承るとむっくと立ち、おっと合点お茶の子で飛出した。  わっしょいわっしょいと謂う内に駆けつけて、 「今晩は。」というと江崎が家の格子戸をがらりと開けて、 「今晩は。」  時に返事をしなかった、上框の障子は一枚左の方へ開けてある。取附が三畳、次の間に灯は点いていた、弥吉は土間の処へ突立って、委細構わず、 「へい毎度出ましてお邪魔様でございます、難有う存じます。ええ、菊枝さん、姉さん。」        二 「菊枝さん、」とまた呼んだが、誰も返事をするものがない。  立続けに、 「遅いからもうお帰りなさいまし、風邪を引くと不可ません。」  弥吉は親方の吩咐に註を入れて、我ながら旨く言ったと思ったが、それでもなお応じないから、土間の薄暗い中をきょろきょろと眗したが、密と、框に手をついて、及腰に、高慢な顔色で内を透し、 「かりん糖でござい、評判のかりん糖!」と節をつけて、 「雨が降ってもかりかりッ、」  どんなものだ、これならば顕れよう、弥吉は菊枝とお縫とが居ない振でかつぐのだと思うから、笑い出すか、噴き出すか、くすくす遣るか、叱るかと、ニヤニヤ独で笑いながら、耳を澄したけれども沙汰がない、時計の音が一分ずつ柱を刻んで、潮の退くように鉄瓶の沸え止む響、心着けば人気勢がしないのである。 「可笑しいな、」と独言をしたが、念晴しにもう一ツ喚いてみた。 「へい、かりん糖でござい。」  それでも寂寞、気のせいか灯も陰気らしく、立ってる土間は暗いから、嚔を仕損なったような変な目色で弥吉は飛込んだ時とは打って変り、ちと悄気た形で格子戸を出たが、後を閉めもせず、そのままには帰らないで、溝伝いにちょうど戸外に向った六畳の出窓の前へ来て、背後向に倚りかかって、前後を眗して、ぼんやりする。  がらがらと通ったのは三台ばかりの威勢の可い腕車、中に合乗が一台。 「ええ、驚かしゃあがるな。」と年紀には肖ない口を利いて、大福餅が食べたそうに懐中に手を入れて、貧乏ゆるぎというのを行る。  処へ入乱れて三四人の跫音、声高にものを言い合いながら、早足で近いて、江崎の前へ来るとちょっと淀み、 「どうもお嬢さん難有うございました。」こういったのは豆腐屋の女房で、 「飛んだお手数でしたね。」 「お蔭様だ。」と留という紺屋の職人が居る、魚勘の親仁が居る、いずれも口々。  中に挟ったのが看護婦のお縫で、 「どういたしまして、誰方も御苦労様、御免なさいまし。」 「さようなら。」 「お休み。」  互に言葉を交したが、連の三人はそれなり分れた。  ちょっと彳んで見送るがごとくにする、お縫は縞物の不断着に帯をお太鼓にちゃんと結んで、白足袋を穿いているさえあるに、髪が夜会結。一体ちょん髷より夏冬の帽子に目を着けるほどの、土地柄に珍しい扮装であるから、新造の娘とは知っていても、称えるにお嬢様をもってする。  お縫は出窓の処に立っている弥吉には目もくれず、踵を返すと何か忙しらしく入ろうとしたが、格子も障子も突抜けに開ッ放し。思わず猶予って振返った。 「お帰んなさい。」 「おや、待乳屋さんの、」と唐突に驚く間もあらせず、 「菊枝さんはどうしました。」 「お帰んなすったんですか。」  いささか見当が違っている。 「病気揚句だしもうお帰んなさいって、へい、迎いに来たんで。」 「どうかなさいましたか。」と深切なものいいで、門口に立って尋ねるのである。  小僧は息をはずませて、 「一所に出懸けたんじゃあないの。」 「いいえ。」      柳行李        三 「へい、おかしいな、だって内にゃあ居ませんぜ。」 「なに居ないことがありますか、かつがれたんでしょう、呼んで見たのかね。」 「呼びました、喚いたんで、かりん糖の仮声まで使ったんだけれど。」  お縫は莞爾して、 「そんな串戯をするから返事をしないんだよ。まあお入んなさい、御苦労様でした。」と落着いて格子戸を潜ったが、土間を透すと緋の天鵝絨の緒の、小町下駄を揃えて脱いであるのに屹と目を着け、 「御覧、履物があるじゃあないか、何を慌ててるんだね。」  弥吉は後について首を突込み、 「や、そいつあ気がつかなかったい。」 「今日はね河岸へ大層着いたそうで、鮪の鮮しいのがあるからお好な赤いのをと思って菊ちゃんを一人ぼっちにして、角の喜の字へ行くとね、帰りがけにお前、」と口早に話しながら、お縫は上框の敷居の処でちょっと屈み、件の履物を揃えて、 「何なんですよ、蘆の湯の前まで来ると大勢立ってるんでしょう、恐しく騒いでるから聞いてみると、銀次さん許の、あの、刺青をしてるお婆さんが湯気に上ったというものですから、世話をしてね、どうもお待遠様でした。」  と、襖を開けてその六畳へ入ると誰も居ない、お縫は少しも怪しむ色なく、 「堪忍して下さい。だもんですから、」ずっと、長火鉢の前を悠々と斜に過ぎ、帯の間へ手を突込むと小さな蝦蟇口を出して、ちゃらちゃらと箪笥の上に置いた。門口の方を透して、 「小僧さん、まあお上り、菊枝さん、きいちゃん。」と言って部屋の内を眗すと、ぼんぼん時計、花瓶の菊、置床の上の雑誌、貸本が二三冊、それから自分の身体が箪笥の前にあるばかり。  はじめて怪訝な顔をした。 「おや、きいちゃん。」 「居やあしねえや。」と弥吉は腹ン這になって、覗いている。 「弥吉どん。本当に居ないですか、菊ちゃん。」とお縫は箪笥に凭懸ったまま、少し身を引いて三寸ばかり開いている襖、寝間にしておく隣の長四畳のその襖に手を懸けたが、ここに見えなければいよいよ菊枝が居ないのに極るのだと思うから、気がさしたと覚しく、猶予って、腰を据えて、筋の緊って来る真顔は淋しく、お縫は大事を取る塩梅に密と押開けると、ただ中古の畳なり。 「あれ、」といいさまつかつかと入ったが、慌しく、小僧を呼んだ。 「おっ、」と答えて弥吉は突然飛込んで、 「どう、どう。」 「お待ちなさいよ、いえね、弥吉どん、お前来る途で逢違いはしないだろうね、履物はあるし、それにしちゃあ、」  呼び上げておきながら取留めたことを尋ねるまでもなく、お縫は半ば独言。蓋のあいた柳行李の前に立膝になり、ちょっと小首を傾けて、向うへ押して、ころりと、仰向けに蓋を取って、右手を差入れて底の方から擡げてみて、その手を返して、畳んだ着物を上から二ツ三ツ圧えてみた。 「お嬢さん、盗賊?」と弥吉は耐りかねて頓興な声を出す。 「待って頂戴。」  お縫は自らおのが身を待たして、蓋を引いたままじっとして勝手許に閉っている一枚の障子を、その情の深い目で瞶めたのである。        四 「弥吉どん。」 「へい、」 「おいで、」と言うや否や、ずいと立って件の台所の隔ての障子。  柱に掴って覗いたから、どこへおいでることやらと、弥吉はうろうろする内に、お縫は裾を打って、ばたばたと例の六畳へ取って返した。  両三度あちらこちら、ものに手を触れて廻ったが、台洋燈を手に取るとやがてまた台所。  その袂に触れ、手に触り、寄ったり、放れたり、筋違に退いたり、背後へ出たり、附いて廻って弥吉は、きょろきょろ、目ばかり煌かして黙然で。  お縫は額さきに洋燈を捧げ、血が騒ぐか細おもての顔を赤うしながら、お太鼓の帯の幅ったげに、後姿で、すっと台所へ入った。  と思うと、湿ッけのする冷い風が、颯と入り、洋燈の炎尖が下伏になって、ちらりと蒼く消えようとする。  はっと袖で囲ってお縫は屋根裏を仰ぐと、引窓が開いていたので、煤で真黒な壁へ二条引いた白い縄を、ぐいと手繰ると、かたり。  引窓の閉まる拍子に、物音もせず、五分ばかりの丸い灯は、口金から根こそぎ殺いで取ったように火屋の外へふッとなくなる。 「厭だ、消しちまった。」  勝手口は見通しで、二十日に近い路地の月夜、どうしたろう、ここの戸は閉っておらず、右に三軒、左に二軒、両側の長屋はもう夜中で、明い屋根あり、暗い軒あり、影は溝板の処々、その家もここも寂寞して、ただ一つ朗かな蚯蚓の声が月でも聞くと思うのか、鳴いている。  この裏を行抜けの正面、霧の綾も遮らず目の届く処に角が立った青いものの散ったのは、一軒飛離れて海苔粗朶の垣を小さく結った小屋で剥く貝の殻で、その剥身屋のうしろに、薄霧のかかった中は、直ちに汽船の通う川である。  ものの景色はこれのみならず、間近な軒のこっちから棹を渡して、看護婦が着る真白な上衣が二枚、しまい忘れたのが夜干になって懸っていた。 「お化。」 「ああ、」とばかり、お縫は胸のあたりへ颯と月を浴びて、さし入る影のきれぎれな板敷の上へ坐ってしまうと、 「灯を消しましたね。」とお化の暢気さ。      橋ぞろえ         五 「さあ、おい、起きないか起きないか、石見橋はもう越した、不動様の前あたりだよ、直に八幡様だ。」と、縞の羽織で鳥打を冠ったのが、胴の間に円くなって寝ている黒の紋着を揺り起す。  一行三人の乗合で端に一人仰向けになって舷に肱を懸けたのが調子低く、 佃々と急いで漕げば、   潮がそこりて艪が立たぬ。  と口吟んだ。  けれども実際この船は佃をさして漕ぐのではない。且つ潮がそこるどころの沙汰ではない。昼過からがらりと晴上って、蛇の目の傘を乾かすような月夜になったが、昨夜から今朝へかけて暴風雨があったので、大川は八分の出水、当深川の川筋は、縦横曲折至る処、潮、満々と湛えている、そして早船乗の頬冠をした船頭は、かかる夜のひっそりした水に声を立てて艪をぎいーぎい。  砂利船、材木船、泥船などをひしひしと纜ってある蛤町の河岸を過ぎて、左手に黒い板囲い、㋚※(丸大)※(「重なった「へ」/一」、屋号を示す記号)と大きく胡粉で書いた、中空に見上げるような物置の並んだ前を通って、蓬莱橋というのに懸った。  月影に色ある水は橋杭を巻いてちらちらと、畝って、横堀に浸した数十本の材木が皆動く。 「とっさんここいらで、よく釣ってるが何が釣れる。」  船顎、 「沙魚に鯔子が釣れます。」 「おぼこならば釣れよう。」と縞の羽織が笑うと、舷に肱をついたのが向直って、 「何あてになるものか。」 「遣って御覧じろ。」と橋の下を抜けると、たちまち川幅が広くなり、土手が著しく低くなって、一杯の潮は凸に溢れるよう。左手は洲の岬の蘆原まで一望渺たる広場、船大工の小屋が飛々、離々たる原上の秋の草。風が海手からまともに吹きあてるので、満潮の河心へ乗ってるような船はここにおいて大分揺れる。 「釣れる段か、こんな晩にゃあ鰻が船の上を渡り越すというくらいな川じゃ。」と船頭は意気頗る昂る。 「さあ、心細いぞ。」 「一体この川は何という。」 「名はねえよ。」 「何とかありそうなものだ。」 「石見橋なら石見橋、蓬莱橋なら蓬莱橋、蛤町の河岸なら蛤河岸さ、八幡前、不動前、これが富岡門前の裏になります。」という時、小曲をして平清の植込の下なる暗い処へ入って蔭になった。川面はますます明い、船こそ数多あるけれども動いているのはこの川にこれただ一艘。 「こっちの橋は。」  間近く虹のごとく懸っているのを縞の羽織が聞くと、船頭の答えるまでもなく紋着が、 「汐見橋。」 「寂しいな。」  この処の角にして船が弓なりに曲った。寝息も聞えぬ小家あまた、水に臨んだ岸にひょろひょろとした細くって低い柳があたかも墓へ手向けたもののように果敢なく植わっている。土手は一面の蘆で、折しも風立って来たから颯と靡き、颯と靡き、颯と靡く反対の方へ漕いで漕いで進んだが、白珊瑚の枝に似た貝殻だらけの海苔粗朶が堆く棄ててあるのに、根を隠して、薄ら蒼い一基の石碑が、手の届きそうな処に人の背よりも高い。        六 「おお、気味悪い。」と舷を左へ坐りかわった縞の羽織は大いに悄気る。 「とっさん、何だろう。」 「これかね、寛政子年の津浪に死骸の固っていた処だ。」  正面に、 葛飾郡永代築地  と鐫りつけ、おもてから背後へ草書をまわして、  此処寛政三年波あれの時、家流れ人死するもの少からず、此の後高波の変はかりがたく、溺死の難なしというべからず、是に寄りて西入船町を限り、東吉祥寺前に至るまで凡そ長さ二百八十間余の所、家居取払い空地となし置くものなり。  と記して傍に、寛政六年甲寅十二月 日とある石の記念碑である。 「ほう、水死人の、そうか、謂わば土左衛門塚。」 「おっと船中にてさようなことを、」と鳥打はつむりを縮めて、 「や!」  響くは凄じい水の音、神川橋の下を潜って水門を抜けて矢を射るごとく海に注ぐ流の声なり。 「念入だ、恐しい。」と言いながら、寝返の足で船底を蹴ったばかりで、未だに生死のほども覚束ないほど寝込んでいる連の男をこの際、十万の味方と烈しく揺動かして、 「起きないか起きないか、酷く身に染みて寒くなった。」  やがて平野橋、一本二本蘆の中に交ったのが次第に洲崎のこの辺土手は一面の薄原、穂の中から二十日近くの月を遠く沖合の空に眺めて、潮が高いから、人家の座敷下の手すりとすれずれの処をゆらりと漕いだ、河岸についてるのは川蒸汽で縦に七艘ばかり。 「ここでも人ッ子を見ないわ。」 「それでもちっとは娑婆らしくなった。」 「娑婆といやあ、とっさん、この辺で未通子はどうだ。」と縞の先生活返っていやごとを謂う。 「どうだどころか、もしお前さん方、この加賀屋じゃ水から飛込む魚を食べさせるとって名代だよ。」 「まずそこらで可し、船がぐらぐらと来て鰻の川渡りは御免蒙る。」 「ここでは欄干から這込みます。」 「まさか。」 「いや何ともいえない、青山辺じゃあ三階へ栗が飛込むぜ。」 「大出来!」  船頭も哄と笑い、また、 佃々と急いで漕げば、   潮がそこりて艪が立たぬ。  程なく漕ぎ寄せたのは弁天橋であった、船頭は舳へ乗かえ、棹を引いて横づけにする、水は船底を嘗めるようにさらさらと引いて石垣へだぶり。 「当りますよ。」 「活きてるか、これ、」  二度まで揺られても人心地のないようだった一名は、この時わけもなくむっくと起きて、真先に船から出たのである。 「待て、」といいつつ両人、懐をおさえ、褄を合わせ、羽織の紐を〆めなどして、履物を穿いてばたばたと陸へ上って、一団になると三人言い合せたように、 「寒い。」 「お静に。」といって、船頭は何か取ろうとして胴の間の処へ俯向く。  途端であった。  耳許にドンと一発、船頭も驚いてしゃっきり立つと、目の前へ、火花が糸を引いて※(火+發)と散って、川面で消えたのが二ツ三ツ、不意に南京花火を揚げたのは寝ていたかの男である。  斉しく左右へ退いて、呆気に取られた連の両人を顧みて、呵々と笑ってものをもいわず、真先に立って、  鞭声粛々!――      題目船        七 「何じゃい。」と打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って苦笑をした、船頭は年紀六十ばかり、痩せて目鼻に廉はあるが、一癖も、二癖も、額、眦、口許の皺に隠れてしおらしい、胡麻塩の兀頭、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居の、七兵衛という親仁である。  七兵衛――この船頭ばかりは、仕事の了にも早船をここへ繋いで戻りはせぬ。  毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。  且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、法華経第十六寿量品の偈、自我得仏来というはじめから、速成就仏身とあるまでを幾度となく繰返す。連夜の川施餓鬼は、善か悪か因縁があろうと、この辺では噂をするが、十年は一昔、二昔も前から七兵衛を知ってるものも別に仔細というほどのことを見出さない。本人も語らず、またかかる善根功徳、人が咎めるどころの沙汰ではない、もとより起居に念仏を唱える者さえある、船で題目を念ずるに仔細は無かろう。  されば今宵も例に依って、船の舳を乗返した。  腰を捻って、艪柄を取って、一ツおすと、岸を放れ、 「ああ、良い月だ、妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来、所経諸劫数、無量百千万億載阿僧祇、」と誦しはじめた。風も静に川波の声も聞えず、更け行くにつれて、三押に一度、七押に一度、ともすれば響く艪の音かな。 「常説法教化無数億衆生爾来無量劫。」  法の声は、蘆を渡り、柳に音ずれ、蟋蟀の鳴き細る人の枕に近づくのである。  本所ならば七不思議の一ツに数えよう、月夜の題目船、一人船頭。界隈の人々はそもいかんの感を起す。苫家、伏家に灯の影も漏れない夜はさこそ、朝々の煙も細くかの柳を手向けられた墓のごとき屋根の下には、子なき親、夫なき妻、乳のない嬰児、盲目の媼、継母、寄合身上で女ばかりで暮すなど、哀に果敢ない老若男女が、見る夢も覚めた思いも、大方この日が照る世の中のことではあるまい。  髯ある者、腕車を走らす者、外套を着たものなどを、同一世に住むとは思わず、同胞であることなどは忘れてしまって、憂きことを、憂しと識別することさえ出来ぬまで心身ともに疲れ果てたその家この家に、かくまでに尊い音楽はないのである。 「衆生既信伏質直意柔軟、一心欲見仏、不自惜身命、」と親仁は月下に小船を操る。  諸君が随処、淡路島通う千鳥の恋の辻占というのを聞かるる時、七兵衛の船は石碑のある処へ懸った。  いかなる人がこういう時、この声を聞くのであるか? ここに適例がある、富岡門前町のかのお縫が、世話をしたというから、菊枝のことについて記すのにちっとも縁がないのではない。  幕府の時分旗本であった人の女で、とある楼に身を沈めたのが、この近所に長屋を持たせ廓近くへ引取って、病身な母親と、長煩いで腰の立たぬ父親とを貢いでいるのがあった。        八  少なからぬ借金で差引かれるのが多いのに、稼高の中から渡される小遣は髪結の祝儀にも足りない、ところを、たといおも湯にしろ両親が口を開けてその日その日の仕送を待つのであるから、一月と纏めてわずかばかりの額ではないので、毎々借越にのみなるのであったが、暖簾名の婦人と肩を並べるほど売れるので、内証で悪い顔もしないで無心に応じてはいたけれども、応ずるは売れるからで、売るのには身をもって勤めねばならないとか。  いかに孝女でも悪所において斟酌があろうか、段々身体を衰えさして、年紀はまだ二十二というのに全盛の色もやや褪せて、素顔では、と源平の輩に遠慮をするようになると、二度三度、月の内に枕が上らない日があるようになった。  扱帯の下を氷で冷すばかりの容体を、新造が枕頭に取詰めて、このくらいなことで半日でも客を断るということがありますか、死んだ浮舟なんざ、手拭で汗を拭く度に肉が殺げて目に見えて手足が細くなった、それさえ我儘をさしちゃあおきませなんだ、貴女は御全盛のお庇に、と小刀針で自分が使う新造にまでかかることを言われながら、これにはまた立替えさしたのが、控帳についてるので、悔しい口も返されない。  という中にも、随分気の確な女、むずかしく謂えば意志が強いという質で、泣かないが蒼くなる風だったそうだから、辛抱はするようなものの、手元が詰るに従うて謂うまじき無心の一つもいうようになると、さあ鰌は遁る、鰻は辷る、お玉杓子は吃驚する。  河岸は不漁で、香のある鯛なんざ、廓までは廻らぬから、次第々々に隙にはなる、融通は利かず、寒くはなる、また暑くはなる、年紀は取る、手拭は染めねばならず、夜具の皮は買わねばならず、裏は天地で間に合っても、裲襠の色は変えねばならず、茶は切れる、時計は留る、小間物屋は朝から来る、朋輩は落籍のがある、内証では小児が死ぬ、書記の内へ水がつく、幇間がはな会をやる、相撲が近所で興行する、それ目録だわ、つかいものだ、見舞だと、つきあいの雑用を取るだけでも、痛む腹のいいわけは出来ない仕誼。  随分それまでにもかれこれと年季を増して、二年あまりの地獄の苦がフイになっている上へ、もう切迫と二十円。  盆のことで、両親の小屋へ持って行って、ものをいう前にまず、お水を一口という息切のする女が、とても不可ません、済ないこッてすがせめてお一人だけならばと、張も意気地もなく母親の帯につかまって、別際に忍泣に泣いたのを、寝ていると思った父親が聞き取って、女が帰って明くる日も待たず自殺した。  報知を聞くと斉しく、女は顔の色が変って目が窪んだ、それなりけり。砂利へ寝かされるような蒲団に倒れて、乳房の下に骨が見える煩い方。  肺病のある上へ、驚いたがきっかけとなって心臓を痛めたと、医者が匙を投げてから内証は証文を巻いた、但し身附の衣類諸道具は編笠一蓋と名づけてこれをぶったくり。  手当も出来ないで、ただ川のへりの長屋に、それでも日の目が拝めると、北枕に水の方へ黒髪を乱して倒れている、かかる者の夜更けて船頭の読経を聞くのは、どんなに悲しかろう、果敢なかろう、情なかろう、また嬉しかろう。 「妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来所経諸劫数無量百千万億載阿僧祇。」と誦するのが、いうべからざる一種の福音を川面に伝えて渡った、七兵衛の船は七兵衛が乗って漂々然。        九  蓬莱橋は早や見える、折から月に薄雲がかかったので、野も川も、船頭と船とを淡く残して一面に白み渡った、水の色は殊にやや濁を帯びたが、果もなく洋々として大河のごとく、七兵衛はさながら棲息して呼吸するもののない、月世界の海を渡るに斉しい。 「妙法蓮華経如来寿量品。」と繰返したが、聞くものの魂が舷のあたりにさまようような、ものの怪が絡ったか。烏が二声ばかり啼いて通った。七兵衛は空を仰いで、 「曇って来た、雨返しがありそうだな、自我得仏来所経、」となだらかにまた頓着しない、すべてのものを忘れたという音調で誦するのである。  船は水面を横に波状動を起して、急に烈しく揺れた。  読経をはたと留め、 「やあ、やあ、かしが、」と呟きざま艫を左へ漕ぎ開くと、二条糸を引いて斜に描かれたのは電の裾に似たる綾である。  七兵衛は腰を撓めて、突立って、逸疾く一間ばかり遣違えに川下へ流したのを、振返ってじっと瞶め、 「お客様だぜ、待て、妙法蓮華経如来寿量品第十六。」と忙しく張上げて念じながら、舳を輪なりに辷らして中流で逆に戻して、一息ぐいと入れると、小波を打乱す薄月に影あるものが近いて、やがて舷にすれすれになった。  飛下りて、胴の間に膝をついて、白髪天頭を左右に振ったが、突然水中へ手を入れると、朦朧として白く、人の寝姿に水の懸ったのが、一揺静に揺れて、落着いて二三尺離れて流れる、途端に思うさま半身を乗出したので反対の側なる舷へざぶりと一波浴せたが、あわよく手先がかかったから、船は人とともに寄って死骸に密接することになった。  無意識に今掴んだのは、ちょうど折曲げた真白の肱の、鍵形に曲った処だったので、 「しゃっちこばッたな、こいつあ日なしだ。」  とそのまま乱暴に引上げようとすると、少しく水を放れたのが、柔かに伸びそうな手答があった。 「どッこい。」驚いて猿臂を伸し、親仁は仰向いて鼻筋に皺を寄せつつ、首尾よく肩のあたりへ押廻して、手を潜らし、掻い込んで、ずぶずぶと流を切って引上げると、びっしょり舷へ胸をのせて、俯向けになったのは、形も崩れぬ美しい結綿の島田髷。身を投げて程も無いか、花がけにした鹿の子の切も、沙魚の口へ啣え去られないで、解けて頸から頬の処へ、血が流れたようにベッとりとついている。  親仁は流に攫われまいと、両手で、その死体の半はいまだ水に漂っているのをしっかり押えながら、わなわなと震えて早口に経を唱えた。  けれどもこれは恐れたのでも驚いたのでもなかったのである。助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ船に載せて見て、咽喉を突かれてでも、居はしまいか、鳩尾に斬ったあとでもあるまいか、ふと愛惜の念盛に、望の糸に縋りついたから、危ぶんで、七兵衛は胸が轟いて、慈悲の外何の色をも交えぬ老の眼は塞いだ。  またもや念ずる法華経の偈の一節。  やがて曇った夜の色を浴びながら満水して濁った川は、どんと船を突上げたばかりで、忘れたようにその犠を七兵衛の手に残して、何事もなく流れ流るる。      衣の雫        十  待乳屋の娘菊枝は、不動の縁日にといって内を出た時、沢山ある髪を結綿に結っていた、角絞りの鹿の子の切、浅葱と赤と二筋を花がけにしてこれが昼過ぎに出来たので、衣服は薄お納戸の棒縞糸織の袷、薄紫の裾廻し、唐繻子の襟を掛て、赤地に白菊の半襟、緋鹿の子の腰巻、朱鷺色の扱帯をきりきりと巻いて、萌黄繻子と緋の板じめ縮緬を打合せの帯、結目を小さく、心を入れないで帯上は赤の菊五郎格子、帯留も赤と紫との打交ぜ、素足に小町下駄を穿いてからからと家を。  一体三味線屋で、家業柄出入るものにつけても、両親は派手好なり、殊に贔屓俳優の橘之助の死んだことを聞いてから、始終くよくよして、しばらく煩ってまでいたのが、その日は誕生日で、気分も平日になく好いというので、髪も結って一枚着換えて出たのであった。  小町下駄は、お縫が許の上框の内に脱いだままで居なくなったのであるから、身を投げた時は跣足であった。  履物が無かったばかり、髪も壊れず七兵衛が船に助けられて、夜があけると、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸って未だ雫も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠む中に、しとしとと落ちて、一面に朽ちた板敷を濡しているのは潮の名残。  可惜、鼓のしらべの緒にでも干す事か、縄をもって一方から引窓の紐にかけ渡したのは無慙であるが、親仁が心は優しかった。  引窓を開けたばかりわざと勝手の戸も開けず、門口も閉めたままで、鍋をかけた七輪の下を煽ぎながら、大入だの、暦だの、姉さんだのを張交ぜにした二枚折の枕屏風の中を横から振向いて覗き込み、 「姉や、気分はどうじゃの、少し何かが解って来たか、」  と的面にこっちを向いて、眉の優しい生際の濃い、鼻筋の通ったのが、何も思わないような、しかも限りなき思を籠めた鈴のような目を瞠って、瓜核形の顔ばかり出して寝ているのを視めて、大口を開いて、 「あはは、あんな顔をして罪のない、まだ夢じゃと思うそうだ。」  菊枝は、硫黄ヶ島の若布のごとき襤褸蒲団にくるまって、抜綿の丸げたのを枕にしている、これさえじかづけであるのに、親仁が水でも吐したせいか、船へ上げられた時よりは髪がひっ潰れて、今もびっしょりで哀である、昨夜はこの雫の垂るる下で、死際の蟋蟀が鳴いていた。  七兵衛はなおしおらしい目から笑を溢して、 「やれやれ綺麗な姉さんが台なしになったぞ。あてこともねえ、どうじゃ、切ないかい、どこぞ痛みはせぬか、お肚は苦しゅうないか。」と自分の胸を頑固な握拳でこツこツと叩いて見せる。  ト可愛らしく、口を結んだまま、ようようこの時頭を振った。 「は、は、痛かあない、宜いな、嬉しいな、可し、可し、そりゃこうじゃて。お前、飛込んだ拍子に突然目でも廻したか、いや、水も少しばかり、丼に一杯吐いたか吐かぬじゃ。大したことはねえての、気さえ確になれば整然と治る。それからの、ここは大事ない処じゃ、婆も猫も犬も居らぬ、私一人じゃから安心をさっしゃい。またどんな仔細がないとも限らぬが、少しも気遣はない、無理に助けられたと思うと気が揉めるわ、自然天然と活返ったとこうするだ。可いか、活返ったら夢と思って、目が覚めたら、」といいかけて、品のある涼しい目をまた凝視め、 「これさ、もう夜があけたから夢ではない。」        十一  しばらくして菊枝が細い声、 「もし」 「や、産声を挙げたわ、さあ、安産、安産。」と嬉しそうに乗出して膝を叩く。しばらくして、 「ここはどこでございますえ。」とほろりと泣く。  七兵衛は笑傾け、 「旨いな、涙が出ればこっちのものだ、姉や、ちっとは落着いたか、気が静まったか。」 「ここはどっちでしょう。」 「むむ、ここはな、むむ、」と独でほくほく。 「散々気を揉んでお前、ようようこっちのものだと思うと、何を言ってもただもうわなわな震えるばっかりで。弱らせ抜いたぜ。そっちから尋ねるようになれば占めたものだ。ここは佃町よ、八幡様の前を素直に蓬莱橋を渡って、広ッ場を越した処だ、可いか、私は早船の船頭で七兵衛と謂うのだ。」 「あの蓬莱橋を渡って、おや、そう、」と考える。 「そうよ、知ってるか、姉やは近所かい。」 「はい。……いいえ、」といってフト口をつぐんだ。船頭は胸で合点して、 「まあ、可いや、お前の許は構わねえ、お前の方にさえ分れば可いわ、佃町を知っているかい。」  ややあって、 「あの、いつか通った時、私くらいな年紀の、綺麗な姉さんが歩行いていなすった、あすこなんでしょう、そうでございますか。」 「待たッせよ、お前くらいな年紀で、と、こうと十六七だな。」 「はあ、」 「十六七の阿魔はいくらも居るが、綺麗な姉さんはあんまりねえぜ。」 「いいえ、いますよ、丸顔のね、髪の沢山ある、そして中形の浴衣を着て、赤い襦袢を着ていました、きっとですよ。」 「待ちねえよ、赤い襦袢と、それじゃあ、お勘が家に居る年明だろう、ありゃお前もう三十くらいだ。」 「いいえ、若いんです。」  七兵衛天窓を掻いて、 「困らせるの、年月も分らず、日も分らず、さっぱり見当が着かねえが、」と頗る弱ったらしかったが、はたと膝を打って、 「ああああ居た居た、居たが何、ありゃ売物よ。」と言ったが、菊枝には分らなかった。けれども記憶を確めて安心をしたものと見え、 「そう、」と謂った声がうるんで、少し枕を動かすと、顔を仰向けにして、目を塞いだがまた涙ぐんだ。我に返れば、さまざまのこと、さまざまのことはただうら悲しきのみ、疑も恐もなくって泣くのであった。  髪も揺めき蒲団も震うばかりであるから、仔細は知らず、七兵衛はさこそとばかり、 「どうした、え、姉やどうした。」  問慰めるとようよう此方を向いて、 「親方。」 「おお、」 「起きましょうか。」 「何、起きる。」 「起きられますよ。」 「占めたな! お前じっとしてる方が可いけれど、ちっとも構わねえけれど、起られるか、遣ってみろ一番、そうすりゃしゃんしゃんだ。気さえ確になりゃ、何お前案じるほどの容体じゃあねえんだぜ。」と、七兵衛は孫をつかまえて歩行は上手の格で力をつける。  蒲団の外へは顔ばかり出していた、裾を少し動かしたが、白い指をちらりと夜具の襟へかけると、顔をかくして、 「私、………」      浅緑        十二 「大事ねえ大事ねえ、水浸しになっていた衣服はお前あの通だ、聞かっせえ。」  時に絶えず音するは静な台所の点滴である。 「あんなものを巻着けておいた日にゃあ、骨まで冷抜いてしまうからよ、私が褞袍を枕許に置いてある、誰も居ねえから起きるならそこで引被けねえ。」  といったが克明な色面に顕れ、 「おお、そして何よ、憂慮をさっしゃるな、どうもしねえ、何ともねえ、俺あ頸子にも手を触りやしねえ、胸を見な、不動様のお守札が乗っけてあら、そらの、ほうら、」  菊枝は嬉しそうに血の気のない顔に淋しい笑を含んだ。 「むむ、」と頷いたがうしろ向になって、七兵衛は口を尖がらかして、鍋の底を下から見る。  屏風の上へ、肩のあたりが露れると、潮たれ髪はなお乾かず、動くに連れて柔かにがっくりと傾くのを、軽く振って、根を圧えて、 「これを着ましょうかねえ。」 「洗濯をしたばかりだ、船虫は居ねえからよ。」  緋鹿子の上へ着たのを見て、 「待っせえ、あいにく襷がねえ、私がこの一張羅の三尺じゃあ間に合うめえ! と、可かろう、合したものの上へ〆めるんだ、濡れていても構うめえ、どッこいしょ。」  七兵衛は螇蚸のような足つきで不行儀に突立つと屏風の前を一跨、直に台所へ出ると、荒縄には秋の草のみだれ咲、小雨が降るかと霧かかって、帯の端衣服の裾をしたしたと落つる雫も、萌黄の露、紫の露かと見えて、慄然とする朝寒。  真中に際立って、袖も襟も萎えたように懸っているのは、斧、琴、菊を中形に染めた、朝顔の秋のあわれ花も白地の浴衣である。  昨夜船で助けた際、菊枝は袷の上へこの浴衣を着て、その上に、菊五郎格子の件の帯上を結んでいたので。  謂は何かこれにこそと、七兵衛はその時から怪んで今も真前に目を着けたが、まさかにこれが死神で、菊枝を水に導いたものとは思わなかったであろう。  実際お縫は葛籠の中を探して驚いたのもこれ、眉を顰めたのもこれがためであった。斧と琴と菊模様の浴衣こそ菊枝をして身を殺さしめた怪しの衣、女が歌舞伎の舞台でしばしば姿を見て寐覚にも俤の忘られぬ、あこがるるばかり贔屓の俳優、尾上橘之助が、白菊の辞世を読んだ時まで、寝返りもままならぬ、病の床に肌につけた記念なのである。  江崎のお縫は芳原の新造の女であるが、心懸がよくッて望んで看護婦になったくらいだけれども、橘之助に附添って嬉しくないことも無いのであった。  しかるに重体の死に瀕した一日、橘之助が一輪ざしに菊の花を活けたのを枕頭に引寄せて、かつてやんごとなき某侯爵夫人から領したという、浅緑と名のある名香を、お縫の手で焚いてもらい、天井から釣した氷嚢を取除けて、空気枕に仰向けに寝た、素顔は舞台のそれよりも美しく、蒲団も掻巻も真白な布をもって蔽える中に、目のふちのやや蒼ざめながら、額にかかる髪の艶、あわれうらわかき神のまぼろしが梨園を消えようとする時の風情。        十三  橘之助は垢の着かない綺麗な手を胸に置いて、香の薫を聞いていたが、一縷の煙は二条に細く分れ、尖がささ波のようにひらひらと、靡いて枕に懸った時、白菊の方に枕を返して横になって、弱々しゅう襟を左右に開いたのを、どうなさいます? とお縫が尋ねると、勿体ないが汗臭いから焚き占めましょう、と病苦の中に謂ったという、香の名残を留めたのが、すなわちここに在る記念の浴衣。  懐しくも床さに、お縫は死骸の身に絡った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありながら、記念にと謂って強いて貰い受けて来て葛籠の底深く秘め置いたが、菊枝がかねて橘之助贔屓で、番附に記した名ばかり見ても顔色を変える騒を知ってたので、昨夜、不動様の参詣の帰りがけ、年紀下ながら仲よしの、姉さんお内かい、と寄った折も、何は差置き橘之助の噂、お縫は見たままを手に取るよう。  これこれこう、こういう浴衣と葛籠の底から取出すと、まあ姉さんと進むる膝、灯とともに乗出す膝を、突合した上へ乗せ合って、その時はこういう風、仏におなりの前だから、優しいばかりか、目許口付、品があって気高うてと、お縫が謂えば、ちらちらと、白菊の花、香の煙。  話が嵩じて理に落ちて、身に沁みて涙になると、お縫はさすがに心着いて、鮨を驕りましょうといって戸外へ出たのが、葦の湯の騒ぎをつい見棄てかねて取合って、時をうつしていた間に、過世の深い縁であろう、浅緑の薫のなお失せやらぬ橘之助の浴衣を身につけて、跣足で、亡き人のあとを追った。  菊枝は屏風の中から、ぬれ浴衣を見てうっとりしている。  七兵衛はさりとも知らず、 「どうじゃ〆めるものはこの扱帯が可いかの。」  じっと凝視めたまま、  だんまりなり。 「ぐるぐる巻にすると可い、どうだ。」 「はい取って下さいまし、」とやっといったが、世馴れず、両親には甘やかされたり、大恩人に対し遠慮の無さ。  七兵衛はそれを莞爾やかに、 「そら、こいつあ単衣だ、もう雫の垂るようなことはねえ。」  やがて、つくづくと見て苦笑い、 「ほほう生れかわって娑婆へ出たから、争われねえ、島田の姉さんがむつぎにくるまった形になった、はははは、縫上げをするように腕をこうぐいと遣らかすだ、そう、そうだ、そこで坐った、と、何ともないか。」 「ここが痛うございますよ。」と両手を組違えに二の腕をおさえて、頭が重そうに差俯向く。 「むむ、そうかも知れねえ、昨夜そうやってしっかり胸を抱いて死んでたもの。ちょうど痛むのは手の下になってた処よ。」 「そうでございますか、あの私はこうやって一生懸命に死にましたわ。」 「この女は! 一生懸命に身を投げる奴があるものか、串戯じゃあねえ、そして、どんな心持だった。」 「あの沈みますと、ぼんやりして、すっと浮いたんですわ、その時にこうやって少し足を縮めましたっけ、また沈みました、それからは知りませんよ。」 「やれやれ苦しかったろう。」 「いいえ、泣きとうございました。」      記念ながら        十四  二ツ三ツ話の口が開けると老功の七兵衛ちっとも透さず、 「何しろ娑婆へ帰ってまず目出度、そこで嬰児は名は何と謂う、お花か、お梅か、それとも。」 「ええ、」といいかけて菊枝は急に黙ってしまった。  様子を見て、七兵衛は気を替えて、 「可いや、まあそんなことは。ところで、粥が出来たが一杯どうじゃ、またぐっと力が着くぜ。」 「何にも喰べられやしませんわ。」と膠の無い返事をして、菊枝は何か思出してまた潸然とするのである。 「それも可いよ。はは、何か謂われると気に障って煩いな? 可いや、可いやお前になってみりゃ、盆も正月も一斉じゃ、無理はねえ。  それでは御免蒙って、私は一膳遣附けるぜ。鍋の底はじりじりいう、昨夜から気を揉んで酒の虫は揉殺したが、矢鱈無性に腹が空いた。」と立ったり、居たり、歩行いたり、果は胡坐かいて能代の膳の低いのを、毛脛へ引挟むがごとくにして、紫蘇の実に糖蝦の塩辛、畳み鰯を小皿にならべて菜ッ葉の漬物堆く、白々と立つ粥の湯気の中に、真赤な顔をして、熱いのを、大きな五郎八茶碗でさらさらと掻食って、掻食いつつ菊枝が支えかねたらしく夜具に額をあてながら、時々吐息を深くするのを、茶碗の上から流眄に密と見ぬように見て釣込まれて肩で呼吸。  思出したように急がしく掻込んで、手拭の端でへの字に皺を刻んだ口の端をぐいと拭き、差置いた箸も持直さず、腕を組んで傾いていたが、台所を見れば引窓から、門口を見れば戸の透から、早や九時十時の日ざしである。このあたりこそ気勢もせぬが、広場一ツ越して川端へ出れば、船の行交い、人通り、烟突の煙、木場の景色、遠くは永代、新大橋、隅田川の模様なども、同一時刻の同一頃が、親仁の胸に描かれた。 「姉や、姉や、」と改めて呼びかけて、わずかに身を動かす背に手を置き、 「道理じゃ、善いにしろ、悪いにしろ、死のうとまで思って、一旦水の中で引取ったほどの昨夜の今じゃ、何か話しかけられても、胸へ落着かねえでかえって頭痛でもしちゃあ悪いや、な。だから私あ何にも謂わねえ。  一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、いやいやそうでねえ、川へ落ちたか落されたかそれとも身を投げたか、よく見れば様子で知れらあ、お前は覚悟をしたものだ。  覚悟をするには仔細があろう、幸いことか悲しいことか、そこン処は分らねえが、死のうとまでしたものを、私が騒ぎ立って、江戸中知れ渡って、捕っちゃあならねえものに捕るか、会っちゃあならねえものに会ったりすりゃ、余計な苦患をさせるようなものだ。」七兵衛は口軽に、 「とこう思っての、密と負って来て届かねえ介抱をしてみたが、いや半間な手が届いたのもお前の運よ、こりゃ天道様のお情というもんじゃ、無駄にしては相済まぬ。必ず軽忽なことをすまいぞ、むむ姉や、見りゃ両親も居なさろうと思われら、まあよく考えてみさっせえ。  そこで胸を静めてじっと腹を落着けて考えるに、私が傍に居ては気を取られてよくあるめえ、直ぐにこれから仕事に出て、蝸牛の殻をあけるだ。可しか、桟敷は一日貸切だぜ。」        十五 「起きようと寝ようと勝手次第、お飯を食べるなら、冷飯があるから茶漬にしてやらっせえ、水を一手桶汲んであら、可いか、そしてまあ緩々と思案をするだ。  思案をするじゃが、短気な方へ向くめえよ、後生だから一番方角を暗剣殺に取違えねえようにの、何とか分別をつけさっせえ。  幸福と親御の処へなりまた伯父御叔母御の処へなり、帰るような気になったら、私に辞儀も挨拶もいらねえからさっさと帰りねえ、お前が知ってるという蓬薬橋は、広場を抜けると大きな松の木と柳の木が川ぶちにある、その間から斜向に向うに見えらあ、可いかい。  また居ようと思うなら振方を考えるまで二日でも三日でも居さっせえ、私ン処はちっとも案ずることはねえんだから。  その内に思案して、明して相談をして可いと思ったら、謂って見さっせえ、この皺面あ突出して成ることなら素ッ首は要らねえよ。  私あしみじみ可愛くってならねえわ。  それからの、ここに居る分にゃあうっかり外へ出めえよ、実は、」  と声を密めながら、 「ここいらは廓外で、お物見下のような処だから、いや遣手だわ、新造だわ、その妹だわ、破落戸の兄貴だわ、口入宿だわ、慶庵だわ、中にゃあお前勾引をしかねねえような奴等が出入をすることがあるからの、飛んでもねえ口に乗せられたり、猿轡を嵌められたりすると大変だ。  それだからこうやって、夜夜中開放しの門も閉めておく、分ったかい。家へ帰るならさっさと帰らっせえよ、俺にかけかまいはちっともねえ。じゃあ、俺は出懸けるぜ、手足を伸して、思うさま考えな。」  と返事は強いないので、七兵衛はずいと立って、七輪の前へ来ると、蹲んで、力なげに一服吸って三服目をはたいた、駄六張の真鍮の煙管の雁首をかえして、突いて火を寄せて、二ツ提の煙草入にコツンと指し、手拭と一所にぐいと三尺に挟んで立上り、つかつかと出て、まだ雫の止まぬ、びしょ濡の衣を振返って、憂慮げに土間に下りて、草履を突かけたが、立淀んで、やがて、その手拭を取って頬被。七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と、濡れた衣の色を乱して記念の浴衣は揺めいた。親仁はうしろへ伸上って、そのまま出ようとする海苔粗朶の垣根の許に、一本二本咲きおくれた嫁菜の花、葦も枯れたにこはあわれと、じっと見る時、菊枝は声を上げてわっと泣いた。 「妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来所経諸劫数無量百千万億載阿僧祇。」  川下の方から寂として聞えて来る、あたりの人の気勢もなく、家々の灯も漏れず、流は一面、岸の柳の枝を洗ってざぶりざぶりと音する中へ、菊枝は両親に許されて、髪も結い、衣服もわざと同一扮で、お縫が附添い、身を投げたのはここからという蓬莱橋から、記念の浴衣を供養した。七日経ってちょうど橘之助が命日のことであった。 「菊ちゃん、」 「姉さん、」  二人は顔を見合せたが、涙ながらに手を合せて、捧げ持って、 「南無阿弥陀仏、」 「南無阿弥陀仏。」  折から洲崎のどの楼ぞ、二階よりか三階よりか、海へ颯と打込む太鼓。  浴衣は静に流れたのである。  菊枝は活々とした女になったが、以前から身に添えていた、菊五郎格子の帯揚に入れた写真が一枚、それに朋輩の女から、橘之助の病気見舞を紅筆で書いて寄越したふみとは、その名の菊の枝に結んで、今年は二十。 明治三十三(一九〇〇)年十一月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048390", "作品名": "葛飾砂子", "作品名読み": "かつしかすなご", "ソート用読み": "かつしかすなこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-06-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48390.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成3", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年11月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "染川隆俊", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48390_ruby_34811.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48390_35164.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 橘南谿が東遊記に、陸前国苅田郡高福寺なる甲胄堂の婦人像を記せるあり。 奥州白石の城下より一里半南に、才川と云ふ駅あり。此の才川の町末に、高福寺といふ寺あり。奥州筋近来の凶作に此寺も大破に及び、住持となりても食物乏しければ僧も不住、明寺となり、本尊だに何方へ取納しにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟のすみかといふも余あり。此の寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲胄堂といふ。堂の書附には故将堂とあり、大さ纔に二間四方許の小堂なり、本尊だに右の如くなれば、此小堂の破損はいふ迄もなし、やう〳〵に縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯婦人の甲胄して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。これ、佐藤次信忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、其の母の泣悲しむがいとしさに、我が夫の姿をまなび、老ひたる人を慰めたる、優しき心をあはれがりて時の人木像に彫みしものなりといふ。此の物語を聞き、此像を拝するにそゞろに落涙せり。(略)かく荒れ果てたる小堂の雨風をだに防ぎかねて、彩色も云々。  甲胄堂の婦人像のあはれに絵の具のあせたるが、遥けき大空の雲に映りて、虹より鮮明に、優しく読むものゝ目に映りて、其の人恰も活けるが如し。われら此の烈しき大都会の色彩を視むるもの、奥州辺の物語を読み、其の地の婦人を想像するに、大方は安達ヶ原の婆々を想ひ、もつぺ穿きたる姉をおもひ、紺の褌の媽々をおもふ。同じ白石の在所うまれなる、宮城野と云ひ信夫と云ふを、芝居にて見たるさへ何とやらむ初鰹の頃は嬉しからず。たゞ南谿が記したる姉妹の此の木像のみ、外ヶ浜の砂漠の中にも緑水のあたり花菖蒲、色のしたゝるを覚ゆる事、巴、山吹の其にも優れり。幼き頃より今も亦然り。  元禄の頃の陸奥千鳥には――木川村入口に鐙摺の岩あり、一騎立の細道なり、少し行きて右の方に寺あり、小高き所、堂一宇、次信、忠信の両妻、軍立の姿にて相双び立つ。 軍めく二人の嫁や花あやめ。  また、安永中の続奥の細道には、――故将堂女体、甲胄を帯したる姿、いと珍らし、古き像にて、彩色の剥げて、下地なる胡粉の白く見えたるは。 卯の花や威し毛ゆらり女武者。 としるせりとぞ。此の両様とも悉しく其の姿を記さゞれども、一読の際、われらが目には、東遊記に写したると同じ状に見えて最と床し。  然るに、観聞志と云へる書には、斉川以西有羊腸、維石厳々、嚼足、毀蹄、一高坂也、是以馬憂蚢隤、人痛嶮艱、王勃所謂、関山難踰者、方是乎可信依、土人称破鐙坂、破鐙坂東有一堂、中置二女影、身着戎衣服、頭戴烏帽子、右方執弓矢、左方撫刀剣とありとか。  此の女像にして、もし、弓矢を取り、刀剣を撫すとせむか、いや、腰を踏張り、片膝押はだけて身搆へて居るやうにて姿甚だとゝのはず、此の方が真ならば、床しさは半ば失せ去る。読む人々も、恁くては筋骨の逞しく、膝節手ふしもふしくれ立ちたる、がんまの娘を想像せずや。知らず、此の方は或は画像などにて、南谿が目のあたり見て写し置ける木像とは違へるならむか。其の長刀持ちたるが姿なるなり。東遊記なるは相違あらじ。またあらざらむ事を、われらは願ふ。観聞志もし過ちたらむには不都合なり、王勃が謂ふ所などは何うでもよし、心すべき事ならずや。  近頃心して人に問ふ、甲胄堂の花あやめ、あはれに、今も咲けりとぞ。  唐土の昔、咸寧の時、韓伯が子某と、王蘊が子某と、劉耽が子某と、いづれ華冑の公子等、一日相携へて行きて、土地の神、蒋山の廟に遊ぶ、廟中数婦人の像あり、白皙にして甚だ端正。  三人此の処に、割籠を開きて、且つ飲み且つ大に食ふ。其の人も無げなる事、恰も妓を傍にしたるが如し。剰へ酔に乗じて、三人おの〳〵、其の中三婦人の像を指し、勝手に撰取りに、おのれに配して、胸を撫で、腕を圧し、耳を引く。  時に、其の夜の事なりけり。三人同じく夢む、夢に蒋侯、其の伝教を遣はして使者の趣を白さす。曰く、不束なる女ども、猥に卿等の栄顧を被る、真に不思議なる御縁の段、祝着に存ずるもの也。就ては、某の日、恰も黄道吉辰なれば、揃つて方々を婿君にお迎へ申すと云ふ。汗冷たくして独りづゝ夢さむ。明くるを待ちて、相見て口を合はするに、三人符を同じうして聊も異なる事なし。於是蒼くなりて大に懼れ、斉しく牲を備へて、廟に詣つて、罪を謝し、哀を乞ふ。  其の夜又倶に夢む。此の度や蒋侯神、白銀の甲胄し、雪の如き白馬に跨り、白羽の矢を負ひて親く自から枕に降る。白き鞭を以て示して曰く、変更の議罷成らぬ、御身等、我が処女を何と思ふ、海老茶ではないのだと。  木像、神あるなり。神なけれども霊あつて来り憑る。山深く、里幽に、堂宇廃頽して、愈活けるが如く然る也。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店    2004(平成16)年4月23日第1刷発行 底本の親本:「桜草」文芸書院    1913(大正2)年3月18日 初出:「新小説 第十六巻第六号」春陽堂    1911(明治44)年6月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「甲冑堂《かつちうだう》」となっています。 ※初出時の署名は「泉鏡花」です。 ※初出時は「一景話題」の総題で、「夫人堂」「あんころ餅」「夏《げ》の水」とともに発表されました。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057485", "作品名": "甲冑堂", "作品名読み": "かっちゅうどう", "ソート用読み": "かつちゆうとう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第十六巻第六号」春陽堂、1911(明治44)年6月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-11-04T00:00:00", "最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57485.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "底本の親本名1": "桜草", "底本の親本出版社名1": "文芸書院", "底本の親本初版発行年1": "1913(大正2)年3月18日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57485_ruby_60059.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57485_60105.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
――心中見た見た、並木の下で      しかも皓歯と前髪で―― 一  北国金沢は、元禄に北枝、牧童などがあって、俳諧に縁が浅くない。――つい近頃覧たのが、文政三年の春。……春とは云っても、あのあたりは冬籠の雪の中で、可心――という俳人が手づくろいに古屏風の張替をしようとして――(北枝編――卯辰集)――が、屏風の下張りに残っていたのを発見して、……およそ百歳の古をなつかしむままに、と序して、丁寧に書きとった写本がある。  卯辰は、いまも山よりの町の名で、北枝が住んでいた処らしい。  可心の写本によると、奥の細道に、そんな記事は見えないが、 翁にぞ蚊帳つり草を習ひける   北枝  野田山のふもとを翁にともないて、と前がきしたのが見える。北方の逸士は、芭蕉を案内して、その金沢の郊外を歩行いたのである。また……  丸岡にて翁にわかれ侍りし時扇に書いて給はる。 もの書いて扇子へぎ分くる別哉   芭蕉  本人が「給わる」とその集に記したのだから間違いはあるまい。奥の細道では、 もの書て扇子引さくなごり哉 である。引裂くなどという景気は旅費の懐都合もあり、元来、翁の本領ではないらしい……それから、 石山の石より白し秋の霜   芭蕉  那谷寺におけるこの句が、 石山の石より白し秋の風  となっている。そうして、同じ那谷に同行した山中温泉の少年粂之助、新に弟子になって、桃妖と称したのに対しての吟らしい。 湯のわかれ今宵は肌の寒からむ   芭蕉  おなじく桃妖に与えたものである。芭蕉さん……性的に少し怪しい。…… 山中や菊は手折らじ湯の匂ひ  この句は、芭蕉がしたためたのを見た、と北枝が記しているから、 山中や菊は手折らぬ湯の匂ひ  世に知られたのは、後に推敲訂正したものであろう、あるいは猿簑を編む頃か。  その猿簑に、 凧きれて白嶺ヶ嶽を行方かな   桃妖  温泉の美少年の句は――北枝の集だと、 糸切れて凧は白嶺を行方かな  になっている。そのいずれか是なるを知らない。が、白山を白嶺と云う……白嶺ヶ嶽と云わないのは事実である。  これは、ただ、その地方に、由来、俳諧の道にたずさわったものの少くない事を言いたいのに過ぎない。……ところが、思いがけず、前記の可心が、この編に顔を出す事になった。  私は――小山夏吉さん。(以下、「さん」を失礼する。俳人ではない。人となりは後に言おうと思う。)と炬燵に一酌して相対した。 「――昨年、能登の外浦を、奥へ入ろうと歩行きました時、まだほんの入口ですが、羽咋郡の大笹の宿で、――可心という金沢の俳人の(能登路の記)というのを偶然読みました。  寝床の枕頭、袋戸棚にあったのです。色紙短冊などもあるからちと見るように、と宿の亭主が云ったものですから――」  小山夏吉が話したのである。 「……宿へ着いたのは、まだ日のたかい中だったのです。下座敷の十畳、次に六畳の離れづくりで、広い縁は、滑るくらい拭込んでありました。庭前には、枝ぶりのいい、大な松の樹が一本、で、ちっとも、もの欲しそうに拵えた処がありません。飛々に石を置いた向うは、四ツ目に組んだ竹垣で、垣に青薄が生添って、葉の間から蚕豆の花が客を珍らしそうに覗く。……ずッと一面の耕地水田で、その遠くにも、近くにも、取りまわした山々の末かけて、海と思うあたりまで、一ずつ蛙が鳴きますばかり、時々この二階から吹くように、峰をおろす風が、庭前の松の梢に、颯と鳴って渡るのです。  ――今でも覚えていますが、日の暮にも夜分にも、ほとんど人声が聞こえません。足音一つ響かないくらい、それは静なものでした。それで、これが温泉宿……いや鉱泉宿です。一時世の中がラジウムばやりだった頃、憑ものがしたように賑ったのだそうですが、汽車に遠い山入りの辺鄙で、特に和倉の有名なのがある国です。近ごろでは、まあ精々在方の人たちの遊び場所、しかも田植時にかかって、がらんとしていると聞いて、かえって望む処と、わざと外浜の海づたいから、二里ばかりも山へ入込んで泊ったのです。別に目立った景色もありません、一筋道の里で、川が、米町川が、村の中を、すぐ宿の前を流れますが、谿河ながら玉を切るの、水晶を刻むのと、黒い石、青い巌を削り添えて形容するような流ではありません。長さ五間ばかり、こう透すと、渡る裏へ橋げたまで草の生乱れた土橋から、宿の玄関へ立ったのでしたっけ。――(さあ、どうぞ。)が、小手さきの早業で、例のスリッパを、ちょいと突直すんじゃない、うちの女房が、襷をはずしながら、土間にある下駄を穿いて、こちらへ――と前庭を一まわり、地境に茱萸の樹の赤くぽつぽつ色づいた下を。それでも小砂利を敷いた壺の広い中に、縞笹がきれいらしく、すいすいと藺が伸びて、その真青な蔭に、昼見る蛍の朱の映るのは紅羅の花の蕾です。本屋続きの濡縁に添って、小さな杜若の咲いた姿が、白く光る雲の下に、明く、しっとりと露を切る。……木戸の釘は錆びついて、抜くと、蝶番が、がったり外れる。一つ撓直して、扉を開けるのですから、出会がしらに、水鶏でもお辞儀をしそうな、この奥庭に、松風で。……ですから、私は嬉しくなって、どこを見物しないでも、翌日も一日、ゆっくり逗留の事と思ったのです。  それに、とにかく、大笹鉱泉と看板を上げただけに、湯は透通ります。西の縁づたいに、竹に石燈籠をあしらった、本屋の土蔵の裏を、ずッと段を下りて行くのですが、人懐い可愛い雀が、ばらばら飛んだり踊ったり、横に人の顔を見たり、その影が、湯の中まで、竹の葉と一所に映るのでした。  ――夜、寝床に入りますまで、二階屋の上下、客は私一人、あまり閑静過ぎて寝られませんから、枕頭へ手を伸ばして……亭主の云った、袋戸棚を。で、さぞ埃だろうと思うのが、きちんとしている。上包して一束、色紙、短冊。……俳句、歌よりも、一体、何と言いますか、冠づけ、沓づけ、狂歌のようなのが多い、その中に――(能登路の記)――があったのです。大分古びがついていた。仮綴の表紙を開けると、題に並べて、(大笹村、川裳明神縁起。)としてあります。  川裳明神……  わたしはハッと思いました。」 二 「――川裳明神縁起。――この紀行中では、人が呼んで、御坊々々と言いますし、可心は坊さんかと、読みながら思いましたが、そうではない。いかにも、気がつくとその頃の俳諧の修行者は、年紀にかかわらず頭を丸めていたのです――道理こそ、可心が、大木の松の幽寂に二本、すっくり立った処で、岐路の左右に迷って、人少な一軒屋で、孫を抱いた六十余の婆さんに途を聞くと、いきなり奥へ入って、一銭もって出た……(いやとよ、老女)と、最明寺で書いていますが、報謝に預るのではない、ただ路を聞くのだ、と云うと、魂消た気の毒な顔をして、くどくど詫をいいながら、そのまま、跣足で、雨の中を、びたびた、二町ばかりも道案内をしてくれた。この老女の志、(現世に利益、未来に冥福あれ、)と手にした数珠を揉んで、別れて帰るその後影を拝んだという……宗匠と、行脚の坊さんと、容子がそっくりだった事も分りますし、跣足で路しるべをしたお婆さんの志、その後姿も、尊いほどに偲ばれます。――折からのざんざ降で、一人旅の山道に、雨宿りをする蔭もない。……ただ松の下で、行李を解いて、雨合羽を引絡ううちも、袖を絞ったというのですが。――これは、可心法師が、末森の古戦場――今浜から、所口(七尾)を目的に、高畑をさして行く途中です。  何でもその頃は、芭蕉の流れを汲むものが、奥の細道を辿るのは、エルサレムの宮殿、近代の学者たちの洋行で、奥州めぐりを済まさないと、一人前の宗匠とは言われない。加賀近国では、よし、それまでになくても、内外能登の浦づたいをしないと、幅が利かなかったらしいのです。今からだと夢のようです。  はじめ、河北潟を渡って――可心は、あの湖を舟で渡った。――高松で一夜宿、国境になりますな。それから末松の方へ、能登浦、第一歩の草鞋を踏むと、すぐその浜に、北海へ灌ぐ川尻が三筋あって、渡船がない。橋はもとよりで、土地のものは瀬に馴れて、勘で渉るから埒が明く。勿論、深くはない、が底に夥多しく藻が茂って、これに足を搦まれて時々旅人が溺れるので。――可心は馬を雇って、びくびくもので渉ったが、その第三の川は、最も海に近いだけに、ゆるい流も、押し寄せる荒海の波と相争って、煽られ、揉まるる水草は、たちまち、馬腹に怪しき雲の湧くありさま。幾万条ともなき、青い炎、黒い蛇が、旧暦五月、白い日の、川波に倒に映って、鞍も人も呑もうとする。笠被た馬士が轡頭をしっかと取って、(やあ、黒よ、観音様念じるだ。しっかりよ。)と云うのを聞いて、雲を漕ぐ櫂かと危む竹杖を宙に取って、真俯伏になって、思わずお題目をとなえたと書いています。  旅行は、どうして、楽なものではなかったのです。可心にとって、能登路のこの第一歩の危懼さが、……――実は讖をなす事になるんです。」  と言って、小山夏吉は一息した。 「やがて道端の茶店へ休むと――薄曇りの雲を浴びて背戸の映山紅が真紅だった。つい一句を認めて、もの優しい茶屋の女房に差出すと、渋茶をくんで飲んでいる馬士が、俺がにも是非一枚。で、……その短冊をやたらに幾度も頂いた。(おかし。)と云って、宗匠ちょっと得意ですよ。――道中がちと前後しました。――可心法師は、それから徒歩で、二本松で雨に悩み、途に迷い、情あるお婆さんに導かれて後、とぼとぼと高畑まで辿り着く。その夜、旅のお侍と俳談をする処があります。翌日は快晴。しかし昨日、道に迷った難儀に懲りて、宿から、すぐ馬を雇って出ると、曳出した時は、五十四五の親仁が手綱を取って、十二三の小僧が鞍傍についていた。寂しい道だし、一人でも連は難有いと喜んだのに、宿はずれの並木へ掛ると、奴が綱に代って、親仁は啣煙管で、うしろ手を組んで、てくりてくりと澄まして帰る。……前後に人脚はまるでなし。……(これ、兄や、こなた馬は曳けるかの、大丈夫じゃろうかの。私は初旅じゃ。その上馬に乗るも今度がはじめてじゃ。それにの、耳はよう聞えずの。……頼んだぞ。)いかにも心細そうです。読んでいて段々分りましたが、筆談でないと通じないほどでもないが、余程耳が疎いらしい。……あるいはそんな事で、世捨人同様に、――俳諧はそのせめてもの心遣りだったのかも知れません。勿論、独身らしいのです。寸人豆馬と言いますが、豆ほどの小僧と、馬に木茸の坊さん一人。これが秋の暮だと、一里塚で消えちまいます、五月の陽炎を乗って行きます。  お婆さんが道祖神の化身なら、この子供には、こんがら童子の憑移ったように、路も馬も渉取り、正午頃には早く所口へ着きました。可心は穴水の大庄屋、林水とか云う俳友を便って行くので。……ここから七里、海上の渡だそうです。  ここの茶店の女房も、(ものやさしく取りはやして)――このやさしくを女扁に、花、婲。――という字があててある。……ちょっと今昔の感がありましょう。――(女ばかりか草さえ菜さえ能登は優や土までも――俗謡の趣はこれなんめり。)と調子が乗って、はやり唄まで記した処は、御坊、ここで一杯きこしめしたかも知れない。……  亭主が、これも、まめまめしく、方々聞合わせてくれたのだけれども、あいにく便船がなく、別仕立の渡船で、御坊一人十匁ならばと云う、その時の相場に、辟易して、一晩泊る事にきめると、居心のいい大きな旅籠を世話しました。(私の大笹の宿という形があります。)その宿に、一人、越中の氷見の若い男の、商用で逗留中、茶の湯の稽古をしているのに、茶をもてなされたと記してあります。商用で逗留中、若い男が茶の湯の稽古――その頃の人気が思われます。しかし、何だかうら寂しい。  翌日は、巳の時ばかりに、乗合六人、石動山のお札くばりの山伏が交って、二人船頭で、帆を立てました。石崎、和倉、奥の原、舟尾、田鶴浜、白浜を左に、能登島を正面に、このあたりの佳景いわむ方なし。で、海上左右十町には足りまいと思う、大蛇と称える処を過ぎると、今度は可恐しく広い海。……能登島の鼻と、長浦の間、今の三ヶ口の瀬戸でしょう。その大海へ出る頃から、(波やや高く、風加わり、忽ち霧しぶき立つと見れば、船頭たち、驚破白山より下すとて、巻落す帆の、軋む音骨を裂く。唯一人おわしたる、いずくの里の女性やらむ、髪高等に結いなして、姿も、いうにやさしきが、いと様子あしく打悩み、白芥子の一重の散らむず風情。……  むかし義経卿をはじめ、十三人の山伏の、鰐の口の安宅をのがれ、倶利伽羅の竜の背を越えて、四十八瀬に日を数えつつ、直江の津のぬしなき舟、朝の嵐に漾って、佐渡の島にも留まらず、白山の嶽の風の激しさに、能登国珠洲ヶ岬へ吹はなされたまいし時、いま一度陸にうけて、ともかくもなさせ給えとて、北の方、紅の袴に、唐のかがみを取添えて、八大竜王に参らせらると、つたえ聞く、その面影も目のあたり。)……とこの趣が書いてあります。  ――佐渡にも留めず、吹放った、それは外海。この紀事の七尾湾も一手の風に潵を飛ばす、霊山の威を思うとともに、いまも吹きしむ思がして、――大笹の夜の宿に、ゾッと寒くなりました。それだのに掻巻を刎ねて、写本を持ったなり、起直ったんです、私は……」  小山夏吉の眉に、陰が翳した。 「……紀行に、前申した、川裳明神縁起とあるのでしょう。可心の無事はもとよりですが、ここでこの船に別条が起って、白芥子の花が散るのではないか。そのゆうなる姿を、明神に祭ったのではないだろうか、とはっとしました。私の聞き知った、川裳明神は女神ですから。……ところで(船中には、一人坊主を忌むとて、出家一人のみ立交る時は、海神の祟ありと聞けば、彼の美女の心、いかばかりか、尚おその上に傷みなむ。坊主には候わず、出家には侍らじ。と、波風のまぎれに声高に申ししが、……船助かりし後にては、婦人の妍きにつけ、あだ心ありて言いけむように、色めかしくも聞えてあたり恥し。)と云うので、木の葉とばかり浮き沈む中で、聾同然の可心が、何慰めの言も聞き得ないで、かえって人の気を安めようと、一人、魚のように口を開けて、張って(坊主でない、坊主でない。)と喚いた様子が可哀に見えます。  穴水の俳友の住居は、千石の邸の構で、大分懇にもてなされた。かこい網の見物に(われは坊主頭に顱巻して)と、大に気競う処もあって――(鰯、鯖、鰺などの幾千ともなく水底を網に飜るありさま、夕陽に紫の波を飜して、銀の大坩炉に溶くるに異ならず。)――人気がよくて魚も沢山だったんでしょう。磯端で、日くれ方、ちょっと釣をすると、はちめ(甘鯛の子)、阿羅魚、鰈が見る見るうちに、……などは羨しい。  七日ばかり居たのです。  これまでは、内浦で、それからは半島の真中を間道越に横切って、――輪島街道。あの外浦を加賀へ帰ろうという段取になると、路が嶮くって馬が立たない。駕籠は……四本竹に板を渡したほどなのがあるにはある、けれども、田植時で舁き手がない。……大庄屋の家の屈強な若いものが、荷物と案内を兼ねて、そこでおかしいのは、(遣りきれなくなったら負さりたまえ。)と云う俳友の深切です。出発の朝、空模様が悪いのを見て、雨が降ったら途中から必ず引返せ、と心づけています。道は余程難儀らしい……」  小山夏吉は、炬燵蒲団を指で辿りつつ言った。 三  読者よ、小山夏吉は続けて言う。 「何、私の大笹どまりの旅行なぞ、七尾行の汽車で、羽咋で下りて、一の宮の気多神社に参詣を済ませましてから、外浦へ出たまでの事ですが、それだって、線路を半道離れますと、車も、馬も、もう思うようには行きません。あれを、柴垣、犱谷、大島、と伝って、高浜で泊るつもりの処を、鉱泉があると聞いて、大笹へ入ったので。はじめから歩行くつもりではありましたが、景色のいい処ほど、道は難渋です。  ついでに……その高浜から海岸を安部屋へ行く間に、川があります。海へ灌ぐ川尻の処は、私はまだ通らなかったうちですが、大笹の宿の前を流れる米町川の末になります。現に寝床へさらさらと音がします。――その川尻を渡って、安部屋から、百浦、志加浦、赤住……この赤住を……可心の紀行には赤垣と誤っています――福浦、生神、七海。それから富来、増穂、剣地、藤浜、黒島――外浜を段々奥へ、次第に、巌は荒く、波はおどろになって、平は奇に、奇は峭くなるのだそうで。……可心はこの黒島へ出たのです、穴水から。間に梨の木坂の絶所を越えて門前村、総持寺(現今、別院)を通って黒島へ、――それから今言いました外浜を逆に辿って、――一の宮へ詣って、もとの河北潟を金沢へ帰ろうとしたのです。黒島へ一晩、富来へ二晩、大笹に近い、高浜へ一晩。……ただ、その朝の暴風雨と、米町川の流の末が、可心のために、――女神の縁起になりました。  まだ、途中の、梨の木坂を越えるあたりから降出したらしいのですが、さすが引返すでもなかった。家数四五軒、佗しい山間の村で、弁当を使った時、雨を凌いで、簀の子の縁に立掛けた板戸に、(この家の裏で鳴いたり時鳥。……)と旅人の楽書があるのを見て、つい矢立を取って、(このあたり四方八方時鳥、可心。)鳴いているらしく思われます。やがて、総持寺に参詣して、(高塔の上やひと声時鳥、可心。)これはちょっとおまけらしい。雨の中に、門前の茶店へ休んで、土地の酒造の豪家に俳友があるのを訪ねようと、様子を聞けば大病だという。式台まで見舞うのもかえって人騒せ、主人に取次もしようなら、遠来の客、ただ一泊だけもと気あつかいをされようと、遠慮して、道案内を返し、一人、しょぼしょぼ、濡れて出て、黒島道へかかろうとする、横筋の小川の畝をつたって来て、横ざまに出会した男がある。……大く、酒、とかいた番傘をさしていると、紀行の中にあるのです――  一杯、頂きましょう。  もう一杯。……もう一杯。  息つぎを、というほどの、私の話振ではありませんけれど、私に取って、これからは少々勢をかりませんと、でないと、お話しにくい事がありますから。……」 四 「羽織は着たが、大番傘のその男、足駄穿の尻端折で、出会頭に、これはと、頬被を取った顔を見ると、したり、可心が金沢で見知越の、いま尋ねようとして、見合わせた酒造家の、これは兄ごで、見舞に行った帰途だというのです。この男の住居が黒島で、そこへその晩泊りますが、心あての俳友は大病、思いがけないその兄の内へともなわれる……何となく人間の離合集散に、不思議な隠約があるように思われて。――私は宿で、床の上で、しばらく俯向いて、庭の松風を聞いていました。――  可恐しい荒海らしい、削立った巌が、すくすく見えて、沖は白波のただ打累る、日本海は暗いようです。黒島を立って、剣地、増穂――富来の、これも俳友の家に着いた。むかし、渤海の船が息をついた港だ、と言います。また格別の景色で。……近い処に増穂のあるのは、貝の名から出たのだそうで、浜の渚は美しい。……  金石の浜では見られません。桜貝、阿古屋貝、撫子貝、貝寄の風が桃の花片とともに吹くなどという事は、竜宮を疑わないものにも、私ども夢のように思われたもので。  可心も讃嘆しています。半日拾いくらした。これが重荷になった――故郷へ土産に、と書いています。  このあたりに、荒城の狭屋と称えて、底の知れない断崖の巌穴があると云って、義経の事がまた出ました。  免れられない……因縁です。」  小山夏吉は、半ば独言いて嘆息して、苦そうに猪口を乾した手がふるえた。  小山夏吉は寂く微笑んだ。 「ははは、泣くより笑で。……富来に、判官どのが詠じたと言伝えて、(義経が身のさび刀とぎに来て荒城のさやに入るぞおかしき。)北の方が、竜王の供料にと、紅の袴を沈めた、白山がだけの風に、すずの岬へ漂った時、狭屋へ籠っての歌だ、というのです。悪い洒落です。それに、弁慶に鮑を取らせたから、鮑は富来の名物だ、と言います。多分七つ道具から思いついたものだろう、と可心もこれには弱っている。……  富来を立つ時、荷かつぎを雇うと、すたすた、せかせか、女の癖に、途方もなく足が早い。おくれまいとすると、駆出すばかりで。浜には、栄螺を起す男も見え、鰯を拾う童も居る。……汐の松の枝ぶり一つにも杖を留めようとする風流人には、此奴あてつけに意地の悪いほど、とっとっと行く。そうでしょう、駄賃を稼ぐための職業婦人が聾の坊さんの杖つきのの字に附合っていられる筈はない。喘ぎ喘ぎ、遣切れなくなって、二里ばかりで、荷かつぎを断りました。御坊が自分で、荷を背負って、これから註文通り景色を賞め賞め歩行き出したは可いが、荷が重い。……弱った、弱った、とまた弱っている。……  福浦のあたりは、浜ひろがりに、石山の下を綺麗な水が流れて、女まじりに里人が能登縮をさらしていて、その間々の竈からは、塩を焼く煙が靡く。小松原には、昼顔の花が一面に咲いて、渚の浪の千種の貝に飜るのが、彩色した胡蝶の群がる風情。何とも言えない、と書いている下から、背負い重りのする荷は一歩ずつ重量が掛る、草臥はする、汗にはなる。荷かつぎに続いて息せいた時分から、もう咽喉の渇きに堪えない。……どこか茶店をと思うのに、本街道は、元来、上の石山を切って通るので、浜際は、もの好が歩行くのだから、仕事をしている、布さらし、塩焼に、一杯無心する便宜はありません。いくら俳諧師だといって、昼顔の露は吸えず、切ない息を吐いて、ぐったりした坊さんが、辛うじて……赤住まで来ると、村は山際にあるのですが、藁葺の小家が一つ。伏屋貝かと浜道へこぼれていて、朽ちて崩れた外流に――見ると、杜若の真の瑠璃色が、濡色に咲いて二三輪。……  可心は、そこを書くための用意だかどうだか、それまでの記事のうちに、一ヶ処も杜若を記していません。  ――その癖、ほんの片浦を見ました。私の目にも。――」  小山夏吉は、炬燵に居直って言うのである。 「湖、沼、池の多い土地ですから、菖蒲杜若が到る処に咲いています。――今この襖へでも、障子へでも、二条ばかり水の形を曳いて、紫の花をあしらえば、何村、どの里……それで様子がよく分るほどに思うのです。――大笹の宿へ入っても、中庭の縁に添って咲いていたと申しましたっけ。  ――杜若の花を小褄に、欠盥で洗濯をしている、束ね髪で、窶々しいが、(その姿のゆうにやさしく、色の清げに美しさは、古井戸を且つ蔽いし卯の花の雪をも欺きぬ。……類なき艶色、前の日七尾の海の渡船にて見参らせし女性にも勝りて)……と云って……(さるにても、この若き女房、心頑に、情冷く、言わむ方なき邪慳にて、)とのっけに遣ッつけたから、読んでいて吃驚すると、(茶を一つ給われかし、御無心)と頼んだのに、 (茶屋はあちらに。)――  と云って断ったのです。耳が聞えないんですから、その女は前途へ指さしでもしたらしい。……(いや、われらは城下のものにて、今度、浦々を見物いたし、またこれよりは滝谷の妙成寺へ、参詣をいたすもの、見受け申せば、我等と同じ日蓮宗の御様子なり。戸のお札をさえ見掛けての御難題、坊主に茶一つ恵み給うも功徳なるべし、わけて、この通り耳も疎し、独旅の辿々しさもあわれまれよ。)と痩法師が杖に縋って、珠数まで揉みながら、ずッと寄ると――ついと退く。……端折った白脛を、卯の花に、はらはらと消し、真白い手を、衝と掉って押退けるようにしたのです。芋を石にする似非大師、むか腹を立って、洗濯もの黒くなれと、真黒に呪詛って出た!…… (ああ、われこそは心頑に、情なく邪慳無道であったずれ。耳うときものの人十倍、心のひがむを、疾なりとて、神にも人にも許さるべしや。)と追つけ、慚愧後悔をするのです。  能登では、産婦のまだ七十五日を過ぎないものを、(あの姉さんは、まだ小屋の中、)と言う習慣のあるくらい、黒島の赤神は赤神様と申して荒神で、厳く不浄を嫌わるる。社まわりでは産小屋を別に立てて、引籠る。それまではなくても、浦浜一体にその荒神を恐れました。また霊験のあらたかさ。可心は、黒島でうけた御符を、道中安全、と頭陀袋にさしていた。  とんでもない。……女が洗っていたのは、色のついた、うつ木の雪の一枚だったと言うのです。  振返って、一睨み。杜若の色も、青い虫ほどに小さくなった、小高い道に、小川が一条流れる。板の橋が掛った石段の上に、廻縁のきれいなのが高く見えた。――橋の上に、兄弟らしい男の子が、二人遊んでいたので、もしやと心頼みに、茶を一つ、そのよし頼むと、すぐに石段を駈上り縁を廻ったと思えば、十歳ばかりの兄の方が、早く薄べりを縁に敷いた。そこへ杖を飛ばしたそうです。七十ぐらいの柔和なお婆さんが煙草盆を出してくれて、すぐに煎茶を振舞い、しかも、嫁が朝の間拵えたと、小豆餡の草団子を馳走した。その風味のよさ、嫁ごというのも、容色も心も奥ゆかしい、と戴いています。が、この嬉しさにつけても思う、前刻の女の邪慳さは、さすがに、離れた土地ではないから、可心も何にも言わなかった。その事が後に分ります。……この一構は、村の庄屋で。……端近へは姿も見えぬ、奥深い床の間と、あの砂浜の井戸端と、花は別れて咲きました。が、いずれ菖蒲、杜若。……二人は邑知潟の汀に、二本のうつくしい姉妹であったんです。  長話はしたが、何にも知らずに……可心は再び杖を曳いて、それから二三町坂を上ると、成程、ちょっとした茶店もあった。……泊を急いで、……高浜の宿へ着きました。  可心はまだ川を渡らない。川を渡る、そこが……すぐ大笹の宿の前を流れて米町川の海に灌ぐ処なんです。百年前の可心は、いまその紀行で、――鉱泉宿の真夜中の松を渡る風にさえ、さらさらと私の寝床に近づきました。」  小山夏吉は杯を取った。 「高浜では、可心に相宿がありました。……七歳ばかりの男の子を連れた、五十近い親仁で、加賀の金石の港から、その日漁船の便で、海上十六七里――当所まで。これさえ可なり冒険で。これからは浪が荒いから、外浜を徒歩で輪島へ行く。この子の姉を尋ねて、と云う。――日曜に、洋服を着た子の手をひいたのでないと、父親の、子をつれた旅は、いずれ遊山ではありません。何となく、貧乏くさい佗しいものです。私なども覚があります。親仁は問わずがたりに、姉娘は、輪島で遊女のつとめをする事。この高浜は、盆前から夏一杯、入船出船で繁昌し、一浦が富貴する。……その頃には、七尾から山越で。輪島からは海の上を、追立てられ、漕流されて、出稼ぎの売色に出る事。中にも船で漂うのは、あわれに悲く、浅ましい……身の丈夫で売盛るものにはない、弱い女が流される。(姉めも、病身じゃによって、)と蜘蛛の巣だらけの煤け行燈にしょんぼりして、突伏して居睡る小児の蚊を追いながら、打語る。……と御坊は縁起で云うのですが。  ――場所と言い、境遇と言い、それがそのまま、私の、恋の、お優さんの――」  小山夏吉は肩を落して、両手を炬燵にさし入れた。 「電燈が暗くなったようです。……目のせいか知れません。何ですか、小さな紫が、電燈のまわりをちらちらします。  大雨大風になりました。  可心が、翌日、朝がけに志す、滝谷の妙成寺は、そこからわずか二里足らずですが、間道にかかるという。例の荷はあり、宵の間に荷かつぎを頼んで置いたが、この暴風雨では出立出来ようかと、寝られない夢に悩んだ。風は、いよいよ強い、しかし雨は小降になって、朝飯の時、もう人足が来て待っていると、宿で言うので。  杖と並んで、草鞋を穿く時、さきへ宿のものの運んだ桐油包の荷を、早く背負って、髪を引きしめた手拭を取って、颯と瞼を染めて、すくむかと思うほど、内端におじぎをした婦を見ると、継はぎの足袋に草鞋ばかり、白々とした脛ばかり、袖に杜若の影もささず、着流した蓑に卯の花の雪はこぼれないが、見紛うものですか。引束ねた黒髪には、雨のまま水も垂りそうな……昨日の邪慳な女です。  御坊は、たちまち、むっとして――突立って、すたすた出ました。  ここが情ない。聾の僻みで、昨日悩まされた、はじめの足疾な女に対するむか腹立も、かれこれ一斉に打撞って、何を……天気は悪し、名所の見どころもないのだから、とっとっ、すたすた、つんつん聾が先へ立って。合羽を吹きなぐりに、大跨に蹈出した。  ――ああ、坊さんの仏頂面が、こっちを向いて歩行いて来ます。」  小山夏吉は串戯らしいが、深く、眉を顰めたのである。 「従って、対手を不機嫌にした、自分を知って、偶然にその人に雇われて賃銭を取る辛さは、蓑もあら蓑の、毛が針となって肉を刺す。……撫肩に重荷に背負って加賀笠を片手に、うなだれて行く細り白い頸脚も、歴然目に見えて、可傷々々しい。  声を掛けて、呼掛けて、しかも聾に、大な声で、婦の口から言訳の出来る事らしくは思われない。……吹降ですから、御坊の頭陀袋に、今朝は、赤神の形像の顕れていなかった事は、無論です。  家並を二町ほど離れて来ると、前に十一二間幅の川が、一天地押包んだ巌山の懐から海へ灌いでいる。…… (翌日、私が川裳明神へ詣ろうとして、大笹の宿の土橋を渡ろうと、渡りかけて、足がすくみました。そこは、おなじ米町川の上流なんですから。――)  その海へ落口が、どっと濁って、流が留まった。一方、海からは荒浪がどんどんと打ッつける。ちょうどその相激する処に、砂山の白いのが築洲のようになって、向う岸へ架ったのです。白砂だから濡れても白い。……鵲の橋とも、白瑪瑙の欄干とも、風の凄じく、真水と潮の戦う中に、夢見たような、――これは可恐い誘惑でした。  暴風雨のために、一夜に出来た砂堤なんです。お断りするまでもありませんが、打って寄せる浪の力で砂を築き上げる、川も増水の勢で、砂を流し流し、浪に堰かれて、相逆ってそこに砂を装上げる。能登には地勢上、これで出来た、大沼小沼が、海岸にはいくらもあります。――河北潟も同一でしょう。がそれは千年! 五百年、五十年、日月の築いた一種の橋立です。  いきなり渡って堪るものですか。  聾ひがみの向腹立が、何おのれで、渡をききも、尋ねもせず、足疾にずかずかと踏掛けて、二三間ひょこひょこ発奮んで伝わったと思うと、左の足が、ずぶずぶと砂に潜った。あッと抜くと、右の方がざくりと潜る。わあと掙きに掙く、檜木笠を、高浪が横なぐりに撲りつけて、ヒイと引く息に潮を浴びせた。  杖は徒に空に震えて、細い塔婆が倒れそうです。白い手がその杖にかかると、川の方へぐいと曳き、痩法師の手首を取った救の情に、足は抜けた。が、御坊はもう腰を切って、踏立てない。……魔の沼へ落込むのに怯えたから、尻を餅について、草鞋をばちゃばちゃと、蠅の脚で刎ねる所へ、浪が、浪が、どぶん―― 「お助け。――」  波がどぶん。  目も口も鼻も一時にまた汐を嘗めた。 「お助け――」  濤がどぶーん。 「お助け――」  耳は聾だ。 「助けてくれ――」  川の方へ、引こう引こうとしていた、そのうつくしい女の、優い眉が屹としまると、蓑を入れちがいに砂堤に乗って、海の方から御坊の背中を力一杯どんと圧した。ずるずるずると、可心は川の方へ摺落ちて、丘の中途で留まった。この分なら、川へ落ちたって水を飲むまでで生命には別条はないのに。ああ、入替った、うつくしい人の雪なす足は、たちまち砂へ深く埋ったんです。……  吻と一息つく間もない、吹煽らるる北海の荒浪が、どーん、どーんと、ただ一処のごとく打上げる。……歌麿の絵の蜑でも、かくのごとくんば溺れます。二打ち三打ち、頽るる潮の黒髪を洗うたびに、顔の色が、しだいに蒼白にあせて、いまかえって雲を破った朝日の光に、濡蓑は、颯と朱鷺色に薄く燃えながら――昨日坊さんを払ったように、目口に灌ぐ浪を払い払いする手が、乱れた乳のあたりに萎々となると、ひとつ寝の枕に、つんと拗ねたように、砂の衾に肩をかえて、包みたそうに蓑の片袖を横顔に衝と引いた姿態で、羽衣の翼は折れたんです。  可心は、川の方の砂堤の腹にへばりついて、美しい人の棄てた小笠を頭陀袋の胸に敷き、おのが檜木笠を頸窪にへし潰して、手足を張り縋ったまま、ただあれあれ、あっと云う間だった、と言うのです。  ――三年経って、顔色は憔悴し、形容は脱落した、今度はまったくの墨染の聾坊主が、金沢の町人たちに送られながら、新しい筵の縦に長い、箱包を背負って、高浜へ入って来ました。……川口に船を揃えて出迎えた人数の中には、穴水の大庄屋、林水。黒島の正右衛門。……病気が治って、その弟の正之助。その他、俳友知縁が挙ったのです。可心法師の大願によって、当時、北国の名工が丹精をぬきんでた、それが明神の神像でした。美しい人の面影です。――  村へ、はじめて女神像を据えたのは、あの草団子のまわり縁で。……その家の吉之助というのの女房、すなわち女神の妹は、勿論、姉が遭難の時、真さきに跣足で駈けつけたそうですが、 (あれ、あれ、お祝の口紅を。身がきれいになって。)  と、云って泣いたそうです。  姉が日雇に雇われるとは知らなかった。……中たがいをしたのでも何でもない。選んだ夫の貧しい境遇に、安処して、妹の嫁入さきから所帯の補助は肯じなかった。あの時、――橋で中よく遊んでいた男子たち、かえって、その弟の方が、姉さんの子だったそうです。  この妹が、凜としていた。土地の便宜上、米町川の上流、大笹に地を選んで、とにかく、在家を土蔵ぐるみ、白壁づくりに、仮屋を合せて、女神像をそこへ祭って、可心は一生堂守で身を終る覚悟であった処。…… (お心はお察し申しますが、一つ棟にお住いの事は、姉がどう思うか、分りかねます。御僧をお好き申して助けましたか。可厭で助けましたか。私には分りませんから。)  妹がきっぱり云った。  可心は、ワッと声を上げて泣いたそうです。  そこで、可心一代は、ずッと川下へ庵を結んで、そこから、朝夕、堂に通って、かしずいて果てた、と言います。  この庵のあとはありません。  時に不思議な縁で、その妹の子が、十七の年、川尻で――同じ場所です――釣をしていて、不意に波に浚われました。泳は出来たが、川水の落口で、激浪に揉まれて、まさに溺れようとした時、大な魚に抱かれたと思って、浅瀬へ刎出されて助かった。その時、艶麗、竜女のごとき、おばさんの姿を幻に視たために、大笹の可心寺へ駈込んで出家した。これが二代の堂守です。ところが、さいわい、なお子があったのに、世を譲って、あの妹も、おなじ寺へ籠って、やがて世を捨てました。  川裳明神の像は、浪を開いた大魚に乗った立像だそうです。  寺は日蓮宗です。ですが、女神の供物は精進ではない。その折の蓑にちなんだのが、ばらみの、横みの、鬢みの、髢の類、活毛さえまじって、女が備える、黒髪が取りつつんで凄いようです。船、錨、――纜がそのまま竜の形になったのなど、絵馬が掛かっていて、中にも多いのは、むかしの燈台、大ハイカラな燈明台のも交っています。  ――これは、翌日、大笹の宿で、主人を呼んで、それから聞いた事をある処は補いましたし、……後とはいわず、私が見た事も交りました。」…… 五 「……この女神の信仰は、いつ頃か、北国に大分流布して、……越前の方はどうか知りませんが、加賀越中には、処々法華宗の寺に祭ってあります。いずれも端麗な女体です。  多くは、川裳を、すぐに獺にして、河の神だとも思っていて、――実は、私が、むしろその方だったのです。――恐縮しなければなりません。  魔女だと言う。――実は私の魂のあり所だと思う、……加賀、金石街道の並木にあります叢祠の像なぞは、この女神が、真夏の月夜に、近いあたりの瓜畠――甜瓜のです――露の畠へ、十七ばかりの綺麗な娘で涼みに出なすった。それを、村のあぶれものの悪少狡児六人というのがやにわに瓜番の小屋へ担ぎあげて無礼をした、――三年と経たず六人とも、ばたばたと死んだために、懺悔滅罪抜苦功徳のためとして、小さな石地蔵が六体、……ちょうど、義経の――北国落の時、足弱の卿の君が後れたのを、のびあがりのびあがりここで待ったという――(人待石)の土手下に……」  小山夏吉の顔は暗かった。 「海の方を斜に向いて立っています。私はここで、生死の境の事を言わねばならなくなりました――一杯下さい……」  炬燵は巌のように見えた。  はじめよりして、判官殿の北国の浦づたいの探訪のたびに、色の変るまでだった、夏吉の心が頷かれた。 「――能登路の可心は、僻みで心得違いをしたにしろ、憎いと思った女の、過って生命を失ったのにさえ、半生を香華の料に捧げました。…… (――これは縁起に話しましたが――)  私なんぞ、まったく、この身体を溝石にして、這面へ、一鑿、目鼻も口も、削りかけの地蔵にして、その六地蔵の下座の端へ、もう一個、真桑瓜を横噛りにした処を、曝しものにされて可いのです。――事実、また、瓜を食って渇命をつないでいるのですから。」  と自棄に笑った。が、酔もさめ行く、面の色とともに澄切った瞳すずしく、深く思情を沈めた裡に、高き哲人の風格がある。  ここは渠について言うべき機会らしい。小山夏吉は工人にして、飾職の上手である。金属の彫工、細工人。この業は、絵画、彫刻のごとく、はしけやけき芸術ほど人に知られない。鋳金家、蒔絵師などこそ、且つ世に聞こゆれ。しかも仕事の上では、美術家たちの知らぬはない、小山夏吉は、飾職の名家である。しかも、その細工になる瓜の製作は、ほとんど一種の奇蹟である。  自ら渠が嘲った。 「――瓜を食って生きている――」  いま芸術を論ずる場合ではないのだから、渠の手腕についてはあえて話すまい。が、その作品のうちで、瓜――甜瓜が讃美される。露骨に言えば、しきりに註文され、よく売れる。思うままの地金を使って、実物の大さ、姫瓜、烏瓜ぐらいなのから、小さなのは蚕豆なるまで、品には、床の置もの、香炉、香合、釣香炉、手奩の類。黄金の無垢で、簪の玉を彫んだのもある。地金は多くは銀だが、青銅も、朧銀も、烏金も……真黒な瓜も面白い。皆、甜瓜を二つに割って、印籠づくりの立上り霊妙に、その実と、蓋とが、すっと風を吸って、ぴたりと合って、むくりと一個、瓜が据る。肉取り、平象嵌、毛彫、浮彫、筋彫、石め、鏨は自由だから、蔓も、葉も、あるいは花もこれに添う。玉の露も鏤む。  いずれも打出しもので、中はつぎのないくりぬきを、表の金質に好配して、黄金また銀の薄金を覆輪に取って、しっくりと張るのだが、朱肉入、驕った印章入、宝玉の手奩にも、また巻煙草入にも、使う人の勝手で異議はない。灰皿にも用いよう。が希くば、竜涎、蘆薈、留奇の名香。緑玉、真珠、紅玉を装らせたい。某国――公使の、その一品を贈ものに使ってから、相伝えて、外国の註文が少くない。  ただ、ここに不思議な事がある。一度手に入れた顧客、また持ぬしが、人づてに、あるいは自分に、一度必ず品を返す。――返して、礼を厚うして、蓋と実のいずれか、瓜のうつろの処へ、ただもう一鏨、何ものにても、手が欲いと言うのである。ほかの芸術における美術家の見識は知らない。小山夏吉は快くこれを諾して、情景品に適し、景に応じ、時々の心のままに、水草、藻の花、薄の葉、桔梗の花。鈴虫松虫もちょっと留まろうし、ささ蟹も遊ばせる。あるいは単に署名する。客はいずれも大満足をするのである。  外国へ渡ったのは、仏蘭西からと、伊太利、それから白耳義と西班牙から、公私おのおのその持ぬしから、おなじ事を求めて、一度ずつ瓜を返したのには、小山夏吉も舌をまいて一驚を吃したそうである。妙に白耳義が贔屓で、西班牙が好な男だから、瓜のうつろへ、一つには蛍を、頸の銅に色を凝らして、烏金の烏羽玉の羽を開き、黄金と青金で光の影をぼかした。一つには、銀象嵌の吉丁虫を、と言っていた。  こう陳列すると、一並べ並べただけでも、工賃作料したたかにして、堂々たる玄関構の先生らしいが、そうでない。挙げたのは二十幾年かの間の折にふれた作なのである。第一、一家を構えていない。妻子も何も持たぬ。仕事は子がいから仕込まれた、――これは名だたる師匠の細工場に籠ってして、懐中のある間は諸国旅行ばかりして漂泊い歩行く。  一向に美術家でない。錺屋、錺職をもって安んじているのだから、丼に蝦蟇口を突込んで、印半纏で可さそうな処を、この男にして妙な事には、古背広にゲエトルをしめ、草鞋穿で、鏨、鉄鎚の幾挺か、安革鞄で斜にかけ、どうかするとヘルメット帽などを頂き、繻子の大洋傘をついて山野を渡る。土木の小官吏、山林見廻りの役人か、何省お傭の技師という風采で、お役人あつかいには苦笑するまでも、技師と間違えられると、先生、陰気にひそひそと嬉しがって、茶代を発奮む。曰く、技師と云える職は、端的に数字に斉しい。世をいつわらざるものだ、と信ずるからである、と云うのである。 (――夜話の唯今なども、玄関の方には件のヘルメットと、大洋傘があるかも知れない。)  が、甜瓜は――「瓜を食って活きている。」――渠の言とともに、唐草の炬燵の上に、黄に熟したると、半ば青きと、葉とともに転がった。 六  小山夏吉は更めて言を継いだ。―― 「あの、金石街道の、――(人待石)に、私は――その一日、昼と夜と、二度ぐったりとなって、休みました。八月の半ば、暑さの絶頂で、畠には瓜が盛の時だったんです。年は十七です。  昼の時は、まだ私という少年も、その生命も日南で、暑さに苦しい中に、陽気も元気もありました。身の上の事について、金石に他家の部屋借をして、避暑かたがた勉強をしている、小学校から兄弟のように仲よくした年上の友だちに相談をして行ったんですから。あるいは希望が達しられるかも知れないと思ったので。  つまり、友だちが暑中休暇後に上京する――貧乏な大学生で――その旅費の幾分を割いて、一所に連れて出てもらいたかったので。……  ――父のなくなった翌年、祖母と二人、その日の糧にも困んでいた折から。  何、ところが、大学生も、御多分に洩れず、窮迫していて、暑中休暇は、いい間の体裁。東京の下宿に居るより、故郷の海岸で自炊をした方が一夏だけも幾干か蹴出せようという苦しがりで、とても相談の成立ちっこはありません。友だちは自炊をしている……だから、茄子を煮て晩飯を食わしてくれたんですが、いや、下地が黒い処へ、海水で色揚げをしたから、その色といったら茄子のようで、ですから、これだって身の皮を剥いでくれたほどの深切です。何しろ、ひどい空腹の処へ、素的に旨味そうだから、ふうふう蒸気の上る処を、がつがつして、加減なしに、突然頬張ると、アチチも何もない、吐出せばまだ可いのに、渇えているので、ほとんど本能の勢、といった工合で、呑込むと、焼火箸を突込むように、咽喉を貫いて、ぐいぐいと胃壁を刺して下って行く。……打倒れました。息も吐けません。きりきりと腹が疼出して止りません。友だちが、笑いながら、心配して、冷飯を粥に煮てくれました。けれども、それも、もう通らない。……酷い目に逢いました。  横腹を抱えて、しょんぼりと家へ帰るのに、送って来た友だちと別れてから、町はずれで、卵塔場の破垣の竹を拾って、松並木を――少年でも、こうなると、杖に縋らないと歩行けません。きりきり激しく疼みます。松によっかかったり、薄の根へ踞んだり……杖を力にして、その(人待石)の処へ来て、堪らなくなって、どたりと腰を落しました。幹が横に、大く枝を張った、一里塚のような松の古木の下に、いい月夜でしたが、松葉ほどの色艶もない、藁すべ同然になって休みました。ああ、そこいらに落散っている馬の草鞋の方が、余程勢がよく見えます。  道を挟で、入口に清水の湧く、藤棚の架った茶店があって、(六地蔵は、後に直ぐその傍に立ったのですが、)――低く草の蔭に硝子の簾が透いて、二つ三つ藍色の浪を描いた提灯が点れて、賑かなような、陰気なような、化けるような、時々高笑をする村の若衆の声もしていたのが、やがて、寂然として、月ばかり、田畑が薄く光って来ました。  あとまだ一里余、この身体を引摺って帰った処で、井戸の水さえ近頃は濁って悪臭し……七十を越えた祖母さんが、血を吸う蚊の中に蚊帳もなしに倒れて、と思うと、疼む腹から絞るようにひとりでに涙が出て、人影もないから、しくしくと両手を顔にあてて泣いていました。 (どうなすったの。)  花の咲くのに音はしません。……いつの間にか、つい耳許に、若い、やさしい声が聞こえて、 (お腹が疼いんですか。)  少年たち、病気を見舞うのに、別に、ほかに言葉はないので……こう云ってくれたのを、夢か、と顔を上げて見ると、浅葱の切で、結綿に結った、すずしい、色の白い……私とおなじ年紀ごろの、ああ、それも夢のような――この日、午後四時頃のまだ日盛に――往きにここで休んだ時――一足おくれて、金沢の城下の方から、女たち七人ばかりを、頭痛膏を貼った邪慳らしい大年増と、でっくり肥った膏親爺と、軽薄らしい若いものと、誰が見ても、人買が買出した様子なのが、この炎天だから、白鵞も鴨も、豚も羊も、一度水を打って、活をよくし、ここの清水で、息を継がせて、更に港へ追立てた……  ……更に追って行く。その時、金石の海から、河北潟へ、瞬く間に立蔽う、黒漆の屏風一万枚、電光を開いて、風に流す竜巻が馳掛けた、その余波が、松並木へも、大粒な雨と諸ともに、ばらばらと、鮒、沙魚などを降らせました。  竜巻がまだ真暗な、雲の下へ、浴衣の袖、裾、消々に、冥土のように追立てられる女たちの、これはひとり、白鷺の雛かとも見紛うた、世にも美しい娘なんです。」  彫玉の技師は一息した。 「……出稼の娼妓の一群が竜巻の下に松並木を追われて行く。……これだけの事は、今までにも、話した事がありましたから、一度、もう、……貴下の耳に入れたかも知れません。」  君待て、仏国のわけしりが言ったと聞く。 「再びする談話を、快く聞く彼の女には、  汝、愛されたるなり。」  筆者は、別の意味だが、同じ心で聞入った。…… 「朝顔の簪をさしていました。―― (――病気じゃないんです。僕はもう駄目なんです、死にたいんです。)  事実、そのやさしい、恍惚した、そして、弱々しい中に、目もとの凜とした顔を見ると、腹の疼いのは忘れましたが。 (まあ。)  娘は熟と顔を見ました。 (私も死にたいの。)  竜巻のために、港を出る汽船に故障が出来た。――(前刻友だちと浜へ出て見た、そういえば、沖合一里ばかりの処に、黒い波に泡沫を立てて、鮫が腹を赤く出していた、小さな汽船がそれなんです。)――日暮方の出帆が出来なくなった。雑用宿の費に、不機嫌な旦那に、按摩をさせられたり、煽がせられたり。濁った生簀の、茶色の蚊帳で揉まれて寝たが、もう一度、うまれた家の影が見たさに、忍んでここまで来たのだ、と言います。  弥生の頃は、金石街道のこの判官石の処から、ここばかりから、ほとんど仙境のように、桃色の雲、一刷け、桜のたなびくのが見えると、土地で言います。――町のその山の手が、娘のうまれた場所なのです。 (私は、うちにお父さんと、お爺さんが。) (僕は祖母さん一人……) (死んで、あの、幽霊になって、お手つだいした方が、……ええ、その方がましだと思ってよ。) (ほんとうです。死んだ方が可い。)  娘は、紅麻の肌襦袢の袖なしで、ほんの手拭で包んだ容子に、雪のような胸をふっくりさして、浴衣の肌を脱いで、袖を緋の扱帯に挟んでいました。急いで来て暑かったんでしょう。破蚊帳から抜出したので、帯もしめない。その緋鹿の子の扱帯が、白鷺に鮮血の流れるようです。 (こんなにして死ぬと……検死の時、まるで裸にされるんですって――) (可厭だなあ。) (手だの足だの、引くりかえされるんですって。……この石の上でしょうか、草の中でしょうか。私、お湯に入るのも極りが悪かった。――でも、そうやって検死されるのを、死ねば……あの、空から、お振袖を着て見ているから可いわ。私お裁縫が少し出来ます、貴方にも、ちゃんと衣服を着せますよ、お袴もはかせましょうね。)  私は一刻も早く、速に死にたくなった。  その扱帯を托って――娘が、一結び輪にしたのを、引絞りながら、松の幹をよじ上った勢のよさといったら。……それでも、往還の路へ向かない、瓜畠の方の太い枝へ、真中へ掛けて、両方へ、幻の袖のような輪を垂らした。つづく下枝の節の処へ、構わない、足が重るまでも一所に踏掛けて、人形の首を、藁苞にさして、打交えた形に、両方から覗いて、咽喉に嵌めて、同時に踏はずして、ぶらんこに釣下ろうという謀反でしてなあ。  用意が出来て、一旦ずり下りて、それから誘って、こう、斜の大な幹ですから、私が先へ、順に上へ這ったのですが、結綿の島田へ、べったりと男の足を継いだようで変です。娘の方も、華奢な、柔い肩を押上げても、それだと、爪さきがまだ、石の上を離れないで、勝手が悪い。  そこで、極めた足場、枝の節へ立てるまで、娘を負う事になりました。  一度、向合った。 (まだ、名を知らない。) (私、ゆう。) (ゆう、勇。) (あら、可哀相に、おてんばじゃありません。亻の。) (……ああ、お優さん。) (はい。) (僕は、夏吉。) (あれ、いいお名――御紋着も、絽が似合うでしょうね。)  お優さんは、肌襦袢を括った細い紐で、腰をしめて、 (汗があってよ、……堪忍ね。)  襟を、合わせたんですが、その時、夕顔の大輪の白い花を、二つうつむけに、ちらちらと月の光が透きました。乳の下を、乳の下を。 (や、大な蟻が。) (あれ、黒子よ。)  月影に、色が桃色の珊瑚になった。  膝を極めて、――起身の娘に肩を貸す、この意気、紺絣も緋縅で、神のごとき名将には、勿体ないようですが、北の方を引抱えた勢は可かった、が、いかに思っても、十七の娘を負って木登りをした経験は、誰方もおありになりますまい。松の上へ……登れたかって?……飛んでもない。ちょっと這って上れそうでも、なかなか腰が伸せません。二度も三度も折重って、摺り落ちて、しまいには、私がどしんと尻餅を搗くと、お優さんは肩に縋った手を萎えたように解いて、色っぽくはだけた褄と、男の空脛が二本、少し離れて、名所の石に挫げました。  溜息吐いてる、草の茂を、ばさり、がさがさと、つい、そこに黒く湧いて、月夜に何だか薄く動く。あ、とお優さんは、媚かしい色を乱して裾を縮めました。おや、鼹鼠か、田鼠か。――透かして見ると、ぴちぴち刎ねるのが尾のようで……とにかく、長くないのだから、安心して、引つかまえると、 (お魚よ、お魚よ。) (鮒のようだ。)  掌には、余るくらいなのが、しかも鰓、鰭、一面に泥まみれで、あの、菖蒲の根が魚になったという話にそっくりです。  これで首くくりは見合わせて、二人とも生きる事になりました。ちょっと、おめでたい。  両方で瞳を寄せるうちに、松の根を草がくれの、並木下の小流から刎出したものではない。昼間、竜巻の時、魚が降った、あの中の一尾で、河北潟から巻落されたに違いない。昼から今に到るまで、雲から落ちながらさえ、魚は生命を保つ。そうしてこの水音をしたって、路の向うから千里百里の思をして、砂を分けて来たのであろう。それまでにして魚さえ活きる。……ここは魚売が浜から城下へ往来をしますから、それが落したのかも分りませんが、思う存分の方へ引きつけて、お優さんも、おなじ意見で。  早速、草を分けて、水へ入れてやりました。が、天から降った、それほどの逸物だから、竜の性を帯びたらしい、非常な勢で水を刎ねると、葉うらに留まった、秋近い蛍の驚いて、はらはらと飛ぶ光に、鱗がきらきらと青く光りました。 (食べれば可かったなあ、彼奴。――ああ、お腹が空いて動くことも出来ない。僕は――) (まあ、可哀相に、あんなに苦労したお魚を……)  その癖、冷い汗が流れるほど、腹が空いて、へとへとだと、お優さんも言うんでしょう。……  父は――同じ錺職だったんですが、盛な時分、二三人居た弟子のうちに、どこか村の夜祭に行って、いい月夜に、広々とした畑を歩行いて、あちらにも茅屋が一つ、こちらにも茅屋が一つ。その屋根に狐が居たとか、遠くで砧が聞えたとか。つまり畑へ入って瓜を盗んで食ううちに、あたり一面の水になって、膝まで来て、胴へついて、素裸になって、衣ものを背負って、どうとか……って、話をするのを、小児の時、うとうと寝ながら聞いて、面白くって堪らない。あの話を――と云って、よくその職人にねだったものです。  ただ悪戯にさえ嬉い処を、うしろに瓜畑があります。――路近い処には一個も生っていませんから、二人して、ずッと畑を奥へ忍ぶと、もこもこと月影を吸って、そこにも、ここにも、銀とも、金とも、紫とも、皆薄青い覆輪して、葉がくれの墨絵もおもしろい。月夜に瓜畑へ入らないではこの形は分りません。いや、お優さんと一所でなくては。――一個、掌にのせました。が夜露で、ひやりとして、玉の沓、珊瑚の枕を据えたようです。雲の形が葉を拡げて、淡く、すいすいと飛ぶ蛍は、瓜の筋に銀象嵌をするのです。この瓜に、朝顔の白い花がぱっと咲いた……結綿を重そうに、娘も膝に袂を折って、その上へ一顆のせました。いきなり歯を当てると、むし歯になると不可いと、私のために簪の柄を刺して、それから、皮を取って、裂目を入れて、両つに分けて、とろとろと唇が触ったか、触らない中に――  いまの鼹鼠、田鼠の形を、およそ三百倍したほどな、黒い影が二つ三つ五つ六つ、瓜畑の中へ、むくむくと湧いて、波を立てて、うねって起きた。 (泥棒。) (どッ、泥棒。)  と喚くや否や、狼のように人立して、引包んで飛かかった。 (あれえ。) (阿魔ちょは、番小屋へかつげ。) (この野郎。) (二才め。)  私は仰向けに撲飛ばされた。 (身もんだえしやがると、棒しばりにして、俺等の小便をしっかけるぞ。) (村のお規則だい。) (堪忍して、堪忍して……)  娘の声は、十二本の足の真黒な可恐い獣の背に、白い手を空にして聞こえました。  瓜番小屋は、ああ、ああ血の池に掛けた、桟敷のように、鉄が煙りながら宙に浮く。……知らなかった。――直き近い処にあったのです。 (きれいな黒子だな、こんな処に、よう。)――  私の目からは血が流れた。瓜は皆真紅になって、葉ごとに黒い浪打つ中を、体は、ただ地を摺って転がった。 心中見た見た、並木の下で、 しかも皓歯と前髪で。…… 心中見た、見た、並木の下で、 しかも皓歯……  番小屋の中から、優しく、細い、澄んだ声で、お優さんの、澄まして唄うのが聞こえました。」  小山夏吉は、声が切って、はらはらと落涙した。 「お聞きになって、どう、お考えなさるでしょう?  私には、その時、三つだけ、する事がありました。……  首をくくる事、第一。すぐ傍の茶店へ放火する、家を焼いて、村のものを驚かす事、第二。第三は飛込んで引縛られて小便を、これだけはどうも不可い……どいつも私に二嵩ぐらい、村角力らしいのも交って、六人居ます。  間に合う、合わないは別として、私は第二の手段を選ぶのが、後に思うと、娘に対する義務ではなかったかと思うのです。わずかに復讐の意義をかねて。――ええ、火の用意は、と言うんですか?……煙草のために燐寸がありました。それでなくても、黒くなった畑の上に、松の枝に、扱帯の緋の輪が、燃えて動いているんです。そればかりでも家は焼けるのに、卑怯な奴で、放火が出来ない。第一の事を、と松に這寄った時、お優さんの唄が聞こえましたのは――発狂したのでしょうのに―― (――この通りあきらめました。死なないでお帰りなさい――)  そう言ってくれるのだと、身勝手ばかり考えて、 松の根もとに苺が見える、 お前末代わしゃ一期。…… 一期末代添おうとしたに、 松も苺も、もう見えぬ――  ――とまた唄う。  ええ、その苺という紅い実も、火をつけて、火をつけて、とうつくしい、怜悧な娘が教えたのかも知れないのに……耳を塞ぎ、目を瞑って、転んだか、躓いたか、手足は血だらけになって、夜のしらしらあけに、我が家で、バッタリ倒れたんです。  並木で人の死んだ風説はきかない。……  翌月、不意の補助があって、東京へ出ました。」 (すぐにある技芸学校を出たあとを、あらためて名匠の内弟子に入ったのである。) 「やっと一人だちで故郷へ帰る事が出来て、やがて十年前に、前申したわけで六地蔵があすこへ立ったと聞きました頃には、もう山桜の霞の家も消えている……お優さんの行方は知れません。生命はあったのでしょう。いずれ追手が掛ったのでしょう。おなじように、舁がれて、連れ戻されて、鱗の落ちた魚、毛のあか膚になった鳥は、下積に船に積まれて、北海の浪に漾ったのでしょう。けれども、汽車は、越前の三国、敦賀。能登の富来、輪島。越中の氷見、魚津。佐渡。また越後の糸魚川、能生、直江津――そのどこへ売られたのか、捜しようがなかったのです。  六人が、六条、皆赤い蛇に悩まさるる、熱の譫言を叫んだという、その、渠等に懲罰を給わった姫神を、川裳明神と聞いて、怪しからんことには――前刻も申した事ですが、私も獺だと思って、その化身にされたのを、お優さんのために、大不平だった。松の枝の緋鹿子を、六人して、六条に引裂いて、……畜、畜生めら。腕に巻いたり、首に掛けたり、腹巻はまだしも、股に結んで弄びなぞしていやがった。払って浄めて、あすこの祠に納めたと聞いてさえ、なぜか、扉を開けようとはしませんでした。赤い蛇を恐れたのではないのです。――私は実は、めぐり合って、しめ殺されたい。  殺されて、そうして、彼奴等よりなお醜い瓜かじりの頬かけ地蔵を並べれば可いんです。」  小山夏吉の旅行癖が――諸君によくお分りになったと思う。 「――大笹の宿で、しかも、この、大笹村にある……思いかけず、その姫神の縁起に逢った。私は、直ぐに先祖の系図を見る真剣さと、うまれぬさきの世の履歴を読む好奇心と、いや、それよりも、恋人にめぐり逢う道しるべの地図を見る心の時めきで、読む手が思わず震えました。  川裳明神の縁起――可心、述。……」 七 「大笹の宿のその夜、可心の能登紀行で、川裳明神の本地が釈然としました。跪かなければなりません。私は寝られません。  なぜか、庭の松の樹を、一度見ないでは、どうしても気が済まなくなりました。手ぐりつけられるように。……金石街道でお優さんと死のうとした、並木の松に、形がそっくりに見えて忍耐がならないのです。――  勝手は心得ていましたから、雨戸を開けました。庭の松が、ただ慄然とするほど、その人待石の松と枝振は同じらしい。が、どの枝にも首を縊る扱帯は燃えてはおりません。寝そびれた上に、もうこうなっては、葉がくれに、紅いのがぶら下っていようも知れないと、跣足でも出る処を、庭下駄があったんです。  暗夜だか、月夜だか、覚えていません。が、松の樹はすやすやと息を立てて、寝姿かと思う静さで、何だか、足音を立てるのも気の毒らしい。三度ばかり、こんもりと高い根を廻りましたが何にも見えません。茫然と、腕組をして空を視めて立った、二階の棟はずれを覗いて、梟が大く翼を拡げた形で、またおなじような松が雲の中に見えるんです。心を曳かれて、うっかりして木戸を出ました。土が白い色して、杜若の花、紅羅の莟も、色を朧に美しい。茱萸の樹を出ますと、真夜中の川が流れます。紀行を思うと、渡るのが危っかしい。生えた草もまた白い。土橋の上に、ふと二個向合った白いものが見えました。や、女だ! これは。……いくら田舎娘だって、まだ泳ぐには。――思わず、私が立停まると、向合ったのが両方から寄って、橋の真中へ並んで立ちました。その時莞爾笑ったように見えたんですが、すたすたと橋を向うへ行く。跣足です。よく見ると、まるの裸体……いや、そうでない。あだ白い脚は膝の上、ほとんどつけ根へ露呈なのですが、段々瞳が定まると、真紅な紅羅の花を簪にして、柳条笹のような斑の入った薄い服、――で青いんだの、赤いんだの、茱萸の実が玉のごとく飾ってある。――またしきりに鳴く――蛙の皮の疣々のようでもあります。そうして、一飛ずつ大跨に歩行くのが、何ですか舶来の踊子が、ホテルで戸惑をしたか、銀座の夜中に迷子になった様子で。その癖、髪の色は黒い、ざらざらと捌いたおさげらしい。そのぶら下った毛の中に、両方の、目が光る。……ああ、あとびっしゃりをする。……そうでないと、目が背中へつくわけがない、と吃驚しました。しかし一体、どっちが背だか腹だか、開けた胸も腹も、のっぺらぼうで、人間としての皮の縫目が分りません。  少し上流の方へ伝って行くと、向う左へ切れた、畝道の出口へ、おなじものが、ふらふらと歩行いて来て、三個になった。三個が、手足を突張らかして、箸の折れたように、踊るふりで行くと、ばちゃばちゃと音がして、水からまた一個這上った。またその前途に、道の両側に踞んで待ったらしいのが、ぽんと二個立つと、六個も揃って一列になりました。逆に川下へ飛ぶ、ぴかりぴかりと一つ大な蛍の灯に、皆脊が低い。もっとも、ずッと遠くなったのだから、そのわけかも知れませんが、三尺二尺、五寸ぐらいに、川べりの田舎道遥になると、ざあと雨の音がして、流の片側、真暗な大な竹藪のざわざわと動いて真暗な処で、フッと吸われて消えました。  ほんとうに降って来た。私は、いつか橋を渡っていたのです。――  小雨に、じっとりとなった、と思ったのは、冷い寝汗で。……私はハッと目が覚めました。」 八 「翌朝思のほか寝過ごして、朝湯で少しはっきりして、朝飯を取ります頃は、からりと上天気。もう十時頃で、田舎はのんきですから、しらしら明もおんなじに、清々しく、朗かに雀たちが高囀で遊んでいます。蛙も鳴きます。旅籠の主人に、可心寺の聞きたしをして――(女神は、まったく活きておいでなさる。幽寂とした時、ふと御堂の中で、チリンと、幽な音のするのは、簪が揺れるので、その時は髪を撫でつけなさるのだそうで。)と聞く時分から、テケテケテン、テトドンドンと、村のどこかで……遠い小学校の小児の諸声に交って、静に冴えて、松葉が飛歩行くような太神楽の声が聞えて、それが、谺に響きました。  おお! ここに居る。――流に添って、上の方へ三町ばかり、商家も四五軒、どれも片側の藁葺を見て通ると、一軒荒物屋らしいのの、横縁の端へ、煙草盆を持出して、六十ばかりの親仁が一人。角ぶちの目金で、熟と――別に見るものはなし、人通もほとんどないのですから、すぐ分った、鉢前の大く茂った南天燭の花を――(実はさぞ目覚かろう)――悠然として見ていた。ほかに、目に着いたものはなかったのですが……宿で教えられた寺の入口の竹藪が、ついそこに。……川は斜に曲って、巌が嶮くなり、道も狭く、前途は、もう田畝になります。――その藪の前の日向に、ぼったら焼の荷に廂を掛けたほどな屋台を置いて、おお! ここに居る。太神楽が、黒木綿の五紋の着流しで鳥打帽を被った男と、久留米絣にセルの袴を裾長に穿流した男と、頬杖を突合って休んだのを見ました。端初、夢に見た藪にそっくりだ、と妙な気がした処へ、この太神楽で陽気になった。そのまますれ違って通ったのです。  向って、たらたらと上る坂を、可なり引込んで、どっしりした茅の山門が見えます。一方はその藪畳みで、一方は、ぐっと崖に窪んで、じとじとした一面の茗荷畑。水溜には杜若が咲いていました。上り口をちょっと入った処に、茶の詰襟の服で、護謨のぼろ靴を穿いて、ぐたぐたのパナマを被った男が、撥で掌を敲きながら、用ありそうに立っている。処へ、私が上りかかると出会がしらに、横溝を跨いで、藪からぬっくりと、顕われたのは、でっぷりと肥った坊主頭で、鼠木綿を尻高々と端折って、跣足で鍬をついた。……(これがうつくしい伯母さんのために出家した甥だと、墨染の袖に、その杜若の花ともあるべき処を)茗荷を掴み添えた、真竹の子の長い奴を、五六本ぶら下げていましたが、 (じゃあ、米一升でどうじゃい。)  すぐこう云うと、詰襟が、 (さあ、それですがね。) (銭、五貫より、その方が割じゃぜい――はっはっはっ。稗まじりじゃろうが、白米一升、どないにしても七十銭じゃ。割じゃろがい。はっはっはっ。)  泥足を捏ねながら、肩を揺って、大きに御機嫌。  給金の談判でした。ずんずん通り抜けて、寺内へ入ると、正面がずッと高縁で、障子が閉って、茅葺ですが本堂らしい。左が一段高く、そこの樹林の中を潜ると、並んではいますが棟が別で、落葉のままに甍が見えます。階を上ると、成程、絵馬が沢山に、正面の明神の額の下に、格子にも、桟にも、女の髪の毛が房々と掛っています。紙で巻いたり、水引で結んだり、で引いて見ましたが、扉は錠が下りています。虹の帳、雲の天蓋の暗い奥に、高く壇をついて、仏壇、廚子らしいのが幕を絞って見えますが、すぐに像が拝まれると思ったのは早計でした。第一女神でおいでなさる。まず拝して、絵馬を視て、しばらく居ました。とにかく、廚裡へ案内して、拝見……を願おうと……それにしても、竹の子上人は納所なのかしら、法体した寺男かしら。……  女神の簪の音を、わざとでなく聞こうとして、しばらくうっかりしたものと見えます。なぜというに、いま、樹立の中を出ますと、高縁の突端に薄汚れたが白綸子の大蒲団を敷込んで、柱を背中に、酒やけの胸はだけで、大胡坐を掻いたのは藪の中の大入道。……納所どころか、当山の大和尚。火鉢を引寄せ、脛の前へ、一升徳利を据えて、驚きましたなあ――茶碗酒です。  門内の広庭には、太神楽が、ほかにもう二人。五人と揃って、屋台を取巻いて、立ったり、踞んだり、中には赤手拭をちょっと頭にのせたのも居て、――これは酒じゃない、大土瓶から、茶をがぶがぶ、丼の古沢庵を横噛りで遣ってると、破れかかった廚裡の戸口に、霜げた年とった寺男が手を組んで考えた面で居る処。  けたけたけたと、和尚が化笑を唐突に遣ったから、私は肩をすぼめて、山門を出た。  何と、こんな中へ開扉が頼まれますものですか。  なお驚いたのは、前刻の爺さんが同じ処で、まだ熟と南天燭の枝ぶりを見ていた事です。――一度宿へ帰って出直そうとそこまで引返したのですが、考えました。そちこち午すぎだ、帰れば都合で膳も出そうし、かたがた面倒だ。一曲か二曲か、太神楽の納るまで、とまた寺の方へ。――  テンドンドン、テケレンと、囃子がはじまる。少し坂を上って、こう、透しますと、向う斜にずッと覗込む、生垣と、門の工合で、赤い頭ばかりが鞠のように、ぴょんぴょんと、垣の上へ飛ぶのと――柱を前へ乗出した和尚の肩の処が半分見える。いま和尚の肩と、柱の裏の壁らしく暗い間に、世を忍ぶ風情で、嬝娜と、それも肩から上ぐらい、あとは和尚の身体にかくれた、婦が見えます。  はっと思った。  髪は艶々と黒く、色は白いと思うのが、凄いほど美しい。  が、近づけません、いや、寄って行けない。せめて一人、小児でも、そこらに居てくれれば可いのですが、小学校の声ばかりまた遥に響くんです。私ただ一人……それに食べものが出ている……四十面を下げたものが、そこへ顔が出せますか。  殊に、佳い女、と思うほど、ここにうそうそ居て、この顔が見えよう。覗くのさえ気がさしますから、思切って、村はずれの田畝まで、一息に離れました。  蛙がよく鳴いています。その水田の方へ、畷へ切れて、蛙が、中でも、ことこところころ、よく鳴頻ってる田のへりへ腰を落し、ゆっくり煙草を吹かして、まずあの南天老人を極めました。  ――しばらくして、ここを、二人ばかり人が通る。……屋台を崩して、衣装葛籠らしいのと一所に、荷車に積んで、三人で、それは畷の本道を行きます。太神楽も、なかなか大仕掛なものですな。私の居た畷へ入って来たその二人は、紋着のと、セルの袴で。……田畝の向うに一村藁屋が並んでいる、そこへ捷径をする、……先乗とか云うんでしょう。  私は、笑いながら、 (お寺の、美人はいかがでした。)  対手が道化ものだから、このくらいな事は可い、と思った。 (別嬪? お寺に。)  とセルが言うと、 (弁天様があるのかね。)  と紋着が生真面目です。  私はまごついた。 (いいや、和尚の、かみさんだか、……何ですかね。) (ははは、御串戯もんだ。) (別嬪が居て御覧じろ、米一升のかわりに引攫っちまう。)  と笑いながら、さっさと行きます。  はぐらかすとは思えません。――はてな、それでは、いま見たのは。――何にしても太神楽は、もう済んだのですから、すぐに可心寺へ出向く筈の処を、少々居迷ったのは、前刻から田の上を、ひょいひょいと行る蛙連中が、大小――どうもおかしい。……生りはじめの瓜に似ている。……こんな事はありません。泳ぐ形は、そんなでもないが、ひょんと構えたり、腹を見せて仰向けに反った奴などは、そのままです。瓜の嬰児が踊っている。……それに、私は踏込んで見る気はありませんでしたが、この二三枚を除いたほかは、つづく畠で、気のせいか、一面に瓜が造ってあるようです。蛙どもは、ひょんひょんと飛ぶ。すいすい泳ぐ。ばちゃりと刎ねる。どうもおかしい。そのうちに、隣のじとじとした廃畑から、畝うつりに出て来る蛙を見ると、頭に三筋ばかり長い髪の毛を引掛けて曳いているのです。おや、また来るのも曳いている。五六疋――八九疋。――こっちの田からも飛込んでまた引いて出る。すらすらと長い髪の毛です。熟と視ると、水底に澄ました蛙は、黒いほどに、一束ねにして被いでいます。処々に、まだこんなに、蝌蚪がと思うのは、皆、ほぐれた女の髪で。……  女神の堂に、あんなに、ばらみの、たぼみのが有ったのを見ない前だと、これだけでも薄気味が悪かったでしょうのに。――そんな気はちっともなかった――ただ、畝どなりの廃畑をよく見ると、畳五枚ばかりの真中に、焼棄の灰が、いっぱい湿って、淀んで、竹の燃えさしが半ば朽ちて、ばらばらに倒れたり、埋れたりしています。……流灌頂――虫送り、虫追、風邪の神のおくりあと、どれも気味のいいものではない。いや、野墓、――野三昧、火葬のあと……悚然とすると同時に、昨夕の白い踊子を思い出した。さながらこの蛙に似ている。あっけに取られた時でした。 (やあ――やあ――やあ――)  と山裾の方から、野良声を掛けて、背後の畝を伝って来た、鍬をさげた爺さんが、 (やあ、お前様いけましねえ。いけましねえ。)  慌てて挨拶した。 (どうも済まない。) (やあ、はい、詫びさっしゃる事は何にもねえだがね、そこに久しく立っていると瘧を煩らうだあかンな、取憑かれるでな。) (ええ、どうしてだい。) (何、お前様。)  と、榛の樹から出て来ながら、ひょい、とあとへ飛退った。 (菜売がそこで焼死んだてばよ。) (焼死んだ。)  こっちも退った。 (菜売?……ッて) (おおよ。一昨年ずらい。菜売の年増女さ、身体あ役に立たなくなったちで、そこな瓜番小屋へ夜番に出したわ。――我が身で火をつけて、小屋ぐるみ押焦げたあだ。真夜中での、――そん時は、はい、お月様も赤かったよ。)」  ………………………… 九 「……女神の殿堂の扉の下にやがて跪いた私は、それから廚裡の方へ行こうとしました。  あの――山門を入った正面の高縁の障子が開いたままになっていましたから、廚裡へもまわらないで、すぐに廊下を一つ、女神堂へ参ったのですが、扉はしまっていました。――  この開扉を頼むのと、もう一つ、急に住職の意を得たい事が出来たのです。  唐花の絵天井から、壁、柱へ、綾と錦と、薄暗く輝く裡に、他国ではちょっと知りますまい。以前、あのあたりの寺子屋で、武家も、町家も、妙齢の娘たちが、綺麗な縮緬の細工ものを、神前仏前へ奉献する習慣があって、裁縫の練習なり、それに手習のよく出来る祈願だったと言います。四季の花はもとよりで、人形の着もの、守袋、巾着もありましょう、そんなものを一条の房につないで、柱、天井から掛けるので。祝って、千成百成と言いました。絢爛な薬玉を幾条も聯ねたようです。城主たちの夫人、姫、奥女中などのには金銀珠玉を鏤めたのも少くありません。  女神の前にも、幾条か聯って掛っていた。山の奥の幽なる中に、五色の蔦を見る思があります。ここに、生りもの、栗、蜜柑、柿、柘榴などと、蕪、人参、花を添えた蔓の藤豆、小さな西瓜、紫の茄子。色がいいから紅茸などと、二房一組――色糸の手鞠さえ随分糸の乱れたのに、就中、蒼然と古色を帯びて、しかも精巧目を驚かすのがあって、――中に、可愛い娘の掌ほどの甜瓜が、一顆。  嬉しくなって、私が視入った事は申すまでもありますまい。  黄に薄藍の影がさす、藍田の珠玉とか、柔く刻んで、ほんのりと暖いように見えます、障子越に日が薄く射すんです。  立って手を伸ばすと、届く。密と手で触ると……動く。……動く瓜の中に、ふと、何かあるんです。」 「――中に――」  筆者は思わず問返した。 「中に何だかあるんです。チリン、チリンと真綿に包まった、微妙な鈴のような音がしました。ああ、女神の簪の深秘に響くというのは、これだと想って、私は全身、かッとほてりました。」  ここに聞くものは悚然とした。 「中は空ろで、きれ仕立ですから、瓜の合せ目は直ぐ分りました。が、これは封のあるも同然。神の料のものなんです。参詣人が勝手には窺けません。  ――真先にこれを一つと思ったんです。もう堂の中に居るのですから、不躾に廚裡へ向って、大な声は出せません。本堂には祖師の壇があります。ここで呼立てるのも失礼だと思いますから、入った高縁の処、畳数を向うへ長く縦に見取って、奥の方へ、御免下さい、願います、願います、とやったが一向に通じない。弱った、和尚、あの勢で、寝込みはしないか。廚裡へ行く板戸は閉っていて、ふと、壁についた真向うの障子の外へ、何だか、ちらりと人影が射したようで、それなり消えましたから……あの美しい女が。……  あるいは人に隠れたのかも知れない。しかし帰れません。思切って、ずかずかと立入って、障子を開けますと、百日紅が、ちらちらと咲いている。ここを右へ、折れ曲りになって、七八間、廂はあるが、囲のない、吹抜けの橋廊下が見えます。暗い奥に、庵が一つ。背後は森で、すぐに、そこに、墓が、卒塔婆が、と見る目と一所に、庵の小窓に、少し乱れた円髷の顔が覗いて、白々と、ああ、藤の花が散り澄ますと思う、窓下の葉蘭に沈んで、水の装上った水盤に映ったのは、撫肩の靡いた浴衣の薄い模様です。襟うらに紅いのがちらりと覗いて、よりかかった状に頬杖して半ば睡るようにしていました。ああ、寝着で居る……あの裾の下に、酒くさい大坊主が踏反って。……  私は慇懃に礼をしました。  瞳を上げる、鼻筋が冷く通って、片頬にはらはらとかかる、軽いおくれ毛を撫でながら、静に扉を出ました。水盤の前に、寂しく立つ。黒繻子と打合せらしい帯を緩くして、……しかし寝ていたのではありません。迎えるように、こっちから橋に進んで――象嵌などを職にします――話して、瓜の事を頼みました。  やさしい声で、 (和尚様は留守でございます。けれど、明神様へ……私から。) (是非どうぞ。)  前刻は、あの柱の蔭に、と思って、 (太神楽はいかがでした。) (まあ、違いますよ、私は見はいたしません。) (ええ、それでは。) (明神様の御像を、和尚さんが抱いて出たのでございます。お慰みに、と云って、私は出はいたしません。明神様も、御迷惑だったでしょう。) (貴女は。) (私は可厭ですわ――それに御厄介になっております居候なんですから。)  瓜の中が解ったら、あるいはこの意味も、どうした事か、解るかも知れない。 (これでございますね。)  御廚子の前に、深く蝋燭を点じ、捧げて後、女は紅の総に手を掛けた。燈をうけると、その姿は濃くなった。 (よく出来ていますこと。) (ああ、そうして取れますか。)  自分の顔の蒼くなるまで、女のさしのばした雪白の腕に、やや差寄って言いました。 (畠のだと、貴方の方が取るのがお上手でしょうけれど……)  微笑する。 (ええ。) (これは、この蔓の結びめで解けます。私なぞも、真似をして拵えましたから存じております。――まあ、貴女が。)  と云って、廚子を拝んで、 (お気にめして、時々お持ち遊ばすそうで、ちっとも埃がついていません。――あすこへ……明るい処へ参りましょう。お仕事の事で御覧になりますなら、その方がよく見えます。)  消えるようになって、すらすらと出ました、障子際へ。明けると、荒れたが、庭づくりで、石の崩れた、古い大な池が、すぐこの濡縁に近く、蓮は浮葉を敷き、杜若は葉がくれに咲いている。……御堂の外格子――あの、前刻階から差覗いた処はただ、黒髪の暗い簾だったんですがな。 (どうぞ、貴女が明けて――お見せ下さい。)  さし向った、その膝に近づきました。 (お菓子でしょうか、よく合っておりますこと。)  私へ、斜めに、瓜を重いように、しなやかに取って、据えて、二つに分けると、魚が一尾、きらりと光り、チンチンチンと鱗が鳴ると斉しく、ひらりと池の水へ落ちました。  あ、あ、あ、あの池の向うの、大な松の幹を、結綿の娘と、折重って、絣の単衣の少年が這っている。こっちで、ひしと女に寄ろうとする、私の膝が石のようにしびれたと思うと、対向で松の幹を、少年がずるずると辷って落ちた。  落ちると同時に、その向うの縁に、旅の男が、円髷の麗人と向合っているのが見える。  そこには、瓜が二つに割れて、ここの松の空なる枝には、緋鹿子の輪が掛りました。……御堂も、池も、ぐるぐると廻ったんです。  見る見る野の末に黒雲がかかると、黒髪の影の池の中で、一つ、かたかたと鳴くに連れて、あたりの蛙の一斉に、声を合わせるのが、 松の根本に苺が見える…………  あの当時の唄にそのままです。  飛びついて抱こうとする手が硬ばって動かない。化鳥のごとく飛びかかった、緋の扱帯を空に掴んで、自分の咽喉を縊めようとするのを、じっと押えて留めました。女の袖が肩を抱くと、さし寄せた頬にかかっておくれ毛が、ゆれて、靡いて、そこいらの、みの毛ばら毛、髢も一所に、あたりは真暗になりました。 (連れてって下さい、お優さん、冥途へでもどこへでも。) (お帰りなさい――私が一所に参りますから。)  その時、甘い露に……唇が濡れました。息を返したんです。大笹の宿の亭主が、余り帰りの遅いのを見に来て、花桶の水を灌いだんだそうです。 (……私が一所に参りますから。)  で、――お優さんは、この炬燵の、ここに居ます。」  筆者は炬燵から飛しさった。 「しかし、この頃に、大笹へ参って、骨を拾って帰ろうと思います。  あの時、農家の爺さんが(菜売)の年増女だと、言ったでしょう。瓜番の小屋へ自分で火をつけたのは尋常ごととは思わなかったが。……ただ菜売とだけ存じました。――この頃土地の人に聞くと、それは、夏場だけ、よそから来て、肉を売る女の事だと言います。それだと、お優さんの、骨は、可心寺の無縁ですから。」    附記。  その後、大笹から音信があった――(知人はその行を危んだが、小山夏吉は日を措かず能登へ立った)――錦の影であろう、廚子にはじめて神像を見た時は、薄い桃色に映った、実は胡粉だそうである、等身の女神像は肩に白い蓑を掛けて、それが羽衣に拝まれる。裳を据えた大魚は、やや面が奇怪で、鯉だか、鱒だか、亀だか、蛇だか、人間の顔だか分らない。魚尾は波がしらに刎ねている。黒髪の簪に、小さな黄金の鮒が飾ってある。時に鏘々として響くのはこの音で、女神が梳ると、また更めて、人に聞いた――それに、この像には、起居がある。たとえば扉の帳をとざす、その時、誦経者の手に従うて、像の丈の隠るるに連れて、魚の背に膝が着くというのである。が、小山夏吉の目にも、同じ場合にその気勢を感じた。波を枕に、肱枕をさるるであろう。蓑の白い袖が時として、垂れて錦帳をこぼれなどする。  不思議な発条仕掛があるのではないか、と言う。  実や、文化よりして、慶応の頃まで生存した、加賀大野港に一代の怪人、工匠にして科学者であった。――町人だから姓はない、大野浜の弁吉の作だそうである。  三味線ただ一挺を携えていずこよりともなく浜づたいに流れて来て、大野の浜に留まった。しきりに城下を往来したが、医をよくし、巫術、火術を知り、その頃にして、人に写真を示した。製図に巧に、機械に精しい。醤油のエッセンスにて火を灯し、草と砂糖を調じて鉱山用のドンドロを合せたなどは、ほんの人寄せの前芸に過ぎない。その技工の妙を伝聞して、当時の藩主の命じて刻ましめた、美しき小人の木彫は、坐容立礼、進退を自由にした。余りにその活きたるがごとく、目に微笑をさえ含んで、澄まし返った小憎らしさに、藩主が扇子をもってポンと一つ頭を打つや、颯と立って、据腰に、やにわに小刀に手を掛けて、百万石をのけ反らした。ちょっと弁吉の悪戯だというのである。三聖酢をなむる図を浮彫にした如意がある。見ると、髯も、眉も浮出ているが手を触ると、何にもない、木理滑かなること白膏のごとし。――その理、測るべからず。密に西洋に往来することを知って、渠を憚るものは切支丹だとささやいた。  ――鳶(鶴ではない)を造って乗って、二階から飛んでその行く処を知らない。  好んで、風人と交ったから、――可心は、この怪工に知を得て、女神の像は成ったのである。  また希有なのは、このあたり(大笹)では、蛙が、女神にささげ物の、みの、髢を授けると、小さな河童の形になる。しかしてあるものは妖艶な少女に化ける。裸体に蓑をかけたのが、玉を編んで纏ったようで、人の目には羅に似て透いて肉が甘い。脚は脛のあたりまでほとんどあらわである。月朧に、燈くらき夜など、高浜、あべ屋、福浦のあたりまで、少からず男を悩すというのである。  小山夏吉の手紙は、この意味を―― 「おもいの外、瓜吉(渾名をいう)は暢気だぜ。」  皆云っていたが、小山夏吉は帰らない。  なお手紙によると、再び可心寺に詣でた時は、和尚は、あれから直に亡くなって、檀を開くのに、村の人たちが立会った。――無住だった――というから。  お優さんの骨――ばかりでなく、霊に添って、奥の庵を畠に、瓜を造っているのだろう。本懐であろう。  蛙の唄をききながら、その化けた不良性らしい彼の女等を眷属にして。……  あとでも、時々、瓜は市場に出た。が、今は他のものを装る器具でない。瓜はそのまま天来の瓜である。従って名実ともに鏨は冴えた、とその道のものは云った。が惜しいかな――去年の冬、厳寒に身を疼んで、血を咯いて、雪に紅の瓜を刻んだ。 昭和二(一九二七)年五月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。 「三《みつ》ヶ口」「一ヶ処」 2011年7月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048392", "作品名": "河伯令嬢", "作品名読み": "かはくれいじょう", "ソート用読み": "かはくれいしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-08-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48392.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成8", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48392_ruby_43520.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-07-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48392_44380.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-07-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一 「そんな事があるものですか。」 「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰らないと思う後から声がします。」 「声がします。」 「確かに聞えるんです。」  と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた離座敷らしい十畳の広間に泊った。  はじめ、停車場から俥を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、 「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」  で、上靴を穿かせて、つるつるする広い取着の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段を上って行くので、連の男は一段踏掛けながら慌しく云った。 「三階か。」 「へい、四階でございます。」と横に開いて揉手をする。 「そいつは堪らんな、下座敷は無いか。――貴方はいかがです。」  途中で見た上阪の中途に、ばりばりと月に凍てた廻縁の総硝子。紅色の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透しに高い四階は落着かない。 「私も下が可い。」 「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他には唯今どうも、へい、へい。」 「古くっても構わん。」  とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。  人の事は云われないが、連の男も、身体つきから様子、言語、肩の瘠せた処、色沢の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上ありたけを詰込んだ、と自ら称える古革鞄の、象を胴切りにしたような格外の大さで、しかもぼやけた工合が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。  何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。  私は枕を擡げずにはいられなかった。  時に、当人は、もう蒲団から摺出して、茶縞に浴衣を襲ねた寝着の扮装で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角。  で、二間の――これには掛ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件の大革鞄があるのである。  白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨だみを揺った形が、元来、仔細の無い事はなかった。  今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。  私は妙な事を思出したのである。  やがて、十八九年も経ったろう。小児がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間。両側に小屋を並べた見世ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。  血だらけ、白粉だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。  続き、上下におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖に黄金箔、引手に朱の総を提げるまで手を籠めた……芝居がかりの五十三次。  岡崎の化猫が、白髪の牙に血を滴らして、破簾よりも顔の青い、女を宙に啣えた絵の、無慙さが眼を射る。        二 「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」  と嗾る。……  が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。  この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴が一人、真中に、白襟、空色紋着の、廂髪で痩せこけた女が一人交って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言わず。  ただ、時々…… 「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」  とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然として澄まし返る。  容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣。掙き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕れて、裡の面白さが思遣られる。  うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推せば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲いの廂合の路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。  正面を逆に、背後向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵二三枚。  前に青竹の埒を結廻して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個……眗しても視めても、雨上りの湿気た地へ、藁の散ばった他に何にも無い。  中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量を溢まして、筵の上に仇光りの陰気な光沢を持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠に手が生えて胸へ乗かかる夢を見て魘された。  梅雨期のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿を帯びていたのに、年数も経ったり、今は皺目がえみ割れて乾燥いで、さながら乾物にして保存されたと思うまで、色合、恰好、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪せた鼠の半外套の袖に引着けた、その一人の旅客を認めたのである。  私は熟と視て、――長野泊りで、明日は木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽ったい心地がした。  しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄いような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。  少くとも、あの、絵看板を畳込んで持っていて、汽車が隧道へ入った、真暗な煙の裡で、颯と化猫が女を噛む血だらけな緋の袴の、真赤な色を投出しそうに考えられた。  で、どこまで一所になるか、……稀有な、妙な事がはじまりそうで、危っかしい中にも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。  けれども、その男を、年配、風采、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家だの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切にした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。  一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知己になって知れたが、都合あって、飛騨の山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣く途中だと云う。――それにいささか疑はない。  が、持主でない。その革鞄である。        三  這奴、窓硝子の小春日の日向にしろじろと、光沢を漾わして、怪しく光って、ト構えた体が、何事をか企謀んでいそうで、その企謀の整うと同時に、驚破事を、仕出来しそうでならなかったのである。  持主の旅客は、ただ黙々として、俯向いて、街樹に染めた錦葉も見ず、時々、額を敲くかと思うと、両手で熟と頸窪を圧える。やがて、中折帽を取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪を引掻く。巻莨に点じて三分の一を吸うと、半三分の一を瞑目して黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜に目の前へ、ト翳しながら、熟と灰になるまで凝視めて、慌てて、ふッふッと吹落して、後を詰らなそうにポタリと棄てる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企謀んだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――  お供の、奴の腰巾着然とした件の革鞄の方が、物騒でならないのであった。  果せるかな。  小春凪のほかほかとした可い日和の、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側を立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖をついていたが、 「酒、酒。」  と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白い顔も、もう酔ったように爀と勢づいて、この日向で、かれこれ燗の出来ているらしい、ペイパの乾いた壜、膚触りも暖そうな二合詰を買って、これを背広の腋へ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙わしく革鞄の口に手を掛けた。  私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般の時のように。  しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。  それを熟と、酒も飲まずに凝視めている。  私も弁当と酒を買った。  大な蝦蟆とでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷で飲むような気はしない、が蓋しそれは僭上の沙汰で。 「まず、飲もう。」  その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面を打った、懐しく床しい、留南奇がある。  この高崎では、大分旅客の出入りがあった。  そこここ、疎に透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小児よりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに挟って。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、件の大革鞄もその中の数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を被ったのが仕切の板戸に突立っているのさえ出来ていた。  私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶麗な女が一人腰を掛けたのである。  待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜めく。  内端に、品よく、高尚と云おう。  前挿、中挿、鼈甲の照りの美しい、華奢な姿に重そうなその櫛笄に対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。        四  一目見ても知れる、濃い紫の紋着で、白襟、緋の長襦袢。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正と堅く挿した風采は、桃の小道を駕籠で遣りたい。嫁に行こうとする女であった。……  指の細く白いのに、紅いと、緑なのと、指環二つ嵌めた手を下に、三指ついた状に、裾模様の松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄を深く正しく居ても、溢るる裳の紅を、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重足袋。幽に震えるような身を緊めた爪先の塗駒下駄。  まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖と、涙と、笑とは、ただその深く差俯向いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢に包まれて、簪の穂に顕るる。……窈窕たるかな風采、花嫁を祝するにはこの言が可い。  しかり、窈窕たるものであった。  中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微な元結のゆらめきである。  耳許も清らかに、玉を伸べた頸許の綺麗さ。うらすく紅の且つ媚かしさ。  袖の香も目前に漾う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜の口を抜くのを差控えたほどであった。  汽車に連るる、野も、畑も、畑の薄も、薄に交る紅の木の葉も、紫籠めた野末の霧も、霧を刷いた山々も、皆嫁く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃るがごとく見え初めた妙義の錦葉と、蒼空の雲のちらちらと白いのも、ために、紅、白粉の粧を助けるがごとくであった。  一つ、次の最初の停車場へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙めいた男女の顔が押累って室を覗いた。  累りあふれて、ひょこひょこと瓜の転がる体に、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込む。  私の窓にも一つ来た。  と見ると、板戸に凭れていた羽織袴が、 「やあ!」  と耳の許へ、山高帽を仰向けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包を大な懐中に入れて、茶紬を着た親仁も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。 「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」  とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行る半コオトを幅広に着た、横肥りのした五十恰好。骨組の逞ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇で、その眇の方をト上へ向けて渋のついた薄毛の円髷を斜向に、頤を引曲げるようにして、嫁御が俯向けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻の飛ぶように、じろじろと飛廻しに眗していたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。        五  少し揺るようにした。  指に平打の黄金の太く逞ましいのを嵌めていた。  肖も着かぬが、乳母ではない、継しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。  白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤で幽に頷いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓って、緞子の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違わず、品の可い、ちと寂しいが美しい、瞼に颯と色を染めた、薄の綿に撫子が咲く。  ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉んだ褄の崩れに、捌いた紅。紅糸で白い爪先を、きしと劃ったように、そこに駒下駄が留まったのである。  南無三宝! 私は恥を言おう。露に濡羽の烏が、月の桂を啣えたような、鼈甲の照栄える、目前の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件の大革鞄を忘れていた。  何と、その革鞄の口に、紋着の女の袖が挟っていたではないか。  仕出来した、さればこそはじめた。  私はあえて、この老怪の歯が引啣えていたと言おう。……  いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。  重量が、自然と伝ったろう、靡いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、 「御免なさいまし。」  と呼吸の下で云うと、襟の白さが、颯と紫を蔽うように、はなじろんで顔をうつむけた。  赤ら顔は見免さない。 「お前、どうしたのかねえ。」  かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪を掻しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引挘る。 「革鞄に挟った。」 「どうしてな。」  と二三人立掛ける。  窓へ、や、えんこらさ、と攀上った若いものがある。  駅夫の長い腕が引払った。  笛は、胡桃を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。  汽車は猶予わず出た。  一人発奮をくって、のめりかかったので、雪頽を打ったが、それも、赤ら顔の手も交って、三四人大革鞄に取かかった。 「これは貴方のですか。」  で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。  なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行くものか。 「これは堅い、堅い。」 「巌丈な金具じゃええ。」  それ言わぬ事ではない。 「こりゃ開かぬ、鍵が締まってるんじゃい。」  と一まず手を引いたのは、茶紬の親仁で。  成程、と解めた風で、皆白けて控えた。更めて、新しく立ちかかったものもあった。  室内は動揺む。嬰児は泣く。汽車は轟く。街樹は流るる。 「誰の麁匇じゃい。」  と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。  彼は仰向けに目を瞑った。瞼を掛けて、朱を灌ぐ、――二合壜は、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱く。  女は頤深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向く。        六 「この次で下車るのじゃに。」  となぜか、わけも知らない娘を躾めるように云って、片目を男にじろりと向け直して、 「何てまあ、馬鹿々々しい。」  と当着けるように言った。  が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連と目配せをしながら、赤ら顔の継母は更めて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈めた。  突如噛着き兼ねない剣幕だったのが、飜ってこの慇懃な態度に出たのは、人は須らく渠等に対して洋服を着るべきである。  赤ら顔は悪く切口上で、 「旦那、どちらの麁匇か存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体でございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」  声が眉間を射たように、旅客は苦しげに眉を顰めながら、 「鍵はありません。」 「ございませんと?……」 「鍵は棄てました。」  とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮めた腕組を衝と解いて、一度投出すごとくばたりと落した。その手で、挫ぐばかり確と膝頭を掴んで、呼吸が切れそうな咳を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。 「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取を願いとうございます。私は、ここに隣席においでになる、窈窕たる淑女。」  彼は窈窕たる淑女と云った。 「この令嬢の袖を、袂をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」  と眗す目が空ざまに天井に上ずって、 「……申兼ねましたが私です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。  退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込んで、革鞄の口をかしりと啣えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊って、引緊めたと思う手応がありました。  真白な薄の穂か、窓へ散込んだ錦葉の一葉、散際のまだ血も呼吸も通うのを、引挟んだのかと思ったのは事実であります。  それが紫に緋を襲ねた、かくのごとく盛粧された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。  諸君、私は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未だかつて一度も私ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。  東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。  お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。  いや、ようなんですぐらいだったら、私もかような不埒、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。  確に御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を更めて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。  余り唐突な狼藉ですから、何かその縁組について、私のために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」        七 「実に、寸毫といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。  狂気が。」  と吻と息して、…… 「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出迎の人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠を下しました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温柔でおいでなさる、心弱い女性は、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、端なく声をお立てにならないのだと存じました。  しかし、ただいま、席をお立ちになった御容子を見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身体の一箇処にも紅い点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪一条の根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。  けれども、それもただわずかの間で、今の思はどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。  自白した罪人はここに居ります。遁も隠れもしませんから、憚りながら、御萱堂とお見受け申します年配の御婦人は、私の前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背を抱く御介抱が願いたい。」  一室は悉く目を注いだ、が、淑女は崩折れもせず、柔な褄はずれの、彩ある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。  ひとりかの男のみ、堅く突立って、頬を傾げて、女を見返ることさえ得しない。  赤ら顔も足も動かさなかった。 「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。  外ではありません。それの革鞄の鍵を棄てた事です。私は、この、この窓から遥に巽の天に雪を銀線のごとく刺繍した、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私は目を瞑った、ほとんだ気が狂ったのだとお察しを願いたい。  為業は狂人です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私です。  が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見せますまい、決して帰らない、戻りますまい。  小刀をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。  鍵は投棄てました、決心をしたのです。私は皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。  ただし、この革鞄の中には、私一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌。実際、生命と斉しいものを残らず納れてあるのです。  が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。  小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。  私は――」  とここで名告った。        八 「年は三十七です。私は逓信省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」  と俯向いて探って、鉄縁の時計を見た。 「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……  令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。  駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。  また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。  いずれも命を致さねばなりますまい。  それは、しかし厭いません。  が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中に、私が最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私が連れられて、膝行して当日の婿君の前に参る事です。  絞罪より、斬首より、その極刑をお撰びなさるが宜しい。  途中、田畝道で自殺をしますまでも、私は、しかしながらお従い申さねばなりますまい。  あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……  すべて、いささかも御斟酌に及びません。  諸君が姑息の慈善心をもって、些少なりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。  妻女は亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」  彼は口吃しつつ目瞬した。 「一人の小児も亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児でした。」  と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫を濡らした。 「妻の記念だったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。  感ずる仔細がありまして、私は望んで僻境孤立の、奥山家の電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。  そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。  が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵がなければなりません。  鍵は棄てたんです。  令嬢の袖の奥へ魂は納めました。  誓って私は革鞄を開けない。  御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。  お聴を煩らわしました。――別に申す事はありません。」  彼は、従容として席に復した。が、あまたたび額の汗を拭った。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然とした。  室内は寂然した。彼の言は、明晰に、口吃しつつも流暢沈着であった。この独白に対して、汽車の轟は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。  停車場に着くと、湧返ったその混雑さ。  羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆を思え。  時に、継母の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上常識的なものであった。 「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」 「いいえ、貴方。」  判然した優しい含声で、屹と留めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着の糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺めく黒髪、島田は、黄金の高彫した、輝く斧のごとくに見えた。  紫の襲の片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚を裂いたか、女の片身に、颯と流るる襦袢の緋鹿子。  プラットフォームで、真黒に、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目瞼の紅梅。黄金を溶す炎のごとき妙義山の錦葉に対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯と飜えって、雪なす小手を翳しながら、黒煙の下になり行く汽車を遥に見送った。  百合若の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。  つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。  そこで知己になった。 大正三(一九一四)年二月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日発行 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003652", "作品名": "革鞄の怪", "作品名読み": "かばんのかい", "ソート用読み": "かはんのかい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3652.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十五卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3652_ruby_25795.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3652_26094.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
麗姫  惟ふに、描ける美人は、活ける醜女よりも可也。傳へ聞く、漢の武帝の宮人麗娟、年はじめて十四。玉の膚艷やかにして皓く、且つ澤ふ。たきもしめざる蘭麝おのづから薫りて、其の行くや蛺蝶相飛べり。蒲柳纖弱、羅綺にだも勝へ難し。麗娟常に身の何處にも瓔珞を挂くるを好まず。これ袂を拂ふに當りて、其の柔かなる膚に珠の觸れて、痕を留めむことを恐れてなり。知るべし、今の世に徒に指環の多きを欲すると、聊か其の抱負を異にするものあることを。  麗娟宮中に歌ふ時は、當代の才人李延年ありて是に和す。かの長生殿裡日月のおそき處、ともに𢌞風の曲を唱するに當りてや、庭前颯と風興り、花ひら〳〵と飜ること、恰も霏々として雪の散るが如くなりしとぞ。  此の姫また毎に琥珀を以て佩として、襲衣の裡に人知れず包みて緊む。立居其の度になよやかなる玉の骨、一つ〳〵琴の絲の如く微妙の響を作して、聞くものの血を刺し、肉を碎かしめき。  女子粧はば寧ろ恁の如きを以て會心の事とせん。美顏術に到りては抑々末也。 勇將  同じ時、賈雍將軍は蒼梧の人、豫章の太守として國の境を出で、夷賊の寇するを討じて戰に勝たず。遂に蠻軍のために殺され頭を奪はる。  見よ、頭なき其の骸、金鎧一縮して戟を横へ、片手を擧げつゝ馬に跨り、砂煙を拂つてトツ〳〵と陣に還る。陣中豈驚かざらんや。頭あるもの腰を拔かして、ぺた〳〵と成つて瞪目して之を見れば、頭なき將軍の胴、屹然として馬上にあり。胸の中より聲を放つて、叫んで曰く、無念なり、戰利あらず、敵のために傷はれぬ。やあ、方々、吾が頭あると頭なきと何れが佳きや。時に賈雍が從卒、おい〳〵と泣いて告して曰く、頭あるこそ佳く候へ。言ふに從うて、將軍の屍血を噴いて馬より墜つ。  勇將も傑僧も亦同じ。むかし行簡禪師は天台智大師の徒弟たり。或時、群盜に遇うて首を斬らる。禪師、斬られたる其の首を我手に張子の面の如く捧げて、チヨンと、わけもなしに項のよき處に乘せて、大手を擴げ、逃ぐる數十の賊を追うて健なること鷲の如し。尋で瘡癒えて死せずと云ふ。壯なる哉、人々。 愁粧  むかし宋の武帝の女、壽陽麗姫、庭園を歩する時梅の花散りて一片其の顏に懸る。其の俤また較ふべきものなかりしより、當時の宮女皆爭つて輕粉を以て顏に白梅の花を描く、稱して梅花粧と云ふ。  隋の文帝の宮中には、桃花の粧あり。其の趣相似たるもの也。皆色を衒ひ寵を售りて、君が意を傾けんとする所以、敢て歎美すべきにあらずと雖も、然れども其の志や可憐也。  司馬相如が妻、卓文君は、眉を畫きて翠なること恰も遠山の霞める如し、名づけて遠山の眉と云ふ。魏の武帝の宮人は眉を調ふるに青黛を以つてす、いづれも粧ふに不可とせず。然るに南方の文帝、元嘉の年中、京洛の婦女子、皆悉く愁眉、泣粧、墮馬髻、折要歩、齲齒笑をなし、貴賤、尊卑、互に其の及ばざるを恥とせり。愁眉は即ち眉を作ること町内の若旦那の如く、細く剃りつけて、曲り且つ竦むを云ふ。泣粧は目の下にのみ薄く白粉を塗り一刷して、ぐいと拭ひ置く。其の状涙にうるむが如し。墮馬髻のものたるや、がつくり島田と云ふに同じ。案ずるに、潰と云ひ、藝子と云ひ投と云ひ、奴はた文金、我が島田髷のがつくりと成るは、非常の時のみ。然るを、元嘉、京洛の貴婦人、才媛は、平時に件の墮馬髻を結ふ。たとへば髷を片潰して靡け作りて馬より墮ちて髻の横状に崩れたる也。折要歩は、密と拔足するが如く、歩行に故と惱むを云ふ、雜と癪持の姿なり。齲齒笑は思はせぶりにて、微笑む時毎に齲齒の痛みに弱々と打顰む色を交へたるを云ふ。これなん當時の國色、大將軍梁冀が妻、孫壽夫人一流の媚態より出でて、天下に洽く、狹土邊鄙に及びたる也。未だ幾ほどもあらざりき、天下大に亂れて、敵軍京師に殺倒し、先づ婦女子を捕へて縱に凌辱を加ふ。其の時恥辱と恐怖とに弱きものの聲をも得立てず、傷み、悲み、泣ける容、粧はざるに愁眉、泣粧。柳腰鞭に折けては折要歩を苦しみ、金釵地に委しては墮馬髻を顯實す。聊も其の平常の化粧と違ふことなかりしとぞ。今の世の庇髮、あの夥しく顏に亂れたる鬢のほつれは如何、果してこれ何の兆をなすものぞ。 捷術  隋の沈光字は總持、煬帝に事へて天下第一驍捷の達人たり。帝はじめ禪定寺を建立する時、幡を立つるに竿の高さ十餘丈。然るに大風忽ち起りて幡の曳綱頂より斷れて落ちぬ。これを繋がんとするに其の大なる旗竿を倒さずしては如何ともなし難し。これを倒さんは不祥なりとて、仰いで評議區々なり。沈光これを見て笑つて曰く、仔細なしと。太綱の一端を前齒に銜へてする〳〵と竿を上りて直に龍頭に至る。蒼空に人の點あり、飄々として風に吹かる。これ尚ほ奇とするに足らず。其の綱を透し果つるや、筋斗を打ち、飜然と飛んで、土に掌をつくと齊しく、眞倒にひよい〳〵と行くこと十餘歩にして、けろりと留まる。觀るもの驚歎せざるはなし。寺僧と時人と、ともに、沈光を呼んで、肉飛仙と云ふ。  後に煬帝遼東を攻むる時、梯子を造りて敵の城中を瞰下す。高さ正に十五丈。沈光其の尖端に攀ぢて賊と戰うて十數人を斬る。城兵這奴憎きものの振舞かなとて、競懸りて半ばより、梯子を折く。沈光頂よりひつくりかへりざまに梯子を控へたる綱を握り、中空より一たび跳返りて劍を揮ふと云へり。それ飛燕は細身にしてよく掌中に舞ふ、絶代の佳人たり。沈光は男兒のために氣を吐くものか。 驕奢  洛陽伽藍記に云ふ。魏の帝業を承くるや、四海こゝに靜謐にして、王侯、公主、外戚、其の富既に山河を竭して互に華奢驕榮を爭ひ、園を脩め宅を造る。豐室、洞門、連房、飛閣。金銀珠玉巧を極め、喬木高樓は家々に築き、花林曲池は戸々に穿つ。さるほどに桃李夏緑にして竹柏冬青く、霧芳しく風薫る。  就中、河間王深の居邸、結構華麗、其の首たるものにして、然も高陽王と華を競ひ、文柏堂を造營す、莊なること帝居徽音殿と相齊し、清水の井に玉轆轤を置き、黄金の瓶を釣るに、練絹の五色の絲を綆とす。曰く、晉の石崇を見ずや、渠は庶子にして尚ほ狐腋雉頭の裘あり。況や我は太魏の王家と。又迎風館を起す。  室に、玉鳳は鈴を啣み、金龍は香を吐けり。窓に挂くるもの列錢の青瑣なり。素柰、朱李、枝撓にして簷に入り、妓妾白碧、花を飾つて樓上に坐す。其の宗室を會して、長夜の宴を張るに當りては、金瓶、銀榼百餘を陳ね、瑪瑙の酒盞、水晶の鉢、瑠璃の椀、琥珀の皿、いづれも工の奇なる中國未だ嘗てこれあらず、皆西域より齎す處。府庫の内には蜀江の錦、呉均の綾、氷羅、罽氈、雪穀、越絹擧て計ふべからず。王、こゝに於て傲語して曰く、我恨らくは石崇を見ざることを、石崇も亦然らんと。  晉の石崇は字を季倫と云ふ。季倫の父石苞、位已に司徒にして、其の死せんとする時、遺産を頒ちて諸子に與ふ。たゞ石崇には一物をのこさずして云ふ。此の兒、最少なしと雖も、後に自から設得んと。果せる哉、長なりて荊州の刺史となるや、潛に海船を操り、海を行く商賈の財寶を追剥して、富を致すこと算なし。後に衞尉に拜す。室宇宏麗、後房數百人の舞妓、皆綺紈を飾り、金翠を珥む。  嘗て河陽の金谷に別莊を營むや、花果、草樹、異類の禽獸一としてあらざるものなし。時に武帝の舅に王鎧と云へるものあり。驕奢を石崇と相競ふ。鎧飴を以て釜を塗れば、崇は蝋を以て薪とす。鎧、紫の紗を伸べて四十里の歩障を造れば、崇は錦に代へて是を五十里に張る。武帝其の舅に力を添へて、まけるなとて、珊瑚樹の高さ二尺なるを賜ふ。王鎧どんなものだと云つて、是を石崇に示すや、石崇一笑して鐵如意を以て撃つて碎く。王鎧大に怒る。石崇曰く、恨むることなかれと即ち侍僮に命じて、おなじほどの珊瑚六七株を出して償ひ遷しき。  然れども後遂に其の妓、緑珠が事によりて、中書令孫秀がために害せらる。  河間王が宮殿も、河陰の亂逆に遇うて寺院となりぬ。唯、堂觀廊廡、壯麗なるが故に、蓬莱の仙室として呼ばれたるのみ。歎ずべきかな。朱荷曲池のあと、緑萍蒼苔深く封して、寒蛩喞々たり、螢流二三點。 空蝉  唐の開元年中、呉楚齊魯の間、劫賊あり。近頃は不景氣だ、と徒黨十餘輩を語らうて盛唐縣の塚原に至り、數十の塚を發きて金銀寶玉を掠取る。塚の中に、時の人の白茅冢と呼ぶものあり。賊等競うてこれを發く。方一丈ばかり掘るに、地中深き處四個の房閣ありけり。唯見る東の房には、弓繒槍戟を持ちたる人形あり。南の房には、繒綵錦綺堆し。牌ありて曰く周夷王所賜錦三百端と。下に又棚ありて金銀珠玉を裝れり。西の房には漆器あり。蒔繪新なるものの如し。さて其北の房にこそ、珠以て飾りたる棺ありけれ。内に一人の玉女あり。生けるが如し。緑の髮、桂の眉、皓齒恰も河貝を含んで、優美端正畫と雖も及ぶべからず。紫の帔、繍ある※(「韈」の「罘-不」に代えて「囚」)、珠の履をはきて坐しぬ。香氣一脈、芳霞靉靆く。いやな奴あり。手を以て密と肌に觸るゝに、滑かに白く膩づきて、猶暖なるものに似たり。  棺の前に銀樽一個。兇賊等爭つてこれを飮むに、甘く芳しきこと人界を絶す。錦綵寶珠、賊等やがて意のまゝに取出だしぬ。さて見るに、玉女が左の手のくすり指に小さき玉の鐶を嵌めたり。其の彫の巧なること、世の人の得て造るべきものにあらず。いざや、と此を拔かんとするに、弛く柔かに、細く白くして、然も拔くこと能はず。頭領陽知春制して曰く、わい等、其は止せと。小賊肯かずして、則ち刀を執つて其の指を切つて珠を盜むや、指より紅の血衝と絲の如く迸りぬ。頭領面を背けて曰く、於戲痛哉。  冢を出でんとするに、矢あり、蝗の如く飛ぶ。南房の人形氏、矢繼早に射る處、小賊皆倒る。陽知春一人のみ命を全うすることを得て、取り得たる寶貝は盡くこれを冢に返す。官も亦後、渠を許しつ。軍士を遣はし冢を修む。其時銘誌を尋ぬるに得ることなく、誰が冢たるを知らずと云ふ。 人妖  晉の少主の時、婦人あり。容色艷麗、一代の佳。而して帶の下空しく兩の足ともに腿よりなし。餘は常人に異なるなかりき。其の父、此の無足婦人を膝行軌に乘せ、自ら推しめぐらして京都の南の方より長安の都に來り、市の中にて、何うぞやを遣る。聚り見るもの、日に數千人を下らず。此の婦、聲よくして唱ふ、哀婉聞くに堪へたり。こゝに於て、はじめは曲巷の其處此處より、やがては華屋、朱門に召されて、其の奧に入らざる處殆ど尠く、彼を召すもの、皆な其の不具にして艷なるを惜みて、金銀衣裳を施す。然るに後年、京城の諸士にして、かの北狄の囘文を受けたるもの少からず、事顯はるゝに及びて、官司、其の密使を案討するに、無足の婦人即ち然り、然も奸黨の張本たりき。後遂に誅戮せらる、恁の如きもの人妖也。 少年僧  明州の人、柳氏、女あり。優艷にして閑麗なり。其の女、年はじめて十六。フト病を患ひ、關帝の祠に祷りて日あらずして癒ゆることを得たり。よつて錦繍の幡を造り、更に詣でて願ほどきをなす。祠に近き處少年の僧あり。豫て聰明をもつて聞ゆ。含春が姿を見て、愛戀の情に堪へず、柳氏の姓を呪願して、密に帝祠に奉る。其の句に曰く、 江南柳嫩緑。 未成陰攀折。 尚憐枝葉小。 黄鸝飛上力難。 留取待春深。  含春も亦明敏にして、此の句を見て略ぼ心を知り、大に當代の淑女振を發揮して、いけすかないとて父に告ぐ。父や、今古の野暮的、娘に惚れたりとて是を公に訴へたり。時に方國沴氏、眞四角な先生にて、すなはち明州の刺史たり。忽ち僧を捕へて詰つて曰く、汝何の姓ぞ。恐る〳〵對て曰く、竺阿彌と申ますと。方國僧をせめて曰く、汝職分として人の迷を導くべし。何ぞかへつて自ら色に迷ふことをなして、佗の女子を愛戀し、剩へ關帝の髯に紅を塗る。言語道斷ぢやと。既に竹の籠を作らしめ、これに盛りて江の中に沈めんとす。而して國沴、一偈を作り汝が流水に歸るを送るべしとて、因て吟じて云ふ。 江南竹巧匠。 結成籠好。 與吾師藏法體。 碧波深處伴蛟龍。 方知色是空。  竺阿彌、めそ〳〵と泣きながら、仰なれば是非もなし。乞ふ吾が最後の一言を容れよ、と云ふ。國沴何をか云ふ、言はむと欲する處疾く申せ、とある時、 江南月如鏡亦如鉤。 明鏡不臨紅粉面。 曲鉤不上畫簾頭。 空自照東流。  國沴大に笑つて、馬鹿め、おどかしたまでだと。これを釋し、且つ還俗せしめて、柳含春を配せりと云ふ。 魅室  唐の開元年中の事とぞ。戸部郡の令史が妻室、美にして才あり。たま〳〵鬼魅の憑る處となりて、疾病狂せるが如く、醫療手を盡すといへども此を如何ともすべからず。尤も其の病源を知るものなき也。  令史の家に駿馬あり。無類の逸物なり。恆に愛矜して芻秣を倍し、頻に豆を食ましむれども、日に日に痩疲れて骨立甚だし。擧家これを怪みぬ。  鄰家に道術の士あり。童顏白髮にして年久しく住む。或時談此の事に及べば、道士笑うて曰く、それ馬は、日に行くこと百里にして猶羸るゝを性とす。況や乃、夜行くこと千里に餘る。寧ろ死せざるを怪むのみと。令史驚いて言ふやう、我が此の馬はじめより厩を出さず祕藏せり。又家に騎るべきものなし。何ぞ千里を行くと云ふや。道人の曰く、君常に官に宿直の夜に當りては、奧方必ず斯の馬に乘つて出でらるゝなり。君更に知りたまふまじ。もしいつはりと思はれなば、例の宿直にとて家を出でて、試みにかへり來て、密かに伺うて見らるべし、と云ふ。  令史、大に怪み、即ち其の詞の如く、宿直の夜潛に歸りて、他所にかくれて妻を伺ふ。初更に至るや、病める妻なよやかに起きて、粉黛盛粧都雅を極め、女婢をして件の駿馬を引出させ、鞍を置きて階前より飜然と乘る。女婢其の後に續いて、こはいかに、掃帚に跨り、ハツオウと云つて前後して冉々として雲に昇り去つて姿を隱す。  令史少からず顛動して、夜明けて道士の許に到り嗟歎して云ふ、寔に魅のなす業なり。某將是を奈何せむ。道士の曰く、君乞ふ潛にうかゞふこと更に一夕なれ。其の夜令史、堂前の幕の中に潛伏して待つ。二更に至りて、妻例の如く出でむとして、フト婢に問うて曰く、何を以つて此のあたりに生たる人の氣あるや。これを我が國にては人臭いぞと云ふ議なり。婢をして帚に燭し炬の如くにして偏く見せしむ。令史慌て惑ひて、傍にあり合ふ大なる甕の中に匐隱れぬ。須臾して妻はや馬に乘りてゆらりと手綱を掻繰るに、帚は燃したり、婢の乘るべきものなし。遂に件の甕に騎りて、もこ〳〵と天上す。令史敢て動かず、昇ること漂々として愈々高く、やがて、高山の頂一の蔚然たる林の間に至る。こゝに翠帳あり。七八人群飮むに、各妻を帶して並び坐して睦じきこと限なし。更闌けて皆分れ散る時、令史が妻も馬に乘る。婢は又其甕に乘りけるが心着いて叫んで曰く、甕の中に人あり。と。蓋を拂へば、昏惘として令史あり。妻、微醉の面、妖艷無比、令史を見て更に驚かず、そんなものはお打棄りよと。令史を突出し、大勢一所に、あはゝ、おほゝ、と更に空中に昇去りぬ。令史間の拔けた事夥し。呆れて夜を明すに、山深うして人を見ず。道を尋ぬれば家を去ること正に八百里程。三十日を經て辛うじて歸る。武者ぶり着いて、これを詰るに、妻、綾羅にだも堪へざる状して、些とも知らずと云ふ。又實に知らざるが如くなりけり。 良夜  唐の玄宗、南の方に狩す。百官司職皆これに從ふ中に、王積薪と云ふもの當時碁の名手なり。同じく扈從して行いて蜀道に至り、深谿幽谷の間にして一軒家に宿借る。其の家、姑と婦と二人のみ。  積薪に夕餉を調へ畢りて夜に入りぬ。一間なる處に臥さしめ、姑と婦は、二人戸を閉ぢて別に籠りて寢ねぬ。馴れぬ山家の旅の宿りに積薪夜更けて寢ね難く、起つて簷に出づ。時恰も良夜。折から一室處より姑の聲として、婦に云うて曰く、風靜に露白く、水青く、月清し、一山の松の聲蕭々たり。何うだね、一石行かうかねと。婦の聲にて、あゝ好いわねえ、お母さんと云ふ。積薪私に怪む、はてな、此家、納戸には宵から燈も點けず、わけて二人の女、別々の室に寢た筈を、何事ぞと耳を澄ます。  婦は先手と見ゆ。曰く、東の五からはじめて南の九の石と、姑言下に應じて、東の五と南の十二と、やゝありて婦の聲。西の八ツから南の十へ、姑聊も猶豫はず、西の九と南の十へ。  恁くて互に其の間に考案する隙ありき。さすがに斯道の達人とて、積薪は耳を澄して、密かに其の戰を聞居たり。時四更に至りて、姑の曰く、お前、おまけだね、勝つたが九目だけと。あゝ、然うですね、と婦の聲してやみぬ。  積薪思はず悚然として、直ちに衣冠を繕ひ、若き婦は憚あり、先ず姑の閨にゆき、もし〳〵と聲を掛けて、さて、一石願ひませう、と即ち嗜む處の嚢より局盤の圖を出し、黒白の碁子を以て姑と戰ふ。はじめ二目三目より、本因坊膏汗を流し、額に湯煙を立てながら、得たる祕法を試むるに、僅少十餘子を盤に布くや、忽ち敗けたり。即ち踞いて教を乞ふ。姑微笑みて、時に起きて座に跪坐たる婦を顧みて曰ふ、お前教へてお上げと。婦、櫛卷にして端坐して、即ち攻守奪救防殺の法を示す。積薪習ひ得て、將た天が下に冠たり。  それ、放たれたる女は、蜀道の良夜にあり。敢て目白の學校にあらざる也。 明治四十五年三月・六月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「唐模樣《からもやう》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050771", "作品名": "唐模様", "作品名読み": "からもよう", "ソート用読み": "からもよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50771.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50771_ruby_44353.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50771_44652.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 牛屋の手間取、牛切りの若いもの、一婦を娶る、と云ふのがはじまり。漸と女房にありついたは見つけものであるが、其の婦(奇醜)とある。たゞ醜いのさへ、奇醜は弱つた、何も醜を奇がるに當らぬ。  本文に謂つて曰く、蓬髮歴齒睇鼻深目、お互に熟字でだけお知己の、沈魚落雁閉月羞花の裏を行つて、これぢや縮毛の亂杭齒、鼻ひしやげの、どんぐり目で、面疱が一面、いや、其の色の黒い事、ばかりで無い。肩が頸より高く聳えて、俗に引傾りと云ふ代物、青ン膨れの腹大なる瓜の如しで、一尺餘りの棚ツ尻、剩へ跛は奈何。  これが又大のおめかしと來て、當世風の廂髮、白粉をべた〳〵塗る。見るもの、莫不辟易。豈それ辟易せざらんと欲するも得んや。  而して、而してである。件の牛切、朝から閉籠つて、友達づきあひも碌にせぬ。  一日、茫と成つて、田圃の川で水を呑んで居る處を、見懸けた村の若いものが、ドンと一ツ肩をくらはすと、挫げたやうにのめらうとする。慌てて、頸首を引掴んで、 「生きてるかい、」 「へゝゝ。」 「確乎しろ。」 「へゝゝ、おめでたう、へゝゝへゝ。」 「可い加減にしねえな。おい、串戲ぢやねえ。お前の前だがね、惡女の深情つてのを通越して居るから、鬼に喰はれやしねえかツて、皆友達が案じて居るんだ。お前の前だがね、おい、よく辛抱して居るぢやねえか。」 「へゝゝ。」 「あれ、矢張り恐悦して居ら、何うかしてるんぢやねえかい。」 「私も、はあ、何うかして居るでなからうかと思ふだよ。聞いてくんろさ。女房がと云ふと、あの容色だ。まあ、へい、何たら因縁で一所に成つたづら、と斷念めて、目を押瞑つた祝言と思へ。」 「うむ、思ふよ。友だちが察して居るよ。」 「處がだあ、へゝゝ、其の晩からお前、燈を暗くすると、ふつと婦の身體へ月明がさしたやうに成つて、第一な、色が眞白く成るのに、目が覺るだ。」  於稀帷中微燈閃鑠之際則殊見麗人である。 「蛾眉巧笑頯頬多姿、纖腰一握肌理細膩。」  と一息に言つて、ニヤ〳〵。 「おまけにお前、小屋一杯、蘭麝の香が芬とする。其の美しい事と云つたら、不啻毛嬙飛燕。」  と言ふ、牛切りの媽々をたとへもあらうに、毛嬙飛燕も凄じい、僭上の到りであるが、何も別に美婦を讚めるに遠慮は要らぬ。其處で、  不禁神骨之倶解也。である。此は些と恐しい。 「私も頓と解せねえだ、處で、當人の婦に尋ねた。」 「女房は怒つたらう、」 「何ちゆツてな。」 「だつてお前、お前の前だが、あの顏をつかめえて、牛切小町なんて、お前、怒らうぢやねえか。」 「うんね、怒らねえ。」 「はてな。」  とばかりに、苦笑。 「怒らねえだ。が、何もはあ、自分では知らねえちゆうだ。私も、あれよ、念のために、燈をくわんと明るくして、恁う照らかいて見た。」 「氣障な奴だぜ。」 「然うすると、矢張り、あの、二目とは見られねえのよ。」 「其處が相場ぢやあるまいか。」 「燈を消すと又小町に成る、いや、其の美しい事と云つたら。」  とごくりと唾を呑み、 「へゝゝ、口で言ふやうたものではねえ。以是愛之而忘其醜。」と言ふ。  聞者不信。誰も此は信じまい。 「や、お婿さん。」 「無事か。」  などと、若いものが其處へぞろ〳〵出て來た。で、此の話を笑ひながら傳へると、馬鹿笑ひの高笑ひで、散々に冷かしつける。 「狐だ、狐だ。」 「此の川で垢離を取れ。」 「南無阿彌陀佛。」  と哄と囃す。  屠者向腹を立て、赫と憤つて、 「試して見ろ。」  こゝで、口あけに、最初の若いものが、其の晩、牛切の小屋へ忍ぶ。  御亭主、戸外の月あかりに、のつそりと立つて居て、 「何うだあ、」  若い衆は額を叩いて、 「偉い、」と云つて、お叩頭をして、 「違ひなし。」 「それ、何うだあ。」  と悦喜の顏色。  於是村内の惡少、誰も彼も先づ一ツ、(馬鹿な事を)とけなしつける。 「試して見ろ。」 「トおいでなすつた、合點だ。」  亭主、月夜にのそりと立つて、 「何うだあ。」 「偉い。」と叩頭で歸る。苟も言にして信ぜられざらんか。屠者便令與宿焉。幾遍一邑不啻名娼矣。  一夜珍しく、宵の内から亭主が寢ると、小屋の隅の暗がりに、怪しき聲で、 「馬鹿め、汝が不便さに、婦の形を變へて遣つたに、何事ぞ、其の爲體は。今去矣。」  と膠もなく、一喝をしたかと思ふと、仙人どのと覺しき姿、窓から飛んで雲の中、山へ上らせたまひけり。  時に其の帷中の婦を見れば、宛としておでこの醜態、明白に成畢ぬ。  屠者其の餘りの醜さに、一夜も側に我慢が成らず、田圃をすた〳〵逃げたとかや。 明治四十四年三月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「鑑定《かんてい》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050772", "作品名": "鑑定", "作品名読み": "かんてい", "ソート用読み": "かんてい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50772.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50772_ruby_44350.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50772_44653.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 吾聞く、東坡が洗兒詩に、人皆養子望聰明。我被聰明誤一生。孩兒愚且魯、無災無難到公卿。  又李白の子を祝する句に曰く、揚杯祝願無他語、謹勿頑愚似汝爺矣。家庭先生以て如何となす?  吾聞く、昔は呉道子、地獄變相の圖を作る。成都の人、一度是を見るや咸く戰寒して罪を懼れ、福を修せざるなく、ために牛肉賣れず、魚乾く。  漢の桓帝の時、劉褒、雲漢の圖を畫く、見るもの暑を覺ゆ。又北風の圖を畫く、見るもの寒を覺ゆ。  呉の孫權、或時、曹再興をして屏風に畫かしむ、畫伯筆を取つて誤つて落して素きに點打つ。因つてごまかして、蠅となす、孫權其の眞なることを疑うて手を以て彈いて姫を顧みて笑ふといへり。王右丞が詩に、屏風誤點惑孫郎。團扇草書輕内史。  吾聞く、魏の明帝、洛水に遊べる事あり。波蒼くして白獺あり。妖婦の浴するが如く美にして愛す可し。人の至るを見るや、心ある如くして直ちに潛る。帝頻に再び見んことを欲して終に如何ともすること能はず。侍中進んで曰く、獺や鯔魚を嗜む、猫にまたゝびと承る。臣願くは是を能くせんと、板に畫いて兩生の鯔魚を躍らし、岸に懸けて水を窺ふ。未だ數分ならざるに、群獺忽ち競逐うて、勢死を避けず、執得て輙獻ず。鯔魚を畫くものは徐景山也。  劉填が妹は陽王の妃なり。陽王誅せられて後追慕哀傷して疾となる。婦人の此疾古より癒ゆること難し。時に殷※(くさかんむり/倩)善く畫く、就中人の面を寫すに長ず。劉填密に計を案じ、※(くさかんむり/倩)に命じて鏡中雙鸞の圖を造らしむ、圖する處は、陽王其の寵姫の肩を抱き、頬を相合せて、二人ニヤ〳〵として將に寢ねんと欲するが如きもの。舌たるくして面を向くべからず。取つて以て乳媼をして妹妃に見せしむ。妃、嬌嫉火の如く、罵つて云く、えゝ最うどうしようねと、病癒えたりと云ふ。敢て説あることなし、吾聞くのみ。 明治四十年二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004591", "作品名": "聞きたるまゝ", "作品名読み": "ききたるまま", "ソート用読み": "ききたるまま", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4591.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日第1刷", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4591_ruby_26478.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4591_26585.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
「蟹です、あのすくすくと刺のある。……あれは、東京では、まだ珍らしいのですが、魚市をあるいていて、鮒、鰡など、潟魚をぴちゃぴちゃ刎ねさせながら売っているのと、おし合って……その茨蟹が薄暮方の焚火のように目についたものですから、つれの婦ども、家内と、もう一人、親類の娘をつれております。――ご挨拶をさせますのですが。」  画工、穂坂一車氏は、軽く膝の上に手をおいた。巻莨を火鉢にさして、 「帰りがけの些細な土産ものやなにか、一寸用達しに出掛けておりますので、失礼を。その娘の如きは、景色より、見物より、蟹を啖わんがために、遠路くッついて参りましたようなもので。」 「仕合せな蟹でありますな。」  五十六七にもなろう、人品のいい、もの柔かな、出家容の一客が、火鉢に手を重ねながら、髯のない口許に、ニコリとした。 「食われて蟹が嬉しがりそうな別嬪ではありませんが、何しろ、毎日のように、昼ばたごから――この旅宿の料理番に直接談判で蟹を食ります。いつも脚のすっとした、ご存じの楚蟹の方ですから、何でも茨を買って帰って――時々話して聞かせます――一寸幅の、ブツ切で、雪間の紅梅という身どころを噛ろうと、家内と徒党をして買ったのですが、年長者に対する礼だか、離すまいという喰心坊だか、分りません。自分で、赤鬼の面という……甲羅を引からげたのを、コオトですか、羽織ですか、とに角紫色の袖にぶら下げた形は――三日月、いや、あれは寒い時雨の降ったり留んだりの日暮方だから、蛇の目とか、宵闇の……とか、渾名のつきそうな容子で。しかし、もみじや、山茶花の枝を故と持って、悪く気取って歩行くよりはましだ、と私が思うより、売ってくれた阿媽の……栄螺を拳で割りそうなのが見兼ねましてね、(笊一枚散財さっせい、二銭か、三銭だ、目の粗いのでよかんべい。)……いきなり、人混みと、ぬかるみを、こね分けて、草鞋で飛出して、(さあさあ山媽々が抱いて来てやったぞ)と、其処らの荒物屋からでしょう、目笊を一つ。おどけて頭へも被らず、汚れた襟のはだかった、胸へ、両手で抱いて来ましたのは、形はどうでも、女ごころは優しいものだと思った事です。」  客僧は、言うも、聞くも、奇特と思ったように頷いた。 「値をききました始めから、山媽々が、品は受合うぞの、山媽々が、今朝しらしらあけに、背戸の大釜でうで上げたの、山媽々が、たった今、お前さんたちのような、東京ものだろう、旅の男に、土産にするで三疋売ったなどと、猛烈に饒舌るのです。――背戸で、蟹をうでるなら、浜の媽々でありそうな処を、おかしい、と婦どもも話したのですが。――山だの――浜だの、あれは市の場所割の称えだそうで、従って、浜の娘が松茸、占地茸を売る事になりますのですね。」 「さようで。」  と云って、客僧は、丁寧にまたうなずいた。 「すぐ電車で帰りましょうと、大通……辻へ出ますと、電車は十文字に往来する。自動車、自転車。――人の往来は織るようで、申しては如何ですが、唯表側だけでしょうけれど、以前は遠く視められました、城の森の、石垣のかわりに、目の前に大百貨店の電燈が、紅い羽、翠の鏃の千の矢のように晃々と雨道を射ています。魚市の鯛、蝶、烏賊蛸を眼下に見て、薄暗い雫に――人の影を泳がせた処は、喜見城出現と云った趣もありますが。  また雨になりました。  電燈のついたばかりの、町店が、一軒、檐下のごく端近で、大蜃の吹出したような、湯気をむらむらと立てると、蒸籠から簀の子へぶちまけました、うまそうな、饅頭と、真黄色な?……」 「いが餅じゃ、ほうと、……暖い、大福を糯米でまぶしたあんばい、黄色う染めた形ゆえ、菊見餅とも申しますが。」 「ああ、いが餅……菊見餅……」 「黒餡の安菓子……子供だまし。……詩歌にお客分の、黄菊白菊に対しては、聊か僭上かも知れぬのでありますな。」  と骨ばった、しかし細い指を、口にあてて、客僧は軽く咳いた。 「――一別以来、さて余りにもお久しい。やがて四十年ぶり、初めてのあなたに、……ただ心ばかり、手づくりの手遊品を、七つ八つごろのお友だち、子供にかえった心持で持参しました。これをば、菊細工、菊人形と、今しがた差出て名告りはしましたものの、……お話につけてもお恥かしい。中味は安餡の駄菓子、まぶしものの、いが細工、餅人形とも称えますのが適当なのでありましたよ。」  寛いだ状に袖を開いて、胸を斜に見返った。卓子台の上に、一尺四五寸まわり白木の箱を、清らかな奉書包、水引を装って、一羽、紫の裏白蝶を折った形の、珍らしい熨斗を添えたのが、塵も置かず、据えてある。  穂坂は一度取って量を知った、両手にすっと軽く、しかし恭しく、また押戴いて据直した。 「飛でもないお言葉です。――何よりの品と申して、まだ拝見をいたしません。――頂戴をしますと、そのまた、玉手箱以上、あけて見たいのは山々でございました。が、この熨斗、この水引、余りお見事に遊ばした。どうにか絵の具は扱いますが、障子もはれない不器用な手で、しかもせっかちのせき心、引き毮りでもしましては余りに惜い。蟹を噛るのは難ですが、優しい娘ですから、今にも帰りますと、せめて若いものの手で扱わせようと存じまして、やっとがまんをしましたほどです。」  ――話に機かけをつけるのではない。ごめん遊ばせと、年増の女中が、ここへ朱塗の吸物膳に、胡桃と、鶇、蒲鉾のつまみもので。……何の好みだか、金いりの青九谷の銚子と、おなじ部厚な猪口を伏せて出た。飲みてによって、器に説はあろうけれども、水引に並べては、絵の秋草もふさわしい。卓子台の上は冬の花野で、欄間越の小春日も、朗かに青く明るい。――客僧の墨染よ。 「一献頂戴の口ではいかがですか、そこで、件の、いが餅は?」  一車は急しく一つ手酌して、 「子供のうち大好きで、……いやお話がどうも、子供になります。胎毒ですか、また案じられた種痘の頃でしたか、卯辰山の下、あの鶯谷の、中でも奥の寺へ、祖母に手を引れては参詣をしました処、山門前の坂道が、両方森々とした樹立でしょう。昼間も、あの枝、こっちの枝にも、頭の上で梟が鳴くんです。……可恐い。それに歩行かせられるのに弱って、駄々をこねますのを(七日まいり、いが餅七つ。)と、すかされるので、(七日まいり、いが餅七つ。)と、唄に唄って、道草に、椎や、団栗で数とりをした覚えがあります。それなんですから。……  ほかほかと時雨の中へ――餅よりは黄菊の香で、兎が粟を搗いたようにおもしろい。あれはうまい、と言いますと、電車を待って雨宿りをしていたのが、傘をざらりと開けて、あの四辻を饅頭屋へ突切ったんです。――家内という奴が、食意地にかけては、娘にまけない難物で、ラジオででも覚えたんでしょう。球も鞠も分らない癖に、ご馳走を取込むせつは相競って、両選手、両選手というんですから。いが餅、饅頭の大づつみを、山媽々の籠の如くに抱いて戻ると、来合わせた電車――これが人の瀬の汐時で、波を揉合っていますのに、晩飯前で腹はすく、寒し……大急ぎで乗ったのです。処が、並んで真中へ立ちました。近くに居ると、頬辺がほてるくらい、つれの持った、いが、饅頭が、ほかりと暖い。暖いどころか、あつつ、と息を吹く次第で。……一方が切符を買うのに、傘は私が預り、娘が餅の手がわりとなる、とどうでしょう。薄ゴオトで澄ましたはいいが、裙をからげて、長襦袢の紅入を、何と、引さばいたように、赤うでの大蟹が、籠の目を睨んで、爪を突張る……襟もとからは、湯上りの乳ほどに、ふかしたての餅の湯気が、むくむくと立昇る。……いやアたなびく、天津風、雲の通路、といったのがある。蟹に乗ってら、曲馬の人魚だ、といううちに、その喜見城を離れて行く筈の電車が、もう一度、真下の雨に漾って、出て来た魚市の方へ馳るのです。方角が、方角が違ったぞ、と慌てる処へ、おっぱいが飲みたい、とあびせたのがあります。耳まで真赤になる処を、娘の顔が白澄んで青味が出て来た。狐につままれたか知ら、車掌さん済みませんが乗りかえを、と家内のやつが。人のいい車掌でした。……黙って切ってくれて、ふふふんと笑うと、それまで堪えていたらしい乗客が一斉に哄と吹出したじゃありませんか。次の停車場へ着くが早いか、真暗三宝です。飛降同然。――処が肝心の道案内の私に、何処だか町が分りません。どうやら東西だけは分っているようですけれども、急に暗くなった処へ、ひどい道です。息休めの煙草の火と、暗い町の燈が、うろつく湯気に、ふわふわ消えかかる狐火で、心細く、何処か、自動車、俥宿はあるまいかと、また降出した中を、沼を拾う鷺の次第――古外套は鷭ですか。――ええ電車、電車飛でもない、いまのふかし立ての饅頭の一件ですもの。やっと、自動車で宿へ帰って――この、あなた、隣の室で、いきなり、いが餅にくいつくと、あ熱、……舌をやけどしたほどですよ。で、その自動車が、町の角家で見つかりました時、夜目に横町をすかしますと、真向うに石の鳥居が見えるんです。呆れもしない、何の事です。……あなたと、ご一所、私ども、氏神様の社なんじゃありませんか。三羽、羽掻をすくめてまごついた処は、うまれた家の表通りだったのですから……笑事じゃありません。些と変です。変に、気味が悪い。尤も、当地へ着きますと、直ぐ翌日、さいわい、誂えたような好天気で、歩行くのに、ぼっと汗ばみますくらい、雛が巣に返りました、お鳥居さきから、帽も外套も脱いでお参りをしたのです。が、拝殿の、階の、あの擬宝珠の裂けた穴も昔のままで、この欄干を抱いて、四五尺、辷ったり、攀登ったか、と思うと、同じ七つ八つでも、四谷あたりの高い石段に渡した八九間の丸太を辷って、上り下りをする東京は、広いものです。それだけ世渡りに骨が折れます訳だと思います。いや、……その時参詣をしていましたから、気安めにはなりましたものの、実は、ふかし立ての餅菓子と茨蟹で電車などは、些と不謹慎だったのですから。」 「それも旅の一興。」  と、客僧は、忍辱の手をさしのべて、年下の画工を、撫でるように言ったのである。 「が、しかし、故郷に対して、礼を失したかも知れません。ですから、氏神、本殿の、名剣宮は、氏子の、こんな小僧など、何を刎ねようと、蜻蛉が飛んでるともお心にはお掛けなさいますまい。けれども、境内のお末社には、皆が存じた、大分、悪戯ずきなのがおいでになります。……奥の院の、横手を、川端へ抜けます、あのくらがり坂へ曲る処……」 「はあ、稲荷堂。――」 「すぐ裏が、あいもかわらず、崩れ壁の古い土塀――今度見ました時も、落葉が堆く、樹の茂りに日も暗し、冷い風が吹きました。幅なら二尺、潜り抜け二間ばかりの処ですが、御堂裏と、あの塀の間は、いかなるわんぱくと雖も、もぐる事は措き、抜けも、くぐりも絶対に出来なかった。……思出しても気味の悪い処ですから、耳は、尖り、目は、たてに裂けたり、というのが、じろりと視て、穂坂の矮小僧、些と怯かして遣ろう、でもって、魚市の辻から、ぐるりと引戻されたろうと、……ですね、ひどく怯えなければならない処でした。何しろ、昔から有名な、お化稲荷。……」  と、言いかけると、清く頬のやせた客僧が、掌を上げて、またニコリとしながら、頭を一つ、つるりと撫でた。 「われは化けたと思えども、でござろうかな。……彼処を、礼さん。」――  急に親しく、画工を、幼名に呼びかけて、 「はて、彼処をさように魔所あつかい、おばけあつかいにされましてはじゃ、この似非坊主、白蔵主ではなけれども、尻尾が出そうで、擽っとうてならんですわ。……口上で申通じたばかり、世外のものゆえ、名刺の用意もしませず――住所もまだ申さなんだが、実は、あの稲荷の裏店にな、堂裏の崩塀の中に住居をします。」  という、顔の色が、思いなしでも何でもない、白樺の皮に似て、由緒深げに、うそ寂しい。  が、いよいよ柔和に、温容で、 「じゃが、ご心配ないようにな、暗い冷い処ではありません――ほんの掘立の草の屋根、秋の虫の庵ではありますが、日向に小菊も盛です。」  と云って、墨染の袖を、ゆったりと合わせた。――さて聞けば、堂裏のそのくずれ塀の穴から、前日、穂坂が、くらがり坂を抜けたのを見たのだという。時に、日あたりの障子の白さが、その客僧の頬に影を積んで、むくむくと白い髯さえ生えたように見える。官吏もした、銀行に勤めもした――海外の貿易に富を積んだ覚えもある。派手にも暮らし、寂しくも住み、有為転変の世をすごすこと四十余年、兄弟とも、子とも申さず、唯血族一統の中に、一人、海軍の中将を出したのを、一生の思出に、出離隠遁の身となんぬ。世には隠れたれども、土地、故郷の旧顔ゆえ、いずれ旅店にも懇意がある。それぞれへ聞合わせて、あまりの懐しさに、魚市の人ごみにも、電車通りの雑沓にも、すぎこしかたの思出や、おのが姿を、化けた尻尾の如く、うしろ姿に顧み、顧み、この宿を訪ねたというのである。  一車は七日逗留した。――今夜立って帰京する……既に寝台車も調えた。荷造りも昨夜かたづけた。ゆっくりと朝餉を済まして、もう一度、水の姿、山の容を見に出よう。さかり場を抜けながら。で、婦は、もう座敷を出かかった時であった。  女中が来て、お目にかかりたいお人がある……香山の宗参――と伝えて、と申されました、という。……宗さん――余りの思掛けなさに、一車は真昼に碧い星を見る思がしたそうである。いや、若じにをされて、はやくわかれた、母親の声を、うつくしく、かすかな、雲間から聞く思いがした、と言うのである。玉の緒の糸絶えておよそ幾十年の声であろう。香山の宗さん――自分で宗さんと名のるのも、おかしいといえばおかしい……あとで知れた、僧名、宗参との事であるが、この名は、しかも、幼い時の記憶のほか、それ以来の環境、生活、と共に、他人に呼び、自分に語る機会と云っては実に一度もなかった。だから、なき母からすぐに呼続がれたと同じに思った。香山の宗さん。宗さんと、母親の慈愛の手から、学校にも、あそびにも、すぐにその年上の友だちの手にゆだねられるのがならいだったからである。念のために容子を聞くと、年紀は六十近い、被布を着ておらるるが、出家のようで、すらりと痩せた、人品の好い法体だという。騎馬の将軍というより、毛皮の外套の紳士というより、遠く消息の断えた人には、その僧形が尚お可懐い。「ああ、これは――小学校へ通いはじめに、私の手を曳いてつれてってくれた、町内の兄哥だ。」と、じとじとと声がしめると、立がけの廊下から振返って、「おばさんと手をひかれるのとどっち?」「……」と呆れた顔して、「おばさんに聞いてごらん。」「じゃあ、私と、どっち。」どうも、そういう外道は、速かに疎遠して、僧形の餓鬼大将を迎えるに限る。……。  女どもを出掛けさせ、慌しく一枚ありあわせの紋のついた羽織を引掛け、胸の紐を結びもあえず、恰も空いていたので、隣の上段へ招じたのであった。 「――特に、あの御堂は、昔から神体がわかりません。……第一何と申すか、神名がおありなさらないのでありましてな、唯至って古い、一面の額に、稲荷明神――これは誰が見ても名書であります。惜い事に、雨露、霜雪に曝され、蝕もあり、その額の裏に、彩色した一叢の野菊の絵がほのかに見えて、その一本の根に(きく)という仮名があります。これが願主でありますか――或は……いや実は仔細あって、右の額は、私が小庵に預ってありましてな、内々で、因縁いわれを、朧気ながら存ぜぬでもありませぬじゃが、日短と申し、今夕はおたちと言う、かく慌しい折には、なかなか申尽されますまい。……と申す下から……これはまた種々お心づかいで、第一、鯛ひらめの白いにもいたせ、刺身を頬張った口からは、些と如何かと存じますので――また折もありましょうと存じますが、ともかく、祭られましたは、端麗な女体じゃ、と申します。秘密の儀で。……  さて、随縁と申すは、妙なもので、あなたはその頃、鬼ごっこ、かくれん坊――勿論、堂裏へだけはお入りなさらなかったであろうが、軍ごっこ。棕櫚箒の朽ちたのに、溝泥を掻廻して……また下水の悪い町内でしたからな……そいつを振廻わすのが、お流儀でしたな。」 「いや、どうも……」 「ははは、いやどうも、あの車がかりの一術には、織田、武田。……子供どころか、町中が大辟易。いつも取鎮め役が、五つ、たしか五つと思います、年上の私でしてな。かれこれ、お覚えはあるまいけれども、町内の娘たちが、よく朝晩、あのお堂へ参詣をしたものです。その女体にあやかったのと、また、直接に申すのも如何じゃけれど、あなたのお母さんが、ご所有だった――参勤交代の屋敷方は格別、町屋には珍らしい、豊国、国貞の浮世絵――美人画。それを間さえあれば見に集る……と、時に、その頃は、世なみがよく、町も穏で、家々が皆相応にくらしていましたから、縞、小紋、友染、錦絵の風俗を、そのまま誂えて、着もし、着せたのでもありました。  江戸絵といった、江戸絵の小路と、他町までも申しましたよ。またよく、いい娘さんが揃っていました。(高松のお藤さん)(長江のお園さん、お光さん)医師の娘が三人揃って、(百合さん)(婦美さん)(皐月さん)歯を染めたのでは、(お妾のお妻さん)(割鹿の子のお京さん)――極彩色の中の一人、(薄墨の絵のお銀さん)――小銀のむかし話を思わせます――継子ではないが、預り娘の掛人居候。あ、あ、根雪の上を、その雪よりも白い素足で、草履ばきで、追立て使いに、使いあるき。それで、なよなよとして、しかも上品でありました。その春の雪のような膚へ――邪慳な叔父叔母に孝行な真心が、うっすりと、薄紅梅の影になって透通る。いや、お話し申すうちにも涙が出ますが、間もなくあわれに消えられました。遠国へな。――お覚えはありませんか、よく、礼さん、あなたを抱いた娘ですよ。」 「済まない事です――墓も知りません。」  一車が、聞くうちに、ふと涙ぐんだのを見ると、宗参は、急に陽気に、 「尤も……人形が持てなかった、そのかわりだと思えば宜しい。」 「果報な、羨しい人形です。」 「……果報な人形は、そればかりではありません。あなたを、なめたり、吸ったり、負ってふりまわしたり――今申したお銀さんは、歌麿の絵のような嫋々とした娘でしたが、――まだ一人、色白で、少しふとり肉で、婀娜な娘。……いや、また不思議に、町内の美しいのが、揃って、背戸、庭でも散らず、名所の水の流をも染めないで、皆他国の土となりました。中にも、その婀娜なのは、また妙齢から、ふと魔に攫われたように行方が知れなくなりましたよ。そういう、この私にしても。」  手で圧えた宗参の胸は、庭の柿の梢が陰翳って暗かった。が、溜息は却って安らかに聞こえつつ。 「八方、諸国、流転の末が、一頃、黒姫山の山家在の荒寺に、堂守坊主で居りました時、千箇寺まいり、一人旅の中年の美麗な婦人――町内の江戸絵の中と……先ず申して宜しい。長旅の煩いを、縁あって、貧寺で保養をさせました。起臥の、徒然に、水引の結び方、熨斗の折り方、押絵など、中にも唯今の菊細工――人形のつくり方を、見真似に覚えもし、教えもされましたのが、……かく持参のこの手遊品で。」  卓上を見遣った謙譲な目に、何となく威が見える。 「ものの、化身の如き、本家の婦人の手すさびとは事かわり、口すぎの為とは申せ、見真似の戯れ仕事。菊細工というが、糸だか寄切れだか……ただ水引を、半輪の菊結び、のしがわりの蝶の羽には、ゆかり香を添えました。いや、しばらく。ごらんを促したようで心苦しい、まずしばらく。  ――処で、名剣神社前の、もとの、私どもの横町の錦絵の中で、今の、それ、婀娜一番、という島田髷を覚えていらっしゃろう。あなたの軒ならび三軒目――さよう、さよう、さよう、それ、前夜、あなたが道を違えて、捜したとお話しのじゃ。唯今の自動車屋が、裏へ突抜けにその娘の家でありますわ。」 「ええ、松村の(おきい)さん。」  といって、何故か、はっと息を引いた。 「いや、あれは……子供が、つい呼びいいので、(おきいさん、おきいさん)で通りました。実は、きく、本字で(奇駒)とよませたのだそうでありましたが、いや何しろ――手綱染に花片の散った帯なにかで、しごきにすずを着けて、チリリン……もの静かな町内を、あの娘があるくと直ぐに鳴った――という育ちだから、お転婆でな――  何を……覚えておいでか知らん、大雪の年で、廂まで積った上を、やがて、五歳になろうという、あなたを、半てんおんぶで振って歩行いた。可厭だい、おりよう、と暴れるのを揉んで廻ると、やがてお家の前へ来たというのが、ちょうど廂、ですわ。大な声で、かあちゃん、と呼ぶものだから、二階の障子が開く。――小菊を一束、寒中の事ゆえ花屋の室のかこいですな――仏壇へお供えなさるのを、片手に、半身で立ちなすった、浅葱の半襟で、横顔が、伏目は、特にお優しい。  私は拝借の分をお返ししながら、草双紙の、あれは、白縫でありましたか、釈迦八相でありましたか。……続きをお借り申そうと、行きかかった処でありました。転婆娘が、(あの、白菊と、私の黄ぎくと、どっちがいい、ええ坊や。)――礼さん、あなたが、乗上って、二階の欄干へ、もろ手を上げて、身もだえをしたとお思いなさい。(坊主になって極楽へおいで、)と云った。はて――それが私だと、お誂えでありましたよ。」  一寸言を切った。 「……いうが早いか、何と、串戯にも、脱けかかった脊筋から振上げるように一振り振ったはずみですわ!……いいかげん揉抜いた負い紐が弛んだ処へ、飛上ろうとする勢で、どん、と肩を抜けると、ひっくりかえった。あなたが落ちた。(あら、地獄)と何と思ったか、お奇駒さんが茫然と立ちましたっけが、女の身にすれば、この方が地獄同様。胸を半分、膚が辷って、その肩、乳まで、光った雪よりも白かった。  雪の上じゃ、些とも怪我はありませんけれども、あなた、礼坊は、二階の欄干をかけて、もんどりを打って落ちたに違わぬ。  吃驚して落しなすった、お母さんの手の仏の菊が、枕になって、ああ、ありがたい、その子の頭に敷きましたよ。」  慄然と、肩をすくめると、 「宗さん、宗さん。」  続けて呼んだが、舌が硬ばり、息つぎの、つぎざましに、猪口の手がわなわなふるえた。 「ゆ、ゆめだか、現だかわかり兼ねます。礼吉が、いいかげん、五十近いこの年でありませんと、いきなり、ひっくりかえって、立処に身体が消えたかも分りません。またあなたが、忽ち光明赫燿として雲にお乗りになるのを視たかも知れません。また、もし氏神の、奥境内の、稲荷堂うらの塀の崩れからお出でになったというのが事実だとすると……忽ちこの天井。」  息を詰めて、高く見据えた目に、何の幻を視たろう。 「……この天井から落葉がふって、座敷が真暗になると同時に、あなたの顔……が狐……」 「穏かならず、は、は、は。穏でありませんな。」 「いいえ、いや。……と思うほど、立処に、私は気が狂ったかも知れないと申すのです。」 「また、何故にな。」 「さ、そ、それというのがです。……いうのがです。」 「まま一献まいれ。狐坊主、昆布と山椒で、へたの茶の真似はしまするが、お酌の方は一向なものじゃが、お一つ。」 「……気つけと心得、頂戴します。――承りました事は、はじめてで、まる切り記憶にはないのですけれども、なるほど伺えば、人間生涯のうちに、不思議な星に、再び、出逢う事がありそうに思われます、宗さん……  ――お聞き下さいまし――  落着いて申します。勿論、要点だけですが、あなたは国産の代理店を、昔、東京でなすっておいでだったと承りますし……そんな事は、私よりお悉しいと存じますが、浅草の観世音に、旧、九月九日、大抵十月の中旬過ぎになりますが、その重陽の節、菊の日に、菊供養というのがあります。仲見世、奥山、一帯に売ります。黄菊、白菊、みな小菊を、買っていらっしゃい、買っていらっしゃい、お花は五銭――あの、些と騒々しい呼声さえ、花の香を伝えるほどです。あたりを静に、圧えるばかり菊の薫で、これを手ン手に持って参って、本堂に備えますと、かわりの花を授って帰りますね。のちに蔭干にしたのを、菊枕、枕の中へ入れますと、諸病を払うというのです。  二階の欄干へ飛ぼうとして、宙に、もんどりを打って落ちて、小菊が枕になったという。……頭から悚然としました。――近頃、信心気……ただ恭敬、礼拝の念の、薄くなりはしないかと危ぶまれます、私の身で、もし、一度、仲見世の敷石で仰向けに卒倒しましたら、頭の下に、観世音の菊も、誰の手の葉も枝もなく、行倒れになったでしょう。  いえ、転んだのではないのです、危く、怪しく美しい人を見て、茫然となったのです。大震災の翌年奥山のある料理店に一寸した会合がありまして、それへ参りましたのが、ちょうどその日、菊の日に逢いました。もう仲見世へ向いますと、袖と裾と襟と、まだ日本髷が多いのです。あの辺、八分まで女たちで、行くのも、来るのも、残らず、菊の花を手にしている。折からでした、染模様になるよう、颯と、むら雨が降りました。紅梅焼と思うのが、ちらちらと、もみじの散るようで、通りかかった誰かの割鹿の子の黄金の平打に、白露がかかる景気の――その紅梅焼の店の前へ、お参の帰りみち、通りがかりに、浅葱の蛇目傘を、白い手で、菊を持添えながら、すっと穿めて、顔を上げた、ぞっとするような美人があります。珍らしい、面長な、それは歌麿の絵、といっていい媚めかしい中に、うっとりと上品な。……すぼめた傘は、雨が晴れたのではありません。群集で傘と傘が渋も紺も累り合ったために、その細い肩にさえ、あがきが要ったらしいので。……いずれも盛装した中に、無雑作な櫛巻で、黒繻子の半襟が、くっきりと白い頸脚に水際が立つのです。藍色がかった、おぶい半纏に、朱鷺色の、おぶい紐を、大きく結えた、ほんの不断着と云った姿。で、いま、傘をすぼめると、やりちがえに、白い手の菊を、背中の子供へさしあげました。横に刎ねて、ずり下る子供の重みで、するりと半纏の襟が辷ると、肩から着くずれがして、緋を一文字に衝と引いた、絖のような肌が。」 「ははあ――それは、大宇宙の間に、おなじ小さな花が二輪咲いたと思えば宜しい。」  と、いう、宗参の眉が緊った。 「鬢のはずれの頸脚から、すっと片乳の上、雪の腕のつけもとかけて、大きな花びら、ハアト形の白雪を見たんです。  ――お話につけて思うんです。――何故、その、それだけの姿が、もの狂おしいまで私の心を乱したんでしょうか。――大宇宙に咲く小さな花を、芥子粒ほどの、この人間、私だけが見たからでしょうな。」 「いや些と大きな、坊主でも、それは見たい。」  と、宗参は微笑んだ。  障子の日影は、桟をやや低く算え、欄間の下に、たとえば雪の積ったようである。  鳥影が、さして、消えた。 「しかし、その時の子供は、お奇駒さんの肌からのように落ちはしません。が、やがて、そのために――絵か、恋か、命か、狂気か、自殺か。弱輩な申分ですが、頭を掻毟るようになりまして、――時節柄、この不景気に、親の墓も今はありません、この土地へ、栄耀がましく遊びに参りましたのも、多日、煩らいました……保養のためなのでした。」 「大慈大悲、観世音。おなくなりの母ぎみも、あなたにお疎しかろうとは存ぜぬ。が、その砌、何ぞ怪我でもなさったか。」 「否、その時は、しかも子供に菊を見せながら、艶に莞爾したその面影ばかりをなごりに、人ごみに押隔てられまして、さながら、むかし、菊見にいでたった、いずれか御簾中の行列、前後の腰元の中へ、椋鳥がまぐれたように、ふらふらと分れたんです。  それ切ですが、続けて、二年、三年、五年、ざっと七年目に当ります、一昨年のおなじ菊の日――三度に二度、あの供養は、しぐれ時で、よく降ります。当日は、びしょびしょ降。誰も、雨支度で出ましたが、ゆき来の菊も、花の露より、葉の雫で、気も、しっとりと落着いていました。  ここぞと、心も焦つくような、紅梅焼の前を通過ぎて、左側、銀花堂といいましたか、花簪の前あたりで、何心なく振向くと、つい其処、ついうしろに、ああ、あの、その艶麗な。思わず、私は、突きのめされて二三間前へ出ました。――その婦人が立っていたのです。いや、静に歩行いています。おなじ姿で、おぶい半纏で。  唯、背負紐が、お待ち下さい――段々に、迷いは深くなるようですが――紫と水紅色の手綱染です。……はてな、私をおぶった、お奇駒さんの手綱染を、もしその時知っていましたら……」 「それは、些とむずかしい。」 「承った処では、お奇駒さんの、その婀娜なのと、もう一人の、お銀さんの、品よく澄んで寂しいのと、二人を合わせたような美しさで、一時に魅入ったのでしょう。七年めだのに、些とも、年を。  無論、それだけの美人ですから、年を取ろうとは思いません。が、そのおぶってる子が、矢張り……と云って、二度めの子だか、三度目だか、顔も年も覚えていません。  ――まりやの面を見る時は基督を忘却する――とか、西洋でも言うそうです。  右になり、左になり、横ちがいに曲んだり、こちらは人をよけて、雨の傘越しに、幾度も振返る。おなじ筋を、しかし殆ど真直に、すっと、触るもののないように、その、おぶい半纏の手綱染が通りました。  普請中――唯今は仮堂です。菊をかえて下りましたが、仏前では逢いません。この道よりほかにはない、と額下の角柱に立って、銀杏の根をすかしても、矢大臣門を視めても、手水鉢の前を覗いても、もうその姿は見えません。―― 仏身円満無背相。 十方来人聞万面。」――  宗参が、 「実に、実に。」  と面を正して言った。 「正面の、左右の聯の偈を……失礼ながら、嬉しい、御籤にして、思の矢の的に、線香のたなびく煙を、中の唯一条、その人の来る道と、じっと、時雨にも濡れず白くほろほろとこぼれるまで待ちましたが、すれ違い押合う女連にも、ただ袖の寒くなりますばかり。その伝法院の前を来るまでは見たのですのに、あれから、弁天山へ入るまでの間で、消えたも同じに思われました。」  宗参の眉が動いた。 「はて、通り魔かな。――或類属の。」 「ええ通り魔……」 「いや、先ず……」 「三度めに。」 「さんど……めに……」 「え。」 「なるほど。」 「また、思いがけず逢いましたのが、それが、昨年、意外とも何とも、あなた!……奥伊豆の山の湯の宿なんです。もう開けていて、山深くも何ともありません、四五度行馴れておりますから、谷も水もかわった趣と云ってはありませんが、秋の末……もみじ頃で、谿河から宿の庭へ引きました大池を、瀬になって、崖づくりを急流で落ちます、大巌の向うの置石に、竹の樋を操って、添水――僧都を一つ掛けました。樋の水がさらさらと木の刳りめへかかって一杯になると、ざアと流へこぼれます、拍子を取って、突尖の杵形が、カーン、何とも言えない、閑かな、寂しい、いい音がするんです。其処へ、ちらちらと真紅な緋葉も散れば、色をかさねて、松杉の影が映します。」 「はあ、添水――珍らしい。山田守る僧都の身こそ……何とやら……秋はてぬれば、とう人もなし、とんと、私の身の上でありますが、案山子同様の鹿おどし、……たしか一度、京都、嵯峨の某寺の奥庭で、いまも鹿がおとずれると申して、仕掛けたのを見ました。――水を計りますから、自から同じ間をもって、カーンと打つ……」 「慰みに、それを仕掛けたのは、次平と云って、山家から出ましたが、娑婆気な風呂番で、唯扁平い石の面を打つだけでは、音が冴えないから、と杵の当ります処へ、手頃な青竹の輪を置いたんですから、響いて、まことに透るのです。反橋の渡り廊下に、椅子に掛けたり、欄干にしゃがんだりで話したのですが、風呂番の村の一つ奥、十五六軒の山家には大いのがある。一昼夜に米を三斗五升搗く、と言います。暗の夜にも、月夜にも、添水番と云って、家々から、交代で世話をする……その谷川の大杵添水。筧の水の小添水は、二十一秒、一つカーンだ、と風呂番が言いますが、私の安づもりで十九秒。……旦那、おらが時計は、日に二回、東京放送局の時報に合わせるから、一厘も間違わねえぞ、と大分大形なのを出して威張る。それを、どうこうと、申すわけではありませんけれども。」 「時に、お時間は。」 「つれのものも皈りません。……まだまだ、ご緩り――ちょうど、お銚子のかわりも参りました――さ、おあつい処を――  ――で、まあ、退屈まぎれに、セコンドを合わせながら、湯宿の二階の、つらつらと長い廻り縁――一方の、廊下一つ隔てた一棟に、私の借りた馴染の座敷が流に向いた処にあるのです――この廻縁の一廓は、広く大々とした宿の、累り合った棟の真中処にありまして、建物が一番古い。三方縁で、明りは十分に取れるのですが、余り広いから、真中、隅々、昼間でも薄暗い。……そうでしょう、置敷居で、間を劃って、道具立ての襖が極まれば、十七室一時に出来ると云いますが、新館、新築で、ここを棄てて置くから、中仕切なんど、いつも取払って、畳数凡そ百五六十畳と云う古御殿です。枕を取って、スポンジボオル、枯れなくていい、万年いけの大松を抜いて、(構えました、)を行る。碁盤、将棋盤を分捕って、ボックスと称えますね。夜具蒲団の足場で、ラグビイの十チイムも捻合おう、と云う学生の団体でもないと、殆ど使った事がない。  行く度に、私は其処が、と云って湿りくさい、百何十畳ではないのです。障子外の縁を何処までも一直線に突当って、直角に折れ曲って、また片側を戻って、廊下通りをまたその縁へ出て一廻り……廻ると云うと円味があります、ゆきあたり、ぎくり、ぎゅうぎゅう、ぐいぐいと行ったり、来たり。朝掃除のうち、雨のざんざぶり。夜、女中が片づけものして、床を取ってくれる間、いい散歩で、大好きです。また全館のうち、帳場なり、客室なり、湯殿なり、このくらい、辞儀、斟酌のいらない、無人の境はないでしょう。  が、実は、申されたわけではありませんけれども、そんならといって、瀬の音に、夜寝られぬ、苦しい真夜中に其処を廻り得るか、というと、どういたして……東から南へ真直の一縁だって、いい年をしながら、不気味で足が出ないのです。  峰の、寺の、暮六つの鐘が鳴りはじめた黄昏です。樹立を透かした、屋根あかりに、安時計のセコンドを熟と視る……カーン、十九秒。立停まったり、ゆっくり歩行いたり、十九秒、カーン。行ったり、来たり、カーン。添水ばかり。水の音も途絶えました。  欄干に一枚かかった、朱葉も翻らず、目の前の屋根に敷いた、大欅の落葉も、ハラリとも動かぬのに、向う峰の山颪が颯ときこえる、カーンと、添水が幽に鳴ると、スラリと、絹摺れの音がしました。  東の縁の中ごろです。西の角から曲って出たと思う、ほんのりと白く、おもながな……」 「…………」 「艶々とした円髷で、子供を半纏でおぶったから、ややふっくりと見えるが、背のすらりとしたのが、行違いに、通りざまに、(失礼。)と云って、すっとゆき抜けた、この背負紐が、くっきりと手綱染――あなたに承る前に存じていたら――二階から、私は転げたでしょう。そのかわりに、カーン……ガチリと時計が落ちました。  処が――その姿の、うしろ向きに曲る廊下が、しかも、私の座敷の方、尤も三室並んでいるのですが、あと二室に、客は一人も居ない筈、いや全く居ないのです。  変じゃアありませんか、どういうものか、私の部屋へ入ったような気がする、とそれでいて、一寸、足が淀みました。  腕組みをしてずかずかと皈ると、もとより開放したままの壁に、真黒な外套が影法師のようにかかって、や、魂が黒く抜けたかと吃驚しました。  床の間に、雁来紅を活けたのが、暗く見えて、掛軸に白の野菊……蝶が一羽。」  と云いかけて、客僧のおくりものを、見るともなしに、思わず座を正して、手をつくと、宗参も慇懃に褥を辷ったのである。 「――ですが、裏階子の、折曲るのが、部屋の、まん前にあって、穴のように下廊下へ通うのですから、其処を下りた、と思えば、それ切の事なんです。  世にも稀な……と私が見ただけで、子供をおぶった女は、何も、観世音の菊供養、むら雨の中をばかり通るとは限らない。  女中は口が煩い。――内証で、風呂番に聞いて見ました。――折から閑散期……というが不景気の客ずくなで、全館八十ばかりの座敷数の中に、客は三組ばかり、子供づれなどは一人もない、と言います。尤も私がその婦にすれ違った、昨の日は、名古屋から伊豆まわりの、大がかりな呉服屋が、自動車三台で乗込んで、年に一度の取引、湯の町の女たち、この宿の番頭手代、大勢の女房娘連が、挙って階下の広間へ集りましたから、ふとその中の一人かも知れない、……という事で、それは……ありそうな事でした。――  別して、例の縁側散歩は留められません。……一日おいて、また薄暮合、おなじ東の縁の真中の柱に、屋根の落葉と鼻を突合わせて踞んで、カーン、あの添水を聞き澄んでいたのです。カーン、何だか添水の尖った杵の、両方へ目がついて、じろりと此方を見るように思われる。一人で息をしている私の鼻が小鳥の嘴のように落葉をたたくらしく、カーン、奥歯が鳴るような、夕迫るものの気勢がしますと、呼吸で知れる、添水のくり抜きの水が流を打って、いま杵が上って、カーン、と鳴る。尖って狐に似た、その背に乗って、ひらりと屋根へ上って、欄干を跨いだように思われるまで、突然、縁の曲角へ、あの婦がほんのりと見えました。」 「添水に、婦が乗りましたか、ははあ、私が稲荷明神の額裏を背負ったような形に見えます。」  寸時、顔を見合せた。 「……ええ、約束したものに近寄るように、ためらいも何も敢てせず、すらすらと来て、欄干に手をついて向う峰を、前髪に、大欅に、雪のような顔を向けてならんだのです。見馴れた半纏を着ていません。鎧のようなおぶい半纏を脱いだ姿は、羽衣を棄てた天女に似て、一層なよなよと、雪身に、絹糸の影が絡ったばかりの姿。帯も紐も、懐紙一重の隔てもない、柱が一本あるばかり。……判然と私は言を覚えています。  ――坊ちゃん……ああ、いや、お子さんはどうなさいました。――  ――うっちゃって来ました。言うことをきかないから。……子どもに用はないでしょう――  と云って、莞爾としたんです。  宗さん。  ――菩薩と存じます、魔と思います――  いうが早いか、猛然と、さ、どう気が狂ったのか、分りませんが、踊り蒐って、白い頸を抱きました。が、浮いた膝で、使古しの箱火鉢を置き棄てたのを、したたかに蹈んで、向うのめりに手をついた、ばっと立ったのは灰ですが、唇には菊の露を吸いました。もう暗い、落葉が、からからと黒く舞って、美人は居ません。  這うよりは、立った、立つより、よろけて、確に其処へ隠れたろうと思う障子一重、その百何十畳の中を、野原のように、うろつく目に、茫々と草が生えて、方角も分らず。その草の中に、榜示杭に似た一本の柱の根に、禁厭か、供養か、呪詛か、線香が一束、燃えさしの蝋燭が一挺。何故か、その不気味さといってはなかったのです。  部屋へ皈って、仰向けに倒れた耳に、添水がカーンと聞こえました。杵の長い顔が笑うようです。渓流の上に月があって。――  また変に……それまでは、二方に五十六枚ずつか――添水に向いた縁は少し狭い――障子が一枚なり、二枚なり、いつも開いていたのが、翌日から、ぴたりと閉りました。めったに客は入れないでも、外見上、其処は体裁で、貼りかえない処も、切張がちゃんとしてある。私は人目を憚りながら、ゆきかえり、長々とした四角なお百度をはじめるようになったんです。  ――お百度、百万遍、丑の時参……ま、何とも、カーン、添水の音を数取りに、真夜中でした。長い縁は三方ともに真の暗やみです。何里歩行いたとも分らぬ気がして、一まわり、足を摺って、手探りに遥々と渡って来ますと、一歩上へ浮いてつく、その、その蹈心地。足が、障子の合せ目に揃えて脱いだ上草履にかかった……当ったのです。その蹈心地。ほんのりと人肌のぬくみがある。申すも憚られますが、女と一つ衾でも、この時くらい、人肌のしっとりとした暖さを感じた覚えがありません。全身湯を浴びて、香ばしい汗になった。ふるえたか、萎えたか、よろよろになった腰を据えて、障子の隙間へ目をあてて、熟と、くらやみの大広間を覗きますと、影のように、ああ、女の形が、ものの四五十人もあって、ふわふわと、畳を離れて、天井の宙に浮いている。帯、袖、ふらりと下った裾を、幾重、何枚にも越した奥に、蝋燭と思う、小さな火が、鉛の沼のような畳に見える。それで、幽に、朦朧と、ものの黒白がわかるのです。これに不思議はありません。柱から柱へ幾条ともなく綱を渡して、三十人以上居る、宿の女中たちの衣類が掛けてあったんです。帯も、扱帯も、長襦袢、羽織はもとより……そういえば、昼間時々声が交って、がやがやと女中たちが出入りをしました。買込んだ呉服の嬉しさ次手に、箪笥を払った、隙ふさげの、土用干の真似なんでしょう。  活花の稽古の真似もするのがあって、水際、山懐にいくらもある、山菊、野菊の花も葉も、そこここに乱れていました。  どの袖、どの袂から、抜けた女の手ですか、いくつも、何人も、その菊をもって、影のようにゆききをし出した、と思う中に、ふっと浮いて、鼻筋も、目も、眉も、あでやかに、おぶい半纏も、手綱染も、水際の立ったのは、婀娜に美しい、その人です。  どうでしょう、傘まで天井に干した、その下で、熟と、此方を、私を見たと思うと、撫肩をくねって、媚かしく、小菊の枝で一寸あやしながら、  ――坊や――(背に子供が居ました。)いやなおじさんが……あれ、覗く、覗く、覗くよう――  と、いう、肩ずれに雪の膚が見えると、負われて出た子供の顔が、無精髯を生した、まずい、おやじの私の面です。莞爾とその時、女が笑った唇が、縹色に真青に見えて、目の前へ――あの近頃の友染向にはありましょう、雁来紅を肩から染めた――釣り下げた長襦袢の、宙にふらふらとかかった、その真中へ、ぬっと、障子一杯の大きな顔になって、私の胸へ、雪の釣鐘ほどの重さが柔々と、ずしん! とかかった。  東京から人を呼びます騒ぎ、仰向けに倒れた、再び、火鉢で頸窪を打ったのです。」 「また、お煩らいになるといかん。四十年来のおくりもの、故と持参しましたが、この菊細工の人形は、お話の様子によって、しばらくお目に掛けますまい。」  引抱えて立った、小脇の奉書包は、重いもののように見えた。宗参の脊が、すっくと伸びると、熨斗の紫の蝶が、急いで包んだ風呂敷のほぐれめに、霧を吸って高く翻ったのである。  階子段の下で、廊下を皈る、紫のコオトと、濃いお納戸にすれ違ったが、菊人形に、気も心も奪われて、言をかける隙もない。  玄関で見送って、尚おねだりがましく、慕って出ると、前の小川に橋がある。門の柳の散る中に、つないだ駒はなかったが、細流を織る木の葉は、手綱の影を浮かして行く……流に添った片側の長い土塀を、向うに隔たる、宗参法師は、間近ながら遥々と、駅路を過ぐる趣して、古鼠の帽子の日向が、白髪を捌いたようである。真白な遠山の頂は、黒髪を捌いたような横雲の見えがくれに、雪の駒の如く駈けた。  名剣神社の拝殿には、紅の袴の、お巫子が二人、かよいをして、歌の会があった。  社務所で、神職たちが、三人、口を揃えて、 「大先生。」――  この同音は、一車を瞠若たらしめた。 「大先生は、急に思立ったとありまして……ええ、黒姫山へ――もみじを見に。」―― 「あら、おじさん。」  娘の手が、もう届く。……外套の袖を振切って、いか凧が切れたように、穂坂は、すとんと深更の停車場に下りた。急行列車が、その黒姫山の麓の古駅について、まさに発車しようとした時である。  その手が、燗をつけてくれた魔法瓶、さかなにとて、膳のをへずった女房の胡桃にも、且つ心を取られた、一所にたべようと、今しがた買った姫上川の鮎の熟鮓にも、恥ずべし、涙ぐましい思をしつつ、その谿谷をもみじの中へ入って行く、残ンの桔梗と、うら寂しい刈萱のような、二人の姿の、窓あかりに、暗くせまったのを見つつ、乗放して下りた、おなじ処に、しばらく、とぼんと踞んでいた。  しかし、峰を攀じ、谷を越えて、大宗参の菊細工を見ることが出来たら、或は、絵のよい題材を得ようも知れない。
底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日第1刷発行 初出:「文藝春秋」    1932(昭和7)年1月号 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2015年10月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048396", "作品名": "菊あわせ", "作品名読み": "きくあわせ", "ソート用読み": "きくあわせ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文藝春秋」1932(昭和7)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2015-11-10T00:00:00", "最終更新日": "2015-10-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48396.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2006(平成18)年10月10日", "入力に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "坂本真一", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48396_ruby_57445.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-10-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48396_57482.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-10-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。  賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。  七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、 「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」  甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、 「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」  沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、 「ものは可試だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴きません」  かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。 「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」  奴は昂然として、 「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」 「なんだね、しゃらくさい」  微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。  その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。  これはたして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に※(月+因)脂のみを点したり。服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。  挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。  馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈帽子を阿弥陀に被りて、踏ん跨ぎたる膝の間に、茶褐色なる渦毛の犬の太くたくましきを容れて、その頭を撫でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音を聞くと斉しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。  渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。陋しげに日に黧みたる面も熟視れば、清※(目+盧)明眉、相貌秀でて尋常ならず。とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。  御者は書巻を腹掛けの衣兜に収め、革紐を附けたる竹根の鞭を執りて、徐かに手綱を捌きつつ身構うるとき、一輛の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠めて、瞬く間に一点の黒影となり畢んぬ。  美人はこれを望みて、 「おい小僧さん、腕車よりおそいじゃないか」  奴のいまだ答えざるに先だちて、御者はきと面を抗げ、かすかになれる車の影を見送りて、 「吉公、てめえまた腕車より疾えといったな」  奴は愛嬌よく頭を掻きて、 「ああ、言った。でもそう言わねえと乗らねえもの」  御者は黙して頷きぬ。たちまち鞭の鳴るとともに、二頭の馬は高く嘶きて一文字に跳ね出だせり。不意を吃いたる乗り合いは、座に堪らずしてほとんど転び墜ちなんとせり。奔馬は中を駈けて、見る見る腕車を乗っ越したり。御者はやがて馬の足掻きを緩め、渠に先を越させぬまでに徐々として進行しつ。  車夫は必死となりて、やわか後れじと焦れども、馬車はさながら月を負いたる自家の影のごとく、一歩を進むるごとに一歩を進めて、追えども追えども先んじがたく、ようよう力衰え、息逼りて、今や殪れぬべく覚ゆるころ、高岡より一里を隔つる立野の駅に来たりぬ。  この街道の車夫は組合を設けて、建場建場に連絡を通ずるがゆえに、今この車夫が馬車に後れて、喘ぎ喘ぎ走るを見るより、そこに客待ちせる夥間の一人は、手に唾して躍り出で、 「おい、兄弟しっかりしなよ。馬車の畜生どうしてくりょう」  やにわに対曳きの綱を梶棒に投げ懸くれば、疲れたる車夫は勢いを得て、 「ありがてえ! 頼むよ」 「合点だい!」  それと言うまま挽き出だせり。二人の車夫は勇ましく相呼び相応えつつ、にわかに驚くべき速力をもて走りぬ。やがて町はずれの狭く急なる曲がりかどを争うと見えたりしが、人力車は無二無三に突進して、ついに一歩を抽きけり。  車夫は諸声に凱歌を揚げ、勢いに乗じて二歩を抽き、三歩を抽き、ますます馳せて、軽迅丸の跳るがごとく二、三間を先んじたり。  向者は腕車を流眄に見て、いとも揚々たりし乗り合いの一人は、 「さあ、やられた!」と身を悶えて騒げば、車中いずれも同感の色を動かして、力瘤を握るものあり、地蹈韛を踏むもあり、奴を叱してしきりに喇叭を吹かしむるもあり。御者は縦横に鞭を揮いて、激しく手綱を掻い繰れば、馬背の流汗滂沱として掬すべく、轡頭に噛み出だしたる白泡は木綿の一袋もありぬべし。  かかるほどに車体は一上一下と動揺して、あるいは頓挫し、あるいは傾斜し、ただこれ風の落ち葉を捲き、早瀬の浮き木を弄ぶに異ならず。乗り合いは前後に俯仰し、左右に頽れて、片時も安き心はなく、今にもこの車顛覆るか、ただしはその身投げ落とさるるか。いずれも怪我は免れぬところと、老いたるは震い慄き、若きは凝瞳になりて、ただ一秒ののちを危ぶめり。  七、八町を競争して、幸いに別条なく、馬車は辛くも人力車を追い抽きぬ。乗り合いは思わず手を拍ちて、車も憾くばかりに喝采せり。奴は凱歌の喇叭を吹き鳴らして、後れたる人力車を麾きつつ、踏み段の上に躍れり。ひとり御者のみは喜ぶ気色もなく、意を注ぎて馬を労り駈けさせたり。  怪しき美人は満面に笑みを含みて、起伏常ならざる席に安んずるを、隣たる老人は感に堪えて、 「おまえさんどうもお強い。よく血の道が発りませんね。平気なものだ、女丈夫だ。私なんぞはからきし意気地はない。それもそのはずかい、もう五十八だもの」  その言の訖わらざるに、車は凸凹路を踏みて、がたくりんと跌きぬ。老夫は横様に薙仆されて、半ば禿げたる法然頭はどっさりと美人の膝に枕せり。 「あれ、あぶない!」  と美人はその肩をしかと抱きぬ。  老夫はむくむく身を擡げて、 「へいこれは、これはどうもはばかり様。さぞお痛うございましたろう。御免なすってくださいましよ。いやはや、意気地はありません。これさ馬丁さんや、もし若い衆さん、なんと顛覆るようなことはなかろうの」  御者は見も返らず、勢籠めたる一鞭を加えて、 「わかりません。馬が跌きゃそれまででさ」  老夫は眼を円くして狼狽えぬ。 「いやさ、転ばぬ前の杖だよ。ほんにお願いだ、気を着けておくれ。若い人と違って年老のことだ、放り出されたらそれまでだよ。もういいかげんにして、徐々とやってもらおうじゃないか。なんと皆さんどうでございます」 「船に乗れば船頭任せ。この馬車にお乗んなすった以上は、わたしに任せたものとして、安心しなければなりません」 「ええ途方もない。どうして安心がなるものか」  呆れはてて老夫は呟けば、御者ははじめて顧みつ。 「それで安心ができなけりゃ、御自分の脚で歩くです」 「はいはい。それは御深切に」  老夫は腹だたしげに御者の面を偸視せり。  後れたる人力車は次の建場にてまた一人を増して、後押しを加えたれども、なおいまだ逮ばざるより、車夫らはますます発憤して、悶ゆる折から松並み木の中ほどにて、前面より空車を挽き来たる二人の車夫に出会いぬ。行き違いさまに、綱曳きは血声を振り立て、 「後生だい、手を仮してくんねえか。あの瓦多馬車の畜生、乗っ越さねえじゃ」 「こっとらの顔が立たねえんだ」と他の一箇は叫べり。  血気事を好む徒は、応と言うがままにその車を道ばたに棄てて、総勢五人の車夫は揉みに揉んで駈けたりければ、二、三町ならずして敵に逐い着き、しばらくは相並びて互いに一歩を争いぬ。  そのとき車夫はいっせいに吶喊して馬を駭ろかせり。馬は懾えて躍り狂いぬ。車はこれがために傾斜して、まさに乗り合いを振り落とさんとせり。  恐怖、叫喚、騒擾、地震における惨状は馬車の中に顕われたり。冷々然たるはひとりかの怪しき美人のみ。  一身をわれに任せよと言いし御者は、風波に掀翻せらるる汽船の、やがて千尋の底に汨没せんずる危急に際して、蒸気機関はなお漾々たる穏波を截ると異ならざる精神をもって、その職を竭くすがごとく、従容として手綱を操り、競争者に後れず前まず、隙だにあらば一躍して乗っ越さんと、睨み合いつつ推し行くさまは、この道堪能の達者と覚しく、いと頼もしく見えたりき。  されども危急の際この頼もしさを見たりしは、わずかにくだんの美人あるのみなり。他はみな見苦しくも慌て忙きて、あまたの神と仏とは心々に祷られき。なおかの美人はこの騒擾の間、終始御者の様子を打ち瞶りたり。  かくて六箇の車輪はあたかも同一の軸にありて転ずるごとく、両々相並びて福岡というに着けり。ここに馬車の休憩所ありて、馬に飲い、客に茶を売るを例とすれども、今日ばかりは素通りなるべし、と乗り合いは心々に想いぬ。  御者はこの店頭に馬を駐めてけり。わが物得つと、車夫はにわかに勢いを増して、手を揮り、声を揚げ、思うままに侮辱して駈け去りぬ。  乗り合いは切歯をしつつ見送りたりしに、車は遠く一団の砂煙に裹まれて、ついに眼界のほかに失われき。  旅商人体の男は最も苛ちて、 「なんと皆さん、業肚じゃございませんか。おとなげのないわけだけれど、こういう行き懸かりになってみると、どうも負けるのは残念だ。おい、馬丁さん、早く行ってくれたまえな」 「それもそうですけれどもな、老者はまことにはやどうも。第一この疝に障りますのでな」  と遠慮がちに訴うるは、美人の膝枕せし老夫なり。馬は群がる蠅と虻との中に優々と水飲み、奴は木蔭の床几に大の字なりに僵れて、むしゃむしゃと菓子を吃らえり。御者は框に息いて巻き莨を燻しつつ茶店の嚊と語りぬ。 「こりゃ急に出そうもない」と一人が呟けば、田舎女房と見えたるがその前面にいて、 「憎々しく落ち着いてるじゃありませんかね」  最初の発言者はますます堪えかねて、 「ときに皆さん、あのとおり御者も骨を折りましたんですから、お互い様にいくらか酒手を奮みまして、もう一骨折ってもらおうじゃございませんか。なにとぞ御賛成を願います」  渠は直ちに帯佩げの蟇口を取り出して、中なる銭を撈りつつ、 「ねえあなた、ここでああ惰けられてしまった日には、仏造って魂入れずでさ、冗談じゃない」  やがて銅貨三銭をもって隗より始めつ。帽子を脱ぎてその中に入れたるを、衆人の前に差し出して、渠はあまねく義捐を募れり。  あるいは勇んで躍り込みたる白銅あり。あるいはしぶしぶ捨てられたる五厘もあり。ここの一銭、かしこの二銭、積もりて十六銭五厘とぞなりにける。  美人は片すみにありて、応募の最終なりき。隗の帽子は巡回して渠の前に着せるとき、世話人は辞を卑うして挨拶せり。 「とんだお附き合いで、どうもおきのどく様でございます」  美人は軽く会釈するとともに、その手は帯の間に入りぬ。小菊にて上包みせる緋塩瀬の紙入れを開きて、渠はむぞうさに半円銀貨を投げ出だせり。  余所目に瞥たる老夫はいたく驚きて面を背けぬ、世話人は頭を掻きて、 「いや、これは剰銭が足りない。私もあいにく小かいのが……」  と腰なる蟇口に手を掛くれば、 「いいえ、いいんですよ」  世話人は呆れて叫びぬ。 「これだけ? 五十銭!」  これを聞ける乗り合いは、さなきだに、何者なるか、怪しき別品と目を着けたりしに、今この散財の婦女子に似気なきより、いよいよ底気味悪く訝れり。  世話人は帽子を揺り動かして銭を鳴らしつつ、 「〆て金六十六銭と五厘! たいしたことになりました。これなら馬は駈けますぜ」  御者はすでに着席して出発の用意せり。世話人は酒手を紙に包みて持ち行きつ。 「おい、若い衆さん、これは皆さんからの酒手だよ。六十六銭と五厘あるのだ。なにぶんひとつ奮発してね。頼むよ」  渠は気軽に御者の肩を拊きて、 「隊長、一晩遊べるぜ」  御者は流眄に紙包みを見遣りて空嘯きぬ。 「酒手で馬は動きません」  わずかに五銭六厘を懐にせる奴は驚きかつ惜しみて、有意的に御者の面を眺めたり。好意を無にせられたる世話人は腹立ちて、 「せっかく皆さんが下さるというのに、それじゃいらないんだね」  車は徐々として進行せり。 「戴く因縁がありませんから」 「そんな生意気なことを言うもんじゃない。骨折り賃だ。まあ野暮を言わずに取っときたまえてことさ」  六十六銭五厘はまさに御者のポケットに闖入せんとせり。渠は固く拒みて、 「思し召しはありがとうございますが、規定の賃銭のほかに骨折り賃を戴く理由がございません」  世話人は推し返されたる紙包みを持て扱いつつ、 「理由も糸瓜もあるものかな。お客が与るというんだから、取っといたらいいじゃないか。こういうものを貰って済まないと思ったら、一骨折って今の腕車を抽いてくれたまえな」 「酒手なんぞは戴かなくっても、十分骨は折ってるです」  世話人は冷笑いぬ。 「そんなりっぱな口を※(口+世)いたって、約束が違や世話はねえ」  御者はきと振り顧りて、 「なんですと?」 「この馬車は腕車より迅いという約束だぜ」  儼然として御者は答えぬ。 「そんなお約束はしません」 「おっと、そうは言わせない。なるほど私たちにはしなかったが、この姉さんにはどうだい。六十六銭五厘のうち、一人で五十銭の酒手をお出しなすったのはこのかただよ。あの腕車より迅く行ってもらおうと思やこそ、こうして莫大な酒手も奮もうというのだ。どうだ、先生、恐れ入ったか」  鼻蠢かして世話人は御者の背を指もて撞きぬ。渠は一言を発せず、世話人はすこぶる得意なりき。美人は戯るるがごとくに詰れり。 「馬丁さん、ほんとに約束だよ、どうしたってんだね」  なお渠は緘黙せり。その脣を鼓動すべき力は、渠の両腕に奮いて、馬蹄たちまち高く挙ぐれば、車輪はその輻の見るべからざるまでに快転せり。乗り合いは再び地上の瀾に盪られて、浮沈の憂き目に遭いぬ。  縦騁五分間ののち、前途はるかに競争者の影を認め得たり。しかれども時遅れたれば、容易に追迫すべくもあらざりき。しこうして到着地なる石動はもはや間近になれり。今にして一躍のもとに乗り越さずんば、ついに失敗を取らざるを得ざるべきなり。憐れむべし過度の馳騖に疲れ果てたる馬は、力なげに俛れたる首を聯べて、策てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。  何思いけん、御者は地上に下り立ちたり。乗り合いはこはそもいかにと見る間に、渠は手早く、一頭の馬を解き放ちて、 「姉さん済みませんが、ちょっと下りてください」  乗り合いは顔を見合わせて、この謎を解くに苦しめり。美人は渠の言うがままに車を下れば、 「どうかこちらへ」と御者はおのれの立てる馬のそばに招きぬ。美人はますますその意を得ざれども、なお渠の言うがままに進み寄りぬ。御者はものをも言わず美人を引っ抱えて、ひらりと馬に跨りたり。  魂消たるは乗り合いなり。乗り合いは実に魂消たるなり。渠らは千体仏のごとく面を鳩め、あけらかんと頤を垂れて、おそらくは画にも観るべからざるこの不思議の為体に眼を奪われたりしに、その馬は奇怪なる御者と、奇怪なる美人と、奇怪なる挙動とを載せてましぐらに馳せ去りぬ。車上の見物はようやくわれに復りて響動めり。 「いったいどうしたんでしょう」 「まず乗せ逃げとでもいうんでしょう」 「へえ、なんでございます」 「客の逃げたのが乗り逃げ。御者のほうで逃げたのだから乗せ逃げでしょう」  例の老夫は頭を悼り悼り呟けり。 「いや洒落どころか。こりゃ、まあどうしてくれるつもりだ」  不審の眉を攅めたる前の世話人は、腕を拱きつつ座中を眗して、 「皆さん、なんと思し召す? こりゃ尋常事じゃありませんぜ。ばかを見たのはわれわれですよ。全く駈け落ちですな。どうもあの女がさ、尋常の鼠じゃあんめえと睨んでおきましたが、こりゃあまさにそうだった。しかしいい女だ」 「私は急ぎの用を抱えている身だから、こうして安閑としてはいられない。なんとこの小僧に頼んで、一匹の馬で遣ってもらおうじゃございませんか。ばかばかしい、銭を出して、あの醜態を見せられて、置き去りを吃うやつもないものだ」 「全くそうでごさいますよ。ほんとに巫山戯た真似をする野郎だ。小僧早く遣ってくんな」  奴は途方に暮れて、曩より車の前後に出没したりしが、 「どうもおきのどく様です」 「おきのどく様は知れてらあ。いつまでこうしておくんだ。早く遣ってくれ、遣ってくれ!」 「私にはまだよく馬が動きません」 「活きてるものの動かないという法があるものか」 「臀部を引っ撲け引っ撲け」  奴は苦笑いしつつ、 「そんなことを言ったっていけません。二頭曳きの車ですから、馬が一匹じゃ遣り切れません」 「そんならここで下りるから銭を返してくれ」  腹立つ者、無理言う者、呟く者、罵る者、迷惑せる者、乗り合いの不平は奴の一身に湊まれり。渠はさんざんに苛まれてついに涙ぐみ、身の措き所に窮して、辛くも車の後に竦みたりき。乗り合いはますます躁ぎて、敵手なき喧嘩に狂いぬ。  御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走りければ、美人は魂身に添わず、目を閉じ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は※(「風にょう」+「容」の「口」に代えて「又」)々と両腋に起こりて毛髪竪ち、道はさながら河のごとく、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空を転ぶに似たり。  渠は実に死すべしと念いぬ。しだいに風歇み、馬駐まると覚えて、直ちに昏倒して正気を失いぬ。これ御者が静かに馬より扶け下ろして、茶店の座敷に舁き入れたりしときなり。渠はこの介抱を主の嫗に嘱みて、その身は息をも継かず再び羸馬に策ちて、もと来し路を急ぎけり。  ほどなく美人は醒めて、こは石動の棒端なるを覚りぬ。御者はすでにあらず。渠はその名を嫗に訊ねて、金さんなるを知りぬ。その為人を問えば、方正謹厳、その行ないを質せば学問好き。        二  金沢なる浅野川の磧は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯ねて、猿芝居、娘軽業、山雀の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗き機関、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑あらず。  なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸なり。太夫滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当たり。  時まさに午後一時、撃柝一声、囃子は鳴りを鎮むるとき、口上は渠がいわゆる不弁舌なる弁を揮いて前口上を陳べ了われば、たちまち起こる緩絃朗笛の節を履みて、静々歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結い掛けて、脂粉こまやかに桃花の媚びを粧い、朱鷺色縮緬の単衣に、銀糸の浪の刺繍ある水色絽の𧘕𧘔を着けたり。渠はしとやかに舞台よき所に進みて、一礼を施せば、待ち構えたりし見物は声々に喚きぬ。 「いよう、待ってました大明神様!」 「あでやかあでやか」 「ようよう金沢暴し!」 「ここな命取り!」  喝采の声のうちに渠は徐かに面を擡げて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙げて一咳し、 「東西! お目通りに控えさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸にござりまする。お目見え相済みますれば、さっそくながら本芸に取り掛からせまする。最初腕調べとして御覧に入れまするは、露に蝶の狂いを象りまして、(花野の曙)。ありゃ来た、よいよいよいさて」  さて太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手に把りて、右手には黄白二面の扇子を開き、やと声発けて交互に投げ上ぐれば、露を争う蝶一双、縦横上下に逐いつ、逐われつ、雫も滴さず翼も息めず、太夫の手にも住まらで、空に文織る練磨の手術、今じゃ今じゃと、木戸番は濁声高く喚わりつつ、外面の幕を引き揚げたるとき、演芸中の太夫はふと外の方に眼を遣りたりしに、何にか心を奪われけん、はたとコップを取り落とせり。  口上は狼狽して走り寄りぬ。見物はその為損じをどっと囃しぬ。太夫は受け住めたる扇を手にしたるまま、その瞳をなお外の方に凝らしつつ、つかつかと土間に下りたり。  口上はいよいよ狼狽して、為ん方を知らざりき。見物は呆れ果てて息を斂め、満場斉しく頭を回らして太夫の挙動を打ち瞶れり。  白糸は群れいる客を推し排け、掻き排け、 「御免あそばせ、ちょいと御免あそばせ」  あわただしく木戸口に走り出で、項を延べて目送せり。その視線中に御者体の壮佼あり。  何事や起こりたると、見物は白糸の踵より、どろどろと乱れ出ずる喧擾に、くだんの男は振り返りぬ。白糸ははじめてその面を見るを得たり。渠は色白く瀟洒なりき。 「おや、違ってた!」  かく独語ちて、太夫はすごすご木戸を入りぬ。        三  夜はすでに十一時に近づきぬ。磧は凄涼として一箇の人影を見ず、天高く、露気ひややかに、月のみぞひとり澄めりける。  熱鬧を極めたりし露店はことごとく形を斂めて、ただここかしこに見世物小屋の板囲いを洩るる燈火は、かすかに宵のほどの名残を留めつ。河は長く流れて、向山の松風静かに度る処、天神橋の欄干に靠れて、うとうとと交睫む漢子あり。  渠は山に倚り、水に臨み、清風を担い、明月を戴き、了然たる一身、蕭然たる四境、自然の清福を占領して、いと心地よげに見えたりき。  折から磧の小屋より顕われたる婀娜者あり。紺絞りの首抜きの浴衣を着て、赤毛布を引き絡い、身を持て余したるがごとくに歩みを運び、下駄の爪頭に戞々と礫を蹴遣りつつ、流れに沿いて逍遥いたりしが、瑠璃色に澄み渡れる空を打ち仰ぎて、 「ああ、いいお月夜だ。寝るには惜しい」  川風はさっと渠の鬢を吹き乱せり。 「ああ、薄ら寒くなってきた」  しかと毛布を絡いて、渠はあたりを眗しぬ。 「人っ子一人いやしない。なんだ、ほんとに、暑いときはわあわあ騒いで、涼しくなる時分には寝てしまうのか。ふふ、人間というものはいこじなもんだ。涼むんならこういうときじゃないか。どれ、橋の上へでも行ってみようか。人さえいなけりゃ、どこでもいい景色なもんだ」  渠は再び徐々として歩を移せり。  この女は滝の白糸なり。渠らの仲間は便宜上旅籠を取らずして、小屋を家とせるもの寡なからず。白糸も然なり。  やがて渠は橋に来りぬ。吾妻下駄の音は天地の寂黙を破りて、からんころんと月に響けり。渠はその音の可愛さに、なおしいて響かせつつ、橋の央近く来たれるとき、やにわに左手を抗げてその高髷を攫み、 「ええもう重っ苦しい。ちょっうるせえ!」  暴々しく引き解きて、手早くぐるぐる巻きにせり。 「ああこれで清々した。二十四にもなって高島田に厚化粧でもあるまい」  かくて白糸は水を聴き、月を望み、夜色の幽静を賞して、ようやく橋の半ばを過ぎぬ。渠はたちまちのんきなる人の姿を認めぬ。何者かこれ、天地を枕衾として露下月前に快眠せる漢子は、数歩のうちにありて齁を立てつ。 「おや! いい気なものだよ。だれだい、新じゃないか」  囃子方に新という者あり。宵より出でていまだ小屋に還らざれば、それかと白糸は間近に寄りて、男の寝顔を覰きたり。  新はいまだかくのごとくのんきならざるなり。渠ははたして新にはあらざりき。新の相貌はかくのごとく威儀あるものにあらざるなり。渠は千の新を合わせて、なおかつ勝ること千の新なるべき異常の面魂なりき。  その眉は長くこまやかに、睡れる眸子も凛如として、正しく結びたる脣は、夢中も放心せざる渠が意気の俊爽なるを語れり。漆のごとき髪はやや生いて、広き額に垂れたるが、吹き揚ぐる川風に絶えず戦げり。  つくづく視めたりし白糸はたちまち色を作して叫びぬ。 「あら、まあ! 金さんだよ」  欄干に眠れるはこれ余人ならず、例の乗り合い馬車の馭者なり。 「どうして今時分こんなところにねえ」  渠は跫音を忍びて、再び男に寄り添いつつ、 「ほんとに罪のない顔をして寝ているよ」  恍惚として瞳を凝らしたりしが、にわかにおのれが絡いし毛布を脱ぎて被せ懸けたれども、馭者は夢にも知らで熟睡せり。  白糸は欄干に腰を憩めて、しばらくなすこともあらざりしが、突然声を揚げて、 「ええひどい蚊だ」膝のあたりをはたと拊てり。この音にや驚きけん、馭者は眼覚まして、叭まじりに、 「ああ、寝た。もう何時か知らん」  思い寄らざりしわがかたわらに媚めける声ありて、 「もうかれこれ一時ですよ」  馭者は愕然として顧みれば、わが肩に見覚えぬ毛布ありて、深夜の寒を護れり。 「や、毛布を着せてくだすったのは! あなた? でございますか」  白糸は微笑を含みて、呆れたる馭者の面を視つつ、 「夜露に打たれると体の毒ですよ」  馭者は黙して一礼せり。白糸はうれしげに身を進めて、 「あなた、その後は御機嫌よう」  いよいよ呆れたる馭者は少しく身を退りて、仮初ながら、狐狸変化のものにはあらずやと心ひそかに疑えり。月を浴びてものすごきまで美しき女の顔を、無遠慮に打ち眺めたる渠の眼色は、顰める眉の下より異彩を放てり。 「どなたでしたか、いっこう存じません」 白糸は片頬笑みて、 「あれ、情なしだねえ。私は忘れやしないよ」 「はてな」と馭者は首を傾けたり。 「金さん」と女はなれなれしく呼びかけぬ。  馭者はいたく驚けり。月下の美人生面にしてわが名を識る。馭者たる者だれか驚かざらんや。渠は実にいまだかつて信ぜざりし狐狸の類にはあらずや、と心はじめて惑いぬ。 「おまえさんはよっぽど情なしだよ。自分の抱いた女を忘れるなんということがあるものかね」 「抱いた? 私が?」 「ああ、お前さんに抱かれたのさ」 「どこで?」 「いい所で!」  袖を掩いて白糸は嫣然一笑せり。  馭者は深く思案に暮れたりしが、ようよう傾けし首を正して言えり。 「抱いた記憶はないが、なるほどどこかで見たようだ」 「見たようだもないもんだ。高岡から馬車に乗ったとき、人力車と競走をして、石動手前からおまえさんに抱かれて、馬上の合い乗りをした女さ」 「おお! そうだ」横手を拍ちて、馭者は大声を発せり、白糸はその声に驚かされて、 「ええびっくりした。ねえおまえさん、覚えておいでだろう」 「うむ、覚えとる。そうだった、そうだった」  馭者は脣辺に微笑を浮かべて、再び横手を拍てり。 「でも言われるまで憶い出さないなんざあ、あんまり不実すぎるのねえ」 「いや、不実というわけではないけれど、毎日何十人という客の顔を、いちいち覚えていられるものではない」 「それはごもっともさ。そうだけれども、馬上の合い乗りをするお客は毎日はありますまい」 「あんなことが毎日あられてたまるものか」  二人は相見て笑いぬ。ときに数杵の鐘声遠く響きて、月はますます白く、空はますます澄めり。  白糸はあらためて馭者に向かい、 「おまえさん、金沢へは何日、どうしてお出でなすったの?」  四顧寥廓として、ただ山水と明月とあるのみ。飂戻たる天風はおもむろに馭者の毛布を飄せり。 「実はあっちを浪人してね……」 「おやまあ、どうして?」 「これも君ゆえさ」と笑えば、 「御冗談もんだよ」と白糸は流眄に見遣りぬ。 「いや、それはともかくも、話説をせんけりゃ解らん」  馭者は懐裡を捜りて、油紙の蒲簀莨入れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発かんとせり。白糸は渠が吸い殻を撃くを待ちて、 「済みませんが、一服貸してくださいな」  馭者は言下に莨入れとマッチとを手渡して、 「煙管が壅ってます」 「いいえ、結構」  白糸は一吃を試みぬ。はたしてその言のごとく、煙管は不快き脂の音のみして、煙の通うこと縷よりわずかなり。 「なるほどこれは壅ってる」 「それで吸うにはよっぽど力が要るのだ」 「ばかにしないねえ」  美人は紙縷を撚りて、煙管を通し、溝泥のごとき脂に面を皺めて、 「こら! 御覧な、無性だねえ。おまえさん寡夫かい」 「もちろん」 「おや、もちろんとは御挨拶だ。でも、情婦の一人や半分はありましょう」 「ばかな!」と馭者は一喝せり。 「じゃないの?」 「知れたこと」 「ほんとに?」 「くどいなあ」  渠はこの問答を忌まわしげに空嘯きぬ。 「おまえさんの壮年で、独身で、情婦がないなんて、ほんとに男子の恥辱だよ。私が似合わしいのを一人世話してあげようか」  馭者は傲然として、 「そんなものは要らんよ」 「おや、ご免なさいまし。さあ、お掃除ができたから、一服戴こう」  白糸はまず二服を吃して、三服目を馭者に、 「あい、上げましょう」 「これはありがとう。ああよく通ったね」 「また壅ったときは、いつでも持ってお出でなさい」  大口開いて馭者は心快げに笑えり。白糸は再び煙管を仮りて、のどかに烟を吹きつつ、 「今の顛末というのを聞かしてくださいな」  馭者は頷きて、立てりし態を変えて、斜めに欄干に倚り、 「あのとき、あんな乱暴を行って、とうとう人力車を乗っ越したのはよかったが、きゃつらはあれを非常に口惜しがってね、会社へむずかしい掛け合いを始めたのだ」  美人は眉を昂げて、 「なんだってまた?」 「何もかにも理窟なんぞはありゃせん。あの一件を根に持って、喧嘩を仕掛けに来たのさね」 「うむ、生意気な! どうしたい?」 「相手になると、事がめんどうになって、実は双方とも商売のじゃまになるのだ。そこで、会社のほうでは穏便がいいというので、むろん片手落ちの裁判だけれど、私が因果を含められて、雇を解かれたのさ」  白糸は身に沁む夜風にわれとわが身を抱きて、 「まあ、おきのどくだったねえ」  渠は慰むる語なきがごとき面色なりき。馭者は冷笑いて、 「なあに、高が馬方だ」 「けれどもさ、まことにおきのどくなことをしたねえ、いわば私のためだもの」  美人は愁然として腕を拱きぬ。馭者はまじめに、 「その代わり煙管の掃除をしてもらった」 「あら、冗談じゃないよ、この人は。そうしておまえさんこれからどうするつもりなの?」 「どうといって、やっぱり食う算段さ。高岡に彷徨いていたって始まらんので、金沢には士官がいるから、馬丁の口でもあるだろうと思って、探しに出て来た。今日も朝から一日奔走いたので、すっかり憊れてしまって、晩方一風呂入ったところが、暑くて寝られんから、ぶらぶら納涼に出掛けて、ここで月を観ていたうちに、いい心地になって睡こんでしまった」 「おや、そう。そうして口はありましたか」 「ない!」と馭者は頭を掉りぬ。  白糸はしばらく沈吟したりしが、 「あなた、こんなことを申しちゃ生意気だけれど、お見受け申したところが、馬丁なんぞをなさるような御人体じゃないね」  馭者は長嘆せり。 「生得からの馬丁でもないさ」  美人は黙して頷きぬ。 「愚痴じゃあるが、聞いてくれるか」  わびしげなる男の顔をつくづく視めて、白糸は渠の物語るを待てり。 「私は金沢の士族だが、少し仔細があって、幼少ころに家は高岡へ引っ越したのだ。そののち私一人金沢へ出て来て、ある学校へ入っているうち、阿爺に亡くなられて、ちょうど三年前だね、余儀なく中途で学問は廃止さ。それから高岡へ還ってみると、その日から稼ぎ人というものがないのだ。私が母親を過ごさにゃならんのだ。何を言うにも、まだ書生中の体だろう、食うほどの芸はなし、実は弱ったね。亡父は馬の家じゃなかったけれど、大の所好で、馬術では藩で鳴らしたものだそうだ。それだから、私も小児の時分稽古をして、少しは所得があるので、馬車会社へ住み込んで、馭者となった。それでまず活計を立てているという、まことに愧ずかしい次第さ。しかし、私だってまさか馬方で果てる了簡でもない、目的も希望もあるのだけれど、ままにならぬが浮き世かね」  渠は茫々たる天を仰ぎて、しばらく悵然たりき。その面上にはいうべからざる悲憤の色を見たり。白糸は情に勝えざる声音にて、 「そりゃあ、もうだれしも浮き世ですよ」 「うむ、まあ、浮き世とあきらめておくのだ」 「今おまえさんのおっしゃった希望というのは、私たちには聞いても解りはしますまいけれど、なんぞ、その、学問のことでしょうね?」 「そう、法律という学問の修行さ」 「学問をするなら、金沢なんぞより東京のほうがいいというじゃありませんか」  馭者は苦笑いして、 「そうとも」 「それじゃいっそ東京へお出でなさればいいのにねえ」 「行けりゃ行くさ。そこが浮き世じゃないか」  白糸は軽く小膝を拊ちて、 「黄金の世の中ですか」 「地獄の沙汰さえ、なあ」  再び馭者は苦笑いせり。  白糸は事もなげに、 「じゃあなた、お出でなさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようじゃありませんか」  深沈なる馭者の魂も、このとき跳るばかりに動きぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆るるよりむしろ慄きたるなり。渠は色を変えて、この美しき魔性のものを睨めたりけり。さきに半円の酒銭を投じて、他の一銭よりも吝しまざりしこの美人の胆は、拾人の乗り合いをしてそぞろに寒心せしめたりき。銀貨一片に瞪目せし乗り合いよ、君らをして今夜天神橋上の壮語を聞かしめなば、肝胆たちまち破れて、血は耳に迸出らん。花顔柳腰の人、そもそもなんじは狐狸か、変化か、魔性か。おそらくは※(月+因)脂の怪物なるべし。またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり。  馭者は美人の意をその面に読まんとしたりしが、能わずしてついに呻き出だせり。 「なんだって?」  美人も希有なる面色にて反問せり。 「なんだってとは?」 「どういうわけで」 「わけも何もありはしない、ただおまえさんに仕送りがしてみたいのさ」 「酔興な!」と馭者はその愚に唾するがごとく独語ちぬ。 「酔興さ。私も酔興だから、おまえさんも酔興に一番私の志を受けてみる気はなしかい。ええ、金さん、どうだね」  馭者はしきりに打ち案じて、とこうの分別に迷いぬ。 「そんなに慮えることはないじゃないか」 「しかし、縁も由縁もないものに……」 「縁というものも始めは他人どうし。ここでおまえさんが私の志を受けてくだされば、それがつまり縁になるんだろうじゃありませんかね」 「恩を受ければ報さんければならぬ義務がある。その責任が重いから……」 「それで断わるとお言いのかい。なんだねえ、報恩ができるの、できないのと、そんなことを苦にするおまえさんでもなかろうじゃないか。私だって泥坊に伯父さんがあるのじゃなし、知りもしない人を捉えて、やたらにお金を貢いでたまるものかね。私はおまえさんだから貢いでみたいのさ。いくらいやだとお言いでも、私は貢ぐよ。後生だから貢がしてくださいよ。ねえ、いいでしょう、いいよう! うんとお言いよ。構うものかね、遠慮も何も要るものじゃない。私はおまえさんの希望というのが愜いさえすれば、それでいいのだ。それが私への報恩さ、いいじゃないか。私はおまえさんはきっとりっぱな人物になれると想うから、ぜひりっぱな人物にしてみたくってたまらないんだもの。後生だから早く勉強して、りっぱな人物になってくださいよう」  その音柔媚なれども言々風霜を挟みて、凛たり、烈たり。馭者は感奮して、両眼に熱涙を浮かべ、 「うん、せっかくのお志だ。ご恩に預かりましょう」  渠は襟を正して、うやうやしく白糸の前に頭を下げたり。 「なんですねえ、いやに改まってさ。そう、そんなら私の志を受けてくださるの?」  美人は喜色満面に溢るるばかりなり。 「お世話になります」 「いやだよ、もう金さん、そんなていねいな語を遣われると、私は気が逼るから、やっぱり書生言葉を遣ってくださいよ。ほんとに凛々しくって、私は書生言葉は大好きさ」 「恩人に向かって済まんけれども、それじゃぞんざいな言葉を遣おう」 「ああ、それがいいんですよ」 「しかしね、ここに一つ窮ったのは、私が東京へ行ってしまうと、母親がひとりで……」 「それは御心配なく。及ばずながら私がね……」  馭者は夢みる心地しつつ耳を傾けたり。白糸は誠を面に露わして、 「きっとお世話をしますから」 「いや、どうも重ね重ね、それでは実に済まん。私もこの報恩には、おまえさんのために力の及ぶだけのことはしなければならんが、何かお所望はありませんか」 「だからさ、私の所望はおまえさんの希望が愜いさえすれば……」 「それはいかん! 自分の所望を遂げるために恩を受けて、その望みを果たしたで、報恩になるものではない。それはただ恩に対するところのわが身だけの義務というもので、けっして恩人に対する義務ではない」 「でも私が承知ならいいじゃありませんかね」 「いくらおまえさんが承知でも、私が不承知だ」 「おや、まあ、いやにむずかしいのね」  かく言いつつ美人は微笑みぬ。 「いや、理屈を言うわけではないがね、目的を達するのを報恩といえば、乞食も同然だ。乞食が銭をもらう、それで食っていく、渠らの目的は食うのだ。食っていけるからそれが方々で銭を乞った報恩になるとはいわれまい。私は馬方こそするが、まだ乞食はしたくない。もとよりお志は受けたいのは山々だ。どうか、ねえ、受けられるようにして受けさしてください。すれば、私は喜んで受ける。さもなければ、せっかくだけれどお断わり申そう」  とみには返す語もなくて、白糸は頭を低れたりしが、やがて馭者の面を見るがごとく見ざるがごとく覰いつつ、 「じゃ言いましょうか」 「うん、承ろう」と男はやや容を正せり。 「ちっと羞ずかしいことさ」 「なんなりとも」 「諾いてくださるか。いずれおまえさんの身に適ったことじゃあるけれども」 「一応聴いた上でなければ、返事はできんけれど、身に適ったことなら、ずいぶん諾くさ」  白糸は鬢の乱れを掻き上げて、いくぶんの赧羞しさを紛らわさんとせり。馭者は月に向かえる美人の姿の輝くばかりなるを打ち瞶りつつ、固唾を嚥みてその語るを待てり。白糸は始めに口籠もりたりしが、直ちに心を定めたる気色にて、 「処女のように羞ずかしがることもない、いい婆のくせにさ。私の所望というのはね、おまえさんにかわいがってもらいたいの」 「ええ!」と馭者は鋭く叫びぬ。 「あれ、そんなこわい顔をしなくったっていいじゃありませんか。何も内君にしてくれと言うんじゃなし。ただ他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいと言うんでさね」  馭者は遅疑せず、渠の語るを追いて潔く答えぬ。 「よろしい。けっしてもう他人ではない」  涼しき眼と凛々しき眼とは、無量の意を含みて相合えり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交えたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅礴は、実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。ややありて、まず馭者は口を開きぬ。 「私は高岡の片原町で、村越欣弥という者だ」 「私は水島友といいます」 「水島友? そうしてお宅は?」  白糸ははたと語に塞りぬ。渠は定まれる家のあらざればなり。 「お宅はちっと窮ったねえ」 「だって、家のないものがあるものか」 「それがないのだからさ」  天下に家なきは何者ぞ。乞食の徒といえども、なおかつ雨露を凌ぐべき蔭に眠らずや。世上の例をもってせば、この人まさに金屋に入り、瑶輿に乗るべきなり。しかるを渠は無宿と言う。その行ないすでに奇にして、その心また奇なりといえども、いまだこの言の奇なるには如かず、と馭者は思えり。 「それじゃどこにいるのだ」 「あすこさ」と美人は磧の小屋を指させり。  馭者はそなたを望みて、 「あすことは?」 「見世物小屋さ」と白糸は異様の微笑を含みぬ。 「ははあ、見世物小屋とは異っている」  馭者は心ひそかに驚きたるなり。渠はもとよりこの女をもって良家の女子とは思い懸けざりき、寡なくとも、海に山に五百年の怪物たるを看破したりけれども、見世物小屋に起き臥しせる乞食芸人の徒ならんとは、実に意表に出でたりしなり。とはいえども渠はさあらぬ体に答えたりき。白糸は渠の心を酌みておのれを嘲りぬ。 「あんまり異りすぎてるわね」 「見世物の三味線でも弾いているのかい」 「これでも太夫元さ。太夫だけになお悪いかもしれない」  馭者は軽侮の色をも露わさず、 「はあ、太夫! なんの太夫?」 「無官の太夫じゃない、水芸の太夫さ。あんまり聞いておくれでないよ、面目が悪いからさ」  馭者はますますまじめにて、 「水芸の太夫? ははあ、それじゃこのごろ評判の……」  かく言いつつ珍しげに女の面を覰きぬ。白糸はさっと赧む顔を背けつつ、 「ああもうたくさん、堪忍しておくれよ」 「滝の白糸というのはおまえさんか」  白糸は渠の語を手もて制しつ。 「もういいってばさ!」 「うん、なるほど!」と心の問うところに答え得たる風情にて、欣弥は頷けり。白糸はいよいよ羞じらいて、 「いやだよ、もう。何がなるほどなんだね」 「非常にいい女だと聞いていたが、なるほど……」 「もういいってばさ」  つと身を寄せて、白糸はやにわに欣弥を撞きたり。 「ええあぶねえ! いい女だからいいと言うのに、撞き飛ばすことはないじゃないか」 「人をばかにするからさ」 「ばかにするものか。実に美しい、何歳になるのだ」 「おまえさん何歳になるの?」 「私は二十六だ」 「おや六なの? まだ若いねえ。私なんぞはもう婆だね」 「何歳さ」 「言うと愛想を尽かされるからいや」 「ばかな! ほんとに何歳だよ」 「もう婆だってば。四さ」 「二十四か! 若いね。二十歳ぐらいかと想った」 「何か奢りましょうよ」  白糸は帯の間より白縮緬の袱紗包みを取り出だせり。解けば一束の紙幣を紙包みにしたるなり。 「これに三十円あります。まあこれだけ進げておきますから、家の処置をつけて、一日も早く東京へおいでなさいな」 「家の処置といって、別に金円の要るようなことはなし、そんなには要らない」 「いいからお持ちなさいよ」 「全額もらったらおまえさんが窮るだろう」 「私はまた明日入る口があるからさ」 「どうも済まんなあ」  欣弥は受け取りたる紙幣を軽く戴きて懐にせり。時に通り懸かりたる夜稼ぎの車夫は、怪しむべき月下の密会を一瞥して、 「お合い乗り、都合で、いかがで」  渠は愚弄の態度を示して、両箇のかたわらに立ち住まりぬ。白糸はわずかに顧眄りて、棄つるがごとく言い放てり。 「要らないよ」 「そうおっしゃらずにお召しなすって。へへへへへ」 「なんだね、人をばかにして。一人乗りに同乗ができるかい」 「そこはまたお話合いで、よろしいようにしてお乗んなすってください」  おもしろ半分に夤るを、白糸は鼻の端に遇いて、 「おまえもとんだ苦労性だよ。他のことよりは、早く還って、内君でも悦ばしておやんな」  さすがに車夫もこの姉御の与しやすからざるを知りぬ。 「へい、これははばかり様。まああなたもお楽しみなさいまし」  渠は直ちに踵を回らして、鼻唄まじりに行き過ぎぬ。欣弥は何思いけん、 「おい、車夫!」とにわかに呼び住めたり。  車夫は頭を振り向けて、 「へえ、やっぱりお合い乗りですかね」 「ばか言え! 伏木まで行くか」  渠の答うるに先だちて、白糸は驚きかつ怪しみて問えり。 「伏木……あの、伏木まで?」  伏木はけだし上都の道、越後直江津まで汽船便ある港なり。欣弥は平然として、 「これからすぐに発とうと思う」 「これから⁈」と白糸はさすがに心を轟かせり。  欣弥は頷きたりし頭をそのまま低れて、見るべき物もあらぬ橋の上に瞳を凝らしつつ、その胸中は二途の分別を追うに忙しかりき。 「これからとはあんまり早急じゃありませんか。まだお話したいこともあるのだから、今夜はともかくも、ねえ」  一面は欣弥を説き、一面は車夫に向かい、 「若い衆さん、済まないけれど、これを持って行っとくれよ」  渠が紙入れを捜るとき、欣弥はあわただしく、 「車夫、待っとれ。行っちゃいかんぜ」 「あれさ、いいやね。さあ、若い衆さんこれを持って行っとくれよ」  五銭の白銅を把りて、まさに渡さんとせり。欣弥はその間に分け入りて、 「少し都合があるのだから、これから遣ってくれ」  渠は十分に決心の色を露わせり。白糸はとうていその動かす能わざるを覚りて、潔く未練を棄てぬ。 「そう。それじゃ無理に留めないけれども……」  このとき両箇の眼は期せずして合えり。 「そうしてお母さんには?」 「道で寄って暇乞いをする、ぜひ高岡を通るのだから」 「じゃ町はずれまで送りましょう。若衆さん、もう一台ないかねえ」 「四、五町行きゃいくらもありまさあ。そこまでだからいっしょに召していらっしゃい」 「お巫山戯でないよ」  欣弥はすでに車上にありて、 「車夫、どうだろう。二人乗ったら毀れるかなあ、この車は?」 「なあにだいじょうぶ。姉さんほんとにお召しなさいよ」 「構うことはない。早く乗った乗った」  欣弥は手招けば、白糸は微笑む。その肩を車夫はとんと拊ちて、 「とうとう異な寸法になりましたぜ」 「いやだよ、欣さん」 「いいさ、いいさ!」と欣弥は一笑せり。  月はようやく傾きて、鶏声ほのかに白し。        四  滝の白糸は越後の国新潟の産にして、その地特有の麗質を備えたるが上に、その手練の水芸は、ほとんど人間業を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。さればいたるところ大入り叶わざるなきがゆえに、四方の金主は渠を争いて、ついに例なき莫大の給金を払うに到れり。  渠は親もあらず、同胞もあらず、情夫とてもあらざれば、一切の収入はことごとくこれをわが身ひとつに費やすべく、加うるに、豁達豪放の気は、この余裕あるがためにますます膨張して、十金を獲れば二十金を散ずべき勢いをもって、得るままに撒き散らせり。これ一つには、金銭を獲るの難きを渠は知らざりしゆえなり。  渠はまた貴族的生活を喜ばず、好みて下等社会の境遇を甘んじ、衣食の美と辺幅の修飾とを求めざりき。渠のあまりに平民的なる、その度を放越して鉄拐となりぬ。往々見るところの女流の鉄拐は、すべて汚行と、罪業と、悪徳との養成にあらざるなし。白糸の鉄拐はこれを天真に発して、きわめて純潔清浄なるものなり。  渠は思うままにこの鉄拐を振り舞わして、天高く、地広く、この幾歳をのどかに過ごしたりけるが、いまやすなわちしからざるなり。村越欣弥は渠が然諾を信じて東京に遊学せり。高岡に住めるその母は、箸を控えて渠が饋餉を待てり。白糸は月々渠らを扶持すべき責任ある世帯持ちの身となれり。  従来の滝の白糸は、まさにその放逸を縛し、その奇骨を挫ぎて、世話女房のお友とならざるを得ざるべきなり。渠はついにその責任のために石を巻き、鉄を捩じ、屈すべからざる節を屈して、勤倹小心の婦人となりぬ。その行ないにおいてはなおかつ滝の白糸たる活気をば有ちつつ、その精神は全く村越友として経営苦労しつ。その間は実に三年の長きに亙れり。  あるいは富山に赴き、高岡に買われ、はた大聖寺福井に行き、遠くは故郷の新潟に興行し、身を厭わず八方に稼ぎ廻りて、幸いにいずくも外さざりければ、あるいは血をも濺がざるべからざる至重の責任も、その収入によりて難なく果たされき。  されども見世物の類は春夏の二季を黄金期とせり。秋は漸く寂しく、冬は霜枯れの哀れむべきを免れざるなり。いわんや北国の雪世界はほとんど一年の三分の一を白き物の中に蟄居せざるべからざるや。ことに時候を論ぜざる見世物と異なりて、渠の演芸はおのずから夏炉冬扇のきらいあり。その喝采は全く暑中にありて、冬季は坐食す。  よし渠は糊口に窮せざるも、月々十数円の工面は尋常手段の及ぶべきにあらざるなり。渠はいかにしてかなき袖を振りける? 魚は木に縁りて求むべからず、渠は他日の興行を質入れして前借りしたりしなり。  その一年、その二年は、とにもかくにもかくのごとき算段によりて過ごしぬ。その三年ののちは、さすがに八方塞がりて、融通の道も絶えなむとせり。  翌年の初夏金沢の招魂祭を当て込みて、白糸の水芸は興行せられたりき。渠は例の美しき姿と妙なる技とをもって、希有の人気を取りたりしかば、即座に越前福井なるなにがしという金主附きて、金沢を打ち揚げしだい、二箇月間三百円にて雇わんとの相談は調いき。  白糸は諸方に負債ある旨を打ち明けて、その三分の二を前借りし、不義理なる借金を払いて、手もとに百余円を剰してけり。これをもってせば欣弥母子が半年の扶持に足るべしとて、渠は顰みたりし愁眉を開けり。  されども欣弥は実際半年間の仕送りを要せざるなり。  渠の希望はすでに手の達くばかりに近づきて、わずかにここ二、三箇月を支うるを得ば足れり。無頓着なる白糸はただその健康を尋ぬるのみに安んじて、あえてその成業の期を問わず、欣弥もまたあながちこれを告げんとは為さざりき。その約に負かざらんことを虞るる者と、恩中に恩を顧みざる者とは、おのおのその務むべきところを務むるに専なりき。  かくて翌日まさに福井に向かいて発足すべき三日目の夜の興行を闋わりたりしは、一時に垂んとするころなりき。白昼を欺くばかりなりし公園内の万燈は全く消えて、雨催の天に月はあれども、四面滃※(さんずい+孛)として煙の布くがごとく、淡墨を流せる森のかなたに、たちまち跫音の響きて、がやがやと罵る声せるは、見世物師らが打ち連れ立ちて公園を引き払うにぞありける。この一群れの迹に残りて語合う女あり。 「ちょいと、お隣の長松さんや、明日はどこへ行きなさる?」  年増の抱ける猿の頭を撫でて、かく訊ねしは、猿芝居と小屋を並べし轆轤首の因果娘なり。 「はい、明日は福井まで参じます」  年増は猿に代わりて答えぬ。轆轤首は愛相よく、 「おおおお、それはまあ遠い所へ」 「はい、ちと遠方でございますと言いなよ。これ、長松、ここがの、金沢の兼六園といって、百万石のお庭だよ。千代公のほうは二度目だけれど、おまえははじめてだ。さあよく見物しなよ」  渠は抱きし猿を放ち遣りぬ。  折からあなたの池のあたりに、マッチの火のぱっと燃えたる影に、頬被りせる男の顔は赤く顕われぬ。黒き影法師も両三箇そのかたわらに見えたりき。因果娘は偸視て、 「おや、出刃打ちの連中があすこに憩んでいなさるようだ」 「どれどれ」と見向く年増の背後に声ありて、 「おい、そろそろ出掛けようぜ」  旅装束したる四、五人の男は二人のそばに立ち住まりぬ。年増は直ちに猿を抱き取りて、 「そんなら、姉さん」 「参りましょうかね」  両箇の女は渠らとともに行きぬ。続きて一団また一団、大蛇を籠に入れて荷う者と、馬に跨りて行く曲馬芝居の座頭とを先に立てて、さまざまの動物と異形の人類が、絡繹として森蔭に列を成せるその状は、げに百鬼夜行一幅の活図なり。  ややありて渠らはみな行き尽くせり。公園は森邃として月色ますます昏く、夜はいまや全くその死寂に眠れるとき、谽谺に響き、水に鳴りて、魂消る一声、 「あれえ!」        五  水は沈濁して油のごとき霞が池の汀に、生死も分かず仆れたる婦人あり。四肢を弛めて地に領伏し、身動きもせでしばらく横たわりたりしが、ようよう枕を返して、がっくりと頭を俛れ、やがて草の根を力におぼつかなくも立ち起がりて、踽く体をかたわらなる露根松に辛くも支えたり。  その浴衣は所々引き裂け、帯は半ば解けて脛を露わし、高島田は面影を留めぬまでに打ち頽れたり。こはこれ、盗難に遇えりし滝の白糸が姿なり。  渠はこの夜の演芸を闋わりしのち、連日の疲労一時に発して、楽屋の涼しき所に交睫みたりき。一座の連中は早くも荷物を取纏めて、いざ引き払わんと、太夫の夢を喚びたりしに、渠は快眠を惜しみて、一足先に行けと現に言い放ちて、再び熟睡せり。渠らは豪放なる太夫の平常を識りければ、その言うままに捨て置きて立ち去りけるなり。  程経て白糸は目覚ましぬ。この空小屋のうちに仮寝せし渠の懐には、欣弥が半年の学資を蔵めたるなり。されども渠は危うかりしとも思わず、昼の暑さに引き替えて、涼しき真夜中の幽静なるを喜びつつ、福井の金主が待てる旅宿に赴かんとて、そこまで来たりけるに、ばらばらと小蔭より躍り出ずる人数あり。  みなこれ屈竟の大男、いずれも手拭いに面を覆みたるが五人ばかり、手に手に研ぎ澄ましたる出刃庖丁を提げて、白糸を追っ取り巻きぬ。  心剛なる女なれども、渠はさすがに驚きて佇めり。狼藉者の一個は濁声を潜めて、 「おう、姉さん、懐中のものを出しねえ」 「じたばたすると、これだよ、これだよ」  かく言いつつ他の一個はその庖丁を白糸の前に閃かせば、四挺の出刃もいっせいに晃きて、女の眼を脅かせり。  白糸はすでにその身は釜中の魚たることを覚悟せり。心はいささかも屈せざれども、力の及ぶべからざるをいかにせん。進みて敵すべからず、退きては遁るること難し。  渠はその平生においてかつ百金を吝しまざるなり。されども今夜懐にせる百金は、尋常一様の千万金に直するものにして、渠が半身の精血とも謂っつべきなり。渠は換えがたく吝しめり。今ここにこれを失わんか、渠はほとんど再びこれを獲るの道あらざるなり。されども渠はついに失わざるべからざるか、豪放豁達の女丈夫も途方に暮れたりき。 「何をぐずぐずしてやがるんで! サッサと出せ、出せ」  白糸は死守せんものと決心せり。渠の脣は黒くなりぬ。渠の声はいたく震いぬ。 「これは与られないよ」 「与れなけりゃ、ふんだくるばかりだ」 「遣っつけろ、遣っつけろ!」  その声を聞くとひとしく、白糸は背後より組み付かれぬ。振り払わんとする間もあらで、胸も挫ぐるばかりの翼緊めに遭えり。たちまち暴くれたる四隻の手は、乱雑に渠の帯の間と内懐とを撈せり。 「あれえ!」と叫びて援いを求めたりしは、このときの血声なりき。 「あった、あった」と一個の賊は呼びぬ。 「あったか、あったか」と両三人の声は※(「應」の「心」に代えて「言」)えぬ。  白糸は猿轡を吃されて、手取り足取り地上に推し伏せられつ。されども渠は絶えず身を悶えて、跋ね覆えさんとしたりしなり。にわかに渠らの力は弛みぬ。虚さず白糸は起き復るところを、はたと踢仆されたり。賊はその隙に逃げ失せて行くえを知らず。  惜しみても、惜しみてもなお余りある百金は、ついに還らざるものとなりぬ。白糸の胸中は沸くがごとく、焚ゆるがごとく、万感の心を衝くに任せて、無念已む方なき松の下蔭に立ち尽くして、夜の更くるをも知らざりき。 「ああ、しかたがない、何も約束だと断念めるのだ。なんの百ぐらい! 惜しくはないけれど、欣さんに済まない。さぞ欣さんが困るだろうねえ。ええ、どうしよう、どうしたらよかろう⁈」  渠はひしとわが身を抱きて、松の幹に打ち当てつ。ふとかたわらを見れば、漾々たる霞が池は、霜の置きたるように微黯き月影を宿せり。  白糸の眼色はその精神の全力を鍾めたるかと覚しきばかりの光を帯びて、病めるに似たる水の面を屹と視たり。 「ええ、もうなんともかとも謂えないいやな心地だ。この水を飲んだら、さぞ胸が清々するだろう! ああ死にたい。こんな思いをするくらいなら死んだほうがましだ。死のう! 死のう!」  渠は胸中の劇熱を消さんがために、この万斛の水をば飲み尽くさんと覚悟せるなり。渠はすでに前後を忘じて、一心死を急ぎつつ、蹌踉と汀に寄れば、足下に物ありて晃きぬ。思わず渠の目はこれに住まりぬ。出刃庖丁なり!   これ悪漢が持てりし兇器なるが、渠らは白糸を手籠めにせしとき、かれこれ悶着の間に取り遺せしを、忘れて捨て行きたるなり。  白糸はたちまち慄然として寒さを感えたりしが、やがて拾い取りて月に翳しつつ、 「これを証拠に訴えれば手掛かりがあるだろう。そのうちにはまたなんとか都合もできよう。……これは今死ぬのは。……」  この証拠物件を獲たるがために、渠はその死を思い遏りて、いちはやく警察署に赴かんと、心変わればいまさら忌まわしきこの汀を離れて、渠は推し仆されたりしあたりを過ぎぬ。無念の情は勃然として起これり。繊弱き女子の身なりしことの口惜しさ!  男子にてあらましかばなど、言い効もなき意気地なさを憶い出でて、しばしはその恨めしき地を去るに忍びざりき。  渠は再び草の上に一物を見出だせり。近づきてとくと視れば、浅葱地に白く七宝繋ぎの洗い晒したる浴衣の片袖にぞありける。  またこれ賊の遺物なるを白糸は暁りぬ。けだし渠が狼藉を禦ぎし折に、引き断りたる賊の衣の一片なるべし。渠はこれをも拾い取り、出刃を裹みて懐中に推し入れたり。  夜はますます闌けて、霄はいよいよ曇りぬ。湿りたる空気は重く沈みて、柳の葉末も動かざりき。歩むにつれて、足下の叢より池に跋ね込む蛙は、礫を打つがごとく水を鳴らせり。  行く行く項を低れて、渠は深くも思い悩みぬ。 「だが、警察署へ訴えたところで、じきにあいつらが捕ろうか。捕ったところで、うまく金子が戻るだろうか。あぶないものだ。そんなことを期にしてぐずぐずしているうちには、欣さんが食うに窮ってくる。私の仕送りを頼みにしている身の上なのだから、お金が到かなかった日には、どんなに窮るだろう。はてなあ! 福井の金主のほうは、三百円のうち二百円前借りをしたのだから、まだ百円というものはあるのだ。貸すだろうか、貸すまい。貸さない、貸さない、とても貸さない! 二百円のときでもあんなに渋ったのだ。けれども、こういう事情だとすっかり打ち明けて、ひとつ泣き付いてみようかしらん。だめなことだ、あの老爺だもの。のべつに小癪に障ることばっかり陳べやがって、もうもうほんとに顔を見るのもいやなんだ。そのくせまた持ってるのだ! どうしたもんだろうなあ。ああ、窮った、窮った。やっぱり死ぬのか。死ぬのはいいが、それじゃどうも欣さんに義理が立たない。それが何より愁い! といって才覚のしようもなし。……」  陰々として鐘声の度るを聞けり。 「もう二時だ。はてなあ!」  白糸は思案に余って、歩むべき力も失せつ。われにもあらで身を靠せたるは、未央柳の長く垂れたる檜の板塀のもとなりき。  こはこれ、公園地内に六勝亭と呼べる席貸しにて、主翁は富裕の隠居なれば、けっこう数寄を尽くして、営業のかたわらその老いを楽しむところなり。  白糸が佇みたるは、その裏口の枝折門の前なるが、いかにして忘れたりけむ、戸を鎖さでありければ、渠が靠るるとともに戸はおのずから内に啓きて、吸い込むがごとく白糸を庭の内にぞ引き入れたる。  渠はしばらく惘然として佇みぬ。その心には何を思うともなく、きょろきょろとあたりを眗せり。幽寂に造られたる平庭を前に、縁の雨戸は長く続きて、家内は全く寝鎮まりたる気勢なり。白糸は一歩を進め、二歩を進めて、いつしか「寂然の森」を出でて、「井戸囲い」のほとりに抵りぬ。  このとき渠は始めて心着きて驚けり。かかる深夜に人目を窃みて他の門内に侵入するは賊の挙動なり。われははからずも賊の挙動をしたるなりけり。  ここに思い到りて、白糸はいまだかつて念頭に浮かばざりし盗というなる金策の手段あるを心着きぬ。ついで懐なる兇器に心着きぬ。これ某らがこの手段に用いたりし記念なり。白糸は懐に手を差し入れつつ、頭を傾けたり。  良心は疾呼して渠を責めぬ。悪意は踴躍して渠を励ませり。渠は疾呼の譴責に遭いては慚悔し、また踴躍の教峻を受けては然諾せり。良心と悪意とは白糸の恃むべからざるを知りて、ついに迭いに闘いたりき。 「道ならないことだ。そんな真似をした日には、二度と再び世の中に顔向けができない。ああ、恐ろしいことだ、……けれども才覚ができなければ、死ぬよりほかはない。この世に生きていないつもりなら、羞汚も顔向けもありはしない。大それたことだけれども、金は盗ろう。盗ってそうして死のう死のう!」  かく思い定めたれども、渠の良心はけっしてこれを可さざりき。渠の心は激動して、渠の身は波に盪るる小舟のごとく、安んじかねて行きつ、還りつ、塀ぎわに低徊せり。ややありて渠は鉢前近く忍び寄りぬ。されどもあえて曲事を行なわんとはせざりしなり。渠は再び沈吟せり。  良心に逐われて恐惶せる盗人は、発覚を予防すべき用意に遑あらざりき。渠が塀ぎわに徘徊せしとき、手水口を啓きて、家内の一個は早くすでに白糸の姿を認めしに、渠は鈍くも知らざりけり。  鉢前の雨戸は不意に啓きて、人は面を露わせり。白糸あなやと飛び退る遑もなく、 「偸児!」と男の声は号びぬ。  白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠の右手に閃きて、縁に立てる男の胸をば、柄も透れと貫きたり。  戸を犇かして、男は打ち僵れぬ。朱に染みたるわが手を見つつ、重傷に唸く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦みて、わなわなと顫いぬ。  渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。 「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」  白糸は心乱れて、ほとんどその身を忘れたる背後に、 「あなた、どうなすった?」  と聞こゆるは寝惚れたる女の声なり。白糸は出刃を隠して、きっとそなたを見遣りぬ。  灯影は縁を照らして、跫音は近づけり。白糸はひたと雨戸に身を寄せて、何者か来たると覰いぬ。この家の内儀なるべし。五十ばかりの女は寝衣姿のしどけなく、真鍮の手燭を翳して、覚めやらぬ眼を睜かんと面を顰めつつ、よたよたと縁を伝いて来たりぬ。死骸に近づきて、それとも知らず、 「あなた、そんな所に寝て……どうなすっ。……」  燈を差し向けて、いまだその血に驚く遑あらざるに、 「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝き付けたり。  内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝を折り敷き、その場に打ち俯して、がたがたと慄いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。 「おい、内君、金を出しな。これさ、金を出せというのに」  俯して答えなき内儀の項を、出刃にてぺたぺたと拍けり。内儀は魂魄も身に添わず、 「は、は、はい、はい、は、はい」 「さあ、早くしておくれ。たんとは要らないんだ。百円あればいい」  内儀はせつなき呼吸の下より、 「金子はあちらにありますから。……」 「あっちにあるならいっしょに行こう。声を立てると、おいこれだよ」  出刃庖丁は内儀の頬を見舞えり。渠はますます恐怖して立つ能わざりき。 「さあ早くしないかい」 「た、た、た、ただ……いま」  渠は立たんとすれども、その腰は挙がらざりき。されども渠はなお立たんと焦りぬ。腰はいよいよ挙がらず。立たざればついに殺されんと、渠はいとど慌てつ、悶えつ、辛くも立ち起がりて導けり。二間を隔つる奥に伴いて、内儀は賊の需むる百円を出だせり。白糸はまずこれを収めて、 「内君、いろいろなことを言ってきのどくだけれど、私の出たあとで声を立てるといけないから、少しの間だ、猿轡を箝めてておくれ」  渠は内儀を縛めんとて、その細帯を解かんとせり。ほとんど人心地あらざるまでに恐怖したりし主婦は、このときようよう渠の害心あらざるを知るより、いくぶんか心落ちいつつ、はじめて賊の姿をば認め得たりしなり。こはそもいかに! 賊は暴くれたる大の男にはあらで、軆度優しき女子ならんとは、渠は今その正体を見て、与しやすしと思えば、 「偸児!」と呼び懸けて白糸に飛び蒐りつ。  自糸は不意を撃たれて驚きしが、すかさず庖丁の柄を返して、力任せに渠の頭を撃てり。渠は屈せず、賊の懐に手を捻じ込みて、かの百円を奪い返さんとせり。白糸はその手に咬み着き、片手には庖丁振り抗げて、再び柄をもて渠の脾腹を吃わしぬ。 「偸児! 人殺し!」と地蹈鞴を踏みて、内儀はなお暴らかに、なおけたたましく、 「人殺し! 人殺しだ!」と血声を絞りぬ。  これまでなりと観念したる白糸は、持ちたる出刃を取り直し、躍り狂う内儀の吭を目懸けてただ一突きと突きたりしに、覘いを外して肩頭を刎ね斫りたり。  内儀は白糸の懐に出刃を裹みし片袖を撈り得てて、引っ掴みたるまま遁れんとするを、畳み懸けてその頭に斫り着けたり。渠はますます狂いて再び喚かんとしたりしかば、白糸は触るを幸いめった斫りにして、弱るところを乳の下深く突き込みぬ。これ実に最後の一撃なりけるなり。白糸は生まれてよりいまだかばかりおびただしき血汐を見ざりき。一坪の畳は全く朱に染みて、あるいは散り、あるいは迸り、あるいはぽたぽたと滴りたる、その痕は八畳の一間にあまねく、行潦のごとき唐紅の中に、数箇所の傷を負いたる内儀の、拳を握り、歯を噛い緊めてのけざまに顛覆りたるが、血塗れの額越しに、半ば閉じたる眼を睨むがごとく凝えて、折もあらばむくと立たんずる勢いなり。  白糸は生まれてより、いまだかかる最期の愴惻を見ざりしなり。かばかりおびただしき血汐! かかるあさましき最期! こはこれ何者の為業なるぞ。ここに立てるわが身のなせし業なり。われながら恐ろしきわが身かな、と白糸は念えり。渠の心は再び得堪うまじく激動して、その身のいまや殺されんとするを免れんよりも、なお幾層の危うき、恐ろしき想いして、一秒もここにあるにあられず、出刃を投げ棄つるより早く、あとをも見ずしていっさんに走り出ずれば、心急くまま手水口の縁に横たわる躯のひややかなる脚に跌きて、ずでんどうと庭前に転び墜ちぬ。渠は男の甦りたるかと想いて、心も消え消えに枝折門まで走れり。  風やや起こりて庭の木末を鳴らし、雨はぽっつりと白糸の面を打てり。        六  高岡石動間の乗り合い馬車は今ぞ立野より福岡までの途中にありて走れる。乗客の一個は煙草火を乞りし人に向かいて、雑談の口を開きぬ。 「あなたはどちらまで? へい、金沢へ、なるほど、御同様に共進会でございますか」 「さようさ、共進会も見ようと思いますが、ほかに少し。……」  渠は話好きと覚しく、 「へへ、何か公務の御用で」  その人は髭を貯えて、洋服を着けたるより、渠はかく言いしなるべし。官吏?は吸い窮めたる巻煙草を車の外に投げ棄て、次いで忙わしく唾吐きぬ。 「実は明日か、明後日あたり開くはずの公判を聴こうと思いましてね」 「へへえ、なるほど、へえ」  渠はその公判のなんたるを知らざるがごとし。かたわらにいたる旅商人は、卒然我は顔に喙を容れたり。 「ああ、なんでございますか。この夏公園で人殺しをした強盗の一件?」  髭ある人は眼を「我は顔」に転じて、 「そう。知っておいでですか」 「話には聞いておりますが、詳細事は存じませんで。じゃあの賊は逮捕りましてすか」  話を奪われたりし前の男も、思い中る節やありけん、 「あ、あ、あ、ひとしきりそんな風説がございましたっけ。有福の夫婦を斬り殺したとかいう……その裁判があるのでございますか」  髭は再びこなたを振り向きて、 「そう、ちょっとおもしろい裁判でな」  渠は話児を釣るべき器械なる、渠が特有の「へへえ」と「なるほど」とを用いて、しきりにその顛末を聞かんとせり。乙者も劣らず水を向けたりき。髭ある人の舌本はようやく軟ぎぬ。 「賊はじきにその晩捕られた」 「こわいものだ!」と甲者は身を反らして頭を掉りぬ。 「あの、それ、南京出刃打ちという見世物な、あの連中の仕事だというのだがね」  乙者は直ちにこれに応ぜり。 「南京出刃打ち? いかさま、見たことがございました。あいつらが? ふうむ。ずいぶん遣りかねますまいよ」 「その晩橋場の交番の前を怪しい風体のやつが通ったので、巡査が咎めるとこそこそ遁げ出したから、こいつ胡散だと引っ捉えて見ると、着ている浴衣の片袖がない」  談ここに到りて、甲と乙とは、思わず同音に嗟きぬ。乗り合いは弁者の顔を覰いて、その後段を渇望せり。  甲者は重ねて感嘆の声を発して、 「おもしろい! なるほど。浴衣の片袖がない! 天も……なんとやらで、なんとかして漏らさず……ですな」  弁者はこの訛言をおかしがりて、 「天網恢々疎にして漏らさずかい」  甲者は聞くより手を抗げて、 「それそれ、恢々、恢々、へえ、恢々でした」  乗り合いの過半はこの恢々に笑えり。 「そこで、こいつを拘引して調べると、これが出刃打ちの連中だ。ところがね、ちょうどその晩兼六園の席貸しな、六勝亭、あれの主翁は桐田という金満家の隠居だ。この夫婦とも、何者の仕業だか、いや、それは、実に残酷に害られたというね。亭主は鳩尾のところを突き洞される、女房は頭部に三箇所、肩に一箇所、左の乳の下を刳られて、僵れていたその手に、男の片袖を掴んでいたのだ」  車中声なく、人は固唾を嚥みて、その心を寒うせり。まさにこれ弁者得意の時。 「証拠になろうという物はそればかりではない。死骸のかたわらに出刃庖丁が捨ててあった。柄の所に片仮名のテの字の焼き印のある、これを調べると、出刃打ちの用っていた道具だ。それに今の片袖がそいつの浴衣に差違ないので、まず犯罪人はこいつとだれも目を着けたさ」  旅商人は膝を進めつ。 「へえ、それじゃそいつじゃないんでございますかい」  弁者はたちまち手を抗げてこれを抑えぬ。 「まあお聞きなさい。ところで出刃打ちの白状には、いかにも賊を働きました。賊は働いたが、けっして人殺しをした覚えはございません。奪りましたのは水芸の滝の白糸という者の金で、桐田の門は通過もしませんっ」 「はて、ねえ」と甲者は眉を動かして、弁者を凝視めたり、乙者は黙して考えぬ。ますますその後段を渇望せる乗り合いは、順繰りに席を進めて、弁者に近づかんとせり。渠はそのとき巻莨を取り出だして、脣に湿しつつ、 「話はこれからだ」  左側の席の前端に並びたる、威儀ある紳士とその老母とは、顔を見合わせて迭いに色を動かせり。渠は質素なる黒の紋着きの羽織に、節仙台の袴を穿きて、その髭は弁者より麗しきものなりき。渠は紳士というべき服装にはあらざるなり。されどもその相貌とその髭とは、多く得べからざる紳士の風采を備えたり。  弁者は仔細らしく煙を吹きて、 「滝の白糸というのはご存じでしょうな」  乙者は頷き頷き、 「知っとります段か、富山で見ました大評判の美艶ので」 「さよう。そこでそのころ福井の方で興行中のかの女を喚び出して対審に及んだところが、出刃打ちの申し立てには、その片袖は、白糸の金を奪るときに、おおかた断られたのであろうが、自分は知らずに遁げたので、出刃庖丁とてもそのとおり、女を脅すために持っていたのを、慌てて忘れて来たのであるから、たといその二品が桐田の家にあろうとも、こっちの知ったことではないと、理窟には合わんけれど、やつはまずそう言い張るのだ。そこで女が、そのとおりだと言えば、人殺しは出刃打ちじゃなくって、ほかにあるとなるのだ」  甲者は頬杖拄きたりし面を外して、弁者の前に差し寄せつつ、 「へえへえ、そうして女はなんと申しました」 「ぜひおまえさんに逢いたいと言ったね」  思いも寄らぬ弁者の好謔は、大いに一場の笑いを博せり。渠もやむなく打ち笑いぬ。 「ところが金子を奪られた覚えなどはない、と女は言うのだ。出刃打ちは、なんでも奪ったという。偸児のほうから奪ったというのに、奪られたほうでは奪られないと言い張る。なんだか大岡政談にでもありそうな話さ」 「これにはだいぶ事情がありそうです」  乙者は首を捻りつつ腕を拱けり。例の「なるほど」は、談のますます佳境に入るを楽しめる気色にて、 「なるほど、これだから裁判はむずかしい! へえ、それからどう致しました」  傍聴者は声を斂めていよいよ耳を傾けぬ。威儀ある紳士とその老母とは最も粛然として死黙せり。  弁者はなおも語を継ぎぬ。 「実にこれは水掛け論さ。しかしとどのつまり出刃打ちが殺したになって、予審は終結した。今度開くのが公判だ。予審が済んでからこの公判までにはだいぶ間があったのだ。この間に出刃打ちの弁護士は非常な苦心で、十分弁護の方法を考えておいて、いざ公判という日には、一番腕を揮って、ぜひとも出刃打ちを助けようと、手薬煉を引いているそうだから、これは裁判官もなかなか骨の折れる事件さ」  甲者は例の「なるほど」を言わずして、不平の色を作せり。 「へえ、そのなんでございますか、旦那、その弁護士というやつは出刃打ちの肩を持って、人殺しの罪を女に誣ろうという姦計なんでございますか」  弁者は渠の没分暁を笑いて、 「何も姦計だの、肩を持つの、というわけではない。弁護を引き受ける以上は、その者の罪を軽くするように尽力するのが弁護士の職分だ」  甲者はますます不平に堪えざりき。渠は弁者を睨して、 「職分だって、あなた、出刃打ちなんぞの肩を持つてえことがあるもんですか。敵手は女じゃありませんか。かわいそうに。私なら弁護を頼まれたってなんだって管やしません。おまえが悪い、ありていに白状しな、と出刃打ちの野郎を極め付けてやりまさあ」  渠の鼻息はすこぶる暴らかなりき。 「そんな弁護士をだれが頼むものか」  と弁者は仰ぎて笑えり。乗り合いは、威儀ある紳士とその老母を除きて、ことごとく大笑せり。笑い寝むころ馬車は石動に着きぬ。車を下らんとて弁者は席を起てり。甲と乙とは渠に向かいて慇懃に一揖して、 「おかげでおもしろうございました」 「どうも旦那ありがとう存じました」  弁者は得々として、 「おまえさんがたも間があったら、公判を行ってごらんなさい」 「こりゃ芝居よりおもしろいでございましょう」  乗客は忙々下車して、思い思いに別れぬ。最後に威儀ある紳士はその母の手を執りて扶け下ろしつつ、 「あぶのうございますよ。はい、これからは腕車でございます」  渠らの入りたる建場の茶屋の入り口に、馬車会社の老いたる役員は佇めり。渠は何気なく紳士の顔を見たりしが、にわかにわれを忘れてその瞳を凝らせり。  たちまち進み来たれる紳士は帽を脱して、ボタンの二所失れたる茶羅紗のチョッキに、水晶の小印を垂下げたるニッケル鍍の鏁を繋けて、柱に靠れたる役員の前に頭を下げぬ。 「その後は御機嫌よろしゅう。あいかわらずお達者で……」  役員は狼狽して身を正し、奪うがごとくその味噌漉し帽子を脱げり。 「やあこれは! 欣様だったねえ。どうもさっきから肖ているとは思ったけれど、えらくりっぱになったもんだから。……しかしおまえさんも無事で、そうしてまありっぱになんなすって結構だ。あれからじきに東京へ行って、勉強しているということは聞いていたっけが、ああ、見上げたもんだ。そうして勉強してきたのは、法律かい。法律はいいね。おまえさんは好きだった。好きこそものの上手なりけれ、うん、それはよかった。ああ、なるほど、金沢の裁判所に……うむ、検事代理というのかい」  老いたる役員はわが子の出世を看るがごとく懽べり。  当時盲縞の腹掛けは今日黒の三つ紋の羽織となりぬ。金沢裁判所新任検事代理村越欣弥氏は、実に三年前の馭者台上の金公なり。        七  公判は予定の日において金沢地方裁判所に開かれたり。傍聴席は人の山を成して、被告および関係者水島友は弁護士、押丁らとともに差し控えて、判官の着席を待てり。ほどなく正面の戸をさっと排きて、躯高き裁判長は入り来たりぬ。二名の陪席判事と一名の書記とはこれに続けり。  満廷粛として水を打ちたるごとくなれば、その靴音は四壁に響き、天井に※(「應」の「心」に代えて「言」)えて、一種の恐ろしき音を生して、傍聴人の胸に轟きぬ。  威儀おごそかに渠らの着席せるとき、正面の戸は再び啓きて、高爽の気を帯び、明秀の容を具えたる法官は顕われたり。渠はその麗しき髭を捻りつつ、従容として検事の席に着きたり。  謹慎なる聴衆を容れたる法廷は、室内の空気些も熱せずして、渠らは幽谷の木立ちのごとく群がりたり。制服を絡いたる判事、検事は、赤と青とカバーを異にせるテーブルを別ちて、一段高き所に居並びつ。  はじめ判事らが出廷せしとき、白糸は徐かに面を挙げて渠らを見遣りつつ、臆せる気色もあらざりしが、最後に顕われたりし検事代理を見るやいなや、渠は色蒼白めて戦きぬ。この俊爽なる法官は実に渠が三年の間夢寐も忘れざりし欣さんならずや。渠はその学識とその地位とによりて、かつて馭者たりし日の垢塵を洗い去りて、いまやその面はいと清らに、その眉はひときわ秀でて、驚くばかりに見違えたれど、紛うべくもあらず、渠は村越欣弥なり。白糸は始め不意の面会に駭きたりしが、再び渠を熟視するに及びておのれを忘れ、三たび渠を見て、愁然として首を低れたり。  白糸はありうべからざるまでに意外の想いをなしたりき。  渠はこのときまで、一箇の頼もしき馬丁としてその意中に渠を遇せしなり。いまだかくのごとく畏敬すべき者ならんとは知らざりき。ある点においては渠を支配しうべしと思いしなり。されども今この検事代理なる村越欣弥に対しては、その一髪をだに動かすべき力のわれにあらざるを覚えき。ああ、濶達豪放なる滝の白糸! 渠はこのときまで、おのれは人に対してかくまで意気地なきものとは想わざりしなり。  渠はこの憤りと喜びと悲しみとに摧かれて、残柳の露に俯したるごとく、哀れに萎れてぞ見えたる。  欣弥の眼は陰に始終恩人の姿に注げり。渠ははたして三年の昔天神橋上月明のもとに、臂を把りて壮語し、気を吐くこと虹のごとくなりし女丈夫なるか。その面影もあらず、いたくも渠は衰えたるかな。  恩人の顔は蒼白めたり。その頬は削けたり。その髪は乱れたり。乱れたる髪! その夕べの乱れたる髪は活溌溌の鉄拐を表わせしに、今はその憔悴を増すのみなりけり。  渠は想えり。濶達豪放の女丈夫! 渠は垂死の病蓐に横たわらんとも、けっしてかくのごとき衰容をなさざるべきなり。烈々たる渠が心中の活火はすでに燼えたるか。なんぞ渠のはなはだしく冷灰に似たるや。  欣弥はこの体を見るより、すずろ憐愍を催して、胸も張り裂くばかりなりき。同時に渠はおのれの職務に心着きぬ。私をもって公に代えがたしと、渠は拳を握りて眼を閉じぬ。  やがて裁判長は被告に向かいて二、三の訊問ありけるのち、弁護士は渠の冤を雪がんために、滔々数千言を陳ねて、ほとんど余すところあらざりき。裁判長は事実を隠蔽せざらんように白糸を諭せり。渠はあくまで盗難に遭いし覚えのあらざる旨を答えて、黒白は容易に弁ずべくもあらざりけり。  検事代理はようやく閉じたりし眼を開くとともに、悄然として項を垂るる白糸を見たり。渠はそのとき声を励まして、 「水島友、村越欣弥が……本官があらためて訊問するが、裹まず事実を申せ」  友はわずかに面を擡げて、額越しに検事代理の色を候いぬ。渠は峻酷なる法官の威容をもて、 「そのほうは全く金子を奪られた覚えはないのか。虚偽を申すな。たとい虚偽をもって一時を免るるとも、天知る、地知る、我知るで、いつがいつまで知れずにはおらんぞ。しかし知れるの、知れぬのとそんなことは通常の人に言うことだ。そのほうも滝の白糸といわれては、ずいぶん名代の芸人ではないか。それが、かりそめにも虚偽などを申しては、その名に対しても実に愧ずべきことだ。人は一代、名は末代だぞ。またそのほうのような名代の芸人になれば、ずいぶん多数の贔屓もあろう、その贔屓が、裁判所においてそのほうが虚偽に申し立てて、それがために罪なき者に罪を負わせたと聞いたならば、ああ、白糸はあっぱれな心掛けだと言って誉めるか、喜ぶかな。もし本官がそのほうの贔屓であったなら、今日限り愛想を尽かして、以来は道で遭おうとも唾もしかけんな。しかし長年の贔屓であってみれば、まず愛想を尽かす前に十分勧告をして、卑怯千万な虚偽の申し立てなどは、命に換えてもさせんつもりだ」  かく諭したりし欣弥の声音は、ただにその平生を識れる、傍聴席なる渠の母のみにあらずして、法官も聴衆もおのずからその異常なるを聞き得たりしなり。白糸の愁わしかりし眼はにわかに清く輝きて、 「そんなら事実を申しましょうか」  裁判長はしとやかに、 「うむ、隠さずに申せ」 「実は奪られました」  ついに白糸は自白せり。法の一貫目は情の一匁なるかな、渠はそのなつかしき検事代理のために喜びて自白せるなり。 「なに? 盗られたと申すか」  裁判長は軽く卓を拍ちて、きと白糸を視たり。 「はい、出刃打ちの連中でしょう、四、五人の男が手籠めにして、私の懐中の百円を奪りました」 「しかとさようか」 「相違ござりません」  これに次ぎて白糸はむぞうさにその重罪をも白状したりき。裁判長は直ちに訊問を中止して、即刻この日の公判を終われり。  検事代理村越欣弥は私情の眼を掩いてつぶさに白糸の罪状を取り調べ、大恩の上に大恩を累ねたる至大の恩人をば、殺人犯として起訴したりしなり。さるほどに予審終わり、公判開きて、裁判長は検事代理の請求は是なりとして、渠に死刑を宣告せり。  一生他人たるまじと契りたる村越欣弥は、ついに幽明を隔てて、永く恩人と相見るべからざるを憂いて、宣告の夕べ寓居の二階に自殺してけり。 (明治二十七年十一月一日―三十日「読売新聞」)
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店    1971(昭和46)年4月20日改版初版発行    1999(平成11)年2月10日改版40版発行 初出:「読売新聞」    1894(明治27)年11月1日~30日 入力:真先芳秋 校正:鈴木厚司 1999年10月23日公開 2005年12月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000363", "作品名": "義血侠血", "作品名読み": "ぎけつきょうけつ", "ソート用読み": "きけつきようけつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「読売新聞」1894(明治27)年11月1日~30日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-10-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card363.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "高野聖", "底本出版社名1": "角川文庫、角川書店", "底本初版発行年1": "1971(昭和46)年4月20日改版初版", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年2月10日改版40版", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/363_ruby_2654.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/363_20915.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一  先刻は、小さな女中の案内で、雨の晴間を宿の畑へ、家内と葱を抜きに行った。……料理番に頼んで、晩にはこれで味噌汁を拵えて貰うつもりである。生玉子を割って、且つは吸ものにし、且つはおじやと言う、上等のライスカレエを手鍋で拵える。……腹ぐあいの悪い時だし、秋雨もこう毎日降続いて、そぞろ寒い晩にはこれが何より甘味い。  畑の次手に、目の覚めるような真紅な蓼の花と、かやつり草と、豆粒ほどな青い桔梗とを摘んで帰って、硝子杯を借りて卓子台に活けた。  ……いま、また女中が、表二階の演技場で、万歳がはじまるから、と云って誘いに来た。――毎日雨ばかり続くから、宿でも浴客、就中、逗留客にたいくつさせまい心づかいであろう。  私はちょうど寝ころんで、メリメエの、(チュルジス夫人)を読んでいた処だ。真個はこの作家のものなどは、机に向って拝見をすべきであろうが、温泉宿の昼間、掻巻を掛けて、じだらくで失礼をしていても、誰も叱言をいわない処がありがたい。  が、この名作家に対しても、田舎まわりの万歳芝居は少々憚る。……で、家内だけ、いくらかお義理を持参で。――ただし煙草をのませない都会の劇の義理見ぶつに切符を押つけられたような気味の悪いものではない。出来秋の村芝居とおなじ野趣に対して、私も少からず興味を感ずる。――家内はいそいそと出て行った。  どれ、寝てばかりもおられまい。もう二十日過だし少し稼ごう。――そのシャルル九世年代記を、わが文化の版、三馬の浮世風呂にかさねて袋棚にさしおいた。――この度胸でないと仕事は出来ない。――さて新しい知己(その人は昨日この宿を立ったが)秋庭俊之君の話を記そう。……  中へ出る人物は、芸妓が二人、それと湘南の盛場を片わきへ離れた、蘆の浦辺の料理茶屋の娘……と云うと、どうも十七八、二十ぐらいまでの若々しいのに聞えるので、一寸工合が悪い。二十四五の中年増で、内証は知らず、表立った男がないのである。京阪地には、こんな婦人を呼ぶのに可いのがある。(とうはん)とか言う。……これだと料理屋、待合などの娘で、円髷に結った三十そこらのでも、差支えぬ。むかしは江戸にも相応しいのがあった、娘分と云うのである。で、また仮に娘分として、名はお由紀と云うのと、秋庭君とである。  それから、――影のような、幻のような、絵にも、彫刻にも似て、神のような、魔のような、幽霊かとも思われる。……歌の、ははき木のような二人の婦がある。  時は今年の真夏だ。――  これから秋庭君の直話を殆どそのままであると云って可い。 二 「――さあ、あれは明治何年頃でありましょうか。……新橋の芸妓で、人気と言えば、いつもおなじ事のようでございますが、絵端書や三面記事で評判でありました。一対の名妓が、罪障消滅のためだと言います。芸妓の罪障は、女郎の堅気も、女はおなじものと見えまして、一念発起、で、廻国の巡礼に出る。板橋から中仙道、わざと木曾の山路の寂しい中を辿って伊勢大和めぐり、四国まで遍路をする。……笈も笠も、用意をしたと、毎日のように発心から、支度、見送人のそれぞれまで、続けて新聞が報道して、えらい騒ぎがありました。笈摺菅笠と言えば、極った巡礼の扮装で、絵本のも、芝居で見るのも、実際と同じ姿でございます。……もしこれが間違って、たとい不図した記事、また風説のあやまりにもせよ、高尚なり、意気なり、婀娜なり、帯、小袖をそのままで、東京をふッと木曾へ行く。……と言う事であったとしますと、私の身体はその時、どうなっていたか分りません。  尚おその上、四国遍路に出る、その一人が円髷で、一人が銀杏返だったのでありますと、私は立処に杓を振って飛出したかも知れません。ただし途中で、桟道を踏辷るやら、御嶽おろしに吹飛されるやら、それは分らなかったのです。  御存じとは思いますが、川越喜多院には、擂粉木を立掛けて置かないと云う仕来りがあります。縦にして置くと変事がある。むかし、あの寺の大僧正が、信州の戸隠まで空中を飛んだ時に、屋の棟を、宙へ離れて行く。その師の坊の姿を見ると、ちょうど台所で味噌を摺っていた小坊主が、擂粉木を縦に持ったまま、破風から飛出して雲に続いた。これは行力が足りないで、二荒山へ落こちたと言うのです。  私にしても、おなじ運命かも知れません。別嬪が二人、木曾街道を、ふだらくや岸打つ浪と、流れて行く。岨道の森の上から、杓を持った金釦が団栗ころげに落ちてのめったら、余程……妙なものが出来たろうと思います。  些と荒唐無稽に過ぎるようですが、真実で、母可懐く、妹恋しく、唯心も空に憧憬れて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全く遣りかねなかったのでございます。――幼いうちから、孤だった私は、その頃は、本郷の叔父のうちに世話になって、――大学へ通っていました。……文科です。  幸ですか、如何だか、単に巡礼とばかりで、その芸妓たちの風俗から、円髷と銀杏返と云う事を見出さなかったばかりに、胸を削るような思ばかりで済みました。  もとより、円髷と銀杏返と、一人ずつ、別々に離れた場合は、私に取って何事もないのです。――申すまでもない事で、円髷と銀杏返を見るたびに、杓を持って追掛けるのでは、色情狂を通り越して、人間離れがします、大道中で尻尾を振る犬と隔りはありません。  それに、私が言う不思議な婦は、いつも、円髷に結った方は、品がよく、高尚で、面長で、そして背がすらりと高い。色は澄んで、滑らかに白いのです。銀杏返の方は、そんなでもなく、少し桃色がさして、顔もふっくりと、中肉……が小肥りして、些と肩幅もあり、較べて背が低い。この方が、三つ四つ、さよう、……どうかすると五つぐらい年紀下で。縞のきものを着ている。円髷のは、小紋か、無地かと思う薄色の小袖です。  思いもかけない時、――何処と言って、場所、時を定めず、私の身に取って、彗星のように、スッとこの二人の並んだ姿の、顕れるのを見ます時の、その心持と云ってはありません。凄いとも、美しいとも、床しいとも、寂しいとも、心細いとも、可恐いとも、また貴いとも、何とも形容が出来ないのです。  唯今も申した通り、一人ずつ別に――二人を離して見れば何でもありません。並んで、すっと来るのを、ふと居る処を、或は送るのを見ます時にばかり、その心持がしますのです。」  著者はこれを聞きながら、思わず相対っていて、杯を控えた。  ――こう聞くと、唯その二人立並んだ折のみでない。二人を別々に離しても、円髷の女には円髷の女、銀杏返の女には銀杏返の女が、他に一体ずつ影のように――色あり縞ある――影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふらふらと並んで見えるように聞き取られて、何となく悚然した。 三 「はじめて、その二人の婦を見ましたのは、私が八つ九つぐらいの時、故郷の生家で。……母親の若くてなくなりました一周忌の頃、山からも、川からも、空からも、町に霙の降りくれる、暗い、寂しい、寒い真夜中、小学校の友だちと二人で見ました。――なまけものの節季ばたらきとか言って、試験の支度に、徹夜で勉強をして、ある地誌略を読んでいました。――白山は北陸道第一の高山にして、郡の東南隅に秀で、越前、美濃、飛騨に跨る。三峰あり、南を別山とし、北を大汝嶽とし、中央を御前峰とす。……後に剣峰あり、その状、五剣を植るが如し、皆四時雪を戴く。山中に千仞瀑あり。御前峰の絶壁に懸る。美女坂より遥に看るべし。しかれども唯飛流の白雲の中より落るを見るのみ、真に奇観なり。この他美登利池、千歳谷――と、びしょびしょと冷く読んでいると、しばらく降止んで、ひっそりしていたのが急にぱらぱらと霰になった。霰……横の古襖の破目で真暗な天井から、ぽっと燈明が映ります。寒さにすくんで鼠も鳴かない、人ッ子の居ない二階の、階子段の上へ、すっとその二人の婦が立ちました。縞の銀杏返の方のが硝子台の煤けた洋燈を持っています。ここで、聊でも作意があれば、青い蝋燭と言いたいのですが、洋燈です。洋燈のその燈です、その燈で、円髷の婦の薄色の衣紋も帯も判然と見えました。あッと思うと、トントン、トントンと静な跫音とともに階子段を下りて来る。キャッと云って飛上った友だちと一所に、すぐ納戸の、父の寝ている所へ二人で転り込みました。これが第一時の出現で、小児で邪気のない時の事ですから、これは時々、人に話した事がありますが。  翌年でしたか、また秋のくれ方に、母のない子は、蛙がなくから帰ろ、で、一度別れた友だちを、尚おさみしさに誘いたくって、町を左隣家の格子戸の前まで行くと、このしもた屋は、前町の大商人の控屋で、凡そ十人ぐらいは一側に並んで通ることの出来る、広い土間が、おも屋まで突抜けていると言うのですが、その土間と、いま申した我家の階子段とは、暗い壁一重になっていました。  稚い時は、だから、よく階子の中段に腰を掛けて、壁越に、その土間を歩行く跫音や、ものいう人声を聞いて、それをあの何年何月の間か、何処までも何処までもほり抜くと、土一皮下に人声がして、遠くで鶏の鳴くのが聞えたと言う、別の世界の話声が髣髴として土間から漏れる。……小児ごころに、内の階子段は、お伽話の怪い山の、そのまま薄暗い坂でした。――そこが、いまの隣家の格子戸から、間を一つ框に置いて、大な穴のように偶と見えました。――その口へ、円髷の婦がふっと立つ。同時に並んでいた銀杏返のが、腰を消して、一寸足もとの土間へ俯向きました。これは、畳を通るのに、駒下駄を脱いで、手に持つのだ、と見る、と……そのしもた家へ、入るのではなくて、人の居ない間を通抜けに、この格子戸へ出ようとするのだ、何故か、そう思うと、急に可恐くなって、一度、むこうへ駈出して、また夢中で、我家へ遁込んで了いました。  二年ばかり経ってからです。父のために、頻に後妻を勧めるものがあって、城下から六七里離れた、合歓の浜――と言う、……いい名ですが、土地では、眠そうな目をしたり、坐睡をひやかす時に(それ、ねむの浜からお迎が。)と言います。ために夢見る里のような気がします。が、村に桃の林があって、浜の白砂へ影がさす、いつも合歓の花が咲いたようだと言うのだそうです。その浜の、一向寺の坊さんの姪が相談の後妻になるので、父に連れられて行きました。生れてから三里以上歩行いたのは、またその時がはじめてです。母さんが出来ると云うので、いくら留められても、大きな草鞋で、松並木を駈けました。庵のような小寺で、方丈の濡縁の下へ、すぐに静な浪が来ました。尤もその間に拾うほどの浜はあります。――途中建場茶屋で夕飯は済みました――寺へ着いたのは、もう夜分、初夏の宵なのです。行燈を中にして、父と坊さんと何か話している。とんびずわりの足を、チクチク蚊がくいます、行儀よくじっとしてはいられないから、そこは小児で、はきものとも言わないで縁からすぐに浜へ出ました。……雪国の癖に、もう暑い。まるッ切風がありません。池か、湖かと思う渚を、小児ばかり歩行いていました。が、月は裏山に照りながら海には一面に茫と靄が掛って、粗い貝も見つからないので、所在なくて、背丈に倍ぐらいな磯馴松に凭懸って、入海の空、遠く遥々と果しも知れない浪を見て、何だか心細さに涙ぐんだ目に、高く浮いて小船が一艘――渚から、さまで遠くない処に、その靄の中に、影のような婦が二人――船はすらすらと寄りました。  舷に手首を少し片肱をもたせて、じっと私を視たのが円髷の婦です、横に並んで銀杏返のが、手で浪を掻いていました。その時船は銀の色して、浜は颯と桃色に見えた。合歓の花の月夜です。――(やあ父さん――彼処に母さんと、よその姉さんが。……)――後々私は、何故、あの時、その船へ飛込まなかったろうと思う事が度々あります。世を儚む時、病に困んだ時、恋に離れた時です。……無論、船に入ろうとすれば、海に溺れたに相違ない。――彼処に母さんと、よその姉さんが、――そう言って濡縁に飛びついたのは、まだ死なない運命だったろう、と思います。  言うまでもありませんが、後妻のことは、其処でやめになりました。  可厭な、邪慳らしい、小母さんが行燈の影に来て坐っていましたもの。……」  俊之君は、話しかけて、少時思にふけったようであった。 「……その後、時を定めず、場所を択ばず、ともするとその二人の姿を見た事があるのです。何となく、これは前世から、私に附纏っている、女体の星のように思われます。――いえ、それも、世俗になずみ、所帯に煩わしく、家内もあるようになってからは、つい、忘れ勝……と言うよりも、思出さない事さえ稀で、偶に夢に視て、ああ、また(あの夢か。)と、思うようになりました。  ――処が、この八月の事です――  寺と海とが離れたように、間を抜いてお話しましょう。が、桃のうつる白妙の合歓の浜のようでなく、途中は渺茫たる沙漠のようで。……」 四 「東京駅で、少し早めに待合わして。……つれはまだかと、待合室からプラットホオムを出口の方へ掛った処で、私はハッと思いました。……まだ朝のうちだが、実に暑い。息苦しいほどで、この日中が思遣られる。――海岸へ行くにしても、途中がどんなだろう。見合せた方がよかった、と逡巡をしたくらいですから、頭脳がどうかしていはしないかと、危みました。  あの、いきれを挙げる……むッとした人混雑の中へ――円髷のと、銀杏返のと、二人の婦が夢のように、しかも羅で、水際立って、寄って来ました。(あら。)と莞爾して、(お早う。)と若い方が言うと、年上の上品なのは、一寸俯目に頷くようにして、挨拶しました。」  ――先刻は、唯、芸妓が二人、と著者は記した。――俊之君は、「年増と若いの。」と云って話したのである。が、ここに記しつつ思うのに、どうも、どっちも――これから後も――それだと、少なくとも、著者がこの話についてうけた印象に相当しない。更めて仮に姉と、妹としようと思う。…… 「私は目が覚めたように、いや、龍宮から東京駅へ浮いて出た気がしました。同時に、どやどや往来する人脚に乱れて二人は、もう並んではいません。私と軽い巴になって、立停りましたので。……何の秘密も、不思議もない。――これが約束をした当日の同伴なので。……実は昨夜、或場所で、余りの暑さだから、何処かいき抜きに、そんなに遠くない処へ一晩どまりで、と姉の方から話が出たので、可かろう、翌日にも、と酒の勢で云ったものの、用もたたまっていますし、さあ、どうしようか、と受けた杯を淀まして、――四五日経ってからの方が都合は可いのだがと、煮切らない。……姉さんは温和だから、ええええ御都合のいい時で結構。で、杯洗へ、それなり流れようとした処へ、(何の話?……)と、おくれて来た妹が、いきなり、(明日が可い、明日になさい、明日になさい、ああこう云ってると、またお流れになる。)そこで約束が極って、出掛ける事になったのです。――昨夜の今朝ですもの、その二人を、不思議に思うのが却って不思議なくらいで。いや自然の好は妙なものだ、すらりとした姉の方が、細長い信玄袋を提げて、肩幅の広い、背の低い方が、ポコンと四角張って、胴の膨れた鞄を持っている、と、ふとおかしく思うほど、幻は現実に、お伽の坊やは、芸妓づれのいやな小父さんになりましたよ。  乗込んでから、またどうか云う工合で、女たちが二人並ぶか、それを此方から見る、と云った風になると、髪の形ばかりでも、菩提樹か、石榴の花に、女の顔した鳥が、腰掛けた如くに見えて、再び夢心に引入れられもしたのでありましょうけれど、なかなか、そんな事を云っていられる混雑方ではなかったのです。  折からの日曜で、海岸へ一日がえりが、群り掛る勢だから、汽車の中は、さながら野天の蒸風呂へ、衣服を着て浸ったようなありさまで。……それでも、当初乗った時は、一つ二つ、席の空いたのがありました。クションは、あの二人ずつ腰を掛ける誂ので、私は肥満した大柄の、洋服着た紳士の傍、内側へ、どうやら腰が掛けられました。ちょうど、椅子を開いて向合に一つ空席がありましたので、推されながら、この真中ほどへ来た女たちが、 (姉さん。) (まあ、お前さん。)  と譲合いながら、その円髷の方が、とに角、其処へ掛けようとすると、 (一人居るんです。)と言った、一人居た、茶と鼠の合の子の、麻らしい……詰襟の洋服を着た、痩せたが、骨組のしっかりした、浅黒い男が、席を片腕で叩くのです。叩きながら上着を脱いで、そのあいた処へ刎ねました。――さいわい斜違のクションへ、姉は掛ける事が出来ましたし、それと背中合せに、妹も落着いたんです。御存じの通り、よっかかりが高いのですから、その銀杏返は、髪も低い……一寸雛箱へ、空色天鵝絨の蓋をした形に、此方から見えなくなる。姉の円髷ばかり、端正として、通を隔てて向合ったので、これは弱った――目顔で串戯も言えない。――たかだか目的地まで三時間に足りないのだけれど、退屈だなと思いましたが、どうして、退屈などと云う贅沢は言っていられない、品川でまた一もみ揉込んだので、苦しいのが先に立ちます。その時も、手で突張ったり、指で弾いたり、拳で席を払いたり、(人が居るです、――一人居るですよ。)その、貴下……白襯衣君の努力と云ってはなかった。誰にも掛けさせまいとする。……大方その同伴は、列車の何処かに知合とでも話しているか、後架にでも行ってるのであろうが、まだ、出て来ません。このこみ合う中で、それとも一人占めにしようとするのか知ら、些と怪しからんと思ううちに、汽車が大森駅へ入った時です。白襯衣君が、肩を聳やかして突立って、窓から半身を乗出したと思うと、真赤な洋傘が一本、矢のように窓からスポリと飛込んだ。白襯衣君がパッとうけて、血の点滴るばかりに腕へ留めて抱きましたが、色の道には、あの、スパルタの勇士の趣がありましたよ。汽車がまだ留らない間の早業でしてなあ。」  俊之君は、吻と一息を吐いて言った。 「敏捷い事……忽ち雪崩れ込む乗客の真前に大手を振って、ふわふわと入って来たのは、巾着ひだの青い帽子を仰向けに被った、膝切の洋服扮装の女で、肱に南京玉のピカピカしたオペラバックと云う奴を釣って、溢出しそうな乳を圧えて、その片手を――振るのではない、洋傘を投げたはずみがついて、惰力が留まらなかったものと考えられます。お定りの、もう何うにもならないと云った大な尻をどしんと置くのだが、扱いつけていると見えて、軽妙に、ポンと、その大な浮袋で、クションへ叩きつけると、赤い洋傘が股へ挟まったように捌ける、そいつを一蹴けって黄色な靴足袋を膝でよじって両脚を重ねるのをキッカケに、ゴム靴の爪さきと、洋傘の柄をつつく手がトントンと刻んで動く、と一所に、片肱を白襯衣の肩へ掛けて、円々しい頤を頬杖で凭せかけて、何と、危く乳首だけ両方へかくれた、一面に寛けた胸をずうずうと揺って、(おお、辛度。)と故とらしい京弁で甘ったれて、それから饒舌る。のべつに饒舌る……黄色い歯の上下に動くのと、猪首を巾着帽子の縁で突くのと同時なんです。  二の腕から、頸は勿論、胸の下までべた塗の白粉で、大切な女の膚を、厚化粧で見せてくれる。……それだけでも感謝しなければなりません。剰え貴い血まで見せた、その貴下、いきれを吹きそうな鳩尾のむき出た処に、ぽちぽちぽちと蚤のくった痕がある。  ――川崎を越す時分には、だらりと、むく毛の生えた頸を垂れて、白襯衣君の肩へ眉毛まで押着けて、坐睡をはじめたのですが、俯向けじゃあ寝勝手が悪いと見えて、ぐらぐら首を揺るうちに、男の肩へ、斜に仰向け状にぐたりとなった。どうも始末に悪いのは、高く崩れる裾ですが、よくしたもので、現に、その蚤の痕をごしごし引掻く次手に、膝を捩じ合わせては、ポカリと他人の目の前へ靴の底を蹴上げるのです。  男の方は、その重量で、窓際へ推曲められて、身体を弓形に堪えて納まっている。はじめは肩を抱込んで、手を女の背中へまわしていました。……膚いきれと、よっかかりの天鵝絨で、長くは暑さに堪りますまい。やがて、魚を仰向けにしたような、ぶくりとした下腹の上で涼ませながら、汽車の動揺に調子を取って口笛です。  娑婆はこのくらいにして送りたい、羨しいの何のと申して。  私は目の遣場に困りました。往来の通も、ぎっしり詰って、まるで隙間がないのです。現に私の頭の上には、緋手絡の大円髷が押被さって、この奥さんもそろそろ中腰になって、坐睡をはじめたのです。こくりこくりと遣るのに耳へも頬へもばらばらとおくれ毛が掛って来る。……鬢のおくれ毛が掛るのを、とや角言っては罰の当った話ですが、どうも小唄や小本にあるように、これがヒヤリと参りません。べとべとと汗ばんで、一条かかると濛とします。ただし、色白で一寸、きれいな奥さんでしたが、えらい子持だ。中を隔てられて、むこうに、海軍帽子の小児を二人抱いて押されている、脊のひょろりとしたのが主人らしい。その旦那の分と、奥さん自身のと、――私は所在なさに、勘定をしましたが、小児の分を合わせて洋傘九本は……どうです。  さあ、事ここに及んで、――現実の密度が濃くなっては、円髷と銀杏返の夢の姿などは、余りに影が薄すぎる。……消えて幽霊になって了ったかも知れません。 (清涼薬……)  と、むこうで、一寸噪いだ、お転婆らしい、その銀杏返の声がすると、ちらりと瞳が動く時、顔が半分無理に覗いて、フフンと口許で笑いながら、こう手が、よっかかりを越して、姉の円髷の横へ伝って、白く下りると、その紙づつみを姉が受けて、子持の奥さんの肩の上から、 (清涼薬ですって。……嘸ぞお暑い事で。……)  と、腹の上で揺れてる手を流眄に見て、身を引きました。  私は苦笑をしながら、ついぞ食べつけない、レモン入りの砂糖を舐めました。――如何、この動作で、その二人の婦がやっと影を顕わし得た気がなさりはしませんか。  時に、おなじくその赤い蝙蝠――の比翼の形を目と鼻の前にしながら、私と隣合った年配の紳士は、世に恐らく達人と云って可い、いや、聖人と言いたいほどで。――何故と云うと、この紳士は大森を出てから、つがいの蝙蝠が鎌倉で、赤い翼を伸して下りた時まで、眠り続けて睡っていました。……  真個に寝ていたのかと思うと、そうでありません。つがいが飛んだのを見ると、明に眼を活かして、棚のパナマ帽を取って、フッと埃を窓の外へ弾きながら、 (御窮屈でございましたろう……御迷惑で。)  澄まして挨拶をされて、吃驚して、 (いや。どう仕りまして。)  と面くらう隙に、杖を脇挟んで悠然と下車しましたから。」  俊之君は、ここで更に居坐を直して続けた。…… 五 「お話のいたしようで、どうお取りになったか知れないのでありますが、私は紳士に敬意を表するとともに、赤い蝙蝠にも、年児の奥さんにも感謝します。決して敵意は持ちません。そのいずれの感化であったかは自分にも分りません。が、とに角、その晩、二人の婦と、一ツ蚊帳に……成りたけ離れて寝ましたから。  ――さあ、何時頃だったでしょう――二度めに、ふと寝苦しい暑さから、汗もねばねばとして目の覚めましたのは。――夜中も、その沈み切った底だったと思います。うつうつしながら糠に咽せるように鬱陶しい、羽虫と蚊の声が陰に籠って、大蚊帳の上から圧附けるようで息苦しい。  蚊帳は広い、大いのです。廻縁の角座敷の十五畳一杯に釣って、四五ヶ所釣を取ってまだずるり――と中だるみがして、三つ敷いた床の上へ蔽いかかって、縁へ裾が溢れている。私には珍しいほどの殆ど諸侯道具で。……余り世間では知りませんが、旅宿が江戸時代からの旧家だと聞いて来たし、名所だし、料理旅籠だししますから、いずれ由緒あるものと思われる、従って古いのです。その上、一面に嬰児の掌ほどの穴だらけで、干潟の蟹の巣のように、ただ一側だけにも五十破れがあるのです。勿論一々継を当てた。……古麻に濃淡が出来て、こう瞬をするばかり無数に取巻く。……この大痘痕の化ものの顔が一つ天井から抜出したとなると、可恐さのために一里滅びようと言ったありさまなんです。――ここで一寸念のために申しますが、この旅籠屋も、昨年の震災を免れなかったのに、しかも一棟焚けて、人死さえ二三人あったのです――蚊帳は火の粉を被ったか、また、山を荒して、畑に及ぶと云う野鼠が群り襲い、当時、壁も襖も防ぎようのなかった屋のうちへ押入って、散々に喰散らしたのかとも思われる。  女中が二人で、宵にこの蚊帳を釣った時、 (まあ。)  と浮りしたように姉が云うと、 (お気の毒だわね。)  と思わず妹も。……この両方だって、おなじく手拭浴衣一枚で、生命を助って、この蚊帳を板にした同然な、節穴と隙間だらけのバラックに住んでいるのに、それでさえそう言った。  ――実は、海岸も大分片よった処ですから、唯聞いたばかり、絵で見たばかりで様子を知らない。――宿が潰れた上、焚けて人死があった事は、途中自動車の運転手に聞いて、はじめて知ったのです。 (――それは少し心配だな。)  二人の婦も、黙って顔を見合せました。  可恐しい崖崩れがそのままになっていて、自動車が大揺れに煽った処で。……またそれがために様子を聞きたくもなったのでした。  運転手は悍馬を乗鎮めるが如くに腰を切って、昂然として、 (来る……九月一日、十一時五十八分までは大丈夫請合います。)  と笑って言った。――(八月十日頃の事ですが)――  畜生、巫山戯ている。私は……一昨々年――家内をなくしたのでございますが、連がそれだったらこういう蔑めた口は利きますまい。いや、これに対しても、いまさら他の家へとも言いたくなし、尤も其家をよしては、今頃間貸をする農家ぐらいなものでしょうから。 (構わない、九月一日まで逗留だ。)  と擬勢を示した。自動車は次第に動揺が烈しくなって乗込みました。入江に渡した村はずれの土橋などは危なかしいものでした。  場所は逗子から葉山を通って秋谷、立石へ行く間の浦なんです。が、思ったとは大変な相違で、第一土橋と云う、その土橋の下にまるで水がありません、……約束では、海の波が静にこの下を通って、志した水戸屋と云うのの庭へ、大な池に流れて、縁前をすぐに漁船が漕ぐ。蘆が青簾の筈なんです。処が、孰方を向いても一面の泥田、沼ともいわず底が浅い。溝をたたきつけた同然に炎天に湧いたのが汐で焼けて、がさがさして、焦げています。……あの遠くの雲が海か知らんと思うばかりです。干潟と云うより亡びた沼です。気の利いた蛙なんか疾くに引越して、のたり、のたりと蚯蚓が雨乞に出そうな汐筋の窪地を、列を造って船虫が這まわる……その上を、羽虫の大群が、随所に固って濛々と、舞っているのが炎天に火薬の煙のように見えました。  半ばひしゃげたままの藤棚の方から、すくすくとこの屋台を起して支えた、突支棒の丸太越に、三人広縁に立って三方に、この干からびた大沼を見た時は、何だか焼原の東京が恋しくなった。  贅沢だとお叱んなさい。私たちは海へ涼みに出掛けたのです。 (海には汐の満干があるよ、いまに汐がさすと一面の水になる。)  折角、楽みにして、嬉しがって来た女連に、気の毒らしくって、私が言訳らしくそう言いますと、 (嘸ぞようござんしょうねお月夜だったら。)  姉の言った事は穏です。  些と跳ねものの妹のをお聞きなさい。 (雪が降るといい景色だわね。)  真実の事で。……これは決して皮肉でも何でもありません。成程ここへ雪が降れば、雪舟が炭団を描いたようになりましょう。  それも、まだ座敷が極ったと言うのではなかったので。……ここの座敷には、蜜柑の皮だの、キャラメルの箱だのが散ばって、小児づれの客が、三崎へ行く途中、昼食でもして行った跡をそのままらしい。障子はもとより開放してありました。古襖がたてつけの悪いままで、その絵の寒山拾得が、私たちを指して囁き合っている体で、おまけに、手から抜出した同然に箒が一本立掛けてあります。  串戯にも、これじゃ居たたまらないわけなんですが、些とも気にならなかったのは、――先刻広い、冠木門を入った時――前庭を見越したむこうの縁で、手をついた優しい婦を見たためです。……すぐその縁には、山林局の見廻りでもあろうかと思う官吏風の洋装したのが、高い沓脱石を踏んで腰を掛けて、盆にビイル罎を乗せていました。またこの形は、水戸屋がむかしの茶屋旅籠のままらしくて面白し……で、玄関とも言わず、迎えられたまま、その傍から、すぐ縁側へ通ったのですが、優しい婦が、客を嬉しそうに見て、 (お暑うございましたでしょう、まあ、ようこそ、――一寸お休み遊ばして。)  と、すぐその障子の影へ入れる、とすぐ靴の紐を縷っていた洋装のが、ガチリと釣銭を衣兜へ掴込んで、がっしりした洋傘を支いて出て行く。……いまの婦は門外まで、それを送ると、入違いに女中が、端近へ茶盆を持って出て、座蒲団をと云った工合で?……うしろに古物の衝立が立って、山鳥の剥製が覗いている。――処へ、三人茶盆を中にして坐った様子は、いまに本堂で、志す精霊の読経が始りそうで何とも以て陰気な処へ、じとじと汗になるから堪りません……そこで、掃除の済まない座敷を、のそのそして、――右の廻縁へ立った始末で。……こう塩辛い、大沼を視めるうちに、山下の向う岸に、泥を食って沈んだ小船の、舷がささらになって、鯉ならまだしも、朝日奈が取組合った鰐の頤かと思うのを見つけたのも悲惨です。  山出しの女中が来て、どうぞお二階へ、――助かった、ここで翌朝まで辛抱するのかと断念めていたのに。――いや、階子段は、いま来た三崎街道よりずッと広い、見事なものです。三人撒いたように、ふらふらと上ると、上り口のまた広々とした板敷を、縁側へ廻る処で、白地の手拭の姉さんかぶりで、高箒を片手に襷がけで、刻足に出て行逢ったのがその優しい婦で、一寸手拭を取って会釈しながら、軽くすり抜けてトントンと、堅い段を下りて行くのが、あわただしい中にも、如何にも淑かで跫音が柔うございました。  何とも容子のいい、何処かさみしいが、目鼻立のきりりとした、帯腰がしまっていて、そして媚かしい、なり恰好は女中らしいが、すてきな年増だ。二十六七か、と思ったのが――この水戸屋の娘分――お由紀さんと言うのだとあとで分りました。  ――また、奇異なものを見ました――  貴下には、矢張り唐突に聞えましょうが、私には度々の事で。……何かと申すと――例の怪しい二人の婦の姿です。――私が湯から上りますと、二人はもう持参の浴衣に着換えていて、お定りの伊達巻で、湯殿へ下ります、一人が市松で一人が独鈷……それも可い、……姉の方の脱いだ明石が、沖合の白波に向いた欄干に、梁から衣紋竹で釣って掛けてさぼしてある。裾にかくして、薄い紫のぼかしになった蹴出しのあるのが、すらすら捌くように、海から吹く風にそよいでいました。――午後二時さがりだったと思います。真日中で、土橋にも浜道にも、人一人通りません。が、さすがに少し風が出ました。汗が引いてスッと涼しい。――とその蹴出しの下に脱いで揃えた白足袋が、蓮……蓮には済まないが、思うまま言わして下さい。……白蓮華の莟のように見えました。同時に、横の襖に、それは欄間に釣って掛けた、妹の方の明石の下に、また一絞りにして朱鷺色の錦紗のあるのが一輪の薄紅い蓮華に見えます。――東京駅を出て、汽車で赤蝙蝠に襲われた、のちこの時まで、(ああ、涼しい。)と思えたのは、自動車で来る途中、山谷戸の、路傍に蓮田があって、白いのが二三輪、旱にも露を含んで、紅蓮が一輪、むこうに交って咲いたのを見た時ばかりであったからです。  また涼しい風が颯と来ました。羅は風よりも軽い……姉の明石が、竹を辷ると、さらりと落ちたが、畳まれもしないで、煽った襟をしめ加減に、細りとなって、脇あけも採れながら、フッと宙を浮いて行く。……あ、あ、と思ううちに、妹のが誘われて、こう並んでひらひらと行く。後のの裾が翻ったと見る時、ガタリと云って羅の抜けたあとへ衣紋竹が落ちました。一つは擽られるように、一つは抱くようにと、見るうちに、床わきへ横に靡いて両方裾を流したのです。  私は悚然とした。  ばかりではありません。ここで覚めるのかと思う夢でない所を見ると、これが空蝉になって、二人は、裏の松山へ、湯どのから消失せたのではなかろうか――些と仰山なようであるが真個……勝手を知った湯殿の外まで密と様子を見に行ったくらいです。婦の事で、勿論戸は閉めてある。妹の方の笑声が湯気に籠って、姉が静に小桶を使う。その白い、かがめた背筋と、桃色になった湯の中の乳のあたりが、卑い事だが、想像されて。……ただし、紅白の蓮華が浴する、と自讃して後架の前から急に跫音を立てて、二階の見霽へ帰りました。  や、二人の羅が、もとの通り、もとの処に掛っている、尤も女中が来て、掛け直したと思えば、それまでなんですが、まだ希有な気がしたのです。  けれども、午飯のお誂が持出されて、湯上りの二人と向合う、鯒のあらいが氷に乗って、小蝦と胡瓜が揉合った処を見れば無事なものです。しかも女連はビイルを飲む。ビイルを飲む仏もなし、鬼もない。おまけに、(冷蔵庫じゃないわね。)そ、そんな幽霊があるもんじゃありません。  況や、三人、そこへ、ころころと昼寝なんぞは、その上、客も、芸妓もない、姉も妹も、叔母さんも、更に人間も、何にもない。  暮方、またひったりと蒸伏せる夕凪になりました。が、折から淡りと、入江の出岬から覗いて来る上汐に勇気づいて、土地で一番景色のいい、名所の丘だと云うのを、女中に教わって、三人で出掛けました。もう土橋の下まで汐が来ました。路々、唐黍畑も、おいらん草も、そよりともしないで、ただねばりつくほどの暑さではありましたが、煙草を買えば(私が。)(あれさ、細いのが私の方に。)と女同士……東京子は小遣を使います。野掛け気分で、ぶらぶら七八町出掛けまして、地震で崩れたままの危かしい石段を、藪だの墓だのの間を抜けて、幾蜿りかして、頂上へ――誰も居ません。葭簀張の茶店が一軒、色の黒い皺びた婆さんが一人、真黒な犬を一匹、膝に引つけていて、じろりと、犬と一所に私たちを視めましたっけ。……  この婆さんに、可厭な事を聞きました。――  ……此処で、姉の方が、隻手を床几について、少し反身に、浴衣腰を長くのんびりと掛けて、ほんのり夕靄を視めている。崖縁の台つきの遠目金の六尺ばかりなのに妹が立掛った処は、誰も言うた事ですが、広重の絵をそのままの風情でしたが――婆の言う事で、変な気になりました。  目の下の水田へは雁が降りるのだそうです。向うの森の山寺には、暮六つの鐘が鳴ると言う。その釣鐘堂も崩れました。右の空には富士が見える。それは唯深い息づきもしない靄です。沖も赤く焼けていて、白帆の影もなし、折から星一つ見えません。 (御覧じゃい、あないにの、どす黒くへりを取った水際から、三反も五反と、沖の方へさ汐の干た処へ、貝、蟹の穴からや、にょきにょきと蘆が生えましたぞい。あの……蘆がつくようでは、この浦は、はや近うちに、干上って陸になるぞいの。そうもござりましょ。……去年の大地震で、海の底が一体に三尺がとこ上りましての、家々の土地面が三尺たたら踏んで落込みましたもの、の。いま、さいて来た汐も、あれ、御覧じゃい。……海鼠が這うようにちょろちょろと、蘆間をあとへ引きますぞいの。村中が心を合せて、泥浚をせぬ事には、ここの浦は、いまの間に干潟になって、やがて、ただ茫々と蘆ばかりになるぞいの。……)  何だか独言のように言って聞かせて、錆茶釜に踞んで、ぶつぶつ遣るたびに、黒犬の背中を擦ると、犬が、うううう、ぐうぐうと遣る。変に、犬の腹から声を揉出すようで、あ、あの婆さんの、時々ニヤリとする歯が犬に似ている。薄暮合に、熟としている犬の不気味さを、私は始めて知りました。…… (――旦那様方が泊らっしゃった、水戸屋がの、一番に海へ沈んだぞいの。)  靄の下に、また電燈の光を漏らさない、料理旅籠は、古家の甍を黒く、亜鉛屋根が三面に薄りと光って、あらぬ月の影を宿したように見えながら、縁も庇も、すぐあの蛇のような土橋に、庭に吸われて、小さな藤棚の遁げようとする方へ、大く傾いているのでした。 (……その時は、この山の下からの、土橋の、あの入江がや、もし……一面の海でござったがの、轟と沖も空も鳴って来ると、大地も波も、一斉に箕で煽るように揺れたと思わっしゃりまし。……あの水戸屋の屋根がの、ぐしゃぐしゃと、骨離れの、柱離れで挫げての――私らは、この時雨の松の……)  と言いました。字の傘のように高く立って、枝が一本折れて、崖へ傾いているを指して、 (松の根に這い縋って見ましたがの、潰れた屋の棟の瓦の上へ、一ちさきに、何処の犬やら、白い犬が乗りましたぞい。乾してあった浴衣が、人間のように、ぱッぱッと欄干から飛出して、潟の中へへばりつく。もうその時は、沖まで汐が干たぞいの。ありゃ海が倒になって裏返ったと思いましたよ。その白犬がの、狂気になったかの、沖の方へ、世界の涯までと駈出すと思う時、水戸屋の乾の隅へ、屋根へ抜けて黄色な雲が立ちますとの、赤旗がめらめらと搦んで、真黒な煙がもんもんと天井まで上りました。男衆も女衆も、その火を消す間に、帳場から、何から、家中切もりをしてござった彼家のお祖母様が死なしゃった。人の生命を、火よりさきへ助ければ可いものと、村方では言うぞいの。お祖母様が雛児のように抱いてござった小児衆も二人、一所に死んだぞの。孀つづきの家で、後家御は一昨年なくならした……娘さんが一人で、や、一気に家を装立てていさっしゃりますよ。姉さんじゃ。弟どのは、東京の学校さ入っていさっしゃるで。……地震の時は留守じゃったで、評判のようないは姉娘でござりますよ。――家とおのれは助かっても、老人小児を殺いてはのうのう黒犬を、のう、黒犬や――)……  勝手にしろ。殺したのではない、死んだのである。その場合に、圧に打たれ、火に包まれたものと進退をともにするのは、助けるのではない、自殺をするのだ、と思いました。……私は可厭な事を聞いた、しかし、祖母と小さい弟妹を死なせて水戸屋を背負って生残ったと言う娘分、――あの優しい婦が確にと、この時直覚的に知りましたが――どんなに心苦しいか……この狭い土地で、嘸ぞ肩身が狭かろう。――胸のせまるまで、いとしく、可憐になったのです。 (可厭な婆さん……) (黒犬が憑いてるようね。犬も婆のようだったよ。)  石段を下りかかって、二人がそう云った時、ふと見返ると、坂の下口に伸掛って覗いていました。こんな時は、――鹿は贅沢だ。寧ろ虎の方が可い。礫を取って投げようとするのを二人に留められて……幾つも新しい墓がある――墓を見ながら下りたんです。  時に――(見たいわね。)妹なぞもそう言ったのですが、お由紀さんは、それ切姿を見せなかったのです。  大分話が前後になりました。  処で、真夜中に寝苦しい目の覚めた時です。が、娘分に対しても決して不足を言うんじゃあない。……蚊帳のこの古いのも、穴だらけなのも、一層お由紀さんの万事最惜さを思わせるのですけれども、それにしても凄まじい、――先刻も申した酷い継です。隣室には八畳間が二つ並んで、上下だだ広い家に、その晩はまた一組も客がないのです。この辺に限らず、何処でも地方は電燈が暗うございますから、顔の前に点いていても、畳の目がやっと見える、それも蚊帳の天井に光っておればまだしも、この燈に羽虫の集る事夥多しい。何しろ、三方取巻いた泥沼に群れたのが蒸込むのだから堪りません。微細い奴は蚊帳の目をこぼれて、むらむら降懸るものですから、当初一旦寝たのが、起上って、妹が働いて、線を手繰って、次の室へ電燈を持って行ったので、それなり一枚開けてあります。その襖越しにぼんやりと明が届く、蚊帳の裡の薄暗さをお察し下さい。――鹿を連れた仙人の襖の南画も、婆と黒犬の形に見える。……ああ、この家がぐわしゃぐわしゃと潰れて乾の隅から火が出た、三人の生命が梁の下で焼けたのだと思うと、色合と言い、皺といい、一面の穴と言い、何だか、ドス黒い沼の底に、私たち倒れているような気がしてなりません。 (ああ、これは尋常事でない。)  一体小児の時から、三十年近くの間――ふと思い寄らず、二人の婦の姿が、私の身の周囲へ顕われて、目に遮る時と云うと、善にしろ、悪いにしろ、それが境遇なり、生活なりの一転機となるのが、これまでに例を違えず、約束なのです。とに角、私の小さい身体一つに取って、一時期を劃する、大切な場合なのです。 (これは、尋常事でない。……)  私は形に出る……この運命の映絵に誘われていま不思議な処へ来た――ここで一生を終るのではないか、死ぬのかも知れない。  枕も髪も影になって、蒸暑さに沓脱ぎながら、行儀よく組違えた、すんなりと伸びた浴衣の裾を洩れて、しっとりと置いた姉の白々とした足ばかりが燈の加減に浮いて見える。白い指をすッすッと刻んで、瞳をふうわりと浮いて軽い。あの白蓮華をまた思いました。  取縋って未来を尋ねようか、前世の事を聞こうか。――  と、この方は、私の隣に寝ている。むこうへ、一嵩一寸低く妹が寝ていました。  ……三分……五分……  紅い蓮華がちらちらと咲いた。幽に見えて、手首ばかり、夢で蝶を追うようなのが、どうやら此方を招くらしい。……  ――抱きしめて、未来を尋ねようか。前世の事を聞こうか。――  招く方へは寄易い。  私は、貴方、巻莨の火を消しました。  その時です。ぱちぱちと音のするばかり、大蚊帳の継穴が、何百か、ありッたけの目になりました。――蚊帳の目が目になった、――否、それが一つ一つ人間の目なんです。――お分りになり憎うございましょうか知ら。……一斉に、その何十人かの目が目ばかり出して熟と覗いたのです。睜る、瞬く、瞳が動く。……馬鹿々々しいが真個です。睜る、瞬く、瞳が動く。……生々として覗いています。暗い、低い、大天井ばかりを余して、蚊帳の四方は残らず目です。  私はすくんで了いました。  いや、すくんでばかりはおられません。仰向けに胸へ緊乎と手を組んで、両眼を押睡って、気を鎮めようとしたのです。  三分……五分――十分――  魔は通って過ぎたろうと、堅く目を開きますと、――鹿と仙人が、婆と黒犬に見える、――その隣室の襖際と寝床の裾――皆が沖の方を枕にしました――裾の、袋戸棚との間が、もう一ヶ所通で、裏階子へ出る、一人立の口で。表二階の縁と、広く続いて、両方に通口のあるのが、何だか宵から、暗くて寂しゅうございました。――いま、その裏階子の口の狭い処にぼッと人影が映して色の白い婦が立ちました。私は驚きません。それは円髷の方で……すぐ銀杏返のが出る、出て二人並ぶと同時に膝をついて、駒下駄を持つだろう。小児の時見たのと同じようだ。で、蚊帳から雨戸を宙に抜けて、海の空へ通るのだろうと思いました。私の身に、二人の婦の必要な時は、床柱の中から洋燈を持って出て来た事さえありますから。」…… 「ははあ。」  著者は思わず肱を堅くして聞いたのであった。 六 「――処がその婦は一人きりで、薄いお納戸色の帯に、幽な裾模様が、すッと蘆の葉のように映りました。すぐ背を伸ばせば届きます。立って、ふわふわと、凭りかかるようにして、ひったりと蚊帳に顔をつけた。ああ、覗く。……ありたけの目が、その一ところへ寄って、爛々として燃えて大蛇の如し……とハッとするまに、目がない、鼻もない、何にもない、艶々として乱れたままの黒髪の黒い中に、ぺろりと白いのっぺらぼう。――」 「…………」  著者は黙って息を呑んで聞いた。 「うう、と殺されそうな声を呑むと、私は、この場合、婦二人、生命を預る……私は、むくと起きて、しにみに覚悟して、蚊帳を刎ねた、その時、横ゆれに靡いて、あとへ下ったその婦が、気に圧されて遁げ状に板敷を、ふらふらとあと退りに退るのを夢中で引捉えようとしました。胸へ届きそうな私の手が、辷るが早いか、何とも申しようのない事は、その婦は三四尺ひらりと空へ飛んで、宙へ上った。白百合が裂けたように釣られた両足の指が反って震えて、素足です。藍、浅葱、朱鷺色と、鹿子と、絞と、紫の匹田と、ありたけの扱帯、腰紐を一つなぎに、夜の虹が化けたように、婦の乳の下から腰に絡わり、裾に搦んで。……下に膝をついた私の肩に流れました。雪なす両の腕は、よれて一条になって、裏欄干の梁に釣した扱帯の結目、ちょうど緋鹿子の端を血に巻いて縋っている。顔を背けよう背けようと横仰向けに振って、よじって伸ばす白い咽喉が、傷々しく伸びて、蒼褪める頬の色が見る見るうちに、その咽喉へ隈を薄く浸ませて、身悶をするたびに、踏処のない、つぼまった蹴出が乱れました。凄いとも、美しいとも、あわれとも、……踏台が置いてある。目鼻のない、のっぺらぼうと見えたのは、白地の手拭で、顔の半ば目かくしをしていたのです。」  俊之君は、やや、声忙しく語った。此処で吻と一息した。 「いま、これを処置するのに、人の妻であろうと、妾であろうと、娘であろうと、私は抱取らなければなりません。  私は綺麗なばけものを、横抱きに膝に抱いて助けました。声を殺して、 (何をなさる。)  扱帯で両膝は結えていました。けれども、首をくくるのに、目隠をするのは可訝しい。気だけも顔を隠そうとしたのかと思う。いや、そうでないのです。それに、実は死のうとしたのではない。私から遁げようとしたので、目を隠したのは、見まい見せまいじゃあない。蚊帳を覗くためだったのだから余程変です。」 七 「前後のいきさつで、大抵お察しでありましょう。それはお由紀さんでございました。  申憎うございますけれども、――今しがた、貴方の御令閨のお介添で――湯殿へ参っております、あの女なのです。  これでは……その時の私と、由紀とのうけこたえに、女のものいいが交りましては、尚お申憎うございますから、わけだけを、手取早く。……  由紀は、人の身の血も汐も引くかと思う、干潟に崩家を守りつつ、日も月も暗くなりました。……村の口の端、里の蔭言、目も心も真暗になりますと、先達て頃から、神棚、仏壇の前に坐って、目を閉じて拝む時、そのたびに、こう俯向く……と、衣ものの縞が、我が膝が、影のように薄りと浮いて見えます。それが毎日のように度重ると段々に判然見える。姿見のない処に、自分の顔が映るようで、向うが影か、自分が影か、何とも言えない心細い、寂しい気がしたのだそうです。絣は那様でない、縞の方が、余計にきっぱりとしたのが、次第に、おなじまで、映る事になったと言います。ただ、神仏の前にぬかずく時、――ほかには何の仔細もなかった。  処が当日、私たちの着きますのが、もう土橋のさきから分ったと言うのです。それは別に気にも留めなかった。黄昏に三人で、時雨の松の見霽へ出掛けるのを、縁の柱で、悄乎と、藤棚越に伸上って見ていると、二人に連れられて、私の行くのが、山ではなしに、干潟を沖へ出て、それ切帰らない心持がしてならなかった。無事に山へ行きました。――が、遠目金を覗くのも、一人が腰を掛けたのも、――台所へ引込んでまでもよく分る。それとともに、犬婆さんが、由紀の身について饒舌るのさえ聞えるようで。……それがために身を恥じて、皆の床の世話もしなかった。極りの悪い、蚊帳の所為ばかりではないと言います。夜の進むに従って、私たちの一挙一動がよく知れた。……  三人が一寝入したでしょう、うとうととして一度目を覚ます、その時でした。妹の方が、電燈を手繰って隣の室へ運んでいたのは。――(大変な虫ですよ)と姉は寝ながら懶そうに団扇を動かす。蚤と蚊で……私も痒い。身体中、くわッといきって、堪らない、と蚊帳を飛出して、電燈の行ったお隣へ両腕を捲って、むずむず掻きながら、うっかり入ると、したたかなものを見ました。頭から足のさきまで、とろりと白い膏のかかったはり切れそうな膚なんです。蚤を振って脱いでいたので。……電燈の下へ立派に立って、アハハと笑いました。(抱くと怪我をしてよ。……夏虫さん――)(いや、どうも、弱った。)と襖の陰へ、晩に押して置いた卓子台の前へ、くったりと小さくなる。(生憎、薬が。)と姉が言うと(香水をつけて上げましょう、かゆいのが直るわよ。……)と一気にその膚で押して出て、(どうせお目に掛けたんだ、暑さ凌ぎ。ほほほほ。)袋戸棚から探って取った小罎を持って、胸の乳、薫ってひったりと、(これ、ここも、ここも、ここも。)虫のあとへ、ひやひやと罎の口で接吻をさせた。  ああ、この時は弱ったそうです。……由紀は仏間に一人、蚊帳に起きて端正と坐って、そして目をつぶって、さきから俯向いて一人居たのだそうですが、二階の暗がりに、その有様が、下の奥から、歴々と透いて見えたのですから。――年は長けても処女なんです。どうしていいか分らない。あっちへ遁げ、此方へ避け、ただ人の居ない処を、壁に、柱に、袖をふせて、顔をかくしたと言うじゃありませんか。  私は冷い汗を流した、汗と一所に掌に血が浸んだ。――帯も髪も乱れながら、両膝を緊乎結えている由紀を、板の間に抱いたまま、手を離そうにも、頭をふり、頭を掉って、目を結えたのをはずしませんから、見くびって、したたかくい込んでいた蚊の奴が、血をふいてぼとりと落ちたのです。  私は冷くなって恥じました。けれども、その妹も、並んだ姉も、ただの女、ただの芸妓に、私が扱い得なかったことは、お察し下さるだろうと存じます。  ――痒さは、香水で立処に去りましたが、息が詰る、余り暑いから、立って雨戸を一枚繰りました。(おお涼しい。)勢に乗じて、妹は縁の真正面へ、蚊帳の黒雲を分けたように、乳を白く立ったのですが、ごろごろごろ、がたん。間遠に荷車の音が、深夜の寂寞を破ったので、ハッとかくれて、籐椅子に涼んだ私の蔭に立ちました。この音は妙に凄うございました。片輪車の変化が通るようで、そのがたんと門にすれた時は、鬼が乗込む気勢がしました。  姉がうっとりした声で、(ああ、私は睡い。……お寝よ、いいからさ。)(沢山おっしゃいよ。)余り夜が深い。何だか、美しい化鳥と化鳥が囁いているように聞えた。(あ、梟が鳴いている。)唯一つ、遥に、先刻の山の、時雨の松のあたりで聞えました。  この、梟が鳴き、荷車の消えて行く音を聞いた時、由紀は、その車について、戸外へ出了おうと思ったと言います。しかし気がついた。いま外へ出れば、枝を探り、水を慕って、屹と自殺をするに違いない。……それが可恐しい。由紀はまだ死にたくない未練があると思ったそうです。――真個です、その時戸を出たらば魔に奪られたに相違ありません。  私たちも凄かった。――岬も、洲も、潟も、山も、峰の松も、名所一つずつ一ヶ所一体の魔が領しているように見えたのですから。(天狗様でしょうか、鬼でしょうか、私たちとはお宗旨違いだわね。引込みましょう可恐いから。)居かわって私の膝にうしろ向きにかけていた銀杏返が言ったのです。  由紀は残らず知っていました。  それからは、私も余程寝苦しかったと見えます――先にお話しした二度めに目を覚ましますまで、ものの一時間とはなかったそうで――由紀の下階から透して見たのでは――余り判明見えるので、由紀は自分で恐ろしくなって、これは発狂するのではないかと思った。それとも、唯、心で見る迷いで、大蚊帳の裡の模様は実際とまるで違っているかも知れない。それならば、まよいだけで、気が違うのではないであろう。どっちか確めるのは、自分で一度二階へ上って様子を見なければ分らない。が深く堅く目を瞑っていると思いつつ……それが病気で、真個は薄目を明けているのかも計られない、と、身だしなみを、恥かしくないまでに、坐ってカタカタと箪笥をあけて、きものを着かえて、それから手拭で目を結えて、二階へ上ったのだそうですが、数ある段を、一歩も誤らず、すらすらと上りながら、気が咎めて、二三度下りたり、上ったり、……また幾度、手で探っても、三重にも折った手拭はちゃんと顔半分蔽うている。……いよいよ蚊帳を覗くとなると、余りの事に、それがこの病気の峠で、どんな風に、ひきつけるか、気を失うか、倒れるかも分らない。その時醜くないようにと、両膝をくくったから、くくったままで、蚊帳まで寄って来るのです、間は近いけれども、それでは忍んでは歩行けますまい。……扱帯を繋いで、それに縋って、道成寺のつくりもののように、ふらふらと幽霊だちに、爪立った釣身になって覗いたのだそうです。私に追われて、あれと遁げる時、――ただたよりだったのですから、その扱帯を引手繰って、飛退こうとしたはずみに、腰が宙に浮きました。  浅間しい、……極が悪い。……由紀は、いまは活きていられない。――こうしていても、貴方(とはじめて顔を振向けて、)私の抱ている顔も手も皆見える。これが私を殺すのです――と云って、置処のなさそうな顔を背ける。猿轡とか云うものより見ても可哀なその面縛した罪のありさまに、 (心配なさる事はない。私が見えないようにして上げる。)  と云って、目隠の上を二処吸って吸いました。  貴下、慰めるにしても、気休めを言うにしても、何と云う、馬鹿な、可忌しい、呪詛った事を云ったものでしょう。  手拭は取れました。 (あれ、お二方が。)  と俯向く処を、今度はまともに睫毛を吸った。――そのお二方ですが、由紀が、唯、憚ったばかりではなかったので。すらすらと表二階の縁の端へ、歴々と、円髷と銀杏返の顔が白く、目をぱっちりと並んで出ました。由紀を抱きかくしながら踞って見た時、銀杏返の方が莞爾すると、円髷のが、頷を含んで眉を伏せた、ト顔も消えて、衣ばかり、昼間見た風の羅になって、スーッと、肩をかさねて、階子段へ沈み、しずみ、トントントンと音がしました。  二人のその婦の姿は、いつも用が済むと、何処かへ行って了うのが例なのです。  しかし、姉も妹も、すやすやと蚊帳に寝ていた事は言うまでもありますまい。  ただ不思議な事は、東京へ帰りましてからも、その後時々逢いますが、勝手々々で、一人だったり、三人だったり、姉と妹と二人揃って立った場合に出会わなかったのでございます。  ――少々金の都合も出来ました。いよいよ決心をして先月……十月……再び水戸屋を訪ねました時、自動車が杜戸、大くずれ、秋谷を越えて、傍道へかかる。……あすこだったと思う、紅蓮が一茎、白蓮華の咲いた枯田のへりに、何の草か、幻の露の秋草の畦を前にして、崖の大巌に抱かれたように、巌窟に籠ったように、悄乎と一人、淡く彳んだ婦を見ました。 (やあ、水戸屋の姉さんが。)  と運転手が言いました。  ひらりと下りますと、 (旦那様――)  知らせもしないのに、今日来るのを知って、出迎に出たと云って、手に縋って、あつい涙で泣きました。今度は、清い目を睜いても、露のみ溢れて、私の顔は見えない。……  由紀は、急な眼病で、目が見えなくなりました。  ――結婚はまだしませんが、所帯万事引受けて、心ばかりは、なぐさめの保養に出ました。――途中から、御厚情を頂きます。  ……ああ、帰って来ました。……御令閨が手をお取り下すって、」  と廊下を見つつ涙ぐんで。 「髪も、化粧も、為て頂いて……あの、きれいな、美しい、あわれな……嬉しそうな。」  と言いかけて、無邪気に、握拳で目を圧えて、渠は落涙したのである。  涙はともに誘われた。が、聞えるスリッパの跫音にも、その(二人の婦)にも、著者に取っては、何の不思議も、奇蹟も殆ど神秘らしい思いでのないのが、ものたりない。……
底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行 初出:「女性」    1925(大正14)年1月号 ※「拵える」に対するルビの「こしら」と「あつら」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「甲《きのえ》乙《きのと》」となっています。 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2017年8月25日作成 2017年9月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048402", "作品名": "甲乙", "作品名読み": "きのえきのと", "ソート用読み": "きのえきのと", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「女性」1925(大正14)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2017-09-08T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48402.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2006(平成18)年10月10日", "入力に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年11月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "坂本真一", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48402_ruby_62510.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-09-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48402_62552.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-09-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
「――鱧あみだ仏、はも仏と唱うれば、鮒らく世界に生れ、鯒へ鯒へと請ぜられ……仏と雑魚して居べし。されば……干鯛貝らいし、真経には、蛸とくあのく鱈――」  ……時節柄を弁えるがいい。蕎麦は二銭さがっても、このせち辛さは、明日の糧を思って、真面目にお念仏でも唱えるなら格別、「蛸とくあのく鱈。」などと愚にもつかない駄洒落を弄ぶ、と、こごとが出そうであるが、本篇に必要で、酢にするように切離せないのだから、しばらく御海容を願いたい。 「……干鯛かいらいし……ええと、蛸とくあのく鱈、三百三もんに買うて、鰤菩薩に参らする――ですか。とぼけていて、ちょっと愛嬌のあるものです。ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」  こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸とくあのくたら。」しかり、これだけに対しても、三百三もんがほどの価値をお認めになって、口惜い事はあるまいと思う。  つれは、毛利一樹、という画工さんで、多分、挿画家協会会員の中に、芳名が列っていようと思う。私は、当日、小作の挿画のために、場所の実写を誂えるのに同行して、麻布我善坊から、狸穴辺――化けるのかと、すぐまたおなかまから苦情が出そうである。が、憚りながらそうではない。我ながらちょっとしおらしいほどに思う。かつて少年の頃、師家の玄関番をしていた折から、美しいその令夫人のおともをして、某子爵家の、前記のあたりの別荘に、栗を拾いに来た。拾う栗だから申すまでもなく毬のままのが多い。別荘番の貸してくれた鎌で、山がかりに出来た庭裏の、まあ、谷間で。御存じでもあろうが、あれは爪先で刺々を軽く圧えて、柄を手許へ引いて掻く。……不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、駒下駄で圧えても転げるから、褄をすんなりと、白い足袋はだし、それでも、がさがさと針を揺り、歯を剥いて刎ねるから、憎らしい……と足袋もとって、雪を錬りものにしたような素足で、裳をしなやかに、毬栗を挟んでも、ただすんなりとして、露に褄もこぼれなかった。――この趣を写すのに、画工さんに同行を願ったのである。これだと、どうも、そのまま浮世絵に任せたがよさそうに思われない事もない。が、そうすると、さもしいようだが、作者の方が飯にならぬ。そッとして置く。  もっとも三十年も以前の思出である。もとより別荘などは影もなくなった。が、狸穴、我善坊の辺だけに、引潮のあとの海松に似て、樹林は土地の隅々に残っている。餅屋が構図を飲込んで、スケッチブックを懐に納めたから、ざっと用済みの処、そちこち日暮だ。……大和田は程遠し、ちと驕りになる……見得を云うまい、これがいい、これがいい。長坂の更科で。我が一樹も可なり飲ける、二人で四五本傾けた。  時は盂蘭盆にかかって、下町では草市が立っていよう。もののあわれどころより、雲を掻裂きたいほど蒸暑かったが、何年にも通った事のない、十番でも切ろうかと、曾我ではなけれど気が合って歩行き出した。坂を下りて、一度ぐっと低くなる窪地で、途中街燈の光が途絶えて、鯨が寝たような黒い道があった。鳥居坂の崖下から、日ヶ窪の辺らしい。一所、板塀の曲角に、白い蝙蝠が拡ったように、比羅が一枚貼ってあった。一樹が立留まって、繁った樫の陰に、表町の淡い燈にすかしながら、その「――干鯛かいらいし――……蛸とくあのくたら――」を言ったのである。 「魚説法、というのです――狂言があるんですね。時間もよし、この横へ入った処らしゅうございますから。」  すぐ角を曲るように、樹の枝も指せば、おぼろげな番組の末に箭の標示がしてあった。古典な能の狂言も、社会に、尖端の簇を飛ばすらしい。けれども、五十歩にたりぬ向うの辻の柳も射ない。のみならず、矢竹の墨が、ほたほたと太く、蓑の毛を羽にはいだような形を見ると、古俳諧にいわゆる――狸を威す篠張の弓である。  これもまた……面白い。 「おともしましょう、望む処です。」  気競って言うまで、私はいい心持に酔っていた。 「通りがかりのものです。……臨時に見物をしたいと存じますのですが。」 「望む所でございます。」  と、式台正面を横に、卓子を控えた、受附世話方の四十年配の男の、紋附の帷子で、舞袴を穿いたのが、さも歓迎の意を表するらしく気競って言った。これは私たちのように、酒気があったのでは決してない。  切符は五十銭である。第一、順と見えて、六十を越えたろう、白髪のお媼さんが下足を預るのに、二人分に、洋杖と蝙蝠傘を添えて、これが無料で、蝦蟇口を捻った一樹の心づけに、手も触れない。  この世話方の、おん袴に対しても、――(たかが半円だ、ご免を被って大きく出ておけ。)――軽少過ぎる。卓子を並べて、謡本少々と、扇子が並べてあったから、ほんの松の葉の寸志と見え、一樹が宝生雲の空色なのを譲りうけて、その一本を私に渡し、 「いかが。」 「これも望む処です。」  つい私は莞爾した。扇子店の真上の鴨居に、当夜の番組が大字で出ている。私が一わたり読み取ったのは、唯今の塀下ではない、ここでの事である。合せて五番。中に能の仕舞もまじって、序からざっと覚えてはいるが――狸の口上らしくなるから一々は記すまい。必要なのだけを言おう。  必要なのは――魚説法――に続く三番目に、一、茸、(くさびら。)――鷺、玄庵――の曲である。  道の事はよくは知らない。しかし鷺の姿は、近ごろ狂言の流に影は映らぬと聞いている。古い隠居か。むかしものの物好で、稽古を積んだ巧者が居て、その人たち、言わば素人の催しであろうも知れない。狸穴近所には相応しい。が、私のいうのは流儀の事ではない。曲である。  この、茸――  慌しいまでに、一樹が狂言を見ようとしたのも、他のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を圧えたのを見るにつけても。……  一樹を知ったほどのもので、画工さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように遣る、この早業は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも自恃をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を偲ばせる表顕であった。  こういううちにも、舞台――舞台は二階らしい。――一間四面の堂の施主が、売僧の魚説法を憤って、 「――おのれ何としょうぞ――」 「――打たば打たしめ、棒鱈か太刀魚でおうちあれ――」 「――おのれ、また打擲をせいでおこうか――」 「――ああ、いかな、かながしらも堪るものではない――」 「――ええ、苦々しいやつかな――」 「――いり海老のような顔をして、赤目張るの――」 「――さてさて憎いやつの――」  相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の笑声が、どッと響いた。 「さあ、こちらへどうぞ、」 「憚り様。」  階子段は広い。――先へ立つ世話方の、あとに続く一樹、と並んで、私の上りかかる処を、あがり口で世話方が片膝をついて、留まって、「ほんの仮舞台、諸事不行届きでありまして。」  挨拶するのに、段を覗込んだ。その頭と、下から出かかった頭が二つ……妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので……ややその松の中へ、次の番組の茸が土を擡げたようで、余程おかしい。……いや、高砂の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。  その景色の上を、追込まれの坊主が、鰭のごとく、キチキチと法衣の袖を煽って、 「――こちゃただ飛魚といたそう――」 「――まだそのつれを言うか――」 「――飛魚しょう、飛魚しょう――」  と揚幕へ宙を飛んだ――さらりと落す、幕の隙に、古畳と破障子が顕われて、消えた。……思え、講釈だと、水戸黄門が竜神の白頭、床几にかかり、奸賊紋太夫を抜打に切って棄てる場所に……伏屋の建具の見えたのは、どうやら寂びた貸席か、出来合の倶楽部などを仮に使った興行らしい。  見た処、大広間、六七十畳、舞台を二十畳ばかりとして、見物は一杯とまではない、が賑であった。  この暑さに、五つ紋の羽織も脱がない、行儀の正しいのもあれば、浴衣で腕まくりをしたのも居る。――裾模様の貴婦人、ドレスの令嬢も見えたが、近所居まわりの長屋連らしいのも少くない。印半纏さえも入れごみで、席に劃はなかったのである。  で、階子の欄干際を縫って、案内した世話方が、 「あすこが透いております。……どうぞ。」  と云った。脇正面、橋がかりの松の前に、肩膝を透いて、毛氈の緋が流れる。色紙、短冊でも並びそうな、おさらいや場末の寄席気分とは、さすが品の違った座をすすめてくれたが、裾模様、背広連が、多くその席を占めて、切髪の後室も二人ばかり、白襟で控えて、金泥、銀地の舞扇まで開いている。  われら式、……いや、もうここで結構と、すぐその欄干に附着いた板敷へ席を取ると、更紗の座蒲団を、両人に当てがって、 「涼い事はこの辺が一等でして。」  と世話方は階子を下りた。が、ひどく蒸暑い。 「御免を被って。」 「さあ、脱ぎましょう。」  と、こくめいに畳んで持った、手拭で汗を拭いた一樹が、羽織を脱いで引くるめた。……羽織は、まだしも、世の中一般に、頭に被るものと極った麦藁の、安値なのではあるが夏帽子を、居かわり立直る客が蹴散らし、踏挫ぎそうにする……  また幕間で、人の起居は忙しくなるし、あいにく通筋の板敷に席を取ったのだから堪らない。膝の上にのせれば、跨ぐ。敷居に置けば、蹴る、脇へずらせば踏もうとする。 「ちょッ。」  一樹の囁く処によれば、こうした能狂言の客の不作法さは、場所にはよろうが、芝居にも、映画場にも、場末の寄席にも比較しようがないほどで。男も女も、立てば、座ったものを下人と心得る、すなわち頤の下に人間はない気なのだそうである。  中にも、こども服のノーテイ少女、モダン仕立ノーテイ少年の、跋扈跳梁は夥多しい。……  おなじ少年が、しばらくの間に、一度は膝を跨ぎ、一度は脇腹を小突き、三度目には腰を蹴つけた。目まぐろしく湯呑所へ通ったのである。  一樹が、あの、指を胸につけ、その指で、左の目をおさえたと思うと、 「毬栗は果報ものですよ。」  私を見て苦笑しながら、羽織でくるくると夏帽子を包んで、みしと言わせて、尻にかって、投膝に組んで掌をそらした。 「がきに踏まれるよりこの方がさばさばします。」  何としても、これは画工さんのせいではない――桶屋、鋳掛屋でもしたろうか?……静かに――それどころか!……震災前には、十六七で、渠は博徒の小僧であった。  ――家、いやその長屋は、妻恋坂下――明神の崖うらの穴路地で、二階に一室の古屋だったが、物干ばかりが新しく突立っていたという。――  これを聞いて、かねて、知っていたせいであろう。おかしな事には、いま私たちが寄凭るばかりにしている、この欄干が、まわりにぐるりと板敷を取って、階子壇を長方形の大穴に抜いて、押廻わして、しかも新しく切立っているので、はじめから、たとえば毛利一樹氏、自叙伝中の妻恋坂下の物見に似たように思われてならなかったのである。 「――これはこのあたりのものでござる――」  藍の長上下、黄の熨斗目、小刀をたしなみ、持扇で、舞台で名のった――脊の低い、肩の四角な、堅くなったか、癇のせいか、首のやや傾いだアドである。 「――某が屋敷に、当年はじめて、何とも知れぬくさびらが生えた――ひたもの取って捨つれども、夜の間には生え生え、幾たび取ってもまたもとのごとく生ゆる、かような不思議なことはござらぬ――」  鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上、一樹――本名、幹次郎さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も画工さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知られ、売れッこになってからは、気振りにも出さず、事の一端に触れるのをさえ避けるようになった。苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己吹聴と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中――主なるものは、茸で、渠が番組の茸を遁げて、比羅の、蛸のとあのくたらを説いたのでも、ほぼ不断の態度が知れよう。  但し、以下の一齣は、かつて、一樹、幹次郎が話したのを、ほとんどそのままである。 「――その年の残暑の激しさといってはありませんでした。内中皆裸体です。六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。――色気も娑婆気も沢山な奴等が、たかが暑いくらいで、そんな状をするのではありません。実はまるで衣類がない。――これが寒中だと、とうの昔凍え死んで、こんな口を利くものは、貴方がたの前に消えてしまっていたんでしょうね。  男はまだしも、婦もそれです。ご新姐――いま時、妙な呼び方で。……主人が医師の出来損いですから、出来損いでも奥さん。……さしあたってな小博打が的だったのですから、三下の潜りでも、姉さん。――話のついでですが、裸の中の大男の尻の黄色なのが主人で、汚れた畚褌をしていたのです、褌が畚じゃ、姉ごとは行きません。それにした処で、姉さんとでも云うべき処を、ご新姐――と皆が呼びましたのは。――  万世橋向うの――町の裏店に、もと洋服のさい取を萎して、あざとい碁会所をやっていた――金六、ちゃら金という、野幇間のような兀のちょいちょい顔を出すのが、ご新姐、ご新姐という、それがつい、口癖になったんですが。――膝股をかくすものを、腰から釣したように、乳を包んだだけで。……あとはただ真白な……冷い……のです。冷い、と極めたのは妙ですけれども、飢えて空腹くっているんだから、夏でも火気はありますまい。死ぎわに熱でも出なければ――しかし、若いから、そんなに痩せ細ったほどではありません。中肉で、脚のすらりと、小股のしまった、瓜ざね顔で、鼻筋の通った、目の大い、無口で、それで、ものいいのきっぱりした、少し言葉尻の上る、声に歯ぎれの嶮のある、しかし、気の優しい、私より四つ五つ年上で――ただうつくしいというより仇っぽい婦人だったんです。何しろその体裁ですから、すなおな髪を引詰めて櫛巻でいましたが、生際が薄青いくらい、襟脚が透通って、日南では消えそうに、おくれ毛ばかり艶々として、涙でしょう、濡れている。悲惨な事には、水ばかり飲むものだから、身籠ったようにかえってふくれて、下腹のゆいめなぞは、乳の下を縊ったようでしたよ。  空腹にこたえがないと、つよく紐をしめますから、男だって。……  お雪さん――と言いました。その大切な乳をかくす古手拭は、膚に合った綺麗好きで、腰のも一所に、ただ洗いただ洗いするんですから、油旱の炎熱で、銀粉のようににじむ汗に、ちらちらと紗のように靡きました。これなら干ぼしになったら、すぐ羽にかわって欄間を飛ぶだろうと思ったほどです。いいえ、天人なぞと、そんな贅沢な。裏長屋ですもの、くさばかげろうの幽霊です。  その手拭が、娘時分に、踊のお温習に配ったのが、古行李の底かなにかに残っていたのだから、あわれですね。  千葉だそうです。千葉の町の大きな料理屋、万翠楼の姉娘が、今の主人の、その頃医学生だったのと間違って。……ただ、それだけではないらしい。学生の癖に、悪く、商売人じみた、はなを引く、賭碁を打つ。それじゃ退学にならずにいません。佐原の出で、なまじ故郷が近いだけに、外聞かたがた東京へ遁出した。姉娘があとを追って遁げて来て――料理屋の方は、もっとも継母だと聞きましたが――帰れ、と云うのを、男が離さない。女も情を立てて帰らないから、両方とも、親から勘当になったんですね、親類義絶――つまるところ。  一枚、畚褌の上へ引張らせると、脊は高し、幅はあり、風采堂々たるものですから、まやかし病院の代診なぞには持って来いで、あちこち雇われもしたそうですが、脉を引く前に、顔の真中を見るのだから、身が持てないで、その目下の始末で。……  変に物干ばかり新しい、妻恋坂下へ落ちこぼれたのも、洋服の月賦払の滞なぞから引かかりの知己で。――町の、右の、ちゃら金のすすめなり、後見なり、ご新姐の仇な処をおとりにして、碁会所を看板に、骨牌賭博の小宿という、もくろみだったらしいのですが、碁盤の櫓をあげる前に、長屋の城は落ちました。どの道落ちる城ですが、その没落をはやめたのは、慾にあせって、怪しい企をしたからなんです。  質の出入れ――この質では、ご新姐の蹴出し……縮緬のなぞはもう疾くにない、青地のめりんす、と短刀一口。数珠一聯。千葉を遁げる時からたしなんだ、いざという時の二品を添えて、何ですか、三題話のようですが、凄いでしょう。……事実なんです。貞操の徴と、女の生命とを預けるんだ。――(何とかじゃ築地へ帰られねえ。)――何の事だかわかりませんがね、そういって番頭を威かせ、と言いつかった通り、私が(一樹、幹次郎、自分をいう。)使に行ったんです。冷汗を流して、談判の結果が三分、科学的に数理で顕せば、七十と五銭ですよ。  お雪さんの身になったらどうでしょう。じか肌と、自殺を質に入れたんですから。自殺を質に入れたのでは、死ぬよりもつらいでしょう。――  ――当時、そういった様子でしてね。質の使、笊でお菜漬の買ものだの、……これは酒よりは香が利きます。――はかり炭、粉米のばら銭買の使いに廻らせる。――わずかの縁に縋ってころげ込んだ苦学の小僧、(再び、一樹、幹次郎自分をいう。)には、よくは、様子は分らなかったんですが、――ちゃら金の方へ、鴨がかかった。――そこで、心得のある、ここの主人をはじめ、いつもころがり込んでいる、なかまが二人、一人は検定試験を十年来落第の中老の才子で、近頃はただ一攫千金の投機を狙っています。一人は、今は小使を志願しても間に合わない、慢性の政治狂と、三個を、紳士、旦那、博士に仕立てて、さくら、というものに使って、鴨を剥いで、骨までたたこうという企謀です。  前々から、ちゃら金が、ちょいちょい来ては、昼間の廻燈籠のように、二階だの、濡縁だの、薄羽織と、兀頭をちらちらさして、ひそひそと相談をしていましたっけ。  当日は、小僧に一包み衣類を背負わして――損料です。黒絽の五つ紋に、おなじく鉄無地のべんべらもの、くたぶれた帯などですが、足袋まで身なりが出来ました。そうは資本が続かないからと、政治家は、セルの着流しです。そのかわり、この方は山高帽子で――おやおや忘れた――鉄無地の旦那に被せる帽子を。……そこで、小僧のを脱がせて、鳥打帽です。  ――覚えていますが、その時、ちゃら金が、ご新姐に、手づくりのお惣菜、麁末なもの、と重詰の豆府滓、……卯の花を煎ったのに、繊の生姜で小気転を利かせ、酢にした鯷鰯で気前を見せたのを一重。――きらずだ、繋ぐ、見得がいいぞ、吉左右! とか言って、腹が空いているんですから、五つ紋も、仙台平も、手づかみの、がつがつ喰。……  で、それ以来――事件の起りました、とりわけ暑い日になりますまで、ほとんど誰も腹に堪るものは食わなかったのです。――……つもっても知れましょうが、講談本にも、探偵ものにも、映画にも、名の出ないほどの悪徒なんですから、その、へまさ加減。一つ穴のお螻どもが、反対に鴨にくわれて、でんぐりかえしを打ったんですね。……夜になって、炎天の鼠のような、目も口も開かない、どろどろで帰って来た、三人のさくらの半間さを、ちゃら金が、いや怒るの怒らないの。……儲けるどころか、対手方に大分の借が出来た、さあどうする。……で、損料……立処に損料を引剥ぐ。中にも落第の投機家なぞは、どぶつで汗ッかき、おまけに脚気を煩っていたんだから、このしみばかりでも痛事ですね。その時です、……洗いざらい、お雪さんの、蹴出しと、数珠と、短刀の人身御供は――  まだその上に、無慙なのは、四歳になる男の児があったんですが、口癖に――おなかがすいた――おなかがすいた――と唱歌のように唱うんです。 (――かなしいなあ――)  お雪さんは、その、きっぱりした響く声で。……どうかすると、雨が降過ぎても、 (――かなしいなあ――)  と云う一つ癖があったんです。尻上りに、うら悲しい……やむ事を得ません、得ませんけれども、悪い癖です。心得なければ不可ませんね。  幼い時聞いて、前後うろ覚えですが、私の故郷の昔話に、(椿ばけ――ばたり。)農家のひとり子で、生れて口をきくと、(椿ばけ――ばたり。)と唖の一声ではないけれども、いくら叱っても治らない。弓が上手で、のちにお城に、もののけがあって、国の守が可恐い変化に悩まされた時、自から進んで出て、奥庭の大椿に向っていきなり矢を番えた。(椿ばけ――ばたり。)と切って放すと、枝も葉も萎々となって、ばたり。で、国のやみが明くなった――そんな意味だったと思います。言葉は気をつけなければ不可ませんね。  食不足で、ひくひく煩っていた男の児が七転八倒します。私は方々の医師へ駆附けた。が、一人も来ません。お雪さんが、抱いたり、擦ったり、半狂乱でいる処へ、右の、ばらりざんと敗北した落武者が這込んで来た始末で……その悲惨さといったらありません。  食あたりだ。医師のお父さんが、診察をしたばかりで、薮だからどうにも出来ない。あくる朝なくなりました。きらずに煮込んだ剥身は、小指を食切るほどの勢で、私も二つ三つおすそわけに預るし、皆も食べたんですから、看板の鯷のせいです。幾月ぶりかの、お魚だから、大人は、坊やに譲ったんです。その癖、出がけには、坊や、晩には玉子だぞ。お土産は電車だ、と云って出たんですのに。――  お雪さんは、歌磨の絵の海女のような姿で、鮑――いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた雨落の下へ、積み積みしていたんですね。 (――かなしいなあ――)  めそめそ泣くような質ではないので、石も、日も、少しずつ積りました。  ――さあ、その残暑の、朝から、旱りつけます中へ、端書が来ましてね。――落目もこうなると、めったに手紙なんぞ覗いた事のないのに、至急、と朱がきのしてあったのを覚えています。ご新姐あてに、千葉から荷が着いている。お届けをしようか、受取りにおいで下さるか、という両国辺の運送問屋から来たのでした。  品物といえば釘の折でも、屑屋へ売るのに欲い処。……返事を出す端書が買えないんですから、配達をさせるなぞは思いもよらず……急いで取りに行く。この使の小僧ですが、二日ばかりというもの、かたまったものは、漬菜の切れはし、黒豆一粒入っていません。ほんとうのひもじさは、話では言切れない、あなた方の腹がすいたは、都合によってすかせるのです。いいえ、何も喧嘩をするのじゃありません、おわかりにならんと思いますから、よしますが。  もっとも、その前日も、金子無心の使に、芝の巴町附近辺まで遣られましてね。出来ッこはありません。勿論、往復とも徒歩なんですから、帰途によろよろ目が眩んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。午砲!――あの音で腰を抜いたんです。土を引掻いて起上がる始末で、人間もこうなると浅間しい。……行暮れた旅人が灯をたよるように、山賊の棲でも、いかさま碁会所でも、気障な奴でも、路地が曲りくねっていても、何となく便る気が出て。――町のちゃら金の店を覗くと、出窓の処に、忠臣蔵の雪の夜討の炭部屋の立盤子を飾って、碁盤が二三台。客は居ません。ちゃら金が、碁盤の前で、何だか古い帳面を繰っておりましたっけ。(や、お入り。)金歯で呼込んで、家内が留守で蕎麦を取る処だ、といって、一つ食わしてくれました。もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐――お雪さんに、(おい、ごく内証だぜ。)と云って、手紙を托けたんです。菫色の横封筒……いや、どうも、その癖、言う事は古い。(いい加減に常盤御前が身のためだ。)とこうです。どの道そんな蕎麦だから、伸び過ぎていて、ひどく中毒って、松住町辺をうなりながら歩くうちに、どこかへ落してしまいましたが。  ――今度は、どこで倒れるだろう。さあ使いに行く。着るものは――  私の田舎の叔母が一枚送ってくれた単衣を、病人に着せてあるのを剥ぐんです。その臭さというものは。……とにかく妻恋坂下の穴を出ました。  こんなにしていて、どうなるだろう。櫓のような物干を見ると、ああ、いつの間にか、そこにも片隅に、小石が積んであるんです。何ですか、明神様の森の空が、雲で真暗なようでした。  鰻屋の神田川――今にもその頃にも、まるで知己はありませんが、あすこの前を向うへ抜けて、大通りを突切ろうとすると、あの黒い雲が、聖堂の森の方へと馳ると思うと、頭の上にかぶさって、上野へ旋風を捲きながら、灰を流すように降って来ました。ひょろひょろの小僧は、叩きつけられたように、向う側の絵草紙屋の軒前へ駆込んだんです。濡れるのを厭いはしません。吹倒されるのが可恐かったので、柱へつかまった。  一軒隣に、焼芋屋がありましてね。またこの路地裏の道具屋が、私の、東京ではじめて草鞋を脱いだ場所で、泊めてもらった。しかもその日、晩飯を食わせられる時、道具屋が、めじの刺身を一臠箸で挟んで、鼻のさきへぶらさげて、東京じゃ、これが一皿、じゃあない、一臠、若干金につく。……お前たちの二日分の祭礼の小遣いより高い、と云って聞かせました。――その時以来、腹のくちい、という味を知らなかったのです。しかし、ぼんやり突立っては、よくこの店を覗いたものです。――横なぐりに吹込みますから、古風な店で、半分蔀をおろしました。暗くなる……薄暗い中に、颯と風に煽られて、媚めかしい婦の裙が燃えるのかと思う、あからさまな、真白な大きな腹が、蒼ざめた顔して、宙に倒にぶら下りました。……御存じかも知れません、芳年の月百姿の中の、安達ヶ原、縦絵二枚続の孤家で、店さきには遠慮をする筈、別の絵を上被りに伏せ込んで、窓の柱に掛けてあったのが、暴風雨で帯を引裂いたようにめくれたんですね。ああ、吹込むしぶきに、肩も踵も、わなわな震えている。……  雨はかぶりましたし、裸のご新姐の身の上を思って……」 (――語ってここを言う時、その胸を撫でて、目を押える、ことをする。) 「まぶたを溢れて、鼻柱をつたう大粒の涙が、唇へ甘く濡れました。甘い涙。――いささか気障ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡ぱんの涙、金鍔の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟り目でしょう。左の目が真紅になって、渋くって、辛くって困りました時、お雪さんが、乳を絞って、つぎ込んでくれたのです。 (――かなしいなあ――)  走りはしません、ぽたぽたぐらい。一人児だから、時々飲んでいたんですが、食が少いから涸れがちなんです。私を仰向けにして、横合から胸をはだけて、……まだ袷、お雪さんの肌には微かに紅の気のちらついた、春の末でした。目をはずすまいとするから、弱腰を捻って、髷も鬢もひいやりと額にかかり……白い半身が逆になって見えましょう。……今時……今時……そんな古風な、療治を、禁厭を、するものがあるか、とおっしゃいますか。ええ、おっしゃい。そんな事は、まだその頃ありました、精盛薬館、一二を、掛売で談ずるだけの、余裕があっていう事です。  このありさまは、ちょっと物議になりました。主人の留守で。二階から覗いた投機家が、容易ならぬ沙汰をしたんですが、若い燕だか、小僧の蜂だか、そんな詮議は、飯を食ったあとにしようと、徹底した空腹です。  それ以来、涙が甘い。いまそのこぼれるにつけても、さかさに釣られた孤家の女の乳首が目に入って来そうで、従って、ご新姐の身の上に、いつか、おなじ事でもありそうでならなかった。――予感というものはあるものでしょうか。  その日の中に、果しておなじような事が起ったんです。――それは受取った荷物……荷は籠で、茸です。初茸です。そのために事が起ったんです。  通り雨ですから、すぐに、赫と、まぶしいほどに日が照ります。甘い涙の飴を嘗めた勢で、あれから秋葉ヶ原をよろよろと、佐久間町の河岸通り、みくら橋、左衛門橋。――とあの辺から両側には仕済した店の深い問屋が続きますね。その中に――今思うと船宿でしょう。天井に網を揃えて掛けてあるのが見えました。故郷の市場の雑貨店で、これを扱うものがあって、私の祖父――地方の狂言師が食うにこまって、手内職にすいた出来上がりのこの網を、使で持って行ったのを思い出して――もう国に帰ろうか――また涙が出る。とその涙が甘いのです。餅か、団子か、お雪さんが待っていよう。 (一銭五厘です。端書代が立替えになっておりますが。) (つい、あの、持って来ません。) (些細な事ですが、店のきまりはきまりですからな。)  年の少い手代は、そっぽうを向く。小僧は、げらげらと笑っている。 (貸して下さい。) (お貸し申さないとは申しませんが。) (このしるしを置いて行きます。貸して下さい。)  私は汗じみた手拭を、懐中から――空腹をしめていたかどうかはお察し下さい――懐中から出すと、手代が一代の逸話として、よい経験を得たように、しかし、汚らしそうに、撮んで拡げました。 (よう!)と反りかえった掛声をして、 (みどり屋、ゆき。――荷は千葉と。――ああ、万翠楼だ。……医師と遁げた、この別嬪さんの使ですかい、きみは。……ぼくは店用で行って知ってるよ。……果報ものだね、きみは。……可愛がってくれるだろう。雪白肌の透綾娘は、ちょっと浮気ものだというぜ。)  と言やあがった……  その透綾娘は、手拭の肌襦袢から透通った、肩を落して、裏の三畳、濡縁の柱によっかかったのが、その姿ですから、くくりつけられでもしたように見えて、ぬの一重の膝の上に、小児の絵入雑誌を拡げた、あの赤い絵の具が、腹から血ではないかと、ぞっとしたほど、さし俯向いて、顔を両手でおさえていました。――やっと小僧が帰った時です。―― (来たか、荷物は。)  と二階から、力のない、鼻の詰った大な声。 (初茸ですわ。)  と、きっぱりと、投上げるように、ご新姐が返事をすると、 (あああ、銭にはならずか――食おう。)  と、また途方もない声をして、階子段一杯に、大な男が、褌を真正面に顕われる。続いて、足早に刻んで下りたのは、政治狂の黒い猿股です。ぎしぎしと音がして、青黄色に膨れた、投機家が、豚を一匹、まるで吸った蛭のように、ずどうんと腰で摺り、欄干に、よれよれの兵児帯をしめつけたのを力綱に縋って、ぶら下がるように楫を取って下りて来る。脚気がむくみ上って、もう歩けない。  小児のつかった、おかわを二階に上げてあるんで、そのわきに西瓜の皮が転がって、蒼蠅が集っているのを視た時ほど、情ない思いをした事は余りありません。その二階で、三人、何をしているかというと、はなをひくか、あの、泥石の紙の盤で、碁を打っていたんですがね。  欠けた瀬戸火鉢は一つある。けれども、煮ようたって醤油なんか思いもよらない。焼くのに、炭の粉もないんです。政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だから、二十ばかり初茸を一所に載せた。残らず、薄樺色の笠を逆に、白い軸を立てて、真中ごろのが、じいじい音を立てると、……青い錆が茸の声のように浮いて動く。 (塩はどうした。) (ござんせん。) (魚断、菜断、穀断と、茶断、塩断……こうなりゃ鯱立ちだ。)  と、主人が、どたりと寝て、両脚を大の字に開くと、 (あああ、待ちたまえ、逆になった方が、いくらか空腹さが凌げるかも知れんぞ。経験じゃ。)  と政治狂が、柱へ、うんと搦んで、尻を立てた。 (ぼくは、はや、この方が楽で、もう遣っとるが。)  と、水浸しの丸太のような、脚気の足を、襖の破れ桟に、ぶくぶくと掛けている。 (幹もやれよ。)  と主人が、尻で尺蠖虫をして、足をまた突張って、 (成程、気がかわっていい、茸は焼けろ、こっちはやけだ。)  その挙げた足を、どしんと、お雪さんの肩に乗せて、柔かな細頸をしめた時です。 (ああ、ひもじいを逆にすれば、おなかが、くちいんだわね。)  と真俯向けに、頬を畳に、足が、空で一つに、ひたりとついて、白鳥が目を眠ったようです。  ハッと思うと、私も、つい、脚を天井に向けました。――その目の前で、 (男は意気地がない、ぐるぐる廻らなくっちゃあ。)  名工のひき刀が線を青く刻んだ、小さな雪の菩薩が一体、くるくると二度、三度、六地蔵のように廻る……濃い睫毛がチチと瞬いて、耳朶と、咽喉に、薄紅梅の血が潮した。 (初茸と一所に焼けてしまえばいい。)  脚気は喘いで、白い舌を舐めずり、政治狂は、目が黄色に光り、主人はけらけらと笑った。皆逆立ちです。そして、お雪さんの言葉に激まされたように、ぐたぐたと肩腰をゆすって、逆に、のたうちました。  ひとりでに、頭のてっぺんへ流れる涙の中に、網の初茸が、同じように、むくむくと、笠軸を動かすと、私はその下に、燃える火を思った。  皆、咄嗟の間、ですが、その、廻っている乳が、ふわふわと浮いて、滑らかに白く、一列に並んだように思う…… (心配しないでね。)  と莞爾していった、お雪さんの言が、逆だから、(お遁げ、危い。)と、いうように聞えて、その白い菩薩の列の、一番框へ近いのに――導かれるように、自分の頭と足が摺って出ると、我知らず声を立てて、わッと泣きながら遁出したんです。  路地口の石壇を飛上り、雲の峰が立った空へ、桟橋のような、妻恋坂の土に突立った、この時ばかり、なぜか超然として――博徒なかまの小僧でない。――ひとり気が昂ると一所に、足をなぐように、腰をついて倒れました。」  天地震動、瓦落ち、石崩れ、壁落つる、血煙の裡に、一樹が我に返った時は、もう屋根の中へ屋根がめり込んだ、目の下に、その物干が挫げた三徳のごとくになって――あの辺も火は疾かった――燃え上っていたそうである。  これ――十二年九月一日の大地震であった。 「それがし、九識の窓の前、妙乗の床のほとりに、瑜伽の法水を湛え――」  時に、舞台においては、シテなにがし。――山の草、朽樹などにこそ、あるべき茸が、人の住う屋敷に、所嫌わず生出づるを忌み悩み、ここに、法力の験なる山伏に、祈祷を頼もうと、橋がかりに向って呼掛けた。これに応じて、山伏が、まず揚幕の裡にて謡ったのである。が、鷺玄庵と聞いただけでも、思いも寄らない、若く艶のある、しかも取沈めた声であった。  幕――揚る。―― 「――三密の月を澄ます所に、案内申さんとは、誰そ。」  すらすらと歩を移し、露を払った篠懸や、兜巾の装は、弁慶よりも、判官に、むしろ新中納言が山伏に出立った凄味があって、且つ色白に美しい。一二の松も影を籠めて、袴は霧に乗るように、三密の声は朗らかに且つ陰々として、月清く、風白し。化鳥の調の冴えがある。 「ああ、婦人だ。……鷺流ですか。」  私がひそかに聞いたのに、 「さあ。」  一言いったきり、一樹が熟と凝視めて、見る見る顔の色がかわるとともに、二度ばかり続け様に、胸を撫でて目をおさえた。  先を急ぐ。……狂言はただあら筋を言おう。舞台には茸の数が十三出る。が、実はこの怪異を祈伏せようと、三山の法力を用い、秘密の印を結んで、いら高の数珠を揉めば揉むほど、夥多しく一面に生えて、次第に数を増すのである。  茸は立衆、いずれも、見徳、嘯吹、上髭、思い思いの面を被り、括袴、脚絆、腰帯、水衣に包まれ、揃って、笠を被る。塗笠、檜笠、竹子笠、菅の笠。松茸、椎茸、とび茸、おぼろ編笠、名の知れぬ、菌ども。笠の形を、見物は、心のままに擬らえ候え。 「――あれあれ、」  女山伏の、優しい声して、 「思いなしか、茸の軸に、目、鼻、手、足のようなものが見ゆる。」  と言う。詞につれて、如法の茸どもの、目を剥き、舌を吐いて嘲けるのが、憎く毒々しいまで、山伏は凛とした中にもかよわく見えた。  いくち、しめじ、合羽、坊主、熊茸、猪茸、虚無僧茸、のんべろ茸、生える、殖える。蒸上り、抽出る。……地蔵が化けて月のむら雨に托鉢をめさるるごとく、影朧に、のほのほと並んだ時は、陰気が、緋の毛氈の座を圧して、金銀のひらめく扇子の、秋草の、露も砂子も暗かった。  女性の山伏は、いやが上に美しい。  ああ、窓に稲妻がさす。胸がとどろく。  たちまち、この時、鬼頭巾に武悪の面して、極めて毒悪にして、邪相なる大茸が、傘を半開きに翳し、みしと面をかくして顕われた。しばらくして、この傘を大開きに開く、鼻を嘯き、息吹きを放ち、毒を嘯いて、「取て噛もう、取て噛もう。」と躍りかかる。取着き引着き、十三の茸は、アドを、なやまし、嬲り嬲り、山伏もともに追込むのが定であるのに。―― 「あれへ、毒々しい半びらきの菌が出た、あれが開いたらばさぞ夥多しい事であろう。」  山伏の言につれ、件の毒茸が、二の松を押す時である。  幕の裙から、ひょろりと出たものがある。切禿で、白い袖を着た、色白の、丸顔の、あれは、いくつぐらいだろう、這うのだから二つ三つと思う弱々しい女の子で、かさかさと衣ものの膝ずれがする。菌の領した山家である。舞台は、山伏の気が籠って、寂としている。ト、今まで、誰一人ほとんど跫音を立てなかった処へ、屋根は熱し、天井は蒸して、吹込む風もないのに、かさかさと聞こえるので、九十九折の山路へ、一人、篠、熊笹を分けて、嬰子の這出したほど、思いも掛けねば無気味である。  ああ、山伏を見て、口で、ニヤリと笑う。  悚然とした。 「鷺流?」  這う子は早い。谿河の水に枕なぞ流るるように、ちょろちょろと出て、山伏の裙に絡わると、あたかも毒茸が傘の轆轤を弾いて、驚破す、取て噛もう、とあるべき処を、―― 「焼き食おう!」  と、山伏の、いうと斉しく、手のしないで、数珠を振って、ぴしりと打って、不意に魂消て、傘なりに、毒茸は膝をついた。  返す手で、 「焼きくおう。焼きくおう。」  鼻筋鋭く、頬は白澄む、黒髪は兜巾に乱れて、生競った茸の、のほのほと並んだのに、打振うその数珠は、空に赤棟蛇の飛ぶがごとく閃いた。が、いきなり居すくまった茸の一つを、山伏は諸手に掛けて、すとんと、笠を下に、逆に立てた。二つ、三つ、四つ。――  多くは子方だったらしい。恐れて、魅せられたのであろう。  長上下は、脇座にとぼんとして、ただ首の横ざまに傾きまさるのみである。 「一樹さん。」  真蒼になって、身体のぶるぶると震う一樹の袖を取った、私の手を、その帷子が、落葉、いや、茸のような触感で衝いた。  あの世話方の顔と重って、五六人、揚幕から。切戸口にも、楽屋の頭が覗いたが、ただ目鼻のある茸になって、いかんともなし得ない。その二三秒時よ。稲妻の瞬く間よ。  見物席の少年が二三人、足袋を空に、逆になると、膝までの裙を飜して仰向にされた少女がある。マッシュルームの類であろう。大人は、立構えをし、遁身になって、声を詰めた。  私も立とうとした。あの舞台の下は火になりはしないか。地震、と欄干につかまって、目を返す、森を隔てて、煉瓦の建もの、教会らしい尖塔の雲端に、稲妻が蛇のように縦にはしる。  静寂、深山に似たる時、這う子が火のつくように、山伏の裙を取って泣出した。  トウン――と、足拍子を踏むと、膝を敷き、落した肩を左から片膚脱いだ、淡紅の薄い肌襦袢に膚が透く。眉をひらき、瞳を澄まして、向直って、 「幹次郎さん。」 「覚悟があります。」  つれに対すると、客に会釈と、一度に、左右へ言を切って、一樹、幹次郎は、すっと出て、一尺ばかり舞台の端に、女の褄に片膝を乗掛けた。そうして、一度押戴くがごとくにして、ハタと両手をついた。 「かなしいな。……あれから、今もひもじいわ。」  寂しく微笑むと、掻いはだけて、雪なす胸に、ほとんど玲瓏たる乳が玉を欺く。 「御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」 「うむ、起て。……お起ち、私が起たせる。」  と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一樹が腰を引立てたのを、添抱きに胸へ抱いた。 「この豆府娘。」  と嘲りながら、さもいとしさに堪えざるごとく言う下に、 「若いお父さんに骨をお貰い。母さんが血をあげる。」  俯向いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと白妙の生命を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から響いた。が、子の口と、母の胸は、見る見る紅玉の柘榴がこぼれた。  颯と色が薄く澄むと――横に倒れよう――とする、反らした指に――茸は残らず這込んで消えた――塗笠を拾ったが、 「お客さん――これは人間ではありません。――紅茸です。」  といって、顔をかくして、倒れた。顔はかくれて、両手は十ウの爪紅は、世に散る卍の白い痙攣を起した、お雪は乳首を噛切ったのである。  一昨年の事である。この子は、母の乳が、肉と血を与えた。いま一樹の手に、ふっくりと、且つ健かに育っている。    不思議に、一人だけ生命を助かった女が、震災の、あの劫火に追われ追われ、縁あって、玄庵というのに助けられた。その妾であるか、娘分であるかはどうでもいい。老人だから、楽屋で急病が起って、踊の手練が、見真似の舞台を勤めたというので、よくおわかりになろうと思う。何、何、なぜ、それほどの容色で、酒場へ出なかった。とおっしゃるか? それは困る、どうも弱ったな。一樹でも分るまい。なくなった、みどり屋のお雪さんに……お聞き下さい。 昭和五(一九三○)年九月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集」岩波書店    1942(昭和17)年7月刊行開始 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「秋葉ヶ原」は小振りに、「安達《あだち》ヶ原」「日《ひ》ヶ窪」は大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:林 幸雄 2001年9月17日公開 2005年9月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003547", "作品名": "木の子説法", "作品名読み": "きのこせっぽう", "ソート用読み": "きのこせつほう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-09-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3547.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成8", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年7月刊行開始", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3547_ruby_19575.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-09-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3547_19576.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-09-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一 「杢さん、これ、何?……」  と小児が訊くと、真赤な鼻の頭を撫でて、 「綺麗な衣服だよう。」  これはまた余りに情ない。町内の杢若どのは、古筵の両端へ、笹の葉ぐるみ青竹を立てて、縄を渡したのに、幾つも蜘蛛の巣を引搦ませて、商売をはじめた。まじまじと控えた、が、そうした鼻の頭の赤いのだからこそ可けれ、嘴の黒い烏だと、そのままの流灌頂。で、お宗旨違の神社の境内、額の古びた木の鳥居の傍に、裕福な仕舞家の土蔵の羽目板を背後にして、秋の祭礼に、日南に店を出している。  売るのであろう、商人と一所に、のほんと構えて、晴れた空の、薄い雲を見ているのだから。  飴は、今でも埋火に鍋を掛けて暖めながら、飴ん棒と云う麻殻の軸に巻いて売る、賑かな祭礼でも、寂びたもので、お市、豆捻、薄荷糖なぞは、お婆さんが白髪に手抜を巻いて商う。何でも買いなの小父さんは、紺の筒袖を突張らかして懐手の黙然たるのみ。景気の好いのは、蜜垂じゃ蜜垂じゃと、菖蒲団子の附焼を、はたはたと煽いで呼ばるる。……毎年顔も店も馴染の連中、場末から出る際商人。丹波鬼灯、海酸漿は手水鉢の傍、大きな百日紅の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山から出て来た、もの売で。――  売るのは果もの類。桃は遅い。小さな梨、粒林檎、栗は生のまま……うでたのは、甘藷とともに店が違う。……奥州辺とは事かわって、加越のあの辺に朱実はほとんどない。ここに林のごとく売るものは、黒く紫な山葡萄、黄と青の山茱萸を、蔓のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ酸き事、狸が咽せて、兎が酔いそうな珍味である。  このおなじ店が、筵三枚、三軒ぶり。笠被た女が二人並んで、片端に頬被りした馬士のような親仁が一人。で、一方の端の所に、件の杢若が、縄に蜘蛛の巣を懸けて罷出た。 「これ、何さあ。」 「美しい衣服じゃが買わんかね。」と鼻をひこつかす。  幾歳になる……杢の年紀が分らない。小児の時から大人のようで、大人になっても小児に斉しい。彼は、元来、この町に、立派な玄関を磨いた医師のうちの、書生兼小使、と云うが、それほどの用には立つまい、ただ大食いの食客。  世間体にも、容体にも、痩せても袴とある処を、毎々薄汚れた縞の前垂を〆めていたのは食溢しが激しいからで――この頃は人も死に、邸も他のものになった。その医師というのは、町内の小児の記憶に、もう可なりの年輩だったが、色の白い、指の細く美しい人で、ひどく権高な、その癖婦のように、口を利くのが優しかった。……細君は、赭ら顔、横ぶとりの肩の広い大円髷。眦が下って、脂ぎった頬へ、こう……いつでもばらばらとおくれ毛を下げていた。下婢から成上ったとも言うし、妾を直したのだとも云う。実の御新造は、人づきあいはもとよりの事、門、背戸へ姿を見せず、座敷牢とまでもないが、奥まった処に籠切りの、長年の狂女であった。――で、赤鼻は、章魚とも河童ともつかぬ御難なのだから、待遇も態度も、河原の砂から拾って来たような体であったが、実は前妻のその狂女がもうけた、実子で、しかも長男で、この生れたて変なのが、やや育ってからも変なため、それを気にして気が狂った、御新造は、以前、国家老の娘とか、それは美しい人であったと言う……  ある秋の半ば、夕より、大雷雨のあとが暴風雨になった、夜の四つ時十時過ぎと思う頃、凄じい電光の中を、蜩が鳴くような、うらさみしい、冴えた、透る、女の声で、キイキイと笑うのが、あたかも樹の上、雲の中を伝うように大空に高く響いて、この町を二三度、四五たび、風に吹廻されて往来した事がある……通魔がすると恐れて、老若、呼吸をひそめたが、あとで聞くと、その晩、斎木(医師の姓)の御新造が家を抜出し、町内を彷徨って、疲れ果てた身体を、社の鳥居の柱に、黒髪を颯と乱した衣は鱗の、膚の雪の、電光に真蒼なのが、滝をなす雨に打たれつつ、怪しき魚のように身震して跳ねたのを、追手が見つけて、医師のその家へかつぎ込んだ。間もなく枢という四方張の俎に載せて焼かれてしまった。斎木の御新造は、人魚になった、あの暴風雨は、北海の浜から、潮が迎いに来たのだと言った――  その翌月、急病で斎木国手が亡くなった。あとは散々である。代診を養子に取立ててあったのが、成上りのその肥満女と、家蔵を売って行方知れず、……下男下女、薬局の輩まで。勝手に掴み取りの、梟に枯葉で散り散りばらばら。……薬臭い寂しい邸は、冬の日売家の札が貼られた。寂とした暮方、……空地の水溜を町の用心水にしてある掃溜の芥棄場に、枯れた柳の夕霜に、赤い鼻を、薄ぼんやりと、提灯のごとくぶら下げて立っていたのは、屋根から落ちたか、杢若どの。……親は子に、杢介とも杢蔵とも名づけはしない。待て、御典医であった、彼のお祖父さんが選んだので、本名は杢之丞だそうである。  ――時に、木の鳥居へ引返そう。        二  ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前医師の邸の裏門のあった処に、むかし番太郎と言って、町内の走り使人、斎、非時の振廻り、香奠がえしの配歩行き、秋の夜番、冬は雪掻の手伝いなどした親仁が住んだ……半ば立腐りの長屋建て、掘立小屋という体なのが一棟ある。  町中が、杢若をそこへ入れて、役に立つ立たないは話の外で、寄合持で、ざっと扶持をしておくのであった。 「杢さん、どこから仕入れて来たよ。」 「縁の下か、廂合かな。」  その蜘蛛の巣を見て、通掛りのものが、苦笑いしながら、声を懸けると、…… 「違います。」  と鼻ぐるみ頭を掉って、 「さとからじゃ、ははん。」と、ぽんと鼻を鳴らすような咳払をする。此奴が取澄ましていかにも高慢で、且つ翁寂びる。争われぬのは、お祖父さんの御典医から、父典養に相伝して、脈を取って、ト小指を刎ねた時の容体と少しも変らぬ。  杢若が、さとと云うのは、山、村里のその里の意味でない。註をすれば里よりは山の義で、字に顕せば故郷になる……実家になる。  八九年前晩春の頃、同じこの境内で、小児が集って凧を揚げて遊んでいた――杢若は顱の大きい坊主頭で、誰よりも群を抜いて、のほんと脊が高いのに、その揚げる凧は糸を惜んで、一番低く、山の上、松の空、桐の梢とある中に、わずかに百日紅の枝とすれすれな所を舞った。 大風来い、大風来い。    小風は、可厭、可厭……  幼い同士が威勢よく唄う中に、杢若はただ一人、寒そうな懐手、糸巻を懐中に差込んだまま、この唄にはむずむずと襟を摺って、頭を掉って、そして面打って舞う己が凧に、合点合点をして見せていた。  ……にもかかわらず、烏が騒ぐ逢魔が時、颯と下した風も無いのに、杢若のその低い凧が、懐の糸巻をくるりと空に巻くと、キリキリと糸を張って、一ツ星に颯と外れた。 「魔が来たよう。」 「天狗が取ったあ。」  ワッと怯えて、小児たちの逃散る中を、団栗の転がるように杢若は黒くなって、凧の影をどこまでも追掛けた、その時から、行方知れず。  五日目のおなじ晩方に、骨ばかりの凧を提げて、やっぱり鳥居際にぼんやりと立っていた。天狗に攫われたという事である。  それから時々、三日、五日、多い時は半月ぐらい、月に一度、あるいは三月に二度ほどずつ、人間界に居なくなるのが例年で、いつか、そのあわれな母のそうした時も、杢若は町には居なかったのであった。 「どこへ行ってござったの。」  町の老人が問うのに答えて、 「実家へだよう。」  と、それ言うのである。この町からは、間に大川を一つ隔てた、山から山へ、峰続きを分入るに相違ない、魔の棲むのはそこだと言うから。 「お実家はどこじゃ。どういう人が居さっしゃる。」 「実家の事かねえ、ははん。」  スポンと栓を抜く、件の咳を一つすると、これと同時に、鼻が尖り、眉が引釣り、額の皺が縊れるかと凹むや、眼が光る。……歯が鳴り、舌が滑に赤くなって、滔々として弁舌鋭く、不思議に魔界の消息を洩す――これを聞いたものは、親たちも、祖父祖母も、その児、孫などには、決して話さなかった。  幼いものが、生意気に直接に打撞る事がある。 「杢やい、実家はどこだ。」 「実家の事かい、ははん。」  や、もうその咳で、小父さんのお医師さんの、膚触りの柔かい、冷りとした手で、脈所をぎゅうと握られたほど、悚然とするのに、たちまち鼻が尖り、眉が逆立ち、額の皺が、ぴりぴりと蠢いて眼が血走る。……  聞くどころか、これに怯えて、ワッと遁げる。 「実家はな。」  と背後から、蔽われかかって、小児の目には小山のごとく追って来る。 「御免なさい。」 「きゃっ!」  その時に限っては、杢若の耳が且つ動くと言う――嘘を吐け。        三  海、また湖へ、信心の投網を颯と打って、水に光るもの、輝くものの、仏像、名剣を得たと言っても、売れない前には、その日一日の日当がどうなった、米は両につき三升、というのだから、かくのごとき杢若が番太郎小屋にただぼうとして活きているだけでは、世の中が納まらぬ。  入費は、町中持合いとした処で、半ば白痴で――たといそれが、実家と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば狂人であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……炭団、埋火、榾、柴を焚いて煙は揚げずとも、大切な事である。  方便な事には、杢若は切凧の一件で、山に実家を持って以来、いまだかつて火食をしない。多くは果物を餌とする。松葉を噛めば、椎なんぞ葉までも頬張る。瓜の皮、西瓜の種も差支えぬ。桃、栗、柿、大得意で、烏や鳶は、むしゃむしゃと裂いて鱠だし、蝸牛虫やなめくじは刺身に扱う。春は若草、薺、茅花、つくつくしのお精進……蕪を噛る。牛蒡、人参は縦に啣える。  この、秋はまたいつも、食通大得意、というものは、木の実時なり、実り頃、実家の土産の雉、山鳥、小雀、山雀、四十雀、色どりの色羽を、ばらばらと辻に撒き、廂に散らす。ただ、魚類に至っては、金魚も目高も決して食わぬ。  最も得意なのは、も一つ茸で、名も知らぬ、可恐しい、故郷の峰谷の、蓬々しい名の無い菌も、皮づつみの餡ころ餅ぼたぼたと覆すがごとく、袂に襟に溢れさして、山野の珍味に厭かせたまえる殿様が、これにばかりは、露のようなよだれを垂し、 「牛肉のひれや、人間の娘より、柔々として膏が滴る……甘味ぞのッ。」  は凄じい。  が、かく菌を嗜むせいだろうと人は言った、まだ杢若に不思議なのは、日南では、影形が薄ぼやけて、陰では、汚れたどろどろの衣の縞目も判明する。……委しく言えば、昼は影法師に肖ていて、夜は明かなのであった。  さて、店を並べた、山茱萸、山葡萄のごときは、この老鋪には余り資本が掛らな過ぎて、恐らくお銭になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。 「何だい、こりゃ!」 「美しい衣服じゃがい。」  氏子は呆れもしない顔して、これは買いもせず、貰いもしないで、隣の木の実に小遣を出して、枝を蔓を提げるのを、じろじろと流眄して、世に伯楽なし矣、とソレ青天井を向いて、えへらえへらと嘲笑う……  その笑が、日南に居て、蜘蛛の巣の影になるから、鳥が嘴を開けたか、猫が欠伸をしたように、人間離れをして、笑の意味をなさないで、ぱくりとなる……  というもので、筵を並べて、笠を被って坐った、山茱萸、山葡萄の婦どもが、件のぼやけさ加減に何となく誘われて、この姿も、またどうやら太陽の色に朧々として見える。  蒼い空、薄雲よ。  人の形が、そうした霧の裡に薄いと、可怪や、掠れて、明さまには見えない筈の、扱いて搦めた縺れ糸の、蜘蛛の囲の幻影が、幻影が。  真綿をスイと繰ったほどに判然と見えるのに、薄紅の蝶、浅葱の蝶、青白い蝶、黄色な蝶、金糸銀糸や消え際の草葉螟蛉、金亀虫、蠅の、蒼蠅、赤蠅。  羽ばかり秋の蝉、蜩の身の経帷子、いろいろの虫の死骸ながら巣を引挘って来たらしい。それ等が艶々と色に出る。  あれ見よ、その蜘蛛の囲に、ちらちらと水銀の散った玉のような露がきらめく……  この空の晴れたのに。――        四  これには仔細がある。  神の氏子のこの数々の町に、やがて、あやかしのあろうとてか――その年、秋のこの祭礼に限って、見馴れない、商人が、妙な、異ったものを売った。  宮の入口に、新しい石の鳥居の前に立った、白い幟の下に店を出して、そこに鬻ぐは何等のものぞ。  河豚の皮の水鉄砲。  蘆の軸に、黒斑の皮を小袋に巻いたのを、握って離すと、スポイト仕掛けで、衝と水が迸る。  鰒は多し、また壮に膳に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この怪い魚を鬻がない処はない。  が、おかしな売方、一頭々々を、あの鰭の黄ばんだ、黒斑なのを、ずぼんと裏返しに、どろりと脂ぎって、ぬらぬらと白い腹を仰向けて並べて置く。  もしただ二つ並ぼうものなら、切落して生々しい女の乳房だ。……しかも真中に、ズキリと庖丁目を入れた処が、パクリと赤黒い口を開いて、西施の腹の裂目を曝す……  中から、ずるずると引出した、長々とある百腸を、巻かして、束ねて、ぬるぬると重ねて、白腸、黄腸と称えて売る。……あまつさえ、目の赤い親仁や、襤褸半纏の漢等、俗に――云う腸拾いが、出刃庖丁を斜に構えて、この腸を切売する。  待て、我が食通のごときは、これに較ぶれば処女の膳であろう。  要するに、市、町の人は、挙って、手足のない、女の白い胴中を筒切にして食うらしい。  その皮の水鉄砲。小児は争って買競って、手の腥いのを厭いなく、参詣群集の隙を見ては、シュッ。 「打上げ!」 「流星!」  と花火に擬て、縦横や十文字。  いや、隙どころか、件の杢若をば侮って、その蜘蛛の巣の店を打った。  白玉の露はこれである。  その露の鏤むばかり、蜘蛛の囲に色籠めて、いで膚寒き夕となんぬ。山から颪す風一陣。  はや篝火の夜にこそ。        五  笛も、太鼓も音を絶えて、ただ御手洗の水の音。寂としてその夜更け行く。この宮の境内に、階の方から、カタンカタン、三ツ四ツ七ツ足駄の歯の高響。  脊丈のほども惟わるる、あの百日紅の樹の枝に、真黒な立烏帽子、鈍色に黄を交えた練衣に、水色のさしぬきした神官の姿一体。社殿の雪洞も早や影の届かぬ、暗夜の中に顕れたのが、やや屈みなりに腰を捻って、その百日紅の梢を覗いた、霧に朦朧と火が映って、ほんのりと薄紅の射したのは、そこに焚落した篝火の残余である。  この明で、白い襟、烏帽子の紐の縹色なのがほのかに見える。渋紙した顔に黒痘痕、塵を飛ばしたようで、尖がった目の光、髪はげ、眉薄く、頬骨の張った、その顔容を見ないでも、夜露ばかり雨のないのに、その高足駄の音で分る、本田摂理と申す、この宮の社司で……草履か高足駄の他は、下駄を穿かないお神官。  小児が社殿に遊ぶ時、摺違って通っても、じろりと一睨みをくれるばかり。威あって容易く口を利かぬ。それを可恐くは思わぬが、この社司の一子に、時丸と云うのがあって、おなじ悪戯盛であるから、ある時、大勢が軍ごっこの、番に当って、一子時丸が馬になった、叱! 騎った奴がある。……で、廻廊を這った。  大喝一声、太鼓の皮の裂けた音して、 「無礼もの!」  社務所を虎のごとく猛然として顕れたのは摂理の大人で。 「動!」と喚くと、一子時丸の襟首を、長袖のまま引掴み、壇を倒に引落し、ずるずると広前を、石の大鉢の許に掴み去って、いきなり衣帯を剥いで裸にすると、天窓から柄杓で浴びせた。 「塩を持て、塩を持て。」  塩どころじゃない、百日紅の樹を前にした、社務所と別な住居から、よちよち、臀を横に振って、肥った色白な大円髷が、夢中で駈けて来て、一子の水垢離を留めようとして、身を楯に逸るのを、仰向けに、ドンと蹴倒いて、 「汚れものが、退りおれ。――塩を持て、塩を持てい。」  いや、小児等は一すくみ。  あの顔一目で縮み上る……  が、大人に道徳というはそぐわぬ。博学深識の従七位、花咲く霧に烏帽子は、大宮人の風情がある。 「火を、ようしめせよ、燠が散るぞよ。」  と烏帽子を下向けに、その住居へ声を懸けて、樹の下を出しなの時、 「雨はどうじゃ……ちと曇ったぞ。」と、密と、袖を捲きながら、紅白の旗のひらひらする、小松大松のあたりを見た。 「あの、大旗が濡れてはならぬが、降りもせまいかな。」  と半ば呟き呟き、颯と巻袖の笏を上げつつ、とこう、石の鳥居の彼方なる、高き帆柱のごとき旗棹の空を仰ぎながら、カタリカタリと足駄を踏んで、斜めに木の鳥居に近づくと、や! 鼻の提灯、真赤な猿の面、飴屋一軒、犬も居らぬに、杢若が明かに店を張って、暗がりに、のほんとしている。  馬鹿が拍手を拍った。 「御前様。」 「杢か。」 「ひひひひひ。」 「何をしておる。」 「少しも売れませんわい。」 「馬鹿が。」  と夜陰に、一つ洞穴を抜けるような乾びた声の大音で、 「何を売るや。」 「美しい衣服だがのう。」 「何?」  暗を見透かすようにすると、ものの静かさ、松の香が芬とする。        六  鼠色の石持、黒い袴を穿いた宮奴が、百日紅の下に影のごとく踞まって、びしゃッびしゃッと、手桶を片手に、箒で水を打つのが見える、と……そこへ――  あれあれ何じゃ、ばばばばばば、と赤く、かなで書いた字が宙に出て、白い四角な燈が通る、三箇の人影、六本の草鞋の脚。  燈一つに附着合って、スッと鳥居を潜って来たのは、三人斉しく山伏なり。白衣に白布の顱巻したが、面こそは異形なれ。丹塗の天狗に、緑青色の般若と、面白く鼻の黄なる狐である。魔とも、妖怪変化とも、もしこれが通魔なら、あの火をしめす宮奴が気絶をしないで堪えるものか。で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。  中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入って練歩行く、祭の催物の一つで、意味は分らぬ、(やしこばば)と称うる若連中のすさみである。それ、腰にさげ、帯にさした、法螺の貝と横笛に拍子を合せて、 やしこばば、うばば、 うば、うば、うばば。 火を一つ貸せや。 火はまだ打たぬ。 あれ、あの山に、火が一つ見えるぞ。 やしこばば、うばば。 うば、うば、うばば。  ……と唄う、ただそれだけを繰返しながら、矢をはぎ、斧を舞わし、太刀をかざして、頤から頭なりに、首を一つぐるりと振って、交る交るに緩く舞う。舞果てると鼻の尖に指を立てて臨兵闘者云々と九字を切る。一体、悪魔を払う趣意だと云うが、どうやら夜陰のこの業体は、魑魅魍魎の類を、呼出し招き寄せるに髣髴として、実は、希有に、怪しく不気味なものである。  しかもちと来ようが遅い。渠等は社の抜裏の、くらがり坂とて、穴のような中を抜けてふとここへ顕れたが、坂下に大川一つ、橋を向うへ越すと、山を屏風に繞らした、翠帳紅閨の衢がある。おなじ時に祭だから、宵から、その軒、格子先を練廻って、ここに時おくれたのであろう。が、あれ、どこともなく瀬の音して、雨雲の一際黒く、大なる蜘蛛の浸んだような、峰の天狗松の常燈明の一つ灯が、地獄の一つ星のごとく見ゆるにつけても、どうやら三体の通魔めく。  渠等は、すっと来て通り際に、従七位の神官の姿を見て、黙って、言い合せたように、音の無い草鞋を留めた。  この行燈で、巣に搦んだいろいろの虫は、空蝉のその羅の柳条目に見えた。灯に蛾よりも鮮明である。  但し異形な山伏の、天狗、般若、狐も見えた。が、一際色は、杢若の鼻の頭で、 「えら美しい衣服じゃろがな。」  と蠢かいて言った処は、青竹二本に渡したにつけても、魔道における七夕の貸小袖という趣である。  従七位の摂理の太夫は、黒痘痕の皺を歪めて、苦笑して、 「白痴が。今にはじめぬ事じゃが、まずこれが衣類ともせい……どこの棒杭がこれを着るよ。余りの事ゆえ尋ねるが、おのれとても、氏子の一人じゃ、こう訊くのも、氏神様の、」  と厳に袖に笏を立てて、 「恐多いが、思召じゃとそう思え。誰が、着るよ、この白痴、蜘蛛の巣を。」 「綺麗なのう、若い婦人じゃい。」 「何。」 「綺麗な若い婦人は、お姫様じゃろがい、そのお姫様が着さっしゃるよ。」 「天井か、縁の下か、そんなものがどこに居る?」  と従七位はまた苦い顔。        七  杢若は筵の上から、古綿を啣えたような唇を仰向けに反らして、 「あんな事を言って、従七位様、天井や縁の下にお姫様が居るものかよ。」  馬鹿にしないもんだ、と抵抗面は可かったが、 「解った事を、草の中に居るでないかね……」  はたして、言う事がこれである。 「そうじゃろう、草の中でのうて、そんなものが居るものか。ああ、何んと云う、どんな虫じゃい。」 「あれ、虫だとよう、従七位様、えらい博識な神主様がよ。お姫様は茸だものをや。……虫だとよう、あはは、あはは。」と、火食せぬ奴の歯の白さ、べろんと舌の赤い事。 「茸だと……これ、白痴。聞くものはないが、あまり不便じゃ。氏神様のお尋ねだと思え。茸が婦人か、おのれの目には。」 「紅茸と言うだあね、薄紅うて、白うて、美い綺麗な婦人よ。あれ、知らっしゃんねえがな、この位な事をや。」  従七位は、白痴の毒気を避けるがごとく、笏を廻して、二つ三つ這奴の鼻の尖を払いながら、 「ふん、で、そのおのれが婦は、蜘蛛の巣を被って草原に寝ておるじゃな。」 「寝る時は裸体だよ。」 「む、茸はな。」 「起きとっても裸体だにのう。――  粧飾す時に、薄らと裸体に巻く宝ものの美い衣服だよ。これは……」 「うむ、天の恵は洪大じゃ。茸にもさて、被るものをお授けなさるじゃな。」 「違うよ。――お姫様の、めしものを持て――侍女がそう言うだよ。」 「何じゃ、待女とは。」 「やっぱり、はあ、真白な膚に薄紅のさした紅茸だあね。おなじものでも位が違うだ。人間に、神主様も飴屋もあると同一でな。……従七位様は何も知らっしゃらねえ。あはは、松蕈なんぞは正七位の御前様だ。錦の褥で、のほんとして、お姫様を視めておるだ。」 「黙れ! 白痴!……と、こんなものじゃ。」  と従七位は、山伏どもを、じろじろと横目に掛けつつ、過言を叱する威を示して、 「で、で、その衣服はどうじゃい。」 「ははん――姫様のおめしもの持て――侍女がそう言うと、黒い所へ、黄色と紅条の縞を持った女郎蜘蛛の肥えた奴が、両手で、へい、この金銀珠玉だや、それを、その織込んだ、透通る錦を捧げて、赤棟蛇と言うだね、燃える炎のような蛇の鱗へ、馬乗りに乗って、谷底から駈けて来ると、蜘蛛も光れば蛇も光る。」  と物語る。君がいわゆる実家の話柄とて、喋舌る杢若の目が光る。と、黒痘痕の眼も輝き、天狗、般若、白狐の、六箇の眼玉も赫となる。 「まだ足りないで、燈を――燈を、と細い声して言うと、土からも湧けば、大木の幹にも伝わる、土蜘蛛だ、朽木だ、山蛭だ、俺が実家は祭礼の蒼い万燈、紫色の揃いの提灯、さいかち茨の赤い山車だ。」  と言う……葉ながら散った、山葡萄と山茱萸の夜露が化けた風情にも、深山の状が思わるる。 「いつでも俺は、気の向いた時、勝手にふらりと実家へ行くだが、今度は山から迎いが来たよ。祭礼に就いてだ。この間、宵に大雨のどッとと降った夜さり、あの用心池の水溜の所を通ると、掃溜の前に、円い笠を着た黒いものが蹲踞んでいたがね、俺を見ると、ぬうと立って、すぽんすぽんと歩行き出して、雲の底に月のある、どしゃ降の中でな、時々、のほん、と立停っては俺が方をふり向いて見い見いするだ。頭からずぼりと黒い奴で、顔は分んねえだが、こっちを呼びそうにするから、その後へついて行くと、石の鳥居から曲って入って、こっちへ来ると見えなくなった――  俺あ家へ入ろうと思うと、向うの百日紅の樹の下に立っている……」  指した方を、従七位が見返った時、もうそこに、宮奴の影はなかった。  御手洗の音も途絶えて、時雨のような川瀬が響く。……        八 「そのまんま消えたがのう。お社の柵の横手を、坂の方へ行ったらしいで、後へ、すたすた。坂の下口で気が附くと、驚かしやがらい、畜生めが。俺の袖の中から、皺びた、いぼいぼのある蒼い顔を出して笑った。――山は御祭礼で、お迎いだ――とよう。……此奴はよ、大い蕈で、釣鐘蕈と言うて、叩くとガーンと音のする、劫羅経た親仁よ。……巫山戯た爺が、驚かしやがって、頭をコンとお見舞申そうと思ったりゃ、もう、すっこ抜けて、坂の中途の樫の木の下に雨宿りと澄ましてけつかる。  川端へ着くと、薄らと月が出たよ。大川はいつもより幅が広い、霧で茫として海見たようだ。流の上の真中へな、小船が一艘。――先刻ここで木の実を売っておった婦のような、丸い笠きた、白い女が二人乗って、川下から流を逆に泳いで通る、漕ぐじゃねえ。底蛇と言うて、川に居る蛇が船に乗ッけて底を渡るだもの。船頭なんか、要るものかい、ははん。」  と高慢な笑い方で、 「船からよ、白い手で招くだね。黒親仁は俺を負って、ざぶざぶと流を渡って、船に乗った。二人の婦人は、柴に附着けて売られたっけ、毒だ言うて川下へ流されたのが遁げて来ただね。  ずっと川上へ行くと、そこらは濁らぬ。山奥の方は明い月だ。真蒼な激い流が、白く颯と分れると、大な蛇が迎いに来た、でないと船が、もうその上は小蛇の力で動かんでな。底を背負って、一廻りまわって、船首へ、鎌首を擡げて泳ぐ、竜頭の船と言うだとよ。俺は殿様だ。……  大巌の岸へ着くと、その鎌首で、親仁の頭をドンと敲いて、(お先へ。)だってよ、べろりと赤い舌を出して笑って谷へ隠れた。山路はぞろぞろと皆、お祭礼の茸だね。坊主様も尼様も交ってよ、尼は大勢、びしょびしょびしょびしょと湿った所を、坊主様は、すたすたすたすた乾いた土を行く。湿地茸、木茸、針茸、革茸、羊肚茸、白茸、やあ、一杯だ一杯だ。」  と筵の上を膝で刻んで、嬉しそうに、ニヤニヤして、 「初茸なんか、親孝行で、夜遊びはいたしません、指を啣えているだよ。……さあ、お姫様の踊がはじまる。」  と、首を横に掉って手を敲いて、 「お姫様も一人ではない。侍女は千人だ。女郎蜘蛛が蛇に乗っちゃ、ぞろぞろぞろぞろみんな衣裳を持って来ると、すっと巻いて、袖を開く。裾を浮かすと、紅玉に乳が透き、緑玉に股が映る、金剛石に肩が輝く。薄紅い影、青い隈取り、水晶のような可愛い目、珊瑚の玉は唇よ。揃って、すっ、はらりと、すっ、袖をば、裳をば、碧に靡かし、紫に颯と捌く、薄紅を飜す。  笛が聞える、鼓が鳴る。ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン、おひゃら、ひゅうい、チテン、テン、ひゃあらひゃあら、トテン、テン。」  廓のしらべか、松風か、ひゅうら、ひゅうら、ツテン、テン。あらず、天狗の囃子であろう。杢若の声を遥に呼交す。 「唄は、やしこばばの唄なんだよ、ひゅうらひゅうら、ツテン、テン、 やしこばば、うばば、 うば、うば、うばば、 火を一つくれや……」  と、唄うに連れて、囃子に連れて、少しずつ手足の科した、三個のこの山伏が、腰を入れ、肩を撓め、首を振って、踊出す。太刀、斧、弓矢に似もつかず、手足のこなしは、しなやかなものである。  従七位が、首を廻いて、笏を振って、臀を廻いた。  二本の幟はたはたと飜り、虚空を落す天狗風。  蜘蛛の囲の虫晃々と輝いて、鏘然、珠玉の響あり。 「幾干金ですか。」  般若の山伏がこう聞いた。その声の艶に媚かしいのを、神官は怪んだが、やがて三人とも仮装を脱いで、裸にして縷無き雪の膚を顕すのを見ると、いずれも、……血色うつくしき、肌理細かなる婦人である。 「銭ではないよ、みんな裸になれば一反ずつ遣る。」  価を問われた時、杢若が蜘蛛の巣を指して、そう言ったからであった。  裸体に、被いて、大旗の下を行く三人の姿は、神官の目に、実に、紅玉、碧玉、金剛石、真珠、珊瑚を星のごとく鏤めた羅綾のごとく見えたのである。  神官は高足駄で、よろよろとなって、鳥居を入ると、住居へ行かず、階を上って拝殿に入った。が、額の下の高麗べりの畳の隅に、人形のようになって坐睡りをしていた、十四になる緋の袴の巫女を、いきなり、引立てて、袴を脱がせ、衣を剥いだ。……この巫女は、当年初に仕えたので、こうされるのが掟だと思って自由になったそうである。  宮奴が仰天した、馬顔の、痩せた、貧相な中年もので、かねて吶であった。 「従、従、従、従、従七位、七位様、何、何、何、何事!」  笏で、ぴしゃりと胸を打って、 「退りおろうぞ。」  で、虫の死んだ蜘蛛の巣を、巫女の頭に翳したのである。  かつて、山神の社に奉行した時、丑の時参詣を谷へ蹴込んだり、と告った、大権威の摂理太夫は、これから発狂した。  ――既に、廓の芸妓三人が、あるまじき、その夜、その怪しき仮装をして内証で練った、というのが、尋常ごとではない。  十日を措かず、町内の娘が一人、白昼、素裸になって格子から抜けて出た。門から手招きする杢若の、あの、宝玉の錦が欲しいのであった。余りの事に、これは親さえ組留められず、あれあれと追う間に、番太郎へ飛込んだ。  市の町々から、やがて、木蓮が散るように、幾人となく女が舞込む。  ――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い陽炎のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであった。 大正七(一九一八)年四月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十七卷」岩波書店    1942(昭和17)年1月24日発行 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003657", "作品名": "茸の舞姫", "作品名読み": "きのこのまいひめ", "ソート用読み": "きのこのまいひめ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3657.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十七卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年1月24日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3657_ruby_26022.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3657_26095.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 雨が、さつと降出した、停車場へ着いた時で――天象は卯の花くだしである。敢て字義に拘泥する次第ではないが、雨は其の花を亂したやうに、夕暮に白かつた。やゝ大粒に見えるのを、もし掌にうけたら、冷く、そして、ぼつと暖に消えたであらう。空は暗く、風も冷たかつたが、温泉の町の但馬の五月は、爽であつた。  俥は幌を深くしたが、雨を灌いで、鬱陶しくはない。兩側が高い屋並に成つたと思ふと、立迎ふる山の影が濃い緑を籠めて、輻とともに動いて行く。まだ暮果てず明いのに、濡れつゝ、ちらちらと灯れた電燈は、燕を魚のやうに流して、靜な谿川に添つた。流は細い。横に二つ三つ、續いて木造の橋が濡色に光つた、此が旅行案内で知つた圓山川に灌ぐのである。  此の景色の中を、しばらくして、門の柳を潛り、帳場の入らつしやい――を横に聞いて、深い中庭の青葉を潛つて、別にはなれに構へた奧玄關に俥が着いた。旅館の名の合羽屋もおもしろい。  へい、ようこそお越しで。挨拶とともに番頭がズイと掌で押出して、扨て默つて顏色を窺つた、盆の上には、湯札と、手拭が乘つて、上に請求書、むかし「かの」と云つたと聞くが如き形式のものが飜然とある。おや〳〵前勘か。否、然うでない。……特、一、二、三等の相場づけである。温泉の雨を掌に握つて、我がものにした豪儀な客も、ギヨツとして、此れは悄氣る……筈の處を……又然うでない。實は一昨年の出雲路の旅には、仔細あつて大阪朝日新聞學藝部の春山氏が大屋臺で後見について居た。此方も默つて、特等、とあるのをポンと指のさきで押すと、番頭が四五尺する〳〵と下つた。(百兩をほどけば人をしさらせる)古川柳に對して些と恥かしいが(特等といへば番頭座をしさり。)は如何? 串戲ぢやあない。が、事實である。  棟近き山の端かけて、一陣風が渡つて、まだ幽に影の殘つた裏櫺子の竹がさら〳〵と立騷ぎ、前庭の大樹の楓の濃い緑を壓へて雲が黒い。「風が出ました、もう霽りませう。」「これはありがたい、お禮を言ふよ。」「ほほほ。」ふつくり色白で、帶をきちんとした島田髷の女中は、白地の浴衣の世話をしながら笑つたが、何を祕さう、唯今の雲行に、雷鳴をともなひはしなからうかと、氣遣つた處だから、土地ツ子の天氣豫報の、風、晴、に感謝の意を表したのであつた。  すぐ女中の案内で、大く宿の名を記した番傘を、前後に揃へて庭下駄で外湯に行く。此の景勝愉樂の郷にして、内湯のないのを遺憾とす、と云ふ、贅澤なのもあるけれども、何、青天井、いや、滴る青葉の雫の中なる廊下續きだと思へば、渡つて通る橋にも、川にも、細々とからくりがなく洒張りして一層好い。本雨だ。第一、馴れた家の中を行くやうな、傘さした女中の斜な袖も、振事のやうで姿がいゝ。  ――湯はきび〳〵と熱かつた。立つと首ツたけある。誰の?……知れた事拙者のである。處で、此のくらゐ熱い奴を、と顏をざぶ〳〵と冷水で洗ひながら腹の中で加減して、やがて、湯を出る、ともう雨は霽つた。持おもりのする番傘に、片手腕まくりがしたいほど、身のほてりに夜風の冷い快さは、横町の錢湯から我家へ歸る趣がある。但往交ふ人々は、皆名所繪の風情があつて、中には塒に立迷ふ旅商人の状も見えた。  並んだ膳は、土地の由緒と、奧行をもの語る。手を突張ると外れさうな棚から飛出した道具でない。藏から顯はれた器らしい。御馳走は―― 鯛の味噌汁。人參、じやが、青豆、鳥の椀。鯛の差味。胡瓜と烏賊の酢のもの。鳥の蒸燒。松蕈と鯛の土瓶蒸。香のもの。青菜の鹽漬、菓子、苺。  所謂、貧僧のかさね齋で、ついでに翌朝の分を記して置く。 蜆、白味噌汁。大蛤、味醂蒸。並に茶碗蒸。蕗、椎茸つけあはせ、蒲鉾、鉢。淺草海苔。  大な蛤、十ウばかり。(註、ほんたうは三個)として、蜆も見事だ、碗も皿もうまい〳〵、と慌てて瀬戸ものを噛つたやうに、覺えがきに記してある。覺え方はいけ粗雜だが、料理はいづれも念入りで、分量も鷹揚で、聊もあたじけなくない處が嬉しい。  三味線太鼓は、よその二階三階の遠音に聞いて、私は、ひつそりと按摩と話した。此の按摩どのは、團栗の如く尖つた頭で、黒目金を掛けて、白の筒袖の上被で、革鞄を提げて、そくに立つて、「お療治。」と顯はれた。――勝手が違つて、私は一寸不平だつた。が、按摩は宜しう、と縁側を這つたのでない。此方から呼んだので、術者は來診の氣組だから苦情は言へぬが驚いた。忽ち、縣下豐岡川の治水工事、第一期六百萬圓也、と胸を反らしたから、一すくみに成つて、内々期待した狐狸どころの沙汰でない。あの、潟とも湖とも見えた……寧ろ寂然として沈んだ色は、大なる古沼か、千年百年ものいはぬ靜かな淵かと思はれた圓山川の川裾には――河童か、獺は?……などと聞かうものなら、はてね、然やうなものが鯨の餌にありますか、と遣りかねない勢で。一つ驚かされたのは、思ひのほか、魚が結構だ、と云つたのを嘲笑つて、つい津居山の漁場には、鯛も鱸もびち〳〵刎ねて居ると、掌を肩で刎ねた。よくせき土地が不漁と成れば、佐渡から新潟へ……と聞いた時は、枕返し、と云ふ妖怪に逢つたも同然、敷込んだ布團を取つて、北から南へ引くりかへされたやうに吃驚した。旅で劍術は出來なくても、學問があれば恁うは駭くまい。だから學校を怠けては不可い、從つて教はつた事を忘れては不可い、但馬の圓山川の灌ぐのも、越後の信濃川の灌ぐのも、船ではおなじ海である。  私は佐渡と云ふ所は、上野から碓氷を越えて、雪の柏原、關山、直江津まはりに新潟邊から、佐渡は四十五里波の上、と見るか、聞きかするものだ、と浮りして居た。七日前に東京驛から箱根越の東海道。――分つた〳〵――逗留した大阪を、今日午頃に立つて、あゝ、祖母さんの懷で昔話に聞いた、栗がもの言ふ、たんばの國。故と下りて見た篠山の驛のプラツトホームを歩行くのさへ、重疊と連る山を見れば、熊の背に立つ思がした。酒顛童子の大江山。百人一首のお孃さんの、「いくのの道」もそれか、と辿つて、はる〴〵と來た城崎で、佐渡の沖へ船が飛んで、キラリと飛魚が刎出したから、きたなくも怯かされたのである。――晩もお總菜に鮭を退治た、北海道の産である。茶うけに岡山のきび團子を食べた處で、咽喉に詰らせる法はない。これしかしながら旅の心であらう。――  夜はやゝ更けた。はなれの十疊の奧座敷は、圓山川の洲の一處を借りたほど、森閑ともの寂しい。あの大川は、いく野の銀山を源に、八千八谷を練りに練つて流れるので、水は類なく柔かに滑だ、と又按摩どのが今度は聲を沈めて話した。豐岡から來る間、夕雲の低迷して小浪に浮織の紋を敷いた、漫々たる練絹に、汽車の窓から手をのばせば、蘆の葉越に、觸ると搖れさうな思で通つた。旅は樂い、又寂しい、としをらしく成ると、何が、そんな事。……ぢきその飛石を渡つた小流から、お前さん、苫船、屋根船に炬燵を入れて、美しいのと差向ひで、湯豆府で飮みながら、唄で漕いで、あの川裾から、玄武洞、對居山まで、雪見と云ふ洒落さへあります、と言ふ。項を立てた苫も舷も白銀に、珊瑚の袖の搖るゝ時、船はたゞ雪を被いだ翡翠となつて、白い湖の上を飛ぶであらう。氷柱の蘆も水晶に―― 金子の力は素晴らしい。 私は獺のやうに、ごろんと寢た。 而して夢に小式部を見た。 嘘を吐け!  ピイロロロピイ――これは夜が明けて、晴天に鳶の鳴いた聲ではない。翌朝、一風呂キヤ〳〵と浴び、手拭を絞つたまゝ、からりと晴れた天氣の好さに、川の岸を坦々とさかのぼつて、來日ヶ峰の方に旭に向つて、晴々しく漫歩き出した。九時頃だが、商店は町の左右に客を待つのに、人通りは見掛けない。靜な細い町を、四五間ほど前へ立つて、小兒かと思ふ小さな按摩どのが一人、笛を吹きながら後形で行くのである。ピイロロロロピイーとしよんぼりと行く。トトトン、トトトン、と間を緩く、其處等の藝妓屋で、朝稽古の太鼓の音、ともに何となく翠の滴る山に響く。  まだ羽織も着ない。手織縞の茶つぽい袷の袖に、鍵裂が出來てぶら下つたのを、腕に捲くやうにして笛を握つて、片手向うづきに杖を突張つた、小倉の櫂の口が、ぐたりと下つて、裾のよぢれ上つた痩脚に、ぺたんことも曲んだとも、大きな下駄を引摺つて、前屈みに俯向いた、瓢箪を俯向に、突き出た出額の尻すぼけ、情を知らず故らに繪に描いたやうなのが、ピイロロロピイと仰向いて吹いて、すぐ、ぐつたりと又俯向く。鍵なりに町を曲つて、水の音のやゝ聞こえる、流の早い橋を越すと、又道が折れた。突當りがもうすぐ山懷に成る。其處の町屋を、馬の沓形に一廻りして、振返つた顏を見ると、額に隱れて目の窪んだ、頤のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな年であつた。  うか〳〵と、あとを歩行いた方は勝手だが、彼は勝手を超越した朝飯前であらうも知れない。笛の音が胸に響く。  私は欄干に彳んで、返りを行違はせて見送つた。おなじやうに、或は傾き、また俯向き、さて笛を仰いで吹いた、が、やがて、來た道を半ば、あとへ引返した處で、更めて乘つかる如く下駄を留めると、一方、鎭守の社の前で、ついた杖を、丁と小脇に引そばめて上げつゝ、高々と仰向いた、さみしい大な頭ばかり、屋根を覗く來日ヶ峰の一處を黒く抽いて、影法師を前に落して、高らかに笛を鳴らした。  ――きよきよらツ、きよツ〳〵きよツ!  八千八谷を流るゝ、圓山川とともに、八千八聲と稱ふる杜鵑は、ともに此地の名物である。それも昨夜の按摩が話した。其時、口で眞似たのが此である。例の(ほぞんかけたか)を此の邊では、(きよきよらツ、きよツ〳〵)と聞くらしい。  ひと聲、血に泣く其の笛を吹き落すと、按摩は、とぼ〳〵と横路地へ入つて消えた。  續いて其處を通つたが、もう見えない。  私は何故か、ぞつとした。  太鼓の音の、のびやかなあたりを、早足に急いで歸るのに、途中で橋を渡つて岸が違つて、石垣つゞきの高塀について、打つかりさうに大な黒い門を見た。立派な門に不思議はないが、くゞり戸も煽つたまゝ、扉が夥多しく裂けて居る。覗くと、山の根を境にした廣々とした庭らしいのが、一面の雜草で、遠くに小さく、壞れた四阿らしいものの屋根が見える。日に水の影もさゝぬのに、其の四阿をさがりに、二三輪、眞紫の菖蒲が大くぱつと咲いて、縋つたやうに、倒れかゝつた竹の棹も、池に小船に棹したやうに面影に立つたのである。  此の時の旅に、色彩を刻んで忘れないのは、武庫川を過ぎた生瀬の停車場近く、向う上りの徑に、じり〳〵と蕊に香を立てて咲揃つた眞晝の芍藥と、横雲を眞黒に、嶺が颯と暗かつた、夜久野の山の薄墨の窓近く、草に咲いた姫薊の紅と、――此の菖蒲の紫であつた。  ながめて居る目が、やがて心まで、うつろに成つて、あツと思ふ、つい目さきに、又うつくしいものを見た。丁ど瞳を離して、あとへ一歩振向いた處が、川の瀬の曲角で、やゝ高い向岸の、崖の家の裏口から、巖を削れる状の石段五六段を下りた汀に、洗濯ものをして居た娘が、恰もほつれ毛を掻くとて、すんなりと上げた眞白な腕の空ざまなのが睫毛を掠めたのである。  ぐらり、がたがたん。 「あぶない。」 「いや、これは。」  すんでの處。――落つこちるのでも、身投でも、はつと抱きとめる救手は、何でも不意に出る方が人氣が立つ。すなはち同行の雪岱さんを、今まで祕しておいた所以である。  私は踏んだ石の、崖を崩れかゝつたのを、且つ視て苦笑した。餘りの不状に、娘の方が、優い顏をぽつと目瞼に色を染め、膝まで卷いて友禪に、ふくら脛の雪を合はせて、紅絹の影を流に散らして立つた。  さるにても、按摩の笛の杜鵑に、拔かしもすべき腰を、娘の色に落ちようとした。私は羞ぢ且つ自ら憤つて酒を煽つた。――なほ志す出雲路を、其日は松江まで行くつもりの汽車には、まだ時間がある。私は、もう一度宿を出た。  すぐ前なる橋の上に、頬被した山家の年増が、苞を開いて、一人行く人のあとを通つた、私を呼んで、手を擧げて、「大な自然薯買うておくれなはらんかいなア。」……はおもしろい。朝まだきは、旅館の中庭の其處此處を、「大きな夏蜜柑買はんせい。」……親仁の呼聲を寢ながら聞いた。働く人の賣聲を、打興ずるは失禮だが、旅人の耳には唄である。  漲るばかり日の光を吸つて、然も輕い、川添の道を二町ばかりして、白い橋の見えたのが停車場から突通しの處であつた。橋の詰に、――丹後行、舞鶴行――住の江丸、濱鶴丸と大看板を上げたのは舟宿である。丹後行、舞鶴行――立つて見たばかりでも、退屈の餘りに新聞の裏を返して、バンクバー、シヤトル行を睨むが如き、情のない、他人らしいものではない。――蘆の上をちら〳〵と舞ふ陽炎に、袖が鴎になりさうで、遙に色の名所が偲ばれる。手輕に川蒸汽でも出さうである。早や、その蘆の中に並んで、十四五艘の網船、田船が浮いて居た。  どれかが、黄金の魔法によつて、雪の大川の翡翠に成るらしい。圓山川の面は今、こゝに、其の、のんどりと和み軟いだ唇を寄せて、蘆摺れに汀が低い。彳めば、暖く水に抱かれた心地がして、藻も、水草もとろ〳〵と夢が蕩けさうに裾に靡く。おゝ、澤山な金魚藻だ。同町内の瀧君に、ひと俵贈らうかな、……水上さんは大な目をして、二七の縁日に金魚藻を探して行く。……  私は海の空を見た。輝く如きは日本海の波であらう。鞍掛山、太白山は、黛を左右に描いて、來日ヶ峰は翠なす額髮を近々と、面ほてりのするまで、じり〳〵と情熱の呼吸を通はす。緩い流は浮草の帶を解いた。私の手を觸れなかつたのは、濡れるのを厭つたのでない、波を恐れたのでない。圓山川の膚に觸れるのを憚つたのであつた。  城崎は――今も恁の如く目に泛ぶ。  こゝに希有な事があつた。宿にかへりがけに、客を乘せた俥を見ると、二臺三臺、俥夫が揃つて手に手に鐵棒を一條づゝ提げて、片手で楫を壓すのであつた。――煙草を買ひながら聞くと、土地に數の多い犬が、俥に吠附き戲れかゝるのを追拂ふためださうである。駄菓子屋の縁臺にも、船宿の軒下にも、蒲燒屋の土間にも成程居たが。――言ふうちに、飛かゝつて、三疋四疋、就中先頭に立つたのには、停車場近く成ると、五疋ばかり、前後から飛びかゝつた。叱、叱、叱! 畜生、畜生、畜生。俥夫が鐵棒を振舞すのを、橋に立つて見たのである。  其の犬どもの、耳には火を立て、牙には火を齒み、焔を吹き、黒煙を尾に倦いて、車とも言はず、人とも言はず、炎に搦んで、躍上り、飛蒐り、狂立つて地獄の形相を顯したであらう、と思はず身の毛を慄立てたのは、昨、十四年五月二十三日十一時十分、城崎豐岡大地震大火の號外を見ると同時であつた。  地方は風物に變化が少い。わけて唯一年、もの凄いやうに思ふのは、月は同じ月、日はたゞ前後して、――谿川に倒れかゝつたのも殆ど同じ時刻である。娘も其處に按摩も彼處に――  其の大地震を、あの時既に、不氣味に按摩は豫覺したるにあらざるか。然らば八千八聲を泣きつゝも、生命だけは助かつたらう。衣を洗ひし娘も、水に肌は焦すまい。  當時寫眞を見た――湯の都は、たゞ泥と瓦の丘となつて、なきがらの如き山あるのみ。谿川の流は、大むかでの爛れたやうに……其の寫眞も赤く濁る……砂煙の曠野を這つて居た。  木も草も、あはれ、廢屋の跡の一輪の紫の菖蒲もあらば、それがどんなに、と思ふ。  ――今は、柳も芽んだであらう――城崎よ。 大正十五年四月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「城崎《きのさき》を憶《おも》ふ」となっています。 ※表題の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年5月8日作成 2016年2月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004249", "作品名": "城崎を憶ふ", "作品名読み": "きのさきをおもう", "ソート用読み": "きのさきをおもう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 915", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-02T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4249.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4249_ruby_6279.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-02-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4249_6475.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-02-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
        一  番茶を焙じるらしい、いゝ香気が、真夜中とも思ふ頃芬としたので、うと〳〵としたやうだつた沢は、はつきりと目が覚めた。  随分遙々の旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、其は分らぬ。尤も村里を遠く離れた峠の宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ〳〵と石を載せた、板葺屋根も、松高き裏の峰も、今は、渓河の流れの音も寂として、何も聞えず、時々颯と音を立てて、枕に響くのは山颪である。  蕭殺たる此の秋の風は、宵は一際鋭かつた。藍縞の袷を着て、黒の兵子帯を締めて、羽織も無い、沢の少いが痩せた身体を、背後から絞つて、長くもない額髪を冷く払つた。……其の余波が、カラカラと乾びた木の葉を捲きながら、旅籠屋の框へ吹込んで、大な炉に、一簇の黒雲の濃く舞下つたやうに漾ふ、松を焼く煙を弗と吹くと、煙は筵の上を階子段の下へ潜んで、向うに真暗な納戸へ逃げて、而して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所に、自在に掛つた大鍋の底へ、ひら〳〵と炎が搦んで、真白な湯気のむく〳〵と立つのが見えた。  其の湯気の頼母しいほど、山気は寒く薄い膚を透したのであつた。午下りに麓から攀上つた時は、其の癖汗ばんだくらゐだに……  表二階の、狭い三畳ばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、漸つと仄くばかり、目口も見えず、最う暗い。  色の黒い小女が、やがて漆の禿げたやうな装で、金盥に柄を附けたらうと思ふ、大な十能に、焚落しを、ぐわん、と装つたのと、片手に煤けた行燈に点灯したのを提げて、みし〳〵と段階子を上つて来るのが、底の知れない天井の下を、穴倉から迫上つて来るやうで、ぱつぱつと呼吸を吹く状に、十能の火が真赤な脈を打つた……冷な風が舞込むので。  座敷へ入つて、惜気なく真鍮の火鉢へ打撒けると、横に肱掛窓めいた低い障子が二枚、……其の紙の破から一文字に吹いた風に、又※(火+發)としたのが鮮麗な朱鷺色を染めた、あゝ、秋が深いと、火の気勢も霜に染む。  行燈の灯は薄もみぢ。  小女は尚ほ黒い。  沢は其のまゝにじり寄つて、手を翳して俯向いた。一人旅の姿は悄然とする。  がさ〳〵、がさ〳〵と、近いが行燈の灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、芭蕉の葉を引摺るやうな音がすると、蝙蝠が覗く風情に、人の肩がのそりと出て、 「如何様で、」  とぼやりとした声。 「え?」と沢は振向いて、些と怯えたらしく聞返す、…… 「按摩でな。」  と大分横柄……中に居るものの髯のありなしは、よく其の勘で分ると見える。ものを云ふ顔が、反返るほど仰向いて、沢の目には咽喉ばかり。 「お療治は如何様で。」 「まあ、可ござんした。」  と旅なれぬ少ものは慇懃に云つた。 「はい、お休み。」  と其でも頭を下げたのを見ると、抜群なる大坊主。  で、行燈に伸掛るかと、ぬつくりと起つたが、障子を閉める、と沙汰が無い。  前途に金色の日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、恁る山家は初旅で、旅籠屋へあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく〴〵とものの哀を感じた。         二  沢は薄汚れた、唯それ一個の荷物の、小さな提革鞄を熟と視ながら、蒼い形で、さし俯向いたのである。  爾時、さつと云ひ、さつと鳴り、さら〳〵と響いて、小窓の外を宙を通る……冷い裳の、すら〳〵と木の葉に触つて……高嶺をかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。  吹頻つた秋の風が、夜は姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。  宵には其の声さへ、寂しい中にも可懐しかつた。  さて、今聞くも同じ声。  けれども、深更に聞く秋の声は、夜中にひそ〳〵と門を行く跫音と殆ど斉しい。宵の人通りは、内に居るものに取つて誰かは知らず知己である。が、更けての跫音は、敵かと思ふ隔てがある。分けて恋のない――人を待つ思の絶えた――一人旅の奥山家、枕に音づるゝ風は我を襲はむとする殺気を含む。  処で……沢が此処に寝て居る座敷は――其の家も――宵に宿つた旅籠屋ではない。  あの、小女が来て、それから按摩の顕れたのは、蔵屋と言ふので……今宿つて居る……此方は、鍵屋と云ふ……此の峠に向合つた二軒旅籠の、峰を背後にして、崖の樹立の蔭に埋まつた寂しい家で。前のは背戸がずつと展けて、向うの谷で劃られるが、其の間、僅少ばかりでも畠があつた。  峠には此の二軒の他に、別な納戸も廏も無い、これは昔から然うだと云ふ。 「峠、お泊りでごいせうな。」  麓へ十四五町隔つた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店に憩つた時、裏に鬱金木綿を着けた縞の胴服を、肩衣のやうに着た、白髪の爺の、霜げた耳に輪数珠を掛けたのが、店前に畏つて居て聞いたので。其処の敷ものには熊の皮を拡げて、目の処を二つゑぐり取つたまゝの、而して木の根のくり抜の大火鉢が置いてあつた。  背戸口は、早や充満た山霧で、岫の雲を吐く如く、幹の半ばを其の霧で蔽はれた、三抱四抱の栃の樹が、すく〳〵と並んで居た。  名にし負ふ栃木峠よ! 麓から一日がかり、上るに従ひ、はじめは谷に其の梢、やがては崖に枝組違へ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時路は真暗な夜と成つた。……梢の風は、雨の如く下闇の草の径を、清水が音を立てて蜘蛛手に走る。  前途を遙に、ちら〳〵と燃え行く炎が、煙ならず白い沫を飛ばしたのは、駕籠屋が打振る昼中の松明であつた。  漸と茶店に辿着くと、其の駕籠は軒下に建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布に包まつた病人らしい漢を乗せたが、ゆらりと上つて、すた〳〵行く……  峠越の此の山路や、以前も旧道で、余り道中の無かつた処を、汽車が通じてからは、殆ど廃駅に成つて、猪も狼も又戻つたと言はれる。其の年、烈しい暴風雨があつて、鉄道が不通に成り、新道とても薬研に刻んで崩れたため、旅客は皆こゝを辿つたのであるが、其も当時だけで、又中絶えして、今は最う、後れた雁ばかりが雲を越す思ひで急ぐ。……  上端に客を迎顔の爺様の、トやつた風采は、建場らしくなく、墓所の茶店の趣があつた。 「旅籠はの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。」 「何方へ泊らうね。」 「やあ、」  と皺手を膝へ組んで、俯向いて口をむぐ〳〵さして、 「鍵屋へは一人も泊るものがごいせぬ。何や知らん怪しい事がある言うての。」         三  沢は蔵屋へ泊つた。  が、焼麩と小菜の汁で膳が済むと、最う行燈を片寄せて、小女が、堅い、冷い寝床を取つて了つたので、此からの長夜を、いとゞ侘しい。  座敷は其方此方、人声して、台所には賑かなものの音、炉辺には寂びた笑も時々聞える。  寂しい一室に、ひとり革鞄と睨めくらをした沢は、頻に音訪ふ、颯……颯と云ふ秋風の漫ろ可懐さに、窓を開ける、と冷な峰が額を圧した。向う側の其の深い樹立の中に、小さく穴の蓋を外づしたやうに、あか〳〵と灯影の映すのは、聞及んだ鍵屋であらう、二軒の他は無い峠。  一郭、中が窪んで、石碓を拡げた……右左は一面の霧。さしむかひに、其でも戸の開いた前あたり、何処ともなしに其の色が薄かつた。  で、つと小窓を開くと、其処に袖摺れた秋風は、ふと向うへ遁げて、鍵屋の屋根をさら〳〵と渡る。……颯、颯と鳴る。而して、白い霧はそよとも動かないで、墨色をした峰が揺ぶれた。  夜の樹立の森々としたのは、山颪に、皆……散果てた柳の枝の撓ふやうに見えて、鍵屋の軒を吹くのである。  透かすと……鍵屋の其の寂しい軒下に、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が雫に成るのか、赤いものは艶を帯びて、濡色に立つたのは、紅玉の如き柿の実を売るさうな。 「一つ食べよう。」  迚も寝られぬ……次手に、宿の前だけも歩行いて見よう、―― 「遠くへ行かつせるな、天狗様が居ますぜえ。」  あり合はせた草履を穿いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺には、先刻の按摩の大入道が、やがて自在の中途を頭で、神妙らしく正整と坐つて。……胡坐掻いて駕籠舁も二人居た。  沢は此方の側伝ひ、鍵屋の店を謎を見る心持で差覗きながら、一度素通りに、霧の中を、翌日行く方へ歩行いて見た。  少し行くと橋があつた。  驚いたのは、其の土橋が、危つかしく壊れ壊れに成つて居た事では無い。  渡掛けた橋の下は、深さ千仭の渓河で、畳まり畳まり、犇々と蔽累なつた濃い霧を、深く貫いて、……峰裏の樹立を射る月の光が、真蒼に、一条霧に映つて、底から逆に銀鱗の竜の、一畝り畝つて閃めき上るが如く見えた其の凄さであつた。  流の音は、ぐわうと云ふ。  沢は目のあたり、深山の秘密を感じて、其処から後へ引返した。  帰りは、幹を並べた栃の木の、星を指す偉大なる円柱に似たのを廻り廻つて、山際に添つて、反対の側を鍵屋の前に戻つたのである。 「此の柿を一つ……」 「まあ、お掛けなさいましな。」  框を納涼台のやうにして、端近に、小造りで二十二三の婦が、しつとりと夜露に重さうな縞縮緬の褄を投げつゝ、軒下を這ふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外を視めて居たのを、沢は一目見て悚然とした。月の明い美人であつた。  が、櫛巻の髪に柔かな艶を見せて、背に、ごつ〳〵した矢張り鬱金の裏のついた、古い胴服を着て、身に染む夜寒を凌いで居たが、其の美人の身に着いたれば、宝蔵千年の鎧を取つて投懸けた風情がある。  声も乱れて、 「お代は?」 「私は内のものではないの。でも可うござんす、めしあがれ。」  と爽な、清しいものいひ。         四  沢は、駕籠に乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人を見て、つい聞知らずに居た、此の山には温泉などあつて、それで逗留をして居るのであらう。  と先づ思つた。  処が、聞いて見ると、然うで無い。唯此処の浮世離れがして寂しいのが気に入つたので、何処にも行かないで居るのだと云ふ。  寂しいにも、第一此の家には、旅人の来て宿るものは一人も無い、と茶店で聞いた――泊がさて無いばかりか、眗して見ても、がらんとした古家の中に、其の婦ばかり。一寸鼠も騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。  男たちは、疾から人里へ稼ぎに下りて少時帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの賑かな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵も何も無い。只管人懐かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃皆無だつた旅客が急に立籠んだ時分は固より、今夜なども木の葉の落溜つたやうに方々から吹寄せる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数ばかりでは手が廻りかねる。時とすると、膳、家具、蒲団などまで、此方から持運ぶのだ、と云ふのが、頃刻して美人の話で分つた。 「家も此方が立派ですね。」 「えゝ、暴風雨の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方は裏に峰があつたお庇で、旧のまゝだつて言ひますから……」 「其だに何故客が来ないんでせう。」 「貴下、何もお聞きなさいませんか。」 「はあ。」  沢は実は其段心得て居た、為に口籠つた。 「お化が出ますとさ。」  痩ぎすな顔に、清い目を睜つて、沢を見て微笑んで云つた。 「嘘でせう。」 「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」  はじめは串戯らしかつたが、後は真個誘つた。 「是非、然うなさいまし、お化が出ると云つて……而して婦が一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯だわ。人身御供に出会せば、屹と男が助けると極つたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、然うなさい。」  で、退引きあらせず。 「蔵屋の方は構ひません。一寸、私が行つて断つて来て上げます。」  と気軽に、すつと出る、留南奇の薫が颯と散つた、霧に月射す裳の影は、絵で見るやうな友染である。  沢は笊に並んだ其の柿を鵜呑にしたやうに、ポンと成つた――実は……旅店の注意で、暴風雨で変果てた此の前の山路を、朝がけの旅は、不案内のものに危険であるから、一同のするやうに、路案内を雇へ、と云つた。……成程、途中の覚束なさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる……寝るまでに必ず雇はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙も無かつたのである。 「お荷物は此だけですつてね、然う?……」  と革鞄を袖で抱いて帰つて来たのが、打傾いて優しく聞く。 「恐縮です、恐縮です。」  沢は恐入らずには居られなかつた。鳶の羽には託けても、此の人の両袖に、――恁く、なよなよと、抱取らるべき革鞄ではなかつたから。 「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可いの、貴下、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処は僅少の間ですから、私がお見立て申すわ。逗留してよく知つて居ます。」  と入替りに、軒に立つて、中に居る沢に恁う言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾した。 「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」  と肩を細り……廂はづれに空を仰いで、山の端の月と顔を合せた。 「最う霜が下りるのよ、炉の処で焚火をしませうね。」         五  美女は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而して、沢が其の故郷の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。  沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年崇拝する、都の文学者某君の許へ、宿望の入門が叶つて、其のために急いで上京する次第は、何故か、天機を洩らすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。  蔵屋の門の戸が閉つて、山が月ばかり、真蒼に成つた時、此の鍵屋の母娘が帰つた。例の小女は其の娘で。  二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処へ寝た――丁ど真夜中過ぎである。……  枕を削る山颪は、激しく板戸を挫ぐばかり、髪を蓬に、藍色の面が、斧を取つて襲ふかともの凄い。……心細さは鼠も鳴かぬ。  其処へ、茶を焙じる、夜が明けたやうな薫で、沢は蘇生つた気がしたのである。  けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕ひして、行燈を提げて、便のないほど堂々広い廊下を伝つた。  持つて下りた行燈は階子段の下に差置いた。下の縁の、ずつと奥の一室から、ほのかに灯の影がさしたのである。  邪な心があつて、ために憚られたのではないが、一足づゝ、みし〳〵ぎち〳〵と響く……嵐吹添ふ縁の音は、恁る山家に、おのれ魅と成つて、歯を剥いて、人を威すが如く思はれたので、忍んで密と抜足で渡つた。  傍へ寄るまでもなく、大な其の障子の破目から、立ちながら裡の光景は、衣桁に掛けた羽衣の手に取るばかりによく見える。  ト荒果てたが、書院づくりの、床の傍に、あり〳〵と彩色の残つた絵の袋戸の入つた棚の上に、呀! 壁を突通して紺青の浪あつて月の輝く如き、表紙の揃つた、背皮に黄金の文字を刷した洋綴の書籍が、ぎしりと並んで、燦として蒼き光を放つ。  美人は其の横に、机を控へて、行燈を傍に、背を細く、裳をすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻を肩から羽織つて、両袖を下へ忘れた、双の手を包んだ友染で、清らかな頸から頬杖支いて、繰拡げたペイジを凝と読入つたのが、態度で経文を誦するとは思へぬけれども、神々しく、媚めかしく、然も婀娜めいて見えたのである。 「お客様ですか。」  沢が、声を掛けようとして、思はず行詰つた時、向うから先んじて振向いた。 「私です。」 「お入んなさいましな、待つて居たの。屹と寝られなくつて在らつしやるだらうと思つて、」  障子の破れに、顔が艶麗に口の綻びた時に、さすがに凄かつた。が、寂しいとも、夜半にとも、何とも言訳などするには及ばぬ。 「御勉強でございますか。」  我ながら相応はない事を云つて、火桶の此方へ坐つた時、違棚の背皮の文字が、稲妻の如く沢の瞳を射た、他には何もない、机の上なるも其の中の一冊である。  沢は思はず、跪いて両手を支いた。やがて門生たらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。  時に、見返つた美女の風采は、蓮葉に見えて且つ気高く、 「何うなすつたの。」  沢は仔細を語つたのである……  聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、 「頼母しいのねえ、貴下は……えゝ、知つて居ますとも、多日御一所に居たんですもの。」 「では、あの、奥様。」  と、片手を支きつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。 「まあ、嬉しい!」  と派手な声の、あとが消えて、じり〳〵と身を緊めた、と思ふと、ほろりとした。 「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走しませう……めしあがれ。」  と云ふ。最う晴やかに成つて、差寄せる盆に折敷いた白紙の上に乗つたのは、たとへば親指の尖ばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの…… 「栃の実の餅よ。」  同じものを、来る途の爺が茶店でも売つて居た。が、其の形は宛然違ふ。 「貴下、気味が悪いんでせう……」  と顔を見て又微笑みつゝ、 「真個の事を言ひませうか、私は人間ではないの。」 「えゝ!」 「鸚鵡なの、」 「…………」 「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本の先生を、最う其は……贔屓な夫人があつて、其の方が私を飼つて、口移しに餌を飼つたんです。私は接吻をする鳥でせう。而してね、先生の許へ贈りものになつて、私は行つたんです。  先生は私に口移しが出来ないの……然うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。  私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻をさせるために生れました。而して、遙々東印度から渡つて来たのに……口惜いわね。  其で居て、傍に置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。  雀や燕でないのだもの、鸚鵡が町家の屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠つて、先生の小説ばかり読んで居ます。  貴下、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」  と不思議な美しい其の餅を、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。  で、ぐいと引寄せられた。 「恁うして、さ。」  と、櫛巻の其の水々とあるのを、がつくりと額の消ゆるばかり、仰いで黒目勝な涼い瞳で凝と、凝視めた。白い頬が、滑々と寄つた時、嘴が触れたのであらう、……沢は見る〳〵鼻のあたりから、あの女の乳房を開く、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女の顔を見ながら、甘さ、得も言はれぬ其の餅を含んだ、心消々と成る。山颪に弗と灯が消えた。  と婦の全身、廂を漏る月影に、たら〳〵と人の姿の溶ける風情に、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅に透通るのを覚えたのである。 「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」  東雲の気爽に、送つて来て別れる時、つと高く通しるべの松明を挙げて、前途を示して云つた。其の火は朝露に晃々と、霧を払つて、満山の木の葉に映つた、松明は竜田姫が、恁くて錦を染むる、燃ゆるが如き絵の具であらう。  ……白い鸚鵡を、今も信ずる。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「三越」    1911(明治44)年10月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048397", "作品名": "貴婦人", "作品名読み": "きふじん", "ソート用読み": "きふしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「三越」1911(明治44)年10月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-05-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48397.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷", "底本の親本名1": "泉鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48397_ruby_34594.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48397_35155.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一  汽車は寂しかつた。  わが友なる――園が、自から私に話した――其のお話をするのに、念のため時間表を繰つて見ると、奥州白河に着いたのは夜の十二時二十四分で――  上野を立つたのが六時半である。  五月の上旬……とは言ふが、まだ梅雨には入らない。けれども、ともすると卯の花くだしと称うる長雨の降る頃を、分けて其年は陽気が不順で、毎日じめ〳〵と雨が続いた。然も其の日は、午前の中、爪皮の高足駄、外套、雫の垂る蛇目傘、聞くも濡々としたありさまで、(まだ四十には間があるのに、壮くして世を辞した)香川と云ふ或素封家の婿であつた、此も一人の友人の、谷中天王寺に於ける其の葬を送つたのである。  園は予定のかへられない都合があつた。で、矢張り当日、志した奥州路に旅するのに、一旦引返して、はきものを替へて、洋杖と、唯一つバスケツトを持つて出直したのであるが、俥で行く途中も、袖はしめやかで、上野へ着いた時も、轅棒をトンと下ろされても、あの東京の式台へ低い下駄では出られない。泥濘と言へば、まるで沼で、構内まで、どろ〳〵と流込むで、其処等一面の群集も薄暗く皆雨に悄れて居た。 「出口の方へ着けて見ませう。」 「然う、何うぞ然うしておくれ。」  さてやがて乗込むのに、硝子窓を横目で見ながら、例のぞろ〳〵と押揉むで行くのが、平常ほどは誰も元気がなさゝうで、従つて然まで混雑もしない。列車は、おやと思ふほど何処までも長々と列なつたが、此は後半部が桐生行に当てられたものであつた。  室はがらりと透いて、それでも七八人は乗組んだらう。女気なし、縦にも横にも自由に居られる。  と思ふうちに、最う茶の外套を着たまゝ、ごろりと仰向けに成つた旅客があつた。  汽車は志す人をのせて、陸奥をさして下り行く――早や暮れかゝる日暮里のあたり、森の下闇に、遅桜の散るかと見たのは、夕靄の空が葉に刻まれてちら〳〵と映るのであつた。  田端で停車した時、園は立上つて、其の夕靄にぽつと包まれた、雨の中なる町の方に向つて、一寸会釈した。  更めてくどくは言ふまい。其処には、今日告別式を済ました香川の家がある。と同時に一昨年の冬、衣絵さん、婿君のために若奥様であつた、美しい夫人がはかなくなつて居る……新仏は、夫人の三年目に、おなじ肺結核で死去したのであるが……  園は、実は其の人たちの、まだ結婚しない以前から衣絵さんを知つて居た……と言ふよりも知られて居たと言つて可からう。  園は従兄弟に、幸流の小鼓打がある。其の役者を通じてゞある。が、興行の折の桟敷、又は従兄弟の住居で、顔も合はせれば、ものを言ひ交はす、時々と言ふほどでもないが、ともに田端の家を訪れた事もあつて、人目に着くよりは親しかつた……  親しかつたうへに、お嬢さん……後の香川夫人は、園のつくる歌の愛人であつた。園は其の作家なのである。 「行つて参りますよ。」 と、其処で心で言つた。  汽車が出る。  がた〳〵と揺れるので、よろけながら腰を据ゑた。  恁の如く、がらあきの席であるから、下へも置かず、席に取つた――旅に馴れないしるしには、真新いのが見すぼらしいバスケツトの中に、――お嬢さん衣絵の頃の、彼に(おくりもの)が秘めてある。 二  今は紀念と成つた。  友染の切に、白羽二重の裏をかさねて、紫の紐で口を縷つた、衣絵さんが手縫の服紗袋に包んで、園に贈つた、白く輝く小鍋である。  彼は銀の鼎と言ふ……  組込の三脚に乗る錫の鑵に、結晶した酒精の詰まつたのが添つて、此は普通汽車中で湯を沸かす器である。  道中――旅行の憂慮は、むかしから水がはりだと言ふ。……それを、人が聞くと可笑いほど気にするのであるから、行先々の停車場で売る、お茶は沸いて居る、と言つても安心しない。要心を通越した臆病な処へ、渇くのは空腹にまさる切なさで、一つは其がためにもつい出億劫がるのが癖で。 「……はる〴〵奥の細道とさへ言ふ。奥州路などは分けて水が悪いに違ひない。ものを較べるのは恐縮だけれど、むかし西行でも芭蕉でも、皆彼処では腹を疼めた――惟ふに、小児の時から武者絵では誰もお馴染の、八幡太郎義家が、龍頭の兜、緋縅の鎧で、奥州合戦の時、弓杖で炎天の火を吐く巌を裂いて、玉なす清水をほとばしらせて、渇に喘ぐ一軍を救つたと言ふのは、蓋し名将の事だから、今の所謂軍事衛生を心得て、悪水を禁じた反対の意味に相違ない。」 と、今度の旅の前にも……私たちに真面目で言つた。  何を、馬鹿な。  と平生から嘲るものは嘲るが、心優しい衣絵さんは、それでも気の毒がつて、存分に沸かして飲むやうにと言つた厚情なのであつた。  機会もなくつて、それから久しぶりの旅に、はじめてバスケツトに納めたのである。 「さあ、来い、川も濁れ、水も淀め。」 と何か、美い魔法で、水を澄ませて従へさへ出来さうに、銀鍋の何となくバスケツトの裡に透く光を、友染のつゝみにうけて、袖に月影を映すかと思ふ、それも、思へばしめやかであつた。  窓の外は雨が降る、降る。  雪駄、傘、下駄、足駄。  幸手、栗橋、古河、間々田……の昔の語呂合を思ひ出す。 武左な客には芸しやがこまる。 芝の浦にも名所がござる。 ゐなか侍茶店にあぐら。 死なざやむまい三味線枕。 「鰻の丼は売切です。」 「ぢやあ弁当だ」  小山は夜で暗かつた。  嘗て衣絵さんが、婿君とこゝを通つて、鰻を試みたと言ふのを聞いて居たので、園は、自分好きではないが、御飯だけもと思つたのに、最う其は売切れた…… 「そら行け。」  どんと後で突く、 「がつたん〳〵。」 と挨拶する。こゝで列車が半分づゝに胴中から分れたのである。  又づしんと響いた。  乗つて来るものは一人もなし、下りた客も居なかつたが、園は急に又寂い気がした。  行先は尚ほ暗い。  開くでもなしに、弁当を熟々視ると、彼処の、あの上包に描いた、ばら〳〵蘆に澪標、小舟の舳にかんてらを灯して、頬被したお爺の漁る状を、ぼやりと一絵具淡く刷いて描いたのが、其のまゝ窓の外の景色に見える。  雨は小留もない。  た※(濁点付き二の字点)渺々として果もない暗夜の裡に、雨水の薄白いのが、鰻の腹のやうに畝つて、淀んだ静な波が、どろ〳〵と来て線路を浸して居さうにさへ思はれる。  ほたり〳〵と落ちて、ずるりと硝子窓に流るゝ雫は、鰌の覗く気勢である。 三  バスケツトを引揚げて、底へ一寸手を当てゝ見た。雨気が浸通つて、友染が濡れもしさうだつたからである。  そんな事は決してない。  が、小人数とは言へ、他に人がなかつたら、此の友染の袖をのせて、唯二人で真暗の水に漾ふ思がしたらう。  宇都宮へ着いてさへ、船に乗つた心地がした。  改札口には、雨に灰色した薄ぼやけた旅客の形が、もや〳〵と押重つたかと思ふと、宿引の手手の提灯に黒く成つて、停車場前の広場に乱れて、筋を流す灯の中へ、しよぼ〳〵と皆消えて行く。……其の中で、山高が突立ち、背広が肩を張つたのは、皆同室の客。で、こゝで園と最う一人――上野を出ると其れ切寝たまゝの茶の外套氏ばかりを残して、尽く下車したのである。  まことに寂い汽車であつた。  やがて大那須野の原の暗を、沈々として深く且つ大な穴へ沈むが如く過ぎて行く。  野川で鰌を突くのであらう。何処かで、かんてらの火が一つ、ぽつと小さく赤かつた。火は水に影を重ねたが、八重撫子の風情はない。……一つ家の鬼が通るらしい。  黒磯――  左斜の其の茶の外套氏の鼾にも黒気が立つた。  燈も暗い。  野も山も、此の果しなき雨夜の中へ、ふと窓を開けて、此の銀の鍋を翳したら、きらりと半輪の月と成つて二三尺照らすであらう。……実際、ふと那様な気がしたのであつた。が、其は衣絵さんが生きて居て、翳すのに、其の袖口がほんのり燃えて、白い手の艶が添はねば不可い……  自分が遣ると狐の尻尾だ。  と独で苦笑する。其のうちに、何故か、バスケツトを開けて、鍋を出して、窓へ衝と照らして見たくてならない。指さきがむづ痒い。  こんな時は魔が唆かして、狂人じみた業をさせて、此を奪はうとするのかも知れぬ。  園は悚然として、道祖神を心に念じた。  真個、この暫時の間は稀有であつた。  郡山まで行くと……宵がへりがして、汽車もパツと明く成つた。思見る、磐梯山の煙は、雲を染めて、暗は尚ほ蓬々しけれど、大なる猪苗代の湖に映つて、遠く若松の都が窺はれて、其の底に、東山温泉の媚いた窓々の燈の紅を流すのが遥々と覗かれる。  園が曾遊の地であつた。  バスケツトの中も何となく賑かである。  と次第に遠い里へ、祭礼に誘はれるやうな気がして、少しうと〳〵として、二本松と聞いては、其処の並木を、飛脚が通つて居さうな夢心地に成つた。  茶の外套氏が大欠伸をして起きた。口髯も茶色をした、日に焼けた人物で、ズボンを踏み開けて、どつかと居直つて、 「あゝゝ、寝たぞ。」 と又欠伸をして、 「何の辺まで来たかなあ。」  殆ど独言だつたが、しかし言掛けられたやうでもあるから、 「失礼――今しがた二本松を越したやうです。」 と園が言つた。 「や、それは又馬鹿に早いですな。」 と驚いた顔をして、ちよつきをがつくりと前屈みに、肱を蟹の手に鯱子張らせて、金時計を撓めながら、 「……十一時十五分。」 と鼻筋をしかめて、園を真正面に見て耳に当てた。 「留つては居らんなあ。はてなあ、此の汽車は十二時二十四分に、漸く白河へ着きをるですがな。」 と硝子に吸着いたやうに窓を覗く。  園も、一驚を吃して時計を見た。針は相違なく十一時の其処をさして、汽車の馳せつゝあるまゝにセコンドを刻むで居る。  バスケツトを圧へて、吻と息して、 「何うも済みません、少し、うと〳〵しましたつけ。うつかり夢でも視たやうで、――郡山までは一度行つた事があるものですから……」  園も窓を覗きながら、 「しかし、何うも済みません、第一見た事もありませんのに、奥州二本松と云ふのは、昔話や何かで耳について居たものですから、夢現に最う其処を通つたやうに思つたんです。」  燈が白く、ちら〳〵と窓を流れた。 「白坂だ、白坂だ。」 と茶の外套氏が言つた。……向直つて口を開けたが、笑ひもしないで落着いた顔して、 「此の汽車は、豊原と此処を抜くですで……今度が漸く白河です。」 「何うもお恥かしい……狐に魅まれましたやうです。」 「いや、汽車の中は大丈夫――所謂白河夜船ですな。」 園は俯向いたが、 「――何方まで。」 「はあ、北海道へは始終往復をするですが、今度は樺太まで行くですて。」 「それは、何うも御遠方……」  彼の持ふるした鞄を見よ。手摺の靄が一面に、浸の形が樺太の図に浮ぶ。汽車は白河へ着いたのであつた。 四 「牛乳、牛乳――牛乳はないのか。――夜中に成ると無精をしをるな。」  茶の外套氏は、ぽく〳〵と立つて、ガタンと扉を開いて出た。  窓を開けると、氷を目に注ぐばかり、颯と雨が冷い。恰も墨を敷いたやうなプラツトホームは、ざあ〳〵と、さながら水が流れるやうで、がく〳〵こう〳〵と鳴く蛙の声が、町も、山も、田も一斉に波打つ如く、夜ふけの暗中に鳴拡がる。声は雲まで敷くやうであつた。  ト、すぐ裏に田が見えて、雨脚も其処へ、どう〳〵と強く落ちて、濁つた水がほの白い。停車場の一方の端を取つて、構内の出はづれの処に、火の番小屋をからくりで見せるやうな硝子窓の小店があつて、ふう〳〵白い湯気が其の窓へ吹出しては、燈に淡く濃く、ぼた〳〵と軒を打つ雨の雫に打たれては又消える。と湯気の中に、ビール、正宗の瓶の、棚に直と並んだのが、むら〳〵と見えたり、消えたりする。……横手の油障子に、御酒、蕎麦、饂飩と読まれた……  若い駅員が二人、真黒な形で、店前に立つたのが、見え隠れする湯気を嬲るやうに、湯気がまた調戯ふやうに、二人互違ひに、覗込むだり、胸を衝と開いたり、顔を背けたり、頤を突出したりすると、それ、湯気は立つたり伏つたり、釦に掛つたり、耳を巻いたり、鼻を吹いたりする。……其の毎に、銀杏返の黒い頭が、縦横に激しく振れて、まん円い顔のふら〳〵と忙しく廻るのが、大な影法師に成つて、障子に映る……  で、駅は唯水の中のやうである。雨は冷く流れて降りしきる。  駅員の一人は、帽子とゝもに、黒い頸窪ばかりだが、向ふに居て、此方に横顔を見せた方は、衣兜に両手を入れたなり、目を細め、口を開けた、声はしないで、あゝ、笑つてると思ふのが、もの静かで、且つ沁々寂しい。  其の一人が、高足を打つて、踏んで、澄してプラツトホームを横状に歩行出すと、いま笑つたのが掻込むやうに胸へ丼を取つた。湯気がふつと分れて、饂飩がする〳〵と箸で伸びる。  其の肩越に、田のへりを、雪が装上るやうに、且つ雫さへしと〳〵と……此の時判然と見えたのは、咲きむらがつた真白な卯の花である。  雨に誘はれて影も白し、蛙は其の饂鈍食ふ駅員の靴の下にも鳴く。  声が、声が 「かあ、かあ、 白あ河あ。 かあ、かあ、 買へ、かへ、 うどん買へ、買へ。 しらあ、河あ。」と鳴く。  あゝ風情とも、甘味さうとも――園は乗出して、銀杏返の影法師の一寸静つたのを呼ばうとした。  順礼がとぼ〳〵と一人出た。  薄い髪の、かじかんだお盥結びで、襟へ手拭を巻いて居る、……汚い笈摺ばかりを背にして、白木綿の脚絆、褄端折して、草鞋穿なのが、ずつと身を退いて、トあとびしやりをした駅員のあとへ、しよんぼりと立つて、饂飩へ顔を突込むだ。――青膨れの、額の抜上つたのを視ると、南無三宝、眉毛がない、……はまだ仔細ない。が、小鼻の両傍から頤へかけて、口のまはりを、ぐしやりと輪取つて、瘡だか、火傷だか、赤爛れにべつたりと爛れて居た。  其の口へ、――忽ちがつちりと音のするまで、丼を当てると、舌なめずりをした前歯が、穴に抜けて、上下おはぐろの兀まだら。……  湯気を揺つて、肩も手もぶる〳〵と震へて掻食ふ。 「あ。」  あゝ、あの丼は可恐しい。  無論こんな事は、めつたにあるまい。それに、げつそりするまで腹も空く。  白河の雨の夜ふけに、鳴立つて蛙が売る、卯の花の影を添へた、うまさうな饂飩は何うもやめられない。 「洗つてさへくれゝば可いのだが、さし当り……然うだ、此方の容器を持つて買はう。」  其処で、バスケツトを開けた。  中に咲いたやうな……藤紫に、浅黄と群青で、小菊、撫子を優しく染めた友染の袋を解いて、銀の鍋を、園はきら〳〵と取つて出た。  出ると、横ざまに颯と風が添つた。  成るたけ順礼を遠くよけて、――最う人気配に後へ振向けた、銀杏返の影法師について、横障子を裏へ廻つた。店は裏へ行抜けである。  外套は脱いで居た――背中へ、雨も、卯の花も、はら〳〵とかゝつた。  たゝきへ白く散つて居る。 「饂飩を一つ。」 と出しながら、ふと猶予つたのは、手が一つ、自分の他に、柔かく持添へて居るやうだつたからである。――否、其の人の袖のしのばるゝ友染の袋さへ、汽車の中に預けて来たのに―― 「此へおくれ。」  銀杏返は赤ら顔で、白粉を濃くして居た。  駅員は最う見えなかつた。其の順礼のお盥髪さへ、此方に背き、早やうしろを見せて、びしや〳〵と行く処を――(見なくとも可いのに)気にすると、恰も油さしがうつ伏せに鉄の底を覗く、かんてらの火の上へ、ぼやりと影を沈めて、大な鼠のやうに乗つて消えた。  駅員が黒く、すら〳〵と、雨の雫の彼方此方。 五  他には数うるほどの乗客もなさゝうな、余り寂しさに、――夏の夜の我家を戸外から覗くやうに――恁う上下を見渡すと、可なりの寄席ほどにむら〳〵と込む室も、さあ、二つぐらゐはあつたらう。……  園の隣なる車は、づゝと長く通つた青い室で、人数は其処も少ない。が、しかし二十人ぐらゐは乗つて居た。……但し其も、廻燈籠の燈が消えて、雨に破れて、寂然と静まつた影に過ぎない。  左右を見定めて、鍋を片手に乗らうとすると、青森行――二等室と、例の青に白く抜いた札の他に、踏壇に附着いたわきに、一枚思懸けない真新い木札が掛つて居る…… 臨時運転特別車 但し試用一回限り。 「おや〳〵……」  園は一寸猶予つた。  成程、空きに空いた上にも、寝起にこんな自由なのは珍らしいと思つた。席を片側へ十五ぐらゐ一杯に劃つた、たゞ両側に成つて居て、居ながらだと楽々と肘が掛けられる。脇息と言ふ態がある。シイトの薄萠黄の――最も古ぼけては居たが――天鵝絨の劃を、コチンと窓へ上げると、紳士の作法にありなしは別問題だが、いゝ頃合の枕に成る。 「まてよ……」  衣絵さんが此辺を旅行した時の車と言ふのを、話の次手に聞いたのが――寸分違はぬ的切此だ…… 「待てよ。」  無論、婿がねと一所で、其は一等室はあつたかも知れない。が、乗心の模様も、色合も、いま見て思ふのと全く同じである。 「――臨時運転特別車。但し試用――一回限り……」 と二行に最一度読みながら、つひ、銀の鍋を片袖で覆ふて入つた。  饂飩を庇つたのではない。  唯、席に着くと、袖から散つたか、あの枝からこぼれたか、鍋の蓋に、颯と卯の花が掛つて居て、華奢な細い蕋が、下のぬくもりに、恁う、雪が溶けるやうな薄い息を戦がせる。  其の雪より白く、透通る胸に、すや〳〵と息を引いた、肺を病むだ美女の臨終の状が、歴々と、あはれ、苦しいむなさきの、襟の乱れたのさへ偲ばるゝではないか。  はつと下に置くと、はづみで白い花片は、ぱらりと、藤色の地の友染にこぼれたが、こぼれた上へ、園は尚ほ密と手を当てゝ蓋を傾けた。  蓋のほの暖いのに、ひやりとした。  火に掛けて煮ようとする鍋の上へ、少くとも其の花片は置けなかつたからである。  気が着くと、茶の外套氏は形もない。ドキリとした。  が、例の大鞄が、其のまゝ網棚にふん反返つて、下に皺びた空気枕が仰向いたのに、牛乳の壜が白い首で寄添つて、何と……、添寝をしようかとする形で居る。  徳利が化けた遊女と云ふ容子だが、其の窓へ、紅を刷いたら、恐らく露西亜の辻占であらう。  では、汽車の中に一人踞つて、真夜中の雨の下に、鍋で饂飩を煮る形は何だ? ……  説明も形容も何もない――燐寸を摺ると否や、アルコールに火をつけるのであるから、言句もない。……発と朱が底へ漲ると、銀を蔽ふて、三脚の火が七つに分れて、青く、忽ち、薄紫に、藍を投げて軽く煽つた。  ドカリ――洗面所の方なる、扉へ立つた、茶色な顔が、ひよいと立留つてぐいと見込むと、茶の外套で恁う、肩を斜に寄つたと思ふと、……件の牛乳の壜を引攫ふが早いか――声を掛ける間も何もなかつた――茶革の靴で、どか〳〵と降りて行く。  跫音乱れて、スツ〳〵と擦れつゝ、響きつゝ、駅員の驚破事ありげな顔が二つ、帽子の堅い廂を籠めて、園の居る窓をむづかしく覗込むだ。  其の二人が苦笑した。  顔が両方へ、背中合せに分れたと思ふと、笛が鳴つた。  園は惘然とした。 「あゝ、分つた。」  狐が馬にも乗らないで、那須野ヶ原を二本松へ飛抜けた怪しいのが、車内で焼酎火を燃すのである。  此が、少なからず茶の外套氏を驚かして、渠をして駅員に急を告げしめたものに相違ない。  と思ひながら、四辺を見た。  眴したが誰も居ない。 「あゝ……心細いなあ――」  が、その中はまだよかつた、……汽車は夜とともに更けて行き、夜は汽車とゝもに沈むのに、少時すると、また洗面所の扉から、ひよいと顔を出して覗いた列車ボーイが、やがて、すた〳〵と入つて来ると、棚を視め、席を窺ひ、大鞄と、空気枕を、手際よく取つて担いで、アルコールの青い火を、靴で半輪に廻つて、出て行くとて―― 「御病気ですか。」  園は大真面目で、 「いゝえ。」 「はあ。」 と首をねぢつて、腰をふりつゝ去つた。  此でまた、汽車半分、否、室一つ我ばかりを残して、樺太まで引攫はれるやうな気がしたのである。 「狂人だと思ふんだ。」  げそりと、胸をけづられたやうに思つた。 「勝手にしろ。」  自棄に投げる足も、しかし、すぼまつて、園は寒いよりも悚気とした。  しかしながら……此を見れば気も狂はう。死んだやうな夜気のなかに、凝つて、ひとり活きて、卯の花をかけた友染は、被衣をもるゝ袖に似て、ひら〳〵と青く、其の紫に、芍薬か、牡丹か、包まれた銀の鍋も、チチと沸くのが氷の裂けるやうに響いて、ふきこぼるゝ泡は卯の花を乱した。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店    2004(平成16)年4月23日第1刷発行 底本の親本:「新柳集」春陽堂    1922(大正11)年1月1日 初出:「国本 第一巻第七号」国本社    1921(大正10)年7月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「銀鼎《ぎんかなえ》」となっています。 ※初出時の署名は「泉鏡花」です。 ※「銀杏返」に対するルビの「いてふがへし」と「ゐてふがへし」と「ゐてうがへし」の混在は、底本通りです。 ※「硝子窓」に対するルビの「ガラスまど」と「がらすまど」の混在は、底本通りです。 ※「襟」に対するルビの「えり」と「ゑり」の混在は、底本通りです。 ※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。 ※「帽子」に対するルビの「ぼうし」と「ばうし」の混在は、底本通りです。 ※「灯《ひ》」と「燈《ひ》」の混在は、底本通りです。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年9月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057486", "作品名": "銀鼎", "作品名読み": "ぎんかなえ", "ソート用読み": "きんかなえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「国本 第一巻第七号」国本社、1921(大正10)年7月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57486.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "底本の親本名1": "新柳集", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1922(大正11)年1月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57486_ruby_59584.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57486_59626.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
上 広告 一 拙者昨夕散歩の際此辺一町以内の草の中に金時計一個遺失致し候間御拾取の上御届け下され候御方へは御礼として金百円呈上可仕候 月  日               あーさー、へいげん  これ相州西鎌倉長谷村の片辺に壮麗なる西洋館の門前に、今朝より建てる広告標なり。時は三伏盛夏の候、聚り読む者堵のごとし。  へいげんというは東京……学校の御雇講師にて、富豪をもって聞ゆる――西洋人なるが、毎年この別荘に暑を避くるを常とせり。  館内には横浜風を粧う日本の美婦人あり。蓋し神州の臣民にして情を醜虜に鬻ぐもの、俗に洋妾と称うるはこれなり。道を行くに愧る色無く、人に遭えば、傲然として意気頗る昂る。昨夕へいげんと両々手を携えて門前を逍遥し、家に帰りて後、始めて秘蔵せし瑞西製の金時計を遺失せしを識りぬ。警察に訴えて捜索を請わんか、可はすなわち可なり。しかれども懸賞して細民を賑わすにしかずと、一片の慈悲心に因りて事ここに及べるなり、と飯炊に雇われたる束髪の老婦人、人に向いて喋々その顛末を説けり。  渠は曰く、「だから西洋人は難有いよ。」  懸賞金百円の沙汰即日四方に喧伝して、土地の男女老若を問わず、我先にこの財を獲んと競い起ち、手に手に鎌を取りて、へいげん門外の雑草を刈り始めぬ。  まことや金一百円、一銭銅貨一万枚は、これ等の細民が三四年間粒々辛苦の所得なるを、万一咄嗟にこの大金を獲ば、蓋し異数の僥倖にして、坐して半生を暮し得べし。誰か手を懐にして傍観せんや。  翌日はとみに十人を加え、その翌日、またその翌日、次第に人を増して、遂に百をもって数うるに到れり。渠等が炎熱を冒して、流汗面に被り、気息奄々として労役せる頃、高楼の窓半ば開きて、へいげん帷を掲げて白皙の面を露し、微笑を含みて見物せり。  かくて日を重ねて、一町四方の雑草は悉く刈り尽し、赤土露出すれども、金時計は影もあらず。  草刈等はなお倦まず、怠らず、撓まず、ここかしこと索れども、金属は釘の折、鉄葉の片もあらざりき。  一家を挙げ、親族を尽し、腰弁当を提げて、早朝より晩夜まで、幾日間炎天に脳汁を煮られて、徒汗を掻きたる輩は、血眼になりぬ。失望してほとんど狂せんとせり。  されど毫も疑わざりき。渠等はへいげん君の富かつ貴きを信ずればなり。  渠等が労役の最後の日、天油然と驟雨を下して、万石の汗血を洗い去りぬ。蒸し暑き雑草地を払いて雨ようやく晴れたり。土は一種の掬すべき香を吐きて、緑葉の雫滴々、海風日没を吹きて涼気秋のごとし。  へいげんこの夕また愛妾を携えて門前に出でぬ。出でて快げに新開地を歩み行けば、松の木蔭に雨宿りして、唯濡れに濡れたる一個の貧翁あり。  多くの草刈夥間は驟雨に狼狽して、蟻のごとく走り去りしに、渠一人老体の疲労劇しく、足蹌踉いて避け得ざりしなり。竜動の月と日本のあだ花と、相並びて我面前に来れるを見て、老夫は慌しく跪き、 「御時計は、はあ、どこにもござりましねえ。」  幾多の艱難の無功に属したるを追想して、老夫は漫に涙ぐみぬ。  美人は流眄にかけて、 「ほんとに御苦労だったねえ。」と冷かに笑う。  へいげんは哄然大笑して、 「日本人の馬鹿!」  と謂い棄てつ、おもむろに歩を移して浜辺に到れば、一碧千里烟帆山に映じて縹渺画のごとし。  へいげん美人の肩を拊ちて、 「人間は馬鹿な国だが、景色の好いのは不思議さ。」  と英語をもって囁きたり。  洋妾はへいげんの腕に縋りつつ、 「旦那もう帰ろうじゃございませんか。薄暗くなりましたから。」 「うむ、そろそろ帰ろうか。あの門外の鬱陶しい草には弱ったが、今ではさっぱりして好い心持だ。」 「ですけれども、あの人足輩はどんな気持でしょうね。」 「やっぱり時計が見着からないのだと想って、落胆しているだろうさ。」 「貴下はほんとに智慧者でいらっしゃるよ。百人足らずの人足を、無銭で役ってさ。」 「腰弁当でやって来るには感心したよ。」 「ほんとにねえ。あのまあ蛇のいそうな草原を綺麗に挘らして、高見で見物なんざ太閤様も跣足ですよ。」 「そうかの。いや、そうあろう。実は自分ながら感心した。」  と揚々として頤髯掻い撫ずれば、美人はひたすら媚を献じ、 「ねえ貴下、私はなんの因果で弱小な土地に生れたんでしょう。もうもうほんとに愛想が尽きたんですよ。」  へいげんは頷きて、 「そうありたい事だ。こういっちゃ卿の前だが、実に日本人は馬鹿さな。しかしあんまり不便だ。せめて一件の金時計を蔭ながら拝ましてやろうか。」  と衣兜を探りて、金光燦燗たる時計を出だし、恭しく隻手に捧げて遥に新開地に向い、陋み嘲けるごとき音調にて、 「そらこれだ、これだ。」  途端に絶叫の声あり、 「あれえ!」  と見れば美人は仰様に転び、緑髪は砂に塗れて白き踵は天に朝せり。  太く喫驚せるへいげんは更に驚きぬ、手中の金時計はすでに亡し。 中 「おい大助。」  卒然従者を顧みて立住まれる少年は、へいげん等を去ること数十歩ばかり後の方にありて、浪打際を散歩せるなり。父は小坪に柴門を閉じ、城市の喧塵を避けて、多日浩然の気を養う何某とかやいえる子爵なり。その児三郎年紀十七、才名同族を圧して、後来多望の麟麟児なり。  随う壮佼は南海の健児栗山大助。 「若様何でございます。」 「我が謂った通り、金時計は虚言だ。」  その声すでに怒を帯びたり。 「どうしてお解りになりました。」 「今二人で饒舌ってたろう。」 「私には解りませんが、しきりに饒舌っておりましたな。」 「うむ、解るまいと思って人の聞くのも憚からず、英語ですっかり白状した。つまり百円を餌にして皆を釣ったのだ。遺失たもないものだ、時計は現在持っている。汝も我の謂うことを肯かんで草刈をやろうものなら、やっぱり日本人の馬鹿になるのだ。」  血気勃々たる大助は、かくと聞くより扼腕して突立つ時、擦違う者あり、横合よりはたと少年に抵触る。啊呀という間に遁げて一間ばかり隔りぬ。 「掏摸だ!」  三郎が声と共に大助は身を躍らして、むずと曲者の頸髪執って曳僵し、微塵になれと頭上を乱打す。 「手暴くするな。」  と少年は大助を制して、更に極めて温和なる調子にて、 「おい盗ったろう。」  掏摸は陳じ得ず、低頭して罪を謝し、抜取りたる懐中物を恐る恐る捧げて踞まりつ、 「どうぞお見逃しを願います。」  少年は打笑いつつ、 「何、突出しやせん。汝はなかなか熟練たものだ。」 「飛んだことをおっしゃいます。」 「いやその手腕を見込んで、ちっと依頼があるのだ。」  大助は愕然として若様の面を瞻りぬ。 「この懐中物もやろう。もっと欲くばもっと遣ろう。依嘱というのは、そらあすこへ行く、あの、な、」  とへいげんを指して、 「彼奴の持っている時計を掏ってくれんか。」  その意を得ざる掏摸は、ただへいへいと応うるのみ。  大助は驚きて、 「ええ、若様滅相な。」 「いや少し了簡があるのだ。」  拘摸は事も無げに頷きて、 「じゃあの金時計ですね。」 「汝知ってるのか。」 「そりゃちゃんと睨んであります。あんな品は盗っても、売るのに六ヶしいから見逃がして置くものの、盗ろうと思やお茶の子でさあ。」 「いや太々しい野郎だなあ。」  と大助は呆然たり。 「汝も聞いたろう、あの長谷の草刈騒動を。」 「知ってる段ですか。」  三郎は告ぐるに実をもってすれば、 「へえあの毛唐が!」  と掏摸だになお憤慨の色を表わせり。 「若様此奴は離すと、直に逃げてしまいますよ。」 「こう、情無いことを謂いなさんな。私ゃこんなものでもね、日本が大の贔屓さ。何の赤髯、糞でも喰えだ。ええその金時計は直に強奪って持って来やす。」  かかりし後、へいげんはその簪の花を汚され、あまつさえ掌中の珠を奪われたるなり。 下  三郎は掏摸の奪いたりし金時計を懐にしつ、健児大助を従えて、その夕月下にへいげんの門を敲きぬ。  誰何せる門衛に、我は小坪の某なり、約束の時計を得たれば、あえて主公に呈らせんと来意を告げ、応接室に入るに際して、執事は大助を見て三郎に向い、 「時計を御拾得の方は貴下ですな。この方は何用でいらっしゃいました。」  三郎いまだ答えざるに、大助は破鐘声を揚げて、 「俺あ下男だ。若様の随伴をして来たのだ。」 「そんなら供待でお控えなさい。」  と叱するごとく窘めたり。大助は団栗眼を睜きて、 「汝達の指図は承けねえ。さあ若様御一所に入りましょう。」  執事はこれを遮りて、 「いいえなりません。応接室へは、用事のある客の外は、一切他人を入れませんのが、当家の家風でございます。」  へいげんは金時計を失いて、たちまち散策の興覚め、すごすご家に帰りて、燈下に愛妾と額を鳩めつつ、その失策を悔い且つ悲しみ、怏々として楽まざりし。しかるに突然珍客ありて、告ぐるに金時計を還さん事をもってせり。へいげんは快然愁眉を開きしが、省みれは衷に疚しきところ無きにあらず。もし彼にして懸賞金百円を請求せんか。我にあらかじめ約あれば駟も及ばず、今はたこれをいかんせむ。  身を一室に潜めて、まずその来客を窺えば、料らざりき紅顔の可憐児、二十歳に満たざる美少ならんとは。這奴、小冠者何程の事あらん。さはあれ従者に勇士の相あり。手足皆鉄、腕力想うべしと、へいげん漫に舌を捲き、すなわち執事をして大助を遠ざけしめむとしたるなり。  大助は敵の我を忌むを識りて、小主公の安否心許なく、なお推返して言わんとするを、三郎は遮りて、 「宜しい彼室で待ってな。」 「だって若様。」 「可いよ。」  と眼もて語れば、大助は強うるを得ず、 「ええ、どこで待つのだ。案内しろ。」 「静にせんか、何という物言いだ。」  と三郎は警めぬ。  執事は大助を彼方の一室へ案内し、はたと閉ざして立去りける跡に、大助は多時無事に苦みつ、どうどうとしこを踏みて四壁を動かし、獅子のごとき力声を発して、満腔の鋭気を洩しながら、なお徒然に堪えざりけり。  応接室にては三郎へいげんと卓子を隔てて相対し、談判今や正に闌なり。洋妾も傍に侍したり。渠は得々としてへいげんの英語を通弁す。  この時三郎を軽んずるごとく、 「一体貴下は何御用でお出でなすったのです。拾った物なら素直に返して、さっさとお帰りなすったら可いじゃございませんか。」 「お黙んなさい。時計と交換にお礼の百円を戴きに来ました。」 「品物を拾って、それを返すのに礼金を与れと、そちらからおっしゃる法はございますまい。」 「いえ、普通拾って徳義上御返し申すのなら、下さるたって戴きません。しかし今度のは――こう謂っちゃ陋しい様ですが――礼金が欲しさに働きましたので、表面はともかく、謂わば貴下に雇われたも同でございます。それに承れば、何か貧乏人を賑わすという様な、難有い思召から出た事だと申しますが。」  と弁舌流るるごとく、滔々として論じ来るに、へいげん等はこは案外とおもえる様にて、 「それじゃ御持参の時計を拝見いたしましょう。」 「これです。」と懐より時計を出だして指示せば、 「どれどれ。」と取らんとするをさはさせず、三郎は莞爾として、 「違えば他に遺失人を探します。貴下のなら百円下さいまし。」  彼方もさる者詭弁を構えて、 「あれとは違いますが、やっぱり私の時計で、それは先刻掏摸に盗られた品だが。怪しからん、どこでお拾いなすった。」と暴らかに詰れば、三郎少しも騒がず、 「そんなら掏摸が遺失たのでしょう。何しろ私は御門外の一町以内で拾って来ました。」  へいげんは大喝して、 「小僧、汝は掏摸だ。」 「そういう者が騙拐だ。」 「何を。」と眼を瞋して、はたと卓子を打てば、三郎は自若として、 「ちと仔細があって、貴下が人は知るまいと思っている事を、私はよく知っております。文明国の御方にも似合わない、名誉ということを御存じがありませんか。私はむしろ貴下の御為を思って計らうのですが、どうでございます。」  と朱唇大に気焔を吐けば、秘密のすでに露れたるに心着きて、一身の信用地に委せむことを恐るれども、守銭奴は意を決するあたわず。辞窮して、 「蒸暑い晩だ。」  とへいげんは窓に立寄りて海を望み、たちまち愕然として退りぬ。 「へいげん殺せッ。」  と叫ぶものあり。続いて起る吶喊の声。  月は中天にありて一条の金蛇波上に馳する処、ただ見る十数艘の漁船あり。篝を焚き、舷を鳴して、眼下近く漕ぎ寄せたり。こはこの風説早くも聞えて、赤髯奴の譎計に憤激せる草刈夥間が、三郎の吉左右を待つ間、示威運動を行うなり。大助これを見て地蹈韛を踏みて狂喜し、欄干に片足懸けて半身を乗出だしつ。 「も一番やれ!」  と大音声に呼ばわれば、舟なる壮佼声を揃えて、 「へいげん殺せ。」と絶叫す。  洋妾は耳を蔽いて卓子に俯し、へいげんは椅子に凭りて戦きぬ。  三郎は欣然として、 「日本人の馬鹿が、誑された口惜さに貴方を殺すという騒動です。はッはッ馬鹿な奴等だ。」  へいげんは色を失して、 「私、私、何を欺きました。」 「浜で御自分がおっしゃった言をお忘れですか。」  へいげんはあるいは呆れ、あるいは愕き、瞬もせで三郎の顔を瞻りたりしが、やや有りて首を低れて、 「決して欺きません、証拠がございまする。」  顔色土のごとく恐怖せる洋妾を励まして、直ちに齎らしめたる金貨百円を、三郎の前に差出せば、三郎は員を検してこれを納め、時計を返附して応接室を立出で、待構えたる従者を呼べば、声に応じて大助猛然と顕れたり。  三郎は笑ましげに、 「これをみんなに分けてやれ。」  大助は金貨を捧げて、高く示威運動艦隊に示しつつ、 「衆見ろ、髯から取ったこの百円を、若様が大勢に分けてやるとおっしゃる。」  その声いまだ訖らざるに、どっと興る歓呼の声は天に轟き、狂喜の舞は浪を揚げて、船も覆らむずばかりなりし。 明治二十六年(一八九三)六月
底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年8月22日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店    1942(昭和17)年7月30日第1刷発行 初出:「侠黒兒」少年文學、博文館    1893(明治26)年6月28日 ※初出は尾崎紅葉「侠黒兒」の附録です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:清角克由 2014年8月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050105", "作品名": "金時計", "作品名読み": "きんどけい", "ソート用読み": "きんとけい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「侠黒兒」少年文學、博文館、1893(明治26)年6月28日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-09-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50105.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成1", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年8月22日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年8月22日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年8月22日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第一卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年7月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "清角克由", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50105_ruby_54181.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-08-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50105_54220.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-08-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 會の名は――會費が九圓九十九錢なるに起因する。震災後、多年中絶して居たのが、頃日區劃整理に及ばず、工事なしに復興した。時に繰返すやうだけれども、十圓に對し剩錢一錢なるが故に、九圓九十九錢は分つたが、また何だつて、員數を細く刻んだのであらう。……つい此の間、弴さんに逢つて、其の話が出ると、十圓と怯かすより九九九と言ふ方が、音〆……は粹過ぎる……耳觸りが柔かで安易で可い。それも一つだが、其の當時は、今も大錢お扱ひの方はよく御存じ、諸國小貨のが以てのほか拂底で、買ものに難澁一方ならず。やがて、勿體ないが、俗に言ふ上潮から引上げたやうな十錢紙幣が蟇口に濕々して、金の威光より、黴の臭を放つた折から、當番の幹事は決して剩錢を持出さず、會員は各自九九九の粒を揃へて、屹度持參の事、と言ふ……蓋し發會第一番の――お當めでたうござる――幹事の弴さんが……實は剩錢を集める藁人形に鎧を着せた智謀計數によつたのださうである。 「はい、會費。」  佐賀錦の紙入から、其の、ざく〳〵と銅貨まじりを扱つた、岡田夫人八千代さんの紙包みの、こなしのきれいさを今でも覺えて居る。  時に復興の第一囘の幹事は――お當めでたうござる――水上さんで。唯見る、日本橋檜物町藤村の二十七疊の大廣間、黒檀の大卓のまはりに、淺葱絽の座蒲團を涼しく配らせて、一人第一番に莊重に控へて居る。其の席に配つた、座蒲團一つ一つの卓の上に、古色やゝ蒼然たらむと欲する一錢銅貨がコツンと一個。座にひらきを置いて、又コツンと一個、會員の數だけ載せてある。煙草盆に香の薫のみして、座にいまだ人影なき時、瀧君の此の光景は、眞田が六文錢の伏勢の如く、諸葛亮の八門遁甲の備に似て居る。また此の計なかるべからず、此で唯初音の鳥を煮て、お香々で茶漬るのならば事は足りよう。座に白粉の薫をほんのりさして、絽縮緬の秋草を眺めよう。無地お納戸で螢を見よう。加之、酒は近所の灘屋か、銀座の顱卷を取寄せて、と云ふ會員一同の強請。考へてご覽なさい、九九九で間に合ひますか。  一同幹事の苦心を察して、其の一錢を頂いた。  何處かで會が打つかつて、微醉機嫌で來た万ちやんは、怪しからん、軍令を忘却して、 「何です、此の一錢は――あゝ、然う〳〵。」  と兩方の肩と兩袖と一所に一寸搖つて、内懷の紙入から十圓也、やつぱり一錢を頂いた。  其處でお料理が、もづくと、冷豆府、これは飮める。杯次第にめぐりつゝ、いや、これは淡白して好い。酒いよ〳〵酣に、いや、まことに見ても涼しい。が、折から、ざあ〳〵降りに風が吹添つて、次の間の金屏風も青味を帶びて、少々涼しく成り過ぎた。 「如何です、岡田さん。」 「結構ですな。」  と、もづくを吸ひ、豆府を挾む容子が、顏の色も澄みに澄んで、風采ます〳〵哲人に似た三郎助畫伯が、 「此の金將は一手上り過ぎましたよ。」  と、將棋に、またしても、お負けに成るのが、あら〳〵、おいたはしい、と若い綺麗どころが、畫伯と云ふと又頻に氣を揉む。 「軍もお腹がお空きになつては、ねえ。」  一番負かした水上さんが、故と、その上に目を大きくして、 「九圓九十九錢だよ。」  で仔細を聞いて、妙に弱い方へ味方する、江戸ツ子の連中が、私も會費を出すよ、私だつて。――富の字と云ふ稱からして工面のいゝ長唄の姉さんが、煙管を懷劍に構へて、かみ入を帶から拔くと、十圓紙幣が折疊んで入つて居る……偉い。戀か、三十日かに痩せたのは、また白銅を合せて、銀貨入に八十五錢と云ふのもある……嬉しい。寸の志と、藤間の名取で、嬌態をして、水上さんの袂に入れるのがある。……甘い。それもよし、これもよし、〆て金七十圓――もしそれ私をして幹事たらしめば、忽ちにお盆の軍用に充てようものを、軍規些少も敵にかすめざる瀧君なれば、志はうけた――或は新築の祝、或は踊一手の祝儀、或は病氣見舞として、其の金子は、もとの帶へ返つた。軍機をもらす恐れはあるが、まぶと成つて、客の臺のものを私せず、いろと成つて、旦那の會計を煩はさない事を、彼の妓等のために、其の旦那なるものに、諒解を要求する。これ第一は瀧君のために、説くこと、こゝに及ぶ所以である。  さるほどに、美人たちの此の寄附によつて、づらりと暖いものが並んで、金屏風もキラ〳〵と輝き渡り、燒のりをたて引いて心配して居た、藤村の優しい妹分も、嬉しさうな顏をした。  此の次會をうけた――當の幹事が弴さんであつた。六月下旬。午後五時。  時間勵行。水上さんは丸の内の會社からすぐに出向く。元園町の雪岱さんは出さきから參會と。……其處で、道順だから、やすい圓タクでお誘ひ申さうかと、もし、もし、電話(註。お隣のを借りる)を掛けると六丁目里見氏宅で、はあ、とうけて、婀娜な返事が――幹事で支度がありますから、時間を早く、一足お先へ――と言ふのであつた。  其の夕刻は、六文錢も、八門遁甲も何にもない。座に、煙草盆を控へて、私が先づ一人、斜に琵琶棚を見込んで、ぽかんと控へた。青疊徒らに廣くして、大卓は、浮島の體である。  一あし先の幹事が見えない。やがて、二十分ばかりにして、當の幹事弴さんは、飛車を拔かれたやうな顏をして、 「いや、遲參で、何とも……」  水上さんと二人一所。タクシイが日比谷の所でパンクした。しかも時が長かつたさうである。  處で、弴さんは、伏勢のかはりに、常山の蛇、尾を撃てば頭を以て、で、所謂長蛇の陣を張つた。即ち、一錢銅貨五十餘枚を、ざらりと一側ならびに、細い、青い、小さい蝦蟇口を用意して、小口から、「さあ、さあ、お剩錢を。」――これは、以來、九九九會の常備共通の具と成つて、次會の當番、雪岱氏が預つた。  後で聞くと、弴さんの苦心は、大根おろし。まだ御馳走もない前に、敢て胃の消化を助けるためではない。諸君聞かずや、むかし彌次郎と喜多八が、さもしい旅に、今くひし蕎麥は富士ほど山盛にすこし心も浮島がはら。其の山もりに大根おろし。おかゝは、うんと藤村家に驕らせて、此の安直なことは、もづくの比ではない。然り而して、おの〳〵の腹の冷く次第に寒く成つた處へ、ぶつ切、大掴の坊主しやも、相撲が食つても腹がくちく成るのを、赫と煮ようと云ふ腹案。六丁目を乘出した其の自動車で、自分兩國を乘切らう意氣込、が、思ひがけないパンクで、時も過ぎれば、氣が拔けたのださうである。  此の帷幄に參して、蝶貝蒔繪の中指、艷々しい圓髷をさし寄せて囁いた計によれば――此のほかに尚ほ、酒の肴は、箸のさきで、ちびりと醤油(鰹節を添へてもいゝ、料亭持出し)をなめさせ、鉢肴また洗と稱へ、縁日の金魚を丼に浮かせて――(氷を添へてもいゝ)――後にひきものに持たせて歸す、殆ど籠城に馬を洗ふ傳説の如き、凄い寸法があると仄聞した。――しかし、一自動車の手負如きは、ものの數でもない、戰へば勝つ驕將は、此の張中の説を容れなかつた。勇なり、また賢なるかな。  第三囘の幹事は、元園町――小村雪岱さん――受之。 昭和三年八月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「三田文学 第三巻第八号」三田文学会    1928(昭和3)年8月1日 ※表題は底本では、「九九九会《くうくうくうくわい》小記《せうき》」となっています。 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2017年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050788", "作品名": "九九九会小記", "作品名読み": "くくくかいしょうき", "ソート用読み": "くくくかいしようき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「三田文学 第三巻第八号」三田文学会、1928(昭和3)年8月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-11-04T00:00:00", "最終更新日": "2017-10-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50788.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50788_ruby_63011.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50788_63059.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 二丁目の我が借家の地主、江戸児にて露地を鎖さず、裏町の木戸には無用の者入るべからずと式の如く記したれど、表門には扉さへなく、夜が更けても通行勝手なり。但知己の人の通り抜け、世話に申す素通りの無用たること、我が思もかはらず、然りながらお附合五六軒、美人なきにしもあらずと雖も、濫に垣間見を許さず、軒に御神燈の影なく、奥に三味の音の聞ゆる類にあらざるを以て、頬被、懐手、湯上りの肩に置手拭などの如何はしき姿を認めず、華主まはりの豆府屋、八百屋、魚屋、油屋の出入するのみ。  朝まだきは納豆売、近所の小学に通ふ幼きが、近路なれば五ツ六ツ袂を連ねて通る。お花やお花、撫子の花や矢車の花売、月の朔日十五日には二人三人呼び以て行くなり。やがて足駄の歯入、鋏磨、紅梅の井戸端に砥石を据ゑ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売、雨の日に蓑着て若柳の台所を覗くも床しや。物干の竹二日月に光りて、蝙蝠のちらと見えたる夏もはじめつ方、一夕、出窓の外を美しき声して売り行くものあり、苗や玉苗、胡瓜の苗や茄子の苗と、其の声恰も大川の朧に流るゝ今戸あたりの二上りの調子に似たり。一寸苗屋さんと、窓から呼べば引返すを、小さき木戸を開けて庭に通せば、潜る時、笠を脱ぎ、若き男の目つき鋭からず、頬の円きが莞爾莞爾して、へい〳〵召しましと荷を下ろし、穎割葉の、蒼き鶏冠の、いづれも勢よきを、日に焼けたる手して一ツ一ツ取出すを、としより、弟、またお神楽座一座の太夫、姓は原口、名は秋さん、呼んで女形といふ容子の可いのと、皆縁側に出でて、見るもの一ツとして欲しからざるは無きを、初鰹は買はざれども、昼のお肴なにがし、晩のお豆府いくらと、先づ帳合を〆めて、小遣の中より、大枚一歩が処、苗七八種をずばりと買ふ、尤も五坪には過ぎざる庭なり。  隠元、藤豆、蓼、茘枝、唐辛、所帯の足と詈りたまひそ、苗売の若衆一々名に花を添へていふにこそ、北海道の花茘枝、鷹の爪の唐辛、千成りの酸漿、蔓なし隠元、よしあしの大蓼、手前商ひまするものは、皆玉揃ひの唐黍と云々。  朝顔の苗、覆盆子の苗、花も実もある中に、呼声の仰々しきが二ツありけり、曰く牡丹咲の蛇の目菊、曰くシヽデンキウモン也。愚弟直に聞き惚れて、賢兄お買ひな〳〵と言ふ、こゝに牡丹咲の蛇の目菊なるものは所謂蝦夷菊也。これは……九代の後胤平の、……と平家の豪傑が名乗れる如く、のの字二ツ附けたるは、売物に花の他ならず。シヽデンキウモンに至りては、其の何等の物なるやを知るべからず、苗売に聞けば類なきしをらしき花ぞといふ、蝦夷菊はおもしろし、其の花しをらしといふに似ず、厳しくシヽデンキウモンと呼ぶを嘲けるにあらねど、此の二種、一歩の外、別に五銭なるを如何せん。  然れども甚六なるもの、豈夫白銅一片に辟易して可ならんや。即ち然り気なく、諭して曰く、汝若輩、シヽデンキウモンに私淑したりや、金毛九尾ぢやあるまいしと、二階に遁げ上らんとする袂を捕へて、可いぢやないかお買ひよ、一ツ咲いたつて花ぢやないか。旦那だまされたと思し召してと、苗売も勧めて止まず、僕が植ゑるからと女形も頻に口説く、皆キウモンの名に迷へる也。長歎して別に五百を奢る。  垣に朝顔、藤豆を植ゑ、蓼を海棠の下に、蝦夷菊唐黍を茶畑の前に、五本三本培ひつ。彼の名にしおふシヽデンは庭の一段高き処、飛石の傍に植ゑたり。此処に予め遊蝶花、長命菊、金盞花、縁日名代の豪のもの、白、紅、絞、濃紫、今を盛に咲競ふ、中にも白き花紫雲英、一株方五尺に蔓り、葉の大なること掌の如く、茎の長きこと五寸、台を頂く日に二十を下らず、蓋し、春寒き朝、めづらしき早起の折から、女形とともに道芝の霜を分けてお濠の土手より得たるもの、根を掘らんとして、袂に火箸を忍ばせしを、羽織の袖の破目より、思がけず路に落して、大に台所道具に事欠きし、経営惨憺仇ならず、心なき草も、あはれとや繁りけん。シヽデンキウモンの苗なるもの、二日三日の中に、此の紫雲英の葉がくれに見えずなりぬ。  茘枝の小さきも活々して、藤豆の如き早や蔓の端も見え初むるを、徒に名の大にして、其の実の小なる、葉の形さへ定ならず。二筋三筋すく〳〵と延びたるは、荒れたる庭に挘り果つべくも覚えぬが、彼処に消えて此処に顕れけむ、其処に又彼処に、シヽデンに似たる雑草数ふるに尽きず、弟はもとより、はじめは殊に心を籠めて、水などやりたる秋さんさへ、いひ効なきに呆れ果てて、罵倒すること斜ならず。草が蔓るは、又してもキウモンならんと、以来然もなくて唯呼声のいかめしき渾名となりて、今日は御馳走があるよ、といふ時、弟も秋さんも、蔭で呟いて、シヽデンかとばかりなりけり。  日を経るまゝに何事も言はずなりし、不図其のシヽデンの菜に昼食の後、庭を視むることありしに、雲の如き紫雲英に交りて小さき薄紫の花二ツ咲出でたり。立寄りて草を分けて見れば、形菫よりは大ならず、六瓣にして、其薄紫の花片に濃き紫の筋あり、蕋の色黄に、茎は糸より細く、葉は水仙に似て浅緑柔かう、手にせば消えなむばかりなり。苗なりし頃より見覚えつ、紛ふべくもあらぬシヽデンなれば、英雄人を欺むけども、苗売我を愚になさず、と皆打寄りて、土ながら根を掘りて鉢に植ゑ、水やりて縁に差置き、とみかう見るうち、品も一段打上りて、縁日ものの比にあらず、夜露に濡れしが、翌日は花また二ツ咲きぬ、いづれも入相の頃しぼみて東雲に別なるが開く、三朝にして四日目の昼頃見れば花唯一ツのみ、葉もしをれ、根も乾きて、昨日には似ぬ風情、咲くべき蕾も探し当てず、然ればこそシヽデンなりけれ、申訳だけに咲いたわと、すげなくも謂ひけるよ。  翌朝、例の秋さん、二階へ駈上る跫音高く、朝寝の枕を叩きて、起きよ、心なき人、人心なく花却つて情あり、昨、冷かにいひおとしめしを恥ぢたりけん、シヽデンの花、開くこと、今朝一時に十一と、慌しく起出でて鉢を抱けば花菫野山に満ちたる装なり。見つゝ思はず悚然として、いしくも咲いたり、可愛き花、薊、鬼百合の猛くんば、我が言に憤りもせめ、姿形のしをらしさにつけ、汝優しき心より、百年の齢を捧げて、一朝の盛を見するならずや、いかばかり、我を怨みなんと、あはれさ言ふべくもあらず。漱ぎ果てつ、書斎なる小机に据ゑて、人なき時、端然として、失言を謝す。然も夕にはしをれんもの、願くば、葉の命だに久しかれ、荒き風にも当つべきか。なほ心安からず、みづから我が心なかりしを悔いたりしに、次の朝に至りて更に十三の花咲けり、嬉しさいふべからず、やよや人々又シヽデンといふことなかれ、我が家のものいふ花ぞと、いとせめて愛であへりし、其の日、日曜にて宙外君立寄らる。  巻莨の手を控へ掌に葉を撫して、何ぞ主人のむくつけき、何ぞ此の花のしをらしきと。主人大いに恐縮して仮名の名を聞けば氏も知らずと言はる。忘れたり、斯道に曙山君ありけるを、花一ツ採りて懐にせんも惜く、よく色を見、葉を覚え、あくる日、四丁目の編輯局にて、しか〴〵の草はと問へば、同氏頷きて、紙に図して是ならん、それよ、草菖蒲。女扇の竹青きに紫の珠を鏤めたらん姿して、日に日に装増る、草菖蒲といふなりとぞ。よし何にてもあれ、我がいとほしのものかな。
底本:「日本の名随筆1 花」作品社    1983(昭和58)年2月25日第1刷    1988(昭和63)年5月20日第13刷 底本の親本:「鏡花全集 巻二八」岩波書店    1942(昭和17)年11月発行 入力:真先芳秋 校正:kazuishi 2000年3月3日公開 2005年11月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001175", "作品名": "草あやめ", "作品名読み": "くさあやめ", "ソート用読み": "くさあやめ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-03-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1175.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆1 花", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1983(昭和58)年2月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年5月20日第13刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "kazuishi", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1175_ruby_20312.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1175_20313.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 御馳走には季春がまだ早いが、たゞ見るだけなら何時でも構はない。食料に成る成らないは別として、今頃の梅雨には種々の茸がによき〳〵と野山に生える。  野山に、によき〳〵、と言つて、あの形を想ふと、何となく滑稽けてきこえて、大分安直に扱ふやうだけれども、飛んでもない事、あれでなか〳〵凄味がある。  先年、麹町の土手三番町の堀端寄に住んだ借家は、太い濕氣で、遁出すやうに引越した事がある。一體三間ばかりの棟割長屋に、八疊も、京間で廣々として、柱に唐草彫の釘かくしなどがあらうと言ふ、書院づくりの一座敷を、無理に附着けて、屋賃をお邸なみにしたのであるから、天井は高いが、床は低い。――大掃除の時に、床板を剥すと、下は水溜に成つて居て、溢れたのがちよろ〳〵と蜘蛛手に走つたのだから可恐い。此の邸……いや此の座敷へ茸が出た。  生えた……などと尋常な事は言ふまい。「出た」とおばけらしく話したい。五月雨のしと〳〵とする時分、家内が朝の間、掃除をする時、縁のあかりで氣が着くと、疊のへりを横縱にすツと一列に並んで、小さい雨垂に足の生えたやうなものの群り出たのを、黴にしては寸法が長し、と横に透すと、まあ、怪しからない、悉く茸であつた。細い針ほどな侏儒が、一つ〳〵、と、歩行き出しさうな氣勢がある。吃驚して、煮湯で雜巾を絞つて、よく拭つて、先づ退治た。が、暮方の掃除に視ると、同じやうに、ずらりと並んで揃つて出て居た。此が茸なればこそ、目もまはさずに、じつと堪へて私には話さずに祕して居た。私が臆病だからである。  何しろ梅雨あけ早々に其家は引越した。が、……私はあとで聞いて身ぶるひした。むかしは加州山中の温泉宿に、住居の大圍爐裡に、灰の中から、笠のかこみ一尺ばかりの眞黒な茸が三本づゝ、續けて五日も生えた、と言ふのが、手近な三州奇談に出て居る。家族は一統、加持よ祈祷よ、と青くなつて騷いだが、私に似ない其主人、膽が据つて聊かも騷がない。茸だから生えると言つて、むしつては捨て、むしつては捨てたので、やがて妖は留んで、一家に何事の觸りもなかつた――鐵心銷怪。偉い!……と其の編者は賞めて居る。私は笑はれても仕方がない。成程、其の八疊に轉寢をすると、とろりとすると下腹がチクリと疼んだ。針のやうな茸が洒落に突いたのであらうと思つて、もう一度身ぶるひすると同時に、何うやら其の茸が、一づゝ芥子ほどの目を剥いて、ぺろりと舌を出して、店賃の安値いのを嘲笑つて居たやうで、少々癪だが、しかし可笑い。可笑いが、氣味が惡い。  能の狂言に「茸」がある。――山家あたりに住むものが、邸中、座敷まで大な茸が幾つともなく出て祟るのに困じて、大峰葛城を渡つた知音の山伏を頼んで來ると、「それ、山伏と言つぱ山伏なり、何と殊勝なか。」と先づ威張つて、兜巾を傾け、いらたかの數珠を揉みに揉んで、祈るほどに、祈るほどに、祈れば祈るほど、大な茸の、あれ〳〵思ひなしか、目鼻手足のやうなものの見えるのが、おびたゞしく出て、したゝか仇をなし、引着いて惱ませる。「いで、此上は、茄子の印を結んで掛け、いろはにほへとと祈るならば、などか奇特のなかるべき、などか、ちりぬるをわかンなれ。」と祈る時、傘を半びらきにした、中にも毒々しい魔形なのが、二の松へ這つて出る。此にぎよつとしながら、いま一祈り祈りかけると、その茸、傘を開いてスツクと立ち、躍りかゝつて、「ゆるせ、」と逃げ𢌞る山伏を、「取つて噛まう、取つて噛まう。」と脅すのである。――彼等を輕んずる人間に對して、茸のために氣を吐いたものである。臆病な癖に私はすきだ。  そこで茸の扮裝は、縞の着附、括袴、腰帶、脚絆で、見徳、嘯吹、上髯の面を被る。その傘の逸もつが、鬼頭巾で武惡の面ださうである。岩茸、灰茸、鳶茸、坊主茸の類であらう。いづれも、塗笠、檜笠、菅笠、坊主笠を被つて出ると言ふ。……此の狂言はまだ見ないが、古寺の廣室の雨、孤屋の霧のたそがれを舞臺にして、ずらりと此の形で並んだら、並んだだけで、おもしろからう。……中に、紅絹の切に、白い顏の目ばかり出して褄折笠の姿がある。紅茸らしい。あの露を帶びた色は、幽に光をさへ放つて、たとへば、妖女の艷がある。庭に植ゑたいくらゐに思ふ。食べるのぢやあないから――茸よ、取つて噛むなよ、取つて噛むなよ。…… 大正十二年六月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050773", "作品名": "くさびら", "作品名読み": "くさびら", "ソート用読み": "くさひら", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50773.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50773_ruby_44366.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50773_44654.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
向うの小沢に蛇が立って、 八幡長者の、おと娘、 よくも立ったり、巧んだり。 手には二本の珠を持ち、 足には黄金の靴を穿き、 ああよべ、こうよべと云いながら、 山くれ野くれ行ったれば…………        一  三浦の大崩壊を、魔所だと云う。  葉山一帯の海岸を屏風で劃った、桜山の裾が、見も馴れぬ獣のごとく、洋へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分、人死のあるのは、この辺ではここが多い。  一夏激い暑さに、雲の峰も焼いた霰のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって覆れそうな日盛に、これから湧いて出て人間になろうと思われる裸体の男女が、入交りに波に浮んでいると、赫とただ金銀銅鉄、真白に溶けた霄の、どこに亀裂が入ったか、破鐘のようなる声して、 「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。  この呪詛のために、浮べる輩はぶくりと沈んで、四辺は白泡となったと聞く。  また十七ばかり少年の、肋膜炎を病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可恐く身体を気にして、自分で病理学まで研究して、0,などと調合する、朝夕検温気で度を料る、三度の食事も度量衡で食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩脛の高端折、跣足でちょびちょび横歩行きで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、 「ああ、退屈だ。」  と呟くと、頭上の崖の胴中から、異声を放って、 「親孝行でもしろ――」と喚いた。  ために、その少年は太く煩い附いたと云う。  そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大崩壊へ上るのを、土地の者が見着けると、百姓は鍬を杖支き、船頭は舳に立って、下りろ、危い、と声を懸ける。  実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬研を俯向けに伏せたようで、跨ぐと鐙の無いばかり。馬の背に立つ巌、狭く鋭く、踵から、爪先から、ずかり中窪に削った断崖の、見下ろす麓の白浪に、揺落さるる思がある。  さて一方は長者園の渚へは、浦の波が、静に展いて、忙しくしかも長閑に、鶏の羽たたく音がするのに、ただ切立ての巌一枚、一方は太平洋の大濤が、牛の吼ゆるがごとき声して、緩かにしかも凄じく、うう、おお、と呻って、三崎街道の外浜に大畝りを打つのである。  右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜若咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の鴎が舞い、沖を黒煙の竜が奔る。  これだけでも眩くばかりなるに、蹈む足許は、岩のその剣の刃を渡るよう。取縋る松の枝の、海を分けて、種々の波の調べの懸るのも、人が縋れば根が揺れて、攀上った喘ぎも留まぬに、汗を冷うする風が絶えぬ。  さればとて、これがためにその景勝を傷けてはならぬ。大崩壊の巌の膚は、春は紫に、夏は緑、秋紅に、冬は黄に、藤を編み、蔦を絡い、鼓子花も咲き、竜胆も咲き、尾花が靡けば月も射す。いで、紺青の波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。巨匠が鑿を施した、青銅の獅子の俤あり。その美しき花の衣は、彼が威霊を称えたる牡丹花の飾に似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄金、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、鋭き大自在の爪かと見ゆる。        二  修業中の小次郎法師が、諸国一見の途次、相州三崎まわりをして、秋谷の海岸を通った時の事である。  件の大崩壊の海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途に見渡す、街道端の――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、簾に透かして描いたような、ちょっとした葭簀張の茶店に休むと、媼が口の長い鉄葉の湯沸から、渋茶を注いで、人皇何代の御時かの箱根細工の木地盆に、装溢れるばかりなのを差出した。  床几の在処も狭いから、今注いだので、引傾いた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸に靡いたが、それさえ颯と涼しい風で、冷い霧のかかるような、法衣の袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。  爽な心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿の繋ぎめを、押遣って、 「千両、」とがぶりと呑み、 「ああ、旨い、これは結構。」と莞爾して、 「おいしいついでに、何と、それも甘そうだね、二ツ三ツ取って下さい。」 「はいはい、この団子でござりますか。これは貴方、田舎出来で、沢山甘くはござりませぬが、そのかわり、皮も餡子も、小米と小豆の生一本でござります。」  と小さな丸髷を、ほくほくもの、折敷の上へ小綺麗に取ってくれる。  扇子だけ床几に置いて、渋茶茶碗を持ったまま、一ツ撮もうとした時であった。 「ヒイ、ヒイヒイ!」と唐突に奇声を放った、濁声の蜩一匹。  法師が入った口とは対向い、大崩壊の方の床几のはずれに、竹柱に留まって前刻から――胸をはだけた、手織縞の汚れた単衣に、弛んだ帯、煮染めたような手拭をわがねた首から、頸へかけて、耳を蔽うまで髪の伸びた、色の黒い、巌乗造りの、身の丈抜群なる和郎一人。目の光の晃々と冴えたに似ず、あんぐりと口を開けて、厚い下唇を垂れたのが、別に見るものもない茶店の世帯を、きょろきょろと眗していたのがあって――お百姓に、船頭殿は稼ぎ時、土方人足も働き盛り、日脚の八ツさがりをその体は、いずれ界隈の怠惰ものと見たばかり。小次郎法師は、別に心にも留めなかったが、不意の笑声に一驚を吃して、和郎の顔と、折敷の団子を見較べた。 「串戯ではない、お婆さん、お前は見懸けに寄らぬ剽軽ものだね。」 「何でござりますえ。」 「いいえさ、この団子は、こりゃ泥か埴土で製えたのじゃないのかい。」 「滅相なことをおっしゃりまし。」  と年寄は真顔になり、見上げ皺を沢山寄せて、 「何を貴方、勿体もない。私もはい法然様拝みますものでござります。吝嗇坊の柿の種が、小判小粒になればと云うて、御出家に土の団子を差上げまして済むものでござりますかよ。」  真正直に言訳されて、小次郎法師はちと気の毒。 「何々、そう真に受けられては困ります。この涼しさに元気づいて、半分は冗戯だが、旅をすれば色々の事がある。駿州の阿部川餅は、そっくり正のものに木で拵えたのを、盆にのせて、看板に出してあると云います。今これを食べようとするのを見てその人が、」  と其方を見た、和郎はきょとんと仰向いて、烏も居らぬに何じゃやら、頻に空を仰いでござる。 「唐突に笑うから、ははあ、この団子も看板を取違えたのかと思ったんだよ。」 「ええ、ええ、いいえ、お前様、」  とこざっぱりした前かけの膝を拍き、近寄って声を密め、 「これは、もし気ちがいでござりますよ。はい、」  と云って、独りで媼は頷いた。問わせたまわば、その仔細の儀は承知の趣。        三  小次郎法師は、掛茶屋の庇から、天へ蝙蝠を吹出しそうに仰向いた、和郎の面を斜に見遣って、 「そう、気違いかい。私はまた唖ででもあろうかと思った、立派な若い人が気の毒な。」 「お前様ね、一ツは心柄でござりますよ。」  媼は、罪と報を、且つ悟り且つあきらめたようなものいい。 「何か憑物でもしたというのか、暮し向きの屈託とでもいう事か。」  と言い懸けて、渋茶にまた舌打しながら、円い茶の子を口の端へ持って行くと、さあらぬ方を見ていながら天眼通でもある事か、逸疾くぎろりと見附けて、 「やあ、石を噛りゃあがる。」  小次郎再び化転して、 「あんな事を云うよ、お婆さん。」 「悪い餓鬼じゃ。嘉吉や、主あ、もうあっちへ行かっしゃいよ。」  その本体はかえって差措き、砂地に這った、朦朧とした影に向って、窘めるように言った。  潮は光るが、空は折から薄曇りである。  法師もこれあるがために暗いような、和郎の影法師を伏目に見て、 「一ツ分けてやりましょうかね。団子が欲しいのかも知れん、それだと思いが可恐しい。ほんとうに石にでもなると大変。」 「食気の狂人ではござりませんに、御無用になさりまし。  石じゃ、と申しましたのは、これでもいくらか、不断の事を、覚えていると見えまして、私がいつでもお客様に差上げますのを知っておりまして、今のように云うたのでござりましょ。  また埴土の団子じゃ、とおっしゃってはなりません。このお前様。」  と、法師の脱いで立てかけた、檜笠を両手に据えて、荷物の上へ直すついでに、目で教えたる葭簀の外。  さっくと削った荒造の仁王尊が、引組む状の巌続き、海を踏んで突立つ間に、倒に生えかかった竹藪を一叢隔てて、同じ巌の六枚屏風、月には蒼き俤立とう――ちらほらと松も見えて、いろいろの浪を縅した、鎧の袖を※(さんずい+散)に翳す。 「あれを貴下、お通りがかりに、御覧じはなさりませんか。」  と背向きになって小腰を屈め、姥は七輪の炭をがさがさと火箸で直すと、薬缶の尻が合点で、ちゃんと据わる。 「どの道貴下には御用はござりますまいなれど、大崩壊の突端と睨み合いに、出張っておりますあの巌を、」  と立直って指をさしたが、片手は据え腰を、えいさ、と抱きつつ、 「あれ、あれでござります。」  波が寄せて、あたかも風鈴が砕けた形に、ばらばらとその巌端に打かかる。 「あの、岩一枚、子産石と申しまして、小さなのは細螺、碁石ぐらい、頃あいの御供餅ほどのから、大きなのになりますと、一人では持切れませぬようなのまで、こっとり円い、ちっと、平扁味のあります石が、どこからとなくころころと産れますでございます。  その平扁味な処が、恰好よく乗りますから、二つかさねて、お持仏なり、神棚へなり、お祭りになりますと、子の無い方が、いや、もう、年子にお出来なさりますと、申しますので。  随分お望みなさる方が多うございますが、当節では、人がせせこましくなりました。お前様、蓆戸の圧えにも持って参れば、二人がかりで、沢庵石に荷って帰りますのさえござりますに因って、今が今と申して、早急には見当りませぬ。  随分と御遠方、わざわざ拾いにござらして、力を落す方がござりますので、こうやって近間に店を出しておりますから、朝晩汐時を見ては拾っておきまして、お客様には、お土産かたがた、毎度婆々が御愛嬌に進ぜるものでござりますから、つい人様が御存じで、葉山あたりから遊びにござります、書生さんなぞは、 (婆さん、子は要らんが、女親を一つ寄越せ。)  なんて、おからかいなされまする。  それを見い見い知っていて、この嘉吉の狂人が、いかな事、私があげましたものを召食ろうとするのを見て、石じゃ、と云うのでござりますよ。」        四 「それではお婆さん楽隠居だ。孫子がさぞ大勢あんなさろうね。」  と小次郎法師は、話を聞き聞き、子産石の方を覗きたれば、面白や浪の、云うことも上の空。  トお茶注しましょうと出しかけた、塗盆を膝に伏せて、ふと黙って、姥は寂しそうに傾いたが、 「何のお前様、この年になりますまで、孫子の影も見はしませぬ。爺殿と二人きりで、雨のさみしさ、行燈の薄寒さに、心細う、果敢ないにつけまして、小児衆を欲しがるお方の、お心を察しますで、のう、子産石も一つ一つ、信心して進じます。  長い月日の事でござりますから、里の人達は私等が事を、人に子だねを進ぜるで、二人が実を持たぬのじゃ、と云いますがの、今ではそれさえ本望で、せめてもの心ゆかしでござりますよ。」  とかごとがましい口ぶりだったが、柔和な顔に顰みも見えず、温順に莞爾して、 「御新造様がおありなさりますれば、御坊様にも一かさね、子産石を進ぜましょうに……」 「とんでもない。この団子でも石になれば、それで村方勧化でもしようけれど、あいにく三界に家なしです。  しかし今聞いたようでは、さぞお前さんがたは寂しかろうね。」 「はい、はい、いえ、御坊様の前で申しましては、お追従のようでござりますが、仏様は御方便、難有いことでござります。こうやって愛想気もない婆々が許でも、お休み下さりますお人たちに、お茶のお給仕をしておりますれば、何やかや賑やかで、世間話で、ついうかうかと日を暮しますでござります。  ああ、もしもし、」  と街道へ、 「休まっしゃりまし。」と呼びかけた。  車輪のごとき大さの、紅白段々の夏の蝶、河床は草にかくれて、清水のあとの土に輝く、山際に翼を廻すは、白の脚絆、草鞋穿、かすりの単衣のまくり手に、その看板の洋傘を、手拭持つ手に差翳した、三十ばかりの女房で。  あんぺら帽子を阿弥陀かぶり、縞の襯衣の大膚脱、赤い団扇を帯にさして、手甲、甲掛厳重に、荷をかついで続くは亭主。  店から呼んだ姥の声に、女房がちょっと会釈する時、束髪の鬢が戦いで、前を急ぐか、そのまま通る。  前帯をしゃんとした細腰を、廂にぶらさがるようにして、綻びた脇の下から、狂人の嘉吉は、きょろりと一目。  ふらふらと葭簀を離れて、早や六七間行過ぎた、女房のあとを、すたすたと跣足の砂路。  ほこりを黄色に、ばっと立てて、擦寄って、附着いたが、女房のその洋傘から伸かかって見越入道。 「イヒヒ、イヒヒヒ、」 「これ、悪戯をするでないよ。」  と姥が爪立って窘めたのと、笑声が、ほとんど一所に小次郎法師の耳に入った。  あたかもその時、亭主驚いたか高調子に、 「傘や洋傘の繕い!――洋傘張替繕い直し……」  蝉の鳴く音を貫いて、誰も通らぬ四辺に響いた。  隙さず、この不気味な和郎を、女房から押隔てて、荷を真中へ振込むと、流眄に一睨み、直ぐ、急足になるあとから、和郎は、のそのそ――大な影を引いて続く。 「御覧じまし、あの通り困ったものでござります。」  法師も言葉なく見送るうち、沖から来るか、途絶えては、ずしりと崖を打つ音が、松風と行違いに、向うの山に三度ばかり浪の調べを通わすほどに、紅白段々の洋傘は、小さく鞠のようになって、人の頭が入交ぜに、空へ突きながら行くかと見えて、一条道のそこまでは一軒の苫屋もない、彼方大崩壊の腰を、点々。        五 「あれ、あの大崩壊の崖の前途へ、皆が見えなくなりました。  ちょうど、あれを出ました、下の浜でござります。唯今の狂人が、酒に酔って打倒れておりましたのは……はい、あれは嘉吉と申しまして、私等秋谷在の、いけずな野郎でござりましての。  その飲んだくれます事、怠ける工合、まともな人間から見ますれば、真に正気の沙汰ではござりませなんだが、それでもどうやら人並に、正月はめでたがり、盆は忙しがりまして、別に気が触れた奴ではござりません。いつでも村の御祭礼のように、遊ぶが病気でござりましたが、この春頃に、何と発心をしましたか、自分が望みで、三浦三崎のさる酒問屋へ、奉公をしたでござります。  つい夏の取着きに、御主人のいいつけで、清酒をの、お前様、沢山でもござりませぬ。三樽ばかり船に積んで、船頭殿が一人、嘉吉めが上乗りで、この葉山の小売店へ卸しに来たでござります。  葉山森戸などへ三崎の方から帰ります、この辺のお百姓や、漁師たち、顔を知ったものが、途中から、乗けてくらっせえ、明いてる船じゃ、と渡場でも船つきでもござりませぬ。海岸の岩の上や、磯の松の根方から、おおいおおい、と板東声で呼ばり立って、とうとう五人がとこ押込みましたは、以上七人になりました、よの。  どれもどれも、碌でなしが、得手に帆じゃ。船は走る、口は辷る、凪はよし、大話しをし草臥れ、嘉吉めは胴の間の横木を枕に、踏反返って、ぐうぐう高鼾になったげにござります。  路に灘はござりませぬが、樽の香が芬々して、鮹も浮きそうな凪の好さ。せめて船にでも酔いたい、と一人が串戯に言い出しますと、何と一樽賭けまいか、飲むことは銘々が勝手次第、勝負の上から代銭を払えば可い、面白い、遣るべいじゃ。  煙管の吸口ででも結構に樽へ穴を開ける徒が、大びらに呑口切って、お前様、お船頭、弁当箱の空はなしか、といびつ形の切溜を、大海でざぶりとゆすいで、その皮づつみに、せせり残しの、醤油かすを指のさきで嘗めながら、まわしのみの煽っきり。  天下晴れて、財布の紐を外すやら、胴巻を解くやらして、賭博をはじめますと、お船頭が黙ってはおりませぬ。」 「叱言を云って留めましたか。さすがは船頭、字で書いても船の頭だね。」  と真顔で法師の言うのを聞いて、姥は、いかさまな、その年少で、出家でもしそうな人、とさも憐んだ趣で、 「まあ、お人の好い。なるほど船頭を字に書けば、船の頭でござりましょ。そりゃもう船の頭だけに、極り処はちゃんと極って、間違いのない事をいたしました。」 「どうしたかね。」 「五人徒が賽の目に並んでおります、真中へ割込んで、まず帆を下ろしたのでござります。」  と莞爾して顔を見る。  いささかもその意を得ないで、 「なぜだろうかね。」 「この追手じゃ、帆があっては、丁と云う間に葉山へ着く。ふわふわと海月泳ぎに、船を浮かせながらゆっくり遣るべい。  その事よ。四海波静かにて、波も動かぬ時津風、枝を鳴らさぬ御代なれや、と勿体ない、祝言の小謡を、聞噛りに謳う下から、勝負!とそれ、銭の取遣り。板子の下が地獄なら、上も修羅道でござります。」 「船頭も同類かい、何の事じゃ、」  と法師は新になみなみとある茶碗を大切そうに両手で持って、苦笑いをするのであった。 「それはお前様、あの徒と申しますものは、……まあ、海へ出て岸をば眗して御覧じまし。巌の窪みはどこもかしこも、賭博の壺に、鰒の蓋。蟹の穴でない処は、皆意銭のあとでござります。珍しい事も、不思議な事もないけれど、その時のは、はい、嘉吉に取っては、あやかしが着きましたじゃ。のう、便船しょう、便船しょう、と船を渚へ引寄せては、巌端から、松の下から、飜然々々と乗りましたのは、魔がさしたのでござりましたよ。」        六 「魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳馴れても、磯近へ舳が廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様……体裁。  山へ上ったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の三番叟、とうとうたらりたらりには肝を潰して、(やい、此奴等、)とはずみに引傾がります船底へ、仁王立に踏ごたえて、喚いたそうにござります。  騒ぐな。  騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二歩と一両、貴様に貸のない顔はないけれど、主人のものじゃ。引負をさせてまで、勘定を合わしょうなんど因業な事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても仔細はない。  なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。  銭さえ払えば可いとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を掴った拳を向顱巻の上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。  嘉吉が、そこで、はい、櫓を握って、ぎっちらこ。幽霊船の歩に取られたような顔つきで、漕出したげでござりますが、酒の匂に我慢が出来ず……  御繁昌の旦那から、一杯おみきを遣わされ、と咽喉をごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と注ぎにかかる、と幾干か差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは確でござりました。  幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。  お手渡で下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか柄杓を突出いて、どうどうと受けました。あの大面が、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その馬柄杓のようなもので、片手で、ぐいぐいと煽ったげな。  酒は一樽打抜いたで、ちっとも惜気はござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。  帰命頂礼、賽ころ明神の兀天窓、光る光る、と追従云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、櫓拍子が乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が据らぬ。  ええ、気に入らずば代って漕げさ、と滅多押しに、それでも、大崩壊の鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。  さあ、内海の青畳、座敷へ入ったも同じじゃ、と心が緩むと、嘉吉奴が、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に銭を握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか柄杓を持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。  はて、河童野郎、身投するより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。  取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って行く、一樽のお代を無にしました。処で、自棄じゃ、賽の目が十に見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。  船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。両膚脱の胸毛や、大胡坐の脛の毛へ、夕風が颯とかかって、悚然として、皆が少し正気づくと、一ツ星も見えまする。大巌の崖が薄黒く、目の前へ蔽被さって、物凄うもなりましたので、褌を緊め直すやら、膝小僧を合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を撲ぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性違わず気落がして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。」        七 「仰向様に、火のような息を吹いて、身体から染出します、酒が砂へ露を打つ。晩方の涼しさにも、蚊や蠅が寄って来る。  奴は、打っても、叩いても、起ることではござりませぬがの。  かかり合は免れぬ、と小力のある男が、力を貸して、船頭まじりに、この徒とて確ではござりませなんだ。ひょろひょろしながら、あとのまず二樽は、荷って小売店へ届けました。  嘉吉の始末でござります。それなり船の荷物にして、積んで帰れば片附きますが、死骸ではない、酔ったもの、醒めた時の挨拶が厄介じゃ、とお船頭は遁を打って、帆を掛けて、海の靄へと隠れました。  どの道訳を立ていでは、主人方へ帰られる身体ではござりませぬで、一まず、秋谷の親許へ届ける相談にかかりましたが、またこのお荷物が、御覧の通りの大男。それに、はい、のめったきり、捏でも動かぬに困じ果てて、すっぱすっぱ煙草を吹かすやら、お前様、嚔をするやら、向脛へ集る蚊を踵で揉殺すやら、泥に酔った大鮫のような嘉吉を、浪打際に押取巻いて、小田原評定。持て余しておりました処へ、ちょうど荷車を曳きまして、藤沢から一日路、この街道つづきの長者園の土手へ通りかかりましたのが……」  茜色の顱巻を、白髪天窓にちょきり結び。結び目の押立って、威勢の可いのが、弁慶蟹の、濡色あかき鋏に似たのに、またその左の腕片々、へし曲って脇腹へ、ぱツと開け、ぐいと握る、指と掌は動くけれども、肱は附着いてちっとも伸びず。銅で鋳たような。……その仔細を尋ぬれば、心がらとは言いながら、去る年、一膳飯屋でぐでんになり、冥途の宵を照らしますじゃ、と碌でもない秀句を吐いて、井桁の中に横木瓜、田舎の暗夜には通りものの提灯を借りたので、蠣殻道を照らしながら、安政の地震に出来た、古い処を、鼻唄で、地が崩れそうなひょろひょろ歩行き。好い心持に眠気がさすと、邪魔な灯を肱にかけて、腕を鍵形に両手を組み、ハテ怪しやな、汝、人魂か、金精か、正体を顕せろ! とトロンコの据眼で、提灯を下目に睨む、とぐたりとなった、並木の下。地虫のような鼾を立てつつ、大崩壊に差懸ると、海が変って、太平洋を煽る風に、提灯の蝋が倒れて、めらめらと燃えついた。沖の漁火を袖に呼んで、胸毛がじりじりに仰天し、やあ、コン畜生、火の車め、まだ疾え、と鬼と組んだ横倒れ、転廻って揉消して、生命に別条はなかった。が、その時の大火傷、享年六十有七歳にして、生まれもつかぬ不具もの――渾名を、てんぼう蟹の宰八と云う、秋谷在の名物親仁。 「……私が爺殿でござります。」  と姥は云って、微笑んだ。  小次郎法師は、寿くごとく、一揖して、 「成程、尉殿だね。」と祝儀する。 「いえ、もう気ままものの碌でなしでござりますが、お庇さまで、至って元気がようござりますので、御懇意な近所へは、進退が厭じゃ、とのう、葉山を越して、日影から、田越逗子の方へ、遠くまで、てんぼうの肩に背負籠して、栄螺や、とこぶし、もろ鯵の開き、うるめ鰯の目刺など持ちましては、飲代にいたしますが、その時はお前様、村のもとの庄屋様、代々長者の鶴谷喜十郎様、」  と丁寧に名のりを上げて、 「これが私ども、お主筋に当りましての。そのお邸の御用で、東海道の藤沢まで、買物に行ったのでござりました。  一月に一度ぐらいは、種々入用のものを、塩やら醤油やら、小さなものは洋燈の心まで、一車ずつ調えさっしゃります。  横浜は西洋臭し、三崎は品が落着かず、界隈は間に合わせの俄仕入れ、しけものが多うござりますので、どうしても目量のある、ずッしりしたお堅いものは、昔からの藤沢に限りますので、おねだんも安し、徳用向きゆえ、御大家の買物はまた別で、」  と姥は糸を操るような話しぶり。心のどかに口をまわして、自分もまたお茶参った。  しばらく往来もなかったのである。        八 「……おう、宰八か。お爺、在所へ帰るだら、これさ一個、産神様へ届けてくんな。ちょうどはい、その荷車は幸だ、と言わっしゃる。  見ると、お前様、嘉吉めが、今申したその体でござりましょ。  同じ産神様氏子夥間じゃ。承知なれど、私はこれ、手がこの通り、思うように荷が着けられぬ。御身たちあんばいよう直さっしゃい、荷の上へ載せべい、と爺どのが云いますとの。  何お爺い、そのまま上へ積まっしゃい、と早や二人して、嘉吉めが天窓と足を、引立てるではござりませぬか。  爺どのが、待たっしゃい、鶴谷様のお使いで、綿を大いこと買うて来たが、醤油樽や石油缶の下積になっては悪かんべいと、上荷に積んであるもんだ。喜十郎旦那が許で、ふっくりと入れさっしゃる綿の初穂へ、その酒浸しの怪物さ、押ころばしては相成んねえ、柔々積方も直さっしゃい、と利かぬ手の拳を握って、一力味力みましけ。  七面倒な、こうすべい、と荒稼ぎの気短徒じゃ。お前様、上かがりの縄の先を、嘉吉が胴中へ結へ附けて、車の輪に障らぬまでに、横づけに縛りました。  賃銭の外じゃ、落しても大事ない。さらば急いで帰らっしゃれ。しゃんしゃんと手を拍いて、賭博に勝ったものも、負けたものも、飲んだ酒と差引いて、誰も損はござりませぬ。可い機嫌のそそり節、尻まで捲った脛の向く方へ、ぞろぞろと散ったげにござります。  爺どのは、どっこいしょ、と横木に肩を入れ直いて、てんぼうの片手押しは、胸が力でござります。人通りが少いで、露にひろがりました浜昼顔の、ちらちらと咲いた上を、ぐいと曳出して、それから、がたがた。  大崩まで葉山からは、だらだらの爪先上り。後はなぞえに下り道。車がはずんで、ごろごろと、私がこの茶店の前まで参った時じゃ、と……申します。  やい、枕をくれ、枕をくれ、と嘉吉めが喚くげな。  何吐すぞい、この野郎、贅沢べいこくなてえ、狐店の白ッ首と間違えてけつかるそうな、とぶつぶつ口叱言を申しましての、爺どのが振向きもせずに、ぐんぐん曳いたと思わっしゃりまし。」 「何か、夢でも見たろうかね。」 「夢どころではござりますか、お前様、直ぐに縊殺されそうな声を出して、苦しい、苦しい、鼻血が出るわ、目がまうわ、天窓を上へ上げてくれ。やい、どうするだ、さあ、殺さば殺せ、漕がば漕げ、とまだ夢中で、嘉吉めは船に居る気でおります、よの。  胴中の縄が弛んで、天窓が地へ擦れ擦れに、倒になっておりますそうな。こりゃもっともじゃ、のう、たっての苦悩。  酒が上って、醒めずにいたりゃ本望だんべい、俺ら手が利かねえだに、もうちっとだ辛抱せろ、とぐらぐらと揺り出しますと、死ぬる、死ぬる、助け船引と火を吹きそうに喚いた、とのう。  この中ではござりませぬ、」  と姥は葭簀の外を見て、 「廂の蔭じゃったげにござります。浪が届きませぬばかり。低い三日月様を、漆見たような高い髷からはずさっせえまして、真白なのを顔に当てて、団扇が衣服を掛けたげな、影の涼しい、姿の長い、裾の薄蒼い、悚然とするほど美しらしいお人が一方。  すらすら道端へ出さっせての、 (…………)  爺どのを呼留めて、これは罪人か――と問わしつけえよ。  食物も代物も、新しい買物じゃ。縁起でもない事の。罪人を上積みにしてどうしべい、これこれでござる。と云うと、可哀相に苦しかろう、と団扇を取って、薄い羽のように、一文字に、横に口へ啣えさしった。  その時は、爺どのの方へ背を向けて、顔をこう斜っかいに、」  と法師から打背く、と俤のその薄月の、婦人の風情を思遣ればか、葦簀をはずれた日のかげりに、姥の頸が白かった。  荷物の方へ、するすると膝を寄せて、 「そこで?」 「はい、両手を下げて、白いその両方の掌を合わせて、がっくりとなった嘉吉の首を、四五本目の輻の辺で、上へ支げて持たっせえた。おもみが掛ったか、姿を絞って、肩が細りしましたげなよ。」        九 「介抱しよう、お下ろしな、と言わっしゃる。  その位な荒療治で、寝汗一つ取れる奴か。打棄っておかっせえ。面倒臭い、と顱巻しめた頭を掉って云うたれば、どこまで行く、と聞かしっけえ。  途中さまざまの隙ざえで、爺どのもむかっぱらじゃ、秋谷鎮座の明神様、俺等が産神へ届け物だ、とずッきり饒舌ると、 (受取りましょう、ここで可いから。) (お前様は?) (ああ、明神様の侍女よ。)と言わっしゃった。  月に浪が懸りますように、さらさらと、風が吹きますと、揺れながらこの葦簀の蔭が、格子縞のように御袖へ映って、雪の膚まで透通って、四辺には影もない。中空を見ますれば、白鷺の飛ぶような雲が見えて、ざっと一浪打ちました。  爺どのは悚然として、はい、はい、と柔順になって、縄を解くと、ずりこけての、嘉吉のあの図体が、どたりと荷車から。貴女は擡げた手を下へ、地の上へ着けるように、嘉吉の頭を下ろさっせえた。  足をばたばたの、手によいよい、輻も蹴はずしそうに悶きますわの。 (ああ、お前はもう可いから。)邪魔もののようにおっしゃったで、爺どのは心外じゃ……  何の、心外がらずともの、いけずな親仁でござりますがの、ほほ、ほほ。」 「いや、いや、私が聞いただけでも、何か、こうわざと邪慳に取扱ったようで、対手がその酔漢を労るというだけに、黙ってはおられません。何だか寝覚が悪いようだね。」 「ええ、串戯にも、氏神様の知己じゃと言わっしゃりましたけに、嘉吉を荷車に縛りましたのは、明神様の同一孫児を、継子扱いにしましたようで、貴女へも聞えが悪うござりますので。  綿の上積一件から荷に奴を縛ったは、爺どのが自分したことではない事を、言訳がましく饒舌りますと、(可いから、お前はあっちへ、)と、こうじゃとの。 (可かあねえだ。もの、理合を言わねえ事にゃ、ハイ気が済みましねえ。お前様も明神様お知己なら聞かっしゃい。老耆の手ぼう爺に、若いものの酔漢の介抱が何、出来べい。神様も分らねえ、こんな、くだま野郎を労ってやらっしゃる御慈悲い深い思召で、何でこれ、私等婆様の中に、小児一人授けちゃくれさっしゃらぬ。それも可い、無い子だねなら断念めべいが、提灯で火傷をするのを、何で、黙って見てござった。私が手ぼうでせえなくば、おなじ車に結えるちゅうて、こう、けんどんに、倒にゃ縛らねえだ。初対面のお前様見さっしゃる目に、えら俺が非道なようで、寝覚が悪い、)と顱巻を掉立てますと、のう。 (早く、お帰り、)と、継穂がないわの。 (いんにゃ、理を言わねえじゃ、)とまだ早や一概に捏ねようとしましたら…… (おいでよ、)と、お前様ね。  団扇で顔を隠さしったなり。背後へ雪のような手を伸して、荷車ごと爺どのを、推遣るようにさっせえた。お手の指が白々と、こう輻の上で、糸車に、はい、綿屑がかかったげに、月の光で動いたらばの、ぐるぐるぐると輪が廻って、爺どのの背へ、荷車が、乗被さるではござりませぬか。」 「おおおお、」  と、法師は目を睜って固唾を呑む。 「吃驚亀の子、空へ何と、爺どのは手を泳がせて、自分の曳いた荷車に、がらがら背後から押出されて、わい、というたぎり、一呼吸に村の取着き、あれから、この街道が鍋づる形に曲ります、明神様、森の石段まで、ひとりでに駆出しましたげな。  もっとも見さっしゃります通り、道はなぞえに、向へ低くはなりますが、下り坂と云う程ではなし、その疾いこと。一なだれに辷ったようで、やっと石段の下で、うむ、とこたえて踏留まりますと、はずみのついた車めは、がたがたと石ころの上を空廻りして、躍ったげにござります。  見上げる空の森は暗し、爺どのは、身震いをしたと申しますがの。」        十 「利かぬ気の親仁じゃ、お前様、月夜の遠見に、纏ったものの形は、葦簀張の柱の根を圧えて置きます、お前様の背後の、その石磈か、私が立掛けて置いて帰ります、この床几の影ばかり。  大崩壊まで見通しになって、貴女の姿は、蜘蛛巣ほども見えませぬ。それをの、透かし透かし、山際に附着いて、薄墨引いた草の上を、跫音を盗んで引返しましたげな。  嘉吉をどう始末さっしゃるか、それを見届けよう、という、爺どの了簡でござります。  荷車はの、明神様石段の前を行けば、御存じの三崎街道、横へ切れる畦道が在所の入口でござりますで、そこへ引込んだものでござります。人気も穏なり、積んだものを見たばかりで、鶴谷様御用、と札の建ったも同一じゃで、誰も手の障え人はござりませぬで。  爺どのは、這うようにして、身体を隠して引返したと言いましけ。よう姿が隠さりょう、光った天窓と、顱巻の茜色が月夜に消えるか。主ゃそこで早や、貴女の術で、活きながら鋏の紅い月影の蟹になった、とあとで村の衆にひやかされて、ええ、措けやい、気味の悪い、と目をぱちくり、泡を吹いたでござりますよ。  笑うてやらっしゃりませ。いけ年を仕って、貴女が、去ね、とおっしゃったを止せば可いことでござります。」  法師はかくと聞いて眉を顰め、 「笑い事ではない。何かお爺様に異状でもありましたか。」 「お目こぼしでござります、」  と姥は謹んだ、顔色して、 「爺どのはお庇と何事もござりませんで、今日も鶴谷様の野良へ手伝いに参っております。」 「じゃ、その嘉吉と云うのばかりが、変な目に逢ったんだね。」 「それも心がらでござります。はじめはお前様、貴女が御親切に、勿体ない……お手ずから薫の高い、水晶を噛みますような、涼しいお薬を下さって、水ごと残しておきました、……この手桶から、」……  と姥は見返る。捧げた心か、葦簀に挟んで、常夏の花のあるが下に、日影涼しい手桶が一個、輪の上に、――大方その時以来であろう――注連を張ったが、まだ新しい。 「水も汲んで、くくめておやり遊ばした。嘉吉の我に返った処で、心得違いをしたために、主人の許へ帰れずば、これを代に言訳して、と結構な御宝を。……  それがお前様、真緑の、光のある、美しい、珠じゃったげにございます。  爺どのが、潜り込んだ草の中から、その蟹の目を密と出して、見た時じゃったと申します。  こう、貴女がお持ちなさりました指の尖へ、ほんのりと蒼く映って、白いお手の透いた処は、大な蛍をお撮みなさりましたようじゃげな。  貴女のお身体に附属ていてこそじゃが、やがて、はい、その光は、嘉吉が賽ころを振る掌の中へ、消えましたとの。  それから、抜かっしゃりましたものらしい、少し俯向いて、ええ、やっぱり、顔へは団扇を当てたまんまで、お髪の黒い、前の方へ、軽く簪をお挿なされて、お草履か、雪駄かの、それなりに、はい、すらすらと、月と一所に女浪のように歩行かっしゃる。  これでまた爺どのは悚然としたげな。のう、いかな事でも、明神様の知己じゃ言わしったは串戯で、大方は、葉山あたりの誰方のか御別荘から、お忍びの方と思わしっけがの。  今行かっしゃるのは反対に秋谷の方じゃ。……はてな、と思うと、変った事は、そればかりではござりませぬよ。  嘉吉の奴がの、あろう事か、慈悲を垂れりゃ、何とやら。珠は掴む、酒の上じゃ、はじめはただ、御恩返しじゃの、お名前を聞きたいの、ただ一目お顔の、とこだわりましけ。柳に受けて歩行かっしゃるで、機織場の姉やが許へ、夜さり、畦道を通う時の高声の唄のような、真似もならぬ大口利いて、果は増長この上なし、袖を引いて、手を廻して、背後から抱きつきおる。  爺どのは冷汗掻いたげな。や、それでも召ものの裾に、草鞋が引かかりましたように、するすると嘉吉に抱かれて、前ざまに行かっしゃったそうながの、お前様、飛んでもない、」 「怪しからん事を――またしたもんです。」  と小次郎法師は苦り切る。        十一  姥は分別あり顔に、 「一目見たら、その御容子だけでなりと、分りそうなものでござります。  貴女が神にせよ、また人間にしました処で、嘉吉づれが口を利かれます御方ではござりませぬ。そうでなくとも、そんな御恩を被ったでござりますもの。拝むにも、後姿でのうては罰の当ります処、悪党なら、お前様、発心のしどころを。  根が悪徒ではござりませぬ、取締りのない、ただぼうと、一夜酒が沸いたような奴殿じゃ。薄も、蘆も、女郎花も、見境はござりませぬ。  髪が長けりゃ女じゃ、と合点して、さかりのついた犬同然、珠を頂いた御恩なぞも、新屋の姉えに、藪の前で、牡丹餅半分分けてもろうた了簡じゃで、のう、食物も下されば、お情も下さりょうぐらいに思うて、こびりついたでござります。  弁天様の御姿にも、蠅がたかれば、お鬱陶しい。  通りがかりにただ見ては、草がくれの路と云うても、旱に枯れた、岩の裂目とより見えませぬが、」  姥は腰を掛けたまま。さて、乗出すほどの距離でもなかった―― 「直きその、向う手を分け上りますのが、山一ツ秋谷在へ近道でござりまして、馬車こそ通いませぬけれども、私などは夜さり店を了いますると、お菓子、水菓子、商物だけを風呂敷包、ト背負いまして、片手に薬缶を提げたなりで、夕焼にお前様、影をのびのび長々と、曲った腰も、楽々小屋へ帰りますがの。  貴女はそこへ。……お裾が靡いた。  これは不思議、と爺どのが、肩を半分乗出す時じゃ、お姿が波を離れて、山の腹へすらりと高うなったと思うと、はて、何を嘉吉がしくさりましたか。  屹と振向かっしゃりました様子じゃっけ、お顔の団扇が飜然と飜って、斜に浴びせて、嘉吉の横顔へびしりと来たげな。  きゃっ!と云うと刎返って、道ならものの小半町、膝と踵で、抜いた腰を引摺るように、その癖、怪飛んで遁げて来る。  爺どのは爺どので、息を詰めた汗の処へ、今のきゃあ!で転倒して、わっ、と云うて山の根から飛出す処へ、胸を頭突に来るように、ドンと嘉吉が打附ったので、両方へ間を置いて、この街道の真中へ、何と、お前様、見られた図ではござりますか。  二人とも尻餅じゃ。 (ど、どうした野郎、)と小腹も立つ、爺どのが恐怖紛れに、がならっしゃると、早や、変でござりましたげな、きょろん、とした眼の見据えて、私が爺の宰八の顔をじろり。 (ば、ば、ば、) (ええ!) (怪物!)と云うかと思うと、ひょいと立って、またばたばたと十足ばかり、駆戻って、うつむけに突んのめったげにござりまして、のう。  爺どのは二度吃驚、起ちかけた膝がまたがっくりと地面へ崩れて、ほっと太い呼吸さついた。かっとなって浪の音も聞えませぬ。それでいて――寂然として、海ばかり動きます耳に響いて、秋谷へ近路のその山づたい。鈴虫が音を立てると、露が溢れますような、佳い声で、そして物凄う、 (ここはどこの細道じゃ、        細道じゃ。  天神さんの細道じゃ、        細道じゃ。  少し通して下さんせ、下さんせ。)  とあわれに寂しく、貴女の声で聞えました。  その声が遠くなります、山の上を、薄綿で包みますように、雲が白くかかりますと、音が先へ、颯あ――とたよりない雨が、海の方へ降って来て、お声は山のうらかけて、遠くなって行きますげな。  前刻見た兎の毛の雲じゃ、一雨来ようと思うた癖に、こりゃ心ない、荷が濡れよう、と爺どのは駆けて戻って、がッたり車を曳出しながら、村はずれの小店からまず声をかけて、嘉吉めを見せにやります。  何か、その唄のお声が、のう、十年五十年も昔聞いたようにもあれば、こう云う耳にも、響くと云います。  遠慮すると見えまして、余り委しい事は申しませぬが、嘉吉はそれから、あの通り気が変になりました。  さあ、界隈は評判で、小児どもが誰云うとなく、いつの間やら、その唄を……」        十二 (ここはどこの細道じゃ、        細道じゃ。  秋谷邸の細道じゃ、        細道じゃ。  少し通して下さんせ、        下さんせ。  誰方が見えても通しません、        通しません。) 「あの、こう唄うのではござりませんか。  当節は、もう学校で、かあかあ鴉が鳴く事の、池の鯉が麩を食う事の、と間違いのないお前様、ちゃんと理の詰んだ歌を教えさっしゃるに、それを皆が唄わいで、今申した―― (ここはどこの細道じゃ、  秋谷邸の細道じゃ。)  とあわれな、寂しい、細い声で、口々に、小児同士、顔さえ見れば唄い連れるでござりますが、近頃は久しい間、打絶えて聞いたこともござりませぬ――この唄を爺どのがその晩聞かしった、という話以来、――誰云うとなく流行りますので。  それも、のう元唄は、 (天神様の細道じゃ、  少し通して下さんせ、  御用のない人通しません、)  確か、こうでござりましょう。それを、 (秋谷邸の細道じゃ、  誰方が見えても通しません、         通しません。)  とひとりでに唄います、の。まだそればかりではござりません。小児たちが日の暮方、そこらを遊びますのに、厭な真似を、まあ、どうでござりましょう。  てんでんが芋※(くさかんむり/更)の葉を捩ぎりまして、目の玉二つ、口一つ、穴を三つ開けたのを、ぬっぺりと、こう顔へ被ったものでござります。大いのから小さいのから、その蒼白い筋のある、細ら長い、狐とも狸とも、姑獲鳥、とも異体の知れぬ、中にも虫喰のござります葉の汚点は、癩か、痘痕の幽霊。面を並べて、ひょろひょろと蔭日向、藪の前だの、谷戸口だの、山の根なんぞを練りながら今の唄を唄いますのが、三人と、五人ずつ、一組や二組ではござりませんで。  悪戯が蒿じて、この節では、唐黍の毛の尻尾を下げたり、あけびを口に啣えたり、茄子提灯で闇路を辿って、日が暮れるまでうろつきますわの。  気になるのは小石を合せて、手ん手に四ツ竹を鳴らすように、カイカイカチカチと拍子を取って、唄が段々身に染みますに、皆が家へ散際には、一人がカチカチ石を鳴らして、 (今打つ鐘は、)  と申しますと、 (四ツの鐘じゃ、)  と一人がカチカチ、五ツ、六ツ、九ツ、八ツと数えまして…… (今打つ鐘は、  七ツの鐘じゃ。)  と云うのを合図に、 (そりゃ魔が魅すぞ!)  と哄と囃して、消えるように、残らず居なくなるのでござりますが。  何とも厭な心持で、うそ寂しい、ちょうど盆のお精霊様が絶えずそこらを歩行かっしゃりますようで、気の滅入りますことと云うては、穴倉へ引入れられそうでござります。  活溌な唱歌を唄え。あれは何だ、と学校でも先生様が叱らしゃりますそうなが、それで留めますほどならばの、学校へ行く生徒に、蜻蛉釣るものも居りませねば、木登りをする小僧もない筈――一向に留みませぬよ。  内は内で親たちが、厳しく叱言も申します。気の強いのは、おのれ、凸助……いや、鼻ぴっしゃり、芋※(くさかんむり/更)の葉の凹吉め、細道で引捉まえて、張撲って懲そう、と通りものを待構えて、こう透かして見ますがの、背の高いのから順よく並んで、同一ような芋※(くさかんむり/更)の葉を被っているけに、衣ものの縞柄も気のせいか、逢魔が時に茫として、庄屋様の白壁に映して見ても、どれが孫やら、忰やら、小女童やら分りませぬ。  おなじように、憑物がして、魔に使われているようで、手もつけられず、親たちがうろうろしますの。村方一同寄ると障ると、立膝に腕組するやら、平胡坐で頬杖つくやら、変じゃ、希有じゃ、何でもただ事であるまい、と薄気味を悪がります。  中でも、ほッと溜息ついて、気に掛けさっしゃったのが、鶴谷喜十郎様。」  と丁寧に、また名告って、姥は四辺を見たのである。        十三  さて十年の馴染のように、擦寄って声を密め、 「童唄を聞かっしゃりまし――(秋谷邸の細道じゃ、誰方が見えても通しません)――と、の、それ、」  小次郎法師の頷くのを、合点させたり、と熟と見て、姥はやがて打頷き、 「……でござりましょう。まず、この秋谷で、邸と申しますれば――そりゃ土蔵、白壁造、瓦屋根は、御方一軒ではござりませぬが、太閤様は秀吉公、黄門様は水戸様でのう、邸は鶴谷に帰したもの。  ところで、一軒は御本宅、こりゃ村の草分でござりますが、もう一軒――喜十郎様が隠居所にお建てなされた、御別荘がござりましての。  お金は十分、通い廊下に藤の花を咲しょうと、西洋窓に鸚鵡を飼おうと、見本は直き近い処にござりまして、思召通りじゃけれど、昔気質の堅い御仁、我等式百姓に、別荘づくりは相応わしからぬ、とついこのさきの立石在に、昔からの大庄屋が土台ごと売物に出しました、瓦ばかりも小千両、大黒柱が二抱え。平家ながら天井が、高い処に照々して間数十ばかりもござりますのを、牛車に積んで来て、背後に大な森をひかえて、黒塗の門も立木の奥深う、巨寺のようにお建てなされて、東京の御修業さきから、御子息の喜太郎様が帰らっしゃりましたのに世を譲って、御夫婦一まず御隠居が済みましけ。  去年の夏でござりますがの、喜太郎様が東京で御贔屓にならしった、さる御大家の嬢様じゃが、夏休みに、ぶらぶら病の保養がしたい、と言わっしゃる。  海辺は賑かでも、馬車が通って埃が立つ。閑静な処をお望み、間数は多し誂え向き、隠居所を三間ばかり、腰元も二人ぐらい附く筈と、御子息から相談を打たっしゃると、隠居と言えば世を避けたも同様、また本宅へ居直るも億劫なり、年寄と一所では若い御婦人の気が詰ろう。若いものは若い同士、本家の方へお連れ申して、土用正月、歌留多でも取って遊ぶが可い、嫁もさぞ喜ぼう、と難有いは、親でのう。  そこで、そのお嬢様に御本家の部屋を、幾つか分けて、貸すことになりましけ。ある晩、腕車でお乗込み、天上ぬけに美い、と評判ばかりで、私等ついぞお姿も見ませなんだが、下男下女どもにも口留めして、秘さしったも道理じゃよ。  その嬢様は落っこちそうなお腹じゃげな。」 「むむ、孕んでいたかい。そりゃ怪しからん、その息子というのが馴染ではないのかね。」 「御推量でございます、そこじゃ、お前様。見えて半月とも経ちませぬに、豪い騒動が起ったのは、喜太郎様の嫁御がまた臨月じゃ。  御本家に飼殺しの親爺仁右衛門、渾名も苦虫、むずかしい顔をして、御隠居殿へ出向いて、まじりまじり、煙草を捻って言うことには、(ハイ、これ、昔から言うことだ。二人一斉に産をしては、後か、前か、いずれ一人、相孕の怪我がござるで、分別のうてはなりませぬ、)との。  喜十郎様、凶年にもない腕組をさっせえて、(善悪はともかく、内の嫁が可愛いにつけ、余所の娘の臨月を、出て行けとは無慈悲で言われぬ。ただし廂を貸したものに、母屋を明渡して嫁を隠居所へ引取る段は、先祖の位牌へ申訳がない。私等が本宅へ立帰って、その嬢様にはこの隠居所を貸すとしよう)――御夫婦、黒門を出さしったのが、また世に立たっしゃる前表かの。  鶴谷は再度、御隠居の代になりました。」 「息子さんは不埒が分って勘当かい。」 「聞かっせえまし、喜太郎様は亡くなりましたよ。前後へ黒門から葬礼が五つ出ました。」 「五つ!」 「ええ、ええ、お前様。」 「誰と誰と、ね?」 「はじめがその出養生の嬢様じゃ。これが産後でおいとしゅうならしった。大騒ぎのすぐあと、七日目に嫁御がお産じゃ。  汐時が二つはずれて、朝六つから夜の四つ時まで、苦しみ通しの難産でのう。  村中は火事場の騒ぎ、御本宅は寂として、御経の声やら、咳やら……」        十四 「占者が卦を立てて、こりゃ死霊の祟がある。この鬼に負けてはならぬぞ。この方から逆寄せして、別宅のその産屋へ、守刀を真先に露払いで乗込めさ、と古袴の股立ちを取って、突立上りますのに勢づいて、お産婦を褥のまま、四隅と両方、六人の手で密と舁いて、釣台へ。  お先立ちがその易者殿、御幣を、ト襟へさしたものでござります。筮竹の長袋を前半じゃ、小刀のように挟んで、馬乗提灯の古びたのに算木を顕しましたので、黒雲の蔽かぶさった、蒸暑い畦を照し、大手を掉って参ります。  嫁入道具に附いて来た、藍貝柄の長刀を、柄払いして、仁右衛門親仁が担ぎました。真中へ、お産婦の釣台を。そのわきへ、喜太郎様が、帽子かぶりで、蒼くなって附添った、背後へ持明院の坊様が緋の衣じゃ。あとから下男下女どもがぞろぞろと従きました。取揚婆さんは前へ早や駆抜けて、黒門のお部屋へ産所の用意。  途中、何とも希有な通りものでござりまして、あの蛍がまたむらむらと、蠅がなぶるように御病人の寝姿に集りますと、おなじ煩うても、美しい人の心かして、夢中で、こう小児のように、手で取っちゃ見さしっけ。  上へ手を上げさっしゃるのも、御容体を聞くにつけ、空をつかんで悶えさっしゃるようで、目も当てられぬ。  それでも祟りに負けるなと、言うて、一生懸命、仰向かしった枕をこぼれて、さまで瘠せも見えぬ白い頬へかかる髪の先を、しっかり白歯で噛ましったが、お馴染じゃ、私が藪の下で待つけて、御新造様しっかりなさりまし、と釣台に縋ったれば、アイと、細い声で云うて莞爾と笑わしった。橋を渡って向うへ通る、暗の晩の、榛の木の下あたり、蛍の数の宙へいかいことちらちらして、常夏の花の俤立つのが、貴方の顔のあたりじゃ、と目を瞑って、おめでたを祈りましたに……」  声も寂しゅう、 「お寺の鐘が聞えました。」 「南無阿弥陀仏、」 「お可哀相に、初産で、その晩、のう。  厭な事でござります。黒門へ着かしって、産所へ据えよう、としますとの、それ、出養生の嬢様の、お産の床と同一じゃ。(ああ、青い顱巻をした方が、寝てでござんす、ちっと傍へ)と……まあ、難産の嫁御がそう言わしっけ。  其奴に、負けるな、押潰せ、と構わず褥を据えましたが、夜露を受けたが悪かったか、もうお医者でも間に合わず。 (あなたも。……口惜い、)と恍惚して、枕にひしと喰つかしって、うむと云うが最期で、の、身二ツになりはならしったが、産声も聞えず、両方ともそれなりけり。  余りの事に、取逆上せさしったものと見えまして、喜太郎様はその明方、裏の井戸へ身を投げてしまわしった。  井戸替もしたなれど、不気味じゃで、誰も、はい、その水を飲みたがりませぬ処から、井桁も早や、青芒にかくれましたよ。  七日に一度、十日に一度、仁右衛門親仁や、私がとこの宰八――少いものは初から恐ろしがって寄つきませぬで――年役に出かけては、雨戸を明けたり、引窓を繰ったり、日も入れ、風も通したなれど、この間のその、のう、嘉吉が気が違いました一件の時から、いい年をしたものまで、黒門を向うの奥へ、木下闇を覗きますと、足が縮んで、一寸も前へ出はいたしませぬ。  簪の蒼い光った珠も、大方蛍であろう、などと、ひそひそ風説をします処へ、芋※(くさかんむり/更)の葉に目口のある、小さいのがふらふら歩行いて、そのお前様、 (秋谷邸の細道じゃ、  誰方が見えても……)  でござりましょう。人足が絶えるとなれば、草が生えるばっかりじゃ。ハテ黒門の別宅は是非に及ばぬ。秋谷邸の本家だけは、人足が絶やしとうないものを、どうした時節か知らぬけれど、鶴谷の寿命が来たのか、と喜十郎様は、かさねがさねおつむりが真白で。おふくろ様も好いお方、おいとしい事でござります。  おお、おお、つい長話になりまして、そちこち刻限、ああ、可厭な芋※(くさかんむり/更)の葉が、唄うて歩行く時分になりました。」  と姥は四辺を眗した。浪の色が蒼くなった。  寂然として、果は目を瞑って聞入った旅僧は、夢ならぬ顔を上げて、葭簀から街道の前後を視めたが、日脚を仰ぐまでもない。 「身に染む話に聞惚れて、人通りがもう影法師じゃ。世の中には種々な事がある。お婆さん、お庇で沢山学問をした、難有う、どれ……」        十五 「そして、御坊様は、これからどこまで行かっしゃりますよ。」  包を引寄せる旅僧に連れて、姥も腰を上げて尋ねると、 「鎌倉は通越して、藤沢まで今日の内に出ようという考えだったが、もう、これじゃ葉山で灯が点こう。  おお、そう言や、森戸の松の中に、ちらちらと灯が見える。」 「よう御存じでござりますの。」 「まだ俗の中に知っています。そこで鎌倉を見物にも及ばず、東海道の本筋へ出ようという考えじゃったが、早や遅い。  修業が足りんで、樹下、石上、野宿も辛し、」  と打微笑み、 「鎌倉まで行きましょうよ。」 「それはそれは、御不都合な、つい話に実が入りまして、まあ、とんだ御足を留めましてござります。」 「いや、どういたして、忝い。私は尊いお説教を聴問したような心持じゃ。  何、嘘ではありません。  見なさる通り、行脚とは言いながら、気散じの旅の面白さ。蝶々蜻蛉の道連には墨染の法衣の袖の、発心の涙が乾いて、おのずから果敢ない浮世の露も忘れる。  いつとなく、仏の御名を唱えるのにも遠ざかって、前刻も、お前ね。  実はここに来しなであった。秋谷明神と云う、その森の中の石段の下を通って、日向の麦畠へ差懸ると、この辺には余り見懸けぬ、十八九の色白な娘が一人、めりんす友染の襷懸け、手拭を冠って畑に出ている。  歩行きながら振返って、何か、ここらにおもしろい事もないか、と徒口半分、檜笠の下から頤を出して尋ねるとね。  はい、浪打際に子産石と云うのがござんす。これこれでここの名所、と土地自慢も、優しく教えて、石段から真直ぐに、畑中を切って出て見なさんせ、と指さしをしてくれました。  いかに石が名所でも、男ばかりで児が出来るか。何と、姉や、と麦にかくれる島田を覗いて、天狗わらいに冴えて来ました、面目もない不了簡。  嘉吉とかを聞くにつけても、よく気が違わずに済んだ事、とお話中に悚気としたよ。  黒門の別荘とやらの、話を聞くと引入れられて、気が沈んで、しんみりと真心から念仏の声が出ました。  途中すがらもその若い人たちを的に仏名を唱えましょう。木賃の枕に目を瞑ったら、なお歴然、とその人たちの、姿も見えるような気がするから、いっそよく念仏が申されようと考える。  聞かしておくれの、お婆さん、お前は善智識、と云うても可い、私は夜通しでも構わんが。  あんまり身を入れて話をする――聞く――していたので、邪魔になっては、という遠慮か、四五人こっちを覗いては、素通をしたのがあります。  近在の人と見える。風呂敷包を腰につけて、草履穿きで裾をからげた、杖を突張った、白髪の婆さんの、お前さんとは知己と見えるのが、向うから声をかけたっけ。お前さんが話に夢中で、気が着かなんだものだから、そのままほくほく去ってしまった。  私も聞惚れていた処、話の腰を折られては、と知らぬ顔で居たっけよ。  大層お店の邪魔をしました、実に済まぬ。」  と扇を膝に、両手で横に支きながら、丁寧に会釈する。  姥はあらためて右瞻左瞻たが、 「お上人様、御殊勝にござります、御殊勝にござります。難有や、」  と浅からず渇仰して、 「本家が村一番の大長者じゃと云えば、申憎い事ながら、どこを宿ともお定めない、御見懸け申した御坊様じゃ。推しても行って回向をしょう。ああもしょう、こうもしてやろう、と斎布施をお目当で……」  とずっきり云った。 「こりゃ仰有りそうな処、御自分の越度をお明かしなさりまして、路々念仏申してやろう、と前途をお急ぎなさります飾りの無いお前様。  道中、お髪の伸びたのさえ、かえって貴う拝まれまする。どうぞ、その御回向を黒門の別宅で、近々として進ぜて下さりませぬか。……  もし、鶴谷でもどのくらい喜びますか分りませぬ。」        十六  鶴谷が下男、苦虫の仁右衛門親仁。角のある人魂めかして、ぶらりと風呂敷包を提げながら、小川べりの草の上。 「なあよ、宰八、」 「やあ、」  と続いた、手ぼう蟹は、夥間の穴の上を冷飯草履、両足をしゃちこばらせて、舞鶴の紋の白い、萌黄の、これも大包。夜具を入れたのを引背負ったは、民が塗炭に苦んだ、戦国時代の駆落めく。 「何か、お前が出会した――黒門に逗留してござらしゃる少え人が、手鞠を拾ったちゅうはどこらだっけえ。」 「直きだ、そうれ、お前が行く先に、猫柳がこんもりあんべい。」 「おお、」 「その根際だあ。帽子のふちも、ぐったり、と草臥れた形での、そこに、」  と云った人声に、葉裏から蛍が飛んだ。が、三ツ五ツ星に紛れて、山際薄く、流が白い。  この川は音もなく、霞のように、どんよりと青田の村を這うのである。 「ここだよ。ちょうど、」  と宰八はちょっと立留まる。前途に黒門の森を見てあれば、秋谷の夜はここよりぞ暗くなる、と前途に近く、人の足許が朦朧と、早やその影が押寄せて、土手の低い草の上へ、襲いかかる風情だから、一人が留まれば皆留まった。  宰八の背後から、もう一人。杖を突いて続いた紳士は、村の学校の訓導である。 「見馴れねえ旅の書生さんじゃ、下ろした荷物に、寝そべりかかって、腕を曲げての、足をお前、草の上へ横投げに投出して、ソレそこいら、白鷺の鶏冠のように、川面へほんのり白く、すいすいと出て咲いていら、昼間見ると桃色の優しい花だ、はて、蓬でなしよ。」 「石竹だっぺい。」 「撫子の一種です、常夏の花と言うんだ。」  と訓導は姿勢を正して、杖を一つ、くるりと廻わすと、ドブン。 「ええ!驚かなくても宜しい。今のは蛙だ。」 「その蛙……いんねさ、常夏け。その花を摘んでどうするだか、一束手ぶしに持ったがね。別にハイそれを視めるでもねえだ。美しい目水晶ぱちくりと、川上の空さ碧く光っとる星い向いて、相談打つような形だね。  草鞋がけじゃで、近辺の人ではねえ。道さ迷ったら教えて進ぜべい、と私もう内へ帰って、婆様と、お客に売った渋茶の出殻で、茶漬え掻食うばかりだもんで、のっそりその人の背中へ立って見ていると、しばらく経ってよ。  むっくりと起返った、と思うとの。……(爺様、あれあれ、)」  その時、宰八川面へ乗出して、母衣を倒に水に映した。 「(手毬が、手毬が流れる、流れてくる、拾ってくれ、礼をする。)  見ると、成程、泡も立てずに、夕焼が残ったような尾を曳いて、その常夏を束にした、真丸いのが浮いて来るだ。 (銭金はさて措かっせえ、だが、足を濡らすは、厭な事だ。)と云う間も無え。  突然ざぶりと、少え人は衣服の裾を掴んだなりで、川の中へ飛込んだっけ。  押問答に、小半時かかればとって、直ぐに突ん流れるような疾え水脚では、コレ、無えものを、そこは他国の衆で分らねえ。稲妻を掴えそうな慌て方で、ざぶざぶ真中で追かける、人の煽りで、水が動いて、手毬は一つくるりと廻った。岸の方へ寄るでねえかね。 (えら!気の疾え先生だ。さまで欲しけりゃ算段のうして、柳の枝を折ぺっしょっても引寄せて取ってやるだ、見さっせえ、旅の空で、召ものがびしょ濡れだ。)と叱言を言いながら、岸へ来たのを拾おう、と私、えいやっと蹲んだが。  こんな川でも、動揺みにゃ浪を打つわ、濡れずば栄螺も取れねえ道理よ。私が手を伸すとの、また水に持って行かれて、手毬はやっぱり、川の中で、その人が取らしっけがな。……ここだあ仁右衛門、先生様も聞かっせえ。」  と夜具風呂敷の黄母衣越に、茜色のその顱巻を捻向けて、 「厭な事は、……手毬を拾うと、その下に、猫が一匹居たではねえかね。」        十七  訓導は苦笑いして、 「可い加減な事を云う、狂気の嘉吉以来だ。お前は悪く変なものに知己のように話をするが、水潜りをするなんて、猫化けの怪談にも、ついに聞いた事はないじゃないか。」 「お前様もね、当前だあこれ、空を飛ぼうが、泳ごうが、活きた猫なら秋谷中私ら知己だ。何も厭な事はねえけんど、水ひたしの毛がよれよれ、前足のつけ根なぞは、あか膚よ。げっそり骨の出た死骸でねえかね。」  訓導は打棄るように、 「何だい、死骸か。」 「何だ死骸か、言わっしゃるが、死骸だけに厭なこんだ。金壺眼を塞がねえ。その人が毬を取ると、三毛の斑が、ぶよ、ぶよ、一度、ぷくりと腹を出いて、目がぎょろりと光ッたけ。そこら鼠色の汚え泡だらけになって、どんみりと流れたわ、水とハイ摺々での――その方は岸へ上って、腰までずぶ濡れの衣を絞るとって、帽子を脱いで仰向けにして、その中さ、入れさしった、傍で見ると、紫もありゃ黄色い糸もかがってある、五色の――手毬は、さまで濡れてはいねえだっけよ。」 「なあよ、宰八、」 「何だえ。」  仁右衛門は沈んだ声で、 「その手毬はどうしたよ。」 「今でもその学生が持ってるかね。」  背後から、訓導がまた聞き挟む。 「忽然として消え失せただ。夢に拾った金子のようだね。へ、へ、へ、」  とおかしな笑い方。 「ふん、」  と苦虫は苦ったなりで、てくてくと歩行き出す。 「嘘を吐け、またはじめた。大方、お前が目の前で、しゃぼん球のように、ぱっと消えてでもなくなったろう、不思議さな。」 「違えます、違えますとも!」  仁右衛門の後を打ちながら、 「その人が、 (爺様、この里では、今時分手毬をつくか。) (何でね?) (小児たちが、優しい声、懐しい節で唄うている。 ここはどこの細道じゃ、 秋谷邸の細道じゃ……)  一件ものをの、優しい声、懐しい声じゃ云うて、手毬を突くか、と問わっしゃるだ。  とんでもねえ、あれはお前様、芋※(くさかんむり/更)の葉が、と言おうとしたが、待ちろ、芸もねえ、村方の内証を饒舌って、恥掻くは知慧でねえと、 (何お前様、学校で体操するだ。おたま杓子で球をすくって、ひるてんの飛っこをすればちゅッて、手毬なんか突きっこねえ、)と、先生様の前だけんど、私一ツ威張ったよ。」 「何だ、見ともない、ひるてんの飛びっことは。テニスだよ、テニスと言えば可い。」 「かね……私また西洋の雀躍か、と思ったけ、まあ、可え。」 「ちっとも可かあない、」  と訓導は唾をする。 「それにしても、奥床しい、誰が突いた毬だろう、と若え方問わっしゃるだが。  のっけから見当はつかねえ、けんど、主が袂から滝のように水が出るのを見るにつけても、何とかハイ勘考せねばなんねえで、その手毬を持って見た、」  と黄母衣を一つ揺上げて、 「濡れちゃいねえが、ヒヤリとしたでね、可い塩梅よ、引込んだのは手棒の方、」  へへ、とまた独りで可笑がり、 「こっちの手で、ハイ海へ落ちさっしゃるお日様と、黒門の森に掛ったお月様の真中へ、高くこう透かして見っけ。  しゃぼん球ではねえよ。真円な手毬の、影も、草に映ったでね。」 「それがまたどうして消えた、馬鹿な!」  と勢込む、つき反らした杖の尖が、ストンと蟹の穴へ狭ったので、厭な顔をした訓導は、抜きざまに一足飛ぶ。 「まあ、聞かっせえ。  玉味噌の鑑定とは、ちくと物が違うでな、幾ら私が捻くっても、どこのものだか当りは着かねえ。 (霞のような小川の波に、常夏の影がさして、遠くに……(細道)が聞える処へ、手毬が浮いて……三年五年、旅から旅を歩行いたが、またこんな嬉しい里は見ない、)  と、ずぶ濡の衣を垂れる雫さえ、身体から玉がこぼれでもするほどに若え方は喜ばっしゃる。」        十八 「――(この上誰か、この手毬の持主に逢えるとなれば、爺さん、私は本望だ、野山に起臥して旅をするのもそのためだ。)  と、話さっしゃるでの。村を賞められたが憎くねえだし、またそれまでに思わっしゃるものを、ただわかりましねえで放擲しては、何か私、気が済まねえ。  そこで、草原へ蹲み込んで、信にはなさりますめえけんど、と嘉吉に蒼い珠授けさしった……」  しばらく黙って、 「の、事を話したらばの。先生様の前だけんど、嘘を吐け、と天窓からけなさっしゃりそうな少え方が、 (おお、その珠と見えたのも、大方星ほどの手毬だろう。)と、あのまた碧い星を視めて云うだ。けちりんも疑わねえ。 (なら、まだ話します事がござります、)とついでに黒門の空邸の話をするとの。 (川はその邸の、庭か背戸を通って流れはしないか。)  と乗出しけよ。……(流れは見さっしゃる通りだ)……」  今もおなじような風情である。――薄りと廂を包む小家の、紫の煙の中も繞れば、低く裏山の根にかかった、一刷灰色の靄の間も通る。青田の高低、麓の凸凹に従うて、柔かにのんどりした、この一巻の布は、朝霞には白地の手拭、夕焼には茜の襟、襷になり帯になり、果は薄の裳になって、今もある通り、村はずれの谷戸口を、明神の下あたりから次第に子産石の浜に消えて、どこへ灌ぐということもない。口につけると塩気があるから、海潮がさすのであろう。その川裾のたよりなく草に隠れるにつけて、明神の手水洗にかけた献燈の発句には、これを霞川、と書いてあるが、俗に呼んで湯川と云う。  霞に紛れ、靄に交って、ほのぼのと白く、いつも水気の立つ処から、言い習わしたものらしい。  あの、薄煙、あの、靄の、一際夕暮を染めたかなたこなたは、遠方の松の梢も、近間なる柳の根も、いずれもこの水の淀んだ処で。畑一つ前途を仕切って、縦に幅広く水気が立って、小高い礎を朦朧と上に浮かしたのは、森の下闇で、靄が余所よりも判然と濃くかかったせいで、鶴谷が別宅のその黒門の一構。  三人は、彼処をさして辿るのである。  ここに渠等が伝う岸は、一間ばかりの川幅であるが、鶴谷の本宅の辺では、およそ三間に拡がって、川裾は早やその辺からびしょびしょと草に隠れる。  ここへは、流をさかのぼって来るので、間には橋一つ渡らねばならぬ。  橋は明神の前へ、三崎街道に一つ、村の中に一つ。今しがた渠等が渡って、ここから見えるその村の橋も、鶴谷の手で欄干はついているが、細流の水静かなれば、偏に風情を添えたよう。青い山から靄の麓へ架け渡したようにも見え、低い堤防の、茅屋から茅屋の軒へ、階子を横えたようにも見え、とある大家の、物好に、長く渡した廻廊かとも視められる。  灯もやや、ちらちらと青田に透く。川下の其方は、藁屋続きに、海が映って空も明い。――水上の奥になるほど、樹の枝に、茅葺の屋根が掛って、蓑虫が塒したような小家がちの、それも三つが二つ、やがて一つ、窓の明も射さず、水を離れた夕炊の煙ばかり、細く沖で救を呼ぶ白旗のように、風のまにまに打靡く。海の方は、暮が遅くて灯が疾く、山の裾は、暮が早くて、燈が遅いそうな。  まだそれも、鳴子引けば遠近に便があろう。家と家とが間を隔て、岸を措いても相望むのに、黒門の別邸は、かけ離れた森の中に、ただ孤家の、四方へ大なる蜘蛛のごとく脚を拡げて、どこまでもその暗い影を畝らせる。  月は、その上にかかっているのに。……  先達の仁右衛門は、早やその樹立の、余波の夜に肩を入れた。が、見た目のさしわたしに似ない、帯がたるんだ、ゆるやかな川添の道は、本宅から約八丁というのである。  宰八が言続いで、 「……(外廻りを流れて来るし、何もハイ空家から手毬を落す筈はねえ。そんでも猫の死骸なら、あすこへ持って行って打棄った奴があるかも知んねえ、草ぼうぼうだでのう、)と私、話をしただがね。」        十九 「それからその少え方は、(どうだろう、その黒門の空家というのを、一室借りるわけには行くまいか、自炊を遣って、しばらく旅の草臥を休めたい、)と相談打ったが。  ねえ、先生様。  お前様、今の住居は、隣の嚊々が小児い産んで、ぎゃあぎゃあ煩え、どこか貸す処があるめえか、言わるるで、そん当時黒門さどうだちゅったら、あれは、と二の足を蹈ましっけな。」  と横ざまに浴せかけると、訓導は不意打ながら、さしったりで、杖を小脇に引抱き、 「学校へ通うのに足場が悪くって、道が遠くって仕様がないから留めたんだ。」 「朝寝さっしゃるせいだっぺい。」  仁右衛門が重い口で。  訓導は教うるごとく、 「第一水が悪い。あの、また真蒼な、草の汁のようなものが飲めるものかい。」 「そうかね――はあ、まず何にしろだ。こっちから頼めばとって、昼間掃除に行くのさえ、厭がります空屋敷じゃ。そこが望み、と仰有るに、お住居下さればその部屋一ツだけも、屋根の草が無うなって、立腐れが保つこんだで、こっちは願ったり、叶ったり、本家の旦那もさぞ喜びましょうが、尋常体の家でねえ。あの黒門を潜らっしゃるなら、覚悟して行かっせえ、可うがすか、と念を入れると、 (いやその位の覚悟はいつでもしている。)  と落着いたもんだてえば。  はてな、この度胸だら盗賊でも大将株だ、と私、油断はねえ、一分別しただがね、仁右衛門よ、」 「おおよ。」 「前刻、着たっきりで、手毬を拾いに川ん中さ飛込んだ時だ。旅空かけて衣服をどうするだ、と私頼まれ効もなかったけえ、気の毒さもあり、急がずば何とかで濡れめえものを夕立だ、と我鳴った時よ。 (着物は一枚ありますから……)  と見得でねえわ、見得でねえね。極りの悪そうに、人の心を無にしねえで言訳をするように言わしっけが、こいつを睨んで、はあ、そこへ私が押惚れただ。  殊勝な、優しい、最愛い人だ。これなら世話をしても仔細あんめえ。第一、あの色白な仁体じゃ……化……仁右衛門よ。」 「何い、」 「暗くなったの、」 「彼これ、酉刻じゃ。」 「は、南無阿弥陀仏、黒門前は真暗だんべい。」 「大丈夫、月が射すよ。」  と訓導は空を見て、 「お前、その手毬の行方はどうしたんだい。」 「そこだてね、まあ聞かっせえ、客人が、その最愛らしい容子じゃ……化、」  とまた言い掛けたが、青芒が川のへりに、雑木一叢、畑の前を背屈み通る真中あたり、野末の靄を一呼吸に吸込んだかと、宰八唐突に、 「はッくしょ!」  胴震いで、立縮み、 「風がねえで、えら太い蜘蛛の巣だ。仁右衛門、お前、はあ、先へ立って、よく何ともねえ。」 「巣、巣どころか、己あ樹の枝から這いかかった、土蜘蛛を引掴んだ。」 「ひゃあ、」 「七日風が吹かねえと、世界中の人を吸殺すものだちゅっけ、半日蒸すと、早やこれだ。」  と握占めた掌を、自分で捻開けるようにして開いたが、恐る恐る透して見ると、 「何ぢゃ、蟹か。」  水へ、ザブン。  背後で水車のごとく杖を振廻していた訓導が、 「長蛇を逸すか、」  と元気づいて、高らかに、 「たちまち見る大蛇の路に当って横わるを、剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影!」 「ええ、静にしてくらっせえ、……もう近えだ。」  と仁右衛門は真面目に留める。 「おい、手毬はどうして消えたんだな、焦ったい。」 「それだがね、疾え話が、御仁体じゃ。化物が、の、それ、たとい顔を嘗めればとって、天窓から塩とは言うめえ、と考えたで、そこで、はい、黒門へ案内しただ。仁右衛門も知っての通り――今日はまた――内の婆々殿が肝入で、坊様を泊めたでの、……御本家からこうやって夜具を背負って、私が出向くのは二度目だがな。」        二十 「その書生さんの時も、本宅の旦那様、大喜びで、御酒は食らぬか。晩の物だけ重詰にして、夜さりまた掻餅でも焼いてお茶受けに、お茶も土瓶で持って行け。  言わっしゃったで、一風呂敷と夜具包みを引背負って出向いたがよ。  へい、お客様前刻は。……本宅でも宜しく申してでござりました。お手廻りのものや、何やかや、いずれ明日お届け申します。一餉ほんのお弁当がわり。お茶と、それから臥らっしゃるものばかり。どうぞハイ緩り休まっしゃりましと、口上言うたが、着物は既に浴衣に着換えて、燭台の傍へ……こりゃな、仁右衛門や私が時々見廻りに行く時、皆閉切ってあって、昼でも暗えから要害に置いてあった。……先に案内をした時に、彼これ日が暮れたで、取り敢ず点して置いたもんだね。そのお前様、蝋燭火の傍に、首い傾げて、腕組みして坐ってござるで、気になるだ。 (どうかさっせえましたか。)と尋ねるとの。  ここだ!」  と唐突に屹と云う。 「ええ何か、」と訓導は一足退く。  宰八は委細構わず。 「手毬の消えたちゅうがよ。(ここに確に置いたのが見えなくなった、)と若え方が言わっしゃるけ。  そうら、始まったぞ、と私一ツ腰をがっくりとやったが、縁側へつかまったあ――どんな風に、失くなったか、はあ、聞いたらばの。  三ツばかり、どうん、どうん、と屋根へ打附ったものがあった……大な石でも落ちたようで、吃驚して天井を見上げると、あすこから、と言わしっけ。仁右衛門、それ、の、西の鉢前の十畳敷の隅ッこ。あの大掃除の検査の時さ、お巡査様が階子さして、天井裏へ瓦斯を点けて這込まっしゃる拍子に、洋刀の鐺が上って倒になった刀が抜けたで、下に居た饂飩屋の大面をちょん切って、鼻柱怪我ァした、一枚外れている処だ。  どんと倒落しに飛んで下りたは三毛猫だあ。川の死骸と同じ毛色じゃ、(これは、と思うと縁へ出て)……と客人の若え方が言わっしゃったで、私は思わず傍へ退いたが。  庭へ下りて、草茫々の中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、忽然と消えちゅうは、……ここの事だね。」 「消えたか、落したか分るもんか。」 「はあ、分らねえから、変でがしょ、」 「何もちっとも変じゃない。いやしくも学校のある土地に不思議と云う事は無いのだから。」 「でも、お前様、その猫がね、」 「それも猫だか、鼬だか、それとも鼠だが、知れたもんじゃない。森の中だもの、兎だって居るかも知れんさ。」 「そのお前様、知れねえについてでがさ。」 「だから、今夜行って、僕が正体を見届けてやろうと云うんだ。」 「はい、どうぞ、願えますだ。今までにも村方で、はあ、そんな事を言って出向いたものがの、なあ、仁右衛門。」  無言なり。 「前方へ行って目をまわしっけ、」 「馬鹿、」  と憤然とした調子で呟く。  きかぬ気の宰八、紅の鋏を押立て、 「お前様もまた、馬鹿だの、仁右衛門だの、坊様だの、人大勢の時に、よく今夜来さしった。今まではハイついぞ行って見ようとも言わねえだっけが。」 「当前です、学校の用を欠いて、そんな他愛もない事にかかり合っていられるもんかい。休暇になったから運動かたがた来て見たんだ。」 「へ、お前様なんざ、畳が刎ねるばかりでも、投飛ばされる御連中だ。」 「何を、」 「私なんざ臆病でも、その位の事にゃ馴れたでの、船へ乗った気で押こらえるだ。どうしてどうして、まだ、お前……」 「宰八よ、」  と陰気な声する。 「おお、」 「ぬしゃまた何も向う面になって、おかしなもののお味方をするにゃ当るめえでねえか。それでのうてせえ、おりゃ重いもので押伏せられそうな心持だ。」  と溜息をして云った。浮世を鎖したような黒門の礎を、靄がさそうて、向うから押し拡がった、下闇の草に踏みかかり、茂の中へ吸い込まれるや、否や、仁右衛門が、 「わっ、」  と叫んだ。        二十一 「はじめの夜は、ただその手毬が失せましただけで、別に変った事件も無かったでございますか。」  と、小次郎法師の旅僧は法衣の袖を掻合せる。  障子を開けて縁の端近に差向いに坐ったのは、少い人、すなわち黒門の客である。  障子も普通よりは幅が広く、見上げるような天井に、血の足痕もさて着いてはおらぬが、雨垂が伝ったら墨汁が降りそうな古びよう。巨寺の壁に見るような、雨漏の痕の画像は、煤色の壁に吹きさらされた、袖のひだが、浮出たごとく、浸附いて、どうやら饅頭の形した笠を被っているらしい。顔ぞと見る目鼻はないが、その笠は鴨居の上になって、空から畳を瞰下ろすような、惟うに漏る雨の余り侘しさに、笠欲ししと念じた、壁の心が露れたものであろう――抜群にこの魍魎が偉大いから、それがこの広座敷の主人のようで、月影がぱらぱらと鱗のごとく樹の間を落ちた、広縁の敷居際に相対した旅僧の姿などは、硝子障子に嵌込んだ、歌留多の絵かと疑わるる。 「ええ、」  と黒門の年若な逗留客は、火のない煙草盆の、遥に上の方で、燧灯を摺って、静に吸いつけた煙草の火が、その色の白い頬に映って、長い眉を黒く見せるほど室の内は薄暗い。――差置かれたのは行燈である。 「まだその以前でした。話すと大勢が気にしますから、実は宰八と云う、爺さん……」 「ああ、手ぼうの……でございますな。」 「そうです。あの親仁にも謂わないでいたんですが、猫と一所に手毬の亡くなりますちつと、前です。」  この古館のまずここへ坐りましたが、爺さんは本家へ、と云って参りました。黄昏にただ私一人で、これから女中が来て、湯を案内する、上って来ます、膳が出る。床を取る、寝る、と段取の極りました旅籠屋でも、旅は住心の落着かない、全く仮の宿です……のに、本家でもここを貸しますのを、承知する事か、しない事か。便りに思う爺さんだって、旅他国で畔道の一面識。自分が望んでではありますが、家と云えば、この畳を敷いた――八幡不知。  第一要害がまるで解りません。真中へ立ってあっちこっち瞻しただけで、今入って来た出口さえ分らなくなりましたほどです。  大袈裟に言えば、それこそ、さあ、と云う時、遁路の無い位で。夏だけに、物の色はまだ分りましたが、日は暮れるし、貴僧、黒門までは可い天気だったものを、急に大粒な雨!と吃驚しますように、屋根へ掛りますのが、この蔽かぶさった、欅の葉の落ちますのです。それと知りつつ幾たびも気になっては、縁側から顔を出して植込の空を透かしては見い見いしました、」  と肩を落して、仰ぎ様に、廂はずれの空を覗いた。 「やっぱり晴れた空なんです……今夜のように。」 「しますると……」  旅僧は先祖が富士を見た状に、首あげて天井の高きを仰ぎ、 「この、時々ぱらぱらと来ますのは、木の葉でございますかな。」 「御覧なさい、星が降りそうですから、」 「成程。その癖音のしますたびに、ひやひやと身うちへ応えますで、道理こそ、一雨かかったと思いましたが。」 「お冷えなさるようなら、貴僧、閉めましょう。」 「いいえ、蚊を疵にして五百両、夏の夜はこれが千金にも代えられません、かえって陽気の方がお宜しい。」  と顔を見て、 「しかし、いかにもその時はお寂しかったでございましょう。」 「実際、貴僧、遥々と国を隔てた事を思い染みました。この果に故郷がある、と昼間三崎街道を通りつつ、考えなかったでもありませんが、場所と時刻だけに、また格別、古里が遠かったんです。」 「失礼ながら、御生国は、」 「豊前の小倉で、……葉越と言います。」  葉越は姓で、渠が名は明である。 「ああ、御遠方じゃ、」  と更めて顔を見る目も、法師は我ながら遥々と海を視める思いがした。旅の窶が何となく、袖を圧して、その単衣の縞柄にも顕れていたのであった。 「そして貴僧は、」 「これは申後れました、私は信州松本の在、至って山家ものでございます。」 「それじゃ、二人で、海山のお物語が出来ますね。」  と、明は優しく、人懐つこい。        二十二 「不思議な御縁で、何とも心嬉しく存じますが、なかなかお話相手にはなりません。ただ 承りまするだけで、それがしかし何より私には結構でございます。」  と僧は慇懃である。  明は少し俯向いた。瘠せた顋に襟狭く、 「そのお話と云いますのが、実に取留めのない事で、貴僧の前では申すのもお恥かしい。」 「決して、さような事はございません。茶店の婆さんはこの邸に憑物の――ええ、ただ聞きましたばかりでも、成程、浮ばれそうもない、少い仏たちの回向も頼む。ついては貴下のお話も出ましてな。何か御覚悟がおありなさるそうで、熟と辛抱をしてはござるが、怪しい事が重なるかして、お顔の色も、日ごとに悪い。  と申せば、庭先の柿の広葉が映るせいで、それで蒼白く見えるんだから、気にするな、とおっしゃるが、お身体も弱そうゆえに、老寄夫婦で一層のこと気にかかる。  昼の内は宰八なり、誰か、時々お伺いはいたしますが、この頃は気怯れがして、それさえ不沙汰がちじゃに因って、私によくお見舞い申してくれ、と云う、くれぐれもその託でございました。が何か、最初の内、貴方が御逗留というのに元気づいて、血気な村の若い者が、三人五人、夜食の惣菜ものの持寄り、一升徳利なんぞ提げて、お話対手、夜伽はまだ穏な内、やがて、刃物切物、鉄砲持参、手覚えのあるのは、係羂に鼠の天麩羅を仕掛けて、ぐびぐび飲みながら、夜更けに植込みを狙うなんという事がありますそうで?――  婆さんが話しました。」 「私は酒はいけず、対手は出来ませんから、皆さんの車座を、よく蚊帳の中から見ては寝ました。一時は随分賑でした。  まあ、入かわり立かわり、十日ばかり続いて、三人四人ずつ参りましたが、この頃は、ばったり来なくなりましたんです。」 「と申す事でございますな。ええ、時にその入り交り立ち交りにつけて、何か怪しい、」  と言いかけて偶と見返った、次の室と隔ての襖は、二枚だけ山のように、行燈の左右に峰を分けて、隣国までは灯が届かぬ。  心も置かれ、後髪も引かれた状に、僧は首に気を入れて、ぐっと硬くなって、向直って、 「その怪しいものの方でも、手をかえ、品をかえ、怯かす。――何かその……畳がひとりでに持上りますそうでありますが、まったくでございますかな。」  熟と視て聞くと、また俯向いて、 「ですから、お話しも極りが悪い、取留めのない事だと申すんです。」 「ははあ、」  と胸を引いて、僧は寛いだ状に打笑い、 「あるいはそうであろうかにも思いましたよ。では、ただ村のものが可い加減な百物語。その実、嘘説なのでございますので?」 「いいえ、それは事実です。畳は上りますとも。貴僧、今にも動くかも分りません。」 「ええ!や、それは、」  と思わず、膝を辷らした手で、はたはたと圧えると、爪も立ちそうにない上床の固い事。 「これが、動くでございますか。」 「ですから、取留めのない事ではありませんか。」  と静に云うと、黙って、ややあって瞬して、 「さよう、余り取留めなくもないようでございます。すると、坐っているものはいかがな儀に相成りましょうか。」 「騒がないで、熟としていさえすれば、何事もありません。動くと申して、別に倒に立って、裏返しになるというんじゃないのですから、」 「いかにも、まともにそれじゃ、人間が縁の下へ投込まれる事になりますものな。」 「そうですとも。そうなった日には、足の裏を膠で附着けておかねばなりません。  何ともないから、お騒ぎなさるなと云っても、村の人が肯かないで、畳のこの合せ目が、」  と手を支いて、ずっと掌を辷らしながら、 「はじめに、長い三角だの、小さな四角に、縁を開けて、きしきしと合ったり、がらがらと離れたり、しかし、その疾い事は、稲妻のように見えます。  そうするともう、わっと言って、飛ぶやら刎ねるやら、やあ!と踏張って両方の握拳で押えつける者もあれば、いきなり三宝火箸でも火吹竹でも宙で振廻す人もある――まあ一人や二人は、きっとそれだけで縁から飛出して遁げて行きます。」        二十三 「どたん、ばたん、豪い騒ぎ。その立騒ぐのに連れて、むくむくむくむく、と畳を、貴僧、四隅から持上げますが、二隅ずつ、どん、どん、順に十畳敷を一時に十ウ、下から握拳を突出すようです。それ毛だらけだ、わあ女の腕だなんて言いますが、何、その畳の隅が裏返るように目まぐるしく飜るんです。  もうそうなると、気の上った各自が、自分の手足で、茶碗を蹴飛ばす、徳利を踏倒す、海嘯だ、と喚きましょう。  その立廻りで、何かの拍子にゃ怪我もします、踏切ったくらいでも、ものがものですから、片足切られたほどに思って、それがために寝ついたのもあるんだそうで。漁師だとか言いましたっけ。一人、わざわざ山越えで浜の方から来たんだって、怪物に負けない禁厭だ、と鱏の針を顱鉄がわりに、手拭に畳込んで、うしろ顱巻なんぞして、非常な勢だったんですが、猪口の欠の踏抜きで、痛が甚い、お祟だ、と人に負さって帰りました。  その立廻りですもの。灯が危いから傍へ退いて、私はそのたびに洋燈を圧え圧えしたんですがね。  坐ってる人が、ほんとに転覆るほど、根太から揺れるのでない証拠には、私が気を着けています洋燈は、躍りはためくその畳の上でも、静として、ちっとも動きはせんのです。  しかしまた洋燈ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻った事がありました。やがて貴僧、風車のように舞う、その癖、場所は変らないので、あれあれと云う内に火が真丸になる、と見ている内、白くなって、それに蒼味がさして、茫として、熟と据る、その厭な光ったら。  映る手なんざ、水へ突込んでるように、畝ったこの筋までが蒼白く透通って、各自の顔は、皆その熟した真桑瓜に目鼻がついたように黄色くなったのを、見合せて、呼吸を詰める、とふわふわと浮いて出て、その晩の座がしらという、一番強がった男の膝へ、ふッと乗ったことがあるんですね。  わッと云うから、騒いじゃ怪我をしますよ、と私が暗い中で声を掛けたのに、猫化だ遣つけろ、と誰だか一人、庭へ飛出して遁げながら喚いた者がある。畜生、と怒鳴って、貴僧、危いの何のじゃない!  ※(火+發)と明くなって旧の通洋燈が見えると、その膝に乗られた男が――こりゃ何です、可い加減な年配でした――かつて水兵をした事があるとか云って、かねて用意をしたものらしい、ドギドギする小刀を、火屋の中から縦に突刺してるじゃありませんか。」 「大変で、はあ、はあ、」 「ト思うと一呼吸に、油壺をかけて突壊したもんだから、流れるような石油で、どうも、後二日ばかり弱りました。  その時は幸に、当人、手に疵をつけただけ、勢で壊したから、火はそれなり、ばったり消えて、何の事もありませんでしたが、もしやの時と、皆が心掛けておきました、蝋燭を点けて、跡始末に掛ると、さあ、可訝いのは、今の、怪我で取落した小刀が影も見えないではありませんか。  驚きました。これにゃ、皆が貴僧、茶釜の中へ紛れ込んで祟るとか俗に言う、あの蜥蜴の尻尾の切れたのが、行方知れずになったより余程厭な紛失もの。襟へ入っていはしないか、むずむずするの、褌へささっちゃおらんか、ひやりとするの、袂か、裾か、と立つ、坐る、帯を解きます。  前にも一度、大掃除の検査に、階子をさして天井へ上った、警官さんの洋剣が、何かの拍子に倒になって、鍔元が緩んでいたか、すっと抜出したために、下に居たものが一人、切られた事がある座敷だそうで。  外のものとは違う。切物は危い、よく探さっしゃい、針を使ってさえ始める時と了う時には、ちゃんと数を合わせるものだ。それでもよく紛失するが、畳の目にこぼれた針は、奈落へ落ちて地獄の山の草に生える。で、餓鬼が突刺される。その供養のために、毎年六月の一日は、氷室の朔日と云って、少い娘が娘同士、自分で小鍋立ての飯ごとをして、客にも呼ばれ、呼びもしたものだに、あのギラギラした小刀が、縁の下か、天井か、承塵の途中か、在所が知れぬ、とあっては済まぬ。これだけは夜一夜さがせ、と中に居た、酒のみの年寄が苦り切ったので、総立ちになりました。  これは、私だって気味が悪かったんです。」  僧はただ目で応え、目で頷く。        二十四 「洋燈の火でさえ、大概度胆を抜かれたのが、頼みに思った豪傑は負傷するし、今の話でまた変な気になる時分が、夜も深々と更けたでしょう。  どんな事で、どこから抛り投げまいものでもない。何か、対手の方も斟酌をするか、それとも誰も殺すほどの罪もないか、命に別条はまず無かろうが、怪我は今までにも随分ある。  さあ、捜す、となると、五人の天窓へ燭台が一ツです。蝋の継ぎ足しはあるにして、一時に燃すと翌方までの便がないので、手分けをするわけには行きません。  もうそうなりますとね、一人じゃ先へ立つのも厭がりますから、そこで私が案内する、と背後からぞろぞろ。その晩は、鶴谷の檀那寺の納所だ、という悟った禅坊さんが一人。変化出でよ、一喝で、という宵の内の意気組で居たんです。ちっとお差合いですね、」 「いえ、宗旨違いでございます、」  と吃驚したように莞爾する。 「坊さんまじりその人数で。これが向うの曲角から、突当りのはばかりへ、廻縁になっています。ぐるりとその両側、雨戸を開けて、沓脱のまわり、縁の下を覗いて、念のため引返して、また便所の中まで探したが、光るものは火屋の欠も落ちてはいません。  じゃあ次の室を……」  と振返って、その大なる襖を指した。 「と皆が云うから、私は留めました。  ここを借りて、一室だけでも広過ぎるから、来てからまだ一度も次の室は覗いて見ない。こういう時開けては不可ません。廊下から、厠までは、宵から通った人もある。転倒している最中、どんな拍子で我知らず持って立って、落して来ないとも限らんから、念のため捜したものの、誰も開けない次の室へ行ってるようでは、何かが秘したんだろうから、よし有ったにした処で、先方にもしその気があれば、怪我もさせよう、傷もつけよう。さて無い、となると、やっぱり気が済まんのは同一道理。押入も覗け、棚も見ろ、天井も捜せ、根太板をはがせ、となっては、何十人でかかった処で、とてもこの構えうち隅々まで隈なく見尽される訳のものではない。人足の通った、ありそうな処だけで切上げたが可いでしょう――  それもそうか、いよいよ魔隠しに隠したものなら、山だか川だか、知れたものではない。  まあ、人間業で叶わん事に、断念めは着きましたが、危険な事には変わりはないので。いつ切尖が降って来ようも知れません。ちっとでも楯になるものをと、皆が同一心です。言合わせたように順々に……前へ御免を被りますつもりで、私が釣っておいた蚊帳へ、総勢六人で、小さくなって屈みました。  変におしおきでも待ってるようでなお不気味でした。そうか、と云って、夜夜中、外へ遁出すことは思いも寄らず、で、がたがた震える、突伏す、一人で寝てしまったのがあります、これが一番可いのです。坊様は口の裏で、頻にぶつぶつと念じています。  その舌の縺れたような、便のない声を、蚊の唸る中に聞きながら、私がうとうとしかけました時でした。密と一人が揺ぶり起して、 (聞えますか、)  と言います。 (ココだ、ココだ、と云う声が、)と、耳へ口をつけて囁くんです。それから、それへ段々、また耳移しに。 (失物はココにある、というお知らせだろう、) (どうか、)と言う、ひそひそ相談。  耳を澄ますと、蚊帳越の障子のようでもあり、廊下の雨戸のようでもあり、次の間と隔ての襖際……また柱の根かとも思われて、カタカタ、カタカタと響く――あの茶立虫とも聞えれば、壁の中で蝙蝠が鳴くようでもあるし、縁の下で、蟇が、コトコトと云うとも考えられる。それが貴僧、気の持ちようで、ココ、ココ、ココヨとも、ココト、とも云うようなんです。  自分のだけに、手を繃帯した水兵の方が、一番に蚊帳を出ました。  返す気で、在所をおっしゃるからは仔細はない、と坊さんがまた這出して、畳に擦附けるように、耳を澄ます。と水兵の方は、真中で耳を傾けて、腕組をして立ってなすったっけ。見当がついたと見えて、目で知らせ合って、上下で頷いて、その、貴僧の背後になってます、」 「え!」  と肩越に淵を差覗くがごとく、座をずらして見返りながら、 「成程。」 「北へ四枚目の隅の障子を開けますとね。溝へ柄を、その柱へ、切尖を立掛けてあったろうではありませんか。」        二十五 「それッきり、危うございますから、刃物は一切厳禁にしたんです。  遊びに来て下さるも可し、夜伽とおっしゃるも難有し、ついでに狐狸の類なら、退治しようも至極ごもっともだけれども、刀、小刀、出刃庖丁、刃物と言わず、槍、鉄砲、――およそそういうものは断りました。  私も長い旅行です。随分どんな処でも歩行き廻ります考えで。いざ、と言や、投出して手を支くまでも、短刀を一口持っています――母の記念で、峠を越えます日の暮なんぞ、随分それがために気丈夫なんですが、謹のために桐油に包んで、風呂敷の結び目へ、しっかり封をつけておくのですが、」 「やはり、おのずから、その、抜出すでございますか。」 「いいえ、これには別条ありません。盗人でも封印のついたものは切らんと言います。もっとも、怪物退治に持って見えます刃物だって、自分で抜かなければ別条はないように思われますね。それに貴僧、騒動の起居に、一番気がかりなのは洋燈ですから、宰八爺さんにそう云って、こうやって行燈に取替えました。」 「で、行燈は何事も、」 「これだって上ります。」 「あの上りますか。宙へ?」  時に、明の、行燈のその皿あたりへ、仕切って、うつむけに伏せた手が白かった。 「すう、とこう、畳を離れて、」 「ははあ、」  とばかり、僧は明の手のかげで、燈が暗くなりはしないか、と危んだ目色である。 「それも手をかけて、圧えたり、据えようとしますと、そのはずみに、油をこぼしたり、台ごとひっくりかえしたりします。障らないで、熟と柔順くしてさえいれば、元の通りに据直って、夜が明けます。一度なんざ行燈が天井へ附着きました。」 「天……井へ、」 「下に蚊帳が釣ってありますから、私も存じながら、寝ていたのを慌てて起上って、蚊帳越にふらふら釣り下った、行燈の台を押えようと、うっかり手をかけると、誰か取って引上げるように鴨居を越して天井裏へするりと入ると、裏へちゃんと乗っかりました。もう堆い、鼠の塚か、と思う煤のかたまりも見えれば、遥に屋根裏へ組上げた、柱の形も見える。  可訝いな、屋根裏が見えるくらいじゃ、天井の板がどこか外れた筈だが、とふと気がつくと、桟が弛んでさえおりますまい。  板を抜けたものか知らん、余り変だ、と貴僧。  ここで心が定まりますと、何の事もない。行燈は蚊帳の外の、宵から置いた処にちゃんとあって、薄ぼんやり紙が白けたのは、もう雨戸の外が明方であったんです。」 「その晩は、お一人で、」 「一人です、しかも一昨晩。」 「一昨晩?」  と、思わずまたぎょっとする。 「で、何でございますか、その夜伽連は、もうそれ以来懲りて来なくなったんでございますかな。」 「お待ち下さい、トあの、西瓜で騒いだ夜は、たしかその後でしたっけ。  何、こりゃ詰らない事ですけれども、弱ったには弱りましたよ。……  確か三人づれで、若い衆が見えました。やっぱり酒を御持参で。大分お支度があったと見えて、するめの足を噛りながら、冷酒を茶碗で煽るようなんじゃありません。  竹の皮包みから、この陽気じゃ魚の宵越しは出来ん、と云って、焼蒲鉾なんか出して。  旨うございましたよ、私もお相伴しましたっけ、」  と悠々と迫らぬ調子で、 「宵には何事もありませんでした。可い塩梅な酔心地で、四方山の話をしながら、螽一ツ飛んじゃ来ない。そう言や一体蚊も居らんが、大方その怪物が餌食にするだろう。それにしちゃ吝な食物だ――何々、海の中でも親方となるとかえって小さい物を餌にする。鯨を見ろ、しこ鰯だ、なぞと大口を利いて元気でしたが、やがて酒はお積りになる、夜が更けたんです。  ここでお茶と云う処だけれど、茶じゃ理に落ちて魔物が憑け込む。酔醒にいいもの、と縁側から転がし出したのは西瓜です。聞くと、途中で畑盗人をして来たんだそうで――それじゃかえって、憑込もうではありませんか。」        二十六 「手並を見ろ、狐でも狸でも、この通りだ、と刃物の禁断は承知ですから、小刀を持っちゃおりません、拳固で、貴僧。  小相撲ぐらい恰幅のある、節くれだった若い衆でしたが……」  場所がまた悪かった。―― 「前夜、ココココ、と云って小刀を出してくれたと同一処、敷居から掛けて柱へその西瓜を極めて置いて、大上段です。  ポカリ遣った。途端に何とも、凄まじい、石油缶が二三十打つかったような音が台所の方で聞えたんです。  唐突ですから、宵に手ぐすねを引いた連中も、はあ、と引呼吸に魂を引攫れた拍子に――飛びました。その貴僧、西瓜が、ストンと若い衆の胸へ刎上ったでしょう。  仰向に引くりかえると、また騒動。  それ、肩を越した、ええ、足へ乗っかる。わああ!裾へ纏わる、火の玉じゃ。座頭の天窓よ、入道首よ、いや女の生首だって、可い加減な事ばかり。夕顔の花なら知らず、西瓜が何、女の首に見えるもんです。  追掛けるのか、逃廻るのか、どたばた跳飛ぶ内、ドンドンドンドンと天井を下から上へ打抜くと、がらがらと棟木が外れる、戸障子が鳴響く、地震だ、と突伏したが、それなり寂として、静になって、風の音もしなくなりました。  ト屋根に生えた草の、葉と葉が入交って見え透くばかりに、月が一ツ出ています。――今の西瓜が光るのでした。  森は押被さっておりますし、行燈はもとよりその立廻りで打倒れた。何か私どもは深い狭い谷底に居窘まって、千仞の崖の上に月が落ちたのを視めるようです。そう言えば、欅の枝に這いかかって、こう、月の上へ蛇のように垂かかったのが、蔦の葉か、と思うと、屋根一面に瓜畑になって、鳴子縄が引いてあるような気もします。  したたかな、天狗め、とのぼせ上って、宵に蚊いぶしに遣った、杉ッ葉の燃残りを取って、一人、その月へ投げつけたものがありました。  もろいの、何の、ぼろぼろと朽木のようにその満月が崩れると、葉末の露と一つになって、棟の勾配を辷り落ちて、消えたは可いが、ぽたりぽたり雫がし出した。頸と言わず、肩と言わず、降りかかって来ましたが、手を当てる、とべとりとして粘る。嗅いでみると、いや、貴僧、悪甘い匂と言ったら。  夜深しに汗ばんで、蒸々して、咽喉の乾いた処へ、その匂い。血腥いより堪りかねて、縁側を開けて、私が一番に庭へ出ると、皆も跣足で飛下りた。  驚いたのは、もう夜が明けていたことです。山の巓の方は蒼くなって、麓へ靄が白んでいました。  不思議な処へ、思いがけない景色を見て、和蘭陀へ流された、と云うのがあるし、堪らない、まず行燈をつけ直せ、と怒鳴ったのが居る。  屋根のその辺だ、と思う、西瓜のあとには、烏が居て、コトコトと嘴を鳴らし、短夜の明けた広縁には、ぞろぞろ夥しい、褐色の黒いのと、松虫鈴虫のようなのが、うようよして、ざっと障子へ駆上って消えましたが、西瓜の核が化ったんですって。  連中は、ふらふらと二日酔いのような工合で、ぼんやり黒門を出て、川べりに帰りました。  橋の処で、杭にかかって、ぶかぶか浮いた真蒼な西瓜を見て、それから夢中で、遁げたそうです。  昼過ぎに、宰八が来て、その話。  私はその時分までぐっすり寝ました。  この時おかしかったのは、爺さんが、目覚しに茶を一つ入れてやるべいって、小まめに世話をして、佳い色に煮花が出来ましたが、あいにく西瓜も盗んで来ない。何かないか、と考えて、有る――台所に糖味噌が、こりゃ私に、と云って一々運ぶも面倒だから、と手の着いたのじゃあるが、桶ごと持って来て、時々爺さんが何かを突込んでおいてくれるんでした。  一人だから食べ切れないで、直きつき過ぎる、と云って、世話もなし、茄子を蔕ごと生のもので漬けてありました。可い漬り加減だろう、とそれに気が着いて、台所へ出ましたっけ。 (お客様あ、) (何だい。) (昨夜凄じい音がしたと言わしっけね、何にも落こちたものはねえね。)  って言いながら、やがて小鉢へ、丸ごと五つばかり出して来ました。  薄お納戸の好い色で。」        二十七 「青葉の影の射す処、白瀬戸の小鉢も結構な青磁の菓子器に装ったようで、志の美しさ。  箸を取ると、その重った茄子が、あの、薄皮の腹のあたりで、グッ、グッ。  一ツ音を出すと、また一つグッ、もう一つのもググ、ググと声を立てるんですものね。  変な顔をして、宰八が、 (お客様、聞えるかね。) (ああ鳴くとも。) (ちんじちょうようだ、此奴、)  と爺様が鉈豆のような指の尖で、ちょいと押すと、その圧されたのがグググ、手をかえるとまた他のがググ。  心あって鳴くようで、何だか上になった、あの蔕の取手まで、小さな角らしく押立ったんです。  また飛出さない内に、と思って、私は一ツ噛ったですよ。」 「召食ったか。」  と、僧は怪訝顔で、 「それは、お豪い。」 「何聞く方の耳が鳴るんでしょうから、何事もありません、茄子の鳴くわけは無いのですから。  それでも爺さんは苦切って、少い時にゃ、随分悪物食をしたものだで、葬い料で酒ェ買って、犬の死骸なら今でも食うが、茄子の鳴くのは厭だ、と言います。  もっとも変なことは変ですが、同じ気味の悪い中でも、対手が茄子だけに、こりゃおかしくって可かったですよ。」 「茄子ならば、でございますが、ものは茄子でも、対手は別にございましょう。」  明は俯向いて莞爾した、別に意味のない笑だった。 「で、そりゃ昼間の事でございますな。」 「昨日の午後でした。」 「昼間からは容易でない。」  と半ば呟くがごとくに云って、 「では、昨夜あたりはさぞ……」  と聞く方が眉を顰める。 「ええ、酷うございました、どうせ、夜が寝られはしないんですから、」 「それでお窶れなさるのじゃ、貴下、お顔の色がとんだ悪い!……  茶店の婆さんが申したも、その事でございます。  唯今お話を伺いました。そんなこんなで村の者も行かなくなり、爺様も夜は恐がって参りませんから、貴下の御容子が分らないに因って、家つきの仏を回向かたがた、お見舞申してはくれまいか、と云うに就いて、推参したのでございますが、いや、何とも驚きました。  いずれ御厄介に相成らねばなりませんが、私もどうか唯今のその茄子の鳴くぐらいな処で、御容赦が願いたい。  どこと云って三界宿なし、一泊御報謝に預る気で参ったわけで。なかなか家つきの幽霊、祟、物怪を済度しようなどという道徳思いも寄らず。実は入道名さえ持ちません。手前勝手、申訳のないお詫びに剃ったような坊主。念仏さえ碌に真心からは唱えられんでございまして、御祈祷僧などと思われましては、第一、貴下の前へもお恥かしゅうございますが、いかがでございましょう。お宿を願いましても差支えはないでございましょうか。いくらか覚悟はして参りましたが、目のあたりお話を伺いましては、ちと二の足でございますが。」 「一人でも客がありますと、それだけ鶴谷では喜びますそうです。持主の本宅が喜びますものを、誰に御遠慮が入りますものですか。私もお連があって、どんなに嬉しいか知れません。」 「そりゃ、鶴谷殿はじめ、貴下の思召しはさように難有うございましても、別にその……ええ、まず、持主が鶴谷としますと、この空屋敷の御支配でございますな、――その何とも異様な、あの、その、」 「それは私も御同然です。人の住むのが気に入らないので荒れるのだろうと思いますが。  そこなんです、貴僧。逆いさえしませんければ、畳も行燈も何事もないのですもの。戸障子に不意に火が附いてそこいらめらめら燃えあがる事がありましても、慌てて消す処は破れ、水を掛けた処は濡れますが、それなりの処は、後で見ますと濡れた様子もないのですから。  座敷だっていくらもあります、貴僧、」  とふと心づいたように、 「御一所でお煩ければ、隣のお座敷へいらっしゃい。何か正体を見届けようなぞと云っては不可ませんが、鶴谷が許したお客僧が、何も御遠慮には及びません。  ただすらりと開かないで、何かが圧えてでもいるようでしたら、お見合せなさいまし。逆うと悪いんですから。」        二十八 「なかなか、逆らいますどころではございません、座敷好みなんぞして可いものでございますか。  あの襖を振向いて熟と視ろ、とおっしゃったって、容易にゃそちらも向けません次第で、御覧の通り、早や固くなっております。  お話につけて申しますが、実は手前もこの黒門を潜りました時は、草に支えて、しばらく足が出ませんでございました。  それと申すが、まず庭口と思う処で、キリキリトーンと、余程その大轆轤の、刎釣瓶を汲上げますような音がいたす。  もっとも曰くづきの邸ながら、貴下お一方はまずともかくもいらっしゃる。人が住めば水も要ろうで、何も釣瓶の音が不思議と云うでは、道理上、こりゃ無いのでありまするが、婆さんに聞きました心積り、学生の方が自炊をしてお在と云えば、土瓶か徳利に汲んで事は足りる、と何となく思ってでもおりましたせいか、そのどうも水を汲む音が、馴れた女中衆でありそうに思われました。  ト台所の方を、どうやら嫋娜とした、脊の高い御婦人が、黄昏に忙しい裾捌きで通られたような、ものの気勢もございます。  何となく賑かな様子が、七輪に、晩のお菜でもふつふつ煮えていようという、豆腐屋さ――ん、と町方ならば呼ぶ声のしそうな様子で。  さては婆さんに試されたか、と一旦は存じましたが、こう笠を傾けて遠くから覗込みました、勝手口の戸からかけて、棟へ、高く烏瓜の一杯にからんだ工合が、何様、何ヶ月も閉切らしい。  ござったかな、と思いながら、擽ったいような御門内の草を、密と蹈んで入りますと、春さきはさぞ綺麗でございましょう。一面に紫雲英が生えた、その葉の中へ伝わって、断々ながら、一条、蒼ずんだ明るい色のものが、這ったように浮いたように落ちています。上へさした森の枝を、月が漏る影に相違は無さそうなが、何となく婦人の黒髪、その、丈長く、足許に光るようで。  変に跨ぎ心地が悪うございますから、避けて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔が露れたようでございましたっけ、熟く見ると、兎なんで。  ところでその蛇のような光る影も、向かわって、また私の出途へ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。  これが反対だと、旧の潜門へ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。  式台前で、私はまず挨拶をいたしたでございます。  主もおわさば聞し召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに得脱成仏の回向いたそう。何を力に、退散の呪詛を申そう。御姿を見せたまわば偏に礼拝を仕る。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、御住居の筵一枚を貸したまわれ……」  ――旅僧はその時、南無仏と唱えながら、漣のごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで一揖したのであった。―― 「それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐに開きましたから、頻に前刻の、あの、えへん!えへん!咳をしながら――酷くなっておりますな――芝生を伝わって、夥しい白粉の花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。  あの白粉の花は見事です。ちらちら紅色のが交って、咲いていますが、それにさえ、貴方、法衣の袖の障るのは、と身体をすぼめて来ましたが、今も移香がして、憚多い。  もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた慄然としたほどでございますから。  何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。  しかし貴下は、唯今うけたまわりましたような可怖い只中に、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。」 「私くらい臆病なものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」 「さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目的で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召で。」 「どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。」 「それでは、外に、」 「ええ、望み――と申しますと、まだ我があります。実は願事があって、ここにこうして、参籠、通夜をしておりますようなものです。」        二十九 「それが貴僧、前刻お話をしかけました、あの手毬の事なんです。」 「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」 「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」  と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝進めたのである。 「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行きますのも、詮ずる処、ある意味の手毬唄を……」 「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」 「夢とも、現とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂えぬ――そして、優しい、懐しい、あわれな、情のある、愛の籠った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然とする、胸を掻挘るような、あの、恍惚となるような、まあ例えて言えば、芳しい清らかな乳を含みながら、生れない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬れて、それを聞きたいと思いますんです。」  この数分時の言の中に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音、木の葉の囁きまで、稲妻のごとく胸の裡に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯と金字紺泥に瞳に描いて試みたが、それかと思うのは更に分らぬ。 「して、その唄は、貴下お聞きになったことがございましょうか。」 「小児の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。  年を取るに従うて、まるで貴僧、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。  東京のある学校を卒業ますのを待かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。  第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。  ト夢のように心着いたのは、同一町に三人あった、同一年ごろの娘です。 (産んだその子が男の児なら、  京へ上ぼせて狂言させて、  寺へ上ぼせて手習させて、  寺の和尚が、  道楽和尚で、  高い縁から突落されて、  笄落し  小枕落し、)  と、よく私を遊ばせながら、母も少かった、その娘たちと、毬も突き、追羽子もした事を現のように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜半には、むっくりと起きて、嬉しさに雀躍をしたんですが、貴僧、その中の一人は、まだ母の存命の内に、雛祭の夜なくなりました。それは私も知っている――  一人は行方が知れない、と言います……  やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず可し、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、小流があって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその古樹がちらほら残って、真盛りの、朧月夜の事でした。  今貴僧がここへいらっしゃる玄関前で、紫雲英の草を潜る兎を見たとおっしゃいました、」 「いや、肝心のお話の中へ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。」 「背後が直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。  が、似た事のありますものです――その時は小狗でした。鈴がついておりましたっけ。白垢の真白なのが、ころころと仰向けに手をじゃれながら足許を転がって行きます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。  まさか奥様に、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと―― (夜中何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には懸れません。)  と云って厭な顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」        三十 「叔母がつくづく意見をしました。(はじめから彼家へ行くと聞いたら遣るのじゃなかった――黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ幼馴染だと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、)とこうです。  母親の友達を尋ねるに、色気の嫌疑はおかしい、と聞いて見ると、何、女の児はませています、それに紅い手絡で、美しい髪なぞ結って、容づくっているから可い姉さんだ、と幼心に思ったのが、二つ違い、一つ上、亡くなったのが二つ上で、その奥さんは一ツ上のだそうで、行方の知れないのは、分らないそうでした。  事が面倒になりましてね、その夫人の親里から、叔母の家へ使が来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体がございますから以来は、と苦り切って帰りました。  勿論病気でも何でもなかったそうです。  一月ばかり経って、細かに、いろいろと手毬唄、子守唄、童唄なんぞ、百幾つというもの、綺麗に美しく、細々とかいた、文が来ました。  しまいへ、紅で、 ――嫁入りの果敢なさを唄いしが唄の中にも沢山におわしまし候――  と、だけ記してありました。……  唯今も大切にして持ってはいますが、勿論、その中に、私の望みの、母の声のはありません。  さあ、もう一人……行方の知れない方ですが……  またこれが貴僧、家を越したとか、遠国へ行ったとかいうのなら、いくらか手懸りもあるし、何の不思議もないのですが、俗に申します、神がくしに逢ったんで、叔母はじめ固くそう信じております。  名は菖蒲と言いました。  一体その娘の家は、母娘二人、どっちの乳母か、媼さんが一人、と母子だけのしもた屋で、しかし立派な住居でした。その母親というのは、私は小児心に、ただ歯を染めていたのと、鼻筋の通った、こう面長な、そして帯の結目を長く、下襲か、蹴出しか、褄をぞろりと着崩して、日の暮方には、時々薄暗い門に立って、町から見えます、山の方を視めては悄然彳んでいたのだけ幽に覚えているんですが、人の妾だとも云うし、本妻だとも云う、どこかの藩候の落胤だとも云って、ちっとも素性が分りません。  娘は、別に異ったこともありませんが、容色は三人の中で一番佳かった――そう思うと、今でも目前に見えますが。  その娘です、余所へは遊びに来ましたけれど、誰も友達を、自分の内へ連れて行った事はありませんでした。  寄合って、遊事を。これからおもしろくなろうという時、不意に母さんがお呼びだ、とその媼さんが出て来て引張って帰ることが度々で、急に居なくなる、跡の寂しさと云ったらありません。――先の内は、自分でもいやいや引立てられるようにして帰り帰りしたものですが、一ツは人の許へ自分は来て、我が家へ誰も呼ばない、という遠慮か、妙な時ふと立っちゃ、独で帰ってしまうことがいくらもあったんです。  ですから何だかその娘ばかりは、思うように遊べない、勝手に誘われない、自由にはならない処から、遠いが花の香とか云います。余計に私なんざ懐くって、(菖ちゃんお遊びな)が言えないから、合図の石をかちかち叩いては、その家の前を通ったもんでした。  それが一晩、真夜中に、十畳の座敷を閉め切ったままで、どこかへ姿をかくしたそうで。  丑年の事だから、と私が唄を聞きたさに、尋ねた時分……今から何年前だろう、と叔母が指を折りましたっけ……多年になりますが。」        三十一 「故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、衣を清め、身を清め……」  唾をのんで聞いた客僧が、 「成程、」  と腕組みして、 「精進潔斎。」 「そんな大した、」  と言消したが、また打頷き 「どうせ娘の子のする事です。そうまでも行きますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその洗髪を櫛巻きに結んで、笄なしに、紅ばかり薄くつけるのだそうです。  それから、十畳敷を閉込んで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ婦の魂を据える、鏡です。  丑童子、斑の御神、と、一心に念じて、傍目も触らないで、瞻めていると、その丑の年丑の月丑の日の……丑時になると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。  娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その丑待を独でして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。……それっきりになっているんですもの。  手のつけようがありますまい。  いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓を揺ぶって、記の松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。  その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、麓に玉散る石を噛んで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、戦くばかりで声が出ない。  うわの空で居たせいか、一日、山路で怪我をして、足を挫いて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、籠を出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいと杖で飛んで、いや不恰好な蛙です――両側は家続きで、ちょうど大崩壊の、あの街道を見るように、なぞえに前途へ高くなる――突当りが撞木形になって、そこがまた通街なんです。私が貴僧、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲りそうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト立停った美人があります。  扮装なぞは気がつかず、洋傘は持っていたようでしたっけ、それを翳していたか、畳んだのを支いていたか、判然しないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。  トむこうでも莞爾しました……  そこへ笠を深くかぶった、草鞋穿きの、猟人体の大漢が、鉄砲の銃先へ浅葱の小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりと曳いたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。  山を上に見て、正的に町と町が附ついた三辻の、その附根の処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その葦簀の張出まで、わずか二間ばかりの間を通ったんですから、のさりと行くのも、ほんのしばらく。  熊の背が、彳んだ婦人の乳のあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって歩行き出しました。あとへぞろぞろ大勢小児が……国では珍らしい獣だからでしょう。  右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、急足に出よう、とすると、馴れない跛ですから、腕へ台についた杖を忘れて、躓いて、のめったので、生爪をはがしたのです。  しばらく立てませんでした。  かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。  その後、旅行をして諸国を歩行くのに、越前の木の芽峠の麓で見かけた、炭を背負った女だの、碓氷を越す時汽車の窓からちらりと見ました、隧道を出て、衝と隧道を入る間の茶店に、うしろ向きの女だの、都では矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが……その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。  内へ帰って、 (美しき君の姿は、  熊に取られた。  町の角で、町の角で――  跛ひきひき追えど及ばぬ。)  もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、真日中にそんなものを視て、そんなことを云う貴下は、身体が弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出禁制。  以前は、その形で、正真正銘の熊の胆、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……」        三十二 「日が経ってから、叔母が私の枕許で、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。 (妹の声は私も聞きたい。)  と、手函の金子を授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。  国を出て、足かけ五年!  津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その前か、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また小児たちも、手毬が下手になったので、終まで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。  とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、稚ともだちばかり、矢も楯も堪らず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。高峰へかかる雲を見ては、蔦をたよりに縋りたし、湖を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌穴の底も極めたければ、滝の裏も覗きたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の庚申塚に一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。  トこの間――名も嬉しい常夏の咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。  宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、月明の村雨の中を山路へかかって、 (ここはどこの細道じゃ、        細道じゃ。  天神様の細道じゃ、        細道じゃ。)  と童謡を口吟んで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」  僧は魅入られたごとくに見えたが、溜息を吻と吐き、 「まずおめでたい、ではその唄が知れましたか。」 「どうして唄は知れませんが、声だけは、どうやらその人……いいえ、……そのものであるらしい。この手毬を弄ぶのは、確にその婦人であろう。その婦人は何となく、この空邸に姿が見えるように思われます。……むしろ私はそう信じています。  爺さんに強請って、ここを一室借りましたが、借りた日にはもう其の手毬を取返され――私は取返されたと思うんですね――美しく気高い、その婦人の心では、私のようなものに拾わせるのではなかったでしょう。  あるいはこれを、小川の裾の秋谷明神へ届けるのであったかも分らない。そうすると、名所だ、と云う、浦の、あの、子産石をこぼれる石は、以来手毬の糸が染まって、五彩燦爛として迸る。この色が、紫に、緑に、紺青に、藍碧に波を射て、太平洋へ月夜の虹を敷いたのであろうも計られません、」  とまた恍惚となったが、頸を垂れて、 「その祟、その罪です。このすべての怪異は。――自分の慾のために、自分の恋のために、途中でその手毬を拾った罰だろう、と思う、思うんです。  祟らば祟れ!飽くまでも初一念を貫いて、その唄を聞かねば置かない。  心の迷か知れませんが。目のあたり見ます、怪しさも、凄さも、もしや、それが望みの唄を、何人かが暗示するのであろうも知れん、と思って、こうその口ずさんで見るんです――行燈が宙へ浮きましょう。 (美しき君の姿は、  萌黄の蚊帳を、  蚊帳のまわりを、姿はなしに、  通る行燈の俤や。)……  勿論、こんなのではありません。または、 (美しき君の庵は、  前の畑に影さして、  棟の草も露に濡れつつ、  月の桂が茅屋にかかる。)……  ちっとも似てはおらんのです。屋根で鵝鳥が鳴く時は、波に攫われるのであろうと思い、板戸に馬の影がさせば、修羅道に堕ちるか、と驚きながらも、 (屋根で鵝鳥の鳴き叫ぶ、  板戸に駒の影がさす。)  と、現にも、絶えず耳に聞きますけれど、それだと心は頷きません。  いかなる事も堪忍んで、どうぞその唄を聞きたい、とこうして参籠をしているんですが、祟ならばよし罪は厭わん、」  と激しく言いつつ、心づいて、悄然として僧を見た。 「ただその、手毬を取返したのは、唄は教えない、という宣告じゃあなかろうか、とそう思うと情ない。  ああ、お話が八岐になって、手毬は……そうです。天井から猫が落ちます以前、私が縁側へ一人で坐っています処へ、あの白粉の花の蔭から、芋※(くさかんむり/更)の葉を顔に当てた小児が三人、ちょろちょろと出て来て、不思議そうに私を見ながら、犬ころがなつくように傍へ寄ると、縁側から覗込んで、手毬を見つけて、三人でうなずき合って、 (それをおくれ。)と言います。 (お前たちのか。)  と聞くと、頭を掉るから、 (じゃ、小父さんのだ。)と言うと、男が毬を、という調子に、 (わはは)と笑って、それなりに、ちらちらとどこかへ取って行ったんでした。」――        三十三 「何、私がうわさしていさっせえた処だって……はあ、お前様二人でかね。」  どッこいしょ、と立ったまま、広縁が高いから、背負って来た風呂敷包は、腰ぎりにちょうど乗る。 「だら、可いけんども、」  と結目を解下ろして、 「天井裏でうわさべいされちゃ堪んねえだ。」  と声を密めたが、宰八は直ぐ高調子、 「いんね、私一人じゃござりましねえ。喜十郎様が許の仁右衛門の苦虫と、学校の先生ちゅが、同士にはい、門前まで来っけえがの。  あの、樹の下の、暗え中へ頭突込んだと思わっせえまし、お前様、苦虫の親仁が年効もねえ、新造子が抱着かれたように、キャアと云うだ。」 「どうしたんです。」 「何かまた、」  と、僧も夜具包の上から伸上って顔を出した。  宰八紅顱巻をかなぐって、 「こりゃ、はい、御坊様御免なせえまし。御本家からも宜しくでござりやす。いずれ喜十郎様お目に懸りますだが、まず緩りと休まっしゃりましとよ。  私こういうぞんざいもんだで、お辞儀の仕様もねえ。婆様がよッくハイ御挨拶しろと云うてね、お前様旨がらしっけえ、団子をことづけて寄越しやした。茶受にさっしゃりやし。あとで私が蚊いぶしを才覚しながら、ぶつぶつ渋茶を煮立てますべい。  それよりか、お前様、腹アすかっしゃったろうと思うで、御本家からまた重詰めにして寄越さしった、そいつをぶら下げながら苦虫が、右のお前様、キャアでけつかる。  門外の草原を、まるで川の瀬さ渡るように、三人がふらふらよちよち、モノ小半時かかったが、芸もねえ、えら遅くなって済まんしねえ。」 「何とも御苦労、」  と僧は慇懃に頭をさげる。 「その人たちは、どうしたのかね。」  と明が尋ねた。 「はい、それさ、そのキャアだから、お前様、どうした仁右衛門と、云うと、苦虫が、面さ渋くして、(ああ、厭なものを見た。おらが鼻の尖を、ひいらひいら、あの生白けた芋の葉の長面が、ニタニタ笑えながら横に飛んだ。精霊棚の瓢箪が、ひとりでにぽたりと落ちても、御先祖の戒とは思わねえで、酒も留めねえ己だけんど、それにゃ蔓が枯れたちゅう道理がある。風もねえに芋の葉が宙を歩行くわけはねえ。ああ、厭だ、総毛立つ、内へ帰って夜具を被って、ずッしり汗でも取らねえでは、煩いそうに頭も重い。)  と縮むだね。  例の小児が駆出したろう、とそう言うと、なお悪い。あの声を聞くと堪らねえ。あれ、あれ、石を鳴らすのが、谷戸に響く。時刻も七ツじゃ、と蒼くなって、風呂敷包打置いて、ひょろひょろ帰るだ。  先生様、ではお前様、その重箱を提げてくれさっせえ、と私が頼むとね。 (厭だ、)と云っけい。 (はてね、なぜでがす。)  ここさ、お客様の前だけんど、気にかけて下せえますなよ。 (軍歌でもやるならまだの事、子守や手毬唄なんかひねくる様な奴の、弁当持って堪るものか。)  と吐くでねえか。  奴は朋友に聞いた、と云うだが、いずれ怪物退治に来た連中からだんべい。  お客様何でがすか、お前様、子守唄拵えさっしゃるかね。袋戸棚の障子へ、書いたもの貼っとかっしゃるのは、もの、それかね。」  明は恥じたる色があった。 「こしらえるのじゃない、聞いたのを書き留めて置くんです。数があって忘れるから、」 「はあ、私はまた、こんな恐怖え処に落着いていさっしゃるお前様だ。  怨敵退散の貼御符かと思ったが。  何か、ハイ、わけは分ンねえがね、悪く言ったのがグッと癪に障ったで、 (なら可うがす、客人のものは持ってもれえますめえ、が、お前様、学校の先生様だ。可し、私あハイ、何も教えちゃもらわねえだで、師匠じゃねえ、同士に歩行くだら朋達だっぺい。蟹の宰八が手ンぼうの助力さっせえ。)  と極めつけたさ。  帽子の下で目を据えたよ。 (貴様のような友達は持たん、失敬な。)と云って引返したわ。何か託け、根は臆病で遁げただよ。見さっせえ、韋駄天のように木の下を駆出し、川べりの遠くへ行く仁右衛門親仁を、 (おおい、おおい、)  と茶番の定九郎を極めやあがる。」        三十四  その夜に限って何事もなく、静かに。……寝ようという時、初夜過ぎた。  宰八が手燭に送られて、広縁を折曲って、遥かに廻廊を通った僧は、雨戸の並木を越えたようで、故郷には蚊帳を釣って、一人寂しく友が待つ思がある。 「ここかい。」 「それを左へ開けさっせえまし、入口の板敷から二ツ目のが、男が立って遣るのでがす。行抜けに北の縁側へも出られますで、お前様帰りがけに取違えてはなんねえだよ。  二三年この方、向うへは誰も通抜けた事がねえで、当節柄じゃ、迷込んではどこへ行くか、ハイ方角が着きましねえ。」 「もう分りましたよ。」 「可かあねえ、私、ここに待っとるで、燈をたよりに出て来さっせえ。  私も、この障子の多いこと続いたのに、めらめら破れのある工合が、ハイ一ツ一ツ白髑髏のようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、入かわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」  僧は戸を開けながら、と、声をかけて、 「御免下さい。」  と、ぴたりと閉めた。 「あ、あ、気味の悪い。誰に挨拶さっせるだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ。そこさ一面の障子の破れ覗いたら何が見えべい――南無阿弥陀仏、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋燭がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立処に六道の辻に迷うだて。南無阿弥陀仏、御坊様、まだかね。」 「ちょいと、」 「ひゃあ、」  僧は半ば開いて、中に鼠の法衣で立ちつつ、 「ちょいと燭を見せておくれ。」 「ええ、お前様、前へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば可い。板戸が音声を発したか、と吃驚しただ、はあ、何だね。」 「入口の、この出窓の下に、手水鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」 「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」  と手燭ばかりを、ずいと出して、 「鉢前にゃ、夜が明けたら見さっせえまし、大した唐銅の手水鉢の、この邸さ曳いて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……」  ええ、そよら、そよらと風だ。  そ、その鉢にゃ水があれば可いがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の残を注けて進ぜる。」 「あります、あります。」  ざっと音をさして、 「冷い美しい水が、満々とありますよ。」 「嘘を吐くもんでェねえ。なに美い水があんべい。井戸の水は真蒼で、小川の水は白濁りだ。」 「じゃあ燭で見るせいだろうか、」 「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」 「いいえ、縁切こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真白な手拭が、」  と言いかけてしばらく黙った。 今年より卯月八日は吉日よ     尾長蛆虫成敗ぞする 「ここに倒にはってあるのは、これは誰方がお書きなすった、」 「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」 「ああ、佳いおてだ。」  と大和尚のように落着いて、大く言ったが、やがてちと慌しげに小さな坊さまになって急いで出た。 「ええ、疾く出さっせえ、私もう押堪えて、座敷から庭へ出て用たすべい。」 「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」  と掛手拭を賞めた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の袂から出している。 「南無阿弥陀仏、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて貼っただとよ、直きそこだ、今ソンな事あどうでも可え。頭から、慄然とするだに、」 「そうかい、ああ私も今、手を拭こうとすると、真新しい切立の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」 「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その跫音を忍びたそうに、腰を浮かせて、同一処を蹌踉蹌踉する。        三十五 「そうふらふらさしちゃ燈が消えます。貸しなさい、私がその手燭を持とうで。」 「頼んます、はい、どうぞお前様持たっせえて、ついでにその法衣着さっせえ姿から、光明赫燿と願えてえだ。」  僧は燭を取って一足出たが、 「お爺さん、」  と呼んだのが、驚破事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を引込め、不具の方と同一処で、掌をあけながら、据腰で顔を見上げる、と皺面ばかりが燭の影に真赤になった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う状は、鬼が囁くに異ならず。 「ええ、」 「どこか呻吟くような声がするよ。」 「芸もねえ、威かしてどうさっせる。」 「聞きなさい、それ……」 「う、う、う、」  と厭な声。 「爺さん、お前が呻吟くのかい。」 「いんね、」  と変な顔色で、鼻をしかめ、 「ふん、難産の呻吟声だ。はあ、御新姐が唸らしっけえ、姑獲鳥になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」 「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」 「ひええ、今、お前様が入らっしたばかりでねえかね、」 「されば、」  と斜めに聞澄まして、 「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」 「はあ、」  と宰八も、聞定めて、吻と息して、 「まず構外だ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいと圧えてまた蹈張り、 「野郎、入ってみやがれ、野郎、活仏さまが附いてござるだ。」 「仏ではなお打棄っては措かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か苦んでいるようだよ。」 「これ、静かにさっせえ、術だ、術だてね。ものその術で、背負引き出して、お前様天窓から塩よ。私は手足い引捩いで、月夜蟹で肉がねえ、と遣ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」 「あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。」 「へ、疾いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」  と云う時……判然聞えたが、しわがれた声であった。 「助けてくれ……」 「…………」 「…………」 「宰八よう、」――  と、葎がくれに虫の声。  手ぼう蟹ふるえ上って、 「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」 「何、虫が呼ぶ?」 「ええ、仁右衛門の声だ。南無阿弥陀仏、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門前から遁帰った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿智慧だね、打棄っておかっせえまし。」  と雨戸を離れて、肩を一つ揺って行こうとする。広縁のはずれと覚しき彼方へ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った燈籠のような白紙がふらりと出て、真四角に、燈が歩行き出した。 「はッあ、」  と退って、僧に背を摺寄せながら、 「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、南無まいだ、なんまいだ。」  僧も爪立って、浮腰に透かして見たが、 「行燈だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは開くかい。」 「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」 「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、情に抵抗う刃はない筈、」  枢をかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って蔽い果さず、燈は颯と夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、隈ある暗き葎の中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、四つに這廻るは、そもいかなるものぞ。        三十六  声を聞いたより形を見れば、なお確実に、飛石を這って呻いていたのは、苦虫の仁右衛門であった。  月明に、まさしくそれと認めが着くと、同一疑の中にもいくらか与易く思った処へ、明が行燈を提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでに漕ぎ着ければ、露に濡れる分は厭わぬ親仁。  さやさやと葎を分けて、おじいどうした、と摺寄ると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を引張って、と拝むがごとく指出した。左の腕を、ぐい、と掴んで、獣にしては毛が少ねえ、おおおお正真正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて引立てると、飛石から離れるのが泥田を踏むような足取りで、せいせい呼吸を切って、しがみつくので、咽喉がしまる、と呟きながら、宰八も疾く埒を明けたさに、委細構わずずるずる引摺って縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう?まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、竹槍を握っていたのである。  これは、と驚くと、仔細ござります。水を一口、と云う舌も硬ばり、唇は土気色。手首も冷たく只戦きに戦くので、ともかく座敷へ連れよう……何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。  引そいだ切尖の鋭いのが、法衣の袖を掠ったから、背後に立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。  さあ負され、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧の裾を啣えた体に、膝で摺って縁側へ這上った。  あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。  背後で雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら風向が可さそうなので、宰八が嘲けると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、歩行と痕がつく、と這いながら云ったので――イヤその音の夥しさ。がらりと閉め棄てに、明の背へ飛縋った。――真先へ行燈が、坊さまの裾あたり宙を歩行いて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の這身、竹槍が後を圧えて、暗がりを蟹が通る。……広縁をこの体は、さてさて尋常事ではない。  やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は四辺を眗し、あまたたび口籠りながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八此方にはなおの事、四十年来の知己が、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。  御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは一分別ある処と、三日二夜、口も利かずにまじまじと勘考した。はて巧んだり!てっきりこいつ大詐欺に極まった。汝等が謀って、見事に妖物邸にしおおせる。棄て置けば狐狸の棲処、さもないまでも乞食の宿、焚火の火沙汰も不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、股倉へ掻込む算段、図星図星。しゃ!明神様の託宣――と眼玉で睨んで見れば、どうやら近頃から逗留した渡りものの書生坊、悪く優しげな顔色も、絵草子で見た自来也だぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方来せた旅僧めも、その同類、茶店の婆も怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を掛る。待て待て狂人の真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた――巫山戯た奴等、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に遁げたは真田幸村、やがてもり返して盗賊の巣を乗取る了簡。  いつものように黄昏の軒をうろつく、嘉吉奴を引捉え、確と親元へ預け置いたは、屋根から天蚕糸に鉤をかけて、行燈を釣らせぬ分別。  かねて謀計を喋合せた、同じく晩方遁げる、と見せた、学校の訓導と、その筋の諜者を勤むる、狐店の親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。  二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を打殺すに仔細はない、と竹槍を引そばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを辿り辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の周囲をぐるりと見ると。……        三十七  烏が一羽歴然と屋根に見えた。ああ、あの下辺で、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。  この姿は、葎を分けて忍び寄ったはじめから、目前に朦朧と映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を潜るようでもあるし、浮き上って葉尖を渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の身体と、竹槍との組合せで、月明には、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移ったので。  ト見ると、肩のあたりの、すらすらと優いのが、いかに月に描き直されたればとて、鍬を担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。  その細腰を此方へ、背を斜にした裾が、脛のあたりへ瓦を敷いて、細くしなやかに掻込んで、蹴出したような褄先が、中空なれば遮るものなく、便なさそうに、しかし軽く、軒の蜘蛛の囲の大きなのに、はらりと乗って、水車に霧が懸った風情に見える。背筋の靡く、頸許のほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は朧ながら、濃い黒髪は緑を束ねて、森の影が雲かと落ちて、その俤をうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ状で、二の腕の腹を此方へ、雪のごとく白く見せて、静に鬢の毛を撫でていた。  白魚の指の尖の、ちらちらと髪を潜って動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。  驚破、獣か、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根住居してござる。おのれ、見ろ、と一足退って竹槍を引扱き、鳥を差いた覚えの骨で、スーッ!突出した得物の尖が、右の袖下を潜るや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。  地が急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。他愛なく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と白粉の花の上。  と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南無三宝仰向けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真中あたり、鳩尾を、土足で蹈んでいようでないか。  仁右衛門ぶるぶるとなり、据眼に熟と見た、白い咽喉をのけ様に、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初産に世を去った御新姐である。  親仁は天窓から氷を浴びた。  恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。  うむ、と呻かれて、ハッと開くと、旧の足で踏みかける。顛倒して慌てるほど、身体のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々と血を吐くのが、咽喉に懸り、胸を染め、乳の下を颯と流れて、仁右衛門の蹠に生暖う垂れかかる。  あッと腰を抜いて、手を支くと、その黒髪を掻掴んだ。  御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏躪られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞爾する、……その唇から血が流れる。  足は膠で附けたよう。  同一処で蠢く処へ、宰八の声が聞えたので、救助を呼ぶさえ呻吟いたのであった。  かくて、手を取って引立てられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘々する、手はこの通り血だらけじゃ、と戦いたが、行燈に透かすと夜露に曝れて白けていた。 「我折れ何とも、六十の親仁が天窓を下げる。宰八、夜深じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居りたくない、生命ばかりはお助けじゃ。」  と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。  そこで、表門へ廻った二人は、と皆連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐饂飩の亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁げた、と言う。  何を見て驚いたか、渠等は頭を掉って語らない。一人は緋の袴を穿いた官女の、目の黒い、耳の尖がった凄じき女房の、薄雲の月に袖を重ねて、木戸口に佇んだ姿を見たし、一人は朱の面した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程経って仄に洩れ聞える。――        三十八 二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二隅と、障子と、襖と、両方の鴨居の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅麻の裾長く曳いて、縁側の方に枕を並べた。  一日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。  いずれそれも、怪しき事件の一つであろう。……あわれ、この少き人の、聞くがごとくんば連日の疲労もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻らるるは床の間を背後にした仄白々とある行燈。  楽書の文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾が伸びるか、燈が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。  そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。 「貴下、寝冷をしては不可ません。」  寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩尾へ踏落しているのを、痩せた胸に障らないように、密っと引掛けたが何にも知らず、まず可かった。――仁右衛門が見た御新姐のように、この手が触って血を吐きながら、莞爾としたらどうしょう。  そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞ぐ、と塞ぐ後から、睫がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴えて寝られぬのである。  掻巻を引被れば、衾の袖から襟かけて、大な洞穴のように覚えて、足を曳いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。  すぽりと脱いで、坊主天窓をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。  そこで屹となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、 「衆怨悉退散、」  と仰向けのまま呪すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕許へ来たのがある。  が、雨垂とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確に頬にかかった。  やっと冷たいのが知れて、掌で撫でると、冷りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈の影に透したが、幸に、血の点滴ではない。  さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫するばかり、はらはらと降り灌ぐ。  耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。  浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘しいものはない。けれども、雨漏にも旅馴れた僧は、押黙って小止を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎上って繁吹が立ちそう。  屋根で、鵝鳥が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻頭に浸んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻遣りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲れた寝衣の袖を引伸ばしながら、 「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」  と呼んだが答えぬ。  目敏そうな人物が、と驚いて手を翳すと、薄の穂を揺るように、すやすやと呼吸がある。 「ああ、よく寝られた。」  と熟と顔を見ると、明の、眦の切れた睫毛の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同一雨垂れに濡れたか、あらず。……  来方は我にもあり、ただ御身は髪黒く、顔白きに、我は頭蒼く、面の黄なるのみ。同一世の孤児よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。  四辺を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身体ばかりで、明の床には、夜をあさる蚤も居らぬ。  南無三宝、魔物の唾じゃ。        三十九  例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣られた、小僧の時より辛いので、堪りかねて、蚊帳の裾を引被いで出たが、さてどこを居所とも定まらぬ一夜の宿。  消えなんとする旅籠屋の行燈を、時雨の軒に便る心で。  僧は燈火の許に膝行り寄った。  寝衣を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭こうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。  その腕を長く、つき反らして擦りながら、 「衆怨悉退散。」  とまた念じて、静と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂として静まり返る。  また余りの静さに、自分の身体が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押瞑った目を夢から覚めたように恍惚と、しかも円に開けて、真直な燈心を視透かした時であった。  飜然と映って、行燈へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大な蜘蛛、と咄嗟に首を縮めたが、あらず、非ず、柱に触って、やがて油壺の前へこぼれたのは、木の葉であった、青楓の。  僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠にも分りはせぬ。  ト続いて、颯と影がさして、横繁吹に乗ったようにさらりと落ちる。  我にもあらず、またもやそれを拾った時、先のを、 「一枚、」  と思わず算えた。 「二枚、」  とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻の葉で、ひらひらと燈を掠めて来た、影が大い。 「三枚、」  と口の裡で呟くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障った。 「四枚、五枚、六枚、七枚、」  と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。  空を仰ぐと、天井は底がなく、暗夜の深山にある心地。  おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通魔が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通証券であろうも知れぬ。膝を払って衝と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠は身震いした。 「えへん!」  と揉潰されたような掠れた咳して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼った半紙である。  これはここへ来てからの、心覚えの童謡を、明が書留めて朝夕に且つ吟じ且つ詠むるものだ、と宵に聞いた。  立ったままに寄って見ると、真先に目に着いたのが濃い墨で、 落葉一枚、  僧は更に悚然とした。 落葉一枚、 二枚、三枚、 十とかさねて、 落葉の数も、 ついて落いた君の年、       君の年――  振返ると、まだそこに、掃掛けて廃したように、蒼きが黒く散々である。 懐かしや、花の常夏、 霞川に影が流れた。 その俤や、俤や――  紙を通して障子の彼方に、ほの白いその俤が……どうやら透いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、遥に、星の座も、竜宮の燈も同一遠さ、と思う辺、黄金の鈴を振るごとく、ただ一声、コロリン、と琴が響いた。  はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。 コロリン!  と字が動いたよう。続けて―― 琴の音が…………  と記してあった。        四十  客僧は思案して、心を落着け、衣紋を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙動は、木曾街道の盗賊めく。  不浄よけの金襴の切にくるんだ、たけ三寸ばかり、黒塗の小さな御厨子を捧げ出して、袈裟を机に折り、その上へ。  元来この座敷は、京ごのみで、一間の床の間に傍に、高い袋戸棚が附いて、傍は直ぐに縁側の、戸棚の横が満月形に庭に望んだ丸窓で、嵌込の戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが故郷の家の、書院の構えにそっくりで、懐しいばかりでない。これもここで望の達せらるる兆か、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、卓子擬いの机に使って、旅硯も据えてある。椅子がわりに脚榻を置いて。……  周囲が広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。  そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、深切な宰八爺いは、夜の具と一所に、机を背負て来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、埃は据えず差置いた。心に叶って逗留もしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。  その机を、今ここへ。  御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと四辺を視た時、蚊帳の中で、三声ばかり、太く明が魘された。が……此方の胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、幸にまた静になった。  障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。頻に気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての襖の合せ目である。 「わが仏守らせたまえ。」  と祈念なし、机を取って、押戴いて、屹と見て、其方へ、と座を立とうとする。  途端であった。 「しばらく。」  ずしん、地の底へ響く声がした。  明が呼んだか、と思う蚊帳の中で、また烈しく魘されるので、呼吸を詰めて、 「…………」  色を変える。  襖の陰で、 「客僧しばらく――唯今それへ参るものがござる。往来を塞ぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、御身に向うて、害を加うる仔細はない。」  ト見ると襖から承塵へかけた、雨じみの魍魎と、肩を並べて、その頭、鴨居を越した偉大の人物。眉太く、眼円に、鼻隆うして口の角なるが、頬肉豊に、あっぱれの人品なり。生びらの帷子に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同一色の無地の袴、折目高に穿いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき短な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、動ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に圧された僧は、ひしと茶斑の大牛に引敷かれたる心地がした。  はっと机に、突俯そうとする胸を支えて、 「誰だ。」  と言った。 「六十余州、罷通るものじゃ。」 「何と申す、何人……」 「到る処の悪左衛門、」  と扇子を構えて、 「唯今、秋谷に罷在る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」 「悪…………」 「悪は善悪の悪でござる。」 「おお、悪……魔、人間を呪うものか。」 「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉の羽うらも輝き、瀬の鮎の鱗も光る。隈なき月を見るにさえ、捨小舟の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋の屋根ではないか。  しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損わるるは自業自得じゃ。」        四十一 「真日中に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会えば傍へ外れ、遣過ごして背後を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終せぬ、見て驚くは其奴の罪じゃ。  いかに客僧、まだ拙者を疑わるるか。」  と莞爾として、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰下しつつ、 「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷在るを怪まるるか。うむ、疑いに睜られたな。睜いたその瞳も、直ちに瞬く。  およそ天下に、夜を一目も寝ぬはあっても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥間一統、すなわちその人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって、御身等が顔容、衣服の一切、睫毛までも写し取らせて、御身等その生命の終る後、幾百年にも活けるがごとく伝えらるる長い時間のあるを知るか。石と樹と相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。  すべて一たびただ一人の瞬きする間に、水も流れ、風も吹く、木の葉も青し、日も赤い。天下に何一つ消え失するものは無うして、ただその瞬間、その瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪むまい。」  と悠然として打頷き、 「そこでじゃ、客僧。  たといその者の、自から招く禍とは言え、月のたちまち雲に隠れて、世の暗くなるは怪まず、行燈の火の不意に消ゆるに喚き、天に星の飛ぶを訝らず、地に瓜の躍るに絶叫する者どもが、われら一類が為す業に怯かされて、その者、心を破り、気を傷け、身を損えば、おのずから引いて、我等修業の妨となり、従うて罪の障となって、実は大に迷惑いたす。」  と、やや歎息をするようだったが、更めて、また言った。 「時に、この邸には、当月はじめつ方から、別に逗留の客がある。同一境涯にある御仁じゃ。われら附添って眷属ども一同守護をいたすに、元来、人足の絶えた空屋を求めて便った処を、唯今眠りおる少年の、身にも命にも替うる願あって、身命を賭物にして、推して草叢に足痕を留めた以来、とかく人出入騒々しく、かたがた妨げに相成るから、われら承って片端から追払うが、弱ったのはこの少年じゃ。  顔容に似ぬその志の堅固さよ。ただお伽めいた事のみ語って、自からその愚さを恥じて、客僧、御身にも話すまいが、や、この方実は、もそっと手酷い試をやった。  あるいは大磐石を胸に落し、我その上に蹈跨って咽喉を緊め、五体に七筋の蛇を絡わし、牙ある蜥蜴に噛ませてまで呪うたが、頑として退かず、悠々と歌を唄うに、我折れ果てた。  よって最後の試み、としてたった今、少年に人を殺させた――すなわち殺された者は、客僧、御身じゃよ。」  と、じろじろと見るのである。  覚悟しながら戦いて、 「ここは、ここは、ここは、冥土か。」  と目ばかり働く、その顔を見て、でっぷりとした頬に笑を湛え、くつくつ忍笑いして、 「いや、別条はない。が、ちょうどこの少年の、いまし魘された時、客僧、何と、胸が痛かったろう。」  ズキリと応えて、 「おお、」 「すなわち少年が、御身に毒を飲ませたのだ。」 「…………」 「別でない。それそれその戸袋に載った朱泥の水差、それに汲んだは井戸の水じゃが、久しい埋井じゃに因って、水の色が真蒼じゃ、まるで透通る草の汁よ。  客僧等が茶を参った、爺が汲んで来た、あれは川水。その白濁がまだしも、と他の者はそれを用いる、がこの少年は、前に猫の死骸の流れたのを見たために、得飲まずしてこの井戸のを仰ぐ。  今も言う通りだ。殺さぬまでに現責に苦しめ呪うがゆえ、生命を縮めては相成らぬで、毎夜少年の気着かぬ間に、振袖に緋の扱帯した、面が狗の、召使に持たせて、われら秘蔵の濃緑の酒を、瑠璃色の瑪瑙の壺から、回生剤として、その水にしたたらして置くが習じゃ。」        四十二 「少年は味うて、天与の霊泉と舌鼓を打っておる。  我ら、いまし少年の魂に命じて、すなわちその酒を客僧に勧め飲ましむる夢を見させたわ。(ただ一口試みられよ、爽な涼しい芳しい酒の味がする、)と云うに因って、客僧、御身はなおさら猶予う、手が出ぬわ。」  とまた微笑み、 「毒味までしたれば、と少年は、ぐと飲み飲み、無理に勧める。さまでは、とうけて恐る恐る干すと、ややあって、客僧、御身は苦悶し、煩乱し、七転八倒して黒き血のかたまりを吐くじゃ。」  客僧は色真蒼である。 「驚いて少年が介抱する。が、もう叶わぬ、臨終という時、 (われは僧なり、身を殺して仁をなし得れば無上の本懐、君その素志を他に求めて、疾くこの恐しき魔所を遁れられよ。)  と遺言する。これぞ、われらの誂じゃ。  蚊帳の中で、少年の魘されたは、この夢を見た時よ、なあ。  これならば立退くであろう、と思うと、ああ、埒あかぬ。客僧、御身が仮に落入るのを見る、と涙を流して、共に死のうと決心した。  葛籠に秘め置く、守刀をキラリと引抜くまで、襖の蔭から見定めて、 (ああ、しばらく、)  と留めたは、さて、殺しては相済まぬ。  これによって、われら守護する逗留客は、御自分の方から、この邸を開いて、もはや余所へ立退くじゃが。  その以前、直々に貴面を得て、客僧に申談じたい儀があると謂わるる。  客は女性でござるに因って、一応拙者から申入れる。ためにこれへ罷出た。  秋谷悪左衛門取次を致す、」  と高らかに云って、穏和に、 「お逢い下さりょうか、いかが、」  と云った。  僧は思わず、 「は、」と答える。  声も終らず、小山のごとく膝を揺げ、向け直したと見ると、 「ござらっしゃい!」  破鐘のごときその大音、哄と響いた。目くるめいて、魂遠くなるほどに、大魔の形体、片隅の暗がりへ吸込まれたようにすッと退いた、が遥に小さく、およそ蛍の火ばかりになって、しかもその衣の色も、袴の色も、顔の色も、頭の毛の総髪も、鮮麗になお目に映る。 「御免遊ばせ。」  向うから襖一枚、颯と蒼く色が変ると、雨浸の鬼の絵の輪郭を、乱れたままの輪に残して、ほんのり桃色がその上に浮いて出た。  ト見ると、房々とある艶やかな黒髪を、耳許白く梳って、櫛巻にすなおに結んだ、顔を俯向けに、撫肩の、細く袖を引合わせて、胸を抱いたが、衣紋白く、空色の長襦袢に、朱鷺色の無地の羅を襲ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と糸の艶に光を帯びて、乳のあたり、肩のあたり、その明りに、朱鷺色が、浅葱が透き、膚の雪も幽に透く。  黒髪かけて、襟かけて、月の雫がかかったような、裾は捌けず、しっとりと爪尖き軽く、ものの居て腰を捧げて進むるごとく、底の知れない座敷をうしろに、果なき夜の暗さを引いたが、歩行くともなく立寄って、客僧に近寄る時、いつの間にか襖が開くと、左右に雪洞が二つ並んで、敷居際に差向って、女の膝ばかりが控えて見える。そのいずれかが狗の顔、と思いをめぐらす暇もない。  僧は前に彳んだのを差覗くように一目見て、 「わッ、」  とばかりに平伏した。実にこそその顔は、爛々たる銀の眼一双び、眦に紫の隈暗く、頬骨のこけた頤蒼味がかり、浅葱に窩んだ唇裂けて、鉄漿着けた口、柘榴の舌、耳の根には針のごとき鋭き牙を噛んでいたのである。        四十三 「おお、自分の顔を隠したさ。貴僧を威す心ではない、戸外へ出ます支度のまま……まあ、お恥かしい。」  と、横へ取ったは白鬼の面。端麗にして威厳あり、眉美しく、目の優しき、その顔を差俯向け、しとやかに手を支いた。 「は、は、はじめまして、」  と、しどろになって会釈すると、面を上げた寂しい頬に、唇紅う莞爾して、 「前刻、憚へいらっしゃいます、廊下でお目に懸りましたよ。」  客僧も、今はなかなかに胴据りぬ。 「貴女はどなたでございます。」  と尋ねたが、その時はほぼその誰なるかを知っているような気がしたのである。  美女は褄を深う居直って、蚊帳を透して打傾く。  萌黄が迫って、その衣の色を薄く包んだ。 「この方の、母さんのお知己、明さんとも、お友達……」  と口を結んだが愁を帯びた。  此方は、じりじりと膝を向けて、 「ああ、貴女が、」 「あの、それに就きまして、貴僧にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」  とまた蚊帳越に打視め、 「お最愛しい、沢山お窶れ遊ばした。罪も報もない方が、こんなに艱難辛苦して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母さんの恋しさゆえ。  その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐しがって、迷って恋におなりなすった。  その唄は稚い時、この方の母さんから、口移しに教わって、私は今も、覚えている。  こうまで、お憧れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦んで手に縋り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。  どうして貴僧、摺抜けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱緊めます。  と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟。  私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身体が、それでは外に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄身の私、ただ最惜さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭いはしませぬ。  厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同一ような身の上になりますもの……  それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」  とさも懸想したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、 「あれあれ御覧なさいまし。こう言う中にも、明さんの母さんが、花の梢と見紛うばかり、雲間を漏れる高楼の、虹の欄干を乗出して、叱りも睨みも遊ばさず、児の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血汐は葉に染めても、秋のあの字も、明さんの名に憚って声には出ませぬ。  一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最愛しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身体。他の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。  実の産の母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳を呑ませたく添寝もしたい――我が児最惜む心さえ、天上では恋となる、その忌憚で、御遠慮遊ばす。  まして私は他人の事。  余計な御苦労かけるのが御不便さ。決して私は明さんに、在所を知らせず隠れていたのに、つい膝許の稚いものが、粗相で手毬を流したのが悪縁となりました。  彼方も私も身を苦しめ、心を傷めておりましたが、お生命の危いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。  あんまりお心が可傷しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!  それは今、私がこの邸を退きますと、もう隅々まで家中が明くなる。明さんも思い直して、またここを出て旅行立ちをなさいます。  早や今でも沙汰をする、この邸の不思議な事が、界隈へ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」        四十四 「病の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余所の婦人が、気軽な腰元の勧めるまま、徒然の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、皆私が手伝いの人と一所に、憂晴らしにしたいたずら遊戯、聞けば、怪我人も沢山出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆の手当をよくするように。)……  と白銀黄金を沢山授ける。  さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風説の立ますため、病人は心が引立ち、気の狂ったのも安心して治りますが、免れられぬ因縁で、その令室の夫というが、旅行さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――  その変化沙汰のある間、そこに籠った、という旅の少年。……  この明さんと、御自分の令室が、てっきり不義に極った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠めましょう。  貴僧。  その美しい令室が、人に羞じ、世に恥じて、一室処を閉切って、自分を暗夜に封じ籠めます。  そして、日が経つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮名が立って濡衣着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果は恋しく、憧憬れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思と同一事。  一歳か、二歳か、三歳の後か、明さんは、またも国々を廻り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家懐し、と思いましょう。  そうなる時には、令室の、恋の染まった霊魂が、五色かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐く息は、冷たき煙と立のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情の火が重り、白き炎の花となって、襖障子も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯でもない明に、やがて顔を合わせましょう。  邸は世界の暗だのに。……この十畳は暗いのに。……  明さんの迷った目には、煤も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名香の薫が靡く、と心時めき、この世の一切を一室に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令室を一目見ると、唄の女神と思い祟めて、跪き、伏拝む。  長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺る琴の糸の肩に懸って響くよう、互の口へ出ぬ声は、膚に波立つ血汐となって、聞こえぬ耳に調を通わす、幽に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦く裳と、震える膝は、漂う雲に乗る心地。  ああこれこそ、我が母君……と縋り寄れば、乳房に重く、胸に軽く、手に柔かく腕に撓く、女は我を忘れて、抱く――  我児危い、目盲いたか。罪に落つる谷底の孤家の灯とも辿れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電となって壁に閃めき、分れよ、退けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情の露は樹に灌ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭の影には瑠璃、紺青、紅の雫ともなるものを。  罪の世の御二人には、ただ可恐しく、凄じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。  そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児を思うさえ恋となる、天上の規を越えて、掟を破って、母君が、雲の上の高楼の、玉の欄干にさしかわす、桂の枝を引寄せて、それに縋って御殿の外へ。  空に浮んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄へ落ちている。あの、その上を、ただ一条、霞のような御裳でも、撓に揺れる一枝の桂をたよりになさる危さ。  おともだちの上﨟たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音を留めて、はらはらと立かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄がキラキラと、星に映って見えましょう。  座敷で暗から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇し婦、と気が着くと、襖も壁も、大紅蓮。跪居る畳は針の筵。袖には蛇、膝には蜥蜴、目の前見る地獄の状に、五体はたちまち氷となって、慄然として身を退きましょう。が、もうその時は婦人の一念、大鉄槌で砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。  胸の思は火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦絵を、炎に翳して見るような、面も赫と、胡粉に注いだ臙脂の目許に、紅の涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐怖と、恥羞に震う身は、人膚の温かさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、懐しさが劣らずなって、振切りもせず、また猶予う。  思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推量って、多勢の上﨟たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが望の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」  と、神々しいまで面正しく。……  僧は合掌して聞くのであった。  そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美人の手、一たび我に触れなば、立処にその唄を聞き得るであろうと思った。        四十五  美人は更めて、 「貴僧、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。  日頃のお苦みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」  と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫がはっとして、肩に萌黄の姿つめたく、薄紅が布目を透いて、 「明ちゃん……」  と崩るるごとく、片頬を横に接けんとしたが、屹と立退いて、袖を合せた。  僧を見る目に涙が宿って、 「それではお暇いたしましょう。稚い事を、貴僧にはお恥かしいが、明さんに一式のお愛相に、手毬をついて見せましょう、あの……」  と掛けた声の下。雪洞の真中を、蝶々のように衝と抜けて、切禿で兎の顔した、女の童が、袖に載せて捧げて来た。手毬を取って、美女は、掌の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟と掻撫でながら、袂のさきを白歯で含むと、ふりが、はらりと襷にかかる。  﨟たけた笑、恍惚して、 「まあ、私ばかり極が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」  蚊帳をはらはら取巻いたは、桔梗刈萱、美しや、萩女郎花、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、 (向うの小沢に蛇が立って、  八幡長者のおと女、  よくも立ったり、企んだり、  手には二本の珠を持ち、  足には黄金のくつを穿き……)  壁も襖も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた木の葉も、ぱらぱらと、行燈を繞って操る紅。中を縢って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自然はたはたと躍上った。 (京へのぼせて狂言させて、  寺へのぼせて手習させて、  寺の和尚が道楽和尚で、  高い縁から突落されて、)  と衝と投げ上げて、トンと落して、高くついた。  待てよ。古郷の涅槃会には、膚に抱き、袂に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突競を戯れる習慣がある。少い男は憚って、鐘撞堂から覗きつつその遊戯に見愡れたが……巨刹の黄昏に、大勢の娘の姿が、遥に壁に掛った、極彩色の涅槃の絵と、同一状に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背後、位牌堂の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几帳窓の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人数に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――  と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この状を、今視めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……  身動ぎに、この美女の鬢の後れ毛、さらさらと頬に掛ると、その影やらん薄曇りに、目ぶちのあたりに寂しくなりぬ。 (笄落し小枕落し……)  と綾に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。  みだれし風采恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、女の童の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと立かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、褄のこぼれた立姿。  屋の棟熟と打仰いで、 「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が揺ぐ。おお、最惜しの御子に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙動に、心騒ぎのせらるるか。客僧方には見えまいが、地の底に棲むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、言といっては交わされない。  美しき夢見るお方、」  あれ、かしこに母君在ますぞや。愛惜の一念のみは、魔界の塵にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる雫は、母君の御情の露を取次ぎ参らする、乳の滴ぞ、と袂を傾け、差寄せて、差俯き、はらはらと落涙して、 「まあ、稚児の昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」  さらば、さらば、御僧。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。  ト玄関から、庭前かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。  目を擦り、目を睜り、目を拭いいる客僧に立別れて、やがて静々――狗の顔した腰元が、ばたばたと前へ立ち、炎燃ゆ、と緋のちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤む星の首途。十四日の月の有明に、片頬を見せた風采は、薄雲の下に朝顔の莟の解けた風情して、うしろ髪、打揺ぎ、一たび蚊帳を振返る。 「やあ、」  と、蚊帳を払って、明が飜然と飛んで縋った。――  袂を支える旅僧と、押揉む二人の目の前へ、この時ずか、と顕われた偉人の姿、靄の中なる林のごとく、黄なる帷子、幕を蔽うて、廂へかけて仁王立、大音に、 「通るぞう。」  と一喝した。 「はっ、」  と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲んで来て、――縁の端近に置いた手桶が、ひょい、と倒斛斗に引くりかえると、ざぶりと水を溢しながら、アノ手でつかつかと歩行き出した。  その後を水が走って、早や東雲の雲白く、煙のような潦、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳を颯と乗上げて、白粉の花越しに、すらすらと漕いで通る。大魔の袖や帆となりけん、美女は船の几帳にかくれて、 (ここはどこの細道じゃ、        細道じゃ、  天神様の細道じゃ、        細道じゃ、  少し通して下さんせ……)  最切めて懐しく聞ゆ、とすれば、樹立の茂に哄と風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。 明治四十一(一九〇八)年一月
底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年2月22日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店    1941(昭和16)年8月15日第1刷発行 ※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。 ※「それとも鼠だが」の「だが」は、底本の親本でもママですが、岩波文庫版では「だか」となっています。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2003年8月28日作成 2006年5月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003586", "作品名": "草迷宮", "作品名読み": "くさめいきゅう", "ソート用読み": "くさめいきゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3586.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成5", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年2月22日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年2月22日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年2月22日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十一卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年8月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3586_ruby_12102.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-05-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3586_12103.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-05-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一  柳を植えた……その柳の一処繁った中に、清水の湧く井戸がある。……大通り四ツ角の郵便局で、東京から組んで寄越した若干金の為替を請取って、三ツ巻に包んで、ト先ず懐中に及ぶ。  春は過ぎても、初夏の日の長い、五月中旬、午頃の郵便局は閑なもの。受附にもどの口にも他に立集う人は一人もなかった。が、為替は直ぐ手取早くは受取れなかった。  取扱いが如何にも気長で、 「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下が御当人なのですか。」  などと間伸のした、しかも際立って耳につく東京の調子で行る、……その本人は、受取口から見た処、二十四、五の青年で、羽織は着ずに、小倉の袴で、久留米らしい絣の袷、白い襯衣を手首で留めた、肥った腕の、肩の辺まで捲手で何とも以て忙しそうな、そのくせ、する事は薩張捗らぬ。態に似合わず悠然と落着済まして、聊か権高に見える処は、土地の士族の子孫らしい。で、その尻上がりの「ですか」を饒舌って、時々じろじろと下目に見越すのが、田舎漢だと侮るなと言う態度の、それが明かに窓から見透く。郵便局員貴下、御心安かれ、受取人の立田織次も、同国の平民である。  さて、局の石段を下りると、広々とした四辻に立った。 「さあ、何処へ行こう。」  何処へでも勝手に行くが可、また何処へも行かないでも可い。このまま、今度の帰省中転がってる従姉の家へ帰っても可いが、其処は今しがた出て来たばかり。すぐに取って返せば、忘れ物でもしたように思うであろう。……先祖代々の墓詣は昨日済ますし、久しぶりで見たかった公園もその帰りに廻る。約束の会は明日だし、好なものは晩に食べさせる、と従姉が言った。差当り何の用もない。何年にも幾日にも、こんな暢気な事は覚えぬ。おんぶするならしてくれ、で、些と他愛がないほど、のびのびとした心地。  気候は、と言うと、ほかほかが通り越した、これで赫と日が当ると、日中は早じりじりと来そうな頃が、近山曇りに薄りと雲が懸って、真綿を日光に干すような、ふっくりと軽い暖かさ。午頃の蔭もささぬ柳の葉に、ふわふわと柔い風が懸る。……その柳の下を、駈けて通る腕車も見えず、人通りはちらほらと、都で言えば朧夜を浮れ出したような状だけれども、この土地ではこれでも賑な町の分。城趾のあたり中空で鳶が鳴く、と丁ど今が春の鰯を焼く匂がする。  飯を食べに行っても可、ちょいと珈琲に菓子でも可、何処か茶店で茶を飲むでも可、別にそれにも及ばぬ。が、袷に羽織で身は軽し、駒下駄は新しし、為替は取ったし、ままよ、若干金か貸しても可い。 「いや、串戯は止して……」  そうだ! 小北の許へ行かねばならぬ――と思うと、のびのびした手足が、きりきりと緊って、身体が帽子まで堅くなった。  何故か四辺が視められる。  こう、小北と姓を言うと、学生で、故郷の旧友のようであるが、そうでない。これは平吉……平さんと言うが早解り。織次の亡き親父と同じ夥間の職人である。  此処からはもう近い。この柳の通筋を突当りに、真蒼な山がある。それへ向って二町ばかり、城の大手を右に見て、左へ折れた、屋並の揃った町の中ほどに、きちんとして暮しているはず。  その男を訪ねるに仔細はないが、訪ねて行くのに、十年越の思出がある、……まあ、もう少し秘して置こう。  さあ、其処へ、となると、早や背後から追立てられるように、そわそわするのを、なりたけ自分で落着いて、悠々と歩行き出したが、取って三十という年紀の、渠の胸の騒ぎよう。さては今の時の暢気さは、この浪が立とうとする用意に、フイと静まった海らしい。        二  この通は、渠が生れた町とは大分間が離れているから、軒を並べた両側の家に、別に知己の顔も見えぬ。それでも何かにつけて思出す事はあった。通りの中ほどに、一軒料理屋を兼ねた旅店がある。其処へ東京から新任の県知事がお乗込とあるについて、向った玄関に段々の幕を打ち、水桶に真新しい柄杓を備えて、恭しく盛砂して、門から新筵を敷詰めてあるのを、向側の軒下に立って視めた事がある。通り懸りのお百姓は、この前を過ぎるのに、 「ああっ、」といって腰をのめらして行った。……御威勢のほどは、後年地方長官会議の節に上京なされると、電話第何番と言うのが見得の旅館へ宿って、葱の噯で、東京の町へ出らるる御身分とは夢にも思われない。  また夢のようだけれども、今見れば麺麭屋になった、丁どその硝子窓のあるあたりへ、幕を絞って――暑くなると夜店の中へ、見世ものの小屋が掛った。猿芝居、大蛇、熊、盲目の墨塗――(この土俵は星の下に暗かったが)――西洋手品など一廓に、蕺草の花を咲かせた――表通りへ目に立って、蜘蛛男の見世物があった事を思出す。  額の出た、頭の大きい、鼻のしゃくんだ、黄色い顔が、その長さ、大人の二倍、やがて一尺、飯櫃形の天窓にチョン髷を載せた、身の丈というほどのものはない。頤から爪先の生えたのが、金ぴかの上下を着た処は、アイ来た、と手品師が箱の中から拇指で摘み出しそうな中親仁。これが看板で、小屋の正面に、鼠の嫁入に担ぎそうな小さな駕籠の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額に蚯蚓のような横筋を畝らせながら、きょろきょろと、込合う群集を視めて控える……口上言がその出番に、 「太夫いの、太夫いの。」と呼ぶと、駕籠の中で、しゃっきりと天窓を掉立て、 「唯今、それへ。」  とひねこびれた声を出し、頤をしゃくって衣紋を造る。その身動きに、鼬の香を芬とさせて、ひょこひょこと行く足取が蜘蛛の巣を渡るようで、大天窓の頸窪に、附木ほどな腰板が、ちょこなんと見えたのを憶起す。  それが舞台へ懸る途端に、ふわふわと幕を落す。その時木戸に立った多勢の方を見向いて、 「うふん。」といって、目を剥いて、脳天から振下ったような、紅い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然として、雲の蒸す月の下を家へ遁帰った事がある。  人間ではあるまい。鳥か、獣か、それともやっぱり土蜘蛛の類かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織次の祖母さんが、 「あれはの、二股坂の庄屋殿じゃ。」といった。  この二股坂と言うのは、山奥で、可怪い伝説が少くない。それを越すと隣国への近路ながら、人界との境を隔つ、自然のお関所のように土地の人は思うのである。  この辺からは、峰の松に遮られるから、その姿は見えぬ。最っと乾の位置で、町端の方へ退ると、近山の背後に海がありそうな雲を隔てて、山の形が歴然と見える。……  汽車が通じてから、はじめて帰ったので、停車場を出た所の、故郷は、と一目見ると、石を置いた屋根より、赤く塗った柱より、先ずその山を見て、暫時茫然として彳んだのは、つい二、三日前の事であった。  腕車を雇って、さして行く従姉の町より、真先に、 「あの山は?」 「二股じゃ。」と車夫が答えた。――織次は、この国に育ったが、用のない町端まで、小児の時には行かなかったので、唯名に聞いた、五月晴の空も、暗い、その山。        三  その時は何んの心もなく、件の二股を仰いだが、此処に来て、昔の小屋の前を通ると、あの、蜘蛛大名が庄屋をすると、可怪しく胸に響くのであった。  まだ、その蜘蛛大名の一座に、胴の太い、脚の短い、芋虫が髪を結って、緋の腰布を捲いたような侏儒の婦が、三人ばかりいた。それが、見世ものの踊を済まして、寝しなに町の湯へ入る時は、風呂の縁へ両手を掛けて、横に両脚でドブンと浸る。そして湯の中でぶくぶくと泳ぐと聞いた。  そう言えば湯屋はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈蜙が、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に、枝垂れたようになって、折から森閑と風もない。  人通りも殆ど途絶えた。  が、何処ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽ったような響が聞える。……  立淀んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺のように聞えた。織次の祖母は、見世物のその侏儒の婦を教えて、 「あの娘たちはの、蜘蛛庄屋にかどわかされて、その妼になったいの。」  と昔語りに話して聞かせた所為であろう。ああ、薄曇りの空低く、見通しの町は浮上ったように見る目に浅いが、故郷の山は深い。  また山と言えば思出す、この町の賑かな店々の赫と明るい果を、縦筋に暗く劃った一条の路を隔てて、数百の燈火の織目から抜出したような薄茫乎として灰色の隈が暗夜に漾う、まばらな人立を前に控えて、大手前の土塀の隅に、足代板の高座に乗った、さいもん語りのデロレン坊主、但し長い頭髪を額に振分け、ごろごろと錫を鳴らしつつ、塩辛声して、 「……姫松どのはエ」と、大宅太郎光国の恋女房が、滝夜叉姫の山寨に捕えられて、小賊どもの手に松葉燻となる処――樹の枝へ釣上げられ、後手の肱を空に、反返る髪を倒に落して、ヒイヒイと咽んで泣く。やがて夫の光国が来合わせて助けるというのが、明晩、とあったが、翌晩もそのままで、次第に姫松の声が渇れる。 「我が夫いのう、光国どの、助けて給べ。」とばかりで、この武者修業の、足の遅さ。  三晩目に、漸とこさと山の麓へ着いたばかり。  織次は、小児心にも朝から気になって、蚊帳の中でも髣髴と蚊燻しの煙が来るから、続けてその翌晩も聞きに行って、汚い弟子が古浴衣の膝切な奴を、胸の処でだらりとした拳固の矢蔵、片手をぬい、と出し、人の顋をしゃくうような手つきで、銭を強請る、爪の黒い掌へ持っていただけの小遣を載せると、目を睜ったが、黄色い歯でニヤリとして、身体を撫でようとしたので、衝と極が悪く退った頸へ、大粒な雨がポツリと来た。  忽ち大驟雨となったので、蒼くなって駈出して帰ったが、家までは七、八町、その、びしょ濡れさ加減思うべしで。  あと二夜ばかりは、空模様を見て親たちが出さなかった。  さて晴れれば晴れるものかな。磨出した良い月夜に、駒の手綱を切放されたように飛出して行った時は、もうデロレンの高座は、消えたか、と跡もなく、後幕一重引いた、あたりの土塀の破目へ、白々と月が射した。  茫となって、辻に立って、前夜の雨を怨めしく、空を仰ぐ、と皎々として澄渡って、銀河一帯、近い山の端から玉の橋を町家の屋根へ投げ懸ける。その上へ、真白な形で、瑠璃色の透くのに薄い黄金の輪郭した、さげ結びの帯の見える、うしろ向きで、雲のような女の姿が、すっと立って、するすると月の前を歩行いて消えた。……織次は、かつ思いかつ歩行いて、丁どその辻へ来た。        四  湯屋は郵便局の方へ背後になった。  辻の、この辺で、月の中空に雲を渡る婦の幻を見たと思う、屋根の上から、城の大手の森をかけて、一面にどんよりと曇った中に、一筋真白な雲の靡くのは、やがて銀河になる時節も近い。……視むれば、幼い時のその光景を目前に見るようでもあるし、また夢らしくもあれば、前世が兎であった時、木賊の中から、ひょいと覗いた景色かも分らぬ。待て、希くは兎でありたい。二股坂の狸は恐れる。  いや、こうも、他愛のない事を考えるのも、思出すのも、小北の許へ行くにつけて、人は知らず、自分で気が咎める己が心を、我とさあらぬ方へ紛らそうとしたのであった。  さて、この辻から、以前織次の家のあった、某……町の方へ、大手筋を真直に折れて、一丁ばかり行った処に、小北の家がある。  両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水の水溜で、石畳みは強勢でも、緑晶色の大溝になっている。  向うの溝から鰌にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌るのは、けだしこの水溜からはじまった事であろう、と夏の夜店へ行帰りに、織次は独りでそう考えたもので。  同一早饒舌りの中に、茶釜雨合羽と言うのがある。トあたかもこの溝の左角が、合羽屋、は面白い。……まだこの時も、渋紙の暖簾が懸った。  折から人通りが二、三人――中の一人が、彼の前を行過ぎて、フト見返って、またひょいひょいと尻軽に歩行出した時、織次は帽子の庇を下げたが、瞳を屹と、溝の前から、件の小北の店を透かした。  此処にまた立留って、少時猶予っていたのである。  木格子の中に硝子戸を入れた店の、仕事の道具は見透いたが、弟子の前垂も見えず、主人の平吉が半纏も見えぬ。  羽織の袖口両方が、胸にぐいと上るように両腕を組むと、身体に勢を入れて、つかつかと足を運んだ。  軒から直ぐに土間へ入って、横向きに店の戸を開けながら、 「御免なさいよ。」 「はいはい。」  と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦は、下膨れの色白で、真中から鬢を分けた濃い毛の束ね髪、些と煤びたが、人形だちの古風な顔。満更の容色ではないが、紺の筒袖の上被衣を、浅葱の紐で胸高にちょっと留めた甲斐甲斐しい女房ぶり。些と気になるのは、この家あたりの暮向きでは、これがつい通りの風俗で、誰も怪しみはしないけれども、畳の上を尻端折、前垂で膝を隠したばかりで、湯具をそのままの足を、茶の間と店の敷居で留めて、立ち身のなりで口早なものの言いよう。 「何処からおいで遊ばしたえ、何んの御用で。」  と一向気のない、空で覚えたような口上。言つきは慇懃ながら、取附き端のない会釈をする。 「私だ、立田だよ、しばらく。」  もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢のない、塗ったような瞳を流して、凝と見たが、 「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支いた。胸を衝と反らしながら、驚いた風をして、 「どうして貴下。」  とひょいと立つと、端折った太脛の包ましい見得ものう、ト身を返して、背後を見せて、つかつかと摺足して、奥の方へ駈込みながら、 「もしえ! もしえ! ちょっと……立田様の織さんが。」 「何、立田さんの。」 「織さんですがね。」 「や、それは。」  という平吉の声が台所で。がたがた、土間を踏む下駄の音。        五 「さあ、お上り遊ばして、まあ、どうして貴下。」  とまた店口へ取って返して、女房は立迎える。 「じゃ、御免なさい。」 「どうぞこちらへ。」と、大きな声を出して、満面の笑顔を見せた平吉は、茶の室を越した見通しの奥へ、台所から駈込んで、幅の広い前垂で、濡れた手をぐいと拭きつつ、 「ずっと、ずっとずっとこちらへ。」ともう真中へ座蒲団を持出して、床の間の方へ直しながら、一ツくるりと立身で廻る。 「構っちゃ可厭だよ。」と衝と茶の間を抜ける時、襖二間の上を渡って、二階の階子段が緩く架る、拭込んだ大戸棚の前で、入ちがいになって、女房は店の方へ、ばたばたと後退りに退った。  その茶の室の長火鉢を挟んで、差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞って、その法然天窓が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶より低い処にしなびたのは、もう七十の上になろう。この女房の母親で、年紀の相違が五十の上、余り間があり過ぎるようだけれども、これは女房が大勢の娘の中に一番末子である所為で、それ、黒のけんちゅうの羽織を着て、小さな髷に鼈甲の耳こじりをちょこんと極めて、手首に輪数珠を掛けた五十格好の婆が背後向に坐ったのが、その総領の娘である。  不沙汰見舞に来ていたろう。この婆は、よそへ嫁附いて今は産んだ忰にかかっているはず。忰というのも、煙管、簪、同じ事を業とする。  が、この婆娘は虫が好かぬ。何為か、その上、幼い記憶に怨恨があるような心持が、一目見ると直ぐにむらむらと起ったから――この時黄色い、でっぷりした眉のない顔を上げて、じろりと額で見上げたのを、織次は屹と唯一目。で、知らぬ顔して奥へ通った。 「南無阿弥陀仏。」  と折から唸るように老人が唱えると、婆娘は押冠せて、 「南無阿弥陀仏。」と生若い声を出す。 「さて、どうも、お珍しいとも、何んとも早や。」と、平吉は坐りも遣らず、中腰でそわそわ。 「お忙しいかね。」と織次は構わず、更紗の座蒲団を引寄せた。 「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇でもございまするしね、怠け仕事に板前で庖丁の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯がとれますよ。」と縁へはみ出るくらい端近に坐ると一緒に、其処にあった塵を拾って、ト首を捻って、土間に棄てた、その手をぐいと掴んで、指を揉み、 「何時、当地へ。」 「二、三日前さ。」 「雑と十四、五年になりますな。」 「早いものだね。」 「早いにも、織さん、私なんざもう御覧の通り爺になりましたよ。これじゃ途中で擦違ったぐらいでは、ちょっとお分りになりますまい。」 「否、些とも変らないね、相かわらず意気な人さ。」 「これはしたり!」  と天井抜けに、突出す腕で額を叩いて、 「はっ、恐入ったね。東京仕込のお世辞は強い。人、可加減に願いますぜ。」  と前垂を横に刎ねて、肱を突張り、ぴたりと膝に手を支いて向直る。 「何、串戯なものか。」と言う時、織次は巻莨を火鉢にさして俯向いて莞爾した。面色は凛としながら優しかった。 「粗末なお茶でございます、直ぐに、あの、入かえますけれど、お一ツ。」  と女房が、茶の室から、半身を摺らして出た。 「これえ、私が事を意気な男だとお言いなさるぜ、御馳走をしなけりゃ不可んね。」 「あれ、もし、お膝に。」と、うっかり平吉の言う事も聞落したらしかったのが、織次が膝に落ちた吸殻の灰を弾いて、はっとしたように瞼を染めた。        六 「さて、どうも更りましては、何んとも申訳のない御無沙汰で。否、もう、そりゃ実に、烏の鳴かぬ日はあっても、お噂をしない日はありませんが、なあ、これえ。」 「ええ。」と言った女房の顔色の寂しいので、烏ばかり鳴くのが分る。が、別に織次は噂をされようとも思わなかった。  平吉は畳み掛け、 「牛は牛づれとか言うんでえしょう。手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印を捺しますより、事も大層になります処から、何とも申訳がございやせん。  何しろ、まあ、御緩りなすって、いずれ今晩は手前どもへ御一泊下さいましょうで。」  と膝をすっと手先で撫でて、取澄ました風をしたのは、それに極った、という体を、仕方で見せたものである。  「串戯じゃない。」と余りその見透いた世辞の苦々しさに、織次は我知らず打棄るように言った。些とその言が激しかったか、 「え。」と、聞直すようにしたが、忽ち唇の薄笑。 「ははあ、御同伴の奥さんがお待兼ねで。」 「串戯じゃない。」  と今度は穏かに微笑んで、 「そんなものがあるものかね。」 「そんなものとは?」 「貴下、まだ奥様はお持ちなさりませんの。」  と女房、胸を前へ、手を畳にす。  織次は巻莨を、ぐいと、さし捨てて、 「持つもんですか。」 「織さん。」  と平吉は薄く刈揃えた頭を掉って、目を据えた。 「まだ、貴下、そんな事を言っていますね。持つものか! なんて貴下、一生持たないでどうなさる。……また、こりゃお亡くなんなすった父様に代って、一説法せにゃならん。例の晩酌の時と言うとはじまって、貴下が殊の外弱らせられたね。あれを一つ遣りやしょう。」  と片手で小膝をポンと敲き、 「飲みながらが可い、召飯りながら聴聞をなさい。これえ、何を、お銚子を早く。」 「唯、もう燗けてござりえす。」と女房が腰を浮かす、その裾端折で。  織次は、酔った勢で、とも思う事があったので、黙っていた。 「ぬたをの……今、私が擂鉢に拵えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可いか、手綺麗に装わないと食えぬ奴さね。……もう不断、本場で旨いものを食りつけてるから、田舎料理なんぞお口には合わん、何にも入らない、ああ、入らないとも。」  と独りで極めて、もじつく女房を台所へ追立てながら、 「織さん、鰯のぬただ、こりゃ御存じの通り、他国にはない味です。これえ、早くしなよ。」  ああ、しばらく。座にその鰯の臭気のない内、言わねばならぬ事がある…… 「あの、平さん。」  と織次は若々しいもの言いした。 「此家に何だね、僕ン許のを買ってもらった、錦絵があったっけね。」 「へい、錦絵。」と、さも年久しい昔を見るように、瞳を凝と上へあげる。 「内で困って、……今でも貧乏は同一だが。」  と織次は屹と腕を拱んだ。 「私が学校で要る教科書が買えなかったので、親仁が思切って、阿母の記念の錦絵を、古本屋に売ったのを、平さんが買戻して、蔵っといてくれた。その絵の事だよ。」  時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も下に置かぬ前から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請った、新撰物理書という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通われぬと言うのではない。科目は教師が黒板に書いて教授するのを、筆記帳へ書取って、事は足りたのであるが、皆が持ってるから欲しくてならぬ。定価がその時金八十銭と、覚えている。        七  親父はその晩、一合の酒も飲まないで、燈火の赤黒い、火屋の亀裂に紙を貼った、笠の煤けた洋燈の下に、膳を引いた跡を、直ぐ長火鉢の向うの細工場に立ちもせず、袖に継のあたった、黒のごろの半襟の破れた、千草色の半纏の片手を懐に、膝を立てて、それへ頬杖ついて、面長な思案顔を重そうに支えて黙然。  ちょっと取着端がないから、 「だって、欲いんだもの。」と言い棄てに、ちょこちょこと板の間を伝って、だだッ広い、寒い台所へ行く、と向うの隅に、霜が見える……祖母さんが頭巾もなしの真白な小さなおばこで、皿小鉢を、がちがちと冷い音で洗ってござる。 「買っとくれよ、よう。」  と聞分けもなく織次がその袂にぶら下った。流は高い。走りもとの破れた芥箱の上下を、ちょろちょろと鼠が走って、豆洋燈が蜘蛛の巣の中に茫とある…… 「よう、買っとくれよ、お弁当は梅干で可いからさ。」  祖母は、顔を見て、しばらく黙って、 「おお、どうにかして進ぜよう。」  と洗いさした茶碗をそのまま、前垂で手を拭き拭き、氷のような板の間を、店の畳へ引返して、火鉢の前へ、力なげに膝をついて、背後向きに、まだ俯向いたなりの親父を見向いて、 「の、そうさっしゃいよ。」 「なるほど。」 「他の事ではない、あの子も喜ぼう。」 「それでは、母親、御苦労でございます。」 「何んの、お前。」  と納戸へ入って、戸棚から持出した風呂敷包が、その錦絵で、国貞の画が二百余枚、虫干の時、雛祭、秋の長夜のおりおりごとに、馴染の姉様三千で、下谷の伊達者、深川の婀娜者が沢山いる。  祖母さんは下に置いて、 「一度見さっしゃるか。」と親父に言った。 「いや、見ますまい。」  と顔を背向ける。  祖母は解き掛けた結目を、そのまま結えて、ちょいと襟を引合わせた。細い半襟の半纏の袖の下に抱えて、店のはずれを板の間から、土間へ下りようとして、暗い処で、 「可哀やの、姉様たち。私が許を離れてもの、蜘蛛男に買われさっしゃるな、二股坂へ行くまいぞ。」  と小さな声して言聞かせた。織次は小児心にも、その絵を売って金子に代えるのである、と思った。……顔馴染の濃い紅、薄紫、雪の膚の姉様たちが、この暗夜を、すっと門を出る、……と偶と寂しくなった。が、紅、白粉が何んのその、で、新撰物理書の黒表紙が、四冊並んで、目の前で、ひょい、と躍った。 「待ってござい、織や。」  ごろごろと静かな枢戸の音。  台所を、どどんがたがた、鼠が荒野と駈廻る。  と祖母が軒先から引返して、番傘を持って出直す時、 「あのう、台所の燈を消しといてくらっしゃいよ、の。」  で、ガタリと門の戸がしまった。  コトコトと下駄の音して、何処まで行くぞ、時雨の脚が颯と通る。あわれ、祖母に導かれて、振袖が、詰袖が、褄を取ったの、裳を引いたの、鼈甲の櫛の照々する、銀の簪の揺々するのが、真白な脛も露わに、友染の花の幻めいて、雨具もなしに、びしゃびしゃと、跣足で田舎の、山近な町の暗夜を辿る風情が、雨戸の破目を朦朧として透いて見えた。  それも科学の権威である。物理書というのを力に、幼い眼を眩まして、その美しい姉様たちを、ぼったて、ぼったて、叩き出した、黒表紙のその状を、後に思えば鬼であろう。  台所の灯は、遙に奥山家の孤家の如くに点れている。  トその壁の上を窓から覗いて、風にも雨にも、ばさばさと髪を揺って、団扇の骨ばかりな顔を出す……隣の空地の棕櫚の樹が、その夜は妙に寂として気勢も聞えぬ。  鼠も寂莫と音を潜めた。……        八  台所と、この上框とを隔ての板戸に、地方の習慣で、蘆の簾の掛ったのが、破れる、断れる、その上、手の届かぬ何年かの煤がたまって、相馬内裏の古御所めく。  その蔭に、遠い灯のちらりとするのを背後にして、お納戸色の薄い衣で、ひたと板戸に身を寄せて、今出て行った祖母の背後影を、凝と見送る状に彳んだ婦がある。  一目見て、幼い織次はこの現世にない姿を見ながら、驚きもせず、しかし、とぼんとして小さく立った。  その小児に振向けた、真白な気高い顔が、雪のように、颯と消える、とキリキリキリ――と台所を六角に井桁で仕切った、内井戸の轆轤が鳴った。が、すぐに、かたりと小皿が響いた。  流の処に、浅葱の手絡が、時ならず、雲から射す、濃い月影のようにちらちらして、黒髪のおくれ毛がはらはらとかかる、鼻筋のすっと通った横顔が仄見えて、白い拭布がひらりと動いた。 「織坊。」  と父が呼んだ。 「あい。」  ばたばたと駈出して、その時まで同じ処に、画に描いたように静として動かなかった草色の半纏に搦附く。 「ああ、阿母のような返事をする。肖然だ、今の声が。」  と膝へ抱く。胸に附着き、 「台所に母様が。」 「ええ!」と父親が膝を立てた。 「祖母さんの手伝いして。」  親父は、そのまま緊乎と抱いて、 「織坊、本を買って、何を習う。」 「ああ、物理書を皆読むとね、母様のいる処が分るって、先生がそう言ったよ。だから、早く欲しかったの、台所にいるんだもの、もう買わなくとも可い。……おいでよ、父上。」  と手を引張ると、猶予いながら、とぼとぼと畳に空足を踏んで、板の間へ出た。  その跫音より、鼠の駈ける音が激しく、棕櫚の骨がばさりと覗いて、其処に、手絡の影もない。  織次はわっと泣出した。  父は立ちながら背を擦って、わなわな震えた。  雨の音が颯と高い。 「おお、冷え、本降、本降。」  と高調子で門を入ったのが、此処に差向ったこの、平吉の平さんであった。  傘をがさりと掛けて、提灯をふっと消す、と蝋燭の匂が立って、家中仏壇の薫がした。 「呀! 世話場だね、どうなすった、父さん。お祖母は、何処へ。」  で、父が一伍一什を話すと―― 「立替えましょう、可惜ものを。七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干に買うか知れないけれど、差当り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処にあれば可い訳だ、と先ず言った訳だ。先方の買直がぎりぎりの処なら買戻すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさしてお置きなさい。……そらそら、はじめたはじめた、お株が出たぜえ。こんな事に済まぬも義理もあったものかね、ええ、君。」  と太く書生ぶって、 「だから、気が済まないなら、預け給え。僕に、ね、僕は構わん。構わないけれど、唯立替えさして気が済まない、と言うんなら、その金子の出来るまで、僕が預かって置けば可うがしょう。さ、それで極った。……一ツ莞爾としてくれ給え。君、しかし何んだね、これにつけても、小児に学問なんぞさせねえが可いじゃないかね。くだらない、もうこれ織公も十一、吹韛ばたばたは勤まるだ。二銭三銭の足にはなる。ソレ直ぐに鹿尾菜の代が浮いて出ようというものさ。……実の処、僕が小指の姉なんぞも、此家へ一人二度目妻を世話しようといってますがね、お互にこの職人が小児に本を買って遣る苦労をするようじゃ、末を見込んで嫁入がないッさ。ね、祖母が、孫と君の世話をして、この寒空に水仕事だ。  因果な婆さんやないかい、と姉がいつでも言ってます。」……とその時言った。  ――その姉と言うのが、次室の長火鉢の処に来ている。――        九  そこへ、祖母が帰って来たが、何んにも言わず、平吉に挨拶もせぬ先に、 「さあ」と言って、本を出す。  織次は飛んで獅子の座へ直った勢。上から新撰に飛付く、と突のめったようになって見た。黒表紙には綾があって、艶があって、真黒な胡蝶の天鵝絨の羽のように美しく……一枚開くと、きらきらと字が光って、細流のように動いて、何がなしに、言いようのない強い薫が芬として、目と口に浸込んで、中に描いた器械の図などは、ずッしり鉄の楯のように洋燈の前に顕れ出でて、絵の硝子が燐と光った。  さて、祖母の話では、古本屋は、あの錦絵を五十銭から直を付け出して、しまいに七十五銭よりは出せぬと言う。きなかもその上はつかぬと断る。欲い物理書は八十銭。何でも直ぐに買って帰って、孫が喜ぶ顔を見たさに、思案に余って、店端に腰を掛けて、時雨に白髪を濡らしていると、其処の亭主が、それでは婆さんこうしなよ。此処にそれ、はじめの一冊だけ、ちょっと表紙に竹箆の折返しの跡をつけた、古本の出物がある。定価から五銭引いて、丁どに鍔を合わせて置く。で、孫に持って行って遣るが可い、と捌きを付けた。国貞の画が雑と二百枚、辛うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。  平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。 「織坊、母様の記念だ。お祖母さんと一緒に行って、今度はお前が、背負って来い。」 「あい。」  とその四冊を持って立つと、 「路が悪い、途中で落して汚すとならぬ、一冊だけ持って来さっしゃい、また抱いて寝るのじゃの。」  と祖母も莞爾して、嫁の記念を取返す、二度目の外出はいそいそするのに、手を曳かれて、キチンと小口を揃えて置いた、あと三冊の兄弟を、父の膝許に残しながら、出しなに、台所を竊と覗くと、灯は棕櫚の葉風に自から消えたと覚しく……真の暗がりに、もう何んにも見えなかった。  雨は小止で。  織次は夜道をただ、夢中で本の香を嗅いで歩行いた。  古本屋は、今日この平吉の家に来る時通った、確か、あの湯屋から四、五軒手前にあったと思う。四辻へ行く時分に、祖母が破傘をすぼめると、蒼く光って、蓋を払ったように月が出る。山の形は骨ばかり白く澄んで、兎のような雲が走る。  織次は偶と幻に見た、夜店の頃の銀河の上の婦を思って、先刻とぼとぼと地獄へ追遣られた大勢の姉様は、まさに救われてその通り天にのぼる、と心が勇む。  一足先へ駈出して、見覚えた、古本屋の戸へ附着いたが、店も大戸も閉っていた。寒さは寒し、雨は降ったり、町は寂として何処にも灯の影は見えぬ。 「もう寝たかの。」  と祖母がせかせかござって、 「御許さい、御許さい。」  と遠慮らしく店頭の戸を敲く。  天窓の上でガッタリ音して、 「何んじゃ。」  と言う太い声。箱のような仕切戸から、眉の迫った、頬の膨れた、への字の口して、小鼻の筋から頤へかけて、べたりと薄髯の生えた、四角な顔を出したのは古本屋の亭主で。……この顔と、その時の口惜さを、織次は如何にしても忘れられぬ。  絵はもう人に売った、と言った。  見知越の仁ならば、知らせて欲い、何処へ行って頼みたい、と祖母が言うと、ちょいちょい見懸ける男だが、この土地のものではねえの。越後へ行く飛脚だによって、脚が疾い。今頃はもう二股を半分越したろう、と小窓に頬杖を支いて嘲笑った。  縁の早い、売口の美い別嬪の画であった。主が帰って間もない、店の燈許へ、あの縮緬着物を散らかして、扱帯も、襟も引さらげて見ている処へ、三度笠を横っちょで、てしま茣蓙、脚絆穿、草鞋でさっさっと遣って来た、足の高い大男が通りすがりに、じろりと見て、いきなり価をつけて、ずばりと買って、濡らしちゃならぬと腰づけに、きりりと、上帯を結び添えて、雨の中をすたすたと行方知れずよ。…… 「分ったか、お婆々。」と言った。        十  断念めかねて、祖母が何か二ツ三ツ口を利くと、挙句の果が、 「老耄婆め、帰れ。」  と言って、ゴトンと閉めた。  祖母が、ト目を擦った帰途。本を持った織次の手は、氷のように冷めたかった。そこで、小さな懐中へ小口を半分差込んで、圧えるように頤をつけて、悄然とすると、辻の浪花節が語った…… 「姫松殿がエ。」  が暗から聞える。――織次は、飛脚に買去られたと言う大勢の姉様が、ぶらぶらと甘干の柿のように、樹の枝に吊下げられて、上げつ下ろしつ、二股坂で苛まれるのを、目のあたりに見るように思った。  とやっぱり芬とする懐中の物理書が、その途端に、松葉の燻る臭気がし出した。  固より口実、狐が化けた飛脚でのうて、今時町を通るものか。足許を見て買倒した、十倍百倍の儲が惜さに、貉が勝手なことを吐く。引受けたり平吉が。  で、この平さんが、古本屋の店へ居直って、そして買戻してくれた錦絵である。  が、その後、折を見て、父が在世の頃も、その話が出たし、織次も後に東京から音信をして、引取ろう、引取ろうと懸合うけれども、ちるの、びるので纏まらず、追っかけて追詰めれば、片音信になって埒が明かぬ。  今日こそ何んでも、という意気込みであった。  さて、その事を話し出すと、それ、案の定、天井睨みの上睡りで、ト先ず空惚けて、漸と気が付いた顔色で、 「はあ、あの江戸絵かね、十六、七年、やがて二昔、久しいもんでさ、あったっけかな。」  と聞きも敢えず…… 「ないはずはないじゃないか、あんなに頼んで置いたんだから。……」と何故かこの絵が、いわれある、活ける恋人の如く、容易くは我が手に入らない因縁のように、寝覚めにも懸念して、此家へ入るのに肩を聳やかしたほど、平吉がかかる態度に、織次は早や躁立ち焦る。  平吉は他処事のように仰向いて、 「なあ、これえ。」  と戸棚の前で、膳ごしらえする女房を頤で呼んで、 「知るまいな。忘れたろうよ、な、な、お前も、あの、江戸絵さ、蔵の中にあったっけか。」 「唯、ござりえす、出しますかえ。」と女房は判然言った。 「難有う、お琴さん。」  とはじめて親しげに名を言って、凝と振向くと、浪の浅葱の暖簾越に、また颯と顔を赧らめた処は、どうやら、あの錦絵の中の、その、どの一人かに俤が幽に似通う。…… 「お一つ。」  とそこへ膳を直して銚子を取った。変れば変るもので、まだ、七八ツ九ツばかり、母が存生の頃の雛祭には、緋の毛氈を掛けた桃桜の壇の前に、小さな蒔絵の膳に並んで、この猪口ほどな塗椀で、一緒に蜆の汁を替えた時は、この娘が、練物のような顔のほかは、着くるんだ花の友染で、その時分から円い背を、些と背屈みに座る癖で、今もその通りなのが、こうまで変った。  平吉は既う五十の上、女房はまだ二十の上を、二ツか、多くて三ツであろう。この姉だった平吉の前の家内が死んだあとを、十四、五の、まだ鳥も宿らぬ花が、夜半の嵐に散らされた。はじめ孫とも見えたのが、やがて娘らしく、妹らしく、こうした処では肖しくなって、女房ぶりも哀に見える。  これも飛脚に攫われて、平吉の手に捕われた、一枚の絵であろう。  いや、何んにつけても、早く、とまた屹と居直ると、女房の返事に、苦い顔して、横睨みをした平吉が、 「だが、何だぜ、これえ、何それ、何、あの貸したきりになってるはずだぜ。催促はするがね……それ、な、これえ。まだ、あのまま返って来ないよ、そうだよ。ああ、そうだよ。」  と幾度も一人で合点み、 「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁、親類中の評判で、平吉が許へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集るほどに、丁と片時も落着いていた験はがあせん。」  と蔵の中に、何とやらと言った、その口の下…… 「手前じゃ、まあ、持物と言ったようなものの、言わばね、織さん、何んですわえ。それ、貴下から預かっているも同然な品なんだから、出入れには、自然、指垢、手擦、つい汚れがちにもなりやしょうで、見せぬと言えば喧嘩になる……弱るの何んの。そこで先ず、貸したように、預けたように、余所の蔵に秘ってありますわ。ところが、それ。」  と、これも気色ばんだ女房の顔を、兀上った額越に、ト睨って、 「その蔵持の家には、手前が何でさ、……些とその銭式の不義理があって、当分顔の出せない、といったような訳で、いずれ、取って来ます。取って来るには取って来ますが、ついちょっと、ソレ銭式の事ですからな。  それに、織さん、近頃じゃ価が出ましたっさ。錦絵は……唯た一枚が、雑とあの当時の二百枚だってね、大事のものです。貴下にも大事のもので、またこっちも大事のものでさ。価は惜まぬ、ね、価は惜まぬから手放さないか、と何度も言われますがね、売るものですか。そりゃ売らない。憚りながら平吉売らないね。預りものだ、手放して可いものですかい。  けれども、おいそれとは今言ったような工合ですから、いずれ、その何んでさ。ま、ま、めし飲れ、熱い処を。ね、御緩り。さあ、これえ、お焼物がない。ええ、間抜けな、ぬたばかり。これえ、御酒に尾頭は附物だわ。ぬたばかり、いやぬたぬたとぬたった婦だ。へへへへへ、鰯を焼きな、気は心よ、な、鰯をよ。」  と何か言いたそうに、膝で、もじもじして、平吉の額をぬすみ見る女房の様は、湯船へ横飛びにざぶんと入る、あの見世物の婦らしい。これも平吉に買われたために、姿まで変ったのであろう。  坐り直って、 「あなたえ。」  と怨めしそうな、情ない顔をする。  ぎょろりと目を剥き、険な面で、 「これえ。」と言った。  が、鰯の催促をしたようで。 「今、焼いとるんや。」  と隣室の茶の室で、女房の、その、上の姉が皺びた声。 「なんまいだ。」  と婆が唱える。……これが――「姫松殿がえ。」と耳を貫く。……称名の中から、じりじりと脂肪の煮える響がして、腥いのが、むらむらと来た。  この臭気が、偶と、あの黒表紙に肖然だと思った。  とそれならぬ、姉様が、山賊の手に松葉燻しの、乱るる、揺めく、黒髪までが目前にちらつく。  織次は激くいった。 「平吉、金子でつく話はつけよう。鰯は待て。」
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店    1987(昭和62)年9月16日第1刷発行    1999(平成11)年3月15日第19刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十二卷」岩波書店    1942(昭和17)年4月初版発行 初出:「太陽」    1910(明治10)年1月号 ※底本の親本は総ルビ。底本作成時にルビが取捨選択されています。 入力:今中一時 校正:青木直子 1999年12月16日公開 2005年12月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000529", "作品名": "国貞えがく", "作品名読み": "くにさだえがく", "ソート用読み": "くにさたえかく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-12-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card529.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花短篇集 川村二郎編", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月16日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年10月6日第18刷", "校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月15日第19刷", "底本の親本名1": "鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年4月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "今中一時", "校正者": "青木直子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/529_ruby_20652.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/529_20653.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 古くから、人も知つた有名な引手茶屋。それが去年の吉原の火事で燒けて、假宅で營業をして居たが、續けて營業をするのには、建て復しをしなくてはならぬ。  金主を目付けたが、引手茶屋は、見込がないと云ふので、資本を下さない。  殊に、その引手茶屋には、丁度妙齡になる娘が一人あつて、それがその吉原に居るといふ事を、兼々非常に嫌つて居る。娘は町へ出度いと言ふ。  女房の料簡ぢやあ、廓外へ出て――それこそ新橋なぞは、近來吉原の者も大勢行つて居るから――彼處等へ行つて待合でもすれば、一番間違は無いと思つたのだが、此議は又その娘が大反對で、待合なんといふ家業は、厭だといふ殊勝な思慮。  何をしよう、彼をしようと云ふのが、金主、誰彼の發案で、鳥屋をする事になつた。  而して、まあ或る處へ、然るべき家を借り込むで、庭には燈籠なり、手水鉢も、一寸したものがあらうといふ、一寸氣取つた鳥屋といふ事に話が定つた。  その準備に就いても取々奇な事があるが、それはまあ、お預り申すとして、帳場へ据ゑて算盤を置く、乃至帳面でもつけようといふ、娘はこれを(お帳場〳〵)と言つて居るが、要するに卓子だ。それを買ひ込む邊りから、追々珍談は始まるのだが……  先づ其のお帳場なるものが、直き近所には、四圓五十錢だと、新しいのを賣つて居る。けれども、創業の際ではあるし、成るたけ金を使はないで、吉原に居た時なんぞと異つて、總てに經濟にしてやらなくちや可かんと云ふので、それから其の女房に、娘がついて、其處等をその、ブラ〳〵と、見て歩いたものである。  茲に件の娘たるや、今もお話した通り、吉原に居る事を恥とし、待合を出す事を厭だと云つた心懸なんだから、まあ傍から勸めても、結綿なんぞに結はうよりは、惡くすると廂髮にでもしようといふ――  閑話休題、母子は其處等を見て歩くと、今言つた、其のお帳場が、橋向うの横町に一個あつた。無論古道具屋なんです。  値を聞くと三圓九十錢で、まあ、それは先のよりは安い。が、此奴を行きなり女房は、十錢値切つて、三圓八十錢にお負けなさいと言つたんです。  するとね、これから滑稽があるんだが……その女房の、これを語る時に曰くさ。 「道具屋の女房は、十錢値切つたのを癪に觸らせたのに違ひない。」  本人は、引手茶屋で、勘定を値切られた時と同じに、是は先方(道具屋の女房)も感情を害したものと思つたらしい。  因で、感情を害してるなと、此方では思つてる前方が、件の所謂お帳場なるもの……「貴女、これは持つて行かれますか。」と言つた。  然うすると此方は引手茶屋の女房、先方も癪に觸らせたから、「持てますか。」と言つたんだらう。持てますかと言つたものを、持たれないと云ふ法はない。「あゝ持てますとも」と言つて、受取つて、それを突然、うむと、女房は背負つたものです。  背負ふと云ふと、ひよろ〳〵、ひよろ〳〵。……一足歩き出すと又ひよろ〳〵。……  女房は、弱つちやつた。可恐しく重いんです。が、持たれないといふのは悔しいてんで、それに押されるやうにして、又ひよろ〳〵。  二歩三歩ひよろついてると思ふと、突然、「何をするんだ。」といふ者がある。  本人は目が眩んで居るから、何が何うしたかは分らない。が、「何をするんだ。」と言はれたから、無論打着かつたに違ひない、と思つたんです。で、「眞平御免なさい。」と言ふと、又ひよろ〳〵とそれを背負つて歩く。然うすると、その背後で、娘は、クツクツクツクツ笑ふ。と、背負つてる人は、「何だね、お前、笑ひ事ちやないやね。」と言ひながら又ひよろ〳〵。  偖て、然うなると、この教育のある娘が、何しろ恰好が惡い、第一又持ちやうが惡い、前へ𢌞して膝へ取つて持ち直せといふ。  それから娘が、手傳つて、女房は、それをその、胸の處へ、兩手で抱いた。  抱くと、今度は、足が突張つて動かない。前へ、丁度膝の處へ重しが掛かる。が、それでも腰を据ゑて、ギツクリ〳〵一歩二歩づゝは歩く。  今度は目は眩まない。背後の方も見えるから、振返つて背後を見ると、娘は何故か、途中へ踞んでて動かない。而して横腹を抱へながら、もう止しておくれ〳〵と言つて居る。無論可笑くて立つ事も出來ないのだ。  それが、非常に人の雜沓する、江戸の十字街、電車の交叉點もあるし、大混雜の中で其の有樣なんです。恐らく妙齡の娘が横腹を抱へながら歩いたのも多度はあるまいし、亦お帳場を持つて歩いた女房も澤山はあるまい。何うしても其の光景が、吉原の大門の中で演る仕事なんです。  往來を行交ふもの、これを見て噴出さざるなし。而して、その事を、その女房が語る時に又曰く、 「交番の巡査さんが、クツクツ言つて笑つて居たつけね。」  すると傍から、又その光景を見て居た娘の云ふのには、「その巡査さんがね、洋刀を、カチヤ〳〵カチヤ〳〵搖ぶつて笑つて居た。」と附け足します。  で、客が問うて曰、 「それを家まで持つて來たの、」  女房が答へて、 「串戲言つちや可けません。あれを持つて來ようものなら、河へ落つこつて了つたんです。」と、無論高い俥代を拂つて、俥で家まで持つて來たものです。  今度は買物に出る時は、それに鑑みて、途中からでは足許を見られるといふので、宿車に乘つて家を飛び出した。  その時の買物が笊一つ。而して「三十五錢俥賃を取られたね。」と、女房が言ふと、又娘が傍に居て、「違ふよ、五十錢だよ。」と言ふ。  それから又別の時、手水鉢の傍へ置く、手拭入れを買ひに行つて、それを又十錢値切つたといふ話がありますが、それはまあ節略して――何でも値切るのは十錢づゝ値切るものだと女房は思つて居る。  偖て、店をする、料理人も入つて、お客も一寸々々ある事になる。  と、或お客が手を叩く。……まあ大いに勉強をして、娘が用を聞きに行つた。――さうすると、そのお客が、「鍋下」を持つて來いと言つた。 「はい。」と言つて引下つたが分らない。女房に、「一寸鍋下を持て來い、と言つたが何だらう。」と。  茲に又きいちやんと稱へて、もと、其處の内で内藝妓をして居たのがある。今は堅氣で、手傳ひに來て居る。  と、其のきいちやんの處へ來て、右の鍋下だが、「何だらう、きいちやん知つてるかい。」と矢張り分らない女房が聞くと、これが又「知らない。」と言ふ。 「料理番に聞くのも悔しいし、何だらう……」と三人で考へた。考へた結果、まあ年長だけに女房が分別して、「多分釜敷の事だらう、丁度新らしいのがあるから持つておいでよ。」と言つたんださうです。  然うすると、きいちやん曰、「釜敷? 何にするだらう?」  此處がその、甚く仲の町式で面白いのは、女房が、「何かのお禁呪になるんだらう。」と言つた。因で、その娘が、恭しくお盆に載せて、その釜敷を持つて出る。と、客が妙な顏をして、これを眺めて、察したと見えて噴出して、「火の事だよ〳〵。」と言ふ。  でまあ恁云ふ體裁なんですがね。女中には總て怒鳴らせない事にしてあるんださうだが、帳場へ來てお誂へを通すのに、「ほんごぶになま二イ」と通す。と此を知る者一人もなし。で、誠に困つてる。  と、又、或時その女中が、同じやうに、「れいしゆ。」と言つた。又分らない。「お早く願ひます。」と又女中が言つた。  するとその娘が、「きいちやん、れいしゆあるかい、れいしゆあるかい。」と聞いた。  もと藝妓のきいちやんが、もう一人の手傳ひに向つて、 「あ、早く八百屋へおいで、」と言つた。女中が、 「八百屋へ行つて何うなさるんです。」  きいちやんが、 「だつてあるかないか知らないが、八百屋へ行つたらばれいしゆがあるだらう。」  女中は驚いて、 「冷酒の事ですよ。」  冷酒と茘枝と間違へたんですが……そんなら始めから冷酒なら冷酒と言つてくれれば可いのにと家内中の者は皆言つて居る。又その女中が「けいらん五、」と或時言つた。而して、それは、その、きいちやんたるものが聞きつけて、例の式で、「そんなものはない。」と言つたが、これは教育のある娘が分つた。 「ね、きいちやん、けいらんツて玉子の事だね。」  すると又きいちやんの言つた言葉が面白い。 「そんな奴があるものか。」 「だつて玉子屋の看板には何と書いてある?」 「矢張りたまごと書いてあるだらう。」と云ふんです。  ……今の鍋下、おしたぢを、むらさき、ほん五分に生二なぞと來て、しんこと聞くと悚然とする。三つ葉を入れないで葱をくれろといふ時にも女中は「みつなしの本五分ツ」といふ。何うも甚だ癪に障ると、家内中の連中がこぼすんです。  而して、おしたぢならおしたぢ、葱なら葱、三つ葉なら三つ葉でよからうと言つて居る。  ――も一つ可笑な話がある。鳥屋のお客が歸る時に、娘が、「こんだいつ被入るの。」と言ふと、女房が又うツかり、「お近い内――」と送り出す。 明治四十五年五月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「廓《くるわ》そだち」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050774", "作品名": "廓そだち", "作品名読み": "くるわそだち", "ソート用読み": "くるわそたち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50774.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50774_ruby_44354.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50774_44655.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
上  席上の各々方、今や予が物語すべき順番の来りしまでに、諸君が語給いし種々の怪談は、いずれも驚魂奪魄の価値なきにあらず。しかれども敢て、眼の唯一個なるもの、首の長さの六尺なるもの、鼻の高さの八寸なるもの等、不具的仮装的の怪物を待たずとも、ここに最も簡単にして、しかも能く一見直ちに慄然たらしむるに足る、いと凄まじき物躰あり。他なし、深更人定まりて天に声無き時、道に如何なるか一人の女性に行逢たる機会是なり。知らず、この場合には婦人もまた男子に対して慄然たるか。恐らくは無かるべし、譬い之ありとするも、そは唯腕力の微弱なるより、一種の害迫を加えられんかを恐るるに因るのみ。  しかるに男子はこれと異なり、我輩の中に最も腕力無き者といえども、なお比較上婦人より力の優れるを、自ら信ずるにも関らず、幽寂の境に於て突然婦人に会えば、一種謂うべからざる陰惨の鬼気を感じて、勝えざるものあるは何ぞや。  坐中の貴婦人方には礼を失する罪を免れざれども、予をして忌憚なく謂わしめば、元来、淑徳、貞操、温良、憐愛、仁恕等あらゆる真善美の文字を以て彩色すべき女性と謂うなる曲線が、その実陰険の忌わしき影を有するが故に、夜半宇宙を横領する悪魔の手に導かれて、自から外形に露わるるは、あたかも地中に潜める燐素の、雨に逢いて出現するがごときものなればなり。  憤ることなかれ。恥ずることを止めよ。社会一般の者ことごとく強盗ならんには、誰か一人の罪を責むべき。陰険の気は、けだし婦人の通有性にして、なおかつ一種の元素なり。  しかして夜間は婦人がその特性を発揮すべき時節なれば、諸君もまた三更無人の境人目を憚らざる一個の婦人が、我より外に人なしと思いつつある場合に不意婦人に邂逅せんか、その感覚果していかん。予は不幸にしてその経験を有せり。  予は去にし年の冬十二月、加賀国随一の幽寂界、黒壁という処にて、夜半一箇の婦人に出会いし時、実に名状すべからざる凄気を感ぜしなり。黒壁は金沢市の郊外一里程の所にあり、魔境を以て国中に鳴る。けだし野田山の奥、深林幽暗の地たるに因れり。ここに摩利支天の威霊を安置す。  信仰の行者を除くの外、昼も人跡罕なれば、夜に入りては殆ど近くものもあらざるなり。その物凄き夜を択びて予は故らに黒壁に赴けり。その何のためにせしやを知らず、血気に任せて行いたりし事どもは、今に到りて自からその意を了するに困むなり。昼間黒壁に詣りしことは両三回なるが故に、地理は暗じ得たり。提灯の火影に照らして、闇き夜道をものともせず、峻坂、嶮路を冒して、目的の地に達せし頃は、午後十一時を過ぎつらん。  摩利支天の祠に詣ずるに先立ちて、その太さ三拱にも余りぬべき一本杉の前を過ぐる時、ふと今の世にも「丑の時詣」なるものありて、怨ある男を咒う嫉妬深き婦人等の、此処に詣で来て、この杉に釘を打つよし、人に聞きしを懐出でたり。  げに、さることもありぬべしと、提灯を差翳して、ぐるりと杉を一周せしに、果せるかな、あたかも弾丸の雨注せし戦場の樹立の如き、釘を抜取りし傷痕ありて、地上より三四尺、婦人の手の届かんあたりまでは、蜂の巣を見るが如し。唯単に迷信のみにて、実際成立たざる咒詛にもせよ、かかる罪悪を造る女心の浅ましく、はたまた咒わるる男も憐むべしと、見るから不快の念に堪えず直ちに他方に転ぜんとせし視線は、端無くも幹の中央に貼附けたる一片の紙に注げり。  と見れば紙上に文字ありて認められたるものの如し。  予は熟視せり。茂れる木の葉に雨を凌げば、墨の色さえ鮮明に、 「巳の年、巳の月、巳の日、巳の刻、出生。二十一歳の男子」と二十一文字を記せり。  第一の「巳」より「男」まで、字の数二十に一本宛、見るも凄まじき五寸釘を打込みて、僅に「子」の一文字を余せるのみ。  案ずるに三七二十一日の立願の二十日の夜は昨夜に過ぎて今夜しもこの咒咀主が満願の夜にあらざるなきか。予は氷を以て五体を撫でまわさるるが如く感せり。「巳の年巳の月巳の日巳の刻生」と口中に復誦するに及びて、村沢浅次郎の名は忽ち脳裡に浮びぬ。  実に浅次郎は当年二十一歳にして巳の年月揃いたる生なり。或は午に、或は牛に、此般の者も多かるべし。しかれども予が嘗て聞知れる渠が干支の爾く巳を重ねたるを奇異とせる記憶は、咄嗟に浅次郎の名を呼起せり。しかも浅次郎はその身より十ばかりも年嵩なる艶婦に契を籠めしが、ほど経て余りにその妬深きが厭わしく、否寧しろその非常なる執心の恐ろしさに、おぞ毛を振いて、当時予が家に潜めるをや。「正に渠なり」と予は断定しつ。文化、文政、天保間の伝奇小説に応用されたる、丑の時詣なんど謂えるものの実際功を奏すべしとは、決して予の信ぜざるところなるも、この惨怛たる光景は浅次郎の身に取りて、喜ぶべきことにはあらずと思いき。  浅次郎は美少年なりき。婦人に対しては才子なりき。富豪の家の次男にて艶冶無腸の若旦那なりき。  予は渠を憎まず、却りてその優柔なるを憐みぬ。  されば渠が巨多の金銭を浪費して、父兄に義絶せられし後、今の情婦某年紀三十、名を艶と謂うなる、豪商の寡婦に思われて、その家に入浸り、不義の快楽を貪りしが、一月こそ可けれ、二月こそ可けれ、三月四月に及びては、精神瞢騰として常に酔るが如く、身躰も太く衰弱しつ、元気次第に消耗せり。  こは火の如き婦人の熱情のために心身両ながら溶解し去らるるならんと、ようやく渠を恐るる気色を、早く暁りたる大年増は、我子ともすべき美少年の、緑陰深き所を厭いて、他に寒紅梅一枝の春をや探るならんと邪推なし、瞋恚を燃す胸の炎は一段の熱を加えて、鉄火五躰を烘るにぞ、美少年は最早数分時も得堪えずなりて、辛くもその家を遁走したりけるが家に帰らんも勘当の身なり、且は婦人に捜出だされんことを慮りて、遂に予を便りしなり。予は快く匿いつ。  しかるに美少年はなお心を安んせずして言いぬ。 「彼の婦人は一種の魔法づかいともいうべき者なり。いつぞや召使の婢が金子を掠めて出奔せしに、お艶は争で遁すべきとて、直ちに足留の法といえるを修したりき、それかあらぬか件の婢は、脱走せし翌日より遽に足の疾起りて、一寸の歩行もなり難く、間近の家に潜みけるを直ちに引戻せしことを目撃したりき。その他咒詛、禁厭等、苟も幽冥の力を仮りて為すべきを知らざるはなし。  さるからに口説の際も常に予を戒めて、ここな性悪者め、他し女子に見替えて酷くも我を棄つることあらば呪殺してくれんずと、凄まじかりし顔色は今もなお眼に在り。」  と繰返しては歎息しつ。予は万々然ることのあるべからざる理をもて説諭すれども、渠は常に戦々兢々として楽まざりしを、密かに持余せしが、今眼前一本杉の五寸釘を見るに及びて予は思半ばに過ぎたり。 上の二  有恁予は憐むべき美少年の為に、咒詛の釘を抜棄てなんと試みしに、執念き鉄槌の一打は到底指の力の及ぶ所にあらざりき。  洵に八才の龍女がその功力を以て成仏せしというなる、法華経の何の巻かを、誦じては抜き、誦じては抜くにあらざれば、得て抜くべからざるものをや。  誰にもあれ人無き処にて、他に見せまじき所業を為せばその事の善悪に関わらず、自から良心の咎むるものなり。  予も何となく後顧き心地して、人もや見んと危みつつ今一息と踏張る機会に、提灯の火を揺消したり。黒白も分かぬ闇夜となりぬ。予は茫然として自失したりき。時に遠く一点の火光を認めつ。  良有りて予はその燈影なるを確めたり。軈て視線の及ぶべき距離に近きぬ。  予が曩に諸君に向いて、凄まじきものの経験を有せりと謂いしは是なり。  予は謂えらく、偶然人の秘密を見るは可し。然れども秘密を行う者をして、人目を憚る行を、見られたりと心着かしめんは妙ならず。ために由無き怨を負いて、迷惑することもありぬべしと、四辺を見廻わして、身を隠すべき所を覓めしに、この辺には屡見る、山腹を横に穿ちたる洞穴を見出したり。  要こそあれと身を翻して、早くも洞中に潜むと与に、燈の主は間近に来りぬ。一個の婦人なり。予は燈影を見し始より、今夜満願に当るべき咒詛主の、驚破や来ると思いしなりき。  霜威の凜冽たる冬の夜に、見る目も寒く水を浴びしと覚しくて、真白の単衣は濡紙を貼りたる如く、よれよれに手足に絡いて、全身の肉附は顕然に透きて見えぬ。霑いたる緑の黒髪は颯と乱れて、背と胸とに振分けたり。想うに、谷間を流るる一条の小川は、此処に詣ずる行者輩の身を浄むる処なれば、婦人も彼処にこそ垢離を取れりしならめ。  と見る間に婦人は一本杉の下に立寄りたり。  ここに於て予がその婦人を目して誰なりとせしかは、予が言を待たずして、諸君は疾に推し給わむ。  予は洞中に声を呑みて、その為んようを窺いたり。渠は然りとも知らざれば、金燈籠に類したる手提の燈火を傍に差置き、足を爪立てて天を仰ぎ、腰を屈めて地に伏し、合掌しつ、礼拝しつ、頭を木の幹に打当つるなど、今や天地は己が独有に皈せる時なるを信じて、他に我を見る一双の眼あるを知らざる者にあらざるよりは、到底裏恥かしく、為しがたかるべき、奇異なる挙動を恣にしたりとせよ。  最後に婦人は口中より一本の釘を吐出して、これを彼二十一歳の男子と記したる紙片に推当て、鉄槌をもて丁々と打ちたりけり。  時に万籟寂として、地に虫の這う音も無く、天は今にも降せんずる、霙か、雪か、霰か、雨かを、雲の袂に蔵しつつ微音をだに語らざる、その静さに睡りたりし耳元に、「カチン」と響く鉄槌の音は、鼓膜を劈きて予が腸を貫けり。  続きて打込む丁々は、滴々冷かなる汗を誘いて、予は自から支えかぬるまでに戦慄せり。  剰え陰々として、裳は暗く、腰より上の白き婦人が、長なる髪を振乱して彳める、その姿の凄じさに、予は寧ろ幽霊の与易さを感じてき。  釘打つ音の終ると侔く、婦人はよろよろと身を退りて、束ねしものの崩るる如く、地上に摚と膝を敷きぬ。  予をして謬たざらしめば、首尾好く願の満ちたるより、二十日以来張詰めし気の一時に弛みたるにやあらん。良ありて渠の身を起し、旧来し方に皈るを見るに、その来りし時に似もやらで、太く足許の踽きたりき。
底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 別卷」岩波書店    1976(昭和51)年3月26日第1刷発行 初出:「詞海 第3輯第9巻、第10巻」    1894(明治27)年10月、12月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2015年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048398", "作品名": "黒壁", "作品名読み": "くろかべ", "ソート用読み": "くろかへ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「詞海 第3輯第9巻、第10巻」1894(明治27)年10月、12月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2015-08-04T00:00:00", "最終更新日": "2015-05-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48398.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2006(平成18)年10月10日", "入力に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2006(平成18)年10月10日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 別卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1976(昭和51)年3月26日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48398_ruby_56927.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-05-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48398_56973.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-05-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
      序  越中の国立山なる、石滝の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳したまうらむ。富山の町の花売は、山賤の類にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。     明治三十五年寅壬三月        一 「島野か。」  午少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町の邸の門で、活溌に若い声で呼んだ。  呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓する食客であるが、立寄れば大樹の蔭で、涼しい服装、身軽な夏服を着けて、帽を目深に、洋杖も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大いのを後に従え、得々として出懸ける処、澄ましていたのが唐突に、しかも呼棄てにされたので。  およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等の者であろうと、且つ怪み、且つ憤って、目を尖らして顔を上げる。 「島野。」 「へい、」と思わず恐入って、紳士は止むことを得ず頭を下げた。 「勇美さんは居るかい。」と言いさま摺れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣、水色縮緬の帯を背後に結んだ、中背の、見るから蒲柳の姿に似ないで、眉も眦もきりりとした、その癖口許の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。  成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥、先代があまねく徳を布いた上に、経済の道宜しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢家の当主、すなわち若君滝太郎である。 「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭しい。 「学校は休かしら。」 「いえ、土曜日なんで、」 「そうか、」と謂い棄てて少年はずッと入った。 「ちょッ。」  その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺がれたばかりではない。誰も誰も一見して直ちに館の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活きた手形のようなジャムの奴が、連れて出た己を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。 「恐れるな。小天狗め、」とさも悔しげに口の内に呟いて、洋杖をちょいとついて、小刻に二ツ三ツ地の上をつついたが、懶げに帽の前を俯向けて、射る日を遮り、淋しそうに、一人で歩き出した。 「ジャム、」  真先に駈けて入った猟犬をまず見着けたのは、当館の姫様で勇美子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞の単衣、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背へ下げて、蝦茶のリボン飾、簪は挿さず、花畠の日向に出ている。        二  この花畠は――門を入ると一面の芝生、植込のない押開いた突当が玄関、その左の方が西洋造で、右の方が廻廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件の洋風の室数を建て増したもので、桃色の窓懸を半ば絞った玄関傍の応接所から、金々として綺羅びやかな飾附の、呼鈴、巻莨入、灰皿、額縁などが洩れて見える――あたかもその前にわざと鄙めいた誂で。  日車は莟を持っていまだ咲かず、牡丹は既に散果てたが、姫芥子の真紅の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃って一面に咲いていた三色菫の、紫と、白と、紅が、勇美子のその衣紋と、その衣との姿に似て綺麗である。 「どうして、」  体は大いが、小児のように飛着いて纏わる猟犬のあたまを抑えた時、傍目も触らないで玄関の方へ一文字に行こうとする滝太郎を見着けた。 「おや、」  同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截って、つかつかと間近に寄って、 「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可いな。」と莞爾々々しながら、勢よく、棒を突出したようなものいいで、係構なしに、何か嬉しそう。  言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭を後に押遣り、顔を見て笑って、 「何?」 「何だって、大変だ、活きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件の手巾の包を目の前へ撮んでぶら下げた。その泥が染んでいる純白なのを見て、傾いて、 「何です。」 「見ると驚くぜ、吃驚すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」 「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂に触れて閃いた。が、滝太郎は拗ねたような顔色で、 「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有うと、そういってみねえな、よ、厭なら止せ。」 「乱暴ねえ、」 「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」 「じゃアまああっちへ参りましょう。」  と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透して遙に昼の影燈籠のように見えるのを、熟と瞻って、忘れたように跪居る犬を、勇美子は掌ではたと打って、 「ほら、」  ジャムは二三尺飛退って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝と駈出して見えなくなった。 「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。  振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚である。        三 「いらっしゃいまし。」  縁側に手を支えて、銀杏返の小間使が優容に迎えている。後先になって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫がした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳い草と花とで満されているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板の下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅、緑、樺、橙色の名残を留めて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残種類の違った植物の標本で、中には壜に密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠めて物凄くも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄の房を描いて、光線を配らった、そこにばかり日の影が射して、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹の紅は、色はまだ褪せ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝と入った主の姫が、白と紫を襲ねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。 「道、」 「は、」と、答をし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向に、紅革の蒲団を直して、 「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」  帽子も着たままで沓脱に突立ってた滝太郎は、突然縁に懸けて後ざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音がしたので、驚いて目を睜って、また掌でその縁の板の合せ目を圧えてみた。 「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝いな。」 「お縁側が昔のままでございますから、旧は好事でこんなに仕懸けました。鶯張と申すのでございますよ。」  小間使が老実立っていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色で、 「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」 「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然と構えながら苦笑する。 「どう遊ばしましたの。」 取為顔の小間使に向って、 「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」 「あれ、また、乱暴なことを有仰います。」と微笑みながら、道は馴々しく窘めるがごとくに言った。 「御容子にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言ばっかし。不可えだの、居やがるだのッて、そんな言は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可ませんお道楽でございますねえ。」 「生意気なことをいったって、不可えや、畏ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」 「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。 「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句をいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾を解いて、縁の上に拡げたのは、一掴、青い苔の生えた濡土である。  勇美子は手を着いて、覗くようにした。眉を開いて、艶麗に、 「何です。」  滝太郎は背を向けてぐっと澄まし、 「食いつくよ、活きてるから。」        四 「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。 「面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏らなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱に踏伸ばして、片膝を立てて頤を支えた。 「また、そんなことを有仰らないでさ。」 「勝手でございますよ。」 「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」  黙っている。心易立てに小間使はわざとらしく、 「若様、もし。」 「堪忍しねえ、炫いやな。」  滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向いて、足に近い飛石の辺を屹と見た。渠は炫いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼は、極めて冷静なものである。小間使は詮方なげに、向直って、 「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」  勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視めていた。 「珈琲にいたしましょうか。」 「ああ、」 「ラムネを取りに遣わしましょうか。」 「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、 「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。 「道、」 「はい。」 「冷水が可いぜ、汲立のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」  といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地の上へ手を伸ばした、疾いこと! 掴えたのは一疋の小さな蟻。 「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬にも謂わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件の土産に寄せて、 「見ねえ。」  勇美子は傍目も触らないでいた。  しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾と微笑み、 「ほら、ね、どうだい、だから難有うッて、そう言いねえな。」 「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭を下げていたせいであろう、耳朶に少し汗が染んで、眶の染まった顔を上げた。 「どこからです、」 「え、」と滝太郎は言淀んで、面の色が動いたが、やがて事も無げに、 「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛の子位は殺つけるだろう。こら、恐いなあ、まあ。」  心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛う位、薄樺色で、見ると、柔かそうに湿を帯びた、小さな葉が累り合って生えている。葉尖にすくすくと針を持って、滑かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒にしたのである。  滝太郎は、見て、その験あるを今更に驚いた様子で、 「ね、特別に活きてるだろう。」        五 「何でも崖裏か、藪の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」 「そうだ、そうだ。」  滝太郎は邪慳に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、 「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」 「まあ、ここに葉のまわりの針の尖に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」 「うむ、水が懸って、溜っているんだあな、雨上りの後だから。」 「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾の前懸を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒な風采は、あたかも古武士が鎧を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣を絡うたごとく、自家の特色を発揮して余あるものであった。  勇美子は旧の座に直って、机の上から眼鏡を取って、件の植物の上に翳し、じっと見て、 「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋だの、留まると遁がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、 「詰らねえ、そんなものより、おいらの目が確だい。」といって傲然とした。  しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ書籍に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐になって、頬杖を突いている滝太郎の顔を瞻って、心から、 「あなたの目は恐いのね。」と極めて真面目にしみじみといった。  勇美子は年紀も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前に仏蘭西の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……        六 「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜しいの。」 「だから難有うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔で嬉しそう。 「いいえ、本当に結構でございます。」  勇美子はこういって、猶予って四辺を見たが、手をその頬の辺へ齎らして唇を指に触れて、嫣然として微笑むと斉しく、指環を抜き取った。玉の透通って紅い、金色の燦たるのをつッと出して、 「千破矢さん、お礼をするわ。」  頤杖した縁側の目の前に、しかき贈物を置いて、別に意にも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾の先を――ここに耳を引張るべき猟犬も居ないから――摘んでは引きながら、片足は沓脱を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。 「取っておいて下さいな。」  まるで知らなかったのでもないかして、 「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」  勇美子は引手繰られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。 「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端なくも見えて、急き込む調子。 「欲かアありませんぜ。」 「お厭。」 「それにゃ及ばないや。」 「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾する。 「生意気を言っていら、」  滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣り処に困った風情。年上の澄ました中にも、仇気なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、 「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」 「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金の一条の環が嵌っている。 「取替ッこにしましょうか。」 「これをかい。」 「はあ、」  勇美子は快活に思い切った物言いである。  滝太郎は目を円にして、 「不可え。こりゃ、」 「それでは、ただ下さいな。」 「うむ。」 「取替えるのがお厭なら。」 「止しねえ、お前、お前さんの方がよッぽど可いや、素晴しいんじゃないか。俺のこの、」  と斜に透かして、 「こりゃ、詰らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。  勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、 「惜しいの、大事なんですか。」 「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。 「帰ったら何か持たして寄越さあ、邸でも、庫でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」  勇美子も慌しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容に現れた。何にも知らないから、小腰を屈めて、 「お嬢様、例の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水は毒でございますよ。」        七  場末ではあるけれども、富山で賑かなのは総曲輪という、大手先。城の外壕が残った水溜があって、片側町に小商賈が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店を出す。観世物小屋が、氷店に交っていて、町外には芝居もある。  ここに中空を凌いで榎が一本、梢にははや三日月が白く斜に懸った。蝙蝠が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町という大通に通ずる小路を、ひとしきり急足の往来があった後へ、もの淋しそうな姿で歩行いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。  久留米の蚊飛白に兵児帯して、少し皺になった紬の黒の紋着を着て、紺足袋を穿いた、鉄色の目立たぬ胸紐を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼から出懸けたのであろう、帽は被らず、髪の短かいのが漆のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向いた、紅絹の切で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許も覚束ないよう。  静かに歩を移して、もう少しで通へ出ようとする、二間幅の町の両側で、思いも懸けず、喚! といって、動揺めいた、四五人の小児が鯨波を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地の上。 「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆、素足に草鞋穿の裾を端折った、中形の浴衣に繻子の帯の幅狭なのを、引懸けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚をして、胸高に乳の下へしっかと〆めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐縮緬の腰巻で、手拭を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙を軽げに荷った、商帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我を見ると、我を忘れたごとく一飛に走り着いて、転んだ地へ諸共に膝を折敷いて、扶け起そうとする時、さまでは顛動せず、力なげに身を起して立つ。 「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋らぬばかりに、ひたと寄って顔を覗く。 「やあい、やあい。」 「盲目やあい、按摩針。」と囃したので、娘は心着いて、屹と見て、立直った。 「おいらのせいじゃあないぞ、」 「三年先の烏のせい。」  甲走った早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁げ出した。その西の手から東の手へ、一条の糸を渡したので町幅を截って引張合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交る交る見返り、見返り、 「雁が一羽懸った、」 「懸った、懸った。」 「晩のお菜に煮て食おう。」と囃しざま、糸に繋ったなり一団になったと見ると、大な廂の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。   新庄通れば、茨と、藤と、 藤が巻附く、茨が留める、   茨放せや、帯ゃ切れる、       さあい、さんさ、よんさの、よいやな。  と女の子のあどけないのが幾人か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方に聞える。  二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻と息。        八 「小児衆ですよ、不可ません。両方から縄を引張って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸けるんですもの、悪いことをしますねえ。」 「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦んで僵された五分を経ない後にも似ず、落着いて沈んでいる。 「はい、どこも何ともなさいませんか。」  お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。 「いえ、何、擦剥もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静に払く。 「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨しそうに、袖についた埃を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂は冷々と湿りを持って、塗れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自から顰んで、紅絹の切で、赤々と押えた目の縁も潤んだ様子。娘は袂に縋ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。 「今帰るのかい。」 「は……い。」 「暑いのに随分だな。」  思入って労う言葉。お雪は身に染み、胸に応えて、 「あなた。」 「ああ、」 「お医者様は、」  問われて目を圧えた手が微に震え、 「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々しくは行かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密と目を塞いで探って来たので、ついとんだ羂に蹈込んださ、意気地はないな、忌々しい。」  とさりげなく打頬笑む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、 「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」 「それは何、懇意な男だから、先方でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」 「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途に湯にでもお入りなすったの。」  考えて、 「え、なぜね。」 「お頭が濡れておりますもの。」 「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう。医者が冷してくれたから。」と、詰られて言開をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。 「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して 「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女房には叱られそうなこッた。」 「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾したが、これで愁眉が開けたと見える。 「御一所に帰りましょうか。」 「別々に行こうよ、ちっと穏でないから。いや、大丈夫だ。」 「気を着けて下さいましよ。」        九  男女が前後して総曲輪へ出て、この町の角を横切って、往来の早い人中に交って見えなくなると、小児がまた四五人一団になって顕れたが、ばらばらと駈けて来て、左右に分れて、旧のごとく軒下に蹲んで隠れた。  月の色はやや青く、蜘蛛はその囲を営むのに忙しい。  その時旅籠町の通の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一人の美少年。  パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣の衣紋を緩げ――弥蔵という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子はどこへやら、これならば、不可えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。 「ふん。」  片微笑をして、また懐の中を熟と見て、 「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口に呟いた。 「やあい、やい」 「盲目やあい。」  小児は一時に哄と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停ったばかり、形も崩さず自若としていた。  膝の辺りへ一条の糸が懸ったのを、一生懸命両方から引張って、 「雁が一羽懸った、」 「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破というと自分の目を先に塞ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥ぐ。  左右を眗して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許にも愛嬌があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐しいものであったから、南無三仕損じたか、逃後れて間拍子を失った悪戯者。此奴羽搏をしない雁だ、と高を括って図々しや。 「ええ、そっちを引張んねえ。」 「下へ、下へ、」 「弛めて、潜らせやい。」 「巻付けろ。」  遊軍に控えたのまで手を添えて、搦め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱れ、また纏うのを、身動きもしないで、彳んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢、ぐいと引く、糸が張った。  滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月にきらりとしたのは、前に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝と通った。  そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後ではわッといって、我がちに遁げ出す跫音。  蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々なり。 「貰ったよ。」  滝太郎は左右を眗し、今度は憚らず、袂から出して、掌に据えたのは、薔薇の薫の蝦茶のリボン、勇美子が下髪を留めていたその飾である。        十  土地の口碑、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎は、稗史が語る、佐々成政がその愛妾、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹の由。  髪を掴んで釣し下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股に懸るというから、縁起を祝う夜商人は忌み憚って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣。  片側の商店の、夥しい、瓦斯、洋燈の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇を手にした、手拭を提げた漫歩の人通、行交い、立換って賑かな明い中に、榎の梢は蓬々としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人あり。  ともすると、ここへ、痩枯れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采を持ってるから、衆の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。  今灯を点けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物馴れた軽口で、 「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀トッピイ産の銀流し、何方もお煙管なり、お簪なり、真鍮、銅、お試しなさい。鍍金、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」  と尻ッ刎の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊った顔立の中年増。年紀は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭を姉さん被にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜して色の浅黒いのが、絞の浴衣の、糊の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩げに纏って、衣紋も緩げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉に捲ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打の女煙管である。  氷店の白粉首にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人が、因縁は知らずここへ茣蓙を広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自に持場が極って、駈出しには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、怪むやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。  婦人は流るるような瞳を廻らし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色。 「へい、鍍金は鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物でございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手を後へ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻し、指を仰向けて、前へ出して、つらりと見せた。 「ほんの纔ばかり、一撮み、手巾、お手拭の端、切ッ屑、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」  婦人は絹の襤褸切に件の粉を包んで、俯向いて、真鍮の板金を取った。  お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居の太鼓、どろどろどろ、遥に聞える観世物の、評判、評判。        十一 「訳のないこと、子供衆でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣りさえすりゃ、あい、鷹化して鳩となり、傘変わって助六となり、田鼠化して鶉となり、真鍮変じて銀となるッ。」 「雀入海中為蛤か。」と、立合の中から声を懸けるものがあった。  婦人はその声の主を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾して、また陳立てる。 「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せのお煙管なり、お簪なり、これへ出してお験しなさいまし、目の前で銀にしてお慰に見せましょう、御遠慮には及びません。」  といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨を捻りながら、動静を伺って、 「さあさあ、誰方でもどうでござんす。」  若い同士耳打をするのがあり、尻を突いて促すのがあり、中には耳を引張るのがある。止せ、と退る、遣着けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶であろう。 「姉や。」  この時、人の背後から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入ってを云々したごとき厭味なものではない。清しい活溌なものであった。  婦人は屹と其方を見る、トまた悪怯れず呼懸けて、 「姉や、姉や。」 「何でございますか、は、私、」 「指環でも出来るかい。」 「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」 「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前の地へ伝法に屈んだのは、滝太郎である。遊好の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾をどうして取ったか、人知れず掌に弄んだ上に、またここへ来てその姿を顕した。  滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予わず、売物の銀流の粉の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直に出した。指環のきらりとするのを差向けて、 「こいつを一つ遣ってくんねえな。」  立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽な、見るから下っ腹に毛のない姉御も驚いて目を睜った。その容貌、その風采、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。 「これですかい。」 「ちょいと遣っておくんな。」 「結構じゃありませんかね。」 「お銭がなくっちゃあ不可ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越すぜ。」  と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中をじっと見ながら、 「そんな吝じゃアありませんや。お望なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人は切の端に銀流を塗して、滝太郎の手を密と取った。 「ようよう、」とまた後の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。        十二 「可いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖を握ったのを放さないで、銀流の切を摺着けながら、 「よくして上げましょう、もう少しですから。」 「沢山だよ。」 「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人は急に止めそうにもない。 「さあ、大変。」 「お静に、お静に。」 「構わず、ぐっと握るべしさ、」 「しっかり頼むぜ。」  などと立合はわやわやいうのを、澄したもので、 「口切の商でございます、本磨にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾をかけて、仕上げますから。」 「止せ。」  滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、 「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」  婦人はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装、天窓から爪先まで、屹と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚る処あるらしく、一度は一度、婦人が黒い目で睨む数の重るに従うて、次第に暗々裡に己を襲うものが来り、近いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人に持たれた腕に懸って、力を添えて放そうとする。肩は聳え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰めた。 「可いッてんだい。」 「お待ち!」とばかりで婦人も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面を合せた。  ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後の方で、一声高く、馬の嘶くのが、往来の跫音を圧して近々と響いた。  と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚したように、 「義作だ、おう、ここに居るぜ。」 「ちょいと、」 「ええ、」 「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。 「姉さん、」 「どうなすった。」  押魂消た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。  婦人は顔の色も変えないで、切で、血を押えながら、姉さん被のまま真仰向けに榎を仰いだ。晴れた空も梢のあたりは尋常ならず、木精の気勢暗々として中空を籠めて、星の色も物凄い。 「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫が落ちたそうで、指が冷りとしたと思ったら、まあ。」 「へい、引掻いたんじゃありませんか。」 「今のが切ったんじゃないんですかい。」 「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」 「さればさ。」 「厭だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄げた様子で、婦人は人の目に立つばかり身顫をして黙った。榎の下寂として声なし、いずれも顔を見合せたのである。        十三 「何だね、これは。」 「叱、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱を取って、――奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端には何の虫か一個唸を立ててはたと打着かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被のぬっと出ようという凄い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞している。――一軒の格子戸を背後へ退った。  これは雀部多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合の朋友である。  箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人は大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨、洋杖、護謨靴という才子肌。多磨太は白薩摩のやや汚れたるを裾短に着て、紺染の兵児帯を前下りの堅結、両方腕捲をした上に、裳を撮上げた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖て、そして形の低い、年紀は二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝なのではない。  島野を引張り着けて、自分もその意気な格子戸を後に五六歩。 「見たか。」  島野は瘠ぎすで体も細く、釣棹という姿で洋杖を振った。 「見た、何さ、ありゃ。門札の傍へ、白で丸い輪を書いたのは。」 「井戸でない。」 「へえ。」 「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」  才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏の色に交り、くっ着いて、並んで歩く。  ここに注意すべきは多磨太が穿物である。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄に当る、紳士島野氏の道伴で、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履の擦切れたので、埃をはたはた。  歩きながら袂を探って、手帳と、袂草と一所くたに掴み出した。 「これ見い、」  紳士は軽く目を注いで、 「白墨かい。」 「はははは、白墨じゃが、何と、」 「それで、」と言懸けて、衣兜に堆く、挟んでおく、手巾の白いので口の辺をちょいと拭いた。 「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆見せてやる事にした。あえてこの慰を独擅にせんのじゃで、到る処俺が例の観察をして突留めた奴の家には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」 「ふん、はてね。」 「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」 「御趣向だね。」 「どうだ、今の家には限らずな、どこでも可いぞ、あの印の付いた家を随時窺って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇にするようなことを遣っとるわ。」        十四  多磨太は言懸けて北叟笑み、 「貴様も覚えておいてちと慰みに覗いて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私があの印を付けておく内は不残趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命がけで惚れたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難有いじゃろ。」  ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、 「変ったお慰だね、よくそして見付けますなあ。」 「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落、優柔淫奔になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出すわ、二疋ずつの、まるでもって螇蚸蟷螂が草の中から飛ぶようじゃ。其奴の、目星い処を選取って、縦横に跡を跟けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇の道は蛇じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙いおる奴がある。ぐッすり寐込んででもいようもんなら、盗賊が遁込んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章てさせる。」 「酷いことを!」  島野は今更のように多磨太の豪傑面を瞻った。 「何に其等はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細に観察すると、こいつ禁錮するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴み出して警察で発かすわい。」 「大変だね。」 「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚くようなもので、その途端に光輝天に燦爛するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極めるちゅうから、癪に障ってな、いろいろ験べたが何事もないで、為方がない、内に居る母親が寺参をするのに木綿を着せて、汝が傾城買をするのに絹を纏うのは何たることじゃ、という廉をもって、説諭をくらわした。」 「それで何かね、警察へ呼出しかね。」 「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張り出せないで、一名制服を着けて、洋刀を佩びた奴を従えて店前へ喚き込んだ。」 「おやおや、」 「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親は昔気質で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履を穿いて歩いてる位じゃもの。」  さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟けるのに跫音を立てぬ用意である。        十五 「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰と出来た。先月の末、闇の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」 「構わず?」 「なに咎めりゃ私が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮じゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途を除けるわい。」  島野は微笑して黙って頷いた。 「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰を喝破する事業じゃから、父爺も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻わすと、果せるかな、螇蚸、蟷螂。」 「まさか、」 「うむ、植木屋の娘と其奴と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚すじゃから、引摺出した。」 「南無三宝、はははは。」 「挙動が奇怪じゃ、胡乱な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張って行って、吐せと、二ツ三ツ横面をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒至極じゃからな。」 「罪なこッたね、悪い悪戯だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖を突いた、辻の角で歩を停めたので。 「どこへ行こうかね。」  榎の梢は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。 「総曲輪へ出て素見そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」 「行き届いたもんですな。」 「まだまだこれからじゃわい。」 「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩くなると家が妙でないから失敬しよう。」 「ははあ、どこぞ行くんかい。」 「ちょいと。」 「そんなら行け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。  擽られるのを耐えるごとく、極めて真面目で、 「何かね、」 「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」 「え!」と吃驚して慌てて見ると、上衣の裾に白墨で丸いもの。 「どうじゃ。」 「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾を引出した。島野はそそくさと払い落して、 「止したまえ。」 「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有の尤物じゃ、また貴様が不可なければ私が占めよう。」 「大分、御意見とは違いますように存じますが。」 「英雄色を好むさ。」と傲然として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等いのである。  島野は気遣わしそうに見えて、 「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」 「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴また白墨一抹に価するんじゃから。」        十六 「貴方御存じでございますか。」 「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」  萱の軒端に鳥の声、という侘しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸けで拭込むので、朽目に埃も溜らず、冷々と濡色を見せて涼しげな縁に端居して、柱に背を持たしたのは若山拓、煩のある双の目を塞いだまま。  生は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳という旅店に一泊した。その夜賊のためにのこらず金子を奪われて、明る日の宿料もない始末。七日十日逗留して故郷へ手紙を出した処で、仔細あって送金の見込はないので、進退谷まったのを、宜しゅうがすというような気前の好い商人はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人に見る所があって、世話をして、足を留めさせたということを、かつて教を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒ある士がしばし世を忍ぶ生計によくある私塾を開いた。温厚篤実、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子も多く、皆敬い、懐いていたが、日も経たず目を煩って久しく癒えないので、英書を閲し、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。  先生葎ではございますが、庭も少々、裏が山続で風も佳、市にも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古も勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。  後はこの侘住居に、拓と阿雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便もないので、うら若い身で病人を達引いて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児で、父はかつて地方裁判所に、明決、快断の誉ある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚の女を、心着かず入れて妾として、それがために暗殺された。この住居は父が静を養うために古屋を購った別業の荒れたのである。近所に、癩病医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家の荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香までも商っている婆さんが来て、瓦鉢の欠けた中へ、杉の枯葉を突込んで燻しながら、庭先に屈んでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛くてならないので。  一体、ここは旧山の裾の温泉宿の一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山崩があって洪水の時からはたと湧かなくなった。温泉の口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳の蔭にある洞穴であることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主とも謂いつべき居てつきの媼、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市の者は蚊だと思う。木屑などを焼いた位で追着かぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉を掻いてくれる深切さ。縁側に両人並んだのを見て嬉しそうに、 「へい、旦那様知ってるだね。」        十七 「百合には種類が沢山あるそうだよ。」  ささめ、為朝、博多、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠んで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色は、紅、黄、透、絞、白百合は潔く、袂、鹿の子は愛々しい。薩摩、琉球、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹の切で美しく目を圧え、媼を見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、 「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主の、知事の嬢さんが、よく知ってお在だろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒な花というものはないそうさ。」 「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾けては打頷く。 「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、斜に縁側に掛けている。 「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交った、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢の処へ莟を持つのは他の百合も違いはない。花弁は六つだ、蕊も六つあって、黄色い粉の袋が附着いてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国の高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山で取ったのと、信州の駒ヶ嶽と御嶽と、もう一色、北海道の札幌で見出したのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。  お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」 「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通、芝居でいたします早百合姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西にいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合はしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外当地でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」  とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶れた姿は、蚊遣の中に悄然として見えたが、面には一種不可言の勇気と喜の色が微に動いた。 「おお、燻る燻る、これは耐りませぬ、お目の悪いに。」  一団の烟が急に渦いて出るのを、掴んで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉った。風があたって、※(火+發)とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏の色は一面に裏山を籠めて庭に懸れり。  若山は半面に団扇を翳して、 「当地で黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」        十八 「ねえ、お婆さん。」  お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方を見た。  湯の谷の主は習わずして自から這般の問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、 「はい、石滝の奥には咲くそうでござります。」  若山は静かに目を眠ったまま、 「どんな処ですか。」 「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。 「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸っておりまするで、素麺、白玉、心太など冷物もござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣を煽ぐ団扇の手を留めて、その柄を踞った膝の上にする。 「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」 「それはもう昼も夜も真暗でござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射すのじゃござりませぬ。  一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北に当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田※(なべぶた/(田+久))も広々としていつも明うござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例はござりませぬよ。」 「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんの言を取って、確めてこれを男に告げた。  若山はややあって、 「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝で、何か黒百合といえば因縁事の絡わった、美しい、黒い、艶を持った、紫色の、物凄い、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談では、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行こうというのか。」と落着いて尋ねて、渠は気遣わしく傾いた。 「…………」お雪はふとその答に支えたが、婆さんはかえって猶予わない。 「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢の底に赤く残って、烟も立たず燃え尽しぬ。 「お婆さん、御深切に難有う。」  とうっかり物思に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。 「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭しいお客がござって迷惑なら、私家へ来て、屈んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。        十九  帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外へ出て行く。荒物屋の婆はこの時分から忙しい商売がある、隣の医者が家ばかり昔の温泉宿の名残を留めて、徒らに大構の癖に、昼も夜も寂莫として物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈の灯が一ツあれば、襖も、壁も、飯櫃の底まで、戸外から一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取などが、一廓を作した貧乏町。思い思い、町々八方へ散ばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時騒がしい。水を汲む、胡瓜を刻む。俎板とんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸をして大歎息を発する。翌日の天気の噂をする、お題目を唱える、小児を叱る、わッという。戸外では幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行燈の光をちょいと見て来い! 「これこれ暗くなった。天狗様が攫わっしゃるに寝っしゃい。」と帰途がけに門口で小児を威しながら、婆さんは留守にした己の店の、草鞋の下を潜って入った。  草履を土間に脱いで、一渡店の売物に目を配ると、真中に釣した古いブリキの笠の洋燈は暗いが、駄菓子にも飴にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。 「可恐しい唸じゃな。」と呟いて、一間口の隔の障子の中へ、腰を曲げて天窓から入ると、 「おう、帰ったのか。」 「おや。」 「酷い蚊だなあ。」 「まあ、お前様。まあ、こんな中に先刻にからござらせえたか。」 「今しがた。」 「暗いから、はや、なお耐りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外してござれば可いに。」  深切を叱言のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。 「可いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢がした。 「近所の静まるまで、もうちっと灯を点けないでおけよ。」 「へい。」 「覗くと煩いや。」 「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」 「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」 「可いようにさっしゃりませ。」 「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人此家へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」 「お友達かね。お前様は物事じゃで可いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」  言いも終らず、快活に、 「気扱いがいる奴じゃねえ、汚え婦人よ。」 「おや!」と頓興にいった、婆の声の下にくすくすと笑うのが聞える。 「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児の声、繰返して、 「おくんな。」 「おい。」 「静に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。        二十  婆が帰った後、縁側に身を開いて、一人は柱に凭って仰向き、一人は膝に手を置いて俯向いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。 「あれ星が飛びましたよ。」  湯の谷もここは山の方へ尽の家で、奥庭が深いから、傍の騒しいのにもかかわらず、森とした藪蔭に、細い、青い光物が見えたので。 「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」  と力なげに団扇持った手を下げて、 「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行くのは不可ない。何も、妖物が出るの、魔が掴むのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入れない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地の工合で蹈むと崩れるようなことがないとも限らないから。」 「はい、」 「行く気じゃあるまいね。」とやや力を籠めて確めた。 「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、慌しく、 「蛍です。」  衝と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。 「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」  この辺に蛍は珍らしいものであった、一つ一つ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、孤、孀婦、あわれなのが、そことも分かず彷徨って来たのであろう。人可懐げにも見えて近々と寄って来る。お雪は細い音に立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出て袂を振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生にちらちら、髪も見えた、仄に雪なす顔を向けて、 「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍は逸れて、若山が上の廂に生えた一八の中に軽く留まった。 「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児さんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際にも蛍かといって発奮みはせず、動悸のするまで立廻って、手を辷らした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男の冷かさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児だといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方を視めたが、爪先を軽く、するすると縁側に引返して、ものありげに――こうつんとした事は今までにはなかったが――黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立って、廂を払うと、ふッと消えた、光は飜した団扇の絵の、滝の上を這うてその流も動く風情。  お雪は瞻って、吻と息を吐いて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰を捻じて、斜に身を寄せて、件の団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、 「可愛いでしょう、」といった声も尋常ならず。 「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑んだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。        二十一 「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、儚ない一点の青い灯で、しばしば男の顔を透かして差覗く。  男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けて避けようとするのを、また、 「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含んで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、 「止せ!」  若山は掌をもてはたと払ったが、端なく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。 「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸を衝いて背後に退る。  渠は膝を立直して、 「見えやあしない。」 「ええ!」 「僕の目が潰れたんだ。」  言いさま整然として坐り直る、怒気満面に溢れて男性の意気熾に、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔を蔽うて俯伏になった。 「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えば可い。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前へ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるで嬲るようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。」  と、声を鋭く判然と言い放つ。言葉の端には自から、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。 「そんな心懸じゃあ盲目の夫の前で、情郎と巫山戯かねはしないだろう。厭になったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれな情ないものを捕えて、苛めるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前様ほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、疾く身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日傭取にばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目の煩を持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのも見ともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、兄さんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可笑しいけれども、ただ僕を頼にしている。僕はまた実際杖とも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲目になったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手探の真似もしないで、苦しい、切ない思をするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。」  お雪の泣声が耳に入ると、若山は、口に蓋をされたようになって黙った。        二十二 「お雪さん。」  ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、 「お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。真を言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無暗と隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分極めかも知らないが、お前さんの心は知ってる意だ。情無い、もう不具根性になったのか、僻も出て、我儘か知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。」  その平生の行は、蓋し無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気も弛んで、わっと嗚咽して崩折れたのを、慰められ、賺されてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中に躙り寄る男の傍。思わず縋る手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍惚した顔を上げた。 「貴方、」 「可いよ。」 「あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、」 「何、」 「お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難うございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟の清水へ、お頭を冷しにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今はお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……」  と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、 「きっとあの私が生命に掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。」と仇気なく、しかも頼母しくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。 「気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕は望がある、惜い体だ。」といって深く溜息を吐いたのが、ひしひしと胸に応えた。お雪は疑わず、勇ましげに、 「ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、」 「何だ。」 「見棄てちゃあ、私は厭。」 「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」 「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、極悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。 「お雪さん。」 「はい。」 「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」 「私にも分りません。」 「なぜだろう、」  莞爾して、 「なぜでしょうねえ。」  表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、 「おい、」        二十三  声を聞くとお雪は身を窘めて小さくなった。 「居るか、おい、暗いじゃないか。」 「唯今、」 「真暗だな。」  例の洋杖をこつこつ突いて、土間に突立ったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市で花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館に来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思が可恐しくなると、この男、自分では業平なんだから耐らない。  花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎は居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大上段に斬込んで、臆面もなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。  それ芸妓の兄さん、後家の後見、和尚の姪にて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚が燃ゆるようなことになったので、不埒でも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦ったり、つんと拗ねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚、畜生、殺生なことであった。  かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐らず、洋杖を握占めて、島野は、 「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただ忙る。 「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、※(火+發)と摺附木を摺る。小さな松火は真暗な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸った下に、中腰で洋燈の火屋を持ったお雪の姿を鮮麗に照し出した。その名残に奥の部屋の古びた油団が冷々と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕われる。  島野は睨み見て、洋杖と共に真直に動かず突立つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢の後毛を掻上げざま、向直ると、はや上框、そのまま忙しく出迎えた。  ちょいと手を支いて、 「まあ、どうも。」 「…………」島野は目の色も尋常ならず、尖った鼻を横に向けて、ふんと呼吸をしたばかり。 「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢うございますが、」と極り悪げに四辺を眗すのを、後の男に心を取られてするように悪推する、島野はますます憤って、口も利かず。 (無言なり。) 「お晩うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方なしにお雪は微笑む。 「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋むがごとく、島野は決する処あって洋杖を持換えた。 「お前ねえ、」  邪気自から膚を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易からぬ色をして、 「はい。」 「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。 「どうぞ、まあ、」 「入っちゃあおられん。」 「どちらへか。」 「なあに。」 「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。 「ちょっと出てもらおう、」 「え、え。」 「用があるんだ。」        二十四 「後を頼むとって、お前様、どこさ行かっしゃる。」  ちょいとどうぞと店前から声を懸けられたので、荒物屋の婆は急いで蚊帳を捲って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子の帯もきりりとして、胸をしっかと下〆に女扇子を差し、余所行の装、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然しているのであった。 「お婆さん、私は直帰るんですが、」 「あい、」 「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸ると、老人の目も敏く、 「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」  と目を遣ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃が懸るといったように、四辺を払って島野が彳む。南無三悪い奴と婆さんは察したから、 「何にせい、夜分出歩行くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止にさっしゃるが可かろうに。」  と目で知らせながら、さあらず言う。 「いえ、お召なんでございます。四十物町のお邸から、用があるッて、そう有仰るのでございますから。」 「四十物町のお花主というと、何、知事様のお邸だッけや。」 「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」 「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」 「はい、ですけれども。」 「殊に闇じゃ、狼が後を跟けるでの、たって止めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。  島野は耐えかねてずッと出て、老人には目も遣らず、 「さあ、」 「…………」黙って俯向く。 「おい、」とちと大きくいって、洋杖でこと、こと、こと。  お雪は覚悟をした顔を上げて、 「それじゃあお婆さん。」 「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」  顧みもせず島野は、己ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!  婆さんも躍気になって、 「旦那様、もし。」 「おれか。」 「へい、婆がお願でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」 「何だ、お前は。」 「へい、」 「さあ、行こう。」  お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方なげで哀である。 「お前様、何といっても、」と空しく手を掉って、伸上った、婆は縋着いても放したくない。 「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。  これが代官様より可恐しく婆の耳には響いたので、目を睜って押黙る。  その時、花屋の奥で、凜として澄んで、うら悲しく、 雲横秦嶺家何在 雪擁藍関馬不前  と、韓湘が道術をもって牡丹花の中に金字で顕したという、一聯の句を口吟む若山の声が聞えて止んだ。  お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、 「どうぞ、ねえ。」        二十五  恩になる姫様、勇美子が急な用というに悖い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所の羊の歩。 「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」  島野は澄まして冷かに、 「そうですか。」 「貴下御存じじゃあないのですか。」 「知らないね。」と気取った代脉が病症をいわぬに斉しい。  わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附島もなく悄れて黙った。  二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟んで、樹が押被さった径を四五間。 「兄さんに聞いたら可かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、 「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情人が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂われるばかりさ。」 「厭でございます。」 「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」  と呼吸がはずむ。 「ほんとうでございますか。」 「まったくよ。」 「あら、それでは、あの私は御免蒙りますよ。」  お雪は思切って立停まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。 「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可いのか。――御免蒙る――」 「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私は辛うございます。」 「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為になりやしないかね。仏蘭西の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子は生命がけでも欲いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。  お雪は深い溜息して、 「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」  詮方なげに見えて島野に縋るようにいった。お雪は止むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。  紳士は殊の外その意を得た趣で、 「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子も自から欲くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、 「貴下、どちらへ参るんでございます。」        二十六 「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋で両隣が畠でな、聾の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄いことをいう。この紳士は権柄ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。  勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。 「路も遠うございますから、晩くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可ませんか。」 「何、遠慮することはないさ。」  これだもの。………… 「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰る機掛もなし、声を立てる数でもなし、理窟をいう分にも行かず、急にお腹が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。  径ややその半を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾かに見返って、 「どうだ、御飯でも食べて、それからその家へ行くとしようか。」  お雪はものもいい得ない。背後から大きな声で、 「奢れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚いてぬいと出た、この野面を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣、紺染の兵子帯、いが栗天窓、団栗目、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履を穿ちたる、豈それ多磨太にあらざらんや。  島野は悪い処へ、という思入あり。 「おや、どちらへ。」 「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」 「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目になって押えようとする、と肩を揺って、 「知事が処じゃ。」 「今ッからね。」 「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」 「へい、」と妙な顔をする。  多磨太、大得意。 「何よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆が留守をしとる、ちっとも気遣はいらんのじゃ、万事私が心得た。」 「驚いたね。」 「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」 「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」 「豈しからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫してみい、たちまち食傷して生命に係るぞ。じゃから私が注意して、あらかじめ後を尾けて、好意一足の藁草履を齎らし来った訳じゃ、感謝して可いな。」  島野は苦々しい顔色で、 「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」 「豚肉は不可ぞ。」 「ええ、もうずっとそこン処はね。」 「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏なんじゃろ、しからずんば鰻か。」 「はあ、何でも、」と頷くのを、見向もしないで。 「非ず、私が欲する処はの、熊にあらず、羆にあらず、牛豚、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」 「おやおや、」 「小羊の肉よ!」 「何ですって、」 「どうだ、螇蚸、蟷螂、」といいながら、お雪と島野を交る交る、笑顔で眗しても豪傑だから睨むがごとし。        二十七  島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺を見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛を擦った。 「蚋が螫す、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。堪らん、こりゃ、立っとッちゃあ埒明かん、さあ前へ行ね、貴公。美人は真中よ、私は殿を打つじゃ、早うせい。」  島野は堪りかねて、五六歩傍へ避けて目で知らせて、 「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」 「何じゃ、」と裾を掴み上げて、多磨太はずかずかと寄る。  島野は真顔になって、口説くように、 「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」と情なそうにいった。 「どうするんかい、」 「何さ、どうするッて。」 「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。 「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」 「嘘を吐けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯じゃよ、詐偽じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張るでな、左様思え、はははは。」 「串戯をいっちゃあ不可ません。」 「何、構わず遣るぞ。癪じゃ、第一、あの美人は、私が前へ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男なことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃を通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄っておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面へ廻って断乎として妨害を試みる、汝にジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手になるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」  と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、 「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目を睜って耳を聳てた。 「ふむ、立つか、見事両雄がな。」 「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人は木の下蔭に囁を交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのが仄かに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。  当座の花だ、むずかしい事はない、安泊へでも引摺込んで、裂くことは出来ないが、美人の身体を半分ずつよ、丶丶丶の令息と、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。 「ね、」 (笑って答えず。)  多磨太は頷いて身を退いて、両雄いい合わせたように屹とお雪を見返った。  径に被さった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙から、袂から冷々と膚に染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚とした。もう前後も弁えず、しばらくも傍には居たたまらなくなって、そのまま、 「島野さん、お連様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口の裡、返事は聞きつけないで、引返そうとする。 「待ちなさい、」 「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追い縋って、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。 「あれ、」と遁げにかかる、小腕をむずと取られた。形も、振も、紅、白脛。        二十八 「踠くない、螇蚸、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立てた。 「あれ、放して、」 「おい、声を出しちゃあ不可、黙っていな、優しくしてついてお出。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍たないばかりで、 「しかり、あきらめて覚悟をせい。魚の中でも鯉となると、品格が可いでな、俎に乗ると撥ねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒明かんよ。我輩あえて憚らず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎めりゃ、黙れとくらわす。此女取調の筋があるで、交番まで引立てる、私は雀部じゃというてみい、何奴もひょこひょこと米搗虫よ。」 「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。 「さあ、行こう、何も冥途へ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私を望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有く思うが可いさ。」  法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟み、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠の仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少い女を真中に、漢が二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩を停め、間を置いて前屈みになって透かしたが、繻子の帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜榎の下で、銀流の粉を売った婦人であった。  お雪は呼吸さえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、 「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」と漫である。 「可いわ、放すから遁げちゃあならんぞ、」 「何、逃げれば、捕える分のことさ、」  あらかじめ因果を含めたからと、高を括って、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。 「やい、汝!」  藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴む、鉄拳に握らせて、自若として、少しも騒がず、 「色男!」といって呵々と笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘んだ。 「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」  紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、 「誰、誰です。」 「己だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」  先刻荒物屋の納戸で、媼と蚊の声の中に言を交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家は窮屈で為方がねえ、と言っては、夜昼寛ぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、――その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込んで胸を打って歎くので、一人の婦人を待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救に来たのであった。        二十九  子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵町の質屋の赤煉瓦と、屑屋の横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷さんの声を聞いて、番太の菓子を噛った江戸児である。  母親と祖父とがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏の樹に近い処に、立派な旅籠屋兼帯の上等下宿、三階造の館の内に、地方から出て来る代議士、大商人などを宿して華美に消光していたが、滝太郎が生れて三歳になった頃から、年紀はまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数ではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂を始めて茶屋小屋入をする、角力取、芸人を引張込んで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌を弄ぶ、爪弾を遣る、洗髪の意気な半纏着で、晩方からふいと家を出ては帰らないという風。  滝太郎の祖父は母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞いでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食をしたが、見す見す体に鉋を懸けて削り失くすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁を吸っても、渇えて死ぬには増だという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻の道具を売って動をつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴れぬ半纏被に身を窶して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着けて売物という札を貼ってあった、屋台を一個、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込むことが出来ないので、そのまま夜一夜置いたために、三晩とは措かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。  後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣る、幼児が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪せるのも、汗で美しい襦袢の汚れるのも厭わず、意とせず、些々たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳も別にして食べさせたいので、手内職では追着かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一製糸場に通っていた。  留守になると、橋手前には腕白盛の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足で駆歩行く、袖が切れれば素裸で躍出る。砂を掴む、小砂利を投げる、溝泥を掻廻す、喧嘩はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒は、除物にして苛めるのを、太腹の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向いて見るほどの兄哥に向って、べらぼうめ!        三十  その悪戯といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎ね廻って、片時の間も手足を静としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋し美しいが食えないという意だそうな。  滝太はその可愛い、品のある容子に似ず、また極めて殺伐で、ものの生命を取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉、蟻、蚯蚓、目を遮るに任せてこれを屠殺したが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠などは一たび干棹を揮えば、立処に落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒で猫を撃って殺すようになった。あのね、ぶん撲るとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷くくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻っておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打つところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止しちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念が可恐しい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可いと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺のせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。  井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾で破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石磈でこつこつやったり、柱を釘で疵をつけたり、階子を担いで駆出すやら、地蹈鞴を蹈んで唱歌を唄うやら、物真似は真先に覚えて来る、喧嘩の対手は泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占められて路地内へ遁げ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂を足場にある長屋の屋根へ這上って、瓦を捲くって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭言ばかり言っていた女房達、耐りかねて、ちと滝太郎を窘なめるようにと、夜に入ってから帰る母親に告げた事がある。  しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物だった母親が、毫もこれを真とはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優しい声。  それもその筈、滝は他に向って乱暴狼藉を極め、憚らず乳虎の威を揮うにもかかわらず、母親の前では大な声でものも言わず、灯頃辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行く跫音もしない位、以前の俤の偲ばるる鏡台の引出の隅に残った猿屋の小楊枝の尖で字をついて、膝も崩さず母親の前に畏って、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親は本当にしないのだと、隣近所では切歯をしてもどかしがった。  学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合をして遁げて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎に来て連れて行って、そのために先生は他の生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛の歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意にも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処があったのであろう。        三十一  しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧を着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上げたから、この町を通る腕車荷車は不残路地口の際を曳いて通ることがあった。雨が続いて泥濘になったのを見澄して、滝太が手で掬い、丸太で掘って、地面を窪めておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪は雨溜で探りが入らず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂に懸っては、後へも前へも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑を洩らして滝太、おじさん押してやろう、幾干かくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計もしはせまい、憎まれものの殺生好はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚る監視中の顔をあてて、匍匐になって見ていた、窃盗、万引、詐偽もその時二十までに数を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄い女、渾名を白魚のお兼といって、日向では消えそうな華奢姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐しい悪党。すべて滝太郎の立居挙動に心を留めて、人が爪弾をするのを、独り遮って賞めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通でなかった処。……  滝太郎が、その後十一の秋、母親が歿ると、双葉にして芟らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭にして、それで出合の涙金を添えて持たせ、道で鳶にでも攫われたら、世の中が無事で好い位な考えで、俵町から滝太郎を。  一昨日来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟けて、その夜金竜山の奥山で、滝さん餞別をしようと言って、お兼が無名指からすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯かなかった指環なのである。  その時、奥山で餞した時、時ならぬ深夜の人影を吠える黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町界隈の犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸けて、引捕え、手もなく頸の斑を掴んで、いつか継父が児を縊り殺した死骸の紫色の頬が附着いていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺って来ると、お兼は心得て粋な浴衣に半纏を引かけた姿でちょいと屈み、掌で黒斑を撫でた、指環が閃いたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌の上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大さの恐るべき鋭利な匕首を仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験のない、一つはそれも長屋中に憎まれる基であった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶めた、星のような一双の眼の異様な輝は、お兼が黒い目で睨んでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨けたのである。諸君は渠がモウセンゴケに見惚れた勇美子の黒髪から、その薔薇の薫のある蝦茶のリボン飾を掏取って、総曲輪の横町の黄昏に、これを掌中に弄んだのを記憶せらるるであろう。        三十二 「滝さん、滝さん、おい、おい。」 「私かい、」と滝太歩を停めて振返ると、木蔭を径へずッと出たのは、先刻から様子を伺っていた婦人である。透かして見るより懐しげに、 「おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合で歩に取られて出て来たんだ。路は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」 「そう、私実は先刻からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼の積でぐッとお安く真中へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出だから見ていたの。あい、おかしくッて可うござんした。ここいらじゃあ尾鰭を振って、肩肱を怒らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰したなあ大出来だ、ちょいと煽いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」 「馬鹿なことを謂ってらあ、何もこっちが豪いんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事を恐がっていやあがるから、そこが附目よ。俺に何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分で宥めて連れて行ったまでのこッた。敵が使ってる道具を反対にこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。」といって事も無げに笑った。 「それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。」 「姉や、お前学者だなあ、」 「旦那、御串戯もんですよ。」と斉しく笑った。  身装は構わず、絞のなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、眦の上った、意気の壮なることその眉宇の間に溢れて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身を窶してさるもののように見らるるのは、前の日総曲輪の化榎の下で、銀流しを売っていた婦人であって――且つ少かりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏賊の用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条見免すべき。  はじめは怪み、中は驚いて、果はその顔を見定めると、幼立に覚えのある、裏長屋の悪戯小憎、かつてその黒い目で睨んでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。  横町の小児が足搦の縄を切払うごときは愚なこと、引外して逃るはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合の衆が怪んで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目を瞞めたので。  越えて明くる夜、宵のほどさえ、分けて初更を過ぎて、商人の灯がまばらになる頃は、人の気勢も近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然と顕れ出で、いま巻納めようとする茣蓙の上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗澹たる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四辺に人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼は久ぶりでめぐりあったが、いずれも世を憚って心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。        三十三  二人は語らい合って、湯の谷の媼が方へ歩き出した。  お兼は四辺を眗して、 「そりゃそうと、酷い目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥った、」 「芋虫か、」 「え、じゃあ細長い方は蚯蚓かい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。」 「厭だぜ、おいら虫じゃあねえよ。」と円に目を睜ってわざと真顔になる。 「御免なさいまし、三人巴になってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。」 「何か、あの花売の別嬪か。」 「高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。」 「うむ、ありゃもう疾くに帰った。俺ら可いてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人は苦労性だ。挨拶だの、礼だの、誰方だのと、面倒臭えから、ちょうど可い、連立たして、さっさと帰しちまった。」 「何しろ可かったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻しはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。」 「蝮の針だ、大事なものだ。人に見せて堪るもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。」 「いかがですか、こないだ店前へ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。」 「誰がまた姉や、お前だと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。」 「だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険だよ。」 「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換えようなんて言うんだ。何だか機関を見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾として戯にその頭を下げた。 「沢山お辞儀をなさい、お前さん怪しからないねえ。そりゃ惚れてるんだろう、恐入った?」 「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」 「何だとえ。」 「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」 「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」 「それがね、不可ねえんだ、銭金ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓が石のような猿の神様が住んでるの、恐い大な鷲が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻のある牛が居るの、種々なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何するけれども、つい忙いもんだから思ったばかし。」 「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」 「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番喜ばせるものがあるんだぜ。」 「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」        三十四  滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉えられて、そのどこで採獲たかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを――前回に言った。  いでそのモウセンゴケを渠が採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当に、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭続、竹藪で住居を隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉が湧出たという、洞穴のあたりであった。人は知らず、この温泉の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣にした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫のあるのを、露も溢さず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。  さて、滝太郎がその可恐しい罪を隠蔽しておく、温泉の口の辺で、精細式のごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟と見定める眼であるから、己の視線の及ぶ限は、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易いのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼は、世に有数の異相と称せらるる重瞳である。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳が重っている。  そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿る時、手を着いて枕許に、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸を抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉がすうすうとなった。  その上また母親はあらかじめ一封の書を認めておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可ません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。  やや一月ばかり経つと、その言違わず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預っていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳という漢学者。  守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采、千破矢家の傳たるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国回向院のかの鼠小憎の墓前に、居眠をしていた小憎があった。巡行の巡査が怪んで引立て、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。  田舎は厭だと駄々を捏ねるのを、守膳が老功で宥め賺し、道中土を蹈まさず、動殿のお湯殿子調姫という扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸でも親不知を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。        三十五  湯の谷の神の使だという白烏は、朝月夜にばかり稀に見るものがあると伝えたり。  ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭続の藪の際に、かさこそ、かさこそと響を伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾へ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。  その描けるがごとき人の姿は、薄りと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被った婦人の姿が顕れて立ったが、先へ行く者のあとを拾うて、足早に歩行いて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件の温泉の口の処で立停った。夏の夜はまだ明けやらず、森として、樹の枝に鳥が塒を蹈替える音もしない。 「跟いておいで、この中だ。」と低声でいった滝太郎の声も、四辺の寂莫に包まれて、異様に聞える。  そのまま腰を屈めて、横穴の中へ消えるよう。  お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜にして差覗いて猶予った。 「滝さん、暗いじゃあないか。」  途端に紫の光一点、※(火+發)と響いて、早附木を摺った。洞の中は広く、滝太郎はかえって寛いで立っている。ほとんどその半身を蔽うまで、堆い草の葉活々として冷たそうに露を溢さぬ浅翠の中に、萌葱、紅、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗に映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。 「花室かい、綺麗だね。」 「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」  燃え尽して赤い棒になった早附木を棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。  お兼は気を鎮めて洞の口に立っていたが、たちまち慌しく呼んだ。 「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」  音も聞えず。お兼は尋常ならず声を揚げて、 「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」 「おう、」と応えて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯を手にしている。  お兼は走り寄って、附着いて、 「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉り取るような音が聞えるじゃあないか。」  いかにも洞の中は、ただこれ一条の大瀑布あって地の下に漲るがごとき、凄じい音が聞えるのである。  滝太郎は事もなげに、 「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底がそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」  神通は富山市の北端を流るる北陸七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。  お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄りながら、 「そうかい、川の音は可いけれど地獄が聞えるなんざ気障だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」 「馬鹿なことを!」        三十六 「いいえ、お前さん、何だか一通じゃあないようだ、人殺もしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御も洞中の闇に処して轟々たる音の凄じさに、奥へ導かれるのを逡巡して言ったが、尋常ならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。 「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後れた日にゃあ一日逗留だ、」と言いながら、片手に燈を釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗な処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。 「まだまだ深いのかい。」 「もう可い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」  滝太郎はこう言いながら、手なる燈を上げて四辺を照らした。  と見ると、処々に筵を敷き、藁を束ね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形のもの、丸いもの。紙入がある、莨入がある、時計がある。あるいは銀色の蒼く光るものあり、また銅の錆たるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個も見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾、錦の切、雛、香炉の類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶のリボン飾、かつて勇美子が頭に頂いたのが、色もあせないで燈の影に黒ずんで見えた。傍には早附木の燃さしが散ばっていたのである。  地獄谷の響、神通の流の音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟いて、堆いばかりの贓品は一個々々心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈に映って不残動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件のリボン飾を指して、 「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴まった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難かったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪を抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」  と言って飜って向うへ廻って、一個の煙草入を照らして見せ、 「これが最初だ、富山へ来てから一番前に遣ったのよ。それからね、見ねえ。」  甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。 「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺の秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中へ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸の参詣で、旅籠町の宿屋はみんな泊を断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有えか、まるで狂人だ。人の中を這出して、片息になってお前、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦の帳を棒の尖で上げたり下げたりして、その度にわッと唸らせちゃあ、うんと御賽銭をせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗こうとした媼があったさ。汝血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓の上へ尻餅を搗いた。あれ引摺出せと講中、肩衣で三方にお捻を積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人一時に立上がる。忌々しい、可哀そうに老人をと思って癪に障ったから、おいらあな、」  活気は少年の満面に溢れて、蒼然たる暗がりの可恐しい響の中に、灯はやや一条の光を放つ。        三十七 「晩方で薄暗かったし、鼻と鼻と打つかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、お前、真直に出た。いきなり突立って、その仏像を帳の中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。媼やゆっくり拝みねえッて、掴みかかった坊主を一人引捻って転めらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうして耐ったもんじゃあねえ。戦争の最中に支那が小児を殺したってあんな騒をしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消防夫どもまで鳶口を振って駈け着けやがった。」  光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄然として淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼白い顔の片頬に笑を湛えていたが、思わず声を放って、 「危いねえ!」 「そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大な声で喚きつけた。」 「うむ、うむ、」とばかりお兼は嬉しそうに頷いて聞くのである。 「おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手出ゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮が湧いたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退って、位牌堂へ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田圃へ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山の家が五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実は恐かった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。」  血も迸しらんばかり壮だった滝太郎の面を、つくづく見て、またその罪の数を眗して、お兼はほっという息を吐いた。  歎息して、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、後ざまに壁のごとき山腹の土に凭れかかり、 「滝さん、まあ、こうやって、どうする意だねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭金に不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃ疾なんだ。どうしても止められやしないんだろうね。」  言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可怪い目をして、 「誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とすると筵を敷いて、夜一夜この中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴に嗅つけられた日にゃ打破しだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達は拵えねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見て誉めてくんねえな。」  ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎の頸を抱いて、仰向の顔を、 「どれ、」  燈は捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼は屹と打守って、 「滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。」        三十八 「お前さんの母様が亡なんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。」 「ああ、あの荒物屋の媼っていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸からじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜にしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼や出入に面倒だったり、一品々々捻くっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分が盗られた時の様子を、その道筋から、機会から、各々に話をするようで、楽ッたらないんだぜ。」 「それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやってお在の時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳子に見覚がなかった日にゃあ、名告られたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、」  と手を取って、お兼は掌に据えて瞻りながら、 「節もなくなって細うなったし、体も弱々しくって、夜露に打たれても毒そうではないか。」 「不景気なことを言ってらあ。麦畠の中へ引くりかえって、青天井で寝た処で、天窓が一つ重くなるようなんじゃあないよ、鍛えてあらあな。」と昂然たり。 「そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、鎖を下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿直の武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜一夜出歩かれるねえ。」 「何、そりゃおいら整然と旨くやってるから、大概内の奴あ、今時分は御寝なっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我儘をさしてくれらあね。」 「成程ね、華族様の内をすっかり預って、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。」 「ああ、ただもう家名を傷けないようにって、耳懊く言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。」 「ふむ、それでお前さん、盗賊をすりゃ世話は無いじゃあないか。」と言って、心ありげに淋しい笑を含んだのである。 「おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んで楽むんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同一こッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾干だ、好な程払ってやるまでの事じゃあねえか。」 「あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累々した鱗を立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、恐くはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千と固っていてみな、厭なもんだ。松の皮でもこう重り重りして堆いのを見るとね、あんまり難有いもんじゃあない、景色の可い樹立でも、あんまり茂ると物凄いさ。私ゃもう疾にからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でも蚤でも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打棄りたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚然とした。」        三十九 「野暮は言わない、私だって何も素人じゃあなし、お前さんの病な事も知ってるから、今めかしい意見をするんじゃないが、世の中にゃもッと面白い盗賊のしようがありそうなもんじゃないか。時計だの、金だの、お前さんが嬉しがって手柄そうにここに並べて置くものは、こりゃ何だい! 私に言わせると吝さ、端のお鳥目でざら幾干でもあるもんだ。金剛石だって、高々人間が大事がって秘っておくもんだよ、慾の固だね。金と灰吹は溜るほど汚いというが、その宝を盗んで来るのは、塵芥溜から食べ荒しをほじくり出す犬と同一だね、小汚ない。  そんなことより滝さん、もっと立派な、日本晴の盗賊がありやしないかしら。  主の棲む淵といえば誰も入ったものはあるまい。昔から人の入らない処なら、中にまたどんな珍らしい不思議なものがあろうも知れない。譬にも竜の腭には神様のような綺麗な珠があるというよ。何そんなものばかりじゃあない、世の中は広いんだ、富山にばかりも神通川も立山もあるじゃあないか。大海の中だの、人の行かない島などには、宝にしろ景色にしろ、どんな結構なものがあろうも知れぬ、そして見つかれば大びらに盗んで可いのさ。  ただそれは難かしい。島へ行くには船もいろうし、山の奥へ入るには野宿だってしなけりゃならない。お前さんはお金子が自由だろう、我儘が出来るじゃあないか。気象はその通だし、胆玉は大いし、体は鍛えてある、まあ、第一、その目つきが容易じゃあない。火に焼れず、水に溺れずといったような好運があるようだ。好なことが何でも出来るッて、母様が折紙をつけて下すった体だよ、私が見ても違いはないね。  金目の懸った宝なんざ、人が大切がって惜しむもので、歩るくにも坐るにも腰巾着につけていようが、鎖を下ろしておこうが、土の中へ埋めてあろうが、私等が手にゃあお茶の子さ。考えて御覧、どんなに厳重にして守ったって、そりゃ人間の猿智慧でするこッた、現にお前さん、多勢黒山のような群集の中で、その観音様を一人で引揚げて来たじゃあないか。人の大事にするものを取って来るのは何でもないが、私がいう宝物は、山の霊、水の精、また天道様が大事に遊ばすものもあろう。人は誰も咎めないが、迂濶にお寄越しはなさらない、大風で邪魔をするか、水で妨げるか、火で遮るか。恐い獣に守らしておきもしようし、真暗な森で包んであろうも知れず、地獄谷とやら、こんな恐い音のする、その立山の底に秘くしてあるものもあろう。近い処が、お前さんが前刻お話の、その黒百合というものだ、つい石滝とかの山を奥へ入るとあるッていうのに、そら、昔から人が足蹈をしない処で、魔処だ。入っちゃあならない、真暗だ、天窓が石のような可恐い猿が居る、それが主だというじゃあないか。この国中捌いてる知事の嬢さんが欲しくっても、金でも権柄ずくでも叶わないというだろう。滝さんどうだね、そんなものを取って来ちゃあ。  一番何でもそういったものを、どしどし私たちが頂戴をすることにしようじゃないか。私ばかりでない、まだ同一心の者が、方々に隠れている、その苧環の糸を引張ってさ、縁のあるものへ結びつけて、人間の手で網を張ろうという意でね、こうやって方々歩いている。何、私なんざ、ほんの手先の小使だ、幾らも、お前さんの相談相手があるんだから、奮発をしてお前さん、連判状の筆頭につかないか。」  意気八荒を呑む女賊は、その花のごとき唇から閃いてのぼる毒炎を吐いた。洞穴の中に、滝太郎が手なる燈の色はやや褪せたと見ると、件の可恐い響は音絶えるがごとく、どうーどうーどうーと次第に遠ざかって、はたと聞えなくなったようである。        四十 「もう夜明だ、姉や、分ったい、うむ、早く出よう。そして、おいらもう、この穴へは入るまい。」  滝太郎は決然として答えた。お兼は嬉しげに手を取って、 「滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあ良い事をした、お庇様で発程栄がする。」 「お前、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手に好な真似はしてるけれど、友達も何もありゃしないやな。本当は心細くッて、一向詰らないんだぜ。」 「気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心当があるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざ皆味方さ。不残敵になったって難かしい事はないのだもの。」 「うむ、そんならそうよ。」と頷いて身を開いた、滝太郎は今森として響も止んだ洞穴の中に耳を澄したが、見る見る顔の色が動いて、目が光った。 「や、山の上で蜩が鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居て耐るもんかい。」  ふッと燈を消すと同時に、再びお兼の手をしっかと取って、 「姉や、大丈夫だ、暗い内に、急いで。さあ、」  温泉の口なる、花室の露を掻潜って、山の裾へ出ると前後になり、藪について曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一個の籠を抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪艶かに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するに渠は若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手水鉢が見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真四角に黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へ溢れて出ている。ト見る時、また高らかに蜩が鳴いた。 「そらね、あれだから。」  と苦笑する。滝太郎と囁き合い、かかることに馴れて忍の術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝起の目にも留まらず、垣を潜って外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、燻った、破目や節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣瓶がしとしとと落つる短夜の雫もまだ切果てず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一条の径にかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。 「それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。」  早朝町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋の袂で立停ったのである。雲のごときは前途の山、煙のようなは、市中の最高処にあって、ここにも見らるる城址の森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真中頃から吹断って、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄は、高く揚って旭を遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東雲に、流の音はただどうどうと、足許に沈んで響く。  お兼は立去りあえず頭を垂れたが、つと擬宝珠のついた、一抱に余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然として、振返って、 「ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種々な四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念に置いて行こうか。」        四十一  折から白髪天窓に菅の小笠、腰の曲ったのが、蚊細い渋茶けた足に草鞋を穿き、豊島茣蓙をくるくると巻いて斜に背負い、竹の杖を両手に二本突いて、頤を突出して気ばかり前へ立つ、婆の旅客が通った。七十にもなって、跣足で西京の本願寺へ詣でるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨の山中あたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行くのである。  お兼は黙って遣過ごして、再び欄干の爪の跡を教えた。 「これはね、皆仲間の者が、道中の暗号だよ。中にゃあ今真盛な商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧海軍に居た将官だね。それからこうあっちに、畝々した線が引張ってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止めていても兇状持で随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶な事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺参が一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群なんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈だよ。倶利伽羅辺で一所になろう、どれ私もここへ、」  と言懸けて、お兼は、銀煙管を抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧した。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚れている滝太郎を見て、莞爾として、 「どうだい、こりゃ吃驚だろう。方々の、祠の扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍の傍示杭だの、気をつけて御覧な、皆この印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠ってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残お前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」 「うむ、」といって、重瞳異相の悪少は眠くないその左の目を擦った。 「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」 「気をつけて行きねえ。」 「あい、」 「………」 「おさらばだよ。」  その効々しい、きりりとして裾短に、繻子の帯を引結んで、低下駄を穿いた、商売ものの銀流を一包にして桐油合羽を小さく畳んで掛けて、浅葱の切で胴中を結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘を持った後姿。飄然として橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄を取って引上げた、白い太脛が見えると思うと、朝靄の中に見えなくなった。  やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄の山の頂を越えた、その時は、裾を紮げ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布を纏ったり、頬被で顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連になって、笑いさざめき興ずる体で、高岡を指して峠を下りたとのことである。  お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中の北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸伝に行くのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢て、しばしば堤防を崩す名代の荒河。橋の詰には向い合って二軒、蔵屋、鍵屋と名ばかり厳しい、蛍狩、涼をあての出茶屋が二軒、十八になる同一年紀の評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯、時鳥。 「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」        四十二  その蔵屋という方の床几に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣を取って涼を納れながら、硝子盃を手にして、 「ああ、涼しいが風が止んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」  客の人柄を見て招の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷で塗盆を手にして出ている。 「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」 「何だね、石滝でお荒れというのは。」 「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨になるッて、昔から申しますのでございますが。」  島野は硝子盃を下に置いた。 「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」 「今朝ほど、背負上を高くいたして、草鞋を穿きましてね、花籃を担ぎました、容子の佳い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸ると、何と心得たものか、紳士は衣袋の間から一本平骨の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。 「はあ、それが入ったのか。」 「さようでございます。その姉さんは貴方、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」 「何かね、全くそんな不思議な処かね。」 「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨になりますよ。」といって、塗盆を片頬にあてて吻々と笑った、聞えた愛嬌者である。島野は顔の皮を弛めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂うまでもない。 「それは可いが姉さん、心太を一ツ出しておくれな。」 「はい、はい。」 「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」 「どういたしまして、降りませんでも、貴方川留でございますよ。」  方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上る、清水に浸したのを突にかけてずッと押すと、心太の糸は白魚のごときその手に搦んだ。皿に装って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、 「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」 「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出して、その方もまだお帰になりません。」 「え、そりゃ何か、目の丸い、」 「はい、お色の黒い、いがぐり天窓の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」 「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、 「ちょッ、しようがないな。」 「貴方御存じの方なんですか。」 「うむ、何だよ、その娘の跡を跟けまわしてな、から厭がられ切ってる癖に、狂犬のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝一人で。」 「何でございます。」 「いえさ、連は無かったのか。」        四十三 「ただお一人でございましたよ、豪そうなお方なんです。それに仕込杖なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可うございますがね。」  島野は冷然として、 「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」 「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」 「そりゃお互様よ。」 「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」 「だが、その滝の傍までは行っても差支が無いそうじゃないか。」 「そこまでなら偶に行く人もございますが、貴方何しろ真暗だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」 「熱はお前さんを見て帰ったって同一だ、何暗いたッて日中よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」 「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」  島野は多磨太が先じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方にどうどうと響く滝の音は、大河を倒に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。  折から堤防伝いに蹄の音、一人砂烟を立てて、斜に小さく、空を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋の彼方から歩を緩めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝を潜って、ぬっくりと黒く顕われたのは、鬣から尾に至るまで六尺、長の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼一点の白あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋鞍置いたるに胸を張って跨ったのは、美髯広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣り、片手に手綱を控えながら、一蹄三歩、懸茶屋の前に来ると、件の異彩ある目に逸疾く島野を見着けた。 「島野、」と呼懸けざま、飜然と下立ったのは滝太郎である。  常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、 「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭を下げる。その時、駿足に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌で額の髪を上げた。 「おい、姉や。」 「はい、」 「水を一杯、冷いのを大急だ。島野、可い処でお前に逢ったい。おいら、お前ン処の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋いでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」  呆れたものいいと、唐突の珍客に、茶屋の女どもは茫乎。        四十四  島野は、時というとこの苦手が顕れるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、 「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」  と不平らしい顔をした。 「そうよ。」 「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」 「大丈夫だ。こう、お前一ツ内端じゃあねえか、知己だろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳いて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑んだ。 「失敬な。」も口の裡で、島野は顔を見らるると極悪そうに四辺をきょろきょろ。茶店の女は、目の前にほっかりと黒毛の駒が汗ばんで立ってるのを憚って、密と洋盃を齎らした。右手をのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣を颯と振った。あれと吃驚して女は後へ。若君は轡を鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、 「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」  屹と向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽えて両手を上げて、 「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭背負わされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、 「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可ません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」  と窮したる笑顔を造って、渠はほとんど哀を乞う。  滝太郎は黙って頷くと斉しく、駒の鼻頭を引廻らした。蹄の上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶いた。 「島野、おい、島野。」  この声を聞くごとに、実のこッた、紳士はぞッとする位で。 「へい、御用ですか。」 「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪じゃあねえか、花売のよ。」 「御串戯を、」と言ったが、内心抉られたように、ぎっくりして、穏ならず。  滝太郎は戯にいったばかり。そのまま茶屋の女を見返り、 「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」 「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。 「はい、西瓜でも切りましょうか。心太、真桑、何を召あがります。」 「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平だの、餡麺麭だの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込んで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中に指しをする。 「どちらへいらっしゃいます。」 「石滝よ。」  驚いたのは茶店の女ばかりではない、島野も思わず顔を視める。 「兵粮だ、奥へ入って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」 「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻だそうです。あの花売の女も石滝へ入ったんです。」 「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響を曇天に伝えて聞える、小川の彼方の森の方を、屹と見て、すっくと立って、 「あの阿魔がかい、そいつあ危え!」  先立って二度あることは三度とやら、見通の法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌しく顔を出して、 「そりゃこそ、また一人。」        四十五 「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」 「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」と半は独言のようにぶつぶついう。  被った帽も振落したか、駆附けの呼吸もまだはずむ、お館の馬丁義作、大童で汗を拭き、 「どうしたって、あれでさ、お前様、私ゃ飛んでもねえどじを行ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣を引張って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹立になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」 「暴れたかね。」 「あばれたにも何も、一体名代の代物でごぜえしょう、そいつがお前さん、盲目滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向に転ったでさ。」 「おやおや、道理で額を擦剥いてら。」  義作は掌でべたべたと顔を撫でて、 「串戯じゃあがあせん、私ゃ一期で、ダーだと思ったね、地ん中へ顔を埋めてお前さん、ずるずると引摺られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切って、橋通りへ懸って神通を飛越そうてえ可恐い逸れ方だ。南無三宝、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、 「ふむ。」 「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然畜生の前へ突立ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留ったでさ。畜生、貧乏動をしやあがる腮の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻は真のこった、私ゃ手を合わせました。どうしてお前さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」 「はい、お茶を一ツ。」  大気焔の馬丁は見たばかりで手にも取らず、 「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私ゃそこに湧いてるのに口をつけて干しちまうから打棄っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行くから、お前あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」 「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭を捻込んで、石滝の奥へ、今の前橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」 「やッ、」というて目を睜る義作と一所に吃驚したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵、お米といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。        四十六 「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可い腕車が二台ともばったり停る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、 「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」  先に腕車に乗ったのは、新しい紺飛白に繻子の帯を締めて、銀杏返に結った婦人。 「何だね、お前さん。」 「はい、鍵屋と申します御休憩所でございますが、よそと張合っておりますので。  今朝から向にばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私どもへ。」  とおろおろ声で泣くようにいう。 「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」 「はい、さようでございます。」 「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後の腕車で微笑みながらいったのは、米が姫様と申上げた、顔立も風采もそれに叶った気高いのが、思懸けず気軽である。  女はかえって答もなし得ず、俯向いてただお辞儀をした。 「それじゃ若衆さん。」 「おう、鍵屋だぜ。」 「あい、遣んねえ。」  車夫は呼交わしてそのまま曳出す。米は前へ駆抜けて、初音はこの時にこそ聞えたれ。横着にした、楫棒を越えて、前なるがまず下りると、石滝界隈へ珍しい白芙蓉の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺に引添い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几に居た両人、島野と義作がこれを差覗いて、慌しくひょいと立って、体と体が縒れるように並んで、急足につかつかと出た。 「お嬢様。」 「へい、お道どん、御苦労だね。」 「おや、義作さん、ここに。」  勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、 「島野さんも来ていたの。」 「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」 「実は何でございます、飛んだ疎匆をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」 「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可い塩梅に。」 「御家来さん、危うがしたな。」 「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、 「そうねえ。」 「ええ、もう私ゃ怪我なんぞ厭やしませんが、何、皆千破矢の若様のお庇なんで、へい。」 「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺を見て、御意遊ばす。 「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」 「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」 「何あのお雪のことなの。」 「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」  お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女。 「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」 「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流盼。        四十七 「貴方の黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。  勇美子はその瞳を屹と凝らしたが、道は聞くと斉しく、顔の色を変えた。 「お嬢様、どういたしましょう。」 「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」 「はい、ちっとも。」 「あの、少しも存じません。」 「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」  と車夫の一人。 「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外の内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰るの。承わると実に御道理な事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日のことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日その金子は只でお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家へ行くと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情を察すると無理はないので、泣の涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召に叶ったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金子は預けておこうとすると、それは本人へ直にといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨夜は帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのお情に預っては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのも肯かないで行ったといいます。  ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何程の事があろう、痩我慢な行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のお厭いもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。」  と道は落着かず胡乱々々する。  一同顔を見合せた。  義作一名にやりにやり 「可うがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。諺にも何でさ、案ずるより産むが易いって謂いまさ。」 「何だね、お前さん。」とそこどころではない、道は窘めるがごとくにいった。  義作あえてその(にやり)なるものを止めず。 「いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖をくいません、それが証拠にゃあ御覧じろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈つけられはしねえもんだ。」 「ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。」 「ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。」 「あれだもの。」 「どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。」 「義作さん可加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。」 「だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしい事あない、娘さい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引摺られたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、」といいかけて、額を押え、 「や、天狗が礫を打ちゃあがる。」  雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!        四十八 「女中さん、降って来そうでございます、姫様におっしゃって、まあ、お休みなさいましな」と米は程合を見計らう。 「ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。」  黙って敏活の気の溢れた目に、大空を見ておわした姫様は、これに頷いて御入があろうとする。道はもとより、馬丁義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一群になって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当の敵の蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後を圧えて、周章てて胡乱々々する蔵屋の女に、上下四人をこれ見よがし。 「お懸けなさいまし、」と高らかに謂った。  蔵屋の倉は堪りかねて、睨めながら米を摺抜けて、島野に走り寄った。 「旦那様、若衆様とお二方は、どうぞ私どもへお帰りを願いとう存じます。」 「そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。」 「はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜しゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。」 「可いじゃあないか、何も後にだってよ。」  義作が仔細を心得て、 「競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥が据るから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私あ察するがね、まあ堪忍しなさい。」 「それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。」 「何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。」  と米は傍から押隔てると、敵手はこれなり、倉は先を取られた上に、今のお懸けなさいましで赫となっている処。 「止してくれ、人、身体に手なんぞ懸けるのは、汚れますよ。」 「何を癩が。」 「磔め。」と角目立ってあられもない、手先の突合いが腕の掴合いとなって、頬の引掻競。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬丁も、引張凧になった艶福家島野氏も、女だから手も着けられない。 「留めておやり。道や、」 「ちょいと、串戯じゃあないよ、お前様方はどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉ませ申すんだよ。可加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸になって着物を地に敷いて、その上へ貴女を休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人は左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉まえて、ひしと縋って泣出したのである。道は弱って手を束ねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人の背にかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍に二軒ならんだのに目を配って、熟と見たまい、 「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨みっこ無しに冥利の可い方が勝つんだよ。」 「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事たよ。さあ、二人とも、手を拍ったり。」 「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。女は両人、晴やかな勇美子の面を拝んだ。  折柄荒増る風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒になって、転けつ、まろびつ、人礫かと凄じい、物の姿。        四十九  あれはと見る間に早や近々と人の形。橋の上を流るるごとく驀直に、蔵屋へ駆込むと斉しく、床几の上へ響を打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶して、呻吟く声吠ゆるがごとし。  鍵屋の一群はこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前へ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉へかけ、例の白薩摩の襟を染めて韓紅。 「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密と手をとって、眉を顰めた。  鍵屋では及腰に向うを伺い、振返って道が、 「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」  勇美子も夜会結びの鬢を吹かせ、雨に頬を打たせて厭わず、掛茶屋の葦簀から半ば姿をあらわして、 「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招をした。 「義作さん、おおい、ちょいとお出よ、お出よ。」 「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。 「何だね、どうしたのさ、あれ大変呻吟くじゃあないか。」 「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無えんです。何だそうで、全体心懸が悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸廻していたんで、今朝も、お前、後を跟けて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢なんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前だけれどもう思い切ってるんだからね、人の入らねえ処だし、お前、対手はかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様を見上げたので声を密めた。 「だね、それ、狼って奴だ。お前、滝の処はやっぱり真暗だっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕えて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本引提げて入ったって。大刀を突着けの、物凄くなった背後から、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合で盲目なぐりだ。その内、痛えという声がする、かすったようだけれども、手応があったから、占めたと、豪くなる途端にお前。」  義作は左の耳から頬へかけて掌ですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦笑をして、 「片耳ざくり、行って御覧じろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻吟くのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、私もそう言ったんで、島野さんも、生命にゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血が湧くのが肝にこたえるって掙いてね、真蒼です。それでも見得があるから、お前、松明をつけて行って見ろ、天狗の片翼を切って落とした、血みどろになった鳶の羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へ噛りついた。あの人がまた、血を見ると癲癇を起すくらい臆病だからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、堪ったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!」とばかりで雨を潜って、此奴人の気も知らず剽軽なり。 「道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。」 「さようでございますね、」と、顔と顔。        五十 「小主公お久振でござりました、よく私の声にお覚えがござりますな。へい、貴方がお目の悪いことも、そのために此家の女が黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年越お便は遊ばさず、どこに隠れてお在なさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比なり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公、何は措きまして御機嫌宜しく。」 「慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。」  と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦に窶れ、愁然として肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈竟な漢、火水に錬え上げた鉄造の体格で、見るからに頼もしいのが、沓脱の上へ脱いだ笠を仰向けにして、両掛の旅荷物、小造なのを縁に載せて、慇懃に斉眉く風あり。拓の打侘びたる言を聞いて、憂慮わしげにその顔を見上げたが、勇気は己が面に溢れつつ、 「御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病疾には誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小主公、良いお音信がござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、疾くに御存じでござりましょう。」  若山は色を動かして、 「そうか、私はまた何も彼も思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。」と額に手を翳して目を蔽うたのである。 「なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。」 「むむ、何それもあるけれども、私が考で、家を売り、邸を売り、父様がいらっしゃる処も失くなしたし。」 「それは御心配ござりません、貴下が放蕩でというではなし、御望がおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私が直に承わりましてござります。」 「そして今どこにいらっしゃるんだな。」 「へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退になって、それへ合体が宜しゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。」 「何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。」 「さようでござります、この頃盛に工事を起しました、倶利伽羅鉄道の工夫の中へ交り込んで、目星いのをまた二三人も引抜いて同志につけようッて働いておりますんで。一体富山でしばらく働いたそうでござりますに、貴方をお見着け申さなんだのは、姉御が一代の大脱落でござりましょう。その代り素ばらしいのを一名、こりゃ、華族で盗賊だと申しますから、味方には誂向き、いざとなりゃ、船の一艘ぐらい土蔵を開けて出来るんでござります。金主がつけば竜に翼だ、小主公、そろそろ時節到来でござりましょうよ。」と慶造が勇むに引代え、若山は打悄れて、ありしその人とは思われず。渠は非職海軍大佐某氏の息、理学士の学位あって、しかも父とともに社会の暗雲に蔽われた、一座の兇星であるものを!        五十一  慶造は言効なしとや、握拳を膝に置き、面を犯さんず、意気組見えたり。 「小主公、貴方はなぜそう弱くおなんなすったね、病なんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生命も用らないという女のあるせいでしょう。可うがす、何そりゃ好いた女のためにゃあ世の中を打棄るのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一百一束にして掌に握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜息をついて女児の膝に縋るようじゃあ、大概の奴あそこで小首を傾げまさ。汝のためならばな、兜も錣も何ちも用らない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身体を投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、女の達引く時なんざ、べらんめえ、これんばかしの端をどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッ面へ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不可ませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。」  慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。 「ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難有え、苦労させるなんて弱い音を出して御覧じろ、奴さんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、お言の一ツも懸けられりゃ勿体ねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立過して、そんな恐ねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃ私どもはじめ世間で感心する事で、当の対手は何の女ッ子の生命なんざ、幾つ貰ったって髢屋にも売れやしねえ、そんな手間で気の利いた香の物でも拵えろと、こういった工合でなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不便だ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇癪を起してね、横頬を撲りのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江戸児じゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小主公でしょう。女の心中立を物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情婦を拵えるのと、坊主になるのとは同一ものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲目におなんなすったから、按摩にゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金子のある分だ、貴方のなんざ、女に縋るんだから堪りませんや。え、もし、そんなこッちゃあ女にだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。」と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、窶れた若山の面を見守って、目には涙を湛えていた。 「慶造!」と一喝した、渠は蒼くなって、屹と唇を結んだ。 「ええ、」 「用意が出来たらいつでも来い、同志の者の迎なら、冥途からだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人がどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上の役、錨を抜くのは慶造貴様の職だ。皆に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」  と説き得て、拓は片手を背後へついて、悠然として天井を仰いだ。 「難有うござります。おお、小主公。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。        五十二 「いやもう久ぶりで癇癪をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲の下りますんで。へい、それで私も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前のように太平楽は並べましたものの、私も涙が出ます、実は耐えておりました。」  慶造は情なさそうに笑いながら、 「大旦那様はそんなにも有仰ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧じろ、大旦那様の一件で気病でお亡り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私にゃ新夫人様。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日でござりますな、少からぬ係合の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装って川へ一時に推出して来た、見る間に杭を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒。大変だという内に、水足が来て足を嘗めたっていうんです。それがために皆が一雪崩に、引返したっていいますが、もっとも何だそうで、その前から風が出て大降になりました様子でござりますな。」 「ああ、その事は昨日知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前に帰ったから聞いているよ。」 「それからはまるで三日、富山中は真暗で、止むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃の堤防が崩れた、牛の淵から桜木町へ突懸る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦です。壁が壊れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行かれましょう。お目に懸って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣っちゃあ参られませんが。」 「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」  心安く言ったので、慶造は雀躍をして、 「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公お気を着けなすって、後ともいわず直ぐに、」  といった。折からの雨はまた篠を束ねて、暗々たる空の、殊に黄昏を降静める。  慶造は眉を濡らす雫を払って、さし翳した笠を投出すと斉しく、七分三分に裳をぐい。 「してこいなと遣附けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」        五十三  開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹を浴びて身を退いて座に戻った、渠は茫然として手を束ぬるのみ。半は自分の体のごときお雪はあらず、余の大降に荒物屋の媼も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈を点けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗な家の内に数時間を消した。夜も初更を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違う人の跫音、ものの響、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。  こはいかに! 乾坤別有天。いずこともなく、天麗かに晴れて、黄昏か、朝か、気清しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山にして人跡の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯の花のようで、よく山奥の溪間、流に添うて群生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた  時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。  理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚となる処へ、吹落す疾風一陣。蒼空の半を蔽うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろうと思う鷲が、旋風を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪のごとくむらむらと散って立つ花片の中から、すっくと顕れた一個の美少年があった。捲り手の肱を曲げて手首から、垂々と血が流れる拳を握って、眦の切上った鋭い目にはッたと敵を睨んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。  少年は、熟とその勁敵の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑かな岩に背を支えて、仰向けに倒れて、力なげに手を垂れて、太く疲れているもののようである。  やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸に縺れ頬に懸り、ふッくりした頬も肉落ちて、裾も袂もところどころ破れ裂けて、岩に縋り草を蹈み、荊棘の中を潜り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕に縋って、懐紙で疵を押えた、紅はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。  お雪は見るも痛々しく、目も眩れたる様して、おろおろ声で、 「痛みますか、痛みますか。」というのが判然聞える。  眠れるか、少年はわずかにその頭を掉ったが、血は留らず、圧えた懐紙は手にも耐らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口を吸ったのである。  唇が触れた時、少年は清しい目を睜って屹と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。  両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉は動いたのである。        五十四  しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆を解いて、一尺ばかり曳出すと、手を掛けた衣は音がして裂けたのである。  その切で疵を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎して咽喉のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜って、また入乱れて立つは、風に花片が散るのではない、前に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人の身の辺に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。  お雪は双の袂の真中を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰める少年の顔の前を、絶えず払い退け、払い退けする。その都度死装束として身装を繕ったろう、清い襦袢の紅の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩ったが慌しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣の背を溢れ出づる、雪なす膚にも縺るる紅、その乳のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件の白い蝶であった。  我身半はその蝶に化したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密と少年を見ると、目を開かず。  お雪は吻と息を吐いて、肌を納めようとした手を動かすに遑なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎ね起きて押被さり、身をもってお雪を庇う。娘の体は再び花の中に埋もれたが、やや有って顕れた少年の背には、凄じい鈎形に曲った喙が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙なく蒼空から襲い来ったのであった。  倒れながら屹とその面を上げると、翼で群蝶を掻乱して、白い烟の立つ中で、鷲は颯と舞い上るのを、血走った目に瞶めながら少年は衝と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶けながら、行方を睨むと、谷を隔てて遥に見えるのは、杉ともいわず、栃ともいわず、檜ともいわず、二抱三抱に余る大喬木がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横わって、深森の中自から径を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭におよそ三間余の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今件の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟の間に眼を遮って七ツ数えると止んだ。 「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。  お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉しく身を顫わした。 「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」 「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。  お雪は失心の体で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許に跪いて、 「この足手纏さえございませねば、貴方お一方はお助り遊ばすのに訳はないのでございます。」  と、いう声も身も顫えたのである。        五十五 「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷い目にお逢わせ申して、今までに、生命をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵に遊ばして庇って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥きました処もございません。たとい前の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣ってお逃げなすって下さいまし、お願でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽していう声も絶断。  少年はかえってつッけんどんに、 「生意気な講釈をするない、手前達の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活きてる内ゃ助けてやらあ、不可なかったら覚悟しねえ。おいら父様はなし、母様は失くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情なくも何ともねえが、汝は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を湛えて、膝下に、うつぎの花に埋もれて蹲る清い膚と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫が身に染みたら、荒鷲の嘴に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。  一言の答えも出来ない風情。  少年も愁然として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、 「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から頷くがごとく顔を傾けていった。  理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年の間朝夕室を同じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。  我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言は聞えたのであろう。 「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。 「その意で諦めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。 「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、 「助かったら何よ、おいらが邸へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を賭にしたこの難境は、将来のその楽のために造られた階梯であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死期の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。  拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化した女神であっても、なお且つ、一糸蔽える者なきその身を抱かれて遮ぎり難く見えたから。        五十六  理学士はまた心から、十の我に百を加えても、なお遥かにその少年に及ばないことを認めたのである。  たとえば己が目は盲いたるに、少年の眼は秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活きて、渠をして石滝の死地に陥らしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸りから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来れ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌と、風采と、その品位をもってして誰がこれを諾わざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購い得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯と赤らむ顔とともに、声の下で、 「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」  恐る恐るいうおもはゆげな状を、少年は瞻りながら、事もなげにいった。 「なぜだ。」 「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆その人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることを憚らず言って差俯向く。  少年は屹となって、たちまち顔色を変えたのである。  理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾を飲んだ。  夢中の美少年に憤った色が見え、 「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰らねえことをしたぜ。」  と投げるようにいって、大空を恍惚りと瞶めた風情。取留めのない夢の想で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌に倚る一個白面、朱唇、年少、美貌の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己が耳には入らなかった。  鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。  これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴むがごとく引出して、やにわに手を懸けて挘り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝と胸を抱いて立ったのを、卑むがごとく、嘲けるがごとく、憎むがごとく、はた憐むがごとくに熟と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉しく、巌を放れてすっくと立って、 「不可ねえや、お前良人があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」  といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。        五十七  我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。  お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気なく向うを向いてしまったので、力無げに歩を停めた、目には暗涙を湛えたり。  やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺ぶられる、のりうつぎの花の梢は、少年を包んで見えなくなった。  これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥か彼方の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺を暗くした中に、娘の白い膚を包んで、はたと仰向に僵れた。 「あれえ、」  叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈んで、その頸を打ったのである。 「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」  と怒気満面に溢れて叱咤した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。  黒雲一団渦く中に、鷲は一双の金の瞳を怒らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦の矢を白い花の上に残した。  少年が勇威凜々として今大鷲を搏った時の風采は、理学士をして思わず面を伏せて、僵れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。  かくして少年ははた掌を拍って塵を払ったが、吐息を吐いて、さすがに心弛み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々なお雪を見て、眉を顰めて、 「ちょッ、しようのねえ女だな。」  やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧のごとく居って、やや動き且つ動くのを、屹と睨んでは仰いで見たが、衝と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟けて、ややあって一座の巌石、形蟇の天窓に似たのが前途を塞いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。  もとより後は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋って蝙蝠の攀ずるがごとく、ひらりひらりと巌の頂に上った。この巌の頂は、渠を載せて且つ歩を巡らさしむるに余あるものである。  時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾わせ、天を頂いて突立ったが、何とかしけむ、足蹈をして、 「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響である。  少年はいと忙しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝と端に臨んで、俯向いて見る見る失望の色を顕した。思わず嘆息をして口惜しそうに、 「どこまで祟るんだな、獣め。」        五十八  少年を載せた巌は枝に留まった梟のようで、その天窓大きく、尻ッこけになって幾千仭とも弁えぬ谷の上へ、蔽い被さって斜に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木は、梢を揃えて件の巌の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯し瞰して、雲の桟橋のなきに失望した。しかるに倒に伏して覗かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌の裾に居て、可怪い喬木の梢なる樹々の葉を褥として、大胡坐を組んだ、――何等のものぞ。  面赭く、耳蒼く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色の産毛のようで、房々として柔かに長い毛が一面の生いて、人か獣かを見分かぬが、朦朧としてただ霧を束ねて鋳出したよう。真俯向になって面を上げず、ものとも知らぬ濁みたる声で、 「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干を数えて呟きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻挘る。時に手を留めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危く一重の皮を残して、まさに断切れて逆さまに飛ばんとする。  あれあれ、とばかりに学士は目も眩れ、心も消え、体に悪熱を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己が耳にも定かならず。可恐しきものの巌を切る音は、肝先を貫いて、滝の響は耳を聾するようであった。  羽撃聞えて、鷲は颯と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然として可恐い夢から覚めたのである。  拓は茫然自失して、前のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵れようとしたが、ふと闇のままうとうとと居眠ったのに、いつ点いたか、見えぬ目に燈が映えるのに心着いた。  確かに傍に人の気勢。        五十九 「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。  急に答がないので、更に、 「誰だ。」 「はい、」と幽かに応えた。  理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑も無いお雪である。  これを聞いて渠は思わず手を差延べて、抱こうとしたが、触れば消失せるであろうと思って、悚然として膝に置いたが、打戦く。 「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」  と判然、それも一言ごとに切なく呼吸が切れる様子。ありしがごとき艱難の中から蘇生って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚して、 「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。  お雪はその時答えなかった。  理学士は繰返してまた、 「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳らして口を噤む。  しばらくして、 「送って来て下さいましたよ。」 「そして⁈」 「あの、お向の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」 「そうか、」といったが、我ながら素気なく、その真心を謝するにも、怨をいうにも、喜ぶにも、激して容易くは語も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人斉しく涙を湛えて、差俯向いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。  框に人の跫音がしたが、慌しく奥に来て、壮な激しい声は、沈んで力強く、 「遁げろ、遁げねえか、何をしとる!」  お雪は薄暗い燈の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾しや! 「洪水だ、しっかりしろ。」  お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。 「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起きようとして燈を消した。 「周章てるない、」といって滝太郎は衝と戻って、やにわにお雪の手を取った。 「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽えたか、扶けられた滝太郎の手を振放して、僵れかかって拓の袖を千切れよと曳いた。        六十  お雪は曳いて、曳き動かして、 「どうしましょう、あれ、早く貴方、貴方。」  拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫えた。ただ森として縁板が颯と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。 「ええ、」といって学士も立った。 「可恐しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背をお雪に差向ける。途端に凄じい音がして、わっという声が沈んで聞える。 「お雪! お雪。」  学士も我を忘れて助を呼んだのである。 「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」 「うむ、」 「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」 「二人じゃあ不可ねえや、」 「内の人を、私の夫を。」 「おいら、お前でなくっちゃあ、」 「厭、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。 「だって、汝の良人なら、おいらにゃあ敵だぜ。」 「私は死んでしまいます。」 「へへ、駄目だい、」と唾するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。 「滝だ、大丈夫だ。」 「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退って壁にひたりと背をあてた。 「あれ、拓さん、」とばかり身を急るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。 「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。  滝太郎は真中に立って、件の鋭い目に左右を眗して瞳を輝かした。 「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可けなけりゃ皆で死のう。」  雨は先刻に止んで、黒雲の絶間に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々立てた高張の明が射して、眼のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲る水は、随処、亀甲形に畝り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸に縋らせて、滝太郎は面も触らず件の洞穴を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、 「拓さん堪忍して。」  声を残して、魚の跳るがごとく、身を飜して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼なんど、五七人乗った小舟を漕寄せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷を突いたので、船は波に乗って颯と退いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。  その夜湯の谷で溺れたのが十七人、……お雪はその中の一人であった。  水は一晩で大方退いて、翌日は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背を干して、傍に立っていた、水はやや駒の蹄を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏く見て、腕捲りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁が六つ、黄粉を包んだ蘂が六つ、莟が一つ。  数年の後、いずこにも籍を置かぬ一艘の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼等が乗組んで、大洋の波に浮んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号けるのであろう。 明治三十二(一八九九)年六~八月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年12月25日第1刷発行 ※底本の誤植は親本を参照して直しました。 入力:もんむー 校正:門田裕志 2005年3月16日作成 2007年9月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004635", "作品名": "黒百合", "作品名読み": "くろゆり", "ソート用読み": "くろゆり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-04-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4635.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成2", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年4月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第四巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年12月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "もんむー", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4635_ruby_17984.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-09-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4635_18082.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-09-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
上  実は好奇心のゆえに、しかれども予は予が画師たるを利器として、ともかくも口実を設けつつ、予と兄弟もただならざる医学士高峰をしいて、某の日東京府下の一病院において、渠が刀を下すべき、貴船伯爵夫人の手術をば予をして見せしむることを余儀なくしたり。  その日午前九時過ぐるころ家を出でて病院に腕車を飛ばしつ。直ちに外科室の方に赴くとき、むこうより戸を排してすらすらと出で来たれる華族の小間使とも見ゆる容目よき婦人二、三人と、廊下の半ばに行き違えり。  見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数台の馬車に思い合わせて、ひそかに心に頷けり。渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をなせり。  予はしばらくして外科室に入りぬ。  ときに予と相目して、脣辺に微笑を浮かべたる医学士は、両手を組みてややあおむけに椅子に凭れり。今にはじめぬことながら、ほとんどわが国の上流社会全体の喜憂に関すべき、この大いなる責任を荷える身の、あたかも晩餐の筵に望みたるごとく、平然としてひややかなること、おそらく渠のごときはまれなるべし。助手三人と、立ち会いの医博士一人と、別に赤十字の看護婦五名あり。看護婦その者にして、胸に勲章帯びたるも見受けたるが、あるやんごとなきあたりより特に下したまえるもありぞと思わる。他に女性とてはあらざりし。なにがし公と、なにがし侯と、なにがし伯と、みな立ち会いの親族なり。しかして一種形容すべからざる面色にて、愁然として立ちたるこそ、病者の夫の伯爵なれ。  室内のこの人々に瞻られ、室外のあのかたがたに憂慮われて、塵をも数うべく、明るくして、しかもなんとなくすさまじく侵すべからざるごとき観あるところの外科室の中央に据えられたる、手術台なる伯爵夫人は、純潔なる白衣を絡いて、死骸のごとく横たわれる、顔の色あくまで白く、鼻高く、頤細りて手足は綾羅にだも堪えざるべし。脣の色少しく褪せたるに、玉のごとき前歯かすかに見え、眼は固く閉ざしたるが、眉は思いなしか顰みて見られつ。わずかに束ねたる頭髪は、ふさふさと枕に乱れて、台の上にこぼれたり。  そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。  医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠のみなり。そのいたく落ち着きたる、これを頼もしと謂わば謂え、伯爵夫人の爾き容体を見たる予が眼よりはむしろ心憎きばかりなりしなり。  おりからしとやかに戸を排して、静かにここに入り来たれるは、先刻に廊下にて行き逢いたりし三人の腰元の中に、ひときわ目立ちし婦人なり。  そと貴船伯に打ち向かいて、沈みたる音調もて、 「御前、姫様はようようお泣き止みあそばして、別室におとなしゅういらっしゃいます」  伯はものいわで頷けり。  看護婦はわが医学士の前に進みて、 「それでは、あなた」 「よろしい」  と一言答えたる医学士の声は、このとき少しく震いを帯びてぞ予が耳には達したる。その顔色はいかにしけん、にわかに少しく変わりたり。  さてはいかなる医学士も、驚破という場合に望みては、さすがに懸念のなからんやと、予は同情を表したりき。  看護婦は医学士の旨を領してのち、かの腰元に立ち向かいて、 「もう、なんですから、あのことを、ちょっと、あなたから」  腰元はその意を得て、手術台に擦り寄りつ、優に膝のあたりまで両手を下げて、しとやかに立礼し、 「夫人、ただいま、お薬を差し上げます。どうぞそれを、お聞きあそばして、いろはでも、数字でも、お算えあそばしますように」  伯爵夫人は答なし。  腰元は恐る恐る繰り返して、 「お聞き済みでございましょうか」 「ああ」とばかり答えたまう。  念を推して、 「それではよろしゅうございますね」 「何かい、痲酔剤をかい」 「はい、手術の済みますまで、ちょっとの間でございますが、御寝なりませんと、いけませんそうです」  夫人は黙して考えたるが、 「いや、よそうよ」と謂える声は判然として聞こえたり。一同顔を見合わせぬ。  腰元は、諭すがごとく、 「それでは夫人、御療治ができません」 「はあ、できなくってもいいよ」  腰元は言葉はなくて、顧みて伯爵の色を伺えり。伯爵は前に進み、 「奥、そんな無理を謂ってはいけません。できなくってもいいということがあるものか。わがままを謂ってはなりません」  侯爵はまたかたわらより口を挟めり。 「あまり、無理をお謂やったら、姫を連れて来て見せるがいいの。疾くよくならんでどうするものか」 「はい」 「それでは御得心でございますか」  腰元はその間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。看護婦の一人は優しき声にて、 「なぜ、そんなにおきらいあそばすの、ちっともいやなもんじゃございませんよ。うとうとあそばすと、すぐ済んでしまいます」  このとき夫人の眉は動き、口は曲みて、瞬間苦痛に堪えざるごとくなりし。半ば目を睜きて、 「そんなに強いるなら仕方がない。私はね、心に一つ秘密がある。痲酔剤は譫言を謂うと申すから、それがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もうもう快らんでもいい、よしてください」  聞くがごとくんば、伯爵夫人は、意中の秘密を夢現の間に人に呟かんことを恐れて、死をもてこれを守ろうとするなり。良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かしむることを得ずと、断乎として謂い出だせる、夫人の胸中を推すれば。  伯爵は温乎として、 「わしにも、聞かされぬことなんか。え、奥」 「はい。だれにも聞かすことはなりません」  夫人は決然たるものありき。 「何も痲酔剤を嗅いだからって、譫言を謂うという、極まったこともなさそうじゃの」 「いいえ、このくらい思っていれば、きっと謂いますに違いありません」 「そんな、また、無理を謂う」 「もう、御免くださいまし」  投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。  ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せしが、いまやまた自若となりたり。  侯爵は渋面造りて、 「貴船、こりゃなんでも姫を連れて来て、見せることじゃの、なんぼでも児のかわいさには我折れよう」  伯爵は頷きて、 「これ、綾」 「は」と腰元は振り返る。 「何を、姫を連れて来い」  夫人は堪らず遮りて、 「綾、連れて来んでもいい。なぜ、眠らなけりゃ、療治はできないか」  看護婦は窮したる微笑を含みて、 「お胸を少し切りますので、お動きあそばしちゃあ、危険でございます」 「なに、わたしゃ、じっとしている。動きゃあしないから、切っておくれ」  予はそのあまりの無邪気さに、覚えず森寒を禁じ得ざりき。おそらく今日の切開術は、眼を開きてこれを見るものあらじとぞ思えるをや。  看護婦はまた謂えり。 「それは夫人、いくらなんでもちっとはお痛みあそばしましょうから、爪をお取りあそばすとは違いますよ」  夫人はここにおいてぱっちりと眼を睜けり。気もたしかになりけん、声は凛として、 「刀を取る先生は、高峰様だろうね!」 「はい、外科科長です。いくら高峰様でも痛くなくお切り申すことはできません」 「いいよ、痛かあないよ」 「夫人、あなたの御病気はそんな手軽いのではありません。肉を殺いで、骨を削るのです。ちっとの間御辛抱なさい」  臨検の医博士はいまはじめてかく謂えり。これとうてい関雲長にあらざるよりは、堪えうべきことにあらず。しかるに夫人は驚く色なし。 「そのことは存じております。でもちっともかまいません」 「あんまり大病なんで、どうかしおったと思われる」  と伯爵は愁然たり。侯爵は、かたわらより、 「ともかく、今日はまあ見合わすとしたらどうじゃの。あとでゆっくりと謂い聞かすがよかろう」  伯爵は一議もなく、衆みなこれに同ずるを見て、かの医博士は遮りぬ。 「一時後れては、取り返しがなりません。いったい、あなたがたは病を軽蔑しておらるるから埒あかん。感情をとやかくいうのは姑息です。看護婦ちょっとお押え申せ」  いと厳かなる命のもとに五名の看護婦はバラバラと夫人を囲みて、その手と足とを押えんとせり。渠らは服従をもって責任とす。単に、医師の命をだに奉ずればよし、あえて他の感情を顧みることを要せざるなり。 「綾! 来ておくれ。あれ!」  と夫人は絶え入る呼吸にて、腰元を呼びたまえば、慌てて看護婦を遮りて、 「まあ、ちょっと待ってください。夫人、どうぞ、御堪忍あそばして」と優しき腰元はおろおろ声。  夫人の面は蒼然として、 「どうしても肯きませんか。それじゃ全快っても死んでしまいます。いいからこのままで手術をなさいと申すのに」  と真白く細き手を動かし、かろうじて衣紋を少し寛げつつ、玉のごとき胸部を顕わし、 「さ、殺されても痛かあない。ちっとも動きやしないから、だいじょうぶだよ。切ってもいい」  決然として言い放てる、辞色ともに動かすべからず。さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、 「看護婦、メスを」 「ええ」と看護婦の一人は、目を睜りて猶予えり。一同斉しく愕然として、医学士の面を瞻るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。  医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。  看護婦はおどおどしながら、 「先生、このままでいいんですか」 「ああ、いいだろう」 「じゃあ、お押え申しましょう」  医学士はちょっと手を挙げて、軽く押し留め、 「なに、それにも及ぶまい」  謂う時疾くその手はすでに病者の胸を掻き開けたり。夫人は両手を肩に組みて身動きだもせず。  かかりしとき医学士は、誓うがごとく、深重厳粛たる音調もて、 「夫人、責任を負って手術します」  ときに高峰の風采は一種神聖にして犯すべからざる異様のものにてありしなり。 「どうぞ」と一言答えたる、夫人が蒼白なる両の頬に刷けるがごとき紅を潮しつ。じっと高峰を見詰めたるまま、胸に臨めるナイフにも眼を塞がんとはなさざりき。  と見れば雪の寒紅梅、血汐は胸よりつと流れて、さと白衣を染むるとともに、夫人の顔はもとのごとく、いと蒼白くなりけるが、はたせるかな自若として、足の指をも動かさざりき。  ことのここに及べるまで、医学士の挙動脱兎のごとく神速にしていささか間なく、伯爵夫人の胸を割くや、一同はもとよりかの医博士に到るまで、言を挟むべき寸隙とてもなかりしなるが、ここにおいてか、わななくあり、面を蔽うあり、背向になるあり、あるいは首を低るるあり、予のごとき、われを忘れて、ほとんど心臓まで寒くなりぬ。  三秒にして渠が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、メス骨に達すと覚しきとき、 「あ」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさえもえせずと聞きたる、夫人は俄然器械のごとく、その半身を跳ね起きつつ、刀取れる高峰が右手の腕に両手をしかと取り縋りぬ。 「痛みますか」 「いいえ、あなただから、あなただから」  かく言い懸けて伯爵夫人は、がっくりと仰向きつつ、凄冷極まりなき最後の眼に、国手をじっと瞻りて、 「でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」  謂うとき晩し、高峰が手にせるメスに片手を添えて、乳の下深く掻き切りぬ。医学士は真蒼になりて戦きつつ、 「忘れません」  その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、脣の色変わりたり。  そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。 下  数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に散策しつ。五月五日躑躅の花盛んなりし。渠とともに手を携え、芳草の間を出つ、入りつ、園内の公園なる池を繞りて、咲き揃いたる藤を見つ。  歩を転じてかしこなる躑躅の丘に上らんとて、池に添いつつ歩めるとき、かなたより来たりたる、一群れの観客あり。  一個洋服の扮装にて煙突帽を戴きたる蓄髯の漢前衛して、中に三人の婦人を囲みて、後よりもまた同一様なる漢来れり。渠らは貴族の御者なりし。中なる三人の婦人等は、一様に深張りの涼傘を指し翳して、裾捌きの音いとさやかに、するすると練り来たれる、と行き違いざま高峰は、思わず後を見返りたり。 「見たか」  高峰は頷きぬ。「むむ」  かくて丘に上りて躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。されどただ赤かりしのみ。  かたわらのベンチに腰懸けたる、商人体の壮者あり。 「吉さん、今日はいいことをしたぜなあ」 「そうさね、たまにゃおまえの謂うことを聞くもいいかな、浅草へ行ってここへ来なかったろうもんなら、拝まれるんじゃなかったっけ」 「なにしろ、三人とも揃ってらあ、どれが桃やら桜やらだ」 「一人は丸髷じゃあないか」 「どのみちはや御相談になるんじゃなし、丸髷でも、束髪でも、ないししゃぐまでもなんでもいい」 「ところでと、あのふうじゃあ、ぜひ、高島田とくるところを、銀杏と出たなあどういう気だろう」 「銀杏、合点がいかぬかい」 「ええ、わりい洒落だ」 「なんでも、あなたがたがお忍びで、目立たぬようにという肚だ。ね、それ、まん中の水ぎわが立ってたろう。いま一人が影武者というのだ」 「そこでお召し物はなんと踏んだ」 「藤色と踏んだよ」 「え、藤色とばかりじゃ、本読みが納まらねえぜ。足下のようでもないじゃないか」 「眩くってうなだれたね、おのずと天窓が上がらなかった」 「そこで帯から下へ目をつけたろう」 「ばかをいわっし、もったいない。見しやそれとも分かぬ間だったよ。ああ残り惜しい」 「あのまた、歩行ぶりといったらなかったよ。ただもう、すうっとこう霞に乗って行くようだっけ。裾捌き、褄はずれなんということを、なるほどと見たは今日がはじめてよ。どうもお育ちがらはまた格別違ったもんだ。ありゃもう自然、天然と雲上になったんだな。どうして下界のやつばらが真似ようたってできるものか」 「ひどくいうな」 「ほんのこったがわっしゃそれご存じのとおり、北廓を三年が間、金毘羅様に断ったというもんだ。ところが、なんのこたあない。肌守りを懸けて、夜中に土堤を通ろうじゃあないか。罰のあたらないのが不思議さね。もうもう今日という今日は発心切った。あの醜婦どもどうするものか。見なさい、アレアレちらほらとこうそこいらに、赤いものがちらつくが、どうだ。まるでそら、芥塵か、蛆が蠢めいているように見えるじゃあないか。ばかばかしい」 「これはきびしいね」 「串戯じゃあない。あれ見な、やっぱりそれ、手があって、足で立って、着物も羽織もぞろりとお召しで、おんなじような蝙蝠傘で立ってるところは、憚りながらこれ人間の女だ。しかも女の新造だ。女の新造に違いはないが、今拝んだのと較べて、どうだい。まるでもって、くすぶって、なんといっていいか汚れ切っていらあ。あれでもおんなじ女だっさ、へん、聞いて呆れらい」 「おやおや、どうした大変なことを謂い出したぜ。しかし全くだよ。私もさ、今まではこう、ちょいとした女を見ると、ついそのなんだ。いっしょに歩くおまえにも、ずいぶん迷惑を懸けたっけが、今のを見てからもうもう胸がすっきりした。なんだかせいせいとする、以来女はふっつりだ」 「それじゃあ生涯ありつけまいぜ。源吉とやら、みずからは、とあの姫様が、言いそうもないからね」 「罰があたらあ、あてこともない」 「でも、あなたやあ、ときたらどうする」 「正直なところ、わっしは遁げるよ」 「足下もか」 「え、君は」 「私も遁げるよ」と目を合わせつ。しばらく言途絶えたり。 「高峰、ちっと歩こうか」  予は高峰とともに立ち上がりて、遠くかの壮佼を離れしとき、高峰はさも感じたる面色にて、 「ああ、真の美の人を動かすことあのとおりさ、君はお手のものだ、勉強したまえ」  予は画師たるがゆえに動かされぬ。行くこと数百歩、あの樟の大樹の鬱蓊たる木の下蔭の、やや薄暗きあたりを行く藤色の衣の端を遠くよりちらとぞ見たる。  園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室あらざるべからざる身なるにもかかわらず、家を納むる夫人なく、しかも渠は学生たりし時代より品行いっそう謹厳にてありしなり。予は多くを謂わざるべし。  青山の墓地と、谷中の墓地と所こそは変わりたれ、同一日に前後して相逝けり。  語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くことを得ざるべきか。
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店    1971(昭和46)年4月20日改版初版発行    1979(昭和54)年11月30日改版第14刷発行 入力:今中一時 校正:浜野 智 1998年8月6日作成 2012年10月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000360", "作品名": "外科室", "作品名読み": "げかしつ", "ソート用読み": "けかしつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸倶楽部」1895(明治28)年6月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-08-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card360.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "高野聖", "底本出版社名1": "角川文庫、角川書店", "底本初版発行年1": "1971(昭和46)年4月20日改版初版", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "1979(昭和54)年11月30日改版第14刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "今中一時", "校正者": "浜野智", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/360_ruby_434.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-10-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/360_19397.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-10-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一  愉快いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくっても可いや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行くのは猪だ。  菅笠を目深に被って、※(さんずい+散)に濡れまいと思って向風に俯向いてるから顔も見えない、着ている蓑の裙が引摺って長いから、脚も見えないで歩行いて行く、脊の高さは五尺ばかりあろうかな、猪、としては大なものよ、大方猪ン中の王様があんな三角形の冠を被て、市へ出て来て、そして、私の母様の橋の上を通るのであろう。  トこう思って見ていると愉快い、愉快い、愉快い。  寒い日の朝、雨の降ってる時、私の小さな時分、何日でしたっけ、窓から顔を出して見ていました。 「母様、愉快いものが歩行いて行くよ。」  その時母様は私の手袋を拵えていて下すって、 「そうかい、何が通りました。」 「あのウ猪。」 「そう。」といって笑っていらっしゃる。 「ありゃ猪だねえ、猪の王様だねえ。  母様。だって、大いんだもの、そして三角形の冠を被ていました。そうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしょぬれになって、可哀相だったよ。」  母様は顔をあげて、こっちをお向きで、 「吹込みますから、お前もこっちへおいで、そんなにしていると、衣服が濡れますよ。」 「戸を閉めよう、母様、ね、ここん処の。」 「いいえ、そうしてあけておかないと、お客様が通っても橋銭を置いて行ってくれません。ずるいからね、引籠って誰も見ていないと、そそくさ通抜けてしまいますもの。」  私はその時分は何にも知らないでいたけれども、母様と二人ぐらしは、この橋銭で立って行ったので、一人前いくらかずつ取って渡しました。  橋のあったのは、市を少し離れた処で、堤防に松の木が並んで植っていて、橋の袂に榎が一本、時雨榎とかいうのであった。  この榎の下に、箱のような、小さな、番小屋を建てて、そこに母様と二人で住んでいたので、橋は粗造な、まるで、間に合せといったような拵え方、杭の上へ板を渡して竹を欄干にしたばかりのもので、それでも五人や十人ぐらい一時に渡ったからッて、少し揺れはしようけれど、折れて落ちるような憂慮はないのであった。  ちょうど市の場末に住んでる日傭取、土方、人足、それから、三味線を弾いたり、太鼓を鳴して飴を売ったりする者、越後獅子やら、猿廻やら、附木を売る者だの、唄を謡うものだの、元結よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫の市へ出て行く往帰りには、是非母様の橋を通らなければならないので、百人と二百人ずつ朝晩賑かな人通りがある。  それからまた向うから渡って来て、この橋を越して場末の穢い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処は梅林で、上の山が桜の名所で、その下に桃谷というのがあって、谷間の小流には、菖蒲、燕子花が一杯咲く。頬白、山雀、雲雀などが、ばらばらになって唄っているから、綺麗な着物を着た間屋の女だの、金満家の隠居だの、瓢を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある。それは春のことで。夏になると納涼だといって人が出る。秋は蕈狩に出懸けて来る、遊山をするのが、皆内の橋を通らねばならない。  この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通って、私の顔を見たから、丁寧にお辞儀をすると、おや、といったきりで、橋銭を置かないで行ってしまった。 「ねえ、母様、先生もずるい人なんかねえ。」  と窓から顔を引込ませた。        二 「お心易立なんでしょう、でもずるいんだよ。よっぽどそういおうかと思ったけれど、先生だというから、また、そんなことで悪く取って、お前が憎まれでもしちゃなるまいと思って、黙っていました。」  といいいい母様は縫っていらっしゃる。  お膝の上に落ちていた、一ツの方の手袋の、恰好が出来たのを、私は手に取って、掌にあててみたり、甲の上へ乗ッけてみたり、 「母様、先生はね、それでなくっても僕のことを可愛がっちゃあ下さらないの。」  と訴えるようにいいました。  こういった時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいっても、快く返事をおしでなかったり、拗ねたような、けんどんなような、おもしろくない言をおかけであるのを、いつでも情ないと思い思いしていたのを考え出して、少し鬱いで来て俯向いた。 「なぜさ。」  何、そういう様子の見えるのは、つい四五日前からで、その前にはちっともこんなことはありはしなかった。帰って母様にそういって、なぜだか聞いてみようと思ったんだ。  けれど、番小屋へ入ると直飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちゃあ横になって、母様の気高い美しい、頼母しい、穏当な、そして少し痩せておいでの、髪を束ねてしっとりしていらっしゃる顔を見て、何か談話をしいしい、ぱっちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか、そのまんまで寝てしまって、眼がさめると、また直支度を済して、学校へ行くんだもの。そんなこといってる隙がなかったのが、雨で閉籠って、淋しいので思い出した、ついでだから聞いたので。 「なぜだって、何なの、この間ねえ、先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだって、そういつたの。母様、違ってるわねえ。」 「むむ。」 「ねッ違ってるワ、母様。」  と揉くちゃにしたので、吃驚して、ぴったり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺が寄ったから、引張って、 「だから僕、そういったんだ、いいえ、あの、先生、そうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も、皆おんなじ動物だって。」 「何とおっしゃったね。」 「馬鹿なことをおっしゃいって。」 「そうでしょう。それから、」 「それから、(だって、犬や、猫が、口を利きますか、ものをいいますか)ッて、そういうの。いいます。雀だってチッチッチッチッて、母様と、父様と、児と朋達と皆で、お談話をしてるじゃあありませんか。僕眠い時、うっとりしてる時なんぞは、耳ン処に来て、チッチッチて、何かいって聞かせますのッてそういうとね、(詰らない、そりゃ囀るんです。ものをいうのじゃあなくッて囀るの、だから何をいうんだか分りますまい)ッて聞いたよ。僕ね、あのウだってもね、先生、人だって、大勢で、皆が体操場で、てんでに何かいってるのを遠くン処で聞いていると、何をいってるのかちっとも分らないで、ざあざあッて流れてる川の音とおんなしで、僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟漕いで行くのが何だか唄って行くけれど、何をいうんだかやっぱり鳥が声を大きくして長く引ぱって鳴いてるのと違いませんもの。ずッと川下の方で、ほうほうッて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だって、四十雀だって、軒だの、榎だのに留ってないで、僕と一所に坐って話したら皆分るんだけれど、離れてるから聞えませんの。だって、ソッとそばへ行って、僕、お談話しようと思うと、皆立っていってしまいますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますッて。小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだって、母様が僕、あかさんであった時分からいいました。犬も猫も人間もおんなじだって。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。」        三  母様は莞爾なすって、 「ああ、それで何かい、先生が腹をお立ちのかい。」  そればかりではなかった、私の児心にも、アレ先生が嫌な顔をしたな、トこう思って取ったのは、まだモ少し種々なことをいいあってから、それから後の事で。  はじめは先生も笑いながら、ま、あなたがそう思っているのなら、しばらくそうしておきましょう。けれども人間には智慧というものがあって、これには他の鳥だの、獣だのという動物が企て及ばないということを、私が河岸に住まっているからって、例をあげておさとしであつた。  釣をする、網を打つ、鳥をさす、皆人の智慧で、何も知らない、分らないから、つられて、刺されて、たべられてしまうのだトこういうことだった。そんなことは私聞かないで知っている、朝晩見ているもの。  橋を挟んで、川を遡ったり、流れたりして、流網をかけて魚を取るのが、川ン中に手拱かいて、ぶるぶるふるえて突立ってるうちは、顔のある人間だけれど、そらといって水に潜ると、逆になって、水潜をしいしい五分間ばかりも泳いでいる、足ばかりが見える。その足の恰好の悪さといったらない。うつくしい、金魚の泳いでる尾鰭の姿や、ぴらぴらと水銀色を輝かして跳ねてあがる鮎なんぞの立派さにはまるでくらべものになるのじゃあない。そうしてあんな、水浸になって、大川の中から足を出してる、こんな人間がありますものか。で、人間だと思うとおかしいけれど、川ン中から足が生えたのだと、そう思って見ているとおもしろくッて、ちっとも嫌なことはないので、つまらない観世物を見に行くより、ずっとまし、なのだって、母様がそうお謂いだから、私はそう思っていますもの。  それから、釣をしてますのは、ね、先生、とまたその時先生にそういいました。あれは人間じゃあない、蕈なんで、御覧なさい。片手懐って、ぬうと立って、笠を被ってる姿というものは、堤防の上に一本占治茸が生えたのに違いません。  夕方になって、ひょろ長い影がさして、薄暗い鼠色の立姿にでもなると、ますます占治茸で、ずっと遠い遠い処まで一ならびに、十人も三十人も、小さいのだの、大きいのだの、短いのだの、長いのだの、一番橋手前のを頭にして、さかり時は毎日五六十本も出来るので、またあっちこっちに五六人ずつも一団になってるのは、千本しめじッて、くさくさに生えている、それは小さいのだ。木だの、草だのだと、風が吹くと動くんだけれど、蕈だから、あの、蕈だからゆっさりとしもしませぬ。これが智慧があって釣をする人間で、ちっとも動かない。その間に魚は皆で悠々と泳いであるいていますわ。  また智慧があるっても、口を利かれないから鳥とくらべッこすりゃ、五分々々のがある、それは鳥さしで。  過日見たことがありました。  余所のおじさんの鳥さしが来て、私ン処の橋の詰で、榎の下で立留まって、六本めの枝のさきに可愛い頬白が居たのを、棹でもってねらったから、あらあらッてそういったら、叱ッ、黙って、黙って。恐い顔をして私を睨めたから、あとじさりをして、そッと見ていると、呼吸もしないで、じっとして、石のように黙ってしまって、こう据身になって、中空を貫くように、じりっと棹をのばして、覗ってるのに、頬白は何にも知らないで、チ、チ、チッチッてッて、おもしろそうに、何かいってしゃべっていました。それをとうとう突いてさして取ると、棹のさきで、くるくると舞って、まだ烈しく声を出して鳴いてるのに、智慧のある小父さんの鳥さしは、黙って、鰌掴にして、腰の袋ン中へ捻り込んで、それでもまだ黙って、ものもいわないで、のっそり去っちまったことがあったんで。        四  頬白は智慧のある鳥さしにとられたけれど、囀ってましたもの。ものをいっていましたもの。おじさんは黙りで、傍に見ていた私までものを言うことが出来なかったんだもの。何もくらべっこして、どっちがえらいとも分りはしないって。  何でもそんなことをいったんで、ほんとうに私そう思っていましたから。  でも、それを先生が怒ったんではなかったらしい。  で、まだまだいろんなことをいって、人間が、鳥や獣よりえらいものだとそういっておさとしであったけれど、海ン中だの、山奥だの、私の知らない、分らない処のことばかり譬に引いていうんだから、口答は出来なかったけれど、ちっともなるほどと思われるようなことはなかった。  だって、私、母様のおっしゃること、虚言だと思いませんもの。私の母様がうそをいって聞かせますものか。  先生は同一組の小児達を三十人も四十人も一人で可愛がろうとするんだし、母様は私一人可愛いんだから、どうして、先生のいうことは私を欺すんでも、母様がいってお聞かせのは、決して違ったことではない、トそう思ってるのに、先生のは、まるで母様のと違ったこというんだから心服はされないじゃありませんか。  私が頷かないので、先生がまた、それでは、皆あなたの思ってる通りにしておきましょう。けれども木だの、草だのよりも、人間が立ち優った、立派なものであるということは、いかな、あなたにでも分りましょう、まずそれを基礎にして、お談話をしようからって、聞きました。  分らない、私そうは思わなかった。 「あのウ母様(だって、先生、先生より花の方がうつくしゅうございます)ッてそう謂つたの。僕、ほんとうにそう思ったの、お庭にね、ちょうど菊の花の咲いてるのが見えたから。」  先生は束髪に結った、色の黒い、なりの低い巌乗な、でくでく肥った婦人の方で、私がそういうと顔を赤うした。それから急にツッケンドンなものいいおしだから、大方それが腹をお立ちの原因であろうと思う。 「母様、それで怒ったの、そうなの。」  母様は合点々々をなすって、 「おお、そんなことを坊や、お前いいましたか。そりゃお道理だ。」  といって笑顔をなすったが、これは私の悪戯をして、母様のおっしゃること肯かない時、ちっとも叱らないで、恐い顔しないで、莞爾笑ってお見せの、それとかわらなかった。  そうだ。先生の怒ったのはそれに違いない。 「だって、虚言をいっちゃあなりませんって、そういつでも先生はいう癖になあ。ほんとうに僕、花の方がきれいだと思うもの。ね、母様、あのお邸の坊ちゃんの、青だの、紫だの交った、着物より、花の方がうつくしいって、そういうのね。だもの、先生なんざ。」 「あれ、だってもね、そんなこと人の前でいうのではありません。お前と、母様のほかには、こんないいこと知ってるものはないのだから。分らない人にそんなこというと、怒られますよ。ただ、ねえ、そう思っていれば可のだから、いってはなりませんよ。可いかい。そして先生が腹を立ってお憎みだって、そういうけれど、何そんなことがありますものか。それは皆お前がそう思うからで、あの、雀だって餌を与って、拾ってるのを見て、嬉しそうだと思えば嬉しそうだし、頬白がおじさんにさされた時悲しい声と思って見れば、ひいひいいって鳴いたように聞えたじゃないか。  それでも先生が恐い顔をしておいでなら、そんなものは見ていないで、今お前がいった、そのうつくしい菊の花を見ていたら可いでしょう。ね、そして何かい、学校のお庭に咲いてるのかい。」 「ああ沢山。」 「じゃあその菊を見ようと思って学校へおいで。花はね、ものをいわないから耳に聞えないでも、そのかわり眼にはうつくしいよ。」  モひとつ不平なのはお天気の悪いことで、戸外には、なかなか雨がやみそうにもない。        五  また顔を出して窓から川を見た。さっきは雨脚が繁くって、まるで、薄墨で刷いたよう、堤防だの、石垣だの、蛇籠だの、中洲に草の生えた処だのが、点々、あちらこちらに黒ずんでいて、それで湿っぽくって、暗かったから見えなかったが、少し晴れて来たから、ものの濡れたのが皆見える。  遠くの方に堤防の下の石垣の中ほどに、置物のようになって、畏って、猿が居る。  この猿は、誰が持主というのでもない。細引の麻縄で棒杭に結えつけてあるので、あの、湿地茸が、腰弁当の握飯を半分与ったり、坊ちゃんだの、乳母だのが、袂の菓子を分けて与ったり、紅い着物を着ている、みいちゃんの紅雀だの、青い羽織を着ている吉公の目白だの、それからお邸のかなりやの姫様なんぞが、皆で、からかいに行っては、花を持たせる、手拭を被せる、水鉄砲を浴せるという、好きな玩弄物にして、そのかわり何でもたべるものを分けてやるので、誰といって、きまって世話をする、飼主はないのだけれど、猿の餓えることはありはしなかった。  時々悪戯をして、その紅雀の天窓の毛を挘ったり、かなりやを引掻いたりすることがあるので、あの猿松が居ては、うっかり可愛らしい小鳥を手放にして戸外へ出してはおけない、誰か見張ってでもいないと、危険だからって、ちょいちょい縄を解いて放してやったことが幾度もあった。  放すが疾いか、猿は方々を駈ずり廻って勝手放題な道楽をする。夜中に月が明い時、寺の門を叩いたこともあったそうだし、人の庖厨へ忍び込んで、鍋の大いのと飯櫃を大屋根へ持って、あがって、手掴で食べたこともあったそうだし、ひらひらと青いなかから紅い切のこぼれている、うつくしい鳥の袂を引張って、遥に見える山を指して気絶さしたこともあったそうなり、私の覚えてからも一度誰かが、縄を切ってやったことがあった。その時はこの時雨榎の枝の両股になってる処に、仰向に寝転んでいて、烏の脛を捕えた。それから畚に入れてある、あのしめじ蕈が釣った、沙魚をぶちまけて、散々悪巫山戯をした挙句が、橋の詰の浮世床のおじさんに掴まって、額の毛を真四角に鋏まれた、それで堪忍をして追放したんだそうだのに、夜が明けて見ると、また平時の処に棒杭にちゃんと結えてあッた。蛇籠の上の、石垣の中ほどで、上の堤防には柳の切株がある処。  またはじまった、この通りに猿をつかまえてここへ縛っとくのは誰だろう誰だろうッて一しきり騒いだのを私は知っている。  で、この猿には出処がある。  それは母様が御存じで、私にお話しなすった。  八九年前のこと、私がまだ母様のお腹ん中に小さくなっていた時分なんで、正月、春のはじめのことであった。  今はただ広い世の中に母様と、やがて、私のものといったら、この番小屋と仮橋の他にはないが、その時分はこの橋ほどのものは、邸の庭の中の一ツの眺望に過ぎないのであったそうで。今、市の人が春、夏、秋、冬、遊山に来る、桜山も、桃谷も、あの梅林も、菖蒲の池も皆父様ので、頬白だの、目白だの、山雀だのが、この窓から堤防の岸や、柳の下や、蛇籠の上に居るのが見える、その身体の色ばかりがそれである、小鳥ではない、ほんとうの可愛らしい、うつくしいのがちょうどこんな工合に朱塗の欄干のついた二階の窓から見えたそうで。今日はまだお言いでないが、こういう雨の降って淋しい時なぞは、その時分のことをいつでもいってお聞かせだ。        六  今ではそんな楽しい、うつくしい、花園がないかわり、前に橋銭を受取る笊の置いてある、この小さな窓から風がわりな猪だの、希代な蕈だの、不思議な猿だの、まだその他に人の顔をした鳥だの、獣だのが、いくらでも見えるから、ちっとは思出になるといっちゃあ、アノ笑顔をおしなので、私もそう思って見るせいか、人があるいて行く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のようでおもしろい。人の笑うのを見ると獣が大きな赤い口をあけたよと思っておもしろい。みいちゃんがものをいうと、おや小鳥が囀るかとそう思っておかしいのだ。で、何でも、おもしろくッて、おかしくッて、吹出さずには居られない。  だけれど今しがたも母様がおいいの通り、こんないいことを知ってるのは、母様と私ばかりで、どうして、みいちゃんだの、吉公だの、それから学校の女の先生なんぞに教えたって分るものか。  人に踏まれたり、蹴られたり、後足で砂をかけられたり、苛められて責まれて、煮湯を飲ませられて、砂を浴せられて、鞭うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰にされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、蓄生め、獣めと始終そう思って、五年も八年も経たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではないんだそうで、お亡んなすった、父様とこの母様とが聞いても身震がするような、そういう酷いめに、苦しい、痛い、苦しい、辛い、惨酷なめに逢って、そうしてようようお分りになったのを、すっかり私に教えて下すったので、私はただ母ちゃん母ちゃんてッて母様の肩をつかまえたり、膝にのっかったり、針箱の引出を交ぜかえしたり、物さしをまわしてみたり、裁縫の衣服を天窓から被ってみたり、叱られて遁げ出したりしていて、それでちゃんと教えて頂いて、それをば覚えて分ってから、何でも、鳥だの、獣だの、草だの、木だの、虫だの、蕈だのに人が見えるのだから、こんなおもしろい、結構なことはない。しかし私にこういういいことを教えて下すった母様は、とそう思う時は鬱ぎました。これはちっともおもしろくなくって悲しかった、勿体ない、とそう思った。  だって母様がおろそかに聞いてはなりません。私がそれほどの思をしてようようお前に教えらるるようになったんだから、うかつに聞いていては罰があたります。人間も、鳥獣も草木も、昆虫類も、皆形こそ変っていてもおんなじほどのものだということを。  とこうおっしゃるんだから。私はいつも手をついて聞きました。  で、はじめの内はどうしても人が、鳥や、獣とは思われないで、優しくされれば嬉しかった、叱られると恐かった、泣いてると可哀相だった、そしていろんなことを思った。そのたびにそういって母様にきいてみると何、皆鳥が囀ってるんだの、犬が吠えるんだの、あの、猿が歯を剥くんだの、木が身ぶるいをするんだのとちっとも違ったことはないって、そうおっしゃるけれど、やっぱりそうばかりは思われないで、いじめられて泣いたり、撫でられて嬉しかったりしいしいしたのを、その都度母様に教えられて、今じゃあモウ何とも思っていない。  そしてまだああ濡れては寒いだろう、冷たいだろうと、さきのように雨に濡れてびしょびしょ行くのを見ると気の毒だったり、釣をしている人がおもしろそうだとそう思ったりなんぞしたのが、この節じゃもう、ただ、変な蕈だ、妙な猪だと、おかしいばかりである、おもしろいばかりである、つまらないばかりである、見ッともないばかりである、馬鹿々々しいばかりである、それからみいちゃんのようなのは可愛らしいのである、吉公のようなのはうつくしいのである、けれどもそれは紅雀がうつくしいのと、目白が可愛らしいのとちっとも違いはせぬので、うつくしい、可愛らしい。うつくしい、可愛らしい。        七  また憎らしいのがある、腹立たしいのも他にあるけれども、それも一場合に猿が憎らしかったり、鳥が腹立たしかったりするのとかわりは無いので。詮ずれば皆おかしいばかり、やっぱり噴飯材料なんで、別に取留めたことがありはしなかった。  で、つまり情を動かされて、悲む、愁うる、楽む、喜ぶなどいうことは、時に因り場合においての母様ばかりなので。余所のものはどうであろうとちっとも心には懸けないように日ましにそうなって来た。しかしこういう心になるまでには、私を教えるために、毎日、毎晩、見る者、聞くものについて、母様がどんなに苦労をなすって、丁寧に深切に、飽かないで、熱心に、懇に噛んで含めるようになすったかも知れはしない。だもの、どうして学校の先生をはじめ、余所のものが少々ぐらいのことで、分るものか、誰だって分りやしません。  ところが、母様と私とのほか知らないことを、モ一人他に知ってるものがあるそうで、始終母様がいってお聞かせの、それはあすこに置物のように畏っている、あの猿――あの猿の旧の飼主であった――老父さんの猿廻だといいます。  さっき私がいった、猿に出処があるというのはこのことで。  まだ私が母様のお腹に居た時分だッて、そういいましたっけ。  初卯の日、母様が腰元を二人連れて、市の卯辰の方の天神様へお参んなすって、晩方帰っていらっしゃった。ちょうど川向うの、いま猿の居る処で、堤防の上のあの柳の切株に腰をかけて猿のひかえ綱を握ったなり、俯向いて、小さくなって、肩で呼吸をしていたのがその猿廻のじいさんであった。  大方今の紅雀のその姉さんだの、頬白のその兄さんだのであったろうと思われる。男だの、女だの、七八人寄って、たかって、猿にからかって、きゃあきゃあいわせて、わあわあ笑って、手を拍って、喝采して、おもしろがって、おかしがって、散々慰んで、そら菓子をやるワ、蜜柑を投げろ、餅をたべさすわって、皆でどっさり猿に御馳走をして、暗くなるとどやどやいっちまったんだ。で、じいさんをいたわってやったものは、ただの一人もなかったといいます。  あわれだとお思いなすって、母様がお銭を恵んで、肩掛を着せておやんなすったら、じいさん涙を落して拝んで喜びましたって、そうして、 (ああ、奥様、私は獣になりとうございます。あいら、皆畜生で、この猿めが夥間でござりましょう。それで、手前達の同類にものをくわせながら、人間一疋の私には目を懸けぬのでござります。)とそういってあたりを睨んだ、恐らくこのじいさんなら分るであろう、いや、分るまでもない、人が獣であることをいわないでも知っていようと、そういって、母様がお聞かせなすった。  うまいこと知ってるな、じいさん。じいさんと母様と私と三人だ。その時じいさんがそのまんまで控綱をそこン処の棒杭に縛りッ放しにして猿をうっちゃって行こうとしたので、供の女中が口を出して、どうするつもりだって聞いた。母様もまた傍からまあ棄児にしては可哀相でないかッて、お聞きなすったら、じいさんにやにやと笑ったそうで、 (はい、いえ、大丈夫でござります。人間をこうやっといたら、餓えも凍えもしようけれど、獣でござりますから今に長い目で御覧じまし、此奴はもう決してひもじい目に逢うことはござりませぬから。)  とそういって、かさねがさね恩を謝して、分れてどこへか行っちまいましたッて。  果して猿は餓えないでいる。もう今ではよっぽどの年紀であろう。すりゃ、猿のじいさんだ。道理で、功を経た、ものの分ったような、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をしているんだ。見える見える、雨の中にちょこなんと坐っているのが手に取るように窓から見えるワ。        八  朝晩見馴れて珍しくもない猿だけれど、いまこんなこと考え出して、いろんなこと思って見ると、また殊にものなつかしい。あのおかしな顔早くいって見たいなと、そう思って、窓に手をついてのびあがって、ずっと肩まで出すと※(さんずい+散)がかかって、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫でた。  その時仮橋ががたがたいって、川面の小糠雨を掬うように吹き乱すと、流が黒くなって颯と出た。といっしょに向岸から橋を渡って来る、洋服を着た男がある。  橋板がまた、がッたりがッたりいって、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦をはずして、胸を開けて、けばけばしゅう襟飾を出した、でっぷり紳士で、胸が小さくッて、下腹の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、それは寒いからだ。そして大跨に、その逞い靴を片足ずつ、やりちがえにあげちゃあ歩行いて来る。靴の裏の赤いのがぽっかり、ぽっかりと一ツずつこっちから見えるけれど、自分じゃあ、その爪さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は、臍から下、膝から上は見たことがないのだとそういいます。あら! あら! 短服に靴を穿いたものが転がって来るぜと、思って、じっと見ていると、橋のまんなかあたりへ来て鼻目金をはずした、※(さんずい+散)がかかって曇ったと見える。  で、衣兜から手巾を出して、拭きにかかったが、蝙蝠傘を片手に持っていたから手を空けようとして咽喉と肩のあいだへ柄を挟んで、うつむいて、珠を拭いかけた。  これは今までに幾度も私見たことのある人で、何でも小児の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といって五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立って見るが、どこに因らず、場所は限らない。すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交っていないということはなかった。  見る時にいつも傍の人を誰かしらつかまえて、尻上りの、すました調子で、何かものをいっていなかったことはほとんど無い。それに人から聞いていたことはかつてないので、いつでも自分で聞かせている。が、聞くものがなければ独で、むむ、ふむ、といったような、承知したようなことを独言のようでなく、聞かせるようにいってる人で。母様も御存じで、あれは博士ぶりというのであるとおっしゃった。  けれども鰤ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といったら、まるで、鮟鱇に肖ているので、私は蔭じゃあ鮟鱇博士とそういいますワ。この間も学校へ参観に来たことがある。その時も今被っている、高い帽子を持っていたが、何だってまたあんな度はずれの帽子を着たがるんだろう。  だって、目金を拭こうとして、蝙蝠傘を頤で押えて、うつむいたと思うと、ほら、ほら、帽子が傾いて、重量で沈み出して、見てるうちにすっぽり、赤い鼻の上へ被さるんだもの。目金をはずした上へ帽子がかぶさって、眼が見えなくなったんだから驚いた、顔中帽子、ただ口ばかりが、その口を赤くあけて、あわてて、顔をふりあげて帽子を揺りあげようとしたから蝙蝠傘がばったり落ちた。落こちると勢よく三ツばかりくるくると舞った間に、鮟鱇博士は五ツばかりおまわりをして、手をのばすと、ひょいと横なぐれに風を受けて、斜めに飛んで、遥か川下の方へ憎らしく落着いた風でゆったりしてふわりと落ちると、たちまち矢のごとくに流れ出した。  博士は片手で目金を持って、片手を帽子にかけたまま、烈しく、急に、ほとんど数える隙がないほど靴のうらで虚空を踏んだ、橋ががたがたと動いて鳴った。 「母様、母様、母様。」  と私は足ぶみした。 「あい。」としずかに、おいいなすったのが背後に聞える。  窓から見たまま振向きもしないで、急込んで、 「あらあら流れるよ。」 「鳥かい、獣かい。」と極めて平気でいらっしゃる。 「蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなったい、ほら、ね、流れッちまいました。」 「蝙蝠ですと。」 「ああ、落ッことしたの、可哀相に。」  と思わず歎息をして呟いた。  母様は笑を含んだお声でもって、 「廉や、それはね、雨が晴れるしらせなんだよ。」  この時猿が動いた。        九  一廻くるりと環にまわって、前足をついて、棒杭の上へ乗って、お天気を見るのであろう、仰向いて空を見た。晴れるといまに行くよ。  母様は嘘をおっしゃらない。  博士は頻に指ししていたが、口が利けないらしかった。で、一散に駈けて来て、黙って小屋の前を通ろうとする。 「おじさんおじさん。」  と厳しく呼んでやった。追懸けて、 「橋銭を置いていらっしゃい、おじさん。」  とそういった。 「何だ!」  一通の声ではない。さっきから口が利けないで、あのふくれた腹に一杯固くなるほど詰め込み詰め込みしておいた声を、紙鉄砲ぶつようにはじきだしたものらしい。  で、赤い鼻をうつむけて、額越に睨みつけた。 「何か。」と今度は鷹揚である。  私は返事をしませんかった。それは驚いたわけではない、恐かったわけではない。鮟鱇にしては少し顔がそぐわないから何にしよう、何に肖ているだろう、この赤い鼻の高いのに、さきの方が少し垂れさがって、上唇におっかぶさってる工合といったらない、魚より獣よりむしろ鳥の嘴によく肖ている。雀か、山雀か、そうでもない。それでもないト考えて七面鳥に思いあたった時、なまぬるい音調で、 「馬鹿め。」  といいすてにして、沈んで来る帽子をゆりあげて行こうとする。 「あなた。」とおっかさんが屹とした声でおっしゃって、お膝の上の糸屑を、細い、白い、指のさきで二ツ三ツはじき落して、すっと出て窓の処へお立ちなすった。 「渡をお置きなさらんではいけません。」 「え、え、え。」  といったがじれったそうに、 「俺は何じゃが、うう、知らんのか。」 「誰です、あなたは。」と冷かで、私こんなのを聞くとすっきりする。眼のさきに見える気にくわないものに、水をぶっかけて、天窓から洗っておやんなさるので、いつでもこうだ、極めていい。  鮟鱇は腹をぶくぶくさして、肩をゆすったが、衣兜から名刺を出して、笊のなかへまっすぐに恭しく置いて、 「こういうものじゃ、これじゃ、俺じゃ。」  といって肩書の処を指した、恐しくみじかい指で、黄金の指環の太いのをはめている。  手にも取らないで、口のなかに低声におよみなすったのが、市内衛生会委員、教育談話会幹事、生命保険会社社員、一六会会長、美術奨励会理事、大野喜太郎。 「この方ですか。」 「うう。」といった時ふっくりした鼻のさきがふらふらして、手で、胸にかけた何だか徽章をはじいたあとで、 「分ったかね。」  こんどはやさしい声でそういったまままた行きそうにする。 「いけません。お払でなきゃアあとへお帰んなさい。」とおっしゃった。  先生妙な顔をしてぼんやり立ってたが少しむきになって、 「ええ、こ、細いのがないんじゃから。」 「おつりを差上げましょう。」  おっかさんは帯のあいだへ手をお入れ遊ばした。        十  母様はうそをおっしゃらない。博士が橋銭をおいて遁げて行くと、しばらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆雨にぬれて、黒くなって、あかるい日中へ出た。榎の枝からは時々はらはらと雫が落ちる。中流へ太陽がさして、みつめているとまばゆいばかり。 「母様遊びに行こうや。」  この時鋏をお取んなすって、 「ああ。」 「ねえ、出かけたって可いの、晴れたんだもの。」 「可いけれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかってはなりませんよ。そう可い塩梅にうつくしい羽の生えた姉さんがいつでもいるんじゃあありません。また落っこちようもんなら。」  ちょいと見向いて、清い眼で御覧なすって、莞爾してお俯向きで、せっせと縫っていらっしゃる。  そう、そう! そうだった。ほら、あの、いま頬っぺたを掻いて、むくむく濡れた毛からいきりをたてて日向ぼっこをしている、憎らしいッたらない。  いまじゃあもう半年も経ったろう。暑さの取着の晩方頃で、いつものように遊びに行って、人が天窓を撫でてやったものを、業畜、悪巫山戯をして、キッキッと歯を剥いて、引掻きそうな剣幕をするから、吃驚して飛退こうとすると、前足でつかまえた、放さないから力を入れて引張り合った奮みであった。左の袂がびりびりと裂けて断れて取れた、はずみをくって、踏占めた足がちょうど雨上りだったから、堪りはしない。石の上へ辷って、ずるずると川へ落ちた。わっといった顔へ一波かぶって、呼吸をひいて仰向けに沈んだから、面くらって立とうとすると、また倒れて、眼がくらんで、アッとまたいきをひいて、苦しいので手をもがいて身体を動かすとただどぶんどぶんと沈んで行く。情ないと思ったら、内に母様の坐っていらっしゃる姿が見えたので、また勢づいたけれど、やっぱりどぶんどぶんと沈むから、どうするのかなと落着いて考えたように思う。それから何のことだろうと考えたようにも思われる。今に眼が覚めるのであろうと思ったようでもある、何だかぼんやりしたが俄に水ん中だと思って叫ぼうとすると水をのんだ。もう駄目だ。  もういかんとあきらめるトタンに胸が痛かった、それから悠々と水を吸った、するとうっとりして何だか分らなくなったと思うと、※(火+發)と糸のような真赤な光線がさして、一幅あかるくなったなかにこの身体が包まれたので、ほっといきをつくと、山の端が遠く見えて、私のからだは地を放れて、その頂より上の処に冷いものに抱えられていたようで、大きなうつくしい目が、濡髪をかぶって私の頬ん処へくっついたから、ただ縋り着いてじっとして眼を眠った覚がある。夢ではない。  やっぱり片袖なかったもの。そして川へ落こちて溺れそうだったのを救われたんだって、母様のお膝に抱かれていて、その晩聞いたんだもの。  だから夢ではない。  一体助けてくれたのは誰ですッて、母様に問うた。私がものを聞いて、返事に躊躇をなすったのはこの時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、山雀だとか、鮟鱇だとか、鯖だとか、蛆だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、松蕈だとか、湿地茸だとかおいいでなかったのもこの時ばかりで、そして顔の色をおかえなすったのもこの時ばかりで、それに小さな声でおっしゃったのもこの時ばかりだ。  そして母様はこうおいいであった。 (廉や、それはね、大きな五色の翼があって天上に遊んでいるうつくしい姉さんだよ。)        十一 (鳥なの、母様。)とそういってその時私が聴いた。  これにも母様は少し口籠っておいでであったが、 (鳥じゃあないよ、翼の生えた美しい姉さんだよ。)  どうしても分らんかった。うるさくいったら、しまいにゃ、お前には分らない、とそうおいいであったのを、また推返して聴いたら、やっぱり、 (翼の生えたうつくしい姉さんだってば。)  それで仕方がないからきくのはよして、見ようと思った。そのうつくしい翼のはえたもの見たくなって、どこに居ます〳〵ッて、せッついても、知らないと、そういってばかりおいでであったが、毎日々々あまりしつこかったもんだから、とうとう余儀なさそうなお顔色で、 (鳥屋の前にでもいって見て来るが可い。)  そんならわけはない。  小屋を出て二町ばかり行くと、直ぐ坂があって、坂の下口に一軒鳥屋があるので、樹蔭も何にもない、お天気のいい時あかるいあかるい小さな店で、町家の軒ならびにあった。鸚鵡なんざ、くるッとした、露のたりそうな、小さな眼で、あれで瞳が動きますよ。毎日々々行っちゃあ立っていたので、しまいにゃあ見知顔で私の顔を見て頷くようでしたっけ、でもそれじゃあない。  駒鳥はね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがって、ひょいと逆に腹を見せて熟柿の落こちるようにぼたりとおりて、餌をつついて、私をばかまいつけない、ちっとも気に懸けてくれようとはしなかった、それでもない。皆違ってる。翼の生えたうつくしい姉さんは居ないのッて、一所に立った人をつかまえちゃあ、聞いたけれど、笑うものやら、嘲けるものやら、聞かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿だというものやら、番小屋の媽々に似て此奴もどうかしていらあ、というものやら。皆獣だ。 (翼の生えたうつくしい姉さんは居ないの。)ッて聞いた時、莞爾笑って両方から左右の手でおうように私の天窓を撫でて行った、それは一様に緋羅紗のずぼんを穿いた二人の騎兵で――聞いた時――莞爾笑って、両方から左右の手で、おうように私の天窓をなでて、そして手を引あって黙って坂をのぼって行った。長靴の音がぽっくりして、銀の剣の長いのがまっすぐに二ツならんで輝いて見えた。そればかりで、あとは皆馬鹿にした。  五日ばかり学校から帰っちゃあその足で鳥屋の店へ行って、じっと立って、奥の方の暗い棚ん中で、コトコトと音をさしているその鳥まで見覚えたけれど、翼の生えた姉さんは居ないので、ぼんやりして、ぼッとして、ほんとうに少し馬鹿になったような気がしいしい、日が暮れると帰り帰りした。で、とても鳥屋には居ないものとあきらめたが、どうしても見たくッてならないので、また母様にねだって聞いた。どこに居るの、翼の生えたうつくしい人はどこに居るのッて。何とおいいでも肯分けないものだから母様が、 (それでは林へでも、裏の田圃へでも行って、見ておいで。なぜッて、天上に遊んでいるんだから、籠の中に居ないのかも知れないよ。)  それから私、あの、梅林のある処に参りました。  あの桜山と、桃谷と、菖蒲の池とある処で。  しかし、それはただ青葉ばかりで、菖蒲の短いのがむらがってて、水の色の黒い時分、ここへも二日、三日続けて行きましたっけ、小鳥は見つからなかった。烏が沢山居た。あれが、かあかあ鳴いて一しきりして静まるとその姿の見えなくなるのは、大方その翼で、日の光をかくしてしまうのでしょう。大きな翼だ、まことに大い翼だ、けれどもそれではない。        十二  日が暮れかかると、あっちに一ならび、こっちに一ならび、横縦になって、梅の樹が飛々に暗くなる。枝々のなかの水田の水がどんよりして淀んでいるのに際立って真白に見えるのは鷺だった、二羽一ところに、ト三羽一ところに、ト居て、そして一羽が六尺ばかり空へ斜に足から糸のように水を引いて立ってあがったが音がなかった、それでもない。  蛙が一斉に鳴きはじめる。森が暗くなって、山が見えなくなった。  宵月の頃だったのに、曇ってたので、星も見えないで、陰々として一面にものの色が灰のようにうるんでいた、蛙がしきりになく。  仰いで高い処に、朱の欄干のついた窓があって、そこが母様のうちだったと聞く。仰いで高い処に、朱の欄干のついた窓があって、そこから顔を出す、その顔が自分の顔であったんだろうにトそう思いながら破れた垣の穴ん処に腰をかけてぼんやりしていた。  いつでもあの翼の生えたうつくしい人をたずねあぐむ、その昼のうち精神の疲労ないうちは可いんだけれど、度が過ぎて、そんなに晩くなると、いつも、こう滅入ってしまって、何だか、人に離れたような、世間に遠ざかったような気がするので、心細くもあり、うら悲しくもあり、覚束ないようでもあり、恐しいようでもある。嫌な心持だ、嫌な心持だ。  早く帰ろうとしたけれど、気が重くなって、その癖神経は鋭くなって、それでいてひとりでにあくびが出た。あれ!  赤い口をあいたんだなと、自分でそうおもって、吃驚した。  ぼんやりした梅の枝が手をのばして立ってるようだ。あたりを眗すと真暗で、遠くの方で、ほう、ほうッて、呼ぶのは何だろう。冴えた通る声で野末を押ひろげるように、鳴く、トントントントンと谺にあたるような響きが遠くから来るように聞える鳥の声は、梟であった。  一ツでない。  二ツも三ツも。私に何を談すのだろう、私に何を話すのだろう。鳥がものをいうと慄然として身の毛が弥立った。  ほんとうにその晩ほど恐かったことはない。  蛙の声がますます高くなる、これはまた仰山な、何百、どうして幾千と居て鳴いてるので、幾千の蛙が一ツ一ツ眼があって、口があって、足があって、身体があって、水ン中に居て、そして声を出すのだ。一ツ一ツ、トわなないた。寒くなった。風が少し出て、樹がゆっさり動いた。  蛙の声がますます高くなる。居ても立っても居られなくッて、そっと動き出した。身体がどうにかなってるようで、すっと立ち切れないで踞った、裙が足にくるまって、帯が少し弛んで、胸があいて、うつむいたまま天窓がすわった。ものがぼんやり見える。  見えるのは眼だトまたふるえた。  ふるえながら、そっと、大事に、内証で、手首をすくめて、自分の身体を見ようと思って、左右へ袖をひらいた時、もう、思わずキャッと叫んだ。だって私が鳥のように見えたんですもの。どんなに恐かったろう。  この時、背後から母様がしっかり抱いて下さらなかったら、私どうしたんだか知れません。それはおそくなったから見に来て下すったんで、泣くことさえ出来なかったのが、 「母様!」といって離れまいと思って、しっかり、しっかり、しっかり襟ん処へかじりついて仰向いてお顔を見た時、フット気が着いた。  どうもそうらしい、翼の生えたうつくしい人はどうも母様であるらしい。もう鳥屋には、行くまい。わけてもこの恐しい処へと、その後ふっつり。  しかしどうしてもどう見ても、母様にうつくしい五色の翼が生えちゃあいないから、またそうではなく、他にそんな人が居るのかも知れない、どうしても判然しないで疑われる。  雨も晴れたり、ちょうど石原も辷るだろう。母様はああおっしゃるけれど、わざとあの猿にぶつかって、また川へ落ちてみようかしら。そうすりゃまた引上げて下さるだろう。見たいな! 羽の生えたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可い。母様がいらっしゃるから、母様がいらっしゃったから。 明治三十(一八九七)年四月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第三巻」岩波書店    1941(昭和16)年12月25日第1刷発行 ※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:カエ 2003年8月30日作成 2005年3月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004997", "作品名": "化鳥", "作品名読み": "けちょう", "ソート用読み": "けちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-11T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4997.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成3", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第三巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年12月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "カエ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4997_ruby_12168.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-03-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4997_12169.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-03-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
第一 愉快いな、愉快いな、お天気が悪くつて外へ出て遊べなくつても可や、笠を着て蓑を着て、雨の降るなかをびしよ〴〵濡れながら、橋の上を渡つて行くのは猪だ。 菅笠を目深に冠つて潵に濡れまいと思つて向風に俯向いてるから顔も見えない、着て居る蓑の裾が引摺つて長いから脚も見えないで歩行いて行く、背の高さは五尺ばかりあらうかな、猪子しては大なものよ、大方猪ン中の王様が彼様三角形の冠を被て、市へ出て来て、而して、私の母様の橋の上を通るのであらう。 トかう思つて見て居ると愉快い、愉快い、愉快い。 寒い日の朝、雨の降つてる時、私の小さな時分、何日でしたつけ、窓から顔を出して見て居ました。 「母様、愉快いものが歩行いて行くよ。」 爾時母様は私の手袋を拵えて居て下すつて、 「さうかい、何が通りました。」 「あのウ猪。」 「さう。」といつて笑つて居らしやる。 「ありや猪だねえ、猪の王様だねえ。 母様。だつて、大いんだもの、そして三角形の冠を被て居ました。さうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしよぬれになつて、可哀想だつたよ。」 母様は顔をあげて、此方をお向きで、 「吹込みますから、お前も此方へおいで、そんなにして居ると衣服が濡れますよ。」 「戸を閉めやう、母様、ね、こゝん処の。」 「いゝえ、さうしてあけて置かないと、お客様が通つても橋銭を置いて行つてくれません。づるいからね、引籠つて誰も見て居ないと、そゝくさ通抜けてしまひますもの。」 私は其時分は何にも知らないで居たけれども、母様と二人ぐらしは、この橋銭で立つて行つたので、一人前幾于宛取つて渡しました。 橋のあつたのは、市を少し離れた処で、堤防に松の木が並むで植はつて居て、橋の袂に榎の樹が一本、時雨榎とかいふのであつた。 此榎の下に箱のやうな、小さな、番小屋を建てゝ、其処に母様と二人で住んで居たので、橋は粗造な、宛然、間に合はせといつたやうな拵え方、杭の上へ板を渡して竹を欄干にしたばかりのもので、それでも五人や十人ぐらゐ一時に渡つたからツて、少し揺れはしやうけれど、折れて落つるやうな憂慮はないのであつた。 ちやうど市の場末に住むでる日傭取、土方、人足、それから、三味線を弾いたり、太鼓を鳴らして飴を売つたりする者、越後獅子やら、猿廻やら、附木を売る者だの、唄を謡ふものだの、元結よりだの、早附木の箱を内職にするものなんぞが、目貫の市へ出て行く往帰りには、是非母様の橋を通らなければならないので、百人と二百人づゝ朝晩賑な人通りがある。 それからまた向ふから渡つて来てこの橋を越して場末の穢い町を通り過ぎると、野原へ出る。そこン処は梅林で上の山が桜の名所で、其下に桃谷といふのがあつて、谷間の小流には、菖浦、燕子花が一杯咲く。頬白、山雀、雲雀などが、ばら〳〵になつて唄つて居るから、綺麗な着物を着た問屋の女だの、金満家の隠居だの、瓢を腰へ提げたり、花の枝をかついだりして千鳥足で通るのがある、それは春のことで。夏になると納涼だといつて人が出る、秋は茸狩に出懸けて来る、遊山をするのが、皆内の橋を通らねばならない。 この間も誰かと二三人づれで、学校のお師匠さんが、内の前を通つて、私の顔を見たから、丁寧にお辞義をすると、おや、といつたきりで、橋銭を置かないで行つてしまつた。 「ねえ、母様、先生もづるい人なんかねえ。」 と窓から顔を引込ませた。 第二 「お心易立なんでしやう、でもづるいんだよ。余程さういはうかと思つたけれど、先生だといふから、また、そんなことで悪く取つて、お前が憎まれでもしちやなるまいと思つて黙つて居ました。」 といひ〳〵母様は縫つて居らつしやる。 お膝の前に落ちて居た、一ツの方の手袋の格恰が出来たのを、私は手に取つて、掌にあてゝ見たり、甲の上へ乗ツけて見たり、 「母様、先生はね、それでなくつても僕のことを可愛がつちやあ下さらないの。」 と訴へるやうにいひました。 かういつた時に、学校で何だか知らないけれど、私がものをいつても、快く返事をおしでなかつたり、拗ねたやうな、けんどんなやうな、おもしろくない言をおかけであるのを、いつでも情いと思ひ〳〵して居たのを考へ出して、少し欝いで来て俯向いた。 「何故さ。」 何、さういふ様子の見えるのは、つひ四五日前からで、其前には些少もこんなことはありはしなかつた。帰つて母様にさういつて、何故だか聞いて見やうと思つたんだ。 けれど、番小屋へ入ると直飛出して遊んであるいて、帰ると、御飯を食べて、そしちやあ横になつて、母様の気高い美しい、頼母しい、温当な、そして少し痩せておいでの、髪を束ねてしつとりして居らつしやる顔を見て、何か談話をしい〳〵、ぱつちりと眼をあいてるつもりなのが、いつか其まんまで寝てしまつて、眼がさめると、また直支度を済まして、学校へ行くんだもの。そんなこといつてる隙がなかつたのが、雨で閉籠つて淋しいので思ひ出した序だから聞いたので、 「何故だつて、何なの、此間ねえ、先生が修身のお談話をしてね、人は何だから、世の中に一番えらいものだつて、さういつたの。母様違つてるわねえ。」 「むゝ。」 「ねツ違つてるワ、母様。」 と揉くちやにしたので、吃驚して、ぴつたり手をついて畳の上で、手袋をのした。横に皺が寄つたから、引張つて、 「だから僕、さういつたんだ、いゝえ、あの、先生、さうではないの。人も、猫も、犬も、それから熊も皆おんなじ動物だつて。」 「何とおつしやつたね。」 「馬鹿なことをおつしやいつて。」 「さうでしやう。それから、」 「それから、⦅だつて、犬や猫が、口を利きますか、ものをいひますか⦆ツて、さういふの。いひます。雀だつてチツチツチツチツて、母様と父様と、児と朋達と皆で、お談話をしてるじやあありませんか。僕眠い時、うつとりしてる時なんぞは、耳ン処に来て、チツチツチて、何かいつて聞かせますのツてさういふとね、⦅詰らない、そりや囀るんです。ものをいふのぢやあなくツて、囀るの、だから何をいふんだか分りますまい⦆ツて聞いたよ。僕ね、あのウだつてもね、先生、人だつて、大勢で、皆が体操場で、てんでに何かいつてるのを遠くン処で聞いて居ると、何をいつてるのか些少も分らないで、ざあ〳〵ツて流れてる川の音とおんなしで僕分りませんもの。それから僕の内の橋の下を、あのウ舟漕いで行くのが何だか唄つて行くけれど、何をいふんだかやつぱり鳥が声を大きくして長く引ぱつて鳴いてるのと違ひませんもの。ずツと川下の方でほう〳〵ツて呼んでるのは、あれは、あの、人なんか、犬なんか、分りませんもの。雀だつて、四十雀だつて、軒だの、榎だのに留まつてないで、僕と一所に坐つて話したら皆分るんだけれど、離れてるから聞こえませんの。だつてソツとそばへ行つて、僕、お談話しやうと思ふと、皆立つていつてしまひますもの、でも、いまに大人になると、遠くで居ても分りますツて、小さい耳だから、沢山いろんな声が入らないのだつて、母様が僕、あかさんであつた時分からいひました。犬も猫も人間もおんなじだつて。ねえ、母様、だねえ母様、いまに皆分るんだね。」 第三 母様は莞爾なすつて、 「あゝ、それで何かい、先生が腹をお立ちのかい。」 そればかりではなかつた。私が児心にも、アレ先生が嫌な顔をしたなト斯う思つて取つたのは、まだモ少し種々なことをいひあつてからそれから後の事で。 はじめは先生も笑ひながら、ま、あなたが左様思つて居るのなら、しばらくさうして置きましやう。けれども人間には智恵といふものがあつて、これには他の鳥だの、獣だのといふ動物が企て及ばない、といふことを、私が川岸に住まつて居るからつて、例をあげておさとしであつた。 釣をする、網を打つ、鳥をさす、皆人の智恵で、何にも知らない、分らないから、つられて、刺されて、たべられてしまふのだトかういふことだった。 そんなことは私聞かないで知つて居る、朝晩見て居るもの。 橋を挟んで、川を溯つたり、流れたりして、流網をかけて魚を取るのが、川ン中に手拱かいて、ぶる〳〵ふるへて突立つてるうちは顔のある人間だけれど、そらといつて水に潜ると、逆になつて、水潜をしい〳〵五分間ばかりも泳いで居る、足ばかりが見える。其足の恰好の悪さといつたらない。うつくしい、金魚の泳いでる尾鰭の姿や、ぴら〳〵と水銀色を輝かして刎ねてあがる鮎なんぞの立派さには全然くらべものになるのぢやあない。さうしてあんな、水浸になつて、大川の中から足を出してる、そんな人間がありますものか。で、人間だと思ふとをかしいけれど、川ン中から足が生へたのだと、さう思つて見て居るとおもしろくツて、ちつとも嫌なことはないので、つまらない観世物を見に行くより、ずつとましなのだつて、母様がさうお謂ひだから私はさう思つて居ますもの。 それから、釣をしてますのは、ね、先生、とまた其時先生にさういひました。 あれは人間ぢやあない、簟なんで、御覧なさい。片手懐つて、ぬうと立つて、笠を冠つてる姿といふものは、堤坊の上に一本占治茸が生へたのに違ひません。 夕方になつて、ひよろ長い影がさして、薄暗い鼠色の立姿にでもなると、ます〳〵占治茸で、づゝと遠い〳〵処まで一ならびに、十人も三十人も、小さいのだの、大きいのだの、短いのだの、長いのだの、一番橋手前のを頭にして、さかり時は毎日五六十本も出来るので、また彼処此処に五六人づゝも一団になつてるのは、千本しめぢツて、くさ〳〵に生へて居る、それは小さいのだ。木だの、草だのだと、風が吹くと動くんだけれど、茸だから、あの、茸だからゆつさりとしもしませぬ。これが智恵があつて釣をする人間で、些少も動かない。其間に魚は皆で優々と泳いでてあるいて居ますわ。 また智恵があるつて口を利かれないから鳥とくらべツこすりや、五分五分のがある、それは鳥さしで。 過日見たことがありました。 他所のおぢさんの鳥さしが来て、私ン処の橋の詰で、榎の下で立留まつて、六本めの枝のさきに可愛い頬白が居たのを、棹でもつてねらつたから、あら〳〵ツてさういつたら、叱ツ、黙つて、黙つてツて恐い顔をして私を睨めたから、あとじさりをして、そツと見て居ると、呼吸もしないで、じつとして、石のやうに黙つてしまつて、かう据身になつて、中空を貫くやうに、じりツと棹をのばして、覗つてるのに、頬白は何にも知らないで、チ、チ、チツチツてツて、おもしろさうに、何かいつてしやべつて居ました。 其をとう〳〵突いてさして取ると、棹のさきで、くる〳〵と舞つて、まだ烈しく声を出して啼いてるのに、智恵のあるおぢさんの鳥さしは、黙つて、鰌掴にして、腰の袋ン中へ捻り込むで、それでもまだ黙つて、ものもいはないので、のつそりいつちまつたことがあつたんで。 第四 頬白は智恵のある鳥さしにとられたけれど、囀つてましたもの。ものをいつて居ましたもの。おぢさんは黙りで、傍に見て居た私までものをいふことが出来なかつたんだもの、何もくらべこして、どつちがえらいとも分りはしないつて。 何でもそんなことをいつたんで、ほんとうに私さう思つて居ましたから。 でも其を先生が怒つたんではなかつたらしい。 で、まだ〳〵いろんなことをいつて、人間が、鳥や獣よりえらいものだとさういつておさとしであつたけれど、海ン中だの、山奥だの、私の知らない、分らない処のことばかり譬に引いていふんだから、口答は出来なかつたけれど、ちつともなるほどと思はれるやうなことはなかつた。 だつて、私母様のおつしやること、虚言だと思ひませんもの。私の母様がうそをいつて聞かせますものか。 先生は同一組の小児達を三十人も四十人も一人で可愛がらうとするんだし、母様は私一人可愛いんだから、何うして、先生のいふことは私を欺すんでも、母様がいつてお聞かせのは、決して違つたことではない、トさう思つてるのに、先生のは、まるで母様のと違つたこといふんだから心服はされないぢやありませんか。 私が頷かないので、先生がまた、それでは、皆あなたの思つている通りにして置きましやう。けれども木だの、草だのよりも、人間が立優つた、立派なものであるといふことは、いかな、あなたにでも分りましやう、先づそれを基礎にして、お談話をしやうからつて、聞きました。 分らない。私さうは思はなかつた。 「あのウ母様、だつて、先生、先生より花の方がうつくしうございますツてさう謂つたの。僕、ほんとうにさう思つたの、お庭にね、ちやうど菊の花が咲いてるのが見えたから。」 先生は束髪に結つた、色の黒い、なりの低い頑丈な、でく〳〵肥つた婦人の方で、私がさういふと顔を赤うした。それから急にツヽケンドンなものいひおしだから、大方其が腹をお立ちの源因であらうと思ふ。 「母様、それで怒つたの、さうなの。」 母様は合点々々をなすつて、 「おゝ、そんなことを坊や、お前いひましたか。そりや御道理だ。」 といつて笑顔をなすつたが、これは私の悪戯をして、母様のおつしやること肯かない時、ちつとも叱らないで、恐い顔しないで、莞爾笑つてお見せの、其とかはらなかつた。 さうだ。先生の怒つたのはそれに違ひない。 「だつて、虚言をいつちやあなりませんつて、さういつでも先生はいふ癖になあ、ほんとうに僕、花の方がきれいだと思ふもの。ね、母様、あのお邸の坊ちんの青だの、紫だの交つた、着物より、花の方がうつくしいつて、さういふのね。だもの、先生なんざ。」 「あれ、だつてもね、そんなこと人の前でいふのではありません。お前と、母様のほかには、こんないゝこと知つてるものはないのだから、分らない人にそんなこといふと、怒られますよ。唯、ねえ、さう思つて、居れば、可のだから、いつてはなりませんよ。可かい。そして先生が腹を立つてお憎みだつて、さういふけれど、何そんなことがありますものか。其は皆お前がさう思ふからで、あの、雀だつて餌を与つて、拾つてるのを見て、嬉しさうだと思へば嬉しさうだし、頬白がおぢさんにさゝれた時悲しい声だと思つて見れば、ひい〳〵いつて鳴いたやうに聞こえたぢやないか。 それでも先生が恐い顔をしておいでなら、そんなものは見て居ないで、今お前がいつた、其うつくしい菊の花を見て居たら可でしやう。ね、そして何かい、学校のお庭に咲いてるのかい。」 「あゝ沢山。」 「ぢやあ其菊を見やうと思つて学校へおいで。花にはね、ものをいはないから耳に聞こえないでも、其かはり眼にはうつくしいよ。」 モひとつ不平なのはお天気の悪いことで、戸外にはなか〳〵雨がやみさうにもない。 第五 また顔を出して窓から川を見た。さつきは雨脚が繁くつて、宛然、薄墨で刷いたやう、堤防だの、石垣だの、蛇籠だの、中洲に草の生へた処だのが、点々、彼方此方に黒ずんで居て、それで湿つぽくツて、暗かつたから見えなかつたが、少し晴れて来たからものゝ濡れたのが皆見える。 遠くの方に堤防の下の石垣の中ほどに、置物のやうになつて、畏つて、猿が居る。 この猿は、誰が持主といふのでもない、細引の麻繩で棒杭に結えつけてあるので、あの、占治茸が、腰弁当の握飯を半分与つたり、坊ちやんだの、乳母だのが袂の菓子を分けて与つたり、赤い着物を着て居る、みいちやんの紅雀だの、青い羽織を着て居る吉公の目白だの、それからお邸のかなりやの姫様なんぞが、皆で、からかいに行つては、花を持たせる、手拭を被せる、水鉄砲を浴びせるといふ、好きな玩弄物にして、其代何でもたべるものを分けてやるので、誰といつて、きまつて、世話をする、飼主はないのだけれど、猿の餓ゑることはありはしなかつた。 時々悪戯をして、其紅雀の天窓の毛を挘つたり、かなりやを引掻いたりすることがあるので、あの猿松が居ては、うつかり可愛らしい小鳥を手放にして戸外へ出しては置けない、誰か見張つてでも居ないと、危険だからつて、ちよい〳〵繩を解いて放して遣つたことが幾度もあつた。 放すが疾いか、猿は方々を駆ずり廻つて勝手放題な道楽をする、夜中に月が明い時寺の門を叩いたこともあつたさうだし、人の庖厨へ忍び込んで、鍋の大いのと飯櫃を大屋根へ持つてあがつて、手掴で食べたこともあつたさうだし、ひら〳〵と青いなかから紅い切のこぼれて居る、うつくしい鳥の袂を引張つて、遙かに見える山を指して気絶さしたこともあつたさうなり、私の覚えてからも一度誰かが、繩を切つてやつたことがあつた。其時はこの時雨榎の枝の両股になつてる処に、仰向に寝転んで居て、烏の脛を捕へた、それから畚に入れてある、あのしめぢ蕈が釣つた、沙魚をぶちまけて、散々悪巫山戯をした揚句が、橋の詰の浮世床のおぢさんに掴まつて、顔の毛を真四角に鋏まれた、それで堪忍をして追放したんださうなのに、夜が明けて見ると、また平時の処に棒杭にちやんと結へてあツた。蛇籠の上の、石垣の中ほどで、上の堤防には柳の切株がある処。 またはじまつた、此通りに猿をつかまへて此処へ縛つとくのは誰だらう〳〵ツて、一しきり騒いだのを私は知つて居る。 で、此猿には出処がある。 其は母様が御存じで、私にお話しなすツた。 八九年前のこと、私がまだ母様のお腹ん中に小さくなつて居た時分なんで、正月、春のはじめのことであつた。 今は唯広い世の中に母様と、やがて、私のものといつたら、此番小屋と仮橋の他にはないが、其時分は此橋ほどのものは、邸の庭の中の一ツの眺望に過ぎないのであつたさうで、今市の人が春、夏、秋、冬、遊山に来る、桜山も、桃谷も、あの梅林も、菖蒲の池も皆父様ので、頬白だの、目白だの、山雀だのが、この窓から堤防の岸や、柳の下や、蛇籠の上に居るのが見える、其身体の色ばかりが其である、小鳥ではない、ほんとうの可愛らしい、うつくしいのがちやうどこんな工合に朱塗の欄干のついた二階の窓から見えたさうで。今日はまだおいひでないが、かういふ雨の降つて淋しい時なぞは、其時分のことをいつでもいつてお聞かせだ。 第六 今ではそんな楽しい、うつくしい、花園がないかはり、前に橋銭を受取る笊の置いてある、この小さな窓から風がはりな猪だの、奇躰な簟だの、不思議な猿だの、まだ其他に人の顔をした鳥だの、獣だのが、いくらでも見えるから、ちつとは思出になるトいつちやあ、アノ笑顔をおしなので、私もさう思つて見る故か、人があるいて行く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のやうでおもしろい、人の笑ふのを見ると獣が大きな赤い口をあけたよと思つておもしろい、みいちやんがものをいふと、おや小鳥が囀るかトさう思つてをかしいのだ。で、何でもおもしろくツてをかしくツて吹出さずには居られない。 だけれど今しがたも母様がおいひの通り、こんないゝことを知つてるのは、母様と私ばかりで何うして、みいちやんだの、吉公だの、それから学校の女の先生なんぞに教へたつて分るものか。 人に踏まれたり、蹴られたり、後足で砂をかけられたり、苛められて責まれて、熱湯を飲ませられて、砂を浴せられて、鞭うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉がかれて、血を吐いて、消えてしまいさうになつてる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑はれて、慰にされて、嬉しがられて、眼が血走つて、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、畜生め、獣め、ト始終さう思つて、五年も八年も経たなければ、真個に分ることではない、覚えられることではないんださうで、お亡んなすつた、父様トこの母様とが聞いても身震がするやうな、そういふ酷いめに、苦しい、痛い、苦しい、辛い、惨刻なめに逢つて、さうしてやう〳〵お分りになつたのを、すつかり私に教へて下すつたので。私はたゞ母ちやん〳〵てツて母様の肩をつかまいたり、膝にのつかつたり、針箱の引出を交ぜかへしたり、物さしをまはして見たり、縫裁の衣服を天窓から被つて見たり、叱られて逃げ出したりして居て、それでちやんと教へて頂いて、其をば覚えて分つてから、何でも鳥だの、獣だの、草だの、木だの、虫だの、簟だのに人が見えるのだからこんなおもしろい、結構なことはない。しかし私にかういふいゝことを教へて下すつた母様は、とさう思ふ時は鬱ぎました。これはちつともおもしろくなくつて悲しかつた、勿体ないとさう思つた。 だつて母様がおろそかに聞いてはなりません。私がそれほどの思をしてやう〳〵お前に教へらるゝやうになつたんだから、うかつに聞いて居ては罰があたります。人間も鳥獣も草木も、混虫類も皆形こそ変つて居てもおんなじほどのものだといふことを。 トかうおつしやるんだから。私はいつも手をついて聞きました。 で、はじめの内は何うしても人が鳥や、獣とは思はれないで、優しくされれば嬉しかつた、叱られると恐かつた、泣いてると可哀想だつた、そしていろんなことを思つた。其たびにさういつて母様にきいて見るト何、皆鳥が囀つてるんだの、犬が吠えるんだの、あの、猿が歯を剥くんだの、木が身ぶるいをするんだのとちつとも違つたことはないツて、さうおつしやるけれど、矢張さうばかりは思はれないで、いぢめられて泣いたり、撫でられて嬉しかつたりしい〳〵したのを、其都度母様に教へられて、今じやあモウ何とも思つて居ない。 そしてまだ如彼濡れては寒いだらう、冷たいだらうと、さきのやうに雨に濡れてびしよ〳〵行くのを見ると気の毒だつたり、釣をして居る人がおもしろさうだとさう思つたりなんぞしたのが、此節じやもう唯変な簟だ、妙な猪の王様だと、をかしいばかりである、おもしろいばかりである、つまらないばかりである、見ツともないばかりである、馬鹿々々しいばかりである、それからみいちやんのやうなのは可愛らしいのである、吉公のやうなのはうつくしいのである、けれどもそれは紅雀がうつくしいのと、目白が可愛らしいのと些少も違ひはせぬので、うつくしい、可愛らしい。うつくしい、可愛らしい。 第七 また憎らしいのがある。腹立たしいのも他にあるけれども其も一場合に猿が憎らしかつたり、鳥が腹立たしかつたりするのとかはりは無いので、煎ずれば皆をかしいばかり、矢張噴飯材料なんで、別に取留めたことがありはしなかつた。 で、つまり情を動かされて、悲む、愁うる、楽む、喜ぶなどいふことは、時に因り場合に於ての母様ばかりなので。余所のものは何うであらうと些少も心には懸けないやうに日ましにさうなつて来た。しかしかういふ心になるまでには、私を教へるために毎日、毎晩、見る者、聞くものについて、母様がどんなに苦労をなすつて、丁寧に親切に飽かないで、熱心に、懇に噛むで含めるやうになすつたかも知れはしない。だもの、何うして学校の先生をはじめ、余所のものが少々位のことで、分るものか、誰だつて分りやしません。 処が、母様と私とのほか知らないことをモ一人他に知つてるものがあるさうで、始終母様がいつてお聞かせの、其は彼処に置物のやうに畏つて居る、あの猿―あの猿の旧の飼主であつた―老父さんの猿廻だといひます。 さつき私がいつた、猿に出処があるといふのはこのことで。 まだ私が母様のお腹に居た時分だツて、さういひましたつけ。 初卯の日、母様が腰元を二人連れて、市の卯辰の方の天神様へお参ンなすつて、晩方帰つて居らつしやつた、ちやうど川向ふの、いま猿の居る処で、堤坊の上のあの柳の切株に腰をかけて猿のひかへ綱を握つたなり、俯向いて、小さくなつて、肩で呼吸をして居たのが其猿廻のぢいさんであつた。 大方今の紅雀の其姉さんだの、頬白の其兄さんだのであつたらうと思はれる、男だの、女だの七八人寄つて、たかつて、猿にからかつて、きやあ〳〵いはせて、わあ〳〵笑つて、手を拍つて、喝采して、おもしろがつて、をかしがつて、散々慰むで、そら菓子をやるワ、蜜柑を投げろ、餅をたべさすワツて、皆でどつさり猿に御馳走をして、暗くなるとどや〳〵いつちまつたんだ。で、ぢいさんをいたはつてやつたものは、唯の一人もなかつたといひます。 あはれだとお思ひなすつて、母様がお銭を恵むで、肩掛を着せておやんなすつたら、ぢいさん涙を落して拝むで喜こびましたつて、さうして、 ⦅あゝ、奥様、私は獣になりたうございます。あいら、皆畜生で、この猿めが夥間でござりましやう。それで、手前達の同類にものをくはせながら、人間一疋の私には目を懸けぬのでござります⦆トさういつてあたりを睨むだ、恐らくこのぢいさんなら分るであらう、いや、分るまでもない、人が獣であることをいはないでも知つて居やうとさういつて母様がお聞かせなすつた、 うまいこと知てるな、ぢいさん。ぢいさんと母様と私と三人だ。其時ぢいさんが其まんまで控綱を其処ン処の棒杭に縛りツ放しにして猿をうつちやつて行かうとしたので、供の女中が口を出して、何うするつもりだつて聞いた。母様もまた傍からまあ捨児にしては可哀想でないかツて、お聞きなすつたら、ぢいさんにや〳〵と笑つたさうで、 ⦅はい、いえ、大丈夫でござります。人間をかうやつといたら、餓ゑも凍ゑもしやうけれど、獣でござりますから今に長い目で御覧じまし、此奴はもう決してひもじい目に逢ふことはござりませぬから⦆ トさういつてかさね〴〵恩を謝して分れて何処へか行つちまひましたツて。 果して猿は餓ゑないで居る。もう今では余程の年紀であらう。すりや、猿のぢいさんだ。道理で、功を経た、ものゝ分つたやうな、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をして居るんだ。見える〳〵、雨の中にちよこなんと坐つて居るのが手に取るやうに窓から見えるワ。 第八 朝晩見馴れて珍らしくもない猿だけれど、いまこんなこと考え出していろんなこと思つて見ると、また殊にものなつかしい、あのおかしな顔早くいつて見たいなと、さう思つて、窓に手をついてのびあがつて、づゝと肩まで出すと潵がかゝつて、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫でた。 爾時仮橋ががた〳〵いつて、川面の小糠雨を掬ふやうに吹き乱すと、流が黒くなつて颯と出た。トいつしよに向岸から橋を渡つて来る、洋服を着た男がある。 橋板がまた、がツたりがツたりいつて、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦をはづして、胸を開けて、けば〳〵しう襟飾を出した、でつぷり紳士で、胸が小さくツて、下腹の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、其は寒いからだ。そして大跨に、其逞い靴を片足づゝ、やりちがへにあげちやあ歩行いて来る、靴の裏の赤いのがぽつかり、ぽつかりと一ツづゝ此方から見えるけれど、自分じやあ、其爪さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は臍から下、膝から上は見たことがないのだとさういひます。あら! あら! 短服に靴を穿いたものが転がつて来るぜと、思つて、じつと見て居ると、橋のまんなかあたりへ来て鼻眼鏡をはづした、潵がかゝつて曇つたと見える。 で、衣兜から半拭を出して、拭きにかゝつたが、蝙蝠傘を片手に持つて居たから手を空けやうとして咽喉と肩のあひだへ柄を挟んで、うつむいて、珠を拭ひかけた。 これは今までに幾度も私見たことのある人で、何でも小児の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といつて五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立つて見るが何処に因らずで場所は限らない、すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交つて居ないといふことはなかつた。 見る時にいつも傍の人を誰か知らつかまへて、尻上りの、すました調子で、何かものをいつて居なかつたことは殆んど無い、それに人から聞いて居たことは曾てないので、いつでも自分で聞かせて居る、が、聞くものがなければ独で、むゝ、ふむ、といつたやうな、承知したやうなことを独言のやうでなく、聞かせるやうにいつてる人で、母様も御存じで、彼は博士ぶりといふのであるとおつしやつた。 けれども鰤ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といつたら、宛然、鮟鱇に肖て居るので、私は蔭じやあ鮟鱇博士とさういひますワ。此間も学校へ参観に来たことがある。其時も今被つて居る、高い帽子を持つて居たが、何だつてまたあんな度はづれの帽子を着たがるんだらう。 だつて、眼鏡を拭かうとして、蝙蝠傘を頤で押へて、うつむいたと思ふと、ほら〳〵、帽子が傾いて、重量で沈み出して、見てるうちにすつぼり、赤い鼻の上へ被さるんだもの。眼鏡をはづした上で帽子がかぶさつて、眼が見えなくなつたんだから驚いた、顔中帽子、唯口ばかりが、其口を赤くあけて、あはてゝ、顔をふりあげて、帽子を揺りあげやうとしたから蝙蝠傘がばツたり落ちた。落こちると勢よく三ツばかりくる〳〵とまつた間に、鮟鱇博士は五ツばかりおまはりをして、手をのばすと、ひよいと横なぐれに風を受けて、斜めに飛んで、遙か川下の方へ憎らしく落着いた風でゆつたりしてふわりと落ちるト忽ち矢の如くに流れ出した。 博士は片手で眼鏡を持つて、片手を帽子にかけたまゝ烈しく、急に、殆んど数へる遑がないほど靴のうらで虚空を踏むだ、橋ががた〳〵と動いて鳴つた。 「母様、母様、母様」 と私は足ぶみをした。 「あい。」としづかに、おいひなすつたのが背後に聞こえる。 窓から見たまゝ振向きもしないで、急込んで、 「あら〳〵流れるよ。」 「鳥かい、獣かい。」と極めて平気でいらつしやる。 「蝙蝠なの、傘なの、あら、もう見えなくなつたい、ほら、ね、流れツちまひました。」 「蝙蝠ですと。」 「あゝ、落ツことしたの、可哀想に。」 と思はず嘆息をして呟いた。 母様は笑を含むだお声でもつて、 「廉や、それはね、雨が晴れるしらせなんだよ。」 此時猿が動いた。 第九 一廻くるりと環にまはつて前足をついて、棒杭の上へ乗つて、お天気を見るのであらう、仰向いて空を見た。晴れるといまに行くよ。 母様は嘘をおつしやらない。 博士は頻に指しをして居たが、口が利けないらしかつた、で、一散に駆けて、来て黙つて小屋の前を通らうとする。 「おぢさん〳〵。」 と厳しく呼んでやつた。追懸けて、 「橋銭を置いて去らつしやい、おぢさん。」 とさういつた。 「何だ!」 一通の声ではない、さつきから口が利けないで、あのふくれた腹に一杯固くなるほど詰め込み〳〵して置いた声を、紙鉄砲ぶつやうにはぢきだしたものらしい。 で、赤い鼻をうつむけて、額越に睨みつけた。 「何か」と今度は応揚である。 私は返事をしませんかつた。それは驚いたわけではない、恐かつたわけではない。鮟鱇にしては少し顔がそぐはないから何にしやう、何に肖て居るだらう、この赤い鼻の高いのに、さきの方が少し垂れさがつて、上唇におつかぶさつてる工合といつたらない、魚より獣より寧ろ鳥の嘴によく肖て居る、雀か、山雀か、さうでもない。それでもないト考えて七面鳥に思ひあたつた時、なまぬるい音調で、 「馬鹿め。」 といひすてにして沈んで来る帽子をゆりあげて行かうとする。 「あなた。」とおつかさんが屹とした声でおつしやつて、お膝の上の糸屑を細い、白い、指のさきで二ツ三ツはじき落して、すつと出て窓の処へお立ちなすつた。 「渡をお置きなさらんではいけません。」 「え、え、え。」 といつたがぢれつたさうに、 「僕は何じやが、うゝ知らんのか。」 「誰です、あなたは。」と冷で。私こんなのをきくとすつきりする、眼のさきに見える気にくわないものに、水をぶつかけて、天窓から洗つておやんなさるので、いつでもかうだ、極めていゝ。 鮟鱇は腹をぶく〳〵さして、肩をゆすつたが、衣兜から名刺を出して、笊のなかへまつすぐに恭しく置いて、 「かういふものじや、これじや、僕じや。」 といつて肩書の処を指した、恐ろしくみぢかい指で、黄金の指輪の太いのをはめて居る。 手にも取らないで、口のなかに低声におよみなすつたのが、市内衛生会委員、教育談話会幹事、生命保険会社々員、一六会々長、美術奨励会理事、大日本赤十字社社員、天野喜太郎。 「この方ですか。」 「うゝ。」といつた時ふつくりした鼻のさきがふら〳〵して、手で、胸にかけた赤十字の徽章をはぢいたあとで、 「分つたかね。」 こんどはやさしい声でさういつたまゝまた行きさうにする。 「いけません。お払でなきやアあとへお帰ンなさい。」とおつしやつた。先生妙な顔をしてぼんやり立つてたが少しむきになつて、 「えゝ、こ、細いのがないんじやから。」 「おつりを差上げましやう。」 おつかさんは帯のあひだへ手をお入れ遊ばした。 第十 母様はうそをおつしやらない、博士が橋銭をおいてにげて行くと、しばらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆雨にぬれて、黒くなつて、あかるい日中へ出た。榎の枝からは時々はら〳〵と雫が落ちる、中流へ太陽がさして、みつめて居るとまばゆいばかり。 「母様遊びに行かうや。」 此時鋏をお取んなすつて、 「あゝ。」 「ねイ、出かけたつて可の、晴れたんだもの。」 「可けれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかつてはなりませんよ。さう、可塩梅にうつくしい羽の生へた姉さんが何時でもいるんぢやあありません。また落つこちやうもんなら。」 ちよいと見向いて、清い眼で御覧なすつて莞爾してお俯向きで、せつせと縫つて居らつしやる。 さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま頬つぺたを掻いてむく〳〵濡れた毛からいきりをたてゝ日向ぼつこをして居る、憎らしいツたらない。 いまじやあもう半年も経つたらう、暑さの取着の晩方頃で、いつものやうに遊びに行つて、人が天窓を撫でゝやつたものを、業畜、悪巫山戯をして、キツ〳〵と歯を剥いて、引掻きさうな権幕をするから、吃驚して飛退かうとすると、前足でつかまへた、放さないから力を入れて引張り合つた奮みであつた。左の袂がびり〳〵と裂てちぎれて取たはづみをくつて、踏占めた足がちやうど雨上りだつたから、堪りはしない、石の上を辷つて、ずる〳〵と川へ落ちた。わつといつた顔へ一波かぶつて、呼吸をひいて仰向けに沈むだから、面くらつて立たうとするとまた倒れて眼がくらむで、アツとまたいきをひいて、苦しいので手をもがいて身躰を動かすと唯どぶん〳〵と沈むで行く、情ないと思つたら、内に母様の坐つて居らつしやる姿が見えたので、また勢ついたけれど、やつぱりどぶむ〳〵と沈むから、何うするのかなと落着いて考へたやうに思ふ。それから何のことだらうと考えたやうにも思はれる、今に眼が覚めるのであらうと思つたやうでもある、何だか茫乎したが俄に水ン中だと思つて叫ばうとすると水をのんだ。もう駄目だ。 もういかんとあきらめるトタンに胸が痛かつた、それから悠々と水を吸つた、するとうつとりして何だか分らなくなつたと思ふと溌と糸のやうな真赤な光線がさして、一巾あかるくなつたなかにこの身躰が包まれたので、ほつといきをつくと、山の端が遠く見えて私のからだは地を放れて其頂より上の処に冷いものに抱へられて居たやうで、大きなうつくしい眼が、濡髪をかぶつて私の頬ん処へくつゝいたから、唯縋り着いてじつと眼を眠つた[「眠つた」に「ママ」の注記]覚がある。夢ではない。 やつぱり片袖なかつたもの、そして川へ落こちて溺れさうだつたのを救はれたんだつて、母様のお膝に抱かれて居て、其晩聞いたんだもの。だから夢ではない。 一躰助けて呉れたのは誰ですッて、母様に問ふた。私がものを聞いて、返事に躊躇をなすつたのは此時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、山雀だとか、鮟鱇だとか鯖だとか、蛆だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、松茸だとか、しめぢだとかおいひでなかつたのも此時ばかりで、そして顔の色をおかへなすつたのも此時ばかりで、それに小さな声でおつしやつたのも此時ばかりだ。 そして母様はかうおいひであつた。 (廉や、それはね、大きな五色の翼があつて天上に遊んで居るうつくしい姉さんだよ) 第十一 (鳥なの、母様)とさういつて其時私が聴いた。 此にも母様は少し口籠つておいでゝあつたが、 (鳥ぢやないよ、翼の生へた美しい姉さんだよ) 何うしても分らんかつた。うるさくいつたらしまひにやお前には分らない、とさうおいひであつた、また推返して聴いたら、やつぱり、 (翼の生へたうつくしい姉さんだつてば) それで仕方がないからきくのはよして、見やうと思つた、其うつくしい翼のはへたもの見たくなつて、何処に居ます〳〵ツて、せつツいても知らないと、さういつてばかりおいでゝあつたが、毎日〳〵あまりしつこかつたもんだから、とう〳〵余儀なさゝうなお顔色で、 (鳥屋の前にでもいつて見て来るが可) そんならわけはない。 小屋を出て二町ばかり行くと直坂があつて、坂の下口に一軒鳥屋があるので、樹蔭も何にもない、お天気のいゝ時あかるい〳〵小さな店で、町家の軒ならびにあつた。鸚鵡なんざ、くるツとした露のたりさうな、小さな眼で、あれで瞳が動きますね。毎日々々行つちやあ立つて居たので、しまひにやあ見知顔で私の顔を見て頷くやうでしたつけ、でもそれぢやあない。 駒はね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがつて、ひよいと逆に腹を見せて熟柿の落こちるやうにぽたりとおりて餌をつゝいて、私をばかまひつけない、ちつとも気に懸けてくれやうとはしないであつた、それでもない。皆違つとる。翼の生へたうつくしい姉さんは居ないのッて、一所に立つた人をつかまへちやあ、聞いたけれど、笑ふものやら、嘲けるものやら、聞かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿だといふものやら、番小屋の媽々に似て此奴も何うかして居らあ、といふものやら、皆獣だ。 (翼の生へたうつくしい姉さんは居ないの)ツて聞いた時、莞爾笑つて両方から左右の手でおうやうに私の天窓を撫でゝ行つた、それは一様に緋羅紗のづぼんを穿いた二人の騎兵で――聞いた時――莞爾笑つて、両方から左右の手で、おうやうに私の天窓をなでゝ、そして手を引あつて黙つて坂をのぼつて行つた、長靴の音がぼつくりして、銀の剣の長いのがまつすぐに二ツならんで輝いて見えた。そればかりで、あとは皆馬鹿にした。 五日ばかり学校から帰つちやあ其足で鳥屋の店へ行つてじつと立つて奥の方の暗い棚ん中で、コト〳〵と音をさして居る其鳥まで見覚えたけれど、翼の生へた姉さんは居ないのでぼんやりして、ぼツとして、ほんとうに少し馬鹿になつたやうな気がしい〳〵、日が暮れると帰り帰りした。で、とても鳥屋には居ないものとあきらめたが、何うしても見たくツてならないので、また母様にねだつて聞いた。何処に居るの、翼の生へたうつくしい人は何処に居るのツて。何とおいひでも肯分けないものだから母様が、 (それでは林へでも、裏の田畝へでも行つて見ておいで。何故ツて天上に遊んで居るんだから籠の中に居ないのかも知れないよ) それから私、あの、梅林のある処に参りました。 あの桜山と、桃谷と、菖蒲の池とある処で。 しかし其は唯青葉ばかりで菖蒲の短いのがむらがつてゝ、水の色の黒い時分、此処へも二日、三日続けて行きましたつけ、小鳥は見つからなかつた。烏が沢山居た。あれが、かあ〳〵鳴いて一しきりして静まると其姿の見えなくなるのは、大方其翼で、日の光をかくしてしまふのでしやう、大きな翼だ、まことに大い翼だ、けれどもそれではない。 第十二 日が暮れかゝると彼方に一ならび、此方に一ならび縦横になつて、梅の樹が飛々に暗くなる。枝々のなかの水田の水がどむよりして淀むで居るのに際立つて真白に見えるのは鷺だつた、二羽一処にト三羽一処にト居てそして一羽が六尺ばかり空へ斜に足から糸のやうに水を引いて立つてあがつたが音がなかつた、それでもない。 蛙が一斉に鳴きはじめる。森が暗くなつて、山が見えなくなつた。 宵月の頃だつたのに曇てたので、星も見えないで、陰々として一面にものゝ色が灰のやうにうるんであつた、蛙がしきりになく。 仰いで高い処に朱の欄干のついた窓があつて、そこが母様のうちだつたと聞く、仰いで高い処に朱の欄干のついた窓があつてそこから顔を出す、其顔が自分の顔であつたんだらうにトさう思ひながら破れた垣の穴ん処に腰をかけてぼんやりして居た。 いつでもあの翼の生へたうつくしい人をたづねあぐむ、其昼のうち精神の疲労ないうちは可んだけれど、度が過ぎて、そんなに晩くなると、いつもかう滅入つてしまつて、何だか、人に離れたやうな世間に遠ざかつたやうな気がするので、心細くもあり、裏悲しくもあり、覚束ないやうでもあり、恐ろしいやうでもある、嫌な心持だ、嫌な心持だ。 早く帰らうとしたけれど気が重くなつて其癖神経は鋭くなつて、それで居てひとりでにあくびが出た。あれ! 赤い口をあいたんだなと、自分でさうおもつて、吃驚した。 ぼんやりした梅の枝が手をのばして立つてるやうだ。あたりを眴すと真くらで、遠くの方で、ほう、ほうツて、呼ぶのは何だらう。冴えた通る声で野末を押ひろげるやうに、啼く、トントントントンと谺にあたるやうな響きが遠くから来るやうに聞こえる鳥の声は、梟であつた。 一ツでない。 二ツも三ツも。私に何を談すのだらう、私に何を談すのだらう、鳥がものをいふと慄然として身の毛が慄立つた。 ほんとうに其晩ほど恐かつたことはない。 蛙の声がます〳〵高くなる、これはまた仰山な、何百、何うして幾千と居て鳴いてるので、幾千の蛙が一ツ一ツ眼があつて、口があつて、足があつて、身躰があつて、水ン中に居て、そして声を出すのだ。一ツ一ツトわなゝいた。寒くなつた。風が少し出て樹がゆつさり動いた。 蛙の声がます〳〵高くなる、居ても立つても居られなくツて、そつと動き出した、身躰が何うにかなつてるやうで、すつと立ち切れないで蹲つた、裾が足にくるまつて、帯が少し弛むで、胸があいて、うつむいたまゝ天窓がすはつた。ものがぼんやり見える。 見えるのは眼だトまたふるえた。 ふるえながら、そつと、大事に、内証で、手首をすくめて、自分の身躰を見やうと思つて、左右へ袖をひらいた時もう思はずキヤツと叫んだ。だつて私が鳥のやうに見えたんですもの。何んなに恐かつたらう。 此時背後から母様がしつかり抱いて下さらなかつたら、私何うしたんだか知れません。其はおそくなつたから見に来て下すつたんで泣くことさへ出来なかつたのが、 「母様!」といつて離れまいと思つて、しつかり、しつかり、しつかり襟ん処へかぢりついて仰向いてお顔を見た時、フツト気が着いた。 何うもさうらしい、翼の生へたうつくしい人は何うも母様であるらしい。もう鳥屋には、行くまい、わけてもこの恐い処へと、其後ふつゝり。 しかし何うしても何う見ても母様にうつくしい五色の翼が生へちやあ居ないから、またさうではなく、他にそんな人が居るのかも知れない、何うしても判然しないで疑はれる。 雨も晴れたり、ちやうど石原も辷るだらう。母様はあゝおつしやるけれど、故とあの猿にぶつかつて、また川へ落ちて見やうか不知。さうすりやまた引上げて下さるだらう。見たいな! 翼の生へたうつくしい姉さん。だけれども、まあ、可、母様が居らつしやるから、母様が居らつしやつたから。(完)(「新著月刊」第一号 明治30年4月)
底本:「短篇小説名作選」岡保生・榎本隆司 編、現代企画室    1982(昭和57)年4月15日第1刷発行    1984(昭和59)年3月15日第2刷 ※文字づかい・仮名づかいの誤用・不統一、促音「っ」「ッ」の小書きの混在は底本のままとしました。 ※「猪子《いぬしゝ》して[#「して」に「ママ」の注記]」は、底本では、「猪《いぬしゝ》子して[#「して」に「ママ」の注記]」となっていますが、初収録単行本「柳筥」では「猪《いぬしゝ》子にして」となっているため、上記のように改めました。 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2003年4月10日作成 2013年2月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004560", "作品名": "化鳥", "作品名読み": "けちょう", "ソート用読み": "けちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-05-29T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4560.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "短篇小説名作選", "底本出版社名1": "現代企画室", "底本初版発行年1": "1982(昭和57)年4月15日", "入力に使用した版1": "1984(昭和59)年3月15日第2刷", "校正に使用した版1": "1984(昭和59)年3月15日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4560_ruby_8595.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-02-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4560_9734.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-02-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
      一月  山嶺の雪なほ深けれども、其の白妙に紅の日や、美しきかな玉の春。松籟時として波に吟ずるのみ、撞いて驚かす鐘もなし。萬歳の鼓遙かに、鞠唄は近く梅ヶ香と相聞こえ、突羽根の袂は松に友染を飜す。をかし、此のあたりに住ふなる橙の長者、吉例よろ昆布の狩衣に、小殿原の太刀を佩反らし、七草の里に若菜摘むとて、讓葉に乘つたるが、郎等勝栗を呼んで曰く、あれに袖形の浦の渚に、紫の女性は誰そ。……蜆御前にて候。       二月  西日に乾く井戸端の目笊に、殘ンの寒さよ。鐘いまだ氷る夜の、北の辻の鍋燒饂飩、幽に池の石に響きて、南の枝に月凄し。一つ半鉦の遠あかり、其も夢に消えて、曉の霜に置きかさぬる灰色の雲、新しき障子を壓す。ひとり南天の實に色鳥の音信を、窓晴るゝよ、と見れば、ちら〳〵と薄雪、淡雪。降るも積るも風情かな、未開紅の梅の姿。其の莟の雪を拂はむと、置炬燵より素足にして、化粧たる柴垣に、庭下駄の褄を捌く。       三月  いたいけなる幼兒に、優しき姉の言ひけるは、緋の氈の奧深く、雪洞の影幽なれば、雛の瞬き給ふとよ。いかで見むとて寢もやらず、美しき懷より、かしこくも密と見參らすれば、其の上に尚ほ女夫雛の微笑み給へる。それも夢か、胡蝶の翼を櫂にして、桃と花菜の乘合船。うつゝに漕げば、うつゝに聞こえて、柳の土手に、とんと當るや鼓の調、鼓草の、鼓の調。       四月  春の粧の濃き淡き、朝夕の霞の色は、消ゆるにあらず、晴るゝにあらず、桃の露、花の香に、且つ解け且つ結びて、水にも地にも靡くにこそ、或は海棠の雨となり、或は松の朧となる。山吹の背戸、柳の軒、白鵝遊び、鸚鵡唄ふや、瀬を行く筏は燕の如く、燕は筏にも似たるかな。銀鞍の少年、玉駕の佳姫、ともに恍惚として陽の闌なる時、陽炎の帳靜なる裡に、木蓮の花一つ一つ皆乳房の如き戀を含む。       五月  藤の花の紫は、眞晝の色香朧にして、白日、夢に見ゆる麗人の面影あり。憧憬れつゝも仰ぐものに、其の君の通ふらむ、高樓を渡す廻廊は、燃立つ躑躅の空に架りて、宛然虹の醉へるが如し。海も緑の酒なるかな。且つ見る後苑の牡丹花、赫耀として然も靜なるに、唯一つ繞り飛ぶ蜂の羽音よ、一杵二杵ブン〳〵と、小さき黄金の鐘が鳴る。疑ふらくは、これ、龍宮の正に午の時か。       六月  照り曇り雨もものかは。辻々の祭の太鼓、わつしよい〳〵の諸勢、山車は宛然藥玉の纒を振る。棧敷の欄干連るや、咲掛る凌霄の紅は、瀧夜叉姫の襦袢を欺き、紫陽花の淺葱は光圀の襟に擬ふ。人の往來も躍るが如し。酒はさざんざ松の風。緑いよ〳〵濃かにして、夏木立深き處、山幽に里靜に、然も今を盛の女、白百合の花、其の膚の蜜を洗へば、清水に髮の丈長く、眞珠の流雫して、小鮎の簪、宵月の影を走る。       七月  灼熱の天、塵紅し、巷に印度更紗の影を敷く。赫耀たる草や木や、孔雀の尾を宇宙に翳し、羅に尚ほ玉蟲の光を鏤むれば、松葉牡丹に青蜥蜴の潛むも、刺繍の帶にして、驕れる貴女の裝を見る。盛なる哉、炎暑の色。蜘蛛の圍の幻は、却て鄙下る蚊帳を凌ぎ、青簾の裡なる黒猫も、兒女が掌中のものならず、髯に蚊柱を號令して、夕立の雲を呼ばむとす。さもあらばあれ、夕顏の薄化粧、筧の水に玉を含むで、露臺の星に、雪の面を映す、姿また爰にあり、姿また爰にあり。       八月  向日葵、向日葵、百日紅の昨日も今日も、暑さは蟻の數を算へて、麻野、萱原、青薄、刈萱の芽に秋の近きにも、草いきれ尚ほ曇るまで、立蔽ふ旱雲恐しく、一里塚に鬼はあらずや、並木の小笠如何ならむ。否、炎天、情あり。常夏、花咲けり。優しさよ、松蔭の清水、柳の井、音に雫に聲ありて、旅人に露を分てば、細瀧の心太、忽ち酢に浮かれて、饂飩、蒟蒻を嘲ける時、冷奴豆腐の蓼はじめて涼しく、爪紅なる蟹の群、納涼の水を打つて出づ。やがてさら〳〵と渡る山風や、月の影に瓜が踊る。踊子は何々ぞ。南瓜、冬瓜、青瓢、白瓜、淺瓜、眞桑瓜。       九月  殘の暑さ幾日ぞ、又幾日ぞ。然も刈萱の蓑いつしかに露繁く、芭蕉に灌ぐ夜半の雨、やがて晴れて雲白く、芙蓉に晝の蛬鳴く時、散るとしもあらず柳の葉、斜に簾を驚かせば、夏痩せに尚ほ美しきが、轉寢の夢より覺めて、裳を曳く濡縁に、瑠璃の空か、二三輪、朝顏の小く淡く、其の色白き人の脇明を覗きて、帶に新涼の藍を描く。ゆるき扱帶も身に入むや、遠き山、近き水。待人來れ、初雁の渡るなり。       十月  雲往き雲來り、やがて水の如く晴れぬ。白雲の行衞に紛ふ、蘆間に船あり。粟、蕎麥の色紙畠、小田、棚田、案山子も遠く夕越えて、宵暗きに舷白し。白銀の柄もて汲めりてふ、月の光を湛ふるかと見れば、冷き露の流るゝ也。凝つては薄き霜とならむ。見よ、朝凪の浦の渚、潔き素絹を敷きて、山姫の來り描くを待つ處――枝すきたる柳の中より、松の蔦の梢より、染め出す秀嶽の第一峯。其の山颪里に來れば、色鳥群れて瀧を渡る。うつくしきかな、羽、翼、霧を拂つて錦葉に似たり。       十一月  青碧澄明の天、雲端に古城あり、天守聳立てり。濠の水、菱黒く、石垣に蔦、紅を流す。木の葉落ち落ちて森寂に、風留むで肅殺の氣の充つる處、枝は朱槍を横へ、薄は白劍を伏せ、徑は漆弓を潛め、霜は鏃を研ぐ。峻峰皆將軍、磊嚴盡く貔貅たり。然りとは雖も、雁金の可懷を射ず、牡鹿の可哀を刺さず。兜は愛憐を籠め、鎧は情懷を抱く。明星と、太白星と、すなはち其の意氣を照らす時、何事ぞ、徒に銃聲あり。拙き哉、驕奢の獵、一鳥高く逸して、谺笑ふこと三度。       十二月  大根の時雨、干菜の風、鳶も烏も忙しき空を、行く雲のまゝに見つゝ行けば、霜林一寺を抱きて峯靜に立てるあり。鐘あれども撞かず、經あれども僧なく、柴あれども人を見ず、師走の市へ走りけむ。聲あるはひとり筧にして、巖を刻み、石を削りて、冷き枝の影に光る。誰がための白き珊瑚ぞ。あの山越えて、谷越えて、春の來る階なるべし。されば水筋の緩むあたり、水仙の葉寒く、花暖に薫りしか。刈あとの粟畑に山鳥の姿あらはに、引棄てし豆の殼さら〳〵と鳴るを見れば、一抹の紅塵、手鞠に似て、輕く巷の上に飛べり。 大正九年一月―十二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年4月24日作成 2003年5月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004148", "作品名": "月令十二態", "作品名読み": "げつれいじゅうにたい", "ソート用読み": "けつれいしゆうにたい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4148.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4148_ruby_6281.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4148_6476.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
時―――現代、初冬。 場所――府下郊外の原野。 人物――画工。侍女(烏の仮装したる)。貴夫人。老紳士。少紳士。小児五人。――別に、三羽の烏(侍女と同じ扮装)。 小児一 やあ、停車場の方の、遠くの方から、あんなものが遣つて来たぜ。 小児二 何だい〳〵。 小児三 あゝ、大なものを背負つて、蹌踉々々来るねえ。 小児四 影法師まで、ぶら〳〵して居るよ。 小児五 重いんだらうか。 小児一 何だ、引越かなあ。 小児二 構ふもんか、何だつて。 小児三 御覧よ、脊よりか高い、障子見たやうなものを背負つてるから、凧が歩行いて来るやうだ。 小児四 糸をつけて揚げる真似エして遣らう。 小児五 遣れ〳〵、おもしろい。 凧を持つたのは凧を上げ、独楽を持ちたるは独楽を廻す。手にものなき一人、一方に向ひ、凧の糸を手繰る真似して笑ふ。 画工 (枠張のまゝ、絹地の画を、やけに紐からげにして、薄汚れたる背広の背に負ひ、初冬、枯野の夕日影にて、あか〳〵と且つ寂しき顔。酔へる足どりにて登場)……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖に突掛くる状、疲切つたる樵夫の如し。しばらくして、叫ぶ)畜生、状を見やがれ。 声に驚き、且つ活ける玩具の、手許に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児、衝と開いて素知らぬ顔す。 画工、其の事には心付かず、立停まりて嬉戯する小児等を眗す。 よく遊んでるな、あゝ、羨しい。何うだ。皆、面白いか。 小児等、彼の様子を見て忍笑す。中に、糸を手繰りたる一人。 小児三 あゝ、面白かつたの。 画工 (管をまく口吻)何、面白かつた。面白かつたは不可んな。今の若さに。……小児をつかまへて、今の若さも変だ。(笑ふ)はゝゝは、面白かつたは心細い。過去つた事のやうで情ない。面白いと云へ。面白がれ、面白がれ。尚ほ其の上に面白く成れ。むゝ、何うだ。 小児三 だつて、兄さん怒るだらう。 画工 (解し得ず)俺が怒る、何を……何を俺が怒るんだ。生命がけで、描いて文部省の展覧会で、平つくばつて、可いか、洋服の膝を膨らまして膝行つてな、いゝ図ぢやないぜ、審査所のお玄関で頓首再拝と仕つた奴を、紙鉄砲で、ポンと撥ねられて、ぎやふんとまゐつた。それでさへ怒り得ないで、悄々と杖に縋つて背負つて帰る男ぢやないか。景気よく馬肉で呷つた酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げつそりと空腹と来て、蕎麦ともいかない。停車場前で饂飩で飲んだ、臓腑が宛然蚯蚓のやうな、しツこしのない江戸児擬が、何うして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。 他の小児はきよろ〳〵見て居る。 小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸目をつけて手繰つて居たんだぜ。 画工 何だ、糸を着けて……手繰つたか。いや、怒りやしない。何の真似だい。 小児一 兄さんがね、然うやつてね、ぶら〳〵来た処がね。 小児二 遠くから、まるで以て、凧の形に見えたんだもの。 画工 はゝあ、凧か。(背負つてる絵を見る)むゝ、其処で、(仕形しつゝ)と遣つて面白がつて居たんだな。処で、俺が恁う近く来たから、怒られやしないかと思つて、其の悪戯を止めたんだ。だから、面白かつたと云ふのか。……かつたは寂しい、つまらない。壮に面白がれ、もつと面白がれ。さあ、糸を手繰れ、上げろ、引張れ。俺が、凧に成つて、上つて遣らう。上つて、高い空から、上野の展覧会を見て遣る。京、大阪を見よう。日本中を、いや世界を見よう。……さあ、あの児来て煽れ、それ、お前は向うで上げるんだ。さあ、遣れ、遣れ。(笑ふ)はゝゝ、面白い。 小児等しばらく逡巡す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背を抱いて、凧を煽る真似す。一人は駈出して距離を取る。其の一人。 小児三 やあ、大凧だい、一人ぢや重い。 小児四 うん、手伝つて遣ら。(と独楽を懐にして、立並ぶ)――風吹け、や、吹け。山の風吹いて来い。――(同音に囃す。) 画工 (あふりたる児の手を離るゝと同時に、大手を開いて)恁う成りや凧絵だ、提灯屋だ。そりや、しやくるぞ、水汲むぞ、べつかつこだ。 小児等の糸を引いて駈るがまゝに、ふら〳〵と舞台を飛廻り、やがて、樹根に摚と成りて、切なき呼吸つく。 暮色到る。 小児三 凧は切れ了つた。 小児一 暗く成つた。――丁ど可い。 小児二 又、……あの事をしよう。 其の他 遣らうよ、遣らうよ。――(一同、手はつながず、少しづゝ間をおき、くるりと輪に成りて唄ふ。) 青山、葉山、羽黒の権現さん あとさき言はずに、中はくぼんだ、おかまの神さん 唄ひつゝ、廻りつゝ、繰返す。 画工 (茫然として黙想したるが、吐息して立つて此を視む。)おい、おい、其は何の唄だ。 小児一 あゝ、何の唄だか知らないけれどね、恁うやつて唄つて居ると、誰か一人踊出すんだよ。 画工 踊る? 誰が踊る。 小児二 誰が踊るつて、此のね、環の中へ入つて踞んでるものが踊るんだつて。 画工 誰も、入つては居らんぢやないか。 小児三 でもね、気味が悪いんだもの。 画工 気味が悪いと? 小児四 あゝ、あの、其がね、踊らうと思つて踊るんぢやないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思つても。だもの、気味が悪いんだ。 画工 遣つて見よう、俺を入れろ。 一同 やあ、兄さん、入るかい。 画工 俺が入る、待て、(画を取つて大樹の幹によせかく)さあ、可いか。 小児三 目を塞いで居るんだぜ。 画工 可、此の世間を、酔つて踊りや本望だ。 青山、葉山、羽黒の権現さん 小児等唄ひながら画工の身の周囲を廻る。環の脈を打つて伸び且つ縮むに連れて、画工、殆んど、無意識なるが如く、片手又片足を異様に動かす。唄ふ声、愈々冴えて、次第に暗く成る。 時に、樹の蔭より、顔黒く、嘴黒く、烏の頭して真黒なるマント様の衣を裾まで被りたる異体のもの一個顕れ出で、小児と小児の間に交りて斉しく廻る。 地に踞りたる画工、此の時、中腰に身を起して、半身を左右に振つて踊る真似す。 続いて、初の黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏。樹蔭より顕れ、同じく小児等の間に交つて、画工の周囲を繞る。 小児等は絶えず唄ふ。いづれも其の怪き物の姿を見ざる趣なり。あとの三羽の烏出でて輪に加はる頃より、画工全く立上り、我を忘れたる状して踊り出す。初手の烏もともに、就中、後なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁す。 彼等の踊狂ふ時、小児等は唄を留む。 一同 (手に手に石を二ツ取り、カチ〳〵と打鳴らして)魔が来た、でん〳〵。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂しく囃す)真個に来た。そりや来た。 小児のうちに一人、誰とも知らず恁く叫ぶとともに、ばら〳〵と、左右に分れて逃げ入る。 木の葉落つ。 木の葉落つる中に、一人の画工と四個の黒き姿と頻に踊る。画工は靴を穿いたり。後の三羽の烏皆爪尖まで黒し。初の烏ひとり、裾をこぼるゝ褄紅に、足白し。 画工 (疲果てたる状、摚と仰様に倒る)水だ、水をくれい。 いづれも踊り留む。後の烏三羽、身を開いて一方に翼を交はしたる如く、腕を組合せつゝ立ちて視む。 初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、恁うは成りたくないものだわね。――其のうちに目が覚めたら行くだらう――別にお座敷の邪魔にも成るまいから。……どれ、(樹の蔭に一むら生茂りたる薄の中より、組立てに交叉したる三脚の竹を取出して据ゑ、次に、其上に円き板を置き、卓子の如くす。) 後の烏、此の時、三羽とも無言にて近づき、手伝ふ状にて、二脚のズツク製、おなじ組立ての床几を卓子の差向ひに置く。 初の烏、又、旅行用手提げの中より、葡萄酒の瓶を取出だし卓子の上に置く。後の烏等、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコツプを取出だして並べ揃ふ。 やがて、初の烏、一挺の蝋燭を取つて、此に火を点ず。 舞台明くなる。 初の烏 (思ひ着きたる体にて、一ツの瓶の酒を玉盞に酌ぎ、燭に翳す。)おゝ、綺麗だ。燭が映つて、透徹つて、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、丁ど東の空に立つた虹の、其の虹の目のやうだと云つて、薄雲に翳して御覧なすつた、奥様の白い手の細い指には重さうな、指環の球に似てること。 三羽の烏、打傾いて聞きつゝあり。 あゝ、玉が溶けたと思ふ酒を飲んだら、どんな味がするだらうねえ。(烏の頭を頂きたる、咽喉の黒き布をあけて、少き女の面を顕し、酒を飲まんとして猶予ふ)あれ、こゝは私には口だけれど、烏にすると丁ど咽喉だ。可厭だよ。咽喉だと血が流れるやうでねえ。こんな事をして居るんだから、気に成る。よさう。まあ、独言を云つて、誰かと話をして居るやうだよ…… (四辺を眗す)然う〳〵、思つた同士、人前で内証で心を通はす時は、一ツに向つた卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打つて、血の通ふ、其の符牒で、黙つて居て、暗号が出来ると、何時も奥様がおつしやるもんだから。――卓子さん(卓をたゝく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸さん、其のまゝだもの。活きてるも同じだと思ふから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うつかりして、少々大事なことを饒舌つたんだから、お前さん聞いたばかりにして置いておくれ。誰にも言つては不可いよ。一寸、注いだ酒を何うしよう。ああ、いゝ事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項を抱いて仰向けにす。) 酔ぱらひさん、さあ、冷水。 画工 (飲みながら、現にて)あゝ、日が出た、が、俺は暗夜だ。(其まゝ寝返る。) 初の烏 日が出たつて――赤い酒から、私の此の烏を透かして、まあ。――画に描いた太陽の夢を見たんだらう。何だか謎のやうな事を言つてるわね。――さあ〳〵、お寝室こしらへをして置きませう。(もとに立戻りて、又薄の中より、此のたびは一領の天幕を引出し、卓子を蔽うて建廻はす。三羽の烏、左右より此を手伝ふ。天幕の裡は、見ぶつ席より見えざるあつらへ。)お楽みだわね。(天幕を背後にして正面に立つ。三羽の烏、其の両方に彳む。) もう、すつかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他に、烏の姿ありて立てるに心付く。されどおのが目を怪む風情。少しづゝ、あちこち歩行く。歩行くに連れて、烏の形動き絡ふを見て、次第に疑惑を増し、手を挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出す。) 帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。 初の烏ハタと行当る。驚いて身を開く。紳士其の袖を捉ふ。初の烏、遁れんとして威す真似して、かあ〳〵、と烏の声をなす。泣くが如き女の声なり。 紳士 こりや、地獄の門を背負つて、空を飛ぶ真似をするか。(掴ひしぐが如くにして突離す。初の烏、摚と地に坐す。三羽の烏は故とらしく吃驚の身振をなす。)地を這ふ烏は、鳴く声が違ふぢやらう。うむ、何うぢや。地を這ふ烏は何と鳴くか。 初の烏 御免なさいまし、何うぞ、御免なさいまし。 紳士 はゝあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くぢやな。 初の烏 はい。 紳士 うむ、(重く頷く)聞えた。とに角、汝の声は聞えた。――こりや、俺の声が分るか。 初の烏 えゝ。 紳士 俺の声が分るかと云ふんぢや。こりや、面を上げろ。――何うだ。 初の烏 御前様、あれ…… 紳士 (杖を以つて、其の裾を圧ふ)ばさ〳〵騒ぐな。槍で脇腹を突かれる外に、樹の上へ得上る身体でもないに、羽ばたきをするな、女郎、手を支いて、静として口をきけ。 初の烏 真に申訳のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達つて、奥様がお好みのお催しで、お邸に園遊会の仮装がございました時、私がいたしました、あの、此のこしらへが、余りよく似合つたと、皆様が然うおつしやいましたものでございますから、つい、心得違ひな事をはじめました。あの――後で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少うございますものですから、自分の買もの、用達しだの、何のと申して、奥様にお暇を頂いては、こんな処へ出て参りまして、偶に通りますものを驚かしますのが面白くて成りませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様に申訳のございません失礼をいたしました。何うぞ、御免遊ばして下さいまし。 紳士 言ふ事は其だけか。 初の烏 はい?(聞返す。) 紳士 俺に云ふ事は、それだけか、女郎。 初の烏 あの、(口籠る)今夜は何ういたしました事でございますか、私の形……あの、影法師が、此の、野中の宵闇に判然と見えますのでございます。其さへ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私と一所に動きますのでございますもの。 三方に分れて彳む、三羽の烏、また打頷く。 もう可恐く成りまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい――あの、そして……御前様は、何時御旅行さきから。 紳士 俺の旅行か。ふゝん。(自ら嘲ける口吻)汝たちは、俺が旅行をしたと思ふか。 初の烏 はい、一昨日から、北海道の方へ。 紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸の周囲ぢや。 初の烏 はあ、(驚く。) 紳士 俺の旅行は、冥土の旅の如きものぢや。昔から、事が、恁う云ふ事が起つて、其が破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段ぢや。通例過ぎる遣方ぢやが、為んと云ふ事には行かなかつた。今云うた冥土の旅を、可厭ぢやと思うても、誰もしないわけには行かぬやうなものぢや。又、汝等とても、恁う云ふ事件の最後の際には、其の家の主人か、良人か、可えか、俺がぢや、或手段として旅行するに極つとる事を知つて居る。汝は知らいでも、怜悧な彼は知つて居る。汝とても、少しは分つて居らう。分つて居て、其の主人が旅行と云ふ隙間を狙ふ。故と安心して大胆な不埒を働く。うむ、耳を蔽うて鐸を盗むと云ふのぢや。いづれ音の立ち、声の響くのは覚悟ぢやらう。何も彼も隠さずに言つて了へ。何時の事か。一体、何時頃の事か。これ。 侍女 何時頃とおつしやつて、あの、影法師の事でございませうか。其は唯今…… 紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等三人の黒い心が、形にあらはれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。 侍女 御免遊ばして、御前様、私は何にも存じません。 紳士 用意は出来とる。女郎、俺の衣兜には短銃があるぞ。 侍女 えゝ。 紳士 さあ、言へ。 侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方の事でございます。美しい虹が立ちまして、盛りの藤の花と、つゝじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭で、胸に炎の搦みました、真紅なつゝじの羽の交つた、其の虹の尾を曳きました大きな鳥が、お二階を覗いて居りますやうに見えたのでございます。其の日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、其の景色をお視めなさいまして、――あゝ、綺麗な、此の白い雲と、蒼空の中に漲つた大鳥を御覧――お傍に居りました私に然うおつしやいまして――此の鳥は、頭は私の簪に、尾を私の帯に成るために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭を兜に、尾を草摺に敷いて、敵に向ふ大将軍を飾つたやうに。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭を水に浸して、うなだれ悄れて居る。どれ、目を遣らう――と仰有いますと、右の中指に嵌めておいで遊ばした、指環の紅い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、其の指環をお抜きなさいまして。 紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。 侍女 そして、雪のやうなお手の指を環に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚へ嵌めるやうになさいますと、其の指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯と夕日に映つて、まつたく虹の瞳に成つて、そして晃々と輝きました。其の時でございます。お庭も池も、真暗に成つたと思ひます。虹も消えました。黒いものが、ばつと来て、目潰しを打ちますやうに、翼を拡げたと思ひますと、其の指環を、奥様の手から攫ひまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木の実だ、と紅い玉を、間違へたのでございませう。築山の松の梢を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、此の、野の末の処へ入ります、真赤な、まん円な、大きな太陽様の前に黒く留まつたのが見えたのでございます。私は跣足で庭へ駈下りました。駈けつけて声を出しますと、烏は其のまゝ塀の外へ又飛びましたのでございます。丁ど其処が、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事と云つては一度もなかつたのでございます。 紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのぢや。俺が覚えてからも、止むを得ん凶事で二度だけは開けんければ成らんぢやつた。が、其とても凶事を追出いたばかりぢや。外から入つて来た不祥はなかつた。――其が其の時、汝の手で開いたのか。 侍女 えゝ、錠の鍵は、がつちりさゝつて居りましたけれど、赤錆に錆切りまして、圧しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立つて居たのでございます。其の男が、烏の嘴から落しました奥様の其の指環を、掌に載せまして、凝と見て居ましたのでございます。 紳士 餓鬼め、其奴か。 侍女 えゝ。 紳士 相手は其奴ぢやな。 侍女 あの、私がわけを言つて、其の指環を返しますやうに申しますと、串戯らしく、否、此は、人間の手を放れたもの、烏の嘴から受取つたのだから返されない。尤も、烏にならば、何時なりとも返して上げよう――と然う申して笑ふんでございます。それでも、何うしても返しません。そして――確に預る、決して迂散なものでない――と云つて、丁と、衣兜から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおつしやいました。それから日を極めまして、同じ暮方の頃、其の男を木戸の外まで呼びましたのでございます。其の間に、此の、あの、烏の装束をお誂へ遊ばしました。そして私がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶつて遣らう、とおつしやつて、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひよつと、野原に遊んで居る小児などが怪しい姿を見て、騒いで悪いと云ふお心付きから、四阿へお呼び入れに成りました。 紳士 奴は、あの木戸から入つたな。あの、木戸から。 侍女 男が吃驚するのを御覧、と私にお囁きなさいました。奥様が、烏は脚では受取らない、とおつしやつて、男が掌にのせました指環を、此処をお開きなさいまして、(咽喉のあく処を示す)口でおくはへ遊ばしたのでございます。 紳士 口でな、最う其の時から。毒蛇め。上頤下頤へ拳を引掛け、透通る歯と紅さいた唇を、めりめりと引裂く、売婦。(足を挙げて、枯草を踏蹂る。) 画工 うゝむ、(二声ばかり、夢に魘されたるものの如し。) 紳士 (はじめて心付く)女郎、此方へ来い。(杖を以て一方を指す。) 侍女 (震へながら)はい。 紳士 頭を着けろ、被れ。俺の前を烏のやうに躍つて行け、――飛べ。邸を横行する黒いものの形を確と見覚えて置かねばならん。躍れ。衣兜には短銃があるぞ。 侍女、烏の如く其の黒き袖を動かす。をのゝき震ふと同じ状なり。紳士、あとに続いて入る。 三羽の烏 (声を揃へて叫ぶ)おいらのせゐぢやないぞ。 一の烏 (笑ふ)はゝゝゝゝ、其処で何と言はう。 二の烏 せう事はあるまい。矢張り、あとは、烏の所為だと言はねば成るまい。 三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被るのだな。 二の烏 かぶらうとも、背負はうとも。かぶつた処で、背負つた処で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間うちで帳面づらを合せて行く、勘定の遣り取りする。俺たちが構ふ事は少しもない。 三の烏 成程な、罪も報も人間同士が背負ひつこ、被りつこをするわけだ。一体、此のたびの事の発源は、其処な、お一どのが悪戯からはじまつた次第だが、さて、恁うなれば高い処で見物で事が済む。嘴を引傾げて、ことん〳〵と案じて見れば、われらは、これ、余り性の善い夥間でないな。 一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言はせれば、善いとも悪いとも言はうがまゝだ。俺は唯屋の棟で、例の夕飯を稼いで居たのだ。処で艶麗な、奥方とか、それ、人間界で言ふものが、虹の目だ、虹の目だ、と云ふものを(嘴を指す)此の黒い、鼻の先へひけらかした。此の節、肉どころか、血どころか、贅沢な目玉などはつひに賞翫した験がない。鳳凰の髄、麒麟の腮さへ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落しの廂はづれ、鵯越を遣つたがよ、生命がけの仕事と思へ。鳶なら油揚も攫はうが、人間の手に持つたまゝを引手繰る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜へてな、スポンと中庭を抜けたは可かつたが、虹の目玉と云ふ件の代ものは何うだ、歯も立たぬ。や、堅いの候の。先祖以来、田螺を突つくに錬へた口も、さて、がつくりと参つたわ。お庇で舌の根が弛んだ。癪だがよ、振放して素飛ばいたまでの事だ。な、其が源で、人間が何をせうと、彼をせうと、薩張俺が知つた事ではあるまい。 二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様より間違ひのない事を云ふわ。いや、又お一どのの指環を銜へたのが悪ければ、晴上つた雨も悪し、ほか〳〵とした陽気も悪し、虹も悪い、と云はねば成らぬ。雨や陽気がよくないからとて、何うするものだ。得ての、空に美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬か、牡丹か、菊か、猿が折つて蓑にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。雑と虹のやうな花よ。人間の家の中に、然うした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩い虹のやうな、其の花のパツと咲いた処は鮮麗だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔いた紅い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子の器の中へ密と蔵つても置かうものを。人間の黒い手は、此を見るが最後掴み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思ふさうだ。お互に見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いと云ふと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にせうと苛つて居るわ。野暮めがな。はて、見て居れば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かして置けば可い事よ。 三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かして置けば可い事だ。から〳〵からと笑はせるな。お互に此処に何して居る。其の虹の散るのを待つて、やがて食はう、突かう、嘗めう、しやぶらうと、毎夜、毎夜、此の間、……咽喉、嘴を、カチ〳〵と噛鳴らいて居るのでないかい。 二の烏 然ればこそ待つて居る。桜の枝を踏めばと云つて、虫の数ほど花片も露もこぼさぬ俺たちだ。此のたびの不思議な其の大輪の虹の台、紅玉の蕊に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子が散つて実に成るまで、風が誘ふを視めて居るのだ。色には、恋には、情には、其の咲く花の二人を除けて、他の人間は大概風だ。中にも、ぬしと云ふものはな、主人と云ふものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、此が暴風雨よ、旋風だ。一溜りもなく吹散らす。あゝ、無慙な。 一の烏 と云ふ嘴を、こつ〳〵鳴らいて、内々其の吹き散るのを待つのは誰だ。 二の烏 はゝゝはゝ、俺達だ、はゝゝはゝ。先づ口だけは体の可い事を言うて、其の実はお互に餌食を待つのだ。又、此の花は、紅玉の蕊から虹に咲いたものだが、散る時は、肉に成り、血に成り、五色の膓と成る。やがて見ろ、脂の乗つた鮟鱇のひも、と云ふ珍味を、つるりだ。 三の烏 何時の事だ、あゝ、聞いただけでも堪らぬわ。(ばた〳〵と羽を煽つ。) 二の烏 急ぐな、どつち道俺たちのものだ。餌食が其の柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳、錦手の木の葉の小皿盛と成るまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽ませて置かねば成らん。網で捕つたと、釣つたとでは、鯛の味が違ふと言はぬか。あれ等を苦ませては成らぬ、悲ませては成らぬ、海の水を酒にして泳がせろ。 一の烏 むゝ、其処で、椅子やら、卓子やら、天幕の上げさげまで手伝ふかい。 三の烏 彼れほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、此の黒い翼で人間の目から蔽うて手伝ふとは悟り得ず、薄の中に隠したつもりの、彼奴等の甘さが堪らん。が、俺たちの為す処は、退いて見ると、如法これ下女下男の所為だ。天が下に何と烏ともあらうものが、大分権式を落すわけだな。 二の烏 獅子、虎、豹、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、鷲、鷹、みさごぐらゐなものか、餌食を掴んで容色の可いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎の実を拝んだ形な。鶴とは申せど、尻を振つて泥鰌を追懸ける容体などは、余り喝采とは参らぬ図だ。誰も誰も、食ふためには、品も威も下げると思へ。然までにして、手に入れる餌食だ。突くと成れば会釈はない。骨までしやぶるわ。餌食の無慙さ、いや、又其の骨の肉汁の旨さはよ。(身震ひする。) 一の烏 (聞く半ばより、じろ〳〵と酔臥したる画工を見て居り)おふた、お二どの。 二の烏 あい。 三の烏 あい、と吐す、魔ものめが、ふて〴〵しい。 二の烏 望みとあらば、可愛い、とも鳴くわ。 一の烏 いや、串戯は措け。俺は先刻から思ふ事だ、待設けの珍味も可いが、こゝに目の前に転がつた餌食は何うだ。 三の烏 其の事よ、血の酒に酔ふ前に、腹へ底を入れて置く相談には成るまいかな。何分にも空腹だ。 二の烏 御同然に夜食前よ。俺も一先に心付いては居るが、其の人間は未だ食頃には成らぬと思ふ。念のために、面を見ろ。 三羽の烏、ばさ〳〵と寄り、頭を、手を、足を、ふん〳〵と嚊ぐ。 一の烏 堪らぬ香だ。 三の烏 あゝ、旨さうな。 二の烏 いや、まだ然うは成るまいか。此の歯をくひしばつた処を見い。総じて寝て居ても口を結んだ奴は、蓋をした貝だと思へ。うかつに嘴を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚の野良犬が来て舐めよう。這奴四足めに瀬踏をさせて、可いと成つて、其の後で取蒐らう。食ものが、悪いかして。脂のない人間だ。 一の烏 此の際、乾ものでも構はぬよ。 二の烏 生命がけで乾ものを食つて、一分が立つと思ふか、高蒔絵のお肴を待て。 三の烏 や、待つと云へば、例の通り、ほんのりと薫つて来た。 一の烏 おゝ、人臭いぞ。そりや、女のにほひだ。 二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言へ。 三の烏 おゝ、蘭奢待、蘭奢待。 一の烏 鈴ヶ森でも、此の薫は、百年目に二三度だつたな。 二の烏 化鳥が、古い事を云ふ。 三の烏 なぞと少い気で居ると見える、はゝはゝ。 一の烏 いや、恁うして暗やみで笑つた処は、我ながら不気味だな。 三の烏 人が聞いたら何と言はう。 二の烏 烏鳴だ、と吐す奴よ。 一の烏 何にも知らずか。 三の烏 不便な奴等。 二の烏 (手を取合うて)おゝ、見える、見える。それ侍女の気で迎へて遣れ。(みづから天幕の中より、燭したる蝋燭を取出だし、野中に黒く立ちて、高く手に翳す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾に踞む。) 薄の彼方、舞台深く、天幕の奥斜めに、男女の姿立顕る。一は少紳士、一は貴夫人、容姿美しく輝くばかり。 二の烏 恋も風、無情も風、情も露、生命も露、別るゝも薄、招くも薄、泣くも虫、歌ふも虫、跡は野原だ、勝手に成れ。(怪しき声にて呪す。一と三の烏、同時に跪いて天を拝す。風一陣、灯消ゆ。舞台一時暗黒。) はじめ、月なし、此の時薄月出づ。舞台明く成りて、貴夫人も少紳士も、三羽の烏も皆見えず。天幕あるのみ。 画工、猛然として覚む。 魘はれたる如く四辺を眗はし、慌しく画の包をひらく、衣兜のマツチを探り、枯草に火を点ず。 野火、炎々。絹地に三羽の烏あらはる。 凝視。 彼処に敵あるが如く、腕を挙げて睥睨す。 画工 俺の画を見ろ。――待て、しかし、絵か、其とも実際の奴等か。 ――幕――
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「新小説」    1913(大正2)年7月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048403", "作品名": "紅玉", "作品名読み": "こうぎょく", "ソート用読み": "こうきよく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説」1913(大正2)年7月", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-05-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48403.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷", "底本の親本名1": "泉鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48403_ruby_34595.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48403_35156.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
時。   現代、初冬。 場所。   府下郊外の原野。 人物。   画工。侍女。(烏の仮装したる)   貴夫人。老紳士。少紳士。小児五人。    ――別に、三羽の烏。(侍女と同じ扮装) 小児一 やあ、停車場の方の、遠くの方から、あんなものが遣って来たぜ。 小児二 何だい何だい。 小児三 ああ、大なものを背負って、蹌踉々々来るねえ。 小児四 影法師まで、ぶらぶらしているよ。 小児五 重いんだろうか。 小児一 何だ、引越かなあ。 小児二 構うもんか、何だって。 小児三 御覧よ、脊よりか高い、障子見たようなものを背負ってるから、凧が歩行いて来るようだ。 小児四 糸をつけて揚げる真似エしてやろう。 小児五 遣れ遣れ、おもしろい。 凧を持ったのは凧を上げ、独楽を持ちたるは独楽を廻す。手にものなき一人、一方に向い、凧の糸を手繰る真似して笑う。 画工 (枠張のまま、絹地の画を、やけに紐からげにして、薄汚れたる背広の背に負い、初冬、枯野の夕日影にて、あかあかと且つ寂しき顔。酔える足どりにて登場)……落第々々、大落第。(ぶらつく体を杖に突掛くる状、疲切ったる樵夫のごとし。しばらくして、叫ぶ)畜生、状を見やがれ。 声に驚き、且つ活ける玩具の、手許に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児、衝と開いて素知らぬ顔す。 画工、その事には心付かず、立停まりて嬉戯する小児等を眗す。  よく遊んでるな、ああ、羨しい。どうだ。皆、面白いか。 小児等、彼の様子を見て忍笑す。中に、糸を手繰りたる一人。 小児三 ああ、面白かったの。 画工 (管をまく口吻)何、面白かった。面白かったは不可んな。今の若さに。……小児をつかまえて、今の若さも変だ。(笑う)はははは、面白かったは心細い。過去った事のようで情ない。面白いと云え、面白がれ、面白がれ。なおその上に面白くなれ。むむ、どうだ。 小児三 だって、兄さん怒るだろう。 画工 (解し得ず)俺が怒る、何を……何を俺が怒るんだ。生命がけで、描いて文部省の展覧会で、平つくばって、可いか、洋服の膝を膨らまして膝行ってな、いい図じゃないぜ、審査所のお玄関で頓首再拝と仕った奴を、紙鉄砲で、ポンと撥ねられて、ぎゃふんとまいった。それでさえ怒り得ないで、悄々と杖に縋って背負って帰る男じゃないか。景気よく馬肉で呷った酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げっそり空腹と来て、蕎麦ともいかない。停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしのない江戸児擬が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。 他の小児はきょろきょろ見ている。 小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸目をつけて手繰っていたんだぜ。 画工 何だ、糸を着けて……手繰ったか。いや、怒りやしない。何の真似だい。 小児一 兄さんがね、そうやってね、ぶらぶら来た処がね。 小児二 遠くから、まるでもって、凧の形に見えたんだもの。 画工 ははあ、凧か。(背負ってる絵を見る)むむ、そこで、(仕形しつつ)とやって面白がっていたんだな。処で、俺がこう近くに来たから、怒られやしないかと思って、その悪戯を止めたんだ。だから、面白かったと云うのか。……かったは寂しい、つまらない。壮に面白がれ、もっと面白がれ。さあ、糸を手繰れ、上げろ、引張れ。俺が、凧になって、上ってやろう。上って、高い空から、上野の展覧会を見てやる。京、大阪を見よう。日本中を、いや世界を見よう。……さあ、あの児来て煽れ、それ、お前は向うで上げるんだ。さあ、遣れ、遣れ。(笑う)ははは、面白い。 小児等しばらく逡巡す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背を抱いて、凧を煽る真似す。一人は駈出して距離を取る。その一人。 小児三 やあ、大凧だい、一人じゃ重い。 小児四 うん、手伝ってやら。(と独楽を懐にして、立並ぶ)――風吹け、や、吹け。山の風吹いて来い。――(同音に囃す。) 画工 (あおりたる児の手を離るると同時に、大手を開いて)こうなりゃ凧絵だ、提灯屋だ。そりゃ、しゃくるぞ、水汲むぞ、べっかっこだ。 小児等の糸を引いて駈るがままに、ふらふらと舞台を飛廻り、やがて、樹根に摚となりて、切なき呼吸つく。 暮色到る。 小児三 凧は切れちゃった。 小児一 暗くなった。――ちょうど可い。 小児二 また、……あの事をしよう。 その他 遣ろうよ、遣ろうよ。――(一同、手はつながず、少しずつ間をおき、ぐるりと輪になりて唄う。) 青山、葉山、羽黒の権現さん あとさき言わずに、中はくぼんだ、おかまの神さん 唄いつつ、廻りつつ、繰り返す。 画工 (茫然として黙想したるが、吐息して立ってこれを視む。)おい、おい、それは何の唄だ。 小児一 ああ、何の唄だか知らないけれどね、こうやって唄っていると、誰か一人踊出すんだよ。 画工 踊る? 誰が踊る。 小児二 誰が踊るって、このね、環の中へ入って踞んでるものが踊るんだって。 画工 誰も、入ってはおらんじゃないか。 小児三 でもね、気味が悪いんだもの。 画工 気味が悪いと? 小児四 ああ、あの、それがね、踊ろうと思って踊るんじゃないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思っても。だもの、気味が悪いんだ。 画工 遣ってみよう、俺を入れろ。 一同 やあ、兄さん、入るかい。 画工 俺が入る、待て、(画を取って大樹の幹によせかく)さあ、可いか。 小児三 目を塞いでいるんだぜ。 画工 可、この世間を、酔って踊りゃ本望だ。 青山、葉山、羽黒の権現さん 小児等唄いながら画工の身の周囲を廻る。環の脈を打って伸び且つ縮むに連れて、画工、ほとんど、無意識なるがごとく、片手また片足を異様に動かす。唄う声、いよいよ冴えて、次第に暗くなる。 時に、樹の蔭より、顔黒く、嘴黒く、烏の頭して真黒なるマント様の衣を裾まで被りたる異体のもの一個顕れ出で、小児と小児の間に交りて斉しく廻る。 地に踞りたる画工、この時、中腰に身を起して、半身を左右に振って踊る真似す。 続いて、初の黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏。樹蔭より顕れ、同じく小児等の間に交って、画工の周囲を繞る。 小児等は絶えず唄う。いずれもその怪き物の姿を見ざる趣なり。あとの三羽の烏出でて輪に加わる頃より、画工全く立上り、我を忘れたる状して踊り出す。初手の烏もともに、就中、後なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁す。 彼等の踊狂う時、小児等は唄を留む。 一同 (手に手に石を二ツ取り、カチカチと打鳴らして)魔が来た、でんでん。影がさいた、もんもん。(四五度口々に寂しく囃す)ほんとに来た。そりゃ来た。 小児のうちに一人、誰とも知らずかく叫ぶとともに、ばらばらと、左右に分れて逃げ入る。  木の葉落つ。 木の葉落つる中に、一人の画工と四個の黒き姿と頻に踊る。画工は靴を穿いたり、後の三羽の烏皆爪尖まで黒し。初の烏ひとり、裾をこぼるる褄紅に、足白し。 画工 (疲果てたる状、摚と仰様に倒る)水だ、水をくれい。 いずれも踊り留む。後の烏三羽、身を開いて一方に翼を交わしたるごとく、腕を組合せつつ立ちて視む。 初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、こうはなりたくないものだわね。――そのうちに目が覚めたら行くだろう――別にお座敷の邪魔にもなるまいから。……どれ、(樹の蔭に一むら生茂りたる薄の中より、組立てに交叉したる三脚の竹を取出して据え、次に、その上の円き板を置き、卓子のごとくす。) 後の烏、この時、三羽とも無言にて近づき、手伝う状にて、二脚のズック製、おなじ組立ての床几を卓子の差向いに置く。 初の烏、また、旅行用手提げの中より、葡萄酒の瓶を取出だし卓子の上に置く。後の烏等、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコップを取出だして並べ揃う。 やがて、初の烏、一挺の蝋燭を取って、これに火を点ず。 舞台明くなる。 初の烏 (思い着きたる体にて、一ツの瓶の酒を玉盞に酌ぎ、燭に翳す。)おお、綺麗だ。燭が映って、透徹って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹の、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳して御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環の球に似てること。 三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。  ああ、玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねえ。(烏の頭を頂きたる、咽喉の黒き布をあけて、少き女の面を顕し、酒を飲まんとして猶予う。)あれ、ここは私には口だけれど、烏にするとちょうど咽喉だ。可厭だよ。咽喉だと血が流れるようでねえ。こんな事をしているんだから、気になる。よそう。まあ、独言を云って、誰かと話をしているようだよ……  (四辺を眗す)そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒で、黙っていて、暗号が出来ると、いつも奥様がおっしゃるもんだから、――卓子さん(卓をたたく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸さん、そのままだもの。活きてるも同じだと思うから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事な事を饒舌ったんだから、お前さん聞いたばかりにしておいておくれ。誰にも言っては不可ないよ。ちょいと、注いだ酒をどうしよう。ああ、いい事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項を抱いて仰向けにす。)  酔ぱらいさん、さあ、冷水。 画工 (飲みながら、現にて)ああ、日が出た、が、俺は暗夜だ。(そのまま寝返る。) 初の烏 日が出たって――赤い酒から、私のこの烏を透かして、まあ。――画に描いた太陽の夢を見たんだろう。何だか謎のような事を言ってるわね。――さあさあ、お寝室ごしらえをしておきましょう。(もとに立戻りて、また薄の中より、このたびは一領の天幕を引出し、卓子を蔽うて建廻す。三羽の烏、左右よりこれを手伝う。天幕の裡は、見ぶつ席より見えざるあつらえ。)お楽みだわね。(天幕を背後にして正面に立つ。三羽の烏、その両方に彳む。)  もう、すっかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他に、烏の姿ありて立てるに心付く。されどおのが目を怪む風情。少しずつ、あちこち歩行く。歩行くに連れて、烏の形動き絡うを見て、次第に疑惑を増し、手を挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出す。) 帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。 初の烏ハタと行当る。驚いて身を開く。紳士その袖を捉う。初の烏、遁れんとして威す真似して、かあかあ、と烏の声をなす。泣くがごとき女の声なり。 紳士 こりゃ、地獄の門を背負って、空を飛ぶ真似をするか。(掴ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、摚と地に座す。三羽の烏はわざとらしく吃驚の身振をなす。)地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。 初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。 紳士 ははあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くじゃな。 初の烏 はい。 紳士 うむ、(重く頷く)聞えた。とにかく、汝の声は聞えた。――こりゃ、俺の声が分るか。 初の烏 ええ。 紳士 俺の声が分るかと云うんじゃ。こりゃ。面を上げろ。――どうだ。 初の烏 御前様、あれ…… 紳士 (杖をもって、その裾を圧う)ばさばさ騒ぐな。槍で脇腹を突かれる外に、樹の上へ得上る身体でもないに、羽ばたきをするな、女郎、手を支いて、静として口をきけ。 初の烏 真に申訳のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達って、奥様がお好みのお催しで、お邸に園遊会の仮装がございました時、私がいたしました、あの、このこしらえが、余りよく似合ったと、皆様がそうおっしゃいましたものでございますから、つい、心得違いな事をはじめました。あの……後で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少うございますものですから、自分の買もの、用達しだの、何のと申して、奥様にお暇を頂いては、こんな処へ出て参りまして、偶に通りますものを驚かしますのが面白くてなりませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様に申訳のございません失礼をいたしました。どうぞ、御免遊ばして下さいまし。 紳士 言う事はそれだけか。 初の烏 はい?(聞返す。) 紳士 俺に云う事は、それだけか、女郎。 初の烏 あの、(口籠る)今夜はどういたしました事でございますか、私の形……あの、影法師が、この、野中の宵闇に判然と見えますのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私と一所に動きますのでございますもの。 三方に分れて彳む、三羽の烏、また打頷く。  もう可恐くなりまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい――あの、そして……御前様は、いつ御旅行さきから。 紳士 俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲ける口吻)汝たちは、俺が旅行をしたと思うか。 初の烏 はい、一昨日から、北海道の方へ。 紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸の周囲じゃ。 初の烏 はあ、(驚く。) 紳士 俺の旅行は、冥土の旅のごときものじゃ。昔から、事が、こういう事が起って、それが破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎる遣方じゃが、せんという事には行かなかった。今云うた冥土の旅を、可厭じゃと思うても、誰もしないわけには行かぬようなものじゃ。また、汝等とても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人か、可えか、俺がじゃ、ある手段として旅行するに極っとる事を知っておる。汝は知らいでも、怜悧なあれは知っておる。汝とても、少しは分っておろう。分っていて、その主人が旅行という隙間を狙う。わざと安心して大胆な不埒を働く。うむ、耳を蔽うて鐸を盗むというのじゃ。いずれ音の立ち、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。いつの事か。一体、いつ頃の事か。これ。 侍女 いつ頃とおっしゃって、あの、影法師の事でございましょうか。それは唯今…… 紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等三人の黒い心が、形にあらわれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。 侍女 御免遊ばして、御前様、私は何にも存じません。 紳士 用意は出来とる。女郎、俺の衣兜には短銃があるぞ。 侍女 ええ。 紳士 さあ、言え。 侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方の事でございます。美しい虹が立ちまして、盛りの藤の花と、つつじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭で、胸に炎の搦みました、真紅なつつじの羽の交った、その虹の尾を曳きました大きな鳥が、お二階を覗いておりますように見えたのでございます。その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空の中に漲った大鳥を御覧――お傍に居りました私にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭は私の簪に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭を兜に、尾を草摺に敷いて、敵に向う大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭を水に浸して、うなだれ悄れている。どれ、目を遣ろう――と仰有いますと、右の中指に嵌めておいで遊ばした、指環の紅い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。 紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。 侍女 そして、雪のようなお手の指を環に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々と輝きました。その時でございます。お庭も池も、真暗になったと思います。虹も消えました。黒いものが、ばっと来て、目潰しを打ちますように、翼を拡げたと思いますと、その指環を、奥様の手から攫いまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤な、まん円な、大きな太陽様の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足で庭へ駈下りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま塀の外へまた飛びましたのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事といっては一度もなかったのでございます。 紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が覚えてからも、止むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥はなかった。――それがその時、汝の手で開いたのか。 侍女 ええ、錠の鍵は、がっちりささっておりましたけれど、赤錆に錆切りまして、圧しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴から落しました奥様のその指環を、掌に載せまして、凝と見ていましたのでございます。 紳士 餓鬼め、其奴か。 侍女 ええ。 紳士 相手は其奴じゃな。 侍女 あの、私がわけを言って、その指環を返しますように申しますと、串戯らしく、いや、これは、人間の手を放れたもの、烏の嘴から受取ったのだから返されない。もっとも、烏にならば、何時なりとも返して上げよう――とそう申して笑うんでございます。それでも、どうしても返しません。そして――確に預る、決して迂散なものでない――と云って、ちゃんと、衣兜から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおっしゃいました。それから日を極めまして、同じ暮方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あの、烏の装束をお誂え遊ばしました。そして私がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶってやろう、とおっしゃって、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひょっと、野原に遊んでいる小児などが怪しい姿を見て、騒いで悪いというお心付きから、四阿へお呼び入れになりました。 紳士 奴は、あの木戸から入ったな。あの、木戸から。 侍女 男が吃驚するのを御覧、と私にお囁きなさいました。奥様が、烏は脚では受取らない、とおっしゃって、男が掌にのせました指環を、ここをお開きなさいまして、(咽喉のあく処を示す)口でおくわえ遊ばしたのでございます。 紳士 口でな、もうその時から。毒蛇め。上頤下頤へ拳を引掛け、透通る歯と紅さいた唇を、めりめりと引裂く、売女。(足を挙げて、枯草を踏蹂る。) 画工 ううむ、(二声ばかり、夢に魘されたるもののごとし。) 紳士 (はじめて心付く)女郎、こっちへ来い。(杖をもって一方を指す。) 侍女 (震えながら)はい。 紳士 頭を着けろ、被れ。俺の前を烏のように躍って行け、――飛べ。邸を横行する黒いものの形を確と見覚えておかねばならん。躍れ。衣兜には短銃があるぞ。 侍女、烏のごとくその黒き袖を動かす。おののき震うと同じ状なり。紳士、あとに続いて入る。 三羽の烏 (声を揃えて叫ぶ)おいらのせいじゃないぞ。 一の烏 (笑う)ははははは、そこで何と言おう。 二の烏 しょう事はあるまい。やっぱり、あとは、烏のせいだと言わねばなるまい。 三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被るのだな。 二の烏 かぶろうとも、背負おうとも。かぶった処で、背負った処で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間うちで帳面づらを合せて行く、勘定の遣り取りする。俺たちが構う事は少しもない。 三の烏 成程な、罪も報も人間同士が背負いっこ、被りっこをするわけだ。一体、このたびの事の発源は、そこな、お一どのが悪戯からはじまった次第だが、さて、こうなれば高い処で見物で事が済む。嘴を引傾げて、ことんことんと案じてみれば、われらは、これ、余り性の善い夥間でないな。 一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言わせれば、善いとも悪いとも言おうがままだ。俺はただ屋の棟で、例の夕飯を稼いでいたのだ。処で艶麗な、奥方とか、それ、人間界で言うものが、虹の目だ、虹の目だ、と云うものを(嘴を指す)この黒い、鼻の先へひけらかした。この節、肉どころか、血どころか、贅沢な目玉などはついに賞翫した験がない。鳳凰の髄、麒麟の鰓さえ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落しの廂のはずれ、鵯越を遣ったがよ、生命がけの仕事と思え。鳶なら油揚も攫おうが、人間の手に持ったままを引手繰る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜えてな、スポンと中庭を抜けたは可かったが、虹の目玉と云う件の代ものはどうだ、歯も立たぬ。や、堅いの候の。先祖以来、田螺を突つくに練えた口も、さて、がっくりと参ったわ。お庇で舌の根が弛んだ。癪だがよ、振放して素飛ばいたまでの事だ。な、それが源で、人間が何をしょうと、かをしょうと、さっぱり俺が知った事ではあるまい。 二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様より間違いのない事を云うわ。いや、またお一どのの指環を銜えたのが悪ければ、晴上がった雨も悪し、ほかほかとした陽気も悪し、虹も悪い、と云わねばならぬ。雨や陽気がよくないからとて、どうするものだ。得ての、空の美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬か、牡丹か、菊か、猿が折って蓑にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。ざっと虹のような花よ。人間の家の中に、そうした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩い虹のような、その花のパッと咲いた処は鮮麗だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔いた紅い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子の器の中へ密と蔵ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後掴み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にしょうと苛っておるわ。野暮めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かしておけば可い事よ。 三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、突こう、嘗みょう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉、嘴を、カチカチと噛鳴らいておるのでないかい。 二の烏 さればこそ待っている。桜の枝を踏めばといって、虫の数ほど花片も露もこぼさぬ俺たちだ。このたびの不思議なその大輪の虹の台、紅玉の蕊に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子が散って実になるまで、風が誘うを視めているのだ。色には、恋には、情には、その咲く花の二人を除けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人というものはな、淵に棲むぬし、峰にすむ主人と同じで、これが暴風雨よ、旋風だ。一溜りもなく吹散らす。ああ、無慙な。 一の烏 と云ふ嘴を、こつこつ鳴らいて、内々その吹き散るのを待つのは誰だ。 二の烏 ははははは、俺達だ、ははははは。まず口だけは体の可い事を言うて、その実はお互に餌食を待つのだ。また、この花は、紅玉の蕊から虹に咲いたものだが、散る時は、肉になり、血になり、五色の腸となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇のひも、という珍味を、つるりだ。 三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪らぬわ。(ばたばたと羽を煽つ。) 二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳、錦手の木の葉の小皿盛となるまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽ませておかねばならん。網で捕ったと、釣ったとでは、鯛の味が違うと言わぬか。あれ等を苦ませてはならぬ、悲ませてはならぬ、海の水を酒にして泳がせろ。 一の烏 むむ、そこで、椅子やら、卓子やら、天幕の上げさげまで手伝うかい。 三の烏 あれほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽うて手伝うとは悟り得ず、薄の中に隠したつもりの、彼奴等の甘さが堪らん。が、俺たちの為す処は、退いて見ると、如法これ下女下男の所為だ。天が下に何と烏ともあろうものが、大分権式を落すわけだな。 二の烏 獅子、虎、豹、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、鷲、鷹、みさごぐらいなものか、餌食を掴んで容色の可いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎の実を拝んだ形な。鶴とは申せど、尻を振って泥鰌を追懸る容体などは、余り喝采とは参らぬ図だ。誰も誰も、食うためには、品も威も下げると思え。さまでにして、手に入れる餌食だ。突くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙さ、いや、またその骨の肉汁の旨さはよ。(身震いする。) 一の烏 (聞く半ばより、じろじろと酔臥したる画工を見ており)おふた、お二どの。 二の烏 あい。 三の烏 あい、と吐す、魔ものめが、ふてぶてしい。 二の烏 望みとあらば、可愛い、とも鳴くわ。 一の烏 いや、串戯は措け。俺は先刻から思う事だ、待設けの珍味も可いが、ここに目の前に転がった餌食はどうだ。 三の烏 その事よ、血の酒に酔う前に、腹へ底を入れておく相談にはなるまいかな。何分にも空腹だ。 二の烏 御同然に夜食前よ。俺も一先に心付いてはいるが、その人間はまだ食頃にはならぬと思う。念のために、面を見ろ。 三羽の烏、ばさばさと寄り、頭を、手を、足を、ふんふんとかぐ。 一の烏 堪らぬ香だ。 三の烏 ああ、旨そうな。 二の烏 いや、まだそうはなるまいか。この歯をくいしばった処を見い。総じて寝ていても口を結んだ奴は、蓋をした貝だと思え。うかつに嘴を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚の野良犬が来て舐めよう。這奴四足めに瀬踏をさせて、可いとなって、その後で取蒐ろう。食ものが、悪いかして。脂のない人間だ。 一の烏 この際、乾ものでも構わぬよ。 二の烏 生命がけで乾ものを食って、一分が立つと思うか、高蒔絵のお肴を待て。 三の烏 や、待つといえば、例の通り、ほんのりと薫って来た。 一の烏 おお、人臭いぞ。そりゃ、女のにおいだ。 二の烏 はて、下司な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言え。 三の烏 おお、蘭奢待、蘭奢待。 一の烏 鈴ヶ森でも、この薫は、百年目に二三度だったな。 二の烏 化鳥が、古い事を云う。 三の烏 なぞと少い気でおると見える、はははは。 一の烏 いや、こうして暗やみで笑った処は、我ながら無気味だな。 三の烏 人が聞いたら何と言おう。 二の烏 烏鳴だ、と吐すやつよ。 一の烏 何も知らずか。 三の烏 不便な奴等。 二の烏 (手を取合うて)おお、見える、見える。それ侍女の気で迎えてやれ。(みずから天幕の中より、燭したる蝋燭を取出だし、野中に黒く立ちて、高く手に翳す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾に踞む。) 薄の彼方、舞台深く、天幕の奥斜めに、男女の姿立顕る。一は少紳士、一は貴夫人、容姿美しく輝くばかり。 二の烏 恋も風、無常も風、情も露、生命も露、別るるも薄、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、勝手になれ。(怪しき声にて呪す。一と三の烏、同時に跪いて天を拝す。風一陣、灯消ゆ。舞台一時暗黒。) はじめ、月なし、この時薄月出づ。舞台明くなりて、貴夫人も少紳士も、三羽の烏も皆見えず。天幕あるのみ。 画工、猛然として覚む。 魘われたるごとく四辺を眗わし、慌しく画の包をひらく、衣兜のマッチを探り、枯草に火を点ず。 野火、炎々。絹地に三羽の烏あらわる。 凝視。 彼処に敵あるがごとく、腕を挙げて睥睨す。 画工 俺の画を見ろ。――待て、しかし、絵か、それとも実際の奴等か。 ――幕―― 大正二(一九一三)年七月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店    1942(昭和17)年10月15日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003423", "作品名": "紅玉", "作品名読み": "こうぎょく", "ソート用読み": "こうきよく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3423.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十六巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "今井忠夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3423_ruby_12107.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3423_12108.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
第一 「参謀本部編纂の地図を又繰開いて見るでもなからう、と思つたけれども、余りの道ぢやから、手を触るさへ暑くるしい、旅の法衣の袖をかゝげて、表紙を附けた折本になつてるのを引張り出した。  飛騨から信州へ越える深山の間道で、丁度立休らはうといふ一本の樹立も無い、右も左も山ばかりぢや、手を伸ばすと達きさうな峯があると、其の峯へ峯が乗り巓が被さつて、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。  道と空との間に唯一人我ばかり、凡そ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返つた光線を、深々と頂いた一重の檜笠に凌いで、恁う図面を見た。」  旅僧は然ういつて、握拳を両方枕に乗せ、其で額を支へながら俯向いた。  道連になつた上人は、名古屋から此の越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知つてる限り余り仰向けになつたことのない、詰り傲然として物を見ない質の人物である。  一体東海道掛川の宿から同汽車に乗り組んだと覚えて居る、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰の如く控へたから別段目にも留まらなかつた。  尾張の停車場で他の乗組員は言合はせたやうに、不残下りたので、函の中には唯上人と私と二人になつた。  此の汽車は新橋を昨夜九時半に発つて、今夕敦賀に入らうといふ、名古屋では正午だつたから、飯に一折の鮨を買た。旅僧も私と同く其の鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばら〳〵と海苔が懸つた、五目飯の下等なので。 (やあ、人参と干瓢ばかりだ、)と踈匆ツかしく絶叫した、私の顔を見て旅僧は耐へ兼ねたものと見える、吃々と笑ひ出した、固より二人ばかりなり、知己にはそれから成つたのだが、聞けば之から越前へ行つて、派は違ふが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。  若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、其処で同行の約束が出来た。  渠は高野山に籍を置くものだといつた、年配四十五六、柔和な、何等の奇も見えぬ、可懐い、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻を占め、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を箝め、白足袋に、日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠といふものに、其よりも寧ろ俗歟。 (お泊りは何方ぢやな、)といつて聞かれたから、私は一人旅の旅宿の詰らなさを、染々歎息した、第一盆を持つて女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいふ、廊下を歩行くとじろ〳〵目をつける、何より最も耐へ難いのは晩飯の支度が済むと、忽ち灯を行燈に換へて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寝ることが出来ないから、其間の心持といつたらない、殊に此頃の夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になつてならない位、差支へがなくば御僧と御一所に。  快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋といふのがある、旧は一軒の旅店であつたが、一人女の評判なのがなくなつてからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず留て、老人夫婦が内端に世話をして呉れる、宜しくば其へ。其代といひかけて、折を下に置いて、 (御馳走は人参と干瓢ばかりぢや。) と呵々と笑つた、慎深さうな打見よりは気の軽い。 第二  岐阜では未だ蒼空が見えたけれども、後は名にし負ふ北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思つたが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従ふて、白いものがちら〳〵交つて来た。 (雪ですよ。) (然やうぢやな。)といつたばかりで別に気に留めず、仰いで空を見やうともしない、此時に限らず、賤ヶ岳が、といつて古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語つた時も、旅僧は唯頷いたばかりである。  敦賀で悚毛の立つほど煩はしいのは宿引の悪弊で、其日も期したる如く、汽車を下りると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰つて、へい有難う様で、を喰はす、頭痛持は血が上るほど耐へ切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻に通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかつたから、幸其後に跟いて町へ入つて、吻といふ息を吐いた。  雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさら〳〵と面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の町はひつそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積つた中を、道の程八町ばかりで、唯ある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。  床にも座敷にも飾といつては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大なる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思はるる艶を持つた、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けさうな目覚しい釜の懸つた古家で。  亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を窘まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、一寸世辞の可い婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、莞爾々々笑ひながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取做なんど、如何にも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心の可さと謂つたらない。  軈て二階に寐床を慥へてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあらう、屋の棟から斜に渡つて座敷の果の廂の処では天窓に支へさうになつて居る、巌丈な屋造、是なら裏の山から雪頽が来てもびくともせぬ。  特に炬燵が出来て居たから私は其まゝ嬉しく入つた。寐床は最う一組同一炬燵に敷いてあつたが、旅僧は之には来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寐た。  寐る時、上人は帯を解かぬ、勿論衣服も脱がぬ、着たまゝ丸くなつて俯向形に腰からすつぽりと入つて、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏つた、其の様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。程なく寂然として寝に着きさうだから、汽車の中でもくれ〴〵いつたのは此処のこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あはれと思つて最う暫くつきあつて、而して諸国を行脚なすつた内のおもしろい談をといつて打解けて幼らしくねだつた。  すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に着かぬのが癖で、寐るにも此儘ではあるけれども目は未だなか〳〵冴えて居る、急に寐着かれないのはお前様と同一であらう。出家のいふことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かつしやい、と言て語り出した。後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝といふ大和尚であつたさうな。 第三 「今に最う一人此処へ来て寝るさうぢやが、お前様と同国ぢやの、若狭の者で塗物の旅商人。いや此の男なぞは若いが感心に実体な好い男。  私が今話の序開をした其の飛騨の山越を遣つた時の、麓の茶屋で一所になつた富山の売薬といふ奴あ、けたいの悪い、ねぢ〳〵した厭な壮佼で。  先づこれから峠に掛らうといふ日の、朝早く、尤も先の泊はものゝ三時位には発つて来たので、涼い内に六里ばかり、其の茶屋までのしたのぢやが、朝晴でぢり〳〵暑いわ。  慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いて為様があるまい早速茶を飲うと思ふたが、まだ湯が沸いて居らぬといふ。  何うして其時分ぢやからといふて、滅多に人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。  床几の前には冷たさうな小流があつたから手桶の水を汲まうとして一寸気がついた。  其といふのが、時節柄暑さのため、可恐い悪い病が流行つて、先に通つた辻などといふ村は、から一面に石灰だらけぢやあるまいか。 (もし、姉さん。)といつて茶店の女に、 (此水はこりや井戸のでござりますか。)と、極りも悪し、もじ〳〵聞くとの。 (いんね川のでございす。)といふ、はて面妖なと思つた。 (山したの方には大分流行病がございますが、此水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。) (然うでねえ。)と女は何気なく答へた、先づ嬉しやと思ふと、お聞きなさいよ。  此処に居て先刻から休すんでござつたのが、右の売薬ぢや。此の又万金丹の下廻と来た日には、御存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んで居ます、脚絆、股引、之は勿論、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばつたのを首に結へて、桐油合羽を小さく畳んで此奴を真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、お極だね。一寸見ると、いやどれもこれも克明で、分別のありさうな顔をして。これが泊に着くと、大形の裕衣に変つて、帯広解で焼酎をちびり〳〵遣りながら、旅籠屋の女のふとつた膝へ脛を上げやうといふ輩ぢや。 (これや、法界坊、)  なんて、天窓から嘗めて居ら。 (異なことをいふやうだが何かね世の中の女が出来ねえと相場が極つて、すつぺら坊主になつても矢張り生命は欲しいのかね、不思議ぢやあねえか、争はれねもんだ、姉さん見ねえ、彼で未だ未練のある内が可いぢやあねえか、)といつて顔を見合はせて二人で呵々と笑つたい。  年紀は若し、お前様、私は真赤になつた、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予つて居るとね。  ポンと煙管を払いて、 (何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりや、薬を遣らあ、其為に私がついてるんだぜ、喃姉さん。おい、其だつても無銭ぢやあ不可えよ憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買ひな、未だ坊主に報捨をするやうな罪は造らねえ、其とも何うだお前いふことを肯くか、)といつて茶店の女の背中を叩いた。  私は匆々に遁出した。  いや、膝だの、女の背中だのといつて、いけ年を仕つた和尚が業体で恐入るが、話が、話ぢやから其処は宜しく。」 第四 「私も腹立紛れぢや、無暗と急いで、それからどん〳〵山の裾を田圃道へ懸る。  半町ばかり行くと、路が恁う急に高くなつて、上りが一ヶ処、横から能く見えた、弓形で宛で土で勅使橋がかゝつてるやうな。上を見ながら、之へ足を踏懸けた時、以前の薬売がすた〳〵遣つて来て追着いたが。  別に言葉も交はさず、又ものをいつたからといふて、返事をする気は此方にもない。何処までも人を凌いだ仕打な薬売は流盻にかけて故とらしう私を通越して、すた〳〵前へ出て、ぬつと小山のやうな路の突先へ蝙蝠傘を差して立つたが、其まゝ向ふへ下りて見えなくなる。  其後から爪先上り、軈てまた太鼓の胴のやうな路の上へ体が乗つた、其なりに又下りぢや。  売薬は先へ下りたが立停つて頻に四辺を瞻して居る様子、執念深く何か巧んだか、と快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。  路は此処で二条になつて、一条はこれから直ぐに坂になつて上りも急なり、草も両方から生茂つたのが、路傍の其の角の処にある、其こそ四抱さうさな、五抱もあらうといふ一本の檜の、背後へ畝つて切出したやうな大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なつて其の背後へ通じて居るが、私が見当をつけて、心組んだのは此方ではないので、矢張今まで歩行いて来た其の巾の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になつて、其からが峠になる筈。  唯見ると、何うしたことかさ、今いふ其檜ぢやが、其処らに何もない路を横截つて見果のつかぬ田圃の中空へ虹のやうに突出て居る、見事な。根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたやうな根が幾筋ともなく露はれた、其根から一筋の水が颯と落ちて、地の上へ流れるのが、取つて進まうとする道の真中に流出してあたりは一面。  田圃が湖にならぬが不思議で、どう〳〵と瀬になつて、前途に一叢の藪が見える、其を境にして凡そ二町ばかりの間宛で川ぢや。礫はばら〳〵、飛石のやうにひよい〳〵と大跨で伝へさうにずつと見ごたへのあるのが、それでも人の手で並べたに違ひはない。  尤も衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道には些と難儀過ぎて、なか〳〵馬などが歩行かれる訳のものではないので。  売薬もこれで迷つたのであらうと思ふ内、切放れよく向を変へて右の坂をすた〳〵と上りはじめた。  見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、 (おい〳〵、松本へ出る路は此方だよ、)といつて無雑作にまた五六歩。  岩の頭へ半身を乗出して、 (茫然してると、木精が攫ふぜ、昼間だつて用捨はねえよ。)と嘲るが如く言ひ棄てたが、軈て岩の陰に入つて高い処の草に隠れた。  暫くすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれ〳〵になつて茂の中に見えなくなつた。 (どッこいしよ、)と暢気なかけ声で、其の流の石の上を飛々に伝つて来たのは、呉座の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓ぢや。」 第五 「前刻の茶店から此処へ来るまで、売薬の外は誰にも逢はなんだことは申上げるまでもない。  今別れ際に声を懸けられたので、先方は道中の商売人と見たゞけに、まさかと思つても気迷がするので、今朝も立ちぎはによく見て来た、前にも申す、其の図面をな、此処でも開けて見やうとして居た処。 (一寸伺ひたう存じますが、) (これは、何でござりまする、)と山国の人などは殊に出家と見ると丁寧にいつてくれる。 (いえ、お伺ひ申しますまでもございませんが、道は矢張これを素直に参るのでございませうな。) (松本へ行かつしやる? あゝ〳〵本道ぢや、何ね、此間の梅雨に水が出てとてつもない川さ出来たでがすよ。) (未だずつと何処までも此水でございませうか。) (何のお前様、見たばかりぢや、訳はござりませぬ、水になつたのは向ふの那の藪までゞ、後は矢張これと同一道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは旧大いお邸の医者様の跡でな、此処等はこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ、人死もいけえこと。御坊様歩行きながらお念仏でも唱へて遣つてくれさつしやい)と問はぬことまで親切に話します。其で能く仔細が解つて確になりはなつたけれども、現に一人蹈迷つた者がある。 (此方の道はこりや何処へ行くので、)といつて売薬の入つた左手の坂を尋ねて見た。 (はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた旧道でがす。矢張信州へ出まする、前は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来の出来るのぢやあござりませぬ。去年も御坊様、親子連の順礼が間違へて入つたといふで、はれ大変な、乞食を見たやうな者ぢやといふて、人命に代りはねえ、追かけて助けべいと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になつて之から押登つて、やつと連れて戻つた位でがす。御坊様も血気に逸つて近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからが此処を行かつしやるよりは増でござるに。はい、気を着けて行かつしやれ。)  此処で百姓に別れて其の川の石の上を行うとしたが弗と猶予つたのは売薬の身の上で。  まさかに聞いたほどでもあるまいが、其が本当ならば見殺ぢや、何の道私は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追着いて引戻して遣らう。罷違ふて旧道を皆歩行いても怪しうはあるまい、恁ういふ時候ぢや、狼の春でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、まゝよ、と思ふて、見送ると早や親切な百姓の姿も見えぬ。 (可し。)  思切つて坂道に取つて懸つた、侠気があつたのではござらぬ、血気に逸つたでは固よりない、今申したやうではずつと最う悟つたやうぢやが、いやなか〳〵の憶病者、川の水を飲むのさへ気が怯けたほど生命が大事で、何故又と謂はつしやるか。  唯挨拶をしたばかりの男なら、私は実の処、打棄つて置いたに違ひはないが、快からぬ人と思つたから、其まゝに見棄てるのが、故とするやうで、気が責めてならなんだから、」 と宗朝は矢張俯向けに床に入つたまゝ合掌していつた。 「其では口でいふ念仏にも済まぬと思ふてさ。」 第六 「さて、聞かつしやい、私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜つて草深い径を何処までも、何処までも。  すると何時の間にか今上つた山は過ぎて又一ツ山が近づいて来た、此辺暫くの間は野が広々として、前刻通つた本街道より最つと巾の広い、なだらかな一筋道。  心持西と、東と、真中に山を一ツ置いて二条並んだ路のやうな、いかさまこれならば鎗を立てゝも行列が通つたであらう。  此の広ツ場でも目の及ぶ限芥子粒ほどの大さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるやうな空を小さな虫が飛歩行いた。  歩行くには此の方が心細い、あたりがばツとして居ると便がないよ。勿論飛騨越と銘を打つた日には、七里に一軒十里に五軒といふ相場、其処で粟の飯にありつけば都合も上の方といふことになつて居ります。其の覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、段々又山が両方から逼つて来て、肩に支へさうな狭いことになつた、直ぐに上。  さあ、之からが名代の天生峠と心得たから、此方も其気になつて、何しろ暑いので、喘ぎながら、先づ草鞋の紐を締直した。  丁度此の上口の辺に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹抜けの風穴があるといふことを年経つてから聞きましたが、なか〳〵其処どころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇跡もあるものかい、お天気さへ晴れたか曇つたか訳が解らず、目まじろぎもしないですた〳〵と捏ねて上る。  とお前様お聞かせ申す話は、これからぢやが、最初に申す通り路がいかにも悪い、宛然人が通ひさうでない上に、恐いのは、蛇で。両方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡して居るではあるまいか。  私は真先に出会した時は笠を被つて竹杖を突いたまゝはツと息を引いて膝を折つて坐つたて。  いやもう生得大嫌、嫌といふより恐怖いのでな。  其時は先づ人助けにずる〴〵と尾を引いて向ふで鎌首を上げたと思ふと草をさら〳〵と渡つた。  漸う起上つて道の五六町も行くと又同一やうに、胴中を乾かして尾も首も見えぬが、ぬたり!  あツといふて飛退いたが、其も隠れた。三度目に出会つたのが、いや急には動かず、然も胴体の太さ、譬ひ這出した処でぬら〳〵と遣られては凡そ五分間位は尾を出すまでに間があらうと思ふ長虫と見えたので已むことを得ず私は跨ぎ越した、途端に下腹が突張つてぞツと身の毛、毛穴が不残鱗に変つて、顔の色も其の蛇のやうになつたらうと目を塞いだ位。  絞るやうな冷汗になる気味の悪さ、足が窘んだといふて立つて居られる数ではないから、びく〳〵しながら路を急ぐと又しても居たよ。  然も今度のは半分に引切つてある胴から尾ばかりの虫ぢや、切口が蒼を帯びて其で恁う黄色な汁が流れてぴくぴくと動いたわ。  我を忘れてばら〳〵とあとへ遁帰つたが、気が着けば例のが未だ居るであらう、譬ひ殺されるまでも二度とは彼を跨ぐ気はせぬ。あゝ前刻のお百姓がものゝ間違でも故道には蛇が恁うといつてくれたら、地獄へ落ちても来なかつたにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でも悚然とする。」と額に手を。 第七 「果が無いから肝を据ゑた、固より引返す分ではない。旧の処には矢張丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ駆け抜けたが、今にもあとの半分が絡ひつきさうで耐らぬから気臆がして足が筋張ると、石に躓いて転んだ、其時膝節を痛めましたものと見える。  それからがく〴〵して歩行くのが少し難渋になつたけれども、此処で倒れては温気で蒸殺されるばかりぢやと、我身で我身を激まして首筋を取つて引立てるやうにして峠の方へ。  何しろ路傍の草いきれが可恐しい、大鳥の卵見たやうなものなんぞ足許にごろ〴〵して居る茂り塩梅。  又二里ばかり大蛇の畝るやうな坂を、山懐に突当つて岩角を曲つて、木の根を繞つて参つたが此処のことで余りの道ぢやつたから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。  何矢張道は同一で聞いたにも見たのにも変はない、旧道は此方に相違はないから心遣りにも何にもならず、固より歴とした図面といふて、描いてある道は唯栗の毯の上へ赤い筋が引張つてあるばかり。  難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してある筈はないのぢやから、薩張と畳んで懐に入れて、うむと此の乳の下へ念仏を唱へ込んで立直つたは可いが、息も引かぬ内に情無い長虫が路を切つた。  其処でもう所詮叶はぬと思つたなり、これは此の山の霊であらうと考へて、杖を棄てゝ膝を曲げ、じり〳〵する地に両手をついて、 (誠に済みませぬがお通しなすつて下さりまし、成たけお昼寝の邪魔になりませぬやうに密と通行いたしまする。  御覧の通り杖も棄てました。)と我折れ染々と頼んで額を上げるとざつといふ凄い音で。  心持余程の大蛇と思つた、三尺、四尺、五尺、四方、一丈余、段々と草の動くのが広がつて、傍の谷へ一文字に颯と靡いた、果は峯も山も一斉に揺いだ、悚毛を震つて立窘むと涼しさが身に染みて気が着くと山颪よ。  此の折から聞えはじめたのは哄といふ山彦に伝はる響、丁度山の奥に風が渦巻いて其処から吹起る穴があいたやうに感じられる。  何しろ山霊感応あつたか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなつたので気も勇み足も捗取つたが程なく急に風が冷たくなつた理由を会得することが出来た。  といふのは目の前に大森林があらはれたので。  世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るといふ人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。  今度は蛇のかはりに蟹が歩きさうで草鞋が冷えた。暫くすると暗くなつた、杉、松、榎と処々見分けが出来るばかりに遠い処から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い。中には光線が森を射通す工合であらう、青だの、赤だの、ひだが入つて美しい処があつた。  時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜つた糸のやうな流で、これは枝を打つて高い処を走るので。ともすると又常盤木が落葉する、何の樹とも知れずばら〴〵と鳴り、かさかさと音がしてぱつと檜笠にかゝることもある、或は行過ぎた背後へこぼれるのもある、其等は枝から枝に溜つて居て何十年ぶりではじめて地の上まで落るのか分らぬ。」 第八 「心細さは申すまでもなかつたが、卑怯な様でも修業の積まぬ身には、恁云ふ暗い処の方が却つて観念に便が宜い。何しろ体が凌ぎよくなつたゝめに足の弱も忘れたので、道も大きに捗取つて、先づこれで七分は森の中を越したらうと思ふ処で、五六尺天窓の上らしかつた樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まつたものがある。  鉛の重かとおもふ心持、何か木の実でゞもあるか知らんと、二三度振て見たが附着いて居て其まゝには取れないから、何心なく手をやつて掴むと、滑らかに冷りと来た。  見ると海鼠を裂たやうな目も口もない者ぢやが、動物には違ひない。不気味で投出さうとするとずる〴〵と辷つて指の尖へ吸ついてぶらりと下つた其の放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじつと見ると、今折曲げた肱の処へつるりと垂懸つて居るのは同形をした、巾が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。  呆気に取れて見る〳〵内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太つて行くのは生血をしたゝかに吸込む所為で、濁つた黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもつた、痣胡瓜のやうな血を取る動物、此奴は蛭ぢやよ。  誰が目にも見違へるわけのものではないが図抜て余り大いから一寸は気がつかぬであつた、何の畠でも、甚麼履歴のある沼でも、此位な蛭はあらうとは思はれぬ。  肱をばさりと振たけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れさうにしないから不気味ながら手で抓んで引切ると、ぶつりといつてやう〳〵取れる暫時も耐つたものではない、突然取つて大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくつて我ものにして居やうといふ処、予て其の用意はして居ると思はれるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れさうにもないのぢや。  と最早や頷のあたりがむづ〳〵して来た、平手で扱て見ると横撫に蛭の背をぬる〳〵とすべるといふ、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋、蒼くなつてそツと見ると肩の上にも一筋。  思はず飛上つて総身を震ひながら此の大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先心覚の奴だけは夢中でもぎ取つた。  何にしても恐しい今の枝には蛭が生つて居るのであらうと余の事に思つて振返ると、見返つた樹の何の枝か知らず矢張幾ツといふこともない蛭の皮ぢや。  これはと思ふ、右も、左も前の枝も、何の事はないまるで充満。  私は思はず恐怖の声を立てゝ叫んだすると何と? 此時は目に見えて、上からぼたり〳〵と真黒な瘠せた筋の入つた雨が体へ降かゝつて来たではないか。  草鞋を穿いた足の甲へも落た上へ又累り、並んだ傍へ又附着いて爪先も分らなくなつた、然うして活きてると思ふだけ脈を打つて血を吸ふやうな。思ひなしか一ツ一ツ伸縮をするやうなのを見るから気が遠くなつて、其時不思議な考が起きた。  此の恐い山蛭は神代の古から此処に屯をして居て人の来るのを待ちつけて、永い久しい間に何の位何斛かの血を吸ふと、其処でこの虫の望が叶ふ其の時はありつたけの蛭が不残吸つたゞけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此処に日の光を遮つて昼もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了うのに相違ないと、いや、全くの事で。」 第九 「凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、其が代がはりの世界であらうと、ぼんやり。  なるほど此の森も入口では何の事もなかつたのに、中へ来ると此通り、もつと奥深く進んだら早や不残立樹の根の方から朽ちて山蛭になつて居やう、助かるまい、此処で取殺される因縁らしい、取留めのない考が浮んだのも人が知死期に近いたからだと弗と気が着いた。  何の道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見て置かうと、然う覚悟が極つては気味の悪いも何もあつたものぢやない、体中珠数生になつたのを手当次第に掻い除け毟り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、宛で躍り狂ふ形で歩行出した。  はじめの内は一廻も太つたやうに思はれて痒さが耐らなかつたが、しまひにはげつそり痩せたと、感じられてづきづき痛んでならぬ、其上を用捨なく歩行く内にも入交りに襲ひをつた。  既に目も眩んで倒れさうになると、禍は此辺が絶頂であつたと見えて、隧道を抜けたやうに遥に一輪のかすれた月を拝んだのは蛭の林の出口なので。  いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕けろ、微塵になれと横なぐりに体を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十余りも蛭の死骸を引くりかへした上から、五六間向ふへ飛んで身顫をして突立つた。  人を馬鹿にして居るではありませんか。あたりの山では処々茅蜩殿、血と泥の大沼にならうといふ森を控へて鳴いて居る、日は斜、谷底はもう暗い。  先づこれならば狼の餌食になつても其は一思に死なれるからと、路は丁度だら〴〵下なり、小僧さん、調子はづれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。  これで蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽つたいのか得もいはれぬ苦しみさへなかつたら、嬉しさに独り飛騨山越の間道で、御経に節をつけて外道踊をやつたであらう一寸清心丹でも噛砕いて疵口へつけたら何うだと、大分世の中の事に気がついて来たわ。捻つても確に活返つたのぢやが、夫にしても富山の薬売は何うしたらう、那の様子では疾に血になつて泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしやぶらうと何百といふ数でのしかゝつて居た日には、酢をぶちまけても分る気遣はあるまい。  恁う思つて居る間、件のだら〴〵坂は大分長かつた。  其を下り切ると流が聞えて、飛だ処に長さ一間ばかりの土橋がかゝつて居る。  はや其の谷川の音を聞くと我身で持余す蛭の吸殻を真逆に投込んで、水に浸したら嘸可心地であらうと思ふ位、何の渡りかけて壊れたら夫なりけり。  危いとも思はずにずつと懸る、少しぐら〴〵としたが難なく越した。向ふから又坂ぢや、今度は上りさ、御苦労千万。」 第十 「到底も此の疲れやうでは、坂を上るわけには行くまいと思つたが、ふと前途に、ヒイヽンと馬の嘶くのが谺して聞えた。  馬士が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経つたは僅ぢやが、三年も五年も同一ものをいふ人間とは中を隔てた。馬が居るやうでは左も右も人里に縁があると、之がために気が勇んで、えゝやつと今一揉。  一軒の山家の前へ来たのには、然まで難儀は感じなかつた、夏のことで戸障子の締もせず、殊に一軒家、あけ開いたなり門といふでもない、突然破椽になつて男が一人、私はもう何の見境もなく、(頼みます、頼みます、)といふさへ助を呼ぶやうな調子で、取縋らぬばかりにした。 (御免なさいまし、)といつたがものもいはない、首筋をぐつたりと、耳を肩で塞ぐほど顔を横にしたまゝ小児らしい、意味のない、然もぼつちりした目で、ぢろ〴〵と、門に立つたものを瞻める、其の瞳を動かすさい、おつくうらしい、気の抜けた身の持方。裾短かで袖は肱より少い、糊気のある、ちやん〳〵を着て、胸のあたりで紐で結へたが、一ツ身のものを着たやうに出ツ腹の太り肉、太鼓を張つたくらゐに、すべ〳〵とふくれて然も出臍といふ奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を、片手でいぢくりながら幽霊のつきで、片手を宙にぶらり。  足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたやうに畳まれさうな、年紀が其で居て二十二三、口をあんぐりやつた上唇で巻込めやう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鶏冠の如くになつて、頷脚へ刎ねて耳に被つた、唖か、白痴か、これから蛙にならうとするやうな少年。私は驚いた、此方の生命に別条はないが、先方様の形相。いや、大別条。 (一寸お願ひ申します。)  それでも為方がないから又言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりといふと僅に首の位置をかへて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること旧の如し。  恁云ふのは、悪くすると突然ふんづかまへて臍を捻りながら返事のかはりに嘗めやうも知れぬ。  私は一足退つたがいかに深山だといつても是を一人で置くといふ法はあるまい、と足を爪立てゝ少し声高に、 (何方ぞ、御免なさい、)といつた。  背戸と思ふあたりで再び馬の嘶く声。 (何方、)と納戸の方でいつたのは女ぢやから、南無三宝、此の白い首には鱗が生へて、体は床を這つて尾をずる〴〵と引いて出やうと、又退つた。 (おゝ、御坊様、)と立顕はれたのは小造の美しい、声も清しい、ものやさしい。  私は大息を吐いて、何にもいはず、 (はい。)と頭を下げましたよ。  婦人は膝をついて坐つたが、前へ伸上るやうにして黄昏にしよんぼり立つた私が姿を透かし見て、(何か用でござんすかい。)  休めともいはずはじめから宿の常世は留主らしい、人を泊めないと極めたものゝやうに見える。  いひ後れては却つて出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることゝ、つか〳〵と前へ出た。丁寧に腰を屈めて、 (私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠のございます処までは未だ何の位ございませう。)」 第十一 「(貴方まだ八里余でございますよ。) (其他に別に泊めてくれます家もないのでせうか。) (其はございません。)といひながら目たゝきもしないで清しい目で私の顔をつく〴〵見て居た。 (いえもう何でございます、実は此先一町行け、然うすれば上段の室に寝かして一晩扇いで居て其で功徳のためにする家があると承りましても、全くの処一足も歩行けますのではございません、何処の物置でも馬小屋の隅でも宜いのでございますから後生でございます。)と前刻馬の嘶いたのは此家より外にはないと思つたから言つた。  婦人は暫く考へて居たが、弗と傍を向いて布の袋を取つて、膝のあたりに置いた桶の中へざら〳〵と一巾、水を溢すやうにあけて縁をおさへて、手で掬つて俯向いて見たが、 (あゝ、お泊め申しましやう、丁度炊いてあげますほどお米もございますから、其に夏のことで、山家は冷えましても夜のものに御不自由もござんすまい。さあ、左も右もあなたお上り遊ばして。) といふと言葉の切れぬ先にどつかり腰を落した。婦人は衝と身を起して立つて来て、 (御坊様、それでござんすが一寸お断り申して置かねばなりません。)  判然いはれたので私はびく〳〵もので、 (唯、はい。) (否、別のことぢやござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞かうといたしますが、あなた忘れても其時聞かして下さいますな、可うござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたは何うしてもお話しなさいませぬ、其を是非にと申しましても断つて有仰らないやうに屹と念を入れて置きますよ。) と仔細ありげなことをいつた。  山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思ふたが、保つにむづかしい戒でもなし、私は唯頷くばかり。 (唯、宜しうございます、何事も仰有りつけは背きますまい。)  婦人は言下に打解けて、 (さあ〳〵汚うございますが早く此方へ、お寛ぎなさいまし、然うしてお洗足を上げませうかえ。) (いえ、其には及びませぬ、雑巾をお貸し下さいまし。あゝ、それからもし其のお雑巾次手にづツぷりお絞んなすつて下さると助ります、途中で大変な目に逢ひましたので体を打棄りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭かうと存じますが恐入りますな。) (然う、汗におなりなさいました、嘸ぞまあ、お暑うござんしたでせう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何より御馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さへ碌におもてなしもいたされませんが、那の、此の裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますから一層其へ行らつしやツてお流しが宜うございませう、)  聞いただけでも飛でも行きたい。 (えゝ、其は何より結構でございますな。) (さあ、其では御案内申しませう、どれ、丁度私も米を磨ぎに参ります。)と件の桶を小脇に抱へて、椽側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板椽の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合はして埃を払いて揃へて呉れた。 (お穿きなさいまし、草鞋は此処にお置きなすつて、)  私は手をあげて一礼して、 (恐入ります、これは何うも、) (お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなた御遠慮を遊ばしますなよ。)先づ恐ろしく調子が可いぢやて。」 第十二 「(さあ、私に跟いて此方へ、)と件の米磨桶を引抱へて手拭を細い帯に挟んで立つた。  髪は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで笄で留めて居る、其の姿の佳さといふてはなかつた。  私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、椽から立つ時一寸見ると、それ例の白痴殿ぢや。  同じく私が方をぢろりと見たつけよ、舌不足が饒舌るやうな、愚にもつかぬ声を出して、 (姉や、こえ、こえ。)といひながら、気だるさうに手を持上げて其の蓬々と生へた天窓を撫でた。 (坊さま、坊さま?)  すると婦人が、下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはき〳〵と続けて頷いた。  少年はうむといつたが、ぐたりとして又臍をくり〳〵〳〵。  私は余り気の毒さに顔も上げられないで密つと盗むやうにして見ると、婦人は何事も別に気に懸けては居らぬ様子、其まゝ後へ跟いて出やうとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。  背戸から廻つて来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱の根付を紐長にぶらりと提げ、啣煙管をしながら並んで立停つた。 (和尚様おいでなさい。)  婦人は其方を振向いて、 (おぢ様何うでござんした。) (然ればさの、頓馬で間の抜けたといふのは那のことかい。根ツから早や狐でなければ乗せ得さうにもない奴ぢやが、其処はおらが口ぢや、うまく仲人して、二月や三月はお嬢様が御不自由のねえやうに、翌日はものにして沢山と此処へ担ぎ込んます。) (お頼み申しますよ。) (承知、承知、おゝ、嬢様何処さ行かつしやる。) (崖の水まで一寸。) (若い坊様連れて川へ落つこちさつさるな。おら此処に眼張つて待つ居るに、)と横様に椽にのさり。 (貴僧、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑んだ。 (一人で参りませう、)と傍へ退くと親仁は吃々と笑つて、 (はゝゝゝ、さあ早くいつてござらつせえ。) (をぢ様、今日はお前、珍らしいお客がお二人ござんした、恁ふ云ふ時はあとから又見えやうも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさらう、私が帰るまで其処に休んで居てをくれでないか。) (可いともの。)といひかけて親仁は少年の傍へにぢり寄つて、鉄挺を見たやうな拳で、脊中をどんとくらはした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくやうな口つきで、にやりと笑ふ。  私は悚気として面を背けたが婦人は何気ない体であつた。  親仁は大口を開いて、 (留主におらが此の亭主を盗むぞよ。) (はい、ならば手柄でござんす、さあ、貴僧参りませうか。)  背後から親仁が見るやうに思つたが、導かるゝまゝに壁について、彼の紫陽花のある方ではない。  軈て脊戸と思ふ処で左に馬小屋を見た、こと〳〵といふ物音は羽目を蹴るのであらう、もう其辺から薄暗くなつて来る。 (貴僧、こゝから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが道が酷うございますからお静に、)といふ。」 第十三 「其処から下りるのだと思はれる、松の木の細くツて度外れに背の高いひよろ〳〵した凡そ五六間上までは小枝一ツもないのがある。其中を潜つたが仰ぐと梢に出て白い、月の形は此処でも別にかはりは無かつた、浮世は何処にあるか十三夜で。  先へ立つた婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まつて覗くと、つい下に居た。  仰向いて、 (急に低くなりますから気をつけて。こりや貴僧には足駄では無理でございましたか不知、宜しくば草履とお取交へ申しませう。)  立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何が扨転げ落ちても早く行つて蛭の垢を落したさ。 (何、いけませんければ跣足になります分のこと、何卒お構ひなく、嬢様に御心配をかけては済みません。) (あれ、嬢様ですつて、)と稍調子を高めて、艶麗に笑つた。 (唯、唯今あの爺様が、然やう申しましたやうに存じますが、夫人でございますか。) (何にしても貴僧には叔母さん位な年紀ですよ。まあ、お早くいらつしやい、草履も可うござんすけれど、刺がさゝりますと不可ません、それにじく〳〵湿れて居てお気味が悪うございませうから)と向ふ向でいひながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くやうな。  ずん〳〵ずん〳〵と道を下りる、傍の叢から、のさ〳〵と出たのは蟇で。 (あれ、気味が悪いよ。)といふと婦人は背後へ高々と踵を上げて向ふへ飛んだ。 (お客様が被在しやるではないかね、人の足になんか搦まつて贅沢ぢやあないか、お前達は虫を吸つて居れば沢山だよ。  貴僧ずん〳〵入らつしやいましな、何うもしはしません。恁云ふ処ですからあんなものまで人懐うございます、厭ぢやないかね、お前達と友達を見たやうで可愧い、あれ可けませんよ。)  蟇はのさ〳〵と又草を分けて入つた、婦人はむかふへずいと。 (さあ此の上へ乗るんです、土が柔かで壊へますから地面は歩行かれません。)  いかにも大木の僵れたのが草がくれに其の幹をあらはして居る、乗ると足駄穿で差支へがない、丸木だけれども可恐しく太いので、尤もこれを渡り果てると忽ち流の音が耳に激した、それまでには余程の間。  仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずつと低うなつたが、今下りた山の頂に半ばかゝつて、手が届きさうにあざやかだけれども、高さは凡そ計り知られぬ。 (貴僧、此方へ。) といつた、婦人はもう一息、目の下に立つて待つて居た。  其処は早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかゝつて此処によどみを造つて居る、川巾は一間ばかり、水に望めば音は然までにもないが、美しさは玉を解いて流したやう、却つて遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。  向ふ岸は又一坐の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端から其山腹を射る月の光に照らし出された辺からは大石小石、栄螺のやうなの、六尺角に切出したの、剣のやうなのやら鞠の形をしたのやら、目の届く限り不残岩で、次第に大く水に浸つたのは唯小山のやう。」 第十四 「(可塩梅に今日は水がふへて居りますから、中に入りませんでも此上で可うございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のやうな素足で石の盤の上に立つて居た。  自分達が立つた側は、却つて此方の山の裾が水に迫つて、丁度切穴の形になつて、其処へ此の石を箝めたやうな誂。川上も下流も見えぬが、向ふの彼の岩山、九十九折のやうな形、流は五尺、三尺、一間ばかりづゝ上流の方が段々遠く、飛々に岩をかゞつたやうに隠見して、いづれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くが如く真白に飜つて。 (結構な流でございますな。) (はい、此の水は源が瀧でございます、此山を旅するお方は皆大風のやうな音を何処かで聞きます。貴僧は此方へ被入つしやる道でお心着きはなさいませんかい。)  然ればこそ山蛭の大藪へ入らうといふ少し前から其の音を。 (彼は林へ風の当るのではございませんので?) (否、誰でも然う申します那の森から三里ばかり傍道へ入りました処に大瀧があるのでございます、其れは〳〵日本一ださうですが路が嶮しうござんすので、十人に一人参つたものはございません。其の瀧が荒れましたと申しまして丁度今から十三年前、可恐しい洪水がございました、恁麼高いところまで川の底になりましてね、麓の村も山の家も残らず流れて了ひました。此の上の洞もはじめは二十軒ばかりあつたのでござんす、此の流れも其時から出来ました、御覧なさいましな、此の通り皆石が流れたのでございますよ。)  婦人は何時かもう米を精げ果てゝ、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反らして立つた、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなほ半腹の其の累々たる巌を照らすばかり。 (今でも恁うやつて見ますと恐いやうでございます。)と屈んで二の腕の処を洗つて居ると。 (あれ、貴僧、那様行儀の可いことをして被在しつてはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すつぱり裸体になつてお洗ひなさいまし、私が流して上げませう。) (否、) (否ぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖に浸るではありませんか、)といふと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすつぱり脱いで取つた。  私は師匠が厳かつたし、経を読む身体ぢや、肌さへ脱いだことはついぞ覚えぬ。然も婦人の前、蝸牛が城を明け渡したやうで、口を利くさへ、況して手足のあがきも出来ず背中を丸くして、膝を合はせて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍の枝へふわりとかけた。 (お召は恁うやつて置きませう、さあお背を、あれさ、じつとして。お嬢様と有仰つて下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い、)といつて片袖を前歯で引上げ、  玉のやうな二の腕をあからさまに背中に乗せたが、熟と見て、 (まあ、) (何うかいたしてをりますか。) (痣のやうになつて一面に。) (えゝ、それでございます、酷い目に逢ひました。)  思ひ出しても悚然とするて。」 第十五 「婦人は驚いた顔をして、 (それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るといふのは彼処でござんす。貴僧は抜道を御存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命も冥加な位、馬でも牛でも吸殺すのでございますもの。然し疼くやうにお痒いのでござんせうね。) (唯今では最う痛みますばかりになりました。) (それでは恁麼ものでこすりましては柔いお肌が擦剥けませう、)といふと手が綿のやうに障つた。  それから両方の肩から、背、横腹、臀、さら〳〵水をかけてはさすつてくれる。  それがさ、骨に通つて冷いかといふと然うではなかつた。暑い時分ぢやが、理屈をいふと恁うではあるまい、私の血が湧いたせいか、婦人の温気か、手で洗つてくれる水が可工合に身に染みる、尤も質の佳い水は柔ぢやさうな。  其の心地の得もいはれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うと〳〵する様子で、疵の痛みがなくなつて気が遠くなつてひたと附ついて居る婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたやうな工合。  山家の者には肖合はぬ、都にも希な器量はいふに及ばぬが弱々しさうな風采ぢや、背を流す内にもはツ〳〵と内証で呼吸がはづむから、最う断らう〳〵と思ひながら、例の恍惚で、気はつきながら洗はした。  其上、山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息ぢやらうと思つた。」  上人は一寸句切つて、 「いや、お前様お手近ぢや、其の明を掻立つて貰ひたい、暗いと怪しからぬ話ぢや、此処等から一番野面で遣つけやう。」  枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなつて居た、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら続けたのである。 「さあ、然うやつて何時の間にやら現とも無しに、恁う、其の不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ、柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に、天窓まで一面に被つたから吃驚、石に尻持を搗いて、足を水の中に投出したから落ちたと思ふ途端に、女の手が脊後から肩越に胸をおさへたので確りつかまつた。 (貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい飛だ暑がりなんでございますから、恁うやつて居りましても恁麼でございますよ。)といふ胸にある手を取つたのを、慌てゝ放して棒のやうに立つた。 (失礼、) (いゝえ誰も見て居りはしませんよ。)と澄まして言ふ、婦人も何時の間にか衣服を脱いで全身を練絹のやうに露はして居たのぢや。  何と驚くまいことか。 (恁麼に太つて居りますから、最うお可愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来ては恁うやつて汗を流します、此の水がございませんかつたら何ういたしませう、貴僧、お手拭。)といつて絞つたのを寄越した。 (其でおみ足をお拭きなさいまし。)  何時の間にか、体はちやんと拭いてあつた、お話し申すも恐多いか、はゝはゝはゝ。」 第十六 「なるほど見た処、衣服を着た時の姿とは違ふて肉つきの豊な、ふつくりとした膚。 (先刻小屋へ入つて世話をしましたので、ぬら〳〵した馬の鼻息が体中へかゝつて気味が悪うござんす。丁度可うございますから私も体を拭きませう、) と姉弟が内端話をするやうな調子。手をあげて黒髪をおさへながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立つた姿、唯これ雪のやうなのを恁る霊水で清めた、恁云ふ女の汗は薄紅になつて流れやう。  一寸〳〵と櫛を入れて、 (まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたら何うしませう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といつて見ませうね。) (白桃の花だと思ひます。)と弗と心着いて何の気もなしにいふと、顔が合ふた。  すると然も嬉しさうに莞爾して其時だけは初々しう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。  私は其まゝ目を外らしたが、其の一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向ふ岸の潵に濡れて黒い、滑かな、大な石へ蒼味を帯びて透通つて映るやうに見えた。  するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地体何でも洞穴があると見える。ひら〳〵と、此方からもひら〳〵と、ものゝ鳥ほどはあらうといふ大蝙蝠が目を遮つた。 (あれ、不可いよ、お客様があるぢやないかね。)  不意を打たれたやうに叫んで身悶をしたのは婦人。 (何うかなさいましたか、)最うちやんと法衣を着たから気丈夫に尋ねる。 (否、) といつたばかりで極が悪さうに、くるりと後向になつた。  其時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちよこ〳〵とやつて来て、啊呀と思ふと、崖から横に宙をひよいと、背後から婦人の背中へぴつたり。  裸体の立姿は腰から消えたやうになつて、抱ついたものがある。 (畜生お客様が見えないかい。) と声に怒を帯びたが、 (お前達は生意気だよ、)と激しくいひさま、腋の下から覗かうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらはしたで。  キツヽヽといふて奇声を放つた、件の小坊主は其まゝ後飛びに又宙を飛んで、今まで法衣をかけて置いた枝の尖へ長い手で釣し下つたと思ふと、くるりと釣瓶覆に上へ乗つて、其なりさら〳〵と木登をしたのは、何と猿ぢやあるまいか。  枝から枝を伝ふと見えて、見上げるやうに高い木の、軈て梢まで、かさ〳〵がさり。  まばらに葉の中を透かして月は山の端を放れた、其の梢のあたり。  婦人はものに拗ねたやう、今の悪戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠とお猿で三度ぢや。  其の悪戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしやぎ過ぎると、若い母様には得てある図ぢや、 本当に怒り出す。  といつた風情で面倒臭さうに衣服を着て居たから、私は何も問はずに少さくなつて黙つて控へた。」 第十七 「優しいなかに強みのある、気軽に見えても何処にか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品の可い、如何なることにもいざとなれば驚くに足らぬといふ身に応のあるといつたやうな風の婦人、恁く嬌瞋を発しては屹度可いことはあるまい、今此の婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然ぢやと、おつかなびつくりで、おづ〳〵控へて居たが、いや案ずるより産が安い。 (貴僧、嘸をかしかつたでござんせうね、)と自分でも思ひ出したやうに快く微笑みながら、 (為やうがないのでございますよ。)  以前と変らず心安くなつた、帯も早や締めたので、 (其では家へ帰りませう。)と米磨桶を小脇にして、草履を引かけて衝と崖へ上つた。 (お危うござんすから、) (否、もう大分勝手が分つて居ります。)  づツと心得た意ぢやつたが、扨上る時見ると思ひの外上までは大層高い。  軈て又例の木の丸太を渡るのぢやが、前刻もいつた通草のなかに横倒れになつて居る、木地が恁う丁度鱗のやうで譬にも能くいふが松の木は蝮に似て居るで。  殊に崖を、上の方へ、可塩梅に畝つた様子が、飛だものに持つて来いなり、凡そ此の位な胴中の長虫がと思ふと、頭と尾を草に隠して月あかりに歴然とそれ。  山路の時を思ひ出すと我ながら足が窘む。  婦人は親切に後を気遣ふては気を着けてくれる。 (其をお渡りなさいます時、下を見てはなりません丁度中途で余程谷が深いのでございますから、目が廻と悪うござんす。) (はい。)  愚図々々しては居られぬから、我身を笑ひつけて、先づ乗つた。引かゝるやう、刻が入てあるのぢやから、気さい確なら足駄でも歩行かれる。  其がさ、一件ぢやから耐らぬて、乗ると恁うぐら〳〵して柔かにずる〳〵と這ひさうぢやから、わつといふと引跨いで腰をどさり。 (あゝ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございませう、是とお穿き換へなさいまし、あれさ、ちやんといふことを肯くんですよ。)  私はその前刻から何となく此婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、何の道命令されるやうに心得たから、いはるゝままに草履を穿いた。  するとお聞きなさい、婦女は足駄を穿きながら手を取つてくれます。  忽ち身が軽くなつたやうに覚えて、訳なく後に従ふて、ひよいと那の孤家の背戸の端へ出た。  出会頭に声を懸けたものがある。 (やあ、大分手間が取れると思つたに、御坊様旧の体で帰らつしやつたの、) (何をいふんだね、小父様家の番は何うおしだ。) (もう可い時分ぢや、又私も余り遅うなつては道が困るで、そろ〳〵青を引出して支度して置かうと思ふてよ。) (其はお待遠でござんした。) (何さ行つて見さつしやい御亭主は無事ぢや、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、はゝゝゝはゝ。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてく〳〵と行つた。  白痴はおなじ処に猶形を存して居る、海月も日にあたらねば解けぬと見える。」 第十八 「ヒイヽン! 叱、どうどうどうと背戸を廻る蹄の音が椽へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引出した。  轡頭を取つて立ちはだかり、 (嬢様そんなら此儘で私参りやする、はい、御坊様に沢山御馳走して上げなされ。)  婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を焚して居たが振仰ぎ、鉄の火箸を持つた手を膝に置いて、 (御苦労でござんす。) (いんえ御懇には及びましねえ。叱!、)と荒縄の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡ぢやわい。  其馬がさ、私も別に馬は珍らしうもないが、白痴殿の背後に畏つて手持不沙汰ぢやから今引いて行かうとする時椽側へひらりと出て、 (其馬は何処へ。) (おゝ、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのぢや、これから明朝御坊様が歩行かつしやる山路を越えて行きやす。) (もし其へ乗つて今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)  婦人は慌だしく遮つて声を懸けた。 (いえ、勿体ない、修行の身が馬で足休めをしませうなぞとは存じませぬ。) (何でも人間を乗つけられさうな馬ぢやあござらぬ。御坊様は命拾をなされたのぢやで、大人しうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰はつしやい。然様ならちよつくら行つて参りますよ。) (あい。) (畜生、)といつたが馬は出ないわ。びく〳〵と蠢いて見える大な鼻面を此方へ捻ぢ向けて頻に私等が居る方を見る様子。 (どう〳〵どう、畜生これあだけた獣ぢや、やい!)  右左にして綱を引張つたが、脚から根をつけた如くにぬつくと立つて居てびくともせぬ。  親仁大に苛立つて、叩いたり、打つたり、馬の胴体について二三度ぐる〳〵と廻はつたが少しも歩かぬ。肩でぶツつかるやうにして横腹に体をあてた時、漸う前足を上げたばかり又四脚を突張り抜く。 (嬢様々々。) と親仁が喚くと、婦人は一寸立つて白い爪さきをちよろちよろと真黒に煤けた太い柱を楯に取つて、馬の目の届かぬほどに小隠れた。  其内腰に挟んだ、煮染めたやうな、なへ〳〵の手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁は之で可しといふ気組、再び前へ廻つたが、旧に依つて貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃へて反返るやうにして、うむと総身の力を入れた。途端に何うぢやい。  凄じく嘶いて前足を両方中空へ飜したから、小な親仁は仰向けに引くりかへつた、づどんどう、月夜に砂煙が𤏋と立つ。  白痴にも之は可笑かつたらう、此時ばかりぢや、真直に首を据ゑて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、那の宙へ下げて居る手を風で煽るやうに、はらり〳〵。 (世話が焼けることねえ、)  婦人は投げるやうにいつて草履を突かけて土間へついと出る。 (嬢様勘違ひさつしやるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめから其処な御坊様に目をつけたつけよ、畜生俗縁があるだツぺいわさ。)  俗縁は驚いたい。  すると婦人が、 (貴僧こゝへ入らつしやる路で誰にかお逢ひなさりはしませんか。)」 第十九 「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢ひましたが、一足前に矢張此路へ入りました。) (あゝ、然う、)と会心の笑を洩らして婦人は蘆毛の方を見た、凡そ耐らなく可笑しいといつた仂ない風采で。  極めて与し易う見えたので、 (もしや此家へ参りませなんだでございませうか。) (否、存じません。)といふ時忽ち犯すべからざる者になつたから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払ふて居る馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、 (為様がないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、其の細帯を解きかけた、片端が土へ引かうとするのを、掻取つて一寸猶予ふ。 (あゝ、あゝ、)と濁つた声を出して白痴が件のひよろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡して遣ると、風呂敷を寛げたやうな、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するやうぢや。  婦人は衣紋を抱合はせ、乳の下でおさへながら静かに土間を出て馬の傍へつゝと寄つた。  私は唯呆気に取られて見て居ると、爪立をして伸上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。  大な鼻頭の正面にすつくりと立つた。丈もすら〳〵と急に高くなつたやうに見えた、婦人は目を据ゑ、口を結び、眉を開いて恍惚となつた有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風は頓に失せて、神か、魔かと思はれる。  其時裏の山、向ふの峯、左右前後にすく〳〵とあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、此の一落の別天地、親仁を下手に控へ、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くが如く、陰々として深山の気が籠つて来た。  生ぬるい風のやうな気勢がすると思ふと、左の肩から片膚を脱いたが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着て居た其の単衣を丸げて持ち、霞も絡はぬ姿になつた。  馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとゞに流れんばかり、突張つた脚もなよ〳〵として身震をしたが、鼻面を地につけて、一掴の白泡を吹出したと思ふと前足を折らうとする。  其時、頤の下へ手をかけて、片手で持つて居た単衣をふわりと投げて馬の目を蔽ふが否や、  兎は躍つて、仰向けざまに身を飜し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟つたと思ふと、衣を脱して掻取りながら下腹を衝と潜つて横に抜けて出た。  親仁は差心得たものと見える、此の機かけに手綱を引いたから、馬はすた〳〵と健脚を山路に上げた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――見る間に眼界を遠ざかる。  婦人は早や衣服を引かけて椽側へ入つて来て、突然帯を取らうとすると、白痴は惜しさうに押へて放さず、手を上げて。婦人の胸を圧へやうとした。  邪慳に払ひ退けて、屹と睨むで見せると、其まゝがつくりと頭を垂れた、総ての光景は行燈の火も幽かに幻のやうに見えたが、炉にくべた柴がひら〳〵と炎先を立てたので、婦人は衝と走つて入る。空の月のうらを行くと思ふあたり遥に馬子唄が聞えたて。)」 第二十 「さて、其から御飯の時ぢや、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなか〳〵人参と干瓢どころではござらぬ。  品物は佗しいが、なか〳〵の御手料理、餓えては居るし冥加至極なお給仕、盆を膝に構へて其上を肱をついて、頬を支えながら、嬉しさうに見て居たわ。  椽側に居た白痴は誰も取合はぬ徒然に堪へられなくなつたものか、ぐた〳〵と膝行出して、婦人の傍へ其の便々たる腹を持つて来たが、崩れたやうに胡座して、頻に恁う我が膳を視めて、指をした。 (うゝ〳〵、うゝ〳〵。) (何でございますね、あとでお食んなさい、お客様ぢやあゝりませんか。)  白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉つた。 (厭? 仕様がありませんね、それぢや御一所に召しあがれ。貴僧御免を蒙りますよ。)  私は思はず箸を置いて、 (さあ何うぞお構ひなく、飛だ御雑作を、頂きます。) (否、何の貴僧。お前さん後程に私と一所にお食べなされば可のに。困つた人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早く同一やうな膳を拵えてならべて出した。  飯のつけやうも効々しい女房ぶり、然も何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。  白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めて居たが、 (彼を、あゝ、彼、彼。)といつてきよろ〳〵と四辺を眴す。  婦人は熟と瞻つて、 (まあ、可ぢやないか。そんなものは何時でも食られます、今夜はお客様がありますよ。) (うむ、いや、いや。)と肩腹を揺つたが、べそを掻いて泣出しさう。  婦人は困じ果てたらしい、傍のものゝ気の毒さ。 (嬢様、何か存じませんが、おつしやる通りになすつたが可いではござりませんか。私にお気扱は却つて心苦しうござります。)と慇懃にいふた。  婦人は又最う一度、 (厭かい、これでは悪いのかい。)  白痴が泣出しさうにすると、然も怨めしげに流盻に見ながら、こはれ〳〵になつた戸棚の中から、鉢に入つたのを取出して手早く白痴の膳につけた。 (はい、)と故とらしく、すねたやうにいつて笑顔造。  はてさて迷惑な、こりや目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしやぶるであらうと、潜と見て居ると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。  其もさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたらうといふ握太なのを横啣にしてやらかすのぢや。  婦人はよく〳〵あしらひかねたか、盗むやうに私を見て颯と顔を赤らめて初心らしい、然様な質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。  なるほど此の少年はこれであらう、身体は沢庵色にふとつて居る。やがてわけもなく餌食を平らげて、湯ともいはず、ふツ〳〵と太儀さうに呼吸を向ふへ吐くわさ。 (何でございますか、私は胸に支へましたやうで、些少も欲しくございませんから、又後程に頂きましやう、)と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片つけてな。」 第二十一 「頃刻悄乎して居たつけ。 (貴僧嘸お疲労、直ぐにお休ませ申しませうか。) (難有う存じます、未だ些とも眠くはござりません、前刻体を洗ひましたので草臥もすつかり復りました。) (那の流れは其麼病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても半日彼処につかつて居りますと、水々しくなるのでございますよ。尤も那のこれから冬になりまして山が宛然氷つて了ひ、川も崖も不残雪になりましても、貴僧が行水を遊ばした彼処ばかりは水が隠れません、然うしていきりが立ちます。  鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折つた五位鷺、種々な者が浴みに参りますから其の足痕で崖の路が出来ます位、屹と其が利いたのでございませう。  那様にございませんければ恁うやつてお話をなすつて下さいまし、淋しくつてなりません、本当にお可愧しうございますが恁麼山の中に引籠つてをりますと、ものをいふことも忘れましたやうで、心細いのでございますよ。  貴僧、それでもお眠ければ御遠慮なさいますなえ。別にお寝室と申してもございませんが其換り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時、蚊帳を釣つて寝かさうとすると、何うして入るのか解らないので、階子を貸せいと喚いたと申して嫐るのでございます。  沢山朝寝を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だつて居りませんからお心休うござんせう。  此人も生れ落ちると此山で育つたので、何にも存じません代、気の可い人で些ともお心置はないのでござんす。  それでも風俗のかはつた方が被入しやいますと、大事にしてお辞義をすることだけは知つてゞございますが、未だ御挨拶をいたしませんね。此頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすつたよ、否、宛で愚なのではございません、何でもちやんと心得て居ります。  さあ、御坊様に御挨拶をなすつて下さい、まあ、お辞義をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差覗いて、いそ〳〵していふと、白痴はふら〳〵と両手をついて、ぜんまいが切れたやうにがつくり一礼。 (はい、)といつて私も何か胸が迫つて頭を下げた。  其まゝ其の俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れやうとするのを、婦人は優しう扶け起して、 (おゝ、よく為たのねえ、)  天晴といひたさうな顔色で、 (貴僧、申せば何でも出来ませうと思ひますけれども、此人の病ばかりはお医者の手でも那の水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。其に御覧なさいまし、お辞義一ツいたしますさい、あの通大儀らしい。  ものを教へますと覚えますのに嘸骨が折れて切なうござんせう、体を苦しませるだけだと存じて何も為せないで置きますから、段々、手を動かす働も、ものをいふことも忘れました。其でも那の、謡が唄へますわ。二ツ三ツ今でも知つて居りますよ。さあ御客様に一ツお聞かせなさいましなね。)  白痴は婦人を見て、又私が顔をぢろ〳〵見て、人見知をするといつた形で首を振つた。」 第二十二 「左右して、婦人が、激ますやうに、賺すやうにして勧めると、白痴は首を曲げて彼の臍を弄びながら唄つた。 木曾の御嶽山は夏でも寒い、       袷遣りたや足袋添へて。 (よく知つて居りませう、)と婦人は聞澄して莞爾する。  不思議や、唄つた時の白痴の声は此話をお聞きなさるお前様は固よりぢやが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続く処から、第一其の清らかな涼しい声といふ者は、到底此の少年の咽喉から出たのではない。先づ前の世の此白痴の身が、冥途から管で其のふくれた腹へ通はして寄越すほどに聞えましたよ。  私は畏つて聞き果てると膝に手をついたツ切何うしても顔を上げて其処な男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はら〳〵と落涙した。  婦人は目早く見つけたさうで、 (おや、貴僧、何うかなさいましたか。)  急にものもいはれなんだが漸々、 (唯、何、変つたことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問ふては下さりますな。) と仔細は語らず唯思入つて然う言ふたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纒ふて、珠履を穿たば、正に驪山に入つて陛下と相抱くべき豊肥妖艶の人が其男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、親切さに、人事ながら嬉しくて、思はず涙が流れたのぢや。  すると人の腹の中を読みかねるやうな婦人ではない、忽ち様子を悟つたかして、 (貴僧は真個にお優しい。)といつて、得も謂はれぬ色を目に湛へて、ぢつと見た。私も首を低れた、むかふでも差俯向く。  いや、行燈が又薄暗くなつて参つたやうぢやが、恐らくこりや白痴の所為ぢやて。  其時よ。  座が白けて、暫らく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたひの太夫、退屈をしたと見えて顔の前の行燈を吸込むやうな大欠伸をしたから。  身動きをしてな、 (寝ようちやあ、寝ようちやあ。)とよた〳〵体を取扱ふわい。 (眠うなつたのかい、もうお寝か、)といつたが座り直つて弗と気がついたやうに四辺を眴した。戸外は恰も真昼のやう、月の光は開け広げた家の内へはら〳〵とさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かつた。 (貴僧ももうお休みなさいますか。) (はい、御厄介にあいなりまする。) (まあ、いま宿を寝かします、おゆつくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございませう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧は此処へお広くお寛ぎが可うござんす、一寸待つて。)といひかけて衝と立ち、つか〳〵と足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であつたので、其の拍手に黒髪が先を巻いたまゝ頷へ崩れた。  鬢をおさへて、戸につかまつて、戸外を透かしたが、独言をした。 (おや〳〵さつきの騒ぎで櫛を落したさうな。)  いかさま馬の腹を潜つた時ぢや。」 第二十三  此折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが寂として居るから能く。  軈て小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ干杓の響。 「おゝ、積つた、積つた。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。 「ほゝう、此の若狭の商人は何処へか泊つたと見える、何か愉快い夢でも見て居るかな。」 「何うぞ其後を、それから、」と聞く身には他事をいふうちが悶かしく、膠もなく続を促した。 「さて、夜も更けました、」といつて旅僧は又語出した。 「大抵推量もなさるであらうが、いかに草臥れて居つても申上げたやうな深山の孤家で、眠られるものではない其に少し気になつて、はじめの内私を寝かさなかつた事もあるし、目は冴えて、まじ〳〵して居たが、有繋に、疲が酷いから、心は少し茫乎して来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。  其処ではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたつぷり経つたものをと、怪しんだが、やがて気が着いて、恁云ふ処ぢや山寺処ではないと思ふと、俄に心細くなつた。  其時は早や、夜がものに譬へると谷の底ぢや、白痴がだらしのない寝息も聞えなくなると、忽ち戸の外にものゝ気勢がして来た。  獣の足音のやうで、然まで遠くの方から歩行いて来たのではないやう、猿も、蟇も居る処と、気休めに先づ考へたが、なかなか何うして。  暫くすると今其奴が正面の戸に近いたなと思つたのが、羊の啼声になる。  私は其の方を枕にして居たのぢやから、つまり枕元の戸外ぢやな。暫くすると、右手の彼の紫陽花が咲いて居た其の花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。  むさゝびか知らぬがきツ〳〵といつて屋の棟へ、軈て凡そ小山ほどあらうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が啼いた。遠く彼方からひた〳〵と小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思はれた、いやさまざまにむら〳〵と家のぐるりを取巻いたやうで、二十三十のものゝ鼻息、羽音、中には囁いて居るのがある。恰も何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したやうな怪の姿が板戸一重、魑魅魍魎といふのであらうか、ざわ〳〵と木の葉が戦ぐ気色だつた。  息を凝すと、納戸で、 (うむ、)といつて長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人ぢや。 (今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。 (お客様があるぢやないか。) と暫く経つて二度目のは判然と清しい声。  極めて低声で、 (お客様があるよ。)といつて寝返る音がした、更に寝返る音がした。  戸の外のものゝ気勢は動揺を造るが如く、ぐら〳〵と家が揺いた。  私は陀羅尼を咒した。 若不順我咒  悩乱説法者  頭破作七分 如阿梨樹枝  如殺父母罪  亦如厭油殃 斗秤欺誰人  調達僧罪犯  犯此法師者 当獲如是殃 と一心不乱。颯と木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、忽ち静り返つた、夫婦が閨もひツそりした。」 第二十四 「翌日又正午頃、里近く、瀧のある処で、昨日馬を売に行つた親仁の帰に逢ふた。  丁度私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送らうと思つて居た処で。  実を申すと此処へ来る途中でも其の事ばかり考へる、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかつたが、道が難渋なにつけても汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚も詰らない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだ処で何程のこともあるまい、活仏様ぢやといふてわあ〳〵拝まれゝば人いきれで胸が悪くなるばかりか。  些とお話もいかゞぢやから、前刻はことを分けていひませなんだが、昨夜も白痴を寝かしつけると、婦人が又炉のある処へやつて来て、世の中へ苦労をして出やうより、夏は涼しく、冬は暖い、此の流と一所に私の傍においでなさいといふてくれるし、まだ〳〵其ばかりでは自身に魔が魅したやうぢやけれども、こゝに我身で我身に言訳が出来るといふのは、頻に婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従ふてものをいふことさへ忘れるやうな気がするといふは何たる事!  殊に今朝も東雲に袂を振切つて別れやうとすると、お名残惜しや、かやうな処に恁うやつて老朽ちる身の、再びお目にはかゝられまい、いさゝ小川の水となりとも、何処ぞで白桃の花が流れるのを御覧になつたら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれ〳〵になつたことゝ思へ、といつて、悄れながら、なほ親切に、道は唯此の谷川の流に沿ふて行きさへすれば、何れほど遠くても里に出らるゝ、目の下近く水が躍つて、瀧になつて落つるのを見たら、人家が近いたと心を安ずるやうに、と気をつけて孤家の見えなくなつた辺で指をしてくれた。  其手と手を取交はすには及ばずとも、傍につき添つて、朝夕の話対手、蕈の汁で御膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾つて、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑つたり、それから谷川で二人して、其時の婦人が裸体になつて、私が背中へ呼吸が通つて、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、其まゝ命が失せても可い!  瀧の水を見るにつけても耐へ難いのは其事であつた、いや、冷汗が流れますて。  其上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽が来て喜ばねばならぬ人家が近いたのも、高がよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞はれるのが関の山と、里へ入るのも厭になつたから、石の上へ膝を懸けた、丁度目の下にある瀧ぢやつた、これがさ、後に聞くと女夫瀧と言ふさうで。  真中に先づ鰐鮫が口をあいたやうな尖のとがつた黒い大巌が突出て居ると、上から流れて来る颯と瀬の早い谷川が、之に当つて両に岐れて、凡そ四丈ばかりの瀧になつて哄と落ちて、又暗碧に白布を織つて矢を射るやうに里へ出るのぢやが、其巌にせかれた方は六尺ばかり、之は川の一巾を裂いて糸も乱れず、一方は巾が狭い、三尺位、この下には雑多な岩が並ぶと見えて、ちら〳〵ちら〳〵と玉の簾を百千に砕いたやう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縺れつ。」 第二十五 「唯一筋でも岩を越して男瀧に縋りつかうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通はぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるといふ風情、此の方は姿も窶れ容も細つて、流るゝ音さへ別様に、泣くか、怨むかとも思はれるが、あはれにも優しい女瀧ぢや。  男瀧の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様ぢや、之が二つ件の巌に当つて左右に分れて二筋となつて落ちるのが身に浸みて、女瀧の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震はすやうで、岸に居てさへ体がわなゝく、肉が跳る。況して此の水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思ふと、気の精か其の女瀧の中に絵のやうな彼の婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思ふと又浮いて、千筋に乱るゝ水とゝもに其の膚が粉に砕けて、花片が散込むやうな。あなやと思ふと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となつて、浮いつ沈みつ、ぱツと刻まれ、あツと見る間に又あらはれる。私は耐らず真逆に瀧の中へ飛込んで、女瀧を確と抱いたとまで思つた。気がつくと男瀧の方はどう〳〵と地響打たせて、山彦を呼んで轟いて流れて居る、あゝ其の力を以て何故救はぬ、儘よ!  瀧に身を投げて死なうより、旧の孤家へ引返せ。汚はしい慾のあればこそ恁うなつた上に蹰躇をするわ、其顔を見て声を聞けば、渠等夫婦が同衾するのに枕を並べて差支へぬ、それでも汗になつて修行をして、坊主で果てるよりは余程の増ぢやと、思切つて戻らうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、 (やあ、御坊様、)といはれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。  馬は売つたか、身軽になつて、小さな包を肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌溂として尾の動きさうな、鮮しい其丈三尺ばかりなのを、腮に藁を通して、ぶらりと提げて居た。何にも言はず急にものもいはれないで瞻ると、親仁はじつと顔を見たよ。然うしてにや〳〵と、又一通の笑方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、 (何をしてござる、御修行の身が、この位の暑で、岸に休んで居さつしやる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かつしやりや、昨夜の泊から此処まではたつた五里、もう里へ行つて地蔵様を拝まつしやる時刻ぢや。  何ぢやの、己が嬢様に念が懸つて煩悩が起きたのぢやの。うんにや、秘さつしやるな、おらが目は赤くツても、白いか黒いかはちやんと見える。  地体並のものならば、嬢様の手が触つて那の水を振舞はれて、今まで人間で居やう筈はない。  牛か馬か、蟇か、猿か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上つて来さしつた時、手足も顔も人ぢやから、おらあ魂消た位、お前様それでも感心に志が堅固ぢやから助かつたやうなものよ。  何と、おらが曳いて行つた馬を見さしつたらう、それで、孤家で来さつしやる山路で富山の反魂丹売に逢はしつたといふではないか、それ見さつせい、彼の助倍野郎、疾に馬になつて、それ馬市で銭になつて、お銭が、そうら此の鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じやと思はつしやるの。)」  私は思はず遮つた。 「お上人?」 第二十六  上人は頷きながら呟いて、 「いや、先づ聞かつしやい、彼の孤家の婦人といふは、旧な、これも私には何かの縁があつた、あの恐い魔処へ入らうといふ岐道の水が溢れた往来で、百姓が教へて、彼処は其の以前医者の家であつたといふたが、其の家の嬢様ぢや。  何でも飛騨一円当時変つたことも珍らしいこともなかつたが、唯取出でゝいふ不思議は、此の医者の娘で、生れると玉のやう。  母親殿は頬板のふくれた、眦の下つた、鼻の低い、俗にさし乳といふあの毒々しい左右の胸の房を含んで、何うして彼ほど美しく育つたものだらうといふ。  昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、然もなければ狩倉の時貴人のお目に留まつて御殿に召出されるのは、那麼のぢやと噂が高かつた。  父親の医者といふのは、頬骨のとがつた髯の生へた、見得坊で傲慢、其癖でもぢや、勿論田舎には苅入の時よく稲の穂が目に入ると、それから煩らう、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣つたが、内科と来てはからつぺた。外科なんと来た日にやあ、鬢付へ水を垂らしてひやりと疵につける位な処。  鰯の天窓も信心から、其でも命数の尽きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に繁昌した。  殊に娘が十六七、女盛となつて来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生れてござつたといつて、信心渇仰の善男善女? 病男病女が我も我もと詰め懸ける。  其といふのが、はじまりは彼の嬢様が、それ、馴染の病人には毎日顔を合はせる所から、愛相の一つも、あなたお手が痛みますかい、甚麼でございます、といつて手先へ柔な掌が障ると第一番に次作兄いといふ若いのゝ(りやうまちす)が全快、お苦しさうなといつて腹をさすつて遣ると水あたりの差込の留まつたのがある、初手は若い男ばかりに利いたが、段々老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切つて出すさへ、錆びた小刀で引裂く医者殿が腕前ぢや、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴつたりと胸をあてゝ肩を押へて居ると、我慢が出来る、といつたやうなわけであつたさうな。  一時彼の藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て可恐い大な巣をかけた。  すると、医者の内弟子で薬局、拭掃除もすれば総菜畠の芋も堀る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵といふ、其頃二十四五歳、稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇ぢやから見附かると叱られる、之を股引や袴と一所に戸棚の上に載せて置いて、隙さへあればちびり〳〵と飲んでた男が、庭掃除をするといつて、件の蜂の巣を見つけたつけ。  椽側へ遣つて来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸けませう、無躾でござりますが、私の此の手を握つて下さりますと、彼の蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せましやう。お手が障つた所だけは刺しましても痛みませぬ、竹箒で引払いては八方へ散つて体中に集られては夫は凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控へる手で無理に握つて貰ひ、つか〳〵と行くと、凄じい虫の唸、軈て取つて返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を揮ふのがある、中には掴んだ指の股へ這出して居るのがあツた。  さあ、那の神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のやうに評判が八方へ。  其の頃からいつとなく感得したものと見えて、仔細あつて、那の白痴に身を任せて山に籠つてからは神変不思議、年を経るに従ふて神通自在ぢや、はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てゝ居ても、道を迷ふた旅人は嬢様が思ふまゝはツといふ呼吸で変ずるわ。  と親仁が其時物語つて、御坊は、孤家の周囲で、猿を見たらう、蟇を見たらう、蝙蝠を見たであらう、兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて、畜生にされたる輩!  あはれ其時那の婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸はれたのも、夜中に𩳦魅魍魎に魘はれたのも、思出して、私は犇々と胸に当つた、  なほ親仁のいふやう。  今の白痴も、件の評判の高かつた頃、医者の内へ来た病人、其頃は未だ子供、朴訥な父親が附添ひ、髪の長い、兄貴がおぶつて山から出て来た。脚に難渋な腫物があつた、其の療治を頼んだので。  固より一室を借受けて、逗留をして居つたが、かほどの悩は大事ぢや、血も大分に出さねばならぬ殊に子供手を下ろすには体に精分をつけてからと、先づ一日に三ツづゝ鶏卵を飲まして、気休めに膏薬を張つて置く。  其の膏薬を剥がすにも親や兄、又傍のものが手を懸けると、堅くなつて硬ばつたのが、めり〳〵と肉にくツついて取れる、ひい〳〵と泣くのぢやが、娘が手をかけてやれば黙つて耐へた。  一体は医者殿、手のつけやうがなくつて、身の衰をいひ立てに一日延ばしにしたのぢやが三日経つと、兄を残して、克明な父親の股引の膝でずつて、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋を穿いて又地に手をついて、次男坊の生命の扶かりまするやうに、ねえ〳〵、といふて山へ帰つた。  其でもなか〳〵捗取らず、七日も経つたので、後に残つて附添つて居た兄者人が丁度苅入で、此節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のやう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがへのない稲が腐つては、餓死でござりまする、総領の私は一番の働手、かうしては居られませぬから、と辞をいつて、やれ泣くでねえぞ、としんめり子供にいひ聞かせて病人を置いて行つた。  後には子供一人、其時が戸長様の帳面前年紀六ツ、親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違へたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育つたから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生で聞分があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵を吸はせられる汁も、今に療治の時不残血になつて出ることゝ推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといはしつたと、耐へて居た心の内。  娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切をくわへて隅の方へ引込むいぢらしさ。  弥よ明日が手術といふ夜は、皆寝静まつてから、しく〳〵蚊のやうに泣いて居るのを、手水に起きた娘が見つけてあまりの不便さに抱いて寝てやつた。  さて療治となると例の如く娘が背後から抱いて居たから、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじつと耐へたのに、何処を切違へたか、それから流れ出した血が留まらず、見る〳〵内に色が変つて、危くなつた。  医者も蒼くなつて、騒いだが、神の扶けか漸う生命は取留まり、三日ばかりで血も留つたが、到頭腰が抜けた、固より不具。  之が引摺つて、足を見ながら情なさうな顔をする、蟋蟀が𢪸がれた脚を口に啣へて泣くのを見るやう、目もあてられたものではない。  しまひには泣出すと、外聞もあり、少焦で、医者は可恐い顔をして睨みつけると、あはれがつて抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋る状に、年来随分と人を手にかけた医者も我を折つて腕組をして、はツといふ溜息。  軈て父親が迎にござつた、因果と諦めて、別に不足はいはなんだが、何分小児が娘の手を放れようといはぬので、医者も幸、言訳旁、親兄の心もなだめるため、其処で娘に小児を家まで送らせることにした。  送つて来たのが孤家で。  其時分はまだ一ヶの荘、家も小二十軒あつたのが、娘が来て一日二日、つひほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。瀧を覆すやうで小留もなく家に居ながら皆蓑笠で凌いだ位、茅葺の繕をすることは扨置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おう〳〵と声をかけ合つて纔に未だ人種の世に尽きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出して其風の勢こゝが峠といふ処で忽ち泥海。  此の洪水で生残つたのは、不思議にも娘と小児と其に其時村から供をした此の親仁ばかり。  同一水で医者の内も死絶えた、さればかやうな美女が片田舎に生れたのも国が世がはり、代がはりの前兆であらうと、土地のものは言伝へた。  嬢様は帰るに家なく世に唯一人となつて小児と一所に山に留まつたのは御坊が見らるゝ通、又那の白痴につきそつて行届いた世話も見らるゝ通、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかはりはない。  といひ果てゝ親仁の又気味の悪い北叟笑。 (恁う身の上を話したら、嬢様を不便がつて、薪を折つたり水を汲む手扶けでもしてやりたいと、情が懸らう。本来の好心、可加減な慈悲ぢやとか、情ぢやとかいふ名につけて、一層山へ帰りたかんべい、はて措かつしやい。彼の白痴殿の女房になつて、世の中へは目もやらぬ換にやあ、嬢様は如意自在、男はより取つて、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊に其の洪水以来、山を穿つたこの流は天道様がお授けの、男を誘ふ怪しの水、生命を取られぬものはないのぢや。  天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると旧の通、其こそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖を翳せば雨も降なり、眉を開けば風も吹くぞよ。  然もうまれつきの色好み、殊に又若いのが好ぢやで、何か御坊にいうたであらうが、其を実とした処で、軈て飽かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、忽ち形が変ずるばかりぢや。  いや、軈て此の鯉を料理して、大胡座で飲む時の魔神の姿を見せたいな。  妄念は起さずに早う此処を退かつしやい、助けられたが不思議な位、嬢様別してのお情ぢやわ、生命冥加な、お若いの、屹と修行をさつしやりませ。)と又一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまゝ見向きもしないで、山路を上の方。  見送ると小さくなつて、一坐の大山の背後へかくれたと思ふと、油旱の焼けるやうな空に、其の山の巓から、すく〳〵と雲が出た、瀧の音も静まるばかり殷々として雷の響。  藻抜けのやうに立つて居た、私が魂は身に戻つた、其方を拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌しく、一散に駆け下りたが、里に着いた時分は山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたらうと思ふ大雨であつた。」  高野聖は此のことについて、敢て別に註して教を与へはしなかつたが、翌朝袂を分つて、雪中山越にかゝるのを、名残惜しく見送ると、ちら〳〵と雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、恰も雲に駕して行くやうに見えたのである。
底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店    2004(平成16)年1月7日第1刷発行 底本の親本:「高野聖」左久良書房    1908(明治41)年2月20日 初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂    1900(明治33)年2月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「高野聖《かうやひじり》」となっています。 ※初出時の署名は「鏡花小史」です。 入力:砂場清隆 校正:門田裕志 2007年2月12日作成 2016年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043466", "作品名": "高野聖", "作品名読み": "こうやひじり", "ソート用読み": "こうやひしり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第五年第三巻」春陽堂、1900(明治33)年2月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-18T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card43466.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第八巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年1月7日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年1月7日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年1月7日第1刷", "底本の親本名1": "高野聖", "底本の親本出版社名1": "左久良書房", "底本の親本初版発行年1": "1908(明治41)年2月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43466_ruby_25777.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43466_26099.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
一 「参謀本部編纂の地図をまた繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附けた折本になってるのを引張り出した。  飛騨から信州へ越える深山の間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立も無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸ばすと達きそうな峰があると、その峰へ峰が乗り、巓が被さって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。  道と空との間にただ一人我ばかり、およそ正午と覚しい極熱の太陽の色も白いほどに冴え返った光線を、深々と戴いた一重の檜笠に凌いで、こう図面を見た。」  旅僧はそういって、握拳を両方枕に乗せ、それで額を支えながら俯向いた。  道連になった上人は、名古屋からこの越前敦賀の旅籠屋に来て、今しがた枕に就いた時まで、私が知ってる限り余り仰向けになったことのない、つまり傲然として物を見ない質の人物である。  一体東海道掛川の宿から同じ汽車に乗り組んだと覚えている、腰掛の隅に頭を垂れて、死灰のごとく控えたから別段目にも留まらなかった。  尾張の停車場で他の乗組員は言合せたように、残らず下りたので、函の中にはただ上人と私と二人になった。  この汽車は新橋を昨夜九時半に発って、今夕敦賀に入ろうという、名古屋では正午だったから、飯に一折の鮨を買った。旅僧も私と同じくその鮨を求めたのであるが、蓋を開けると、ばらばらと海苔が懸った、五目飯の下等なので。 (やあ、人参と干瓢ばかりだ。)と粗忽ッかしく絶叫した。私の顔を見て旅僧は耐え兼ねたものと見える、くっくっと笑い出した、もとより二人ばかりなり、知己にはそれからなったのだが、聞けばこれから越前へ行って、派は違うが永平寺に訪ねるものがある、但し敦賀に一泊とのこと。  若狭へ帰省する私もおなじ処で泊らねばならないのであるから、そこで同行の約束が出来た。  かれは高野山に籍を置くものだといった、年配四十五六、柔和ななんらの奇も見えぬ、懐しい、おとなしやかな風采で、羅紗の角袖の外套を着て、白のふらんねるの襟巻をしめ、土耳古形の帽を冠り、毛糸の手袋を嵌め、白足袋に日和下駄で、一見、僧侶よりは世の中の宗匠というものに、それよりもむしろ俗か。 (お泊りはどちらじゃな、)といって聞かれたから、私は一人旅の旅宿のつまらなさを、しみじみ歎息した、第一盆を持って女中が坐睡をする、番頭が空世辞をいう、廊下を歩行くとじろじろ目をつける、何より最も耐え難いのは晩飯の支度が済むと、たちまち灯を行燈に換えて、薄暗い処でお休みなさいと命令されるが、私は夜が更けるまで寐ることが出来ないから、その間の心持といったらない、殊にこの頃は夜は長し、東京を出る時から一晩の泊が気になってならないくらい、差支えがなくば御僧とご一所に。  快く頷いて、北陸地方を行脚の節はいつでも杖を休める香取屋というのがある、旧は一軒の旅店であったが、一人女の評判なのがなくなってからは看板を外した、けれども昔から懇意な者は断らず泊めて、老人夫婦が内端に世話をしてくれる、宜しくばそれへ、その代といいかけて、折を下に置いて、 (ご馳走は人参と干瓢ばかりじゃ。)  とからからと笑った、慎み深そうな打見よりは気の軽い。 二  岐阜ではまだ蒼空が見えたけれども、後は名にし負う北国空、米原、長浜は薄曇、幽に日が射して、寒さが身に染みると思ったが、柳ヶ瀬では雨、汽車の窓が暗くなるに従うて、白いものがちらちら交って来た。 (雪ですよ。) (さようじゃな。)といったばかりで別に気に留めず、仰いで空を見ようともしない、この時に限らず、賤ヶ岳が、といって、古戦場を指した時も、琵琶湖の風景を語った時も、旅僧はただ頷いたばかりである。  敦賀で悚毛の立つほど煩わしいのは宿引の悪弊で、その日も期したるごとく、汽車を下ると停車場の出口から町端へかけて招きの提灯、印傘の堤を築き、潜抜ける隙もあらなく旅人を取囲んで、手ン手に喧しく己が家号を呼立てる、中にも烈しいのは、素早く手荷物を引手繰って、へい難有う様で、を喰わす、頭痛持は血が上るほど耐え切れないのが、例の下を向いて悠々と小取廻しに通抜ける旅僧は、誰も袖を曳かなかったから、幸いその後に跟いて町へ入って、ほっという息を吐いた。  雪は小止なく、今は雨も交らず乾いた軽いのがさらさらと面を打ち、宵ながら門を鎖した敦賀の通はひっそりして一条二条縦横に、辻の角は広々と、白く積った中を、道の程八町ばかりで、とある軒下に辿り着いたのが名指の香取屋。  床にも座敷にも飾りといっては無いが、柱立の見事な、畳の堅い、炉の大いなる、自在鍵の鯉は鱗が黄金造であるかと思わるる艶を持った、素ばらしい竈を二ツ並べて一斗飯は焚けそうな目覚しい釜の懸った古家で。  亭主は法然天窓、木綿の筒袖の中へ両手の先を竦まして、火鉢の前でも手を出さぬ、ぬうとした親仁、女房の方は愛嬌のある、ちょっと世辞のいい婆さん、件の人参と干瓢の話を旅僧が打出すと、にこにこ笑いながら、縮緬雑魚と、鰈の干物と、とろろ昆布の味噌汁とで膳を出した、物の言振取成なんど、いかにも、上人とは別懇の間と見えて、連の私の居心のいいといったらない。  やがて二階に寝床を拵えてくれた、天井は低いが、梁は丸太で二抱もあろう、屋の棟から斜に渡って座敷の果の廂の処では天窓に支えそうになっている、巌乗な屋造、これなら裏の山から雪崩が来てもびくともせぬ。  特に炬燵が出来ていたから私はそのまま嬉しく入った。寝床はもう一組おなじ炬燵に敷いてあったが、旅僧はこれには来らず、横に枕を並べて、火の気のない臥床に寝た。  寝る時、上人は帯を解かぬ、もちろん衣服も脱がぬ、着たまま円くなって俯向形に腰からすっぽりと入って、肩に夜具の袖を掛けると手を突いて畏った、その様子は我々と反対で、顔に枕をするのである。  ほどなく寂然として寐に就きそうだから、汽車の中でもくれぐれいったのはここのこと、私は夜が更けるまで寐ることが出来ない、あわれと思ってもうしばらくつきあって、そして諸国を行脚なすった内のおもしろい談をといって打解けて幼らしくねだった。  すると上人は頷いて、私は中年から仰向けに枕に就かぬのが癖で、寝るにもこのままではあるけれども目はまだなかなか冴えている、急に寐就かれないのはお前様とおんなじであろう。出家のいうことでも、教だの、戒だの、説法とばかりは限らぬ、若いの、聞かっしゃい、と言って語り出した。後で聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺の宗朝という大和尚であったそうな。 三 「今にもう一人ここへ来て寝るそうじゃが、お前様と同国じゃの、若狭の者で塗物の旅商人。いやこの男なぞは若いが感心に実体な好い男。  私が今話の序開をしたその飛騨の山越をやった時の、麓の茶屋で一緒になった富山の売薬という奴あ、けたいの悪い、ねじねじした厭な壮佼で。  まずこれから峠に掛ろうという日の、朝早く、もっとも先の泊はものの三時ぐらいには発って来たので、涼しい内に六里ばかり、その茶屋までのしたのじゃが朝晴でじりじり暑いわ。  慾張抜いて大急ぎで歩いたから咽が渇いてしようがあるまい、早速茶を飲もうと思うたが、まだ湯が沸いておらぬという。  どうしてその時分じゃからというて、めったに人通のない山道、朝顔の咲いてる内に煙が立つ道理もなし。  床几の前には冷たそうな小流があったから手桶の水を汲もうとしてちょいと気がついた。  それというのが、時節柄暑さのため、恐しい悪い病が流行って、先に通った辻などという村は、から一面に石灰だらけじゃあるまいか。 (もし、姉さん。)といって茶店の女に、 (この水はこりゃ井戸のでござりますか。)と、きまりも悪し、もじもじ聞くとの。 (いんね、川のでございます。)という、はて面妖なと思った。 (山したの方には大分流行病がございますが、この水は何から、辻の方から流れて来るのではありませんか。) (そうでねえ。)と女は何気なく答えた、まず嬉しやと思うと、お聞きなさいよ。  ここに居て、さっきから休んでござったのが、右の売薬じゃ。このまた万金丹の下廻と来た日には、ご存じの通り、千筋の単衣に小倉の帯、当節は時計を挟んでいます、脚絆、股引、これはもちろん、草鞋がけ、千草木綿の風呂敷包の角ばったのを首に結えて、桐油合羽を小さく畳んでこいつを真田紐で右の包につけるか、小弁慶の木綿の蝙蝠傘を一本、おきまりだね。ちょいと見ると、いやどれもこれも克明で分別のありそうな顔をして。  これが泊に着くと、大形の浴衣に変って、帯広解で焼酎をちびりちびり遣りながら、旅籠屋の女のふとった膝へ脛を上げようという輩じゃ。 (これや、法界坊。)  なんて、天窓から嘗めていら。 (異なことをいうようだが何かね、世の中の女が出来ねえと相場がきまって、すっぺら坊主になってやっぱり生命は欲しいのかね、不思議じゃあねえか、争われねえもんだ、姉さん見ねえ、あれでまだ未練のある内がいいじゃあねえか、)といって顔を見合せて二人でからからと笑った。  年紀は若し、お前様、私は真赤になった、手に汲んだ川の水を飲みかねて猶予っているとね。  ポンと煙管を払いて、 (何、遠慮をしねえで浴びるほどやんなせえ、生命が危くなりゃ、薬を遣らあ、そのために私がついてるんだぜ、なあ姉さん。おい、それだっても無銭じゃあいけねえよ、憚りながら神方万金丹、一貼三百だ、欲しくば買いな、まだ坊主に報捨をするような罪は造らねえ、それともどうだお前いうことを肯くか。)といって茶店の女の背中を叩いた。  私はそうそうに遁出した。  いや、膝だの、女の背中だのといって、いけ年を仕った和尚が業体で恐入るが、話が、話じゃからそこはよろしく。」 四 「私も腹立紛れじゃ、無暗と急いで、それからどんどん山の裾を田圃道へかかる。  半町ばかり行くと、路がこう急に高くなって、上りが一カ処、横からよく見えた、弓形でまるで土で勅使橋がかかってるような。上を見ながら、これへ足を踏懸けた時、以前の薬売がすたすたやって来て追着いたが。  別に言葉も交さず、またものをいったからというて、返事をする気はこっちにもない。どこまでも人を凌いだ仕打な薬売は流眄にかけて故とらしゅう私を通越して、すたすた前へ出て、ぬっと小山のような路の突先へ蝙蝠傘を差して立ったが、そのまま向うへ下りて見えなくなる。  その後から爪先上り、やがてまた太鼓の胴のような路の上へ体が乗った、それなりにまた下りじゃ。  売薬は先へ下りたが立停ってしきりに四辺を眗している様子、執念深く何か巧んだかと、快からず続いたが、さてよく見ると仔細があるわい。  路はここで二条になって、一条はこれからすぐに坂になって上りも急なり、草も両方から生茂ったのが、路傍のその角の処にある、それこそ四抱、そうさな、五抱もあろうという一本の檜の、背後へ蜿って切出したような大巌が二ツ三ツ四ツと並んで、上の方へ層なってその背後へ通じているが、私が見当をつけて、心組んだのはこっちではないので、やっぱり今まで歩いて来たその幅の広いなだらかな方が正しく本道、あと二里足らず行けば山になって、それからが峠になるはず。  と見ると、どうしたことかさ、今いうその檜じゃが、そこらに何もない路を横断って見果のつかぬ田圃の中空へ虹のように突出ている、見事な。根方の処の土が壊れて大鰻を捏ねたような根が幾筋ともなく露れた、その根から一筋の水がさっと落ちて、地の上へ流れるのが、取って進もうとする道の真中に流出してあたりは一面。  田圃が湖にならぬが不思議で、どうどうと瀬になって、前途に一叢の藪が見える、それを境にしておよそ二町ばかりの間まるで川じゃ。礫はばらばら、飛石のようにひょいひょいと大跨で伝えそうにずっと見ごたえのあるのが、それでも人の手で並べたに違いはない。  もっとも衣服を脱いで渡るほどの大事なのではないが、本街道にはちと難儀過ぎて、なかなか馬などが歩行かれる訳のものではないので。  売薬もこれで迷ったのであろうと思う内、切放れよく向を変えて右の坂をすたすたと上りはじめた。見る間に檜を後に潜り抜けると、私が体の上あたりへ出て下を向き、 (おいおい、松本へ出る路はこっちだよ、)といって無造作にまた五六歩。  岩の頭へ半身を乗出して、 (茫然してると、木精が攫うぜ、昼間だって容赦はねえよ。)と嘲るがごとく言い棄てたが、やがて岩の陰に入って高い処の草に隠れた。  しばらくすると見上げるほどな辺へ蝙蝠傘の先が出たが、木の枝とすれすれになって茂の中に見えなくなった。 (どッこいしょ、)と暢気なかけ声で、その流の石の上を飛々に伝って来たのは、茣蓙の尻当をした、何にもつけない天秤棒を片手で担いだ百姓じゃ。」 五 「さっきの茶店からここへ来るまで、売薬の外は誰にも逢わなんだことは申上げるまでもない。  今別れ際に声を懸けられたので、先方は道中の商売人と見ただけに、まさかと思っても気迷がするので、今朝も立ちぎわによく見て来た、前にも申す、その図面をな、ここでも開けて見ようとしていたところ。 (ちょいと伺いとう存じますが、) (これは何でござりまする、)と山国の人などは殊に出家と見ると丁寧にいってくれる。 (いえ、お伺い申しますまでもございませんが、道はやっぱりこれを素直に参るのでございましょうな。) (松本へ行かっしゃる? ああああ本道じゃ、何ね、この間の梅雨に水が出て、とてつもない川さ出来たでがすよ。) (まだずっとどこまでもこの水でございましょうか。) (何のお前様、見たばかりじゃ、訳はござりませぬ、水になったのは向うのあの藪までで、後はやっぱりこれと同一道筋で山までは荷車が並んで通るでがす。藪のあるのは旧大きいお邸の医者様の跡でな、ここいらはこれでも一ツの村でがした、十三年前の大水の時、から一面に野良になりましたよ、人死もいけえこと。ご坊様歩行きながらお念仏でも唱えてやってくれさっしゃい。)と問わぬことまで深切に話します。それでよく仔細が解って確になりはなったけれども、現に一人踏迷った者がある。 (こちらの道はこりゃどこへ行くので、)といって売薬の入った左手の坂を尋ねて見た。 (はい、これは五十年ばかり前までは人が歩行いた旧道でがす。やっぱり信州へ出まする、先は一つで七里ばかり総体近うござりますが、いや今時往来の出来るのじゃあござりませぬ。去年もご坊様、親子連の巡礼が間違えて入ったというで、はれ大変な、乞食を見たような者じゃというて、人命に代りはねえ、追かけて助けべえと、巡査様が三人、村の者が十二人、一組になってこれから押登って、やっと連れて戻ったくらいでがす。ご坊様も血気に逸って近道をしてはなりましねえぞ、草臥れて野宿をしてからがここを行かっしゃるよりはましでござるに。はい、気を付けて行かっしゃれ。)  ここで百姓に別れてその川の石の上を行こうとしたがふと猶予ったのは売薬の身の上で。  まさかに聞いたほどでもあるまいが、それが本当ならば見殺じゃ、どの道私は出家の体、日が暮れるまでに宿へ着いて屋根の下に寝るには及ばぬ、追着いて引戻してやろう。罷違うて旧道を皆歩行いても怪しゅうはあるまい、こういう時候じゃ、狼の旬でもなく、魑魅魍魎の汐さきでもない、ままよ、と思うて、見送ると早や深切な百姓の姿も見えぬ。 (よし。)  思切って坂道を取って懸った、侠気があったのではござらぬ、血気に逸ったではもとよりない、今申したようではずっともう悟ったようじゃが、いやなかなかの臆病者、川の水を飲むのさえ気が怯けたほど生命が大事で、なぜまたと謂わっしゃるか。  ただ挨拶をしたばかりの男なら、私は実のところ、打棄っておいたに違いはないが、快からぬ人と思ったから、そのままで見棄てるのが、故とするようで、気が責めてならなんだから、」  と宗朝はやはり俯向けに床に入ったまま合掌していった。 「それでは口でいう念仏にも済まぬと思うてさ。」 六 「さて、聞かっしゃい、私はそれから檜の裏を抜けた、岩の下から岩の上へ出た、樹の中を潜って草深い径をどこまでも、どこまでも。  するといつの間にか今上った山は過ぎてまた一ツ山が近いて来た、この辺しばらくの間は野が広々として、さっき通った本街道よりもっと幅の広い、なだらかな一筋道。  心持西と、東と、真中に山を一ツ置いて二条並んだ路のような、いかさまこれならば槍を立てても行列が通ったであろう。  この広ッ場でも目の及ぶ限り芥子粒ほどの大さの売薬の姿も見ないで、時々焼けるような空を小さな虫が飛び歩行いた。  歩行くにはこの方が心細い、あたりがぱッとしていると便がないよ。もちろん飛騨越と銘を打った日には、七里に一軒十里に五軒という相場、そこで粟の飯にありつけば都合も上の方ということになっております。それを覚悟のことで、足は相応に達者、いや屈せずに進んだ進んだ。すると、だんだんまた山が両方から逼って来て、肩に支えそうな狭いとこになった、すぐに上。  さあ、これからが名代の天生峠と心得たから、こっちもその気になって、何しろ暑いので、喘ぎながらまず草鞋の紐を緊直した。  ちょうどこの上口の辺に美濃の蓮大寺の本堂の床下まで吹抜けの風穴があるということを年経ってから聞きましたが、なかなかそこどころの沙汰ではない、一生懸命、景色も奇跡もあるものかい、お天気さえ晴れたか曇ったか訳が解らず、目じろぎもしないですたすたと捏ねて上る。  とお前様お聞かせ申す話は、これからじゃが、最初に申す通り路がいかにも悪い、まるで人が通いそうでない上に、恐しいのは、蛇で。両方の叢に尾と頭とを突込んで、のたりと橋を渡しているではあるまいか。  私は真先に出会した時は笠を被って竹杖を突いたまま、はッと息を引いて膝を折って坐ったて。  いやもう生得大嫌、嫌というより恐怖いのでな。  その時はまず人助けにずるずると尾を引いて、向うで鎌首を上げたと思うと草をさらさらと渡った。  ようよう起上って道の五六町も行くと、またおなじように、胴中を乾かして尾も首も見えぬのが、ぬたり!  あッというて飛退いたが、それも隠れた。三度目に出会ったのが、いや急には動かず、しかも胴体の太さ、たとい這出したところでぬらぬらとやられてはおよそ五分間ぐらい尾を出すまでに間があろうと思う長虫と見えたので、やむことをえず私は跨ぎ越した、とたんに下腹が突張ってぞッと身の毛、毛穴が残らず鱗に変って、顔の色もその蛇のようになったろうと目を塞いだくらい。  絞るような冷汗になる気味の悪さ、足が竦んだというて立っていられる数ではないからびくびくしながら路を急ぐとまたしても居たよ。  しかも今度のは半分に引切ってある胴から尾ばかりの虫じゃ、切口が蒼を帯びてそれでこう黄色な汁が流れてぴくぴくと動いたわ。  我を忘れてばらばらとあとへ遁帰ったが、気が付けば例のがまだ居るであろう、たとい殺されるまでも二度とはあれを跨ぐ気はせぬ。ああさっきのお百姓がものの間違でも故道には蛇がこうといってくれたら、地獄へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。」と額に手を。 七 「果が無いから肝を据えた、もとより引返す分ではない。旧の処にはやっぱり丈足らずの骸がある、遠くへ避けて草の中へ駈け抜けたが、今にもあとの半分が絡いつきそうで耐らぬから気臆がして足が筋張ると石に躓いて転んだ、その時膝節を痛めましたものと見える。  それからがくがくして歩行くのが少し難渋になったけれども、ここで倒れては温気で蒸殺されるばかりじゃと、我身で我身を激まして首筋を取って引立てるようにして峠の方へ。  何しろ路傍の草いきれが恐しい、大鳥の卵見たようなものなんぞ足許にごろごろしている茂り塩梅。  また二里ばかり大蛇の蜿るような坂を、山懐に突当って岩角を曲って、木の根を繞って参ったがここのことで余りの道じゃったから、参謀本部の絵図面を開いて見ました。  何やっぱり道はおんなじで聞いたにも見たのにも変はない、旧道はこちらに相違はないから心遣りにも何にもならず、もとより歴とした図面というて、描いてある道はただ栗の毬の上へ赤い筋が引張ってあるばかり。  難儀さも、蛇も、毛虫も、鳥の卵も、草いきれも、記してあるはずはないのじゃから、さっぱりと畳んで懐に入れて、うむとこの乳の下へ念仏を唱え込んで立直ったはよいが、息も引かぬ内に情無い長虫が路を切った。  そこでもう所詮叶わぬと思ったなり、これはこの山の霊であろうと考えて、杖を棄てて膝を曲げ、じりじりする地に両手をついて、 (誠に済みませぬがお通しなすって下さりまし、なるたけお午睡の邪魔になりませぬようにそっと通行いたしまする。  ご覧の通り杖も棄てました。)と我折れしみじみと頼んで額を上げるとざっという凄じい音で。  心持よほどの大蛇と思った、三尺、四尺、五尺四方、一丈余、だんだんと草の動くのが広がって、傍の渓へ一文字にさっと靡いた、果は峰も山も一斉に揺いだ、恐毛を震って立竦むと涼しさが身に染みて、気が付くと山颪よ。  この折から聞えはじめたのはどっという山彦に伝わる響、ちょうど山の奥に風が渦巻いてそこから吹起る穴があいたように感じられる。  何しろ山霊感応あったか、蛇は見えなくなり暑さも凌ぎよくなったので、気も勇み足も捗取ったが、ほどなく急に風が冷たくなった理由を会得することが出来た。  というのは目の前に大森林があらわれたので。  世の譬にも天生峠は蒼空に雨が降るという、人の話にも神代から杣が手を入れぬ森があると聞いたのに、今までは余り樹がなさ過ぎた。  今度は蛇のかわりに蟹が歩きそうで草鞋が冷えた。しばらくすると暗くなった、杉、松、榎と処々見分けが出来るばかりに遠い処から幽に日の光の射すあたりでは、土の色が皆黒い。中には光線が森を射通す工合であろう、青だの、赤だの、ひだが入って美しい処があった。  時々爪尖に絡まるのは葉の雫の落溜った糸のような流で、これは枝を打って高い処を走るので。ともするとまた常磐木が落葉する、何の樹とも知れずばらばらと鳴り、かさかさと音がしてぱっと檜笠にかかることもある、あるいは行過ぎた背後へこぼれるのもある、それ等は枝から枝に溜っていて何十年ぶりではじめて地の上まで落ちるのか分らぬ。」 八 「心細さは申すまでもなかったが、卑怯なようでも修行の積まぬ身には、こういう暗い処の方がかえって観念に便がよい。何しろ体が凌ぎよくなったために足の弱も忘れたので、道も大きに捗取って、まずこれで七分は森の中を越したろうと思う処で五六尺天窓の上らしかった樹の枝から、ぼたりと笠の上へ落ち留まったものがある。  鉛の錘かとおもう心持、何か木の実ででもあるかしらんと、二三度振ってみたが附着いていてそのままには取れないから、何心なく手をやって掴むと、滑らかに冷りと来た。  見ると海鼠を裂いたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷って指の尖へ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱の処へつるりと垂懸っているのは同形をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠。  呆気に取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜のような血を取る動物、こいつは蛭じゃよ。  誰が目にも見違えるわけのものではないが、図抜て余り大きいからちょっとは気がつかぬであった、何の畠でも、どんな履歴のある沼でも、このくらいな蛭はあろうとは思われぬ。  肱をばさりと振ったけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手で抓んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる、しばらくも耐ったものではない、突然取って大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくって我ものにしていようという処、かねてその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔い、潰れそうにもないのじゃ。  ともはや頸のあたりがむずむずして来た、平手で扱て見ると横撫に蛭の背をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋、蒼くなってそッと見ると肩の上にも一筋。  思わず飛上って総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながらまず心覚えの奴だけは夢中でもぎ取った。  何にしても恐しい今の枝には蛭が生っているのであろうとあまりの事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。  これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満。  私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ、すると何と? この時は目に見えて、上からぼたりぼたりと真黒な痩せた筋の入った雨が体へ降かかって来たではないか。  草鞋を穿いた足の甲へも落ちた上へまた累り、並んだ傍へまた附着いて爪先も分らなくなった、そうして活きてると思うだけ脈を打って血を吸うような、思いなしか一ツ一ツ伸縮をするようなのを見るから気が遠くなって、その時不思議な考えが起きた。  この恐しい山蛭は神代の古からここに屯をしていて、人の来るのを待ちつけて、永い久しい間にどのくらい何斛かの血を吸うと、そこでこの虫の望が叶う、その時はありったけの蛭が残らず吸っただけの人間の血を吐出すと、それがために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかわるであろう、それと同時にここに日の光を遮って昼もなお暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になってしまうのに相違ないと、いや、全くの事で。」 九 「およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろうと、ぼんやり。  なるほどこの森も入口では何の事もなかったのに、中へ来るとこの通り、もっと奥深く進んだら早や残らず立樹の根の方から朽ちて山蛭になっていよう、助かるまい、ここで取殺される因縁らしい、取留めのない考えが浮んだのも人が知死期に近いたからだとふと気が付いた。  どの道死ぬるものなら一足でも前へ進んで、世間の者が夢にも知らぬ血と泥の大沼の片端でも見ておこうと、そう覚悟がきまっては気味の悪いも何もあったものじゃない、体中珠数生になったのを手当次第に掻い除け挘り棄て、抜き取りなどして、手を挙げ足を踏んで、まるで躍り狂う形で歩行き出した。  はじめの中は一廻も太ったように思われて痒さが耐らなかったが、しまいにはげっそり痩せたと感じられてずきずき痛んでならぬ、その上を容赦なく歩行く内にも入交りに襲いおった。  既に目も眩んで倒れそうになると、禍はこの辺が絶頂であったと見えて、隧道を抜けたように、遥に一輪のかすれた月を拝んだのは、蛭の林の出口なので。  いや蒼空の下へ出た時には、何のことも忘れて、砕けろ、微塵になれと横なぐりに体を山路へ打倒した。それでからもう砂利でも針でもあれと地へこすりつけて、十余りも蛭の死骸を引くりかえした上から、五六間向うへ飛んで身顫をして突立った。  人を馬鹿にしているではありませんか。あたりの山では処々茅蜩殿、血と泥の大沼になろうという森を控えて鳴いている、日は斜、渓底はもう暗い。  まずこれならば狼の餌食になってもそれは一思に死なれるからと、路はちょうどだらだら下なり、小僧さん、調子はずれに竹の杖を肩にかついで、すたこら遁げたわ。  これで蛭に悩まされて痛いのか、痒いのか、それとも擽ったいのか得もいわれぬ苦しみさえなかったら、嬉しさに独り飛騨山越の間道で、お経に節をつけて外道踊をやったであろう、ちょっと清心丹でも噛砕いて疵口へつけたらどうだと、だいぶ世の中の事に気がついて来たわ。抓っても確に活返ったのじゃが、それにしても富山の薬売はどうしたろう、あの様子ではとうに血になって泥沼に。皮ばかりの死骸は森の中の暗い処、おまけに意地の汚い下司な動物が骨までしゃぶろうと何百という数でのしかかっていた日には、酢をぶちまけても分る気遣はあるまい。  こう思っている間、件のだらだら坂は大分長かった。  それを下り切ると流が聞えて、とんだ処に長さ一間ばかりの土橋がかかっている。  はやその谷川の音を聞くと我身で持余す蛭の吸殻を真逆に投込んで、水に浸したらさぞいい心地であろうと思うくらい、何の渡りかけて壊れたらそれなりけり。  危いとも思わずにずっと懸る、少しぐらぐらしたが難なく越した。向うからまた坂じゃ、今度は上りさ、ご苦労千万。」 十 「とてもこの疲れようでは、坂を上るわけには行くまいと思ったが、ふと前途に、ヒイインと馬の嘶くのが谺して聞えた。  馬士が戻るのか小荷駄が通るか、今朝一人の百姓に別れてから時の経ったは僅じゃが、三年も五年も同一ものをいう人間とは中を隔てた。馬が居るようではともかくも人里に縁があると、これがために気が勇んで、ええやっと今一揉。  一軒の山家の前へ来たのには、さまで難儀は感じなかった。夏のことで戸障子のしまりもせず、殊に一軒家、あけ開いたなり門というてもない、突然破縁になって男が一人、私はもう何の見境もなく、 (頼みます、頼みます、)というさえ助を呼ぶような調子で、取縋らぬばかりにした。 (ご免なさいまし、)といったがものもいわない、首筋をぐったりと、耳を肩で塞ぐほど顔を横にしたまま小児らしい、意味のない、しかもぼっちりした目で、じろじろと門に立ったものを瞻める、その瞳を動かすさえ、おっくうらしい、気の抜けた身の持方。裾短かで袖は肱より少い、糊気のある、ちゃんちゃんを着て、胸のあたりで紐で結えたが、一ツ身のものを着たように出ッ腹の太り肉、太鼓を張ったくらいに、すべすべとふくれてしかも出臍という奴、南瓜の蔕ほどな異形な者を片手でいじくりながら幽霊の手つきで、片手を宙にぶらり。  足は忘れたか投出した、腰がなくば暖簾を立てたように畳まれそうな、年紀がそれでいて二十二三、口をあんぐりやった上唇で巻込めよう、鼻の低さ、出額。五分刈の伸びたのが前は鶏冠のごとくになって、頸脚へ撥ねて耳に被った、唖か、白痴か、これから蛙になろうとするような少年。私は驚いた、こっちの生命に別条はないが、先方様の形相。いや、大別条。 (ちょいとお願い申します。)  それでもしかたがないからまた言葉をかけたが少しも通ぜず、ばたりというと僅に首の位置をかえて今度は左の肩を枕にした、口の開いてること旧のごとし。  こういうのは、悪くすると突然ふんづかまえて臍を捻りながら返事のかわりに嘗めようも知れぬ。  私は一足退ったが、いかに深山だといってもこれを一人で置くという法はあるまい、と足を爪立てて少し声高に、 (どなたぞ、ご免なさい、)といった。  背戸と思うあたりで再び馬の嘶く声。 (どなた、)と納戸の方でいったのは女じゃから、南無三宝、この白い首には鱗が生えて、体は床を這って尾をずるずると引いて出ようと、また退った。 (おお、お坊様。)と立顕れたのは小造の美しい、声も清しい、ものやさしい。  私は大息を吐いて、何にもいわず、 (はい。)と頭を下げましたよ。  婦人は膝をついて坐ったが、前へ伸上るようにして、黄昏にしょんぼり立った私が姿を透かして見て、 (何か用でござんすかい。)  休めともいわずはじめから宿の常世は留守らしい、人を泊めないときめたもののように見える。  いい後れてはかえって出そびれて頼むにも頼まれぬ仕誼にもなることと、つかつかと前へ出た。  丁寧に腰を屈めて、 (私は、山越で信州へ参ります者ですが旅籠のございます処まではまだどのくらいでございましょう。) 十一 (あなたまだ八里余でございますよ。) (その他に別に泊めてくれます家もないのでしょうか。) (それはございません。)といいながら目たたきもしないで清しい目で私の顔をつくづく見ていた。 (いえもう何でございます、実はこの先一町行け、そうすれば上段の室に寝かして一晩扇いでいてそれで功徳のためにする家があると承りましても、全くのところ一足も歩行けますのではございません、どこの物置でも馬小屋の隅でもよいのでございますから後生でございます。)とさっき馬が嘶いたのは此家より外にはないと思ったから言った。  婦人はしばらく考えていたが、ふと傍を向いて布の袋を取って、膝のあたりに置いた桶の中へざらざらと一幅、水を溢すようにあけて縁をおさえて、手で掬って俯向いて見たが、 (ああ、お泊め申しましょう、ちょうど炊いてあげますほどお米もございますから、それに夏のことで、山家は冷えましても夜のものにご不自由もござんすまい。さあ、ともかくもあなた、お上り遊ばして。)  というと言葉の切れぬ先にどっかと腰を落した。婦人はつと身を起して立って来て、 (お坊様、それでござんすがちょっとお断り申しておかねばなりません。)  はっきりいわれたので私はびくびくもので、 (はい、はい。) (いいえ、別のことじゃござんせぬが、私は癖として都の話を聞くのが病でございます、口に蓋をしておいでなさいましても無理やりに聞こうといたしますが、あなた忘れてもその時聞かして下さいますな、ようござんすかい、私は無理にお尋ね申します、あなたはどうしてもお話しなさいませぬ、それを是非にと申しましても断っておっしゃらないようにきっと念を入れておきますよ。)  と仔細ありげなことをいった。  山の高さも谷の深さも底の知れない一軒家の婦人の言葉とは思うたが保つにむずかしい戒でもなし、私はただ頷くばかり。 (はい、よろしゅうございます、何事もおっしゃりつけは背きますまい。)  婦人は言下に打解けて、 (さあさあ汚うございますが早くこちらへ、お寛ぎなさいまし、そうしてお洗足を上げましょうかえ。) (いえ、それには及びませぬ、雑巾をお貸し下さいまし。ああ、それからもしそのお雑巾次手にずッぷりお絞んなすって下さると助ります、途中で大変な目に逢いましたので体を打棄りたいほど気味が悪うございますので、一ツ背中を拭こうと存じますが、恐入りますな。) (そう、汗におなりなさいました、さぞまあ、お暑うござんしたでしょう、お待ちなさいまし、旅籠へお着き遊ばして湯にお入りなさいますのが、旅するお方には何よりご馳走だと申しますね、湯どころか、お茶さえ碌におもてなしもいたされませんが、あの、この裏の崖を下りますと、綺麗な流がございますからいっそそれへいらっしゃッてお流しがよろしゅうございましょう。)  聞いただけでも飛んでも行きたい。 (ええ、それは何より結構でございますな。) (さあ、それではご案内申しましょう、どれ、ちょうど私も米を磨ぎに参ります。)と件の桶を小脇に抱えて、縁側から、藁草履を穿いて出たが、屈んで板縁の下を覗いて、引出したのは一足の古下駄で、かちりと合して埃を払いて揃えてくれた。 (お穿きなさいまし、草鞋はここにお置きなすって、)  私は手をあげて、一礼して、 (恐入ります、これはどうも、) (お泊め申すとなりましたら、あの、他生の縁とやらでござんす、あなたご遠慮を遊ばしますなよ。)まず恐しく調子がいいじゃて。」 十二 「(さあ、私に跟いてこちらへ、)と件の米磨桶を引抱えて手拭を細い帯に挟んで立った。  髪は房りとするのを束ねてな、櫛をはさんで簪で留めている、その姿の佳さというてはなかった。  私も手早く草鞋を解いたから、早速古下駄を頂戴して、縁から立つ時ちょいと見ると、それ例の白痴殿じゃ。  同じく私が方をじろりと見たっけよ、舌不足が饒舌るような、愚にもつかぬ声を出して、 (姉や、こえ、こえ。)といいながら気だるそうに手を持上げてその蓬々と生えた天窓を撫でた。 (坊さま、坊さま?)  すると婦人が、下ぶくれな顔にえくぼを刻んで、三ツばかりはきはきと続けて頷いた。  少年はうむといったが、ぐたりとしてまた臍をくりくりくり。  私は余り気の毒さに顔も上げられないでそっと盗むようにして見ると、婦人は何事も別に気に懸けてはおらぬ様子、そのまま後へ跟いて出ようとする時、紫陽花の花の蔭からぬいと出た一名の親仁がある。  背戸から廻って来たらしい、草鞋を穿いたなりで、胴乱の根付を紐長にぶらりと提げ、銜煙管をしながら並んで立停った。 (和尚様おいでなさい。)  婦人はそなたを振向いて、 (おじ様どうでござんした。) (さればさの、頓馬で間の抜けたというのはあのことかい。根ッから早や狐でなければ乗せ得そうにもない奴じゃが、そこはおらが口じゃ、うまく仲人して、二月や三月はお嬢様がご不自由のねえように、翌日はものにしてうんとここへ担ぎ込みます。) (お頼み申しますよ。) (承知、承知、おお、嬢様どこさ行かっしゃる。) (崖の水までちょいと。) (若い坊様連れて川へ落っこちさっしゃるな、おらここに眼張って待っとるに、)と横様に縁にのさり。 (貴僧、あんなことを申しますよ。)と顔を見て微笑んだ。 (一人で参りましょう、)と傍へ退くと、親仁はくっくっと笑って、 (はははは、さあ、早くいってござらっせえ。) (おじ様、今日はお前、珍しいお客がお二方ござんした、こういう時はあとからまた見えようも知れません、次郎さんばかりでは来た者が弱んなさろう、私が帰るまでそこに休んでいておくれでないか。) (いいともの。)といいかけて、親仁は少年の傍へにじり寄って、鉄挺を見たような拳で、背中をどんとくらわした、白痴の腹はだぶりとして、べそをかくような口つきで、にやりと笑う。  私はぞっとして面を背けたが、婦人は何気ない体であった。  親仁は大口を開いて、 (留守におらがこの亭主を盗むぞよ。) (はい、ならば手柄でござんす、さあ、貴僧参りましょうか。)  背後から親仁が見るように思ったが、導かるるままに壁について、かの紫陽花のある方ではない。  やがて背戸と思う処で左に馬小屋を見た、ことことという音は羽目を蹴るのであろう、もうその辺から薄暗くなって来る。 (貴僧、ここから下りるのでございます、辷りはいたしませぬが、道が酷うございますからお静に、)という。」 十三 「そこから下りるのだと思われる、松の木の細くッて度外れに背の高い、ひょろひょろしたおよそ五六間上までは小枝一ツもないのがある。その中を潜ったが、仰ぐと梢に出て白い、月の形はここでも別にかわりは無かった、浮世はどこにあるか十三夜で。  先へ立った婦人の姿が目さきを放れたから、松の幹に掴まって覗くと、つい下に居た。  仰向いて、 (急に低くなりますから気をつけて。こりゃ貴僧には足駄では無理でございましたかしら、宜しくば草履とお取交え申しましょう。)  立後れたのを歩行悩んだと察した様子、何がさて転げ落ちても早く行って蛭の垢を落したさ。 (何、いけませんければ跣足になります分のこと、どうぞお構いなく、嬢様にご心配をかけては済みません。) (あれ、嬢様ですって、)とやや調子を高めて、艶麗に笑った。 (はい、ただいまあの爺様が、さよう申しましたように存じますが、夫人でございますか。) (何にしても貴僧には叔母さんくらいな年紀ですよ。まあ、お早くいらっしゃい、草履もようござんすけれど、刺がささりますといけません、それにじくじく湿れていてお気味が悪うございましょうから。)と向う向でいいながら衣服の片褄をぐいとあげた。真白なのが暗まぎれ、歩行くと霜が消えて行くような。  ずんずんずんずんと道を下りる、傍らの叢から、のさのさと出たのは蟇で。 (あれ、気味が悪いよ。)というと婦人は背後へ高々と踵を上げて向うへ飛んだ。 (お客様がいらっしゃるではないかね、人の足になんか搦まって、贅沢じゃあないか、お前達は虫を吸っていればたくさんだよ。  貴僧ずんずんいらっしゃいましな、どうもしはしません。こう云う処ですからあんなものまで人懐しゅうございます、厭じゃないかね、お前達と友達をみたようで愧しい、あれいけませんよ。)  蟇はのさのさとまた草を分けて入った、婦人はむこうへずいと。 (さあこの上へ乗るんです、土が柔かで壊えますから地面は歩行かれません。)  いかにも大木の僵れたのが草がくれにその幹をあらわしている、乗ると足駄穿で差支えがない、丸木だけれどもおそろしく太いので、もっともこれを渡り果てるとたちまち流の音が耳に激した、それまでにはよほどの間。  仰いで見ると松の樹はもう影も見えない、十三夜の月はずっと低うなったが、今下りた山の頂に半ばかかって、手が届きそうにあざやかだけれども、高さはおよそ計り知られぬ。 (貴僧、こちらへ。)  といった婦人はもう一息、目の下に立って待っていた。  そこは早や一面の岩で、岩の上へ谷川の水がかかってここによどみを作っている、川幅は一間ばかり、水に臨めば音はさまでにもないが、美しさは玉を解いて流したよう、かえって遠くの方で凄じく岩に砕ける響がする。  向う岸はまた一座の山の裾で、頂の方は真暗だが、山の端からその山腹を射る月の光に照し出された辺からは大石小石、栄螺のようなの、六尺角に切出したの、剣のようなのやら、鞠の形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水に蘸ったのはただ小山のよう。」 十四 「(いい塩梅に今日は水がふえておりますから、中へ入りませんでもこの上でようございます。)と甲を浸して爪先を屈めながら、雪のような素足で石の盤の上に立っていた。  自分達が立った側は、かえってこっちの山の裾が水に迫って、ちょうど切穴の形になって、そこへこの石を嵌めたような誂。川上も下流も見えぬが、向うのあの岩山、九十九折のような形、流は五尺、三尺、一間ばかりずつ上流の方がだんだん遠く、飛々に岩をかがったように隠見して、いずれも月光を浴びた、銀の鎧の姿、目のあたり近いのはゆるぎ糸を捌くがごとく真白に翻って。 (結構な流れでございますな。) (はい、この水は源が滝でございます、この山を旅するお方は皆な大風のような音をどこかで聞きます。貴僧はこちらへいらっしゃる道でお心着きはなさいませんかい。)  さればこそ山蛭の大藪へ入ろうという少し前からその音を。 (あれは林へ風の当るのではございませんので?) (いえ、誰でもそう申します、あの森から三里ばかり傍道へ入りました処に大滝があるのでございます、それはそれは日本一だそうですが、路が嶮しゅうござんすので、十人に一人参ったものはございません。その滝が荒れましたと申しまして、ちょうど今から十三年前、恐しい洪水がございました、こんな高い処まで川の底になりましてね、麓の村も山も家も残らず流れてしまいました。この上の洞も、はじめは二十軒ばかりあったのでござんす、この流れもその時から出来ました、ご覧なさいましな、この通り皆な石が流れたのでございますよ。)  婦人はいつかもう米を精げ果てて、衣紋の乱れた、乳の端もほの見ゆる、膨らかな胸を反して立った、鼻高く口を結んで目を恍惚と上を向いて頂を仰いだが、月はなお半腹のその累々たる巌を照すばかり。 (今でもこうやって見ますと恐いようでございます。)と屈んで二の腕の処を洗っていると。 (あれ、貴僧、そんな行儀のいいことをしていらしってはお召が濡れます、気味が悪うございますよ、すっぱり裸体になってお洗いなさいまし、私が流して上げましょう。) (いえ、) (いえじゃあござんせぬ、それ、それ、お法衣の袖が浸るではありませんか、)というと突然背後から帯に手をかけて、身悶をして縮むのを、邪慳らしくすっぱり脱いで取った。  私は師匠が厳しかったし、経を読む身体じゃ、肌さえ脱いだことはついぞ覚えぬ。しかも婦人の前、蝸牛が城を明け渡したようで、口を利くさえ、まして手足のあがきも出来ず、背中を円くして、膝を合せて、縮かまると、婦人は脱がした法衣を傍らの枝へふわりとかけた。 (お召はこうやっておきましょう、さあお背を、あれさ、じっとして。お嬢様とおっしゃって下さいましたお礼に、叔母さんが世話を焼くのでござんす、お人の悪い。)といって片袖を前歯で引上げ、玉のような二の腕をあからさまに背中に乗せたが、じっと見て、 (まあ、) (どうかいたしておりますか。) (痣のようになって、一面に。) (ええ、それでございます、酷い目に逢いました。)  思い出してもぞッとするて。」 十五 「婦人は驚いた顔をして、 (それでは森の中で、大変でございますこと。旅をする人が、飛騨の山では蛭が降るというのはあすこでござんす。貴僧は抜道をご存じないから正面に蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。お生命も冥加なくらい、馬でも牛でも吸い殺すのでございますもの。しかし疼くようにお痒いのでござんしょうね。) (ただいまではもう痛みますばかりになりました。) (それではこんなものでこすりましては柔かいお肌が擦剥けましょう。)というと手が綿のように障った。  それから両方の肩から、背、横腹、臀、さらさら水をかけてはさすってくれる。  それがさ、骨に通って冷たいかというとそうではなかった。暑い時分じゃが、理窟をいうとこうではあるまい、私の血が沸いたせいか、婦人の温気か、手で洗ってくれる水がいい工合に身に染みる、もっとも質の佳い水は柔かじゃそうな。  その心地の得もいわれなさで、眠気がさしたでもあるまいが、うとうとする様子で、疵の痛みがなくなって気が遠くなって、ひたと附ついている婦人の身体で、私は花びらの中へ包まれたような工合。  山家の者には肖合わぬ、都にも希な器量はいうに及ばぬが弱々しそうな風采じゃ、背中を流す中にもはッはッと内証で呼吸がはずむから、もう断ろう断ろうと思いながら、例の恍惚で、気はつきながら洗わした。  その上、山の気か、女の香か、ほんのりと佳い薫がする、私は背後でつく息じゃろうと思った。」  上人はちょっと句切って、 「いや、お前様お手近じゃ、その明を掻き立ってもらいたい、暗いと怪しからぬ話じゃ、ここらから一番野面で遣つけよう。」  枕を並べた上人の姿も朧げに明は暗くなっていた、早速燈心を明くすると、上人は微笑みながら続けたのである。 「さあ、そうやっていつの間にやら現とも無しに、こう、その不思議な、結構な薫のする暖い花の中へ柔かに包まれて、足、腰、手、肩、頸から次第に天窓まで一面に被ったから吃驚、石に尻餅を搗いて、足を水の中に投げ出したから落ちたと思うとたんに、女の手が背後から肩越しに胸をおさえたのでしっかりつかまった。 (貴僧、お傍に居て汗臭うはござんせぬかい、とんだ暑がりなんでございますから、こうやっておりましてもこんなでございますよ。)という胸にある手を取ったのを、慌てて放して棒のように立った。 (失礼、) (いいえ誰も見ておりはしませんよ。)と澄して言う、婦人もいつの間にか衣服を脱いで全身を練絹のように露していたのじゃ。  何と驚くまいことか。 (こんなに太っておりますから、もうお愧しいほど暑いのでございます、今時は毎日二度も三度も来てはこうやって汗を流します、この水がございませんかったらどういたしましょう、貴僧、お手拭。)といって絞ったのを寄越した。 (それでおみ足をお拭きなさいまし。)  いつの間にか、体はちゃんと拭いてあった、お話し申すも恐多いが、はははははは。」 十六 「なるほど見たところ、衣服を着た時の姿とは違うて肉つきの豊な、ふっくりとした膚。 (さっき小屋へ入って世話をしましたので、ぬらぬらした馬の鼻息が体中にかかって気味が悪うござんす。ちょうどようございますから私も体を拭きましょう。)  と姉弟が内端話をするような調子。手をあげて黒髪をおさえながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅になって流れよう。  ちょいちょいと櫛を入れて、 (まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。) (白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。  すると、さも嬉しそうに莞爾してその時だけは初々しゅう年紀も七ツ八ツ若やぐばかり、処女の羞を含んで下を向いた。  私はそのまま目を外らしたが、その一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向う岸の潵に濡れて黒い、滑かな大きな石へ蒼味を帯びて透通って映るように見えた。  するとね、夜目で判然とは目に入らなんだが地体何でも洞穴があるとみえる。ひらひらと、こちらからもひらひらと、ものの鳥ほどはあろうという大蝙蝠が目を遮った。 (あれ、いけないよ、お客様があるじゃないかね。)  不意を打たれたように叫んで身悶えをしたのは婦人。 (どうかなさいましたか、)もうちゃんと法衣を着たから気丈夫に尋ねる。 (いいえ、)  といったばかりできまりが悪そうに、くるりと後向になった。  その時小犬ほどな鼠色の小坊主が、ちょこちょことやって来て、あなやと思うと、崖から横に宙をひょいと、背後から婦人の背中へぴったり。  裸体の立姿は腰から消えたようになって、抱ついたものがある。 (畜生、お客様が見えないかい。)  と声に怒を帯びたが、 (お前達は生意気だよ、)と激しくいいさま、腋の下から覗こうとした件の動物の天窓を振返りさまにくらわしたで。  キッキッというて奇声を放った、件の小坊主はそのまま後飛びにまた宙を飛んで、今まで法衣をかけておいた、枝の尖へ長い手で釣し下ったと思うと、くるりと釣瓶覆に上へ乗って、それなりさらさらと木登をしたのは、何と猿じゃあるまいか。  枝から枝を伝うと見えて、見上げるように高い木の、やがて梢まで、かさかさがさり。  まばらに葉の中を透して月は山の端を放れた、その梢のあたり。  婦人はものに拗ねたよう、今の悪戯、いや、毎々、蟇と蝙蝠と、お猿で三度じゃ。  その悪戯に多く機嫌を損ねた形、あまり子供がはしゃぎ過ぎると、若い母様には得てある図じゃ。  本当に怒り出す。  といった風情で面倒臭そうに衣服を着ていたから、私は何にも問わずに小さくなって黙って控えた。」 十七 「優しいなかに強みのある、気軽に見えてもどこにか落着のある、馴々しくて犯し易からぬ品のいい、いかなることにもいざとなれば驚くに足らぬという身に応のあるといったような風の婦人、かく嬌瞋を発してはきっといいことはあるまい、今この婦人に邪慳にされては木から落ちた猿同然じゃと、おっかなびっくりで、おずおず控えていたが、いや案ずるより産が安い。 (貴僧、さぞおかしかったでござんしょうね、)と自分でも思い出したように快く微笑みながら、 (しようがないのでございますよ。)  以前と変らず心安くなった、帯も早やしめたので、 (それでは家へ帰りましょう。)と米磨桶を小腋にして、草履を引かけてつと崖へ上った。 (お危うござんすから。) (いえ、もうだいぶ勝手が分っております。)  ずッと心得た意じゃったが、さて上る時見ると思いの外上までは大層高い。  やがてまた例の木の丸太を渡るのじゃが、さっきもいった通り草のなかに横倒れになっている木地がこうちょうど鱗のようで、譬にもよくいうが松の木は蝮に似ているで。  殊に崖を、上の方へ、いい塩梅に蜿った様子が、とんだものに持って来いなり、およそこのくらいな胴中の長虫がと思うと、頭と尾を草に隠して、月あかりに歴然とそれ。  山路の時を思い出すと我ながら足が竦む。  婦人は深切に後を気遣うては気を付けてくれる。 (それをお渡りなさいます時、下を見てはなりません。ちょうどちゅうとでよッぽど谷が深いのでございますから、目が廻うと悪うござんす。) (はい。)  愚図愚図してはいられぬから、我身を笑いつけて、まず乗った。引かかるよう、刻が入れてあるのじゃから、気さえ確なら足駄でも歩行かれる。  それがさ、一件じゃから耐らぬて、乗るとこうぐらぐらして柔かにずるずると這いそうじゃから、わっというと引跨いで腰をどさり。 (ああ、意気地はございませんねえ。足駄では無理でございましょう、これとお穿き換えなさいまし、あれさ、ちゃんということを肯くんですよ。)  私はそのさっきから何んとなくこの婦人に畏敬の念が生じて善か悪か、どの道命令されるように心得たから、いわるるままに草履を穿いた。  するとお聞きなさい、婦人は足駄を穿きながら手を取ってくれます。  たちまち身が軽くなったように覚えて、訳なく後に従って、ひょいとあの孤家の背戸の端へ出た。  出会頭に声を懸けたものがある。 (やあ、大分手間が取れると思ったに、ご坊様旧の体で帰らっしゃったの。) (何をいうんだね、小父様家の番はどうおしだ。) (もういい時分じゃ、また私も余り遅うなっては道が困るで、そろそろ青を引出して支度しておこうと思うてよ。) (それはお待遠でござんした。) (何さ、行ってみさっしゃいご亭主は無事じゃ、いやなかなか私が手には口説落されなんだ、ははははは。)と意味もないことを大笑して、親仁は厩の方へてくてくと行った。  白痴はおなじ処になお形を存している、海月も日にあたらねば解けぬとみえる。」 十八 「ヒイイン! しっ、どうどうどうと背戸を廻る鰭爪の音が縁へ響いて親仁は一頭の馬を門前へ引き出した。  轡頭を取って立ちはだかり、 (嬢様そんならこのままで私参りやする、はい、ご坊様にたくさんご馳走して上げなされ。)  婦人は炉縁に行燈を引附け、俯向いて鍋の下を燻していたが、振仰ぎ、鉄の火箸を持った手を膝に置いて、 (ご苦労でござんす。) (いんえご懇には及びましねえ。しっ!)と荒縄の綱を引く。青で蘆毛、裸馬で逞しいが、鬣の薄い牡じゃわい。  その馬がさ、私も別に馬は珍しゅうもないが、白痴殿の背後に畏って手持不沙汰じゃから今引いて行こうとする時縁側へひらりと出て、 (その馬はどこへ。) (おお、諏訪の湖の辺まで馬市へ出しやすのじゃ、これから明朝お坊様が歩行かっしゃる山路を越えて行きやす。) (もし、それへ乗って今からお遁げ遊ばすお意ではないかい。)  婦人は慌だしく遮って声を懸けた。 (いえ、もったいない、修行の身が馬で足休めをしましょうなぞとは存じませぬ。) (何でも人間を乗っけられそうな馬じゃあござらぬ。お坊様は命拾いをなされたのじゃで、大人しゅうして嬢様の袖の中で、今夜は助けて貰わっしゃい。さようならちょっくら行って参りますよ。) (あい。) (畜生。)といったが馬は出ないわ。びくびくと蠢いて見える大な鼻面をこちらへ捻じ向けてしきりに私等が居る方を見る様子。 (どうどうどう、畜生これあだけた獣じゃ、やい!)  右左にして綱を引張ったが、脚から根をつけたごとくにぬっくと立っていてびくともせぬ。  親仁大いに苛立って、叩いたり、打ったり、馬の胴体について二三度ぐるぐると廻ったが少しも歩かぬ。肩でぶッつかるようにして横腹へ体をあてた時、ようよう前足を上げたばかりまた四脚を突張り抜く。 (嬢様嬢様。)  と親仁が喚くと、婦人はちょっと立って白い爪さきをちょろちょろと真黒に煤けた太い柱を楯に取って、馬の目の届かぬほどに小隠れた。  その内腰に挟んだ、煮染めたような、なえなえの手拭を抜いて克明に刻んだ額の皺の汗を拭いて、親仁はこれでよしという気組、再び前へ廻ったが、旧によって貧乏動もしないので、綱に両手をかけて足を揃えて反返るようにして、うむと総身に力を入れた。とたんにどうじゃい。  凄じく嘶いて前足を両方中空へ翻したから、小さな親仁は仰向けに引くりかえった、ずどんどう、月夜に砂煙がぱっと立つ。  白痴にもこれは可笑しかったろう、この時ばかりじゃ、真直に首を据えて厚い唇をばくりと開けた、大粒な歯を露出して、あの宙へ下げている手を風で煽るように、はらりはらり。 (世話が焼けることねえ、)  婦人は投げるようにいって草履を突かけて土間へついと出る。 (嬢様勘違いさっしゃるな、これはお前様ではないぞ、何でもはじめからそこなお坊様に目をつけたっけよ、畜生俗縁があるだッぺいわさ。)  俗縁は驚いたい。  すると婦人が、 (貴僧ここへいらっしゃる路で誰にかお逢いなさりはしませんか。)」 十九 「(はい、辻の手前で富山の反魂丹売に逢いましたが、一足先にやっぱりこの路へ入りました。) (ああ、そう。)と会心の笑を洩して婦人は蘆毛の方を見た、およそ耐らなく可笑しいといったはしたない風采で。  極めて与し易う見えたので、 (もしや此家へ参りませなんだでございましょうか。) (いいえ、存じません。)という時たちまち犯すべからざる者になったから、私は口をつぐむと、婦人は、匙を投げて衣の塵を払うている馬の前足の下に小さな親仁を見向いて、 (しょうがないねえ、)といいながら、かなぐるようにして、その細帯を解きかけた、片端が土へ引こうとするのを、掻取ってちょいと猶予う。 (ああ、ああ。)と濁った声を出して白痴が件のひょろりとした手を差向けたので、婦人は解いたのを渡してやると、風呂敷を寛げたような、他愛のない、力のない、膝の上へわがねて宝物を守護するようじゃ。  婦人は衣紋を抱き合せ、乳の下でおさえながら静に土間を出て馬の傍へつつと寄った。  私はただ呆気に取られて見ていると、爪立をして伸び上り、手をしなやかに空ざまにして、二三度鬣を撫でたが。  大きな鼻頭の正面にすっくりと立った。丈もすらすらと急に高くなったように見えた、婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚となった有様、愛嬌も嬌態も、世話らしい打解けた風はとみに失せて、神か、魔かと思われる。  その時裏の山、向うの峰、左右前後にすくすくとあるのが、一ツ一ツ嘴を向け、頭を擡げて、この一落の別天地、親仁を下手に控え、馬に面して彳んだ月下の美女の姿を差覗くがごとく、陰々として深山の気が籠って来た。  生ぬるい風のような気勢がすると思うと、左の肩から片膚を脱いだが、右の手を脱して、前へ廻し、ふくらんだ胸のあたりで着ていたその単衣を円げて持ち、霞も絡わぬ姿になった。  馬は背、腹の皮を弛めて汗もしとどに流れんばかり、突張った脚もなよなよとして身震をしたが、鼻面を地につけて一掴の白泡を吹出したと思うと前足を折ろうとする。  その時、頤の下へ手をかけて、片手で持っていた単衣をふわりと投げて馬の目を蔽うが否や、兎は躍って、仰向けざまに身を翻し、妖気を籠めて朦朧とした月あかりに、前足の間に膚が挟ったと思うと、衣を脱して掻取りながら下腹をつと潜って横に抜けて出た。  親仁は差心得たものと見える、この機かけに手綱を引いたから、馬はすたすたと健脚を山路に上げた、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃん、しゃんしゃん、――見る間に眼界を遠ざかる。  婦人は早や衣服を引かけて縁側へ入って来て、突然帯を取ろうとすると、白痴は惜しそうに押えて放さず、手を上げて、婦人の胸を圧えようとした。  邪慳に払い退けて、きっと睨んで見せると、そのままがっくりと頭を垂れた、すべての光景は行燈の火も幽に幻のように見えたが、炉にくべた柴がひらひらと炎先を立てたので、婦人はつと走って入る。空の月のうらを行くと思うあたり遥に馬子歌が聞えたて。」 二十 「さて、それからご飯の時じゃ、膳には山家の香の物、生姜の漬けたのと、わかめを茹でたの、塩漬の名も知らぬ蕈の味噌汁、いやなかなか人参と干瓢どころではござらぬ。  品物は侘しいが、なかなかのお手料理、餓えてはいるし、冥加至極なお給仕、盆を膝に構えてその上に肱をついて、頬を支えながら、嬉しそうに見ていたわ。  縁側に居た白痴は誰も取合ぬ徒然に堪えられなくなったものか、ぐたぐたと膝行出して、婦人の傍へその便々たる腹を持って来たが、崩れたように胡坐して、しきりにこう我が膳を視めて、指をした。 (うううう、うううう。) (何でございますね、あとでお食んなさい、お客様じゃあありませんか。)  白痴は情ない顔をして口を曲めながら頭を掉った。 (厭? しょうがありませんね、それじゃご一所に召しあがれ。貴僧、ご免を蒙りますよ。)  私は思わず箸を置いて、 (さあどうぞお構いなく、とんだご雑作を頂きます。) (いえ、何の貴僧。お前さん後ほどに私と一所にお食べなさればいいのに。困った人でございますよ。)とそらさぬ愛想、手早くおなじような膳を拵えてならべて出した。  飯のつけようも効々しい女房ぶり、しかも何となく奥床しい、上品な、高家の風がある。  白痴はどんよりした目をあげて膳の上を睨めていたが、 (あれを、ああ、ああ、あれ。)といってきょろきょろと四辺を眗す。  婦人はじっと瞻って、 (まあ、いいじゃないか。そんなものはいつでも食られます、今夜はお客様がありますよ。) (うむ、いや、いや。)と肩腹を揺ったが、べそを掻いて泣出しそう。  婦人は困じ果てたらしい、傍のものの気の毒さ。 (嬢様、何か存じませんが、おっしゃる通りになすったがよいではござりませんか。私にお気遣はかえって心苦しゅうござります。)と慇懃にいうた。  婦人はまたもう一度、 (厭かい、これでは悪いのかい。)  白痴が泣出しそうにすると、さも怨めしげに流眄に見ながら、こわれごわれになった戸棚の中から、鉢に入ったのを取り出して手早く白痴の膳につけた。 (はい。)と故とらしく、すねたようにいって笑顔造。  はてさて迷惑な、こりゃ目の前で黄色蛇の旨煮か、腹籠の猿の蒸焼か、災難が軽うても、赤蛙の干物を大口にしゃぶるであろうと、そっと見ていると、片手に椀を持ちながら掴出したのは老沢庵。  それもさ、刻んだのではないで、一本三ツ切にしたろうという握太なのを横銜えにしてやらかすのじゃ。  婦人はよくよくあしらいかねたか、盗むように私を見てさっと顔を赭らめて初心らしい、そんな質ではあるまいに、羞かしげに膝なる手拭の端を口にあてた。  なるほどこの少年はこれであろう、身体は沢庵色にふとっている。やがてわけもなく餌食を平らげて湯ともいわず、ふッふッと大儀そうに呼吸を向うへ吐くわさ。 (何でございますか、私は胸に支えましたようで、ちっとも欲しくございませんから、また後ほどに頂きましょう、)  と婦人自分は箸も取らずに二ツの膳を片づけてな。」 二十一 「しばらくしょんぼりしていたっけ。 (貴僧、さぞお疲労、すぐにお休ませ申しましょうか。) (難有う存じます、まだちっとも眠くはござりません、さっき体を洗いましたので草臥もすっかり復りました。) (あの流れはどんな病にでもよく利きます、私が苦労をいたしまして骨と皮ばかりに体が朽れましても、半日あすこにつかっておりますと、水々しくなるのでございますよ。もっともあのこれから冬になりまして山がまるで氷ってしまい、川も崕も残らず雪になりましても、貴僧が行水を遊ばしたあすこばかりは水が隠れません、そうしていきりが立ちます。  鉄砲疵のございます猿だの、貴僧、足を折った五位鷺、種々なものが浴みに参りますからその足跡で崕の路が出来ますくらい、きっとそれが利いたのでございましょう。  そんなにございませんければこうやってお話をなすって下さいまし、寂しくってなりません、本当にお愧しゅうございますが、こんな山の中に引籠っておりますと、ものをいうことも忘れましたようで、心細いのでございますよ。  貴僧、それでもお眠ければご遠慮なさいますなえ。別にお寝室と申してもございませんがその代り蚊は一ツも居ませんよ、町方ではね、上の洞の者は、里へ泊りに来た時蚊帳を釣って寝かそうとすると、どうして入るのか解らないので、梯子を貸せいと喚いたと申して嬲るのでございます。  たんと朝寐を遊ばしても鐘は聞えず、鶏も鳴きません、犬だっておりませんからお心安うござんしょう。  この人も生れ落ちるとこの山で育ったので、何にも存じません代り、気のいい人でちっともお心置はないのでござんす。  それでも風俗のかわった方がいらっしゃいますと、大事にしてお辞儀をすることだけは知ってでございますが、まだご挨拶をいたしませんね。この頃は体がだるいと見えてお惰けさんになんなすったよ。いいえ、まるで愚なのではございません、何でもちゃんと心得ております。  さあ、ご坊様にご挨拶をなすって下さい。まあ、お辞儀をお忘れかい。)と親しげに身を寄せて、顔を差し覗いて、いそいそしていうと、白痴はふらふらと両手をついて、ぜんまいが切れたようにがっくり一礼。 (はい、)といって私も何か胸が迫って頭を下げた。  そのままその俯向いた拍子に筋が抜けたらしい、横に流れようとするのを、婦人は優しゅう扶け起して、 (おお、よくしたねえ。)  天晴といいたそうな顔色で、 (貴僧、申せば何でも出来ましょうと思いますけれども、この人の病ばかりはお医者の手でもあの水でも復りませなんだ、両足が立ちませんのでございますから、何を覚えさしましても役には立ちません。それにご覧なさいまし、お辞儀一ツいたしますさえ、あの通り大儀らしい。  ものを教えますと覚えますのにさぞ骨が折れて切のうござんしょう、体を苦しませるだけだと存じて何にもさせないで置きますから、だんだん、手を動かす働も、ものをいうことも忘れました。それでもあの、謡が唄えますわ。二ツ三ツ今でも知っておりますよ。さあお客様に一ツお聞かせなさいましなね。)  白痴は婦人を見て、また私が顔をじろじろ見て、人見知をするといった形で首を振った。」 二十二 「左右して、婦人が、励ますように、賺すようにして勧めると、白痴は首を曲げてかの臍を弄びながら唄った。 木曽の御嶽山は夏でも寒い、    袷遣りたや足袋添えて。 (よく知っておりましょう、)と婦人は聞き澄して莞爾する。  不思議や、唄った時の白痴の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、私も推量したとは月鼈雲泥、天地の相違、節廻し、あげさげ、呼吸の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底この少年の咽喉から出たものではない。まず前の世のこの白痴の身が、冥土から管でそのふくれた腹へ通わして寄越すほどに聞えましたよ。  私は畏って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙した。  婦人は目早く見つけたそうで、 (おや、貴僧、どうかなさいましたか。)  急にものもいわれなんだが漸々、 (はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、私も嬢様のことは別にお尋ね申しませんから、貴女も何にも問うては下さりますな。)  と仔細は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪をかざし、蝶衣を纏うて、珠履を穿たば、正に驪山に入って、相抱くべき豊肥妖艶の人が、その男に対する取廻しの優しさ、隔なさ、深切さに、人事ながら嬉しくて、思わず涙が流れたのじゃ。  すると人の腹の中を読みかねるような婦人ではない、たちまち様子を悟ったかして、 (貴僧はほんとうにお優しい。)といって、得も謂われぬ色を目に湛えて、じっと見た。私も首を低れた、むこうでも差俯向く。  いや、行燈がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴のせいじゃて。  その時よ。  座が白けて、しばらく言葉が途絶えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫、退屈をしたとみえて、顔の前の行燈を吸い込むような大欠伸をしたから。  身動きをしてな、 (寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱うわい。 (眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが坐り直ってふと気がついたように四辺を眗した。戸外はあたかも真昼のよう、月の光は開け拡げた家の内へはらはらとさして、紫陽花の色も鮮麗に蒼かった。 (貴僧ももうお休みなさいますか。) (はい、ご厄介にあいなりまする。) (まあ、いま宿を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外へは近うござんすが、夏は広い方が結句宜うございましょう、私どもは納戸へ臥せりますから、貴僧はここへお広くお寛ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま項へ崩れた。  鬢をおさえて戸につかまって、戸外を透したが、独言をした。 (おやおやさっきの騒ぎで櫛を落したそうな。)  いかさま馬の腹を潜った時じゃ。」 二十三  この折から下の廊下に跫音がして、静に大跨に歩行いたのが、寂としているからよく。  やがて小用を達した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞えた、手水鉢へ柄杓の響。 「おお、積った、積った。」と呟いたのは、旅籠屋の亭主の声である。 「ほほう、この若狭の商人はどこかへ泊ったと見える、何か愉快い夢でも見ているかな。」 「どうぞその後を、それから。」と聞く身には他事をいううちが牴牾しく、膠もなく続きを促した。 「さて、夜も更けました、」といって旅僧はまた語出した。 「たいてい推量もなさるであろうが、いかに草臥れておっても申上げたような深山の孤家で、眠られるものではない、それに少し気になって、はじめの内私を寝かさなかった事もあるし、目は冴えて、まじまじしていたが、さすがに、疲が酷いから、心は少しぼんやりして来た、何しろ夜の白むのが待遠でならぬ。  そこではじめの内は我ともなく鐘の音の聞えるのを心頼みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、こういう処じゃ山寺どころではないと思うと、にわかに心細くなった。  その時は早や、夜がものに譬えると谷の底じゃ、白痴がだらしのない寐息も聞えなくなると、たちまち戸の外にものの気勢がしてきた。  獣の跫音のようで、さまで遠くの方から歩行いて来たのではないよう、猿も、蟇も、居る処と、気休めにまず考えたが、なかなかどうして。  しばらくすると今そやつが正面の戸に近いたなと思ったのが、羊の鳴声になる。  私はその方を枕にしていたのじゃから、つまり枕頭の戸外じゃな。しばらくすると、右手のかの紫陽花が咲いていたその花の下あたりで、鳥の羽ばたきする音。  むささびか知らぬがきッきッといって屋の棟へ、やがておよそ小山ほどあろうと気取られるのが胸を圧すほどに近いて来て、牛が鳴いた、遠くの彼方からひたひたと小刻に駈けて来るのは、二本足に草鞋を穿いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家のぐるりを取巻いたようで、二十三十のものの鼻息、羽音、中には囁いているのがある。あたかも何よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪しの姿が板戸一枚、魑魅魍魎というのであろうか、ざわざわと木の葉が戦ぐ気色だった。  息を凝すと、納戸で、 (うむ、)といって長く呼吸を引いて一声、魘れたのは婦人じゃ。 (今夜はお客様があるよ。)と叫んだ。 (お客様があるじゃないか。)  としばらく経って二度目のははっきりと清しい声。  極めて低声で、 (お客様があるよ。)といって寝返る音がした、更に寝返る音がした。  戸の外のものの気勢は動揺を造るがごとく、ぐらぐらと家が揺いた。  私は陀羅尼を呪した。 若不順我呪 悩乱説法者 頭破作七分 如阿梨樹枝 如殺父母罪 亦如厭油殃 斗秤欺誑人 調達破僧罪 犯此法師者 当獲如是殃  と一心不乱、さっと木の葉を捲いて風が南へ吹いたが、たちまち静り返った、夫婦が閨もひッそりした。」 二十四 「翌日また正午頃、里近く、滝のある処で、昨日馬を売りに行った親仁の帰りに逢うた。  ちょうど私が修行に出るのを止して孤家に引返して、婦人と一所に生涯を送ろうと思っていたところで。  実を申すとここへ来る途中でもその事ばかり考える、蛇の橋も幸になし、蛭の林もなかったが、道が難渋なにつけても、汗が流れて心持が悪いにつけても、今更行脚もつまらない。紫の袈裟をかけて、七堂伽藍に住んだところで何ほどのこともあるまい、活仏様じゃというて、わあわあ拝まれれば人いきれで胸が悪くなるばかりか。  ちとお話もいかがじゃから、さっきはことを分けていいませなんだが、昨夜も白痴を寐かしつけると、婦人がまた炉のある処へやって来て、世の中へ苦労をしに出ようより、夏は涼しく、冬は暖い、この流に一所に私の傍においでなさいというてくれるし、まだまだそればかりでは自分に魔が魅したようじゃけれども、ここに我身で我身に言訳が出来るというのは、しきりに婦人が不便でならぬ、深山の孤家に白痴の伽をして言葉も通ぜず、日を経るに従うてものをいうことさえ忘れるような気がするというは何たる事!  殊に今朝も東雲に袂を振り切って別れようとすると、お名残惜しや、かような処にこうやって老朽ちる身の、再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え、といって悄れながら、なお深切に、道はただこの谷川の流れに沿うて行きさえすれば、どれほど遠くても里に出らるる、目の下近く水が躍って、滝になって落つるのを見たら、人家が近づいたと心を安んずるように、と気をつけて、孤家の見えなくなった辺で、指しをしてくれた。  その手と手を取交すには及ばずとも、傍につき添って、朝夕の話対手、蕈の汁でご膳を食べたり、私が榾を焚いて、婦人が鍋をかけて、私が木の実を拾って、婦人が皮を剥いて、それから障子の内と外で、話をしたり、笑ったり、それから谷川で二人して、その時の婦人が裸体になって私が背中へ呼吸が通って、微妙な薫の花びらに暖に包まれたら、そのまま命が失せてもいい!  滝の水を見るにつけても耐え難いのはその事であった、いや、冷汗が流れますて。  その上、もう気がたるみ、筋が弛んで、早や歩行くのに飽きが来て、喜ばねばならぬ人家が近づいたのも、たかがよくされて口の臭い婆さんに渋茶を振舞われるのが関の山と、里へ入るのも厭になったから、石の上へ膝を懸けた、ちょうど目の下にある滝じゃった、これがさ、後に聞くと女夫滝と言うそうで。  真中にまず鰐鮫が口をあいたような先のとがった黒い大巌が突出ていると、上から流れて来るさっと瀬の早い谷川が、これに当って両に岐れて、およそ四丈ばかりの滝になってどっと落ちて、また暗碧に白布を織って矢を射るように里へ出るのじゃが、その巌にせかれた方は六尺ばかり、これは川の一幅を裂いて糸も乱れず、一方は幅が狭い、三尺くらい、この下には雑多な岩が並ぶとみえて、ちらちらちらちらと玉の簾を百千に砕いたよう、件の鰐鮫の巌に、すれつ、縋れつ。」 二十五 「ただ一筋でも巌を越して男滝に縋りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通わぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶れ容も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。  男滝の方はうらはらで、石を砕き、地を貫く勢、堂々たる有様じゃ、これが二つ件の巌に当って左右に分れて二筋となって落ちるのが身に浸みて、女滝の心を砕く姿は、男の膝に取ついて美女が泣いて身を震わすようで、岸に居てさえ体がわななく、肉が跳る。ましてこの水上は、昨日孤家の婦人と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々、と浮いて出ると巻込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋に乱るる水とともにその膚が粉に砕けて、花片が散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。私は耐らず真逆に滝の中へ飛込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。気がつくと男滝の方はどうどうと地響打たせて。山彦を呼んで轟いて流れている。ああその力をもってなぜ救わぬ、儘よ!  滝に身を投げて死のうより、旧の孤家へ引返せ。汚らわしい欲のあればこそこうなった上に躊躇するわ、その顔を見て声を聞けば、かれら夫婦が同衾するのに枕を並べて差支えぬ、それでも汗になって修行をして、坊主で果てるよりはよほどのましじゃと、思切って戻ろうとして、石を放れて身を起した、背後から一ツ背中を叩いて、 (やあ、ご坊様。)といわれたから、時が時なり、心も心、後暗いので喫驚して見ると、閻王の使ではない、これが親仁。  馬は売ったか、身軽になって、小さな包みを肩にかけて、手に一尾の鯉の、鱗は金色なる、溌剌として尾の動きそうな、鮮しい、その丈三尺ばかりなのを、顋に藁を通して、ぶらりと提げていた。何んにも言わず急にものもいわれないで瞻ると、親仁はじっと顔を見たよ。そうしてにやにやと、また一通りの笑い方ではないて、薄気味の悪い北叟笑をして、 (何をしてござる、ご修行の身が、このくらいの暑で、岸に休んでいさっしゃる分ではあんめえ、一生懸命に歩行かっしゃりや、昨夜の泊からここまではたった五里、もう里へ行って地蔵様を拝まっしゃる時刻じゃ。  何じゃの、己が嬢様に念が懸って煩悩が起きたのじゃの。うんにゃ、秘さっしゃるな、おらが目は赤くッても、白いか黒いかはちゃんと見える。  地体並のものならば、嬢様の手が触ってあの水を振舞われて、今まで人間でいようはずがない。  牛か馬か、猿か、蟇か、蝙蝠か、何にせい飛んだか跳ねたかせねばならぬ。谷川から上って来さしった時、手足も顔も人じゃから、おらあ魂消たくらい、お前様それでも感心に志が堅固じゃから助かったようなものよ。  何と、おらが曳いて行った馬を見さしったろう。それで、孤家へ来さっしゃる山路で富山の反魂丹売に逢わしったというではないか、それみさっせい、あの助平野郎、とうに馬になって、それ馬市で銭になって、お銭が、そうらこの鯉に化けた。大好物で晩飯の菜になさる、お嬢様を一体何じゃと思わっしゃるの)。」  私は思わず遮った。 「お上人?」 二十六  上人は頷きながら呟いて、 「いや、まず聞かっしゃい、かの孤家の婦人というは、旧な、これも私には何かの縁があった、あの恐しい魔処へ入ろうという岐道の水が溢れた往来で、百姓が教えて、あすこはその以前医者の家であったというたが、その家の嬢様じゃ。  何でも飛騨一円当時変ったことも珍らしいこともなかったが、ただ取り出でていう不思議はこの医者の娘で、生まれると玉のよう。  母親殿は頬板のふくれた、眦の下った、鼻の低い、俗にさし乳というあの毒々しい左右の胸の房を含んで、どうしてあれほど美しく育ったものだろうという。  昔から物語の本にもある、屋の棟へ白羽の征矢が立つか、さもなければ狩倉の時貴人のお目に留って御殿に召出されるのは、あんなのじゃと噂が高かった。  父親の医者というのは、頬骨のとがった髯の生えた、見得坊で傲慢、その癖でもじゃ、もちろん田舎には刈入の時よく稲の穂が目に入ると、それから煩う、脂目、赤目、流行目が多いから、先生眼病の方は少し遣ったが、内科と来てはからッぺた。外科なんと来た日にゃあ、鬢附へ水を垂らしてひやりと疵につけるくらいなところ。  鰯の天窓も信心から、それでも命数の尽きぬ輩は本復するから、外に竹庵養仙木斎の居ない土地、相応に繁盛した。  殊に娘が十六七、女盛となって来た時分には、薬師様が人助けに先生様の内へ生れてござったというて、信心渇仰の善男善女? 病男病女が我も我もと詰め懸ける。  それというのが、はじまりはかの嬢様が、それ、馴染の病人には毎日顔を合せるところから愛想の一つも、あなたお手が痛みますかい、どんなでございます、といって手先へ柔かな掌が障ると第一番に次作兄いという若いのの(りょうまちす)が全快、お苦しそうなといって腹をさすってやると水あたりの差込の留まったのがある、初手は若い男ばかりに利いたが、だんだん老人にも及ぼして、後には婦人の病人もこれで復る、復らぬまでも苦痛が薄らぐ、根太の膿を切って出すさえ、錆びた小刀で引裂く医者殿が腕前じゃ、病人は七顛八倒して悲鳴を上げるのが、娘が来て背中へぴったりと胸をあてて肩を押えていると、我慢が出来るといったようなわけであったそうな。  ひとしきりあの藪の前にある枇杷の古木へ熊蜂が来て恐しい大きな巣をかけた。  すると医者の内弟子で薬局、拭掃除もすれば総菜畠の芋も掘る、近い所へは車夫も勤めた、下男兼帯の熊蔵という、その頃二十四五歳、稀塩散に単舎利別を混ぜたのを瓶に盗んで、内が吝嗇じゃから見附かると叱られる、これを股引や袴と一所に戸棚の上に載せておいて、隙さえあればちびりちびり飲んでた男が、庭掃除をするといって、件の蜂の巣を見つけたっけ。  縁側へやって来て、お嬢様面白いことをしてお目に懸けましょう、無躾でござりますが、私のこの手を握って下さりますと、あの蜂の中へ突込んで、蜂を掴んで見せましょう。お手が障った所だけは螫しましても痛みませぬ、竹箒で引払いては八方へ散らばって体中に集られてはそれは凌げませぬ即死でございますがと、微笑んで控える手で無理に握ってもらい、つかつかと行くと、凄じい虫の唸、やがて取って返した左の手に熊蜂が七ツ八ツ、羽ばたきをするのがある、脚を振うのがある、中には掴んだ指の股へ這出しているのがあった。  さあ、あの神様の手が障れば鉄砲玉でも通るまいと、蜘蛛の巣のように評判が八方へ。  その頃からいつとなく感得したものとみえて、仔細あって、あの白痴に身を任せて山に籠ってからは神変不思議、年を経るに従うて神通自在じゃ。はじめは体を押つけたのが、足ばかりとなり、手さきとなり、果は間を隔てていても、道を迷うた旅人は嬢様が思うままはッという呼吸で変ずるわ。  と親仁がその時物語って、ご坊は、孤家の周囲で、猿を見たろう、蟇を見たろう、蝙蝠を見たであろう、兎も蛇も皆嬢様に谷川の水を浴びせられて畜生にされたる輩!  あわれあの時あの婦人が、蟇に絡られたのも、猿に抱かれたのも、蝙蝠に吸われたのも、夜中に魑魅魍魎に魘われたのも、思い出して、私はひしひしと胸に当った。  なお親仁のいうよう。  今の白痴も、件の評判の高かった頃、医者の内へ来た病人、その頃はまだ子供、朴訥な父親が附添い、髪の長い、兄貴がおぶって山から出て来た。脚に難渋な腫物があった、その療治を頼んだので。  もとより一室を借受けて、逗留をしておったが、かほどの悩は大事じゃ、血も大分に出さねばならぬ、殊に子供、手を下すには体に精分をつけてからと、まず一日に三ツずつ鶏卵を飲まして、気休めに膏薬を貼っておく。  その膏薬を剥がすにも親や兄、また傍のものが手を懸けると、堅くなって硬ばったのが、めりめりと肉にくッついて取れる、ひいひいと泣くのじゃが、娘が手をかけてやれば黙って耐えた。  一体は医者殿、手のつけようがなくって身の衰をいい立てに一日延ばしにしたのじゃが三日経つと、兄を残して、克明な父親は股引の膝でずって、あとさがりに玄関から土間へ、草鞋を穿いてまた地に手をついて、次男坊の生命の扶かりまするように、ねえねえ、というて山へ帰った。  それでもなかなか捗取らず、七日も経ったので、後に残って附添っていた兄者人が、ちょうど刈入で、この節は手が八本も欲しいほど忙しい、お天気模様も雨のよう、長雨にでもなりますと、山畠にかけがえのない、稲が腐っては、餓死でござりまする、総領の私は、一番の働手、こうしてはおられませぬから、と辞をいって、やれ泣くでねえぞ、としんみり子供にいい聞かせて病人を置いて行った。  後には子供一人、その時が、戸長様の帳面前年紀六ツ、親六十で児が二十なら徴兵はお目こぼしと何を間違えたか届が五年遅うして本当は十一、それでも奥山で育ったから村の言葉も碌には知らぬが、怜悧な生れで聞分があるから、三ツずつあいかわらず鶏卵を吸わせられる汁も、今に療治の時残らず血になって出ることと推量して、べそを掻いても、兄者が泣くなといわしったと、耐えていた心の内。  娘の情で内と一所に膳を並べて食事をさせると、沢庵の切をくわえて隅の方へ引込むいじらしさ。  いよいよ明日が手術という夜は、皆寐静まってから、しくしく蚊のように泣いているのを、手水に起きた娘が見つけてあまり不便さに抱いて寝てやった。  さて治療となると例のごとく娘が背後から抱いていたから、脂汗を流しながら切れものが入るのを、感心にじっと耐えたのに、どこを切違えたか、それから流れ出した血が留まらず、見る見る内に色が変って、危くなった。  医者も蒼くなって、騒いだが、神の扶けかようよう生命は取留まり、三日ばかりで血も留ったが、とうとう腰が抜けた、もとより不具。  これが引摺って、足を見ながら情なそうな顔をする。蟋蟀が𢪸がれた脚を口に銜えて泣くのを見るよう、目もあてられたものではない。  しまいには泣出すと、外聞もあり、少焦で、医者は恐しい顔をして睨みつけると、あわれがって抱きあげる娘の胸に顔をかくして縋るさまに、年来随分と人を手にかけた医者も我を折って腕組をして、はッという溜息。  やがて父親が迎にござった、因果と断念めて、別に不足はいわなんだが、何分小児が娘の手を放れようといわぬので、医者も幸、言訳かたがた、親兄の心をなだめるため、そこで娘に小児を家まで送らせることにした。  送って来たのが孤家で。  その時分はまだ一個の荘、家も小二十軒あったのが、娘が来て一日二日、ついほだされて逗留した五日目から大雨が降出した。滝を覆すようで小歇もなく家に居ながら皆簑笠で凌いだくらい、茅葺の繕いをすることはさて置いて、表の戸もあけられず、内から内、隣同士、おうおうと声をかけ合ってわずかにまだ人種の世に尽きぬのを知るばかり、八日を八百年と雨の中に籠ると九日目の真夜中から大風が吹出してその風の勢ここが峠というところでたちまち泥海。  この洪水で生残ったのは、不思議にも娘と小児とそれにその時村から供をしたこの親仁ばかり。  おなじ水で医者の内も死絶えた、さればかような美女が片田舎に生れたのも国が世がわり、代がわりの前兆であろうと、土地のものは言い伝えた。  嬢様は帰るに家なく、世にただ一人となって小児と一所に山に留まったのはご坊が見らるる通り、またあの白痴につきそって行届いた世話も見らるる通り、洪水の時から十三年、いまになるまで一日もかわりはない。  といい果てて親仁はまた気味の悪い北叟笑。 (こう身の上を話したら、嬢様を不便がって、薪を折ったり水を汲む手助けでもしてやりたいと、情が懸ろう。本来の好心、いい加減な慈悲じゃとか、情じゃとかいう名につけて、いっそ山へ帰りたかんべい、はて措かっしゃい。あの白痴殿の女房になって世の中へは目もやらぬ換にゃあ、嬢様は如意自在、男はより取って、飽けば、息をかけて獣にするわ、殊にその洪水以来、山を穿ったこの流は天道様がお授けの、男を誘う怪しの水、生命を取られぬものはないのじゃ。  天狗道にも三熱の苦悩、髪が乱れ、色が蒼ざめ、胸が痩せて手足が細れば、谷川を浴びると旧の通り、それこそ水が垂るばかり、招けば活きた魚も来る、睨めば美しい木の実も落つる、袖を翳せば雨も降るなり、眉を開けば風も吹くぞよ。  しかもうまれつきの色好み、殊にまた若いのが好じゃで、何かご坊にいうたであろうが、それを実としたところで、やがて飽かれると尾が出来る、耳が動く、足がのびる、たちまち形が変ずるばかりじゃ。  いややがて、この鯉を料理して、大胡坐で飲む時の魔神の姿が見せたいな。  妄念は起さずに早うここを退かっしゃい、助けられたが不思議なくらい、嬢様別してのお情じゃわ、生命冥加な、お若いの、きっと修行をさっしゃりませ。)とまた一ツ背中を叩いた、親仁は鯉を提げたまま見向きもしないで、山路を上の方。  見送ると小さくなって、一座の大山の背後へかくれたと思うと、油旱の焼けるような空に、その山の巓から、すくすくと雲が出た、滝の音も静まるばかり殷々として雷の響。  藻抜けのように立っていた、私が魂は身に戻った、そなたを拝むと斉しく、杖をかい込み、小笠を傾け、踵を返すと慌しく一散に駈け下りたが、里に着いた時分に山は驟雨、親仁が婦人に齎らした鯉もこのために活きて孤家に着いたろうと思う大雨であった。」  高野聖はこのことについて、あえて別に註して教を与えはしなかったが、翌朝袂を分って、雪中山越にかかるのを、名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、あたかも雲に駕して行くように見えたのである。 (明治三十三年)
底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房    1991(平成3)年10月20日 第1刷    1995(平成7)年8月15日 第2刷 底本の親本:「現代日本文学大系5」筑摩書房    1972(昭和47)年5月15日 初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂    1900(明治33)年2月1日 入力:真先芳秋 校正:林めぐみ 1999年1月30日公開 2012年4月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000521", "作品名": "高野聖", "作品名読み": "こうやひじり", "ソート用読み": "こうやひしり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第五年第三巻」春陽堂、1900(明治33)年2月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-01-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card521.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ちくま日本文学全集 泉鏡花", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年10月20日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年8月15日第2刷", "底本の親本名1": "現代日本文學大系 5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集", "底本の親本出版社名1": "筑摩書房", "底本の親本初版発行年1": "1972(昭和47)年5月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "林めぐみ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/521_ruby_20582.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-04-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "4", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/521_20583.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-04-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 田舎の娘であらう。縞柄も分らない筒袖の古浴衣に、煮染めたやうな手拭を頬被りして、水の中に立つたのは。……それを其のまゝに見えるけれど、如何に奇を好めばと云つても、女の形に案山子を拵へるものはない。  盂蘭盆すぎの良い月であつた。風はないが、白露の蘆に満ちたのが、穂に似て、細流に揺れて、雫が、青い葉、青い茎を伝つて、点滴ばかりである。  町を流るゝ大川の、下の小橋を、もつと此処は下流に成る。やがて潟へ落ちる川口で、此の田つゞきの小流との間には、一寸高く築いた塘堤があるが、初夜過ぎて町は遠し、村も静つた。場末の湿地で、藁屋の侘しい処だから、塘堤一杯の月影も、破窓をさす貧い台所の棚の明るい趣がある。  遠近の森に棲む、狐か狸か、と見るのが相応しいまで、ものさびて、のそ〳〵と歩行く犬さへ、梁を走る古鼠かと疑はるゝのに―― ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ―― ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ――  小豆あらひと云ふ変化を想はせる。……夜中に洗濯の音を立てるのは、小流に浸つた、案山子同様の其の娘だ。……  霧の這ふ田川の水を、ほの白い、笊で掻き〳〵、泡沫を薄青く掬ひ取つては、細帯につけた畚の中へ、ト腰を捻り状に、ざあと、光に照らして移し込む。 ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ――  おなじ事を繰返す。腰の影は蘆の葉に浮いて、さながら黒く踊るかと見えた。  町の方から、がや〳〵と、婦まじりの四五人の声が、浮いた跫音とともに塘堤をつたつて、風の留つた影燈籠のやうに近づいて、 「何だ、何だ。」 「あゝ、行つてるなあ。」  と、なぞへに蘆の上から、下のその小流を見て、一同に立留つた。 「うまく行るぜ。」 「真似をする処は、狐か、狸だらうぜ。それ、お前によく似て居らあ。」 「可厭。」  と甘たれた声を揚げて、男に摺寄つたのは少い女で。 「獺だんべい、水の中ぢや。」  と、いまの若いのの声に浮かれた調子で、面を渋黒くニヤ〳〵と笑つて、あとに立つたのが、のそ〳〵と出たのは、一挺の艪と、かんてらをぶら下げた年倍な船頭である。  此の唯一つの灯が、四五人の真中へ入つたら、影燈籠は、再び月下に、其のまゝくる〳〵と廻るであらう。 ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ――  髪を当世にした、濃い白粉の大柄の年増が、 「おい、姉さん。」  と、肩幅広く、塘堤ぶちへ顕はれた。立女形が出たから、心得たのであらう、船頭め、かんてらの灯を、其の胸のあたりへ突出した。首抜の浴衣に、浅葱と紺の石松の伊達巻ばかり、寝衣のなりで来たらしい。恁う照されると、眉毛は濃く、顔は大い。此処から余り遠くない、場末の某座に五日間の興行に大当りを取つた、安来節座中の女太夫である。  あとも一座で。……今夜、五日目の大入を刎ねたあとを、涼みながら船を八葉潟へ浮べようとして出て来たのだが、しこみものの鮨、煮染、罎づめの酒で月を見るより、心太か安いアイスクリイムで、蚊帳で寝た方がいゝ、あとの女たちや、雑用宿を宿場へ浮れ出す他の男どもは誰も来ない。また来ない方の人数が多かつた。 「おい、お前さん。」  と、太夫の年増は、つゞけて鷹揚に、娘を呼んだ。  流の案山子は、……ざぶりと、手を留めた。が、少しは気取りでもする事か、棒杭に引かゝつた菜葉の如く、たくしあげた裾の上へ、据腰に笊を構へて、頬被りの面を向けた。目鼻立は美しい。で、濡れ〳〵として艶ある脛は、蘆間に眠る白鷺のやうに霧を分けて白く長かつた。 「感心――なか〳〵うまいがね、少し手が違つてるよ。……さん子さん、一寸唄つてお遣り。村方で真似をするのに、いゝ手本だ。……まうけさして貰つた礼心に、ちゃんとした処を教へてあげよう。置土産さ、さん子さん、お唄ひよ。」 「可厭、獺に。……気味が悪いわ、口うつしに成るぢやないの。」  と少いのが首とともに肩を振る。 「獺に教へれば、芸の威光さ。ぢやあ、私が唄ひながら。――可いかい、――安来千軒名の出た処……」  もう尤も微酔機嫌で、 「さあ、遣つて御覧よ。……鰌すくひさ。」 「ほゝゝ。」  と娘は唯笑つた。  月にも、霧にも、流の音にも、一座の声は、果敢なき蛾のやうに、ちら〳〵と乱るゝのに、娘の笑声のみ、水に沈んで、月影の森に遠く響いた。 「一寸、お遣りつたら。」 「ほゝゝ。」 「笑つてないでさ、可いかい。――鰌すくひの骨髄と言ふ処を教へるからよ。」 「あれ、私はな、鰌すくふのでござんせぬ。」 「おや、何をしてるんだね。」 「お月様の影を掬ひますの。」  と空を仰いで言つた。蘆の葉の露は輝いたのである。 「月影を……」 「あはゝ、などと言つて、此奴、色男と共稼ぎに汚穢取りの稽古で居やがる。」  と色の黒い小男が笑出すと、角面の薄化粧した座長、でつぷりした男が、 「月を汲んで何にするんだ。」 「はあ、暗の夜の用心になあ。」  此奴は薄馬鹿だと思つたさうである。後での話だが――些と狐が憑いて居るとも思つたさうで。……そのいづれにせよ、此の容色なら、肉の白さだけでも、客は引ける。金まうけと、座長の角面はさつそくに思慮した。且つ誘拐ふに術は要らない。 「分つた〳〵、えらいよお前は――暗夜の用心に月の光を掬つて置くと、笊の目から、ざあ〳〵洩ると、畚から、ぽた〳〵流れると、ついでに愛嬌はこぼれると、な。……此の位世の中に理窟の分つた事はねえ。感心だ。――処でな、おい、姉え。おなじ月影を汲むなら、そんなぢよろ〳〵水でなしに、潟へ出て、そら、ほつと霧のかゝつた、あの、其処の山ほど大きく汲みな。一所に来な、連れて行くぜ。」  女太夫に目くばせしながら、 「俺たちは、その月を見に潟へ出るんだ。――一所に来なよ、御馳走も、うんとあらあ。」 「ほう、来るか〳〵、猫よりもおとなしい。いまのまに出世をするぜ、いゝ娘だ、いゝ娘だ。」  と黒い小男が囃した。  娘は、もう蘆を分けて出たのである。露にしつとりと萎へた姿も、水には濡れて居なかつた。  すぐ川堤を、十歩ばかり戻り気味に、下へ、大川へ下口があつて、船着に成つて居る。時に三艘ばかり流に並んで、岸の猫柳に浮いて居た。 (三界万霊、諸行無常。)  鼠にぼやけた白い旗が、もやひに搦んで、ひよろ〳〵と漾ふのが見えた。 「おや〳〵、塔婆も一本、流れ灌頂と云ふ奴だ。……大変なものに乗せるんだな。」  座長が真さきにのりかゝつて、ぎよつとした。三艘のうちの、一番大形に見える真中の船であつた。  が、船べりを舐めて這ふやうに、船頭がかんてらを入れたのは、端の方の古船で。 「旦那、此方だよ。……へい、其は流れ灌頂ではござりましねえ。昨日、盂蘭盆で川施餓鬼がござりましたでや。」 「流れ灌頂と兄弟分だ。」 「可厭だわねえ。」 「一蓮托生と、さあ、皆乗つたか。」  と座長が捌く。 「小父さん、船幽霊は出ないこと。」  と若い女が、ぢやぶ〳〵、ぢやぶ〳〵と乗出す中に、怯えた声する。  兀げたのだらう。月に青道心のやうで、さつきから黙り家の老人が、 「船幽霊は大海のものだ。潟にはねえなあ。」 「あれば生擒つて銭儲けだ。」  ぎい、ちよん、ぎい、ちよんと、堤の草に蟋蟀の紛れて鳴くのが、やがて分れて、大川に唯艪の音のみ、ぎい、と響く。ぎよ、ぎよツと鳴くのは五位鷺だらう。 「なむあみだぶつ。あゝ、いゝ月だ。」  と寂しく掉つた、青道心の爺の頭は、ぶくりと白茄子が浮いたやうで、川幅は左右へ展け、船は霧に包まれた。 「変な、月のほめやうだな、はゝゝ。」  と座長は笑ひ消しつつ、 「おい、姉や、何うした。」  と言ふ。水しやくひの娘は、剥いた玉子を包みあへぬ、あせた緋金巾を掻合せて、鵜が赤い魚を銜へたやうに、舳にとぼんと留つて薄黒い。通例だと卑下をしても、あとから乗つて艫の方にあるべき筈を、勝手を知つた土地のものの所為だらう。出しなに、川施餓鬼で迷つた時、船頭が入れたかんてらの火より前に乗つて、舳にちよこなんと控へたのであつた。  実は、此は心すべき事だつた。……船につくあやかしは、魔の影も、鬼火も、燃ゆる燐も、可恐き星の光も、皆、ものの尖端へ来て掛るのが例だと言ふから。  やがて、其の験がある。  時に、さすがに、娘気の慇懃心か、あらためて呼ばれたので、頬被りした手拭を取つて、俯むいた。 「あら、きれい。」 「まあ、光るわねえ。」  安来ぶしの婦は、驚駭の声を合せた。 「一寸、何、其の簪は。」  銀杏返もぐしや〳〵に、掴んで束ねた黒髪に、琴柱形して、晃々と猶ほ月光に照映へる。 「お見せ。」……とも言はず、女太夫が、間近から手を伸すと、逆らふ状もなく、頬を横に、鬢を柔順に、膝の皿に手を置いて、 「ほゝゝゝゝ。」  と、薄馬鹿が馬鹿笑に笑つたのである。  年増は思はず、手を引いて、 「えゝ、何だねえ、気味の悪い。」  生暖い、腥い、いやに冷く、かび臭い風が、颯と渡ると、箕で溢すやうに月前に灰汁が掛つた。  川は三つの瀬を一つに、どんよりと落合つて、八葉潟の波は、なだらかながら、八つに打つ……星の洲を埋んだ銀河が流れて漂渺たる月界に入らんとする、恰も潟へ出口の処で、その一陣の風に、曇ると見る間に、群りかさなる黒雲は、さながら裾のなき滝の虚空に漲るかと怪まれ、暗雲忽ち陰惨として、灰に血を交ぜた雨が飛んだ。 「船頭さん〳〵。」 「お船頭々々。」  と青坊主は、異変を恐れて、船頭に敬意を表した。 「苫があるで。」 「や、苫どころかい。」 「あれ、降つて来た、降つて来た。」  声を聞いて、飛ぶ鷺を想つたやうに、浪の羽が高く煽る。 「着けろ、着けろ、早くつけてくれ。」  昼は潟魚の市も小さく立つ。――村の若い衆の遊び処へ、艪数三十とはなかつたから、船の難はなかつた。が、堤尻を駈上つて、掛茶屋を、やゝ念入りな、間近な一ぜんめし屋へ飛込んだ時は、此の十七日の月の気勢も留めぬ、さながらの闇夜と成つて、篠つく雨に風が荒んだ。  侘しい電燈さへ、一点燭の影もない。  めし屋の亭主は、行燈とも、蝋燭とも言はず、真裸で慌て惑つて、 「お仏壇へ線香ぢや、線香ぢや。」  と、ふんどしを絞つて喚いた。  恁る田舎も、文明に馴れて、近頃は……余分には蝋燭の用意もないのである。 「……然うだ、姉え。恁う言ふ時だ、掬つた月影は何うしたい。」  と、座長の角面がつゞけ状に舌打をしながら言つた。 「真個だわ。」 「まつたくさ。」  太夫たちも声を合せた。  不思議に、蛍火の消えないやうに、小さな簪のほのめくのを、雨と風と、人と水の香と、入乱れた、真暗な土間に微に認めたのである。 「あゝ、うつかりして忘れて居ました。船へ置いて来た、取つて来ませう。」 「ついでに、重詰を願ひてえ。一升罎は攫つて来た。」  と黒男が、うは言のやうに言ふ間もあらせず、 「やあ、水が来た、波が来た。……薄馬鹿が水に乗つて来た。」  と青坊主がひよろ〳〵と爪立つて逃げあるく。 「お仏壇ぢや、お仏壇ぢや、お仏壇へ線香ぢや。」 「はい、取つて来ましたよ。」  と言ふ、娘の手にした畚を溢れて、湧く影は、青いさゝ蟹の群れて輝くばかりである。 「光を……月を……影を……今。」  と凜と言ふと、畚を取つて身構へた。向へる壁の煤も破めも、はや、ほの明るく映さるゝそのたゞ中へ、袂を払つてパツと投げた。間は一面に白く光つた、古畳の目は一つ一つ針を植ゑたやうである。 「あれ。」 「可恐い、電。」  と女たちは、入りもやらず、土間から框へ、背、肩を橋にひれ伏した。 「ほゝゝ、可恐いの?」  娘は静に、其の壁に向つて立つと、指をしなやかに簪を取つた。照らす光明に正に視る、簪は小さな斧であつた。  斧を取つて、唯一面の光を、端から、丁と打ち、丁と削り、こと〳〵こと〳〵と敲くと、その削りかけは、はら〳〵と、光る柳の葉、輝く桂の実にこぼれて、畳にしき、土間に散り、はた且うつくしき工人の腰にまとひ、肩に乱れた。と見る〳〵風に従つて、皆消えつつ、やがて、一輪、寸毫を違へざる十七日の月は、壁の面に掛つたのである。  残れる、其の柳、其の桂は、玉にて縫へる白銀の蓑の如く、腕の雪、白脛もあらはに長く、斧を片手に、掌にその月を捧げて立てる姿は、潟も川も爪さきに捌く、銀河に紫陽花の花籠を、かざして立てる女神であつた。  顧みて、 「ほゝゝ。」  微笑むと斉しく、姿は消えた。  壁の裏が行方であらう。その破目に、十七日の月は西に傾いたが、夜深く照りまさつて、拭ふべき霧もかけず、雨も風もあともない。  這へる蔦の白露が浮いて、村遠き森が沈んだ。  皎々として、夏も覚えぬ。夜ふけのつゝみを、一行は舟を捨てて、鯰と、鰡とが、寺詣をする状に、しよぼ〳〵と辿つて帰つた。 ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ―― ざぶり、   ざぶり、   ざぶ〳〵、   ざあ―― 「しいツ。」 「此処だ……」 「先刻の処。」  と、声の下で、囁きつれると、船頭が真先に、続いて青坊主が四つに這つたのである。  ――後に、一座の女たち――八人居た――楽屋一同、揃つて、刃を磨いた斧の簪をさした。が、夜寝ると、油、白粉の淵に、藻の乱るゝ如く、黒髪を散らして七転八倒する。 「痛い。」 「痛い。」 「苦しい。」 「痛いよう。」 「苦しい。」  唯一人……脛すらりと、色白く、面長な、目の涼しい、年紀十九で、唄もふしも何にも出来ない、総踊りの時、半裸体に蓑をつけて、櫂をついてまはるばかりのあはれな娘のみ、斧を簪して仔細ない。髪にきら〳〵と輝くきれいさ。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「苦楽」    1924(大正13)年5月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 ※初出時の表題は「鰌すくひ」です。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048404", "作品名": "光籃", "作品名読み": "こうらん", "ソート用読み": "こうらん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「苦楽」1924(大正13)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-05-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48404.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷", "底本の親本名1": "泉鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48404_ruby_34596.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48404_35157.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
五月  卯の花くだし新に霽れて、池の面の小濁り、尚ほ遲櫻の影を宿し、椿の紅を流す。日闌けて眠き合歡の花の、其の面影も澄み行けば、庭の石燈籠に苔やゝ青うして、野茨に白き宵の月、カタ〳〵と音信るゝ鼻唄の蛙もをかし。鄙はさて都はもとより、衣輕く戀は重く、褄淺く、袖輝き風薫つて、緑の中の涼傘の影、水にうつくしき翡翠の色かな。浮草、藻の花。雲の行方は山なりや、海なりや、曇るかとすれば又眩き太陽。 六月  遠近の山の影、森の色、軒に沈み、棟に浮きて、稚子の船小溝を飛ぶ時、海豚は群れて沖を渡る、凄きは鰻掻く灯ぞかし。降り暮す昨日今日、千騎の雨は襲ふが如く、伏屋も、館も、籠れる砦、圍まるゝ城に似たり。時鳥の矢信、さゝ蟹の緋縅こそ、血と紅の色には出づれ、世は只暗夜と侘しきに、烈日忽ち火の如く、窓を放ち襖を排ける夕、紫陽花の花の花片一枚づゝ、雲に星に映る折よ。うつくしき人の、葉柳の蓑着たる忍姿を、落人かと見れば、豈知らんや、熱き情思を隱顯と螢に涼む。君が影を迎ふるものは、たはれ男の獺か、あらず、大沼の鯉金鱗にして鰭の紫なる也。 七月  山に、浦に、かくれ家も、世の状の露呈なる、朝の戸を開くより、襖障子の遮るさへなく、包むは胸の羅のみ。消さじと圍ふ魂棚の可懷しき面影に、はら〳〵と小雨降添ふ袖のあはれも、やがて堪へ難き日盛や、人間は汗に成り、蒟蒻は砂に成り、蠅の音は礫と成る。二時さがりに松葉こぼれて、夢覺めて蜻蛉の羽の輝く時、心太賣る翁の聲は、市に名劍を鬻ぐに似て、打水に胡蝶驚く。行水の花の夕顏、納涼臺、縁臺の月見草。買はん哉、甘い〳〵甘酒の赤行燈、辻に消ゆれば、誰そ、青簾に氣勢あり。閨の紅麻艷にして、繪團扇の仲立に、蚊帳を厭ふ黒髮と、峻嶺の白雪と、人の思は孰ぞや。 八月  月のはじめに秋立てば、あさ朝顏の露はあれど、濡るゝともなき薄煙、軒を繞るも旱の影、炎の山黒く聳えて、頓て暑さに崩るゝにも、熱砂漲つて大路を走る。なやましき柳を吹く風さへ、赤き蟻の群る如し。あれ、聞け、雨乞の聲を消して、凄じく鳴く蝉の、油のみ汗に滴るや、ひとへに思ふ、河海と山岳と。峰と言ひ、水と呼ぶ、實に戀人の名なるかな。神ならず、仙ならずして、然も其の人、彼處に蝶鳥の遊ぶに似たり、岨がくれなる尾の姫百合、渚づたひの翼の常夏。 九月  宵々の稻妻は、火の雲の薄れ行く餘波にや、初汐の渡るなる、海の音は、夏の車の歸る波の、鼓の冴に秋は來て、松蟲鈴蟲の容も影も、刈萱に萩に歌を描く。野人に蟷螂あり、斧を上げて茄子の堅きを打つ、響は里の砧にこそ。朝夕の空澄み、水清く、霧は薄く胡粉を染め、露は濃く藍を溶く、白群青の絹の花野原に、小さき天女遊べり。纖きこと縷の如し玉蜻と言ふ。彼の女、幽に青き瓔珞を輝かして舞へば、山の端の薄を差覗きつゝ、やがて月明かに出づ。 十月  君知るや、夜寒の衾薄ければ、怨は深き後朝も、袖に包まば忍ぶべし。堪へやらぬまで身に沁むは、吹く風の荻、尾花、軒、廂を渡る其ならで、蘆の白き穗の、ちら〳〵と、あこがれ迷ふ夢に似て、枕に通ふ寢覺なり。よし其とても風情かな。折々の空の瑠璃色は、玲瓏たる影と成りて、玉章の手函の裡、櫛笥の奧、紅猪口の底にも宿る。龍膽の色爽ならん。黄菊、白菊咲出でぬ。可懷きは嫁菜の花の籬に細き姿ぞかし。山家、村里は薄紅の蕎麥の霧、粟の實の茂れる中に、鶉が鳴けば山鳩の谺する。掛稻の香暖かう、蕪に早き初霜溶けて、細流に又咲く杜若。晝の月を渡る雁は、また戀衣の縫目にこそ。 十一月  傳へ言ふ、昔越山の蜥蜴は水を吸つて雹を噴く。時、冬の初にして、槐の鵙は星に叫んで霰を召ぶ。雲暗し、雲暗し、曠野を徜徉ふ狩の公子が、獸を照す炬火は、末枯の尾花に落葉の紅の燃ゆるにこそ。行暮れて一夜の宿の嬉しさや、粟炊ぐ手さへ玉に似て、天井の煤は龍の如く、破衾も鳳凰の翼なるべし。夢覺めて絳欄碧軒なし。芭蕉の骨巖の如く、朝霜敷ける池の面に、鴛鴦の眠尚ほ濃なるのみ。戀々として、彽徊し、漸くにして里に下れば、屋根、廂、時雨の晴間を、ちら〳〵と晝灯す小き蟲あり、小橋の稚子等の唄ふを聞け。(おほわた)來い、來い、まゝ食はしよ。 十二月  それ、おほみそかは大薩摩の、もの凄くも又可恐しき、荒海の暗闇のあやかしより、山寺の額の魍魎に至るまで、霙を錬つて氷を鑄つゝ、年の瀬に楯を支くと雖も、巖間の水は囁きて、川端の辻占に、春衣の梅を告ぐるぞかし。水仙薫る浮世小路に、やけ酒の寸法は、鮟鱇の肝を解き、懷手の方寸は、輪柳の絲を結ぶ。結ぶも解くも女帶や、いつも鶯の初音に通ひて、春待月こそ面白けれ。 大正八年五月―十二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「五月《ごぐわつ》より」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050775", "作品名": "五月より", "作品名読み": "ごがつより", "ソート用読み": "こかつより", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50775.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50775_ruby_44365.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50775_44656.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
「あなた、冷えやしませんか。」  お柳は暗夜の中に悄然と立って、池に臨んで、その肩を並べたのである。工学士は、井桁に組んだ材木の下なる端へ、窮屈に腰を懸けたが、口元に近々と吸った巻煙草が燃えて、その若々しい横顔と帽子の鍔広な裏とを照らした。  お柳は男の背に手をのせて、弱いものいいながら遠慮気なく、 「あら、しっとりしてるわ、夜露が酷いんだよ。直にそんなものに腰を掛けて、あなた冷いでしょう。真とに養生深い方が、それに御病気挙句だというし、悪いわねえ。」  と言って、そっと圧えるようにして、 「何ともありはしませんか、又ぶり返すと不可ませんわ、金さん。」  それでも、ものをいわなかった。 「真とに毒ですよ、冷えると悪いから立っていらっしゃい、立っていらっしゃいよ。その方が増ですよ。」  といいかけて、あどけない声で幽に笑った。 「ほほほほ、遠い処を引張って来て、草臥れたでしょう。済みませんねえ。あなたも厭だというし、それに私も、そりゃ様子を知って居て、一所に苦労をして呉れたからッたっても、姉さんには極が悪くッて、内へお連れ申すわけには行かないしさ。我儘ばかり、お寝って在らっしゃったのを、こんな処まで連れて来て置いて、坐ってお休みなさることさえ出来ないんだよ。」  お柳はいいかけて涙ぐんだようだったが、しばらくすると、 「さあ、これでもお敷きなさい、些少はたしになりますよ。さあ、」  擦寄った気勢である。 「袖か、」 「お厭?」 「そんな事を、しなくッても可い。」 「可かあありませんよ、冷えるもの。」 「可いよ。」 「あれ、情が強いねえ、さあ、ええ、ま、痩せてる癖に。」と向うへ突いた、男の身が浮いた下へ、片袖を敷かせると、まくれた白い腕を、膝に縋って、お柳は吻と呼吸。  男はじっとして動かず、二人ともしばらく黙然。  やがてお柳の手がしなやかに曲って、男の手に触れると、胸のあたりに持って居た巻煙草は、心するともなく、放れて、婦人に渡った。 「もう私は死ぬ処だったの。又笑うでしょうけれども、七日ばかり何にも塩ッ気のものは頂かないんですもの、斯うやってお目に懸りたいと思って、煙草も断って居たんですよ。何だって一旦汚した身体ですから、そりゃおっしゃらないでも、私の方で気が怯けます。それにあなたも旧と違って、今のような御身分でしょう、所詮叶わないと断めても、断められないもんですから、あなた笑っちゃ厭ですよ。」  といい淀んで一寸男の顔。 「断めのつくように、断めさして下さいッて、お願い申した、あの、お返事を、夜の目も寝ないで待ッてますと、前刻下すったのが、あれ……ね。  深川のこの木場の材木に葉が繁ったら、夫婦になって遣るッておっしゃったのね。何うしたって出来そうもないことが出来たのは、私の念が届いたんですよ。あなた、こんなに思うもの、その位なことはありますよ。」  と猶しめやかに、 「ですから、最う大威張。それでなくッてはお声だって聞くことの出来ないのが、押懸けて行って、無理にその材木に葉の繁った処をお目に懸けようと思って連出して来たんです。  あなた分ったでしょう、今あの木挽小屋の前を通って見たでしょう。疑うもんじゃありませんよ。人の思ですわ、真暗だから分らないってお疑ンなさるのは、そりゃ、あなたが邪慳だから、邪慳な方にゃ分りません。」  又黙って俯向いた、しばらくすると顔を上げて斜めに巻煙草を差寄せて、 「あい。」 「…………」 「さあ、」 「…………」 「邪慳だねえ。」 「…………」 「ええ!、要らなきゃ止せ。」  というが疾いか、ケンドンに投り出した、巻煙草の火は、ツツツと楕円形に長く中空に流星の如き尾を引いたが、𤏋と火花が散って、蒼くして黒き水の上へ乱れて落ちた。  屹と見て、 「お柳、」 「え、」 「およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。」  と重々しく且つ沈んだ調子で、男は粛然としていった。 「女房ですから、」  と立派に言い放ち、お柳は忽ち震いつくように、岸破と男の膝に頬をつけたが、消入りそうな風采で、 「そして同年紀だもの。」  男はその頸を抱こうとしたが、フト目を反らす水の面、一点の火は未だ消えないで残って居たので。驚いて、じっと見れば、お柳が投げた巻煙草のそれではなく、靄か、霧か、朦朧とした、灰色の溜池に、色も稍濃く、筏が見えて、天窓の円い小な形が一個乗って蹲んで居たが、煙管を啣えたろうと思われる、火の光が、ぽッちり。  又水の上を歩行いて来たものがある。が船に居るでもなく、裾が水について居るでもない。脊高く、霧と同鼠の薄い法衣のようなものを絡って、向の岸からひらひらと。  見る間に水を離れて、すれ違って、背後なる木納屋に立てかけた数百本の材木の中に消えた、トタンに認めたのは、緑青で塗ったような面、目の光る、口の尖った、手足は枯木のような異人であった。 「お柳。」と呼ぼうとしたけれども、工学士は余りのことに声が出なくッて瞳を据えた。  爾時何事とも知れず仄かにあかりがさし、池を隔てた、堤防の上の、松と松との間に、すっと立ったのが婦人の形、ト思うと細長い手を出し、此方の岸を気だるげに指招く。  学士が堪まりかねて立とうとする足許に、船が横ざまに、ひたとついて居た、爪先の乗るほどの処にあったのを、霧が深い所為で知らなかったのであろう、単そればかりでない。  船の胴の室に嬰児が一人、黄色い裏をつけた、紅の四ツ身を着たのが辷って、彼の婦人の招くにつれて、船ごと引きつけらるるように、水の上をするすると斜めに行く。  その道筋に、夥しく沈めたる材木は、恰も手を以て掻き退ける如くに、算を乱して颯と左右に分れたのである。  それが向う岸へ着いたと思うと、四辺また濛々、空の色が少し赤味を帯びて、殊に黒ずんだ水面に、五六人の気勢がする、囁くのが聞えた。 「お柳、」と思わず抱占めた時は、浅黄の手絡と、雪なす頸が、鮮やかに、狭霧の中に描かれたが、見る見る、色があせて、薄くなって、ぼんやりして、一体に墨のようになって、やがて、幻は手にも留らず。  放して退ると、別に塀際に、犇々と材木の筋が立って並ぶ中に、朧々とものこそあれ、学士は自分の影だろうと思ったが、月は無し、且つ我が足は地に釘づけになってるのにも係らず、影法師は、薄くなり、濃くなり、濃くなり、薄くなり、ふらふら動くから我にもあらず、 「お柳、」  思わず又、 「お柳、」  といってすたすたと十間ばかりあとを追った。 「待て。」  あでやかな顔は目前に歴々と見えて、ニッと笑う涼い目の、うるんだ露も手に取るばかり、手を取ろうする、と何にもない。掌に障ったのは寒い旭の光線で、夜はほのぼのと明けたのであった。  学士は昨夜、礫川なるその邸で、確に寝床に入ったことを知って、あとは恰も夢のよう。今を現とも覚えず。唯見れば池のふちなる濡れ土を、五六寸離れて立つ霧の中に、唱名の声、鈴の音、深川木場のお柳が姉の門に紛れはない。然も面を打つ一脈の線香の香に、学士はハッと我に返った。何も彼も忘れ果てて、狂気の如く、その家を音信れて聞くと、お柳は丁ど爾時……。あわれ、草木も、婦人も、霊魂に姿があるのか。
底本:「化鳥・三尺角」岩波文庫、岩波書店    2013(平成25)年11月15日第1刷発行    2015(平成27)年5月15日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第四卷」岩波書店    1941(昭和16)年3月15日 初出:「小天地 第一巻第八号」    1901(明治34)年6月10日 ※表題は底本では、「木精《こだま》(三尺角拾遺)」となっています。 ※初出時の表題は「木精」です。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年6月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057476", "作品名": "木精(三尺角拾遺)", "作品名読み": "こだま(さんじゃくかくしゅうい)", "ソート用読み": "こたまさんしやくかくしゆうい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「小天地 第一巻第八号」1901(明治34)年6月10日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-07-01T00:00:00", "最終更新日": "2018-08-11T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57476.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "化鳥・三尺角 他六篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2013(平成25)年11月15日", "入力に使用した版1": "2015(平成27)年5月15日第2刷", "校正に使用した版1": "2013(平成25)年11月15日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第四卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57476_ruby_59419.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-06-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57476_59459.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-06-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……  いい天気で、暖かかったけれども、北国の事だから、厚い外套にくるまって、そして温泉宿を出た。  戸外の広場の一廓、総湯の前には、火の見の階子が、高く初冬の空を抽いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと静に枝垂れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。  横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え、艫が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚の音を聞け。印半纏の威勢のいいのでなく、田船を漕ぐお百姓らしい、もっさりとした布子のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ鎚が、一面の湖の北の天なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、 「これは三保の松原に、伯良と申す漁夫にて候。万里の好山に雲忽ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」  と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。  脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、手鍋を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。 「これなる松にうつくしき衣掛れり、寄りて見れば色香妙にして……」  と謡っている。木納屋の傍は菜畑で、真中に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ紐に青貝ほどの小朝顔が縋って咲いて、つるの下に朝霜の焚火の残ったような鶏頭が幽に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの音信を投げた、玉章のように見えた。  里はもみじにまだ早い。  露地が、遠目鏡を覗く状に扇形に展けて視められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を掻乱すようで、近く歩を入るるには惜いほどだったから……  私は―― (これは城崎関弥と言う、筆者の友だちが話したのである。)  ――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。  小店の障子に貼紙して、  (今日より昆布まきあり候。)  ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから漫歩というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、笊に柿が並べてある。これなら袂にも入ろう。「あり候」に挨拶の心得で、 「おかみさん、この柿は……」  天井裏の蕃椒は真赤だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、 「その柿かね。へい、食べられましない。」 「はあ?」 「まだ渋が抜けねえだでね。」 「はあ、ではいつ頃食べられます。」  きく奴も、聞く奴だが、 「早うて、……来月の今頃だあねえ。」 「成程。」  まったく山家はのん気だ。つい目と鼻のさきには、化粧煉瓦で、露台と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。 「お邪魔をしました。」 「よう、おいで。」  また、おかしな事がある。……くどいと不可い。道具だてはしないが、硝子戸を引きめぐらした、いいかげんハイカラな雑貨店が、細道にかかる取着の角にあった。私は靴だ。宿の貸下駄で出て来たが、あお桐の二本歯で緒が弛んで、がたくり、がたくりと歩行きにくい。此店で草履を見着けたから入ったが、小児のうち覚えた、こんな店で売っている竹の皮、藁の草履などは一足もない。極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと洒落れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は駈足で時流に追着く。 「これを貰いますよ。」  店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立っていた。 「貰って穿きますよ。」  と断って……早速ながら穿替えた、――誰も、背負って行く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。…… 「お幾干。」 「分りませんなあ。」 「誰かに聞いてくれませんか。」  若いのは、依然としてにやにやで、 「誰も今居らんのでね……」 「じゃあ帰途に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。」 「へい、大きに――」  まったくどうものんびりとしたものだ。私は何かの道中記の挿絵に、土手の薄に野茨の実がこぼれた中に、折敷に栗を塩尻に積んで三つばかり。細竹に筒をさして、四もんと、四つ、銭の形を描き入れて、傍に草鞋まで並べた、山路の景色を思出した。        二 「この蕈は何と言います。」  山沿の根笹に小流が走る。一方は、日当の背戸を横手に取って、次第疎に藁屋がある、中に半農――この潟に漁って活計とするものは、三百人を越すと聞くから、あるいは半漁師――少しばかり商いもする――藁屋草履は、ふかし芋とこの店に並べてあった――村はずれの軒を道へ出て、そそけ髪で、紺の筒袖を上被にした古女房が立って、小さな笊に、真黄色な蕈を装ったのを、こう覗いている。と笊を手にして、服装は見すぼらしく、顔も窶れ、髪は銀杏返が乱れているが、毛の艶は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十あまりの女が彳む。  蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。    実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行いて、通りの煮染屋の戸口に、手拭を頸に菅笠を被った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤を下した処に行きかかって、鮮しい雑魚に添えて、つまといった形で、おなじこの蕈を笊に装ったのを見た事があったのである。  銀杏の葉ばかりの鰈が、黒い尾でぴちぴちと跳ねる。車蝦の小蝦は、飴色に重って萌葱の脚をぴんと跳ねる。魴鮄の鰭は虹を刻み、飯鮹の紫は五つばかり、断れた雲のようにふらふらする……こち、めばる、青、鼠、樺色のその小魚の色に照映えて、黄なる蕈は美しかった。  山国に育ったから、学問の上の知識はないが……蕈の名の十やら十五は知っている。が、それはまだ見た事がなかった。……それに、私は妙に蕈が好きである。……覗込んで何と言いますかと聞くと「霜こしや。」と言った。「ははあ、霜こし。」――十一月初旬で――松蕈はもとより、しめじの類にも時節はちと寒過ぎる。……そこへ出盛る蕈らしいから、霜を越すという意味か、それともこの蕈が生えると霜が降る……霜を起すと言うのかと、その時、考うる隙もあらせず、「旦那さんどうですね。」とその魚売が笊をひょいと突きつけると、煮染屋の女房が、ずんぐり横肥りに肥った癖に、口の軽い剽軽もので、 「買うてやらさい。旦那さん、酒の肴に……はははは、そりゃおいしい、猪の味や。」と大口を開けて笑った。――紳士淑女の方々に高い声では申兼ねるが、猪はこのあたりの方言で、……お察しに任せたい。  唄で覚えた。 薬師山から湯宿を見れば、ししが髪結て身をやつす。  いや……と言ったばかりで、外に見当は付かない。……私はその時は前夜着いた電車の停車場の方へ遁足に急いだっけが――笑うものは笑え。――そよぐ風よりも、湖の蒼い水が、蘆の葉ごしにすらすらと渡って、おろした荷の、その小魚にも、蕈にも颯とかかる、霜こしの黄茸の風情が忘れられない。皆とは言わぬが、再びこの温泉に遊んだのも、半ばこの蕈に興じたのであった。  ――ほぼ心得た名だけれど、したしいものに近づくとて、あらためて、いま聞いたのである。 「この蕈は何と言います。」  何が何でも、一方は人の内室である、他は淑女たるに間違いない。――その真中へ顔を入れたのは、考えると無作法千万で、都会だと、これ交番で叱られる。 「霜こしやがね。」と買手の古女房が言った。 「綺麗だね。」  と思わず言った。近優りする若い女の容色に打たれて、私は知らず目を外した。 「こちらは、」  と、片隅に三つばかり。この方は笠を上にした茶褐色で、霜こしの黄なるに対して、女郎花の根にこぼれた、茨の枯葉のようなのを、――ここに二人たった渠等女たちに、フト思い較べながら指すと、 「かっぱ。」  と語音の調子もある……口から吹飛ばすように、ぶっきらぼうに古女房が答えた。 「ああ、かっぱ。」 「ほほほ。」  かっぱとかっぱが顱合せをしたから、若い女は、うすよごれたが姉さんかぶり、茶摘、桑摘む絵の風情の、手拭の口に笑をこぼして、 「あの、川に居ります可恐いのではありませんの、雨の降る時にな、これから着ますな、あの色に似ておりますから。」 「そんで幾干やな。」  古女房は委細構わず、笊の縁に指を掛けた。 「そうですな、これでな、十銭下さいまし。」 「どえらい事や。」  と、しょぼしょぼした目を睜った。睨むように顔を視めながら、 「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」 「まあ、」 「三銭にさっせえよ。――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」 「でも、」  と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。  安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。  私は腕組をしてそこを離れた。  以前、私たちが、草鞋に手鎌、腰兵粮というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を狩り得た験は余りない。  たった三銭――気の毒らしい。 「御免なして。」   と背後から、跫音を立てず静に来て、早や一方は窪地の蘆の、片路の山の根を摺違い、慎ましやかに前へ通る、すり切草履に踵の霜。 「ああ、姉さん。」  私はうっかりと声を掛けた。        三 「――旦那さん、その虫は構うた事には叶いませんわ。――煩うてな……」  もの言もやや打解けて、おくれ毛を撫でながら、 「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」 「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」 「東京には居りませんの。」 「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって煙のようだね。……またここにも一団になっている。何と言う虫だろう。」 「太郎虫と言いますか、米搗虫と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな児が、この虫を見ますとな、旦那さん……」  と、言が途絶えた。 「小さな児が、この虫を見ると?……」 「あの……」 「どうするんです。」 「唄をうとうて囃しますの。」 「何と言って……その唄は?」 「極が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)……薄暮合には、よけい沢山飛びますの。」  ……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。 「仲よくしましょう、さからわないで。」  私はちょっかいを出すように、面を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の最明寺どののような形を、更めて静に歩行いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ外套は、その女が持ってくれた。――歩行きながら、 「……私は虫と同じ名だから。」  しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に擬えて、潜に思い上った沙汰なのであった。  湖を遥に、一廓、彩色した竜の鱗のごとき、湯宿々々の、壁、柱、甍を中に隔てて、いまは鉄鎚の音、謡の声も聞えないが、出崎の洲の端に、ぽッつりと、烏帽子の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の苫屋は、さながらその素袍の袖である。  ――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、蕈に敷いた葉を残した笊を片手に、行く姿に、ふとその手鍋提げた下界の天女の俤を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、蕈を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの価値でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、対手が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに押被せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが極が悪くもあったらしい口振で。……「失礼だが、世帯の足になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様のお賽銭に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが覚束ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は茸狩が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。  はかない恋の思出がある。  もう疾に、余所の歴きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に綺羅は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で茣蓙に毛氈を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、襟垢のついた見すぼらしい、母のない児の手を、娘さん――そのひとは、厭わしげもなく、親しく曳いて坂を上ったのである。衣の香に包まれて、藤紫の雲の裡に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、蒔絵の重に片袖を掛けて、ほっと憩らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を秘そう。その人のいま居る背後に、一本の松は、我がなき母の塚であった。  向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、月天の御堂があった。――幼い私は、人界の茸を忘れて、草がくれに、偏に世にも美しい人の姿を仰いでいた。  弁当に集った。吸筒の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、引つかんで声を堪えた、茨の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「打棄っておけ、もう、食いに出て来る。」私は傍の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を噛んだ。草には露、目には涙、縋る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透った空もやや翳る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは堪らず蟋蟀のように飛出すと、するすると絹の音、颯と留南奇の香で、もの静なる人なれば、せき心にも乱れずに、衝と白足袋で氈を辷って肩を抱いて、「まあ、可かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。  やがて、世の状とて、絶えてその人の俤を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ憧憬に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように徜徉った。――故郷の大通りの辻に、老舗の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に挿んで掲げた。表三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと彳んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に茸狩をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは朧気であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は夜も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み耽った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで焦ったい。が、しかしその一つ一つが、峨々たる巌、森とした樹立に見えた。丶さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは唯今でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は一ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな茸のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を敲かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、天狗の翼をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、往来の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――  なつかしき茸狩よ。  二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。 「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、茸があればいいんですけど……」  湯の町の女は、先に立って導いた。……  湖のなぐれに道を廻ると、松山へ続く畷らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、枯蘆に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、琅玕のような螽であった。  一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が湧いたように、刈田を沈め、鳰を浮かせたのは一昨日の夜の暴風雨の余残と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに渺々と汐が満ちたのである。水は光る。  橋の袂にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。  一筋の道は、湖の只中を霞の渡るように思われた。  汽車に乗って、がたがた来て、一泊幾干の浦島に取って見よ、この姫君さえ僭越である。 「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」 「…………」 「姉さんの名は?……」  女は幾度も口籠りながら、手拭の端を俯目に加えて、 「浪路。……」  と言った。  ――と言うのである。……読者諸君、女の名は浪路だそうです。        四  あれに、翁が一人見える。  白砂の小山の畦道に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い杖に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、大黒頭巾に似た、饅頭形の黄なる帽子を頂き、袖なしの羽織を、ほかりと着込んで、腰に毛巾着を覗かせた……片手に網のついた畚を下げ、じんじん端折の古足袋に、藁草履を穿いている。 「少々、ものを伺います。」  ゆるい、はけ水の小流の、一段ちょろちょろと落口を差覗いて、その翁の、また一息憩ろうた杖に寄って、私は言った。  翁は、頭なりに黄帽子を仰向け、髯のない円顔の、鼻の皺深く、すぐにむぐむぐと、日向に白い唇を動かして、 「このの、私がいま来た、この縦筋を真直ぐに、ずいずいと行かっしゃると、松原について畑を横に曲る処があるでの。……それをどこまでも行かせると、沼があっての。その、すぼんだ処に、土橋が一つ架っているわい。――それそれ、この見当じゃ。」  と、引立てるように、片手で杖を上げて、釣竿を撓めるがごとく松の梢をさした。 「じゃがの。」  と頭を緩く横に掉って、 「それをば渡ってはなりませぬぞ。(と強く言って)……渡らずと、橋の詰をの、ちと後へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を上らっしゃれ。そこが尋ねる実盛塚じゃわいやい。」  と杖を直す。  安宅の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら、既に路傍の松山を二処ばかり探したが、浪路がいじらしいほど気を揉むばかりで、茸も松露も、似た形さえなかったので、獲ものを人に問うもおかしいが、且は所在なさに、連をさし置いて、いきなり声を掛けたのであったが。 「いいえ、実盛塚へは――行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。」 「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」  と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜した魚の金色の鱗が光った。 「見事な鯉ですね。」 「いやいや、これは鮒じゃわい。さて鮒じゃがの……姉さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」  と鼻の下を伸して、にやりとした。  思わず、その言に連れて振返ると、つれの浪路は、尾花で姿を隠すように、私の外套で顔を横に蔽いながら、髪をうつむけになっていた。湖の小波が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に靡く。……手につまさぐるのは、真紅の茨の実で、その連る紅玉が、手首に珊瑚の珠数に見えた。 「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、爺い……その鮒をば俺に譲れ。)と、姉さんと二人して、潟に放いて、放生会をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」  と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに鰭が鳴った。 「憂慮をさっしゃるな。割いて爺の口に啖おうではない。――これは稲荷殿へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」  と寄せた杖が肩を抽いて、背を円く流を覗いた。 「この魚は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」 「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」  私も笑った。 「茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。」 「ほん、ほん。」  と黄饅頭を、点頭のままに動かして、 「茸――松露――それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより明かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。」 「これはお隙づいえ、失礼しました。」 「いや、何の嵩高な……」 「御免。」 「静にござれい。――よう遊べ。」 「どうかしたか、――姉さん、どうした。」 「ああ、可恐い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、可恐うございましたわ。」 「…………」 「いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。」  いま畚を引上げた、水の音はまだ響くのに、翁は、太郎虫、米搗虫の靄のあなたに、影になって、のびあがると、日南の背も、もう見えぬ。 「しかし、様子は、霜こしの黄茸が化けて出たようだったぜ。」 「あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……」        五 「わ、何じゃい、これは。」 「霜こし、黄い茸。……あはは、こんなばば蕈を、何の事じゃい。」 「何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が真黒けで、うじゃうじゃと蛆のような筋のある(狐の睾丸)じゃがいの。」 「旦那、眉毛に唾なとつけっしゃれい。」 「えろう、女狐に魅まれたなあ。」 「これ、この合羽占地茸はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」  戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを訛ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と称え、「阿婆。」と呼ばるる、浜方屈竟の阿婆摺媽々。町を一なめにする魚売の阿媽徒で。朝商売の帰りがけ、荷も天秤棒も、腰とともに大胯に振って来た三人づれが、蘆の横川にかかったその橋で、私の提げた笊に集って、口々に喚いて囃した。そのあるものは霜こしを指でつついた。あるものは松露をへし破って、チェッと言って水に棄てた。 「ほれ、ほんとうの霜こしを見さっしゃい。これじゃがいの。」  と尻とともに天秤棒を引傾げて、私の目の前に揺り出した。成程違う。 「松露とは、ちょっと、こんなものじゃ。」  と上荷の笊を、一人が敲いて、 「ぼんとして、ぷんと、それ、香しかろ。」  成程違う。 「私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら蛸じゃろね。」 「背中を一つ、ぶん撲って進じようか。」 「ばば茸持って、おお穢や。」 「それを食べたら、肥料桶が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」  私は茫然とした。  浪路は、と見ると、悄然と身をすぼめて首垂るる。  ああ、きみたち、阿媽、しばらく!……  いかにも、唯今申さるる通り、較べては、玉と石で、まるで違う。が、似て非なるにせよ、毒にせよ。これをさえ手に狩るまでの、ここに連れだつ、この優しい女の心づかいを知ってるか。  ――あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた木の葉もなかった。  この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。  阿媽、これを知ってるか。  たちまち、口紅のこぼれたように、小さな紅茸を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も萎えた、袖褄をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その頸脚のみ、たださしのべて、討たるるように白かった。  阿媽、それを知ってるか。  薄色の桃色の、その一つの紅茸を、灯のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ茸を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。 「小松山さん、山の神さん、  どうぞ、茸を頂戴な。  下さいな。――」  真の心は、そのままに唄である。  私もつり込まれて、低声で唄った。 「ああ、ありました。」 「おお、あった。あった。」  ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、侏儒が渋蛇目傘を半びらきにしたような、洒落ものの茸であった。 「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」 「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」 「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」  まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。  続いて、霜こしの黄茸を見つけた――その時の歓喜を思え。――真打だ。本望だ。 「山の神さんが下さいました。」  浪路はふたたび手を合した。 「嬉しく頂戴をいたします。」  私も山に一礼した。  さて一つ見つかると、あとは女郎花の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも交った。松の小枝を拾って掘った。尖はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。 「松露よ、松露よ、――旦那さん。」 「素晴しいぞ。」  むくりと砂を吹く、飯蛸の乾びた天窓ほどなのを掻くと、砂を被って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、 「飯蛸より、これは、海月に似ている、山の海月だね。」 「ほんになあ。」  じゃあま、あばあ、阿媽が、いま、(狐の睾丸)ぞと詈ったのはそれである。  が、待て――蕈狩、松露取は闌の興に入った。  浪路は、あちこち枝を潜った。松を飛んだ、白鷺の首か、脛も見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。  砂山の波が重り重って、余りに二人のほかに人がない。――私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。――今朝も潜水夫のごときしたたかな扮装して、宿を出た銃猟家を四五人も見たものを。  遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた外套を、葉越に、枝越に透して見つけて、「浪路さん――姉さん――」と、昔の恋に、声がくもった。――姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、莞爾した顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。  阿婆、これを知ってるか。  無理に外套に掛けさせて、私も憩った。  着崩れた二子織の胸は、血を包んで、羽二重よりも滑である。  湖の色は、あお空と、松山の翠の中に朗に沁み通った。  もとのように、就中遥に離れた汀について行く船は、二艘、前後に帆を掛けて辷ったが、その帆は、紫に見え、紅く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと囀った。 「あれ、小松山の神さんが。」  や、や、いかに阿媽たち、――この趣を知ってるか。―― 「旦那、眉毛を濡らさんかねえ。」 「この狐。」  と一人が、浪路の帯を突きざまに行き抜けると、 「浜でも何人抜かれたやら。」一人がつづいて頤で掬った。 「また出て、魅しくさるずらえ。」 「真昼間だけでも遠慮せいてや。」 「女の狐の癖にして、睾丸をつかませたは可笑なや、あはははは。」 「そこが化けたのや。」 「おお、可恐やの。」 「やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。」 「たかい銭で買わっせえ。」  行過ぎたのが、菜畑越に、縺れるように、一斉に顔を重ねて振返った。三面六臂の夜叉に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、真黒に喚いて行く。  消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる婦の髪に、櫛もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも婀娜に斜にささって、(前こぞう)とか言う簪の風情そのままなのを、不思議に見た。茸を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。 「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ――顔をお見せ。」  袖でかくすを、 「いや、前髪をよくお見せ。――ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。」 「ええ。」  ソッと抜くと、掌に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの刺青である。 「素晴らしい簪じゃあないか。前髪にささって、その、容子のいい事と言ったら。」  涙が、その松葉に玉を添えて、 「旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお幼い時のお話もうかがいます。――真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい身体ですが、お言のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。生命がけでだましました。……堪忍して下さいまし。」 「何を言うんだ、飛んでもない。――さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。」  と、かさに掛って、勢よくは言いながら、胸が迫って声が途切れた。 「後生だから。」 「はい、……あの、こうでございますか。」 「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは引汐か、水が動く。――こっちが可い。あの松影の澄んだ処が。」 「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」 「私が請合う、大丈夫だ。」 「まあ。」 「ね、そのままの細い翡翠じゃあないか。琅玕の珠だよ。――小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。」  ここにも飛交う螽の翠に。―― 「いや、松葉が光る、白金に相違ない。」 「ええ。旦那さんのお情は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。」 「ええ。」 「目が釣上って……」 「馬鹿な事を。――蕈で嘘を吐いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。――狸だ。……」  と言って、真白な手を取った。  湖つづき蘆中の静な川を、ぬしのない小船が流れた。 大正十三(一九二四)年一月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十二巻」岩波書店    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:今井忠夫 2003年8月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003551", "作品名": "小春の狐", "作品名読み": "こはるのきつね", "ソート用読み": "こはるのきつね", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3551.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十二巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年11月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "今井忠夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3551_ruby_12121.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3551_12122.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  如月のはじめから三月の末へかけて、まだしっとりと春雨にならぬ間を、毎日のように風が続いた。北も南も吹荒んで、戸障子を煽つ、柱を揺ぶる、屋根を鳴らす、物干棹を刎飛ばす――荒磯や、奥山家、都会離れた国々では、もっとも熊を射た、鯨を突いた、祟りの吹雪に戸を鎖して、冬籠る頃ながら――東京もまた砂埃の戦を避けて、家ごとに穴籠りする思い。  意気な小家に流連の朝の手水にも、砂利を含んで、じりりとする。  羽目も天井も乾いて燥いで、煤の引火奴に礫が飛ぶと、そのままチリチリと火の粉になって燃出しそうな物騒さ。下町、山の手、昼夜の火沙汰で、時の鐘ほどジャンジャンと打つける、そこもかしこも、放火だ放火だ、と取り騒いで、夜廻りの拍子木が、枕に響く町々に、寝心のさて安からざりし年とかや。  三月の中の七日、珍しく朝凪ぎして、そのまま穏かに一日暮れて……空はどんよりと曇ったが、底に雨気を持ったのさえ、頃日の埃には、もの和かに視められる……じとじととした雲一面、星はなけれど宵月の、朧々の大路小路。辻には長唄の流しも聞えた。  この七の日は、番町の大銀杏とともに名高い、二七の不動尊の縁日で、月六斎。かしらの二日は大粒の雨が、ちょうど夜店の出盛る頃に、ぱらぱら生暖い風に吹きつけたために――その癖すぐに晴れたけれども――丸潰れとなった。……以来、打続いた風ッ吹きで、銀杏の梢も大童に乱れて蓬々しかった、その今夜は、霞に夕化粧で薄あかりにすらりと立つ。  堂とは一町ばかり間をおいた、この樹の許から、桜草、菫、山吹、植木屋の路を開き初めて、長閑に春めく蝶々簪、娘たちの宵出の姿。酸漿屋の店から灯が点れて、絵草紙屋、小間物店の、夜の錦に、紅を織り込む賑となった。  が、引続いた火沙汰のために、何となく、心々のあわただしさ、見附の火の見櫓が遠霞で露店の灯の映るのも、花の使と視めあえず、遠火で焙らるる思いがしよう、九時というのに屋敷町の塀に人が消えて、御堂の前も寂寞としたのである。  提灯もやがて消えた。  ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。  今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。  びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。  口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじゃもじゃと生えた蒼い顔を出したのは、頬のこけた男であった。  内へ引く、勢の無い咳をすると、眉を顰めたが、窪んだ目で、御堂の裡を俯向いて、覗いて、 「お蝋を。」        二  そう云って、綻びて、袂の尖でやっと繋がる、ぐたりと下へ襲ねた、どくどく重そうな白絣の浴衣の溢出す、汚れて萎えた綿入のだらけた袖口へ、右の手を、手首を曲げて、肩を落して突込んだのは、賽銭を探ったらしい。  が、チヤリリともせぬ。  時に、本堂へむくりと立った、大きな頭の真黒なのが、海坊主のように映って、上から三宝へ伸懸ると、手が燈明に映って、新しい蝋燭を取ろうとする。  一ツ狭い間を措いた、障子の裡には、燈があかあかとして、二三人居残った講中らしい影が映したが、御本尊の前にはこの雇和尚ただ一人。もう腰衣ばかり袈裟もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇にしては物寂しい、大な蛾の音を立てて、沖の暗夜の不知火が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌で煽ぎ煽ぎ、二三挺順に消していたのである。 「ええ、」  とその男が圧えて、低い声で縋るように言った。 「済みませんがね、もし、私持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」 「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子も大入道、眉をもじゃもじゃと動かして聞返す。  これがために、窶れた男は言渋って、 「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。」 「さようか。」  と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。  和尚はまじりと見ていたが、果しがないから、大な耳を引傾げざまに、ト掌を当てて、燈明の前へ、その黒子を明らさまに出した体は、耳が遠いからという仕方に似たが、この際、判然分るように物を言え、と催促をしたのである。 「ええ。」  とまた云う、男は口を利くのも呼吸だわしそうに肩を揺る、…… 「就きましては、真に申兼ねましたが、その蝋燭でございます。」 「蝋燭は分ったであす。」  小鼻に皺を寄せて、黒子に網の目の筋を刻み、 「御都合じゃからお蝋は上げぬようにと言うのじゃ。御随意であす。何か、代物を所持なさらんで、一挺、お蝋が借りたいとでも言わるる事か、それも御随意であす。じゃが、もう時分も遅いでな。」 「いいえ、」 「はい、」と、もどかしそうな鼻息を吹く。 「何でございます、その、さような次第ではございません。それでございますから、申しにくいのでございますが、思召を持ちまして、お蝋を一挺、お貸し下さる事にはなりますまいでございましょうか。」 「じゃから、じゃから御随意であす。じゃが時刻も遅いでな、……見なさる通り、燈明をしめしておるが、それともに点けるであすか。」 「それがでございます。」  と疲れた状にぐたりと賽銭箱の縁に両手を支いて、両の耳に、すくすくと毛のかぶさった、小さな頭をがっくりと下げながら、 「一挺お貸し下さいまし、……と申しますのが、御神前に備えるではございません。私、頂いて帰りたいのでございます。」 「お蝋を持って行くであすか。ふうむ、」と大く鼻を鳴す。 「それも、一度お供えになりました、燃えさしが願いたいのでございまして。」  いや、時節がら物騒千万。        三 「待て、待て、ちょっと……」  往来留の提灯はもう消したが、一筋、両側の家の戸を鎖した、寂しい町の真中に、六道の辻の通しるべに、鬼が植えた鉄棒のごとく標の残った、縁日果てた番町通。なだれに帯板へ下りようとする角の処で、頬被した半纏着が一人、右側の廂が下った小家の軒下暗い中から、ひたひたと草履で出た。  声も立てず往来留のその杙に並んで、ひしと足を留めたのは、あの、古井戸の陰から、よろりと出て、和尚に蝋燭の燃えさしをねだった、なぜ、その手水鉢の柄杓を盗まなかったろうと思う、船幽霊のような、蒼しょびれた男である。  半纏着は、肩を斜っかいに、つかつかと寄って、 「待てったら、待て。」とドス声を渋くかすめて、一つしゃくって、頬被りから突出す頤に凄味を見せた。が、一向に張合なし……対手は待てと云われたまま、破れた暖簾に、ソヨとの風も無いように、ぶら下った体に立停って待つのであるから。 「どこへ行く、」  黙って、じろりと顔を見る。 「どこへ行くかい。」 「ええ、宅へ帰りますでございます。」 「家はどこだ。」 「市ヶ谷田町でございます。」 「名は何てんだ、……」  と調子を低めて、ずっと摺寄り、 「こう言うとな、大概生意気な奴は、名を聞くんなら、自分から名告れと、手数を掛けるのがお極りだ。……俺はな、お前の名を聞いても、自分で名告るには及ばない身分のもんだ、可いか。その筋の刑事だ。分ったか。」 「ええ、旦那でいらっしゃいますか。」  と、破れ布子の上から見ても骨の触って痛そうな、痩せた胸に、ぎしと組んだ手を解いて叩頭をして、 「御苦労様でございます。」 「むむ、御苦労様か。……だがな、余計な事を言わんでも可い。名を言わんかい。何てんだ、と聞いてるんじゃないか。」 「進藤延一と申します。」 「何だ、進藤延一、へい、変に学問をしたような、ハイカラな名じゃねえか。」  と言葉じりもしどろになって、頤を引込めたと思うと、おかしく悄気たも道理こそ。刑事と威した半纏着は、その実町内の若いもの、下塗の欣八と云う。これはまた学問をしなそうな兄哥が、二七講の景気づけに、縁日の夜は縁起を祝って、御堂一室処で、三宝を据えて、頼母子を営む、……世話方で居残ると……お燈明の消々時、フト魔が魅したような、髪蓬に、骨豁なりとあるのが、鰐口の下に立顕れ、ものにも事を欠いた、断るにもちょっと口実の見当らない、蝋燭の燃えさしを授けてもらって、消えるがごとく門を出たのを、ト伸上って見ていた奴。 「棄ててはおかれませんよ、串戯じゃねえ。あの、魔ものめ。ご本尊にあやかって、めらめらと背中に火を背負って帰ったのが見えませんかい。以来、下町は火事だ。僥倖と、山の手は静かだっけ。中やすみの風が変って、火先が井戸端から舐めはじめた、てっきり放火の正体だ。見逃してやったが最後、直ぐに番町は黒焦さね。私が一番生捕って、御覧じろ、火事の卵を硝子の中へ泳がせて、追付け金魚の看板をお目に懸ける。……」 「まったく、懸念無量じゃよ。」と、当御堂の住職も、枠眼鏡を揺ぶらるる。  講親が、 「欣八、抜かるな。」 「合点だ。」        四 「ああ、旨いな。」  煙草の煙を、すぱすぱと吹く。溝石の上に腰を落して、打坐りそうに蹲みながら、銜えた煙管の吸口が、カチカチと歯に当って、歪みなりの帽子がふらふらとなる。……  夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒りそうになるのを、路傍の電信柱の根に縋って、片手喫しに立続ける。 「旦那、大分いけますねえ。」  膝掛を引抱いて、せめてそれにでも暖りたそうな車夫は、値が極ってこれから乗ろうとする酔客が、ちょっと一服で、提灯の灯で吸うのを待つ間、氷のごとく堅くなって、催促がましく脚と脚を、霜柱に摺合せた。 「何?大分いけますね……とおいでなさると、お酌が附いて飲んでるようだが、酒はもう沢山だ。この上は女さね。ええ、どうだい、生酔本性違わずで、間違の無い事を言うだろう。」 「何ならお供をいたしましょう、ええ、旦那。」 「お供だ? どこへ。」 「お馴染様でございまさあね。」 「馬鹿にするない、見附で外濠へ乗替えようというのを、ぐっすり寐込んでいて、真直ぐに運ばれてよ、閻魔だ、と怒鳴られて驚いて飛出したんだ。お供もないもんだ。ここをどこだと思ってる。  電車が無いから、御意の通り、高い車賃を、恐入って乗ろうというんだ。家数四五軒も転がして、はい、さようならは阿漕だろう。」  口を曲げて、看板の灯で苦笑して、 「まず、……極めつけたものよ。当人こう見えて、その実方角が分りません。一体、右側か左側か。」と、とろりとして星を仰ぐ。 「大木戸から向って左側でございます、へい。」 「さては電車路を突切ったな。そのまま引返せば可いものを、何の気で渡った知らん。」  と真になって打傾く。 「車夫、車夫ッて、私をお呼びなさりながら、横なぐれにおいでなさいました。」 「……夢中だ。よっぽどまいったらしい。素敵に長い、ぐらぐらする橋を渡るんだと思ったっけ。ああ、酔った。しかし可い心持だ。」とぐったり俯向く。 「旦那、旦那、さあ、もう召して下さい、……串戯じゃない。」  と半分呟いて、石に置いた看板を、ト乗掛って、ひょいと取る。  鼻の前を、その燈が、暗がりにスーッと上ると、ハッ嚔、酔漢は、細い箍の嵌った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向けに目を明けた。 「ああ、待ったり。」 「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可ません。」 「貸しなよ、もう一服吸附けるんだ。」 「燐寸を上げまさあね。」 「味が違います……酔覚めの煙草は蝋燭の火で喫むと極ったもんだ。……だが……心意気があるなら、鼻紙を引裂いて、行燈の火を燃して取って、長羅宇でつけてくれるか。」  と中腰に立って、煙管を突込む、雁首が、ぼっと大きく映ったが、吸取るように、ばったりと紙になる。 「消した、お前さん。」  内証で舌打。  霜夜に芬と香が立って、薄い煙が濛と立つ。 「車夫。」 「何ですえ。」 「……宿に、桔梗屋と云うのがあるかい、――どこだね。」 「ですから、お供を願いたいんで、へい、直きそこだって旦那、御冥加だ。御祝儀と思召して一つ暖まらしておくんなさいまし、寒くって遣切れませんや。」とわざとらしく、がちがち。 「雲助め。」  と笑いながら、 「市ヶ谷まで雇ったんだ、賃銭は遣るよ、……車は要らない。そのかわり、蝋燭の燃えさしを貰って行く。……」        五  さて酔漢は、山鳥の巣に騒見く、梟という形で、も一度線路を渡越した、宿の中ほどを格子摺れに伸しながら、染色も同じ、桔梗屋、と描いて、風情は過ぎた、月明りの裏打をしたように、横店の電燈が映る、暖簾をさらりと、肩で分けた。よしこことても武蔵野の草に花咲く名所とて、廂の霜も薄化粧、夜半の凄さも狐火に溶けて、情の露となりやせん。 「若い衆、」 「らっしゃい!」 「遊ぶぜ。」 「難有う様で、へい、」と前掛の腰を屈める、揉手の肱に、ピンと刎ねた、博多帯の結目は、赤坂奴の髯と見た。 「振らないのを頼みます。雨具を持たないお客だよ。」 「ちゃんとな、」  と唐桟の胸を劃って、 「胸三寸。……へへへ、お古い処、お馴染効でございます、へへへ、お上んなはるよ。」  帳場から、 「お客様ア。」  まんざらでない跫音で、トントンと踏む梯子段。 「いらっしゃい。」と……水へ投げて海津を掬う、溌剌とした声なら可いが、海綿に染む泡波のごとく、投げた歯に舌のねばり、どろんとした調子を上げた、遣手部屋のお媼さんというのが、茶渋に蕎麦切を搦ませた、遣放しな立膝で、お下りを這曳いたらしい、さめた饂飩を、くじゃくじゃと啜る処――  横手の衝立が稲塚で、火鉢の茶釜は竹の子笠、と見ると暖麺蚯蚓のごとし。惟れば嘴の尖った白面の狐が、古蓑を裲襠で、尻尾の褄を取って顕れそう。  時しも颯と夜嵐して、家中穴だらけの障子の紙が、はらはらと鳴る、霰の音。  勢辟易せざるを得ずで、客人ぎょっとした体で、足が窘んで、そのまま欄干に凭懸ると、一小間抜けたのが、おもしに打たれて、ぐらぐらと震動に及ぶ。 「わあ、助けてくれ。」 「お前さん、可い御機嫌で。」  とニヤリと口を開けた、お媼さんの歯の黄色さ。横に小楊枝を使うのが、つぶつぶと入る。  若い衆飛んで来て、腰を極めて、爪先で、ついつい、 「ちょっと、こちらへ。」  と古畳八畳敷、狸を想う真中へ、性の抜けた、べろべろの赤毛氈。四角でもなし、円でもなし、真鍮の獅噛火鉢は、古寺の書院めいて、何と、灰に刺したは杉の割箸。  こいつを杖という体で、客は、箸を割って、肱を張り、擬勢を示して大胡坐に摚となる。 「ええ。」  と早口の尻上りで、若いものは敷居際に、梯子段見通しの中腰。 「お馴染様は、何方様で……へへへ、つい、お見外れ申しましてございまして、へい。」 「馴染はないよ。」 「御串戯を。」 「まったくだ。」 「では、その、へへへ、」 「何が可笑しい。」 「いえ、その、お古い処を……お馴染効でございまして、ちょっとお見立てなさいまし。」  彼は胸を張って顔を上げた。 「そいつは嫌いだ。」 「もし、野暮なようだが、またお慰み。日比谷で見合と申すのではございません。」 「飛んだ見違えだぜ、気取るものか。一ツ大野暮に我輩、此家のおいらんに望みがある。」 「お名ざしで?」 「悪いか。」 「結構ですとも、お古い処を、お馴染効でございまして。……」        六  対方は白露と極った……桔梗屋の白露、お職だと言う。……遣手部屋の蚯蚓を思えば、什麽か、狐塚の女郎花。  で、この名ざしをするのに、客は妙な事を言った。 「若い衆、註文というのは、お照しだよ。」 「へい、」 「内に、居るだろう。」 「お照しが居りますえ?」  と解せない顔色。 「そりゃ、無いことはございませんが、」 「秘すな、尋常に顕せろ。」と真赤な目で睨んで言った。 「何も秘します事はございません、ですが御覧の通り、当場所も疾の以前から、かように電燈になりました。……ひきつけの遊君にお見違えはございません。別して、貴客様なぞ、お目が高くっていらっしゃいます、へい、えッへへへへ。もっとも、その、ちとあちらへ、となりまして、お望みとありますれば、」 「だから、望みだから、お照しを出せよ。」 「それは、お照しなり、行燈なり、いかようともいたしますんで、とにかく、……夜も更けております事、遊君の処を、お早く、どうぞ。」  と、ちらりと遣手部屋へ目を遣って、此奴、お荷物だ、と仕方で見せた。 「分らないな。」  と煙管を突込んで、ばったり置くと、赤毛氈に、ぶくぶくして、擬印伝の煙草入は古池を泳ぐ体なり。 「女は蝋燭だと云ってるんだ。」  お媼さんが突掛け草履で、片手を懐に、小楊枝を襟先へ揉挿しながら、いけぞんざいに炭取を跨いで出て、敷居越に立ったなり、汚点のある額越しに、じろりと視て、 「遊君が綺麗で柔順しくって持てさいすりゃ言種はないんじゃないか。遅いや、ね、お前さん。」  と一ツ叱って、客が這奴言おうで擡げた頭を、しゃくった頤で、無言で圧着けて、 「お勝どん、」と空を呼ぶ。 「へーい。」  途端に、がらがらと鼠が騒いだ。……天井裏で声がして、十五六の当の婢は、どこから顕れたか、煤を繋いで、その天井から振下げたように、二階の廊下を、およそ眠いといった仏頂面で、ちょろりと来た。 「白露さん、……お初会だよ。」 「へーい。」  夢が裏返ったごとく、くるりと向うむきになって、またちょろり。 「旦那こちらへ、……ちょうどお座敷がございます。」 「待て、」  と云ったが、遣手の剣幕に七分の恐怖で、煙草入を取って、やッと立つと……まだ酔っている片膝がぐたりとのめる。 「蝋燭はどうしたんだ。」 「何も御会計と御相談さ。」と、ずっきり言う。  ……彼は、苦い顔で立上って、勿論広くはない廊下、左右の障子へ突懸るように、若い衆の背中を睨んで、不服らしくずんずん通った。  が、部屋へ入ると、廊下を背後にして、長火鉢を前に、客を待つ気構えの、優しく白い手を、しなやかに鉄瓶の蔓に掛けて、見るとも見ないともなく、ト絵本の読みさしを膝に置いて、膚薄そうな縞縮緬。撫肩の懐手、すらりと襟を辷らした、紅の襦袢の袖に片手を包んだ頤深く、清らか耳許すっきりと、湯上りの紅絹の糠袋を皚歯に噛んだ趣して、頬も白々と差俯向いた、黒繻子冷たき雪なす頸、これが白露かと、一目見ると、後姿でゾッとする。―― 「河、原、と書くんだ、河原千平。」  やがて、帳面を持って出直した時、若いものは、軸で、ちょっと耳を掻いて、へへへ、と笑った。 「貴客、ほんとの名を聞かして下さいましな。」  犬を料理そうな卓子台の陰ながら、膝に置かれた手は白し、凝と視られた瞳は濃し……  思わず情が五体に響いて、その時言った。 「進藤延一……造兵……技師だ。」        七 「こういう事をお話し申した処で、ほんとにはなさりますまい。第一そんな安店に、容色と云い気質と云い、名も白露で果敢ないが、色の白い、美しい婦が居ると云っては、それからが嘘らしく聞えるでございましょう。  その上、癡言を吐け、とお叱りを受けようと思いますのは、娼妓でいて、まるで、その婦が素地の処女らしいのでございます。ええ、他の仁にはまずとにかく、私だけにはまったくでございました。  なお怪しいでございましょう……分けて、旦那方は御職掌で、人一倍、疑り深くいらっしゃいますから。」――  一言ずつ、呼気を吐くと、骨だらけな胸がびくびく動く、そこへ節くれだった、爪の黒い掌をがばと当てて、上下に、調子を取って、声を揉出す。  佐内坂の崖下、大溝通りを折込んだ細路地の裏長屋、棟割で四軒だちの尖端で……崖うらの畝々坂が引窓から雪頽れ込みそうな掘立一室。何にも無い、畳の摺剥けたのがじめじめと、蒸れ湿ったその斑が、陰と明るみに、黄色に鼠に、雑多の虫螻の湧いて出た形に見える。葉鉄落しの灰の濡れた箱火鉢の縁に、じりじりと燃える陰気な蝋燭を、舌のようになめらかして、しょんぼりと蒼ざめた、髪の毛の蓬なのが、この小屋の……ぬしと言いたい、墓から出た状の進藤延一。  がっしとまた胸を絞って、 「でありますが、余りお疑い深いのも罪なものでございます。」  と、もの言う都度、肩から暗くなって、蝋燭の灯に目ばかりが希代に光る。 「疑うのが職業だって、そんな、お前、狐の性じゃあるまいし、第一、僕はそのね、何も本職というわけじゃないんだよ。」  となぜか弱い音を吹いた……差向いをずり下って、割膝で畏った半纏着の欣八刑事、風受けの可い勢に乗じて、土蜘蛛の穴へ深入に及んだ列卒の形で、肩ばかり聳やかして弱身を見せじと、擬勢は示すが、川柳に曰く、鏝塗りの形に動く雲の峰で、蝋燭の影に蟠る魔物の目から、身体を遮りたそうに、下塗の本体、しきりに手を振る。…… 「可いかね、ちょいと岡引ッて、身軽な、小意気な処を勤めるんだ。このお前、しっきりなし火沙汰の中さ。お前、焼跡で引火奴を捜すような、変な事をするから、一つ素引いてみたまでのもんさね。直ぐにも打縛りでもするように、お前、真剣になって、明白を立てる立てるッて言わあ。勿論、何だ、御用だなんて威かしたには威しましたさ、そりゃ発奮というもんだ。  明白を立てます立てますッて、ここまで連れて来るから、途中で小用も出来ずさね、早い話が。  隣家は空屋だと云うし、……」  と、頬被のままで、後を見た、肩を引いて、 「一軒隣は按摩だと云うじゃねえか。取附きの相角がおでん屋だッて、かッと飲んだように一景気附いたと思や、夫婦で夜なしに出て、留守は小児の番をする下性の悪い爺さんだと言わあ。早い話がじゃ、この一棟四軒長屋の真暗な図体の中に、……」  と鏝を塗って、 「まあ、可やね、お前、別にお前、怪しいたッて、何も、ねえ、まあ、お互に人間に変りはねえんだから、すぐにさようならにしようと思った。だけれど、話の口明が、宿の女郎だ。おまけに別嬪と来たから、早い話が。  でまあ、その何だ、私も素人じゃねえもんだから、」  と目潰しの灰の気さ。 「一ツ詮索をして帰ろう、と居坐ったがね、……気にしなさんな。別にお前の身体を裏返しにして、綺麗に洗いだてをしようと云うんじゃねえ。可いから、」  と云う中にも、じろりと視る、そりゃ光るわ、で鏝を塗って、 「大目に見てやら。ね、早い話が。僕は帰るよ、気にしなさんな。」 「ええ、いや、私の方で、気にしない次第には参りません。」  欣八、ぎょっとして、 「そうかね、……はてね。……トオカミ、エミタメはどんなものだ。」と字は孔明、琴を弾く。        八 「で、その初会の晩なぞは、見得に技師だって言いました。が、私はその頃、小石川へ勤めました鉄砲組でございますが、」 「ああ、造兵かね、私の友達にも四五人居るよ。中の一人は、今夜もお不動様で一所だっけ。そうかい、そいつは頼母しいや。」と欣八いささか色を直す。 「見なさいます通りで、我ながら早やかように頼母しくなさ過ぎます。もっとも、車夫の看板を引抜いて、肩で暖簾を分けながら、遊ぶぜ、なぞと酔った晩は、そりゃ威勢が可うがした。」  と投首しつつ、また吐息。じっと灯を瞻ったが、 「ところで、肝心のその燃えさしの蝋燭の事でございます。  嘘か、真かは分りません。かねて、牛鍋のじわじわ酒に、夥間の友だちが話しました事を、――その大木戸向うで、蝋燭の香を、芬と酔爛れた、ここへ、その脳へ差込まれましたために、ふと好事な心が、火取虫といった形で、熱く羽ばたきをしたのでございます。  内には柔しい女房もございました。別に不足というでもなし、……宿へ入ったというものは、ただ蝋燭の事ばかり。でございますから、圧附けに、勝手な婦を取持たれました時は、馬鹿々々しいと思いましたが、因果とその婦の美しさ。  成程、桔梗屋の白露か、玉の露でも可い位。  けれども、楼なり、場所柄なり、……余り綺麗なので、初手は物凄かったのでございます。がいかにも、その病気があるために、――この容色、三絃もちょっと響く腕で――蹴ころ同然な掃溜へ落ちていると分りますと、一夜妻のこの美しいのが……と思う嬉しさに、……今の身で、恥も外聞もございません。筋も骨もとろとろと蕩けそうになりました。……  枕頭の行燈の影で、ええ、その婦が、二階廻しの手にも投遣らないで、寝巻に着換えました私の結城木綿か何か、ごつごつしたのを、絹物のように優しく扱って、袖畳にしていたのでございます。  部屋着の腰の巻帯には、破れた行燈の穴の影も、蝶々のように見えて、ぞくりとする肩を小夜具で包んで、恍惚と視めていますと、畳んだ袖を、一つ、スーと扱いた時、袂の端で、指尖を留めましたがな。  横顔がほんのりと、濡れたような目に、柔かな眉が見えて、  貴方は御存じね――」  延一は続けさまに三つばかり、しゃがれた咳して、 「私に、残らず自分の事を知っていて来たのだろうと申しまして、――頂かして下さいましな、手を入れますよ、大事ござんせんか――  と念を押して、その袂から、抜いて取ったのが、右の蝋燭でございます。」 「へい、」と欣八は這身に乗出す。 「が、その美人。で、玉で刻んだ独鈷か何ぞ、尊いものを持ったように見えました。  遣手も心得た、成りたけは隠す事、それと言わずに逢わせた、とこう私は思う。……  ――どちらの御蝋でござんすの――  また、そう訊くのがお極りだと申します。……三度のもの、湯水より、蝋燭でさえあれば、と云う中にも、その婦は、新のより、燃えさしの、その燃えさしの香が、何とも言えず快い。  その燃えさしもございます。  一度、神仏の前に供えたのだ、と持つ手もわななく、体を震わして喜ぶんだ、とかねて聞いておりましたものでございますから、その晩は、友達と銀座の松喜で牛肉をしたたか遣りました、その口で、  ――水天宮様のだ、人形町の――  と申したでございます。電車の方角で、フト思い付きました。銀座には地蔵様もございますが、一言で、誰も分るのをと思いましてな。ええ。……」  とじろじろと四辺を眗す。  欣八は同じように、きょろきょろと頭を振る。        九 「お聞き下さい。」  と痩せた膝を痛そうに、延一は居直って、 「かねて噂を聞いたから、おいらんの土産にしようと思って、水天宮様の御蝋の燃えさしを頂いて来たんだよ、と申しますと、端然と居坐を直して、そのふっくりした乳房へ響くまで、身に染みて、鳩尾へはっと呼吸を引いて、  ――まあ、嬉しい――  とちゃんと取って、蝋燭を頂くと、さもその尊さに、生際の曇った白い額から、品物は輝いて後光が射すように思われる、と申すものは、婦の気の入れ方でございまして。  どうでございましょう。これが直き近所の車夫の看板から、今しがた煙草を吸って、酒粘りの唾を吐いた火の着いていたやつじゃございますまいか。  なんぼでも、そうまで真になって嬉しがられては、灰吹を叩いて、舌を出すわけには参りません。  実は、とその趣を陳べて、堪忍しな、出来心だ。そのかわり、今度は成田までもわざわざ出向くから、と申しますと、婦が莞爾して言うんでございます。  これほどまでに、生命がけで好きなんですもの、どこの、どうした蝋燭だか、大概は分ります。一度燃えたのですから、その香で、消えてからどのくらい経ったかが知れますと、伺った路順で、下谷だが浅草だが推量が付くんです。唯今下すったのは、手に取ると、すぐに直き近い処だとは思いました、……では、大宗寺様のかと存じましたが、召上った煙草の粉が附着いていますし、御縁日ではなし、かたがた悪戯に、お欺ぎだとは知ったんですが、お初会の方に、お怨みを言うのも、我儘と存じて遠慮しました。今度ッからは、たとい私をお誑しでも、蝋燭の嘘を仰有るとほんとうに怨みますよ、と優しい含声で、ひそひそと申すんで。  もう、実際嘘は吐くまい、と思ったくらいでございます。  部屋着を脱ぐと、緋の襦袢で、素足がちらりとすると、ふッ、と行燈を消しました。……底に温味を持ったヒヤリとするのが、酒の湧く胸へ、今にもいい薫で颯と絡わるかと思うと、そうでないので。――  カタカタと暗がりで箪笥の抽斗を開けましたがな。  ――水天宮様のをお目に掛けましょう――  そう云って、柔らかい膝の衣摺れの音がしますと、燐寸を※(火+發)と摺った。」 「はあ、」  と欣八は、その※(火+發)とした……瞬きする。 「で、朱塗の行燈の台へ、蝋燭を一挺、燃えさしのに火を点して立てたのでございます。」  と熟と瞻る、とここの蝋燭が真直に、細りと灯が据った。 「寂然としておりますので、尋常のじゃない、と何となくその暗い灯に、白い影があるらしく見えました。  これは、下谷の、これは虎の門の、飛んで雑司ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々とした香の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様のは狐色と申すではないけれども、大黒天のは黒く立ちます……気がいたすのでございます。少し茶色のだの、薄黄色だの、曇った浅黄がございましたり。  その燃えさしの香の立つ処を、睫毛を濃く、眉を開いて、目を恍惚と、何と、香を散らすまい、煙を乱すまいとするように、掌で蔽って余さず嗅ぐ。  これが薬なら、身体中、一筋ずつ黒髪の尖まで、血と一所に遍く膚を繞った、と思うと、くすぶりもせずになお冴える、その白い二の腕を、緋の袖で包みもせずに、……」  聞く欣八は変な顔色。 「時に……」  と延一は、ギクリと胸を折って、抱えた腕なりに我が膝に突伏して、かッかッと咳をした。        十  その瞼に朱を灌ぐ……汗の流るる額を拭って、 「……時に、その枕頭の行燈に、一挺消さない蝋燭があって、寂然と間を照しておりますんでな。  ――あれは――  ――水天宮様のお蝋です――  と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥しい。  ――消さないかい――  ――堪忍して――  是非と言えば、さめざめと、名の白露が姿を散らして消えるばかりに泣きますが。推量して下さいまし、愛想尽しと思うがままよ、鬼だか蛇だか知らない男と一つ処……せめて、神仏の前で輝いた、あの、光一ツ暗に無うては恐怖くて死んでしまうのですもの。もし、気になったら、貴方ばかり目をお瞑りなさいまし。――と自分は水晶のような黒目がちのを、すっきり睜って、――昼さえ遊ぶ人がござんすよ、と云う。  可し、神仏もあれば、夫婦もある。蝋燭が何の、と思う。その蝋燭が滑々と手に触る、……扱帯の下に五六本、襟の裏にも、乳の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚る、荒神も少くはありません。  ばかりでない。果ては、その中から、別に、綺麗な絵の蝋燭を一挺抜くと、それへ火を移して、銀簪の耳に透す。まずどうするとお思いなさる、……後で聞くとこの蝋燭の絵は、その婦が、隙さえあれば、自分で剳青のように縫針で彫って、彩色をするんだそうで。それは見事でございます。  また髪は、何十度逢っても、姿こそ服装こそ変りますが、いつも人柄に似合わない、あの、仰向けに結んで、緋や、浅黄や、絞の鹿の子の手絡を組んで、黒髪で巻いた芍薬の莟のように、真中へ簪をぐいと挿す、何転進とか申すのにばかり結う。  何と絵蝋燭を燃したのを、簪で、その髷の真中へすくりと立てて、烏羽玉の黒髪に、ひらひらと篝火のひらめくなりで、右にもなれば左にもなる、寝返りもするのでございます。  ――こうして可愛がって下さいますなら、私ゃ死んでも本望です――  とこれで見るくらいまた、白露のその美しさと云ってはない。が、いかな事にも、心を鬼に、爪を鷲に、狼の牙を噛鳴らしても、森で丑の時参詣なればまだしも、あらたかな拝殿で、巫女の美女を虐殺しにするようで、笑靨に指も触れないで、冷汗を流しました。……  それから悩乱。  因果と思切れません……が、  ――まあ嬉しい――  と云う、あの、容子ばかりも、見て生命が続けたさに、実際、成田へも中山へも、池上、堀の内は申すに及ばず。――根も精も続く限り、蝋燭の燃えさしを持っては通い、持っては通い、身も裂き、骨も削りました。  昏んだ目は、昼遊びにさえ、その燈に眩しいので。  手足の指を我と折って、頭髪を掴んで身悶えしても、婦は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈を殖して、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。  その媚かしさと申すものは、暖かに流れる蝋燭より前に、見るものの身が泥になって、熔けるのでございます。忘れません。  困果と業と、早やこの体になりましたれば、揚代どころか、宿までは、杖に縋っても呼吸が切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦に遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力に預ります。すなわちこれでございます。」  と袂を探ったのは、ここに灯したのは別に、先刻の二七のそれであった。  犬のしきりに吠ゆる時―― 「で、さてこれを何にいたすとお思いなさいます。懺悔だ、お目に掛けるものがある。」 「大変だ、大変だ。何だって和尚さん、奴もそれまでになったんだ。気の毒だと思ってその女がくれたんだろうね、緋の長襦袢をどうだろう、押入の中へ人形のように坐らせた。胴へは何を入れたかね、手も足もないんでさ。顔がと云うと、やがて人ぐらいの大きさに、何十挺だか蝋燭を固めて、つるりとやっぱり蝋を塗って、細工をしたんで。そら、燃えさしの処が上になってるから、ぽちぽち黒く、女鳴神ッて頭でさ。色は白いよ、凄いよ、お前さん、蝋だもの。  私あ反ったねえ、押入の中で、ぼうとして見えた時は、――それをね、しなしなと引出して、膝へ横抱きにする……とどうです。  欠火鉢からもぎ取って、その散髪みたいな、蝋燭の心へ、火を移す、ちろちろと燃えるじゃねえかね。  ト舌は赤いよ、口に締りをなくして、奴め、ニヤニヤとしながら、また一挺、もう一本、だんだんと火を移すと、幾筋も、幾筋も、ひょろひょろと燃えるのが、搦み合って、空へ立つ、と火尖が伸びる……こうなると可恐しい、長い髪の毛の真赤なのを見るようですぜ。  見る見る、お前さん、人前も構う事か、長襦袢の肩を両肱へ巻込んで、汝が着るように、胸にも脛にも搦みつけたわ、裾がずるずると畳へ曳く。  自然とほてりがうつるんだってね、火の燃える蝋燭は、女のぬくみだッさ、奴が言う、……可うがすかい。  頬辺を窪ますばかり、歯を吸込んで附着けるんだ、串戯じゃねえ。  ややしばらく、魂が遠くなったように、静としていると思うと、襦袢の緋が颯と冴えて、揺れて、靡いて、蝋に紅い影が透って、口惜いか、悲いか、可哀なんだか、ちらちらと白露を散らして泣く、そら、とろとろと煮えるんだね。嗅ぐさ、お前さん、べろべろと舐める。目から蝋燭の涙を垂らして、鼻へ伝わらせて、口へ垂らすと、せいせい肩で呼吸をする内に、ぶるぶると五体を震わす、と思うとね、横倒れになったんだ。さあ、七顛八倒、で沼みたいな六畳どろどろの部屋を転摺り廻る……炎が搦んで、青蜥蜴の踠打つようだ。  私あ夢中で逃出した。――突然見附へ駈着けて、火の見へ駈上ろうと思ったがね、まだ田町から火事も出ずさ。  何しろ馬鹿だね、馬鹿も通越しているんだね。」  お不動様の御堂を敲いて、夜中にこの話をした、下塗の欣八が、 「だが、いい女らしいね。」  と、後へ附加えた了簡が悪かった。 「欣八、気を附けねえ。」 「顔色が変だぜ。」  友達が注意するのを、アハハと笑消して、 「女がボーッと来た、下町ア火事だい。」と威勢よく云っていた。が、ものの三月と経たぬ中にこのべらぼう、たった一人の女房の、寝顔の白い、緋手絡の円髷に、蝋燭を突刺して、じりじりと燃して火傷をさした、それから発狂した。  但し進藤とは違う。陰気でない。縁日とさえあればどこへでも押掛けて、鏝塗の変な手つきで、来た来たと踊りながら、 「蝋燭をくんねえか。」  怪むべし、その友達が、続いて――また一人。………… 大正二(一九一三)年六月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日発行 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003654", "作品名": "菎蒻本", "作品名読み": "こんにゃくぼん", "ソート用読み": "こんにやくほん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3654.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十五卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3654_ruby_26023.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3654_26092.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 私が作物に對する用意といふのは理窟はない、只好いものを書きたいといふ事のみです。されば現代の風潮はどうあらうと其麽事には構はず私は私の好きなものの、胸中に浮んだものを書くばかりです。人間には誰にでも好き嫌ひがあつて自分が嫌ひなものでも文壇の風潮だと云つて無理に書いたものは、何等の興味が無くつて丁度毛脛に緋縮緬が搦んだ樣なものですから、私は何等の流行を追はず好いたものを書かうと思つて居ます、否書いて居るのです。例へば茲に一人の人物を描くにしたところが其性格は第二、第一其人にならなければ不可ぬと思ふと同時にまた一方には描かうと思ふ人物を幻影の中に私の眼前に現はして、筆にする、其人物が假にお梅さんといふ若い女とすれば、そのお梅さんに饒舌つて貰ひ、立つて貰ひ、坐つて貰つて而して夫を筆に現はすと、私が日頃みて居る以上によく描けると思ふ。であるから、作者其物が如何に辯舌が不得手でも其處に雄辯家を書かうと思ふなら、其麽樣な人を眼中に描いて而して饒舌らすると、自然其書いたものに流暢なる雄辯家が現れる、繼母と繼子と對話させるにした處が同じで如何に作者に其麽經驗が無くともお前は繼母だからドン〳〵云ひたい事は言つて呉れといふやうなものを胸中に描いて而して筆にするのです、斯うなれば陸軍の知識が無い作者でも其處に堂々たる軍人を躍如させる事も出來、外國語の出來ない人でも外國語の出來る人を現す事が出來、また盜坊にしたところが其眞物に劣らないものを書く事が出來ると思ひます。夫から小説の如きものは自分が一人見て樂しんだり喜んだりするものではない、多くの人に讀ませるものであるから如何に自然を其儘に寫すと言つても相當のお化粧もし且禮儀が無ければならぬ。芝居の立𢌞りにしたところが其目的は「投げられた、投げる」といふにあるのだから如何に寫實を觀せるとした處で投げられても觀客の方に向つて褌を見せなくつてもよろしい、投げられる時にバツクの方へ向うて轉べば可いのである。作物も是れと同じで、假に此處に十日以上も病床に惱んで窶れ果てた女を描くとしても前に申した通り人に讀ませ且見せるものであるから一應お湯をつかはせて病床に寢かせて置きたい、如何にお湯をつかはせても病人は病人である、それから美人とは書くものの其の起居振舞に際し妙な厭に匂がする樣なものを描いて滿足してゐる人がある。這麽事は作者として餘程注意せなければならぬと思ふ。夫から今度は時刻と場所の關係だ、室内に二人の人物が居て實にしめやかな話しをして居るのにも拘らず室外は豪雨が降つて夫に風さへ混じる外面の景色を書いては釣合が取れない。外で暴風雨がして居るのなら、其樣に内に居る人物にも外面に適合した樣な話をさせ、且つ行爲を演ぜさせねばならぬ。而して私達は、人の作に對し最初から批評的に讀む事を好まない。であるから作者の方でも、最初は何等批評をさせず面白く讀む、一度二度讀んで良く噛しめさせて而して後批評するなら批評させる樣な作物を書かなくつては不可ないと思ふ……また其麽作物でなければ決して面白いものではない、近頃見る或る作物の樣に、最初から批評的に讀んで呉れ、と言つた樣な小説は讀んで決して興味を持つものではない。 明治四十三年十一月
底本:「鏡花全集 第二十八巻」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日第1刷発行    1976(昭和51)年2月2日第2刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:高柳典子 校正:門田裕志 2003年8月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "033225", "作品名": "作物の用意", "作品名読み": "さくもつのようい", "ソート用読み": "さくもつのようい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card33225.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 第二十八巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年2月2日第2刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)12月2日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "高柳典子", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33225_ruby_12176.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33225_12177.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一 「…………」  山には木樵唄、水には船唄、駅路には馬子の唄、渠等はこれを以て心を慰め、労を休め、我が身を忘れて屈託なくその業に服するので、恰も時計が動く毎にセコンドが鳴るようなものであろう。またそれがために勢を増し、力を得ることは、戦に鯨波を挙げるに斉しい、曳々! と一斉に声を合わせるトタンに、故郷も、妻子も、死も、時間も、慾も、未練も忘れるのである。  同じ道理で、坂は照る照る鈴鹿は曇る=といい、袷遣りたや足袋添えて=と唱える場合には、いずれも疲を休めるのである、無益なものおもいを消すのである、寧ろ苦労を紛らそうとするのである、憂を散じよう、恋を忘れよう、泣音を忍ぼうとするのである。  それだから追分が何時でもあわれに感じらるる。つまる処、卑怯な、臆病な老人が念仏を唱えるのと大差はないので、語を換えて言えば、不残、節をつけた不平の独言である。  船頭、馬方、木樵、機業場の女工など、あるが中に、この木挽は唄を謡わなかった。その木挽の与吉は、朝から晩まで、同じことをして木を挽いて居る、黙って大鋸を以て巨材の許に跪いて、そして仰いで礼拝する如く、上から挽きおろし、挽きおろす。この度のは、一昨日の朝から懸った仕事で、ハヤその半を挽いた。丈四間半、小口三尺まわり四角な樟を真二つに割ろうとするので、与吉は十七の小腕だけれども、この業には長けて居た。  目鼻立の愛くるしい、罪の無い丸顔、五分刈に向顱巻、三尺帯を前で結んで、南の字を大く染抜いた半被を着て居る、これは此処の大家の仕着で、挽いてる樟もその持分。  未だ暑いから股引は穿かず、跣足で木屑の中についた膝、股、胸のあたりは色が白い。大柄だけれども肥っては居らぬ、ならば袴でも穿かして見たい。与吉が身体を入れようという家は、直間近で、一町ばかり行くと、袂に一本暴風雨で根返して横様になったまま、半ば枯れて、半ば青々とした、あわれな銀杏の矮樹がある、橋が一個。その渋色の橋を渡ると、岸から板を渡した船がある、板を渡って、苫の中へ出入をするので、この船が与吉の住居。で干潮の時は見るも哀で、宛然洪水のあとの如く、何時棄てた世帯道具やら、欠擂鉢が黒く沈んで、蓬のような水草は波の随意靡いて居る。この水草はまた年久しく、船の底、舷に搦み附いて、恰も巌に苔蒸したかのよう、与吉の家をしっかりと結えて放しそうにもしないが、大川から汐がさして来れば、岸に茂った柳の枝が水に潜り、泥だらけな笹の葉がぴたぴたと洗われて、底が見えなくなり、水草の隠れるに従うて、船が浮上ると、堤防の遠方にすくすくと立って白い煙を吐く此処彼処の富家の煙突が低くなって、水底のその欠擂鉢、塵芥、襤褸切、釘の折などは不残形を消して、蒼い潮を満々と湛えた溜池の小波の上なる家は、掃除をするでもなしに美しい。  爾時は船から陸へ渡した板が真直になる。これを渡って、今朝は殆ど満潮だったから、与吉は柳の中で𤏋と旭がさす、黄金のような光線に、その罪のない顔を照らされて仕事に出た。 二  それから日一日おなじことをして働いて、黄昏かかると日が舂き、柳の葉が力なく低れて水が暗うなると汐が退く、船が沈んで、板が斜めになるのを渡って家に帰るので。  留守には、年寄った腰の立たない与吉の爺々が一人で寝て居るが、老後の病で次第に弱るのであるから、急に容体の変るという憂慮はないけれども、与吉は雇われ先で昼飯をまかなわれては、小休の間に毎日一度ずつ、見舞に帰るのが例であった。 「じゃあ行って来るぜ、父爺。」  与平という親仁は、涅槃に入ったような形で、胴の間に寝ながら、仏造った額を上げて、汗だらけだけれども目の涼しい、息子が地蔵眉の、愛くるしい、若い顔を見て、嬉しそうに頷いて、 「晩にゃ又柳屋の豆腐にしてくんねえよ。」 「あい、」といって苫を潜って這うようにして船から出た、与吉はずッと立って板を渡った。向うて筋違、角から二軒目に小さな柳の樹が一本、その低い枝のしなやかに垂れた葉隠れに、一間口二枚の腰障子があって、一枚には仮名、一枚には真名で豆腐と書いてある。柳の葉の翠を透かして、障子の紙は新らしく白いが、秋が近いから、破れて煤けたのを貼替えたので、新規に出来た店ではない。柳屋は土地で老鋪だけれども、手広く商をするのではなく、八九十軒もあろう百軒足らずのこの部落だけを花主にして、今代は喜蔵という若い亭主が、自分で売りに廻るばかりであるから、商に出た留守の、昼過は森として、柳の蔭に腰障子が閉まって居る、樹の下、店の前から入口へ懸けて、地の窪んだ、泥濘を埋めるため、一面に貝殻が敷いてある、白いの、半分黒いの、薄紅、赤いのも交って堆い。  隣屋はこの辺に棟を並ぶる木屋の大家で、軒、廂、屋根の上まで、犇と木材を積揃えた、真中を分けて、空高い長方形の透間から凡そ三十畳も敷けようという店の片端が見える、その木材の蔭になって、日の光もあからさまには射さず、薄暗い、冷々とした店前に、帳場格子を控えて、年配の番頭が唯一人帳合をしている。これが角屋敷で、折曲ると灰色をした道が一筋、電柱の著しく傾いたのが、前と後へ、別々に頭を掉って奥深う立って居る、鋼線が又半だるみをして、廂よりも低い処を、弱々と、斜めに、さもさも衰えた形で、永代の方から長く続いて居るが、図に描いて線を引くと、文明の程度が段々此方へ来るに従うて、屋根越に鈍ることが分るであろう。  単に電柱ばかりでない、鋼線ばかりでなく、橋の袂の銀杏の樹も、岸の柳も、豆腐屋の軒も、角家の塀も、それ等に限らず、あたりに見ゆるものは、門の柱も、石垣も、皆傾いて居る、傾いて居る、傾いて居るが尽く一様な向にではなく、或ものは南の方へ、或ものは北の方へ、また西の方へ、東の方へ、てんでんばらばらになって、この風のない、天の晴れた、曇のない、水面のそよそよとした、静かな、穏かな日中に処して、猶且つ暴風に揉まれ、揺らるる、その瞬間の趣あり。ものの色もすべて褪せて、その灰色に鼠をさした湿地も、草も、樹も、一部落を蔽包んだ夥多しい材木も、材木の中を見え透く溜池の水の色も、一切、喪服を着けたようで、果敢なく哀である。 三  界隈の景色がそんなに沈鬱で、湿々として居るに従うて、住む者もまた高声ではものをいわない。歩行にも内端で、俯向き勝で、豆腐屋も、八百屋も黙って通る。風俗も派手でない、女の好も濃厚ではない、髪の飾も赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであろう。  元来岸の柳の根は、家々の根太よりも高いのであるから、破風の上で、切々に、蛙が鳴くのも、欄干の壊れた、板のはなればなれな、杭の抜けた三角形の橋の上に蘆が茂って、虫がすだくのも、船虫が群がって往来を駆けまわるのも、工場の煙突の烟が遥かに見えるのも、洲崎へ通う車の音がかたまって響くのも、二日おき三日置きに思出したように巡査が入るのも、けたたましく郵便脚夫が走込むのも、烏が鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の兆であるらしい。  けれども、滅びるといって、敢てこの部落が無くなるという意味ではない、衰えるという意味ではない、人と家とは栄えるので、進歩するので、繁昌するので、やがてその電柱は真直になり、鋼線は張を持ち、橋がペンキ塗になって、黒塀が煉瓦に換ると、蛙、船虫、そんなものは、不残石灰で殺されよう。即ち人と家とは、栄えるので、恁る景色の俤がなくなろうとする、その末路を示して、滅亡の兆を表わすので、詮ずるに、蛇は進んで衣を脱ぎ、蝉は栄えて殻を棄てる、人と家とが、皆他の光栄あり、便利あり、利益ある方面に向って脱出した跡には、この地のかかる俤が、空蝉になり脱殻になって了うのである。  敢て未来のことはいわず、現在既にその姿になって居るのではないか、脱け出した或者は、鳴き、且つ飛び、或者は、走り、且つ食う、けれども衣を脱いで出た蛇は、残した殻より、必ずしも美しいものとはいわれない。  ああ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかような風土は、却ってうつくしいものを産するのか、柳屋に艶麗な姿が見える。  与吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に上ると、思うともなしに豆腐屋に目を注いだ。  柳屋は浅間な住居、上框を背後にして、見通の四畳半の片端に、隣家で帳合をする番頭と同一あたりの、柱に凭れ、袖をば胸のあたりで引き合わせて、浴衣の袂を折返して、寝床の上に坐った膝に掻巻を懸けて居る。背には綿の厚い、ふっくりした、竪縞のちゃんちゃんを着た、鬱金木綿の裏が見えて襟脚が雪のよう、艶気のない、赤熊のような、ばさばさした、余るほどあるのを天神に結って、浅黄の角絞の手絡を弛う大きくかけたが、病気であろう、弱々とした後姿。  見透の裏は小庭もなく、すぐ隣屋の物置で、此処にも犇々と材木が建重ねてあるから、薄暗い中に、鮮麗なその浅黄の手絡と片頬の白いのとが、拭込んだ柱に映って、ト見ると露草が咲いたようで、果敢なくも綺麗である。  与吉はよくも見ず、通りがかりに、 「今日は、」と、声を掛けたが、フト引戻さるるようにして覗いて見た、心着くと、自分が挨拶したつもりの婦人はこの人ではない。 四 「居ない。」と呟くが如くにいって、そのまま通抜けようとする。  ト日があたって暖たかそうな、明い腰障子の内に、前刻から静かに水を掻廻す気勢がして居たが、ばったりといって、下駄の音。 「与吉さん、仕事にかい。」  と婀娜たる声、障子を開けて顔を出した、水色の唐縮緬を引裂いたままの襷、玉のような腕もあらわに、蜘蛛の囲を絞った浴衣、帯は占めず、細紐の態で裾を端折って、布の純白なのを、短かく脛に掛けて甲斐甲斐しい。  歯を染めた、面長の、目鼻立はっきりとした、眉は落さぬ、束ね髪の中年増、喜蔵の女房で、お品という。  濡れた手を間近な柳の幹にかけて半身を出した、お品は与吉を見て微笑んだ。  土間は一面の日あたりで、盤台、桶、布巾など、ありったけのもの皆濡れたのに、薄く陽炎のようなのが立籠めて、豆腐がどんよりとして沈んだ、新木の大桶の水の色は、薄ら蒼く、柳の影が映って居る。 「晩方又来るんだ。」  お品は莞爾しながら、 「難有う存じます、」故と慇懃にいった。  つかつかと行懸けた与吉は、これを聞くと、あまり自分の素気なかったのに気がついたか、小戻りして真顔で、眼を一ツ瞬いて、 「ええ、毎度難有う存じます。」と、罪のない口の利きようである。 「ほほほ、何をいってるのさ。」 「何がよ。」 「だってお前様はお客様じゃあないかね、お客様なら私ン処の旦那だね、ですから、あの、毎度難有う存じます。」と柳に手を縋って半身を伸出たまま、胸と顔を斜めにして、与吉の顔を差覗く。  与吉は極の悪そうな趣で、 「お客様だって、あの、私は木挽の小僧だもの。」  と手真似で見せた、与吉は両手を突出してぐっと引いた。 「こうやって、こう挽いてるんだぜ、木挽の小僧だぜ。お前様はおかみさんだろう、柳屋のおかみさんじゃねえか、それ見ねえ、此方でお辞儀をしなけりゃならないんだ。ねえ、」 「あれだ、」とお品は目を睜って、 「まあ、勿体ないわねえ、私達に何のお前さん……」といいかけて、つくづく瞻りながら、お品はずッと立って、与吉に向い合い、その襷懸けの綺麗な腕を、両方大袈裟に振って見せた。 「こうやって威張ってお在よ。」 「威張らなくッたって、何も、威張らなくッたって構わないから、父爺が魚を食ってくれると可いけれど、」と何と思ったか与吉はうつむいて悄れたのである。 「何うしたんだね、又余計に悪くなったの。」と親切にも優しく眉を顰めて聞いた。 「余計に悪くなって堪るもんか、この節あ心持が快方だっていうけれど、え、魚気を食わねえじゃあ、身体が弱るっていうのに、父爺はね、腥いものにゃ箸もつけねえで、豆腐でなくっちゃあならねえッていうんだ。え、おかみさん、骨のある豆腐は出来まいか。」と思出したように唐突にいった。 五 「おや、」  お品は与吉がいうことの余り突拍子なのを、笑うよりも先ず驚いたのである。 「ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出来そうなもんだなあ。雁もどきッて、ほら、種々なものが入った油揚があらあ、銀杏だの、椎茸だの、あれだ、あの中へ、え、肴を入れて交ぜッこにするてえことあ不可ねえのかなあ。」 「そりゃ、お前さん。まあ、可いやね、聞いて見て置きましょうよ。」 「ああ、聞いて見てくんねえ、真個に肴ッ気が無くッちゃあ、台なし身体が弱るッていうんだもの。」 「何故父上は腥をお食りじゃあないのだね。」  与吉の真面目なのに釣込まれて、笑うことの出来なかったお品は、到頭骨のある豆腐の注文を笑わずに聞き済ました、そして真顔で尋ねた。 「ええ、その何だって、物をこそ言わねえけれど、目もあれば、口もある、それで生白い色をして、蒼いものもあるがね、煮られて皿の中に横になった姿てえものは、魚々と一口にゃあいうけれど、考えて見りゃあ生身をぐつぐつ煮着けたのだ、尾頭のあるものの死骸だと思うと、気味が悪くッて食べられねえッて、左様いうんだ。  詰らねえことを父爺いうもんじゃあねえ、山ン中の爺婆でも塩したのを食べるッてよ。  煮たのが、心持が悪けりゃ、刺身にして食べないかッていうとね、身震をするんだぜ。刺身ッていやあ一寸試だ、鱠にすりゃぶつぶつ切か、あの又目口のついた天窓へ骨が繋って肉が絡いついて残る図なんてものは、と厭な顔をするからね。ああ、」といって与吉は頷いた。これは力を入れて対手にその意を得させようとしたのである。 「左様なんかねえ、年紀の故もあろう、一ツは気分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を悪くすりゃ身体のたしにもなんにもならないわねえ。」 「でも痩せるようだから心配だもの。気が着かないようにして食べさせりゃ、胸を悪くすることもなかろうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、」 「骨のあるがんもどきかい、ほほほほほほ、」と笑った、垢抜けのした顔に鉄漿を含んで美しい。  片頬に触れた柳の葉先を、お品はその艶やかに黒い前歯で銜えて、扱くようにして引断った。青い葉を、カチカチと二ツばかり噛んで手に取って、掌に載せて見た。トタンに框の取着の柱に凭れた浅黄の手絡が此方を見向く、うら少のと面を合わせた。  その時までは、殆ど自分で何をするかに心着いて居ないよう、無意識の間にして居たらしいが、フト目を留めて、俯向いて、じっと見て、又梢を仰いで、 「与吉さんのいうようじゃあ、まあ、嘸この葉も痛むこッたろうねえ。」  と微笑んで見せて、少いのがその清い目に留めると、くるりと廻って、空ざまに手を上げた、お品はすっと立って、しなやかに柳の幹を叩いたので、蜘蛛の巣の乱れた薄い色の浴衣の袂は、ひらひらと動いた。  与吉は半被の袖を掻合わせて、立って見て居たが、急に振返って、 「そうだ。じゃあ親方に聞いて見ておくんな。可いかい、」 「ああ、可いとも、」といって向直って、お品は掻潜って襷を脱した。斜めに袈裟になって結目がすらりと下る。 「お邪魔申しました。」 「あれだよ。又、」と、莞爾していう。 「そうだっけな、うむ、此方あお客だぜ。」  与吉は独で頷いたが、背向になって、肱を張って、南の字の印が動く、半被の袖をぐッと引いて、手を掉って、 「おかみさん、大威張だ。」 「あばよ。」 六 「あい、」といいすてに、急足で、与吉は見る内に間近な渋色の橋の上を、黒い半被で渡った。真中頃で、向岸から駆けて来た郵便脚夫と行合って、遣違いに一緒になったが、分れて橋の両端へ、脚夫はつかつかと間近に来て、与吉は彼の、倒れながらに半ば黄ばんだ銀杏の影に小さくなった。 七 「郵便!」 「はい、」と柳の下で、洗髪のお品は、手足の真黒な配達夫が、突当るように目の前に踏留まって棒立になって喚いたのに、驚いた顔をした。 「更科お柳さん、」 「手前どもでございます。」  お品は受取って、青い状袋の上書をじっと見ながら、片手を垂れて前垂のさきを抓んで上げつつ、素足に穿いた黒緒の下駄を揃えて立ってたが、一寸飜して、裏の名を読むと、顔の色が動いて、横目に框をすかして、片頬に笑を含んで、堪らないといったような声で、 「柳ちゃん、来たよ!」というが疾いか、横ざまに駆けて入る、柳腰、下駄が脱げて、足の裏が美しい。 八  与吉が仕事場の小屋に入ると、例の如く、直ぐそのまま材木の前に跪いて、鋸の柄に手を懸けた時、配達夫は、此処の前を横切って、身を斜に、波に揺られて流るるような足取で、走り去った。  与吉は見も遣らず、傍目も触らないで挽きはじめる。  巨大なるこの樟を濡らさないために、板屋根を葺いた、小屋の高さは十丈もあろう、脚の着いた台に寄せかけたのが突立って、殆ど屋根裏に届くばかり。この根際に膝をついて、伸上っては挽き下ろし、伸上っては挽き下ろす、大鋸の歯は上下にあらわれて、両手をかけた与吉の姿は、鋸よりも小さいかのよう。  小屋の中には単こればかりでなく、両傍に堆く偉大な材木を積んであるが、その嵩は与吉の丈より高いので、纔に鋸屑の降積った上に、小さな身体一ツ入れるより他に余地はない。で恰も材木の穴の底に跪いてるに過ぎないのである。  背後は突抜けの岸で、ここにも地と一面な水が蒼く澄んで、ひたひたと小波の畝が絶えず間近う来る。往来傍には又岸に臨んで、果しなく組違えた材木が並べてあるが、二十三十ずつ、四ツ目形に、井筒形に、規律正しく、一定した距離を置いて、何処までも続いて居る、四ツ目の間を、井筒の彼方を、見え隠れに、ちらほら人が通るが、皆黙って歩行いて居るので。  淋い、森とした中に手拍子が揃って、コツコツコツコツと、鉄槌の音のするのは、この小屋に並んだ、一棟、同一材木納屋の中で、三個の石屋が、石を鑿るのである。  板囲をして、横に長い、屋根の低い、湿った暗い中で、働いて居るので、三人の石屋も斉しく南屋に雇われて居るのだけれども、渠等は与吉のようなのではない、大工と一所に、南屋の普請に懸って居るので、ちょうど与吉の小屋と往来を隔てた真向うに、小さな普請小屋が、真新い、節穴だらけな、薄板で建って居る、三方が囲ったばかり、編んで繋いだ縄も見え、一杯の日当で、いきなり土の上へ白木の卓子を一脚据えた、その上には大土瓶が一個、茶呑茶碗が七個八個。  後に置いた腰掛台の上に、一人は匍匐になって、肱を張って長々と伸び、一人は横ざまに手枕して股引穿いた脚を屈めて、天窓をくッつけ合って大工が寝そべって居る。普請小屋と、花崗石の門柱を並べて扉が左右に開いて居る、門の内の横手の格子の前に、萌黄に塗った中に南と白で抜いたポンプが据って、その縁に釣棹と畚とがぶらりと懸って居る、真にもの静かな、大家の店前に人の気勢もない。裏庭とおもうあたり、遥か奥の方には、葉のやや枯れかかった葡萄棚が、影を倒にうつして、此処もおなじ溜池で、門のあたりから間近な橋へかけて、透間もなく乱杭を打って、数限もない材木を水のままに浸してあるが、彼処へ五本、此処へ六本、流寄った形が判で印した如く、皆三方から三ツに固って、水を三角形に区切った、あたりは広く、一面に早苗田のようである。この上を、時々ばらばらと雀が低う。 九  その他に此処で動いてるものは与吉が鋸に過ぎなかった。  余り静かだから、しばらくして、又しばらくして、樟を挽く毎にぼろぼろと落つる木屑が判然聞える。 (父親は何故魚を食べないのだろう、)とおもいながら膝をついて、伸上って、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて軽く、材木の一処から湧くようになって、肩にも胸にも膝の上にも降りかかる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨のような微な響が、寂寞とした巨材の一方から聞えた。  柄を握って、挽きおろして、与吉は呼吸をついた。 (左様だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がったまま、皿の中に残るのだ、)  と思いながら、絶えず拍子にかかって、伸縮に身体の調子を取って、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢れて来る。 (何故だろう、これは鋸で挽く所為だ、)と考えて、柳の葉が痛むといったお品の言が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかかった。  与吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周囲は、杉の香、松の匂に包まれた穴の底で、目を睜って、跪いて、鋸を握って、空ざまに仰いで見た。  樟の材木は斜めに立って、屋根裏を漏れてちらちらする日光に映って、言うべからざる森厳な趣がある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈のある樹はこの辺でついぞ見た事はない、橋の袂の銀杏は固より、岸の柳は皆短い、土手の松はいうまでもない、遥に見えるその梢は殆ど水面と並んで居る。  然も猶これは真直に真四角に切たもので、およそ恁る角の材木を得ようというには、杣が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。  那な大木のあるのは蓋し深山であろう、幽谷でなければならぬ。殊にこれは飛騨山から廻して来たのであることを聞いて居た。  枝は蔓って、谷に亘り、葉は茂って峰を蔽い、根はただ一山を絡って居たろう。  その時は、その下蔭は矢張こんなに暗かったか、蒼空に日の照る時も、と然う思って、根際に居た黒い半被を被た、可愛い顔の、小さな蟻のようなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞっとしたが、 (父親は何うしてるだろう、)と考えついた。  鋸は又動いて、 (左様だ、今頃は弥六親仁がいつもの通、筏を流して来て、あの、船の傍を漕いで通りすがりに、父上に声をかけてくれる時分だ、)  と思わず振向いて池の方、うしろの水を見返った。  溜池の真中あたりを、頬冠した、色のあせた半被を着た、脊の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張って、長い棹を繰って、画の如く漕いで来る、筏は恰も人を乗せて、油の上を辷るよう。  するすると向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛を掠めて、蒼い水の上を鴎が弓形に大きく鮮かに飛んだ。 十 「与太坊、父爺は何事もねえよ。」と、池の真中から声を懸けて、おやじは小屋の中を覗こうともせず、爪さきは小波を浴ぶるばかり沈んだ筏を棹さして、この時また中空から白い翼を飜して、ひらひらと落して来て、水に姿を宿したと思うと、向うへ飛んで、鴎の去った方へ、すらすらと流して行く。  これは弥六といって、与吉の父翁が年来の友達で、孝行な児が仕事をしながら、病人を案じて居るのを知って居るから、例として毎日今時分通りがかりにその消息を伝えるのである。与吉は安堵して又仕事にかかった。 (父親は何事もないが、何故魚を喰べないのだろう。左様だ、刺身は一寸だめしで、鱠はぶつぶつ切だ、魚の煮たのは、食べると肉がからみついたまま頭に繋って、骨が残る、彼の皿の中の死骸に何うして箸がつけられようといって身震をする、まったくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食切ると痛むのだ、)と思い思い、又この偉大なる樟の殆ど神聖に感じらるるばかりな巨材を仰ぐ。  高い屋根は、森閑として日中薄暗い中に、ほのぼのと見える材木から又ぱらぱらと、ぱらぱらと、其処ともなく、鋸の屑が溢れて落ちるのを、思わず耳を澄まして聞いた。中央の木目から渦いて出るのが、池の小波のひたひたと寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響に交って、繁った葉と葉が擦合うようで、たとえば時雨の降るようで、又無数の山蟻が谷の中を歩行く跫音のようである。  与吉はとみこうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝の上、跪いてる足の間に落溜った、堆い、木屑の積ったのを、樟の血でないかと思ってゾッとした。  今までその上について暖だった膝頭が冷々とする、身体が濡れはせぬかと疑って、彼処此処袖襟を手で拊いて見た。仕事最中、こんな心持のしたことは始めてである。  与吉は、一人谷のドン底に居るようで、心細くなったから、見透かす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合目から洩れて、幽かに樟に映ったが、巨大なるこの材木は唯単に三尺角のみのものではなかった。  与吉は天日を蔽う、葉の茂った五抱もあろうという幹に注連縄を張った樟の大樹の根に、恰も山の端と思う処に、しッきりなく降りかかる翠の葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは真暗な処に、虫よりも小な身体で、この大木の恰もその注連縄の下あたりに鋸を突さして居るのに心着いて、恍惚として目を睜ったが、気が遠くなるようだから、鋸を抜こうとすると、支えて、堅く食入って、微かにも動かぬので、はッと思うと、谷々、峰々、一陣轟! と渡る風の音に吃驚して、数千仞の谷底へ、真倒に落ちたと思って、小屋の中から転がり出した。 「大変だ、大変だ。」 「あれ! お聞き、」と涙声で、枕も上らぬ寝床の上の露草の、がッくりとして仰向けの淋い素顔に紅を含んだ、白い頬に、蒼みのさした、うつくしい、妹の、ばさばさした天神髷の崩れたのに、浅黄の手絡が解けかかって、透通るように真白で細い頸を、膝の上に抱いて、抱占めながら、頬摺していった。お品が片手にはしっかりと前刻の手紙を握って居る。 「ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちゃん――柳ちゃん――しっかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるようなことがあったら、夫婦に成って遣るッて書いてあるじゃあないか。  親の為だって、何だって、一旦他の人に身をお任せだもの、道理だよ。お前、お前、それで気を落したんだけれど、命をかけて願ったものを、お前、それまでに思うものを、柳ちゃん、何だってお見捨てなさるものかね、解ったかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いよ。大丈夫だよ。願は叶ったよ。」 「大変だ、大変だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂った、大変だ、枝が出来た。」  と普請小屋、材木納屋の前で叫び足らず、与吉は狂気の如く大声で、この家の前をも呼わって歩行いたのである。 「ね、ね、柳ちゃん――柳ちゃん――」  うっとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑んで頷いた。人に血を吸われたあわれな者の、将に死なんとする耳に、与吉は福音を伝えたのである、この与吉のようなものでなければ、実際また恁る福音は伝えられなかったのであろう。
底本:「化鳥・三尺角 他六篇」岩波文庫、岩波書店    2013(平成25)年11月15日第1刷発行    2015(平成27)年5月15日第2刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年3月15日 初出:「新小説 第四年第一巻」    1899(明治32)年1月1日 ※表題は底本では、「三尺角《さんじゃくかく》」となっています。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年6月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057477", "作品名": "三尺角", "作品名読み": "さんじゃくかく", "ソート用読み": "さんしやくかく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第四年第一巻」1899(明治32)年1月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-07-01T00:00:00", "最終更新日": "2016-06-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57477.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "化鳥・三尺角 他六篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2013(平成25)年11月15日", "入力に使用した版1": "2015(平成27)年5月15日第2刷", "校正に使用した版1": "2013(平成25)年11月15日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第四卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57477_ruby_59418.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-06-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57477_59458.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-06-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
        一 「…………」  山には木樵唄、水には船唄、驛路には馬子の唄、渠等はこれを以て心を慰め、勞を休め、我が身を忘れて屈託なく其業に服するので、恰も時計が動く毎にセコンドが鳴るやうなものであらう。また其がために勢を増し、力を得ることは、戰に鯨波を擧げるに齊しい、曳々!と一齊に聲を合はせるトタンに、故郷も、妻子も、死も、時間も、慾も、未練も忘れるのである。  同じ道理で、坂は照る〳〵鈴鹿は曇る=といひ、袷遣りたや足袋添へて=と唱へる場合には、いづれも疲を休めるのである、無益なものおもひを消すのである、寧ろ苦勞を紛らさうとするのである、憂を散じよう、戀を忘れよう、泣音を忍ばうとするのである。  それだから追分が何時でもあはれに感じらるゝ。つまる處、卑怯な、臆病な老人が念佛を唱へるのと大差はないので、語を換へて言へば、不殘、節をつけた不平の獨言である。  船頭、馬方、木樵、機業場の女工など、あるが中に、此の木挽は唄を謠はなかつた。其の木挽の與吉は、朝から晩まで、同じことをして木を挽いて居る、默つて大鋸を以て巨材の許に跪いて、そして仰いで禮拜する如く、上から挽きおろし、挽きおろす。此度のは、一昨日の朝から懸つた仕事で、ハヤ其半を挽いた。丈四間半、小口三尺まはり四角な樟を眞二つに割らうとするので、與吉は十七の小腕だけれども、此業には長けて居た。  目鼻立の愛くるしい、罪の無い丸顏、五分刈に向顱卷、三尺帶を前で結んで、南の字を大く染拔いた半被を着て居る、これは此處の大家の仕着で、挽いてる樟も其の持分。  未だ暑いから股引は穿かず、跣足で木屑の中についた膝、股、胸のあたりは色が白い。大柄だけれども肥つては居らぬ、ならば袴でも穿かして見たい。與吉が身體を入れようといふ家は、直間近で、一町ばかり行くと、袂に一本暴風雨で根返して横樣になつたまゝ、半ば枯れて、半ば青々とした、あはれな銀杏の矮樹がある、橋が一個。其の澁色の橋を渡ると、岸から板を渡した船がある、板を渡つて、苫の中へ出入をするので、此船が與吉の住居。で干潮の時は見るも哀で、宛然洪水のあとの如く、何時棄てた世帶道具やら、缺擂鉢が黒く沈むで、蓬のやうな水草は波の隨意靡いて居る。この水草はまた年久しく、船の底、舷に搦み附いて、恰も巖に苔蒸したかのやう、與吉の家をしつかりと結へて放しさうにもしないが、大川から汐がさして來れば、岸に茂つた柳の枝が水に潛り、泥だらけな笹の葉がぴた〳〵と洗はれて、底が見えなくなり、水草の隱れるに從うて、船が浮上ると、堤防の遠方にすく〳〵立つて白い煙を吐く此處彼處の富家の煙突が低くなつて、水底の其の缺擂鉢、塵芥、襤褸切、釘の折などは不殘形を消して、蒼い潮を滿々と湛へた溜池の小波の上なる家は、掃除をするでもなしに美しい。  爾時は船から陸へ渡した板が眞直になる。これを渡つて、今朝は殆ど滿潮だつたから、與吉は柳の中で※(火+發)と旭がさす、黄金のやうな光線に、其罪のない顏を照らされて仕事に出た。         二  其から日一日おなじことをして働いて、黄昏かゝると日が舂き、柳の葉が力なく低れて水が暗うなると汐が退く、船が沈むで、板が斜めになるのを渡つて家に歸るので。  留守には、年寄つた腰の立たない與吉の爺々が一人で寢て居るが、老後の病で次第に弱るのであるから、急に容體の變るといふ憂慮はないけれども、與吉は雇はれ先で晝飯をまかなはれては、小休の間に毎日一度づつ、見舞に歸るのが例であつた。 「ぢやあ行つて來るぜ、父爺。」  與平といふ親仁は、涅槃に入つたやうな形で、胴の間に寢ながら、佛造つた額を上げて、汗だらけだけれども目の涼しい、息子が地藏眉の、愛くるしい、若い顏を見て、嬉しさうに頷いて、 「晩にや又柳屋の豆腐にしてくんねえよ。」 「あい、」といつて苫を潛つて這ふやうにして船から出た、與吉はづツと立つて板を渡つた。向うて筋違、角から二軒目に小さな柳の樹が一本、其の低い枝のしなやかに垂れた葉隱れに、一間口二枚の腰障子があつて、一枚には假名、一枚には眞名で豆腐と書いてある。柳の葉の翠を透かして、障子の紙は新らしく白いが、秋が近いから、破れて煤けたのを貼替へたので、新規に出來た店ではない。柳屋は土地で老鋪だけれども、手廣く商をするのではなく、八九十軒もあらう百軒足らずの此の部落だけを花主にして、今代は喜藏といふ若い亭主が、自分で賣りに𢌞るばかりであるから、商に出た留守の、晝過は森として、柳の蔭に腰障子が閉まつて居る、樹の下、店の前から入口へ懸けて、地の窪むだ、泥濘を埋めるため、一面に貝殼が敷いてある、白いの、半分黒いの、薄紅、赤いのも交つて堆い。  隣屋は此邊に棟を並ぶる木屋の大家で、軒、廂、屋根の上まで、犇と木材を積揃へた、眞中を分けて、空高い長方形の透間から凡そ三十疊も敷けようといふ店の片端が見える、其の木材の蔭になつて、日の光もあからさまには射さず、薄暗い、冷々とした店前に、帳場格子を控へて、年配の番頭が唯一人帳合をしてゐる。これが角屋敷で、折曲ると灰色をした道が一筋、電柱の著しく傾いたのが、前と後へ、別々に頭を掉つて奧深う立つて居る、鋼線が又半だるみをして、廂よりも低い處を、弱々と、斜めに、さも〳〵衰へた形で、永代の方から長く續いて居るが、圖に描いて線を引くと、文明の程度が段々此方へ來るに從うて、屋根越に鈍ることが分るであらう。  單に電柱ばかりでない、鋼線ばかりでなく、橋の袂の銀杏の樹も、岸の柳も、豆腐屋の軒も、角家の塀も、それ等に限らず、あたりに見ゆるものは、門の柱も、石垣も、皆傾いて居る、傾いて居る、傾いて居るが盡く一樣な向にではなく、或ものは南の方へ、或ものは北の方へ、また西の方へ、東の方へ、てん〴〵ばら〳〵になつて、此風のない、天の晴れた、曇のない、水面のそよ〳〵とした、靜かな、穩かな日中に處して、猶且つ暴風に揉まれ、搖らるゝ、其の瞬間の趣あり。ものの色もすべて褪せて、其灰色に鼠をさした濕地も、草も、樹も、一部落を蔽包むだ夥多しい材木も、材木の中を見え透く溜池の水の色も、一切、喪服を着けたやうで、果敢なく哀である。         三  界隈の景色がそんなに沈鬱で、濕々として居るに從うて、住む者もまた高聲ではものをいはない。歩行にも内端で、俯向き勝で、豆腐屋も、八百屋も默つて通る。風俗も派手でない、女の好も濃厚ではない、髮の飾も赤いものは少なく、皆心するともなく、風土の喪に服して居るのであらう。  元來岸の柳の根は、家々の根太よりも高いのであるから、破風の上で、切々に、蛙が鳴くのも、欄干の壞れた、板のはなれ〴〵な、杭の拔けた三角形の橋の上に蘆が茂つて、蟲がすだくのも、船蟲が群がつて往來を驅けまはるのも、工場の煙突の烟が遙かに見えるのも、洲崎へ通ふ車の音がかたまつて響くのも、二日おき三日置きに思出したやうに巡査が入るのも、けたゝましく郵便脚夫が走込むのも、烏が鳴くのも、皆何となく土地の末路を示す、滅亡の兆であるらしい。  けれども、滅びるといつて、敢て此の部落が無くなるといふ意味ではない、衰へるといふ意味ではない、人と家とは榮えるので、進歩するので、繁昌するので、やがて其電柱は眞直になり、鋼線は張を持ち、橋がペンキ塗になつて、黒塀が煉瓦に換ると、蛙、船蟲、そんなものは、不殘石灰で殺されよう。即ち人と家とは、榮えるので、恁る景色の俤がなくならうとする、其の末路を示して、滅亡の兆を表はすので、詮ずるに、蛇は進んで衣を脱ぎ、蝉は榮えて殼を棄てる、人と家とが、皆他の光榮あり、便利あり、利益ある方面に向つて脱出した跡には、此地のかゝる俤が、空蝉になり脱殼になつて了ふのである。  敢て未來のことはいはず、現在既に其の姿になつて居るのではないか、脱け出した或者は、鳴き、且つ飛び、或者は、走り、且つ食ふ、けれども衣を脱いで出た蛇は、殘した殼より、必ずしも美しいものとはいはれない。  あゝ、まぼろしのなつかしい、空蝉のかやうな風土は、却つてうつくしいものを産するのか、柳屋に艶麗な姿が見える。  與吉は父親に命ぜられて、心に留めて出たから、岸に上ると、思ふともなしに豆腐屋に目を注いだ。  柳屋は淺間な住居、上框を背後にして、見通の四疊半の片端に、隣家で帳合をする番頭と同一あたりの、柱に凭れ、袖をば胸のあたりで引き合はせて、浴衣の袂を折返して、寢床の上に坐つた膝に掻卷を懸けて居る。背には綿の厚い、ふつくりした、竪縞のちやん〳〵を着た、鬱金木綿の裏が見えて襟脚が雪のやう、艶氣のない、赤熊のやうな、ばさ〳〵した、餘るほどあるのを天神に結つて、淺黄の角絞の手絡を弛う大きくかけたが、病氣であらう、弱々とした後姿。  見透の裏は小庭もなく、すぐ隣屋の物置で、此處にも犇々と材木が建重ねてあるから、薄暗い中に、鮮麗な其淺黄の手絡と片頬の白いのとが、拭込むだ柱に映つて、ト見ると露草が咲いたやうで、果敢なくも綺麗である。  與吉はよくも見ず、通りがかりに、 「今日は、」と、聲を掛けたが、フト引戻さるゝやうにして覗いて見た、心着くと、自分が挨拶したつもりの婦人はこの人ではない。         四 「居ない。」と呟くが如くにいつて、其まゝ通拔けようとする。  ト日があたつて暖たかさうな、明い腰障子の内に、前刻から靜かに水を掻𢌞す氣勢がして居たが、ばつたりといつて、下駄の音。 「與吉さん、仕事にかい。」  と婀娜たる聲、障子を開けて顏を出した、水色の唐縮緬を引裂いたまゝの襷、玉のやうな腕もあらはに、蜘蛛の圍を絞つた浴衣、帶は占めず、細紐の態で裾を端折つて、布の純白なのを、短かく脛に掛けて甲斐々々しい。  齒を染めた、面長の、目鼻立はつきりとした、眉は落さぬ、束ね髮の中年増、喜藏の女房で、お品といふ。  濡れた手を間近な柳の幹にかけて半身を出した、お品は與吉を見て微笑むだ。  土間は一面の日あたりで、盤臺、桶、布巾など、ありつたけのもの皆濡れたのに、薄く陽炎のやうなのが立籠めて、豆腐がどんよりとして沈んだ、新木の大桶の水の色は、薄ら蒼く、柳の影が映つて居る。 「晩方又來るんだ。」  お品は莞爾しながら、 「難有う存じます、」故と慇懃にいつた。  つか〳〵と行懸けた與吉は、これを聞くと、あまり自分の素氣なかつたのに氣がついたか、小戻りして眞顏で、眼を一ツ瞬いて、 「えゝ、毎度難有う存じます。」と、罪のない口の利きやうである。 「ほゝゝ、何をいつてるのさ。」 「何がよ。」 「だつてお前樣はお客樣ぢやあないかね、お客樣なら私ン處の旦那だね、ですから、あの、毎度難有う存じます。」と柳に手を縋つて半身を伸出たまゝ、胸と顏を斜めにして、與吉の顏を差覗く。  與吉は極の惡さうな趣で、 「お客樣だつて、あの、私は木挽の小僧だもの。」  と手眞似で見せた、與吉は兩手を突出してぐつと引いた。 「かうやつて、かう挽いてるんだぜ、木挽の小僧だぜ。お前樣はおかみさんだらう、柳屋のおかみさんぢやねえか、それ見ねえ、此方でお辭儀をしなけりやならないんだ。ねえ、」 「あれだ、」とお品は目を睜つて、 「まあ、勿體ないわねえ、私達に何のお前さん……」といひかけて、つく〴〵瞻りながら、お品はづツと立つて、與吉に向ひ合ひ、其の襷懸けの綺麗な腕を、兩方大袈裟に振つて見せた。 「かうやつて威張つてお在よ。」 「威張らなくツたつて、何も、威張らなくツたつて構はないから、父爺が魚を食つてくれると可いけれど、」と何と思つたか與吉はうつむいて悄れたのである。 「何うしたんだね、又餘計に惡くなつたの。」と親切にも優しく眉を顰めて聞いた。 「餘計に惡くなつて堪るもんか、此節あ心持が快方だつていふけれど、え、魚氣を食はねえぢやあ、身體が弱るつていふのに、父爺はね、腥いものにや箸もつけねえで、豆腐でなくつちやあならねえツていふんだ。え、おかみさん、骨のある豆腐は出來まいか。」と思出したやうに唐突にいつた。         五 「おや、」  お品は與吉がいふことの餘り突拍子なのを、笑ふよりも先づ驚いたのである。 「ねえ、親方に聞いて見てくんねえ、出來さうなもんだなあ。雁もどきツて、ほら、種々なものが入つた油揚があらあ、銀杏だの、椎茸だの、あれだ、あの中へ、え、肴を入れて交ぜツこにするてえことあ不可ねえのかなあ。」 「そりや、お前さん。まあ、可いやね、聞いて見て置きませうよ。」 「あゝ、聞いて見てくんねえ、眞個に肴ツ氣が無くツちやあ、臺なし身體が弱るツていふんだもの。」 「何故父上は腥をお食りぢやあないのだね。」  與吉の眞面目なのに釣込まれて、笑ふことの出來なかつたお品は、到頭骨のある豆腐の注文を笑はずに聞き濟ました、そして眞顏で尋ねた。 「えゝ、其何だつて、物をこそ言はねえけれど、目もあれば、口もある、それで生白い色をして、蒼いものもあるがね、煮られて皿の中に横になつた姿てえものは、魚々と一口にやあいふけれど、考へて見りやあ生身をぐつ〳〵煮着けたのだ、尾頭のあるものの死骸だと思ふと、氣味が惡くツて食べられねえツて、左樣いふんだ。  詰らねえことを父爺いふもんぢやあねえ、山ン中の爺婆でも鹽したのを食べるツてよ。  煮たのが、心持が惡けりや、刺身にして食べないかツていふとね、身震をするんだぜ。刺身ツていやあ一寸試だ、鱠にすりやぶつ〳〵切か、あの又目口のついた天窓へ骨が繋つて肉が絡ひついて殘る圖なんてものは、と厭な顏をするからね。あゝ、」といつて與吉は頷いた。これは力を入れて對手に其意を得させようとしたのである。 「左樣なんかねえ、年紀の故もあらう、一ツは氣分だね、お前さん、そんなに厭がるものを無理に食べさせない方が可いよ、心持を惡くすりや身體のたしにもなんにもならないわねえ。」 「でも痩せるやうだから心配だもの。氣が着かないやうにして食べさせりや、胸を惡くすることもなからうからなあ、いまの豆腐の何よ。ソレ、」 「骨のあるがんもどきかい、ほゝゝゝほゝ、」と笑つた、垢拔けのした顏に鐵漿を含んで美しい。  片頬に觸れた柳の葉先を、お品は其艶やかに黒い前齒で銜へて、扱くやうにして引斷つた。青い葉を、カチ〳〵と二ツばかり噛むで手に取つて、掌に載せて見た。トタンに框の取着の柱に凭れた淺黄の手絡が此方を見向く、うら少のと面を合はせた。  其時までは、殆ど自分で何をするかに心着いて居ないやう、無意識の間にして居たらしいが、フト目を留めて、俯向いて、じつと見て、又梢を仰いで、 「與吉さんのいふやうぢやあ、まあ、嘸此の葉も痛むこツたらうねえ。」  と微笑んで見せて、少いのが其清い目に留めると、くるりと𢌞つて、空ざまに手を上げた、お品はすつと立つて、しなやかに柳の幹を叩いたので、蜘蛛の巣の亂れた薄い色の浴衣の袂は、ひらひらと動いた。  與吉は半被の袖を掻合はせて、立つて見て居たが、急に振返つて、 「さうだ。ぢやあ親方に聞いて見ておくんな。可いかい、」 「あゝ、可いとも、」といつて向直つて、お品は掻潛つて襷を脱した。斜めに袈裟になつて結目がすらりと下る。 「お邪魔申しました。」 「あれだよ。又、」と、莞爾していふ。 「さうだつけな、うむ、此方あお客だぜ。」  與吉は獨で頷いたが、背向になつて、肱を張つて、南の字の印が動く、半被の袖をぐツと引いて、手を掉つて、 「おかみさん、大威張だ。」 「あばよ。」         六 「あい、」といひすてに、急足で、與吉は見る内に間近な澁色の橋の上を、黒い半被で渡つた。眞中頃で、向岸から駈けて來た郵便脚夫と行合つて、遣違ひに一緒になつたが、分れて橋の兩端へ、脚夫はつか〳〵と間近に來て、與吉は彼の、倒れながらに半ば黄ばんだ銀杏の影に小さくなつた。         七 「郵便!」 「はい、」と柳の下で、洗髮のお品は、手足の眞黒な配達夫が、突當るやうに目の前に踏留まつて棒立になつて喚いたのに、驚いた顏をした。 「更科お柳さん、」 「手前どもでございます。」  お品は受取つて、青い状袋の上書をじつと見ながら、片手を垂れて前垂のさきを抓むで上げつゝ、素足に穿いた黒緒の下駄を揃へて立つてたが、一寸飜して、裏の名を讀むと、顏の色が動いて、横目に框をすかして、片頬に笑を含むで、堪らないといつたやうな聲で、 「柳ちやん、來たよ!」といふが疾いか、横ざまに驅けて入る、柳腰、下駄が脱げて、足の裏が美しい。         八  與吉が仕事場の小屋に入ると、例の如く、直ぐ其まゝ材木の前に跪いて、鋸の柄に手を懸けた時、配達夫は、此處の前を横切つて、身を斜に、波に搖られて流るゝやうな足取で、走り去つた。  與吉は見も遣らず、傍目も觸らないで挽きはじめる。  巨大なる此の樟を濡らさないために、板屋根を葺いた、小屋の高さは十丈もあらう、脚の着いた臺に寄せかけたのが突立つて、殆ど屋根裏に屆くばかり。この根際に膝をついて、伸上つては挽き下ろし、伸上つては挽き下ろす、大鋸の齒は上下にあらはれて、兩手をかけた與吉の姿は、鋸よりも小さいかのやう。  小屋の中には單こればかりでなく、兩傍に堆く偉大な材木を積んであるが、其の嵩は與吉の丈より高いので、纔に鋸屑の降積つた上に、小さな身體一ツ入れるより他に餘地はない。で恰も材木の穴の底に跪いてるに過ぎないのである。  背後は突拔けの岸で、こゝにも地と一面な水が蒼く澄むで、ひた〳〵と小波の畝が絶えず間近う來る。往來傍には又岸に臨むで、果しなく組違へた材木が並べてあるが、二十三十づゝ、四ツ目形に、井筒形に、規律正しく、一定した距離を置いて、何處までも續いて居る、四ツ目の間を、井筒の彼方を、見え隱れに、ちらほら人が通るが、皆默つて歩行いて居るので。  淋い、森とした中に手拍子が揃つて、コツ〳〵コツ〳〵と、鐵槌の音のするのは、この小屋に並んだ、一棟、同一材木納屋の中で、三個の石屋が、石を鑿るのである。  板圍をして、横に長い、屋根の低い、濕つた暗い中で、働いて居るので、三人の石屋も齊しく南屋に雇はれて居るのだけれども、渠等は與吉のやうなのではない、大工と一所に、南屋の普請に懸つて居るので、ちやうど與吉の小屋と往來を隔てた眞向うに、小さな普請小屋が、眞新い、節穴だらけな、薄板で建つて居る、三方が圍つたばかり、編むで繋いだ繩も見え、一杯の日當で、いきなり土の上へ白木の卓子を一脚据ゑた、其上には大土瓶が一個、茶呑茶碗が七個八個。  後に置いた腰掛臺の上に、一人は匍匐になつて、肱を張つて長々と伸び、一人は横ざまに手枕して股引穿いた脚を屈めて、天窓をくツつけ合つて大工が寢そべつて居る。普請小屋と、花崗石の門柱を並べて扉が左右に開いて居る、門の内の横手の格子の前に、萌黄に塗つた中に南と白で拔いたポンプが据つて、其縁に釣棹と畚とがぶらりと懸つて居る、眞にもの靜かな、大家の店前に人の氣勢もない。裏庭とおもふあたり、遙か奧の方には、葉のやゝ枯れかゝつた葡萄棚が、影を倒にうつして、此處もおなじ溜池で、門のあたりから間近な橋へかけて、透間もなく亂杭を打つて、數限もない材木を水のまゝに浸してあるが、彼處へ五本、此處へ六本、流寄つた形が判で印した如く、皆三方から三ツに固つて、水を三角形に區切つた、あたりは廣く、一面に早苗田のやうである。この上を、時々ばら〳〵と雀が低う。         九  其他に此處で動いてるものは與吉が鋸に過ぎなかつた。  餘り靜かだから、しばらくして、又しばらくして、樟を挽く毎にぼろ〳〵と落つる木屑が判然聞える。 (父親は何故魚を食べないのだらう、)とおもひながら膝をついて、伸上つて、鋸を手元に引いた。木屑は極めて細かく、極めて輕く、材木の一處から湧くやうになつて、肩にも胸にも膝の上にも降りかゝる。トタンに向うざまに突出して腰を浮かした、鋸の音につれて、又時雨のやうな微な響が、寂寞とした巨材の一方から聞えた。  柄を握つて、挽きおろして、與吉は呼吸をついた。 (左樣だ、魚の死骸だ、そして骨が頭に繋がつたまゝ、皿の中に殘るのだ、)  と思ひながら、絶えず拍子にかゝつて、伸縮に身體の調子を取つて、手を働かす、鋸が上下して、木屑がまた溢れて來る。 (何故だらう、これは鋸で挽く所爲だ、)と考へて、柳の葉が痛むといつたお品の言が胸に浮ぶと、又木屑が胸にかゝつた。  與吉は薄暗い中に居る、材木と、材木を積上げた周圍は、杉の香、松の匂に包まれた穴の底で、目を睜つて、跪いて、鋸を握つて、空ざまに仰いで見た。  樟の材木は斜めに立つて、屋根裏を漏れてちら〳〵する日光に映つて、言ふべからざる森嚴な趣がある。この見上ぐるばかりな、これほどの丈のある樹はこの邊でつひぞ見た事はない、橋の袂の銀杏は固より、岸の柳は皆短い、土手の松はいふまでもない、遙に見える其梢は殆ど水面と並んで居る。  然も猶これは眞直に眞四角に切たもので、およそ恁る角の材木を得ようといふには、杣が八人五日あまりも懸らねばならぬと聞く。  那な大木のあるのは蓋し深山であらう、幽谷でなければならぬ。殊にこれは飛騨山から𢌞して來たのであることを聞いて居た。  枝は蔓つて、谷に亙り、葉は茂つて峰を蔽ひ、根はたゞ一山を絡つて居たらう。  其時は、其下蔭は矢張こんなに暗かつたが、蒼空に日の照る時も、と然う思つて、根際に居た黒い半被を被た、可愛い顏の、小さな蟻のやうなものが、偉大なる材木を仰いだ時は、手足を縮めてぞつとしたが、 (父親は何うしてるだらう、)と考へついた。  鋸は又動いて、 (左樣だ、今頃は彌六親仁がいつもの通、筏を流して來て、あの、船の傍を漕いで通りすがりに、父上に聲をかけてくれる時分だ、)  と思はず振向いて池の方、うしろの水を見返つた。  溜池の眞中あたりを、頬冠した、色のあせた半被を着た、脊の低い親仁が、腰を曲げ、足を突張つて、長い棹を繰つて、畫の如く漕いで來る、筏は恰も人を乘せて、油の上を辷るやう。  する〳〵と向うへ流れて、横ざまに近づいた、細い黒い毛脛を掠めて、蒼い水の上を鴎が弓形に大きく鮮かに飛んだ。         十 「與太坊、父爺は何事もねえよ。」と、池の眞中から聲を懸けて、おやぢは小屋の中を覗かうともせず、爪さきは小波を浴ぶるばかり沈むだ筏を棹さして、此時また中空から白い翼を飜して、ひら〳〵と落して來て、水に姿を宿したと思ふと、向うへ飛んで、鴎の去つた方へ、すら〳〵と流して行く。  これは彌六といつて、與吉の父翁が年來の友達で、孝行な兒が仕事をしながら、病人を案じて居るのを知つて居るから、例として毎日今時分通りがかりに其消息を傳へるのである。與吉は安堵して又仕事にかゝつた。 (父親は何事もないが、何故魚を喰べないのだらう。左樣だ、刺身は一寸だめしで、鱠はぶつぶつ切だ、魚の煮たのは、食べると肉がからみついたまゝ頭に繋つて、骨が殘る、彼の皿の中の死骸に何うして箸がつけられようといつて身震をする、まつたくだ。そして魚ばかりではない、柳の葉も食切ると痛むのだ、)と思ひ〳〵、又この偉大なる樟の殆ど神聖に感じらるゝばかりな巨材を仰ぐ。  高い屋根は、森閑として日中薄暗い中に、ほの〴〵と見える材木から又ぱら〳〵と、ぱら〳〵と、其處ともなく、鋸の屑が溢れて落ちるのを、思はず耳を澄まして聞いた。中央の木目から渦いて出るのが、池の小波のひた〳〵と寄する音の中に、隣の納屋の石を切る響に交つて、繁つた葉と葉が擦合ふやうで、たとへば時雨の降るやうで、又無數の山蟻が谷の中を歩行く跫音のやうである。  與吉はとみかうみて、肩のあたり、胸のあたり、膝の上、跪いてる足の間に落溜つた、堆い、木屑の積つたのを、樟の血でないかと思つてゾツとした。  今まで其上について暖だつた膝頭が冷々とする、身體が濡れはせぬかと疑つて、彼處此處袖襟を手で拊いて見た。仕事最中、こんな心持のしたことは始めてである。  與吉は、一人谷のドン底に居るやうで、心細くなつたから、見透かす如く日の光を仰いだ。薄い光線が屋根板の合目から洩れて、幽かに樟に映つたが、巨大なるこの材木は唯單に三尺角のみのものではなかつた。  與吉は天日を蔽ふ、葉の茂つた五抱もあらうといふ幹に注連繩を張つた樟の大樹の根に、恰も山の端と思ふ處に、しツきりなく降りかゝる翠の葉の中に、落ちて落ち重なる葉の上に、あたりは眞暗な處に、蟲よりも小な身體で、この大木の恰も其の注連繩の下あたりに鋸を突さして居るのに心着いて、恍惚として目を睜つたが、氣が遠くなるやうだから、鋸を拔かうとすると、支へて、堅く食入つて、微かにも動かぬので、はツと思ふと、谷々、峰々、一陣轟!と渡る風の音に吃驚して、數千仞の谷底へ、眞倒に落ちたと思つて、小屋の中から轉がり出した。 「大變だ、大變だ。」 「あれ! お聞き、」と涙聲で、枕も上らぬ寢床の上の露草の、がツくりとして仰向けの淋い素顏に紅を含んだ、白い頬に、蒼みのさした、うつくしい、妹の、ばさ〳〵した天神髷の崩れたのに、淺黄の手絡が解けかゝつて、透通るやうに眞白で細い頸を、膝の上に抱いて、抱占めながら、頬摺していつた。お品が片手にはしつかりと前刻の手紙を握つて居る。 「ねえ、ねえ、お聞きよ、あれ、柳ちやん――柳ちやん――しつかりおし。お手紙にも、そこらの材木に枝葉がさかえるやうなことがあつたら、夫婦に成つて遣るツて書いてあるぢやあないか。  親の爲だつて、何だつて、一旦他の人に身をお任せだもの、道理だよ。お前、お前、それで氣を落したんだけれど、命をかけて願つたものを、お前、其までに思ふものを、柳ちやん、何だつてお見捨てなさるものかね、解つたかい、あれ、あれをお聞きよ。もう可いよ。大丈夫だよ。願は叶つたよ。」 「大變だ、大變だ、材木が化けたんだぜ、小屋の材木に葉が茂つた、大變だ、枝が出來た。」  と普請小屋、材木納屋の前で叫び足らず、與吉は狂氣の如く大聲で、此家の前をも呼はつて歩行いたのである。 「ね、ね、柳ちやん――柳ちやん――」  うつとりと、目を開いて、ハヤ色の褪せた唇に微笑むで頷いた。人に血を吸はれたあはれな者の、將に死なんとする耳に、與吉は福音を傳へたのである、この與吉のやうなものでなければ、實際また恁る福音は傳へられなかつたのであらう。
底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年3月15日第1刷発行    1986(昭和61)年12月3日第3刷発行 ※「!」の後の全角スペースの有り無しは底本通りにしました。 入力:門田裕志 校正:小林繁雄 2003年11月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004739", "作品名": "三尺角", "作品名読み": "さんじゃくかく", "ソート用読み": "さんしやくかく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-11-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4739.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 第四巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日", "入力に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷", "校正に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4739_ruby_13829.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-11-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4739_13830.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-11-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
「あなた、冷えやしませんか。」  お柳は暗夜の中に悄然と立つて、池に臨むで、其の肩を並べたのである。工學士は、井桁に組んだ材木の下なる端へ、窮屈に腰を懸けたが、口元に近々と吸つた卷煙草が燃えて、其若々しい横顏と帽子の鍔廣な裏とを照らした。  お柳は男の背に手をのせて、弱いものいひながら遠慮氣なく、 「あら、しつとりしてるわ、夜露が酷いんだよ。直にそんなものに腰を掛けて、あなた冷いでせう。眞とに養生深い方が、其に御病氣擧句だといふし、惡いわねえ。」  と言つて、そつと壓へるやうにして、 「何ともありはしませんか、又ぶり返すと不可ませんわ、金さん。」  其でも、ものをいはなかつた。 「眞とに毒ですよ、冷えると惡いから立つていらつしやい、立つていらつしやいよ。其方が増ですよ。」  といひかけて、あどけない聲で幽に笑つた。 「ほゝゝゝ、遠い處を引張つて來て、草臥れたでせう。濟みませんねえ。あなたも厭だといふし、其に私も、そりや樣子を知つて居て、一所に苦勞をして呉れたからツたつても、姊さんには極が惡くツて、内へお連れ申すわけには行かないしさ。我儘ばかり、お寢つて在らつしやつたのを、こんな處まで連れて來て置いて、坐つてお休みなさることさへ出來ないんだよ。」  お柳はいひかけて涙ぐんだやうだつたが、しばらくすると、 「さあ、これでもお敷きなさい、些少はたしになりますよ。さあ、」  擦寄つた氣勢である。 「袖か、」 「お厭?」 「そんな事を、しなくツても可い。」 「可かあありませんよ、冷えるもの。」 「可いよ。」 「あれ、情が強いねえ、さあ、えゝ、ま、痩せてる癖に。」と向うへ突いた、男の身が浮いた下へ、片袖を敷かせると、まくれた白い腕を、膝に縋つて、お柳は吻と呼吸。  男はぢつとして動かず、二人ともしばらく默然。  やがてお柳の手がしなやかに曲つて、男の手に觸れると、胸のあたりに持つて居た卷煙草は、心するともなく、放れて、婦人に渡つた。 「もう私は死ぬ處だつたの。又笑ふでせうけれども、七日ばかり何にも鹽ツ氣のものは頂かないんですもの、斯うやつてお目に懸りたいと思つて、煙草も斷つて居たんですよ。何だつて一旦汚した身體ですから、そりやおつしやらないでも、私の方で氣が怯けます。其にあなたも舊と違つて、今のやうな御身分でせう、所詮叶はないと斷めても、斷められないもんですから、あなた笑つちや厭ですよ。」  といひ淀んで一寸男の顏。 「斷めのつくやうに、斷めさして下さいツて、お願ひ申した、あの、お返事を、夜の目も寢ないで待ツてますと、前刻下すつたのが、あれ……ね。  深川の此の木場の材木に葉が繁つたら、夫婦になつて遣るツておつしやつたのね。何うしたつて出來さうもないことが出來たのは、私の念が屆いたんですよ。あなた、こんなに思ふもの、其位なことはありますよ。」  と猶しめやかに、 「ですから、最う大威張。其でなくツてはお聲だつて聞くことの出來ないので、押懸けて行つて、無理に其の材木に葉の繁つた處をお目に懸けようと思つて連出して來たんです。  あなた分つたでせう、今あの木挽小屋の前を通つて見たでせう。疑ふもんぢやありませんよ。人の思ですわ、眞暗だから分らないつてお疑ンなさるのは、そりや、あなたが邪慳だから、邪慳な方にや分りません。」  又默つて俯向いた、しばらくすると顏を上げて斜めに卷煙草を差寄せて、 「あい。」 「…………」 「さあ、」 「…………」 「邪慳だねえ。」 「…………」 「えゝ!、要らなきや止せ。」  といふが疾いか、ケンドンに投り出した、卷煙草の火は、ツツツと橢圓形に長く中空に流星の如き尾を引いたが、𤏋と火花が散つて、蒼くして黒き水の上へ亂れて落ちた。  屹と見て、 「お柳、」 「え、」 「およそ世の中にお前位なことを、私にするものはない。」  と重々しく且つ沈んだ調子で、男は肅然としていつた。 「女房ですから、」  と立派に言ひ放ち、お柳は忽ち震ひつくやうに、岸破と男の膝に頬をつけたが、消入りさうな風采で、 「そして同年紀だもの。」  男は其頸を抱かうとしたが、フト目を反らす水の面、一點の火は未だ消えないで殘つて居たので。驚いて、じつと見れば、お柳が投げた卷煙草の其ではなく、靄か、霧か、朦朧とした、灰色の溜池に、色も稍濃く、筏が見えて、天窓の圓い小な形が一個乘つて蹲むで居たが、煙管を啣へたらうと思はれる、火の光が、ぽツちり。  又水の上を歩行いて來たものがある。が船に居るでもなく、裾が水について居るでもない。脊高く、霧と同鼠の薄い法衣のやうなものを絡つて、向の岸からひら〳〵と。  見る間に水を離れて、すれ違つて、背後なる木納屋に立てかけた數百本の材木の中に消えた、トタンに認めたのは、緑青で塗つたやうな面、目の光る、口の尖つた、手足は枯木のやうな異人であつた。 「お柳。」と呼ばうとしたけれども、工學士は餘りのことに聲が出なくツて瞳を据ゑた。  爾時何事とも知れず仄かにあかりがさし、池を隔てた、堤防の上の、松と松との間に、すつと立つたのが婦人の形、ト思ふと細長い手を出し、此方の岸を氣だるげに指招く。  學士が堪まりかねて立たうとする足許に、船が横ざまに、ひたとついて居た、爪先の乘るほどの處にあつたのを、霧が深い所爲で知らなかつたのであらう、單そればかりでない。  船の胴の室に嬰兒が一人、黄色い裏をつけた、紅の四ツ身を着たのが辷つて、彼の婦人の招くにつれて、船ごと引きつけらるゝやうに、水の上をする〳〵と斜めに行く。  其道筋に、夥しく沈めたる材木は、恰も手を以て掻き退ける如くに、算を亂して颯と左右に分れたのである。  其が向う岸へ着いたと思ふと、四邊また濛々、空の色が少し赤味を帶びて、殊に黒ずんだ水面に、五六人の氣勢がする、囁くのが聞えた。 「お柳、」と思はず抱占めた時は、淺黄の手絡と、雪なす頸が、鮮やかに、狹霧の中に描かれたが、見る〳〵、色があせて、薄くなつて、ぼんやりして、一體に墨のやうになつて、やがて、幻は手にも留らず。  放して退ると、別に塀際に、犇々と材木の筋が立つて並ぶ中に、朧々とものこそあれ、學士は自分の影だらうと思つたが、月は無し、且つ我が足は地に釘づけになつてるのにも係らず、影法師は、薄くなり、濃くなり、濃くなり、薄くなり、ふら〳〵動くから我にもあらず、 「お柳、」  思はず又、 「お柳、」  といつてすた〳〵と十間ばかりあとを追つた。 「待て。」  あでやかな顏は目前に歴々と見えて、ニツと笑ふ涼い目の、うるんだ露も手に取るばかり、手を取らうする、と何にもない。掌に障つたのは寒い旭の光線で、夜はほの〴〵と明けたのであつた。  學士は昨夜、礫川なる其邸で、確に寢床に入つたことを知つて、あとは恰も夢のやう。今を現とも覺えず。唯見れば池のふちなる濡れ土を、五六寸離れて立つ霧の中に、唱名の聲、鈴の音、深川木場のお柳が姊の門に紛れはない。然も面を打つ一脈の線香の香に、學士はハツと我に返つた。何も彼も忘れ果てて、狂氣の如く、其家を音信れて聞くと、お柳は丁ど爾時……。あはれ、草木も、婦人も、靈魂に姿があるのか。
底本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年3月15日第1刷発行    1986(昭和61)年12月3日第3刷発行 入力:門田裕志 校正:小林繁雄 2003年11月11日作成 2011年3月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004740", "作品名": "三尺角拾遺", "作品名読み": "さんじゃくかくしゅうい", "ソート用読み": "さんしやくかくしゆうい", "副題": "(木精)", "副題読み": "(もくせい)", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-11-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4740.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 第四巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月15日", "入力に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷", "校正に使用した版1": "1986(昭和61)年12月3日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4740_ruby_13831.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-03-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4740_13832.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-03-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
一 「もし〳〵、其處へ行らつしやりますお方。」……と呼ぶ。  呼ばれた坂上は、此の聲を聞くと、外套の襟から先づ悚然とした。……誰に似て可厭な、何時覺えのある可忌しい調子と云ふのではない。が、辿りかゝつた其のたら〳〵上りの長い坂の、下から丁ど中央と思ふ處で、靄のむら〳〵と、動かない渦の中を、見え隱れに、浮いつ沈みつする體で、跫音も聞えぬばかり――四谷の通りから穴の横町へ續く、坂の上から、しよな〳〵下りて來て、擦違つたと思ふ、と其の聲。  何の約束もなく、思ひも懸けず行逢つたのに、ト見ながら行過ぎるうち、其れなり何事も無しには分れまい。呼ぶか、留めるか、屹と口を利くに違ひない、と坂上は不思議にも然う思つた。尤も其は、或機會に五位鷺が闇夜を叫ぶ、鴉が啼く、と同じ意味で、聞くものは、其處に自分一人でも、鳥は誰に向つて呼ぶのか分らない。けれども、可厭な、可忌しい聲を聞かずには濟むまい、と思ふと案の定……  來て、其の行逢つたものは、一ならびに並んだ三人づれで、どれも悄乎とした按摩である。  中に挾まれたのは、弱々と、首の白い、髮の濃い、中年増と思ふ婦で、兩の肩がげつそり痩せて、襟に引合せた袖の影が――痩せた胸を雙の乳房まで染み通るか、と薄暗く、裾をかけて、帶の色と同じやうに――黒く映して、ぴた〳〵ぴた〳〵と草履穿か、地とすれ〳〵の褄を見た。  先に立つたのは鼠であらう、夜目には此の靄を織つてなやした、被布のやうなものを、ぐたりと着て、縁なしの帽子らしい、ぬいと、のはうづに高い、坊主頭其のまゝと云ふのを被つた、脊のひよろりとしたのが、胴を畝らして……通る。  後なる一人は、中脊の細い男で、眞中の、其の盲目婦の髮の影にも隱れさうに、帶に體を附着けて行違つたのであるから、形、恰好、孰れも判然としない中に、此の三人目のが就中朧に見えた。  此の癖、もし〳〵、と云つた、……聲を聞くと、一番あとの按摩が呼留めた事が、何うしてか直ぐに知れた…… 「私かい。」  と直ぐに答へて、坂上は其のまゝ立留まつて、振向いた……ひやりと肩から窘みながら、矢庭に吠える犬に、(畜生、)とて擬勢を示す意氣組である。 「はあ、お前樣で。」  と沈んで云ふ。果せる哉、殿の痩按摩で、恁う口をきく時、靄を漕ぐ、杖を櫂に、斜めに握つて、坂の二三歩低い處に、伸上るらしく仰向いて居た。  先の二人、頭の長いのと、何かに黒髮を結んだのは、芝居の樂屋の鬘臺に、髷をのせて、倒に釣した風情で、前後になぞへに並んで、向うむきに立つて、同伴者の、然うして立淀んだのを待つらしい。  坂上は外套の袖を捻ぢて、踵を横ざまに踏みながら、中折の庇から、對手の眉間を透かし視つつ、 「私に用か。」 「一寸……お話しが……ありまして……」と落着いたのか、息だはしいのか、冬の夜ふけをなまぬるい。 二 「用事は何です。」  はじめ、靄の中を、此の三人が來て通りすがつた時、長いのと短いのと、野墓に朽ちた塔婆が二本、根本にすがれた尾花の白い穗を縋らせたまゝ、土ながら、凩の餘波に、ふは〳〵吹き送られて來たかと思つた。  漸つと、其の(思つた)が消えて、まざ〳〵と恁うしてものを言交はせば、武藏野の丘の横穴めいた、山の手場末の寂びた町を、搜り〳〵に稼いで歩行くのが、誘ひ合はせて、年を越す蚊のやうに、細い笛の音で、やがて木賃宿の行燈の中へ消えるのであらうと、合點して、坂上も稍もの言ひが穩かに成つたのである。  按摩は其仰向いて打傾いた、耳の痒いのを掻きさうな手つきで、右手に持添へた杖の尖を、輕く、コト〳〵コト〳〵と彈きながら、 「用と云うて、別に、此と云うてありませぬ。ありませぬ、けれども、お前樣今から、何處へ行かれます。何處へ、何處へ、何處へ?」……と些と嘲けるやうに、小鼻で調子を取つた聞き方をする。 「構ひなさんな。」  無理な首尾の、婦に忍ぶ夜であつた……  坂上は憤然として、 「何處へ行つても可いではないか。」 「可うない、其が可うない、お前樣、」と押附けに言つた聲に、振切つては衝と足の出ぬ力が籠る。 「何故惡いんだね。」  と、却つて坂下へ小戻りにつか〳〵と近づいたが、餘り傍へ寄ると、靄が、ねば〳〵として顏へ着きさうで、不氣味で控へた。 「もう遲い!」  と急に幅のある強い聲。按摩は其の時、がつくりと差俯向く。  立ち窘んだ體だつた、長頭の先達盲人は、此の時、のろりと身動きして、横に崖の方へ顏を向けた。  次の婦は、腰から其の影を地へ吸込まれさうに、悄乎と腰をなやして踞む……鬢のはづれへ、ひよろりと杖の尖が抽けて青い。  三人が根をおろしたらしく見て取ると、坂上も、急には踏出せさうもなく、足が地に附着いたが、前途を急ぐ胸は、はツ〳〵と、毒氣を掴んで口から吹込まれさうに躍つて、血を動かしては、ぐつと膨れ、肉をわなゝかしては、げつそり挫げる。  坂の其の兩方は、見上げて峰の如き高臺のなだれた崖で、……時に長頭が面を向けた方は、空に一二軒、長屋立が恰も峠茶屋と云ふ形に、霜よ、と靄のたゝまり積んだ、枯草の上に、灯の影もなく鎖さるゝ。  で、此のものどもの寄つた方は、木の根ぐるみ地壓への杭も露顯に、泥の崩れた切立てで、上には樹立が參差と骨を繋ぐ。其の枝の所々、濁つた月影のやうな可厭な色の靄が搦んで、星もない……山深く谷川の流に望んだ思ひの、暗夜の四谷の谷の底、時刻は丁ど一時頃。  激しく動くは胸ばかり……づん〳〵と陰氣な空から、身體を壓附けられるやうで、 「遲いのが、何で惡い。」  とものいひも重く成る。 「然う言はれる、申される……」  と杖を持つた手の甲を、丁と敲き、 「如何にも、もし、それが惡い……」 「行つては不可いと云ふのかね。」と、心がかりな今夜の逢ふ瀬の、辻占にもと裏問へば…… 「惡いと云うたりとて、お前樣氣一つで行かるれば、それまでの事ではあれど、先づお留め申したい。  これは、私一人か……  其處に居る人も。」  と云つて、杖をまつすぐに持直すと、むかうで長頭が、一つ幽な咳。 三 「行くなつたつて、行かなけりや成らない所だつたら何うします。」  と坂上の呼吸はあせつた…… 「親が大病だか、友だちが急病だか、知れたもんですか。……君たちのやうに言つちや、何か、然も怪しい所へでも出掛けるやうだね。」 「へゝゝ、」  と杖の尖に頬をすりつける如く傾がつて、可厭に笑ひ、 「其が分ればこそ申すのなり、あの人も言へと言ひます……當てますか、私が。……知つても大事ない。明けて爾々とお言ひなされ。お前樣は婦に逢ひに行く、」 「…………」 「な、然も、先方は、義理、首尾で、差當つては間の惡い處を、お前樣が突詰めて、斷つて、垣も塀も、押倒し突破る、……其の力で、胸を掻毮るやうにあせるから、婦も切つて、身にも生命にも代へて逢はうと云ふ。其へ行く……お前樣、其の途中でありませう。通りがかりから、行逢うて、恁うやつて擦違うたまでの跫音で、よう知れました。とぼ〳〵した、上の空なので丁と分る……  霧もかゝり、霜もおりる……月も曇れば星も暗し、此の大空にも迷ひはある。迷ひも、其は穩かなれども、胸の塞り呼吸が閉る、もやくやなあとの、電、はたゝがみを御覽ぜい。  人間の思ひ、何事も不思議はない。  私が心に思較べた……身に引較べればこそ、此の掌を……」  と云ふ、己が面へ、掌を蓋する如くに、 「……掌を見るとやら申す通り、見えぬ目にも知れました。」  あとの二人とも、此の時言合はせた體に、上と下で、衣ものの襞襀まで、頷いたのが朧に分つた。  坂上は、氣拔けのした状に、大息を吻と吐いて、 「辻で賣卜をする人たちか。私も氣が急いだので、何か失禮を言つたかも知れない……  先方は足袋跣足で、或家を出て、――些と遠いが、これから行く所に、森のある中に隱れて待つた切、一人で身動きも出來ないで居るんです。  其の事は、私が今まで居た所へ、當人から懸けた、符牒ばかりの電話で知れて、實際、氣も顛倒して急ぐんです。行かないで何うしますか、行つては惡いんですか。」 「われら考へたも其の通り……いや、男らしく、よう申されました。さて、いづれもお最惜しいが、あゝ、危い事かな。」  と杖を引緊めるやうに、胸へ取つて兩手をかけた。痩按摩は熟と案じて、 「先づお聞き申すが、唯今、此の坂の此の、われらが片寄つて路傍に立ちました……此の崖下に、づら〳〵となぞへに並びました瓦斯燈は、幾基が所燈が點いて、幾基が所消えて居ります。一寸、御覽ぜ、一寸御覽ぜ。」  と言ひ〳〵、がく〳〵と項を掉つて首を垂れる。  言に引向けられたやうに、三人の並んだ背後を拾つて、坂下から、上の町へ、トづらりと視ると……坂上は今夜はじめて此の路を通るのではない。……片側へ並べて崖添ひに、凡そ一間おきぐらゐに、間を籠めて、一二三堂と云ふ、界隈の活動寫眞の手で建てた、道路安全の瓦斯燈がすく〳〵ある。  しろ〴〵と霜柱のやうに冷たく並んで、硝子火屋は、崖の巖穴に一ツ一ツ窓を開けた風情に見えて、ばつたり、燈が消えたあとを、目の屆く、どれも是も、靄を噛んで、吸ひ溜め吸ひ溜め、透間を覗いて切れ〴〵に灰色の息を吹出す。  かと思へば、目の前に近いのは、あらう事か、鬼の首を古綿で面形に取つた形に、靄がむら〳〵と瓦斯燈の其の消えたあとに蟠つて、怪しく土蜘蛛の形を顯し、同じ透間から吹く息も、これは可恐しい絲を手繰つて、天へ投掛け、地に敷き展べ、宙に綾取る。や、然う思へば、靄のねば〳〵は、這個の振舞か。 四 「大抵、皆消えて居ります筈で。」  と按摩は、坂上が然うして、きよろ〳〵と瓦斯燈を眗す内に、先んじて又云つた。 「すつかり消えて居る。あゝ、」と尚ほ一倍、夜の更けたのが身に染みた。 「な、消えて居りませう……けれども、お前樣から、坂の上の方へ算へまして、其の何臺目かの瓦斯が一つ、まだ燈が點いて居らねばなりませぬ。……見えますか。」 「見える……」  と答へた、如何にも一臺、薄ぼんやりと、灯が亂れて、靄へ流れさうに點いて居る。 「しかし、何本めだか一寸分らない。」 「餘り遠い所ではありませぬ。人通りのない、故道松並木の五位鷺は、人の居處から五本目の枝に留ります、道中定り。……其の灯の消殘りましたのは、お前樣から、上へ五本目と存じます。  私が間違つた事を言ひますれば、其處に居ます師匠、沙汰をします筈。點つて立つて居ります上は、決して相違ないと存じます。數を取つて御覽ぜ、御覽ぜ……一つ、」と杖の尖をカタ〳〵と二つ鳴らす。 「一い……」 「二ツ、」と三ツ、杖の尖をコト〳〵コト。 「三い……四う……確に五本目……」 「でありませうな。」 「何うしたと云ふんです。」 「お前樣、此の暗夜に、われらの形、崖の樣子、消えた瓦斯燈の見えますのも、皆其の一つの影なので。然もない事には、鼻を撮まれたとて分りませぬが。」  成程、覺束ない、ものの形も、唯一ツ其の燈の影なのである……心着くと、便りない色ながら、其の力には、揃つて消えた街燈が、時々ぎら〳〵と光りさへする――靄が息を吐いて瞬く中に、――坂上の姿もふら〳〵として、 「一體、其が何うしたんです。」 「然れば……其の五基目に一ツ殘りました灯の下に、何か見えはいたしませぬか。」 「何が、」  と云ふのも聲が震ふ、坂上は又慄然とした。 「何か、居はいたしませぬか。」 「何にも、何にも居らん。」 「居りませぬか。」 「居ない。」 「居ないが定に成りませぬ。お前樣が其處までお運びなさりますれば、必ず出ます。……それ故に、お留め申すのでありまして、まあ、お聞きなさりまし。」  と捻向いて、痩按摩は腰を屈めながら、丁ど足許に一基あつた……瓦斯燈の根を、其處に轉がつた、ごろた石なりにカチ〳〵と杖で鳴らした。が音も響かず、靄に沈む。 「先づ……最う一ツ念のために申さうに……われらが居ります此なる瓦斯燈、唯た今、お前樣を呼留めましたなり、一歩とて後へも前へも動きませぬ……此は坂下からはじめまして、立ちました瓦斯燈の、十九基めに相違ありませぬ。  間違へば、師匠沙汰をなされます。  さて、三年前、……日は違ひます。なれども、同じ此の霜月の夜さり、丁ど同じ今の時刻、私にもお前樣と同じ事がありました。……  其の頃は、決して其の、恁やうな盲目ではありませなんだ。」  と云ふ、まともに坂上に對して、向直つたけれども、俯向いたなりで顏は上げぬ。 「よう似た、お前樣と同じ事で、然る婦にあひゞきに參るので、此處を、此の坂を、矢張り、向つて下から、うか〳〵と上りかけたのでありました。  時に擦違つたものが、これだけは、些と樣子が違ひまして、按摩一人だけが見えました。」  其の時、件の、長頭は、くるりと眞背後にむかうを向いた、歩行出すか、と思ふと……熟と其のまゝ。 五  婦は、と見ると、其は、夥間の話を聞くらしく、踞んだなりに、くるりと此方に向直つた、帶も膝も、くな〳〵と疊まれさうなが、咽喉のあたりは白かつた。  按摩の聲は判然して、 「で、其で矢張り、お前樣に私がしましたやうに、背後から呼留めまして、瓦斯の五基目も、足もとの十九の數も、お前樣に今われらが言うた通りの事を申します。  私はこゝで、其の通りを、最う一度申しますばかりの事。  何で、約束した其の婦に逢ひに行つては成らぬのかと――今のお前樣の通りを、又其の時私が尋ねますと、彼の盲人が申すには、」  其の盲人は、こゝに先達の其の長頭である事は、自から坂上の胸に響く。 「上へ五本めの、一つ消え殘つた瓦斯燈の所に、怪しいものの姿が見える……其は、凡て人間の影を捉る、影を掴む、影法師を啖ふ魔ものぢや。  彼めに影を吸はるれば、人間は形痩せ、嘗めらるれば氣衰へ、蹂躙らるれば身を惱み、吹消さるゝと命が失せる。  凡そ、月と日とともに、影法師のある所、件の魔もの附絡はずと云ふ事なうて、且つ吸ひ、且つ嘗め、蹂躙る。が、いづれ其の人の生命に及ぶには間があらう。其もつて大事ぢやに、可恐しいは、今あるやうな燈の場合。一口くわつと遣つて、」  と云つた。按摩の唇は尖つたな! 「立所に影を啖ふ、啖はるれば、それまでぢや、生命にも及びかねぬ。必ず此の坂を通らるゝな……  と恁う言ひます。  私も血氣で、何を言ふ。第一、其魔ものとはどんなものか、と突懸つて訊きますと、其の盲人ニヤリともせず、眞實な顏をしまして、然れば、然れば先づ、守宮が冠を被つたやうな、白犬が胴伸びして、頭に山伏の兜巾を頂いたやうなものぢや、と性の知れぬ事を言ふ。  いや、聞くよりは見るが疾い。さあ、生命を取られて遣らう、と元來、あたまから眞とは思ひませぬなり。づか〳〵、其の、……其處の其の五基めの瓦斯燈の處まで小砂利を蹴つて參りますと、道理な事、何の仔細もありませぬ。  處に、右の盲人、カツ〳〵と杖を鳴らして、刎上つて、飛んで參り、これは無體な事をなされる。……強い元氣ぢや。私が言うて聞かす事を眞とは思はぬ汝に、言託けるのは無駄ぢやらうが、ありやうは、右の魔ものは、さしあたり汝の影を、掴まうとするではない。  今夜……汝が逢ひに行く……其の婦の影を捉らうと、豫てつけ狙うて居るによつて、嚴い用心、深い謹愼をしますやう、汝を通じて、其の心づけがしたかつたのぢや。  と恁う又言ふのでありました。」 六 「まざ〳〵と譫言吐く……私の婦知つたりや、と問ひますと、其を知らいで何をする……今日も晩方、私が相長屋の女房が見て來て話した。谷町の湯屋で逢うたげな。……よう湯の煙で溶けなんだ、白雪を撫でてふつくりした、其は、其は、綺麗な膚を緋で緊めて、淡い淺葱の紐で結へた、乳の下する〳〵辷るやうな長襦袢。小春時の一枚小袖、藍と紺の小辨慶、黒繻子の帶に、又緋の扱帶……髷に水色の絞りの手絡。艷の雫のしたゝる鬢に、ほんのりとした耳のあたり、頸許の美しさ。婦同士も見惚れたげで、前へ𢌞り、背後で視め、姿見に透かして、裸身のまゝ、つけまはいて、黒子が一つ、左の乳の、白いつけ際に、ほつりとある事まで、よう知つたと云ふ話。  何と、此の婦に相違あるまい、汝が逢ひに行く其の婦は……  と又其の盲人が云ふのであります。」  聞くうちに、坂上は、ぶる〳〵と身震ひした。其は、其處に、此の話をする按摩の背後に跪い居て、折から面を背けた婦が、衣服も、帶も、まさしく、歴然と、其の言葉通りに目に映つたためばかりではない。――  足袋跣足で出たと云ふ、今夜は、もしや、あの友染に……あの裾模樣、と思ふけれども、不斷見馴れて氣に染みついた、其の黒繻子に、小辨慶。  坂上は血の冷えるあとを赫と成る。 「何うでありませう。お前樣。此から逢ひにおいでなさらうと云ふ、其の婦の方は、裾模樣に、錦の帶、緋縮緬の蹴出しでも。……其の黒繻子に、小辨慶の藍と紺、膚の白さも可いとして、乳房の黒子まで言ひ當てられました、私が其の時の心持、憚りながら御推量下さりまし。  こゝな四谷の谷底に、酷い事、帶紐取つて、あか裸で倒されてでも居りますのが、目に見えるやうに思はれました。  で、右の其の盲人は、例の魔ものは、其の婦の影を、嘗めう、吸はう、捉へよう、蹂躙らう、取啖はうとつけ𢌞す――此の儀を汝から託けて、氣を注けるやう言ひなさい、と申したのを、よくも聞かずに、黒雲を捲いて、飛んで行き、電のやうに、鐵の門、石の唐戸にも、遮らせず、眞赤な胸の炎で包んで、弱い婦に逢ひました。  影を取る、影を吸ふ、影を嘗める、魔ものに逢つた。此の坂しか〴〵の瓦斯燈のあかりで見て來た。……  婦の家は、つい此の居まはりでありました。――  夜も晝も附𢌞すぞ、それ、影が薄いわ、用心せい、とお前樣。  可哀氣に、苦勞で氣やみに煩つて、帶をしめてもゆるむほど、細々と成つて居るものを、鐵槌で打つやうに、がん〳〵と、あたまへ響くまで申しましたわ。  他人に、膚を見せたと思ふ妬みから、――婦が膝に突俯して、震へる聲の下で、途中、どんなものに逢つて誰に聞いた話だ、と右の影を捉る魔について尋ねました時、――おのれ、胸に問へ!なぞと云うて、盲人から聞いた事は言はずに了つたのでありました。  此が飛んでもない心得違ひ。其の盲人こそ、其の婦に思ひを懸けて、影のやうに附絡うて、それこそ、婦の家の居まはりの瓦斯燈のあかりで見れば、守宮か、と思ふ形體で、裏板塀、木戸、垣根に、いつも目を赤く、面を蒼く、唇を白く附着いて、出入りを附狙つて居たとの事。  はじめから、威したものが盲人と知れれば、婦も然までは呪詛れずに濟んだのでありませう。」 七 「今度、……其の次……段々に婦に逢ふ事が少くなりました。  兎角むかうで、私を避けるやうにするのであります。  ……殺して死なう、と逆上するうち、段々委しく聞きますと、其の婦が、不思議に人に逢ふのを嫌ふ。妙に姿を隱したがるのは、此の、私ばかりには限らぬ樣子。  終には猫又が化けた、妾のやうに、日の目を厭うて、夜も晝も、戸障子雨戸を閉めた上を、二重三重に屏風で圍うて、一室どころに閉籠つた切、と言ひます……  漸との思ひ、念力で、其の婦を見ました時は、絹絲も、むれて、ほろ〳〵と切れて消えさうに、なよ〳〵として、唯うつむいて居たのであります。  顏を上げさした……ト目が、潰れました。へい、いえ、其の婦の兩眼で。  聞きますると、私に、件の影を捉る魔ものの話を聞いてからは、瞬く間さへ、瞳に着いて、我と我が影が目前を離れぬ。  臺所を出れば引窓から、縁に立てば沓脱へ、見返れば障子へ、壁へ、屏風へかけて映ります。  映ると其の影を、魔が來て、吸ひさうで、嘗めさうで、踏みさうで、揉みさうで、絡みさうで、寢さうで成らぬ。  月の影、日の影、燈の影、雪、花の朧々のあかりにも、見て影のない隙はなし……影あれば其の不氣味さ、可厭さ、可恐しさ、可忌しさに堪兼ねる。  所詮が嵩じて、眞暗がり。我が掌は見えいでも、歴々と、影は映る、燈を消しても同じ事で。  次第に、床の間の柱、天井裏、鴨居、障子の棧、疊のへり。場所、所を變へつゝ、彼の守宮の形で、天窓にすぽりと何か被つた、あだ白い、胴の長い、四足で畝るものが、ぴつたりと附着いたり、ことりと圓くなつたり、長々と這ふのが見えたり……やがて、闇の中、枕の下にも居るやうに成りました。  見る毎に、あツと聲を上げて、追へば、其の疾い事、ちよろ〳〵と走つて消えて、すぐに、のろりと顯れる。  見まい、見まいの氣が逆上つて、ものの見えるは目のあるため、と何とか申す藥を、枕をかいもの、仰向けに、髮を縛つた目の中へ點滴らして、其の兩眼を、盲にした、と云ふのであります。  心も暗夜の手を取合つて、爾時はじめて、影を捉る魔ものの話は、坂の途中で、一人の盲人に聞かされた事を申して、其の脊恰好、年ごろを言ひますと、婦は、はツと、はじめて目の覺めたやうに成つて、さめ〴〵と泣出しました。  思ひの叶はぬ意趣返しに、何と!右の其の横戀慕の盲人に、呪詛はれたに相違ありませぬ。  頬の肉を引掴んで、口惜涙、無念の涙、慚愧の涙も詮ずれば、たゞ〳〵最惜しさの涙の果は、おなじ思ひを一所にしようと、私これ又此の通り、兩眼を我と我手に、……これは針でズブリと突いたのでありまする。  三世、一娑婆、因果と約束が繋つたと、いづれも發起仕り、懺悔をいたし、五欲を離れて、唯今では、其なる盲人ともろともに、三人一所に、杖を引連れて、晝は面が恥かしい、夜とあれば通ります……  路すがら行逢ひました。  御迷惑か存ぜぬが、靄の袖の擦合うた御縁とて、ぴつたり胸に當る事がありましたにより、お心着け申上げます……お聞入れ、お取棄て、ともお心次第。  此の上は、さて、何も存ぜぬ。然やうなれば、お暇を申受けます。」  言の下より、其處に、話の途中から、さめ〴〵と泣いて居た婦は、悄然として、しかも、すらりと立つた。  とぼ〳〵とした後姿で、長頭から三つの姿、消えたる瓦斯に、幻や、杖の影。  婦が、白い優しい片手で立つ時、眼を拭いた布が姿を偲ぶ……其の紅絹ばかり、ちら〳〵と……蝶のやうに靄を縫ひ……
底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店    1942(昭和17)年3月10日第1刷発行    1987(昭和62)年10月2日第3刷発行 初出:「中央公論 第二十七年第四號」    1912(明治45)年4月 ※「聞《き》き」と「訊《き》き」、「悚然《ぞつ》と」と「慄然《ぞつ》と」、「云《い》ふ」と「言《い》ふ」、「處《ところ》」と「所《ところ》」、「尤《もつと》も」と「道理《もつとも》」、「闇夜《やみ》」と「暗夜《やみ》」と「闇《やみ》」、「乳《ちゝ》」と「乳房《ちゝ》」、「生命《いのち》」と「命《いのち》」、「一《ひと》つ」と「一《ひと》ツ」、「二《ふた》つ」と「二《ふた》ツ」、「裸身《はだか》」と「裸《はだか》」、「歴然《あり/\》」と「歴々《あり/\》」、「其《そ》の時《とき》」と「爾時《そのとき》」、「目《め》」と「眼《め》」、「些《ちつ》と」と「些《ち》と」、「呪詛《のろは》れ」と「呪詛《のろ》はれ」の混在は底本通りです。 ※「私」に対するルビの「わたし」と「われら」と「わし」と「み」、「誰」に対するルビの「たれ」と「だれ」、「婦」に対するルビの「をんな」と「をなご」、「乳房」に対するルビの「ちぶさ」と「ちゝ」、「燈」に対するルビの「あかり」と「ともしび」、「電」に対するルビの「いなびかり」と「いなづま」、「掌」に対するルビの「たなごころ」と「たなそこ」と「てのひら」、「首」に対するルビの「かうべ」と「くび」、「矢張」に対するルビの「やつぱ」と「やは」、の混在は底本通りです。 ※初出時の表題は「靄」です。 入力:門田裕志 校正:室谷きわ 2022年10月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004577", "作品名": "三人の盲の話", "作品名読み": "さんにんのめくらのはなし", "ソート用読み": "さんにんのめくらのはなし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論 第二十七年第四號」1912(明治45)年4月", "分類番号": "", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-11-04T00:00:00", "最終更新日": "2022-10-31T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4577.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻十四", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年3月10日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年10月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年12月2日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "室谷きわ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4577_ruby_76473.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-10-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4577_76509.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-10-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
表紙の画の撫子に取添えたる清書草紙、まだ手習児の作なりとて拙きをすてたまわずこのぬしとある処に、御名を記させたまえとこそ。   明治三十五年壬寅正月鏡花 一 「どうも相済みません、昨日もおいで下さいましたそうで毎度恐入ります。」  と慇懃にいいながら、ばりかんを持って椅子なる客の後へ廻ったのは、日本橋人形町通の、茂った葉柳の下に、おかめ煎餅と見事な看板を出した小さな角店を曲って、突当の煉瓦の私立学校と背合せになっている紋床の親方、名を紋三郎といって大の怠惰者、若い女房があり、嬰児も出来たし、母親もあるのに、東西南北、その日その日、風の吹く方にぶらぶらと遊びに出て、思い出すまでは家に帰らず、大切な客を断るのに母親は愚痴になり、女房は泣声になる始末。  またかい、と苦笑をして、客の方がかえって気の毒になる位、別段腹も立てなければ愛想も尽かさず、ただ前町の呉服屋の若旦那が、婚礼というので、いでやかねての男振、玉も洗ってますます麗かに、雫の垂る処で一番綿帽子と向合おうという註文で、三日前からの申込を心得ておきながら、その間際に人の悪い紋床、畜生め、か何かで新道へ引外したために、とうとう髭だらけで杯をしたとあって、恋の敵のように今も憤っているそればかり。町内の若い者、頭分、芸妓家待合、料理屋の亭主連、伊勢屋の隠居が法然頭に至るまで、この床の持分となると傍へは行かない。目下文明の世の中にも、特にその姿見において、その香水において、椅子において、ばりかんにおいて、最も文明の代表者たる床屋の中に、この床ッ附ばかりはその汚さといったらないから、振の客は一人も入らぬのであるが、昨日は一日仕事をしたから、御覧なさいこの界隈にちょっと気の利いた野郎達は残らず綺麗になりましたぜ、お庇様を持ちまして、女の子は撫切だと、呵々と笑う大気焔。  もっとも小僧の時から庄司が店で叩込んで、腕は利く、手は早し、それで仕事は丁寧なり、殊に剃刀は稀代の名人、撫でるようにそっと当ってしかも布を裂くような刃鳴がする、と誉め称えて、いずれも紋床々々と我儘を承知で贔屓にする親方、渾名を稲荷というが、これは化かすという意味ではない、油揚にも関係しない、芸妓が拝むというでもないが、つい近所の明治座最寄に、同一名の紋三郎というお稲荷様があるからである。 「お前どこかでまた酒かい。」と客は笑いながら、 「珍しくはないがよく怠惰けるなあ。」 「何、今度ばかしゃ仲間の寄でさ、少々その苦情事なんでして、」 「喧嘩か。」 「いいえ、組合の外に新床が出来たんで、どうのこうのって、何でも可いじゃあがあせんか、お客様は御勝手な処へいらっしゃるんだ。一軒殖えりゃそいつが食って行くだけ、皆が一杯ずつお飯の食分が減るように周章てやあがって、時々なんです、いさくさは絶えやせん。」 「それじゃあ口でも利かされたのかね。」 「ならび大名の方なんでさ。」 「それに何も二日かかることはないじゃないか。」 「すっかり御存じだ。」と莞爾する。 「だっておい四度素帰をしたぜ、串戯じゃあない。ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ、間に橋一個、お大抵ではございませんよ。」 「おや、母親がいった通り。」 「貴客、全くそう申すんでございますよ。」と長火鉢の端が見えて、母親の声がする。 二 「ははははは、旨くやりましたね、(ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ間に橋一個、お大抵ではございません。)ッさ、え、旦那、先刻親方が帰りました時に内のお婆さんがその通りいいました。ねえ、親方、どうですお婆さん、寸分違わねえ、同一こッたい、こいつあ面白えや。」と少しかすれた声、顔をしかめながら嬉しそうに笑ったのは、愛吉といって、頬に角のある、鼻の隆い、目の鋭い、眉の迫った、額の狭い、色の浅黒い、さながら悪党の面だけれども、口許ばかりはその仇気なさ、乳首を含ましたら今でもすやすやと寐そうに見えて、これがために不思議に愛々しい、年の頃二十三四の小造で瘠ぎすなのが、中形の浴衣の汗になった、垢染みた、左の腕あたりに大きな焼穴のあるのを一枚引掛けて、三尺の帯を尻下りに結び、前のめりの下駄の、板のようになったのに拇指で蝮を拵えたが、三下という風なり。実は渡り者の下職人、左の手を懐に、右を頤にあてて傾きながら、ばりかんを使う紋床の手をその鋭い眼で睨むようにして見ているのであった。  客は向うへ足を伸して、 「そうだろう、人情は誰も同一だから言うことも違わないんだよ。」 「じゃあ何だ、内の母親もやっぱり同一ようなことを言ってましょう、ふふん、」と頤を支えたまま、頷くがごとくに言って笑を洩らす。  紋床は顔を斜に、ばりかんに頬をつけて、ちょいと撓めて、 「馬鹿をいいねえ、お前と同一にされて耐るもんか、人情は異らないでも遣り方が違ってらあな、おい、こう見えても母親にゃまだ米の値を知らせねえんだが、どうだ。」 「あれ、あんなことをいうよ、のうお槙。」と母親は傍なる女房に言葉を渡したらしい。 「ほほほほほ。」と、気の無さそうに若い女が笑った、と思うと嬰児がおぎゃあと泣く。  紋床はばりかんの歯を透して、フッと吹き、 「おっとまず黙ってあとを聞くことさ。さよう米の値は知らせねえが、そのかわり〆高で言訳をさせますか。」 「違えねえね。」 「黙れ! 手前が何だ、まあお聞きなさいまし、先生。」  客はこの近辺の場所には余り似合わぬ学生風、何でも中洲に住んでるとより外悉しくは知らないが、久しい間の花主で紋床はただ背後の私立学校で一科目預っている人物と心得て、先生、先生と謂うが、さにあらず、府下銀座通なる某新聞の記者で、遠山金之助というのである。 「どうでございます、この私に意見をしてくれろッて、涙を流して頼みましたぜ、この愛的の母親が、およそ江戸市中広しといえども、私が口から小可愧くもなく意見が出来ようというなあ、その役介者ばかりでさ、昔だと賭場の上へ裸でひッくり返ろうという奴なんで、」 「何を、詰らねえ、」 「いいえ賭博は遣りません、賭博は感心に遣りませんが、それも何幾干かありゃきっとはじめるんでさ。それに女にかからずね、もっともまあ、かかり合をつけようたッて、先様が取合わねえんですからその方も心配はありませんが、飲むんです。この年紀で何と三升酒を被りますぜ、可恐しい。そうしちゃあ管を巻いて往来でひッくり返りまさ、病だね。愛、手前その病気だけは治さないと不可えぜと、私あこれでも偶にゃあ親身になっていうんです、すると何と、殺されても恨まないから五合買っとくんなさい、とこうでしょう、言種が癪に障るじゃありませんか。」 三  愛吉は何にもいわず、腕を拱いて目を外して、苦言一針するごとに、内々恐縮の頸を窘める。  紋床は構わず棚下、 「活きるか死ぬかというこれが情婦だったって、それじゃ愛想を尽しましょう、おまけにこれが行く先は、どこだって目上の親方ばかりでさ、大概神妙にしていたって、得て難癖が附こうてえ処でその身持じゃあ、三日と置く気遣はありやしません。もっとも三日なんて置こうものなら、はじめの日は朝寝をして、次の夜は内をあけて、三晩目には持遁をしようというもんだ。」 「まさか、」といって客の金之助は仰向けに目を瞑る。  愛は小指のさきで耳朶をちょいと掻いて、 「酷いなあ、親方。」 「まあそういった形よ、人情は同一だから、」 「何が人情、」 「そうじゃないか、だってお前真似をするにも好いことはしたがらねえだろう、この間もね、先生、お聞きなさいまし。そういう風だから山手も下町も、千住の床屋でまで追出されやあがって、王子へ行きますとね、一体さきさき渡がついてるだけにこちとらの稼業はつきあいが難かしゅうがす、それだのにしばらく仕事をさしてもらおうというその初対面の許で、宿の中ほどの硝子戸をあけると、突然、私あ忙しい身体でござえして……とこうさ。  どうです言種は、前かど博徒の人殺兇状持の挨拶というもんです。それでなくッてさいこの風体なんですもの、懐手でぬッと入りゃ、真昼中でもねえ先生、気の弱い田舎なんざ、一人勝手から抜出して総鎮守の角の交番へ届けに行こうというんでしょう。  この頃は閑だからと、早速がりを食って奴さん行処なし、飲んだ揚句なり、その晩はとうとうお宮の縁の下に寝ましたッさ。この真似もまた宜しくねえてね。  仕方がねえんで舞戻って例のごとく親方済みません、が呆れたもんです。そうして私が忙しい体でござえして、とこういう塩梅に遣ッつけました。目を円くして驚きゃあがって、可笑しゅうがしたぜ、飛んだ面白えやと、それを嬉しがっていやあがる、始末におえねえじゃアありませんか。それがまた似合うんです、ちょいとこんな風、」と紋床も好事なり、ばりかんを持ったままで仕事の最中。 「成程、」といって金之助も故とらしく振返った。  愛は極悪げに、 「親方沢山だ、何も身振までするこたアありません。」と愛くるしい件の口許で、べそを掻くような(へ)の字形。 「私にゃ素直だから可愛いんですがね。どうだこう改って言われちゃあ余り見ッとも好いこッちゃあるめえ、ちっと気をつけるが可いぜ、え、愛的。」 「可いやさ、罷違えばという覚があるから世の中を何とも思わんだろう、中々可い腕があるんだっていうじゃあないか。片腕ッていう処だが、紋床の役介者は親方の両腕だ、身に染みて遣りゃ余所行の天窓を頼まれるッて言っていたものがあるよ、どうだい。」 「へ、……どういたして、こうなると私あ極が悪い、」と面を背けて、たじたじになった罪の無さ。 「ここらで発起をするこッた、また三晩ばかしあけたというじゃあないか。あのここな、」というのがちと仮声になりかけたので、この場合吃驚し、紋床は声を呑んでくすりと笑う。 「ですがね親方、今度ばかりゃ、」と愛吉は屹と真面目。 四 「どうした。」 「ええ、何ね、少し面白くねえ、馬鹿に癪なことがあって、腹が立って、私あ腹が立ってならねえんで、」と愛はいう内にもその迫った眉を動かすのであった。  紋床は、しばしばあって、珍しからぬ、愛吉がかかる様子に馴れて、いうことを何とも思わず、 「妙だな、お前また腹が立って為様がないから、そこで身体を寝かしていたろう。」 「親方、茶かさずにさ、全くだね、私あ何だ、演劇でする敵ッてものはちょうどこんなものだろうと思いますぜ、ほんとうに親の敵。」 「可い気なことを言ってらあ、お前母親は死んでやしねえじゃないか、父爺の敵なら中気だろう、それとも母親なら、愛的、お前がその当の敵だい。」 「何だってね。」 「苦労をさせるからよ。」 「気が早いや親方、誰も権太左衛門に母親が斬られたとは言やしません、私あ親の敵と思う位、小癪に障る奴が出来たッていうんです。」 「はてな。」 「それでね、出来るものならふん捕えて畜生撲殺してやろうと思って、こう胸ッくそが悪くッて、じっとしていられねえんで、まったくでさ、ふらふらして歩行いたんで。」 「待ちねえ、おい、お前感心だな、ははあ解ったい、そうするとお前は大望のある身体だ、その敵討をしようという。」 「そうですよ。」と真顔でいった。 「そうですよもねえもんだ、何だな、それがために浮身を窶し、茶屋場の由良さんといった形で酔潰れて他愛々々よ。月が出て時鳥が啼くのを機掛に、蒲鉾小屋を刎上げて、その浴衣で出ようというもんだな、はははは。」 「ようがすよ、もう沢山だ、何もそんなに改って今日という今日、脂を取んなさるこたあねえ、食潰しの極道にゃあ生れついて来たんだもの、天道様だって数の知れねえ人形を拵えるんだ、削屑も出まさあね、」と正直なだけに怒りッぽい、これでもまだ若いんだから、愛吉は拗ね気味で横を向く。 「ほい、気に障ったら堪忍しねえ、言ったって治らねえ位のこたあ知ってるんだい、言葉の機よ、己だってまだ人に意見を言う親仁形は役不足だ、可いや、喧嘩なら加勢をしよう、対手は何だ。」 「そ、それがね親方、」とたちまち嬉しそうな顔色で、 「ちっと組合違いの人間でさ。」 「ふむ、船頭か。」 「いいえ。」 「馬士か。」 「詰らねえ。」 「まさか乳母どんじゃあるめえな。」 「親方、真面目に聞いておくんなさいというに。聞くだけで可いんだから、私あまた話すだけでもちったあ胸が透くだろうと思うんで。へい、ここの処へ込上げて来やあがって。」と手を懐にしたまま拡げた胸に斜にかかってる守の紐の下あたりを、はたはたと叩いて見せる。 「可し可し、私が聞こう、どうしたんだ。」 「先生、聞いておくんなさるかい、難有え、こりゃ先生だとなほわかりが早い、対手はね、先生なんざ御存じじゃありませんか、歌の師匠ですよ。」  紋床は口を挟んで、 「ああ、中洲の清元の。なるほどこいつあ大望だ、親の敵より大事に違えねえ、しかし飛んだ気になったぜ、愛、お前ありゃあ不可えや、まるで組合が違ってらあ。」 「何がえ、親方。」 「お津賀さんのことだろう。」 「ありゃ、師匠じゃありませんか。」 「唄の師匠よ。」 「何を、私なあ味噌一漉てえやつなんです。」 「味噌一漉? ああ三十一文字か。」 「その野郎だ。」と、愛吉は胸を張った。 五 「歌の先生、三十一文字の野郎で、それが敵、へい、」とばかりで紋床も変に思い、金之助もその意を得ない様子である。  愛吉は熱心面に顕れ、 「先生、貴客知っていらっしゃりやしませんか、その三十一文字の野郎てえのを、」 「何というね、そしてどこの、」 「居る処は根岸なんで、」 「根岸か、」 「へい、根岸の加茂川亘ッてんです。」 「加茂川亘。」と金之助は口の裡でその名を言った。  紋床は背後へ廻って、 「神主様みてえだな。」  金之助は更めて打頷き、 「有名な先生だ、歌の、そうそう。書も能くお書きになるぜ。」 「知ッてますよ、手習師匠兼業の奴なんで、媽々が西洋の音楽とやらを教えて、その婆がまた、小笠原礼法躾方、活花、茶の湯を商う、何でもごたごた娘子の好な者を商法にするッていいます。」 「ははあ何でも屋だな、場末の荒物屋にゃあ傘まで商ってら、行届いたものだ。虱でも買いに行って捻ってやれ、癖にならあ、どうせ碌な者は売るんじゃあねえ。」と紋床は話が実で、ものになりそうな卵だと見て取ると、面白しで大に煽る。  金之助は驚いて、 「馬鹿なことを言え、罰の当った、根岸の加茂川と来た日にゃあ、歌の先生でも皆が御前々々と言う位なもんだ。宴会のあった時、出ていた芸妓が加茂川さんちょいとと言ったら、売女風情が御前を捉えて加茂川さん、朋友でも呼ぶように失礼だ、と言って、そのまま座敷を構われた位な勢よ。高位高官の貴夫人令嬢方、解らなけりゃ、上ツ方の奥様姫様方、大勢お弟子があるッさ、場末の荒物屋と一所にされて耐るもんか、途方もない。」 「何でも、馬車だの腕車だのが門に込合ってるッて謂いますね。」 「そうだろうとも。」 「何だか知らねえが癪に障るッたらないんです。」  と愛吉はさも口惜しそうである。 「おい、その方が敵かい。」 「お前また妙な敵を持ったもんだな、金と女なら私だって殺してえほど怨があらあ、先の中洲の清元の師匠の口だと、私も片棒担ぐんだが、困ったな歌の先生じゃあ。お前どうした、狙ったか、」 「二晩ばかりつけました、上野の山ね、鶯谷ね、杖でも持ちゃあがって散歩とでも出掛けてみろ、手前活しちゃあ帰さねえつもりで、あすこいらを張りましたけれど、出ませんや。弱っちまいました、親方の前だけれども。髪結床の下職なんぞするもんじゃアありませんね、せめて字でも読めりゃ何とか言って近づくんですが、一の字は引張って、十文字は組違え、打交えは鷹の羽だと、呑込んでいるんじゃあ為方がありません、私あもう詰らねえ。」と力なさそうに投首をする。 「ああ、お互に不便なもんだ。」 「親方本当でございますね、酒の値は上りまさ、食る物は麺麭の附焼、鰻の天窓さ、串戯口でも利こうてえ奴あ子守児かお三どんだ、愛ちゃんなんてふざけやあがって、よかよかの飴屋が尻と間違えてやあがる、へ、お忝。」といって、愛吉はフンと棄鉢の鼻息。 「あいや、敵討のお武家、ちとお話が反れましたようですが、加茂川が何か君に恥辱でも与えたというのかい、」 「そうです、恥を掻かしやがったんで、対手は女ですよ。」 「何、女に恥辱を、待て、質の好くない奴だ。」  ちょうど洗いましょうという処、金之助は膝を叩き、四辺を払って、ついと立った。 「や、先生も味方らしい、こいつあ、難有えぞ難有えぞ。」 六  戴いたのは新しい夏帽子、着たのは中形の浴衣であるが、屹と改まった様子で、五ツ紋の黒絽の羽織、白足袋、表打の駒下駄、蝙蝠傘を持ったのが、根岸御院殿寄のとある横町を入って、五ツ目の冠木門の前に立った。 「そこです、」と、背後から声を懸けたのは、二度目を配る夕景の牛乳屋の若者で、言い棄てると共に一軒置いて隣邸へ入った。惟うにこの横町へ曲ろうという辺で、処を聞いたものらしい。加茂川の邸へはじめての客と見える、件の五ツ紋の青年は、立停って前後を眗して猶予っていたのであるが、今牛乳屋に教えられたので振向いて、 「は、」と、頷くと斉しく門を開けて透して見る、と取着が白木の新しい格子戸、引込んで奥深く門から敷石が敷いてある。右は黒板塀でこの内に井戸、湯殿などがあろうという、左は竹垣でここから押廻して庭、向うに折曲って縁側が見えた。  一体いつもこの邸の門前には、馬車か、俥か、当世の玉の輿の着いていないことはない。居廻の者は誰謂うとなく加茂川の横町を、根岸の馬車新道と称えて、それの狭められるために、豆腐屋油屋など、荷のある輩は通行をしない位であるが、今日は日曜故か、もう晩方であるためか、内も外も人少なげに森として、土塀の屋根、樹の蔭などには、二ツ三ツ蚊の声が聞えた。  されば敷石を鳴す穿物に音立てて、五ツ紋の青年はつかつかとその格子戸の前。  ちょうどここへ立った時分に、今開けた門の、からからと鳴る、ばねつきの鈴の音が止んで、あたかも可し、玄関へ書生が取次に顕れて、あえてものを言うまでもない。  黙って、坐って、手を支いて、顔を見て、澄して控える。  青年は格子戸を半ば引いたままで、慇懃に小腰を屈め、 「御免下さいまし。」 「はい。」 「ええ、お友達、御免下さいまし、御当家、」と極って切口上で言出した。調子もおかしく、その蝙蝠傘を脇挟んだ様子、朝夕立入る在来の男女とは、太く行方を異にする、案ずるに蓋し北海道あたりから先生の名を慕って来た者だろうと、取次は瞶めたのである。  青年はますます鄭重、 「いかがでございましょうか、お友達、御当家先生様にお目通が出来ますでございましょうか。」 「貴方はどちらから、」 「ええ、手前事は、ええ何でございまして、そのあれでございますよ。」 「はい、」  人の内の取次というものは、いかなる場合にも真面目なものなり。 「お友達御免を蒙ります、手前はその日本橋人形町通り、勝山と申しまして、」 「勝山さん、」取次は聞き馴れないという顔色。 「いえ、手前がその勝山と申すんじゃあございませんので、」 「ははあ、」 「御当家先生様の、ええ、お弟子でございまして、その勝山と申しますお嬢さんからちょいと頼まれました、手前使の者でございます、少々お目に懸りとうございますが、お宅でいらっしゃいましょうか、お友達、お取次を願いとう存じますんで、へい。」 「先生はお宅ですが、ちょいとお待ち下さい、」と妙な顔をして取次はくるりと入った、青年は我を忘れた風でひょいとその頸を縮めたが、立直って、えへん内証の咳一咳。 七 「さあ、こちらへ、私が加茂川で。はあ、」と仰向いて挨拶をする。これはあえて人を軽蔑するのでもなく、また自ら尊大にするのでもない。加茂川は鬼神の心をも和ぐるという歌人であるのみならず、その気立が優しく、その容貌も優しいので、鼻下、頤に髯は貯えているが、それさえ人柄に依って威厳的に可恐しゅうはなく、かえって百人一首中なる大宮人の生したそれのように、見る者をして古代優美の感を起さしむる、ただしちと四角な顔で、唇は厚く、鼻は扁い、とばかりでは甚だ野卑に、且つ下俗に聞えるけれども、静に聞召せ、色が白い。  これで七難を隠すというのに、嬰児も懐くべき目附と眉の形の物和かさ。人は皆鴨川(一に加茂川に造る、)君の詞藻は、その眉宇の間に溢れると謂うのである。  かかる優美な人物が、客に達するに(はあ、)の調子で仰向くとなっては、いささか性格において矛盾するようであるが、これをいう前に、その和のある優しい一双の慈眼を(はあ、)と同時に糸のように細うしてあたかも眠るがごとくに装うことを断っておかねばならぬ。  その上にいかなればしかするかの理由を説明したら、ますます鴨川の奥床しい用意のほどが知れるであろう。  紋床でも噂があった、なおこの横町を馬車新道と称えるのでも解る、弟子の数が極めて多い。殊に華族豪商、いずれも上流の人達で、歌と云えば自然十が九ツまで女流である。  それのみならず、令夫人が音楽を教えて、後室が茶の湯生花の指南をするのであるから。  若き時はこれを戒むる色にありで、師弟の間でもこの道はまた格別。花のごとく、玉のごとき顔に対して、初恋、忍恋、互思恋などという、安からぬ席題を課すような場合に、どんな手爾遠波の間違が出来ぬとも限らぬ。人木石にあらず己も男だ、と何も下司にタンカを切ったわけではない。歌人が自分で深く慮り、すべて婦人の弟子に対する節は、いつもその紅、白粉、簪、細い手、雪なす頸、帯、八口を溢れる紅、褄、帯揚の工合などに、うっかりとも目の留まらぬよう、仰向いて眼を塞ぐのが、因習の久しき、終に性質となったのである。もっとも有数の秀才で、およそ年紀二十ばかりの時から弟子を取立てた。十年一日のごとく、敬すべき尊むべき感謝すべき心懸けであるから、音楽に長けたる鴨川夫人が、かつて弟子の中の一人であったことをもって、毫も先生の品行を怪んではならぬ。  世には夫人が、おもて向き結婚してから八月目というのに、女児を流産したといって、云々する者もあるけれども、経典に言わずや、鶴は相見てすなわち孕む、それ歌人はこの濁世に処して、あたかも鳶烏の中における鶴のごときものであるから、結婚の以前、既に疾く児を宿さぬという数はあるまい、従って八月で流産しないとも限らぬのである。夫人は名を才子という、細川氏、父君は以前南方に知事たりしもの、当時さる会社の副頭取を勤めておらるる。この名望家の令嬢で、この先生の令閨で、その上音楽の名手と謂えば風采のほども推量られる、次の室の葭戸の彼方に薔薇の薫ほのかにして、時めく気勢はそれであろう。  五ツ紋の青年は、先刻門内から左に見えた、縁側づきの六畳に畏って、件の葭戸を見返るなどの不作法はせず、恭しく手を支いて、 「はじめましてお目に懸ります。」 八 「はあ、貴方がその勝山さんのお使?」と大人は紅革の夏蒲団の上に泰悠におわす。此方は五ツ紋の肩をすぼめるまで謹んで、 「さようでございます、へい。」 「御親類の方ですかね。」 「いえ、親類と申しますでもございませんが、ちと懇意に致しますもので、ついこの坂下まで手前用事で参りましたに就いて、彼家から頼まれまして、先生様の御邸へ伺いますように、かねてお世話に相成ります御礼を申上げますよう、またどうぞ何分お願い申上げまするようにと、ことづかりましたんで、へい、めっきりお暑うございますな、」といいながら、袂を探ると白地の手拭を取出して額を拭った。 「はあ、何、それはわざわざ。」 「実は母親が参ります筈なんでございますが、一体このとかく病身な上、貧乏暇なし、手もございません処から、相済みませんが失礼をいたしまして、」といいかけてまた額の汗を。見る処人形町居廻りから使に頼まれたというが堅気の商人とも見えず、米屋町辺の手代とも見えず、中小僧という柄にあらず、書生では無論ない。年若には似ない克明な口上振、時々ものいいの渋るといい、何でも口うつしに口上を習って路々暗誦でもして来たものらしい。  かかる肌違のものに対しては、鴨川大人口を開いて、あえて上五文字をも吐くに当らず、 「はあ、」とばかりである。  葭戸を下の方から密と開けて、大形の茶碗の底へ、ぽっちり入った結構らしいのを、畳の上へ辷らすようにして客の前に推して据えた、高島田の面長で色の白い、品の可い、高等な中形の浴衣、帯をお太鼓に結んだ十九ばかりの美人。  五ツ紋の青年は、斜にちょっと見たばかりで、はッと言って頭を下げ、 「恐入ります奥様、ええお控え下さいまし、手前から申上げます、日本橋区人形町通、」と俯向いたまま手をついて言った。  茶を持って出た美人は、敷居の外へ半分ばかり出した膝を揃えて支いたまま、呆気に取られたが、上目づかいで鴨川の面を窺うと、渠は目を瞑って俯向きながら、頤髯のむしゃとある中へ苦笑を包んで、 「可し、」と頷いて見せたので、葭戸を閉ててすっと消える。 「小間使でありますよ。」と教えたが、耐りかねたか、ふふと笑った。青年の茫然拍子抜のした顔を上げた時、奥の方で女の笑声。  此方は面を赤うして、手拭を持った手を額にあて、 「これはどうも、手前不束ものでございます、へい、実は奥様にはお目に懸ってよく御礼をと申しつけられましたものでございますから。ええ、何でございましょうか、奥様はお邸でいらっしゃいましょうか。」 「はあ、居りますが。」 「いかがでございましょう、ちょいとお目に、」と御身分柄、お家柄、総じては日本の国風を心得ないことを言うのである。  鴨川は眉を顰めたが、さあらぬ調子で、 「面会日は別にあるです。」 「へい?」 「あれが皆様に別に面会しますのは水曜の午後です。」 「水曜の午後でございますか。」  鴨川は至極冷淡に、 「はあ、」  五ツ紋の青年は何か仔細ありげに、不心服の色を露わした。 九 「ですが、何も別してお手間は取らせません、ちょいといかがでございましょう。」 「誰にも皆そういうことになっておるですから、」 「へい、ごもっとも様ですが、そこン処をそのお繰合せ下さいまして。」 「たってお逢いなさりたい⁉」と鴨川大人きっぱりとなる。  五ツ紋は慌てた形で、 「いえ、たってと申す訳ではございません。」 「そして何の用ですな。」と改まって尋ねられた。 「その勝山から託りましたので、奥様にもお目にかかって御挨拶を。」 「はあ、何、それなれば別にお会い下さるにも及びませんですよ、私から申聞けましょう。そして遠い処をわざわざおいで下さるにも及ばんでした、貴方御苦労でしたな、宜しくどうぞ、ちとこれから出懸けんければならんですから。」  歌人の住居も早や黄昏れるので、そろそろ蚊遣で逐出を懸けたまえば、図々しいような、世馴れないような、世事に疎いような、また馬鹿律義でもあるような、腰を据えた青年もさすがにそれと推した様子で、 「これはどうも飛んだお邪魔をいたしましてございます、勝山のあの娘も不束なものでございますから、どうぞまた先生様、何分、」と、ここでまたぴったりと平蜘蛛。 「はあ、それは宜しい、」ともう片膝を立てそうにする。  青年も座を開いてちょいと中腰になったが、懐に手を入れると、長方形の奉書包、真中へ紅白の水引を懸けてきりりとした貫目のあるのを引出して、掌に据え直し、載せるために差して来たか、今まで風も入れなんだ扇子を抜いて、ぱらぱらと開くと、恭しく要を向うざまに畳の上に押出して、 「軽少でございますが、どうぞお納を。」  と見ると金子五千疋、明治の相場で拾円若干を、故と古風に書いてある。 「ああ、こういうことをなすっては可けません、そのために、ちゃんと月謝をお入れになることにしてあります。」 「さようおっしゃりましてはお可愧しゅうございます、誠にお麁末で、どうぞ差置かれまし。」 「そうですか、皆様にもうかねてお断がしてあるんだのに、何かこういう御心配をなさるから困るよ、ああ、とかく御婦人方は、」と云いながら、その細い目でふと葭戸の内を見着けた。 「おお、お才、そこに……お前差支えがなくばちょっとお逢いなさい、こちらで、」と声を懸ける。 「はい、」と案外軽い返事、さやさやと衣の音がして葭戸越に立姿が近いたが、さらりと開けて、浴衣がけの涼しい服装、緋の菱田鹿の子の帯揚をし、夜会結びの毛筋の通った、色が白い上に雪に香のする粧をして、艶麗に座に着いたのは、令夫人才子である。 「いらっしゃい、誰方、」と可愛い目で連合の顔をちょいと見る、年紀は二十七だそうだが、小造で、それで緋の菱田鹿の子の帯揚という好であるから、二十そこそこに見える位、もっとも十九の時児髷に結った媛で、見る者は十四か五とよりは思わなかった。早朝上野の不忍の池の蓮見に歩行いて、草の露のいと繁きに片褄を取り上げた白脛を背後から見て、既に成女の肉附であるのに一驚を喫した書生がある、その時分から今も相変らず、美しい、若々しい。  不意の見参といい、ことに先刻小間使を見てさえ低頭平身した青年の、何とて本尊に対して恐入らざるべき。  黙って額着くと、鴨川大人は御自慢の細君、さもあらんという顔色、ぐッと澄して、 「勝山さんの使の方です。」 十 「そう、貴方よくいらっしゃいましたね、勝山さん、あのお夏さん、お変りはないの、ああ、ついこないだおいでなすったのね。」ともっての外御懇のお言葉。 「人形町からでは随分ある。」と鴨川は打頷く。 「貴方もあの辺なんですか。」  青年はやっと口が利けた。 「へい、近所でございまして、」 「遠いんですね、腕車でも随分暑かったでしょう、宅に居りましても今日あたりはまた格別なんです、」といいながら純白な麻を細く襲ねた、浴衣でも上品な襟を扱いて背後を振向き、 「定や、団扇を持っておいで。」  小造な若い令夫人は声を懸けて向直ったが返事をしなかったので、 「貴方憚り様ですが呼鈴を、」とお睦まじい。  すなわち傍なる一閑張の机、ここで書見をするとも見えず、帙入の歌の集、蒔絵の巻莨入、銀の吸殻落などを並べてある中の呼鈴をとんと強く、あと二ツを軽く、三ツ押すと、チン、リンリンリン――と鳴る、ばたばたと急いで来て、 「はい、」といって顔を出した以前の小間使、先刻意を了したと見えて二本ばかり団扇をそれへ差出す折から、縁側に跫音して、奥の方から近いたが、やがてこの座敷の前の縁、庭樹を籠めて何となく、隣家のでもあるか蚊遣の煙の薄りと夏の夕を染めたる中へ、紗であろう、被布を召した白髪を切下げの媼、見るから気高い御老体。  それともつかぬ状で座敷を見入ったが、 「御客様かい、貴方御免なさいよ。」といって座に着いた。 「灯をね、」と顔をさし寄せて、令夫人は低声でいう。  夕暮の徒然、老母も期せずしてこの処に会したので、あえて音楽に関して弟子に対する他は、面会日が水曜と触の出た令夫人が、次の室に居合せたり、奥深く世を避けておわす老母が縁側に来合せたりするのが、謝礼金五千疋を持参の者に対する鴨川家の家風ではない。青年は蓋し期せずして拝顔を得たのであった。 「お初に。どちらの、」とこれも鴨川をちょいと御覧ずる。 「勝山さんのお使ですって、」と令夫人傍から引取って引合せる。 「おお、あの何か江戸ッ子の、いつも前垂掛けでおいでなさる、活溌な、ふァふァふァ、」と笑って、鯉が麩を呑んだような口附をする。  ト一人でさえ太刀打のむずかしい段違の対手が、ここに鼎と座を組んで、三面六臂となったので、青年は身の置場に窮した形で、汗を拭き、押拭い、 「へい飛んだ御厄介様で、からもうお転婆でございまして、」 「可いさ。だがの、内なぞは傍のおつきあいがおつきあいじゃで、そこはまたな、御婦人じゃから直接にいっては赤い顔でもなさると悪いで申さんじゃったが、前掛は止して袴になさるなぞは、まず第一のお心懸じゃよ。いや、しかし貴方の前じゃけれどお夏さんは珍しい御容色よし、ほんのこと内なぞはおつきあいがおつきあいじゃから、御華族様から大商人方の弟子も沢山見えるけれど、品といい様子といいあのお娘が一番じゃ。よくしたもので、上つ方はまあ少々はおでこでもそこは事が済みますが、下々の娘が出世をしようというには、さらりと打明けた処で容色じゃ。面じゃの、ふァふァふァ、お夏さんなぞは心懸次第またどんな出世でも出来るのじゃ、こっちへ出入ってござればおつきあいがおつきあいじゃから、ふァふァふァ。」と鯉呑麩の口、蕪村がいわゆる巨口玉を吐く鱸と相似て非なるものなり。 十一  青年はこれに答うる術も知らぬ状に、ただじろじろと後室の顔を瞻ったが、口よりはまず身を開いて逡巡して、 「ええ、からもう、」というばかり、逡巡の上に、なおもじもじ。 「一体何じゃ、内へござる他の方とはちと気風が違っていなさるから、その辺が何となく御身分のある方とはお交際がなさりにくいのじゃ、それも心懸一ツで、の、ああどうともなります。」と念を入れて喋舌れば顔も動くし、白い切髪も動いたのである。 「さようでございましょうか、へい、」といってこの泥に酔ったような、哀な、腑効ない青年は、また額を拭った。汗は流るるばかり、ほとんど取乱した形に見えたので、夫人才子は、さすがに笑止とや思しけん、 「貴方まあお羽織をお脱ぎなさいましよ。」と深切におっしゃりながら、団扇使の片手煽に、風を操るがごとくそよそよと右左。  勿体ない、この風にさえ腰も据らないほど場打のしている者の、かかる待遇に会して何と処すべき。  青年はそわそわしたが、いつの間にか胸紐を外して、その五ツ紋を背後にはらりと、肩を辷らして脱いだのである。 「じゃあ御免を被って遣つけますぜ。」と素頂天にぞんざいな口を切って、袂の下を潜らすと、脱いだ羽織を前へ廻して、臆面もなく、あなた方の鼎に坐った真中で、裏返しにしてふわりと拡げた。言語道断、腕まくりで膝を立て、 「借もんだからね、皺にしちゃあ動きが取れませんや、」と、切上った眦に筋を集めてニヤリと笑った。  余りの思懸けなさに、鴨川の一家、座にある三人、呆気に取られる隙もなく、とばかりに目を見合せた。中にも才子はその衝に当ったから、風が止んだようにじっとする。  青年は身を斜めに、肩を揺って才子に突懸け、 「煽ぎねえ、へ、奇代な風だ、心持の可い日和だい。遠慮をするこたあねえぜ。こう聞きねえ、実はその団扇使を待ってたんだ。様あ見やがれ、」というと、嶮のある目を屹と見据え、今なお座中に横わって、墨色も鮮に、五千疋とある奉書包に集めた瞳を、人指指の尖で三方へ突き廻し、 「誰を煽いだつもりだよ、五千疋のお使者が御紋服の旦那だと思うと、憚んながら違います。目先の見えねえ奴等じゃあねえか、何だと思ってやあがるんだ。手前ことはね、おい、御当所日本橋は人形町通よ、赤煉瓦の学校裏、紋床に役介になっている下剃の愛吉てえ、しがねえものよ。串戯じゃあねえ、紙包の上書ばかり下目遣いで見てないで、ちッたあ御人体を見て物を謂いねえ。」 「これ!」と向直って膝に手を置いた、後室は育柄、長刀の一手も心得ているかして気が強い。 「何を。」 「何じゃな、汝は一体、」と大人は正面に腕を組む。令夫人はものもいわず衝と後向きになりたまう。後室は声鋭く、 「無法者め!」 「いよ。お婆々、聞えます聞えます、」  羽織を脱いで本性をあらわした、紋床の愛吉は薄笑をして、 「歌の先生、どうだ歌先、ちょっと奥さん、はははは、今日ア。」と、けろりと天井を仰いだが、陶然として酔える顔色、フフンといって中音になり、 「――九は病五七の雨に四ツひでりサ――」 十二  襖も畳も天井も黄昏の色が籠ったのに、座はただ白け返った処へ、一道の火光颯と葭戸を透いて、やがて台附の洋燈をそれへ、小間使の光は、団扇を手にしたまま背向になっている才子の傍へ、そッと差置いて退ろうとする。 「待ちねえ。」  というが疾いか、愛吉は手を伸してむずとその袂を捉えた。 「あれ、」 「遁げるない、どうだ、謂うことを肯かねえか、応といやあ夫婦になるぜ。」 「御串戯を遊ばしまし、」と女中は何事も知らないのであるから、つい通りの客とばかり、酒も飲まないのにと、驚いて変に思う。 「何、串戯なものか真剣だ、ずっと寄んねえ、内証話は近い方が可い、」と、ぐいと引くと、身体が斜に靡く処を、足を挙げて小間使の膝の上に乗せた、傍若無人の振舞。 「何をするか、」 「光!」と堪りかねて大人と後室、一は無法者を、一は小間使を、ほとんど同時に同音に叱咤した。  小間使こそ、膝は犯される、主人には叱られる、ばたばたと身を悶え、命の瀬戸際と振放してフイと遁げた。  愛吉は腕を反し、脚を投出したまま哄然として、 「ははははおもしろい、汝! 嫌われて何がおもしろい。畜生、」と自ら嘲って、嚔を仕損ったように眉を顰め、口をゆがめて頬桁をびっしゃり平手でくらわし、 「様あねえ、こんなお大名の内にも感心に話せそうなのが居ると思ったがやっぱりいけねえ、ぐうたらのおたんちんだ。我が顔つきが気に喰わねえそうだ、分らねえ阿魔じゃあねえか。やい、」と才子が踵をかさねた腰に近き、その脚で畳を蹴たが、頤を突出した反身の顔を、鴨川と後室の方へ捻向けて、 「汝等一体節穴を盗んで来て鼻の両方へ御丁寧に並べてやあがるな。きょろきょろするない、こう睨むない、蛙になるぜえ、黙って目を瞑って、耳の穴を開けて聞け。私等が畠のよ、勝山さんのお夏さんを何だと思ってるんだ、何と見損いやあがったい、いけ巫山戯た真似をしやあがって、何だ小股がしまってりゃ附合がむずかしい? べらぼうめ、憚んながら大橋からこっちの床屋はな、山の手の新店だっても田舎の渡職人と附合はしねえんだ、おともだち、お気の毒だが附合はこっちでお断だ。  それもよ、行儀なら行儀をしつけようてえ真実からした事なら、どうせお前達はお夏さんにゃあお師匠様だ、先生だ、私が紋床の拭掃除をするのと異りはねえ、体操でも何でもすら。そうじゃあねえか、これがな、お前か、婆か、またこの御新造様なら仔細はねえ、よしんば仔細があった処で泣く子と地頭だ、かれこれいって来る筋じゃあねえ。へん、何曜日とやらの午後でなくっちゃあ面あ出さねえとおっしゃる方が、少しばかり実のある紙包が出ると、たちまちおひきつけへ出てござって、どうだい、下剃のこの愛的を団扇で煽ぐだろうじゃねえか。第一、婆の空お世辞が気にくわねえや、何ていう口つきだ、もう一度あの、ふァふァを遣らねえか。いや、譬えようのない異変な声だぜ、その饒舌る時の歯ぐきの工合な、先生様の嫌な目つきよ、奥方のこの足のうらまでちゃんと探鑿が届いて、五千疋で退治に来たんだ、さあ、尋常に覚悟をしやがれ、此奴等!」  愛吉は痩せたのを高胡坐に組んで開き直る。 十三 「震えるない震えるない、何もそう、鮭の天窓を刻むようにぶりぶりするこたあねえ、なぐり込に来たのなら、襷がけで顱巻よ、剃刀でも用意をしていらあ。生命に別条はねえんだから騒ぐにゃあ当らねえ、おう、奥様ちょいと、おい、先刻のようにお暑うございますとか何とか謂って、その団扇で私をば煽いでくんねえ、煽ぎねえよ、さあ煽げ、煽げ、煽がねえかい。」と、愛吉は目の色の変るまで対手の三人を屹と睨めて、手も足も突張返った。 「母様、」と才子は衝と身を起しざまに、愛吉を除けて起った。 「貴郎もお立ちなさいまし、狂人ですわ。」と、さも侮り軽んじたごとき調子で落しめて言うのに和して、 「狂人だ。」 「うむ狂人じゃ、巡査に引渡すが可いじゃろ。」 「さあ、引渡せ、そうでなきゃあ団扇で煽げ、」と愛吉は仰向けに寝て大の字形、挺でも動きそうな様子はない。謂う処に依れば才子に思うさま煽がせさえすれば、畳に生した根も葉も無く、愛吉は退散しそうに見える。  按ずるに煽ぐという字は火偏に扇である、しかればますます奴の燄が盛になっても、消えて鎮まるべき道理はないが、そのかかることをいい、さることを為すは、深き仔細があったので。  愛吉は紋床で謂った、鴨川はその敵で親の仇とも思う怨がある、それは渠がかねて愛顧を蒙る勝山の女お夏というのに就いたことである。  今より五日ばかりの前、振袖立矢の字、児髷、高島田、夜会結などいう此家に出入の弟子達とは太く趣の異なった、銀杏返の飾らないのが、中形の浴衣に繻子の帯、二枚裏の雪駄穿、紫の風呂敷包、清書を入れたのを小さく結んで、これをまくり手にした透通るように色の白い二の腕にかけて、その手に日傘をさした下町の女風、服装より容色の目立つのが一人、馬車新道へ入って来たことがあろう、それがお夏であった。  お夏は人形町通の裏町から出て、その日、日本橋で鉄道馬車に乗って上野で下りたが、山下、坂本通は人足繁く、日蔭はなし、停車場居廻の車夫の目も煩いので、根岸へ行くのに道を黒門に取って、公園を横切った。  あとさき路は歩いたり、中の馬車も人の出入、半月ばかりの旱続きで熱けた砂を装ったような東京の市街の一面に、一条足跡を印して過ったから、砂は浴びる、埃はかかる、汗にはなる、分けて足のうらのざらざらするのが堪難い、生来の潔癖、茂の動く涼しい風にも眉を顰めて歩を移すと、博物館の此方、時事新報の大看板のある樹立の下に、吹上げの井戸があって、樋の口から溢れる水があたかも水晶を手繰るよう。  お夏は翳していた日傘の柄を横に倒して熟と見たが、右手に商品陳列所の外囲が白ずんで、窓々の硝子がぼやけて見えるばかりか、蝉の声さえ地の下に沈んで、人気はなく、近づいて来る跫音もしない。もっともここに来る道で谷中から朝顔の鉢を配る荷車二三台に行逢ったばかりであるから、そのまま日傘を地の上へ投げるように置いて、お夏は吻といきをついた。 十四  腕にかけていた紫の風呂敷包は、輪を外して日傘の上。お夏は袂から手巾を出して、件の水に浸しながら、手を拭い、襟を拭い、胸を拭い、足を冷して埃を洗って、颯とあとを絞出したが、懐にせんも袂にせんも、びっしょり濡れているから、手巾をそのまま日傘の柄に持ち添えて、気軽に雪踏ちゃらちゃらと、鴨川が根岸の家へ急いだのであった。  鶯谷を下りて御院殿を傍に見て、かの横町へ入ると中ほどの鴨川の門の前に、二頭立の馬車が一台、幅一杯になって着いていた。  月に三度あるいは二度、十四から通うて二十の今まで、いわゆる玉の輿がこの門に在ることは、あえて珍しくはないのであったが、かくまで道を塞いで、縦に横附けになっていたのは、はじめて。  もとより豆腐売、油屋など、荷のある類はあらかじめこの一条の横町は使わぬことになってるけれども、人一人、別けて肩幅の細りした女、車の歯を抜けても入られそうに見えるけれども、逞しい鼠色の馬の面が、小鼻を動かし、呼吸を吹いて正面に門の処に並んでいるので、お夏は日傘を楯にしてあなたこなた隙間を差覗くがごとくにしたが進みかねた。 (どなたか、ちょいと、私、用があるんですから。)  声を懸けると三人が三人、三体の羅漢のように、御者台の上と下に仏頂面を並べたのが、じろりと見て、中にも薄髯のある一体が、 (用があるなら勝手口へ廻れ、)とつッけんどんに陀羅尼音でいったのである。  対手は馬二匹と男が三人、はじめから気を呑まれてお夏は、 (はい、)といって、小戻をして、黒塀の板戸の角、鴨川勝手口とある処へ引返したが、何となくその首を垂れた。  されば誰憚るというではないが、戸を開けるのも極めて内端じゃあったけれども、これがまた台所の板の間に足を踏伸ばし、口を開けて眦を垂れていた、八ツさがりの飯炊の耳には恐しく響いたので、(騒々しいじゃあないか、誰だよ。)と頓興に、驚かされた腹立紛れ。勝手口から入るものには、この位なことをいって差支えないのであろう。 (お休みの処を、済みません、)と丁寧に小腰を屈めて挨拶をしたが、うっかり禁句とは心着かなかった。飯炊は面を膨らして、 (へん、ちゃぶ屋の姉さんじゃあるまいし、夜更にお客は取りませんからね、昼間寝たりなんかしませんよ、はい、憚様でございますよ、空いたのはそこに出してあら、)といいずてに伸をして、ふてくされてふいと立った。小間使はともあれ半季がわりの下働きは、上の弟子なる勝山さえを知らずして、その浴衣、その帯、その雪踏、殊に寝惚目なり、おひるに何か取ったらしい、近い辺の鳥屋の女中と間違えたのである。お夏は思わず、芙蓉の顔に紅を灌いだ。  飯炊が居なくなっては袴を穿いた例の書生が取次に出る場所ではない、勝手は分らず、啣えて振りつけられたような山出しのむく犬を、また呼び出そうという声は持たず、お夏は人いきれに悩んだごとくうっかりして彳んだが、我知らずうるんだ目の眦の切れたので左手を見ると、見透さるる庭の模様、百合の花にも、松の木の振にも、何となく見覚えがある、確に座敷から眺めの処、師の君は彼処にこそ。  お夏は身を忍ぶがごとく思いなしつつ。 十五  鳳仙花の、草に雑って二並ばかり紅白の咲きこぼるる土塀際を斜に切って、小さな築山の裾を繞ると池がある。この汀を蔽うて棚の上に蔓り重る葡萄の葉蔭に、まだ薄々と開いたまま、花壇の鉢に朝顔の淡きが種々。  あたかもその大輪を被いだよう、絽の羅に紅の襦袢を透して、濃いお納戸地に銀泥をもって水に撫子を描いた繻珍の帯を、背に高々と、紫菱田鹿の子の帯上を派手に結んだ、高島田で品の可い、縁側を横にして風采四辺を払うのが、飛石にかかると眩くお夏の瞳に映じた。  机を置いてこれに対し、浴衣に縮緬の扱帯を〆めて、肱をつき、仰けざまの目を瞑るがごとくなるは、謂うまでもなく鴨川であった。  二人の中に、やや座を開いて控えたのは、すなわちこれ才子の御方。  お夏は蝶々髷の頃から来馴れているし、殊にその時三人が座を構えたる一室のごとき、いつも入込に教を授かる、居心の知れた座敷ではあったけれども、不断とは勝手が違った庭口から案内なしの推参である上に、門でも裏でも取ってつけない挨拶をされた先刻の今なり、来客の目覚しさ、それにもこれにも、気臆れがして、思わず花壇の前に立留まると、頸から爪さきまで、木の葉も遮らず赫として日光が射した。  才子は正面に、鴨川は横目に、貴なる令嬢を振返って、一斉に此方を見向いた時、お夏は会釈も仕後れて、畳んだ手巾を掻撮んで前髪の処に翳したのである。  応とでも言葉がかかれば、取縋る法もあるけれども、対手方はそれなり口も利かなかった咄嗟の間、お夏は船納涼の転寝にもついぞ覚えぬ、冷たさを身に感じて、人心地もなく小刻につかつかと踵を返した。  鳳仙花の咲いた処でぬっと出て来たのは玄関番、洗晒した筒袖の浴衣に、白地棒縞の袴を穿いた、見知越の書生で、 (やあ、貴女でありますか、勝手に居た女中が女の明巣覗が入ったっていうですからな。はははは、何を寝惚けおって。さあ、お通りなさいまし、馬鹿な、)と気抜けのした様子。 (はい、御門の処に馬車が居て恐うございましたから間違えてこっちへ参りました、どうも失礼。) (いや、飛んだ不都合でありました、ずっとおいでなさい。ちょうど御来客で先生はそこのお座敷にいらっしゃいます。)とこの者だけは調子が可い。 (憚様ですがちょいとそうおっしゃって下さいましな、またお客様で御邪魔だと悪うございます。) (何、山河内様のお姫様で、同じお弟子なんでありますから構いません、いらっしゃい。)といい棄てて、この暑いに袴を穿かせるほどな家風、一体婦人を対手の業体、歌所はしつけのいいもので、ニヤリともせず真面目くさり、髭のない男の手持なげに、見事な面皰を爪探りながら、勝手の方に引込んでしまった。  お夏は帰るにも帰られず、折角の取次にも向うから遠慮されて、太く便を失ったが、暑さは暑し弱い身の、日向に立っていられる数ではないから、止むことを得ず、思い切って気の進まないのを元の処へ引返すと、我にもあらずおずおずして、差俯向いて、姫と、師と、その夫人とおわす縁側へ行って、両手をついたが、天窓から叱りつけでもされるように、お夏は消入る思がした。 十六  お夏はようよう座に着いたが、鴨川が澄して見もせぬ目よりも、才子がつんとしている胸よりも、山河内の姫様というのが、膝に置いた手の宝玉入の指輪よりも、真先に気が着いたのは、大人が机の傍に差置かれたる、水引のかかった進物の包であった。  今こそ人形町の裏通に母親と自分と二人ぐらし、柳屋という小さな絵草紙屋をしているけれども、父が存生の頃は、隅田川を前に控え、洲崎の海を後に抱き、富士筑波を右左に眺め、池に土塀を繞らして、石垣高く積累ねた、五ツの屋の棟、三ツの蔵、いろは四十七の納屋を構え、番頭小僧、召使、三十有余人を一家に籠めて、信州、飛騨、越後路、甲州筋、諸国の深山幽谷の鬼を驚かし、魔を劫かして、谷川へ伐出す杉檜松柏を八方より積込ませ、漕入れさせ、納屋にも池にも貯うること乱杭逆茂木を打ったるごとく、要害堅固に礎を立てた一城の主人といっても可い、深川木場の材木問屋、勝山重助の一粒種。汗のある手は当てない秘蔵で、芽の出づる頃より、ふた葉の頃より、枝を撓めず、振は直さず、我儘をさして甘やかした、千代田の巽に生抜きの気象もの。  随分派手を尽したのであるから、以前に較べてこの頃の不如意に、したくても出来ない師家への義理、紫の風呂敷包の中には、ただ清書と詠草の綴じたのが入っているばかりの仕誼、わけを知ってるだけに、ひがみもあれば気が怯けるのに、目の前に異彩を放つ山河内の姫が馬車に積んで来た一件物、お夏はまた一倍肩身が狭くなるのであった。  されば気の挫けた声も弱く、 (お暑うございます、)と手をついて挨拶して、ものもいってくれぬ師匠夫婦が気色のほどを伺うと、蛍の祟りがあるのでもないから、因縁事でもあるまいけれども、才子はその時も手にしていた深草形の団扇を膝の真中あたりで、じっと凝視めて黙っていたが、顔を上げると、何と思ったか、半白という上目づかいに、お夏の面をじろりと見て、 (ああ、暑うございますこと、勝山さんあなたお客様を煽いで下さい、私はちょいとあちらへ参りますから、)と畳へ団扇を辷らして、お夏の身近う突いて寄越し、(失礼を、)と姫にいって、そのままふいと座を立った。  お夏は聞正すまでもなく、疑うまでもない、明かに、ちょうど自分が居る背後から煽ぎ参らせよ、といわれたのである。  それ、頼まるれば越後から米搗にさえ出て来る位、分けて師の内室が仰せであるのに、お夏は顔の色を変えてためらった。 (そうだ、勝山さん煽いでお上げ、)とお夏が直に命を奉ぜぬのを、歌詠の大人は寛仁大度、柔かに教えるがごとく仰せられる。  それでも黙って俯向いていた。  鴨川はまた優しい声して、 (分りませんか、あのね、今才がそういったのはね、あちらに用があって行くから、あなた、そこにありますその団扇で、お客様を煽いで下さいと言ったんです。) (はい。) (分りませんか、あのね、今才がそういったのはね、あちらに用があって行くから、あなた、そこにありますその団扇で、)  お夏は堪らず団扇を持って、姫が羅の袂を煽いだのであった。 十七 「先生、惜いことをしました、同一杯回生剤を頂かして下さるのなら、先方へ参りません前に、こうやって、」  と麦酒の硝子杯を一呼吸に引いて、威勢よく卓子の上に置いた、愛吉は汚れた浴衣の腕まくりで、遠山金之助と、広小路の麦酒ホールの一方を領している。 「五六杯引掛けておきゃ、半分は酒が手伝って暴れてくれます、何しろしらふなんで、」といいかけて、迫った眉根を寄せたのである。  金之助は腰をかけたまま、両手で椅子を圧えて卓子に胸を附着けて、 「大向うが喝采でない迄も謹んで演劇をする分にゃあ仕損ないが少ないさ、酔っぱらって出懸けてみなさい、他の酔っぱらいと酔っぱらいが違うんだよ。愛吉さん、お前が酒と連立ったんじゃ、向上から鴨川で対手になってくれやしない、序幕に出した強談場だし、若干金かこっちから持込というのだから、役不足だったろう、まあ飲むが可い、」と笑っている。 「どういたしまして相済みません、私あね、先生、書生や車夫なんぞが居るてますから、掴出す位なことはするだろうと思ってね、そうしたら一番撲倒しておいて、そいつを機に消えようと思ったんだが、まるで足腰が立たねえんです。まだね先生、そりゃ可うございますが、彼奴等人を狂人にしやあがってさ、寄付きゃしませんでした、男ごかしだの、立ごかしだのは幾らもあるんだけれど、狂人ごかしは私あはじめてなんで、躍るような手つきで引上げて参りましたがね、ええ、お羽織はお返し申します。」  愛吉は胸紐を巻込んで、懐に小さく畳んで持って来た、来歴のあるかの五ツ紋を取出して、卓子の上なる蘇鉄の鉢物の蔭に載せた、電燈の光はその葉を透して、涼しげに麦酒の硝子杯に映るのである。 「ですが先生、下司は下司で、この羽織を着た窮屈さッたらありませんでしたぜ、私あ思いますが、この上に袴でも穿いた日にゃ、たって獄舎の苦みでさ。」 「それでもよくお前ごまかしたな。」 「先方じゃあ思もつかなかったからでしょう、あのお夏さんに、こんな友達があると思った日にゃ、狒々に人間の情婦が出来るとあきらめなけりゃなりません、へい、希代なもんです。」とまた煽る。 「沢山おあがり、どうだね。」 「済みません、どうも五千疋御散財をかけました上に御羽織を拝借、その上御馳走でございます。ほんとうに先生は、金主と作者と、衣裳方と、振つけと、御見物とかねて下さるんだ、本雨の立廻りか、せめてのことに疵でもつけるんでなくっちゃあ御贔屓効がねえんですが、山が小せえんだね、愛宕の石段を上るほどもないんですからね、」 「だって、ちょいとでも煽がせて来たら可いだろう、仕返しはそれだけで十分さ、私も勝山というその婦の様子を聞いてさぞ心外だったろうと思ったから。一体風のよくない御公家でな、しみったれに取りたがる評判の対手だから、ついお前の話に乗ってお茶番を仕組んで上げたようなものの、これが道理から言って見なさい、師匠と親は無理な者と思えと、世間じゃあいうんだよ。弟子にお客を煽がした位、手近な物を取ってくれも同然さ。癪に障ったの、口惜いのと、怪しからん心得違いだと、かえってお前さん達の方を言い落さなけりゃならない訳だよ。」 「へい、大きにさようでございます。」と愛吉の神妙さ。 十八 「はははは、真面目になるな、真面目になるな、ぐッとまた一杯景気をつけて、さあ、此方方楽屋内となって考えると面白い、馬鹿に気に入った、痛快ということだ。」  金之助は色気のない噯をし、垢抜けのした目のふちに色を染め、呼吸をフッと向うへ吹いて、両手で額を支えたが、 「可い、可い、ああ溜飲の下る話だ、五千疋の顔を見りゃ、知事公の令嬢で歌所の奥方が、床屋の役介者――まあそうしておけよ――役介者を煽ごうという当世に、お世辞をいって紅白の縮緬でも拝領しようという気はなしに、師匠が華族様を煽がせたといって、やけに腹を立てた柳屋のも難有い。人事とは思わないで、それをまた親の敵ほどに癪に障らしたお前も私あ嬉しい。理窟はなしにとぼけていて飛んだ可いが、いや、大人気もなくその尻馬に乗って、利のつく金を若干と痛んだ、この遠山先生も悪くはあるまい、」と金之助は独りで莞爾々々。 「話せらあ、話せらあ、こいつあ話せらあ。無暗に飲めます。」と愛吉はがぶりがぶり、狼と熊とが親類になったような有様で。 「理窟はないとおっしゃいますがね、先生、時と場合と代物に因るんですよ。何も口の端を抓られるばかりが口惜いというんじゃアありません、時に因りますとね、蚊が一疋留まったのが蝮に食われたより辛うございます。私あね、親孝行な奴が感心だというんじゃあねえんで、へい、不孝な奴でも豪いといいます。へい、盗人だって気に入るのがあるし、施をする奴に撲倒してやりたいのがありますね。不動様は贔屓ですが、念仏は大嫌。水ごりを取ってそれが主人のためなんだと聞いたって、びくともしやあしねえんで、お三どんが皸を切らしたってそれが不便というんじゃありません、そんなのははじめッからその気でつき合っているんですからね、甘いことをいうと附上りまさ、癖になりますからね、煑酢をぶッかけときゃあ可いんです、べらぼうめ、ヘッ、」といって、顔を顰め、 「無法なことをいうと吃逆を出させるぞ。ヘッ、不可え、ヘッ、いやどうしやがった、ヘッ、何のこッたい、ヘッ驚きましたな。先生、そ、それですがお夏さんの団扇じゃあ恐しく胆が煑えました、理窟はねえんです、いえ、理窟がねえんじゃあございませんや、けれどもその理窟は分りません。ヘッ、おい後生だ、ヘッ、何のこッた。」  愛吉はぐッたりと首を低れて、ふらりとしていたが、 「お待ち下さい、待っておくんなさいまし。ええと、先生、こうです。何だってその、あの毛唐人奴等、勝山のお嬢さん、今じゃあ柳屋の姉さんだ、それでも柳橋葭町あたりで、今の田圃の源之助だの、前の田之助に肖ているのさえ、何の不足があるか、お夏さんが通るのを見ると、大騒動をやりますぜ。柳屋のお夏さんとはいわないで、お夏さんの柳屋、お夏さんの柳屋ッて、花がるたを買いに来まさ。何だ畜生、上野の下あたりに潜ってやあがって、歌読も凄まじい、糸瓜とも思うんじゃあねえ。茄子を食ってる蟋蟀野郎の癖に、百文なみに扱いやあがって、お姫様を煽げ、べらぼうめ。あの、先生、ここなんですがね、理窟は私あ分ってます、お夏さんは、うまれつき団扇ッてものは人を煽ぐものだッてことはかいきし知っちゃあいないんです。」 「うむ、まず。」 十九  愛吉は思わずまた吃逆をして、 「ヘッ、いや怨敵退散。真面目な所へ吃逆は情ない。そうじゃあございませんか、深川の家に居なすった時なんざ、団扇を持って、自分を煽いだ事だって滅多には無かったでしょう。私あ上りまして見ましたがね、お夏さんが行水を使って、立膝でこう浴衣の袖で襟を拭いてると、女中がね、背後で団扇車ってやつをくるくるとやってました、洗髪だし、色は白し、」  と酔眼を睜って苦い顔で、 「庭の植木からは雫が溢れます、袂だの、裾だの、その風でそよそよして、ぞッとするような美しさ、ほんとうに深川中の涼しいのを一人で引受けていなさるようで、見る者も悪汗が引込んだんです。  幾ら相場が狂ったって、日本橋から馬車に乗って、上野を歩で、道端の井戸で身体を洗って、蟋蟀の巣へ入ってさ、山出しにけんつくを喰って、不景気な。この温気に何と、薄いものにしろ襦袢と合して三枚も襲ねている、茄った阿魔女を煽がせられようとは思やしません、私はじめ夢の様でさ、胸気じゃアありませんか。」 「可いや、まあそんなに怒るな、傍に居る者が怯気々々する。」 「御免なさいまし。つい、」といって愛吉は苦笑した。  金之助はやや更り、 「何しろ以前は大した栄耀をしたものらしい。」と自ら語り頷いて且つ愛吉の面を見た。 「じゃあお前は先からの知己か、紋床に居て近所だから絵草紙屋と懇意になったというんじゃあないのかね。」  関係のいかんを怪んでそれとはなく尋ねたのが、愛吉に直ぐ読めて、 「おかしゅうございましょう、先生、檜舞台の立女形と私等みたような涼み芝居の三下が知己ッてのも凄じいんですが、失礼御免で、まあ横ずわりにでもなって、口を利くのには仔細がなくッちゃあなりませんとも。」 「成程、ありそうな仔細だよ。まず飲んで、ふむ。」 「過年、水天宮様の縁日の晩でしたっけ、大通のごッた返す処をちっとばかり横町へ遠のいて明治座へ行こうという麺麭屋の物置の前に、常店で今でも出ていまさ、盲目の女の三味線を弾くのがあります。投銭にはちゃちゃらかちゃんなんて古風な流行唄をやってますが、可い声で、ぞッとするような明烏をやりますんでね。私あ例のへべれけで、素見数の子か何か、鼻唄で、銭のねえふてくされ。おう、勤する身のままならぬテッテチチンテッテチチンリンリン==いつぞや主の居続に寝衣のままに引寄せて==を聞かしねえ、後生だ。こうお客にすりゃ御損が行く、情人にして不足のねえからっけつ曾我の十郎てえお兄いさんだ、頼むぜ、と取巻いた人立を割って怒鳴り込んだんでさ。ひょろひょろしながら先生、」といって、愛吉は椅子に懸りながら身悶をして見せた、金之助はやけに頤を撫でて、 「悪くない、うむ、そうすると、」 「いつも交返すんだから盲目め、声を知ってまさ、かねてお気にゃあ入らなかったと見えて、 (ああ、弾くがね、お鳥目をおくれ。) (何を!) (私の新内はばら銭じゃあ聞かせないんだよ。)ッて言いましたぜ、先生、御存じじゃありませんか、年増で縁日を稼ぐ癖に、好い女でさ。」 二十  ここに愛吉が金之助に話したことは、ちょうど二年前、一昨年の晩春の事で。  愛吉は今に到ってもおとなしくない、その時分もおとなしくなかったが、恐らくいつまでもおとなしくないのであろう。  いうがごとく、縁日稼の門附も利かない気で、へべれけの愛吉が意にさからい、価を払わなければ術は見せぬ、お銭がなくっていて、それでたって凄い処を聞きたいなら、前に立って提灯は持たずとも、月夜に背後からついて来て、お花主の門でやる処を、こぼれ聞きに聞いたら可いと、愛嬌の無いことを謂ったそうな。  二振の斧と、一挺の剃刀、得物こそ違え、気象は同一、黒旋風紋床の愛吉。酒は過している、懐にはふてている。殊に人立の中のこと、凹まされた面は握拳へ凸になって顕われ、支うる者を三方へ振飛ばして、正面から門附の胸を掴んだ。紋床の若いのが酔ったといえば、交番でも棄てて置くは、店の邪魔はせず、往来には突懸らず、ひょろついた揚句が大道へ筋違に寝て、捨鐘を打てば起きて行くまで、当障りはないからであったに、その夜は何と間違ったか、門附の天窓は束髪のまま砕けて取れよう、啊呀と傍の者。 (あれ!) (畜生さあ、鳴かねえ鶯なら絞殺して附焼だ。)と愛吉はちらつく眼、二三度撲りはずして、独で蹌踉けざまにまた揮上げた。  握拳をしっかり掴んで、力任せに後へ引放した者がある。 (顔を見ろ、) (や、) (蒼くなれ蒼くなれ、奴、居酒屋のしたみを舐めやあがって何だその赤い顔は贅沢だい、我が注連縄を張った町内、汝のような孑孑は湧かない筈だ、どこの流尻から紛れ込みやあがった。)と頭ごかし、前後に同一ような、袷三尺帯の若衆は大勢居たが、大将軍のような顔色で叱ったのは、鯰の伝六といって、ぬらくらの親方株、月々の三十一日には昼間から寄席を仕切って総温習を催す、素人義太夫の切前を語ろうという漢であった。  過日その温習の時、諸事周旋顔に伝六木戸へ大胡坐を掻込んでいて、通りかかった紋床を、おう、と呼留め、つい忙しくって身が抜けねえ、切前にゃあ高座へ上るのだから、ちょいと道具を持って来て髯だけあたってくんなよ、と言種が横柄な上、かねて売れた構の顔色を癪に障らしていた、稲荷さんの紋三、人を馬鹿にすンな、内に昼寝をしてる処へ、意休が髯を持込んだって気に向かなけりゃお断り申すんだぜ、憚んながらこの稲荷はな、寄席へ出開帳はしねえんだ、あばよ、一昨日来い、とフイと通過ぎたことがあるから、坊主が憎けりゃ袈裟までの筆法で、同一内の愛吉にも含んだ意味があるらしかった。 (放せ、やい、愛の手ッ首は細いッてよ、女の子が加減をして握るぜえ、この鯰め。)といきなり取られた手を振切って、愛吉は下駄を脱いで飛蒐った、勢に恐れて伝六はたじたじと退ったが、附いていた若い衆がむらむらと押取り包んで、胴上げにして放り出した。  愛吉は足も立たず、腰も立たず、のめッているのを、いや、踏むやら、蹴るやら。これを笑いずてに尻をまくった鯰の伝六を真先に、若者の立去ったあとで、口惜い! とばかりぶるぶると顫えて突立ったが、愛吉は血だらけになっていたのである。 二十一  築地明石町に山の井光起といって、府下第一流の国手がある、年紀はまだ壮いけれども、医科大学の業を卒えると、直ぐ一年志願兵に出て軍隊附になった、その経験のある上に、第二病院の外科の医員で、且つ自宅でも診察に応じている。  口寡で、深切で、さらりと物に拘らず、それで柔和で、品が打上り、と見ると貴公子の風采あり、疾病に心細い患者はそれだけでも懐しいのに、謂うがごとき人品。それに信州、能登、越後などから修業に出て来て、訛沢山で、お舌をなどという風ではない。光起の亡き父も、義庵と称して聞えた典薬頭、今も残っている門内左手の方の柳の下なる、この辺に珍しい掘井戸の水は自然の神薬、大概の病はこれを汲めばと謂い伝えて、折々は竹筒、瓶、徳利を持参で集るほどで。  先代の信用に当若先生の評判、午後からは病院に通勤する朝の内だけは、内科と外科としかるべき助手を両名使って、なお詰めかける患者を引受け切れず、外神田に地を選んで、住所の町名をそのまま、明石病院というのを私立で当時建築中、ここで山の手の病家を喰留めようという勢。  山の井の家には薬局、受附など真白な筒袖の上衣を絡って、粛々と神の使であるがごとく立働くのが七人居て、車夫が一人、女中が三人。但しまだ独身であるから、女は居ても何となく書生が寄合ったという遣放しな処があって、悪く片附かない構の、秘さず明らさまなのが一際奥床しい。  記者遠山金之助は、愛吉からこの山の井の名を聞くと、一層、聞く話に身が入った、蓋しかねて自分は医学士と別懇であったせいである。  さるほどに愛吉は鯰の伝六一輩に突転ばされて、身体五六ヶ所に擦疵、打たれ疵など、殊に斬られも破られもしないが、背中の疼痛が容易でない。  もっとも怪我をした当夜は、足を引摺るようにして密と紋床へ這戻り、お懶惰さんの親方が、内を明けて居ないのを勿怪の幸、お婆さんは就寝てなり、姐さんは優しいから、いたわってくれた焼酎を塗って、上口の火鉢の傍へ突臥して寝たが、さあ、難儀。  あくる日帰って来た紋三郎には口惜くっても喧嘩のことは話されず、もとより条理の立った事ではない、酒の上の悪戯を懲らした方は、男が可いけれども、親方は身内のこと、邪が非でもきかない気なり、かねて快からぬ対手が伝六と明してはただ済むまい。引被って達引でも、もしした日には、荒いことに身顫いをする姐さんに申訳のない仕誼だと、向後謹みます、相替らず酔ったための怪我にして、ひたすら恐入るばかり。  転んだ身体を引摺って歩行いても、これほど疵がつく砂利は界隈にない筈と、紋三内々は睨んだが、愛的可いほどにしておけ、お前には母親があるぜ、と言って深くは咎めず、大目に見てくれたのが附目な位。可哀そうに染むだろうねと、あねさんがまた塗ってくれる焼酎を、どうぞ口の方へとも何ともいわない弱りさ加減、黒旋風の愛吉疼むこと一方ならず。  素人療治では覚束なくなると、あたかも可紋床は、かねて山の井に縁故があった。  先の義庵先生は、市に大隠を極めて浜町に住ったので、若い奴等などと言って紋床へ割込んで、夕方から集る職人仕事師輩を凹ますのを面白がって、至極の鉄拐、殊の外稲荷が贔屓であったので、若先生の髪も紋床が承る。 二十二 (どうです豪傑、蝦蟇の膏じゃあ不可ませんか。)と薬局に痛めつけられて、いつも蝦蟇の膏と酒さえありゃ外科も内科も訳なしだ、お前さん方は弱い者苛めで儲けるんだ、などと大言を発する愛吉、中指のさきで耳の上を掻きながら大悄げになってその日もまた。  明石町へ通うこと五日六日、もう佳かろうという日のことであった。  打傾いたり、首垂れたり、溜息をしたり、咳いたり、堅炭を埋けた大火鉢に崩折れて凭れたり、そうかと思うと欠伸をする、老若の患者、薬取がひしと詰懸けている玄関を、へい、御免ねえ、で愛吉はつかつかと。  かかる馴染でお出入といったような怪我人であるから、番号も遠慮もない、愛吉は四辺構わず、 (おう、柴田さん、この、診察所、と黒塗の板に胡粉で書いてある、この札をどうかしておくんなさいな。横ッちょに曲って懸ってるんですが、私あ過日中から気になってならないんで、直すか直すかと思ってるとやっぱり横ッちょだ。私の内は貧乏だけれど姉さんが居るから暖簾が汚れませんや、御新造が居なさらねえとそれだもの困っちまう、)と高慢なことをいいながら、背伸をして、西洋造の扉の上に、鶏卵色の壁にかかった塗板を真直に懸直し、そのまま閉ってる扉を開けて、小腰を屈めて診察所へ入った。  密閉した暗室の前に椅子が五脚ばかり並んで、それへ掛けたのが一人、男が一人、向うの寝台の上に胸を開けて仰向けになっている。若先生光起は、結城の袷に博多の帯、黒八丈の襟を襲ねて少し裄短に着た、上には糸織藍微塵の羽織平打の胸紐、上靴は引掛け、これに靴足袋を穿いているのは、蓋し宅診が済むと直ちに洋服に変って、手車で病院へ駆けつけようという早手廻。  卓子を傍に椅子に倚って、一個の貴夫人と対向いで居た。卓子に相対して、薬局の硝子窓を背後に、かの白の上服を着たのと、いま一人洋服を着けた少年と、処方帳をずばと左右に繰広げ、筆に墨汁を含ませつつ控えたり。  薬の薫は床に染み、窓を圧して、謂うべからざる冷静の趣。神社仏閣の堂と名医の室は、いかなる者にも神聖に感じられて、さすがの愛吉、ここへ入ると天窓が上らず、青菜に塩。愛吉、薬の匂に悄れ返って医学士に目礼したが、一体八字髯のある近眼鏡を懸けた外科の助手に毎日世話になるのであったから、愛吉は猶予わず、ひょこひょこと進むと、戸が半開になっていたので、突然外科室へ首を突込こんだが、驚いて退った。  咄嗟の間、世にも媚かしい雪のような女の顔を見たのであった、そうして愛吉がお夏を見たのは、それが最初だというのである。  見るから心も冷ゆるばかり、冷たそうな、艶のある護謨布を蔽いかけた、小高い、およそ人の脊丈ばかりな手術台の上に、腰に絡った紅の溢るるばかり両の膚を脱いだ後姿は、レエスの窓掛を透す日光に、くッきりと、しかも霞の中に描かれたもののよう目に留まった。  愛吉の間の悪さ、思わず顔を赧らめながら、もじもじ後退になり、腰をかけて待合している、患者か、はた供のものか、円髷の婦人の次なる椅子に堅くなったが、心こそ着かざりけれ、外科室に寄った椅子の上に、これもまた媚かしく差置いてあるのは、羽織と、帯と、解棄てた下〆と懐紙。取乱した藤お納戸、緋、桃色、水色、白、紅。 二十三  愛吉はきょとんとして、ぼんやりあらぬ方を眺めながら、目玉をくるくると遣っていると、やがて外科室のその半開の扉をおした、洋服の手が引込む、と入違いに、長襦袢の胴がちらちら、薄紫の半襟、胸白く、袷の衣紋の乱れたまま、前褄を取ったがしどけなく裾を引いて、白足袋の爪先、はらりと溢るる留南木の薫。  診察室を出て来たが、深川の勝山、まだ世盛の頃で、お夏その時は高島田の、年紀十七であった。 (何某。)とかの筆を持った一人が声を懸けると寝台の上に仰向けになっていたのは、辷り落ちるように下りて蹌踉と外科室へ入交る。  同時に医学士に診察を受けていた貴夫人は胸を掻合せたが、金縁の眼鏡をかけた顔で、背後へ芍薬が咲いたような微妙い気勢に振返った。  その時、打合せの帯を両手に取って、床に膝をつきついてお夏の前に廻ったのは、先刻から控えていたかの円髷の婦人であった。  お夏は衽を取って揃えると、腰から乳の下に下〆を無造作にぐるぐる巻、あてがってくれる帯をして、袖を上へ投げて肩にかけた。附添の婦人は衝と立って背後へ廻る。  愛吉は心なく垣間見た人に顔を見らるるよう、思いなしか、附添の婦人の胸にも物ありげに取られるので、うつむいては天窓を掻いた。  その帯をまだ結び果てなかったほどのことで、光起は今貴夫人を診察し了して、立身になり、片手を卓子につきながら、低声で何か命じて、学生にその筆を運ばしめていたが、ちょっと筆を留めて伺った顔に頷いて見せて、光起は衝と立直った時、ふと、帯をしているお夏を見て、 (済みましたか。) (ええ、)と頷く。 (痛かったでしょう。) (はあ、)と事もなげに、淡泊に答えたのである。  光起は微笑んで、 (貴女、母様のいうことを肯かないとまたできますよ。)  お夏は襟を啣えるようにして、差俯向いて、颯と顔を赧らめたが、何にもいわないで莞爾した。  愛吉は額を撫でた。  医学士の言葉とお夏の素振を、附添は嬉しそうに、 (お夏様、あれ御挨拶をなさいましな。) (知らない、)と素気ないことをいって再び莞爾。 (先生、癬の治ります薬はありませんでしょうか。)と不意に言い出したのは件の貴夫人であった。 (打棄っておおきなさい、)と光起は言下に応ずる。 (でもあのこんなですから、)とさも世馴れた、人懐こいといったような調子で、光起に背を捻向けると、頸を伸して黒縮緬の羽織の裏、紅なるを片落しに背筋の斜に見ゆるまで、抜衣紋に辷らかした、肌の色の蒼白いのが、殊に干からびて、眉を造った、白粉の濃い、金縁の眼鏡に瞼の皺をかくした顔こそ若けれ、あらわに見ゆる筋骨は数四十であるのに、彼を抱くものあらば正にその者の手の下なるべき、左の背を肩へかけて、亜弗利加の地図のごとき一面の癬、あな笑止や。 「汚えな! って私あ本当にうっかり。それが何です、山河内という華族の奥方だったんですって、華族だって汚えんですもの。」と愛吉はビイヤホールで語りながら、今も思出すほどか眉を顰めたのである。 二十四  名は知らず、西洋種の見事な草花を真白な大鉢に植えて飾った蔭から遠くその半ばが見える、円形の卓子を囲んで、同一黒扮装で洋刀の輝く年少な士官の一群が飲んでいた。  此方に、千筋の単衣小倉の帯、紺足袋を穿いた禿頭の異様な小男がただ一人、大硝子杯五ツ六ツ前に並べて落着払った姿。  時々髯のない顔が集り合っては、哄という笑語の声がかの士官の群から起るごとに、件の小男はちょいちょい額を上げて其方を見返るのであるが、ちょうど背合せになってるから、金之助にこれは見えなかった。  ビイヤホールの客は、今わずかに三組の外には無かったので、生麦酒の出入をする一段高い台の上には、器械を胸の辺にして受持のボオイがあたかも議長席に着いたもののように正面を切って身動もせず悠然と控えている、その下に椅子に凭って一人のボオイは新聞を読む、これと並んで肩から脇の下へ金袋をぶらさげた一人、白の洋服の足を膝の処で組違えて、斜に肱で身体の中心を支えて立身で居る、しばしば跫音を立ててしっくい叩の土間を、靴で士官の群の処へ通うのはこのボオイで、天井は高く四辺はひっそり、電燈ばかり煌々と真昼間のごとく卓子を照して、椅子には人影もなかったのである。  戸外は立迷う人の足、往来も何となく騒がしく、そよとの風も渡らぬのに、街頭に満ちた露店の灯は、おりおり下さまに靡いて、すわや消えんとしては燃え出づる、その都度夜商人は愁わしげなる眉を仰向けに打見遣る、大空は雲低く、あたかも漆で固めたよう。  蒼と赤と二色の鉄道馬車の灯は、流るる蛍かとばかり、暗夜を貫いて東西より、衝と寄っては颯と分れ、且つ消え、且つ顕れ、轣轆として近き来り、殷々として遠ざかる、響の中に車夫の懸声、蒸気の笛、ほとんど名状すべからざる、都門一場の光景は一重の硝子に隔てられてビイヤホールの内は物色沈々、さすがに何となく穏かならぬ宇宙の気勢の、屋を圧して刻々に迫るを覚ゆる、これが、風になるか、雨になるか、日和癖で星になるか、いずれとも極ったら、瀬を造って客は一斉に籠むのであろう。  とばかりにしてものの静けさよ。ここかしこの鉢植なる熱帯地方の植物は、奇花を着け、異香を放ち、且つ緑翠を滴らせて、個々電燈の光を受け、一目眇として、人少なに、三組の客も、三人のボオイも、正にこれ沙漠の中なる月の樹蔭に憩える風情。  この間に、愛吉がお夏の来歴を説く一場の物語は、人交もせず進んで、築地明石町の医学士の診察所における出来事にまで至ったのである。 「声を出して言ったのか、汚えなんて、癬を嘗めさせられはしまいし、肌を脱いで医者に見せた処を背後から、汚え、なんていう奴がありますかい、しかも華族だってな、山河内……伯爵だ。  もっともその奥様は赤十字だの、教育会、慈善事業、音楽会などいうものに取合って、運動をするのに辻車で押廻すという名代のかわりものなんだけれども、怒ったろう、皆驚いたろう、乱暴狼藉だ、どうした、それから、」 「私もついうっかり遣っちゃったんで、はっと思うと、」 「うむ、」 「ちょうど代診さんの方へ呼ばれたから遁げ込みました。」 二十五 「しかし癬が汚えといったのが、柳屋の気に入ったというでもなかろう。」  愛は真面目に、 「へい、そういう訳でもないんですがね。」 「それじゃあ手術台に肌脱の、俗にそれあられもないという処を見られたのが御縁になったか、但しちっとどうもおかしいな。」 「何、そういうわけでもないんですがね。」 「何しろ、汝の方からゆすり込んだものと私は思うな。」 「先生御串戯を、勿論あれです、お夏さんは華族てえと大嫌です。私が心も同一だ、癬は汚えに違いません、ですが、それがどうということはありませんよ。それからね、素肌を気にして腋の下をすぼめるような筋のゆるんでる娘さんじゃアありませんや。けれども私が出入をするようになったのは、こちらから泣附いたんです、へい。」 「手を合せて、拝みます、と口説いたか。」 「どういたし、……手前御慮外は申しません、泣ついたのは母親でさ。」 「ははあ、紋三郎がいったように、いつも酒の方の意見の義だろう。」 「いいえ、その時は生命にかかわります一件。」 「おや、お前それでも酒の他にかかわることがあるだろうか。」 「大有り、」といって愛吉は硝子杯の縁を圧えながら、金之助をじっと見て、 「串戯じゃアありませんでしたよ、まったく。  それがね、やっぱりその日なんです、事というと妙なもんで、何でもない時は東京中押廻したって、蜻蜓一疋ぶつかりこはねえんですが、幕があくと一斉でさ。」 「大層感じたな。」 「まったくですから。」 「じゃあ何か、華族様へ御無礼を申したとあって、お差紙でも着いたのかい。」 「いえ、先刻も申しました通り、外科室の方へ呼ばれたんで、まずお座は濁りましたね。  それからお手当が済みました、もう通って来ないでも大丈夫だ、あとはただ大人しくなさいよ、さ、大人しくしろが可うございましょう。  無暗とお礼を謂って匆々に山の井さんの前を抜けて、玄関へ参りますとね、入る時にゃあ気がつきませんでしたが、ここにそのまた珍事出来の卵が居たんです。女の子で、」 「いずれそうだろう。」と金之助は故とらしく深く頷く。 「まあ、お聞きなさいまし。上口の突尖の処、隅の方に、ばさばさした銀杏返、前髪が膝に押つくように俯向いて、畳に手をついてこう、横ずわりになって、折曲げている小さな足の踵から甲へかけて、ぎりぎり繃帯をしていました、綿銘仙の垢じみた袷に、緋勝な唐縮緬と黒の打合せの帯、こいつを後生大事に〆めて、」 「大分悉しいじゃないか。」 「私だって先生、唐縮緬と繻子ぐらいは知ってますぜ。」 「幾干か出せ、こりゃ恐ろしい。」 「真平御免なさい、先方は小児なんです。ごく内気そうな、半襟の新しいが目立つほど、しみッたれた哀な服装、高慢に櫛をさしてるのがみじめでね、どう見ても女中なんですが。  恐ろしく疼むかして、小さく堅くなって、しくしく泣いてるんです。  姉さんどうしたんだッてね、余り可哀相だから声を懸けてやりましたが、返事をしません。疵処にばかり気を取られて、もう現なんだろうと思いました、少いのに疼々しい。」 二十六 「じれったいから突然肩に手を懸けると、その女中は苦しくッてか、袷も透すような汗びっしょり、ぶるぶる震えているんでしょう。  どうしたんだって聞きますとね、足の裏から突通るほどの踏抜をしたんだそうで、その前の日の事だっていうんです。  見りゃ込合っていましたけれど、どれも病人、人の世話を焼こうという元気の好い奴は居りませんや、こいつかかり合だ、身体を抜くわけにゃいかねえような気になりました。  一体どこの者だ、家は遠いかって聞きますとね、つい五町ばかり先でございます、あの、親分の処に、と弱った声でいいました。親方というのは鯰の伝――どうです騒の卵じゃありませんか、尋常事じゃアありますまい。  何でも伝が内の奉公人に違えねえ。野郎め、親方々々と間違でも人に謂われる奴が、汝が使ってる者がこんな怪我をしてるのに、医者に寄越すッて、ないら病の猫を押放したような工合は何たる処置だい、姉さんをつけて寄越さないまでも、腕車というものがないのじゃあなかろう、可哀相に丸ぽちゃの色の白いのが、今の間にげっそり痩せて、目のふちを真蒼にしていらあ、震えてるぜ。  そう思って堪らなかったんですが、気が着きますとね、待てよ、私が思った通を口へ出して謂やあ、突然伝を向うへまわして、ずらりと並べる台辞になる、さあ、おもしろい、素敵妙だ。  一番、この女をかつぎ込んで、奴が平生侠客ぶるのを附目にして、ぎゅうと謂わそう。  蝦蟇の膏で凹まされるのも何のためだ、忘れやしねえ。」  と話をするにも凄まじい意気込だった、愛吉はちょいと気をかえ、 「へへへへ、先の縁日の晩のは、全くこっちが悪かったんでさ。落度はあったって口惜いにゃ口惜いでしょう、先生、子曰はよして聞いて下さい、可うございますか。」 「可いさ、可いさ。」 「オイ、姉や、私が肩へつかまりねえ、わけなしだ。お前ン処まで送ってやろうと、穿物を突懸けておいて、蹲んで背中を向けますとね、そんな中でも極のわるそうに淋しい顔をして、うじうじ。  じれってえ女じゃあねえか、尻なんざあ抱きやしねえや、帯を持って脊負ってやら、さあ来い、と喧嘩づらの深切ずくめ、言ぐさが荒っぽうございますから、おどおどして、何と肩へ喰いつくように顔をかくして、白昼、それでもこの野郎の背中へ負をしましたぜ。あとで考えると気の毒でさ、女の気じゃあ疵が痛む方がどんなにお恰好だか知れませんよ。  全く叱りつけるように勧めたんですからね、すすめ人が私でしょう。阿魔はてっきり、ぶんなぐられると思って負さったもんです、名はお米ッていいます、可愛い女なんですがね、十七でしたよ。  さあ、歩行き出すと、こう耳朶の処へ縺れた髪の毛が障るでしょう、あいつあ一筋でもうるそうがさ、首を振るとなお乱れて絡いますから、呼吸をかけてふッふッ鬢の尖を向うへ吹いちゃあ、三角の処まで参りますとね、背後から腕車が来ました。  町幅が狭いんですから、すれ違って前へ駆け抜けたと思うと、振返った若衆と一所に、腕車の上から見なすったのは先刻のお嬢様、ええ、お夏さん。」 二十七 「藤お納戸の、あの脱いであった羽織を被ておいでなすった。襦袢の袖口に搦んだ白い手で、母衣の軸に掴まって、背中を浮かすようにして乗ってましたっけ、振向いて私がお米を負ってた形を見て莞爾笑いなすった。  顔を見合せますとね、こっちでも何だか知己のような気がしたもんですから、遠慮しねえで、 (今日は、)と肚の中で言ってお辞儀したんです。  腕車は何、休んだんじゃあございません、駆けてる中、ちょいとの間なんで、そのまま飛ぶように行っちまいましたが、縁でございましょう、先生。  世の中というものは、どこにどんな引かかりがあるか知れませんぜ。なぜッてますと、あとで分りましたが、そのお夏さんの勝山という家は、私の亡くなりました父爺が、船頭で、奉公人同様に久しい間御恩になったのでございました。  さあ、それから米坊をかつぎ込んで、ちょうど縁端に大胡坐をかいて毛抜をいじくってやあがった、鯰の伝をふんづかまえて、思う状毒づいたとお思いなさいよ。  くだらないことをお耳に入れるでもありませんから、始末は申上げませんが、何しろ侠客だとか何とかいわれる分では、お米に届かねえ点が十分にあったんですから、こりゃ力ずく、腕ずくじゃあ不可ませんや、伝の親仁大凹み。  こっちあぐッと溜飲が下って、おさらばを極めてフイとなって、ざっぷり朝湯を浴びた気さ、我ながら男振を上げて、や、どんなもんだい。  人形町居廻から築地辺、居酒屋、煮染屋の出入、往復、風を払って伸しましたわ、すると大変。  暗がりを啣え楊枝、月夜には懐手で、呑気に歩行いてると、思いがけねえ狂犬めが噛附くような塩梅に、突然、突当る奴がある、引摺倒す奴がある、拳固でくらわす奴がある、一度々々呼吸を引かないばッかりで、はッはッと思うことが、毎晩じゃアありませんか。」 「成程、」 「その度に微傷です、一年三百六十五日、この工合じゃあ三百六十五日目に、三百六十五だけ傷がついて、この世を宜しく申させられそうで、私も、うんざり。  様子を聞くと、伝がこの事を意趣にして、子分子方の奴等がしょっちゅう附け廻すんだそうですから、私あ堪らなくなって、舟賃を一銭出して、川尻を渡って佃島へ遁げました。  佃島には先生、不孝者を持って多いこと苦労をする婆さんが一人ね、弁天様の傍に吝な掛茶屋を出して細々と暮しています、子に肖ない恐しい堅気なんで。」 「何だい、それは、」 「私の母親でございます。」 「それだもの。」 「へへへへ、今更いたし方がありません、そこへ転がり込んで、居縮まって震えてたもんですから、愛吉どうしたんだって、母親が尋ねます。  これこれだといいますとね、それだから常日頃いって聞かさないことではない、蟻じゃあなし、毛虫じゃあなし、水があったって対手は渡って来ます。しかし……鯰の伝……それならば死んだ父爺が御恩になった深川の勝山さんへ出入をするから、彼家へ行って、旦那様にお頼み申して、伝にいい聞かしておもらい申して、お前の身体を無事なよう計らいましょうと、父爺が亡くなってからも暑さ寒さにゃあお見舞を欠かしたことがないという、律儀はこんな時用に立ちます、で母親が取りあえず。」 二十八 「深川へ参りましてね、母親が訳を謂って話をしますと、堅気の商人だ、遊人なんぞ対手にして口を利けるんじゃあないけれども、伝か、可し、鯰ならば仔細はないと、さらりと埒は明いたんです。  私はこんなやくざものの事ですから、母親も別に話さないでいたのがその時知れまして、そうか、そんな倅があるのか、床屋が家業と聞きゃちょうど可い、奉公人も大勢居るこッた、遊びながら働きに寄越すが可いと、深切におっしゃって下すったので、二度目にはお礼かたがた、母親について伺いますと、先生、吃驚しましたぜ。  中庭でもってきゃっきゃっという騒ぎ、女中衆が三四人、池の周囲を駆けてるんで、鬼ごッこがはじまってるか、深川だって呑気なもんだと、ひょいと見るとどうです、縁側に腰をかけてたのは山の井の診察所で見た、別嬪だろうじゃありませんか。  そうして女中が遁げるのを追懸けますのは、恐しい、犬でも蹴そうな軍鶏なんで。  今でも柳屋に飼ってあります。強いことッたら御用の小僧なんか背後からはたかれて、ぎゃっといって、打っ坐りまさ。  心持が可うございますぜ、とさかを立ってずっと伸して、眼をくるりと遣りますとね、私とでも取組みそうでさ。一体気の勝った、お夏さんは癇癪持なんだけれど、婦人だけにどうすることも出来ないんですから、癪なことは軍鶏と私とで引受けてるんで、ええ、可うごす、軍鶏と愛吉とで請合いましたと謂うと、蒼くなって怒ってる時でも莞爾しまさあ。  お夏さんは飛んだその鶏を可愛がってます。それから母上はいうまでもありませんが、生命がけで大事にしているお雛様がありますよ。  十軒店で近頃出来合の品物じゃあないんだそうで、由緒のあるのを、お夏さんのに金に飽かして買ったって申しますがね、内裏様が一対、官女が七人お囃子が五人です、それについた、箪笥、長持、挟箱。御所車一ツでも五十両したッていいますが、皆金蒔絵で大したもんです。  このお雛様の節句と来た日にゃ、演劇も花見も一所にして、お夏さんにかかる雑用、残らず持出すという評判な祭をしたもんですッさ。  私が勝山に伺うようになりました翌年、一昨年ですな。  三月三日の晩、全焼にあいなすった。」といいかけて、愛吉は四辺を眗したが、浮かぬ色をした。  声も低く、 「しかも私が行合せていたんです。十時頃でございましたね、お雛様を見せておくんなさいって、勝手の方から。不断、皆様で可愛がってくれますし、お夏さんも贔屓にして下すったもんだから、すぐにその何でさ、二階の座敷へ上りました。  目の覚めるような六畳は、一面に桜の造花。活花の桃と柳はいうまでもありませんや、燃立つような緋の毛氈を五壇にかけて、炫いばかりに飾ってあります、お雛様の様子なんざ、私にゃ分りません、言ったって、聞いたって、ただもう綺麗で沢山。  お夏さんは直ぐその壇の下の処に雪洞を控えて、立派に着換えていなすったっけ。  あの内裏様のだって、別に二個蒔絵の蝶足のそうですな!……」  愛吉は卓子の上に四角な線を指の先で引いた。 「この位なお膳がありましょう、男雛のと女雛のと一対、そら、あの、」  金之助は熱心に耳を傾けながら頷いた。 二十九 「可うございますか、その一対の小さなお膳を、お夏さんが自分の前に置いて、もう一個の方を向うへならべて、差向いという形で居なすったが、前には誰も見えなかったんです。  指を丸げた様な蒔絵の椀、それから茶碗、小皿なんぞ、皆そのお膳に相当したのに、種々な御馳走が装ってありましたっけ。  その後病気で亡くなりましたが、あの診察所に附いていた年増ね、乳母というんじゃあなかったんですが、お夏さんのお気に入で傍の処へ。もう二人、小間使が坐って、これが白酒の瓶を持ってお酌をしてる、二ツ三ツ飲んなすったか、目の縁をほんのりさせて、嬉しそうに、お雛様の飾りものを食べてる処で。  や、素敵なものだと、のほうずな大声で、何か立派なのとそこいらの艶麗さに押魂消ながら、男気のない座敷だから、私だって遠慮をしました。  いつものようにお台所へ下ってお末の出尻と一所に頂くべいとね、後退りに出ようとすると、愛吉さん一ツあげましょうかと、お夏さんが言ったんです。  まるで夢中、私あ腰が抜けたように突然そこへ坐りましたぜ。  さあ、一面の桜と、咲乱れた桃の中、雪洞の灯で見たその時の美しさ。  しかも微酔と来ていましょう。もう雛壇を退けようという三日の晩、この間飾ってから起きると寝るまで附添って、階下へも滅多にゃあ下りたことのないばかり、楽み疲れに気草臥という形で、片手を畳について右の方に持ってなすった小杯を、気前よくつつと差してくんなすったい。  震えながら……まったくですよ、震えながらそのお杯を受けようとすると、愛吉さんもうちっとそちらへと、傍から年増のが気をつけたんです。  坐ったのは、お膳の前でしょう、これは先生。毎年々々そうやって差向いに並べても、向うへ坐った奴はまだ一人も無かったんだそうで。  お夏さんは朋友が嫌だっていうんです、また番頭や小僧が罷出ようという場じゃアありませんや。  しかもその年、一昨年ですな、その晩にゃ私より一足前に、雛の間で一人お客があったんです。  何でも天下に聞えた立派な豪傑な爺だそうですが、旦那とは謡の方で、築地の宝生の師匠の宅ね、あの能楽堂などで懇意になってるんだって謂いましたよ。大層な雛だというが、どれどれと押上がって、やあ一人でやっていなさるの、私が相手をしようッて、そのお膳の前に坐りましたっさ。  お爺ちゃん、厭なこった! とお夏さんが屹となったので、傍の者はあッふあッふ、旦那も御新造様も顔色を変えなすったけ。ははあ、これは遣られたと、肥った腹から大笑を揺り出して、爺さんは訳もなく座敷をかえ、階下で今、旦那、御新造様なぞと一座で飲んでいるという、その後でしょう。  だから年増は遠慮しろと気を着けたんでさ。  するとお夏さんがね、可いよッて、言いながら、白酒の瓶を取って、お酌して酔わしてやろうや。莞爾してお前様、いえさ、先生!」  金之助は唖然として、 「口の端を拭け、泡だらけだ。」 三十  愛吉は仇気なく平手で唇を横に扱いたが、すがめて掌を打眺め、 「嘘、泡なんぞ附着いてやしねえ。」  と例の愛くるしい口を結んで眉根を寄せ、吐息をついて歎息した。 「ほんとうに考えて見りゃ夢の様ですよ。  お夏さんは酌をしておくんなさる気で瓶を持ちながら、ふと雛の壇を見ましたがね、どうなすったんだか、おや! といってこう、瞳を据えて、瞬もしないでしばらく。  枕についても目をぱっちり、お雛様の番をして、すやすやと寐息に簪の花は動いても、飾った雛は鼠一疋がたりともさせないんでございますってね、過年もお雛様が皆で話をするッて、真面目に言いなすったことがある位、凝ってるんだから魂が入ってましょう。  トその凝視めていなすったッけ、ちょいとお囃子の人形が笛を落した、まあ、鼓を打棄った、まあ、まあ、まあ、太鼓の撥を、あれ緋の袴が動くんだよ。あれ、皆! とお夏さんがすっくり立った。  顔を見合せて皆呼吸を呑みましたわ。  その様子ッたら、まるで雛がどっと惣立ちになったように、私等が胸に響いたんです。」  語る時、十有数日の間を蒸しに蒸した、人類の汗を絞り抜いた、一昨日来の気圧は、正にその極所に達したと見えて、陰々たる中にものの響、柱がきしむようである。  愛吉は肩をすぼめて、 「その途端に私等は雛壇が滅茶に崩れるんだと思いましたね、火事だ、火事だと、天井の辺で喚いたと思うと、」  愛吉は穏かならぬ猿眼で、きょろきょろと四辺を見たが、たちまち衝と立上った。 「先生、雨です。」という間もなく、硝子窓に一千の礫ばらばらと響き渡って、この建物の揺ぐかと、万斛の雨は一注して、轟とばかりに降って来た。  金之助も、話の変と、急な雨に、思わず顔の色を変えて唾を呑んだが、押出すように、 「おお、雨だ。」  台の上のボオイは真先に飛び下りた、新聞を見ていたのは真中を掴み棄てて立つ。立っていたのは金袋の口を圧えて、この三人しばらくの間というものはただ縦横に土間の上を駆け歩行いた。白い姿の慌しく行交うのを、見る者の目には極めて無意味であるが、彼等は各々に大雨を意識して四壁の窓を閉めようとあせるのである。大粒な雫は、また実際、斜とも謂わず、直ともいわず、矢玉のように飛び込むので、かの兀頭の小男は先刻から人知れず愛吉の話に聞惚れて、ひたすら俯向いて額をおさえているのであったが、その手を放して天井を仰ぐと、怪訝な顔をして椅子を放れて、窓の下へ行って、これはまた故々閉めてあった窓の戸を一枚上へ押し上げて腰を捻って、戸外へ衝とその兀頭を突出すや否や、ぱッたり閉めて引込ました、何条堪るべき、雫はその額から、耳から、頤の辺から、まるで氷柱を植えたよう。  かかる中にも自若として冷静の態度を保ち、ことさらには耳を傾けて雨を聞こうともしないのは彼等士官の一群である。  ややあって人々はあたかも軍人のごとく静まった。 「障子をあけると、突然火の粉でしょう。」いう声も沈むばかり、雨はいよいよ盛である。 三十一 「お夏さんが一番しっかりして、そのまま、内裏様に手をお懸けなすったが、愛吉、鶏をって一声。聞棄てにして私あ二階から飛び下りて、二ツ三ツ人の体に打附かったとばかし覚えています。ええ夢中でね、駆けつけたのは裏口にあるその軍鶏の塒なんですよ。  何を悟ったのか、ケケッケケッ、羽ばたきをしてる奴を引掴んで両手で袖の下へ抱え込むと、雨戸が一枚ばったり内へ煽ったんですが、赫として顔が熱かったのも道理、見る間に裏返しに倒れ込むとめらめらと燃えてましょう。戸外は限もない狐火のようにちらちらちらちら炎だらけ。はッと後退りに飛ぶ拍子に慌ててつんのめって、仰向けに倒れたやつでさ。もう天井から紅い舌を吐いてるじゃアありませんか。目が眩んだ足の処へ、箱だか、鉄瓶だか重いものが斜違に来て乗っかるという騒。百年目だと思った私あ、板戸も壁も突破る勢で横ッ飛びに表の方へ刎ね出したんで、どしばたというのが地の底へ刻み込むように聞えるばかり。あッとも、きゃッとも声なんぞはしませんでした。門口へ出ると道も空も土器色にばッとなって、処々段々にこうその隈取って血が流れたように見えましたっけ。  その中をね、あっちこっち三四人、大きな蟻の影法師が映ったようにまるで酔ッぱらいの足つきで、ひょろひょろしながら歩行いてましたが、奇代なもんでございますね、道なら三町ばかり伸したと思うと、洪と火の粉が浴びせて来ました。鶏は脇の処で恐しい羽ばたきをしますね、私あその煽で宙へ上りそうで足も地につきませんや。背後の方でも、前途の方でも、その時分にようようワッという人声が陰に籠って聞えました。やがて私の身は何の事はない渦いて来る人間の浪の中に巻込まれてしまいました。  右左透間のねえ混雑なんで、そいつあ皆火事場の方へ寄せるんでしょう、私あ向うへ抜けようとするんでしょう。  突当るやら、蹌踉けるやら、目も口も開かねえんで、何でえ! 田舎ものが神田の祭にはぐれやしめえし、人ごみにまごまごする事あねえ、火事に逃げるたあ何の事だと、おされて剣突を食う癇癪まぎれに、立直して引返そうとする、と気が着きました。鶏を抱えてます、そいつはただ一言お夏さんに頼まれたから起った事。  ホイ何のこッた、行くにも帰るにもこの騒ぎに揉まれちゃあ、羽も翼も坊主にならあ、と吃驚して、背後は見ないで、抜けたり、潜ったり、呼吸ぐるしいほどの中をもぐって出て、まず水のある処へ行きましたがね。  水ッてのは何、深川名物の溜池で、片一方は海軍省の材木の置場なんで、広ッ場。  一体堀割の土手続で、これから八幡前へ出る蛇の蜿った形の一条道ですがね、洲崎へ無理情死でもしに行こうッて奴より外、夜分は人通のない処で、場所柄とはいいながら、その火事にさえ、ちっとも人間が歩行きません。気のせいか、かッかッと燃える中に、木竹の折れる音もするほど近間で居て、それで何と私の跫音にばらばら蛙が遁げ込みます。水の音を聞くと一杯のんだ気になって、一呼吸吐いたんですが、――はてな。」 三十二 「そこでお夏さんだ、どうなすったろう。私がこの慌て方じゃあ二階に残った女連は気絶たかも分らない。お夏さんはお夏さんで、雛を大切に取出しそうな権幕だったが、火急にも何にも内裏様一個抱く時分にゃあ、火の粉を被んなすったに違いがないと、さあ、心配になって堪りません。  矢でも鉄砲でも火事場へ飛んで帰って、お夏さんの様子を見ようと、引返そうとすると、抱えている鶏なんです。  先刻のあの場合にも、愛吉鶏をッてお謂いなすった、どうしよう、これをまあ。  葛籠長持と違って、人の家へ投ッ放しに預けて来られるんじゃあなし、庇って持っていた日にゃあ、人混の中だってうっかり歩行かれるんじゃあねえ。火の中から助け出したばかりで、跡をお去らばにして可い位なら、お夏さんがお頼みはなさるまいし、私だって頼まれる程の事じゃあなし、困りましたね、どうも、何しろ活物だから始末が悪かったろうじゃアありませんか。  人通のない土手だって、軍鶏ばかり置いて行きゃ、どこへ去っちまうも知れたもんじゃアありませずね。見りゃ溜池の中に舟もあったし、材木もありましたが、水死人を捜すように鶏を浮しとく数じゃありませず、持扱いましたね、全く気が気じゃあなかったんで、一羽抱え込んで跣足で池の縁をまごまごしてる風ッてのはありません、我ながら薄ぼんやり、どうしてるのかと思いました。  火事はまだ盛です。  すると灰のように薄赤い向うの路へ影がさして、四五人一列になって来るのがあります。土手を横に切って、あれから埋地にかかった橋の、欄干が真中で切れて水へ折れ込んでいようという、ぺんぺん草の生えてる袂へ寄って、渡ろうとする時分にゃあ私が居る間近になったから見えました。  真先が女で、二番目がまた女、あとの二人がやっぱり女、みんな顔の色が変ってまさ、島田か銀杏返か、がッくり根が抜けて、帯を引摺ってるのがありますね、八口の切れてるのがありますね、どれもどれも小刻みに、歩行くと絡むのは燃立つでしょう。  一人々々に人形だの、雛の道県だのを持ってる、三人目の、内裏様を一対、両手に持って、袖で掻合して胸に押着けていたのがお夏さん、夜目にも確か、深川中探したって、およそその位なのはないのですからね、……助かった。  つかつかと駈け寄って、背後から、ちょうど橋の真中へその一組のかかったのを、やあ、と私あ嬉し紛れに頓興な声を懸けました。  屹と立留って、黙って私を見なすった、その時のようにお夏さんの、あんな気高い凄い顔を見たことはありませんでしたよ。鬢の毛も乱れています、それに、場所がそんなでしょう、天を焦す明でしょう。つい目の前にあの、愛吉、鶏をッて謂いなすった二階の景色が見えるのに、急に変ってそれなんでしょう、こりゃ死んだ魂が直とここへ映るのか、そうでなけりゃお夏さんの守護をして、緋の袴の連中が火の中から化けて来たのだ。」 三十三 「ちょうどその時分下火になったと見えまして、雲が颯とかかったように、一面赤かった中へ黒味がさしましたわ、女連の姿は消えたよう、お夏さんばかりが判然と、ぱっちりとした目の色も見えて、私が手の鶏を御覧なすったが、何、あとのは張詰めた気が弛んだか、足取が乱れて、あっちへふらり、こっちへひょろり、一人は危険な欄干に凭れかかりましたし、もう一人は何の事はない、そこへ打坐ってしまったんです。手を取って起して見りゃ、松ッていう女中なんで、怪しいも怪しくないも、場所だって不思議はありません。  全体この橋も、池を渡った向うも、旧はやっぱりその時分の勝山さんぐらいな御大家の庭だったんで、橋がまた庭の景色の一ツだったそうですが、馬、車なんざ思いも寄らず、人ッ子だって通りやしません。ただね、材木を組んで筏を拵えて流して来るのが、この下を抜ける時、どこでも勝手次第に長鍵を打込んで、突張って、潜るくらいなもので、旦那が買置なすった。その中綺麗にして、藤棚の池へ倒れ込んでるのなんぞ直したら、お夏さんの祈祷所みたようのもの、勝山さんだけの弁天様の堂を建立しようなんてね、いっていなすった、その埋地へ遁げて来たんでさ。考えて見るとそれなんですが、不意に打つかった時はこの世のことじゃあないように思いましたよ。」 「大分涼しくなって来た。」と金之助は袖を合せて、想い出したように言いつつも、頷き頷き聞くのである。 「へい、凄いような雨でございましたね、私あどうなるんだ知らんと、お話をいたします内に気が変になりましたっけ、可い塩梅でございます。  いいえ、私ばかりじゃあなかったんで、火事場では、官女が前後を取巻いて、お夏さんが東の方に、通ったと謂う評判で、また勝山が焼けるちっとばかり前、緋の袴を穿いた素白な姿の者が、ちょうどその屋根の上あたりを走るのを、汐見橋の上で見た者がある、前兆だなんて種々なことを謂ったもんです。  ようよう夜が夜の色になって、湿っぽい風が吹いて来ると、御新造様、それから旦那が、あとさきになって、女中が三人、私とお夏さんと、お雛様と軍鶏の居るそこの埋地へお見えなさいましたが、どなたも箸一本持っちゃあいらっしゃらないんで、追々集った、番頭小僧、どれも不残着のみ着のまま。  もっとも私が二階を飛下りると、入違いに旦那と御新造様がお夏さんの処へ駆け上んなすったッけ、傍に居た女中は助けてくれというんでしょう。手を合せてただ拝む程とちってるのに、袂のさきを口に啣えてお夏さんは悠々とお雛様を片附けていらしったってね、皆来い、お夏が死ぬ、お雛様だけ出しておくれと、お二人が一生懸命。  それですもの。  こういいますと、お夏さんが我儘三昧、親御は甘いばっかりに聞えましょう、けれども因縁事なんですよ、だって勝山のものといったら、池に浮してあった材木まで焼けッちまいましたから。業の火とかいうんですな、恐しいじゃアありませんか。  それでね、一度その埋地で家中が寄ったが最後で、あとはもうちりちりばらばら。」 三十四 「雛は皆助かりましたし、飾の道具といったような物も、目立ったのは大抵出たんだそうですが、珠だの、珊瑚だので飾った、天人が胸に掛けてるようなびらびらの下った女雛の冠ですが、無くなって、それから房のついた御簾のかかってる結構な、一品で五十両、先刻も申しましたね、格別私なんぞも覚えている御所車がそれッきりになったんですって、いつまで経っても、お夏さんが太く気にしていますがね、もとより金目にかかわったことじゃありません、あの姉さんのことですから、へい。  大方何でしょう、人並はずれて雛を大事がんなさるんでも分ります、そこらの様子でも知れますが、こう謂っちゃあ何ですけれども、お雛様をまず恋しい方のようにでも思ってるんじゃアありますまいか。  そうすると、対手の女雛を自分ごッこにでも極めているんで、その冠が失せたのも、許嫁の印の簪でも落したように思ってることでしょう、婦人は天窓の物と謂いますから。  実に砕けていて、ちっともみずからがらない女だけれど、どこか恐しく品があって、私なんざ時々我ながら頭の下がることがありますもの。  ねえ先生、御所車と冠がなくなったのを、気にして鬱ぐ位なのが、今更じゃアありませんけれども、上野を歩行いて、路傍で身体を洗って、ちゃぶ屋の姉やと間違えられて、癬の女を、ちょいと先生、お夏さんもそういって話しなすったが、山河内の姫様というと一件ものの女ですっさ。其奴を煽がされるなんて可哀相じゃアありませんか。  いいえね、竜宮の乙姫てえ素ばらしいのだって、蜈蚣にゃあ敵いませんや、瀬多の橋へあらわれりゃ、尋常の女でしょう、山の主が梅干になって、木樵に嘗められたという昔話がありますッてね、争われねえもんです。  全体ちゃきちゃきの深川ッ女が、根岸くんだりへ行って、ももんじいに歌を習うなんて、そんな間違ったことはないんです。郷に入ったら郷に従えだと、講釈で聞いたんですが、いかな立女形でもあの舞台じゃあ睨が利かねえ、それだから飛んだ目に逢うんでさ。  それが先生、一体がお夏さんは、歌だの手習だのは大嫌で、鴨川なんて師匠取をするんじゃあないんですが、ただいま申しましたその焼け出されが只事じゃアありません。前世の業のようなんだから致し方はありません、柱一本立直らないで、それだけの身上がまるで0。気ばかりあせっていなさる中に旦那が大病、その御遺言でさ、夏に我儘をさせ過ぎた。行末が案じられる、盆画なんぞ止にして手習をしてくれと、そこで発心をなすったんだが、なあにもう叩き止めッちまうが可うごす。その足で藤間へいらっしゃりゃ、御自分の方が活きた手本になろうてんで、ええ私の仕返しゃ動かねえ縁切だ。お夏さんがこれから行こうたって行かれやしません、さっぱりして可うございます。へい、いちいちどうも難有うございました先生。  あなたのような紋着を着た方が、私等を可愛がって下さろうとは思わなかったんで、柳屋のも便にするものはなし、この頃は御新造様が煩っていらっしゃるなり、あの勝気なのが、めっきり痩せなすった。  力になろうというのが私と軍鶏だから困っちまう。」と、つくづく腕を組んであどけない、罪のないことを真心から言って崩折れた。真面目な話に酔もさめたか、愛吉は肩肱を内端にして、見ると寂しそうで哀である。雨は霽れた、人は湯さめがしたように暑を忘れた、敷居を越して溢れ込んだ前の大溝の雨溜で、しっくい叩の土間は一面に水を打ったよう。 三十五  愛吉がいう処も、大雨の後をそよ吹く風も、太く身に染みた様子であった、金之助は改めて硝子杯を挙げ、「もう一杯景気をつけよう、大分引込まれて私まで妙になった、お前にも似合わない何も鬱ぐにも当るまい、」と、激ます人も何となく理に落ちて来たのである。 「ええ、この位にしておきましょう、何年ぶりかで不思議にこうやって折角真面目になったものを、また酔っちゃあ詰りません、ねえ先生、どうぞ可愛がって下さいまし、私はくらい酔ってそれなりけりでも構いませんが、お夏さんはほんとうに誰も便にするものがないんですから、後生でございます。旦那方のような紋着を着た方は大嫌なんだけれど、何、実の処は私等を軽蔑して取合って下さらないと相場が極ってるとおもいますから、じゃじゃ馬ですねてるんでさ、心細うございます。ほんとうにお夏さんは便りのない身でおいでなさるんですからね、御不便がありゃ、直ぐにでも柳屋へ引張って行って見せてえや、そしてこの先生がお前さんのことを身に染みて聞いて下すったって話したら、どんなにか喜ぶでしょう。」とさも懐しげにいうのである。  金之助も他所事とは取らない気色で、 「いや、私はこれでなかなか当世じゃあないんだから、女の児とお附合はちっと困る、しかしお前とは改めて朋達になろう。なあ、朋達――そうだ親類とでも何とでも思いなさい。用に立つことがあったら出来るだけ智慧も貸そうよ、身体も貸そうよ。込入った話でそのお夏さんのことについちゃ、こりゃ懸直無し私も一ツもの思いだ、帰ってからも路々も条を辿って考えよう、いやしかしお庇でおもしろい……といっちゃあ済まないような気もするね。」 「はい、」といったッきり、愛吉はしばらく差俯向いていたが、思出したように天窓を上げて、 「飛んだ頂きまして、もう御免を蒙ります。」 「一所に出ようか、そこいらまで同じ向だ。」  金之助は愛吉が返した、根岸の鴨川の討入の武器なる黒糸縅の五ツ紋を、畳んであるまま懐へ捻込んで、ボオイを呼んで勘定をすると、件の金袋を提げたのがその金袋は蓋し代金を受納めるために持っているのではなく、剰金を出す用意をしているもののよう、規則正しく返したのに、銀一ツ添えて金之助はここに長座を償ったが、断るまでもなく、ボオイはこれを別の衣兜に納れたのである。 「御機嫌よろしゅう、」  それと二人は卓子を挟んで斉しく立上ったのが、一所になり前後になって出ようとする、横合の椅子から、 「やあ、」と声を懸けたのは、件の兀頭の小男であった。  金之助ははじめて心着いて、はたと立留って顔を見て、不意だという面色で更に見直したが、 「おお、どうして、」と驚いて言った。  ここに先刻からおみこしを据えて、愛吉の物語に耳を傾けたり、士官の方をじろじろ見たり、あるいは空合を伺ってびっしょりの奇観を呈するなど、慌てたような、落着いたような、人の悪いような、呑気なような、ほとんど端倪すべからざる、たとえば竜のごとき否、むしろ大雨に就いて竜を黙想しつつありしがごとき、奇体なる人物は、渾名を外道と称えて、名誉の順風耳、金之助と同一新聞社の探訪員で、竹永丹平というのであった。 三十六  軒の柳、出窓の瞿麦、お夏の柳屋は路地の角で、人形町通のとある裏町。端から端へ吹通す風は、目に見えぬ秋の音信である。  まだ宵の口だけれども、何となく人足稀に、一葉二葉ともすれば早や散りそうな、柳屋の軒の一本柳に、ほっかりと懸っている、一尺角くらいな看板の賽ころは、斜に店の灯に照されて、こっちへは一が出て、裏の六がまともに見られる。四五軒筋違の向う側に、真赤な毛氈をかけた床几の端が見えて、氷屋が一軒、それには団扇が乗ってるばかり、涼しさは涼し、風はあり、月夜なり。  氷屋の並びに表通から裏へ突抜けた薬屋の蔵の背があって、壁を塗かえるので足代が組んである、この前に五六人、女まじり、月を向うの仕舞屋の屋根に眺めて、いずれも、蹲って雨上りに出た蟇という身で居る。 「え、もし。」 「さようでございますね、」 「どうでしょう、」  と口々にどれが何をいうのか知らず、低声でひそひそ。 「ねえ、おい、」 「どうだろう、」 「そうさな。」  時々吸殻が呼吸をして、団扇が動くわ。 「構わず談じようじゃあねえか、十五番地の差配さんだと、昔気質だから可いんだけれども、町内の御差配はいけねえや。羽織袴で杖を持とうという柄だもの、かわって謂ってくれねえから困るよな。」 「むむ、だが何しろ打棄っちゃあ置かれめえ。」 「もし、確に不可ますまいね。」  ちと老けた声で、 「されば宜しくござりません、昔から申すことで、何しろ湯屋で鐘の音を聞くのさえ忌むとしてござります。」 「そして詰る処、何に障るんですね。」 「いえはじまりは地震かと思うてびくびくしていたんで、暑さが酷かったもんだからね。それという時の要心だ、私どもじゃ、媽々にいいつけて、毎晩水瓶の蓋を取って置きました。」 「へい、火事ならまあ、蓋を取る内も早いが可いというんでしょうが、地震に水瓶の蓋を取って置くはおかしいね。」 「理詰じゃあねえんでさ、まずいわばお禁厭さ。安政の時に家中やられたのが、たった一人、面くらって水瓶の中へ飛込んだ奴が、不思議に助かったと謂いますからね、よくよく運だ、あやかるだけでも可うございましょう。」 「お待ちなさい、して見ると鉄さん。」 「ええ。」 「お前さんがこの頃また毎晩色ものの寄席へ行くのはやっぱりそこらの地震除から割出したもんだね。」 「何故、何故、ええ御隠居。」 「麹町の人だがね、同一その安政年度に、十五人の家内でたった一人寄席へ行っていて助かったものがありますわい。」 「ざまあ見やがれ、俺が寄席へ行くのを愚図々々吐しやがって、鉄さんだってお所帯持だ、心なくッて欠厘でも贅な銭を使うものかい、地震除だあ、おたふくめ、」 「おや、それじゃあ地震よけに、いつも寄席に行って、お前一人助かる気かい。」 「何だと。」 「いいえさ、お前一人助かれば女房は可いのかよ。」とそのかみさんか、女の声。 三十七 「べらぼうめ、何を、何をいってやあがる、」と、何か言っていやあがる。 「鉄さんぐうの音も出ずさ、こりゃお時さんが道理だ、はははは、」  歯の抜けた笑いに威勢の可い呵々が交って哄となると、件の仕舞屋の月影の格子戸の処に立っていた、浴衣の上へちょいと袷羽織を引掛けた艶なのも吻々と遣る。実はこれなる御隠居の持物で。  鉄と謂われたのはやっきとなり、 「やい、じゃあ汝あどうだ、この間鉄砲汁をやッつけた時一箸も食やしめえ。命取だ。恐しいといって身震をしやあがって、コン畜生、その癖俺にゃあ三杯と啜らせやがって、鍋底をまた装りつけたろう、どうだ、やい、もう不可ねえだろう。勿体ない打棄った処で犬だって困るだろうと謂ったじゃあねえか、犬だって困るよ、命取をよ、亭主が食ってるのを見て汝一人助かりゃ可いのかい、やい、七面鳥。」 「東西!」 「さあお家の乱れだ。」 「さてはこの前兆かッ。」  傍より、 「もし何でございます。」 「牝鶏のあしたすると言うて、牝鶏が差し出るからよ。」 「ええ、牝鶏があしたなら構いませんが、こうやって頭を集めているのは、柳屋の雄鶏が宵啼をするからでございますぜ。」 「うう成程、雄鶏だっけの。」 「御串戯、」 「これはやられた。」 「皆様笑いごとじゃアありませんぜ、火に障るっていうのじゃアありませんか、ねえ御隠居。」 「されば……謂うて。」 「御隠居さんなんざ歯に障りましょうね、柳屋のは軍鶏だから。」 「誰だ、交ぜるない、嘉吉が処の母親さえ、水天宮様へ日参をするという騒だ。尋常事じゃあねえ、第一また万に一つ何事もないにした処が、心持が悪いじゃあねえか、宵啼なんて厭なものだ、ほんとうにどうにかしようじゃあねえか。」 「どうするッて、殺しっちまえば可いんでしょう。」 「そうだとよ。」 「それはもう禍の根を断つのだから、宵啼をする鶏は殺すものとしてあるわさ。」 「そこで、」 「謂ったってあの女が肯くものか、どうして可愛がることといったら、」  恐しく声を密めて、 「御隠居の前ですが、お内の猫ぐらいなものじゃアありませんぜ。」 「まずの、」とあやふや。 「だから差配さんに懸合ってもらってよ。」 「その差配さんが今謂う杖だ。」  一段声を張上げて高らかに策を献ずるものあり。 「交番々々。」 「馬鹿をいえ、杖でさえ不可ねえものが、洋刀で始末におえるかい。構うこたあない、皆で押懸けて行ってあの軍鶏を引奪くッてしまうとするだ。」 「大勢でか、ちと変だな。」 「何さ、対手がどうというんじゃあないが、一人や二人ではさすがに話しにくいて。」 「気の毒なり、可哀相でもあり、」 「まあ、何にしろ困ったものだ、今夜にも宵啼が留みさえすりゃ、ああもこうもないんだけれど、留まなきゃあ、事のねえ内よ、気の毒だが仕方がねえ。」  風はさらさらと軒を渡って、ああ、柳屋で鶏が鳴く。 三十八 「蔵人、蔵人。」  涼しい声で、たしなめるように呼懸けながら、店の左手に飾った硝子戸の本箱に附着けて、正面から見えるよう、雑誌、新版、絵草紙、花骨牌などを取交ぜてならべた壇の蔭に、ただ一人居たお夏は、小さな帳場格子の内から衝と浴衣の装で立つと斉しく、取着に箪笥のほのめく次の間の隔の葭簀を蓮葉にすらりと引開けて、ずっと入ると暗くて涼しそうな中へ、姿は消えたが、やがて向直ってつかつかと店へ出た、乳のあたりにその胸を置かせて、翼に手をかけ抱いたのは、お夏が撰んで名をつけた、蔵人という飼鶏である。 「何故今時分啼くんだね、」と人にものを謂うような、されば宵の一声にお夏が忙わしく立ったのは、あたかも寐かしつけた嬰児が、求めて泣出すのに、嫁がその乳房を齎らすがごとき趣であった。 「お前、寂しいのか。」  淋しいのかと謂って、少しく抱きあげて、牙のごとく鋭き嘴にお夏は頬の触らぬばかり、 「私だって店に独で居るんだもの、我儘でございますよ。」  くるくると動かす蔵人の目は光って、ものに動ずる風情あり。 「母様は塩梅が悪いし、寝ていらっしゃるじゃありませんか、人がね、宵啼をするッて忌がります。不可いよ、厭だよ、幾度言って聞かせるか知れないのに、何故言うことをお聞きでない。」  と品ある目で屹と見たが、傾けている片頬から顔の色が和らいで、 「灯を見せてあげようね、宵ッ張たらないのだもの。」  店の真中へ二足三足、あかり前へ、お夏は釣洋燈の下に立ち寄った。新版ものの表紙、錦絵の三枚続、二枚合せ、一枚もの、就中飼鶏がぱっと色彩を放って、金、銀、翠、紅、紫、あらゆる色のここに相応ずる中に、墨絵に肖たる立姿は、一際水が垂りそうである。 「お祭だわねえ、灯がついて賑かだろう。」  飼鶏は心あるごとく炫い洋燈をとみこう見た。楯をも砕くべきその蹴爪は、いたいたしげもなくお夏の襟にかかっている。 「あっちを御覧、綺麗じゃあないか、音羽屋だの、成田屋だの、片市……おやおや誰かの姫君様といったような方がいらっしゃる、いやに澄してさ、高慢な風じゃあないか、お前知ってるかい、何が合点さ、」と言いかけて打微笑み、 「何にも分らない癖に、おもしろいかい、そうかい。これは相撲の番附、こちらが名人鑑、向うが凌雲閣、あれが観音様、瓢箪池だって。喜蔵がいつか浅草へ供をして来た時のようだ。お前あの時分はおとなしかったっけ、この頃はまるで嬰児のようじゃあないか、夜啼をして、良い児だからもうちっと遊んだらあっちへおいで、可いかい。夜になって塒へ入るのは何もかわったことはないけれど、何だか淋しそうで可哀相だねえ、母様と二人ばかしになったって、お前、私が居れば可いじゃあないか。」と、いつか独言をいいながら段々軒に近づいた。 「まだ見たいのかい、さあ、何にしよう、これは軍の絵でございます、」と謂ってお夏は胸を反らし、黒目勝なのを仰向くと同時に、両手で上へ差上げたが、翼の尖が鬢にかかって、 「あら髪がこわれるよ。」と思わず手を放した、飼鶏はどんと身を落して、突立って土間へ下りた。 三十九  溝石で路を劃って、二間ばかりの間の軒下の土間に下りた、蔵人は踏留まるがごとくにして、勇ましく衝と立ったが、秋風は静々と町の一方から家毎の廂を渡って来て、ちょうどこの小さな散際の柳を的に、柳屋へ音信れたので、葉が一斉に靡くと思うと、やがて軍鶏の威毛を戦き揺いで、それから鶏を手から落した咄嗟の、お夏の水髪を二筋三筋はらはらと頬に乱して、颯と吹いてそのまま寂寞。  この名残であろう、枝に結えた賽ころは一ツくるりと廻って、三が出て、柳の葉がほろりと落ちた、途端に高く脚をあげて、軍鶏は店前をとッとッと歩行き出した。  お夏は片手をついて腰をかけて、土間なる駒下駄の上へ一片の雪かとばかり爪先をかけて、うっかりとなった。フトその飼鶏を念頭から奪い去られたのであろう、もの思をする人の常として、こうは思いがけずしばしば心を失うのである。  その間に軍鶏の健脚は、猫の額のごとき店頭を往復することをもって満足が出来なくなった。  かつて黒旋風愛吉をして、お夏の一諾を重ぜしめ、火事のあかりの水のほとりで、夢現の境に誘った希代の逸物は、制する者の無きに乗じて、何と思ったか細溝を一跨ぎに脊伸びをして高々と跨ぎ越して、小路の真中へずっと出て、あたかも西側を離れて、これから東側へ廻ろうとして、狭い町の屋根と屋根との中空へ来た、月の下にすっくとこそ。  土蔵の前に集った一団の人の驚きは推するに余りある次第であろう。  渠等が額を集め、鼻を合せ、呼吸をはずませて、あたかも魔界から最後の戦を宣告されたように呶々している、忌むべき宵啼の本体が、十間とは間を措かず忽然として顕れたのであったから。  あまつさえ這個の怪禽は、月ある町中へつッ立つと斉しく、一振りふって首を伸して、高く蒼空を望んでまた一声、けい引おう! と叫んだ。  これをしも忌み且つ恐れたる面々は、鳴声があとを引いて、前町裏町すべて界隈の路地の奥、土蔵の隅、井戸の底、屋根裏、階子の下、三階、額の裏、敷居、鴨居の中までも遠く響いて押拡がって行くに連れて、次第に霧が起り、月がかくれて、ほとんど名状すべからざるありさまに変ずるがごとく見て取った。  鶏鳴暁を報ずる時、夜のさまが東雲にうつり行く状は、いつもこれに変らぬのであるけれども、月さえやや照し初めたほどの宵の内に何事ぞ。  宵啼をもって、火の神の町を焼く前駆とする者の心には、その声の至る処、路地の奥、土蔵の隅、井戸の底、屋根裏、階子の下、三階、額の裏、敷居、鴨居の中までも、燃えんとして火気の蔓り伝わる心地がして、あわれ人形町は柳屋の店を中心として真黒な地図に変ずるのであろうと戦慄した。 「ワッ!」  古浴衣を蹴返して転がるように駆出したのは、町内無事の日参をするという、嘉吉が家の婆様じゃ。 四十  と見れば白髪を振乱し、頤細って痩せさらぼい、年紀六十に余るのが、肉の落窪んだ胸に骨のあらわれたのを掻いはだけて、細帯ばかり、跣足でしかも眼が血走り、薪雑木を引掴んで、飛出したと思うと突然、 「火事だ、」と叫んで、軍鶏を打とうとしたが、打外した。  蔵人は咄嗟に躱して、横なぐれに退ったが、脚を揃えて、背中を持上げるとはたと婆に突かけた。 「火事だ、」  また喚いて件の薪雑棒を振廻す、形相あたかも狂者のごとく、いや、ごとくでない、正に本物である。蓋し小金も溜って、家だけは我物にしたというから、人一倍、むしろ十倍、宵啼に神経を悩まして、六日七日得も寝られず、取り詰めた果が逆上をしたに違いはないので。  白髪は飛んで、翼は乱れた。あれよと見る間に、婆と軍鶏と、とんと当り、颯と分れて、月下にただぐるりぐるりと廻った。 「汝、業畜生、」と激昂の余り三度目の声は皺嗄れて、滅多打に振被った、小手の下へ、恐気もなく玉の顔、夜風に乱るる洗髪の島田を衝と入れて、敵と身体の擦合うばかり、中を割って引懸けにぐいと結んだ帯の背後へ、軍鶏を庇ったのはお夏である。 「お婆さん何をなさるんです。」  ちょいと横顔で振返って、 「叱!」  軍鶏も窘むようであった。婆は恐しい目をしながら、胸に波を打たせて肩で呼吸だ、歯を喰緊めて口が利けず。  かかる処へ殺気を籠めて、どかどかと寄せて来た、お夏と蔵人とを中に、婆の右左へかけて取巻いたのは土蔵の前に居た連中。 「何だ、火事だ。」 「火事だ?」と口々に尋ねたが、これは事件の緒口を引出そうとするに過ぎない、皆々は云うまでもなく、その間の消息を解していた。 「こ、こ、こいつじゃ、火事はこいつじゃ。」  人数が襲い来ったので思わずおさえていた袂が弛んだ、お夏の手を振放して、婆は蔵人に躍りかかった。 「何をするんですよ。」  遮ろうとするお夏の帯を、ぐいと留めた者がある。同時に婆を突退けて、 「まあ、待ちなさい、」と一名。  発奮をくらい、婆は尻餅をついて、熟柿のごとくぐしゃりとなったが、むっくと起き、向をかえると人形町通の方へ一文字に駆け出した、且つ走り、且つ声を絞って、 「火事じゃ、火事じゃ。」 「あれ。」  嬰児を懐にしっかと圧え、片手を上げて追懸けたのは、嘉吉の家の女房である、亭主その晩は留守さ。 「さてお夏さん、思切っておくんなさい、二三日前から薄々様子は知っていなさろうがね、町内じゃあ大抵気にするッたらないんだから、一番ね、思切って私等に鶏をおくんなさい。何も宵啼をすりゃこうと、政府からお触が出たわけじゃないけれども、可うがすかい、心持だ。悪いことは謂いませんや、お前さんのお為にその方が可かろうと思うからね。」  お夏は黙って囲の中に居るのである。 四十一 「どうです、御承知だろうね、町内じゃあお前さんの家が第一新顔だから、何かその辺にものでもあるように思われては迷惑、可うごすかい、分りましたろう。」 「軍鶏を寄越せって謂うんですか。」 「さようさ。」 「連れてってどうなさるの。」 「占めるんでえ、殺っちまうんでえ。」  と鉄だろう、打まけた。  慌て騒ぐと思の外、お夏は莞爾して、 「不可ませんわ。」 「不可ねえと!」 「まあまあまあ、静かに言っても分ることだ。もし、不可ませんなんてそう平気でいられちゃあ困るじゃあごわせんか。一体、母様に懸合う筈なんだけれど、御病人だからお前さんだ、見なすったろう、嘉吉さん許のなんざ、あの騒。」 「御免なさいな。」となお笑いながら平気なもので、お夏は下に居て片袖の袂を添えて左手を膝に置いて、右手で蔵人の背を撫でた。 「仕ようがないねえ。」  顔を見合せたのが二三人、談判委員もちと案外という語気で、 「呑気にどうも軍鶏と談なんかしていられちゃ困りますよ、ちょこまかした事とは違いますぜ。」  お夏は振仰いで、 「ですから御免なさいまし。」 「あやまるの、あやまらないのというような岡ったるいこっちゃあないんだというに、困っちまうな。」 「私だって困っている、」とお夏も差俯向いた。 「月夜で門へ寄合ったという条、大きな野郎が五人三人、こうやって来たんだから、よくよくの事だと思いなさい、ね、ささ、これが一番分が早い、分りましたか。」  退引かせず詰寄るに従って、お夏はますます庇立、蔵人に押被さるばかりにしつつ、 「もうきっとですよ、きっと鳴きはしませんよ、大丈夫だよ。私がよく言って聞かせますから。」 「おやおや、この上軍鶏と話なんぞされて堪るものか、気味の悪い、何てッたってどうせ助けてはおかないんだ。へん、言って聞かせる、人間の言うことを肯いて鶏が鳴かないようなら、勝手の悪い時は夜が明けねえや。」と嘲笑った者がある。  お夏は屹と見て、 「何、」 「何、何たあ、何たあ何だい、経師屋の旦那に向って、何たあ何だい、そんな口は軍鶏に利け。」 「はい、軍鶏の方が、お前さん方より余程いうことが分りますよ。」 「皆様。」  一同の眼はお夏に注いだ。 「面倒だ、やッつけましょう、可いや、手籠が悪いという方がありゃ後でまた対手になる、留めなすったって合点しねえ、さあ、退け。」  腕まくりをして掴みかからんず権幕であるのに、お夏は更に意に介しないか、眼あるものならば面をも向けられないほど、品ある顔に笑を湛えて、 「それでもほんとに分らないんだもの、あやまったら可いじゃありませんか。」  自ら疑わないことまたかくのごときはあるまい。まさに突飛ばして軍鶏を奪わんとした男も、余りのことに手が出なかった。  それが猶予ったので、かえって傍からいきり出した。あっちこっち耳ッこすりをして、 「エ、」 「さようさ。」  衆議一決。 四十二  両人あり、その時、挟んでお夏の左右より、斉しく袖を引いて、 「さあ放した、退かないか。」 「余り強情を張りなさりゃ仕方がない、姉さん、お前さんの身体に手を懸けますよ。」と断って立懸る、いずれも門札を出した、妻子もあろうという連中であるから、事ここに及んでも無法に拳は握らぬので。 「何をするのよ。」 「いや、どうもしねえ、そン畜生を渡せてえんだい。」 「これ。」 「厭ですよ。」 「厭? 一人前の男に向って、そんな我儘な挨拶があるものか。」 「分らなけりゃ分らないで、可いから町内の交際というものを教えてやろう。」 「姉さん、虫の薬だ、我慢しな。」 「厭、」という時、黒髪は崩るるごとく蔵人の背に揺れかかって真白な腕は逆に、半身捻れたと思うと二人の者に引立てられて、風に柳の靡くよう、横ざまに身悶えした、お夏はさも口惜しげに唇を歪めたが、眦をきりりと上げて、 「私を、……私を、……私を、……」と怒を帯びた声強く、月に瞳を見据えたが、颯と耳朶に紅を染めた。胴を反して、雪なす足を折曲げて、 「あ痛々々々。」  たちまち血の気は頬に消えて、色は一際白ずむのである。 「虫殺しだ、ちったあ痛えや。」 「掴えッちまいなせえ、」とお夏を押えたのが早速の懸声、それもこれも瞬く間で。 「危え、わッ!」  といって、今、お夏を引立てたのを見るや否や、軍鶏の頸を捕えようとした鉄は、両の掌で目を蓋して背後へ反った。  軍鶏はその肩の辺りまで素直に宙へ飛んだのである。  その脚の地に着くともろともに身を飜えしてどんと突くと、 「おッ、」と喚いて、お夏の腕を捻っていたのが手を放して飛退ると、袖が断れたか、とぐいと払って、お夏はいま一人を振放して、つつと月影に姿を消したが、柳の下を潜るが疾いか、溝を超えて、店へ駆け上ると奥へ入った。  後を追って、奇異なる断々の声を叫びながら駆け出した蔵人を、ばらばらと追詰める連中の、ある者は右へ退き、ある者は左へ避け、三人五人前後に分れて、賽の目のように散らばった。  要こそあれ滅多当に拳を廻して、砂煙の渦くばかり、くるくる舞して働きながら、背後から割って出て、柳屋の店頭に突立った、蚰蜒眉の、猿眼の、豹の額の、熟柿の呼吸の、蛇の舌の、汚い若衆を誰とかする、紋床の奴愛吉だ。 「待ちゃあがれ此奴等、私が出入先をどうするんだ。」  奥から引返して出たのはお夏、五七人の男を対手に、いかに負けじとてどうする事ぞ、右手に長煙草を提げたり。かねて煙草は嗜まぬから、これは母親の枕辺にあったのだろう、お夏はこの得物を取りに駆込んだのであった。 「お嬢さん。」 「愛吉か。」  そのまま店から下りそうなるを、びったりと背でおさえて、愛吉は土間一杯に身構えながら、件の賽の目のごとき足並の人立に向って、かすれた声、 「やい! 何方様もよくおいで遊ばされやがったね、へへへへへへ、何御用でございますか、仰せ聞けられまし、へへへへへ。」 四十三 「……七銭三厘、二銭、五銭、十五銭、一銭、二十五銭、三十銭、可いかい。」 「へい、可うございます。」  愛吉は神妙に割膝で畏り、算盤を弾いている。間を隔てた帳場格子の内に、掛硯の上で帳面を読むのはお夏で、釣洋燈は持って来て台の上、店には半蔀を下してある。 「十銭、十八銭、四十銭、五十八銭。」 「旨えもんですぜ。」 「こんなに遅く読むのを置くのじゃあないか、ちっとも旨いことはありゃしない。」 「いいえさ、商もこうなりゃ、占めたものだというんでさ。」  お夏は何にも謂わないで微笑みながら、 「八銭、七銭、五銭、合せて十二銭、三十二銭、十六銭。」  愛吉慌しく急込んで、 「おっと! と。」 「またかい。」 「大概可うがすがね。」 「算用が大概じゃあ困るからね、また遣損なったんでしょう。」 「ええと、今何でさ、合せてなんて、余計なことを言いなすった時、拇で引懸けて、上が下りて一ツ飛んで入りましたっけ。はてな、」  お夏は帳場格子に肱をついて、顔を出して、愛吉が手なる算盤を差覗いた。間近に照らす洋燈の明に、と見れば喧嘩の名残である、前髪が汗ばんでいた。頬にかかるのは愛嬌毛で、 「幾ツ入違えたの、お直しな。」  愛吉は小指でちょいちょいと耳を掻き、 「珠を幾つ遣損なったか、それが分りますと可うがすがね。」  お夏は肱を掛硯の上へ支き直して、明の後へ胸を引いた。 「もうこっちへお寄越しなさい。」  愛吉は一議もなく、算盤と一所に額を突出し、お辞儀をして、 「どうぞ願います。」  入違いにぽんと投出す、帳面を受取って、愛吉は膝の上。 「読みますぜ。」  お夏は前髪の下へ、美しい指を一本、珠を狙って傍目も触らず、 「さあ、」 「しっかりおやんなさい。」 「ああ、」と真面目である。 「えゝと、こうだに寄って、はじまりから遣りますよ、拾銭也。」 「ああ、」と置く。 「八銭八厘也、可うがすかい。」 「ああ、」と置く。 「三十五銭也。」 「ああ、」と置く。 「それから二十八銭也。」 「ああ、」  愛吉は目を擦った。 「お嬢さん、貴女は手習はからっぺただっていうんですが、この字は細くって綺麗ですね。」 「ああ。」 「おっと、また二十四銭也。」 「ああ、」と置く。 「違った、二、二、二、二十二銭、そう、そう。」  と独りで狼狽えて独で落着く。  お夏は後生大事に、置いた処を爪紅の尖で圧えながら、 「ちらちらするね、きっと飲んでおいでだよ。」 「おっと、八銭也。」  早速珠を弾いて、 「ああ、」 「どうも一ツ一ツ、ああと返事をなさっちゃあ、その間にぽつぽつ、私なんざ及びッこなし、旨いものです。」 「旨いもんです。」とお夏は珠を凝視めたままで莞爾する。  愛吉はけろりとして、 「お次が二十八銭也。」 四十四 「お夏や。」  折から奥で衰えた声して呼んだのは、病の床に臥しているという母様。この声を聞くと、愛吉は胸を折って、肩の中へ頸を縮めて、口をむぐむぐと遣る。お夏はこれを見ぬようにしてちょいと見ながら、 「母様。」 「おお、いいえ、来るに及びません、勘定をしておいでか。」 「はい、」と軽く言う。 「御苦労だの。」 「母様、今夜は愛吉が来てくれまして、種々あの交ぜかえしたり、下手な算盤を置いたり、間違ったことをいったりしますから、おもしろくッて可うございますよ。」 「酷いことを、」と口の裡、愛吉は苦い顔をして、お夏を怨めしそうに見る目をぱちくり。 「愛吉、難有うよ。」 「これは、」と額を押えたが、隔てていれば見えもせず、聞えもせず、目のあたりのお夏にはどんなに可笑かったろう。 「母様、愛吉があんな風をいたします。」  愛吉はじたばたしたが、くるりと坐り直って奥の方に手をついた。 「どういたしまして、ええ、水をって申しますと、平時のとおり裏長屋の婆さんが汲込んで行ったと仰有るんで、へい、もう根っから役に立ちません。」と膝を擦ったり、天窓を掻いたり。 「へい、何でございまして、その、」 「何がどうおしなのさ、」とお嬢さん人の悪い。  愛吉はまた慌てて、 「その、何でございまして、へい。」 「佃島のは達者かい。」 「ええ阿母でございますか、ええ、ぴんぴんいたしております。ええ毎日のようにもお伺い申し上げませんければなりませんと、いつでもそう申しちゃあね、済まないッて言いますんでございますが、ああして一人で店を行っておりますし、それにこの頃じゃあ、度々上ると、お夏様が気を揉んでお構い遊ばして、却ってお邪魔だからと、こんなに申しまして、へい。」 「そうかい、お前がちょいちょい来てくれるんだもの。佃島からは大変だ、今度逢ったら宜しくと申してくんなよ。」 「難有うございます、私はどうもちっとも御用にゃ立ちませんで、ほんのもうお嬢様の癇癪、」  途端にお夏が帳場格子をコトコトと叩いて気を着けた。振向くと眉を顰めて、かぶりを振って見せたので、 「癇、」と行詰り、 「癇……癪なんぞお起しなすっちゃあ不可ません、紋床の親方なんぞも申しますが、気永に御養生なさいませんと、お焦れなさるのは一番毒ですって、」といいかけて、額の汗を拭いながら、愛吉は這身になり、暗い蘆戸を覗入れるようにして、 「もし御新造様え。」  ややあって、 「あいよ。」 「そして早くよくおなんなすって、またお襟でもあたらして下さいまし、そうまずくはありませんや、剃刀だけは御用に立ちます。」としんみりする。 「涼しくなったら可かろうと思うよ、今夜あたりは余程心持が可いようだよ。」  しばらく言が途絶えたが、 「お夏や。」 「母様。」 「先刻うとうとしていると、戸外が大分騒がしかったようだっけ、」  愛吉はぎょっとして、また頸を縮め、 「そうら。」 「何? あれは。」 四十五 「何でございますか、向うの嘉吉さんの所の婆さんが気が狂れて戸外へ飛び出したもんですから、皆で取押えるッて騒いだんですよ。」  とお夏は自若としていって真顔で居る、愛吉は苦笑、また苦笑。 「そうかい、飛んだこッたね、そしてどうなりました。」 「火事だ火事だといって表町の方へ駆出して行きましたっけ、しばらくすると角の交番のお巡査さんが連れて戻りましたよ。」  自分かかり合のことは丸抜にして言い紛らした。お夏は母親の前を繕ったのであるが、しかし事実で。  先刻ちょうど来合せた愛吉が、常に口にするよう、お夏の癇癪を引受けて、町内の人々と言い争い、すわや、掴合の始りそうになった時、あたかも可し、婆を捕えて、かの嬰児を抱いた女房を従えて、嘉吉の宅へ届けるため、角の交番から出張したのか、見ると騒動、コヤコヤと叱り留めて、所得税を納める者まで入交って、腕力沙汰は、おい、何事じゃい。  双方聞合せて、仔細が分ると、仕手方の先見明なり、杖の差配さえ取上げそうもないことを、いかんぞ洋刀が頷くべき。  各々自分勝手な迷信から、他人の持物を侵そうとする、それも方角が悪いといって、掃溜の置場所を変えよとでも謂うことか、鶏を殺そうとは沙汰の限り。  なお人一人、それがためにと申立てるが、鶏の宵啼で気が違うほどの者は、犬が吠えると気絶をしよう、理非を論ずる次第でない。火事だ、火事だと駆け廻って、いや火の玉のような奴、かえってその方が物騒じゃ、家内の者注意怠るな、一同の者、きっと叱り置くぞ、早々引取りませい、とお捌きあり。  あっちでもこっちでもぶつぶつがらがら、口小言やら格子の音。靴の響が遠ざかって、この横町は静になったが、嘉吉が家ではなおばたばたするので、うるさいと謂って、お夏が半蔀を愛吉に下さした、その内に蔵人は旧の閨、煙管もそっと、母親の枕許へ、それで事済となったのであるが、寐つきなり殊に病の疲れ、知らぬと思っていた母親に尋ねられて、お夏は落着いても、胸は騒いだのであるけれども、これも案ずるより産むが安かった。 「愛吉、」 「ええ、」  無言で目を合せていて、やがてのこと。 「あの、母様。」  黙って返事がないから、 「寐なすったよ。」  眼を睜って呼吸を凝した、愛吉は吻とばかり、 「可い塩梅、確ですか。」とそッという。 「始終すやすやしていらっしゃる、先刻もよく寐ていなすった様だっけ。」 「それであの煙管などを持出して、ほんとうにあれを揮舞すつもりでございましたか。」 「むむ、」とお夏は打頷く。  愛吉驚いた風で、 「途方もねえ。」 「私にだって一人や二人は打てようじゃあないか。」 「飛んでもねえ。」  お夏は澄したもので、 「不可いかしら?」 「不可いたって、可いたって、そんな身体で、あの中へ揉込まれて、串戯じゃアありませんぜ。髪の毛でもつかまったらどうします。」 「まあ、」 「ええ?」 「そうね。」とわけもなく合点する。  愛吉は乗出して、 「呑気じゃあ困りますな。」 四十六 「だから私がいつでも言うんじゃございませんか、荒いことは軍鶏と私とで引受ますッて。ですから私におっしゃるまで、我慢をしていなさらなけりゃ不可ません、まったくですよ。御新造様がどんなに心配をなさるか知れません、可うがすかい。」 「それでも打棄って置くと殺されるじゃあないか、鶏を寄越せって謂うんだもの。」 「そりゃもう。いえ、済んだ事は仕方がありませんが、これからもあることです、これからの事ですよ。だって先刻も私が来合せましたから宜かったようなものの、どうして立至った場合なら、貴女一人で叶いっこがありますか。どうせ叶わねえので見りゃ、怪我なんぞなさらない方が割方でございましょう、威張ったって婦人だ、何をし得るもんですか。ねえ、」 「はい、さようでございますよ。」 「そら、御覧なさい。」と愛吉は説破し得たりという顔であった。 「愛吉、」 「へい。」 「私が来たから可いようなもののと、お言いだがね。」 「ええ、さようさ。」 「私はそうとは思いません、」と莞爾々々する。  怪訝な顔色で、 「はてね。」 「私は巡査さんが見えたからそれで助かったと思いますよ。」 「や、成程。」 「どうだい。」 「へへへへへへ、一言もござなく、……」  続けさまに天窓を掻き、 「ですがね、お嬢さん。」 「ああ。」 「私も深川のお宅へ泣込んで参りました時のように、いつも弱くばかしはございませんぜ。あの頃は何でもこう二三人とは謂いませんや、一人でも向うへ廻して、わッというと、」  愛吉はぎょッとする仕方をして、 「もう目がくらみました。何、どんな目に合おうかと危険だから塞ぐんで、卑怯に生命が惜いと思うんじゃありませんけれども、さぞ痛かろうと、あらづもりをするんでさ。」 「まあ、」 「もっとも、何ですか、一寸さきは分らないといった工合で、からだらしがありませんでしたが、段々馴れて来てお前さん、この頃じゃあ、立身になりましょうと、喧嘩の虫が声を懸ると、それから明るくなりますぜ。そら拳固だ、どッこい足蹴だ、おっとその手を食うものか、その内に一人つんのめるね、ざまあ見やがれと、一々合点が出来ますだろう。どうです、強くなった証拠ですぜ。親方も言いましたっけ、撲りあいに目を塞がないようになりゃ、喧嘩流の折紙だって、もうちっと年紀を取って功を積んで来ると、極意皆伝奥許と相成ります。へ、」 「おやおやそうすると。」 「喧嘩をしませんとさ。」 「何、」 「極意皆伝奥許というのは喧嘩をしない事ですとさ、何のこッた詰らない。」  と愛吉は何か詰らなそう。 「ほんとうに詰らない、」 「いえ、ところが私にゃあ不可ません、お嬢さんなんざ何でも分っていなさるんだから、はじめから幾らも皆伝になられます、荒っぽい気をお出しなすっちゃあ不可ませんぜ。」 「ああ、だからお前も喧嘩の話はおよし、お前の話というときっと喧嘩の事だよ。」  と淡泊したことを謂いながら、物足りなそうな、済まぬらしい、愛吉の様子を眺めて、もの優しく、 「おもしろい話をお聞かせな、私も淋いからゆっくりおし。そして、煙草がなくば上げようか。」 四十七  愛吉は店の箱火鉢を引張り寄せ、叩き曲げた真鍮の煙管を構え、膝頭で、油紙の破れた煙草入の中を掻廻しながら少し傾き、 「ト、おもしろい談? 鯰が許のかのお米が身の上……ありゃ確もう御存じでございましたね。」 「ああ、二三度聞いたよ、可哀相だわ、おもしろくはないよ。」 「さてと、困ったな、喧嘩が禁制となって酔払いがお気に入らずとあっては、前座種切れだ。」  と吸いつけ、 「お待ちなさい、お米が身の上は可哀相と極って、長崎から強飯が長い話と極った処で、これがおもしろいと形のついた話といってはありますまい。私が一度甲州街道の府中に行っていたことがあります。  よくはやりましたが、新店で、親方というのが少いので、女房もまだ出来たてだもんですから、職人は欲しい、世話はしたいが一所に居るのはちと工合が悪い、内には妹と厄介な叔母とが居て、ちょうど別に一軒借りようという処で、家は見つかっている、所帯道具なんぞ、一式調い次第あとから繰込むとするから、私に先へ行って夜だけ泊っていてくれろとこういう話です。  宜うございますとも。早速その晩から煎餅蒲団一枚ずつ抱えて寝に行きました。木戸があって玄関まであって室数が七ツばかり、十畳敷の座敷には袋戸棚、床の間づき、時代にてらてら艶が着いて戸棚の戸なんぞは、金箔を置いて白鷺が描いてあろうという大したもんです。  私は曰附の家へ瀬踏に使われたんだとは気が着きませんや。  床屋風情にゃあ過ぎたものを借りやあがった、襖の引手一個引剥しても、いっかど飲代が出来るなんと思って、薄ら寒い時分です、深川のお邸があんなになりました、同一年の秋なんで。  その十畳敷の真中で、昆布巻を極めて手足をのびのびと遣りましたっけ。」  愛吉は吸殻を払いて、 「可うごすかい、さあ寝られません。総鎮守の風の音が聞えますね、玉川の流は響きますね、遠くじゃあ、ばッたんばッたん機織の夜延でしょう、淋いッたらありません。  悪くするとこりゃ狐でも鳴きそうだ、弱りましたね、さよう、一時頃でございましたろうか。」  聞惚れていたお夏は急にあどけないことをいった。 「出たかい。」  余り唐突に聞かれたから、愛吉まごついて、 「へい、何でございます。」 「いずれ何か。」 「最初は、庭に手水鉢があります、その雨戸がカタリといいましたっけ、縁側を誰か歩行いて来ます、変だと思ってる内に、広間の前の処で跫音が留んだんです。へい、」といって一ツ自分で頷いた。 「それだけ。」 「どういたしまして、これからなんでさ。しばらくすると、すッと障子を開けましたが、私が枕を持上げる時には、もう畳を三畳ばかりすらすらと歩行いて来ました。  見ると婦人。  はてな、盗られる物はなし、戸締りはして置かないから、店から用があって来たのかしらと、ひょいと見ると、どう仕り……床屋の妹というのはちょいと娘柄は佳うございましたけれど、左の頬辺に痣があって第一円顔なんで。」 四十八 「よく演劇でしたり、画に描いたりするのは腰から下が霧のようになってましょう。  私がその時見ましたのは、どうして、大した結構なものですぜ。  目鼻立のはっきりとした、面長で、整然とした高島田、品は知りませんが、よろけた竪縞の薄いお納戸の着物で、しょんぼり枕許へ立ったんです。  時刻は時刻だし、場所は場所ですし、第一、その玉がまた、府中あたりに見ようたって見られるのじゃありません。何しろお嬢様、三階建の青楼の女郎が襟のかかった双子の半纏か何かで店を張ろうという処ですもの。  歌舞伎座のすっぽんから糶上りそうな美しいんだから、驚きましたの何のって、ワッともきゃっともまさかに声を上げはしませんが、一番生命がけで、むっくり起上ると、フイと背後向になって、風を切るようにすっと引返しました。その時は背筋のあたり、真白な襟を艶々した髷ね、毛筋もならべたほどに見えましたっけ、もう消えたんです。あくる朝はぼんやりでどうも考えて見ると夢のよう、早い処でまず、その消えたあとのことを思出すと、何しろ真暗なんでございましょう。夢でなくッて顔色がどうの、着ものの色がどうの、髷の形がこうのと、分るわけがなかろうじゃありませんか。  夢とすると話が出来ない、いかに田舎稼に出ていたって、野郎の癖に新造の夢でもありますまい。これが山賊に出逢って一貫投げ出したとでもいう事なら、意気地がねえたって茶話にゃなりまさ。  黙っていました。  その晩、また昨夜のように、燧火だけは枕頭へ置いて火の用心に灯は消して寝たんですが。  同一刻になりますと、雨戸がカタリ、ほんの、カタリと聞えますだけなんで、縁側に跫音がしましょう。枕を上げて見たばかりで、何故だか起返る事が出来ません。  その女もしばらく立っていましたっけ、別に何という事は無しに、縁側の障子の際で、肩の辺が消えますとね、桟が見えて高島田もなくなりました。」  お夏は半ば聞棄てて、気を入れるともなく返事ばかりして、帳面をあっちこっちばらばらと返していたが、この時一点も疑う色のない顔を上げた。 「奇代だわねえ。」 「ええ、まだまだそれが三晩四晩と続きましたね、段々気味が悪くなって来るせいですか、さあ、おいでなすったと思うと天窓から慄然として、圧を置かれるような塩梅で動くこともなりません。  五日経ってからお約束の、叔母と、妹というのが引移りました。けれども、そら私に瀬踏をさした位なんですから、そうやって日が経っても、何にもいわないについて大丈夫とは思ったでしょうが、まだ安心がなりますまい、そこで段取は抜、所帯道具は運ばないでまず泊りに来たもんです。  次の室の六畳に二人抱ッこをして寝ましたっけよ。お前さん昨夜は大層うなされてねと、夜が明けてから吐しまさ。さあいよいよだ、とぎょっとしたけれど、何時頃にと、惚けて尋ねますと、ちょうど刻限が合ってるんで。  ままよ、こうなりゃ百年目だ。新造に取着かれる覚はないから、別に殺そうというのじゃあなかろう、生命に別条がないと極りゃ、大威張りの江戸児、」 「吻々々々、」 「ほんとうに度胸を据えました、いえ、大したことじゃありません。何か化けて出る因縁があるに相違ないと思いましたからね、思い切って聞いて試ようと、さあ、事が極ると日の暮れるのが待遠いよう。」 四十九 「婦人二人は、また日が暮れると泊りに来ました、いい工合に青緡を少々握りましたもんですから、宵の内に二合半呷りつけて、寝床に潜り込んで待ってると、案の定、刻限も違えず、雨戸カタリ。  ちらりと姿が見えたが勝負で、私あ目を瞑って、江戸児だ、お前さん何の用だ、と言いました。  すると莞爾笑ったから凄うございまさ。少し俯向いてこう胸の処に袖を重ねていた、それをね、両方へ開いたでしょう。  突然、大蛇の天頭でも顕れるかと思うと、そうじゃアありません。これを預けたさに、と小さな声で謂いましたね。青い襦袢の中から、細い手を差延べたから、何か知らんが大変だ、幽霊の押着ものなんざ恐しい、突退けようと向うへ突出したこの手ッ首の細い処へ、」  愛吉は指の環で左の手首を握りながら、 「一本きらきらする銀の簪、脚を割って突さすように挟んだんです。確に、可うござんすか。確に、という口の下、ぐいぐいとその簪の脚が緊りましてね、ここが不思議ですよ、その痛いことと謂ったら。思わずキャッというと、愛吉さん愛吉さんと呼びますわ、次の室で二人の声がするから、気が着きますと、私は床の上へ坐り直って、現にもお嬢さん、こうやって左の手ッ首を圧えていたんです。  恐しいことには、夜があけても何だか脈処が冷たいようで、ずきずき痛みましたから堪りません。  打明けては言いませんでしたけれども、二晩続けて私が魘されたのを聞いたんで、婦人二人はもう厭だとかぶりを振ります。  有耶無耶の内は、夢だろうぐらいで私も我慢をしましたけれども、そうどうも手首へ極印を打たれちゃあ辛抱がなりません。とても次の晩からはその家へは寝られませんで、形なしになりましたが、私あはじめてです、いまだに不思議に思いますがね。」 「それッきり逢わなかったの。」 「ええ、もう木賃の方へ逃げました。」 「惜しいことをしたねえ、何かお前に頼みごとでもあったんじゃあないか、それでなくってもまた来た時を待っていて、分を聞けば可かったのにね。」  と身に染みて、お夏は残惜しそうな風情であった。 「今で見ますと、私も惜いことをしたと思います、ですがお嬢さん、その場に臨んで御覧なさい、その気味の悪いことといっちゃあ、口で謂うようなものではないんですから。」  お夏はこれを聞取らなかったほど、何か考えていたが、 「幾歳、」 「十八九で、」 「一昨年のことだって、」 「一昨年でございますよ。」 「一昨年十八九、私と同一年ぐらいだねえ?」 「飛んだことを、譬になすっちゃあ不可ません。」と驚いて言う。  お夏は自若として、 「そして簪を預けたいといったって、十八九で綺麗な女で、可愛らしいお化だこと。ほんとに可愛いじゃあないかねえ、」とものおもい、もの思う様子で謂いながら、つむりへ手を遣ると、さしていた銀脚の簪を抜いて取った。 「愛吉、ちょいとお見せな、手を。」 「へい、」 「こんな風に預けたの。」と、そのまま手首へはさんだが、よくは入らないから耳の処へ力を入れた、銀は柔かく二ツに分れて、愛吉の手は帳場格子の上に結いつけられたようになったが、双方無言で、やがて愛吉はぶるぶると震えた。 五十 「取ってお置き、それをお前に上げましょう。」とお夏は事もなげに打微笑み、 「それであのお化の念が届くんだわ。」とあっけに取られた愛吉の顔をさも嬉しそうに眺めたが、不意に色をかえて、お夏はちょっと簪を抜いた髪に、手を触れて見て屹とした。この時の容貌は、過般深川の橋の上で、女中に取巻かれて火を避けたのを愛吉が見たそれのごとく、ほとんど侵すべからざる、威厳のあるものであった。しかもあきらかに一片の懸念の俤は、美しい眉宇の間にあらわれたのである。お夏は神に誓って、戯にもかかる挙動をすべき身ではないのであった。  しかるに愛吉が状もまた極めて案外。  その手も引かず渠は色を正して、やや開き直ったという体で、 「お嬢様、それじゃあこれをお記念に頂きましょう。」 「え。」 「お嬢さん、私は何とも申し上げようはございません。」と片手をそれへ、頭をさげたが、声の調子も変っている。 「私あお嬢さん、あなたに取っちゃあ敵でございます。へい、とんでもない、謂わばその獅子身中の虫と謂うんで、こんな分らずやで何にも存じませんもんですから、愛吉々々とおっしゃって下さるのを、可い事にして、癇癪は引請けましたなんぞと、汝が勝手な熱を吹いちゃあ、ちょいちょいお出入をするもんですから、こんな役雑ものと口をお利きなさりますばッかりで、お嬢様、あなたに人が後指を指すんです。知らない内はから呑気で、一向澄したものでおりましたが、人から気をつけられて身体を持って行き処のないほど、驚いたんでございますよ。  まあどの位、こちら様に害をなすか、こん畜生、数が知れねえんで、へい。実に相済みません、何てっておわびのいたしようもないのでございます。  今晩も実は一言申上げて、お暇乞をしましょうと、その事で上りましたが、いつに変らず愛吉々々とおっしゃるので、つい言い出しかねておりました。  唐突にこんな事を藪から棒、気が違ったかとお思いなさいましょうが、お嬢さん。  あなたも何にも御存じなし、私もちっとも知らないでおります内に、あなたの御縁談が一ツ打破れたんでございまして。  これが並一通のことじゃアありませんや。対手がまたその辺に対手欲しやでうろついてる出来星の吝な野郎じゃアありません、汝が身体さえ打棄ってる私ですもの、大臣だって、大将だって、大金持だって何だって、糸瓜とも思わねえのに、こればかりは大の贔屓で、心底から惚れています山の井の若先生。」 「愛吉!」 「お待ちなさい、それだ、分ってます。京橋から築地、この日本橋、神田、下谷、一度見た親はこういう人をと思わねえものはありますまい。今度あなたの代りに極りました縁の先方の、山河内の奥方てえ、あの癬の大年増なんざ、断食をしないばかりに、女を押つけようといって騒いだと申すんで。  その若先生が、お嬢さん、あなたを望みで、影日向心を入れていたというのに、何と私が着絡ってるばかりに、控えたというじゃアありませんか。」 「愛吉!」 「済みません、分ってます、分ってます。しかもこういう事をはじめて聞きましたのが、先達てお嬢さんが口惜がっておいでなすった、根岸の鴨川一件だ。鼻元思案のお前ばしりに私が暴れ込んで、ひッくりかえって可い心持で飲みました晩ですぜ。それと分ってからはお顔を見るにも御不便で、上りかねましたから、こんなに御不沙汰にもなりましたが、もう一度問直そうと、山の井先生がその時は、自分で鴨川の許へ行ったッていうんです。それが頼まれもせずいいつけもなさらない、お嬢さんの名を出して、私が暴れて帰ったあとだった、というじゃありませんか。  口惜いのは、お嬢さんに団扇で煽がせた時がと言うと、あの鴨川めが肝入で、山河内の娘に見合をさせるのに、先生を呼んだ日だと謂いますわ。敵だもの、おまけに、私が帰ったあとで、あなたの相談がどうなります。それに、まだ、そんな事じゃあない、といいますのはあの若先生は、お嬢さん、あなたが誰にもおっしゃらないで、心で思っていらっしゃる、……」 「愛吉!」 「いいえ、分ってます。誰も知りませんが、これを、いって聞かしたのは、竹永丹平という、新聞社の探訪員。」 明治三十三(一九〇〇)年九月
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 初出:「大阪毎日新聞」    1900(明治33)年8月9日~9月27日 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年3月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048400", "作品名": "三枚続", "作品名読み": "さんまいつづき", "ソート用読み": "さんまいつつき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大阪毎日新聞」1900(明治33)年8月9日~9月27日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-04-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48400.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成9", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年6月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年11月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48400_ruby_47126.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-03-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48400_47272.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-03-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
序 日本橋のそれにや習える、 源氏の著者にや擬えたる、 近き頃音羽青柳の横町を、 式部小路となむいえりける。 名をなつかしみ、尋ねし人、 妾宅と覚しきに、世にも 婀娜なる娘の、糸竹の 浮きたるふしなく、情も恋も 江戸紫や、色香いろはの 手習して、小机に打凭れ、 紅筆を含める状を、垣間 見てこそ頷きけれ。  明治三十九年丙午十二月 鏡花小史 一  鳥差が通る。馬士が通る。ちとばかり前に、近頃は余り江戸向では見掛けない、よかよか飴屋が、衝と足早に行き過ぎた。そのあとへ、学校がえりの女学生が一人、これは雑司ヶ谷の方から来て、巣鴨。  こう、途絶え途絶え、ちらほらこの処を往来う姿は、あたかも様々の形した、切れ切れの雲が、動いて、その面を渡るに斉しい。秋も半ば過ぎの、日もやつ下りの俤橋は、小石川の落葉の中に、月が懸かった風情である。  空の蒼々したのが、四辺の樹立のまばらなのに透いて、瑠璃色の朝顔の、梢に搦らんで朝から咲き残った趣に見ゆるさえ、どうやら澄み切った夜のよう。  しかし、恰好をいったら、烏が宿ったのと、鵲の渡したのと、まるで似ていないのはいうまでもない。また真の月と、年紀のころを較べたら、そう、千年も二千年も三千年も少かろう。  ただ我々に取っては、これを渡初めした最年長者より、もっと老朽ちた橋であるから、ついこの居まわりの、砂利場の砂利を積んで、荷車など重いのが通る時は、埃やら、砂やら、溌と立って、がたがたと揺れて曇る。が、それは大空を視むる目に、雲はじっとしていて、月が動くように見えると一般、橋の俤はうつろわず、あとはすぐに拭ったような空気の中に、洗った姿となるのである。  ちょうど今人の形のいろいろの雲が、はらはらとこの月の前を通り去った折からである。  橋の中央に、漆の色の新しい、黒塗の艶やかな、吾妻下駄を軽く留めて、今は散った、青柳の糸をそのまま、すらりと撫肩に、葉に綿入れた一枚小袖、帯に背負揚の紅は繻珍を彩る花ならん、しゃんと心なしのお太鼓結び。雪の襟脚、黒髪と水際立って、銀の平打の簪に透彫の紋所、撫子の露も垂れそう。後毛もない結立ての島田髷、背高く見ゆる衣紋つき、備わった品の可さ。留南奇の薫馥郁として、振を溢るる縮緬も、緋桃の燃ゆる春ならず、夕焼ながら芙蓉の花片、水に冷く映るかと、寂しらしく、独り悄れて彳んだ、一人の麗人あり。わざとか、櫛の飾もなく、白き元結一結。  かくても頭重そうに、頸を前へ差伸ばすと、駒下駄がそと浮いて、肩を落して片手をのせた、左の袖がなよやかに、はらりと欄干の外へかかった。  ここにその清きこと、水底の石一ツ一ツ、影をかさねて、両方の岸の枝ながら、蒼空に透くばかり、薄く流るる小川が一条。  流が響いて、風が触って、幽に戦いだその袂、流は琴の糸が走るよう、風は落葉を誘うよう。  雲が、雲が、また一片、……ここへ絣の羽織、縞の着物、膨らんだ襯衣、式のごとく、中折を阿弥陀に被って、靴を穿いた、肩に画板をかけたのは、いうまでもない、到る処、足の留まる処、目に触るる有らゆる自然の上に、西洋絵具の濃いのを施す、絵を学ぶ向の学生であった。  広くはあらぬ橋の歩み、麗人の背後を通って、やがて渡り越すと影が放れた。そこで少時立留って、浮雲のただよう形、熟と此方を視めたが、思切った状して去った。  その傍に小店一軒、軒には草鞋をぶら下げたり、土間には大根を土のまま、煤けた天井には唐辛。明らさまに前の通へ突出して、それが売物の梨、柿、冷えたふかし藷に、古い精進庖丁も添えてあったが、美術家の目にはそれも入らず。  店には誰も居なかった。昨日の今時分は、ここで柿の皮を剥いて食べた、正午まわりを帰り路の、真赤な荷をおろした豆腐屋があったに。 二  学生の姿が見えなくなると、小店の向うの竹垣の上で、目白がチイチイと鳴いた。  身近を通った跫音には、心も留めなかった麗人は、鳥の唄も聞えぬか、身動ぎもしないで、そのまま、じっと。  秋の水は澄み切って、鮎の鰭ほどの曇りもないから、差覗くと、浅い底に、その銀の平打の簪が映って、流が糸のようにかかるごとに、小石と相撃って、戛然として響くかと、伸びつ、縮みつする。が、娘はあえて、過って、これを遺失したものとして、手に取ろうとするのではない。  目白がまたチイと鳴いて、ひッそりと、小さな羽を休めた形で、飛ぶ影のさした時であった。  下行く水の、はじめは単に水上の、白菊か、黄菊か、あらず、この美しき姿を、人目の繁き町の方へ町の方へと……その半襟の藤色と、帯の錦を引動かし、友禅を淡く流して、ちらちら靡して止まなかったのが、フト瞬く間淀んで、静って、揺れず、なだらかになったと思うと、前髪も、眉も、なかだかな鼻も、口も、咽喉の幽かに見えるのも、色はもとより衣紋つきさえ、明くなって、その半身をありありと水底に映したのである。  俤はその名である。月のような日中の橋も、斉しく麗人の姿を宿した。  それまで彳んだ娘の思は、これで通ったものであろう。可愛い唇の紅を解いて、莞爾して顔を上げた。身は、欄干に横づけに。と見ると芳紀二十三? 四。目色に凛と位はあるが、眉のかかり婀娜めいて、くっきり垢抜けのした顔備。白足袋の褄はずれも、きりりと小股の締った風采、この辺にはついぞ見掛けぬ、路地に柳の緑を投げて、水を打ったる下町風。  恍惚と顔を上げ、前途を仰ぐように活々した瞳をぱっちりと睜いたが、流を見入って、疲れたか、心にかかる由ありしか、何となく弱々と、伏目になってうつむいて、袖口を胸で引き合わすと、おのずからのように、歩が運んで、するする此方へ。  渡り越して、その姿、低い欄干を放れると、俤橋は一点の影も留めず、後になって、道は一条、美しくその白足袋の下に続いた。  さて小店の前を通った時、前後に人はなし、床几にも誰も居らず、目白もかくれて、風も吹かず、気は凝って寂としたから、その柿と、梨と、こつこつと積んだのが、今通る娘のために、供物した趣があったのである。  通りかかりに見て過ぎた。娘の姿は、次第に橋を距って、大きく三日月形に、音羽の方から庚申塚へ通う三ツ角へ出たが、曲って孰方へも行かんとせず。少し斜めに向をかえて、通を向うへ放れたと思うと、たちまち颯と茜を浴びて、衣の綾が見る見る鮮麗に濃くなった。天晴夕雲の紅に彩られつと見えたのは、塀に溢るるむらもみじ、垣根を繞る小流にも金襴颯と漲ったので。  その石橋を渡った時、派手な裾捌きにちらちらと、かつ散る紅、かくるる黒髪、娘は門を入ったのである。 「真平御免を。」  一ツ曲って突当りに、檜造りの玄関が整然と真四角に控えたが、娘はそれへは向わないで、あゆみの花崗石を左へ放れた、おもてから折まわしの土塀の半に、アーチ形の木戸がある。  そこを潜って、あたりを見ながら、芝生を歩って、梢の揃った若木の楓の下路を、枯れたが白銀の縁を残した、美しい小笹を分けつつ、やがて、地も笹も梢も、向うへ、たらたらと高くなる、堆い錦の褥の、ふっくりとしてしかも冷やかな、もみじの丘へ出た時であった。  向ううらに海のような、一面鏡の池がある。その傾斜面に据えた瀬戸物の床几に腰をかけて、葉色の明りはありながら、茂りの中に、薄暗く居た一人の小男。 三  紅葉の中に著るく、まず目に着いたは天窓のつるりで、頂ャ兀げておもしろや。耳際から後へかけて、もじゃもじゃの毛はまだ黒いが、その年紀ごろから察するに、台湾云々というのでない。結髪時代の月代の世とともに次第に推移ったものであろう。  無地の紬の羽織、万筋の袷を着て、胸を真四角に膨らましたのが、下へ短く横に長い、真田の打紐。裾短に靴を穿て、何を見得にしたか帽子を被らず、だぶだぶになった茶色の中折、至極大ものを膝の上。両手を鍔の下へ、重々しゅう、南蛮鉄、五枚錣の鉢兜を脱いで、陣中に憩った形でござったが、さてその耳の敏い事。  薄い駒下駄運びは軽し、一面の芝の上。しかるに疾より聞きつけたと覚しく、娘の立姿、こぼるるもみじの葉の中へ、はらりと出でて見ゆるや否や、床几を立って、恭しく帽子を踵の辺まで、手とともにずッと垂れて、真平御免! と啓したのである。 「ええ、御免下さいまし、甚だ推参なわけで、飛んだ失礼でございまするが、手前通りがかりのもので、」といい出る。  娘は上から伏目で見た、眦が切れて、まぶちがふッくりと高いよう。  その気おのずから、脳天を圧して、いよいよ頭を下げ、 「は、当御館におかせられましては、このお庭の紅葉を、諸人に拝見の儀お許しとな、かねがね承ったでありまするで、戸外から拝見いたしましてさえ余りのお見事。つい御通用門を潜りまして、うかうかとこれへ。  実は前もってちょっとお台所口まで、お断りを申上げまして、御承諾を頂戴いたそうかにも心得ましたが、早や拝見御免とありますれば、かえってお取次、お手数、と手前勘に御遠慮を申上げ、お庭へ参って見ますると、かくの通。手前の外には、こう、誰一人拝見をいたしておりますものがございません。ほい、こりゃ違ったそうな、すれば、大方、だろうぐらいに考えて風説をいたしますのを、一概にそうと心得て粗忽千万な。  若いものではございませず、分別盛を通り越していながら、と恐縮をいたしましてな、それも、御門内なら、まだしも。  無躾にも、ずかずか奥深く参りましたで、黙って出て参るわけにも相成りませず、ほとんど立場をなくしております儀で。  ええ、どうぞ貴女様、大目に御覧下さりますよう、また少々拝見の処も、あいなりますることでございましたら、御赦しのほどを、あらためてお願い申しまする。」  と句は伸びたが淀まぬ口上、すらすらと陳べ立てた。  疾くから何かいいたそうだった娘は、その隙のないのに言を含んで黙って待ったが、この(お願い申しまする)に至って、ちょいと言が切れたので。ト支えたらしい、早急には、いい出せないし、黙っていると、低頭したままでいる。はッと急いたか、瞼を染めた、気の毒なが色に出て、ただ、涼しい声で、 「はい、」といった。 「お差支はないでしょうか。」と、少しずつ顔を擡げる。 「御免なさいな、私は、あの、この家のものじゃないんですよ。」 「へ、何、お邸のお嬢様ではいらっしゃいません?」 「貴下、不可いんですかねえ、私もやっぱり見に来たものなの。」  小男は胸を反らして笑い、 「成程、御夥間ですかい。はははは、可うございましょうとも。まあ、お掛けなさいまし。何ね、愚図々々いや今の口上で追払いまさ。貴女がお嬢様でも、どうです、あれじゃ厭とはいえますまい。」 「そう、ほんとうにお上手ね、」と莞爾した。  ちとこの返事は意外だったか、熟と瞻ってて、 「や、」帽子の下で膝をはたり。 「人形町においでなすった、――柳屋のお夏さん。」 四 「今日は、今日ア、」  かみさんが、 「ああい、」といって、上框の障子を閉め、直ぐその足で台所へ、 「誰? おや、床屋さん、」 「へへへへへ、どうも晩くなりまして済みません、親方がそう申しました、ええ、何だもんですから、つい、客がございましたもんですから、」  袷の上に白の筒袖、仕事着の若いもの。かねて誂の剃刀を、あわせて届けに来たと見える。かんぬしが脂下ったという体裁、笏の形の能代塗の箱を一個、掌に据えて、ト上目づかいに差出した。それは読めたが、今声を懸けたばかりの、勝手口の腰障子は閉まったり、下流の板敷に、どッしり臀を据えて膝の上に頤を載せた、括猿の見得はこれ什麽。 「まあ。」  奴は、目をきょろきょろして、 「へへへへへ。」 「御世話様でした。」といってただ受取ったのが、女房の解せない様子は、奴もとより承知之助。  台所に踞んだまま、女房の、藍微塵の太織紬、ちと古びたが黒繻子の襟のかかったこざっぱりした半纏の下から、秋日和で紙の明るい上框の障子、今閉めたのを、及腰で差のぞき、 「可塩梅に帰りましたね。」 「誰さ。」 「今来やがった野郎でさ。」  これで分った。女房は頷いて、 「ああ、今の。何だろう? お前さん知ってますか。」 「知ってますッて、とんだ奴です。」ともう一度首を伸ばして見る。  女房も振返ったが、受け取った剃刀をそのまま、前垂を挟んで、粋に踞み、 「何、町内の若い衆かい。」 「じゃ、おかみさん、こっちじゃ御存じないんですか。」 「見た事もない人さ、でもお嬢さんはどうだか。」 「へい、何てって来やがったんで。」 「ええ、御免下さいまし、こちら様のお嬢様はお内ですかッていったがね。」  若い衆、板の間に手をかけて、分別ありそうに、傾いた。白いのを着た姿は、前門の虎に対して、荒神様の御前立かと頼母しく見えたので。 「いったんだがね、もっともお留守だからお留守だといったら、じゃまた後ほどッて帰ったがね。」  いいいい、くるりと身をかえして立つと、踞んでいた腰を伸ばし切らず、直ぐそこに、てらてらの長火鉢。 「誰方でございますえッて聞いたら、何にもいわないで、への字形の口で、へへへへはちと気障だったよ、あああ。」  と傍の茶棚の上へ、出来て来たのを仰向いてのせた、立膝で、煙草盆を引寄せると、引立てるように鉄瓶をおろして、ちょいと触ってみて、埋けてあった火を一挟み。  番煙草と見ゆるのに、長煙管を添えて小取廻しに板の間へ押出した。 「まあ、一服おあがんなさい。」  さほど思案に暮れるほどの事でもないが、この間待って黙って控えた。奴、鼠のように亀甲羅宇を引いて取り、 「おかみさん、頂きます。」 「まずいよ、私ンだから。」 「どういたしまして、へい、後にまた来ますッて。」 「いったがね、何かい、筋が悪いのかい。」と斜に重忠という身で尋ねる。 「悪いの何の! から、手のつけられた代物じゃないんですよ。」 「ゆするの?」 「いいえ、ゆするも、ゆすらないも、飲んだくれ、酒ッ癖の悪い、持て余しものなんでさ。私どもの社会ですがね。」 「おや、やっぱり、床屋さん。」 「床屋にも何にも、下町じゃ何てますか、山手じゃ、皆が火の玉の愛吉ッていいましてね、険難な野郎でさ。」 五 「三厘でもありさえすりゃ、中汲だろうが、焼酎だろうが、徳利の口へ杉箸を突込んで、ぐらぐら沸え立たせた、ピンと来て、脳天へ沁みます、そのね、私等で御覧なさい、香を嗅いだばかりで、ぐらぐらと眩暈がして、背後へ倒れそうなやつを、湯呑水呑で煽りやがるんで、身体中の血が燃えてまさ。  ですから、おかみさん、ちょっとでもあン畜生に触るが最後、直に誰でも火傷をします。火の玉のような奴で、東京中の床屋という床屋、一軒残らず手を焼いてしまったんで、どこへ行っても店口から水をぶッかけて追い出すッて工合ですから、しばらくね、消えました。  多日、誰の処へも彼奴の影が見えねえで、洗桶から火の粉を吹き出さないもんですから、おやおや、どこへ潜ったろう、と初手の中は不気味でね。 (上げ板を剥って見ろ、押入の中の夜具じゃねえか、焦臭いが、愛吉の奴がふて寝をしていやあがるだろう。)  なんてって親方徒が、串戯にもいったんですが、それでもざっと一年ばかり、彼奴の火沙汰がなかったんです。  すると、おかみさん、どうでしょう、念にゃ念の入った、この夏、八月の炎天に、虚空を飛んで、ごろごろと舞い戻りやがって、またぞろ、そこら転がって歩行くでさ。へい。」  といって煙を吹いた。顔が赤く、目が円い。この若いもの、余程おびえているのである。  余りの事に、はじめは笑って聞いていた女房は、なぜか陰気な顔をして、 「厭だよ、どこから舞い戻って来たんだねえ。」 「それがどうです。そら、そういった工合で、東京中は喰い詰める――し、勿論何でさ、この近在、大宮、宇都宮、栃木、埼玉、草加から熊ヶ谷、成田、銚子。東じゃ、品川から川崎続き、横浜、程ヶ谷までも知っていて対手にし手がないもんですから、飛んで、逗子、鎌倉、大磯ね。国府津辺まで、それまでに荒しゃあがったんでね、二度目に東京を追出てもどこへ行っても何でしょう、おかみさん。 (は、愛吉か、きなッくさい。)  と鼻ッつまみで、一昨日来い! と門口から水でしょう。  火の玉が焼を起して、伊豆の大島へころがり込んで行ったんですって。芝居ですると、鎮西八郎為朝が凧を上げて、身代りの鬼夜叉が館へ火をかけて、炎の中で立腹を切った処でさ。」 「ああああ、」と束ね髪が少し動いて頷く。 「月に一度、霊岸島から五十石積が出るッてますが、三十八里、荒海で恐ろしく揺れるんですってね。甲板へ潮を被ったら、海の中で、大概消えてしまいそうなもんですけれど、因果と火気の強い畜生で、消火半を打たせません。  しかも何です、珍しく幾干か残して来たんですぜ。  何しろ、大島なんですからね、婦女が不断着も紋付で、ずるずる引摺りそうな髪を一束ねの、天窓へ四斗俵をのせて、懐手で腰をきろうという処だッていいますぜ。  内地から醤油、味噌、麦、大豆なんか積んで、船の入る日にゃ、男も女も浪打際へ人垣の黒だかり。遥の空で雲が動くように、大浪の間に帆が一ツ横になって見える時分から、爪立つものやら、乗り出すものやら、やあ、人が見える、と手を拍いて嬉しがるッていう処でさ。  さすがに火の手を上げなかったもんですから、そら、ちっとばかし残ったでしょう。  処で、炎天を舞い戻ると、もう東京じゃ、誰も対手にしないことを知ってますから、一番自前で遣ろうというんで方々捜したそうですがね。  当節は不景気ですから、いくらも床店の売もの、貸家はあるにゃありますが、値が張ったり、床屋に貸しておくほどの差配人、奴の身上を知っていて断ったりで、とうとう山の手へお鉢をまわすと、近所迷惑。あいにくとまたこの音羽続きの桜木町に一軒明いたばかりのがあったんでさ。  そこへ談を極めましてね、夏のこッたし、わけはありません。仕事着一枚の素裸。七輪もなしに所帯を持って、上げた看板がどうでしょう、人を馬鹿にしやがって!――狐床。」 六 「その狐が配ったんでさ。あとで蚯蚓にならなかったまでも、隣近所、奴が引越蕎麦を喰った徒は、皆腹形を悪くしたろうではありませんか。  開業の日から横町大騒ぎになりました。というは、何です、まあ、口あけのお客と、あとを二人ばかり仕事をしたッていいますが、すぐに祝酒だ、とぬかしゃあがって。店をあけたまま、見通しの六畳一間で、裏長屋の総井戸をその鍋釜一ツかけない乾いた台所から見晴しながら、箒を畳へ横ッ倒しにしたまんま掃除もしないで、火の玉小僧め、表角の上州屋から三升と提込んでね、おかみさん、突当りの濁酒屋から、酢章魚のこみを、大皿で引いて来てね、  友達三人で煽ったんでさ。  友達といったって、まとものものは、附合いませんや。自分じゃ仏だ、仏だといいますが、寝釈迦だか、化地蔵だか、異体の知れない、若い癖に、鬼見たような痘痕面で、渾名を鍍金の銀次ッて喰い詰めものが、新床だと嗅ぎ出して、御免下さいまし、か何かで、せしめに行った奴を、おともだち、お前さんも不景気で食えねえのか、飯はないが酒はあるてって、引摺り入れた役雑とね。  もう一人は車夫でさ。生れてから七転びで一起もなし、そこで通名をこけ勘という夜なし。前の晩に店立てをくったんで、寝処がない。褌の掛がえを一条煮染めたような手拭、こいつで顱巻をさしたまま畳み込んだ看板、兀げちょろの重箱が一箇、薄汚え財布、ざッとこれで、身上のありッたけを台箱へ詰め込んだ空車をひいて、どうせ、絵に描いた相馬の化城古御所から、ばけ牛が曳いて出ようというぼろ車、日中は躄だって乗りやしません。  ごろりごろりとやって、桜木町を通りかかって、此奴も同く路地床の開業を横目で見たからぬかりませんのさ。  右のね、何ですっさ。にごり屋の軒下へ車を預けて、苜蓿のしとったような破毛布を、後生大事に抱えながらのそのそと入り込んで、鬼門から顔を出して、若親方、ちとお手伝い申しましょうかね……とね。  此奴等、そこで三人、虫拳で寄り合をつけたんでさ。」 「驚いたねえ、火の玉に鍍金に、こけだえ。まるで三題噺のようじゃないか。さぞ差配様がお考えなすったろう、ああ、むずかしい考えものだね。」  思わず警句一番した、女房も余りの話、つい釣り込まれてふき出したが、飜って案ずるに笑事ではないのである。 「串戯じゃないよ。」  と向き直って、忘れていた鉄瓶を五徳の上。またちょいと触ってみたのは、これからお茶でも入れる気だろう。首尾が好いと女世帯、お嬢さん、というのは留守なり、かみさんも隙そうだ。最中を一火で、醤油をつけて、と奴十七日だけれども、小遣がないのである。而已ならず、乙姫様が囲われたか、玄人でなし、堅気でなし、粋で自堕落の風のない、品がいいのに、媚かしく、澄ましたようで優容やか、お侠に見えて懐かしい。ことに生垣を覗かるる、日南の臥竜の南枝にかけて、良き墨薫る手習草紙は、九度山の真田が庵に、緋縅を見るより由緒ありげで、奥床しく、しおらしい。憎い事、恋の手習するとは知れど、式部の藤より紫濃く、納言の花より紅淡き、青柳町の薄紅梅。  この弥生から風説して、六阿弥陀詣がぞろぞろと式部小路を抜ける位。  月夜烏もそれかと聞く、時鳥の名に立って、音羽九町の納涼台は、星を論ずるに遑あらず。関口からそれて飛ぶ蛍を追ざまに垣根に忍んで、おれを吸った藪ッ蚊が、あなたの蚊帳へとまった、と二の腕へ赤い毛糸を今でも結えているこの若い衆、願くはそのおかえりを、半日ここで待つ気である。 七  ここにおいてか、いよいよ熱心。 「でもその、拳ぐらいで騒ぎが静まりゃ可いんですが、酔が廻ると火の玉め、どうだ一番相撲を取るか、と瘠ッぽちじゃありますがね、狂水が総身へ廻ると、小力が出ますんで、いきなりその箒の柄を蹴飛ばして、血眼で仕切ったでしょう。  可かろう、で、鍍金の奴が腕まくりをして、ト睨み合うと、こけ勘が渋団扇を屹とさして、見合って、見合ってなんて遣ったんですって。  表も裏も黒山のような人だかりだろうじゃありませんか。  晴の勝負でさ。じりじりと寄合って呼吸が揃ったから颯と引くと、ハッケもノコッタもあったもんですか。  火の玉め、鍍金の方が年紀上で、私あ仏の銀次だなんて、はじめッから挨拶が癪に障ったもんだから、かねてそのつもりだったと見えまさ。  喧嘩には馴れてますから素敏い。立つか立たないに、ぴしゃぴしゃと、平掌で銀の横ッ面を引叩いた、その手が火柱のようだから堪りません。  鍍金の奴、目がくらんで、どたり突倒る。見物喝采。愛吉も、どんなもんだと胸を叩いたは可いが、こっちあ蒼くなって、 (何の意趣だ。)  と突立ち上ると、 (はり手というんだ。お行司に聞いてみねえ。)  と、空嘯いて高笑いをしたでしょう。  こけ勘はこけてるから、あッ気に取られて、黙ってきょろきょろしているばかり。 (可し、相撲にゃ己が負けた、刃物で来い。)  とこちらも銀でさ。すぐに店へ駆け出して剃刀を逆手に取って構えたでしょう、もう目が据って、唇が土気色。」 「どうしたい。」 「火の玉は真赤になって、 (何を、何を。)  ッていいながら、左の肩で寸法を取って、尺取虫のように、じりり、じりり。 (愛吉さん。)  五合ふるまわれたお庇にゃ、名も覚えりゃ、人情ですよ。こけ勘はお里が知れまさ、ト楫棒へ掴った形、腰をふらふらさせながら前のめりに背後から、 (愛吉さん、危え、危え。)  ッて渋団扇で煽いだのは、どういうものか、余程トッチたようだったと、見ていたものがいうんでして、見物わッとなる騒動。  どッちを取おさえようにも真剣で、一人は剃刀だから危うござんす。  その内に火の玉が、鍍金の前を電のような斜ッかけに土間を切って、ひょいと、硝子戸を出たでしょう。集っていたのは、バラバラと散る。 (遁げるかッ。)  で、鍍金の奴が飛びつくと、 (べらぼうめ、いくら山手だってこう、赤城に芝居小屋のあった時分じゃねえ、見物の居る前で生命の取遣りが出来るかい、向う崖の原ッ場までついて来い、殺してやる、来い!)  というと前へ立って駆け出したんで、皆がぞろぞろとついて行くと、鍍金の奴は一足おくれで、そのあとへ、こけ勘。  ところがね、おかみさん、いざ原場の頂上へ薄りと火柱が立って、愛吉の姿があらわれたとなる。と、こけ勘はいきせい切って追いあがりましたが、遠巻にした見物も、二人の徒も、いくら待っても鍍金が来なかったというじゃありませんか。  その筈でさ、来ないも道理。どさくさ紛れに、火の玉の身上をふるった、新しいばりかんを二挺、櫛が三枚、得物に持った剃刀をそのまま、おまけに、あわせ砥まで引攫って遁亡なんですって。……  類は友だっていいますがね、此奴の方が華表かずが多いだけに、火の玉の奴ア脊負なげを食って、消壺へジュウー……へへへ、いい様じゃありませんか、お互です。」  女房怪しからず、と剃った痕に皺のまじった眉を顰め、 「お互ッて、じゃ今来た愛吉ッてのもちょいちょい盗るの。」 「いずれ、そりゃね。」 「気味が悪いね、じろりと様子を見ていずれ後程、は気障じゃないか。」 「ですからね、何ですよ、気をおつけなさらなくッちゃ不可ません、この頃は恐ろしく、さがり切っていやあがるんでさ。」 八 「もっともその何ですよ、開業式の日に、ばりかんなんぞ盗まれたのが、けちのついた印なんでさ。焼を起してあくる朝、おまんまを抜きにしてすぐに昼寝で、日が暮れると向うの飯屋へ食いに行って、また煽りつけた。帰りがけに、(おう、翌日ッから、時分時にゃ、ちょいと御飯ですよッて声をかけてくんねえよ。三度々々食いに来ら。茶碗と箸は借りて行くぜ、こいつを持って駆出して来るから、)  ッて、両手に片々ずつ持って帰った。妙なことをすると思うと、内へ帰って、どたり大胡坐を掻込んでね、燈は店だけの、薄暗い汚い六畳で、その茶碗のふちを叩きながら、トテトンツツトン、 不孝ものだが相談ずくで、     酒になりなよ江戸の水。  なんて出鱈目に怒鳴るんですって、――コリャコリャと囃してね、やがて高鼾、勿論唯一人。 「呆れた奴だねえ。」 「から箸にも棒にもかかるんじゃありません。私なんぞが参りますと、にごり屋のかみさんが沁々愚痴をいいますがね、勘定はいうまでもなく悪いんです、――連を引張って来りゃきっと喧嘩。  そうかと思うと、そこいらの乞食小僧を、三人四人、むくんだ茄子のどぶ漬のような餓鬼を、どろどろと連込んで、食いねえ食いねえッて、煮ッころばしの湯気の立つお芋を餌に買って、ニヤニヤ笑いながら、ぐびりぐびり。  何でもそいつらを手馴けて、掏摸や放火を教えようッていうんです。かかったもんじゃありませんや。  ところがね、おかみさん、女ッてものは不思議とこう、妙に意固地なもんで。四丁目の角におふくろと二人で蜆、蠣を剥いています、お福ッて、ちょいとぼッとりした蛤がね、顔なんぞ剃りに行ったのが、どうした拍子か、剃毛の溜った土間へころりと落ちたでさ――兇状持には心から惚れて、」  と密と言って厭な顔色、ちと遺恨があるらしい。 「(愛吉さん、詰らないもんですが、)  なんてやがって、手拭や巻煙草を運びまさ。  いつか中も、前垂の下から、目笊を出して、 (お菜になさいな、)  と硝子戸を開けて、湯あがりの顔を出す、とおかみさん。  珍らしく夜延でもする気がして、火の玉め洋燈の心を吹きながら、呼吸で点れそうに火をつけていた処。 (入ッて遊びねえ、遊びねえよ。)  ッたが、初心ですからね、うじうじ嬌態をやっていた、とお思いなさい。  いきなり、手をのばすと、その新造の胸倉を打掴えて、ぐいと引摺り込みながら硝子戸を片手でぴッしゃり。持っていた洋燈の火屋が、パチン微塵、真暗になったから、様子を見ていた裏長屋のかみさんが、何ですぜ、殺すのか、取って食うのか、生血を吸うのかと思ったっていうんですぜ。  やがて何ですとさ、火の玉の野郎が台所口から廻って、のそのそ戸外へ出て行くから、密とそのあとを覗くと、新造がね、薄暗い中にぼんやり幽霊のように坐っていましたッて。  愛の奴はどこへ行ったろうと思うと、お定りのにごり屋。 (おう、媽々が出来たから、今日は内で飯を喰うんだ、道具を貸してくんねえ、)  とまず七輪を一ツ運んだでさ。あとで鍋に醤油を入れてもらって、茶碗を二ツ、箸二人前。もう一ツ借込んだ皿にね、帰りがけにそれでも一軒隣の餅菓子屋で、鹿の子と大福を五銭が処買ったんですって、鬼の涙で、こりゃ新造へ御馳走をしたんですとさ。  そら、食いねえは可いが、燈は点けたそうですけれど、火屋なしの裸火。むんむと瓦斯のあがるやつを、店から引摺って来た、毛だらけの椅子の上へ。達引かれたむき身をじわじわ、とやって、 (阿魔、やい、注いでくりゃ。)  と前はだけの平胡坐、ぬいと腕まくりで突出したのが飯喰茶碗。  五合を三杯半に平げると、 (こう、向うへ行って、取って来い、)  は乱暴じゃありませんか。  打たれそうだから、おどおどして、白鳥を持って立ちにゃ立ったが、極りの悪そうに、うつむいた、腰のあたりを、ドンと蹴上げたから堪りませんや。」 九 「(あれ)といってどたり横倒れになって、わッと袂を噛んで泣くと、 (三日辛抱が出来るかい、べらぼうめ、帰れ、)  とばかりで、蹴つけた脚を投出したまんま、仰向けにふんぞり返って、ええ、鼾。  その筈で、愛の奴だって、まさか焼跡の芥溜から湧いて出た蚰蜒じゃありません。十月腹を貸した母親がありましてね。こりゃ何ですって、佃島の弁天様の鳥居前に一人で葦簀張を出しているんですって。  冬枯れの寒さ中毒で、茶釜の下に島の朝煙の立たない時があっても、まるで寄ッつかず、不幸な奴ッちゃねえけれど、それでも、 (大島の磯へ出て、日本の船を見い見いした時にゃ、おっかあ、お前を思い出した、)  と今度店を持った折に、一所になろうッていったそうですが、どうして肯入れるもんですか、子を見ること何とかというわけで、三日酒のまず、喧嘩をしないでいたら、世話になろうといいましたとさ。  どんなもんです。  考えて御覧なさい、第一その新造なんざ、名からして相性があわねえんです、お福なんて。  彼奴が相当に、抱ッこで夜さり寝ようというのは、こけ勘が相応なんで、その夜なしの貧乏神は縁があったと見えまして、狐床の序開き、喧嘩以来、寝泊りをしていたんです。  お福ッ子は倒れたなり、突伏していましたッて。先刻餅菓子を買われた時、嬉しそうに莞爾して、酌をする前に、それでも自分で立って、台所の戸障子を閉めて、四辺を見たから、その時は戸袋へ附着いて、色ッぽい新造の目を遣過しておいて、閉めて入ったことを、破れた透間から、ト覗いていた、その裏長屋のかみさんが、堪らなくなったでしょう。」 「そうだろうともさ。」 「そこで何です。見るに見かねて、密と入って、お福ッ子の背中を叩いて、しくしく泣いているのを手を引いてね、台所口から連れ出したは可いが、店から入ったんで跣足でしょう。  それまで世話をして、女房がね、下駄をつまんで、枕頭を通り抜けたのも、何にも知らず、愛の奴は他愛なし。  それから路々宥めたり、賺したり、利害を説くやら、意見をするやら、どうやら、こうやら。  でもまあ、目白下の寄席の辻看板のあかりで、ようよう顔へあてた袖をはずして、恥かしそうに莞爾したのを見て、安心をして帰ったそうですが、――不安心なのは火の玉の茅屋で。  奴裸火の下に大の字だから、何、本人はどうでもいいとして、近所ずから、火の元が危いんでね、乗りかかった船だ、また台所から入って見ると、平気なもんで、ぐうす、ぐうすう。  鼠が攫ったか、それとも長屋うちの腕白がしょこなめたか、五銭が餅菓子一つもなし。  から、だらしがねえにも何にも。  そこで、火の用心に、洋燈はフッと消したんですが、七輪の鍋下の始末をしなかったのが大ぬかり。  もっとも火のある事は気がついたそうですが、夜中にゃ、こけ勘が帰って来る。それまでは隣家の内が、内職をして起きている、と一つにゃ流元に水のない男世帯、面倒さも面倒なりで、そのままにして置きました。さあ、これが大変。」 「失火たかい。」と膝の進むを覚えず、火鉢を後に、先刻から摺って出て、聞きながら一服しようとする。心を得て、若い衆が拭って返した、長煙管を、ほとんど無意識に受け取って、煙草盆を引寄せる。  若いものも台所へ下流の板から、橋を架けた形で乗り出し、 「お前さん、とうとう小火です。」 「ね、行ったろう、」  果せるかなと煙管をト――ン、 「ふう、」と頷きながら煙を吹く。 「夜中の事で。江戸川縁に植えたのと違って、町の青柳と桜木は、間が離れておりますから、この辺じゃ別に騒ぎはしませんでしたが、ついこの月はじめの事ですよ。」 「私ゃもうぼけてしまって物わすれをするからね、確には覚えていないが、お待ちよ、そういや、お湯屋でちらりと聞いたようにも思うね。」 「は、何しろ居まわり大騒動。」 十 「いずれそれ、焦ッ臭い焦ッ臭いがはじまりでさ。隣から起て出ると、向うでも戸を開ける。表通じゃ牛込辺の帰りらしい紋付などが立留まる。鍋焼が来て荷をおろす。瞬く間に十四五人、ぶらぶらとあっちへこっちへ。暗の晩でね、空を見るのもありゃ、羽目板を撫でるのもあり。  その内に、例のかみさんが起きて出て、きっとだよ、それじゃ、とすぐに狐床の前へ行った時分にゃ、もう蒸気を吐くように壁を絞って煙が出るんで、けたたましい金切声で床屋さん、親方! とこんな時だけの親方、喚いても寂として返事がないんで、構わず打壊せッて、気疾なのががらりと開けると、中は真赤、紅色に颯と透通るように光って、一畳ばかり丸くこう、畳の目が一ツ一ツ見えるようだッたてこッてす。  台所へ行く柱なんざ、半分がた火になって障子の桟をちょろちょろと、火の鼠が伝うように嘗めてました。と哄と、皆が躍り込むと、店へ下り口を塞いで、尻をくるりと引捲って、真俯伏せに、土間へ腹を押ッつけて長くなってのたくッていたのが野郎で、蹴なぐって横へ刎ねた袷の裾なんざ、じりじり焦げていましたとさ。  此奴もう黒焼けかと思うと、そうじゃないんで、そら通れますまい、構わず踏んで、飛び上った人があったそうです。  すると、しゃッきりと起きました。 (や、なぐり込みに来やがったな、さ、殺せ、)というと、椅子を取って引立てて、脚を掴んでぐンと揮った。一番乗りの火がかりは、水はなし、続く者なし、火の玉は突立ったり、この時、戸が開いたのと、人あおりで、それまで、火で描いた遠見の山のようだった。蒸焼のあたり一面、めらめらとこう掌をあけたように炎になったから、わッというと、うしろ飛びに退っちまったそうですよ。 (来やがれ、此奴等、一足でも寄って見ろ。)  と炎を脊負って、突立って椅子をぐるぐるとまわすんですっさ。  何でも小石川の床店の組合が、殺みに来たと思ったんだそうで、奴は寝耳で夢中でさ、その癖、燃えてる火のあかりで、ぼんやり詰めかけてる人形が認えたんでしょう。煙が目口へ入るのも、何の事はありません、咽喉を締められるんだぐらいに思ったそうでね。  あとで聞いたら、大勢につかまって焼殺される夢を見ていた処ですって、そうでしょう。寝返に七輪を蹴倒して、それから燃え出して、裾へうつる時分に、熱いから土間へころがって、腹を冷していたんだそうで。巡査の姿が、ずッと出た時、はじめて我に返ったか、どさくさ紛れに影が消えたそうですが、どこまで乱脈だか分りません。火の玉め、悠々落着いて井戸端へまわって出て、近所隣から我れさきに持ち出した、ばけつを一箇、一杯汲み込んで提げたは可いが、汝が家の燃えるのに、そいつを消そうとするんじゃないんで。店先に込合っている大勢の弥次馬の背後へ廻って、トねらいをつけて、天窓ともいわず、肩ともいわず、羽織ともいわず、ざぶり、滝の水。」 「大変だ、」と女房。 「そら、ポンプだ、というと呵々と高笑いで、水だらけの人間が総崩れになる中を澄まして通って、井戸端へ引返して、ウイなんて酔醒の胸のすく噯でね、すぐにまた汲み込むと、提げて行くんです。後からあとから人集りでしょう。直にざぶり! 差配の天窓へ見当をつけたが狛犬へ驟雨がかかるようで、一番面白うございました、と向うのにごり屋へ来て高話をしますとね。火事場にゃ見物が多いから気が咎めるかして、誰も更って喧嘩を買って出るものはなし、交番へ聞えたって、水で消さずに何で消す、おまけに自分の内だといや、それで済むから持ったもんです。  ところが済まないのは差配の方です。悪たれ店子の上に店賃は取れず、瘠せた蟒でも地内に飼って置くようなもんですから、もう疾くにも追出しそうなものを、変った爺で、新造が惚るようじゃ見処があるなんてね、薬鑵をさましていたそうですが、御覧なさい。愛吉が弥次馬に水を浴びせている内に、長屋中では火を消して、天井へもつかないで納まったにゃ納まりましたが、その晩の為体には怖毛を震って、さて立退いて貰いましょ、御近所の前もある、と店立ての談判にかかりますとね、引越賃でもゆする気か、酢のこんにゃくので動きませんや。」 十一 「じゃ仕方がない。こういうこともあろうためだ、路は遠し、大儀ながら店請の方へ掛け合おうと、差配さん、ぱっちの裾をからげにかかると、愛の奴のうろたえさ加減ッたらなかったそうで。  その店請というのは、何ですよ。兜町の裏にまだ犬の屎があろうという横町の貧乏床で、稲荷の紋三郎てッて、これがね、仕事をなまけるのと、飲むことを教えた愛吉の親方でさ。  だから狐床ッてくらいなんで。鯨に鯱、末社に稲荷。これに逢っちゃ叶いません。その癖奴が、どんな乱暴を働いたって、仲間うちから、いくら尻を持って行っても、うけはしないんですがね。  対手が差配さんなり、稲荷は店請の義理があるから、てッきり剣呑みと思ったそうで、家主の蕎麦屋から配って来た、引越の蒸籠のようだ、唯今あけます、とほうほうの体で引退ったんで。これで、鳧がつけば、今時ここらをうろつくこともないんですが、名は体を顕しますよ。  止せば可いに、この貧乏くじをまた自分で買って出たのが、こけ勘なんでさ。 (先晩の麁忽は、不残手前でございます。愛吉さんは宵から寝ていて何にも知りやしねえもんですから、申訳のために手前が身体を退きます。)ッて、言ったでしょう。  差配の癖に、近所じゃ、掛売を厭がるほど、評判の工面の悪い親仁だからねえ、これをまたのみこむ奴でさ。 (貴様は何だ、おらがの内の、汽車ぎらいな婆さんを積込んで、小火のあった日から泊りがけに成田へ行っていた男だけれど、申訳を脊負って立って、床屋を退散に及ぶというなら、可々心得た。御近所へ義理は済む。)  と、くだらねえじゃありませんか。  何だって意固地な奴等、放火盗賊、ちょッくらもち、掏摸の兄哥、三枚目のゆすりの肩を持つんでしょう。  どうです、おかみさん、そういった奴ですからね、どうせ碌なこッちゃ来やしません。いづれ幾干か飲代でございましょう。それとも、お嬢と、おかみさん、二人へ御婦人ばかりだから、また仕事でもしようというんで様子でも見に来せやあがったか。  から段々落ちに、酒も人間も悪くなって、この節じゃ、まるで狂犬のようですから、何をどう食ッてかかろうも知れませんや。何しろ火の玉なんでね。彼奴の身体のこすりついた処は、そこから焦げねえじゃ治まらんとしてあるんで。へい鼬が鳴いてもお呪禁に、柄杓で三杯流すんですから、おかみさん、さっさと塩花をお撒きなさいまし。おかみさん、」  といったが、黙っている。 「え、おかみさん。」  頸を垂れて屈託そう、眉毛のあとが著るしく顰んで、熟と小首を傾けたり。はてこの様子では茶も菓子もと悟ったが、そのまま身退くことを不得。もう一呼吸ずるりと乗出し、 「何、また何でさ、私どもが、しばらく見張っていてお上げ申しても宜いんでさ。いよいよとなりますりゃ、内にゃ、親方も、今日はどこへも出ないでいるんで、」 「いいえね。」  と女房は、煙管の鴈首を、畳に長くうつむけたるまま、心ここにあらずでもなかったらしい。 「いくらか、飲代どころなら構いはしないけれど、お前さんの話しぶりでもその今の愛吉とかいう若い衆が、火の玉だの、火柱だの、炎だの、小火だの、と厭にこだわッているから心配なんだよ。はてな、」と沈んで目を閉じる。 「へい、気になりますかね、何ぞ……」 「どうもね。心配なのさ、こうやってお前、私がおもりをしている方はね、妙に火に祟られていなさるのさ、いえね、丙午の年でも何でもおあんなさりやしないけれど、私が心でそう思うの、二度までも焼け出されておいでなさるんだからね、」 「どこで、へい?」 「一度は、深川さ、私たちも風説に聞いて知っているが、木場一番といわれた御身代がそれで分散をなすったような、丸焼。  二度目が日本橋の人形町で、柳屋といってね、……」 十二 「もうその時分は、大旦那がお亡くなんなすったあとで、御新姐さんと今のお嬢さんとお二人、小体に絵草紙屋をしておいでなすった。そこでもお前火災にお逢いなすったんだろうじゃないか。  もっともその時の火事は、お宅からじゃなくって、貰い火でおあんなすったそうだけれど、ついお向うの気の違った婆さんの許から、夜の十二時というのに燃え出すと、直ぐにお店へあおりつけたもんだから、それという間もなし、それにお前さん、御新姐は煩っていらしったそうだし、お生命に別条がなかっただけで、お嬢さんも身体ばかり、跣足でお遁げなすったそうなんだよ。」 「へい、それで何ですか、こっちの方へお引越しなすったんですかね。」 「いいえ、三年前の秋の事さ、その後御新姐さんもお亡なんなすったそうだもの、やっぱり御病気の処へ、そんなこんなが障ってさ。  旦那様もまたそうなんだよ。火事で、それだけの身代が煙になった御心配から起った御病気だろうじゃないか。だからほんとに火は祟っているんだよ。」  と何となく声も打沈んでいったのであった。  この扇屋の焼けた時、新聞に黒くなって描かれた焼あとの地図も、もうどこかの壁の破れに貼られたろう。家も残らず建揃った上、市区改正に就て、道は南北に拡がった、小路、新道、横町の状も異ったから、何のなごりも留めぬが、ただ当時絵草紙屋の、下町のこの辺にも類なく美しいのが、雪で炎を撫ずるよう、見る目にも危いまで、ともすれば門の柳の淡き影さす店頭に彳んで、とさかに頬摺する事のあった、およそ小さな鹿ほどはあった一羽の軍鶏。  名を蔵人蔵人といって、酒屋の御用の胸板を仰反らせ、豆腐屋の遁腰を怯したのが、焼ける前から宵啼という忌わしいことをした。火沙汰の前兆である、といったのが、七日目の夜中に不幸にして的中した事と。  当夜の火元は柳屋ではなく、かえってその不祥の兆に神経を悩まして、もの狂わしく、井戸端で火難消滅の水垢離を取って、裸体のまま表通まで駆け出すこともあった、天理教信心の婆々の内の麁匆火であった事と。  それから、数万の人ごみ、軍のような火事場の中を、どこを飛んだか、潜ったか、柳屋の柳にかけた、賽が一箇、夜のしらしらあけの頃、両国橋をころころと、邪慳な通行人の足に蹴られて、五が出て、三が出て、六が出て、ポンと欄干から大川へ流れたのを、橋向うへ引揚げる時五番組の消防夫が見た事と。  及び軍鶏も、その柳屋の母娘も、その後行方の知れない事とは、同時に焼けた、大屋の隠居、酒屋の亭主などは、まだ一ツ話にするが、その人々の家も、新築を知らぬ孫が出来て、二度目の扁額が早や古びを持って来たから、さてもしばらくになった。 「じゃ、お内のお嬢さんは柳屋さんというんですね、屋号ですね、お門札の山下お賤さんというのが、では御本名で。」 「いいえさ、そりゃ私の名だあね。」 「おかみさんの? そうですかね。」とちとおもわくのはずれた顔色。こんなのはその手に結んだ紅毛糸の下に、賤という字を書いてはってあろうも知れぬ。 「だって、私だって名ぐらいはあろうじゃないか。」と鉄漿つけた歯を洩らしたが、笑うのも浮きたたぬは、渾名を火の玉と聞いたのが余程気になったものであろう。  奴そんな事は無頓着で、 「へへへ、そりゃ何、そりゃそうですが、じゃお嬢さんは何とおっしゃるんでございますね。」 「お夏さんさ。」 「お夏さん?」 「婀娜な佳いお名だろう。」 「すると姓は何とおっしゃるんで、柳屋は、何でしょう絵草紙屋をなすった時の屋号でしょう。で、何ですか、焼け出されなすってから、そこで、まあ御娼売、」 「御商売?」と聞き直した目の上に、嶮も、ああ今は皺になった。 「深川の方で、ええ、その洲崎の方で、」  女房聞くや否や、ちと高調子に、 「お前、何をいうんだね。」 「だって、おかみさんは何でしょう、弁天町に居たんでしょう。山手だってそのくらいな事は心得てるものがありますぜ、ちゃんと探索が届いてまさ。」  いささか軽んずる色があって、ニヤニヤと頤を撫でる。女房お賤はこれにはびくともせず、自若として、 「ああ、そうさ、私は、そうさ。ちっとね、お客さまをお送り申していたんだがね。落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、お庇さまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことを噯に出したって済まないよ。素の堅気でいらっしゃらあね。」 「ですからさ、皆が不思議だッていってるんで。いずれこうちょいちょいこのお二階へいらっしゃる方があるッてのは、そりゃ分っていますけれど、どうもそのお嬢さんの御身分が分りませんが、ええ、おかみさん。」 十三 「ねえおかみさん、可いじゃありませんか、町内のこッてさ、話してお聞かせなさいよ、ええ、おかみさん。」  早やいつの間にか自堕落に、板の間に腹這いになった。対手がソレ者と心安だてに頤杖ついて見上げる顔を、あたかもそれ、少い遊女の初会惚を洞察するという目色、痩せた頬をふッくりと、凄いが優しらしい笑を含んで熟と視め、 「こりゃお前さん、お銭にするね。」 「え、」 「旨く手繰って聞き出したら、天丼でも御馳走になるんだろう。厭だよ、どこの誰に憚って秘すッということはないけれども、そりゃ不可いや。」 「嘘々々、」  口を尖らせ、慌てた早口、 「串、串戯をいっちゃ不可ません。誰がそんな、だってお前さん、火の玉の一件じゃありませんか。ええ、おかみさん。  私等が口を利くにゃこっちの姉さんの氏素性来歴を、ちゃんと呑込んでいなかった日にゃ、いざッて場合に、二の句が続かないだろうじゃありませんか。」 「それだよ、その事だよ、何も、押借や強談なら、」  しかり、押借や強談なら、引手茶屋の女房の、ものの数ともしないのであった。 「別に心配な条じゃないがね、風説を聞いたばかりでも火沙汰がありそうなのが気になるのさ。余り老込んだ取越苦労じゃあるけれどね、火事にゃ上が危いから、それとなく二階にはお寝かし申さないようにしているんだからね。」  気懸なのはこればかり。若干か、お銭にするだろう、と眼光炬のごとく、賭物の天丼を照らした意気の壮なるに似ず、いいかけて早や物思う。  思う壺と、煙草盆のふちを、ぱちぱちと指で弾いて、敗軍一時に盛り返し、 「火沙汰、火沙汰! どうせ、ゆすりのかたりのと、気の利いた役者じゃありませんや、きっと放火だ、放火だ、放火だ。」  ばたばた足の責太鼓、鼕々と打鳴らいて、かッかと笑い、 「何、それも、どさくさ紛れに葛籠箪笥を脊負い出そうッて働きのあるんじゃありませんがね、下がった袷のじんじん端折で、喞筒の手につかまって、空腹で喘ぎながら、油揚のお煮染で、お余を一合戴きたいが精充満だ。それでも火事にゃ火事ですぜ。ね、おかみさん、だからどうにかしますから、お話しなさいよ。でなけりゃ、明日ともいわないで火の玉がころげ込みますぜ。放火だ、放火だ、放火だ、」  と尻上りに畳みかけて、足を上下へばたばたと遣ったが、 「あ、」というとたちまち寂滅。  むっくり飛上ったかと半身を起して捻向く気勢。女房も、思案に落した煙管を杖。斉しく見遣った、台所の腰障子、いつの間にか細目に開いて、ぬうと赤黒い脛が一本。赤大名の城が落ちて、木曾殿打たれたまいぬ、と溝の中で鳴きそうな、どくどくの袷の褄、膝を払って蹴返した、太刀疵、鍵裂、弾疵、焼穴、霰のようにばらばらある、態も、振も、今の先刻。殊に小火を出した物語。その時の焼っ焦、まだ脱ぎ更えず、と見て取る胸に、背後に炎を負いながら、土間に突伏して腹を冷した酔んだくれの俤さえ歴々と影が透いて、女房は慄然とする。奴は絵に在る支那兵の、腰を抜いたと同一形で、肩のあたりで両手を開いて、一縮みになった仕事着の裾に曰くあり。戸外から愛吉が、足の𧿹指の股へ挟んで、ぐッとそっちへ引くのであった。  腰をずるずるずるずると、台所の板に摺らして、女房の居る敷居の方へ後込しながら震え声で、 「串、串戯をするな、誰、誰だよ、御串戯もんですぜ。藪から棒に土足を突込みやがって、人、人の裾を引張るなんて、土、土足でよ、足、足ですよ、失礼じゃねえか、何、何だな、誰、誰だな。」  障子の外で中音に、 「放火よ。」 「や!」 十四  蒼くなって、咽喉で、ムウと呼吸を詰め、 「愛吉さんか、まあ、お入んなさい、煙草があります。」  うろうろ眗す目が坐らず、 「おかみさんもお在でなさらあ、お入んなさい。」 「うンや、こう、お友達、お有難うよ。汝にすっかり棚おろしをされちまっちゃ、江戸中は構わねえが、こちら様ばかしゃ、面が出せねえ、やい。  出ろ、こん畜生。  出ろ!」  というと、ぐいと引くのと同時であった。足の指に力はないが、気に打たれたか、ひょいと腰、ひょろり板の間の縁が放れて、腰障子へふッと附着く。  途端に、猿臂がぬッくと出て、腕でむずと鷲掴み、すらりと開けたが片手業、疾いこと! ぴっしゃりと閉ると、路地で泣声。 「御免なさい、御免なさい。」  というのが聞える。膝を立てて煙管をついて伸上った女房は、八ツ下りの日が明るく、あかり窓から、てらてらと自分の前垂にも射して、ほこりのない、静な勝手を見るばかり。  戸の外で二ツ三ツ、ばたばたと音がする。 「堪えて下さい、堪えたまえ、愛吉さん、愛吉さん、」 「堪えた、堪えたとも。こう私アな、生れてから今日ッて今日ほどものを堪えたことはねえんだ。ははははは、」  と高笑を鼻に取って、 「へ、へ、堪えて大概聞いていたんだ。お友達、おい、お友達、汝が口で饒舌った事を、もしか、一言でも忘れたらな、私に聞きねえ、けちりんも残らずおさらいをして見せてやらい。こん、畜生、」 「苦ッ」 「あれ、お前さん方、そこで喧嘩をしちゃ困りますよ。」  女房は思わず立った。 「おかみさん、」  と奴、弱い事、救を呼ぶ。 「来やがれ、さあ、戸外へ歩べ。生命を取るんじゃねえからな、人通のある処が可いや、握拳で坊主にして、お立合いにお目に掛けよう。来やがれ、」  ざらざらと落葉を蹈む音。此方の一間と壁を隔てた、隣の平家との廂合へ入って、しばらく跫音が聞えなくなった。が、やがて胸倉を取って格子戸の傍の横町へ揉んで出たのを、女房は次の座敷へ行って、往来に向いた出窓の障子から伸上って透かして見た。  その間に、座敷中を行ったり、来たり、勝手口から出ようとしたり、上框を開けようとしたり、止めたり、引返して坐ったり、煙草を呑もうとしたり、見合わせたり、とやかく係合いに気を揉んだのは事実で。……うっかり長煙管を提げたッきり。  ト向うが勲三等ぐらいな立派な冠木門。左がその黒塀で、右がその生垣。ずッと続いて護国寺の通りへ、折廻した大構の地続で。  こっち側は、その生垣と向い合った、しもた家で、その隣がまたしもたや、中に池の坊活花の教授、とある看板のかかった内が、五六段石段を上って高い。そこの竹垣を隔てて、角家がト○の中に(の)を大く(あり)と細筆で書いたのを通へ向けて、掛けてある荒物店。斜かけに、湯屋の白木の格子戸が見える。  椿、柳、梅、桜、花の師匠が背戸と、冠木門の庭とは、草も樹も、花ものを、枝も茎にたわわに咲かせて、これを派手に、わざと低い生垣にし、――まばらな竹垣にしたほどあって、春夏秋の眺めが深く、落葉も、笹の葉の乱れもない、綺麗に掃いたような小路である。  時に、露、時雨、霜と乾いて、日は晴れながら廂の影、自然なる冬構。朝虹の色寒かりしより以来、狂いと、乱れと咲きかさなり、黄白の輪揺曳して、小路の空は菊の薄雲。  ただそれよりもしおらしいのは、お夏が宿の庭に咲いた、初元結の小菊の紫。蝶の翼の狩衣して、欞子に据えた机の前、縁の彼方に彳む風情。月出でたらば影動きて、衣紋竹なる不断着の、翁格子の籬をたよりに、羽織の袖に映るであろう。  内の小庭を東に隣って、次第に家の数が増して、商家はないが向い向い、小児の泣くのも聞ゆれば、牛乳屋で牛がモウモウ。――いや、そこどころでない、喧嘩だ。喧嘩だ! 十五  赤大名のずたずた袷が、廂合を先へ出ると、あとから前のめりに泳ぎ出した、白の仕事着の胸倉を掴んだまま、小路の中で、 「ええ、」  と小突いて、入交って、向の生垣に押つけたが、蒼ざめた奴の顔が、赫と燃えて見えたのは、咽喉を絞められたものである。  女房はハッと思った。 「蚯蚓野郎、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。」 「う、」  と唸って、足をばたばたと掙く状を、苦笑いで、睨めつけながら、手繰って手元へドン、と引くと、凧かと見えて面くらう、自分よりは上背も幅もあるのを、糸目を取って絞った形。今度は更に小路の中途に突立たせた。 「わ、わ、」  と大な口を開いて、ふうふうと呼吸をはずませ、拝みたそうな手附をする。  此方は屹と二の腕から条を入れた握拳を、一文字に衝と伸した。  女房は思わず伸上って顔を出して、またハッと思った、腹の裡で、 「ああ、悪い処へ……」  がらがらと車が来て、花の師匠の前で留まった。内まで引きつけでもする事か! 「さ、お立合、この泣ッ面を御覧じろ。」  と、あわや打据えんとしつつ前後を見た無法ものは、フトその母衣の中に目を注いだ。  これより前、湯屋の坂上の蒼空から靉靆く菊の影の中、路地へ乗り入れたその車。髷の島田の気高いまで、胸を屹と据えていたが、母衣に真白な両手が掛ると、前へ屈んだ月の俤、とばかりあって、はずみのついた、車は石段で留まったのであった。  車夫の姿が真直に横手に立った。母衣がはらりとうしろへ畳まる。  一目見ると、無法ものの手はぐッたりと下に垂れて、忘れたように、掴んだ奴の咽喉を離した。  身を飜すと矢を射るよう、白い姿が、車の横を突切って、一呼吸に飛んで逃げた。この小路の出口で半身、湯屋の格子を、間のある脊後に脊負って、立留って、此方を覗き込むようにしたが、赤大名の襤褸姿、一足二足、そっちへ近づくと見るや否や、フイと消えた、垣越のその後姿。ちらちらと見えでもするか。刻苦精励、およそ数千言を費して、愛吉を女房の前に描き出した奴は、ここに現実した火の玉小僧の姿を立たせて、ただひめのりの看板に、あッけなく消えてしまったのである。  女房は三たびハッと思った。  無法者が、足を其方に向けて、じりじりと寄るのを避けもしないで、かえって、膝掛を取って外すと、小褄も乱さず身を軽く、ひらりと下に下り立ったが。  紺地に白茶で矢筈の細い、お召縮緬の一枚小袖。羽織なし、着流ですらりとした中肉中脊。紫地に白菊の半襟。帯は、黒繻子と、江戸紫に麻の葉の鹿の子を白。地は縮緬の腹合、心なしのお太鼓で。白く千鳥を飛ばした緋の絹縮みの脊負上げ。しやんと緊まった水浅葱、同模様の帯留で。雪のような天鵞絨の緒を、初霜薄き爪先に軽く踏えた南部表、柾の通った船底下駄。からからと鳴らしながら、その足袋、その脛、千鳥、菊、白が紺地にちらちらと、浮いて揺いでなお冴ゆる、緋の紋綾子の長襦袢。はらりとひらめく、八ツ口、裳、こぼれず、落ちず、香を留めて、小路を衝と駈け寄る姿。  かくてこそ音羽なる青柳町のこの枝道を、式部小路とは名づけたれ。  冠木門の内にも、生垣の内にも、師匠が背戸にも、春は紫の簾をかけて、由縁の色は濃かながら、近きあたりの藤坂に対して、これを藤横町ともいわなかったに。 「愛吉、」  と垣の際。上の椿を濡れて出て、雨の晴間を柳に鳴く、鶯のような声をかけると、いきなり背後から飛びついて、両手を肩へ。年も三ツ、三年越。火難以来ここにはじめてめぐり逢った。柳屋のお夏は二十を越した。脊丈さえ、やや伸びて、楽に上から負わるるように、袖で頸を包んだのである。  もっとも愛吉の身はすくんだから。 十六 「愛吉。」  と直ぐ続けて、肩越に﨟長けた、清い目の横顔で差覗くようにしながら、人も世も二人の他にないものか。誰にも心置かぬ状に、耳許にその雪の素顔の口紅。この時この景、天女あり。寂然として花一輪、狼に散る風情である。 「どうしたの、まあ、しばらくだったわねえ。」 「へい、」とただ呼吸をつくようにいう、悪髪結の垢じみた袷の肩は、どっきり震えた。  一たび母衣の中なる車上の姿に、つと引寄せられたかと足を其方に向けたのが、駆け寄るお夏の身じろぎに、乱れて揺ぐ襦袢の紅。ぱッと末枯の路の上に、燃え立つを見るや否や、慌ててくるりと背後向、踵を逆に回らしたのを、袖で留められた形になって、足も地にはつかずと知るべし。  追っかけて冴えた調子、 「よく来たことねえ、愛吉、」 「へい、」 「逢いたかったわ!」 「へ、」とばかりさえ口に消えた。  お夏はいよいよ爽に、 「懐しいよ。」  といって、その前髪を、ひやりと肩。片頬を襟に埋めた時、 「…………」  腕組をした、しかみッ面。げじげじのような眉が動いて、さも重そうな首を此方に捻向けんとして、それも得せず。酒の汚点で痣かと見ゆる、皮の焼けた頬を伝うて、こけた頤へ落涙したのを、先刻から堪りかねて、上框へもう出て来て、身体を橋に釣るばかり、沓脱の上へ乗り出しながら、格子戸越に瞻った、女房が見て呆気に取られた。  時にお夏の背後へ、密と寄ったは、乗せて来た車夫で。  トもじもじ立迷ったが、横合から、 「お傘を、お嬢様。」 「あいよ、」  その時袖が放れたので、愛吉は傍に人のあるのを知って、じろりと車夫の姿を見る。  格子の中から、 「若衆さんこちらへ。」  と声をかけて、女房は土間を下りた。 「ええ、こちら様で、」  車夫は、はじめてここがその住居と心着いた風である。  愛吉が、 「寄越ねえ、」  で差出した手首は、綻びた袖口をわずかに洩れたばかりであるが、肩の怒りよう、眼の配り、引手繰そうに見えたので。返事と、指図と、受取ろう、をほとんど三人に同時に言われて、片手に掴んだ蝙蝠傘を、くるりと一ツ持直したのを、きょとんとして眗したが、罷り違うと殺しそうな、危険な方へまず不取敢。 「じゃ、親方、」 「む、」  と取ったが、繻子張のふくれたの。ぐいと胴中を一つ結えて、白の鞐で留めたのは、古寺で貸す時雨の傘より、当時はこれが化けそうである。  愛吉は、握太な柄を取って、べそを掻いた口許を上へ反らして、 「こりゃ、酷いや、」 「おや、お世話様でございますね。」  と女房は格子を開け、 「貴女、お帰んなさいまし。」 「ああ、ただいま、」といいながら帯をぎゅうと取出した。  小菊の中の紅は、買って帰った鬼灯ならぬ緋塩瀬の紙入で。  可愛き銀貨を定めの賃。 「御苦労様。」 「お持ちなすったものはこれッきりかね。」 「や、まだ台函に、お包が、」とすッ飛んで取りに駆けたは、火の玉小僧の風体に大分怯えているらしい。 「酷いや、お嬢様、見っともねえや。こんなものをさして歩行いて、こりゃ、貴女ンですかい。」 「可いじゃないか。」  と莞爾したが、勝山の世盛には、団扇車で侍女が、その湯上りの霞を払った簪の花の撫子の露を厭う日覆には、よその見る目もあわれであった。 十七 「いえ、そりゃ、あの私ンでございますよ、ほほほほ、」  と女房も寂しい微笑。  愛吉心着いて其方を見向き、 「ええ、さようで。へへへへへ、先刻はどうも、」  とそれもこれも弱った顔色。  お夏は耳敏く聞きつけて、 「おや、さっきも来たの。」  女房のいらえぬ前、慌てて調子高に愛吉はごまかす気、 「だって、お嬢様、見ッともないや、」 「可いよ。」 「日、日傘をさしてお歩行きなさいな、深張でなくってもです。」 「人が笑いますよ。」 「誰が? え、何奴が笑うんで、」  と、すぐにひらめく眉の稲妻。  お夏は真面目に、わざと澄ました顔で、 「威張ったって不可ません、」 「それだって、馬鹿ンつら。」 「でもさ、」 「何故、お嬢様、」 「笑う人はね、お前より強いんだもの。喧嘩をしたって負けますよ。」  といい得て、花やかに浅笑した。お夏さん残らず、御存じ。  女房思わず吹き出して、 「ほほほほほ、」  狐床の火の玉小僧、馬琴の所謂、きはだを甞めたる唖のごとく、喟然として不言。ちょうど車夫が唐縮緬の風呂敷包を持って来たから、黙って引手繰るように取った。 「さあ、お入りな。」  後姿でお夏は格子を、 「おばさん、緩りだったでしょう、」  女房が前へ立って、 「お疾うございましたこと、何は、あの此間から行って見たいッて、おっしゃってでした、俤橋、海晏寺や滝の川より見事だッて評判の、大塚の関戸のお邸とやらのもみじの方は、お廻りなすっていらっしゃいましたか。」 「いいえ、路順が悪かったから、今日は止したの。  深川からじゃ大廻りでね、内の前を二度通るようなもんですもの、出直しましょうと思って。  でも車だから、かえりはぶらぶら歩行にして、行って見ようかと思ったんですがね、お茶の水辺まで来ると、何だか頻に気が急いてね、急いで急いでッていうもんだから、車夫が慌ててさ。壱岐殿坂だッたかしら、ちっとこっちへ来る坂下の処で、荷車に一度。ついこの先で牛車に一度、打附りそうにしたの。虫が知らせたんだわね、愛吉、お前のお庇で、」  と入ったまま長火鉢に軽く膝を支いて、向うへ廻った女房に話しかけたが、この時門口を見返ると、火の玉はまだ入らず、一件の繻子張を引提げながら、横町の土六尺、同一処をのそりのそり。 「お入りなね、何をしてるの、愛吉、お入ンな、さあ、」 「お前さんお入ンなさいましとさ。」  女房のこのとさがちと木戸になった。愛吉入りそびれて、またのそり。 「あら、剣舞をしてるわ、ちょいと、田舎ものが宿を取りはぐしたようで、見っともないよ、私の情人の癖にさ。」  引手茶屋の女房の耳にも、これは破天荒なことをいって、罪のない笑顔を俯向け、徒らに衝と火箸で灰へ、言を消した霞に月。 「私の仲好なの、でも役雑なんです。先刻来た時きっとまた威張ってぞんざいな口でも利いたんでしょう、それで極まりが悪いんだよ。」  と取做すようにいいながら、再び愛吉を顧みて、 「馬鹿だわねえ。」 「さあ、お前さん、どうぞ。」といった、これならば入られる。 「ほんとうになまけもんで仕ようがないの、」 「お、」 「酔ッぱらっちゃ喧嘩するが商売なの。」 「お嬢、」 「その癖弱いのよ。」 「お嬢さん、」  と行詰って、目と口を一所に、むッ。突当ったように句切りながら、次第ににじり込んだ框の上。  割膝で畏まって、耳を掻いて頸を窘め、貧乏ゆすり一つして、 「へへへ、口の悪いッちゃねえ、お嬢ッ公。」 十八 「でも虫が知らせたんだよ。愛吉、お前のお庇で、そうやってさ、もうちっとで車が引くりかえりそうになりました。」 「済みませんでございます。」 「済みませんでございます。」と口真似をしたが、何となく品があった。 「人を馬鹿にしていらっしゃら、」 「先刻一度来たんだって、」 「ええ、つい、その、」  額をぴっしゃりで頸を抱える。 「それではお前、入って待っておいでなら可いのに、戸外へ出るもんだから、また掴合いなんかするんだわ。  おばさん、この人はね、馴染のない町内へ来ると、誰とでも喧嘩をするの、」  とはじめて座につき、火鉢の前に落着いた。お夏もこの時気がついて思わず袖で口を蔽い、 「まあ、」  とばかり、わずかに堪えて、 「ほほほ、愛吉、お前、その膝の上の蝙蝠傘をどうにかおしよ。」 「ややや」というと、慌てて落した、うっかり膝の上に、ト琴を抱いた姿だった、毛繻子の時代物を急いで掻い取り、ちょいと敷居の外へ出して、膝小僧を露出しに障子を閉めて圧えつけたは、余程とッちたものらしい。  女房は年紀の功、先刻から愛吉が、お夏に対する挙動を察して、非ず。この壮佼、強請でも、緡売でも。よしやその渾名のごとき、横に火焔車を押し出す天魔のおとしだねであろうとも、この家に取っては、竈の下を焚きつくべき、火吹竹に過ぎず、と知って、立処に心が融けると、放火も人殺もお茶うけにして退けかねない、言語道断の物語を聞く内にも、おぞ毛を震って、つまはじきをするよりも、むしろいうべからざる一種の憐さを感じて、稲妻のごとく、胸間にひらめき渡る同情の念を禁ずることを得なかった。自分の不思議が疑団氷解。さらりと胸がすくと、わざとではなかったが、何となく無愛想にあしらったのが、ここで大いに気の毒になったので。 「まったくねえ、お前さん、溜池から湧いて出て、新開の埋立地で育ったんですから、私はそんなに大した事だとも思いませんでしたが、成程、考えて見ると、そのお持物は、こりゃちと変でしたね。  もうね結構なものとは思わないけれど、今朝お出かけの空模様じゃ、きっと降ろうとも思われませんし、そうかって、一雨来ないでもないようだったもんですから、傘もお荷物と思って、ついそれをね、お嬢さんもまた、澄してさしていらっしゃるんだもの。」歎息するもののごとし。 「ですから、何でさ、日傘をおさしなさりゃ可いというんじゃありませんか。」 「愛吉、笑うというのにね、」 「いえさ、ですから、誰が、」と直ぐ力む。 「でも何ですよ、この辺じゃ不思議がりますよ。  私もね、ありようは持っていましてね、佃島へおまいりをする時ぐらいしか使わないもんですからね、今でも、通用するだろうと思いましてね、」 「おばさんは通用ッていうの。」 「どうかしたんでございますか。」 「それをさ、おささせ申しましてね、暑い時でござんした。  ここへ引越して、しばらく経って、護国寺が直ぐだといいますから、音羽々々ッて音ばかりだったでしょう。  行って見ましょうッて、お嬢さんをおさそい申して、不断のまんま、ぶらぶら片陰になって出かけたんですよ。  袴を召した姉さん方が、フンといってお通んなさる。何だか背が見られる処を、小児衆が大勢で、やあ、狐の嫁入だって、ばらばら石を投げたろうじゃありませんか。お顔もお頭も、容赦なんざないんですから、お嬢さんは日傘のまま路傍へおしゃがみなさる。私はね、前からお抱き申して立ってましたがね。  そら、傘に化けた、というと、ろくろへポンポン当るから、気がついて、私が取ってね、すぼめて帯へさしたんです。騒ぎは、それで静まりましたけれども、その時黒子一つないお身体へ、疵がついたろうじゃありませんか。」 十九  お夏は袖をくるりと白く、 「こんなよ、愛吉。」  いわれたその二の腕の不審紙。色の褪せたのに歯を噛んで、裾に火の粉も知らずに寝た、愛吉が、さも痛そうに、身ぶるいした。  三人斉しく憮然とせり。  女房しめやかに口を開き、 「ですからさ、時節ですよ。何だってお前さんねえ、私なんざ話しに聞いて、何だか草双紙にでもあるように思っていました。木場の勝山様のお一人子のお嬢さんが、こうやって私等風情と、一所においでなさるんだもの、まったくですよ。」と年紀だけに諭すがごとく、自らは悟りすましたようにいったのであるが、何のおかみさん、日傘が深張になったのは、あえて勝山の流転のごとき、数の奇なるものではない。 「まだまだね、お前さん、このくらいなことじゃないんですよ、もっともっと変っておいでなすったんですよ。」としんみり言う。  ほぼその幼馴染とでもいッつべき様子を知って、他人には、堅く口を封ずるだけ、お夏のために、天に代りて、大いに述懐せんとして、続けてなお説おうとするのを、お夏は軽く手真似で留めた。 「およしなさいな、まあ後でゆっくり。おばさん、お土産があるんだわ。  可いもの。  でも、愛吉、お前は、これね、」  とあられもない。指で口許を挟む真似、そしてその目の仇気なさ。 「え、私あ、私あ、もう、」と逡巡する。 「もうなもんですか。御馳走するわ。  おばさん、良いでしょう。」  と火鉢に手をかけ、斜めに見上げた顔を一目。鬼神なりとて否むべきか。 「可うございますとも、行って取って参りましょう。ついでに何ぞ見繕って参ります。」  愛吉は忙わしく膝を立て、 「私が、私が参りますよ、串戯じゃない。てッて、飛出すのも余り無遠慮過ぎますかい、へ、」と結んだ口と、同じ手つきで天窓を掻く。 「何、お前さん、晩の支度もあるんですよ。」 「おばさん、私が行きましょうか。」 「御串戯ばかり、」 「だって私のお客ですもの、酒屋へなんぞお気の毒です。」 「飛んだことをおっしゃいまし、――先生様も貴女のお客じゃありませんか。」  気の毒がるのをいじらしそうに沁々といったが、軽く立った。酒と聞いて、気もそぞろで、この(先生様)といった言は、この時愛吉の耳には入らなかったのである。 「ああ、そういえばね、」  お夏は火鉢を隔てながら、膝を摺寄せるように、裳を横に。 「晩に来るって、」  女房は立ちかけたのを坐り直した。 「おや、それはまあ、まあ、貴女、お音信がございましたかい。」 「途中でね、電話をかけたの、」 「直接に、」 「いえ、花井さんを呼んで託づけて貰いました。」 「花井さん、例のですか、」 「ああ、」と頷く。 「それでは、その分も、」 「ああ、そうね。」 「いずれ、何も召食るようなものはありませんけれど、」 「私がいいものを買って来たの。」  女房は茶棚の上を、ト風呂敷包がそれである。 「よく、お気が着きましたねえ。御褒美に、それこそ深張を買ってお貰いなさいまし。」  頭をふって、 「要らない。」と活溌にいった。 「でも貴女、貴女が、そんなにお気がつくんですもの。可うございます。貴女がおっしゃいませんでも、私からお強請り申しましょう。」 「おばさん、気がついた御褒美なんて、不可いの。先生が怒るものなの。」 「へい、何でございますえ。」 二十 「何だか、怒るものよ、おばさん当てて御覧なさい。」 「…………」  黙ってつくづく見たばかり、当てものして遊ぼうには、ちと年紀が老けていた。 「当てて御覧。愛吉、」  と唐突にこっちを呼んだ。この時まで、お夏が女房といいかわした言は、何となく所帯染みて、ひそめいて、傍聴きするものの耳には、憚る節があるようであった。  いかばかり酒に咽喉が鳴っても、あいにく耳が澄まされて、お夏の口から、(先生)というのを聞いて、はッと胸に応えたのは、風説に聞いて尋ねて来た、式部小路の麗人はさる人の、愛妾であるというのである。  果してそれが柳屋のならんには、米が砂利になる法もあれ、お囲いなどとは、推参な! 井戸端の悪口穴埋にして、湯屋の雑言焼消そう、と殺気を帯びて来たのであるから、愛吉はこれは、と思った。  ト同時に、この内証話からは、太く自分が遠ざけられ、憚られ、疎まれ、かつ卻けられ、邪魔にされたごとく思ったので、何となく針の筵。眉も目も鼻も口も、歪んで、曲って、独りで拗ねて、ほとんど居堪らないばかりの心地。  もうお夏の、こう隔てのない、打開けた、――、敵討の、駈落の相談をさるるような、一の(当てて御覧)がなかったら、火の玉は転がって、格子の外へ飛んだであろう。  が、忽然として青天、急にその膝へ抱き上げられたように感じた。ただし不意を喰ったから、どぎまぎして、 「酒、酒です。」  と筒抜けのぼやけ声。しかも当人時ならず、春風胎蕩として、今日九重ににおい来る、菊や、菊や――酒の銘。  お夏は驚いて目を瞪った。真面目に唖然たるものこれを久しゅうして、 「駄目。おばさん、この人はね、酒だか私だか分らないの。ちょいと早く呑まさないと、私を噛ろうも知れないよ。」 「お嬢さん、」と例の敗亡。 「唯今、ですがお嬢さんは、ほんとうに何を買っていらっしゃいました。大概そんなことはありますまいが、もしか、つくと不可ません。」 「可いのよ。先生のめしあがるもんなんざ、ねえ、愛吉、」 「まあ、貴女、」 「可いの。ねえ愛吉、お前が来ると知れているのなら、呼ばなくッてもいいんだっけね。」  首尾は大極上々吉、愛吉堪りかねて、 「御、御串戯おっしゃらあ。」 「どれ、急いで行って参りましょう。」  と女房は、半纏の襟を扱いて立ち、台所へ出ようとして、少々気がかり、 「貴女え、」 「ああ、」 「先生がいらっしゃらなくッて、寂しい、寂しい、とおっしゃりながら、お憎らしい。あとで私が言附けますよ。」 「ああ、可いとも、ねえ、愛吉、姫様がついている人なんか、ねえ。」  いささかもその意を解せず、偏に膝を揺って、 「御、御、御串戯おっしゃらあ。」 「ちょいと、愛吉さん、」  と女房優しく呼びかけ、 「よく、おもりをして下さいよ。お泣かせ申さないように、可ござんすかい。お前さん、また酒と間違えて飲んじまっちゃ不可ませんよ。」 「御、御、御、御串戯おっしゃらあ。」  勝手の戸がかたりとしまると、お夏ははらりと袂を畳へ、高髷を衝と低く座を崩して姿を横に、縋るがごとく摺り寄って、 「どうしたの、お前、」  とて、膝につむりを載せないばかり。  愛吉しゃッきりと堅くなって、居丈高。腕を突揃えて、畏まって、 「しばらくでえ、」 「愛吉や。」 「お嬢さん………」 二十一 「まあ、お前どこに居たんだねえ。」 「え、私は何、そこらの芥溜に居たんですがね。お嬢さんは?」 「私かい、」 「何ですか、蔭で聞きますりゃ、御新造さんもお亡なんなさいましたッて、飛んだ事で、」と震えて蒼くなっていう。お夏も心が激したか、目のふちに色を染めて、 「ああ、愛吉、お前のおともだちの蔵人(軍鶏呼名)もね、人形町の火事ッきり、どこへ行ったか分らないんだよ。愛吉てば、お前、おっかさんが亡なっても、家が焼けても、まるで顔を見せないんだもの。  お前、おっかさんが亡なっては、私一人ぼっちじゃないか。人形町の内が焼ければさ、私はどこにも行く処がないじゃないか。  それだのに、ちっとも来てはくれないんだもの、随分だわ。」  愛吉は堪えかね、堪えかねて、火の粉が入ったようにぐッとその目を圧え、 「だって、だって何でさ、加茂川亘さんて――その、あの、根岸の歌の先生ね、青公家の宗匠ン許へ、お嬢さんの意趣返しに、私が暴れ込んだ時、絽の紋附と、目録の入費を現金で出しておくんなすったお嬢さんを大贔屓の――新聞社の旦那でさ。遠山金之助さんですよ。  その方に、意見をされて、私のようないけずな野郎が、お嬢さんと附合っちゃ、お前さんの何でさ、為にならねえからッて、いわれたもんで。  私もね、何ですよ。成程こいつはもっともだ、と思ったから、しかもお宅が焼けた晩でさ、そら、もうしばらく参りませんッて、お暇乞に行ったでしょう。  私も思い込んだんでさ。いえ、何でも参りません。いえ、いえ、もう御無沙汰いたしますッて、そういったら、お嬢さん、……」  としばらくものを言うあたわず、隆いが、ぞんざいな鼻を啜って、 「たった一人の、佃のおふくろにまで、愛想を尽かされて、湯灌場にさえ屋根代を出さねえじゃならねえ奴を、どうお間違えなすったか、来なくッちや厭、寂しい、と勿体至極もねえ。  涙ぐんでおくんなすった。ああ難有えこッた、と思うと、なおなおお前さん、貴女のお身体が大事になって、御出世の邪魔になるんだから、と万倍もお前さん、敷居を跨ねえ気になったんでさ。  もう何ですぜ、お店から出て、あの門の柳の下でしょんぼりして、看板の賽ころがね、ぽかん、」  と嚔の出そうな容体、仰向いてまたすすり、 「と面へ打つかると、目が眩んで、真暗三宝韋駄天でさ。路地も壁も突抜けてそれッきり、どんぶり大川へでも落っこちたら、そこでぼんやり目を開けて一番地獄の浄玻璃で、汝が面を見てくれましょうと思ったくらいでした。  すると、近間で、すりばんでしょう。私あ自分でどこに居たか知りませんがね、火の手はお宅様の見当でしょう。ほい、了った。お暇乞はもう一晩我慢をすりゃ可かったが、こりゃお見舞にも上られねえ。そうかと思やあお嬢さんと御病人きり。蔵人は忠義だって、羽ばたきをするばかり、袖を啣えて引張り出す方角もあるまいと思いますとね。矢も楯も堪りませんや。さも貴女と御新造さんが烟に捲れて赤い舌で嘗められていなさるようで、私あ身体へ火がつくようだ。そうか、といってたった今お暇乞をしたもの、と地蹈韛を踏みましたが、とうとう、我慢が仕切れねえで、駆けつけると、案の定だ。  まだ非常線も張らねえのに、お門にゃ、枝垂れ柳の花火が綺麗に見えましょう。柱は残らず火になったが、取着の壁が残って、戸棚が真紅、まるで緋の毛氈を掛けたような棚を釣った上と下、一杯になって燃えてるのを私あお宅を行き抜けにお出入の合ったお庇にゃ、要害は知ってまさ。お嬢さんが生命から二番目の、大事の大事のお雛様。や! 大変だ。深川の火事の時は、ちょうどお節句で飾ってあった、あの騒ぎに内裏様の女の方の、珠のちらちらのついた冠がたった一つ紛失したのを、いつも気にかけておいでなさるくらいだのに、ああ、情ない。」  お夏はこれを、うっとりとなって聞くのであった。 二十二 「せめてその骨でも拾って、腕まもりでも拵えよう、」  とまっしぐらに立向った、火よりも赤き気競の血相、猛然として躍り込むと、戸外は風で吹き散ったれ、壁の残った内は籠って、颯と黒煙が引包む。 「無茶でさ、目も口も開きやしねえ、横もうしろも山のような炎の車がぐるぐると駆けてまさ、から意気地はありません。  夢のような気です。まして棄鉢に目を眠った処を、裾からずるずると引張るから、はあ、こりゃおいでなすったかい。婆さんが衣ものを脱ぐんだろう、三途川の水でも可い、末期に一杯飲みてえもんだ、と思いましたがね、口へ入ったなあ冷酒の甘露なんで。呼吸を吹返すと、鳶口を引掛けて、扶け出してくれたのは、火掛を手伝ってました、紋床の親方だったんでさ。  焼あとへね、遠山さんもおいでなさりゃ、その新聞社の探訪の、竹永丹平というのも来ました。親方と四人でね、柳の根方でしばらく、皆で、お嬢さんの噂ばかりしましたっけ。夜露やら何やらで湿ッぽくばかしなって、しらしらあけの寒いのに皆悄れて別れたでさ、それッきり。  どこへおいでなすったか、お行方は知れませんや。またもうお目にかかるまいと心じゃ極めていたんですから、口へ出して人に聞くのも何だか気が咎めてならねえんで、尋ねるわけにもなりませんで、程たって、勝山さんの御新造が築地の何とかいう病院で、お亡なんなすったって、風のたよりに聞きましたが、ともかくも病院へお入んなさるくらいじゃ、立派にお暮しなさるんだろう。お嬢さんは、お手車か、それとも馬車かと考えますのが一式の心ゆかしで、こっちあ蚯蚓みたように、芥溜をのたくッていましたんで。  へい、決してその、決して何でさ、忘れたんじゃありません。」  語って涙を拭う時、お夏ははんけちを啣えていた。 「じゃ何、あの晩火事の時、火の中へ飛び込んだの、大変ねえ。」 「へ、何、そりゃ、そんな事はわけなしでさ。熟と大人しくしている時が堪らねえんで。火でも水でも、ドンと来た時はおもしれえんで。へ、何、わけなしでさ。殊にお嬢さん許の灰になりゃ、私あ本望だったんです。」と、思わず拳を握ったのである。  お夏は黙って瞻った。その時はじめておくれ毛がはらはらと眉を掠めた。 「でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。」 「ちょっと、眠ったんで、時々でさ。」 「だってお前、きっと火傷をおしだろう。」  直垂に月がさして、白梅の影が映っても、かかる風情はよもあらじ。お夏の手は、愛吉の焼穴だらけの膝を擦った。愛吉たらたらと全身に汗を流し、 「ええええ、脇腹を少し焦しましたが、」 「可哀相に、お見せな。」 「何、身体中、疵だらけだから、からもう何が何だか分りません。」  とはだかった胸を慌ててかくした。 「愛吉、それでもお前、無事に逢えて可かったねえ、ほんとうによく来たねえ。」 「ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、」  と口籠った。妾沙汰の一条で、いいかねたものであろう。  お夏はいささかも気に留めず、 「おいいでない。愛吉、お前がそんな事をいって来ないお庇で、私がどんな出世をしたのよ、どんな出世が出来たのよ。」  と詰るがごとく声強く、 「お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、」 「じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。」 「芥溜よ。」 「え、」 「私もやっぱり芥溜なの。」 「飛、飛んでもねえ。」 「だって、お前も好なんだから可いではないか。」  と澄ましていう。 二十三  その物腰と風采は、人形町の頃よりも、三ツ四ツ年紀もたけ、﨟たさも、なお増りながら、やや人に馴れ、世に馴れて、その芥溜といえりし間、浮世のなみに浮沈みの、さすらいの消息の、ほぼ伝えらるるものがあったのである。  愛吉は悚然とした。 「寒くはなくッて、」 「御串戯おっしゃらあ、」 「だって素袷でおいでだよ。」 「そこへ行っちゃ職人でさ、寒の中も、これで凌ぐんで、」 「威張ったね。」 「へ、どんなもんで、」と今度は水洟をすすり上げた握拳、元気かくのごとくにしてかつ悄然たり。 「ほんとうに真面目ねえ、ああ、そう、酒気のない処で、ちと算盤でも持せて弱らしてやろうかな。」  と莞爾と笑み、はじめて瞳を座敷に転じて、島田の一にぐいとさした、撫子の花を透彫の、銀の平打が身じろぎに、やや抜け出したのを挿込みながら、四辺を視めて、茶棚に置いた剃刀にフト目が留まった。 「愛吉、それよりかお前、ほんとうにちょいと困っておくれでないかい。」 「困りますえ。私が、何を。お嬢さん、」 「久しぶりだ、あたっておくれ、」 「お顔を、」 「ああ、私は自分じゃ不器用だし、おばさんは上手だけれど、目が悪いからッて危ながって遠慮をするしね。近所じゃ厭だし、どこへ行ってもしゃぼんをぬらぬらなすくって、暖かい、あぶらッ手で掴まえられて恐れるわ。困っているの、ねえ、愛吉、後生だから、」 「遣りますかね、」 「ああ、」 「や、そいつあ素敵だ、占めたもんだ。ちょうど可いや、剃刀が来ていまさ。」  お夏は車で知っている。 「喧嘩をしたもんだから、よく知っておいでだね、おばさんは忘れて行ったに。あいかわらず、対手さえありゃいがみ合うんだよ。」  愛吉は勇みをなし、 「対手、対手は紋床の親方だけだ。稲荷に仕込まれましたお庇にゃ、剃刀を持たせた日にゃ対手というものはねえんですぜ。まあ、叱言はあとにしてお嬢さん、ちょいとお襟をお預けなせえ。  すっ、するするッと来ら。私あ伊豆の大島へ行きましたがね、から、唐人みたようなお百姓でも、刃あたりが違うと見えて、可いなアーッていやあがるんで。  こう、為朝は、おらが先祖だ。民間に下って剃刀の名人、鎮西八郎の末孫で、勢い和朝に名も高き、曾我五郎時致だッて名告ったでさ。」 「太平楽は可いけれど、何、お前大島ッて流しものになる処じゃないの、大変な処へまあ、」  江の島をさえ知らない娘の驚いたのはさもありなん。 「で、お嬢さんはどうしておいでなすったんで?」 「あれ、芥溜をまた聞くよ。そんな事はあとにして、疾く困ってくれないと、暗くなる、寒くなる、さあ、こっちへおいで、さあ、」  足許から美しい鳥の立つよう、すらりと身を起す、その片手に手巾を持っていたのを、無意識に引くと、放れぬこそ道理なれ。片端膝にかかったのを、愛吉は我れ知らずつかんでいたので。  向うへ一所に立とうとすると、足がふらふらとして尻餅の他愛なさ。畳まれたようにぐたりとなる。お夏は知らずに出ようとする。手の手巾を愛吉が一心になって掴んだ、拳が凝って指がほぐれず。はッと腰を擡げると、膝がぶつかって蛸の脚、ひょろひょろと縺れて、ずしん、また腰を抜く。おもみに曳かれて、お夏も蹌踉く。もつるる裳。揺めく手巾。 「おや、」  と思わず熟と見られた、愛吉のその顔は…… 二十四 「お前しびれを切らしたね。ほほほ、」 「むむ、」  気を入れると直ぐに、よたり。 「馬鹿だね。」 「これは!」と片手を畳へ。しっかりと支くと、直ぐにお夏がその手巾で引かれるから、これはとあせるほどなお放れず。 「だらしのない為朝だよ。」 「勢い! 和朝に、」  強そうな顔をして、やッと起きると、ひょろりでトン、足を投げてきょとんとする。  お夏は密と引いて見て、はらりと放した。手巾を畳に残して、隣座敷へ、すいと立った。背姿で忙しそうに、机の前なる紅入友禅の唐縮緬、水に撫子の坐蒲団を、するりと座敷の真中へ持出したは、庭の小菊の紫を、垣から覗く人の目には、頸の雪も紅も、見え透くほどの浅間ゆえ、そこで愛吉の剃刀に、衣紋を抜かん心組。  坐りもやらず蒲団の上。撫子の花を踏んで立つと、長火鉢の前、障子の際に、投出されたという形。目ばかり光らす愛吉を、花やかに顧みて、 「鎮西八郎、為ちゃん。」 「や、」 「曾我五郎、時さん。」 「こいつあ、」 「泥酔の愛ちゃんや。」 「ええ。」  お夏は片襷を、背からしなやかに肩へ取って、八口の下あたり、緋の長襦袢のこぼるる中に、指先白く、高麗結びを……仕方で見せて、 「ちょいと、こういう風でね。」  かくて酒肴の用足しから帰って来た女房は、その手巾を片襷に、愛吉が背後へ廻って、互交に睦じく語らいながら、艶なる頸にきらきらと片割月のきらめく剃刀。物凄きまで美しく、向うに立てた姿見に頬を並べた双の顔に、思わず見惚れて敷居の際。  この跫音にも心着かず、余念もない二人の状を、飽かず視めてうっとりした。女房の何となく悚然としたのは、黄菊の露の置きかわる、霜の白菊を渡り来る、夕暮の小路の風の、冷やかなばかりではなかった。  明り取りに半ば開いた、重なる障子の薄墨に、一刷黒き愛吉の後姿、朦朧として幻めくお夏の背に蔽われかかって、玉を伸べたる襟脚の、手で掻い上げた後毛さえ、一筋一筋見ゆるまで、ものの余りに白やかなるも、剃刀の刃の蒼ずんで冴えたのも、何となく、その黒髪の齢を縮めて、玉の緒を断たんとする恐ろしき夜叉の斧の許に、覚悟を極めて首垂れた、寂しき俤に肖て見えたのであった。        *  *  *  *  *  *  * 「所謂その影が薄いといった形で。つまり俗にいう虫が知らせたんだろうな。」 「ええ、女房もいうのでありまするし、かような事は、先生の前じゃちといかがな儀ではありまするが、それを聞いた手前なども、またさようかに考えるので、どうも争われないものですよ。」 「いや、一々銷魂な事ばかりです。幸病気は良いのですけれども、実に腸九廻するの思いで聞くに堪えん。が、そこで。」と問掛けて、後談を聞くべく、病室の寝床の上で、愁然としてまず早や頭を垂れたのは、都下京橋区尾張町東洋新聞、三の面軟派の主筆、遠山金之助である。 「第一手前が巣鴨の関戸の邸の、紅葉の中で、不意に出会した時もそうですが、沈んだ明い、しかも陰気な、しかし冴えて、冷かな、炎か紅の雲かと思うような四辺の光景にも因りましたろうが、すらりと、このな、」  と円満にして凸凹なき、かつ光沢のある天窓を正面から自分指しながら、相対して、一等室の椅子にかけたのは同社名誉の探訪員、竹永丹平である。  別に必要はないけれども、その着つけ、背恰好、容貌、風采、就いて看らるべし。……  第二回の半ばに出でたり。  この処築地明石町、明石病院の病室である。 二十五  探訪員は天窓をさした、その指を、膝なる例の帽子の下に差入れた。このいかがわしき古物を、兜のごとく扱うこと、ここにありてもまたしかり。  さて、打咳き、 「トこの天窓の上へ、艶麗に立たれた時は、余り美麗で、神々しくッて、そこいらのものの精霊が、影向したかと思いましたて。桜の精、柳の精というようにでございますな。しかし寂寞とした四辺の光景が、空も余りに澄み渡って、月夜か、それとも深山かと思われるようでありましたのは、天地が、その日覚悟を極めて死にに行く、美人に対する、かの同情というものを表わしたのでありましょう。  見ると、――柳屋のだろうじゃがあせんか。面と向ってついぞ言を交わしたということもないのですが、先生、貴下も御同然に、こりゃ社用外のさがしもので、しばらく行方が知れないのを、酷く心配をいたしておりましたで、思わず膝を拍って私。 (お夏さん。)と申しました。……  思いがけない様子でした。こりゃ理だ。実は私の方が思いがけないんで。お顔を覚えておりません。誰方、という挨拶で、ちと照れましたがな。以前、人形町辺に居りました時分ちょいちょいお店へ参って、といってこの天窓に対して、(肖顔画などを孫どもに買ってやりましたで存じております、)などと遣ったですて。  まず、これへ、と人様のものでお愛想。自分も拝借をしておりましたし、まだ二ばかり据えてありました陶器ものの床几を進めると、悪く辞退もしないで静に腰をかけたんですが、もみじの中にその姿で、いかにも品が佳い。これでさげ髪だと何の事はない、もみじ狩の前シテという処ですが、島田の姉さんだから、女大名。  私は太郎冠者というやつ、腰に瓢があれば一さし御舞い候え、といいたい処でがしたが、例の下卑蔵。殊に当日はあすこを心掛けて参ったので、煙草は喫まず、その癖、樹下石上は思いも寄らん大俗で、ただ見物も退屈、とあらかじめ、紙に捻って月の最中というのを心得ていましたから、(ちとお歌でもなさりませんか、)といいますとね。  どど一か端唄なら、文句だけは存じておりますが、といって笑顔になって、それはお花見の船でなくッては肖りません。ここはどんな方のお邸でござんすえ、ッて聞かれたから、(こりゃ関戸とおっしゃる御華族でいらっしゃる。)と答えますと、華族さんなの。それでは町人が来ては叱られましょうッて莞爾しました。」  お夏はその時町人といった。 「痛快でがした。――  服装といい、何となく人形町時分から見ると落着きが出て気高い。私最初はその関戸伯爵の姫様と間違えて、突然低頭に及んだくらいで、天下この人に限ってはとは思うが、そこは女。  実は乗りたや玉の輿で、いずれ、お手車処は確に見える。自然と気ぐらいが高くなっているのであろうと、浅はかにも考えたが―違いました。  この江戸児、意気まだ衰えず、と内心大恐悦。大に健康を祝そうという処だけれども、酒ますまい。そこで、志は松の葉越の月の風情とも御覧ぜよで、かつその、憚んながら揶揄一番しようと欲して、ですな。一ツ召食れ、といって件の餡ものを出して突きつけた。」 「柳屋のに、」  と金之助は眉を顰めた。  丹平泰然として、 「さよう、」 「驚きますな。」  と遠山は止むことを得ざらん体に、 「あの窈窕たるものとさしむかいで、野天で餡ものを突きつけるに至っては、刀の切尖へ饅頭を貫いて、食え!……といった信長以上の暴虐です。貴老も意気が壮すぎるよ。」 「先生、貴下はまた、神経痛ごときに、そう弱っては困りますな。」 「何、私はもう退院をするんだから構わんが。」  とて愁うる色あり。  丹平は打頷き。 「しかし、仏の像の前で、その言行を録した経を読むと同一です。ここでお夏さんの話をするのは。まあ、お聞きなさい。」  と声を低うしていった。  この突当右側の室に、黒塗の板に胡粉で、「勝山夏」――札のそのかかれるを見よ。 二十六  病室の主客が、かく亡き俤に対するごとき、言語、仕打を見ても知れよう。その入院した時、既に釣台で舁がれて来た、患者の、危篤である事はいうまでもない。 「実はその人を歎美して申すのですから、景気よくお話はしますけれども、第一私がもうこういう内にも、(難有う)といって、人の志を無にせん風で、最中を取って、親か、祖父の前ででもあるように食べなすった可愛らしさが、今でも眼前にちらついてならんでがすて。」  鼻を詰らせながら、掌で口を拭って咳一咳。 「私もな、昨年一人、末ッ児を亡くしたですが、それを思い出してもこんなじゃない。」  と椅子をずらして、 「で、何でげすか、どうしても六ヶしいと申すんで?」 「ああ、看護婦がいいます、勿論悉しいことは話さない。  入院した日は、何事もなく静かだったが、一昨日の晩でした。  私は、はじめ串戯かと思った。  うら若い女の声で、 (あつうあつう、)  というのです。 (暑い! 暑い、)  と聞えて、 (暑いよう、暑いよう、)というのが、夢中のようでね。 (快くなりますよ、直によくなりますよ、)とひそひそすかすのが、幽に聞えるから、ああ、それじゃ病人だな、と思ったんです。ひッそりしたっけが、また、 (熱いねえ! 熱いねえ、) (もう直ぐに快くなりますからね、) (ああ、)  と調子高に、しかし上の空のようにいって、少し気がついたか、落着いた声で、 (熱いこと!)  こういってね、それッきり。ひッそり陰気になったが、いや、その間、はッと思って、私も呼吸がつけないのでした。」  丹平もしめやかに頷くことあまたたび、 「成程々々成程。」 「二三日もう手はかかりませんから、そこに、」  金之助は扉に並べて一枚を敷いた、畳の隅、鉄の火鉢の方に目を遣って、 「編物をしていた附添のね、福崎(看護婦)というのに、(どうしたの)ッて聞くと、何も間い返すまでもない。 (苦しいんですよ、)といいます。 (不良いのかね。) (いらしった時から釣台でしたから、)  それさえその時まで私は気がつかないで居たくらいで。もっとも前晩、夜更けてからちと廊下に入組んだ跫音がしましたっけ。こうやって時候が可いから、寂寞して入院患者は少いけれども、人の出入は多いんですから、知らなかったんです。」 「まさか自分の病院で、治療するというわけにも行かなかったものでありましょう。」 「ははあ、秘密のようですかい。」 二十七 「だから私もその、事件の場所へ立会った程な、この度のことに就いては浅からん縁がありますけれども、実は遠慮をして差控えていたのでがす。しかし、経過が、どうか。容体が、どうか。気になって、どうも心配でなりません、ところが、幸い、」  といいかけて、兀天窓を、はッと圧え、 「貴下の御病気を幸いといっては恐縮千万、はははは、」と、四辺を憚った内証笑。 「実は私も自分で幸いと思っている。」 「いや、恐縮ですが、また、さほど大した御容体でもなかったと見えまして、貴下が、こっちへ御入院という事は、まったく、今朝はじめて聞いて一驚を吃しました。勿論社の方へは暫時御無沙汰、そんなこんなで、ちっとも存じませんで、大失礼。そこで、すぐにお見舞と申す内にも柳屋の方が主であるようで相済まんですが、もっとも向うへ顔出しをする気はないので。それでなくッても私商売などは、秘密の秘の字でもある向には、嫌われるで、遠慮をしますから、悪からず。」 「私はまた(何の病気、)と聞くと、 (熱が酷いんでしょう、)といったばかり。 (婦人だね、) (はい、少いお嬢さん、) (幾歳ぐらいの、) (二十か、九でおいでなさいましょう。)  柳屋のはもうちっとになったでしょう、こりゃ少く見えたんです。  そこまで聞いて、まさか、名は? とまで尋ねるでもないから、そのままにしましたが、一体何となく継穂のない、素気ない返事だと思ったんですが、もっともだ。じゃ、山の井先生のために、この病院長が、全院を警戒して秘密にしたんだ。」 「そうでがすとも、ごく内証ですから、憚って、自分の病院があるのに、こっちへ依頼をされたんで。この明石病院の院長は、山の井医学士の親友でがす。  もっとも他の新聞にも出ましたから、事件は、さして秘密じゃありますまいが、自分がお夏さんの世話をしておいでだった光起(山の井医学士の名)さん。  薄々青柳町に囲ってある、妾だ妾だという風説なきにしもあらずだったもんですから、多くは知らんにもせい、」と声をひそめる。 「どうして、私はまた、不意に貴老が見えたのを、神の引合わせかと思う。ちょっと筋向うのが柳屋のだと、声をさえかけて下すったら、素通りにされても怨まない。実際そうでないと、わずか廊下を七八間離れたばかりで、一篇悲劇の女主人公、ことに光栄ある関係者の一人で居ながら、何にも知らないで退院する処でした。あとで聞いては千載の遺憾だったに、少くともその呼吸のある内に、時鳥と知って声を聞いたのは、光栄です。私はこれを一声の時鳥だといいます。あの血を吐く声が実に腸を断つようで。竹永さん、」  と面を上げて、金之助は今もその音や聞ゆる、と背後を憂慮うもののごとく、不安の色を湛えつつ、 「引続きこの快晴、朝の霜が颯と消えても、滴って地を汚さずという時節。夜が明けるとこの芝浜界隈を、朗かな声で鰹――  生鰹と売って通る。鰯こい、鰯こいは、威勢の好い小児が呼ぶ。何でも商いをして帰って、佃島の小さな長屋の台所へ、笊と天秤棒を投り込むと、お飯を掻込んで尋常科へ行こうというのだ。売り勝とう、売り勝とうと、調子を競って、そりゃ高らかな冴えた声で呼び交すのが、空気を漉して井戸の水も澄ますように。それに居まわりが居留地で、寂として静かだから、海まで響いて、音楽の神が棲む奥山から谺でも返しそうです。その音楽の神といえば、見たまえ、この硝子窓の向うに見える、下の外科室の屋根を隔てた煉瓦造りを。外国婦人が住んでいてね、私なんぞにゃ朗々としか聞えんが、およそ目には見えんで、各自はその黒髪の毛筋の数ほど、この天地の間に、天女が操る、不可思議な蜘蛛の巣ぐらいはありましょう、恋の糸に、心の情が触れる時、音に出づるかと思うような、微妙な声で、裏若いのが唱う。ピアノを調べる。時々あの向うの硝子戸を取りまわした、濃い緑の葉の中に、今でも咲いている西洋種のぼっとりした朝顔の花を透かして、藤色や、水紅色の裾を曳いたのがちらちらする。日の赫と当る時は、眩いばかり、金剛石の指環から白光を射出す事さえあるじゃありませんか。  同一色にコスモスは、庭に今盛だし、四季咲の黄薔薇はちょいと覗いてももうそこらの垣根には咲いている、とメトロポリタンホテルは近し、耳馴れぬ洋犬は吠えるし、汽笛は鳴るし、白い前垂した廚女がキャベツ菜の籠を抱えて、背戸を歩行くのは見えるし……」  刻下、口を衝いて数百言、竹永は我が探訪の職に対し、生殺与奪の権を握れる、はたかれ神聖なる記者として、その意見に服し、その説に聴くこと十余年。いまだこの日のごときを知らなかった。三面艶書の記者の言、何ぞ、それしかく詩調を帯びて来れるや。  惘然として耳を傾くれば、金之助はその筋疼む、左の二の腕を撫でつついった。 「これ実に侮るべからざるハイカラですよ。」 二十八 「竹永さん、金之助病のためにこの境に処して、なお巴里、伊太利の歌に魂を奪われず。却って佃島の(鰯こ)に心を澄まし、初冬の朝の鰹にも我が朝の意気の壮なるを知って、窓の入口に河岸へ着いた帆柱の影を見ながら、この蒼空の雲を真帆、片帆、電燈の月も明石ヶ浦、どんなもんだ唐人、と太平楽で煩っていたのも、密に柳屋のお夏を健在、と思っての事であった。」  いいかけて寂しく笑った、要するに記者の凡ての言は、お夏に対する狂熱の勃発したものであったのである。 「それがどうです。 (熱い、熱い、熱いねえ、)  今もいいます通りね、一昨日の晩は、それッきりだったが、昨日の午後二時頃にはまた、 (熱いの、熱いねえ、熱いねえ、)  昼間だから、夜分のようにはないんですが、傍で何かいって切に慰めたようだった。 (熱いわ、何て熱いんでしょう、)  とあきらめたように、しかも哀にきこえた処へ、廻診の時間じゃないのに、院長が助手と看護婦長とを連れて、ばたばたと上って見えて、すっとこの室の前を通ったんだね。  そこへ私の看護婦が来ましたが、体温器を掛けにです。戸口へ立停って、しばらくその方を見ていました。  しばらくすると、皆下りて行く。看護婦が入ったから、 (あすこのはわるいのかね、) (はい、どうも不可ませんそうです、)  ……は心細い。 (気の毒だね、) (ほんとうにお可哀相でございますよ、)と婦人は相身互、また一倍と見える。  私は素人了簡で、何とか、その熱が上らないだけの工夫はありそうなものと思ったから、 (やっぱり冷しているんだろうか、) (氷嚢を七箇でもう昼夜通していますんです。) (七箇!)  と私は驚いた。 (お頭へ一箇、一箇枕におさせ申して、胸へ二箇、鳩尾へ一箇、両足の下へ二箇です。)  こういいいい体温器を入れられた時は、私は思わず、人事ながら悚然とした、お庇で五分その時は熱が上ったですよ。」  丹平も呆気な顔して、 「酷うがすな。」 「酷いんですとも! でもまあ、氷嚢を七ツと聞いて、疾に対してほとんど八陣の備だ。いかに何でも、と思ったが不可ない。  日の暮方に、また、夕河岸の鰹、生鰹、鰯こ、鰯こい――伊太利じゃ晩餐の朗々朗が聞えて、庭のコスモス、垣根の黄薔薇、温室の朝顔も一際色が冴えようという時、廊下が暗くなると、 (あ、熱々々々、)と火がついたように、凡ての音楽を打消して、けたたましく言い出したじゃないか。  どうです、それがお夏さんだ。  余り何だから、私は廊下へ出て、二三間、そっちの方へ行って見ました。薄暗い扉に紙を貼って、昨日の日づけで、診療の都合により面会を謝絶いたし候――医局、とぴたりと貼ってある。いよいよ穏でない。  それまで見たが、名札を見ようという気もなし、扉はその字が読めるようにこっちへ半ば開けてあったんですが、向うには、附添と見えて、薄汚い、そういっちゃ悪いが、それこそ穴だらけの袷を素膚に着た、風体のよくない若い男が、影のように立っていました。  で、することは看護ですな。昇汞水の金盥と並べた、室外の壁の際の大きな器に、氷嚢から氷が溶けたのを、どくどくと開けていました。けれども、私は、その姿の、ぼッとしたのといい、背後だった形といい、折から、その令嬢というのを悩ます、病の魔のような気がして、こっちも病人だ、悚然としましたよ。  すぐにひょろひょろと室へ入って、扉を音もなくひとりでに閉めるとね、トタンに𤏋と点いて来たと思った電燈が、すぐに忘れものを思い出して引返したように消えたでしょう。 (熱いよ! 熱いよ!)と言うでしょう。まさに病魔だと思った奴がじゃ、竹永さん、――可哀相に愛吉ですな。」 二十九 「愛吉、愛吉、」  と二ツいって二ツ頷いた、丹平の打悄れた物腰挙動、いかにもいかにも約束事、と断念めたような様子であった。 「全く病の魔と見えましてがすかな、争われないもんだ。青柳町の女房は――前申したごとくで、これをお夏さんの生命を縮める鬼のように思った。覿面、その剃刀で殺ったですでな。たとい人違いにもしろでがす。」  繰返して重ねて、 「争われないもんだ、争われないもんだ。」  しばらくして金之助が、 「しかし竹永さん、奴あればこそ、お夏さんは、我が柳屋の姉さんで、単に医学士山の井光起君に対するだけでは、尋常、勝山の娘に留まる。  奴なきお夏さんは、撞木なき時の鐘。涙のない恋、戦争のない歴史、達引きのない江戸児、江戸児のない東京だ。ああ、しかし贅六でも可い、私は基督教を信じても可い。  私が愛吉の尻押しをして、権門に媚びて目録を貪らんがために、社会に階級を設くるために、弟子のお夏さんに、ねえ竹永さん。……  合弟子の、山河内という華族の娘の背を、団扇で煽がせた。婦人じゃ不可ない! その鬱憤を、なり替って晴そうという、愛吉の火に油を灌いで、大の字形に寝込ませた。  ちょうど同じ日に一足後れて、お夏さんを娶ろうという、山の井医学士の親類が、どんな品行だか、内聞、というので、お夏さんの歌の師匠の、根岸の鴨川の処へ出向いたのが間違の因です……  今までそこにふンぞり反って、暴れていた床屋の職人が、その人の使者だというお夏さんを、たとい親だって好くいおうか。  まして、繻子の襟も、前垂も、無体平生から気に入らない、およそ粋というものを、男は掏摸、女は不見転と心得てる、鯰坊主の青くげだ、ねえ竹永さん。  よくも、悪くも、背中に大蛇の刺青があって、白木屋で万引という題を出すと、同氏御裏方、御後室、いずれも鴨川家集の読人だから堪らない。ぞ、や、なり、かなかな、侍る、なんど、手爾波を合わされて助りますかい。……あとで竹永さん、貴下が探りましたね、第一、愛吉が知っていたんだね。……  お夏さんは人知れず、あの気象には珍らしい、豪家が退転をするというほどの火事の中でも、両親で子の大事がる雛だけ助けたほど我ままをさした娘に、いい遺した遺言とかで、不思議に手習をする、清書草紙に、人知れず、医学士(山の井光起)の名を書いて、惚れ抜いていたんだそうですな。  何と、その恋人を、しかも自分が、師匠のいいつけで煽がせられて、口惜しがって泣いた、華族の娘に取られようとは、どうです。  一人は医学士の意中を計った親類の周旋。一方はその母親から持込んだ華族の縁談。  山河内定子は、今現に、山の井医学士の令夫人だ。竹永さん。  私は蔭ながら、大なる責任者だ。  私が愛吉ならきっと行る、愛吉ならずとも、こりゃきっと行らねばならん処だ。定子を殺さねばならないわけだ。確だ。  が、幸か、不幸か、二三冊読んでいるから、まさかに剃刀を逆手に取って、可愛い娘のために、その恋の敵を、暗殺しようとは思わなかった。  しかし文字のあるものが、目に一丁字のない床屋の若いものに、智慧をつけて、嵩じたいたずらをしたのが害になったんだから、なお責任は重大です。しばらく行方の知れない内も、寝覚が悪くッてならなかった。お夏さんがそうと知ったら、私が先んじて行れば可かった。私は死んでも可い、そうすれば、まさかに人違いをするようなことはなかったろう。」  平生に似ず言もしどろで、はじめの気焔が、述懐となり、後悔となり、懺悔となり、慚愧となり、果は独言となる。  体温器がばたりと落ちた。  かけ忘れて寝着の懐にずっていたのが、身を揉んだので辷ったのである。我に返って、顔を見合わせ、二人一所に、ははは――歎息した。 三十 「串戯じゃないまったくです、私は基督教になっても可い。今のその根岸の歌人に降伏をして、歌の弟子になっても構わん。どうかして治してやりたいじゃありませんか。」 「いや、先生、貴下は凡て空にものをお考えなすってさえその通りだ。  それから見ると、私は一倍上だろうと思うでがすよ。何故とおっしゃい。あの娘が、これから、わざと殺されに行こうという日、その菓子の一件でしょう。悪気でしたのではなかったのですが、死のうという覚悟をした、それも二日三日と間のある事ではない、四五時間前というのに、もみじの中で、さしむかいに食べられた時を思いますと、我もう、ここが、」  と大きな懐中物で、四角に膨れた胸を撫でつつ、 「何ともいえないので、まるで熱鉄を嚥下す心持でがすよ。はあ、それじゃ昨日、晩方にも苦しみましたな。」 「ああ、そうです、」  金之助は話の糸の、乱れた苧環巻きかえし、 「その、氷嚢をあけていた、厭な人影が中へ入る、ひとりでに扉が閉る。途端に電燈が点くかと思うと、すぐに消えた。薄暗を、矢のように、上衣なしの短衣ずぼん、ちょうど休憩をしていたと見える宿直の医師がね、大方呼びに行ったものでしょう、看護婦が附添って、廊下を駆けつけて来たのに目礼をして、私は室へ戻ったですがね。停電暫時で行燈を点けるという、いや、酷い混雑。  その内に、 (おお、熱い事、)  とその声が、一度不思議に婀娜ッぽくきこえた。何となく正気でいったように思ったが、看護婦に聞くと注射をしたんだそうで、あとは昏睡ですと。  それも二時間とは続かない、すぐにまた、 (熱々々々!)  は情ないじゃありませんか。 (熱いよ、熱い、熱いよう、)  と夢中で泣く。それはまだしもだ、竹永さん。 (熱いなあ、熱いなあ、)  なあというに至って、私は天窓からこの掻巻を引被って、下へ、下へ、とずり下って、寝床に沈んだが、なお聞える。 (暑いなあ、暑いなあ、)  そこで、もぐっても、くぐっても両方の肩から水を浴びるように、ぞくぞくするから堪らなくなって、刎ね起きて、きょろきょろ見ると、その佃の帆柱が見える硝子窓の上の方が、真暗に三寸ばかり透してあったから、看護婦は、と見ると、扉を細目に開けて、白い身体をぴッたり附着けて、突当りのその病室の方を覗いてね、憂慮しそうにしているから、声をかけて閉めて貰って、 (悪いか、) (とても、) (気の毒だ。) (お可哀相でなりません。)  早くしておくれ、早くさ、早くさ、とその病人のじれる声は、附添が賺しても、重い頭を掉るんでしょう。  すたすたと廊下を駆ける音。 (幾人ついているの、) (三人です。) (親たち?) (いえ、こっちの看護婦と、向うから附いておいでなすった、それはそれは美しい、看護婦さんと、もう一人職人のような若い衆が、もうつきッきりで、この間ッから夜一夜一目も寐なさらないで、狂人のようですよ。)  私は愛吉とは思いも寄らない、が、先刻見た一件だ。 (何だね、それは、) (家来衆とも見えませんが、お嬢様、お嬢様といっています。多分乳母さんの児で、乳兄弟とでもいうようなんじゃありませんか。何しろ一方なりませんお主おもい、で、お嬢さんがね、あつい、あついとおっしゃる度に、額からたらたら膏汗を流すんですよ。 ⦅水天宮様の方角はどちらでがすえ、⦆と聞きましては、一室に大勢ですから、お嬢さんの寝台の下へ、はい込んじゃ手を合わせて拝みます。  まるで夢中ですもの、すぐに忘れてはまた、 ⦅モシ、茅場町はどっちでえ、⦆ッちゃ、寝台の下へもぐり込んで拝みます。 いじらしくッて、皆見ては泣くんですよ。)  といって、涙ぐんでいるだろうじゃありませんか。」  丹平はまた溜息をした。 「ああ。」 三十一  金之助も吐いきをついて、 「看護婦も話すうちに鼻をつまらせて、 (まるで気が違ったようですよ。つい昨夜、夜中はちっとばかり、すやすやしておいでだったそうですが、七箇もかけた氷嚢が、しばらくの内に溶けますから、始終、氷を割りますが、また夜がふけると、四辺へ響きまして、カンカンッて、凄いようだもんですから、うるさかったと見えて、お嬢さんが、 ⦅厭な音ねえ、⦆ッて現にそうおいいなさいますと、何と思ったのか、若い衆が、大きな氷の塊を取って、いきなり、自分の天窓へ打ッつけたんですって。一念か、こなごなに、それはもう、霜柱のように砕けましたッてね、額を斜ッかけに打切って、血がたらたら出たそうです。それを痛そうな顔もしないで、 ⦅モシ、水天宮の方角は、⦆ッて……)  私は皆まで聞かないで、引被ってしまったが、成程愛公だ。竹永さん、」 「馬鹿め。」 「いや、」 「野郎、しようのない瓦落多だが可哀相に、可愛い奴だ。先生、憎くはない。」  丹平ここでまた椅子を寄せ、 「先生、いかがです、呼ぼうじゃありませんか、ちょいとな。」 「どうして顔が見られるもんか。いじらしくッて、」 「しかし………」  遠山は頭を掉った。時にその眉秀でて鼻筋通り、口を一文字に結んだ、凜たる記者の風采は、直ちに老探訪をして伏従せしめ得たのであった。 「成程々々、成程。いや、こりゃ私、ちと了簡が若うがした。」 「今日はなお酷い、夜があけるともう、 (熱いなあ、熱いなあ、)  で、鰹――生鰹も、鰯こも、私の耳にゃ入らんのだ。もっとも、昨夜は耳について、私も寐られないから、初中うとうとしていたので、とても気の毒で聞くに堪えんから、早くここを引上げようと思っていた処へ、貴老が見えて、こう柳屋のと知れては、何とも口へ出していう言はない。  昨夜から今日の午へかけて、注射を三度したと聞いたです。  そのせいか、今は寂寞しているでしょうがね、さあ、そうと知れると、残酷なようで申訳はないが、血を吐く声も懐かしい、これッきり、声が聞えなくなってどうします。  竹永さん、貴下を今夜は帰さないよ。隣のホテルからお飯が取れるから、それでも食って、病院だから酒は不可んが、夜とともに二人で他所ながらお伽をする気だ。  そうして貴下が、仏像の前で、その言行録を誦する経文だといった、悉い話を聞きましょう。  病人に代ってその人の意気の壮なのを語るのは、少くとも病魔退散の祈祷にもなろうと思う。」 「至極でがす。いや私望む処、先生という楯がありゃ、二日でも三晩でも、お夏さんの前途を他所ながら見届けるまでは居坐って動きません。」 「私も退院の日延べをする。そこで、そこで竹永さん、関戸の邸の、もみじの下で、その最中を食べてからどうしたんです。」 「私もずッと乗が来て、もう一ツお食んなさい、と自分も撮みながら勧めました。 (沢山)とあるから、(それじゃお土産に、)と洒落にいって、捻ってお夏さんに差着けると、腕もちらりと透きそうに、片袖の振を、黙ってこっちへ向けました、受け入れようというんでね。 (もみじを御見物と見えますが、これから巣鴨へ抜けて、)先生、あの邸はね、私どもが居た池のふちから、通天門と額を打った煉瓦の石の門を潜って、やはり紅葉の中を裏へ出ると、卯之吉という植木屋の庭を、庚申塚の手前へ抜けられますわ。 (そこから、滝の川へでもお廻りか、)と尋ねると、(上野へ、)という。  私方々の紅葉の風説なんど、出鱈目に饒舌るのを、嬉しそうに聞いていなすったっけ、少し傾いて耳を澄まして、 (可いことね、)といった。 (はて、)私には何だか分らん。 (お囃子の笛が聞えますよ。)  ちっとも聞えん。 (はてな、)と少々照れたでがす。その癖心寂しいほど寂――」  花にはあらず七重八重、染めかさねても、もみじ衣の、膚に冷き、韓紅。 「――閑としているじゃがあせんか。」 三十二 「お夏さんが、 (聞えますよ。あら、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ねえ、貴下、聞えましょう。)  と打傾いて、遠くへな、私を導いて教えるような、その、目は冴えたがうっとりした顔を熟と見ながら聞き澄ますと、この邸じゃありません。  もみじを隔てて、遥にこう、雲の中で吹き澄ますといった音色で、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ヒヒャ、ユウリ、オヒャラアイ、ヒュウヤ、ヒュールイ、ヒョウルイヒ、と蒼空へ響いて、幽に耳に留りました。 (成程、お囃子ですな。)  と腕組をして、おつき合いに天窓を突出していると、 (どこでしょう、ほんとに好いこと。)  といって葛桶を――じゃない――その陶器の床几をすっと立ちました。 (ええ、御近所だから、慶喜様のお住居かも知れません。) (そう、)  といって、お夏さんが空を仰いで見ましたがね……」  虹を刻んで咲かせた色の、高き梢のもみじの葉の、裏なき錦の帳はあれど、蔽われ果てず夕舂日、光颯と射したれば、お夏は翳した袖几帳。 「ちょうど、ぱらぱらと散って来るのが、その夕日を除けた、袂へ留まったのですがね。余りに綺麗だ。これにゃ相当のワキ師があろう。  もっとも大抵禿げていますで、諸国一見の僧になりゃ、ワキヅレぐらいは勤まろうが、実は私、狂言方だ。  楽屋で囃子の音がすれば、もう引込んで可い時分。フト気が着いたのは、悪くすると、こりゃ出家でない。色ワキをここで待合そうなどという、寸法で来たのかも知れん、それだと邪魔になる。さらば急いで参ろう、と思いますとね。  妙なことをいいました。  その大木のもみじの下を、梢を見たなり、くるくると廻って、 (いいえ、お雛様が遊ぶんでしょう。ちょうどこの上あたりで聞えるんですもの、そうして、こんな細い、小さな音のするのは五人囃子が持っている、かわいい笛でなくッてさ。)  異わったことのおおせ哉。お夏さんは熟ッと見ている。帯も襟も、顔なんざその夕日にほんのりと色がさして、矢筈の紺も、紫のように見えましたがね。  暮れかかって来ました。夜昼を分けるように、下の土は冷たく濡れて、黒くなって、裾が薄暗く見えたんで、いや、串戯はよして余り艶麗過ぎる。これなり天人になって、雲の上へ舞い昇られてはなるまい、と、のこのこと近く寄って、 (もう暮れ方になりましたな。)  とさそいをかけると、はっと気がついたように、 (ああ、暗くなって来た、こんな処に遊んでいるのは焼け出されたお雛様でしょうねえ。  こんなに真赤で、これが炎になったらどうでしょう。そうしたら死んでしまいましょうねえ、気味が悪いようになりました。)  と、いうことが少し変だ。  気つけをと思ったし、聞きたくはあったしで、 (度々御災難でありましたな。唯今は、どちらに、) (ついこの青柳町のね、菊畑のある横町ですよ。ちとお寄んなさいましな。母は亡くなりましたが、おばさんが居ますから、)  成程おばさんが居ますからな筈でがした。……自分は居なくなる積りだから。 (それでは、) (さようなら、)  と挨拶をして、もう一度梢を視めなりに、ずッと向うへ、紅葉の下を、うしろ姿になりましてな。それっきり見返りもしなかったが、オヒャ、ヒュウイ、ヒヒャ、ユウリというのが、いつまでも私、耳の底に残るんで。独で見送っていると、大浪の裾がどこまでも畝った形の、低くなった方へ遠ざかって行くのが、何となく暮方で、影が薄い。  ト緋色の雲の、隧道の入口、突当りに通天門とある。あすこのもみじは、実際、そこからが自慢なんですが、足も停めず、視めもせず、アーチ形に中の透く、燃え立つ炎のような中へ、消え失せた体に入ってしまった。  気になる。  私、すぐあとから駆出して、」 三十三 「件の通天門を入ると、赫と明く、不残真紅。両方から路をせばめて頬がほてるようだが、それは構わん。  お夏さんは、と見るとこの一条路、大分長いのにもう見えず。きょろきょろ四辺を眗したが、まさか消え失せたのじゃあるまい、と直ぐに突切ってぐるりと廻ると、裏木戸に早や山茶花が咲いていて、そこを境に巣鴨の卯之吉が庭になりまさ。  もみじはここも名物だが、ちと遅い。紅は万両、南天の実。鉢物、盆石、水盤などが、霞形に壇に並んだ、広い庭。縁には毛氈を敷いて煙草盆などが出してあり、世界が違ったように、ここは外套やら、洋服やら、束髪やら、腰に瓢箪を提げた、絹のぱっち革足袋の老人も居て、大分の人出。その中にもお夏さんが見えますまい。  はてな、巣鴨の通へ出てしまったか、余り不思議だと思う。生垣の外は、馬士やら、牛士、牛車、からくたと歩行いて、それらしいのもありません。  夢かと思うと、そうじゃない。やっと気が着いた、分らないのも道理こそ。  向うに見える、庭口から巣鴨の通へ出ようとする枝折門に、曳きつけた腕車の傍に、栗梅のお召縮緬の吾妻コオトを着て……いや、着ながらでさ、……立っていたのがお夏さんでね。車は今雇ったのじゃありません、裏道から大廻りに、もみじ邸を卯之吉の木戸まで廻らせて、ここへ待たしてあったんで。コオトなぞも預けてあったものと思われます。で、直ぐに上野へ殺されに行こうとする処だったのです。一体どこで降りましたか、」  これは探訪も知り得なかったのであった。お夏はその日、人知れず、今わのなごりを、浅瀬の石に留めたので。俤橋の俤の、月夜の状に描かれたのは、その俤を写したのである。  見よ。(この第一回を。)されば、お夏の姿が、邸のもみじに入ると斉く、だぶだぶ肥った、赤ら顔の女房が、橋際の件の茶店の端へ納戸から出て来た。砂利を積んだ車がまたぐらぐらと橋を揺ったので、砂塵濛々、水も空も、日が暮れて月が冴えねば、お夏が彳んだ時のように澄みはしない。  ちと疾いが晩餐。かねてあつらえてあったから、この時看護婦が持って来たので、日はまだ鉄砲洲の帆柱の上に高い。  お夏の病室も、危く物静である。         ――――――――――――――――――――  愛吉の咽喉を鳴らしたその夜の酒は、日が暮れてからであった。  女房は暮合いに帰って来て、間もなく、へい、お待遠、と台所へ持込んだけれども、お夏の心づけで、湯銭を持たせて、手拭を持たせて、錫の箱入の薫の高いしゃぼんも持たせて、紫のゴロの垢すりも持たせる処だった。が、奴は陰でなく面と向って、舌を出したから、それには及ばず。  ああまだそれから羽織るものを、もとより男ものは一ツもない。お夏は衣紋かけにかけてあった、不断着の翁格子のを、と笑いながらいったが、それは串戯。襟をあたって寒くなった、と鏡台をわきへずらしながら自分で着た。けれども…………愛吉は、女房の藍微塵のを肩に掛けて、暗くなった戸外へ出たが、火の玉は、水船で消えもせず。湯の中で唄も謡わず。流で喧嘩もせず。ゆっくり洗って、置手拭、日和下駄をからからと帰り途、式部小路を入ろうとして、夜目にもしるき池の坊の師匠が背戸の山茶花を見て、しばらくしたのは、恐らく生れてはじめてであったろう。  その石壇の処まで来て、詩人が月宮殿かと想うように、お嬢さんの家を見た時、小ぢんまりとした二階の障子に明がさした。  思わず頸をすくめたが、密と格子から沓脱の下駄を覗いて、すぐに遠慮して廂合に潜り込んで、ちょろりと台所へ面を出すと、開けてはあったが、働いても居ず、女房は長火鉢の傍に、新しい能代の膳立をして、ちゃんと待っていた、さしみに、茶碗、煮肴に、酢のもの、――愛吉は、ぐぐぐと咽喉を鳴らしたが、はてな、この辺で。………… ―――――――――――――――――――― 三十四  食事が済む、と探訪員は、渠自から経典と称する阿夏品を誦しはじめた。これよりさき金之助は、事故あって、訪問の客に面会を謝する意を、附添の看護婦に含ませたことはいうまでもない。 「話の続は、今その吾妻コオトを着た処でしたな。それから、同一く、それもやはり、とって置いたものらしい。藍鼠の派手な縮緬の頭巾を取って、被らないで、襟へ巻くと、すっと車へ乗る。庭に居たものは皆一斉にそっちの方。  母衣をきりきりと巻き下ろして、楫棒を上げる内に、お夏さんは乗りながら、袂から白いものを出した。ヤ、最中を棄てるのかと思うと、そうじゃなかったんで、手巾でげす。  でね、妙なことをしたというのは、もう一ツ小さな壜を取出して、その手巾の中へ、俯向けにしました。車が二三間駆け出す内に、はらはらと、肩から胸へ振りかけたと思うと、その壜を、母衣のすかしから、白い指で、往来へ棄てたんでがす。  後で知れました。白書薇の香水なんで。山の井医学士夫人、子爵山河内定子は、いつでもこの香水の薫がする。  と、お夏さんが愛吉に教えておいたものだッて、いうじゃありませんか。  何と驚いたものでがしょう。その袖の香を心当てに、谷中のくらがり坂の宵暗で、愛吉は定子(山の井夫人)を殺そう。お夏さんは定子になって殺されようという、――まだもっとも、他に暗号も極めてあったんではありますがな、髪を洗って寝首を掻かせた、大時代な活劇でさ。あの棄鉢な気紛れものと、この姉さんでなくッちゃ、当節では出来ない仕事。また出来されちゃ大変でがすのに、とうとう見事仕出来した。何という向不見な寄合でしょうな。  先生。話は前後になりますが、ちょうどこの場合だから申しますがね。私、前にも申す通り、何んだか気になる。お夏さんの跡から上野へ行って、暗がり坂で、きゃッ! 天地顛倒。途轍もない処へ行合わせて。――お夏さんに引込まれて、その時の暗号になった、――山の井医院の梅岡という、これがまた神田ッ児で素敵に気の早い、活溌な、年少な薬剤師と、二人で。愛吉に一剃刀、見事に胸をやられたお夏さんを、まあとかくしてです。私懇意な、あすこ、上野の三宜亭。もっともこりゃ谷中へ行く前に、お夏さんが呼び出しをかけたその梅岡薬剤兄哥と二人で、休んだ縁もあったんでがすから、その奥座敷へ内証で抱え込んだ折でした。  愛吉に、訳を尋ねると、奴人間の色はねえ。据眼になって饒舌った、かねての相談、お夏さんの謀というのをお聞きなさい。 (じゃね、愛吉、お前、何でもかでも私のために、医学士の奥様を殺して、願いを叶えてくれるんなら、水天宮様の縁日に、頭の乾児と喧嘩をするようにして暴れ込んで行ったって殺されるものじゃない。私がね、旨く都合をして、定子さんを可い処へ引出すわ。  それにゃ、本宅の薬剤師に、梅岡さんといって、大層私を可愛がってくれる人があって、いつでも先生を呼出すには、その方に手紙を出したり、電話をかけたりして頼むんだよ。やっぱりお前とおんなじように、大の姫様嫌い。おもて向き私を御新造にしてやりたい。でも定子さんがあっちゃ何だから、ちょいと一服モルヒネでも装りましょうか、手のもんでわけなしだって、洒落にもいっている人だから、すぐに味方して、血判をしてくれます。)  いや、遠山さん。」  と丹平苦り切った顔色で、 「愛吉が、手負の傍で、口を尖がらかして呼吸を切りながらせいせいいって饒舌った時には、居合わせた梅岡薬剤。神田の兄いだが、目を円くして驚いた。  その筈でがす。隣家の隠居の溜飲にクミチンキを飲ますんだって、メートルグラスでためした上で、ぴたり水薬の瓶に封。薬剤師その責に任ず、と遣る人を、人殺の相談に、わけなし血判。自分の医院の奥様に、ちょいとモルヒネをなんて、から、無法極まる。  ねえ、先生。」 三十五 「これをまた真面目にうけさせる気で、口へ出した、柳屋のも柳屋の。聞いてほんとうにした奴も奴だ。で、お聞きなさい。 (その梅岡さんに頼んで、いつの幾日――今日だ。)と愛の野郎がいいました。すなわち一昨々日。  そこで、またお夏さんの言を愛吉がいうんですが、 (奥さんを上野まで連れ出させよう。お前、前へ廻って支度して、待伏せをしておいで。いい処があるかい。)  というから、愛吉が、(占たな! 占たな!) (それだってお前、時の都合と、所はえ?)  トこりゃお夏さんが心あっていったんですな。考えていると、愛吉は何、剃刀で殺すぐらいは、自分が下駄の前鼻緒を切るほどにも思わない。都合をして、定子阿魔の顔さえ見せておくんなさりゃ、日本橋でも、万世橋でも、電車の中でも、劇場でも、どこでもかまわないッていったそうでさ。するとお夏さんの方は覚悟があるから、 (谷中なら、墓原の森の中を根岸で下りる、くらがり坂が可い。踏切の上の。あすこいらで、笹ッ葉の下へでも隠れておいで。)  こりゃ、それ、今もおっしゃった歌の先生、加茂川の馬車新道へ、炎天にも上野まで、鉄道馬車。後を歩行いて通ったから、不幸にして地の理が明い。 (私は梅岡さんに頼んで、こうしよう。奥様は歌が好で、今でもちょいちょい、加茂川ン許へお通いだから、梅岡さんに、――私も歌が習いたい、紅葉の盛り、上野をおひろいのおともをしながら、お師匠さんへ、奥様から、御紹介せ下さいまし。とこういって貰いましょう。  好な道だから、二ツ返事で。その日に限って、おひろいかなんか。梅岡さんが、その上野をおともという間に、いい加減に日を暮らして、夜になって、くらやみ坂へ連れ行かせるから、そうしたら、白薔薇の薫をあてに。)  その相談の出来たのは、お夏さんが三年ぶりで愛吉に逢った夜で。余所ゆきを着ていた上衣だけ脱いで、そのまま寝床へ入った、緋の紋綸子の長襦袢のまま、手を伸ばして、……こりゃ先生だと、雪の腕、という処だ。  手近な床の上の、鏡台の抽斗から、その壜を出して、まだ封も切ってなかったそうで。これはね、ちょうどその日行合わせた山の井さんの土産でしたと。  くちが堅く入っていたのを、ト取ろうとすると、占っていたので、高島田にさした平打を抜いて、蓮葉に、はらんばいになったが、絹蒲団にもつかえたか、動きが悪いから、するりと起き上って、こう膝を立てていましたッてね。  抜けるほど色の白い処へ、その姿だから、媚かしさは媚かし、美しさは美ししで、まるで画に描いたように見えましたって。  こりゃ何んです、小石川青柳町、お夏さんで名がついた、式部小路の内に居る、お賤ッて女房がちょうどその時、行燈を持って二階へ上って、見たんでがすと。  ね、洋燈と取替に行ったんですと。先生、話はいろいろになりますが、お賤というのは洲崎で引手茶屋をしていたんで、行燈組でね、ことにお嬢さんには火が祟る、とかいっていたんだから、あの陽気家を説き伏せて、残燈は行燈と取極めたんでさ……洋燈はかんかん明かった。  すぐに消そうとすると、 (お待ち、見えなくなるわ。)ッてくちを抜いた。芬と薫ったでしょう。 (まあ、佳い匂でございますこと。) (光ちゃんが好なの。)  光起さんの事でさ。―― (私にこの匂をさして、抱こうと思ったって、そうはいかない。)  ちとやんちゃん。もっともね、少し飲んでいたんだそうで。 (ねえ、愛吉。)  と声をかけた。奴は、ぎごちなさそうに小さくなって、半分もぐりながら、目ばかり、ぱちぱち。」 「じゃ、愛吉は、」と遠山が口を入れた。 「勿論、枕を並べて。」  遠山金之助、 「え。」  竹永丹平は、さもこそという片頬笑み、泰然自若として、 「ま、ま、お聞きなさい。ここだ、これが眼目、此経難持、若暫時、この経は保ち難し。  もししばらくも保たんものは、ただお夏一人という処でがすから。」 三十六 「そこで女房は、 (なるほど、貴女には似合いません、でございますよ。)  愛吉傍在。で、その際、ちと諷する処あるがごとくにいって、洋燈を持って階下へ下りた。あとはどうしたか知らないそうでさ。  勿論普通の人間じゃ寐られるどころではなかったが、廓出の女房。生れてからざっと五十年。一年三百六十五日、のべつ、そんな処には出会していたんだから、さしたる大事とは思わなかったし、何が何でも人殺の相談をしようなどとは、夢にも、この私にしたって思いませんや。  その後で、愛吉の鼻のさきへ、顔と一緒に、白薔薇の壜を押つけか、何かで、 (可いかい。この匂いだよ。もう一つはね、くらがり坂へ行ったら、奥さん! とその梅岡さんが四辺を見計らって声をかけて下さるように、相談をして置くから、可いかい! この薫と、その奥さん! を暗号にして、……とくれぐれもおっしゃったんで。)  と愛吉が云うんです、先生。  三宜亭で、夢中ながら目を光らせて、鼻をフンフンとやって、 (私あ、固唾を飲んでた処だ。符帳が合ったから飛出した、)と拳固で自分の頬げたを撲りながらいうんでしょう。  いや、傍聞きをした山の井光起、こりゃもう、すぐに電話でお呼び申した。その驚いたより、十層倍、百層倍、仰天をしたのは梅岡薬剤で、 (国手の前じゃ申しかねるが、僕はまた、三宜亭まで是非とお夏さんに呼出されて、実は相済まんが、友達に頼んでちょいと抜け出して来ると、いつも世話になると礼をいって、お小遣が沢山あるから御馳走をするかわり、済みませんが、姫様におっしゃるように、奥さん、といいながら歩行いて下さい。貴下を、旦那さま、とでも、こちの人とでもいうわ。と大呑気だから、愉快い、と引受けたんで。あれから東照宮の中を抜けて、ぶらぶらしながら谷中の途中、ここが御註文と思うから、多勢人の居る処じゃ、奥さん――山の井の奥さん。時々、夫人――などというと、顔を赤くなすったッけ。  岡野へ寄ろうと、くらがり坂へかかった時は、別にそこで、という誂えがあったわけではない。  いっそ、特にあの坂で、とでもいうことなら、いかにお夏さんが神色自若としていたから、といって、こちらが呑気だからといって、墓といい、森といい、暗さといい、たといそこまでは上の空でも、坂の下り口じゃちょいとでも気がさして、他の路を行きましょうぐらいはいえるだろうのに。  何事もなかった。  坂を下りかかると、今から思や、礼の心であんなすったか、並んで歩行いていた僕の手を、ちょいと握って、そのまますたすたと、……さよう、六足ばかり線路の方へ駈け出しておいでなさる、と思うと、よろよろとなすったようだから、危い! と声をかけようと思って、ここでつい我知らず、奥さん! といった。  すると愛吉が飛出しました。  これでお助んなすればよし、さもないと僕が手伝をして殺したも同然だ。)  と薬剤師、その責に任じて、涙ぐんでいったんでがすがね。  先生、命数、」  といった。同時に、 「命数、」  目と目を見合わせ、 「か。」 「も知れません。」 「竹永さん、貴老はまたどうしてそこへ行き合わせました?」 「そりゃこうでがす。  ええ、お待ちなさいよ。」  と丹平前に屈んで、握拳を掌で揉み、 「そうだ、ただいまのその巣鴨の植木屋、卯之吉の庭で、お夏さんの車の、矢のように飛んだを見て、別にあとをつけようという考はなかったんでがすがね。懐しくッてなりますまい。  青柳町だといった待て待て、どんな処に住ってるか行って見ようと、逆戻りにもみじへ入ると、や、ぞろぞろと人が居る、通天門を潜って出ると、ばらばらと見物でさ。妙なことがあるもんで、ここで何も俗にいう死神が取着いたというわけではないから、私のような筵破りは除外例、その死神がお夏さんを誘うためにしばらく人を払ったというのじゃがあせん。私の口でいっちゃ似合いませんが、死を決すれば如神で、名僧のごとく、知識のごとく、哲人のごとし。女とてかわりはない、おのずから浮世の塵を払って、この仙境にしばらくなごりを惜んだのでありましょう。  その時はそうとも思わず、ははあ、こりゃやはり自分たちと同様風説ばかりで、一体、実際縦覧をさせるか、させぬか、そこどころちとあやふやな華族の庭。こりゃ、遠慮をして見合せていた処へ、二人。お夏さんはともかく、私というのまでその中から顕われたのを見て、卯之吉の庭に居た連中、気を揃えて推参に及んだな。  どうだ善知識だろうと、天窓はこれなり、大手を振って通り抜けた――愚にもつかぬ。  あれから、今の真宗大学を右に見て、青柳町へ伸して、はて、どこらだろうと思う、横町の角に、生垣の中が菊の盛。そこに立ってただ一人視めていた婆さんがあった、その顔を見ると、塞ったようになった細い目で、おや! といった。」 三十七 「(まあ、おめずらしい、)と莞爾したろうではありませんか。方なしの皺になりましたが、若い時は、その薄紅に腫ぼッたい瞼が恐ろしく婀娜だった、お富といって、深川に芸者をして、新内がよく出来て、相応に売った婦人でしたが、ごくじみな質で、八幡様寄の米屋に、米搗をしていた、渾名をニタリの鮟鱇、鮟鱇に似たりで分かる。でぶでぶとふとった男。ニタリニタリ笑っているのに、どこへ目をつけたか、その婀娜な、腫ぼったいのをなくなすほど惚れましてな、勤めをよすと、夫婦になって、資本を注ぎ込んで米屋を出すと、鮟鱇にわかに旦那とかわって、せっせと弁天町へ通う。そこで見張り旁々というので、引手茶屋の売据を買って、山下という看板をかけていましたが、ニタリ殿はますます狂う。抱えの芸妓は、甘いと見るから、授けちゃ証文を捲かせましょう。せめてもの便にした養女には遁げられる、年紀は取る、不景気にはなる、看板は暗くなる、酒は酸くなる、座蒲団は冷たくなる、火は消える、声は出なくなる、唄は忘れる、猫は煩らう、鼠は騒ぐ、襖は破れる、寒くはなる、大戸を閉める、どこへどうしたろうと思う……お婆さん。  串戯ではない、何時だと思う。仲ノ町じゃチャンランチャンラン今時は知らないが、店すががきで、あかりがちらちら廻る頃を、余所の垣越に立って、菊を見ているような了簡だから、引手茶屋退転だ。しかし達者で可い、どうした、と聞くと、まあ、お寄んなさいまし、直そこが内だ、という二階家でさ。門札に山下賤、婆さんの本名でしょう。  豪いな、というと、いや、御奉公をいたしております、御主人というのは?  旦那だから申しますが、……ちとこりゃ新聞のたねとりにゃ可笑ないいぐさだが。  ほんとうに世の中ッてものはわかりませんもので、あの、木場の勝山さんね、分散をなすった。そのお嬢さんのお世話を、と半分聞かず、私、火鉢の前に腰を据えた。」  さて、女の主人は知れた。男の御主人は、と聞くと、これはなおの事。  ごくごく内証ですが、日本橋のお医師で、山の井光起さんとおっしゃる方、という。いよいよとなりましたろう。  いや、江戸児の医学士め、すてきなものを囲ったぞ。  フムお妾だ。これがお前だとちょうど名も可い。イヤサお富と、手拭を取る、この天窓で茶番になるだろう。というと、いえ、私にも分りません、不思議なことには、久いあいだ、ついぞまだ一所におよった事もなし。 (夏ちゃん、)  と洒落におっしゃったり、お真面目な時も、 (勝山さん、勝山さん、)と丁寧にお呼びなさる。  その癖、この通り、それはそれは勿体ないほど、ざくざくお宝をお運びで、嬢さんがまたばらばら撒く。土地が辺鄙で食物こそだが、おめしものや何か、縮緬がお不断着で、秋のはじめに新しいコオトが出来ました。  しかしそれも旦那さままかせ。また珍らしい事には、櫛一枚、半襟一かけ、お嬢さんが、自分の口から、欲しいとおっしゃった事がないので。  旦那様は男の事、お気がつくようでもぬかりがあって、ちぐはぐでおかしいくらい。ついこの間も嬢さんが、深川の浄心寺、御菩提所へ、お墓まいりにおいでなさるのに、当世のがないもんですから、私の繻子張のをお持たせ申して、化けそうだといって、床屋の職人にお笑われなすった。――これから先生、婆さんが、その三日前に来て泊ったという、愛吉の野郎のことを話したんでがすよ。  もっとも私もまた、床屋の職人というのが、直ぐに気になったから、床屋の職人? 知己か、といって尋ねたんで。」 「お待ちなさい。」  と金之助は、寝台の上から乗出しながら、 「気に入った! ああ、そこにその人はまさに死なんとしているが、気に入った、といわねばならんですよ。  じゃ何だ、医学士はざくざく注ぎ込む、お夏さんはばらばら遣う、しかも何一つ自分から欲いといったことはないのか。そうして一たびも枕をかわさぬ、豪いな! その清浄な膚をもって、緋の紋綸子の、長襦袢で、高髷という、その艶麗な姿をもって、行燈にかえに来た雇の女に目まじろがない、その任侠な気をもって、すべてを愛吉に与えてその晩……」 「…………」丹平黙然として少時不言。この間のしょうそく、そもさんか、偈無可為証。 三十八  ややあって丹平他をいう。 「その癖、光起さんを恋しがって、懐しがって、一日と顔を見ないと、苦労にする、三日四日となると鬱ぎ出す、七日も逢わなかろうものなら、涙ぐむという始末。  じゃ顔を合わせればどうかというと、すねるような、くねるような、その素ッ気のなさ加減、傍で見る婆さんの目にも気の毒なくらい。  きちんとして、 (先生、) (勝山さん、)  という工合が、何の事はない。大町人の娘が、恋煩いをして、主治医が診察に見えたという有様。  先生がうまい事をいいましたって。 (勝山さん、どうかその医学上の講釈を聞くのと、手習を教えてくれだけはあやまる。私は藪の上に悪筆だ、)というたのだそうです。  またきっと、心臓というものはどこにあるの、なぜ御飯が肺の方へ行かないで済むの、誰の目も綺麗なのは、水晶と同じ事か、なぞとね、番ごと聞く。第一顔を見ると直ぐに清書を持出して、お目にかける。 (いや、まずいこと、私の医者のようだ、)と串戯にいうのを真にうけては、せっせと双紙に手習をするんだそうで。  そうかと思うと、時にゃがらりと巫山戯出して、肩へつかまる、羽織の紐を引断る、膝を打つ、擽る。車夫でも待っていないと、帰りがけに門口からドンと突飛ばす、もっともそんな日は、医学士の姿を見ると、いきなり飛出して框から手を引いて、すぐそのまんまで二階へ上ろうとするから、狭い階子段、で行詰ってどちらへも片附かずに、揉む。  しなだれるんじゃない、媚びるんじゃない、甘えるの。派手なんじゃない、騒々しいので、恋も情もまだ知らない、素の小児かと思うと、帰ったあとを、二階から見送って、そのまま消えそうに立っている。  そこで附添いが引手茶屋の婆さんだから、ちとその、そこン処をな。  何して、いい工合に、と独りで気を揉んだそうですが、さて口へ出そうとすると、何となく、気高い、神々しい処があって、戦場往来の古兵が、却って、武者ぶるいで一言も出んのだそうで。  まあまあ、不思議な縁というのであろう。とても人間業で行くのじゃない。その内に、出雲でも見るに見かねて、ということになるだろう、と断念めながらも、医学士に向って、すねてツンとする時と、烈しく巫山戯て騒ぐ時には番ごと驚かされながら、ツンとしても美人の娼妓のようでなく、騒いでも、売れる芸者のようでなく、品が崩れず、愛が失せないのには舌を巻いていた処、いやまた愛吉が来た晩は、つくづく目覚しいものだったと言います。……」  それはこうである。愛吉は、長火鉢の前でただ旨そうに飲んでいたが、心もって嬉しそうな顔に見えなかつたのを、酌をしながらお賤も不思議に思った。蓋し生れつき面が狼に似たばかりでない。腹に暗き鬼を生ずとしてある疑心の蟠があったのも、お夏を一目見たばかりで、霧の散ったように、我ながらに掴え処もなくて済んだその時、今そこに婆さんの顔ばかりとなったのみならず、二杯三杯と重るにつれて、遠慮も次第になくなる処へ、狂水のまわるのが、血の燃ゆるがごとき壮佼、まして渾名を火の玉のほてりに蒸されて、むらむらと固る雲、額のあたりが暗くなった。 「ウイ、」  と押つけるように猪口を措いて、 「嬉しくねえ、嬉しくねえ、へん、馬鹿にしねえや。何でえ、」  と、下唇を反らすのを、女房はこの芸なしの口不調法、お世辞の気で、どっかで喧嘩した時の仮声をつかうのかと思っていると、 「何てやんでえ、ヘッ笑かしやがら、ヘッ馬鹿にすら、ヘッヘッ馬鹿にしやがら、ヘッ土百姓、ヘッ猿唐人め、」  太夫しゃくりが出るから、湯のかわりに、お賤が、 「あいよ、お酌、」 「ヘッ、ありがとうざい、」と皆一所。吃逆と、返事と御礼と、それから東西と。 三十九 「おかみさん、難有え、お前さんの思召しも嬉しけりゃ、肴も嬉しけりゃ、酒も旨え、旨えけれど可笑くねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、」 「おや、私のことかい。」 「お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻お湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。」  女房は笑って逆わず、 「景気がついて来ましたね、ちっとは可い心持になりましたかい。」 「好いにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。」 「まあ、何をいうんですね、お嬢さんが御馳走なさるんじゃありませんか、おかしな人だよ。」といった、これはよめなかったに相違はない。  愛の口ますます尖って、 「分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活のいいきはだと、濁りのねえ酒が、私の口へ入りようがねえや、ねえ、おかみさん。」 「ですから、沢山めしあがれよ。」 「なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、」  としゃくりをきっかけに声を密め、拇指を出して見せ、 「レコだ、野郎がしやがるんだ。へん、異う旦那ぶりやがって笑かしやがらい。こう聞いとくんねえ、私アね、お嬢さんの下さるんなら、溝泥だって、舌鼓だ、這い廻って甞めるでさ。  土百姓の酒じゃ嬉しくねえ。ヘッ、じゃ飲むなといったってそうはいかねえ。第一私あ飲む気はねえが、腹の虫が承知しねえや。腹の虫は承知をしても、やっぱり私あ飲みてえや。からだらしがねえ、またたびだね、鼠のてんぷら、このしろの揚物だ。まったくでえ、死ぬ気で飲んでら、馬鹿にしねえぜ。何をいっていやがるんでえ。おかみさん、何をいってるんだか、分りますめえ。御道理で、私あ自分にも分らねえんだからね、何ですぜえ、無体、癪に障るから飲みますぜえ、頂かあ、頂くとも。酌いどくんねえ、酌いどくんねえ、」 「可いから、まあおあがんなさい。」 「む、ああ、旨え、馬鹿にしやがら、堪らねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目れんげめ、おかみさん、お憚りながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍もねえ、嬢的にそんなこといわれて堪るもんか、ヘッ、」  と頸を窘めたが、 「内証だ、嬢的にゃ極内だがね。旦の野郎にそういっておくんねえ、私あ厭だ、大嫌だ、そんな奴にゃ口を利くのも厭だから、おひかえ下さいやし、手前ことはなんて頼んだって挨拶なんぞするもんか。  こう小馬鹿にするぜえ、ヘッ、癪だ、こいつをおさえるにゃ呷切だ、」とぐッと飲む奴。 「…………」 「こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、」  お賤は気が練れた苦労人、厭な顔はちっともしないで、愛想よく、 「ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。」 「トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。」 「貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、」 「九死一生、」  お嬢さんと聞いたばかりでもう眼を据え、 「煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病だ。」 「しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。」 「大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。」 「いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋をしていらっした時の事ですよ。」 「屑屋? 誰が、こう情ねえ、人間さがりたくねえもんだ。こんななりはしてるがね、私あこれでも床屋ですぜ、屑屋は酷い、」といった。 四十 「誰がお前さんを屑屋だといいましたよ。御覧なさいな、そういわれてさえ腹を立つ、その、お前さん、屑屋をしておいでなすったんじゃないか、それだもの、」  変な面で、 「誰が、」 「お嬢さんのことをいってるんだよ、」 「はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利を知れやい。べらぼうめ、菱餅や豆煎にゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞めねえぜ、盗賊ア、盗賊ア、盗賊ア、」  と大音を揚げて、 「叱! どこの野良猫だ、ニャーフウー」  一杯に頬を膨らし、呻って啼真似をすると、ごく低声、膳の上へ頤を出して、 「へい、ですかい屑屋ですかい。お待ちなせえ、待ちねえよ、こう旨えことを考えた。一番、こう、褌ゃ切立だから、恥は掻かねえ、素裸になって、二階へ上って、こいつを脱いで、」  と胸をはだけた、仕方をする気が、だらしはない、ずるッか脱げた両肌脱で、 「旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。」 「いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷は五両にゃおつけなさりやしまいよ。」 「へい、じゃ嬢的も旦かぶれで、いくらか贓物の価が分るんで?」  さては、と女房心づいて、 「まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、」 「何をね、」 「それだもの、ちぐはぐになる筈だ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。」 「お夏さん、」 「あい、そうさ。」 「や! 串戯じゃねえ、まったくですかい。」 「ほんとにも何にも、」 「あの、屑屋いって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外にゃねえ、屑い、屑いッて、籠を担いだ、あれなんで?」 「ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢にも蹴出しにもそればかり。縞も分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布でしき当のある裾を、お端折でさ、足袋は穿いておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。」 「おかみさん、逢ったのか、」 「そうですよ、」 「串戯じゃねえ、どこでだね。」 「氷川の坂ン処ですよ、」 「いつ?」 「一昨年の霜月だってば。」 「串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可いんだ、」  と膳の下へ突込むように摺り寄った。膝をばたばたとやって、歯を噛んで戦いたが、寒いのではない、脱いだ膚には気も着かず。太息を吐いて、 「ああ、それだ。芥溜ッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、」 「それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中で、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭を草原に摺りつけて、薄の根を両手に縋って、のッつ、そッつ、たってのお苦み。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。」 「ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、」  愛吉聞くうちにきょろきょろして、得もいわれぬ面色しながら、やがて二階を瞻めた。 「待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。」 「お前さん、おいでなさいよ。先刻からお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭なんですか。」 「そこどころじゃねえ、フウそうして、」 「あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯さえあがらなかった、お弱い身体に、それだもの、夜露に冷えて堪るものかね。」 「なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。」  怨めしそうなが真である。 四十一 「もっともね、日の暮れない内から、長い間そこに倒れたようになっておいでなすったんだってね、何だとさ。  晩方、あの坂を、しょんぼりして、とぼとぼ下りておいでなさると、背後からお前さん、道の幅一杯になって、二頭立の馬車が来たろうではないか。  ハッと除けようとなさる。お顔の処へ、もう大きな鼻頭がぬッと出て、ぬらぬら小鼻が動いたんだっておっしゃるんだよ。  除けるも退くもありゃしません。  牛頭馬頭にひッぱたかれて、針の山に追い上げられるように、土手へ縋って倒れたなりに上ろうとなさると、下草のちょろちょろ水の、溝へ片足お落しなすった、荷があるから堪らないよ。横倒れに、石へお髪の乱れたのに、泥ばねを、お顔へ刎ねて、三寸と間のない処を、大きな鉄の車の輪。  天へでも上るようにぐるぐるとまわって通りしなに、 (馬鹿め!)  ッて、どこの馬丁も威張るもんだけれど、憎らしいじゃありませんか。危い、とでもおっしゃることか、どこのか華族様でもあろうけれども、乗ってた御夫婦も心なし。  殿様は山高帽、郵便函を押し出したように、見返りもなさらない。らっこの襟巻の中から、長い尖った顔を出して、奥様がニヤリと笑っておいでのが、仰向けながらね、屹とお開きなすったお嬢さんの目に、熟と留ったとおっしゃるんですよ。」 「チョッ、何たらこッてえ、せめて軍鶏でも居りゃ、そんな時ゃあ阿魔の咽喉笛を突つくのに、」  と落胆したようにいったが、これは女房には分らなかった――蔵人のことである。 「余程お口惜しかったって、そうでしょうとも。……新しい秤をね、膝へかけて二ツにポッキリ。もっともお足に怪我をしておいでなすった、そこいらぞッとするような鼻紙さア。  屑の籠を引っくりかえして、 (モ死にたいねえ、)ッて、思わず音を出したよ、とおっしゃるんですがね、そのままお足を投出して、長くなって、土手に肱枕をなすったんだとさ。  鵯がけたたましく啼き立てる。むこうのお薬園の森から、氷川様のお宮へかけて、真黒な雲が出て、仕切ったようにこっちは蒼空、動くと霰になりそうなのが、塗って固めたようになっていたんですって。  その中へね、火の粉のようなものが、ぱらぱらと飛ぶから、火事かと御覧なさると、また白いものが、ちらちら交ったのを、霰かと見ていらっしゃると、またきらきらと光るのを、星かとお思いなさる内に、何ですとさ。見る見るうちに数が殖えて、交って、花車を巻き込むようになると、うっとりなすった時、緑、白妙、紺青の、珠を飾った、女雛が被る冠を守護として、緋の袴で練衣の官女が五人、黒雲の中を往来して、手招をするのが、遠い処に見えましたとさ。  ずッと立って行こうとなさると、直ぐに消えて、隠れていたお月夜になったそうで。  そこへ私がね、」  と仕方をして、 「テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。」 「ヘッ、人の気も知らねえで、」 「いえ、ところが、私だって喰うや喰わず、昔のともだちが、伝通院うらの貧乏長屋に、駄菓子を売って、蝙蝠のはりかえ直しと夫婦になって暮している処へ、のたれ込んで、しょう事なし門づけに出たんですがね、その身になってもお前さん、見得じゃないけれど極が悪くッて、昼間はとても出られないもんだからね、その晩も、日が暮れてから出たんでね、直ぐ上へ出りゃ久堅の通りだし、家の数も多いけれど、一寸のばしに下へ下りて、田圃とお薬園の、何にもまだ家のなかった処を通って、氷川の坂へ、むかしの事をおもいながら、夜露と涙で、音がしめったのを。  どうお聞きなすったか、土手に腰をかけておいでなすって、お嬢さんが、(もし、おかみさん)ッて声をかけて下すったんです。犬は遠くで吠えてたけれど、狐の居そうな処ですもの、吃驚したろうではありませんか。」  お夏が、すっと、二階から下りて来た。 「おかみさん、何のお話?」  フト屑屋さんの、と行きつまったから、 「氷川で御覧なすった、お雛様のことなんでございますよ。」 四十二 「そう、この人なら話が分るの。はじめから私とお雛様のことを知っているから。ねえ、愛吉、」  と膳の横。愛吉に肩を並べて腰を浮かしていたのは、ついしばらくの仮の宿、二階に待つ人があるのであろう。  お夏はその時、格子の羽織を着ていたが、年も二ツ三ツ、肩のあたりに威が出来て、若い女主人のように見えた。  二階から降りる跫音を、一ツ聞いて愛の奴、慌てて膚を入れたのはいうまでもない。 「愛吉、」 「へい………」 「沢山おあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠がおいしそうじゃないか。」 「ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。」 「そうね、御馳走になろうかね、どれ、」  女房が気を利かせて、箸箱をと思う間もなく、愛吉のを取って、臆面なし、海鼠は、口に入って紫の珠はつるりと皓歯を潜った。 「おお、冷こい!」  すっと立ち――台所へ出ようとする。 「何でございます。」 「二階が寒くなったの。台じゅうが欲いんです。」 「唯今、私が、」  と立って出る。お夏は、真四角に。但しひょろひょろと坐った愛吉の肩をおして、 「大分おとなしいのね。」 「お嬢様、ちとお叱んな……」と台所から。 「なッ!」  とだしぬけに押伏せて、きょとんとして、 「納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、」 「おばさん、屑屋より、この方にすれば可かったのね。」  女房は火を入れながら、生真面目に、 「どちらがどちらとも申されません。」 「お嬢さん、」と仰ぎさまに、酒くさい口をあけて、熟と顔を視て、 「そんな時に、私を尋ねて下さりゃ可いんだのになあ、」 「それだって、お前、来てくれたって、逢ったって、お酒も飲ませられないし、煙草も与れないし、可哀相だもの。」 「いえ、頂こうというんじゃねえんで、そんな時だ、私あ、お嬢さんにどうにかすらあ。盗賊でも、人殺でも、放火でも何でもすらあ。ええ、お嬢さん、」 「愛吉、難有うよ、」  とかけた手で、軽く二ツばかり揺ぶって、うつむきざまにはらはらと落涙した。  ただ、ここに赫としたのは台十能の中である。 「二階へおいでな。」 「ええ、なに………」 「構いはしないよ。」 「ええ、なに………」 「もう、お嬢様、この方はね、」 「おっと納豆ウ、納豆、納豆い、」 「あの、唯今、屑屋さんのかわりに、私の蘭蝶をお聞きなさろうという処なんでございます。」 「そうですか、ほんとに思出すわねえ、良い月夜で、露霜で、しとしとしてねえ。」 「草の中においでなすったお嬢さんのお姿が、爪先まで明いんですもの。私は慄然としましたよ。そうしてちっとばかり聞かしておくれ、こんな風で済まないけれどもッて、銀貨のお代を頂きました時は、私は掌へ、お星様が降ったのかと思いました。  追分をお好き遊ばした、弁天様のお話は聞きましたが、ここらに高尾の塚もなし、誰方が草刈になっておいで遊ばしたんでしょうと、ただ、もう尊くなりましてね。おんぼろの婆じゃありましてございますが、一生懸命、あんな役雑な三味線でも、思いなしか、あの時くらい、隅田川の水にだって、冴えた調子は出たことがございませんよ。」  当時の光景、いかに凄絶なるものなりしぞ。 「ああ、私も聞いている内に、ひとりで涙が出たんですもの、愛吉、おばさんはそりゃ上手だよ、」といいすてて、階子段に、蔦がからんだ裳の紅、するすると上って行った。 「ヘッ笑かしゃあがら、ヘッ旦的めえ、汝が取りに下りれば可い。寒いが聞いて呆れらい。ヘッ、悪く御託をつきゃあがると、汝がの口へ氷を詰めて、寒の水を浴びせるぞ、やい!」 「愛吉、おいでな、」  皆まで聞かず、上へ聞えたかと、「納豆、納豆。」 四十三  丹平は言を改め、 「さて、先生、何んでも愛の奴は、その中でも、お嬢さんが酷く差込んだというのを気にして、尋ねますから、婆さんが、その時だ。  一心不乱に蘭蝶を、語り済ましている内に、うむといってお夏さんが苦しみ出したんだそうで。いや、驚くまい事か、糸も撥も投り出して、縋りついて介抱をしたんだけれども、歯を切緊ってしまったから、遊女の空癪を扱うようなわけには行かない。  自分も打坐り込んで、意気地はがあせん、お念仏を唱え出した。  ト珍らしく人声がして、俥が来たでさ。しかも路が悪いんで、下町の抱車夫にゃあがきが取れなかったものと見えてね、下りて歩行いて来かかった。夜目にも立派な洋服で、背は高くないが、極り処のきちんとした、上手が鑿で刻んだという灰色の姿。月明に一目見ると、ずッと寄ったのが山の井さんで、もう立向うと病魔辟易。病人を包んだ空気が何となく溌とひらくという国手だから、もう大丈夫。――  やがてお夏さんの望みで、名が良いという今の青柳町へ、世話をする事になったに就いて、その時の縁で、お賤が、女中、乳母、兼帯のおもり役。  とここまで……愛吉にお賤が言って聞かせて、見なさい、そういう御恩人だ、といっても、奴泡を吹いて、ブウブウの舌を引込ませない。  日本一のお嬢さんを妾にするたあ何事だ、妾は癪だ、恩人も糸瓜もねえ、弱り目につけ込んで、すけべいの恩を売る奴は、さし込み以上の疫病神だと、怒鳴るでがしょう。  一体何という藪だ、破竹か、孟宗か、寒竹か、あたまから火をつけて蒸焼にして噛ると、ちと乱だ。楊枝でも噛むことか、割箸を横啣えとやりゃあがって、喰い裂いちゃ吐出しまさ。  大概のことは気にもかけなかったが、婆さん貧病は治して貰った、我が朝の、耆婆扁鵲と思う人を、藪はちと気になったから、山の井さんを何だ、と思うと極めるとね。  先刻承知だろうと思っていたのが、耳を立てて、何山の井だ、どこの藪だ。  光起さんとおっしゃって、日本橋の真中にある大藪、というと、(やや先生か)といって、愛吉が、呆気に取られて、しばらく天井を視めていたそうだッけ。 (親分か、)と吹ッ切った。それで静まるのかと思うとそうでない。 (あン畜生、根生いの江戸ッ児の癖にしやがって、卑劣な謀叛を企てたな。こっちあ、たかだか恩を売って、人情を買う奴だ、贅六店の爺番頭か、三河万歳の株主だと思うから、むてえ癪に障っても、熱湯は可哀相だと我慢をした。芸妓や娼妓でも囲いあがりゃ、いざこざはちっともねえが、汝が病家さきの嬢さんの落目をひろッて、掻きあげにしやあがったは、何のこたあねえ、歌を教えて手を握る、根岸の鴨川同断だ。江戸ッ児の面汚し、さあ、合点が出来ねえぞ、)とぐるぐると廻って突立つから、慌てて留める婆さんを、刎ね飛ばす、銚子が転がる、膳が倒れる、どたばた、がたぴしという騒ぎ、お嬢さん、と呼んで取さえてもらおうとしても、返事もなけりゃ、寂閑はどういうわけ?…… (もう寐やがったか、太え奴だ。)  とドンと襖へ打附かって、眼の稲妻、雷の声、からからからと黒煙を捲いて上る。ト、これじゃおもりが悪いようで、婆さん申訳がありますまい。  あとから夢中で駆け上った、この時でさ、――先生。  二人とも驚いたのは。  二階の二人が、クスクス笑っていたというんですものな。  気の抜けること夥しい。  ちんちんをするような形で、棒を呑んでしゃっきりと立った、愛吉の前へ小さな紫檀の食卓の上から、衝と手を伸ばして、 (親方、申上げよう、)  といって猪口をさして、山の井さんが、呵々と笑ったとお思いなさい。」  光起は藍と紺、味噌漉縞一楽の袷羽織、おなじ一楽の鼠と紺を、微塵織の一ツ小袖、ゆき短にきりりと着て、茶の献上博多の帯、黄金ぶちの眼鏡を、ぽつりと太い眉の下、鼻隆く、髭濃かに、頬へかけて、円い頤一面に胡麻のよう、これで頬がこけていれば、正に卒業試験中、燈下に書を読む風采であった。 四十四  お夏がまた叱言でもいうことか、莞爾して、 (さあ、お酌をして上げようね、)  愛吉は手術台で、片腕切落されたような心持で、硬くなって盃を出した。  お夏の手なる銚子こそおかしけれ。円く肩のはった、色の白い、人形の胴を切った形であったもことわり、天女が賜う乳のごとく、恩愛の糸をひいて、此方の猪口に装られたのは、あわれ白酒であったのである。  さて、お肴には何がある、錦手の鉢と、塗物の食籠に、綺麗に飾って、水天宮前の小饅頭と、蠣殻町の煎豌豆、先生を困らせると昼間いったその日の土産はこれで。丹平がここに金之助に語りつつある、この黒旋風を驚かしたものは、智多星呉軍師の謀計でない、ただ一盞の白酒であった。――  丹平語を継ぎ、 「そこで医学士が、 (どうです、親方、いけますか、)などとおっしゃる。  お嬢さんの下さるもんなら、溝泥も甘露だといった口にも、これはちと辟易だ、盃を睨み詰めて、目の玉を白く、白酒を黒くして、もじつくと、山の井さんが大笑いして、 (いけますまいな。いや、私も弱る。大辟易だが、勝山さんは、白酒でなくッては、一生お酌は断ちものだそうだ。)  また全く徹頭徹尾、白酒でなくッては酌というものをしないのでがすとさ。婆さんがなかなおりに、 (私が助けましょう、)  と取って飲んだのを、 (頂戴な、)とお夏さんが請け取って、ここで一杯、珍らしく三猪口、愛吉の酌で飲んだそうで。  山の井さんは止むことを得ず、例のごとくそこに持出して――いや、突きつけてある草紙を取って、一枚ずつ開けて見ながら、白豌豆をポツリ、ポツリ。  時々、 (旨い、)なんて小児のような洒落をいうんだ。  そうしちゃ、 (私は小児科はいかんよ。)は可うがしょう。  お夏さんがね、ばたりと畳へ手を支いた、羽織の肩が少しずれて、 (ああ、もう眠い、)ッて恐ろしい愛想づかしじゃありませんか。 (さあ、お寐なさい、)  というと、かぶりを振って、 (厭です、寐かして下さらなくッちゃ、) (お婆さん、床を取っておあげ、私も、もうそろそろ帰る。) (いいえ、先生、貴下が、寐かして、)と切々にいったが、いつになく酔っちゃいるし、ついぞないことをいうんだから、婆さん、はッと気がついて大喜び。 (さあ、愛吉さん、下へ行ってもう一杯、今度は私も頂くよ。)  善は急げで立ちかかると、愛吉、前へ立って、膠が放れたようだったが、どどどど、どんというと四五段辷り落ちた。 (危い、)  と婆さんが段の中途でいった時、 (危いよ、)  という医学士の声がしたは、お夏が、愛吉を憂慮って、立とうとして、酔ってるからよろけたんだそうでがす。  愛の奴は台所へ仁王立ちで、杓呑を遣った。  そこいら、皿小鉢が滅茶でしょう。すぐにその手で、雑巾を持って、婆さんが一片附け、片附けようとする時、二階で、 (親方々々、)  と医学士が呼んだそうです。  上って見ると、どうでしょう、お夏さんは高島田を横に学士の膝につけて、腕をかけて、横顔で寐ていたので。 (そこらに掻巻があろう、見てくれ、)とある。  おっとまかせろナは可いが、愛の野郎、三尺の尻ッこけで、ぬッと足を出して夜具戸棚を開けた工合、見習いの喜助殿というのでがす。  勿論、絹の小掻巻。抱えて突出すと、 (かけてお上げ、)  というお声がかり。」 四十五  掻巻がかかると、裳が揺れた。お夏は柔かに曲げていた足を伸ばして、片手を白く、天鵝絨の襟を引き寄せて、軽く寝返りざまに、やや仰向になったが――目が覚めてそうしたものではなかった。  愛吉は掻巻の裾に跪いて、 (先生、酔ったんで、) (ああ、ちと酔ったと見えるが、女も、白酒を小さな猪口で寐るようだと真に結構だ、) (愛吉、) (へい、) (男も君のように飲んじゃ困るな。)  納豆を売るわけにも行かず、思わぬ処でぎょっとする。 (ちっと控目にしないか、第一身体が堪らない。勝山さんも大層気にかけて心配してるぜ。  待て、)  といって、尻ッこけに遁げ出そうとするのを呼び留め、学士は黄金時計をちょいと見た。 (少し待て、)  そのまま黙って、その微塵縞一楽の小袖の膝に、酔はさめたが、唇の紅も掻巻にかくれて、ひとえに輪廓の正しき雪かと見まがう、お夏の顔を熟と見ながら、この際大病人の予後でもいいきけらるるを、待つごとく、愛吉呼吸を殺して、つい居ると、 (こっちへ来い、) (ええ、) (ちっと膝をかせ。) (先生、飛んだ御串戯もんですぜ。) (いや、私は時間の都合がある、婆さんは片づけものがあるだろう、すやすや寐ているから、可いか、密とだ、)静かな膝は、わななく枕と入れ交った、お夏の夢は、月に月宮殿をあくがれ出でて、廃駅の時雨に逢うのであろう。  立って、衣紋を正した時、学士の膝は濡れていた。が、鬢の梅の雫ではない、まつげのそよぎに、つらぬきとめぬ露であった。―― (私は一向、そんな方はぞんざいだったが、この勝山さん娶おうとした時、親類が悪い風説を聞いたとか言って、愚図々々面倒だから、今の、山河内のを入れたんだが、身分が反対だとよかった。女世帯の絵草紙屋を棄てて、華族の女を媽にしたというので、酷くこの深川ッ児に軽蔑されるよ。はははは、)  と恐縮をしたように打笑い、 (どうだ親方、ちっと粋なのを世話しないか。)  と上り口で振返って、爽に階下へおりた。すぐ上って来るだろうと思うと、やがて格子戸が開いたのは、懐手で出て帰ったのである。  転寝はかぜを引くと、二階へ床を取りに行った時、女房は、石のように固くなって愛吉が膝を揃えて畏っていたのを見た。月の夜の玉川に、砧を枕にした風情、お夏は愛吉のその膝に、なおすやすやと眠っていた。  密と起して、先生がおっしゃった、愛吉さんもお泊り、という時、お夏はぱっちり目を開けたが、極めて鷹揚に無雑作に、 (…………)  枕の異ったことは何にもいわず、 (お前もお手つだい、)  と愛吉に教えて、自分も枕など持ち出して、急いで寝床が出来ると、(このまま寝ようや、)と云ったのが、その緋の紋綸子の長襦袢。  同一装で。香水の瓶の口を開けていたのを、二度目に行燈を提げて上って女房が見た。が、その後の事は分らぬ。もっとも屏風をたてて下りた。その後はいかにしけんか知らず。  ただ、真夜中の頃、みしみしと二階を一人が降りて来た。お夏の跫音ではない。うとうとした女房、台所の傍なる部屋で目を覚すと、枕許を通るのは愛吉で。憚りかと思うと上框の戸を開けた。 (おや、帰るんですか。) (私も店がございます、済みませんが、あとのしまりを、)と不思議なことをいって、戸を開けて出たと思うと、日和下駄を穿いて来たのに、カラリとも音がせぬ。耳を澄ましていると、ひたひたと地を蹈む音。およそ池の坊の石段のあたりまで、刻んできこえたが、しばらく中絶えがして、菊畑の前、荒物屋の角あたりから、疾風一陣! 護国寺前から音羽の通りを、通り魔の通るよう、手足も、衣も吹靡いて、しのうて行くか、と犬も吠えず鼠もあるかぬ寂とした瞬間のうつつに感じた。  女房は夢かと思った。が、起き出て土間へ下りると、幻ではない。格子戸は開いたまま、大戸はしまっていたが、掛けがねが外ずれていた。  火沙汰を憂慮って、行燈で寝るほど、小心な年寄。ことに女主人なり、忘れてもこんな事は、とそこで何か急に恐くなったか、密とあけて見ると良い月夜、式部小路は一筋蒼い。  塵も埃も寐静ったろうと思う月明りの中に、曲角あたりものの気勢のするのは、二階の美しいのの魂が、菊の花を見に出たのであろう。  女房はフト心着いた。黙って帰して、叱られはしまいか、とそこで階子段の下に立寄って、様子を見たが、寂寞している。覗くようにしたけれども屏風はたったり、行燈の火も洩れず。 (お嬢さん、)と小声で呼んで見たが、答えがない。その夜に限って、上って見ようとは思わず、いつの間にか時が経ったと見えて、もう冷くなった寝床へ入って寐た。  あくる日は、平日より早く目が覚めたが、またお夏が例になく起きて来ぬ。台所もすっかり片づいて、綺麗に掃除が出来、朝飯が済んで、しばらくして茶を入れて、毎日飲む頃になったが、まだ下りぬ。  沸り切っていた湯が冷めるから、炭を継いで、それから静に上って見た。屏風の端から覗くと、お夏は床の上に起上って、暖に日のさす小春の朝。行燈の紙真白に灯がまだ消えず。ああ、時ならぬ、簾越なる紅梅や、みどりに紺段々八丈の小掻巻を肩にかけて、お夏は静としていた。 (おや、もうお目覚。) (ああ、今起きようと思っているの。)  女房が、不思議というのはこの事ではない。ただ愛吉が夜中に帰った時の、戸外が凄かったもののけはいの事である。  それとなく、 (昨夜夜中に帰りましたね。) (喧嘩の夢を見て、寐惚けたんだよ。)とばかりお夏は笑っていたが、喧嘩の夢どころではない、殺人の意気天に冲して、この気疾の豪傑、月夜に砂煙を捲いて宙を飛んだのであった。  この意気なればこそ、三日握り詰めたお夏の襟をそった剃刀に、鎮西五郎時致が大島伝来の寐刃を合わせたとはいえ、我が咽喉ならばしらず、いかで誤ってお夏の胸を傷つけんや。衣ていた絹は、膚よりも堅いのに。  くらがり坂で躍り出して、 (こん、畜生!)  コオトの背中を引抱えて、身体を圧にグサと刺した。それでも気が上ずったか、頭巾の端を切って、咽喉をかすって、剃刀の尖は、紫の半襟の裏に留まったのである。  お夏がよろける。奥さん、と梅岡薬剤。――  啊呀と、駆け寄った丹平は、お夏が刃物を引きつけるように、我を殺すものの頸を、両のかいなでしっかと絞めて抱いたのを見た。その身は坂を上の方、兇漢は下に居た。 (あ、)  と一声、もっと刺せとか、それとも告別の意であったか、 (愛吉、)  とお夏が呼ぶと、丹平が引放そうとする愛吉の手は、力も用いないで外ずれたが、頸を巻いたお夏の腕は放れない。  掙いて解くと、道の上へ、お夏の胸は弓なりに反ったが、梅岡に支えられた。 (国手に、国手に、)とお夏は、その時くりかえしていったのである。  愛吉は下へ、どんと尻餅をついた。そのまま咽喉にあてた剃刀を挘ぎ取ったのは丹平で。  時にはじめて声を出した、江戸ッ児の薬剤師の声は異様なものであった。 (非常だ、) (お騒ぎあるな! 引きうけました。)  兀げ天窓の小男の一言は、いうまでもなく大いなる力があったのである。  竹永丹平が病院でなお語り続ける。 「で、三宜亭で聞きますとな、愛の野郎は当日お昼過から、東照宮の五重の塔に転がっていたんでがすって。暮かかってから、のッそり出かけて、くらがり坂に潜んだんだといいますから、巣鴨じゃ、ちょうどお夏さんが、私と話をしていなすった時でがす。  影も薄し、それ神々しかろうじゃありませんか。  また、青柳町で。婆さんが云うのには、その晩、件の一陣の兇風、砂を捲いて飛んで返ったッきり、門口はもとより台所へも、廂合の路地へも寄ッついた様子はなし、お夏さんも二日たって、その日の午過ぎ湯に行くまで、どッこも出なかったというんですから、白薔薇と、平打の簪とで、生命がけの相談、定子を殺そう、と一人は、一人は定子になって殺されようというのが極って、打合わせもしないで両方とも立派に覚悟をして出かけたばかりか、とうとう真ものにしてしまった。  生命を軽んずること鴻毛のごとく、約を重んずること鼎に似たり。とむずかしくいえばいうものの、何の事はがあせん、人殺しの飯事だ。  が、またこの飯事が、先生、あの二人でなくッちゃ、英雄にも豪傑にも、志士仁人にも、狂人にも、馬鹿にも出来ない、第一あなたにも私にも出来ませんて。  何の出来ずともの事だけれど。……」  と丹平は附加えた。 「私、愛吉が来てからの一件。また当日お夏さんがちょいと関戸の邸のもみじを見て来よう、と……もっともいつか中から行って見よう、といいながら、出ぎらいな方で行かなかったのを、お午過ぎに湯から帰ると、一人でずんずん着ものを着かえた。直近いのに吾妻コオトなり、頭巾なり。ちっと帰りが遅いから、気になって、婆さん、横町の角まで出ていた処を、私に会ったと云うんでがしょう。さあ、気になる。私一向遣り放しで、もの事を苦にはせんから、虫が知らせたというようなわけではない。  が何だか、卯之吉の門から俥が行ってしまったのが、なごり惜くって、今にもその姿が見たくてならぬ。  おかしいね。  何も三年越見なかった人なり、殊にそういう知己の婆さんが在って見れば、これをつてで、また余所ながら尋ねられないこともないが、何となく、急に見たい。  そこででがすよ。  茶を入れかえる、といったのを振切って出て、大塚の通りから、珍らしく俥を驕ると、道の順で、これが団子坂から三崎町、笠森の坂を向うへ上って、石屋の角でさ。谷中の墓地へ出たと思うと、向うから――お夏さん。  ちと柄がかわり過ぎた。私、目についているのは、結綿に鹿の子の切、襟のかかった衣に前垂がけで、絵双紙屋の店に居た姿だ。  先刻の文金で襟なしの小袖でさえ見違えたのに、栗鼠のコオトに藍鼠のその頭巾。しかもこの時は被っていました。  おまけに、並んで歩行いているのが、茶の中折で、絣の羽織、粋づくりだけれど、お商売がら、どこか上品に見える、梅岡薬剤でがしょう。  私もし、青柳町へ寄らないで、この体を見ると、いよいよ戻橋だ。紅葉の下で生血を吸う……ね。  そのなりで。思いがけない二人づれなり、ちょいとはお夏さんと見えないけれど、そこは私、通から一目で見て取った、俥を下りて、くらがり坂まであとをつけたですよ。何とももって残念千万。  や、梅岡さんの方が前へ行ったそうでがす。あの石段の上の床几、入口のね、あすこだ。毛氈を敷いて出してあるのに腰をかけて、待合わしていたんでがすな。  そこへ柳橋とも、芳町とも、新橋とも、たとえようのないのが、急いで来て、一所になった。紅葉の時だが、マビで、そんなにたて込まず、座敷もあいていたけれども、上らないで、男はカラカラと高談話。  一室だとたちぎぎがしたいなぞと、気を揉んだ女中が居たそうで、茶代が五十銭。  それから連れ立って、東照宮の方へ行くのを、大勢女中がずらりとならんで騒いで見送ったのは、今しがただ、といって、三宜亭の主人がな。  奥座敷を閉め込んで、血だらけのコオトを脱がした時、目を眠っているお夏さんの、艶麗なのを見て、こりゃ、薬や繃帯をなさるより、真綿で包んで密として置く方が可いッて、真面目にいった。  もっとも夢のようだといいましたっけ。  先生、私なども、真と思わん、どうしても夢でがすよ、それが一昨々日の晩だ。」  といって歎息した。  金之助は悩める右手をひしと抱いて、 「私は却って、その顔も見ないから、ちっとも夢のように思われんでなお困る。幸ひ貴老が見えてから、あの苦しむのが聞えないから……」 「私のその、御経読誦が、いくらか功徳がありましたもんでがしょう。」と、泣くより笑いというのである。 「ああ、どうぞあけ方までに、繰返して、もう一度その経を誦したまえ、絶えず、念じて下さい。私も覚えて念じよう。明日、また明後日、明々後日も、幾度も、本尊の前途を見届けるまでは、貴方は帰さん、誰にも逢わん。」 「宜しい。」  竹永が天井を仰いだ時、金之助も斉しく見たが、例よりは壁が高いと思うと、電燈がすッと消えた。  あわれな声で、 青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、  と廊下で繃帯を巻きながら、唐糸の響くように、四五人で交る交る低唱していた、看護婦たちの声が、フト途切れたトタンに。  硝子窓へばらばらと雨が当った。  廊下を馳せ違う人の跫音。  二人は呼吸を詰めた。  電燈が直ぐに点いた、その時顔を見合わせた。 木の下蔭に駒とめて、  とまた聞える。  吻と、といきをつく間もなく、この扉が細目に開いた、看護婦の福崎が、廊下から姿を半ば。 「貴下、お案じなさいました五番の方が、」  二人は肩から氷を浴びて、 「どう、」 「どうした。」 「容子がかわりました。」 「そうか、」  期したりといわんよう、落着いていって、丹平は椅子を放れる。  と同時である。 「大変だ、」と激くいうと、金之助は寝台からずるりと落ちたが、斉く扉から顔を出して、六ツの目は向、突当りの廊下へ注いだ、と思うと金之助が身を挺して、少しよろけながら廊下をすたすたと其方へ行く。後から竹永が続いたので、看護婦も引添うた。  遠山も丹平も心はおなじ、室の外から、蔭ながら、別を惜もうとしたのであったが。  五番の室の前へ行くと、思いがけず扉が開いていたので、思わず両人、左右の壁へ立ち別れた。  と見ると哀しき寝台を囲うて、左の方に、忍び姿で、粛然として山の井医学士。枕許に看護婦一人、右に宿直の国手が彳んで、その傍に別に一人、……白衣なるが、それは、窈窕たる佳人であった。  その背後に附添ったのが、当院の看護婦長。  入口を背にして、寝台の裾に、ひょろひょろとして痩せた、三尺帯は愛吉である。  ト遠山の附添福崎が、静に室に入って行って、二三語を交えたのは、病人に対する金之助の同情の節を伝えたのであろう。  医学士の傍に居た看護婦が、一脚椅子を持って出て挨拶をした。 「お掛けなさいまし。」  金之助は辞せず、しかし入りはしないで、廊下へ受取った時、福崎は急いで遠山の病室へ行ったが、これも椅子を提げて引返して来て、 「お掛けなさいまし。」  と丹平に。自から直ちに遠山の背後に来て、その受持の患者を守護する。両人は扉を挟んで、腰をかけた、渠等好事なる江戸ツ児は、かくて甘んじて、この惨憺たる、天女廟の門衛となったのである。  雨がドッと降って来た。  しばらくすると、宿直と、看護婦長は、この室を辞して出た。その時、後を閉めようとして、ここに篤志の夜伽のあるのを知って一揖した。  丹平すなわち、外から扉を押そうとすると、 「構いません、」と声をかけて目礼をしたのは医学士山の井光起である。向い合って右の側なる一人の看護婦が、 「宜しゅうございます。」  といった、渠は窈窕たる佳人であった。 「いや、御遠慮を申す、御遠慮を申す。」  と丹平は徐に。かくて自ら自分等を廊下の外に閉め出した。その扉が背を圧するような、間近に居たから、愛吉は身動をしたが、かくても失心の体で、立ちながら、貧乏ゆるぎをぞしたりける。  時に、ここを通り過ぎて、廊下の彼方に欄干のある、螺旋形の段の下り口の処に立ち停って、宿直医と看護婦長と、ひそかに額を交えて彳んだのが、やがて首を垂れて、段を下りるのが見えた。  同時にそれまで、青葉の歌の声を留めて、その二人の密話を傍聞きして取り巻いた、同じ白衣の看護婦三人。宿直の姿が二階を放れて、段に沈むと、すらすらと三方へ、三条の白布を引いて立ち別れた。その集っている間、手に、裾に、胸に、白浪の飜るようだった、この繃帯は、欄干に本を留めて、末の方から次第に巻いて寄るのである。  渠等も、お夏のこの容体を今聞いた、無意識にうたいつるる唱歌の声の、その身その身も我知らず、 身の行末をつくづくと、偲ぶ鎧の袖の上に、 散るは涙か、はた露か、  より低く、より悲しげに、よりあわれに、より多く頭を垂れて、少しずつ、巻き込みながら繰り寄る繃帯。  遠く廊下に操る布の、すらすら乱れて、さまよえるは、ここに絶えんず玉の緒の幻の糸に似たらずや。繋げよ、玉の緒。勿断ちそ細布。  遠山と丹平は、長き廊下の遠き方に、電燈の澄める影に、月夜に霞の漾うなかに、その三人の白衣の乙女。あわれ、魂を迎うべく、天使来る矣、と憂えたのである。  雨は篠突くばかりとなった。棟に覆す滝の音に、青葉の唱歌の途切るる時、ハッと皆、ここにあるもの八九人、一時に呼吸を返したように、お夏の、我に返る気勢を感じた。 「ああ、熱、」  驚破と二人。 「何て暑いんでしょう、私はどうしたの。」  というのが、耳許に冴えた調子で聞えながら、しかも幽に、折から風が颯と添って、次第々々に大空へ遠く消えて行くようになって、また寂とした。  雨はいよいよ降るのである。時もわきまえずなるまでに、夜は次第に更けるのである。 「愛吉、愛吉、」とお夏が呼んだ。  遠山は面を背けた。 「愛吉、苦しいから殺しておくれ。」  しばらくして、 「早くしておくれよ。」  答うるものはないのである。 「国手、どうすりゃ、可いの。私は国手の奥さんになりたいの、」  優しい声で、 「してあげますよ、」というのが聞えた。 「だって奥さんがあるんですもの。」 「いえ、もうありません、貴女に生命を救われて、山河内の家へ帰りますよ。」  遠山も耳を澄す。  お夏の声で、 「でも不可いの、私は、愛吉が可愛くッて可愛くッて、」  廊下の外でもはらはらと落涙する。 「可愛くッてならないの、だから奥さんになって殺されたんだわ、なぜこんなに暑いの、なぜ熱いの、私のした事が悪いから、あの、それで、ひどいの、どうすりゃ可いんですねえ。」  答うもののあらざるを見て、遠山金之助堪えかねたか、矩を踰してずッと入った。  蓬頭垢面、窮鬼のごとき壮佼あり、 「先生!」  と叫んで遠山の胸に縋りついた。 「お嬢さんお嬢さん、貴女が兄さんのようだとおいいなすった、新聞社の先生ですよ。」と、いまだ全くその気は狂い果てなかった。  金之助、声高く、 「貴女のしたことは決して間違った事じゃありません!」  これに頷く趣に見えたが、 「もう死んでも可ごさんす、」といって、起上ろうとするのをかの看護婦が、密と抱いて、 「いえ、私が死なせません。」  渠は窈窕たる佳人であった。この窈窕たる佳人は、山の井医学士の夫人定子であることを――ここで謂おう。  医学士は衝と進んで、打まかせたような、お夏の右手の脈を衝と取った。  除けよ、とあるので、附添と、愛吉は、山を崩すがごとく、氷嚢を取り棄てた。医学士は疾病の他に、情の炎の人の身を焼き亡うことのあるを知ったであろう。  丹平は、そこに掲げられた、体温の表を見て、烈しい地震系を描いた、噴火山のようなものだと思った。  あわれ、その胸にかけたる繃帯は、ほぐれて靉靆いて、一朶の細き霞の布、暁方の雨上りに、疵はいえていたお夏と放れて、眠れるごとき姿を残して、揺曳して、空に消えた。  内裏雛の冠して、官女たちと、五人囃子して遊ぶ状を、後に看護婦までも、幻に見たと聞く。 明治三十九(一九〇六)年一月
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 初出:「大阪毎日新聞」    1906(明治39)年1月1日~1月27日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。 「雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》」「熊ヶ谷」「程ヶ谷」「明石ヶ浦」 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048405", "作品名": "式部小路", "作品名読み": "しきぶこうじ", "ソート用読み": "しきふこうし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大阪毎日新聞」1906(明治39)年1月1日~1月27日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-06-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48405.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成9", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年6月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年11月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48405_ruby_47488.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-05-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48405_47842.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-05-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 山吹つつじが盛だのに、その日の寒さは、俥の上で幾度も外套の袖をひしひしと引合せた。  夏草やつわものどもが、という芭蕉の碑が古塚の上に立って、そのうしろに藤原氏三代栄華の時、竜頭の船を泛べ、管絃の袖を飜し、みめよき女たちが紅の袴で渡った、朱欄干、瑪瑙の橋のなごりだと言う、蒼々と淀んだ水の中に、馬の首ばかり浮いたような、青黒く朽古びた杭が唯一つ、太く頭を出して、そのまわりに何の魚の影もなしに、幽な波が寂しく巻く。――雲に薄暗い大池がある。  池がある、この毛越寺へ詣でた時も、本堂わきの事務所と言った処に、小机を囲んで、僧とは見えない、鼠だの、茶だの、無地の袴はいた、閑らしいのが三人控えたのを見ると、その中に火鉢はないか、赫と火の気の立つ……とそう思って差覗いたほどであった。  旅のあわれを、お察しあれ。……五月の中旬と言うのに、いや、どうも寒かった。  あとで聞くと、東京でも袷一枚ではふるえるほどだったと言う。  汽車中、伊達の大木戸あたりは、真夜中のどしゃ降で、この様子では、思立った光堂の見物がどうなるだろうと、心細いまできづかわれた。  濃い靄が、重り重り、汽車と諸ともに駈りながら、その百鬼夜行の、ふわふわと明けゆく空に、消際らしい顔で、硝子窓を覗いて、 「もう!」  と笑って、一つ一つ、山、森、岩の形を顕わす頃から、音もせず、霧雨になって、遠近に、まばらな田舎家の軒とともに煙りつつ、仙台に着いた時分に雨はあがった。  次第に、麦も、田も色には出たが、菜種の花も雨にたたかれ、畠に、畝に、ひょろひょろと乱れて、女郎花の露を思わせるばかり。初夏はおろか、春の闌な景色とさえ思われない。  ああ、雲が切れた、明いと思う処は、 「沼だ、ああ、大な沼だ。」  と見る。……雨水が渺々として田を浸すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々巌蒼く、ぽっと薄紅く草が染まる。嬉しや日が当ると思えば、角ぐむ蘆に交り、生茂る根笹を分けて、さびしく石楠花が咲くのであった。  奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は弥が上に曇った。けれども、志す平泉に着いた時は、幸いに雨はなかった。  そのかわり、俥に寒い風が添ったのである。  ――さて、毛越寺では、運慶の作と称うる仁王尊をはじめ、数ある国宝を巡覧せしめる。 「御参詣の方にな、お触らせ申しはいたさんのじゃが、御信心かに見受けまするで、差支えませぬ。手に取って御覧なさい、さ、さ。」  と腰袴で、細いしない竹の鞭を手にした案内者の老人が、硝子蓋を開けて、半ば繰開いてある、玉軸金泥の経を一巻、手渡しして見せてくれた。  その紺地に、清く、さらさらと装上った、一行金字、一行銀書の経である。  俗に銀線に触るるなどと言うのは、こうした心持かも知れない。尊い文字は、掌に一字ずつ幽に響いた。私は一拝した。 「清衡朝臣の奉供、一切経のうちであります――時価で申しますとな、唯この一巻でも一万円以上であります。」  橘南谿の東遊記に、 これは清衡存生の時、自在坊蓮光といへる僧に命じ、一切経書写の事を司らしむ。三千日が間、能書の僧数百人を招請し、供養し、これを書写せしめしとなり。余もこの経を拝見せしに、その書体楷法正しく、行法また精妙にして――  と言うもの即これである。  ちょっと(この寺のではない)或案内者に申すべき事がある。君が提げて持った鞭だ。が、遠くの掛軸を指し、高い処の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々と拝まるる、観音勢至の金像を説明すると言って、御目、眉の前へ、今にも触れそうに、ビシャビシャと竹の尖を振うのは勿体ない。大慈大悲の仏たちである。大して御立腹もあるまいけれども、作がいいだけに、瞬もしたまいそうで、さぞお鬱陶しかろうと思う。  俥は寂然とした夏草塚の傍に、小さく見えて待っていた。まだ葉ばかりの菖蒲杜若が隈々に自然と伸びて、荒れたこの広い境内は、宛然沼の乾いたのに似ていた。  別に門らしいものもない。  此処から中尊寺へ行く道は、参詣の順をよくするために、新たに開いた道だそうで、傾いた茅の屋根にも、路傍の地蔵尊にも、一々由緒のあるのを、車夫に聞きながら、金鶏山の頂、柳の館あとを左右に見つつ、俥は三代の豪奢の亡びたる、草の径を静に進む。  山吹がいまを壮に咲いていた。丈高く伸びたのは、車の上から、花にも葉にも手が届く。――何処か邸の垣根越に、それも偶に見るばかりで、我ら東京に住むものは、通りがかりにこの金衣の娘々を見る事は珍しいと言っても可い。田舎の他土地とても、人家の庭、背戸なら格別、さあ、手折っても抱いてもいいよ、とこう野中の、しかも路の傍に、自由に咲いたのは殆ど見た事がない。  そこへ、つつじの赤いのが、ぽーとなって咲交る。……  が、燃立つようなのは一株も見えぬ。霜に、雪に、長く鎖された上に、風の荒ぶる野に開く所為であろう、花弁が皆堅い。山吹は黄なる貝を刻んだようで、つつじの薄紅は珊瑚に似ていた。  音のない水が、細く、その葉の下、草の中を流れている。それが、潺々として巌に咽んで泣く谿河よりも寂しかった。  実際、この道では、自分たちのほか、人らしいものの影も見なかったのである。  そのかわり、牛が三頭、犢を一頭連れて、雌雄の、どれもずずんと大く真黒なのが、前途の細道を巴形に塞いで、悠々と遊んでいた、渦が巻くようである。  これにはたじろいだ。 「牛飼も何もいない。野放しだが大丈夫かい。……彼奴猛獣だからね。」 「何ともしゃあしましねえ。こちとら馴染だで。」  けれども、胸が細くなった。轅棒で、あの大い巻斑のある角を分けたのであるから。 「やあ、汝、……小僧も達しゃがな。あい、御免。」  敢て獣の臭さえもしないで、縦の目で優しく視ると、両方へ黒いハート形の面を分けた。が牝牛の如きは、何だか極りでも悪かったように、さらさらと雨のあとの露を散して、山吹の中へ角を隠す。  私はそれでも足を縮めた。 「ああ、漸と衣の関を通ったよ。」  全く、ほっとしたくらいである。振向いて見る勇気もなかった。  小家がちょっと両側に続いて、うんどん、お煮染、御酒などの店もあった。が、何処へも休まないで、車夫は坂の下で俥をおろした。  軒端に草の茂った、その裡に、古道具をごつごつと積んだ、暗い中に、赤絵の茶碗、皿の交った形は、大木の空洞に茨の実の溢れたような風情のある、小さな店を指して、 「あの裏に、旦那、弁慶手植の松があるで――御覧になるかな。」 「いや、帰途にしましょう。」  その手植の松より、直接に弁慶にお目に掛った。  樹立の森々として、聊かもの凄いほどな坂道――岩膚を踏むようで、泥濘はしないがつるつると辷る。雨降りの中では草鞋か靴ででもないと上下は難しかろう――其処を通抜けて、北上川、衣河、名にしおう、高館の址を望む、三方見晴しの処(ここに四阿が立って、椅子の類、木の株などが三つばかり備えてある。)其処へ出ると、真先に案内するのが弁慶堂である。  車夫が、笠を脱いで手に提げながら、裏道を崖下りに駈出して行った。が、待つと、間もなく肩に置手拭をした円髷の女が、堂の中から、扉を開いた。 「運慶の作でござります。」  と、ちょんと坐ってて言う。誰でも構わん。この六尺等身と称うる木像はよく出来ている。山車や、芝居で見るのとは訳が違う。  顔の色が蒼白い。大きな折烏帽子が、妙に小さく見えるほど、頭も顔も大の悪僧の、鼻が扁く、口が、例の喰しばった可恐しい、への字形でなく、唇を下から上へ、への字を反対に掬って、 「むふッ。」  ニタリと、しかし、こう、何か苦笑をしていそうで、目も細く、目皺が優しい。出額でまたこう、しゃくうように人を視た工合が、これで魂が入ると、麓の茶店へ下りて行って、少女の肩を大な手で、 「どうだ。」  と遣りそうな、串戯ものの好々爺の風がある。が、歯が抜けたらしく、豊な肉の頬のあたりにげっそりと窶の見えるのが、判官に生命を捧げた、苦労のほどが偲ばれて、何となく涙ぐまるる。  で、本文通り、黒革縅の大鎧、樹蔭に沈んだ色ながら鎧の袖は颯爽として、長刀を軽くついて、少し屈みかかった広い胸に、兵の柄のしなうような、智と勇とが満ちて見える。かつ柄も長くない、頬先に内側にむけた刃も細い。が、かえって無比の精鋭を思わせて、颯と掉ると、従って冷い風が吹きそうである。  別に、仏菩薩の、尊い古像が架に据えて数々ある。  みどり児を、片袖で胸に抱いて、御顔を少し仰向けに、吉祥果の枝を肩に振掛け、裳をひらりと、片足を軽く挙げて、――いいぐさは拙いが、舞などしたまう状に、たとえば踊りながらでんでん太鼓で、児をおあやしのような、鬼子母神の像があった。御面は天女に斉しい。彩色はない。八寸ばかりのほのぐらい、が活けるが如き木彫である。 「戸を開けて拝んでは悪いんでしょうか。」  置手拭のが、 「はあ、其処は開けません事になっております。けれども戸棚でございますから。」 「少々ばかり、御免下さい。」  と、網の目の細い戸を、一、二寸開けたと思うと、がっちりと支えたのは、亀井六郎が所持と札を打った笈であった。  三十三枚の櫛、唐の鏡、五尺のかつら、紅の袴、重の衣も納めつと聞く。……よし、それはこの笈にてはあらずとも。 「ああ、これは、疵をつけてはなりません。」  棚が狭いので支えたのである。  そのまま、鬼子母神を礼して、ソッと戸を閉てた。  連の家内が、 「粋な御像ですわね。」  と、ともに拝んで言った。 「失礼な事を、――時に、御案内料は。」 「へい、五銭。」 「では――あとはどうぞお賽銭に。」  そこで、鎧着たたのもしい山法師に別れて出た。  山道、二町ばかり、中尊寺はもう近い。  大な広い本堂に、一体見上げるような釈尊のほか、寂寞として何もない。それが荘厳であった。日の光が幽に漏れた。  裏門の方へ出ようとする傍に、寺の廚があって、其処で巡覧券を出すのを、車夫が取次いでくれる。巡覧すべきは、はじめ薬師堂、次の宝物庫、さて金色堂、いわゆる光堂。続いて経蔵、弁財天と言う順序である。  皆、参詣の人を待って、はじめて扉を開く、すぐまたあとを鎖すのである。が、宝物庫には番人がいて、経蔵には、年紀の少い出家が、火の気もなしに一人経机に対っていた。  はじめ、薬師堂に詣でて、それから宝物庫を一巡すると、ここの番人のお小僧が鍵を手にして、一条、道を隔てた丘の上に導く。……階の前に、八重桜が枝も撓に咲きつつ、かつ芝生に散って敷いたようであった。  桜は中尊寺の門内にも咲いていた。麓から上ろうとする坂の下の取着の処にも一本見事なのがあって、山中心得の条々を記した禁札と一所に、たしか「浅葱桜」という札が建っていた。けれども、それのみには限らない。処々汽車の窓から視た桜は、奥が暗くなるに従って、ぱっと冴を見せて咲いたのはなかった。薄墨、鬱金、またその浅葱と言ったような、どの桜も、皆ぽっとりとして曇って、暗い紫を帯びていた。雲が黒かったためかも知れない。  唯、階の前の花片が、折からの冷い風に、はらはらと誘われて、さっと散って、この光堂の中を、空ざまに、ひらりと紫に舞うかと思うと――羽目に浮彫した、孔雀の尾に玉を刻んで、緑青に錆びたのがなお厳に美しい、その翼を――ぱらぱらとたたいて、ちらちらと床にこぼれかかる……と宙で、黄金の巻柱の光をうけて、ぱっと金色に飜るのを見た時は、思わず驚歎の瞳を瞠った。  床も、承塵も、柱は固より、彳めるものの踏む処は、黒漆の落ちた黄金である。黄金の剥げた黒漆とは思われないで、しかも些のけばけばしい感じが起らぬ。さながら、金粉の薄雲の中に立った趣がある。われら仙骨を持たない身も、この雲はかつ踏んでも破れぬ。その雲を透して、四方に、七宝荘厳の巻柱に対するのである。美しき虹を、そのまま柱にして絵かれたる、十二光仏の微妙なる種々相は、一つ一つ錦の糸に白露を鏤めた如く、玲瓏として珠玉の中にあらわれて、清く明かに、しかも幽なる幻である。その、十二光仏の周囲には、玉、螺鈿を、星の流るるが如く輝かして、宝相華、勝曼華が透間もなく咲きめぐっている。  この柱が、須弥壇の四隅にある、まことに天上の柱である。須弥壇は四座あって、壇上には弥陀、観音、勢至の三尊、二天、六地蔵が安置され、壇の中は、真中に清衡、左に基衡、右に秀衡の棺が納まり、ここに、各一口の剣を抱き、鎮守府将軍の印を帯び、錦袍に包まれた、三つの屍がまだそのままに横わっているそうである。  雛芥子の紅は、美人の屍より開いたと聞く。光堂は、ここに三個の英雄が結んだ金色の果なのである。  謹んで、辞して、天界一叢の雲を下りた。  階を下りざまに、見返ると、外囲の天井裏に蜘蛛の巣がかかって、風に軽く吹かれながら、きらきらと輝くのを、不思議なる塵よ、と見れば、一粒の金粉の落ちて輝くのであった。  さて経蔵を見よ。また弥が上に可懐い。  羽目には、天女――迦陵頻伽が髣髴として舞いつつ、かなでつつ浮出ている。影をうけた束、貫の材は、鈴と草の花の玉の螺鈿である。  漆塗、金の八角の台座には、本尊、文珠師利、朱の獅子に騎しておわします。獅子の眼は爛々として、赫と真赤な口を開けた、青い毛の部厚な横顔が視られるが、ずずッと足を挙げそうな構えである。右にこの轡を取って、ちょっと振向いて、菩薩にものを言いそうなのが優闐玉、左に一匣を捧げたのは善哉童子。この両側左右の背後に、浄名居士と、仏陀波利が一は払子を振り、一は錫杖に一軸を結んだのを肩にかつぐように杖いて立つ。額も、目も、眉も、そのいずれも莞爾莞爾として、文珠も微笑んでまします。第一獅子が笑う、獅子が。  この須弥壇を左に、一架を高く設けて、ここに、紺紙金泥の一巻を半ば開いて捧げてある。見返しは金泥銀泥で、本経の図解を描く。……清麗巧緻にしてかつ神秘である。  いま此処に来てこの経を視るに、毛越寺の彼はあたかも砂金を捧ぐるが如く、これは月光を仰ぐようであった。  架の裏に、色の青白い、痩せた墨染の若い出家が一人いたのである。  私の一礼に答えて、 「ご緩り、ご覧なさい。」  二、三の散佚はあろうが、言うまでもなく、堂の内壁にめぐらした八の棚に満ちて、二代基衡のこの一切経、一代清衡の金銀泥一行まぜ書の一切経、並に判官贔屓の第一人者、三代秀衡老雄の奉納した、黄紙宋板の一切経が、みな黒燿の珠玉の如く漆の架に満ちている。――一切経の全部量は、七駄片馬と称うるのである。 「――拝見をいたしました。」 「はい。」  と腰衣の素足で立って、すっと、経堂を出て、朴歯の高足駄で、巻袖で、寒く細りと草を行く。清らかな僧であった。 「弁天堂を案内しますで。」  と車夫が言った。  向うを、墨染で一人行く若僧の姿が、寂しく、しかも何となく貴く、正に、まさしく彼処におわする……天女の御前へ、われらを導く、つつましく、謙譲なる、一個のお取次のように見えた。  かくてこそ法師たるものの効はあろう。  世に、緋、紫、金襴、緞子を装うて、伽藍に処すること、高家諸侯の如く、あるいは仏菩薩の玄関番として、衆俗を、受附で威張って追払うようなのが少くない。  そんなのは、僧侶なんど、われらと、仏神の中を妨ぐる、姑だ、小姑だ、受附だ、三太夫だ、邪魔ものである。  衆生は、きゃつばらを追払って、仏にも、祖師にも、天女にも、直接にお目にかかって話すがいい。  時に、経堂を出た今は、真昼ながら、月光に酔い、桂の香に巻かれた心地がして、乱れたままの道芝を行くのが、青く清明なる円い床を通るようであった。  階の下に立って、仰ぐと、典雅温優なる弁財天の金字に縁して、牡丹花の額がかかる。……いかにや、年ふる雨露に、彩色のかすかになったのが、木地の胡粉を、かえってゆかしく顕わして、萌黄に群青の影を添え、葉をかさねて、白緑碧藍の花をいだく。さながら瑠璃の牡丹である。  ふと、高縁の雨落に、同じ花が二、三輪咲いているように見えた。  扉がギイ、キリキリと……僧の姿は、うらに隠れつつ、見えずに開く。  ぽかんと立ったのが極が悪い。  ああ、もう彼処から透見をなすった。  とそう思うほど、真白き面影、天女の姿は、すぐ其処に見えさせ給う。  私は恥じて俯向いた。 「そのままでお宜しい。」  壇は、下駄のままでと彼の僧が言うのである。  なかなか。  足袋の、そんなに汚れていないのが、まだしもであった。  蜀紅の錦と言う、天蓋も広くかかって、真黒き御髪の宝釵の玉一つをも遮らない、御面影の妙なること、御目ざしの美しさ、……申さんは恐多い。ただ、西の方遥に、山城国、浄瑠璃寺、吉祥天のお写真に似させ給う。白理、優婉、明麗なる、お十八、九ばかりの、略人だけの坐像である。  ト手をついて対したが、見上ぐる瞳に、御頬のあたり、幽に、いまにも莞爾と遊ばしそうで、まざまざとは拝めない。  私は、端坐して、いにしえの、通夜と言う事の意味を確に知った。  このままに二時いたら、微妙な、御声が、あの、お口許の微笑から。――  さて壇を退きざまに、僧のとざす扉につれて、かしこくもおんなごりさえ惜まれまいらすようで、涙ぐましくまた額を仰いだ。御堂そのまま、私は碧瑠璃の牡丹花の裡に入って、また牡丹花の裡から出たようであった。  花の影が、大な蝶のように草に映した。  月ある、明なる時、花の朧なる夕、天女が、この縁側に、ちょっと端居の腰を掛けていたまうと、経蔵から、侍士、童子、払子、錫杖を左右に、赤い獅子に騎して、文珠師利が、悠然と、草をのりながら、 「今晩は――姫君、いかが。」  などと、お話がありそうである。  と、麓の牛が白象にかわって、普賢菩薩が、あの山吹のあたりを御散歩。  まったく、一山の仏たち、大な石地蔵も凄いように活きていらるる。  下向の時、あらためて、見霽の四阿に立った。  伊勢、亀井、片岡、鷲尾、四天王の松は、畑中、畝の四処に、雲を鎧い、繇糸の風を浴びつつ、或ものは粛々として衣河に枝を聳かし、或ものは恋々として、高館に梢を伏せたのが、彫像の如くに視めらるる。  その高館の址をば静にめぐって、北上川の水は、はるばる、瀬もなく、音もなく、雲の涯さえ見えず、ただ(はるばる)と言うように流るるのである。   「この奥に義経公。」  車夫の言葉に、私は一度俥を下りた。  帰途は――今度は高館を左に仰いで、津軽青森まで、遠く続くという、まばらに寂しい松並木の、旧街道を通ったのである。  松並木の心細さ。  途中で、都らしい女に逢ったら、私はもう一度車を飛下りて、手も背もかしたであろう。――判官にあこがるる、静の霊を、幻に感じた。 「あれは、鮭かい。」  すれ違って一人、溌剌たる大魚を提げて駈通ったものがある。 「鱒だ、――北上川で取れるでがすよ。」  ああ、あの川を、はるばると――私は、はじめて一条長く細く水の糸を曳いて、魚の背とともに動く状を目に宿したのである。 「あれは、はあ、駅長様の許へ行くだかな。昨日も一尾上りました。その鱒は停車場前の小河屋で買ったでがすよ。」 「料理屋かね。」 「旅籠屋だ。新築でがしてな、まんずこの辺では彼店だね。まだ、旦那、昨日はその上に、はい鯉を一尾買入れたでなあ。」 「其処へ、つけておくれ、昼食に……」  ――この旅籠屋は深切であった。 「鱒がありますね。」  と心得たもので、 「照焼にして下さい。それから酒は罎詰のがあったらもらいたい、なりたけいいのを。」  束髪に結った、丸ぽちゃなのが、 「はいはい。」  と柔順だっけ。  小用をたして帰ると、もの陰から、目を円くして、一大事そうに、 「あの、旦那様。」 「何だい。」 「照焼にせいという、お誂ですがなあ。」 「ああ。」 「川鱒は、塩をつけて焼いた方がおいしいで、そうしては不可ないですかな。」 「ああ、結構だよ。」  やがて、膳に、その塩焼と、別に誂えた玉子焼、青菜のひたし。椀がついて、蓋を取ると鯉汁である。ああ、昨日のだ。これはしかし、活きたのを料られると困ると思って、わざと註文はしなかったものである。  口を溢れそうに、なみなみと二合のお銚子。  いい心持の処へ、またお銚子が出た。  喜多八の懐中、これにきたなくもうしろを見せて、 「こいつは余計だっけ。」 「でも、あの、四合罎一本、よそから取って上げましたので、なあ。」  私は膝を拍って、感謝した。 「よし、よし、有難う。」  香のものがついて、御飯をわざわざ炊いてくれた。  これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人分です。 「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」  やがて停車場へ出ながら視ると、旅店の裏がすぐ水田で、隣との地境、行抜けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も結わないが、遊んでいた小児たちも、いたずらはしないと見える。  ほかにも、商屋に、茶店に、一軒ずつ、庭あり、背戸あれば牡丹がある。往来の途中も、皆そうであった。かつ溝川にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家にさえ、大抵皆、菖蒲、杜若を植えていた。  弁財天の御心が、自ら土地にあらわれるのであろう。  忽ち、風暗く、柳が靡いた。  停車場へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は雪を散らしそうに寒くなった。一千年のいにしえの古戦場の威力である。天には雲と雲と戦った。
底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店    1987(昭和62)年9月16日第1刷発行    2001(平成13)年2月5日第21刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十七巻」岩波書店    1942(昭和17)年10月初版発行 初出:「人間」    1921(大正10)年7月号 入力:門田裕志 校正:米田進、鈴木厚司 2003年3月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003425", "作品名": "七宝の柱", "作品名読み": "しっぽうのはしら", "ソート用読み": "しつほうのはしら", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「人間」1917(大正6)年3月", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-05-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3425.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花短編集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月16日", "入力に使用した版1": "2001(平成13)年2月5日第21刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "鈴木厚司、米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3425_ruby_5479.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-04-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3425_9674.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-04-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 村夫子は謂ふ、美の女性に貴ぶべきは、其面の美なるにはあらずして、単に其意の美なるにありと。何ぞあやまれるの甚しき。夫子が強ちに爾き道義的誤謬の見解を下したるは、大早計にも婦人を以て直ちに内政に参し家計を調ずる細君と臆断したるに因るなり。婦人と細君と同じからむや、蓋し其間に大差あらむ。勿論人の妻なるものも、吾人が商となり工となり、はた農となるが如く、女性が此世に処せむと欲して、択ぶ処の、身過の方便には相違なきも、そはたゞ芸妓といひ、娼妓といひ、矢場女といふと斉しく、一個任意の職業たるに過ぎずして、人の妻たるが故に婦人が其本分を尽したりとはいふを得ず。渠等が天命の職分たるや、花の如く、雪の如く、唯、美、これを以て吾人男性に対すべきのみ。  男子の、花を美とし、雪を美とし、月を美とし、杖を携へて、瓢を荷ひて、赤壁に賦し、松島に吟ずるは、畢竟するに未だ美人を得ざるものか、或は恋に失望したるものの万止むを得ずしてなす、負惜の好事に過ぎず。  玉の腕は真の玉よりもよく、雪の膚は雨の結晶せるものよりもよく、太液の芙蓉の顔は、不忍の蓮よりも更に好し、これを然らずと人に語るは、俳優に似たがる若旦那と、宗教界の偽善者のみなり。  されば婦人は宇宙間に最も美なるものにあらずや、猶且美ならざるべからざるものにあらずや。  心の美といふ、心の美、貞操か、淑徳か、試みに描きて見よ。色黒く眉薄く、鼻は恰もあるが如く、唇厚く、眦垂れ、頬ふくらみ、面に無数の痘痕あるもの、豕の如く肥えたるが、女装して絹地に立たば、誰かこれを見て節婦とし、烈女とし、賢女とし、慈母とせむ。譬ひこれが閨秀たるの説明をなしたる後も、吾人一片の情を動かすを得ざるなり。婦人といへども亦然らむ。卿等は描きたる醜悪の姉妹に対して、よく同情を表し得るか。恐らくは得ざるべし。  薔薇には恐るべき刺あり。然れども吾人は其美を愛し、其香を喜ぶ。婦人もし艶にして美、美にして艶ならむか、薄情なるも、残忍なるも、殺意あるも亦害なきなり。  試に思へ、彼の糞汁はいかむ、其心美なるにせよ、一見すれば嘔吐を催す、よしや妻とするの実用に適するも、誰か忍びてこれを手にせむ。またそれ蠅は厭ふべし、然れどもこれを花片の場合と仮定せよ「木の下は汁も鱠も桜かな」食物を犯すは同一きも美なるが故に春興たり。なほ天堂に於ける天女にして、もしその面貌醜ならむか、濁世の悪魔が花顔雪膚に化したるものに、嗜好の及ばざるや、甚だ遠し。  希くば、満天下の妙齢女子、卿等務めて美人たれ。其意の美をいふにあらず、肉と皮との美ならむことを、熱心に、忠実に、汲々として勤めて時のなほ足らざるを憾とせよ。読書、習字、算術等、一切の科学何かある、唯紅粉粧飾の余暇に於て学ばむのみ。琴や、歌や、吾はた虫と、鳥と、水の音と、風の声とにこれを聞く、強て卿等を労せざるなり。  裁縫は知らざるも、庖丁を学ばざるも、卿等が其美を以てすれば、天下にまた無き無上権を有して、抜山蓋世の英雄をすら、掌中に籠するならずや、百万の敵も恐るゝに足らず、恐るべきは一婦人といふならずや、そも〳〵何を苦しんでか、紅粉を措いてあくせくするぞ。  あはれ願くは巧言、令色、媚びて吾人に対せよ、貞操淑気を備へざるも、得てよく吾人を魅せしむ。然る時は吾人其恩に感じて、是を新しき床の間に置き、三尺すさつて拝せんなり。もしそれやけに紅粉を廃して、読書し、裁縫し、音楽し、学術、手芸をのみこれこととせむか。女教師となれ、産婆となれ、針妙となれ、寧ろ慶庵の婆々となれ、美にあらずして何ぞ。貴夫人、令嬢、奥様、姫様となるを得むや。ああ、淑女の面の醜なるは、芸妓、娼妓、矢場女、白首にだも如かざるなり。如何となれば渠等は紅粉を職務として、婦人の分を守ればなり。但、醜婦の醜を恥ぢて美ならむことを欲する者は、其衷情憐むべし。然れども彼の面の醜なるを恥ぢずして、却つてこれを誇る者、渠等は男性を蔑視するなり、呵す、常に芸娼妓矢場女等教育なき美人を罵る処の、教育ある醜面の淑女を呵す。――如斯説ふものあり。稚気笑ふべきかな。 (明治三十年八月)
底本:「現代日本文學大系 5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集」筑摩書房    1972(昭和47)年5月15日初版第1刷発行    1987(昭和62)年2月10日初版第13刷発行 入力:小林徹 校正:伊藤時也 2000年9月14日公開 2005年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001100", "作品名": "醜婦を呵す", "作品名読み": "しゅうふをかす", "ソート用読み": "しゆうふをかす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-09-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1100.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文學大系 5 樋口一葉・明治女流文學・泉鏡花集", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年5月15日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年2月10日初版第13刷", "校正に使用した版1": "1987(昭和62)年2月10日初版第13刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林徹", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1100_ruby_20515.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1100_20516.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
上  こゝに信州の六文錢は世々英勇の家なること人の能く識る處なり。はじめ武田家に旗下として武名遠近に轟きしが、勝頼滅亡の後年を經て徳川氏に歸順しつ。松代十萬石を世襲して、松の間詰の歴々たり。  寶暦の頃當城の主眞田伊豆守幸豐公、齡わづかに十五ながら、才敏に、徳高く、聰明敏達の聞え高かりける。  晝は終日兵術を修し、夜は燈下に先哲を師として、治亂興廢の理を講ずるなど、頗る古の賢主の風あり。  忠實に事へたる何某とかやいへりし近侍の武士、君を思ふことの切なるより、御身の健康を憂慮ひて、一時御前に罷出で、「君學問の道に寢食を忘れ給ふは、至極結構の儀にて、とやかく申上げむ言もなく候へども又た御心遣の術も候はでは、餘りに御氣の詰りて千金の御身にさはりとも相成らむ。折節は何をがな御慰に遊ばされむこと願はしく候」と申上げたり。  幼君御機嫌美はしく、「よくぞ心附けたる。予も豫てより思はぬにはあらねど、別に然るべき戲もなくてやみぬ。汝何なりとも思附あらば申して見よ。」と打解けて申さるゝ。「さればにて候、別段是と申して君に勸め奉るほどのものも候はねど不圖思附きたるは飼鳥に候、彼を遊ばして御覽候へ」といふ。幼君、「飼鳥はよきものか」と問はせ給へば、「いかにも御慰になり申すべし。第一お眼覺の爲に宜しからむ。いかにと申せば彼等早朝に時を定めて、ちよ〳〵と囀出だすを機に御寢室を出させ給はむには自然御眠氣もあらせられず、御心地宜しかるべし」といふ。幼君思召に協ひけん、「然らば試みに飼ふべきなり。萬事は汝に任すあひだ良きに計ひ得させよ」とのたまひぬ。  畏まりて何某より、鳥籠の高さ七尺、長さ二尺、幅六尺に造りて、溜塗になし、金具を据ゑ、立派に仕上ぐるやう作事奉行に申渡せば、奉行其旨承りて、早速城下より細工人の上手なるを召出だし、君御用の品なれば費用は構はず急ぎ造りて參らすべしと命じてより七日を經て出來しけるを、御居室の縁に舁据ゑたるが、善美を盡して、眼を驚かすばかりなりけり。  幼君これを御覽じて、嬉しげに見えたまへば、彼勸めたる何某面目を施して、件の籠を左瞻右瞻、「よくこそしたれ」と賞美して、御喜悦を申上ぐる。幼君其時「これにてよきか」と彼の者に尋ねたまへり。「天晴此上も無く候」と只管に賞め稱へつ。幼君かさねて、「いかに汝の心に協へるか、」とのたまひける。「おほせまでも候はず、江戸表にて將軍御手飼の鳥籠たりとも此上に何とか仕らむ、日本一にて候。」と餘念も無き體なり。 「汝の心に可しと思はば予も其にて可し、」と幼君も滿足して見え給へば、「然らば國中の鳥屋に申附けあらゆる小鳥を才覺いたして早御慰に備へ奉らむ、」と勇立てば、「否、追てのことにせむ、先づ其まゝに差置け、」とて急がせたまふ氣色無し。何某は不審氣に跪坐たるに、幼君、「予は汝が氣に入りたり。汝が可しと思ふことならば予は何にても可し、些變りたる望なるが、汝思附の獻立を仕立てて一膳予に試みしめよ」といかにも變りたる御望。彼者迷惑して、「つひに獻立を仕りたる覺えござなく、其道は聊も心得候はねば、不調法に候、此儀は何卒餘人に御申下さるべし」と困じたる状なりけり。  幼君、「否、予は汝が氣に入りたれば、餘人にては氣に入らず、獻立は如何樣にても可し、凡そ汝が心にて此ならば可しと思はば其にて可きなり、自ら旨しと存ずるものを予に構はず仕れ」とまた他事も無くおほすれば、不得止「畏まり候」と御請申して退出ける。  さて御料理番に折入つて、とやせむかくやせむと評議の上、一通の獻立を書附にして差上げたり。幼君たゞちに御披見ありて、「こは一段の思附、面白き取合せなり。如何に汝が心にもこれにて可しと思へるか」と御尋に、はツと平伏して、「私不調法にていたし方ござなく、其が精一杯に候」と額に汗して聞え上ぐる。幼君莞爾と打笑み給ひて、「可し、汝が心にさへ可しと思はば滿足せり。此通の獻立二人前、明日の晝食に拵ふるやう、料理番に申置くべし、何かと心遣ひいたさせたり、休息せよ」とて下げられたりける。  さて其翌日「日の昨の御獻立出來上り候、早めさせ給ふべきか」と御膳部方より伺へば、しばしとありて、彼の何某を御前に召させられ、「近きうちに鳥を納れむと思ふなり。先づ鳥籠の戸を開けて見せよ」とある。  縁側に行きて戸を開き、「いざ御覽遊ばさるべし」と手を支ふ。「一寸其中に入つて見よ」と口輕に申されければ、彼の男ハツといひて何心なく籠に入る。幼君これを見給ひて、「さても好き恰好かな」と手を拍ちてのたまへば「なるほど宜しく候」と籠の中にて答へたり。  幼君「心地よくば其に居て煙草なと吸うて見せよ。それ〳〵」と、坊主をして煙草盆を遣はしたまふに、彼の男少しく狼狽へ、「こはそも、其に置かせたまへ」と慌だしく出でむとすれば、「いや〳〵其處にて煙草を吸ひ心長閑に談せよかし」と人弱らせの御慰、賢くは見えたまへど未だ御幼年にましましけり。  籠の中なる何某は出づるにも出でられず、命せに背かば御咎めあらむと、まじ〳〵として煙草を吸へば、幼君左右を顧み給ひ、「今こそ豫て申置たる二人前の料理持て參れ」と命ぜらる。既に獻立して待ちたれば直ちに膳部を御前に捧げつ。「いま一膳はいかゞ仕らむ」と伺へば、幼君「さればなり其膳は籠の中に遣はせ」との御意、役人訝しきことかなと御顏を瞻りて猶豫へり。  幼君は眞顏にて、「苦しからず、早遣はせ」と促し給ふ。さては仔細のあることぞと籠中の人に齎らせたり。彼男太く困じ、身の置處無き状にて、冷汗掻きてぞ畏りたる。  爾時幼君おほせには、「汝が獻立せし料理なれば、嘸甘からむ、予も此處にて試むべし」とて御箸を取らせ給へば、恐る〳〵「御料理下さる段、冥加身に餘り候へども、此中にて給はる儀は、平に御免下されたし」と侘しげに申上ぐれば、幼君、「何も慰なり、辭退せず、其中にて相伴せよ」と斷つての仰。  慰にとのたまふにぞ、苦しき御伽を勤むると思ひつも、石を噛み、砂を嘗むる心地して、珍菜佳肴も味無く、やう〳〵に伴食すれば、幼君太く興じ給ひ、「何なりとも氣に協ひたるを、飽まで食すべし」と強附け〳〵、御菓子、濃茶、薄茶、などを籠中所狹きまで給はりつ。とかくして食事終れば、續きてはじまる四方山の御物語。  一時餘經ちぬれども出でよとはのたまはず、はた出だし給ふべき樣子もなし。彼者堪兼ねて、「最早御出し下さるべし、御慈悲に候」と乞ひ奉る。  幼君きつとならせ給ひて、「決して出づることあひならず一生其中にて暮すべし」と面を正してのたまふ氣色、戲とも思はれねば、何某餘のことに言も出でず、顏の色さへ蒼ざめたり。  幼君「さて何にても食を好むべし、いふがまゝに與ふべきぞ、退屈ならば其中にて謠も舞も勝手たるべし。たゞ兩便の用を達す外は外に出づることを許さず」と言棄てて座を立ち給ひぬ。  御側の面々鳥籠をぐるりと取卷き、「御難澁のほど察し入る、さて〳〵御氣の毒のいたり」と慰むるもあり、また、「これも御奉公なれば怠懈無く御勤あるべし、上の御慰にならるゝばかり、別に煩雜しき御用のあるにあらず、食は御好次第寢るも起るも御心まかせ、さりとは羨ましき御境遇に候」と戲言を謂ひて笑ふもあり、甚しきに到りては、「いかに方々、御前へ申し、何某殿の御内室をも一所に此中へ入れ申さむか、雌雄ならでは風情なく候」などと散々。  籠中の人聲を震はし、「お人の惡い、斯る難儀を興がりてなぶり給ふは何事ぞ。君の御心はいかならむ、實に心細くなり候」と年效もなく涙を流す、御傍の面々も笑止に思ひ、「いや、さまでに憂慮あるな、君御戲に候はむ、我等おとりなし申すべし」といふ。「頼入候」と手を合さぬばかりになむ。  それより一同種々申して渠を御前にわびたりければ、幼君ふたゝび御出座ありて、籠中の人に向はせられ、「其方さほどまでに苦しきか」とあれば、「いかにも堪難く候、飼鳥をお勸め申せしは私一世の過失、御宥免ありたし」と只管にわび奉りぬ。「然らば出でよ。敢て汝を苦めて慰みにせむ所存はあらず」と許し給ふに、且つ喜び、且つ恐れ、籠よりはふはふの體にてにじり出でたり。「近う來い、申聞かすことあり、皆の者もこれへ參れ」と御聲懸に、御次に控へし面々も殘らず左右に相詰むる。  伊豆守幸豐君、御手を膝に置き給ひ、頭も得上げで平伏せる彼の何某をきつと見て、「よくものを考へ見よ、汝が常に住まへる處、知らず、六疊か、八疊か、廣さも十疊に過ぎざるべし。其に較べて見る時は、鳥籠の中は狹けれども、二疊ばかりあるらむを、汝一人の寢起にはよも堪難きことあるまじ。其上仕事をさするにあらず、日夜氣まゝに遊ばせて、食物は望次第、海のもの、山のもの、乞ふにまかせて與へむに、悲む理由は無きはずなり。然るに二時と忍ぶを得ず、涙を流して窮を訴へ、只管籠を出でむとわぶ、汝すら其通りぞ。況して鳥類は廣大無邊の天地を家とし、山を翔けり、海を横ぎり、自在に虚空を往來して、心のまゝに食を啄み、赴く處の塒に宿る。さるを捕へて籠に封じて出ださずば、其窮屈はいかならむ。また人工の巧なるも、造化の美には如くべからず、自然の佳味は人造らじ、されば、鳥籠に美を盡し、心を盡して餌を飼ふとも、いかで鳥類の心に叶ふべき。  今しも汝が試みつる、苦痛を以て推して可なり。渠等とても人の心と何か分ちのあるべきぞ。他を苦めて慰まむは心ある者のすべきことかは、いかに合點のゆきたるか」と御年紀十五の若君が御戒の理に、一統感歎の額を下げ、高き咳する者無く、さしもの廣室も蕭條たり。まして飼鳥を勸めし男は、君の御前、人の思はく、消えも入りたき心地せり。  幼君面を和らげ給ひ、「斯う謂はば汝は太く面皮を缺かむが、忠義のほどは我知れり。平生よく事へくれ、惡しきこととて更に無し、此度鳥を勸めしも、予を思うての眞心なるを、何とてあだに思ふべき。實は嬉しく思ひしぞよ。さりながら飼鳥は良き遊戲にあらざるを、汝は心附かざりけむ、世に飼鳥を好む者、皆其不仁なるを知らざるなるべし、はじめよりしりぞけて用ゐざらむは然ることながら、さしては折角の志を無にして汝の忠心露れず、第一予がたしなみにならぬなり。人の心の變り易き、今しかく賢ぶりて、飼鳥の非を謂ひつれど、明日を知らず重ねて勸むる者ある時は、我また小鳥を養ふ心になるまじきものにあらず、こゝを思ひしゆゑにこそ罪無き汝を苦しめたり、されば今日のことを知れる者、誰か同一き遊戲を勸めむ。よし勸むるものあればとて、予が心汝に恥ぢなば、得て飼ふことをせまじきなり。固より些細のことながら萬事は推して斯くの如けむ、向後我身の愼みのため、此上も無き記念として、彼の鳥籠は床に据ゑ、見て慰みとなすべきぞ。斯る風聞聞えなば、一家中は謂ふに及ばず、領分内の百姓まで皆汝に鑑みて、飼鳥の遊戲自然止むべし。さすれば無用の費を節せむ、汝一人の奉公にて萬人のためになりたるは、多く得難き忠義ぞかし、罪無き汝を辱しめつ、嘸心外に思ひつらむが、予を見棄てずば堪忍して、また此後を頼むぞよ」懇にのたまひつも、目録に添へて金子十兩、其賞として給ひければ、一度は怨めしとも口惜とも思へりしが、今は只涙にくれて、あはれ此君のためならば、こゝにて死なむと難有がる。一座の老職顏見合せ、年紀恥かしく思ひしとぞ。  此君にして此臣あり、十萬石の政治を掌に握りて富國強兵の基を開きし、恩田杢は、幸豐公の活眼にて、擢出られし人にぞありける。 下  眞田家の領地信州川中島は、列國に稀なる損場にて、年々の損毛大方ならざるに、歴世武を好む家柄とて、殖産の道發達せず、貯藏の如何を顧みざりしかば、當時の不如意謂はむ方無かりし。  既に去る寛保年中、一時の窮を救はむため、老職の輩が才覺にて、徳川氏より金子一萬兩借用ありしほどなれば、幼君御心を惱ませ給ひ、何とか家政を改革して國の柱を建直さむ、あはれ良匠がなあれかしと、あまたある臣下等に絶えず御眼を注がれける。  一夜幼君燈火の下に典籍を繙きて、寂寞としておはしたる、御耳を驚かして、「君、密に申上ぐべきことの候」と御前に伺候せしは、君の腹心の何某なり。幼君すなはち褥間近く近づけ給ひて、「豫て申附けたる儀はいかゞ計らひしや」「吉報を齎し候」幼君嬉しげなる御氣色にて、「そは何よりなり、早く語り聞せ」「さん候、某仰を承り、多日病と稱して引籠り、人知れず諸家に立入り、内端の樣子を伺ひ見るに、御勝手空しく御手許不如意なるにもかゝはらず、御家中の面々、分けて老職の方々はいづれも存外有福にて、榮燿に暮すやに相見え候、さるにても下男下女どもの主人を惡ざまに申し、蔭言を申さぬ家とては更になく、また親子夫婦相親み、上下和睦して家内に波風なく、平和に目出度きところは稀に候、總じて主人が内にある時と、外に出でし後と、家内の有樣は、大抵天地の違あるが家並に候なり。然るに御老職末席なる恩田杢殿方は一家内能く治まり、妻女は貞に、子息は孝に、奴婢の輩皆忠に、陶然として無事なること恰も元日の如く暮され候。されば外見には大分限の如くなれど、其實清貧なることを某觀察仕りぬ。此人こそ其身治まりて能家の治まれるにこそ候はめ、必ず治績を擧げ得べくと存じ候」と説くこと一番。  幼君手を拍ちて、「可し、汝が觀る處予が心に合へり、予も豫て杢をこそと思ひけれ、今汝が説く所によりて、愈々渠が人材を確めたり、用ゐて國の柱とせむか、時機未だ到らず、人には祕せよ」とぞのたまひける。  斯くて幸豐君は杢を擧げて、一國の老職となさむと思はれけるが、もとより亂世にあらざれば、取立ててこれぞといふ功は渠に無きものを、みだりに重く用ゐむは、偏頗あるやうにて後暗く、はた杢を信ずる者少ければ、其命令も行はれじ、好き機もがなあれかしと時機の到るを待給ひぬ。  寶暦五年春三月、伊豆守江戸に參覲ありて、多日在府なされし折から、御親類一同參會の事ありき、幼君其座にて、「列座の方々、いづれも豫て御存じの如く、某勝手不如意にて、既に先年公義より多分の拜借いたしたれど、なか〳〵其にて取續かず、此際家政を改革して勝手を整へ申さでは、一家も終に危く候。因りて倩々案ずるに、國許に候恩田杢と申者、老職末席にて年少なれど、きつと器量ある者につき、國家の政道を擧げて任せ申さむと存ずるが、某も渠も若年なれば譜代の重役をはじめ家中の者ども、決して心服仕らじ、しかする時は杢が命令行はれで、背く者の出で來らむには、却て國家の亂とならむこと、憂慮しく候。就ては近頃御無心ながら、各位御列席にて杢に大權を御任せ下されたし、さすれば、各位の御威徳に重きを置きて、是非を謂ふものあるまじければ、何卒左樣御計らひ下されたく候」と陳べられしに、一門方幼君の明智に感じて、少時はたゞ顏を見合されしが、やがて御挨拶に、「御不如意の儀はいづれも御同樣に候が、別して豆州(幸豐をいふ)には御先代より將軍家にまでも知れたる御勝手、御難儀の段察し入る處なり。然るに御家來に天晴器量人候とな、祝着申す。さて其者を取立つるに就きて、御懸念のほども至極致せり。手前等より役儀申付け候こと、お易き御用に候、先づ何はしかれ其杢とやらむ御呼寄せあひなるべし」「早速の御承引難有候」と其日は館に歸らせ給ふ。其より御國許へ飛脚を飛して、御用の儀これあり、諸役人ども月番の者一名宛殘止まり、其他は恩田杢同道にて急々出府仕るべし、と命じ給ひければ、こはそも如何なる大事の出來つらむと、取るものも取り敢へず、夜に日についで出府したり。  いづれも心も心ならねば、長途の勞を休むる閑なく、急ぎ樣子を伺ひ奉るに何事もおほせ出だされず、ゆる〳〵休息いたせとあるに、皆々不審に堪へざりけり。中二日置きて一同を召出ださる。依つて御前に伺候すれば、其座に御親類揃はせられ威儀堂々として居流れ給ふ。一同これはと恐れ謹みけるに、良ありて幸豐公、御顏を斜に見返り給ひ、「杢、杢」と召し給へば、遙か末座の方にて、阿と應へつ、白面の若武士、少しく列よりずり出でたり。  其時、就中御歳寄の君つと褥を進め給ひ、「御用の趣餘の儀にあらず、其方達も豫て存ずる如く豆州御勝手許不如意につき、此度御改革相成る奉行の儀、我等相談の上にて、杢汝に申付くるぞ、辭退はかまへて無用なり」と嚴に申渡さるれば、並居る老職、諸役人、耳を欹て眼を睜れり。  老公重ねて、「これより後は汝等一同杢に從ひ渠が言に背くこと勿れ、此儀しかと心得よ」と思ひも寄らぬ命なれば、いづれも心中には不平ながら、異議を稱ふる次第にあらねば、止むことを得ずお請せり。  前刻より無言にて平伏したる恩田杢は此時はじめて頭を擡げ、「ものの數ならぬ某に然る大役を命せつけ下され候こと、一世の面目に候へども、暗愚斗筲の某、得て何事をか仕出だし候べき、直々御訴訟は恐れ入り候が、此儀は平に御免下さるべく候」と辭退すれば、老公、「謙讓もものにぞよる、君より命ぜられたる重荷をば、辭して荷はじとするは忠にあらず、豆州が御勝手不如意なるは、一朝一夕のことにはあらじを、よしや目覺しき改革は出來ずとも、誰も汝の過失とは謂はじ、唯誠をだに守らば可なり。とにもかくにも試みよ」と寛裕なる御言の傍よりまた幸豐公、「杢、辭退すな〳〵、俄に富は造らずとも、汝が心にて可しと思ふやうにさへいたせば可し」と觀るところを固く信じて人を疑ひ給はぬは、君が賢明なる所以なるべし。  此に於て杢は最早辭するに言無く、「さまでにおほせ下され候へば、きつと畏り候、某が不肖なる、何を以て御言に報い奉らむ、たゞ一命を捧ぐることをこそ天地に誓ひ候へ」と思ひ切つてお請申せば、列座の方々滿足々々とのたまふ聲ずらりと行渡る。但老職諸役人は不滿足の色面に露れたり。  杢逸早くこれを悟りて、きつと思案し、上に向ひて手を支へ、「某重き御役目を蒙り候上は一命を賭物にして何にても心のまゝにいたしたく候。さるからに御老職、諸役人いづれも方某が言に背かざるやう御約束ありたく候」と憚る處も無く申上ぐれば、御年役聞し召し、「道理の言條なり」とてすなはち一同に誓文を徴せらる。  老職の輩は謂ふも更なり、諸役人等も、愈出でて、愈不平なれども、聰明なる幼君をはじめ、御一門の歴々方、殘らず御同意と謂ひ、殊に此席に於て何といふべき言も出でず、私ども儀、何事に因らず改革奉行の命令に背き候まじく、いづれも杢殿手足となりて、相働き、忠勤を勵み可申候と、澁々血判して差上ぐれば、御年役一應御覽の上、幸豐公に參らせ給へば、讀過一番、頷き給ひ、卷返して高く右手に捧げられ、左手を伸べて「杢、」「は」と申して御間近に進出づれば、件の誓文をたまはりつ。幼君快活なる御聲にて、「予が十萬石勝手にいたせ。」 明治三十年十月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「十萬石《じふまんごく》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004588", "作品名": "十万石", "作品名読み": "じゅうまんごく", "ソート用読み": "しゆうまんこく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4588.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4588_ruby_44345.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4588_44657.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 帝王世紀にありといふ。日の怪しきを射て世に聞えたる羿、嘗て呉賀と北に遊べることあり。呉賀雀を指して羿に對つて射よといふ。羿悠然として問うていふ、生之乎。殺之乎。賀の曰く、其の左の目を射よ。羿すなはち弓を引いて射て、誤つて右の目にあつ。首を抑へて愧ぢて終身不忘。術や、其の愧ぢたるに在り。  また陽州の役に、顏息といへる名譽の射手、敵を射て其の眉に中つ。退いて曰く、我無勇。吾れの其の目を志して狙へるものを、と此の事左傳に見ゆとぞ。術や、其の無勇に在り。  飛衞は昔の善く射るものなり。同じ時紀昌といふもの、飛衞に請うて射を學ばんとす。教て曰く、爾先瞬きせざることを學んで然る後に可言射。  紀昌こゝに於て、家に歸りて、其の妻が機織る下に仰けに臥して、眼を睜いて蝗の如き梭を承く。二年の後、錐末眥に達すと雖も瞬かざるに至る。往いて以て飛衞に告ぐ、願くは射を學ぶを得ん。  飛衞肯ずして曰く、未也。亞で視ることを學ぶべし。小を視て大に、微を視て著しくんば更に來れと。昌、絲を以て虱を牖に懸け、南面して之を臨む。旬日にして漸く大也。三年の後は大さ如車輪焉。  かくて餘物を覩るや。皆丘山もたゞならず、乃ち自ら射る。射るに從うて、𥶡盡く蟲の心を貫く。以て飛衞に告ぐ。先生、高踏して手を取つて曰く、汝得之矣。得之たるは、知らず、機の下に寢て梭の飛ぶを視て細君の艷を見ざるによるか、非乎。 明治三十九年二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004590", "作品名": "術三則", "作品名読み": "じゅつさんそく", "ソート用読み": "しゆつさんそく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 789", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-04-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4590.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4590_ruby_26479.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4590_26586.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一 「小使、小ウ使。」  程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面……というが頤頬などに貯えたわけではない。不精で剃刀を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。 「へい。」  とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。 「おお、源助か。」  その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先生は、縞の布子、小倉の袴、羽織は袖に白墨摺のあるのを背後の壁に遣放しに更紗の裏を捩ってぶらり。髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱を右手へ引附け、一冊覚書らしいのを熟と視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆い、髯の無い、頤の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所という教頭心得。何か落着かぬ色で、 「こっちへ入れ。」  と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。  意味ありげな体なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注せ、では無さそうな処から、小使もその気構で、卓子の角へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、 「御用で?」 「何は、三右衛門は。」と聞いた。  これは背の抜群に高い、年紀は源助より大分少いが、仔細も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附けた青道心の、いつも莞爾々々した滑稽けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。 「同役(といつも云う、士の果か、仲間の上りらしい。)は番でござりまして、唯今水瓶へ水を汲込んでおりまするが。」 「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」  と云う。閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるような凄まじい風が吹く。  その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。 「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」  と唐突に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。 「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」  と例の渋い顔で、横手の柱に掛ったボンボン時計を睨むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時間がもうちっと経っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻めたもので。――風に紛れて針の音が全く聞えぬ。  そう言えば、全校の二階、下階、どの教場からも、声一つ、咳半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午になる一時間ほど、寂寞とするのは無い。――それは小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ――時計は止まったのではない。 「もう、これ午餉になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸らせましたが――いや、どの小児衆も性急で、渇かし切ってござって、突然がぶりと喫りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷を。」 「火傷を…うむ。」  と長い顔を傾ける。        二 「同役とも申合わせまする事で。」  と対向いの、可なり年配のその先生さえ少く見えるくらい、老実な語。 「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様、水をフト失念いたしましたから、精々と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」  と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭を掉った。 「いや、三右衛門でなくってちょうど可いのだ、あれは剽軽だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」  出方が出方で、源助は一倍まじりとする。  先生も少し極って、 「もっとこれへ寄らんかい。」  と椅子をかたり。卓子の隅を座取って、身体を斜に、袴をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。 「卓子の向う前でも、砂埃に掠れるようで、話がよく分らん、喋舌るのに骨が折れる。ええん。」と咳をする下から、煙草を填めて、吸口をト頬へ当てて、 「酷い風だな。」 「はい、屋根も憂慮われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風のこう烈しい事は、十年以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますような事でござりまして、ちょっと戸外へ出て御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌ぎ切れませんではござりますまいか。  三右衛門なども、鼻の尖を真赤に致して、えらい猿田彦にござります。はは。」  と変哲もない愛想笑。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅が染む。 「実際、厳いな。」  と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐいと擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張り、両腕をずいと扱いて、 「御免を被れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰だ。源助、当れ。」 「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日にも塞ごうと思いました、部屋(と溜の事を云う)の炉にまた噛りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸で炭を開けて、五徳を摺って引傾がった銅の大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと撫でる。 「一杯沸ったのを注しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」 「源助、その事だ。」 「はい。」  と獅噛面を後へ引込めて目を据える。  雑所は前のめりに俯向いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込み、 「閉込んでおいても風が揺って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」  とまた一つ灰を浴せた。瞳を返して、壁の黒い、廊下を視め、 「可い塩梅に、そっちからは吹通さんな。」 「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達の歩行いた跡は、平一面の足跡でござりまするが。」 「むむ、まるで野原……」  と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、 「源助、時に、何、今小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜へ遣ったっけが、何は、……部屋に居るか。」 「居りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」        三 「嬢ちゃん坊ちゃん。」  と先生はちょっと口の裡で繰返したが、直ぐにその意味を知って頷いた。今年九歳になる、校内第一の綺麗な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?…… 「しょんぼりしている。小使溜に。」 「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有ったとばかりで、悄れ返っておりまする。はてな、他のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児に限って、悪戯をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐を掻いて、火をほじりほじり、仔細を聞きましても、何も言わずに、恍惚したように鬱込みまして、あの可愛げに掻合せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋を附着けて、頻りとその懐中を覗込みますのを、じろじろ見ますと、浅葱の襦袢が開けまするまで、艶々露も垂れるげな、紅を溶いて玉にしたようなものを、溢れまするほど、な、貴方様。」 「むむそう。」  と考えるようにして、雑所はまた頷く。 「手前、御存じの少々近視眼で。それへこう、霞が掛りました工合に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」 「茱萸だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体であった。 「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。  青梅もまだ苦い頃、やがて、李でも色づかぬ中は、実際苺と聞けば、小蕪のように干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。 「家から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児のお詫を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手をする。 「どうだい、吹く事は。酷いぞ。」  と窓と一所に、肩をぶるぶると揺って、卓子の上へ煙管を棄てた。 「源助。」  と再度更って、 「小児が懐中の果物なんか、袂へ入れさせれば済む事よ。  どうも変に、気に懸る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可いが、と思うんだ。  昨日夢を見た。」  と注いで置きの茶碗に残った、冷い茶をがぶりと飲んで、 「昨日な、……昨夜とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」 「山道の夢でござりまするな。」 「否、実際山を歩行いたんだ。それ、日曜さ、昨日は――源助、お前は自から得ている。私は本と首引きだが、本草が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々と谷々へ釣込まれて。  こりゃ途中で暗くならなければ可いが、と山の陰がちと憂慮われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」        四 「山時分じゃないから人ッ子に逢わず。また茸狩にだって、あんなに奥まで行くものはない。随分路でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜は野宿かと思ったぞ。  でもな、秋とは違って、日の入が遅いから、まあ、可かった。やっと旧道に繞って出たのよ。  今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛で、すたすた来ると、幽に城が見えて来た。城の方にな、可厭な色の雲が出ていたには出ていたよ――この風になったんだろう。  その内に、物見の松の梢の尖が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽しの丘へ出る。……後は一雪崩にずるずると屋敷町の私の内へ、辷り込まれるんだ、と吻と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場が、一方谷、一方覆被さった雑木林で、妙に真昼間も薄暗い、可厭な処じゃないか。」 「名代な魔所でござります。」 「何か知らんが。」  と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、 「一ッきり、洞穴を潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。  ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹ぐらいな処を、熊笹の上へむくむくと赤いものが湧いて出た。幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱つくように……皆猿だ。  丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王の社がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面の赤いのに不思議はないがな、源助。  どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤だろう。  しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群り続いて、裏山の峰へ尾を曳いて、遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。  で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻の行列を山へ投懸けて視めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。  夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」  源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤の毛をすくすくと立てた。 「はあ。」  と息を内へ引きながら、 「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」 「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。  そこへな、背後の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨に前へ抜越したものがある。……  山遊びの時分には、女も駕籠も通る。狭くはないから、肩摺れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停まる処を、抜けた。  下闇ながら――こっちももう、僅かの処だけれど、赤い猿が夥しいので、人恋しい。  で透かして見ると、判然とよく分った。  それも夢かな、源助、暗いのに。――  裸体に赤合羽を着た、大きな坊主だ。」 「へい。」と源助は声を詰めた。 「真黒な円い天窓を露出でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張らせる形に、大な肱を、ト鍵形に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……  旗は真赤に宙を煽つ。  まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手の僧形にも何分か気が許されて、 (御坊、御坊。)  と二声ほど背後で呼んだ。」        五 「物凄さも前に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。  顔は覚えぬが、頤も額も赤いように思った。 (どちらへ?)  と直ぐに聞いた。  ト竹を破るような声で、 (城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲いたようにな、源助。」 「…………」小使は口も利かず。 「その時、旗を衝と上げて、 (物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢へ颯と飛移ったかと思う、旗の煽つような火が松明を投附けたように※(火+發)と燃え上る。顔も真赤に一面の火になったが、遥かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭が揺れるように見て、気が静ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状になくなったんだ。  小児が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯えた声を出して、 (わっ。)と云ってな、三反ばかり山路の方へ宙を飛んで遁出したと思え。  はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目も触らず、坊主が立ったと思う処は爪立足をして、それから、お前、前の峰を引掻くように駆上って、……ましぐらにまた摺落ちて、見霽しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白い中に、松の樹はお前、大蟹が海松房を引被いて山へ這出た形に、しっとりと濡れて薄靄が絡っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽に聞えようというのじゃないか。  話にならん。いやしくも小児を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。  帰って湯に入って、寝たが、綿のように疲れていながら、何か、それでも寝苦くって時々早鐘を撞くような音が聞えて、吃驚して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。  明方からこの風さな。」 「正寅の刻からでござりました、海嘯のように、どっと一時に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言つき、あたかも口上。何か、恐入っている体がある。 「夜があけると、この砂煙。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本の課目なんだ。  な、源助。  授業に掛って、読出した処が、怪訝い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児が入って来たんだ。」 「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」 「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。――この硝子窓の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。  また、箸の倒れた事でも、沸返って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪いよ。  ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺めいたが、その音も戸外の風に吹攫われて、どっと遠くへ、山へ打つかるように持って行かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等の声は幽に響いた。……」        六 「私も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児を見たよ。  密と椅子の傍へ来て、愛嬌づいた莞爾した顔をして、 (先生、姉さんが。)  と云う。――姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家へ帰らして下さい、と云うんです。含羞む児だから、小さな声して。  風はこれだ。  聞えないで僥倖。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜く騒動だろう。  もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。  騒がぬ顔して、皆には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。  処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」  と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻るばかり、一時、屋根を取って挫ぐがごとく吹き撲る。 「気が騒いでならんが。」  と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭りに、背中を摺着けるばかり、びたりと構えて、 「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。  はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日ばかり前だそうだ。  授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……  すると、この頃塗直した、あの蒼い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児の事で形は知らん。頭髪の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目ながら清しゅう瞪って、列を一人一人見遁すまいとするようだっけ。  物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。  私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。 (宮浜の浪ちゃんだねえ。)  とこの国じゃない、本で読むような言で聞くとさ。頷くと、 (好いものを上げますから私と一所に、さあ、行きましょう、皆に構わないで。)  と、私等を構わぬ分に扱ったは酷い! なあ、源助。  で、手を取られるから、ついて行くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸の樹の林のような中へ連れて入った。目の眶も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。 (沢山お食んなさいよ。皆、貴下の阿母さんのような美しい血になるから。)  と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父にそう言いましょうと、聞くと、 (貴下のお亡なんなすった阿母のお友だちです。)  と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈だ。  が、ここまではとにかく無事だ、源助。  その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」  源助は、びくりとして退る。 「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様の顔を描いていると、硝子戸越に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」        七 「宮浜はな、今日は、その婦人が紅い木の実の簪を挿していた、やっぱり茱萸だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児の目だもの、珊瑚かも知れん。  そんな事はとにかくだ。  直ぐに、嬉々と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。  源助、それ、近々に学校で――やがて暑さにはなるし――余り青苔が生えて、石垣も崩れたというので、井戸側を取替えるに、石の大輪が門の内にあったのを、小児だちが悪戯に庭へ転がし出したのがある。――あれだ。  大人なら知らず、円くて辷るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違いに転がり出した。 (やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄と吶喊を上げて、小児が皆それを追懸けて、一団に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。  横手の土塀際の、あの棕櫚の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背を撫でなぞしてな。  そこで言聞かされたと云うんだ。 (今に火事がありますから、早く家へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可うござんす。怪我には替えられません。けれども、後で叱られると不可ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。  時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟に捲かれませんから。)  とそう云ってな。……そこで、袂から紙包みのを出して懐中へ入れて、圧えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合せてくれたのが、その茱萸なんだ。 (私がついていられると可いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)  と云う中にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……  けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎い、と宮浜が頭を振ったそうだ。 (では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)  こりゃ小児に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。 (先生のお言に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思の叶わない仇に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当てにしますんだから。  まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。  殿方の生命は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。  まだ私たち女の心は、貴下の年では得心が行かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。  いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)  と繰返して、 (女の操というものは。)と熟と顔を凝視めながら、 (人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅い木の実を沢山食べて、血の美しく綺麗な児には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体も大切な日ですから。)  と云う中にも、裾も袂も取って、空へ頭髪ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子が波を打つ、あれ見い。」        八  雑所先生は一息吐いて、 「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可い処を、母のない児だ。――優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚に粟が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。  そりゃ分らんが、しかし詮ずるに火事がある一条だ。 (まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)  額を撫でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣ってよ。  さあ、気になるのは昨夜の山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」 「緋、緋の法衣を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾めるように言う。 「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。 (城下を焼きに参るのじゃ。)  源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓を引抱えて、こう、風の音を忘れるように沈と考えると、ひょい、と火を磨るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」  と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書で細字に認めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字である。 「へい。」 「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。  昨日は日曜で抜けている。一週間。」  と颯と紙が刎ねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子を飛ぶ気勢する。 「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……  しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」  と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。 「読本が火の処……源助、どう思う。他の先生方は皆な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少い。  こんな相談は、故老に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児たち――その過失で、私が学校を止めるまでも、地韛を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委ねる学校の分として、婦、小児や、茱萸ぐらいの事で、臨時休業は沙汰の限りだ。  私一人の間抜で済まん。  第一そような迷信は、任として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市瓦は数えるほど、板葺屋根が半月の上も照込んで、焚附同様。――何と私等が高台の町では、時ならぬ水切がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。  思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後れて驚破と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い――一時半時を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると――どう思う、どう思う、源助、考慮は。」 「尋常、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子に拳を掴んで、 「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」  と半分目を眠って、盲目がするように、白眼で首を据えて、天井を恐ろしげに視めながら、 「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐の都の大道を、一時、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌いて、何と、骨だらけな蒼い胸を岸破々々と開けました真中へ、人、人という字を書いたのを掻開けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」 「源助、源助。」  と雑所大きに急いて、 「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。 「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」  風の、その慌しい中でも、対手が教頭心得の先生だけ、もの問れた心の矜に、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣の鈕をはずして、ひくひくとした胸を出す。  雑所も急心に、ものをも言わず有合わせた朱筆を取って、乳を分けて朱い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪えたが、突込む筆の朱が刎ねて、勢で、ぱっと胸毛に懸ると、火を曳くように毛が動いた。 「あ熱々!」  と唐突に躍り上って、とんと尻餅を支くと、血声を絞って、 「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚く。 「何だ。」  と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、 「なぜ、投げる。なぜ茱萸を投附ける。宮浜。」  と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子を映す火の粉であった。  途端に十二時、鈴を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦、早鐘。  早や廊下にも烟が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼い門が、真紫に物凄い。  この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時が間に市の約全部を焼払った。  烟は風よりも疾く、火は鳥よりも迅く飛んだ。  人畜の死傷少からず。  火事の最中、雑所先生、袴の股立を、高く取ったは効々しいが、羽織も着ず……布子の片袖引断れたなりで、足袋跣足で、据眼の面藍のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉と歩行いていた。  屋根から屋根へ、――樹の梢から、二階三階が黒烟りに漾う上へ、飜々と千鳥に飛交う、真赤な猿の数を、行く行く幾度も見た。  足許には、人も車も倒れている。  とある十字街へ懸った時、横からひょこりと出て、斜に曲り角へ切れて行く、昨夜の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確とした足取であった。  が、赤旗を捲いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡の体して、 「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」  と口の裡で呟いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。  垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠の大なのがある。何某の邸の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。  学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。  と見ると、恍惚した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸る火の粉を、霰は五合と掬うように、綺麗な袂で受けながら、 「先生、沢山に茱萸が。」  と云って、﨟長けるまで莞爾した。  雑所は諸膝を折って、倒れるように、その傍で息を吐いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。 明治四十四(一九一一)年一月
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行    2004(平成16)年3月20日第2刷発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001177", "作品名": "朱日記", "作品名読み": "しゅにっき", "ソート用読み": "しゆにつき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-12-29T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1177.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成4", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年10月24日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年3月20日第2刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年10月24日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1177_ruby_20392.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1177_20567.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一 「お爺さん、お爺さん。」 「はあ、私けえ。」  と、一言で直ぐ応じたのも、四辺が静かで他には誰もいなかった所為であろう。そうでないと、その皺だらけな額に、顱巻を緩くしたのに、ほかほかと春の日がさして、とろりと酔ったような顔色で、長閑かに鍬を使う様子が――あのまたその下の柔な土に、しっとりと汗ばみそうな、散りこぼれたら紅の夕陽の中に、ひらひらと入って行きそうな――暖い桃の花を、燃え立つばかり揺ぶって頻に囀っている鳥の音こそ、何か話をするように聞こうけれども、人の声を耳にして、それが自分を呼ぶのだとは、急に心付きそうもない、恍惚とした形であった。  こっちもこっちで、かくたちどころに返答されると思ったら、声を懸けるのじゃなかったかも知れぬ。  何為なら、さて更めて言うことが些と取り留めのない次第なので。本来ならこの散策子が、そのぶらぶら歩行の手すさびに、近頃買求めた安直な杖を、真直に路に立てて、鎌倉の方へ倒れたら爺を呼ぼう、逗子の方へ寝たら黙って置こう、とそれでも事は済んだのである。  多分は聞えまい、聞えなければ、そのまま通り過ぎる分。余計な世話だけれども、黙きりも些と気になった処。響の応ずるが如きその、(はあ、私けえ)には、聊か不意を打たれた仕誼。 「ああ、お爺さん。」  と低い四目垣へ一足寄ると、ゆっくりと腰をのして、背後へよいとこさと反るように伸びた。親仁との間は、隔てる草も別になかった。三筋ばかり耕やされた土が、勢込んで、むくむくと湧き立つような快活な香を籠めて、しかも寂寞とあるのみで。勿論、根を抜かれた、肥料になる、青々と粉を吹いたそら豆の芽生に交って、紫雲英もちらほら見えたけれども。  鳥打に手をかけて、 「つかんことを聞くがね、お前さんは何じゃないかい、この、其処の角屋敷の内の人じゃないかい。」  親仁はのそりと向直って、皺だらけの顔に一杯の日当り、桃の花に影がさしたその色に対して、打向うその方の屋根の甍は、白昼青麦を烘る空に高い。 「あの家のかね。」 「その二階のさ。」 「いんえ、違います。」  と、いうことは素気ないが、話を振切るつもりではなさそうで、肩を一ツ揺りながら、鍬の柄を返して地についてこっちの顔を見た。 「そうかい、いや、お邪魔をしたね、」  これを機に、分れようとすると、片手で顱巻を挘り取って、 「どうしまして、邪魔も何もござりましねえ。はい、お前様、何か尋ねごとさっしゃるかね。彼処の家は表門さ閉っておりませども、貸家ではねえが……」  その手拭を、裾と一緒に、下からつまみ上げるように帯へ挟んで、指を腰の両提げに突込んだ。これでは直ぐにも通れない。 「何ね、詰らん事さ。」 「はいい?」 「お爺さんが彼家の人ならそう言って行こうと思って、別に貸家を捜しているわけではないのだよ。奥の方で少い婦人の声がしたもの、空家でないのは分ってるが、」 「そうかね、女中衆も二人ばッかいるだから、」 「その女中衆についてさ。私がね、今彼処の横手をこの路へかかって来ると、溝の石垣の処を、ずるずるっと這ってね、一匹いたのさ――長いのが。」 二  怪訝な眉を臆面なく日に這わせて、親仁、煙草入をふらふら。 「へい、」 「余り好物な方じゃないからね、実は、」  と言って、笑いながら、 「その癖恐いもの見たさに立留まって見ていると、何じゃないか、やがて半分ばかり垣根へ入って、尾を水の中へばたりと落して、鎌首を、あの羽目板へ入れたろうじゃないか。羽目の中は、見た処湯殿らしい。それとも台所かも知れないが、何しろ、内にゃ少い女たちの声がするから、どんな事で吃驚しまいものでもない、と思います。  あれッきり、座敷へなり、納戸へなりのたくり込めば、一も二もありゃしない。それまでというもんだけれど、何処か板の間にとぐろでも巻いている処へ、うっかり出会したら難儀だろう。  どの道余計なことだけれど、お前さんを見かけたから、つい其処だし、彼処の内の人だったら、ちょいと心づけて行こうと思ってさ。何ね、此処らじゃ、蛇なんか何でもないのかも知れないけれど、」 「はあ、青大将かね。」  といいながら、大きな口をあけて、奥底もなく長閑な日の舌に染むかと笑いかけた。 「何でもなかあねえだよ。彼処さ東京の人だからね。この間も一件もので大騒ぎをしたでがす。行って見て進ぜますべい。疾うに、はい、何処かずらかったも知んねえけれど、台所の衆とは心安うするでがすから、」 「じゃあ、そうして上げなさい。しかし心ない邪魔をしたね。」 「なあに、お前様、どうせ日は永えでがす。はあ、お静かにござらっせえまし。」  こうして人間同士がお静かに分れた頃には、一件はソレ竜の如きもの歟、凡慮の及ぶ処でない。  散策子は踵を廻らして、それから、きりきりはたり、きりきりはたりと、鶏が羽うつような梭の音を慕う如く、向う側の垣根に添うて、二本の桃の下を通って、三軒の田舎屋の前を過ぎる間に、十八、九のと、三十ばかりなのと、機を織る婦人の姿を二人見た。  その少い方は、納戸の破障子を半開きにして、姉さん冠の横顔を見た時、腕白く梭を投げた。その年取った方は、前庭の乾いた土に筵を敷いて、背むきに機台に腰かけたが、トンと足をあげると、ゆるくキリキリと鳴ったのである。  唯それだけを見て過ぎた。女今川の口絵でなければ、近頃は余り見掛けない。可懐しい姿、些と立佇ってという気もしたけれども、小児でもいればだに、どの家も皆野面へ出たか、人気はこの外になかったから、人馴れぬ女だち物恥をしよう、いや、この男の俤では、物怖、物驚をしようも知れぬ。この路を後へ取って返して、今蛇に逢ったという、その二階屋の角を曲ると、左の方に脊の高い麦畠が、なぞえに低くなって、一面に颯と拡がる、浅緑に美い白波が薄りと靡く渚のあたり、雲もない空に歴々と眺めらるる、西洋館さえ、青異人、赤異人と呼んで色を鬼のように称うるくらい、こんな風の男は髯がなくても(帽子被り)と言うと聞く。  尤も一方は、そんな風に――よし、村のものの目からは青鬼赤鬼でも――蝶の飛ぶのも帆艇の帆かと見ゆるばかり、海水浴に開けているが、右の方は昔ながらの山の形、真黒に、大鷲の翼打襲ねたる趣して、左右から苗代田に取詰むる峰の褄、一重は一重ごとに迫って次第に狭く、奥の方暗く行詰ったあたり、打つけなりの茅屋の窓は、山が開いた眼に似て、あたかも大なる蟇の、明け行く海から掻窘んで、谷間に潜む風情である。 三  されば瓦を焚く竈の、屋の棟よりも高いのがあり、主の知れぬ宮もあり、無縁になった墓地もあり、頻に落ちる椿もあり、田には大な鰌もある。  あの、西南一帯の海の潮が、浮世の波に白帆を乗せて、このしばらくの間に九十九折ある山の峡を、一ツずつ湾にして、奥まで迎いに来ぬ内は、いつまでも村人は、むこう向になって、ちらほらと畑打っているであろう。  丁どいまの曲角の二階家あたりに、屋根の七八ツ重ったのが、この村の中心で、それから峡の方へ飛々にまばらになり、海手と二、三町が間人家が途絶えて、かえって折曲ったこの小路の両側へ、また飛々に七、八軒続いて、それが一部落になっている。  梭を投げた娘の目も、山の方へ瞳が通い、足踏みをした女房の胸にも、海の波は映らぬらしい。  通りすがりに考えつつ、立離れた。面を圧して菜種の花。眩い日影が輝くばかり。左手の崕の緑なのも、向うの山の青いのも、偏にこの真黄色の、僅に限あるを語るに過ぎず。足許の細流や、一段颯と簾を落して流るるさえ、なかなかに花の色を薄くはせぬ。  ああ目覚ましいと思う目に、ちらりと見たのみ、呉織文織は、あたかも一枚の白紙に、朦朧と描いた二個のその姿を残して余白を真黄色に塗ったよう。二人の衣服にも、手拭にも、襷にも、前垂にも、織っていたその機の色にも、聊もこの色のなかっただけ、一入鮮麗に明瞭に、脳中に描き出された。  勿論、描いた人物を判然と浮出させようとして、この彩色で地を塗潰すのは、画の手段に取って、是か、非か、巧か、拙か、それは菜の花の預り知る処でない。  うっとりするまで、眼前真黄色な中に、機織の姿の美しく宿った時、若い婦人の衝と投げた梭の尖から、ひらりと燃えて、いま一人の足下を閃いて、輪になって一ツ刎ねた、朱に金色を帯びた一条の線があって、赫燿として眼を射て、流のふちなる草に飛んだが、火の消ゆるが如くやがて失せた。  赤楝蛇が、菜種の中を輝いて通ったのである。  悚然として、向直ると、突当りが、樹の枝から梢の葉へ搦んだような石段で、上に、茅ぶきの堂の屋根が、目近な一朶の雲かと見える。棟に咲いた紫羅傘の花の紫も手に取るばかり、峰のみどりの黒髪にさしかざされた装の、それが久能谷の観音堂。  我が散策子は、其処を志して来たのである。爾時、これから参ろうとする、前途の石段の真下の処へ、殆ど路の幅一杯に、両側から押被さった雑樹の中から、真向にぬっと、大な馬の顔がむくむくと湧いて出た。  唯見る、それさえ不意な上、胴体は唯一ツでない。鬣に鬣が繋がって、胴に胴が重なって、凡そ五、六間があいだ獣の背である。  咄嗟の間、散策子は杖をついて立窘んだ。  曲角の青大将と、この傍なる菜の花の中の赤楝蛇と、向うの馬の面とへ線を引くと、細長い三角形の只中へ、封じ籠められた形になる。  奇怪なる地妖でないか。  しかし、若悪獣囲繞、利牙爪可怖も、蚖蛇及蝮蝎、気毒煙火燃も、薩陀彼処にましますぞや。しばらくして。…… 四  のんきな馬士めが、此処に人のあるを見て、はじめて、のっそり馬の鼻頭に顕れた、真正面から前後三頭一列に並んで、たらたら下りをゆたゆたと来るのであった。 「お待遠さまでごぜえます。」 「はあ、お邪魔さまな。」 「御免なせえまし。」  と三人、一人々々声をかけて通るうち、流のふちに爪立つまで、細くなって躱したが、なお大なる皮の風呂敷に、目を包まれる心地であった。  路は一際細くなったが、かえって柔かに草を踏んで、きりきりはたり、きりきりはたりと、長閑な機の音に送られて、やがて仔細なく、蒼空の樹の間漏る、石段の下に着く。  この石段は近頃すっかり修復が出来た。(従って、爪尖のぼりの路も、草が分れて、一筋明らさまになったから、もう蛇も出まい、)その時分は大破して、丁ど繕いにかかろうという折から、馬はこの段の下に、一軒、寺というほどでもない住職の控家がある、その背戸へ石を積んで来たもので。  段を上ると、階子が揺はしまいかと危むばかり、角が欠け、石が抜け、土が崩れ、足許も定まらず、よろけながら攀じ上った。見る見る、目の下の田畠が小さくなり遠くなるに従うて、波の色が蒼う、ひたひたと足許に近づくのは、海を抱いたかかる山の、何処も同じ習である。  樹立ちに薄暗い石段の、石よりも堆い青苔の中に、あの蛍袋という、薄紫の差俯向いた桔梗科の花の早咲を見るにつけても、何となく湿っぽい気がして、しかも湯滝のあとを踏むように熱く汗ばんだのが、颯と一風、ひやひやとなった。境内はさまで広くない。  尤も、御堂のうしろから、左右の廻廊へ、山の幕を引廻して、雑木の枝も墨染に、其処とも分かず松風の声。  渚は浪の雪を敷いて、砂に結び、巌に消える、その都度音も聞えそう、但残惜いまでぴたりと留んだは、きりはたり機の音。  此処よりして見てあれば、織姫の二人の姿は、菜種の花の中ならず、蒼海原に描かれて、浪に泛ぶらん風情ぞかし。  いや、参詣をしましょう。  五段の階、縁の下を、馬が駈け抜けそうに高いけれども、欄干は影も留めない。昔はさこそと思われた。丹塗の柱、花狭間、梁の波の紺青も、金色の竜も色さみしく、昼の月、茅を漏りて、唐戸に蝶の影さす光景、古き土佐絵の画面に似て、しかも名工の筆意に合い、眩ゆからぬが奥床しゅう、そぞろに尊く懐しい。  格子の中は暗かった。  戸張を垂れた御廚子の傍に、造花の白蓮の、気高く俤立つに、頭を垂れて、引退くこと二、三尺。心静かに四辺を見た。  合天井なる、紅々白々牡丹の花、胡粉の俤消え残り、紅も散留って、あたかも刻んだものの如く、髣髴として夢に花園を仰ぐ思いがある。  それら、花にも台にも、丸柱は言うまでもない。狐格子、唐戸、桁、梁、眗すものの此処彼処、巡拝の札の貼りつけてないのは殆どない。  彫金というのがある、魚政というのがある、屋根安、大工鉄、左官金。東京の浅草に、深川に。周防国、美濃、近江、加賀、能登、越前、肥後の熊本、阿波の徳島。津々浦々の渡鳥、稲負せ鳥、閑古鳥。姿は知らず名を留めた、一切の善男子善女人。木賃の夜寒の枕にも、雨の夜の苫船からも、夢はこの処に宿るであろう。巡礼たちが霊魂は時々此処に来て遊ぼう。……おかし、一軒一枚の門札めくよ。 五  一座の霊地は、渠らのためには平等利益、楽く美しい、花園である。一度詣でたらんほどのものは、五十里、百里、三百里、筑紫の海の果からでも、思いさえ浮んだら、束の間に此処に来て、虚空に花降る景色を見よう。月に白衣の姿も拝もう。熱あるものは、楊柳の露の滴を吸うであろう。恋するものは、優柔な御手に縋りもしよう。御胸にも抱かれよう。はた迷える人は、緑の甍、朱の玉垣、金銀の柱、朱欄干、瑪瑙の階、花唐戸。玉楼金殿を空想して、鳳凰の舞う竜の宮居に、牡丹に遊ぶ麒麟を見ながら、獅子王の座に朝日影さす、桜の花を衾として、明月の如き真珠を枕に、勿体なや、御添臥を夢見るかも知れぬ。よしそれとても、大慈大悲、観世音は咎め給わぬ。  さればこれなる彫金、魚政はじめ、此処に霊魂の通う証拠には、いずれも巡拝の札を見ただけで、どれもこれも、女名前のも、ほぼその容貌と、風采と、従ってその挙動までが、朦朧として影の如く目に浮ぶではないか。  かの新聞で披露する、諸種の義捐金や、建札の表に掲示する寄附金の署名が写実である時に、これは理想であるといっても可かろう。  微笑みながら、一枚ずつ。  扉の方へうしろ向けに、大な賽銭箱のこなた、薬研のような破目の入った丸柱を視めた時、一枚懐紙の切端に、すらすらとした女文字。 うたゝ寐に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめてき ――玉脇みを――  と優しく美く書いたのがあった。 「これは御参詣で。もし、もし、」  はッと心付くと、麻の法衣の袖をかさねて、出家が一人、裾短に藁草履を穿きしめて間近に来ていた。  振向いたのを、莞爾やかに笑み迎えて、 「些とこちらへ。」  賽銭箱の傍を通って、格子戸に及腰。 「南無」とあとは口の裏で念じながら、左右へかたかたと静に開けた。  出家は、真直ぐに御廚子の前、かさかさと袈裟をずらして、袂からマッチを出すと、伸上って御蝋を点じ、額に掌を合わせたが、引返してもう一枚、彳んだ人の前の戸を開けた。  虫ばんだが一段高く、かつ幅の広い、部厚な敷居の内に、縦に四畳ばかり敷かれる。壁の透間を樹蔭はさすが、縁なしの畳は青々と新しかった。  出家は、上に何にもない、小机の前に坐って、火入ばかり、煙草なしに、灰のくすぼったのを押出して、自分も一膝、こなたへ進め、 「些とお休み下さい。」  また、かさかさと袂を探って、 「やあ、マッチは此処にもござった、ははは、」  と、も一ツ机の下から。 「それではお邪魔を、ちょっと、拝借。」  とこなたは敷居越に腰をかけて、此処からも空に連なる、海の色より、より濃な霞を吸った。 「真個に、結構な御堂ですな、佳い景色じゃありませんか。」 「や、もう大破でござって。おもりをいたす仏様に、こう申し上げては済まんでありますがな。ははは、私力にもおいそれとは参りませんので、行届かんがちでございますよ。」 六 「随分御参詣はありますか。」  先ず差当り言うことはこれであった。  出家は頷くようにして、机の前に座を斜めに整然と坐り、 「さようでございます。御繁昌と申したいでありますが、当節は余りござりません。以前は、荘厳美麗結構なものでありましたそうで。  貴下、今お通りになりましてございましょう。此処からも見えます。この山の裾へかけまして、ずッとあの菜種畠の辺、七堂伽藍建連なっておりましたそうで。書物にも見えますが、三浦郡の久能谷では、この岩殿寺が、土地の草分と申しまする。  坂東第二番の巡拝所、名高い霊場でございますが、唯今ではとんとその旧跡とでも申すようになりました。  妙なもので、かえって遠国の衆の、参詣が多うございます。近くは上総下総、遠い処は九州西国あたりから、聞伝えて巡礼なさるのがあります処、この方たちが、当地へござって、この近辺で聞かれますると、つい知らぬものが多くて、大きに迷うなぞと言う、お話しを聞くでございますよ。」 「そうしたもんです。」 「ははは、如何にも、」  と言ってちょっと言葉が途切れる。  出家の言は、聊か寄附金の勧化のように聞えたので、少し気になったが、煙草の灰を落そうとして目に留まった火入の、いぶりくすぶった色あい、マッチの燃さしの突込み加減。巣鴨辺に弥勒の出世を待っている、真宗大学の寄宿舎に似て、余り世帯気がありそうもない処は、大に胸襟を開いてしかるべく、勝手に見て取った。  そこでまた清々しく一吸して、山の端の煙を吐くこと、遠見の鉄拐の如く、 「夏はさぞ涼いでしょう。」 「とんと暑さ知らずでござる。御堂は申すまでもありません、下の仮庵室なども至極その涼いので、ほんの草葺でありますが、些と御帰りがけにお立寄り、御休息なさいまし。木葉を燻べて渋茶でも献じましょう。  荒れたものでありますが、いや、茶釜から尻尾でも出ましょうなら、また一興でござる。はははは、」 「お羨い御境涯ですな。」  と客は言った。 「どうして、貴下、さように悟りの開けました智識ではございません。一軒屋の一人住居心寂しゅうござってな。唯今も御参詣のお姿を、あれからお見受け申して、あとを慕って来ましたほどで。  時に、どちらに御逗留?」 「私? 私は直きその停車場最寄の処に、」 「しばらく、」 「先々月あたりから、」 「いずれ、御旅館で、」 「否、一室借りまして自炊です。」 「は、は、さようで。いや、不躾でありまするが、思召しがござったら、仮庵室御用にお立て申しまする。  甚だ唐突でありまするが、昨年夏も、お一人な、やはりかような事から、貴下がたのような御仁の御宿をいたしたことがありまする。  御夫婦でも宜しい。お二人ぐらいは楽でありますから、」 「はい、ありがとう。」  と莞爾して、 「ちょっと、通りがかりでは、こういう処が、こちらにあろうとは思われませんね。真個に佳い御堂ですね、」 「折々御遊歩においで下さい。」 「勿体ない、おまいりに来ましょう。」  何心なく言った顔を、訝しそうに打視めた。 七  出家は膝に手を置いて、 「これは、貴下方の口から、そういうことを承ろうとは思わんでありました。」 「何故ですか、」  と問うては見たが、予め、その意味を解するに難うはないのであった。  出家も、扁くはあるが、ふっくりした頬に笑を含んで、 「何故と申すでもありませんがな……先ず当節のお若い方が……というのでござる。はははは、近い話がな。最もそう申すほど、私が、まだ年配ではありませんけれども、」 「分りましたとも。青年の、しかも書生が、とおっしゃるのでしょう。  否、そういう御遠慮をなさるから、それだから不可ません。それだから、」  とどうしたものか、じりじりと膝を向け直して、 「段々お宗旨が寂れます。こちらは何お宗旨だか知りませんが。  対手は老朽ちたものだけで、年紀の少い、今の学校生活でもしたものには、とても済度はむずかしい、今さら、観音でもあるまいと言うようなお考えだから不可んのです。  近頃は爺婆の方が横着で、嫁をいじめる口叱言を、お念仏で句読を切ったり、膚脱で鰻の串を横銜えで題目を唱えたり、……昔からもそういうのもなかったんじゃないが、まだまだ胡散ながら、地獄極楽が、いくらか念頭にあるうちは始末がよかったのです。今じゃ、生悟りに皆が悟りを開いた顔で、悪くすると地獄の絵を見て、こりゃ出来が可い、などと言い兼ねません。  貴下方が、到底対手にゃなるまいと思っておいでなさる、少い人たちが、かえって祖師に憧がれてます。どうかして、安心立命が得たいと悶えてますよ。中にはそれがために気が違うものもあり、自殺するものさえあるじゃありませんか。  何でも構わない。途中で、ははあ、これが二十世紀の人間だな、と思うのを御覧なすったら、男子でも女子でもですね、唐突に南無阿弥陀仏と声をかけてお試しなさい。すぐに気絶するものがあるかも知れず、たちどころに天窓を剃て御弟子になりたいと言おうも知れず、ハタと手を拍って悟るのもありましょう。あるいはそれが基で死にたくなるものもあるかも知れません。  実際、串戯ではない。そのくらいなんですもの。仏教はこれから法燈の輝く時です。それだのに、何故か、貴下がたが因循して引込思案でいらっしゃる。」  頻に耳を傾けたが、 「さよう、如何にも、はあ、さよう。いや、私どもとても、堅く申せば思想界は大維新の際で、中には神を見た、まのあたり仏に接した、あるいは自から救世主であるなどと言う、当時の熊本の神風連の如き、一揆の起りましたような事も、ちらほら聞伝えてはおりますが、いずれに致せ、高尚な御議論、御研究の方でござって、こちとらづれ出家がお守りをする、偶像なぞは……その、」  と言いかけて、密と御廚子の方を見た。 「作がよければ、美術品、彫刻物として御覧なさろうと言う世間。  あるいは今後、仏教は盛になろうも知れませんが、ともかく、偶像の方となりますると……その如何なものでござろうかと……同一信仰にいたしてからが、御本尊に対し、礼拝と申す方は、この前どうあろうかと存じまする。ははは、そこでございますから、自然、貴下がたには、仏教、即ち偶像教でないように思召しが願いたい、御像の方は、高尚な美術品を御覧になるように、と存じて、つい御遊歩などと申すような次第でございますよ。」 「いや、いや、偶像でなくってどうします。御姿を拝まないで、何を私たちが信ずるんです。貴下、偶像とおっしゃるから不可ん。  名がありましょう、一体ごとに。  釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、皆、名があるではありませんか。」 八 「唯、人と言えば、他人です、何でもない。これに名がつきましょう。名がつきますと、父となります、母となり、兄となり、姉となります。そこで、その人たちを、唯、人にして扱いますか。  偶像も同一です。唯偶像なら何でもない、この御堂のは観世音です、信仰をするんでしょう。  じゃ、偶像は、木、金、乃至、土。それを金銀、珠玉で飾り、色彩を装ったものに過ぎないと言うんですか。人間だって、皮、血、肉、五臓、六腑、そんなもので束ねあげて、これに衣ものを着せるんです。第一貴下、美人だって、たかがそれまでのもんだ。  しかし、人には霊魂がある、偶像にはそれがない、と言うかも知れん。その、貴下、その貴下、霊魂が何だか分らないから、迷いもする、悟りもする、危みもする、安心もする、拝みもする、信心もするんですもの。  的がなくって弓の修業が出来ますか。軽業、手品だって学ばねばならんのです。  偶像は要らないと言う人に、そんなら、恋人は唯だ慕う、愛する、こがるるだけで、一緒にならんでも可いのか、姿を見んでも可いのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口を利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋っただけで、寝ないでも、可いのか、と聞いて御覧なさい。  せめて夢にでも、その人に逢いたいのが実情です。  そら、幻にでも神仏を見たいでしょう。  釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、御像はありがたい訳ではありませんか。」  出家は活々とした顔になって、目の色が輝いた。心の籠った口のあたり、髯の穴も数えつびょう、 「申されました、おもしろい。」  ぴたりと膝に手をついて、片手を額に加えたが、 「――うたゝ寐に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき――」  と独り俯向いた口の裏に誦したのは、柱に記した歌である。  こなたも思わず彼処を見た、柱なる蜘蛛の糸、あざやかなりけり水茎の跡。 「そう承れば恥入る次第で、恥を申さねば分らんでありますが、うたゝ寐の、この和歌でござる、」 「その歌が、」  とこなたも膝の進むを覚えず。 「ええ、御覧なさい。其処中、それ巡拝札を貼り散らしたと申すわけで、中にはな、売薬や、何かの広告に使いまするそうなが、それもありきたりで構わんであります。  また誰が何時のまに貼って参るかも分りませんので。ところが、それ、其処の柱の、その……」 「はあ、あの歌ですか。」 「御覧になったで、」 「先刻、貴下が声をおかけなすった時に、」 「お目に留まったのでありましょう、それは歌の主が分っております。」 「婦人ですね。」 「さようで、最も古歌でありますそうで、小野小町の、」 「多分そうのようです。」 「詠まれたは御自分でありませんが、いや、丁とその詠み主のような美人でありましてな、」 「この玉脇……とか言う婦人が、」  と、口では澄ましてそう言ったが、胸はそぞろに時めいた。 「なるほど、今貴下がお話しになりました、その、御像のことについて、恋人云々のお言葉を考えて見ますると、これは、みだらな心ではのうて、行き方こそ違いまするが、かすかに照らせ山の端の月、と申したように、観世音にあこがるる心を、古歌に擬らえたものであったかも分りませぬ。――夢てふものは頼み初めてき――夢になりともお姿をと言う。  真個に、ああいう世に稀な美人ほど、早く結縁いたして仏果を得た験も沢山ございますから。  それを大掴に、恋歌を書き散らして参った。怪しからぬ事と、さ、それも人によりけり、御経にも、若有女人設欲求男、とありまするから、一概に咎め立てはいたさんけれども。あれがために一人殺したでござります。」  聞くものは一驚を吃した。菜の花に見た蛇のそれより。 九 「まさかとお思いなさるでありましょう、お話が大分唐突でござったで、」  出家は頬に手をあてて、俯いてやや考え、 「いや、しかし恋歌でないといたして見ますると、その死んだ人の方が、これは迷いであったかも知れんでございます。」 「飛んだ話じゃありませんか、それはまたどうした事ですか。」  と、こなたは何時か、もう御堂の畳に、にじり上っていた。よしありげな物語を聞くのに、懐が窮屈だったから、懐中に押込んであった、鳥打帽を引出して、傍に差置いた。  松風が音に立った。が、春の日なれば人よりも軽く、そよそよと空を吹くのである。  出家は仏前の燈明をちょっと見て、 「さればでござって。……  実は先刻お話申した、ふとした御縁で、御堂のこの下の仮庵室へお宿をいたしました、その御仁なのでありますが。  その貴下、うたゝ寝の歌を、其処へ書きました、婦人のために……まあ、言って見ますれば恋煩い、いや、こがれ死をなすったと申すものでございます。早い話が、」 「まあ、今時、どんな、男です。」 「丁ど貴下のような方で、」  呀? 茶釜でなく、這般文福和尚、渋茶にあらぬ振舞の三十棒、思わず後に瞠若として、……唯苦笑するある而已…… 「これは、飛んだ処へ引合いに出しました、」  と言って打笑い、 「おっしゃる事と申し、やはりこういう事からお知己になったと申し、うっかり、これは、」 「否、結構ですとも。恋で死ぬ、本望です。この太平の世に生れて、戦場で討死をする機会がなけりゃ、おなじ畳の上で死ぬものを、憧れじにが洒落ています。  華族の金満家へ生れて出て、恋煩いで死ぬ、このくらいありがたい事はありますまい。恋は叶う方が可さそうなもんですが、そうすると愛別離苦です。  唯死ぬほど惚れるというのが、金を溜めるより難いんでしょう。」 「真に御串戯ものでおいでなさる。はははは、」 「真面目ですよ。真面目だけなお串戯のように聞えるんです。あやかりたい人ですね。よくそんなのを見つけましたね。よくそんな、こがれ死をするほどの婦人が見つかりましたね。」 「それは見ることは誰にでも出来ます。美しいと申して、竜宮や天上界へ参らねば見られないのではござらんで、」 「じゃ現在いるんですね。」 「おりますとも。土地の人です。」 「この土地のですかい。」 「しかもこの久能谷でございます。」 「久能谷の、」 「貴下、何んでございましょう、今日此処へお出でなさるには、その家の前を、御通行になりましたろうで、」 「その美人の住居の前をですか。」  と言う時、機を織った少い方の婦人が目に浮んだ、赫燿として菜の花に。 「……じゃ、あの、やっぱり農家の娘で、」 「否々、大財産家の細君でございます。」 「違いました、」  と我を忘れて、呟いたが、 「そうですか、大財産家の細君ですか、じゃもう主ある花なんですね。」 「さようでございます。それがために、貴下、」 「なるほど、他人のものですね。そうして誰が見ても綺麗ですか、美人なんですかい。」 「はい、夏向は随分何千人という東京からの客人で、目の覚めるような美麗な方もありまするが、なかなかこれほどのはないでございます。」 「じゃ、私が見ても恋煩いをしそうですね、危険、危険。」  出家は真面目に、 「何故でございますか。」 「帰路には気を注けねばなりません。何処ですか、その財産家の家は。」 十  菜種にまじる茅家のあなたに、白波と、松吹風を右左り、其処に旗のような薄霞に、しっとりと紅の染む状に桃の花を彩った、その屋の棟より、高いのは一つもない。 「角の、あの二階家が、」 「ええ?」 「あれがこの歌のかき人の住居でござってな。」  聞くものは慄然とした。  出家は何んの気もつかずに、 「尤も彼処へは、去年の秋、細君だけが引越して参ったので。丁ど私がお宿を致したその御仁が……お名は申しますまい。」 「それが可うございます。」 「唯、客人――でお話をいたしましょう。その方が、庵室に逗留中、夜分な、海へ入って亡くなりました。」 「溺れたんですか、」 「と……まあ見えるでございます、亡骸が岩に打揚げられてござったので、怪我か、それとも覚悟の上か、そこは先ず、お聞取りの上の御推察でありますが、私は前申す通り、この歌のためじゃようにな、」 「何しろ、それは飛んだ事です。」 「その客人が亡くなりまして、二月ばかり過ぎてから、彼処へ、」  と二階家の遥なのを、雲の上から蔽うよう、出家は法衣の袖を上げて、 「細君が引越して来ましたので。恋じゃ、迷じゃ、という一騒ぎござった時分は、この浜方の本宅に一家族、……唯今でも其処が本家、まだ横浜にも立派な店があるのでありまして、主人は大方その方へ参っておりましょうが。  この久能谷の方は、女中ばかり、真に閑静に住んでおります。」 「すると別荘なんですね。」 「いやいや、――どうも話がいろいろになります、――ところが久能谷の、あの二階家が本宅じゃそうで、唯今の主人も、あの屋根の下で生れたげに申します。  その頃は幽な暮しで、屋根と申した処が、ああではありますまい。月も時雨もばらばら葺。それでも先代の親仁と言うのが、もう唯今では亡くなりましたが、それが貴下、小作人ながら大の節倹家で、積年の望みで、地面を少しばかり借りましたのが、私庵室の背戸の地続きで、以前立派な寺がありました。その住職の隠居所の跡だったそうにございますよ。  豆を植えようと、まことにこう天気の可い、のどかな、陽炎がひらひら畔に立つ時分。  親仁殿、鍬をかついで、この坂下へ遣って来て、自分の借地を、先ずならしかけたのでございます。  とッ様昼上りにせっせえ、と小児が呼びに来た時分、と申すで、お昼頃でありましょうな。  朝疾くから、出しなには寒かったで、布子の半纏を着ていたのが、その陽気なり、働き通しじゃ。親仁殿は向顱巻、大肌脱で、精々と遣っていた処。大抵借用分の地券面だけは、仕事が済んで、これから些とほまちに山を削ろうという料簡。ずかずか山の裾を、穿りかけていたそうでありますが、小児が呼びに来たについて、一服遣るべいかで、もう一鍬、すとんと入れると、急に土が軟かく、ずぶずぶと柄ぐるみにむぐずり込んだで。  ずいと、引抜いた鍬について、じとじとと染んで出たのが、真紅な、ねばねばとした水じゃ、」 「死骸ですか、」と切込んだ。 「大違い、大違い、」  と、出家は大きくかぶりを掉って、 「註文通り、金子でござる、」 「なるほど、穿当てましたね。」 「穿当てました。海の中でも紅色の鱗は目覚しい。土を穿って出る水も、そういう場合には紫より、黄色より、青い色より、その紅色が一番見る目を驚かせます。  はて、何んであろうと、親仁殿が固くなって、もう二、三度穿り拡げると、がっくり、うつろになったので、山の腹へ附着いて、こう覗いて見たそうにござる。」 十一 「大蛇が顋を開いたような、真紅な土の空洞の中に、づほらとした黒い塊が見えたのを、鍬の先で掻出して見ると――甕で。  蓋が打欠けていたそうでございますが、其処からもどろどろと、その丹色に底澄んで光のある粘土ようのものが充満。  別に何んにもありませんので、親仁殿は惜気もなく打覆して、もう一箇あった、それも甕で、奥の方へ縦に二ツ並んでいたと申します――さあ、この方が真物でござった。  開けかけた蓋を慌てて圧えて、きょろきょろと其処ら眗したそうでございますよ。  傍にいて覗き込んでいた、自分の小児をさえ、睨むようにして、じろりと見ながら、どう悠々と、肌なぞを入れておられましょう。  素肌へ、貴下、嬰児を負うように、それ、脱いで置いたぼろ半纏で、しっかりくるんで、背負上げて、がくつく腰を、鍬を杖にどッこいなじゃ。黙っていろよ、何んにも言うな、きっと誰にも饒舌るでねえぞ、と言い続けて、内へ帰って、納戸を閉切って暗くして、お仏壇の前へ筵を敷いて、其処へざくざくと装上げた。尤も年が経って薄黒くなっていたそうでありますが、その晩から小屋は何んとなく暗夜にも明るかった、と近所のものが話でござって。  極性な朱でござったろう、ぶちまけた甕充満のが、時ならぬ曼珠沙華が咲いたように、山際に燃えていて、五月雨になって消えましたとな。  些と日数が経ってから、親仁どのは、村方の用達かたがた、東京へ参ったついでに芝口の両換店へ寄って、汚い煙草入から煙草の粉だらけなのを一枚だけ、そっと出して、いくらに買わっしゃる、と当って見ると、いや抓んだ爪の方が黄色いくらいでござったに、正のものとて争われぬ、七両ならば引替えにと言うのを、もッと気張ってくれさっせえで、とうとう七両一分に替えたのがはじまり。  そちこち、気長に金子にして、やがて船一艘、古物を買い込んで、海から薪炭の荷を廻し、追々材木へ手を出しかけ、船の数も七艘までに仕上げた時、すっぱりと売物に出して、さて、地面を買う、店を拡げる、普請にかかる。  土台が極ると、山の貸元になって、坐っていて商売が出来るようになりました、高利は貸します。  どかとした山の林が、あの裸になっては、店さきへすくすくと並んで、いつの間にか金を残しては何処へか参る。  そのはずでござるて。  利のつく金子を借りて山を買う、木を伐りかけ、資本に支える。ここで材木を抵当にして、また借りる。すぐに利がつく、また伐りかかる、資本に支える、また借りる、利でござろう。借りた方は精々と樹を伐り出して、貸元の店へ材木を並べるばかり。追っかけられて見切って売るのを、安く買い込んでまた儲ける。行ったり、来たり、家の前を通るものが、金子を置いては失せるのであります。  妻子眷属、一時にどしどしと殖えて、人は唯、天狗が山を飲むような、と舌を巻いたでありまするが、蔭じゃ――その――鍬を杖で胴震いの一件をな、はははは、こちとら、その、も一ツの甕の朱の方だって、手を押つけりゃ血になるだ、なぞと、ひそひそ話を遣るのでござって、」 「そういう人たちはまた可い塩梅に穿り当てないもんですよ。」  と顔を見合わせて二人が笑った。 「よくしたものでございます。いくら隠していることでも何処をどうして知れますかな。  いや、それについて、」  出家は思出したように、 「こういう話がございます。その、誰にも言うな、と堅く口留めをされた斉之助という小児が、(父様は野良へ行って、穴のない天保銭をドシコと背負って帰らしたよ。)  ……如何でござる、ははははは。」 「なるほど、穴のない天保銭。」 「その穴のない天保銭が、当主でございます。多額納税議員、玉脇斉之助、令夫人おみを殿、その歌をかいた美人であります、如何でございます、貴下、」 十二 「先ずお茶を一ツ。御約束通り渋茶でござって、碌にお茶台もありませんかわりには、がらんとして自然に片づいております。お寛ぎ下さい。秋になりますると、これで町へ遠うございますかわりには、栗柿に事を欠きませぬ。烏を追って柿を取り、高音を張ります鵙を驚かして、栗を落してなりと差上げましょうに。  まあ、何よりもお楽に、」  と袈裟をはずして釘にかけた、障子に緋桃の影法師。今物語の朱にも似て、破目を暖く燃ゆる状、法衣をなぶる風情である。  庵室から打仰ぐ、石の階子は梢にかかって、御堂は屋根のみ浮いたよう、緑の雲にふっくりと沈んで、山の裾の、縁に迫って萌葱なれば、あま下る蚊帳の外に、誰待つとしもなき二人、煙らぬ火鉢のふちかけて、ひらひらと蝶が来る。 「御堂の中では何んとなく気もあらたまります。此処でお茶をお入れ下すった上のお話じゃ、結構過ぎますほどですが、あの歌に分れて来たので、何んだかなごり惜い心持もします。」 「けれども、石段だけも、婀娜な御本尊へは路が近うなってございますから、はははは。  実の処仏の前では、何か私が自分に懺悔でもしまするようで心苦しい。此処でありますと大きに寛ぐでございます。  師のかげを七尺去るともうなまけの通りで、困ったものでありますわ。  そこで客人でございます。――  日頃のお話ぶり、行為、御容子な、」 「どういう人でした。」 「それは申しますまい。私も、盲目の垣覗きよりもそッと近い、机覗きで、読んでおいでなさった、書物などの、お話も伺って、何をなさる方じゃと言う事も存じておりますが、経文に書いてあることさえ、愚昧に饒舌ると間違います。  故人をあやまり伝えてもなりませず、何か評をやるようにも当りますから、唯々、かのな、婦人との模様だけ、お物語りしましょうで。  一日晩方、極暑のみぎりでありました。浜の散歩から返ってござって、(和尚さん、些と海へ行って御覧なさいませんか。綺麗な人がいますよ。) (ははあ、どんな、貴下、) (あの松原の砂路から、小松橋を渡ると、急にむこうが遠目金を嵌めたように円い海になって富士の山が見えますね、)  これは御存じでございましょう。」 「知っていますとも。毎日のように遊びに出ますもの、」 「あの橋の取附きに、松の樹で取廻して――松原はずッと河を越して広い洲の林になっておりますな――そして庭を広く取って、大玄関へ石を敷詰めた、素ばらしい門のある邸がございましょう。あれが、それ、玉脇の住居で。  実はあの方を、東京の方がなさる別荘を真似て造ったでありますが、主人が交際ずきで頻と客をしまする処、いずれ海が、何よりの呼物でありますに。この久能谷の方は、些と足場が遠くなりますから、すべて、見得装飾を向うへ持って参って、小松橋が本宅のようになっております。  そこで、去年の夏頃は、御新姐。申すまでもない、そちらにいたでございます。  でその――小松橋を渡ると、急に遠目金を覗くような円い海の硝子へ――ぱっと一杯に映って、とき色の服の姿が浪の青いのと、巓の白い中へ、薄い虹がかかったように、美しく靡いて来たのがある。……  と言われたは、即ち、それ、玉脇の……でございます。  しかし、その時はまだ誰だか本人も御存じなし、聞く方でも分りませんので。どういう別嬪でありました、と串戯にな、団扇で煽ぎながら聞いたでございます。  客人は海水帽を脱いだばかり、まだ部屋へも上らず、その縁側に腰をかけながら。 (誰方か、尊いくらいでした。)」 十三 「大分気高く見えましたな。  客人が言うには、 (二、三間あいを置いて、おなじような浴衣を着た、帯を整然と結んだ、女中と見えるのが附いて通りましたよ。  唯すれ違いざまに見たんですが、目鼻立ちのはっきりした、色の白いことと、唇の紅さったらありませんでした。  盛装という姿だのに、海水帽をうつむけに被って――近所の人ででもあるように、無造作に見えましたっけ。むこう、そうやって下を見て帽子の廂で日を避けるようにして来たのが、真直に前へ出たのと、顔を見合わせて、両方へ避ける時、濃い睫毛から瞳を涼しく睜いたのが、雪舟の筆を、紫式部の硯に染めて、濃淡のぼかしをしたようだった。  何んとも言えない、美しさでした。  いや、こういうことをお話します、私は鳥羽絵に肖ているかも知れない。  さあ、御飯を頂いて、柄相応に、月夜の南瓜畑でもまた見に出ましょうかね。)  爾晩は貴下、唯それだけの事で。  翌日また散歩に出て、同じ時分に庵室へ帰って見えましたから、私が串戯に、 (雪舟の筆は如何でござった。) (今日は曇った所為か見えませんでした。)  それから二、三日経って、 (まだお天気が直りませんな。些と涼しすぎるくらい、御歩行には宜しいが、やはり雲がくれでござったか。) (否、源氏の題に、小松橋というのはありませんが、今日はあの橋の上で、) (それは、おめでたい。)  などと笑いまする。 (まるで人違いをしたように粋でした。私がこれから橋を渡ろうという時、向うの袂へ、十二、三を頭に、十歳ぐらいのと、七八歳ばかりのと、男の児を三人連れて、その中の小さいのの肩を片手で敲きながら、上から覗き込むようにして、莞爾して橋の上へかかって来ます。  どんな婦人でも羨しがりそうな、すなおな、房りした花月巻で、薄お納戸地に、ちらちらと膚の透いたような、何んの中形だか浴衣がけで、それで、きちんとした衣紋附。  絽でしょう、空色と白とを打合わせの、模様はちょっと分らなかったが、お太鼓に結んだ、白い方が、腰帯に当って水無月の雪を抱いたようで、見る目に、ぞッとして擦れ違う時、その人は、忘れた形に手を垂れた、その両手は力なさそうだったが、幽にぶるぶると肩が揺れたようでした、傍を通った男の気に襲われたものでしょう。  通り縋ると、どうしたのか、我を忘れたように、私は、あの、低い欄干へ、腰をかけてしまったんです。抜けたのだなぞと言っては不可ません。下は川ですから、あれだけの流れでも、落ちようもんならそれっきりです――淵や瀬でないだけに、救助船とも喚かれず、また叫んだ処で、人は串戯だと思って、笑って見殺しにするでしょう、泳を知らないから、)  と言って苦笑をしなさったっけ……それが真実になったのでございます。  どうしたことか、この恋煩に限っては、傍のものは、あはあは、笑って見殺しにいたします。  私はじめ串戯半分、ひやかしかたがた、今日は例のは如何で、などと申したでございます。  これは、貴下でもさようでありましょう。」  されば何んと答えよう、喫んでた煙草の灰をはたいて、 「ですがな……どうも、これだけは真面目に介抱は出来かねます。娘が煩うのだと、乳母が始末をする仕来りになっておりますがね、男のは困りますな。  そんな時、その川で沙魚でも釣っていたかったですね。」 「ははは、これはおかしい。」  と出家は興ありげにハタと手を打つ。 十四 「これはおかしい、釣といえば丁どその時、向う詰の岸に踞んで、ト釣っていたものがあったでござる。橋詰の小店、荒物を商う家の亭主で、身体の痩せて引緊ったには似ない、褌の緩い男で、因果とのべつ釣をして、はだけていましょう、真にあぶなッかしい形でな。  渾名を一厘土器と申すでござる。天窓の真中の兀工合が、宛然ですて――川端の一厘土器――これが爾時も釣っていました。  庵室の客人が、唯今申す欄干に腰を掛けて、おくれ毛越にはらはらと靡いて通る、雪のような襟脚を見送ると、今、小橋を渡った処で、中の十歳位のがじゃれて、その腰へ抱き着いたので、白魚という指を反らして、軽くその小児の背中を打った時だったと申します。 (お坊ちゃま、お坊ちゃま、)  と大声で呼び懸けて、 (手巾が落ちました、)と知らせたそうでありますが、件の土器殿も、餌は振舞う気で、粋な後姿を見送っていたものと見えますよ。 (やあ、)と言って、十二、三の一番上の児が、駈けて返って、橋の上へ落して行った白い手巾を拾ったのを、懐中へ突込んで、黙ってまた飛んで行ったそうで。小児だから、辞儀も挨拶もないでございます。  御新姐が、礼心で顔だけ振向いて、肩へ、頤をつけるように、唇を少し曲げて、その涼い目で、熟とこちらを見返ったのが取違えたものらしい。私が許の客人と、ぴったり出会ったでありましょう。  引込まれて、はッと礼を返したが、それッきり。御新姐の方は見られなくって、傍を向くと貴下、一厘土器が怪訝な顔色。  いやもう、しっとり冷汗を掻いたと言う事、――こりゃなるほど。極がよくない。  局外のものが何んの気もなしに考えれば、愚にもつかぬ事なれど、色気があって御覧じろ。第一、野良声の調子ッぱずれの可笑い処へ、自分主人でもない余所の小児を、坊やとも、あの児とも言うにこそ、へつらいがましい、お坊ちゃまは不見識の行止り、申さば器量を下げた話。  今一方からは、右の土器殿にも小恥かしい次第でな。他人のしんせつで手柄をしたような、変な羽目になったので。  御本人、そうとも口へ出して言われませなんだが、それから何んとなく鬱ぎ込むのが、傍目にも見えたであります。  四、五日、引籠ってござったほどで。  後に、何も彼も打明けて私に言いなさった時の話では、しかしまたその間違が縁になって、今度出会った時は、何んとなく両方で挨拶でもするようになりはせまいか。そうすれば、どんなにか嬉しかろう、本望じゃ、と思われたそうな。迷いと申すはおそろしい、情ないものでござる。世間大概の馬鹿も、これほどなことはないでございます。  三度目には御本人、」 「また出会ったんですかい。」  と聞くものも待ち構える。 「今度は反対に、浜の方から帰って来るのと、浜へ出ようとする御新姐と、例の出口の処で逢ったと言います。  大分もう薄暗くなっていましたそうで……土用あけからは、目に立って日が詰ります処へ、一度は一度と、散歩のお帰りが遅くなって、蚊遣りでも我慢が出来ず、私が此処へ蚊帳を釣って潜込んでから、帰って見えて、晩飯ももう、なぞと言われるさえ折々の事。  爾時も、早や黄昏の、とある、人顔、朧ながら月が出たように、見違えないその人と、思うと、男が五人、中に主人もいたでありましょう。婦人は唯御新姐一人、それを取巻く如くにして、どやどやと些と急足で、浪打際の方へ通ったが、その人数じゃ、空頼めの、余所ながら目礼処の騒ぎかい、貴下、その五人の男というのが。」 十五 「眉の太い、怒り鼻のがあり、額の広い、顎の尖った、下目で睨むようなのがあり、仰向けざまになって、頬髯の中へ、煙も出さず葉巻を突込んでいるのがある。くるりと尻を引捲って、扇子で叩いたものもある。どれも浴衣がけの下司は可いが、その中に浅黄の兵児帯、結目をぶらりと二尺ぐらい、こぶらの辺までぶら下げたのと、緋縮緬の扱帯をぐるぐる巻きに胸高は沙汰の限。前のは御自分ものであろうが、扱帯の先生は、酒の上で、小間使のを分捕の次第らしい。  これが、不思議に客人の気を悪くして、入相の浪も物凄くなりかけた折からなり、あの、赤鬼青鬼なるものが、かよわい人を冥土へ引立てて行くようで、思いなしか、引挟まれた御新姐は、何んとなく物寂しい、快からぬ、滅入った容子に見えて、ものあわれに、命がけにでも其奴らの中から救って遣りたい感じが起った。家庭の様子もほぼ知れたようで、気が揉める、と言われたのでありますが、貴下、これは無理じゃて。  地獄の絵に、天女が天降った処を描いてあって御覧なさい。餓鬼が救われるようで尊かろ。  蛇が、つかわしめじゃと申すのを聞いて、弁財天を、ああ、お気の毒な、さぞお気味が悪かろうと思うものはありますまいに。迷いじゃね。」  散策子はここに少しく腕組みした。 「しかし何ですよ、女は、自分の惚れた男が、別嬪の女房を持ってると、嫉妬らしいようですがね。男は反対です、」  と聊か論ずる口吻。 「ははあ、」 「男はそうでない。惚れてる婦人が、小野小町花、大江千里月という、対句通りになると安心します。  唯今の、その浅黄の兵児帯、緋縮緬の扱帯と来ると、些と考えねばならなくなる。耶蘇教の信者の女房が、主キリストと抱かれて寝た夢を見たと言うのを聞いた時の心地と、回々教の魔神になぐさまれた夢を見たと言うのを聞いた時の心地とは、きっとそれは違いましょう。  どっち路、嬉くない事は知れていますがね、前のは、先ず先ずと我慢が出来る、後のは、堪忍がなりますまい。  まあ、そんな事は措いて、何んだってまた、そう言う不愉快な人間ばかりがその夫人を取巻いているんでしょう。」 「そこは、玉脇がそれ鍬の柄を杖に支いて、ぼろ半纏に引くるめの一件で、ああ遣って大概な華族も及ばん暮しをして、交際にかけては銭金を惜まんでありますが、情ない事には、遣方が遣方ゆえ、身分、名誉ある人は寄つきませんで、悲哉その段は、如何わしい連中ばかり。」 「お待ちなさい、なるほど、そうするとその夫人と言うは、どんな身分の人なんですか。」  出家はあらためて、打頷き、かつ咳して、 「そこでございます、御新姐はな、年紀は、さて、誰が目にも大略は分ります、先ず二十三、四、それとも五、六かと言う処で、」 「それで三人の母様? 十二、三のが頭ですかい。」 「否、どれも実子ではないでございます。」 「ままッ児ですか。」 「三人とも先妻が産みました。この先妻についても、まず、一くさりのお話はあるでございますが、それは余事ゆえに申さずとも宜しかろ。  二、三年前に、今のを迎えたのでありますが、此処でありますよ。  何処の生れだか、育ちなのか、誰の娘だか、妹だか、皆目分らんでございます。貸して、かたに取ったか、出して買うようにしたか。落魄れた華族のお姫様じゃと言うのもあれば、分散した大所の娘御だと申すのもあります。そうかと思うと、箔のついた芸娼妓に違いないと申すもあるし、豪いのは高等淫売の上りだろうなどと、甚しい沙汰をするのがござって、丁と底知れずの池に棲む、ぬしと言うもののように、素性が分らず、ついぞ知ったものもない様子。」 十六 「何にいたせ、私なぞが通りすがりに見懸けましても、何んとも当りがつかぬでございます。勿論また、坊主に鑑定の出来ようはずはなけれどもな。その眉のかかり、目つき、愛嬌があると申すではない。口許なども凛として、世辞を一つ言うようには思われぬが、唯何んとなく賢げに、恋も無常も知り抜いた風に見える。身体つきにも顔つきにも、情が滴ると言った状じゃ。  恋い慕うものならば、馬士でも船頭でも、われら坊主でも、無下に振切って邪険にはしそうもない、仮令恋はかなえぬまでも、然るべき返歌はありそうな。帯の結目、袂の端、何処へちょっと障っても、情の露は男の骨を溶解かさずと言うことなし、と申す風情。  されば、気高いと申しても、天人神女の俤ではのうて、姫路のお天守に緋の袴で燈台の下に何やら書を繙く、それ露が滴るように婀娜なと言うて、水道の水で洗い髪ではござらぬ。人跡絶えた山中の温泉に、唯一人雪の膚を泳がせて、丈に余る黒髪を絞るとかの、それに肖まして。  慕わせるより、懐しがらせるより、一目見た男を魅する、力広大。少からず、地獄、極楽、娑婆も身に附絡うていそうな婦人、従うて、罪も報も浅からぬげに見えるでございます。  ところへ、迷うた人の事なれば、浅黄の帯に緋の扱帯が、牛頭馬頭で逢魔時の浪打際へ引立ててでも行くように思われたのでありましょう――私どもの客人が――そういう心持で御覧なさればこそ、その後は玉脇の邸の前を通がかり。……  浜へ行く町から、横に折れて、背戸口を流れる小川の方へ引廻した蘆垣の蔭から、松林の幹と幹とのなかへ、襟から肩のあたり、くっきりとした耳許が際立って、帯も裾も見えないのが、浮出したように真中へあらわれて、後前に、これも肩から上ばかり、爾時は男が三人、一ならびに松の葉とすれすれに、しばらく桔梗刈萱が靡くように見えて、段々低くなって隠れたのを、何か、自分との事のために、離座敷か、座敷牢へでも、送られて行くように思われた、後前を引挟んだ三人の漢の首の、兇悪なのが、確にその意味を語っていたわ。もうこれきり、未来まで逢えなかろうかとも思われる、と無理なことを言うのであります。  さ、これもじゃ、玉脇の家の客人だち、主人まじりに、御新姐が、庭の築山を遊んだと思えば、それまででありましょうに。  とうとう表通りだけでは、気が済まなくなったと見えて、前申した、その背戸口、搦手のな、川を一つ隔てた小松原の奥深く入り込んで、うろつくようになったそうで。  玉脇の持地じゃありますが、この松原は、野開きにいたしてござる。中には汐入の、ちょっと大きな池もあります。一面に青草で、これに松の翠がかさなって、唯今頃は菫、夏は常夏、秋は萩、真個に幽翠な処、些と行らしって御覧じろ。」 「薄暗い処ですか、」 「藪のようではありません。真蒼な処であります。本でも御覧なさりながらお歩行きには、至極宜しいので、」 「蛇がいましょう、」  と唐突に尋ねた。 「お嫌いか。」 「何とも、どうも、」 「否、何の因果か、あのくらい世の中に嫌われるものも少のうござる。  しかし、気をつけて見ると、あれでもしおらしいもので、路端などを我は顔で伸してる処を、人が参って、熟と視めて御覧なさい。見返しますがな、極りが悪そうに鎌首を垂れて、向うむきに羞含みますよ。憎くないもので、ははははは、やはり心がありますよ。」 「心があられてはなお困るじゃありませんか。」 「否、塩気を嫌うと見えまして、その池のまわりには些ともおりません。邸にはこの頃じゃ、その魅するような御新姐も留主なり、穴はすかすかと真黒に、足許に蜂の巣になっておりましても、蟹の住居、落ちるような憂慮もありません。」 十七 「客人は、その穴さえ、白髑髏の目とも見えたでありましょう。  池をまわって、川に臨んだ、玉脇の家造を、何か、御新姐のためには牢獄ででもあるような考えでござるから。  さて、潮のさし引ばかりで、流れるのではありません、どんより鼠色に淀んだ岸に、浮きもせず、沈みもやらず、末始終は砕けて鯉鮒にもなりそうに、何時頃のか五、六本、丸太が浸っているのを見ると、ああ、切組めば船になる。繋合わせば筏になる。しかるに、綱も棹もない、恋の淵はこれで渡らねばならないものか。  生身では渡られない。霊魂だけなら乗れようものを。あの、樹立に包まれた木戸の中には、その人が、と足を爪立ったりなんぞして。  蝶の目からも、余りふわふわして見えたでござろう。小松の中をふらつく自分も、何んだかその、肩から上ばかりに、裾も足もなくなった心地、日中の妙な蝙蝠じゃて。  懐中から本を出して、 蝋光高懸照紗空、    花房夜搗紅守宮、 象口吹香毾㲪暖、    七星挂城聞漏板、 寒入罘罳殿影昏、    彩鸞簾額著霜痕、  ええ、何んでも此処は、蛄が鉤闌の下に月に鳴く、魏の文帝に寵せられた甄夫人が、後におとろえて幽閉されたと言うので、鎖阿甄。とあって、それから、 夢入家門上沙渚、    天河落処長洲路、 願君光明如太陽、  妾を放て、そうすれば、魚に騎し、波を撇いて去らん、というのを微吟して、思わず、襟にはらはらと涙が落ちる。目を睜って、その水中の木材よ、いで、浮べ、鰭ふって木戸に迎えよ、と睨むばかりに瞻めたのでござるそうな。些と尋常事でありませんな。  詩は唐詩選にでもありましょうか。」 「どうですか。ええ、何んですって――夢に家門に入って沙渚に上る。魂が沙漠をさまよって歩行くようね、天河落処長洲路、あわれじゃありませんか。  それを聞くと、私まで何んだか、その婦人が、幽閉されているように思います。  それからどうしましたか。」 「どうと申して、段々頤がこけて、日に増し目が窪んで、顔の色がいよいよ悪い。  或時、大奮発じゃ、と言うて、停車場前の床屋へ、顔を剃りに行かれました。その時だったと申す事で。  頭を洗うし、久しぶりで、些心持も爽になって、ふらりと出ると、田舎には荒物屋が多いでございます、紙、煙草、蚊遣香、勝手道具、何んでも屋と言った店で。床店の筋向うが、やはりその荒物店であります処、戸外へは水を打って、軒の提灯にはまだ火を点さぬ、溝石から往来へ縁台を跨がせて、差向いに将棊を行っています。端の歩が附木、お定りの奴で。  用なしの身体ゆえ、客人が其処へ寄って、路傍に立って、両方ともやたらに飛車角の取替えこ、ころりころり差違えるごとに、ほい、ほい、と言う勇ましい懸声で。おまけに一人の親仁なぞは、媽々衆が行水の間、引渡されたものと見えて、小児を一人胡坐の上へ抱いて、雁首を俯向けに銜え煙管。  で銜えたまんま、待てよ、どっこい、と言うたびに、煙管が打附りそうになるので、抱かれた児は、親仁より、余計に額に皺を寄せて、雁首を狙って取ろうとする。火は附いていないから、火傷はさせぬが、夢中で取られまいと振動かす、小児は手を出す、飛車を遁げる。  よだれを垂々と垂らしながら、占た! とばかり、やにわに対手の玉将を引掴むと、大きな口をへの字形に結んで見ていた赭ら顔で、脊高の、胸の大きい禅門が、鉄梃のような親指で、いきなり勝った方の鼻っ頭をぐいと掴んで、豪いぞ、と引伸ばしたと思し召せ、ははははは。」 十八 「大きな、ハックサメをすると煙草を落した。額こッつりで小児は泣き出す、負けた方は笑い出す、涎と何んかと一緒でござろう。鼻をつまんだ禅門、苦々しき顔色で、指を持余した、塩梅な。  これを機会に立去ろうとして、振返ると、荒物屋と葭簀一枚、隣家が間に合わせの郵便局で。其処の門口から、すらりと出たのが例のその人。汽車が着いたと見えて、馬車、車がらがらと五、六台、それを見に出たものらしい、郵便局の軒下から往来を透かすようにした、目が、ばったり客人と出逢ったでありましょう。  心ありそうに、そうすると直ぐに身を引いたのが、隔ての葭簀の陰になって、顔を背向けもしないで、其処で向直ってこっちを見ました。  軒下の身を引く時、目で引つけられたような心持がしたから、こっちもまた葭簀越に。  爾時は、総髪の銀杏返で、珊瑚の五分珠の一本差、髪の所為か、いつもより眉が長く見えたと言います。浴衣ながら帯には黄金鎖を掛けていたそうでありますが、揺れてその音のするほど、こっちを透すのに胸を動かした、顔がさ、葭簀を横にちらちらと霞を引いたかと思う、これに眩くばかりになって、思わずちょっと会釈をする。  向うも、伏目に俯向いたと思うと、リンリンと貴下、高く響いたのは電話の報知じゃ。  これを待っていたでございますな。  すぐに電話口へ入って、姿は隠れましたが、浅間ゆえ、よく聞える。 (はあ、私。あなた、余りですわ。余りですわ。どうして来て下さらないの。怨んでいますよ。あの、あなた、夜も寝られません。はあ、夜中に汽車のつくわけはありませんけれども、それでも今にもね、来て下さりはしないかと思って。  私の方はね、もうね、ちょいと……どんなに離れておりましても、あなたの声はね、電話でなくっても聞えます。あなたには通じますまい。  どうせ、そうですよ。それだって、こんなにお待ち申している、私のためですもの……気をかねてばかりいらっしゃらなくても宜しいわ。些とは不義理、否、父さんやお母さんに、不義理と言うこともありませんけれど、ね、私は生命かけて、きっとですよ。今夜にも、寝ないでお待ち申しますよ。あ、あ、たんと、そんなことをお言いなさい、どうせ寝られないんだから可うございます。怨みますよ。夢にでもお目にかかりましょうねえ、否、待たれない、待たれない……)  お道か、お光か、女の名前。 (……みいちゃん、さようなら、夢で逢いますよ。)――  きりきりと電話を切ったて。」 「へい、」  と思わず聞惚れる。 「その日は帰ってから、豪い元気で、私はそれ、涼しさやと言った句の通り、縁から足をぶら下げる。客人は其処の井戸端に焚きます据風呂に入って、湯をつかいながら、露出しの裸体談話。  そっちと、こっちで、高声でな。尤も隣近所はござらぬ。かけかまいなしで、電話の仮声まじりか何かで、 (やあ、和尚さん、梅の青葉から、湯気の中へ糸を引くのが、月影に光って見える、蜘蛛が下りた、)  と大気燄じゃ。 (万歳々々、今夜お忍か。) (勿論、)  と答えて、頭のあたりをざぶざぶと、仰いで天に愧じざる顔色でありました。が、日頃の行いから察して、如何に、思死をすればとて、いやしくも主ある婦人に、そういう不料簡を出すべき仁でないと思いました、果せる哉。  冷奴に紫蘇の実、白瓜の香の物で、私と取膳の飯を上ると、帯を緊め直して、 (もう一度そこいらを。)  いや、これはと、ぎょっとしたが、垣の外へ出られた姿は、海の方へは行かないで、それ、その石段を。」  一面の日当りながら、蝶の羽の動くほど、山の草に薄雲が軽く靡いて、檐から透すと、峰の方は暗かった、余り暖さが過ぎたから。 十九  降ろうも知れぬ。日向へ蛇が出ている時は、雨を持つという、来がけに二度まで見た。  で、雲が被って、空気が湿った所為か、笛太鼓の囃子の音が山一ツ越えた彼方と思うあたりに、蛙が喞くように、遠いが、手に取るばかり、しかも沈んでうつつの音楽のように聞えて来た。靄で蝋管の出来た蓄音器の如く、かつ遥に響く。  それまでも、何かそれらしい音はしたが、極めて散漫で、何の声とも纏まらない。村々の蔀、柱、戸障子、勝手道具などが、日永に退屈して、のびを打ち、欠伸をする気勢かと思った。いまだ昼前だのに、――時々牛の鳴くのが入交って――時に笑い興ずるような人声も、動かない、静かに風に伝わるのであった。  フト耳を澄ましたが、直ぐに出家の言になって、 「大分町の方が賑いますな。」 「祭礼でもありますか。」 「これは停車場近くにいらっしゃると承りましたに、つい御近所でございます。  停車場の新築開き。」  如何にも一月ばかり以前から取沙汰した今日は当日。規模を大きく、建直した落成式、停車場に舞台がかかる、東京から俳優が来る、村のものの茶番がある、餅を撒く、昨夜も夜通し騒いでいて、今朝来がけの人通りも、よけて通るばかりであったに、はたと忘れていたらしい。 「まったくお話しに聞惚れましたか、こちらが里離れて閑静な所為か、些とも気が附ないでおりました。実は余り騒々しいので、そこを遁げて参ったのです。しかし降りそうになって来ました。」  出家の額は仰向けに廂を潜って、 「ねんばり一湿りでございましょう。地雨にはなりますまい。何、また、雨具もござる。芝居を御見物の思召がなくば、まあ御緩りなすって。  あの音もさ、面白可笑く、こっちも見物に参る気でもござると、じっと落着いてはいられないほど、浮いたものでありますが、さてこう、かけかまいなしに、遠ざかっておりますと、世を一ツ隔てたように、寂しい、陰気な、妙な心地がいたすではありませんか。」 「真箇ですね。」 「昔、井戸を掘ると、地の下に犬鶏の鳴く音、人声、牛車の軋る音などが聞えたという話があります。それに似ておりますな。  峠から見る、霧の下だの、暗の浪打際、ぼうと灯が映る処だの、かように山の腹を向うへ越した地の裏などで、聞きますのは、おかしく人間業でないようだ。夜中に聞いて、狸囃子と言うのも至極でございます。  いや、それに、つきまして、お話の客人でありますが、」  と、茶を一口急いで飲み、さしおいて、 「さて今申した通り、夜分にこの石段を上って行かれたのでありまして。  しかしこれは情に激して、発奮んだ仕事ではなかったのでございます。  こうやって、この庵室に馴れました身には、石段はつい、通い廊下を縦に通るほどな心地でありますからで。客人は、堂へ行かれて、柱板敷へひらひらと大きくさす月の影、海の果には入日の雲が焼残って、ちらちら真紅に、黄昏過ぎの渾沌とした、水も山も唯一面の大池の中に、その軒端洩る夕日の影と、消え残る夕焼の雲の片と、紅蓮白蓮の咲乱れたような眺望をなさったそうな。これで御法の船に同じい、御堂の縁を離れさえなさらなかったら、海に溺れるようなことも起らなんだでございましょう。  爰に希代な事は――  堂の裏山の方で、頻りに、その、笛太鼓、囃子が聞えたと申す事――  唯今、それ、聞えますな。あれ、あれとは、まるで方角は違います。」  と出家は法衣でずいと立って、廂から指を出して、御堂の山を左の方へぐいと指した。立ち方の唐突なのと、急なのと、目前を塞いだ墨染に、一天する墨を流すかと、袖は障子を包んだのである。 二十 「堂の前を左に切れると、空へ抜いた隧道のように、両端から突出ました巌の間、樹立を潜って、裏山へかかるであります。  両方谷、海の方は、山が切れて、真中の路を汽車が通る。一方は一谷落ちて、それからそれへ、山また山、次第に峰が重なって、段々雲霧が深くなります。処々、山の尾が樹の根のように集って、広々とした青田を抱えた処もあり、炭焼小屋を包んだ処もございます。  其処で、この山伝いの路は、崕の上を高い堤防を行く形、時々、島や白帆の見晴しへ出ますばかり、あとは生繁って真暗で、今時は、さまでにもありませぬが、草が繁りますと、分けずには通られません。  谷には鶯、峰には目白四十雀の囀っている処もあり、紺青の巌の根に、春は菫、秋は竜胆の咲く処。山清水がしとしとと湧く径が薬研の底のようで、両側の篠笹を跨いで通るなど、ものの小半道踏分けて参りますと、其処までが一峰で。それから崕になって、郡が違い、海の趣もかわるのでありますが、その崕の上に、たとえて申さば、この御堂と背中合わせに、山の尾へ凭っかかって、かれこれ大仏ぐらいな、石地蔵が無手と胡坐してござります。それがさ、石地蔵と申し伝えるばかり、よほどのあら刻みで、まず坊主形の自然石と言うても宜しい。妙に御顔の尖がった処が、拝むと凄うござってな。  堂は形だけ残っておりますけれども、勿体ないほど大破いたして、密と参っても床なぞずぶずぶと踏抜きますわ。屋根も柱も蜘蛛の巣のように狼藉として、これはまた境内へ足の入場もなく、崕へかけて倒れてな、でも建物があった跡じゃ、見霽しの広場になっておりますから、これから山越をなさる方が、うっかり其処へござって、唐突の山仏に胆を潰すと申します。  其処を山続きの留りにして、向うへ降りる路は、またこの石段のようなものではありません。わずかの間も九十九折の坂道、嶮い上に、憗か石を入れたあとのあるだけに、爪立って飛々に這い下りなければなりませんが、この坂の両方に、五百体千体と申す数ではない。それはそれは数え切れぬくらい、いずれも一尺、一尺五寸、御丈三尺というのはない、小さな石仏がすくすく並んで、最も長い年月、路傍へ転げたのも、倒れたのもあったでありましょうが、さすがに跨ぐものはないと見えます。もたれなりにも櫛の歯のように揃ってあります。  これについて、何かいわれのございましたことか、一々女の名と、亥年、午年、幾歳、幾歳、年齢とが彫りつけてございましてな、何時の世にか、諸国の婦人たちが、挙って、心願を籠めたものでございましょう。ところで、雨露に黒髪は霜と消え、袖裾も苔と変って、影ばかり残ったが、お面の細く尖った処、以前は女体であったろうなどという、いや女体の地蔵というはありませんが、さてそう聞くと、なお気味が悪いではございませんか。  ええ、つかぬことを申したようでありますが、客人の話について、些と考えました事がござる。客人は、それ、その山路を行かれたので――この観音の御堂を離れて、」 「なるほど、その何んとも知れない、石像の処へ、」  と胸を伏せて顔を見る。 「いやいや、其処までではありません。唯その山路へ、堂の左の、巌間を抜けて出たものでございます。  トいうのが、手に取るように、囃の音が聞えたからで。  直きその谷間の村あたりで、騒いでいるように、トントンと山腹へ響いたと申すのでありますから、ちょっと裏山へ廻りさえすれば、足許に瞰下ろされますような勘定であったので。客人は、高い処から見物をなさる気でござった。  入り口はまだ月のたよりがございます。樹の下を、草を分けて参りますと、処々窓のように山が切れて、其処から、松葉掻、枝拾い、じねんじょ穿が谷へさして通行する、下の村へ続いた路のある処が、あっちこっちにいくらもございます。  それへ出ると、何処でも広々と見えますので、最初左の浜庇、今度は右の茅の屋根と、二、三箇処、その切目へ出て、覗いたが、何処にも、祭礼らしい処はない。海は明く、谷は煙って。」 二十一 「けれども、その囃子の音は、草一叢、樹立一畝出さえすれば、直き見えそうに聞えますので。二足が三足、五足が十足になって段々深く入るほど――此処まで来たのに見ないで帰るも残惜い気もする上に、何んだか、旧へ帰るより、前へ出る方が路も明いかと思われて、些と急足になると、路も大分上りになって、ぐいと伸上るように、思い切って真暗な中を、草を挘って、身を退いて高い処へ。ぼんやり薄明るく、地ならしがしてあって、心持、墓地の縄張の中ででもあるような、平な丘の上へ出ると、月は曇ってしまったか、それとも海へ落ちたかという、一方は今来た路で向うは崕、谷か、それとも浜辺かは、判然せぬが、底一面に靄がかかって、その靄に、ぼうと遠方の火事のような色が映っていて、篝でも焼いているかと、底澄んで赤く見える、その辺に、太鼓が聞える、笛も吹く、ワアという人声がする。  如何にも賑かそうだが、さて何処とも分らぬ。客人は、その朦朧とした頂に立って、境は接しても、美濃近江、人情も風俗も皆違う寝物語の里の祭礼を、此処で見るかと思われた、と申します。  その上、宵宮にしては些と賑か過ぎる、大方本祭の夜? それで人の出盛りが通り過ぎた、よほど夜更らしい景色に視めて、しばらく茫然としてござったそうな。  ト何んとなく、心寂しい。路もよほど歩行いたような気がするので、うっとり草臥れて、もう帰ろうかと思う時、その火気を包んだ靄が、こう風にでも動くかと覚えて、谷底から上へ、裾あがりに次第に色が濃うなって、向うの山かけて映る工合が直き目の前で燃している景色――最も靄に包まれながら――  そこで、何か見極めたい気もして、その平地を真直に行くと、まず、それ、山の腹が覗かれましたわ。  これはしたり! 祭礼は谷間の里からかけて、此処がそのとまりらしい。見た処で、薄くなって段々に下へ灯影が濃くなって次第に賑かになっています。  やはり同一ような平な土で、客人のござる丘と、向うの丘との中に箕の形になった場所。  爪尖も辷らず、静に安々と下りられた。  ところが、箕の形の、一方はそれ祭礼に続く谷の路でございましょう。その谷の方に寄った畳なら八畳ばかり、油が広く染んだ体に、草がすっぺりと禿げました。」  といいかけて、出家は瀬戸物の火鉢を、縁の方へ少しずらして、俯向いて手で畳を仕切った。 「これだけな、赤地の出た上へ、何かこうぼんやり踞ったものがある。」  ト足を崩してとかくして膝に手を置いた。  思わず、外の方を見た散策子は、雲のやや軒端に近く迫るのを知った。 「手を上げて招いたと言います――ゆったりと――行くともなしに前へ出て、それでも間二、三間隔って立停まって、見ると、その踞ったものは、顔も上げないで俯向いたまま、股引ようのものを穿いている、草色の太い胡坐かいた膝の脇に、差置いた、拍子木を取って、カチカチと鳴らしたそうで、その音が何者か歯を噛合わせるように響いたと言います。  そうすると、」 「はあ、はあ、」 「薄汚れた帆木綿めいた破穴だらけの幕が開いたて、」 「幕が、」 「さよう。向う山の腹へ引いてあったが、やはり靄に見えていたので、そのものの手に、綱が引いてあったと見えます、踞ったままで立ちもせんので。  窪んだ浅い横穴じゃ。大きかったといいますよ。正面に幅一間ばかり、尤も、この辺にはちょいちょいそういうのを見懸けます。背戸に近い百姓屋などは、漬物桶を置いたり、青物を活けて重宝がる。で、幕を開けたからにはそれが舞台で。」 二十二 「なるほど、そう思えば、舞台の前に、木の葉がばらばらと散ばった中へ交って、投銭が飛んでいたらしく見えたそうでございます。  幕が開いた――と、まあ、言う体でありますが、さて唯浅い、扁い、窪みだけで。何んの飾つけも、道具だてもあるのではござらぬ。何か、身体もぞくぞくして、余り見ていたくもなかったそうだが、自分を見懸けて、はじめたものを、他に誰一人いるではなし、今更帰るわけにもなりませんような羽目になったとか言って、懐中の紙入に手を懸けながら、茫乎見ていたと申します。  また、陰気な、湿っぽい音で、コツコツと拍子木を打違える。  やはりそのものの手から、ずうと糸が繋がっていたものらしい。舞台の左右、山の腹へ斜めにかかった、一幅の白い靄が同じく幕でございました。むらむらと両方から舞台際へ引寄せられると、煙が渦くように畳まれたと言います。  不細工ながら、窓のように、箱のように、黒い横穴が小さく一ツずつ三十五十と一側並べに仕切ってあって、その中に、ずらりと婦人が並んでいました。  坐ったのもあり、立ったのもあり、片膝立てたじだらくな姿もある。緋の長襦袢ばかりのもある。頬のあたりに血のたれているのもある。縛られているのもある、一目見たが、それだけで、遠くの方は、小さくなって、幽になって、唯顔ばかり谷間に白百合の咲いたよう。  慄然として、遁げもならない処へ、またコンコンと拍子木が鳴る。  すると貴下、谷の方へ続いた、その何番目かの仕切の中から、ふらりと外へ出て、一人、小さな婦人の姿が、音もなく歩行いて来て、やがてその舞台へ上ったでございますが、其処へ来ると、並の大きさの、しかも、すらりとした脊丈になって、しょんぼりした肩の処へ、こう、頤をつけて、熟と客人の方を見向いた、その美しさ!  正しく玉脇の御新姐で。」 二十三 「寝衣にぐるぐると扱帯を巻いて、霜のような跣足、そのまま向うむきに、舞台の上へ、崩折れたように、ト膝を曲げる。  カンと木を入れます。  釘づけのようになって立窘んだ客人の背後から、背中を摺って、ずッと出たものがある。  黒い影で。  見物が他にもいたかと思う、とそうではない。その影が、よろよろと舞台へ出て、御新姐と背中合わせにぴったり坐った処で、こちらを向いたでございましょう、顔を見ると自分です。」 「ええ!」 「それが客人御自分なのでありました。  で、私へお話に、 (真個なら、其処で死ななければならんのでした、)  と言って歎息して、真蒼になりましたっけ。  どうするか、見ていたかったそうです。勿論、肉は躍り、血は湧いてな。  しばらくすると、その自分が、やや身体を捻じ向けて、惚々と御新姐の後姿を見入ったそうで、指の尖で、薄色の寝衣の上へ、こう山形に引いて、下へ一ツ、△を書いたでございますな、三角を。  見ている胸はヒヤヒヤとして冷汗がびっしょりになる。  御新姐は唯首垂れているばかり。  今度は四角、□、を書きました。  その男、即客人御自分が。  御新姐の膝にかけた指の尖が、わなわなと震えました……とな。  三度目に、○、円いものを書いて、線の端がまとまる時、颯と地を払って空へ抉るような風が吹くと、谷底の灯の影がすっきり冴えて、鮮かに薄紅梅。浜か、海の色か、と見る耳許へ、ちゃらちゃらと鳴ったのは、投げ銭と木の葉の摺れ合う音で、くるくると廻った。  気がつくと、四、五人、山のように背後から押被さって、何時の間にか他に見物が出来たて。  爾時、御新姐の顔の色は、こぼれかかった艶やかなおくれ毛を透いて、一入美しくなったと思うと、あのその口許で莞爾として、うしろざまにたよたよと、男の足に背をもたせて、膝を枕にすると、黒髪が、ずるずると仰向いて、真白な胸があらわれた。その重みで男も倒れた、舞台がぐんぐんずり下って、はッと思うと旧の土。  峰から谷底へかけて哄と声がする。そこから夢中で駈け戻って、蚊帳に寝た私に縋りついて、 (水を下さい。)  と言うて起された、が、身体中疵だらけで、夜露にずぶ濡であります。  それから暁かけて、一切の懺悔話。  翌日は一日寝てござった。午すぎに女中が二人ついて、この御堂へ参詣なさった御新姐の姿を見て、私は慌てて、客人に知らさぬよう、暑いのに、貴下、この障子を閉切ったでございますよ。  以来、あの柱に、うたゝ寐の歌がありますので。  客人はあと二、三日、石の唐櫃に籠ったように、我と我を、手足も縛るばかり、謹んで引籠ってござったし、私もまた油断なく見張っていたでございますが、貴下、聊か目を離しました僅の隙に、何処か姿が見えなくなって、木樵が来て、点燈頃、 (私、今、来がけに、彼処さ、蛇の矢倉で見かけたよ、)  と知らせました。  客人はまたその晩のような芝居が見たくなったのでございましょう。  死骸は海で見つかりました。  蛇の矢倉と言うのは、この裏山の二ツ目の裾に、水のたまった、むかしからある横穴で、わッというと、おう――と底知れず奥の方へ十里も広がって響きます。水は海まで続いていると申伝えるでありますが、如何なものでございますかな。」  雨が二階家の方からかかって来た。音ばかりして草も濡らさず、裾があって、路を通うようである。美人の霊が誘われたろう。雲の黒髪、桃色衣、菜種の上を蝶を連れて、庭に来て、陽炎と並んで立って、しめやかに窓を覗いた。
底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫    1987(昭和62)年4月16日第1刷発行    1999(平成11)年7月5日第19刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店    1940(昭和15)年5月 初出:「新小説」    1906(明治39)年11月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:小林繁雄 校正:平野彩子、土屋隆 2006年7月18日作成 2011年2月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002296", "作品名": "春昼", "作品名読み": "しゅんちゅう ", "ソート用読み": "しゆんちゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説」1906(明治39)年11月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-08-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card2296.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "春昼・春昼後刻", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年4月16日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年7月5日第19刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年2月15日第15刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林繁雄", "校正者": "平野彩子、土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/2296_ruby_23389.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-02-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/2296_23810.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
二十四  この雨は間もなく霽れて、庭も山も青き天鵞絨に蝶花の刺繍ある霞を落した。何んの余波やら、庵にも、座にも、袖にも、菜種の薫が染みたのである。  出家は、さて日が出口から、裏山のその蛇の矢倉を案内しよう、と老実やかに勧めたけれども、この際、観音の御堂の背後へ通り越す心持はしなかったので、挨拶も後日を期して、散策子は、やがて庵を辞した。  差当り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も陳べられなかったので、言われた事、話されただけを、不残鵜呑みにして、天窓から詰込んで、胸が膨れるまでになったから、独り静に歩行きながら、消化して胃の腑に落ちつけようと思ったから。  対手も出家だから仔細はあるまい、(さようなら)が些と唐突であったかも知れぬ。  ところで、石段を背後にして、行手へ例の二階を置いて、吻と息をすると……、 「転寐に……」  と先ず口の裏でいって見て、小首を傾けた。杖が邪魔なので腕の処へ揺り上げて、引包んだその袖ともに腕組をした。菜種の花道、幕の外の引込みには引立たない野郎姿。雨上りで照々と日が射すのに、薄く一面にねんばりした足許、辷って転ばねば可い。 「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」  とちょいと顔を上げて見ると、左の崕から椎の樹が横に出ている――遠くから視めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――庵室はもう右手の背後になった。  見たばかりで、すぐにまた、 「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚めて、ああ、転寐だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時か聞いた事がある、狂人と真人間は、唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気だけれど、直ぐ、凪ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人なんだと。  危険々々。  ト来た日にゃ夢もまた同一だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。  夢になら恋人に逢えると極れば、こりゃ一層夢にしてしまって、世間で、誰某は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。  庵室の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを頼み切りにしたのかな。」  と考えが道草の蝶に誘われて、ふわふわと玉の緒が菜の花ぞいに伸びた処を、風もないのに、颯とばかり、横合から雪の腕、緋の襟で、つと爪尖を反らして足を踏伸ばした姿が、真黒な馬に乗って、蒼空を飜然と飛び、帽子の廂を掠めるばかり、大波を乗って、一跨ぎに紅の虹を躍り越えたものがある。  はたと、これに空想の前途を遮られて、驚いて心付くと、赤楝蛇のあとを過ぎて、機を織る婦人の小家も通り越していたのであった。  音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた停車場の笛太鼓、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。  筋向いの垣根の際に、こなたを待ち受けたものらしい、鍬を杖いて立って、莞爾ついて、のっそりと親仁あり。 「はあ、もし今帰らせえますかね。」 「や、先刻は。」 二十五  その莞爾々々の顔のまま、鍬を離した手を揉んで、 「何んともハイ御しんせつに言わっせえて下せえやして、お庇様で、私、えれえ手柄して礼を聞いたでござりやすよ。」 「別に迷惑にもならなかったかい。」  と悠々としていった時、少なからず風采が立上って見えた。勿論、対手は件の親仁だけれど。 「迷惑処ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、私大くありがたがられました。」 「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」 「竹ン尖で圧えつけてハイ、山の根っこさ藪の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」 「その方が心持が可い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、私が訴人したんだから、怨みがあれば、こっちへ取付くかも分らずさ。」 「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ打騒いで戸障子へ当っただよ。  私先ず庭口から入って、其処さ縁側で案内して、それから台所口に行ってあっちこっち探索のした処、何が、お前様御勘考さ違わねえ、湯殿に西の隅に、べいらべいら舌さあ吐いとるだ。  思ったより大うがした。  畜生め。われさ行水するだら蛙飛込む古池というへ行けさ。化粧部屋覗きおって白粉つけてどうしるだい。白鷺にでも押惚れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の尖を爪立って、お殺しでない、打棄っておくれ、御新姐は病気のせいで物事気にしてなんねえから、と女中たちが口を揃えていうもんだでね、芸もねえ、殺生するにゃ当らねえでがすから、藪畳みへ潜らして退けました。  御新姐は、気分が勝れねえとって、二階に寝てござらしけえ。  今しがた小雨が降って、お天気が上ると、お前様、雨よりは大きい紅色の露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の許さ、背戸口から御新姐が、紫色の蝙蝠傘さして出てござって、(爺やさん、今ほどはありがとう。その厭なもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、巌殿の方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。 (どうだかね、私、内方へ参ったは些との間だし、雨に駈出しても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。  それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに名越の方さ出さっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。 (お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。  その溝さ飛越して、その路を、」  垣の外のこなたと同一通筋。 「ハイぶうらりぶうらり、谷戸の方へ、行かしっけえ。」  と言いかけて身体ごと、この巌殿から橿原へ出口の方へ振向いた。身の挙動が仰山で、さも用ありげな素振だったので、散策子もおなじくそなたを。……帰途の渠にはあたかも前途に当る。 「それ見えるでがさ。の、彼処さ土手の上にござらっしゃる。」  錦の帯を解いた様な、媚めかしい草の上、雨のあとの薄霞、山の裾に靉靆く中に一張の紫大きさ月輪の如く、はた菫の花束に似たるあり。紫羅傘と書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。  散策子は一目見て、早く既にその霞の端の、ひたひたと来て膚に絡うのを覚えた。  彼処とこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、蕨のような親仁の手、無骨な指で指して、 「彼処さ、それ、傘の陰に憩んでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」 二十六  横に落した紫の傘には、あの紫苑に来る、黄金色の昆虫の翼の如き、煌々した日の光が射込んで、草に輝くばかりに見える。  その蔭から、しなやかな裳が、土手の翠を左右へ残して、線もなしに、よろけ縞のお召縮緬で、嬌態よく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとの路との間、あるかなしに、細い褄先が柔かくしっとりと、内端に掻込んだ足袋で留まって、其処から襦袢の友染が、豊かに膝まで捌かれた。雪駄は一ツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。  前を通ろうとして、我にもあらず立淀んだ。散策子は、下衆儕と賭物して、鬼が出る宇治橋の夕暮を、唯一騎、東へ打たする思がした。  かく近づいた跫音は、件の紫の傘を小楯に、土手へかけて悠然と朧に投げた、艶にして凄い緋の袴に、小波寄する微な響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ胴震いをして、立直って、我知らず肩を聳やかすと、杖をぐいと振って、九字を切りかけて、束々と通った。  路は、あわれ、鬼の脱いだその沓を跨がねばならぬほど狭いので、心から、一方は海の方へ、一方は橿原の山里へ、一方は来し方の巌殿になる、久能谷のこの出口は、あたかも、ものの撞木の形。前は一面の麦畠。  正面に、青麦に対した時、散策子の面はあたかも酔えるが如きものであった。  南無三宝声がかかった。それ、言わぬことではない。 「…………」  一散に遁げもならず、立停まった渠は、馬の尾に油を塗って置いて、鷲掴みの掌を辷り抜けなんだを口惜く思ったろう。 「私。」  と振返って、 「ですかい、」と言いつつ一目見たのは、頭禿に歯豁なるものではなく、日の光射す紫のかげを籠めた俤は、几帳に宿る月の影、雲の鬢、簪の星、丹花の唇、芙蓉の眦、柳の腰を草に縋って、鼓草の花に浮べる状、虚空にかかった装である。  白魚のような指が、ちょいと、紫紺の半襟を引き合わせると、美しい瞳が動いて、 「失礼を……」  と唯莞爾する。 「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、遁げ路を見て置くのである。 「貴下お呼び留め申しまして、」  とふっくりとした胸を上げると、やや凭れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。 「はあ、何、」  真正直な顔をして、 「私ですか、」と空とぼける。 「貴下のようなお姿だ、と聞きましてございます。先刻は、真に御心配下さいまして、」  徐ら、雪のような白足袋で、脱ぎ棄てた雪駄を引寄せた時、友染は一層はらはらと、模様の花が俤に立って、ぱッと留南奇の薫がする。  美女は立直って、 「お蔭様で災難を、」  と襟首を見せてつむりを下げた。  爾時独武者、杖をわきばさみ、兜を脱いで、 「ええ、何んですかな、」と曖昧。  美女は親しげに笑いかけて、 「ほほ、私はもう災難と申します。災難ですわ、貴下。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分家を明渡して、何処かへ参らなければなりませんの。真個にそうなりましたら、どうしましょう。お庇様で助りましてございますよ。ありがとう存じます。」 「それにしても、私と極めたのは、」  と思うことが思わず口へ出た。  これは些と調子はずれだったので、聞き返すように、 「ええ、」 二十七 「先刻の、あの青大将の事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」  と棄鞭の遁構えで、駒の頭を立直すと、なお打笑み、 「そりゃ知れますわ。こんな田舎ですもの。そして御覧の通り、人通りのない処じゃありませんか。  貴下のような方の出入は、今朝ッからお一人しかありませんもの。丁と存じておりますよ。」 「では、あの爺さんにお聞きなすって、」 「否、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から拝みました。」 「じゃあ、私が青大将を見た時に、」 「貴下のお姿が楯におなり下さいましたから、爾時も、厭なものを見ないで済みました。」  と少し打傾いて懐しそう。 「ですが、貴女、」とうっかりいう、 「はい?」  と促がすように言いかけられて、ハタと行詰ったらしく、杖をコツコツと瞬一ツ、唇を引緊めた。  追っかけて、 「何んでございますか、聞かして頂戴。」  と婉然とする。  慌て気味に狼狽つきながら、 「貴女は、貴女は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」 「あら、こんなに甲羅を干しておりますものを。」 「へい、」と、綱は目を睜って、ああ、我ながらまずいことを言った顔色。  美女はその顔を差覗く風情して、瞳を斜めに衝と流しながら、華奢な掌を軽く頬に当てると、紅がひらりと搦む、腕の雪を払う音、さらさらと衣摺れして、 「真個は、寝ていましたの……」 「何んですッて、」  と苦笑。 「でも爾時は寝ていやしませんの。貴下起きていたんですよ。あら、」  とやや調子高に、 「何を言ってるんだか分らないわねえ。」  馴々しくいうと、急に胸を反らして、すッきりとした耳許を見せながら、顔を反向けて俯向いたが、そのまま身体の平均を保つように、片足をうしろへ引いて、立直って、 「否、寝ていたんじゃなかったんですけども、貴下のお姿を拝みますと、急に心持が悪くなって、それから寝たんです。」 「これは酷い、酷いよ、貴女は。」  棄て身に衝と寄り進んで、 「じゃ青大将の方が増だったんだ。だのに、わざわざ呼留めて、災難を免れたとまで事を誇大にして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの御住居だと聞いたにつけても、いよいよ極が悪くって、此処だって、貴女、こそこそ遁げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを大袈裟に礼を言って、極を悪がらせた上に、姿とは何事です。幽霊じゃあるまいし、心持を悪くする姿というがありますか。図体とか、状とかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは些と烈しい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。  要らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――勧進帳でも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の巌殿へ引返して、山越で出奔する分の事です。」  と逆寄せの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの処、負けまい気の、魔ものの顔を見詰めていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が据らず、床几を辷って、ずるりと大地へ。 「あら、お危い。」  というが早いか、眩いばかり目の前へ、霞を抜けた極彩色。さそくに友染の膝を乱して、繕いもなくはらりと折敷き、片手が踏み抜いた下駄一ツ前壺を押して寄越すと、扶け起すつもりであろう、片手が薄色の手巾ごと、ひらめいて芬と薫って、優しく男の背にかかった。 二十八  南無観世音大菩薩………助けさせたまえと、散策子は心の裏、陣備も身構もこれにて粉になる。 「お足袋が泥だらけになりました、直き其処でござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お脱ぎ遊ばせな。」  と指をかけようとする爪尖を、慌しく引込ませるを拍子に、体を引いて、今度は大丈夫に、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を懸ける。暖い草が、ちりげもとで赫とほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、 「構わんです、構わんです、こんな足袋なんぞ。」  ヤレまた落語の前座が言いそうなことを、とヒヤリとして、漸と瞳を定めて見ると、美女は刎飛んだ杖を拾って、しなやかに両手でついて、悠々と立っている。  羽織なしの引かけ帯、ゆるやかな袷の着こなしが、いまの身じろぎで、片前下りに友染の紅匂いこぼれて、水色縮緬の扱帯の端、ややずり下った風情さえ、杖には似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――可哀や、お主の身がわりに、恋の重荷でへし折れよう。 「真個に済みませんでした。」  またぞろ先を越して、 「私、どうしたら可いでしょう。」  と思い案ずる目を半ば閉じて、屈託らしく、盲目が歎息をするように、ものあわれな装して、 「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。  貴下のお姿を見て、それから心持が悪くなりましたって、言通りの事が、もし真個なら、どうして口へ出して言えますもんですか。貴下のお姿を見て、それから心持が悪く……」  再び口の裏で繰返して見て、 「おほほ、まあ、大概お察し遊ばして下さいましなね。」  と楽にさし寄って、袖を土手へ敷いて凭れるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを翠に仕切って、二人の裾は、足許なる麦畠に臨んだのである。 「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」 「はい、」 「ね、貴下、」 「はい、」  と無意味に合点して頷くと、まだ心が済まぬらしく、 「言とがめをなすってさ、真個にお人が悪いよ。」  と異に搦む。  聊か弁ぜざるべからず、と横に見向いて、 「人の悪いのは貴女でしょう。私は何も言とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに伺いました。」 「そして、腹をお立てなすったんですもの。」 「否、恐縮をしたまでです。」 「そこは貴下、お察し遊ばして下さる処じゃありませんか。  言の綾もございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」 「裏だと……お待ちなさいよ。」  ええ、といきつぎに目を瞑って、仰向いて一呼吸ついて、 「心持が悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が善くなった――事になる――可い加減になさい、馬鹿になすって、」  と極めつける。但し笑いながら。  清しい目で屹と見て、 「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、貴下、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。私は煩っているんじゃありませんか。」  草に手をついて膝をずらし、 「お聞きなさいましよ、まあ、」  と恍惚したように笑を含む口許は、鉄漿をつけていはしまいかと思われるほど、婀娜めいたものであった。 「まあ、私に、恋しい懐しい方があるとしましょうね。可うござんすか……」 二十九 「恋しい懐しい方があって、そしてどうしても逢えないで、夜も寐られないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめて肖たお方でもと思うのに、この頃はこうやって此処らには東京からおいでなすったらしいのも見えません処へ、何年ぶりか、幾月越か、フトそうらしい、肖た姿をお見受け申したとしましたら、貴下、」  と手許に丈のびた影のある、土筆の根を摘み試み、 「爾時は……、そして何んですか、切なくって、あとで臥ったと申しますのに、爾時は、どんな心持でと言って可いのでございましょうね。  やっぱり、あの、厭な心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」  一言もなく……しばらくして、 「じゃ、そういう方がおあんなさるんですね、」と僅に一方へ切抜けようとした。 「御存じの癖に。」  と、伏兵大いに起る。 「ええ、」 「御存じの癖に。」 「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」  うたゝ寐に恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。 「それでも、私が気疾をしております事を御存じのようでしたわ。先刻、」 「それは、何、あの畑打ちの爺さんが、蛇をつかまえに行った時に、貴女はお二階に、と言って、ちょっと御様子を漏らしただけです。それも唯御気分が悪いとだけ。  私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、些とも話しませんから、知ろう道理はないのです。但礼をおっしゃるかも知れんというから、其奴は困ったと思いましたけれども、此処を通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」 「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。貴下、このまあ麗かな、樹も、草も、血があれば湧くんでしょう。朱の色した日の光にほかほかと、土も人膚のように暖うござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても朱塗の杯になってゆるゆる流れましょう。海も真蒼な酒のようで、空は、」  と白い掌を、膝に仰向けて打仰ぎ、 「緑の油のよう。とろとろと、曇もないのに淀んでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も柔かな天鵞絨の、ふっくりした括枕に似ています。そちこち陽炎や、糸遊がたきしめた濃いたきもののように靡くでしょう。雲雀は鳴こうとしているんでしょう。鶯が、遠くの方で、低い処で、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、申分のない、目を瞑れば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の日中なんでございますがね、貴下、これをどうお考えなさいますえ。」 「どうと言って、」  と言に連れられた春のその日中から、瞳を美女の姿にかえした。 「貴下は、どんなお心持がなさいますえ、」 「…………」 「お楽みですか。」 「はあ、」 「お嬉しゅうございますか。」 「はあ、」 「お賑かでございますか。」 「貴女は?」 「私は心持が悪いんでございます、丁ど貴下のお姿を拝みました時のように、」  と言いかけて吻と小さなといき、人質のかの杖を、斜めに両手で膝へ取った。情の海に棹す姿。思わず腕組をして熟と見る。 三十 「この春の日の日中の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして寂しいことは。やっぱり、夢に賑かな処を見るようではござんすまいか。二歳か三歳ぐらいの時に、乳母の背中から見ました、祭礼の町のようにも思われます。  何為か、秋の暮より今、この方が心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を絞り出されるようですわ。苦しくもなく、切なくもなく、血を絞られるようですわ。柔かな木の葉の尖で、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、肌が蕩けるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて行きそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って嬉しいんでもありません。  あの貴下、叱られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ寂しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。  ああ遣って、田圃にちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、張合を持っているんでしょう。見た処でも、しょんぼりした脚にも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり魂を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、蝶々にでもなりそうですね。心細いようですね。  暖い、優しい、柔かな、すなおな風にさそわれて、鼓草の花が、ふっと、綿になって消えるように魂がなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ確に目に見えて、そして死んで行くと同一心持なんでしょう。  楽しいと知りつつも、情ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。  そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。  私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも痒くもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、長閑で、麗で、美しくって、それでいて寂しくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が砂原のようで、前生の事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、焦ッたくって、口惜くッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり地の底へ引込まれると申しますより、空へ抱き上げられる塩梅の、何んとも言えない心持がして、それで寝ましたんですが、貴下、」  小雨が晴れて日の照るよう、忽ち麗なおももちして、 「こう申してもやっぱりお気に障りますか。貴下のお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、貴下どうなさいましたの。」  身動ぎもせず聞き澄んだ散策子の茫然とした目の前へ、紅白粉の烈しい流が眩い日の光で渦いて、くるくると廻っていた。 「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」  と掌で目を払って、 「で、そこでお休みになって、」 「はあ、」 「夢でも御覧になりましたか。」  思わず口へ出したが、言い直した、余り唐突と心付いて、 「そういうお心持でうたた寐でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」 「やっぱり、貴下のお姿を見ますわ。」 「ええ、」 「此処にこうやっておりますような。ほほほほ。」  と言い知らずあでやかなものである。 「いや、串戯はよして、その貴女、恋しい、慕わしい、そしてどうしても、もう逢えない、とお言いなすった、その方の事を御覧なさるでしょうね。」 「その貴下に肖た、」 「否さ、」  ここで顔を見合わせて、二人とも挘っていた草を同時に棄てた。 「なるほど。寂としたもんですね、どうでしょう、この閑さは……」  頂の松の中では、頻に目白が囀るのである。 三十一 「またこの橿原というんですか、山の裾がすくすく出張って、大きな怪物の土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ苗代田麦畠などを、引銜えた形に見えます。谷戸の方は、こう見た処、何んの影もなく、春の日が行渡って、些と曇があればそれが霞のような、長閑な景色でいながら、何んだか厭な心持の処ですね。」  美女は身を震わして、何故か嬉しそうに、 「ああ、貴下もその(厭な心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても差支えございませんのね。」 「可うございます。ははははは。」  トちょっと更まった容子をして、うしろ見られる趣で、その二階家の前から路が一畝り、矮い藁屋の、屋根にも葉にも一面の、椿の花の紅の中へ入って、菜畠へ纔に顕れ、苗代田でまた絶えて、遥かに山の裾の翠に添うて、濁った灰汁の色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から突出た山でとまる。橿原の奥深く、蒸し上るように低く霞の立つあたり、背中合せが停車場で、その腹へ笛太鼓の、異様に響く音を籠めた。其処へ、遥かに瞳を通わせ、しばらく茫然とした風情であった。 「そうですねえ、はじめは、まあ、心持、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」 「何んの声です?」 「はあ、私が臥りまして、枕に髪をこすりつけて、悶えて、あせって、焦れて、つくづく口惜くって、情なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。先刻の、あの雨の音、さあっと他愛なく軒へかかって通りましたのが、丁ど彼処あたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。  あの停車場の囃子の音に、何時か気を取られていて、それだからでしょう。今でも停車場の人ごみの上へだけは、細い雨がかかっているように思われますもの。まだ何処にか雨気が残っておりますなら、向うの霞の中でしょうと思いますよ。  と、その細い、幽な、空を通るかと思う雨の中に、図太い、底力のある、そして、さびのついた塩辛声を、腹の底から押出して、 (ええ、ええ、ええ、伺います。お話はお馴染の東京世渡草、商人の仮声物真似。先ず神田辺の事でござりまして、ええ、大家の店前にござります。夜のしらしら明けに、小僧さんが門口を掃いておりますると、納豆、納豆――)  と申して、情ない調子になって、 (ええ、お御酒を頂きまして声が続きません、助けて遣っておくんなさい。)  と厭な声が、流れ星のように、尾を曳いて響くんでございますの。  私は何んですか、悚然として寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は些と近くなって。  それから段々あの橿原の家を向い合いに、飛び飛びに、千鳥にかけて一軒一軒、何処でもおなじことを同一ところまで言って、お銭をねだりますんでございますがね、暖い、ねんばりした雨も、その門附けの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる歩行いて来ますようです。  その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、店前だの、小僧が門口を掃いている処だと申しますのが、何んだか懐しい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、身体を煮られるような心持がして我慢が出来ないで、掻巻の襟へ喰いついて、しっかり胸を抱いて、そして恍惚となっておりますと、やがて、些と強く雨が来て当ります時、内の門へ参ったのでございます。 (ええ、ええ、ええ、)  と言い出すじゃございませんか。 (お話はお馴染の東京世渡草、商人の仮声物真似。先ず神田辺の事でござりまして、ええ、大家の店さきでござります。夜のしらしらあけに、小僧さんが門口を掃いておりますと、納豆納豆――)  とだけ申して、 (ええ、お御酒を頂きまして声が続きません、助けて遣っておくんなさい。)  と一分一厘おなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の門へ来ましたまでに、遠くから丁ど十三度聞いたのでございます。」 三十二 「女中が直ぐに出なかったんです。 (ねえ、助けておくんなさいな、お御酒を頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)  厭な咳なんぞして、 (遣っておくんなさいよ、飲み過ぎて切ねえんで、助けておくんなさい、お願えだ。)  と言って独言のように、貴下、 (遣り切ねえや、)ッて、いけ太々しい容子ったらないんですもの。其処らへ、べッべッ唾をしっかけていそうですわ。  小銭の音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、 (光かい、光や、)  と呼んで、二階の上り口へ来ましたのを、押留めるように、床の中から、 (何んだね、)  と自分でも些と尖々しく言ったんです。 (門附でございます。) (芸人かい!) (はい、)  ッて吃驚していました。 (不可いよ、遣っちゃ不可ない。  芸人なら芸人らしく芸をして銭をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って乞食をおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお遣り。いけ洒亜々々失礼じゃないか。)  とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで極めつけますと、窃と跫音を忍んで、光やは、二階を下りましたっけ。  お恥しゅうございますわ。  甲高かったそうで、よく下まで聞えたと見えます。表二階にいたんですから。 (何んだって、)  と門口で喰ってかかるような声がしました。  枕をおさえて起上りますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。  嘲るように、 (病人なら病人らしく死んじまえ。治るもんなら治ったら可かろう。何んだって愚図ついて、煩っているんだ。)  と赭顔なのが白い歯を剥き出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。 (おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして床を放れて倒れました。段へ、裾を投げ出して、欄干につかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、門附は何処へ参りましたか。雨も上って、また明い日が当りました。何んですかねえ、十文字に小児を引背負って跣足で歩行いている、四十恰好の、巌乗な、絵に描いた、赤鬼と言った形のもののように、今こうやってお話をします内も考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――  またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら日向へ出て来たんでございます。  否、はじめてお目にかかりました貴下に、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」  と言いかけて、心を籠めて見詰めたらしい、目の色は美しかった。 「貴下、真個に未来というものはありますものでございましょうか知ら。」 「…………」 「もしあるものと極りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が其処にいるんなら。さっさと其処へ行けば宜しいんですけれども、」  と土筆のたけの指白う、またうつつなげに草を摘み、摘み、 「きっとそうと極りませんから、もしか、死んでそれっきりになっては情ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、煩らって、段々消えて行きます方が、いくらか増だと思います。忘れないで、何時までも、何時までも、」  と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと白歯で噛んだ。  トタンに慌しく、男の膝越に衝とのばした袖の色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、活々として蓮葉なものいい。 「いけないわ、人の悪い。」  散策子は答えに窮して、実は草の上に位置も構わず投出された、オリイブ色の上表紙に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。 三十三 「こっちへ下さいよ、厭ですよ。」  と端へかけた手を手帳に控えて、麦畠へ真正面。話をわきへずらそうと、青天白日に身構えつつ、 「歌がお出来なさいましたか。」 「ほほほほ、」  と唯笑う。 「絵をお描きになるんですか。」 「ほほほほ。」 「結構ですな、お楽しみですね、些と拝見いたしたいもんです。」  手を放したが、附着いた肩も退けないで、 「お見せ申しましょうかね。」  あどけない状で笑いながら、持直してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁は、この人の手にあたかも蝶の翼を重ねたようであったが、鉛筆で描いたのは……  一目見て散策子は蒼くなった。  大小濃薄乱雑に、半ばかきさしたのもあり、歪んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○と□△ばかり。 「ね、上手でしょう。此処等の人たちは、貴下、玉脇では、絵を描くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時までもこうしていますのに、唯いては、谷戸口の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。  大層評判が宜しゅうございますから……何ですよ、この頃に絵具を持出して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。  この円いのが海、この三角が山、この四角いのが田圃だと思えばそれでもようござんす。それから○い顔にして、□い胴にして△に坐っている、今戸焼の姉様だと思えばそれでも可うございます、袴を穿いた殿様だと思えばそれでも可いでしょう。  それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色をしても可いんですし、名を知らない死んだ人の戒名だと思って拝んでも可いんですよ。」  ようよう声が出て、 「戒名、」  と口が利ける。 「何、何んというんです。」 「四角院円々三角居士と、」  いいながら土手に胸をつけて、袖を草に、太脛のあたりまで、友染を敷乱して、すらりと片足片褄を泳がせながら、こう内へ掻込むようにして、鉛筆ですらすらとその三体の秘密を記した。  テンテンカラ、テンカラと、耳許に太鼓の音。二人の外に人のない世ではない。アノ椿の、燃え落ちるように、向うの茅屋へ、続いてぼたぼたと溢れたと思うと、菜種の路を葉がくれに、真黄色な花の上へ、ひらりと彩って出たものがある。  茅屋の軒へ、鶏が二羽舞上ったのかと思った。  二個の頭、獅子頭、高いのと低いのと、後になり先になり、縺れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許からそなたへ続く青麦の畠の端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子。  汚れた萌黄の裁着に、泥草鞋の乾いた埃も、霞が麦にかかるよう、志して何処へ行く。早その太鼓を打留めて、急足に近づいた。いずれも子獅子の角兵衛大小。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷の出口を突切り、紅白の牡丹の花、はっと俤に立つばかり、ひらりと前を行き過ぎる。 「お待ちちょいと、」  と声をかけた美女は起直った。今の姿をそのままに、雪駄は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐りになる。  ト獅子は紅の切を捌いて、二つとも、立って頭を向けた。 「ああ、あの、児たち、お待ちなね。」  テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の面に撥が飛んで、ぶるぶると細に躍る。 「アリャ」  小獅子は路へ橋に反った、のけ様の頤ふっくりと、二かわ目に紅を潮して、口許の可愛らしい、色の白い児であった。 三十四 「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして引くりかえらなくっても可いんだよ、可いんだよ。」  と圧えつけるようにいうと、ぴょいと立直って頭の堆く大きく突出た、紅の花の廂の下に、くるッとした目を睜って立った。  ブルブルッと、跡を引いて太鼓が止む。  美女は膝をずらしながら、帯に手をかけて、揺り上げたが、 「お待ちよ、今お銭を上るからね、」  手帳の紙へはしり書して、一枚手許へ引切った、そのまま獅子をさし招いて、 「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その角の二階家へ行って取っておいで。」  留守へ言いつけた為替と見える。  後馳せに散策子は袂へ手を突込んで、 「細いのならありますよ。」 「否、可うござんすよ、さあ、兄や、行って来な。」  撥を片手で引つかむと、恐る恐る差出した手を素疾く引込め、とさかをはらりと振って行く。 「さあ、お前こっちへおいで、」  小さな方を膝許へ。  きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、凝と見て、 「幾歳なの、」 「八歳でごぜえス。」 「母さんはないの、」 「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」 「お前は知らないでもね、母様の方は知ってるかも知れないよ、」  と衝と手を袴越に白くかける、とぐいと引寄せて、横抱きに抱くと、獅子頭はばくりと仰向けに地を払って、草鞋は高く反った。鶏の羽の飾には、椰子の葉を吹く風が渡る。 「貴下、」  と落着いて見返って、 「私の児かも知れないんですよ。」  トタンに、つるりと腕を辷って、獅子は、倒にトンと返って、ぶるぶると身体をふったが、けろりとして突立った。 「えへへへへへ、」  此処へ勢よく兄獅子が引返して、 「頂いたい、頂いたい。」  二つばかり天窓を掉ったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた撥を当てる。 「可いよ、そんなことをしなくっても、」  と裳をずりおろすようにして止めた顔と、まだ掴んだままの大な銀貨とを互に見較べ、二個ともとぼんとする。時に朱盆の口を開いて、眼を輝すものは何。 「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」  とその○□△を楽書の余白へ、鉛筆を真直に取ってすらすらと春の水の靡くさまに走らした仮名は、かくれもなく、散策子に読得られた。 君とまたみるめおひせば四方の海の 水の底をもかつき見てまし  散策子は思わず海の方を屹と見た。波は平かである。青麦につづく紺青の、水平線上雪一山。  富士の影が渚を打って、ひたひたと薄く被さる、藍色の西洋館の棟高く、二、三羽鳩が羽をのして、ゆるく手巾を掉り動かす状であった。  小さく畳んで、幼い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした頤で、合点々々をすると見えたが、いきなり二階家の方へ行こうとした。  使を頼まれたと思ったらしい。 「おい、そっちへ行くんじゃない。」  と立入ったが声を懸けた。  美女は莞爾して、 「唯持って行ってくれれば可いの、何処へッて当はないの。落したら其処でよし、失くしたらそれッきりで可んだから……唯心持だけなんだから……」 「じゃ、唯持って行きゃ可いのかね、奥さん、」  と聞いて頷くのを見て、年紀上だけに心得顔で、危っかしそうに仰向いて吃驚した風でいる幼い方の、獅子頭を背後へ引いて、 「こん中へ入れとくだア、奴、大事にして持ッとんねえよ。」  獅子が並んでお辞儀をすると、すたすたと駈け出した。後白浪に海の方、紅の母衣翩翻として、青麦の根に霞み行く。 三十五  さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、彼処から鳩の舞うのを見た、浜辺の藍色の西洋館の傍なる、砂山の上に顕れた。  其処へ来ると、浪打際までも行かないで、太く草臥れた状で、ぐッたりと先ず足を投げて腰を卸す。どれ、貴女のために(ことづけ)の行方を見届けましょう。連獅子のあとを追って、というのをしおに、まだ我儘が言い足りず、話相手の欲しかったらしい美女に辞して、袂を分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。  一先ず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、久能谷を離れて街道を見ると、人の瀬を造って、停車場へ押懸ける夥しさ。中にはもう此処等から仮声をつかって行く壮佼がある、浅黄の襦袢を膚脱で行く女房がある、その演劇の恐しさ。大江山の段か何か知らず、とても町へは寄附かれたものではない。  で、路と一緒に、人通の横を切って、田圃を抜けて来たのである。  正面にくぎり正しい、雪白な霞を召した山の女王のましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、畚や、馬秣のように散ばったかじめの如き、いずれも海に対して、我は顔をするのではないから、固より馴れた目を遮りはせぬ。  かつ人一人いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。長閑さはしかし野にも山にも増って、あらゆる白砂の俤は、暖い霧に似ている。  鳩は蒼空を舞うのである。ゆったりした浪にも誘われず、風にも乗らず、同一処を――その友は館の中に、ことことと塒を踏んで、くくと啼く。  人はこういう処に、こうしていても、胸の雲霧の霽れぬ事は、寐られぬ衾と相違はない。  徒らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、他愛なくほろほろと崩れると、また傍からもり添える。水を掴むようなもので、捜ればはらはらとただ貝が出る。  渚には敷満ちたが、何んにも見えない処でも、纔に砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。  水の底を捜したら、渠がためにこがれ死をしたと言う、久能谷の庵室の客も、其処に健在であろうも知れぬ。  否、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば四方の海の、水の底へも潜ろうと、(ことづけ)をしたのであろう。  この歌は、平安朝に艶名一世を圧した、田かりける童に襖をかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた情に感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……名媛の作と思う。  言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、御堂の柱に、うたた寐の歌を楽書したとおなじ玉脇の妻、みを子である。  深く考うるまでもなく、庵の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の契があったらしい。  男は真先に世間外に、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を以って直ちに幽冥に趣いたもののようであるが、婦人はまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の鬱悶を漏らした、未来があるものと定り、霊魂の行末が極ったら、直ぐにあとを追おうと言った、言の端にも顕れていた。  唯その有耶無耶であるために、男のあとを追いもならず、生長らえる効もないので。  そぞろに門附を怪しんで、冥土の使のように感じた如きは幾分か心が乱れている。意気張ずくで死んで見せように到っては、益々悩乱のほどが思い遣られる。  また一面から見れば、門附が談話の中に、神田辺の店で、江戸紫の夜あけがた、小僧が門を掃いている、納豆の声がした……のは、その人が生涯の東雲頃であったかも知れぬ。――やがて暴風雨となったが――  とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、以て未来の有無を占おうとしたらしかったに――頭陀袋にも納めず、帯にもつけず、袂にも入れず、角兵衛がその獅子頭の中に、封じて去ったのも気懸りになる。為替してきらめくものを掴ませて、のッつ反ッつの苦患を見せない、上花主のために、商売冥利、随一大切な処へ、偶然受取って行ったのであろうけれども。  あれがもし、鳥にでも攫われたら、思う人は虚空にあり、と信じて、夫人は羽化して飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び引返してその音信は伝えまい。  従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を留めて、 君とまたみる目おひせば四方の海の…… と我にもあらず口ずさんだ。  更に答えぬ。  もしまたうつせ貝が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ貝の花吹雪は、いつも私語を絶えせぬだろうに。されば幼児が拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは同一である。  小貝をそこで捨てた。  そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、辷り落ちても埋れはせぬ。  しばらくして、その半眼に閉じた目は、斜めに鳴鶴ヶ岬まで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、不知火にはっきり覚めた。  とそれは獅子頭の緋の母衣であった。  二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、小坪の崕まで、人影一ツ見えぬ処へ。  停車場に演劇がある、町も村も引っぷるって誰が角兵衛に取合おう。あわれ人の中のぼうふらのような忙しい稼業の児たち、今日はおのずから閑なのである。  二人は此処でも後になり先になり、脚絆の足を入れ違いに、頭を組んで白波を被ぐばかり浪打際を歩行いたが、やがてその大きい方は、五、六尺渚を放れて、日影の如く散乱れた、かじめの中へ、草鞋を突出して休んだ。  小獅子は一層活溌に、衝と浪を追う、颯と追われる。その光景、ひとえに人の児の戯れるようには見えず、かつて孤児院の児が此処に来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪に揉み立てられるかといじらしい。但その頭の獅子が怒り狂って、たけり戦う勢である。  勝では可い!  ト草鞋を脱いで、跣足になって横歩行をしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。  大きい方は仰向けに母衣を敷いて、膝を小さな山形に寝た。  磯を横ッ飛の時は、その草鞋を脱いだばかりであったが、やがて脚絆を取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、引返して袴を脱いで、今度は衣類をまくって腰までつかって、二、三度密と潮をはねたが、またちょこちょこと取って返して、頭を刎退け、衣類を脱いで、丸裸になって一文字に飛込んだ。陽気はそれでも可かったが、泳ぎは知らぬ児と見える。唯勢よく、水を逆に刎ね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は稲妻のように幼児を包んでその左右へ飛んだ。――雫ばかりの音もせず――獅子はひとえに嬰児になった、白光は頭を撫で、緑波は胸を抱いた。何らの寵児ぞ、天地の大きな盥で産湯を浴びるよ。  散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。  あとで聞くと、小児心にもあまりの嬉しさに、この一幅の春の海に対して、報恩の志であったという。一旦出て、浜へ上って、寝た獅子の肩の処へしゃがんでいたが、対手が起返ると、濡れた身体に、頭だけ取って獅子を被いだ。  それから更に水に入った。些と出過たと思うほど、分けられた波の脚は、二線長く広く尾を引いて、小獅子の姿は伊豆の岬に、ちょと小さな点になった。  浜にいるのが胡坐かいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波に丁と打込む太鼓、油のような海面へ、綾を流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、頭を倒に。  これに眩めいたものであろう、啊呀忌わし、よみじの(ことづけ)を籠めたる獅子を、と見る内に、幼児は見えなくなった。  まだ浮ばぬ。  太鼓が止んで、浜なるは棒立ちになった。  砂山を慌しく一文字に駈けて、こなたが近いた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた袴、着物、脚絆、海草の乾びた状の、あらゆる記念と一緒に、太鼓も泥草鞋も一まとめに引かかえて、大きな渠は、砂煙を上げて町の方へ一散に遁げたのである。  浪はのたりと打つ。  ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも高声の大笑い、 「馬鹿な奴だ。」 「馬鹿野郎。」  ポクポクと来た巡査に、散策子が、縋りつくようにして、一言いうと、 「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」  死骸はその日終日見当らなかったが、翌日しらしらあけの引潮に、去年の夏、庵室の客が溺れたとおなじ鳴鶴ヶ岬の岩に上った時は二人であった。顔が玉のような乳房にくッついて、緋母衣がびっしょり、その雪の腕にからんで、一人は美にして艶であった。玉脇の妻は霊魂の行方が分ったのであろう。  さらば、といって、土手の下で、分れ際に、やや遠ざかって、見返った時――その紫の深張を帯のあたりで横にして、少し打傾いて、黒髪の頭おもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなに潮に乱れたろう。渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の紅、渚の雪、浪の緑。
底本:「春昼・春昼後刻」岩波文庫    1987(昭和62)年4月16日第1刷発行    1999(平成11)年7月5日第19刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店    1940(昭和15)年5月 初出:「新小説」    1906(明治39)年12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※章番号は「春昼」から連続しています。 入力:小林繁雄 校正:平野彩子、土屋隆 2006年7月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046532", "作品名": "春昼後刻", "作品名読み": "しゅんちゅうごこく", "ソート用読み": "しゆんちゆうここく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説」1906(明治39)年12月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-08-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card46532.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "春昼・春昼後刻", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年4月16日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年7月5日第19刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年2月15日第15刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林繁雄", "校正者": "平野彩子、土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/46532_ruby_23811.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-02-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/46532_23812.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 櫻山に夏鶯音を入れつゝ、岩殿寺の青葉に目白鳴く。なつかしや御堂の松翠愈々深く、鳴鶴ヶ崎の浪蒼くして、新宿の濱、羅の雪を敷く。そよ〳〵と風の渡る處、日盛りも蛙の聲高らかなり。夕涼みには脚の赤き蟹も出で、目の光る鮹も顯る。撫子はまだ早し。山百合は香を留めつ。月見草は露ながら多くは別莊に圍はれたり。野の花は少けれど、よし蘆垣の垣間見を咎むるもののなきが嬉し。  田越の蘆間の星の空、池田の里の小雨の螢、いづれも名所に數へなん。魚は小鰺最も佳し、野郎の口よりをかしいが、南瓜の味拔群也。近頃土地の名物に浪子饅頭と云ふものあり。此處の中學あたりの若殿輩に、をかしき其わけ知らせぬが可かるべし、と思ふこそ尚をかしけれ。 大正四年七月
底本:「鏡花全集 巻二十八」岩波書店    1942(昭和17)11月30日第1刷発行    1988(昭和63)12月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年4月24日作成 2003年5月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004152", "作品名": "松翠深く蒼浪遥けき逗子より", "作品名読み": "しょうすいふかくせいろうはるけきずしより", "ソート用読み": "しようすいふかくせいろうはるけきすしより", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4152.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4152_ruby_6285.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4152_6477.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 小説を作る上では――如何しても天然を用ゐぬ譯には行かないやうですね。譬へば惚れ合つた男女二人が話をしながら横町を通る時でも、晴天の時と、雨天の時とは、話の調子が餘程違ひますからね。天然と言つても、海とか、山とかに限つたことはありません。室内でも、障子とか、襖とか、言ふものは、天然の部に這入つてもよからうと思ひます。だから其の室内の事を書く時でも、天然を見逃がす事は出來ません。また夜更けに話すのと、白晝に話すのとは、自から人の氣分も違ふ譯ですから、勢ひ周圍にある天然を外にする譯に行かないでせう。假に場所を東京市内に選んで、神田とすれば、又其處に特有の天然があります。何方かと言へば、私の作などの中には、景色を見てから、人物を考へ出した場合が多い。『三尺角』や、『葛飾砂子』などは深川の景色を見て、自然に人物を思ひ浮べたのです。然し天然を主にして、作意を害するやうな事は面白くありません。程よく用ゐたいものです。 明治四十二年一月
底本:「鏡花全集 第二十八巻」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日第1刷発行    1976(昭和51)年2月2日第2刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:高柳典子 校正:門田裕志 2003年8月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "033226", "作品名": "小説に用ふる天然", "作品名読み": "しょうせつにもちうるてんねん", "ソート用読み": "しようせつにもちうるてんねん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card33226.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 第二十八巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年2月2日第2刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "高柳典子", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33226_ruby_12178.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33226_12179.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 僕は雅俗折衷も言文一致も、兩方やツて見るつもりだが、今まで經驗した所では、言文一致で書いたものは、少し離れて見て全躰の景色がぼうツと浮ぶ、文章だと近く眼の傍へすりつけて見て、景色がぢかに眼にうつる、言文一致でごた〳〵と細かく書いたものは、近くで見ては面白くないが、少し離れて全躰の上から見ると、其の場の景色が浮んで來る、油繪のやうなものであらうか、文章で書くとそれが近くで見てよく、全躰といふよりも、一筆々々に面白みがあるやうに思はれる、是れはどちらがいゝのだか惡いのだか、自分は兩方やツて見るつもりだ。 明治三十一年二月
底本:「鏡花全集 第二十八巻」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日第1刷発行    1976(昭和51)年2月2日第2刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:高柳典子 校正:門田裕志 2003年8月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "033228", "作品名": "小説文体", "作品名読み": "しょうせつぶんたい", "ソート用読み": "しようせつふんたい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-09-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card33228.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 第二十八巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年2月2日第2刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "高柳典子", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33228_txt_12190.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/33228_12181.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-09-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
        一  此の不思議なことのあつたのは五月中旬、私が八歳の時、紙谷町に住んだ向うの平家の、お辻といふ、十八の娘、やもめの母親と二人ぐらし。少しある公債を便りに、人仕事などをしたのであるが、つゞまやかにして、物綺麗に住んで、お辻も身だしなみ好く、髪形を崩さず、容色は町々の評判、以前五百石取の武家、然るべき品もあつた、其家へ泊りに行つた晩の出来事で。家も向ひ合せのことなり、鬼ごツこにも、硨はじきにも、其家の門口、出窓の前は、何時でも小児の寄合ふ処。次郎だの、源だの、六だの、腕白どもの多い中に、坊ちやん〳〵と別ものにして可愛がるから、姉はなし、此方からも懐いて、ちよこ〳〵と入つては、縫物を交返す、物差で刀の真似、馴ツこになつて親んで居たけれども、泊るのは其夜が最初。  西の方に山の見ゆる町の、上の方へ遊びに行つて居たが、約束を忘れなかつたから晩方に引返した。之から夕餉を済してといふつもり。  小走りに駆けて来ると、道のほど一町足らず、屋ならび三十ばかり、其の山手の方に一軒の古家がある、丁ど其処で、兎のやうに刎ねたはずみに、礫に躓いて礑と倒れたのである。  俗にいふ越後は八百八後家、お辻が許も女ぐらし、又海手の二階屋も男気なし、棗の樹のある内も、男が出入をするばかりで、年増は蚊帳が好だといふ、紙谷町一町の間に、四軒、いづれも夫なしで、就中今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。  何処も同一、雪国の薄暗い屋造であるのに、廂を長く出した奥深く、煤けた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝された上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘だか誰も知つたものはない。藍を入れた字のあとは、断々になつて、恰も青い蛇が、渦き立つ雲がくれに、昇天をする如く也。  別に、風邪薬を一貼、凍傷の膏薬一貝買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉の榾の消ゆる時、夜中にフト目の覚むる折など、町中を籠めて芬々と香ふ、湿ぽい風は薬屋の気勢なので。恐らく我国の薬種で無からう、天竺伝来か、蘭方か、近くは朝鮮、琉球あたりの妙薬に相違ない。然う謂へば彼の房々とある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目前、解いたら裾に靡くであらう。常に其を、束ね髪にしてカツシと銀の簪一本、濃く且つ艶かに堆い鬢の中から、差覗く鼻の高さ、頬の肉しまつて色は雪のやうなのが、眉を払つて、年紀の頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。  内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小児の気にも、暮方には前を通るさへ駆け出すばかりにする。真昼間、向う側から密と透して見ると、窓も襖も閉切つて、空屋に等しい暗い中に、破風の隙から、板目の節から、差入る日の光一筋二筋、裾広がりにぱつと明く、得も知れぬ塵埃のむら〳〵と立つ間を、兎もすればひら〳〵と姿の見える、婦人の影。  転んで手をつくと、はや薬の匂がして膚を襲つた。此の一町がかりは、軒も柱も土も石も、残らず一種の香に染んで居る。  身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処はと思ふと、怪しいものに捕へられた気がして、わつと泣き出した。         二 「あれ危い。」と、忽ち手を伸べて肩をつかまへたのは彼の婦人で。  其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振挘らうとして身をあせつて、仔雀の羽うつ風情。  怪しいものでも声は優しく、 「おゝ、膝が擦剥けました、薬をつけて上げませう。」と左手には何うして用意をしたらう、既に薫の高いのを持つて居た。  守宮の血で二の腕に極印をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何うしよう。 「厭だ、厭だ。」と、しやにむに身悶して、声高になると、 「強情だねえ、」といつたが、漸と手を放し、其のまゝ駆出さうとする耳の底へ、 「今夜、お辻さんの処へ泊りに行くね。」  といふ一聯の言を刻んだのを、……今に到つて忘れない。  内へ帰ると早速、夕餉を済し、一寸着換へ、糸、犬、錨、などを書いた、読本を一冊、草紙のやうに引提げて、母様に、帯の結目を丁と叩かれると、直に戸外へ。  海から颯と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ〳〵、をばさん、辻ちやんと呼びざまに、からりと開けて飛込んだ。  人仕事に忙しい家の、晩飯の支度は遅く、丁ど御膳。取附の障子を開けると、洋燈の灯も朦朧とするばかり、食物の湯気が立つ。  冬でも夏でも、暑い汁の好だつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀を持つたまゝ、ほてつた顔をして、 「おや、おいで。」 「大層おもたせぶりね、」とお辻は箸箱をがちやりと云はせる。  母親もやがて茶碗の中で、さら〳〵と洗つて塗箸を差置いた。  手で片頬をおさへて、打傾いて小楊枝をつかひながら、皿小鉢を寄せるお辻を見て、 「あしたにすると可いやね、勝手へ行つてたら坊ちやんが淋しからう、私は直に出懸けるから。」 「然うねえ。」 「可いよ、可いよ、構やしないや、独で遊んでら。」と無雑作に、小さな足で大胡坐になる。 「ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。」 「大人しいね。感心、」と頭を撫でる手つきをして、 「どれ、其では、」楊枝を棄てると、やつとこさ、と立ち上つた。  お辻が膳を下げる内に、母親は次の仏間で着換へる様子、其処に箪笥やら、鏡台やら。  最一ツ六畳が別に戸外に向いて居て、明取が皆で三間なり。  母親はやがて、繻子の帯を、前結びにして、風呂敷包を持つて顕れた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈も至つて低く、顔容も小造な人で、髪も小さく結つて居た。 「それでは、お辻や。」 「あい、」と、がちや〳〵いはせて居た、彼方の勝手で返事をし、襷がけのまゝ、駆けて来て、 「気をつけて行らつしやいましよ。」 「坊ちやん、緩り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可ませんよ、何うも御苦労様なことツたら、」  とあとは独言、框に腰をかけて、足を突出すやうにして下駄を穿き、上へ蔽かぶさつて、沓脱越に此方から戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ〳〵と出て行つた。渠は些と遠方をかけて、遠縁のものの通夜に詣つたのである。其がために女が一人だからと、私を泊めたのであつた。         三  枕に就いたのは、良ほど過ぎて、私の家の職人衆が平時の湯から帰る時分。三人づれで、声高にものを言つて、笑ひながら入つた、何うした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又笑声がして、其から寂然。  戸外の方は騒がしい、仏間の方を、とお辻はいつたけれども其方を枕にすると、枕頭の障子一重を隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩の泉水があつて、空は同一ほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降込むし、水が溜つて濡れて居るのに、以前女髪結が住んで居て、取散かした元結が化つたといふ、足巻と名づける針金に似た黒い蚯蚓が多いから、心持が悪くつて、故と外を枕にして、並んで寝たが、最う夏の初めなり、私には清らかに小掻巻。  寝る時、着換へて、と謂つて、女の浴衣と、紅い扱帯をくれたけれども、角兵衛獅子の母衣ではなし、母様のいひつけ通り、帯を〆めたまゝで横になつた。  お辻は寒さをする女で、夜具を深く被けたのである。  唯顔を見合せたが、お辻は思出したやうに、莞爾して、 「さつき、駆出して来て、薬屋の前でころんだのね、大な形をして、をかしかつたよ。」 「呀、復見て居たの、」と私は思はず。……  之は此の春頃から、其まで人の出入さへ余りなかつた上の薬屋が方へ、一人の美少年が来て一所に居る、女主人の甥ださうで、信濃のもの、継母に苛められて家出をして、越後なる叔母を便つたのだと謂ふ。  此のほどから黄昏に、お辻が屋根へ出て、廂から山手の方を覗くことが、大抵日毎、其は二階の窓から私も見た。  一体裏に空地はなし、干物は屋根でする、板葺の平屋造で、お辻の家は、其真中、泉水のある処から、二間梯子を懸けてあるので、悪戯をするなら小児でも上下は自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手拭一筋棹に懸つて居る時には限らない、恰も山の裾へかけて紙谷町は、だら〳〵のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透見をするのだと、内の職人どもが言を、小耳にして居るさへあるに、先刻転んだことを、目のあたり知つて居るも道理こそ。  呀、復見て居たの……といつたは其の所為で、私は何の気もなかつたのであるが、之を聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧らめ、 「厭な!」といつて、口許まで天鵞絨の襟を引かぶつた。 「そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻ちやんは転んだのを知つてるし、彼のをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆知つて居ら、をかしいな。」         四 「え!」と慌しく顔を出して、まともに向直つて、じつと見て、 「今夜泊ることを知つて居ました?」 「あゝ、整と然う言つたんだもの。」  お辻は美しい眉を顰めた。燈火の影暗く、其の顔寂しう、 「恐しい人だこと、」といひかけて、再び面を背けると、又深々と夜具をかけた。 「辻ちやん。」 「…………」 「辻ちやんてば、」 「…………」 「よう。」  こんな約束ではなかつたのである、俊徳丸の物語のつゞき、それから手拭を藪へ引いて行つた、踊をする三といふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰らない、寂しい、心細い、私は帰らうと思つた。丁ど其時、どんと戸を引いて、かたりと鎖をさした我家の響。  胸が轟いて掻巻の中で足をばた〳〵したが、堪らなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開いて耳を澄すと、物音は聞えないで、却て戸外なる町が歴然と胸に描かれた、暗である。駆けて出て我家の門へ飛着いて、と思ふに、夜も恁う更けて、他人の家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜寐つきに聞く職人が湯から帰る跫音も、向うと此方、音にも裏表があるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情なくなつて、枕頭に下した戸外から隔ての蔀が、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。  ものの懸念さに、母様をはじめ、重吉も、嘉蔵も呼立てる声も揚げられず、呼吸さへ高くしてはならない気がした。  密と見れば、お辻はすや〳〵と糸が揺れるやうに幽な寐息。  これも何者かに命ぜられて然かく寐入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復横になつて、足を屈めて、目を塞いだ。  けれども今しがた、お辻が(恐しい人だこと、)といつた時、其の顔色とともに灯が恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電でもするかの如く、恐る〳〵目をあけて見ると、最う真暗、灯はいつの間にか消えて居る。  はツと驚いて我ながら、自分の膚に手を触れて、心臓をしつかと圧へた折から、芬々として薫つたのは、橘の音信か、あらず、仏壇の香の名残か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂であつた。  しかも梅の影がさして、窓がぽつと明くなる時、縁に蚊遣の靡く時、折に触れた今までに、つい其夜の如く香の高かつた事はないのである。  瓶か、壺か、其の薬が宛然枕許にでもあるやうなので、余の事に再び目をあけると、暗の中に二枚の障子。件の泉水を隔てて寝床の裾に立つて居るのが、一間真蒼になつて、桟も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。  見る〳〵裡に、べら〳〵と紙が剥げ、桟が吹ツ消されたやうに、ありのまゝで、障子が失せると、羽目の破目にまで其の光が染み込んだ、一坪の泉水を後に、立顕れた婦人の姿。  解き余る鬢の堆い中に、端然として真向の、瞬きもしない鋭い顔は、正しく薬屋の主婦である。  唯見る時、頬を蔽へる髪のさきに、ゆら〳〵と波立つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭の蒼い光を放つのを、左手に取つてする〳〵と。         五  其の裳の触るゝばかり、すツくと枕許に突立つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸を殺した、顔も冷うなるまでに、室の内を隈なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚いた声して、 「腕白、先刻はよく人の深切を無にしたね。」  私は石になるだらうと思つて、一思に窘んだのである。 「したが私の深切を受ければ、此の女に不深切になる処。感心にお前、母様に結んで頂いた帯を〆めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚に笑つた。姐御真実だ、最う堪らぬ。  途端に人膚の気勢がしたので、咽喉を噛れたらうと思つたが、然うではなく、蝋燭が、敷蒲団の端と端、お辻と並んで合せ目の、畳の上に置いてあつた。而して婦人は膝をついて、のしかゝるやうにして、鬢の間から真白な鼻で、お辻の寐顔の半夜具を引かついで膨らんだ前髪の、眉のかゝり目のふちの稍曇つて見えるのを、じつと覗込んで居るのである。おゝ、あはれ、小やかに慎ましい寐姿は、藻脱の殻か、山に夢がさまよふなら、衝戻す鐘も聞えよ、と念じ危ぶむ程こそありけれ。  婦人は右手を差伸して、結立の一筋も乱れない、お辻の高島田を無手と掴んで、づツと立つた。手荒さ、烈しさ。元結は切れたから、髪のずるりと解けたのが、手の甲に絡はると、宙に釣されるやうになつて、お辻は半身、胸もあらはに、引起されたが、両手を畳に裏返して、呼吸のあるものとは見えない。  爾時、右手に黒髪を搦んだなり、 「人もあらうに私の男に懸想した。さあ、何うするか、よく御覧。」  左手の肱を鍵形に曲げて、衝と目よりも高く差上げた、掌に、細長い、青い、小さな瓶あり、捧げて、俯向いて、額に押当て、 「呪詛の杉より流れし雫よ、いざ汝の誓を忘れず、目のあたり、験を見せよ、然らば、」と言つて、取直して、お辻の髪の根に口を望ませ、 「あの美少年と、容色も一対と心上つた淫奔女、いで〳〵女の玉の緒は、黒髪とともに切れよかし。」  と恰も宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯とかゝつて、千筋の紅溢れて、糸を引いて、ねば〳〵と染むと思ふと、丈なる髪はほつりと切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土気色の頬を蒲団に埋めた。  玉の緒か、然らば玉の緒は、長く婦人の手に奪はれて、活きたる如く提げられたのである。  莞爾として朱の唇の、裂けるかと片頬笑み、 「腕白、膝へ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女は殺せたものを、夜が明けるまで黙つて寐なよ。」といひすてにして、細腰楚々たる後姿、肩を揺つて、束ね髱がざわ〳〵と動いたと見ると、障子の外。  蒼い光は浅葱幕を払つたやうに颯と消えて、襖も壁も旧の通り、燈が薄暗く点いて居た。  同時に、戸外を山手の方へ、からこん〳〵と引摺つて行く婦人の跫音、私はお辻の亡骸を見まいとして掻巻を被つたが、案外かな。  抱起されると眩いばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨夜のお辻で、高島田も其まゝ、早や朝の化粧もしたか、水の垂る美しさ。呆気に取られて目も放さないで目詰めて居ると、雪にも紛ふ頸を差つけ、くツきりした髷の根を見せると、白粉の薫、櫛の歯も透通つて、 「島田がお好かい、」と唯あでやかなものであつた。私は家に帰つて後も、疑は今に解けぬ。  お辻は十九で、敢て不思議はなく、煩つて若死をした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚然としたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「天地人」    1901(明治34)年1月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048406", "作品名": "処方秘箋", "作品名読み": "しょほうひせん", "ソート用読み": "しよほうひせん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「天地人」1901(明治34)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-05-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48406.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本幻想文学集成1 泉鏡花", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年10月9日初版第5刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月25日初版第1刷", "底本の親本名1": "泉鏡花全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48406_ruby_34597.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48406_35158.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 色といえば、恋とか、色情とかいう方面に就いての題目ではあろうが、僕は大に埒外に走って一番これを色彩という側に取ろう、そのかわり、一寸仇ッぽい。  色は兎角白が土台になる。これに色々の色彩が施されるのだ。女の顔の色も白くなくッちゃ駄目だ。女の顔は浅黒いのが宜いというけれど、これとて直ちにそれが浅黒いと見えるのでは無く、白い下地が有って、始めて其の浅黒さを見せるのである。  色の白いのは七難隠すと、昔の人も云った。しかしながら、ただ色が白いというのみで意気の鈍い女の顔は、黄いろく見えるような感がする。悪くすると青黒くさえ見える意気がある。まったく色が白かったら、よし、輪郭は整って居らずとも、大抵は美人に見えるように思う。僕の僻見かも知れぬが。  同じ緋縮緬の長襦袢を着せても着人によりて、それが赤黒く見える。紫の羽織を着せても、着人によりて色が引き立たない。青にしろ、浅葱にしろ、矢張着人によって、どんよりとして、其の本来の色を何処かに消して了う。  要するに、其の色を見せることは、其の人の腕によることで、恰も画家が色を出すのに、大なる手腕を要するが如しだ。  友染の長襦袢は、緋縮緬の長襦袢よりは、これを着て、其の色を発揮させるに於いて、確に容易である。即ち友染は色が混って居るがため、其の女の色の白いと然らざるとに論無く、友染の色と女の顔の色とに調和するに然までの困難は感ぜぬ。緋縮緬に至っては然にあらざることは前に述べた。  是を以て見るに、或る意味から之をいえば、純なる色を発揮せしむることは困難といい得る。さればこそ混濁された色が流行するようになって来た。かの海老茶袴は、最もよくこれ等の弱点を曝露して居るものといわねばならぬ。  また同じ鼈甲を差して見ても、差手によって照が出ない。其の人の品なり、顔なりが大に与って力あるのである。  すべての色の取り合わせなり、それから、櫛なり簪なり、ともに其の人の使いこなしによって、それぞれの特色を発揮するものである。  近来は、穿き立ての白足袋が硬く見える女がある。女の足が硬く見えるようでは、其の女は到底美人ではない。白い足袋に調和するほどの女は少いのである。美人が少いからだ。足袋のことをいうから次手に云っておく。近来は汚れた白足袋を穿いて居るものが多い。敢えて新しいのを買えとはいわぬ。せつせつ洗えば、それで清潔になるのである。  或る料理屋の女将が、小間物屋がばらふの櫛を売りに来た時、丁度半纏を着て居た。それで左手を支いて、くの字なりになって、右手を斜に高く挙げて、ばらふの櫛を取って、透かして見た。その容姿は似つかわしくて、何ともいえなかったが、また其の櫛の色を見るのも、そういう態度でなければならぬ。今これを掌へ取って覆して見たらば何うか、色も何も有ったものではなかろう。旁々これも一種の色の研究であろう。  で、鼈甲にしろ、簪にしろ、櫛にしろ、小間物店にある時より、またふっくらした島田の中に在る時より、抜いて手に取った時に真の色が出るのである。見られるのである。しかしながら長襦袢の帯を解いた時に色を現すのはこの限にあらず。
底本:「日本の名随筆7 色」作品社    1983(昭和58)年5月25日第1刷発行    1999(平成11)年2月25日第20刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十八巻」岩波書店    1942(昭和17)年11月 入力:門田裕志 校正:林 幸雄 2002年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003580", "作品名": "白い下地", "作品名読み": "しろいしたじ", "ソート用読み": "しろいしたし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-12-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3580.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆7 色", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1983(昭和58)年5月25日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年2月25日第20刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3580_ruby_3463.zip", "テキストファイル最終更新日": "2002-12-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3580_7929.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2002-12-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一  片側は空も曇って、今にも一村雨来そうに見える、日中も薄暗い森続きに、畝り畝り遥々と黒い柵を繞らした火薬庫の裏通、寂しい処をとぼとぼと一人通る。 「はあ、これなればこそ可けれ、聞くも可恐しげな煙硝庫が、カラカラとして燥いで、日が当っては大事じゃ。」  と世に疎そうな独言。  大分日焼けのした顔色で、帽子を被らず、手拭を畳んで頭に載せ、半開きの白扇を額に翳した……一方雑樹交りに干潟のような広々とした畑がある。瓜は作らぬが近まわりに番小屋も見えず、稲が無ければ山田守る僧都もおわさぬ。  雲から投出したような遣放しの空地に、西へ廻った日の赤々と射す中に、大根の葉のかなたこなたに青々と伸びたを視めて、 「さて世はめでたい、豊年の秋じゃ、つまみ菜もこれ太根になったよ。」  と、一つ腰を伸して、杖がわりの繻子張の蝙蝠傘の柄に、何の禁厭やら烏瓜の真赤な実、藍、萌黄とも五つばかり、蔓ながらぶらりと提げて、コツンと支いて、面長で、人柄な、頤の細いのが、鼻の下をなお伸して、もう一息、兀の頂辺へ扇子を翳して、 「いや、見失ってはならぬぞ、あの、緑青色した鳶が目当じゃ。」  で、白足袋に穿込んだ日和下駄、コトコトと歩行き出す。  年齢六十に余る、鼠と黒の万筋の袷に黒の三ツ紋の羽織、折目はきちんと正しいが、色のやや褪せたを着、焦茶の織ものの帯を胴ぶくれに、懐大きく、腰下りに締めた、顔は瘠せた、が、目じしの落ちない、鼻筋の通ったお爺さん。  眼鏡はありませんか。緑青色の鳶だと言う、それは聖心女子院とか称うる女学校の屋根に立った避雷針の矢の根である。  もっとも鳥居数は潜っても、世智に長けてはいそうにない。  ここに廻って来る途中、三光坂を上った処で、こう云って路を尋ねた…… 「率爾ながら、ちとものを、ちとものを。」  問われたのは、ふらんねるの茶色なのに、白縮緬の兵児帯を締めた髭の有る人だから、事が手軽に行かない。――但し大きな海軍帽を仰向けに被せた二歳ぐらいの男の児を載せた乳母車を曳いて、その坂路を横押に押してニタニタと笑いながら歩行いていたから、親子の情愛は御存じであろうけれども、他人に路を訊かれて喜んで教えるような江戸児ではない。  黙然で、眉と髭と、面中の威厳を緊張せしめる。  老人もう一倍腰を屈めて、 「えい、この辺に聖人と申す学校がござりまする筈で。」 「知らん。」と、苦い顔で極附けるように云った。 「はッ、これはこれは御無礼至極な儀を、実に御歩を留めました。」  がたがたと下りかかる大八車を、ひょいと避けて、挨拶に外した手拭も被らず、そのまま、とぼんと行く。頭の法体に対しても、余り冷淡だったのが気の毒になったのか。 「ああ聖心女学校ではないのかい、それなら有ッじゃね。」 「や、女子の学校?」 「そうですッ。そして聖人ではない、聖心、心ですが。」 「いかさま、そうもござりましょう。実はせんだって通掛りに見ました。聖、何とやらある故に、聖人と覚えました。いや、老人粗忽千万。」  と照れたようにその頭をびたり……といった爺様なのである。        二  その女学校の門を通過ぎた処に、以前は草鞋でも振ら下げて売ったろう。葭簀張ながら二坪ばかり囲を取った茶店が一張。片側に立樹の茂った空地の森を風情にして、如法の婆さんが煮ばなを商う。これは無くてはなるまい。あの、火薬庫を前途にして目黒へ通う赤い道は、かかる秋の日も見るからに暑くるしく、並木の松が欲しそうであるから。  老人は通りがかりにこれを見ると、きちんと畳んだ手拭で額の汗を拭きながら、端の方の床几に掛けた。 「御免なさいよ。」 「はいはい、結構なお日和でございます。」 「されば……じゃが、歩行くにはちと陽気過ぎますの。」  と今時、珍しいまで躾の可い扇子を抜く。 「いえ、御隠居様、こうして日蔭に居りましても汗が出ますでございますよ。何ぞ、シトロンかサイダアでもめしあがりますか。」と商売は馴れたもの。 「いやいや、老人の冷水とやら申す、馴れた口です。お茶を下され。」 「はいはい。」  ちと横幅の広い、元気らしい婆さん。とぼけた手拭、片襷で、古ぼけた塗盆へ、ぐいと一つ形容の拭巾をくれつつ、 「おや、坊ちゃん、お嬢様。」と言う。  十一二の編さげで、袖の長いのが、後について、七八ツのが森の下へ、兎と色鳥ひらりと入った。葭簀越に、老人はこれを透かして、 「ああ、その森の中は通抜けが出来ますかの。」 「これは、余所のお邸様の持地でございまして、はい、いいえ、小児衆は木の実を拾いに入りますのでございますよ。」 「出口に迷いはしませんかの、見受けた処、なかなかどうも、奥が深い。」 「もう口許だけでございます。で、ございますから、榎の実に団栗ぐらい拾いますので、ずっと中へ入りますれば、栗も椎もございますが、よくいたしたもので、そこまでは、可恐がって、お幼いのは、おいたが出来ないのでございます。」 「ははあいかにもの。」 と、飲んだ茶と一緒に、したたか感心して、 「これぞ、自然なる要害、樹の根の乱杭、枝葉の逆茂木とある……広大な空地じゃな。」 「隠居さん、一つお買いなすっちゃどうです。」  と唐突に云った。土方体の半纏着が一人、床几は奥にも空いたのに、婆さんの居る腰掛を小楯に踞んで、梨の皮を剥いていたのが、ぺろりと、白い横銜えに声を掛ける。  真顔に、熟と肩を細く、膝頭に手を置いて、 「滅相もない事を。老人若い時に覚えがあります。今とてもじゃ、足腰が丈夫ならば、飛脚なと致いて通ってみたい。ああ、それもならず……」  と思入ったらしく歎息したので、成程、服装とても秋日和の遊びと見えぬ。この老人の用ありそうな身過ぎのため、と見て取ると、半纏着は気を打って、悄気た顔をして、剥いて落した梨の皮をくるくると指に巻いて、つまらなく笑いながら、 「ははは、野原や、山路のような事を言ってなさらあ、ははは。」 「いやいや、まるで方角の知れぬ奥山へでも入ったようじゃ。昼日中提灯でも松明でも点けたらばと思う気がします。」  がっくりと俯向いて、 「頭ばかりは光れども……」  つるりと撫でた手、頸の窪。 「足許は暗じゃが、のう。」と悄れた肩して膝ばかり、きちんと正しい扇を笏。  と、思わず釣込まれたようになって、二人とも何かそこへ落ちたように、きょろきょろと土間を眗す。葭簀の屋根に二葉三葉。森の影は床几に迫って、雲の白い蒼空から、木の実が降って来たようであった。        三  半纏着は、急に日が蔭ったような足許から、目を上げて、兀げた老人の頭と、手に持った梨の実の白いのを見較べる。  婆さんが口を出して、 「御隠居様は御遠方でいらっしゃるのでございますか。」 「下谷じゃ。」 「そいつあ遠いや、電車でも御大抵じゃねえ。へい、そしてどちらへお越しになるんで。」 「いささかこの辺へ用事があっての。当年たった一度、極暑の砌参ったばかり、一向に覚束ない。その節通りがかりに見ました、大な学校を当にいたした処、唯今立寄って見れば門が違うた。」  腕を伸して、来た方を指すと共に、斉く扇子を膝に支いて身体ごと向直る……それにさえ一息して、 「それは表門でござった……坂も広い。私が覚えたのは、もそっと道が狭うて、急な上坂の中途の処、煉瓦塀が火のように赤う見えた。片側は一面な野の草で、蒸れの可恐い処でありましたよ。」 「それは裏門でございますよ。道理こそ、この森を抜けられまいか、とお尋ねなさった、お目当は違いませぬ。森の中から背面の大畠が抜けられますと道は近うございますけれども、空地でもそれが出来ませんので、これから、ずっと煙硝庫の黒塀について、上ったり、下ったり、大廻りをなさらなければなりませぬ。何でございますか、女学校に御用事はございませんか。それだと表門でも用は足りましょうでござりますよ。」と婆さんは一度掛けた腰掛をまた立って、森を覗いたり、通を視たり。 「いやいや、そこを目当に、別に尋ねます処があります。」 「ちゃんとわかっているんですかい、おいでなさる先方ってのは。こう寂しくって疎在でね、家の分りにくい処ですぜ。」と、煙草盆は有るものを、口許で燐寸を※(火+發)、と目を細うして仰向いて、半分消しておいた煙草をつける。 「余り確かでもないのでの。また家は分るにしてもじゃ。」  と扇子を倒すのと、片膝力なく叩くのと、打傾くのがほとんど一緒で、 「仔細なく当方の願が届くかどうかの、さて、」  と沈む……近頃見附けた縁類へ、無心合力にでも行きそうに聞えて、 「何せい、煙硝庫と聞いたばかりでも、清水が湧くようではない。ちと更まっては出たれども、また一つ山を越すのじゃ、御免を被る。一度羽織を脱いで参ろう。ああ、いやお婆さん、それには及ばぬ。」  紋着の羽織を脱いだのを、本畳みに、スーッスーッと襟を伸して、ひらりと焦茶の紐を捌いて、縺れたように手を控え、 「扮装ばかり凜々しいが、足許はやっぱり暗夜じゃの。」と裾も暗いように、また陰気。  半纏着は腕組して、 「まったく、足許が悪いんですかい、負って行く事もならねえしと……隠居さん、提灯でも上げてえようだ。」 「夜だとほんとうにお貸し申すんだがねえ。」 「どうですえ、その森ン中の暗い枝に、烏瓜ッてやつが点っていまさあ。真紅なのは提灯みたいだ。ねえ、持っておいでなさらねえか、何かの禁厭になろうも知れませんや。」 「はあ、烏瓜の提灯か。」  目を瞑って、 「それも一段の趣じゃが、まだ持って出たという験を聞かぬ。」と羽織を脱いでなお痩せた二の腕を扇子で擦る。        四 「凍傷の薬を売ってお歩行きなさりはしまいし、人。」  と婆さんは、老いたる客の真面目なのを気の毒らしく、半纏着の背中を立身で圧えて、 「可い加減な、前例にも禁厭にも、烏瓜の提灯だなんぞと云って、狐が点すようじゃないかね。」 「狐が点す……何。」  と顔を蔽うた皺を払って、雲の晴れた目を睜る、と水を切った光が添った。 「何、狐が点すか。面白い。」  扇子を颯と胸に開くと、懐中を広く身を正して、 「どれ、どこに……おお、あの葉がくれに点れて紅いわ。お職人、いい事を云って下さった。どれ一つぶら下げて参るとします。」 「ああ、隠居さん、気に入ったら私が引ちぎって持って来らあ。……串戯にゃ言ったからって、お年寄のために働くんだ。先祖代々、これにばかりは叱言を言うめえ、どっこい。」と立つ。  老人は肩を揉んで、頭を下げ、 「これは何ともお手を頂く。」 「何の、隠居さん、なあ、おっかあ、今日は父親の命日よ。」  と、葭簀を出る、と入違いに境界の柵の弛んだ鋼線を跨ぐ時、莨を勢よく、ポンと投げて、裏つきの破足袋、ずしッと草を踏んだ。  紅いその実は高かった。  音が、かさかさと此方に響いて、樹を抱いた半纏は、梨子を食った獣のごとく、向顱巻で葉を分ける。 「気を付きょうぞ。少い人、落ちまい……」と伸上る。 「大丈夫でございますよ。電信柱の突尖へ腰を掛ける人でございますからね。」 「むむ、侠勇じゃな……杖とも柱とも思うぞ、老人、その狐の提灯で道を照す……」 「可厭ではございませんかね、この真昼間。」 「そこが縁起じゃ、禁厭とも言うのじゃよ、金烏玉兎と聞くは――この赫々とした日輪の中には三脚の鴉が棲むと言うげな、日中の道を照す、老人が、暗い心の補助に、烏瓜の灯は天の与えと心得る。難有い。」と掌を額に翳す。  婆さんは希有な顔して、 「でも、狐火か何ぞのようで、薄気味が悪いようでございますね。」 「成程、……狐火、……それは耳より。ふん……かほどの森じゃ、狐も居ろうかの。」 「ええ、で、ございますのでね、……居りますよ。」 「見たか。」 「前には、それは見たこともございますとも。」  老人これを聞くと腰を入れて、 「ああ、たのもしい。」 「ええ……」  と退った、今のその……たのもしい老人の声の力に圧されたのである。 「さて、鳴くか。」 「へい?……」 「やはりその、」  と張肱になった呼吸を胸に、下腹を、ずん、と据えると、 「カーン! というて?」  どさりと樹から下りた音。瓜がぶらり、赤く宙に動いて、カラカラと森に響く。  婆さんの顔を見よ。  半纏着が飛んで帰って、同じくきょとつく目を合せた。 「驚いた……烏が一斉に飛びやあがった。何だい、今の、あの声は。……烏瓜を挘っただけで下りりゃ可いのに、何だかこう、樹の枝に、茸があったもんだから。」        五 「これ、これ、いやさ、これ。」 「はあ、お呼びなされたは私の事で。」  と、羽織の紐を、両手で結びながら答えたのは先刻の老人。一方青煉瓦の、それは女学校。片側波を打った亜鉛塀に、ボヘミヤ人の数珠のごとく、烏瓜を引掛けた、件の繻子張を凭せながら、畳んで懐中に入れていた、その羽織を引出して、今着直した処なのである。  また妙な処で御装束。  雷神山の急昇りな坂を上って、一畝り、町裏の路地の隅、およそ礫川の工廠ぐらいは空地を取って、周囲はまだも広かろう。町も世界も離れたような、一廓の蒼空に、老人がいわゆる緑青色の鳶の舞う聖心女学院、西暦を算して紀元幾千年めかに相当する時、その一部分が武蔵野の丘に開いた新開の町の一部分に接触するのは、ただここばかりかも知れぬ。外廓のその煉瓦と、角邸の亜鉛塀とが向合って、道の幅がぎしりと狭い。  さて、その青鳶も樹に留った体に、四階造の窓硝子の上から順々、日射に晃々と数えられて、仰ぐと避雷針が真上に見える。  この突当りの片隅が、学校の通用門で、それから、ものの半町程、両側の家邸。いずれも雑樹林や、畑を抱く。この荒地の、まばら垣と向合ったのが、火薬庫の長々とした塀になる。――人通りも何にも無い。地図の上へ鉛筆で楽書したも同然な道である。  そこを――三光坂上の葭簀張を出た――この老人はうら枯を摘んだ籠をただ一人で手に提げつつ、曠野の路を辿るがごとく、烏瓜のぽっちりと赤いのを、蝙蝠傘に搦めて支いて、青い鳶を目的に、扇で日を避け、日和下駄を踏んで、大廻りに、まずその寂しい町へ入って来たのであった。  いや、火薬庫の暗い森を背中から離すと、邸構えの寂しい町も、桜の落葉に日が燃えて、梅の枝にほんのりと薄綿の霧が薫る……百日紅の枯れながら、二つ三つ咲残ったのも、何となく思出の暑さを見せて、世はまださして秋の末でもなさそうに心強い。  そこをあちこち、覗いたり、視たり、立留ったり、考えたり、庭前、垣根、格子の中。 「はてな。」  屋の棟を仰いだり、後退りをまたしてみたり。 「確に……」  歩行出して、 「いや、待てよ……」  と首を窘めて、こそこそと立退いたのは、日当りの可い出窓の前で。 「違うかの。」と独言。変に、跫音を忍ぶ形で、そのまま通過ぎると、女学校のその通用門を正面に見た。 「このあたり……ああ緑青色の鳶じゃ、待て、待て、念のためよ。」  あの、輝くのは目ではないか、もし、それだと、一伸しに攫って持って行かれよう。金魚の木伊乃に似たるもの、狐の提灯、烏瓜を、更めて、蝙蝠傘の柄ぐるみ、ちょうと腕長に前へ突出し、 「迷うまいぞ、迷うな。」  と云い云い……(これ、これ、いやさ、これ。……)ここに言咎められている処は、いましがた一度通ったのである。  そこを通って、両方の塀の間を、鈍い稲妻形に畝って、狭い四角から坂の上へ、にょい、と皺面を出した……  坂下の下界の住人は驚いたろう。山の爺が雲から覗く。眼界濶然として目黒に豁け、大崎に伸び、伊皿子かけて一渡り麻布を望む。烏は鴎が浮いたよう、遠近の森は晴れた島、目近き雷神の一本の大栂の、旗のごとく、剣のごとく聳えたのは、巨船天を摩す柱に似て、屋根の浪の風なきに、泡の沫か、白い小菊が、ちらちらと日に輝く。白金の草は深けれども、君が住居と思えばよしや、玉の台は富士である。        六 「相違ない、これじゃ。」  あの怪しげな烏瓜を、坂の上の藪から提灯、逆上せるほどな日向に突出す、痩せた頬の片靨は気味が悪い。  そこで、坂を下りるのかと思うと、違った。……老人は、すぐに身体ごと、ぐるりと下駄を返して、元の塀についてまた戻る……さては先日、極暑の折を上ったというこの坂で、心当りを確めたものであろう。とすると、狙をつけつつ、こそこそと退いてござったあの町中の出窓などが、老人の目的ではないか。  裏に、眉のあとの美しい、色白なのが居ようも知れぬ。  それ、うそうそとまた参った……一度屈腰になって、静と火薬庫の方へ通抜けて、隣邸の冠木門を覗く梅ヶ枝の影に縋って留ると、件の出窓に、鼻の下を伸して立ったが、眉をくしゃくしゃと目を瞑って、首を振って、とぼとぼと引返して、さあらぬ垣越。百日紅の燃残りを、真向に仰いで、日影を吸うと、出損なった嚔をウッと吸って、扇子の隙なく袖を圧える。  そのまま、立直って、徐々と、も一度戻って、五段ばかり石を築いた小高い格子戸の前を行過ぎた。が溝はなしに柵を一小間、ここに南天の実が赤く、根にさふらんの花が芬と薫るのと並んで、その出窓があって、窓硝子の上へ真白に塗った鉄の格子、まだ色づかない、蔦の葉が桟に縋って廂に這う。  思わず、そこへ、日向にのぼせた赤い顔の皺面で、鼻筋の通ったのを、まともに、伸かかって、ハタと着ける、と、颯と映るは真紅の肱附。牡丹たちまち驚いて飜れば、花弁から、はっと分れて、向うへ飛んだは蝴蝶のような白い顔、襟の浅葱の洩れたのも、空が映って美しい。  老人転倒せまい事か。――やあ、緑青色の夥間に恥じよ、染殿の御后を垣間見た、天狗が通力を失って、羽の折れた鵄となって都大路にふたふたと羽搏ったごとく……慌しい遁げ方して、通用門から、どたりと廻る。とやっとそこで、吻と息。  ちょうどその時、通用門にひったりと附着いて、後背むきに立った男が二人居た。一人は、小倉の袴、絣の衣服、羽織を着ず。一人は霜降の背広を着たのが、ふり向いて同じように、じろりと此方を見たばかり。道端の事、とあえて意にも留めない様子で、同じように爪さきを刻んでいると、空の鵄が暗号でもしたらしい、一枚びらき馬蹄形の重い扉が、長閑な小春に、ズンと響くと、がらがらぎいと鎖で開いて、二人を、裡へ吸って、ずーんと閉った。  保険か何ぞの勧誘員が、紹介人と一所に来たらしい風采なのを、さも恋路ででもあるように、老人感に堪えた顔色で、 「ああああ、うまうまと入ったわ――女の学校じゃと云うに。いや、この構えは、さながら二の丸の御守殿とあるものを、さりとては羨しい。じゃが、女に逢うには服礼が利益かい。袴に、洋服よ。」  と気が付いた……ものらしい……で、懐中へ顎で見当をつけながら、まずその古めかしい洋傘を向うの亜鉛塀へ押つけようとして、べたりと塗くった楽書を読む。 「何じゃ――(八百半の料理はまずいまずい、)はあ、可厭な事を云う、……まるで私に面当じゃ。」  ふと眉を顰めた、口許が、きりりと緊って、次なるを、も一つ読む。 「――(小森屋の酒は上等。)ふんふん、ああたのもしい。何じゃ、(但し半分は水。)……と、はてな……?  勘助のがんもどきは割にうまいぞ――むむむむ割にうまいか、これは大沼勘六が事じゃ。」と云った。  ここに老人が呟いた、大沼勘六、その名を聞け、彼は名取の狂言師、鷺流当代の家元である。        七 「料理が、まずくて、雁もどきがうまい、……と云うか。人も違うて、芸にこそよれ、じゃが、成程まずいか、ははっ。」  溜息を深うして、 「ややまた、べらぼうとある……はあ、いかさま、この(――)長いのが、べら棒と云うものか。」  あたかも、差置いた洋傘の柄につながった、消炭で描いた棒を視めて、虚気に、きょとんとする処へ、坂の上なる小藪の前へ、きりきりと舞って出て、老人の姿を見ると、ドンと下りざまに大な破靴ぐるみ自転車をずるずると曳いて寄ったは、横びしゃげて色の青い、猿眼の中小僧。 「やい!」と唐突に怒鳴付けた。  と、ひょろりとする老人の鼻の先へ、泥を掴んだような握拳を、ぬっと出して、 「こン爺い、汝だな、楽書をしやがるのは、八百半の料理がまずいとは何だ、やい。」 「これは早や思いも寄りませぬ。が、何かの、この八百半と云うのは、お身の身内かの。」 「そうよ、まずい八百半の番頭だい、こン爺い。」  と評判の悪垂が、いいざまに、ひょいと歯を剥いて唾を吐くと、べッとりと袖へ。これが熨斗目ともありそうな、柔和な人品穏かに、 「私は楽書はせぬけれどの、まずいと云うのを決して怒るな、これ、まずければ、私と親類じゃでのう。」 「何だ、まずいのが親類だ――ええ、畜生!」と云った。が、老人の事ではない。前生の仇が犬になって、あとをつけて追って来た、面の長い白斑で、やにわに胴を地に摺って、尻尾を巻いて吠えかかる。 「畜生、叱……畜生。」と拳を揮廻すのが棄鞭で、把手にしがみついて、さすがの悪垂真俯向けになって邸町へ敗走に及ぶのを、斑犬は波を打って颯と追った。  老人は、手拭で引摺って袖を拭きつつ、見送って、 「……緑樹影沈んでは魚樹に上る景色あり、月海上に浮んでは兎も波を走るか、……いやいや、面白い事はない。」  で、羽織を出して着たのであった。  頸窪に胡摩塩斑で、赤禿げに額の抜けた、面に、てらてらと沢があって、でっぷりと肥った、が、小鼻の皺のだらりと深い。引捻れた唇の、五十余りの大柄な漢が、酒焼の胸を露出に、べろりと兵児帯。琉球擬いの羽織を被たが、引かけざまに出て来たか、羽織のその襟が折れず、肩をだらしなく両方を懐手で、ぎくり、と曲角から睨んで出た、(これこれ、いやさ、これ。)が、これなのである。 「何ぞ、老人に用の儀でも。」  と慇懃に会釈する。  赭顔は、でっぷりとした頬を張って、 「いやさ、用とはこっちから云う事じゃろうが、うう御老人。」と重く云う。 「貴方は?」 「いやさ、名を聞くなら其許からと云う処だが、何も面倒だ。俺は小室と云う、むむ小室と云う、この辺の家主なり、差配なりだ。それがどうしたと言いたい。  ねえ、老人。  いやさ、貴公、貴公先刻から、この町内を北から南へ行ったり来たり、のそのそ歩行いたり、窺ったり、何ぞ、用かと云うのだ。な、それだに因ってだ。」  もの云う頬がだぶだぶとする。 「されば……」 「いやさ、さればじゃなかろう。裏へ入れば、こまごまとした貸家もある、それはある。が、表のこの町内は、俺が許と、あと二三軒、しかも大々とした邸だ。一遍通り門札を見ても分る。いやさ、猫でも、犬でも分る。  一体、何家を捜す? いやさ捜さずともだが、仮にだ。いやさ、七くどう云う事はない、何で俺が門を窺うた。唐突に窓を覗いたんだい。」  すっと出て、 「さては……」 「何が(さては。)だい。」  と噛んでいた小楊枝を、そッぽう向いて、フッと地へ吐く。        八  老人は膝に扇子、恭しく腰を屈め、 「これは御大人、お初に御意を得ます、……何とも何とも、御無礼の段は改めて御詫をします。  さて、つかん事を伺いまするが、さて、貴方に、お一方、お娘御がおいでなさりはせまいか。」  と、思込んだ状して言った。 「娘……ああ、女のかね。」  唐突に他の家の秘蔵を聞くは、此奴怪しからずの口吻、半ば嘲けって、はぐらかす。  いよいよ真顔で、 「されば、おあねえ様であらっしゃります。」 「姉だか、妹だか、一人居ます。一人娘だよ。いやさ、大事な娘だよ。」 「ははっ、御道理千万な儀で。」 「それが、どうしたと云うんですえ。」と、余り老人の慇懃さに、膨れた頬を手で圧えた。 「私、取って六十七歳、ええ、この年故に、この年なれば御免を蒙る。が、それにしても汗が出ます。」  と額を拭って、咳をした…… 「何とぞいたして御大人、貴方の思召をもちまして、お娘御、おあねえ様に、でござる、ちょっと、御意を得ますわけには相成りませぬか。」 「ふん、娘にかい。」 「何とも。」 「変だねえ、娘に用があるなら俺に言え、と云うのだが、それは別だ。いやあえて怪しい御仁とも見受けはせんが、まあね、この陽気だから落着くが可うござす。一体、何の用なんだい。」 「いや、それに就いて罷出ました……無面目に、お家を窺い、御叱を蒙ったで、恐縮いたすにつけても、前後申後れましてござるが、老人は下谷御徒士町に借宅します、萩原与五郎と申して未熟な狂言師でござる。」と名告る。 「ははあ、茶番かね。」と言った。  しかり、茶番である。が、ここに名告るは惜かりし。与五郎老人は、野雪と号して、鷺流名誉の耆宿なのである。 「おお、父上、こんな処に。」 「お町か、何だ。」  と赭ら顔の家主が云った。  小春の雲の、あの青鳶も、この人のために方角を替えよ。姿も風采も鶴に似て、清楚と、端正を兼備えた。襟の浅葱と、薄紅梅。瞼もほんのりと日南の面影。  手にした帽子の中山高を、家主の袖に差寄せながら、 「帽子をお被んなさいましッて、お母さんが。……裏へ見廻りにいらしったかと思ったんです。」  と、見迎えて一足退いて、亜鉛塀に背の附くまで、ほとんど固くなった与五郎は、たちまち得も言われない嬉しげな、まぶしらしい、そして懐しそうな顔をして、 「や、や、や、貴女、貴女じゃった、貴女。」と袖を開き、胸を曳いて、縋りもつかんず、しかも押戴かんず風情である。  疑と、驚きに、浅葱が細く、揺るるがごとく、父の家主の袖を覗いて、睜った瞳は玲瓏として清しい。  家主は、かたいやつを、誇らしげにスポンと被って、腕組をずばりとしながら、 「何かい、……この老人を、お町、お前知っとるかい。」 「はい。」  と云うのが含み声、優しく爽に聞えたが、ちと覚束なさそうな響が籠った。 「ああ、しばらく、一旦の御見、路傍の老耄です。令嬢、お見忘れは道理じゃ。もし、これ、この夏、八月の下旬、彼これ八ツ下り四時頃と覚えます。この邸町、御宅の処で、迷いに迷いました、路を尋ねて、お優しく御懇に、貴女にお導きを頂いた老耄でござるわよ。」  と、家主の前も忘れたか、気味の悪いほど莞爾々々する。 「の、令嬢。」 「ああ、存じております。」  鶴は裾まで、素足の白さ、水のような青い端緒。        九 「貴女はその時、お隣家か、その先か、門に梅の樹の有る館の前に、彼家の乳母と見えました、円髷に結うた婦の、嬰坊を抱いたと一所に、垣根に立ってござって……」  と老人は手真似して、 「ちょうちちょうちあわわ、と云うてな、その児をあやして、お色の白い、手を敲いておいでなさる。処へ、空車を曳かせて老人、車夫めに、何と、ぶつぶつ小言を云われながら迷うて参った。  尋ねる家が、余り知れないで、既に車夫にも見離されました。足を曳いて、雷神坂と承る、あれなる坂をば喘ぎましてな。  一旦、この辺も捜したなれども、かつて知れず、早や目もくらみ、心も弱果てました。処へ、煙硝庫の上と思うに、夕立模様の雲は出ます。東西も弁えぬこの荒野とも存ずる空に、また、あの怪鳥の鳶の無気味さ。早や、既に立窘みにもなりましょうず処――令嬢お姿を見掛けましたわ。  さて、地獄で天女とも思いながら、年は取っても見ず知らぬ御婦人には左右のうはものを申し難い。なれども、いたいけに児をあやしてござる。お優しさにつけ、ずかずかと立寄りまして、慮外ながら伺いましたじゃ。  が、御存じない。いやこれは然もそう、深窓に姫御前とあろうお人の、他所の番地をずがずがお弁別のないはその筈よ。  硫黄が島の僧都一人、縋る纜切れまして、胸も苦しゅうなりましたに、貴女、その時、フトお思いつきなされまして、いやとよ、一段の事とて、のう。  御妙齢なが見得もなし。世帯崩しに、はらはらとお急ぎなされ、それ、御家の格子をすっと入って、その時じゃ――その時覚えました、あれなる出窓じゃ――  何と、その出窓の下に……令嬢、お机などござって、傍の本箱、お手文庫の中などより、お持出でと存じられます。寺、社に丹を塗り、番地に数の字を記いた、これが白金の地図でと、おおせで、老人の前でお手に取って展いて下され、尋ねます家を、あれか、これかと、いやこの目の疎いを思遣って、御自分に御精魂な、須弥磐石のたとえに申す、芥子粒ほどな黒い字を、爪紅の先にお拾い下され、その清らかな目にお読みなさって……その……解りました時の嬉しさ。  御心の優しさ、御教えの尊さ、お智慧の見事さ、お姿の﨟たい事。  二度目には雷神坂を、しゃ、雲に乗って飛ぶように、車の上から、見晴しの景色を視めながら、口の裡に小唄謡うて、高砂で下りました、ははっ。」  と、踞むと、扇子を前半に帯にさして、両手を膝へ、土下座もしたそうに腰を折って、 「さて、その時の御深切、老人心魂に徹しまして、寝食ともに忘れませぬ。千万忝う存じまするぞ。」 「まあ。」  と娘は、またたきもしなかった目を、まつげ深く衝と見伏せる。  この狂人は、突飛ばされず、打てもせず、あしらいかねた顔色で、家主は不承々々に中山高の庇を、堅いから、こつんこつんこつんと弾く。 「解りました、何、そのくらいな事を。いやさ、しかし、早い話が、お前さん、ああ、何とか云った、与五郎さんかね。その狂言師のお前さんが、内の娘に三光町の地図で道を教えてもらったとこう云うのだ。」 「で、その道を教えて下さったに……就きまして、」 「まあさ、……いやさ、分ったよ。早い話が、その礼を言いに来たんだ、礼を。……何さ、それにも及ぶまいに、下谷御徒士町、遠方だ、御苦労です。早い話が、わざわざおいでなすったんで、茶でも進ぜたい、進ぜたい、が、早い話が、家内に取込みがある、妻が煩うとる。」 「いや、まことに、それは……」 「まあさ、余りお饒舌なさらんが可い。ね、だによって、お構いも申されぬ。で、お引取なさい、これで失礼しよう。」 「あ、もし。さて、また。」 「何だ、また(さて。)さて、(また。)かい。」        十  与五郎は、早や懐手をぶりりと揺って行こうとする、家主に、縋るがごとく手を指して、 「さて……や、これはまたお耳障り。いや就きまして……令嬢に折入ってお願いの儀が有りまして、幾重にも御遠慮は申しながら、辛抱に堪えかねて罷出ました。  次第と申すは、余の事、別儀でもござりませぬ。  老人、あの当時、……されば後月、九月の上旬。上野辺のある舞台において、初番に間狂言、那須の語。本役には釣狐のシテ、白蔵主を致しまする筈。……で、これは、当流においても許しもの、易からぬ重い芸でありましての、われら同志においても、一代の間に指を折るほども相勤めませぬ。  近頃、お能の方は旭影、輝く勢。情なや残念なこの狂言は、役人も白日の星でござって、やがて日も入り暗夜の始末。しかるに思召しの深い方がござって、一舞台、われらのためにお世話なさって、別しては老人にその釣狐仕れの御意じゃ。仕るは狐の化、なれども日頃の鬱懐を開いて、思うままに舞台に立ちます、熊が穴を出ました意気込、雲雀ではなけれども虹を取って引く勢での……」  と口とは反対、悄れた顔して、娘の方に目を遣って、 「貴女に道を尋ねました、あの日も、実は、そのお肝入り下さるお邸へ、打合せ申したい事があって罷出る処でござったよ。  時に、後月のその舞台は、ちょっと清書にいたし、方々の御内見に入れますので、世間晴れての勤めは、更めて来霜月の初旬、さるその日本の舞台に立つ筈でござる。が、剣も玉も下磨きこそ大事、やがては一拭いかけまするだけの事。先月の勤めに一方ならず苦労いたし、外を歩行くも、から脛を踏んでとぼつきます……と申すが、早や三十年近う過ぎました、老人が四十代、ただ一度、芝の舞台で、この釣狐の一役を、その時は家元、先代の名人がアドの猟人をば附合うてくれられた。それより中絶をしていますに因って、手馴れねば覚束ない、……この与五郎が、さて覚束のうては、余はいずれも若い人、まだ小児でござる。  折からにつけ忘れませぬは、亡き師匠、かつは昔勤めました舞台の可懐さに、あの日、その邸の用も首尾すまいて、芝の公園に参って、もみじ山のあたりを俳徊いたし、何とも涙に暮れました。帰りがけに、大門前の蕎麦屋で一酌傾け、思いの外の酔心に、フト思出しましたは、老人一人の姪がござる。  これが海軍の軍人に縁付いて、近頃相州の逗子に居ります。至って心の優しい婦人で、鮮しい刺身を進じょう、海の月を見に来い、と音信のたびに云うてくれます。この時と、一段思付いて、遠くもござらぬ、新橋駅から乗りました。が、夏の夜は短うて、最早や十時。この汽車は大船が乗換えでありましての、もっとも両三度は存じております。鎌倉、横須賀は、勤めにも参った事です――  時に、乗込みましたのが、二等と云う縹色の濁った天鵝絨仕立、ずっと奥深い長い部屋で、何とやら陰気での、人も沢山は見えませいで、この方、乗りました砌には、早や新聞を顔に乗せて、長々と寝た人も見えました。  入口の片隅に、フト燈の暗い影に、背屈まった和尚がござる! 鼠色の長頭巾、ト二尺ばかり頭を長う、肩にすんなりと垂を捌いて、墨染の法衣の袖を胸で捲いて、寂寞として踞った姿を見ました……  何心もありませぬ。老人、その前を通って、ずっとの片端、和尚どのと同じ側の向うの隅で、腰を落しつけて、何か、のかぬ中の老和尚、死なば後前、冥土の路の松並木では、遠い処に、影も、顔も見合おうず、と振向いて見まするとの……」  娘は浅葱の清らかな襟を合す。  父爺の家主は、棄てた楊枝を惜しそうに、チョッと歯ぜせりをしながら、あとを探して、時々唾吐く。        十一 「早や遠い彼方に、右の和尚どの、形朦朧として、灰をば束ねたように見えました処、汽車が、ぐらぐらと揺れ出すにつけて、吹散った体になって消えました、と申すが、怪しいでは決してござらぬ。居所が離れ陰気な部屋の深いせいで、また寂い汽車でござったのでの。  さて、品川も大森も、海も畠も佳い月夜じゃ。ざんざと鳴るわの。蘆の葉のよい女郎、口吟む心持、一段のうちに、風はそよそよと吹く……老人、昼間息せいて、もっての外草臥れた処へ酔がとろりと出ました。寝るともなしに、うとうととしたと思えば、さて早や、ぐっすりと寝込んだて。  大船、おおふなと申す……驚破や乗越す、京へ上るわ、と慌しゅう帯を直し、棚の包を引抱いて、洋傘取るが据眼、きょろついて戸を出ました。月は晃々と露もある、停車場のたたきを歩行くのが、人におくれて我一人……  ひとつ映りまする我が影を、や、これ狐にもなれ、と思う心に連立って、あの、屋根のある階子を上る、中空に架けた高い空橋を渡り掛ける、とな、令嬢、さて、ここじゃ。  橋がかりを、四五間がほど前へ立って、コトコトと行くのが、以前の和尚。痩せに痩せた干瓢、ひょろりとある、脊丈のまた高いのが、かの墨染の法衣の裳を長く、しょびしょびとうしろに曳いて、前かがみの、すぼけた肩、長頭巾を重げに、まるで影法師のように、ふわりふわりと見えます。」  と云うとふとそこへ、語るものが口から吐いた、鉄拐のごとき魍魎が土塀に映った、……それは老人の影であった。 「や、これはそも、老人の魂の抜出した形かと思うたです、――誰も居ませぬ、中有の橋でな。  しかる処、前途の段をば、ぼくぼくと靴穿で上って来た駅夫どのが一人あります。それが、この方へ向って、その和尚と摺違うた時じゃが、の。」  与五郎は呼吸を吐いて、 「和尚が長い頭巾の頭を、木菟むくりと擡ると、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛をつッかえ棒に、黒い尻をはっと振ると、組違えに、トンと廻って、両の拳を、はったりと杖に支いて、 (横須賀行はこちらかや。)  追掛けに、また一遍、片足を膝頭へ巻いて上げ、一本の脛を突支棒に、黒い尻をはっと揺ると、組違えにトンと廻って、 (横須賀行はこちらかや。)  と、早や此方ざまに参った駅夫どのに、くるりと肩ぐるみに振向いた。二度見ました。痩和尚の黄色がかった青い長面。で、てらてらと仇光る……姿こそ枯れたれ、石も点頭くばかり、行澄いた和尚と見えて、童顔、鶴齢と世に申す、七十にも余ったに、七八歳と思う、軽いキャキャとした小児の声。  で、またとぼとぼと杖に縋って、向う下りに、この姿が、階子段に隠れましたを、熟と視ると、老人思わず知らず、べたりと坐った。  あれよあれよ、古狐が、坊主に化けた白蔵主。したり、あの凄さ。寂さ。我は化けんと思えども、人はいかに見るやらん。尻尾を案じた後姿、振返り、見返る処の、科、趣。八幡、これに極った、と鬼神が教を給うた存念。且つはまた、老人が、工夫、辛労、日頃の思が、影となって顕れた、これでこそと、なあ。」  与五郎、がっくりと胸を縮めて、 「ああ、業は誇るまいものでござる。  舞台の当日、流儀の晴業、一世の面目、近頃衰えた当流にただ一人、(古沼の星)と呼ばれて、白昼にも頭が光る、と人も言い、我も許した、この野雪与五郎。装束澄いて床几を離れ、揚幕を切って!……出る! 月の荒野に渺々として化法師の狐ひとつ、風を吹かして通ると思せ。いかなこと土間も桟敷も正面も、ワイワイがやがやと云う……縁日同然。」        十二 「立って歩行く、雑談は始まる、茶をくれい、と呼ぶもあれば、鰻飯を誂えたにこの弁当は違う、と喚く。下足の札をカチカチ敲く。中には、前番のお能のロンギを、野声を放って習うもござる。  が、おのれ見よ。与五郎、鬼神相伝の秘術を見しょう。と思うのが汽車の和尚じゃ。この心を見物衆の重石に置いて、呼吸を練り、気を鍛え、やがて、件の白蔵主。  那須野ヶ原の古樹の杭に腰を掛け、三国伝来の妖狐を放って、殺生石の毒を浴せ、当番のワキ猟師、大沼善八を折伏して、さて、ここでこそと、横須賀行の和尚の姿を、それ、髣髴して、舞台に顕す……しゃ、習よ、芸よ、術よとて、胡麻の油で揚げすまいた鼠の罠に狂いかかると、わっと云うのが可笑しさを囃すので、小児は一同、声を上げて哄と笑う。華族の後室が抱いてござった狆が吠えないばかりですわ。  何と、それ狂言は、おかしいものには作したれども、この釣狐に限っては、人に笑わるべきものでない。  凄う、寂しゅう、可恐しげはさてないまでも、不気味でなければなりませぬ。何と!」  とせき込んで言ったと思うと、野雪老人は、がっくりと下駄を、腰に支いて、路傍へ膝を立てた。 「さればこそ、先、師匠をはじめ、前々に、故人がこの狂言をいたした時は、土間は野となり、一二の松は遠方の森となり、橋がかりは細流となり、見ぶつの男女は、草となり、木の葉となり、石となって、舞台ただ充満の古狐、もっとも奇特は、鼠の油のそれよりも、狐のにおいが芬といたいた……ものでござって、上手が占めた鼓に劣らず、声が、タンタンと響きました。  何事ぞ、この未熟、蒙昧、愚癡、無知のから白癡、二十五座の狐を見ても、小児たちは笑いませぬに。なあ、――  最早、生効も無いと存じながら、死んだ女房の遺言でも止められぬ河豚を食べても死ねませぬは、更に一度、来月はじめの舞台が有って、おのれ、この度こそ、と思う、未練ばかりの故でござる。  寝食も忘れまして……気落ちいたし、心萎え、身体は疲れ衰えながら、執着の一念ばかりは呪詛の弓に毒の矢を番えましても、目が晦んで、的が見えず、芸道の暗となって、老人、今は弱果てました。  時に蒼空の澄渡った、」  と心激しくみひらけば、大なる瞳、屹と仰ぎ、 「秋の雲、靉靆と、あの鵄たちまち孔雀となって、その翼に召したりとも思うお姿、さながら夢枕にお立ちあるように思出しましたは、貴女、令嬢様、貴女の事じゃ。」  お町は謹で袖を合せた。玉あたたかき顔の優い眉の曇ったのは、その黒髪の影である。 「老人、唯今の心地を申さば、炎天に頭を曝し、可恐い雲を一方の空に視て、果てしもない、この野原を、足を焦し、手を焼いて、徘徊い歩行くと同然でござる。時に道を教えて下された、ああ、尊さ、嬉さ、おん可懐さを存ずるにつけて……夜汽車の和尚の、室をぐるりと廻った姿も、同じ日の事なれば、令嬢の、袖口から、いや、その……あの、絵図面の中から、抜出しましたもののように思われてなりませぬ。  さように思えば、ここに、絵図面をお展き下されて、貴女と二人立って見ましたは、およそ天ヶ下の芸道の、秘密の巻もの、奥許しの折紙を、お授け下されたおもい致す!  姫、神とも存ずる、令嬢。  分別の尽き、工夫に詰って、情なくも教を頂く師には先立たれましたる老耄。他に縋ろうようがない。ただ、偏に、令嬢様と思詰めて、とぼとぼと夢見たように参りました。  が、但し、土地の、あの図に、何と秘密が有ろうとは存じませぬ。貴女の、お胸、お心に、お袖の裏に、何となく教が籠る、と心得まする。  何とぞ、貴女の、御身からいたいて、人に囃され、小児たちに笑われませぬ、白蔵王の法衣のこなし、古狐の尾の真実の化方を御教えに預りたい……」 「これ、これ、いやさ、これ。」 「しばらく! さりとても、令嬢様、御年紀、またお髪の様子。」  娘は髪に手を当てた、が、容づくるとは見えず、袖口の微な紅、腕も端麗なものであった。 「舞、手踊、振、所作のおたしなみは格別、当世西洋の学問をこそ遊ばせ、能楽の間の狂言のお心得あろうとはかつて存ぜぬ。  あるいは、何かの因縁で、斯道なにがしの名人のこぼれ種、不思議に咲いた花ならば、われらのためには優曇華なれども、ちとそれは考え過ぎます。  それとも当時、新しいお学問の力をもってお導き下さりょうか。  さりとて痩せたれども与五郎、科や、振は習いませぬぞよ。師は心にある。目にある、胸にある……  近々とお姿を見、影を去って、跪いて工夫がしたい! 折入ってお願いは、相叶うことならば、お台所の隅、お玄関の端になりとも、一七日、二七日、お差置きを願いたい。」 「本気か、これ、おい。」と家主が怒鳴った。  胸を打って、 「血判でござる。成らずば、御門、溝石の上になりとも、老人、腰掛に弁当を持参いたす。平に、この儀お聞済が願いたい。  口惜や、われら、上根ならば、この、これなる烏瓜一顆、ここに一目、令嬢を見ただけにて、秘事の悟も開けましょうに、無念やな、老の眼の涙に曇るばかりにて、心の霧が晴れませぬ。  や、令嬢、お聞済。この通りでござる。」  とて、開いた扇子に手を支いた。埃は颯と、名家の紋の橘の左右に散った。  思わず、ハッと吐息して、羽織の袖を、斉く清く土に敷く、お町の小腕、むずと取って、引立てて、 「馬鹿、狂人だ。此奴あ。おい、そんな事を取上げた日には、これ、この頃の画工に頼まれたら、大切な娘の衣服を脱いで、いやさ、素裸体にして見せねばならんわ。色情狂の、爺の癖に。」        十三 「生蕎麦、もりかけ二銭とある……場末の町じゃな。ははあ煮たて豌豆、古道具、古着の類。何じゃ、片仮名をもってキミョウニナオル丸、疝気寸白虫根切、となのった、……むむむむ疝気寸白は厭わぬが、愚鈍を根切りの薬はないか。  ここに、牛豚開店と見ゆる。見世ものではない。こりゃ牛鋪じゃ。が、店を開くは、さてめでたいぞ。  ほう、按腹鍼療、蒲生鉄斎、蒲生鉄斎、はて達人ともある姓名じゃ。ああ、羨しい。おお、琴曲教授。や、この町にいたいて、村雨松風の調べ。さて奥床い事のう。――べ、べ、べ、べッかッこ。」  と、ちょろりと舌を出して横舐を、遣ったのは、魚勘の小僧で、赤八、と云うが青い顔色、岡持を振ら下げたなりで道草を食散らす。  三光町の裏小路、ごまごまとした中を、同じ場末の、麻布田島町へ続く、炭団を干した薪屋の露地で、下駄の歯入れがコツコツと行るのを見ながら、二三人共同栓に集った、かみさん一人、これを聞いて、 「何だい、その言種は、活動写真のかい、おい。」 「違わあ。へッ、違いますでござんやすだ。こりゃあ、雷神坂上の富士見の台の差配のお嬢さんに惚れやあがってね。」 「ああ、あの別嬪さんの。」 「そうよ、でね、其奴が、よぼよぼの爺でね。」 「おや、へい。」 「色情狂で、おまけに狐憑と来ていら。毎日のように、差配の家の前をうろついて附纏うんだ。昨日もね、門口の段に腰を掛けている処を、大な旦那が襟首を持って引摺出した。お嬢さんが縋りついて留めてたがね。へッ被成もんだ、あの爺を庇う位なら、俺の頬辺ぐらい指で突いてくれるが可い、と其奴が癪に障ったからよ。自転車を下りて見ていたんだが、爺の背中へ、足蹴に砂を打っかけて遁げて来たんだ。  それ、そりゃ昨日の事だがね。串戯じゃねえや。お嬢さんを張りに来るのに弁当を持ってやあがる、握飯の。」 「成程、変だ。」……歯入屋が言った。 「そうよ、其奴を、旦が踏潰して怒ってると、そら、俺を追掛けやがる斑犬が、ぱくぱく食やがった、おかしかったい、それが昨日さ。」 「分ったよ、昨日は。」 「その前もね、毎日だ。どこかで見掛ける。いつも雷神坂を下りて、この町内をとぼくさとぼくさ。その癖のん気よ。角の蕎麦屋から一軒々々、きょろりと見ちゃ、毎日おなじような独語を言わあ。」 「其奴が、(もりかけ二銭とある)だな、生意気だな、狂人の癖にしやあがって、(場末)だなんて吐しやがって。」と歯入屋が、おはむきの世辞を云って、女房達をじろりと見る奴。 「それからキミョウニナオル丸、牛豚開店までやりやがって、按摩ン許が蒲生鉄斎、たつじんだ、土瓶だとよ、薬罐めえ、笑かしやがら。何か悪戯をしてやろうと思って、うしろへ附いちゃあ歩行くから、大概口上を覚えたぜ。今もね、そこへ来たんぜ。」 「来るえ。」と、一所に云う。 「見ねえ、一番、尻尾を出させる考えを着けたから、駈抜けて先へ来たんだ。――そら、そら、来たい、あの爺だ――ね。」  と、琴曲の看板を見て、例のごとく、帽子も被らず、洋傘を支いて、据腰に与五郎老人、うかうかと通りかかる。 「あれ! 何をする。」  と言う間も無かった。……おしめも褌も一所に掛けた、路地の物干棹を引ぱずすと、途端の与五郎の裾を狙って、青小僧、蹈出す足と支く足の真中へスッと差した。はずみにかかって、あわれ与五郎、でんぐりかえしを打った時、 「や、」と倒れながら、激しい矢声を、掛けるが響くと、宙で撓めて、とんぼを切って、ひらりと翻った。古今の手練、透かさぬ早業、頭を倒に、地には着かぬ、が、無慚な老体、蹌踉となって倒れる背を、側の向うの電信柱にはたとつける、と摺抜けに支えもあえず、ぼったら焼の鍋を敷いた、駄菓子屋の小店の前なる、縁台に摚と落つ。  走り寄ったは婦ども。ばらばらと来たのは小児で。  鷺の森の稲荷の前から、と、見て、手に薬瓶の紫を提げた、美しい若い娘が、袖の縞を乱して駈寄る。 「怪我は。」 「吉祥院前の接骨医へ早く……」 「お怪我は?」  与五郎野雪老人は、品ある顔をけろりとして、 「やあ、小児たち、笑わぬか、笑え、あはは、と笑え。爺が釣狐の舞台もの、ここへ運べば楽なものじゃ――我は化けたと思えども、人はいかに見るやらん。」  と半眼に、従容として口誦して、 「あれ、あの意気が大事じゃよ。」  と、頭を垂れて、ハッと云って、俯向く背を、人目も恥じず、衝と抱いて、手巾も取りあえず、袖にはらはらと落涙したのは、世にも端麗なお町である。 「お手を取ります、お爺様、さ、私と一所に。」        十四  円に桔梗の紋を染めた、厳めしい馬乗提灯が、暗夜にほのかに浮くと、これを捧げた手は、灯よりも白く、黒髪が艶々と映って、ほんのりと明い顔は、お町である。  と、眉に翳すようにして、雪の頸を、やや打傾けて優しく見込む。提灯の前にすくすくと並んだのは、順に数の重なった朱塗の鳥居で、優しい姿を迎えたれば、あたかも紅の色を染めた錦木の風情である。  一方は灰汁のような卵塔場、他は漆のごとき崖である。  富士見の台なる、茶枳尼天の広前で、いまお町が立った背後に、  此の一廓、富士見稲荷鎮守の地につき、家々の畜犬堅く無用たるべきもの也。地主。  と記した制札が見えよう。それからは家続きで、ちょうどお町の、あの家の背後に当る、が、その間に寺院のその墓地がある。突切れば近いが、避けて来れば雷神坂の上まで、土塀を一廻りして、藪畳の前を抜ける事になる。  お町は片手に、盆の上に白い切を掛けたのを、しなやかな羽織の袖に捧げていた。暗い中に、向うに、もう一つぼうと白いのは涎掛で、その中から目の釣った、尖った真蒼な顔の見えるのは、青石の御前立、この狐が昼も凄い。  見込んで提灯が低くなって、裾が鳥居を潜ると、一体、聖心女学院の生徒で、昼は袴を穿く深い裾も――風情は萩の花で、鳥居もとに彼方、此方、露ながら明く映って、友染を捌くのが、内端な中に媚かしい。  狐の顔が明先にスッと来て近くと、その背後へ、真黒な格子が出て、下の石段に踞った法然あたまは与五郎である。  老人は、石の壇に、用意の毛布を引束ねて敷いて、寂寞として腰を据えつつ、両手を膝に端坐した。 「お爺様。」  と云う、提灯の柄が賽銭箱について、件の青狐の像と、しなった背中合せにお町は老人の右へ行く。 「やあ、」  もっての外元気の可い声を掛けたが、それまで目を瞑っていたらしい、夢から覚めた面色で、 「またしてもお見舞……令嬢、早や、それでは痛入る。――老人にお教へ下さると云うではなけれど、絵図面が事の起因ゆえ、土地に縁があろうと思えば、もしや、この明神に念願を掛けたらば――と貴女がお心付け下された。暗夜に燈火、大智識のお言葉じゃ。  何か、わざと仔細らしく、夜中にこれへ出ませいでもの事なれども、朝、昼、晩、日のあるうちは、令嬢のお目に留って、易からぬお心遣い、お見舞を受けまする。かつは親御様の前、別して御尊父に忍んで遊ばす姫御前の御身に対し、別事あってならぬと存じ、御遠慮を申すによって、わざと夜陰を選んで参りますものを、何としてこの暗いに。これでは老人、身の置きどころを覚えませぬ。第一唯今も申す親御様に、」 「いえ、母は、よく初手からの事を存じております。煩っておりませんと、もっと以前にどうにもしたいのでございますッて。ほんとうにお爺様、貴老の御心労をお察し申して、母は蔭ながら泣いております。」 「ああ、勿体至極もござらん。その儀もかねてうけたまわり、老人心魂に徹しております。」 「私も一所に泣くんですわ。ほんとうに私の身体で出来ます事でしたら、どうにもしてお上げ申したいんでございますよ。それこそね、あの、貴老が遊ばす、お狂言の罠にかかるために、私の身体を油でいためてでも差上げたいくらいに思うんですが……それはお察しなさいましよ。」 「言語道断」と与五郎は石段をずるりと辷った。        十五 「そして、別にお触りはございませんの。おとしよりが、こんなに、まあ、御苦労を遊ばして。」 「いや、老人、胸が、むず痒うて、ただ身体の震えまする外、ここに参ってからはまた格別一段の元気じゃ、身体は決してお案じ下さりょう事はない。かえって何かの悟を得ようと心嬉しいばかりでござる。が、御母堂様は。」 「母はね、お爺様、寝ましたきり、食が細って困るんです。」 「南無三宝。」 「今夜は、ちと更けましてから、それでも蕎麦かきをして食べてみよう、とそう言いましてね、ちょうど父の在所から届きました新蕎麦の粉がありましたものですから、私が枕頭で拵えました。父は、あの一晩泊りにその在へ参って留守なのです。母とまた、お爺様、貴老の事をそう申して……きっとお社においでなさるに違いない、内へお迎えをしたいんですけれど、ああ云った父の手前、留守ではなおさら不可ません。」 「おおおお、いかにも。」 「蕎麦かきは暖ると申します。差上げたらば、と母と二人でそう申しましてね、あの、ここへ持って参りました。おかわりを添えてございますわ。お可厭でなくば召上って下さいましな。」 「や、蕎麦掻を……されば匂う。来世は雁に生りょうとも、新蕎麦と河豚は老人、生命に掛けて好きでござる。そればかりは決して御辞儀申さぬぞ。林間に酒こそ暖めませぬが、大宮人の風流。」  と露店でも開くがごとく、与五郎一廻りして毛布を拡げて、石段の前の敷石に、しゃんと坐る、と居直った声が曇った。  また魅せられたような、お町も、その端へ腰を下して、世帯ぶった手捌きで、白いを取ったは布巾である。  与五郎、盆を前に両手を支き、 「ああ、今夜唯今、与五郎芸人の身の冥加を覚えました。……ついては、新蕎麦の御祝儀に、爺が貴女に御伽を話す。……われら覚えました狂言の中に、鬼瓦と申すがあっての、至極初心なものなれども、これがなかなかの習事じゃ。――まず都へ上って年を経て、やがて国許へ立帰る侍が、大路の棟の鬼瓦を視めて、故郷に残いて、月日を過ごいた、女房の顔を思出で、絶て久しい可懐さに、あの鬼瓦がその顔に瓜二つじゃと申しての、声を放って泣くという――人は何とも思わねども、学問遊ばし利発な貴女じゃ、言わいでも分りましょう。絵なり、像なり、天女、美女、よしや傾城の肖顔にせい、美しい容色が肖たと云うて、涙を流すならば仔細ない。誰も泣きます。鬼瓦さながらでは、ソッとも、嘘にも泣けませぬ。  泣け! 泣かぬか! 泣け、と云うて、先師匠が、老人を、月夜七晩、雨戸の外に夜あかしに立たせまして、その家の、棟の瓦を睨ませて、動くことさえさせませなんだ。  十六夜の夜半でござった。師匠の御新造の思召とて、師匠の娘御が、ソッと忍んで、蕎麦、蕎麦かきを……」  と言が途絶え、膝に、しかと拳を当て、 「袖にかくして持ってござった。それを柿の樹の大な葉の桐のような影で食べました。鬼瓦ではなけれども、その時に涙を流いて、やがて、立って、月を見れば、棟を見れば、鬼瓦を見れば、ほろほろと泣けました。  さて、その娘が縁あって、われら宿の妻に罷成る、老人三十二歳の時。――あれは一昨年果てました。老の身の杖柱、やがては家の芸のただ一人の話対手、舞台で分別に及ばぬ時は、師の記念とも存じ、心腹を語ったに――いまは惜からぬ生命と思い、世に亡い女房が遺言で、止めい、と申す河豚を食べても、まだ死ねませぬは因果でござるよ。  この度の釣狐も、首尾よく化澄まし、師匠の外聞、女房の追善とも思詰めたに、式のごとき恥辱を取る。  さて、申すまじき事なれども、せんだって計らずもおがみました、貴方のお姿、お顔だちが、さてさて申すまじき事なれども、過去りました、あの、そのものに、いやいや貴女、令嬢、貴女とは申すまい、親御でおわす母君が。いやいや……恐多い申すまい。……この蕎麦掻が、よう似ました。……  やあ、雁が鳴きます。」 「おお、……雁が鳴く。」  与五郎は、肩をせめて胸をわななかして、はらはらと落涙した。 「お爺様、さ、そして、懐炉をお入れなさいまし、懐中に私が暖めて参りました。母も胸へ着けましたよ。」 「ええ!」と思わず、皺手をかけたは、真綿のようなお町の手。 「親御様へお心遣い……あまつさえ外道のような老人へ御気扱、前お見上げ申したより、玉を削って、お顔にやつれが見えます。のう……これは何をお泣きなさる。」 「胸がせまって、ただ胸がせまって――お爺様、貴老がおいとしゅうてなりません。しっかり抱いて上げたいわねえ。」と夜半に莟む、この一輪の赤い花、露を傷んで萎れたのである。  人は知るまい。世に不思議な、この二人の、毛布にひしと寄添ったを、あの青い石の狐が、顔をぐるりと向けて、鼻で覗いた…… 「これは……」  老人は懐炉を取って頂く時、お町が襟を開くのに搦んで落ちた、折本らしいものを見た。 「……町は基督教の学校へ行くんですが、お導き申したというお社だし、はじめがこの絵図から起ったのですから、これをしるしにお納め申して、同じに願掛をしてお上げなさいと、あの母がそう申します。……私もその心で、今夜持って参りましたよ。」  与五郎野雪、これを聞くと、拳を握って、舞の構えに、正しく屹と膝を立てて、 「むむ、いや、かさねがさね……たといキリシタンバテレンとは云え、お宗旨までは尋常事ではない。この事、その事。新蕎麦に月は射さぬが、暗は、ものじゃ、冥土の女房に逢う思。この燈火は貴女の導き。やあ、絵図面をお展き下され、老人思う所存が出来た!」  と熟と睜った、目の冴は、勇士が剣を撓むるがごとく、袖を抱いてすッくと立つ、姿を絞って、じりじりと、絵図の面に――捻向く血相、暗い影が颯と射して、線を描いた紙の上を、フッと抜け出した足が宙へ。 「カーン。」と一喝。百にもあまる朱の鳥居を一飛びにスーッと抜ける、と影は燈に、空を飛んで、梢を伝う姿が消える、と谺か、非ずや、雷神坂の途半ばのあたりに、暗を裂く声、 「カーン。」と響いた。 「あれえ。」 「いや、怪いものではありません。」 「老人の夥間ですよ。」  社の裏を連立って、眉目俊秀な青年二人、姿も対に、暗中から出たのであった。 「では、やっぱりお狂言の?……」 「いや、能楽の方です。――大師匠方に内弟子の私たち。」 「老人の、あの苦心に見倣え、と先生の命令で出向いています。」  と、斉しく深くした帽子を脱いで、お町に礼して、見た顔の、蝋燭の灯に二人の瞼が露に濡れていた。 「若先生。」 「おお大沼さん。」 「貴方もかい。」  大沼善八は、靴を穿いた、裾からげで、正宗の四合壜を紐からげにして提げていた。 「対手が、あの意気込じゃあ、安閑としていられません。寒い!(がたがたと震えて、)いつでもお爺さんに河豚鍋のおつきあいで嘲笑われる腹癒せに、内証で、……おお、寒! ちびちびと敵を取ろうと思ったが、恐入って飲めんのでした。――お嬢さん、貴女は、氏神でおいでなさる。」 大正五(一九一六)年一月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十六卷」岩波書店    1942(昭和17)年4月20日発行 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003656", "作品名": "白金之絵図", "作品名読み": "しろがねのえず", "ソート用読み": "しろかねのえす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3656.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年4月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3656_ruby_26029.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3656_26097.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 同じことを、東京では世界一、地方では日本一と誇る。相州小田原の町に電車鐵道待合の、茶店の亭主が言に因れば、土地の鹽辛、蒲鉾、外郎、及び萬年町の竹屋の藤、金格子の東海棲、料理店の天利、城の石垣、及び外廓の梅林は、凡そ日本一也。  莞爾として聞きながら、よし〳〵其もよし、蒲鉾は旅店の口取でお知己、烏賊の鹽辛は節季をかけて漬物屋のびらで知る通、外郎は小本、物語で懇意なるべし。竹屋の藤は時節にあらず、金格子の東海樓は通つた道の青樓さの、處で今日の腹工合と、懷中の都合に因つて、天利といふので午餉にしよう、其づ其の城を見て梅とやれ、莟は未だ固くツてもお天氣は此の通り、又此の小田原と來た日には、暖いこと日本一だ、喃、御亭主。然やうでござります。喜多八、さあ、其の氣で歩ばつしと、今こそ着流で駒下駄なれ、以前は、つかさやをかけたお太刀一本一寸極め、振分の荷物、割合羽、函嶺の夜路をした、内神田の叔父的、名を彌次郎兵衞といふ小田原通、アイお茶代を置いたよ、とヅイと出るのに、旅は早立とあつて午前六時に搖起された眠い目でついて行く。  驛路の馬の鈴の音、しやんと來る道筋ながら、時世といひ、大晦日、道中寂りとして、兩側に廂を並ぶる商賈の家、薪を揃へて根占にしたる、門松を早や建て連ねて、歳の神を送るといふ、お祭の太鼓どん〳〵〳〵。ちゆうひやら〳〵と角兵衞獅子、暢氣に懷手で町内を囃して通る。  此の町出外れに、森見えてお城の大手。  しばし彳む。  此處へ筒袖の片手ゆつたりと懷に、左手に山牛蒡を提げて、頬被したる六十ばかりの親仁、ぶらりと來懸るに路を問ふことよろしくあり。お節にや拵ふるに、このあたり門を流るゝ小川に浸して、老若男女打交り、手に手に之を洗ふを見た。後に小田原の町を放れ、函嶺の湯本近に一軒、茶店の娘、窶れ姿のいと美しきが、路傍の筧、前なる山凡そ三四百間遠き處に千歳久しき靈水を引いたりといふ、清らかなる樋の口に冷たき其の土を洗ふを見て、山の芋は鰻になる、此の牛蒡恁くて石清水に身を灌がば、あはれ白魚に化しやせんと、そゞろ胸に手を置きしが。  扨て路を教へて後、件の親仁つく〴〵と二人を見送る。いづれ美人には縁なき衆生、其も嬉しく、外廓を右に、やがて小さき鳥居を潛れば、二の丸の石垣、急に高く、目の下忽ち濠深く、水はやゝ涸れたりと雖も、枯蘆萱の類、細路をかけて、霜を鎧ひ、ざツくと立つ。思はず行き惱み立つて仰げば、虚空に雲のかゝれるばかり、參差たる樹の間々々、風さへ渡る松の梢に、組連ねたるお城の壁の苔蒸す石の一個々々。勇將猛士幾千の髭ある面を列ねし如き、さても石垣の俤かな。  それより無言にて半町ばかり、たら〳〵と坂を上る。こゝに晝も暗き樹立の中に、ソと人の氣勢するを垣間見れば、石の鳥居に階子かけて、輪飾掛くる少き一人、落葉掻く翁二人あり。宮は、報徳神社といふ、彼の二宮尊徳翁を祭れるもの、石段の南北に畏くも、宮樣御手植の對の榊、四邊に塵も留めず、高きあたり靜に鳥の聲鳴きかはす。此の社に詣でて云々。これより一説ある處、何の大晦日を逃げた癖に、尊徳樣もないものだと、編輯の同人手を拍つて大に嘲けるに、たじ〳〵となり、敢て我胸中に蓄へたる富國經濟の道を説かず、纔に城の俤を記すのみ。 明治三十五年二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「新小説 第七年第二巻」春陽堂    1902(明治35)年2月1日 ※表題は底本では、「城《しろ》の石垣《いしがき》」となっています。 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2017年8月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050797", "作品名": "城の石垣", "作品名読み": "しろのいしがき", "ソート用読み": "しろのいしかき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説 第七年第二巻」春陽堂、1902(明治35)年2月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card50797.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50797_ruby_62511.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/50797_62553.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一 「あんた、居やはりますか。」  ……唄にもある――おもしろいのは二十を越えて、二十二のころ三のころ――あいにくこの篇の著者に、経験が、いや端的に体験といおう、……体験がないから、そのおもしろいのは、女か、男か。勿論誰に聞かしても、この唄は、女性の心意気に相違ないらしいが、どんなのを対手にした人情のあらわし方だか、男勝手にはちょっときめにくい。ただしどう割引をした処で、二十二三は女盛り……近ごろではいっそ娘盛りといって可い。しかも著者なかま、私の友だち、境辻三によって話された、この年ごろの女というのは、祇園の名妓だそうである。  名妓? いかなるものぞ、と問われると、浅学不通、その上に、しかるべき御祝儀を並べたことのない私には、新橋、柳橋……いずくにも、これといって容式をお目に掛ける知己がない。遠いが花の香と諺にもいう、東京の山の手で、祇園の面影を写すのであるから、名妓は、名妓として、差支えないであろう。  また、何がゆえに、浅学不通まで打ちまけて、こんな前書をするかといえば、実はその京言葉である。すなわち、読みはじめに記した「あんた、いやはりますか。」――は、どう聞いても、祇園の芸妓、二十二、三の、すらりと婀娜な別嬪のようじゃあない。おのぼりさんが出会した旅宿万年屋でござる。女中か、せいぜいで――いまはあるか、どうか知らぬ、二軒茶屋で豆府を切る姉さんぐらいにしか聞えない。嫋音、嬌声、真ならず。境辻三……巡礼が途に惑ったような名の男の口から、直接に聞いた時でさえ、例の鶯の初音などとは沙汰の限りであるから、私が真似ると木菟に化ける。第一「あんた、居やはりますか。」さて、思うに、「あの、居なはるか。」とおとずれたのだか、それさえ的確ではないのだそうであるから、構わず、関東の地声でもって遣つける。  谷の戸ではない、格子戸を開けたときの、前記の声が「こんちは、あの……居らっしゃいますか。」と、ざっとかわるのであることを、諸賢に御領承を願っておいて……  わが、辻三がこの声を聞いたのは、麹町――番町も土手下り、湿けた崖下の窪地の寒々とした処であった。三月のはじめ、永い日も、午から雨もよいの、曇り空で、長屋建の平屋には、しかも夕暮が軒に近い。窓下の襖際で膳の上の銚子もなしに――もう時節で、塩のふいた鮭の切身を、鱧の肌の白さにはかなみつつ、辻三が……  というものは、ついその三四日以前まで、ふとした事から、天狗に攫われた小坊主同然、しかし丈高く、面赤き山伏という処を、色白にして眉の優い、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。初のぼりだのに、宇治も瀬田も聞いたばかり。三十三間堂、金閣寺、両本願寺の屋根も見ず知らず、五条、三条も分らずに、およそ六日ばかりの間というもの、鴨川の花の廓に、酒の名も、菊、桜。白鶴、富久娘の膏を湛えた、友染の袖の池に、錦の帯の八橋を、転げた上で泳ぐがごとき、大それた溺れよう。肝魂も泥亀が、真鯉緋鯉と雑魚寝とを知って、京女の肌を視て帰って、ぼんやりとして、まだその夢の覚めない折から。……  無理もない、冷飯に添えた塩鮭をはかなむのは。……時に、膳の上に、もう一品、惣菜の豆の煮たやつ。……女難にだけは安心な男にも、不思議に女房は実意があるから、これはそこらの、あやしげな煮豆屋が、あんぺらの煮出しを使った悪甘いのではない。砂糖を奢って、とろりと煮込んで、せっせと煽いで、つやみを見せた深切な処を、酔覚の舌の尖に甘く染まして、壁にうつる影法師も冷たそうに縮んだ処へ。  ころころと格子が開いた。取次の女中へ何かいう、浅間な住居で、手に取るような、その「あんたはん、居やはりますか。」訳して、「こんちは、あの、居らっしゃいますか。」のそれだったのだそうである。 二 「京の祇園と、番町の土手下――いや、もうちっと――半道ばかり近いのです。大勢の中で、その芸妓――お絹というんです――その女が、京都駅まで、九時何十分かの急行を、見送りに来てくれたんだから。……それにしても少々遠過ぎますね。――声を聞いて、すぐそのお絹だ、と思ったのは。  しかし事実なんです。 (やあ、これは珍客。)  とか、大きな声して、いきなり、箸をおくと、件の煮豆を一つ、膳の上へ転がしながら、いきなり立上って中縁のような板敷へ出ましたから。……鵯が南天燭の実、山雀が胡桃ですか、いっそ鶯が梅の蕾をこぼしたのなら知らない事――草稿持込で食っている人間が煮豆を転がす様子では、色恋の沙汰ではありません。――それだのに……」  境辻三は、串戯ではなさそうに、真顔になっていったのである―― 「しかし、またあらためて、お絹のその麗しさというものは。――(お危うございます、ここは暗いんでございますから。)おいそれものの女中めが、のっけのその京言葉と、朱鷺色の手絡、艶々した円髷、藤紫に薄鼠のかかった小袖の褄へ、青柳をしっとりと、色の蝶が緑を透いて、抜けて、ひらひらと胸へ肩へ、舞立ったような飛模様を、すらりと着こなした、長襦袢は緋に総染の小桜で、ちらちらと土間へ来た容子を一目、京都から帰ったばかりの主人が旅さきの知己、てっきり溶けるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから、すぐこうお通りはいいのですが、口上が癪ですよ。(真暗ですから。)が、仕方がない、押付け仕事の安普請で、間取りに無理がありますから、玄関の次が暗いのです。いきなり手を曳いて連れ込んだ、そのひき方がそそっかし屋で荒いので、私と顔を会わせた時は、よろけ加減で、お絹の顔が、ほんのりとなって、その長襦袢のしなやかな裳をこぼれた姿は、脊は高し、天井の黒い雲から糸桜がすらすらと枝垂れたようで、いや、どうも……祇園の空から降って来たかと思われました。  ――時に、重ねていうようですが、三月のはじめです。三月といえば弥生です。桜は季節でありますけれども、まだどこにも咲いてはいません。ところが、どうした事か、これから、宵、夜、夜中に掛けて、話を運びます、春木町の、その頃の本郷座。上野の山内、清水の観音堂。鶯谷という順に、その到る処、花が咲いていたように思います。唯今も、目に見えて、桜に包まれるようですが、実は、こんな事は、今まで、誰にも片端も饒舌ったことはありませんから、いつも一人で、咲満ちた花の中にいた気だったのですけれども、あなたに。」  著者に、いうのである。 「三月、と口にしますと同時に、ふと気がつくと、彼岸ずっと前で、まだ桜は咲きません。が、それからお絹を連れて行きました、本郷座の芝居が、ちょうど祇園の夜桜、舞台一面の処へぶつかりましたし、続いて上野でも、鶯谷でも、特に観世音の御堂では、この妓と、花片が颯と微酔の頬に当るように、淡い薫さえして、近々と、膝を突合わせたような事がありましたから、色の刺激で、欄干近い、枝も梢も、ほの紅かったのだろうと思われます。  ところで――芝居行です。が、どの道、糸錦の帯で押立よく、羽織はなしに居ずまいも端正としたのを、仕事場の机のわきへ据えた処で、……おなじ年ごろの家内が、糠味噌いじりの、襷をはずして、渋茶を振舞ってみた処で、近所の鮨を取った処で、てんぷら蕎麦にした処で、びん長鮪の魚軒ごときで一銚子といった処で、京から降って来た別嬪の摂待らしくはありません。京では、瓢亭だの、西石垣のちもとだのと、この妓が案内をしてくれたのに対しても、山谷、浜町、しかるべき料理屋へ、晩のご飯という懐中はその時分なし、今もなし、は、は、は、笑ったって、ごまかせない。 (おつれは?)  ただ一人で訪ねて来て、目の前に斜に坐っている極彩色に、連を聞いたも変ですが、先方の稼業が稼業ですから。……なぞといって、まじくないながら、とつおいつのうち、お絹が、四五人で客に連れられて来たのだけれど、いまは旅館に一人で残った…… (早う、あんたはんの許へ来とうて、来とうてな。)  いよいよ、天麩羅では納まらない。思いついたのが芝居です。  で、本郷に出ているのは、箕原路之助――この友だちが、つい前日まで、祇園で一所だったので、四条の芝居を打上げた一座が、帰って来て、弥生興行の最中だとお思い下さい。 (……すぐ出掛けましょう、御婦人には芝居と南瓜が何よりの御馳走だ。)  馬鹿も通越した、自棄な言句を切出して、 (ご贔屓の路之助が出ています。)  役者を贔屓とさえいっておけば間違いはないものの――その実、祇園にいたうちに、五人、八人、時には十人にも余って、その六日ばかりの間、時々出入り交代はあっても、ほとんど同じ顔の芸妓舞子が、寝る、起きる、飲む、唄う。十一時ごろに芝居のはねるのを宵の口にして、あけ方の三時四時まで続くんでしょう。雑魚寝の女護の島で、宿酔の海豹が恍惚と薄目を開けると、友染を着た鴎のような舞子が二三羽ひらひらと舞込んで、眉を撫でる、鼻を掴む、花簪で頭髪を掻く、と、ふわりと胸へ乗って、掻巻の天鵞絨の襟へ、笹色の唇を持って行くのがある。……いいえ、その路之助のですよ。女形の。……しかも同じ衾の左右には、まくれたり、はだかったり、白い肌が濡れた羽衣に包まれたようになって、紅の閨の寝息が、すやすやと、春風の小枕に小波を寄せている。私はただ屏風の巌に、一介の栄螺のごとく、孤影煢然として独り蓋を堅くしていた。とにかくです、昼夜とも、その連中に、いまだかつて、顔を見せなかったのが、お絹なんです。  ――晩には、東京へ帰ろうとする朝でした。旅馴れないので、何となく心が急きます。早めに起きた右の栄螺が、そっと蓋をあけて、恐る恐る朝日に映る寝乱れた浮世絵を覗きながら、二階を下りて、廊下を用たしに行く途中、一段高く、下へ水は流れませんが、植込の冷い中に、さらさらと筧の音がして、橋づくりに渡りを架けた処があった。  そこに、女中……いや、中でも容色よしの仲居にも、ついぞ見掛けたことのないのが、むぞうさな束髪で、襟脚がくっきり白い。大島絣に縞縮緬の羽織を着たのが、両袖を胸に合せ、橋際の柱に凭れて、後姿で寂しそうに立っている。横顔をちらりと視て通る時、東山の方から松風が吹込んだように思いました。――これが、お絹だったのです。  あとで聞くと、病気で休んでいて、それまでの座敷へは出なかった。髪を洗ったのもやっと昨日で、珍らしい東の客が、今日帰る、と聞いたので、急いで来たが、まだ皆夜中らしいから、遠慮をしていたのだというのが分りました。けれども、顔を洗って、戻るのに、まだおなじところに、おなじ姿を見ると、ちょっと二間ばかりの橋が、急にすらすらと長く伸びて、宇治か、瀬田か、昔話の長橋の真中にただ一人怪しい婦が、霞に彳んだようですから、気をはっきりと、欄干を伝うところを、 (目々、覚めてどすか。)  と清しい目で、ちょっと見迎えて、莞爾したではありませんか。私は冷りとしました。第一、目々が覚めたという柄じゃない、洗って来い、という面です。  閑静だから、こっちへ――といって、さも待設けてでもいたように、……疏水ですか、あの川が窓下をすぐに通る、離座敷へ案内をすると、蒲団を敷かせる。乗ったんですが、何だか手玉に取られた形で、腰が浮くと、矢の流れで危いくらい。が、きっぱりと目の覚めた処で、お手ずから、朝茶を下さる。 (姉さんは、娘はんですか、此楼の……)  いやな野郎で、聞覚えの京言葉を、茶の子でなしに噛りましたが、娘か、と思ったほど、人がらが勝っている。……  通力自在、膳も盃洗もすぐ出る処へ、路之助が、きちんと着換えて入って来て、鍋のものも、名物の生湯葉沢山に、例の水菜、はんぺんのあっさりした水煮で、人まぜもせず、お絹が――お酌。 (ずッと見物をおしやしたか。)  宇治は、嵯峨は。――いや、いや、南禅寺から将軍塚を山づたいに、児ヶ淵を抜けて、音羽山清水へ、お参りをしたばかりだ、というと、まるで、御詠歌はんどすな、ほ、ほ、ほ、と笑う。  路之助が、 (その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん――この人は、まだ休んでいて隙ですから、そこいら、御案内をしようというのですが、どうかすると、神社仏閣、同行二人の形になりかねませんよ。) (巡礼結構。同行二人なら野宿でもかまいません。) (ほ、ほ、ほ、よういわんわ。)  御免下さい。……だから言わないことではない。もうこの辺の、語義の活法が覚束ない。  が、串戯ではありません、容色、風采この人に向って、つい(巡礼結構)といった下に、思わず胸のせまることがあったのです。――  ですから、嵯峨へ、宇治へというのを断って、朝出ると、すぐ三十三間堂。社もうで、寺まいり。何にしろ食ったものさえ、水菜と湯葉です。あの、鍋からさらさらと立った湯気も、如月の水を渡る朝風が誘ったので、霜が靡いたように見えた、精進腹、清浄なものでしょう。北野のお宮。壬生の地蔵。尊かったり、寂しかったり。途中は新地の赤い格子、青い暖簾、どこかの盛場の店飾も、活動写真の看板も、よくは見ません。菜畠に近い場末の辻の日溜りに、柳の下で、鮒を売る桶を二人で覗いて、 (みんな、目あいていやはるな。)  といった、お絹の目が鯉の目より濡々としたのが記憶にある……といった見物で。――帰途は、薄暮を、もみじより、花より、ただ落葉を鴨川へ渡したような――団栗橋――というのを渡って、もう一度清水へ上ったのです。まだ電燈にはならない時分、廻廊の燈籠の白い蓮華の聯なったような薄あかりで、舞台に立った、二人の影法師も霞んで高い。……  暗い磴の幽な底に、音羽の滝の音を聞いた時は、 松風に音羽の滝の清水を   むすぶ心やすずしかるらん  地唄の三味線は、耳に消えて、御詠歌の声をさながらに聞きますと――はてな、なぜか今朝、起きぬけに、祇園の茶屋の橋がかりで筧の音のした時と、お絹の姿も同じようで、一日を夢に見たように思いましたが――  ――更に、日もおかず、お絹が土手番町へ訪ねて来た、しかもその夜、上野の清水の御堂の舞台に、おなじように、二人で立つ事になったんです――  音羽のその時は、風情がいいから、もう一度、団栗橋を渡り返した、京洛中と東山にはさまって、何だか、私どもは小さな人形同然、笹舟じゃあない、木の実のくりぬきに乗って、流れついた気がします――  そうですよ、宿は西石垣のなにがし屋に取ってあったのですが、宿では驚いていたでしょう。路之助の馳走になりつづけで、おのぼりの身は藻抜の殻で、座敷に預けたのが、擬更紗の旅袋たった一つ。  しわす、晦の雪の夜に、情の宿を参らせた、貧家の衾の筵の中に、旅僧が小判になっていたのじゃない。魔法妖術をつかうか知らん、お客が蝦蟆に変じた形で、ひょこんと床間に乗っている。  お絹が引添っての、心づけでは、電話で、もう路之助から、ここの勘定は済んでいる。まだ、それよりも、お恥かしいやら、おかしいのは。…… (――お絹さん、その手提袋ですがね、中味が緊張しておりません、張合のないせいか、紐が自から、だらりとして、下駄のさきとすれすれに袋が伸びていたそうで。京都へ着いた時迎いに来てくれました、路之助の番頭と一所だった年増の芸妓が、追って酒宴の時、意見をしてくれましたよ。あれは見っともない、先陣の源太はんやないけど、腹帯が弛んだように見える……といってね。) (ほんに、私も、東の方贔屓どす……しっかりとあんじょうに……)  ――細い指であやつッて、あ、着換を畳もう、という、待遇振。ですが、何にもない。着のみ、着のままで、しゃんと結ばると袋はぺしゃんこ。そいつを袖で抱いて、さ、晩のご飯を近所のちもとへ、と立たれたのには、懐中もぺしゃんこです。  これも路之助の心づけで、ちゃんと席を取って支度が出来ていて、さしむかいで、酒になった処へ、芝居から使の番頭、姓氏あり。津山彦兵衛とちょっとお覚え下さい。 (――すぐ、あとで、本郷座の前茶屋へ顔を出しますから――)  花柳界の総見で、楽屋は混雑の最中、おいでを願ってはかえって失礼。お送りをいたすはずですが、ちょうど舞台になりますから。……縞の羽織、前垂掛だが、折目正しい口上で、土産に京人形の綺麗な島田と、木菟の茶羽の練もの……大贔屓の鳥で望んだのですが、この時は少々擽ったかった。やがて、その京人形に、停車場まで送られて、木菟が。……夜汽車で飛ぶ。」…… 三 「いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日はまたどうも難有う存じます。」 「御挨拶で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」 「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」  と笑いを手で蓋して、軽く咳した。小肥りにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。 「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」 「そんな水臭いことを……ご串戯で。」 「いや、ご馳走は、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」  お絹が上品な円髷で、紫仕立の柳褄、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。 「たしか、今度の二番目の外題も、京人形。」 「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」 「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お大尽づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処に懐中が大きくなった。」 「は、は、は。」  と蓋して、軽く笑う。津山の懐中の方が余程大きい。 「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、止むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」 「お庇様で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様と入込みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は更めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……煩いのでして、……京から芸妓はんが路之助を追駈けて逢いに来たわ、それ蕎麦だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」  両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、式のごとく、例の口許をおさえて、黙然を暗示しながら、目でおどけた。 「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。――ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、宜しい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。――お場所が出来ましたそうでございますから。」  膝で辷って、津山が立つのと入交って、男衆が階子段の口でお辞儀をして、 「では、ご見物を。」 「心得た。」  見ますとね、下の店前に、八角の大火鉢を、ぐるりと人間の巌のごとく取巻いて、大髻の相撲連中九人ばかり、峰を聳て、谷を展いて、湯呑で煽り、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、外套を脱いだ身軽です。いきなり下りると、 「へい、行ってらっしゃいまし。」  帳場で女の声がしたかしないに、 「危い!」  わッと響くのが一斉で、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、幽に、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が階子段の上から真横になって、くるくるトトトン、褄がばッと乱れて、白い脛、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくの躾みで前褄を踏みぐくめた雪なす爪先が、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の糸錦が薬玉に飜ると、溢れた襦袢の緋桜の、細な鱗のごとく流れるのが、さながら、凄艶な白蛇の化身の、血に剥がれてのた打つ状して、ほとんど無意識に両手を拡げた、私の袖へ、うつくしい首が仰向けになって胸へ入り、櫛笄がきらりとして、前髪よりは、眉が芬と匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息を吐く隙がない。息を吐く隙がありません。  土俵が壊れたような、相撲の総立ちに、茶屋の表も幟を黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七が櫓から倒に落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。  あまりの事に、寂然とする、その人立の中を、どう替草履を引掛けたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ突切りました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんと挿っていましたが、背負上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端垂って、踏みしめて裙を庇った上前の片褄が、ずるずると地を曳いている。  抱いて通ったのか、絡れて飛んだのか、まるで現で、ぐたりと肩に凭っかかったまま、そうでしょう……引息を吻と深く、木戸口で、 「ああ、お婿はん。」……  と泣くようにいった。生死の最中、洒落どころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。 「……わて、もう、死ぬるか思うた。」  と、目が澄んで、熟と視て、颯と顔色が蒼ざめたんです。 「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命の親え。」 「…………」 「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、私、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が断れる。」  という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上極りを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを穿いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。  そッと屈んで、 「へい、こちらへ。」――  土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に瓢箪でもつけていそうな、暖簾も、景気燈も、お花見気分、紅い靄が場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、芸妓、舞妓、幇間まじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝――あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。――もう一人、富豪――成金らしい大島揃が、瓢箪をさげている。  一つ桟敷――東のずっと末でした――その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて――挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが――お絹をこの時見返って、愕然とした様子です。……  ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおの賑やかなすて台辞で、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。 花咲かば告げ    むといいし山寺の……  ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、囃子に合わせて謡が聞える。 使は来たり馬    に鞍、鞍馬の山のうず桜…… 「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」  恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬嘲る処の、聾桟敷のとんちきを顕わすと、 「路之助はんが、出やはるやろ。」  お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。  しゃり、り、揚幕。艶麗にあらわれた、大どよみの掛声に路之助扮した処の京の芸妓が、襟裏のあかいがやや露呈なばかり、髪容着つけ万端。無論友染の緋桜縮緬。思いなしか、顔のこしらえまで、――傍にならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚を吃する処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変待あぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。  路之助の姉芸妓が、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、 「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」  おや。 「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」  とこっちを視て莞爾。―― 「いやや、驕んなはれ。」  と舞妓が入交って、トンと揚幕の方から路之助の脊筋を敲いた。 「おお、晴がまし。」  お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の肩掛を、俯向いた頬へ当てたのです。  ――舞台、舞台ですか……  舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。  いま、戸が開いたと思うと同時に、可厭な気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッと沁みたも道理こそ、十九貫と渾名を取る……かねて借金があって、抜けつ潜りつ、すっぽかしている――でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、餡子入の大廂髪で、その頃はやった消炭色紋付の羽織の衣紋を抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むら兀のした濃い白粉、あぶらぎった面で、ヌイと覗込んで、 「大した勢いでございますのね。」 「ちょっと……出よう。」  ……ですもの、舞台どころですか。―― 「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」 「串戯だろう。」 「役者があなた、この大入に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」  と、くくり頤を揺って、しゃくる。 「あれは洒落だよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」  売店があるから、ずんずん廊下を反れました。 「何も私一人というんじゃあなかろう。」 「うんえ、あの台辞で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」  と、どこかのなまりが時々出る。 「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。」 「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」  ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促の術をうらがえしに、敵は搦手へ迫って危い。 「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」 「見違えましたよ、ほんとうに。」  と衣紋をたくして、 「大した腕だよ、見上げたあよう。」 「何が。」 「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」 「…………」 「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳おいらんを素人づくりに……おっと。」  と両袖を突張って肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、廂合から暗夜が覗いて、植込の影のさす姿見の前なんですが。 「芸妓にしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の名聞ですのよ。……境さん、貸借も、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお馴染じゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、容子がね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫が裳をぼかして、すり硝子の燈に、頸あしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの估券がグッと上りまさね。  兜町の、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの遊興は、うわになるわ。  もう一息、目を眠って、――直さん……」 (――直さんの意味詳ならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である――) 「ね、色悪で、あの白々とした甘い膚を貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」  酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。 「何をいってるんだ――同伴はないよ。」 「あら。」 「誰も居やしない。」 「まあ。」 「私一人じゃあないか。」 「おやおやおや。」 「何を見たんだ。」 「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」  これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。 「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」 「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも膚を……」 「顔にも、膚にも……それは煙だ。」 「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」 「あれは霞だ、霧なんだよ。」 「煙草のかねえ。」 「いや芸妓の……幽霊だ。」 「ええ。」 「この大入に、けちでもつけるようで可厭だから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に憑絡ってる幽霊だ。いいえ、憑ものは、当人の背中に負さっているとは限らない――  実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、彼地へ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も慄然としてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、旅籠屋では膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の仕来りでね、――席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」 「ひええ。」  しめた。不断の大臆病。 「行って見たまえ、覗いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」 「気味の悪い……いやだねえ。」 「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」  あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。 「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」  と、図に乗っていった。が、この巨大なる躯は、威すものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒く蔽って、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。 「ここへ来た、幽霊が。」 「ひゃあ。」 「あ、力士の中に芸妓が居る。」 「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」 「やあ、何じゃい。」  縋りつかれた関取がたじろいで、 「どえらい頭じゃい。桟俵法師い。」 「お絹さん――お絹さん。ちょっと。」  戸を開けて、立ちながら密と呼ぶと、お絹は、金煙管に持添えた、女持ちの嵯峨錦の筒を襟下に挟んで、すっと立った。  前髪に顔を寄せ、 「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」 四  その夜も――やがて十一時――清水の石段は、ほの白く、柳を縫って、中空に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を聯ね、丹の扉を合せ、青蓮の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣に包まれた一座の宝塔のように浄く厳しく聳えて見ゆる。  東口を上ると、薄く手水鉢に明りのさしたのは、斜に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭の霊を表して、竜燈……といっては少し冥い。しかり、明星の天降って、梁を輝かしつつ、丹碧青藍相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。  見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、塵も置かず、世の創の生物に似た鰐口も、その明星に影を重ねて、一顆の一碧玉を鏤めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を籠め、扉に漲って朧なる霞を描き、舞台に靉靆き、縁を廻って、井欄に数うる擬宝珠を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。  その霞より、なお濃かに、靄に一面の胡粉を刷いて、墨と、朱と、藍と、紺青と、はた金色の幻を、露に研いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟は、道芝の中から生れて出たように上ったが。―― 「車夫、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」  俥を二台、東の石段で下りたのです。 「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を曳いてあげようか。芝居茶屋の階子段のお手際では、この石段は覚束ない。」  などと、木菟が生意気にいうと、 「大事おへん、前刻落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」  などと京人形が口を利いた。  手水鉢で、蔽の下を、柄杓を捜りながら、雫を払うと、さきへ手を浄めて、紅の口に啣えつつ待った、手巾の真中をお絹が貸す……  勝手になさい。  が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の階の上には、一本ならべの軽い戸だが、柵のように閉ざしてあった。 「前は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」 「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」 「怪しからん、――向う側へ。」  と、あとへ退って、南面に、不忍の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許が辿々しい。  さ、さ、とお絹の褄捌きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然として、袖に褄に散る人膚の花の香に、穴のような真暗闇から、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸を緊めたのです。 「まず、可。」  西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。  廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴として、二十六夜の月光のごとく拝される。……  欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。  その梢、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品の転ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、衝と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――  この時、幹の黒い松の葉も、薄靄に睫毛を描いた風情して、遠目の森、近い樹立、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。 「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」 「おお晴がまし、勿体ないえ。」  と、吃驚したように、半ばその美しさを思っていて、羞じたように、舞台を小走りに西口の縁へ遁げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、髷も鬢も蔽いながら、曲る突当りの、欄干の交叉する擬宝珠に立つ。  踊の錬で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片の軽い渦が舞って通った。  袖摺れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに蕾を含んで薄紅い。 「そこから見えますか、秋色桜。」 「暗うて、よう見えへんけど……先度昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」 「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」 「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」  と、振返ると、顔をかくしたままの羅の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨みで凜とした。 花咲かば告げむと    いいし山寺の 使は来たり、馬に    鞍 くらまの山のうず    桜……  ふと、前刻の花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除けの呪のように、わざと素よみの口の裡で、一歩、二歩、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子。……それよりも楠氏の姫が、田舎武士をなぶるらしい。――大森彦七――傍へ寄ると、――便のういかがや――と莞爾して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な中にも背がほてった。 「やあ、洒落れてるなあ。」  ――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る燈のように、細く灯して、薄く白い煙を靡かした、おでんの屋台に、車夫が二人、丸太を突込んだように、真黒に入っていたので。 「羨しいようですね……串戯じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ俥を廻わしたのが、石段下に、変に遥な谷底で、熊が寝ているようですから。」 「動物園かてあるいうよって、密と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」  と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐くはなさそうで。 「ほんに、谷底のようで靄が深うおすな、前刻の階子段思出したら、目がくらくらとするようえ。」  白い片掌を田舎武士の背にあてて、 「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」 「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途に怪我でもあると不可い。」 「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」  手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が唸った。魔を退きょうと太刀の柄……洋杖をカンとついて、 「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」 「ああれ。」  闇を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨で、半被股引真黒な車夫が、鼻息を荒く、おでんの盛込を一皿、銚子を二本に硝子盃を添えた、赤塗の兀盆を突上げ加減に欄干越。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に沁む顰め面で、ニヤリと笑って、 「へい、わざッとお初穂……若奥様。」 「馬鹿な。」 「ちょっと、手をお貸しなすって。」 「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」 「へへへ、煮加減の宜い処と、お燗をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」 「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」 「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁と、車夫は、建場で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご緩り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加でして、へい、どうぞ、お初穂を……」  お絹が柔順に、もの軟に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、 「飛んだお供物、狒々にしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠で犠牲を取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉とでもいうかなあ。」  縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。  椎の葉にもる風流は解しても、鰯のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて遁げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄が、ずるりと前下りに、前刻のままで、小袖幕の綻びから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。  ――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入が続いたゆえ、ざっと夕餉を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお俥は申しつけました……という、客あつかいに馴れたもの。急所を圧えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を圧えて笑うと、お絹が根岸の藍川館――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。  京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。  そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、靄の海の不知火を掻分けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」 「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし幌の裡から、白木蓮のような横顔なのです。 「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑の皮やら、南京豆の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」 「成程、舞台傍の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻に、雁もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」  巻莨と硝子盃を両手に、二口、三口重ねると、圧えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。 「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」  お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀のように含んで、吻と呼吸したが、 「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」  もう一口。 「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって覗くようにするとな、ああ、灯が点れかけの暗さが来て、逢魔が時や思うたらな、路之助はんの幟が沢山、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」 「相撲のだね。」 「違います、女子はんの。」 「…………」 「口をばこないにして。」  と結んだ唇を、おくれ毛が凄く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。 「可恐い顔をして睨みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」 「路之助?……路之助の……」  立女形、あの花形に、蝶蜂の群衆った中には交らないで、ひとり、束髪の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――  請う、自惚にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる思がした。 「何もな、何も知らんのえ、私路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染の――源太はん、帯が弛む――いわはった妓どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと怨みやはる。  ……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ響がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、緊めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で遁げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若の面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、揉み、悶えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結え、引結えしておく伊達巻も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」  それで、あの、階子段――  今度は大森彦七が踏みこたえた。 「神経だ、神経ですよ。」  誰でもこの場は知識になる。 「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」  誰でもこの場は凡夫になる。 「つらいこと。」  と、斜にそむいて、 「あんたはんまで、そない言わはる、口惜いえ。」 「が、しかし、つらいでしょう。」  莨を捨てて硝子盃を取って、 「そんな時は、これに限る。熱燗をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一挺なんざ、太神楽だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」 「やどへ行て。」 「成程。」 「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」 「飲ませますとも。」 「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命の親どす。」  真顔で、こうまでいわれたのには、酒が支えた。胸の澄まない事がいくらある…… 「お言で痛み入る。」  と、もう一息ぐっと呷って、 「――実は串戯だけれどもね、うっかり、人を信じて、生命の親などと思っては不可せん。人間は外面に出さないで、どういう不了簡を持っていないとも限りません。  こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」 「私をえ?」 「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」 「あんたはんがな。」  前髪がふっくり揺れて…差俯向く。 「本望どすな。」  と莞爾して、急に上げた瓜核顔が、差向いに軽く仰向いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。…… 「あれえ。」  声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷が空ざまに振られつつ、 「蛇が、蛇が。」 「何、蛇が。」 「赤い蛇が。」  赤い蛇は、褄の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。 「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」  と欄干に、わなわな。 「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」  と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套の袖で、背後状にお絹を囲った。 「額の、額の。」  ああ、幽に見ゆる観世音の額の金色と、中を劃って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条たらりと下っていた。 「紐だ、紐ですよ。何かの。」  勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、 「あれ、……白い顔。」  声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後から腰につかまった。 「上から覗かはる……どうしようねえ。」  お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と摺れて、この場合――ごみも埃もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと肘に乗ったのは、菅笠です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向けになりました。  おでんの膳なぞ一跨ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の塵を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔―― 「朝顔?」 五  ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん燗酒にも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、杜若でもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に聞反したのであった。 「朝顔?」  と。 六 「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといっても可い――鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房という、歌人で、また絵師さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」  こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。  ……で、この歌人さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人も、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。  清瀬洲美さんというんです。  女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに引かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の凜とした瓜核顔の……佳い標致。  申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の過失、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な徒は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者、と称えた。何だ、地ものか。  薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯扱い。蓼酢で松魚だ、身が買えなけりゃ塩で揉んで蓼だけ噛れ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女を振りも返らぬ一盛。)そいつは金子を使ったでしょうが、こっちは素寒貧で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊と取組む山童の勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。  お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――弥生ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の砌、朝顔に人出の盛んな頃、入谷が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁、冷豆府どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家の父が酒飲みですから、ほどのいい燗がついているのに、暑さに咽喉の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒を茶碗で煽って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて蒼くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に沁みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの室へ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。  蚊がいますわ、と団扇で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……  今更贔屓分でいうのではありません、――ちょッ、目力(助)編輯め、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣はしたものの、私たちより、一歩さきに文名を馳せた才媛です、その文金の高髷の時代から……  平打の簪で、筆を取る。……  銀杏返し、襟つきの縞八丈、黒繻子の引かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……  月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。  ――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……常袴の紺足袋で、炎天にも日和下駄を穿つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で捏ねて、ねッつりと歯をすかす、言のあとさきは、咽喉の奥の方で、おおんと、空咳をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中が、ちょっと歯茎を覗かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時※(小書き片仮名ン)ば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉と斉しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。  郷里――秋田から微禄した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。  頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。  ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の鎧ですから、ものほしそうな瓦斯織の染縞で、安もの買の汗がにおう。  こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人は、風通小紋の単衣に、白の肌襦袢、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、膏が多いとお心得下さいまし。――綾織の帯で、塩瀬紺無地の袴。総ついた、塗柄の団扇を手まさぐる、と、これが内にいる扮装で、容体が分りましょう。  鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――一学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、宜しくば。」……も何もない。願ったり叶ったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――  手細工らしい桔梗の肘つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、密と見た時、なぜか、冷酒が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと湧きました。  時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。  庭で蟋蟀の鳴くのが聞える。  蔦の葉の浴衣に、薄藍と鶯茶の、たて縞お召の袷羽織が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩を弱く辷った藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色無地の背負上が媚かしい。おお、紫手絡の円髷だ。透通るような、その薄化粧。  金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間の、しかも兄哥が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に薄が靡いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの頸に映った。  目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と咳して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――妻がね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも顕われるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お庇でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として活きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪らなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶だ。――森の夕鴉などは性に合わない。 「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」  まだ入れかえない葦戸に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。  その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛、毛氈の類でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中に、卓子台を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。  三巴に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。 「すぐお燗がつきますが。境さん、さきへ冷酒ですか。」 「いや、断ものです。」  と真中へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の袴は、入口の茶棚傍を勢い然るように及んで、着席です。 「牛が宜しい……書生流に、おおん。」  亭主のすきな赤烏帽子を指揮する処へ、つくだ煮を装分けた小皿に添えて、女中が銚子を運んで来た。 「よく、いすいだかい。」 「綺麗なお銚子。」  色絵の萩の薄彩色、今万里が露に濡れている。 「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫に振舞うたばかりですよ。」 「お毒見をいたします。」  お洲美さんが白い手で猪口を取った。 「注いで下さい。」  大人驚いた顔をして、 「飲むのかね。」 「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」  かねて、切れた眦が屹として、 「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」 「おおん、何か、私の饒舌った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも可かろう……注ぐよ。」 「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」  歯ぎしみするように、きッきッと。 「ああ、飲んだ。」  と、もう白澄んだ瞼を染めた。 「境さん、いいでしょう、上げますわ。」 「駕籠屋は建場を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」 「おいらんのようにはいきません。お酌は不束ですよ、許して下さい。」 「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」  と、夫人と見合った目を庭へ外らす。  大人の頤が上って、 「大分壮になりましたな、おおん。」 「あなた、電燈を捻って下さい。」  牛肉もふつふつ煮えて来た。  といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側ならべの肉が、鍋へ入ると、じわじわと鳴ると斉しく、箸とともに真中でじゅうと消え失せる。注すあと、注すあと、割醤油はもう空で、葱がじりじり焦げつくのに、白滝は水気を去らず、生豆府が堤防を築き、渠なって湯至るの観がある。 「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」  ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮と働きを亭主が一所で、鉄瓶が零のあとで、水指が空になり、湯沸が俯向けになって、なお足らず。  大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を敲いて、 「これよ、水じゃ、水じゃ。」 七  が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは身代の痩せたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。  その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、気忙しそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……挿画何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、退引ならず二階で、膝詰の揮毫となる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足後れたが、おくれただけ、なお怒ったように、階子段を、洋袴の割股で押上った。この肥ったので、二階へ蓋をしたように見えました。 「流行るんだなあ。」  編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を横外頬へ、げっそりと腹を空かして、 「結構ですな。」  枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、押取って、箸を向けると、 「およしなさい。」  と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、 「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お葱や、豆府はまだしも、糸菎蒻だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯もっとさ。」 「いや驚いた、いけますなあ。」 「一生に一度ですもの。」 「え。」 「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」 「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」 「お兄上。」 「…………」 「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう毎に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命にかかわります。置きどころもない身体を、あなたの目に曝すんですもの、形も態もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、信や(女中)二階で手が鳴る。――虫が煩い。この燈を消して、隣室のを点けておくれな。」  その間、頸脚が白かった。振仰向くと、吻と息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、 「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。お睦じい?……」  と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣の蔦は野分する。 「何をいってるんです。」 「おいらんは何て方?……十六夜さん、三千歳さん?」 「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、鮨を撮んで、笹巻の笹だけ袂へ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。――庭の薄に風が当る。……  ――寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」 「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、媒妁だけは、もう止してね。」  と、眉が迫って見据えるのです。 「媒妁?」 「――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方でした。」 「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……可。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」 「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」 「お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。」 「ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」 「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」 「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我にもあんな、あんな奴に。」 「無理だ、そりゃ乱暴だ。」 「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」  太白の糸を噛んだように、白く笑って、 「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の許へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」 「何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」  お洲美さんは、睜っていた目を閉じました。そして、うなずくように俯向いた耳許が石榴の花のように見えた。 「私は巡礼……  もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のような汚がり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい――昨日も上野の浄明院石占寺の万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木藻蝶。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、菅笠を――ああ、暑い、私何だか目が霞む。――菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。――これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを――あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ――そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。――押入なんかに蔵っておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩も薄も寝てしまう、紫苑は弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい工合に。」  ああ、そうか、鶏頭か。春日燈籠をつつんで、薄の穂が白く燈に映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠を被った黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、破衣のその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。 「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」 「大賛成です。」 「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」  どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地に蔦を染めた、女作家の、庭の朧の立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。  軽くはずして、今、手提に引返す。帯が、もう弛んでいる。さみしい好みの水浅葱の縮緬に、蘆の葉をあしらって、淡黄の肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらと紅く染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、颯と通る処女風に、蘆も蛍も薄に映って、露ながら白い素足。  二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪に翳して、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱をひらりと、縁へ。 「ふらふらする。ちょっと歩行くと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」  と、元の座にくずれた。 「ああ私、何だか分らない。」  ふう、と仰向けに胸の息づかい、乳の蔦がくれの膨みを、ひしと菅笠で圧えながら、 「巡礼に御報謝……ね。」  と、切なそうに微笑んだ。  電燈を背後にして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、朧に白い。 「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を透して胸が白い、乳が映る。」 「見えますか。」 「申すも憚りだが、袖で隠して。」 「いいえ、いいえ。」  おくれ毛が邪慳に揺れると、頬が痩せるように見えながら、 「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念に、見える胸を、笠を通して捺塗って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉とはいいませんから、墨ででも、渋ででも。」 「雪が一掴みあればいいと思う。」 「信や……絵の具皿を引攫っておいで。」 「穏かでない、穏かでない、攫うは乱暴だ、私が借りる。」  胡粉に筆洗を注いだのですが。 「画工でないのが口惜いな。」 「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は徹りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」  ――以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい――  と咄嗟に思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりも掌に響き、雪を円く、暖かく、肌理滑らかに装上る。色の白さが夜の陽炎。 「ああ、ああ、刺青ッて、こんなでしょうか。」  居ずまいの乱るる膚に、紅の点滴は、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながら刀より鋭く、双の乳房を、驚破切落したように、立てていた片膝なり、思わず、摚と尻もちを支いた。  お洲美さんは、うっとり目を開き、膝を辷って、蹴出しを隠した菅笠に、両の白いものを視て、擽ったそうに、そッと撫でて、 「……熱いわ――この乳も酔っている……」  と、いって寂しく微笑んだ。 「人目があります。これでは巡礼して、肌を曝しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」  浅葱の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は畝らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。  蔓を引いて、葉を添えた。 「うまいなあ、大野木夫人。」 「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人――あとは、あなた書いて下さいな。」 「御意のままです、畏まった。」 「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」 「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」 「頂くわ、頂きますわ。」  と、被ろうとする。 「お、お待ち下さい。――二階が余り静です。気障をいうようだが……その上になお、お髪が乱れる。」 「可厭な、そんな事は、おいらんに。」 「ああ、坊主になります。」  首を縮めた。 「ちょうどいい、坊主が被って見せましょう。」  と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと歩行き出したのです。  中の室から、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。  ハッと思わず気が着いたが、 「お洲美さん、貰って行きます。」  我知らず声が出ました。 「あれ、奥様。」  女中が飛出す。  お洲美さんは、式台に一段躓きながら、褄を投げて、障子の桟に縋ったのでした。  ぶつぶつと、我とも分かず、口の裡で、何とも知らず、覚えただけの経文を呟き呟き、鶯谷から、上野の山中を徜徉って歩行いた果が、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、紅緒をわがね、なし得る布施を包んだ手帖の引きほぐしに、 大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋 よしなにおん計 いのほど奉願上候                 ……夜   巡礼者   当御堂 お執事中               礼拝  舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のように絡わって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。  お洲美さんは――水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後で儚くなりました。 「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。――」 八 「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」 「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐いよって。」 「大きに。」  お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に沁む、袖で笠を抱きました。 「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」  藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫がニヤニヤと声を掛けた。 「ほんに。」 「いや、一台は、そのまま。幌は掛けたまま頼むよ。」  笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この俥をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。  見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖を開けると、どうです。歓喜天の廚子かと思う、綾錦を積んだ堆い夜具に、ふっくりと埋まって、暖かさに乗出して、仰向けに寝ていたのが、 「やあ。」  という、  枕が二つ。…… 「これはおいでなさい。」  眉の青い路之助が、八反の広袖に、桃色の伊達巻で、むくりと起きて出たんですから。 「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」  片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を除る、懐紙の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。 「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」 「いや、待たせてあります。」  路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。  お絹が廂を出て、俥の輪に摺り寄った処を、 「握手をしますよ。」  半身を幌から覗くと、 「は、は、は、どうぞしっかり。」 「さようなら。」 「お静かに。」 「ああ、お洲美さん。」  万一、前刻に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に活きてはいられまい。―― 「お洲美さん、全く、お庇だ。お洲美さん。」 「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」 「うむ。」  踏切の坂を引あげて、寛永寺横手の暗夜に、石燈籠に囲まれつつ、轍が落葉に軋んだ時、車夫が振向いた。 「婦の友だちだよ。」 「旦那。」  車夫は、藍川館まで附絡った、美しいのに遁げられた、色情狂だと思ったろう。…… 「うつくしい、儚い人だよ。私の傍に居るようだ。」 「ぎゃあ。」 「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」 「降り出しましたぜ、旦那。」 「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」 「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」  俥を棄てた。  術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を綴る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形に扮するものを、路之助として、技の意見、相背き、相衝いて反する時、「ふん、おれの情婦ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!…… 「ああ、お洲美さん、ありがとう。」  と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。…… 昭和七(一九三二)年四月
底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日発行 初出:「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」    1932(昭和7)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2011年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048330", "作品名": "白花の朝顔", "作品名読み": "しろばなのあさがお", "ソート用読み": "しろはなのあさかお", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」1932(昭和7)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48330.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成8", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年5月23日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十三卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48330_ruby_45531.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48330_45584.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
朱鷺船 一  濡色を含んだ曙の霞の中から、姿も振もしつとりとした婦を肩に、片手を引担ぐやうにして、一人の青年がとぼ〳〵と顕はれた。  色が真蒼で、目も血走り、伸びた髪が額に被つて、冠物なしに、埃塗れの薄汚れた、処々釦の断れた背広を被て、靴足袋もない素跣足で、歩行くのに蹌踉々々する。  其が婦を扶け曳いた処は、夜一夜辿々しく、山路野道、茨の中を徉徜つた落人に、夜が白んだやうでもあるし、生命懸の喧嘩から慌しく抜出したのが、勢が尽きて疲果てたものらしくもある。が、道行にしろ、喧嘩にしろ、其の出て来た処が、遁げるにも忍んで出るにも、背後に、村、里、松並木、畷も家も有るのではない。山を崩して、其の峯を余した状に、昔の城趾の天守だけ残つたのが、翼を拡げて、鷲が中空に翔るか、と雲を破つて胸毛が白い。と同じ高さに頂を並べて、遠近の峯が、東雲を動きはじめる霞の上に漾つて、水紅色と薄紫と相累り、浅黄と紺青と対向ふ、幽に中に雪を被いで、明星の余波の如く晃々と輝くのがある。……此の山中を、誰と喧嘩して、何処から駆落して来やう? ……  婦は、と云ふと、引担がれた手は袖にくるまつて、有りや、無しや、片手もふら〳〵と下つて、何を便るとも見えず。臘に白粉した、殆ど血の色のない顔を真向に、ぱつちりとした二重瞼の黒目勝なのを一杯に睜いて、瞬もしないまで。而して男の耳と、其の鬢と、すれ〳〵に顔を並べた、一方が小造な方ではないから、婦の背が随分高い。  然うかと思へば、帯から下は、げつそりと風が薄く、裙は緊つたが、ふうわりとして力が入らぬ。踵が浮いて、恁う、上へ担ぎ上げられて居さうな様子。  二人とも、それで、やがて膝の上あたりまで、乱れかゝつた枯蘆で蔽はれた上を、又其の下を這ふ霞が隠す。  最も路のない処を辿るのではなかつた。背後に、尚ほ覚果てぬ暁の夢が幻に残つたやうに、衝と聳へた天守の真表。差懸つたのは大手道で、垂々下りの右左は、半ば埋れた濠である。  空濠と云ふではない、が、天守に向つた大手の跡の、左右に連なる石垣こそまだ高いが、岸が浅く、段々に埋れて、土堤を掛けて道を包むまで蘆が森をなして生茂る。然も、鎌は長に入れぬ処、折から枯葉の中を透いて、どんよりと霞の溶けた水の色は、日の出を待つて、さま〴〵の姿と成つて、其から其へ、ふわ〳〵と遊びに出る、到る処の、あの陽炎が、こゝに屯したやうである。  其の蘆がくれの大手を、婦は分けて、微吹く朝風にも揺らるゝ風情で、男の振つくとゝもに振ついて下りて来た。……若しこれで声がないと、男女は陽炎が顕はす、其の最初の姿であらうも知れぬ。  が、青年が息切れのする声で、言ふのを聞け。 「寐るなんて、……寐るなんて、何うしたんだらう。真個、気が着いて自分でも驚いた。白んで来たもの。何時の間に夜が明けたか些とも知らん。お前も又何だ、打つてゞも揺つてゞも起せば可いのに――しかし疲れた、私は非常に疲れて居る。お前に分れてから以来、まるで一目も寐ないんだから。……」 とせい〳〵、肩を揺ると、其の響きか、震へながら、婦は真黒な髪の中に、大理石のやうな白い顔を押据えて、前途を唯熟と瞻る。 二 「考へると、能くあんな中で寐られたものだ。」 と男は尚ほ半ば呟くやうに、 「言つて見れば敵の中だ。敵の中で、夜の明けるのを知らなかつたのは実に自分ながら度胸が可い。……いや、然うではない、一時死んだかも分らん。  然うだ、死んだと言へば、生死の分らなかつた、お前の無事な顔を見た嬉しさに、張詰めた気が弛んで落胆して、其つ切に成つたんだ。嘸お前は、待ちに待つた私と云ふものが、目の前に見えるか見えないに、だらしなく、ぐつたりと成つて了つて、どんなにか、頼みがひがないと怨んだらう。  真個、安心の余り気絶したんだと断念めて、許してくれ。寐たんぢやない。又、何うして寐られる……実は一刻も疾く、此の娑婆へ連出すために、お前の顔を見たらば其の時! 壇を下りるなぞは間弛ツこい。天守の五階から城趾へ飛下りて帰らう! 其の意気込みで出懸けたんだ、実際だよ。  が、彼の頂上から飛だ日には、二人とも五躰は微塵だ。五躰が微塵ぢや、顔も視られん、何にも成らない。然うすりや、何を救ふんだか、救はれるんだか、……何を言ふんだか、はゝはゝ。」 と取留めもなく笑つた拍子に、草を踏んだ爪先下りの足許に力が抜けたか、婦を肩に、恋の重荷の懸つた方の片膝をはたと支く、トはつと手を離すと同時に、婦の黒髪は頬摺れにづるりと落ちて、前伏に、男の膝へ背が偃つて、弱腰を折重ねた。 「あつ!」と慌しく、青年は其の帯の上へ手を掛けて、 「危い。あゝ、何て事だ。――お浦、」 と言つたは婦の名で。 「怪我はしないか、何処も痛めはしなかつたか。可、何ともない。」  婦が、あ、とも言はず、声の無いのを、過失はせぬ事、と頷いて、さあ、起たうとすると些とも動かぬ。 「起たないか、こんな処に長居は無益だ。何うした。」 と密と揺ぶる、手に従つて揺ぶれるのが、死んだ魚の鰭を摘んで、水を動かすと同じ工合で、此方が留めれば静と成つて、浮きも沈みもしない風。  はじめて驚いた色して、 「何うかしたか、お浦。はてな、今転んだつて、下へは落さん、怪我も過失も為さうぢやない。何だか正体がないやうだ。矢張り一時に疲労が出たのか。あゝ、然う言へば前刻から人にばかりものを言はせる。確乎してくれ、お浦、何うしたんだ。」 と今は慌しく成つた。青年は矢庭に頸を抱き、膝なりに背を向ふへ捻廻はすやうにして、我が胸を前へ捻つて、押仰向けた婦の顔。  今も目は塞がず、例の眸つて、些の顰むべき悩みも無げに、額に毛ばかりの筋も刻まず、美しう優い眉の展びたまゝ、瞬もしないで、其のまゝ見据えた。  其の顔と、此の時、引返した身動ぎに、飜つた褄の乱れに、雪のやうに顕はれた円い膝頭……を一目見るや、 「うむ、」と一声、摚と枯蘆に腰を落して、殆んど痙攣を起した如く、足を投出してぶる〳〵と震へて、 「違つた〳〵。造りものだ、拵へものだ、彫像だ。昨夜持つて行つた形代だ、こりや、……おゝ。」  戦く手に、婦の胸を確乎と圧せば、膨らかな襟のあたりも、掌に堅く且つ冷たいのであつた。 「何だ、又これを持つて帰るほどなら、誰が命がけに成つて、這麼ものを拵へやう。……誑しやあがつたな! 山猫め、狐め、野狸め。」 と邪慳に、胸先を取つて片手で引立てざまに、渠は棒立ちにぬつくり立つ。可憐や艶麗な女の姿は、背筋を弓形、裳を宙に、縊られた如くぶらりと成る。 三  青年は半狂乱の躰で、地韜を踏んで歯噛をした。 「おのれえ、魔でも、鬼でも、約束を違へる、と言ふ不都合があるか、何と言つた、何と言つた。」 と詰るが如くに掠れ声して、手を握つて、空を打つて、天守の屋根を睨んで喚いた。大手筋を下切つた濠端に――まだ明果てない、海のやうな、山中の原を背後にして――朝虹に鱗したやうに一方の谷から湧上る向ふ岸なる石垣越に、其の天守に向つて喚く……  喚くが、しかし、一騎朝蒐で、敵を詈る勇ましい様子はなく、横歩行に、ふら〳〵して、前へ出たり、退つたり、且つ蹌踉めき、且つ独言するのである。 「畜生、人の女房を奪つた畜生、魔物に義理はあるまいが、約束を違へて済むか、……何と言つて約束した――婦の彫像を拵へろ、其の形代を持つて来い。お浦を返すと言つたのを忘れたか、忘れたのか。」 と其の握拳で、己が膝を礑と打つたが、力余つて背後へ蹌踉ける、と石垣も天守も霞に揺れる。 「待てよ。雖然、自分の製作へた此の像だ、これが、もし価値に積つて、あの、お浦より、遥に劣つて居たら何うする。まるで取替へる価がないと言へば其までだ、――あゝ、其がために、旧通りお浦を隠して、此の木像を突返したのか。己は夢中で、此を恋しい婦だ、と思つて、うか〳〵抱いて返つたのか、然うかも知れん。  其では、劣作だと言ふのだな、駄物だ、と言ふのだな、劣作か、駄物か、此奴。」 と首を引向け胸に抱いて、血走つた目で屹と其の顔を。 「己が、此の心も知らずに、けろりとして済ました面よ。おのれ石でも、己が此の心を汲んで、睫毛に露も宿さないか。霞にも曇らぬ瞳は、蒟蒻玉同然だ。――其も道理よ、血も通はない、脉もない、魂のない、たかゞ木屑の木像だ。」 と興覚顔して、天守を仰いで、又俯向き、 「何だ、これは、魔物が言ひさうな事を己が言ふ、自分が言ふ、我と我が口で詈るな。おゝ、自然と敵の意を体して、自から、罵倒するやうな木像では、前方が約束を遂げんのも無理はない……駄物、駄物、駄物、」 と三舎を避ける足取で、たぢ〳〵と後退りして、 「さあ、恁うなれば、お浦の紀念の方が大事だ。よくも、おのれ、ぬく〳〵と衣服を着た。」と言ふ〳〵𤏋と搦んだ風情。  其の下襲ねの緋鹿子に、足手の雪が照映えて、女の膚は朝桜、白雲の裏越す日の影、血も通ふ、と見る内に、男の顔は蒼く成つた。――女の像の片腕が、肱の処から、切れ目赤う、さゝら立つて折られて居た。 「わツ、」と叫んで、其の咽喉を掴んだまゝ、投げ附けやうとして振挙げた手の、筋が釣つて棒の如くに衝と挙げると、女の像は鶴のやうに、ちら〳〵と髪黒く、青年の肩越に翼を乱して飜つた。  が、其のまゝには振飛ばさず。濠を越して遥かな石垣の只中へも叩きつけさうだつた勢も失せて――猶予ふ状して……ト下を見る足許を、然まで下らず、此方は低い濠の岸の、すぐ灰色の水に成る、角組んだ蘆の上へ、引上げたか、浮べたか、水のじと〳〵とある縁にかけて、小船が一艘、底つた形は、処がら名も知れぬ大なる魚の、がくり、と歯を噛んだ白髑髏のやうなのがある。 四  処が其の小船は、何の時か、向ふ岸から此岸へ漕寄せたものゝ如く、艫を彼方に、舳を蘆の根に乗据えた形に見える、……何処の捨小船にも、恁う逆に攬つたと言ふのは無からう。まだ変つた事には、舷を霞が包んで、ふつくり浮上つたやうな艫に留まつて、五位鷺が一羽、頬冠でも為さうな風で、のつと翼を休めて向ふむきにチヨンと居た。  城趾の此の辺は、人里に遠いから、鶏の声、鴉の声より、先づ五位鷺の色に夜が明けやう。其に不思議は無いが、如何に人を恐れねばとて、直ぐ其の鶏冠の上で、人一人立騒ぐ先刻から、造着けた躰にきよとんとして、爪立てた片脚を下ろさうともしなかつた。  此の船の中へ、どさりと落した。  女の像は胴の間へ仰向けに、肩が舷にかゝつて、黒髪は蘆に挟まり、乳の下から裾へ掛けて、薄衣の如く霞が靡けば、風もなしに柔かな葉摺れの音がそよら〳〵。で、船が一揺れ揺れると思ふと、有繋に物駭きを為たらしい、艫に居た五位鷺は、はらりと其の紫がゝつた薄黒い翼を開いた。  開いたが、飛びはしない、で、ばさりと諸翼搏つと斉しく、俯向けに頸を伸ばして、あの長い嘴が、水の面へ衝と届くや否や、小船がすら〳〵と動きはじめて、音もなく漕いで出る。  見るものは呆れ果てゝ、どかと濠端に腰を掛けた。  五位鷺の働くこと。船一艘漕ぐなれば、蘆の穂の風に散る風情、目にも留まらず、ひら〳〵と上下に翼を煽る。と船の方は、落着済まして夢の空を辷るやう、……やがて汀を漕ぎ離す。  蘆の枯葉をぬら〳〵と蒼ぬめりの水が越して、浮草の樺色まじりに、船脚が輪に成る頃の、五位鷺の搏ちやう。又一しきり烈しく急に、滑かな重い水に響いて、鳴渡るばかりと成つたが。  余りの労働、羽の間に垂々と、汗か、潵か、羽先を伝つて、水へぽた〳〵と落ちるのが、血の如く色づいて真赤に溢れる。…… 「火の粉だ、火の粉だ。」と濠端で、青年が驚き叫んだ。  果して血の汗を絞る、と見えたは、翼を落ちる火であつた。 「飛ばつせえ船の人、船の人、飛ばつせえ、飛込むのだえ!」 と野良調子の高声を上げて、広野の霞に影を煙らせ、一目散に駆附けるものがある。  驚駭のあまり青年は、殆ど無意識に、小脇に抱いた、其の一襲ねの色衣を、船の火に向つて颯と投げる、と水へは落ちたが、其処には届かず、朱を流したやうに火の影を宿す萍に漂ふて、袖を煽り、裳を開いて、悶へ苦しむが如くに見えつゝ、本尊たる女の像は、此の時早く黒煙に包まれて、大な朱鷺の形した一団の燃え立つ火が、一羽倒に映つて、水底に斉しく宿る。舷にも炎が搦んだ。 「えゝ! 飛込めい、水は浅い。」 と此の時濠端へ駆つけたは、もつぺと称へる裁着やうの股引を穿いた六十余りの背高い老爺で、腰から下は、身躰が二つあるかと思ふ、大な麻袋を提げたのを、脚と一所に飛ばして来て、 「あゝ、埒あかぬ。」と呟いて落胆する。  艫の鷺の炎は消えて、船の板は、ばらりと開いた。一つ一つ、幅広い煙を立てゝ、地獄の空に消えて行く、黒い帆のやう、――女の像は影も失せた。 「やれ、後れた。水は浅いで、飛込めば助かつたに。――何と申さうやうもない、旦那がお連の方でがすかの。」  青年は肩を揺つて、唯大息を吐くのであつた。 「飛んだ事ぢや、こんな怪しげな処へござつて、素性の知れぬ船に乗ると云ふ法があるかい。お剰にお前様、五位鷺の船頭ぢや……狸の拵へた泥船より、まだ〳〵危いのは知れた事を。」 五  目が覚めた、と言ふでもなしに、少時すると、青年の瞳は稍定まつた。 「何、心配には及ばん、船に居たのは活きた人間では無いのだから。」  木樵躰の件の老爺は、没怪な顔して、 「や、活きた人間で無うて何でがす……死骸かね、お前様。」 「死骸は酷い。……勿論、魔物に突返されて、火葬に成つた奴だから、死骸も同然なものだらう。ものだらうが、私の気ぢや死骸ではなかつた。生命のある、価値のある、活きたものゝ積りだつた。老爺さん、今のは、彼は、木像だ、製作つた木彫の婦なんだ。」 「木彫の? はて、」 と腕を組んで、 「えい、其は又、変つたもんだね。船と一所に焼けたものは、活きた人で無うて、私先づ安堵をしたでがすが、木彫だ、と聞けば尚魂消る……豪え見事な、宛然生身のやうだつけの。背後の野原さ出て見た処で、肝玉の宿替した。――あれ一面の霞の中、火と煙に包まれて、白い手足さびいく〳〵為ながら、濠の石垣へ掛けて釣し上がるやうに見えたゞもの。地獄の釜の蓋を取つて、娑婆へ吹上げた幻燈か思ふたよ。  尋常な、婦の人ほどに見えつけ。等身のお祖師様もござれば丈六の弥陀仏も居さつしやる。――これ人形は、はい、玩具箱ウ引転返した中からばかり出るもんではねえで、其の、見事なに不思議は無いだが、心配するな木彫だ、と言はつしやる、……お前様が持つて来て、船の中へ置かしつたかな。」 「何、打棄つたんだ。」と青年は口惜しさうに言つた。 「打棄らしつたえ、持重りが為たゞかね。」 とけろりとして、目を離れた白い眉をふつさり揺る。  青年はじり〳〵と寄つた。 「で、老爺さん、何か、君は活きた人間で無いから安堵したと言つたね、今の船には係合でもある人か。」 「係合にも何にも、私船の持主でがすよ。」 「此の、魔物。」 と青年は、然知つた見得に、後退りしながら身構へして、 「嬲るな。人が生死の間に彷徨ふ処を、玩弄にするのは残酷だ。貴様たちにも釘の折ほど情が有るなら、一思ひに殺して了へ。さあ、引裂け、片手を捥げ……」とはたと睨む。 「旦那々々、」 「何が旦那だ。捕虜と言へ、奴隷と呼べ、弱者と嘲れ。夢か、現か、分らん、俺は迚も貴様達に抵抗する力はない。残念だが、貴様に向ふと手足も痺れる、腰も立たん。  が、助け出す筈だつた女房を負つてなら……麓の温泉までは愚な事、百里、二百里、故郷までも、東京までも、貴様の手から救ふためには、飛んでも帰るつもりで居た。彫像一個抱いて歩行くに持重りがして成るものか! ……  何故、様を見ろ、可気味だ、と高笑ひをして嘲弄しない。俺が手で棄てたは棄てたが、船へ彫像を投げたのは、貴様が蹴込んだも同然だい。」と握つた拳をぶる〳〵震はす、唇は白く戦く。  老爺は遣瀬無い瞬して、 「芸もねえ、譫けた事を言はつしやるな。成程、船を焼いたは悪いけんど、蹴込んだとは、何たる事だの。」 「おゝ、船を焼いたは貴様だな。それ見ろ、それ見ろ。汝、魔物。山猫か、狒々か、狐か、何だ! 悪魔、女房を奪つた奴。せめて、俺に、正体を見せてくれ。一生の思出だ。さあ、のつぺらぱうか、目一つか、汝其の真目〳〵とした与一平面は。眉なんぞ真白に生しやがつて、分別らしく天窓の禿げたは何事だ。其の顱巻を取れ、恍気るな。」と目が逆立つて、又じり〻と詰寄る。  老爺は己が面を、ぺろりと一つ撫下げた。 六  いや、様子が如何にも、我が顔ながら不気味さうに見えた。――眉を顰めて、 「ま、ま、少え旦那、落着かつせえ、気を静めさつせえまし。……魔物だ、鬼だ喚いて、血相を変へてござる……何うも見た処、――未だ此の上に逆上らつしやるなよ――何うやら取逆せて居さつしやるが、はて、」 と上下、天守を七分、青年を三分に見較べ、 「もの、此処さ城趾の、お天守へ上らつしやりは為ねえかの。」 「為ねえかぢや無からう。昨夜貴様に何処で逢つた?」 「先づ、むゝ、其で分つた。」 「分つたか。いや昨夜は失礼したよ、魔物の隊長。」 「はて、迷惑な、私う魔物だと思はつしやる。」 「魔物で無くて、魔物で無くて、汝、五位鷺が漕出して、濠の中で自然に焼ける……不思議な船の持主が有るものか。」 「成程、何も仔細を知らつしやらぬお前様は、様子を見ても、此処等の人ではござらつしやらぬ。」 「那様な事を言つて何うする、貴様は奪つて行つた俺の女房の、町処まで知つてるでは無いか。」 「急かつしやるな。此の山裾の、双六温泉へ、湯治に来さつせえた人だんべいの。」 「知れた事を、貴様がお浦を掴出した、……あの旅籠屋に逗留して居る。」 「そんなら、はい、無理はねえだ。」 と莞爾して、草鞋の尖で向直つた。早や煙の余波も消えて、浮脂に紅蓮の絵も描かぬ、水の其方を眺めながら、 「あの……木葉船はの、丁と自然に動くでがすよ……土地のものは知つとります。で、鷺の船頭と渾名するだ。それ、見さしつた通り、五位鷺が漕ぐべいがね。」 「漕ぐのは鷺でも鳶でも構はん。漕がせるのは人間ぢや無いのだらう。」  余計なことを、と投げ調子。 「いんや、お前様、お天守の、」 と声を密めて、 「……魔の人が為業なら、同一鷺が漕ぐにして、其の船は光を放つて、ふわ〳〵雲の中を飛行するだ。  ……たか〴〵人間の仕事だけに、羽の有る船頭を使ふても、水の上を浮いて行くだよ。何も希有がらつしやるには当らぬ。あの船は、私が慰楽に造るでがす。」 「えゝ、拵へる、而して魔物では無いと言ふのか。」 「随意にさつしやりませ。すつとこ被りをした天狗様があつて成ろかい。気を静めさつしやるが可い。嘘だ思ふなら、退屈せずに四日五日、私が小屋へ来て対向ひに座つてござれ、ごし〳〵こつ〳〵と打敲いて、同一船を、主が目の前で拵へて見せるだ。」 「ふん、」と返事を呑込んだが、まだ其の息は発喘むのであつた。 「何うして作る。」 「何うして作る? ……つひ一寸くら手真似で話されるもんではねえ。此の胸に、機関を知つとります。」 「機関か。」 「危険な機関だで、小さく拵へて、小児の玩弄にも成りましねえ。が、親譲りの秘伝ものだ、はツはツはツ、」 と浮世を忘れた笑ひを行る。 「お待ち、親譲りの秘伝と言ふと……」 と言ひ方は迫つたが、声の調子は大分静まる。 「何も、家伝の秘法の言ふて、勿体を附けるでねえがね……祖父の代から為た事を、見やう見真似に遣るでがすよ。」 「其ぢや、三代船大工か。」 と些少落着いて青年が聞いた。 雪枝、菊松 七 「何の、お前様、見さる通り二十八方仏子柑の山間ぢや。木を伐出いて谿河へ流せば流す……駕籠の渡しの藤蔓は編むにせい、船大工は要りましねえ。――私等が家は、村里町の祭礼の花車人形。木偶之坊も拵へれば、内職にお玉杓子も売つたでがす。獅子頭、閻魔様、姉様の首の、天狗の面、座頭の顔、白粉も塗れば紅もなする、青絵具もべつたりぢや。  そんなものさ、甘干の柿見たやうに、軒へぶら下げて売りましつけ、……水損、山抜け、御維新以来、城趾へ草が生へる、濠が埋まる、村も里も無くなりました処へ、路が変つて、旅人も通らぬけえに、根つから家業に成らんでの、私ら、木挽木樵も遣る。温泉場に普請でも有る時には、下手な大工の真似もする。閑な日には鰌を掬つて暮すだが、祖父殿は、繁昌での、藩主様さ奥御殿の、お雛様も拵へさしたと……  其の祖父殿はの、山伏の姿した旅の修業者が、道陸神の傍に病倒れたのを世話して、死水を取らしつけ……其の修業者に習つた言ひます。  轆轤首さ、引窓から刎ねて出る、見越入道がくわつと目を開く、姉様の顔は莞爾笑ふだ、――切支丹宗門で、魔法を使ふと言ふて、お城の中で殺されたとも言へば、行方知れずに成つたとも言ふ。  はじめは、不思議な機関を藩主様御前で見せい言ふて、お城へ召されさしけえの、其時拵へたのが、五位鷺の船頭ぢや。  それ、船を浮べたのは、矢張此の濠。」 と言ひかけて、水には臨まず、却つて空を指した老爺の指は、一の峰と相対つて、霞の高い、天守の棟に並んで見えた。 「これは、其の三重濠で、二の丸の奥でがす。お殿様は、継上下の侍方、振袖の腰元衆づらりと連れて出て御見物ぢや。 『町人、此の船を何うするな。』 『御意にござります。舳に据えました其の五位鷺が翼を帆に張り、嘴を舵に仕りまして、人手を藉りませず水の上を渡りまする。』 と申上げたて。……なれども唯差置いたばかりでは鷺が翼を開かぬで、人が一人乗る重量で、自然から漕いで出る。……一体が、天上界の遊山船に擬らへて、丹精籠めました細工にござるで、御斉眉の中から天人のやうな上﨟御一方、と望んだげな。  当時飛鳥も落ちると言ふ、お妾が一人乗つて出たが、船の焼出したのは、主が見さしつた通りでがす。――其の妾と言ふのが、祖父殿の許嫁で有つたとも言へば、馴染だとも風説したゞね。  処で、綾錦へ燃えつく時、祖父殿が手を挙げて、 『飛込め、助かる。』 と我鳴らしつけが、お妾は慌てもせず、珠の簪を抜くと、舷から水中へ投込んで、颯と髪の毛を捌いたと思へ。……胴の間へ突伏して動かぬだ。  裸で飛込んだ、侍方、船に寄りは寄つたれども、燃え立つ炎で手が出せぬ。漸との思ひで船を引くら返した時分には、緋鯉のやうに沈んだげな。――これだもの、お前様、祖父殿は家へ帰りごと有るめえがね。  お剰に家中、無事なものは一人も無かつた。が不思議に私だけが助りました。  御時世が変つてから、古葛籠の底で見つけました。祖父殿が工夫の絵図面、暇にあかして遣つて見て、私が先づ乗つて出たが、案の定燃出したで、やれ、人殺し、と……はツはツはツ、水へ入つて泳いで遁げた。  困つた事には、私が腹からの工夫でねえでの、焼くまいやうに手を抜くと、五位鷺が動かぬ。濠の真中で燃え出すを合点の向には、幾度も拵へて乗せて進ぜる。其処で、へい、麓のものは承知して、私がことを鷺の船頭、埒もない芸当だあ。」 と蹲んで、腰の煙草入を捻り出す。  聞くものは、目を閉ぢて恍惚とした。 八 「処が、聞かつせえまし。」 と、すぱ〳〵と煙を吹かす。近い煙草に遠霞で、天守を包んだ鬱蒼たる樹立の蔭が透いて来る。 「段々村が遠退いて、お天守が寂しく成ると、可怪可恐い事が間々有るで、あの船も魔ものが漕いで焼くと、今お前様が疑はつせえた通り……  私が拵へものと思ひながら、不気味がつて、何か魔の人が仕掛けて置く、囮のやうに間違へての。谿河を流す筏の端へ鴉が留まつても気に為るだよ。  誰も来て乗らぬので、久い間雨曝しぢや。船頭も船も退屈をした処、又これが張合で、私も手遊が拵へられます。  旦那、嘸お前様吃驚さつせえたらうが、前刻船と一所に、白い裸骸の人さ焼けるのを見た時は、やれ、五十年百年目には、世の中に同じ事が又有るか、と魂消ましけえ。其で無うてさへ、御時節の有難さに、切支丹と間違へられぬが見つけものゝ処ぢや。あれが生身の婦で無うて、私もチヨン斬られずに済んだでがす……  が、お前様は又、一躰どうさつせえた訳でがすの。」 と、ちよこなんとした割膝の、真中どころへ頤を据えて、啣煙管で熟と眺める。……老爺の前を六尺ばかり草を隔てゝ、青年はばつたり膝を支いて、手を下げた。……此の姿を、天守から見たら、虫のやうな形であらう。 「失礼しました。御老人、貴下は大先生です。何うか、御高名をお名告り下さい。私は香村雪枝と言つて、出過ぎましたやうですが、矢張木を刻んで、ものゝ形を拵へます家業のものです。」とはツと額着く。 「是は、」 と同じく草につけた双の掌を上げたり下げたり、臀を揉んでもじついて、 「旦那、はて、お前様、何言はつしやる。何うさつしやる……気を静めてくらつせえよ。」 「否、何うぞ、失礼ながらお名告り下さい。御覧の通り、私は何うかして居る。……夢なんだか、現なんだか、自分だか他人だか、宛然弁別が無いほどです――前刻からお話し被為つた事も、其方では唯あはあは笑つて居らつしやるのが、種々な言に成つて、私の耳に聞こえるのかも分りません。が、其に為てもお聞かせ下さい。お名が此の耳へ入れば、私は私だけで、承つたことゝ了見します。香村雪枝つて言ふんです。先生、真個は靱負と言つて、昔の侍のやうな名なんですが、其を其のまゝ雪の枝と書いて、号にして居る若輩ものです。」 「えゝ〳〵、困つたな、これは。名を言へなら、言ふだけれど、改つては面目ねえ。」 と天窓を撫でざまに、するりと顱巻を抜いて取り、 「へい、些と爺には似合ひましねえ、村の衆も笑ふでがすが、八才ぐれえな小児だね、へい、菊松つて言ふでがすよ。」 「菊松先生、貴下は凡人では居らつしやらない。」 「勘弁して下らつせえ。うゝとも、すうとも返答打つ術もねえだ…私、先生と言はれるは、臍の緒切つては最初だでね。」 「何とも御謙遜で、申上げやうもありません。大先生、貴下で無くつて、何うして、彼の五位鷺が刻めます。あの船が動かせます。而して、其の秘密を人に知らせまいために、天の火で焚くと見せて、船をお秘しなさるんでせう。」 「お前様もの、祖父殿の真似をするだ、で、私が自由には成んねえだ。間違へて先生だ、師匠だ言はつしやるなら、祖父殿を然う呼ばらつせえ。」 「同じ事です、大名の子孫が華族なら、名家の御子孫も先生です。特に私は然う申さなければ成りません。  私が今の此の仕事を為るやうに成りましたのは、貴下か、或は其の祖父様の御薫陶に預つたと言つて宜しい。」…… 技芸天 九 「父は或県の書記官でした。」 と雪枝は衣兜に手を挟んだ。 「一年、此の地を巡廻した事が有ります。私が七才の時です。未だ其の頃は、今の温泉は無かつたやうですね。」 「温泉の開けたのは近い頃の事でがすよ。然うでがすとも。前から寂れては居ましつけえ、お城の居まはりに、未だ、町の形の残つた頃は、温泉は無かつけの。  地震が豪く押ぱだかつて、しやつきり残つたのはお天守ばかりぢや。人間も家も押転ばして、濠も半分がた埋りましけ。冬の事での、其の前兆べい、八尺余も積つた雪が一晩に融けて、びしや〳〵と消えた。あれ松が蒼いわ、と言ふ内に、天も地も赤黒く成つて、活きものと言ふ活ものは、泥の上を泳いだての。  其の響きで、今の処へ、熱湯が湧出いた。ぢやがさ、天道人を殺さずかい。生命だけは助つても、食はう飲まうの分別も出なんだ処温泉が昌つて来たで、何うやら娑婆の形に成つた。其のかはり、旧から噂の高かつたお天守の此の辺は、人の寄附かぬ凄い処に成りましたよ。見さつせえ、いまに太陽様が出さつせえても、濠端かけて城跡には、お前様と私等が他には、人間らしい影もねえだ。偶々突立つて歩行くものは、性の善くねえ、野良狐か、山猫だよ。  こんな処へ、主は何として又姉様の人形連れて来さつせえた。」 「其を順にお話しませう、」 と雪枝は一度塞いだ目を、茫乎と開けて、 「父が此の処を巡廻した節、何処か山蔭の小さな堂に、美い二十ばかりの婦の、珍しい彫像が有つたのを、私の玩弄にさせうと、堂守に金子を遣つて、供のものに持たせて帰つたのを、他に姉妹もなし、姉さんが一人出来たやうに、負つたり抱いたり為ました。大な像で、飯の時なんぞ、並んで坐る、と七才の年の私の芥子坊主より、づゝと上に、髪の垂つた島田の髷が見えたんです。衣服は白無垢に、水浅黄の襟を重ねて、袖口と褄はづれは、矢張白に常夏の花を散らした長襦袢らしく出来て居て……其が上から着せたのではない。木彫に彩色を為たんです。が、不思議なのは、其の白無垢、何うして置いても些とでも塵埃が溜らず、虫も蠅も、遂ぞ集つたことが無い。花畑へでも抱いて出ると、綺麗な蝶々は、帯に来て、留つたんです、最う一つ不思議なのは、立像に刻んだのが、膝柔かにすつと坐る。  袖は両方から振が合つて、乳のあたりで、上下に両手を重ねたのが、ふつくりして、中に何か入つて居さうで、……駆けて行つて、 『姉さん、』と捉まつた時なぞ、肩が揺れると、ころりん、ころりんと其は実に……何とも微妙な音が為て幽に鳴る、……父母をはじめ、見るほどのものは、何だらう何だらう、と言ひ〳〵したが、指を折らなくては分らないから、無論開けては見ず仕舞。  とう〳〵其の彫像を――何です――父が暖炉に燻べて焼いたまでも分らなかつたんです。  ちら〳〵雪の降る晩方でした。……私は、小児の群食で、欲くない。両親が卓子に対向ひで晩飯を食べて居た。其処へ、彫像を負つて入つたんですが、西洋室の扉を開けやうとして、 『姉さん、』と仰向くと上から俯向いて見たやうに思ふ、……廊下の長い、黄昏時の扉の際で、むら〳〵と鬢の毛が、其時は戦いだやうに思ひました。ぱつちりした目が、眉の下で、睫毛を黒く瞬いたやうで。……」  見ながら、其のまゝ、扉を開ける、と小児の背に、裾を後抱にして居た彫像の丈が反つて、髷が、天井裏の高い処に見えた。  ト半靴の先を反らした、母親の白い足が卓子掛と絨氈の間で動いた。窓の外は雪が其の光を撫でゝ、さら〳〵音が為さうに、月が有つて、植込の梢がちら〳〵黒い。烈々と燃える暖炉のほてりで、赤い顔の、小刀を持つたまゝ頤杖をついて、仰向いて、ひよいと此方を向いた父の顔が真蒼に成つた。 十 「東京駿河台に家があつた、其の二階でした。」 と言ひかけて、左右を見る、と野と濠と草ばかりでは無く、黙つて打傾いて老爺が居た。其を、……雪枝は確め得た面色であつた。 「父が矗乎と立つと…… 『おのれ!』と言つて、つか〳〵と来ましたが。私の身躰が一つ、胴廻りを為ると、肩から倒に婦が落ちた。裙が未だ此の肱に懸つて、橋に成つて床に着く、仰向けの白い咽喉を、小刀でざつくりと、さあ、斬りましたか、突いたんですか。 『きやつ、』と言つて、私は鉄砲玉のやうに飛出したが、廊下の壁に額を打つて、ばつたり倒れた。……気の弱い母もひきつけて了つたさうです。  母は、父が、其の木像の胴を挫折つた――其が又脆く折れた――のを突然頭から暖炉へ突込んだのを見たが、折口に偶と目が着くと、内臓がすつかり刻込んであつた。まるで生のものを見るやうに腸も長く、青い火が其に搦んだので、余の事に気絶したんだ、と後に言ひます。  父は年経つて亡くなるまで、其時の事に就いては一言も何にも言はない。最も当坐二月ばかりは、何うかすると一室に籠つて、誰にも口を利かないで、考事をして居たさうですが、別に仔細は無かつたんです。  但其時から、両親は私を男にしました。其まで、三人も出来た児が皆育たなかつたので、私を女にして置いたんです。名も雪枝と言ふ女のやうな。  其の名を直ぐに号にして、今、こんな家業を為るやうに成つたのも、小児の時から、其の像の事が、目にも心にも身躰にも離れなかつた為なんです。  こんな辺鄙な温泉へ参つたのも、実は忘れられない可懐しい気が為たゝめです。何処か知らんが、其の木像は、父が此の土地から持つて帰つたと言ふぢやありませんか。  山も谷も野も水も、其処には私の師匠がある、と信じ居た。果して貴下にお目にかゝつた。――あの、白無垢に常夏の長襦袢、浅黄の襟して島田に結つた、両の手に秘密を蔵した、絶世の美人の像を刻んだ方は、貴下の其の祖父様では無いでせうか。」  雪枝は熟と対手を視めた。 「え、貴下かも分らん、貴下かも知れません。先生、仰有つて下さい、一生のお願ひです。」 「若え旦那、祖父殿が事は私も知らんで、何か言はつしやりますやうな悪戯を為たかも分らねえ。私は早や、獅子鼻や団栗目、御神酒徳利の口なら真似も遣るが、弁天様は手に負えねえ……まあ、そんな事は措かつしやい。ぢやが、お前様は山が先生、水が師匠と言ふわけ合で、私等が気にや天上界のやうな東京から、遥々と……飛騨の山家までござつたかね。」 と掻蹲ひ、両腕を膝に預けたまゝ啣煙管で摺出す躰は、嘴長い鷺の船頭化けたやうな態である。  雪枝は、しばらく猶予つた。 「仮にも先生と呼んだ貴下に向つて、嘘は言へません。……一度来やう、是非見たい。生れない以前から雪枝の身躰とは、許嫁の約束があるやうな此の土地です。信者が善光寺、身延へ順礼を為るほどな願だつたのが、――いざ、今度、と言ふ時、信仰が鈍つて、遊山に成つた。  其が悪かつたんです……  家内と二人連で来たんです、然も婚礼を為たばかりでせう。」  盃を納るなり汽車に乗つて家を出た夫婦の身体は、人間だか蝶だか区別が附かない。遥々来た、と言はれては何とも以て極が悪い。気も魂もふら〳〵で、六十余州、菜の花の上を舞ひ歩行いても疲れぬ元気。其も突かけに夜昼かけて此処まで来たなら、まだ〳〵仕事の手前、山にも水にも言訳があるのに……彼方へ二晩此方へ三晩、泊り泊りの道草で、――花には紅、月には白く、処々の温泉を、嫁の姿で彩色しては、前後左右、額縁のやうな形で、附添つて、木を刻んで拵へたものが、恁う行くものか、と自から彫刻家であるのを嘲ける了見。 十一  斧も鑿も忘れたものが、木曾、碓氷、寐覚の床も、旅だか家だか差別は無い気で、何の此の山や谷を、神聖な技芸の天、芸術の地と思はう。  来て見ぬ内こそ、峯は雲に、谷は霞に、長に封ぜられて、自分等、芸術の神に渇仰するものが、精進の鷲の翼に乗らないでは、杣山伏も分入る事は出来ぬであらう。流には斧の響、木の葉には鑿の音、白い蝙蝠、赤い雀が、麓の里を彩つて、辻堂の中などは霞が掛つて、花の彫物をして居やうとまで、信じて居たのが、恋しい婦と一所に来たゝめ、峯が雲に日を刻み、水が谷に月を鑿つた、大彫刻を眺めても、婦が挿た笄ほども目に着かないで、温泉宿へ泊つた翌日、以前ならば何よりも前に、しか〴〵の堂はないか、其らしい堂守は居まいか、と父が以前持帰つた、其の神秘な木像の跡の、心当りを捜す処、――気にも掛けないまで忘れて了つて、温泉宿の亭主を呼んで、先づ尋ねたのが、世に伝へた双六谷の事だつた。 「老爺さん。」 と雪枝は嗟歎して言つた。  温泉の町の、谿流について溯ると、双六谷と言ふのがある――其処に一坐の大盤石、天然に双六の目の装られたのが有ると言ふが、事実か、と聞いたのであつた。  亭主が答へて、如何にも、此の辺で噂するには、春の曙のやうに、蒼々と霞んだ、滑かな盤石で、藤色がゝつた紫の筋が、寸分違はず、双六の目に成つて居る。 『丁ど、先づ其の工合と思はれまする。』と掌を畳に着けて指して見せた。  其時坐つて居た蒲団が、蒼味の甲斐絹で、成程濃い紫の縞があつたので、恰も既に盤石の其の双六に対向ひに成つた気がして、夫婦は顔を見合はせて、思はず微笑んだ。  ……と雪枝は言ふ。  けれども、其は神の斧の、微妙き製作を会得した嬉しさではなかつた。其の実、矢叫の如き流の音も、春雨の密語ぞ、と聞く、温泉の煙りの暖い、山国ながら紫の霞の立籠る閨を、菫に満ちた池と見る、鴛鴦の衾の寝物語りに――主従は三世、親子は一世、夫婦は二世の契と聞く…… 『全く未来でも添へるのでせうか。』と他愛のない言を新婦が言つた。  二世は愚か三世までもと思ふ雪枝も、言葉あらそひを興がつて、 『何二世なぞがあるものか、魂は滅びないでも、死ねば夫婦はわかれわかれだ。』 とはぐらかすと、褄を引合はせながら、起直つて、 『私は此の世ばかりでは厭です。』 とツンとした。 『それでは二人で、一世か、二世か賭をしやう。』  苟くも未来の有無を賭博にするのである。相撲取草の首つ引なぞでは其の神聖を損ふこと夥しい。聞けば此の山奥に天然の双六盤がある。其の仙境で局を囲まう。  で、其の勝敗を紀念として、一先づ、今度の蜜月の旅を切上げやう。けれども双六盤は、唯土地の伝説であらうも知れぬ。実際なら奇蹟であるから、念のためと、こゝで、其の翌日旅店の主人に聞いたのが、……件の青石に薄紫の筋の入つた、恰も二人が敷いた座蒲団に肖て居ると言ふ其であつた。 『案内者でも雇へやうか。』  亭主が飛でもない顔色で、二人を視めたも道理。 十二  双六は確にあり。天工の奇蹟の故に、四五六また双六谷と其処を称へ、温泉も世の聞こえに、双六の名を負はするが、谷を究めて、盤石を見たものは昔から誰も無い。――土地の名所とは言ひながら、なか〳〵以て、案内者を連れて踏込むやうな遊山場ならず。双六盤の事は疑無けれど、其の是あるは、月の中に玉兎のある、と同じ事、と亭主は語つた。  土地のものが、其方の空ぞと視め遣る、谷の上には、白雲行交ひ、紫緑の日影が添ひ、月明には、黄なる、又桃色なる、霧の騰るを時々望む。珠か、黄金か、世にも貴い宝什が潜んで、気の群立つよ、と憧憬れながら、風に木の葉の音信もなければ、もみぢを分入る道も知らず……恰も燦爛として五彩に煌めく、天上の星を指しても、手に取られぬ、と異りはない。  唯山深く木を樵る賤が、兎もすれば、我が伐木の谺にあらぬ、怪しく、床しく且つ幽に、ころりん、から〳〵、と妙なる楽器を奏づるが如きを聞く――其時は、森の枝が、一つ一つ黄金白銀の線に成つて、其の音を伝ふるが如くに感ずる……思ふに魔神が対向つて、采を投げる響であらう……何につけても、飛騨谷第一の隠れ場所、近づき難い魔所である、と猶ほ亭主が語つたのである。  二人は、聞くが如き他界であるのを信ずると共に、双六の賭が弥が上にも、意味の深いものに成つた事を喜んだ……勿論、谷へ分入るに就いて躊躇を為たり、恐怖を抱いたりするやうな念は聊も無かつた。  と雪枝は続いて言つた。 「其の上好奇心にも駆られたでせう。直ぐにも草鞋を買はして、と思つたけれども、彼是晩方に成つたから、宿の主人を強ゐて、途中まで案内者を着けさせることにして、其の日の晩飯は済せました。」  双六谷へは、翌早朝と言ふ意気組、今夜も二世かけた勝敗は無しに、唯睦まじいのであらうと思ふ。宵寐をするにも余り早い、一風呂浴びた後……を、ぶらりと二人連で山路へ出て見たのが、丁ど……狐の穴には灯は点かぬが、猿の店には燈の点く時分、何となく薄ら寒い、其処等の霞も、遠山の雪の影が射すやうで、夕餉の煙が物寂しう谷へ落る。五六軒の藁屋ならび、中にも浅間な掛小屋のやうな小店を開けて、穴から商売をするやうに婆さんが一人戸の外を透かして居た。其の店で獣の皮だの、獅子頭、狐猿の面、般若の面、二升樽ぐらゐな座頭の首、――いや其が白い目をぐるりと剥いて、亀裂の入つた壁に仰向いた形なんぞ余り気味の可いものではなかつた。誰か拵へるものが居て、直ぐ其を売るらしい。破莚の上は、藍の絵具や、紅殻だらけ――婆さんの前垂にも、ちら〳〵霜のやうに胡粉がかゝつた。其の他角細工も種々ある。…… 「はツはツ、婆様が家ぢや。」と老爺は不意に笑ひ懸けて、 「茶でも飲つてござつたかの。」  雪枝は不図心着いたらしく調子を変へて、 「あゝ、お知己の店なんですか。」 「昔の恋でがす。彼でもの、お前様、新造盛りの事も有つけ。人形を欲しがる時分ぢや。なんぼ山鳥のおろのかゞみで、頤髯さ撫でた処で、木の枝で、鋸を使ひ〳〵、猿の脚と並んだ尻を、下から見せては落つこちねえ。其処で、人形やら、おかめの面やら、御機嫌取に拵へて持つて行つては、莞爾させて他愛なく見惚れて居たものでがす。はゝゝ、はじめの内は納戸の押入へ飾つての、見るな見るな、と云ふ。恐ろしい、男を食つて骨を秘す、と村のものが嬲つたつけの……真個の孤屋の鬼に成つて、狸婆が、旧の色仕掛けで私に強請つて、今では銭にするでがすが、旦那、何か買はしつたか、沢山直切らつしやれば可かつけな。」 采 十三 「おゝ、老爺さんが、あの、種々なものを。」 と雪枝は目の覚めた顔色して、 「面も頭も、お製作へに成つたんですか。……あゝ、いや、鷺のお手際を見たので分る。軒に振ら下つた獅子頭や、狐の面など、どんな立派なものだつたか分らない。が、其に気が着く了見なら、こんな虚気な、――対手が鬼にしろ、魔にしろ、自分の女房を奪はれる馬鹿は見ない。  失礼ながら、そんなものは目も留めないで、 『采は無いか。』 『お媼さん、あの、采はありませんか。』 と同伴の婦も聞いたんです。」……  双六巌で振らうと云ふ、よく考へれば夢のやうなことだつた。 『一六、三五の采粒かの、はい、ござります。』と隅の壁へ押着けた、薬箪笥の古びたやうな抽斗を開けると、鼠の屎が、ぱら〳〵溢れる。其の中から、畳紙を出して、ころ〳〵と手で揺りながら軒の明前へ持つて出た。 『猪の牙で拵へました、ほんに佳い采でござります、御覧じまし。』と莞爾々々しながら、掌を反らして載せた処を、二人で一個づゝ取つた。  采は珠のやうに見えた。綺麗に磨いたのが透通るばかりに出来て、点々打つた目の黒いのが、雪の中に影の顕はれた、連る山々、秀でた峯、深い谷のやうに不図見えた。 『可愛ぢやありませんか。』 と同伴の女は一寸摘んだが、掌へ据え直して、 『お媼さん、思ふ目が出ませうか。』と右の手を蓋で胸へつけて、ころ〳〵と振つて試る。  と背中から抱き締めて、づる〳〵と遠くへ持つて行かれたやうに成つて、雪枝は其時の事を思出した。 「其の時の事と言ふのは、父が此の土地の祠から持つて帰つた、あの、掌に秘密を蔵した木像です。」 「おゝ、」と頷く、老爺は腕組を為た肩を動かす。 「あゝ、それぢや、木彫の美人が、父のナイフに突刺されて、暖炉の中に焼かれた時まで、些とも其の秘密を明かさなかつた、微妙な音のしたものは、同一、此の采であつたかも知れない。  時に、傍に立つた家内の姿が、其に髣髴だ、と思ふと、想像が遠く昔へ返つて、不思議なもので、袖を並べたお浦の姿が、づゝと離れて遥かな向ふへ……」 と雪枝は語つて、押遣るやうに手を振つた。 「其時の事を思ふと、老爺さん、恁う言ふ内にも貴方の身体も遠くへ行く……ふら〳〵と間が離れる。」……  而して、婆さんの店なりに、お浦の身体が向ふへ歩行いて、見る間に其が、谷を隔てた山の絶頂へ――湧出る雲と裏表に、動かぬ霞の懸つた中へ、裙袂がはら〳〵と夕風に靡きながら薄くなる。  あの辺へ、夕暮の鐘が響いたら、姿が近く戻るのだらう、――と誰が言ふともなく自分で安心して、益々以前の考に耽つて居ると、榾を焚くか、炭を焼くか、谷間に、彼方此方、ひら〳〵、ひら〳〵と蒼白い炎が揚つた。  思はず彫像を焼いた暖炉の火に心着いて、何故か、急に女の身が危ぶまれて来た。 『お浦。』 と呼んだが返事をしない。 『お浦、お浦。』と言つたが、返事を為ない。雪枝最うきよろ〳〵し出した、其で二足三足づゝ、前後左右を、ばた〳〵と行つたり、来たり……  慌しく成つて来た。  第一、お浦ばかりぢやない、其処に居た婆さんも見えなければ、其らしい店もない。  いや、これは可怪いぞ。一人ばかり居ないのなら、女が何うかしたのだらうが、店も婆さんもなくなつた、とすると……前方が攫はれたのぢやなくつて、自分が魅まれたものらしい。 『おゝい、おゝい。』 と智恵のない声をしながら、無暗に人を呼んで、雪枝は山路を駆づり廻つた。 十四 「段々暗くなる、最う目は眩む、風が吹出す。此の風は……昼間蒼く澄んだ山の峡から起つて、障つて来る樹の枝、岩角、谷間に、白い雲のちぎれて鳥の留るやうに見えたのは未だ雪が残つたのか、……と思ふほど横面を削つて冷たかつた。 『ま……、何処へござらつしやる、旦那。』 とすた〳〵小走りに駆けて来て、背後から袂を引留めた、山稼ぎの若い男があつた。 『お城趾へ行かしつては成りましねえだよ。日も暮れたに、当事もねえ。』と少し叱つて言ふ。  煙が立つて、づん〳〵とあがる坂一筋、やがて、其の煙の裙が下伏せに、ぱつと拡がつたやうな野末の処へ掛つて居ました。」  雪枝は胸を伸上げて、岬が突出た湾の外を臨むが如く背後状に広野を視めた。……東雲の雲は其の野末を離れて、細く長く縦に蒼空の糸を引いて、上つて行く、……人も馬も、其処を通つたら、ほつほつと描かれやう、鳥も飛ばゞ見えやう、――けれども天守の屋根は森が包んで、霞がくれに尚暗い。其の上、野の果を引上る雲も此方をさして畳まつて来るやうで、老爺と差向つた中空は厚さが増す。其の濃く暗い奥から、黄金色に赤味の注した雲が、むく〳〵と湧出す、太陽は其処まで上つた――汀の蘆の枯れた葉にも、さすがに薄い光がかゝつて、角ぐむ芽生もやゝ煙りかけた。此の煙は月夜のやうに水の上にも這ひ懸る。船の焼けた余波は分解ず……唯陽炎が頻に形づくりするのが分解る。――やがて、此が、野の一面の草を伝つて、次第にひら〳〵と、麓に下りて遊行しやう。……さて、日も当れば、北国の山中ながら、人里の背戸垣根に、神が咲かせた桃桜が、何処とも無く空に映らう。まだ、朝早き、天守の上から野をかけて箕の形に雲が簇つて、処々物凄じく渦を巻て、霰も迸つて出さうなのは、風が動かすのではない。四辺は寂寞して居る……峰に当り、頂に障つて、山々のために揺れるのである。  雲の動く時、二人の形は大きく成つた。静とする時、渠等の姿は小さく成つた。――飛騨の山の此のあたりは、土地が呼吸をするのかも分らぬ。  雪枝は伸上つた時、膝を草に支いて居た。 「其の時来懸つたのは、何うも、此の原の、向ふの取着であつたらしい。 『お城趾の方さ行つては成んねえだ。』と云つて其の男が引取めました……私は家内の姿を高い山の端で見失つたが、何うも、向ふが空へ上つたのではなく、自分が谷底へ落ちてたらしい。其処で疵だらけに成つて漸々出て来た処が、此の取着きで、以前夫婦づれで散歩に出た場所とは、全然方角が違う、――御存じの通り、温泉は左右へ見上げるやうな山を控へた、ドン底から湧きます。  で、婆さんの店の有つたのは南の坂で、此の城趾は北の山路から来るのでせう。  土地の男に様子を聞いて、 『あゝ、魅まれた……魅まれたんだ。いや、薄髯の生へた面で、何とも面目次第もない。』 と頻に面目ながる癖に、あは〳〵得意らしい高笑ひを行つた。家内の無事を祝福する心では、自分の魅せられたのを、却つて幸福だと思つて喜んだんです。 『豪い、東京の客を魅すのは豪儀だ。ひよい、と抱いて温泉宿の屋根越に山を一つ、まるで方角の違つた処へ、私を持つて来た手際と云ふのは無い。何か、此の辺に、有名な狐でも居るか。』 と酔つぱらひのやうな言を云つて、ひよろ〳〵為ながら、其の男に導かれて引返す。 『狐や狸ではござりましねえ、お天守にござる天狗様だのエ、時々悪戯をさつしやります。』 『何天狗。』 と云ふと慌しく袂を曳いて、 『えゝ、大な声をさつしやりますな、聞こえるがのエ』と、蒼い顔して、其の男は、足許を樹の梢から透いて見える、燈の影を指したんです。」 谺 十五  で、其処が温泉宿だ、と教へて、山間の崖を樹の茂つた細い路へ、……背負つて居た、丈の伸びた雑木の薪を、身躰ごと横にして、ざつと入つて行く。  しばらく、ざわ〳〵と鳴つて居た。  急に何だか寂しく成つて、酔ざめのやうな身震ひが出た。急いで、燈火を当に駆下りる、と思ひがけず、往には覚えもない石壇があつて、其を下切つた処が宿の横を流れる矢を射るやうな谿河だつた。――驚いたのは、山が二わかれの真中を、温泉宿を貫いて流れる、其の川を、何時の間に越へて、此の城趾の方へ来たか少しも覚えが無い。  岸づたひに、岩を踏んで後戻りを為て、橋の取着の宿へ帰つた、――此は前刻渡つて、向ふ越で、山路の方へ、あの婆さんの店へ出た橋だつた。 『お帰りなさいまし。』 と向ふ廊下から早足で、すた〳〵来懸つた女中が一人、雪枝を見て立停まつた。 『御緩り様で、』と左側の、畳五十畳計りの、だゞつ広い帳場、……真中に大な炉を切つた、其の自在留の、ト尾鰭を刎ねた鯉の蔭から、でつぷり肥つた赤ら顔を出して亭主が言ふ。 『同伴は帰つたらうね。』と聞いた時、雪枝は其の間違の無い事を信じながら、何だか胸がドキ〳〵した。 『奥方様で、はゝ、何や、一寸お見申せ。』と頤を向けると、其処に居た女中が、 『御一所では無かつたのでございますか。』  で、ばた〳〵と廊下を、直ぐに二階へ駆上つた。  何故か雪枝は他人を訪問に来たやうな心持に成つて、うつかり框際の広土間に突立つて居た。  山路から、後を跟けて来たらしい嵐が、袂をひら〳〵と煽つて、颯と炉傍へ吹込むと、燈が下伏に暗く成つて、炉の中が明く燃える。これが赫と、壁に並んだ提灯の箱に映る、と温泉の薫が芬とした。  五六段階子を残して、女中が廊下の高い処へ顔を出して、 『まだ、お帰り遊ばしません。』 『下りて来て、ちやんと申さぬかい、何ぢや、不作法な。』と亭主が炉端から上睨みを行る。  雪枝は一文字に其の前を突切つて、階子段を駆上り状に、女中と摺違つて、 『そんな筈は無い。そんな、お前、』と躾めるやうに言ひ〳〵飛上つたのであつた。 『それともお湯へお出でなさいましてですか、お座敷には居らつしやいませんですよ。』と小走りに跟いて来る。  固より女中が串戯を言ふわけは無い。居ないものは居ないので、座敷を見ると、あとを片附けて掃出したらしく、きちんと成つて、点けたての真を細めた台洋燈が、影を大きく床の間へ這はして、片隅へ二間に畳んだ六枚折の屏風が如何にも寂しい。  而して誰も居ない八畳の真中に、其の双六巌に似たと言ふ紫縞の座蒲団が二枚、対坐に据えて有つたのを一目見ると、天窓から水を浴びたやうに慄然とした。此処へも颯と一嵐、廊下から追つて来て座敷を吹抜けて雨戸をカタリと鳴らす。  恁うして、お浦に別かれるのが極つた運命では無からうかと思つた…… 「浴室だ、浴室だ。見ておいで。と女中を追遣つて、倒れ込むやうに部屋に入つて、廊下を背後向きに、火鉢に掴つて、ぶる〳〵と震へたんです。……老爺さん。」 と雪枝は片手で胸を抱いた。 「亭主が上つて来ました。 『えゝ、一寸お引合はせ申しまする。此男が其の、明日双六谷の途中まで御案内しまするで。さあ、主、お知己に成つて置けや。』と障子の蔭に蹲んで居た山男に顔を出させる、と此が、今しがたつひ其処まで私を送つてくれた若いもの、……此方は其処どころぢや無い。」 十六 「恁う成ると、最う外聞なんぞ構つては居られない。魅まれたか誑されたか、山路を夢中で歩行いた事を言出すと、皆まで恥を言はぬ内に……其の若い男が半分で合点したんです。」  さあ、亭主も飛でも無い顔をする。捜すのに、湯殿や小用場では追着かなく成つた。 『権七や、主は先づ、婆様が店へ走れ、旦那様、早速人を出しますで、お案じなさりませんやうに。主も働いてくれ、さあ、来い、』 と若いものを連れて、どたばた引上げる時分には、部屋の前から階子段の上へ掛けて、女中まじりに、人立ちがするくらゐ、二階も下も何となく騒ぎ立つ。  雨戸を開けて欄干から外を見ると、山気が冷かな暗を縫つて、橋の上を提灯が二つ三つ、どや〳〵と人影が、道を右左へ分れて吹立てる風に飛んで行く。  真先に案内者権七の帰つて来たのが、ものゝ半時と間は無かつた。けれども、足を爪立つて待つて居る身には、夜中までかゝつたやうに思ふ。  婆さんに聞けば、夫婦づれの衆は、内で采粒を買はつしやると、両方で顔を見合ひながら後退りをして、向ふ崖の暗い方へ入つたまで。それからは覚えて居らぬ。目は踈し、暮方ではあり、やがて暗くなつて了つた、と権七が言ふ。  のみ、手懸りは何にも無い。 『矢張何か私のやうに、魅まれて路を迷つたらうか。』 『然うでもござりやすめえ、奥様は、其のお前様を捜し歩行いて、其で未だ、お帰りが無いのでござりやせうで、天狗様も二人一所に攫はつしやることは滅多にねえ事でござります。今にお帰りに成るでござりやしやう。宿でも心配をして居りますで、夜一夜寐ねえで捜しますで、お前様は、まあ、休まつしやりましたが可うござります。』  気が気では無い。一所に捜しに出かけやうと言ふと、いや〳〵山坂不案内な客人が、暗の夜路ぢや、崖だ、谷だで、却つて足手絡ひに成る。……案内者に雇はれるものが、何も知らない前に道案内を為たと言ふも何かの縁と思ふ。人一倍精出して捜さうから静かに休め、と頼母しく言つて、すぐに又下階へ下りた。  一時騒々しかつたのが、寂寞ばつたりして平時より余計に寂しく夜が更ける……さあ、一分、一秒、血が冷え、骨が刻まれる思ひ。時が経てば経つだけ、それだけお浦の帰る望みが無くなると言つた勘定。九時が十時、十一時を過ぎても音沙汰が無い。時々、廊下を往通ふ女中が、通りすがりに、 『何う遊ばしたのでございませう、』 『うむ、』 『御心配でございます。』 『あゝ、』  ――返答が出来ないで、溜息を吐く顔を見て、遁げるやうに二三人摺り抜けた。  やがて十二時を打つた。女中が床を取りに来て、一つ伸べて、二つ並べやうと為たので、 『そりや可からう、』と言つた時は我ながら変な声だと思つた。……勿論寐もせず、枕元へ例の紫縞のを摺らして、落着かない立膝で何を聞くとも無く耳を澄ますと、谿河の流がざつと響くのが、落ちた、流れた、打当てた、岩に砕けた、死だ――と聞こえる。 『あゝつ、』と忌はしさに手で払つて、坐り直して其処等を眴す、と密と座敷を覗いた女中が、黙つて、スーツと障子を閉めた。――夜が更けて寒からうと、深切に為たに違ないが、未練らしい諦めろ、と愛想尽しを為れたやうで、赫と顔が熱くなる。  背中がぞつと寒く成る……背後を見る、と床の間に袖畳みをした女の羽織、わがねた扱帯、何となく色が冷く成つて紀念のやうに見えて来た、――持主が亡くなると、却つてそんなものが、手ん手に活きて来たやうに思はれて、一寸触るのも憚かられる。  何処か、しゆつ〳〵と風が通る…… 十七 「うら悲しい、心細い、可厭な声で、 『お客様あゝ、』 『奥様、』と呼ぶのが、山颪の風に響いて、耳へカーンと谺を返してズヽンと脳を抉る。 『お客様、』 『奥方様。』……は情ない。少し裏山へ近く成つたと思ふと、女の声が交つて、 『奥様やあ、』と呼んだ。ヒイと之が悲鳴を上げるやうで、家内が絞殺される叫びに聞こえる、最う堪りません。  廊下を跣足で出て、階子段の上から倒に帳場を覗いて、 『御主人、御主人、』 と、海が凪いだ後を、ぶる〳〵震へる波のやうな畳の上に、男だか女だか、二人ばかり打上げられた躰で、黒く成つて突伏した真中に、手酌でチビリ〳〵飲つて居た亭主が、むつくり頭を上げて、 『まだ御寐りませんかな。』と言ひ〳〵四五段上つた、中途の上下で欄干越に顔を合はせた。 『又入れ替つて出てくれたのかね、あゝ言つて呼んでるのは、』 『へい、否、山深く参つたのが、近廻りへ引上げて来たでござります。』 『まだ、知れんのだね、あゝして呼立てゝ居るのを見ると。』 『へい、何しろ、早や、山も谷も数が知れん処でござりますけにな。……』 と歎息を為たが、面を振つて、嚏をした。 『しかし、あれでござりましよ。何分夜が更けましたで、道を教へますものも明方まで待ちませうし、又……奥方様も、何の道お草臥れでござりませうで、いづれにも夜が明けましたら、分るに相違ござりません。』 『分るつて? 死骸か、』 『えゝ?』 『死んだら其までだ。』と自棄を言つて寐床へ帰つて打倒れた。…… 『お客様、』 『奥様、』と呼ぶのが十声ばかりして、やがて、ガラ〳〵と門の戸が大きく鳴つて開く。私は襟を被つて耳を塞いだ! 誰が無事だ、と知らせて来ても、最う聞くまい、と拗ねたやうに……勿論、何とも言つては来ません。  其癖、ガラ〳〵と又……今度は大戸の閉つた時は、これで、最う、家内と私は、幽明処を隔てたと思つて、思はず知らず涙が落ちた。…  ト前刻、止せ、と云つて留めたけれども、其でも女中が伸べて行つた、隣の寐床の、掻巻の袖が動いて、煽るやうにして揺起す。 『おゝ、』と飛附くやうな返事を為て顔を出したが、固より誰も居やう筈は無い。枕ばかり寂しく丁とあり、木賃で無いのが尚ほうら悲しい。  熟と視詰めて、茫乎すると、並べた寐床の、家内の枕の両傍へ、する〳〵と草が生へて、短いのが見る〳〵伸びると、蔽ひかゝつて、萱とも薄とも蘆とも分らず……其の中へ掻巻がスーと消える、と大な蛇がのたりと寐て、私の方へ鎌首を擡げた。ぐつたりして手足を働かす元気もない。首を締めて殺さば殺せで、這出すやうに頭を突附けると、真黒に成つて小山のやうな機関車が、づゝづと天窓の上を曳いて通ると、柔いものが乗つたやうな気持で、胸がふわ〳〵と浮上つて、反身に手足をだらりと下げて、自分の身躰が天井へ附着く、と思ふとはつと目が覚める、……夜は未だ明けないのです。  同じやうな切ない夢を、幾度となく続けて見て、半死半生の躰で漸つと我に返つた時、亭主が、 『御国許へ電報をお掛け被成りましては如何でござりませう。』と枕許に坐つて居ました。 『馬鹿な。』 と一言のもとに卻けたんです。」 十八 「怪我、過失、病気なら格別、……如何に虚気なればと言つて、」  雪枝は老爺に此を語る時、濠端の草に胡座した片膝に、握拳をぐい、と支いて腹に波立つまで気兢つて言つた。 「女房が紛失した、と親類知己へ電報は掛けられない。 『何しろ、最う些と手懸りの出来るまで其は見合はせやう。』 『で、ござりまするが、念のために、お国許へお知らせに成りましては如何なもので、』 『可から、死骸でも何でも見着かつた時にせう。』 『其の、へい……死骸が何うも、』 『何だ、死骸が分らん。』  私は胸が裂けるほど亭主の言葉が気に障つた。最う死骸に成つてる、と言つたやうな、奴の言種が何とも以て可忌しい。 『己が見着けて持つて帰る、死骸の来るのを待つて居れ。』と睨みつけて廊下を蹴立てゝ出た――帳場に多人数寄合つて、草鞋穿の巡査が一人、框に腰を掛けて居たが、矢張此の事に就いてらしい。  痘痕のある柔和な顔で、気の毒さうに私を見た。が口も利かないでフイと門を、人から振もぎる身躰のやうにづん〳〵出掛けた。」  雲は白く山は蒼く、風のやうに、水のやうに、颯と青く、颯と白く見えるばかりで、黒髪濃い緑、山椿の一輪紅色をした褄に擬ふやうな色さへ、手がゝりは全然ない。  目が眩むほど腹が空けば、よた〳〵と宿へ帰つて、 『おい、飯を食はせろ。』  で、又飛出す、崖も谷もほつゝき歩行く、――と雲が白く、山が青い。……外に見えるものは何にもない。目が青く脳が青く成つて了つたかと思ふばかり。時々黒いものがスツスツと通るが、犬だか人間だか差別がつかぬ……客人は変に成つた、気が違つた、と云ふ声が嘲ける如く、憐む如く、呟く如く、また咒咀ふ如く耳に入る…… 『お客様、』 『奥様』と呼ぶのが峯から伝はる。谺を返して谷へカーンと響く、――雲が白く、山が青く、風が吹いて水が流れる。 『客人は気が違つた、』と言ふのが分る。 「可、何とでも言へ、昨日今日二世かけて契を結んだ恋女房がフト掻消すやうに行衛が知れない。其を捜すのが狂人なら、飯を食ふものは皆狂気、火が熱いと言ふのも変で、水が冷いと思ふも可笑しい。温泉の湧出すなどは、沙汰の限りの狂気山だ、はゝゝはゝ、」 と雪枝は額髪を揺るまで、膝を抱へて、高笑を遣つた。  雲が動いて、薄日が射して、反らした胸と、仰いだ其の額を微かに照らすと、ほつと酔つたやうな色をしたが、唇は白く、目は血走るのである。  老爺は小首を傾けた。  急に又雪枝は、宛然稚子の為るやうに、両掌を双の目に確と当てゝ、がつくり俯向く、背中に雲の影が暗く映した。 「其の中に四辺が真暗に成つた。暗く成つたのは夜だらう、夜の暗さの広いのは、田か畠か平地らしい、原かも知れない……一目其の際限の無い夜の中に、墨が染んだやうに見えたのは水らしかつた……が、水でも構はん、女房の行衛を捜すのに、火の中だつて厭ひは為ない。づか〳〵踏込まうとすると、 『あゝ、深いぞ、誰ぢや、水へ……』 と其時、暗がりから、しやがれた声を掛けて、私を呼留めたものがあります。  暗に透かすと、背の高い大な坊主が居て、地から三尺ばかり高い処、宙で胡座掻いたも道理、汀へ足代を組んで板を渡した上に構込んで、有らう事か、出家の癖に、……水の中へは広い四手網が沈めてある。」  老爺は眉毛をひくつかせた。 「はての。」 城ヶ沼 十九 「其の入道の、のそ〳〵と身動きするのが、暗夜の中に、雲の裾が低く舞下つて、水にびつしより浸染んだやうに、ぼうと水気が立つので、朦朧として見えた。 『沼ぢや、気を着けやれ』と打切つたやうに言ひます。 『沼でも海でも、女房が居れば入らずに置けない。』  苛々するから、此方はふてくされで突掛る。  と入道が耳を貫いて、骨髄に徹る事を、一言。 『はゝあ、此処なは、御身が内儀か、』 と言ふ。 『此処なは……私の……女房だと? ……』 『おゝ、私が今出逢ふた、水底から仰向けに顔を出いた婦人の事ぢや。』 『や、溺れて死んだか。』 とばつたり膝を支く、と入道は足代の上から、蔽被さるやうに覗いて、 『待て、待て、死骸を見たでは無い。ぢやが、正のものでもなかつた……謂はゞ影ぢやな。声の有る色の有る影法師ぢや……其のものから、御身に逢ふて話してくれい、と私が托言をされたよ。……  何かな、御身は遠方から、近頃此の双六の温泉へ、夫婦づれで湯治に来て、不図山道で其の内儀の行衛を失ひ、半狂乱に捜してござる御仁かな。』とつけ〳〵訊ねる。  女房が失せて半狂乱、」 と雪枝は、思出すのも、口惜しさうに歯噛みをした。 「察して下さい、……唯其の音信の聞きたさに、 『えゝ、其ものです』と返事を為ました。 『やれ〳〵、気の毒。』 とさら〳〵と法衣の袖を掻合はせる音がして、 『私は旅のものぢやが、此の沼は、城ヶ沼と言ふげぢやよ。』  老爺さん、其処は城ヶ沼と言ふ処だつた。」  雪枝は息せはしく成つて一息吐く。ト老爺は煙草を払いた。吸殻の落た小草の根の露が、油のやうにじり〳〵と鳴つて、煙が立つと、ほか〳〵薄日に包まれた。雲は稍薄く成つたが、天守の棟は、聳え立つ峯よりも空に重い。 「えゝ、城ヶ沼の。はあ、夢中で其処ら駆廻らしつたものと見える……それは山の上では無い。お前様が温泉へ来さつしやつた街道端の、田畝に近い樹林の中にある大い沼よ。――何が、其の水は谿河の流を堰いて溜めたでは無うて、昔から此の……此処な濠の水が地の底を通ふと言ふだね。……  お天守の下へも穴が徹つて、お城の抜道ぢや言ふ不思議な沼での、……私が祖父殿が手細工の船で、殿様の妾を焼いたと言つけ。其ん時はい、其の影が、城ヶ沼へ歴然と映つて、空が真黒に成つたと言ふだ。……其さ真個か何うか分らねども、お天守の棟は、今以つて明かに映るだね。水の静な時は大い角の龍が底に沈んだやうで、風がさら〳〵と吹く時は、胴中に成つて水の面を鱗が走るで、お城の様子が覗けるだから、以前は沼の周囲に御番所が有つた。最もはあ、殺生禁制の場所でがしたよ。  其の上、主が居て住む、と云ふて、今以て誰一人釣をするものはねえで、鯉鮒の多い事。……  お前様が温泉の宿で見さしつけな、囲炉裡の自在留のやうな奴さ、山蟻が這ふやうに、ぞろ〳〵歩行く。  あの、沼へ、待たつせえ、」 と又眉をびく〳〵遣つた。 「四手場を拵えて網を張るものは近郷近在、私の他に無いのぢやが、……お前様が見さしつた、城ヶ沼の四手場の足代の上の黒坊主と……はてな……其の坊様は大い割に、色が蒼ざめては居らんかの。」 二十 「あゝ、蒼ざめた、」 と雪枝は起直つて言つた。 「鼻の円い、額の広い、口の大い、……其の顔を、然も厭な色の火が燃えたので、暗夜に見ました。……坊主は狐火だ、と言つたんです。」 「それ〳〵、其の坊様なら、宵の口に私が頼んで四手場に居て貰ふたのぢや……、はあ、其処へお前様が行逢はしつたの。はて、どうも、妙智力、旦那様と私は縁が有るだね。」 「確に師弟の縁が有ると思ひます、」 と雪枝は慇懃に言ふ。 「まあ、串戯は措かつせえ。……時に其の坊様は何と云ふでがすね。」 「えゝ、…… 『私は旅から旅をふら〳〵と経廻るものぢやが、』と坊様が言ふんです。 『日が暮れて此処を通りかゝると、今、私が御身に申したやうに、沼の水は深いぞ、と気を注けたものがある。此の四手場に片膝で、暗の水を視詰めて居た老人ぞや。さて漁はあるか、と問へば、漁は有るが、魚は一向に獲れぬと言ふ。  希有な事を聞くものぢや、其の理由は、と尋ねると、老人の返事には、』 と其の坊主が話したんです。……ぢや、老爺さん――老人が貴下なら、貴下が坊主に話された、と云ふ、城ヶ沼の鯉鮒は、網で掬へば漁はあるが、畚に入れると直ぐに消えて、一尾も底に留らぬ。鰌一尾獲物は無い。無いのを承知で、此処に四ツ手を組むと言ふのは、夜が更けると水に沈めた網の中へ、何とも言へない、美しい女が映る。其を見たい為に、独り恁うやつて構へて居る、……とお話があつたやうに、其の時坊主から聞いたんです……それは真個の事ですか? 老爺さん。」  一切、事実だ、と老爺は答へたのである。  はじめの内、……獲た魚は畚の中を途中で消えた。荻尾花道、木の下路、茄子畠の畝、籔畳、丸木橋、……城ヶ沼に漁つて、老爺が小家に帰る途中には、穴もあり、祠もあり、塚もある。月夜の陰、銀河の絶間、暗夜にも隈ある要害で、途々、狐狸の輩に奪ひ取られる、と心着き、煙草入の根附が軋んで腰の骨の痛いまで、下つ腹に力を籠め、気を八方に配つても、瞬をすれば、一つ失せ、鼻をかめば二つ失せ、嚏をすればフイに成る。……で、未だも途中まで畚の重い内は張合もあつた。けれども、次第に畜生、横領の威を奮つて、宵の内からちよろりと攫ふ、漁る後から嘗めて行く……見る〳〵四つ手網の網代の上で、腰の周囲から引奪る。  最も其の時は、何となく身近に物の襲ひ来る気勢がする。左の手がびくりとする時、左から丁手掻で、右の腕がぶるつと為る時、右の方から狙ふらしい。頸首脊筋の冷りと為るは、後に構まへてござる奴。天窓から悚然とするのは、惟ふに親方が御出張かな。いや早や、其と知りつゝ、さつ〳〵と持つて行かれる。最も身体を蓋に為て畚の魚を抱いてゞも居れば、如何に畜生に業通が有つても、まさかに骨を徹しては抜くまい、と一心に守つて居れば、沼の真中へひら〳〵と火を燃す、はあ、変だわ、と気が散ると、立処に鯉が失せる。其の術で行かねば、業を変へて、何処とも知らず、真夜中にアハヽアハヽ笑ひをる、吃驚すると鮒が消える、――此方も自棄腹の胴を極めて、少々脇の下を擽られても、堪へて静として畚を守れば、さすが目に見せて、尖つた面、長い尻尾は出さぬけれど、さて然うして見た日には、足代を組んで四手を沈めて、身体を張つて、体よく賃無しで雇はれた城ヶ沼の番人同然、寐酒にも成らず、一向に市が栄えぬ。 二十一  魚が寄ると見れば、網を揚げる、網を両手で、ぐい、と引いて、目も心も水に取られる時の惨憺さ。ガサリなどゝ音をさして、畚を俯向けに引繰返す、と這奴にして遣らるゝはまだしもの事、捕つた魚が飜然と刎ねて、ざぶんと水に入つてスイと泳ぐ。  余の他愛なさに、効無い殺生は留にしやう、と発心をした晩、これが思切りの網を引くと、一面城ヶ沼の水を飜して、大四手が張裂けるばかり縦に成つて、ざつと両隅から高く星の空へ影が映して、沼の上を離れる時、網の目を灌いで落ちる水の光り、霞の懸つた大な姿見の中へ、薄りと女の姿が映つた。 「よく、はい、噂に聞くお客様が懸つたやうだね。恁う、其の網を引張つて、」  老爺は手で掴んで腰を反らして言ふのである。 「引き懸けた処でがんしよ……鮒一尾入つた手応もねえで、水はざんざと引覆るだもの。人間の突入つた重さはねえだ。で、持つたまま大揺りに身躰ごと網を揺れば、矢張揺れて、衣服だか鰭だか、尾毛だか、網の中の婦の姿がふら〳〵動くだ。はて、変だと手を離すと、ざぶりと沈むだ。其の網の底の方……水ン中に、ちら〳〵と顔が見える……其のお前様、白い顔が正的に熟と此方を見るだよ。  や、早や其時は畚が足代を落こちて、泥の上に俯向けだね。其奴が、へい、足を生やして沼へ駆込まぬが見つけものだで、畜生め、此の術で今夜は占めをつた。  何のつけ、最う二度と来る事ではない、とふつ〳〵我を折つて帰りましけえ。怪㤉な事には、眉が何う、目が何う、と云ふ覚はねえだが、何とも言はれねえ、其の女の容色だで……色も恋も無けれども、絵を見るやうで、何とも其の、美しさが忘れられぬ。  化けたなら化けたで可、今夜は蛇に成らうも知んねえが、最う一晩出懸けて見べい。」……  で、又てく〳〵と沼へ出向く、と一刷け刷いた霞の上へ、遠山の峰より高く引揚げた、四手を解いて沈めたが、何の道持つては帰られぬ獲物なれば、断念めて、鯉が黄金で鮒が銀でも、一向に気に留めず、水に任せて夜を更す。  風が吹き、風が凪ぎ、水が動き、水が静まる。大沼の刻限も、村里と変り無う、やがて丑満と思ふ、昨夜の頃、ソレ此処で、と網を取つたが、其の晩は上へ引揚げる迄もなく、足代の上から水を覗くと歴然と又顔が映つた。  と老爺が話す。 「聞かつせえまし、肩から胸の辺まで、薄らと見えるだね、試して見ろで、やつと引き揚げると、矢張り網に懸つて水を離れる……今度は、ヤケにゆつさゆさ引振ふと、揉消すやうにすツと消えるだ――其処でざぶんと沈める、と又水の中へ露はれる。……  三夜四夜と続いたが、何時も其の時刻に屹と映るだ。追々馴染が度重ると、へい、朝顔の花打沈めたやうに、襟も咽喉も色が分つて、口で言ひやうは知らぬけれど、目附なり額つきなり、押魂消た別嬪が、過般中から、同じ時分に、私と顔を合はせると、水の中で莞爾笑ふ。……  や、其の笑顔を思ふては、地韜踏んで堪へても小家へは寐られぬ。雨が降れば簑を着て、月の良い夜は頬被り。つひ一晩も欠かさねえで、四手場も此の爺も、岸に居着きの巌のやうだ――扨気が着けばひよんな事、沼の主に魅入られた、何か前世の約束で、城ヶ沼の番人に成つたゞかな。何処で死ぬ身と考える、と心細い身の上ぢやが、何と為ても思切れぬ……  いけ年を為た爺が、女色に迷ふと思はつしやるな。持たぬ孫の可愛さも、見ぬ極楽の恋しいも、これ、同じ事と考えたゞね。……  さて困つたは、寒ければ、へい、寒し、暑ければ暑い身躰ぢや、飯も食へば、酒も飲むで、昼間寐て夜出懸けて、沼の姫様見るは可えが、そればかりでは活きて居られぬ。」 雲の声 二十二  譬へば幻の女の姿に憧がるゝのは、老の身に取り、極楽を望むと同じと為る。けれども其の姿を見やうには、……沼へ出掛けて、四つ手場に蹲つて、或刻限まで待たねばならぬ。で、屋根から月が射すやうな訳には行かない。其処で、稼ぎも為ず活計も立てず、夜毎に沼の番の難行は、極楽へ参りたさに、身投げを為るも同じ事、と老爺は苦笑ひをしながら言つた。  そんなら、四つ手場を留めにして、小家で草鞋でも造れば可が、因果と然うは断念められず、日が暮れると、そゝ髪立つまで、早や魂は引窓から出て、城ヶ沼を差してふわ〳〵と白い蝙蝠のやうに徉徜ひ行く。  待てよ、恁うまで、心を曳かるゝのは、よも尋常ごとでは有るまい。伝へ聞く沼の中へは古城の天守が倒に宿る……我が祖先の術の為に、怪しき最後を遂げた婦が、子孫に絡る因縁事か。其とも弔らはれず浮かばぬ霊が、無言の中に供養を望むのであらうも知れぬ。独りでは何しろ荷が重い。村の誰にかも見せて、怪しさを唯潵の如く散らさう、と人に告げぬのでは無いけれども、昼間さへ、分けて夜に成つて、城ヶ沼の三町四方へ寄附かうと言ふ兄哥は居らぬ。  殆んど我身を持て余した頃の、其の夜…… 「お前様が逢はしつた坊主が来て、のつそり立つた。や、これも怪しい。顔色の蒼ざめた墨の法衣の、がんばり入道、影の薄さも不気味な和尚、鯰でも化けたか、と思ふたが、――恁く〳〵の次第ぢや、御出家、……大方は亡霊が廻向を頼むであらうと思ふで、功徳の為め、丑満まで此処にござつて引導を頼むでがす。――旅の疲労も有らつしやらうか、何なら、今夜は私が小家へ休んで、明日の晩にも、と言ふたが、其には及ばぬ……若しや、其が真実なら、片時も早く苦艱を救ふて進ぜたい。南無南無と口の裡で唱うるで、饗応振に、藁など敷いて坐らせて、足代の上を黒坊主と入替つた。  さあ、身代りは出来たぞ! 一目彼の女を見され、即座に法衣を着た巌と成つて、一寸も動けまい、と暗の夜道を馴れた道ぢや、すた〳〵と小家へ帰つてのけた……  翌朝疾く握飯を拵へ、竹の皮包みに為て、坊様を見舞に行きつけ…靄の中に影もねえだよ。  はあ、よもや、とは思ふたが、矢張り鯰めが来せたげな。えゝ、埒もない、と気が抜けて、又番人ぢや、と落胆したゞが、其の晩もう一度行く、と待つとも無う夜が更けても、何時の影は映らなんだ。四手を上げても星も懸らず、鬢の香のする雫も落ちぬ。あゝ、引導を渡したな。勿躰ない、名僧智識で有つたもの、と足代の藁を頂いたゞがの、……其では、お前様が私の後へござつて、其の坊主に逢しつたものだんべい。  ……までは、はあ、分つたが、私が城ヶ沼の水の映る女を見はじめたは久い以前ぢや。お前様湯治にござつて、奥様の行方が知れなく成つたは、つひ此の頃の事ではねえだか、坊様は何処で聞いて、奥様の言づけを為たゞがの。」 「其を坊様が言つたんです。其の出家の言ふには、 『……人は知らぬが、此処に居た老人に、水の中へ姿を顕はす幻の婦に廻向を、と頼まれて、出家の役ぢや、……宵から念仏を唱へて待つ、と時刻が来た。  大沼の水は唯、風にも成らず雨にも成らぬ、灰色の雲の倒れた広い亡体のやうに見えたのが、汀からはじめて、ひた〳〵と呼吸をし出した。ひた〳〵と言ひ出した。幽にひた〳〵と鳴出した。  町方、里近の川は、真夜中に成ると流の音が留むと言ふが反対ぢやな。此の沼は、其時分から動き出す……呼吸が全躰に通ふたら、真中から、むつくと起きて、どつと洪水に成りはせぬかと思ふ物凄さぢや。  と其の中に何やら声がする。』……と坊主が言ひます。」 二十三  其の声が、五位鷺の、げつく、げつくとも聞こえれば、狐の叫ぶやうでもあるし、鼬がキチ〳〵と歯ぎしりする、勘走つたのも交つた。然うかと思ふと、遠い国から鐘の音が響いて来るか、とも聞取られて、何となく其処等ががや〳〵し出す……雑多な声を袋に入れて、虚空から沼の上へ、口を弛めて、わや〳〵と打撒けたやうに思ふと、 『血を洗へ、』 『洗へ』 『人間の血を洗へ。』 『笘で破つた。』 『鞭で切つた。』 『爪で裂いた。』 『膚を浄めろ、』 『浄めろ。』 と高く低く、声々に大沼のひた〳〵と鳴るのが交つて、暗夜を刻んで響いたが、雲から下りたか、水から湧いたか、沼の真中あたりへ薄い煙が朦朧と靡いて立つ…… 『煮殺すではないぞ。』 『うでるでない。』と言ふ。 『湯加減、湯加減、』 『水加減。』と喚いた…… 『沼の湯は熱いか。』とぼやけた音で聞くのがある…… 『熱湯。』と簡単に答へた。 『人間は知るまいな。』 『知るものか。』と傲然とした調子で言つた。 『沼から何で沸湯が出る。』 『此の湯が沸いて殺さぬと、魚が殖へて水が無くなる、沼が乾くわ。』 と言つた。 『嘵舌るな、働け。』 『血を洗へ、』 『傷を洗へ』 『小袖を剥がせ』 『此の紫は?』 『菖蒲よ、藤よ。』 『帯が長いぞ。』 『蔦、桂、山鳥の尾よ。』 『下着も奪へ、』 『此の紅は、』 『もみぢ、花。』 『やあ、此の膚は、』 『山陰の雪だ。』  ひいツ、と魂消つて悲鳴を上げた、糸のやうな女の声が谺を返して沼に響いた。  坊主が此処まで言つた時、聞いてた私は熱鉄のやうな汗が流れた。」 と雪枝は老爺に語りながら唇を戦かせて、 「尚ほ坊主が続けて、話す。  さあ何ものかゞ寄つて集つて、誰かを白裸にした、と思へば、 『犬よ、犬よ。』と呼んだのがある。  びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥かに犬が長吠して、可忌しく夜陰を貫いたが、瞬く間に、里の方から、風のやうに颯と来て、背後から、足代場の上に蹲つた――法衣の袖を掠めて飛んだ、トタンに腥い獣の香がした。  水の上で、わん、わん、と啼く…… 『男は知るまい。』 『うゝ、』と犬の声。 『不便な奴だ。』 『びやう、』と又啼いた。  此の間、ざぶり〳〵と水を懸ける音が頻にした。 『やがて可いか、』 『血は留まつた。』 『又鞭打つて、』 『又洗はう。』 『やあ、己が手、』 『我が足、』 『此の面に絡はるは。』 『水に拡がる黒髪ぢや、』 『山の婆々の白髪のやうに、すく〳〵と痛うは刺さぬ。』 『蛇よりは心地よやな。』と次第に声が風に乗り行く…… 二十四  びやう〳〵と凄い声で、形は見えず、沼の上で空ざまに犬が啼く。 『犬よ、犬よ。』 『おう。』と吠えた。 『人間の目には見えぬ……城山の天守の上に、女は梁から釣して置く、と男に言へ!』 『何が、彼の耳へ入らう。』 『わん、と啼いたら、犬だと思はう、彼の痴漢が。』 と嘲る声。傍から老けた声して、 『……其の言附は、犬では不可ぬ。時鳥に一声啼かせろ。』 『まだ〳〵、まだ〳〵、山の中の約束は、人間のやうに間違はぬ。今は未だ時鳥の啼く時節で無い。』 『唯姿だけ見せれば可い。温泉宿の二階は高し。あの欄干から飛込ませろ、……女房は帰らぬぞ、女房は帰らぬぞ、と羽で天井をばさばさ遣らせろ。』 『男は、女の魂が時鳥に成つた夢を見て、白い毛布で包んで取らうと血眼で追駆け回さう……寐惚面見るやうだ。』  どつと笑つて、天守の方へ消えた後は、颯々と風に成つた。  が、田畠野の空を、山の端差して、何となく暗ながら雲がむくむくと通つて行く。其の気勢が、やがて昼間見た天守の棟の上に着いた程に、ドヽンと凄い音がして、足代に乗つた目の下、老人が沈めて去つた四つ手網の真中あたりへ、したゝかな物の落ちた音。水が環に成つて、颯と網を乗出して展げた中へ、天守の影が、壁も仄白く見えるまで、三重あたりを樹の梢に囲まれながら、歴然と映つて出た。  不思議や、其の天守の壁を透いて、中に灯を点けたやうに、魚の形した黄色い明のひら〳〵するのが、矢間の間から、深い処に横開けで、網の目が映るのか凡そ五十畳ばかりの広間が、水底から水面へ、斜に立懸けたやうに成つて、ふわ〳〵と動いて見える。  他に何も無く誰も居らぬ。灯唯一つ有る。其の灯が、背中から淡く射して、真白な乳の下を透す、……帯のあたりが、薄青く水に成つて、ゆら〳〵と流れるやうな、下が裙に成つて、一寸灯の影で胴から切れた形で、胸を反らした、顔を仰向けに、悚然とするやうな美い婦。  処で、水へ映る影と言へば、我が面影を覗くやうに、沼に向つて、顔を合はせるやうに見えるのであらう、と思ふたが違う。――黒髪が岸へ、足が彼方へ、たとへば向ふの汀から影が映すのを、倒に視める形。つく〴〵と見れば無残や、形のない声が言交はした如く、頭が畳の上へ離れ、裙が梁にも留まらずに上から倒に釣して有る……  と身を悶くか水が揺れるか、わな〳〵と姿が戦く――天守の影の天井から真黒な雫が落ちて、其の手足に懸つて、其のまゝ髪の毛を伝ふやうに、長く成つて、下へぽた〳〵と落ちて、ずらりと伸びて、廻りつ畝りつするのを、魚の泳ぐのか、と思ふと幾条かの蛇で、梁にでも巣をくつて居るらしい。  然うかと思ふと、膝のあたりを、のそ〳〵と山猫が這つて通る。階子の下から上つて来るらしく、海豚が躍るやうな影法師は狐で。ひよいと飛上るのもあれば、ぐる〳〵と歩行き廻るのもあるし、胴を伸ばして矢間から衝と出て、天守の棟で鯱立ちに成るのも見える。  時々ひら〳〵と烏が出て、翼で、女の胸を払く……  中に見る目も恐しかつたは、――茶と白大斑の獣が一頭、天守の階子を、のし〳〵と、蹄で蹈んで上つて、畳を抱いて人のやうに立上つた影法師が、女の上を横に通ると、姿は隠れて、颯と蒼く成つた面影と、ちらりと白い爪尖ばかりの残つた時で――獣が頓て消えたと思ふと、胸を映した影が波立ち、髪を宿した水が動いた…… 『御身が女房の光景ぢや。』と坊主が私の顔の前へ、何故か大な掌を開けて出した。」 誂へ物 二十五 「私は息を引いて退つたんです。」と雪枝は尚ほ語り続けた。 「……水の中からともなく、空からともなく、幽に細々とした消えるやうな、少い女の声で、出家を呼んだ、と言ひます。  而して、百年以来、天守に棲む或怪いものゝ手を攫はれて、今見らるゝ通りの苦艱を受ける……何とぞ此の趣を、温泉に今も逗留する夫に伝へて、寸時も早く人間界に助けられたい。救ふには、天守の主人が満足する、自分の身代りに成るほどな、木彫の像を、夫の手で刻んで償ふ事で。其の他に助かる術はない……とあつた。 『都の人、唯私が口から言ふたでは、余の事に真とされまい。……あはれな犠牲の婦人も、唯恁う申したばかりでは、夫も心に疑ひませう……今其の印を、と言ふてな、色は褪せたが、可愛い唇を動かすと、白歯に啣えたものがある。白魚の目のやうな黒い点々が一つ見えた……口からは不躾ながら、見らるゝ通り縛めの後手なれば、指さへ随意には動かされず……あゝ、苦しい。と総身を震はして、小さな口を切なさうに曲めて開けると、煽つ水に掻乱されて影が消えた。戞然と音して足代の上へ、大空からハタと落ちて来たものがある……手に取ると霰のやうに冷たかつたが、消えも解けもしないで、破れ法衣の袖に残つた。 『印はこれぢや。』 と私の掌を開けさせて、ころりと振つて乗せたのは、忘れもしない、双六谷で、夫婦が未来の有無を賭為やうと思つて買つた采だつたんです。 『都の人、』 と坊主は又更めて、 『御身は木彫を行るかな。』 『行ります!』 と答へた時、私は蘇生つたやうに思つた。水も白く夜も明く成つた……お浦の行方も知れ、其の在所も分り、草鞋や松明で探つた処で、所詮無駄だと断念も着く……其に、魔物の手から女房を取返す手段も出来た。我が手に身代の像を作れと云ふ。敢て黄金を積め、山を崩せ、と命ずるのでは無いから、前途に光明が輝いて、心は早や明かに渠を救ふ途の第一歩を辿り得た。  草を開いて、天守に昇る路も一筋、城ヶ沼の水を灌いで、野山をかけて流すやうに足許から動いて見える。  我が妻、聞くが如くんば、御身は肉を裂かれ、我は腸を断つ。相較べて劣りはせじ。堪へよ、暫時、製作に骨を削り、血を灌いで、…其の苦痛を償はう、と城ヶ沼に対して、瞑目し、振返つて、天守の空に高く両手を翳して誓つた。  其の時、お浦が唇を開いて、僧の手に落したと云ふ、猪の牙の采を自分の口に含んで居た。が、同じ舌の尖に触れた、と思ふと血を絞つて湧き出づる火のやうな涙とゝもに、ほろり、と采が手に落ちた。其の掌を忘るゝばかり心を詰めて握占めた時、花の輪が渦くやうに製作の興が湧いた。――閉づる、又開く、扇の要を思着いた、骨あれば筋あれば、手も動かう、足も伸びやう……風ある如く言はう…と早や我が作る木彫の像は、活きて動いて、我が身ながらも頼母しい。さて其の要は、……手に握つた采であつた。  天が命じて、我をして為さしむる、我が作す美女の立像は、其の掌に采を包んで、作の神秘を胸に籠めやう。言ふまでも無く、其の面影、其の姿は、古城の天守の囚と成つた、最惜い妻を其のまゝ、と豁然として悟ると同時に、腕には斧を取る力が籠つて、指と指とは鑿を持たうとして自然で動く――時なる哉、作の頭に飾るが如く、雲を破つて、晃々と星が映つた。  星の下を飛んで帰つて、温泉の宿で、早や準備を、と足が浮く、と最う遠く離れた谿河の流が、砥石を洗ふ響を伝へる。 二十六  然うすると、心に刻んで、想像に製り上げた……城の俘虜を模型と為た彫像が、一団の雪の如く、沼縁にすらりと立つ。手を伸べよ、と思へば伸べ、乳を蔽へと思へば蔽ひ、髪を乱せと思へば乱れ、結べよ、と思へば結ばる――さて、衣を着せやうと思へば着る。  作の出来栄を予想して、放つ薫、閃めく光の如く眼前に露はれた此の彫像の幻影は、悪魔が手に、帯を奪はうとして、成らず、衣を解かうとして、得ず、縛められても悩まず、鞭つても痛まず、恐らく火にも焼けず、水にも溺れまい。  見よ〳〵、同じ幻ながら、此の影は出家の口より伝へられたやうな、倒に梁に釣される、繊弱い可哀なものでは無い。真直に、正しく、美しく立つ。あゝ、玉の如き肩に、柳の如き黒髪よ、白百合の如き胸よ、と恍惚と我を忘れて、偉大なる力は、我が手に作らるべき此の佳作を得むが為め、良匠の精力をして短き時間に尽さしむべく、然も其の労力に仕払ふべき、報酬の量の莫大なるに苦んで、生命にも代へて最惜む恋人を仮に奪ふて、交換すべき条件に充つる人質と為たに相違ない。  卑怯なる哉、土地祇、……実に雪枝が製作の美人を求めば、礼を厚くして来り請はずや。もし其の代価に苦むとならば、玉を捧げよ、能はずんば鉱石を捧げよ、能はずんば巌を欠いて来り捧げよ。一枝の桂を折れ、一輪の花を摘め。奚ぞみだりに妻に仇して、我をして避くるに処なく、辞するに其の術なからしむる。……汝等、此処に、立処に作品の影の顕はれたる此の幻の姿に対して、其の礼無きを恥ぢざるや……  と背後から視めて意気昂つて、腕を拱いて、虚空を睨んだ。腰には、暗夜を切つて、直ちに木像の美女とすべき、一口の宝刀を佩びたる如く、其の威力に脚を踏んで、胸を反らした。 「本気の沙汰ではない、世にあるまじき呵責の苦痛を受けて居る、女房の音信を聞いて、赫と成つて気が違つたんです。」  我と我が想像に酔つて、見惚れた玉の膚の背を透して、坊主の黒い法衣が映る、と水の中に天守の梁に釣下げられた、其の姿を獣の襲ふ、其の俤を歴然と見た。無惨の状に、ふつと掻消した如く美しいものは消えた。 『呼ぶわ、呼ぶわ。』 と云つた坊主の声。 『おゝい〳〵、』 『お客様、お客様。』 と叫ぶのが、遥に、弱い稲妻のやうに夜中を走つて、提灯の灯が点々畷に徉徜ふ。 『お客様。』 『旦那、』 『奥方様。』  あゝ、又奥方様をくはせる……剰へ、今心着いて、耳を澄ませて聞けば、我自からも、此の頃では鉦太鼓こそ鳴らさぬけれども、土俗に今も遣る……天狗に攫はれたものを探す方法で、あの通り呼立て居る――成程然う思へば、何時温泉の宿を出て、何処を通つて、城ヶ沼に来たか覚えて居らぬ。 『御身を呼ぶぢやろ、去なつしやい。』と坊主が、はつと又其の掌を拡げた。此の煽動に横顔を払はれたやうに思つて、蹌踉としたが、惟ふに幻覚から覚めた疲労であらう、坊主が故意に然うしたものでは無いらしい。 『御身が内儀の言づけを忘れまいな。』 『忘れない。』 と奮然として答へた。既に鬼神に感応ある、芸術家に対して、坊主の言語と挙動は、何となく嘗め過ぎたやうに思はれたから……其のまゝ肩を聳やかして、三つ四つ輝く星を取つて、直ちに額を飾る意気組。背を高く、足を踏んで、沼の岸を離れると、足代に突立つて見送つた坊主の影は、背後から蔽覆さる如く、大なる形に成つて見えた。 二十七  温泉の宿を差して、城ヶ沼から引返す途中は、気も漫に、直ぐにも初むべき――否、手は既に何等か其に向つて働く……新な事業に対する感興の雲に乗るやう、腕が翼に成つて、星の下を飛ぶが如き心地した。  恁うまで情の昂ぶつた処へ、はたと宿から捜しに出た一行七八人の同勢に出逢つたのである……定紋の着いた提灯が一群の中に三ツばかり、念仏講の崩れとも見えれば、尋常遠出の宿引とも見えるが、旅籠屋に取つては実際容易な事では無からう、――仮初に宿つた夫婦が、婦は生死も行衛も知れず、男は其が為に、殆んど狂乱の形で、夜昼とも無しに迷ひ歩行く……  不面目ゆゑ、国許へ通知は無用、と当人は堅く留めたものゝ、唯、然やうで、とばかりで旅籠屋では済まして居られぬ。  で、宿の了見ばかりで電報を打つた、と見えて其処で出逢つた一群の内には、お浦の親類が二人も交つた、……此の中に居ない巡査などは、同じ目的で、別の方面に向つて居るらしい。  畝路で出合がしらに、一同は騒ぎ立てた。就中、わざ〳〵東京から出張つて来た親類のものは、或は慰め、或は励まし、又戒めなどする種々の言葉を、立続けに嘵舌つたが、頭から耳にも入れず……暗闇の路次へ入つて、ハタと板塀に突当つたやうに、棒立ちに成つて居たが、唐突に、片手の掌を開けて、ぬい、と渠等の前へ突出した。坊主が自分に向つて同じ事を為たのを、フト思出したのが、殆んど無意識に挙動に出た。ト尠からず一同を驚かして、皆だぢ〳〵と成つて退る。  ト此の鑿を持ち、鏨を持つべき腕は、一度掌を返して、多勢を圧して将棊倒しにもする、大なる権威の備はるが如くに思つて、会心自得の意を、高声に漏らして、呵々と笑つた。 『御苦労御苦労、真に御骨折を懸けて誰方にも相済まん。が、最う御心配には及ばんのだ。――お聞きなさい、行衛の知れなかつた家内は、唯今其の所在が分つた。……ナニ、無事か? 無事かではない。考えて見たつて知れます。繊弱い婦だ、然も蒲柳の質です。一寸躓いても怪我をするのに、方角の知れない山の中で、掻消すやうに隠れたものが無事で居やう筈はないではないか。  決して安泰ではない。正に其の爪を剥ぎ、血を絞り、肉を毮り骨を削るやうな大苦艱を受けて居る、倒に釣られて居る。…………………』 と戦いたが、すぐ肩を聳かした。 『何処に居る? 何、お浦の所在は何処だ、と言ふのか。いや、君方に、其は話しても分るまい。水の底のやうな、樹の梢のやうな、雲の中のやうな、……それぢや分らん、分らない、と言ふのかね、勿論分りませんとも!  吾輩には丁と分つて居る。位置も方角も残らず知つてる、――指して言へば、土地のものは残らず知つてる。けれども其を話すとなると、それ行け、救へで、松明を振り、鯨波の声を揚げて騒ぐ、騒いだ処で所詮駄目です。  誰が行つても何者が騒いでも、迚も彼は救ひ出せない。  おゝ! 君達にも粗想像出来るか、お浦は魔に攫はれた、天狗が掴んだ、……恐らく然うだらう。……が、私は此を地祇神の所業と惟ふ。たゞし、鬼にしろ、神にしろ、天狗にしろ、何のためにお浦を攫つたか、其の意味が分るまい、諸君には知れなからう。  独りこれを知るものは吾輩だよ。而して此を救ふものも又吾輩でなければ不可い。然も彼を連れ返る道は、丁と最う着いて居るんだ。唯少時の辛抱です。いや〳〵、決して貴下方が御辛抱なさるには及ばん。辛抱をするのはお浦だ、可哀想な婦だ。我慢をしてくれ、お浦、腕は確だ。』 と、掌を開いて、ぱつ、と出す。と一同はどさ〳〵と又退つた。吃驚して泥田へ片脚落したのもある、……ばちやりと音して。…… 『気が違つた。』 『変だ。』 『真物だ。』……と囁き合ふ。 祠 二十八  狂気した、変だ、と云ふのは言葉の切目毎に耳に入つた。が、これほど確な事を、渠等は雲を掴むやうに聞くのであらう。我は手に握つて、双の眼で明かに見る采の目を、多勢が暗中に摸索して、丁か、半か、生か、死か、と喧々騒ぎ立てるほど可笑な事は無い。 『はゝゝ、大丈夫、心配は無いと云ふに、――お浦の所在も、救ふ路も、すべて掌の中に在る。吾輩が掴んで居る。要は唯掴んだ此の手を開く時間を待つ事だ。――今開け、と云つても然うは不可ん。唯、開くのではない、開いてお浦の掌へ返すんだ、いや〳〵彫像の拳に納めるんだ。』 と、益々こんがらかつて、自分にも分らなく成る。先方のきよとつくだけ此方は苛立つ。言へば言ふほど枝葉が茂つて、路が岐れて谷が深く、野が広く、山が高く成つて、雲が湧き出す、霞がかゝる、果は焦込んで、空を打つて、 『皆、これだ。』 と高い処から揮下ろした拳の中に、……采を掴んで居た事は云ふまでも無い。 『……狂人でも何でも構はん。自分が生命がけの女房を自分が救ふに間違は有るまい。凡て任して貰はう。何でも私のするまゝに為して下さい。……  処で、私が、お浦を救ふ道として、進むべき第一歩は、何処でも可い、小家を一軒探す事だ。小家でも可、辻堂、祠でも構はん、何でも人の居ない空屋が望みだ。  何、そんな処にお浦が居るか、と……詰らん事を――お浦の居処は居処で話が違う。空家を探すのは私が探して私が其処へ入るんだ。――所帯を持つのぢやない。……えゝ、落着いて、聞かなければ不可ん。  宜いかね、此を要するに、少くとも空屋に限る……有りますか、人の居ない小家はあるか。有れば、其処へ行く。これから此の足で直ぐに行きます。――宿へ帰つて一先づ落着け? ……呑気な事を。落着いて相談と? ……此の上何の相談を為るんです。お浦を救ふのには一刻を争ふ、寸秒を惜む。早速さあ、人の居ない小家、辻堂、祠、何でも構はん、其処へ行かう。行つて直ぐに仕事にかゝる。が、誰も来ては不可い、屹と来ては不可い、いづれ、やがて其の仕事が出来ると、お浦と一所に、諸共にお目に懸つて更めて御挨拶をする。  しかし、恁う言ふのを信じないで、私に任かせることを不安心と思ふなら、提灯の上に松明の数を殖して、鉄砲持参で、隊を造つて、喇叭を吹いてお捜しなさい、其は御勝手です。』 と嘲けるやうに又アハアハ笑ふ。いや、気味の悪い…… 『あれ、天狗様が憑移らしやつた。』 『魔道に墜ちさしたものだんべい。』 と密いて言ふのが聞えた。  が、最う、そんな事に頓着しない。人間などには目も懸けないで、暗い中を矢鱈に、其処等の樹を眺めた。刻むに佳い枝や、幹や、と目を光らす……これも眼前、魔に心を通はす挙動の如くに見えたであらう。  けれども言出した事は、其の勢だけに誰一人深切づくにも敢て留めやうとするものは無く、……其の同勢で、ぞろ〳〵と温泉宿へ帰る途中、畷を片傍に引込んだ、森の中の、とある祠へ、送込んだ……と言ふよりは、づか〳〵踏込んだ。後に踵いて来て、渠等は狐格子の外で留まつたのである。  提灯を一個引奪つて、三段ばかりある階の正面へ突立つて、一揆を制するが如く、大手を拡げて、 『さあ、皆帰れ。而して誰か宿屋へ行つて、私の大鞄を脊負つて来て貰はう。――中にすべて仕事に必要な道具がある。……私は最う、あの座敷へ入つて、脱いである衣服、解いてある紅い扱帯を見るに忍びん。……彼が魔物の手に懸つて、身悶へしながら、帯からはじめて解き去らるゝのを目の前に見るやうだから。』  親類の一人、インバネスを着た男が真前に立つて、皆ぞろ〳〵と帰つた。……其の影が潜つて出る、祠の前の、倒れかゝつた木の鳥居に張つた、何時の時のか、注連縄の残つたのが、二ツ三ツのたくつて、づらりと懸つた蛇に見えた…… 二十九  はて、面白い。あれが天井を伝ふ朽縄なら、其の下に、しよんぼりと立つた柱は、直ぐにお浦の姿に成る……取つて像を刻む材料に遣うと為やう。鋸で挽いて、女の立像だけ抜いて取る、と鳥居は、片仮名のヰの字に成つて、祠の前に、森の出口から、田甫、畷、山を覗いて立つであらう。  と凝と視める、と最う其の鳥居の柱の中へ、婦の姿が透いて映る……木目が水のやうに膚に絡ふて。 『旦那様、お荷物な持つて参りやした、まあ、暗え処に何を為てござらつしやる。』  成程、狐格子に釣つて置いた提灯は何時までも蝋燭が消たずには居らぬ。……気が着くと板椽に腰を落し、段に脚を投げてぐつたりして居た。  鞄を脊負つて来たのは木樵の権七で、此の男は、お浦を見失つた当時、うか〳〵城趾へ徉徜つたのを宿へ連られてから、一寸々々出て来ては記憶の裡へ影を露はす。此と、城ヶ沼の黒坊主の蒼ざめた面影を除いては、誰の顔も判然覚えて居なかつた。 『燈明を点けさつしやりませ。洋燈では旦那様の身躰危いと言ふで、種油提げて、燈心土器を用意して参りやしたよ。追附け、寝道具も運ぶでがすで。気を静めて休まつしやりませ。……私等も又、油断なく奥様の行衛な捜しますだで、えら、心を狂はさつしやりますな。』 と言ふ〳〵燈心を点して、板敷の上へ薄縁を伸べたり、毛布を敷く…… 『私が頼まれましたけに、ちよく〳〵見廻りに参りますだ。用があるなら、言着けてくらつせえましよ。』 と背後むきに踵で探つて、草履を穿いて、壇を下りて、てく〳〵出て行く。 『待て、待て。』と追つて出て、鳥居をする〳〵と撫でゝ見せた。 『村一同へ言づけを頼まう。此の柱を一本頂く……此の鳥居のな。……後で幾らでも建立するから、と然う言つてな。』 『はい、……えゝ、東京からござつた旦那方も其のつもりで相談打たしつた。奥様の居さつしやる処の知れるまでは、何でもお前様する事に逆らはねえやうにと言ふだで、随分好き次第にさつしやるが可うがんす。だが、もの、鳥居の木柱な何うするだね。』 『此を刻んで像を造る、婦のな、それは美しい、先づ弁天様と言つたもんだ、お前にも見せて遣らう、吃驚するなよ。』 と其の呆れ顔を掌でべたりと撫でる。と此処へ一人で遣つて来るほど性根の据つた奴、突然早腰も抜かさなんだが、目を蔽ふて、面を背けて、 『いとしぼげな、御道理でござります。』 とのそ〳〵帰る……矢張りお浦を攫はれた為に、気が違つたと思ふらしい。いや、是だから人間の来るのは煩い! 「……しかし、其の後とも三度の食事、火なり、水なり、祠へ来て用を達してくれたのは其の男で。時とすると、二時三時も傍に居て熟と私の仕事を見て居る。口も出さず邪魔には成らん。  で、下仕事の手伝ぐらゐは間に合つたんです。」 と雪枝は更めて言つた。 「処で、一刻も疾く仕上げにしやうと思ふから、飯も手掴みで、水で嚥下す勢、目を据えて働くので、日も時間も、殆んど昼夜の見境はない。……女の像の第一作が、まだ手足までは出来なかつたが、略顔の容が備はつて、胸から鳩尾へかけて膨りと成つた、木材に乳が双んで、目鼻口元の刻まれた、フトした時…… 『どうだ、大分ものに成つたらう、』と聊か得意で。丁ど居合はせた権七の顔を目を挙げて恁う見ると……日に焼けた色の黒いのが又恐ろしく真黒で、額が出て、唇が長く反つて、目ががつくりと窪んだ、其の目がピカ〳〵と光つて、ふツふツ、はツはツ、と喘ぐやうな息をする。…… 供揃へ 三十  いや、其の息の臭い事……剰へ、立つでもなく坐るでもなく、中腰に蹲んだ山男の膝が折れかゝつた朽木同然、節くれ立つてギクリと曲り、腕組をした肱ばかりが胸に附着き、布子の袖の元へ窄つて両方へ刎ねた処が、宛然の翼。 『権七ぢやない! 小天狗が、天守から見張りに来たな。』  思はず突立つと、出来かゝつた像を覗いて、角を扁平くしたやうな小鼻を、ひいくひいく、……ふツふツはツはツと息を吹いて居たのが、尖つた口を仰様に一つぶるツと振ふと、面を倒にしたと思へ。  彫像の眼球をグサリと刺した。  はつと思へば、烏ほどの真黒な鳥が一羽虫蝕だらけの格天井を颯と掠めて狐格子をばさりと飛出す……  目一つ抉られては半身をけづり去られたも同じ事、是がために、第一の作は不用に帰した。  ……余りの仕儀に唯茫然として、果は涙を流したが、いや〳〵、爰に形づくられた未製品は、其の容半ばにして、早くも何処にか破綻を生じて、我が作を欲するものゝ、不満足を来たしたのであらう――いかさまにも一つ残つた瞳を見れば、お浦の其より情を宿さぬ、露も帯びぬ、……手足既に完うして斧を以て砕かれても、対手が鬼神では文句はない筈。力を傾け尽さぬうち、予め其の欠点を指示して一思ひに未練を棄てさせたは、寧ろ尠からぬ慈悲である……  で、直ちに木材を伐更めて、第二の像を刻みはじめた。が、又此の作に対する迫害は一通りではないのであつた。猫が来て踏んで行抜ける、鼠が噛る。とろ〳〵と睡つて覚めれば、犬が来てぺろ〳〵と嘗めて居る……胴中を蛇が巻く、今穴を出たらしい家守が来て鼻の上を縦にのたくる……やがては作者の身躰を襲ふて、手をゆすぶる、襟頸を取つて引倒す、何者か知れずキチ〳〵と啼いて脇の下をこそぐり掛ける。  無残や、其の中にも命を懸けて、漸と五躰を調へたのが、指が折れる、乳首が欠ける、耳が挘げる、――これは我が手に打砕いた、其の斧を揮つた時、さく〳〵さゝらに成り行く像は、骨を裂く音がして、物凄く飛騨山の谺に響いた。  其の夜更けから、しばらく正躰を失つたが、時も知らず我に返ると、忽ち第三番目を作りはじめた、……時に祠の前の鳥居は倒れて、朽ちたる縄は、ほろ〳〵と断れて跡もなく成る。……  と今度のは完成した。而して本堂の正面に、支も置かず、内端に組んだ、肉づきのしまつた、膝脛の釣合よく、すつくりと立つた時、木の膚は小刀の冴に、恰も霜の如く白く見えた。……が扉を開いて、伝説なき縁起なき由緒なき、一躰風流なる女神のまざ〳〵として露はれたか、と疑はれて、傍の棚に残つた古幣の斜めに立つたのに対して、敢て憚るべき色は無かつた。  折から来合はせた権七に見せると、色を変へ、口を尖らせ、目を光らせて視めたが、其の面は烏にも成らず、……脚は朽木にも成らず、袖は羽にも成らぬ。  其処で、自分で引背負ふなり、抱くなりして、其の彫像を城趾の天守に運ぶ。……途中の塵を避けるため蔽がはりに、お浦の着換を、と思つて、権七を温泉宿まで取りに遣つた。  あとで、此の祠に籠つてから、幾日の間か鳥居より外へは出ない、身躰を伸々として大手を振つて畝路から畷へ出た――然まで遠くもない城ヶ沼の方へ、何となく足が向いて、ぶらり〳〵と歩行いたが、我が住居を出て其処等散歩をする、……祠の家にはお浦が居て留主をして、我がために燈火のもとで針仕事でも為て居るやうな、つひした楽しい心地がする。……細い杖を持たないのが物足りないくらゐなもので。  風もふわ〳〵と樹の枝を擽つて、はら〳〵笑はせて花にしやうとするらしい、壺の中のやうではあるが、山国の夜は朧。 三十一  譬へば城ヶ沼を裏返して、空へ漲らした夜の色――寝をびれて戸惑ひをしたやうな肥つた月が、田の水にも映らず、山の姿も照らさず……然うかと言つて並木の松に隠れもせず、谷の底にも落ちないで、ふわりと便のない処に、土器色して、畷も畝も茫と明いのに、粘つた、生暖い小糠雨が、月の上からともなく、下からともなく、しつとりと来て、むら〳〵と途中で消える……と髪も衣も濡れもしないで、湿ぽい。が、手で撫でゝ見ても雫は分らぬ。――雨が降るのではない、月が欠伸する息がかゝるのであらう……そんな晩には獺が化けると言ふが、山国に其は相応はぬ。イワナが化けて坊主になつて、殺生禁断の説教に念仏唱へて辿りさうな。……  処を、歩行く途中、人一人にも逢はなんだ、が逢へば婦でも山猫でも、皆坊主の姿に見えやうと思つた。  こん〳〵と狐が啼いた。……犬の声ではない。唯ある松の樹の蔭で、つひ通りかゝつた足許で。  こん〳〵こん〳〵と啼くのに、フト耳を傾けて、虫を聞くが如く立停ると、何かものを言ふやうで、 『コンクワイ、クワイ、来ぬかい、来ぬかい。』と恁う啼く。 『来ぬかい、来ぬかい、来ぬかい、案山子、来ぬかい案山子、』と又聞える。  聞く中に、畝の蔭から、ひよいと出て立つた、藁束に竹の脚で、痩さらばへたものがある。……凩に吹かれぬ前に、雪国の雪が不意に来て、其のまゝ焚附にも成らずに残つた、冬の中は、真白な寐床へ潜つて、立身でぬく〳〵と過ごしたあとを、草枕で寐込んで居た、これは飛騨山の案山子である。  此の親仁、破れ簑の毛を垂らして、しよぼりとした躰で、ひよこひよこと動いて来て、よたりと松の幹へ凭かゝつて、と其処へ立つて留まる。 『来んかい、案山子、来んかい、案山子………』と例の声が尚ほ続けて呼ぶ。  些と離れた畝を伝つて、向ふから又一つ、ひよい〳〵と来て、ばさりと頭を寄せて同じく留まる。と素直な畷筋を、別に一個よたよた〳〵〳〵と、其でも小刻の一本脚、竹を早めて急いで近寄る。  此の後のなんぞは、何処で工面をしたか、竹の小笠を横ちよに被つて、仔細らしく、其の笠を歩行に連れてぱく〳〵と上下に揺つたもので。  三個が、……其から土瓶を釣つて番茶でも煮さうな形に集まると、何かゞ又啼き出す。 『コー〳〵〳〵、急がう急がう。』  ばさ〳〵、と左右へ分れて、前後に入乱れたが、やがて畷へ三個で並ぶ。  其時樹の上から、何やら鳥の声がして、 『何処え行、何処え行!』  で、がさりと枝を踏んだ音がした。何うやらものゝ、嘴を長く畷を瞰下ろす気勢がした。 『ほこらだ。』 『ほこら、』 『ほこらへ行くだ。』 とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと歩行き出す……案山子どもの出向くのが、祠の方へ、雪枝の来た路の方角に当る。向ふを指して城ヶ沼へ身投げに行くのでは無いらしい。  待て、よくは分らぬ、其処等と言ふか、祠と言ふか、声を伝へる生暖い夜風もサテぼやけたが、……帰り路なれば引返して、うか〳〵と漫歩行きの踵を返す。 『く、く、く、』 『ふ、ふ、』 『は、は、は、』と形も定めず、むや〳〵の海鼠のやうな影法師が、案山子の脚もとを四ツ五ツむら〳〵と纒ふて進む。 「それは狐か犬らしい、其とも何か鳥が居て、上をふわ〳〵と飛んだのかも分りません。」 と雪枝は老爺に言ふのであつた…… 三十二 「忘れもしない、温泉へ行きがけには、夫婦が腕車で通つた並木を、魔物が何うです、……勝手次第な其の躰でせう。」  来る時は気がつかなかつたが、時に帰がけに案山子の歩行く後から見ると、途中に一里塚のやうな小蔭があつて、松は其処に、梢が低く枝が垂れた。塚の上に趺坐して打傾いて頬杖をした、如意輪の石像があつた。と彼のたよりのない土器色の月は、ぶらりと下つて、仏の頬を片々照らして、木蓮の花を手向けたやうな影が射した。  其の前を、一列びに、ふら〳〵と通懸つて、 『御許され』と案山子の一つが言へば、 『御許され。』 と又一つが同じ言を繰返す。 『御許され、御許され。』と声が交つて、喧々と嘵舌つた、と思はれよ。 『大儀ぢや』 と正しく如意輪が仰せあつた…… 『はツ、』と云ふと一個、丁ど石高道の石磈へ其の一本竹を踏掛けた真中のが、カタリと脚に音を立てると、乗上つたやうに、ひよい、と背が高く成つて、直に、ひよこりと又同じ丈に歩行き出す。  人間が前へ出た時、如意輪の御姿は、スツと松蔭へ稍遠く、暗く小さく拝まれた。  雨がやゝ頻つて来た。  案山子の簑は、三つともぴしよ〳〵と音するばかり、――中にも憎かつたは後から行く奴、笠を着たを得意の容躰、もの〳〵しや左右を眴しながら前途へ蹌踉く。  果して祠を指したらしい。  横へ切れて田畝道を、向ふへ、一方が山の裙、片傍を一叢の森で仕切つた真中が、茫と展けて、草の生が朧月に、雲の簇がるやうな奥に、祠の狐格子を洩れる灯が、細雨に浸むだのを見ると――猶予はず其方へ向いて、一度斜に成つて折曲つて列り行く。  其時気に懸つたのは、祠の前を階から廻廊の下へ懸けて、たゞ三ツ五ツではない、七八ツ、それ〳〵十ウにも余る物の形が、孰も土器色の法衣に、黒い色の袈裟かけた、恰も空摸様のやうなのが、高い坊主と低い坊主と大な坊主と小さな坊主と、胡乱々々動いて、むら〳〵居る…… 『やあ、お浦を嬲る、』 と前へ行く案山子どもを、横に掠めて、一息に駆け着けて、いきなり階に飛附いて、唯見ると、扨も、寄つたわ、来たわ。僧形に見えた有りたけの人数は、其も是も同じやうな案山子の数々。――割つて通つた人間の袖の煽りに、よた〳〵と皆左右に散つた、中には廻廊に倒れかゝつて、もぞ〳〵と動くのもある。  正面に伸上つて見れば、向ふから、ひよこ〳〵来る三個の案山子も、同じやうな坊主に見えた。  扉を入ると、無事であつた。お浦を其のまゝの彫像は、灯の影にちら〳〵と瞳も動いて、人待顔に立草臥れて、横に寝たさうにも見えたのである。  下に敷いた白毛布の上には、所狭く鑿も鉋も散かり放題。初手は此の毛布に包んで、夜路を城趾へ、と思つたが、――時鳥は啼かぬけれども、然うするのは、身を放れたお浦の魂を容れたやうで、嘗て城ヶ沼の縁で旅僧の口から魔界の暗示を伝へられたゝめに――太く忌はしかつたので、……権七に取寄せさした着換の衣は、恰も祠の屋根に藤の花が咲きかゝつたのを、月が破廂から影を落したやうに届いて居た。然も燃え立つばかりの緋の扱帯は、今しも其の腰のあたりをする〳〵と辷つた如く、足許に差置かるゝ。  縋着けば、ころ〳〵と其の掌に秘めた采が鳴つた。 『ござるか。』 『…………』 『ござるか、ござるか。』 と蚯蚓の這ふやうな声が階の処で聞える。 『誰だ。』 と、うつかり、づゝと出ると、つひ忘れた……づらりと其処に案山子ども。 バサリ 三十三  其の中の孰れが言ふ? 中気病のやうな老けた、舌つ不足で、 『おねんぎよ。』と言ふ。 『おねんご。』 と又訴うる。……  糠雨の朧夜に、小き山廓の祠の前。破れ簑のしよぼ〳〵した渠等の風躰、……其の言ふ処が、お年貢、お年貢、と聞えて、未進の科条で水牢で死んだ亡者か、百姓一揆の怨霊か、と思ひ附く。其の莚旗を挙げたのが此の祠であらうも知れぬ。――が、何を求むる? 其の意を得ない。熟と瞻れば、右から左から階の前へ、ぞろ〳〵と寄つた……簑の摺合ふ音して、 『うけとろ、』 『受け取らう。』 『おねんご受取ろ。』と言ふのが、何処から出る声か、一本竹で立つた地の中から、ぶる〳〵湧出す。 『おゝ、』 と思はず合点した。 『人形か、此の彫像を受け取らうと言ふのか?』  中にも笠ある案山子の頷くのが、ぱく〳〵動く。其は途中からの馴染らしい。 『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と野良な音。恰も、おゝ、然う負はう、負され、と云ふが如し。 『可、可、』  で、衣服を被け、彫像を抱いたなり、狐格子を更めて開いて立出たつる、 『おい、案山子ども、』 と真面目に遣つた。今思へば、……言ふまでも無く何うかして居る。 『御苦労、御厚意は受取つたが、己の刻んだ此の婦は活きとるぞ。貴様たちに持運ばれては血の道を起さう、自分でおんぶだ。』 と高笑ひをして、其処で肩の上に揺上げた。抱いても腕に乗つたのに……と肩越に見上げた時、天井の蔭に髪も黒く上から覗込むやうに見えたので、歴然と、自分が彫刻師に成つた幼い時の運命が、形に出て顕はれた……雨も此の朧夜を、細く微な雪のやうに白く野山に降懸つた。 『出懸けるぞ、案内するか、続いて来るか。』  案山子どもは藁の乱れた煙の如く、前後にふら〳〵附添ふ。……而して祠の樹立を出離れる時分から、希有な一行の間に、二ツ三ツ灯が点いたが、光が有りとも見えず、ものを映さぬでも無い。たとへば月の其の本尊が霞んで了つて、田毎に宿る影ばかり、縦に雨の中へふつと映る、宵に見た土器色の月が幾つにも成つて出たらしい。  其が案山子どもの行く方へ、進めば進み、移れば移り、路を曲る時なぞは、スイと前へ飛んで、一寸停まつて、土器色を赫として待つ。ともすれば曇ることもあつた。此の灯はひく〳〵呼吸を吐く、と見えた。  低い藁屋が二三軒、煙出しの口も開かず、目もなしに、暗から潜出した獣のやうに蹲つて、寂と寝て居る前を通つた時。 『ばツさ、ばツさ。』  簑を鳴らしたのではない。案山子の一つが、最う耳に馴れて遠慮のない口を開けた。 『ばつさよ、ばつさよ。』 『コーコー、来ーい、来い。』 と最一つ嘵舌つた。  ばさりと言ふのが、ばさりと聞こえて、ばさりと鳴つて、其の藁屋の廂から、畷へばさりと落ちたものがある、続いて又一つばさりとお出やる。  鳥か獣か、こゝにバサリと名づくるものが住んで、案山子に呼出されたのであらう、と思つたが、やがて其が二つが並んで、真直にひよいと立つ、と左右へ倒れざまに、又ばさりと言つた。が、名ではない。ばさりと称へたは其の音で、正体は二本の番傘、ト蛇の目に開いたは可が、古御所の簾めいて、ばら〳〵に裂けて居る。 三十四  唯見ると、両方から柄を合はせて、しつくり組むだ。其の破れ傘が輪に成つて、畷をぐる〳〵と廻つて丁と留まる。  案山子が三ツ四ツ、ふら〳〵と取巻いて、 『乗つされ。』 『お人形、乗つせえ。』と言ふ。 『はゝあ、載せろ、と言ふのか、面白い。』  案ずるに、此の車を以つて、我が作品を礼するのであらう。其の厚志、敢て、輿と駕籠と破れ傘とを択ばぬ。其処で彫像の脇を抱いて、傘の柄に腰を据えると、不思議や、裾も開かず、肩も反らず……膠で着けたやうに整然と乗つた、同時にくる〳〵と傘が廻つて、さつさと行く……  やがて温泉の宿を前途に望んで、傍に谿河の、恰も銀河の砕けて山を貫くが如きを見た時、傘の輪は流に逆ひ、疾く水車の如くに廻転して、水は宛然其の破れ目を走り抜けて、斜めに黄色な雪が散つた。や、何うも案山子の飛ぶこと、ひよろつく事!  此を見よ、人々。――  で、月が三ツ四ツ出て路を照らすのも、案山子が飛ぶのも、傘の車も、其の車に、と反身で、斜に構へて乗つた像の活けるが如きも、一切自分の神通力の如くに感じて、寝静まつた宿屋の方へ拳を突出して呵々と笑つた。 『此を見よ、人々。』  其時車を真中に、案山子の列は橋にかゝつた。……瀬の音を横切つて、竹の脚を、蹌踉めく癖に、小賢しくも案山子の同勢橋板を、どゞろ〳〵とゞろと鳴らす。 『寝て居るに騒がしい。』 と欄干が声を懸けた。 『あゝ、気の毒だ。』 とうつかり人間の雪枝が答へた。おや、と心着くと最うざんざと川水。  まだ可怪かつたのは、一行が、其から過般の、あの、城山へ上る取着の石段に懸つた時で。是から推上らうと云ふのに一呼吸つくらしく、フト停まると、中でも不精らしい簑の裾の長いのが、雲のやうに渦いた段の下の、大木の槐の幹に恁懸つて、ごそりと身動きをしたと思へ。 『わい、擽てえ。』と樹が喚いた。  傘はぐる〳〵と段にかゝる、と苦もなく攀上るに不思議はない。濃かな夜の色が段を包んで、雲に乗せたやうにすら〳〵と辷らし上げる。気の疾い、身軽なのが、案山子の中にもあるにこそ。二ツ三ツ追続いて、すいと飛んで、車の上を宙から上つたのが、アノ土器色の月の形の灯をふわりと乗越す。  段の上で、一体の石地蔵に逢つた。 『坊ちやま、坊ちやま。』と一ツが言ふ。 『さても迷惑、』 と仰有つたが、御手の錫杖をづいと上げて、トンと下ろしざまに歩行び出らるゝ……成程、御襟の唾掛めいた切が、ひらり〳〵と揺れつゝ来らるゝ。 「此の野原に来た時です。」 と雪枝は老爺に向いて、振返つて左右を視めた。  陽炎が膝に這つて、太陽はほか〳〵と射して居る。空は晴れたが、草の葉の濡色は、次第に霞に吸取られやうとする風情である。 「其の地蔵尊が、前の方から錫杖を支いたなりで、後に続いた私と擦違つて、黙つて坂の方へ戻つて行かるゝ……と案山子もぞろ〳〵と引返すんです。  番傘は、と見ると、此もくる〳〵と廻つて返る。が、まるで空に成つて、上に載せた彫像がありますまい。  ……つひ向ふを、何うです、……大牛が一頭、此方へ尾を向けてのそりと行く。其の図体は山を圧して此の野原にも幅つたいほど、朧の中に影が偉い。其の背中にお浦の像が、紅の扱帯を長く、仰向けに成つて柔かに懸つて居る。」 三十五 「破れ傘の車では、別に侮られ辱められるとも思はなかつたが、今牛の背に懸けられたのを見ると、酷らしくて我慢が出来ない! 木を刻んだものではあるが、節から両岐に裂かれさうに思はれて、生身のお浦だか、像の女だか、分別も着かないくらゐ。 『あツ、』と叫んで、背後から飛蒐つたが、最う一足の処で手が届きさうに成つても、何うしても尾に及ばぬ……牛は急ぐともなく、動かない朧夜が自然から時の移るやうに悠々とのさばり行く。  しばらくして、此の大手筋を、去年一昨年のまゝらしい、枯蘆の中を縫つた時は、俗に水底を踏んで通ると言ふ、どつしりしたものに見えた。背の彫像の仰向けの胸に采を握つた拳が、苦んで空を掴むやうに見えて堪へられない。  後を喘ぎ〳〵、はあ〳〵と呼吸して続く。 「其の牛が、老爺さん、」 と雪枝は聞くものを呼懸けた。  天守の礎の土を後脚で踏んで、前脚を上へ挙げて、高く棟を抱くやうに懸けたと思ふと、一階目の廻廊めいた板敷へ、ぬい、と上つて其の外周囲をぐるりと歩行いた。……音に鎗ヶ嶽と中空に相聳えて、月を懸け太陽を迎ふると聞く……此の建物はさすがに偉大い。――朧の中に然ばかり蔓つた牛の姿も、床走る鼠のやうに見えた。  ぐるりと一廻りして、一ヶ所、巌を抉つたやうな扉へ真黒に成つて入つたと思ふと、一つよぢれた向ふ状なる階子の中ほどを、灰色の背を畝つて上る、牛は斑で。  此の一階目の床は、今過つた野に、扉を建てまはしたと見るばかり広かつた。短い草も処々、矢間に一ツ黄色い月で、朧の夜も同じやう。  と黒雲を被いだ如く、牛の尾が上口を漏れたのを仰いで、上の段、上の段と、両手を先へ掛けながら、慌しく駆上つた。……月は暗かつた、矢間の外は森の下闇で苔の香が満ちて居た。……牛の身躰は、早や又段の上へ半ばを乗越す。  ぐる〳〵と急いで廻つて取着いて追つて上る。と此の矢間の月は赤かつた。魔界の色であらうと思ふ。が、猶予ふ隙もなく直ちに三階目を攀ぢ上る……  最う仰いでも覗いても、大牛の形は目に留まらなく成つたゝめに、あとは夢中で、打附れば退り、床あれば踏み、階子あれば上る、其の何階目であつたか分らぬ。雲か、靄か、綿で包んだやうに凡そ三抱ばかりあらうと思ふ丸柱が、白く真中にぬつく、と立つ、……と一目見れば、其の柱の根に一人悄然と立つた婦の姿…… 『お浦……』と膝を支いて、摺寄つて緊乎と抱いて、言ふだけの事を呼吸も絶々に我を忘れて嘵舌つた。声が籠つて空へ響くか、天井の上――五階のあたりで、多人数のわや〳〵もの言ふ声を聞きながら、積日の辛労と安心した気抜けの所為で、其まゝ前後不覚と成つた。…… 『や』  心着く、と雲を踏んでるやうな危かしさ。夫婦が活きて再び天日を仰ぐのは、唯無事に下まで幾階の段を降りる、其ばかり、と思ふと、昨夜にも似ず、爪先が震ふ、腰が、がくつく、血が凍つて肉が硬ばる。 『気を着けて、気を着けて、危い。』と両方の脚の指、白いのと、男のと、十本づゝを、ちら〳〵と一心不乱に瞻めながら、恰も断崖を下りるやう、天守の下は地が矢の如く流るゝか、と見えた。……  雪枝は語り続ぐ声も弱つて、 「漸との思ひで此処まで来て……先づ一呼吸と気が着くと、あの躰だ。老爺さん、形代の犠牲に代へて、辛くもです、我が手に救ひ出したとばかり喜んだのは、お浦ぢやない、家内ぢやない。昨夜持つて行つた彫像を其のまゝ突返されて、のめ〳〵と担いで帰つたんです。然も片腕捩つてある、あの采を持たせた手が。……あゝ、私は五躰が痺れる。」と胸を掴んで悶へ倒れる。 天守の下 三十六  聞き果てつ。……  飛騨国の作人菊松は、其処に仰ぎ倒れて今も悪い夢に魘されて居るやうな――青年の日向の顔、額に膏汗の湧く悩ましげな状を、然も気の毒げに瞻つた。 「聞けば聞くほど、へい、何とも言ひやうはねえ。けんども、お前様、お少えに、其の位の事に、然う気い落さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜持つて行かしつた其の形代の像が、お天守の…何様か腑に落ちねえ処があるで、約束の通り奥様を返さねえもんでがんしよ。だで、最う一ツ拵えさつせえ。美い婦の木像さ又遣直すだね。えゝ、お前様、対手が七六ヶしいだけに張合がある……案山子ぢや成んねえ。素袍でも着た徒が玉の輿持つて、へい、お迎、と下座するのを作らつせえ。えゝ! と元気を出さつしやりまし。」 「其処です、老爺さん、」 と雪枝は草を掴んで起直つて、 「現在、其の苦しみを為て居るお浦を救はんために製作へたんです。有つたけの元気も出した、力も尽した。最う為やうがない。しかし此処で貴老に逢つたのは天の引合はせだらうと思ふ。  いや、其よりも此の土地へ来て、夢とも現とも分らない種々の事のあるのは、別ではない、婦のために、仕事を忘れた眠を覚して、謹んで貴老に教を受けさせやうとする、芸の神の計らひであらうも知れない。私は跪く、其の草鞋を頂く……何うぞ、弟子にして下さい、教へて下さい、而してお浦を救つて下さい。」 「いや、前刻船の中で焚けるのを向ふから見た時な、活きた人だと吃驚しつけの。お前様一廉の利ものだ。別に私等に相談打たつしやるに及ぶめえが、奥様のお身の上ぢや、出来る手伝なら為ずには居られぬで、年の功だけも取処があるなら、今度造らつしやるに助言な為べいさ。まあ、待つせえよ、私が今、」と狸のやうな麻袋をふらりと、腰を伸して、のつそりと立つた。  旭さす野を一人、老爺は腰骨に手を組んで、ものを捜す風して歩行いたが、少時して引返した。拾つて来たのは雄鹿の角の折、山深ければ千歳の松の根に生ふると聞く、伏苓と云ふものめいたが、何、別に……尋常の樹の枝、女の腕ぐらゐの細さで、一尺有余也。  ト件の麻袋の口を開けて、握飯でも出しさうなのが、一挺小刀を抽取つて、無雑作に、さくりと当てる、ヤ又能く切れる、枝はすかりと二ツに成つた。 「鯉とも思ふが、木が小い。鰌では可笑かんべい。鮒を一ツ製へて見せつせえ。雑と形で可え。鱗は縦横に筋を引くだ、……私も同じに遣らかすで、較べて見るだね。ひよつとかして、私の方さ出来が佳くば、相談対手に成れるだでの、可か、さあ、ござらつせえ。」 と小刀を添へて突着けた。雪枝は胡座を組直した。 「一イ二ウ三イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競のやうだの。何も前後に構ひごとはねえだよ。お前様串戯ごとではあんめえが、何でも仕事するには元気に限るだで、景気をつけるだ。――可かの、一イ二ウ三イで、遣りかけるだ。一イ二ウ三イ! はツはツはツ。」  笑ひかけて、済まして遣り出す。老爺の手にも小刀が動く、と双んで二挺、日の光に晃々と閃きはじめた……掌の木の枝は、其の小刀の輝くまゝに、恰も鰭を振ふと見ゆる、香川雪枝も、さすがに名を得た青年であつた。  と此の老爺と雪枝とが、旭に向つて濠端に小刀を使ふ。前面の大手の彼方に、城址の天守が、雲の晴れた蒼空に群山を抽いて、すつくと立つ……飛騨山の鞘を払つた鎗ヶ嶽の絶頂と、十里の遠近に相対して、二人の頭上に他の連峯を率ゐて聳ゆる事を忘れてはならぬ。  件の天守の棟に近い、五階目あたりの端近な処へ出て、霞を吸ひつゝ大欠伸を為た坊主がある。 双六盤 三十七  雪枝は合掌して跪いた。  渠の前には、一座滑かな盤石の、其の色、濃き緑に碧を交へて、恰も千尋の淵の底に沈んだ平かな巌を、太陽の色も白いまで、霞の満ちた、一塵の濁りもない蒼空に、合せ鏡して見るやうな……大さは然れば、畳三畳ばかりと見ゆる、……音に聞く、飛騨国吉城郡神宝の山奥にありと言ふ、双六谷の名に負へる双六巌は是ならむ。巌の面に浮模様、末を揃へて、上下に香の図を合はせたやうな柳条があり、虹を削つて画いた上を、ほんのりと霞が彩る。  背後を囲つた、若草の薄紫の山懐に、黄金の網を颯と投げた、日の光は赫耀として輝くが、人の目を射るほどではなく、太陽は時に、幽に遠き連山の雪を被いだ白蓮の蕋の如くに見えた。……次第に近く此処に迫る山と山、峯と峯との中を繋いで蒼空を縫ふ白い糸の、遠きは雲、やがて霞、目前なるは陽炎である。  陽炎は、爾く、村里町家に見る、怪しき蜘蛛の囲の乱れた、幻影のやうなものでは無く、恰も練絹を解いたやうで、蝶のふわ〳〵と吐く呼吸が、其羽なりに飜々と拡がる風情で、然も皆美しい女の姿を象る。其の或ものは裳黄に、或ものは袖紫に……  紫なるは菫の影で、黄なるは鼓草の花の映り添ふ色であつた。  巌のあたりは、此の二種の花、咲き埋むばかり満ちて居る……其等色ある陽炎の、いづれ手にも留まらぬ女の風情した中に、唯一人濃かに雪を束ねたやうな美女があつて、巌の彼方に恰も卓に向つて立つ状して彳んだ。  雪枝は其の美女を前に盤石を隔てゝ蹲つたのである……  双六巌の、其の虹の如き格目は、美女の帯のあたりをスーツと引いて、其処へも紫が射し、黄が映る……雲は、霞は、陽炎は、遠近に尽く此の美女を形づくるために、濃くも薄くも懸るらし。其の形の厳なるは、白銀の鎧して彼を守護する勇士の如く、其の姿の優しいのは、姫に斉眉く侍女かと見える。  美女の背後に当る……其の山懐に、唯一本、古歌の風情の桜花、浅黄にも黒染にも白妙にも咲かないで、一重に颯と薄紅。  色が美女の瞼にさし、影が美女の衣を通す……  雪枝が路を分け、巌を伝ひ、流を渉り、梢を攀ぢ、桂を這つて、此処に辿り着いた山蔭に、はじめて見たのは此の桜で。……  一行は、渠と、老爺と、別に一人、背の高い、色の蒼い坊主であつた。  是より前、雪枝は城趾の濠端で、老爺と並んで、殆ど小学生の態度を以て、熱心に魚の形を刻みながら、同時に製作しはじめた老爺の手振を見るべく……密と傍見して、フト其の目を外らした時、天守の矢間を湧いて出るやうな黒坊主の姿を見たが、烏か、梟か、と思つた。  が、大牛が居る、妻の囚はれた魔の城である……よし其が天狗でも、気を散らす処でない。爰に一刀を下ろすは、彼を救ふ一歩である、と爽かに木削を散らして一思ひに刻果てた。 『どう、見せさつせえ。』  疾く我が小刀を袋に納めて、頤杖して待つて居た老爺は、雪枝の作品を掌に据えて煙管を啣えた。 『おゝ、出来た。ぴち〳〵と刎ねる……いや、恁うあらうと思ふた……見事なものぢや、乾して置くと押死ぬべい、それ、勝手に泳げ!』とひよいと、放ると、濠の水へばちやりと落ちた。が、腹を出して浮脂の上にぶくりと浮く。 三十八 『そりや少い魚の元気を見習へ。汝も、ばちや〳〵と泳げい。』  で、老爺は今度は自分の刻んだ魚を、これは又、不状に引握つたまゝ斉しく投げる、と潵が立つたが、浮草を颯と分けて、鰭を縦に薄黒く、水際に沈んでスツと留る。ト雪枝の作品と並べた処は、恰も釣糸に繋けた浮木が魚を追ふ風情であつた。……  何をか試むる、と怪んで、身を起し汀に立つて、枯蘆の茎越に、濠の面を瞻めた雪枝は、浮脂の上に、明かに自他の優劣の刻み着けられたのを悟得て、思はず…… 『はつ、』と歎息した。  老爺は、もつぺの膝の小刀屑を払きながら、眉をふさ〳〵と揺つて笑ひ、 『はつはつはつ一イ二ウ三い! 私等が勝ぢや。見さつせえ、形は同じやうな出来だが、の、お前様の鮒は水に入れると腹を出いたで、死ちた魚よ、……私等が鮒は、泳ぎ得いでも、鰭を立てたれば活きた奴。何とした処で、俎に乗せれば、人間の口に食へいでも、翡翠が来て狙ふたら、ちよつくら潜つて遁げべいさ。  囲炉裏の自在竹に引懸ける鯉にしても、水へ放せば活きねばならぬ。お前様の鮒のやうに、へたりと腹を出いては明かねえ。木を削る時の釣合一つで、水に入れた時浮き方が違ふでねえかの、縦に留まれば生がある、横に寝れば、死んだりよ。……煩ヶ敷い事ではねえだ。  が、お前様、此の手際では、昨夜造り上げて、お天守へ持つてござつた木像も、矢張同じ型ではねえだか。……寸法が同じでも脚の筋が釣つて居らぬか、其では跛足ぢや。右と左と腕の釣合も悪かつたんべい。頬ぺたの肉が、どつちか違へば、片がりべいと言ふ不具ぢや、それでは美しい女でねえだよ。  もし、へい、五体が満足な彫刻物であつたらば、真昼間、お前様と私とが、面突合はせた真中に置いては動出しもすめえけんども、月の黄色い小雨の夜中、――主が今話さしつた、案山子が歩行く中へ入れたら、ひとりで褄を取つて、しやなら、しやならと行るべい。何も、破れ傘の化け車に骨を折らせて運ばせずと済む事よ。平時なら兎も角ぢや、お剰に案山子どもが声を出いて、お迎ひ、と言ふ世界なら、第一お前様が其の像を担いで出る法はあるめえ。何ではい、歩行け、さあ、木像、と言ふ腹に成らしやらぬ。……  其では魔物が不承知ぢや。前方に些とも無理はねえ、気に入るも入らぬもの……出来不出来は最初から、お前様の魂にあるでねえか。  其処へ懸けては我等が鮒ぢや。案山子が簑を捌いて捕らうとするなら、ぴち〳〵刎ねる、見事に泳ぐぞ。老爺が広言を吐くではねえ。何の、橋の欄干が声を出す、槐が嚏をすべいなら、鱗を光らし、雲を捲いて踊を踊らう。  遣直さつしやい、新にはじめろ、最一つ作れさ。  何うやらお前様より増だんべいで、出来る事さ助言も為べい、為て可い処は手伝ふべい。  腰につけて道具も揃ふ。』 と箙の如く、麻袋を敲いて言つた。 『すかりと斬れるぞ。残らず貸すべい。兵粮も運ぶだでの! 宿へも祠へも帰らねえで、此処へ確乎胡座を掻けさ。下腹へうむと力を入れるだ。雨露を凌ぐなら、私等が小屋がけをして進ぜる。大目玉で、天守を睨んで、ト其処に囚られてござるげな、最惜い、魔界の業苦に、長い頭髪一筋づゝ、一刻に生血を垂らすだ、奥様の苦脳を忘れずに、飽くまで行れさ、倒れたら介抱すべい。』  雪枝は満面に紅を濯いで、天守に向つて峯より高く握拳を衝と上げた。 『少いものを唆かして要らぬ骨を折らせるな、娑婆ツ気な老爺めが、』 と二人の背後にぬいと立つた……  苔かと見ゆる薄毛の天窓に、笠も被らず、大木の朽ちたのが月夜に影の射すやうな、ぼけやた色の黒染扮装で、顔の蒼い大入道!  振向いた老爺の顔を瞰下ろして、 『覚えて居るか、暗の晩を、』と北叟笑みした頬が暗い。 人さし指 三十九 『おゝ、御坊?』 『何日かの晩の!』  雪枝と老爺は左右から斉しく呼ばわる。 『御身も其の時の少い人な。』と雪枝に向いて、片頬を又暗うして薄笑ひを為た。 『血気に逸つて、うか〳〵と老爺の口に乗らぬが可い。……其の気で城趾に根を生いて、天守と根較べを遣らうなら、御身は蘆の中の鉋屑、蛙の干物と成果てやうぞ……此老爺はなか〳〵術がある! 蝙蝠を刻んで飛ばせ、魚を彫つて泳がせる代には、此の年紀をして怪しからず、色気がある、……あるは可いが、汝が身で持余ました色恋を、ぬつぺりと鯰抜けして、人にかづけやうとするではないか。城ヶ沼の暗夜を思へ!  何か、自分に此の天守の主人から、手間賃の前借をして居つて、其の借を返す羽目を、投遣りに怠惰を遣り、格合な折から、少いものを煽り立つて、身代りに働かせやう気かも計られぬ。』 『これ、これ、御坊、御坊、』と言つて締つた口を尖らかす。  相対する坊主の口は、三日月形に上へ大きい、小鼻の条を深く莞つて、 『いや、暗の夜を忘れまい。沼の中へ当の無い経読ませて、斎非時にとて及ばぬが、渋茶一つ振舞はず、既での事に私は生涯坊主の水車に成らうとした。』 『む、まづ出家の役ぢや……断念めさつしやい。然う又一慨に説法されては、一言もねえ事よ。……けんども、やきもきと精出いて人の色恋で気を揉むのが、主たち道徳の役だんべい、押死んだ魂さ導くも勤なら、持余した色恋の捌を着けるも法ではねえだか、の、御坊。』 『然ればな……いや口の減らぬ老爺、身勝手を言ふが、一理ある。――処でな、あの晩四つ手網の番をしたが悪縁ぢや、御身が言ふ通り色恋の捌を頼まれた事と思へ。  別ではない、此の少い人の内儀の事でな、』  雪枝は屹と向直つた。  流盻に掛けつゝ尚ほ老爺に、 『……其の夜、夢幻のやうに言托を頼まれて、采を験に受取つたは、さて此方衆知つての通りだ。――頼まれた事は手廻しに用済みと成つたでな、翌朝直にも、此処を出発と思ふたが、何か気に成る……温泉宿、村里を托鉢して、何となく、ふら〳〵と日を送つた。其の様子を聞けば、私が言托を為た通り、何か、内儀の形代を一心に刻むと聞く、……其が成就したと言ふ昨夜ぢや。少い人が人形を運んで行く後になり前になり、天守へ入つて四階目へ上つた、処、柱の根に其の木像を抱緊めて、死んだやうに眠つて居る。  はてな、内儀を未だ返さぬか、一体どんな魔物が棲むぞ。――其処へ行くまでには何も目に着いたものは無かつたに因つて――尚ほ此の上か、と最一ツ五階へ上つて見た。様子は知れた。』 と頷いて言つた。 『何が、何者が居るんだ。』と雪枝は苛立つて犇と詰寄る。  遮る如く斜に構へて、 『いや、何か分らん、ものは見えん。が、五階へ上り切つて、堅い畳の上に立つた。冷い風が冷りと来ると、左の腕がびくりと動く、と引立てたやうに、ぐいと上つて、人指指がぶる〴〵と振ふとな、何かゞ口を利くと同じに、其の心が耳に通じた。……  天守の主人は、御身が内儀の美艶な色に懸想したのぢや。理も非もない、業の力で掴取つて、閨近く幽閉めた。従類眷属寄りたかつて、上げつ下ろしつ為て責め苛む、笞の呵責は魔界の清涼剤ぢや、静に差置けば人間は気病で死ぬとな……  言ふまでもない肉を屠つて其の血を啜るに仔細はないが、夫は香村雪枝とか。天晴れ一芸のある効に、其の術を以て妻を償へ! 魔神を慰め楽しますものゝ、美女に代へて然るべきなら立処に返し得さする。――  可いかな、此の心は早や御身が内儀に、私が頼まれて、御身に伝へた。』 四十 『活けて視めうと思ふ花を、苞のまゝ室に寝かせて置いて、待搆へた償ひの彼は何ぢや! 聾の、唖の、明盲人の、鮫膚で腰の立たぬ、針線のやうな縮毛、人膚の留木の薫の代りに、屋根板の臭の芬とする、いぢかり股の、腕脛の節くれ立つた木像女が何に成る! ……悪く拳に采を持たせて、不可思議めいた、神通めいた、何となく天地の、言ふに言はれぬ心を籠めたらしい所業が可笑しい。笑止千万な大白痴!』 『ヌ、』とばかりで、下唇をぴりゝと噛んで、思はず掴懸らうとすると、鷹揚に破法衣の袖を開いて、翼の目潰、黒く煽つて、 『と、な、……天守の主人が言はるゝのぢや……それが何もない天井から、此の指にぶる〳〵と響いて聞こえた。』  衝と、天守の棟を切つて、人指指を空に延ばすと、雪枝は蒼く成つて、ばつたり膝支く。  負けぬ気の老爺は、前屈みに腰を入れて、 『分つた、分つたよ、御坊。お前様が、仏でも鬼でも、魔物でも、唯の人間の坊様でも可え。言はつしやる事は腑に落ちた……疾い話が、此の人な持つて行つたは、腹を出いた鮒だで、美しい奥様とは取替へぬ。……鰭を立てた魚を持ち来い、返して遣ると、恁うだんべい。  さ、其処ぢやい! 其処どころぢやに因つて私が後見助言の為て、勝れた、優つた、新しい、……可かの、生命のある……肉附もふつくりと、脚腰もすんなりした、膚の佳い、月に立てば玉のやう、日に向へば雪のやうな、へい、魔王殿が一目見たら、松脂の涎を流いて、魂が夜這星に成つて飛ぶ……乳の白い、爪紅の赤い奴を製作へると言はぬかい!  少いものを唆かして、徒労力を折らせると何故で言ふのぢや。御坊、飛騨山の菊松が、烏帽子を冠つて、向顱巻を為て手伝つて、見事に仕上げさせたら何とする。』 『然れば、言ふ通りに仕上つて、其処で其の木像が動くかな、目を働かすかな、指す手は伸び、引く手は曲るか、足は何うじや、歩行くかな。』 と皆まで言はせず、老爺が其の眉、白銀の如き光を帯びて、太陽に向ふ目を輝かした。手拍子拍つやう、腰の麻袋をはた〳〵と敲いたが、鬼に向つて臀を掻く、大胆不敵の状が見えた。 『天守の魔物は何時から棲むよ。飛騨国の住人日本の刻彫師、尾ヶ瀬菊之丞孫の菊松、行年積つて七十一歳。極楽から剰銭を取る年で、城ヶ沼の女の影に憂身を窶すお庇には、動く、働く、彫刻物は活きて歩行く……独りですら〳〵と天守へ上つて、魔物の閨に推参する、が、張も意地も着いて居るぞ、其の時嫌はれぬ用心さつせえ、と御坊に言托を頼まうかい。』 『可い、可い。』  ニヤ〳〵と両の頬を暗くして、あの三日月形の大口を、食反らして結んだまゝ、口元をひく〳〵と舌の赤う飜るまで、蠢めかせた笑ひ方で、 『面白い! 旅のものぢやが、其も聞いた。此方が手遊びに拵える、五位鷺の船頭は、翼で舵取り、嘴で漕いで、水の中で火を吐くとな………』 『天守の上から御覧なされ、太夫ほんの前芸にござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンと頭を下げて揉手を為て言ふ。 『おゝ、其の面魂頼母しい。満更の嘘とは思はん。成程此方が造つた像は、目も瞬かう、歩行かう、厭なものには拗ねもせう。……然れば御身は、少いものゝ尻圧して石に成るまでも働け、と励ますのぢや。で、唆かすとは思ふまい。徒労力をさせるとは知るまい。が、私は、無駄ぢや留めい、と勧める……其の理由を言うて聞かさう。  其処で、老爺、』 『おい、』 『御身が言ふ、其の像には血が通ふか、』 『血が通ふだ?』と聞返す。 『然ればよ、針の尖で突いても生命を絞る、其の、あの人間の美しい血が通ふかな。』 『…………』と老爺の眉がはじめて顰む。 四十一  黒坊主は嵩に懸つて、 『まだ聞きたい。御身が作の其の膚は滑かぢやらう。が、肉はあるか、手に触れて暖味があるか、木像の身は冷たうないか。』 『はてね、』と問を怪む中に、些とひるんだのが、頬に出づる。 『第一肝要なは口を利くかな、御身の作は声を出すか、ものを言ふかな。』 『馬鹿な事を、無理無躰ぢや。』 と呆果てた様子であつた。 『理も非もない。はじめから人の妻を掴み取つてものを云ふ、悪魔の所業ぢや、無理も無躰も法外の沙汰と思へ。  此所を聞けよ、二人の人。……御身達が、言ふ通り、今新しく遣直せば、幾干か勝れたものは出来やう、がな、其は唯前のに較べて些と優ると言ふばかりぢや。  其も可からう、何も持たぬ、空しい乏しいものに取つたら、御身達が作り更めると云ふ其の木像でも、無いよりは増しぢや、品に因つて、美しいとも、珍らしいとも思はうも知れぬ。  けれどもな、天守の主人は、最う手の内に、活きた、生命ある、ものを言ふ、血の通ふ、艶麗な女を握つて居るのぢや。可いか、其に代へやうと言ふからには、蛍と星、塵と山、露一滴と、大海の潮ほど、抜群に勝れた立優つたもので無いからには、何を又物好きに美女を木像と取り代へやう。  彫刻した鮒の泳ぐも可い。面白うないとは言はぬが、煎る、焼く、或は生のまゝ其の肉を噉はうと思ふものに、料理をすれば、炭に成る、灰に成る、木の切を何にせい、と言ふ了見だ。  悪魔は今其の肉を欲する、血を求むる……仏が鬼女を降伏してさへ、人肉のかはりにと、柘榴を与へたと言ふでは無いか。  既に目指す美女を囚へて、思ふがまゝに勝矜つた対手に向ふて、要らぬ償ひの詮議は留めろ。  何うぢや、それとも、御身達に、煙草の吸殻を太陽の炎に変へ、悪魔の煩脳を焼亡ぼいて美女を助ける工夫があるか、すりや格別ぢや。よもあるまい。有るか、無からう。……  それ、徒労力と言ふ事よ! 要もない仕事三昧打棄つて、少い人は妻を思切つて立帰れえ。老爺も要らぬ尻押せず、柔順に妻を捧げるやうに、少いものを説得せい。  勝手に木像を刻まば刻め、天晴れ出来したと思ふなら、自分に其を女房のかはりにして、断念めるが分別の為処だ。見事だ、美いと敵手を強ゆるは、其方の無理ぢや、分つたか。』 と衝と指を上げて雲を指した。 『天守の主人の言托は此の通り。更めて其の印を見せう、……前刻も申した、鮫膚の縮毛の、醜い汚い、木像を、仔細ありげに装ふた、心根のほどの苦々しさに、へし折つて捻切つた、女の片腕、今返すわ、受取れ。』 と法衣の破目を潜らす如く、懐から抜いて、ポーンと投出す。  途端に又指を立てつゝ、足を一巾、坊主が退つた。孰も首垂れた二人の中へ、草に甲をつけて、あはれや、其でも媚かしい、優しい腕が仰向けに落ちた。  雪枝は唯肩を抱いて身を絞つた。  老爺は、さすがに、まだ気丈で、対手が然までに、口汚く詈り嘲ける、新弟子の作の如何なるかを、はじめて目前験すらしく、横に取つて熟と見て、弱つたと言ふ顰み方で、少時ものも言はなんだ。薄うは成つたが、失せ果てない、底光のする目を細うして、 『いや、御出家。』 と調子を変へて…… 『虫の居所で赫とも為たがの、考えて見れば、お前様は、唯言托を頼まれたばかりの事よ。何も喰つて懸るには当らなんだか。……又お前様とても何もこれ、此の少い人に怨も恩も報もあらつしやる次第でねえ。……処でものは相談ぢやが、何とかして、其の奥様を助けると言ふ工夫はねえだか、のう、御坊、人助けは此方の勤ぢや、一つ折入つて頼むだで、勘考してくらつせえ。』とがらりと出直る。 四十二  これを聞くと、然もあらむ、と言ふ面色した坊主の気色やゝ和らいで、 『然れば、然う言はれると私も弱る。天守からは、よく捌け、最早や婦を思ひ切るやう少い人を悟せとある……御身達は生命に代へても取戻したいと断つて言ふ。  で、其を取戻す唯一つの手段と言ふのが、償ひの像を作るにある、其の像が、御身たちに、』 『えゝ、えゝ、最う、能う分つた。何ぼ私が顱巻しても、血の通ふ、暖い彫刻物は覚束ないで、……何とか別の工夫を頼むだ、最う此なものは、』と手にした腕を、思切つたしるしに、擲けやうとして揮上げた、……其の拳を漏れて、ころ〳〵と采が溢れて。一か六か、草の中に、ぽつりと蟋蟀の目に留んぬ。  三人が熟と視めた。  坊主が先づ、 『老爺……』と心ありげに呼んだ。 『はあ、是ぢや、』 と采の上で蓋するやうに、老爺は眉の下へ手を翳して、 『ちよつくら気が着いた事がある、待たつせえ、御坊……』 『…………、』 『少い人も何う思ふ。お前様が小児の時、姉様にして懐かしがらしつたと言ふ木像から縁を曳いて、過日奥様の行方が分らなく成つた時から廻り繞つて、采粒が着き絡ふ、今此処に采がある……此の山奥に双六の巌がある。其処も魔所ぢやと名が高い。時々山が空に成つて寂とすると、ころころと采を投げる音が木樵の耳に響くとやら風説するで。天守にも主人があれば双六巌にも主が棲まう……どちらも膚合の同じ魔物が、疾え話が親類附合で居やうも知れぬだ。魔界は又魔界同士、話の附け方もあらうと思ふ、何うだね、御坊。』  坊主も二三度頷いた。で、深く其の広い額を伏せた。 『いや、可い処に気が着いた、……何にせい、此の上は各々我を張らずに人頼みぢや。頼むには、成程其の辺であらうかな。』 『行つて見べい。方角は北東、槍ヶ嶽を見当に、辰巳に当つて、綿で包んだ、あれ〳〵天守の森の枝下りに、峯が見える、水が見える、又峯が見えて水が曲る、又一つ峯が抽出て居る。あの空が紫立つてほんのり桃色に薄く見えべい。――麻袋には昼飯の握つた奴、余るほど詰めて置く、ちやうど僥幸、山の芋を穿つて横噛りでも一日二日は凌げるだ。遣りからかせ、さあ、ござい。少い人。……お前様、其の采を拾はつしやい。御坊、』 『乗りかゝつた船ぢや、私も行く。……』  で、連立つて、天守の森の外まはり、壕を越えて、少時、石垣の上を歩行いた。  爾時、十八九人の同勢が、ぞろ〳〵と野を越えて駆けて来た。中には巡査も交つたが、早や壕の向ふの高い石垣の上に、森の枝を伝ふ躰の雪枝の姿を、小さな鳥に成つて、雲に入り行く、と視めたであらう。……  手を挙げ、帽を振り、杖を廻はしなどして、わあわつと声を上げたが、其の内に、一人、草に落た女の片腕を見たものがある。それから一溜りもなく裏崩れして、真昼間の山の野原を、一散に、や、雲を霞。  森の幕が颯と落ちて、双六谷が舞台の如く眼前に開かれたやうに雪枝は思つた。……悪処難路を辿りはしたが、然まで時が経つたとも思はず、別に其が為に、と思ふ疲労も増さない。で、足を運ぶ内に至り着いたので、宛然、城址の場所から、森を土塀に、一重隔てた背中合はせの隣家ぐらゐにしか感じない。――最も案内をすると云ふ老爺より、坊主の方が、すた〳〵先へ立つて歩行いたが。  時に、真先に、一朶の桜が靉靆として、霞の中に朦朧たる光を放つて、山懐に靡くのが、翌方の明星見るやう、巌陰を出た目に颯と映つた。 四五六谷 四十三 「叱!」 と老爺が警蹕めいた声を、我と我が口へ轡に懸ける。  トなだらかな、薄紫の崖なりに、桜の影を霞の被衣、ふうわり背中から裳へ落して、鼓草と菫の敷満ちた巌を前に、其の美女が居たのである。  少時、一行は呼吸を凝らした。  見よ! 見よ! 巌の面は滑かに、質の青い艶を刻んで、花の色を映したれば、恰も紫の筋を彫つた、自然に奇代の双六磐。磐面には花を摘んだ、大輪の菫と鼓草とが、陽炎の輝く中に、鼓草は濃く、菫は薄く、美しく色を分つて、十二輪、十二輪、二十四輪の駒なるよ……向ふ合はせに区劃を隔てゝ、二輪、一輪、一輪、二輪、空に蒔絵した星の如く、浮彫したやう並べられた。  美女は、やゝ俯向いて、其の駒を熟と視める風情の、黒髪に唯一輪、……白い鼓草をさして居た。此の色の花は、一谷に他には無かつた。  軽く其の黒髪を戦がしに来る風もなしに、空なる桜が、はら〳〵と散つたが、鳥も啼かぬ静かさに、花片の音がする……一片……二片……三片…… 「三つ」と鶯のやうな声、袖のあたりが揺れたと思へば、蝶が一ツひら〳〵と来て、磐の上をすつと行く…… 「一つ、」 と美女は又算へて、鼓草の駒を取つて、格子の中へ、……菫の花の色を分けて、静に置替へながら、莞爾と微笑む。……  気高い中に其の優しさ。 「は、」と、思はず雪枝は、此方に潜みながら押堪へた息が発奮んだ。 「誰? ……」 と美女の声が懸る。  老爺は咳を一つ故として、雪枝の背中を丁と突出す。これに押出されたやうに、蹌踉いて、鼓草菫の花を行く、雲踏む浮足、ふらふらと成つたまゝで、双六の前に渠は両手を支いて跪いたのであつた。  坊主は懐中の輪袈裟を取つて懸け、老爺は麻袋を探つた、烏帽子を丁と冠つて、更めてづゝと出た。  美女は密と鬢を圧へた。  声も出せぬ雪枝に代つて、老爺が始終を物語つた……  坊主は、時々眼を開いて、聞澄す美女の横顔を窺ひ見る。 「お姫様、」 と語り果てゝ老爺が呼んで、 「お助けを遣はされ、さあ、少い人、願へ。」 「姫様、」 と雪枝は、窶れに窶れた人間の顔して見上げた。 「上﨟どの、」と坊主も言足す。  美女は引合はせた袖を開いた。而して、 「天守のお使者、天守のお使者。」 と二声呼ばるゝ。 「やあ、拙僧が事か、」と、間を措いて坊主が答へた。 「あの、其の指をお指しになれば、天守の方の、お心が通じますかえ。」 「如何にも。」と片手を握つて、片手を其の蒼い頬げたに並べて、横に開いて応じたのである。 「双六を打つて賭けませう。私は其の他の事は何にも知らねば……而して、私が負けましたら、其切仕方がありません。もし、あの、私が勝となれば、此のお方の其の奥様を、恙なう、お戻しになりますやうに……お約束が出来ませうか。」 と物優しいが力ある声して聞く。  坊主は言下に空を指した。 「天守に於ては、予て貴女と双六を打つて慰みたいが、御承知なければ、致やうも無かつた折から……丁ど僥倖、いや固より、固より望み申す処……とある!」 四十四  美女は世にも嬉しげに……早や頼まれて人を救ふ、善根功徳を仕遂げた如く微笑みながら、左右に、雪枝と老爺とを艶麗に見て、清しい瞳を目配せした。 「そんなら、私が勝ちましたら、奥様をお返しなさいますね。」 「御念に及ばぬ、城ヶ沼の底に湧く……霊泉に浴させて、傷もなく疲労もなく苦悩もなく、健かにしてお返し申す。」  美女は、十二の数の、黄と紫を、両方へ、颯と分けて、 「天守のお方。どちらの駒を……」 「赫耀として日に輝く、黄金の花は勝色、鼓草を私が方へ。」 と痩せた頬げたの膨らむまで、坊主は浮色に成つて笑を含んで、駒を二つづゝ六行に。  同じく二つづゝ六行に……紫の格子に並べた。 「紫は朱を奪ふ、お姫様菫の花が、勝負事には勝色ぢや。」 と老爺は盤面を差覗いて、坊主を流盻に勇んだ顔色。  これに苦笑ひ為て口を結んだ、坊主は心急く様子が見えて、 「ざ! 上﨟、」 「お客なれば貴僧から、」 「や、采は、上﨟。」と高声で言つた。 「空を行く雲の数、」 と眉を開いて見上ぐる天を、白い雲が来ては消え、白い雲が来ては消えする。 「桜の花の散るのを数へ、舞ひ来る蝶の翼を算んで、貴僧、私と順々に。」  坊主は頷いて袈裟を揺つた。 「言ふ目。」 と高く美女が。 「乞目、」 と坊主が、互に一声。鶯と梟と、同時に声を懸合はせた。 「一つ来て、二つぢや。」 と鶴の姿の雲を睨んで、鼓草は格子を動く。  ト美女は袂を取つて、袖を斜めに、瞳を流せば、心ある如く桜の枝から、花片がさら〳〵と白く簪の花を掠める時、紅の色を増して、受け取る袖に飜然と留まつた。 「右が三つ、」 と袖を返して、左の袂を静かに引くと、また花片がちらりと来る。 「一つと二つ、」 と菫の花が白い指から格子へ入つた。 「雲よ、雲よ、雲よ、」 と呼んで、気色ばんで、やゝ坊主があせり出した。――争ひの半であつた。 「雲が来る、花が降る。や、此の采は気が長いぞ。見て居る内に斧の柄が朽ち、玉手箱が破れうも知れぬが。少い人、其の采を……其の采を出さつしやい。うつかり見惚れて私も忘れた。」 と目の覚めたやうに老爺が言つた。  青年は疾くから心着いて、仏舎利のやうに手に捧げて居たのを、密と美女の前へ出した。 「一つ振つたり、」 と老爺が傍から、肝入れして、采を盤石に投げさせた。 「お姫様、それ〳〵、星が一つで、梅が五ぢや。瞬する間に、十度も目が出る。早く、もし、其で勝負を着けさつせえまし。」 「天下の重宝、私もつひ是に気が着かなんだ。」 と坊主は手早く拾ひ取る。 「いえ、急いでは成りません、花の数、蝶の数、雲の数で無くつては。」と美女は頭を振つた。 「えゝ、お姫様の! 何うやら今までの乞目では、一度に一年も懸りさうぢや。お庇と私等は飢うも、だるうも無けれど、肝心助け取らうと云ふ、奥様の身をお察しやれ。一息に血一点、一刻に肉一分は絞られる、削られる……天守の梁に倒で、身の鞭に暇はないげな。」 「其の通り。」と傲然として、坊主は身構へ為て袖を掲げた。 四十五  美女の顔の色は早や是非なげに見えた。  一が起き、六が出で、三に変り、二に飜り、五が並ぶ。天に星の輝く如く、采の目の疾く、駒の烈しく動くに連れて、中空を見よ、岫を湧き、谷を飛ぶ、消えた雲が残り、続く雲が累り、追ふ雲が結着いて、雲はやがて厚く、雲はやがて濃く、既にして近くなり、低く成つた。……  忽ち一片、美女の面にも雲の影が映すよと見れば、一谷は暗く成つた。  鋭き山颪が颯と来ると、舞下る雲に交つて、漂ふ如く菫の薫が𤏋としたが、拭ひ去つて、つゝと消えると、電が空を切つた。……坊主の法衣は、大巌の色の乱れた双六の盤を蔽ふて、四辺は墨よりも蔭が黒い。  ト暗夜の如き山懐を、桜の花は矢を射るばかり、白い雨と散り灌ぐ。其の間をくわつと輝く、電光の縫目から空を破つて突出した、坊主の面は物凄しいものである……  唯見れば、頭に、無手と一本の角生ひたり。顔面黒く漆して、目の隈、鼻頭、透通る紫陽花に藍を流し、額から頤に掛けて、長さ三尺、口から口へ其の巾五尺、仁王の顔を上に二つ下に三つ合はせたばかり、目に余る大さと成つて、カチ〳〵と歯の鳴る時、鰐かと思ふ大口を赫と開いて、上頤を嘗める舌が赤い。 「騒ぐまい、時々ある……深山幽谷の変じや。少い人、誰の顔も何の姿も、何う変るか知んねえだ! 驚くと気が狂ふぞ、目を塞いで踞れ、蹲め、突伏せ、目を塞げい。」 と老爺が呼はる。  雪枝はハツと身を伏せて、巌に吸込まれるかと呼吸を詰めたが、胸の動悸が、持上げ揺上げ、山谷尽く震ふを覚えた。  殷々として雷が響く。  音の中に、 「切らう!」 と思切つた美女の、細い透る声音が、胸を抉つて耳を貫く。 「何を、切ればと言ふて早や今は……乞目!」 と誇立つた坊主の声が響いたが。 「やあ、勝つた。」 と叫んで、大音に呵々と笑ふと斉しく、空を指した指の尖へ、法衣の裙が衝と上つた、黒雲の袖を捲いて、虚空へ電を曳いて飛ぶ。  と風の余波に寂として、谷は瞬く間に、もとの陽炎。  が、日の光りやゝ弱く、衣のひた〳〵と身に着く処に、薄い影が繊細くさして、散乱れた桜の花の、背に頸にかゝつたまゝ、美女は、手を額に当てゝ、双六盤に差俯向いて、ものゝ悩ましげな風情であつた。 「お姫様、」 と風に曲んだ烏帽子の紐を結直したが、老爺の声も力が無かつた。 「姫様。」 と膝行り寄つて、……雪枝が伸上るやうに膝を支いて、其の袖のあたりを拝んだ。 「頼まれたのに、済みません。」  二筋三筋、後毛のふりかゝる顔を上げて、青年の顔を凝と視めて、睫毛の蔭に花の雫、衝と光つて、はら〳〵と玉の涙を落す。  老爺も鼻を詰らせた。  雪枝は身を絞つて湧出るやうに、熱い、柔い涙が流れた。 「断念めます、……断念める……私はお浦を思切ります。何うぞ、其の代り、夢でも可い、夢なら何時までも覚めずに、私を此処に、貴女の傍にお置き下さい。  貴下、生効ひのない私、罰も当れ、死んでも構はん。」 と前倒しに身を投げて、犇と美女の手に縋ると、振りも払はず取添へて、 「雪様。」 と優しく言ふ。 「え、」  いや、老爺も驚くまいか。 獅子の頭 四十六 「お懐しい。私は貴下が七歳の年紀、お傍に居たお友達……過世の縁で、恋しう成り、いつまでも〳〵、御一所にと思ふ心が、我知らず形に出て、都の如月に雪の降る晩。其の雪は、故郷から私を迎に来たものを、……帰る気は些も無しに、貴下の背に凭かゝつて、二階の部屋へ入りしなに、――貴下のお父様が御覧の目には、……急に貴下が大きく成つて、年ごろも対くらゐ、私と二人が夫婦のやうで熟と抱合ふ形に見えて、……怪しい女と、直ぐに其の場で、暖炉の灰にされましたが、戸の外面からひた〳〵寄る……迎ひの雪に煙を包んで、月の下を、旧の此の故郷へ帰りました。  非情のものが、恋をした咎を受けて、其の時から、唯一人で、今までも双六巌の番をして、雨露に打たれても、……貴下の事が忘れられぬ。  其の心が通ずるのか、貴下も年月経ち、日が経つても、私の事をお忘れなさらず、昨日までも一昨日までも、思ひ詰めて居て下さいましたが、奥様が出来たので、つひ余所事になさいました。  それをお怨み申すのではない。嫉妬も猜みもせぬけれど、……口惜い、其がために、敵から仕事の恥辱をお受け遊ばす。……雲、花片の数を算めば、思ふまゝの乞目が出て、双六に勝てたのに、……唯一刻を争ふて、焦つてお悶へ遊ばすから、危いとは思ひながら、我儘おつしやる可愛らしさに、謹慎もつひ忘れ、心が乱れて、よもやに曳かされ、人間の采を使つたので、効なく敵に負けました。貴下も、悪い、私も悪い。  あゝ、花も恁う乱れぬうち、雲の中から奥様を助け出し、こゝへ並べて、蝶の蔭から、貴下の喜ぶ顔を見て、其の後で名告りたうごさんした。」 としめやかに朱唇が動く、と花が囁くやうなのに、恍惚して我を忘れる雪枝より、飛騨の国の住人以つての外畏縮に及んで、 「南無三宝、あやまり果てた。」と烏帽子を掻いて猪頸に窘む。 「いえ〳〵此も定まる約束。……しかし、尚ほ懐しい。奥様を思切り、世を捨てゝも私の傍に命をかけて居やうとおつしやる。其のお言葉で奥様は救はれます……私も又命にかけても、お望を遂げさせましやう。  さあ、貴下、あらためて、奥様を償ふための、木彫の像をお作り遊ばせ、勝れた、優つた、生命ある形代をお刻みなさい。  屹と敵に不足は言はせぬ。花片を雪にかへて、魔物の煩悩のほむらを冷す、価値のあるのを、私が作らせませう、……お爺さん、」 と見返つて、 「貴翁がお家重代の、其の小刀を、雪様にお貸し下さいまし。」 「心得ました。」 と謹んで持つて寄る、小刀を受取ると、密と取合つた手を放して、柔かに、優しく、雪枝の手の甲の、堅く成つて指も動かぬを、撫でさすりつゝ、美女が其の掌に握らせた。  四辺を眴し、衣紋を直して、雪枝に向つて、背後向きに、双六巌に、初めは唯腰を掛ける姿と見えたが、褄を放して、盤の上へ、菫鼓草の駒を除けて、采を取つて横に寐た。  陽炎が裳に懸つた。  美女の風采は、紫の格目の上に、虹を枕した風情である。  雪枝は、倒れたと見て、つゝと起つた。 「……雪様、私の目を、私の眉を、私の額を、私の顔を、私の髪を、此のまゝに……其の小刀でお刻みなさいまし。」 「や、」と老爺が吃驚して、歯の抜けた声を出して、 「成程、お天守で不足は言ふまい、が、当事もない、滅法界な。」 「雪様、痛くはない。血も出ぬ、眉を顰めるほどもない。突いて、斬つて、さあ、小刀で、此のなりに、……此のなりに、……」 「思切る、断念めた、女房なんぞ汚らはしい。貴女と一所に置いて下さい、お爺さんも頼んで下さい、最う一度手を取つて、」  戞然と、どき〳〵した小刀を投出す。 「其のお心の失せない内、早く小刀をお取りなさいまし。……そんな事をおつしやつて、奥様は、今何うして居らつしやいます。」  それを聞くや、 「わつ、」と泣いて、雪枝は横様に縋りついた、胸を突伏せて、唯戦く……  徐ら、其の背を、姉がするやう掻撫でながら、 「恁う成るのが定まり事、……人の運は一つづゝ天の星に宿ると言ひます。其と同じに日本国中、何処ともなう、或年或月或日に、其の人が行逢はす、山にも野にも、水にも樹にも、草にも石にも、橋にも家にも、前から定まる運があつて、花ならば、花、蝶ならば、蝶、雲ならば、雲に、美しくも凄くも寂しうも彩色されて描いてある…手を取合ふて睦み合ふて、もの言つて、二人居られる身ではない。  唯形ばかり、何時何処でも、貴方が思ふ時、其処に居る、念ずる時直ぐに逢へます、お呼び遊ばせば参られます。  早や、小刀を……、小刀を……、」 「帰命頂礼、南無不可思議、帰命頂礼、南無不可思議。」 と唱へながら、老爺が拾つて渡した時、雪枝は犇と小刀を取つた。 「一刀一拝、拝め、頼め、念じて、念じて、」 と励まし教うるが如くに老爺が言ふ。 「姫、姫、」 と勇ましく、 「疵を附けたら、私も死ぬ。」 と熟と見て、小刀を取直した。  美女の姿ありのまゝ、木彫の像と成つた時、膝に取つて、雪枝は犇と抱締めて離し得なんだ。  老爺が其の手を曳いて起こして、さて、かはる〴〵負ひもし、抱きもして、嶮岨難処を引返す。と二時が程に着いた双六谷を、城址までに、一夜、山中に野宿した。  其の夜の星の美しさ。  中にも山の端に近いのが、美女の像の額を飾つて輝いたのである。  翌朝、棟の雲の切れ間を仰いで、勇ましく天守に昇ると、四階目を上切つた、五階の口で、フト暗い中に、金色の光を放つ、爛々たる眼を見た、  一目見て、 「やあ、祖父殿が、」 と老爺が叫ぶ、……其なるは、黄金の鯱の頭に似た、一個青面の獅子の頭、活けるが如き木彫の名作。櫓を圧して、のつしとあり。角も、牙も、双六谷の黒雲の中に見た、其であつた。……  祖父の作に、久しぶりの話がある、と美女の像を受取つて、老爺は天守に胡座して後に残つた。時に、祖父が我まゝの佗だと言つて、麻袋を、烏帽子入れたまゝ雪枝に譲つた。  さて、温泉宿に帰つたが、人々は、雪枝の顔の色の清々しいのを視めて、はじめて渡した一通の書信がある。  途中より、としてお浦の名で、二人が結婚を為ない前から、契りを交はした少年の学生が一人ある。此の度の密月の旅の第一夜から、附絡ふて、隣の部屋に何時も宿る……其さへも恐ろしいのに、つひ言葉のはづみから、双六谷に分入つて、二世の契を賭けやうとする、聞けば名高い神秘の山奥、迚も罪深さに堪へないため、諸ともに身を隠す、とあつた。  渠は神色自若とした。  あはれ、神は、香村雪枝を守らせ給ふ!  然うで無いと、恁くまでに恋慕つた女、気が狂はずには居なかつたのである。  東京に帰つて後、呼べば応へて顕はるゝ、双六谷の美女の像を、唯目を開いて見るやうに、すら〳〵と刻み得た。麻袋の鑿小刀は、如意自在に働く。  彫像の成つた時、北の一天、俄かに黒雲を捲起こして月夜ながら霰を飛ばした。  年経つて、再び双六の温泉に遊んだ時、最う老爺は居なかつた。が、城址の濠には船があつて、鷺ではない、老爺の姿が、木彫に成つて立つのを見て、渠は蘆間に手を支えて、やがて天守を拝した。  船に乗れば、すら〳〵と漕いで出て、焼けない処か、もとの位置へすつと戻る……伝へ聞く諾亜の船の如きものであらう。
底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店    2004(平成16)年1月7日第1刷発行 底本の親本:「神鑿」文泉堂書房    1909(明治42)年9月16日 初出:「神鑿」文泉堂書房    1909(明治42)年9月16日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「をんせん」と「おんせん」、「城趾」と「城址」、「鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》」と「槍《やり》ヶ|嶽《だけ》」の混在は底本の通りです。 ※「魚」に対するルビの「うを」と「いを」、「水底」に対するルビの「みずそこ」と「みづそこ」、「灰」に対するルビの「はひ」と「はい」、「烏帽子」に対するルビの「えばうし」と「えぼうし」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「神鑿《しんさく》」となっています。 ※初出時の署名は「鏡花小史」です。 入力:砂場清隆 校正:門田裕志 2007年8月12日作成 2016年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043467", "作品名": "神鑿", "作品名読み": "しんさく", "ソート用読み": "しんさく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「神鑿」文泉堂書房、1909(明治42)年9月16日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-09-19T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card43467.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第八巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年1月7日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年1月7日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年1月7日第1刷", "底本の親本名1": "神鑿", "底本の親本出版社名1": "文泉堂書房", "底本の親本初版発行年1": "1909(明治42)年9月16日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43467_ruby_27527.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43467_27909.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
       一  白鷺明神の祠へ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕わした。  この爺さんは、 「――おらが口で、更めていうではねえがなす、内の媼は、へい一通りならねえ巫女でがすで。」……  若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫を片手間に、小賭博なども遣るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。  またその媼巫女の、巫術の修煉の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。  一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺の、見る影もなく荒涼んだ乱塔場で偶然知己になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡から、ここに准胝観世音の御堂に詣でた。  いま、その御廚子の前に、わずかに二三畳の破畳の上に居るのである。  さながら野晒の肋骨を組合わせたように、曝れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。  明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行くだけでさえ、清浄と斎戒がなければならぬ。奥の大巌の中腹に、祠が立って、恭しく斎き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効はあるまい……と行くのを留めたそうな口吻であった。 「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」  時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色の影がさす。 「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……  ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓きがごとく、そして御髪が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。  その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴は、白とも、緋ともいうが、夜の花の朧と思え。……  どの道、巌の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏に観世音を念じて、彼処の面影を偲べばよかろう。  爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡へ、銑吉を上らせまいとするのである。  第一可恐いのは、明神の拝殿の蔀うち、すぐの承塵に、いつの昔に奉納したのか薙刀が一振かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味の鋭さは、月の影に翔込む梟、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断になって蠢くほどで、虫、獣も、今は恐れて、床、天井を損わない。  人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳も、簾もないのに――  ――それが、何と、明い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話に、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌った。不埒を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――祟るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮のように、畳でピチピチと刎ねた事さえある。  いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒鰌を売っている、老ぼれがそれである。  村若衆の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。  しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。  余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄い異状が起った。  その一人は、近国の門閥家で、地方的に名望権威があって、我が儘の出来る旦那方。人に、鳥博士と称えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来り訪うこと、須賀川の牡丹の観賞に相斉しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。  時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。  在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。  ――村に猟夫が居る。猟夫といっても、南部の猪や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄ではない。のらくらものの隙稼ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃する。人目を憚るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜などは、ままよ宿鳥なりと、占めようと、右の猟夫が夜中真暗な森を徜徉ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩を同じゅうするのが妙術だという。  それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白にしていた、と話すのであった。       (……?……)  ところで、鳥博士も、猟夫も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女も上等のになると、段々勿体をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻る中を、朝の間に森へ行くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨まれては事こわしだ。一旦破寺――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡に引取って、炉に焚火をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕われた、土地で、大沼というのである。  今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾が、大なる紺青の姿見を抱いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上﨟が、瑠璃の皎殿を繞り、碧橋を渡って、風に舞うようにも視められた。  この時、煩悩も、菩提もない。ちょうど汀の銀の蘆を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛う鷺が一羽、人を払う言伝がありそうに、すらりと立って歩む出端を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺に、たちまち一朶の黒雲の湧いたのも気にしないで、折敷にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂ぎる声。  這ったか、飛んだか、辷ったか。猟夫が目くるめいて駆付けると、凍てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。  いやが上の恐怖と驚駭は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟とどこかの樹を枝を凝視めていて、ものも言わない。  猟夫は最期と覚悟をした。……  そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老巫女に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁へ掛けたそうに褌をしめなおすと、梓の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋に隠れてはいるが、うらないも祈祷も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士神巫が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息を病んだように響かせながら、猟夫に真裸になれ、と歯茎を緊めて厳に言った。経帷子にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死でもさせる気だろう。しかしその言の通りにすると、蓑を着よ、そのようなその羅紗の、毛くさい破帽子などは脱いで、菅笠を被れという。そんで、へい、苧殻か、青竹の杖でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍に居ようと、居まいと、その若い婦女の死骸を、蓑の下へ、膚づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。  いや、もう、肝魂を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪が真黒になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面を打って巴卍に打ち乱れる紛泪の中に、かの薙刀の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……  我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮大紅蓮の土壇とも、八寒地獄の磔柱とも、譬えように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女は、台所の筵敷に居敷り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎の上へ、」というが、石でも銅でもない。台所の俎で。……媼の形相は、絵に描いた安達ヶ原と思うのに、頸には、狼の牙やら、狐の目やら、鼬の足やら、つなぎ合せた長数珠に三重に捲きながらの指図でござった。  ……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視て、「天人のような婦やな、羽衣を剥け、剥け。」と言う。襟も袖も引き毮る、と白い優しい肩から脇の下まで仰向けに露われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵を空へ屈めた姿で、柔にすくんでいる。「さ、その白ッこい、膏ののった双ももを放さっしゃれ。獣は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割かっしゃるか、それとも背から解くかの、」と何と、ひたわななきに戦く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。 「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」  御廚子の菩薩は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。  ――茫然として、銑吉は聞いていた――  血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸、赤肝、碧胆、五臓は見る見る解き発かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々とした咽喉首に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨、ぜんまいが、山賤には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※(「参らせ候」のくずし字)もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後れをするげな、この痴気おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺い、人殺しの解死人は免れぬぞ、」と告り威す。――命ばかりは欲いと思い、ここで我が鼻も薙刀で引そがりょう、恐ろしさ。古手拭で、我が鼻を、頸窪へ結えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮み、じょきりと庖丁で刎ねると、ああ、あ痛、焼火箸で掌を貫かれたような、その疼痛に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗れていた。  媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁か、味噌か、焼こうかの。」と榾をほだて、鍋を揺ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の婦も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈み、媼に這って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。  畠二三枚、つい近い、前畷の夜の雪路を、狸が葬式を真似るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真中に戸板を舁いていた。――鳥旦那の、凍えて人事不省なったのを助け出した、行列であった。  町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。  どうも解せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰しただけで、無事に助かった。旦那はまず不具だ。巣を見るばかりで、その祟りは、と内証で声をひそめて、老巫女に伺を立てた。されば、明神様の思召しは、鉄砲は避けもされる。また眷属が怪我に打たれまいものではない。――御殿の閨を覗かれ、あまつさえ、帳の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩い……との事である。  要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。―― 「――万事、その気でござらっしゃれよ。」 「勿論です――」  が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸った薙刀を思うと、掛釘が錆朽ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。  さて、旧街道を――庫裡を一廻り、寺の前から――路を埋めた浅茅を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前来た片原の町はずれへ続く、それを斜に見上げる、山の端高き青芒、蕨の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅い帯が、ふと紅の袴のように見えたのも稀有であった、が、その下ななめに、草堤を、田螺が二つ並んで、日中の畝うつりをしているような人影を見おろすと、 「おん爺いええ。」  と野へ響く、広く透った声で呼んだ。  貝の尖の白髪の田螺が、 「おお。」 「爺ン爺いよう。」 「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」 「媼ン媼が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」 「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」 「知らねえよう。」 「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」 「何でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」  なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。 「そんでは、旦那。」  白髪の田螺は、麦稈帽の田螺に、ぼつりと分れる。        二 「――何だ、薙刀というのは、――絵馬の画――これか。」  あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間にかかった、絵馬を視て、吻と息を吐きつつ微笑んだ。  しかし、一口に絵馬とはいうが、入念の彩色、塗柄の蒔絵に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗のようなものは、紗綾か、緞子か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。  武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者の手を経たものではない。流儀の名の、静も優しい、婦人の奉納に違いない。  眉も胸も和になった。が、ここへ来て彳むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊めて、驚破といわばの気構をしたのである。何より聞怯じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流がひらめくとともに、鼻を殺がるる、というのである。  これは、生命より可恐い。むかし、悪性の唐瘡を煩ったものが、厠から出て、嚔をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中へ舌が出て、もげた鼻を追掛けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。  鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。  草生の坂を上る時は、日中三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣の襟を正した。  銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖で、お山に昇る力もなく、登山靴で、嶽を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。  石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽いた、と思うほど、聳えていた。  ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡かして滑かに通った事であった。  やがて近づく、御手洗の水は乾いたが、雪の白山の、故郷の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。  すぐその御手洗の傍に、三抱ほどなる大榎の枝が茂って、檜皮葺の屋根を、森々と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木を見れば、紛うべくもない女神である。根上りの根の、譬えば黒い珊瑚碓のごとく、堆く築いて、青く白く、立浪を砕くように床の縁下へ蟠ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞に、清水があって、翠珠を湛えて湧くのが見える。  銑吉はそこで手を浄めた。  階段を静に――むしろ密と上りつつ、ハタと胸を衝いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈だった。鍵を、もし、錠がささっていれば、扉は開かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰ながら差覗くと、廻縁の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖してない。  手を扉にかけた。  裡の、その真上に、薙刀がかかっている筈である。  そこで、銑吉がどんな可笑な態をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。 「お通しを願います、失礼。」  と云った。  片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗か。  絵馬を見て、彳んで、いま、その心易さに莞爾としたのである。  思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗、萩、女郎花、一幅の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎ね落ちた。再び裾へ飜えるのは、柄長き薙刀の刃尖である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透して、再び光った。  次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎の幹を小盾に取っていた。  どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁げたその形が。――そうして、少時して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。  柳の影を素膚に絡うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩裳へ、腰には、淡紅の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄に、端が靡いて、婦人は、頬のかかり頸脚の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄を薄く引き、ほとんど白脛に消ゆるに近い薄紅の蹴出しを、ただなよなよと捌きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行き、よろよろと還って、往きつ戻りつしている。その取乱した態の、あわただしい中にも、媚しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦ぎ縺れるように思わせつつ、堂の縁を往来した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢な肩で激しく息をした。髪が髢のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋って、柄を高くついた、その薙刀が倒で……刃尖が爪先を切ろうとしている。  戦は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血が踵を染めて伝わりそうで、見る目も危い。  青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、 「貴女、貴女、誰方にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」  髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、 「あああ」  とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、 「小県さん――」  冴えて、澄み、すこし掠れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢から化鳥が呼んだように聞えたのである。 「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」  この場合、声はまた心持涸れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。  夏は簾、冬は襖、間を隔てた、もの越は、人を思うには一段、床しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――  まだ人間に返り切れぬ。薙刀怯えの蝉は、少々震声して、 「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」 「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果なんですの。」 「あ、危い。」  長刀は朽縁に倒れた。その刃の平に、雪の掌を置くばかり、たよたよと崩折れて、顔に片袖を蔽うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人となって、辻堂に徜徉った伝説を目のあたり、見るものの目に、幽窈、玄麗の趣があって、娑婆近い事のようには思われぬ。  話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……  その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路、野道を分入った僻村であるものを。――  ――実は、銑吉は、これより先き、麓の西明寺の庫裡の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入を見たし、続いて、准胝観音の御廚子の前に、菩薩が求児擁護の結縁に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女扇子の銀砂子の端に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥にその人の面影をしのんだばかりであったのに。  かえって、木魚に圧された提紙入には、美女の古寺の凌辱を危み、三方の女扇子には、姙娠の婦人の生死を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品のいわれに触れるのさえ厭うらしいので、そのまま黙した事実があった。  ただ、あだには見過し難い、その二品に対する心ゆかしと、帰路には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。  いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。        三 「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」  ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。  きれぎれに、 「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」  泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃めかして薙ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘すらしい、というだけでも、この話の運びを辿って、読者も、あらかじめ頷かるるであろう、この婦は姙娠している。 「私が、そこへ行きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」  婦は、格子に縋って、また立った。なおその背後向きのままで居る。 「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」 「いま、そちらへ参りますよ。」  落ついて静にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。  枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細りした姿で、薄い色の褄を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合わせ掻合わせするのが、茂りの彼方に枝透いて、簾越に薬玉が消えんとする。  やがて、向直って階を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明を洩れるまで、ふっくりと、やや円い。  牡丹を抱いた白鷺の風情である。  見まい。 「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」  と、すぐその榎の根の湧水に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉へ通りそうに見えたが、掬もうとすると、掌が薄く、玉の数珠のように、雫が切れて皆溢れる。 「両掌でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何にもいりゃしません。」 「はい、いいえ。」  膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧え、やっぱり腹部を蔽うた、その片手を離さない。 「だって、両掌を突込まないじゃ、いけないじゃありませんか。」 「ええ、あの柄杓があるんですけど。」 「柄杓、」  手水鉢に。 「ああ、手近です。あげましょう。青い苔だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」 「済みません、小県さん、私知っていましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」 「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」 「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」  それだと毎日この祠へ。 「あ、あ。」  と、消えるように、息を引いて、 「おいしいこと、ああ、おいしい。」  唇も青澄んだように見える。 「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」 「私が。」  とて、柄を手巾で拭いたあとを、見入っていた。 「どうしました。」 「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」 「満々と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」  とぐっと飲み、 「甘露が五臓へ沁みます。」  と清しく云った。  小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜に視ながら、 「まあ、おきれいですこと。」 「水?……勿論!」 「いいえ、あなたが。」 「あなたが。」 「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」 「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」  と、はじめて声を出して軽く笑った。 「透通るほどなのは、あなたさ。」 「ええ。」  と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰めた。乳の下を且つ蔽う袖。 「一度、二十許りの親類の娘を連れて、鬼子母神へ参詣をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂の燈明で視た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜として……白さは白粉以上なんです。――前刻も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」  誓はうつむく。  その襟脚はいうまでもなかろう。 「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」 「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」  つと寄ると、手巾を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。 「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」 「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。  墓は、草に埋まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間に――しかし、そればかりではありません。  ――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷の道端に、お中食処の看板が、屋根、廂ぐるみ、朽倒れに潰れていて、清い小流の前に、思いがけない緋牡丹が、」  お誓は、おくれ毛を靡かし、顔を上げる。 「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑蝥――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣えて、この森の空へ飛んだんです。  まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪へ入って見えなくなったのが――この山続のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」  銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤を含んで、屹として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。 「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔……」 「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」 「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」 「忘れました、そういう串戯をきいていたくはないのです。」 「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹を引破って、肝も臓腑も……」  その水色に花野の帯が、蔀下の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯と通った。 「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」 「何、私なら落ちたんでしょう。」 「そして、石段の上口に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟と覗いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」  その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度も独りうなずいた。 「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」 「御同様です。」 「その拝殿を、一旦むこうの隅へ急いで遁げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」 「…………」 「その怪ものに、口惜い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……  ――畜生――  と声も出ないで。」 「ははあ、たちまち一打……薙刀ですな。」 「明神様のお持料です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒してやろうと思って、」 「切られる分には、まだ、不具です。薙倒されては真二つです、危い、危い。」  と、いまは笑った。 「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間しい獣です、畜生です、犬です、犬に噛まれたとお思いになって。」 「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵も負わないから、太腹らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」  そこで、背に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。 「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」  その黒髪は、漆の刃のようにヒヤリとする。  水へ辷った柄杓が、カンと響いた。        四 「……小県さん、女が、女の不束で、絶家を起す、家を立てたい――」 「絶家を起す、家を起てたい……」 「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」 「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴れじゃありませんか。」 「私の父は、この土地のものなんです。」 「ああ、成程。」 「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可いんですけれど、そういう人ですから、堅気の商売が出来ないで、まだ――街道が賑かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋旅籠の店を出したと申しますの。  ……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹、牡丹ですが。」  なぜか、引くいきに、声がかすれて、 「あの咲いております処は、今は田畝のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――  牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨で潰れたのが、家の骸骨のように路端に倒れていますわ。  母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。  ――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」  ふと耳許をほんのりと薄く染めた。 「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶さないように遺言をしたんです。  私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。  こんなものでも、一つ家に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」 「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢に前途が岐れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」 「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日や今日の事とは思わなかったんですのに――昨年、店の都合で裾野の方へ一夏まいりまして、朝夕、あの、富士山の景色を見ますにつけ……ついのんびりと、一人で旅がしてみたくなったんです。一体出不精な処へ、お蔭様、店も忙しゅうございますし、本所の伯父伯母と云った処で、ほんの母がたよりました寄親同様。これといって行きたい場所も知りませんものですから、旅をするなら、名ばかりでも、聞いただけ懐しい、片原を、と存じまして、十月小春のいい時候に、もみじもさかり、と聞きました。……  はじめて、泊りました、その土地の町の旅宿が、まわり合せですか、因縁だか、その宿の隠居夫婦が、よく昔の事を知っていました。もの珍らしいからでしょう、宿帳の田沢だけで、もう、ちっとでも片原に縁があるだろう、といいましてね。  そんなですから、隠居二人で、西明寺の父の墓も案内をしてくれますし。……まことに不思議な、久しく下草の中に消えていた、街道端の牡丹が、去年から芽を出して、どうしてでしょう、今年の夏は、花を持った。町でも人が沢山見に行き、下の流れを飲んで酔うといえば、汲んで取って、香水だと賞めるのもある。……お嬢さん……私の事です。」  と頬も冷たそうに、うら寂しく、 「故郷へ帰って来て、田沢家を起す、瑞祥はこれで分った、と下へも置かないで、それはほんとうに深切に世話をして、牡丹さん、牡丹さん、私の部屋が牡丹の間。餡子ではあんまりだ、黄色い白粉でもつけましょう、牡丹亭きな子です。お一ついかが……そういってどうかすると、お客にお酌をした事もあるんです。長逗留の退屈ばらし、それには馴れた軽はずみ……」  歎息も弱々と、 「もっとも煩いことでも言えば、その場から、つい立って、牡丹の間へ帰っていたんです。それというのが、ああも、こうもと、それから、それへ、商売のこと、家のこと。隠居夫婦と、主人夫婦、家のものばかりも四人でしょう。番頭ですの、女中ですの、入かわり相談をしてくれます。聞くだけでも楽みで、つんだり、崩したり、切組みましたり、庭背戸まで見積って、子供の積木細工で居るうちに、日が経ちます。……鳥居数をくぐり、門松を視ないと、故郷とはいえない、といわれる通りの気になって、おまいりをしましたり。……逗留のうち、幾度、あの牡丹の前へ立ったでしょう。  柱一本、根太板も、親たちの手の触ったのが残っていましょう。あの骨を拾おう。どうしよう。焚こうか、埋めようか。ちょっと九尺二間を建てるにしても、場所がいまの田畝ではどうにもならず。(地蔵様の祠を建てなさい、)隠居たちがいうんです。ああ、いいわねえ、そうしましょうか。  思出しても身体がふるえる、……  今年二月の始でした。……東京も、そうだったって聞いたんですが、この辺でも珍らしく、雪の少い、暖かな冬でしたの。……今夜の豆撒が済むと、片原で年を取って、あかんぼも二つになると、隠居たちも笑っていました。その晩――暮方……  湯上りのいい心持の処へ、ちらちら降出しました雪が嬉しくって、生意気に、……それだし、銀座辺、あの築地辺の夜ふけの辻で、つまらない悪戯をされました覚えもなし、またいたずらに逢ったところで、ところ久しいだけ、門なみ知っているんです。……梅水のものですよ。それで大概、挨拶をして離れちまいますんですもの、道の可恐さはちっとも知らずにいたんです。――それに牡丹亭のあとまでは、つれがありましたり、一人でも幾度も行ったり来たり、屋根のない長い廊下もおんなじに思っていましたものですから、コオトも着ないで、小県さん、浴衣に襟つき一枚何かで。――裙へ流れる水、あの小川も、梅水に居て、座敷の奥で、水調子を聞く音がします。……牡丹はもう、枝ばかり、それも枯れていたんですが、降る雪がすっきりと、白い莟に積りました。……大輪なのも面影に見えるようです。  向うへ、小さなお地蔵様のお堂を建てたら、お提灯に蔦の紋、養子が出来て、その人のと、二つなら嬉しいだろう。まあ極りの悪い。……わざとお賽銭箱を置いて、宝珠の玉……違った、それはお稲荷様、と思っているうちに、こんな風に傘をさして、ちらちらと、藤の花だか、鷺だかの娘になって、踊ったこともあったっけ。――傘は、ここで、畳んだか、開いてさしたかと、うっかりしました。――傘を、ひどい力で、上へぐいと引いたんです。天にも地にも、小県さん、観音様と、明神様のほかには、女の身体で、口へ出して……」  キリキリと歯を噛んで、つと瞼の色が褪せた。 「癪か。しっかりなさい、お誓さん。」  さそくに掬った柄杓の水を、削るがごとく口に含んで、 「人間がましい、癪なんぞは、通越しているんです。ああ、この水が、そのまんま、青い煙になって焼いちまってくれればいいのに。」  しばらく、声も途絶えたのである。 「口惜しいわ、私、小県さん、足が上へ浮く処を、うしろから、もこん、と抱込んだものを、見ました時。」  わなわなと震えたから、小県も肩にかけていた手を離した。倒れそうに腰をつくと、褄を投げて、片手を苔に辷らした。 「灰汁のような毛が一面にかぶさった。枯木のような脊の高い、蒼い顔した※(けものへん+非)々、あの、絵の※(けものへん+非)々、それの鼻、がまた高くて巨いのが、黒雲のようにかぶさると思いましたばかり……何にも分らなくなりました。  あとで――息の返りましたのは、一軒家で飴を売ります、お媼さんと、お爺さんの炉端でした。裏背戸口へ、どさりと音がしたきりだった、という事です。  どんな形で、投り出されていたんでしょう。」  褄を引合わせ、身をしめて、 「……のちに、大沼で、とれたといって、旅宿の台所に、白い雁が仰向けに、俎の上に乗ったのを、ふと見まして、もう一度ゾッとすると、ひきつけて倒れました事さえあるんです。  ――その晩は、お爺さんの内から、ほんの四五町の処を、俥にのって帰ったのです。急に、ひどい悪寒がするといって、引被って寝ましたきり、枕も顔もあげられますもんですか。悪寒どころですか、身体はやけますようですのに、冷い汗を絞るんです。その汗が脇の下も、乳の処も、……ずくずく……悪臭い、鱶だか、鮫だかの、六月いきれに、すえたような臭いでしょう。むしりたい、切って取りたい、削りたい、身体中がむかむかして、しっきりなしに吐くんです。  無理やりに服まされました、何の薬のせいですか、有る命は死にません。――活きているかいはなし……ただ西明寺の観音様へお縋りにまいります。それだって、途中、牡丹のあるところを視ます時の心もちは、ただお察しにまかせます。……何の罪咎があるんでしょう、と思うのは、身勝手な、我身ばかりで、神様や仏様の目で、ごらんになったら。」 「お誓さん、……」  声を沈めて遮った。 「神、仏の目には、何の咎、何の罪もない。あなたのような人間を、かえって悪魔は狙うのですよ。幾年目かに朽ちた牡丹の花が咲いた……それは嘘ではありますまい。人は見て奇瑞とするが、魔が咲かせたかも知れないんです。反対に、お誓さんが故郷へ帰った、その瑞兆が顕われたとして、しかも家の骨に地蔵尊を祭る奇特がある。功徳、恭養、善行、美事、その只中を狙うのが、悪魔の役です。どっちにしろ可恐しい、早くそこを通抜けよう。さ、あなたも目をつむって、観音様の前へおいでなさい。」 「――ある時、和尚さんが、お寺へ紅白の切を、何ほどか寄進をして欲しいものじゃ、とおっしゃるんです。寺の用でない、諸人の施行のためじゃけれど、この通りの貧乏寺。……ええ、私の方から、おやくに立ちますならお願い申したいほどですわ。三反持って参りますと、六尺ずつに切りたいが、鋏というものもなし……庖丁ではどうであろう。まあ、手で裂いても間に合いますわ。和尚さんに手伝って三方の上へ重ねました時、つい、それまでは不信心な、何にも知らずにおりました。子育ての慈愛をなさいます、五月帯のわけを聞きまして、時も時、折も折ですし、……観音様。」  お誓が、髪を長く、すっと立って、麓に白い手を合わせた。 「つい女気で、紅い切を上へ積んだものですから、真上のを、内証で、そっと、頂いたんです。」 「それは、めでたい。――結構ではないか、お誓さん。」  お誓は榎の根に、今度は吻として憩った、それと差むかいに、小県は、より低い処に腰を置いて、片足を前に、くつろぐ状して、 「節分の夜の事だ。対手を鬼と思いたまえ。が、それも出放題過ぎるなら、怪我……病気だと思ったらどうです。怪我や病気は誰もする。……その怪我にも、病気にも障りがなくって、赤ちゃんが、御免なさいよ、ま、出来たとする。昔から偉人には奇蹟が携わる、日を見て、月を見て、星を見て、いや、ちと大道うらないに似て来たかね。」  袖を開いて扇を使った。柳の影が映りそうで、道得て、いささか可と思ったらしい。 「鶴を視て懐姙した験はいくらもある。いわゆる、もうし子だとお思いなさい。その上、面倒な口を利く父親なしに、お誓さん一人で育てたら、それが生一本の田沢家の血統じゃありませんか。そうだ、悪魔などと言ったのは、私のあやまり、豊年の何とかいう雪が降って、節分には、よく降るんです。正に春立ならんとする時、牡丹に雪の瑞といい、地蔵菩薩の祥といい、あなたは授りものをしたんじゃないか、確にそうだ、――お誓さん。」  お誓は淡くまた瞼を染めた。 「そんな、あの、大それた、高望みはしませんけれど、女の子かも知れないと思いました。五日、七日、二夜、三夜、観音様の前に静としていますうちに、そういえば、今時、天狗も※(けものへん+非)々も居まいし、第一獣の臭気がしません。くされたというは心持で、何ですか、水に棲むもののような気がするし、森の香の、時々峰からおろす松風と一所に通って来るのも、水神、山の神に魅入られたのかも分らない。ええ、因果と業。不具でも、虫でもいい。鳶鴉でも、鮒、鰌でも構わない。その子を連れて、勧進比丘尼で、諸国を廻って親子の見世ものになったらそれまで、どうなるものか。……そうすると、気が易くなりました。」 「ああ、観音の利益だなあ。」  つと顔を背けると、肩をそいで、お誓は、はらはらと涙を落した。 「その御利益を、小県さん、頂いてだけいればよかったんですけれど――早くから、関屋からこの辺かけて、鳥の学者、博士が居ます。」 「…………」 「鳥の巣に近づくため、撃つために、いろいろな……あんな形もする、こうもする。……頭に樹の枝をかぶったり、かずらや枯葉を腰へ巻いたり……何の気もなしに、孫八ッて……その飴屋の爺さんが夜話するのを、一言……」     (!…………) 「焼火箸を脇の下へ突貫かれた気がしました。扇子をむしって棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。  もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜くって、もどかしくって居堪らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟の鋭い、明神様に、一昨日と、昨日、今日……」  ――誓ただひとりこの御堂に―― 「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達ヶ原の孤家の、もの凄いのを見ますとね。」 (――実は、その絵馬は違っていた――) 「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨きな鼻が息をするような、その鼻が舐めるような、舌を出すような、蒼黄色い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死も知らないでいたうちの事が現に顕われて、お腹の中で、土蜘蛛が黒い手を拡げるように動くんですもの。  帯を解いて、投げました。  ええ、男に許したのではない。  自分の腹を露出したんです。  芬と、麝香の薫のする、金襴の袋を解いて、長刀を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子の香がしましたのです。」……  この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。  誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。  ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。  そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。  下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……  ちっと擽ったいばかり。こういう時の男の起居挙動は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視ていた。薙刀の、それからはじめて。――  一度横目を流したが、その時は、投げた単衣の後褄を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛をあらわに、おくれ毛を撫でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。 「その絵馬なんですわ、小県さん。」  起つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢は通ずる。安達ヶ原の…… 「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎の上へ――裸体の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄い鬼婆々じゃなくって、鮹の口を尖らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」  事情も解めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視めていたのは、その次の絵馬で。  はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛なすりつけた、波の線が太いから、海を被いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈、比目魚には、どんよりと色が赤い。赤鱏だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。  斑蝥だ。斑蝥が留っていた。 「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗な虫が一つ居はしませんか、虫が。」 「ええ。」 「居る?」 「ええ。居ますわ。」  バタリと口に啣えた櫛が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛けを手繰っていたが、 「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪も衣ものも欲いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」  筐の簪、箪笥の衣、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。  いや、懸念に堪えない。 「玉虫どころか……」  名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。 「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」 「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体を、構わんですわ。」  ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念がよく聞えた。いやが上に、それも可哀で、その、いじらしさ。 「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」  再び巨榎の翠の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視た。  水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。 「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可かった。」  引立てて階を下りた、その蔀格子の暗い処に、カタリと音がした。 「あれ、薙刀がはずれましたか。」  清水の面が、柄杓の苔を、琅玕のごとく、梢もる透間を、銀象嵌に鏤めつつ、そのもの音の響きに揺れた。 「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……  榎の梢を、兎のような雲にのって。 「桃色の三日月様のように。」  と言った。  松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。 「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」 「行って、どうします? 行って。」 「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗にしまって封をすれば、仏様の情を仇の女の邪念で、蛇、蛭に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭しなんです。小県さん。あの沼は、真中が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」  と、銑吉の袂の端を確と取った。 「行く道が分っていますか。」 「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――  欄干の折れた西の縁の出端から、袖形に地の靡く、向うの末の、雑樹茂り、葎蔽い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予らわず潜る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹に黒髪した遁水のごとき姿を追ったからである。  沼は、不忍の池を、その半にしたと思えば可い。ただ周囲に蓊鬱として、樹が茂って暗い。  森をくぐって、青い姿見が蘆間に映った時である。  汀の、斜向うへ――巨な赤い蛇が顕われた。蘆萱を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤なヘルメット帽である。  小県が追縋る隙もなかった。  衝と行く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙なる、乳首の深秘は、幽に雪間の菫を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、 「畜生……」  と云った、女の声とともに、谺が冴えて、銃が響いた。  小県は草に、伏の構を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行るかも知れない……爪さきに接吻をしようとしたのではない。ものいう間もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。  その草伏の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽いて、高く、金色の夕日に聳って見えた。斉しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖った、巨なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投るのを視た。足でなく、頭で雀躍したのである。たちまち、法衣を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢よく沼へ入った。  続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。  中心へ近づくままに、掻く手の肱の上へ顕われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸のくさりかかったような面を視た。水に拙いのであろう。喘ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形の一術であろうも計られぬ。 「ばか。」  投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。  早く解いて流した紅の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行く。その、花片に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。  鼻を仰向け、諸手で、腹帯を掴むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。  ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八爺が押えたのが見える。押えられて、手を突込んだから、脚をばったのように、いや、ずんぐりだから、蟋蟀のように掙いて、頭で臼を搗いていた。 「――そろそろと歩行いて行き、ただ一番あとのものを助けるよう――」  途中から女の子に呼戻させておいて、媼巫女、その孫八爺さんに命ずるがごとくに云って――方角を教えた。  ずんぐりが一番あとだったのを、孫八が来て見出したとともに、助けたのである。  この少年は、少なからぬ便宜を与えた。――検する官人の前で、 「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤になる情報があったであります。緋の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅な鳥が居る。撃ったであります。銃の命中したその鳥は、沼の中心へ落ちたであります。従って高級なる猟犬として泳いだのであります。」  と明確に言った。  のみならず、紳士の舌には、斑蝥がねばりついていた。  一人として事件に煩わされたものはない。  汀で、お誓を抱いた時、惜しや、かわいそうに、もういけないと思った。胸に硝薬のにおいがしたからである。  水を汲もうとする処へ、少年を促がしつつ、廻り駈けに駈けつけた孫八が慌しく留めた。水を飲んじゃなりましねえ。山野に馴れた爺の目には、沼の水を見さっせえ、お前等がいった、毒虫が、ポカリポカリ浮いてるだ。……  明神まで引返す、これにも少年が用立った。爺さんにかわって、お誓を背にして走った。  清水につくと、魑魅が枝を下り、茂りの中から顕われたように見えたが、早く尾根づたいして、八十路に近い、脊の低い柔和なお媼さんが、片手に幣結える榊を持ち、杖はついたが、健に来合わせて、 「苦労さしゃったの。もうよし、よし。」  と、お誓のそのふくよかな腹を、袖の下で擦って微笑んだ。そこがちょうど結び目の帯留の金具を射て、弾丸は外れたらしい。小指のさきほどの打身があった。淡いふすぼりが、媼の手が榊を清水にひたして冷すうちに、ブライツッケルの冷罨法にも合えるごとく、やや青く、薄紫にあせるとともに、乳が銀の露に汗ばんで、濡色の睫毛が生きた。  町へ急ぐようにと云って、媼はなおあとへ残るから、 「お前様は?」  お誓が聞くと、 「姫神様がの、お冠の纓が解けた、と御意じゃよ。」  これを聞いて、活ける女神が、なぜみずからのその手にて、などというものは、烏帽子折を思わるるがいい。早い処は、さようなお方は、恋人に羽織をきせられなかろう。袴腰も、御自分で当て、帽子も、御自分で取っておかぶりなさい。        五  神巫たちは、数々、顕霊を示し、幽冥を通じて、俗人を驚かし、郷土に一種の権力をさえ把持すること、今も昔に、そんなにかわりなく、奥羽地方は、特に多い、と聞く。  むかし、秋田何代かの太守が郊外に逍遥した。小やすみの庄屋が、殿様の歌人なのを知って、家に持伝えた人麿の木像を献じた。お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口寄の巫女があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。  しのびで、裏町の軒へ寄ると、破屋を包む霧寒く、松韻颯々として、白衣の巫女が口ずさんだ。 「ほのぼのと……」  太守は門口を衝と引いた。「これよ。」「ははッ。」「巫女に謝儀をとらせい。……あの輩の教化は、士分にまで及ぶであろうか。」「泣きみ、笑いみ……ははッ、ただ婦女子のもてあそびものにござりまする。」「さようか――その儀ならば、」……仔細ない。  が、孫八の媼は、その秋田辺のいわゆる(おかみん)ではない。越後路から流漂した、その頃は色白な年増であった。呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女振を視て、口説いて、口を遁げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの退都に似ている。悪孫八が勝ち、無理が通った。それも縁であろう。越後巫女は、水飴と荒物を売り、軒に草鞋を釣して、ここに姥塚を築くばかり、あとを留めたのであると聞く。  ――前略、当寺檀那、孫八どのより申上げ候。入院中流産なされ候御婦人は、いまは大方に快癒、鬱散のそとあるきも出来候との事、御安心下され度候趣、さて、ここに一昨夕、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦人一人、同所、鳥博士の新墓の前に彳み候が、冷く莞爾といたし候とともに、手の壺微塵に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流れ、降積りたる雹を染め候が、赤き霜柱の如く、暫時は消えもやらず有之候よし、貧道など口にいたし候もいかが、相頼まれ申候ことづてのみ、いずれ仏菩薩の思召す処にはこれあるまじく、奇しく厳しき明神の嚮導指示のもとに、化鳥の類の所為にもやと存じ候―― 西明寺   木魚。  和尚さんも、貧地の癖に「木魚」などと洒落れている。が、それはとにかく――(上人の手紙は取意の事)東京の小県へこの来書の趣は、婦人が受辱、胎蔵の玻璃を粉砕して、汚血を猟色の墳墓に、たたき返したと思われぬでもない。 昭和八(一九三三)年一月
底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日発行 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003660", "作品名": "神鷺之巻", "作品名読み": "しんろのまき", "ソート用読み": "しんろのまき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-05-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3660.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成9", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年6月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年6月24日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3660_ruby_22278.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-03-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3660_22421.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-03-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 夜は、はや秋の螢なるべし、風に稻葉のそよぐ中を、影淡くはら〳〵とこぼるゝ状あはれなり。  月影は、夕顏のをかしく縋れる四ツ目垣一重隔てたる裏山の雜木の中よりさして、浴衣の袖に照添ふも風情なり。  山續きに石段高く、木下闇苔蒸したる岡の上に御堂あり、觀世音おはします、寺の名を觀藏院といふ。崖の下、葎生ひ茂りて、星影の晝も見ゆべくおどろ〳〵しければ、同宿の人たち渾名して龍ヶ谷といふ。  店借の此の住居は、船越街道より右にだら〳〵のぼりの處にあれば、櫻ヶ岡といふべくや。  これより、「爺や茶屋」「箱根」「原口の瀧」「南瓜軒」「下櫻山」を經て、倒富士田越橋の袂を行けば、直にボートを見、眞帆片帆を望む。  爺や茶屋は、翁ひとり居て、燒酎、油、蚊遣の類を鬻ぐ、故に云ふ。  原口の瀧、いはれあり、去ぬる八日大雨の暗夜、十時を過ぎて春鴻子來る、俥より出づるに、顏の色慘しく濡れ漬りて、路なる大瀧恐しかりきと。  翌日、雨の晴間を海に行く、箱根のあなたに、砂道を横切りて、用水のちよろ〳〵と蟹の渡る處あり。雨に嵩増し流れたるを、平家の落人悽じき瀑と錯りけるなり。因りて名づく、又夜雨の瀧。  此瀧を過ぎて小一町、道のほとり、山の根の巖に清水滴り、三體の地藏尊を安置して、幽徑磽确たり。戲れに箱根々々と呼びしが、人あり、櫻山に向ひ合へる池子山の奧、神武寺の邊より、萬兩の實の房やかに附いたるを一本得て歸りて、此草幹の高きこと一丈、蓋し百年以來のもの也と誇る、其のをのこ國訛にや、百年といふが百年々々と聞ゆるもをかしく今は名所となりぬ。  嗚呼なる哉、吾等晝寢してもあるべきを、かくてつれ〴〵を過すにこそ。  臺所より富士見ゆ。露の木槿ほの紅う、茅屋のあちこち黒き中に、狐火かとばかり灯の色沈みて、池子の麓砧打つ折から、妹がり行くらん遠畦の在郷唄、盆過ぎてよりあはれさ更にまされり。 明治三十五年九月
底本:「鏡花全集 巻二十八」岩波書店    1942(昭和17)11月30日第1刷発行    1988(昭和63)12月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年4月24日作成 2012年12月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004151", "作品名": "逗子だより", "作品名読み": "ずしだより", "ソート用読み": "すしたより", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4151.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4151_ruby_6287.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-12-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4151_6478.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-12-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
 拝啓、愚弟におんことづけの儀承り候。来月分新小説に、凡兆が、(涼しさや朝草門に荷ひ込む)趣の、やさしき御催しこれあり、小生にも一鎌仕れとのおほせ、ゐなかずまひのわれらにはふさはしき御申しつけ、心得申して候。  まづ、何処をさして申上げ候べき。われら此の森の伏屋、小川の芦、海は申すまでも候はず、岩端、松蔭、朝顔、夕顔、蛍、六代御前の塚は凄く涼しく、玄武寺の竜胆は幽に涼しく、南瓜の露はをかしげに涼しく、魚屋の盤台の鱸は……実は余りお安値からず涼しく、ものにつけ涼しからぬはこれなく候。わけて此の頃や、山々のみどりの中に、白百合の俤こそなつかしく涼しく候へ。  なかにも、尊く身にしみて膚寒きまで心涼しく候は、当田越村久野谷なる、岩殿寺のあたりに候。土地の人はたゞ岩殿と申して、石段高く青葉によづる山の上に、観世音の御堂こそあり候。  停車場より、路を葉山の方にせず、鎌倉の新道、鶴ヶ岡までトンネルを二つ越して、一里八町と申し候方に、あひむかひ候へば、左に小坪の岩の根、白波の寄するを境に、青田と浅緑の海とをながめ、右にえぞ菊、孔雀草、浦島草、おいらん草の濃き紅、おしろい草、装を凝したる十七八の農家つゞきに、小さく停車場の全幅を望みつゝ、やがて、踏切を越して、道のほど二町ばかり参り候へば、水田の畔に建札して、板東三十三番の内、第二番の霊場とござ候。  早や遠音ながら、声冴えて、谺に響く夏鶯の、山の其方を見候へば、雲うつくしき葉がくれに、御堂の屋根の拝まれ候。  鎌倉街道よりはわきへそれ、通りすがりの打見には、橿原の山の端にかくれ、人通りしげき葉山の路とは、方位異なり、多くの人は此の景勝の霊地を知らず、小生も久しく不心得にて過ぎ申候。  尤も、海に参り候、新宿なる小松原の中よりも、遠見に其の屋根は見え候を、後に心づき候へども、旗も鳥居もあるにこそ、小やかなる茅屋とて、たゞ山の上の一軒家とのみ、あだに見過ごされ申すべく、況して海水帽あひ望み、白脛、紅織るが如くに候をや、道心御承知の如き小生すら、時々富士の雪の頂さへ真正面に見落して、浴衣に眼を奪はれ候。  東鑑の十三に、委しき縁起候とよ。いにしへは七堂伽藍、雲に聳え候が、今は唯麓の小家二三のみ。  当春、はじめて詣で候折は、石段も土にうづもれて、苔に躓くばかりあゆみなやみ候が、志すものありて、近頃は見事に修復出来申候。  麓の里道、其石段まで、爪さきあがりの二町ばかりがほど、背戸の花、屋根の草相交り、茄子の夕日、胡瓜の風、清き流颯と走りて、処々水の隅に、柄長き柄杓を添へたるも、なか〳〵の風情に候。此処を蛍の名所と申すを、露草の裏すくばかり、目のあたりにうかべながら、未だ怠りて参り見ず。  夜は然こそと存じ候。  折りからと申し、御言をつたへながら遊びに参り候、愚弟をともなひ、盆前の借罪消滅のため、一寸参詣いたし候。石段は三階の、就中二ツ目の高く𡸴しきには、何某と何某と、施主ありて手曳の針鉄ひきわたしこれあり、縋るとて、扇子の竹触れて、りん〳〵と鈴虫の微妙なるしらべ聞え候。  あはれ、妙音海潮音の海の色もこゝに澄み、ふりあふぐ山懐に、一叢しげれるみどりの草の、蛍の光も宿すべく、濡色見えて暗きなかに、山の端分くる月かとばかり、大輪の百合唯一つ真白きが、はつと揺らぎて薫りしは、此の寂さに拍手の、峰にや響き候ひけん。  御堂の院の扉をすく、御俤もよそならず。雲か、あらず。煙か、あらず。美しき緑と紅と黄と白と紫と、五色の絹糸、朱塗の柱に堆き、天井の絵の花の中を、細くたなびき候は、御手の糸と称ふるよし、御像の御袖にかけましくも綾にかしこく候ひき。 具一切功徳  慈眼視衆生 福寿海無量  是故応頂礼  かくて、霧たたば、月ささば、とおのづから衣紋の直され候。  時に松吹く風ばかり、方丈に人もあらず、狭筵の片隅に、梅花心易のさし置かれ候を、愚弟のそぞろ手に取りて、開き見んといたし候まゝ、よしなく的のない美人の名を占はんより、裏の山へ行つて百合を折らうと、夏草をわけ、香をたづねて、時の間に十本ばかり、枝もたわゝなるをゆら〳〵と引かつぎし、此の風采、其の顔色、御存じの方々は嘸ぞ苦々しく候べく、知らぬ人には異なるべく候。  さきにはむすびて手を洗ひし、青薄茂きが中の、山の井の水を汲みて、釣瓶を百合の葉にそゝぎ、これせめてものぬれ事師。 山の井に棹さす百合の雫かな  やがて下山いたし候へば、麓の流に棲むものの、露も水も珍しからぬを、花の雫をなつかしむや、沢蟹さら〳〵と芦を分けて、三つ四つならず道ばたに出迎へ候。愚弟は萩の細杖に、其の百合の花持添へて、風情なる哉、さゝがにのと、狩衣めかし候を、此方はさすがに年上なれば、蟹的め、ならぶるなと、藁草履踏みしだいて、叱々とゆふぐれ時、イヤ我ながら馬士めいたり。  蛍にはまだ暮れ果てず、立帰り候が、いかに逗子の風の、そよとも御あたりにかよひ候はば、お昼寝におつかひ下され度候。
底本:「日本随筆紀行第五巻 関東 風吹き騒ぐ平原で」作品社    1987(昭和62)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十八巻」岩波書店    1942(昭和17)年11月30日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:林幸雄 2003年11月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003579", "作品名": "逗子より", "作品名読み": "ずしより", "ソート用読み": "すしより", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-12-02T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3579.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本随筆紀行第五巻 関東 風吹き騒ぐ平原で", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年10月10日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年10月10日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十八巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3579_ruby_13852.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-11-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3579_13853.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-11-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 金澤の正月は、お買初め、お買初めの景氣の好い聲にてはじまる。初買なり。二日の夜中より出立つ。元日は何の商賣も皆休む。初買の時、競つて紅鯛とて縁起ものを買ふ。笹の葉に、大判、小判、打出の小槌、寶珠など、就中、緋に染色の大鯛小鯛を結付くるによつて名あり。お酉樣の熊手、初卯の繭玉の意氣なり。北國ゆゑ正月はいつも雪なり。雪の中を此の紅鯛綺麗なり。此のお買初めの、雪の眞夜中、うつくしき灯に、新版の繪草紙を母に買つてもらひし嬉しさ、忘れ難し。  おなじく二日の夜、町の名を言ひて、初湯を呼んで歩く風俗以前ありたり、今もあるべし。たとへば、本町の風呂屋ぢや、湯が沸いた、湯がわいた、と此のぐあひなり。これが半纏向うはち卷の威勢の好いのでなく、古合羽に足駄穿き懷手して、のそり〳〵と歩行きながら呼ぶゆゑをかし。金澤ばかりかと思ひしに、久須美佐渡守の著す、(浪華の風)と云ふものを讀めば、昔、大阪に此のことあり――二日は曉七つ時前より市中螺など吹いて、わいたわいたと大聲に呼びあるきて湯のわきたるをふれ知らす、江戸には無きことなり――とあり。  氏神の祭禮は、四五月頃と、九十月頃と、春秋二度づゝあり、小兒は大喜びなり。秋の祭の方賑し。祇園囃子、獅子など出づるは皆秋の祭なり。子供たちは、手に手に太鼓の撥を用意して、社の境内に備へつけの大太鼓をたゝきに行き、また車のつきたる黒塗の臺にのせて此れを曳きながら打囃して市中を練りまはる。ドヾンガドン。こりや、と合の手に囃す。わつしよい〳〵と云ふ處なり。  祭の時のお小遣を飴買錢と云ふ。飴が立てものにて、鍋にて暖めたるを、麻殼の軸にくるりと卷いて賣る。飴買つて麻やろか、と言ふべろんの言葉あり。饅頭買つて皮やろかなり。御祝儀、心づけなど、輕少の儀を、此は、ほんの飴買錢。  金澤にて錢百と云ふは五厘なり、二百が一錢、十錢が二貫なり。たゞし、一圓を二圓とは云はず。  蒲鉾の事をはべん、はべんをふかしと言ふ。即ち紅白のはべんなり。皆板についたまゝを半月に揃へて鉢肴に裝る。逢ひたさに用なき門を二度三度、と言ふ心意氣にて、ソツと白壁、黒塀について通るものを、「あいつ板附はべん」と言ふ洒落あり、古い洒落なるべし。  お汁の實の少ないのを、百間堀に霰と言ふ。田螺と思つたら目球だと、同じ格なり。百間堀は城の堀にて、意氣も不意氣も、身投の多き、晝も淋しき所なりしが、埋立てたれば今はなし。電車が通る。滿員だらう。心中したのがうるさかりなむ。  春雨のしめやかに、謎を一つ。……何枚衣ものを重ねても、お役に立つは膚ばかり、何?……筍。  然るべき民謠集の中に、金澤の童謠を記して(鳶のおしろに鷹匠が居る、あつち向いて見さい、こつち向いて見さい)としたるは可きが、おしろに註して(お城)としたには吃驚なり。おしろは後のなまりと知るべし。此の類あまたあり。茸狩りの唄に、(松みゝ、松みゝ、親に孝行なもんに當れ。)此の松みゝに又註して、松茸とあり。飛んだ間違なり。金澤にて言ふ松みゝは初茸なり。此の茸は、松美しく草淺き所にあれば子供にも獲らるべし。(つくしん坊めつかりこ)ぐらゐな子供に、何處だつて松茸は取れはしない。一體童謠を收録するのに、なまりを正したり、當推量の註釋は大の禁物なり。  鬼ごつこの時、鬼ぎめの唄に、……(あてこに、こてこに、いけの縁に茶碗を置いて、危いことぢやつた。)同じ民謠集に、此のいけに(池)の字を當ててあり。あの土地にて言ふいけは井戸なり。井戸のふちに茶碗ゆゑ、けんのんなるべし。(かしや、かなざもの、しんたてまつる云々)これは北海道の僻地の俚謠なり。其處には、金澤の人多人數、移住したるゆゑ、故郷にて、(加州金澤の新堅町の云々)と云ふのが、次第になまりて(かしや、かなざものしんたてまつる。)知るべし、民謠に註の愈々不可なること。  新堅町、犀川の岸にあり。こゝに珍しき町の名に、大衆免、木の新保、柿の木畠、油車、目細小路、四這坂。例の公園に上る坂を尻垂坂は何した事? 母衣町は、十二階邊と言ふ意味に通ひしが今は然らざる也。――六斗林は筍が名物。目黒の秋刀魚の儀にあらず、實際の筍なり。百々女木町も字に似ず音強し。  買物にゆきて買ふ方が、(こんね)で、店の返事が(やあ〳〵。)歸る時、買つた方で、有がたう存じます、は君子なり。――ほめるのかい――いゝえ。  地震めつたになし。しかし、其のぐら〳〵と來る時は、家々に老若男女、聲を立てて、世なほし、世なほし、世なほしと唱ふ。何とも陰氣にて薄氣味惡し。雷の時、雷山へ行け、地震は海へ行けと唱ふ、たゞし地震の時には唱へず。  火事をみて、火事のことを、あゝ火事が行く、火事が行く、と叫ぶなり。彌次馬が駈けながら、互に聲を合はせて、左、左、左、左。  夏のはじめに、よく蝦蟆賣りの聲を聞く。蝦蟆や、蝦蟆い、と呼ぶ。又此の蝦蟆賣りに限りて、十二三、四五位なのが、きまつて二人連れにて歩くなり。よつて怪しからぬ二人連れを、畜生、蝦蟆賣め、と言ふ。たゞし蝦蟆は赤蛙なり。蝦蟆や、蝦蟆い。――そのあとから山男のやうな小父さんが、柳の蟲は要らんかあ、柳の蟲は要らんかあ。  鯖を、鯖や三番叟、とすてきに威勢よく賣る、おや〳〵、初鰹の勢だよ。鰯は五月を季とす。さし網鰯とて、砂のまゝ、笊、盤臺にころがる。嘘にあらず、鯖、鰡ほどの大さなり。値安し。これを燒いて二十食つた、酢にして十食つたと云ふ男だて澤山なり。次手に、目刺なし。大小いづれも串を用ゐず、乾したるは干鰯といふ。土地にて、いなだは生魚にあらず、鰤を開きたる乾ものなり。夏中の好下物、盆の贈答に用ふる事、東京に於けるお歳暮の鮭の如し。然ればその頃は、町々、辻々を、彼方からも、いなだ一枚、此方からも、いなだ一枚。  灘の銘酒、白鶴を、白鶴と讀み、いろ盛をいろ盛と讀む。娘盛も娘盛だと、お孃さんのお酌にきこえる。  南瓜を、かぼちやとも、勿論南瓜とも言はず皆ぼぶら。眞桑を、美濃瓜。奈良漬にする淺瓜を、堅瓜、此の堅瓜味よし。  蓑の外に、ばんどりとて似たものあり、蓑よりは此の方を多く用ふ。磯一峯が、(こし地紀行)に安宅の浦を一里左に見つゝ、と言ふ處にて、 (大國のしるしにや、道廣くして車を並べつべし、周道如砥とかや言ひけん、毛詩の言葉まで思ひ出でらる。並木の松嚴しく聯りて、枝をつらね蔭を重ねたり。往來の民、長き草にて蓑をねんごろに造りて目馴れぬ姿なり。)  と言ひしはこれなるべし。あゝ又雨ぞやと云ふ事を、又ばんどりぞやと云ふ習ひあり。  祭禮の雨を、ばんどり祭と稱ふ。だんどりが違つて子供は弱る。  關取、ばんどり、おねばとり、と拍子にかゝつた言あり。負けずまふは、大雨にて、重湯のやうに腰が立たぬと云ふ後言なるべし。  いつぞや、同國の人の許にて、何かの話の時、鉢前のバケツにあり合せたる雜巾をさして、其の人、金澤で何んと言つたか覺えてゐるかと問ふ。忘れたり。ぢぶきなり、其の人、長火鉢を、此れはと又問ふ。忘れたり。大和風呂なり。さて醉ぱらひの事を何んと言つたつけ。二人とも忘れて、沙汰なし〳〵。  内證の情婦のことを、おきせんと言ふ。たしか近松の心中ものの何かに、おきせんとて此の言葉ありたり。どの淨瑠璃かしらべたけれど、おきせんも無いのに面倒なり。  眞夏、日盛りの炎天を、門天心太と賣る聲きはめてよし。靜にして、あはれに、可懷し。荷も涼しく、松の青葉を天秤にかけて荷ふ。いゝ聲にて、長く引いて靜に呼び來る。もんてん、こゝろウぶとウ――  續いて、荻、萩の上葉をや渡るらんと思ふは、盂蘭盆の切籠賣の聲なり。青竹の長棹にづらりと燈籠、切籠を結びつけたるを肩にかけ、二ツ三ツは手に提げながら、細くとほるふしにて、切籠ゥ行燈切籠――と賣る、町の遠くよりきこゆるぞかし。  氷々、雪の氷と、こも俵に包みて賣り歩くは雪をかこへるものなり。鋸にてザク〳〵と切つて寄越す。日盛に、町を呼びあるくは、女や兒たちの小遣取なり。夜店のさかり場にては、屈竟な若い者が、お祭騷ぎにて賣る。土地の俳優の白粉の顏にて出た事あり。屋根より高い大行燈を立て、白雪の山を積み、臺の上に立つて、やあ、がばり〳〵がばり〳〵と喚く。行燈にも、白山氷がばり〳〵と遣る。はじめ、がばり〳〵は雪の安賣に限りしなるが、次第に何事にも用ゐられて、投賣、棄賣り、見切賣りの場合となると、瀬戸物屋、呉服店、札をたてて、がばり〳〵。愚案ずるに、がばりは雪を切る音なるべし。  水玉草を賣る、涼し。  夜店に、大道にて、鰌を割き、串にさし、付燒にして賣るを關東燒とて行はる。蒲燒の意味なるべし。  四萬六千日は八月なり。さしもの暑さも、此の夜のころ、觀音の山より涼しき風そよ〳〵と訪づるゝ、可懷し。  唐黍を燒く香立つ也。  秋は茸こそ面白けれ。松茸、初茸、木茸、岩茸、占地いろ〳〵、千本占地、小倉占地、一本占地、榎茸、針茸、舞茸、毒ありとても紅茸は紅に、黄茸は黄に、白に紫に、坊主茸、饅頭茸、烏茸、鳶茸、灰茸など、本草にも食鑑にも御免蒙りたる恐ろしき茸にも、一つ一つ名をつけて、籠に裝り、籠に狩る。茸爺、茸媼とも名づくべき茸狩りの古狸。町内に一人位づゝ必ずあり。山入の先達なり。  芝茸と稱へて、笠薄樺に、裏白なる、小さな茸の、山近く谷淺きあたりにも群生して、子供にも就中これが容易き獲ものなるべし。毒なし。味もまた佳し。宇都宮にてこの茸掃くほどあり。誰も食する者なかりしが、金澤の人の行きて、此れは結構と豆府の汁にしてつる〳〵と賞玩してより、同地にても盛に取り用ふるやうになりて、それまで名の無かりしを金澤茸と稱する由。實説なり。  茹栗、燒栗、可懷し。酸漿は然ることなれど、丹波栗と聞けば、里遠く、山遙に、仙境の土産の如く幼心に思ひしが。  松蟲や――すゞ蟲、と茣蓙きて、菅笠かむりたる男、籠を背に、大な鳥の羽を手にして山より出づ。  こつさいりんしんかとて柴をかつぎて、姊さん被りにしたる村里の女房、娘の、朝疾く町に出づる状は、京の花賣の風情なるべし。六ツ七ツ茸を薄に拔きとめて、手すさみに持てるも風情あり。  渡鳥、小雀、山雀、四十雀、五十雀、目白、菊いたゞき、あとりを多く耳にす。椋鳥少し。鶇最も多し。  じぶと云ふ料理あり。だししたぢに、慈姑、生麩、松露など取合はせ、魚鳥をうどんの粉にまぶして煮込み、山葵を吸口にしたるもの。近頃頻々として金澤に旅行する人々、皆その調味を賞す。  蕪の鮨とて、鰤の甘鹽を、蕪に挾み、麹に漬けて壓しならしたる、いろどりに、小鰕を紅く散らしたるもの。此ればかりは、紅葉先生一方ならず賞めたまひき。たゞし、四時常にあるにあらず、年の暮に霰に漬けて、早春の御馳走なり。  さて、つまみ菜、ちがへ菜、そろへ菜、たばね菜と、大根のうろ拔きの葉、露も次第に繁きにつけて、朝寒、夕寒、やゝ寒、肌寒、夜寒となる。其のたばね菜の頃ともなれば、大根の根、葉ともに霜白し、其の味辛し、然も潔し。  北國は天高くして馬痩せたらずや。  大根曳きは、家々の行事なり。此れよりさき、軒につりて干したる大根を臺所に曳きて澤庵に壓すを言ふ。今日は誰の家の大根曳きだよ、などと言ふなり。軒に干したる日は、時雨颯と暗くかゝりしが、曳く頃は霙、霰とこそなれ。冷たさ然こそ、東京にて恰もお葉洗と言ふ頃なり。夜は風呂ふき、早や炬燵こひしきまどゐに、夏泳いだ河童の、暗く化けて、豆府買ふ沙汰がはじまる。  小著の中に、 其の雲が時雨れ〳〵て、終日終夜降り續くこと二日三日、山陰に小さな青い月の影を見る曉方、ぱら〳〵と初霰。さて世が變つた樣に晴れ上つて、晝になると、寒さが身に沁みて、市中五萬軒、後馳せの分も、やゝ冬構へなし果つる。やがて、とことはの闇となり、雲は墨の上に漆を重ね、月も星も包み果てて、時々風が荒れ立つても、其の一片の動くとも見えず。恁て天に雪催が調ふと、矢玉の音たゆる時なく、丑、寅、辰、巳、刻々に修羅礫を打かけて、霰々、又玉霰。  としたるもの、拙けれども殆ど實境也。  化かすのは狐、化けるのは狸、貉。狐狸より貉の化ける話多し。  三冬を蟄すれば、天狗恐ろし。北海の荒磯、金石、大野の濱、轟々と鳴りとゞろく音、夜毎襖に響く。雪深くふと寂寞たる時、不思議なる笛太鼓、鼓の音あり、山颪にのつてトトンヒユーときこゆるかとすれば、忽ち颯と遠く成る。天狗のお囃子と云ふ。能樂の常に盛なる國なればなるべし。本所の狸囃子と、遠き縁者と聞く。  豆の餅、草餅、砂糖餅、昆布を切込みたるなど色々の餅を搗き、一番あとの臼をトンと搗く時、千貫萬貫、萬々貫、と哄と喝采して、恁て市は榮ゆるなりけり。  榧の實、澁く侘し。子供のふだんには、大抵柑子なり。蜜柑たつとし。輪切りにして鉢ものの料理につけ合はせる。淺草海苔を一枚づゝ賣る。  上丸、上々丸など稱へて胡桃いつもあり。一寸煎つて、飴にて煮る、これは甘い。  蓮根、蓮根とは言はず、蓮根とばかり稱ふ、味よし、柔かにして東京の所謂餅蓮根なり。郊外は南北凡そ皆蓮池にて、花開く時、紅々白々。  木槿、木槿にても相分らず、木槿なり。山の芋と自然生を、分けて別々に稱ふ。  凧、皆いかとのみ言ふ。扇の地紙形に、兩方に袂をふくらましたる形、大々小々いろ〳〵あり。いづれも金、銀、青、紺にて、圓く星を飾りたり。關東の凧はなきにあらず、名づけて升凧と言へり。  地形の四角なる所、即ち桝形なり。  女の子、どうかすると十六七の妙齡なるも、自分の事をタアと言ふ。男の兒は、ワシは蓋しつい通りか。たゞし友達が呼び出すのに、ワシは居るか、と言ふ。此の方はどつちもワシなり。  お螻殿を、佛さん蟲、馬追蟲を、鳴聲でスイチヨと呼ぶ。鹽買蜻蛉、味噌買蜻蛉、考證に及ばず、色合を以て子供衆は御存じならん。おはぐろ蜻蛉を、姊さんとんぼ、草葉螟蟲は燈心とんぼ、目高をカンタと言ふ。  螢、淺野川の上流を、小立野に上る、鶴間谷と言ふ所、今は知らず、凄いほど多く、暗夜には螢の中に人の姿を見るばかりなりき。  清水を清水。――桂清水で手拭ひろた、と唄ふ。山中の湯女の後朝なまめかし。其の清水まで客を送りたるもののよし。  二百十日の落水に、鯉、鮒、鯰を掬はんとて、何處の町内も、若い衆は、田圃々々へ總出で騷ぐ。子供たち、二百十日と言へば、鮒、カンタをしやくふものと覺えたほどなり。  謎また一つ。六角堂に小僧一人、お參りがあつて扉が開く、何?……酸漿。  味噌の小買をするは、質をおくほど恥辱だと言ふ風俗なりし筈なり。豆府を切つて半挺、小半挺とて賣る。菎蒻は豆府屋につきものと知り給ふべし。おなじ荷の中に菎蒻キツトあり。  蕎麥、お汁粉等、一寸入ると、一ぜんでは濟まず。二ぜんは當前。だまつて食べて居れば、あとから〳〵つきつけ裝り出す習慣あり。古風淳朴なり。たゞし二百が一錢と言ふ勘定にはあらず、心すべし。  ふと思出したれば、鄰國富山にて、團扇を賣る珍しき呼聲を、こゝに記す。 團扇やア、大團扇。 うちは、かつきツさん。 いつきツさん。團扇やあ。  もの知りだね。  ところで藝者は、娼妓は?……をやま、尾山と申すは、金澤の古稱にして、在方鄰國の人達は今も城下に出づる事を、尾山にゆくと申すことなり。何、その尾山ぢやあない?……そんな事は、知らない、知らない。 大正九年七月
底本:「鏡花全集 巻二十八」岩波書店    1942(昭和17)11月30日第1刷発行    1988(昭和63)12月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、作品末に移しました。 入力:門田裕志 校正:米田進 2002年5月8日作成 2011年3月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004150", "作品名": "寸情風土記", "作品名読み": "すんじょうふどき", "ソート用読み": "すんしようふとき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-05-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4150.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十八", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月2日第3刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田進", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4150_ruby_6289.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-03-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4150_6479.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-03-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
       一  米と塩とは尼君が市に出で行きたまうとて、庵に残したまいたれば、摩耶も予も餓うることなかるべし。もとより山中の孤家なり。甘きものも酢きものも摩耶は欲しからずという、予もまた同じきなり。  柄長く椎の葉ばかりなる、小き鎌を腰にしつ。籠をば糸つけて肩に懸け、袷短に草履穿きたり。かくてわれ庵を出でしは、午の時過ぐる比なりき。  麓に遠き市人は東雲よりするもあり。まだ夜明けざるに来るあり。芝茸、松茸、しめじ、松露など、小笹の蔭、芝の中、雑木の奥、谷間に、いと多き山なれど、狩る人の数もまた多し。  昨日一昨日雨降りて、山の地湿りたれば、茸の獲物さこそとて、朝霧の晴れもあえぬに、人影山に入乱れつ。いまはハヤ朽葉の下をもあさりたらむ。五七人、三五人、出盛りたるが断続して、群れては坂を帰りゆくに、いかにわれ山の庵に馴れて、あたりの地味にくわしとて、何ほどのものか獲らるべき。  米と塩とは貯えたり。筧の水はいと清ければ、たとい木の実一個獲ずもあれ、摩耶も予も餓うることなかるべく、甘きものも酢きものも渠はたえて欲しからずという。  されば予が茸狩らむとして来りしも、毒なき味の甘きを獲て、煮て食わむとするにはあらず。姿のおもしろき、色のうつくしきを取りて帰りて、見せて楽ませむと思いしのみ。 「爺や、この茸は毒なんか。」 「え、お前様、そいつあ、うっかりしようもんなら殺られますぜ。紅茸といってね、見ると綺麗でさ。それ、表は紅を流したようで、裏はハア真白で、茸の中じゃあ一番うつくしいんだけんど、食べられましねえ。あぶれた手合が欲しそうに見ちゃあ指をくわえるやつでね、そいつばッかりゃ塩を浴びせたって埒明きませぬじゃ、おッぽり出してしまわっせえよ。はい、」  といいかけて、行かむとしたる、山番の爺はわれらが庵を五六町隔てたる山寺の下に、小屋かけてただ一人住みたるなり。  風吹けば倒れ、雨露に朽ちて、卒堵婆は絶えてあらざれど、傾きたるまま苔蒸すままに、共有地の墓いまなお残りて、松の蔭の処々に数多く、春夏冬は人もこそ訪わね、盂蘭盆にはさすがに詣で来る縁者もあるを、いやが上に荒れ果てさして、霊地の跡を空しゅうせじとて、心ある市の者より、田畑少し附属して養いおく、山番の爺は顔丸く、色煤びて、眼は窪み、鼻円く、眉は白くなりて針金のごときが五六本短く生いたり。継はぎの股引膝までして、毛脛細く瘠せたれども、健かに。谷を攀じ、峰にのぼり、森の中をくぐりなどして、杖をもつかで、見めぐるにぞ、盗人の来て林に潜むことなく、わが庵も安らかに、摩耶も頼母しく思うにこそ、われも懐ししと思いたり。 「食べやしないんだよ。爺や、ただ玩弄にするんだから。」 「それならば可うごすが。」  爺は手桶を提げいたり。 「何でもこうその水ン中へうつして見るとの、はっきりと影の映るやつは食べられますで、茸の影がぼんやりするのは毒がありますじゃ。覚えておかっしゃい。」  まめだちていう。頷きながら、 「一杯呑ましておくれな。咽喉が渇いて、しようがないんだから。」 「さあさあ、いまお寺から汲んで来たお初穂だ、あがんなさい。」  掬ばむとして猶予らいぬ。 「柄杓がないな、爺や、お前ン処まで一所に行こう。」 「何が、仏様へお茶を煮てあげるんだけんど、お前様のきれいなお手だ、ようごす、つッこんで呑まっしゃいさ。」  俯向きざま掌に掬いてのみぬ。清涼掬すべし、この水の味はわれ心得たり。遊山の折々かの山寺の井戸の水試みたるに、わが家のそれと異らずよく似たり。実によき水ぞ、市中にはまた類あらじと亡き母のたまいき。いまこれをはじめならず、われもまたしばしばくらべ見つ。摩耶と二人いま住まえる尼君の庵なる筧の水もその味これと異るなし。悪熱のあらむ時三ツの水のいずれをか掬ばんに、わが心地いかならむ。忘るるばかりのみはてたり。 「うんや遠慮さっしゃるな、水だ。ほい、強いるにも当らぬかの。おお、それからいまのさき、私が田圃から帰りがけに、うつくしい女衆が、二人づれ、丁稚が一人、若い衆が三人で、駕籠を舁いてぞろぞろとやって来おった。や、それが空駕籠じゃったわ。もしもし、清心様とおっしゃる尼様のお寺はどちらへ、と問いくさる。はあ、それならと手を取るように教えてやっけが、お前様用でもないかの。いい加減に遊ばっしゃったら、迷児にならずに帰らっしゃいよ、奥様が待ってござろうに。」  と語りもあえず歩み去りぬ。摩耶が身に事なきか。        二  まい茸はその形細き珊瑚の枝に似たり。軸白くして薄紅の色さしたると、樺色なると、また黄なると、三ツ五ツはあらむ、芝茸はわれ取って捨てぬ。最も数多く獲たるは紅茸なり。  こは山蔭の土の色鼠に、朽葉黒かりし小暗きなかに、まわり一抱もありたらむ榎の株を取巻きて濡色の紅したたるばかり塵も留めず地に敷きて生いたるなりき。一ツずつそのなかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の蜘蛛追い駈けて、縦横に走りたれば、見るからに毒々しく、あまれるは残して留みぬ。  松の根に踞いて、籠のなかさしのぞく。この茸の数も、誰がためにか獲たる、あわれ摩耶は市に帰るべし。  山番の爺がいいたるごとく駕籠は来て、われよりさきに庵の枝折戸にひたと立てられたり。壮佼居て一人は棒に頤つき、他は下に居て煙草のみつ。内にはうらわかきと、冴えたると、しめやかなる女の声して、摩耶のものいうは聞えざりしが、いかでわれ入らるべき。人に顔見するがもの憂ければこそ、摩耶も予もこの庵には籠りたれ。面合すに憚りたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば窃み聴かむよしもあらざれど、渠等空駕籠は持て来たり、大方は家よりして迎に来りしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。  一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わでもわれは餓えまじきを、かかるもの何かせむ。  打こぼし投げ払いし籠の底に残りたる、ただ一ツありし初茸の、手の触れしあとの錆つきて斑らに緑晶の色染みしさえあじきなく、手に取りて見つつわれ俯向きぬ。  顔の色も沈みけむ、日もハヤたそがれたり。濃かりし蒼空も淡くなりぬ。山の端に白き雲起りて、練衣のごとき艶かなる月の影さし初めしが、刷いたるよう広がりて、墨の色せる巓と連りたり。山はいまだ暮ならず。夕日の余波あるあたり、薄紫の雲も見ゆ。そよとばかり風立つままに、むら薄の穂打靡きて、肩のあたりに秋ぞ染むなる。さきには汗出でて咽喉渇くに、爺にもとめて山の井の水飲みたりし、その冷かさおもい出でつ。さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き袷に黒き帯して瘠せたるわが姿つくづくと眗しながら寂しき山に腰掛けたる、何人もかかる状は、やがて皆孤児になるべき兆なり。  小笹ざわざわと音したれば、ふと頭を擡げて見ぬ。  やや光の増し来れる半輪の月を背に、黒き姿して薪をば小脇にかかえ、崖よりぬッくと出でて、薄原に顕れしは、まためぐりあいたるよ、かの山番の爺なりき。 「まだ帰らっしゃらねえの。おお、薄ら寒くなりおった。」  と呟くがごとくにいいて、かかる時、かかる出会の度々なれば、わざとには近寄らで離れたるままに横ぎりて爺は去りたり。 「千ちゃん。」 「え。」  予は驚きて顧りぬ。振返れば女居たり。 「こんな処に一人で居るの。」  といいかけてまず微笑みぬ。年紀は三十に近かるべし、色白く妍き女の、目の働き活々して風采の侠なるが、扱帯きりりと裳を深く、凜々しげなる扮装しつ。中ざしキラキラとさし込みつつ、円髷の艶かなる、旧わが居たる町に住みて、亡き母上とも往来しき。年紀少くて孀になりしが、摩耶の家に奉公するよし、予もかねて見知りたり。  目を見合せてさしむかいつ。予は何事もなく頷きぬ。  女はじっと予を瞻りしが、急にまた打笑えり。 「どうもこれじゃあ密通をしようという顔じゃあないね。」 「何をいうんだ。」 「何をもないもんですよ。千ちゃん! お前様は。」  いいかけて渠はやや真顔になりぬ。 「一体お前様まあ、どうしたというんですね、驚いたじゃアありませんか。」 「何をいうんだ。」 「あれ、また何をじゃアありませんよ。盗人を捕えて見ればわが児なりか、内の御新造様のいい人は、お目に懸るとお前様だもの。驚くじゃアありませんか。え、千ちゃん、まあ何でも可いから、お前様ひとつ何とかいって、内の御新造様を返して下さい。裏店の媽々が飛出したって、お附合五六軒は、おや、とばかりで騒ぐわねえ。千ちゃん、何だってお前様、殿様のお城か、内のお邸かという家の若御新造が、この間の御遊山から、直ぐにどこへいらっしゃったかお帰りがない、お行方が知れないというのじゃアありませんか。  ぱッとしたら国中の騒動になりますわ。お出入が八方に飛出すばかりでも、二千や三千の提灯は駈けまわろうというもんです。まあ察しても御覧なさい。  これが下々のものならばさ、片膚脱の出刃庖丁の向う顧巻か何かで、阿魔! とばかりで飛出す訳じゃアあるんだけれど、何しろねえ、御身分が御身分だから、実は大きな声を出すことも出来ないで、旦那様は、蒼くなっていらっしゃるんだわ。  今朝のこッたね、不断一八に茶の湯のお合手にいらっしゃった、山のお前様、尼様の、清心様がね、あの方はね、平時はお前様、八十にもなっていてさ、山から下駄穿でしゃんしゃんと下りていらっしゃるのに、不思議と草鞋穿で、饅頭笠か何かで遣って見えてさ、まあ、こうだわ。 (御宅の御新造様は、私ン処に居ますで案じさっしゃるな、したがな、また旧なりにお前の処へは来ないからそう思わっしゃいよ。)  と好なことをいって、草鞋も脱がないで、さっさっ去っておしまいなすったじゃないか。  さあ騒ぐまいか。あっちこち聞きあわせると、あの尼様はこの四五日前から方々の帰依者ン家をずっと廻って、一々、 (私はちっと思い立つことがあって行脚に出ます。しばらく逢わぬでお暇乞じゃ。そして言っておくが、皆の衆決して私が留守へ行って、戸をあけることはなりませぬぞ。)  と、そういっておあるきなすッたそうさね、そして肝心のお邸を、一番あとまわしだろうじゃあないかえ、これも酷いわね。」        三 「うっちゃっちゃあおかれない、いえ、おかれないどころじゃあない。直ぐお迎いをというので、お前様、旦那に伺うとまあどうだろう。  御遊山を遊ばした時のお伴のなかに、内々清心庵にいらっしゃることを突留めて、知ったものがあって、先にもう旦那様に申しあげて、あら立ててはお家の瑕瑾というので、そっとこれまでにお使が何遍も立ったというじゃアありませんか。  御新造様は何といっても平気でお帰り遊ばさないというんだもの。ええ! 飛んでもない。何とおっしゃったって引張ってお連れ申しましょうとさ、私とお仲さんというのが二人で、男衆を連れてお駕籠を持ってさ、えッちらおッちらお山へ来たというもんです。  尋ねあてて、尼様の家へ行って、お頼み申します、とやると、お前様。 (誰方、)  とおっしゃって、あの薄暗いなかにさ、胸の処から少し上をお出し遊ばして、真白な細いお手の指が五本衝立の縁へかかったのが、はッきり見えたわ、御新造様だあね。  お髪がちいっと乱れてさ、藤色の袷で、ありゃしかも千ちゃん、この間お出かけになる時に私が後からお懸け申したお召だろうじゃアありませんか。凄かったわ。おやといって皆後じさりをしましたよ。  驚きましたね、そりゃ旧のことをいえば、何だけれど、第一お前様、うちの御新造様とおっしゃる方がさ、頼みます、誰方ということを、この五六年じゃあ、もう忘れておしまい遊ばしただろうと思ったもの。  誰だじゃあございません。さて、あなたは、と開き直っていうことになると、 (また、迎かい。)  といって、笑っていらっしゃるというもんです。いえまたも何も、滅相な。 (皆御苦労ね。だけれど私あまだ帰らないから、かまわないでおくれ。ちっとやすんだらお帰りだといい。お湯でもあげるんだけれど、それよりか庭のね、筧の水が大層々々おいしいよ。)  なんて澄していらっしゃるんだもの。何だか私たちああんまりな御様子に呆れッちまって、ぼんやりしたの、こりゃあまあ魅まれてでもいないかしらと思った位だわ。  いきなり後からお背を推して、お手を引張ってというわけにもゆかないのでね、まあ、御挨拶半分に、お邸はアノ通り、御身分は申すまでもございません。お実家には親御様お両方ともお達者なり、姑御と申すはなし、小姑一人ございますか。旦那様は御存じでもございましょう。そうかといって御気分がお悪いでもなく、何が御不足で、尼になんぞなろうと思し召すのでございますと、お仲さんと二人両方から申しますとね。御新造様が、 (いいえ、私は尼になんぞなりはしないから。) (へえ、それではまたどう遊ばしてこんな処に、) (ちっと用があって、)  とおっしゃるから、どういう御用でッて、まあ聞きました。 (そんなこといわれるのがうるさいからここに居るんだもの。可いから、お帰り。)  とこんな御様子なの。だって、それじゃあ困るわね。帰るも帰らないもありゃあしないわ。  じゃあまあそれはたってお聞き申しませんまでも、一体此家にはお一人でございますかって聞くと、 (二人。)とこうおっしゃった。  さあ、黙っちゃあいられやしない。  こうこういうわけですから、尼様と御一所ではなかろうし、誰方とお二人でというとね、 (可愛い児とさ、)とお笑いなすった。  うむ、こりゃ仔細のないこった。華族様の御台様を世話でお暮し遊ばすという御身分で、考えてみりゃお名もまや様で、夫人というのが奥様のことだといってみれば、何のことはない、大倭文庫の、御台様さね。つまり苦労のない摩耶夫人様だから、大方洒落に、ちょいと雪山のという処をやって、御覧遊ばすのであろう。凝ったお道楽だ。  とまあ思っちゃあ見たものの、千ちゃん、常々の御気象が、そんなんじゃあおあんなさらない……でしょう。  可愛い児とおっしゃるから、何ぞ尼寺でお気に入った、かなりやでもお見付け遊ばしたのかしらなんと思ってさ、うかがって驚いたのは、千ちゃんお前様のことじゃあないかね。 (いつでもうわさをしていたからお前たちも知っておいでだろう。蘭や、お前が御存じの。)  とおっしゃったのが、何と十八になる男だもの、お仲さんが吃驚しようじゃあないか。千ちゃん、私も久しく逢わないで、きのうきょうのお前様は知らないから――千ちゃん、――むむ、お妙さんの児の千ちゃん、なるほど可愛い児だと実をいえば、はじめは私もそれならばと思ったがね、考えて見ると、お前様、いつまで、九ツや十で居るものか。もう十八だとそう思って驚いたよ。  何の事はない、密通だね。  いくら思案をしたって御新造様は人の女房さ。そりゃいくら邸の御新造様だって、何だってやっぱり女房だもの。女房がさ、千ちゃん、たとい千ちゃんだって何だって、男と二人で隠れていりゃ、何のことはない、怒っちゃあいけませんよ、やっぱり何さ。  途方もない、乱暴な小僧ッ児の癖に、失礼な、末恐しい、見下げ果てた、何の生意気なことをいったって私が家に今でもある、アノ籐で編んだ茶台はどうだい、嬰児が這ってあるいて玩弄にして、チュッチュッ噛んで吸った歯形がついて残ッてら。叱り倒してと、まあ、怒っちゃあ嫌よ。」        四 「それが何も、御新造様さえ素直に帰るといって下さりゃ、何でもないことだけれど、どうしても帰らないとおっしゃるんだもの。  お帰り遊ばさないたって、それで済むわけのものじゃあございません。一体どう遊ばす思召でございます。 (あの児と一所に暮そうと思って、)  とばかりじゃあ、困ります。どんなになさいました処で、千ちゃんと御一所においで遊ばすわけにはまいりません。 (だから、此家に居るんじゃあないか。)  その此家は山ン中の尼寺じゃアありませんか。こんな処にあの児と二人おいで遊ばしては、世間で何と申しましょう。 (何といわれたって可いんだから、)  それでは、あなた、旦那様に済みますまい。第一親御様なり、また、 (いいえ、それだからもう一生人づきあいをしないつもりで居る。私が分ってるから、可いから、お前たちは帰っておしまい、可いから、分っているのだから、)  とそんな分らないことがありますか。ね、千ちゃん、いくら私たちが家来だからって、ものの理は理さ、あんまりな御無理だから種々言うと、しまいにゃあただ、 (だって不可いから、不可いから、)  とばかりおっしゃって果しがないの。もうこうなりゃどうしたってかまやしない。どんなことをしてなりと、お詫はあとですることと、無理やりにも力ずくで、こっちは五人、何の! あんな御新造様、腕ずくならこの蘭一人で沢山だわ。さあというと、屹と遊ばして、 (何をおしだ、お前達、私を何だと思うのだい、)  とおっしゃるから、はあ、そりゃお邸の御新造様だと、そう申し上げると、 (女中たちが、そんな乱暴なことをして済みますか。良人なら知らぬこと、両親にだって、指一本ささしはしない。)  あれで威勢がおあんなさるから、どうして、屹と、おからだがすわると、すくんじまわあね。でもさ、そんな分らないことをおっしゃれば、もう御新造様でも何でもない。 (他人ならばうっちゃっておいておくれ。)  とこうでしょう。何てったって、とてもいうことをお肯き遊ばさないお気なんだから仕ようがない。がそれで世の中が済むのじゃあないんだもの。  じゃあ、旦那様がお迎にお出で遊ばしたら、 (それでも帰らないよ。)  無理にも連れようと遊ばしたら、 (そうすりゃ御身分にかかわるばかりだもの。)  もうどう遊ばしたというのだろう。それじゃあ、旦那様と千ちゃんと、どちらが大事でございますって、この上のいいようがないから聞いたの。そうするとお前様、 (ええ、旦那様は私が居なくっても可いけれど、千ちゃんは一所に居てあげないと死んでおしまいだから可哀相だもの。)  とこれじゃあもう何にもいうことはありませんわ。ここなの、ここなんだがね、千ちゃん、一体こりゃ、ま、お前さんどうしたというのだね。」  女はいいかけてまた予が顔を瞻りぬ。予はほと一呼吸ついたり。 「摩耶さんが知っておいでだよ、私は何にも分らないんだ。」 「え、分らない。お前さん、まあ、だって御自分のことが御自分に。」  予は何とかいうべき。 「お前、それが分る位なら、何もこんなにゃなりやしない。」 「ああれ、またここでもこうだもの。」        五  女はまたあらためて、 「一体詮じ詰めた処が千ちゃん、御新造様と一所に居てどうしようというのだね。」  さることはわれも知らず。 「別にどうってことはないんだ。」 「まあ。」 「別に、」 「まあさ、御飯をたいて。」 「詰らないことを。」 「まあさ、御飯をたいて、食べて、それから、」 「話をしてるよ。」 「話をして、それから。」 「知らない。」 「まあ、それから。」 「寝っちまうさ。」 「串戯じゃあないよ。そしてお前様、いつまでそうしているつもりなの。」 「死ぬまで。」 「え、死ぬまで。もう大抵じゃあないのね。まあ、そんならそうとして、話は早い方が可いが、千ちゃん、お聞き。私だって何も彼家へは御譜代というわけじゃあなしさ、早い話が、お前さんの母様とも私あ知合だったし、そりゃ内の旦那より、お前さんの方が私ゃまったくの所、可愛いよ。可いかね。  ところでいくらお前さんが可愛い顔をしてるたって、情婦を拵えたって、何もこの年紀をしてものの道理がさ、私がやっかむにも当らずか、打明けた所、お前さん、御新造様と出来たのかね。え、千ちゃん、出来たのならそのつもりさ。お楽み! てなことで引退ろうじゃあないか。不思議で堪らないから聞くんだが、どうだねえ、出来たわけかね。」 「何がさ。」 「何がじゃあないよ、お前さん出来たのなら出来たで可いじゃあないか、いっておしまいよ。」 「だって、出来たって分らないもの。」 「むむ、どうもこれじゃあ拵えようという柄じゃあないのね。いえね、何も忠義だてをするんじゃないが、御新造様があんまりだからツイ私だってむっとしたわね。行がかりだもの、お前さん、この様子じゃあ皆こりゃアノ児のせいだ。小児の癖にいきすぎな、いつのまにませたろう、取っつかまえてあやまらせてやろう。私ならぐうの音も出させやしないと、まあ、そう思ったもんだから、ちっとも言分は立たないし、跋も悪しで、あっちゃアお仲さんにまかしておいて、お前さんを探して来たんだがね。  逢って見ると、どうして、やっぱり千ちゃんだ、だってこの様子で密通も何もあったもんじゃあないやね。何だかちっとも分らないが、さて、内の御新造様と、お前様とはどうしたというのだね。」  知らず、これをもまた何とかいわむ。 「摩耶さんは、何とおいいだったえ。」 「御新造さんは、なかよしの朋達だって。」  かくてこそ。 「まったくそうなんだ。」  渠は肯する色あらざりき。 「だってさ、何だってまた、たかがなかの可いお朋達ぐらいで、お前様、五年ぶりで逢ったって、六年ぶりで逢ったって、顔を見ると気が遠くなって、気絶するなんて、人がありますか。千ちゃん、何だってそういうじゃアありませんか。御新造様のお話しでは、このあいだ尼寺でお前さんとお逢いなすった時、お前さんは気絶ッちまったというじゃアありませんか。それでさ、御新造様は、あの児がそんなに思ってくれるんだもの、どうして置いて行かれるものか、なんて好なことをおっしやったがね、どうしたというのだね。」  げにさることもありしよし、あとにてわれ摩耶に聞きて知りぬ。 「だって、何も自分じゃあ気がつかなかったんだから、どういうわけだか知りやしないよ。」 「知らないたって、どうもおかしいじゃアありませんか。」 「摩耶さんに聞くさ。」 「御新造様に聞きゃ、やっぱり千ちゃんにお聞き、とそうおっしゃるんだもの。何が何だか私たちにゃあちっとも訳がわかりやしない。」  しかり、さることのくわしくは、世に尼君ならで知りたまわじ。 「お前、私達だって、口じゃあ分るようにいえないよ。皆尼様が御存じだから、聞きたきゃあの方に聞くが可いんだ。」 「そらそら、その尼様だね、その尼様が全体分らないんだよ。  名僧の、智識の、僧正の、何のッても、今時の御出家に、女でこそあれ、山の清心さんくらいの方はありやしない。  もう八十にもなっておいでだのに、法華経二十八巻を立読に遊ばして、お茶一ツあがらない御修行だと、他宗の人でも、何でも、あの尼様といやア拝むのさ。  それにどうだろう。お互の情を通じあって、恋の橋渡をおしじゃあないか。何の事はない、こりゃ万事人の悪い髪結の役だあね。おまけにお前様、あの薄暗い尼寺を若いもの同士にあけ渡して、御機嫌よう、か何かで、ふいとどこかへ遁げた日になって見りゃ、破戒無慙というのだね。乱暴じゃあないか。千ちゃん、尼さんだって七十八十まで行い澄していながら、お前さんのために、ありゃまあどうしたというのだろう。何か、千ちゃん処は尼さんのお主筋でもあるのかい。そうでなきゃ分らないわ。どんな因縁だね。」  と心籠めて問う状なり。尼君のためなれば、われ少しく語るべし。 「お前も知っておいでだね、母上は身を投げてお亡くなんなすったのを。」 「ああ。」 「ありゃね、尼様が殺したんだ。」 「何ですと。」  女は驚きて目を睜りぬ。        六 「いいえ、手を懸けたというんじゃあない。私はまだ九歳時分のことだから、どんなだか、くわしい訳は知らないけれど、母様は、お前、何か心配なことがあって、それで世の中が嫌におなりで、くよくよしていらっしゃったんだが、名高い尼様だから、話をしたら、慰めて下さるだろうって、私の手を引いて、しかも、冬の事だね。  ちらちら雪の降るなかを山へのぼって、尼寺をおたずねなすッて、炉の中へ何だか書いたり、消したりなぞして、しんみり話をしておいでだったが、やがてね、二時間ばかり経ってお帰りだった。ちょうど晩方で、ぴゅうぴゅう風が吹いてたんだ。  尼様が上框まで送って来て、分れて出ると、戸を閉めたの。少し行懸ると、内で、 (おお、寒、寒。)と不作法な大きな声で、アノ尼様がいったのが聞えると、母様が立停って、なぜだか顔の色をおかえなすったのを、私は小児心にも覚えている。それから、しおしおとして山をお下りなすった時は、もうとっぷり暮れて、雪が……霙になったろう。  麓の川の橋へかかると、鼠色の水が一杯で、ひだをうって大蜿りに蜒っちゃあ、どうどうッて聞えてさ。真黒な線のようになって、横ぶりにびしゃびしゃと頬辺を打っちゃあ霙が消えるんだ。一山々々になってる柳の枯れたのが、渦を巻いて、それで森として、あかり一ツ見えなかったんだ。母様が、 (尼になっても、やっぱり寒いんだもの。)  と独言のようにおっしゃったが、それっきりどこかへいらっしゃったの。私は目が眩んじまって、ちっとも知らなかった。  ええ! それで、もうそれっきりお顔が見られずじまい。年も月もうろ覚え。その癖、嫁入をおしの時はちゃんと知ってるけれど、はじめて逢い出した時は覚えちゃあいないが、何でも摩耶さんとはその年から知合ったんだとそう思う。  私はね、母様がお亡くなんなすったって、それを承知は出来ないんだ。  そりゃものも分ったし、お亡なんなすったことは知ってるが、どうしてもあきらめられない。  何の詰らない、学校へ行ったって、人とつきあったって、母様が活きてお帰りじゃあなし、何にするものか。  トそう思うほど、お顔が見たくッて、堪らないから、どうしましょうどうしましょう、どうかしておくれな。どうでもして下さいなッて、摩耶さんが嫁入をして、逢えなくなってからは、なおの事、行っちゃあ尼様を強請ったんだ。私あ、だだを捏ねたんだ。  見ても、何でも分ったような、すべて承知をしているような、何でも出来るような、神通でもあるような、尼様だもの。どうにかしてくれないことはなかろうと思って、そのかわり、自分の思ってることは皆打あけて、いって、そうしちゃあ目を瞑って尼様に暴れたんだね。 「そういうわけさ。」  他に理窟もなんにもない。この間も、尼さまン処へ行って、例のをやってる時に、すっと入っておいでなのが、摩耶さんだった。  私は何とも知らなかったけれど、気が着いたら、尼様が、頭を撫でて、 (千坊や、これで可いのじゃ。米も塩も納屋にあるから、出してたべさしてもらわっしゃいよ。私はちょっと町まで托鉢に出懸けます。大人しくして留守をするのじゃぞ。)  とそうおっしゃったきり、お前、草鞋を穿いてお出懸で、戻っておいでのようすもないもの。  摩耶さんは一所に居ておくれだし、私はまた摩耶さんと一所に居りゃ、母様のこと、どうにか堪忍が出来るのだから、もう何もかもうっちゃっちまったんさ。  お前、私にだって、理窟は分りやしない。摩耶さんも一所に居りゃ、何にも食べたくも何ともない、とそうおいいだもの。気が合ったんだから、なかがいいお朋達だろうよ。」  かくいいし間にいろいろのことこそ思いたれ。胸痛くなりたれば俯向きぬ。女が傍に在るも予はうるさくなりたり。 「だから、もう他に何ともいいようは無いのだから、あれがああだから済まないの、義理だの、済まないじゃあないかなんて、もう聞いちゃあいけない。人とさ、ものをいってるのがうるさいから、それだから、こうしてるんだから、どうでも可いから、もう帰っておくれな。摩耶さんが帰るとおいいなら連れてお帰り。大方、お前たちがいうことはお肯きじゃあるまいよ。」  予はわが襟を掻き合せぬ。さきより踞いたる頭次第に垂れて、芝生に片手つかんずまで、打沈みたりし女の、この時ようよう顔をばあげ、いま更にまた瞳を定めて、他のこと思いいる、わが顔、瞻るよと覚えしが、しめやかなるものいいしたり。 「可うござんす。千ちゃん、私たちの心とは何かまるで変ってるようで、お言葉は腑に落ちないけれど、さっきもあんなにゃア言ったものの、いまここへ、尼様がおいで遊ばせば、やっぱりつむりが下るんです。尼様は尊く思いますから、何でも分った仔細があって、あの方の遊ばす事だ。まあ、あとでどうなろうと、世間の人がどうであろうと、こんな処はとても私たちの出る幕じゃあない。尼様のお計らいだ、どうにか形のつくことでござんしょうと、そうまあねえ、千ちゃん、そう思って帰ります。  何だか私もぼんやりしたようで、気が変になったようで、分らないけれど、どうもこうした御様子じゃあ、千ちゃん、お前様と、御新造様と一ツお床でおよったからって、別に仔細はないように、ま私は思います。見りゃお前様もお浮きでなし、あっちの事が気にかかりますから、それじゃあお分れといたしましょう。あのね、用があったら、そッと私ンとこまでおっしゃいよ。」  とばかりに渠は立ちあがりぬ。予が見送ると目を見合せ、 「小憎らしいねえ。」  と小戻りして、顔を斜にすかしけるが、 「どれ、あのくらいな御新造様を迷わしたは、どんな顔だ、よく見よう。」  といいかけて莞爾としつ。つと行く、むかいに跫音して、一行四人の人影見ゆ。すかせば空駕籠釣らせたり。渠等は空しく帰るにこそ。摩耶われを見棄てざりしと、いそいそと立ったりし、肩に手をかけ、下に居らせて、女は前に立塞がりぬ。やがて近づく渠等の眼より、うたてきわれをば庇いしなりけり。  熊笹のびて、薄の穂、影さすばかり生いたれば、ここに人ありと知らざる状にて、道を折れ、坂にかかり、松の葉のこぼるるあたり、目の下近く過りゆく。女はその後を追いたりしを、忍びやかにぞ見たりける。駕籠のなかにものこそありけれ。設の蒲団敷重ねしに、摩耶はあらで、その藤色の小袖のみ薫床しく乗せられたり。記念にとて送りけむ。家土産にしたるなるべし。その小袖の上に菊の枝置き添えつ。黒き人影あとさきに、駕籠ゆらゆらと釣持ちたる、可惜その露をこぼさずや、大輪の菊の雪なすに、月の光照り添いて、山路に白くちらちらと、見る目遥に下り行きぬ。  見送り果てず引返して、駈け戻りて枝折戸入りたる、庵のなかは暗かりき。 「唯今!」  と勢よく框に踏懸け呼びたるに、答はなく、衣の気勢して、白き手をつき、肩のあたり、衣紋のあたり、乳のあたり、衝立の蔭に、つと立ちて、烏羽玉の髪のひまに、微笑みむかえし摩耶が顔。筧の音して、叢に、虫鳴く一ツ聞えしが、われは思わず身の毛よだちぬ。  この虫の声、筧の音、框に片足かけたる、その時、衝立の蔭に人見えたる、われはかつてかかる時、かかることに出会いぬ。母上か、摩耶なりしか、われ覚えておらず。夢なりしか、知らず、前の世のことなりけむ。 明治三十(一八九七)年七月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第三卷」岩波書店    1941(昭和16)年12月25日第1刷発行 初出:「新著月刊」    1897(明治30)年7月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年3月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048393", "作品名": "清心庵", "作品名読み": "せいしんあん", "ソート用読み": "せいしんあん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新著月刊」1897(明治30)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-04-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48393.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成3", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第三卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年12月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48393_ruby_34402.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48393_34760.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  東京もはやここは多摩の里、郡の部に属する内藤新宿の町端に、近頃新開で土の色赤く、日当のいい冠木門から、目のふちほんのりと酔を帯びて、杖を小脇に、つかつかと出た一名の瀟洒たる人物がある。  黒の洋服で雪のような胸、手首、勿論靴で、どういう好みか目庇のつッと出た、鉄道の局員が被るような形なのを、前さがりに頂いた。これにてらてらと小春の日の光を遮って、やや蔭になった頬骨のちっと出た、目の大きい、鼻の隆い、背のすっくりした、人品に威厳のある年齢三十ばかりなるが、引緊った口に葉巻を啣えたままで、今門を出て、刈取ったあとの蕎麦畠に面した。  この畠を前にして、門前の径を右へ行けば通へ出て、停車場へは五町に足りない。左は、田舎道で、まず近いのが十二社、堀ノ内、角筈、目黒などへ行くのである。  見れば青物を市へ積出した荷車が絶えては続き、街道を在所の方へ曳いて帰る。午後三時を過ぎて秋の日は暮れるに間もあるまいに、停車場の道には向わないで、かえって十二社の方へ靴の尖を廻らして、衝と杖を突出した。  しかもこの人は牛込南町辺に住居する法官である。去年まず検事補に叙せられたのが、今年になって夏のはじめ、新に大審院の判事に任ぜられると直ぐに暑中休暇になったが、暑さが厳しい年であったため、痩せるまでの煩いをしたために、院が開けてからも二月ばかり病気びきをして、静に療養をしたので、このごろではすっかり全快、そこで届を出してやがて出勤をしようという。  ちょうど日曜で、久しぶりの郊外散策、足固めかたがた新宿から歩行いて、十二社あたりまで行こうという途中、この新開に住んでいる給水工場の重役人に知合があって立寄ったのであった。  これから、名を由之助という小山判事は、埃も立たない秋の空は水のように澄渡って、あちらこちら蕎麦の茎の西日の色、真赤な蕃椒が一団々々ある中へ、口にしたその葉巻の紫の煙を軽く吹き乱しながら、田圃道を楽しそう。  その胸の中もまた察すべきものである。小山はもとより医者が厭だから文学を、文学も妙でない、法律を、政治をといった側の少年ではなかった。  されば法官がその望で、就中希った判事に志を得て、新たに、はじめて、その方は……と神聖にして犯すべからざる天下控訴院の椅子にかかろうとする二三日。  足の運びにつれて目に映じて心に往来するものは、土橋でなく、流でなく、遠方の森でなく、工場の煙突でなく、路傍の藪でなく、寺の屋根でもなく、影でなく、日南でなく、土の凸凹でもなく、かえって法廷を進退する公事訴訟人の風采、俤、伏目に我を仰ぎ見る囚人の顔、弁護士の額、原告の鼻、検事の髯、押丁等の服装、傍聴席の光線の工合などが、目を遮り、胸を蔽うて、年少判事はこの大なる責任のために、手も自由ならず、足の運びも重いばかり、光った靴の爪尖と、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭なる崖の腹から二頭の竜の、二条の氷柱を吐く末が百筋に乱れて、どッと池へ灌ぐのは、熊野の野社の千歳経る杉の林を頂いた、十二社の滝の下路である。        二 「何か変ったこともないか。」と滝に臨んだ中二階の小座敷、欄干に凭れながら判事は徒然に茶店の婆さんに話しかける。  十二社あたりへ客の寄るのは、夏も極暑の節一盛で、やがて初冬にもなれば、上の社の森の中で狐が鳴こうという場所柄の、さびれさ加減思うべしで、建廻した茶屋休息所、その節は、ビール聞し召せ枝豆も候だのが、ただ葦簀の屋根と柱のみ、破の見える床の上へ、二ひら三ひら、申訳だけの緋の毛布を敷いてある。その掛茶屋は、松と薄で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀になっていて、緋鯉の影、真鯉の姿も小波の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋辷るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのであるが、眩いばかり西日が射すので、頭痛持なれば眉を顰め、水底へ深く入った鯉とともにその毛布の席を去って、間に土間一ツ隔てたそれなる母屋の中二階に引越したのであった。  中二階といってもただ段の数二ツ、一段低い処にお幾という婆さんが、塩煎餅の壺と、駄菓子の箱と熟柿の笊を横に控え、角火鉢の大いのに、真鍮の薬罐から湯気を立たせたのを前に置き、煤けた棚の上に古ぼけた麦酒の瓶、心太の皿などを乱雑に並べたのを背後に背負い、柱に安煙草のびらを張り、天井に捨団扇をさして、ここまでさし入る日あたりに、眼鏡を掛けて継物をしている。外に姉さんも何も居ない、盛の頃は本家から、女中料理人を引率して新宿停車場前の池田屋という飲食店が夫婦づれ乗込むので、独身の便ないお幾婆さんは、その縁続きのものとか、留守番を兼ねて後生のほどを行い澄すという趣。  判事に浮世ばなしを促されたのを機にお幾はふと針の手を留めたが、返事より前に逸疾くその眼鏡を外した、進んで何か言いたいことでもあったと見える、別の吸子に沸った湯をさして、盆に乗せるとそれを持って、前垂の糸屑を払いさま、静に壇を上って、客の前に跪いて、 「お茶を入替えて参りました、召上りまし。」といいながら膝近く躙り寄って差置いた。  判事は欄干について頬を支えていた手を膝に取って、 「おお、それは難有う。」  と婆の目には、もの珍しく見ゆるまで、かかる紳士の優しい容子を心ありげに瞻ったが、 「時に旦那様。」 「むむ、」 「まあ可哀そうだと思召しまし、この間お休み遊ばしました時、ちょっと参りましたあの女でございますが、御串戯ではございましょうが、旦那様も佳い女だな、とおっしゃって下さいましたあのことでございますがね、」  と言いかけてちょっと猶予って、聞く人の顔の色を窺ったのは、こういって客がこのことについて注意をするや否やを見ようとしたので。心にもかけないほどの者ならば話し出して退屈をさせるにも及ばぬことと、年寄だけに気が届いたので、案のごとく判事は聴く耳を立てたのである。 「おお、どうかしたか、本当に容子の佳い女だよ。」 「はい、容子の可い女で。旦那様は都でいらっしゃいます、別にお目にも留りますまいが、私どもの目からはまるでもう弁天様か小町かと見えますほどです。それに深切で優しいおとなしい女でございまして、あれで一枚着飾らせますれば、上つ方のお姫様と申しても宜い位。」        三 「ほほほ、賞めまするに税は立たず、これは柳橋も新橋も御存じでいらっしゃいましょう、旦那様のお前で出まかせなことを失礼な。」  小山判事は苦笑をして、 「串戯をいっては不可ん、私は学生だよ。」 「あら、あんなことをおっしゃって、貴方は何ぞの先生様でいらっしゃいますよ。」 「まあその娘がどうしたというのだ。」と小山は胡坐をどっかりと組直した。  落着いて聞いてくれそうな様子を見て取り、婆さんは嬉しそうに、 「何にいたせ、ちっとでもお心に留っておりますなら可哀そうだと思ってやって下さいまし。こうやってお傍でお話をいたしますのは今日がはじめて。私どもへお休み下さいましたのはたった二度なんでございますけれども、他に誰も居りませず、ちょうどあの娘が来合せました時でよくお顔を存じておりますし、それにこう申してはいかがでございますが、旦那様もあの娘を覚えていらっしゃいますように存じます。これも佳い娘だと思いまする年寄の慾目、人ごとながら自惚でございましょう、それで附かぬことをお話し申しますようではございますけれども旦那様、後生でございます、可哀相だと思ってやって下さりまし。」と繰返してまた言った。かく可哀相だと思ってやれと、色に憂を帯びて同情を求めること三たびであるから、判事は思わず胸が騒いで幽に肉の動くのを覚えた。  向島のうら枯さえ見に行く人もないのに、秋の末の十二社、それはよし、もの好として差措いても、小山にはまだ令室のないこと、並びに今も来る途中、朋友なる給水工場の重役の宅で一盞すすめられて杯の遣取をする内に、娶るべき女房の身分に就いて、忠告と意見とが折合ず、血気の論とたしなめられながらも、耳朶を赤うするまでに、たといいかなるものでも、社会の階級の何種に属する女でも乃公が気に入ったものをという主張をして、華族でも、士族でも、町家の娘でも、令嬢でもたとい小間使でもと言ったことをここに断っておかねばならぬ。  何かしら絆が搦んでいるらしい、判事は、いずれ不祥のことと胸を――色も変ったよう、 「どうかしたのかい、」と少しせき込んだが、いう言葉に力が入った。 「煩っておりますので、」 「何、煩って、」 「はい、煩っておりますのでございますが。……」 「良い医者にかけなけりゃ不可んよ。どんな病気だ、ここいらは田舎だから、」とつい通の人のただ口さきを合せる一応の挨拶のごときものではない。  婆さんも張合のあることと思入った形で、 「折入って旦那様に聞いてやって頂きたいので、委しく申上げませんと解りません、お可煩くなりましたら、面倒だとおっしゃって下さりまし、直ぐとお茶にいたしてしまいまする。  あの娘は阿米といいましてちょうど十八になりますが、親なしで、昨年の春まで麹町十五丁目辺で、旦那様、榎のお医者といって評判の漢方の先生、それが伯父御に当ります、その邸で世話になって育ちましたそうでございます。  門の屋根を突貫いた榎の大木が、大層名高いのでございますが、お医者はどういたしてかちっとも流行らないのでございましたッて。」        四 「流行りません癖に因果と貴方ね、」と口もやや馴々しゅう、 「お米の容色がまた評判でございまして、別嬪のお医者、榎の先生と、番町辺、津の守坂下あたりまでも皆が言囃しましたけれども、一向にかかります病人がございません。  先生には奥様と男のお児が二人、姪のお米、外見を張るだけに女中も居ようというのですもの、お苦しかろうではございませんか。  そこで、茨城の方の田舎とやらに病院を建てた人が、もっともらしい御容子を取柄に副院長にという話がありましたそうで、早速家中それへ引越すことになりますと、お米さんでございます。  世帯を片づけついでに、古い箪笥の一棹も工面をするからどちらへか片附いたらと、体の可いまあ厄介払に、その話がありましたが、あの娘も全く縁附く気はございませず、親身といっては他になし、山の奥へでも一所にといいたい処を、それは遣繰の様子も知っておりますことなり、まだ嫁入はいたしたくございません、我儘を申しますようで恐入りますけれども、奉公がしとうございますと、まあこういうので。  伯父御の方はどのみち足手まといさえなくなれば可いのでございますよ、売れば五両にもなる箪笥だってお米につけないですむことですから、二ツ返事で呑込みました。  あの容色で家の仇名にさえなった娘を、親身を突放したと思えば薄情でございますが、切ない中を当節柄、かえってお堅い潔白なことではございませんかね、旦那様。  漢方の先生だけに仕込んだ行儀もございます。ちょうど可い口があって住込みましたのが、唯今居りまする、ついこの先のお邸で、お米は小間使をして、それから手が利きますので、お針もしておりますのでございますよ。」 「誰の邸だね。」 「はい、沢井さんといって旦那様は台湾のお役人だそうで、始終あっちへお詰め遊ばす、お留守は奥様、お老人はございませんが、余程の御大身だと申すことで、奉公人も他に大勢、男衆も居ります。お嬢様がお一方、お米さんが附きましてはちょいちょいこの池の緋鯉や目高に麩を遣りにいらっしゃいますが、ここらの者はみんな姫様々々と申しますよ。  奥様のお顔も存じております、私がついお米と馴染になりましたので、お邸の前を通りますれば折節お台所口へ寄りましては顔を見て帰りますが、お米の方でも私どものようなものを、どう間違えたかお婆さんお婆さんと、一体人懐いのにまた格別に慕ってくれますので、どうやら他人とは思えません。」  婆さんはこの時、滝登の懸物、柱かけの生花、月並の発句を書きつけた額などを静に眗したから、判事も釣込まれてなぜとはなくあたりを眺めた。  向直って顔を見合せ、 「この家は旦那様、停車場前に旅籠屋をいたしております、甥のものでも私はまあその厄介でございます。夏この滝の繁昌な時分はかえって貴方、邪魔もので本宅の方へ参っております、秋からはこうやって棄てられたも同然、私も姨捨山に居ります気で巣守をしますのでざいましてね、いいえ、愚痴なことを申上げますのではございませんが、お米もそこを不便だと思ってくれますか、間を見てはちょこちょこと駆けて来て、袂からだの、小風呂敷からだの、好なものを出して養ってくれます深切さ、」としめやかに語って、老の目は早や涙。        五  密と、筒袖になっている襦袢の端で目を拭い、 「それでございますから一日でも顔を見ませんと寂しくってなりません、そういうことになってみますると、役者だって贔屓なのには可い役がさしてみとうございましょう、立派な服装がさせてみとうございましょう。ああ、叶屋の二階で田之助を呼んだ時、その男衆にやった一包の祝儀があったら、あのいじらしい娘に褄の揃ったのが着せられましょうものなぞと、愚痴も出ます。唯今の姿を罰だと思って罪滅しに懺悔ばなしもいいまする。私もこう申してはお恥かしゅうございますが、昔からこうばかりでもございません、それもこれも皆なり行だと断念めましても、断念められませんのはお米の身の上。  二三日顔を見せませんから案じられます、逢いとうはございます、辛抱がし切れませんでちょっと沢井様のお勝手へ伺いますと、何貴方、お米は無事で、奥様も珍しいほど御機嫌のいい処、竹屋の婆さんが来たが、米や、こちらへお通し、とおっしゃると、あの娘もいそいそ、連れられて上りました。このごろ客が立て込んだが、今日は誰も来ず、天気は可し、早咲の菊を見ながらちょうどお八ツ時分と、お茶お菓子を下さいまして、私風情へいろいろと浮世話。  お米も嬉しそうに傍についていてくれますなり、私はまるで貴方、嫁にやった先の姑に里の親が優しくされますような気で、ほくほくものでおりました。  何、米にかねがね聞いている、婆さんお前は心懸の良いものだというから、滅多に人にも話されない事だけれども、見せて上げよう。黄金が肌に着いていると、霧が身のまわり六尺だけは除けるとまでいうのだよ、とおっしゃってね。  貴方五百円。  台湾の旦那から送って来て、ちょうどその朝銀行で請取っておいでなすったという、ズッシリと重いのが百円ずつで都合五枚。  お手箪笥の抽斗から厚紙に包んだのをお出しなすって、私に頂かして下さいました。  両手に据えて拝見をいたしましたが、何と申上げようもございませぬ。ただへいへいと申上げますと、どうだね、近頃出来たばかり、年号も今年のだよ、そういうのは昔だって見た事はあるまい、また見ようたって見せられないのだから、ゆっくり御覧、正直な年寄だというから内証で拝ませるのだよ。米や茶をさしておやり、と莞爾ついておいで遊ばす。へへ、」と婆さんは薄笑をした。  判事は眉を顰めたのである、片腹痛さもかくのごときは沢山あるまい。  婆さんは額の皺を手で擦り、 「はや実にお情深い、もっとも赤十字とやらのお顔利と申すこと、丸顔で、小造に、肥っておいで遊ばす、血の気の多い方、髪をいつも西洋風にお結びなすって、貴方、その時なんぞは銀行からお帰り匇々と見えまして、白襟で小紋のお召を二枚も襲ねていらっしゃいまして、早口で弁舌の爽な、ちょこまかにあれこれあれこれ、始終小刻に体を動かし通し、気の働のあらっしゃるのは格別でございます、旦那様。」と上目づかい。  判事は黙ってうなずいた。  婆さんは唾をのんで、 「お米はいつもお情ない方だとばかり申しますが、それは貴方、女中達の箸の上げおろしにも、いやああだのこうだのとおっしゃるのも、欲いだけ食べて胃袋を悪くしないようにという御深切でございましょうけれども、私は胃袋へ入ることよりは、腑に落ちぬことがあるでございますよ。」        六 「昨年のことで、妙にまたいとこはとこが搦みますが、これから新宿の汽車や大久保、板橋を越しまして、赤羽へ参ります、赤羽の停車場から四人詰ばかりの小さい馬車が往復しまする。岩淵の渡場手前に、姉の忰が、女房持で水呑百姓をいたしておりまして、しがない身上ではありまするけれど、気立の可い深切ものでございますから、私も当にはしないで心頼りと思うております。それへ久しぶりで不沙汰見舞に参りますと、狭い処へ一晩泊めてくれまして、翌日おひる過ぎ帰りがけに、貴方、納屋のわきにございます、柿を取って、土産を持って行きました風呂敷にそれを包んで、おばさん、詰らねえものを重くッても、持って行ッとくんなせえ。そのかわり私が志で、ここへわざと端銭をこう勘定して置きます、これでどうぞ腰の痛くねえ汽車の中等へ乗って、と割って出しましただけに心持が嬉しゅうございましょう。勿体ないがそれでは乗ろうよ。ああ、おばさん御機嫌ようと、女房も深切な。  二人とも野良へ出がけ、それではお見送はしませんからと、跣足のまま並んで門へ立って見ております。岩淵から引返して停車場へ来ますと、やがて新宿行のを売出します、それからこの服装で気恥かしくもなく、切符を買ったのでございますが、一等二等は売出す口も違いますね、旦那様。  人ごみの処をおしもおされもせず、これも夫婦の深切と、嬉しいにつけて気が勇みますので、臆面もなく別の待合へ入りましたが、誰も居りません、あすこはまた一倍立派でございますね、西洋の緞子みたような綾で張詰めました、腰をかけますとふわりと沈んで、爪尖がポンとこう、」  婆さんは手を揃えて横の方で軽く払き、 「刎上りますようなのに控え込んで、どうまた度胸が据りましたものか澄しております処へ、ばらばらと貴方、四五人入っておいでなすったのが、その沢井様の奥様の御同勢でございまして。  いきなり卓子の上へショオルだの、信玄袋だのがどさどさと並びますと、連の若い男の方が鉄砲をどしりとお乗せなすった。銃口が私の胸の処へ向きましたものでございますから、飛上って旦那様、目もくらみながらお辞儀をいたしますると、奥様のお声で、  おやお婆さん、ここは上等の待合室なんだよ、とどうでしょう……こうでございます。  人の胃袋の加減や腹工合はどうであろうと、私が腑に落ちないと申しますのはここなんでございますが、その時はただもう冷汗びッしょり、穴へでも入りたい気になりまして、しおしお片隅の氷のような腰掛へ下りました。  後馳せにつかつかと小走に入りましたのが、やっぱりお供の中だったと見えまする、あのお米で。  卓子を取巻きまして御一家がずらりと、お米が姫様と向う正面にあいている自分の坐る処へ坐らないで、おや、あなたあいておりますよ、もし、こちらへお懸けなさいましな、冷えますから、と旦那様。」  婆さんはまた涙含んで、 「袂から出した手巾を、何とそのまあ結構な椅子に掴りながら、人込の塵埃もあろうと払いてくれましたろうではございませんか、私が、あの娘に知己になりましたのはその時でございました。」  待て、判事がお米を見たのもまたそれがはじめてであった。        七  婆さんは過日己が茶店にこの紳士の休んだ折、不意にお米が来合せたことばかりを知っているが――知らずやその時、同一赤羽の停車場に、沢井の一行が卓子を輪に囲んだのを、遠く離れ、帽子を目深に、外套の襟を立てて、件の紫の煙を吹きながら、目ばかり出したその清い目で、一場の光景を屹と瞻っていたことを。――されば婆さんは今その事について何にも言わなかったが、実はこの媼、お米に椅子を払って招じられると、帯の間からぬいと青切符をわざとらしく抜出して手に持ちながら、勿体ない私風情がといいいい貴夫人の一行をじろりと眗し、躙り寄って、お米が背後に立った前の処、すなわち旧の椅子に直って、そして手を合せて小間使を拝んだので、一行が白け渡ったのまで見て知っている位であるから、この間のこの茶店における会合は、娘と婆さんとには不意に顔の合っただけであるけれども、判事に取っては蓋し不思議のめぐりあいであった。  かく停車場にお幾が演じた喜劇を知っている判事には、婆さんの昔の栄華も、俳優を茶屋の二階へ呼びなどしたことのある様子も、この寂寞の境に堪え得て一人で秋冬を送るのも、全体を通じて思い合さるる事ばかりであるが、可し、それもこれも判事がお米に対する心の秘密とともに胸に秘めて何事も謂わず、ただ憂慮わしいのは女の身の上、聞きたいのは婆が金貨を頂かせられて、―― 「それから、お前がその金子を見せてもらうと、」  促して尋ねると、意外千万、 「そのお金が五百円、その晩お手箪笥の抽斗から出してお使いなさろうとするとすっかり紛失をしていたのでございます、」と句切って、判事の顔を見て婆さんは溜息を吐いたが、小山も驚いたのである。  赤羽停車場の婆さんの挙動と金貨を頂かせた奥方の所為とは不言不語の内に線を引いてそれがお米の身に結ばれるというような事でもあるだろうと、聞きながら推したに、五百円が失せたというのは思いがけない極であった。 「ええ、すっかり紛失?」と判事も屹と目を瞠ったが、この人々はその意気において、五という数が、百となって、円とあるのに慌てるような風ではない。 「まあどうしたというのでございますか、抽斗にお了いなすったのは私もその時見ておりましたのに、こりゃ聞いてさえ吃驚いたしますものお邸では大騒ぎ。女などは髪切の化物が飛び込んだように上を下、くるくる舞うやらぶつかるやら、お米なども蒼くなって飛んで参って、私にその話をして行きましたっけ。  さあ二日経っても三日経っても解りますまい、貴夫人とも謂われるものが、内からも外からも自分の家のことに就いて罪人は出したくないとおっしゃって、表沙汰にはなりませんが、とにかく、不取締でございますから、旦那に申訳がないとのことで大層御心配、お見舞に伺いまする出入のものに、纔ばかりだけれども纔ばかりだけれどもと念をお入れなすっちゃあ、その御吹聴で。  そういたしますとね、日頃お出入の大八百屋の亭主で佐助と申しまして、平生は奉公人大勢に荷を担がせて廻らせて、自分は帳場に坐っていて四ツ谷切って手広く行っておりまするのが、わざわざお邸へ出て参りまして、奥様に勧めました。さあこれが旦那様、目黒、堀ノ内、渋谷、大久保、この目黒辺をかけて徘徊をいたします、真夜中には誰とも知らず空のものと談話をしますという、鼻の大きな、爺の化精でございまして。」        八 「旦那様、この辺をお通り遊ばしたことがございますなら、田舎道などでお見懸けなさりはしませんか。もし、御覧じましたら、ただ鼻とこう申せば、お分りになりますでございましょう。」  判事はちょっと口を挟んで、 「鼻、何鼻の大きい老人、」 「御覧じゃりましたかね。」 「むむ、過日来る時奇代な人間が居ると思ったが、それか。」 「それでございますとも。」 「お待ち、ちょうどあすこだ、」と判事は胸を斜めに振返って、欄干に肱を懸けると、滝の下道が三ツばかり畝って葉の蔭に入る一叢の藪を指した。 「あの藪を出て、少し行った路傍の日当の可い処に植木屋の木戸とも思うのがある。」 「はい、植吉でございます。」 「そうか、その木戸の前に、どこか四ツ谷辺の縁日へでも持出すと見えて、女郎花だの、桔梗、竜胆だの、何、大したものはない、ほんの草物ばかり、それはそれは綺麗に咲いたのを積んだまま置いてあった。  私はこう下を向いて来かかったが、目の前をちょろちょろと小蛇が一条、彼岸過だったに、ぽかぽか暖かったせいか、植木屋の生垣の下から道を横に切って畠の草の中へ入った。大嫌だから身震をして立留ったが、また歩行き出そうとして見ると、蛇よりもっとお前心持の悪いものが居たろうではないか。  それが爺よ。  綿を厚く入れた薄汚れた棒縞の広袖を着て、日に向けて背を円くしていたが、なりの低い事。草色の股引を穿いて藁草履で立っている、顔が荷車の上あたり、顔といえば顔だが、成程鼻といえば鼻が。」 「でございましょうね、旦那様。」 「高いんじゃあないな、あれは希代だ。一体馬面で顔も胴位あろう、白い髯が針を刻んでなすりつけたように生えている、頤といったら臍の下に届いて、その腮の処まで垂下って、口へ押冠さった鼻の尖はぜんまいのように巻いているじゃあないか。薄紅く色がついてその癖筋が通っちゃあいないな。目はしょぼしょぼして眉が薄い、腰が曲って大儀そうに、船頭が持つ櫂のような握太な、短い杖をな、唇へあてて手をその上へ重ねて、あれじゃあ持重りがするだろう、鼻を乗せて、気だるそうな、退屈らしい、呼吸づかいも切なそうで、病後り見たような、およそ何だ、身体中の精分が不残集って熟したような鼻ッつきだ。そして背を屈めて立った処は、鴻の鳥が寝ているとしか思われぬ。」 「ええ、もう傘のお化がとんぼを切った形なんでございますよ。」 「芬とえた村へ入ったような臭がする、その爺、余り日南ぼッこを仕過ぎて逆上せたと思われる、大きな真鍮の耳掻を持って、片手で鼻に杖をついたなり、馬面を据えておいて、耳の穴を掻きはじめた。」 「あれは癖でございまして、どんな時でも耳掻を放しましたことはないのでございます。」 「余り希代だから、はてな、これは植木屋の荷じゃあなくッて、どこへか小屋がけをする飾につかう鉢物で、この爺は見世物の種かしらん、といやな香を手でおさえて見ていると、爺がな、クックックッといい出した。  恐しい鼻呼吸じゃあないか、荷車に積んだ植木鉢の中に突込むようにして桔梗を嗅ぐのよ。  風流気はないが秋草が可哀そうで見ていられない。私は見返もしないで、さっさとこっちへ通抜けて来たんだが、何だあれは。」といいながらも判事は眉根を寄せたのである。 「お聞きなさいまし旦那様、その爺のためにお米が飛んだことになりました。」        九 「まずあれは易者なんで、佐助めが奥様に勧めましたのでございます、鼻は卜をいたします。」 「卜を。」 「はい、卜をいたしますが、旦那様、あの筮竹を読んで算木を並べます、ああいうのではございません。二三度何とかいう新聞にも大騒ぎを遣って書きました。耶蘇の方でむずかしい、予言者とか何とか申しますとのこと、やっぱり活如来様が千年のあとまでお見通しで、あれはああ、これはこうと御存じでいらっしゃるといったようなものでございますとさ。」  真顔で言うのを聞きながら、判事は二ツばかり握拳を横にして火鉢の縁を軽く圧えて、確めるがごとく、 「あの鼻が、活如来?」 「いいえ、その新聞には予言者、どういうことか私には解りませんが、そう申して出しましたそうで。何しろ貴方、先の二十七年八年の日清戦争の時なんざ、はじめからしまいまで、昨日はどこそこの城が取れた、今日は可恐しい軍艦を沈めた、明日は雪の中で大戦がある、もっともこっちがたが勝じゃ喜びなさい、いや、あと二三ヶ月で鎮るが、やがて台湾が日本のものになるなどと、一々申す事がみんな中りまして、号外より前に整然と心得ているくらいは愚な事。ああ今頃は清軍の地雷火を犬が嗅ぎつけて前足で掘出しているわの、あれ、見さい、軍艦の帆柱へ鷹が留った、めでたいと、何とその戦に支那へ行っておいでなさるお方々の、親子でも奥様でも夢にも解らぬことを手に取るように知っていたという吹聴ではございませんか。  それも道理、その老人は、年紀十八九の時分から一時、この世の中から行方が知れなくなって、今までの間、甲州の山続き白雲という峰に閉籠って、人足の絶えた処で、行い澄して、影も形もないものと自由自在に談が出来るようになった、実に希代な予言者だと、その山の形容などというものはまるで大薩摩のように書きました。  その鼻があの爺なんでございましてね。  はい、いえ、さようでございます、旦那様も新聞で御存じでも、あの爺のこととは思召しますまいよ。ちっとも鼻の大きなことは書いてないのだそうでございますから。  もっとも鐘馗様がお笑い遊ばしちゃあ、鬼が恐がりはいたしますまい、私どもが申せば活如来、新聞屋さんがおっしゃればその予言者、活如来様や予言者殿の、その鼻ッつきがああだとあっては、根ッから難有味がございませんもの、売ものに咲いた花でございましょう。  その癖雲霧が立籠めて、昼も真暗だといいました、甲州街道のその峰と申しますのが、今でも爺さんが時々お籠をするという庵がございますって。そこは貴方、府中の鎮守様の裏手でございまして、手が届きそうな小さな丘なんでございますよ。もっとも何千年の昔から人足の絶えた処には違いございません、何蕨でも生えてりゃ小児が取りに入りましょうけれども、御覧じゃりまし、お茶の水の向うの崖だって仙台様お堀割の昔から誰も足踏をした者はございませんや。日蔭はどこだって朝から暗うございまする、どうせあんな萌の糸瓜のような大きな鼻の生えます処でございますもの、うっかり入ろうものなら、蚯蚓の天上するのに出ッくわして、目をまわしませんければなりますまいではございませんか。」と、何か激したことのあるらしく婆さんはまくしかけた。        十  一息つき言葉をつぎ、 「第一、その日清戦争のことを見透して、何か自分が山の祠の扉を開けて、神様のお馬の轡を取って、跣足で宙を駈出して、旅順口にわたりゃあお手伝でもして来たように申しますが、ちっとも戦のあった最中に、そんなことが解ったのではございません。ようよう一昨年から去年あたりへかけて騒ぎ出したのでございますもの、疑ってみました日には、当になりはいたしません。しかしまあ何でございますね、前触が皆勝つことばかりでそれが事実なんですから結構で、私などもその話を聞きました当座は、もうもう貴方。」  と黙って聞いていた判事に強請るがごとく、 「お可煩くはいらっしゃいませんか、」 「悉しく聞こうよ。」  判事は倦める色もあらず、お幾はいそいそして、 「ええどうぞ。条を申しませんと解りません。私どもは以前、ただ戦争のことにつきましてあれが御祈祷をしたり、お籠、断食などをしたという事を聞きました時は、難有い人だと思いまして、あんな鼻附でも何となく尊いもののように存じましたけれども、今度のお米のことで、すっかり敵対になりまして、憎らしくッて、癪に障ってならないのでございます。  あんなもののいうことが当になんぞなりますものか。卜もくだらないもあったもんじゃあございません。  でございますが、難有味はなくッても信仰はしませんでも、厭な奴は厭な奴で、私がこう悪口を申しますのを、形は見えませんでもどこかで聞いていて、仇をしやしまいかと思いますほど、気味の悪い爺なんでございまして、」  といいながら日暮際のぱっと明い、艶のないぼやけた下なる納戸に、自分が座の、人なき薄汚れた座蒲団のあたりを見て、婆さんは後見らるる風情であったが、声を低うし、 「全体あの爺は甲州街道で、小商人、煮売屋ともつかず、茶屋ともつかず、駄菓子だの、柿だの饅頭だのを商いまする内の隠居でございまして、私ども子供の内から親どもの話に聞いておりましたが、何でも十六七の小僧の時分、神隠しか、攫われたか、行方知れずになったんですって。見えなくなった日を命日にしている位でございましたそうですが、七年ばかり経ちましてから、ふいと内の者に姿を見せたと申しますよ。  それもね、旦那様、まともに帰って来たのではありません。破風を開けて顔ばかり出しましたとさ、厭じゃありませんか、正丑の刻だったと申します、」と婆さんは肩をすぼめ、 「しかも降続きました五月雨のことで、攫われて参りましたと同一夜だと申しますが、皺枯れた声をして、 (家中無事か、)といったそうでございますよ。見ると、真暗な破風の間から、ぼやけた鼻が覗いていましょうではございませんか。  皆、手も足も縮んでしまいましたろう、縛りつけられたようになりましたそうでございますが、まだその親が居りました時分、魔道へ入った児でも鼻を嘗めたいほど可愛かったと申しまする。 (忰、まあ、)と父親が寄ろうとしますと、変な声を出して、  寄らっしゃるな、しばらく人間とは交らぬ、と払い退けるようにしてそれから一式の恩返しだといって、その時、饅頭の餡の製し方を教えて、屋根からまた行方が解らなくなったと申しますが、それからはその島屋の饅頭といって街道名代の名物でございます。」        十一 「在り来りの皮は、麁末な麦の香のする田舎饅頭なんですが、その餡の工合がまた格別、何とも申されません旨さ加減、それに幾日置きましても干からびず、味は変りませんのが評判で、売れますこと売れますこと。  近在は申すまでもなく、府中八王子辺までもお土産折詰になりますわ。三鷹村深大寺、桜井、駒返し、結構お茶うけはこれに限る、と東京のお客様にも自慢をするようになりましたでしょう。  三年と五年の中にはめきめきと身上を仕出しまして、家は建て増します、座敷は拵えます、通庭の両方には入込でお客が一杯という勢、とうとう蔵の二戸前も拵えて、初はほんのもう屋台店で渋茶を汲出しておりましたのが俄分限。  七年目に一度顔を見せましてから毎年五月雨のその晩には、きっと一度ずつ破風から覗きまして、 (家中無事か。)おお、厭だ!」と寂しげに笑ってお幾婆さんは身顫をした。 「その中親が亡なって代がかわりました。三人の兄弟で、仁右衛門と申しますあの鼻は、一番の惣領、二番目があとを取ります筈の処、これは厭じゃと家出をして坊さんになりました。  そこで三蔵と申しまする、末が家へ坐りましたが、街道一の家繁昌、どういたして早やただの三蔵じゃあございません、寄合にも上席で、三蔵旦那でございまする。  誰のお庇だ、これも兄者人の御守護のせい何ぞ恩返しを、と神様あつかい、伏拝みましてね、」  と婆さんは掌を合せて見せ、 「一年、やっぱりその五月雨の晩に破風から鼻を出した処で、(何ぞお望のものを)と申上げますと、(ただ据えておけば可い、女房を一人、)とそういったそうでございます。」 「ふむ、」 「まあ、お聞き遊ばせ、こうなんでございますよ。  それから何事を差置いても探しますと、ございました。来るものも一生奉公の気なら、島屋でも飼殺しのつもり、それが年寄でも不具でもございません。 (色の白い、美しいのがいいいい。)  と異な声で、破風口から食好みを遊ばすので、十八になるのを伴れて参りました、一番目の嫁様は来た晩から呻いて、泣煩うて貴方、三月日には痩衰えて死んでしまいました。  その次のも時々悲鳴を上げましたそうですが、二年経ってやっぱり骨と皮になって、可哀そうにこれもいけません。  さあ来るものも来るものも、一年たつか二年持つか、五年とこたえたものは居りませんで、九人までなくなったのでございます。  あるに任して金子も出したではございましょうが、よくまあ、世間は広くッて八人の九人のと目鼻のある、手足のある、胴のある、髪の黒い、色の白い女があったものだと思いますのでございますよ。十人目に十三年生きていたという評判の婦人が一人、それは私もあの辺に参りました時、饅頭を買いに寄りましてちょっと見ましたっけ。  大柄な婦人で、鼻筋の通った、佳い容色、少し凄いような風ッつき、乱髪に浅葱の顱巻を〆めまして病人と見えましたが、奥の炉のふちに立膝をしてだらしなく、こう額に長煙管をついて、骨が抜けたように、がっくり俯向いておりましたが。」        十二 「百姓家の納戸の薄暗い中に、毛筋の乱れました頸脚なんざ、雪のようで、それがあの、客だと見て真蒼な顔でこっちを向きましたのを、今でも私は忘れません。可哀そうにそれから二年目にとうとう亡なりましたが、これは府中に居た女郎上りを買って来て置いたのだと申します。  もうその以前から評判が立っておりましたので、山と積まれてからが金子で生命までは売りませんや、誰も島屋の隠居には片づき人がなかったので、どういうものでございますか、その癖、そうやって、嫁が極りましても女房が居ましても、家へ顔を出しますのはやっぱり破風から毎年その月のその日の夜中、ちょうど入梅の真中だと申します、入梅から勘定して隠居が来たあとをちょうど同一ように指を折ると、大抵梅雨あけだと噂があったのでございまして。  実際、おかみさんが出来るようになりましてからも参るのは確に年に一度でございましたが、それとも日に三度ずつも来ましたか、そこどこはたしかなことは解りません。  何にいたしましても、来るものも娶るものも亡くなりましたのは、こりゃ葬式が出ましたから事実なんで。  さあ、どんづまりのその女郎が殺されましてからは、怪我にもゆき人がございません、これはまた無いはずでございましょう。  そうすると一年、二年、三年と、段々店が寂れまして、家も蔵も旧のようではなくなりました。一時は買込んだ田地なども売物に出たとかいう評判でございました。  そうこういたします内に、さよう、一昨年でございましたよ、島屋の隠居が家へ帰ったということを聞きましたのは。それから戦争の祈祷の評判、ひとしきりは女房一件で、饅頭の餡でさえ胸を悪くしたものも、そのお国のために断食をした、お籠をした、千里のさき三年のあとのあとまで見通しだと、人気といっちゃあおかしく聞えますが、また隠居殿の曲った鼻が素直になりまして、新聞にまで出まする騒ぎ。予言者だ、と旦那様、活如来の扱でございましょう。  ああ、やれやれ、家へ帰ってもあの年紀で毎晩々々機織の透見をしたり、糸取場を覗いたり、のそりのそり這うようにして歩行いちゃ、五宿の宿場女郎の張店を両側ね、糸をかがりますように一軒々々格子戸の中へ鼻を突込んじゃあクンクン嗅いで歩行くのを御存じないか、と内々私はちっと聞いたことがございますので、そう思っておりましたが、善くは思いませんばかりでも、お肚のことを嗅ぎつけられて、変な杖でのろわれたら、どんな目に逢おうも知れぬと、薄気味の悪い爺なんでございます。  それが貴方、以前からお米を貴方。」  と少し言渋りながら、 「跟けつ廻しつしているのでございます。」と思切った風でいったのである。 「何、お米を、あれが、」と判事は口早にいって、膝を立てた。 「いいえ、あの、これと定ったこともございません、ございませんようなものの、ふらふら堀ノ内様の近辺、五宿あたり、夜更でも行きあたりばったりにうろついて、この辺へはめったに寄りつきませなんだのが、沢井様へお米が参りまして、ここでもまた、容色が評判になりました時分から、藪からでも垣からでも、ひょいと出ちゃああの女の行くさきを跟けるのでございます。薄ぼんやりどこにかあの爺が立ってるのを見つけましたものが、もしその歩き出しますのを待っておりますれば、きっとお米の姿が道に見えると申したようなわけでございまして。」        十三 「おなじ奉公人どもが、たださえ口の悪い処へ、大事出来のように言い囃して、からかい半分、お米さんは神様のお気に入った、いまに緋の袴をお穿きだよ、なんてね。  まさかに気があろうなどとは、怪我にも思うのじゃございますまいが、串戯をいわれるばかりでも、癩病の呼吸を吹懸けられますように、あの女も弱り切っておりましたそうですが。  つい事の起ります少し前でございました、沢井様の裏庭に夕顔の花が咲いた時分だと申しますから、まだ浴衣を着ておりますほどのこと。  急ぎの仕立物がございましたかして、お米が裏庭に向きました部屋で針仕事をしていたのでございます。  まだ明も点けません、晩方、直きその夕顔の咲いております垣根のわきがあらい格子。手許が暗くなりましたので、袖が触りますばかりに、格子の処へ寄って、縫物をしておりますと、外は見通しの畠、畦道を馬も百姓も、往ったり、来たりします処、どこで見当をつけましたものか、あの爺のそのそ嗅ぎつけて参りましてね、蚊遣の煙がどことなく立ち渡ります中を、段々近くへ寄って来て、格子へつかまって例の通り、鼻の下へつッかい棒の杖をついて休みながら、ぬっとあのふやけた色づいて薄赤い、てらてらする鼻の尖を突き出して、お米の横顔の処を嗅ぎ出したのでございますと。  もうもう五宿の女郎の、油、白粉、襟垢の香まで嗅いで嗅いで嗅ぎためて、ものの匂で重量がついているのでございますもの、夢中だって気勢が知れます。  それが貴方、明前へ、突立ってるのじゃあございません、脊伸をしてからが大概人の蹲みます位なんで、高慢な、澄した今産れて来て、娑婆の風に吹かれたという顔色で、黙って、噯をしちゃあ、クンクン、クンクン小さな法螺の貝ほどには鳴したのでございます。  麹室の中へ縛られたような何ともいわれぬ厭な気持で、しばらくは我慢をもしましたそうな。  お米が気の弱い臆病ものの癖に、ちょっと癇持で、気に障ると直きつむりが疼み出すという風なんですから堪りませんや。  それでもあの爺の、むかしむかしを存じておりますれば、劫経た私どもでさえ、向面へ廻しちゃあ気味の悪い、人間には籍のないような爺、目を塞いで逃げますまでも、強いことなんぞ謂われたものではございませんが、そこはあの女は近頃こちらへ参りましたなり、破風口から、=無事か=の一件なんざ、夢にも知りませず、また沢井様などでも誰もそんなことは存じません。  串戯にも、つけまわしている様子を、そんな事でも聞かせましたら、夜が寝られぬほど心持を悪くするだろうと思いますから、私もうっかりしゃべりませんでございますから、あの女はただ汚い変な乞食、親仁、あてにならぬ卜者を、愚痴無智の者が獣を拝む位な信心をしているとばかり承知をいたしておりましたので、 (不可ませんよ、不可ませんよ、)といっても、ぬッとしてクンクン。 (お前はうるさいね、)と手にしていた針の尖、指環に耳を突立てながら、ちょいと鼻頭を突いたそうでございます、はい。」  といって婆さんは更まった。        十四 「洋犬の妾になるだろうと謂われるほど、その緋の袴でなぶられるのを汚わしがっていた、処女気で、思切ったことをしたもので、それで胸がすっきりしたといつか私に話しましたっけ。  気味を悪がらせまいとは申しませんでしたが、ああこの女は飛んだことをおしだ、外のものとは違ってあのけたい親仁。  蝮の首を焼火箸で突いたほどの祟はあるだろう、と腹じゃあ慄然いたしまして、爺はどうしたと聞きましたら、 (いいえ、やっぱりむずむずしてどこかへ行ってしまいました、それッきり、さっぱり見かけないんですよ。)と手柄顔に、お米は胸がすいたように申しましたが。  なるほど、その後はしばらくこの辺へは立廻りません様子。しばらく影を見ませんから、それじゃあそれなりになったかしら。帳消しにはなるまいと思いながら、一日ましに私もちっとは気がかりも薄らぎました。  そういたしますと今度の事、飛んでもない、旦那様、五百円紛失の一件で、前申しました沢井様へ出入の大八百屋が、あるじ自分で罷出ましてさ、お金子の行方を、一番、是非、だまされたと思って仁右衛門にみておもらいなさいまし、とたって、勧めたのでございますよ。  どうして礼なんぞ遣っては腹を立って祟をします、ただ人助けに仕りますることで、好でお籠をして影も形もない者から聞いて来るのでございます、と悪気のない男ですが、とかく世話好の、何でも四文とのみ込んで差出たがる親仁なんで、まめだって申上げたものですから、仕事はなし、新聞は五種も見ていらっしゃる沢井の奥様。  内々その予言者だとかいうことを御存じなり、外に当はつかず、旁々それでは、と早速爺をお頼み遊ばすことになりました。  府中の白雲山の庵室へ、佐助がお使者に立ったとやら。一日措いて沢井様へ参りましたそうでございます。そしてこれはお米から聞いた話ではございません、爺をお招きになりましたことなんぞ、私はちっとも存じないでおりますと、ちょうどその卜を立てた日の晩方でございます。  旦那様、貴下が桔梗の花を嗅いでる処を御覧じゃりましたという、吉さんという植木屋の女房でございます。小体な暮しで共稼ぎ、使歩行やら草取やらに雇われて参るのが、稼の帰と見えまして、手甲脚絆で、貴方、鎌を提げましたなり、ちょこちょこと寄りまして、 (お婆さん今日は不思議なことがありました。沢井様の草刈に頼まれて朝疾くからあちらへ上って働いておりますと、五百円のありかを卜うのだといって、仁右衛門爺さんが、八時頃に遣って来て、お金子が紛失したというお居室へ入って、それから御祈祷がはじまるということ、手を休めてお庭からその一室の方を見ておりました。何をしたか分りません、障子襖は閉切ってございましたっけ、ものの小半時経ったと思うと、見ていた私は吃驚して、地震だ地震だ、と極の悪い大声を立てましたわ、何の事はない、お居間の瓦屋根が、波を打って揺れましたもの、それがまた目まぐるしく大揺れに揺れて、そのままひッそり静まりましたから、縁側の処へ駆けつけて、ちょうど出て参りましたお勢さんという女中に、酷い地震でございましたね、と謂いますとね、けげんな顔をして、へい、と謂ったッきり、気もないことなんで、奇代で奇代で。)とこう申すんでございましょう。」        十五 「いかにも私だって地震があったとは思いません、その朝は、」  と婆さんは振返って、やや日脚の遠退いた座を立って、程過ぎて秋の暮方の冷たそうな座蒲団を見遣りながら、 「ねえ、旦那様、あすこに坐っておりましたが、風立ちもいたしませず、障子に音もございません、穏かな日なんですもの。 (変じゃあないか、女房さん、それはまたどうした訳だろう、) (それが御祈祷をした仁右衛門爺さんの奇特でございます。沢井様でも誰も地震などと思った方はないのでして、ただ草を刈っておりました私の目にばかりお居間の揺れるのが見えたのでございます。大方神様がお寄んなすった験なんでございましょうよ。案の定、お前さん、ちょうど祈祷の最中、思い合してみますれば、瓦が揺れたのを見ましたのとおなじ時、次のお座敷で、そのお勢というのに手伝って、床の間の柱に、友染の襷がけで艶雑巾をかけていたお米という小間使が、ふっと掛花活の下で手を留めて、活けてありました秋草をじっと見ながら、顔を紅のようにしたということですよ。何か打合せがあって、密と目をつけていたものでもあると見えます。お米はそのまんま、手が震えて、足がふらついて、わなわなして、急に熱でも出たように、部屋へ下って臥りましたそうな。お昼過からは早や、お邸中寄ると触ると、ひそひそ話。  高い声では謂われぬことだが、お金子の行先はちゃんと分った。しかし手証を見ぬことだから、膝下へ呼び出して、長煙草で打擲いて、吐させる数ではなし、もともと念晴しだけのこと、縄着は邸内から出すまいという奥様の思召し、また爺さんの方でも、神業で、当人が分ってからが、表沙汰にはしてもらいたくないと、約束をしてかかった祈なんだそうだから僥倖さ。しかし太い了簡だ、あの細い胴中を、鎖で繋がれる様が見たいと、女中達がいっておりました。ほんとうに女形が鬘をつけて出たような顔色をしていながら、お米と謂うのは大変なものじゃあございませんか、悪党でもずっと四天で出る方だね、私どもは聞いてさえ五百円!)とその植木屋の女房が饒舌りました饒舌りました。  旦那様もし貴方、何とお聞き遊ばして下さいますえ。」  判事は右手のさきで、左の腕を洋服の袖の上からしっかとおさえて、屹とお幾の顔を見た。 「どう思召して下さいます、私は口が利けません、いいわけをするのさえ残念で堪りませんから碌に返事もしないでおりますと、灯をつけるとって、植吉の女房はあたふた帰ってしまいました。何も悪気のある人ではなし、私とお米との仲を知ってるわけもないのでございますから、驚かして慰むにも当りません、お米は何にも知らないにしましても、いっただけのことはその日ありましたに違いないのでございますもの。  私は寝られはいたしません。  帰命頂来! お米が盗んだとしますれば、私はその五百円が紛失したといいまする日に、耳を揃えて頂かされたのでございます。  どんな顔をされまいものでもないと、口惜さは口惜し、憎らしさは憎らし、もうもう掴みついて引挘ってやりたいような沢井の家の人の顔を見て、お米に逢いたいと申して出ました。」        十六 「それも、行こうか行くまいかと、気を揉んで揉抜いた揚句、どうも堪らなくなりまして思切って伺いましたので。  心からでございましょう、誰の挨拶もけんもほろろに聞えましたけれども、それはもうお米に疑がかかったなんぞとは、噯にも出しませんで、逢って帰れ! と部屋へ通されましてございます。  それでも生命はあったか、と世を隔てたものにでも逢いますような心持。いきなり縋り寄って、寝ている夜具の袖へ手をかけますと、密と目をあいて私の顔を見ましたっけ、三日四日が間にめっきりやつれてしまいました、顔を見ますと二人とも声よりは前へ涙なんでございます。  物もいわないで、あの女が前髪のこわれた額際まで、天鵞絨の襟を引かぶったきり、ふるえて泣いてるのでございましょう。  ようよう口を利かせますまでには、大概骨が折れた事じゃアありません。  口説いたり、すかしたり、怨んでみたり、叱ったり、いろいろにいたして訳を聞きますると、申訳をするまでもない、お金子に手もつけはしませんが、験のある祈をされて、居ても立ってもいられなくなったことがある。  それは⁈  やっぱりお金子の事で、私は飛んだ心得違いをいたしました、もうどうしましょう。もとよりお金子は数さえ存じません位ですが、心では誠に済まないことをしましたので、神様、仏様にはどんな御罰を蒙るか知れません。  憎らしい鼻の爺は、それはそれは空恐ろしいほど、私の心の内を見抜いていて、日に幾たびとなく枕許へ参っては、 (女、罪のないことは私がよう知っている、じゃが、心に済まぬ事があろう、私を頼め、助けてやる、)と、つけつまわしつ謂うのだそうで。  お米は舌を食い切っても爺の膝を抱くのは、厭と冠をふり廻すと申すこと。それは私も同一だけれども、罪のないものが何を恐がって、煩うということがあるものか。済まないというのは一体どんな事と、すかしても、口説いても、それは問わないで下さいましと、強いていえば震えます、頼むようにすりゃ泣きますね、調子もかわって目の色も穏でないようでございましたが、仕方がございません。で、しおしおその日は帰りまして、一杯になる胸を掻破りたいほど、私が案ずるよりあの女の容体は一倍で、とうとう貴方、前後が分らず、厭なことを口走りまして、時々、それ巡査さんが捕まえる、きゃっといって刎起きたり、目を見据えましては、うっとりしていて、ああ、真暗だこと、牢へ入れられたと申しちゃあ泣くようになりました。そんな容子で、一日々々、このごろでは目もあてられませんように弱りまして、ろくろく湯水も通しません。  何か、いろんな恐しいものが寄って集って苛みますような塩梅、爺にさえ縋って頼めば、またお日様が拝まれようと、自分の口からも気の確な時は申しながら、それは殺されても厭だといいまする。  神でも仏でも、尊い手をお延ばし下すって、早く引上げてやって頂かねば、見る中にも砂一粒ずつ地の下へ崩れてお米は貴方、旦那様。  奈落の底までも落ちて参りますような様子なのでございます。その上意地悪く、鼻めが沢井様へ入り込みますこと、毎日のよう。奥様はその祈の時からすっかり御信心をなすったそうで、畳の上へも一件の杖をおつかせなさいますお扱い、それでお米の枕許をことことと叩いちゃあ、 (気分はどうじゃ、)といいますそうな。」        十七  お幾は年紀の功だけに、身を震わさないばかりであったが、 「いえ、もう下らないこと、くどくど申上げまして、よくお聞き遊ばして下さいました。昔ものの口不調法、随分御退屈をなすったでございましょう。他に相談相手といってはなし、交番へ届けまして助けて頂きますわけのものではなし、また親類のものでも知己でも、私が話を聞いてくれそうなものには謂いました処で思遣にも何にもなるものじゃあございません、旦那様が聞いて下さいましたので、私は半分だけ、荷を下しましたように存じます。その御深切だけで、もう沢山なのでございますが、欲には旦那様何とか御判断下さいますわけには参りませんか。  こんな事を申しましてお聞上げ……どころか、もしお気に障りましては恐入りますけれども、一度旦那様をお見上げ申しましてからの、お米の心は私がよく存じております。囈言にも今度のその何か済まないことやらも、旦那様に対してお恥かしいことのようでもございますが、仂ない事を。  飛んだことをいう奴だと思し召しますなら、私だけをお叱り下さいまして、何にも知りませんお米をおさげすみ下さいますなえ。  それにつけ彼につけましても時ならぬこの辺へ、旦那様のお立寄遊ばしたのを、私はお引合せと思いますが、飛んだ因縁だとおあきらめ下さいまして、どうぞ一番一言でも何とか力になりますよう、おっしゃっては下さいませんか。何しろ煩っておりますので、片時でもほッという呼吸をつかせてやりたく存じますが、こうでございます、旦那様お見かけ申して拝みまする。」と言も切に声も迫って、両眼に浮べた涙とともに真は面にあふれたのである。  行懸り、言の端、察するに頼母しき紳士と思い、且つ小山を婆が目からその風采を推して、名のある医士であるとしたらしい。  正に大審院に、高き天を頂いて、国家の法を裁すべき判事は、よく堪えてお幾の物語の、一部始終を聞き果てたが、渠は実際、事の本末を、冷かに判ずるよりも、お米が身に関する故をもって、むしろ情において激せざるを得なかったから、言下に打出して事理を決する答をば、与え得ないで、 「都を少しでも放れると、怪しからん話があるな、婆さん。」とばかり吐息とともにいったのであるが、言外おのずからその明眸の届くべき大審院の椅子の周囲、西北三里以内に、かかる不平を差置くに忍びざる意気があって露れた。 「どうぞまあ、何は措きましてともかくもう一服遊ばして下さいまし、お茶も冷えてしまいました。決してあの、唯今のことにつきましておねだり申しますのではございません、これからは茶店を預ります商売冥利、精一杯の御馳走、きざ柿でも剥いて差上げましょう。生の栗がございますが、お米が達者でいて今日も遊びに参りましたら、灰に埋んで、あの器用な手で綺麗にこしらえさして上げましょうものを。……どうぞ、唯今お熱いお湯を。旦那様お寒くなりはしませんか。」  今は物思いに沈んで、一秒の間に、婆が長物語りを三たび四たび、つむじ風のごとく疾く、颯と繰返して、うっかりしていた判事は、心着けられて、フト身に沁む外の方を、欄干越に打見遣った。  黄昏や、早や黄昏は森の中からその色を浴びせかけて、滝を蔽える下道を、黒白に紛るる女の姿、縁の糸に引寄せられけむ、裾も袂も鬢の毛も、夕の風に漂う風情。        十八 「おお、あれは。」 「お米でございますよ、あれ、旦那様、お米さん、」と判事にいうやら、女を呼ぶやら。お幾は段を踏辷らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝と来たお米、素足のままで、細帯ばかり、空色の袷に襟のかかった寝衣の形で、寝床を脱出した窶れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただしく越そうとする敷居に爪先を取られて、うつむけさまに倒れかかって、横に流れて蹌踉く処を、 「あッ、」といって、手を取った。婆さんは背を支えて、どッさり尻をついて膝を折りざまに、お米を内へ抱え込むと、ばったり諸共に畳の上。  この煽りに、婆さんが座右の火鉢の火の、先刻からじょうに成果てたのが、真白にぱっと散って、女の黒髪にも婆さんの袖にもちらちらと懸ったが、直ぐに色も分かず日は暮れたのである。 「お米さん、まあ、」と抱いたまま、はッはッいうと、絶ゆげな呼吸づかい、疲果てた身を悶えて、 「厭よう、つかまえられるよう。」 「誰に、誰につかまえられるんだよ。」 「厭ですよ、あれ、巡査さん。」 「何、巡査さんが、」と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。 「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」  お米はただ切なそうに、ああああというばかりであったが、急にまた堪え得ぬばかり、 「堪忍よう、あれ、」と叫んだ。 「堪忍をするから謝罪れの。どこをどう狂い廻っても、私が目から隠れる穴はないぞの。無くなった金子は今日出たが、汝が罪は消えぬのじゃ。女、さあ、私を頼め、足を頂け、こりゃこの杖に縋れ。」と蚊の呻くようなる声して、ぶつぶついうその音調は、一たび口を出でて、唇を垂れ蔽える鼻に入ってやがて他の耳に来るならずや。異様なる持主は、その鼻を真俯向けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土をことことと鳴していた。 「あれ。」打てば響くがごとくお米が身内はわなないた。  堪りかねて婆さんは、鼻に向って屹と居直ったが、爺がクンクンと鳴して左右に蠢めかしたのを一目見ると、しりごみをして固くお米を抱きながら竦んだ。 「杖に縋って早や助かれ。女やい、女、金子は盗まいでも、自分の心が汝が身を責殺すのじゃわ、たわけ奴めが、フン。我を頼め、膝を抱け、杖に縋れ、これ、生命が無いぞの。」と洞穴の奥から幽に、呼ぶよう、人間の耳に聞えて、この淫魔ほざきながら、したたかの狼藉かな。杖を逆に取って、うつぶしになって上口に倒れている、お米の衣の裾をハタと打って、また打った。 「厭よ、厭よ、厭よう。」と今はと見ゆる悲鳴である。 「この、たわけ奴の。」  段の上にすッくと立って、名家の彫像のごとく、目まじろきもしないで、一場の光景を見詰めていた黒き衣、白き面、清癯鶴に似たる判事は、衝と下りて、ずッと寄って、お米の枕頭に座を占めた。  威厳犯すべからざるものある小山の姿を、しょぼけた目でじっと見ると、予言者の鼻は居所をかえて一足退った、鼻と共に進退して、その杖の引込んだことはいうまでもなかろう。  目もくれず判事は静にお米の肩に手を載せた。  軽くおさえて、しばらくして、 「謂うことが分るか、姉さん、分るかい、お前さんはね、紛失したというその五百円を盗みも、見もしないが、欲しいと思ったんだろうね。可し、欲しいと思った。それは深切なこの婆さんが、金子を頂かされたのを見て、あの金子が自分のものなら、老人のものにしたいと、……そうだ。そこを見込まれたのだ。何、妙なものに出会して気を痛めたに違いなかろう。むむ、思ったばかり罪はないよ、たとい、不思議なものの咎があっても、私が申請けよう。さあ、しっかりとつかまれ。私が楯になって怪いものの目から隠してやろう。ずっと寄れ、さあこの身体につかまってその動悸を鎮めるが可い。放すな。」と爽かにいった言につれ、声につれ、お米は震いつくばかり、人目に消えよと取縋った。 「婆さん、明を。」  飛上るようにして、やがてお幾が捧げ出した灯の影に、と見れば、予言者はくるりと背後向になって、耳を傾けて、真鍮の耳掻を悠々とつかいながら、判事の言を聞澄しているかのごとくであった。 「安心しな、姉さん、心に罪があっても大事はない。私が許す、小山由之助だ、大審院の判事が許して、その証拠に、盗をしたいと思ったお前と一所になろう。婆さん、媒妁人は頼んだよ。」  迷信の深い小山夫人は、その後永く鳥獣の肉と茶断をして、判事の無事を祈っている。蓋し当時、夫婦を呪詛するという捨台辞を残して、我言かくのごとく違わじと、杖をもって土を打つこと三たびにして、薄月の十日の宵の、十二社の池の周囲を弓なりに、飛ぶかとばかり走り去った、予言者の鼻の行方がいまだに分らないからのことである。 明治三十四(一九〇一)年一月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日発行 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年2月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004559", "作品名": "政談十二社", "作品名読み": "せいだんじゅうにそう", "ソート用読み": "せいたんしゆうにそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4559.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成2", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年4月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年4月24日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4559_ruby_26032.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4559_26238.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一 「このくらいな事が……何の……小児のうち歌留多を取りに行ったと思えば――」  越前の府、武生の、侘しい旅宿の、雪に埋れた軒を離れて、二町ばかりも進んだ時、吹雪に行悩みながら、私は――そう思いました。  思いつつ推切って行くのであります。  私はここから四十里余り隔たった、おなじ雪深い国に生れたので、こうした夜道を、十町や十五町歩行くのは何でもないと思ったのであります。  が、その凄じさといったら、まるで真白な、冷い、粉の大波を泳ぐようで、風は荒海に斉しく、ごうごうと呻って、地――と云っても五六尺積った雪を、押揺って狂うのです。 「あの時分は、脇の下に羽でも生えていたんだろう。きっとそうに違いない。身軽に雪の上へ乗って飛べるように。」  ……でなくっては、と呼吸も吐けない中で思いました。  九歳十歳ばかりのその小児は、雪下駄、竹草履、それは雪の凍てた時、こんな晩には、柄にもない高足駄さえ穿いていたのに、転びもしないで、しかも遊びに更けた正月の夜の十二時過ぎなど、近所の友だちにも別れると、ただ一人で、白い社の広い境内も抜ければ、邸町の白い長い土塀も通る。……ザザッ、ごうと鳴って、川波、山颪とともに吹いて来ると、ぐるぐると廻る車輪のごとき濃く黒ずんだ雪の渦に、くるくると舞いながら、ふわふわと済まアして内へ帰った――夢ではない。が、あれは雪に霊があって、小児を可愛がって、連れて帰ったのであろうも知れない。 「ああ、酷いぞ。」  ハッと呼吸を引く。目口に吹込む粉雪に、ばッと背を向けて、そのたびに、風と反対の方へ真俯向けになって防ぐのであります。こういう時は、その粉雪を、地ぐるみ煽立てますので、下からも吹上げ、左右からも吹捲くって、よく言うことですけれども、面の向けようがないのです。  小児の足駄を思い出した頃は、実はもう穿ものなんぞ、疾の以前になかったのです。  しかし、御安心下さい。――雪の中を跣足で歩行く事は、都会の坊ちゃんや嬢さんが吃驚なさるような、冷いものでないだけは取柄です。ズボリと踏込んだ一息の間は、冷さ骨髄に徹するのですが、勢よく歩行いているうちには温くなります、ほかほかするくらいです。  やがて、六七町潜って出ました。  まだこの間は気丈夫でありました。町の中ですから両側に家が続いております。この辺は水の綺麗な処で、軒下の両側を、清い波を打った小川が流れています。もっともそれなんぞ見えるような容易い積り方じゃありません。  御存じの方は、武生と言えば、ああ、水のきれいな処かと言われます――この水が鐘を鍛えるのに適するそうで、釜、鍋、庖丁、一切の名産――その昔は、聞えた刀鍛冶も住みました。今も鍛冶屋が軒を並べて、その中に、柳とともに目立つのは旅館であります。  が、もう目貫の町は過ぎた、次第に場末、町端れの――と言うとすぐに大な山、嶮い坂になります――あたりで。……この町を離れて、鎮守の宮を抜けますと、いま行こうとする、志す処へ着く筈なのです。  それは、――そこは――自分の口から申兼ねる次第でありますけれども、私の大恩人――いえいえ恩人で、そして、夢にも忘れられない美しい人の侘住居なのであります。  侘住居と申します――以前は、北国においても、旅館の設備においては、第一と世に知られたこの武生の中でも、その随一の旅館の娘で、二十六の年に、その頃の近国の知事の妾になりました……妾とこそ言え、情深く、優いのを、昔の国主の貴婦人、簾中のように称えられたのが名にしおう中の河内の山裾なる虎杖の里に、寂しく山家住居をしているのですから。この大雪の中に。        二  流るる水とともに、武生は女のうつくしい処だと、昔から人が言うのであります。就中、蔦屋――その旅館の――お米さん(恩人の名です)と言えば、国々評判なのでありました。  まだ汽車の通じない時分の事。…… 「昨夜はどちらでお泊り。」 「武生でございます。」 「蔦屋ですな、綺麗な娘さんが居ます。勿論、御覧でしょう。」  旅は道連が、立場でも、また並木でも、言を掛合う中には、きっとこの事がなければ納まらなかったほどであったのです。  往来に馴れて、幾度も蔦屋の客となって、心得顔をしたものは、お米さんの事を渾名して、むつの花、むつの花、と言いました。――色と言い、また雪の越路の雪ほどに、世に知られたと申す意味ではないので――これは後言であったのです。……不具だと言うのです。六本指、手の小指が左に二つあると、見て来たような噂をしました。なぜか、――地方は分けて結婚期が早いのに――二十六七まで縁に着かないでいたからです。 (しかし、……やがて知事の妾になった事は前にちょっと申しました。)  私はよく知っています――六本指なぞと、気もない事です。確に見ました。しかもその雪なす指は、摩耶夫人が召す白い細い花の手袋のように、正に五弁で、それが九死一生だった私の額に密と乗り、軽く胸に掛ったのを、運命の星を算えるごとく熟と視たのでありますから。――  またその手で、硝子杯の白雪に、鶏卵の蛋黄を溶かしたのを、甘露を灌ぐように飲まされました。  ために私は蘇返りました。 「冷水を下さい。」  もう、それが末期だと思って、水を飲んだ時だったのです。  脚気を煩って、衝心をしかけていたのです。そのために東京から故郷に帰る途中だったのでありますが、汚れくさった白絣を一枚きて、頭陀袋のような革鞄一つ掛けたのを、玄関さきで断られる処を、泊めてくれたのも、蛍と紫陽花が見透しの背戸に涼んでいた、そのお米さんの振向いた瞳の情だったのです。  水と言えば、せいぜい米の磨汁でもくれそうな処を、白雪に蛋黄の情。――萌黄の蚊帳、紅の麻、……蚊の酷い処ですが、お米さんの出入りには、はらはらと蛍が添って、手を映し、指環を映し、胸の乳房を透して、浴衣の染の秋草は、女郎花を黄に、萩を紫に、色あるまでに、蚊帳へ影を宿しました。 「まあ、汗びっしょり。」  と汚い病苦の冷汗に……そよそよと風を恵まれた、浅葱色の水団扇に、幽に月が映しました。……  大恩と申すはこれなのです。――  おなじ年、冬のはじめ、霜に緋葉の散る道を、爽に故郷から引返して、再び上京したのでありますが、福井までには及びません、私の故郷からはそれから七里さきの、丸岡の建場に俥が休んだ時立合せた上下の旅客の口々から、もうお米さんの風説を聞きました。  知事の妾となって、家を出たのは、その秋だったのでありました。  ここはお察しを願います。――心易くは礼手紙、ただ音信さえ出来ますまい。  十六七年を過ぎました。――唯今の鯖江、鯖波、今庄の駅が、例の音に聞えた、中の河内、木の芽峠、湯の尾峠を、前後左右に、高く深く貫くのでありまして、汽車は雲の上を馳ります。  間の宿で、世事の用はいささかもなかったのでありますが、可懐の余り、途中で武生へ立寄りました。  内証で……何となく顔を見られますようで、ですから内証で、その蔦屋へ参りました。  皐月上旬でありました。        三  門、背戸の清き流、軒に高き二本柳、――その青柳の葉の繁茂――ここに彳み、あの背戸に団扇を持った、その姿が思われます。それは昔のままだったが、一棟、西洋館が別に立ち、帳場も卓子を置いた受附になって、蔦屋の様子はかわっていました。  代替りになったのです。――  少しばかり、女中に心づけも出来ましたので、それとなく、お米さんの消息を聞きますと、蔦屋も蔦竜館となった発展で、持のこの女中などは、京の津から来ているのだそうで、少しも恩人の事を知りません。  番頭を呼んでもらって訊ねますと、――勿論その頃の男ではなかったが――これはよく知っていました。  蔦屋は、若主人――お米さんの兄――が相場にかかって退転をしたそうです。お米さんにまけない美人をと言って、若主人は、祇園の芸妓をひかして女房にしていたそうでありますが、それも亡くなりました。  知事――その三年前に亡くなった事は、私も新聞で知っていたのです――そのいくらか手当が残ったのだろうと思われます。当時は町を離れた虎杖の里に、兄妹がくらして、若主人の方は、町中のある会社へ勤めていると、この由、番頭が話してくれました。一昨年の事なのです。  ――いま私は、可恐い吹雪の中を、そこへ志しているのであります――  が、さて、一昨年のその時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭で怪む気勢のするのが思い取られるまで、腕組が、肘枕で、やがて夜具を引被ってまで且つ思い、且つ悩み、幾度か逡巡した最後に、旅館をふらふらとなって、とうとう恩人を訪ねに出ました。  わざと途中、余所で聞いて、虎杖村に憧憬れ行く。……  道は鎮守がめあてでした。  白い、静な、曇った日に、山吹も色が浅い、小流に、苔蒸した石の橋が架って、その奥に大きくはありませんが深く神寂びた社があって、大木の杉がすらすらと杉なりに並んでいます。入口の石の鳥居の左に、とりわけ暗く聳えた杉の下に、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。  雪の難――荷担夫、郵便配達の人たち、その昔は数多の旅客も――これからさしかかって越えようとする峠路で、しばしば命を殞したのでありますから、いずれその霊を祭ったのであろう、と大空の雲、重る山、続く巓、聳ゆる峰を見るにつけて、凄じき大濤の雪の風情を思いながら、旅の心も身に沁みて通過ぎました。  畷道少しばかり、菜種の畦を入った処に、志す庵が見えました。侘しい一軒家の平屋ですが、門のかかりに何となく、むかしの状を偲ばせます、萱葺の屋根ではありません。  伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流に山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍の光を幻に見るようでありました。  夢にばかり、現にばかり、十幾年。  不思議にここで逢いました――面影は、黒髪に笄して、雪の裲襠した貴夫人のように遥に思ったのとは全然違いました。黒繻子の襟のかかった縞の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖を、帯も見えないくらい引合せて、細りと着ていました。  その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立ての品のいい円髷の、情らしい柔順な髱の耳朶かけて、雪なす項が優しく清らかに俯向いたのです。  生意気に杖を持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。 「私は……関……」  と名を申して、 「蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。」 「米は私でございます。」  と顔を上げて、清しい目で熟と視ました。  私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。 「まあ、関さん。――おとなにおなりなさいました……」  これですもの、可懐さはどんなでしょう。  しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴を言うのではありません。  ……この凄い吹雪の夜、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。        四  その時は、四畳半ではありません。が、炉を切った茶の室に通されました。  時に、先客が一人ありまして炉の右に居ました。気高いばかり品のいい年とった尼さんです。失礼ながら、この先客は邪魔でした。それがために、いとど拙い口の、千の一つも、何にも、ものが言われなかったのであります。 「貴女は煙草をあがりますか。」  私はお米さんが、その筒袖の優しい手で、煙管を持つのを視てそう言いました。  お米さんは、控えてちょっと俯向きました。 「何事もわすれ草と申しますな。」  と尼さんが、能の面がものを言うように言いました。 「関さんは、今年三十五におなりですか。」  とお米さんが先へ数えて、私の年を訊ねました。 「三碧のう。」  と尼さんが言いました。 「貴女は?」 「私は一つ上……」 「四緑のう。」  と尼さんがまた言いました。  ――略して申すのですが、そこへ案内もなく、ずかずかと入って来て、立状にちょっと私を尻目にかけて、炉の左の座についた一人があります――山伏か、隠者か、と思う風采で、ものの鷹揚な、悪く言えば傲慢な、下手が画に描いた、奥州めぐりの水戸の黄門といった、鼻の隆い、髯の白い、早や七十ばかりの老人でした。 「これは関さんか。」  と、いきなり言います。私は吃驚しました。  お米さんが、しなよく頷きますと、 「左様か。」  と言って、これから滔々と弁じ出した。その弁ずるのが都会における私ども、なかま、なかまと申して私などは、ものの数でもないのですが、立派な、画の画伯方の名を呼んで、片端から、奴がと苦り、あれめ、と蔑み、小僧、と呵々と笑います。  私は五六尺飛退って叩頭をしました。 「汽車の時間がございますから。」  お米さんが、送って出ました。花菜の中を半の時、私は香に咽んで、涙ぐんだ声して、 「お寂しくおいでなさいましょう。」  と精一杯に言ったのです。 「いいえ、兄が一緒ですから……でも大雪の夜なぞは、町から道が絶えますと、ここに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」  とほろりとしました。 「そのかわり夏は涼しゅうございます。避暑にいらっしゃい……お宿をしますよ。……その時分には、降るように蛍が飛んで、この水には菖蒲が咲きます。」  夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神――はてな、老人は、――知事の怨霊ではなかったか。  そんな事まで思いました。  円髷に結って、筒袖を着た人を、しかし、その二人はかえって、お米さんを秘密の霞に包みました。  三十路を越えても、窶れても、今もその美しさ。片田舎の虎杖になぞ世にある人とは思われません。  ために、音信を怠りました。夢に所がきをするようですから。……とは言え、一つは、日に増し、不思議に色の濃くなる炉の右左の人を憚ったのであります。  音信して、恩人に礼をいたすのに仔細はない筈。けれども、下世話にさえ言います。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人という、その恩に乗じ、情に附入るような、賤しい、浅ましい、卑劣な、下司な、無礼な思いが、どうしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。  私は今、そこへ――        五 「ああ、あすこが鎮守だ――」  吹雪の中の、雪道に、白く続いたその宮を、さながら峰に築いたように、高く朦朧と仰ぎました。 「さあ、一息。」  が、その息が吐けません。  真俯向けに行く重い風の中を、背後からスッと軽く襲って、裾、頭をどッと可恐いものが引包むと思うと、ハッとひき息になる時、さっと抜けて、目の前へ真白な大な輪の影が顕れます。とくるくると廻るのです。廻りながら輪を巻いて、巻き巻き巻込めると見ると、たちまち凄じい渦になって、ひゅうと鳴りながら、舞上って飛んで行く。……行くと否や、続いて背後から巻いて来ます。それが次第に激しくなって、六ツ四ツ数えて七ツ八ツ、身体の前後に列を作って、巻いては飛び、巻いては飛びます。巌にも山にも砕けないで、皆北海の荒波の上へ馳るのです。――もうこの渦がこんなに捲くようになりましては堪えられません。この渦の湧立つ処は、その跡が穴になって、そこから雪の柱、雪の人、雪女、雪坊主、怪しい形がぼッと立ちます。立って倒れるのが、そのまま雪の丘のようになる……それが、右になり、左になり、横に積り、縦に敷きます。その行く処、飛ぶ処へ、人のからだを持って行って、仰向けにも、俯向せにもたたきつけるのです。  ――雪難之碑。――峰の尖ったような、そこの大木の杉の梢を、睫毛にのせて倒れました。私は雪に埋れて行く……身動きも出来ません。くいしばっても、閉じても、目口に浸む粉雪を、しかし紫陽花の青い花片を吸うように思いました。  ――「菖蒲が咲きます。」――  蛍が飛ぶ。  私はお米さんの、清く暖き膚を思いながら、雪にむせんで叫びました。 「魔が妨げる、天狗の業だ――あの、尼さんか、怪しい隠士か。」 大正十(一九二一)年四月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店    1941(昭和16)年9月30日 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2005年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043224", "作品名": "雪霊記事", "作品名読み": "せつれいきじ", "ソート用読み": "せつれいきし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-11-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card43224.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年5月15日第2刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十一卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年9月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43224_ruby_19893.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43224_20150.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
        一 「此のくらゐな事が……何の……小兒のうち歌留多を取りに行つたと思へば――」  越前の府、武生の、侘しい旅宿の、雪に埋れた軒を離れて、二町ばかりも進んだ時、吹雪に行惱みながら、私は――然う思ひました。  思ひつゝ推切つて行くのであります。  私は此處から四十里餘り隔たつた、おなじ雪深い國に生れたので、恁うした夜道を、十町や十五町歩行くのは何でもないと思つたのであります。  が、其の凄じさと言つたら、まるで眞白な、冷い、粉の大波を泳ぐやうで、風は荒海に齊しく、ぐわう〳〵と呻つて、地――と云つても五六尺積つた雪を、押搖つて狂ふのです。 「あの時分は、脇の下に羽でも生えて居たんだらう。屹と然うに違ひない。身輕に雪の上へ乘つて飛べるやうに。」  ……でなくつては、と呼吸も吐けない中で思ひました。  九歳十歳ばかりの其の小兒は、雪下駄、竹草履、それは雪の凍てた時、こんな晩には、柄にもない高足駄さへ穿いて居たのに、轉びもしないで、然も遊びに更けた正月の夜の十二時過ぎなど、近所の友だちにも別れると、唯一人で、白い社の廣い境内も拔ければ、邸町の白い長い土塀も通る。………ザヾツ、ぐわうと鳴つて、川波、山颪とともに吹いて來ると、ぐる〳〵と𢌞る車輪の如き濃く黒ずんだ雪の渦に、くる〳〵と舞ひながら、ふは〳〵と濟まアして内へ歸つた――夢ではない。が、あれは雪に靈があつて、小兒を可愛がつて、連れて歸つたのであらうも知れない。 「あゝ、酷いぞ。」  ハツと呼吸を引く。目口に吹込む粉雪に、ばツと背を向けて、そのたびに、風と反對の方へ眞俯向けに成つて防ぐのであります。恁う言ふ時は、其の粉雪を、地ぐるみ煽立てますので、下からも吹上げ、左右からも吹捲くつて、よく言ふことですけれども、面の向けやうがないのです。  小兒の足駄を思ひ出した頃は、實は最う穿ものなんぞ、疾の以前になかつたのです。  しかし、御安心下さい。――雪の中を跣足で歩行く事は、都會の坊ちやんや孃さんが吃驚なさるやうな、冷いものでないだけは取柄です。ズボリと踏込んだ一息の間は、冷さ骨髓に徹するのですが、勢よく歩行いて居るうちには温く成ります、ほか〳〵するくらゐです。  やがて、六七町潛つて出ました。  まだ此の間は氣丈夫でありました。町の中ですから兩側に家が續いて居ります。此の邊は水の綺麗な處で、軒下の兩側を、清い波を打つた小川が流れて居ます。尤も其れなんぞ見えるやうな容易い積り方ぢやありません。  御存じの方は、武生と言へば、あゝ、水のきれいな處かと言はれます――此の水が鐘を鍛へるのに適するさうで、釜、鍋、庖丁、一切の名産――其の昔は、聞えた刀鍛冶も住みました。今も鍛冶屋が軒を並べて、其の中に、柳とともに目立つのは旅館であります。  が、最う目貫の町は過ぎた、次第に場末、町端れの――と言ふとすぐに大な山、嶮い坂に成ります――あたりで。……此の町を離れて、鎭守の宮を拔けますと、いま行かうとする、志す處へ着く筈なのです。  それは、――其許は――自分の口から申兼ねる次第でありますけれども、私の大恩人――いえ〳〵恩人で、そして、夢にも忘れられない美しい人の侘住居なのであります。  侘住居と申します――以前は、北國に於ても、旅館の設備に於ては、第一と世に知られた此の武生の中でも、其の隨一の旅館の娘で、二十六の年に、其の頃の近國の知事の妾に成りました……妾とこそ言へ、情深く、優いのを、昔の國主の貴婦人、簾中のやうに稱へられたのが名にしおふ中の河内の山裾なる虎杖の里に、寂しく山家住居をして居るのですから。此の大雪の中に。         二  流るゝ水とともに、武生は女のうつくしい處だと、昔から人が言ふのであります。就中、蔦屋――其の旅館の――お米さん(恩人の名です)と言へば、國々評判なのでありました。  まだ汽車の通じない時分の事。…… 「昨夜は何方でお泊り。」 「武生でございます。」 「蔦屋ですな、綺麗な娘さんが居ます。勿論、御覽でせう。」  旅は道連が、立場でも、又並木でも、言を掛合ふ中には、屹と此の事がなければ納まらなかつたほどであつたのです。  往來に馴れて、幾度も蔦屋の客と成つて、心得顏をしたものは、お米さんの事を渾名して、むつの花、むつの花、と言ひました。――色と言ひ、また雪の越路の雪ほどに、世に知られたと申す意味ではないので――此は後言であつたのです。……不具だと言ふのです。六本指、手の小指が左に二つあると、見て來たやうな噂をしました。何故か、――地方は分けて結婚期が早いのに――二十六七まで縁に着かないで居たからです。 (しかし、……やがて知事の妾に成つた事は前に一寸申しました。)  私はよく知つて居ます――六本指なぞと、氣もない事です。確に見ました。しかも其の雪なす指は、摩耶夫人が召す白い細い花の手袋のやうに、正に五瓣で、其が九死一生だつた私の額に密と乘り、輕く胸に掛つたのを、運命の星を算へる如く熟と視たのでありますから。――  また其の手で、硝子杯の白雪に、鷄卵の蛋黄を溶かしたのを、甘露を灌ぐやうに飮まされました。  ために私は蘇返りました。 「冷水を下さい。」  最う、それが末期だと思つて、水を飮んだ時だつたのです。  脚氣を煩つて、衝心をしかけて居たのです。其のために東京から故郷に歸る途中だつたのでありますが、汚れくさつた白絣を一枚きて、頭陀袋のやうな革鞄一つ掛けたのを、玄關さきで斷られる處を、泊めてくれたのも、螢と紫陽花が見透しの背戸に涼んで居た、其のお米さんの振向いた瞳の情だつたのです。  水と言へば、せい〴〵米の磨汁でもくれさうな處を、白雪に蛋黄の情。――萌黄の蚊帳、紅の麻、……蚊の酷い處ですが、お米さんの出入りには、はら〳〵と螢が添つて、手を映し、指環を映し、胸の乳房を透して、浴衣の染の秋草は、女郎花を黄に、萩を紫に、色あるまでに、蚊帳へ影を宿しました。 「まあ、汗びつしより。」  と汚い病苦の冷汗に……そよ〳〵と風を惠まれた、淺葱色の水團扇に、幽に月が映しました。……  大恩と申すは此なのです。――  おなじ年、冬のはじめ、霜に緋葉の散る道を、爽に故郷から引返して、再び上京したのでありますが、福井までには及びません、私の故郷からは其から七里さきの、丸岡の建場に俥が休んだ時立合せた上下の旅客の口々から、もうお米さんの風説を聞きました。  知事の妾と成つて、家を出たのは、其の秋だつたのでありました。  こゝはお察しを願ひます。――心易くは禮手紙、たゞ音信さへ出來ますまい。  十六七年を過ぎました。――唯今の鯖江、鯖波、今庄の驛が、例の音に聞えた、中の河内、木の芽峠、湯の尾峠を、前後左右に、高く深く貫くのでありまして、汽車は雲の上を馳ります。  間の宿で、世事の用は聊かもなかつたのでありますが、可懷の餘り、途中で武生へ立寄りました。  内證で……何となく顏を見られますやうで、ですから内證で、其の蔦屋へ參りました。  皐月上旬でありました。         三  門、背戸の清き流、軒に高き二本柳、――其の青柳の葉の繁茂――こゝに彳み、あの背戸に團扇を持つた、其の姿が思はれます。それは昔のまゝだつたが、一棟、西洋館が別に立ち、帳場も卓子を置いた受附に成つて、蔦屋の樣子はかはつて居ました。  代替りに成つたのです。――  少しばかり、女中に心づけも出來ましたので、それとなく、お米さんの消息を聞きますと、蔦屋も蔦龍館と成つた發展で、持の此の女中などは、京の津から來て居るのださうで、少しも恩人の事を知りません。  番頭を呼んでもらつて訊ねますと、――勿論其の頃の男ではなかつたが――此はよく知つて居ました。  蔦屋は、若主人――お米さんの兄――が相場にかゝつて退轉をしたさうです。お米さんにまけない美人をと言つて、若主人は、祇園の藝妓をひかして女房にして居たさうでありますが、それも亡くなりました。  知事――其の三年前に亡く成つた事は、私も新聞で知つて居たのです――其のいくらか手當が殘つたのだらうと思はれます。當時は町を離れた虎杖の里に、兄妹がくらして、若主人の方は、町中の或會社へ勤めて居ると、此の由、番頭が話してくれました。一昨年の事なのです。  ――いま私は、可恐い吹雪の中を、其處へ志して居るのであります――  が、さて、一昨年の其の時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭で怪む氣勢のするのが思ひ取られるまで、腕組が、肘枕で、やがて、夜具を引被つてまで且つ思ひ、且つ惱み、幾度か逡巡した最後に、旅館をふら〳〵と成つて、たうとう恩人を訪ねに出ました。  故と途中、餘所で聞いて、虎杖村に憧憬れ行く。……  道は鎭守がめあてでした。  白い、靜な、曇つた日に、山吹も色が淺い、小流に、苔蒸した石の橋が架つて、其の奧に大きくはありませんが深く神寂びた社があつて、大木の杉がすら〳〵と杉なりに並んで居ます。入口の石の鳥居の左に、就中暗く聳えた杉の下に、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。  雪の難――荷擔夫、郵便配達の人たち、其の昔は數多の旅客も――此からさしかゝつて越えようとする峠路で、屡々命を殞したのでありますから、いづれ其の靈を祭つたのであらう、と大空の雲、重る山、續く巓、聳ゆる峰を見るにつけて、凄じき大濤の雪の風情を思ひながら、旅の心も身に沁みて通過ぎました。  畷道少しばかり、菜種の畦を入つた處に、志す庵が見えました。侘しい一軒家の平屋ですが、門のかゝりに何となく、むかしの状を偲ばせます、萱葺の屋根ではありません。  伸上る背戸に、柳が霞んで、こゝにも細流に山吹の影の映るのが、繪に描いた螢の光を幻に見るやうでありました。  夢にばかり、現にばかり、十幾年。  不思議にこゝで逢ひました――面影は、黒髮に笄して、雪の裲襠した貴夫人のやうに遙に思つたのとは全然違ひました。黒繻子の襟のかゝつた縞の小袖に、些とすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかゝつた筒袖を、帶も見えないくらゐ引合せて、細りと着て居ました。  其の姿で手をつきました。あゝ、うつくしい白い指、結立ての品のいゝ圓髷の、情らしい柔順な髱の耳朶かけて、雪なす項が優しく清らかに俯向いたのです。  生意氣に杖を持つて立つて居るのが、目くるめくばかりに思はれました。 「私は……關……」  と名を申して、 「蔦屋さんのお孃さんに、お目にかゝりたくて參りました。」 「米は私でございます。」  と顏を上げて、清しい目で熟と視ました。  私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。 「まあ、關さん。――おとなにお成りなさいました……」  此ですもの、可懷さはどんなでせう。  しかし、こゝで私は初戀、片おもひ、戀の愚癡を言ふのではありません。  ……此の凄い吹雪の夜、不思議な事に出あひました、其のお話をするのであります。         四  その時は、四疊半ではありません。が、爐を切つた茶の室に通されました。  時に、先客が一人ありまして爐の右に居ました。氣高いばかり品のいゝ年とつた尼さんです。失禮ながら、此の先客は邪魔でした。それがために、いとゞ拙い口の、千の一つも、何にも、ものが言はれなかつたのであります。 「貴女は煙草をあがりますか。」  私はお米さんが、其の筒袖の優しい手で、煙管を持つのを視て然う言ひました。  お米さんは、控へて一寸俯向きました。 「何事もわすれ草と申しますな。」  と尼さんが、能の面がものを言ふやうに言ひました。 「關さんは、今年三十五にお成りですか。」  とお米さんが先へ數へて、私の年を訊ねました。 「三碧なう。」  と尼さんが言ひました。 「貴女は?」 「私は一つ上……」 「四緑なう。」  と尼さんが又言ひました。  ――略して申すのですが、其處へ案内もなく、づか〳〵と入つて來て、立状に一寸私を尻目にかけて、爐の左の座についた一人があります――山伏か、隱者か、と思ふ風采で、ものの鷹揚な、惡く言へば傲慢な、下手が畫に描いた、奧州めぐりの水戸の黄門と言つた、鼻の隆い、髯の白い、早や七十ばかりの老人でした。 「此は關さんか。」  と、いきなり言ひます。私は吃驚しました。  お米さんが、しなよく頷きますと、 「左樣か。」  と言つて、此から滔々と辯じ出した。其の辯ずるのが都會に於ける私ども、なかま、なかまと申して私などは、ものの數でもないのですが、立派な、畫の畫伯方の名を呼んで、片端から、奴がと苦り、彼め、と蔑み、小僧、と呵々と笑ひます。  私は五六尺飛退つて叩頭をしました。 「汽車の時間がございますから。」  お米さんが、送つて出ました。花菜の中を半の時、私は香に咽んで、涙ぐんだ聲して、 「お寂しくおいでなさいませう。」  と精一杯に言つたのです。 「いゝえ、兄が一緒ですから……でも大雪の夜なぞは、町から道が絶えますと、こゝに私一人きりで、五日も六日も暮しますよ。」  とほろりとしました。 「其のかはり夏は涼しうございます。避暑に行らつしやい……お宿をしますよ。……其の時分には、降るやうに螢が飛んで、此の水には菖蒲が咲きます。」  夜汽車の火の粉が、木の芽峠を螢に飛んで、窓には其の菖蒲が咲いたのです――夢のやうです。………あの老尼は、お米さんの守護神――はてな、老人は、――知事の怨靈ではなかつたか。  そんな事まで思ひました。  圓髷に結つて、筒袖を着た人を、しかし、其二人は却つて、お米さんを祕密の霞に包みました。  三十路を越えても、窶れても、今も其美しさ。片田舍の虎杖になぞ世にある人とは思はれません。  ために、音信を怠りました。夢に所がきをするやうですから。……とは言へ、一つは、日に増し、不思議に色の濃く成る爐の右左の人を憚つたのであります。  音信して、恩人に禮をいたすのに仔細はない筈。雖然、下世話にさへ言ひます。慈悲すれば、何とかする。……で、恩人と言ふ、其の恩に乘じ、情に附入るやうな、賤しい、淺ましい、卑劣な、下司な、無禮な思ひが、何うしても心を離れないものですから、ひとり、自ら憚られたのでありました。  私は今、其處へ――         五 「あゝ、彼處が鎭守だ――」  吹雪の中の、雪道に、白く續いた其の宮を、さながら峰に築いたやうに、高く朦朧と仰ぎました。 「さあ、一息。」  が、其の息が吐けません。  眞俯向けに行く重い風の中を、背後からスツと輕く襲つて、裾、頭をどツと可恐いものが引包むと思ふと、ハツとひき息に成る時、さつと拔けて、目の前へ眞白な大な輪の影が顯れます。とくる〳〵と𢌞るのです。𢌞りながら輪を卷いて、卷き〳〵卷込めると見ると、忽ち凄じい渦に成つて、ひゆうと鳴りながら、舞上つて飛んで行く。……行くと否や、續いて背後から卷いて來ます。それが次第に激しく成つて、六ツ四ツ數へて七ツ八ツ、身體の前後に列を作つて、卷いては飛び、卷いては飛びます。巖にも山にも碎けないで、皆北海の荒波の上へ馳るのです。――最う此の渦がこんなに捲くやうに成りましては堪へられません。此の渦の湧立つ處は、其の跡が穴に成つて、其處から雪の柱、雪の人、雪女、雪坊主、怪しい形がぼツと立ちます。立つて倒れるのが、其まゝ雪の丘のやうに成る……其が、右に成り、左に成り、横に積り、縱に敷きます。其の行く處、飛ぶ處へ、人のからだを持つて行つて、仰向けにも、俯向せにもたゝきつけるのです。  ――雪難之碑。――峰の尖つたやうな、其處の大木の杉の梢を、睫毛にのせて倒れました。私は雪に埋れて行く………身動きも出來ません。くひしばつても、閉ぢても、目口に浸む粉雪を、しかし紫陽花の青い花片を吸ふやうに思ひました。  ――「菖蒲が咲きます。」――  螢が飛ぶ。  私はお米さんの、清く暖き膚を思ひながら、雪にむせんで叫びました。 「魔が妨げる、天狗の業だ――あの、尼さんか、怪しい隱士か。」
底本:「鏡花全集 卷二十一」岩波書店    1941(昭和16)年9月30日第1刷発行    1975(昭和50)年7月2日第2刷発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001184", "作品名": "雪霊記事", "作品名読み": "せつれいきじ", "ソート用読み": "せつれいきし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-11-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1184.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 卷二十一", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1941(昭和16)年9月30日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年7月2日第2刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年5月2日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1184_ruby_19834.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1184_20151.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  機会がおのずから来ました。  今度の旅は、一体はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、そこで、一事を済したあとを、姫路行の汽車で東京へ帰ろうとしたのでありました。――この列車は、米原で一体分身して、分れて東西へ馳ります。  それが大雪のために進行が続けられなくなって、晩方武生駅(越前)へ留ったのです。強いて一町場ぐらいは前進出来ない事はない。が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。  元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋(旅館)のお米さんを訪ねようという……見る見る積る雪の中に、淡雪の消えるような、あだなのぞみがあったのです。でその望を煽るために、もう福井あたりから酒さえ飲んだのでありますが、酔いもしなければ、心も定らないのでありました。  ただ一夜、徒らに、思出の武生の町に宿っても構わない。が、宿りつつ、そこに虎杖の里を彼方に視て、心も足も運べない時の儚さにはなお堪えられまい、と思いなやんでいますうちに――  汽車は着きました。  目をつむって、耳を圧えて、発車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やや三十分過ぎて、やがて、駅員にその不通の通達を聞いた時は!  雪がそのままの待女郎になって、手を取って導くようで、まんじ巴の中空を渡る橋は、さながらに玉の桟橋かと思われました。  人間は増長します。――積雪のために汽車が留って難儀をすると言えば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、そうだ、行って行けなそうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思って、早や壁も天井も雪の空のようになった停車場に、しばらく考えていましたが、余り不躾だと己を制して、やっぱり一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乗客の中で、停車場を離れましたのは、多分私が一番あとだったろうと思います。  大雪です。 「雪やこんこ、  霰やこんこ。」  大雪です――が、停車場前の茶店では、まだ小児たちの、そんな声が聞えていました。その時分は、山の根笹を吹くように、風もさらさらと鳴りましたっけ。町へ入るまでに日もとっぷりと暮果てますと、 「爺さイのウ婆さイのウ、  綿雪小雪が降るわいのウ、  雨炉も小窓もしめさっし。」  と寂しい侘しい唄の声――雪も、小児が爺婆に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺りました。  店屋さえもう戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。  家名も何も構わず、いまそこも閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎮守の方へは近かったのです。  座敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉もさびしゅうございました。  若狭鰈――大すきですが、それが附木のように凍っています――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの――しかし、何となく可懐くって涙ぐまるるようでした、なぜですか。……  酒も呼んだが酔いません。むかしの事を考えると、病苦を救われたお米さんに対して、生意気らしく恥かしい。  両手を炬燵にさして、俯向いていました、濡れるように涙が出ます。  さっという吹雪であります。さっと吹くあとを、ごうーと鳴る。……次第に家ごと揺るほどになりましたのに、何という寂寞だか、あの、ひっそりと障子の鳴る音。カタカタカタ、白い魔が忍んで来る、雪入道が透見する。カタカタカタカタ、さーッ、さーッ、ごうごうと吹くなかに――見る見るうちに障子の桟がパッパッと白くなります、雨戸の隙へ鳥の嘴程吹込む雪です。 「大雪の降る夜など、町の路が絶えますと、三日も四日も私一人――」  三年以前に逢った時、……お米さんが言ったのです。     …………………… 「路の絶える。大雪の夜。」  お米さんが、あの虎杖の里の、この吹雪に…… 「……ただ一人。」――  私は決然として、身ごしらえをしたのであります。 「電報を――」  と言って、旅宿を出ました。  実はなくなりました父が、その危篤の時、東京から帰りますのに、(タダイマココマデキマシタ)とこの町から発信した……偶とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火か強盗、人殺に疑われはしまいかと危むまでに、さんざん思い惑ったあとです。  ころ柿のような髪を結った霜げた女中が、雑炊でもするのでしょう――土間で大釜の下を焚いていました。番頭は帳場に青い顔をしていました。が、無論、自分たちがその使に出ようとは怪我にも言わないのでありました。        二 「どうなるのだろう……とにかくこれは尋常事じゃない。」  私は幾度となく雪に転び、風に倒れながら思ったのであります。 「天狗の為す業だ、――魔の業だ。」  何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を巻いているのだと思いました。  いのちとりの吹雪の中に――  最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――そうは言っても、小高い場所に雪が積ったのではありません、粉雪の吹溜りがこんもりと積ったのを、哄と吹く風が根こそぎにその吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの数ではない。波の重るような、幾つも幾つも、颯と吹いて、むらむらと位置を乱して、八方へ高くなります。  私はもう、それまでに、幾度もその渦にくるくると巻かれて、大な水の輪に、孑孑虫が引くりかえるような形で、取っては投げられ、掴んでは倒され、捲き上げては倒されました。  私は――白昼、北海の荒波の上で起る処のこの吹雪の渦を見た事があります。――一度は、たとえば、敦賀湾でありました――絵にかいた雨竜のぐるぐると輪を巻いて、一条、ゆったりと尾を下に垂れたような形のものが、降りしきり、吹煽って空中に薄黒い列を造ります。  見ているうちに、その一つが、ぱっと消えるかと思うと、たちまち、ぽっと、続いて同じ形が顕れます。消えるのではない、幽に見える若狭の岬へ矢のごとく白くなって飛ぶのです。一つ一つがみなそうでした。――吹雪の渦は湧いては飛び、湧いては飛びます。  私の耳を打ち、鼻を捩じつつ、いま、その渦が乗っては飛び、掠めては走るんです。  大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。  風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して果しなく十重二十重に高く聳ち、遥に連る雪の山脈も、旅籠の炬燵も、釜も、釜の下なる火も、果は虎杖の家、お米さんの薄色の袖、紫陽花、紫の花も……お米さんの素足さえ、きっぱりと見えました。が、脈を打って吹雪が来ると、呼吸は咽んで、目は盲のようになるのでありました。  最早、最後かと思う時に、鎮守の社が目の前にあることに心着いたのであります。同時に峰の尖ったような真白な杉の大木を見ました。  雪難之碑のある処――  天狗――魔の手など意識しましたのは、その樹のせいかも知れません。ただしこれに目標が出来たためか、背に根が生えたようになって、倒れている雪の丘の飛移るような思いはなくなりました。  まことは、両側にまだ家のありました頃は、――中に旅籠も交っています――一面識はなくっても、同じ汽車に乗った人たちが、疎にも、それぞれの二階に籠っているらしい、それこそ親友が附添っているように、気丈夫に頼母しかったのであります。もっともそれを心あてに、頼む。――助けて――助けて――と幾度か呼びました。けれども、窓一つ、ちらりと燈火の影の漏れて答うる光もありませんでした。聞える筈もありますまい。  いまは、ただお米さんと、間に千尺の雪を隔つるのみで、一人死を待つ、……むしろ目を瞑るばかりになりました。  時に不思議なものを見ました――底なき雪の大空の、なおその上を、プスリと鑿で穿ってその穴から落ちこぼれる……大きさはそうです……蝋燭の灯の少し大いほどな真蒼な光が、ちらちらと雪を染め、染めて、ちらちらと染めながら、ツツと輝いて、その古杉の梢に来て留りました。その青い火は、しかし私の魂がもう藻脱けて、虚空へ飛んで、倒に下の亡骸を覗いたのかも知れません。  が、その影が映すと、半ば埋れた私の身体は、ぱっと紫陽花に包まれたように、青く、藍に、群青になりました。  この山の上なる峠の茶屋を思い出す――極暑、病気のため、俥で越えて、故郷へ帰る道すがら、その茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫陽花で包まれていました。――私の顔の色も同じだったろうと思う、手も青い。  何より、嫌な、可恐い雷が鳴ったのです。たださえ破れようとする心臓に、動悸は、破障子の煽るようで、震える手に飲む水の、水より前に無数の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。  その時の苦しさ。――今も。        三  白い梢の青い火は、また中空の渦を映し出す――とぐろを巻き、尾を垂れて、海原のそれと同じです。いや、それよりも、峠で尾根に近かった、あの可恐い雲の峰にそっくりであります。  この上、雷。  大雷は雪国の、こんな時に起ります。  死力を籠めて、起上ろうとすると、その渦が、風で、ごうと巻いて、捲きながら乱るると見れば、計知られぬ高さから颯と大滝を揺落すように、泡沫とも、しぶきとも、粉とも、灰とも、針とも分かず、降埋める。 「あっ。」  私はまた倒れました。  怪火に映る、その大滝の雪は、目の前なる、ズツンと重い、大な山の頂から一雪崩れに落ちて来るようにも見えました。  引挫がれた。  苦痛の顔の、醜さを隠そうと、裏も表も同じ雪の、厚く、重い、外套の袖を被ると、また青い火の影に、紫陽花の花に包まれますようで、且つ白羽二重の裏に薄萌黄がすッと透るようでした。  ウオオオオ!  俄然として耳を噛んだのは、凄く可恐い、且つ力ある犬の声でありました。  ウオオオオ!  虎の嘯くとよりは、竜の吟ずるがごとき、凄烈悲壮な声であります。  ウオオオオ!  三声を続けて鳴いたと思うと……雪をかついだ、太く逞しい、しかし痩せた、一頭の和犬、むく犬の、耳の青竹をそいだように立ったのが、吹雪の滝を、上の峰から、一直線に飛下りたごとく思われます。たちまち私の傍を近々と横ぎって、左右に雪の白泡を、ざっと蹴立てて、あたかも水雷艇の荒浪を切るがごとく猛然として進みます。  あと、ものの一町ばかりは、真白な一条の路が開けました。――雪の渦が十オばかりぐるぐると続いて行く。……  これを反対にすると、虎杖の方へ行くのであります。  犬のその進む方は、まるで違った道でありました。が、私は夢中で、そのあとに続いたのであります。  路は一面、渺々と白い野原になりました。  が、大犬の勢は衰えません。――勿論、行くあとに行くあとに道が開けます。渦が続いて行く……  野の中空を、雪の翼を縫って、あの青い火が、蜿々と蛍のように飛んで来ました。  真正面に、凹字形の大な建ものが、真白な大軍艦のように朦朧として顕れました。と見ると、怪し火は、何と、ツツツと尾を曳きつつ、先へ斜に飛んで、その大屋根の高い棟なる避雷針の尖端に、ぱっと留って、ちらちらと青く輝きます。  ウオオオオオ  鉄づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋まった真中を、犬は山を乗るように入ります。私は坂を越すように続きました。  ドンと鳴って、犬の頭突きに、扉が開いた。  余りの嬉しさに、雪に一度手を支えて、鎮守の方を遥拝しつつ、建ものの、戸を入りました。  学校――中学校です。  ト、犬は廊下を、どこへ行ったか分りません。  途端に……  ざっざっと、あの続いた渦が、一ツずつ数万の蛾の群ったような、一人の人の形になって、縦隊一列に入って来ました。雪で束ねたようですが、いずれも演習行軍の装して、真先なのは刀を取って、ぴたりと胸にあてている。それが長靴を高く踏んでずかりと入る。あとから、背嚢、荷銃したのを、一隊十七人まで数えました。  うろつく者には、傍目も触らず、粛然として廊下を長く打って、通って、広い講堂が、青白く映って開く、そこへ堂々と入ったのです。 「休め――」  ……と声する。  私は雪籠りの許を受けようとして、たどたどと近づきましたが、扉のしまった中の様子を、硝子窓越に、ふと見て茫然と立ちました。  真中の卓子を囲んで、入乱れつつ椅子に掛けて、背嚢も解かず、銃を引つけたまま、大皿に装った、握飯、赤飯、煮染をてんでんに取っています。  頭を振り、足ぶみをするのなぞ見えますけれども、声は籠って聞えません。  ――わあ――  と罵るか、笑うか、一つ大声が響いたと思うと、あの長靴なのが、つかつかと進んで、半月形の講壇に上って、ツと身を一方に開くと、一人、真すぐに進んで、正面の黒板へ白墨を手にして、何事をか記すのです、――勿論、武装のままでありました。  何にも、黒板へ顕れません。  続いて一人、また同じ事をしました。  が、何にも黒板へ顕れません。  十六人が十六人、同じようなことをした。最後に、肩と頭と一団になったと思うと――その隊長と思うのが、衝と面を背けました時――苛つように、自棄のように、てんでんに、一斉に白墨を投げました。雪が群って散るようです。 「気をつけ。」  つつと鷲が片翼を長く開いたように、壇をかけて列が整う。 「右向け、右――前へ!」  入口が背後にあるか、……吸わるるように消えました。  と思うと、忽然として、顕れて、むくと躍って、卓子の真中へ高く乗った。雪を払えば咽喉白くして、茶の斑なる、畑将軍のさながら犬獅子……  ウオオオオ!  肩を聳て、前脚をスクと立てて、耳がその円天井へ届くかとして、嚇と大口を開けて、まがみは遠く黒板に呼吸を吐いた――  黒板は一面真白な雪に変りました。  この猛犬は、――土地ではまだ、深山にかくれて活きている事を信ぜられています――雪中行軍に擬して、中の河内を柳ヶ瀬へ抜けようとした冒険に、教授が二人、某中学生が十五人、無慙にも凍死をしたのでした。――七年前――  雪難之碑はその記念だそうであります。  ――その時、かねて校庭に養われて、嚮導に立った犬の、恥じて自ら殺したとも言い、しからずと言うのが――ここに顕れたのでありました。  一行が遭難の日は、学校に例として、食饌を備えるそうです。ちょうどその夜に当ったのです。が、同じ月、同じ夜のその命日は、月が晴れても、附近の町は、宵から戸を閉じるそうです、真白な十七人が縦横に町を通るからだと言います――後でこれを聞きました。  私は眠るように、学校の廊下に倒れていました。  翌早朝、小使部屋の炉の焚火に救われて蘇生ったのであります。が、いずれにも、しかも、中にも恐縮をしましたのは、汽車の厄に逢った一人として、駅員、殊に駅長さんの御立会になった事でありました。 大正十(一九二一)年四月
底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十一卷」岩波書店    1941(昭和16)年9月30日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2005年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043225", "作品名": "雪霊続記", "作品名読み": "せつれいぞくき", "ソート用読み": "せつれいそくき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-11-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card43225.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成7", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年12月4日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年12月4日第1刷", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年5月15日第2刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十一卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年9月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43225_ruby_19894.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/43225_20152.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
        一  機會がおのづから來ました。  今度の旅は、一體はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、其處で、一事を濟したあとを、姫路行の汽車で東京へ歸らうとしたのでありました。――此列車は、米原で一體分身して、分れて東西へ馳ります。  其が大雪のために進行が續けられなくなつて、晩方武生驛(越前)へ留つたのです。強ひて一町場ぐらゐは前進出來ない事はない。が、然うすると、深山の小驛ですから、旅舍にも食料にも、乘客に對する設備が不足で、危險であるからとの事でありました。  元來――歸途に此の線をたよつて東海道へ大𢌞りをしようとしたのは、……實は途中で決心が出來たら、武生へ降りて許されない事ながら、そこから虎杖の里に、もとの蔦屋(旅館)のお米さんを訪ねようと言ふ……見る〳〵積る雪の中に、淡雪の消えるやうな、あだなのぞみがあつたのです。で其の望を煽るために、最う福井あたりから酒さへ飮んだのでありますが、醉ひもしなければ、心も定らないのでありました。  唯一夜、徒らに、思出の武生の町に宿つても構はない。が、宿りつゝ、其處に虎杖の里を彼方に視て、心も足も運べない時の儚さには尚ほ堪へられまい、と思ひなやんで居ますうちに――  汽車は着きました。  目をつむつて、耳を壓へて、發車を待つのが、三分、五分、十分十五分――やゝ三十分過ぎて、やがて、驛員に其の不通の通達を聞いた時は!  雪が其まゝの待女郎に成つて、手を取つて導くやうで、まんじ巴の中空を渡る橋は、宛然に玉の棧橋かと思はれました。  人間は増長します。――積雪のために汽車が留つて難儀をすると言へば――旅籠は取らないで、すぐにお米さんの許へ、然うだ、行つて行けなさうな事はない、が、しかし……と、そんな事を思つて、早や壁も天井も雪の空のやうに成つた停車場に、しばらく考へて居ましたが、餘り不躾だと己を制して、矢張り一旦は宿に着く事にしましたのです。ですから、同列車の乘客の中で、停車場を離れましたのは、多分私が一番あとだつたらうと思ひます。  大雪です。 「雪やこんこ、  霰やこんこ。」  大雪です――が、停車場前の茶店では、まだ小兒たちの、そんな聲が聞えて居ました。其の時分は、山の根笹を吹くやうに、風もさら〳〵と鳴りましたつけ。町へ入るまでに日もとつぷりと暮果てますと、 「爺さイのウ婆さイのウ、  綿雪小雪が降るわいのウ、  雨戸も小窓もしめさつし。」  と寂しい侘しい唄の聲――雪も、小兒が爺婆に化けました。――風も次第に、ぐわう〳〵と樹ながら山を搖りました。  店屋さへ最う戸が閉る。……旅籠屋も門を閉しました。  家名も何も構はず、いま其家も閉めようとする一軒の旅籠屋へ駈込みましたのですから、場所は町の目貫の向へは遠いけれど、鎭守の方へは近かつたのです。  座敷は二階で、だゞつ廣い、人氣の少ないさみしい家で、夕餉もさびしうございました。  若狹鰈――大すきですが、其が附木のやうに凍つて居ます――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろゝ昆布の吸もの――しかし、何となく可懷くつて涙ぐまるゝやうでした、何故ですか。……  酒も呼んだが醉ひません。むかしの事を考へると、病苦を救はれたお米さんに對して、生意氣らしく恥かしい。  兩手を炬燵にさして、俯向いて居ました、濡れるやうに涙が出ます。  さつと言ふ吹雪であります。さつと吹くあとを、ぐわうーと鳴る。……次第に家ごと搖るほどに成りましたのに、何と言ふ寂寞だか、あの、ひつそりと障子の鳴る音。カタ〳〵カタ、白い魔が忍んで來る、雪入道が透見する。カタ〳〵〳〵カタ、さーツ、さーツ、ぐわう〳〵と吹くなかに――見る〳〵うちに障子の棧がパツ〳〵と白く成ります、雨戸の隙へ鳥の嘴程吹込む雪です。 「大雪の降る夜など、町の路が絶えますと、三日も四日も私一人――」  三年以前に逢つた時、……お米さんが言つたのです。     …………………… 「路の絶える。大雪の夜。」  お米さんが、あの虎杖の里の、此の吹雪に…… 「……唯一人。」――  私は決然として、身ごしらへをしたのであります。 「電報を――」  と言つて、旅宿を出ました。  實はなくなりました父が、其の危篤の時、東京から歸りますのに、(タダイマココマデキマシタ)と此の町から發信した……偶とそれを口實に――時間は遲くはありませんが、目口もあかない、此の吹雪に、何と言つて外へ出ようと、放火か強盜、人殺に疑はれはしまいかと危むまでに、さんざん思ひ惑つたあとです。  ころ柿のやうな髮を結つた霜げた女中が、雜炊でもするのでせう――土間で大釜の下を焚いて居ました。番頭は帳場に青い顏をして居ました。が、無論、自分たちが其の使に出ようとは怪我にも言はないのでありました。         二 「何う成るのだらう……とにかくこれは尋常事ぢやない。」  私は幾度となく雪に轉び、風に倒れながら思つたのであります。 「天狗の爲す業だ、――魔の業だ。」  何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を卷いて居るのだと思ひました。  いのちとりの吹雪の中に――  最後に倒れたのは一つの雪の丘です。――然うは言つても、小高い場所に雪が積つたのではありません、粉雪の吹溜りがこんもりと積つたのを、哄と吹く風が根こそぎに其の吹く方へ吹飛ばして運ぶのであります。一つ二つの數ではない。波の重るやうな、幾つも幾つも、颯と吹いて、むら〳〵と位置を亂して、八方へ高く成ります。  私は最う、それまでに、幾度も其の渦にくる〳〵と卷かれて、大な水の輪に、孑孑蟲が引くりかへるやうな形で、取つては投げられ、掴んでは倒され、捲き上げては倒されました。  私は――白晝、北海の荒波の上で起る處の此の吹雪の渦を見た事があります。――一度は、たとへば、敦賀灣でありました――繪にかいた雨龍のぐる〳〵と輪を卷いて、一條、ゆつたりと尾を下に垂れたやうな形のものが、降りしきり、吹煽つて空中に薄黒い列を造ります。  見て居るうちに、其の一つが、ぱつと消えるかと思ふと、忽ち、ぽつと、續いて同じ形が顯れます。消えるのではない、幽に見える若狹の岬へ矢の如く白く成つて飛ぶのです。一つ一つが皆な然うでした。――吹雪の渦は湧いては飛び、湧いては飛びます。  私の耳を打ち、鼻を捩ぢつゝ、いま、其の渦が乘つては飛び、掠めては走るんです。  大波に漂ふ小舟は、宙天に搖上らるゝ時は、唯波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるゝ時は、海底の巖の根なる藻の、紅き碧きをさへ見ると言ひます。  風の一息死ぬ、眞空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、其の屋根を壓して果しなく十重二十重に高く聳ち、遙に連る雪の山脈も、旅籠の炬燵も、釜も、釜の下なる火も、果は虎杖の家、お米さんの薄色の袖、紫陽花、紫の花も……お米さんの素足さへ、きつぱりと見えました。が、脈を打つて吹雪が來ると、呼吸は咽んで、目は盲のやうに成るのでありました。  最早、最後かと思ふ時に、鎭守の社が目の前にあることに心着いたのであります。同時に峰の尖つたやうな眞白な杉の大木を見ました。  雪難之碑のある處――  天狗――魔の手など意識しましたのは、其の樹のせゐかも知れません。たゞし此に目標が出來たためか、背に根が生えたやうに成つて、倒れて居る雪の丘の飛移るやうな思ひはなくなりました。  洵は、兩側にまだ家のありました頃は、――中に旅籠も交つて居ます――一面識はなくつても、同じ汽車に乘つた人たちが、疎にも、それ〴〵の二階に籠つて居るらしい、其れこそ親友が附添つて居るやうに、氣丈夫に頼母しかつたのであります。尤も其を心あてに、頼む。――助けて――助けて――と幾度か呼びました。けれども、窓一つ、ちらりと燈火の影の漏れて答ふる光もありませんでした。聞える筈もありますまい。  いまは、唯お米さんと、間に千尺の雪を隔つるのみで、一人死を待つ、……寧ろ目を瞑るばかりに成りました。  時に不思議なものを見ました――底なき雪の大空の、尚ほ其の上を、プスリと鑿で穿つて其の穴から落ちこぼれる……大きさは然うです……蝋燭の灯の少し大いほどな眞蒼な光が、ちら〳〵と雪を染め、染めて、ちら〳〵と染めながら、ツツと輝いて、其の古杉の梢に來て留りました。其の青い火は、しかし私の魂が最う藻脱けて、虚空へ飛んで、倒に下の亡骸を覗いたのかも知れません。  が、其の影が映すと、半ば埋れた私の身體は、ぱつと紫陽花に包まれたやうに、青く、藍に、群青に成りました。  此の山の上なる峠の茶屋を思ひ出す――極暑、病氣のため、俥で越えて、故郷へ歸る道すがら、其の茶屋で休んだ時の事です。門も背戸も紫陽花で包まれて居ました。――私の顏の色も同じだつたらうと思ふ、手も青い。  何より、嫌な、可恐い雷が鳴つたのです。たゞさへ破れようとする心臟に、動悸は、破障子の煽るやうで、震へる手に飮む水の、水より前に無數の蚊が、目、口、鼻へ飛込んだのであります。  其の時の苦しさ。――今も。         三  白い梢の青い火は、また中空の渦を映し出す――とぐろを卷き、尾を垂れて、海原のそれと同じです。いや、それよりも、峠で屋根に近かつた、あの可恐い雲の峰に宛然であります。  此の上、雷。  大雷は雪國の、こんな時に起ります。  死力を籠めて、起上らうとすると、其の渦が、風で、ぐわうと卷いて、捲きながら亂るゝと見れば、計知られぬ高さから颯と大瀧を搖落すやうに、泡沫とも、しぶきとも、粉とも、灰とも、針とも分かず、降埋める。 「あつ。」  私は又倒れました。  怪火に映る、其の大瀧の雪は、目の前なる、ヅツンと重い、大な山の頂から一雪崩れに落ちて來るやうにも見えました。  引挫がれた。  苦痛の顏の、醜さを隱さうと、裏も表も同じ雪の、厚く、重い、外套の袖を被ると、また青い火の影に、紫陽花の花に包まれますやうで、且つ白羽二重の裏に薄萌黄がすツと透るやうでした。  ウオヽヽヽ!  俄然として耳を噛んだのは、凄く可恐い、且つ力ある犬の聲でありました。  ウオヽヽヽ!  虎の嘯くとよりは、龍の吟ずるが如き、凄烈悲壯な聲であります。  ウオヽヽヽ!  三聲を續けて鳴いたと思ふと……雪をかついだ、太く逞しい、しかし痩せた、一頭の和犬、むく犬の、耳の青竹をそいだやうに立つたのが、吹雪の瀧を、上の峰から、一直線に飛下りた如く思はれます。忽ち私の傍を近々と横ぎつて、左右に雪の白泡を、ざつと蹴立てて、恰も水雷艇の荒浪を切るが如く猛然として進みます。  あと、ものの一町ばかりは、眞白な一條の路が開けました。――雪の渦が十ヲばかりぐる〳〵と續いて行く。……  此を反對にすると、虎杖の方へ行くのであります。  犬の其の進む方は、まるで違つた道でありました。が、私は夢中で、其のあとに續いたのであります。  路は一面、渺々と白い野原に成りました。  が、大犬の勢は衰へません。――勿論、行くあとに〳〵道が開けます。渦が續いて行く……  野の中空を、雪の翼を縫つて、あの青い火が、蜿々と螢のやうに飛んで來ました。  眞正面に、凹字形の大な建ものが、眞白な大軍艦のやうに朦朧として顯れました。と見ると、怪し火は、何と、ツツツと尾を曳きつゝ。先へ斜に飛んで、其の大屋根の高い棟なる避雷針の尖端に、ぱつと留つて、ちら〳〵と青く輝きます。  ウオヽヽヽヽ  鐵づくりの門の柱の、やがて平地と同じに埋まつた眞中を、犬は山を乘るやうに入ります。私は坂を越すやうに續きました。  ドンと鳴つて、犬の頭突きに、扉が開いた。  餘りの嬉しさに、雪に一度手を支へて、鎭守の方を遙拜しつゝ、建ものの、戸を入りました。  學校――中學校です。  唯、犬は廊下を、何處へ行つたか分りません。  途端に……  ざつ〳〵と、あの續いた渦が、一ツづゝ數萬の蛾の群つたやうな、一人の人の形になつて、縱隊一列に入つて來ました。雪で束ねたやうですが、いづれも演習行軍の裝して、眞先なのは刀を取つて、ぴたりと胸にあてて居る。それが長靴を高く踏んでづかりと入る。あとから、背嚢、荷銃したのを、一隊十七人まで數へました。  うろつく者には、傍目も觸らず、肅然として廊下を長く打つて、通つて、廣い講堂が、青白く映つて開く、其處へ堂々と入つたのです。 「休め――」  ……と聲する。  私は雪籠りの許を受けようとして、たど〳〵と近づきましたが、扉のしまつた中の樣子を、硝子窓越に、ふと見て茫然と立ちました。  眞中の卓子を圍んで、入亂れつゝ椅子に掛けて、背嚢も解かず、銃を引つけたまゝ、大皿に裝つた、握飯、赤飯、煮染をてん〴〵に取つて居ます。  頭を振り、足ぶみをするのなぞ見えますけれども、聲は籠つて聞えません。  ――わあ――  と罵るか、笑ふか、一つ大聲が響いたと思ふと、あの長靴なのが、つか〳〵と進んで、半月形の講壇に上つて、ツと身を一方に開くと、一人、眞すぐに進んで、正面の黒板へ白墨を手にして、何事をか記すのです、――勿論、武裝のまゝでありました。  何にも、黒板へ顯れません。  續いて一人、また同じ事をしました。  が、何にも黒板へ顯れません。  十六人が十六人、同じやうなことをした。最後に、肩と頭と一團に成つたと思ふと――其の隊長と思ふのが、衝と面を背けました時――苛つやうに、自棄のやうに、てん〴〵に、一齊に白墨を投げました。雪が群つて散るやうです。 「氣をつけ。」  つゝと鷲が片翼を長く開いたやうに、壇をかけて列が整ふ。 「右向け、右――前へ!」  入口が背後にあるか、……吸はるゝやうに消えました。  と思ふと、忽然として、顯れて、むくと躍つて、卓子の眞中へ高く乘つた。雪を拂へば咽喉白くして、茶の斑なる、畑將軍の宛然犬獅子……  ウオヽヽヽ!  肩を聳て、前脚をスクと立てて、耳が其の圓天井へ屆くかとして、嚇と大口を開けて、まがみは遠く黒板に呼吸を吐いた――  黒板は一面眞白な雪に變りました。  此の猛犬は、――土地ではまだ、深山にかくれて活きて居る事を信ぜられて居ます――雪中行軍に擬して、中の河内を柳ヶ瀬へ拔けようとした冒險に、教授が二人、某中學生が十五人、無慙にも凍死をしたのでした。――七年前――  雪難之碑は其の記念ださうであります。  ――其の時、豫て校庭に養はれて、嚮導に立つた犬の、恥ぢて自ら殺したとも言ひ、然らずと言ふのが――こゝに顯れたのでありました。  一行が遭難の日は、學校に例として、食饌を備へるさうです。丁度其の夜に當つたのです。が、同じ月、同じ夜の其の命日は、月が晴れても、附近の町は、宵から戸を閉ぢるさうです、眞白な十七人が縱横に町を通るからだと言ひます――後で此を聞きました。  私は眠るやうに、學校の廊下に倒れて居ました。  翌早朝、小使部屋の爐の焚火に救はれて蘇生つたのであります。が、いづれにも、然も、中にも恐縮をしましたのは、汽車の厄に逢つた一人として、驛員、殊に驛長さんの御立會に成つた事でありました。
底本:「鏡花全集 卷二十一」岩波書店    1941(昭和16)年9月30日第1刷発行    1975(昭和50)年7月2日第2刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001185", "作品名": "雪霊続記", "作品名読み": "せつれいぞくき", "ソート用読み": "せつれいそくき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-11-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1185.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 卷二十一", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1941(昭和16)年9月30日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年7月2日第2刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年5月2日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1185_ruby_19835.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1185_20153.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
 それ熱ければ梅、ぬるければ竹、客を松の湯の揚場に、奧方はお定りの廂髮。大島擬ひのお羽織で、旦那が藻脱の籠の傍に、小兒の衣服の紅い裏を、膝を飜して控へて居る。  髯の旦那は、眉の薄い、頬の脹れた、唇の厚い、目色の嚴い猛者構。出尻で、ぶく〳〵肥つた四十ばかり。手足をぴち〳〵と撥ねる、二歳ぐらゐの男の兒を、筋鐵の入つた左の腕に、脇へ挾んで、やんはりと抱いた處は、挺身倒に淵を探つて鰌を生捉つた體と見える。 「おう、おう。」  などと、猫撫聲で、仰向けにした小兒の括頤へ、動りをくれて搖上げながら、湯船の前へ、ト腰を拔いた體に、べつたりと踞んだものなり。 「熱い、熱い、熱いな。」  と手拭を濡しては、髯に雫で、びた〳〵と小兒の胸を浸してござる。 「早う入れとくれやせな。風邪エひきすえ。」  と揚場から奧方が聲を懸ける。一寸斷つて置くが、此の方は裸體でない。衣紋正しくと云つた風で、朝からの厚化粧、威儀備はつたものである。たとひ紋着で袴を穿いても、これが反對で、女湯の揚場に、待つ方が旦と成ると、時節柄、早速其の筋から御沙汰があるが、男湯へ女の出入は、三馬以來大目に見てある。 「番頭にうめさせとるが、なか〳〵ぬるならん。」  と父樣も寒いから、湯を浸した手拭で、額を擦つて、其の手を肩へまはして、ぐしや〳〵と背中を敲きながら、胴震に及んで、件の出尻の据らぬ處は、落武者が、野武士に剥がれた上、事の難儀は、矢玉の音に顛倒して、御臺御流産の體とも見える。 「ちやつとおうめやせな、貴下、水船から汲むが可うすえ。」  と奧方衣紋を合せて、序に下襦袢の白い襟と云ふ處を厭味に出して、咽喉元で一つ扱いたものなり。 「然ぢや、然ぢや、はあ然ぢや。はあ然ぢや。」と、馬鹿囃子に浮れたやうに、よいとこまかして、によいと突立ち、腕に抱いた小兒の胸へ、最一つ頤を壓へに置くと、勢必然として、取つたりと云ふ仕切腰。  さて通口に組違へて、角のない千兩箱を積重ねた留桶を、片手掴みで、水船から掬出しては、つかり加減な處を狙つて十杯ばかり立續けにざぶ〳〵と打ちまける。  猶以て念の爲に、別に、留桶に七八杯、凡そ湯船の高さまで、凍るやうな水道の水を滿々と湛へたのを、舷へ積重ねた。これは奧方が注意以外の智慧で、ざぶ〳〵と先づ掻𢌞して、 「可からう、可からう、そりやざぶりとぢや。」と桶を倒にして、小兒の肩から我が背中へ引かぶせ、 「瀧の水、瀧の水。」と云ふ。 「貴下、湯瀧や。」  と奧方も、然も快ささうに浮かれて言ふ。 「うゝ、湯瀧、湯瀧、それ鯉の瀧昇りぢや、坊やは豪いぞ。そりやも一つ。」  とざぶりと浴けるのが、突立つたまゝで四邊を構はぬ。こゝは英雄の心事料るべからずであるが、打まけられる湯の方では、何の斟酌もあるのでないから、倒に湯瀧三千丈で、流場一面の土砂降、板から、ばちや〳〵と溌が飛ぶ。 「あぶ、あぶ、あツぷう。」と、圓い面を、べろりといたいけな手で撫でて、頭から浴びた其の雫を切つたのは、五歳ばかりの腕白で、きよろりとした目でひよいと見て、又父親を見向いた。  此の小僧を、根附と云ふ身で、腰の處へ引つけて、留桶を前に、流臺へ蚊脛をはだけて、痩せた仁王と云ふ形。天地啊呍に手拭を斜つかひに突張つて、背中を洗つて居たのは、刺繍のしなびた四十五六の職人であつた。  矢張御多分には漏れぬ方で、頭から今の雫を浴びた。これが、江戸兒夥間だと、氣をつけろい、ぢやんがら仙人、何處の雨乞から來やあがつた、で、無事に濟むべきものではないが、三代相傳の江戸兒は、田舍ものだ、と斷る上は、對手が戀の仇でも許して通す習である。 「此方へ來ねえ。」  とばかりで、小兒を、其の、せめても雫に遠い左の方へ、腕を掴んで居直らせた。  旦は洒亞々々としたもので、やつとこな、と湯船を跨いで、ぐづ〳〵〳〵と溶けさうに腰の方から崩れ込みつゝ眞直に小兒を抱直して、片手を湯船の縁越しに、ソレ豫て恁くあらんと、其處へ遁路を拵へ置く、間道の穴兵糧、件の貯蓄の留桶の水を、片手にざぶ〳〵、と遣つては、ぶく〳〵、ざぶ〳〵と遣つては、ぶく〳〵、小兒の爪尖、膝から、股、臍から胸、肩から咽喉、と小さく刻んで、一つを一度に、十八杯ばかりを傾け盡して、漸と沈む。此の間約十分間。恁うまで大切にすると云ふのが、恩人の遺兒でも何でもない、我が兒なのである。  揚場の奧方は、最う小兒の方は安心なり。待くたびれた、と云ふ風で、例の襟を引張りながら、白いのを又出して、と姿見を見た目を外らして、傍に貼つた、本郷座の辻番附。ほとゝぎすの繪比羅を見ながら、熟と見惚て何某處の御贔屓を、うつかり指の尖で一寸つゝく。 「さあ、飛込め、奴。」  で、髯旦の、どぶりと徳利を拔いて出るのを待兼ねた、右の職人、大跨にひよい、と入ると、 「わつ、」と叫んで跳ねて出た。 「堪らねえ、こりや大變、日南水だ。行水盥へ鰌が湧かうと云ふんだ、後生してくんねえ、番頭さん。」  と、わな〳〵震へる。  前刻から、通口へ顏を出して、髯旦のうめ方が、まツ其の通り、小兒の一寸に水一升の割を覗いて、一驚を吃した三助、 「然も然うず、然もござりませうぞや。」  と情ない聲を出して、故と遠くから恐々らしく、手を突込んで、颯と引き、 「ほう、うめたりな、總入齒。親方、直ぐに湯を入れます。」  と突然どんつくの諸膚を脱いだ勢で、引込んだと思ふと、髯がうめ方の面當なり、腕の扱きに機關を掛けて、爰を先途と熱湯を注ぎ込む、揉込む、三助が意氣湯煙を立てて、殺氣朦々として天を蔽へば、湯船は瞬く間に、湯玉を飛ばして、揚場まで響渡る。 「難有え。」  職人は、呀、矢聲を懸けて飛込んだが、さて、童を何うする。 「奴、入れ、さあ、何が熱い、何が熱いんだい。べらぼうめ、弱い音を吐くねえ、此の小僧、何うだ。」 「うむ、入るよ。」  と言つたが、うつかり手も入れられない。で、ちよこんと湯船の縁へ上つて、蝸牛のやうに這𢌞る。が、飛鳥川の淵は瀬と成つても、此の湯はなか〳〵ぬるくは成らぬ。  唯見ると、親父は湯玉を拂つて、朱塗に成つて飛出した、が握太な蒼筋を出して、脛を突張つて、髯旦の傍に突立つた。 「誰だと思ふ、嚊が長の煩でなけりや、小兒なんぞ連れちや來ねえ。恁う、奴、思切つて飛込め。生命がけで突入れ! 汝にや熱いたつて、父にはぬるいや。うぬ勝手にな、人樣に迷惑を懸けるもんぢやねえ。うめるな、必ずうめるな。やい、こんな湯へ入れねえぢや、父の子とは言はせねえ。髯の兒にたゝつくれるぞ、さあ、入れ。骨は拾はい、奴。」  と喚くと、縁を這𢌞り〳〵、時々倒に、一寸指の先を入れては、ぶる〳〵と手を震はして居た奴が、パチヤリと入つて、 「うむ、」と云ふ。中から縁へしがみついた、面を眞赤に、小鼻をしかめて、目を白く天井を睨むのを、熟と視めて、 「豪え、豪え。其でもぬるけりや羽目をたゝけ、」と言ひながら、濡手拭を、ひとりでに、思はず向顱卷で、切ない顏して涙をほろ〳〵と溢した。 「それ、ぢやぶ〳〵、それ、ぢやぶ〳〵、」と髯旦は傍で、タオルから湯をだぶり。  堪へ兼ねて、奴が眞赤に跳ねて出る。 「やあ、金時、足柄山、えらいぞ金太郎。」と三助が、飛んで出て、 「それ、熊だ、鹿だ、乘んなせえ。」  と、奴の前の流を這つた。  髯はタオルから湯をだぶり。 「それ、ぢやぶ〳〵、それ、ぢやぶ〳〵。」  あらう事か、奧方は渦きかゝる湯氣の中で、芝居の繪比羅に頬をつけた。 明治四十二年十二月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「錢湯《せんたう》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004594", "作品名": "銭湯", "作品名読み": "せんとう", "ソート用読み": "せんとう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-09-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card4594.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 巻二十七", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月2日第3刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年1月6日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4594_ruby_44346.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-08-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/4594_44658.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-08-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
一  不思議なる光景である。  白河はやがて、鳴きしきる蛙の声、――其の蛙の声もさあと響く――とゝもに、さあと鳴る、流の音に分るゝ如く、汽車は恰も雨の大川をあとにして、又一息、暗い陸奥へ沈む。……真夜中に、色沢のわるい、頬の痩せた詩人が一人、目ばかり輝かして熟と視る。  燈も夢を照らすやうな、朦朧とした、車室の床に、其の赤く立ち、颯と青く伏つて、湯気をふいて、ひら〳〵と燃えるのを凝然と視て居ると、何うも、停車場で銭で買つた饂飩を温め抱くのだとは思はれない。  どう〳〵と降る中を、がうと山に谺して行く。がらんとした、古びた萠黄の車室である。護摩壇に向つて、髯髪も蓬に、針の如く逆立ち、あばら骨白く、吐く息も黒煙の中に、夜叉羅刹を呼んで、逆法を修する呪詛の僧の挙動には似べくもない、が、我ながら銀の鍋で、ものを煮る、仙人の徒弟ぐらゐには感ずる。詩人も此では、鍛冶屋の職人に宛如だ。が、其の煮る、鋳る、錬りつゝあるは何であらう。没薬、丹、朱、香、玉、砂金の類ではない。蝦蟇の膏でもない。  と思ひつゝ、視つゝ、惑ひつゝ、恁くして錬るのは美人である。  衣絵さんだ!  と思ふと、立つ泡が、雪を震はす白い膚の爛れるやうで。……園は、ぎよつとして、突伏すばかりに火尖を嘗めるが如く吹消した。  疲れたやうに、吻と呼吸して、 「あゝ、飛んでもない、……譬にも虚事にも、衣絵さんを地獄へ落さうとした。」  仮に、もし、此を煮る事、鋳る事、錬る事が、其の極度に到着した時の結晶体が、衣絵さんの姿に成るべき魔術であつても、火に掛けて煮爛らかして何とする! ……  鋳像家の技に、仏は銅を煮るであらう。彫刻師の鑿に、神は木を刻むであらう。が、人、女、あの華繊な、衣絵さんを、詩人の煩悩が煮るのである。 「大変な事をしたぞ。」  園は、今更ながら、瞬時と雖も、心の影が、其の熱に堪へないものゝ如く、不意のあやまちで、怪我をさした人に吃驚するやうに、銀の蓋を、ぱつと取つた。  取ると、……むら〳〵と一巻、渦を巻くやうに成つて、湯気が、鍋の中から、朦と立つ。立ちながら、すつと白い裳が真直に立靡いて、中ばでふくらみを持つて、筋が凹むやうに、二条に分れようとして、軟にまた合つて、颯と濃く成るのが、肩に見え、頸脚に見えた。背筋、腰、ふくら脛。……  卯の花の色うつくしく、中肉で、中脊で、なよ〳〵として、ふつと浮くと、黒髪の音がさつと鳴つた。 「やあ、あの、もの恥をする人が、裸身なんぞ、こんな姿を、人に見せるわけはない。」  園は目を瞑つた。  矢張り見える。 「これは、不可ん。」  園は一人で頭を掉つた。  まだ消えない。 「第一、病中は、其の取乱した姿を見せるのを可厭がつて、見舞に行くのを断られた自分ではないか。――此は悪い。こんな処を。あゝ、済まない。」  園はもの狂はしいまで、慌しく外套を脱いだ。トタンに、其の衣絵さんの白い幻影を包むで隠さうとしたのである。が、疼々しい此の硬ばつた、雨と埃と日光をしたゝかに吸つた、功羅生へた鼠色の大な蝙蝠。  一寸でも触ると、其のまゝ、いきなり、白い肩を包むで、頬から衣絵さんの血を吸ひさうである、と思つたばかりでも、あゝ、滴々血が垂れる。……結綿の鹿の子のやうに、喀血する咽喉のやうに。 二  で、園は引掴んで、席をやゝ遠くまで、其の外套を彼方へ投げた。  投げた時、偶と渠は、鼓打である其の従弟が、業体と言ひ、温雅で上品な優しい男の、酒に酔払ふと、場所を選ばず、着て居る外套を脱いで、威勢よくぱつと投出す、帳場の車夫などは、おいでなすつた、と丁と心得て居るくらゐで……電車の中でも此を遣る。……下が黒羽二重の紋着と云ふ勤柄であるから、余計人目について、乗合は一時に哄と囃す。 「何でえ、持つてけ。」と、舞袴にぴたりと肱を張つて、とろりと一睨み睨むのがお定り……  と其を思出して、……独りで笑つた。  そんな、妙な間があつた。それだのに、媚めかしい湯気の形は、卯の花のやうに、微に揺れつゝ其のまゝであつた。  銀の鍋一つ包む、大くはないが、衣絵さんの手縫である、其の友染を、密と掛けた。頸から肩と思ふあたり、ビクツと手応がある、ふつと、柔く軽く、つゝんで抱込む胸へ、嫋さと気の重量が掛るのに、アツと思つて、腰をつく。席へ、薄い真綿が羽二重へ辷つたやうに、さゝ……と唯衣の音がして、膝を組むだ足のやうに、友染の端が、席をなぞへに、たらりと片褄に成つて落ちた。――気を失つた女が、我とゝもに倒れかゝつたやうである。  吃驚して、取つて、すつと上へ引くと、引かれた友染は、其のまゝ、仰向けに、襟の白さを蔽ひ余るやうに、がつくりと席に寝た。  ふわ〳〵と其処へ靡く、湯気の細い角の、横に漾ふ消際が、こんもりと優い鼻を残して、ぽつと浮いて、衣絵さんの眉、口、唇、白歯。……あゝあの時の、死顔が、まざ〳〵と、いま我が膝へ……  白衣幽に、撫子と小菊の、藤紫地の裾模様の小袖を、亡体に掛けた、其のまゝの、……此の友染よ。唯其の時は、爪一つ指の尖も、人目には漏れないで、水底に眠つたやうに、面影ばかり澄切つて居たのに、――こゝでは、散乱れた、三ひら、五ひらの卯の花が、凄く動く汽車の底に、ちら〳〵ちらと揺れて、指の、震へるやうにさへ見らるゝ。世には、清らかな白歯を玉と云ふ、真珠と云ふ、貝と言ふ。……いま、ちらりと微笑むやうな、口元を漏るゝ歯は、白き卯の花の花片であつた。 「――膝枕をなさい。――衣絵さん。」  園は居坐を直した。が、沈んだ顔に、涙を流した。  あゝ、思出す。…… 「いくら私、堪へましてもね、冷い汗が流れるやうに、ひとりでに涙が出るんですもの。御病人の前で、此ぢやあ悪いと思ひますとね、尚ほ堪らなくなるんですよ。それだもんですからね。枕許の小さな黒棚に、一輪挿があつて、撫子が活かつて居ました。その花へ、顔を押つけるやうにして、ほろ〳〵溢れる目をごまかしましてね、「西洋のでございますか、いゝ匂ですこと。」なんのつて、然う言つて――あの、優い花ですから、葉にも、枝にも、此方の顔が隠れないで弱りましたよ――義兄さん。」 と衣絵さんのもう亡くなる前だつた――たしか、三度めであつたと思ふ……従弟の細君が見舞に行つた時の音信であつた。  予て、病気とは聴いて居た。――其の病気のために、衣絵さんが、若手、売出しの洋画家であつた、婿君と一所に、鎌倉へ出養生をして居たのは……あとで思へば、それも寂しい……行く春の頃から知つて居た。が、紫の藤より、菖蒲杜若より、鎌倉の町は、水は、其の人の出入、起居にも、ゆかりの色が添ふであらう、と床しがるのみで、まるで以て、然したる容体とは思ひもつかないで居たのに。秋の野分しば〳〵して、睡られぬ長き夜の、且つ朝寒く――インキの香の、じつと身に沁む新聞に――名門のお嬢さん、洋画家の夫人なれば――衣絵さんの(もう其の時は帰京して居た)重態が、玉の簾を吹ちぎり、金屏風を倒すばかり、嵐の如く世に響いた。  同じ日の夜に入つて、婿君から、先むじて親書が来て、――病床に臥してより、衣絵はどなたにもお目に掛る事を恥かしがり申候、女気を、あはれ、御諒察あつて、お見舞の儀はお見合はせ下されたく、差繰つて申すやうながら、唯今にもお出で下さる事を当人よく存じ、特に貴兄に対しては……と此の趣であつた。  髪一条、身躾を忘れない人の、此は至極した事である。  婿君のふみながら、衣絵さんの心を伝へた巻紙を、繰戻すさへ、さら〳〵と、緑なす黒髪の枕に乱るゝ音を感じて、取る手の冷いまで血を寒くしながらも、園は、謹で其の意を体したのである。  折から、従弟は当流の一派とゝもに、九州地を巡業中で留守だつた。細君が、園と双方を兼ねて見舞つた。其の三度めの時の事なので。――勿論、田端から帰りがけに、直ぐに園の家に立寄つたのであるが。 「ね――義兄さん、……お可哀相は、最う疾くのむかし通越して、あんな綺麗な方が最うおなくなんなさるかと思ふと、真個に可惜ものでならないんですもの。――日当は好んですけれど、六畳のね、水晶のやうなお部屋に、羽二重の小掻巻を掛けて、消えさうにお寝つてゝ、お色なんぞ、雪とも、玉とも、そりや透通るやうですよ。東枕の白い切に、ほぐしたお髪の真黒なのが濡れたやうにこぼれて居て、向ふの西向の壁に、衣桁が立てゝあります。それに、目の覚めるやうな友染縮緬が、端ものを解いたなりで、一種掛つて居たんです。――義兄さんの歌の本をお読みなさるのと、うつくしい友染を掛物のやうに取換へて、衣桁に掛けて、寝ながら御覧なさるのが何より楽なんですつて。――あの方の魂の行らつしやる処も、それで知れます。……紫の雲の靉靆く空ぢやあなくつて、友染の霞が来て、白いお身体を包むのでせうね――あゝ、それにね。……義兄さんがお心づくしの丸薬ですわね。……私が最初お見舞に行つた時、ことづかつて参りました……あの薬を、お婿さんの手から、葡萄酒の小さな硝子盃で飲るんだつて、――えゝ、先刻……  枕許の、矢張り其の棚にのつた、六角形の、蒔絵の手筐をお開けなすつたんですよ。然うすると、……あのお薬包と、かあいらしい爪取剪が一具と、……」  従弟の妻は、話しながら、こみあげ〳〵我慢したのを、此の時ないじやくりして言つた。 「……他に何にもなしに、撫子と小菊の模様の友染の袋に入つた、小さい円い姿見と、其だけ入つて居たんです。……お心が思ひ遣られますこと。  お婿さんが、硝子盃に、葡萄酒をお計んなさる間――えゝ然うよ。……お寝室には私と三人きり。……誰も可厭だつて、看護婦さんさへお頼みなさらないんだそうです。第一、お医師様も、七ツ八ツのお小さい時からおかゝりつけの方をお一人だけ……尤も有名な博士の方ださうですけれど――  それでね、義兄さん。お婿さんが葡萄酒をお計んなさる間に、細りした手を、恁うね、頬へつけて、うつくしい目で撓めて爪を見なすつたんでせう、のびてるか何うだかつて――凝と御覧なすつたんですがね、白い指さきへ瞳が映るやうで、そして、指のさきから、すつとお月様の影がさすやうに見えました。それが、恁う、お招きなさるやうに見えるんですもの。私、ぶる〳〵としたんです……」  聞いて居る園が震へた。 「ですけれど、あの、お手で招かれたら、懐中へなら尚の事だし、冥土へでも、何処へでも行きかねやしますまい……と真個に思ひました。  其の手を、密と伸ばして、お薬の包を持つて、片手で円い姿見を半分、凝と視て、お色が颯と蒼ざめた時は、私はまた泣かされました。……私は自分ながら頓狂な声で言つたんですよ……  ――「まあ、御覧なさいまし、撫子が、こんなに露をあげて居りますよ」――」 三 「私としては、出来るだけの事はしました。――申してはお恥かしいやうですが、実際、此の一月ばかりは、押通し夜も寝ませんくらゐ看病はしましたが。」  一室の、其処に五人居た。著名なる新聞記者、審査員――画家、文学者、某子爵の令夫人が一人。――園が居た。弔礼のために、香川家を訪れたものが、うけつけの机も、四つばかり、応接に山をなす中から、其処へ通された親類縁者、それ〴〵、又他方面の客は、大方別室であらう。  園が、人を分けて廊下を茶室らしい其処へ通された時、すぐ其の子爵夫人の、束髪に輝く金剛石とゝもに、白き牡丹の如き半帕の、目を蔽ふて俯向いて居るのを視た。  皆、暗然として、半ば瞳を閉ぢて居たのである。 「御当家でも――実に……」 「全くでございます。」  唯、いひかはされるのは、其のくらゐな事を繰返す。時に、鶺鴒の声がして、火桶の炭は赤けれど、山茶花の影が寂しかつた。  其処へ婿君が、紋着、袴ながら、憔悴した其の寝不足の目が血走り、ばう〳〵髪で窶れたのが、弔扎をうけに見えたのである。 「やあ……何うも。」 と、がつくり俯向いた顔を上げたのを、園に向けると、 「お礼を申上げます、――あのお薬のためだらうと思ひます。五日以上……滋養灌腸なぞは、絶対に嫌ひますから、湯水も通らないくらゐですのに、意識は明瞭で、今朝午前三時に息を引取りました一寸前にも、種々、細々と、私の膝に顔をのせて話をしまして。……園さんに、おなごりのおことづけまで申しました。判然して、元気です。医師も驚いて居ました。まるで絶食で居て、よく、こんなにと、両三日前から、然う言はれましてな。……しかし、気の毒でした。  江戸児は……食ものには乱暴です。九死一生の時でも、鮨だ、天麩羅だつて言ふんですから。蝦が欲い……しんじよとでも言ふかと思ふと、飛でもない。……鬼殻焼が可いと言ふんです。――痛快だ! ……宜しい、鬼を食つ了ひなさい、と景気をつけて、肥つた奴を、こんがりと南京の中皿へ装込むだのを、私が気をつけて、大事に毮つて、箸で哺めたんですが、みでは豈夫と思ふんです。馴れない料理人が、むしるのに、幾くらか鎧皮が附着いて居たでせうか。一口触つたと思ふと、舌が切れたんです。鬼殻焼を退治ようと言ふ、意気が壮なだけ実に悲惨です。すぐに唇から口紅が溶けたやうに、真赤な血が溢れるんですものね。」  爾時は、瞼を離して、はらりと口元を半帕で蔽うて居た、某子爵夫人が頷くやうに聞き〳〵、清らかな半帕を扱くにつれて、真白な絹の、それにも血の影が映すやうに見えた。  夫人は堪へやらぬ状して、衝と肩を反らして、横を向いて又目を圧へたのである。 「……えゝ、尤も、結核は、喉頭から、もう其の時には舌までも侵して居たんださうですが。鬼殻焼……意気が壮なだけ何うも悲惨です。は、はア。」 と、力のない、笑の影を浮かべて、言つて、悵然として仰いで、額に逆立つ頭髪を払つた。 「あちらの御都合で、お線香を。」 「一寸、御挨拶を。」  園と審査員が殆ど同時に言つた。 「それでは、何うぞ……」  廊下を二曲り、又半ばにして、椽続きの広間に、線香の煙の中に、白い壇が高く築かれて居た。袖と袖と重ねたのは、二側に居余る、いづれも声なき紳士淑女であつた。  順を譲つて、子爵夫人をさきに、次々に、――園は其の中でいつちあとに線香を手向けたが、手向けながら殆ど雪の室かと思ふ、然も香の高き、花輪の、白薔薇、白百合の大輪の花弁の透間に、薄紅の撫子と、藤紫の小菊が微に彩めく、其の友染を密と辿ると、掻上げた黒髪の毛筋を透いて、ちらりと耳朶と、而して白々とある頸脚が、すつと寝て、其の薄化粧した、きめの細かなのさへ、ほんのりと目に映つた。  まだ納棺の前である。 「香川さん。」  袴で坐を開きながら、園は、堅く障子を背にした婿君を呼んで言つた。 「……一寸お顔を見たいんです。」  声の調子の掠れるまで、園は胸が轟いたのである。が、婿君は潔く、 「えゝ、何うぞ――此方へ。」 とづいと立つと、逆屏風――たしか葛の葉の風に乱れた絵の、――端を引いて、壇の位牌の背後を、次の室の襖との狭い間を、枕の方へ導きながら、 「困りました。」 「…………」 「なくなられては困りましたなあ。」 と振向き状に、ぶつきら棒に立つて、握拳で、額を擦つたのが、悩乱した頭の髪を、掻毮りでもしたさうに見えて、煙の靡く天井を仰いだ。 「唯々、お察し申上げます。」 「は。」 と云つて、膝をついて、 「衣絵ちやん、――園さんです。」 と、白いものを衝と取つた。  眉毛を長く、睫毛を濃く、彼方を頸に、満坐の客を背にして、其の背の方は、花輪が隔てゝ、誰にも見えない。――此方に斜くらゐな横顔で、鼻筋がスツとして、微笑むだやうな白歯が見えた。――妹が二人ある。其の人たちの優しさに、髪を櫛巻のやうにして、薄化粧に紅をさした。 「衣絵さん。」 と心で言つて、思はず、直と寄つた膝が、うつかり、袖と思ふ掻巻の友染に触れると、白羽二重の小浪が、青く水のやうに其の襟にかゝつた。  屈みかゝつて、上から差覗く、目に涙の婿君と、微に仰いだ衣絵さんの顔と、世に唯、此の時三人であつた。 「……お静かに、お静かに、然やうなら……」  ハツと息して、立つて、引返す時、……今度は園が云つた。 「私も困ります。」 「…………」 「寂くつて、世間が暗いやうです。――衣絵さんはおなくなりなさいました。」 「…………」 「香川さん。――しかし、今では、衣絵さんを、衣絵さんを、」 「…………」 「私が、思、思つても! ……」  愛も、恋も、憧憬も、ふつゝかに、唯、思とのみ、血を絞つて言つた。 「……思つても、――貴方は許して下さいますか。」  仰いで言ふのを、香川は、しばらく熟と視たが、膝をついて、ひたと居寄つて、 「衣絵ちやんが喜びませう……私も、……嬉しい。」  恋の仇は、双方で手を取つた。 「あ、お顔を。」  振向いて、も一度視た。  其の、面影を、――夜汽車の席の、いまこゝに―― 「さ、膝を、膝枕をなさい、誰も居ません。」  園は、もの狂はしく、面影の白い、髪の黒い、裳の、胸の、乳のふくらみのある友染を、端坐した膝に寝かして、うちつけに、明白に、且つ夢に遠慮のないやうに恋を語つた。 四 「岩沼――岩沼――」  弁当、もの売の声が響くと、人音近く、夜が明けたと思ふのに、目には、何も、ものが見えない。  吃驚した。  園は掻毮るやうに窓を開けた、が、真暗である。 「もし、もし、もし……駅員の方、駅の方――駅夫さん……」 とけたゝましく呼んだ。 「何ですか。」 「失礼ですが、私の目は何うかなつては居ないでせうか。」 「貴方――何うかして居ますね。……確乎なさらなくつちやあ不可いぢやあゝりませんか。」  独言して、 「何を言つてるんだ。」  はつとすると、構内を、東雲の一天に、雪の――あとで知つた――苅田嶽の聳えたのが見えて、目は明に成つた。  はじめて一人乗込んだ客がある。  袖でかくすやうにした時、鍋の饂飩は、しかし、線香の落ちてたまつた、灰のやうであつた。 五  水源を、岩井の大沼に発すと言ふ、浦川に架けた橋を渡つた頃である。  松島から帰途に、停車場までの間を、旅館から雇つた車夫は、昨日、日暮方に其の旅館まで、同じ停車場から送つた男と知れて、園は心易く車上で話した。 「さあ、何と言はうかな。……景色は何うだ、と聞かれて悪いと言ふものもなからうし……唯よかつたよ、とだけぢや、君たちの方も納るまいけれども、何しろ、私には、松島は見ても松島を論ずる資格はないのだよ。昨日も君に世話に成つたと言ふから、知つてるだらうが、薄暮合、あの時間に旅館へ着いたのだから、あとは最う湯に入つて寝るばかりさ。」  園は昨日の其までは、聊か達す用があつて仙台に居たのであつた。 「夜があけたわ、顔を洗つたわ、旅館の縁側から、築山に松の生へたのが幾つも霞の中に浮いて居る、大な池を視めて、いゝなあと言つたつて、それまでだ。――海岸へ出たからつて、波が一つ寄るぢやなし、桜貝一つあるんぢやあない。  しかし、無理だよ。……予て聞いても居るし、むかしの書物にも書いてある。――松島を観るのは船に限る。八百八島と言ふ島の間を、自由に青畳の上のやうに漕ぐんだと言ふから、島一つ一つ趣のかはるのも、どんなにいゝか知れやしない。魚もすら〳〵泳ぐだらうし、松には藤も咲いてるさうだし、つゝじ、山吹、とり〴〵だと言ふ、其の間を、船の影に驚いて、パツと群れて水鳥が立つたり、鴎が泳いで居たり……」 「然うで、然うで、其の通りで……旦那。」 と、車夫は楫棒に張つた肩を聳やかした。 「船でなけりや、富山と言ふのへ上るだね。はい、其処だと、松島が残らず一目に見えますだ。」 「ださうだね。何しろ、船で巡るか、富山へ上らないぢやあ、松島の景色は論ずべからずと、ちやんと戒められて居るんだよ。」 「何うでがすね、此から、富山へおのぼりに成つては、はい、一里たらずだ、一息だで。」 「いや、それよりも、早く帰つて、墓参がしたくなつた。」 「へい。」 と言つたが、乗つた客も、挽く男も、妙に黙つた。  園は我ながら、余りつきもない言をうつかり言つたのに、はつと気が着いたほどである。  車夫は唐突に、目かくしでもされたやうに思つたらう。  陽が白く、雲が白く、空も白い。のんどりとして静寂な田畠には、土の湧出て、装上るやうな蛙の声。かた〳〵かた〳〵ころツ、ころツ、くわら〳〵くわら、くつ〳〵くつ。中でも大きさうなのが、土の気の蒸れる処に、高く構へた腹を、恁う人の目に浮かせて、があ〳〵があ〳〵と太く鳴く。……  俥は踏切を、其の蛙の声の上を越した。一昨日の夜を通した雨のなごりも、薄い皮一枚張つたやうに道が乾いた。  一方が小高い土手に成ると、いまゝで吹いて居た風が留むだ。靄も霞もないのに、田畑は一面にぼうとして、日中も春の夜の朧である。薄日は弱く雲を越さず、畔に咲いた黄蒲公英、咲交る豆の花の、緋、紫にも、ぽつりとも黒い影が見えぬ。朱の木瓜はちら〳〵と灯をともし、樹の根を包むだ石楠花は、入日の淡い色を染めつゝ、然も日は正に午なのである。道にさし出た、松の梢には、紫の藤かゝつて、どんよりした遠山のみどりを分けた遅桜は、薄墨色に濃く咲いて、然も散敷いた花弁は、散かさなつて根をこんもりと包むで、薄紅い。  其の傍に、二ツ三ツ境のない墓が見える。  見つゝ、俥は、段々の田を隔てゝ、土手添ひの径を遥に行くのである。  雲も、空も、皆白い。  其処へ、影のさすやうなのは、一つ一つ、百千と数へ切れない蛙の声である。  鳴く、鳴く。……  松杉、田芹、すつと伸びた酸模草の穂の、そよとも動かないのに、溝川を蔽ふ、たんぽゝの花、豆のつるの、忽ち一所に、さら〳〵と動くのは、鮒、鰌には揺過ぎる、――昼の水鶏が通るのであらう。  夢を見て居るやうである。  趣は違ふけれども、園は、名所にも、古跡にも、あんな景色はまたあるまいと思ふ処を、前刻も一度通つて来た。  ――水源を岩井沼に発すと言ふ、浦川の流の末が、広く成つて海へ灌ぐ処に近かつた。旅館を出てまだいく程もない処に――路の傍に、切立てた、削つた、大な巌の、矗々と立つのを視た。或は、仏の御龕の如く、或は人の髑髏に似て、或は禅定の穴にも似つゝ、或は山寨の石門に似た、其の岩の根には、一ツづゝ皆水を湛へて、中には蒼く凝つて淵かと思はるゝのもあつた。岩角、松、松には藤が咲き、巌膚には、つゝじ、山吹を鏤めて、御仏の紫摩黄金、鬼の舌、また僧の袈裟、また将軍の緋縅の如く、ちら〳〵と水に映つた。 「此処も海ではなかつたか――いまの松島の。……此の巌は、一つ一つ、あの島のやうに――」  一方は、ひしや〳〵とした、何処までも蘆原で、きよつ〳〵、きよつ〳〵、と蘆一むらづゝ、順に、ばら〳〵と、又飛々に、行々子が鳴きしきつた。  それから、しばらくは、まばらにも蘆のある処には、皆行々子が鳴いて居た――  こゝに、蛙の鳴くやうに……  まだ、其の頃は、海ある方に雲の切れた、薄青い空があつた。それさへいまは夢のやうである。  園は、行々子の鳴く音におくられつゝ、蛙の声に迎へられたやうな気がした。  ……水鶏が走るか、さら〳〵と、ソレまた小溝が動く。……動きながら其の静寂さ。  唯、遠くに、行々子が鳴きしきつて、こゝに蛙がすだく――其の間を、わあーとつないで、屋根も門も見えないで、あの、遅桜の山のうらあたり、学校の生徒の、一斉に読本の音読を合はす声。  園は心も気も懵と成つた。  ピイ、キリ〳〵と雲雀が鳴くと、ぐらりと激しく俥が揺れた。 「あゝ、車夫。」  酷い道だ。 「降りやう、――降りやう。」 「何、旦那、大丈夫で、昨日も此処を通つたゞね、馴れてるだよ。」 「いや、昨日も、はら〳〵したつけが、まだ濡れて居たから、輪をくつて、お前さんが挽きにくいまでも、まだ可かつた。泥濘が薬研のやうに乾いたんぢやあ、大変だ。転んだ処で怪我もしまいが、……此の咲いてる花に極が悪い。」  道のゆく手には、藁屋が小さく、ゆる〳〵畝る路に顕はれた背戸に、牡丹を植ゑたのが、あの時の、子爵夫人のやうに遥に覗いて見えた。 「はゝゝ、旦那、御風流だ。」  それから、歩行きながら、 「東京から来らつしやる方は、誰方も花がお好きだアなあ。」 「いろんな可愛いのが、路傍に咲いて居るんだ。誰だつて悪くはあるまい。」 「此人方等は、実の成る奴か、食へるんでなくつては、黄色いのも、青いのも、小こいものを、何にすべいよ。」 と笑つた。が、ふと、汗ばんだ赤ら顔の、元気らしい、若いのが、唇をしめて……真顔に成つて、 「然うだ、然うだ、思ひつけた。旦那、あなた様、とこなつと言ふ草は知つてるだかね。」 「常夏。」 「それよ。」 「撫子の事ぢやあないか。」 「それよ――矢張り……然うだ――忘れもしねえ。……矢張り同じやうな事を言はしつけが、私等にや其の撫子が早や分んねえだ。――何ね、今から、二三年、然うだねえ、彼れこれ四年には成るづらか。東京から来なさつたな、そりや、何うも容子たら、容色たら、そりや何うも美い若い奥様がな。」 「一人かい。」 「へゝい、お二人づれで。――旦那様は、洋服で、それ、絵を描く方が、こゝへぶら下げておいでなさる、あの器械を持つて居らしつけえ。――忘れもしねえだ、若奥様は、綺麗な縫の肩掛を手に持つてよ。紫がゝつた黒い処へ、一面に、はい、桜の花びらのちら〳〵かゝつた、コートをめしてな。」  園はゾツとした。 「丁ど今頃だで――それ〳〵、それよ矢張り此の道だ。……私と忠蔵がお供でやしたが、若奥様がね、瑞巌寺の欄間に舞つてる、迦陵頻伽と云ふ声でや、  ――あの夏になると、此の辺に常夏が沢山咲きませうね――  へい、其の常夏を知らねえだ。  ――まあ、撫子の事なんだよ――  其のさ、撫子を知らねえだ。私は汗を流したでなあ。……  折があつたら、誰方ぞ、聞かう聞かう思つて、因果と因縁で三年経つたゞ。旦那、花がお好きだで、な、どんな草葉だかこゝ等にあつたら、一寸つまんで教へてくらせえ。」 「淡紅色の、優い花だが、此の辺には屹とあるね。あるに違ひない。葉だけでも私にも分るだらう。」 と、のつかゝつた勢で、溝を越さうとして、 「お待ち。」  園は、つと俥に寄つた。  バスケツトを開けて、其の花が、色のまゝ染まつた、衣絵さんの友染を、と思つた……其時である。車夫が、 「あつ。」 と口を開けて、にやりとして、 「へ、へ、転ぶと、そこらの花に恥かしい。……うつ、へ、へ。御尢もだで。旦那は目が早いだやあ。」 「何だ。」 「へ、へ、私あまた。真個の草葉の花かと思つたゞ、」 「何だよ……」 「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模、蚊帳釣草の彼方に、きれいな花が、へ、へ、花が、うつむいて、草を摘んで居なさるだ。」 「え。」 「や――旦那、――旦那でがせう。其方を見ながら。招かつしやるは。」 「これ。」 「や、私で、――へい、私で。」 と、きよろりとしながら、 「へい、へい。」  俥を横に、つか〳〵と、田の畔へ、挽いて乗掛けると、白い陽に、影もなく、ぽんと立つて、ぺこ〳〵と叩頭をした。 「へい、其が、へい、成程、其が、常夏で、へい。」 とまた叩頭をした。が、ゑみわれるやうに、得もいはれぬ、成仏しさうな笑顔を向けて、 「旦那、旦那、旦那……」 「何。」 「あなた様にも、御覧なせえと……若奥様が。」  園は、魂も心も宙を踏んで衝と寄つた。  空に一輪、蕾を添へて、咲いたやうに、其の常夏の花を手にした、細りと白い手と、桜ぢらしの紫紺のコート。 「衣絵さん……」  品のいゝ、藤紫の鹿子切の、円髷つやゝかな顔を見た時。 「ぎやツ。」 と喚くと、楫棒をたゝき投げて、車夫は雲雀と十文字に飛んで遁げた。  寂寞と成る。蛙の声の小やむだ間を、何と、園は、はづみでころがり出した服紗の銀の鍋に、霊と知りつゝ、其の霊の常夏の花をうけようとした。  然り、銀の鼎を捧げた時、園は聖僧の如く、身も心も清しかつた。  襟をあとへ、常夏を指で少し引いて、きやしやな撫肩をやゝ斜に成つたと思ふと、衣絵さんの顔は、睫を濃く、凝然と視ながら片手を頬に打招く。……撓ふ、白き指先から、月のやうな影が流れた。  寄らうとすると、其の手も映る、褄も映る、裳に真蒼な水がある。  また招くのを、ためらうと、薄雲のさすやうに、面に颯と気色ばんで、常夏をハツと銀の鍋に投げて寄越した。  其の花の影も映つた。が、いまは、水も火もと思つた。 「御免なされや。」  背中に、むつとして、いきれたやうな可厭な声。此は、と視ると、すれ違つて、通り状に振向いたのは、真夜中の雨に饂飩を食つた、髪の毛の一筋ならびの、唇の爛れたあの順礼である。  見る端に、前歯の抜けた、汚い口でニヤリとした。  車夫が、其の道を、小さく成つて、遁げる、遁げる。  はや、幻影は消えつゝ、園は目の前に、一坐、藤つゝじを鏤めた、大巌の根に、藍の如き水に臨むで、足は、めぐらした柵を越えたのを見出した。  杵(キネ。)が池と言ふ、人を取る水よ、と後に聞く。  衣絵さんに、其の称の似通ふそれより、尚ほ、なつかしく、涙ぐまるゝは、銀の鍋を見れば、いつも、常夏の影がさながら植ゑたやうに咲くのである。
底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店    2004(平成16)年4月23日第1刷発行 底本の親本:「新柳集」春陽堂    1922(大正11)年1月1日 初出:「国本 第一巻第八号」国本社    1921(大正10)年8月1日 ※表題は底本では、「続銀鼎《ぞくぎんかなえ》」となっています。 ※初出時の署名は「泉鏡花」です。 ※「灯《ひ》」と「燈《ひ》」の混在は、底本通りです。 ※「触」に対するルビの「さわ」と「さは」の混在は、底本通りです。 ※「藤」に対するルビの「ふじ」と「ふぢ」の混在は、底本通りです。 ※「藤紫」に対するルビの「ふじむらさき」と「ふぢむらさき」の混在は、底本通りです。 ※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。 ※「香」に対するルビの「かほり」と「かをり」の混在は、底本通りです。 入力:日根敏晶 校正:門田裕志 2016年9月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057488", "作品名": "続銀鼎", "作品名読み": "ぞくぎんかなえ", "ソート用読み": "そくきんかなえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「国本 第一巻第八号」国本社、1921(大正10)年8月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card57488.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新編 泉鏡花集 第十巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月23日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月23日第1刷", "底本の親本名1": "新柳集", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1922(大正11)年1月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "日根敏晶", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57488_ruby_59585.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57488_59627.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
       一  雪の夜路の、人影もない真白な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍なる置炬燵に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦の一重々々、燃立つような長襦袢ばかりだった姿は、思い懸けずもまた類なく美しいものであった。  膚を蔽うに紅のみで、人の家に澄まし振。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。  世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。  ――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視たのであるから。  当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込んだ催ではなかったけれども、黄昏が白くなって、さて小留みもなく降頻る。戸外の寂寞しいほど燈の興は湧いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚も鉄砲も、持って来い。……勢はさりながら、もの凄いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破や、蒐れと、木戸を開いて切って出づべき矢種はないので、逸雄の面々歯噛をしながら、ひたすら籠城の軍議一決。  そのつもりで、――千破矢の雨滴という用意は無い――水の手の燗徳利も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自が、好、悪、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一……何某……好なものは、美人。 「遠慮は要らないよ。」  悪むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。  箇条の中に、最好、としたのがあり。 「この最好というのは。」 「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引くるめてちょっと金麩羅にして頬張るんだ。」  その標目の下へ、何よりも先に==待人来る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。  襖をすうと開けて、当家の女中が、 「吉岡さん、お宅からお使でございます。」 「内から……」 「へい、女中さんがお見えなさいました。」 「何てって?」 「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」 「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。  お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人を持つ胸に応えた。 「敵の間諜じゃないか。」と座の右に居て、猪口を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向いたままで云った。 「まさか。」  と眗すと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈の色が颯と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。        二 「ちょっと、失礼する。」  で、引返して行く女中のあとへついて、出しなに、真中の襖を閉める、と降積る雪の夜は、一重の隔も音が沈んで、酒の座は摺退いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴れた家で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。  取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋を上る湯気の影。  そこから彗星のような燈の末が、半ば開けかけた襖越、仄に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱の三和土を間に、暗い格子戸にぴたりと附着いて、横向きに立っていたのは、俊吉の世帯に年増の女中で。  二月ばかり給金の借のあるのが、同じく三月ほど滞った、差配で借りた屋号の黒い提灯を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立てをくわせもしまい。 「おい、……何だ、何だ。」と框まで。 「あ、旦那様。」  と小腰を屈めたが、向直って、 「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。  余り要ありそうなのに、急き心に声が苛立って、 「入れよ、こっちへ。」 「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿ものが、」  成程、暴風雨の舟が遁込んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。 「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」 「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈の透く、その正面の襖を閉めた。  真暗になる土間の其方に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥な思がする。  労らい心で、 「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。 「もう、貴方、足駄が沈みますほどでございます。」  聞きも果てずに格子に着いて、 「何だ。」 「お客様でございまして。」と少し顔を退けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。 「誰だ。」 「あの、宮本様とおっしゃいます。」 「宮本……どんな男だ。」  時に、傘を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜った。 「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」 「婦が?」 「はい。」 「婦だ……待ってるのか。」 「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」 「はてな、……」  とのみで、俊吉はちょっと黙った。  女中は、その太った躯を揉みこなすように、も一つ腰を屈めながら、 「それに、あの、お出先へお迎いに行くのなら、御朋輩の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証でと、くれぐれも、お託けでございましたものですから。」 「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」 「ええ、御遠方。」 「遠い処か。」 「深川からとおっしゃいました。」 「ああ、襟巻なんか取らんでも可い。……お帰り。」  女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、 「どういたしましょう。」 「……可し、直ぐ帰る。」  座敷に引返そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、 「どんな風采をしている。」と声を密めると。 「あの真紅なお襦袢で、お跣足で。」        三 「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」  俊吉は、外套も無しに、番傘で、帰途を急ぐ中に、雪で足許も辿々しいに附けても、心も空も真白に跣足というのが身に染みる。  ――しかし可訝しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損いで、あの、お染の、あの体に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――  眗せば、我が袖も、他の垣根も雪である。  ――去年の夏、たしか八月の末と思う、――  その事のあった時、お染は白地明石に藍で子持縞の羅を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋に丸抱えという、可哀な流にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明いのも、そこいら、……御神燈並に、絽なり、お召なり単衣に衣更える筈。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染は無いらしく、連立って行く先を、内証で、抱主の蔦家の女房とひそひそと囁いて、その指図に任かせた始末。  披露の日は、目も眩むように暑かったと云った。  主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣を掛けて護謨輪を軋らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。 「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児に生れかわった気になったんですけれど、情ないッてなかったわ。  その洋傘だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行いた、黄色い汚点だらけなんじゃありませんか。  そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」  と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩せた、が、色の白い顋で圧えて云う。  その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚を包んだ紅であった。 「……この土地じゃ、これでないと不可いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。  それで、白足袋でお練でしょう。もう五にもなって真白でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤けた行燈の影へ横向きに手を支いて、肩で挨拶をして出るんなら可いけれど、それだって凄いわね。  真昼間でしょう、遣切れたもんじゃありゃしない。  冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘を持った手が辷るんですもの、掌から、」  と二の腕が衝と白く、且つ白麻の手巾で、ト肩をおさえて、熟と見た瞼の白露。  ――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々と俤立つ。        四 「この、お前さん手巾でさ、洋傘の柄を、しっかりと握って歩行きましたんですよ。  あとへ跟いて来る女房さんの風俗ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長か何かで、鬢をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売ますの口上言いだわね。  察して下さいな。」  と遣瀬なげに、眉をせめて俯目になったと思うと、まだその上に――気障じゃありませんか、駈出しの女形がハイカラ娘の演るように――と洋傘を持った風采を自ら嘲った、その手巾を顔に当てて、水髪や荵の雫、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓島田を俯向けに膝に突伏した。  その時、待合の女房が、襖越に、長火鉢の処で、声を掛けた。 「染ちゃん、お出ばなが。」  俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀ではない。遊女あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮り、軽んじ、冷評されたような気がして、悚然として五体を取って引緊められたまで、極りの悪い思いをしたのであった。  いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。  思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。  はじめ、無理をして廓を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓になった。  その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質の赫と逆上せた深嵌りで、家も店も潰した果が、女房子を四辻へ打棄って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁げると、旅籠住居の気を換える見物の一夜。洲崎の廓へ入った時、ここの大籬の女を俺が、と手折った枝に根を生す、返咲の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。  まず引掛の昼夜帯が一つ鳴って〆った姿。わざと短い煙管で、真新しい銅壺に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓をちらつく影法師を見て思出したか。  ――勘定をかく、掛すずりに袖でかくして参らせ候、――  二年ぶり、打絶えた女の音信を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主あるものに、あえて返事もしなかったのである。  〆の形や、雁の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居に届いたけれども、疑も嫉妬も無い、かえって、卑怯だ、と自分を罵りながらも逢わずに過した。  朧々の夜も過ぎず、廓は八重桜の盛というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻が褄白く土手の暗がりを忍んで出たろう。  引手茶屋は、ものの半年とも持堪えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒に浅草へ流着いた。……手切の髢も中に籠めて、芸妓髷に結った私、千葉の人とは、きれいに分をつけ参らせ候。  そうした手紙を、やがて俊吉が受取ったのは、五重の塔の時鳥。奥山の青葉頃。……  雪の森、雪の塀、俊吉は辻へ来た。        五  八月の末だった、その日、俊吉は一人、向島の百花園に行った帰途、三囲のあたりから土手へ颯と雲が懸って、大川が白くなったので、仲見世前まで腕車で来て、あれから電車に乗ろうとしたが、いつもの雑沓。急な雨の混雑はまた夥しい。江戸中の人を箱詰にする体裁。不見識なのはもちに捏ちられた蠅の形で、窓にも踏台にも、べたべたと手足をあがいて附着く。  電車は見る見る中に黒く幅ったくなって、三台五台、群衆を押離すがごとく雨に洗い落したそうに軋んで出る。それをも厭わない浅間しさで、児を抱いた洋服がやっと手を縋って乗掛けた処を、鉄棒で払わぬばかり車掌の手で突離された。よろめくと帽子が飛んで、小児がぎゃっと悲鳴を揚げた。  この発奮に、 「乗るものか。」  濡れるなら濡れろ、で、奮然として駈出したが。  仲見世から本堂までは、もう人気もなく、雨は勝手に降って音も寂寞としたその中を、一思いに仁王門も抜けて、御堂の石畳を右へついて廻廊の欄干を三階のように見ながら、廂の頼母しさを親船の舳のように仰いで、沫を避けつつ、吻と息。  濡れた帽子を階段擬宝珠に預けて、瀬多の橋に夕暮れた一人旅という姿で、茫然としてしばらく彳む。……  風が出て、雨は冷々として小留むらしい。  雫で、不気味さに、まくっていた袖をおろして、しっとりとある襟を掻合す。この陽気なればこそ、蒸暑ければ必定雷鳴が加わるのであった。  早や暮れかかって、ちらちらと点れる、灯の数ほど、ばらばら誰彼の人通り。  話声がふわふわと浮いて、大屋根から出た蝙蝠のように目前に幾つもちらつくと、柳も見えて、樹立も見えて、濃く淡く墨になり行く。  朝から内を出て、随分遠路を掛けた男は、不思議に遥々と旅をして、広野の堂に、一人雨宿りをしたような気がして、里懐かしさ、人恋しさに堪えやらぬ。 「訪ねてみようか、この近処だ。」  既に、駈込んで、一呼吸吐いた頃から、降籠められた出前の雨の心細さに、親類か、友達か、浅草辺に番傘一本、と思うと共に、ついそこに、目の前に、路地の出窓から、果敢ない顔を出して格子に縋って、此方を差覗くような気がして、筋骨も、ひしひしとしめつけられるばかり身に染みた、女の事が……こうした人懐しさにいや増る。……  ここで逢うのは、旅路遥な他国の廓で、夜更けて寝乱れた従妹にめぐり合って、すがり寄る、手の緋縮緬は心の通う同じ骨肉の血であるがごとく胸をそそられたのである。  抱えられた家も、勤めの名も、手紙のたよりに聞いて忘れぬ。 「可し。」  肩を揺って、一ツ、胸で意気込んで、帽子を俯向けにして、御堂の廂を出た。……  軽い雨で、もう面を打つほどではないが、引緊めた袂重たく、しょんぼりとして、九十九折なる抜裏、横町。谷のドン底の溝づたい、次第に暗き奥山路。        六  時々足許から、はっと鳥の立つ女の影。……けたたましく、可哀に、心悲しい、鳶にとらるると聞く果敢ない蝉の声に、俊吉は肝を冷しつつ、※(火+發)々と面を照らす狐火の御神燈に、幾たびか驚いて目を塞いだが、路も坂に沈むばかり。いよいよ谷深く、水が漆を流した溝端に、茨のごとき格子前、消えずに目に着く狐火が一つ、ぼんやりとして(蔦屋)とある。 「これだ。」  密と、下へ屈むようにしてその御神燈を眗すと、他に小草の影は無い、染次、と記した一葉のみ。で、それさえ、もと居たらしい芸妓の上へ貼紙をしたのに記してあった。看板を書かえる隙もない、まだ出たてだという、新しさより、一人旅の木賃宿に、かよわい女が紙衾の可哀さが見えた。  とばかりで、俊吉は黙って通過ぎた。  が、筋向うの格子戸の鼠鳴に、ハッと、むささびが吠えたほど驚いて引返して、蔦屋の門を逆に戻る。  俯向いて彳んでまた御神燈を覗いた。が、前刻の雨が降込んで閉めたのか、框の障子は引いてある。……そこに切張の紙に目隠しされて、あの女が染次か、と思う、胸がドキドキして、また行過ぎる。  トあの鼠鳴がこっちを見た。狐のようで鼻が白い。  俊吉は取って返した。また戻って、同じことを四五度した。  いいもの望みで、木賃を恥じた外聞ではない。……巡礼の笈に国々の名所古跡の入ったほど、いろいろの影について廻った三年ぶりの馴染に逢う、今、現在、ここで逢うのに無事では済むまい、――お互に降って湧くような事があろう、と取越苦労の胸騒がしたのであった。 「御免。」  と思切って声を掛けた時、俊吉の手は格子を圧えて、そして片足遁構えで立っていた。 「今晩は。」 「はい、今晩は。」  と平べったい、が切口上で、障子を半分開けたのを、孤家の婆々かと思うと、たぼの張った、脊の低い、年紀には似ないで、頸を塗った、浴衣の模様も大年増。  これが女房とすぐに知れた。  俊吉は、ト御神燈の灯を避けて、路地の暗い方へ衝と身を引く。  白粉のその頸を、ぬいと出額の下の、小慧しげに、世智辛く光る金壺眼で、じろりと見越して、 「今晩は。誰方様で?」 「お宅に染次ってのは居りますか。」 「はい居りますでございますが。」  と立塞がるように、しかも、遁すまいとするように、框一杯にはだかるのである。 「ちょっとお呼び下さいませんか。」  ああ、来なければ可かった、奥も無さそうなのに、声を聞いて出て来ないくらいなら、とがっくり泥濘へ落ちた気がする。 「唯今お湯へ参ってますがね、……まあ、貴方。」と金壺眼はいよいよ光った。 「それじゃまた来ましょう。」 「まあ、貴方。」  風体を見定めたか、慌しく土間へ片足を下ろして、 「直きに帰りますから、まあ、お上んなさいまし。」 「いや、途中で困ったから傘を借りたいと思ったんですが、もう雨も上りましたよ。」 「あら、貴方、串戯じゃありません。私が染ちゃんに叱られますわ、お帰し申すもんですかよ。」        七 「相合傘でいらっしゃいまし、染ちゃん、嬉しいでしょう、えへへへへ、貴方、御機嫌よう。」  と送出した。……  傘は、染次が褄を取ってさしかける。 「可厭な媽々だな。」 「まだ聞えますよ。」  と下へ、袂の先をそっと引く。  それなり四五間、黙って小雨の路地を歩行く、……俊吉は少しずつ、…やがて傘の下を離れて出た。 「濡れますよ、貴方。」  男は黙然の腕組して行く。 「ちょっと、濡れるわ、お前さん。」  やっぱり暗い方を、男は、ひそひそ。 「濡れると云うのに、」  手は届く、羽織の袖をぐっと引いて突附けて、傘を傾けて、 「邪慳だねえ。」 「泣いてるのか、何だな、大な姉さんが。」 「……お前さん、可懐しい、恋しいに、年齢に加減はありませんわね。」 「何しろ、お前、……こんな路地端に立ってちゃ、しょうがない。」 「ああ、早く行きましょう。」  と目を蔽うていた袖口をはらりと落すと、瓦斯の遠灯にちらりと飜る。 「少づくりで極りが悪いわね。」  と褄を捌いて取直して、 「極が悪いと云えば、私は今、毛筋立を突張らして、薄化粧は可いけれども、のぼせて湯から帰って来ると、染ちゃんお客様が、ッて女房さんが言ったでしょう。  内へ来るような馴染はなし、どこの素見だろうと思って、おやそうか何か気の無い返事をして、手拭を掛けながら台所口から、ひょいと見ると、まあ、お前さんなんだもの。真赤になったわ。極が悪くって。」 「なぜだい。」 「悟られやしないかと思ってさ。」 「何を?……」 「だって、何をッて、お前さん、どこか、お茶屋か、待合からかけてくれれば可いじゃありませんか、唐突に内へなんぞ来るんだもの。」 「三年越だよ、手紙一本が当なんだ。大事な落しものを捜すような気がするからね、どこかにあるには違いないが、居るか居ないか、逢えるかどうか分りやしない。おまけに一向土地不案内で、東西分らずだもの。茶屋の広間にたった一つ膳を控えて、待っていて、そんな妓は居りません。……居ますが遠出だなんぞと来てみたが可い。御存じの融通が利かないんだから、可、ついでにお銚子のおかわりが、と知らない女を呼ぶわけにゃ行かずさ、瀬ぶみをするつもりで、行ったんだ。  もっともね、居ると分ったら、門口から引返して、どこかで呼ぶんだっけ。媽々が追掛るじゃないか。仕方なし奥へ入ったんだ。一間しかありやしない。すぐの長火鉢の前に媽々は控えた、顔の遣場もなしに、しょびたれておりましたよ、はあ。  光った旦那じゃなし、飛んだお前の外聞だっけね、済まなかったよ。」 「あれ、お前さんも性悪をすると見えて、ひがむ事を覚えたね。誰が外聞だと申しました、俊さん、」  取った袂に力が入って、 「女房さんに、悟られると、……だと悟られると、これから逢うのに、一々、勘定が要るじゃありませんか。おまいりだわ、お稽古だわッて内証で逢うのに出憎いわ。  はじめの事は知ってるから私の年が年ですからね。主人の方じゃ目くじらを立てていますもの、――顔を見られてしまってさ……しょびたれていましたよ、はあ。――お前の外聞だっけね、済まなかった。……誰が教えたの。」  とフフンと笑って、 「素人だね。」        八 「……わざと口数も利かないで、一生懸命に我慢をしていた、御免なさいよ。」  声がまた悄れて沈んで、 「何にも言わないで、いきなり噛りつきたかったんだけれど、澄し返って、悠々と髪を撫着けたりなんかして。」 「行場がないから、熟々拝見をしましたよ、……眩しい事でございました。」 「雪のようでしょう、ちょっと片膝立てた処なんざ、千年ものだわね、……染ちゃん大分御念入だねなんて、いつもはもっと塗れ、もっと髱を出せと云う女房さんが云うんだもの。どう思ったか知らないけれど、大抵こんがらかったろうと私は思うの。  そりゃ成りたけ、よくは見せたいが弱身だって、その人の見る前じゃあねえ、……察して頂戴。私はお前さんに恥かしかったわ、お乳なんか。」  と緊められるように胸を圧えた、肩が細りとして重そうなので、俊吉が傘を取る、と忘れたように黙って放す。 「いいえ、結構でございました、湯あがりの水髪で、薄化粧を颯と直したのに、別してはまた緋縮緬のお襦袢を召した処と来た日にゃ。」 「あれさ、止して頂戴……火鉢の処は横町から見通しでしょう、脱ぐにも着るにも、あの、鏡台の前しかないんだもの。……だから、お前さんに壁の方を向いてて下さいと云ったじゃありませんか。」 「だって、以前は着ものを着たより、その方が多かった人じゃないか、私はちっとも恐れやしないよ。」 「ねえ……ほほほ。……」  笑ってちょっと口籠って、 「ですがね、こうなると、自分ながら気が変って、お前さんの前だと花嫁も同じことよ。……何でしたっけね、そら、川柳とかに、下に居て嫁は着てからすっと立ち……」 「お前は学者だよ。」 「似てさ、お前さんに。」 「大きにお世話だ、学者に帯を〆めさせる奴があるもんか、おい、……まだ一人じゃ結べないかい。」 「人、……芸者の方が、ああするんだわ。」 「勝手にしやがれ。」 「あれ。」 「ちっとやけらあねえ。」 「溝へ落っこちるわねえ。」 「えへん!」  と怒鳴って擦違いに人が通った。早や、旧来た瓦斯に頬冠りした薄青い肩の処が。 「どこだ。」 「一直の塀の処だわ。」  直きその近所であった。 「座敷はこれだけかね。」  と俊吉は小さな声で。 「もう、一間ありますよ。」  と染次が云う。……通された八畳は、燈も明し、ぱっとして畳も青い。床には花も活って。山家を出たような俊吉の目には、博覧会の茶座敷を見るがごとく感じられた。が、入る時見た、襖一重が直ぐ上框兼帯の茶の室で、そこに、髷に結った娑婆気なのが、と膝を占めて構えていたから。  話に雀ほどの声も出せない。  で、もう一間と眗すと、小庭の縁が折曲りに突当りが板戸になる。……そこが細目にあいた中に、月影かと見えたのは、廂に釣った箱燈寵の薄明りで、植込を濃く、むこうへぼかして薄りと青い蚊帳。  ト顔を見合せた。  急に二人は更ったのである。  男が真中の卓子台に、肱を支いて、 「その後は。どうしたい。」 「お話にならないの。」  と自棄に、おくれ毛を揺ったが、……心配はさせない、と云う姉のような呑込んだ優い微笑。        九 「失礼な、どうも奥様をお呼立て申しまして済みません。でも、お差向いの処へ、他人が出ましてはかえってお妨げ、と存じまして、ねえ、旦那。」  と襖越に待合の女房が云った。  ぴたりと後手にその後を閉めたあとを、もの言わぬ応答にちょっと振返って見て、そのまま片手に茶道具を盆ごと据えて立直って、すらりと蹴出しの紅に、明石の裾を曳いた姿は、しとしとと雨垂れが、子持縞の浅黄に通って、露に活きたように美しかった。 「いや。」  とただ間拍子もなく、女房の言いぐさに返事をする、俊吉の膝へ、衝と膝をのっかかるようにして盆ごと茶碗を出したのである。  茶を充満の吸子が一所に乗っていた。  これは卓子台に載せると可かった。でなくば、もう少し間を措いて居れば仔細なかった。もとから芸妓だと離れたろう。前の遊女は、身を寄せるのに馴れた。しかも披露目の日の冷汗を恥じて、俊吉の膝に俯伏した処を、(出ばな。)と呼ばれて立ったのである。……  お染はもとの座へそうして近々と来て盆ごと出しながら、も一度襖越しに見返った。名ある女を、こうはいかに、あしらうまい、――奥様と云ったな――膝に縋った透見をしたか、恥と怨を籠めた瞳は、遊里の二十の張が籠って、熟と襖に注がれた。  ト見つつ夢のようにうっかりして、なみなみと茶をくんだ朝顔形の茶碗に俊吉が手を掛ける、とコトリと響いたのが胸に通って、女は盆ごと男が受取ったと思ったらしい。ドンと落ちると、盆は、ハッと持直そうとする手に引かれて、俊吉の分も浚った茶碗が対。吸子も共に発奮を打ってお染は肩から胸、両膝かけて、ざっと、ありたけの茶を浴びたのである。  むらむらと立つ白い湯気が、崩るる褄の紅の陽炎のごとく包んで伏せた。  頸を細く、面を背けて、島田を斜に、 「あっ。」と云う。 「火傷はしないか。」と倒れようとするその肩を抱いた。 「どうなさいました。」と女房飛込み、この体を一目見るや、 「雑巾々々。」と宙に躍って、蹴返す裳に刎ねた脚は、ここに魅した魔の使が、鴨居を抜けて出るように見えた。  女の袖つけから膝へ湛って、落葉が埋んだような茶殻を掬って、仰向けた盆の上へ、俊吉がその手の雫を切った時。 「可ござんすよ、可ござんすよ、そうしてお置きなさいまし、今私が、」  と言いながら白に浅黄を縁とりの手巾で、脇を圧えると、脇。膝をずぶずぶと圧えると、膝を、濡れたのが襦袢を透して、明石の縞に浸んでは、手巾にひたひたと桃色の雫を染めた。―― 「ええ、私あの時の事を思出したの、短刀で、ここを切られた時、」……  と、一年おいて如月の雪の夜更けにお染は、俊吉の矢来の奥の二階の置炬燵に弱々と凭れて語った。  さてその夜は、取って返して、両手に雑巾を持って、待合の女房が顕れたのに、染次は悄れながら、羅の袖を開いて見せて、 「汚点になりましょうねえ。」 「まあ、ねえ、どうも。」  と伸上ったり、縮んだり。 「何しろ、脱がなくッちゃお前さん、直き乾くだけは乾きますからね……あちらへ来て。さあ――旦那、奥様のお膚を見ますよ、済みませんけれど、貴下が邪慳だから仕方が無い。……」  俊吉は黙って横を向いた。 「浴衣と、さあ、お前さん、」  と引立てるようにされて、染次は悄々と次に出た。……組合の気脉が通って、待合の女房も、抱主が一張羅を着飾らせた、損を知って、そんなに手荒にするのであろう、ああ。        十 「大丈夫よ……大丈夫よ。」 「飛んだ、飛んだ事を……お前、主人にどうするえ。」 「まさか、取って食おうともしませんから、そんな事より。」  と莞爾した、顔は蒼白かったが、しかしそれは蚊帳の萌黄が映ったのであった。  帰る時は、効々しくざっと干したのを端折って着ていて、男に傘を持たせておいて、止せと云うに、小雨の中をちょこちょこ走りに自分で俥を雇って乗せた。  蛇目傘を泥に引傾げ、楫棒を圧えぬばかり、泥除に縋って小造な女が仰向けに母衣を覗く顔の色白々と、 「お近い内に。」 「…………」 「きっと?」 「むむ。」 「きっとですよ。」  俊吉は黙って頷いた。  暗くて見えなかったろう。 「きっとよ。」 「分ったよ。」 「可ござんすか。」 「煩い。」と心にもなく、車夫の手前、宵から心遣いに疲れ果てて、ぐったりして、夏の雨も寒いまでに身体もぞくぞくする癇癪まぎれに云ったのを、気にも掛けず、ほっと安心したように立直ったと思うと、 「車夫さん、はい――……あの車賃は払いましたよ。」 「有るよ。」 「威張ってさ、それから少しですが御祝儀。気をつけて上げて下さいよ、よくねえ、気をつけて、可ござんすか。」 「大丈夫でございますよ、姉さん。」と楫を取った片手に祝儀を頂きながら。 「でも遠いんですもの、道は悪し、それに暗いでしょう。」 「承合ましたよ。」 「それじゃ、お近いうち。」  影を引切るように衝と過ぎる車のうしろを、トンと敲いたと思うと夜の潮に引残されて染次は残ってしょんぼりと立つ。  車が路を離れた時、母衣の中とて人目も恥じず、俊吉は、ツト両掌で面を蔽うて、はらはらと涙を落した。…… 「でも、遠いんですもの、路は悪し、それに暗いでしょう。」  行方も知らず、分れるように思ったのであった。  そのまま等閑にすべき義理ではないのに、主人にも、女にも、あの羅の償をする用意なしには、忍んでも逢ってはならないと思うのに、あせって掙いても、半月や一月でその金子は出来なかった。  のみならず、追縋って染次が呼出しの手紙の端に、――明石のしみは、しみ抜屋にても引受け申さず、この上は、くくみ洗いをして、人肌にて暖め乾かし候よりせむ方なしとて、毎日少しずつふくみ洗いいたし候ては、おかみさんと私とにて毎夜添臥※(「参候」のくずし字)。夜ごとにかわる何とかより針の筵に候えども、お前さまにお目もうじのなごりと思い候えば、それさえうつつ心に嬉しく懐しく存じ※(「参候」のくずし字)……  ふくみ洗いで毎晩抱く、あの明石のしみを。行かれるものか、素手で、どうして。  秋の半ばに、住かえた、と云って、ただそれだけ、上州伊香保から音信があった。  やがてくわしく、と云うのが、そのままになった――今夜なのである。  俊吉は捗取らぬ雪を踏しめ踏しめ、俥を見送られた時を思出すと、傘も忘れて、降る雪に、頭を打たせて俯向きながら、義理と不義理と、人目と世間と、言訳なさと可懐しさ、とそこに、見える女の姿に、心は暗の目は懵として白い雪、睫毛に解けるか雫が落ちた。        十一 「……そういったわけだもの、ね、……そんなに怨むもんじゃない。」  襦袢一重の女の背へ、自分が脱いだ絣の綿入羽織を着せて、その肩に手を置きながら、俊吉は向い合いもせず、置炬燵の同じ隅に凭れていた。  内へ帰ると、一つ躓きながら、框へ上って、奥に仏壇のある、襖を開けて、そこに行火をして、もう、すやすやと寐た、撫つけの可愛らしい白髪と、裾に解きもののある、女中の夜延とを見て、密とまた閉めて、ずかずかと階子を上ると、障子が閉って、張合の無さは、燈にその人の影が見えない。  で、嘘だと思った。  ここで、トボンと夢が覚めるのであろう、と途中の雪の幻さえ、一斉に消えるような、げっそり気の抜けた思いで、思切って障子を開けると、更紗を掛けた置炬燵の、しかも机に遠い、縁に向いた暗い中から、と黒髪が揺めいて、窶れたが、白い顔。するりと緋縮緬の肩を抽いたのは夢ではなかったのである。 「どうした。」  と顔を見た。 「こんな、うまい装をして、驚いたでしょう。」  と莞爾する。 「驚いた。」  とほっと呼吸して、どっか、と俊吉は、はじめて瀬戸ものの火鉢の縁に坐ったのである。 「ああ、座蒲団はこっち。」  と云う、背中に当てて寝ていたのを、ずらして取ろうとしたのを見て、 「敷いておいで、そっちへ行こう、半分ずつ、」  と俊吉はじめて笑った。……  お染は、上野の停車場から。――深川の親の内へも行かずに――じかづけに車でここへ来たのだと云う。……神楽坂は引上げたが、見る間に深くなる雪に、もう郵便局の急な勾配で呼吸ついて、我慢にも動いてくれない。仕方なしに、あれから路の無い雪を分けて、矢来の中をそっちこっち、窓明りさえ見れば気兼をしいしい、一時ばかり尋ね廻った。持ってた洋傘も雪に折れたから途中で落したと云う。それは洲崎を出る時に買ったままの。憑きもののようだ、と寂しく笑った。  俊吉は、卍の中を雪に漾う、黒髪のみだれを思った。  女中が、何よりか、と火を入れて炬燵に導いてから、出先へ迎いに出たあとで、冷いとだけ思った袖も裙も衣類が濡れたから不気味で脱いだ、そして蒲団の下へ掛けたと云う。 「何より不気味だね、衣類の濡れるのは。……私、聞いても悚然する。……済まなかった。お染さん。」  女はそこで怨んだ。  帰る途すがらも、真実の涙を流した言訳を聞いて、暖い炬燵の膚のぬくもりに、とけた雪は、斉しく女の瞳に宿った。その時のお染の目は、大く睜られて美しかった。 「女中さんは。」 「女中か、私はね、雪でひとりでに涙が出ると、茫っと何だか赤いじゃないか。引擦ってみるとお前、つい先へ提灯が一つ行くんだ。やっと、はじめて雪の上に、こぼこぼ下駄のあとの印いたのが見えたっけ。風は出たし……歩行き悩んだろう。先へ出た女中がまだそこを、うしろの人足も聞きつけないで、ふらふらして歩行いているんだ。追着いてね、使がこの使だ、手を曳くようにして力をつけて、とぼとぼ遣りながら炬燵の事も聞いたよ。  しんせつついでだ、酒屋へ寄ってくれ、と云うと、二つ返事で快く引受けたから、図に乗ってもう一つ狐蕎麦を誂えた。」 「上州のお客にはちょうど可いわね。」 「嫌味を云うなよ。……でも、お前は先から麺類を断ってる事を知ってるから、てんのぬきを誂えたぜ。」 「まあ、嬉しい。」  と膝で確りと手を取って、 「じゃ、あの、この炬燵の上へ盆を乗せて、お銚子をつけて、お前さん、あい、お酌って、それから私も飲んで。」  と熟と顔を見つつ、 「願が叶ったわ、私。……一生に一度、お前さん、とそうして、お酒が飲みたかった。ああ、嬉しい。余り嬉しさに、わなわな震えて、野暮なお酌をすると口惜い。稽古をするわ、私。……ちょっとその小さな掛花活を取って頂戴。」 「何にする。」 「お銚子を持つ稽古するの。」 「狂人染みた、何だな、お前。」 「よう、後生だから、一度だって私のいいなり次第になった事はないじゃありませんか。」 「はいはい、今夜の処は御意次第。」  そこが地袋で、手が直ぐに、水仙が少しすがれて、摺って、危く落ちそうに縋ったのを、密と取ると、羽織の肩を媚かしく脱掛けながら、受取ったと思うと留める間もなく、ぐ、ぐ、と咽喉を通して一息に仰いで呑んだ。 「まあ、お染。」 「だって、ここが苦しいんですもの、」  と白い指で、わなわなと胸を擦った。 「ああ、旨かった。さあ、お酌。いいえ、毒なものは上げはしません、ちょっと、ただ口をつけて頂戴。花にでも。」 「ままよ。」……構わず呑もうとすると雫も無かった。  花を唇につけた時である。 「お酒が来たら、何にも思わないで、嬉しく飲みたい。……私、ほんとに伊香保では、酷い、情ない目に逢ったの。  お前さんに逢って、皆忘れたいと思うんだから、聞いて頂戴。……伊香保でね――すぐに一人旦那が出来たの。土地の請負師だって云うのよ、頼みもしないのに無理に引かしてさ、石段の下に景ぶつを出す、射的の店を拵えてさ、そこに円髷が居たんですよ。  この寒いのに、単衣一つでぶるぶる震えて、あの……千葉の。先の呉服屋が来たんでしょう。可哀相でね、お金子を遣って旅籠屋を世話するとね、逗留をして帰らないから、旦那は不断女にかけると狂人のような嫉妬やきだし、相場師と云うのが博徒でね、命知らずの破落戸の子分は多し、知れると面倒だから、次の宿まで、おいでなさいって因果を含めて、……その時止せば可かったのに、湯に入ったのが悪かった。……帯を解いたのを見られたでしょう。  ――染や、今日はいい天気だ、裏の山から隅田川が幽に見えるのが、雪晴れの名所なんだ。一所に見ないかって誘うんですもの。  余り可懐しさに、うっかり雪路を上ったわ。峠の原で、たぶさを取って引倒して、覚えがあろうと、ずるずると引摺られて、積った雪が摺れる枝の、さいかちに手足が裂けて、あの、実の真赤なのを見た時は、針の山に追上げられる雪の峠の亡者か、と思ったんですがね。それから……立樹に結えられて、……」 「お染。」 「短刀で、こ、こことここを、あっちこっち、ぎらぎら引かれて身体一面に血が流れた時は、……私、その、たらたら流れて胸から乳から伝うのが、渇きの留るほど嬉しかった。莞爾莞爾したわ。何とも言えない可い心持だったんですよ。お前さんに、お前さんに、……あの時、――一面に染まった事を思出して何とも言えない、いい心持だったの。この襦袢です。斬られたのは、ここだの、ここだの、」  と俊吉の瞶る目に、胸を開くと、手巾を当てた。見ると、顔の色が真蒼になるとともに、垂々と血に染まるのが、溢れて、わななく指を洩れる。  俊吉は突伏した。  血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留まぬ。  カーンと仏壇のりんが響いた。 「旦那様、旦那様。」 「あ。」  と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活の水が点滴る。  俊吉は、駈下りた。  遠慮して段の下に立った女中が驚きながら、 「あれ、まあ、お銚子がつきましてございますが。」  俊吉は呼吸がはずんで、 「せ、せ、折角だっけ、……客は帰ったよ。」  と見ると、仏壇に灯が点いて、老人が殊勝に坐って、御法の声。 「……我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心……」  白髪に尊き燈火の星、観音、そこにおはします。……駈寄って、はっと肩を抱いた。 「お祖母さん、どうして今頃御経を誦むの。」  慌てた孫に、従容として見向いて、珠数を片手に、 「あのう、今しがた私が夢にの、美しい女の人がござっての、回向を頼むと言わしった故にの、……悉しい事は明日話そう。南無妙法蓮華経。……広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔輭。……」  新聞の電報と、続いて掲げられた上州の記事は、ここには言うまい。俊吉は年紀二十七。 いかほ野やいかほの沼のいかにして       恋しき人をいま一見見む 大正三(一九一四)年一月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店    1940(昭和15)年9月20日発行 ※誤植箇所の確認には底本の親本を用いました。 入力:門田裕志 校正:高柳典子 2007年2月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003655", "作品名": "第二菎蒻本", "作品名読み": "だいにこんにゃくぼん", "ソート用読み": "たいにこんにやくほん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-03-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3655.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成6", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "鏡花全集 第十五卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年9月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "高柳典子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3655_ruby_26024.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3655_26093.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-02-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
場所  美濃、三河の国境。山中の社――奥の院。 名   白寮権現、媛神。(はたち余に見ゆ)神職。(榛貞臣。修験の出)禰宜。(布気田五郎次)老いたる禰宜。雑役の仕丁。(棚村久内)二十五座の太鼓の男。〆太鼓の男。笛の男。おかめの面の男。道化の面の男。般若の面の男。後見一人。お沢。(或男の妾、二十五、六)天狗。(丁々坊)巫女。(五十ばかり)道成寺の白拍子に扮したる俳優。一ツ目小僧の童男童女。村の児五、六人。 禰宜 (略装にて)いや、これこれ(中啓を挙げて、二十五座の一連に呼掛く)大分日もかげって参った。いずれも一休みさっしゃるが可いぞ。 この言葉のうち、神楽の面々、踊の手を休め、従って囃子静まる。一連皆素朴なる山家人、装束をつけず、面のみなり。――落葉散りしき、尾花むら生いたる中に、道化の面、おかめ、般若など、居ならび、立添い、意味なき身ぶりをしたるを留む。おのおのその面をはずす、年は三十より四十ばかり。後見最も年配なり。 後見 こりゃ、へい、……神ぬし様。 道化の面の男 お喧しいこんでござりますよ。 〆太鼓の男 稽古中のお神楽で、へい、囃子ばかりでも、大抵村方は浮かれ上っておりますだに、面や装束をつけましては、媼、媽々までも、仕事稼ぎは、へい、手につきましねえ。 笛の男 明後日げいから、お社の御祭礼で、羽目さはずいて遊びますだで、刈入時の日は短え、それでは気の毒と存じまして、はあ、これへ出合いましたでごぜえますがな。 般若の面の男 見よう見真似の、から猿踊りで、はい、一向にこれ、馴れませぬものだでな、ちょっくらばかり面をつけて見ます了見の処。……根からお麁末な御馳走を、とろろも鱛も打ちまけました。ついお囃子に浮かれ出いて、お社の神様、さぞお見苦しい事でがんしょとな、はい、はい。 禰宜 ああ、いやいや、さような斟酌には決して及ばぬ。料理方が摺鉢俎板を引くりかえしたとは違うでの、催ものの楽屋はまた一興じゃよ。時に日もかげって参ったし、大分寒うもなって来た。――おお沢山な赤蜻蛉じゃ、このちらちらむらむらと飛散る処へ薄日の射すのが、……あれから見ると、近間ではあるが、もみじに雨の降るように、こう薄りと光ってな、夕日に時雨が来た風情じゃ。朝夕存じながら、さても、しんしんと森は深い。(樹立を仰いで)いずれも濡れよう、すぐにまた晴の役者衆じゃ。些と休まっしゃれ。御酒のお流れを一つ進じよう。神職のことづけじゃ、一所に、あれへ参られい。 後見 なあよ。 太鼓の男 おおよ。(言交す。) 道化の面の男 かえっておぞうさとは思うけんどが。 笛の男 されば。 おかめの面の男 御挨拶べい、かたがただで。(いずれも面を、楽しげに、あるいは背、あるいは胸にかけたるまま。) 後見 はい、お供して参りますで。 禰宜 さあさあ、これ。――いや、小児衆――(渠ら幼きが女の児二人、男の子三人にて、はじめより神楽を見て立つ)――一遊び遊んだら、暮れぬ間に帰らっしゃい。 後見 これ、立巌にも、一本橋にも、えっと気をつきょうぞよ。 小児一 ああ。 かくて社家の方、樹立に入る。もみじに松を交う。社家は見えず。 小児二 や、だいぶ散らかした。 小児三 そうだなあ。 小児一 よごれやしないやい、木の葉だい。 小児二 木の葉でも散らばった、でよう。 女児一 もみじでも、やっぱり掃くの? 女児二 茣蓙の上に散っていれば、内でもお掃除するわ。 女児一 神様のいらっしゃる処よ、きれいにして行きましょう。 女児二 お縁は綺麗よ。 小児一 じゃあ、階段から。おい、箒の足りないものは手で引掻け。 女児一 私は袂にするの。 小児二 乱暴だなあ、女のくせに。 女児三 だって、真紅なのだの、黄色い銀杏だの、故とだって懐へさ、入れる事よ。 折れたる熊手、新しきまた古箒を手ん手に引出し、落葉を掻寄せ掻集め、かつ掃きつつ口々に唄う。 「お正月は何処まで、  からから山の下まで、  土産は何じゃ。  榧や、勝栗、蜜柑、柑子、橘。」…… お沢 (向って左の方、真暗に茂れる深き古杉の樹立の中より、青味の勝ちたる縞の小袖、浅葱の半襟、黒繻子の丸帯、髪は丸髷。鬢やや乱れ、うつくしき俤に窶れの色見ゆ。素足草履穿にて、その淡き姿を顕わし、静に出でて、就中杉の巨木の幹に凭りつつ――間。――小児らの中に出づ)まあ、いいお児ね、媛神様のお庭の掃除をして、どんなにお喜びだか知れません――姉さん……(寂く微笑む)あの、小母さんがね、ほんの心ばかりの御褒美をあげましょう。一度お供物にしたのですよ。さあ、お菓子。 小児ら、居分れて、しげしげ瞻る。 お沢 さあ、めしあがれ。 小児一 持って行くの。 女児一 頂いて帰るの。(皆いたいけに押頂く。) お沢 まあ。何故ね。 女児二 でも神様が下さるんですもの。 お沢 ああ、勿体ない。私はお三どんだよ、箒を一つ貸して頂戴。 小児二 じゃあ、おつかい姫だ。 女児一 きれいな姉さん。 女児二 こわいよう。 小児一 そんな事いうと、学校で笑われるぜ。 女児一 だって、きれいな小母さん。 女児二 こわいよう。 小児二 少しこわいなあ。 いい次ぎつつ、お沢の落葉を掻寄する間に、少しずつやや退る。 小児一 お正月かも知れないぜ。この山まで来たんだ。 小児二 や、お正月は女か。 小児三 知らない。 小児一 狐だと大変だなあ。 小児二 そうすりゃこのお菓子なんか、家へ帰ると、榧や勝栗だ。 小児三 そんなら可いけれど、皆木の葉だ。 女の児たち きゃあ―― 男の児たち やあ、転ぶない。弱虫やい。――(かくて森蔭にかくれ去る。) お沢 (箒を堂の縁下に差置き、御手洗にて水を掬い、鬢掻撫で、清き半巾を袂にし、階段の下に、少時ぬかずき拝む。静寂。きりきりきり、はたり。何処ともなく機織の音聞こゆ。きりきりきり、はたり。――お沢。面を上げ、四辺を眗し耳を澄ましつつ、やがて階段に斜に腰打掛く。なお耳を傾け傾け、きりきりきり、はたり。間調子に合わせて、その段の欄干を、軽く手を打ちて、機織の真似し、次第に聞惚れ、うっとりとなり、おくれ毛はらはらとうなだれつつ仮睡る。) 仕丁 (揚幕の裡にて――突拍子なる猿の声)きゃッきゃッきゃッ。(乃ち面長き老猿の面を被り、水干烏帽子、事触に似たる態にて――大根、牛蒡、太人参、大蕪。棒鱈乾鮭堆く、片荷に酒樽を積みたる蘆毛の駒の、紫なる古手綱を曳いて出づ)きゃッ、きゃッ、きゃッ、おきゃッ、きゃア――まさるめでとうのう仕る、踊るが手もと立廻り、肩に小腰をゆすり合わせ、と、ああふらりふらりとする。きゃッきゃッきゃッきゃッ。あはははは。お馬丁は小腰をゆするが、蘆毛よ。(振向く)お厩が近うなって、和どのの足はいよいよ健かに軽いなあ。この裏坂を帰らいでも、正面の石段、一飛びに翼の生じた勢じゃ。ほう、馬に翼が生えて見い。われらに尻尾がぶら下る……きゃッきゃッきゃッ。いや化の皮の顕われぬうちに、いま一献きこしめそう。待て、待て。(馬柄杓を抜取る)この世の中に、馬柄杓などを何で持つ。それ、それこのためじゃ。(酒を酌む)ととととと。(かつ面を脱ぐ)おっとあるわい。きゃッきゃッきゃッ。仕丁めが酒を私するとあっては、御前様、御機嫌むずかしかろう。猿が業と御覧ずれば仔細ない。途すがらも、度々の頂戴ゆえに、猿の面も被ったまま、脱いでは飲み被っては飲み、質の出入れの忙しい酒じゃな。あはははは。おおおお、竜の口の清水より、馬の背の酒は格別じゃ、甘露甘露。(舌鼓うつ)たったったっ、甘露甘露。きゃッきゃッきゃッ。はて、もう御前に近い。も一度馬柄杓でもあるまいし、猿にも及ぶまい。(とろりと酔える目に、あなたに、階なるお沢の姿を見る。慌しくまうつむけに平伏す)ははッ、大権現様、御免なされ下さりませ、御免なされ下さりませ。霊験な御姿に対し恐多い。今やなぞ申しましたる儀は、全く譫言にござります。猿の面を被りましたも、唯おみきを私しょう、不届ばかりではござりませぬ、貴女様御祭礼の前日夕、お厩の蘆毛を猿が曳いて、里方を一巡いたしますると、それがそのままに風雨順調、五穀成就、百難皆除の御神符となります段を、氏子中申伝え、これが吉例にござりまして、従って、海つもの山つものの献上を、は、はッ、御覧の如く清らかに仕りまする儀でござりまして、偏にこれ、貴女様御威徳にござります。お庇を蒙りまする嬉しさの余り、ついたべ酔いまして、申訳もござりませぬ。真平御免され下されまし。ははッ、(恐る恐る地につけたる額を擡ぐ。お沢。うとうととしたるまま、しなやかに膝をかえ身動ぎす。長襦袢の浅葱の褄、しっとりと幽に媚めく)それへ、唯今それへ参りまする。恐れ恐れ。ああ、恐れ。それ以て、烏帽子きた人の屑とも思召さず、面の赤い畜生とお見許し願わしう、はッ、恐れ、恐れ。(再び猿の面を被りつつも進み得ず、馬の腹に添い身を屈め、神前を差覗く)蘆毛よ、先へ立てよ。貴女様み気色に触る時は、矢の如く鬢櫛をお投げ遊ばし、片目をお潰し遊ばすが神罰と承る。恐れ恐れ。(手綱を放たれたる蘆毛は、頓着なく衝と進む。仕丁は、ひょこひょこと従い続く。舞台やがて正面にて、蘆毛は一気に厩の方、右手もみじの中にかくる。この一気に、尾の煽をくらえる如く、仕丁、ハタと躓き四つに這い、面を落す。慌てて懐に捻込む時、間近にお沢を見て、ハッと身を退りながら凝と再び見直す)何じゃ、人か、参詣のものか。はて、可惜二つない肝を潰した。ほう、町方の。……艶々と媚めいた婦じゃが、ええ、驚かしおった、おのれ! しかも、のうのうと居睡りくさって、何処に、馬の通るを知らぬ婦があるものか、野放図な奴めが。――いやいや、御堂、御社に、参籠、通夜のものの、うたたねするは、神の御つげのある折じゃと申す。神慮のほども畏い。……眠を驚かしてはなるまいぞ。(抜足に社前を横ぎる時、お沢。うつつに膝を直さんとする懐中より、一挺の鉄槌ハタと落つ。カタンと鳴る。仕丁。この聊の音にも驚きたる状して、足を爪立てつつ熟と見て、わなわなと身ぶるいするとともに、足疾に樹立に飛入る。間。――懐紙の端乱れて、お沢の白き胸さきより五寸釘パラリと落つ。) 白寮権現の神職を真先に、禰宜。村人一同。仕丁続いて出づ――神職、年四十ばかり、色白く肥えて、鼻下に髯あり。落ちたる鉄槌を奪うと斉しく、お沢の肩を掴む。 神職 これ、婦。 お沢 (声の下に驚き覚め、身を免れんとして、階前には衆の林立せるに遁場を失い、神職の手を振りもぎりながら)御免なさいまし、御免なさいまし。(一度階をのぼりに、廻廊の左へ遁ぐ。人々は縁下より、ばらばらとその行く方を取巻く。お沢。遁げつつ引返すを、神職、追状に引違え、帯際をむずと取る。ずるずる黒繻子の解くるを取って棄て、引据え、お沢の両手をもて犇と蔽う乱れたる胸に、岸破と手を差入る)あれ、あれえ。 神職 (発き出したる形代の藁人形に、すくすくと釘の刺りたるを片手に高く、片手に鉄槌を翳すと斉しく、威丈高に突立上り、お沢の弱腰を摚と蹴る)汚らわしいぞ! 罰当り。 お沢 あ。(階を転び落つ。) 神職 鬼畜、人外、沙汰の限りの所業をいたす。 禰宜 いや何とも……この頃の三晩四晩、夜ふけ小ふけに、この方角……あの森の奥に当って、化鳥の叫ぶような声がしまするで、話に聞く、咒詛の釘かとも思いました。なれど、場所柄ゆえの僻耳で、今の時節に丑の刻参などは現にもない事と、聞き流しておったじゃが、何と先ず……この雌鬼を、夜叉を、眼前に見る事わい。それそれ俯向いた頬骨がガッキと尖って、頤は嘴のように三角形に、口は耳まで真赤に裂けて、色も縹になって来た。 般若の面の男 (希有なる顔して)禰宜様や、私らが事をおっしゃるずらか。 禰宜 気もない事、この女夜叉の悪相じゃ。 般若の面の男 ほう。 道化の面の男 (うそうそと前に出づ)何と、あの、打込む太鼓…… 〆太鼓の男 何じゃい。何じゃい。 道化の面 いや、太鼓ではない。打込む、それよ、カーンカーンと五寸釘……あの可恐い、藁の人形に五寸釘ちゅうは、はあ、その事でござりますかね。(下より神職の手に伸上る。) 笛の男 (おなじく伸上る)手首、足首、腹の真中(我が臍を圧えて反る)ひゃあ、みしみしと釘の頭も見えぬまで打込んだ。ええ、血など、ぼたれてはいぬずらか。 神職 (彼が言のままに、手、足、胴腹を打返して藁人形を翳し見る)血も滴りょう。…藁も肉のように裂けてある。これ、寄るまい。(この時人々の立かかるを掻払う)六根清浄、澄むらく、浄むらく、清らかに、神に仕うる身なればこそ、この邪を手にも取るわ。御身たちが悪く近づくと、見たばかりでも筋骨を悩み煩らうぞよ。(今度は悠然として階を下る。人々は左右に開く)荒び、すさみ、濁り汚れ、ねじけ、曲れる、妬婦め、われは、先ず何処のものじゃ。 お沢 (もの言わず。) 神職 人の娘か。 お沢 (わずかに頭ふる。) 神職 人妻か。 禰宜 人妻にしては、艶々と所帯気が一向に見えぬな。また所帯せぬほどの身柄とも見えぬ。妾、てかけ、囲ものか、これ、霊験な神の御前じゃ、明かに申せ。 お沢 はい、何も申しませぬ、ただ(きれぎれにいう)お恥しう存じます。 神職 おのれが恥を知る奴か。――本妻正室と言わばまた聞こえる。人のもてあそびの腐れ爛れ汚れものが、かけまくも畏き……清く、美しき御神に、嫉妬の願を掛けるとは何事じゃ。 禰宜 これ、速におわびを申し、裸身に塩をつけて揉んでなりとも、払い浄めておもらい申せ。 神職 いや布気田、(禰宜の名)払い清むるより前に、第一は神の御罰、神罰じゃ。御神の御心は、仕え奉る神ぬしがよく存じておる。――既に、草刈り、柴刈りの女なら知らぬこと、髪、化粧し、色香、容づくった町の女が、御堂、拝殿とも言わず、この階に端近く、小春の日南でもある事か。土も、風も、山気、夜とともに身に沁むと申すに。―― 神楽の人々。「酔も覚めて来た」「おお寒」など、皆、襟、袖を掻合わす。 神職 ……居眠りいたいて、ものもあろうず、棺の蓋を打つよりも可忌い、鉄槌を落し、釘を溢す――釘は?…… 禰宜 (掌を見す)これに。 神楽の人々、そと集い覗く。 神職 即ち神の御心じゃ――その御心を畏み、次第を以て、順に運ばねば相成らん。唯今布気田も申す――三晩、四晩、続けて、森の中に鉄槌の音を聞いたというが、毎夜、これへ参ったのか、これ、明に申せよ。どうじゃ。 お沢 はい、(言い淀み、言い淀み)今……夜……が、満……願……でございました。 神職 (御堂を敬う)ああ、神慮は貴い。非願非礼はうけ給わずとも、俗にも満願と申す、その夕に露顕した。明かに邪悪を退け給うたのじゃ。――先刻も見れば、その森から出て参って、小児たちに何か菓子ようのものを与えたが、何か、いつも日の中から森の奥に潜みおって、夜ふけを待って呪詛うたかな。 お沢 はい……あの……もうおかくしは申しません。お山の下の恐しい、あの谿河を渡りました。村方に、知るべのものがありまして、其処から通いましたのでございます。 神楽の人々囁き合う。 禰宜 知っておるかな。 ――「なあ。」「よ。」「うむ。」「あれだ。」口々に―― 後見 何が、お霜婆さんの、ほれ、駄菓子屋の奥に、ちらちらする、白いものがあっけえ。町での御恩人ぞい。恥しい病さあって隠れてござるで、ほっても垣のぞきなどせまいぞ、と婆さんが言うだでな。 笛の男 癩ずらか。 太鼓の男 恥しい病ちゅうで。 おかめの面の男 ほんでも、孕んだ娘だべか。 禰宜 女子が正しい懐妊は恥ではないのじゃ。それでは、毎晩、真夜中に、あの馬も通らぬ一本橋を渡ったじゃなあ。 道化の面の男 女の一念だで一本橋を渡らいでかよ。ここら奥の谿河だけれど、ずっと川下で、東海道の大井川より大かいという、長柄川の鉄橋な、お前様。川むかいの駅へ行った県庁づとめの旦那どのが、終汽車に帰らぬわ。予てうわさの、宿場の娼婦と寝たんべい。唯おくものかと、その奥様ちゅうがや、梅雨ぶりの暗の夜中に、満水の泥浪を打つ橋げたさ、すれすれの鉄橋を伝ってよ、いや、四つ這いでよ。何が、いま産れるちゅう臨月腹で、なあ、流に浸りそうに捌き髪で這うて渡った。その大な腹ずらえ、――夜がえりのものが見た目では、大い鮟鱇ほどな燐火が、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入って燃えたんべいな。 仕丁 お言の中でありますがな、橋が危くば、下の谿河は、巌を伝うて渡られますでな、お厩の馬はいつも流を越します。いや、先刻などは、落葉が重なり重なり、水一杯に渦巻いて、飛々の巌が隠れまして、何処を渡ろうかと見ますうちに、水も、もみじで、一面に真紅になりました。おっと……酔った目の所為ではござりませぬよ。 禰宜 棚村。(仕丁の名)御身は何の話をするや。 仕丁 はあ、いえ、孕婦が鉄橋を這越すから見ますれば、丑の刻参が谿河の一本橋は、気もなく渡ると申すことで。石段は目につきます。裏づたいの山道を森へ通ったに相違はござりますまい。 神職 棚村、御身まず、その婦の帯を棄てい。 禰宜 かような婦の、汚らわしい帯を、抱いているという事があるものか。 仕丁 私が、確と圧えておりますればこそで、うかつに棄てますと、このまま黒蛇に成って踠り廻りましょう。 禰宜 榛(神職名)様がおっしゃる。樹の枝へなりと掛けぬかい。 仕丁 樹に掛けましたら、なお、ずるずると大蛇に成って下ります。(一層胸に抱く。) 神職 棚村、見苦しい、森の中へ放し込め。 仕丁、その言の如くにす。―― お沢 あの……(ふるえながら差出す手を、払いのけて、仕丁。森に行く。帯を投げるとともに飛返る。) 神職 何とした。 仕丁 ずるずるずると巻きましたが、真黒な一幅になって、のろのろと森の奥へ入りました。……大方、釘を打込みます古杉の根へ、一念で、巻きついた事でござりましょう。 神職 いずれ、森の中において、忌わしく、汚らわしき事をいたしおるは必定じゃ。さて、婦。……今日は昼から籠ったか。真直に言え、御前じゃぞ。 お沢 はい、(間)はい、あの、一七日の満願まで……この願を掛けますものは、唯一目、……一度でも、人の目に掛りますと、もうそれぎりに、願が叶わぬと申します。昨夜までは、獣の影にも逢いません。もう一夜、今夜だけ、また不思議に満願の夜といいますと、人に見られると聞きました。見られたら、どうしましょう。口惜い……その人の、咽喉、胸へ喰いつきましても…… 神職 これだ――したたかな婦めが。 お沢 ええ、あのそれが何になりましょう。昼から森にかくれました方が、何がどうでも、第一、人の目にかかりますまいと、ふと思いついたのです。木の葉を被り、草に突伏しても、すくまりましても、雉、山鳥より、心のひけめで、見つけられそうに思われて、気が気ではありません。かえって、ただの参詣人のようにしております方が、何の触りもありますまいと、存じたのでございます。 神職 秘しがくしに秘め置くべき、この呪詛の形代を(藁人形を示す)言わば軽々しう身につけおったは――別に、恐多い神木に打込んだのが、森の中にまだ他にもあるからじゃろ。 お沢 いいえ、いいえ……昨夜までは、打ったままで置きました。私がちょっとでも立離れます間に――今日はまたどうした事でございますか、胸騒ぎがしますまで。…… 禰宜 いや、胸騒ぎが凄じい、男を呪詛うて、責殺そうとする奴が。 お沢 あの、人に見つかりますか、鳥獣にも攫われます。故障が出来そうでなりません。それで……身につけて出ましたのです。そして……そして……お神ぬし様、皆様、誰方様も――憎い口惜しい男の五体に、五寸釘を打ちますなどと、鬼でなし、蛇でなし、そんな可恐い事は、思って見もいたしません。可愛い、大事な、唯一人の男の児が煩っておりますものですから、その病を――疫病がみを―― 「ええ。」「疫病神。」村人らまた退る。 神職 疫病神を―― お沢 はい、封じます、その願掛けなんでございますもの。 神職 町にも、村にも、この八里四方、目下疱瘡も、はしかもない、何の疾だ。 お沢 はい…… 禰宜 何病じゃ。 お沢 はい、風邪を酷くこじらしました。 神職 (嘲笑う)はてな、風に釘を打てば何になる、はてな。 禰宜 はてな、はてな。 村人らも引入れられ、小首を傾くる状、しかつめらし。 仕丁 はあ、皆様、奴凧が引掛るでござりましょうで。 ――揃って嘲り笑う。―― 神職 出来た。――掛ると言えば、身たちも、事件に引掛りじゃ。人の一命にかかわる事、始末をせねば済まされない。……よくよく深く企んだと見えて――見い、その婦、胸も、膝も、ひらしゃらと……(お沢、いやが上にも身を細め、姿の乱れを引つくろい引つくろい、肩、袖、あわれに寂しく見ゆ)余りと言えば雪よりも白い胸、白い肌、白い膝と思うたれば、色もなるほど白々としたが、衣服の下に、一重か、小袖か、真白い衣を絡いいる。魔の女め、姿まで調えた。あれに(肱長く森を指す)形代を礫にして、釘を打った杉のあたりに、如何ような可汚しい可忌しい仕掛があろうも知れぬ。いや、御身たち、(村人と禰宜にいう)この婦を案内に引立てて、臨場裁断と申すのじゃ。怪しい品々かっぽじって来られい。証拠の上に、根から詮議をせねばならぬ。さ、婦、立てい。 禰宜 立とう。 神職 許す許さんはその上じゃ。身は――思う旨がある。一度社宅から出直す。棚村は、身ととも参れ。――村の人も婦を連れて、引立てて―― 村人ら、かつためらい、かつ、そそり立ち、あるいは捜し、手近きを掻取って、鍬、鋤の類、熊手、古箒など思い思いに得ものを携う。 後見 先へ立て、先へ立とう。 禰宜 箒で、そのやきもちの頬を敲くぞ、立ちませい。 お沢 (急に立って、颯と森に行く。一同面を見合すとともに追って入る。神職と仕丁は反対に社宅―舞台上には見えず、あるいは遠く萱の屋根のみ―に入る。舞台空し。落葉もせず、常夜燈の光幽に、梟。二度ばかり鳴く。) 神職 (威儀いかめしく太刀を佩き、盛装して出づ。仕丁相従い床几を提げ出づ。神職。厳に床几に掛る。傍に仕丁踞居て、棹尖に剣の輝ける一流の旗を捧ぐ。――別に老いたる仕丁。一人。一連の御幣と、幣ゆいたる榊を捧げて従う。) お沢 (悄然として伊達巻のまま袖を合せ、裾をずらし、打うなだれつつ、村人らに囲まれ出づ。引添える禰宜の手に、獣の毛皮にて、男枕の如くしたる包一つ、怪き紐にてかがりたるを不気味らしく提げ来り、神職の足近く、どさと差置く。) 神職 神のおおせじゃ、婦、下におれ。――誰ぞ御灯をかかげい――(村人一人、燈を開く。灯にすかして)それは何だ。穿出したものか、ちびりと濡れておる。や、(足を爪立つ)蛇が絡んだな。 禰宜 身どもなればこそ、近う寄っても見ましたれ。これは大木の杉の根に、草にかくしてござりましたが、おのずから樹の雫のしたたります茂ゆえ、びしゃびしゃと濡れております。村の衆は一目見ますと、声も立てずに遁ぎょうとしました。あの、円肌で、いびつづくった、尾も頭も短う太い、むくりむくり、ぶくぶくと横にのたくりまして、毒気は人を殺すと申す、可恐く、気味の悪い、野槌という蛇そのままの形に見えました。なれども、結んだのは生蛇ではござりませぬ。この悪念でも、さすがは婦で、包を結えましたは、継合わせた蛇の脱殻でござりますわ。 神職 野槌か、ああ、聞いても忌わしい。……人目に触れても近寄らせまい巧じゃろ、企んだな。解け、解け。 禰宜 (解きつつ)山犬か、野狐か、いや、この包みました皮は、狢らしうござります。 一同目を注ぐ。お沢はうなだれ伏す。 神職 鏡――うむ、鉄輪――うむ、蝋燭――化粧道具、紅、白粉。おお、お鉄漿、可厭なにおいじゃ。……別に鉄槌、うむ、赤錆、黒錆、青錆の釘、ぞろぞろと……青い蜘蛛、紅い守宮、黒蜥蜴の血を塗ったも知れぬ。うむ、(きらりと佩刀を抜きそばむると斉しく、藁人形をその獣の皮に投ぐ)やあ、もはや陳じまいな、婦。――で、で、で先ず、男は何ものだ。 お沢 (息の下にて言う)俳優です。 ――「俳優、」「ほう俳優。」「俳優。」と口々に言い継ぐ。 神職 何じゃ、俳優?……――町へ参ってでもおるか。国のものか。 お沢 いいえ、大阪に―― 禰宜 やけに大胆に吐すわい。 神職 おのれは、その俳優の妾か。 お沢 いいえ。 神職 聞けば、聞けば聞くほど、おのれは、ここだくの邪淫を侵す。言うまでもない、人の妾となって汚れた身を、鏝塗上塗に汚しおる。あまつさえ、身のほどを弁えずして、百四、五十里、二百里近く離れたままで人を咒詛う。 仕丁 その、その俳優は、今大阪で、名は何と言うかな。姉様。 神職 退れ、棚村。恁る場合に、身らが、その名を聞き知っても、禍は幾分か、その呪詛われた当人に及ぶと言う。聞くな。聞けば聞くほど、何が聞くほどの事もない。――淫奔、汚濁、しばらくの間も神の御前に汚らわしい。茨の鞭を、しゃつの白脂の臀に当てて石段から追落そう。――が呆れ果てて聞くぞ、婦。――その釘を刺した形代を、肌に当てて居睡った時の心持は、何とあった。 お沢 むずむず痒うございました。 禰宜 何じゃ藁人形をつけて……肌が痒い。つけつけと吐す事よ。これは気が変になったと見える。 お沢 いいえ、夢は地獄の針の山。――目の前に、茨に霜の降りましたような見上げる崖がありまして、上れ上れと恐しい二つの鬼に責められます。浅ましい、恥しい、裸身に、あの針のざらざら刺さるよりは、鉄棒で挫かれたいと、覚悟をしておりましたが、馬が、一頭、背後から、青い火を上げ、黒煙を立てて駈けて来て、背中へ打つかりそうになりましたので、思わず、崖へころがりますと、形代の釘でございましょう、針の山の土が、ずぶずぶと、この乳へ……脇の下へも刺りましたが、ええ、痛いのなら、うずくのなら、骨が裂けても堪えます。唯くわッと身うちがほてって、その痒いこと、むず痒さに、懐中へ手を入れて、うっかり払いましたのが、つい、こぼれて、ああ、皆さんのお目に留ったのでございます。 神職 はて、しぶとい。地獄の針の山を、痒がる土根性じゃ。茨の鞭では堪えまい。よい事を申したな、別に御罰の当てようがある。何よりも先ず、その、世に浅ましい、鬼畜のありさまを見しょう。見よう。――御身たちもよく覚えて、お社近い村里の、嫁、嬶々、娘の見せしめにもし、かつは郡へも町へも触れい。布気田。 禰宜 は。 神職 じたばたするなりゃ、手取り足取り……村の衆にも手伝わせて、その婦の上衣を引剥げ。髪を捌かせ、鉄輪を頭に、九つか、七つか、蝋燭を燃して、めらめらと、蛇の舌の如く頂かせろ。 仕丁 こりゃ可い、可い。最上等の御分別。 神職 退れ、棚村。さ、神の御心じゃ、猶予うなよ。 ――渠ら、お沢を押取込めて、そのなせる事、神職の言の如し。両手を扼り、腰を押して、真正面に、看客にその姿を露呈す。―― お沢 ヒイ……(歯を切りて忍泣く。) 神職 いや、蒼ざめ果てた、がまだ人間の婦の面じゃ。あからさまに、邪慳、陰悪の相を顕わす、それ、その般若、鬼女の面を被せろ。おお、その通り。鏡も胸に、な、それそれ、藁人形、片手に鉄槌。――うむその通り。一度、二度、三度、ぐるぐると引廻したらば、可。――何と、丑の刻の咒詛の女魔は、一本歯の高下駄を穿くと言うに、些ともの足りぬ。床几に立たせろ、引上げい。 渠は床几を立つ。人々お沢を抱すくめて床几に載す。黒髪高く乱れつつ、一本の杉の梢に火を捌き、艶媚にして嫋娜なる一個の鬼女、すっくと立つ―― お沢 ええ! 口惜しい。(殆ど痙攣的に丁と鉄槌を上げて、面斜めに牙白く、思わず神職を凝視す。) 神職 (魔を切るが如く、太刀を振ひらめかしつつ後退る)したたかな邪気じゃ、古今の悪気じゃ、激い汚濁じゃ、禍じゃ。(忽ち心づきて太刀を納め、大なる幣を押取って、飛蒐る)御神、祓いたまえ、浄めさせたまえ。(黒髪のその呪詛の火を払い消さんとするや、かえって青き火、幣に移りて、めらめらと燃上り、心火と業火と、もの凄く立累る)やあ、消せ、消せ、悪火を消せ、悪火を消せ。ええ、埒あかぬ。床ぐるみに蹴落さぬかいやい。(狼狽て叫ぶ。人々床几とともに、お沢を押落し、取包んで蝋燭の火を一度に消す。) お沢 (崩折れて、倒れ伏す。) 神職 (吻と息して)――千慮の一失。ああ、致しようを過った。かえって淫邪の鬼の形相を火で明かに映し出した。これでは御罰のしるしにも、いましめにもならぬ。陰惨忍刻の趣は、元来、この婦につきものの影であったを、身ほどのものが気付かなんだ。なあ、布気田。よしよし、いや、村の衆。今度は鬼女、般若の面のかわりに、そのおかめの面を被せい、丑の刻参の装束を剥ぎ、素裸にして、踊らせろ。陰を陽に翻すのじゃ。 仕丁 あの裸踊、有難い。よい慰み、よい慰み。よい慰み! 神職 退れ、棚村。慰みものではないぞ、神の御罰じゃ。 禰宜 踊りましょうかな。ひひひ。(ニヤリニヤリと笑う。) 神職 何さ、笛、太鼓で囃しながら、両手を引張り、ぐるぐる廻しに、七度まで引廻して突放せば、裸体の婦だ、仰向けに寝はせまい。目ともろともに、手も足も舞踊ろう。 「遣るべい、」「遣れ。」「悪魔退散の御祈祷。」村人は饒舌り立つ。太鼓は座につき、早や笛きこゆ。その二、三人はやにわにお沢の衣に手を掛く。―― お沢 ああ、まあ、まあ。 神職 構わず引剥げ。裸体のおかめだ。紅い二布……湯具は許せよ。 仕丁 腰巻、腰巻……(手伝いかかる。) 禰宜 おこしなどというのじゃ。……汚れておろうかの。 後見 この婦なら、きれいでがすべい。 お沢 (身悶えしながら)堪忍して下さいまし、堪忍して下さいまし、そればかりは、そればかりは。 神職 罷成らん! 当社の掟じゃ。が、さよういたした上は、追放して許して遣る。 お沢 どうぞ、このままお許し下さいまし、唯お目の前を離れましたら、里へも家へも帰らずに、あの谿河へ身を投げて、死でお詫をいたします。 神職 水は浅いわ。 お沢 いいえ、あの急な激しい流れ、巌に身体を砕いても。――ええ、情ない、口惜い。前刻から幾度か、舌を噛んで、舌を噛んで死のうと思っても、三日、五日、一目も寝ぬせいか、一枚も欠けない歯が皆弛んで、噛切るやくに立ちません。舌も縮んで唇を、唇を噛むばかり。(その唇より血を流す。) 神職 いよいよ悪鬼の形相じゃ。陽を以って陰を払う。笛、太鼓、さあ、囃せ。引立てろ。踊らせい。 とりどりに、笛、太鼓の庭につきたるが、揃って音を入る。 お沢 (村人らに虐げられつつ)堪忍ね、堪忍、堪忍して、よう。堪忍……あれえ。 からりと鳴って、響くと斉しく、金色の機の梭、一具宙を飛落つ。一同吃驚す。社殿の片扉、颯と開く。 巫女 (階を馳せ下る。髪は姥子に、鼠小紋の紋着、胸に手箱を掛けたり。馳せ出でつつ、その落ちたる梭を取って押戴き、社頭に恭礼し、けいひつを掛く)しい、……しい……しい。…… 一同茫然とす。 御堂正面の扉、両方にさらさらと開く、赤く輝きたる光、燦然として漲る裡に、秘密の境は一面の雪景。この時ちらちらと降りかかり、冬牡丹、寒菊、白玉、乙女椿の咲満てる上に、白雪の橋、奥殿にかかりて玉虹の如きを、はらはらと渡り出づる、気高く、世にも美しき媛神の姿見ゆ。 媛神 (白がさねして、薄紅梅に銀のさや形の衣、白地金襴の帯。髻結いたる下髪の丈に余れるに、色紅にして、たとえば翡翠の羽にてはけるが如き一条の征矢を、さし込みにて前簪にかざしたるが、瓔珞を取って掛けし襷を、片はずしにはずしながら、衝と廻廊の縁に出づ。凛として)お前たち、何をする。 ――(一同ものも言い得ず、ぬかずき伏す。少しおくれて、童男と童女と、ならびに、目一つの怪しきが、唐輪と切禿にて、前なるは錦の袋に鏡を捧げ、後なるは階を馳せ下り、巫女の手より梭を取り受け、やがて、欄干擬宝珠の左右に控う。媛神、立直りて)――お沢さん、お沢さん。 巫女 (取次ぐ)お女中、可恐い事はないぞな、はばかり多や、畏けれど、お言葉ぞな、あれへの、おん前への。 お沢 はい――はい…… 媛神 まだ形代を確り持っておいでだね。手がしびれよう。姥、預ってお上げ。(巫女受取って手箱に差置く)――お沢さん、あなたの頼みは分りました。一念は届けて上げます。名高い俳優だそうだけれど、私は知りません、何処に、いま何をしていますか。 巫女 今日、今夜――唯今の事は、海山百里も離れまして、この姉さまも、知りますまい。姥が申上げましょう。 媛神 聞きましょう――お沢さん、その男の生命を取るのだね。 お沢 今さら、申上げますも、空恐しうございます、空恐しう存じあげます。 媛神 森の中でも、この場でも、私に頼むのは同じ事。それとも思い留るのかい。 お沢 いいえ、私の生命をめされましても、一念だけは、あの一念だけは。――あんまり男の薄情さ、大阪へも、追縋って参りましたけれど、もう……男は、石とも、氷とも、その冷たさはありません。口も利かせはいたしません。 巫女 いやみ、つらみや、怨み、腹立ち、怒ったりの、泣きついたりの、口惜しがったり、武しゃぶりついたり、胸倉を取ったりの、それが何になるものぞ。いい女が相好崩して見っともない。何も言わずに、心に怨んで、薄情ものに見せしめに、命の咒詛を、貴女様へ願掛けさしゃった、姉さんは、おお、お怜悧だの。いいお娘だ。いいお娘だ。さて何とや、男の生命を取るのじゃが、いまたちどころに殺すのか。手を萎し、足を折り、あの、昔田之助とかいうもののように胴中と顔ばかりにしたいのかの、それともその上、口も利かせず、死んだも同様にという事かいの。 お沢 ええ、もう一層(屹と意気組む)ひと思いに! 巫女 お姫様、お聞きの通りでござります。 媛神 男は? 巫女 これを御覧遊ばされまし。(胸の手箱を高く捧げ、さし翳して見せ参らす。) 媛神 花の都の花の舞台、咲いて乱れた花の中に、花の白拍子を舞っている…… 巫女 座頭俳優が所作事で、道成寺とか、……申すのでござります。 神職 ははっ、ははっ、恐れながら、御神に伺い奉る、伺い奉る……謹み謹み白す。 媛神 (――無言――) 神職 恐れながら伺い奉る……御神慮におかせられては――畏くも、これにて漏れ承りまする処におきましては――これなる悪女の不届な願の趣……趣をお聞き届け…… 媛神 肯きます。不届とは思いません。 神職 や、この邪を、この汚を、おとりいれにあい成りまするか。その御霊、御魂、御神体は、いかなる、いずれより、天降らせます。…… 媛神 石垣を堅めるために、人柱と成って、活きながら壁に塗られ、堤を築くのに埋められ、五穀のみのりのための犠牲として、俎に載せられた、私たち、いろいろなお友だちは、高い山、大な池、遠い谷にもいくらもあります。――不断私を何と言ってお呼びになります。 神職 はッ、白寮権現、媛神と申し上げ奉る。 媛神 その通り。 神職 そ、その媛神におかせられては、直ぐなること、正しきこと、明かに清らけきことをこそお司り遊ばさるれ、恁る、邪に汚れたる…… 媛神 やみの夜は、月が邪だというのかい。村里に、形のありなしとも、悩み煩らいのある時は、私を悪いと言うのかい。 神職 さ、さ、それゆえにこそ、祈り奉るものは、身を払い、心を払い、払い清めましての上に、正しき理、夜の道さえ明かなるよう、風も、病も、悪きをば払わせたまえと、御神の御前に祈り奉る。 媛神 それは御勝手、私も勝手、そんな事は知りません。 神職 これは、はや、恐れながら、御声、み言葉とも覚えませぬ。不肖榛貞臣、徒らに身すぎ、口すぎ、世の活計に、神職は相勤めませぬ。刻苦勉励、学問をも仕り、新しき神道を相学び、精進潔斎、朝夕の供物に、魂の切火打って、御前にかしずき奉る…… 媛神 私は些とも頼みはしません。こころざしは受けますが、三宝にのったものは、あとで、食べるのは、あなた方ではありませんか。 神職 えっ、えっ、それは決して正しき神のお言葉ではない。(わななきながら八方を礼拝す。禰宜、仕丁、同じく背ける方を礼拝す。) 媛神 邪な神のすることを御覧――いま目のあたりに、悪魔、鬼畜と罵らるる、恋の怨の呪詛の届く験を見せよう。(静に階を下りてお沢に居寄り)ずっとお立ち――私の袖に引添うて、(巫女に)姥、弓をお持ちか。 巫女 おお、これに。(梓の弓を取り出す。) 媛神 (お沢に)その弓をお持ちなさい。(簪の箭を取って授けつつ)楊弓を射るように――釘を打って呪詛うのは、一念の届くのに、三月、五月、三年、五年、日と月と暦を待たねばなりません。いま、見るうちに男の生命を、いいかい、心をよく静めて。――唐輪。(女の童を呼ぶ)その鏡を。(女の童は、錦をひらく。手にしつつ)――的、的、的です。あれを御覧。(空ざまに取って照らすや、森々たる森の梢一処に、赤き光朦朧と浮き出づるとともに、テントツツン、テントツツン、下方かすめて遥にきこゆ)……見えたか。 お沢 あれあれ、彼処に――憎らしい。ああ、お姫様。 媛神 ちゃんとお狙い。 お沢 畜生!(切って放つ。) 一陣の迅き風、一同聳目し、悚立す。 巫女 お見事や、お見事やの。(しゃがれた笑)おほほほほ。(凄く笑う。) 吹つのる風の音凄まじく、荒波の響きを交う。舞台暗黒。少時して、光さす時、巫女。ハタと藁人形を擲つ。その位置の真上より振袖落ち、紅の裙翻り、道成寺の白拍子の姿、一たび宙に流れ、きりきりと舞いつつ真倒に落つ。もとより、仕掛けもの造りものの人形なるべし。神職、村人ら、立騒ぐ。 お沢 ああ、どうしましょう、あれ、(その胸、その手を捜ろうとして得ず、空しく掻捜るのみ。) 媛神 それは幻、あなたの鏡に映るばかり、手に触るのではありません。 お沢 ああ唯貴女のお姿ばかり、暗い思は晴れました。媛神様、お嬉しう存じます。 丁々坊 お使いのもの!(森の梢に大音あり)――お髪の御矢、お返し申し上ぐる。……唯今。――(梢より先ず呼びて、忽ち枝より飛び下る。形は山賤の木樵にして、翼あり、面は烏天狗なり。腰に一挺の斧を帯ぶ)御矢をばそれへ。――(女の童。階を下り、既にもとにつつみたる、錦の袋の上に受く。) 媛神 御苦労ね。 巫女 我折れ、お早い事でござりましたの。 丁々坊 瞬く間というは、凡そこれでござるな。何が、芝居は、大山一つ、柿の実ったような見物でござる。此奴、(白拍子)別嬪かと思えば、性は毛むくじゃらの漢が、白粉をつけて刎ねるであった。 巫女 何を、何を言うぞいの。何ごとや――山にばかりおらんと世の中を見さっしゃれ、人が笑いますに。何を言うぞいの。 丁々坊 何か知らぬが、それは措け。はて、何とやら、テンツルテンツルテンツルテンか、鋸で樹をひくより、早間な腰を振廻いて。やあ。(不器用千万なる身ぶりにて不状に踊りながら、白拍子のむくろを引跨ぎ、飛越え、刎越え、踊る)おもえばこの鐘うらめしやと、竜頭に手を掛け飛ぶぞと見えしが、引かついでぞ、ズーンジャンドンドンジンジンジリリリズンジンデンズンズン(刎上りつつ)ジャーン(忽ち、ガーン、どどど凄じき音す。――神職ら腰をつく。丁々坊、落着き済まして)という処じゃ。天井から、釣鐘が、ガーンと落ちて、パイと白拍子が飛込む拍子に――御矢が咽喉へ刺った。(居ずまいを直す)――ははッ、姫君。大釣鐘と白拍子と、飛ぶ、落つる、入違いに、一矢、速に抜取りまして、虚空を一飛びに飛返ってござる。が、ここは風が吹きぬけます。途すがら、遠州灘は、荒海も、颶風も、大雨も、真の暗夜の大暴風雨。洗いも拭いもしませずに、血ぬられた御矢は浄まってござる。そのままにお指料。また、天を飛びます、その御矢の光りをもって、沖に漂いました大船の難破一艘、乗組んだ二百あまりが、方角を認め、救われまして、南無大権現、媛神様と、船の上に黒く並んで、礼拝恭礼をしましてござる。――御利益、――御奇特、祝着に存じ奉る。 巫女 お喜びを申上げます。 媛神 (梢を仰ぐ)ああ、空にきれいな太白星。あの光りにも恥かしい、……私の紅い簪なんぞ。…… 神職 御神、かけまくもかしこき、あやしき御神、このまま生命を召さりょうままよ、遊ばされました事すべて、正しき道でござりましょうか――榛貞臣、平に、平に。……押して伺いたてまつる。 媛神 存じません。 禰宜 ええ、御神、御神。 媛神 知らない。 ――「平に一同、」「一同偏に、」「押して伺い奉る、」村人らも異口同音にやや迫りいう―― 巫女 知らぬ、とおっしゃる。 神職 いや、神々の道が知れませいでは、世の中は東西南北を相失いまする。 媛神 廻ってお歩行きなさいまし、お沢さんをぐるぐると廻したように、ほほほ。そうして、道の返事は――ああ、あすこでしている。あれにお聞き。 「のりつけほうほう、ほうほう、」――梟鳴く。 神職 何、あの梟鳥をお返事とは? 媛神 あなた方の言う事は、私には、時々あのように聞こえます。よくお聞きなさるがよい。 ――梟、頻に鳴く。「のりつけほうほう」―― 老仕丁 のりつけほうほう。のりたもうや、つげたもうや。あやしき神の御声じゃ、のりつけほうほう。(と言うままに、真先に、梟に乗憑られて、目の色あやしく、身ぶるいし、羽搏す。) ――これを見詰めて、禰宜と、仕丁と、もろともに、のり憑かれ、声を上ぐ。――「のりつけほう。――のりつけほうほう、ほう。」 次第に村人ら皆憑らる――「のりつけほうほう。ほうほう。ほうほう」―― 神職 言語道断、ただ事でない、一方ならぬ、夥多しい怪異じゃ。したたかな邪気じゃ。何が、おのれ、何が、ほうほう…… (再び太刀を抜き、片手に幣を振り、飛より、煽りかかる人々を激しくなぎ払い打ち払う間、やがて惑乱し次第に昏迷して――ほうほう。――思わず袂をふるい、腰を刎ねて)ほう、ほう、のりつけ、のりつけほう。のりつけほう。〔備考、この時、看客あるいは哄笑すべし。敢て煩わしとせず。〕(恁くして、一人一人、枝々より梟の呼び取る方に、ふわふわとおびき入れらる。) 丁々坊 ははははは。(腹を抱えて笑う。) 媛神 姥、お客を帰そう。あらしが来そうだから。 巫女 御意。 媛神 蘆毛、蘆毛。――(駒、おのずから、健かに、すとすと出づ。――ほうほうのりつけほうほう――と鳴きつつ来る。媛神。軽く手を拍つや、その鞍に積めるままなる蕪、太根、人参の類、おのずから解けてばらばらと左右に落つ。駒また高らかに鳴く。のりつけほうほう。――) 媛神 ほほほほ、(微笑みつつ寄りて、蘆毛の鼻頭を軽く拊つ)何だい、お前まで。(駒、高嘶きす)〔――この時、看客の笑声あるいは静まらん。然らんには、この戯曲なかば成功たるべし。〕――お沢さん、疲れたろう。乗っておいで。姥は影に添って、見送ってお上げ――人里まで。 お沢 お姫様。 巫女 もろともにお礼をば申上げます。 蘆毛は、ひとりして鰭爪軽く、お沢に行く。 丁々坊 ははは、この梟、羽を生せ。(戯れながら――熊手にかけて、白拍子の躯、藁人形、そのほか、釘、獣皮などを掻き浚う。) 巫女 さ、このお娘。――貴女様に、御挨拶申上げて…… お沢 (はっと手をつかう)お姫様。草刈、水汲いたします。お傍にいとう存じます。 媛神 (廻廊に立つ)――私の傍においでだと、一つ目のおばけに成ります、可恐い、可恐い、……それに第一、こんな事、二度とはいけません。早く帰って、そくさいにおくらし。――駒に乗るのに坐っていないで、遠慮のう。 お沢 (涙ぐみつつ)お姫様。 巫女 丁どや――丑の上刻ぞの。(手綱を取る。) 媛神 (鬢に真白き手を、矢を黒髪に、女性の最も優しく、なよやかなる容儀見ゆ。梭を持てるが背後に引添い、前なる女の童は、錦の袋を取出で下より翳し向く。媛神、半ば簪して、その鏡を視る。丁々坊は熊手をあつかい、巫女は手綱を捌きつつ――大空に、笙、篳篥、幽なる楽。奥殿に再び雪ふる。まきおろして)―― ――幕――
底本:「海神別荘 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1994(平成6)年4月18日第1刷発行    2001(平成13)年1月15日第4刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店    1942(昭和17)年10月15日第1刷発行 初出:「文藝春秋」    1927(昭和2)年3月 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2007年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045941", "作品名": "多神教", "作品名読み": "たしんきょう", "ソート用読み": "たしんきよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文藝春秋」1927(昭和2)年3月", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card45941.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海神別荘 他二篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1994(平成6)年4月18日", "入力に使用した版1": "2001(平成13)年1月15日第4刷", "校正に使用した版1": "1994(平成6)年4月18日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十六巻", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/45941_ruby_26481.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/45941_26582.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
上  去にし年秋のはじめ、汽船加能丸の百餘の乘客を搭載して、加州金石に向ひて、越前敦賀港を發するや、一天麗朗に微風船首を撫でて、海路の平穩を極めたるにも關はらず、乘客の面上に一片暗愁の雲は懸れり。  蓋し薄弱なる人間は、如何なる場合にも多くは己を恃む能はざるものなるが、其の最も不安心と感ずるは海上ならむ。  然れば平日然までに臆病ならざる輩も、船出の際は兎や角と縁起を祝ひ、御幣を擔ぐも多かり。「一人女」「一人坊主」は、暴風か、火災か、難破か、いづれにもせよ危險ありて、船を襲ふの兆なりと言傳へて、船頭は太く之を忌めり。其日の加能丸は偶然一人の旅僧を乘せたり。乘客の暗愁とは他なし、此の不祥を氣遣ふにぞありける。  旅僧は年紀四十二三、全身黒く痩せて、鼻隆く、眉濃く、耳許より頤、頤より鼻の下まで、短き髭は斑に生ひたり。懸けたる袈裟の色は褪せて、法衣の袖も破れたるが、服裝を見れば法華宗なり。甲板の片隅に寂寞として、死灰の如く趺坐せり。  加越地方は殊に門徒眞宗、歸依者多ければ、船中の客も又門徒七八分を占めたるにぞ、然らぬだに忌はしき此の「一人坊主」の、別けて氷炭相容れざる宗敵なりと思ふより、乞食の如き法華僧は、恰も加能丸の滅亡を宣告せむとて、惡魔の遣はしたる使者としも見えたりけむ、乘客等は二人三人、彼方此方に額を鳩めて呶々しつゝ、時々法華僧を流眄に懸けたり。  旅僧は冷々然として、聞えよがしに風説して惡樣に罵る聲を耳にも入れざりき。  せめては四邊に心を置きて、肩身を狹くすくみ居たらば、聊か恕する方もあらむ、遠慮もなく席を占めて、落着き澄したるが憎しとて、乘客の一人は衝と其の前に進みて、 「御出家、今日の御天氣は如何でせうな。」  旅僧は半眼に閉ぎたる眼を開きて、 「さればさ、先刻から降らぬから、お天氣でござらう。」と言ひつゝ空を打仰ぎて、 「はゝあ、是はまた結構なお天氣で、日本晴と謂ふのでござる。」  此の暢氣なる答を聞きて、渠は呆れながら、 「そりや、誰だつて知つてまさ、私は唯急に天氣模樣が變つて、風でも吹きやしまいかと、其をお聞き申すんでさあ。」 「那樣事は知らぬな。私は目下の空模樣さへお前さんに聞かれたので、やつと氣が着いたくらゐぢやもの。いや又雨が降らうが、風が吹かうが、そりや何もお天氣次第ぢや、此方の構ふこツちや無いてな。」 「飛んだ事を。風が吹いて耐るもんか。船だ、もし、私等御同樣に船に乘つて居るんですぜ。」  と渠は良怒を帶びて聲高になりぬ。旅僧は少しも騷がず、 「成程、船に居て暴風雨に逢へば、船が覆るとでも謂ふ事かの。」 「知れたこツたわ。馬鹿々々しい。」  渠の次第に急込むほど、旅僧は益す落着きぬ。 「して又、船が覆れば生命を落さうかと云ふ、其の心配かな。いや詰らぬ心配ぢや。お前さんは何か(人相見)に、水難の相があるとでも言はれたことがありますかい。まづ〳〵聞きなさい。さも無ければ那樣ことを恐がると云ふ理窟がないて。一體お前さんに限らず、乘合の方々も又然うぢや、初手から然ほど生命が危險だと思ツたら、船なんぞに乘らぬが可いて。また生命を介はずに乘ツた衆なら、風が吹かうが、船が覆らうが、那樣事に頓着は無い筈ぢやが、恁う見渡した處では、誰方も怯氣々々もので居らるゝ樣子ぢやが、さて〳〵笑止千萬な、水に溺れやせぬかと、心配する樣な者は、何の道はや平生から、後生の善い人ではあるまい。  先づ人に天氣を問はうより、自分の胸に聞いて見るぢやて。 (己は難船に會ふやうなものか、何うぢや。)と、其處で胸が、(お前は隨分罪を造つて居るから何うだか知れぬ。)と恁う答へられた日にや、覺悟もせずばなるまい。もし(否、惡い事をした覺もないから、那樣氣遣は些とも無い。)と恁うありや、何の雨風ござらばござれぢや。喃、那樣ものではあるまいか。  して見るとお前さん方のおど〳〵するのは、心に覺束ない處があるからで、罪を造つた者と見える。懺悔さつしやい、發心して坊主にでもならつしやい。(一人坊主)だと言うて騷いでござるから丁度可い、誰か私の弟子になりなさらんか、而して二三人坊主が出來りや、もう(一人坊主)ではなくなるから、頓と氣が濟んで可くござらう。」  斯く言ひつゝ法華僧は哄然と大笑して、其まゝ其處に肱枕して、乘客等がいかに怒りしか、いかに罵りしかを、渠は眠りて知らざりしなり。 下  恁て、數時間を經たりし後、身邊の人聲の騷がしきに、旅僧は夢破られて、唯見れば變り易き秋の空の、何時しか一面掻曇りて、暗澹たる雲の形の、凄じき飛天夜叉の如きが縱横無盡に馳せ𢌞るは、暴風雨の軍を催すならむ、其一團は早く既に沿岸の山の頂に屯せり。  風一陣吹き出でて、船の動搖良激しくなりぬ。恁の如き風雲は、加能丸既往の航海史上珍しからぬ現象なれども、(一人坊主)の前兆に因りて臆測せる乘客は、恁る現象を以て推すべき、風雨の程度よりも、寧ろ幾十倍の恐を抱きて、渠さへあらずば無事なるべきにと、各々我命を惜む餘に、其死を欲するに至るまで、怨恨骨髓に徹して、此の法華僧を憎み合へり。  不幸の僧はつく〴〵此状を眗し、慨然として、 「あゝ、末世だ、情ない。皆が皆で、恁う又信仰の弱いといふは何うしたものぢやな。此處で死ぬものか、死なないものか、自分で判斷をして、活きると思へば平氣で可し、死ぬと思や靜に未來を考へて、念佛の一つも唱へたら何うぢや、何方にした處が、わい〳〵騷ぐことはない。はて、見苦しいわい。  然し私も出家の身で、人に心配を懸けては濟むまい。可し、可し。」  と渠は獨り頷きつゝ、從容として立上り、甲板の欄干に凭りて、犇き合へる乘客等を顧みて、 「いや、誰方もお騷ぎなさるな。もう斯うなつちや神佛の信心では皆の衆に埒があきさうもないに依つて、唯私が居なければ大丈夫だと、一生懸命に信仰なさい、然うすれば屹度助かる。宜しいか〳〵。南無、」  と一聲、高らかに題目を唱へも敢へず、法華僧は身を躍らして海に投ぜり。 「身投だ、助けろ。」  船長の命の下に、水夫は一躍して難に赴き、辛うじて法華僧を救ひ得たり。  然りし後、此の(一人坊主)は、前とは正反對の位置に立ちて、乘合をして却りて我あるがために船の安全なるを確めしめぬ。  如何となれば、乘客等は爾く身を殺して仁を爲さむとせし、此大聖人の徳の宏大なる、天は其の報酬として渠に水難を與ふべき理由のあらざるを斷じ、恁る聖僧と與にある者は、此結縁に因りて、必ず安全なる航行をなし得べしと信じたればなり。良時を經て乘客は、活佛――今新たに然か思へる――の周圍に集りて、一條の法話を聞かむことを希へり。漸く健康を囘復したる法華僧は、喜んで之を諾し、打咳きつゝ語出しぬ。 「私は一體京都の者で、毎度此の金澤から越中の方へ出懸けるが、一度ある事は二度とやら、船で(一人坊主)になつて、乘合の衆に嫌はれるのは今度がこれで二度目でござる。今から二三年前のこと、其時は、船の出懸けから暴風雨模樣でな、風も吹く、雨も降る。敦賀の宿で逡巡して、逗留した者が七分あつて、乘つたのはまあ三分ぢやつた。私も其時分は果敢ない者で、然云ふ天氣に船に乘るのは、實は二の足の方であつたが。出家の身で生命を惜むかと、人の思はくも恥かしくて、怯氣々々もので乘込みましたぢや。さて段々船の進むほど、風は荒くなる、波は荒れる、船は搖れる。其又搖れ方と謂うたら一通でなかつたので、吐くやら、呻くやら、大苦みで正體ない者が却つて可羨しいくらゐ、と云ふのは、氣の確なものほど、生命が案じられるでな、船が恁うぐつと傾く度に、はツ〳〵と冷い汗が出る。さてはや、念佛、題目、大聲に鯨波の聲を揚げて唸つて居たが、やがて其も蚊の鳴くやうに弱つてしまふ。取亂さぬ者は一人もない。  恁云ふ私が矢張その、おい〳〵泣いた連中でな、面目もないこと。  昔彼の文覺と云ふ荒法師は、佐渡へ流される船路で、暴風雨に會つたが、船頭水夫共が目の色を變へて騷ぐにも頓着なく、大の字なりに寢そべつて、雷の如き高鼾ぢや。  すると船頭共が、「恁麽惡僧が乘つて居るから龍神が祟るのに違ひない、疾く海の中へ投込んで、此方人等は助からう。」と寄つて集つて文覺を手籠にしようとする。其時荒坊主岸破と起上り、舳に突立ツて、はつたと睨め付け、「いかに龍神不禮をすな、此船には文覺と云ふ法華の行者が乘つて居るぞ!」と大音に叱り付けたと謂ふ。  何と難有い信仰ではないか。強い信仰を持つて居る法師であつたから、到底龍神如きがこの俺を沈めることは出來ない、波浪不能沒だ、と信じて疑はぬぢやから、其處でそれ自若として居られる。  又死んでも極樂へ確に行かれる身ぢやと固く信じて居る者は、恁云ふ時には驚かぬ。  まあ那樣事は措いて、其時船の中で、些とも騷がぬ、いやも頓と平氣な人が二人あつた。美しい娘と可愛らしい男の兒ぢや。姊弟と見えてな、似て居ました。  最初から二人對坐で、人交もせぬで何か睦まじさうに話をして居たが、皆がわい〳〵言つて立騷ぐのを見ようともせず、まるで別世界に居るといふ顏色での。但金石間近になつた時、甲板の方に何か知らん恐しい音がして、皆が、きやツ!と叫んだ時ばかり、少し顏色を變へたぢや。別に仔細もなかつたと見えて、其内靜まつたが、姊弟は立ちさうにもせず、まことに常の通りに、澄して居たに因つて、餘り不思議に思うたから、其日難なく港に着いて、姊弟が建場の茶屋に腕車を雇ひながら休んで居る處へ行つて、言葉を懸けて見ようとしたが、其子達の氣高さ!貴さ! 思はず此の天窓が下つたぢや。  そこで土間へ手を支へて、「何ういふ御修行が積んで、あのやうに生死の場合に平氣でお在なされた」と、恐入つて尋ねました。  すると答には、「否、私等は東京へ修行に參つて居るものでござるが、今度國許に父が急病と申す電報が懸つて、其で歸るのでござるが、急いで見舞はんければなりませんので、止むを得ず船にしました。しかし父樣には私達二人の外に、子と云ふものはござらぬ、二人にもしもの事がありますれば、家は絶えてしまひまする。父樣は善いお方で、其きり跡の斷えるやうな惡い事爲置かれた方ではありませんから、私どもは甚麽危い恐い目に出會ひましても、安心でございます。それに私が危ければ、此の弟が助けてくれます、私もまた弟一人は殺しません。其で二人とも大丈夫と思ひますから。少しも恐くはござらぬ。」と恁う云ふぢや。私にはこれまで讀んだ御經より、餘程難有くて涙が出た。まことに善知識、そのお庇で大きに悟りました。  乘合の衆も何がなしに、自分で自分を信仰なさい。船が大丈夫と信じたら乘つて出る、出た上では甚麽颶風が來ようが、船が沈まうが、體が溺れようが、なに、大丈夫だと思つてござれば、些とも驚くことはない。こりやよし死んでも生返る。もし又船が危いと信じたらば、乘らぬことでござるぞ。何でもあやふやだと安心がならぬ、人を恃むより神佛を信ずるより、自分を信仰なさるが一番ぢや。」  船の港に着きけるまで懇に説聞かして、此殺身爲仁の高僧は、飄然として其名も告げず立去りにけり。
底本:「鏡花全集 卷二」岩波書店    1942(昭和17)年9月30日第1刷発行    1973(昭和48)年12月3日第2刷発行 入力:土屋隆 校正:門田裕志 2005年10月28日作成 2011年3月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001186", "作品名": "旅僧", "作品名読み": "たびそう", "ソート用読み": "たひそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-11-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card1186.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鏡花全集 卷二", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年9月30日", "入力に使用した版1": "1973(昭和48)年12月3日第2刷", "校正に使用した版1": "1986(昭和61)年10月3日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1186_ruby_19819.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-03-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1186_20037.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-03-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
 ――これは、そゞろな秋のおもひでである。青葉の雨を聞きながら――  露を其のまゝの女郎花、浅葱の優しい嫁菜の花、藤袴、また我亦紅、はよく伸び、よく茂り、慌てた蛙は、蒲の穂と間違へさうに、(我こそ)と咲いて居る。――添へて刈萱の濡れたのは、蓑にも織らず、折からの雨の姿である。中に、千鳥と名のあるのは、蕭々たる夜半の風に、野山の水に、虫の声と相触れて、チリチリ鳴りさうに思はれる……その千鳥刈萱。――通称はツリガネニンジンであるが、色も同じ桔梗を薄く絞つて、俯向けにつら〳〵と連り咲く紫の風鈴草、或は曙の釣鐘草と呼びたいやうな草の花など――皆、玉川の白露を鏤めたのを、――其の砧の里に実家のある、――町内の私のすぐ近所の白井氏に、殆ど毎年のやうに、土産にして頂戴する。  其年も初秋の初夜過ぎて、白井氏が玉川べりの実家へ出向いた帰りだと云って、――夕立が地雨に成つて、しと〳〵と降る中を、まだ寝ぬ門を訪れて、框にしつとりと置いて、帰んなすつた。  慣れても、真新しい風情の中に、其の釣鐘草の交つたのが、わけて珍らしかつたのである。  鏑木清方さんが――まだ浜町に居る頃である。塵も置かない綺麗事の庭の小さな池の縁に、手で一寸劃られるばかりな土に、紅蓼、露草、蚊帳釣草、犬ぢやらしなんど、雑草なみに扱はるゝのが、野山路、田舎の状を髣髴として、秋晴の薄日に乱れた中に、――其の釣鐘草が一茎、丈伸びて高く、すつと咲いて、たとへば月夜の村芝居に、青い幟を見るやうな、色も灯れて咲いて居た。  遣水の音がする。……  萩も芙蓉も、此の住居には頷かれるが、縁日の鉢植を移したり、植木屋の手に掛けたものとは思はれない。 「あれは何うしたのです。」  と聞くと、お照さん――鏑木夫人――が、 「春ね、皆で玉川へ遊びに行きました時、――まだ何にも生えて居ない土を、一かけ持つて来たんですよ。」  即ち名所の土の傀儡師が、箱から気を咲かせた草の面影なのであつた。  さら〳〵と風に露が散る。  また遣水の音がした。  金をかけて、茶座敷を営むより、此の思ひつき至つて妙、雅にして而して優である。  ……其の後、つくし、餅草摘みに、私たち玉川へ行つた時、真似して、土を、麹一枚ばかりと、折詰を包んだ風呂敷を一度ふるつては見たものの、土手にも畦にも河原にも、すく〳〵と皆気味の悪い小さな穴がある。――釣鐘草の咲く時分に、振袖の蛇体なら好いとして、黄頷蛇が、によろによろ、などは肝を冷すと何だか手をつけかねた覚えがある。 「何を振廻はして居るんだな、早く水を入れて遣らないかい。」  でん〳〵太鼓を貰へたやうに、馬鹿が、嬉しがつて居る家内のあとへ、私は縁側へついて出た。 「これですもの、どつさりあつて……枝も葉もほごしてからでないと、何ですかね、蝶々が入つて寝て居さうで……いきなり桶へ突込んでは気の毒ですから。」  へん、柄にない。  フヽンと苦笑をする処だが、此処は一つ、敢て山のかみのために弁じたい。  秋は、これよりも深かつた。――露の凝つた秋草を、霜早き枝のもみぢに添へて、家内が麹町の大通りの花政と云ふのから買つて帰つた事がある。  ……其時、おや、小さな木兎、雑司ヶ谷から飛んで来たやうな、木葉木兎、青葉木兎とか称ふるのを提げて来た。  手広い花屋は、近まはり近在を求るだけでは間に合はない。其処で、房州、相模はもとより、甲州、信州、越後あたりまで――持主から山を何町歩と買ひしめて、片つ端から鎌を入れる。朝夕の風、日南の香、雨、露、霜も、一斉に貨物車に積込むのださうである。――其年活けた最初の錦木は、奥州の忍の里、竜胆は熊野平碓氷の山岨で刈りつゝ下枝を透かした時、昼の半輪の月を裏山の峰にして、ぽかんと留まつたのが、……其の木兎で。  若い衆が串戯に生捉つた。  こんな事はいくらもある。 「洒落に持つてつて御覧なせえ。」と、花政の爺さんが景ぶつに寄越したのだと言ふのである。  げに人柄こそは思はるれ。……お嬢さん、奥方たち、婦人の風采によつては、鶯、かなりや、……せめて頬白、獦子鳥ともあるべき処を、よこすものが、木兎か。……あゝ人柄が思はれる。  が、秋日の縁側に、ふはりと懸り、背戸の草に浮上つて、傍に、其のもみぢに交る樫の枝に、団栗の実の転げたのを見た時は、恰も買つて来た草中から、ぽつと飛出したやうな思ひがした。  いき餌だと言ふ。……牛肉を少々買つて、生々と差しつけては見たけれど、恁う、嘴を伏せ、翼をすぼめ、あとじさりに、目を据ゑつゝ、あはれに悄気て、ホ、と寂しく、ホと弱く、ポポーと真昼の夢に魘されたやうに鳴く。  その真黄な大きな目からは、玉のやうな涙がぽろ〳〵と溢れさうに見える。山懐に抱かれた稚い媛が、悪道士、邪仙人の魔法で呪はれでもしたやうで、血の牛肉どころか、吉野、竜田の、彩色の菓子、墨絵の落雁でも喙みさうに、しをらしく、いた〳〵しい。  ……その菓子の袋を添へて、駄賃を少々。特に、もとの山へ戻すやうに、と云つて、花屋の店へ返したが。――まつたく、木の葉草の花の精が顕はれたやうであつた。  こゝに於て、蝶の宿を、秋の草にきづかつたのを嘲らない。 「あゝ、ちら〳〵。」  手にほごす葉を散つて、小さな白いものが飛んだ。障子をふつと潜りつゝ、きのふ今日蚊帳を除つた、薄掻巻の、袖に、裾に、ちら〳〵と舞ひまうたのは、それは綿よりも軽い蘆の穂であつた。 (大正十三年十月)
底本:「花の名随筆10 十月の花」作品社    1999(平成11)年9月10日初版第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十七卷」岩波書店    1942(昭和17)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:林 幸雄 2002年1月28日公開 2005年11月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003541", "作品名": "玉川の草", "作品名読み": "たまがわのくさ", "ソート用読み": "たまかわのくさ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-01-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card3541.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "花の名随筆10 十月の花", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1999(平成11)年9月10日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年9月10日初版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二十七卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年10月 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3541_ruby_20541.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3541_20542.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
  団欒  石段  菊の露  秀を忘れよ  東枕  誓      団欒  後の日のまどいは楽しかりき。 「あの時は驚きましたっけねえ、新さん。」  とミリヤアドの顔嬉しげに打まもりつつ、高津は予を見向きていう。ミリヤアドの容体はおもいしより安らかにて、夏の半一度その健康を復せしなりき。 「高津さん、ありがとう。お庇様で助かりました。上杉さん、あなたは酷い、酷い、酷いもの飲ませたから。」  と優しき、されど邪慳を装える色なりけり。心なき高津の何をか興ずる。 「ねえ、ミリヤアドさん、あんなものお飲ませだからですねえ。新さんが悪いんだよ。」 「困るねえ、何も。」と予は面を背けぬ。ミリヤアドは笑止がり、 「それでも、私は血を咯きました、上杉さんの飲ませたもの、白い水です。」 「いいえ、いいえ、血じゃありませんよ。あなた血を咯いたんだと思って心配していらっしゃいますけれど血だもんですか。神経ですよ。あれはね、あなた、新さんの飲ませた水に着ていらっしゃった襦袢のね、真紅なのが映ったんですよ。」 「こじつけるねえ、酷いねえ。」 「何のこじつけなもんですか。ほんとうですわねえ。ミリヤアドさん。」  ミリヤアドは莞爾として、 「どうですか。ほほほ。」 「あら、片贔屓を遊ばしてからに。」  と高津はわざとらしく怨じ顔なり。 「何だってそう僕をいじめるんだ。あの時だって散々酷いめにあわせたじゃないか。乱暴なものを食べさせるんだもの、綿の餡なんか食べさせられたのだから、それで煩うんだ。」 「おやおや飛んだ処でね、だってもう三月も過ぎましたじゃありませんか。疾くにこなれてそうなものですね。」 「何、綿が消化れるもんか。」  ミリヤアド傍より、 「喧嘩してはいけません。また動悸を高くします。」 「ほんとに串戯は止して新さん、きづかうほどのことはないのでしょうね。」 「いいえ、わけやないんだそうだけれど、転地しなけりゃ不可ッていうんです。何、症が知れてるの。転地さえすりゃ何でもないって。」 「そんならようござんすけれど、そして何時の汽車だッけね。」 「え、もうそろそろ。」  と予は椅子を除けてぞ立ちたる。 「ミリヤアド。」  ミリヤアドは頷きぬ。 「高津さん。」 「はい、じゃ、まあいっていらっしゃいまし、もうねえ、こんなにおなんなすったんですから、ミリヤアドのことはおきづかいなさらないで、大丈夫でござんすから。」 「それでは。」  ミリヤアドは衝と立ちあがり、床に二ツ三ツ足ぶみして、空ざまに手をあげしが、勇ましき面色なりき。 「こんなに、よくなりました。上杉さん、大丈夫、駈けてみましょう。門まで、」  といいあえず、上着の片褄掻取りあげて小刻に足はやく、颯と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、 「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」  と呼び懸けながら慌しく追い行きたる、あとよりして予は出でぬ。  木戸の際にて見たる時ミリヤアドは呼吸忙しくたゆげなる片手をば、垂れて高津の肩に懸け、頭を少し傾けいたりき。      石段 「いいめをみせたんですよ、だからいけなかったんです。あの当時しばらくはどういうものでしょう、それはね、ほんとに嘘のように元気がよくおなんなすッて、肺病なんてものは何でもないものだ。こんなわけのないものはないッてっちゃ、室の中を駈けてお歩行きなさるじゃありませんか。そうしちゃあね、(高津さん、歌をうたッて聞かせよう)ッてあの(なざれの歌)をね、人の厭がるものをつかまえてお唄いなさるの。唄っちゃ(ああ、こんなじゃ洋琴も役に立たない、)ッて寂しい笑顔をなさるとすぐ、呼吸が苦しくなッて、顔へ血がのぼッて来るのだから、そんなことなすッちゃいけませんてッて、いつでも寝さしたんですよ。  しかしね、こんな塩梅ならば、まあ結構だと思って、新さん、あなたの処へおたよりをするのにも、段々快い方ですからお案じなさらないように、そういってあげましたっけ。  そうすると、つい先月のはじめにねえ、少しいつもより容子が悪くおなんなすったから、急いで医者に診せましたの。はじめて行った時は、何でもなかったんですが、二度目ですよ。二度目にね、新さん、一所にお医者様の処へ連れて行ってあげた時、まあ、どうでしょう。」  高津はじっと予を見たり。膝にのせたる掌の指のさきを動かしつつ、 「あすこの、あればかりの石壇にお弱んなすッて、上の壇が一段、どうしてもあがり切れずに呼吸をついていらっしゃるのを、抱いて上げた時は、私も胸を打たれたんですよ。  まあ可い、可い! ここを的に取って看病しよう。こん度来るまでにはきっと独でお上んなさるようにして見せよう。そうすりゃ素人目にも快くおなんなすった解りが早くッて、結句張合があると思ったんですが、もうお医者様へいらっしゃることが出来たのはその日ッきり。新さん、やっぱりいけなかったの。  お医者様はとてもいけないって云いました、新さん、私ゃじっと堪えていたけれどね、傍に居た老年の婦人の方が深切に、(お気の毒様ですねえ。)  といってくれた時は、もうとても我慢が出来なくなって泣きましたよ。薬を取って溜へ行ッちゃ、笑って見せていたけれど、どんなに情なかったでしょう。  様子に見せまいと思っても、ツイ胸が迫って来るもんですから、合乗で帰る道で私の顔を御覧なすって、 (何だねえ、どうしたの、妙な顔をして。)  と笑いながらいって、憎らしいほどちゃんと澄していらっしゃるんだもの。気分は確だし、何にも知らないで、と思うとかわいそうで、私ゃかわいそうで。  今更じゃないけれど、こんな気立の可い、優しい、うつくしい方がもう亡くなるのかと思ったら、ねえ、新さん、いつもより百倍も千倍も、優しい、美しい、立派な方に見えたろうじゃありませんか。誂えて拵えたような、こういう方がまたあろうか、と可惜もので。可惜もので。大事な姉さんを一人、もう、どうしようと、我慢が出来なくなってね、車が石の上へ乗った時、私ゃソッと抱いてみたわ。」とぞ微笑たる、目には涙を宿したり。 「僕は何だか夢のようだ。」 「私だってほんとうにゃなりません位ひどくおやつれなすったから、ま、今に覧てあげて下さいな。  電報でもかけようか、と思ったのに。よく早く出京て来てね。始終上杉さん、上杉さんッていっていらっしゃるから、どんなにか喜ぶでしょう。しかしね、急にまたお逢いなすっちゃ激するから、そッとして、いまに目をおさましなすッてから私がよくそういって、落着かしてからお逢いなさいましよ。腕車やら、汽車やらで、新さん、あなたもお疲れだろうに、すぐこんなことを聞かせまして、もう私ゃ申訳がございません。折角お着き申していながら、どうしたら可いでしょう、堪忍なさいよ。」      菊の露 「もうもう思入ここで泣いて、ミリヤアドの前じゃ、かなしい顔をしちゃいけません。そっとしておいてあげないと、お医師が見えて、私が立廻ってさえ、早や何か御自分の身体に異ったことがあるのかと思って、直に熱が高くなりますからね。  それでなくッてさえ熱がね、新さん四十度の上あるんです。少し下るのは午前のうちだけで、もうおひるすぎや、夜なんざ、夢中なの。お薬を頂いて、それでまあ熱を取るんですが、日に四度ぐらいずつ手巾を絞るんですよ。酷いじゃありませんか。それでいて痰がこう咽喉へからみついてて、呼吸を塞ぐんですから、今じゃ、ものもよくは言えないんでね、私に話をして聞かしてと始終そういっちゃあね、詰らないことを喜んで聞いていらっしゃるの。  どんなにか心細いでしょう。寝たっきりで、先月の二十日時分から寝返りさえ容易じゃなくッて、片寝でねえ。耳にまで床ずれがしてますもの。夜が永いのに眠られないで悩むのですから、どんなに辛いか分りません。話といったってねえ、新さん、酷く神経が鋭くなってて、もう何ですよ、新聞の雑報を聞かしてあげても泣くんですもの。何かねえ、小鳥の事か、木の実の話でもッておっしゃるけれど、どういっていいのか分らず、栗がおッこちるたって、私ゃ縁起が悪いもの。いいようがありません。それでなければ、治ってから片瀬の海浜にでも遊びにゆく時の景色なんぞ、月が出ていて、山が見えて、海が凪ぎて、みさごが飛んで、そうして、ああするとか、こうするとかいって、聞かせて、といいますけれど、ね、新さん、あなたなら、あなたならば男だからいえるでしょう。いまにあなた章魚に灸を据えるとか、蟹に握飯をたべさすとかいう話でもしてあげて下さいまし。私にゃ、私にゃ、どうしてもあの病人をつかまえて、治ってどうしようなんていうことは、情なくッて言えません。」  という声もうるみにき。 「え、新さん、はなせますか、あなただって困るでしょう。耳が遠くおなんなすったくらい、茫としていらっしゃるのに、悪いことだと小さな声でいうのが遠くに居てよく聞えますもの。  せいせいッてね、痰が咽にからんでますのが、いかにもお苦しそうだから、早く出なくなりますようにと、私も思いますし、病人も痰を咯くのを楽みにしていらっしゃいますがね、果敢ないじゃありませんか、それが、血を咯くより、なお、酷く悪いんですとさ。  それでいてあがるものはというと、牛乳を少しと、鶏卵ばかり。熱が酷うござんすから舌が乾くッて、とおし、水で濡しているんですよ。もうほんとうにあわれなくらいおやせなすって、菊の露でも吸わせてあげたいほど、小さく美しくおなりだけれど、ねえ、新さん、そうしたら身体が消えておしまいなさろうかと思って。」  といいかけて咽泣き、懐より桃色の絹の手巾をば取り出でつつ目を拭いしを膝にのして、怨めしげに瞻りぬ。 「新さん、手巾でね、汗を取ってあげるんですがね、そんなに弱々しくおなんなすった、身体から絞るようじゃありませんか。ほんとに冷々するんですよ。拭くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、頸ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、口惜くッてなりません。  だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんですもの。今ン処じゃただもう強いお薬のせいで、ようよう持っていますんですとね、ね、十滴ずつ。段々多くするんですッて。」  青き小き瓶あり。取りて持返して透したれば、流動体の平面斜めになりぬ。何ならむ、この薬、予が手に重くこたえたり。  じっとみまもれば心も消々になりぬ。  その口の方早や少しく減じたる。それをば命とや。あまり果敢なさに予は思わず呟きぬ。 「たッたこれだけ、百滴吸ったらなくなるでしょう。」 「いえ、また取りに参ります……」  といいかけて顔を見合せつつ、高津はハッと泣き伏しぬ。ああ、悪きことをいいたり。      秀を忘れよ 「あんまり何だものだから、僕はつい、高津さん気にかけちゃ不可い。」 「いいえ、何にもそんなことを気にかけるような、新さん、容体ならいいけれど。」 「どうすりゃ可いのかなあ。」  ただといきのみつかれたる、高津はしばしものいわざりしが、 「どうしようにも、しようがないの。ただねえ、せめて安心をさしてあげられりゃ、ちっとは、新さん何だけれど。」  と予が顔を打まもれり。 「それがどうすりゃいいんだか。」 「さあ、母様のことも大抵いい出しはなさらないし、他に、別に、こうといって、お心懸りもおあんなさらないようですがね、ただね、始終心配していらっしゃるのは、新さん、あなたの事ですよ。」 「僕を。」 「ですからどうにかして気の休まるようにしてあげて下さいな。心配をかけるのは、新さんあなたが、悪いんですよ。」 「え。」 「あのね、始終そういっていらっしゃるの。(私が居る内は可いけれど、居なくなると、上杉さんがどんなことをしようも知れない)ッて。」 「何を僕が。」  予は顔の色かわらずやと危ぶみしばかりなりき。背はひたと汗になりぬ。 「いいえ、ほんとうでしょう、ほんとうに違いませんよ。それに違いないお顔ですもの。私が見ましてさえ、何ですか、いつも、もの思をして、うつらうつらとしていらっしゃるようじゃありませんか。誠にお可哀相な様ですよ。ミリヤアドもそういいましたっけ。(私が慰めてやらなければ、あの児はどうするだろう)ッて。何もね、秘密なことを私が聞こうじゃありませんけれど、なりますことなら、ミリヤアドに安心をさしてあげて下さいな。え、新さん、(私が居さえすりゃ、大丈夫だけれど、どうも案じられて。)とおっしゃるんですから、何とかしておあげなさいな。あなたにゃその工夫があるでしょう、上杉さん。」  名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば秀を忘れよというなり。その事をば、母上の御名にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。  予は黙してうつむきぬ。 「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」  また顔見たり。  折から咳入る声聞ゆ。高津は目くばせして奥にゆきぬ。  ややありて、 「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、可うござんすか。」  という声しき。 「新さん。」  と聞えたれば馳せゆきぬ。と見れば次の室は片付きて、畳に塵なく、床花瓶に菊一輪、いつさしすてしか凋れたり。      東枕  襖左右に開きたれば、厚衾重ねたる見ゆ。東に向けて臥床設けし、枕頭なる皿のなかに、蜜柑と熟したる葡萄と装りたり。枕をば高くしつ。病める人は頭埋めて、小やかにぞ臥したりける。  思いしよりなお瘠せたり。頬のあたり太く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐りもやらで、襖の此方に彳みつつ、みまもりてそれをミリヤアドと思う胸はまずふたがりぬ。 「さ、」  と座蒲団差よせたれば、高津とならびて、しおしおと座につきぬ。  顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。  寝返ることだに得せぬ人の、片手の指のさきのみ、少しく衾の外に出したる、その手の動かむともせず。  瞳キト据りたれば、わが顔見られむと堪えずうつむきぬ。ミリヤアドとばかりもわが口には得出ででなむ、強いて微笑みしが我ながら寂しかりき。  高津の手なる桃色の絹の手巾は、はらりと掌に広がりて、軽くミリヤアドの目のあたり拭いたり。 「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」  頬のあたりをまた拭いぬ。 「分りましたか、上杉さん、ね、ミリヤアド。」 「上杉さん。」  極めて低けれど忘れぬ声なり。 「こんなになりました。」  とややありて切なげにいいし一句にさえ、呼吸は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失せむと、見る目も危うく窶れしかな。 「切のうござんすか。」  ミリヤアドは夢見る顔なり。 「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、そのおつもりで、新さん。」 「切のうござんすか。」  頷く状なりき。 「まだ可いんですよ。晩方になって寒くなると、あわれにおなんなさいます。それに熱が高くなりますからまるで、現。」  と低声にいう。かかるものをいかなる言もて慰むべき。果は怨めしくもなるに、心激して、 「どうするんです、ミリヤアド、もうそんなでいてどうするの。」  声高にいいしを傍より目もて叱られて、急に、 「何ともありませんよ、何、もう、いまによくなります。」  いいなおしたる接穂なさ。面を背けて、 「治らないことはありません。治るよ、高津さん。」  高津は勢よく、 「はい、それはあなた、神様がいらっしゃいます。」  予はまた言わざりき。      誓  月凍てたり。大路の人の跫音冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠ゆるもやみたり。一しきり、一しきり、檐に、棟に、背戸の方に、颯と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣深く引被ぐ。かくは予と高津とに寝よとてこそするなりけれ。  かかる夜を伽する身の、何とて二人の眠らるべき。此方もただ眠りたるまねするを、今は心安しとてやミリヤアドのやや時すぐれば、ソト顔を出だして、あたりをば見まわしつつ、いねがてに明を待つ優しき心づかい知りたれば、その夜もわざと眠るまねして、予は机にうつぶしぬ。  掻巻をば羽織らせ、毛布引かつぎて、高津は予が裾に背向けて、正しゅう坐るよう膝をまげて、横にまくらつけしが、二ツ三ツものいえりし間に、これは疲れて転寝せり。  何なりけむ。ものともなく膚あわだつに、ふと顔をあげたれば、ありあけ暗き室のなかにミリヤアドの双の眼、はきとあきて、わが方を見詰めいたり。  予が見て取りしを彼方にもしかと見き。ものいうごとき瞳の動き、引寄するように思われたれば、掻巻刎ねのけて立ちて、進み寄りぬ。  近よれという色見ゆ。  やがてその前に予は手をつきぬ。あまり気高かりし状に恐しき感ありき。 「高津さん。」 「少し休みましたようです。」 「そう。」  とばかりいきをつきぬ。やや久しゅうして、 「上杉さん、あなたどうします。」  予は思わずわななきぬ。 「何を、ミリヤアド。」 「私なくなりますと、あなたどうします。」  涙ながら、 「そんなことおっしゃるもんじゃありません。」 「いいえ、どうします。」と強くいえり。 「そんなことを、僕は知りません。」 「知らない、いけません、みんな知っている。かわいそうで、眠られません。眠られません。上杉さん、私、頼みます、秀、秀。」  予は頭より氷を浴ぶる心地したりき。折から風の音だもあらず、有明の燈影いと幽に、ミリヤアドが目に光さしたり。 「秀さんのこと思わないで、勉強して、ね、上杉さん。」  予は伏沈みぬ。 「かわいそう、かわいそうですけれども、私、こんな、こんな、病気になりました。仕方がない、あなたどうします。かわいそうで、安心して死なれません。苦しい、苦しい、かわいそうと思いませんか。私、あなたをかわいがりました。私を、私を、かわいそうとは思いませんか。」  一しきり、また凩の戸にさわりて、ミリヤアドの顔蒼ざめぬ。その眉顰み、唇ふるいて、苦痛を忍び瞼を閉じしが、十分時過ぎつと思うに、ふとまた明らかに睜けり。 「肯きませんか。あなた、私を何と思います。」  と切なる声に怒を帯びたる、りりしき眼の色恐しく、射竦めらるる思あり。  枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。 「母上。」  と、ミリヤアドの枕の許に僵れふして、胸に縋りてワッと泣きぬ。  誓えとならば誓うべし。 「どうぞ、早く、よくなって、何にも、ほかに申しません。」  ミリヤアドは目を塞ぎぬ。また一しきり、また一しきり、刻むがごとき戸外の風。  予はあわただしく高津を呼びぬ。二人が掌左右より、ミリヤアドの胸おさえたり。また一しきり、また一しきり大空をめぐる風の音。 「ミリヤアド。」 「ミリヤアド。」  目はあきらかにひらかれたり。また一しきり、また一しきり、夜深くなりゆく凩の風。  神よ、めぐませたまえ、憐みたまえ、亡き母上。 明治三十(一八九七)年一月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店    1942(昭和17)年9月30日発行 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2008年10月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048331", "作品名": "誓之巻", "作品名読み": "ちかいのまき", "ソート用読み": "ちかいのまき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-11-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48331.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成3", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第二卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年9月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48331_ruby_32553.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-10-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48331_33338.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-10-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
剃刀研  十九日  紅梅屋敷  作平物語  夕空  点灯頃 雪の門  二人使者  左の衣兜  化粧の名残      剃刀研        一 「おう寒いや、寒いや、こりゃべらぼうだ。」  と天窓をきちんと分けた風俗、その辺の若い者。双子の着物に白ッぽい唐桟の半纏、博多の帯、黒八丈の前垂、白綾子に菊唐草浮織の手巾を頸に巻いたが、向風に少々鼻下を赤うして、土手からたらたらと坂を下り、鉄漿溝というのについて揚屋町の裏の田町の方へ、紺足袋に日和下駄、後の減ったる代物、一体なら此奴豪勢に発奮むのだけれども、一進が一十、二八の二月で工面が悪し、霜枯から引続き我慢をしているが、とかく気になるという足取。  ここに金鍔屋、荒物屋、煙草屋、損料屋、場末の勧工場見るよう、狭い店のごたごたと並んだのを通越すと、一間口に看板をかけて、丁寧に絵にして剪刀と剃刀とを打違え、下に五すけと書いて、親仁が大目金を懸けて磨桶を控え、剃刀の刃を合せている図、目金と玉と桶の水、切物の刃を真蒼に塗って、あとは薄墨でぼかした彩色、これならば高尾の二代目三代目時分の禿が使に来ても、一目して研屋の五助である。  敷居の内は一坪ばかり凸凹のたたき土間。隣のおでん屋の屋台が、軒下から三分が一ばかり此方の店前を掠めた蔭に、古布子で平胡坐、継はぎの膝かけを深うして、あわれ泰山崩るるといえども一髪動かざるべき身の構え。砥石を前に控えたは可いが、怠惰が通りものの、真鍮の煙管を脂下りに啣えて、けろりと往来を視めている、つい目と鼻なる敷居際につかつかと入ったのは、件の若い者、捨どんなり。  手を懐にしたまま胸を突出し、半纏の袖口を両方入山形という見得で、 「寒いじゃあねえか、」 「いやあ、お寒う。」 「やっぱりそれだけは感じますかい、」  親仁は大口を開いて、啣えた煙管を吐出すばかりに、 「ははははは、」 「暢気じゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。」 「一言もござりませんね、ははははは。」 「見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落して行く奴アありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと同一で、たちまち鳶トーローローだい。」 「こう、憚りだが、そんな曰附の代物は一ツも置いちゃあねえ、出処の確なものばッかりだ。」と件ののみさしを行火の火入へぽんと払いた。真鍮のこの煙管さえ、その中に置いたら異彩を放ちそうな、がらくた沢山、根附、緒〆の類。古庖丁、塵劫記などを取交ぜて、石炭箱を台に、雨戸を横え、赤毛布を敷いて並べてある。 「いずれそうよ、出処は確なものだ。川尻権守、溝中長左衛門ね、掃溜衛門之介などからお下り遊ばしたろう。」 「愚哉々々、これ黙らっせえ、平の捨吉、汝今頃この処に来って、憎まれ口をきくようじゃあ、いかさま地いろが無えものと見える。」と説破一番して、五助はぐッとまた横啣。  平の捨吉これを聞くと、壇の浦没落の顔色で、 「ふむ、余り殺生が過ぎたから、ここん処精進よ。」と戸外の方へ目を反す。狭い町を一杯に、昼帰を乗せてがらがらがら。        二  あとは往来がばったり絶えて、魔が通る前後の寂たる路かな。如月十九日の日がまともにさして、土には泥濘を踏んだ足跡も留めず、さりながら風は颯々と冷く吹いて、遥に高い処で払をかける。 「串戯じゃあねえ、」と若い者は立直って、 「紺屋じゃあねえから明後日とは謂わせねえよ。楼の妓衆たちから三挺ばかり来てる筈だ、もう疾くに出来てるだろう、大急ぎだ。」 「へいへい。いやまた家業の方は真面目でございス、捨さん。」 「うむ、」 「出来てるにゃ出来てます、」と膝かけからすぽりと抜けて、行火を突出しながらずいと立つ。  若いものは心付いたように、ハアトと銘のあるのを吸いつける。  五助は背後向になって、押廻して三段に釣った棚に向い、右から左のへ三度ばかり目を通すと、無慮四五百挺の剃刀の中から、箱を二挺、紙にくるんだのを一挺、目方を引くごとく掌に据えたが、捨吉に差向けて、 「これだ、」 「どれ、」  箱を押すとすッと開いて、研澄ましたのが素直に出る、裏書をちょいと視め、 「こりゃ青柳さんと、可し、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。」 「大丈夫、」 「確かね。」 「千本ごッたになったって私が受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、」 「なあに、間違ったって剃刀だあ。」 「これ、剃刀だあじゃあねえよ、お前さん。今日は十九日だぜ。」 「ええ、驚かしちゃあ不可え、張店の遊女に時刻を聞くのと、十五日過に日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年は閏がねえ。」 「いえ、閏があろうとあるまいと、今日は全く十九日だろうな。」と目金越に覗き込むようにして謂ったので、捨吉は変な顔。 「どうしたい。そうさ、」 「お前さん楼じゃあ構わなかったっけか。」 「何を、」 「剃刀をさ。」  謂うことはのみ込めないけれども、急に改まって五助が真面目だから、聞くのも気がさして、 「剃刀を? おかしいな。」 「おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵何楼でも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに寄越したのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえと危えよ。」  ますます怪訝な顔をしながら、 「何も変なこたアありやしないんだがね、別に遊女たちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、遣れるもんなら楼に居るだけ残らずというのよ。」 「皆かい、」 「ああ、」 「いよいよ悪かろう。」 「だってお前、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。」  五助は苦笑をして、 「洒落じゃあないというに。」 「何、洒落じゃあねえ、まったくの話だよ。」と若いものは話に念が入って、仕事場の前に腰を据えた。      十九日        三 「昨夜ひけ過にお前、威勢よく三人で飛込んで来た、本郷辺の職人徒さ。今朝になって直すというから休業は十七日だに変だと思うと、案の定なんだろうじゃあないか。  すったもんだと捏ねかえしたが、言種が気に入ったい、総勢二十一人というのが昨日のこッた、竹の皮包の腰兵糧でもって巣鴨の養育院というのに出かけて、施のちょきちょきを遣ってさ、総がかりで日の暮れるまでに頭の数五百と六十が処片づけたという奇特な話。  その崩が豊国へ入って、大廻りに舞台が交ると上野の見晴で勢揃というのだ、それから二人三人ずつ別れ別れに大門へ討入で、格子さきで胄首と見ると名乗を上げた。  もとよりひってんは知れている、ただは遁げようたあ言わないから、出来るだけ仕事をさせろ。愚図々々吐すと、処々に伏勢は配ったり、朝鮮伝来の地雷火が仕懸けてあるから、合図の煙管を払くが最後、芳原は空へ飛ぶぜ、と威勢の好い懸合だから、一番景気だと帳場でも買ったのさね。  そこで切味の可いのが入用というので、ちょうどお前ん処へ頼んだのが間に合うだろうと、大急ぎで取りに来たんだが、何かね、十九日がどうかしたかね。」 「どうのこうのって、真面目なんだ。いけ年を仕って何も万八を極めるにゃ当りません。」 「だからさ、」 「大概御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に船頭衆が大晦日の船出をしねえというような極ったんじゃアありません。他の同商売にはそんなことは無えようだが、廓中のを、こうやって引受けてる、私許ばかりだから忌じゃあねえか。」 「はて――ふうむ。」 「見なさる通りこうやって、二百三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一挺どうしようと云うのも無えてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。紛失するなんてえ馬鹿げたことはない筈だが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつ失くなります。」 「何が、」と変な目をして、捨吉は解ったようで呑込めない。 「何がッたって、預ってる中のさ。」 「おお、」 「ね、御覧なせえ、不思議じゃアありませんかい。私もどうやらこうやら皆様で贔屓にして、五助のでなくッちゃあ歯切がしねえと、持込んでくんなさるもんだから、長年居附いて、婆どんもここで見送ったというもんだ。先の内もちょいちょい紛失したことがあるにゃあります。けれども何の気も着かねえから、そのたんびに申訳をして、事済みになり〳〵したんだが。  毎々のことでしょう、気をつけると毎月さ、はて変だわえ、とそれからいつでも寝際にゃあちゃんと、ちゅう、ちゅう、たこ、かいなのちゅ、と遣ります。  いつの間にか失くなるさ、怪しからねえこッたと、大きに考え込んだ日が何でも四五年前だけれど、忘れもしねえ十九日。  聞きなせえ。  するとその前の月にも一昨日持って来たとッて、東屋の都という人のを新造衆が取りに来て、」  五助は振向いて背後の棚、件の屋台の蔭ではあり、間狭なり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見て厭な顔。        四 「と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっち凹み、先方様むくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。  持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、検べたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。」 「へい、」と言って、若い者は巻煙草を口から取る。  五助は前屈みに目金を寄せ、 「ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお喜乃さんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいって帰ったッけ、翌日の晩方、わざわざやって来て、 (どうしたわけだか、鏡台の上に、)とこうだ。私許へ預って、取りに来て失せたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。  鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子の桟なんぞに乗っかってる内があるッさ。  浮舟さんが燗部屋に下っていて、七日ばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へ入っちゃあ不可えと固く留められていたのを、悪汗が酷いといって、中引過ぎに密ッと這出して行って湯殿口でざっくり膝を切って、それが許で亡くなったのも、お前、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。  その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんの楼のじゃあねえ、確か喜怒川の緑さんのだ、どこへどう間違って行くのだか知れねえけれども、厭じゃあねえか、恐しい。  引くるめて謂や、こっちも一挺なくなって、廓内じゃあきっと何楼かで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でも私が研澄したのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。  溌としちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀を扱わねえことを知っていそうなもんだと思うが、楼でも気がつかねえでいるのかしら。」 「ええ! ほんとうかい、お前とは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?」と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目を睜ると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。 「ええ、もし、」 「はい。」と目金を向ける、気を打った捨吉も斉しく振向くと、皺嗄れた声で、 「お前さん、御免なさいまし。」  敷居際に蹲った捨吉が、肩のあたりに千草色の古股引、垢じみた尻切半纏、よれよれの三尺、胞衣かと怪まれる帽を冠って、手拭を首に巻き、引出し附のがたがた箱と、海鼠形の小盥、もう一ツ小盥を累ねたのを両方振分にして天秤で担いだ、六十ばかりの親仁、瘠さらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。  捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなもの謂で、 「何だ、」 「はい、もしお寒いこッてござります。」 「北風のせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。」 「へへへへへ、」と鼻の尖で寂しげなる笑を洩し、 「もし、唯今のお話は、たしか幾日だとかおっしゃいましたね。」        五  五助は目金越に、親仁の顔を瞻っていたが、 「やあ作平さんか、」といって、その太わくの面道具を耳から捻り取るよう、挘ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、 「飛んだ、まあお珍しい、」と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、 「作平さん、かね。」と低声で口の裡。  折から、からからと後歯の跫音、裏口ではたと留んで、 「おや、また寝そべってるよ、図々しい、」  叱言は犬か、盗人猫か、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと蓮葉にしめたが、浅間だから直にもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気勢。 「唯今。」 「帰んなすったかい、」 「お勝さん?」と捨吉は中腰に伸上りながら、 「もうそんな時分かな。」 「いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、」  という時、二枚立のその障子の引手の破目から仇々しい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。蓋し昼の間寐るだけに一間の半を借り受けて、情事で工面の悪い、荷物なしの新造が、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。 「少し立込んだもんですからね、」 「いや、御苦労様、これから緩りとおひけに相成ます?」 「ところが不可ないの、手が足りなくッて二度の勤と相成ります。」 「お出懸か、」と五助。 「ええ、困るんですよ、昨夜もまるッきり寐ないんですもの、身体中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん堪らないから、もう一枚下へ着込んで行きましょうと思って、おお、寒い。」といってまた鉄瓶をがたりと遣る。  さらぬだに震えそうな作平、 「何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。」 「はッくしょい、ほう、」と呼吸を吹いて、堪りかねたらしい捨吉続けざまに、 「はッくしょい! ああ、」といって眉を顰め、 「噂かな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身替を立てる間奥の一間で長ッ尻と来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って行くよ。途中で自然からこの蓋が取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、」とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台辞あり。  五助はまめだって、 「よくそう謂いなせえよ、」 「十九日かね、」と内からいう。 「ええ、御存じ、」といいながら、捨吉腰を伸してずいと立った。 「希代だわねえ。」 「やっぱり何でございますかい、」と作平はこれから話す気、振かえて、荷を下し、屋台へ天秤を立てかける。  捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、 「おッと十九日。」  という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯を堆く積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、日向をのッしりと曵いて通る。向うの路地の角なる、小さな薪屋の店前に、炭団を乾かした背後から、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けて行く。大音寺前あたりで飴屋の囃子。      紅梅屋敷        六  その荷車と子守の行違ったあとに、何にもない真赤な田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。  途端にちりりんと鈴の音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、 「危い、」と声かけてまた一輛、あッと退ると、耳許へ再び、ちりちり!  土手の方から颯と来たが、都合三輛か、それ或は三羽か、三疋か、燕か、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。  棒立ちになって、捨吉茫然と見送りながら、 「何だ、一文も無え癖に、」 「汝じゃアあるまいし。」 「や、」 「どうした。」 「へい、」 「近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、汝、桐島のお消に大分執心だというじゃあないか。」 「どういたしまして、」 「少しも御遠慮には及ばぬよ。」 「いえ、先方へでございます、旦那にじゃあございません。」 「そうか、いや意気地の無い奴だ。」と腹蔵の無い高笑。少禿天窓てらてらと、色づきの好い顔容、年配は五十五六、結城の襲衣に八反の平絎、棒縞の綿入半纏をぞろりと羽織って、白縮緬の襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二上屋藤三郎という遊女屋の亭主で、廓内の名望家、当時見番の取締を勤めているのが、今向の路地の奥からぶらぶらと出たのであった。  界隈の者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の突当、通の長屋並の屋敷越に遠くちらちらとある紅は、早や咲初めた莟である。  捨吉は更めて、腰を屈めて揉手をし、 「旦那御一所に。」 「おお、これからの、」  という処へ、萌黄裏の紺看板に二の字を抜いた、切立の半被、そればかりは威勢が可いが、かれこれ七十にもなろうという、十筋右衛門が向顱巻。  今一人、唐縮緬の帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、後前に寮の方から路地口へ。  捨吉はこれを見て、 「や、爺さん、こりゃ姉さん、」 「ああ、今日はちっとの、内証に芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下拵に来てみると、困るじゃあねえか、お前。」 「へい、へい成程。」 「お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから厭だと謂うわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩暈をされたり、虫でも発されちゃあ叶わねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳優というと目の敵にして嫌うから、そこで何だ。客は向へ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、」 「へい、へい、へい、成程、そりゃお前さん方御苦労様。」 「はははは、別荘に穴籠の爺めが、土用干でございますてや。」 「お前さん、今日は。」とお辻というのが愛想の可い。  藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研屋の店を覗込んで、 「よくお精が出るな。」 「いや、」作平と共に四人の方を見ていたのが、天窓をひたり、 「お天気で結構でございます。」 「しかし寒いの。」と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪形にずッと眗して、 「筑波の方に雲が見えるぜ。」        七 「嘘あねえ。」  と五助はあとでまた額を撫で、 「怠けちゃあ不可いと謂われた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。  実際また我ながらお怠け遊ばす、婆どんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もう叶わねえ。  人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、飲けで稼ぐという奴あ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、」と振向いて呼んでみたが、 「もうお出懸けだ、いや、よく老実に廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬燵に当ってよ、その障子を開けりゃ可い、はらんばいになって休んで行きねえ。」 「そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に入って、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃刀の失せるという日は、確か十九日とかいわしった、」 「むむ、十九日十九日、」と、気乗がしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、 「そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、」  五助は身を捻って、心覚、後ざまに棚なる小箱の上から、取下した分厚な一綴の註文帳。  膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指の尖でずッと一わたり、目金で見通すと、 「そうそうそう、」といって仰向いて、掌で帳面をたたくこと二三度す。  作平もしょぼしょぼとある目で覗きながら、 「日切の仕事かい。」 「何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一挺私が気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、」 「それは邪魔をして気の毒な。」 「飛んでもねえ、緩りしてくんねえ。何さ、実はお前、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を更めて、砥石を洗って、ここで一挺念入というのがあるのさ、」 「気に入ったあつらえかの。」 「むむ、今そこへ行きなすった、あの二上屋の寮が、」  と向うの路地を指した。 「あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の秘蔵女さ。  そりゃ見せたいような容色だぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の内証で育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。  お蔭で命を助かった位な施を受けてるのがいくらもあら。  藤三郎父親がまた夢中になって可愛がるだ。  少姐の袖に縋りゃ、抱えられてる妓衆の証文も、その場で煙になりかねない勢だけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの容色が佳いから天窓を下げるのが口惜いとよ。  私あ鐚一文世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでお前、その少姐が大の贔屓。  どうだい、こう聞きゃあお前だって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。」        八 「ところで御註文を格別の扱だ。今日だけは他の剃刀を研がねえからね、仕事と謂や、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄除の別火にして、お若さんのを研ごうと思って。  うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。  一体十九日の紛失一件は、どうも廓にこだわってるに違えねえ。祟るのは妓衆なんだからね、少姐なんざ、遊女じゃあなし、しかも廓内に居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。  まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと誰方か取りにござる。いや作平さん、狐千年を経れば怪をなす、私が剃刀研なんざ、商売往来にも目立たねえ古物だからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。  そういやあ作平さん、お前さんの鏡研も時代なものさ、お互に久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。」  その箱と盥とを荷った、痩さらぼいたる作平は、蓋し江戸市中世渡ぐさに俤を残した、鏡を研いで活業とする爺であった。  淋しげに頷いて、 「ところがもし御同様じゃで、」 「御同様⁉」と五助は日脚を見て仕事に懸る気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶の中で砥石を洗いながら、慌てたように謂返した。 「御同様は気がねえぜ、お前の方にも曰があるかい。」 「ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、私は広徳寺前を右へ寄って、稲荷町の鏡研、自分達が早や変化の類じゃ、へへへへへ。」と薄笑。 「おやおや、汝から名乗る奴もねえもんだ。」と、かっちり、つらつらと石を合せる。 「じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位牌の姿じゃわ、羅宇屋の方はまだ開けたのが出来たけれど、もう貍穴の狸、梅暮里の鰌などと同一じゃて。その癖職人絵合せの一枚刷にゃ、烏帽子素袍を着て出ようというのじゃ。」 「それだけになお罪が重いわ。」 「まんざらその祟に因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。」 「何か剃刀の失せるに就いてか、」 「つい四五日前、町内の差配人さんが、前の溝川の橋を渡って、蔀を下した薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店賃の御催促。万年町の縁の下へ引越すにも、尨犬に渡をつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕誼、一刻も猶予ならぬ立退けでござりましょう。その儀ならば後とは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂うたらば。  差配さん苦笑をして、狸爺め、濁酒に喰い酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟橋を踏外そうという風かい。溝店のお祖師様と兄弟分だ、少い内から泥濘へ踏込んだ験のない己だ、と、手前太平楽を並べる癖に。  御意でござります。  どこまで始末に了えねえか数が知れねえ。可いや、地尻の番太と手前とは、己が芥子坊主の時分から居てつきの厄介者だ。当もねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕輪の浄閑寺へ廻って、以前御贔屓になりましたと、遊女の無縁の塔婆に挨拶をして来やあがる。そんな奴も差配内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。忰は稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩行かねえッての、むむ。」と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと砥にあてたが、哄然として、 「気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。」      作平物語        九 「ところで聞かっしゃい、差配さまの謂うのには、作平、一番念入に遣ってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐中から、朱総つき、錦の袋入というのを一面の。  何でも差配さんがお出入の、麹町辺の御大家の鏡じゃそうな。  さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。憚ってお名前は出さぬが、と差配さんが謂わっしゃる。  その御大家は今寡婦様じゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。  鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が少い時よ。  誰もこの迷ばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花主の方に深いのが一人出来て、雨の夜、雪の夜もじゃ。とどの詰りがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより他に、何の望もなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。  遊女は自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情人の顔じゃ。窶れりゃ窶れるほど、嬉しいような男振じゃが、大層髭が伸びていた。  鏡台の前に坐らせて、嗽茶碗で濡した手を、男の顔へこう懸けながら、背後へ廻った、とまあ思わっせえ。  遊女は、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延鏡が鏡立に据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。  うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊女が死のうという気じゃ。  あなた、私の心が見えましょう、と覗込んだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯向けにして、男がぴったりと自分の胸へ押着けたと。  何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背後ざまに弾ねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には怨がある。母様によく肖た顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男泣。  遊女はこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩せた指で、剃刀を握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突然逆手に持直して、何と、背後からものもいわずに、男の咽喉へ突込んだ。」  五助は剃刀の平を指で圧えたまま、ひょいと手を留めた。 「おお、危え。」 「それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦人じゃあなかった。俺あ遊女の名と坂の名はついぞ覚えたことは無えッて、差配さんは忘れたと謂わッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴とした旗本のお嬢さんで、お邸は番町辺。  何でも徳川様瓦解の時分に、父様の方は上野へ入んなすって、お前、お嬢さんが可哀そうにお邸の前へ茣蓙を敷いて、蒔絵の重箱だの、お雛様だの、錦絵だのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。  それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合、という深い交情であったげな。  牛込見附で、仲間の乱暴者を一人、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手利なお嬢さんじや、廓でも一時四辺を払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴。」 「ほい。」        十 「男はまるで油断なり、万に一つも助かる生命じゃあなかったろうに、御運かの。遊女は気がせいたか、少し狙がはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。  私はどちらがどうとも謂わぬ。遊女の贔屓をするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦人が、仕損じは、まあ、どうじゃ。」 「されば、」 「その代り返す手で、我が咽喉を刎ね切った遊女の姿の見事さ!  口惜しい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余所の婦人に見せるのは口惜しい! との、唇を噛んだまま、それなりけり。  全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、吃とした心になったのじゃげな。  容子で悟った遊女も目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真如の月かい。生命の親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて総つき錦の袋入はその筈じゃて、お家に取っては、宝じゃものを。  念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の児よりも可愛がっておいでなさる、甥御が一方。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣物になさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女狂、つまり悪所入などをしなさらぬようにというのじゃ。  作平頼む、と差配さんが置いて行かれた。畏り奉るで、昨日それが出来て、差配さんまで差出すと、直に麹町のお邸とやらへ行かしった。  点火頃に帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと心から辞退をしたけれども、いや先方様でも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御維新になって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同一、ちょうど昨日の話で今日、更めてその甥御様に送る間にあった、ということで、研賃には多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。  頂きます頂きます、飲代になら百両でも御辞退仕りまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨夜一晩。  ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。  お連合の今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心懸も天晴なり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも可いわい。その研手に私をつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可し。戒のためと謂うて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。  その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊女の身になって御覧じろ、またこのくらいよくない話はあるまい。  迷じゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、他の婦人に見せるのが厭さに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。  それを考えれば酒も咽喉へは通らぬのを、いやそうでない。魂魄この土に留まって、浄閑寺にお参詣をする私への礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、私に一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、煽るほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。  私の顔色の悪いのは、お憚りだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。」とさも快げに見えた。      夕空        十一  時に五助は反故紙を扱いて研ぎ澄した剃刀に拭をかけたが、持直して掌へ。  折から夕暮の天暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大鷲の嘴のごとく田町の空を差覗いて、一しきり烈しくなった往来の人の姿は、ただ黒い影が行違い、入乱るるばかりになった。  この際一際色の濃く、鮮かに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の硝子窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の切目からとばかりの間、夕陽が映じたのである。  剃刀の刃は手許の暗い中に、青光三寸、颯々と音をなして、骨をも切るよう皮を辷った。 「これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。」といって少し鬱ぐ。 「そこで久しぶりじゃ、私もちっと冷える気味でこちらへ無沙汰をしたで、また心ゆかしに廓を一廻、それから例の箕の輪へ行って、どうせ苔の下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。  お極りでお前ン許へお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あと前はよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。  何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。  五助さん、お前の許にもそういうかかり合があるのなら、悪いことは謂わぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。  つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。」と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰を延そうとする。  トタンにがらがらと腕車が一台、目の前へ顕れて、人通の中を曵いて通る時、地響がして土間ぐるみ五助の体はぶるぶると胴震。 「ほう、」といって、俯向いていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、 「作平さん、お前は怨だぜ、そうでなくッてさえ、今日はお極りのお客様が無けりゃ可いが、と朝から父親の精進日ぐらいな気がしているから、有体の処腹の中じゃお題目だ。  唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、お前、言種に事を欠いて、私が許をかかり合は、大に打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうして堪るものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代までは祟ります、むむ祟るとも。  串戯じゃあねえ、どの道何か怨のある遊女の幽霊とは思ったけれど、何楼の何だか捕えどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ叶わねえ。  そうしてお前、咽喉を突いたんだっていったじゃあねえか。」 「これから、これへ、」と作平は垢じみた細い皺だらけの咽喉仏を露出して、握拳で仕方を見せる。  五助も我知らず、ばくりと口を開いて、 「ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、」 「そりゃ出たろうとも、たらたらたら、」と胸へ真直に棒を引く。 「うう、そして真赤か。」 「黒味がちじゃ、鮪の腸のようなのが、たらたらたら。」 「止しねえ、何だなお前、それから口惜いッて歯を噛んで、」 「怨死じゃの。こう髪を啣えての、凄いような美しい遊女じゃとの、恐いほど品の好いのが、それが、お前こう。」と口を歪める。 「おお、おお、苦しいから白魚のような手を掴み、足をぶるぶる。」と五助は自分で身悶して、 「そしてお前、死骸を見たのか。」 「何を謂わっしゃる、私は話を聞いただけじゃ。遊女の名も知りはせぬが。」  五助は目を睜ってホッと呼吸、 「何の事だ、まあ、おどかしなさんない。」        十二  作平も苦笑い、 「だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。」 「目に見えるようだ。」 「私もやっぱり。」 「見えるか、ええ?」 「まずの。」 「何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同一でも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆弱い遊女のなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中間を一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。  作平さん、こうなりゃお前が対手だ、放しッこはねえぜ。  一升買うから、後生だからお前今夜は泊り込で、炬燵で附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。  そうかといって、宿場で厄介になろうという年紀じゃあなし、無茶に廓へ入るかい、かえって敵に生捉られるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから堪るめえじゃねえか、恐しい。名代部屋の天井から忽然として剃刀が天降ります、生命にかかわるからの。よ、隣のは筋が可いぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な鮪を取っておかあ、船頭、馬士だ、お前とまた昔話でもはじめるから、」と目金に恥じず悄げたりけり。  作平が悦喜斜ならず、嬉涙より真先に水鼻を啜って、 「話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿を据えては例のお花主に相済まぬて。」 「それを言うなというに。無縁塚をお花主だなぞと、とかく魔の物を知己にするから悪いや、で、どうする。」 「もう遅いから廓廻は見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。」 「むむ、それもそうさの。私も信心をすみが、お前もよく拝んで御免蒙って来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一走が可いぜ。とても独じゃ遣切れねえ、荷物は確に預ったい。」 「何か私も旨え乾物など見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。」と作平はてくてく出かけて、 「こんなに人通があるじゃないかい。」 「うんや、ここいらを歩行くのに怨霊を得脱させそうな頼母しい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留むようだ。」  作平は空を仰いで、 「すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、」  五助慌しく。 「白いものか、禁物々々。」      点灯頃        十三 「はい、はい、はい、誰方だい。」  作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行くさきも薄暗いが、さて見廻すと居廻はなおのことで、もう点灯頃。  物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより疾く洋燈をと思う処へ、大音寺前の方から盛に曳込んで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟々という音に、地鳴を交えて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気勢があった。  五助はわざと大声で、 「お勝さんかね、……何だ、隣か、」と投げるように呟いたが、 「あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。」  耳を澄して、 「畜生、この間もあの術で驚かしゃあがった、尨犬め、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙然で、蒲団を引被るとトントンだ、誰方だね、黙りか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸外から廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆病づらを下げて、極の悪い思をしたか知れやしねえ、畜生め、己が臆病だと思いやあがって、」と中ッ腹でずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、亀の子這。  じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて躙り上ると、件の障子を密と開けたが、早や次の間は真暗がり。足をずらしてつかつかと出ても、馴れて畳の破にも突かからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を伸すとそのまま取れる柄杓だから、並々と一杯、突然天窓から打かぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦人、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、 「畜生!」といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。  首を出して眗わすと、がさともせぬ裏の塵塚、そこへ潜って遁げたのでもない。彼方は黒塀がひしひしと、遥に一並、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、森として三味線の音もしない。ただ遥に空を衝いて、雲のその夜は真黒な中に、暗緑色の燈の陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突立ったようなのは、二上屋の常燈である。  五助は半身水口から突出して立っていたが、頻に後見らるるような気がして堪らず、柄杓をぴっしゃり。 「ちょッ、」と舌打、振返って、暗がりを透すと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸外の人どおり。  やがて旧の仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。 「おや、変だぜ。」  五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這いなどして掻探り、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、 「はてな、先刻ああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。」  正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女お若の剃刀を、どこへか置忘れてしまったのであった。 「懐中へは入れず、」といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。  しばらくして、 「まさか棚へ、」と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾にして、扱帯の上あたりで褄を取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮かな鼻筋の通った、真白な頬に鬢の毛の乱れたのまで、判然と見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨居にも支えそうなのが、じっと此方を見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。 「五助さん、」と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉つき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼ざめた掌に、毒蛇の鱗の輝くような一挺の剃刀を挟んでいて、 「これでしょう、」  五助はがッと耳が鳴た、頭に響く声も幽に、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、 「不浄除けの別火だとさ、ほほほほほ、」  わずかに解いた唇に、艶々と鉄漿を含んでいる、幻はかえって目前。 「わッ」というと真俯向、五助は人心地あることか。 「横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに廓が見えるぜ。」 とこの際戸外を暢気なもの。 「や! 雪だ、雪だ。」と呼わったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と哄とばかりになだれて通る。      雪の門        十四  宵に一旦ちらちらと降ったのは、垣の結目、板戸の端、廂、往来の人の頬、鬢の毛、帽子の鍔などに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の梢も、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙草屋の店の灯、おでんの行燈、車夫の提灯、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが群って、真白な灯取虫がばたばた羽をあてる風情であった。  やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒下駄の痕も、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに凹を残すのみ、車の轍も遥々と長き一条の名残となった。  おうおうと遠近に呼交す人声も早や聞えず、辻に彳んで半身に雪を被りながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く顕れた巡査の姿、研屋の店から八九間さきなる軒下に引込んで、三島神社の辺から大音寺前の通、田町にかけてただ一白。  折から颯と渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上面を撫でてあたかも篩をかけたよう、一様に平にならして、人の歩行いた路ともなく、夜の色さえ埋み消したが、見る見る垣を亙り、軒を吹き、廂を掠め、梢を鳴らし、一陣たちまち虚蒼に拡がって、ざっという音烈しく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た。  紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の状も、旭とともに霜より果敢なく消えるのであろうけれど、丑満頃おいは都のしかも如月の末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚々の陣を敷くとあやまたるる。  さればこそ、高く竜燈の露れたよう二上屋の棟に蒼き光の流るるあたり、よし原の電燈の幽に映ずる空を籠めて、きれぎれに冴ゆる三絃の糸につれて、高笑をする女の声の、倒に田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、空を行く外道変化の囁かと物凄い。  十二時疾くに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。  吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の門を静に音信れた者がある。  トン、トン、トン、トン。 「はい、今開けます、唯今、々々、」と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け交りのやや周章てた声して、上框から手を伸した様子で、掛金をがッちり。  その時戸外に立ったのが、 「お待ちなさい、貴方はお宅の方なんですか。」と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、 「はい、あの、杉でございます。」と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口吻である。  その間になお声をかけて、 「宜いんですか、開けても、夜がふけております。」 「へい、……、」ちと変った言ぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。  小留のない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて降しきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。        十五 「杉、爺やかい。」とこの時に奥の方から、風こそ荒べ、雪の夜は天地を沈めて静に更け行く、畳にはらはらと媚めく跫音。  端近になったがいと少く清しき声で、 「辻が帰っておいでかい。」 「あれ、」と低声に年増が制して、門なる方を憚る気勢。 「可かったら開けて下さい、こっちにお知己の者じゃあないんです、」 「…………」 「この突当の家で聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。」 「はい、あの誰方様で、」 「いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。」 「お開けよ。」 「…………」 「こっちへさあ。可いわ、」  ここにおいて、 「まあ、お入りなさいまし。」と半ば圧えていた格子戸をがらりと開けた。框にさし置いた洋燈の光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。  同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外套を被た人の姿を映して、余の明は、左手なる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を交えた紅梅にうつッて、間近なるはその紅の莟を照した。  けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本斑布の櫛でもない。濃いお納戸地に柳立枠の、小紋縮緬の羽織を着て、下着は知らず、黒繻子の襟をかけた縞縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦袢と、指に輝く指環とであった。  部屋働のお杉は円髷の頭を下げ、 「どうぞ、貴下、」 「それでは、」と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む勢。中折の帽子を目深に、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研出したような沓脱石も、一面に雪紛々。 「大変でございますこと、」とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、吻とする呼吸をついて、 「ああ、乱暴だ。失礼。」と身震して、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを拭ったが、年紀のころ二十三四、眉の鮮かな目附に品のある美少年。殊にものいいの判然として訛のないのは明にその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御左、矜羯羅童子を夢枕に見るような心になり、 「さぞまあ、ねえ、どうもまあ、」とばかり見惚れていたのが、慌しく心付いて、庭下駄を引かけると客の背後へ入交って、吹雪込む門の戸を二重ながら手早くさした。 「直ぐにお暇を。」 「それでも吹込みまして大変でございますもの。」  と見るとお若が、手を障子にかけて先刻から立ったままぼんやり身動もしないでいる。 「お若さん、御挨拶をなさいましなね、」  お若は莞爾して何にも言わず、突然手を支えて、ばッたり悄れ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳許に颯と紅。  髷の根がゆらゆらと、身を揉むばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。  客は手持無沙汰、お杉も為ん術を心得ず。とばかりありて、次の室の襖越に、勿体らしい澄したものいい。 「杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。」        十六 「いいえ、貴下失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕立ましたばかりでございます。」と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結城の棒縞の寝ね子半纏。被せられるのを、 「何、そんな、」とかえって剪賊に出逢ったように、肩を捻るほどなおすべりの可い花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷々しい、背から苦もなくすらりと被せたので、洋服の上にこの広袖で、長火鉢の前に胡坐したが、大黒屋惣六に肖て否なるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。 「どうしてこんな晩に、遊女がお帰しなすったんですねえ、酷いッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも飛でもない、火をお吹きなすっちゃあ不可ません、飛でもない。」  と什麼こうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の嘴にでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を顰めて、澄して、雪のような頬を火鉢のふちに押つけながら、 「消炭を取っておいで、」 「唯今何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少姐さんのお部屋でついお心易立にお炬燵を拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、」 「つい眠くなったじゃあないか、」とお若は莞爾する。 「それでも今夜のように、ふらふら睡気のさすったらないのでございますもの。」 「お極だわ。」 「可哀相に、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現でございましたの。」 「私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が可うございますわ。構やしません、そんな遊女は一晩の内に凍砂糖になってしまいます。」と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を廓なる母屋の客と思込んだものであろう。 「私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。」 「お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、」 「別に隠しなんぞするものか。  しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が咎めたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや渡に舟なんで、どうも凍えそうで堪らなかった。」  と語るに、ものもいいにくそうな初心な風采、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を瞻りながら、 「そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお澗をつけましょうか。」 「召あがるかしら、」とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。 「どうして、酒と聞くと身震がするんだ、どうも、」  と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼方に目の覚めるようなお若の姿とを屹と見ながら、明い洋燈と、今青い炎を上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、 「私を変だと思うでしょう。」        十七 「自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう可いんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?」 「はい、さようでございます。」とお若はあでやかに打微笑む。 「ええと、ここを出て突当りに家がありますね、そこを通って左へ行くと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから直に大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、」とお若の方に向直った。 「姉さんに届けるものがあるんです、」といいながらお杉に向い、 「確か廓へ入ろうという土手の手前に、こっちから行くと坂が一ツ。」  打頷けば頷いて、 「もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕車が支えたのでやっと目が覚めたんだ。」  この日脇屋欽之助が独逸行を送る宴会があった。 「実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目的にされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。  もっとも待たしておく筈の腕車はあったんだけれども、一体内は四ツ谷の方、あれから下谷へ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発奮に、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。」 「まあ、お危うございます、」 「ちっと擦剥いた位、怪我も何もしないけれども。  それだもんだから、辻車に飛乗をして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。  お話のその土手へ上ろうという坂だ。しっくり支えたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四辺は真白だし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を劃って電燈が映ってるし、今度行こうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。  それで、御本人はまさしく日本の腕車に乗ってさ、笑っちゃあ不可い車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥除をおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御串戯もんだ、と言うんです。  四ツ谷へ帰るんだッてね、少し焦れ込むと、まあ宜うがすッさ、お聞きよ。  馬鹿にしちゃ可かん、と言って、間違の原因を尋ねたら、何も朋友が引張って来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ遣ってくれ、といって乗ったそうだ。  遣ってくれと言うから、廓へ曳いて来たのに不思議はありますまいと澄したもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから宅まで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。  頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を上って四ツ谷くんだりまでこの雪に行かれるもんじゃあない。  箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河岸の方とかで泊り込という寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突然靴だから飛び下りたさ。」      二人使者        十八  欽之助は茶一碗、霊水のごとくぐっと干して、 「お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、掏られたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。  心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔覚じゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷児になったんだから、こりゃ自分の身体はどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐くなったんです。  ただ車夫に間違えられたばかりなら、雪だっても今帷子を着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。  気になるのは、昼間腕車が壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定って、杯の遣取が二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。  灯がついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩を越して玄関へ出て見ると、叔母の宅に世話になって、従妹の書物なんか教えている婦人が来て立っていました。  先刻奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨日出来上って参りましたものですから、それを貴下にお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの児のことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋達におつき合で、他ならば可いが、芳原へでも行くと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。  何でも広徳寺前辺に居る、名人の研屋が研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱紗包から、錦の袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。」と少年は一呼吸ついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。 「鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓で道楽をして、命にも障る処を、そのお庇で人らしくなったッてね。  私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生命がなくなるとばかり信じてるんだ。  その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、少い豪傑が手放で揃ってる、しかも艶なのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。  そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人魂を押つけられたように気が滅入った。  しかもお使番が女教師の、おまけに大の基督教信者と来ては助からんねえ。」  打微笑み、 「相済まんがどうぞ宅の方へお届けを、といって平にあやまると、使の婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴君を心から思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と謂った。こりゃ誰だって、全くそう。」        十九 「しかし土手下で雪に道を遮られて帰る途さえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を持して寄越すってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕車の破れたのも、車夫に間違えられたのも、来よう筈のない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、悚としたんだね。  もっとも、その時だって、天窓からけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、」  我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、 「こんな扮装だから困ったろうじゃありませんか。  叔母には受取ったということに繕って、密と貴女から四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、少い夜会結のその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。  あとは大飲。  何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。  それからね。  何でも来た方へさえ引返せば芳原へ入るだけの憂慮は無いと思って、とぼとぼ遣って来ると向い風で。  右手に大溝があって、雪を被いで小家が並んで、そして三階造の大建物の裏と見えて、ぼんやり明のついてるのが見えてね、刎橋が幾つも幾つも、まるで卯の花縅の鎧の袖を、こう、」  借着の半纏の袂を引いて。 「裏返したように溝を前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。」  それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍見がてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄漿溝が折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁切って刎橋の架ったままのがあった。 「そこの処に婦人が一人立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、  近づく人に白鷺の驚き立つよう。  前途へすたすたと歩行き出したので、何だか気がさしてこっちでも立停ると、劇しく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引返して来て、またするすると向うへ走る。  続いて歩行き出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦人は刎橋の処で。  私は歩行き越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。  そうするとその婦人がこう彳んだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして哀さったらなかったから。  私は二足ばかり引返した。  何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て遁げないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。  実は何、こっちだって味方が欲い。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。  お前さんどうしたんですッて。」 「まあ、御深切に、」と、話に聞惚れたお若は、不意に口へ出した、心の声。 「傍へ寄って見ると、案の定、跣足で居る、実に乱次ない風で、長襦袢に扱帯をしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判然見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤人だ。  脊の高いね、恐しいほど品の好い遊女だったッけ。」        二十 「その婦人に頼まれたんです。姉さん、」と謂いかけて、美しい顔をまともに屹と女に向けた。  お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大呼吸をつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。 「誰?」 「へい。」と、ただまじまじする。 「姉さんに、その遊女が今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同一御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋友にも知れてはならず、新造などにさとられては大変なので、昼から間を見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。  ちょうど今夜は、内証に大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐込んだのを機にぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠退いた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。  寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直に知れますが、あれ、あんなに犬が吠えて、どうすることもならないから、生命を助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。  何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓のこと、一大事ででもあるようだから、直にことづかった品物があるんです。  ただ渡せば可いか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。  その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰路もそこだというもの。そのまま別れて遣って来ると、先刻尋ねました、路地の突当りになる通の内に、一軒灯の見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦人がまだ立っていて、こっちへ指をしたように見えたけれども、朧気でよくは分らないから、一番、その灯を幸。  路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺の声で教えてくれた。  何、一々委しいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明い灯を見ると、何だか雪路のことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦人ばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。  そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、」といって、無造作に肱を張って、左の胸に高く取った衣兜の中へ手を入れた。――  固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦めながら、少し仰向いて、考えるらしく銀のような目を細め、 「何だろうねえ、杉や。」 「さようでございます、」とばかり一大事の、生命がけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言を疑う色は無かったのである。 「待って下さい、」とこの時、また右の方の衣兜を探って、小首を傾け、 「はてな、じゃあ外套の方だった、」と片膝立てたので。  杉、 「私が。」 「確か左の衣兜へ、」  と差俯いた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭わず、大切に抱くようにして持って来た。  敷居の上へ斜に拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄としたよう。        二十一 「可うございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。」  探しあぐんで、外套を押遣って、ちと慌てたように広袖を脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄れてじっと考えた時、お若は鷹揚に些も意に介する処のないような、しかも情の籠った調子で、かえって慰めるように謂った。  お杉は心も心ならず、憂慮しげに少年の状を瞻りながら、さすがにこの際喙を容れかねていたのであった。  此方はますます当惑の色面に顕れ、 「可いじゃアありません、可かあない、可かあない、」  と自ら我身を詈るごとく、 「落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生命にもかかわる。」と、早口にいってまた四辺を眗した。 「一体どんなものでございます。」とお杉は少年に引添うて、渠を庇うようにして言う。 「私も更めちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。」  お若はちょいと頷いて、 「杉、」 「ええ、」 「瀬川さんの……ね、あれさ、」と呑込ませる。 「ええ、成程、貴下、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊女は、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔色の、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!」  と勢よくそれにした。 「今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少姐さんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。」 「何です、それは、」とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金子らしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手尖に触るるは袂落。修学のためにやがて独逸に赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将松島主税の令夫人を持って、ここに擲って差支えのない金員あり。もって、余りに頼効なき虚気の罪を、この佳人の前に購い得て余りあるものとしたのである。  問われてお杉は引取って、 「ちっとばかりお金子です。」  欽之助は嬉しそうに、 「じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら遣って可いのを持っているから。」と思込んで言った。 「飛んでもない、貴下、」と杉。  お若は知らぬ顔をして莞爾している。  此方は熱心に、 「お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか極が悪いんだ、夜々中見ず知らずが入込んで、どうも変だ。」 「あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小遣が沢山あるわ、銀のだの、貴下、紙幣のだの、」といいながら、窮屈そうに坐って畏まっていた勝色うらの褄を崩して、膝を横、投げ出したように玉の腕を火鉢にかけて、斜に欽之助の面を見た。姿も容も、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも蟠のない言葉はあるまい。      左の衣兜        二十二  意外な言葉に、少年は呆れたような目をしながら、今更顔が瞻られた、時に言うべからざる綺麗な思が此方の胸にも通じたので。  しかも遠慮のない調子で、 「いずれお詫をする、更めてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一番、腕車の世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴染があるでしょう、御近所ならば私が一所に跟いて行くから、お前さん。」  杉は女の方をちょいと見たが、 「あなた何時だとお思いなさいます。私どもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。  あれあの通、まだ戸外はあんなでございますよ。」  少年は降りしきる雪の気勢を身に感じて、途中を思い出したかまた悚とした様子。座に言が途絶えると漂渺たる雪の広野を隔てて、里ある方に鳴くように、胸には描かれて、遥に鶏の声が聞えるのである。 「お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。  私どもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。  お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。  御自分じゃちゃんとしてお在遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確じゃないようにお見受申します。  お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破れたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託り下さいましたものも失せますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷下だりまで、そりゃ十年お傭つけのような確な若いものを二人でも三人でもお跟け申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆が御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴下のお身体に恙のないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験のございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。  悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。  そしてお若さんもお炬燵へ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖なもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、  あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。」 「実はどういうんだか、今夜の雪は一片でも身体へ当るたびに、毒虫に螫れるような気がするんです。」  と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏われて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。 「ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜うございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。」  お杉大明神様と震えつく相談と思の外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍惚して眠そうである。  はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆気に取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、 「夜が明けると直お帰んなさるんなら厭!」 「そうすりゃ、」と杉は勢込み、突然上着の衣兜の口を、しっかりとつかまえて、 「こうして、お引留めなさいましな。」        二十三  寝衣に着換えさしたのであろう、その上衣と短胴服、などを一かかえに、少し衣紋の乱れた咽喉のあたりへ押つけて、胸に抱いて、時の間に窶の見える頤を深く、俯向いた姿で、奥の方六畳の襖を開けて、お若はしょんぼりして出て来た。  襖の内には炬燵の裾、屏風の端。  背片手で密とあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広室に顕れると、二室越二重の襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の傍なるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台洋燈がついてるので、あかりは青畳の上を辷って、お若の冷たそうな、爪先が、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。  この灯がさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして透して見ると、火鉢には真鍮の大薬鑵が懸って、も一ツ小鍋をかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶々しく結った円髷の、その斑布の櫛をまともに見せて、身動きもせずに仮睡をしている。  差覗いてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍泣の声がした。  しばらくすると、密とまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣桁の亙。  お若は力なげに洋袴をかけ、短胴服をかけて、それから上衣を引かけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び密と爪立つようにして、間を隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、衣の縞も見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の衣兜。  しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、 「ああ、厭だっていうんだもの、」と絶入るように独言をした。あわれこうして、幾久しく契を籠めよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!  お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へ冷りと中り、総身に針を刺されたように慄と寒気を覚えたのを、と見ると一挺の剃刀であった。 「まあ、恐いことねえ。」  なお且つびっしょり濡れながら袂の端に触れたのは、包んで五助が方へあつらえた時のままなる、見覚えのある反故である。  お若はわなわなと身を震わしたが、左手に取ってじっと見る間に、面の色が颯と変った。 「わッ。」  というと研屋の五助、喚いて、むッくと弾ね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡研の作平、もやい蒲団を弾反されて寝惚声で、 「何じゃい、騒々しい。」  五助は服はだけに大の字形の名残を見せて、蟇のような及腰、顔を突出して目を睜って、障子越に紅梅屋敷の方を瞻めながら、がたがたがたがた、 「大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!」 「貧乏神が抜け出す前兆か、恐しく怯されるの、しっかりさっししっかりさっし。」といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。枕頭には大皿に刺身のつま、猪口やら箸やら乱暴で。 「いや、お前しっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しい祟だぜ、一方ならねえ執念だ。」      化粧の名残        二十四 「とうとうお前、旗本の遊女が惚れた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同一理窟で、お若さんが、さ、さ、先刻取り上げられた剃刀でやっぱり、お前、とても身分違いで思が叶わぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を遣ってら、」 「何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。」 「はて、しかし夢か、」とぼんやりして腕を組んだが、 「待てよ、こうだによってと、誰か先刻ここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。」 「おお、」  作平も膝を叩いた。 「そういやあある。お前は酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとして私あ寐られん、一時半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、確に聞いた、しかも少い男の声よ。」 「それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。  お前、何でも遊女に剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、小桶に沸ざましの薬鑵の湯を打ちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀を啣えたと思いねえ。硝子戸の外から覗いてた、私が方を仰向いての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、邪慳に引つかんだ、顔色ッたら、先刻見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、疾く行って留めねえと。」 「そして男を殺すとでもいうたかい、」 「いや、私が夢はお前の夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日研立の、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になって堪るめえ。  処へ夜が更けて、尋ねて行くものがあるから、おかしいぜ、此奴、贔屓の田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけて行くつもりだっけ、例の臆病だから叶わねえ、不性をいうお前を、引張出して、夢にも二人づれよ。」 「やれやれ御苦労千万。」 「それから戸外へ出ると雪はもう留んでいた、寮の前へ行くとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。  いよいよ変だと思うから大声で喚いてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の渡船を呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。  どこか開く処があるめえかと、ぐるぐる寮の周囲を廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。  はて変だわえ、今時分と、そこへ行って覗いた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をして凄いように美しい顔を見ると、目を泣腫らしています、ね。どうしたかと思う内に、鹿の子の見覚えある扱一ツ、背後へ縮緬の羽織を引振って脱いでな、褄を取って流へ出て、その薬鑵の湯を打ちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して手拭を突込んで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。  それですっぱりと顔を拭いてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでも悚とするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがお前、 (五助さん、これでしょう、)と晩方遊女が遣った図にそっくりだ。はっと思うトタンに背向になって仰向けに、そうよ、上口の方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた遊女そのままだから、キャッといったい。」        二十五  されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪の夜に、お若が紅梅の寮に宿ったについての、委しい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋の女に殺させると叫んだのも、覚際にフト刺戟された想像に留まったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた名残とばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく少い声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小腋に引きそばめた臆病ものの可笑さよ。  戸外へ出ると、もう先刻から雪の降る底に雲の行交う中に、薄く隠れ、鮮かに顕れていたのがすっかり月の夜に変った。火の番の最後の鉄棒遠く響いて廓の春の有明なり。  出合頭に人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、 「お早うがすな。」と澄して土手の方へ行った。  積んだ薪の小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、幽にそれかと思う足あとが、心ばかり飛々に凹んでいるので、まず顔を見合せながら進んで門口へ行くと、内は寂としていた。  これさえ夢のごときに、胸を轟かせながら、試みに叩いたが、小塚原あたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如月の雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。  猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜ると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。  これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう喘いでいた。逡巡をする五助に入交って作平、突然手を懸けると、誰が忘れたか戸締がないので、硝子窓をあけて跨いで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真鍮の大薬鑵。蓋と別々になって、うつむけに引くりかえって、濡手拭を桶の中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような流が、網を投げた形にびっしょりであった。  上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、明を目的に駆けつけると、洋燈は少し暗くしてあったが、お杉は端然坐ったまま、その髷、その櫛、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。  ただいつの間にか、先刻欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結城の半纏を被せかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。  五助、作平は左右より、焦って二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、 「おいらんが、遊女が、」と切なそうにいった。  半纏はお若が心優しく、いまわの際にも勦ってその時かけて行ったのであろう。  後にお杉はうつつながら、お若が目前に湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の方へ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦朧として雪ぢらしの部屋着を被た、品の可い、脊の高い、見馴れぬ遊女が、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、屹と睨まれて身動きが出来ないのであったと謂う。  とこういうべき暇あらず、我に復るとお杉も太くお若の身を憂慮っていたので、飛立つようにして三人奥の室へ飛込んだが、噫。  既に遅矣、雪の姿も、紅梅も、狼藉として韓紅。  狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼吸があったが、血の滴る剃刀を握ったまま、 「済みませんね、済みませんね。」と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。  男は深疵だったけれども気が確で、いま駆つけた者を見ると、 「お前方、助けておくれ、大事な体だ。」  といったので、五助作平、腰を抜いた。  この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同一枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。  しかし馬車で乗つけたのは、昨夜伊予紋へ、少将の夫人の使をした、橘という女教師と、一名の医学士であった。  その診察に因って救うべからずと決した時、次の室に畏っていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺書がある。  橘は取って披見した後に、枕頭に進んで、声を曇らせながら判然と読んで聞かせた。  この意味は、人の想像とちっとも違わぬ。  その時まで残念だ、と呼吸の下でいって、いい続けて、時々歯噛をしていた少年は、耳を澄して、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼白な面を和げながら、手真似をすること三度ばかり。  医学士が頷いたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を擡げ、天地紅の半切に、薄墨のあわれ水茎の蹟、にじり書の端に、わか※(「参らせ候」のくずし字)とある上へ、少し大きく、佳い手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を瞑った。  一座粛然。  作平は啜泣をしながら、 「おめでてえな。」  五助が握拳を膝に置いて、 「お若さん、喜びねえ。」 明治三十四(一九〇一)年一月
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年1月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048408", "作品名": "註文帳", "作品名読み": "ちゅうもんちょう", "ソート用読み": "ちゆうもんちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-06-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card48408.html", "人物ID": "000050", "姓": "泉", "名": "鏡花", "姓読み": "いずみ", "名読み": "きょうか", "姓読みソート用": "いすみ", "名読みソート用": "きようか", "姓ローマ字": "Izumi", "名ローマ字": "Kyoka", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1873-11-04", "没年月日": "1939-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "泉鏡花集成3", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年1月24日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年1月24日第1刷", "底本の親本名1": "鏡花全集 第六卷", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年11月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "染川隆俊", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48408_ruby_34812.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/48408_35165.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }