chats
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---|---|---|
[
[
"ああそうだった、目的地をまだ云わなかったが、ゼルシー島だよ。ジブラルタルから南西へちょっと一千キロ、マデイラ群島中の小さな島だ。ゼルシー島だよ",
"ゼルシー島か。ゼルシー島といえば、メントール侯の城塞のある島だ",
"そうだ、物覚えがいいね、君は。しかしその城塞が、ドイツ軍の爆撃に遭って、三分の二ぐらいは崩れてしまっていることを知っているかね",
"ほほう、そんなことがあったのか。僕は知らなかったね",
"勿論そうだろう。おれだって、昨晩それを聞いて始めて知ったばかりだ",
"白木、君は昨夜、どこに居たのかね",
"昨夜は、ドイツ軍人とその第五列との秘密集会の席にいたよ。――さあ、夕方まで、まだちょっと時間があるから、おれはエミリーの酒場に敬意を表してくる。そうだ、それからプリ銃砲店に寄って、倉庫探しの結果を聞いてくるからね",
"倉庫探しというのは、何のことかね",
"いや、今度ゼルシー島に持って行きたいものがあるので、それを探してくれるように頼んで置いたんだ。一種の軽機関銃のことだがね",
"軽機? そんなものを持っていく必要があるのかね",
"はははは、怖じけづいたのかね。軽機といっても大したことはないよ、相手が愕いてくれればいいだけのことだ",
"ふーん、そうかね"
],
[
"やあやあ。迎えに来てくださるという話のあったのは、貴女がたでしたか。ネリーも意地悪だなあ。だって、お婆さんが二三人迎えに出るかもしれないといったんですよ。はははは、まさかこんなに花のようにうつくしいお嬢さん方にとりまかれようとは思わなかったなあ。ネリーのいたずらにうまうま一杯ひっかかったんだ。はははは",
"ネリーなら、やりそうなことですわ。ところでどちらが二俵伯爵で、どちらが六升男爵でいらっしゃいますの"
],
[
"あのう、侯爵さまは、その夜、音楽の話をなさったり、それから御愛用の音叉を、ぴーんと鳴らしてみたりなさらなかったでしょうかしら",
"ああ、あの有名なる音叉ですか。非常に高い音の出るあの音叉は、侯が私たちと話をなさるときには、いつも手にして玩具のように弄びながら、ぴーんと高い音をたてられるのが例だった。しかし、あの最後の夜には、それもなかったのですよ。――侯があの音叉をお鳴らしになるのはどういうわけですかな、お嬢さんたちはそれを御存知?"
],
[
"侯爵さまは、いい声の人を探し出すために、ああしてたえず音叉を鳴らして、話し相手の声をおしらべになっていたんですって、そんな話を、お聞きになりません?",
"私たちは、お嬢さんがたほど信用がなかったのか、それとも私に音楽の素養がないと思ってか、侯は私たちには、そんな話をしませんでしたね。いつもする話は、酒とそして……いや、よしましょう、そんな話は。で、音叉を鳴らすと、なぜ声のいい人だということが分るのですか",
"さあ、それは、その人の声と音叉の音とがからみあって第三の声が聞えるんだそうですわ。それはその第三の声は侯爵さまだけに聞える音で、他の平民どもには聞えない音なんですって。だから侯爵さまは、誰も持っていない神の力でもって、いい声の人をお探しになれるのですってよ",
"やれやれ、今のメントール侯も、中世紀ごろと同じに、半分は人間で、半分は神さまなんですね。さあさあ、話はそれくらいにして、今夜は皆さんに集っていただいて、ダンスの会を開きましょう。リスボンから仕入れて来た御馳走も開きますよ。ぜひ皆さん来てくださいね",
"あーら本当ですの。本当なら、素敵だわ",
"あたし、そう来るだろうと思って、待ってたのよ",
"まあ、あんなことを……"
],
[
"メントール侯と音叉の話は、出鱈目なんだろうね",
"出鱈目などとは、とんでもない。それに、あの金髪娘たちが、その本当なることを、あのとおり証明してくれたんじゃないか",
"すると、メントール侯の音の研究は、本格的なんだね。ふしぎな城主さまだ",
"おいおい、感心してばかりいたのでは駄目だよ、あれは君に聴かせるために、おれが話を切り出したことなんだ",
"私に聴かせるためというと……",
"音楽の学問なんか、おれには分らないのさ。ぜひとも君に聴いておいて貰って、これからわれわれの取り懸ろうという仕事の手がかりにして貰いたかったわけだよ",
"これから取り懸るという仕事とは、ゼルシーの廃墟をたずねて、何か宝物でも掘りだすのかね",
"うん、宝探しにはちがいないが、困ったことに、その宝の形が一向はっきりしないのさ。とにかくそれは、イギリス政府が英本土を捨てて都落ちをする際、使用することになっている暗号の鍵なんだ。それが、あのゼルシー城塞のどこかに隠されているのだ。われわれは、それを探し出すために、この島までやってきたのだ"
],
[
"あの城塞にあることは確実だというが、なぜ分る?",
"これは、ドイツの諜報機関の責任ある報告で、フリッツ将軍のサインまでついているから間違いなしだと思っていい。実は、メントール侯は、既にドイツの第五列のため捕えられ、あの程度のことまでは白状したんだそうだ。しかし、それから奥のことについては、侯は一切口を緘んで語らないので、ドイツ側じゃ、業を煮やしているらしい。この島へも、ドイツ側は上陸して、なるべく人目にたたないように城塞へ入り込み、いろいろ調べもしたが、ついに宝探しは徒労に終ったんだそうだ。それにこの島は今のところ、民主国側へも枢軸国側へもはっきり色を示していない国際島なんだから、行動をとるにしても、万事非常にやりにくいんだ。そうでなければ、あの鼻息の荒い連中が、われわれの前へ頭を下げてくる筈がない"
],
[
"例の宝物は、どこにあるのか、君は見当がついているのかね",
"さあ、よくは分らないが、何としても、メントール侯の居間の中にあると思うんだ。尤も、これまでにメントール侯の居間は、幾度も秘密の闖入者のために捜査されたらしいが、遂に一物も得なかったという。だから、宝物はまだ安全に、そこに隠されてあるのだと思う"
],
[
"おい六升男爵。そうお前さんのように、何から何まで疑い深く、そして敗戦主義になっちゃ困るじゃないか。始めからそんな引込思案な考えでいっちゃ、取れるものも取れやしないよ",
"そうかしら",
"そうだとも。たしかにこの部屋にあるんだ。だから探し出さずには置かないぞ――とこういう風に突進していかなくちゃ、そこに顔を出している宝だって、見つかりはしないよ。引込思案はそもそも日本人の共通な損な性質だ"
],
[
"これまでに、あのげじげじ牧師の手で、密告されて殺されたスパイが、もう五十何名とやらにのぼっているのよ",
"へえ、そうかね。私たちは、スパイじゃないから安心なものだが、油断のならない話だね。で、その七八人の荒くれ男というのは一体、どこの国の人たちかね",
"さあ、そんなこと、分らないわ――。あら、お友達が来るわ――その人達は、イギリスの海賊じゃないかしらと思うのよ。もう、何のお話も中止よ"
],
[
"冗談じゃない。今部屋をぐるっと見廻したばかりだ",
"炯眼な探偵は、さっと見廻しただけで、宝でも何でも、欲しいものを探しあてるのだけれど……",
"じゃあ、君がそれをやればいい"
],
[
"頼まれても困るが……",
"おい、また敗戦主義か。それだけはよして貰いたいね",
"そうだったな。よろしい、一つ大胆な仮説を立てて、そこから入り込むことにしよう"
],
[
"ええと、メントール侯が、充分安心して暗号簿をこの部屋に隠しているとしよう。すると、どんなところが安心のできる場所だろうか",
"おい、早くやってくれ",
"まあ、そうあわてるな",
"あわてはせんが、無駄に時間をつぶすな",
"ふーん、やっぱりあの蓄音機らしいぞ"
],
[
"そうか、遂に発見されたか。うん、そいつは素晴らしい。それでこそ、日本人の名をあげることが出来るぞ。じゃそれを持って、早速ずらかろう",
"大丈夫か、外から狙っている奴等の包囲陣を突破することは……",
"なあに、突破しようと思えば、いつでも突破できるのだ。只、君が仕事の終るのを待っていただけだ。かねて逃げ路の研究もしておいたから、安心しろ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平2)年4月30日初版発行
初出:「講談雑誌」
1942(昭和17)年1月号
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年3月23日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"はあ、こちらは○○刑務病院でございます",
"ああ、○○刑務病院かね。――ふん、熊本博士をよんでくれたまえ。僕か、僕は猪俣とでもいっておいてくれ"
],
[
"ああ、生きている腸のことだろう。あれはいずれ発表するよ、いひひひ",
"一件は何日ぐらい動いていましたか",
"あはっ、いずれ発表する、だがね熊本君。腸というやつは感情をあらわすんだね。なにかこう、俺に愛情みたいなものを示すんだ。本当だぜ。まったく愕いた。――時にあれは、なんという囚人の腸なんだ。教えたまえ",
"……"
],
[
"あの娘なら、もう死にましたよ、盲腸炎でね、だ、だいぶ前のことですよ",
"なあんだ、死んだか。死んだのなら、しようがない"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:しず
2000年2月2日公開
2010年10月21日修正
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000871",
"作品名": "生きている腸",
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[
[
"なんだ、貴様か。いつもに似ず、いやに他人行儀の挨拶をやったりするもんだから、どうしたのかと思った。おう、早く入れ",
"はっはっはっはっ"
],
[
"いよう、何から何まで整っているな。おい川上、今日は貴様の誕生日――じゃないが、何か、ああ――つまり貴様の祝日なんだろう",
"うん、まあその祝日ということにして、さあ一杯ゆこう",
"やあ、いよいよ焼夷弾を腹へおとすか。わっはっはっはっ"
],
[
"なあおい長谷部。貴様と俺とは、昔から不思議にどこへでもくっついて暮すなあ",
"うん、そうだ。血は分けていないが、本当の兄弟とよりも、貴様とこうやって一緒に暮している月日の方が長いね。なんしろ小学校時代からだからねえ",
"これまで、よく貴様に厄介をかけたなあ"
],
[
"うん、あの飛行島のことかい",
"そうだ、飛行島だ。こいつはこんどの遠洋航海中随一の見物だぞ"
],
[
"それ見ろ、気にしていないなんていっていながら、貴様はちゃんと飛行島のことを考えているじゃないか。無用の不時着場!(無用の)といったね",
"それはそうさ。飛行機は、ますます安全なものになり、快速になってゆく。だからあんな飛行島なんてものはいらなくなるよ。無用の長物とはあのことだ。わが国でもしあれに金を出すやつがいたら、俺は大いに笑ってやるつもりでいた",
"しかしなあ長谷部。そこのところをよく考えおかないじゃ、未来の連合艦隊司令長官というわけにはゆかないよ",
"うふ、未来の連合艦隊司令長官か、あっはっはっ。俺がなることになっていたっけ"
],
[
"それなら一つ考えろ",
"なにを考えるんだ",
"つまりこういうことだ。たかが長谷部大尉にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ、千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるんだ",
"うむ、なるほど"
],
[
"はっ、川上機関大尉は只今御不在であります",
"ほう、どこへ行かれたのか",
"旗艦須磨へ行かれました。司令官のところにおられます",
"なに、司令官のところへ。――うむ、ではまたあとから来よう"
],
[
"おい川上。いま貴様を訪ねていったところだ",
"よお、長谷部か。はっはっはっ、もう酒はないぞ",
"酒はもうのまんことにきめた。おや、貴様は一杯機嫌だな。朝から酒とは、どうも不埒千万、けしからんじゃないか"
],
[
"おい、川上。司令官のところでは、なにかいい話でもあったのか。あったら俺にも聞かせろ",
"いや、それは何でもないことなんだ。隠すわけじゃないが、悪く思うな。司令官と雑談のときに貴様の話も出たぞ。閣下は貴様を信頼していられる。長谷部のことは心配いらぬ。といっていられた。彼は沈黙の鋼の塊みたいな男だ。川上――というと俺のことだが、川上とはまるで違った種類の男だ。彼が健在であることは帝国海軍にとっても喜ばしいことだなどと、大いに聞かされちまった",
"……"
],
[
"俺のことはどうでもいい。おい川上、ただ俺は貴様の武運を祈っとるぞ",
"何っ、――"
],
[
"あれが飛行島か。なるほど奇怪な形をしているわい",
"あのなかに、三千人もの人が働いているんだとは、ちょっと思えないね",
"誰だ、いまから驚いているのは。そんなことでは傍まで行ったときには、腰をぬかすぞ"
],
[
"川上機関大尉の上陸したのを知っているか",
"はい知っております。午後三時十分ごろ、自分と一しょに舷門を出て行かれました",
"うむ、それからどうした",
"はあ。それから機関大尉と甲板の上まで一しょにあがりましたが、そこで私は機関大尉と別れたのであります。それ以後のことは、私は――私は知らんのであります",
"知らない。ふむ、そうか"
],
[
"捜索隊は出さぬことになった",
"えっ、それはどうして――",
"司令官の命令である。帰艦するものなら、そのうちに帰ってくるだろう。捜索隊などを上へあげて、それがために脱艦士官があったなどと知れるのはまずいといわれるのだ",
"それはあまりに――"
],
[
"はっ、私は不思議なることを発見いたしました。川上機関大尉の衣服箱を検査しましたところ、軍帽も服も靴も、すべて員数が揃っております。つまり服装は全部ここに揃っているのであります。機関大尉は素裸でいられるように思われます",
"なに、服装は全部揃っているって。なるほど、それでは裸でいなければならぬ勘定になるが、しかし川上機関大尉は軍服を着て舷門から出ていったんだぞ。それは杉田二等水兵が知っとる",
"おかしくはありますが、本当に揃っているのでありまして、不思議というほかないのであります"
],
[
"おい大辻",
"なんだ。魚崎",
"なんだじゃないぜ。貴様が余計なおしゃべりをするから、杉田がこんな目にあうんだぞ",
"なんだって、俺が余計なおしゃべりをしたって。なにをいうんだ。この大辻さまは、余計なことなんか一言もしゃべったことはないぞ"
],
[
"なにをいっているのだ。大辻、貴様がいけないんだぞ。川上機関大尉の服は全部私室に揃っております。だから機関大尉はいま素裸でいられるのでありますなどと、余計なことをいったじゃないか",
"あれえ、――"
],
[
"こら魚崎、そういったのが、どこがいけないんだ。それは本当のことじゃないか。それとも貴様は、上官に対し嘘をつけとでもいうのか。次第によっては、日頃汁粉を奢ってもらっている貴様といえども、許さんぞ。上官に対し嘘をつけというのか。やい",
"そんなことはいっとらん。余計なことをいうなといっとる。貴様のいった、いま素裸でいられますは、余計なことじゃないか。帝国軍人が、いくら暑いからといって、こんな外人のいるところへ来て、不恰好な素裸でいられるものかい。帝国軍人の威信に関わる",
"おや、なんだか議論が怪しくなったね。さては貴様、俺にいいまかされたことがやっと分かったんだろう。軍服が全部揃ってりゃ、素裸でいるにきまってるじゃないか",
"ばかをいえ。絶対に素裸でいられない",
"なにがばかだ。服がなけりゃ素裸でいるよりほかにしようがないじゃないか",
"へへん、そうじゃないよ。俺は信ずる。すくなくとも褌はしめていられると",
"ふ、ん、ど、し!"
],
[
"ば、ばかっ",
"いや、それは冗談だが、襦袢を着ていられるかもしれない。または寝間着を着とられるかもしれない。いろんな場合があるんだ。だのに、貴様はあわてて、私室に軍服がそっくり揃っていますから、いま川上機関大尉は素裸でありますなんてことをいった。とにかく杉田がなかなか艦長室から帰って来ないのも、もとはといえば余計な貴様のおしゃべりのせいだぞ"
],
[
"おう、杉田、帰ってきたか。みんなが心配していたぞ",
"杉田、俺のおしゃべりのせいで、貴様が引張られたんだといって、みんなが俺をいじめやがった。そんなことはないなあ、杉田"
],
[
"おう、御苦労。どうだった",
"はいっ。やはり駄目でありました。川上機関大尉は、今朝にいたるもまだ帰艦しておられません",
"うむ、そうか"
],
[
"おう、なにか",
"杉田二等水兵の姿が見えません。私はしゃべりたくないのでありますが、当直将校にはおとどけしておきます"
],
[
"杉田がいないのか。杉田といえば川上の世話をしていた水兵だろう",
"はっ、そうであります",
"そうか、杉田が姿を消したか"
],
[
"すぐ行くから、お前は先へ分隊へ行っておれ",
"ははっ、先へ参ります。しかし……"
],
[
"当直将校。私がしゃべったことは、ないしょにねがいたいのであります",
"なぜか",
"ははっ、私はいま、村の鎮守さまに願をかけまして、向こう一年間絶対にしゃべらんと誓ったところであります。でありますから、私がしゃべったということは、お忘れねがいたいのであります",
"変なことをいいだしたね。それほどにいうのなら、お前のいうとおりにしよう。さあ、早く先へ行っておれ",
"あ、ありがたいであります"
],
[
"おお当直将校。そういう妙な噂が立ったので、いま杉田の衣嚢をとりよせて調べてみると、ほら、こういう遺書がでてきました",
"えっ、遺書? どれ、――"
],
[
"わ、私がしゃべらないといけませんか",
"あたりまえだ"
],
[
"――では申し上げますが、杉田はいま申しましたとおり、午前十時二十分、艦側から海中にとびこんだのであります",
"ふむ――それから",
"杉田は水中深くもぐりこみました。彼はもと鮑とりを業としていたので、なかなかうまいのであります。かれこれ三分ほどももぐっていたでありましょうか、やがて彼はしずかに海面に顔だけを出して、泳ぎだしました",
"ばかに話がくわしいが、一体それはどうして分かった",
"それは――それはつまり見張人が見張っていたのであります",
"なに、見張人? 誰がそんな脱艦を見張っていたのか。――ははあ、貴様だな"
],
[
"黙ってちゃ分からぬ。なぜ答えないのだ",
"うへっへっへっ"
],
[
"きのうこの店に大きな紙包をあずけていった川上機関大尉は、どこにいられるか知らんか。皆にも聞いてくれ",
"ためため、あなた声、小さい。もっともっと大きい声するよろしいな",
"なんだ。声の大きい方じゃ、艦内でひけをとらぬのに、あれでもまだ小さいというのか"
],
[
"――川上大尉、誰も知らない。あなた、誰あるか",
"俺か。俺は大日本帝国の水兵で、杉田というんだ",
"すいへい。すきたあるか。ちょとまつよろしい"
],
[
"すいへい、すきた。なに用あるか。にっぽん軍艦出た。すいへいおる、おかしいあるよ",
"だからいっているじゃないか。川上機関大尉をさがしにひとりでやって来たんだ",
"川上大尉、誰も知らない",
"じゃあ、誰があの荷物をここへあずけていったのか。その人に会わせてくれ"
],
[
"それでは、あの荷物もってきた人に会わせる。その代り、何かくれるよろしいな",
"何かくれろというのか"
],
[
"張、あんないする。あなた、ついてゆくよろしいな",
"そうか、案内してくれるか。それはありがたい"
],
[
"どうです。ハバノフさん。とうとうなにも知らずに帰ってゆきましたよ",
"いやあ、私もひやひやしていたんだが、うまくゆきましたねえ"
],
[
"さあ、ハバノフさん。明石、須磨はもう大丈夫ひっかえしてきませんよ。では船室へいって、おちついてお話をしようじゃありませんか",
"そうですね。もう大丈夫でしょうね。どうも私は日本軍人が傍へくると、火のついたダイナマイトに近づいたようで、虫がすかんですよ",
"まあ、こっちへいらっしゃい"
],
[
"いかがですか、ハバノフさん。この飛行島をごらんになった上からは、貴下のお国でも日本に対してすぐさま硬い決心をしてくださるでしょうね",
"そうですねえ、――"
],
[
"いやたいへん失礼しました。笑うつもりじゃなかったが、どうもつい笑っちまった。そのわけは、すぐ分かります。ねえハバノフさん。貴下――や、貴下のお国では、この飛行島を一たいなんだと思っているのですか",
"えっ。それは分かっているじゃありませんか。飛行島というのは海中に作った飛行機の発着場なんでしょう。それにちがいありますまい",
"大きに、そのとおりです。誰でもそう思いますよ。日本の練習艦隊も、そう思って帰っていった。ところがです。わが飛行島は、そんな生やさしいものではない"
],
[
"ええっ、するとこの飛行島は、なんです",
"ねえハバノフさん。驚いてはいけませんよ。この飛行島は、ぼんやりこの地点に根をはやしているのではない。時速三十五ノットでもって移動ができるのですよ",
"なに、飛行島が三十五ノットで走る"
],
[
"いや、ところがちゃんと三十五ノットで移動できるのです。日本海軍の一万噸巡洋艦でも追駈けることができますよ。――いや、まだ驚くことがある。これは極秘中の極秘であるが、この飛行島には最新式のハンドレー・ページ超重爆撃機――そいつは四千馬力で、十五噸の爆弾を積めるが、その超重爆撃機を八十機積むことになっている。だからこの飛行島は、見かけどおりの飛行島ではなく、世界最大の航空母艦なんです。どうです、これで驚きませんか",
"ほほう、それは初耳だ。――でもまさか超重爆がこの短い飛行島甲板から飛びだすとは、常識上考えられませんよ",
"それは御心配には及ばん。飛行甲板は、戦車の無限軌道式になっていて、猛烈なスピードでもって飛行機の飛びだす方向と逆に動くのです。だから飛行甲板を走りきるまでには、甲板の長さの幾層倍かの長い滑走路を走ったと同じことになる。これだけ申せばもうお分かりのとおり、どんな重い重爆だって楽にとびだせますよ。どうです。驚いたでしょう、ハバノフさん"
],
[
"まだ驚かすことがあるんだが、そいつはまあいずれ後のことにしましょう",
"えっ、まだ驚くことがあるんですか"
],
[
"おおリット閣下。ここで私の決心もきまりました。スターリン議長にたいし、出来るだけの説明をしましょう",
"いや、ぜひわれわれの軍事同盟をつくりあげねばなりません。ねえ、お互にユダヤ人の血をひいている兄弟ではありませんか。われわれユダヤ人は、ソ連においても、わが大英帝国においても、また米国においても、銀行をひとり占にしている。その大きな金の力によって、政治を動かすこともできるし、新聞や映画などでわれわれの敵をやっつけることもできるし、もちろん軍隊を動かして戦争をさせることもできる。ユダヤ人の国というのはないが、われわれは世界の大国のうしろに隠れていて、それをあやつることができるんだ。一つ握手して、まず第一に東洋においてわれわれに反対する日本をぶっつぶさなければなりません"
],
[
"おお、スミス中尉。一体どうしたんだ",
"はっ、少将閣下"
],
[
"――只今、本島の通信班から緊急報告がまいりました。それによりますと、今しがた、本島内から意味不明の怪電波を発射したものがあったそうです。どうかこれをごらん下さい",
"なに、怪電波を発射したって"
],
[
"少将閣下、日本の水兵が、この飛行島に入りこんでいるのを捉えてきました。ヨコハマ・ジャックなどの手柄です",
"なんだ、日本の水兵が入りこんでいたというのか。ふーむ、この男か"
],
[
"失礼でありますが、一杯いかがでありますか",
"うむ、丁度いいところじゃ。では一杯もらおう",
"えっ、それはかたじけないことで――"
],
[
"ところがふと、例の川上機関大尉の言葉を思いだしたというわけです",
"ふふん、――",
"あいつも、私に劣らず変り者でございますね。川上が失踪するその前夜、やはり一升壜をさげて私のところへやってまいりまして、酒をのみました。そのとき川上がいいますことに、このつぎ日本酒をのんだとき、今夜俺のいった言葉を思い出してくれ――というのです。そこで思い出しましたよ。その日彼が残していった言葉を――",
"ふむ、――",
"その言葉は、今日に至って思いあたりましたが、その日は一向気がつきませんでした。川上はこんなことをいいました。『貴様にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるではないか』――といったんです。艦長",
"うむ、なるほど"
],
[
"なるほどなあ、――",
"ふだんから仲よしだったからいうのでありませんが、彼奴は実に珍しくえらい男です。そういうことを本当にやってのける男です。しかも寸分の間違もなくやるという恐しい男です。川上は必ず飛行島に忍びこんでいます。そしてわが帝国のために命をあの飛行島で捨てようとしているのです。われわれはそういう彼の壮挙をよそにこのまま日本へ帰ることはできません"
],
[
"長谷部大尉。これを読んで見たまえ",
"えっ?"
],
[
"川上のことは、いつか君に話したいと思い、わしはすでに司令官のおゆるしを得てあったのだ。司令官もよく諒解せられ、明日にでもなったら、頃を見て話をしてやれといわれた。――なあ、長谷部大尉。これは艦隊の主だった者の間にだけ打合せのあったことであるが、実は飛行島の秘密をさぐるため、川上機関大尉に特命を出したのだ。彼は帝国軍人たる者の無上の栄誉だと感涙にむせんで司令官の前を去ったそうだ。川上としてはどんなに君にいいたかったかしれないが、極秘の命令だから、彼は堅く護って、何もいわないで出かけたのだ。長谷部、川上を恨むな",
"ええ、誰が恨みましょう。しかし……",
"しかし――どうした",
"川上の奴は武運のいい男ですな!"
],
[
"そうだ、長谷部大尉。もう一つ下の電文も読んでみたまえ",
"はっ、そうでありますか"
],
[
"すべて今後の川上からの通信に待つことにしている。川上は命のつづくかぎり、飛行島の秘密を知らせてよこす筈だ。情況によっては、或いは君が喜びそうな新しい帝国海軍の行動がはじまるかもしれない。それまでは鋭気をやしないながら、飛行島の様子を通じて相手国の出ようをにらんでいなければならぬ。しかしわしの見るところでは、一般に考えられているところとはちがって、目下の事態は刻々悪い方へ動きつつあるように思う",
"ええっ、悪い方へ?"
],
[
"だ、誰です、あなたは……",
"しずかにしていなきゃいけないというのに。お前さんの言葉が誰かの耳に入ると、そのときはもうどうにも助りっこないぜ",
"あっ! そういう声は――ああ川上機関大尉だ。か、川上……"
],
[
"おい杉田。もう泣くな。いま俺たちのうしろには、敵の眼が数百となく迫っているのだ。わが帝国のためを思えば泣いているときじゃない。涙を拭って、すぐさま敵と闘わねばならないのだ。――ほら、誰かこっちへやってくる",
"えっ、――",
"黙っていろ。動くな。どんなことが起っても動いちゃならん"
],
[
"どうしても、この付近だ。わが英国製の方向探知器に狂いはないんだ",
"よし、そんなら部屋を壊してもいいから、徹底的にしらべあげろ",
"こんどは、こっちだこっちだ"
],
[
"ここが臭いぞ",
"開けてみろ",
"なんだ、この部屋は――"
],
[
"誰もいやしないよ。いればいまのピストルの音におどろいて、跳ねだしてくる筈だ",
"さあ、先へ急ごうぜ"
],
[
"おい杉田。大丈夫か",
"はっ、私は大丈夫であります。機関大尉はいかがでありますか",
"なあに、どこもやられはしない。ときに杉田。俺は時間が来たから、ちょっと外へ出て、艦隊へ無電をうってくる。俺がかえってくるまでそこにじっと寝ているのだぞ。ここはちょっと普通の人間には踏みこめないところだから、安全な場所だ"
],
[
"はあ。お呼びになりましたか",
"うむ。――どうじゃ、旗艦からの報告がたいへん遅いではないか",
"だいぶん遅うございますな。ちょっと無電室へ様子を見に行ってまいりましょう"
],
[
"はい、艦長。連合艦隊はわれわれのために潜水艦を出動させました。これがその電文です",
"そうか――どれ"
],
[
"やあお早う、ハバノフさん。私は煙草が吸いたくなって、それで朝早く眼が覚めるのですよ。眠っている間は、煙草を吸うわけにゆかないですからねえ",
"いや私は、第一腹がへるので、眼が覚めますわい。どっちも意地のきたない話ですね。あっはっはっ。――ときにちょっとここにお邪魔をしていいですか"
],
[
"おお何か御用件でしたか。それは失礼しました。どうぞおっしゃってください",
"――実は、昨日貴官からお話のあった英ソ両国間の協定のことですが、国の方へ相談してみたのです",
"ほほう、それはそれは。お国ではどういう御意見ですかね",
"それがどうも、申し上げにくいが、ちと冴えない返事でしてね。要点をいいますと、日中戦争以後、英国が日本に対して非常に遠慮をするようになったので、あまり頼みにならぬと不満の色が濃いのです",
"なに、日本に対してわが大英帝国が遠慮ぶかくなったという非難があるのですか。それはそう見えるかもしれません。いや、そう見えるように、わざとつとめているのだといった方がいいでしょう。それも相手を油断させるためなんです。ですが、実は、われ等は極東において絶対的優勢の地位に立とうと、戦備に忙しいのです。わが大英帝国は、東洋殊に中国大陸を植民地にするという方針を一歩も緩めてはいない。これまで中国に数億ポンドの大金を出しているのですよ。そのような大金がどうしてそのまま捨てられましょう"
],
[
"ハバノフさんこそ何をいいますか。われ等は十分にそれをやっている。だから昨日も説明したではありませんか。いま建設中のこの飛行島などは、世界のどこにもない秘密の大航空母艦である。しかもそれを南シナ海に造っているというのは、何を目標にしているか、よくわかっているではありませんか",
"いやリット少将。貴官はこの飛行島がたいへん御自慢のようだが、今朝わが国の専門家から来た返事によると、どうも頗るインチキものだということですよ",
"なにインチキだ。この飛行島がインチキだというのですか"
],
[
"私がインチキといったのではない。私の国の専門家がそういったのです",
"なにをインチキというのだ。いいたまえ。私は建設団長として、貴君の説明を要求する"
],
[
"さしあたり飛行甲板のことですよ",
"飛行甲板がどうしたというんです",
"そう貴官のように怒っては困る。まあ私のいうことをおききなさい。いいですかね。飛行甲板から重爆がとびだすのに、滑走路が短すぎるから、甲板は戦車の無限軌道式になっていて、そいつは飛行機のとびだす方向と逆に動くとかいいましたね",
"そのとおりです",
"いやそれがインチキだというのです。甲板が無限軌道で後方へ動いても、飛行機の翼はそのために前方から空気の圧力を余計に受けるわけではない。だから、とびだしやすくはならないというのです。結局そんなものがあってもなくても同じことだ。インチキだという証明は、これでも十分だというのです。さあどうですか",
"なあんだ、そんなことですか。それは一を知って二を知らぬからのことです。後方に動く無限軌道の甲板は十分役に立ちます。停っている飛行機が、出発を始めたからといって、摩擦やエンジンの性能上すぐ全速力を出せるものではありません。ですから無限軌道の上で全速力を出せるまで準備滑走をやるのです。飛行島の外から見ているとそれまでは飛行機が甲板の同じ出発点の位置でプロペラーを廻しているように見えるでしょう。そして全速力に達したところで、無限軌道をぴたりと停めるのです。すると飛行機は猛烈な勢いでもって飛行島の上を滑走して進みます。そして全甲板を走りきるころにはうまく浮きあがるのです。どうです。これでもインチキですか",
"いや、私がインチキだといったわけではないのです。くれぐれも誤解のないように。私にはよくわかりませんから、またそれをいってやりましょう。専門家がまた何か意見をいってくるかもしれません。私としてはこの飛行島がインチキでないことを祈っています。いや、貴官を怒らしたようで恐縮です"
],
[
"お気に入ったら、まだありますよ",
"ええ気に入りましたね。大英帝国は、世界中いたるところ物産にめぐまれた熱帯の領土を持っていますね。まったく羨ましいことです。しかるにわが国は、いつも氷に閉ざされている。せめて一つでもいいから、冬にも凍らない港が欲しいと思う。いかがですな。大英帝国はわがソ連のため、アフリカあたりに植民地をすこし分けてくれませんか",
"あっはっはっ、なにを冗談おっしゃる。冬でも凍らない港なら、東洋にいくらでもあるではありませんか。大連、仁川、函館、横浜、神戸など、悪くありませんよ。なにもかも、貴国の決心一つです"
],
[
"どうも変な日本人ね。このお薬ときたら、とても甘いのにねえ",
"ほんとだわね。日本人たら、甘い時にはあんな風に顔をしかめる習慣かしらと思ったけれど、そんなことないわねえ"
],
[
"どうじゃね。日本の水兵は、連のことを白状したか",
"いえ、何にも返事をしませぬ。医者には、こういう訊問は得意でありません"
],
[
"この日本の小猿めは、しぶとい奴ですよ。かまうことはありませんよ。素裸にして、皮の鞭で百か二百かひっぱたいてやれば、すぐに白状してしまいますよ",
"そういう乱暴は許されない。そんなことをすれば、私はこの水兵の生命をうけあうわけにはゆかない"
],
[
"患者に手をかけてはならぬ。私は主治医だ",
"なにを、――",
"おいジャック。もういい、やめろ"
],
[
"リット少将。このような乱暴がくりかえされるのでありますと、私はこの患者の生命を保証することはできませぬ",
"いやわかっている。ジャック、お前はすこし手荒いぞ。ちと慎め",
"なにが手荒いものですか。私は昨日、この日本の小猿めに床の上に叩きつけられたものです。そのとき腰骨をいやというほど打ちつけて、しばらくは息もできないほどでした。その仇をとらなくちゃ、ヨコハマ・ジャックさまの――",
"こら黙れ。この上乱暴すると、飛行島の潜水作業の方へ廻すぞ"
],
[
"あっ、そいつばかりは御免です。潜水作業はあっしの性分に合わないんだ。この前十分に懲りましたよ。あんな深いところに推進装置をとりつけるのは――",
"おい、飛行島の秘密をしゃべっちゃならぬ。貴様は何というわからない奴だ",
"ほい、また叱られたか"
],
[
"スミス中尉か。何ごとだ",
"今しがた、飛行島の左舷近くに、昨夜海中にとびこんだところを射殺しました日本のスパイ士官らしい死体が浮かんでいるのを発見いたしまして、引揚げてあります。ごらんになりますか",
"なに、あの川上機関大尉の死体が発見されたというのか"
],
[
"そのとおりでございます。それで、いかがいたしましょうか",
"死体が見つからなかったときには、川上の行方をもう一度厳重に探さなければならぬと思って、いまもそれを考えていたのじゃ。万事思う壺で、満足じゃ"
],
[
"リット少将。昨夜も御報告申し上げましたように、川上機関大尉を中甲板舷側に追いつめました時、彼は苦しまぎれに、塀を越えて海中にとびこんだのです。それを上からさんざん撃ちまくったのです。さっき東側の舷近くの海面で発見した死体には、弾丸が二十何発も命中していましたし、これに間違いありません",
"そうか。弾丸は捜査隊員のもっていた銃から出たものに相違ないか",
"そうであります。うち一発は、すぐ取出せましたので改めてみましたが、たしかにこっちの機関銃の弾丸でありました",
"じゃ、その死体を見ようじゃないか"
],
[
"さあ、とうとうものをいったな。貴様は勝手な奴だ。だがいい気味だ。いまびっくりするものを見せてやるぞ",
"びっくりするものって何だ!",
"うふん、驚くな、いいか。貴様が杖とも柱とも頼む川上機関大尉の死体だ",
"ええっ、な、な、何だって?",
"あっはっはっ、いよいよ貴様も、木から落ちた猿と同じことになったよ。ざまをみろ"
],
[
"はあ、艦橋当直",
"こっちは艦長だ。どうだ入野一等兵曹、あと三十浬で飛行島にぶつかる筈だが、西南西にあたって、なにか光は見えぬか",
"はい、なにも見えません。只今艦橋は豪雨と烈風にさらされ、全然遠方の監視ができません",
"そうか。苦しいだろうが、大いに頑張ってくれ。なにか見えたらすぐ知らせよ",
"はっ、畏まりました"
],
[
"艦長へ報告、西南西にあたって、光を放っているものが見えます",
"見えたか。よし、見失わぬように監視をつづけていよ",
"はい、承知いたしました"
],
[
"そうであります。望遠鏡でみますと、飛行島の甲板上に点っている灯が点々と見えます",
"そうか。まだ気がつかないのか、一向警戒をしている様子が見えないね。しかし、もう向こうの哨戒圏内に入ったとみなければならぬ"
],
[
"うむ、距離はいくら、速力は、針路は――",
"はい。――観測当直、右舷に見ゆる哨戒艦を測れ"
],
[
"――分かったな",
"はい"
],
[
"よろしい、出発。武運を祈る",
"はっ、では行ってまいります"
],
[
"わしは目が見えないことはないぞ。いいから配電盤のところで、電灯線へ流れこむ電流は全部切ってしまえ",
"はっ、だが、それは危険であります。閣下"
],
[
"それが灯火管制の最中に、責任ある者のいうことか。なんでもよい。敵機に、この飛行島の梁一本でも壊されてたまるものか。命令じゃ。電灯線への送電を即時中止せい",
"ははっ、――"
],
[
"日本の潜水艦が、すっかり飛行島のまわりをとりまいてしまったってよ",
"それよりも大変なことが起きたのよ。海底牢獄に閉じこめてあった囚人を、誰かが行って解放してしまったそうよ",
"あっ、皆さん、しずかに! 爆音がきこえる。日本の飛行隊がいよいよ攻めてきた。ああどうしよう。あなたあ、――"
],
[
"飛行班のゴルドン兵曹だ。班長からの至急電報を頼みにきた。早くとおしてくれ",
"なんだゴルドンだって? そんな名前の兵曹がいたかなあ"
],
[
"鼻息のあらい野郎じゃないか",
"うん、失敬千万な奴だ。雨合羽など着こんで、雨なんかちっとも降っていないじゃないか"
],
[
"ええ、今一人誰か出てゆきました。なに、あれは曲者ですか。でも、ゴルドン兵曹だといっていましたよ、飛行班の……",
"ばか、何をいっちょる。ゴルドンなんて兵曹が飛行島のどこにいる。あいつのために危く無線機械をこわされるところだった。いや、こっちが気がつかなければ、その前に俺たちは皆、ぱんぱんぱんとやられちまうところだった",
"すると、今の曲者は、一たい何者だ。あの川上とか杉田とかいう日本軍人はうまく捕まったというじゃないか",
"あのほかに、まだ日本人スパイがはいりこんだのだな",
"そんな筈はないよ。ここで働いている奴は、国籍を厳重に洗ってある筈だ。――それにしても変だね。おお、誰か早くいって、団長閣下へ報告をしてこい"
],
[
"とにかく驚いたぜ。僕だから、こうして元気にかえってきたものの、君達だったら今頃は冷たくなっていたかも知れない",
"勝手な熱をふくのは後からにせい。一たいどんな目にあってきたのだい"
],
[
"――しかしケリーよ。なにか盗まれたものがあるにちがいないぜ。いまにきっと貴様は出し入れ帖の上で団長閣下にあやまることになるぜ。ふふふふ",
"何だって――"
],
[
"あれ、変だぞ",
"これじゃ、日本の飛行機に飛行島の所在を知らせるようなものじゃないか",
"ひょっとすると、スパイの仕業かもしれないぞ",
"なに、スパイ?"
],
[
"あっ、敵機だ",
"どこだ",
"あれあれ、あそこだ",
"おや、なにか黒いものを落したぞ"
],
[
"あれはやはり日本の飛行機だったのかなあ",
"もちろん、日本の飛行機でなければ、どこの国の飛行機があんな風に大胆にやってくるものか",
"そうだ、やっぱり日本の飛行機だよ。あのとき、怪しい男が無線室を襲ったり、それから数箇所に火の手があがったりしたではないか。この飛行島に日本のスパイが忍びこんでいて、あの飛行機と何か連絡があったのではないだろうか"
],
[
"閣下、只今甲板の上に、怪しげなものを発見いたしました",
"なんじゃ、怪しげなるものとは……",
"はっ、それはなんとも実に不可解な記号が、甲板の上いっぱいに書きつけてあるのでございます",
"不可解な記号? 誰がそんなものを書いたのか",
"いいえ、それが誰が書いたとも分からないのでして。――ああ御覧ください、ここからも見えます"
],
[
"え、どなたですの",
"梨花よ、僕だ",
"おおあなたは……",
"これ、しずかに。どうだね、杉田の容態は"
],
[
"はあ、まだ本艦の聴音機には感じないようです",
"うむ、そうか"
],
[
"艦長、聴音機が爆音をつかまえました",
"そうか。それはよかった。結果はどんな工合か"
],
[
"艦長。爆音が二方面から聞えます。西北西から聞えますのは弱く、東南から聞えますのは相当強くあります",
"なに、二方面から――"
],
[
"わかった。弱い爆音の方は柳下機であろう。もう一つの東南から来るのは油断がならんぞ。機数はわからんか",
"すくなくとも四機、あるいはそれ以上ではないかと思われます"
],
[
"距離は見当がつかんだろうな",
"はっ、不明であります"
],
[
"聴音班報告。柳下機は近づきました",
"うむ"
],
[
"艦長、聴音班報告です",
"おう、――",
"敵機襲来。その数六機。いずれも本艦頭上にあり。おわり",
"本艦頭上か。よし"
],
[
"空爆だ!",
"作業、急げ!",
"総員、波に気をつけ!"
],
[
"じゃ。もう一度、さいそくしてまいりましょうか",
"そうおし。早くなおしておいてくれなければ、あたしがドクトルに叱られちまうじゃないの"
],
[
"まあびっくりした。硝子屋かい。ずいぶん前にたのんだのに、来るのが遅いねえ",
"へえへえどうも相すみません。すぐに入れかえますよ、美しいお嬢さま"
],
[
"うむ、よくいった。ここは敵地だ。焦るな。体力をやしなえ。そして機会がいたったときは、俺と一しょに死んでくれ",
"はい、――",
"杉田二等水兵。もう長話はできぬが、この飛行島もいよいよ近く動きだすぞ",
"えっ、飛行島がうごきだしますか",
"そうだ。試運転をはじめるようだ。貴様もよく気をくばっておれ、いよいよ手を借りるときは、梨花にたのんでお前に伝えるからな",
"はい、よく分かりました"
],
[
"さあ、誰か来た。気づかれるな。俺の硝子入替えの腕前をそこで見物しとれ",
"上官は硝子の入替えにも御堪能でありますか。私はおどろきました",
"うふ、――"
],
[
"おう、今、できた。しずかに入ってこい",
"なに、もうできとるか。いやに勿体ぶるな。それならなにをおいても第一番に俺様に見せなきゃいかんじゃないか"
],
[
"これを見よ。お前の奮闘の甲斐あって、この写真に川上機関大尉の生死に関する重大な手がかりが現れておる",
"はっ",
"肉眼では、煙幕その他にさえぎられて見えなかったのであろうが、写真にはちゃんと現れているのだ。これだ、甲板の上に黒々と書かれているこの記号だ。『○○×△』――見えるだろう",
"はあ、見えます。不思議ですなあ。昨夜はどういうものか、みとめることができませんでしたが",
"うむ。それはさっきいったとおりだ。この記号こそは、通信機のないときの制式組合暗号だ。で川上機関大尉は生きているぞ。しかもこの記号の意味は、すこぶる重大だ。それを解読してみると、『八日夜、試運転ヲスル』となる。飛行島はいよいよ仮面をはいで、大航空母艦として洋上を航進するのだ。われわれは、どんな困難をしのんでも、その試運転を監視せねばならない。帝国海軍にとっての一大脅威だ!"
],
[
"閣下、一大事でございます",
"どうもそうらしいね。労働者がさわぎだしたとでもいうのか",
"いえ。そんなことではありません、香港経由の東京電報です。これをごらんください"
],
[
"貴様だな、昨夜飛行甲板の上いっぱいに、ペンキでいたずら書をやったのは",
"そんなことを――",
"黙れ。貴様の手首にくっついている黒ペンキが、なにもかも白状しているぞ。なぜあんなことをやった。これ、こっちへ顔を見せろ"
],
[
"杉田、俺のことなら心配するな。俺は大丈夫だ!",
"でも、――"
],
[
"ああ!",
"おお!"
],
[
"あっ、向こうへ飛びおりたぞ",
"逃がすな"
],
[
"ちぇっ、逃げられたか",
"恐しくはしっこい奴めだ"
],
[
"閣下、さきほどは不体裁なところをお目にかけまして申しわけありません",
"おおスミス中尉か。君は武芸にかけてはたいへん自信があるようなことをいっていたが、東洋人にはききめがないらしいね",
"恐れ入りました。それにしても、どこにどうして生きていたのか、死んだとばかり思いこんでいた川上が、生きていて、甲板に妙なものを書いたり、火をつけたり、又硝子屋などにばけて、島内を騒がせていようとは夢にも思いませんでした"
],
[
"閣下、これからあの川上に対する処置は、いかがなさいますか",
"そのことだて"
],
[
"もう試運転まであと二日しかないというのに、あの川上を、このままにして置くことはできない。そうだ。これから島内大捜索を命令しよう。それには大懸賞に限る。川上を生捕にした者には二千ポンド(一ポンドは現在約十七円位)の賞金を与える。また川上を殺した者には、一千ポンドを与える。どうだ、これなら顔の黄いろい労働者たちも、よろこんで川上を追いまわすにちがいないではないか",
"二千ポンドに一千ポンドですか",
"そうだ、賞金が少いとでもいうのか"
],
[
"もちろん閣下にもお分かりのことと思いますが、とにかくそういうわけで、ここ二日のうちに川上を捕らえて、殺してしまわねばなりません。それを間違いなくやるためには、賞金をうんと奮発して労働者達を総動員することが大切です。あの大豪川上に向かう者は、一つしかない自分の命を捨ててかからねばならぬのです。賞金は、命を捨てさせるに十分なほど慾心をもえたたせる金額でなくてはいけません。二千ポンドに一千ポンドなどとは、この飛行島建設費の何万分の一……",
"もういい。分かった。もういうな"
],
[
"賞金二万ポンドだって? うわーっ、おっそろしい大金だな",
"それだけ貰えると、故郷へとんでかえって、山や川のある広い土地を買いとり、それから美しいお姫さまを娶って、俺は世界一の幸福な王様になれるよ。うわーっ、気が変になりそうだ",
"おお、俺も気が変になりそうだ。誰か俺の体をおさえていてくんな、俺が暴れだすといけないから……"
],
[
"わーい、こりゃすごいや。ことによると、カワカミというのは『東洋人』という日本語かもしれないぞ。だって七十何名のカワカミは、誰がなんといっても多すぎらあ",
"なにをいっているんだ、貴様。それよりも早く奥へいって手伝ってこい",
"え、奥へいって、一たいなにを手伝うのかね",
"なにをって? 分かっているじゃないか。七十何名のカワカミの中から、本物のカワカミを選りだすんだ",
"ああなるほど籤引かい",
"籤引? あきれた奴だ、選りだすんだ",
"ふふん、選りだすといっても、モルモットの中から鼠を探すときのように、そんなに簡単に選りだせるかね",
"無駄口を叩かないで、早く奥へいってみろよ。面白いから"
],
[
"貴様はどこであの偽物のカワカミを引張ってきたんだ",
"に、偽物? じょ、冗談はよしてください"
],
[
"わしの引張ってきたのが本物のカワカミでなけりゃ、この飛行島には本物のカワカミは一人もいないってことですよ",
"じゃあ、どこから引張ってきたか、早くいえ",
"いいですかね。わしは今日、鋼鉄宮殿の下で昼寝をしていたんですよ。そこへがらがらがらどしーんです。びっくりして上を見ると、窓硝子がめちゃめちゃにこわれて、一人の男――つまりあのカワカミが――とびだしてきたんです。これが二万ポンドの懸賞犯人とは、わしも凄い運につきあたったものだと思い、すぐさま追いかけましたよ、そうして大格闘の末、やっと捕らえたんです。さあ、これだけいえば、いくらなんでもお分かりになったでしょう"
],
[
"よし! それだけいえばよく分かるよ。この太い大法螺ふきめ。おい、警備隊員、こいつの背中に鞭を百ばかりくれて、甲板から海中へつきおとせ",
"なにをいうんです。いまいったとおり、あれが本物のカワカミ……",
"だまれ。この大うそつきめ。貴様はカワカミが窓から逃げだしたとき、二万ポンドの懸賞犯人だからと思い、すぐ追っかけたといったね",
"そうですとも。わしは……",
"ばか! 窓から逃げだしたときには、まだ懸賞の話はきめていなかったわい。これでもまだ白いの黒いのとほざきおるか",
"うへー"
],
[
"ああ少将閣下。調がやっと一通り片づきましてございます",
"ふーん、片づいたか、一通り?"
],
[
"――で、結果はどうなったか",
"はい、ほんとのカワカミと思われる者を選びだしましたから、閣下に見ていただこうと思います。おーい、こっちへ連れてこい"
],
[
"あっ、あれは何の音だ",
"いやに不気味な音じゃないか。おや変だぞ、部屋が傾くようだぜ"
],
[
"おっ、飛行機だ",
"一たいどうしたのだろう",
"今夜はどうやら演習らしいぞ"
],
[
"おい、退け。なにをするんだ",
"フランク大尉、あなたこそ、何をなさるんです",
"ケント兵曹。のかんか!",
"お待ち下さい。――まちがいがあってはなりません",
"なに、まちがい? 何のまちがいだ",
"ああ、御存じないのですか。いまわが飛行島は試運転中で、それにつきまして、リット少将閣下は、わが機関部が最善の成績を上げるようにと訓令せられました",
"そんなことは、よく分かっている",
"ところが、さっきこの第四ディーゼル・エンジン班の一人の部員が急にめまいがしてぶっ倒れましたが、それにつづいてたおれる者続出、今では十六七名という多数にのぼっております",
"そ、そんなことがあるものか。俺は、そんな報告に接しておらぬぞ",
"あれ、フランク大尉は御存じなかったのですか"
],
[
"そうだ。ふむ、あれかもしれぬ",
"えっ、なんとおっしゃいます",
"うむ。実は今から三十分ほど前、リット少将の副官から電話がかかってきて、『飛行島の三十六基のエンジンのうち、調子の合わないものが二三あるらしく、司令塔のメートルをみていると、あるところへ来ると、変な乱調子が起る。だから、貴官はすぐさま、三十六基のエンジンの仕様書と試験表とを各班からあつめて、すぐこっちへ持ってこい』という命令だ。そこで俺は、あとをゼリー中尉にたのんで、さっそく仕様書と試験表をあつめに出かけたのだ",
"おや、そんなことがありましたか。そのゼリー中尉が、真先にぶっ倒れたのですが、御存じでしょうな"
],
[
"俺は、試験部へ行って、リット少将閣下が命令せられたものを集めるのに夢中になっていた。ところがその仕様書はすぐ集ったが、試験表の方がなかなか揃わない。それに手間どって、試験部の責任者を呶鳴りつけたりしているうちに、時間はどんどん廻って、二三十分かかってしまった",
"では、大尉は、ずっと試験部におられたのですね"
],
[
"そうだ。試験部の、机の引出をみな引き出して、やっと試験表を三十通までみつけたが、あとの六通が見あたらない。あまり遅れてもと思って、足りないままで、副官の前へ持って出たがとたんに大恥をかいた?",
"大恥とは何です?",
"うむ。副官はそんな電話をかけてそんな命令を出した覚がないといわれるのだ",
"そりゃ、変ですね",
"変だ。まったく変だ。とにかく副官に笑われて、ここへかえってきたのだ。重大な試運転の真最中に、誰か副官の声色をつかって、俺を一ぱいくわせたのかとむかっ腹をたててここへ帰ってくると、ほら、そこにいる怪しい東洋人が眼にうつったではないか",
"あ、なーるほど。それでよく分かりました"
],
[
"フランク大尉。監視隊は七名ものカワカミを捕らえ、リット少将の命令でみな殺してしまったそうですよ。いや、これは上官の方がよく御存じのはずですが",
"それはそうだったが、でもケント兵曹。あの横顔を見ろ、どっかカワカミに似ているじゃないか"
],
[
"あっ、なにをせられます",
"ケント兵曹。退け、俺は飛行島の秘密をまもらねばならぬ"
],
[
"フランク大尉。もうこうなった以上、恥をしのんで、何もかもリット少将閣下に、報告してその指揮を仰いだ方が上分別ですぞ",
"なに、リット少将閣下に――"
],
[
"最大速力三十五ノットへ――",
"はい、最大速力三十五ノットへ"
],
[
"そんなことは心配ない、今からそういうことを問題にして、つまらぬ騒をおこさせてはならぬ",
"ですが、閣下。私はほんとうに心配なのです",
"これ、もうよしたまえ、そんな話は――"
],
[
"おい、もうよせというのに……。なあに、彼等は飛行島めごく一部分だけを知っているのにすぎない。だから秘密が洩れるといっても、飛行島全体の秘密がむきだしにわかるというのではない。それに、彼等には、相当の金をつかませて、かたく口止をするつもりだ。だから心配は少しもない",
"そうですかなあ。私には合点出来ませんね。それにあの杉田水兵なんかも、まだあのままにしてあるではありませんか。川上機関大尉を片づけてしまった後に、あれだけ生かしておいて一たいどうするつもりです"
],
[
"君は杉田水兵を殺したがって仕方がないようだが、あれはわけがあるのだ",
"はあ、わけと申しますと、……",
"さきにわれわれは川上機関大尉の容疑者を数名射殺したが、万一あの容疑者のほかにほんとうの川上機関大尉がのこっていたときはどうなるだろう",
"おお、閣下は、まだ川上が生きているとおっしゃるのですか",
"いや、たとえ話をしているのじゃ。万一川上が生きていてもじゃ、杉田さえ生かしておけば、彼はきっと杉田の身の上を心配して、病室付近に現れるだろう。そこを捕らえれば、一番てっとり早いではないか。つまり杉田は、川上を釣りだすための囮なのじゃ",
"驚きましたね、川上が死んだのに、囮を飼っておくなんて……凡そ馬鹿らしい話ではありませんか"
],
[
"閣下、警備飛行団長から、祝電がまいりました",
"ほう、祝電が",
"飛行島の竣工と、無事なる試運転を祝す――というのであります",
"無事なる試運転か。そうじゃ、この分なら試運転もまず無事に終りそうじゃな"
],
[
"閣下、また祝電がまいりました",
"ほう、すこし気が早すぎるようだが、こんどは誰からか",
"警備艦隊司令官からです",
"おおそうか。いよいよほんとうに、試運転は無事終了らしい。これは思いがけない幸運だった。外国のスパイ艦艇は一隻も近よらなかったし、これでわしは、世界中の眼をうまく騙しおおせたというわけかな。あっはっはっ"
],
[
"では、艦内検閲点呼を命令せい。これで試運転は無事終了ということにしよう。警備隊の方へも、同様にしらせるがいい",
"はい、かしこまりました。全艦および警備隊に、検閲点呼を命じます"
],
[
"班長、おかしいではありませんか。本艦は殿艦であるのに、あとに、もう一つ殿艦がついてきます",
"なんだ、本艦のあとについてくる艦があるというのかい。そんな馬鹿なことがあってたまるかい。貴様、寝ぼけているんだろう",
"まったくですよ。私はちゃんと二つの大きな眼をあいていますし、二つの大きな耳をおったてていますよ。この眼で見、この耳で聞いたのです",
"何をいってやがる。この梟野郎めが――"
],
[
"ねえ班長。今まで私がうそをカナリヤの糞ほどもいったことがありましたかい。班長、もし、それがうそだったら、私は班長に――",
"班長に、なんだと",
"ええ、あのう班長に、私がお守にしているビクトリヤ女皇のついている金貨をあげますよ",
"おおあの金貨か。これはうめえ話だ。ようし、班員あつまれ。検閲点呼はあとまわしで、まず金貨の方から片をつける。探照灯を用意。本艦の後方を照らせ。早くやれ!"
],
[
"たいへんだ。あれは日本の軍艦だ",
"ええっ、日本の軍艦だって?"
],
[
"艦長、本艦のすぐ後に、日本の軍艦がついてまいります",
"なんだと。日本の軍艦?",
"そうです。数字は不吉の十三号です",
"そうか。さては日本の軍艦がもぐりこんでいたのか。これはたいへんだ。おい通信兵、全艦隊へ急報しろ。飛行島へはあとまわしでいい。あの怪軍艦をにがしてはならぬ"
],
[
"潜水艦だ。ほら、いつか現れたホ型十三号という日本海軍が誇る最新型のやつだ",
"うん、あれか。早く撃沈してしまわないと、飛行島にもしものことがあっては",
"なあに、怪潜水艦のいた海面は、すっかり取巻いたから、もう心配なしだ。味方は飛行機と潜水艦とで百隻あまりもいるじゃないか",
"どうかな。闇夜のことだし、相手はなにしろこの前も手を焼いた日本海軍の潜水艦だぜ"
],
[
"検閲点呼のことにつきまして、至急お耳に入れたいことがございます",
"なんじゃ、検閲点呼のことじゃ。君は気が変になったのか。日本潜水艦現るとさわいでいる最中に、検閲点呼のことについてもないじゃないか",
"はっ、しかし重大事件でございますので。――分隊長フランク大尉が、只今機関部で、ピストルを乱射いたしておるそうであります。当直将校からの報告であります",
"なに、フランクがピストルを乱射しているって。誰を撃ったのか",
"さあ、それについてはまだ報告がありません。なにしろ第四エンジン室内の電灯は消え、銃声ばかりがはげしく鳴っておりますそうでして――",
"ええっ、――"
],
[
"では私がスミス中尉と一しょにとりしずめてまいりましょう",
"うん、早くゆけ。ぐずぐずしていると、大事なわが飛行島の機関部に、どんな大損傷が起るかもしれん。海軍士官はたくさんあるが、飛行島はかけがえがないのだからな"
],
[
"分隊長、たいへんです",
"たいへん? ど、どうした",
"海底牢獄の囚人が脱獄しました"
],
[
"そうです。私が倉庫エレベーターで下へおりようとしましたところ、エレベーターの綱条につかまって脱獄囚が下からどやどやと上ってきたのにはおどろきました",
"綱条につかまって上るなんて、そんなことができてたまるか",
"でも、嘘じゃありません。ほら、彼奴等がやってきました。足音がします。あそこをごらんなさい"
],
[
"仇敵、英国人め。圧政にくるしむわが印度同胞のうらみを知れ!",
"な、なにを――"
],
[
"あ、そうだ。怪フイリッピン人カラモはどうしたろう",
"怪フイリッピン人? なんだい",
"ほら、お忘れになりましたか。さっき少将閣下に申し出て斥けられたあれです。例の日本将校カワカミが化けているのじゃないかと思う怪しい奴です。ついさっきまで、その辺でエンジンを操作していましたが……"
],
[
"あ、貴様は――",
"少将閣下。カワカミが生きている確かな証拠を申し上げにまいりました",
"なんじゃ、カワカミ? カワカミの亡霊にゃわしは用はないわい。生きているものなら、貴様ひっかついで、ここへ連れてこい。――ああこれでもしわしが神経衰弱にならなかったとしたら、それは医学界の一大不思議じゃ"
],
[
"リット少将てえのは、あんなに話がわかる人だとは、今日の今日まで思ってなかったよ",
"そうよなあ。まったくお前のいうとおりだ。リット少将さまは、話がわかりすぎて、気味がわるいくらいだよ。俺はな、うちの女房に、ダイヤモンドの指環をかってやるつもりだ"
],
[
"どうだ、見たか。ずいぶんひどいことをやったじゃないか",
"は、見ました。全くおどろきました。しかし上官の機敏なる判断には、もっとおどろき入ります。もう十分、あの船の上でぐずぐずしていたら、今ごろは五体ばらばらになるところでした",
"うむ、俺の判断に狂がなかったというよりも、これは日本の神々が、われ等の使命を嘉せられて、下したまえる天佑というものだ。おい杉田、貴様が意外に元気で、こんなに泳げるというのも天佑の一つだぞ",
"は、私は船内で上官のお顔を見つけたときは、うれしさのあまりに、大声で泣きたくて困りました。とうとう脱艦以来の目的を達して、川上機関大尉と御一しょに、飛行島攻略に邁進しているんだと思うと、腕が鳴ってたまりません",
"うん、愉快じゃ。しかしこんど飛行島で顔を見られたら、そのときは相手を殺すか、こっちが殺されるかだぞ。なぜといえば、飛行島の上には、東洋人はもうただの一人もいないのだからなあ",
"なに大丈夫です。そのときは日本刀の切味を、うんと見せてやりますよ"
],
[
"ああついに貴国の同意を得て、こんなうれしいことはない。英ソ両国の対日軍事同盟はついに成立したのである。では今より両国は共同の敵に向かって、北方と南方との両方向から進撃を開始しよう",
"しかしリット提督。その軍事同盟の代償については、どうかくれぐれも約束ちがいのないように願いまするぞ",
"いや、それは本国政府より、特に御安心を願うようにということであった。わが英国は、印度の平穏と中国の植民地化さえなしとげれば、それでいいのであって、日本国の小さい島々や朝鮮半島などは、一向問題にしていないのである",
"それなればまことに結構です。それはとにかく、わがソ連と英国とは、もっと早くから手を握るべきであった。なぜなら、わがソ連政府はユダヤ人で組織せられているし、また貴国の政治はユダヤ人の金の力によって支配せられているのであるから、早くいえば、本家の兄と、そして養子にいった弟との関係みたいに切っても切れない血族なのですからねえ"
],
[
"ほう、外はいよいよしけ模様だな",
"うむ。しかし不連続線だそうだよ。いまにはれるだろう"
],
[
"なんだ、これからどんな任務につくのかだって、そいつは、いくら機関部だって、ひどい質問だ。分かっているじゃないか、日本の本土を南の方角から強襲するのだ",
"やっぱりそうか。南の方から強襲するのか",
"なあんだ、君にも分かっているんじゃないか",
"そういう話は、機関部でも、もっぱらの噂なんだ。しかしそう簡単に、敵の本土に近づけるかなあ"
],
[
"心配するな。こっちの作戦にもぬかりはないんだ。いいかね、こうなんだ。近くウラジボを根拠地とするソ連艦隊が、北方から日本海を衝こうとする一方、われわれは南から同時に衝く。そうなると日本の艦隊は、いきおい勢力を二分せにゃならんじゃないか。そこが付け目なんだ。日本の艦隊をして、各個撃破の挙に出でしめないのが、そもそも英ソ軍事同盟の一等大きな狙所なのだ",
"ふーむ、うまいことを考えたなあ"
],
[
"それみろ、いくら優勢海軍でも、二分されては、一匹の鮫が二匹の鮭になったようなもので、まるでおとなしいものさ。そこを狙って、こっちは爆弾と砲弾とでもって、どどどどっとやっつける",
"おい大丈夫かね。しかし日本の連合艦隊は、今も南洋付近に頑張っているのじゃないかね。そしてわれわれは当然、生のままの連合艦隊にぶつかるようなことになるんじゃないか",
"大丈夫だとも。今ごろ、敵の連合艦隊は、大騒ぎで北艦隊と南艦隊とに二分され、ウラジボに向かうやつは、重油をふんだんに焚いて、波を蹴たてて北上しているころだろう。北上組は巡洋艦隊で、南洋の辺に残っているのは主力艦隊だろうよ",
"うむ、すると戦艦淡路、隠岐、佐渡、大島や、航空母艦の赤竜、紫竜、黄竜などというところがわれわれを待っているわけだね。相手の勢力は二分されたといっても、これは相当な強敵だ。わが飛行島戦隊にとっては、烈しすぎる大敵だ。僕は、とても勝利を信ずることができない"
],
[
"あっはっはっはっ。貴公にゃ、臆病神がついていて、放れないらしい。そこのところには、こういう作戦があるんだ。いいかね。南洋方面にいる日本の主力艦隊に対しては、わが東洋艦隊が総がかりでもってぶつかることになっているんだ。しかもこちらから積極的に、敵の根拠地を襲撃するんだ。戦闘水面は、おそらくマリアナ海一帯であろう",
"ふーん、わが東洋艦隊は印度やシンガポールや香港を空っぽにして日本の主力艦隊にかからにゃ駄目だ",
"もちろんのことさ。しかしこういう場合を考えて、わが東洋艦隊は約三倍大の勢力に補強されてあるから、心配はない。そうして敵艦隊に戦闘をさせておいて、一方わが飛行島戦隊は、戦闘地域の隙を狙って、東径百四十度の線――というと、だいたい硫黄列島とラサ島との中間だが、そこを狙って北上するんだ。そうなると、われわれは明放しの日本本土の南方海面に侵入できるんだ。そこで早速飛行島から爆撃飛行団を飛ばせて、一挙にトーキョーを葬り去るんだ。なんといういい役どころではないか。われわれ飛行島戦隊なるものは、日本攻略戦の主演俳優みたいなものだ。大いにその光栄を感謝しなけりゃならん",
"ほほう、わが飛行島戦隊は、日本攻略戦の花形俳優にあたるのかね。ああそれはすばらしい幸運をひきあてたものだ。さあ、それならここで一つ、景気よく前祝として乾杯しょうじゃないか",
"よかろう。さあはじめるぞ。皆、こっちへよって来い",
"よし、集ったぞ",
"では、はじめる。飛行島戦隊の戦士たち、ばんざーい",
"ばんざーい。――この次は、飛行島をヨコハマの岸壁につけたときに、乾杯しようや",
"ああそれがいい。愉快愉快"
],
[
"そんな弱気を出してはいかんじゃないか。いや、俺のことなぞ心配しないでいい",
"でありますが――でありますが、上官の足手まといになる杉田であります。杉田は早く死んでしまいたいのです。私が死ねば、上官は、それこそ何事にもわざわいされずに、思いきって奮闘できるのであります。ああ私は、上官に大迷惑をかけるために、ついてまいったようなものです。ざ、残念この上もありません"
],
[
"ああ、もう何もいうな、杉田。川上は、そんなことをなんとも思っちゃいないぞ。敵と闘って、名誉の戦傷を負った貴様じゃないか。普通なら、病院船の軟らかいベッドの上に横たわって、故国の海軍病院に送還される身の上だ。しかしここは敵地だ。いや敵地どころか、敵の懐の中なのだ。可哀そうだが、これ以上、どうしてやりようもない",
"も、もったいないことです。上官、もう沢山です",
"うん、泣くな。俺のいいたいことは、そういう重傷をうけた身でいながら、今もこの潮に洗われている鉄骨の間で頑張っている貴様のおどろくべき忍耐力を褒めてやりたいのだ。おい杉田、貴様ぐらい立派な帝国軍人はないぞ。そしてまた貴様ぐらい上官思の忠勇なる部下はないぞ",
"上官、もう杉田は……"
],
[
"はい",
"俺はこれから、ちょっと上へのぼって、飛行島の様子をさぐってくる。お前は、短気をおこさず、ここに待っていろ",
"はっ。上官、杉田もぜひおつれください。私とて敵の一人や二人は――",
"いや、まだ襲撃をやるわけではない。いずれ襲撃をやるときは、かならずお前をつれてゆく。それを楽しみに待っておれ。今は偵察にゆくんだ。敵状を知らねば、斬りこみようもないではないか"
],
[
"はっ、では杉田は、ここで部署を守っております",
"よし、しっかり頼んだぞ",
"では、御無事を祈っています",
"うむ、行ってくる。くれぐれも短気をおこしてはならんぞ。――ああそうだ。俺が行ってしまって、力のないお前が、万一激浪にさらわれてはいけない。そういう危険のないように、お前の体を、この鉄骨にしばりつけておいてやろう"
],
[
"なあに、大したことではないよ",
"なに?",
"黙れ!"
],
[
"誰か?",
"私です"
],
[
"梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい",
"リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください",
"ふん、厄介な奴じゃ。ほら、手を出せ"
],
[
"うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか",
"ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ",
"皆って、誰のことだ"
],
[
"ううーん、ううーん",
"提督、どうされました。スミス中尉です",
"なに、スミス中尉。お前もか"
],
[
"御病気ではなかったのですね。それはよかった",
"うん、――",
"提督閣下。哨戒艦から、しきりに信号があります。どうもわが飛行島大戦隊を外部から窺っているものがある様子です",
"なに、外部から窺っているものがあるというのか。また日本の潜水艦か",
"いや、それはまだはっきり分かっていません。とにかく、わが戦隊は目下極秘航行中でありますので、無電を発することを禁じてありますため、信号がなかなかそう早くは取れないのであります。無電を出すことをお許しになりませんと、わが大戦隊はいざというときに、大混乱をおこすおそれがあります",
"いや、無電を出すことを許せば、わが飛行島大戦隊の在所を、敵に知らせるようなものじゃ。そいつは絶対に許すことができぬ"
],
[
"では当直へ、そのように伝達いたします",
"うむ"
],
[
"はあ、何か御用でありますか",
"わしは今夜司令塔へ詰めようと思う。だからあと三十分も経ったら、ここへ迎えにきてくれんか",
"はい、かしこまりました。すると今夜はもうお寝みにならないのですか",
"うん、わしは今夜、もう寝るのはよした",
"御尤もです。私も今夜あたり、どうも何か起りそうな気がしてなりません。提督が司令塔にお詰めくだされば、わが飛行島の当直全員もたいへん心丈夫です"
],
[
"スミス中尉、飛行島内に、怪漢がまぎれこんでいて、下士官が二名やられました。すぐ下甲板へおいでを願います",
"なに、怪漢がまぎれこんだと。よし、すぐ行く。全隊、駈足!"
],
[
"おい、下甲板で、どんなことが起ったのか。早くその様子を話して聞かせよ",
"はい。大変なことになりました。怪漢はやがてこっちへやって来るかもしれません。提督、どうか奥へおはいり下さい"
],
[
"おお、お前は誰か",
"私は――",
"お前は怪我をしているじゃないか。胸のところが、血で真赤だぞ。お前はそれに気がつかんのか。おや、右の腕も――",
"リット提督閣下。御心配くだすって、なんとも恐れいります。が、まあ中へおはいり下さい"
],
[
"提督。今日までに、よそながらちょくちょくお目にかかりましたが、こうして正式に顔を合わしますのは、只今がはじめてであります。申しおくれましたが、私は大日本帝国海軍軍人、川上機関大尉であります",
"うむ、カワカミ! 貴様は、まだ生きていたのか",
"そうです。生きているカワカミです。こうして親しくお目にかかれることを、永い間待ち望んでいました。私としましては、この上ないよろこびであります",
"もうわかった。そんなことはどうでもよい。わしの室へ、物取のように闖入するなんて、無礼ではないか。な、何用ではいってきたのか",
"いや、その御挨拶は恐れ入りました。宣戦布告はなくとも、わが帝国領土を攻撃せよとの戦闘命令は、ロンドンよりすでに貴下の懐へ届いているはずではありませんか。お分かりにならねば、提督の後に展げてございます海図の上をお調べになりますように"
],
[
"それがどうした。何もお前の指図はうけない",
"そうはまいりません。貴下の生命は、いま私の掌中にあるのですぞ"
],
[
"斬るか。斬るのは待て。な、なにをわしに要求するのか",
"それなら申し上げます。飛行島の内部は、すっかり見せていただきましたから、私は今、この飛行島をそっくり頂戴したいと思うのです。分かりましたか",
"な、なにをいうのか。そ、そんな馬鹿げたことを",
"いや、すこしも馬鹿げてはいません。貴下を征服している私は、飛行島をこっちへお渡しなさいと命令しても、何もおかしいことはありません。飛行島の進路は、このまま変えなくてもよろしい。しかし今後、すべての命令は私が出します。そこで、まずすぐ無電班長をよび出して、波長四十メートルの短波装置を起動するよう命じてください。その上で私は、本国の艦隊へ、飛行島占領の報告をするつもりです",
"ば、馬鹿な、誰がそんなことを――",
"命令にしたがわねば、私は閣下を斬り、私の使命を果すまでであります。覚悟をなさい"
],
[
"待て。命令に従う。では、無電班長を呼びだすから、あとは思うようにやりたまえ",
"うむ、よくいわれた"
],
[
"提督。自由に動いてはいけません",
"いや、電話をかけて、班長を呼びだすのだ"
],
[
"カワカミ君。いまにベルが鳴って、無電班長が電話に出る",
"そうじゃありますまい。ほら、そこに見えるのは何ですか。貴下が卓子の下から右手に掴んだものは――"
],
[
"日本人は勝って情を知る。貴下はもう完全に敗けたのだ。ピストルには手が届かない。貴下は無力だ",
"なぜ斬らないのか、余には分からぬ",
"分からないでもよろしい。飛行島は私がもらいました。だが、貴下が呼びだしたはずの無電班長が出てこないのはどうしたわけか"
],
[
"あ、貴様、まだ生きていたのか。そんな恰好をしていても俺はだまされないぞ",
"えい、放せ",
"放してたまるか。そこに抱いているのは爆弾ではないか。おい、それをどうする気か",
"なにを!"
],
[
"上官、もうすっかれ敵に囲まれました。爆弾は上官に代り、私が持って投げこみます",
"おお杉田か。貴様はどうしてここへ",
"どうして私ばかりがじっとしていられましょう。私は縛られた紐をといて下甲板に上り爆弾庫を狙って来たのです。が、今ここで会うのは、天の引合せです。――や、機関銃隊が出てきました。もう猶余はなりません。では上官、お別れです",
"おう杉田。では頼むぞ。爆弾の安全弁を外すことを忘れるな"
],
[
"ううっ",
"えい!"
],
[
"長谷部少佐、今のを見たか",
"は、見ました。司令官。飛行島が爆破したのではありますまいか",
"うむ、そうかもしれない"
],
[
"うむ、こいつにほんとうに向かって来られては、わが艦隊も相当苦戦に陥ったであろう。おお長谷部少佐、あれを見よ。飛行島はしずかに沈没してゆくぞ。今のうちに、例の川上等を捜索してはどうだ",
"は。では直ちに出かけることにしましょう"
],
[
"あ、日本人らしい。ひどく右腕をやられている",
"おお川上だ。川上だ。川上、長谷部が救いに来たぞ"
],
[
"どうだ、助けてやれないか",
"ああ指揮官、心臓は微かながらまだ動いています。すぐ注射をしましょう。多分、大丈夫でしょう",
"そうか。では早いとこ、頼む"
],
[
"なあに、どうしたというのか",
"いや、飛行島を爆破したのは、俺じゃない。あの、脱走兵杉田二等水兵の手柄だよ。身をもって爆弾庫にとびこんだあの水兵を、皆して褒めてやってくれ。俺は――俺は……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社
1938(昭和13)年1月~12月
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003527",
"作品名": "浮かぶ飛行島",
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"初出": "「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年1月~12月",
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"しかしねえ、絵里子を妻にした君が、家庭的にはたして幸福者といえるかどうかはわからないよ。第一わしはいつもこう考えている。絵里子の科学的天才を区々たる家庭的の仕事――コーヒーをいれたり、ベッドのシーツを敷きなおしたり、それから馬鈴薯の皮をむいたりするようなことで曇らせるのは、世界の学術のためにたいへんな損失である、――",
"まあ待ってください、マカオ博士"
],
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"まあ、そう脣をふるわせんでもいい。いや君の不満なのはよう分っている。しかしじゃ、科学というものは君が考えているより、もっと重大なものだ。時には、結婚とか家庭生活とかよりも重大なものだ。――そう、わしをこわい目で睨むな。よくわかっているよ、君はわしの説に反対だというんだろう。ところがそれはわしの目から見ると君が若いというか、君がまだ多くを知らないというか、それから発したことだ",
"マカオ博士、――",
"こら待たんか。その大きな拳で、わしの頤をつきあげようというのだろう。そしてわしの頸をぎゅーっと締めつけようというのだろう。それくらいのことはわかっているぞ。だが待て、ちょっと待ってくれ。わしが君に殴り殺される前に、ぜひ君に見せてやりたいものがある"
],
[
"おい君。これから君が見る怪物は、いったい何者であるか、当ててみたまえ。もし当てることができれば、この研究所をそっくり君にあげてもいいよ。つまり、いくら君が考えてもわけのわからない生物が、この小さな室に入っているんだ",
"僕はあててみますよ。なに、人間の頭脳で考えられることなら、僕にだって――",
"いや、そうはいうが、こればかりは、人間の想像力を超越している。地球ができて以来、こういう生物を見たのはわしが最初、絵里子が二番め、そして三番めが君だ"
],
[
"あれをなんというか、とにかくあの怪物が実験室の中の、なんにもない空間に足の方からむくむくと姿をあらわしはじめたときには、わしの総身の毛が一本一本逆だち、背中に大きな氷の板を背負ったように、ぶるぶると顫えがきて停めようがなかったものさ",
"え、なんですって"
],
[
"これを見たまえ。これがこの室にある立体分解電子機と、もう一つ立体組成電子機の縮図だ。わしは十五年かかって、この器械を発明し、そして実物をつくりあげたのだ",
"なんです、この立体分解とか立体組成とかいうのは",
"うん、そのことだ。この説明はなかなかむつかしい。君はテレビジョンというものを知っているかね。あれは一つの写真面を、小さな素子に走査して、電流に直して送りだすのだ。それを受影する方では、まず受信した電流を増幅して、ブラウン管のフィラメントに加える。すると強い電流がきたときは、フィラメントは明るく輝き、たくさんの熱電子を出すし、弱い電流がきたときはフィラメントは暗く光って、熱電子は少ししか出てこない。この熱電子の進路を、ブラウン管の制御電極でもって、はじめと同じように走査してやると、電光板の上に、最初と同じような写真が現われる。これがテレビジョンの原理だ"
],
[
"テレビジョンと、博士のご発明の立体分解電子機とは、どういう関係があるのですか",
"つまりそれは、一口にいうと、テレビジョンとか電送写真とかは、いまもいったとおり平面である写真を遠方に送るのであるが、わしの発明した電子機では、立体を送ったりまた受けたりするのさ",
"立体を送ったり受けたりといいますと――"
],
[
"しかし博士、写真などはいと簡単ですが、鉄の灰皿などとなると、これは物質ではありませんか。電気になおすたって、なおせますか",
"なあに訳のないことさ。鉄にしろアルミニュームにしろ、これをだんだん小さくしてゆくと分子になり、原子になりそれをさらに小さくわってゆくと電子とプロトンとになる。ところがプロトンとは、電子のぬけ穀のことであって、結局、この世の中には電子のほかになにものもないのさ。すべての物質は空間をいかに電子が構成しているかによって、鉄ともなりアルミニュームともなるんだ。だからすべての物質は、最後においては電荷に帰することができる。そうではないか。平面であろうと立体であろうと、走査の原理には変りはない。平面走査ができれば立体走査もできるわけだ。鉄の灰皿を立体走査すれば、これはすなわち一連の電信符号とかわりないものとなる。どうだ、わかったろうが",
"ふーむ、そういう理屈ですか。いや、おそろしいことになったものだ"
],
[
"博士、いったいあの怪物は、どこにいたものが、こうしてここへやってきたのでしょうか",
"多分、火星の生物だろうと思うよ。火星の生物も、いまわしがこしらえたと似たような器械をもっていて、それを使っているらしい。だから、火星において、たまたま走査をして電気になった女体を、わしの器械が吸いとってしまったわけらしい",
"おどろくべきことですね。そんなことができるとは、想像もおよばない"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:しず
2000年2月2日公開
2006年7月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000880",
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[
[
"何者ですかなあ、これは……",
"何者というよりも、これは人間だろうか",
"さあ、人間にはちがいないと思いますなあ、手足も首も胴もちゃんとそろっているのですからねえ",
"しかし角が生えていますよ。角の生えている人間がすんでいるなんて、私は聞いたことがない",
"そうだ、角が生えている。これは私たちが昔話で聞いた青鬼というものじゃないでしょうか",
"なにをいうんだ、ばかばかしい。今の世の中に青鬼なんかがすんでいるものですか。君は気がどうかしているよ",
"でも、そうとしか考えられないではないですか。それとも君は、なにかしっかりした考えがあるのですか",
"そういわれるとこまるが、とにかく私はね、この人間が着ている鎧をぬいでみれば、早いところその正体がわかると思うんだがね",
"鎧ですって。鎧ですか、これは。しかし、きちんと体にあっていますよ",
"きちんと身体に合っている鎧は、今までにもないことはありませんよ。中世紀のヨーロッパの騎士は、これに似た鎧を着ていましたからねえ",
"中世紀のヨーロッパの騎士の話なんかしても、仕方がありませんよ。ここはアジアの日本なんだからねえ。それに今は中世紀ではありませんよ。それから何百年もたっている皇紀二千六百十年ですからねえ"
],
[
"そうだ。本社の研究所へ来ている理学士の帆村荘六氏にこれを見せるのがいい。あの人なら僕たちよりずっと物知りだから、きっと、もっとはっきりしたことが、わかるかもしれない",
"ああ、そうか。帆村理学士という名探偵が、うちの会社へ来ていたね。あの人は前に科学探偵をやっていたというから、これはいいかもしれない。もっと早く気がつけば、こんなにあわてるのではなかったのに……"
],
[
"空から落ちて来たのです",
"えっ、空から……"
],
[
"ちがいますよ。あの爆撃のあった翌々日に、大雨が降ったでしょう。この怪物が落ちてきたのは、あの大雨のあとのことです",
"それはなぜですか",
"やはり、よくこのあたりの土を見ればわかります。大雨のあと、このあたりに水がたまり、それから後に水は地中へ吸いこまれたのです。そのあとでこの怪物は上から落ちてきたのです。その証拠には、怪物の身体は、雨後の軟い土を上から押しています。よく見てごらんなさい"
],
[
"撃とう。仕方がない。撃っちまえ",
"よし"
],
[
"えっ、いたか。どこだ",
"あの岩の上だ。あっ、見えなくなった。ふしぎだなあ",
"ええっ、ほんとうか。どこだい"
],
[
"……怪物めは、あの岩の上に、立ち上ったのだ。さっき解剖台の上で立ち上ったのと同じだ。それから身体を軸としてぐるぐる廻りだした。すると怪物の身体がふわっと宙に浮いて、足が岩の上を放れた。竹蜻蛉のようにね。とたんに怪物の姿は見えなくなったのだ。それで僕のいうことはおしまいだ",
"へえっ、ほんとうなら、ふしぎという外はない",
"君たちは、僕のいうことを信用しないのかね",
"いや、そういうわけじゃないが、とにかく君だけしか見ていないのでね"
],
[
"やっぱり帆村荘六が言った注意を守っていた方がよかったね。そうすれば、あの怪物は逃げられなかったんだ",
"たしかに、そうだと思う。惜しいことをしたな。しかしあの怪物は、死んだふりをしていたのだろうか",
"そこがわからないのだ。解剖台の上から飛び出す前には、心臓は動いているような音が聞えたそうだが、怪物の身体は、やはり氷のように冷えていたそうだよ",
"それはへんだねえ。生きかえったものなら、体温が上って温くなるはずだ",
"そこが妖怪変化だ。あとで我々に祟りをしなければいいが"
],
[
"ああ帆村君か。君は今まで何をしていた……。しかし君の注意はあたっていたね",
"そうだ。不幸にして、私の予言はあたった。坑道の底では死んでいた怪物が、地上に出ると生きかえったのだ。あれは宇宙線を食って生きている奴にちがいない"
],
[
"あの七人組の先生がたも、こんどはすっかり手を焼いたらしいね",
"しかし、折角こっちがつかまえておいたものを、むざむざ逃がすとは、なっていない",
"それよりも、僕はあの怪物がきっとこれから禍をなすと思うね。この鉱山に働いている者は気をつけなければならない",
"あんな七人組なんかよばないで、帆村さんにまかせておけばよかったんだ",
"そうだとも、帆村荘六のいうことの方が、はるかにしっかりしている。彼は『あの怪物は宇宙線を食って生きている奴だ』と、謎のような言葉をはいたが、宇宙線てなんだろうね。食えるものかしらん"
],
[
"宇宙線というと、光線の一種かね",
"そうじゃないだろう。まさか光線を食う奴はいないだろう"
],
[
"ふかい地の底には、宇宙線はとどきません。そこに暮していると、宇宙線につきさされないですみます。そうなると、人間――いや生物はどんな発育をするでしょうか。またそれと反対に、人間が成層圏機や宇宙艇にのり、地球を後にして、天空はるかに飛び上っていくときには、ますます強いたくさんの宇宙線のために体をさしとおされるわけですから、そんなときには体にどんな変化をうけるか、これも興味ある問題ですねえ",
"その問題はどうなるのかね"
],
[
"まだ分かっていません。今後の研究にまつしかありません",
"宇宙線というやつは、気味のわるいものだな",
"そういろいろと気味のわるいものがふえては困るねえ。あの青いとかげのような怪物といい、宇宙線といい……",
"帆村さん、あの青い怪物と宇宙線との間には、どんな関係があるのですか"
],
[
"さあ、そのことですがね。あの怪物は宇宙線を食って生きている奴じゃないかと思うのです。つまり地底七百メートルの坑道の底には、宇宙線がとどかない。そのとき彼奴は死んでいた。それを地上へもってあがると生きかえった。地上には宇宙線がどんどん降っているのです。ちょうど川から岸にはねあがって、死にそうになっていた鯉を、再び川の中に入れてやると、元気になって泳ぎ出すようなものです",
"なるほど、それであの怪物は生きかえったのですか",
"そうだろうと思うのですよ。これは想像です。たしかにそうであるといい切るためには、われわれは、もっとりっぱな証拠を探し出さねばなりません",
"すると、帆村君は、その証拠をまだ探しあてていないのかね",
"そうです。今一生けんめい探しているのです",
"しかし、そんな証拠は、見つからない方がいいね",
"えっ、なぜですか",
"だって、そうじゃないか。その証拠が見つかれば、僕たちは今まで知らなかったそういうものすごい怪物と、おつきあいしなければならなくなる。それは思っただけでも、心臓がどきどきしてくるよ",
"しかし、ねえ次長さん。あの青い怪物とのおつきあいは、あの坑道の底で死骸を発見したときから、もう既に始っているのですよ",
"えっ、おどかさないでくれ",
"おどかすわけではありませんが、あの怪物の方が進んでわれわれ地球人類にたいし、つきあいを求めてきているのですよ"
],
[
"あれえ、どうしたことじゃろ",
"前へ体が進まんがのう",
"わしもそうだよ。狐が化かしとるんじゃろか。早う眉毛につばをつけてみよ"
],
[
"へんだなあ。まるで飛行機で急上昇飛行を始めると、G(万有引力のこと)が下向きにかかるが、あれと同じようだな",
"そうですなあ。あれとよく似ていますねえ。おや、前へ出ようとすると、Gが強くなりますよ",
"そうか。なるほど、その通りだ。どうしたんだろう。おや、前に何かあるぞ。手にさわるものがある。柔らかいものだ。しかしさっぱり目に見えない"
],
[
"室戸博士は、そうお考えですか。それはちとお考えすぎではないでしょうか。十二人の歩行者が、揃いも揃って神経衰弱になるとは思われませんが……",
"ほほう。君は狐つきの説を信ずる組かね。はははは",
"いやそうじゃありません。第一、あの十二人のうちには海軍軍人が二人いるのですよ。列車から下りたばかりの海軍軍人は、青い怪物事件のあったことも知らないのですし、また話を聞いたとしても、あんなことで海軍軍人ともあろう者が、神経衰弱になろうとは思われません"
],
[
"それに、青い怪物事件のあったのは、この町です。白根村は隣村です。この町の者が神経衰弱にならないのに、白根村の者が神経衰弱になるのは変ではありませんか",
"じゃ君は、あれをどう解釈しているのか"
],
[
"今申したように、鉱山の坑道の下です。例の緑色の怪物が落ちこんだ穴の底を探しているうちに、ついに見つけたのです",
"何かね、これは……",
"さあ、わかりません",
"相当重いね"
],
[
"はい、重いです。金属らしいですね。これは、分析してみないとわかりませんが、例の緑色の怪物の体から、もぎとられた一部分のように思うのです",
"さあ、どうかなあ。坑道に前から落ちていたものじゃないかな。銅が錆びると、こんな風に緑色になるよ",
"それは緑青のことです。しかしこれは緑青ではありません。それに、鉱山でつかっているもので、こんな色をした、こんな形のものはありません"
],
[
"すると君は、これがたしかに例の怪物の体の一部だというのかね",
"分析してみた上でないとわかりません",
"そうか、とにかくこれはこっちへ預っておこう。大した証拠物件ではないが、また何かの参考になるかもしれん"
],
[
"君にいっておくが、われわれの許可なくして、事件に関係のあるものを私有することはやめてもらいたい",
"はあ"
],
[
"は。それはまだはっきりといいきれませんが、私は地球人類ではないと思っています",
"ほほう。地球人類ではないというと、それは何かね。人間でないものというと、常識では解けないじゃないか",
"それがはっきり解けると、この事件もたちどころに解決するのですが、まだわかりません。しかし人間でないということだけは言い切れます",
"なぜ",
"そうではありませんか。心臓のとまっていたのが、やがて地上へ移すと動きだした。これは人間にはないことです。目が三つある。これも人間ではない。岩の上を走っていって、竹蜻蛉のようにきりきり廻った。と、その姿が急に見えなくなった。これは児玉法学士が見たのですから間違いなしです。これも人間業ではありません",
"そうは思わないね。まず心臓の件だが、あれは始め診察したとき心臓のまだ微かに動いているのを聴きおとしたのだ。第二に、竹蜻蛉のように廻ることは、舞踊でもやることで、ふしぎなことではない。第三に、見ているうちに姿を消したというが、あれは児玉法学士の目のあやまりだよ"
],
[
"兵曹長のいう通りだ。今の話でいくと、これからの防空第一線は、成層圏、いや成層圏よりも、もっと上空のあたりになるぞ。幕状オーロラ(極光)が出ているところは、地上三百キロメートルの高空だが、あの極光を背景として、他の遊星生物の空襲部隊と、壮烈なる一大空戦を展開するなどということになるかもしれないね",
"これは困った。われわれは、高度三百キロメートルどころか、その十分の一にも足りない高度の成層圏飛行で、今しきりに冷汗をかいているのですからなあ。急いで勉強して、一日も早く極光圏を征服しなければなりません",
"そうだとも。それから更に進んで、月世界や火星までも飛行ができるようになっていなければ、間に合わんぞ",
"やれやれ、話が手荒く大きなことになりましたな",
"そうだよ。宇宙の敵からわれわれを守るためには、すくなくとも月世界や、火星、土星などという遊星を、わが前進基地として確保しておかねばならぬ。さあ、そうなると、今のプロペラで飛ぶ飛行機や、噴射で飛ぶロケット機などでは、とてもスピードが遅すぎて、役に立たないぞ。まず飛行機から改良してかからにゃ駄目だ。十八歳の少年兵のとき、飛行機に乗って火星まで行って、そこで引返して地球へ戻ってきたら、八十八歳のおじいさんになっていたでは困るからなあ",
"十八歳の少年が帰って来たら、八十八歳の老人に……。はっはっはっはっ。それは困るですなあ。ぜひもっと速い飛行機を作ってもらいましょう。はっはっはっはっ"
],
[
"例の緑色がかったねじの頭みたいなものね、君も見て知っているね",
"ああ、知っているよ。室戸博士に見せたあれだろう",
"そうだ、あれだ。あれを東京の大学で、僕の友人が分析したのだ。その報告が今日手紙で来たよ",
"報告が来たか。それは面白いなあ。で、どうだった"
],
[
"た、大変な報告じゃないか。あの緑色がかったねじの頭のようなものは、一種の金属材料でできているが、あのような金属は、これまで世界のどこでも発見されなかったものである。――ということが書いてあるね",
"そうなんだ。つまり、今日わが地球上において知られている元素は九十二種あるが、あの緑色がかったねじの頭のようなものは、その九十二種以外の数種の元素を含んでいるという証明なんだ。それが如何なる物質であるかは、今後の研究に待たなければならないが、とにかくこういうことだけはわかったと思う。すなわち、あれは地球以外の場所から運ばれて来たものらしいということだ"
],
[
"ねえ帆村君。あの怪物は地球外から来た者だ。これは今や間違いないね。ところで僕は、あの怪物が岩の上で消えてなくなるところを見たんだ。このことは未だに信用してくれる人が少い。しかし決して僕の目も気も狂っていなかった。あれは本当だ。真実だ",
"僕は、君が本当のことをいっていると信じているよ。しかも始めから信じている",
"ありがとう。僕は君にお礼をいう"
],
[
"そこでじゃ、大問題が残っている。あの怪物は、姿を消した。しかし全然居なくなったのではない。どこかに居るのだ。僕たちの目には見えないが、あの怪物はたしかに居るのだ。君は、僕のいうことを否定するかね",
"いやいや。君のいうとおりだ",
"そうか。うれしい。とすると、油断ならないわけだ。あの怪物は、あんがい僕たちの傍に立って、にやにや笑いながらこっちを見ているかもしれん。あの怪物は、やろうと思えば、僕たちの首を切りおとすこともできるのだ、全然僕たちの知らないうちに。これはどうして防いだらいいだろうか。ねえ帆村君"
],
[
"大丈夫だよ、児玉君。すぐどうこうということはないと思う。しかし君が今いったとおり、あの見えない怪物を、なんとかしてわれわれの目で見られるように、至急工夫しなければならんと思う",
"ああ、そういう機械は、ぜひ必要だね。それができれば、白根村にあらわれた、見えない壁の事件も解けるわけだ",
"なるほど、君はえらい",
"なぜ",
"なぜでも、例の怪物事件と白根村事件とが、同じ関係のものだということを、君はちゃんと心得ているからだ。そういう考え方でもって、この事件を解いていかないと、本当のことは決してわからないのだ"
],
[
"いったいどうしたのですか",
"いや、まあ、部屋で話しましょう"
],
[
"地上からいくら呼出しても、上では兵曹長が出てこないのです。上からの電波もまったく出ていません。無電に故障を生じたのかなと思いました",
"なるほど",
"ところが、それから十五分ほどたった午前十一時五十五分になって、こんどはとつぜん兵曹長からの無電です。それが非常に急いでいるようでして、こっちからの応答信号を受けようともせず、いきなり本文をうってきたのです。その文句がこれですが、まあ読んでみてください"
],
[
"この続きはどうしたのですか",
"その続きはないのです。無電はそこで切れてしまったのです",
"ははあ、そうですか",
"どう感じました。ふしぎな報告文でしょう",
"ええ、まったくふしぎですね"
],
[
"そういうことになりますね",
"山岸さん、私のことばが信じられますか",
"信じますとも。私が竜造寺兵曹長を信じているのと同じです"
],
[
"信じてくださればいいが、三万メートルの高空に、地上と同じ空間があるなどという話は誰が聞いてもおかしいからね",
"もう考えられることはありませんか",
"そうですね。もう一つあります。竜造寺兵曹長は、そのふしぎな魔の空間にすべりこんで、脱出ができないのだと思います。しかし一命にはさしつかえはないと思う。なにしろそこは地上とあまり変らない気圧気温のところであり、そして着陸場までちゃんとあるのですからね",
"着陸場ですって"
],
[
"おや、あなたはまだそこまで考えておられなかったのですか。兵曹長機の高度計が零を指すようになったというのは、そこに一種の着陸場があることなのです",
"なるほど。では前進もしないし、舵もきかないとはどういうのです",
"それはその魔の空間に突入したので、前進しなくなったのですよ。もちろん舵をひねっても、どうにもきかないはずです",
"そうかなあ"
],
[
"しかし、このことを他へ話して、誰が信じてくれるでしょうか。三万メートルの高空に着陸場があるといえば、誰だって笑いだすでしょう",
"笑いたい者には笑わしておきなさい。これは勇猛なる竜造寺兵曹長が、一命をかけて知らせてよこした重大報告なのです。その報告から考えだしたことを信じない者は、竜造寺兵曹長の忠誠を信じない大馬鹿者ですよ"
],
[
"帆村さん。私は司令に願って、明日、竜造寺兵曹長を救い出すために成層圏飛行をします",
"明日、あなたがですか",
"そうです。何かよくないことがありますか",
"まあ、それはおよしなさい",
"よせというのですか。なぜ……",
"行くなら、十分の用意をしてからのことです。三万メートルの高空において、優勢な敵と戦って、かならず勝つ準備が必要ですぞ",
"優勢な敵というと……。すると帆村さんは、やっぱり例の緑色の怪物のことを考えにいれているのですか"
],
[
"班長。いいお土産をお持ち下さったようですね",
"おう"
],
[
"じつは僕は心配をしているんだ。宇宙への冒険飛行に、君のような法律家を引張り出して、さぞ君は迷惑しているのじゃないかと……",
"つまらんことをいうな"
],
[
"まあ、しっかり頼むよ。児玉君",
"うん、心配はいらん。今にして僕は気がついたんだが、日本人は、科学者や技術者にうってつけの国民性を持っていながら、今までどうしてその方面に熱心にならなかったのか、ふしぎで仕方がない。もっと早く日本人が科学技術の中にとびこんでいれば、こんどの世界戦争も、もっと早く勝利をつかめたんだがなあ",
"過ぎたことは、もう仕方がない。ひとつ勉強して、工学博士児玉法学士というようなところになって、僕を驚かしてくれたまえ",
"工学博士児玉法学士か。はははは、これはいい。よし、僕はきっとそれになってみせるぞ"
],
[
"これですか。これは児玉班員であります",
"ああ、児玉か。彼はあいかわらず、じっとしていられない男だな。しかし成層圏へ上ったら、空気と圧力が稀薄になるから、児玉も自然猫のようにおとなしくなるだろう"
],
[
"高度二万メートルを突破しました",
"はい、了解"
],
[
"左上を……",
"そうです。しかし変ですよ。今まではノクトビジョンでなければ、姿が見えなかった一号艇が、まぶしいほどはっきり姿を見せているのですよ。そこからも見えるでしょう"
],
[
"ああ、一号艇が雲に包まれていく……",
"雲に包まれていく。帆村君、そんなばかなことが……",
"しかしほんとうなのです。事実だからしようがない。さっぱりわけがわからん……"
],
[
"兄さん、どうしたんです",
"ばか。電信員、用語に注意"
],
[
"機長。私は、私たちがいま生命の危険におびやかされているとは考えません。いや、むしろぜったいに安全だと思うのです",
"なぜか。説明を……",
"いや、そんなことは後で話をしましょう。それより目下最も大切なのは、本艇が積んでいる、成層圏落下傘と投下無電機です。こればかりは敵に渡さないようにして下さい",
"敵、敵とは……",
"いまの二種のものは敵の目をくらますために、糧食庫の底へでも入れておいた方がよくありませんか"
],
[
"敵といえば、わかっているよ。例の緑色の怪物だ。いや、ここでは緑色の衣裳をぬいでいるかもしれないが……。しかし、少くともわれわれのいるここへ来るときは、例の服装でいるだろう",
"ああ、あいつですか。鉱山の底で死んだふりをしていた。青いとかげの化物みたいな奴……。大きな目が二つあって、頭に角が三本生えている、あのいやらしい怪物のことですか",
"帆村班員はほんとうにそう思っているのか。いったいそれはどういうわけで……"
],
[
"帆村さん。早く話をしてください",
"話をするよりも、実物を見た方が早いよ。それっ、窓から外を見たまえ。例の緑色の怪物どもがおしかけて来たよ。ふふふ、これは面白い",
"えっ"
],
[
"待った。機長、はじめから戦うつもりでいたんでは、こっちの不利となりますよ。しばらく成行にまかせてみようじゃないですか",
"いや、捕虜になるのは困る",
"捕虜ということはないですよ。あの緑人どもは、われわれ地球人類と話をしたがっているのだと思います。だから、私たちを大事にするに違いありません",
"どうかなあ",
"まあ、こんどだけは私のいうところに従ってください。そしてここをさよならするまでは、短気を出さないように頼みますよ",
"帆村班員は、よくそんなに落着いていられるなあ",
"なあに、私は大いに喜んでいるのです。緑色の怪物どもから、われわれのまだ知らない、宇宙の秘密をしゃべらせてみせますよ。とうぶん彼等を憎まず、そして恐れず、しばらくつきあってみましょう。その結果、許すべからざる無礼者だとわかったら、そのときは山岸中尉に腕をふるってもらいましょう",
"竜造寺兵曹長の、安否をはやく知りたいものだ",
"それは頃合をはかって聞いてみましょう。私は兵曹長が無事で生きているような気がしますよ"
],
[
"僕たちからも伺うことがありますが、返事をしてくださるでしょうね",
"はい。返事をします",
"で、君のことを何とよべばいいでしょうか",
"わたくしですか。わたくしはココミミという名です",
"ココミミ。ああ、そうですか"
],
[
"ああ、日本語。これをおぼえるのには苦労しました。わが国の研究所では、五百名の者が五年もかかって、ようやく日本語の教科書を作りました",
"それはおどろきましたね。五百名で五年かかったとは、ずいぶん大がかりになすったわけですね。それでいま『わが国』とおっしゃいましたが、失礼ながら君の国は何という国で、どこに本国があるのですか"
],
[
"では、第二に、君たちはわれわれより智能が発達しており、地球の人間なんかそういう点では幼稚なものだと思っている。しかしこれは君たちの思いちがいだということを、いずれお悟りになることでしょう",
"ふむ、ふむ",
"第三に、君たちはさし迫った重大資源問題のため、はるばる地球へやって来たのです。君たちはこの問題をなるべく早く解決しないと、君たちの世界は間もなく滅びるかもしれないのだ。だから……"
],
[
"あなたの申し出に賛成します。われわれは、お互いの幸福のために、しずかに話しあわねばなりません。そうですね",
"もちろん、そうですよ。乱暴をしては、話ができませんからね"
],
[
"それではすぐ話にかかります。まずみなさん方をしばらくの間、ひとりひとりに隔離します。私たちは手わけして質問にゆきます",
"それはいけない。われわれの行動は自由です。しかし、せっかく君がそういうんだから、僕だけは君がいうところへついていきましょう",
"それは困る。ぜひ、ひとりひとりを……",
"そんなことは許しませんぞ。それよりも、早く地球の話がわかった方がいいのではありませんか。この大宇宙にすんでいるのは、地球人類とミミ族だけではありませんよ。他の生物の方が早く地球と話をつけてしまえば、君たちは困りはしませんか"
],
[
"兄さん。あの緑人がみんなどこかへ行ってしまいましたよ",
"うん。しかし、どこからかこっちを見張っているにちがいないから、油断をしないように……",
"はい",
"お前、疲れたろう。しばらく寝ろよ",
"僕、ねむくありません",
"そうか。では兄さんは、二十分ばかりねむる。お前、起してくれ",
"はい、起します"
],
[
"さあ、これでいい。くるなら来い、どこからでも来いだ",
"兄さんは、よくねむれますね",
"いや、さっきはねむくて困ったよ。……まだ帆村君はもどって来ないか",
"ええ、もう一時間を五分ばかりすぎていますがね",
"話が長くなったのかな。それとも……",
"それとも",
"いや、心配しないでいいよ"
],
[
"電信員。艇内から酒のはいった魔法壜をもってこい",
"はい。持ってきます"
],
[
"できるだけ『魔の空間』を偵察してきました。報告することがたくさんあります。第一に、生きている竜造寺兵曹長の姿も見えました",
"えっ、竜造寺に会ったと……",
"そうです。兵曹長は、狭い透明な箱の中にとじこめられています。胸に重傷しているようです",
"ふうん。助けだせないか",
"いま考え中です。話をしたかったが、監視が厳重で、そばへよれませんでした",
"そうか。ではおれが助けにゆく",
"まあ、お待ちなさい、機長。まだお話があるのです。彗星一号艇の乗組員に会いました",
"えっ、一号艇は無事か",
"艇は無事だそうです。私は児玉法学士に会って、それを聞きました",
"望月大尉は健在か",
"はい、大尉も、電信員の川上少年も、軽傷を負っているだけで、まず大丈夫です。児玉法学士は大元気です。彼は緑鬼どもと強い押問答をやって、待遇改善をはかっています。私は彼とよく打合わせました。われわれは、けっして緑鬼どもに頭を下げないことにしました。そして彼らの弱点をついて、あべこべに彼らをわれらに協力させるのです",
"できるか、そんなことが",
"それについて児玉法学士は、一つの方法を考えていました。彼はきっとうまくやるでしょう",
"どういう方法か",
"要するに彼らを説き伏せ、まっすぐな道を歩かせるのです。しかし、もしもこのことが不成功のあかつきには、われわれは即刻この『魔の空間』から引揚げないと危険なのです",
"それはどういうわけか",
"これは私の調べた結果ですが、ミミ族という生物は、われわれ人間とはぜんぜんちがった先祖から生まれたものです。ですから、性格がすっかりちがっているのです。あのココミミ君は、もっとも人間に近い性質を示していますが、あれは人間学を勉強して、あれほど人間に近い性質を示すようになったのです。しかしミミ族は、生まれつきひじょうに残酷な生物です。人情などというものはなく、まるで鉄のように冷たい生物なのです。そのかわり正直この上なしです。ほしいと思うものにすぐ手を出して取り、強い者には頭を下げ、弱い者はすぐ殺すのです",
"どうして、そんなことがわかったのか",
"私が見てきたのです。山岸中尉、彼ら緑鬼は、動物の一種でもなく、また植物の一種でもないのですぞ"
],
[
"そういう理窟は、地球の上だけにあてはまるのです。他の世界へ行けば、かならずしもあてはまらないのだと思います",
"すると、いったいどういう種類の生物だというのかね、あのミミ族は……"
],
[
"ちょっと待ってください。地球の上で、金属は生物だなどといっては、たいてい笑われるでしょう。しかし他の世界へ行けば、金属が生きものである場合があるのです",
"ばかばかしいことだ。それは暴論だよ"
],
[
"地球上に存在する金属の中にも、ほんの僅かの種類ですが、生物らしき現象を示すものがあるのです。それを言いましょう。ラジウムはアルファ、ベータ、ガンマ線を出して年齢をとり、ラジウム、エマナチオンになり、やがては鉛となります",
"そんなことが生物と言えるだろうか",
"生物に似ているではありませんか。また別のことを取上げましょう。無機物の集合体であるところの電波発振器は、空間へ電波を発射します。これは人体における脳細胞の、活動のときにともなう現象と同じです",
"それはこじつけだ",
"継電器はどうです。僅かの電気的刺戟によっていずれかへ動き出し、あげくの果は、大きなものを動かします。電波操縦もこの類です。人体における神経と、筋肉の関係そっくりではありませんか"
],
[
"そうです。もちろん透明の壁です。ですから『魔の空間』が前に落ちていても、それが見えなかったのです",
"そうすると、白根村に、『魔の空間』が落ちたとして、その空間の中にはなにもはいっていなかったんだろうか……",
"それはもちろんはいっていました。『魔の空間』を動かす一種のエンジンも備えつけてあるし、またミミ族も何十名か何百名か、その中にいたにちがいありません",
"それはおかしいぞ、帆村班員"
],
[
"おれたちは、しばらくここに残る。いささか考えるところがあるからな",
"はあ、なぜですか",
"皆ここを抜けでていってしまうと、せっかくミミ族とつきあいの道ができたのに、ぷっつり切れてしまうからなあ",
"でも、危険ですぞ、あとに残っておられると……",
"まあいい。おれにも考えがある。それに児玉班員は、なかなか外交交渉が上手だから、おめおめミミ族にひねり殺されるようなことにはならんだろう",
"では、われわれも一応ミミ族の同意をえたうえで、ここを脱出しましょうか",
"いや、それはいかん。それを知ったら、ミミ族はどんな手段をとっても、君たちをここからださないよ。無断でいくのがよろしい"
],
[
"おいっ、おれの体を起してくれ。操縦席へいくんだ。早くいって、処置をやらにゃ、本艇は空中分解するぞ",
"ええっ、それは……"
],
[
"機長。いま、水平に起しました。それまでは艇は急落下しておりました",
"ああ……",
"どこかに穴があいているようです。室内の気圧がどんどん下っていきます",
"ああ、そうか。これはすまん"
],
[
"機長。空気の漏洩箇所は尾部左下です。いま調べてなおします",
"よし、了解。おちついて頼むぞ",
"大丈夫です。さっきはちょっと失敗しました。でも、ちゃんと『魔の空間』から離脱できたじゃないですか。われわれは大冒険に成功したわけですよ"
],
[
"おい",
"見張報告。右舷上下水平、異状なし。左舷上に小さな火光あり。追跡隊かとも思う。そのほか異状なし",
"了解。その小さい火光に警戒をつづけよ",
"はい"
],
[
"機長。尾部の漏洩箇所は、大小六箇であります。大きいのは、径五十ミリ、小さいのは十三ミリ。帆村班員は、瓦斯溶接で穴をうめております。もうすぐ完成します",
"うむ"
],
[
"機長、もどりました",
"おう、ご苦労。どうした",
"見つけた穴は、ぜんぶ溶接でふさぎました。しかし、思うほど効果がありません",
"なに、思うほど効果がない……"
],
[
"艇の外廓に、ひびがはいっているように思うのです",
"外廓にひびが……"
],
[
"もうだめだ。ミミ族というやつは、地球人類より何級も高等な生物なんだから、戦えばわれら人類が負けるにきまっているよ。こうとしったら、穴倉でもこしらえて、食料品をうんとたくわえておくんだった",
"どこか逃げだすところはないかなあ、噴射艇にのって、ミミ族のおいかけてこない星へ移住する手はないだろうか"
],
[
"ミミ族だって、地球人類をすぐ殺すつもりでやってきたわけじゃあるまい。なにか物資をとりかえっこしたいというんだろう。そんならこっちもミミ族のほしい物をだしてやって、交易をやったらいいじゃないか。喧嘩腰はよして、まずミミ族の招待会を開いて、酒でものませてやったらどうだ",
"そうだ、そうだ。ミミ族だって、地球人類だって同じ生物だ。話せばわかるにちがいない。ひとつ訪問団をこしらえて、ミミ族の代表者を迎えにいってはどうか",
"それがいいなあ。とりあえず僕は、ミミ族におくる土産物を用意するよ"
],
[
"見えましたか。その楕円形のものが、帆村荘六の名づけた『魔の空間』です。それから中にうごめいているのは、ミミ族であります",
"ほんとうに本物が見えているのかね。この望遠鏡みたいなものの中に、なにか仕掛があって、絵でも書いてあるのではないか"
],
[
"いや、絵がはりつけてあるわけではありません。絵でないしょうこには、ミミ族はしきりに活動しておりましょう",
"ふむ、なるほど、これは絵ではない。ふしぎだなあ。普通の望遠鏡では見えないものが、これで見るとちゃんと見えるのはどういうわけか",
"はあ。それはミミ族や楕円体は、たいへんはげしい震動をしているので、肉眼では見えません。しかしこの電子ストロボ鏡では、相手の震動がとまるところばかりを続けて見る仕掛になっているから、ちゃんと見えるのです。その原理は、ちょうどフイルム式の映画を映写幕にうつすときと似ています。いずれあとから、発明者の帆村荘六がくわしく御説明するでしょう"
],
[
"はい。じゅうぶん注意します",
"で、どういう風に、ミミ族狩りをするのか"
],
[
"そうか。で、攻撃兵器は……",
"いま、二種だけ用意してあります。一つは怪力線砲です。これはごぞんじのとおり、短い電磁波を使ったもの。もう一つは音響砲です",
"音響砲、それは初耳だなあ"
],
[
"私の発明したものには違いありませんが、大したものではありません。要するに特別の音響が、ホースから水がとびだすように、一本になって相手にかかるのです。この音響は、多くは人類の耳には聞えない超音波です。これを『魔の空間』にあびせると、『魔の空間』を震動させている機関に異状がおこり、そして『魔の空間』は墜落するのではないかと思うのです",
"なるほど、それは面白い考えだ",
"とにかく私の、いま持っている狙いは、『魔の空間』を撃墜するためには、『魔の空間』の原動力になっている、強くて周波数の高い震動を、なんとかして邪魔して停止させることと、もう一つは、ミミ族の生活力は宇宙線であるから、ミミ族を捕らえて、宇宙線の供給をだんだん少くしてゆくと、ミミ族はおとなしくなるだろうということと、この二つです。いかがですか"
],
[
"班長の信頼は大きい。帆村君、しっかり頼むよ",
"山岸中尉。少しは私の考えを批評してください",
"われわれには、よくわからないのだ。正直に言えばね。が、とにかく面白い狙いだと思う。それでやり抜くことにしたがいいなあ",
"そういってくだされば、大いにはげみがつきます"
],
[
"ほう、第一宇宙戦隊。いよいよ宇宙戦隊が誕生するのですね。それは結構なことだ。もちろんこれはミミ族と闘うためでしょうね",
"相手はミミ族だけではない。どんな相手であろうと、わが宇宙にけしからん野望をとげようとする者あらば、わが第一宇宙戦隊は容赦しないのだ"
],
[
"なんだね、あれは……。でっけえ風船みたいじゃが、あんなでけえやつは見たことがねえだ",
"いやな色しとるな。殿様蛙の背中みたいじゃ。やれまあ、気持のわるい",
"これこれ、早く待避せんかちゅうのに。あれが地面にあたって大爆発すると、村の家が皆ふっ飛んでしまうちゅうぞや",
"えっ、それはたいへんじゃ……"
],
[
"すると、この前鉱山で解剖されかけた、ミミ族が、急に空中へとびあがり、姿が見えなくなったのは、そのときやっぱり震動を起したからですか",
"そうだ。解剖の前までは、あの緑鬼は仮死状態になっていたのさ。そのうちに、地上を飛んでいる宇宙線を吸って体力を回復し、空中へとび上ったのだ、そして身体の震動が一定のはげしい震動数に達したとき、われわれの目にはもう見えなくなったのだ",
"ふしぎな生物ですね、ミミ族は……",
"いや、今わかっているのは、彼らのほんの一部がわかっているだけにすぎない。ほんとうの正体は、これから探しあてるのだ。……ほら、いよいよ『魔の空間』が地面に激突するぞ"
],
[
"た、大したことはない。ミミ族は、墜落した『魔の空間』の内部から、神経破壊線を射かけてくるぞ。頭がくらくらとしたら、なにも考えてはいけない。考えると、脳神経が焼き切れるのだ。ぼんやりしていれば、間もなくなおる",
"ふうん。神経破壊線といえば、この前、私が『魔の空間』で射かけられて、半病人となったあれだな",
"そうだ。しかしまだ恐るべきほどの力は持っていないから、大したことはない。さあ、この間にサイクロ銃で、『魔の空間』の壁を焼き切るのだ。兵曹長、見ていなさい、サイクロ銃のすごい透過力を……"
],
[
"あっ、中が見える。中にうごめいているのは、ありゃ緑鬼どもだな",
"そうだ。ミミ族だ。さっきから音響砲の砲撃をくらって、かなり弱っている。さあ、そこをつけこんで、あ奴らを、みな生擒にしてもらおう",
"はい、了解。……全員、突撃に……"
],
[
"ほら、体の中は、がらん洞ですぞ",
"がらん洞。やっぱりそうか",
"がらん洞ですが、細い電線みたいなものが、網の目のように縦横に走っています"
],
[
"えっ、これがミミ族の正体だというと、どういうわけですか",
"つまり、ミミ族はやっぱり金属生物なんだよ。この赤い藻のように見えるのがそれだ。だがわれわれは、この珍しい金属については、はじめてお目にかかったわけで、これがなんという金属で、どんな性質を持ったものか、すこしも知らない。とにかくこんな金属は、今まで地球上になかったことはたしかだ。しかし少くとも、地球上で一番重いウランよりも、もっともっと重い元素でできていることはわかる。いま、滝田君が火傷したのも、この元素の持っている、恐るべき放射能によるものと思われる"
],
[
"すると、さっき所長が、機械人体と名をおつけになったこれは、ミミ族の体の一部分なんですか、それとも別物なんですか",
"それはミミ族――すなわち赤色金属藻の着ている外套みたいなものさ。言いかえると、それは機関車みたいなもので、それを動かしているのが、この赤色金属藻のミミ族さ。とにかく彼らは、地球へ遠征するのだから、地球人類と会見するときもあろうと予期し、そのとき地球人類と同じような形をしていた方が都合がよいと考え、そのような外套を着こんでやってきたのだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年10月22日作成
2005年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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"この機密が漏洩することを極端におそれるのです。さっきも念を推しておいたが、このことは誰に対しても厳秘を守っていただきたい。日本人の貴方ゆえに、充分信用してはいるが、これはわれわれの任務の成否に関する重大な岐路となるのでねえ",
"大丈夫ですよ、そんなこと……"
],
[
"でかい声を出すなよ、みっともない。君が奢ってくれるとは珍らしい話だが、今夜はよすよ",
"駄目だよ、今夜じゃなければ……",
"折角だが断る。このとおり連れもあるしねえ"
],
[
"十三号車とは、いい番号じゃないね",
"そうです。あまり使いたくない車ですが、今夜は一台足りないのでつい並べてしまったのですよ"
],
[
"まあ待ってください。いずれおいおい分って来ますから、しばらくそのことは……",
"博士。僕は報道員ですぞ。真相は一刻も早く知っていなければなりません",
"それは分っています。しかし私は貴方の健康を案ずるが故に、もう少し待って貰います",
"健康を案ずるとは何故です。僕は病人ではありませんよ。このとおり健康です。博士がいわなければ、こっちからいいましょう。われわれは、ドイツを脱出してはるばる日本へ赴くのでしょう。どうです、当ったでしょう"
],
[
"はあ、もうひとかた、ここへ来られまして食事をなさいます",
"誰だい、それは……",
"はい。そのかたは――ああ、もうお出でになりました"
],
[
"君は一杯はめられたというが、その君は僕を一杯はめたのじゃないかね、リーマン博士と共謀して……",
"それは君の誤解だ。だからといって、君の疑惑がすぐ融けるとは思わない。それはいずれゆっくり釈明するとして、おい岸、われわれはこれからたいへんな旅行を始めるのだぞ。知っているか"
],
[
"たいへんな旅行だということは、初めから分っていたのじゃないかね。リーマン博士曰くさ、『非常な超冒険旅行』でござんすよと、初めに僕に断ったが、君にはそれをいわなかったのか",
"それは聞いたとも。しかし『非常な超冒険旅行』といっても、程度というものが有るよ。そうだろう。君は知っているかどうか、僕たちが今乗っているこの乗り物を一体何だと承知しているかね"
],
[
"これは潜水艦だろう",
"ちがう"
],
[
"ちがうよ",
"汽船か。いや、分った、地下戦車か",
"ばかをいえ",
"じゃあ、なんだ、この乗物は……"
],
[
"分らない。どこへ行くのか。おれは知らない。しかし一万トン級のロケットを飛ばすところから考えて、地球の上の他の地点へ行くのでないことだけは確かだと思う",
"冗談じゃないぞ"
],
[
"どうぞ御勝手に……",
"では選挙しましょう。これに御投票を"
],
[
"それは大丈夫です。狭いながら、ちゃんと有ります。あなたがたの場合は、間の扉を開いて二室お使いになればよろしい",
"美粧院みたいなものがありまして",
"ああ美粧院ですか。たしかにございます。その外病院もありますし、産室もございます"
],
[
"ほほう。すると本艇にはお産日の近い御婦人も乗っているのですね",
"そうです。目下判明しているのは二人だけです。一人は縫工員のベルガア夫人で、これは妊娠九ヶ月、もう一人は宣伝長イレネ女史で同じく四ヶ月です",
"おやおや。それはどうも……"
],
[
"なお、本艇が予定の航程を終了するまでには、相当の出産があることでしょう。三四十人、いや四五十人はあるかもしれん",
"赤ん坊が四五十人もここで生まれるって……"
],
[
"フランケ君。君は本艇の全航程が何ヶ年ぐらいかかるか、それを知っているのかね",
"正式には知らんです。だが常識として、十五年はかかるでしょうな",
"十五年だって! じょ、冗談じゃない"
],
[
"本国へ調査を依頼したところ、返電が来て、そのうち三機はユダヤ秘密帝国に属するもの、それから二機はアメリカのもの、一機はソビエト、もう一機は残念ながら所属不明、もう五機はわがドイツ機なることが判明した",
"けしからん奴どもだ。なぜ、本艇はそいつらを撃墜してしまわなかったのです。今後の本艇の使命遂行上、彼らはきっと邪魔をするに決っていますよ",
"それは考慮した。しかしわれらの統領は成層圏を離れるまでは、如何なる場合といえども、攻撃に出でざるよう命ぜられた。わしは、その命令に忠実であった"
],
[
"われらの統領の名前はいえない。仮りにZ提督ということにして置こう。この統領Z提督が、こんどの超冒険旅行の計画者であるわけだ。わしたちは、絶えず統領から助言をうけ、命令を受取っている",
"すると、その統領なる人物は、ドイツ本国にいるのですね",
"いいえ、ドイツの占領地帯である某高山地方におられる。そこには世界一の天文台と気象台と通信所などがある。尤も統領は、時にベルリンへ出かけて、政府の首脳部と会談することもあるが……",
"その統領は、どういう理由で、こんどの宇宙旅行を計画したのですか。これはぜひともいってもらわにゃなりませんよ"
],
[
"但しこのことは今後一定の時期まで、報道は禁止とするが、大事な点だから、諸君は了解して置いてもらいたい。先に要点だけをいえば、われわれが棲んでいる地球は今、われら人類だけによって支配されているが、それが近頃他から脅威をうけんとしているのだ",
"他とは何者ぞや"
],
[
"他とは、目下のところ何物なるや不明である。しかし今もいったように、地球上の生物――もちろんわれら人類も総括してこれを地球生物というが、それではない他の何者かである",
"火星人というのが、ひところ喧伝されましたなあ"
],
[
"わしのいう他の者は、火星人の如き者かもしれない。しかしわれらの研究によると、火星人ではないように思われる節がある。いずれそのことは火星へいって取調べるつもりだが、わしだけの考えでは、もっと遠方から飛来して来た者ではないかと思う。わしは今仮りにこの油断のならぬその者を、X宇宙族という名をもって呼ぶことにしよう",
"X宇宙族。なるほど、こいつは戦慄的な名前だ"
],
[
"警告なさるのは自由だが、しかし艇長の信念を曲げさせることは出来ませんよ",
"何でもいい。僕は警告するといったら、警告するのだ。それで聴かれなければ、僕たちはこの旅行から脱退する",
"ちょいとベラン氏。あたしは脱退を決定したわけじゃありませんから、へんなこと言いっこなしよ"
],
[
"愛するミミよ。間違った信念を持つ艇長に、僕たちの尊い青春を形なしにされてしまうなんて莫迦莫迦しいじゃないか。今のうちなら、地球へ戻ってくれといえば、艇長も承知してくれるよ",
"今更地球へ戻ってから又出直すなんて、そんなことは出来ませんよ。あの艇長が、かねて決定しておいた航程を貴方ひとりのために変更することはあり得ませんよ",
"そんなわからん話はない。とにかく僕は掛合わないじゃいられない",
"ねえベラン氏、みっともないことは、もうよしたらどう。それに今更地球へ戻ってみても、あたしたちは高利貸と執達吏とに追駆けられるばかりよ"
],
[
"ねえ、フランケ。君はリーマン博士のいったことをどの程度に信じているのかね",
"全面的に信じている。僕たちは宇宙尖兵だ。人類最高の任務についていると信じているよ"
],
[
"火星においてか。われらが火星に到着するのは、今から何年後かね",
"多分二年はかかるだろうね",
"ふうん、二年後か。大分先が永いね。それまでに、われわれは、何もしないのか",
"いや、しないことはない。まず最近、月世界へ着陸するだろう",
"月世界へ着陸するって。月世界には空気がないから、僕たちは下りられないだろうね",
"それは心配ない。空気タンクを背負い、保温衣を着て下りていけばいい",
"なるほど、しかしわれらの究極の目的地は火星よりももっと遠方の空間に有るわけなんだろう。月世界へ寄って道草を喰うのはつまらんじゃないか",
"そうじゃないよ、岸君。月世界は地球に一等近い星だ。地球にとってはいわゆる隣組さ。月世界の役割は今後ますます重要になる。つまり月世界をまずわれら地球人類の手で固めておかなければ、今後の宇宙進攻はうまくいかない",
"月世界をわれら地球人類の前進基地として確保しなければならぬというのだね",
"そうだ。これは誰にも分る話さ。只、ぼんやりしていたのでは、それを思いつかないだけのことだ",
"なるほど"
],
[
"月世界へ着陸するのは、あと何ヶ月かね",
"何ヶ月もかからないだろう。多分あと三週間もすればいいのじゃないか",
"三週間? そんなに早いのかね。じゃあ今後三週間は、われらは退屈でしようがないというわけだろうな",
"断じて否さ。出発以後、今日で十三日目だ。退屈した日が一日でもあったかね",
"君のいうことは正しい。僕は来る日来る日を楽しみにしていよう",
"よろしい。そこで今日は配給の酒が渡る日だそうだから、僕はこれから貰ってこよう"
],
[
"岸さんたら、お口の悪い。あたし、運動不足で困っているのよ",
"なるほど。室内体操場で、バスケットボールでもやったらどうですか",
"満員つづきで、とても番が廻ってきませんわ",
"旦那さまをお相手に、室内で輪投げなど如何です",
"ああ、それはいい思いつきですわね。でもベラン氏は、あのとおり、運動嫌いですものねえ。貴方に相手をしていただこうかしら",
"いやいや、それは真平です"
],
[
"政治方面のことは、ワグナー君を措いて論ずる資格ある者なしですよ",
"あらワグナーさんが……。お見それしていましたわ。あんまり普段温和しくしていらっしゃるので、学芸記者かと思っていましたわ"
],
[
"われらのリーマン艇長の敵は、むしろ国内にありといいたいのです。彼等は、表面はすこぶる手固いように見える、いわゆる自重派です。だが、リーマン博士にいわせれば、彼等こそ、わが民族の躍進を拒み、人類の幸福を見遁してしまうところの軽蔑すべき凡庸政治家どもです。彼等は、リーマン博士の活躍を阻止するため、あらゆる卑劣なる手段を弄しています。彼等が特に力を入れているのは言論です。彼等は今やわが幹部政治家をほぼ薬籠中のものとすることに成功しそうです。そして今わが国民をも彼等の思う色彩に塗りかえ、あらゆる進取的精神を麻痺させるためにその用意に掛っています。本艇の冒険旅行の計画者であるZ提督が、はっきり表面に顔を出さないのも、元々そういう事情を考慮してのことです。彼等は今のところZ提督とリーマン博士との関係に気がついていないからいいようなものの、もしそれが知れたなら、非難と中傷は数倍に激化し、われわれはこの緊急なる事業を中止しなければならなくなるでしょう",
"じゃあ、悲観的なことだらけですわね",
"まずそういっていいでしょう。しかし本艇がこんどの冒険旅行でもって、国民の目を瞠らせるようなお土産を持って帰ることができれば、話はまた自ら変ってきます",
"お土産とは、どんなお土産です",
"それはリーマン博士がさきにいわれたX宇宙族を探し当て、これを生きたままで地球へ連れ込むことに成功することです。これがうまくいけば、いかなる反対者といえども、最早黙ってしまうでしょう。X宇宙族を目前に見た国民はきっと沸きあがるでしょうから、反対者はもう下手な発言が出来なくなるのです",
"今ワグナーさんから伺ったところによれば、本艇の成功と失敗との岐路は、X宇宙族を捕えるかどうかに懸っているのね。それはまるで大洋の底に沈んだ指環を探し出すくらいの困難な仕事ですわねえ。そうお思いにならない。ワグナーさん",
"僕にはそれを判断する力はありません。一体どうなるか、博士のうしろについていくだけです"
],
[
"変な気持だねえ。身体を持ち扱いかねる",
"そうだろう。これからは気をつけていないと、滑ってのめるよ",
"そうかね",
"あと十日も経てば、重力平衡圏へ入る筈だ。地球出発以来、最初の難関にぶつかるわけだ"
],
[
"重力平衡圏て、どんなところだ",
"本艇は今地球からも引張られ、月からも引張られている。そしてその方向は反対だ。地球の引力はだんだん弱くなりつつあるし、月の引力はだんだん加わりつつある。やがて双方の引力の絶対値が等しくなるところへ本艇がはいり込むのだ。そのときは、本を上へ放り上げても、下へおちてこないで、空間の或るところにじっと停ってしまう。おれたちもやろうと思えば、ベッドもない空間に横になって寝ることが出来る。参考のために、君もやってみるかね"
],
[
"下手をやると、本艇はうごきがとれなくなる虞れがある。行動の自由をうしなって、前進もならず後退もならず、宇宙に文字どおり宙ぶらりんになるのだ。力の無いものは、永遠にそこに釘づけのようになる。但し地球と月の運行によって空間を引摺られていくには相違ないが、しかしもはや地球の方へ退ることも、月の方へ進むこともできなくなるのだ。やがてなにか君を愕かすことがやってくるかもしれない",
"あんまり真面目くさって、僕を脅すなよ。ひとのわるい"
],
[
"で、赤ん坊はどうした",
"赤ちゃんは幸いにも生きている。しかし果して異状なしかどうだか、もうすこし生長してみないと分らないそうだ",
"そうか。気の毒だなあ。そして夫人は",
"ベルガー夫人の出血はようやく停った。絶対安静を命ぜられているが、しきりに赤ちゃんの容態のことを気にして、大きな声で泣いたり急に暴れだしたりするので、医局員は困っている",
"なぜ暴れるのかね",
"夫人は、掃除夫のカールが床に油を引きすぎたから、それで滑ったと思っているんだ。だから夫人は掃除夫のカールのところへ押掛けて首を絞めるのだといってきかないのだ",
"それはカールの罪じゃあるまい",
"もちろんカールには関係なしさ。もし罪を論ずるとすると、このように急に重力が減ってきたのに対し、艇長が何等の安全処置も講じなかったことにあるだろう",
"安全処置なんて、考えられることなのか",
"考えられるとも。いや、現に本艇にはその設備があるんだ。艇長がその使用開始を命じなかったのがいけないといえばいけないのだ",
"その設備というのは、どんなものか",
"人工重力装置さ。つまり人工的に、本艇に重力が強く働いていると同じ効果を与える装置なのさ。これがないと、重力や引力のない空間を航行するとき、われわれ艇員は全く生活が出来なくなるのだ。たとえば、壜の中にスープを入れたとしても、いつの間にかスープが壜の中から流れ出して雲のように空間に浮いて、ふらふら漂うようなことになる。室内の物品も人間も、しっかり縛っておかないかぎり、上になり下になり入乱れてごっちゃになって、仕事もなにも出来やしないだろう。だから、ぜひとも人工重力装置が入用なわけだ"
],
[
"つまり本艇は、好まざる力によって、或る方向へ引かれつつあります。恰も流れる木の葉が渦巻の近くへきて、だんだんとその方へ吸いよせられていくように……",
"宣伝長。事実を率直にぶちまけてもらいましょう。その方がいい"
],
[
"……恰も木の葉が流れの渦巻の方へだんだん吸いよせられていくように、本艇は或る方向へ引込まれていくのです。その方向には何があるかと申しますと、みなさんもかねてご承知と思いますが、宇宙の墓地といわれる場所、つまり地球と月の引力の平衡点です",
"えっ、本艇は宇宙墓地の方へぐいぐい引張られていくのか。これは事重大だぞ"
],
[
"艇長に伝えて置きましょう。しかしその決心を後で飜すようなことはないでしょうね",
"とんでもない。一刻も早く下ろして貰いましょう"
],
[
"真暗でも、外が見たいのだ。僕の祖国にはいつも暗黒の夜空を仰いでは、詩作に耽っていた文学者があった。僕がその人でないまでも生き、こんなに遥々来た宇宙を、まだ一度も展望してないなんて、おかしなことだ",
"何がおかしいと仰有るの",
"こんな静かな密閉された中に生活していたのでは、宇宙を飛んでいるのか、それとも地下の一室で暮しているのか、はっきりしない。せめて展望台に立って、大きな月でも見たら、宇宙を飛んでいるのだと分るだろう",
"艇長は艇内に出来るだけ狂気の類をつくりたくないというので、出発以来、一般の展望を禁止しているのですわ。地球上の奇観とちがって、宇宙の風景はあまりに悽愴で、見つけない者が見ると、一目見ただけで発狂する虞れがあるのですわ。ですから、ここでよくお考えになって、さっきの申出を撤回せられてもあたしは構いませんわ",
"いや、展望をぜひ申入れます。発狂などするものですか。自分で責任をとります",
"あたくしも"
],
[
"なんだろう、これは……",
"なにか椿事が起ったのだ。こんなことは今までに一度もなかった"
],
[
"皆さん、ごめんなさい。艇長の命令によって、卓子と椅子を外して持ち出します",
"えっ、なんだって"
],
[
"見えたか。おい岸。あれを何だと思う",
"何だかなあ",
"あれが宇宙墓地なんだ。宇宙をとんでいる隕石などが、地球と月との引力の平衡点に吸込まれて、あのように堆積するのだ。あのようになると、地球と月とに釘付けされたまま、もう自力では宇宙を飛ぶことはできなくなるのだ。引力の場が、あすこに渦巻をなして巻き込んでいるのだ",
"ふうん"
],
[
"あの函はなんだろう",
"あれは屍体の入った棺桶だ",
"えっ、棺桶。ずいぶん数があるようだが、どうしてあんなに……",
"地球を出発して以来、本艇内には死者が十九名できた。その棺桶だ",
"なぜ放り出すのか。宇宙墓地へ埋葬するためかね",
"それは偶然の出来事だ。本当の意味は、この際、本艇の持っている不要の物品をできるだけ多く外へ投げ出し、引力の場を攪乱して、本艇が平衡点に吸込まれるのを懸命に阻止することにある。分るかね",
"よく分らない",
"じゃあこう思えばいいのだ。舟が渦巻のなかに吸込まれそうになっている。そのとき舟から大きな丸太を渦巻の中心へ向って投げ込むのだ。すると渦巻はその丸太を嚥みに懸るが、嚥んでいる間は渦巻の形が変る。ね、そうだろう。その機を外さず、舟は力漕して渦巻から遁れるのだ。それと同じように、いま本艇から出来るだけ沢山の物品を投げ出して、平衡点から遁れようとしているのだ。これで分ったろう"
],
[
"今やっている最中だ。はっきり分るのは、もうすこし経ってだ。おお、卓子や長椅子を放り出している。艇長は、最後には、艇内にいる三十八人の発狂者を投げ出す決心をしている",
"三十八人の発狂者を……"
],
[
"それは人道に反する。発狂者とて、まだ生きているのではないか。生きているものをむざむざと……",
"待て。リーマン博士の考えはこうなんだ。もしも平衡点離脱に成功しなかったら、本艇の乗員三百九十名の生命は終焉だ。そればかりではない。折角の計画が挫折することは人類にとって一大損失だ。迫り来る地球人類の危機を如何にして防衛すべきかという問題の答案が、又もやこれから十何年も遅れることになる。それは思っても由々しきことだ。三十八人の発狂者を捨てるくらいは、小さい犠牲だと"
],
[
"ああベラン君のことかね。ベラン君なら、一時間ほど前から艇長に迫って、自分を直ちに本艇から地球へ戻せと駄々をこねだした。艇長は、そんなことは出来ないと突っ放ねた",
"今そんなことを持ち出すなんて、自ら火の中へとびこむようなものだ。じゃあ、ベラン氏は今はもう三十八人組の中に入れられたに違いない",
"それはどうかな。とにかくここに居たベラン夫人ミミがさっき艇長のところへ呼ばれていったが、そのままになっている",
"ミミが……。じゃあ、ベラン氏は取戻されるかもしれん",
"おれもそれを祈っているところだ"
],
[
"あっ、始まっている……",
"ええっ"
],
[
"ははあ。君はおれの話を聞くのが迷惑らしい顔をしているね。よろしい。では、君が一度に椅子からとびあがる話をしてやろう。聞いているだろうね。この艇長のリーマン博士は、とてつもない素晴らしい器械を本艇に持ち込んでいるのだ。その器械を使えば、空間を生物が電波と同じ速さで輸送されるのだ。おいおい、そんな顔をして冷笑するものではない。これは真実なんだからね",
"そういう高級な科学のことは、魚戸にしてやってくれたまえ",
"魚戸? あんなのに話をしても面白くない。あれは艇長と一つ穴の貍みたいなものだ。とにかくおれのいうことは本当だ。リーマン博士は地球出発以来、その実験をいくども繰返しているのだ。だからおれは、その器械に掛けてもらって、地球へ戻してもらおうと思ったのさ。どうだね、話の筋道はちゃんと立っているじゃないか"
],
[
"岸君。別に説明するほどのこともないが、君が見たとおり生物を微粒子にして空間を走らせ、やがて受信局で、元のように組立てるという器械なんだが、今日やったように長距離間で成功したのはまことに悦ばしい。ベラン氏もベルガー夫人の幼児も、無事ナウエンの受信局で元のとおり整形されたそうだ",
"えっ、あれが成功したのですか",
"そうなんだ。もう君も気がついていると思うが、宇宙旅行をするには、人間の生命はあまりに短かすぎる。そこで本艇においては、妻帯者を乗り込ませてあるばかりか、今後も艇内において出来るだけ結婚を奨励し、一代で行けなければ二代でも三代でもかかって目的を達するという信念を今から植付けて置こうと思い、それを実行しているのだ。また幼児や子供が、宇宙旅行のうちに、何か変った生長をするのではないか、それも確めたいと思っている。しかしそれにしても、もっと手取り早い旅行法が考えられなければならないと思い、かねて秘密に研究を続けていたのが、君がさっき見た微粒子解剖整形法だ"
],
[
"いやそのことなら、そうは問屋が卸しませんよ。ベラン氏はなるほど安全に地球へ戻りましたが、今頃はもう牢獄の一室に収容されている筈です",
"えっ、それはなぜです",
"ベランは、ユダヤの謀者で、本当はシャストルというユダヤ系アメリカ人です。それですから今日はわざと直ぐ送り還したのです。ベラン夫人ですか。あれはシャストルの助手にすぎませんが、一足先に別室に監禁してあります。油断大敵とは、よくいったものですなあ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1943(昭和18)年7月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"いいや、こんどが、はじめてです",
"どんなものを目的に探険するのですか。貴重な鉱石かなんかをさがしにいくんでしょう",
"そうじゃないんです。ぼくは、月がなぜあんなに冷えてしまったかということをしらべたいと思うんです"
],
[
"しかしポコちゃんは、ぼくとちがった、べつな目的で探険するといっています",
"ポコちゃんの探険目的はなんですか",
"ぼくはね、ちょっとたいへんなんだよ。月の世界へいって、生物をさがすんだよ"
],
[
"生物をさがす? だって月には生物がいないんでしょう。月は冷えきっているし、空気も水もないから、生物がいきていられないわけですね",
"それがね、ぼくは問題だと思うんだ。ほんとうに生物がいないかどうか、じっさい月の世界へいってよく探してみないことには、はっきりしたことはいえない。それにね、ぼくは前から、月の世界には生物がいるにちがいないと推理をたてているんだ",
"へえ、ポコちゃんだけですね、月の世界には生物がいるなどと考えているのは……。もっとも大昔は、月の中にウサギがすんでいて、もちをついているという話があったが、あれは伝説にすぎないですね",
"ぼくはそのウサギのことをいっているのじゃない。もっとすごいやつがいやしないかと思う。それで、むこうへいったら、どんどん地面を掘りさげて、月の生物をさがしてみるつもりなのさ"
],
[
"こんどの探検では大宇宙をとぶわけですが、航空中になんぎをするような所はありませんか",
"やっぱりいちばんくるしいのは、重力平衡圏を通りぬけるときでしょうね。もしぼくたちの宇宙艇の力がたりなくなったり、エンジンが故障になると、宇宙艇は前へも後へも進むことができなくなり、永遠にその宇宙の墓場につながれてしまうでしょう。ぼくはしんぱいしています",
"なあに、だいじょうぶさ。故障さえおこらなければ、すうすうと通っちまうさ。今からしんぱいしてもしかたがない。そこへいって、いっしょうけんめいやればうまくいくよ",
"だがね、ポコちゃん。重力平衡圏というものはもっとおそろしい場所だと思うよ。北極や南極の近くには、氷山が、ぶかぶか浮いていて、船に衝突してしずめてしまように、あの重力平衡圏には、おそろしくでっかい宇宙塵がごろごろしていて、ぼくたちの宇宙艇がそれにぶつかろうものなら、たちまちこなごなになってしまうと思うよ。だからそのへんを宇宙の墓場といってみんなおそれているんだ",
"なあに、そこへ近づいたら、ぼくがうまく宇宙艇を操縦して宇宙の墓場を安全に通してあげるよ。千ちゃん、きみみたいに前からしんぱいばかりしていたら、ますますきみの顔が青くなってヘチ……いや、ごほん、ごほん",
"なんだって。ヘチがどうしたって。その下にもう一字くっつけたいんだろう",
"マあいいや。ごほん、ごほん",
"あっ、とうとういったな、こいつ……"
],
[
"千ちゃん、たいくつだね。下界のラジオでもかけようか",
"うん。どこか軽快な音楽をやっている局をつかまえてくれよ",
"ああ、さんせいだね"
],
[
"ああ、こちらはカモシカ号です。山ノ井万造です。あなたはどなたですか",
"おお、カモシカ号ですね。ぶじですか。みんなしんぱいしていたところです。こっちは東京放送局の中継室ですが……",
"ぼくたちは元気です。しんぱいはいらんです",
"でもね、さっきから――そうです、四十分ほど前からこっちへずっとカモシカ号からのテレビジョンがとまっているのです。だからカモシカ号は空中分解でもしたんじゃないかと、しんぱいしていたわけです。だから超短波の無電でちょっとよびだしをかけたんです",
"こっちからのテレビジョンがとまっていますって。それは知らなかった。そんなはずはないんですがね。念のためにちょっとしらべますから、待っていてください"
],
[
"いや、どういたしまして。ぼくの顔が見えていますか",
"ああ、よく見えます。笑いましたね、いま。あなたは山ノ井君ですね",
"そうです、山ノ井です",
"もう一人の川上一郎君は健在ですか",
"はあ、健在です",
"では、川上君にちょっとテレビへ出てもらって、何かしゃべってもらってくれませんか",
"はいはい。しょうちしました"
],
[
"千ちゃん、今何時だい",
"今、十時三十分だ",
"十時三十分? 午後十時半かい",
"ちがうよ。午前十時三十分だよ",
"へんだね、それは……だって、外はまっくらで、星がきらきらかがやいているぜ。ま夜中の景色だよ、これは……",
"おい、しっかりしてくれ、ポコ君、いつまでねぼけているんだよ",
"ねぼけているって、このぼくがかい。ぼくがどうしてねぼけるもんか。千ちゃんこそねぼけているぞ。ぼくはねぼけてなぞいないから、たとえば、この高度計でもさ、はっきり読めるんだ。……おやおやおや"
],
[
"あははは",
"わっはっはっはっ"
],
[
"あっ、また起った",
"へんだね、どうも",
"気もちがわるいね。きっとこのカモシカ号は空中分解するんだよ。ちと早すぎらあ",
"……"
],
[
"ポコちゃん。ようやく流星群を通りぬけたらしい。もう、だいじょうぶだろう",
"だいじょうぶかい。いん石があんな大きな火のかたまりだとは思わなかった。こわかったねえ",
"まったくこわかった。下界から空を見上げたところでは、流星なんか大したものに見えないけれど、今みたいにすぐそばを通られると、急行列車が五六本、一度にこちらへとんでくるような気がして、ひやっとしたよ"
],
[
"ちがうよ、ポコちゃん。あれはオーロラだ。極光ともいうあれだ。そして山形をしているから、あれは弧状オーロラだよ",
"オーロラ? ははあ、なるほどオーロラだ"
],
[
"書いてある。――弧状オーロラは高度百二十キロないし百八十キロの空間に発生する。また幕状オーロラは、さらに高き場所に発生し、その高度は三百キロないし四百キロである――とさ",
"ふうん。ぼくたちはとうとうオーロラの国まで来たんだね。ゆかいだねえ"
],
[
"うううーん。ああ、ねむいねむい。なんだ、もう食事の時間か",
"あきれた坊やだね。宇宙の墓場だよ",
"シチュウが袴をはいたって。そいつはたべられないや、口の中でごわごわして……。ああ、ああっ。腹がへった"
],
[
"えッ。そして何が見えるって。何が見えているんだろうと、いうのかい。きまっているよ、それはゆうれいだよ",
"なに、ゆうれい?",
"そうさ、ゆうれいにちがいないよ。だって墓場から出てくるのはゆうれいにきまっているじゃないか",
"あんなことをいっているよ。あんなゆうれいがあるものか。よく見てごらんよ"
],
[
"ああ、新コロンブス号じゃないか。今から三年前にアルゼンチンの探険家ロゴス氏が乗ってとびだした新コロンブス号じゃないか",
"ああ、そうか。ふうん、すると三年前から、あのとおりお墓になってしまったんだよ。乗組員はどうしたろう。千ちゃん、すこしスピードをゆるめて、そばへいってやろうじゃないか",
"うん、そうしよう。しかしちょっと危険だぞ。うっかりするとこっちも墓場の仲間入りをするおそれがある"
],
[
"どうした、ポコちゃん",
"た、たいへんだ。新コロンブス号はがい骨に占領されているよ。あの窓をよく見てごらんよ。どの窓にも、がい骨がすずなりになって、こっちを見ているよ",
"えっ、そうか。気持のわるいことだなあ"
],
[
"敬礼をしよう",
"ロゴスさん、ばんざい"
],
[
"やっぱり探険家のロゴス先生だったね",
"そうだ。ロゴス先生は、がいこつになってもあとから来る者のために、とおとい警告をしていてくれる。えらい人だね"
],
[
"それだけわかっていれば、それでいいじゃないか",
"いや、しかし、それは、りくつがわかっているだけのことだ。じっさいぼくたちが、その重力平衡圏へ出てみたら、いったいどうなるんだろうねえ",
"さあ、それは……それはぼくたちのからだは、ふわりとちゅうに浮いたままで、下に落ちもせず、横に流されもせず、からだは鳥のように軽く感ずるのだと思うよ",
"へえっ、ふわりとちゅうに浮いたままで、下に落ちもせず、横に流されもせず、鳥のように身が軽くなるんだって。それはゆかいだな。千ちゃん、ちょっと、それをやってみようじゃないか",
"やってみるって、どうするの",
"だからさ、つまりこのカモシカ号から外へ出て、ちゅうに浮いてみたいのさ。ちゅうに浮いた感じは、どんなだろうね。ぼくは前から、そういうことをしてみたかったのさ。天国にいるつばさのはえた天使ね、あの天使なんか、いつもそうして暮しているんだから、ぼくはうらやましくてしかたがなかったんだ。ねえ千ちゃん、ちょっと外へ出てみようじゃないか"
],
[
"いや、ぼくは出ないよ",
"ぼくは一度出てみる。では、ちょっとしっけい――",
"あっ、待った。ドアをあけて外へとび出してどうするのさ",
"どうするって、今いったじゃないか。ちょっと、ちゅうに浮いてみる……",
"だめ、だめ、そのままでは……。だいいち、外には空気はすこしもないぜ、そのままとび出せば、とたんに呼吸ができないから死んでしまうよ",
"あっ、そうだったね",
"それから、外は寒いし、気圧はゼロなんだから、そのままでは、からだは大きくふくれて、しかもこおってしまうよ。つまり全身しもやけになった氷人間になっちまうよ。もちろん、たちまち君は死んじまう",
"おどかしちゃ、いやだよ",
"だって、ほんとうなんだもの。だから外へ出るなら空気服を着て出ることだ。空気服を着ていれば、中に空気があるから呼吸はできるし、服は金属製のよろいのように強いから、圧力にも耐えるし、また服の内がわは電熱であたためるようになっているから、からだが氷になる心配もない",
"ああ、それだ、空気服を着ることだ。そのことを早くいってくれればいいんだ。それをいわずに、ぼくをおどかすから、千ちゃんは、ひとがわるいよ"
],
[
"どうしたの、すぐ艇へもどれなんて……",
"たいへんなんだ。むこうから、かなり大きなすい星が、こっちへ近づいて来る。早くこのへんから逃げださないと、すい星に衝突してしまうのだ。ポコちゃん、早く艇へ乗りうつれ",
"それは一大事だ"
],
[
"おい千ちゃん。乗れやしないよ。こまったね",
"こまったね。よし、艇から長い綱をくりだすから、それにつかまるんだ"
],
[
"やられたっ。すい星と衝突だ",
"千ちゃん、艇はこわれたらしいね"
],
[
"千ちゃん、千ちゃん",
"おい、ぼくは、だいじょうぶだ",
"ぼくもだいじょうぶ。早く操縦席へいってみよう"
],
[
"ああ、これはへんだね。呼吸が苦しくなった",
"ぼくもだ。ポコちゃん、艇がこわれて大穴があいたんだよ。そこから空気がどんどん外へもれていくんだ。弱ったね。呼吸ができなければ死んでしまう",
"じゃあ、ぼくは空気帽をぬぐんじゃなかった。ぬいだと思ったら、さっきのドカーンだ。だからどこへ空気帽がいったかわからない",
"しゃくだねえ。ここまで来ながら、呼吸ができなくて死ぬなんて……",
"ぼくがわるかった。重力平衡圏で、よけいなことをして遊んで、てまどったのがいけなかった。千ちゃん、ごめんね",
"そんなことは、あやまらなくてもいいよ。しかし月世界探険のとちゅうで死ぬなんて、ざんねんだ",
"もういいよ。死ぬ方のことは神さま仏さまへおまかせしておこう。それでぼくたちは、それまでのあいだに、できるだけ修理をやってみようじゃないか",
"だめだろう。あと五分生きているか、十分生きているか、もう長いことはないよ。あっ、くるしい",
"千ちゃん、しっかり、さあ、ぼくが引っぱってやる。とにかく操縦席までいってみよう"
],
[
"蓄電池の方は?",
"だめ、ぜんぜん電圧がない。……もうだめだ。死ぬのを待つばかりだ",
"そうかね。どうせ死ぬものなら、死ぬまでに後部へいって、どんなにこわれているか見てこよう。いかないか",
"もうだめだ。何をしてもだめだ。ぼくにはよくわかっている",
"ぼくはいってみる"
],
[
"千ちゃん、ぼくたちは、めいどへ来たんだ。しかし、じごくかな。ごくらくだろうか",
"まさかね。でも、わけがわからないや。死んでからも夢を見るのかな。あっ、ポコちゃん、外は明かるいよ。太陽の光りだ"
],
[
"あれは人の顔じゃないよ。花だよ",
"花? 花だろうか。なぜ花が窓の外に見えるのだろう。おいポコちゃん、窓から外を見てみようや"
],
[
"ふうん、いつのまにか着陸しているよ。どうしたというんだろうねえ、千ちゃん",
"ほんとだ、カモシカ号はもう飛行していないんだ。でもよくまあ、いのちにべつじょうがなくて着陸できたもんだね",
"千ちゃん、いったいここはどこの国だい",
"さあ、どこの国か、どこの星なんだか、けんとうがつかないね。ぜったいに地球ではない、といって月世界ともちがう……",
"いやだねえ、きみがわるいね",
"窓をあけて、よく外を見てみようや"
],
[
"ああっ――",
"もしもし、あなた。こうふんしては、いけません",
"はなしてください。ぼくにさわらないでください――。ぼくは夢を見ているのかしら",
"しずかに寝ていなさい。あなたは、からだをこわしているのだ。しかし心配ありません。われわれがじゅうぶんに手当していますから",
"夢だ。夢だ。それでなければ、ぼくの目がどうかしてしまったんだ"
],
[
"ここは月世界ではありません。リラリラ星と名づける遊星の上です",
"リラリラ星ですって。月世界でも地球でもないんですね。火星でも金星でもないんですか",
"そんなものではない。ジャンガラ星です。ジャンガラ星とは、この国の言葉で、『宇宙の迷子星』という意味です。わかりますか",
"さっぱりわかりませんね。ジャンガラ星なんて遊星があることなんか聞いたこともありません。もちろん宇宙旅行の案内書にも、そんな名は出ていなかった。きみはでたらめをいってるんじゃないでしょうね",
"でたらめなもんですか。そのしょうこに、きみは、げんにこうしてわがジャンガラ星の上で呼吸をし、ジャンガラ星の人間で.あるわたくしと話をしている。これでわかるでしょう",
"いや、なかなかわかりません",
"じゃあ、きみにわからせるためには、どういうことをしたらいいか……",
"それはこうすればいい。早くぼくを外へつれ出して、ジャンガラ星を案内してください。さあ、すぐ出かけましょう",
"だめです。出かける前に、きみは歩き方から練習しなければならない。でないと大けがをするにきまっている……。出かけるのは、もっともっと先のことです。とうぶん、そこに寝ているがいいです"
],
[
"はっくしょい!",
"ケケッ"
],
[
"あなたを、くしゃみでふきとばすつもりはなかったんです。悪く思わないで下さい。あなたのからだは軽いんですね",
"君のくしゃみのいきおいがはげしすぎるのだよ。あっという間に、からだがくるくるとまわって、地上から千メートルも高い空までふきとばされちまったからねえ。ほんとにもうこれからは気をつけてくれたまえよ"
],
[
"しかしぼくは、さっきから歩こうとして滑ってばかりいるんです。どうしたわけでしょう",
"そりゃ君が、あまり足に力を入れて歩くからさ。君はもっと歩き方を練習しなくてはならない。でないと、おもしろいところへ案内できないからねえ",
"なるほど"
],
[
"あなたはたいへん親切ですね。カロチ教授。そこでもっとおたずねしてよろしいですか",
"どうぞ。答えられることは答えましょう"
],
[
"まず知りたいのは、こんなりっぱな星があるのを、天文学者はなぜ知らないのでしょうか",
"すぐれた天文学者なら、みんな知っているよ、このジャンガラ星のことをね",
"いや、ぼくはジャンガラ星のことを天文学者から聞いたこともないし、本で読んだこともありませんがね",
"そりゃわかっている。地球の天文学者たちはみんな天文の知識が低いんだ。だい一このジャンガラ星を見わけるほどの倍率をもった望遠鏡さえ持っていないんだからねえ",
"ははあ、そうですか"
],
[
"その証拠としては、たとえばわしは君たち日本人種の使っている日本語がよくわかるし、またちゃんと日本語で君と話をしている。しかし君はジャンガラ星語は知らない。わしは日本語の外、アメリカ語でもフランス語でも何でもよく話せる。わしだけではない。わがジャンガラ星人なら、みなそうなんだ。われわれは地球人の知能のあまりにも低いのに深く同情する",
"な、なアるほど"
],
[
"そうだね、わしが地球旅行をしたのはわずか十四五回ぐらいのもんだ",
"ええっ、なんですって、十四五回も地球へおいでになったんですか"
],
[
"そのうち、日本を通ったのが三回だと記憶している",
"ほんとうですかねえ、失礼ながら、ぼくたちは、そんなニュースを一度も聞いたこともないし、あなたがたが銀座通りを歩いていられる写真を見たこともありませんが……",
"わしたちは無用に地球人をおどろかしたくないから、いつも地球人には見つからないように用意をしていくんだよ。そしてね、わしたちは地球をてっとり早く調査してだいたいのことはわかってしまったのさ。日本語だって、わしが二時間ばかりかかってすっかり調べあげて来たのさ。それをもととして、ほらこのとおりしゃべれるようになったのさ。わしの日本語の発音はまずいかね",
"いえ、どうしまして。なかなかおじょうずですよ。しかしどうして二時間ぐらいで日本語がすっかりわかっちまうのかなあ",
"それはね川上君、君たち地球人の低い頭能では説明してあげても、すぐにはわからないだろう。が、ちょっとだけいうとね、地球ではまださっぱり研究に手をつけていないが電波生理学というものがあって、それを使うとかんたんにできることなんだ",
"そうですかねえ"
],
[
"そうすると、とにかくあなたがたジャンガラ星人は、ぼくたち地球人より知能が進んでいるようですが、いったいどうしてそんなにかしこいのですか。あなたがたの方が地球人よりも年代が古いのですか",
"たいして年代が古いわけでもないがね。地球では、今から約七十五万年前に、サルからわかれて猿人が現れた。その後いろいろな猿人が現れ進化していったが、五十万年たったどき、新しく君たち人類の先祖がその中から現れた。それがだいたい今から二十五万年前だ。そうだったね",
"そうですね",
"ところがわしたちの先祖は、今から約三十万年前にガラガラ星の上に現れたんだ",
"ガラガラ星ですって",
"そうだ、ガラガラ星だ",
"ジャンガラ星ではないんですか",
"それとはちがう。始めはガラガラ星といって、たいへん大きな地球ぐらいの星だったんだ。ところが今から八千年前にそのガラガラ星は彗星と衝突してこわれちまった。そのとき砕けた小さな破片が、このジャンガラ星というものになったんだ。ジャンガラ星の大きさは――そうだ。日本の伊豆の大島よりは大きいが、淡路島よりは小さいくらいだ。豆粒みたいな小さい星だ。そしていまだに宇宙をふらふら迷子になってとびまわっているという、きみょうな星なのさ"
],
[
"噴気孔ですって。それは何をするものですか。煙突ではないのですか",
"煙突ではない。噴気孔というのは、あそこから強いガスをふきだすのです",
"なんのためにそんなことをするのですか"
],
[
"あれでいいのです。なぜといって、あの噴気孔からガスをふきだせば、このジャンガラ星が前進するのです。おわかりかな",
"ええッ、なんですって"
],
[
"でも……でも、いくら豆つぶみたいな星でも、星を動かすには、たいへんな力がいるわけでしょう。その原動力はどうしますか",
"知っているじゃないですか、川上君。原子力というものを使えば、そんなことはわけなくできる",
"ははあ、あなたがたもやっぱり原子力を利用されますかね",
"原子力利用は、われわれ星人の方が地球人類よりも、やく百年前にはじめました",
"百年前ですか。ずいぶん前のことですね",
"いや、百年なんか、ほんの短いものだ。地球人類よりも五万年もさきに生まれたわれわれ星人が、原子力を利用することでは、人類よりもわずか百年しか先んじなかったことを、むしろはずかしいと思いますね"
],
[
"ほんとうですか、それは……",
"もう何もかも君に話します。まったくほんとうなのです。悪人山ノ井はとらえられた上、極刑に処せられるでしょう"
],
[
"カモシカ号は、空から落ちてくる前から火を発していたが、地上にはげしくつきあたると同時に、すっかり、ほのおにつつまれ、みるみる焼けてしまったですよ",
"ええッ、すっかり焼けおちましたか",
"火が早くて消すことができなかった。きみと山ノ井を救い出すのが、ようやく、まにあったというわけです",
"山ノ井も救いだされたのですか",
"そうです。しかしかれは、きみのようにけがをしていないから、われわれが救い出すと、すぐ逃げてしまったのです。林の中へね",
"はあ、そうですか。なぜ逃げたのかな",
"逃げることはないと思います。われわれに感謝をしていいはずです。ところが、そのまま逃げてしまった。そして暴行をはじめた",
"どうもわからないなあ。なぜ千ちゃんがそんなことをしたのか"
],
[
"カモシカ号の残骸は、どんなになっていますか。すこしは形がのこっていますか",
"全体は、平ったく地にはりついています。そしてところどころこぶのようにもりあがっていますね。みんなまっ黒こげですよ"
],
[
"ふうん",
"お気のどくですね",
"カロチ教授。ぼくをそこへ案内してくださいませんか。カモシカ号の残骸をとむらいたいと思いますから",
"よろしい。すぐ行ってみましょう",
"でも遠いのでしょう。どのくらい時間がかかるんですか",
"そうですね。君がぴょんぴょんとんでいくなら、三十分もかからないでしょう",
"ぴょんぴょんとんで三十分?",
"そのかわり、きみはわしをいっしょにつれてとんでもらいましょう。そうでないと案内ができない",
"つれてとぶとは、どんなことをするんですか",
"せなかにおんぶしてもらってもいいし、あるいは手をひいて、とんでもらってもいい"
],
[
"待てとは、なんですか",
"あの土煙りが見えるでしょうねえ。さかんに林の中からたちのぼっているあのすごい土煙りが、きみにも見えるでしょう"
],
[
"見えますとも。あれはなんですか",
"あそこですよ。悪人山ノ井があばれているのは。あれあれ、さかんに貴重な生命をうばっている。おそるべき殺害者だ",
"ほう、あそこに山ノ井君がいるんですか"
],
[
"もしもし、カロチ教授",
"おお、なんですか",
"あなたにはばらばらになってとぶ死骸が見えるのですか。ぼくには何も見えませんですよ",
"見えない? そんなことがあるものか。あれあれあれ、あのようにとばされている",
"あれは葉っぱじゃありませんか。花もとんでいますけれども……。あれはみんな植物じゃありませんか。ジャンガラ星人の死骸なんかてんで見えないです",
"き、き、きみはへんなことをいう。植物にもちゃんと生命がある。あれが暴行でないと、きみはいうのか"
],
[
"おおポコちゃん、ポコちゃんじゃないか。それともぼくは夢を見ているのか……",
"夢じゃないよ。ほんとうだよ。ほっぺたをつねってみな、いたいから"
],
[
"あいたたた。これはほんとうだぞ。よう、ポコちゃん。よくきみは生きていたね",
"生きているさ。ぼくが死ぬなんてことがあるものか",
"いや、ポコちゃんは死んだんだ。いや、殺されたんだ。殺されたところを、たしかにぼくは見たんだ。それは……"
],
[
"なにがへんなの",
"なにがへんだといって、つまりぼくはポコちゃんを、かれらの手からとりもどそうとして、ひとりでこうして奮闘していたんだ。しかし、きみはぶじに帰って来たんだから、もうべつにけんかをしなくてもいいわけだけれど、なにしろさっきから両方でじゃんじゃんやったことだから、すぐやめるわけにもいかない",
"つまらないよ、そんなこと。すぐよした方がいいよ。それに、けんかなんて、いいことではないからね",
"そりゃわかっている。しかしかれらは、こわれたカモシカ号へずかずかはいって来ると、大けがをしているきみのからだを手荒くなぐりつけるやら、あのへんな手をきみの口の中へおしこむやら、らんぼうをしやがった。そしてぼくのとめるのをきかずに、大ぜいできみをさらっていってしまったんだ。ぼくはくやしいやら、腹が立つやらでね、すぐ追っかけようと思ったんだが、カモシカ号墜落のときにひどく腰をぶっつけて痛くて立ちあがれないんだ。それでぐずぐずしているうちに、きみをもっていかれてしまった。ぼくがあばれだしたのは、それから十五分もたった後のことで、きみはどこへさらわれていったのか、さっぱりわからない。くやしかったよ。そのときは……",
"それでわかった。ぼくはそれから連れられていってカロチ教授のかいほうをうけ、傷の手あてをしてもらい、命もとりとめたんだ",
"だって、きみはたいへんな傷をしていたよ。ああ、今思いだしてもぞっとする。しかし今見るときみは、そんな大けがをしたようには見えないじゃないか",
"うん。それはね。そのカロチ教授という人がたいへん医学の心得があって、うまくなおしてくれたんだと思う。なにしろこのジャンガラ星人たちは、ぼくたち地球人類よりもずっとすぐれた科学技術をもっているんで、われわれ人間がびっくりするような、大仕事をかんたんにやってのけるんだ。とてもかなわないや",
"どうもそうらしいところもある。しかし人間とちがうので、どうもつきあいにくいね",
"そうでもないよ。カロチ教授なんか、話がよくわかる星人だと思う。そういえば思いだしたが、きみのひょうばんはよくないよ",
"それはよくないだろう。けんかの相手だからね",
"それもそうだが、カロチ教授さえもきみをにくんでいたよ。きみが草木を切りたおすのが重い罪悪だというんだ",
"えっ、草木を切りたおすのが重い罪悪だって。そんなわけのわからない話は聞いたことがない。ポコちゃんは聞いたことがあるかい",
"ぼくだって、もちろん聞いたことなんかありやしない。なぜだろうね",
"きみは、そのカロチ教授に、そのわけを聞いてみなかったのかい",
"うん、聞かなかった。だって教授は、そのときたいへんきげんを悪くしていたもんでね"
],
[
"ああ、聞いていますよ",
"ふしぎな話ですね。あなたがたが植物から出た動物とは? しかしへんだな、植物はどこまでいっても、植物であり、動物はどこまでいっても、動物でしょう"
],
[
"それはそうです。しかし動物も植物も、これをひっくるめて生物というでしょう。それから動物でも動かないものがあり、また植物でも動くものがあります。地球にあるものでいうなら、ホヤという動物は、岩の上にとりつくと、一生涯そこを動かない。それに反して植物のハエトリ草はさかんに動きます。タンポポの実は風に乗ってとぶし、竹の根など、どこまでものびていく",
"ああ、そうか",
"それから鯨というほにゅう動物が、海中にすんで魚のような形になってしまったでしょう。それと似ているが、われわれの先祖の動く海藻はだんだんと魚のような形となり、それから陸上へあがるようになってから、こんどは動物の形に似てきたんです。もちろんそれまでには約四千万年の長い年月がかかった。おわかりかな。だからわれわれは、生活の上におけるいろいろな点において、今も植物に助けられている。ところがごらんの通り、ジャンガラ星の上には植物がとぼしくて、まことに心細くてならぬ。さあ、そこでわれわれはいよいよ宇宙さすらいの旅に出かけることになったのです。植物の豊富なほかの星を見つけるためにね"
],
[
"いつになったら、地球へもどることができるのだろう",
"さあ、それもわからない。ジャンガラ星としては、わが太陽系に迷いこんで来てのことだから、わが太陽系なんかにみれんはないわけだ。だからわが太陽系にさよならをして、ずっと遠方のほかの太陽系へ行ってしまうかもしれないね",
"それじゃますます地球へもどれなくなるわけだねえ。千ちゃん、なんとかして早く一度だけ地球へ帰ろうじゃないか",
"うん。だがカモシカ号は、あのとおりこわれてしまって役に立たない。つまりぼくたちはこのジャンガラ星から抜けだすことができないわけさ",
"いやだねえ。何とか、くふうがないものかしらん。……あっ、そうだ。いいことがある。ねえ千ちゃん。カロチ教授を説いて、ジャンガラ星を地球へ着陸させてもらおうや",
"地球へ、この星を。でも、教授はしょうちしないだろう",
"うまく話せばわかると思う。つまりわが地球の上には、植物はうんと生えているじゃないか。日本だって原始林があるし、焼けあとのほかはどこへいっても青々している。熱帯なんかへ行くと、まったく草木におおわれてしまって、植物の世界みたいだ。それを話せば、教授だって喜ぶよ。第一、ここから地球は近いし、第二に地球の上には植物がうんと生えていることは、ぼくたちが見て知っているのだから――",
"よし、わかった。それをいってみよう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「少年クラブ」
1947(昭和22)年4月~10月
※「探険」と「探検」の混在は、底本通りにしました。
※「探険家はだれかというと、」と「千ちゃんとよばれているが、」の「、」は、底本では、「,」となっています。
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年9月5日作成
2005年10月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003354",
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"川崎市は市街の大部分を焼失",
"大阪では西成区、西区、南区、北区、天王寺区、湊区、浪花区、大正区が被害が大きい"
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] | 底本:「海野十三全集別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三敗戦日記」橋本哲男編、講談社
1971(昭和46)年7月24日第1刷発行
※ノート2冊に書き残された「空襲都日記」と「降伏日記」は、筆者の死後、海野と親交のあった橋本哲男氏によって編まれ、「海野十三敗戦日記」として出版された。同書では、1944(昭和19)年12月7日から翌年5月2日まで分を「空襲都日記」、5月3日から1945(昭和20)年12月31日までを「降伏日記」としている。
三一書房版の全集編纂にあたって、別巻2の責任編集者となった横田順彌氏は、「海野十三敗戦日記」を底本としながらも構成をあらため、同書の「空襲都日記」を「空襲都日記(一)」、「降伏日記」の内、1945(昭和20)5月3日から8月14日までを、「空襲都日記(二)」、残りを「降伏日記(一)」とした。さらに、英夫人よりあらたに提供を受けた1946(昭和21)年1月1日から翌年6月4日までの分を「降伏日記(二)」として増補した。
このファイルの作品名は、「海野十三敗戦日記」としたが構成は、三一書房版の全集に従った。講談社版には橋本哲男氏による解説「愛と悲しみの祖国に」があるが、全集同様、本ファイルにも同文は収録していない。
入力者注による体裁の記述も、全集版に基づいて行っている。ただし全集では、大幅に割愛してあったルビを、本ファイルでは補った。講談社版には橋本哲男氏が注を付しており、全集もこれをなぞっていたが、本ファイルでは新たに入力者注として付け直した。これらの作業にあたっては、講談社版を参考にさせていただいた。
※1945(昭和20)年8月13日に海野が認めた遺書を、本ファイルでは同日付けの日記の末尾に付した。
入力:青空文庫
校正:伊藤時也
2001年1月13日公開
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001255",
"作品名": "海野十三敗戦日記",
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[
[
"じゃあミスター・F。気をつけていくがいい。娑婆じゃ、いくら空襲警報が鳴ろうと、これまでのように、君を地下防空室へ連れこんでくれるわしのような世話役はついていないのだからよく考えて、自分の躯をまもることだ",
"……",
"おう、それから、君の元首蒋将軍に逢ったら、わしがよろしくいったと伝えてくれ。じゃあ、気をつけていくがいい",
"……"
],
[
"おい、立ち停らんで、もっと奥へはいってくれ",
"そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ",
"おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ"
],
[
"あなたァ、ここよ。早く早く",
"え"
],
[
"いいのよ、あなた",
"よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか"
],
[
"アン。なにもかもお話し。一体……",
"しっ"
],
[
"あたしの夫が、帰って来てくれました。このとおり、あたしを抱いていてくれます。人違いだとお分りでしょう。このいましめの綱を、解いてくださいませ",
"なんじゃ。お前の亭主が帰って来たと。なるほど、中国人らしい面じゃ……だが、本当かどうか信用できるものか",
"そんなことは、ありません。ねえ、あなた。この警官は、なにか大へん勘ちがいをしていらっしゃるのですよ。結婚のとき取交わしたあたしの名前を彫った指環を見せてあげてください……",
"指環? 指環どころか一切の所持品は……"
],
[
"ひえーッ、敵機が……",
"ああ神よ、われらを護り給わんことを"
],
[
"今度は、あぶない",
"おい、もっと奥へいこう"
],
[
"騒いじゃ、駄目だ、敵機の音が聞えやしない",
"あたしゃ、昨日の空爆で、両親と夫を、失ったんだ。こんどは、あたしの番だよ。自分がこれから殺されるというのに、黙っていられるかい",
"まだ子供がいるだろう。年をとった別嬪さん",
"なにをいうんだね。子供なんか、初めから一人もないよ",
"そうかい。だからイギリスは、兵隊が少くて、戦争に負けるんだ",
"なにィ……"
],
[
"逃げろ。爆弾が、こんどはこの防空壕をこわすぞ",
"貴様、うちの子供の上に……",
"あ、毒瓦斯。マスクだ、マスクだ",
"国歌を歌おう",
"毒瓦斯だ。そう来るだろうと思ったんだ、ナチ奴!"
],
[
"胸だ、胸だ。シャツを裂け",
"こっちへ寄せろ。電灯の方へ……"
],
[
"あなた、逃げましょう",
"えっ",
"綱を切ってよ。ナイフは、ここにあるわ",
"よし、こっちへ貸せ"
],
[
"ああ、助かった。さあ、逃げるのです",
"アン、どこへいく。あ、今、外へいっちゃ、危い。入口でやられた人があるじゃないか",
"いいのよ。こうなれば、どこにいても同じことよ。さあ一緒に逃げてよ"
],
[
"危い。もうすこしの間、待て",
"いいえ、待てないわ。じゃ、あたしひとりでいきますわ"
],
[
"呑気だね、今、そんなことをして……",
"もう解けたの。大丈夫ですわ。さあ、あなた、この車にしましょう",
"えっ"
],
[
"よし、こっちへ替れ。おれが、運転する",
"そんな暇はないわ。あたしが動かします"
],
[
"どこって、あなた、リベッツの宿に荷物が置いてあるじゃありませんか",
"荷物が……",
"ああ、失礼。あたし、あなたにお話ししてなかったけれど、宿をかえたのよ。だって、いつお出になるかわからなかったんですものねえ",
"え、出るって……"
],
[
"おばさま。これ、この通り、夫にうまく行き逢いましたのよ。警官に行手を拒まれた時は、どうなるかと思いました。幸いにその途中で夫に逢えたもんですから、こんな幸運て、ちょっとありませんわ",
"まあ、それはそれは、御運のよかったことで……で、すぐロンドンへいらっしゃるでしょう。ねえ、アン",
"え、ええ、そうしましょう。荷物をとりに来たのも、そのためよ",
"午前九時十五分発の列車がいいですわよ",
"そうですか、午前九時十五分発ですね",
"気をつけていらっしゃい。こういうとき、あたしなら十三号車に乗りますわ。こういう時節のわるいときには、わるい番号の車に乗ると反って魔よけになるのよ",
"十三号車? ええ、ぜひそうしましょう"
],
[
"ねえ、アン。おれは懐中無一文なんだがねえ、リバプールの英蘭銀行支店で、預金帳から金を引出していく暇はないだろうか",
"否。そんなことをしていれば、列車に乗り遅れてしまいます",
"じゃあ、一列車遅らせてはどうだ",
"それは駄目。あの列車に、ぜひとも乗らなくては。だって、いつまたドイツ機の空襲で、列車が停ってしまうか分らないんですもの"
],
[
"おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ",
"それは、どこの国のスパイですかね",
"もちろん、ドイツ側のスパイですよ",
"ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください"
],
[
"あなた。さっきの防空壕のこともあるんですから、あまりあたしたちにとって不利な発言は、なさらないようにね",
"不利な発言? おれがいま駅員と話をしたことが、それだというんだね"
],
[
"なあに、大丈夫さ。でも君が心配するなら、以後は、口を慎もう",
"それがいいわ。お互のためですもの"
],
[
"夫が、このとおり、空襲で頭部に負傷いたしまして、なかなか快くならないんですの。早く名医の手にかけないと、悪くなるという話ですから、これからロンドンへ急行するんです",
"ほう、それは、お気の毒ですね。負傷は、どのあたりですか",
"ちょうど、このあたりです"
],
[
"見たところ、傷は殆どなおっているんですけれど、爆弾の小さい破片が、まだ脳の附近に残っているらしいのです。レントゲン――いえ、エックス線の硬いのをかけて、拡大写真を撮らないと、その小破片の在所がわからないのですって。ですけれど、こうしていつも傍についているあたしの感じでは、その小破片は、もうすこしで、脳に傷をつけようとしているんだと思います",
"ああ、よくわかりました。奥さんも、御心配でしょう。御主人の御本復を祈ります。じゃあ、ロンドンの中国大使館へは、私の方から取調べ票を送って置きますから",
"はい、どうもありがとうございました",
"じゃあ御大事に。蒋将軍にお会いになったら、どうぞよろしく"
],
[
"おい、アン",
"なあに、あなた",
"お願いだ、おれが、この頭部に負傷したときのことを、もっと詳しく話してくれないか"
],
[
"こんな古新聞紙を、どこでお拾いになったんですの",
"おれのポケットに入っていたんだ。その前には、この中国服を包んであった。ブルートの監獄を出るとき、看守が渡してくれた",
"え、ブルートの監獄ですって"
],
[
"アン。この記事を見て、なにか感想はないかね",
"感想? べつにないわ"
],
[
"あなたの方に感想がありそうね",
"この記事の日本将校はフクシ大尉だろう。それから、リバプールで、君の目の前で、桟橋から海へ飛び込んだ男は、フン大尉というんだろう。フクシ大尉にフン大尉、どこか、似ているじゃないか"
],
[
"あれはフン大尉という人なんですか。知らなかったわ。フン大尉とフクシ大尉、名前の頭と、そして大尉とは似ているけれど、全く別人じゃない? 第一、フクシ大尉は日本将校だし、フン大尉というのは、白人なんでしょう",
"フクシ大尉は日本人で、フン大尉は白人か。なるほど、そいつは大きな違いだ"
],
[
"……桟橋から飛びこんだときは、後悔したよ。なぜって、海の水は、冷え切っているのだからねえ",
"もっと小さい声で……",
"とにかく、そんなわけで、もぐれるだけもぐっていたが、モーターボートの追跡陣は、厳重だ。もう駄目かと思ったときに、空襲警報が鳴った。これが、天の助けだ。そうでなければ、ボジャック氏は、今ごろは縄目の恥をうけていたわけだ",
"よかったのねえ",
"だが、どうにも腑に落ちないのは、あのものものしい騒ぎの一件だよ。われわれフランスからの避難民を、イギリスの奴等は、いやに犯罪人あつかいするじゃないか。フランスは、あんなにイギリスのために、ドイツの奴等を喰い止め、血を流してまでも働いてやったのに",
"仕方がないよ。いまに、誤解がとけるだろうよ",
"しかし当分は、小さくなって隠れていなくてはね"
],
[
"あなた、なに仰有るのよ。ボジャック氏に笑われますわよ。うちの人は、監獄にいる間に、頭がすこしどうかしてしまったのよ。御免なさい、ボジャックさん",
"わたしは、べつに何でもありませんがね。御亭主さん、気が立っているようだな"
],
[
"あなた。あたし、どんなにか探していたわ。もう放れちゃ、いやよ",
"誰だ、君は",
"あなたの妻じゃありませんか。いやだわ、うちの人は。あたしを忘れてしまうなんて",
"人ちがいだ。放してくれ"
],
[
"仏天青。あたしを捨てていくつもり。ねえ、仏天青",
"仏天青。おれの名前を知っているのか",
"仏天青。あたしは、妻の金蓮じゃありませんか"
],
[
"おい、放せというのに。金蓮さん、よく見てみなさい。君の主人だかどうだか、分るでしょう。ほら違う人だろう",
"あ――",
"どうだ、人違いだろう",
"ああ、違う。違うんだ、今、ここにいた仏天青は、どうした。あ、仏天青を、戻しておくれ。仏天青は、こんな顔じゃない。もっと顔が長くてりっぱないい男だ。こんな若僧じゃない。早く、返しておくれ"
],
[
"およしなさい。あの女は、頭が変なんです。誰にでも、ああするのです。構わない方がいいですよ",
"しかし仏天青というのは……",
"仏天青という名前は、私たちも、耳にたこの出来るほど聞いていますよ。あの女のいうところに従えば、その御亭主は、大使館参事官で、そして世界一の美男子だそうです",
"大使館参事官?",
"どうも、あてにはなりませんがね"
],
[
"そんな乗客は、いなかった。尤も、私は、始めから、君の言葉を信用していなかったが……",
"そんなことは嘘だ。アンは待っている",
"嘘ですよ。中国人は、見え透いた嘘を、平気でつくものだ。日本人は、そんなことをしない"
],
[
"本当ですか。本当のことを教えてもらいたいものです。私は気が変ではありませんよ",
"誰でも、そういうよ"
],
[
"旦那、ブルートの町へ来ましたが、どこへいらっしゃいますね",
"もうすこし先だ。左手に、くるみの森のあるところで下ろしてくれたまえ",
"へい。すると、監獄道のところですね",
"ああ、そうだよ"
],
[
"ドイツの飛行機は、監獄なんか狙って、どうするつもりですかね",
"えっ",
"いや、つまり、ブルートの監獄を爆撃して、あんなに土台骨からひっくりかえしてしまって、どうする気だろうということですよ",
"なに、ブルートの監獄は、爆弾でやられたのかね",
"おや、旦那、御存知ないのですかい。もう四日も前のことでしたよ。尤も、聞いてみれば、監獄の中で、砲弾を拵えていたんだとはいいますがね",
"ふーん、そうか。やっちまったのかい"
],
[
"そういう病気は、今次の戦争において、極めて例が多いのですよ。今拝見しましたところによると、やはり、爆弾の小破片が、脳髄の一部へ喰い込んでいるようですな",
"じゃあ、手術をして、その小破片を取出せばいいわけですね",
"さあ、それは専門外科医に御相談なさるがいいでしょうが、私の経験では、そういう脳外科の手術の成功率は、残念ながら、まだ低いものです。よほど考えておやりなることを御注意いたします"
],
[
"院長、私の記憶を恢復する他の方法はありませんでしょうか",
"そうですねえ。私の経験によれば、あなたのような場合、脳が健康さを取戻していても、神経と連絡がついていないことがよくあります",
"それは、どういうのですな",
"つまり、障害をうけたとき、患部附近に、充血とか腫脹が起って、神経細胞に生理的な歪みが残っていることがある。この歪みを、うまく取去ることが出来ると、ぱっと、目が覚めるように過去の記憶を呼び戻すことが出来るのですがね",
"なるほど、歪みを取去る方法ですか。それは、どうすればいいのですか",
"歪みといっても、生理的神経的なものですから、それと同じ方法によらねばならない。生理的神経的に、或る強い刺戟を受ければいいということはわかっているが、さて、その刺戟は、一体どんな刺戟であるかということになると、さっぱり分らない",
"なぜ、分らないのですか",
"それは、つまり、こうでしょう。仮りに、あなたが、一婦人と非常に争っていた。そのとき、婦人がピストルの引金を引いて、あなたの頭へ、弾丸の破片を撃ちこんでしまった、これは仮定ですよ。もしもこういう場合に、あなたのような記憶亡失の障害が起って、脳が健康を取戻しても、尚且つ記憶が恢復しない。そういうときに、癒った実例があるのです。もう一度、その婦人と、ひどい争いをした。婦人は、またピストルを撃った。そして今度は、彼の前額を僅かに傷つけた。すると、とたんに、彼の記憶が戻った。彼は、戦闘を中止して、その婦人を生命の恩人だといって抱きあげた――という例があるのです",
"それは、興味ふかい話ですね。それを私の場合に活用する途はないでしょうか。まず無理でしょうね",
"そうです。無理という外ありますまい。今申した例は、偶然の機会が、それを癒したのです。医師が計画した治療法ではない",
"なるほど",
"ですから、あなたの場合でも、もし運がおよろしくて、その障害を起した当時と同じ事件の中に置かれ、同じような負傷でもなされば、或はそれがうまくいって、記憶の恢復が起るかもしれません。しかし何分にも、これは計画的にやって見ることの出来ないことなので、困りますなあ",
"ほう、生理的神経的の歪みですか。そしてこれを復習する極めて稀な幸運ですか。いや、お蔭さまで、諦めがついてきました",
"それから、あなたが記憶亡失前に持っていられた所持品についてはもっと詳しく、科学的調査をおやりになるがいいでしょうね。これは一種の探偵術ですが、従来の例に徴しても、所持品からの推理によって昔、あなたが住んでいられた世界や職業や、それから家族のことなどを、立派に探しだすことに成功した例があるのです"
],
[
"その外に、この貯金帳が二冊あるのです。院長、お分りになりますか",
"さあ、私では駄目なんですがねえ"
],
[
"私の拝見したところで、最も興味を惹かれるものが二点あります。それは、この汚れ切って破れ目だらけの服と、それからもう一つは、油じみたハンカチーフです",
"はあ、そうですか。そんなものが、私の素姓について、一体なにを語っていましょうか",
"さあ、それは、私の力では、はっきり解いてお話することが出来ないのです。こういう方面にすこぶる明るい私の友人を御紹介しましょう。アーガス博士といいますが、クリムスビーに住んで鑑識研究所を開いています。そこへいらっしゃるがいいでしょう。このズボンについている泥だとか、ハンカチーフについている血や油などについて、彼はきっと、あなたをびっくりさせるに充分な鑑定をなすことでしょう",
"あ、そうですか。それは、実にありがたい。アーガス博士でしたね",
"そうです。博士は、ひところ、警視庁でも活躍していた人ですが、今は、自分の研究所に立て籠っています",
"クリムスビーですか。どこでしょうか、その、クリムスビーというのは",
"クリムスビーというと、北海へ注ぐハンバー河口を入って、すぐ南側にある小さい町です。河口は、なかなかいい港になっています",
"はあ。北海に面した良港の中にあるのですね。じゃあ、私はすぐ、そのクリムスビーへいって、アーガス博士にお願いしてみましょう",
"いま、紹介状を書いてさし上げます、ミスター・F!"
],
[
"爺さん、鑑識研究所だよ",
"わかっていますよ。鑑識研究所は、この山のうえだ。あと三十分かかるよ",
"なあんだ、山の上に在るのか"
],
[
"所長は、生憎出張中ですが、今夜あたり、ここへお戻りです。副長からのお話ですが、明朝、もう一度、御出で願うか、それとも御急ぎなら、所に附属している宿泊所で、お待ちになってはということでございますが、どっちになさいますか",
"そうですか。では……では、宿泊所へ案内して頂きましょうか。私は、早く博士にお目に懸りたいのでしてね",
"よろしゅうございます"
],
[
"なかなかここは眺望もいいし、そして広大ですね",
"そうです。ここは王立になっているのですからなあ"
],
[
"おい、ネラ。ドクター・ヒルの紹介の方だから、さっきいったように、丁重にナ",
"は、はい"
],
[
"アン",
"はい",
"君は……いや、もうなにもいうまい"
],
[
"あたくし、愕きました。どうなさいます、あなたは……。復仇をなさいますか?",
"……"
],
[
"なぜ、御返事がありませんの",
"アン、お前は、ここで何をしているのか",
"あなた。この前のように、あたくしを愛していてくださいません?"
],
[
"ああ、あたくしを愛していてくださるんですね、お叱りもなく……。一生のお願いがありますわ。聞いてくださる?",
"……聞かないとはいわない",
"ほほ、消極的な御返事ね。お願いしたいというのは……どうか明朝まで、あたくしがここにいるという事を忘れていてくださいまし",
"なに。なぜ、そんな……",
"さあ、それなのよ。なにも聞かないで、明朝まで……。お約束してくださる?"
],
[
"だが……",
"だが?",
"また、おれを……ここへ残して、逃げていくのではあるまいね",
"いいえ、明朝、きっとお目に掛るわ。約束を聞いてくだすってありがとう。それまで、どんなことがあっても、どんなものを見ても、あたしに何も訊かないでね、きっと明朝まで、あたしというものを忘れていてくださるのよ。ああ、うれしい。あなたは、きっとこの秘密を守ってくださるでしょうね",
"うむ、男らしく、おれは約束を守ろう。しかしアン。その前に、ただ一言、教えてくれ。お前は、本当に、おれの妻か",
"明朝まで、お待ちになって!",
"じゃあ、おれは、本当に仏天青か",
"それも明朝までお待ちになって。男らしくお待ちになるものよ",
"……"
],
[
"では、どうぞ。防空壕は、第二階段をお下りください。窓の遮蔽は、おさわりになりませんように。失礼いたしました",
"君の部屋の電話番号は……",
"構内四百六十九番です。しかしあたくしはたいてい外を廻っておりますので、不在勝ちでございます",
"明朝、きっと、ですよ"
],
[
"……約束は、守るよ。だが、説明をしてもらいたいものだ",
"なにを……こいつを、やっつけたが、早道だ",
"お待ち。命令だ、撃ってはならない。それよりも、早く赤外線標識灯を、沖合へ!"
],
[
"私は、皆さんの邪魔をしまい。私は、傍観者だ",
"あたしは、あなたを信じます。あたしたちは、祖国ドイツを光栄あらしめるために、生命を捧げて、今最後の職場につくのです。邪魔をしないでください",
"よし、わかった。おれは約束を守るぞ",
"ありがとう――ボジャック、早く光源を……",
"おお"
],
[
"大丈夫、ボジャック",
"大丈夫!"
],
[
"ボジャックは?",
"ボジャックは、ここにいる。ああ、気の毒だが、とうの昔に……",
"そう。あたしも、もう……",
"これ、しっかりしろ。アン",
"あなた。アンは、あなたに感謝します。われわれ第五列部隊は、監獄にまで手を伸ばして、あなたを利用しましたが、許してください。祖国ドイツは……",
"そんなことは、わかっとる。アン、死んじゃ駄目だぞ",
"あなたは、ご存知ないが、あなたは、日本の将校なんです",
"それは知っている。おれは、福士大尉だ。爆撃の嵐の中に、おれは記憶を恢復したのだ。悦んでくれ",
"ああ、そうだったの。道理で、お元気な声だと思ったわ",
"アン、なにもかも、思い出したよ。あの油に汚れたハンカチも、ぼろぼろの服も、みんなダンケルクの戦闘の中にいたせいだ。おれは、飛行機を操縦してドーヴァを越えて、この英国に飛んだのだ。そのとき、既に負傷していた。同乗させてやった中国人仏天青は機上で死んだが、おれは、いつの間にか、その先生の服を持っていたんだ。おれは飛行機を、夜間着陸させるのに苦しんだが、遂に飛行場が見つからず、その後は憶えていない。それ以後、おれの記憶が消えてしまったんだ。何をして監獄へ入れられたか、そいつは知らない。おい、アン――アン、どうした",
"あなた、最後のお願い……あたしのために、こういってよ……",
"アン、しっかりしろ。何というのか",
"……こう、いうのよ。ヒ、ヒットラーに代りて、第五列部隊のフン大尉に告ぐ",
"えっ、第五列部隊のフン大尉に?",
"そう、そうなの、あたしのことよ。……汝は、大ドイツのため、忠実に職務を……あなた……",
"しっかりせんか、アン――いや、フン大尉。君の壮烈なる戦死のことは、きっとおれが、お前の敬愛するヒットラー総統に伝達してやるぞッ!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年2月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2003年12月7日作成
2014年8月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003356",
"作品名": "英本土上陸戦の前夜",
"作品名読み": "えいほんどじょうりくせんのぜんや",
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"副題読み": "",
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"初出": "「新青年」1941(昭和16)年 2月",
"分類番号": "NDC 913",
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[
[
"紅子、お前は一体、どうしてこんな夜更に、こんな場所までやって来たのだ",
"ちょいと、お顔がみたかったのよ。それだけなの、おほほほほ"
],
[
"ウフ。今になって気がついたか、可哀想な大尉どの。だが僕が簡単に殺せると思ったら大間違いだよ",
"言うな、色魔!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1931(昭和6)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:ペガサス
2002年10月21日作成
2011年2月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001237",
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} |
[
[
"つまらないなあ",
"なんかおもしろいことをして遊びたいね",
"ベースボールをしたいんだけれど、グラウンドになるような広いところがどこにもないね。つまらないなあ"
],
[
"あるって、何がさ?",
"つまりベースボールがやれる広い場所さ",
"へえ、ほんとうかい。どこにある?",
"アサヒ軍需興業の工場の中さ。あの中なら広いぜ",
"なあんだ、工場の建物の中でベースボールをするのか"
],
[
"ねえ、あれをしようよ、一郎君。あれをするにはおあつらえ向きの場所だよ。ちゃんと舞台もあるしね、ほら、あそこを“地獄の一丁目”にするんだ。すごいぜ、きっと……",
"ああ、そういえばいい場所だねえ。舞台の前にはこんなに雑草が生えていて、ほんとうに“地獄の一丁目”らしいじゃないか",
"ね、いいだろう。さっそく準備にとりかかろうや。みんな手わけをして作れば、今夜の間に合うよ。そして胆だめしの当番は、あそこのくぐり戸からこっちへ入るんだよ。そして鉦をかんかんと叩かせ、それから“ううッ”て呻らせ、それがすんだら最後に縄をひっぱらせるんだ。その縄は、みんなの集まっている工場のへいの外のところまでつづけておいて、その縄には缶詰の空缶を二つずつつけたものを、たくさんぶらさげておくんだよ。縄をひっぱれば、がらんがらんと鳴るから、ははあ当番の奴はたしかにこの工場の中へ入ったなと、みんなの集まっているところへ知れるわけさ。そうすれば、ずるして途中で引返した奴はすぐ分っちまうからいいじゃないか",
"じゃあ、その縄はうんと高く張らなくちゃあね。それから、くぐり戸を入ったすぐの壁に、自分の名前を白墨で書かせようや",
"それもいいなあ。それから地獄の一丁目の舞台だが、何を出す。幽霊かい。南瓜のお化けかい。それとも骸骨かい",
"うん、骸骨がいいや。清君、僕おもしろいことを発見したんだよ。骸骨をほんとうに本物のようにおどらせることさ",
"えっ、何だって。骸骨を本物のようにおどらせるって、どういうこと?",
"つまり、骸骨がほんとうに生きているようにおどるのさ。骸骨が生きているわけはないけれど、そんなように見せるのさ",
"骸骨をこしらえて、それをぶら下げて動かすのかい",
"そうじゃないんだよ、僕たちのからだを骸骨にこしらえるんだ。それにはね、まずはじめに白粉で骸骨の骨の白いところをかいてしまうんだ。上は顔から、下は足までね。それから残ったところを鍋墨か煤かでもって、まっくろに塗っちまうのさ。そうすると僕たちが骸骨に見えるじゃないか、前から見ればね",
"はだかになって、その上に白粉や鍋墨を塗るんだね",
"そうさ。そうしてね。あそこを舞台にして、その前でおどるのさ。舞台のうしろの壁は、まっくろにペンキが塗ってあるからね、あの前でおどれば、僕たちのからだの鍋墨のついている部分は黒い壁といっしょにとけあって、見分けがつかなくなる。だから白粉をぬってある骸骨のところだけが見えるから、いよいよ本物の骸骨に見えるんだよ。それは、すごいよ。はじめは骸骨はじっと立っていて動かないのさ。胆だめしの当番が鉦をたたいたら、それをきっかけに、骸骨は急に動きだすんだよ。すると当番はびっくりするよ。うわあと泣きだしたり、縄をひっぱることも、壁に名前を書くことも忘れて、一目散に逃げだすかもしれないよ。おもしろいよ",
"うん、それはおもしろそうだ。僕は骸骨になろうっと",
"僕も骸骨になるよ。骸骨は二人出すことにしよう",
"いやン、僕も骸骨にしてよ"
],
[
"僕も、僕も……",
"いや、僕も骸骨だ"
],
[
"よし、では僕が一番に探検してくるぞ",
"することを忘れちゃだめだよ。中へ入ったら鉦を叩いて、ううっと呻って、それから縄をひっぱってさ、それから壁に名前をかいてくるんだ。さあ、この白墨を持っていきな",
"ああ、わかったよ。では諸君、さよなら",
"なにか遺言はない?",
"遺言?",
"だって正大君。君は骸骨を見たとたんにびっくりして死んじまうかもしれないからね。何か遺言していったらどうだ",
"ばかをいってら。誰がそんなことで死ぬもんか。僕の方が骸骨を俘虜にしてお土産に持って来てやるよ"
],
[
"乾パン。あ、ほんとうだ。誰が持って来たの",
"ぼくたちじゃないよ。誰かほかのものだよ。でも、へんだね。誰かこんなところへ来たんだろうか"
],
[
"盗りました、盗りました。わ、私にちがいありません。……はい、何もかも申し上げます。わ、私がかくしましたので……ここへ掘りました。館内防空壕の奥でございます。その奥をもう少し穴を掘りまして、そこへかくしておいたのでございます。……いえ、みんなそっくりしております。百号ダイヤもそのままです。おかえししますから、どうぞお助けを……。尊い仏像から抜いた、もったいないダイヤを自分のものにしようと思った私は、罪ふかいやつでございます。しかしみんなおかえししますゆえ、どうぞ私を地……地獄へはやって下さるな。ああ、おすがりします。なむあみだぶ、なむあみだぶ、うへへへ……",
"いや、ゆるさぬぞ。きさまはこれから地獄へつれて行く……ここは地獄の一丁目じゃ。それを知らぬか。いひひひひ",
"やややッ、お助け……ううーン"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「こども朝日」朝日新聞社
1946(昭和21)年10月1日号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年11月12日公開
2011年10月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002686",
"作品名": "骸骨館",
"作品名読み": "がいこつかん",
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"初出": "「こども朝日」朝日新聞社、1946(昭和21)年10月1日号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第12巻 超人間X号",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月15日",
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} |
[
[
"うん。これはまさに重大事件だ。わら小屋の一隅に、マッチの火がうつされて、めらめら燃えあがったようなものだ。見ていてごらん。いまに世界じゅうをあげてさわぎだすようになるだろう",
"いまではもう世界的事件になっているではありませんか。臨時ニュースで放送されるくらいですもの",
"いや、それでもいまは、まだマッチの火がわら束にうつったくらいだ。やがで世界じゅうの人々が火だるまになってわら小屋からとびだしてくるだろう。――おや、おや、僕はとんでもない予言をしてしまったね。予言することは、このおじさんはほんとは大きらいなんだが……"
],
[
"世界じゅうの人々がさわぎだす事件て、それはいったいどんなことが起こるんですか",
"さあ、それはしばらくようすを見まもっているしかないね"
],
[
"明朝はやく、こっちから『宇宙の女王』号の救援艇が十隻出発する。その一つにきみは乗るんだ。もう救援隊長テッド博士の了解をえてあるが、きみは『宇宙の女王』号の捜査にしたがうんだ。そして記事を全部わが社へ送ってくれるんだ。わが社は、それを新聞、ラジオ、テレビジョンを通じて特約報道としてアメリカはもちろん全世界にまき散らすんだ。――もちろんきみは引きうけてくれるね",
"その他に条件はあるのかね",
"ない。それよりはきみのほうの条件を聞かしてくれ",
"条件は別にないよ――おッと、ちょっと待ってくれ、カークハム君"
],
[
"条件はただ一つ。ぼくの甥の矢木三根夫という少年をぼくの助手として連れていくこと。いいだろうか",
"オーケー。では契約したよ"
],
[
"ミネ君。でかけるが、きみの準備はいいかい",
"待ってください、伯父さん。ぼくはこれから荷造りをするのです",
"おやおや、そうかい。……でもまだ三十分時間があるね"
],
[
"まあ、宇宙の猛獣ですって。またスミスさんのホラ話がはじまったよ",
"なにがホラ話なもんか。わしはきのう、その宇宙の猛獣をつかう恐ろしい顔をした猛獣使いを見つけたんだ。わしは相手に知られないように、こっそりと、その恐ろしい奴のあとをつけていったが――ややッ"
],
[
"……わしの言ったことはうそじゃなかろうがな。だれでもひと目見りゃわかる。あのとおりあやしい男じゃ",
"やっぱり、そうなの? あのスカーフの下にどんなこわい顔がかくれているんでしょうね",
"おじいさん。あれが、さっきおじいさんがいった宇宙の猛獣使いなの?",
"そうじゃ。この間から、彼奴がこのへんをうろうろしてやがるのじゃ。ひとの家の窓をのぞきこんだり、用もないのに飛行場のまわりを歩きまわったり、あやしい奴じゃ",
"なぜ、あの人が宇宙の猛獣使いなの。宇宙の猛獣て、どんなけだものなんですの",
"宇宙の猛獣を知らんのかな。アフリカの密林のなかにライオンや豹などの猛獣がすんでいて、人や弱い動物を食い殺すことはごぞんじじゃろう。それとおなじように、宇宙にはおそろしい猛獣がすんでいるのじゃ。頭が八つある大きな蛇、首が何万マイル先へとどく竜、そのほか人間が想像もしたことのないような珍獣奇獣猛獣のたぐいがあっちこっちにかくれ住んでいて、宇宙をとんでゆく旅行者を見かけると、とびついてくるのじゃ",
"おじいさん。それはほんとうのこと。それとも伝説ですか",
"伝説は、ばかにならない。そればかりか、あのあやしい男はな、わしがこっそりと見ていると、ひそかに宇宙を見あげて、手をふったり首をふったりしておった。そうするとな、星がぴかりと尾をひいて、西の地平線へ向けて、雨のようにおっこった。だから彼奴は、宇宙の猛獣使いにちがいないんじゃ",
"ほほほ。やっぱりスミスおじいさんのほら話に、あんたたちは乗ってしまったようね",
"おじいさんは、話がおじょうずですからねえ",
"ほら話と思ってちゃ、あとで後悔しなさるぞ。わしはうそをいわんよ。だいいち、あの男の顔をひと目見りゃ、あやしいかどうかわかるじゃろうが……",
"もし、おじいさんのいうとおりだったら、あのあやしい松葉杖の男は、さっき出発したテッド博士たちの旅行に、わざわいをあたえるかもしれませんわねえ",
"それだ。それをわしは心配しておるんだて。それについてわしは、もっといろいろとあのあやしい男のあやしいふるまいについて知っているんじゃ。昨晩あの男はな……",
"あ、おじいさん。あの男が松葉杖をついて、またこっちへもどってくるよ",
"うッ、それはいかん。……わしは、こんなところでおちついで話ができん。こうしようや。みなさんが、次の日曜日、教会のおかえりに、わしの家へお集まりなされ。あッ、きやがった"
],
[
"おい、お年寄り、あまり根も葉もないよけいな口をきいていると、おまえさんの腰がのびなくなっちまうよ",
"……",
"おれは金鉱のでる山を三つも持っているパンチョという者だ。これからへんなことをいうと、うっちゃってはおかねえぞ"
],
[
"かんしんをもっているかどうかどころじゃない。きみたちが空を飛んでいるところを、二十四時間テレビジョンで放送してくれなどという注文があるくらいだ。新聞記事のほうでも、二面全部をこんどの事件に使っているよ。それでも読者は、まだ報道が少ないとふへいをいってくる",
"なるほど、近頃まれなるかんしんのよせぶりですね。しかしそのわりに、われわれの現場到着はひまがかかるので、みなさんにしびれを切らしてしまいそうですね",
"それはその通りだ。だから一刻もはやく現場へ到着してもらいたいものだ。このあと、ほんとに一カ月半ぐらいかかるのかね",
"そういっていますね、うちの艇長が……",
"これから一カ月半を、どうして読者をたいくつさせずに引っ張っていくか。これはうちの社のみならず各社各放送局でも気にやんでいる。だからねえ帆村君。その間に、なにかちょっとした事件があってもすぐ知らせてくれるんだよ。そしてじぶんの部屋なんかにあまり引きこもっていないで、操縦室にがんばっていて、首脳部の連中のしゃべること考えることをよく注意していてもらいたいね",
"それは、やっていますから安心してください。今、操縦室には三根夫ががんばっていますよ。ぼくと交替で、かれがいま部署についているのです",
"三根夫少年だろう。少年で、首脳部の連中のいっていることがわかるかね",
"あれは勘のいい少年だし、ぼくがこれまでにそうとう勉強させてありますから、大事なことはのがさないでしょう",
"そうかしら。なんだか心配だぞ"
],
[
"いまから五分まえに、後部倉庫からとつぜん火をふきだしたそうです。原因は不明。消火につとめたが、次々に爆発が起こって――燃料や火薬に火がうつって誘爆が起こって、手がつけられないそうです。テッド隊長は、『絶望だ』とことばをもらしました",
"わかった。ここはぼくがいるから、ミネ君は部屋へいそいでもどり、ガゼットのカークハム君を呼びだして、いまの話をしたまえ。そしてね。ぼくもあとから連絡するといっておいてね。その連絡がすんだら、きみはもう一度ここへやってくるんだよ",
"はい。そのとおりやります"
],
[
"二十九名? ほんとうに二十九名が漂流していますか",
"ほんとうだ。いくらかぞえても二十九名いるぜ",
"ははは、ぼくはあわてていたらしい。じゃあこんどはぼくが飛びだす番だ……"
],
[
"艇長。これを発火現場で見つけました。本艇の出火はこれが原因です",
"これはなにか",
"強酸と金属とをつかった発火装置です。艇長、本隊を不成功におわらせようという陰謀があるにちがいありません。他の艇にも、こんなものがはいっているかもしれません。至急、僚艇へ警告してください",
"うん、わかった。すぐ司令艇へ報告する"
],
[
"それはいけません。艇長のふかい情に合掌します。しかしわたしはもうだめです。助かりっこありません。艇長、わたしにかまわず、はやくこの艇をはなれてください",
"そんなことはできない……",
"艦長。はやく艇をはなれてください"
],
[
"やっぱり悪人がいるんですか",
"うむ。ミネ君にいわれて気がついたんだが、六号艇の爆発した中心部だね、その中心部の位置を考えると、どうしても自然爆発が起こったとは思われない。あそこはぜったい安全な場所だった。……だから、時間の関係から考えても、これは時限爆薬で爆発させられたものと見て、まずたいしたまちがいはないだろう"
],
[
"けがはないのかね",
"たいしたことはないです",
"ほう。やっぱりけがをしているんだね。ドクトル、手当をたのみます"
],
[
"出航のまえに、じゅうぶん調べたんだがなあ。まったくふしぎだ",
"密航者しらべをしたときに、怪しい品物がまぎれこんでいるかどうか、それもいっしょに厳重にしらべるよう僚艇に伝えたんですがねえ",
"もし、そういう品物がまぎれこんだとすれば、それはやはり出航のすぐまえのことだと思います。つまり乗組員が家族に送られて艇を出たりはいったりしましたからねえ。もしそういうすきがあったとすれば、それはそのときですよ"
],
[
"べつに怪しい者が出入りしたとは思いませんがねえ。みんな家族なんですから",
"出入りの商人もすこしは出入りしたね",
"招待客もすこしは出入りしました",
"顔を緑色のスカーフでかくした男がうろうろしていましたね。松葉杖をついていましたから、みなさんの中にはおぼえていらっしゃる方もありましょう"
],
[
"それはガスコ氏だ",
"ガスコ氏とは?"
],
[
"出発の日の朝になって、ガスコ氏は本隊へ電話をかけてきて、きょうはじぶんも気持がよいので、こっそり救援隊の出発を見送りにいく。しかし微行なんだから、特別にわしをお客さまあつかいしてもらっては困る。それからあの匿名寄附者がわしであることは、今回救援に出発する少数の幹部にだけは打ちあけてくれてもよい――こういう電話なんだ。それで幹部だけは、あの匿名寄附家がガスコ氏であることを当時わたしから聞かされて知ったのだ。きみには知らせるわけにゆかなかったが、まあ悪く思うな",
"なるほど"
],
[
"それで隊長は当日、ガスコ氏をこの艇内へ案内せられたのですか",
"ちょっとだけはね。氏はほんのわずかの間艇内を見たが、まもなくおりてゆかれた。わたしは氏を迎えたとき、氏が『挨拶はよしましょう。ていちょうな取扱いもしないでください。近所のものずき男がやってきているくらいの扱い方でけっこうです。わしはすぐ失敬します』といった。氏はきょくりょく知られたくないようすで、スカーフを取ろうともしなかった"
],
[
"ガスコ氏だと見せかけたその覆面の人物こそ、時限爆薬を投げこんでいったにくむべき犯人にちがいないと思います。その怪人物を至急捕えなくてはなりません。おゆるしくだされば、わたしはすぐにニューヨーク・ガゼットのカークハム氏に連絡して、検察当局へ届けてもらいます",
"いや、こうなれば、わたしも責任上、公電をうって、この怪事件についての新しい発見を報告しなければならない"
],
[
"そんなことは、いわない約束だったがね。それにミネ君は、いろんなおもちゃを艇内へ持ちこんでいるじゃないか",
"それと遊ぶのも、もうあきてしまったんです"
],
[
"ねえ、帆村のおじさん。いったいいつになったら『宇宙の女王』号に追いつくんですか",
"さあ、それはいつだかわからないが『宇宙の女王』号が消息をたった現場まではあと二、三日でゆきつくそうだよ",
"えっ、それはほんとうですか"
],
[
"やっぱり『宇宙の女王』号は、遭難現場附近にいたね",
"どんなことになっているかな。生き残っている者があるだろうか",
"それはどうかなあ。でもみんな死にはしないだろう",
"すると、この附近に『怪星ガン』もうろついていなければならないわけだね",
"カイセイガンて、なんだい",
"こいつ、あきれた奴だ。怪星ガンを知らないのか。『宇宙の女王』号が最後にうってよこした無電のなかに、おそるべき怪星ガンが近づきつつあることを、知らせてきたじゃないか",
"ああ、あれなら知っているよ。『宇宙の女王』号を襲撃した空の海賊――というのもおかしいが、おそるべき宇宙の賊だもの。きみの発音が悪いんだよ",
"あんな負けおしみをいっているよ"
],
[
"なあんだ。あれはギンネコ号じゃないですか、宇宙採取艇の……",
"そうだ、たしかにギンネコ号だ。救援の電信を受取って、現場へいそいでくれたんだな。なかなか義理がたい艇だ",
"ギンネコ号に聞けば、なにか有力な手がかりがえられるでしょう",
"無電連絡をとってくれ"
],
[
"その宇宙採取艇というのは、どんなことを仕事にするロケットなんですか",
"ああ、それはね"
],
[
"この宇宙には、わが地球にない鉱物などをふくんだ星のかけらが無数に浮かんでいるんだ。その星のことを、宇宙塵と呼んでいる学者もあるがね、とにかく名は塵でも、わが地球にとってはとうといもので、宇宙に落ちている宝と呼んでもいいほどだ。ギンネコ号のような宇宙採取艇はそういう宇宙塵をひろいあつめるのを仕事にしているロケット艇なんだ。これは商売としてもなかなかいいもうけになるし、われわれ地球人にとっては、たいへん利益をあたえるものなんだ。つまり地球にない資源が、宇宙採取艇のおかげで手にはいるわけだからねえ",
"じゃあ、隕石を拾うのですね",
"いや、隕石だけではない。もっといいものがいく種類もある。なかには、まだわれわれ地球人のぜんぜん知らない物質にめぐりあうこともある。たとえばカロニウムとかガンマリンなどは、地球にないすごい放射能物質で、ともにラジウムの何百万倍の放射能をもっている。こんな貴重な物質がどんどん採取できれば、じつにありがたいからね。それを使って人類はすごい動力を出し、すごいことができる",
"そんなら国営かなんかで、うんと宇宙採取艇をだすといいですね",
"うん。だがね、そういう貴重な宇宙塵は、なかなか、かんたんには手に入らないんだ、何千か何万かの宇宙塵のなかに、ひとかけら探しあてられると、たいへんな幸運なんだからね。宇宙採取艇で乗り出すのは、昔でいうと、金鉱探しやダイヤモンド探しいじょうに、成功する率はすくないんだ。宇宙塵採取やさんは、世界一のごろつき連中だと悪口をいわれるのも、このように貴重な宇宙塵を見つけだすことがたいへんむずかしいからだ。まあ、そんなところで話はおわりさ"
],
[
"いや、わしは艇長ではありません。事務長のテイイです",
"ははあ、事務長のテイイさんですか。それで艇長に、お目にかかりたいのですが……",
"艇長はこのところ病床についていまして、お目にかかれんです。それで艇長はその代理をわたしに命じました。ですからなんなりとわたしにいってください"
],
[
"胆石病なんですね",
"胆石病――ああ、そうです、胆石病です。あの病気、なかなか苦しみます"
],
[
"あのようにしないと、相手にかんづかれるおそれがあったからです。ポオ助教授。あなたは、あのときギンネコ号の室内に意外なものを発見して、おどろきの声をあげられたのですね",
"ほう。これは気がつかなかったが、いったいどういうことかね"
],
[
"まったく帆村君の想像のとおり、ぼくは意外なものをあの部屋のなかで見つけたのです。それは発光式の空間浮標です。はじめその上にカンバス布がかけてあって見えなかったのですが、ぼくたちが帰るとき、テイイ事務長の身体がカンバスにさわって、その布が動いて横にずれた。それで下にあった空間浮標が見えたんです",
"ほう。それはもしや『宇宙の女王』号のものじゃなかったのか"
],
[
"すると、ギンネコ号は、女王号の空間浮標をひろって、知らぬ顔をしているんだな",
"そうなりますね。ごしょうちでしょうが、あの空間浮標は、宇宙の一点にいかりをおろしたように動かないで、その一点をしめす浮標なんですが、しかしもう一つの使い道があります。それは遭難したときなど、その遭難現場を後からきた者に教える役もします。そういうときには、艇から外へほうりだすまえに、重大な遺書を中へ入れるのがれいになっています",
"では、ギンネコ号は、女王号の遺書をぬすんで、知らん顔をしているのか。じつにけしからんことだ。いったい、なぜこんなことをするのか。よし、これから引き返して持ってこよう"
],
[
"だが、このまま本艇へもどっては、わたしの責任がはたせない",
"いやいや、相手はとってもすなおにもどすとは思われません。というのは、あのギンネコ号にはゆだんのならぬ連中が乗組んでいると思われるからです。とても一筋縄ではゆきますまい",
"しかし帆村君。きみの知っている人格者が艇長をしているという話だったじゃないか",
"そうなんですが、その鴨艇長がきょうは姿を見せなかったのですから、ふしぎです。かれは病気でも、こんな重大なときには、われわれを病床へでも迎えて、会うほどの責任感の強い人物なんです。それがきょうはでてこないのですから、ゆだんはなりません"
],
[
"ねえ、帆村のおじさん。ギンネコ号はゆだんのならないゴロツキ艇だってね",
"まあ、そうとしか思えないね"
],
[
"とにかく鴨艇長が乗っているかぎり、正義と親切の艇であるはずだ。だからおかしい。艇長は病気をしているとテイイ事務長の話だったが、病気をしているくらいで、乗組員があんなゴロツキみたいに悪くなるはずはないんだがなあ",
"ギンネコ号は、『宇宙の女王』号の遺留品をしこたまひろって、知らん顔をしているんじゃないですか。そういうことをするのを、『猫ばばをきめる』というでしょう。なまえがギンネコだから、きっとネコばばをするのはじょうずなんだろう",
"ははは。ギンネコだからネコばばはじょうずか。これは三根夫クン、考えたね。ははは"
],
[
"法規にはんするから、ギンネコ号に反省をもとめようか",
"まあ、もうすこしようすを見てからにしたほうがいい"
],
[
"これごらんなさい、ギンネコ号がおびただしい電波妨害用の金属箔をまきちらしたようです。このへんいったい、そうとうひろく、エコーがもどってきます",
"なるほど。とうとうみょうなことをはじめたな"
],
[
"はあ、見事におまにあいになりました。やっぱり親分はたいしたお腕まえで……",
"これこれ、親分だなんていうな。きょうからスコール艇長とよべ。おおそうだ。艇長室はきれいになっているだろうな",
"はいはい。それはもうおいでを待つばかりになっております。ええと……スコール艇長"
],
[
"よし、満足だ。安着祝いに、みんなに一ぱいのませてやれ",
"え、みんなに一ぱい?",
"おれの乗ってきたコスモ号のなかに、酒はうんとつんできてやったわい",
"うわッ、それはなんとすばらしい話でしょう。さっそくみんなに知らせてやりましょう",
"ちょっと待て。顔の用意をするから、おまえもうしろを向いてくれ"
],
[
"艇長、いまなにかおっしゃいました",
"おお、きみの気分はよくなったかと聞いたんだ",
"そうでしたか。おかげさまで、気分がはっきりしました"
],
[
"さて、事務長。あのテッド博士のひきいる残りの九台の救援ロケットは、すこしもはやく破壊してしまわなくてはならない",
"はあ、なるほど"
],
[
"わしがこんど持ってきた器械に、宇宙線レンズというのがある。これは太陽をはじめ、他の大星雲などからもとんでくる強烈な宇宙線を、みんな集めてたばにするんだ。そうしてたばにした宇宙線を、地球じょうで一番かたい金属材料としてしられているハフニウムG三十番鋼にかけると、どんな場合でも、まず百分の一秒間に、まっ赤に熱し、たちまち形がくずれてどろどろになり、そしてつぎの瞬間に全体が一塊のガス体となって消え失せる。どうだ、宇宙線レンズはすごい力を持っているだろう",
"へへえッ、それがほんとうなら、大した破壊力を持っていますね",
"破壊力だけで感心してはいけない。またかなり遠方まできくんだ。原則からいうと、無限大の距離でもとどくんだが、まだすこし集めて一本にする技術が完全というところまでいっていないので、まず、四、五千メートル以内なら有効にはたらく",
"四、五千メートルまでなら、じゅうぶん使い道がありますよ。やくに立ちます",
"やくに立たないものなんか、わしは持ってこない。そこでだ、この宇宙線レンズの力を借りて、きょうはテッド博士のひきいる九台のロケットを全部焼いて、九つの煙のかたまりにしてしまおうと思うんだ。しっかりやってくれよ",
"きょうのうちにですか。それはどうも"
],
[
"ロバート君。よくまあだんどりよく、あいつの仮面をはぎ、そしてあいつの害心を叩きつぶしてくれたね。お礼をいう",
"幸運でした、隊長。帆村君とポオ君とそれから三根夫少年が、すぐれたチームワークを見せてくれたのですよ。しかし、あれはやっぱりガスコ氏ですかな"
],
[
"怪しい人物ですね。あれはいったいどういう素性の人ですか",
"それは帆村君にも調べさせたんだがはっきりとはわからない。わかっていることは――"
],
[
"スコール艇長は、かれの部下のひとりが、最後に乗りこもうとして片足をかけたときに艇をだしたので、かわいそうに、かれはハッチから外へほうりだされて、あれあれ、あのとおり宙に浮いて流れています",
"おお、かわいそうに。非常警報をだして僚艇から救助ボートをだしてやれ"
],
[
"故障! 原因不明!",
"航行不能におちいった。原因不明"
],
[
"これはきみょうだ。こんなに猛烈にロケット・ガスを噴射しているのに、すこしも前進しないとはおかしい",
"外力がこのロケットにくわわっているわけでもないのに、完全に動かなくなるとはおかしい",
"しかしそれでは自然科学の法則にはんする。やっぱり外力が本艇にくわわっているのではないか",
"だってきみ、そんな外力を考えることができるかね。本艇のロケット推進力を押しかえしてゼロにするという外力が、どうしてあるだろうか。外を見たまえ。本艇の正面も尾部も異常なしだ。他のロケットで、本艇を押しもどしているようすなんかないものかね",
"ふしぎだ。わけがわからない。いったいどうしたんだろう"
],
[
"だめなんです、隊長",
"だめとは何が?",
"今、ご報告しようと思っていたところですが、いますこしまえから、とつぜん僚艇との連絡通信が不可能になりました",
"やッ",
"こっちからいくら電波をだしても、僚艇から応答なしです。じつはレーダーもはたらかしてみました。ところが、これもだめなんです。つまり本艇の電波通信はさっぱり用をしなくなりました",
"レーダーも応答なしか",
"はい。困りました",
"困ったね。そしてわけがわからん。おお、ポオ助教授。きみにわかるかね、本艇の電波通信が用をしなくなった理由が……"
],
[
"隊長。もうしばらくのうち星の光りは全部消えてしまいそうです。残っているのはあそこだけで、ふしぎだなあ、残っている星の群れは、円形の中にはいっています",
"なるほど。これはまた奇妙だ",
"ほら、ごらんなさい。円形の窓から眺めるような星の光りが、だんだん小さくなっていきます。窓がだんだん小さくしぼられていくようだ。ポオ君、見ていますか"
],
[
"まったくふしぎだね。こんな異変が天空に起こるという報告を、これまでに一度も読んだこともなければ、聞いたこともない。じつにふしぎだ。しかしこれは夢ではない。われわれは皆で、さっきからこの天の涯の異変をたしかに見たのだ",
"ねえ帆村のおじさん。ぼくは、とても大きい黒い袋のなかに包まれていくような気がします。おじさんは、そう感じないですか"
],
[
"ああ、黒い袋の口が、ついに閉まる。みなさん見ていますか",
"見ているとも……"
],
[
"あ、消えた",
"とうとう消えた。完全な暗黒世界だ",
"暗黒の空間なんて、はじめて見知ったよ。ああ、おそろしい",
"大宇宙が、消えてしまったんだろうか。地球へもどるには、どうすればいいのだろう"
],
[
"ああ、もうだめだ。本艇の噴進もきかなくなり、昼の光りさえ見えない暗黒世界へ閉じこめられてしまったのだ。わたしたちは、もう何をする力もない",
"そうだ。われわれを待っているものは燃料の欠乏だ。食料がなくなることだ。そしてみんな餓死するのだ。ああ、おれは餓死するまえに頭が変になりたい"
],
[
"いやいや、そうでないと思う。宇宙塵のかたまりというものがあって、その中へ突入したものなら、本艇はその宇宙塵につきあたるから、手ごたえが感じられるはずです。しかしそんな手ごたえはないではありませんか。また宇宙塵の中といえども、本艇は噴進することができるはずであるが、実際本艇は一メートルも前進することができないのです。ですから宇宙塵の考えは正しくない",
"では、きみは何と考えるのですか",
"わたしは暗黒星へ突っ込んだのではないかと思いますよ",
"それはおかしい。暗黒星のなかへ突っ込んだものなら、そのときにはげしい衝突が感ぜられ、本艇は破壊するでしょう",
"いや、暗黒星には、ねばっこい液体からできているものもあると思うのです。そういうものの中へ突っ込めば、かならずしも破壊が起こりはしない"
],
[
"諸君は、もっとも大切なことを見のがしておられる。それは星の光りが消えはじめるまえに、本艇はうす赤い光りで包まれていたことだ。あの光りはなんであろうか。あのふしぎな光りの謎をまず解かなくてはならない",
"おお、それはいいところへ目をつけられた。きみは、どう解くのか",
"わたしの考えでは、本艇は、なにかの外力をうけて、あのきみょうな放電現象となったのであろうと思う。その外力はなにものか、それはまだわかっていないが、ともかくもその外力は、非常に大きな力を持っていると思われる。あのきみょうな放電現象によって、本艇の外廓のうえには、黒いペンキのようなものが塗られた。そのために外が見えなくなった。この考えはどうですか",
"なるほど、その説によると、外界が見えなくなったことは、説明できるが、しかし本艇がガスを噴射しているにもかかわらず、すこしも前進しないのは何故かという説明がつかない。それとも、このうえにもっときみは説明をくわえますか",
"その黒いペンキのようなもの――それは非常にねばねばしたもので、われわれにはちょっと想像もできないが、それはしっかり本艇を宇宙のある一点へとめているのではなかろうか。つまり蠅がとりもちにとまって動けなくなったとおなじように、本艇は、そのねばねばしたまっ黒いものに包まれ、そして動けなくなったのではないですかな",
"その考えはおもしろいが、しかしそれは想像にすぎない。想像ではなく、もっとはっきりした事実をつかまえ、そのうえに組立てた推理でなくてはならない",
"ですが、地球のうえならばともかく、このように宇宙の奥まで入りこんでいるのですから、ここではだいたんなものさしで測る必要があります。地球のうえだけで通用するものさしで測っていたんではだめだと思います",
"そういう議論はあとにして、もっと実際の問題を論じてもらいたいね"
],
[
"さっぱり手がかりのないことを、いくら論じてみても、むだだと思います。それよりはもうすこし時間のたつのを待ったうえで、なにか新しい手がかりのみつかるのを待ち、あらためて論ずることにしてはどうでしょうか",
"まあ、そういうことになるね"
],
[
"なんだろう。やっぱり棒かな",
"棒ともちがう。割れ目のようでもある",
"割れ目? なんの割れ目",
"割れ目ができて、となりの空間のあかりが割れ目からさしこむと、あのようになるではないか",
"なるほど",
"ちがう。光りの棒でも割れ目でもない。光る塔だ",
"光る塔! なるほど塔みたいだ。そうとう大きなものだ。しかし宇宙のなかに塔があるとは信じられない",
"だめだ、そんな風に、地球上だけで通用する法則だけにとらわれていては、この大宇宙の神秘はとけないですよ",
"また、さっきの議論のむしかえしか",
"いや、そうとってもらっては困る。とにかくわれわれは、頭のなかを一度きれいに掃除しておいて、そのきれいな頭でもって、われわれの目のまえに次々にあらわれる大宇宙の驚異をながめる必要がある。そうでないと、その驚異の正体を、はっきり解くことができないからねえ",
"おやおや、すてきに大きい塔だ。どう見ても塔だ。わたしは気がたしかなのであろうか"
],
[
"はっきりはわからないが、あれは相手がわれわれに、一つの交通路を提供しようというのじゃないかなあ",
"なんですって"
],
[
"つまりだ、相手は、われわれに会いたいのだ。会うためには、あのような塔の形をした交通路を、本艇のそばまでとどかせてやらなくてはならない、相手はそう考えたんだろう",
"塔が交通路なんですか。どうしてですか",
"もうすこし見ていればわかるのではないかなあ。ほら、塔の先から、こんどは横向きに、籠のようなものが伸びてきたではないか",
"あッ。ほんとだ"
],
[
"帆村のおじさん。さっきから、おじさんは相手がどうしたとかいいますがね、相手とはだれのことですか",
"あの塔の持主のことさ。ああして塔をぐんぐんと、われわれのほうへ伸ばしてよこすのはだれか。それがおじさんのいう相手さ",
"だれなんですか、その『相手』は",
"本艇をすっかり暗黒空間でつつんでしまった『相手』だ。本艇の電波通信力をなくしてしまった『相手』だ。いくら本艇が噴進をかけても、一メートルも前進させない『相手』だ。これだけいえば、ミネ君にもわかるだろう",
"わからないねえ"
],
[
"わかりそうなものではないか。宇宙を快速で飛ぶ力のある本艇を捕虜にすることができる『相手』だ。ただ者ではない。もうわかったろう",
"あッ。すると、もしや……"
],
[
"では、あの塔みたいなものも、怪星ガンの一部分なんですか",
"それはたしかだと思う",
"でも、へんですね。星というものは、ふつう表面が火のように燃えてどろどろしているか、あるいは表面が冷えて固まっているものでしょう。ところが、怪星ガンはそのどちらでもないようですね。なぜといって、火のように燃えている星なら、ぼくたちも、たちまち燃えて煙になってしまうでしょうが、このとおり安全です。おじさん、聞いている?",
"聞いているよ",
"また、怪星ガンが表面が冷えかたまっていて、地球や月のような星なら、その星の腹へ、ぼくらのロケットをのみこむといっても、できないじゃありませんか。だから、怪星のとりこになっているといわれても、ぼくは信じられないや"
],
[
"とにかく、さっききみは見たろう。星がどんどん姿を消していったのを。最後に窓のように残った図形の星空、それが見ているうちに、まわりがだんだんちぢまって、やがて星空は完全に消えてしまった。そして大暗黒がきた。そうだろう",
"そのとおりですけれど",
"つまりね、あの大暗黒が、怪星ガンの一部分なんだ。われわれは怪星ガンにすっかり包まれてしまったんだ",
"すると怪星ガンは霧のようなものですかねえ。それともゴムで作った袋みたいなものかしらん",
"そのどっちにも似ている。けれども、それだけではない。そのうちに、もっと何かあるんだと思う"
],
[
"もっと何かあるって、何があるの",
"あれだ。あのようなものがあるんだ"
],
[
"あれはなんでしょう。高い塔のようなもの",
"つまり、怪星ガンのなかにはあのように、しっかりした建造物があるんだ。霧かゴムのようにふんわり軟い外郭があるかと思うと、そのなかにはあのようなしっかりした建造物がある。いよいよふしぎだねえ",
"まるで謎々ですね",
"そうだ、謎々だ。しかし、この怪星ガンの構造がどうなっているか。その謎をとくには、もっともっといろいろ観察をして、条件を集めなくてはならない",
"ぼくは、なにがなんだか、さっぱりわけが分らなくなった。くるなら、こい。なんでもこい、よろこんで相手になってやる"
],
[
"おわかりになりますか。隊長。あのはげしい音を……",
"よくわかる。外で何かしゃべっているようだね",
"え、しゃべっていますか。どうせ怪しい奴のいうことだ、ろくなことではあるまい"
],
[
"帆村のおじさん。本艇の外へやってきたのは誰でしょうね",
"誰だと思うかね",
"あれじゃないでしょうか。ほら、おそろしい顔をしたガスコ。ギンネコ号の艇長だといって、きのうここへはいってきたあのいやな奴",
"そうではないと思うね"
],
[
"おじさんは、誰だと思うんですか",
"怪星ガンの住人じゃないかと思うね",
"えっ、怪星ガンの住人ですって。それはたいへんだ。いよいよぼくらを牢へぶちこむか、それとも皆殺しにするために有力な軍隊をひきいて乗りこんできたのでしょうか",
"ミネ君は、このところ、いやに神経過敏になっているね。それはよくないよ。もっとのんびりとしていたほうがいい",
"だって、こんなふしぎな目、おそろしい目にあって、えへらえへらと笑ってもいられないですよ",
"とりこし苦労はよくないのさ。ぶつかったときに、対策を考えるぐらいでいいのだ。一寸さきは闇というたとえがある。先のところはどうなるかわからないんだから、それを悪くなった場合ばかり考えて、びくびくしているのは、神経衰弱をじぶんで起こすようなもので、ためにはならないよ",
"じゃあ、あの扉をあけて、外に立っている怪星ガンの人間の顔を見たうえで、対策を考えろというんですか",
"それくらいでも、この場合は、まにあうのだ。なにしろぼくたちは、すっかり自由というものをうばわれているんだから、ふつうの場合とちがうんだ。とにかく相手は、あのようにていねいなことばで呼びかけているんだから、ぼくたちを殺すとかなんとか、そういう乱暴は、すぐにはしないだろう"
],
[
"わたしは、すぐ扉をあけて、相手と交渉にはいったがいいと思います",
"ほう。きみもやっぱりそのほうか。扉をあけるのはいいが、艇内の気圧が、いっぺんに真空に下がるだろうと思うが、このてん考えのなかにはいっているかね",
"わたしは、そのてんも心配なしと思います。つまり、扉の外は、じゅうぶんに空気があるんだと思うのです。なぜなら、外から声をかけられるんですから、外に空気があり、相手は空気を呼吸しながら立っているんだと推察しているのですが、隊長のお考えは、いかがです",
"うん。きみのいまの説によって、完全に説明しつくされた。そうすれば、外部に空気があることが信じられる。しからば、わしもさっそく扉をあけて、相手に面会する決心がつくというものだ",
"では、どうぞ、しかし、びっくりなすってはいけませんよ",
"なんだって。びっくりするなとは、何が?",
"それはだんだんわかってきましょう。いまのところわたしの想像にとどまりますが、なにしろ相手は怪星ガンの一味と思われますから、ずいぶんわれわれをふしぎな目にあわせるかもしれません",
"うん。覚悟はしているよ"
],
[
"ただ、いまのおたずねについて、これだけはお答えしておきましょう。このところが、どんなところであるかを知るには、橋をわたりエレベーターで下り、市街を歩いてごらんになると、まず、早わかりがするでしょう",
"ああ、そうですか",
"それから、わたしの姿が見えないことです、これはちょっとしたからくりを使っているのです。こっちから説明しないでも、やがてみなさんのほうが、なあんだ、あんなからくりだったかと、気がおつきになりましょう。それはとにかく、いずれそのうち、よい時期がきたらわたしどもは、みなさんの目に見えるように、姿をあらわします。それまでは、私どもの姿が見えないほうがよいと思うので、決してわたしどもは姿を見せません",
"そうおっしゃれば仕方がありませんが、もしわれわれのほうで、あなたさまに連絡したくなったとき、どうすればいいでしょう。あなたのお姿が見えなければ、あなたを探すことができません"
],
[
"これは失礼しました。連絡の必要のあるときは、あなたがたは『もしもし、ガンマ和尚』と一言おっしゃればいいのです。するとわたしは、すぐご返事するでしょう",
"ガンマ和尚? ふーむ、ガンマ和尚とおっしゃるお名まえですか",
"そういえば、通じますから"
],
[
"なんだい",
"おもしろいことになってきましたね。たいへんめずらしい国――いや、めずらしい星の国へきたようですね",
"ミネ君、きゅうに元気になったね。どうしたわけだい",
"だって、この下に町があるというのですもの。それから飲食店があったり、めずらしい品物を売っている店があったりする。はやくいってみたいものだ",
"ははは、そんなことで、ミネ君はうれしがっているのかい。だがね、飲食店や商店があったとして、きみはこの国で通用するお金を持っていないから、どうにもならないじゃないか"
],
[
"ありがとう。よく捜しにきてくれた。これまでに苦労をたくさんかさねたことだろう。くわしい話を聞きたいが、わしの家まできてくれないか",
"はい。どこへでもおともをします。あ、それからご紹介します。これが隊員のポオ助教授。それからケネデー軍曹。帆村探偵、三根夫君です。どうぞよろしく"
],
[
"何に気がついたのかね",
"だって、へんですよ。店には、だれも店番をしている者がないじゃありませんか。どの店もそうですよ",
"なるほど。それから……",
"それから? まだ、へんなことがあるんですか"
],
[
"ああ、そうか。帆村のおじさん。お客さんがひとりもいません。へんですね",
"客の姿が見あたらない。よろしい。それから……",
"それからですって。まだへんなことがあるんですか"
],
[
"あ、これかな。帆村のおじさん。店の出入り口の戸が、ばたんばたんと、開いたり閉まったりしますね。まるで風に吹かれているようだけれど、そんな強い風が吹いているわけでもないのにへんだなあ。おじさん、これでしょう",
"なるほど。それから……",
"えッ、えッえッ。まだ、それからですって"
],
[
"どうだい。わかったかい",
"いや、わからないです",
"三根クン。きみはあの店にならんでいるりんごがたべたくないかい",
"あれですか。りんごはめずらしいですね。それにたいへんおいしそうだ。あれを買えないでしょうかね",
"さあ、どうかな。三根クン。きみはあの店へはいっていって、『りんごをいくつ、ください』といってみたまえ。するとどうなるか。ただし三根クン、おどろいちゃだめだよ",
"おどろきゃしませんが誰もいない店へはいって、誰もいないのに、りんごを売ってくださいというのですか",
"そうだ。ためしに、そういってみたまえ"
],
[
"代金ですって。そんなものは、いりませんのです",
"えッ。りんご十個が、ただもらえるんですか",
"はあ、この店では、みんな無料でお渡しすることになっています",
"それでは損をするばかりではありませんか",
"いいえ、市民の健康を保つために、市民がたべたいと思う果物を市民に渡すことは、公共事業ですから、損ではありません",
"ついでにおたずねしますが、この町で売っているもので、りんごのほかにもただのものがありますか",
"ございます。衣食住にかんするすべてのものは、みんな無料で市民に提供されます",
"衣食住にかんするすべてのものですって。それはうらやましいことだなあ。しかしぼくは市民ではありませんよ",
"いいえ、市民です。この町にいる者は、みんな市民です",
"もう一つおたずねしますが、あなたはどうして姿を見せないのですか"
],
[
"ねえ、帆村のおじさん。この町は、地球上のどの国よりも進歩したところですね。だって生活費がただなんだから、暮しに心配いりませんもの",
"生活費がただで、らくに暮らせるというところなら、地球のうえにだってあるよ"
],
[
"あるものですか。日本はもちろんのこと、アメリカだってソ連だって、生活費はただではないですもの",
"それはそうだ。しかしじっさい生活費がただであるところは、地球上にすくなくない。れいをあげよう。熱帯の島々に住んでいる原地人たちのほとんど全部が、衣食住に金をかけていない。かれらの食物はタピオカやタロ芋やバナナやパパイヤや、それから魚などだ。それらは自然に島にたくさんなっている。酋長のゆるしさえあれば、かってにそれをたべることができる。着るものは木の葉や木の皮で身体の一部分をかくせばいい。もちろんこれはただで手にはいる。住む家は、いくらでも生えているびんろう樹などを切ってきて、その木を柱にし、葉をあんで柱の間にはりめぐらすと家ができる。すべて無料で手にはいる。どうだね、三根クン"
],
[
"衣食住のものは無料でも、ほかの品物はお金をださないと買えないんでしょうか",
"そういうものもあるらしいね。たとえば、ほら、あの店に並んでいる額にはいっている油絵。あれには値段をかいた札がつけてあるよ",
"あ、なるほど。三十五ドルと、値段がついていますね。地球の値段より高いですね",
"ほら、あのとなりには人形を売っている。あれにも値段の札がついている",
"ええ、ついていますね。これはおどろいた",
"三根クン。ぼくたちの目には見えない品物が店に並んでいるとは思わないか",
"えっ、なんですって"
],
[
"たとえば、この店にだね、本がならんでいるが、それは店の棚の一部分だ。ほかの棚はがらあきだ。しかしはたしてがらあきなんだろうか。そこには、ぼくらの目には見えない本がぎっしりならんでいると考えてはどうだろうか",
"そうですね。そうも思われますね。本のならんでいるぐあいがへんてこですからね",
"もう一つ、きみは気がついていないか。店には、ぼくらには姿の見えない客が大ぜい、でたりはいったりしているということを",
"なんですって。姿の見えない客ですって",
"そうなんだ。その証拠には、入口の扉を注意して見ていたまえ。ひとりでに、開いたり閉まったりしている。風もないのに、へんじゃないか。あれは、ぼくたちには見えないけれど、客がさかんにあそこから、でたりはいったりしているんだと解釈できやしないか",
"それは、りっぱな推理ですよ。きっと、それにちがいありません。なぜ、姿の見えない人間――人間でしょうか、とにかく、どうしてそんな姿の見えない者がたくさん動いているのでしょうか",
"それはかんたんにわかるじゃないか。この町の住民たちなんだ。つまり怪星ガン人だ",
"怪星ガン人? ああそうか。怪星ガン人は姿が見えないんですね。そういえば、あのなんとか和尚という人も、姿を見せなかった。みんなどうして姿が見えないんでしょうか。くらげみたいに、透明なんでしょうか"
],
[
"ご用でございますか、はい",
"お客さまがたに、ちょっと一口、何かおいしいものをさしあげてください",
"はい、かしこまりました。さっそく用意をいたします"
],
[
"わかりました。サミユル先生。あなたがたもやはり捕虜生活をつづけていらっしゃるんですか",
"そのとおり",
"この怪星ガンの正体は、いったいどんなになっているものですかな",
"それは残念ながら、まだ知りつくすことができない。しかしわしたちのさっするところでは、人工の星ではないかと思う",
"人工の星とは?",
"天然の星ではなく、人力というか何というか、とにかく現にこの怪星に住んでいる智能のすぐれた生物が、――あえて生物という、人間だとはいわないよ――その生物がこしらえたものじゃないかと思う",
"だって、この大きな星を人工でこしらえあげるなんて、できることでしょうか",
"われわれ地球人類の想像力の範囲では、とてもこの怪星の秘密を知りつくし、解きつくすことはできないであろう。われわれは一つでもいいから、じっさいに存在するものを観察して、その上にだいたんな結論をたてるのだ。そういう結論をいくつもいくつも集めたうえで、それらを組合わせるのだ。すると、そこにこの怪星の正体が、おぼろげながらもだんだんはっきりしてくるのだと思う"
],
[
"それはそれとして、この怪星はいったい何者が支配しているのですか",
"れいの生物のなかで、智能のすぐれた者が、この怪星をしっかりおさえているんだと思う",
"われわれを捕虜にして、これからどうしようというつもりなんでしょう"
],
[
"ですが、先生。奥のほうに何か騒動が起こっているに、ちがいありませんもの",
"いいや、ほっておきなさい。よけいなおせっかいをすると、ガン人はよろこばないのだ。われわれは捕虜なんだから、ひかえていなくてはならない",
"しかし、先生。あのとおり死にそうな声をだしている。それに三根夫君もとびこんでしまった。少年を見殺しにできません。助けてやりたい"
],
[
"隊長。わたしがかわりにいってきますから、おまかせください",
"ああ、帆村君、きみがいくって……"
],
[
"なんだい、これは……",
"この籠の中にいたものが、騒動をひきおこしたんでしょう。サミユル先生。この国には人間以外の動物は、たくさんいますか",
"あまりいないねえ",
"ねずみなんか、どうですか",
"ねずみ。ああ、ねずみか。ねずみは見かけないね",
"それでわかりました。隊長、三根夫君がこの籠にいれて飼っていた白い南京ねずみが、この中からにげだして、奥へとびこんで、ハイロをおどろかしたのだろうと思いますよ",
"まさか。そんなかわいい小ねずみにおどろくようなことはないだろうに"
],
[
"ほんとに大丈夫ですか。わたしに危害をくわえるようなことはありませんか。魔ものではないのですね",
"そうだとも。いまもいったように、地球の世界では、みんなにかわいがられている一番おとなしくて、かしこい動物なんだ。ナンキンねずみというのだよ。三根夫が飼っていたのだ。それがさっき籠からにげだしたのだ。見ていたまえ。三根夫があの南京ねずみをつかまえたら、きみのために、いろいろとおもしろい芸当をあの南京ねずみにさせて見せてくれるだろう。そのときは腹をかかえて大笑いをしたまえ"
],
[
"では先生、またお目にかかりましょう。一度わたしの艇までおいでを願いたいと思いますが、いかがでしょう",
"ありがとう。それは相談をしたうえのことにしましょう",
"誰に相談なさるのですか"
],
[
"先生のひきいていられる『宇宙の女王』号をぜひ見せていただきたいものですね。あすあたりいかがでしょう",
"ざんねんながら『宇宙の女王』号をきみに見せるわけにいかない。あれはもう、この国へ寄附してしまったのだ",
"寄附ですって。それはおしいことをしましたね。それでは先生や隊員たちは、地球へもどるにも乗り物がないではありませんか",
"そうだ。わしはふたたび地球へかえるつもりはない",
"えッ。それはまたどうして……",
"わしは、この国でずっとながく暮らすつもりだ。きみたちもそのつもりでいたほうがいいと思うね",
"いや、わたしどもは、どうしても地球へもどります。それに、このようなふしぎな怪星ガンの国を見た上からは、一日も早く地球へもどって、全世界の人々に報告をしてやるのです。そしてそれは同時に警告でもあります。地球の人々は、宇宙で人間がもっともすぐれた生物だと思って慢心していますからね。それにたいして一日でも一時間でもはやく、怪星ガンの存在することを警告してやるひつようがあります",
"待ちたまえ。きみの考えはむりではない、しかしきみはまだこのガン人の国について、ほんのすこし知っているだけだ。そんなことでは、ガン人の国の真相を地球へ伝えることはできないではないか",
"それはそうですが……",
"まちがったことを知らせたりすると、誤解が起こって、かえって大事件をひきおこすことがある。宇宙戦争なんかは、どんなことがあっても起こしてはならないからねえ"
],
[
"でも、このような警告は一分でも一秒でもはやくなくてはなりません。地球人類が、もし不意をつかれるようなことがあっては、負けですからね",
"ほう。きみはもう、怪星ガンと地球とのあいだに宇宙戦争が起こるものと考えているのかね",
"はい。考えています。たしかにその危険があります。困ったことですが、どうにもなりません。やくそくされた運命というのでしょう",
"いや、わしはそうは思わない。きみはもっと考えなおすべきだ。そしてガン人というものをもっと深く理解しなくてはならぬ",
"もしもし、そんな話は、もうそのくらいにして、やめたがいいでしょう。テッド博士たち、もうおかえりなさい"
],
[
"あッ。きみは誰?",
"ガンマ和尚ですわい"
],
[
"くよくよしないで、街でたのしいものを見つけることですよ。つまらない話はしないのがいい。あすは、あなたたち全員を、わたしたちが招待して、たのしい歓迎会をひらきます。そのことを帰ったらみなさんに知らせてください",
"わたしたちのために、そんな会を開いてくださるのですか",
"あなたがたがその会にでれば、わたしたちの気持ももっとはっきりわかってくれるでしょう。さあさあ、にこにこ笑って、ここをおひきあげなさい"
],
[
"へえーッ、おれたちを招待するというぜ。なにをたべさせるのかな。気持がわるいね",
"なあに、その心配はないさ。怪星ガンは大きな世帯らしいから、まさかわれわれの口にあわない彗星料理や星雲ビールなんかをだすことはないと思う",
"なんだい、その彗星料理だとか星雲ビールというのは。いったいどんなものか",
"さあ。どんなものかおれもしらないが、おまえは、そのへんてこなものがでるか心配していると思って、ちょっといってみたのだ",
"ははは。なにをでたら目をいうか"
],
[
"いろいろなものを売っているんだよ。たべものやのみものや服のない者は、ただで買えるんだ。そうでないものは金をださないと買えない。それからね、ガン人はたくさん歩いているらしいんだが、ぼくらの目にはまったく見えないんだ。これには面くらうよ。それからガン人たちはぼくらより高等な人間らしいところもあるけれど、地球の上のことをじゅうぶんに知っていないらしい。だから、ぼくの持っていた南京鼠をガン人が見て非常警報をだしたくらいだ",
"へえーッ、あきれたもんだね。うわッはッはッ",
"はやく町へいってみたいなあ。出発はまだかしらん"
],
[
"そんなにこわい顔をなすっちゃいやですわ。どうぞあなたの席におつきくださいませ",
"はい。しょうちしました。しかしあなたの声はすれどもお姿はさっぱり見えないのですがね",
"そうでございますか。ご不便ですわね。ほほほほ"
],
[
"おお、これは……",
"どうぞよろしく"
],
[
"いや、いずれ見ていただく日がきましょう。それまでお待ちください",
"もう待ちきれませんね。衣装だけのお化けと酒もりしているのはやりきれませんからね",
"ごもっともです。しかし、物事には順序というものがあることを、みなさんもごぞんじでしょう"
],
[
"なにが順序だって……",
"とにかくわたしどもの希望しますのは、みなさんは長途のお疲れもあることとて、すべての心配と危惧をすててとうぶんはゆっくりとお好きなものをたべ、お気にいったところを散歩して、健康を回復していただきましょう。そのうえで、わたしたちはさらに新しいことをお話いたすでありましょう。とにかく、みなさんの生命はぜったいに安全なのでありますから、安心していただきます",
"なぜ、わしらを大切に扱ってくれるのかね。あとで請求書がくるんだろう。こわいね",
"あははは。なかなかきびしいおことばです。そうです。みなさんがじゅうぶんに元気になられたら、わたしどもはみなさんがたに、ぜひ相談にのっていただきたいことがあるのです。それはなんであるか。ただいまは申しません",
"やっぱり、そうだったか。丸々と太ってから、おまえの肉をたべさせろというのだろう"
],
[
"ああ、そうか。きみはハイロ君ですね。サミユル博士のところにいるハイロ君でしょう",
"はっはっはっ。そうですよ。あなたのおいでを待っていたのです",
"どうかしましたか",
"じつは、わたしはおり入ってあなたにおねだりしたいものがあるんです。さっそく申しますが、先日お持ちになっていた白い小さい、目の赤いねずみですな、あれをわたしにゆずっていただけないでしょうか。お待ちください。あのようなめずらしい貴重な生物をば、ただでくださいとは申しません。それと交換に、あなたの欲しいと思っているものをさしあげます",
"ふーむ、あの南京ねずみをねえ",
"あなたが大事にしていらっしゃるものであることは知っています。しかしこの国には、あんなめずらしい生物はいないのです。ぜひともどうぞ、かなえてくださいまし"
],
[
"ハイロ君、もしきみがほしいのなら、ぼくが目にかけて、きみたちの姿や顔が見える特殊の眼鏡かなんかゆずってくれたまえ。それならあれをあげる",
"ははあ、そういう眼鏡ですか",
"ないのかね"
],
[
"それで、隊長。わたしはこのさい、三根夫をつかってどんどん南京ねずみを売りだし、あのふしぎな働きをする変調眼鏡をどんどん買いこみたいと思うのです。どう思われますか",
"それはいいことだ。そういうものがあるなら、われわれはそれを利用して、ガン人に対抗していきたいと思うね",
"では、さっそく、その用意をしましょう。南京ねずみも、大いに繁殖させるよう飼育班を編成いたしましょう"
],
[
"われわれはこの国でいまたいへんよく待遇されているし、またいろいろ観察したところ、ガン人はわれわれよりもずっとすぐれた、科学力その他を持っているように思う。しかしわれわれはこんなところにいつまでも、とまっていることはできない。われわれはできるだけはやい機会にこの国を脱出しなくてはならない。わしは、ずっとまえから、脱出の決心をして、いろいろとその方法を考えていたところだ。きみも、わしの気持はわかってくれるだろう",
"は、もちろんですとも",
"そこで、脱出に必要ないろいろなものを、われわれは手にいれたいのだ。その変調眼鏡もその中の一つだが、そのほかにいろいろ必要なものがある。じつは、何がこの国から脱出するのに必要なのか、その研究もまだじゅうぶんにできていない。これからみんなで手わけして研究しながら、必要な脱出道具を手にいれていきたい。これは表向きにいったんでは、手にはいらないことがわかっている。ついては、これから先、三根夫君の手によって、それをやってもらいたいと思うんだ。どうだね、きみの意見は",
"隊長にあらためて敬意をささげます。そのかたいご決心と、ねん入りなご準備のことをうけたまわって、わたしもうれしいです",
"じゃあ、その方針で進むことにしよう。これは非常に困難な事業だが、われわれは全力をあげて成功させなくてはならないんだ"
],
[
"おれの考えでは、なんとかして天窓をあけることだと思う",
"なんだ、天窓だって。屋根に天窓をあけるのかい",
"そうじゃないよ。怪星ガンの天井に天窓をあけることをいってんのさ",
"ふん、怪星ガンの天井に天窓があけられるのかい。第一、天井とはどこをさしていうのかね",
"わかっているじゃないか。本艇が、このまえ、怪星ガンの捕虜となったときに、ほら、空が四方八方から包まれていったじゃないか。あの包んだしろものが、怪星ガンの天井なんだ。その天井になんとかして、天窓をあける方法はないものかな",
"さあ。どうすればいいかな。とにかくその怪星ガンの天井までのぼらなくちゃならないね。その天井は、そうとう高いところにあるんだろう。どこからのぼっていけばいいか、その研究が先だね",
"そうとう遠いと思うね。飛行機にのっていかないと、あそこまでいきつけないのではないか",
"えっ、飛行機だって。そんなに高いところにあるのかい。何千メートルというほどの上にあるのかい",
"いや、はっきりしたことはわからないが、あのときの感じでは、そう思った",
"ぼくも、天井が何千メートルも高いところにあるという考えにはさんせいだが……"
],
[
"しかし、どうも分らないことがある",
"それは何だね",
"本艇から、あの繋留塔をおりて、街へいくが、本艇と街と、いったいどっちが、怪星ガンの中心に近いのだろうか",
"なんだって",
"つまり、ぼくははじめ、本艇のほうが、怪星ガンの表面に近くて、街は、それより深い所にあると思っていたんだ。ところがこの頃になると、そうではなくて、そのはんたいのように考えられるんだ",
"それはちがうよ。はんたいだね。きみのいうように、街のほうが、本艇よりも、怪星ガンの外側に近いところにあると仮定すると、重力の関係があべこべになるじゃないか。なにしろ足の方向に、重力の中心があるはずだからねえ。だから本艇よりも、街のほうが、怪星ガンの中心に近いのさ",
"いや、それでは、怪星ガンの構造がおかしくなるよ。街の上に、本艇がいまふわりと浮いている空間があって、その外にまた何か怪星ガンの外側の壁があるというのは、おかしいと思うね"
],
[
"じゃあ、そうしますか。しかし、へたをするとたいへんなことになるがなあ",
"大丈夫だよ、ハイロ君。ぼくは、へまなことをやりゃしないよ",
"それでは、お面と服と靴は、わしが用意をしましょう"
],
[
"そのほか、ぼくはこの箱の中に、十ぴきの南京ねずみをいれて持ってきたんだよ。まんいち、途中でやかましくいう者があったら、これを一ぴきずつあげて、きげんをなおしてもらおうと思うんだ。ハイロ君、よろしくやってくれたまえね",
"ああ、それはいいことだ",
"もし、見物がおわるまでに、南京ねずみが残れば、みんなきみにあげますよ",
"おお、それはたいへんけっこうです。それではあなたの仕度をはじめましょう"
],
[
"目のところは、よく合っていますかい",
"ああ、よく合っていますよ。これはありがたい、変調眼鏡もつけておいてくれたのね",
"そうですよ。それがないと、わしたちの仲間がどこにいるのか分らなくて、きっとへまをやるでしょうからね",
"これは便利だ。さあ、でかけよう",
"でかけましょう。留守番のカルカン君にあとをよく頼んできます。そうだ、この南京ねずみのはいっている箱は、わしが持っていってあげましょう",
"あ、それはいいんだ。ぼくが持っていく"
],
[
"ハイロ君。この国にはどこに畑があるのかしら。果物や野菜なんかつくるにはやっぱり畑がいるのでしょう",
"ふふふ。それは、もう一階下ですよ"
],
[
"これは、なあに",
"くたびれが、一ぺんにとれる薬です",
"それはありがたい。しかしこんなものを頭からすっぽりかぶっているから、たべられやしない。どうしたらいいかしらん",
"ははあン。それなら、わしの身体のかげで、そのかぶりものをぬいで、大急ぎでたべなさい",
"なるほど。それじゃあ頼みますよ"
],
[
"三根夫さん。どうです。身体が軽くなったでしょう",
"ああ、ほんとだ。さっきのくたびれが、どこかへいってしまった。よくきく薬だね"
],
[
"もう一階下にあるところは、この国で一番重要な所なんです。ちょっと見るだけで、がまんしてください。何しろ監視の目が多くて、ひどく光っていますからね",
"そこは、何をするところなの、この国の",
"動力室です。つまりこの国を動かしているあらゆる力を発生するところです。操縦室もあります"
],
[
"いまのところ、旧式だけれど原子力エンジンを使っていますがね。そのうちに、もっと能率のよいものに改造する計画があるんですって",
"へえ、原子力エンジンは旧式だというの",
"あれは消極的であるから、能率がよくないし、大きな装置がいる割合いに、動力があまりでてこないといっていますよ",
"そうかなあ。原子力エンジンといえば、すばらしい動力をだすものだがなあ",
"この国の技術は、循環性の強力なエンジンを設計するといっているんです。つまり、だしたものを、またもとへ入れて、まただすという仕掛けですよ。そうなれば、いままでのように原料を使いすてるというやり方は、損だといっています"
],
[
"ハイロ君。この国は宇宙のなかを運行していくがその力はやっぱりあの動力室からでているの",
"そうですとも。この国は、恒星や遊星などとちがって、われわれの手でつくったものですからねえ。宇宙を旅するには、もちろん動力がいるわけです。ですからあの動力室は、この国にとってはひじょうに大切なんです"
],
[
"ハイロ君のいうとおりだ。はやくここをでて、もっと愉快なところを見物させてくれたまえ",
"さあ、愉快なところというと、どこにしましょうか。映画見物か、それとも音楽会へいってみますか",
"いやいや、そんなところは、いつでも入場できる。きょうは、めったに見られないところを見物したいのだよ",
"それでは、どこがいいでしょうね",
"そうだ。ずんずん上へあがって、この国の一番外側へでて見たいね。さあ、そこへつれていってくれたまえ"
],
[
"だって、ぼくはぜひ見物したいのだもの。ねえ、ハイロ君。ぜひつれていってよ。はじめのやくそくで、どこにでも案内してくれるはずだったね",
"でも、あそこへいけば、かならずつかまって、取調べをうけるにきまっているんですからねえ、そうすると、化けの皮がはがれますから、えらいことになりますよ",
"ここに南京ねずみが十ぴき、そっくりそのままになっているから、これを使用すればいいさ。さあ、つれていってよ",
"天蓋見物は、よしたほうが安全なんですがねえ",
"テンガイだって。それは、どこのこと",
"つまり、天蓋ですよ。空よりもずっと上にあって、この国を包んでいるものですよ。その内側には空気がありますが、外側には空気がないんですよ。つまり天蓋が、境になっているんです"
],
[
"ほら天蓋が見えるでしょう。格子の目のようになっていて、その上に何かのっているのが見えませんか",
"ああ、見える。なるほど、あれが天蓋か"
],
[
"あ、お待ちなさい。これから先が危険なんですよ。あの階段の下までいったあとは、ぜったいに、声をださないこと、それから足音をできるだけたてないこと、だまって上まであがり、それから一分間外を見てそれからまただまっておりてくるのですよ。いいですか",
"わかったよ、ハイロ君"
],
[
"まあ、待ってください。この者は、地球人ではなく、やはりガン人なんです。しかし口はきけなくて、そのうえに耳は聞こえないですから――",
"ばかをいうな。ごま化されんぞ。地球人にちがいない。その証拠には、そやつは地球人のことばで二度も叫んだじゃないか。さあ、正体をあらわせ"
],
[
"ばかなことをいうな。おまえさんじゃあるまいし、顔の皮をむいて、下からもう一つ顔をだすなんて、そんな器用なことができるものか。わしはガン人だ。見そこなってもらうまい",
"いや、ガン人なものか、地球人だ。引っ立てて、警備軍へ渡してくれるぞ"
],
[
"わしはガン人として、おまえさんに聞きただすことがある。おまえさんは、何の理由があって立入り禁止の天蓋をうろうろしているのかね",
"うむ。それは……"
],
[
"まだおまえさんに聞くことがある。おまえさんが、あそこへおいてきた長い筒は、あれはいったい何に使うものかね。あれは強力な信号灯のように見えるが、おまえさんは、あんなものを持って、ここで何をしていたのかね",
"ちがう、ちがう。そんな大それたものではない。それに、あれはおれの持ちものではなくて、ここで拾ったものだ"
],
[
"きた!",
"きたな。さあ、たいへん",
"ちえッ。しまった。きさまたちがぐずぐずしているから、こんなへまなことになるんだ"
],
[
"第一級の非常事態というのは、わたしたちがいまこうして住んでいる星が破壊の危険にさらされているということなんです",
"ガン星が破壊するって。それはなぜ破壊するの"
],
[
"ハイロ。ちょっとここに待っていてくれたまえ",
"えッ。どうするんですか三根さん",
"どうするって、大悪人ガスコをあのままにしておけるものか。あいつはスパイを働いているのにちがいない。あいつはさっき発令された非常事態に深い関係を持っているのだ。ね、ほら。あいつの持っていた長い筒ね、あれは信号灯だよ。あれを使って、このガン星の中にもぐりこんでいる陰謀団に合図をしていたのにちがいない。すぐ取押えて、つきだしてやらねばならない"
],
[
"ぐんぐん追いついてくるそうな。こっちはスピードがでない。いずれ追いつかれてしまうよ",
"……また襲われるのか。あの賊星とはもう縁がきれたと思っていたんだがなあ",
"……このまえの賊星プシではないらしいっていうことだぞ。プシ星よりは十数倍も大きな構築星だってよ",
"……分った、わかった。竜骨星座生まれのアドロ彗星だ。もうだめだ。あいつに追っかけられては、もうどうにもならん",
"アドロ彗星の尾に包まれてしまえば、一億五千度の高温に包まれるわけだからぼくたちの身体はもちろん、構築物も工場も何も、みんなたちまちガス体となってしまうだろう。ああ、おそろしい目にあうものだ",
"……そう悲観することはない。ガンマ王もそこはよく研究してたいさくが考えてあるはずだ。ほら、耳をすましてあれを聞け。エンジンの音が強くなったじゃないか。わがガン星もいまずんずんスピードをあげているぞ",
"アドロ彗星に追いつかれるか、うまく逃げられるか。はあ、これはどうなることか。やっぱりアドロ彗星にくわれてしまうんじゃないかなあ",
"けっきょく、ちえくらべさ。ガン人のちえと、アドロ彗星人のちえと、どっちが上かということさ",
"それははっきりしているよ。けたちがいだ。まえからアドロ彗星人は宇宙を支配するだろうといわれているじゃないか"
],
[
"一つでもいい。ハイロ君。きみが乗りたまえ",
"だって、三根夫さんをここに残しておけないよ",
"いいんだ。ぼくはきみのヘリコプターの下にぶらさがっておりる。下街へつくまでぐらい、なんとかがんばりとおすよ",
"息がとまっても、しりませんよ",
"そのときには、降下スピードをすこしゆるめてもらうさ",
"よろしい。それでは早くこれへ……"
],
[
"誰もいないよ。これはいったいどうしたのだろうかね、ハイロ君",
"わたしはおくれてしまったんですよ",
"おくれてしまったとは……",
"市民たちは、すでにめいめいの配置についてしまったのです。わたしは、大変におくれてしまった",
"でも、この町を空っぽにしておくことは危険じゃないかね。やはり警備員をおかないと安心ならないと思うがね",
"いや、こんなところなんか、どうでもいいのですよ。市民たちの多くは、機関区のほうへいってしまったんですよ",
"機関区だって",
"ほら、三根夫さんをはじめに案内していって見せたじゃありませんか。最地階に近く動力室や機関室があったことを忘れましたか",
"ああ、あれか。どうしてみんなあそこへ集まるのかね"
],
[
"へえーッ。地球人は生きていられないというのかい。まるで地獄みたいなところなんだね。そういわれると、ますます聞きたくなる。いったいどこなんだい",
"もうお別れです。さようなら、三根夫さん。あなたはわたしをかわいがって、いろいろおもしろいものをくれました",
"お別れなんて、そんなことをいうと心細くなるよ"
],
[
"なにをいっているんだい、ハイロ君。そんなことよりも配置はどこなんだか、はやく教えたまえ",
"原子熱四百万度管区第十三区です。では三根夫さん。あなたの幸福と平安を祈ります"
],
[
"よく帰ってきてくれた。みんな、どんなに心配していたことか。どこにもけがはなかったかい",
"けがはしなかったですよ。でも、もうおしまいだなと、あきらめたことがあった"
],
[
"ほう。それはすごいや。で、天蓋まであがってみたのかい",
"ハイロ君が生命がけで、そこへ案内してくれました",
"そうか、ハイロがね。かれは途中でミネ君を密告しやしないかと、それを心配していた",
"そんなことはありません。ハイロ君はできるだけのべんぎをはかってくれました。しかしかれは焦熱地獄のような配置へいってしまったんです",
"そうかね。……や、隊長がこられた。ミネ君。テッド隊長が迎えにきてくだすった"
],
[
"隊長。天蓋も写真にうつしてきました。そばへいってみると、大したものですよ。丈夫で、弾力があって、厚いんです。あれにむかっていっても、小さな蠅が蜘蛛の巣にひっかかるようなものです",
"そうでもあろう。だが、われわれは、何としても小さな蠅の力で、その丈夫で弾力のある蜘蛛の巣をつき破る方法を考えださなくちゃならんのだ"
],
[
"ああ、知っているとも。だから、いっそうきみの安否を心配していたんだ。この星が、いまアドロ彗星に追いかけられているというのだろう",
"そうです。どうしてそれがわかりました",
"さっきから、とつぜん本艇の無電通信機が働きだして非常事態放送の電波を捕えたんだ。ふしぎなことだ。われわれが怪星ガンの捕虜になった頃から、無電機は、さっぱり働かなくなっていたんだがね",
"ふしぎですね",
"いろいろふしぎなことがある。いままでは通信がいっさいできなかった僚艇とも電波で通信ができるようになった。そればかりではない。『宇宙の女王』号の通信室とも通話ができるようになった",
"どうしたわけでしょうね",
"わけなんか、さっぱりわからん。とにかくわれわれは、この事態を利用しなくてはならない。きみが持ってかえってくれた資料によって、われわれはなんとしても脱出の方法を考えださなくてはならないのだ。諸君。すぐ仕事をはじめよう。きたまえ"
],
[
"うれしいね、出航用意だとさ",
"出航用意か。いつ聞いても、胸がおどるじゃないか。さあ、いこう",
"出航用意だぞ、出航用意だぞ"
],
[
"先生は、いつそこへ帰られたのですか",
"あのさわぎが起こると、すぐ帰ってきたよ",
"なるほど。よくお帰りになられましたね。ところで、これからどうなさいますか",
"電話では、ちょっとしゃべれないね。とにかく万全の用意をととのえていることだ。死地に落ちてもなげかず、順風に乗ってもゆだんせずだ。ねえ、そうだろう",
"はあ"
],
[
"先生。お目にかかりたいですね。至急にお目にかかって、打合せをしたいと思いますが、いかがでしょう",
"けっこうだ。それでは、あと五分もたったら、わしはきみのところへゆこう",
"えっ。先生がきてくださるのですか。それはありがたいですが、そこをおはなれになってもいいのですか",
"まあ、心配なかろう。それに『宇宙の女王』号は、きみたちのところからゆずってもらいたいものもあるのでねえ。とにかく会ってから話そう"
],
[
"そうです。ガスコです。あいつは、アドロ彗星のまわし者ですって。あいつは、立入り禁止の天蓋の所へでて、もう十何日間も、アドロ彗星と連絡していたのです。アドロ彗星って、ごぞんじでしょうな、テッド博士",
"よく知りませんが、今、我々のほうへ向かってくる宇宙の賊のことですか",
"宇宙の賊! ふうん、それはいい名称だ。あの悪魔星にはうってうけの名称だ。宇宙の賊ですよ、まったく",
"で、ロナルドとスミスは、どうしたのですか"
],
[
"たぶんこんどはアドロ彗星の攻撃から抜けだすことはできないでしょう。しかしわれわれは、最後まで宇宙の賊とたたかう決心です。アドロ彗星には正義感というものがすこしもないのです。強大にはちがいないが、ゆるしておけない巨人です",
"アドロ彗星というのは、天然の彗星なんですか。それともこの怪星ガン――いや、失礼しました、ガンマ星のごとく、人工的に建造された星体なのですか",
"やはり人工的の星です。いまこの近くの宇宙において、人工的自動星がすくなくとも四、五万はとんでいるようです。アドロ彗星は、その中の一番巨大なやつで、銀河の暗黒星雲あたりからでてきたすごいやつです"
],
[
"そこでテッド博士。おり入ってお願いしたいことがあります。それはあなたがた地球人類にお願いして、われわれがこれまで盛りあげてきたガンマ星文化というものを、できるだけたくさん、ここから持っていっていただきたいのです。わしは、それがやがて地球上において、地球人類の手で研究される資料となることをのぞむものです",
"おどろいたご相談です。お引受けする気持はありますが、どうしたらいいか……"
],
[
"ありがとう、テッド君。わたしは感謝のことばを知らない。わたしは、わが乗組員にたいして",
"いや、先生。お礼をおっしゃるよりも、一分間でもはやく燃料をはこぶことですよ。わたしのところからも運搬作業に十名をお貸ししましょう",
"なにから何まで。……しかし、じつは脱出に成功する自信はほとんどないのだがねえ"
],
[
"運と努力ですよ、先生。われわれは天使のようにむじゃきに、そして悪魔のごとく敏捷でなくてはならないのです。うたがいや不安や涙はいまは必要でないのです",
"そうだったね。わたしはきょうはことごとくきみから教えられた。師と弟子の立場はぎゃくになったよ"
],
[
"運搬はやめる。隊員はそれぞれの艇へいそいで引揚げなさい",
"先生、いま運搬をやめては、『宇宙の女王』号はよていした燃料の三分の一くらいしか持っていないことになり、長い航空にはたえませんですよ。もっとがんばりましょう",
"ぼくも、やりますよ。まだ、大丈夫、やれますよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行
初出:「冒険少年」
1948(昭和23)年1月~1949(昭和24)年3月
※「ミネ君」、「三根クン」の表記は、底本において統一されていない。本ファイルも、底本のままとした。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年7月21日公開
2006年7月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "かいせいガン",
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[
[
"古屋君、それじゃ御苦労だが、『信濃町』の午後四時から五時までの下車客を、例の規準にしたがって記録してくれ給え。僕も信濃町を守ることになっているんだ。で僕は男の方を取るから、君は一つ婦人客の方を担任してもらいたいんだ",
"先生、男の方は僕がやります。それで先生には……",
"駄目だよ、男の方は全下車客の八十パーセントも占めているんだから、慣れない君には無理だと思うんだがネ。婦人の方は数も少いうえに種類も少くて、大抵女事務員とか令嬢奥様といった位のところだから、君で充分つとまると思ってそう決定てあるんだ。是非、婦人をひきうけて呉れ給えな"
],
[
"貴女は、所長が殺された頃、お席にいらっしゃいましたか?",
"エエ居ました、ずっと前から……。どうして?"
],
[
"さア、存じませんね",
"硝子扉がガチャンと言ったでしょう",
"ちっとも気がつきませんでしたよ"
],
[
"ミチ子さん(こう呼んでもいいかしらと僕は思った)貴女はあの事件のあった時間、何処へいらっしゃいました",
"あたし? どこに居たっていいじゃないの"
],
[
"あれから一時間も貴女は室にかえって来ませんでしたね。どこへ行っていました?",
"ほほ、あたしは別段怪しかなくってよ。鳥渡外へ出て木蔭を歩いていただけなのよ。だけど、古屋さん、貴方自身は所長さんと嚢の中に入っていたようなもので、手を一寸伸ばせば所長さんの頸に届くでしょうね"
],
[
"古屋さん。いまの言葉は、あたしの頭が考え出したわけじゃないのよ。あたしは、或人がそう言っているのを訊いたのよ",
"誰がそう言ったんです? 僕は……"
],
[
"あの日、貴方がきっと見遁している人があると思いますわ。それはわたくしからは申しあげられませんけれど、ミチ子さんにお聴き遊ばせ、その人はカフス釦をあの二階のところへ落してしまったらしいのです。気をつけていらっしゃい。ミチ子さんがこれからも幾度となく二階へ探しに行くことでしょうから……",
"そのカフス釦は何時なくなったのですか?",
"それは存じません",
"四宮さんじゃないのですか。四宮さんがなにか二階で探しものをしていたのを見たことがあるのですがね、尤も事件のあるずっと三十分も前でしたが",
"まあ、四宮さんが二階で、二階のどこです?",
"階段のうしろだったです。貴女の言われるのは四宮さんじゃないのですか?"
],
[
"これは、古屋君",
"先生、えらい事件が起りましたね"
],
[
"曲馬団の娘って誰のことです。言ってください",
"まアいい。君が冷静であるなら言ってもよいのだが、実は古屋君。所長を殺した犯人はもう解っているのだよ"
],
[
"ウン、それが困った人なんだ、実に気の毒でね、だが今夜僕は一切を検事に報告することにしてある。それまでは言えない",
"どうして貴方は、それを探偵されたのです?"
],
[
"そうだ。あの時間に一階から二階へのぼって行った一人の人間がある。五分ほどすると同じ人間が二階から一階へ降りて行った。そのあとあの事件発覚後までは、誰もあの階段をあがらなかったのだ",
"それは誰です。僕だけに鳥渡教えて下さい、お願いします"
],
[
"四宮さん!",
"……"
],
[
"なにを勘ちがいしているのだ、僕じゃない",
"隠しても駄目よ。あんた、三階の階段にこの本を置いといたでしょう。リューマチの佐和山さん、あの本を踏むと滑り落ちたのよ、なにもかも知っているわ、所長のときのこと、四宮さんのこと"
],
[
"四宮さんがネクタイで絞殺されている!",
"なに、四宮君が……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1930(昭和5)年10月号
入力:田浦亜矢子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001224",
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"作品名読み": "かいだん",
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"初出": "「新青年」博文館、1930(昭和5)年10月号",
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"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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[
[
"船長。いま、事務長から電話がございました。すぐお耳に入れるようにとのいいつけです",
"ああ、そうか"
],
[
"船長さん。この船はどうかしたんですか",
"事務長はなにを見つけたのですか"
],
[
"いや、ただいま、本船の前方十マイルさきの海面に、おびただしいサケの大群がおよいでいることを発見したというんです。どうも非常な数らしいので、本船がそのまま突っきってもいいかどうかと、事務長は聞いてきたんです",
"なんですって、サケの大群ですって。あッはッはッ"
],
[
"オイオイ、船尾へ行ってみようよ、船尾じゃあ、あみを持ちだしたよ。サケをとるつもりらしい",
"そうか、それはおもしろい。早く行って見よう"
],
[
"見える、見える。サケがおよいでいる",
"どれどれ、どこに……"
],
[
"二等運転士。もう、あみの中がサケでいっぱいですぞォ。このへんであみを引かなきゃ、あみが破れて、せっかくのサケがみなにげてしまいますぜ",
"よォし、あみを引けーッ"
],
[
"うん、この文句の次に――よって、はなはだ疲れたれば、われわれはこれより海底に眠らんとす――と書いておけばいいのに",
"よせッ。海底にねむるなんて、えんぎでもない――"
],
[
"――なにしろ、世界一のクイーン・メリー号がどこへ消えたかわからないとあっては、わが大英帝国の国辱問題だ。巨船の行方がわからないうちは、ふたたびロンドンに帰ってこないつもりで、大いに任務をつくしてもらいたい",
"もちろんです、総監閣下。メリー号の竜骨をつかむためには、百ひろの底へもぐってもいいと思っています"
],
[
"これは、大秘密なんだが、聞くところによると、ちかごろ大西洋方面から怪しい電波がときどきとびだしてくるそうだ。何者が打つのか、まだ正体はしかとわからないが、大いに気をつけたがいい",
"怪しい電波ですって。無線電信ですか、無線電話ですか",
"それはどっちともわからないんだ。暗号電信のようでもあり、また人間の声のようでもある。なにしろ海軍当局――いや、某所で受信した度数も少ないので、正体なんかハッキリしていない。とにかくきみのあたまのどこかに、そのことをしまっておいてくれたまえ"
],
[
"ただいま、あなたあてに本国から電信がきていますよ。すぐいっしょに艦長室まで来てください",
"おお、そうですか。よろしい。いま行きます"
],
[
"すぐそこです。いますぐボートがひろいあげますから。そうとうのえものですよ",
"そうとうのえもの?"
],
[
"ああ、あれだな。人間のようだ",
"そうです。人間にちがいありません。しかも少年です。最新式の浮標にはいっている。クイーン・メリー号の名までハッキリついているやつです",
"ええッ、クイーン・メリー号ですって?"
],
[
"さあ、鉄水母とは何物ですかな。うわさによると、鉄水母はこの世界に二つとないふしぎな生物だという話ですが、わたしはそうは思いませんね。やっぱり人間の作ったものにちがいないのですよ。つまり潜水艇だろうと考えています",
"潜水艇?"
],
[
"潜水艇なら、英国海軍がひと目見ればそれとわかるはずじゃありませんか。わたしは、もっとほかのものだったと思いますよ",
"すると、海ぼうずの一種だとおっしゃるのですか",
"いや、まさか海ぼうずなどというばけものだとはいいませんが……"
],
[
"一体、きみは、どうしてメリー号からほうりだされたのかネ",
"それがハッキリおぼえていないのですが、なんでもあれは、船内の夕食がすむかすまぬうちのことでした。――"
],
[
"三千夫君、きみのほかに、浮標をつけて海中に飛びこもうとしていた者はありませんでしたか",
"さあ――"
],
[
"あッ、そうだ。サケ料理のせいかもしれない",
"えッ、サケ料理とは?"
],
[
"サケ料理をたべた人は、皆ねむくなったんじゃないでしょうか",
"さあ――"
],
[
"わたしの考えでは、やはり、これは怪潜水艦を利用する海賊団のしわざだと思うのです",
"海賊団ですって。海賊団がメリー号をうち沈めたのですか",
"いや、海賊団はメリー号の財宝を盗るのが目的だから、沈めないで、どこかへつれていったと思います。もし沈めたとすると漂流物がなければならない。ところが漂流していたものはきみひとりではありませんか。だからメリー号は安全に、どこかの海上を引かれているのだと思います"
],
[
"ああくさい。これはなんのにおいだ",
"どうもひどい霧だ。なにも見えやしない"
],
[
"船長、いま本船はどこを航海しているのか。どうもへんだぞ",
"うむ、たしかにどうも変だ。機関の音はしているが、波の音が聞こえないじゃないか",
"船がすこしもゆれていないぞ。――うわーッ、海はどこかへ行っちまったッ"
],
[
"はい、事務長。だがよわりましたな。わたしはさっきから、急に目が見えなくなってしまったんです。さっき電話のかかってきたときは、ベルが鳴っていたものですから、電話機のあり所も知れたんですが、今はベルが鳴ってくれませんので、ハテ、どこにあることやら――",
"しようがないなァ。物が見えなくては"
],
[
"おいおい、あまり早まっちゃいけないぞ。眼が見えなくなったというが、ほんとうに眼が見えなくなったのかなァ。そうじゃないよ。われわれはいま、濃い霧の中にはいっているだけのことなんだよ",
"濃い霧の中へはいったのですって? そうじゃありませんよ、事務長。目をやられてしまったんですよ。眼が見えなくなっては、もうなんの楽しみがありましょう。わたしはやっぱり海へはいります"
],
[
"マルラ。気を強くもたなけりゃいけない。第一、海へはいりたいといっているが、その海がどこかに行ってしまったらしいんだよ",
"ええッ、海がどうしましたッ",
"海がなくなったらしいんだ。波の音も聞こえなければ、ブツブツというあわの音もしないのだ",
"海がどこかにいってしまうなんて、そ、そんなばかげたことが……"
],
[
"これはぐずぐずしていられない。おいマルラ。どうしても電話機をさがさにゃならんのだ。こっちへ来い。いっしょに手をつないで歩きまわった方が、はやく室内のようすがわかるだろう",
"そりゃいい思いつきだ"
],
[
"クーパーだ。そっちは機関部かネ",
"おお、クーパーの声だッ"
],
[
"おお、クーパー。たいへんなことになった。本船の機関は、いつ爆破するかしれないんだ",
"ええッ"
],
[
"今の今まで、わがメリー号は眼が見えない者ばかりの手で運転されていたのか。そいつは全くあきれたはなしだ",
"ねえ、事務長。どうして皆がそろいもそろって眼が見えなくなったんだろうネ",
"どうもよくわからない。実はこっちも皆、眼が見えないんだ。わたしやマルラはもちろん、船客たちも眼が見えないといってさわいでいる。しかしほんとうに眼が見えなくなったのか、それともひどい濃霧につつまれたのか、それはどっちかわからない",
"濃霧じゃないと思うね"
],
[
"でも、すこし、あかりは見えるような気がするんだよ。物の形はいっこうに見えないがネ。なんだかこう、豆スープの中にはいったように、まッ黄いろなあかるさを感じるんだが……",
"こっちはまっくらさ"
],
[
"いや、しかられてもしかたがない。しかし、ぼくはもう力がないんだ",
"力がないなんてことはないよ。きかなくなったのは、たかが眼だけのことじゃないか。ほかにまだ手もあり足もあり、脳もあれば耳もあり、鼻もある。――そうだ、きみのところは何かくさくはないか"
],
[
"くさい? いや、別になんにもくさくはないが、それがどうしたのかネ",
"なに、そっちはくさくないのか。それはふしぎだ。船室や甲板一たいには異様な臭気がただよっていて、じつにへいこうしているのだ。機関部がくさくないとは全くふしぎだ。するとこれは、やっぱり海霧につつまれているとしか思えない。だが、そのガスも尋常いちようのガスではない――"
],
[
"おう。パイクソン。こっちはクーパーだが、本船の操縦はうまくいっているかネ",
"とうとうかぎつけたネ。じつはいま船長とふたりで、ちえをしぼっているところだ。たいへんなことが起こったよ",
"たいへんはしょうちしているよ。そっちの連中も目が見えないんだろう",
"そうだ。ほとんど目の見えない連中ばかりだ",
"ほとんどというと――"
],
[
"――誰か眼の見えるのがいるかネ",
"うむ、少し眼の見えるやつがいる。そいつはぼくだ。ぼくひとりなんだ",
"ええッ、パイクソン、おまえだけ眼が見えるのか。それは意外だ。どうしておまえだけ眼が見えるのか",
"それはよくわからない。ただぼくは夕食中、きゅうに気持がわるくなって、自室にひきとったんだ。そして急激な嘔吐に下痢だ。半死半生のていでベッドにもぐりこんでいたが、それから後、元気をとりかえして、いま船橋に立っているが、船中の眼が見えないさわぎのうちに、ぼくだけは少し見えるので意外に思っているわけさ"
],
[
"で、航路は――",
"その航路だが、要するにめちゃくちゃだ。前方がまったく見えない。昼夜時計によると、時刻は正に午前九時なんだが、さっぱり前方が見えない。どこを向いても、ただまっ黄いろな空間があるばかりだ。クーパー君。おどろいてはいけないよ。海面すら見えないのだ",
"ああ、海がどこかへ行ってしまったのだネ",
"海がどこかへ行ってしまった? まあ、そうかも知れない。しかし船のスクリューには、ちゃんと手ごたえがあるんだよ。船は水のようなものの上に浮いていて、そのなかを、たしかにスクリューがまわっているんだ。だから、本船はすくなくとも時速三十ノットで前進していきそうなものなんだが、メーターをしらべてみると、ジッととまっているとしか考えられない。こんなへんなことがあるだろうか"
],
[
"――で、本船の位置は?",
"全くわからない。とまっていることはわかるが、自記航路計がくるってしまって、どの地点にいるのだかわからないのだ。やがて夜にでもなって北斗星が出てくれば、六分儀でもって測定できるだろうがネ",
"そいつはよわったなァ",
"全くよわった。ぼくはなんだか夢の中にいるような気がする。しかもクイーン・メリー号ごと夢の国に持っていかれたような気が……"
],
[
"マッチは?",
"おお、マッチもあるぞ"
],
[
"おやッ、マルラ! そこにいたのか",
"おやッ、事務長ですね。わたしはここにいますが、わたしはまた、あなたがかけ出したんだとばかり思っていたが、今のはそうじゃなかったのですか",
"もちろん、ぼくじゃない"
],
[
"それがどうしたんだ",
"いや、クーパー君。そういうへんてこなやつが、さっきからウロウロしているんだ。そして、しきりにギャアギャアと悲鳴のようなものをあげているんだが、それがきまりきって、エンジンの焼けている附近で起こるんだ。ぼくは思うに、そのふしぎな生物は、そこんところの焼け鉄管に接触して、いちいちやけどをしているのだと思うよ。全くちえのたりないやつだ。きっと海にすんでいるけものじゃないかと思うよ"
],
[
"そうか。きみも獣説か! するとわれわれは今、その怪獣のすんでいる洞穴のなかにいるんだろうか",
"そうかもしれない。それでぼくは……"
],
[
"だが、ぼくの命令のないうちは、どんなことがあっても、うっちゃならぬぞ",
"え、大丈夫です。でもこれさえあれば、どんなやつがきたって――"
],
[
"よォし、ではぼくが引き受けよう。ぼくが博士と電気主任のふたりを連れて、きみの室に行こうじゃないか",
"うん、それはありがたい。至急、たのむ",
"じゃあ、船長とぼくとは、これから司令塔を出ていく。そして三十分以内に、ふたりをつれてきみの室にいきつくからネ",
"よろしくたのむ。だがきみの二つの眼が、このメリー号に乗り組んでいる全員が持っているただ二つの眼だということをわすれずに大事にしてくれたまえ"
],
[
"スミスのおじさん。まだ始めないの。ぼく待ちどおしいんだがなァ",
"ウン、いよいよ始めようと思っているところだ。ああ、ちょうどいい。むこうから船長が来られたから、話してみよう"
],
[
"わたしに名案が一つあるんですが、やって見てくれませんか",
"ほう、それはどんなことです",
"それはですね"
],
[
"きょう一日、乗組員総出で、このへんで魚とり大会をしたいのです。わたしが懸賞金を出しますよ",
"懸賞? それは面白い。わしも寄附してもいい。一等はどうして決めますかナ",
"それはぼくが審査しますよ",
"じゃ、スミスさんが審判長というわけですね。みんなくさっているおりから、これはいい思いつきだ"
],
[
"なァに、スズキなんかいくらつってみてもだめさ。いくらでもいるスズキなんか、入賞するはずがないよ。それよりか、めずらしい魚をつった方が勝ちなんだ。おれを見ろ。コロライス・サイラ――日本名でサンマというめずらしい魚をつったぞ",
"サンマなんて、めずらしくないや"
],
[
"どうじゃネ。何か見つかったらしいが",
"ええ、船長、これをごらんなさい"
],
[
"とにかくこれで見ますと、メリー号の乗組員はまだ生きていると思われます。また、乗組員はなにかの災難にあって、それからのがれようとくわだてていることもわかりました。これを見ると、かれらはこの布テープに印刷をし、それをまるめた上で、何か魚のたべそうなえさの中に入れ、それを海中にまいて、魚がそのえさもろとも通信文を胃ぶくろにおさめるよう、そうすれば、そのテープがどこかで発見されるだろうと考えついたのです。こまったあげくのちえとはいえ、これは実におもしろい通信方法です",
"うむ、いや名探偵じゃ。では、さっそくこれを英本国へ通達しなければならぬ"
],
[
"うん、見えるぞ見えるぞ。なんだか、眼玉のようなものが二つ、ぐるぐるまわっているぞ",
"おや、大砲みたいなものが出てきたぞ、あぶないッ"
],
[
"あッ、あんなところへひっかかったぞ",
"何だ、何だろう、あれは――"
],
[
"うむ、これはめずらしい通信なわだ。むかしスペインの海賊が使ったものだというが、どれ、そのおもりをひらいてみたまえ",
"えッ、スペインの海賊ですって"
],
[
"いや、これでわかったも同然ですよ。あの鉄水母というのは、やはり海賊船なのですよ。それも近代的武器をもった潜水艦なのにちがいありません。ぼくらの船がまぢかにせまったので、それに来られてはこまるからというので、このおどかしの手紙で、われわれを退却させるつもりなんですよ。だまされてはいけません",
"そうだろうか。ぼくはむしろ反対の考えをもっている。好意的にわれわれに注意をしてくれたのじゃと思う。だから一たん船をかえして、パリ大学に滞在中の長良川博士にそうだんした方がいいと思う。世界人類の大なる不幸になるというではないか。これは一大事じゃ",
"船長、せっかくここまで追いつめたのに、退却するなんて――",
"とにかく長良川博士といえば有名な宇宙学者ではないか。博士の意見を聞いてからにしよう",
"いや、わたしはいやだ。ではルゾン号を去って英国海軍に救いをもとめたい。そういうふうに手はいをして下さい"
],
[
"おお、ルゾン号の船長さんですか。大学では、今こっちかられんらくしようと思っていたところでしたよ。大西洋は今、噴火孔の上にあるようなものですよ",
"えッ"
],
[
"いや船長。火山ぐらいなら、まだそうおどろくにあたらないのです",
"火山でもないとすると――では、海底地震でもが予知されたのですか",
"海底地震でもありません",
"では一たいどうしたというのです。早く教えていただきたい",
"いやどうもすみません、エバン船長さん。申しあげるについても、実はあまりにおどろくべきことなので、いいだすには勇気がいったのです。もう、ちゅうちょすることなくお話しましょう。おどろいてはいけませんよ。じつは大西洋の底に、恐るべき生物がすんでいることがたしかめられたのです",
"恐るべき生物というと、クジラとかサメみたいなものですか",
"いやいや、そんな下等なものではありません。ちえのていどからいって、わが人類にまさるとも、よりおとるとは考えられない恐るべきかしこい生物なのです",
"おどろきましたね。そんなものが、本船のま下にすんでいるのですか"
],
[
"そいつはやはり人間の仲間なんですか",
"さあ、その恐るべき海底生物が、人類であるかどうかは、まだはっきりわかっていません。いずれ研究をかさねていくうちにわかってくることでしょうが。――とにかくその海底生物のいることは、月の表面に起こるふしぎな崩壊現象からわかったのです",
"えッ、なんです。その月の表面に起こるふしぎな崩壊現象というのは",
"それはですね。あの空気も水もない月の表面に、近年みょうな崩壊現象がおこるのです。それは電子望遠鏡によってあきらかにされたことなんですが、たとえばコペルニクス山という環状山がありますが、その山の高さが、ここ一カ年のうちにすこしずつひくくなって、わたしの観察したところによると、この一年の間に百五十メートルもひくくなっています",
"博士、お話中ですが、まさか月の中にある山がひくくなったなんていうことが、こっちからわかるはずがないじゃありませんか",
"いや、それはわけのないことです。その環状山が太陽の光に照らされて、月の表面に長いかげをおとします。そのかげの長さをはかってみればいいのです。あとは月と地球の距離がわかっており、また地球から影の両端を見たときの角度がわかりますから、あとは三角法を使って楽に計算できるのです",
"なるほど、なるほど"
],
[
"そのコペルニクス山の崩壊度を、わたしのヨットで地球を一まわりしながら観測してまわってみました。ところがね、その結果として、大西洋から月へむかって電波のはやさでもって不可解な放射線が発射されているため、それでその崩壊がおこなわれていることがしょうめいできたのです。わかりますかね",
"いや、なんといってよいか、実におどろくべきことですね。それからどうしました",
"それからわたしは、注意をもっぱら大西洋にむけて、パリ大学から発射する電波の力をかり、研究をつづけてみましたところ、いま申した不可解な放射線――これをかりにZ線とよんでおきましょう。――その線を出す場所を十五カ所も海図の上で発見したのです。ところが、その十五カ所の線放射地点というのが、じつに恐ろしい事実を暗示しているのです",
"恐ろしい事実? それはなんです。まったく恐ろしいことです",
"戦慄すべき大暗示です。いいですか。その十五カ所の放射地点をたどって、これらを線でむすびあわせていきますと、大西洋のまんなかに一つみょうな形が出来あがりますが、その形がたいへんなのです",
"ああ、博士。あなたはもしや昔物語に伝えられるあの恐ろしい伝説を、わたしたちに信じさせようとなさるのではありますまいな",
"エバン船長。わたしはほんとうのことをお知らせするために、あなたをおどろかすのもまたやむをえないことだと思っていますよ。きっと今、あなたはいまから九千年前、大地震のために大西洋の波の下に陥没し去ったアトランティス大陸のことを思い出されたのでしょう。あのアトランティス大陸! 九千年前の大文明! 古い文化をほこるエジプトもギリシャも中国も、アトランティス大陸に花と咲き出でた大文化には、足もとへもよれなかったという、そのアトランティス!"
],
[
"今から一時間ほど前、わたしはこのパリ大学の研究室で、わたしの発見した十五カ所のZ線放射所を海図の上につらねてみましたところ、なんとおどろくではありませんか、それは、かの伝説にのこるとおりのアトランティス大陸の形になったのです。ああわたしたち学者は、つねに冷静でなければなりません。しかし、恐るべき暗号について、どうして戦慄しないでいられましょう!",
"……"
],
[
"スミスのおじさん。長良川博士のことをそんなに笑うなんて失礼じゃありませんか",
"なあに、坊や。おまえも聞いたろうが、およそ世の中には常識というものがあるんだ",
"でも博士は有名な学者です。でたらめをいうはずはないじゃありませんか",
"ほほう。きみにもやっぱり病気がうつったらしいね。九千年もまえに海底に大陸が沈んでしまったのだから、そのときに生きていた人間だって、馬だって牛だって、みなおぼれ死にをして全部死にたえたにきまっているじゃないか。博士にはそんな常識的な判断さえつかないんだ。気のどくをとおりこしておかしいじゃないか",
"じゃ、おじさんは、ぼくらのクイーン・メリー号が行方不明になって、どこでどうしているというんですか",
"海賊船にとらえられているんだよ。ほら、さっき本船にスペインの海賊が使ったという信号なわをなげた『鉄の水母』なんてえやつがいるだろう。あれがメリー号をぬすんだ一味にちがいない。今にそれを英国海軍がはっきりさせてくれるにちがいない"
],
[
"ラスキン司令の好意で、わたしはこれからわが飛行機にのりこむことにします。どうもながながおせわになってありがとうございました",
"やあ、それは――"
],
[
"こっちはラスキン大尉だ。スミス警部がよんでいるのかね",
"そうです。こっちはスミスですよ"
],
[
"いま、れいの『鉄の水母』が本船の左舷の方に顔をだしていますよ。あの海賊船を、すぐ爆撃して下さい。そうでないと『鉄の水母』がこっちを攻撃するといっていますよ",
"なに、こっちを攻撃するというのか。それは、けしからん。よろしい。そういうことになれば、こんどは徹底的にやっつけてしまうぞ"
],
[
"うん、坊や、左舷を見ておいで。いますばらしい航空ページェントが見られるから。それも世界にほこる英国海軍の見事なうでまえが見られるんだぞ。さあ、そっちへ行って、ぼくもいっしょに高見の見物といこう",
"左舷というと、いま『鉄の水母』が見えている方だねえ、おじさん",
"うん、その『鉄の水母』が、これから撃沈されて、ぶくぶくあわをふくところが、見られるんだよ",
"えっ、それはかわいそうだよ。おじさん。だって『鉄の水母』に乗っている『黄色の眼』は、世界人類のため、むちゃをしちゃいけないって、ぼくたちをしきりになだめているんでしょう。海賊船なら、世界人類のためなんていやしませんよ",
"そうじゃない。『鉄の水母』は海賊船にきまっているんだ。ああいうのを大西洋上に生かしておいては、わが大英帝国の恥なんだ"
],
[
"おや、あれえ、へんだぞ。おい、あの、紫色に光るのはなんだ",
"どれどれ。紫色に光るてえのは",
"ほらほら、あの爆撃のところから、ずっと右の方にいったところだよ",
"ああっ、あれかい、あの光りだな"
],
[
"えッ、『鉄の水母』はいまの爆撃で、沈んでしまったのではないのですか",
"どうしてどうして、爆弾が落ちるのを待っているような『鉄の水母』ではないわい。かわいそうに、やられたかなと思った瞬間、ずぶりと水の中にもぐって、今はあのむらさきの光りが出ている海面下に爆弾をさけているのじゃ"
],
[
"海賊船は、わが戦隊のもっていない奇襲兵器でもって攻撃してきた。このままではだめだ。われわれは敵をあなどりすぎていた",
"断念するというのですか。そんなことはない。まだ機関銃があるでしょう",
"なにがあっても、もうだめだ。一たん本国に引き上げるよりほかはない"
],
[
"いや、まだ失望するのははやいよ。そのうちに、どこからか、たすけに来てくれるにちがいない。なにしろ、ぼくはたしかにあの手紙を五百つくって前後五回にわたって、船外に投げたんだから、そのうちのいくつかがとどかなければならんと思うんだが……",
"うん、でも、あれからもう五日もたったからなあ",
"悲観するのは、まだ早い",
"悲観はしていないが、なんとかしてたすかる次ぎの方法を考え出さねば船客に申しわけない"
],
[
"おお、マルラ。見える見える。そこに、つったっているのはおまえじゃないか",
"ああ、事務長。わたしも見えますよ。あなたはパイプをくわえておいでですね。ああ、ありがたい、眼が見えだすなんて"
],
[
"おや、やっぱり海がないじゃないか",
"えっ、海がないとは、――"
],
[
"うむ、奇怪なこともあればあるものだ。ねえ、パイクソン。ここから二百メートルほどむこうを双眼鏡でよくみてごらん。たしかにかべみたいなものが見える。もっともそのかべは透明なんだが、それでもかべであることにはまちがいない",
"なに、透明のかべが見えるって。どれ、――"
],
[
"おお、クーパー。ぼくたちはとんでもないところへ来ているぞ。海のない、透明なかべの中! ここは天国か地獄かのどっちかではないかね",
"うむ、すくなくとも天国ではない。なぜって、こんなくさい天国があるとは、聖書に書いてなかったからね"
],
[
"ああ、これが天国か地獄かのどっちかであった方が、どの位いいかしれないよ。もしもこれが、そのどっちでもなくて、やっぱり生きている世界のつづきだったとしたら、このあまりのふしぎさは、ぼくの気を変にしてしまうだろう",
"……"
],
[
"ねえ、パイクソン。ぼくたちは、しばらく、おどろくことをやめようじゃないか",
"おどろくことをやめるって、どうするんだ",
"うむ。われわれは、たいへんふしぎな場所へ来ているようだが、今いちいちおどろいたんでは、いつまでたっても、ここから生きかえる方法が見つからないだろう。もうこれからはおどろくのをやめて、何とかして抜けだす方法を考えることにしよう",
"うむ、それはいいことをいってくれた。じゃぼくも、これからは何を見ようとおどろかないぞ"
],
[
"じゃあ、パイクソン。一つ考えてくれ。あの透明なかべは、いったいなんだろう",
"さあ、なんだか一こうわからないが、とにかくわれわれはへんなところにとじこめられていることはたしかだ。よおし、あのかべがなんであるか、それをためすのにいい方法がある",
"いい方法というと",
"うん、ぼくがこれからやることを見ていたまえ"
],
[
"おお、そんなものでどうするんだ",
"これであの透明なかべをうってみるんだ。どんな手ごたえがあるか、それを見ようじゃないか",
"おい、パイクソン。それはいい考えだとは思うが、すこし手あらすぎはしないかな"
],
[
"おや、どうもなっていないぜ",
"ガラスまどのようにこわれるかと思ったのに、どこも、こわれてやしない",
"なんと、はりあいのないこと!"
],
[
"事務長。逆襲だ",
"えっ、逆襲?",
"怪物が逆襲してきた。こんどは猛烈なかずだ。あの透明かべの下から、ぞろぞろはいこんでくるのだ。甲板に出ていちゃ危険だ。船室へたてこもった方がいい",
"うむ、じゃ引っこもう。マルラ、早く船室にはいれ"
],
[
"これをごらんなさい。潜望鏡が波間に浮いていますよ",
"なに潜望鏡が――"
],
[
"おお、長良川博士さん。えらいことになりました。むこうにいるあの潜水艇は、かねてお話しておいた『鉄水母』なんですよ",
"ほう、『鉄水母』とはあれですか。これはめずらしい。そんなら、もっとよく見るんじゃった"
],
[
"ほほう、それは一たいなにごとですかい",
"こういうのです。――むこうの艇に三人ばかり乗せる余裕があるから、わしをはじめ、長良川博士、ほかに、たれかもうひとりというところで、こっちへ乗りうつらないかというのです。そうすれば、メリー号の沈んでいる海底へ案内するというのです"
],
[
"ええっ、あなたはおいでになりますか",
"あなたはどうじゃの",
"わしはだめです。船長が船を下りることはゆるされていません"
],
[
"やはりあなたは学者ですなあ。学問のためには危険をかえりみられない",
"では、あとのふたりはだれにするかなあ"
],
[
"どうも見るからに、あいつはみにくいかっこうをしているじゃないか。おお、気持がわるい",
"なんだか体の方々が、つっぱっていて、節のところが動くんだ。われわれみたいに、どこでも自由に動かないとみえる。どう考えても下等動物だね",
"あのふさふさしているのは、触覚のある鞭毛かと思ってはじめはびっくりしたが、そうじゃない。あれは何の用もしないものさ。いやどうもばけものみたいだなあ"
],
[
"いや、どうもしようがないのですよ、あの子供たちは",
"はーん、あれは子供なんですか",
"そうです、子供です。まだ体の発育期でしてな、礼儀もなんにも教えてないんです",
"ははあ、この国でもやはり礼儀なんてものを教えるのですか",
"もちろんです。世の中はすべては礼儀から出発しなければ、うまくおさまりません。――ところで、王さまアトラ殿下が、ぜひあなたにお会いして、いろいろうかがいたいとおっしゃるのです。むこうへ行って、お話をきかせてくれませんか"
],
[
"そんなことはありません。失礼のないように十分に心がけます。わたし――外務大臣ランタの名誉にかけてちかいます",
"そうですか。そんならいいのです"
],
[
"やあ、わたしがクーパーです。わたしをおまねきくだすって、たいへん光栄です。ですが、まずごあいさつよりも前に申しあげなければならんことは、あなたがたがクイーン・メリー号を暴力によっていつまでもこんなところへ監禁していることです。これは一体どうしたことですか。責任のある弁明をうかがいたい。さもないと、メリー号をあずかっているわたしとして、英国へ帰ってから申し開きができません",
"はっはっはっ。うるさいことを申しよる。そんなに目をとんがらかさないで、ほがらかに面白く遊んでいったらどうか。きみたちは、どうも乱暴でいかんね",
"乱暴? 乱暴とは、どっちのことです。大西洋をおだやかに航海しているわがクイーン・メリー号をこんなところへひっぱりこむなんて、怪しからんではありませんか。一体ここはどこなんです"
],
[
"あっはっはっ。やはりあなたがたは人類のえらいことを知らないんだ。人類はあなたがたよりはずっと賢明だ。海の上を走ることもできるし、空をとぶこともできる",
"ああ、あの空をとぶというか。ときどき妙なものが空中を飛んでいるのが見えるが、あれもきみたちの仲間の仕業か",
"そうですとも"
],
[
"まだおどろくことがたくさんありますぜ。陸の上には自動車が走る――",
"陸というと、――",
"え、陸を知らないんですか。つまり、あなたがたがこうして住んでいるような場所が、海の上に高くつきだしているのが陸です。それはたいへん広い",
"うむ、どのくらい広いのかね",
"どのくらい広いといっても、ちょっといえません",
"この広場の何倍ぐらいあるかね",
"この広場の何倍? さあ何倍というか、百万倍の百万倍のそのまた百万倍の百万倍ぐらいはありますよ。人間のかずだって大したものです。ざっとかんじょうしても五百億人ぐらいはあるですぞ。それからまた――"
],
[
"た、たいへんです。失踪されていたロロー王子さまがおかえりになりました。海底第一門のところへ、いまおかえりになりました",
"なに、ロロー王子が帰ってきたというのか。それはおどろいた。早くこっちへ来いといえ。あいつはながい間、一体なにをしていたのだろうか。おい、早くしろ"
],
[
"それが王さま、そのなんでございます。お客さまを三人つれてこられたのでございまして――",
"客をつれてきた。何者をつれてきたのか",
"やっぱり人間らしく見えます。大きいのがふたりに、小さいのがひとりです",
"なんだ、今ごろ人間を連れてきてもだめだ。こっちの方がすっかりおさきにやっているわい。ロローに、そういえ。おまえなんか、もう帰ってこなくともいいって"
],
[
"そうか、おまえをはじめ臣民一同、王子の勇敢な旅行をほめているというか。では、それにめんじて入国をゆるすとしよう。ロローにすぐこっちへ来いといえ。人間も連れてくるようにいいつけるんだぞ",
"ははっ、ありがたいしあわせでございます"
],
[
"おお、やっぱり三千夫か。よく来てくれた。おまえにあえて、ぼく――ぼくはどんなにかうれしいぞ。お前は急に船上からすがたを消したが、一体どうしていたんだ",
"ぼくですか。ぼくは気がついてみると、海上を漂流していたんです。そしてフランス汽船ルゾン号にたすけられたんです。そうです、クーパー事務長。そのルゾン号はいまもクイーン・メリー号を捜索のために、ちょうどこの真上の洋上をただよっているのですよ",
"ええっ、この真上の洋上というのかい。一体ここはどこだろうねえ"
],
[
"クーパー事務長、あなたはまだ知らないのですか。ここは大西洋の海底ですよ",
"大西洋の海底だって? いや、そんなばかなことがあるものかね。海底だというが、海底なら海水につかっていなければならない。ところがここには空気があるばかりで、海水なんかどこにも見えないよ。海底ではない",
"そうじゃないですよ、クーパーさん。海水はないけれど、大西洋の海底にはちがいないのです。海底のそのまた底に、こうしたアトランタという国があるのです。もっともこの国の生物は、海水にすんでいた動物から進化したので、軟体動物みたいな形をしていますが、いま、海底大陸の空気洞の中にはいって、空気をすって生きているのです",
"なんだかしらないが、おまえもなかなか学者みたいな口をきくようになったね",
"え、クーパー事務長。それは海底大陸の研究大家である長良川博士に教わったのですよ。ぼくは長良川博士とごいっしょにここへやってきたのです。それからパリ大学のドン助教授もいっしょですよ。ほら、あれをごらんなさい"
],
[
"クーパー事務長。こっちが長良川博士、こっちがドン助教授です",
"ああ、そうか、どうかよろしく、どうかよろしく"
],
[
"人命ですか。――人命は大部分安全ですが、中にはこのばけものたちと格闘を始めて、殺られた者もいくらかいるようです",
"うむ、大部分助かっていたとは何よりです。あなたがたの本国では、たいへん心配しているようですから、あなたがたは、すぐに本国へ帰られた方がいい",
"そ、そのとおりです。博士――あのう長良川博士とおっしゃいましたね。どうかわれわれクイーン・メリー号の一同をお助けください"
],
[
"いや、そう心配をしないでもいいですよ。わたしたちがここへやってきた第一の使命として、クイーン・メリー号の船体と乗員とを安全にもとへもどすということを談じこむ決心です",
"博士、それはほんとうですか。ほんとうにそうしてくださるのですか",
"もちろんですとも。このような海底大陸への監禁がながくつづくと、メリー号の船客にも乗員にも病人がたくさんでてくるにちがいない。わたしはこれから行って、海底超人たちに、あなたがたの釈放を交渉してきましょう",
"博士、どうかおねがいします。ぜひお力を貸していただきたい"
],
[
"おお、ロロー殿下。あなたをさがしていたところです。かねて艇内でお話しましたように、クイーン・メリー号と乗員たちを、すぐに海上へおもどしねがいたいですな",
"博士、そのことですよ。父アトラ王をはじめ、外務大臣のランタ以下、皆々、なかなかそれを承知しません。あのような大じかけなおとしあなをつくってせっかく捕えたクイーン・メリー号を、このままはなすのはいやだというのです",
"それはこまる。メリー号を解放して下さらないときは、きわめて心配な未来が考えられますよ。艇内でも申したように、この海底大陸対地上大陸の大戦争をひきおこすところまでいくにちがいありません。それはおたがいさまに、得のいくことではないのです。大殺戮と大乱費とのおこなわれる前に、われわれは理解しあわなければなりません。そのためには、メリー号を一時間もはやく海上へもどすことがいいのです",
"博士、こまったことに、わがアトランタニアンは、地上人類の恐るべきことをまだはっきり知らないのです",
"相手が恐ろしいということよりも、正義感からいって、さっそく、もとへもどしてやらねばなりませぬ。そうではありませんか"
],
[
"どう話はつきましたか",
"これからすぐ、クイーン・メリー号を海上にもどします。船室も乗員も皆、もとのようにもどします",
"それはいいことです。わたしも安心しました",
"だが博士、それには一つの条件があるのですが……"
],
[
"なに、一つの条件があるというのですか、その条件というのは何です",
"これはつまり――つまり、わたしが『鉄水母』でもってお連れしたあなたがた三人には、むこう一年間この国に滞在していただきたいということです",
"むこう一年間の滞在をせよというのですか"
],
[
"わたしはやはりこの海底大陸にこの一年間を暮らします。約束はやっぱり約束ですからなあ",
"約束といっても、人間同士の約束ではなく、相手はばけものじゃありませんか。博士、ぼくたちといっしょに逃げることにしてください",
"いや、なりません。相手が人間でないばけものであればこそ、わたしたちは細心の注意をし、そして、約束をまもらねばならない。さもないときは、――"
],
[
"さもないときは――どうしたというのですか",
"クーパーさん。どうしてもここは平和的解決が必要ですぞ。わたしは人類の幸福のためにそういうのです",
"わかりました。博士、あなたは、あまりにこのばけものを恐れすぎているのです。しかしわが英国の空海軍はすばらしく強い"
],
[
"長良川博士。父は、あなたがたが同意してくだすったので、すこぶるまんぞくの意を表しました。それでは、わたしどもはすぐ用意にかかって、今から四時間後には、メリー号を大西洋上におもどしするようにはからいます",
"ロロー殿下、承知しました。今から四時間のちというと――"
],
[
"わたしたちがついていかないでも、あなたたちは海上へかえれるでしょうがな",
"そういわないで、ぜひいっしょについてきてください。ロロー君にも、よろしくそれをたのんでおきましたから。ああ、ちょうどいい。ロロー君もあなたをむかえにきたようですよ"
],
[
"長良川博士。それから、ドンさんも三千夫君も、メリー号を海上にもどすところを見にいきましょうよ",
"わたしはここにいたいのですが",
"なぜです"
],
[
"わたしたちは一刻もはやく海底大陸の研究をしたいのです",
"いや博士。わたしは鉄水母にのり、メリー号について海上までいかなければなりません。するとあなたがたを後にのこしておくことは心配ですから――はっはっはっ、心配するほどのこともありませんが、万一、物なれないわが住民たちが無礼を働くと申しわけないので、ぜひ海上までわたしといっしょにいってください。わたしといっしょにいれば、ぜったいに安全ですから"
],
[
"だが、わしは心配じゃよ。なるほど今、船はなんだか、ごとんと音をたてて持ちあがったようじゃが、ほんとうに、もとの大西洋にもどれるのかのう。きみ、ちょっとそとを見てくれぬか",
"そとは見てはならない約束なんです。が、待っていらっしゃい"
],
[
"そうか。それでは空軍へすぐさま、こう伝えろ。海底超人の王子ロローなるものが、いま本船の左舷後方にいるから俘虜にするように、と打電するんだ。すぐやるんだぞ",
"心得ました"
],
[
"おい、へんなことになってきたぞ。どうしようか",
"フネをかえしてやったのに、なんだかおだやかでないことをやるじゃないか",
"ロロー殿下に相談してみよう。その上でわれわれの態度をはっきりきめようではないか"
],
[
"しかし、よわったことに機上から見ると、その怪物どもは甲板にうようよしているばかりで、逃げださないのですよ。このままではまさか爆撃するわけにもいきませんね",
"しかし、ラスキン大尉。なんとかして、この怪物どもを甲板から追っぱらってください",
"じゃ、やむをえません。非常手段を用いましょう",
"えっ、非常手段。空中から本船を爆撃するのじゃありますまいね。そんなことをすると――",
"もちろんせっかくもどってきたメリー号を破壊するようなことはしませんよ。催涙液を空中からまきます",
"催涙液? ああ、あの液のことですね",
"そうです。ですから船員や乗客たちは、すこしもはやく船内に避難するようにいってください。そして戸などをかたくとじて、液やその怪物が船内にはいりこまないようにするんですね。よろしいか",
"ああ、よくわかりました。ではあと十分間に、総員を船内に避難させます"
],
[
"クイーン・メリー号が無事にかえってくるなんて、まるで死人が棺の中に生きかえったようなものだね",
"そうだ、それよりも、もっともっと神秘な奇蹟だ。メリー号がロンドンにかえってくると、これはまた見物人で、たいへんなさわぎがはじまるよ",
"うん、わしのような老人は、ニュース映画と放送とでがまんしなければならないだろうが、これで、もう五年も若ければ、人をおしのけても埠頭へいって見るんだがなあ"
],
[
"痛い。どうかしてくれ",
"殺してくれ。その方がましだ"
],
[
"事務長、ラスキン大尉からの無線電話です",
"なに、ラスキン大尉から"
],
[
"やあ、クーパーさん。怪潜水艇――『鉄水母』とかいいましたね。あれをとうとう捕獲しましたよ",
"えっ、鉄水母をつかまえましたか。こいつはたいへんなおてがらです。しかし、よくつかまりましたね",
"わたしは、わが派遣潜水艦に連絡して、捕獲してもらったのです。ところがこの『鉄水母』ですが、捕獲したものの、このような場所でもあり、場合でもあり、このまま、番をしていることができないから、わが艦隊の手で『鉄水母』を爆沈したいというのです。これについて、なにか意見がありますか"
],
[
"大尉、そりゃいけませんよ。あの鉄水母には、わたしたちがこうして海上に出られるように努力してくれた長良川博士が乗っているんです。博士をまず助けてください。それから海底超人国の王子ロロー殿下というのも乗っていますから、あれを生けどっておけば、これからのち海底大陸からおびやかされずにすむとおもいますよ。とにかく乗員を助けた上でないと、撃沈してもらってはこまります",
"ほう、――"
],
[
"ぜひ、鉄水母の乗員は助けだしてください。ことに長良川博士には、けがのないように",
"うむ、ちょっとめんどうなことになったが、艦隊と相談してみましょう。なにしろ、艦隊はこれから海底大陸を爆撃しようとしているので、たいへん張りきっているのです"
],
[
"鉄水母をしずませるなとおっしゃっても、わしになにができますものか。第一、鉄水母の内部へはいれと命令されても、どういうものか、内部がみえているくせに、体が入口につかえてはいれないんですぜ",
"ばかをいうな。入口から内部がみえていて、それではいれないとは、どういうわけだ。さっぱりわけがわからないが",
"さようです。まったくわけがわからないので――"
],
[
"おい、まだうてないのか",
"はい、砲撃用意よろしい",
"じゃあ、うて!"
],
[
"なんだ。照準がなっとらん",
"はあ、海面があれておりますもので……",
"なんだと。きさまは陸兵ではなくて海兵なんだろう。船のゆれるのに、今さらおどろくやつがあるか。――しっかり照準をつけて、つづいて砲撃しろ",
"はあ"
],
[
"ちえっ、なんというまずい砲撃だ。おい、照準手、かわれ",
"ザベリン中尉。砲がこれ以上、下をむかないのです",
"なに、砲が下をむかない。それで砲弾が鉄水母の上をとびこすというのか。ははあ、そんなことで、おれをだませるとおもっているのか。じゃあ照準は、おれがつける"
],
[
"あっ、メリー号がかえってきた",
"あっ、あそこだ。見える見える。メリー号のマストがおれていらあ"
],
[
"クイーン・メリー号、ばんざーい",
"ばんざーい"
],
[
"おお、海底大陸のロロー殿下を見せてもらいたい",
"そうだ、そうだ。早く見せろい"
],
[
"海底超人を見せろ",
"メリー号の船客と乗員の生命をうばった海底超人を見せろ"
],
[
"事務長。こまったことができたよ",
"とは、どうしたのかね",
"出むかえの群衆が船内にあばれこんできた。ロロー殿下を出せとわめきながら、船室という船室をさがしまわっているのだ",
"ふむ。だれも入れてはならない",
"このままじゃ、やがて見つけて、ロロー殿下をなぐりころしてしまうよ。まったく弱ってしまった",
"ロロー殿下を生けどりにした報告が、そんなにロンドン市民を、刺戟するとはおもわなかった。いや、ぼくの失敗だ。では、ロロー殿下を船艙の奥にうつして、安全をはかるというのはどうだろう",
"どこへロロー殿下をうつしても、船内いたるところに敵ありだ。熱狂している群衆が近よると、船員までが一しょに熱狂してしまうんだからね。むりもない、かれの仲間もかなりたくさん海底超人に殺されたんだから",
"どうも弱ったなあ"
],
[
"そうだ、いいことがある",
"いいこととは、クーパー君、どうするのか",
"だれかがロロー殿下に仮装するのだ。そして、ちょっと群衆ののぼれないマストの頂上にのぼらせる。群衆がその方に気をとられて、あれよあれよといっているうちに、長良川博士にたのんでロロー殿下をつれて水上機で逃げてもらう",
"ロロー殿下のにせ者はいいが、ロロー殿下をほんとうに逃がしてしまうのかね",
"そうではない。群衆をまいたら、そのあとでまたテームズ河口に目立たないように着水させてふたたび引きとるのだ。ケンブリッジ大学の生物学会から、ロロー殿下への面会が申しこまれてあるんだよ。その方へ渡せば、まず生命は安心していられるだろうから。すくなくとも、われわれの責任だけは、たしかになくなるから、その方がいいと思う"
],
[
"いや、わしはロロー殿下といっしょに起きふしします。殿下が大学の地下室にとまられるのなれば、わしもいっしょにそこにとまります。ホテルの方は辞退します",
"そういわないでもいいでしょう。あなた方は人間なのだから、あんな、えたいのしれない動物といっしょに起きふしすることはないではありませんか"
],
[
"ぼくも、いっしょにいたいですよ。ロロー殿下に万一のことがあっては心配ですからねえ",
"ああ、それできみたちの気持はよくわかった。ロロー殿下も、それをきいてどんなによろこばれるであろう。ではシムトン会長へ、わたしたちの決意を伝達することにしよう"
],
[
"それはよした方がいいのじゃないかなあ。わしはあなたがたに敬意を表し、かつまた、あなたを思っておすすめしているのだが……",
"では、われわれ一行四名はいっしょに地下室に滞在します",
"ああよろしい、それがお望みとあれば。だが、気をつけられたがいいですぞ。――では、あとで三人分のベッドを入れさせましょう"
],
[
"ああ、ドリー教授ですか",
"いや、皮肉をおっしゃってはいけませんなあ。わたしは、これでまだ助教授です。名物の万年助教授ですよ。まあそんなことはどうでもよろしい。わたしはかねがねあなたの研究論文にたいし、深甚なる敬意をはらっている者でしてな、海底超人の存在などは、けっきょく、あなたがいいあてたのですからね。よくおやりになりました。握手をしていただきましょう"
],
[
"――わしの考えるところでは、海底超人は、他の遊星から植民してきたところの生物であると思う。つまり海底超人は、ロケットのようなものに乗り、はるばる地球に近づいた。そしてロケットを大西洋の海底につけたのである。それは海底超人の生活力からいって、海底であることを必要条件としたからだ。そして海底超人はクイーン・メリー号をねらって、ここに人類との初交渉をおこなうことになったのである。だから海底超人の母国は、この宇宙に一つの遊星となって、いまも虎視眈々として、第二の植民をおこなおうとしているかもしれない",
"それはどうも不合理だ"
],
[
"おい、ドリー君。かんたんにきみの説をのべたまえ",
"はい、そうしましょう。――いま会長から、かんたんにのべよということでありますので、ほんとうなら、ここに臨席していられる長良川博士の前に、くわしく自説を講演し、その教えをこいたかったのでありますが、会長は結論をいそいでいられるようですから、やむを得ずかんたんにやります。えへん"
],
[
"ええ、拙者はまずクイ先生の説を反駁します。先生の御説は、たいへん面白いのでありますが、ざんねんなことに、史実を無視していられる",
"なに、史実? 歴史のことかね"
],
[
"そうです。地球上に伝えられている歴史のことです。つまり教授の説は、机上の空論である。教授ともあろうものが、生きた史実をないがしろにして、机上の空論に終始しているというのは遺憾千万であって、そういう机上空論家なんてものは、助教授団のなかには一人もいないのである",
"これこれ、ドリー君。言葉をつつしみたまえ"
],
[
"――つつしむつつしまないというほどの大した言葉でもないが、それじゃ、かりにクイ先生のいわれるごとく、海底において、人類とは別途に海底超人が発達したものとするも、それが今日まで一度も人類と交渉をもたなかったというのは、あまりにもとっぴではないか。もっと別の言葉でいえば、海底と海面とは海水でつづいているのである。海の上には、しょっちゅう汽船がとおっている。しかるに、かれらは未だかつて海底超人にぶつかったことがない。今度はじめてクイーン・メリー号がかれらと行きあったのである。おなじ地球において、人類とおなじ年代において、海底超人が発達したものなら、クイ先生の説は常識的にも落第ものである",
"なに、落第だと?"
],
[
"海底超人なるものは何ものぞや。諸君はまず、有史以前において大西洋の海面に存在したと、かのプラトーがとなえたアトランティス大陸が、あまたの生物とともに海底に沈んだという史実をおもい起こさねばならぬ",
"なんじゃ、アトランティス大陸だと?"
],
[
"とんでもない話だ",
"いや、ドリー君はなかなかいいところをついている"
],
[
"海底超人は、それ以来四千年というものを、日光をもあびず、地底でくらした。そのために、かれらの肢体は、われわれ人間とはたいへんちがったものになってきたのである。いや日光ばかりではない。かれらの形体をもっといちじるしく変化せしめたものは、実に宇宙線を遮蔽して生活したことによる影響である",
"なに、宇宙線の遮蔽!"
],
[
"ああ、なるほど、宇宙線の遮蔽下の成長か――うむ、これは気がつかんじゃった",
"うむ、長良川博士にたいし、われわれは心から敬意をささげずばなるまい"
],
[
"乗物のことなら、心配はないのです",
"え、なぜです。なにか乗物についてお考えがあるのですか",
"ええ、それは心配なしです。わたしの鉄水母はいつでも身ぢかに用意されてあります",
"えっ、鉄水母ですって"
],
[
"あっ、これは",
"おお、これは見おぼえがある。あの鉄水母の司令塔のふただが、どうしてこれが地底から……"
],
[
"わたしたちは今、決議したところだ。海底超人の研究ぐらい、今日必要にせまられているものはない。そこで一同のさんせいにより、そこにいる海底超人のロロー殿下とやらをもらいにきたのだ。すぐわれわれに渡してくれたまえ。そのかわり、われわれは貴下に最大の名誉を与える。その名誉というのは……",
"いや。待ってください。ロロー殿下を渡せなどとは、とんでもない話です。考えてもわかるではありませんか。ロロー殿下は、実験用の動物ではありません。人格と自由とをもった、りっぱな人類なのですぞ"
],
[
"だがねえ長良川博士。クイーン・メリー号の事件内容といい、そして博士のさっきのお話といい、われわれは一刻もはやく海底超人を研究しておかないと、今にあべこべにわれわれがせめたてられるにちがいない。われわれ人類を救うためには、ひとりのロロー殿下を解剖することぐらいは何のつみでもない。いやぎゃくに全人類より感謝されるにちがいない",
"いやいや、なんといってもだめです。第一、このわたしが、それを承知しません",
"きみはさかんにわれら学究の行動を阻止しようとしている。われわれは、きみにさしずされるおぼえはないのだ。そこをのきたまえ"
],
[
"もちろんわかっているではないか。貴下はわれわれのために貴重な研究材料である。さあ、われわれといっしょに行こう",
"いやだ"
],
[
"いやとは何だ。きみは、あまり強がっては損だよ。われわれの眼から見れば、きみは動物園のおりに飼ってある類人猿と大差がないのだ",
"ぐずぐずしていると、市民がおしよせてくるぞ。かれらはクイーン・メリー号の船員や船客のうらみをはらしたいと、いきりたっているのだ。そういうらんぼうな市民たちにふみにじられたくなかったら、ここでわれわれのいうことをきいた方が賢明ですぞ"
],
[
"地上人類たちよ。卿らは、そんなにまでして、余を侮辱したいのか",
"ああ。待ってください、ロロー殿下"
],
[
"おお、長良川博士。余の忍耐力は、もうすでに、役に立たなくなりました。もう、おしまいです。いや、たとえ余がこの上がまんするとしても、わが海底超人一族は、もはやがまんをしないでしょう。それもまたやむを得ぬことです",
"いや、ロロー殿下。もうすこし、しんぼうしてください、わたしはきっと――",
"ああ、長良川博士。せっかくですが、もうおそいです。いま余の耳には、はっきりと海底超人の怒りの声が聞こえてきました。博士には、あのさわぎが聞こえませんか。あの地響きがきこえませぬか"
],
[
"あっ。来たきた。こっちにもきた",
"それ、そっちへ逃げろ",
"あっ、ばけものだ。わたしの子供をとっていったよ。だ、だれか助けて――",
"ぐずぐずしちゃだめだ。早くにげないと、おまえさんもいっしょにころされてしまうよ",
"いや、わたしは子供をうばいかえすのだ"
],
[
"海底超人を怒らせたのが悪い。いったいだれが、海底超人をあのように怒らせたのか",
"さあ、それはだれだろうね"
],
[
"この次、海底超人はいつくるだろうか",
"うん、今夜かも知れないということだ。シムトン博士が側近者にそっともらしたそうだ",
"その話なら、ほかから聞いた。しかしシムトン博士は、あのとき煉瓦の下になって、大けがをしたのではなかったかね",
"そういう話もある。じつは、ぼくは何も知らないんだよ。ただ、今夜、海底超人がまたくるような気がするんだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「子供の科学」
1937(昭和12)年4月~1938(昭和13)年12月
入力:門田裕志
校正:成宮佐知子
2013年1月20日作成
2013年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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"ふふふふ、本間君。なにもそんなにふるえることはないよ。僕は君が好きだから、君を選んだわけだ。僕は君をうんとよろこばしてあげるつもりだ",
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"いたずらだって、とんでもない。いたずらなんという失敬なものじゃないよ"
],
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"本間君。その中へ君は入るんだよ",
"えっ、この中へ……",
"そうだ。それが時間器械なのだ。それはタイム・マシーンとも航時機ともいうがね、君がその中に入ると、僕は外から君を未来の世界へ送ってあげるよ。君は、何年後の世界を見物したいかね。百年後かね、千年後かね"
],
[
"二十年後の世界を見たいんだ",
"二十年後か。よろしい。じゃあ入口の戸をしめるぞ。じゃあ、よく見物して来たまえ、さよなら",
"あ、辻ヶ谷君。一時間たったら、今の世界へもどしてくれたまえね"
],
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"それからその案内人が来たら、すぐ出かけるから、乗物の用意を頼む",
"はあ、かしこまりました",
"それだけだ。急いでやってくれ",
"はあ。ではすぐ急がせまして、はい"
],
[
"おいおい、もう一つ頼みたいことがあった",
"はい、はい",
"あのう、ちょっと腹がへったから、何かうまそうなものを皿にのせて持ってきてくれ",
"はあ、かしこまりました",
"これは一番急ぐぞ"
],
[
"お客さんは、ずいぶん田舎からこの町へお出でになったんでしょうね。だからお分りにならないのも無理はありませんが、あそこを通っている人たちも私も、一番りっぱな服を着ているのでございます",
"一番りっぱな服だって。でもシャツとズボン下とだけではねえ",
"よくごらん下さい。これは一番便利で、働くのに能率のいい『新やまと服』なんです。身体にぴったりとついていて、しかも伸び縮みが自在です。保温がよくて風邪もひかず、汗が出てもすぐ吸いとります。そして生まれながらの人間の美しい形を見せています。私たち若いものには、この服が一番似合うのです。お客さんのお年齢ごろでも、きっと似合うと思いますから、なんでしたら、後でお買いになっては、如何ですか"
],
[
"自動車は、ホテルの玄関につけられないのかね",
"自動車、自動車と申しますと、何でございましょうか"
],
[
"つまり、僕たちは歩いてばかりいると疲れるから、そこで車がついた乗物に乗って走らせると、疲れもしないし、速いからいいだろうと思うんだが……",
"ああ、お話中しつれいでございますが、乗物のことならどうぞご心配なく。しかしその車がついたとか何とか申しますものは、今思出しましたが、あれは博物館に陳列されているあれではございませんでしょうか。ガソリン自動車とか木炭自動車とか申しまして……",
"えへん、えへん、ああ、もうそんな話はよそうや"
],
[
"川ですって。どこに川がありますか",
"タクマ君。君は目がどうかしているらしいね。ほら、目の前に川が流れているじゃないか"
],
[
"ちがいますよ、お客さま。これが乗物でございます。……ああ、そうでしたね。お客さまは遠いところから始めてこの町へいらしったので、この町の乗物をご存じなかったのですね",
"うん、まあそうだ",
"この乗物はたいへん便利に出来ています。つまり長いベルトが動いているのです。道が動いているといってもいいわけです。私たちはあの上へ乗りさえすれば、ベルトが動いて、ずんずん遠くへはこんでくれるのです。さあ乗ってみましょう。一二三で、一緒に乗れば大丈夫ですから。さあ一イ二イ三ン"
],
[
"ほう、こっちが急行道路だね",
"いや、急行道路は、これからまだもう三つ奥の道路です",
"へえっ、そんなにいくつも変った速力の道路があるのかね",
"はい、みんなで五本の動く道路が並んでいるのです"
],
[
"それじゃあ急行道路は、ずいぶん速く動くんだろうな。時速何キロぐらいかね",
"時速五百キロです",
"五百キロ? たいへんな高速だね。それじゃ目がまわって苦しいだろう",
"いえ、第一道路から第二道路へ、それから第三第四第五という風に、順を追って乗りかえて行きますから、平気ですよ。目なんか決してまわりません",
"へえっ、そうかね"
],
[
"いや、お客さんのおっしゃることの方が、まちがっていますよ。だってこの町では、下へさがればさがるほど魚はないんですからね",
"深海魚ならいるんだろう",
"いえ、そこには第一水がなくて土と岩石ばかりです。だから魚はすめやしません。しかし一番上へ行けば、海の中が見えますから、魚も見えるわけです",
"なんだか君のいうことは、ちんぷんかんぷんで、わけがわからないね"
],
[
"スミレ地区の深度基点はここだというわけだね。スミレ地区というのは、この町のことかい",
"お客さんはスミレ地区へ見物に来ながら、ここがスミレ地区だということさえご存じなかったんですか"
],
[
"お客さまは、ずいぶん頭がどうかしているんですね。ここが海底にある町だということは、赤ちゃんでも知っていることですよ。一体お客さまはどこからこの町へ来たんですか。海底の町へ来るつもりではなくて、この町へ来たんですか",
"まあまあ、そういうなよ。すこし気分が悪いから、しばらく君は黙っていてくれたまえ。ああ、ちょっと休まないと、頭がしびれてしまう"
],
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"ああ、そうだったね。何かへんなものが見えるだろうと、君はさっきからいっていたんだね。それはどこかね",
"あそこですよ。今、鯛の大群が下りていった海藻の林のすぐ右ですよ",
"ああ、見える、見える、あれだね。なるほど、へんなものが丘の上にある。まるで傾いたお城のようだが、一体何だろう",
"分りませんか。よく見て下さい"
],
[
"軍艦にしてはずいぶん大きい軍艦だね。形もかわっているし、航空母艦じゃあないだろうか",
"そうです。あれは航空母艦のシナノです",
"シナノ? すると、あの六万何千トンかあったやつかね。太平洋戦争中に竣工して、館山を出て東京湾口から外に出たと思ったら、すぐ魚雷攻撃をくらって他愛なく沈没してしまったというあれかね",
"そうですよ",
"あんなものを、なぜあんなところへ持って来ておいたんだい",
"シナノは、あそこで沈没したんですよ",
"ああ、そうだったか。すると、ここは東京湾口を出たすぐのところの海底だというわけだね"
],
[
"ねえタクマ君。あんなシナノをなぜ片づけてしまわないのかね。目ざわりじゃないか",
"そういう意見もありましたがね、しかし多数の意見は、シナノをあのままにしておいて、われわれが再び人類相食む野蛮な戦争をしないように、そのいましめの記念塔として、あのままおいた方がいいということになったのです。日本が戦争放棄を宣言して以来、世界の各国は次から次へとわしの国も戦争放棄だといいだして、今のような本当の平和世界が完成したんです。この平和世界の始まりの記念塔としても、あの不ざまな沈没艦は観光客によろこばれているのです",
"なるほどねえ"
],
[
"ねえ少年君。僕はさっぱり世の中のことにうといんだが、一体これはどういうわけなんだろうね",
"何がですか",
"何がといって、つまりこの町のことさ。なぜこんな海の底に人間が住むようになったのかね",
"そのわけは簡単ですよ。今から二十年前に日本は戦争に負けて、せまい国になってしまったことは知っているでしょう。しかしその後人間はどんどんふえで、陸の上だけでは住む場所もなくなったんです。なにしろ相当広い面積を農業や林業や道路などに使わねばならず、輸出のための工場も広い敷地がいるので、いよいよ窮屈になったんです。そこで困って考えて、ついに考えついたのが、海底に都市をつくることでした。これはすばらしい名案でした。この名案を思いつかなかったら、日本の国はどんなに苦しい目にあわなければならなかったか分りません"
],
[
"でも、海底に都市をつくるなんて、たいへんな工事じゃないか。水圧のことを考えてみただけでも身ぶるいがする。あのすごい水圧に対して耐える材料といえば、鉄材とセメントを使ってするにしても、たいへんな量がなければならない。それにさ、うっかりするとそれに穴があいて、水が町へどっと滝のように流れこんできたら、これはいよいよたいへんだよ。海底の町に住んでいる人は、ほとんど皆、おぼれ死んでしまわなければならないわけだからね。またその工事にしても何十年何百年かかるかもしれない……",
"待って下さい、お客さん"
],
[
"まさかお客さんは日本人が原子力を使うことを知らないとおっしゃるのじゃないでしょうね",
"原子力? ああそうか。あの原子爆弾の原子力か",
"いえ原子爆弾ではありません、原子力を使ってエンジンを動かしどんどん土木工事をすすめるのです。昔は蒸気の力や石炭や石油の力、それから電気の力などを使ってやっていましたが、あんなものはもう時代おくれです。原子力を使えばスエズ運河も一ヵ月ぐらいで出来るでしょう。また海の水をせきとめる大防波堤も、らくに出来上ります。昔のエンジンの出す力を、かりに蟻一匹の力にたとえると、今どこにでもある一番小さいエンジンの出る力は、七尺ゆたかな横綱力士が出す力ぐらいに相当するんですからねえ、まるで桁ちがいですよ",
"なるほど、そういわれると、そのはずだねえ。しかし……",
"しかしも明石もありませんよ。原子力エンジンが使えるおかげで全世界いたるところに大土木工事の競争みたいなものが始まったことでしたよ。そして日本では、この海底都市の建設が始まったわけです。三浦半島のとっさきの剣崎の付近から原子力エンジンを使ってボーリングを始めましたが、どんどん鋼材とセメントを注ぎこんで、その日のうちに工事は海面下五十メートルに達するという進み方です。翌日は更に掘って二百メートル下まで掘り下げ、それからこんどは横に掘り始めたんです",
"そうかね、そんなに速く工事が進むとは、夢のようだ",
"最初の設計では、大体海面下に十階建くらいの大きなビルのようなものを作るつもりでしたが、工事があまり楽に行くので、急に設計替えとなり、陸地をはなれること十五キロの地点を中心とした海底都市を作ることになりました。そしてその探さは、浅いところでは海面下百メートルという範囲に人口がおよそ百万人見当の都市を建設することになりました。……聞いておいでですか",
"ああ、聞いているとも",
"その海底都市の骨格に相当する八十階で建坪一万一千平方キロメートルの坑道ががっちり出来たのが、実に起工後十四日目なんです。それからこんどは、生活に必要な設備をしたり、町を美しく装飾したり、各工場や商店や住宅や劇場などの屋内をそれぞれ十分に飾りたて、道具を置くのに、更に一週間かかって遂に出来上ったんです",
"ふうん、信じられない。信じられないことだ"
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"それじゃ、下町へご案内するのを後まわしにして、先に原子力エンジンを動かして仕事をやっている工事場の方へおつれいたしましょう",
"それはたいへん結構だね。ぜひ一度見て、おどろかされたいと思っていたところだ。だがね、僕は生まれつき心臓がつよいから、ちょっとや、そっとのことでは、おどろかない人間だからねえ"
],
[
"さあ、この先で、動く道路を乗りかえるのです。私と調子をあわせて、べつの道路へうまく乗りかえてくださいよ。もし目がまわるようだったら、私にそういって下さい。すぐおくすりをあげますからね",
"おくすりなんかいらないよ"
],
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"海溝というのは、ご存でしょう。海の底が急に深く溝のようにえぐられているところです。こっちで一番有名なのは日本大海溝です。その外にも海溝があります。――こんどの工事は、海溝の上に幅五キロ、深さ百キロの棚をつくり、その棚の先から下へ壁深さ五十キロのをおろし、そして中の海水を外へ追出してしまうのです。すると、それだけの海溝が乾あがってわれわれ人間が潜水服などを着ないで行けるようになります。ねえ、そういうわけでしょう",
"そういうわけには違いないが、そんな誇大妄想のような大工事が、人間の手でやれるかい",
"この棚工事は、この海底都が始まって以来の新しい種類の工事なので、先例はないのですが、やってやれないことはないんだと、みんないっていますよ。しかしさすがに不安なところもあると見え、技師たちは念入りに工事計画をしらべていますよ",
"一体、そんな棚工事をして、どんな利益をあげようというのかね",
"それは分っていますよ。海溝のような大深海における資源を、一度に完全に、こっちのものにしようというんです",
"なんだか、とても大きなバクチの話を聞いているような気がするよ。――それで、その資源というと、どんなものかね。特別の掘出し物でもあるのかね",
"それはいろいろあるという話ですがね、中でもみんなの期待しているのは……"
],
[
"つまりだね、棚を海中に横につきだすという考えはいいが、その棚を横につきだすにはたいへんな力が要るよ",
"それはわけなしです。原子力エンジンでやればいいですからね",
"ふん、原子力エンジンか。なるほど。しかしだ、棚を海中へにゅうと出す。すると棚と、われているこの地下街の壁との間に隙間が出来るだろう。その隙間から、海水がどっと、こっちへ噴きだすおそれがある。なんしろ海面下何百メートルの深海だから、この向こうにある海水の圧力は実に恐るべきものだ。ああ、僕は心臓がどきどきして来た"
],
[
"あ、金だ。黄金だ。ふうん、やっぱりそうだったんだよ、海溝には黄金があるという噂があったんだが、本当だった",
"えッ、これが金か? すごいなあ"
],
[
"それはいいね。ぜひそこへ連れていってくれたまえ。そして僕は君の姉さんという人に会いたいと思う",
"はい、ヒマワリ軒はすぐこの先です"
],
[
"違いますよ。あそこで僕たちは消毒をされたんです。外から入って来た者は、どんなばい菌を身体につけているか分りませんから、それでガスで消毒したんです。もうきれいになりました。服も手も足も口の中も、十分に殺菌されましたから、ご安心なさい",
"ははん、そうかね"
],
[
"食前には正常な歩調で姿勢を正しく歩くとたいへん消化力が強くなるから、こうして歩くのです。この廊下は、迷路に似たもので、家の中をぐるぐる廻るようになっていますが、しかし一本道ですから、決して迷うようなことはありません。それにこの廊下を通る間に、私たちに対して或る重要な測定が行われているのです",
"重要な測定!",
"そうです。それがどんな重要な測定であるかは、やがて食卓につけば分ります。それまでこの話はお預りにしておきましょう"
],
[
"君、君。ちょっと聞くがね、この店の料理の値段はいくらだろうか。一人前が何円かね",
"料理の値段ですか。それは一人前五点にきまっています",
"五テン? 五テンて何だね。まさか五円の間違いではなかろうが……",
"五点です、間違いなしです"
],
[
"あのうタクマ君。はなはだ僕がうっかりしていたが、僕はお金を持って来るのを忘れたんだがねえ。だから食事は、やめにしよう",
"ああ、支払いのことなら心配いらないです。あとで政府から支配命令書が来たとき払えばいいのですから",
"ああ、そうかね。それで安心……"
],
[
"お客さん。僕は遠慮なんかしませんよ。だってそうでしょう、ここは僕の姉の経営している料理店ヒマワリ軒なんですものねえ",
"でも、君。僕ばかりがこんなすばらしいごちそうをたべるんじゃ、気がひけるよ。君は遠慮しているのに違いない",
"そうじゃないんですよ、お客さん。そんな大きな声を出して、他の人に聞かれると笑われますよ。だって、食事にどんなものをたべるかということは、自分が勝手にきめることが出来ないんですものねえ",
"なんだって。料理店で食事をするのに、自分で好みの料理をあつらえることが出来ないと、君はいうのかね"
],
[
"私たちの現在の健康状態に最も適した料理が選ばれるのです。それは保健省の仕事なんです",
"なにを君はいってるのか、さっぱり君の話はわからないね",
"わからないですかねえ。いいですか。私たちの健康状態は、めいめいに違っています。脳の疲れが他人よりもひどい人もあれば、また心臓が弱っている人もあります。ですから脳の疲れている人には、脳の疲労を急速になおすような料理をたべさせることが必要ですし、また心臓が弱っていて脈がよくない時には、心臓を強くしてやる力のある食物をすぐたべさせなくてはならないのです",
"ふん。それはわかるが、そんな薬をのめばいいじゃないか"
],
[
"しかしねえ、タクマ君。僕らが今どのような健康状態にあるかを知らないくせに、このとおり特別料理を僕らにあてがうのは、でたら目すぎるではないか",
"いや、そんなことはありません。私たちはこの食堂に入る前に、ちゃんと健康状態を調べられたんだから、まちがった料理をたべさせられることはありませんです",
"あんなことをいってら、いつ、僕らの健康状態が調べられるかね。そんな診察なんかちっとも受けやしなかったじゃないか"
],
[
"君はどうかしているよ。少なくとも僕はどこに於ても診察されたおぼえがない",
"たしかに診察は行われました。さっき待合室で消毒されてから、この大食堂へ入るまでに、かなり長い廊下を一人ずつ歩かされましたねえ。あのとき私たちは一人ずつ診察をうけたのです",
"おや、そうかね。だが、誰も医師らしい人は見えなかったし、僕の胸に聴診器があてられたおぼえもないが……",
"あれは廊下の両側の壁の中に、電気診察器があって、それで診察するんです。ですから見えもしないし、また非常にくわしい診察も出来るわけです。あんまりしゃべっていると、料理がまずくなりますから、たべましょう。どうもごちそうさま",
"そうだ。とにかくたべなくてはね。大いに腹が減った",
"私に出された料理が、お客さんのよりもみすぼらしいということは、お客さんの方が私よりも健康の失調がひどいのです。おわかりでしょう"
],
[
"ああ、本間さんでいらっしゃるの。弟をたいへん愉快に働かせて下さるそうで、お礼を申します",
"いや、どうも。僕の方こそ、タクマ君にたいへん厄介をかけていまして、恐縮です",
"そうなんですってね、あなたからすこしも目が放せないといって、弟が心配して居ましたわよ。当地ははじめてなんですってねえ"
],
[
"はい、はじめてですから、万事まごついてばかりいます",
"一体あなたはどこからいらしたんですの"
],
[
"ちょっと遠方なんです",
"遠方というと、どこでしょう。金星ですか。まさか火星人ではないでしょう",
"ま、ま、まさか……"
],
[
"あなたの影法師を、よく見てごらんなさい",
"えっ、影法師ですって",
"そうです。うしろをふりかえってごらんなさい。壁にうつっていますね。ほほほほ"
],
[
"実は、僕は二十年前の世界から時間器械に乗って、当地へやってきた本間という生徒なんです。申訳ありません",
"申訳ないことはありませんけれど、よくまあそんな冒険をなすったものねえ",
"はっ。ちょっと好奇心にかられたものですから……"
],
[
"僕は見つかると、ひどい目にあうでしょうか",
"それはもちろんですわ"
],
[
"この国では時間器械による旅行者を厳重に取締っているのです。というわけは、あまりにそういう旅行者がこの国へ入りこんで、勝手なことばかりをして、荒しまわったものですから、それで厳禁ということになってしまったのよ",
"ははあ。彼等は一体どんなことをしたんですか",
"いろいろ悪いことをしましたわ、料理店に入ってさんざんごちそうをたべたあげく、金を払わないでたちまち姿を消してしまったり……",
"ああ、ちょっと待って下さい"
],
[
"まあ、たくさんお金を持っていらっしゃるのね。……料理代は、その金貨一枚をいただいて、おつりをさし上げますわ",
"そうですか"
],
[
"はい、おつりです",
"こんなに沢山のおつりですか"
],
[
"とにかくそんなわけで、時間器械による密航者が見つかると、警察署は直ちにその密航者を冷凍してしまうのです",
"冷凍? へえッ、どうして冷凍になんかするのですか"
],
[
"それはもちろんそういうわけでしょう。かんじんの本人が冷凍されちまって、脳も働かなくなり、細胞もなにも凍ってしまえば、動きがとれないじゃありませんか",
"そうですかねえ。そして、それからどんな目にあうんですか。つまり刑罰の重さはどんなものでしょうね",
"罰の重い軽いに従って、冷凍時間に長い短いがあります。また、たびたび罰を重ねる悪質の者は、永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使われます",
"永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使うというと、どんなことになるんですかね"
],
[
"ないことはありませんが、手続きがなかなか面倒でしてね……",
"手続きの面倒なくらいはいいですよ。なにしろ冷凍人間になってしまわない先に、その手を打っておかないと、後悔してもおいつきませんからね。どうぞその方法を教えて下さい。それは一体どうすればいいのですか",
"それはね……でもたいへんなのですよ、そのことは……"
],
[
"その方法の一つは、研究材料になるのです。つまり、あなたの場合なら二十年前の人間として、二十年前あるいはそれより以前の生活や社会事情や人格や嗜好、言動、能力などといういろいろな事柄を研究する材料になることですね。それなら考古学者が欲しいというかもしれません",
"ははあ、考古学者ですかね"
],
[
"あるいは、医科大学の標本室へ入れておかれる手もありますがねえ",
"ああ、それも悪くないですね。大学生を相手に、僕が話をしてやればいいのでしょう",
"それもありますけれど、主な仕事は、はだかになって、身体をいじらせることです。男の大学生も女の大学生も居ますが、この二十年に人類ばどんな進化をしたか、性能はどんなに変化したか、それを器械で調べるのです。なにしろ学生なもんで、扱い方が乱暴で、一二ヶ月のうちに手足がもげてばらばらになってしまうそうです",
"ああ、それは駄目だ"
],
[
"辛抱はしますよ。僕、これでなかなか辛抱づよいのですからね",
"でも、私の夫のカビ博士は、学問に熱心のあまり、時には気が変になるのですよ",
"え、気が変に? いや、それでもいいですよ、僕がこの国に停っていられるなら……"
],
[
"銀杏樹やポプラを植えこむには、ずいぶん困りました。でも、赤煉瓦のまわりには木がないと、考古気分が出ないというわけで、いろいろと工夫をこらして、やっと成功したのです。ご承知でしょうが、樹木というものは、太陽がないと育たないものですからね",
"ふん。そのとおりだ",
"で、つまり成功した工夫というのは、人工で、太陽と同じ成分の光線の量を、この樹木だけに注ぎかけてあるんです。その器機は天井にありまして、あらゆる方向からこの樹木を照らしています。しかし私たちの目では、普通の照明とはっきり区別しては見えないのですけれど",
"そうかね。なんでも工夫をすると道は見つかるんだね",
"さあ、教室へ入ってみましょう。姉からも申したと思いますが、義兄のカビ博士はたいへんな変り者ですから、何をいいましても、どうか腹をお立てにならないようにお願いいたします",
"大丈夫だとも。僕は十分心得ているよ"
],
[
"いやいや、僕はうんと疲れましたよ",
"それはあとで食事をすれば、たちまち直るから心配ない",
"そうですかね……それにあの学生さんたちが無遠慮に僕のからだをいじりまわすので閉口しました",
"おいおい慣れれば、大した苦痛じゃなくなるよ。なにしろ学生たちは君に対して異常な興味をもっている。だから君は今後ますます大切に扱われるだろう",
"そんなに彼等は興味を持っていますかね"
],
[
"うん。わしは連日、脳細胞を使い過ぎるので、どうしてもこれをやらないと、早く疲労がとれないのじゃ",
"ずいぶん変わった形のパイプですね。そんなパイプが海底都市では、はやるのですか",
"はやるというわけではない。これはわしの考案したものでな、ほかにはない特殊のものじゃ",
"煙の出るところが五つもありますね",
"そうだ。五種類の薬品をつめこんであるのだ。それを適当に蒸発せしめて、或る特殊のリズムで脳神経に刺戟をあたえる。このリズムを決定することがむずかしい",
"なるほど。僕もそのリズムの利用には気がついていましたよ。面白い療法ですね。どんな味がするか、僕にもちょっと吸わせてください",
"いや、いけない!"
],
[
"君は何も知らないが、君の実在する世の中からその後二十年経つ間に、文明はあらゆる方面において驚異的な発展進歩をとげた。人でも人体改良には、非常な努力が払われ、そして改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものである",
"高等人間ですって。人体改造ですって",
"人体の進化を自然にのみまかせていたのは昔のことさ。なんという知恵のない話じゃないか。さればこそ昔の人間はやたらに病気にかかって悩み、そして衰弱し生命を縮めた。そればかりか人智のレベルは、さっぱり向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為的に人体改造進化を行う事によって病気と絶縁する。それから人智を高度にあげる。こんな思いつきは赤ん坊にでも出来ることじゃないか。もちろん今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の実在のみに注意力や情熱を集中して、遙かなる未来世界について夢を持つことをしらず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも想到しなかった。ああ哀れなりし人類よ……"
],
[
"先生。すると、そういう意味において、自然進化にまかせて来た僕の身体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね",
"そうだ。全く貴重なる標本だといわんければならん",
"じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇を受けてもいいじゃないですか"
],
[
"だって僕は、貴重な標本なんでしょう",
"そうさ。君は網の目をのがれている所謂ヤミ物品だから値が高いんだ。しかしどう釈明しても君は合法的存在じゃない"
],
[
"学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解しないのですか",
"そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね",
"へえッ、こんな理想境にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか"
],
[
"疲れはしないけれど、標本になって閉じこめられていたので、気が詰まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね",
"ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠をとるといいんですが、その前に、喜歌劇見物でもしましょうか",
"喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ"
],
[
"――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息し得る特質を具備していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐える器官や本能を残して持っていると断定しますわ",
"それは一種の感傷主義だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡程度残っているかもしらんが、海中棲息の本能なんど有るもんですか"
],
[
"いや、そういう君の論は、甚だしく定量性を欠いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさないのだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨があるからといって未だ一度も尻尾を振ってみたい欲望を催したことはないですぞ、ダリア君",
"それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路の平衡器官のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね",
"ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん",
"まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね",
"からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう",
"ごま化していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ",
"うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ",
"ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼あたまのトビ、トビタロ君"
],
[
"なんといっても、あたしの説が正しいと証明されたわけよ",
"いいや、そうはいえない。僕の説の方が正しい。そうでしょう、この実験動物は、正に溺死してしまったじゃないですか",
"それは溺死したかもしれないわ、でもそれはこの実験動物が、目下腮を備えていないために、水中で呼吸が出来ないという構造を持っているためよ。溺死しようと、この実験動物が水槽の中で見せた水中動物らしいあのすばらしい運動や反射作用や平衡感覚などはあたしの説を正しいものと証明したじゃありませんか。正にこの実験動物は、水中動物たるの機能を持ち、機能を保持していると断定できる。そうじゃなくって",
"そりゃね、いくぶんそれは認められるけれど……",
"ああ、なんてしみったれな仰有り様でしょうか。これだけ明らかなことを、しぶしぶ認めるなんてフェア・プレイじゃないわ",
"だがね、とにかくこの実験動物は一度溺死してしまったんだ。だから、そう大きなことは、いえないわけだ",
"あなたは頭が悪いのね。そういう難癖のつけ方は、何といってもフェアじゃないわ",
"まあ、そういうなら、それでもいいということにして、僕はもっとくりかえし、この実験を続けることを提議しますね",
"それはもちろんあたしも同感ですわ"
],
[
"この次の実験には、この実験動物が水槽で楽に呼吸が出来るように呼吸兜を頭にかぶせようと思うんですの。つまり、適当に酸素を補給させ、過剰の炭酸瓦斯が排出されるようになっていればいいんですから、そのような呼吸兜を作るのはわけありませんわ",
"それはいいでしょう。しかし身体の釣合いを破らないように考えないといけませんね",
"そうですね。身体の他の部分にも別の錘をつけましょう。あたしはもっといろいろと考えていますのよ、発展的な実験をね",
"発展的な実験というと、どんなことをしますか",
"すこし大胆かもしれませんけれど、この実験動物をやがて深海へ放ってみようと思うんです。そして深海の重圧力がこの実験動物の平衡器官にどんな影響を及ぼすかを調べてみたいと思います",
"それは面白いですね。しかしその実験を最後として、この実験動物は役に立たなくなりますよ。おそらくひどい内出血をして死んじまうでしょうからね",
"それはもう死んでもようござんす"
],
[
"先生。もう深海になげこまれるようなことはないでしょうね",
"そんな危険は今後絶対に起こらない。あの凶悪なるダリア嬢と共犯者トビ学生は、共に本校から追放されたんだから、もう心配することはない"
],
[
"さあ、退院だ。わしと一緒に出よう",
"えっ、もう退院ですか。しかし僕は起上ろうとしても、ベッドから起上る腰の力さえないんですよ",
"ああ、そうか。それはまだ磁界を外してないからだ。待ちたまえ今それを外すよ。……さあ、これでいい。起上りたまえ"
],
[
"それは願い下げにしたいですね。僕は深海と聞くと、ぞっとしますんですね",
"心配はないよ。わしの愛艇メバル号に乗っていくんだから、どんなに海底深く下ろうと絶対安全だ",
"でも当分僕は……",
"それにわしは、折入って君に相談したいことがあるんじゃ。それも早くそれを取決めたいんだ。だからぜひ行ってくれ"
],
[
"いやそんなかんたんなことじゃない。ここらの海中では、水圧嵐が起こるんだ。水圧嵐が起こると、水圧が急にふだんの三倍にも四倍にも、時には何十倍にもあがる。そういうときには、どんな堅固な潜水扉も卵をおしつぶすようにやられてしまう",
"なんでしょうね、その水圧嵐の原因は……",
"そのことじゃ。わしが日頃からひそかに注意を払って調べているのは。そして君に相談したいことがあるといったが、そのことにも関係しているんだ。要するに、われわれの今すんでいる海底都市は何者かによって狙われているような気がするんだ。われわれはゆだんがならない。詳しいことは、中へ入ってから話そう。さあ、早く入りたまえ",
"大丈夫ですかね、このメバル号も水圧嵐にあって、ひとたまりもなく潰れてしまうのではないですか",
"いや、その心配はない。わしは特別に用心してこの艇を設計した。ふだんの水圧の百倍までかかっても大丈夫なんだ",
"百倍ぐらいじゃ、まだ心配だなあ",
"なあに、大丈夫だ、心配に及ばん"
],
[
"ミドリモて、なんだい。君が今いったミドリモ君てえのは",
"知らないのか、それを。君の頭はまだまだ十分に恢復していないらしいな。ミドリモというのは君の名前なんだ",
"じょうだんじゃないよ。僕にはちゃんと、本間良太という名がある",
"ふふん。それがミドリモと改名されたんだよ。ちょうどわしが、辻ヶ谷からカビに改名したようにね"
],
[
"本当かい。なぜそんな改名をしたのか",
"名前というものは昔から親がつけたもんだ。しかしそれはやめて名前は自分でつけることに、法令が改められた。それと同時に姓もやめることになり、今は誰でも名前だけになったんだ",
"なぜそんなことをしたんだろう",
"わしは知らない。法令だ"
],
[
"それよりも目下の大問題は、さっきちょっと話したが、われわれの海底都市が外部から何者かによって狙われているらしいことだ。彼奴は、われわれの海底都市を破壊し、この平和人をみな殺しにしようと思っているのではないか。果してしからば、彼奴とは一たい何者だ。――それを早いところ突きとめてしまわねばならぬ。そこで君の力を借りたいのだ",
"それは容易ならぬ事件だ。しかし僕にどんな仕事がつとまるというのかね。僕は、君のいうところでは、すこし頭がつかれて、南瓜頭らしいんだが、それでも役に立つのだろうか"
],
[
"深海底なら大丈夫というわけかね",
"うん、多分大丈夫だろう。しかしここも絶対に安全とはいえないんだ――ありゃりゃ、これはたいへんだ、逃げよう、力いっぱい!"
],
[
"君、姿を見せたことのない陰謀者といったが、姿を見せたことのないものなら、君にも見えるはずがないじゃないか",
"そのとおり……",
"そんなら、君がそれを見つけたようなことをいって、逃げだしたのがおかしいね",
"ちがうよ。かの陰謀者どもは今までに一度も姿を見せていない。だが、彼奴らがわれわれに対して仕事をはじめると、すぐ分るんだ。さっきも僕は、とつぜん海底の丘のかげから急に砂煙がむくむくとまるで噴火のようにたちのぼり始めたのを見つけたのだ。彼奴らの仕業なんだ。彼奴らが仕事を始めたしるしなんだ。おそらくその砂煙の下に大ぜいの彼奴らがひそんでいるにちがいない。だからそれを見ると、僕は全速をかけて、現場からずらかったんだ"
],
[
"なぜだか、われわれには、まだ分っていない。自分たちの姿をわれわれに見せることを極端にきらっているのだろうが、なぜそうなんだか見当がつかない",
"で、その陰謀者たちは、君たちに対して何を計画しているの",
"その方はうすうす分るんだ。ちょっと耳を貸したまえ"
],
[
"つまりね、彼奴はわれわれの海底都市を覆滅しようとしているのにちがいない。覆滅だ。分るかね、この海底都市を大破壊し、われわれを死滅させようと考えているんだと思う",
"ふうん、それがほんとうなら、けしからん話だ",
"そうだ。けしからん話だ。せっかく平和裡に、高度の文化のめぐみをうけてくらしている、われら海底都市住民の生存をおびやかすなどとは、許しておけないことだ",
"それなら、早速彼等に対抗したらいいではないか。彼等を追払ったがいいじゃないか",
"それが考えものなんだ。第一、そんなことは、わが住民たちが同意しないにきまっている"
],
[
"でも、そうしなければ陰謀者はいよいよのさばって、君たちへ暴力をほしいままにふりかけるじゃないか",
"わが海底都市住民は、武力抗争ということを非常に嫌っているんだ。だから武力をもって彼奴を追払うという手段は、すくなくとも表面からいったのでは、住民たちの同意を得ることはむずかしい",
"だがおとなしくしていれば、君たちは彼等にくわれてしまうばかりだ。だから防衛のために武力を用いることは――",
"君はいけないよ、そういうことを、この国へ来ていうから。そういうことは、この国では全く通用しないんだから",
"そんなに武力行使ということを嫌っているのかい。それならそれでいいとして、では平和的に外交手段でいってはどうだ",
"それでもだめ。相手は全面的に暴力をもってわれわれに迫っている。外交手段を用いる余地はないのだ。しかも困ったことに、いかなる点から考えても、彼奴らはわれわれよりもずっと知能のすぐれた生物らしい。だから正面からぶつかれば、こちらが負けることはほとんど間違いないと思うんだ。それに、彼奴らは姿さえ見せない……"
],
[
"実は、君に頼みたいというのは君が単身で、彼奴に面会をしてくれることだ",
"それは危険だ",
"そうだ。君は多分彼らの手にかかって殺されるだろう",
"ええッ!"
],
[
"君、おちつかにゃいかんよ。君は今、僕のことばにびっくりしたようだが、おどろくことは何もないんだ。君は殺されても一向さしつかえないんだ。いや、待った。怒ってはいかんよ、終りまで聞いてくれなくては――",
"だまれ。僕なんか殺されて一向さしつかえないとは、何という言い草だ。おせっかいにも程がある、何というあきれた――",
"いやそこをよく考えてもらいたいんだ。これはなかなか重大なことなんだが、冷静を失うと、もう分らなくなるのだ。いいかね、ミドリモ君。いや、本間君。君がこれから出かけて殺されたとしてもだ――怒ってはいかん、よく考えてくれ――君が殺されたとしても、本当の君は殺されないのだ。分るかね――"
],
[
"おい君。幻の僕が死んだら、僕はどういうことになるんだ。感覚のある僕は、どこに現れるのかい",
"それはもちろん、時間器械の部屋の中さ"
],
[
"時間器械の部屋の中というと、あの焼跡の地下室に据付けてある、あれのことだね。君が僕に入れといったあの器械の中のことだね",
"そうさ。あの中だ。そこで僕は君をまた未来の世界へ送りつけることが出来る。あの同じ器械を使えば、それはわけのないことだ"
],
[
"じゃ、この海底都市へ帰って来ようと思えば、すぐ帰って来られるんだね",
"もちろん、そうだよ。時間器械のところには辻ヶ谷と名乗る僕がいつもついているんだから、君の希望どおりにしてあげられる。――どうやら分ってくれたようだから、早速、例の謎の陰謀者たちのまん中へ入りこんでもらいたいね。通信機もここに用意してある。彼らの正体をつきとめてくれたまえ、そしてわれら海底都市に対して何を行うつもりか。われらと平和的に妥協するつもりはないか。それから、出来るなら、彼奴らの生活の弱点などというものを見て来てもらいたい。さあ、そうときまったら、この潜航服を着せてあげよう"
],
[
"じゃあ、行ってくるよ",
"しっかり頼んだよ",
"なんか異変があったら、すぐ救い出してくれるんだよ。いくら僕がこの海底都市では幻の人間だといっても、やっぱり自分が殺されるなんて、気持がよくないからねえ",
"それはよく分っている。こっちも十分に君を監視しているんだから、もしまちがいが起こったと分れば、全力をあげて救出するから、安心して行きたまえ"
],
[
"もしもし、トロ族君たち。話は早いところきまりをつけようじゃないか",
"それはこっちも望むところだ"
],
[
"よろしい。君たちはいったい何を希望するのかね、われわれ人類に対して……",
"へんなことをいっては困る。われわれも人類だよ。君たちだけが人類じゃない"
],
[
"われわれが住んでいるとは知らなかったというが、それは本当だとは思われない。われわれのことについては、地上にもその文献が残っているはずだし、またわれわれの一部は地上にも残留していて、われわれの移動についても物語ったはずだ",
"そんなことは知られていない。地上ではたびたび人類を始め生物が死に絶えたことがある。少なくも三回の氷河期や、回数のわからないほどの大洪水、おそろしい陥没地震などのために、地上の生物はいくたびか死に絶え、口碑伝承もとぎれ、記録も流失紛失して、ほとんど何にも残っていないのだ。ねえ、分るだろう",
"しかし、どうだろうか。あれほどの巨大無数のものが完全に失われたとは思わないが、まあそれはそれとして――その外にもわれわれは、侵入の君たちに対して、たびたび警告を発している。しかるに何の誠意も示さないのはけしからん",
"いや、それも君たちが一方的に警告を発しているだけであって、われわれにはそれが通じなかったのだよ。通じなければ何にもならない",
"ふふん、ヤマ族は昔ながらに劣等なんだ。われわれとの知恵の差はその後ますますひどくなったものと見える"
],
[
"よろしい。僕は視察する。万事は視察した上でのことだ",
"来たまえ。そして見たまえ"
],
[
"とにかくこんなにたくさんのわれわれの同胞が、海底の下わずか百メートルのところに住居をもっているんだ。分ってくれたろうね",
"これが住居か。ほら穴みたいだが……",
"第一哨戒線についている同胞なのだ",
"ははあ、ここが第一哨戒線か",
"こんな余計なところへ住居をあけなければならなくなったのも、元はといえば、君たちヤマ族のあくなき侵略に対抗するためだ。……こんどは別のところを見せる。こっちへ来たまえ"
],
[
"そこで天井はくずれる。たちまちわれらの同胞はあのとおり生き埋めになる。皮膚は破れ、肉はさけ、死する者数知れず、その救出しにわれらは総力をあげているが、このとおりまだ救い出しきらないのだ。どうです、君たちヤマ族が見ても気持ちのいい光景じゃないでしょう",
"ごもっともである。海底都市の拡張工事がこんな惨禍を君たちに与えようとは全然知らなかった。早速僕は、このことを報告して、直ちに善後策を講ずるであろう",
"とにかく無法にも程がある。何等の案内も警告もなしに、上からどかどかと鉄の棒をさしこんで、こんな目にあわすんだからね。かりに君たちの居住区が、こんな風に荒されたと考えてみたまえ。君たちはそのときどんなに怒りだすことか",
"ごもっとも。げにごもっともである。早速警告をわれらの仲間へ発信しよう"
],
[
"ヤマ族の悪魔め! また、やりやがった",
"もうかんべんならん。海底都市へ進撃して、ヤマ族をみな殺しだ",
"そこに立っているヤマ族の一人を、まず血祭りにぶち殺せ",
"そうだ、そうだ。やっつけろ"
],
[
"海底都市の人たちは、自分たちの進めている海底工事が、このように君たちトロ族に惨害を与えていることを知らないのだ。知ってりゃ即座にやめるにちがいない。だから君たちは海底都市を襲撃する前に、先ず事情を海底都市へ申し入れるべきだ。及ばずながら僕はその使者の一人となってもいいと思う",
"遅い。もう遅い。われわれの同胞はあの通りの大激昂だ。君は……君は気の毒だが、われわれの門出の血祭だ。ひッひッひッひッ"
],
[
"そうだ。それによって、われわれは、先ず同胞の流した血の最初の一滴をとりかえすのだ。あとは海底都市へなだれこんで、何十倍何百倍の血にして取り戻す……",
"はははは。たわ言もいい加減にしたまえ。君たちはわれわれ人類ヤマ族を劣等生物視しているが今に後悔するだろう。われわれ人類は、君たちみたいに野蛮ではない。また文化においてもずっとすぐれている",
"うそだ。ヤマ族は貧弱な文化力を持った劣等未開の奴ばらだ",
"それが認識不足というものだ。今に分る。そのときおどろかないように……",
"ヘヘン、わらわせる。なにが認識不足だ",
"殺してしまえ。八つ裂にしろ",
"早く、殺っちまえ。顔を見ているのも、むなくそが悪い",
"迷っている死霊のために、そのヤマ族野郎の頭を叩きつぶせ"
],
[
"おう、君。もういいだろう。出たまえ",
"いやだ。今が大切なんだ。もう一度二十年後の世界へ僕を戻してくれ。君も知っているじゃないか、僕は今トロ族に殺されて……",
"何をいってるんだ。うわごとはそのくらいにして、こっちへ出て来たまえ。足がどうかしたんなら手を貸してやろうか",
"だめ、だめ。絶対に下りない。ねえ君、頼むよ。今非常に大切なところなんだ。僕がたとえ何十回ここへ戻って来ても、僕がもしいいというまでは、君は僕を二十年後の世界へ何回でも送りつけるんだ。そうしないとわが人類は一大危機にさらされることになるんだ。いいかね、何回でも僕を、二十年後の世界へ追いかえすのだ"
],
[
"ありがとう、ぜひ頼む。――いいね、僕がもうよろしいというまでは、僕が何べんここへ戻って来ても、二十年後の世界へ追いかえすのだよ",
"よし分かった。君の希望するとおりに計らってあげる"
],
[
"ひッひッひッひッ。見やがれ。とうとう八つ裂にしてやった",
"血祭第一号だ。ヤマ族め、思い知ったか。くやしかったらもう一度生きてみろ"
],
[
"殺してしまえ。そのヤマ族の代表者を、ずたずたにひきさいてしまえ",
"復讐だ。そしてヤマ族の国へ攻めこんで行く前の血祭に、そのヤマ人を張り殺すがいい",
"そうだ、そうだ。やってしまえ"
],
[
"トロ族の人々よ。君たちは悪魔に呪われていることに気がつかないのか。目ざめよ。君たちはもっと冷静にならなければならない。平和的に事を解決する道をえらばなければならない。暴力のみで、自分の意志を押し通そうというのは、神の憎みたまう最も邪道である。目を開け、トロ族の諸君。君たちは神の道に反して、僕を暴力によって殺害しようとしている。しかし見ていたまえ。そういう暴力行使は何の役にもたたないから、君たちは遂に僕を殺害し得ないということを悟るだろう。そのとき君たちは、神のみ心を――",
"やっちまえ。きゃつをこの上、勝手気ままにしゃべらせておくことがあるものか",
"そうだ、そうだ。早く八つ裂にしてやるんだ"
],
[
"おう、辻ヶ谷君。早く僕を二十年後の世界へ送りかえしてくれたまえ。今、とても重大な出来事があの世界で起こっているんだから……",
"ほんとに、いいのか。何べんでも、あっちへ送りかえしてやればいいのか",
"そうなんだ。僕がもういいというまでは、いくどでも二十年後の世界へ僕を追い返してくれ給え",
"よし。やってあげるよ。器械がこわれない間は、やってやるよ"
],
[
"おい、トロ族諸君。君たちは大ぜいでもって、まだ僕を殺し得ないではないか。いったい、どうしたんだ。よく反省してみたまえ",
"おンや。この野郎。また生き返って来たぞ。執念ぶかい野郎だ",
"へんだなあ。たしかにぶち殺して、手足も首も、ばらばらにしてしまったはずだが……",
"わたしは、なんだか気味が悪くなって来たわ",
"あの人がいっているとおり、神さまはあの人の方についているようね"
],
[
"こいつは悪魔だ。もっと徹底的に叩きつぶさにゃ駄目だ",
"執念ぶかいやつ。やっつけろ",
"やっつけろ"
],
[
"それはね、影のある者もあるし、ない者もあるんだ",
"ふしぎですね。われらトロ族はみんな一つずつ影を持っていますよ",
"そうだろうね",
"なぜ、ヤマ族には、あなたのように影のない人があるのでしょうか"
],
[
"ま、その訳を話すと長くなるから、しないでおくが、要するにわれわれヤマ族では、影なんかどうにでもなるんだ。一人で五つも六つも影を持っている者もある",
"ほう。それは、ますますふしぎだ"
],
[
"ひどい目にあったよ",
"そうだろう。あとから話を聞くことにしよう。……あんまり君が戻って来ないものだから、とうとう、わしは政府を動かして、この潜水艇三隻の協力を得ることになったのだ"
],
[
"さあ、笑ってください。これまでの不快なことはすべて忘れて下さい。一時でもいいから忘れてください。そして一刻も早く救援作業を始めようではありませんか。あなたがたは、ぜひその先頭に立ってください。そして、あなたがたのことばで、あなたのお国の方々を、まず安心させてください",
"ありがとう。どうか、そうしてください"
],
[
"これから君もいっしょに来て、わしを例のとおり助けてくれるだろうな",
"もちろんだ。僕はこの機会に、徹底的にトロ族を研究し、そして彼らのために幸福な安住のできる国を建設してやりたいと思っているんだ",
"おお、万歳。それだ、君はこんどこそ表面に立って仕事をするのだ。わしは君のことについて、いずれ市民にすっかり本当のことを話をするつもりだ",
"不正入国の影の人間だということもか",
"しいッ。……大きな声を出してはいけない。わしも同罪になるおそれがある。それは隠しておいた方がいい。それを隠しても、君の勲功は隠し切れないのだ",
"好きなようにしたまえ"
],
[
"僕にぜひ合わせるんだって。それは一体誰だい",
"ふふふふ"
],
[
"おどろいてはいけない、君の妻君だよ。君の夫人だよ",
"ええッ、僕の妻?"
],
[
"なんという頭の悪いことだ。君は本当は生徒かもしらんが、この海底都市では、君、年齢をとっているんだから、君に妻君があってもなんにもふしぎじゃない",
"だって僕は、影の人物だぜ",
"しかし君は、現在の生徒の時代よりも何十年先まで生きる運命を持っているんだから、君の未来というものがあるわけだ。今は妻君がなくとも、やがて結婚する年齢になるだろうじゃないか。だから二十年先の世の中であるこの海底都市において、君の妻君が町をうろうろしていたって、べつにふしぎでもなんでもない。そうだろう",
"ふーン"
],
[
"どうも訳が分らないことがある……",
"訳が分らないって、何が……",
"これは会わない方がいいと思うね。なぜといって、いいかね、その妻君だがね、その妻君には夫があるんだろう",
"知れたことさ。君という夫がある",
"ちょっと待った。そこなんだが――"
],
[
"かの妻君には僕という本当の夫がある。そこへ持って来て、これから本当の僕ではない僕の影が出ていって会う。これはへんなもんじゃないか",
"なんだって",
"そうだろう。影の僕が出ていって、妻君に会う。二人で話をしているそのそばへ、二十年後の世界の本当の僕がのこのこ現れて妻君のそばへ行く。すると僕の姿をした同じ人間が二人も出来て、妻君の前に立つ。妻君はそれを見てどうするだろう。おどろいて目をまわしてしまうぜ。だから会わない方がいいんだ",
"わははは"
],
[
"気がつかないで通りすぎるかと思ったが、とうとうそこに気がついてしまったか",
"なんだ、君は始めからその矛盾を知っていたのか。人のわるい男だ",
"いや、これには実は深い事情があるんだ。それを今ここで説明しているひまはないが、とにかくわしは君に保証する。いいかねその深い事情が実にうまく今一つの機会を作っていて、君と妻君が会うに、今が絶好の機会なんだ。君の妻君は君を決して怪しみはしないだろう。またほんものの君が横から出て来てびっくりさせるようなことは決してない。だからぜひ会いたまえ"
],
[
"おい、本間君。こっちへ出て来いよ",
"……",
"おい。こっちへ出て来いといったら。そこに腰をかけていても、もう何にも見えやしないよ。この器械は、もうこわれてしまったんだから……",
"えっ、こわれた?"
],
[
"今日はもう遅いから、早く帰らないと、途中があぶないんだ。さかんに強盗が出るというからねえ",
"強盗? 強盗てえ何かねえ",
"なにをいっているんだ、おい本間君。早くこっちへ出ろよ。このタイム・マシーンは故障になったといっているじゃないか",
"えっ、このタイム・マシーンが故障に。なぜ故障なんかにしたのか",
"えらそうな口をきくね。なぜ故障になったか、僕は知らないよ",
"お願いだ、辻ヶ谷君。どうかもう一度、海底都市へ送ってくれたまえ。頼む。頼む"
],
[
"どうしてもだめか。もう一度だけでいいから海底都市へ行かせてくれ。あと、一ヶ月向うで生活させてくれれば、君にうんと御礼をするが――",
"よせよ。そんな気が変になるみたいな話は。それよりも、どこかで、一本十円の闇屋の飴をおごってくれよ。その方がありがたい",
"だめだなあ、君は。もう一ヶ月僕を海底都市に居らしめば、僕は偉大な事業を完成し、そして君を市長に選挙して!",
"よせ、よせ。いつまで夢の中の寝言みたいなことを喋りつづけているんだ。ほら、足許に大きな石っころがあるよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日初版発行
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2001年7月17日公開
2006年7月24日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
"ミチ子、いまのお爺さんの顔を見た",
"ええ見たわ。口が狐のようにとんがって、ずいぶんおかしかったわ。兄さんも見たの",
"うん、僕も見たとも。笑いたくてね、それをこらえるのにとても困っちゃったよ。あはは",
"おほほほ",
"ミチ子、ちょっと兄さんが真似をしてみせようか。ほら、こんな具合に――"
],
[
"あっ、あれが軍艦淡路だ。すごいなあ",
"あら、あんなに傾いているわ。兄さん、あの軍艦は沈みはしないかしら",
"さあ、どうだか。誰かに聞いてみようよ、ミチ子"
],
[
"警官、藁むしろは集りそうですか",
"ここの村では、水兵さんが申し出られたほどは集りませんが、その半分ぐらいは集りそうです。のこりの半分は、いま方々へ人を出して集めていますから、心配はいりませんよ",
"そうですか。早くしてもらいたいですね。潮はこれからどんどん引くそうだから、軍艦はますますあぶなくなります",
"水兵さん、一体どうしてあんなことになったんです。航海長の失策ですか",
"いや、そんなことはない。全く不思議というよりほかはないのです。いつの間にか、あの大きな艦体が陸地へひきよせられていたというわけです。まるで磁石に吸いよせられた釘のようなわけですよ",
"変なことですねえ",
"変なことといえば、もっと変なことがあるんです",
"えっ、もっと変なことがあるんですか"
],
[
"じょ、冗談じゃありませんよ、警官。あれは鋼鉄の柱ですから、風が吹いたくらいで曲るものですか",
"なるほど、それもそうですね。これはどうも訳がわからないことになった"
],
[
"ははあ、上空からこのへん一帯を警戒しているのだよ",
"兄さん、たいへんなことになって来たわねえ"
],
[
"あっ、帆村おじさんだわ。おじさん、いつここへいらしたの",
"ああおじさん、とうとうやって来たねえ。僕、なんだかおじさんが来るような気がしていたよ",
"ああそうかそうか"
],
[
"おじさん、あれのこと?",
"そうだそうだ。丁度軍艦淡路が坐礁している丁度真正面になるだろう",
"おじさん、あの塔になにか怪しいことがあるの",
"さあ、それは今は何ともいえない。そうだ一彦君ここに双眼鏡があるから、これであの塔を見てごらん"
],
[
"おや、塔の中に誰かいますよ",
"なに、いるかい。双眼鏡をこちらへお貸し",
"ちょっと待って、おじさん"
],
[
"おじさん、ここに入口があるよ",
"うむそうか。開くかどうかやってみよう"
],
[
"うふふふ、ずいぶん弱虫に見えたろうね。それでいいんだよ。あの怪塔の大将は、なにかテレビジョンのような機械をつかって、僕たちが忍びよったところを、手にとるようにはっきり見ているんだ。ところが、こっちには向こうの大将が見えないんだから、喧嘩にならないじゃないか。あんなときには、こっちが弱虫で、すっかり腰をぬかしたように見せておくと、向こうは本当に自分が勝ったんだと思って安心するんだ。そこで向こうが油断をする、そこを覘って、こっちが攻めていく、どうだ、いい考だろう",
"へえー、では帆村おじさんは、それほど弱虫ではないんだね。そうとは知らなかったから、さっき僕は、がっかりしちゃったよ"
],
[
"さあ、そこで一彦君、こんどはいよいよ怪塔を攻める方法を考えるんだ。一体どうしたらあの塔の中にうまく忍びこめるだろうか",
"さあ――"
],
[
"どうだね、一彦君。いい考がうかばないか",
"僕、なにもわからないや",
"なにもわからないようじゃ駄目だねえ。もっと考えなくちゃ",
"おじさんは何か考えているの",
"うん、おじさんも実は困っているんだが、とにかく昼間行くと怪塔王に見られてしまうから、夜になって近づくのがいいということはわかるよ",
"なるほど、おじさんはえらいや。それからのちはどうするの",
"それからのちは――困っているのだ",
"おじさん、梯子か竹竿をもっていって、一階の窓にとりつきガラス窓をこわしてはいってはどう",
"それは駄目だ。さっき窓をよく見てきたんだが、ガラス窓の外にはもう一枚鉄の扉がしまるようになっている。夜になると、きっと、窓は鉄の扉にとざされて、なかなかはいれないと思うよ",
"それじゃ困ったね。窓からは駄目だ",
"入口の扉をあける合鍵でもあればいいんだが……",
"鍵?"
],
[
"ねえ、おじさん。鍵の形がはっきりわかっていると、それと同じ鍵をもう一つ作ることができるねえ",
"なんだって、鍵の形がわかっているのかね"
],
[
"ねえ、おじさん、どうしよう",
"うむ"
],
[
"おじさん、やっぱり退却するの",
"うん、どうも仕方がないよ。折角鍵まで用意してきたけれど、これじゃ深入りしない方が後のためになる。さあ一、二、三で駈けだそう。走るときは真直に走っちゃ駄目だよ。鋸の歯のようにときどき方向を急にかえて走るんだぜ。そうしないと、塔の上から射撃されるおそれがある"
],
[
"ここは何をするところなの",
"さあおじさんにはわからないよ。しかしまるで軍艦の機関室みたいだね",
"塔の中に、軍艦の機関室があるなんて、変だね",
"うむ変だねえ。なにか訳があるのにちがいない――さあ、いよいよこの上に怪塔王がいる部屋があるのにちがいない。一彦、しっかりするんだよ"
],
[
"おじさん。怪塔王は目をあけたまま眠っているんだよ",
"ふーむ、そうかね"
],
[
"なにもわしが喋ったとて、そう驚くことはないじゃないか、これはせめて貴様たちの冥途のみやげにと思って、聞かせてやったばかりよ",
"えっ、冥途のみやげにとは――僕は貴様などに降参したおぼえはないぞ"
],
[
"これ、無駄にたまをつかうなよ",
"なにっ!",
"なにもかにもないよ。ほら見るがいい、貴様のうったピストルのたまは、こんなところに宙ぶらりんになっているじゃないか"
],
[
"おじさん、だめだなあ。こんなになってからいくら弱音をはいても、なんにもならないじゃないか。それよりは元気を出して考えるんだよ。一生懸命になって考えると、またすてきなことがみつかるよ",
"よく言った、一彦君。おじさんが弱音をはいたのはわるかった。さあ元気を出して、怪塔王とたたかうぞ"
],
[
"あっ、止った",
"まっくらで、なにも見えない",
"手提電灯をつけてみよう"
],
[
"帆村おじさん、この鉄の檻から出る工夫はないの",
"うむ、鉄の檻ではどうもならないね"
],
[
"ほう、床に転がっているこの丸太ん棒が邪魔をしているから、檻が床までぴったり下らないのだ。これは天の助だ。一彦君、君は小さいから、この檻と床との隙間をくぐって檻から這出してごらん",
"ええ、僕、やってみる!"
],
[
"じゃあ、これから僕たちは、ここを逃げだすの。つまんないや",
"そんなことをいっていられないのだ。さあ幸にこの扉はさっきあけたばかりだから、そこをあけて、外へとびだそう"
],
[
"それがどうも変なのであります",
"なにが変だ",
"この先の別荘に泊っているので、今朝からいくども使者をやっていますが、その別荘にはミチ子さんという、親類のお嬢さんがいるきりで、本人は一彦君というミチ子さんの兄にあたる少年をともなって出たまま、まだ帰ってこないというのであります",
"ふーん、どこへ行ったのかな",
"お嬢さんもよく知らないといっていましたが、なんでも向こうの塔を見にいったとかいう話です",
"なに塔だって。その塔とはどこにある塔か",
"さあそれがどうも、艦橋からすぐ前に見えていた塔であるように思われるのです"
],
[
"いや、そこまではやって居りません。しかし塩田大尉、なぜ帆村探偵のことをそんなに気にされますか",
"うん、それはこういうわけだ。僕はこの前の遠洋出動のとき、あの帆村荘六の『探偵実話』という本を読んだことがあるんだ。今もどこかにその本があるかも知れない。帆村探偵というのは、理学士かなんかで、なかなか新しい探偵術をもって、科学応用の悪人を征伐してあるくという変り者だ。だから彼がわが軍艦淡路の事件で、この土地にやって来たからには、きっと相当に活躍するだろうと思うんだ。僕は、それをひそかに期待していたんだが、彼が別荘に帰って来ないというのは、どうも変だね"
],
[
"なんだ小浜。また鶏のようにあわてとるじゃないか",
"いや、あわてるだけのことはありますよ。私は酉の年ですからね",
"酉年は知っている。大変の方はどうしたのか",
"そ、それです。塩田大尉、すぐ甲板へあがってください。貴下でもきっと顔色をかえられるような、たいへんなことが起っています"
],
[
"塩田大尉、あれをごらんください。あそこにたっていた塔が、どこかへ姿を消してしまったではありませんか",
"なに、塔が姿を消したって。誰がそんなばかばかしいことを本当にするものか",
"いや、そのばかばかしいことが本当に起ったのです。では塩田大尉には、あの塔が見えるのでありますか",
"見えないはずはない、あの塔は、あの辺にたしかにあったと思ったが――"
],
[
"これあ不思議だ。小浜、お前のいうとおりだ。たしかにあの塔が見えなくなった",
"やっぱり私の申しましたとおりでしょう",
"うむ、これはたしかに一大事だ。あの塔が見えなくなったとすると、あそこを調べにいった帆村探偵は一体どうなったのだろう"
],
[
"帆村おじさん、なぜこの塔の出口が、土の壁でふさがれたんだろうね",
"ふーむ、おじさんにもよくわからないのだ。だがね一彦君、これは土の壁というよりも、むしろ土壌といった方が正しいのだよ",
"えっ、どじょう。どじょう――って、あの鬚のある、柳川鍋にするお魚のことだろう。なぜこの土がどじょうなの"
],
[
"土壌って、魚のどじょうのことではない。いまいった土のことを土壌というのだよ。つまり大地を掘れば、その下にあるのは土壌ってえわけさ",
"なんだ、ただの土のことか、僕は魚のどじょうのことかと思ったから、それで驚いてしまったんだよ",
"いや、君はときどき面白いことをいうね。いま君に笑わせてもらったお陰で、おじさんはたいへん気がおちついてきたよ"
],
[
"だって塔が下るなんて、信じられないや",
"一彦君、お聞き、エレベーターだって、五十人も百人ものれる大きなやつがあるんだぜ。この怪塔王という不思議な人物は、戦艦をこの塔へひっぱりつけたほどの怪力機械をもっているのだから、この怪塔を上げ下げすることなんか朝飯前だろう",
"な、なーるほど"
],
[
"わっはっはっ、もう二人とも、死ぬ覚悟はついたかな",
"なにを――"
],
[
"なんだ、青二才、命がおしくなったか",
"いや、お前こそ気をつけろ。いま時計を見ると、丁度この塔へむかって、わが海軍の巨砲が砲撃をはじめる時刻だ。お前こそ命があぶないのだぞ",
"えっ――それは本当か",
"本当だとも。そんな手筈がついていなければ、僕たちのような弱い二人で、なぜこんなあぶない塔の中へはいりこむものか"
],
[
"おじさん、これはなんの音だろうね",
"さあ、よくわからないけれど、なんだか地べたの中で、さかんに爆発しているようだね",
"地震じゃないかしら",
"うん、地震とはちがうさ。怪塔王は、軍艦から砲撃されると聞いて、逃げだすつもりらしいのだ。してみればこの怪塔をなんとかうごかすつもりなのだろう",
"どんな風に動かすの",
"さあ、それは――"
],
[
"あっ、とびだした",
"うむ、やったな――"
],
[
"一彦君、これはたいへんだ。僕たちはいま空中をとんでいるのだよ",
"えっ、空中をとんでいるの。やはりそうだったの。僕は頭がなんだかぼんやりしてしまった"
],
[
"うん、そのことなら、大体見当はついていますわい。やはり、どこか人気のないところでしょうな。海岸とか、山の中とか、そういうところですね",
"博士は、それをはっきり探しあてるにはどうすればよいとお考えですか",
"それはやはり、怪塔の科学者が、このように軍艦の鉄板などをどんな力でとかしたか、それを調べるのが先ですな。それがわかれば、その怪力に感ずる、例えば受信機のようなものを作って飛行機にのせ、空中をとびながら、怪力の強くなる方角へとたどっていけば、きっと怪塔のあるところへ行きます",
"なるほど、それはいい方法ですね。するとこの怪力を博士に調べていただかねばなりませんが、何日ぐらいかかりますか"
],
[
"まあ、この通風筒の鉄板などをもってかえって、できるだけ早く調を終えることにしましょう。じゃあもう帰りますよ",
"博士、もうおかえりですか",
"こんな落ちつかぬところじゃ、いい考えも出ませんよ。はい、さようなら"
],
[
"塩田大尉、一大事ですぞ",
"なんだ、小浜、お前にも似あわず、あわてているじゃないか",
"あっはっはっ、あわてているかもしれませんね。とにかく怪塔ロケットの行方がわかりかけたのです",
"なに、怪塔ロケットの行方が――"
],
[
"ほう、それはうまい。しかし大利根博士は、怪塔から発射する例の怪力の正体がわからないうちは、とても怪塔の行方はわかるまいと言っていられたぞ",
"博士はそんなことを言われましたか。しかし、いま無線班は、怪塔から出していると思われる無線電信をつかまえたのです。それは非常に弱い無線電信で、しかもはじめは、たった二十秒間ほどしかきこえませんでしたが、たしかに軍艦淡路を呼んでいるのです",
"ほうほう"
],
[
"なにか信号の意味でもわかればいいと思って苦心しましたが、たしかに電文をうっているのですが、符号がきれぎれになって、よく意味がききとれません。しかし淡路の呼出符号だけは、幾度もくりかえされるので、ははあ、こっちを呼んでいるなと、わかるのです",
"うむ、それから――"
],
[
"そこで、向こうが何をいっているのかを、聞きわけることはあきらめまして、その代りその無線電信が、どの方角からやってくるかをしらべることにしてすぐとりかかりました",
"大いによろしい。そして無線電信のやってくる方角はわかったか",
"はい、始の電信はすぐ消えてしまいましたが、それから五分間ほどたちますと、またおなじ電信がはいってきたので、そいつを捕獲することに成功しました"
],
[
"塩田大尉、その方角は方向探知器の目盛の上にあらわれました",
"どっちだ、その方角は"
],
[
"ふうむ、北の方角だな。ついでにどの地点かわかるといいのだが――",
"はあ、それもやってみました",
"やった?",
"はい、ちょうど駆逐艦太刀風が、鹿島灘の東方約二百キロメートルのところを航海中でありましたので、それに例の怪電波の方角を測ってもらいました。あいにく洋上は雨風はげしく、相当波だっていますそうで、太刀風の無線班も大分苦心をして時間がかかりましたが、それでもついにわかりました。太刀風からはかった怪電波の方角は、大体真西から北へ十度ということになりました",
"そうか、真西から北へ十度かたむいているというと――日立鉱山のあたりか、勿来関のあいだとなるね",
"はい、線をひいてみますと、こうなりますから――"
],
[
"方向探知器の方が、大利根博士よりもえらい手柄をたててしまったぞ",
"はあ、そうでありますか",
"なぜといって、大利根博士は怪塔ロケットがどこへ行ったかしらべるのは、なかなかだといっておられた",
"はあ、では大利根博士に、怪塔の行方がわかったと知らせますか",
"そうだね"
],
[
"あっ塩田大尉、はいりました、はいりました。たしかに例の怪電波です。たいへん大きくきこえます。こんどは符号もよみとれそうです",
"それはすてきだ。しっかり無電をうけろ"
],
[
"おい小浜兵曹長。いまの無電は、この前軍艦淡路できいたのと、同じ無電機でうってきたのだろうか",
"はい、同じものだとおもいます。音は大きくなりましたが、向こうの機械は、よほどあやしい機械とみえまして、音がふらふらよっぱらいのようにふらついてきこえます",
"ふん、まるで上陸した夜の、貴様の足どりみたいだな"
],
[
"あっ、あれだ",
"そうだ、怪塔が見える"
],
[
"承知しました。すぐ全機で急行いたします",
"頼みましたよ"
],
[
"爆弾を投下したが、爆発しない――というのか。そんなばかなことがあってたまるか。なあ小浜兵曹長",
"はあ、わからんでありますな。爆弾が昼寝をしているわけでもありますまい"
],
[
"ああっ、あれはなんだろう。おい、小浜あそこを見ろ",
"どこです。塔の上ですか"
],
[
"これは不思議だ。上からおとした爆弾が、下におちないで、あのように宙ぶらりんになっている。一体どういうわけかしらん",
"塩田大尉、まるで魔術みたいですな。こいつはおどろいた"
],
[
"よし、これでよし",
"塩田大尉、なにがよいというのですか"
],
[
"おいジャン。先生はなにをしているのかなあ",
"うん、ケンよ。ベルがじゃんじゃん鳴って、危険をしらせているのにね"
],
[
"だめだよ、だめだよ。先生がちゃんとさしずをしなければ、塔はうまくうごいてくれないよ",
"そうだ、ジャンのいうとおりだ。それよりも先生がなにをしているのか、それを早くしる方法はあるまいか",
"それはない。おれたちは、この円筒のなかにはいったきりで、外へ出ようにも鎖でつながれているから、出られやしないじゃないか"
],
[
"こら、お前たち。あの警報ベルがなっているのが聞えるだろうな",
"は、はーい",
"あれはお前たちも知っているとおり、この塔の一部がこわれたのを知らせているのだ",
"はい、はい",
"このままでは危険だから、塔をはやくうごかさにゃあぶない",
"はあ、そのとおりです。私どももさっきからそれを申していましたので……",
"じゃあ、すぐうごかせ。よく気をつけてうごかすんだぞ",
"先生、どっちへ塔をうごかしますか",
"うん、それは――"
],
[
"そうだ、横須賀の軍港へ下りるように、この塔をとばしてくれ",
"へえ、横須賀軍港! それはあぶない"
],
[
"いや、なかなか心配ある。軍港には、大砲ばかりでない。日本水兵なかなかつよいよ。それが塔の中へはいってくる。磁力砲では人間をふせぎきれない",
"そのときは、殺人光線でもって水兵をやっつける",
"だめだめ。殺人光線は、かずが一つしかない。大ぜいの水兵がせめてくると、殺すのがなかなか間にあわぬ",
"いや、だめでない",
"いやいやだめだめ"
],
[
"こうら、ジャンにケンにポンよ。わしの声がわからないか。お前たちの前にいるのは、にせ者のわしだぞ。言うことを聞いてはいけない",
"えっ、それでは――"
],
[
"なにをぐずぐずしている。塔をはやく横須賀へ――",
"いや、横須賀へ飛ばせることはならんぞ"
],
[
"横須賀へ飛ぶんだぞ",
"だめだ。太平洋の方へ飛べ"
],
[
"ああ、怪塔ロケットが、あんなところからとびだした",
"うむ、怪塔ロケットだ。逃すな。それ、全速力で追撃!"
],
[
"おい小浜、わが機はもう全速力をだしているのだろうな",
"はい、塩田大尉、速力はもういっぱいだしております",
"そうか。はやく追いつかないと、夜になってしまう。すると、さがすのに面倒だ",
"は、こんどは何としても追いついて、体当りで撃墜したいものだと、私は考えております",
"うむ、俺も同感だ。俺はこっちの機体を怪塔ロケットの尾翼にぶっつけて、舵をこわしてやろうと考えている。舵をうしなえば、いくら怪塔ロケットだって飛ぼうと思っても飛べないではないか",
"なるほど、それは名案ですな。よろしい、私はうんとがんばりますよ"
],
[
"怪塔は、どこへいった",
"あれあれ、見えないぞ"
],
[
"おおいたか。どこだ",
"あれです。あそこの夕やけ雲をつきぬけて下へおちていくのが見えます"
],
[
"あっ、怪塔ロケットが海の中にもぐりこんだぞ",
"いや、墜落したのだ。早くあの真上までいって見よ"
],
[
"――僕のことかい。僕は一彦という名前なんだよ",
"なんじゃ、カズヒコというのか",
"そうだ、一彦だ。怪塔の中から逃げだしたんだ。その時こんな風に傷をおってしまったんだ"
],
[
"ほら、昨日のことさ。たくさん飛行機がやってきて、空から爆弾をおとしていたじゃないか。この山の向こうで、やっていたじゃないか。あれは飛行機が怪塔を攻めて、空から爆撃していたんだよ",
"ほうほう、なるほどあれか。わしは演習をやっているのかと思っていたんだ",
"演習だなんて、爺さんはのんきだなあ。そしておしまいに大きな塔が尾をひいて、空中にとびだしたじゃないか。あれが怪塔だよ。僕は、あの塔の中から逃げだしたんだよ"
],
[
"うん、これかね。これはわしの大得意な竹法螺じゃ",
"竹法螺って、なにさあ",
"お前は竹法蝶を知らないのか。こいつはおどろいた。まあ見ているがいい"
],
[
"さあ、このくらいやれば、村の衆の耳に、この竹法螺の音がはいったろう",
"お爺さん、今の竹法螺を聞きつけて、村の人がこの山の中までのぼって来るのかい",
"そうさ。皆おどろいて、ここへのぼって来るよ。ああ言うふき方をすると、ちゃんと場所がわかるのさ",
"竹法螺をいろいろにふきわけて、ふもと村へ言葉を知らせられないの",
"ふきわけて言葉を知らせることができるかって。それは無理だ、息がつづかない"
],
[
"いいものがあったよ。これならふもと村へ通信することなんか、わけなしだ",
"えっ、それはなんのことだね",
"あの炭焼竈のことさ。あれに火をつけると煙突から煙がむくむくでてくるだろう。そのとき風呂敷か板片かをもって屋根にのぼり、煙突から出る煙を、おさえたり放したりするのさ、それを早くくりかえせば、煙突から短い煙がきれぎれに出てくるだろう。またそれをゆっくりやれば、長い煙がきれぎれになって出てくるだろう。つまり煙でもって、短い符号と長い符号とをだすことができるから電信と同じように、モールス符号を出すことができるのさ。ふもと村に、モールス符号のわかる人がいればこっちでだしている煙のモールス符号を読んで、ははあ、あんなことを言っているなと分るだろう。ねえ、僕がモールス符号をつづるから、爺さんは屋根にのぼって、このとおり、炭焼竈からでる煙を短く、あるいは長く符号にして出してくれないか",
"ほほう、お前は子供のくせになかなか智恵がまわるわい"
],
[
"爺さん。僕、起きたい、起きたい",
"まあ、そうむりをいうちゃならねえ。お前は怪我しているということを、忘れちゃいけねえぞ"
],
[
"塩田大尉、ありがとう。どうもありがとう",
"いや、なあに。それよりも一彦君は、じつに元気だね。水兵だって、君の元気には負けてしまうぞ。――そして、一体君はどうして怪塔から抜けだしたのか。帆村君はどうした。はやく聞かせてくれ"
],
[
"――僕、おどろきましたよ。だって、怪塔が、ものすごいうなりごえをあげて、空高くまいあがったんですものねえ。それから空中をあちこちと、ぶんぶんとびまわり、どうなることかと、窓わくにすがりついて、ひやひやしているうちに、こんどはどすんと大きな震動とともに、怪塔がしずかにとまってしまったんです。そのとき自分はもう死んでしまって、墓場にはいりこんだのじゃないかと思ったくらいです。あのときはじつにこわかった",
"うむ、そうだったろうねえ"
],
[
"――それからですよ、帆村おじさんの活動がはじまったのは。おじさんは、怪塔の二階をいろいろと苦心してうかがいましてね。怪塔の中には、怪塔王のほかに、妙な筒の中に黒人が住んでいることをさがしあてたんです。黒人は、怪塔王のいいつけなら、どんなことでも素直にはいはいときいて、機械をうまくあやつるのです",
"ほう、そうか。よし、なかなかいいことをしらべてくれた",
"――そのうちに帆村おじさんは、僕をぜひとも逃してやりたいといいました。僕はひとりで逃げるなんていやだとことわったんですけれど、帆村おじさんは、お前が逃げ出して、塩田大尉などに大事なことを知らせてくれないと、怪塔王はいつまでも暴れ、軍艦などに害をあたえるというので、僕はようやくいうことを聞きました。そして帆村おじさんが、鉄の窓わくを永い間かかってこわしてくれたので、その狭いところから、外へとびだしたんですが、そのとき足に怪我をしました",
"もうそれだけかい。帆村君からの言づてはほかになかったかい",
"いや、一つ重大な言づてがありますよ"
],
[
"そうだ、帆村おじさんはこういってましたよ",
"ふむ――"
],
[
"それはね、大利根博士にぜひ会ってくださいって。そして大利根博士の体に、なにか変ったことがあるかないか、ぜひともそれを調べておいてくださいって、いってましたよ",
"ふん、ふん。大利根博士に会えというんだな。そして博士の体に変ったことがないか調べてみろといったんだね。うむ、よくわかった。やっぱり帆村君は、なかなかの名探偵らしいぞ"
],
[
"おおミチ子、よく来てくれたね。兄さんの怪我は大したことないんだよ、心配しなくていいんだよ",
"あら、そんなに軽いの。うれしいわ。でも痛むでしょう",
"痛かないよ。すこしちくちくするくらいだよ。あと四五日すれば歩けると、院長さんがいったよ。僕は心配なしだけれど、心配なのは、帆村おじさんだ",
"ああ帆村おじさん! おじさんは、どうして"
],
[
"さあ、もう大丈夫だ。きょうは塩田大尉が来てくださると言ってたが、もう見えそうなものだね",
"塩田大尉が見えたら、御用があるの"
],
[
"うん、僕はね、塩田大尉と約束がしてあるんだよ",
"約束ってどんなこと",
"約束というのはね、僕を大利根博士のところへつれてってくれると言うことだよ。しかしこのことは、他人に言っちゃいけないよ。帆村おじさんが怒るからね"
],
[
"ああ塩田大尉",
"おお一彦君か。おやミチ子さんもいるね。二人ともうれしそうだな――一彦君、よろこびたまえ。今院長さんに聞いて来たんだが、君の傷はもう大丈夫だそうだよ"
],
[
"塩田大尉、僕と約束のこと忘れていませんね",
"え、約束。うむ、あのことか。しかしあのことはまあ、僕にまかせておいて――",
"いやだなあ、あんなことを言っている。僕はどんなにか待っていたんですよ。ぜひお伴させてください。それが帆村おじさんを救う近道のように思うんです"
],
[
"一彦君は、伝書鳩を知っているかね",
"伝書鳩ですか。知っているどころか僕は鳩の訓練も上手なんですよ",
"そうかい。それはえらい。では君に伝書鳩を二羽あずけておこう。これでもって、腰にさげておきたまえ"
],
[
"何も返事がありませんね",
"うむ返事がない。そうだ、返事がないのがあたり前かもしれない。りんりんりーんりんと特別の鳴りかたをしなければ奥へ通じない規則があったね。それをいま思い出したよ"
],
[
"大利根博士は、お邸にいるのですね。ベルが鳴りましたから",
"まあ、どうかなあ",
"だって、今のベルは特別符号をおくったのでその返事として鳴ったんでしょう、博士の耳に通じたにちがいありませんよ",
"そうかなあ"
],
[
"博士は留守なんですかねえ",
"ふうん、どうだかなあ"
],
[
"塩田大尉が来たということが、はっきり博士の耳に通じないのですよ。もう一度、よんでみてはどうです",
"そうだね。じゃもう一度、声をかけよう"
],
[
"はい、な、なんですか",
"これをよんでごらん"
],
[
"体もなにも変りはないよ。変なのは、この扉のうちで返事をした博士の言葉が、いつも同じ文句だということだ。まるでゴム判をおしたように、“ああ、ああ、うるさい”などと、同じことをいっているのだ",
"それがどうしたのです",
"一彦君、おどろいてはいけない。博士は留守なのだ。博士はこの部屋の中にはいないのだよ"
],
[
"それはなんですか",
"これは爆薬だ。これを入口にしかけて扉をこわすのだよ"
],
[
"これ、なんでしょう",
"おお一彦君。これは蓄音機だよ。しかし普通の蓄音機とちがう。これはね、こっちから大利根博士の名をよぶと、ひとりでに音盤が回りだして、蓄音機から声が出る仕掛になっているんだ",
"えっ、なんですって",
"君にはわからないかねえ。つまりこの室内に大利根博士はいなくて、そのかわりにこの蓄音機が仕掛けてあったんだ。入口の外で博士の名を三度よぶと室内では音盤がまわりだして、“研究中だ、会わないぞ、帰れ帰れ”などと博士の声が、この蓄音機から聞えてくるのだ。だからこれを聞いた者は、室内に博士がいるのだと考える。ほんとうはこのように博士は留守なんだ。誰がこしらえたのか、たいへんな仕掛をこしらえてあったものだ。も少しで、うまくひっかかるところだった"
],
[
"どうも変ですね。塩田大尉、これはきっと博士が人と口をきくのがいやなので、こんな仕掛で、来る人をみなおっぱらっているのではないでしょうか",
"うん、一応はそうも考えられるね。だが一彦君、一方ではこういうふうにも考えられはしないだろうか。つまり、大利根博士は、この研究室にたてこもっていると見せかけるため、わざわざこうした仕掛をしておいたとね"
],
[
"なにがインチキなものか、貴様こそ偽ものの怪塔王だろう。くやしかったら、貴様が顔をつつんでいる風呂敷をとって、黒人やわしに、貴様の地顔を見せろ",
"ば、ばかな!"
],
[
"さあ、もういいだろう。そのへんで降参したがいいじゃないか",
"いやだ。天下無敵の怪塔王が、貴様のようなインチキ野郎に降参したり、この大事な怪塔をとられたりしてなるものか"
],
[
"僕は爆発なんぞ平気だ。怪塔とともに、ここで粉々にくだけてしまっていいとおもっている",
"それは無茶だ。命は一つしかない",
"貴様はそんなに命がおしいのか"
],
[
"では、海底から怪塔をとびあがらせるがいいじゃないか",
"駄目だ。お互の、このかっこうでは駄目だ。黒人には、どっちが本当の怪塔王か見分がつかなくなっている。だから、どっちの命令を聞いていいか、わからない",
"じゃあどうすればいいのだ",
"わしの部屋から貴様が盗んだものをどうか返してくれ"
],
[
"じゃあ、貴様の頼みをきいて、あれを返してやろうよ。こっちへ来い",
"えっ、返してくれるか"
],
[
"おっととっ、そのまま近づいちゃいけないよ。両手を高く上るんだ。頭より高く上るんだ。さもなければ、僕は貴様の恐れている秘密を黒人に――",
"待て――"
],
[
"うむ、約束はかならず果すよ。しかしその前に、貴様の体を念いりにしらべておかねば、あぶなくて安心していられない",
"なに、体をしらべるって。ちぇっ、そんな約束をしたおぼえはない"
],
[
"ばかなことをいうな。僕の方こそ、貴様の体をしらべない約束なんかしなかったぞ。それがいやなら、やはり怪塔の爆発するのを待つことにするか",
"いや、いや、いや。それはいかん。怪塔が爆発すれば、こっちの命がない。まあ仕方がない。なんでもしらべろ",
"それみろ、余計な手間をとらせやがる"
],
[
"どうかあれを早くかえしてくれたまえ",
"よし、かえしてやろう"
],
[
"よろしゅうございます。こうなってはあなたさまのおっしゃるとおり、なんでもいたします。私としては、この海底から一刻もはやくのがれたいのです。私の一番こわいのは、海面にうきあがる以前に、この塔ロケットが爆発しやしないかということです",
"水中に永くいると、なぜ爆発するのかね"
],
[
"それは、ロケットをうごかす噴出ガスの原料であるところの薬品に、塩からい海水がしみこむと、だんだん熱してきて、おそろしい爆発がおこるのです",
"じゃあ、海水のはいらないようにしておけばいいのに",
"そうはいきません。どうしても金属壁の隙間から浸みこんで来ます。さあ、帆村さん、はやくマスクをかえしてください",
"うん、マスクはここにある"
],
[
"いや、だめだ。しばってある貴様の手をほどいたりすれば、貴様はどんなにおそろしいことをやるかしれない",
"ああいた、いたい"
],
[
"それほどいたくもないくせに、いたいいたいなどとおどかすなよ",
"いえ、ほんとにいたいのだ。ああいたい",
"いくらいたくても、僕はけっしてほどいてやらないぞ。じゃあマスクは、ぼくが貴様の顔にはめてやろう",
"えっ、あなたさまがマスクを私の顔にはめてくださるというのですか"
],
[
"なにをそんなに、ため息などをつくのだ",
"いえ、ため息というほどのものではありません。さあ、では一刻もはやく、私にマスクをかぶせてください",
"うむ、いまやってやる"
],
[
"ありゃありゃ",
"うう、ありゃありゃ"
],
[
"よいか。――次は飛行準備だ",
"はーい、飛行準備は出来ております"
],
[
"よろしい。――ではいよいよ出発!",
"よーう"
],
[
"兵曹長、青江はですね、日中戦争のときからこっち、敵と名のつくものを狙ったが最後、そいつを叩きおとさないで逃したなんてことはですね、ただの一度もありゃしないのであります。がんばるもがんばらないも、あの怪塔ロケットを叩きおとすまではですね、私はなにも外のことは考えないのです",
"外のことって、なんだい"
],
[
"それは、つまりガソリンがきれるとかですね、敵の高射砲が盛に弾幕をつくっているとかですね、それからまた自分が死ぬなんてこと――そんなことをですね、外のことというのであります",
"ふうん、ガソリンのきれるのも、弾幕のこわいことも、自分が死ぬことも考えないのだね。すると、貴様は、俺の死ぬことは心配してくれているのだね",
"いえ、どういたしまして、自分の命はもちろんのこと、上官の命もですね、どっちも心配しておりません。そもそも私の飛行機にお乗りになったということがですね、上官の不運なのであります。それとも――",
"なんじゃ、それともとは――",
"いや、どうも私は夢中になって自分の思っていることをしゃべるくせがあっていけません。なんですか、上官は命がおしくなられたのでありますか",
"ばかをいえ。俺が若いときには、貴様より三倍も命がおしくなかった",
"今は?",
"今か。今は十倍も命がおしくない。だから、貴様そうやってがんばって操縦しているが、俺の目から見れば、まだまだがんばり方が足りんな"
],
[
"なに、まだだって",
"そうであります。私の得意とするがんばり方を十分に兵曹長にごらんにいれていないのであります",
"なんだって。まだがんばるというのか",
"いよいよこれから本当にがんばるのであります"
],
[
"青江三空曹、なんだかエンジンがとまりそうじゃないか。がんばり方が足りないぞ",
"そうじゃないんです。がんばっていますが、エンジンが言うことを聞いてくれません。まだ参るには早いのだが、変ですね",
"そうか、さては――"
],
[
"おい、青江、いよいよこのへんで、貴様の高等飛行の手並を見せてもらうぜ",
"はい、それを待っておりました。かならず敵を征服いたします"
],
[
"うん、その調子でしっかりたのむぞ。では、おれが命令するとおりに操縦をしてみてくれ",
"はい、承知しました",
"では命令を発するぞ。――まず急上昇!",
"はい、急上昇!"
],
[
"上官、やりなおしをいたします",
"うむ、おちついてやれ"
],
[
"はあ、エンジンをかけないでよろしいのでありますから、ガソリン節約になりましてけっこうであります",
"はっはっはっ、ガソリン節約はお国のため――というやつだな。しかし怪塔ロケットはすっかりおとなしくなったね",
"はい、おとなしくなりました。しかしあれでスピードを出しますと、まっすぐはとべないのですよ。御承知のとおりロケットの舵がこわれていますうえに、こっちの麻綱が舵の上からおさえつけていますので、スピードは出せますが、思う方向へとぶことができないのであります。つまり、どこへとぶのやらさっぱりわからないのであります",
"うん、どこへとぶやらさっぱりわからないわい。高度はいま一万メートルだが、いま何県の上空にいるやらさっぱり、下が見えないや"
],
[
"上官、まったく気持がいいですねえ。第一、エンジンをはたらかさなくてもいいからガソリンはいらないし、その上エンジンの音もプロペラの音もしないから、しずかでいい。ただうるさいのは、あの怪塔ロケットが放出するガスの音です",
"うん、ガスの音もかなわんけど、ガスの臭はいやだな。プロペラがまわらなくなったので、あの悪臭が頭の上から遠慮なくおりてくる",
"それでは毒ガスマスクを被りましょうか",
"うん、それほどのこともなかろう。ロケットのお尻の方にまわったのが、こっちの不運だ。いや、今になれると楽になるよ",
"私は、ガスの悪臭をそれほど苦に感じません",
"ほう、それほど感じないとは、貴様にしては感心だな。おれは相当つらいよ",
"いや、それほど私をほめていただかなくともいいのであります",
"貴様、きょうはいやに謙遜するね",
"どうも恐れ入ります。じつは昨日から風邪をひいていますので、鼻がきかないのであります",
"なんだって、風邪をひいていて、鼻がきかないというのか。わっはっはっ、なるほどそれなら、臭いものを嗅いでも平気の平左でいられるはずだ。わっはっはっ",
"えへへへへへ"
],
[
"おや、また怪塔王が、窓から顔をだしているぞ",
"あっ、なにか手に持っていますぞ"
],
[
"あっ、あんなものを出しやぁがった。あれはなんだろう",
"さあ、ベルクマン銃に似ていますけれども、ベルクマン銃が三つ寄ったくらいこみいった武器ですね",
"そうだ、武器にちがいない。どうするつもりかしら。ともかく戦闘準備だ。ぬかるなよ"
],
[
"おおあれだ。たしかにあの武器だ。金属にかけると、めらめらと焔をあげてとけてしまうというおそるべき武器だ。あれが怪塔王が一番大事にしている武器なんだ。あっ、あのとおり、怪塔ロケットの壁がとろとろとけていく。おい青江、あれをみろ",
"上官、私ははじめてみました。あれが噂にたかい磁力砲なのですか。しかし怪塔王は、自分の乗っているロケットの壁をとかして、一体なにをしようというのでしょう"
],
[
"うん、あれはね、怪塔王のやつ、こっちが麻綱にひっかけておいた錨をねらっているのだよ。つまりあの錨をとかせば、麻綱がほどけると思ってそれでやっているのさ",
"ああ錨をとかすつもりなのですか。錨よりも、麻綱を切ればいいのに。怪塔王も、考えが足りませんね。あっ、はっ、はっ"
],
[
"どうです上官、機関銃をあびせかけてみましょうか",
"うん、機関銃の弾丸はうまくとどくまいよ、磁力砲が弾丸をはじきかえすだろうから",
"しかし、怪塔王が磁力砲をひねくりまわしているのを、こっちはじっと手をこまぬいてみているのはたまりませんね",
"そうではない。おれは、さっきから、本隊へしきりに通信しているんだ。怪塔王がいま磁力砲をあやつっているのが見えますといってやったら、司令はよろこばれて、もっとよく観て、くわしく知らせろといわれるのだ。当分じっとしていて、怪塔王のすることをみていることにしよう",
"ああそうですか、本隊では、磁力砲のはなしをよろこんでいますか。だが、じっとしているのはつらい。もっと手が長かったら、怪塔王のあのにくい顔を下からがぁんとつきあげてやりたいがなあ"
],
[
"おや上官、麻綱がぷすぷすくすぶりだしましたぞ",
"なんだ、麻綱がとうとう燃えだしたか"
],
[
"おい青江、麻綱はいよいよ切れそうになったぞ。用意はいいか",
"は、はい。もう大丈夫、飛べます"
],
[
"おや、上官。怪塔王がこっちを向きました",
"うん、おれも見ている。あの磁力砲でこっちをうつ気かな"
],
[
"なんだ、青江",
"ぜひお許しねがいたいことがあります",
"なんだ、なにを許せというんだ",
"それは、つまり――あの麻綱をつたって、怪塔ロケットの中へとびこもうというのです",
"ええっ、なんだって。麻綱をつたっていって、あの怪塔を拿捕するというのか。貴様、えらいことを考えだしたな、ううむ"
],
[
"よし、では青江。綱わたりをやってよろしい",
"おお、お許しが出ましたか。私はうれしいです",
"うん、大胆にやれ、あせっちゃいかん",
"麻綱はさかんに燃えだしました。では、すぐ綱にとりついてのぼります"
],
[
"小浜兵曹長――",
"おお青江、気をゆるめちゃいかんぞ。死ぬなら、おれがよろしいというまで死んじゃならんぞ"
],
[
"おい、青江、火をけしてやるぞ",
"そんなことができますか",
"なあに、きっと消してやる"
],
[
"あっ、綱が切れた!",
"ああっ、しまった!"
],
[
"どうだ一彦君、海軍のキャラメルも、なかなかおいしいだろう",
"ええ、僕、大すきだな"
],
[
"ああ、この部屋はずんずん下っていく――",
"うん、なるほど下っていく"
],
[
"ああ、とまった",
"うむ、とまったね"
],
[
"おう、あんなものがうごきだした。一彦君、君のうしろの、機械戸棚がうごいているよ",
"えっ"
],
[
"ええ、僕も突撃しますよ。もうなにが出てきたっておどろくものですか",
"よろしい、その元気、その元気"
],
[
"はて、押しボタンでもあるのじゃないかなあ",
"さあ、ちょっと手で押してみましょうか"
],
[
"なぜ、こんな秘密室がこしらえてあるのでしょうかねえ",
"さあ、どういうわけだろうね。帆村探偵がいればすぐわかるだろうに"
],
[
"なんにも物がおいてないというのは、へんだね",
"へんですね。秘密室の中を、わざわざ空部屋にしておくなんて、へんですね"
],
[
"なんだ、一彦君。へんなものって、なにかあったのかね",
"ここにあるんです。黒ずんだ点々が、ずっとむこうまでつづいています",
"ほう、これか"
],
[
"あっ、これは血だ。血のにおいだ!",
"えっ、血ですか"
],
[
"塩田大尉、血はここでとまっていますよ",
"なるほど、これから先は、どこへいっているのだろうかなあ"
],
[
"おや、こんなものがありますよ",
"どれどれ。ほう、お猿の顔の彫りものらしいが、このがらんとした部屋には似あわしからぬ飾りものだね"
],
[
"ざんねんだなあ。どこにもそんな大きな鍵はおちていやしないよ、一彦君",
"あっ、そうだ!"
],
[
"えっ、なんだって。君がこの鍵を持っているって",
"そうです。いまやっと思い出しました。これはあのお猿の鍵がはいるのにちがいありません",
"なに、お猿の鍵だって",
"ええ、そうです。それはね、あの怪塔王が海辺におとしていった鍵なんです。僕はその鍵を型にして別の鍵をつくって持っていますよ、怪塔の入口も、その鍵であいたのです",
"そうか。ふうむ、それはたいへんな鍵だ。一彦君は、今それを持っているのかね"
],
[
"うまく鍵がはいりましたが、鍵をまわしてみましょうか",
"うん、うまくはいったね。一体これは何の鍵だかわからないが、まあとにかく鍵をまわしてみよう"
],
[
"錠がはずれた",
"うむ、はずれたか"
],
[
"おや。壁が上へあがっていく",
"うむ、そうか。この壁の向こうに、まだ部屋があるんだ。一彦君、こっちへよっていたまえ。中からなにがとびだすかわからないから――"
],
[
"でも、中が暗くて、よくわかりませんね",
"待った。そこに電灯のスイッチが見える。いまつけるから――"
],
[
"ふうん、これはね、多分大利根博士が研究中だといっていたあべこべ砲の一種らしい",
"あべこべ砲とは、なんのことですか"
],
[
"そんなに恐しい機械ですか",
"うん、もしこれが出来たら、これまでの兵器はみな役にたたなくなるという恐しい機械だ。しかし、それはたいへんむずかしくて、ここ十年や二十年のうちには出来ないだろうという話だった。つまり、あべこべ砲というのは、たとえば、自分がピストルを敵にむけてどんと撃ったとする。するとあたりまえなら、弾丸は敵の胸板を撃ちぬくはずであるが、このとき、もし敵があべこべ砲をもっていたとすると、その弾丸は敵にあたらないで、あべこべに自分の胸にあたって死なねばならぬというのだ",
"なるほど、それであべこべ砲ですか。しかしそんなことが出来るでしょうか",
"うむ、まあ出来ないだろうという話だったが、今ここに横たおしになっている機械を見ると、かねて大利根博士がちょっと洩らした話の機械によく似ているんだ。待っていたまえ。もっとよくしらべてみよう"
],
[
"あっ、わかった",
"えっ、わかりましたか",
"対磁力砲のあべこべ砲――と書いてある。一彦君、ここを見たまえ。機械の裏側に、博士の筆蹟で、管のうえにほりつけてある"
],
[
"じゃ、もう安心ですね。これがあれば怪塔王のもっている磁力砲をやっつけられますからねえ",
"ところがそうはいかないよ、一彦君",
"なぜです",
"だって、このとおり、あべこべ砲はひどく壊れているじゃないか。その上、大利根博士がどこに行ったのか、姿が見えんではないか"
],
[
"なんとかして大利根博士を、早く見つけるより仕方がない",
"そうですね、博士はこんな大事な機械をここへおいて、どこへいってしまったのでしょうね"
],
[
"はい、塩田はかたくそう信じております",
"それで、大利根博士は、その後どうしたというのか",
"博士は、この血ぞめの縞ズボンを残したまま、どこかへいってしまったようです。私どもは、かなりくわしく秘密室をしらべましたが、とうとう博士の姿をみつけることができませんでした"
],
[
"塩田も、司令官閣下のおっしゃるところと同じ考であります。大利根博士は、新しい学問をしている国宝的学者です。怪塔王にとっては、それがずいぶん邪魔であることと思います。それで襲撃しまして、博士を殺したのではないでしょうか",
"まず、そんなところであろうな",
"ところが、ここに居ります一彦少年は、私とちがった考をもっております。少年の口から、ぜひおききをねがいたいのであります"
],
[
"僕は、大利根博士がたいへん怪しい人物だと思います。なぜといえば、博士邸には怪しいことだらけです",
"怪しいことだらけとは――",
"まず第一に、博士の実験室がエレベーターのように上下に動きます。これと似た仕掛が、怪塔の中にもありましたよ。帆村おじさんと僕とは、その仕掛のために、檻の中に入れられて、一階下へ落されたことがありました",
"怪しいことがあるなら、どんどんいってごらんなさい"
],
[
"第二に、この鍵が怪しいとは",
"そうです、博士邸の一番おくにある秘密室は、その鍵であいたのです。ところが、その猿の鍵は、怪塔王が大事にしてもっている鍵なのです。あの怪塔の入口をあけるのは、やはりこの鍵でないとだめなのです"
],
[
"でも、そうとしか考えられませんもの",
"しかしだ、一彦君。博士は、われわれの尊敬している国宝的学者だし、それにひきかえ怪塔王は、わが海軍に仇をなす憎むべき敵である。その二人が同じ仲間とは、ちと考えすぎではあるまいか",
"でも、そうとしか考えられませんもの"
],
[
"君のいうように、もし怪塔王と博士とが、同じ仲間だとすると、博士のズボンが血ぞめになっているのが変ではないかねえ。なぜといえば、仲間同志で殺しあうなんてことは変だからね",
"あれは、怪塔王が僕たちをだますためにやったのだと思います。怪塔王が博士を殺したとみせかけ、実は――実は。――"
],
[
"わが出動飛行隊は、暴風雨にさえぎられ、ついに怪塔ロケットにもあわず、貴官の飛行機にもあわなかった――その孤島は何処かわかるか",
"わからない。しかし自分は大変なものを発見した。この島に、のこぎりの歯のような形をした山がある。この山の西側に、大飛行場があって、そこに怪塔ロケットが七八機集っている。だからこの島は怪塔ロケットの根拠地だと思う。はやくこのことを塩田大尉に知らせてもらいたい"
],
[
"貴艦は直ちに、遭難機の方角を測定せられよ",
"承知!"
],
[
"これまで僕が見たところでは、大利根博士邸内のエレベーター仕掛の実験室といい、猿の鍵であく秘密室といい、怪塔王が怪塔の中に仕掛けているのと同じなんです。だから博士と怪塔王は、なんだか同じ仲間のようにおもわれます。ところが、あの邸内の秘密室に、博士の血ぞめのズボンが発見されました。博士の身の上にまちがいがあったように思われます。ちょっと見ると、怪塔王が邸へしのび入って博士を殺したように考られます。しかしこれから怪塔王が大活動をしようというとき、大事な自分の仲間を殺すなんてことは変だとおもいます。僕は――僕は、こうおもいます。怪塔王と大利根博士とは、別々の人ではなく、同じ人だとおもいます",
"なに、怪塔王と大利根博士とは、同じ人だというのか。ふうむ、それはおもいきった考じゃ"
],
[
"もっとくわしくいいますと、怪塔王というのは、実は大利根博士の変装であるとおもいます",
"えっ、大利根博士が怪塔王だと――"
],
[
"一彦君。なにがなんでも、それはあまりに大胆すぎる結論だぞ。あの尊敬すべき国宝的学者が、まさか大国賊になろうとは思われない",
"でも、大利根博士邸で発見されたいろいろな怪しいことがありますねえ。あの怪しいことは、どう解いたらいいでしょうか。今もし大利根博士が怪塔王に変装しているのだと、かりに考えてみると、この怪しい節々は、うまく解けるではありませんか。博士邸と怪塔が、まったく同じような仕掛になっていること、同じ鍵であくことなど、みな合点がいくではありませんか。どう考えても、怪塔王というのは大利根博士が化けているのだとおもいます",
"一彦君のいうところは、もっともなところがある。しかし私には、あの大利根博士が、そんな見下げた国賊になったとは、どうしても考えられないのだ"
],
[
"おお、小浜兵曹長からの無電がはいったそうだ",
"えっ、小浜は生きていましたか"
],
[
"えっ、無人島上に、怪塔ロケットの根拠地があるというのですか",
"根拠地とは、一体どういう意味の――"
],
[
"場所は北緯三十六度、東経百四十四度にある白骨島だとある。そこには怪塔ロケットが七八台も勢ぞろいしているそうだ",
"ふむ、怪塔ロケットは一台かぎりかと思っていましたが、七台も八台もあるのですか。これはわが海軍にとって、じつに油断のならぬ敵です",
"そうだ、怪塔ロケット一台ですら、あのとおり新鋭戦艦淡路をめちゃめちゃにしてしまったんだから、その怪塔ロケットに七八台も一しょにやって来られたのでは、わが連合艦隊をもってしても、まずとても太刀打ができまいな",
"残念ですが、司令官がおっしゃるとおりであります。これが砲撃や爆撃や雷撃でもって攻めて来られるのでありましたら、わが艦隊においてこっぴどく反撃する自信があるのですが、世界にめずらしい磁力砲などをもって来られたのでは、鋼鉄でできているわが軍艦は、まるで弾丸の前のボール紙の軍艦とかわることがありません",
"ううむ、残念だが、これは困ったことになった"
],
[
"こうなれば、われわれの選ぶ道はただ一つであると思います。すなわち、大利根博士の秘密室で発見されたあべこべ砲を製造して、あれを軍艦や飛行機にとりつけるのです",
"うむ、そうするより仕方がないが、あのあべこべ砲は壊れているそうではないか"
],
[
"司令官、あべこべ砲のことは、塩田におまかせくださいませんか",
"なに、まかせろというのか。塩田大尉は、どうするつもりか",
"はあ。私は、あべこべ砲をもう一度よくしらべてみます。そしてなんとか役に立つようになおしてみたいとおもいます",
"塩田大尉、お前には、あべこべ砲をなおせる見込があるのか",
"はい、私はかねて大利根博士と、新兵器のことにつきまして、いろいろと議論をいたしたことがございますので、それを思い出しながら、あのあべこべ砲を実際にいじってみたいとおもいます。机の上で考えているより、一日でもはやく手を下した方が勝だと考えます。あべこべ砲は、とてもなおせないものか、それともなおせるものか、いずれにしても、すぐにとりかかった方が、答は早く出ると思います。白骨島をすぐにも攻略したいのは山々でございますし、あの島に上陸後、音信不通となった小浜兵曹長のことも気にかかりますが、しかし御国に仇をする怪塔王を本当にやっつけるには、今のところ、このあべこべ砲の研究より外に途がありません。ですから、私は我慢して、目を閉じ耳をふさぎ、壊れたあべこべ砲と智慧くらべをはじめたく思います。ぜひお許しを願います",
"よろしい、では許してやろう。当分、秘密艦隊の方へ出勤しなくてもよろしい"
],
[
"やい、怪塔王、貴様は俺をなぜこんなところに入れたんだ。俺がどうしたというのか",
"わかっているじゃないか。貴様は、わしの乗っていた怪塔ロケットを空中で攻撃した。そのとき一人だけやっつけたが、貴様を殺しそこなった。わしはそれを残念に思っていたところ、貴様の方から、この白骨島へ踏みこんで来たではないか。そして貴様の方では気がつかないだろうが、あの岡の上から、貴様は怪塔ロケットの根拠地をすっかり見てしまったろう。こんなとこに怪塔ロケットの根拠地があるなんてことは、絶対秘密なんだ。それを知った上からには、いよいよ貴様を殺してしまうほかない",
"ふふん、そんなことか。なんだ、ばかみたいな話ではないか",
"なにがばかだ。こいつ無礼なことをいう",
"だって、そうじゃないか。ここに怪塔ロケットの根拠地があったということは、俺は無電でもって、すっかり本隊へ知らせておいたよ。だから今では、秘密なんてえものじゃないよ。お気の毒さまだね",
"えっ、無電で知らせたのか"
],
[
"まあ、そこにそうしてひとりでいばって居るがいい。いまに貴様は、自分でもって、どうしても黙らなきゃならないようにしてやる。そうだ、その前に、貴様にいいものを見せてやる",
"なんだと!",
"ふん、貴様がいま居るところを、どんなところと思っているのかね。まあいい、いま扉をあけて、外を見せてやろう。これを見たら、貴様はもうすこしおとなしくなることだろう。――さあそろそろあけるぞ"
],
[
"いいえ、たいしたことではありません。それより僕は、思いがけなく、小浜さんを迎えることができて、どんなにかうれしいんです",
"君こそ、よくこの島にがんばっていてくれたねえ。この島は怪塔王の根拠地らしいが、一体、怪塔王は何を計画しているのかね",
"それはいずれ後からお話しします。しかし、今は、それをお話ししているひまがないのです。それよりも、すぐここを逃げてください"
],
[
"小浜さん。ここが海底牢獄の秘密の出入口なのです。さあここから出ていきましょう",
"やあ、まるで冒険小説をよんでいるような気がするなあ。さあ、君のいくところへなら、どこへでもついていくよ",
"ええ、あまり大きな声をしないで、ついてきてください"
],
[
"では、小浜さん。だいぶん時間がたちましたから、私は怪塔ロケットへ一たん戻ります。今夜ふけてから、あらためてもう一度まいります。それまで、ここにかくれていてください",
"すぐ訊きたいこともあるんだが、あとからにするか。ではきっと、後から来てくれたまえよ、いいかね"
],
[
"なにを!",
"うーむ"
],
[
"なにを大きなことをいっているか。貴様はそこに怪塔王を捕えているつもりで、よろこんでいるのだろう",
"なにをいっているか"
],
[
"貴様こそ、なにをいっているか、だ。貴様の捕えているのが、怪塔王か怪塔王でないか、そのお面をとってみれば、すぐわかるだろう。あっはっはっはっはっ",
"ええっ――"
],
[
"おう、お前は監視機百九号だね。何用か",
"はい、監視機百九号です。いま小笠原附近の上空を飛んでいますが、はるかに北東にむかって飛行中の空軍の大編隊をみつけました",
"なんだって、今ごろ空軍の大編隊が北東にむかっているとは――"
],
[
"さあ、どこの飛行機か、よくわかりません。じつは、はじめからそのことが気にかかっていたのですが、電子望遠鏡でのぞいても、飛行機にはどこの国のマークもついていないのです。じつに怪しい飛行機です",
"マークがついていない飛行機か。はて、それは怪しい"
],
[
"おい、飛行機のかっこうから考えて、どこの国の飛行機かわかるだろうに",
"そうですね――いやわかりません。あんなかっこうの飛行機を、今まで見たことがありません",
"日本の飛行機ではないのか",
"いや、今まであんな飛行機が日本にあったように思いません",
"一体、飛行機の数は、どのくらいいるのかね",
"機数は、すっかり数え切れませんが、ちょっと見たところ百五十機ぐらいはいるようです",
"そうか。百五十機の怪飛行隊か――そうだ。おいお前一つその飛行機の編隊の中へとびこんでみろ。すると向こうではどうするか。向こうから撃ってくれば、こっちも撃ってよろしい。その間に、敵の正体をたしかめて、すぐ無電でしらせろ",
"はい、わかりました。では、これからすぐあの編隊を追いかけましょう。こっちが全速力をだせば、あと一時間で追いつけるとおもいます"
],
[
"おい、なんだ",
"ああ首領? たいへんなことになりました"
],
[
"えっ、たいへんとは、何がどうしたのか",
"この間、方向舵をなおしましたですね",
"うん、なおした",
"あの方向舵が、今こわれてしまいました。ちょっとうごかしてみただけなんですが、あれをうごかすモーターから、いきなり火が出たと思ったら、それっきりうごかなくなりました。どうしましょうか",
"どうするって、そいつは困ったな。それでは出発できないではないか。一体、なぜモーターが焼けたりしたのか。お前がよく番をしていなかったせいだ。その罰に、お前を殺しちまうぞ"
],
[
"もうすこしか。では、あと三十分ぐらいで出発できるだろうね",
"はい、それがどうも",
"三十分じゃなおらんか",
"ところが、どうも困ったことができまして……",
"なんじゃ、困ったこととは。まだなにかいけないところがあるのか"
],
[
"えっ、なんじゃ。外のモーターも故障か。そんなことは、さっき報告しなかったじゃないか",
"はい、それがどうも……",
"どうも? どうしたというのか",
"あのときは別に故障ではなかったのでございます。ところがいましらべてみますと、故障になっておりましたのです",
"ふうん、それはおかしい"
],
[
"待てよ。さっきはどうもなかったモーターが、いましらべてみると故障になっているというのは――うん、わかった。モーターの故障は、自然の故障ではなく、誰かがわしたちに邪魔をしようとおもって、モーターをぶちこわしたのにちがいない。そしてその誰かは、どこかそのへんに隠れているのにちがいない",
"へへえ、そうなりますか",
"それにちがいない。さあ、皆をよんで、そこらの隅々をさがしてみろ。きっとその悪者がみつかるだろう"
],
[
"なんだ。そんなに日本軍に圧迫せられてはしようがないじゃないか。すぐさまわが無敵磁力砲でもって、どんどん日本軍の飛行機や軍艦をやっつけろ。ぐずぐずしていて、こっちの白骨島へ攻めこまれると、ちょっとやっかいなことになるじゃないか。はやく磁力砲をぶっぱなせ",
"ええ、その磁力砲ですが、その磁力砲がどうも……",
"なんだ。なにをいっている。磁力砲がどうしたと? はやく話せ"
],
[
"いや、実はさっきから磁力砲をさかんにうっているのでございます。が飛行機や軍艦が、それにあたってとろとろと溶けるかとおもいのほか、どうしたものか、敵は一向平気なのでございます",
"そんなばかな話があるものか。きっと磁力砲の使い方がわるいのだろう。あれだけ教えておいたのにお前たちは駄目だなあ",
"いや、私どもは、まちがいなく磁力砲をうっています",
"まちがいなくうって、相手の飛行機や軍艦がどうかならぬはずはない。たちまち赤い焔をあげてとけだすとか、うまくいけば、一ぺんに爆発するとか",
"あっ、困った。敵機がすぐそばまでやってきたそうです。いよいよ死ぬか生きるかの戦闘をはじめます。報告はあとからにいたします。ちょっと無電をきります",
"よし、しっかりやれ。わしは懸賞を出そう。飛行機を一機おとせば、二千円やる。軍艦なら一隻につき一万円だ"
],
[
"なんだ。モーターをこわした悪者をひっとらえたか",
"いや、そうではございません。あのう、縛っておきました小浜兵曹長がおりません",
"なんだ、あの日本軍人がいないのか",
"それからもう一つ、驚くべきことがございます"
],
[
"はあ、それは――それは第三機械筒の中につないでおいた帆村探偵がいなくなったのでございますよ",
"えっ、帆村が、第三機械筒の中にいないって。それじゃ第三機械をうごかす者がいないではないか",
"はあ、そうでございます",
"そいつは困った。なにもかもめちゃくちゃだ。このロケットは死んでしまったも同じことだ。戦を目の前にして、とびだせないなんて、こんな腹立たしいことがあろうか"
],
[
"うごくな、怪塔王!",
"降参しろ! うごけば命がないぞ",
"なにを!"
],
[
"なんだ、帆村。お前たちは卑怯じゃないか。わしの大事にしていた殺人光線灯を盗んで、わしをおびやかすなんて、風上にもおけぬ卑怯な奴じゃ",
"こら、何をいう"
],
[
"卑怯とは、どっちのことだ。貴様こそ、卑怯なことや悪いことをかずかずやっているじゃないか。中でもあの勇敢な青江三空曹を殺した罪をおぼえているか。あれは貴様のような卑怯者に殺させてはならない尽忠の勇士だったのだ。それにひきかえ、貴様が自分の殺人光線灯で死ぬのは、それこそ自業自得だ",
"ま、待て。撃つのはちょっと待ってくれ。その代り、わしは何でもお前たちのいうことを聞くから"
],
[
"ああ、あぶない。ま、待て",
"怪塔王ともいわれる人物でありながら、往生ぎわの悪い奴だなあ"
],
[
"さあ怪塔王、こうなると、僕は永いあいだ貸しておいたものをいま君から貰うぞ",
"借りたものって、一体なにを借りたか"
],
[
"あはははは、もう忘れたのか。外でもない、君がいま顔につけているそのマスクのことさ",
"ええっ――",
"おぼえているだろう。このまえ、僕は、君がいまつけている変なマスクを取ろうとして、君のためやっつけられたのだ。いまこそ、そのマスクを取る。さて、その下からどんなほんとうの顔があらわれるか……",
"ああ、それはゆるしてくれ、マスクのことを知られては仕方がないが、私はおしまいまでこのマスクでいたいのだ。素顔を誰にも見られたくない",
"いまになって、なにをいう。指揮権はみなこっちへもらったはずだ。なにをやろうと、君は命令にしたがいさえすればいい",
"ま、待ってくれ。こんなところで、私にはじをかかせるな。時節が来れば、きっとマスクをはずすから、しばらく待て",
"うむ、わかった"
],
[
"いや小浜さん、このマスクの下にあるほんとうの顔が、それがわかったというのです",
"え、それはなんのことだ",
"つまり、怪塔王のマスクの下には、僕たちのよく知っている顔がある、ということなんです"
],
[
"それは誰の顔だ",
"それは――"
],
[
"それは外でもありません、この下に大利根博士の顔があるのです",
"大利根博士といえば、塩田大尉がよくいっていられた国宝的科学者のことかね。大利根博士が怪塔王に化けているというのかね。いや、俺には、なんだかさっぱりわからないよ",
"いや、大利根博士だから、僕たちの前でマスクをとられたくないのですよ。どうだ図星だろう、怪塔王!"
],
[
"博士ではないというのか、いや博士にちがいない。とにかくマスクをとるんだ。命令だから、マスクをはずせ!",
"やむを得ん。ではマスクをはずすぞ"
],
[
"あ、怪塔王、あれは何だ",
"ロケット隊からの戦況報告だ。ちょっと私を送話器のところへ出してくれ",
"いや、いかん! うごけば、殺人光線灯をかけるぞ"
],
[
"首領、わが怪塔ロケット隊は、おもいがけない負戦に、一同の士気はさっぱりふるいません",
"なんだ、負戦? そんなことがあろうはずはない。磁力砲でもってどんどんやっつければいいではないか"
],
[
"ところが、首領、その磁力砲が一向役にたたないのです。磁力砲を日本艦隊や飛行機にむけてうちだしますと、向こうは平気でいるのです。そして、磁力砲をうったこっちが、あべこべに真赤な焼け鉄をおしつけられたように、急に機体が熱くなって、ぶすぶすと燃えだすさわぎです。どうも変です",
"磁力砲をうったこっちが、あべこべに燃えだすというのか。はて、それはふしぎだ"
],
[
"はあ、そのわけは、わがロケットの損害があまりに大きくて――首領、どうも申訳がありません",
"おい、はっきりいえ。わがロケットの損害は、どのくらいか",
"はい。まことに申し上げにくいですが、只今あたりを見まわしましたところ、空中を飛んでいるロケットは、わが一機だけであります",
"えっ、お前の一機だけか。そして他のロケットはどこにいるのか",
"それがその、さきほどからの戦闘中、あべこべ砲にやられまして、いずれもみな火焔につつまれて海面へ落ちていき、それっきりふたたび浮かびあがってまいりません",
"な、なんじゃ。それではあとは全部、日本軍のためにやっつけられたのか。そ、それはあまりひどすぎる! あれだけのロケット隊をつくるのに、どんなに苦労したことか。それが、かねてわしの狙っていた日本の武力を、根こそぎ壊すのに役立つどころか、今迄に軍艦淡路と十数機の飛行機を壊しただけで、もうこっちがあべこべにやっつけられてしまった。ああ残念だ。なんという弱い同志たち! なんというおそろしいあべこべ砲! わしは失敗した。あべこべ砲の始末を十分につけないで、放っておいたのが、誤だった。だが、まさか、あの秘密室まで日本軍がはいって来るとはおもっていなかったのだ"
],
[
"――で、僕はここに、怪塔王からぜひとも返答をもとめたい一事がある",
"えっ、それは何じゃ",
"それは大利根博士の行方だ。博士はいま、どこに居られるか、すぐそれを教えたまえ",
"そんなことは知らん",
"知らんとはいわせない。怪塔王が博士邸へ押入ったことはわかっているんだぞ。博士の上着が遺され、それに血が一ぱいついていたこともわかっている。大科学者を、君はどこへ連れていったのか。博士はまだ生きているのか、それとも君が殺したか。それを知らないとはいわせないぞ"
],
[
"大利根博士の行方を、それほど知りたいか。ではやむを得ない。これから案内して、博士をお前たちに、ひきわたそう",
"えっ、博士を渡してくれるか。すると博士は、この島にいられるのか",
"うん、そうだ。この上の洞窟の中に、監禁してあるのだ"
],
[
"怪塔王、貴様は博士を海底牢獄にほうりこんだな。ひどい奴だ",
"いや、海底牢獄ではない。この洞窟の中に、別に大きな部屋があるのだ。さあ、この岩のわれ目からはいっていくのだ。天井が低いから、頭をぶっつけないようにしたまえ",
"なに、頭をぶつけるなというのか"
],
[
"おお、あれは――",
"うん、怪塔王の自滅だ"
],
[
"なあに、怪塔王がいくらつよいといっても、一旦死んだ以上、ちっとも恐しくない。しかしそんなに気がかりなら、帆村君はしばらくここにいたまえ。その間に私は、ロケットの無電を使って、艦隊へ連絡してくる",
"あなた一人で大丈夫かしら",
"大丈夫だとも。第一、この殺人光線灯があれば、たとえ後に怪塔王の配下が幾千人のこっていようと、おそれることはありゃしない"
],
[
"では、小浜さん。艦隊への連絡は、頼みましたよ。そして用事がすみましたら、すぐにもう一度この岩窟へひきかえしてください。私はあくまで大利根博士をさがし出すつもりなんです。怪塔王のいったことが嘘でなければ、博士はかならずこの岩窟のどこかに隠されているはずですから",
"よろしい。私も博士の行方をつきとめることには賛成だ"
],
[
"おお、大利根博士!",
"えっ!"
],
[
"大利根博士、僕はもうすこしで貴方にとびかかるところでしたよ。なぜって、博士はさっき怪塔王のおちたその岩の割れ目から出てこられたものですから、僕はてっきり怪塔王が息をふきかえし、匐いだしたことと早合点したのです。ほんとにあぶないところでした",
"うん、こっちも驚いたよ。いきなり君に声をかけられたのでね"
],
[
"うん、それはその、何だよ。君も知っているだろうとおもうが、われわれが今立っているところの下に、海底牢獄がある。それは皆で五つ六つあるそうだが、その一つに押しこめられていたのだ。そこを何とかして逃げたいといろいろ計略をめぐらした結果、やっと今日は逃げだすことができたのだ。こんなにうれしいことはない",
"そうでしょうとも。お察しします。博士が無事だということが内地に知れわたると、皆びっくりすることでしょう。そしてどんなによろこぶかしれません"
],
[
"大利根博士、では、案内してくださいませんか",
"そうだね、わしはひどくつかれているのだが――"
],
[
"ふふふ、まだ生きていたか。いよいよ殺人光線灯を食って、往生しろ!",
"待て! 最後に、ちょっと聞きたいことがある",
"なんだ。早く言え",
"貴下は大利根博士ですか、それとも怪塔王ですか",
"そんなことは、どっちでもいい。ほら、もう念仏でも唱えろ"
],
[
"――われわれは、その一台をおとすまでは大いにがんばって闘うつもりだ。そのうえで、白骨島へ突入する考えだ、そこは怪塔王の根拠地だからな",
"あっ、こっちへ来られますか。それはますますうれしいです。まったくこの白骨島は、いかにも怪塔王の巣らしく、たくさんの謎にみたされており、そしてまた、いろいろの武器もあるようですよ"
],
[
"やあ、君のことかね。いま、向こうの洞穴のなかで、帆村君から聞いてきたよ、僕一身のため、まことにすまないことをした",
"あなたは誰です。どこかで見たことのある人だが",
"わしのことか。君にわからないというのは、たいへん残念だ。わしは大利根じゃ",
"えっ、大利根博士!"
],
[
"あっ、ロケットだ。ロケットが、島へかえってきた",
"えっ、ロケットが、島へかえってきたって"
],
[
"いま、着陸するロケットがあるから、あれを分捕ってくる。ちょっと待っておれ",
"は、そうですか"
],
[
"いや、えらい目にあいました。この上の洞窟の中でね。例の大利根博士にあったんですが、博士のために、すでに一命をおとすところでしたよ",
"ああ大利根博士、博士なら、さっきここへも来たが。――",
"えっ、博士は来ましたか。そして、博士はどうしました。小浜さんは、なんの危害もうけなかったのですか"
],
[
"小浜さん、これから、どうしますか",
"それはわかっている。あくまで怪塔王をやっつけるのさ。そして、この根拠地をすっかり占領してしまうのさ",
"わかりました。では、われわれはさしあたりなにをすればいいのでしょうか。戦は空中で始っています。それなのに、われわれには、飛行機もなければロケットもない。これでは、空中にとびあがろうとおもっても、できないのが残念ですね",
"うむ、さっきから、それを残念がっているところだ。ああ、われに一台の飛行機があれば、怪塔王をどこまでも追撃するんだがなあ"
],
[
"おい帆村君、敵か味方かわからんが、低空飛行でもって、こっちへやって来るやつがいる。はやくそのあたりへ体をかくすがいいぞ",
"あ、わかりました"
],
[
"おい帆村君、今の飛行機は、かならずもう一度ひきかえしてくるから、そのときは、一生懸命に手をふって味方に合図をするんだぞ。機上でこっちを正しく見つけてくれれば、きっと手をかしてくれるだろう",
"そうですか。よろしい。僕は一生懸命機の方へ信号します"
],
[
"おい、どうした帆村君",
"ああ、小浜さん、ああ塩田大尉、よく来てくださいました。御挨拶はあとにして、これをみてください。たいへんものものしく大きいが、空からなげおろした通信筒のようです",
"なに、通信筒か",
"はい、いま引抜きます"
],
[
"なんだ、これは",
"おお、これは怪塔ロケットの中にいる黒人が書いてよこしたものです。文を読みますと――スグ丘ノ小屋ノ積藁ノ下ニアル導火線ノ仕掛ヲ取リノゾカナイト、ワガロケットガ、ソノ上ヲ低空飛行シタノチ、一分以内ニ全島ガ爆破スル、注意セヨ。黒イ鳥"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「東日小学生新聞」東京日日新聞社
1938(昭和13)年4月8日~12月4日
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2007年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"君、実験が出来ないで弱っているのかい",
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"この液体はなんですか?",
"エエ……",
"この液体はナンであるですかッ?",
"これかネ――これは泥水でさア",
"アノ泥水――土の粒子を飽和した水……だと言うのかネ"
],
[
"君、説明書を売ってくれ給え",
"十円ですか、おつりがありませんよ",
"おつりはいらんです。君の持っている説明書をみな下さい"
],
[
"先生は、鵜烏の水くぐりを夜店でお売りになるのですか",
"ソ、そうじゃない。之を御覧、不思議な総合現象だ。全く新しい実験だ",
"いやですよ、先生。こんなものは、もう三年も前からありますよ、先生",
"……"
]
] | 底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
初出:「科学画報」誠文堂新光社
1929(昭和4)年8月号
※この作品は初出時に署名「佐野昌一」で発表されたことが、底本の解題に記載されています。
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043627",
"作品名": "科学者と夜店商人",
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"公開日": "2005-01-26T00:00:00",
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"没年月日": "1949-05-17",
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[
[
"あーら、本当だ。居ないわネ",
"ど、どこへ行ったんでしょうネ",
"ご不浄へ行ったんじゃないこと",
"ああ、ご不浄へネ。そうかしら……でも変ね。この方、ご不浄へ行っちゃいけないことになってんのよ",
"まあどうして?",
"どうしてといってネ、この方、つまり……あれなのよ、痔が悪いんでしょ。それでラジウムで灼いているんですわ。判るでしょう。つまり肛門にラジウムを差し込んであるんだから、ご不浄へは行っちゃいけないのよ",
"治療中だからなのねェ",
"それもそうだけれどサ、もし用を足している間に、下に落ちてしまうと、あのラジウムは小さいから、どこへ行ったか解らなくなる虞れがあるでしょう",
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"ええ。婦長さんが云ってたわ。あの鉛筆の芯ほどの太さで僅か一センチほどの長さなのが、時価五六万円もするですって。ああ大変、あれが無くなっちゃ大変だわ。あたし、ご不浄へ行って探してみるわ。だけどもし万一見付からなかったら、あたし、どうしたらいいでしょうネ",
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],
[
"なんだなんだ",
"どうしたどうした"
],
[
"無い……",
"どうも見つからん",
"困ったわねエ。でも探すものが、あまり小さすぎるのだわ"
],
[
"いいかネ。二十分だよ。……僕は医局にいるからネ",
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],
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"はア、困っていますんで……",
"困っている? それは何か",
"痔でござんす。痛みますんで、夜もオチオチ睡れません",
"睡れないのは、誰でも入りたてはちと睡れぬものさ。痔だなんて、つまらん芝居をするなよ",
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[
"おい一九九四号、出てこい",
"はア。――",
"医務室へ連れてゆくから出て来い",
"はア。――"
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[
"この男ですよ。入ったときは、実にひどい痔でしてナ、ところが私の例の治療法で、予期しないほど早く癒ってしまいました",
"はア、はア",
"どうか何なとお話下さい。あとでこの男の患部を御覧に入れましょう",
"いや、それには及びません。ただ、すこし話をして見たいです",
"それはどうぞ御自由に……"
],
[
"昨夜は大したお客さまだったナ",
"うん",
"あの若い方を知っているかネ",
"背の高い男のことだろう。――知らない",
"知らない? はッはッはッ。馬鹿だなァお前は。あれは帆村という探偵だぜ",
"探偵? やっぱりそうか",
"どうだ思い当ることがあろうがナ",
"うん。――いいや、無い",
"う、嘘をつけ。おれが力になってやる。手前の仕事のうちで、まだ警察に知れていないのがあるネ",
"いいや、何にも無い!"
],
[
"おい、一枚足りないぞ",
"え?"
],
[
"旦那、浅草はどこです",
"あ、浅草の、そうだ浅草橋の近所でいいよ",
"浅草橋ならすこし行き過ぎましたよ",
"いや、近くならばどこでもいい。降して呉れ"
],
[
"ああ、紙風船が欲しいのですがネ、すこし注文があるので、一ついろいろ見せて下さい",
"よろしゅうございます。――紙風船といいますと、こんなところで……"
],
[
"……もう風船はないのですか",
"唯今、これだけで……",
"そうですか。どこかにしまってあるんじゃないですか",
"いいえ"
],
[
"吉松。さっき、あすこから来たのがあるじゃないか。あれを御覧に入れなさい",
"ああ、そうでしたネ。……少々お待ち下さい。今日入った分がございましたから",
"今日入ったのですか。ああ、そうですか"
],
[
"これは如何さまで……",
"ああ――。"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1934(昭和9)年2月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001248",
"作品名": "柿色の紙風船",
"作品名読み": "かきいろのかみふうせん",
"ソート用読み": "かきいろのかみふうせん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1934(昭和9)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-07-10T00:00:00",
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"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
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"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
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[
[
"ねえ準一や。お前はおじさんの室から、何か盗みだして持ってやしないかい。そうなら早くお返しするんだよ。でないと妾は困ってしまう……",
"北川君。そいつは何処に隠してあるんだか話してくれんか。教えてくれりゃ、なんとか早く癒って退院できるように骨を折ってみるが……"
],
[
"早くしろ、早く。出かけるのが遅くなるじゃないか。……",
"うむ――"
],
[
"北川さんでしょ。……",
"し、縛って……突き出して下さい"
],
[
"さあ、ここにいては危い――早くお逃げなさい",
"ああ、貴女は僕の敵ではなかったのですか"
],
[
"え、隠れどころ?",
"この向うの道をドンドン南へとってゆくと、山の上に昇っちまうのよ。そこに大きなお寺があるの。そこは蓮照寺という尼寺なのよ。そこは女人の外は禁制なんだけれど、裏門から忍びこんでごらんなさい。そして鐘つき堂のある丘をのぼると、そこに小さな庵室があってよ。そこに秀蓮尼という尼さんが棲んでいるから、その人にわけを言って匿まってもらうといいわ。分って?",
"ああ、分りました。ありがとう、ありがとう、僕はどんなにして貴方にお礼をしたらいいでしょう",
"お礼ですって? ホホホホ。生命をとられかけていて、お礼はないわよ。……それよりこの手拭で鉢巻をなさいよ。貴方の目印のその額の傷を隠すんだわ。そして一刻も早く、教えてあげたところへ行ったらいいじゃないの",
"じゃあ行きます。……最後に、ぜひ聞かせて下さい。生命の恩人である貴方のお名前を……",
"あたしの名前? 名前なんか聞いてどうするの……でも教えてあげましょうか。島田髷の女――よ"
],
[
"これは街で、庵主さまのお名前を教えられてきたものでございます",
"いま明けて進ぜます。しばらく……"
],
[
"北川さん。この鍵は貴方のですの",
"そうです、僕のですよ",
"どこで手に入れなさいまして?",
"それは、――"
],
[
"それは、森おじさんの戸棚の中で拾ったものですよ",
"森おじさんというと……",
"ゆうべお話した森虎造のことですよ。僕の母親が、いま泊っている筈の家です",
"ああ、そうですか。……貴方は森虎造の戸棚の中に、これと一緒にあった美しい貼り交ぜをしたこれ位の函を見ませんでした?"
],
[
"ね、その函のことを御存じなんでしょう。さあさあ早く云って下さいませ。イヤこうなれば何もかもお話しましょう。ねえ北川準一さん。その美しい函は、実は貴方の亡くなった父君準之介氏が、米国にいられるとき秘蔵していられたという問題の函なんですよ",
"なんですって?"
],
[
"ええすこしは存じているといったがいいのでしょう。いずれ詳しいお話をするときが来るでしょう",
"庵主さん、貴方は失礼ながら、どんな素性の方ですか"
],
[
"その函の中には、或る秘密があるのです。あたしはその在所を探していたのです。貴方のお持ちの鍵は、その函を開く鍵なんですのよ。どうかその鍵をあたしに譲って下さらない。悪いようにはいたしません。その代り、今夜にも、貴方を安全にこの島から逃がしてあげます",
"僕は逃げるのはよします。それに母親もいますし……",
"母親! ああお鳥さんのことをいっているのですね。あれは貴方には関係のない継母なんです。それよりもぐずぐずしていて森虎造に見つかってごらん遊ばせ、立ち処に生命はありませんよ。まず貴方の身体を安全なところへ置くことです。……お分りになったでしょう。さあ、その鍵を、あたしに渡して下さい!"
],
[
"渡してもいいのですが、……実はこの鍵の中には僕の恋人がいるのです",
"鍵の中に恋人が?"
],
[
"ええ、会いたいですとも、庵主さんはその娘さんの名前も居所も御存じなのでしょう。さあ教えて下さい",
"ホホホホ。そんなにお気に入りなら、また会わせてあげますわ。その代り、どうしてもあたしの云うように早くこの土地を去って下さらなきゃ、いけませんわ",
"それは駄目じゃありませんか。あの娘さんとはもう会えなくなる",
"それは大丈夫。あたしが後からきっと連れていってあげますわ"
],
[
"仕方がありません。前に云ったとおり、僕は庵主さんの命令に、絶対に服従します",
"結構です。――では、仕度にかかりましょう"
],
[
"両手をあげてよ、――",
"呀ッ……"
],
[
"よく帰って来たね",
"ええ、……心配していた?"
],
[
"よくそんな格好で帰って来たねえ",
"ホホホホ、これ貴方の洋服よ。こんどはあたしが貴方のを借りちまったわ。しかし実に大変だったのよ。これが無かったら、あたしうまく脱出できたかどうか疑問だわ。つまり、こうなのよ。――あたし序に、貴方の仇敵もとってきたわよ",
"ええッ。――それは何のこと?"
],
[
"……どうでもお聞きになりたいのね。じゃあ仕方がありませんわ。――あの小函をハルピン虎が開いてみますね、中にはなんにも大切なものが入っていなかったのよ。ただ彼はあの中に血染めの凶器をかくして小函を利用したわけなのね。ところが実はあの小函には、日本政府があるところからお預りしている非常に大切な書類が入っていたのよ。そういえばもうお察しがついたでしょうが、あの函は二重底になっていて、その間に挟んであったわけなのよ。もし政府がその保管に任ずることが出来ず、外へ行ってしまったとなると、とんでもない事態となるんです。それでどうしてもあれを探しだす必要があったのよ。そこまでいえば、あたしが何者であるかもお分りになるでしょう。もちろんあたしは尼さんでもなんでもないのよ。命令によって働いている婦人警官の小田春代という女なんですわ。あたしは特に選ばれて、すこし臭いハルピン虎を探ぐる係となり、黄風島へ出かけて尼僧に化けているところを貴方にお目にかかり、それからあの鍵をみて、それでこの大成功をおさめたのよ。しかしね、あたしはもうこの事件を最後に退職する決心ですわ",
"退職するって。そしてそれから後をどうするの?",
"さあ、どうしましょうかねえ、あなた……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1936(昭和11)年4月号
入力:浦山聖子
校正:もりみつじゅんじ
2002年1月3日公開
2009年10月25日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001222",
"作品名": "鍵から抜け出した女",
"作品名読み": "かぎからぬけだしたおんな",
"ソート用読み": "かきからぬけたしたおんな",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
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"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"没年月日": "1949-05-17",
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} |
[
[
"あのね、張がほんとうに心配していることがあるんだよ。二人が自動車旅行に出て行くと二日とたたないうちに、君たちはたいへんな苦労を背負いこむことになるんだってよ",
"へん、おどかすない",
"おどしじゃないよ。張がね、君たちの旅行の安全のために、ご先祖さまから伝えられている水晶の珠を拝んで占ってみたんだとさ、すると今いったとおり、二日以内によくないことが起ると分ったんだ。そればかりではない。この旅行は先へ行くほどたいへんな苦労が重なって君たち二人はいつこの村へ帰れるか分らないといっているぜ"
],
[
"ねえ。いやな話だからさ、用心のために張と僕をいっしょに連れていけばいいだろう。そうすれば張は道々で水晶の珠で占いをして、この先にどんな危険があるかをいいあてるよ。それが分れば、難をのがれることができるじゃないか",
"だめだよ、そんなうまいこといったって……それに、第一その話は、張を連れて行くのはいいと分っても、君まで連れていかねばならないわけにはならんじゃないか",
"僕は絶対に入用だよ。だって張が占いをするときには、僕が手つだってやらないと、仏さまが彼にのりうつらないんだもの",
"だめ、だめ、何といってもどっちも連れて行きやしないよ、これからいうだけ損だよ",
"……",
"この次のときまで、待つんだね",
"どうしても今度はだめなんだね",
"そうさ。張にもよくいっておくんだよ",
"……じゃあ、もう頼まないや"
],
[
"でも、明日はどうしても出発しないと、日程がくるってしまうよ。それにあのとおり友だちも大さわぎしているんだから、僕たちの出発がおくれると、またひどい悪口をあびなければならないよ",
"それは分っているけれど、この有様じゃあねえ。こんな車を買わないで、もっといい車を見つけりゃよかった",
"仕方がないよ、さあ、元気を出して、どうしても修理をやっちまおう、今夜は徹夜でやらなくちゃね",
"うん"
],
[
"この辻を通るという話だったが、まだ通らないじゃないか",
"まだ一時間と十九分あとのことだよ。出発はかっきり九時だからね",
"そんなに時間があるのなら、あいつらの家へ行った方が面白いじゃないか",
"うん、それがよかろう"
],
[
"ちょっと見せろよ。折角こうして送りに来たのに……",
"いけない、いけない。出発の時刻が来たら堂々と扉をひらいて出ていって見せるから",
"ふうん、気をもたせるねえ。出発時刻は正確なんだろうね",
"ぜったいに、正確だ。九時零分だ",
"よし皆。もうすこしだとよ、待っていよう"
],
[
"おい、まだ残っていた。ヘッド・ライトがついていない",
"ああっ、そうか"
],
[
"おい。おい、もう時刻が来たぞ。扉をあけてもいいか",
"まだまだまだ、待て待て。もうすこし待って居れ",
"戴冠式の自動車でもこしらえているつもりなんだろう。あんまりすばらしい自動車を見せて、僕たちをうらやましがらせるなよ",
"わかっている、わかっている"
],
[
"ペンキぬりをする時間がありゃしないよ",
"困ったなあ、この恰好じゃ仕様がないよ。箱の横腹にいっぱい牛の絵がついているんだものねえ",
"でも、出発の時刻をくるわせることはできないよ。困ったねえ"
],
[
"仕方がない。これで行こうや",
"えっ、そうするか",
"こうなったら心臓だ、さあ、早く修理道具を集めて車にのっけてしまおう"
],
[
"なあんだ、この間まで道傍にえんこしていた牛乳配達車じゃないか",
"あっ、すげえや。こんな大きな牛の絵をつけて、グランド・カニヨンまで行くのかね。あっちの犬に吠えられてしまうぜ",
"とんでもない戴冠式のお召し車だ"
],
[
"なんだ河合",
"さっき仲間がみんな送ってくれたけれど、あの中に張とネッドの姿が見えなかったように思うんだ、そうじゃなかったかい",
"張とネッド、そういえば見かけなかったようだね",
"おかしいじゃないか、あんなに仲よしの張もネッドも送って来ないなんて",
"うん、きっと二人とも怒ってしまったんだよ、僕たちはあんなにきついことをいって、二人のいうことをきいてやらなかったからねえ",
"そうかなあ、怒ったんだろうかねえ"
],
[
"ねえ河合、張の占いはほんとうにあたるんだろうか",
"さあ、それはどうかなあ。あたったりあたらなかったりさ",
"君はおぼえているだろう、ネッドがいっていたね。張の水晶の珠を拝んで占ったら、出発してから二日以内に災難にぶつかるだろうといったじゃないか",
"そういったが、あんなことはあたりやしないよ。二日以内になんて、そんなにはっきりした予言なんかできるものかい"
],
[
"それからもう一つ、いやなことをいったじゃないか。なんといったっけなあ“今度の旅行は先へ行くほど苦労が加わり、村へ帰れるのは何日のことになるか分らない”そういったじゃないか",
"うん、そういって僕たちを不安にさせるつもりだったんだ。不安になれば、張とネッドを連れていくだろうと思ったんだよ。とにかく僕は、占いなんてものを信じないよ。ばかばかしい話だ"
],
[
"あ、あれに乗っているのはネッドだ、あっ、張もいらあ",
"え、ネッドに張か、ははあ、とうとう無理をして、後から追駆けてきたんだよ、仕様がないやつだ"
],
[
"ああ、そうか。張の占いがちゃんとあたったんだ。僕たちが二日以内に出会うはずの苦労というのは、このことだぜ",
"とんでもない目にあうものだ"
],
[
"うわあ、たいへんだ。二人とも死んでいるぞ",
"あ、このままじゃあ、二人の死骸も焼けてしまうぞ、早く下りていって、火を消しとめよう",
"たいへんなことになったもんだ"
],
[
"ええっ、ネッドか。かわいそうに、もう息をしていないか",
"ああ、息がとまっている。もう死んでしまったんだよ、かわいそうに……"
],
[
"ネッド、起きろ、大丈夫だから起きろ",
"あたいをコロラド大峡谷まで、一しょにつれていってくれるかい。それを約束するなら生き返ってもいいよ"
],
[
"生き返るのがいやなら、ここでいつまでも死んでいるがいい",
"それよりも張を見てやろうよ",
"張も死んだまねをしているのじゃないか"
],
[
"あ、血が出ている。これはほんとうにたいへんだぞ",
"おい、張、しっかりするんだよ",
"龍王洞の仙人さま、死んじゃ損ですよ"
],
[
"おい張君。君が大切にしている水晶さまにお願いして、缶詰を二箱ぐらいなんとか都合してもらえまいか",
"冗談じゃない。そんなうまい力は、水晶さまにありゃしない"
],
[
"それなら、水晶さまを誰かに売って、そのお金で缶詰を買ったらどうだろう",
"ば、ばか"
],
[
"じゃ食糧問題をどうする?",
"稼いで食糧を手に入れればいいじゃないか。野菜でも缶詰でも手に入ればいいんだろう……",
"ネッド、ちょっと待て。稼ぐ稼ぐというが僕たちがどうして稼げるだろうか。グルトンの村にいれば、知っている人もあるから、働かせてくれるだろうが、こんな旅先で、知らない人ばかりのところで、誰が働かせてくれるものか"
],
[
"ううん、ちがうよ。やればやれるよ。つまりこういう土地には特別の稼ぎ方があるんだ、もし僕に委してくれるなら、明日からちゃんと稼いでみせるよ",
"へえ、おどろいたね。それはほんとうかい",
"ほんとうだとも",
"でも、稼ぐために毎日朝から晩まで稼がなければならないとすると、いつになったらコロラド大峡谷へ行き着けるか、わからないぞ"
],
[
"ネッド。一体何をするのか",
"まあ、それは明日までお預りだ。しかし少し舞台装置がいるね",
"えっ、なんだって、ブタイ何とかいったね",
"ああ、そうなんだ。この箱自動車の中にある布や道具などを利用してもいいだろう。僕は張と一しょに、いい儲けをとってみせるよ。だから夕方から二三時間、この箱自動車ごと僕に貸しておくれよ",
"大丈夫かなあ、またこの前のように崖から落ちるんじゃないか。そうなれば、僕たち四人は破産だよ。村へも帰れやしない",
"まあいい、あたいの腕前を見ておいでよ"
],
[
"うわっ、たいへんだ。角の生えたへんな動物が、この中に入っている。いつ入ったんだろうか",
"へえ、角の生えた、へんな動物だって……"
],
[
"なあんだ、張が笑っているだけじゃないか",
"そんなことはないよ",
"さあさあ、この幕を張るから、みんな箱車の屋根へのぼって手伝え"
],
[
"呆れたねえ、張を牛頭大仙人にして、占いをやるのか。それで張は、さっきあんなへんなものを被っていたんだな",
"何か食糧品を一品持って来いとは、はっきり書いたものだ",
"おいおい、何を感心しているのか、まだ仕事が残っているんだ。その下に穴をあけて、この曲ったメガフォンをとりつけるんだ、中をのぞきながら、このメガフォンで張――いや牛頭大仙人の声が聞けるようにするんだ"
],
[
"さあ、ぼんやりしないで、一刻も早く神秘の箱車を走らせたり、走らせたり",
"おい、大丈夫か"
],
[
"牛頭大仙人さま。この間から見えなくなったわしの鍬はどこにあるだかねえ",
"汝家に帰りて、裏門より入り、そこより三十歩以内をよく探して見よ",
"へへへ、どうも有難う"
],
[
"伺うだが、今年のわしのリューマチは左の脚に出るかね、それとも右の脚に出るだかね",
"今年の冬は、始めは左の脚に、後に雷が鳴って右の脚にかわる",
"へへへへ、これはおそれ入りました"
],
[
"へえっ、どうしたんですか",
"引越したんだよ、引越先はなんでもアリゾナ州の方だという話だがな。とにかく引越して貰って幸いさ、この近所で火星の鬼とつきあいなんかされては村の迷惑だからね"
],
[
"なぜ引越したんでしょう",
"それはお前、こういうわけだ。つまりアリゾナの方が、ここよりは土地が高いから、それだけ火星に近いという便利があるからよ",
"はははは",
"笑う奴があるか、本当のことだぜ。それに三十年も使った塔だから、もう古くなって、あの仙人の自動車みたいにがたがたになったのさ。それでアリゾナに新しい塔を建てたというわけだ",
"お金はあるのですね、そんなに塔を建てかえるようでは……",
"それはあるさ。火星探険なんて変った仕事だからなあ。そういう変った仕事には、ふしぎと金を出す人間がいるのさ",
"本当に博士は火星探険に出かけるつもりなんでしょうか",
"出かけるつもりはあるらしい。だが、あんなよぼよぼでは、火星まで行き着かないうちに死んでしまうだろう。なにしろ火星まで行き着くには十年か二十年はかかるからなあ",
"そうでしょうね。それで、一体何に乗って行くんですか",
"それが全然わからないのさ、だから、博士の火星探険はお芝居で、結局行かないうちに博士が死んで、協会は解散になるといっている者も居るが、わしはそうは思わないね。博士は何か深く考えて、秘密に乗物を用意していると思うね。それを皆に明かさないのは、何しろ火星まで行き着くための乗物だから、その秘密を知られないように隠してあるんだと思う",
"おじさんは、なかなか博士びいきなんですねえ",
"博士びいき? そういうわけじゃねえが、あの爺さんの姿は、もう三十年あまりもこの二つの目で見ているんだから、いろいろ悪口をいうものの、本当は人情がうつらぁね。それに近年博士に対して大人気ない攻撃をする奴がだんだん殖えて来るのには、わしでも腹が立つね。わしの力で出来ることなら博士に力を貸して威勢よく火星探険へ飛出させたいと思うが、何しろ博士があのとおりよぼよぼじゃあ、後押しをしてもその甲斐がないよ"
],
[
"博士さま、お前さまは“コーヒーに追いかけられて大火傷をするぞ”といわれたでねえかよ、はははは",
"はははは。それによ、お前さまの将来は“この世界の涯まで探しても寝床一つ持てなくなるし、自分の身体を埋める墓場さえこの世界には用意されないであろう”といわれたでねえか。やれまあお気の毒なことじゃ。はははは",
"おまけによ、お前さまは“心臓を凍らせたまま五千年間立ったままでいなければならぬ。一度だって腰を下ろすことは出来ないぞ”といわれたでねえかよ。お気の毒なことじゃ。はっはっはっはっ"
],
[
"旦那。みんな口は良くないが、腹の中はみんないいんですぜ。旦那が一日も早く火星へ飛んで行けるように、みんな祈っているんですよ",
"そうとも思われないが……",
"旦那、火星への出発はいつですか。もうすぐですか",
"そんなことは、話せないよ",
"いって下さいよ。わしは仲間のやつと賭をしているんですからね",
"どんな賭だね。君はどういう方へ賭けたのかね",
"わしですかい。わしはもちろん、デニー博士は今年の十二月までに地球を出発して火星へ向かうであろうという方へ入れましたよ。今となってはとんだところへ入れたものです",
"ふふふふ。まあいいところだ",
"なんですって。もう一度いってくださらんか",
"いや、ふふふふ。賭けというものは必ず負けるものじゃと思っていればいいのだ。そうすれば思いがけない儲けがころがりこむじゃろう",
"ねえ旦那。火星探険の乗物は、何にするのですかい。ロケットかね、それとも砲弾かね",
"ふふふふ。素人には分らんよ。もっともわしにもまだはっきりきまらないのだがね",
"なんだ、まだ乗物が決まらないのじゃ、わしの賭けもはっきり負けと決った",
"君みたいに気が早くてはいかんよ。火星探険でも何でもそうじゃが、焦っては駄目じゃ。気を長く持って、いい運が向うから転がりこむのを待っているのがよいのじゃ。な、気永に待っているのがよいのじゃ。待っていれば必ずすばらしい機会は来るもの。焦る者不熱心な者は、そういうすばらしい機会をつかむことができん",
"旦那。お前さんの火星探険は三十年も機会を待っているようだが、それはあまりに気が永すぎますぜ。悪くいう者は、デニー博士は火星探険などと出来もしない計画をふりまわして金を集める山師だ、なんていっていますぜ",
"山師? とんでもない下等なことをいう仁があるものじゃ。今に見ていなさい。一旦その絶好の機会が来れば、余は忽然としてこの地球を去り、さっと天空はるかへ舞いあがる……",
"あ、いたッ"
],
[
"あれっ、君は、こんなに儲かったかといって、躍りあがって喜んだくせに……",
"だって、あんな重い牛の頭のかぶりものをかぶって、二時間も三時間も休みなしで呻ったり喚いたりの真似をするのはやり切れん",
"でも、さっきは喜んでやったじゃないか"
],
[
"さっきは、僕たちが飢え死をするかどうかの境目だったから我慢したんだよ。君がいうように僕ひとりで毎日あんな真似をやった日には、きっと病気になって死んでしまうよ",
"弱いことをいうな。張君。とにかくあんなに儲かるんだから、辛抱しておやりよ",
"儲けるのはいいが、僕一人じゃ僕が損だよ。牛頭大仙人を、毎日代りあってやるんなら賛成してもいいがね",
"牛頭大仙人を毎日代りあってやるって。へえ、そんなことが出来るのかい。だって、水晶の珠をにらんで、どうして占いの答えを出すのか、僕たちに出来やしないじゃないか"
],
[
"だって、それがむずかしいよ。僕らが水晶の珠を見詰めても、君のようにうまく霊感がわいて来やしないよ",
"それは僕だって、いつも霊感がわくわけじゃないよ",
"じゃあ、そのときはどうするんだい。黙っていてはお客さんが怒り出すぜ",
"そのときは、何でもいいから出まかせに喋ればいいんだ。するとお客さんは、それを自分の都合のいいように解釈して、ありがたがって帰って行くんだ。占いの答に怒りだすお客さんなんか一人もいないや"
],
[
"はははは、そう怒るな。とにかくあれは占うまでもなく、水晶さまにお伺いしないでも口からつるつると出て来たことなんだ。そういう場合は、ふしぎによくあたるんだ",
"あたるのは、あたり前だ。自分が二日後には追附くことが分っているんだもの。全くひどいやつだよ",
"おい張君。すると結局デニー博士に与えた占いはどういうことになるんだ。やっぱり君は博士の将来はこうなると知っていて、あのように喋ったのかね"
],
[
"そうでもないね。始め僕は、あの人が火星探険協会長だとは知らなかったんだ。だから何にも知ろうはずがない。ただ、博士が穴から顔を出したとき、あれだけの答が博士の顔に書きつけてあったんだ。僕はそれを読んで順番に喋ったにすぎないんだ",
"うそだい。博士の顔に、そんなことが書いてあるものか。考えても見給え。博士の顔と来たら髭だらけで、文字を書く余地は、普通の人間の三分の一もないじゃないか。字を五つも書けば、もう書くところなんかありやしない"
],
[
"どこまで進行したかね",
"もうあと、檻一つ出来れば、それで完了だ。全部で四十個の檻が揃うわけだ",
"もう一つ残っている檻って、何を入れる檻かね",
"第十九号の檻だ。チンパンジー(類人猿)を入れる檻だ",
"ああ、そうか。おいおい、瓦斯の方は準備は出来ているかあ",
"出来すぎて、皆退屈しているよ、昼から野球試合でも始めようかといっている",
"ふふふ、えらく手まわしがいいね。もちろん瓦斯試験もすんでいるんだろうなあ",
"大丈夫だとも、何なら野球場だけをR瓦斯で包んで、その瓦斯の中で野球をしようかといっている",
"だめだ、R瓦斯を出しちゃ。瓦斯放出は今日の午後三時からということになっているから、厳格に時間を守るように。そうでないと思い懸けない事件が起ると、責任上困るからなあ",
"僕達は全部マスクをつけているからいいではないか",
"ああ、僕達はいいが、村民でまだ引揚げない連中もあるだろう",
"しかし、放送で再三注意しておいたからねえ、“この地区では瓦斯実験を行うので危険につき今日の正午以後翌日の正午まで立入禁止だ”と繰返し注意を与えてある。だから、このへんにまごまごしている者はいないよ",
"だが、念には念を入れないといけない。とにかくR瓦斯の放出時間は午後三時だ。それより早くは、やらないからそのつもりで……"
],
[
"もうすぐ瓦斯を放出するが、街道の方をよく気をつけているんだぞ。自動車がやって来たら、すぐ停めて他の道へまわってもらうんだ",
"はい、よろしい"
],
[
"ああ、大きな手ぬかりだった。この人たちは危険なR瓦斯を吸ってしまったのだ。そしてこの通り苦しんでいる",
"苦しんでいるのじゃないよ。おかしくて仕方がないという風に、笑い転げているんだ",
"ちがうよ。おかしくて笑っているのではないよ。おかしくもないのに笑っているのだ。R瓦斯の中毒なんだ、こうしてひどく笑い転げるのは……。さあ、この人達を僕たちの車にのせて病院へ連れて行こう。早くしないと、この善良にして不幸な人達は、笑い疲れて死んでしまうだろう。さあ、手を貸せ",
"よし。じゃあ大急ぎだ",
"おや、これは子供だね。東洋人だ"
],
[
"そうか。それはいいものを見つけたね。すぐ行ってみよう",
"すっかりそのことは忘れていたね"
],
[
"こうなったら、牛頭大仙人の予言をつつしんで承るより方法がないよ。おい牛頭の仙ちゃん、一つ水晶の珠で占っておくれよ",
"だめ、だめ。僕に占いなんか出来やしないよ"
],
[
"だめ、だめ。ほんとうは、僕は占いなんかできやしないんだ",
"ふふふふ、張君がほんとうのことを白状したぞ。占いや予言なんて、あれはでたらめにきまっているさ。僕は前から知っていた"
],
[
"占いは、一種のたましいの働きなんだ。だからたましいを小さいピンポンの球のように固めることができる人は占いができる人だとさ。張君は、それができるんだろう",
"そういわれると、僕にも思いあたることがあるよ、ときによると、僕のたましいはピンポンの球ぐらいに固まることがあるよ"
],
[
"そうだろう。そういうときに占いをすればちゃんと当るのさ。そうそう、そのことを精神統一というんだ",
"うそだ、あたるもんか"
],
[
"一体何を占うんだい",
"これから僕たちはどうなるか、それを占ってみな",
"よし、やってみるぞ"
],
[
"……ああら、たいへん。僕たち四人の胸に大きな勲章がぶら下っているよ……",
"でたらめ、いってらあ"
],
[
"おやおやおや、景色が一変した。僕たち四人は、牛の背中にのって、ニューヨーク市のブロードウェイを通っているぞ",
"牛の背中にのって……"
],
[
"……紙の花片が、大雪のようにふってくる。五色のテープが、僕たちの頭上をとぶ。すばらしい歓迎ぶりだ……",
"うそだよ、そんなこと。僕たち四人がそんなすばらしい目にあう気づかいないよ。だって、僕たちは、おこずかいを貯めて、やっと自動車旅行をしている身分じゃないか"
],
[
"何だろう、あれは……",
"火事じゃないかな",
"火事じゃないだろう。映画が始まるんじゃないかな",
"よし、張君に占わせよう。さあ張君。占った。あのベルの音は、何事が起ったのか",
"さあ、困ったなあ",
"さあ早く早く"
],
[
"まあ、待て、もっと落着かなくては……",
"そんなことは後にして、廊下へ出て、誰かに聞いてみなくちゃ……"
],
[
"おい、どうしたんだろう",
"どうしたんだろうね",
"気が変になったんだろうか",
"僕たちが四人ともいっしょに気が変になるなんて、あるだろうか",
"変だ、変だ、どうしても変だ",
"変どころのさわぎじゃないよ。僕たちは、空中へ放りあげられたんだ"
],
[
"ほら、下をごらん。あそこに見えるのは地上だ。地上があんなに小さく遠くなっていく……",
"ほんとだ。で、僕たちはどうして空中へ放りあげられたんだろう"
],
[
"さあ、分らないね、それは……",
"家ごと空へ放りあげられるというのは変じゃないか。飛行機は空を飛ぶけれど、家が空を飛ぶ話をきいたことがない",
"噴火じゃないかしら"
],
[
"噴火。噴火して、どうしたというんだい",
"この塔の下に火山脈があってね、それが急に噴火したんだよ。だから塔が空へ放りあげられたんだ",
"そうかもしれないね。とにかくたいへんだ。そのとおりだとすれば、やがて僕たちは、えらい勢いで地上めがけて落ちていくよ。そして大地へ叩きつけられて紙のようにうすっぺらになるぜ。いやだなあ"
],
[
"人間が紙のようにうすっぺらになっちゃ、玉蜀黍や林檎や胡桃なんかのように、平面でなくて立体のものは、たべられなくなっちゃうよ",
"それどころか、僕たちは地上へ叩きつけられたとたんに、きゅーっさ。死んでしまうんだぞ",
"死ぬんか。ほんとだ。死ぬんだな。ちぇっ、張の占いなんか、さっぱりあたらないじゃないか。さっき君は僕たち四人が勲章を胸にぶらさげて牛に乗ってブロードウェイを行進するのだの、紙の花輪やテープが降ってくるんだのいったけれど、これから墜落して死んじまえば、そんないいことにあえやしないや",
"だから、僕の占いはあたらないといっておいたじゃないか",
"あーあ、困ったなあ"
],
[
"おい河合君。どうしたのさ",
"分ったよ。僕たちは今、ロケットに乗っているのさ。ロケットに乗って空中旅行をしているんだよ",
"ロケットに乗って? でも、変だねえ。僕たちはロケットに乗りかえたおぼえはないよ。これは本館だからねえ",
"うん、これは本館さ、あの傾斜した巨塔さ。今空中を飛んでいるんだよ",
"そ、そんなばかなことが……",
"いや、それにちがいない。あの巨塔は、実はロケットだったのさ、半分は地中にかくれていたが、それが今こうして空中を飛んでいるのさ。だから地階の窓から外が見えるようになったわけだ"
],
[
"えっ、逃げおくれたとは……",
"おや、知らないのかね、君たちは……。この宇宙艇はね、まだ出発するはずではなかったんだ。機関室で、或るまちがいの事件が起ったため、こうしてまちがって離陸したんだ",
"へえっ、機関室でまちがったのですか",
"うん。君たちは、さっき警報ベルの鳴ったのをきかなかったかね。“総員退去せよ”と、ベルがじゃんじゃん鳴ったよ。それをきくと、多くの者は外へとび出し、そして助かったんだ"
],
[
"いや、まだ十数名残っている。僕は逃げれば逃げられたんだが、せっかくこしらえた宇宙艇から去るにしのびなかったのでね。たとえこの宇宙艇がどこの空中で、ばらばらに空中分解してしまうにしてもさ",
"宇宙艇ですって",
"空中分解! ほんとうに空中分解しますか"
],
[
"君たちはずっと前から僕たちが火星探険協会の者だと感づいていたんだろう",
"いいえ。そんなことないです"
],
[
"ああ、R瓦斯。あの実験は、やっぱり火星探険に関係があるのですか",
"そうとも、大いに関係があるんだ。あのときいろいろな動物を、原っぱにつくった檻の中に収容しておいて、R瓦斯にさらしたのだ。その結果、ほとんどすべての動物が、あの瓦斯を吸って死んでしまったよ",
"僕たち人間でも昏倒するぐらいですものねえ",
"そうだ。しかしその中で、割合平気でいたものがある。それは鰐と蜥蜴と蛙だ",
"爬蟲類と両棲類ですね",
"うん、もう一つ、牛が割合に耐えたよ。その次の実験には、マスクを牛に被せた。すると更によく耐えることが分った",
"R瓦斯というのは、どんな瓦斯ですか",
"R瓦斯は、火星の表面に澱んでいる瓦斯の一つで、これまで地球では知られなかった瓦斯だ",
"毒瓦斯なんですね",
"地球の生物にとってはかなり有毒だ。しかし火星の生物にとっては、R瓦斯は無害なんだ。いや彼等にとっては棲息するために必要な瓦斯なんだ、ちょうどわれわれが酸素を必要とするように……"
],
[
"たいへんだ。もう地上へ引返せないんだとさ",
"困ったな。一体われわれはこの先どうなるんだ",
"どうなるって……さあ、どうなるかなあ"
],
[
"いや、とにかく、このまんまじゃ、どんどん地球から遠去かっていくわけだから、やがてわれわれは宇宙の迷子になってしまうだろうね",
"なに、宇宙の迷子? いやだねえ、それは宇宙にもおまわりさんがいて、迷子になりましたから道を教えて下さい、うちへ送って下さいといって頼めるならいいんだけれど……",
"そうはいかないよ。宇宙の迷子になって、そのはては食糧がなくなって餓死だよ",
"餓死? いやだねえ、いよいよいやだねえ。僕は日頃からくいしん坊だから、餓死となれば第一番に死んじまうよ。何とかならないものかなあ",
"なにしろエンジンが真赤になってひとりで働いていてねえ、どうにも手がつけられないんだそうだ",
"方向舵ぐらい曲げられるだろうが",
"いや、それもだめだ。舵を曲げようとしても、さっぱりいうことをきかないそうだ",
"うわあ、それじゃ絶望じゃないか"
],
[
"成層圏! いつの間に成層圏へはいったんだか、気がつかなかったよ",
"これからますます空は暗くなるから星が見える。だんだん星の数がふえる",
"ほう、神秘な国"
],
[
"真東へ飛んでいる。黄道の面と大体一致しているよ。かねてわれわれが計画しておいた方向へは走っているんだがね",
"われわれが準備しておいた方向というと"
],
[
"デニー博士は、この宇宙艇に乗っているんですね",
"そうだ。さっき椿事を起こしたとき、先生のところへ行って、危険が迫っていますから早く外へ出て下さいとすすめたが、先生は“お前たちこそ逃げろ。わしはどうあっても艇からはなれない”といって、避難することを承知せられなかった",
"するとデニー博士は、この艇と運命を共にせられる決心なんですね",
"先生は、何十年の苦労を積んだあげく、この艇をつくられたんだ。だからこの艇は自分の子供のように可愛いいのだ。そればかりではない。この艇のことについては自分が一番よく知っている。だから椿事が起れば、その際最もいい処置をなし得る者は自分であるという信念をもっていられる。だから、先生はこの艇に残っておられるのだ"
],
[
"ああ、不足だね。さっき報告があったところでは、三ヶ月分があるかどうか、すこし心配だそうだ",
"たった三ヶ月分ですか",
"マートンさん。火星までは日数にしてどれだけかかるのですか",
"始めの計画では、最もいいときに出発すると約三十日後には火星に達する予定だった。それには時速十万キロを出し、火星までの直線距離を五千五百万キロとして航路の方はこれより曲って行くから結局三十日ぐらいかかることになっていたんだ",
"僕たちもぼんやりしないで、大人の人々といっしょに働こうじゃないか"
],
[
"そうだ。そうだ。それはいいことだ",
"何でもします。お料理なら自信があります"
],
[
"これだけの大きなエンジンを扱うのに、たった八人の技術者しかいないんだぜ。君が働いてくれるなら、どんなに助かるかしれない",
"ええ、働きますとも。しかし僕は何をすればいいのでしょう",
"それはデニー先生が命令される。さあ、いっしょに配電盤の前へ行こう"
],
[
"はい、ありがとう。マートンさんは食堂へ行かないのですか",
"後から僕も行くよ。その前にデニー博士とすこし相談しておくことがあるのでね、君は遠慮せずに先へ行ってきたまえ"
],
[
"そうだね、あついコーヒーとね。それから甘いものだ。ショート・ケーキか、パイナップルの缶詰でもいいよ",
"よし、何でもあるから、うんと持ってこよう",
"でも、食料品が足りないという話だから持って来るのは少しでいいよ",
"なあに、うんとあるから大丈夫"
],
[
"いやあ、へんなことがあるんだよ。パイ缶をあけたんだよ。すると中からパイナップルがぬうっと出てきたんだよ。まるでパイナップルが生きているとしか思えないんだ。それとね、甘いおつゆがね、やはり缶から湯気のようにあがってきて、そこら中をふらふら漂うんだよ。おどろいたねえ。まるで化物屋敷みたいだ",
"ふうん、それはふしぎだなあ",
"だからこうして缶の上をお皿でおさえているんだ。気をつけてたべないといけないぜ",
"どういうわけだろうね、それは……"
],
[
"ああこれだね。へんだなあ",
"早く、フォークでおさえないと、パイナップルが逃げちまうよ。さっきも調理場で、一缶分そっくり逃げられちまったんだ",
"なるほど、これはいけない。パイナップル、待ってくれ"
],
[
"やあ、ひどい火傷だ",
"でも、君のいうことがよくわからないね、コーヒーがデニー博士を追駆けたといって、それは何のことかね"
],
[
"さっき僕はパイナップルの一片が空中をゆらゆら泳ぎだしたもんだから、フォークをもって追駆けまわしたのさ。博士の場合は、あべこべにコーヒーが博士を追駆けたんだろう",
"そうなんだ。博士の部屋で、電気コーヒー沸しを使ってコーヒーを沸していたのさ。すると博士が“あっ、熱い”と叫んで椅子からとびあがったんだ。見るとね、博士の背中へ何だか棒のようなものが伸びているんだ。それがね、よく見るとコーヒーなんだ。コーヒー沸しの口から棒のようになって伸びているんだ。茶っぽい棒なんだよ。それで僕は、博士の背中にもうすこしでつきそうなその茶っぽい棒をつかんだのさ。ところが“あちちち”さ。両手を火傷しちゃった、そのコーヒーの棒で……。だってコーヒーはうんと熱く沸いていたんだからねえ",
"ふうん、それは熱かったろう",
"ところがコーヒーの棒は、まるで生きもののように、博士の逃げる方へいくらでも追駆けていくのさ。僕は、博士を火傷させては大変だと思ったから、またコーヒーをつかんだ。それから後、何べんも火傷した。どういうわけだろうね、コーヒーは博士ばかりを追駆けまわしたんだ",
"それはそのはずだよ。博士が逃げると、そのうしろに真空ができるんだ。真空ができるということは、そこへコーヒーを吸いよせることになるんだ。ちょうど低気圧の中心へ向って雨雲が寄ってくるようなものだよ"
],
[
"おやおや、御本尊がしらないんじゃ、誰にもわかるはずがない",
"その時がくれば何もかもわかるんだろう。時はすべてを解決するというからね"
],
[
"現在の本艇の位置は、地球と火星とを結ぶ航路の約三分の二を既に突破している。つまりあと三分の一航行すれば火星につくのである。なお、燃料はどっちにしても十分ある。これは本館――いや本艇に予期以上の燃料が蓄えてあったことがわかったので、この点では心配ないと思う。食糧は燃料ほど十分ではなく、いっぱいいっぱいの程度である。だから火星へ直行する場合は、これから当分のうち少し減食しなければならないと思う",
"火星へ行きましょう",
"賛成、ここまで来たんだから火星へ行ってみたい",
"どうせわれわれは火星探険協会員だから、火星へ向って苦労するのは元より覚悟の上です。行きましょう、火星へ"
],
[
"では、本艇はこれより火星へ直行することに決める。本日の観測によれば、火星まであと十一日かかると思う。その間に、諸君はかねての研究にもとづき、十分の準備をせられるよう希望する。火星に上陸できるかどうかは、もうすこし先になってみないと決めかねるが、ともかくも明日、上陸後の編成を発表する。何分にも乗組員の数が少ないから、各人はそれぞれ相当重い役割をつとめなければならない。それは覚悟して置いてもらいましょう",
"何でもやります。どしどし命令して下さい",
"そうだ。これまでに費した研究の結果を、ここで十分に発揮して、火星と地球との交通を開くことに成功したいものだ。諸君、大いにやろうぜ",
"ああ、やるとも、やるとも、地球人類の名誉にかけて、このことは成功させてみせる",
"火星へ一番乗りができたら、僕は火星の上で土になっても悔いないぞ"
],
[
"ああ、霞んでいるわけをいいましょうか、あれはね、火星の表面には水蒸気があるからだ。地球だってそうだ。水蒸気があるから雲があって、今日だって大陸の形などよく見えやしない。火星の水蒸気は、地球の水蒸気と比べて二十分の一しかない。その割に、火星の表面がぼんやりしているわけは、もう一つある。それは火星の周囲をかなり夥しい宇宙塵が取巻いているせいだ。宇宙塵てわかるかね",
"何だろうな、ウチュウジンて?"
],
[
"宇宙塵がなぜ火星を取巻くようになったかという問いだね。ううん、これはむずかしいことだ。いろいろ臆説はあるが、天文学者にもまだ本当のことはわかっていないんだ",
"学者にもわからないことがあるんですか"
],
[
"もちろん、そうさ。学者は世界にたくさんいる。しかしその人たちの説き得た自然科学の謎は、まだほんのわずかだ。これから先何億万年かかっても、その全部はとき切れないだろう。そのように自然科学の奥は深いのだ",
"そんなに永いことかかっても、わからないもんですかねえ"
],
[
"河合君。あと二日でいよいよ宇宙塵の間を本艇が抜けるそうだよ。本艇はそのとき穴だらけになっちまいやしないだろうか",
"なあに大丈夫だろう。デニー先生もマートンさんも平気な顔をしているもの",
"そうかしら……それから君は、火星には人間が住んでいると思うかい",
"人間かどうかしらんが、生物はいると思うね、張君",
"生物? その生物は、僕たちを見たとき、どうしようと思うだろうね",
"どうしようというと、どんなこと?",
"つまり火星のライオンかゴリラかが、僕たちの顔を見たとき、これは珍らしい御馳走が来たぞ、早速たべちまおうかな、などということになりやしないかね",
"さあ、それはわからないね、マートンさんに聞いてみなければ……",
"マートンさんも、よくわからないと答えたよ、それについて僕は考えたんだ。火星へ上陸するときは、御馳走の固まりをたくさんこしらえて持って行くことだと思うよ",
"御馳走の固まり",
"そうなんだ。この御馳走の固まりは、僕たちがたべるんじゃなく、いざというときに、火星の生物の前へ放りだすんだ。するとその生物がむしゃむしゃたべ始めるだろう。その隙に僕は逃げてしまうんだ",
"ほおん、するとその御馳走の固まりは、つまり僕たちの身代りなんだね",
"僕たちじゃないよ、今のところ僕だけの身代りにこしらえる計画さ",
"そんなことをいわないで、僕の分もつくってくれよ",
"よし、そんなら君の分もこしらえてやるが、一体その火星の生物は、何をたべるかね。何が好きだろうか、それを教えてくれ",
"……"
],
[
"山木君。なぜそんなに元気がなくなったんだろうね、君は……",
"うん、どうも身体の具合がよくないんだよ。熱もないんだが、ひょっとしたら、あのせいじゃないかな"
],
[
"ああそうか、君もやっぱり宇宙性神経衰弱にかかっているんだな",
"えっ、宇宙性神経衰弱だって",
"そうなんだ。この病気は、大宇宙のあまりに神秘な、そしてすさまじい光景にぶつかって、僕たちの心がひどく圧迫せられる結果起る病気なんだ。君もそうなんだろう。あのとおり火星は化け物のように大きく天空にかかって僕たちの前に立ちふさがっている。あれが気持よくないんだろう",
"うん、そういわれると、そうかもしれない。たしかに火星を見ていると気が変になりそうで仕方がない。あの大きな物体が、なぜ落ちもしないで宙に浮かんでいるんだろう。ああいやだ。僕はとうとう火星に負けちまったようだ"
],
[
"まだ宇宙塵の入口だから、あまり衝突する塵塊もないのでしょうね",
"そうだろう、しばらくは、宇宙塵の流れに乗って、同じ速さで飛んでみよう。もし急いでこの宇宙塵の渦巻を突切ったりしようものなら、本艇はものすごい塵塊に衝突して、火の玉となって燃えだすであろう。しばらくは我慢する外はない"
],
[
"落着いて、マートン。四象限へ舵一杯、もっと一杯",
"はい、もっと一杯、引いていますが、これで一杯です",
"あっ、危い!"
],
[
"艇長。ピットです。第三舵が飛ばされてしまいました。宇宙塵塊のでかいのが、あっという間にその舵をもぎとってしまったのです。総員で応急修理中ですが、当分第三舵はききませんよ",
"ああ、わかった。元気をだして、できるだけ早くやってみてくれ"
],
[
"で、本艇は空中分解の危険があるだろうか",
"今のところ大丈夫でしょう。その二十トンの塵塊は反対の艇壁をつきやぶって外へとびだしてしまいましたから、まあよかったです",
"燃料の方は、どうか。本艇の航続力はどの程度に減ったか。このまま火星へ飛べるだろうか"
],
[
"おーい。生きている者は、こっちへ集ってこい",
"おう、今行くぞ"
],
[
"ああ、マートンさん。怪我はなかったんですかねえ",
"ああ、何ともないよ。どうだ恐ろしかったか",
"ええ、びっくりしましたよ。で、本艇はだいぶやられたようですか、無事に飛んでいるのですか"
],
[
"そうだ。君たち少年は四人だったな",
"ええ、そうです",
"そうか。君たち少年が本艇に乗ってくれたので、今わしはたいへん気が強い。これはわしからお礼をいうよ",
"はあ、どうしてですか"
],
[
"まだ、はっきりしたことは分らぬ、だがね、河合少年。うまく火星に着陸できたとしても次に火星から地球へ戻るときには新しい宇宙艇を建造しなければならないだろう。これはたいへんな大事業だ。それに君たち少年の力が絶対に必要なのだ。そのことは今に分るだろう。万一のときには、わしの部屋にある緑色のトランク――それには第一号から第十号までの番号がうってあるがそれを君たちに贈るから、大事にしてくれたまえ。それはきっと君たちを助けるだろう",
"はあ。そのトランクの中には、何が入っているのですか",
"それはね、わしが永年苦心して作った設計図などが入っているのだ。そのときになれば分るよ",
"博士。それでは、この宇宙艇では、もう地球へ戻れないのですか",
"多分、戻れないだろう。帰還用の燃料は殆んどなくなったし、艇もこのとおり大損傷を蒙っているしね、それにまだいろいろ心配していることがあるんだ。おお、そうだ。こうしてはいられない、またゆっくり話をしてあげようね"
],
[
"重力中和機の全部。スイッチ入れろ",
"よいしょッ"
],
[
"ああッ",
"うーむ……"
],
[
"あれは蛸ではない。あれは多分、火星人だろうと思う",
"ええっ、火星人。あれが火星の人間なんですか",
"うん。まずそれに違いないであろうね。こうして見たところ、身体の工合が、わしがこれまでに研究し、想像していたところとよく一致しているからねえ",
"へえーっ。あれが火星人だとすると、火星人て気持が悪いものですね。僕はやっぱり地球の上と同じような人間が住んでいることと思っていましたが……",
"いや、そうはいかない。何しろ気候も違うし、火星の成因や歴史も違うんだし、そのうえに何万年も火星独得の進化と生長とをとげたんだから、地球人類と同じ形をしたものが、この火星の上に住んでいることは考えられなかったのだ"
],
[
"いやらしい恰好をしているね",
"これじゃちょっとつきあい憎いね",
"どれが男で、どれが女かな",
"さあ……どれがどうなんだか、全く見当がつかない。とにかく“火星には美人が多い”なんていう話を聞いたことがあったが、あれは全然うそだと分ったわけだ",
"やれ、気の毒に……"
],
[
"いや、腹がへっては駄目だ。今のうち食べられるだけ詰めこんでおけと、マートンさんはいうのだ",
"羨しいなあ。僕みたいな食いしん坊でも、今はビスケット一つ食べようとは思わない"
],
[
"そんなこと、僕が知るもんか",
"牛頭仙人の力で、水晶の珠にうかがってみたらいいじゃないか",
"それはさっき、張君にやらせたんだよ"
],
[
"僕は自信がないんだ。でもネッド君がぜひやれというもんだから……",
"牛頭仙人が、自分の力を知らないじゃ困るね。とにかく河合君に話しておやりよ"
],
[
"……つまりね、水晶の珠を見つめていると、こんな光景が見えたような気がしたんだ。僕たち四人がね。あの乳牛の箱自動車の上で、面白そうに狸踊りをおどっているのさ",
"へえ、狸踊り?",
"ほら、いつか山木君が教えてくれたじゃないか。何とか寺の狸ばやしの踊りだ。太い尻尾をぶらさげて、へんな恰好で踊るやつさ",
"ああ、あれか。證城寺の狸ばやしだよ",
"うん、それだ。で、僕たちが自動車の上で踊っていると、そこへ、ばらばらと赤いものが雨のように降って来るんだ。それで幻は消えた。おしまいだ",
"何だい、その赤いものが、ばらばらというのは……",
"それが分らない。火の子よりは大きいんだ。綿をちぎったほどの赤いものだ",
"すると焼夷弾が上から降ってくるのかな",
"焼夷弾が落ちてくる下で踊るわけもないじゃないか"
],
[
"だから僕は、そのうらないは、やがていいことのあるしらせだと思う",
"君は楽天家で、羨しいよ。とにかく今にそれが本当か嘘か分るだろう。あばよ"
],
[
"でもへんだぜ、この火星へ着陸してからもう四時間は過ぎたのに、太陽は初めからほとんど同じように、頭の上に輝いているんだからね",
"そんなばかなことがあってたまるか",
"だって、それは本当だから仕方がない"
],
[
"火星の上では、一日が四十八時間なんだもの。つまり火星は地球の約半分の遅い速さで廻っているので、二倍の時間をかけないと一日分を廻り切らないのだ",
"へへえ、そいつはやり切れないな。三度の食事に、二倍ずつ食べないと、腹が減って目がまわっちまうぜ",
"なあに、一日に六度食べればいいのさ",
"いや、そうはいかないぜ。夜が二十四時間もつづくんだろう。二十四時間を何にも食べないで生きていられるだろうか",
"さあ、それはちょっとつらいね。途中で一ぺん起きて食事をし、それからまた続きを睡るってえことになるかな",
"なんだか訳が分らなくなった。どうも厄介な土地へ来たもんだ。はっはっはっ"
],
[
"なに、すると瓦斯は出なくなったのか",
"そうです。孔をふさがれちゃ、もうどうもなりません"
],
[
"割合に軽いね。へんじゃないか",
"火星の上では、重力が地球のそれの約半分なんだから、地球で着たときよりはずっと軽く感じるのさ",
"そうかね。これでどうやらすこし火星人に似て来たぞ。彼奴らも空気服を着ているのかしらん",
"まさかね"
],
[
"ただ今、ごらんになったろうが、河合、山木、張、ネッドの四少年が来ていうには、彼ら四名は、われわれの使者として、火星人たちのところへ出掛けたいと申し出た",
"それは危険だ。停めなければいけない"
],
[
"おお、行くぞ。われらの少年団が!",
"ふうん、考えたよ。あんなものに乗って行くとは"
],
[
"だめなんだ、これが一番低いスピードなんだ",
"そんなことはないだろう",
"いや、そうなんだ。火星の上では、重力が地球の場合の約三分の一しかないんだ。だから摩擦も三分の一しかないから、えらくスピードが出てしまうんだ",
"そうかね。そんなことがあるかね"
],
[
"どうしたらいいだろうか",
"困ったねえ"
],
[
"おーい、皆安心しろ。車は大丈夫だぞ",
"だって河合。車がいくら大丈夫でも、穴ぼこの中にえんこしていたんじゃ仕様がないじゃないか。役に立ちゃしないもの",
"ううん、大丈夫。皆、手を貸せよ。車をこの穴ぼこから上へひっぱりあげればいいんだよ",
"なんだって。穴ぼこから、車をひっぱりあげるって。そんなことが出来るものか。ぼくたちは子供ばかりだし、自動車は重いし、とてもだめだよ"
],
[
"さあ、こっちから押すんだぞ。一チ、二イ、三ン。そら、よいしょ",
"よいしょ、おやァ……",
"よいしょ、よいしょ"
],
[
"変だね。この自動車はなんて軽くなったんだろう",
"それはそのわけさ。さっきもいったろう。火星の上では、地球の場合にくらべて重力は約三分の一なんだ。だからなんでも重さが三分の一に感じられるんだよ",
"へえ、そうかね"
],
[
"やあ、あんなに上までとびあがったぞ。まるで天狗みたいだよ",
"やあ、これはおもしろい。もっととんでやれ"
],
[
"あっ、これはいいや。皆で、自動車の上で狸踊をおどろうや",
"よし、ぼくもやるぞ"
],
[
"だってにぎやかでいいじゃないか",
"いや、だめだい。にぎやかすぎて、踊の方がついて行けないよ。かわいそうに、ネッドなんかまじめに踊っているもんだから、足がふらふらしているよ",
"困ったねえ。『證城寺』をやるか",
"うん、それよりは軽快なワルツでもやるんだね。そして火星人が少しおちついたところを見計って、外交交渉を始めるんだね。もういい頃合だと思うよ",
"なるほど、それでは何がいいかな。そうだ、『ドナウ河の漣』を掛けよう"
],
[
"大丈夫かい。まだ早いんじゃないか",
"いや、今が頃合いだ"
],
[
"地球のことばを話して下さるので、たいへんよく分ります。そしてうれしいです。ぼくは山木という者です。どうぞよろしく",
"やあ、よくそういって下すって、私もうれしいです。私はギネといって、このミカサ集団の代表者をつとめている者、どうぞよろしく"
],
[
"ええ、その……つまり、さきほどはたいへん失礼しました。気持のわるい瓦斯をふきだして皆さんを苦しめ、ぼくたちも火星へついたばかりであわてていましたし、そこへ見なれない皆さんがたが押しよせてこられたので、これはたいへんだとちょっと誤解したのです",
"いや、あんなことは大したことではありませんよ。こっちも、じつは誤解をしてさわぎだした者があったのです。とにかく、あっちへ来ていただいて、ゆっくりお話をうけたまわりましょう。また、おもしろい音楽などをたくさん聞かせて下さい",
"はいはい、承知しました",
"が、その前にちょっと伺っておきますが、あなたがたは、いったい何の目的で、私どものところへ来られたのですか"
],
[
"ああ、そのことですか。われわれ地球の者は、じつは何千年も前から、この火星の存在を知っていたのです。しかも火星にはたしかに生物――つまりあなたがたのような方がすんでいるにちがいないと考えまして、早くおちかづきになりたいと思っていたのです。しかし宇宙をとんで来るのはなかなか容易なことではなく、ようやくデニー博士の宇宙艇が完成したので、こんどやって来たようなわけであります",
"ふん。私たちを見たいためだったのですか。それだけですか。外に目的はないのですか"
],
[
"くわしいことは、いずれ後からデニー博士がおはなしすると思います。とにかく火星を訪れたという目的は、地球に一番近い火星人と手をとりあい、火星にないものは地球から送り、またお互いに一層幸福になりたいという考えで、われわれはこっちへ来たのです",
"なるほど。共存共栄ですね。それは結構です。われわれは皆、互いに力になり合わなければなりません。――しかし、あなたがたの来られた目的は、たしかにそれだけでしょうかねえ"
],
[
"大丈夫だ。心配するなよ。今にうまく解決する",
"ほんとうかい。でも、相手のけんまくは相当強いぜ。逃げてかえろうか",
"まあ待て、動いてはよくない。ぼくのように落付いているんだ",
"だめだよ。ぼくは落付けやしないよ",
"ネッド",
"なんだ、張",
"お前は忘れたか、牛頭仙人のことを",
"ああ牛頭仙人……それはお前のことだ",
"そうだろう。お前はいつも大仙人のことを信じていた。その大仙人は、さっきからひそかにあの霊現あらたかなる水晶をなでてて、占っていたんだ。ほら、水晶はこのとおりぼくの腰にぶら下っている袋の中にあるんだ。占ってみると、たしかに今の急場は大丈夫しのげるとお告げが出たぞ。安心しろ",
"え、お告げが出たか。そうか。そんなら安心した"
],
[
"へえっ。君たちは地球人の少年かね。おれは君たちが成人した地球人だと思っていたが……",
"そうです、ぼくたち四人は少年です",
"四人? 三人しか見えないが……",
"もう一人は、あの自動車の中にいます",
"あのうつくしい音を出しているのが、そうか",
"そうです",
"ふうん。これは意外だ。おれは君たちが成人の地球人だとばかり思って話をしていたが、まだ年端もいかない少年だとは思わなかった。少年でもあれくらいの考えを持っているのだから、成人した地球人は相当えらいのだろうね",
"えらいですとも。大人は皆、宇宙艇に残っていますよ。ぜひおだやかに会って下さい",
"よし、そうしよう。ああギネが、君たちが少年であることをもっと早く教えてくれたら、おれはあんなにがみがみいうんじゃなかった。なにしろギネは地球へ行ったことがあるんで、火星人の中では一番ものしりなんだ",
"えっ、ギネさんは地球へ来られたことがあるんですか",
"二三度行ったよ。そうだね、ギネ",
"そうです。三度行きました。そして地球人のことを研究してきました。だが私の行ったことは、地球人は気がつかなかったようです",
"へえっ、それはおどろいた。どうして行ったのですか。何に乗って",
"ははは、それはいいますまい。アメリカ語を話せるようになったのも、私がそれをしらべてきたからです。しかし私の地球研究はまだその途中でした。だから火星の方で地球人を迎える用意もできていなかったのです。それで私がいくらなだめても皆はいうことをきかず、地球人の入っている宇宙艇の方へ押しかけたわけです。私は地球人の長所や文化を皆に知らせた上で、地球と正式に友交関係を結ぶつもりでした。しかし君がたがあまり早く火星へ来てしまったので、私の計画もすっかり手違いになったのです"
],
[
"さあ、不可能だろうね。なにしろ火星まで届くほどの有力なる宇宙艇を作り得る組織を持っている工場は、わがデニー先生の火星探険協会をおいて他にないんだからね",
"宇宙艇というものは、全然他では出来ないのですか",
"今出来ているのは、われわれのものを除くとせいぜい月世界まで届くぐらいのものなんだ。それも一旦月世界まで行っても帰還することはむずかしいからね",
"困ったものですねえ",
"ああ、全く困った"
],
[
"マートンさん、まだやってみることがあるではありませんか",
"まだやってみることが? それは何……",
"われわれの力だけでは、もうどうにも手の施しようのないことは分りましたが、しかしここは火星国です。火星人の智恵、火星の資源、火星人の労働力――そういうものはうんとあるではありませんか。それにあのギネという火星人は、これまで秘密のうちに、地球まで三回も往復しているんだそうですから、あの火星人に頼めば、われわれの知らない強力なエンジンを貸してくれるかもしれませんよ。そしてたくさんの火星人の労働力を借りるなら、どんな巨大な宇宙艇だって楽に早く建造することが出来るのではないですか",
"おお、それはすばらしいアイデアだ。そうだ、われわれはわれわれの力だけで解決することを考えていたので、宇宙艇の再建造は不可能だと決めてしまわねばならなかったんだ。火星人に協力を求める! なるほど、そうだったね。そういう道があるのだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「サイエンス」
1945(昭和20)年12月~1946(昭和21)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"なんじゃ、カセイヘイダン? カセイヘイダンというと、それは何にきく薬かのう",
"薬? いやだねえ、お父さんは。カセイヘイダンって、薬の名前じゃないよ",
"なんじゃ、薬ではないのか。じゃあ、うんうんわかった。お前が一度は食べたいと言っていた、西洋菓子のことじゃな",
"ちがうよ、お父さん。火星と言うと、あの地球の仲間の星の火星さ。兵団と言うと、日中戦争の時によく言ったじゃないか、柳川兵団だとか、徳川兵団だとか言うあの兵団、つまり兵隊さんの集っている大きな部隊のことだよ",
"ああ、そうかそうか",
"お父さん、『火星兵団』の意味がわかった?",
"文字だけは、やっとわかったけれど、それはどういうものを指していうのか、意味はさっぱりわからぬ"
],
[
"さあ『火星兵団』ってどんなものだか、僕にもわからないんだ",
"なんじゃ、おとうさんのことを叱りつけときながら、お前が知らないのかい。ふん、あきれかえった奴じゃ。はははは",
"だって、だって"
],
[
"『火星兵団』のことは、これから蟻田博士が研究して、どんなものだかきめるんだよ。だから、今は誰にもわかっていないんだ",
"おやおや、それじゃ一向に、どうもならんじゃないか",
"だけれど、蟻田博士は放送で、こんなことを言ったよ。『火星兵団』という言葉があるからには、こっちでも大いに警戒して、早く『地球兵団』ぐらいこしらえておかなければ、いざという時に間に合わないって",
"ふふん、まるで雲をつかむような話じゃ。寝言を聞いているといった方が、よいかも知れん。お前も、あんまりそのようなへんなものに、こっちゃならないぞ。きっと後悔するにきまっている。この前お前は、ロケットとかいうものを作りそこなって、大火傷をしたではないか。いいかね、間違っても、そのカセイなんとかいうものなんぞに、こっちゃならないぞ",
"ええ、大丈夫。ロケットと『火星兵団』とはいっしょに出来ないよ。『火星兵団』を作れといっても、作れるわけのものじゃないし、ねえおとうさん、心配しないでいいよ",
"そうかい。そんならいいが……"
],
[
"私がお伝えした命令が聞かれないとあれば、やむを得ず、博士の自由をおしばりすることになるかもしれませんぞ",
"ははあ、わしを留置場へおしこめると言うのでしょう。うむ、やりたければ、どうぞおやりなさい。しかしそのために『火星兵団』を用心することが、おろそかになるわけじゃから、大損ですぞ。天下はひろいが、今『火星兵団』の秘密を解く力のあるものは、はばかりながら、わしの外には誰もないのじゃからのう"
],
[
"じゃ、博士は、火星が兵団をつくって、今夜にも我々の住む地球へ、攻めて来るとでも言われるのですか",
"今夜にも、火星の生物が地球へ攻めて来るかどうか、それはまだはっきり言えないが、『火星兵団』と言うからには、火星の生物は、どこかと戦いを交えるつもりにちがいない。すると、地球を攻める場合もあるわけじゃ",
"ねえ博士"
],
[
"博士のお考えは、ごもっともです。ですが、火星に生物がすんでいるか、すんでいないかもわかっていないのに、いきなり市民にむかって、火星の生物が、今夜にも攻めて来るぞとおどすのは、どうでしょうかね。つまり、よけいな心配をかけるわけで、あまり感心しないと思うんですがね",
"なに、おどす? わしが、ありもしないことで、市民をおどすとでも言われるのかな"
],
[
"博士、聞かせてください",
"ふん、聞きたいと言われるか。聞いても、やっぱり信じられまいと思うが――"
],
[
"うむ、博士は変かもしれないとは思っていたが、それにしても、今の言葉は、変に気になる言葉じゃないか",
"なあに、気にするからいけないのですよ。あんなことを、なにも考えることはありませんよ。僕だって、変なことなら、なんでも言えますよ",
"ほう、言えるかね",
"言えますとも。たとえば、猫がピストルを握って、人を殺したぜ。いや、今日、僕の前をラジオが通りかかったので、右手で掴まえたよ。どうです、こんなことなら、いくらでも言えますよ"
],
[
"おい、佐々。君、これからすぐ出かけて、蟻田博士がなにをしているか、様子をみてきてくれ",
"ははあ、いよいよまた始りますね",
"なにが、始るって",
"いや、変な人相手の、新こんにゃく問答が始るんでしょう。こんどは、こっちも負けずに、でたらめな文句を用意していって、変な博士をあべこべに、おどかしてやるかな。うわっはっはっ"
],
[
"課長! 蟻田博士が、姿を消してしまったんです",
"姿を消した? すると家出したのか、それとも殺されたのか、どっちだ"
],
[
"そ、それは――つまり、蟻田博士は、いつの間にか、天文室からいなくなったのです。机の上も、望遠鏡の位置も、博士がその部屋にいるときと、全く同じ有様です。天窓も、あけ放しです。ですから天体望遠鏡にも、机の上においた論文や本のうえにも、露がしっとりおりて、べとべとです",
"ふうむ、なるほど",
"だから、博士は、ちょっと便所にでもいくような工合に、行方不明になったんです"
],
[
"それは、わかりませんよ。あの邸内には、博士一人が住んでいるだけなんですから、誰も知らないのです",
"ふむ、博士は一人で暮しているのか。じゃあ、食事などは、どうするのだろうか",
"食事は、外に食べにいったり、または、パンなどを買いためておいて、それを出して食べているらしいんですよ。私がさっきいった時も、包紙から、パンが顔を半分出していました"
],
[
"でも一日のうちには、誰か博士邸をたずねて来る者がありそうなものだ。たとえば、ガスのメートルを見るために、ガス会社の人が来るとか、洗濯物の御用聞がやって来るとか、そんな者が、ありそうではないか",
"さあ、どうですかな。今後の調べを待つほかはありませんね",
"ふうん、そいつは弱ったね"
],
[
"どうしますか。ラジオ自動車隊へ、すぐ手配をしてはどうですか",
"いや、そんなことはしない方がいい。おい佐々。君、案内してくれ。僕がいって、一つよく、調べてみよう",
"えっ、課長と私と二人きりで……",
"そうだ"
],
[
"誰です。おじさんは!",
"おじさん? おじさんて、何のことかね",
"おじさんというのは、あんたのことをさして言ったんですよ"
],
[
"もう、たくさんです。それよりも、あんたは誰なのか、それを教えて下さい。そうして僕が、どうしてこんなところに来ているのだか、それを教えて下さい",
"はははは。そんなに気になるかね。ほんとうのことを言って聞かせてもいいが、お前がおどろくだろうから、まあ、やめにしよう",
"そんなことを言わないで、教えて下さいな",
"そうか。きっとおどろかない約束をするなら、教えてやってもいい"
],
[
"では教えてやろう。いいかね。お前が今こうしているところは、火星のボートの中だ。そうしてこの中には、火星の生物が、十四、五体も乗組んでいるのだ",
"えっ、火星のボートの中ですって",
"なんだ。やっぱりおどろくじゃないか"
],
[
"すると、僕の体は、もう地球から離れてしまったのですね",
"ううっ、まあそのへんのことは、何とでも考えたがよかろう"
],
[
"おじさんは、ほんとうに人間ですか",
"そ、それにちがいない。なぜ、そんなくだらんことを聞くのか",
"でも、変ですね。火星のボートの中に、地球の人間が一しょにいるなんて"
],
[
"べつに、変なことはない。まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。おれのたのみを聞いてくれれば、たくさんお礼をするよ",
"さっきから、たのみがあると言っているのは、どんなことですか"
],
[
"なあに、ちょっとした買物があるんだ。くすりを買いたいんだ。それについていってもらいたい",
"えっ、くすりの買物? どこへ買いにいくのですか",
"どこでも近いところがいい。たくさんくすりを売っているところがいいのだが、東京までいった方がいいだろうね",
"東京? へえ、東京ですか。ははあ、すると、僕たちは、また地球にまいもどるのですか",
"ふふん、それはまあ、なんとでも考えるさ。とにかく東京までいこうじゃないか。今すぐお前を元気にしてやるから、待っていろ。元気にしてやらないと、途中で歩けなくなっては困るからね"
],
[
"おじさん、ちょっと待ってください。おじさんの名前は、なんというのですか",
"おれの名前か。それは――"
],
[
"おじさんは名前がないのですか",
"ばかを言え。おれの名前は……"
],
[
"どうだ、千二。体に元気が出て来たろう",
"えっ"
],
[
"さあ、千二。さあ起きろ、起きろ",
"起きろと言っても、僕は縛られているんです。起上れるものですか",
"それはもう解いたよ。起きろ。起きてこれからすぐ、買物にいくんだ"
],
[
"え、どうするのです、この僕を",
"どうするって、これから東京へいくのじゃないか。東京へ着くまでは、これで目隠しをしておく。あばれちゃいけないぞ"
],
[
"ねえ、丸木のおじさん。僕をちょっと外へ出して下さいよ",
"外へ出して、どうするんだ"
],
[
"ちょっとうちへ寄っていきたいんです",
"だめだめ。そんなことはだめだ!"
],
[
"汽車なんかをつかうより、歩いた方が早いや",
"うそばっかり"
],
[
"ねえ、丸木さん。今は、まだ昼かしらん、それとも夜かしらん",
"よく喋る子供だな。そんなことぐらい、きかなくても、わかるじゃないか"
],
[
"そして今、幾時?",
"時刻か、さあ、幾時だかわからない",
"おじさんは、時計をもっていないの",
"時計? 時計なんか持っているものか。おい千二。東京へ近くなったから、もうお喋りしちゃならんぞ",
"えっ、もう東京の近くまで来たの"
],
[
"おい千二、もう東京の中だ。買物をするのには、銀座がいいのだろうね",
"さあ、僕はよく知らない。だって僕は、そう幾度も東京へ来たことがないんだもの",
"なあんだ。お前は、こんな近い東京をよく知らないのか。とにかく、銀座へ出よう。さあ、このへんなら、人通りがないから、お前の目かくしを取るには、いい場所だ"
],
[
"あっ、ほんとうにもう東京へ来たんだ。丸木さん、僕たちは、さっき千葉県にいたはずだけれど、どうしてこんなに早く東京へ着いたの",
"そんなこと、どうでもいいじゃないか"
],
[
"薬屋へいって、なにを買うの",
"ボロンという薬だ。ボロンの大きな壜を、二、三本買いたいのだ",
"ボロンを、どうするの。何に使うの",
"おだまり。お前は、早く薬屋をさがせばいいのだ"
],
[
"ボロン? ボロン? 硼素のことですか",
"さあ……",
"白い粉末になっているやつでしょう",
"さあ、どうですかねえ"
],
[
"ああそれですよ。白い粉末のボロンです",
"精製のものと、普通のものとありますが、どっちにしましょうか",
"さあ、精製のと普通のと、どちらがいいのでしょうかねえ"
],
[
"いい方を下さい",
"はい、承知しました。三本でよろしいのですね。では一本、ただ今二円三十銭ですから、三本で、六円九十銭いただきます",
"六円九十銭ですとさ"
],
[
"おい千二。お前、金を持っていないか",
"僕? 僕は、お金なんかすこしも持っていない。なにしろ、魚をとりにいくために家を出かけたので、お金なんか一銭も持っていないですよ",
"そうか。それは、どうも困った",
"丸木さんは、お金を持っていないの。なくしたんですか",
"いや、お金のことは知っていたが、ついそれを用意することを忘れた。そうだ、買物をする時には、お金がいるんだったなあ。ああ、大失敗だ"
],
[
"じゃあ、ボロンを買うのは中止ですね",
"それは困る。どうしても、ボロンを買っていかなければ、困ることがあるのだ"
],
[
"あっ、そう乱暴しちゃ服がやぶれますよ。はなして下さい",
"ぜひ、ぜひボロンをたのむ"
],
[
"そう言わないで。あとから君にも、たっぷりお礼をする",
"いや、だめです。お金を持って来なければ、ボロンでも何でもお渡し出来ません",
"どうしても、だめか"
],
[
"ああ金! 金さえ持って来れば、ボロンを売ってくれるんだな",
"もちろんですよ。たった六円九十銭ぐらいのお金に、おこまりになるような方とも見えません。じょうだんはおよしになって下さいよ。本気のお買物なら、もう午後九時も近くなりましたから、早くお願いいたします",
"金は、今ここに持っていないのだ。だが、すぐあとから持って来る。金を持って来れば、かならずボロンの大壜を三つ渡してくれるね",
"そんなに、くどくおっしゃって下さらなくとも、大丈夫です。かならずお渡しいたします",
"きっとですぞ。きっとだ! もしそれをまちがえたら……"
],
[
"どうしたの、丸木さん",
"しっ、だまっておれと言うのに……"
],
[
"ふふふふ。さっき、洋装の美しい女がいたのを、知らなかったかね。あの女が持っていた金だよ",
"はあ、そうですか。あの女の人が、丸木さんに貸してくれたというんですか",
"貸してくれたって。いや、ちがうよ。あの女の持っていたのを、こっちへもらって来たんだ。そんなことはどうでもいいじゃないか",
"すると、丸木さんは、あの女の人から、お金を取ったんですね。女の人は、きっと怒ったでしょう",
"ふん、怒ったかどうだか、ちょっとなぐりつけたら、おとなしくなって、地面に寝てしまったよ",
"えっ、そんなことをしたんですか。丸木さんはいけないなあ。女の人をいじめたりしちゃ、いけないですよ。もし、死んでしまったら、どうします",
"死ぬ? はははは、死ぬことが、そんなにたいへんな問題かね"
],
[
"おいおい、金を持って来れば、売ると言ったのに、それじゃあ話が違う。ぐずぐず言わないで、この戸をあけろ",
"そりゃ売ると言いましたが、今晩のうちに売るとは言わなかったですよ。商店法なんですから、なんといってもだめです",
"なにっ、どうしても売らないと言うのか。今になって売らないと言うなら、この戸を叩きこわして、はいるぞ",
"そんな乱暴なことをやっちゃ、だめですよ。しかしこの戸は、あなたのような乱暴な人をはいらせないために、かなり丈夫に出来ているんです。お気の毒さまですが、あなたの手が痛いだけですよ"
],
[
"あっ、乱暴者!",
"おい、みんな、力を借せ。こいつを取りおさえて、交番へつきだすんだ"
],
[
"あれっ、いないぞ。どこへ行ったんだろう!",
"おい薬品どろぼう、こっちへ出てこい"
],
[
"怪人、銀座に現れ、薬屋を荒す",
"怪事件におびえた昨夜の銀座通",
"共犯者の少年、逮捕さる"
],
[
"やあ、どうも待たせましたね",
"はあ、あなたは一体どなたで……",
"私が大江山警視です",
"はあ、あなたが大江山さんですか。これはとんだ失礼をいたしました"
],
[
"おい、千二君",
"先生!",
"誰がなんと言おうとも、この先生だけは、君が悪者でないことを信じているよ",
"先生、ありがとうございます。僕は、うれしいです"
],
[
"先生、聞いてください。あの丸木という怪しい人が、僕を、僕の村からこの東京まで、むりやりに連れて来たんです。そうして、あのようなひどいことをやったんです。ですが先生、僕は、あの丸木という人が、どうもただの人間でないと思うのです",
"ただの人間でないと言うと、どんな人間だと言うのかね",
"火星のスパイじゃないかと、思うのです",
"えっ、火星?"
],
[
"先生、これは、僕がいくら警視庁の人に話をしても、誰も信じてくれないことなのですが、二、三日前の夜、僕の村へ、火星の生物が、やって来たらしいんですよ",
"なに、火星の生物がやって来た。ふん、そうかね。それで……"
],
[
"ねえ、先生。僕は、もう一つ心配していることがあるのです",
"心配していることって、なに?",
"外でもありません。お父さんのことなんです。お父さんは、僕がいなくなったので、心配していると思うのです",
"あっ、そうか。お父さんは、さぞ心配しておられるだろう。君のお父さんは、まだここへ来ないのかね",
"ええ、何の話もないんですから、まだ来ないのでしょう。きっと僕がいなくなって、お魚を取るのに、大変いそがしくなったためでしょう",
"しかし、それは、どうも変だね"
],
[
"千二君、何も心配しないがいいよ。そこで、先生は決心したよ",
"決心? 先生は何を決心されたのですか",
"それはね、千二君のため、先生は、この奇怪な事件を解こうと決心したんだ。君の味方になって、働くんだ。警視庁でも、もちろんしっかりやって下さるだろうが、それだけでは、十分とはいくまい。先生は当分、大学の聴講をやめて、君のため、怪人丸木氏にまつわる謎や、そのほかいろいろとふしぎなことを、出来るだけ早く解いてみようと思うんだ",
"先生、すみません"
],
[
"なあに、お礼なんか言わなくてもいいよ。僕は、自分の教えた生徒が、苦しんでいるのをじっと見ていることは出来ない。生徒がいくら大きくなっても、またえらくなっても、やはり先生は先生だ。生徒のためになるように働くのが、やはり、先生のつとめなんだ",
"先生、ありがとうございます。父にもよろしく言って下さい",
"よしよし、心配するな。君も、そのうちここから外へ出してもらえるだろうが、それまでは、じめじめした気持をすてて、元気でいなければだめだよ。では、失敬",
"先生、もうおかえりになるんですか",
"うん。僕は、これから例の事件について、活動を始めるつもりだ。たとい半日でも、一時間でも、君を早く自由の体にしてやりたいからね"
],
[
"どうも、えらいこったね。まだ千二のことを知らんのか",
"知るもんか。千蔵はあのとおりの体だ。そこへ倅の千二のことを聞かせちゃ、かわいそうだよ。悪くすりゃあ、それを聞いたとたんに、ううんといっちまうかもしれないよ",
"そうかもしれないね。あの怪我で、血をたくさん失って、からだがひどく弱っとるちゅうことだ。言わないのがええじゃろう"
],
[
"大怪我をしたんですよ。今うちで、うんうんうなっていますよ",
"ああ、そうですか。どうしてまた、そんな大怪我をしたんですか"
],
[
"へえ、あなたは何も知らないんですね。第一、なぜこのような人出がしているんだか、知らないのでしょう",
"ええ、何にも知りません。しかし、私は千蔵さんのところへ用があって、これから、いく者なのです"
],
[
"えっ、火柱ですか? 火柱というと……",
"火柱というと、火の柱です"
],
[
"ああ、火柱がどこに立ったのですか",
"天狗岩という岩が、湖の上に出ているのです。すぐその側から、びっくりするような大きな火柱が立って、そばにいた千蔵さんがやられてしまったんですよ"
],
[
"では、千蔵さんは、なぜ怪我をしたか、まだそのわけを、だれにも話していないのですか",
"そうです。なにしろ千蔵さんが、人事不省のままここへかつぎこまれたのですから、よくわからないですが、とにかくお聞きでしたろうが、火柱にやられたらしいと噂しています"
],
[
"おい、千蔵どん。気をしっかり持つんだよ",
"おい千蔵さん。わしが見えないか"
],
[
"はて、あなたは、どなたでしたかしらん",
"おや、もうお忘れですか。私は、捜査課長の大江山ですよ",
"ああ、そうだ。大江山課長でしたね。いや、これは失礼しました"
],
[
"大江山さん。僕はいま千二少年の父親をみまって、東京へ帰って来たところですが、あの千蔵さんは大怪我をしていますよ",
"そうだそうですね。それを聞いたので、私たちもこれから、あっちに出かけるところだが、あなたに先手をうたれたわけですね。それで、何かへんな噂を聞かなかったですか",
"ああ聞きました。火柱の一件でしょう"
],
[
"だが、そうなると、これまでわれわれが、蟻田博士の予言をばかにしていたことが、後悔されて来ますよ。私は、博士が変になったんだろうとばかり思っていたが、これは、改めて考え直す必要がある",
"蟻田博士は変ではないはずです。僕も、むかし教わったことがあって、よく知っています",
"ほう、あなたは、蟻田さんの門下だったんですか。これはふしぎな縁だ。そういうことなら、あなたに一つ、お願いしたいことがあるんだが……"
],
[
"新田さん、怒っちゃあいけませんよ。実は私たちは、蟻田博士が変だと思ったので、極秘のうちに、博士を病院に入れてあるのです",
"えっ、博士を、……",
"何しろあのとおり、火星兵団さわぎをまきおこした本人のことですから、帝都の治安取締上、そういう非常手段をとらないわけに、いかなかったのです",
"ああ、僕は新聞で読んで、蟻田博士が御自分で家出をして、行方不明になってしまったことと思っていましたが……"
],
[
"そこで、あなたにお願いというのは、蟻田博士を病院から出して、博士の屋敷へお帰ししますからしばらく博士の様子を見てくれませんか",
"はあ、様子を見ろとおっしゃいますと、どういうことですか"
],
[
"これから千二君は、大事に扱うことにします。今すぐに出すわけにはいきません。が、これは別にわけがあるのです",
"別のわけとは、どんなことですか"
],
[
"それは、例の怪人丸木が、まだつかまらないからです。千二君を外へ出したは、とたんに怪人丸木が現れて、千二君を、殺したはというのでは、かわいそうですからね",
"怪人丸木は、千二君を殺しましょうか",
"それは、新田さん、私たちが犯罪についての経験の上から言って、たしかに起りそうなことなんですよ。丸木については、千二君が一番よく知っているのですからね。千二君が、この警視庁から外へ出たことを、怪人丸木が知ると、必ず、少年を殺そうと思うに違いありません",
"なるほど。そういえば、そういうことになりそうですね。ああかわいそうに……"
],
[
"あっ、新田か。貴様まで、わしを変だというのか。け、けしからん",
"いや、蟻田博士。そういうわけではありません。もうただ今から、お屋敷にお帰りになれるのです。私がお供をいたします",
"ふふん、その手にはのらんぞ。そんなことを言って、貴様はわしを、またどこかの牢へぶちこむつもりなんだろう。弟子のくせに、けしからん奴じゃ",
"いえいえ、そうではありません。全くもって、私はそんなけしからんことはいたしません。さあ、御機嫌をお直しになって、お屋敷へお帰りのほどを"
],
[
"おい、新田",
"はい",
"お前、そのへんを、よく見てまわれ。もし人間がいたら、どんな奴でもかまわないから、箒でぶんなぐってやれ",
"はいはい。承知いたしました"
],
[
"なんだ、お前か",
"先生。お屋敷の内には、ほかに、もう誰もいないようでございますよ",
"そうか。だが、油断は出来ないぞ。もし誰かの姿を見つけたら、すぐわしに知らせるのだぞ"
],
[
"わしが留守にしている間に、大変な異常現象が起っていたんだ",
"えっ、大変な異常現象とは?",
"異常現象が起ったとは、つまり、この宇宙の中に、あたりまえでない出来事が起っていたんだ"
],
[
"とにかく、これは地球始って以来の大事件が、近く起るぞ。というわけは、わしのかねて注目していたモロー大彗星の進路が、急に変ったのじゃ",
"はあ、モロー彗星の進路が、急に変ると、大事件が起るのですか"
],
[
"おい、新田。地球が遂に粉みじんになる日が来るぞ",
"えっ、なんですって"
],
[
"なんだといって、それだけのことじゃ。地球が、粉みじんに、くだけてしまうのじゃ",
"先生、それはじょうだんですか。それとも、小説かなんかの話ですか"
],
[
"おい、新田。お前には、このことがのみこめないかもしれない。が、よくお聞き。さっきも言ったように、かねて注意を払っておいたモロー彗星が、わしの留守中、急に進路を変えたのだ。その結果モロー彗星の新しい進路は、これから地球が通っていくはずの軌道と交るのだ。しかもその交る時刻に、モロー彗星も、地球も、その軌道の交点に来るのだ。だから、両方は大衝突をする!",
"地球とモロー彗星とが、大衝突をするとおっしゃるのですか"
],
[
"そうだ。やっと、わかったかね",
"つまり、地球の軌道と、モロー彗星の軌道とが交っていて、どっちかが、その交点を早くか遅くか通ってしまえばいいのだが、不幸にも、地球とモロー彗星とが、同時に、その交点を通る。それでその時大衝突が、起るというわけですか",
"そうだ、そうだ。全くその通りだ。地球の人類にとって、こんな大きな不幸はあるまいなあ",
"そこで、大衝突をやって、地球は粉みじんになってしまうのですか",
"そうだとも。モロー彗星の芯は、地球の大きさにくらべて八倍はある。これは、さしわたしの話だ。そうして、その心は、どんなもので出来ているか、まだよくはわからないが、とにかく非常な高熱で燃えている、重い火の塊だと思えばいい。そういうものが、地球の正面から、どんとぶつかれば、地球はどうなるであろうか。衝突後も元のままの地球であるとは、もちろん考えられない",
"地球は、幾つかに壊れるのでしょうね。日本と、アメリカとが、別れ別れになったりするのでしょうね。しかしわれわれ人類は、そうなっても、ちゃんと生きておられるでしょうか"
],
[
"いずれ日本とアメリカとが、別れ別れになると言っても、それが二つの小さな地球の形になるとは思われない。今のところ、わしの考えでは、地球は粉みじんになって、そうして、いくつかの火の塊になってしまう",
"えっ、火の塊ですか。するとわれわれ人類は。……"
],
[
"博士、それでは、大衝突をすると、地球上の人間も、牛も、馬も、犬も、猫も、みんな死にたえてしまうと、おっしゃるのですか",
"そうだよ",
"やっぱりそうですか。地球上のありとあらゆる生物が、死滅するのですか。ああなんという恐しいことだ"
],
[
"蟻田博士。ほんとうにそんな恐しい時が来ますか",
"もちろん来るさ",
"ああ、なんとかしてその大衝突を、防ぐことは出来ないものでしょうか。だって、余りにも悲惨です",
"相手は、地球だのモロー彗星だ。その大衝突を防ぐことは、とても出来ない相談だ。そんな大きな物体を、右とか左とかに動かす力を、人間が持っていないことは、お前もよく知っているだろう",
"それにしても、それでは、出来事が余りに悲惨です。歴史も、文化も、みんな煙と化して、なくなってしまうのです",
"仕方がないよ。人間の力は、とても自然の力には及ばない。それともお前は、人間が、そんなえらい生きものだと思っているかね。列車を走らせたり、ラジオで通信したり、戦車を千台も並べて突撃させたりは出来るだろうが、宇宙にみなぎる力に比べれば、そんなことは、ほんのちっぽけな力さ"
],
[
"もし、蟻田博士",
"なんじゃ。大事なところじゃ。あまり口をきくな",
"だって、そういう大事件が迫っていると聞けば、もっと詳しく博士から伺っておきたくなります。博士。一体モロー彗星が、地球に衝突するのは、何月何日のことですか"
],
[
"衝突の日のことか。つまり地球最期の日は何月何日かと聞くのじゃな。ふふふ、それはなかなか重大問題じゃ。うっかり答えることは出来ない",
"博士。ぜひ教えていただきたいです。それによって、僕たちは、用意をしなければなりません",
"なに、用意をする? 用意って、なんの用意をするのか。お前たちがどんな用意をしようと、結局むだなことじゃ。おとなしく死んでしまうがいい"
],
[
"もし、博士。なぜそれをおっしゃって下さらないのですか",
"まあ、いいよ。そんなことを聞いても、なんにもなりはしない"
],
[
"まだ一年ぐらい先ですか",
"さあ、どうかな",
"それとも一箇月後でしょうか",
"さあ、どうかな"
],
[
"おい、皆にここへ集ってもらってくれ。千葉出張の獲物について報告をするから",
"ははあ、獲物についての報告ですか。獲物とは、そいつはすばらしい話だ"
],
[
"はて、何でしょうかね",
"一種の紐だな",
"どこかについていた紐が、ちぎれたのじゃありませんかね",
"どうもわからない。とにかく、いやらしい青い色だ"
],
[
"あれは、今朝、放免いたしました",
"なに、千二少年を留置場から出したのか。ほう、一体、誰が千二少年を出せと命令したのか",
"これは驚きました。課長が、今朝ほど、電話をこちらへおかけになって、放免しろとおしゃったので、それで、出したようなわけですが、もしや課長は、それがまちがいであると……",
"大まちがいだよ、君"
],
[
"おい君。私は、そんな電話をかけたおぼえがないんだ。その話をくわしくしてくれたまえ",
"いや、それは驚きましたな"
],
[
"ええ、もう二度と、来やしませんよ。だいいち、今度だって、僕は何にもしないのに、まちがって、こんなところに入れられたんですからね",
"まちがって入れられた、などと思っていちゃ、いけないよ。だって千二君、君の連の丸木という男は、確かに人を殺して逃げたんだからね",
"でも、僕は、何にもしないのです",
"何にもしないかどうか、証拠がないから、はっきり身のあかしが立たないじゃないか。とにかく、課長からすぐ放免せよという電話でもなかった日には、まだまだ共犯のうたがいでもって、ここへ止めおかれるところだよ。くれぐれも、これからのことを注意したまえ",
"はい",
"あの丸木なんかと、一しょに、悪いことをやるんじゃないよ。それから一つ、君にたのんでおくが、もし君が、どこかで丸木を見かけたら、すぐこの私のところへ、知らせてくれ。どこからでもいいから、電話をかけてくれればいいんだ。ほら、この名刺に電話番号が書いてある"
],
[
"ぼっちゃん、これに、乗せてあげようかね",
"えっ",
"乗りたければ、乗せてあげるよ"
],
[
"ねえ、運転手さん。おまわりさんが、ストップしろと命令しましたよ。早くとめないと、大変ですよ",
"おだまり、千二!",
"えっ!"
],
[
"でも、丸木さん。おまわりさんにつかまると、大変なことになるから、早く自動車をおとめよ",
"いや、とめない。もしとめると、わしは、また人間を殺すだろう。なるべく、手荒いことはしたくないからなあ"
],
[
"あっ、あぶない!",
"なに、かまうものか。向こうの方で、この車に轢かれたがっているのだから"
],
[
"こら、だまっていろというのに。――もうすこしだ。下りるかも知れないから、もっとわしのそばへよって来い",
"えっ",
"はやく言いつけたとおりにしろ。さもなければ、お前の命がなくなっても、わしは知らないぞ",
"いやです。ま、待って下さい"
],
[
"うっ、かわいそうに、見ちゃおられないなあ",
"とても、助る見込はない"
],
[
"どうも、失礼いたしました",
"お前は、どうもけしからんぞ。わしのやっていることを盗もうとして、いつもどろぼう猫のように目を光らせておる",
"どうもすみません"
],
[
"はあ、はあ",
"なにが、はあはあじゃ。もう、教えてやろうかと思ったが、やっぱり教えないでおくか"
],
[
"教わりたくないのか。だまっていては、わからんじゃないか。おい、新田",
"は、はい"
],
[
"どうか、教えていただきます",
"ふん、では、かんたんに、わしの研究の結果だけを話そう"
],
[
"モロー彗星と地球とがぴたりと接触するのは、来年の四月四日十三時十三分十三秒のことである",
"えっ、来年の四月四日、十三時十三分十三秒?"
],
[
"博士、来年の四月四日に、地球とモロー彗星が衝突することに間違はありませんか",
"間違? このわしの言葉に、間違があるとでも言うのか。お前は、わしの言葉を信じないのか。わしの天文学に関する智力を知らないのか",
"知らないことはありませんが……",
"そんなら、それでいいではないか。わしを疑うような言葉をつかうでない。もし疑わしいと思うなら、何なりと尋ねて見ろ。たちどころに、その疑いをといてやる"
],
[
"すると、四月四日の衝突ののち、我々地球の上に住んでいる人間は、一体どうなりますか",
"そんなことは、わしに聞くまでもない",
"すると――すると、やはり我々は一人残らず死ぬのですね。死滅ですね",
"そうだ、その通りだ"
],
[
"ねえ、博士。モロー彗星のため地球がぶち壊されても、何とかして、我々人類が助る方法はないものでしょうか",
"ないねえ。絶対に助る手はない"
],
[
"先生は、生命を全うされますか",
"いや、むろんわしも死ぬさ"
],
[
"それは、だめだ",
"課長、なぜだめです。この名案が……"
],
[
"そんな名案があるものか。佐々、お前は、まだライスカレーの食い方が足りないらしいぞ",
"ははあ、ライスカレーですか。はははは"
],
[
"そうじゃないか。なぜと言えば、もし千二が朝のうちにこの留置場から出ていったものとすれば、お昼すぎには千葉の家へかえりついているはずだ。そうだろう",
"まあ、そうですね",
"かえりつけば、千葉警察の者が、こっちへすぐ報告して来るはずだ。なぜと言えば、千二の家は、ちゃんと警官が張番をしているんだからな",
"なるほど",
"ところが、今はもう夜じゃないか。しかるに、千葉からは、何の報告も来ていない。すると、千二は、まだ自宅へかえりついていないことが、よくわかるじゃないか",
"な、なるほど"
],
[
"どうだ管下において、少年がかどわかされていくのを見た者はないか",
"さあ、そういう報告はどうも……",
"それとも、なにか少年に関係した事件はなかったろうか",
"そうですねえ――"
],
[
"まず第一は、午前八時、名前のわからない十二、三歳の少年が、電車にはねとばされそうになった小学校一年生の女生徒を、踏切で助けようとして自分がはねとばされ、重傷を負いました。これは小田急沿線登戸附近の出来事です",
"それはちがうね"
],
[
"は、ちがいますか",
"時間が午前八時では、千二少年は、まだ外に出ていないではないか"
],
[
"はい、ありました。これは午後一時です。十四歳になる竜田良一と名乗る少年が、リヤカーに乗ったまま、昭和通で自動車に衝突、直ちに病院にはいりましたが、この原因は、信号を無視したためです。直ちに、主人に知らせたので、主人は、店員と共に駈けつけ、目下、看病中――というのがあります",
"それもいけないね",
"はあ、名前がちがっていますが、もう一度しらべ直してみませんと……",
"主人や店員が来て、落ちついて看病しているのなら、ほんとうの店員竜田良一で、千二少年が偽名しているわけではない",
"なるほど。これもだめですなあ。では、こういうのがあります。あ、これだ"
],
[
"午後九時四十分のことです。千葉県から出て来た十三歳になる少年が、大川端から投身自殺――はて、おかしいぞ。大川端から、投身自殺をはかった年若い婦人があるのを、交番へ知らせるとともに、自分も飛込み、巡査と協力して助けた。いや、これは少年のお手柄だ。千葉県から、杉の苗木を積んで、東京へ売りに来たその帰り道での出来事だった",
"なるほど、それから……",
"それから――人命救助の表彰の候補者として、この少年宮本一太郎を――あっ、やっぱりいけません",
"何だ。早く名前を読めばいいのに"
],
[
"は、それではお話いたしますが、実は、お昼ごろのことでしたが、スピード違反の自動車がありましたので、これを白バイで追跡いたしました。すると、運転台に、妙な顔をした運転手と、そのそばに一人の少年が坐っているのを見ました",
"なあんだ。少年の助手は、このごろ、いくらでもいるよ",
"ところが、少し変なことになったのです",
"あまり、もったいぶらないで、どんどん先を話したらいいだろう",
"は、つまり、自動車は、脱兎の如く逃走いたしました",
"逃げたとは、変だな。白バイは、何をしていたのか",
"いえ、自動車が、猛烈なスピードをあげて逃げてしまったのです",
"逃しては、話にならないね",
"ところが、追いついたのであります",
"どうも君は、話し方を知らないね",
"いえ、課長さんが、もう少し黙っていて下さると、話しよいのですが、むやみに、おいそがせになるもんですから困ります",
"何だ。手のかかることだね。よろしい、では、君が喋り終えるまで、こっちは、一言も喋らない。だが、もっと要領よく、そうしてもっと早く喋ってくれ。きょうは、いつになく気が短いのでね",
"は、それでは……"
],
[
"まさか、君たちが見あやまったのではないだろうね",
"見あやまり? そ、そんなことは、けっしてありません"
],
[
"そうだ。運転をしていたのが、怪人丸木で、運転台に乗せられていた少年が、千二であった――と、こう考えてみるのも、魔術であろうか",
"えっ、千二少年に怪人丸木!"
],
[
"やあ、ごくろう。崖の上からおっこちた自動車というのは、これかね",
"はい、この縄ばりをしてあるのが、それであります",
"ふん、ずいぶん、ひどくなったものだね。もとの形が、さっぱりわからないくらいだ",
"そうであります。なにしろ、崖の高さは七、八十メートルもありますので、あれからおっこちたのでは、とてもたまりません。その上、車体はごろごろ転がりながら、すぐ発火いたしました",
"転がるところを見ていたのかね",
"はい、私は、崖の上から、それを見ていたのであります",
"そうか。乗っていた者の死骸が、見当らないという話だね",
"はい。死骸はおろか、骨一本見当らないのです。よく焼けてしまったものですなあ",
"……"
],
[
"ふうん、これは、どうも腑に落ちないことだらけだ",
"どこが、腑におちないというのですか"
],
[
"どうも腑におちないことがあるんだ。ガソリンに火がついて、崖の上からおちた自動車を焼いたことは、よくわかるが、乗っていた人間の体はもちろん、骨一本さえ見当らないのだ。へんではないか",
"だって、課長さん。ガソリンに火がついて、たいへんはげしく燃えたため、骨もなんにも、すっかり跡形なく焼けてしまったんではないのですか",
"ガソリンが燃えたくらいで、骨が跡形なくなってしまうだろうか。そんなことはない。骨はもちろん残るはずだ。まあ、黒焦死体がころがっているというのが、あたりまえだ",
"じゃあ、ガソリンではなく、もっと強く燃えるものがあって、それが、骨まで焼いてしまったのじゃありませんかね。たとえば、焼夷弾みたいなものが、自動車に積んであったと考えてはどうです",
"それもおもしろい考え方だ。しかし、たとえ焼夷弾が燃出したとしても、そこから少し離れた所にあるものは、焼け残るはずだし、ことに、骨が一本残らず燃えてしまって、灰も残っていないというのは、ちと変だね"
],
[
"課長。どうも変だというだけじゃ、困りますねえ。で、その事について何かいい答えをもっているのですか",
"うん。だから私は、こう考えてみた。とにかく、この自動車に乗っていた人間は、生きていると思う",
"えっ、生きている。まさか――"
],
[
"だが、佐々。骨が一本も見あたらないのだから、私は、乗っていた人間が、ここで焼け死んだとは思われない",
"だって、課長、――",
"もちろん、私にも、あの高い崖の上から人間が落ちて、それで、命が助るものとは考えない。しかし、骨が一本も見当らないのだから、崖からおちた人間は、命が助って、どこかへいってしまったとしか考えられないのだよ。不思議というほかない",
"そんな無茶な考えはないですよ、課長。崖の上からおちた人間が、命を全うしたばかりか、そのままどこかへ行ってしまったというのは",
"やむを得ない。理窟では、そうなるのだよ",
"それにしても、変ですよ。それゃ、人間の体が、鋼鉄造りであれば、助るかもしれません。骨といってもたいして固くないし、柔かい肉や皮で出来ている人間が、あの高い崖の上からおちて、死なないで、すぐさまどこかへ行ってしまったなどと……。あっはっはっ。これはどうもおかしい。あっはっはっ"
],
[
"おお、まちがいなく宇宙艦だ",
"博士、宇宙艦というのは何ですか",
"宇宙艦は何だと聞くのかね。宇宙艦は、わしの友人が、一度報告書に書いたことがあった。しかし、誰もその友人の報告書を信用しなかったし、その友人はまもなく急死してしまったのだよ。結局、その友人は、脳に異状があったため、ありもしないそんな変なものを見たように、報告したのであろうということだった。わしも、正直に言えば、その友人が、変になっていたのだと思っていた。が、これはどうだ。その友人の報告書に書いてあったとおりの形をした宇宙艦が、今レンズの向こうに見えているではないか。しかも、さかんにうごいている!"
],
[
"博士、その宇宙艦というのは、どこの国で作ったものですか",
"作った国は、どこだというのかね。さあ、わしはまだよく研究していないが、さっき話したわしの友人は、ドイツの空軍研究所が、試験的に作ったものであろうと書いてあった。もっとも、ドイツの当局では、そんなばかな話はないと、さかんにうち消していたがね",
"博士は、あの宇宙艦が、ドイツで出来ると思っておられますか",
"いや、そうは思わない"
],
[
"じゃあ博士、あの宇宙艦は、どこの国で作ったものだとお考えになるんですか",
"うむ。さあ、そのことだが……"
],
[
"博士、それは一体、どうなんでしょうか",
"うむ、待ってくれ"
],
[
"博士、私は、あの宇宙艦が、どこで作られたか、知っているのです",
"なんじゃ、お前が知っているって。ほほう、そんなはずはない。なにをお前は、ばかばかしいことを言出すのじゃ。あははは",
"いや、博士、私は申します。あれは、火星国でつくられた宇宙艦なのです。そうして、あの宇宙艦は、これまでにたびたび、この地球にやって来たことがあるのです。いかがですか、博士",
"ややっ、どうしてお前は、そんなことを知っているのか"
],
[
"博士は、丸木という怪人物について、なにか、お心あたりはありませんか",
"ああ、丸木――とかいったね、その怪人物は。さあ、わしは、なんにも知らないよ"
],
[
"丸木、丸木か? おい、新田。その丸木なる者は、どのくらいの大きさだったかね",
"大きさ? ああ、背丈のことですか",
"そうだ、丸木の背丈のことだ"
],
[
"丸木の背丈――と言って、別に変ったことはないようです。中背というところじゃ、ありませんかね",
"ありませんかねとは、はっきりしない言葉だね",
"だって博士、私は、丸木を見たことがないのです。千二少年から聞いた話なんですからね",
"おお、そうか。なるほど、なるほど。そうして、その千二という少年は、今どこにいるのか。すぐ、ここへ呼んでもらえまいか"
],
[
"千二少年は、いま警視庁に留置されているのです。博士から、大江山捜査課長に、お話しになれば、会えないことはありますまい",
"そうか。では、わしは、これから大江山に会って来よう",
"たいへんお急ぎですね",
"うむ。いや、なに、ちょうど読書にあきたところだからのう"
],
[
"おお、千二君。よくまあ……",
"先生!"
],
[
"先生は、どうしてこんなところに、いらっしゃるんです",
"ああ、これには、わけがある。要するに、君を助けたいためと、もう一つは、もっと大きなものを助けたいためだ",
"もっと大きいものって何ですか",
"それはね――"
],
[
"私のことはともかくとして、千二君、君は一体どうしてこんなところへ? 警視庁を脱走したのじゃあるまいな",
"ああ、そのことですか。先生、心配しないでください。僕は、おひる前、もう帰ってよろしいというので、久しぶりで自由の身になれたんです",
"それはよかった。が、ほんとかね。じゃあ、なぜこんな床下にもぐりこんでいたんだい。許されて出たものなら、堂々と町を歩いていてもいいはずではないか。どうも、おかしいじゃないか"
],
[
"僕、うそなんかつきませんよ。じつは、僕、日比谷公園のそばで、丸木のため、むりやりに自動車に乗せられて、こっちへ連れて来られたんです",
"なに、丸木が?"
],
[
"……すると、先生。僕は、おどろいてしまったんです。とつぜん自動車の行手に、『危険! この先に崖がある』という注意の札が見えたんです",
"ほう、ほう",
"危険の札が、立っているのに、丸木はそのまま、そこを突破したんです",
"ほう、らんぼうだね。それじゃ、自殺するようなものだ",
"そうです。僕は、もう死ぬことを覚悟しました。すると、そのとき丸木は、片手で運転台の扉をさっとあけました。そうして、僕の体を、力一ぱい、車の外へどんと突きとばしたんです",
"なるほど、なるほど",
"僕は、思わず目を閉じました。頭をぶっつけては即死だと思ったので、両腕で、自分の頭を抱えるようにしたことまで覚えています。それから後のことは、なんにも知りません。丸木がどうしたのか、自動車がどうなったのか",
"それで……",
"気がついてみると、僕の頬ぺたが、ちくちく痛いのです。それから、だんだんと正気にもどってみますと、僕は、さつきという木がありますね。あのさつきの繁みの中にころがっていたんです",
"ふん、さつきというと、この屋敷にも、たくさんあるが……",
"そうなんです。そのさつきは、この屋敷のものだったんです。僕の落っこったところは、屋敷の外まわりに芝の植っている堤がありますね。あの堤を越して、下にごろごろと落ちて、気を失っていたんです"
],
[
"その運転手は、怪人丸木にちがいないかね",
"丸木ですよ。僕は、丸木の顔をよく知っていますから、見ちがえるようなことはありません",
"ふうむ、やっぱり、ほんとの怪人丸木か。あいつは、もう、こっちにはいないだろうと思っていたのに",
"先生、丸木は、僕をさらって、何をするつもりだったんでしょうか",
"さあ、それも、私の思いちがいだった。先生はね、丸木が千二君を……"
],
[
"――とにかく、丸木は、君の命を助けたことになって、丸木は命の恩人だとも言えるね",
"でも、先生。僕、丸木のことを恩人だなんて思うのはいやですよ",
"そうだろうね"
],
[
"丸木は、どうしたろうね",
"さあ、どうしたでしょうね"
],
[
"やあ、失敬失敬。いや、その繃帯はどうしたのかと思ってね。どこで怪我をしたのかね",
"かぜをひいたのだ。それで繃帯をまいているんだ"
],
[
"そうかね。かぜをひいているのか。でも、あごまで繃帯で包んでしまうなんて、君はずいぶん変っているね",
"ふん、おれのすることに、君が口出しすることはないよ"
],
[
"名前は?",
"名前は――名前は、千二というんだ"
],
[
"千二というのは、けさ警視庁から放免された千葉県生まれの少年のことじゃないのかね",
"ああ、そうかもしれない。とにかく、その千二という子供に会いたいという者があって、それからの頼みで探しているんだ",
"へえ、そうかね。で、それを頼んだ者というのは、誰かね。もしや、丸木とかいう、怪しい男じゃなかったかね",
"丸木?"
],
[
"ああ、あの丸木なら、もう死んでしまったじゃないか。ほら、あそこで皆が、火をたいて集っているが、丸木は、自動車に乗ったまま、この向こうの崖から墜落して、死んでしまったということだよ。丸木は、もうどこにもいない",
"ほう、君は、丸木のことをよく知っているね。それから、千二少年のこともよく知っているらしい。一体、君は、どこの警察署の人かね",
"わしのことかね。わしは、そのう、つまり日比谷署の者だ",
"うそをつけ!"
],
[
"君は、おれを知らないのか。すると、いよいよ君は、もぐりの警官だということになる。おれは、本庁随一の腕利刑事で、佐々というけちな男だ",
"えっ",
"おれが腕利だということは、もう四、五分のうちに、君にもわかるだろう",
"なにっ"
],
[
"あっ……。うむ",
"ぶうーん",
"やっ。えいっ",
"ぶうーん"
],
[
"ぶうーん",
"あっ、いた――"
],
[
"えっ、丸木があらわれたのですか",
"警官などにばけるとは、ひどい奴だ"
],
[
"丸木だと思ったら、かまわないから、すぐピストルを撃て! ぐずぐずしていると、こっちがやられるぞ。あいつは、多分人間じゃないんだろう",
"えっ。課長、丸木は人間ではないのですか"
],
[
"うん、ばかばかしい話だが、そういう考えにならないわけにいかないのだ",
"課長!"
],
[
"どうした、佐々。もう大丈夫か",
"さっきは、残念ながら、やっつけられましたが、もう大丈夫です。ねえ、課長。相手は人間でないそうですね。課長が、おばけの存在を認めるようになったとは驚きました。大へんなかわり方ですなあ",
"おばけというのは、どうもことばが悪いがしかし、たしかに、丸木という奴は、おばけの一種だ!"
],
[
"ふん、あいつの首の使い道か。僕は、あいつの首をきざんで、ライスカレーの中へたたきこむつもりだ",
"えっ、君は、あいつの首を食うつもりか。とんでもないことだ、君は食人種かね",
"食人種? そうじゃないよ。丸木が人間なら、あいつの首を食べればそりゃ食人種さ。しかし丸木は、人間じゃないんだ。だから、僕は食人種になりはしないよ",
"じゃあ、何になるかなあ",
"食化種さ。お化の味を、僕が第一番に味わってみようというわけさ。もし、おいしかったら、君にも分けてやるよ",
"じょうだんじゃない。お化の肉のはいったライスカレーなど、まっぴらだ",
"さあ、くだらんことを言わないで、早く丸木をさがし出せよ",
"くだらんことを言っているのは、佐々君、君だよ"
],
[
"なあ、千二君。先生は、君を助けようと思って、ここへ来たのではなかったのだ。実は、君のかくれていたところは、蟻田博士の秘密室の床下だったんだよ",
"えっ、博士の秘密室?",
"そうだ。蟻田博士が、たいへん大切にしている部屋なんだ。ところが、その部屋へはいってみたところ、部屋はがらん洞で、何も置いてないんだ",
"空部屋なんですね",
"うん、空部屋なんだよ。ただ、柱時計が二つ、壁にかかっているだけだが、この時計も、べつに変った時計でもなく、昔からよくあるやつだ。しかも、その時計は、ほこりを一ぱいかぶったまま、針はとまっているんだ。先生は、博士がなぜ、あのようなとまった古時計しかない空部屋を、大切にしているのか、わけがわからないので、困っているのだよ",
"そうですか。全く、わけがわかりませんねえ"
],
[
"どうだ、千二君、君は床下にいて、何か秘密のあるようなものを、見なかったかね",
"床下で秘密のあるようなものというと……"
],
[
"ああ、あれじゃないかしら",
"何だ。あれとは――"
],
[
"僕は床下で、たいへん太い柱を見たんです",
"なに、太い柱?",
"そうです。とても太い柱です。コンクリートの柱なんですよ。太さは、そうですね、僕たちが、学校でよく相撲をとりましたね。あの時校庭に土俵がつくってあったことを、先生はよく覚えていらっしゃるでしょう。柱の太さは、あの土俵ぐらいの太さはありましたよ",
"そうか、小学校の庭の土俵ぐらいの太さといえば、相当太い柱だね。それは柱というよりも、中に何かはいっているのじゃないかなあ",
"そうかも知れません",
"柱の上は、床についているのかね",
"さあ、それはよく、たしかめてみませんでしたけれど、もし床の上に出ているものなら、先生がおはいりになった博士の秘密室のまん中に、その柱が、にょっきり生えていなければならないはずですね。先生、そんなものが、ありましたか",
"いや、あの部屋には、決してそんな柱は見えなかったよ。不思議だなあ"
],
[
"いや、とにかく、その柱の中は、調べてみる必要がある。が、どこからはいればいいのかわからない。あの部屋には、別に、その入口らしいものも見えなかったがねえ",
"変ですね",
"なあ、千二君。君は、あの部屋の床下にもぐりこんでから後、もっと何か見なかったかね",
"もっと、何か見なかったかと言うんですか"
],
[
"ああ、そうだ。僕は、時計が鳴るのを聞きましたよ、先生",
"え、時計って",
"いや、僕のかくれていた頭の上で、ぼうん、ぼうんと時計が鳴ったんです",
"ああ、そうか。千二君は、床下で、それを聞いたんだね。すると、博士のあの秘密室の柱時計が鳴ったんだな。でも、それは不思議だ"
],
[
"先生、止っていた時計を直しているから、時計が鳴ったのだと思いますよ",
"ああ、そうか。時計の針を動かしていたんだね",
"きっと、そうなんでしょう。だから、ぼうんぼうんと、幾つも打ちましたよ",
"なるほど、なるほど",
"ところが、先生、それがどうも、へんなんですよ",
"へん? へんとは、何がへんなのかね"
],
[
"その時計の鳴り方ですよ。はじめ、ぼうんと一つうち、次にぼうんぼうんと二つうち、それからぼうんぼうんぼうんと三つうち……",
"つまり、一時、二時、三時だな。すると一時間おきに鳴る柱時計は、めずらしい",
"先生、僕がへんだと言ったのは、そのことじゃありません"
],
[
"えっ",
"僕がへんだと思ったのは、ぼうんぼうんぼうんと三つ打ったのち、こんどは四つ打つかと思ったのに、ぼうんぼうんぼうんぼうんぼうんと五つ打ったのです。それから次は六つ、次は七つと、それからのちはあたり前に打っていったのです"
],
[
"ふうむ、柱時計が一時・二時・三時とうって四時がぬけ、それから、五時・六時・七時とうっていったと言うんだね",
"そうなんですよ、先生",
"不思議だねえ"
],
[
"先生、この部屋は、何だか、気味のわるい部屋ですね",
"そうだ、あまり気味のよい部屋だとは言えないね"
],
[
"先生、僕、梯子をおさえていますよ",
"そうかね、じゃあ、先生はのぼってみるよ"
],
[
"先生、何か、かわったものが、見つかりましたか",
"そうだね。時計の中には、ラジオの受信機のように、電線が、ごたごたと引張りまわしてあるよ。しかし、この電線は、何のためにあるんだか、どうもよくわからない",
"先生、四時が鳴らないわけは、わかりましたか",
"うん、今それをしらべているところだが、ええと、この歯車が、時計を鳴らす時にまわる歯車だ。すると――"
],
[
"――べつに、かわったことはないようだ。三時も四時も、ちゃんと鳴るはずだがなあ",
"四時は鳴るように、なっていますか",
"そうだよ、千二君、今、鳴らしてみよう。聞いていたまえ"
],
[
"あっ、四つうった",
"なあんだ、ちゃんと、四つ鳴るじゃないか"
],
[
"ふん、別に、こわれているのではないようだ",
"先生、もう一つの時計を調べましょう。四時をうたないのは、もう一つの時計かもしれませんから",
"よろしい。もう一つの時計も調べてみよう。こんどは、千二君、君が調べてみたまえ",
"ええ。じゃあ、僕が調べましょう"
],
[
"何だ、千二君。君は、日本少年のくせに、いくじなしだね",
"先生、僕は、勇気はあるのですよ。ただ、気味が悪いと言っただけです。先生、さあ、聞いていて下さい"
],
[
"なあんだ。どっちの時計も、四時をうつじゃないか",
"どうも、へんだね。君はこの時計が四時をうたなかったと言うけれど、今やってみると、第一の時計も、第二の時計も、ちゃんと四時のところで鳴ったじゃないか"
],
[
"おかしいですね。そんなはずはないんだが……",
"たしかに、君は四時をうたなかったと言うのだね",
"そうですとも。僕は、時計が間違なく、四時をぬかしてうったのをおぼえています。間違ありません"
],
[
"いいかね。はじめ、第一時計も第二時計もとまっているんだ。そこで、針を指で動かしていくんだ。まず、どっちか第一の時計を、ぼうんと鳴らして一時さ。それから、もっと針を廻してぼうん、ぼうんで二時だ。それから、またさらに針をまわして、ぼうん、ぼうん、ぼうんで三時さ。わかるかね、千二君",
"それくらいのことなら、はじめから、僕にもよくわかっていますよ"
],
[
"それが、わかっているね。そんなら、よろしい。第一時計は、そのままにしておいて、さて次に、第二の柱時計をうごかすのさ",
"はあ、――",
"分針を、十二のところへもっていくと、第二の柱時計は、鳴りだした。ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん、ほら五時だ。五時をうったのだ",
"えっ、五時?",
"そうだ。第二の時計は、五時から鳴りだしたのだ。次は六時、七時……とうっていった。そういうわけだから、四時をうつ音は、聞えなかったんだ",
"ええっ、何ですって",
"つまり、千二君、実際は、二つの時計が鳴ったのだ。それを、君が一つの時計が鳴ったように思ったから、四時がぬけたと思ったんだ",
"ははあ、なるほど"
],
[
"うん、千二君。先生は今、この柱時計について、もっと重大なことを思いついたんだよ",
"えっ、もっと重大なことって?"
],
[
"先生、先生。何を先生はやってみるというんですか",
"おお千二君"
],
[
"先生、大丈夫ですか",
"何が、大丈夫だって。いや、心配しないでもいいよ。そして、これから、先生のやることを見ておいで"
],
[
"さあ、千二君。そこにいては、あぶないかもしれない。君は入口の扉のところへいって、なるべく体を、ぴったりと扉につけておいで",
"先生は?",
"先生は、もう一度時計を鳴らして見る",
"また、時計を鳴らすのですか",
"そうだ。だまって、見ておいで。しかし、あるいは、千二君の思いがけないようなことが起るかもしれない。が、どんなことがあっても、おどろいてはいけないよ",
"先生、僕のことなら、大丈夫ですよ"
],
[
"ああ、先生。僕、大丈夫です。けれども、あまり思いがけないことが起ったので、はじめは胸がどきどきしました",
"そうだろうね。あの柱時計が、たいへんな仕掛になっていたのだ。とうとう床がひらいたよ。博士は、なかなか用心ぶかい",
"先生、床の下には、何があるんでしょうか",
"さあ、何があるか、先生には、まだよくわからない。とにかく、下をのぞいてみよう。千二君、君はついて来るかね。それとも、ここに待っているかね"
],
[
"先生、僕は、先生の、おいでになるところなら、どこへでも、ついて行きますよ。つれて行って下さい",
"行くかね。そうか。大丈夫かね",
"先生。僕は、もう火星の化物でも何でも、恐しいなんて思いません。どこまでも戦うつもりです"
],
[
"先生、じゃあ、勇敢に、床下の様子を、さぐって見ましょう",
"ほう、千二君。ばかに元気だなあ"
],
[
"先生、僕にも聞えます。口笛を吹いているような音でしょう",
"そうだ"
],
[
"千二君、機械の音にしては、何だかへんだね。だって、早くなったり遅くなったりするようだよ",
"そうですか。機械の音でないとすると、何でしょうか",
"どうも、わからない"
],
[
"熱帯地方にいるくも猿は、手や足がたいへん長い。胴は、ほんのぽっちりしかないように見える。だから、くも猿かしらんと思ったが、そうでもなさそうだ",
"先生、やはり大蛸ではないのですか"
],
[
"ああ、そうそう。これは熱帯地方にあるものだが、たこの木という植物がある。これは、今見えているあの怪しい動物のように、小さいものではなく、大きな木だけれど、そのたこの木のかっこうが、どこやらあの動物に似ている",
"先生、今下に見えているのは動物ですねえ。そのたこの木は、植物なんでしょう。たこの木と言っても、動けないのでしょう",
"もちろん、そうだ。地面に生えている大きな木だから、動けるはずはない。千二君、先生は、形のことだけを考えて、たこの木に似ていると言ったんだよ"
],
[
"何だい、千二君",
"先生、一ぴきだけかと思ったら、まだ奥の方に、もう一ぴきいますよ",
"なに、二ひきだって。どれどれ"
],
[
"ねえ、千二君。あの動物のそばへよって、もっとよく見たいものだね",
"ええ",
"どこか、そのへんに、下りるところがあるのではないか。さがしてみようよ",
"ええ",
"ああ、千二君、こわければ、先生について来なくてもいいよ",
"いえいえ、僕、一しょに行きます。しかしねえ、先生。あの怪しい動物は一体何でしょうか。先生は、すこしも、見当がついていないのですか"
],
[
"まだ、わからない。全く、わからない",
"そうですか"
],
[
"実はねえ、先生。僕はさっき先生が、穴の中にへんな動物がいる、と言われたので、のぞきましたね。その時、僕は、それは火星の動物じゃないかしらと思ったのです。つまり、いつか、火星のボートに残っていた、怪しい奴のことを思い出して、また、あれと同じかっこうをした奴ではないかと思ったんです",
"うむ、うむ。それは、なかなかいいところへ気がついた。それで……",
"それで、穴の中をのぞいて、よく見たのですが、違っていました",
"違っていた?",
"そうです、たしかに、違っていました。火星のボートに乗っていた奴は、僕と組みうちしたことがありますが、それは体が、たいへん固いやつでした。まるで、鉄管のような固い体を持っていました。それから、大きさも、ずっと大きいやつでした",
"ふうむ、そうかねえ"
],
[
"千二君。もう、ここを引上げよう。ぐずぐずしていて、蟻田先生に見つかると、たいへんなことになるから……",
"ええ、わかりました。でも、残念ですねえ。もっと、あの怪物をよく見たいのですが",
"仕方がない。この次のことにしよう"
],
[
"どうした、千二君",
"先生、どうも、へんですよ",
"何が、へんかね",
"だって、階段をのぼりきったところは、天井で、ふさがっているんです",
"天井で、ふさがっているって。それはどういう意味かね。この階段の上には、さっき僕たちがはいった床の割目があるはずだ",
"それが、ないのですよ",
"なにっ"
],
[
"おじいさんには、わからないのかね。僕は、銀行にあずけてある金を全部引出して、さっそく大きい風船をつくるのだ。ガスタンクほどもある大きいやつをね",
"ほほう、そうかね。そうして、その風船をどうするのかね",
"つまり、彗星が地球に衝突すると、地球が、こなごなになるでしょうがな。とたんに僕は、その大きな風船にぶらさがるのさ。すると、足の下に踏まえていた地球がなくなっても、僕は安全に宇宙に浮かんでいられるというわけさ"
],
[
"いや、ここにはおりません",
"どこへ行ったのか、君は知らんか",
"はい、佐々君は、やはり麻布の崖の下で、警戒と捜索にあたっているはずであります"
],
[
"そうか。電話をかけて、すぐ彼に帰って来いと、言ってくれ",
"はい、かしこまりました"
],
[
"課長。あの面会人ですが、いつまでおれを待たせると言って怒っていますが……",
"ああ、面会人だ。どこの誰かね、その気の短い面会人は?",
"蟻田――だと、申していました"
],
[
"もし、蟻田博士、困りますなあ。こっちへ、はいることはなりません",
"いいやかまわん。大江山氏がすぐに会うというのだから、わしの方で、はいって行くのは、一向かまわんじゃないか",
"だめです、博士。応接室でお待ち願います",
"おうい、まあいい、博士をこっちへお通し申せ"
],
[
"おお、大江山さん。留置場にいる千二という少年に会いたいのだ。すぐ会わせてくれたまえ",
"千二少年ですか。彼は……"
],
[
"博士は少年に何用ですか",
"うむ、千二が、一しょにつれになっていた丸木という怪漢について、話を聞きたいのだ",
"丸木? 博士は、丸木について、何をお知りになりたいのですか"
],
[
"そんなことを、君たちに言ってもわからんよ。早く千二少年に会わせてくれ。その上で、君たちは、わしたちの話を、よこで聞いておればいいじゃないか",
"それでもけっこうです。が、博士。あの丸木という奴は、一体、何者なんですかねえ",
"丸木は、一体何者だと言うのか。ふふん。君たちは、わしを変だと思っている。だから、わしが言って聞かせてやっても、一向それを信じないだろうから、言わない方がましだよ",
"いえ、博士。ぜひとも教えていただきたいのです。私は、今までたいへん思いちがいをしておりました。博士に対して、つつしんでおわびをいたさねばなりません"
],
[
"ふふん、そういう気になっているんなら、まだ脈があるというものだ。だが、今さらわしが話をしてやっても、君たちに、どこまで、わしの言うことを信じる力があるかどうか、うたがわしいものじゃ",
"博士。私は、しんけんに、お教えを乞います。あの丸木という人は、何者なんですか",
"あの丸木かね。あれこそ、火星兵団の一員だよ",
"えっ、火星兵団の一員?"
],
[
"うーん、けしからん。君たちはいつでもそうだ。このわしを、だましては喜んでいる",
"博士、それは違います。警察官がだますということは、ぜったいにありません。どうか、考えちがいをしないように願います",
"いや、いつもわしをだましているぞ。この後は、君たちが何を聞いても、わしはしゃべらないぞ。そうして、わしはわしで勝手に思ったことをする"
],
[
"わしにも、さっぱりわからないのだ。わしはこれを研究してみたいと思う。どうだろう、これをもらって行っていいかね",
"いえ、それはだめです。持って行ってはいけません"
],
[
"たった一日でいいが、貸してくれんか",
"いや、だめです",
"じゃあ、もう十分か二十分か見せてくれんか",
"だめです。お断りします",
"そんなら、ぜいたくは言わない。もう五分間見せてくれ"
],
[
"なに、地球がモロー彗星に? そんなことは、わしには前からわかっていたが、誰がそんなことを君の耳に入れたのか",
"国際放送ですよ。ロンドンとベルリンとからです。どっちもりっぱな天文学者が放送しました",
"ふうん、そうか。あいつらもやっと気が附いたとみえるのう。それで、わが日本では、誰が放送したのかね",
"まだ誰も放送していません",
"なぜ放送しないのかね。号外は出たのかね",
"いや、どっちも今、報道禁止にしてあります。そんなことを知らせては、どんなさわぎが起るか、大変ですからね"
],
[
"責任のある用意とは?",
"それは、つまりその恐るべきニュースを聞いて、あばれ出す奴が出たら、すぐ捕えてしばり上げる用意をすることです",
"そんなつまらんことを、心配するには及ばないだろう。もっと大事な……",
"そうです。我々はそれも考えています。第二の用意は、その衝突が果してほんとうに起ることかどうか、それをたしかめなければなりません",
"よくよく、ばかばかしいことを考えたもんだ。それよりも、もっと……",
"まあ、お待ちなさい。我々の第三の用意は、もしほんとうに衝突が起るものとすれば、何とかして衝突しないですむ方法はないかと、それを研究すること",
"泥棒をとらえて縄をなうというのは、このことだ。ばかばかしい",
"いや、我々は、すべてのことに手落があってはならないのです。第四の用意としては……",
"第四の用意? ずいぶん用意をするのだねえ",
"そうです。第四の用意は、もし衝突が起っても、我々日本人だけを死なさずに、何とか助ける方法はないものかどうか",
"雲をつかむよりむずかしい話だ",
"第五の用意は……",
"わしは、もうたくさんだ。ばかばかしくて、黙って聞いていられんよ"
],
[
"課長。あの老人の写真をとるのですか",
"いや、今日のは、違う"
],
[
"あっ、課長。あの老人が変なことをやっていますよ。いいんですか",
"ああ、いいのだ",
"あっ、課長の机の上にある箱の中から、何か長いものをひっぱり出しましたよ。大丈夫ですか",
"うん、いいのだ"
],
[
"課長、追いかけて、あの老人の襟首をつかまえて、連れもどして来ましょうか",
"いや、それにはおよばない",
"じゃあ、追跡しましょうか",
"いや、それも必要ないよ"
],
[
"課長、帰って来ました。ところで、今、蟻田博士にすれちがったのですが、あの博士の様子が、いやにへんなんですがねえ",
"佐々。博士を追跡しろ。そうして、当分お前は博士を監視するんだ!"
],
[
"課長。佐々刑事は黙ってとび出しましたが、あれでいいんですか",
"何が?",
"つまり、博士の行方が、佐々刑事にわかっているでしょうか。博士はどこへ行ったか、もう姿は見えなくなっているはずです。どうも、あの佐々刑事と来たら、気が短く、早合点の名人ですからねえ",
"ああ、そのことか。そのことなら、彼のことだから何とかやるだろう"
],
[
"さあ、誰だろうか。先生もさっきから考えているんだけれど、よくわからない。博士が帰って来たのかも知れないが、それにしては、あの足音が、あまり響きすぎる",
"足音が響き過ぎるというと、どんなことですか。足音が怪しいのですか"
],
[
"こうなれば仕方がない。あっさりと、あやまるより外ないだろうね",
"つまり、ここから、上に聞えるように、大きな声であやまるのさ。博士の留守に、地下室へもぐりこんだことを、すなおに、あやまるんだよ",
"残念ですねえ"
],
[
"誰が降参すると言った。先生こそ、おとなしくしないと、いのちがないぞ",
"ばかを言うな。誰が降参するものか"
],
[
"おい、待てというのに、話がある!",
"話? 何の話だ。それより先に、その少年を放せ",
"いや、放さん",
"じゃあ、たたかうばかりだ。この怪物め!"
],
[
"こら、しずかにせんか。あとで、ほえづらをかくなよ",
"ううーっ"
],
[
"……そうして、その気球に乗っていた者はともに焼かれてしまうか、たとえ焼かれなくて助かっても、地球がなくなってしまうのだから、下りる場所がない。だから、この方法はむだである",
"結局、予等が考えた一番よい方法というのは、モロー彗星に衝突する前に、我々人類は地球からはなれて、地球の代りに住める場所を新たに見つけて、そこへ移り住まなければならない。これがために、我々はさしあたり、二つの大きな仕事をしなければならぬ",
"その第一は、我々は宇宙を旅行するロケットのような、りっぱな乗物をたくさん作らなければならない。第二には、地球の代りに新たに我々人類が住むことが出来る場所を発見しなければならない",
"第一の、宇宙旅行用の乗物は、幸いにも我がイギリスにおいては、前からかなり研究をしてあったので、相当りっぱなものを作ることが出来る見込である。そうして現に今も、たくさんのロケットが盛に作られている",
"第二の、我々は新たに住むべきところを、どこに発見すればいいかという問題は、なかなかむずかしい問題である。世界の多くの天文の知識のある人々は、誰しもそれは火星がいいというであろう。予等の考えも火星を最もよい移住星だと思っている。火星よりも工合のよさそうなところは他にないと思う。なぜなら、火星には、人間の呼吸に必要な空気がわりあい量は少いけれども、とにかく空気があることがわかっている。水があることもたしかめられているし、かなりおびただしい植物が茂っていることさえわかっている。また地球からの遠さも、他の星に比べると、まあ近い方である。こういう諸点から考えて、火星は一番いい移住先ではあるが、また心配なことがないでもない"
],
[
"火星へ移住することは、一番都合がよいように思われるが、一方において、心配がある。その心配とは、何かというのに、それは、火星の空気が、大変うすいことが、その第一である。空気がうすいから、肺の弱いものは、生きていられないであろうと思う。もっとも酸素吸入をやればいいことはわかっているが、火星へ着いてから、果して我々たくさんの人間全部が、酸素吸入が出来るほどの大設備がつくれるであろうか",
"第二の心配というのは、火星の生物と、果して仲よく暮していけるかどうかということである。火星には、多分生物がいる。それは、火星に空気があることや、植物地帯らしいものがうかがわれることや、それからまた我々は時々、火星人らしいものから無電信号を受取ることから考えても、まず、火星に生物がいることはうたがいないと思う。その火星人と果して仲よくつきあっていけるかどうか。これはなかなか心配なことである",
"我々の仲間には、火星人がきっと我々地球人類を、いじめるにちがいないと言っている者もある。それだから、我々が火星へ移住するためには、まず火星人とたたかわなければならない。つまり敵前上陸をやるつもりでなければ、この事は失敗に終ると言っている。しかし我々は、このようなことを言う仲間を大いに叱ってやる必要がある。すべては愛情でいきたいものである。敵前上陸とか、火星人征伐とか、そのようなおよそ火星人の気持を悪くするような言葉は、つつしまなければならないと思う。話は、わき道にそれたが、このことだけは、くれぐれも賢い諸君にお守り願わねばならぬ"
],
[
"とにかく、この二つの心配――つまり、火星の空気がうすいことと、火星人と仲よく助けあって住んでいられるかどうかということ――この二つの心配が、火星移住をきめるについて、暗い影を投げる",
"その外、食物の問題もあるが、これは何とか解決がつくだろう。火星の上に空気があり植物があることがわかっているのだから、我々人間に食べられる野菜みたいなものがあってもいいはずだと思う",
"それからまた、火星の上は、夜はたいへん寒く、一日中の気温のかわり方も、たいへんはげしいから、我々人間がそれにたえることが出来るかどうかという心配もあるが、これは防寒具を持って行けば、何とかなるだろうと思う",
"また、火星へ移住するためのロケットは、つくり上げたものが、もうかなりわがイギリス国内にもあるし、諸外国もそれぞれ工場を大動員して、たくさんのロケットがつくられているはずであるから、モロー彗星と衝突する日までには、相当たくさんのロケットが、世界各地に備えつけられることになろう。この点についても、諸君は心をしずかにしていていいと思う"
],
[
"ああ、新田さんだね。いい時においでなすった。長いこととまっていたうちの温泉が、一昨日からまたふきだしたんでがすよ。これがもう三日も早ければ、せっかくおいでなすっても、お断りせにゃならないところじゃった",
"ああ、そうかね。僕は運がよかったというわけだね"
],
[
"温泉はいかがでございましたかな、新田先生",
"ああ、ありがとう。今日はまたかくべつないい入り心地でしたよ",
"それは、けっこうでした。まあお茶でも入れましょう"
],
[
"はあ、どのようなことで……",
"ゆうべも見えましたがね、温泉につかりながら、真暗な山を見上げていると、こっちの方向にある山の上の方に、ちろちろとうす赤い火が見えたり消えたりするんだが、あれは一体、何ですかね",
"はあ、あの火を、ごらんになったのかね"
],
[
"それが先生、わりあい、近頃のことでがすよ。昔は、あんな火は見えなかった",
"ああ、そう"
],
[
"あの火は一体何の火ですかね",
"さあ、それがどうも正体が知れないのでしてな"
],
[
"この村の人で、誰もあの火のことは知らないのかなあ。ちょっと、気になる火じゃないですか",
"新田先生。あそこまでは、なかなかけわしくて、近づけないのでがすよ。第一、途中はこの間まで雪がふかくて、とても上れなかったんです",
"それで、あの火のところまで、行ってみた者がないというわけですね",
"この村の者じゃないが、一週間ほど前に、一人の男が、あの火のことをうわさしながら、上って行きましたがな。あの男はどうなったかしら",
"ほう、誰かあの火のところへ、出かけた者があるのですね。それはどこの者です。そうして、まだ山を下りて来ないのですか"
],
[
"それは、東京の人だと言っていましたがね。名前は、わしが聞いても、いや、いいんだと言って、言わないでがすよ。もっともその人はこの雪をふみ分けて、あの山を越え、向こう側の垂木村へ下りて行くのだと言っていたから、こっちへは下りて来ないことになっていたんでがすよ",
"ほう、この雪の中を、山越しに垂木村へ下りるというんですか。そいつは風がわりな人だなあ"
],
[
"ところで、新田先生。相談というのは外でもないが、先生は、この地球がやがてモロー彗星と正面衝突して、ばらばらにこわれてしまうのを知っているでしょうね",
"知っていますよ"
],
[
"それが、どうしたのですか",
"いや、どうもしやしませんが、モロー彗星に衝突されると、皆さん、地球の人類は、死んでしまうわけだが、その対策は出来ていますか",
"対策というと……",
"つまり、その場合、何とかして助かる工夫が出来ているかと、私は聞くのです",
"さあ、それは……"
],
[
"お困りの様子だが、まったくお気のどくに思う。皆さん方は、永久に地球の人類が栄えるものと思っていられたのであろうが、モロー彗星というやつが、それを正面から、じゃまをするんですからね。もっとも、モロー彗星は、意地わるをたくらんで、じゃまをするわけではなく、不幸にも、モロー彗星の進む道が、地球の道とちょうど合うことになっているんですから、これはどうも仕方のないことですよ。その点は、先生にもよくおわかりでしょうね",
"それは、よくわかっています",
"それならよろしい。来るべきこの大事件は、地球の人類にとって最大の不幸である。しかしそれは同時に、モロー彗星にとってもまた不幸な出来事である。そうでしょうが"
],
[
"で、あなたは一体、我々人類を、どうやって助けて下さるのですか",
"そのこと、そのことです"
],
[
"ねえ、先生。わしは、火星に持っている宇宙艇を、たくさん地球へよこそうと思うのです",
"宇宙艇と言うと……",
"つまり、さっき先生は、外で見られたろうと思うが、山の頂に火星のボートが、斜になって、立っていたでしょう",
"ああ、あれが火星のボートですか"
],
[
"この地球の上にだって、ロケットと言うものがありますぞ",
"ロケット? はて、それはどんなものかな"
],
[
"なるほど。そんなりっぱな火星の宇宙艇を、たくさん借りることが出来れば、我々も大助りです。政府に話をすれば、きっと喜ぶでしょう",
"そうです。きっと喜ぶでしょう。先生、あなたは、やっと、我々の話を、本気で聞いてくれるようになりましたね",
"で、私に、政府へ話をしろと、おっしゃるのですか",
"その通りです。そうして、こういうことも、よく話をしてもらいたいのです。わが火星の宇宙艇の着陸場として、この附近の山中を我々にゆずってもらいたいのです",
"えっ、何ですって"
],
[
"私は、そんなことに力のない一国民ですからねえ",
"そんなことはない"
],
[
"そんなことを言っても、私には、きめる力がないのだ。それは、政府へ申し込んで下さい。私は、そんなことには何の力もない、一人の教師なんだから……",
"ふふふふ、こまった人間だ"
],
[
"だから、先生。あなたは、地球の人間を代表して、わしに返事をしてくれればいいのです。先生がうんと言って承知をしてくれれば、わしたちは出来るだけの力を出して、先生をはじめ地球の人間をすくうつもりです。人間だけではない、牛や馬や犬や猫や、それから桜の木や、松の木や、かつおや、ひらめのような魚や、それから、鶴や蛇や、地球上のありとあらゆるものを、一通りすくい出して、火星につれていってあげる",
"えっ、人間ばかりでなく、たくさんの動物や植物までも、のせて行くのですか"
],
[
"そうですとも",
"なぜ、そんなことをするのですか。一人でも、多くの人間をのせて行ってもらいたいと思うのに、牛馬や木などに、場所を取られては、惜しいです",
"いや、わしたちは、こう考えているのです。人間だけを火星に持って行ったのでは、向こうで、人間がくらしに困るかと思う。だから、あらゆる植物や動物を、持って行ってあげようと言うのです",
"なるほど。そういうわけですか"
],
[
"では、そのへんで、わしたちの申出を、承知してくれますね",
"いやいや、丸木さん"
],
[
"えっ、丸木に知れると大変だと言って……丸木は君じゃないか",
"違う違う。丸木じゃない。わしだよ。新田先生。わからないのかい",
"えっ、君は、誰?",
"わしだよ、佐々刑事だ",
"ええっ、佐々刑事? へえ、佐々さんですか。ほんとうですか"
],
[
"よくわしの顔を見たまえ。へんな仮装のお面をかぶっているが、わしだということが、わかるだろう。何しろ、こんな竹ぼらのような声を出す人間が、世間にそうたくさんあるものかね",
"ああなるほど、佐々さんだ。あっ、佐々さん、あなたはよくまあ、こんなところへ……"
],
[
"それで、その仕事と言うのは……",
"それはやっぱり、あまりしゃべれないけれど、とにかく先生、今夜これから、大変なことが起るよ",
"大変なこと? 佐々さん、それは何ですか",
"今夜の中に火星のボート群が、かなりたくさん、このへん一帯に着陸するだろうよ。火星人はいよいよその数を増して来るんだ",
"えっ、そうですか。それはどうも話が、早すぎますね。さっき私は、ぜひこの山中一帯をゆずってくれと、丸木に責められたんです。もちろん私が、うんと言わないので、丸木はおこっていました。その時の丸木は、まさか佐々さんじゃなかったでしょうね",
"違うよ違うよ。あれは本物の丸木だ。わしはかげのところから、そっと隙見をしていて、知っているよ"
],
[
"ねえ、佐々さん、私は一つ、大変心配していることがあるんだが……",
"心配ごとって、それは何だね。早く言いたまえ",
"それは外でもない、千二少年の行方のことなんですがね",
"ああ、千二のことか",
"どうです、佐々さん。千二少年は、丸木につれられて行ったんだが、ここで見かけなかったでしょうか"
],
[
"見かけなかったねえ",
"いないのでしょうか。一体、千二少年はどうしたんだろうな"
],
[
"わしが課長から命ぜられていて、まだ果してないのは、蟻田博士が去年の大地震以来、どうなったということだ。君はその後、蟻田博士と会ったことがあるかね",
"いや、どういたしまして……"
],
[
"何しろ私はあの大地震以来、つい先ごろまで、病院のベッドに寝ていたんですからねえ",
"ふん、なるほど。考えてみればあの大地震というやつが、我々の仕事をどのくらい邪魔したか知れない。いや、こんなぐちを、今言ってみても仕方がないがね。まあいいや。どんな災難であろうと、困ったことであろうと、もうおどろくものか"
],
[
"そうだ。こんなところにぐずぐずしていて、本物の丸木やそのほかの火星人に見つかっては、せっかくのわしの冒険も、とたんに、だめになってしまうからね",
"あ、ちょっと待って下さい"
],
[
"佐々さん。ぜひ、この際、伺っておきたいのですが、丸木と火星人とは、別ものなんでしょうか。それとも同じ火星人でしょうか",
"そりゃ、同じことさ。丸木も、確かに火星人だと思われる",
"でも、見たところ、服装が違うじゃありませんか",
"うん、もちろん、丸木という奴は、火星人の中でも、頭かぶの火星人らしい。しかし火星人であることは、同じことさ。丸木は、黒い眼鏡をかけたり、黒いマントを着ているが、わしの考えでは、あれは、人間に近づくため、ああしているのだと思うね。つまり、あの蟻の化物みたいな、火星人独得のへんな体を、見られないためさ",
"じゃ、丸木も、マントを脱ぐと、火星人と同じことですか",
"確かに、その通りだ。しかし、マントを着ていてくれて、こっちは大助りさ。もしも丸木が一般の火星人と同じように、蟻の化物みたいな体をむき出しにしていたら、こんどのように、わしは、彼らの陣営に忍びこむなんてことは、出来なかったろうねえ。何が、幸いになるかわからない。はははは"
],
[
"何用か、三八九",
"ねえ隊長、わしは、どうも人間というものが恐しくてならんのです。ほかの役にかえてくれませんか。たとえば、草とか木とかを集める方へ廻して下さい",
"だめだ、だめだ。われわれは、はじめから一等むずかしい役をすることにきまっているのだ。むずかしい役をやるのだから、われわれは火星兵団の中でも、特別にごほうびをもらっているのだ。姿だって、人間そっくりの道具をもらっているではないか"
],
[
"大江山さん。私は、火星兵団にあいましたよ。命からがら逃げもどって来たところです",
"なに、火星兵団?",
"課長は御存じないのですか、甲州の山の奥に、火星兵団が、いわゆる火星のボートに乗って着陸したことを",
"それが、火星兵団ですかね。こっちにはそんな報告は来ていないが、昨夜、山梨県でたいへんあざやかな、流星が見えたという話は聞いていますがね",
"昨夜なら、それは、きっと火星兵団のことに違いありません。私は、あの時、火星のボートの着陸するすぐそばにいたのですよ"
],
[
"ふうん、それはたいへんなことだ。あまり深い山奥のことだから、我々の目には、それほどたいへんなものに見えなかったんだ。よろしい、総監に報告をして、すぐさま手配をしましょう",
"まあ、課長、待って下さい。火星のボートを駆りたてるのも大切なことですが、それと同時に、丸木隊の火星人が、人間に変装して、もうすぐ、そちらへやって行くと言っていましたから、用心して下さい",
"何です、その丸木隊というのは",
"人間をさらって、火星へつれて行こうというのです",
"えっ、それはほんとうかね?"
],
[
"しっかり頼みますよ、大江山さん",
"いや、よくわかりました。早く知らせてくれて、ありがとう",
"大江山さん。私が火星兵団からうばって来た変話機は、大変重宝なものです。これを使えば火星人の話が、ちゃんと日本語になって聞えるのです。この機械は、いつでもお貸ししますよ",
"ありがとう、ありがとう"
],
[
"しかし、火星人は、先生を一生懸命探しているだろうから、油断がなりませんよ。わしも、先生のことが心配だから、誰か腕利の警官をつけて上げましょう。体がよくなったら、先生、あなたも、ぜひわれわれに力を貸して下さい",
"はい、わかりました。私は、すこし寝たいと思います。その上で、火星人と大いに戦いますよ"
],
[
"あら、おじさん。線の上を通っちゃ、ひどいわ",
"あら、あたしの石をけとばしてさ。いやあよ"
],
[
"ほう、来たぞ、来たぞ。あれはきっと、火星人だよ",
"うん、そうらしい。黒い長マントを着ている。橋の上にも知らせてやれ",
"しいっ! 騒いじゃだめじゃないか。火星人にさとられると、だめになっちゃうじゃないか"
],
[
"ほら、もっと引け!",
"もっと引くんだ。火星人を生けどったよ",
"わあい、火星人の宙づりだ"
],
[
"うわあい。火星人待て!",
"火星人じゃないよ、火星人の胴中待て!",
"わっ、胴中め、ころがって行くので、早い早い。そら、もっとヘビーをかけて追いかけなくっちゃ……"
],
[
"何かくわえて行ったぞ",
"へんなものが、火星人の胴から出たんだそうだ。あれは皆、ぼくたちのだから、あの犬からうばい返せ!"
],
[
"あのゴムだこは、どうしたんだろうね",
"ああ、あのゴムだこをくわえていったの、大きな犬だね",
"グレートデーンという犬だろう、あの犬は",
"うん。そんなことは、どうでもいいんだ。僕はあの犬をきのう見たよ",
"えっ、見たかい、それでどうしたの。ゴムだこをくわえていなかったかい",
"だめだめ。そんなにいつまでも、ゴムだこを、くわえてなんか、いるもんか。でも、どこかにくわえていって、埋めてあるのかも知れないと思ったからね。僕はあの犬のあとをしばらくつけてみたよ",
"そうかい。犬のあとをつけたのかい。そうして、どうだったい。ゴムだこを埋めてあるところが、わかったかい",
"いや、それもだめさ。あの犬はごみためばかりあさって歩いたが、ゴムだこを埋めてあるようなところへはいかなかったよ",
"へんだね",
"全くおかしいね。第一、あんなりっぱな犬が、ごみためばかりあさるのはおかしいよ。だって、あの犬は三、四百円もする高い犬なんだぜ。飼主が食べ物をやらないはずはない",
"そんなことは、わかりゃしない。モロー彗星が地球と衝突する日が近づいているんだ。どんなりっぱな犬でも、犬のことなんか、かまっていられないよ",
"なるほど、それもそうだね",
"それより、僕は、あのゴムだこについて不思議に思うことがあるんだ",
"えっ、不思議に思うって、何がさ。……"
],
[
"だって、そうじゃないか。僕たちは、人間狩に出て来た火星人を生けどりにしたと言うんで、たいへんほめられたね。ところが、あの火星人という奴は、僕たちが投綱でひっくくってみれば、足はぬけるし、首もぬけちまうしさ、胴中ばかりみたいになって、ごろごろころげ出したろう",
"そうだ、そうだ。そうして戦車にぶつかって、火星人の胴は、こなごなにこわれてしまったんだ",
"うん、その時、あのゴムだこみたいなへんなものが、胴の中からころがり出したんだが、あれは一体何だろうねえ",
"あれは火星人のはらわただよ。きっとそうだ",
"おかしいなあ。はらわたなら、ぐにゃぐにゃしているはずじゃないか。僕は、はっきり、みたんだけれど、ゴムだこは干物みたいだったぜ。そうして、僕の目には、その干物みたいなものに、たしかに首がついていたように見えた。首だけではない、大きな目がついていたよ",
"そうかしら。そんなばかばかしいことはないだろう。はらわたに首があったり、目があったり……",
"でも、たしかにそうだったんだから仕方がないよ。だから、不思議だと言うんだ",
"そうかなあ。ほんとうかなあ。ほんとうだとすると、なるほど、これは不思議だ。胴中から首があるものが飛びだすなんて",
"ああ、わかった、わかった。じゃあ、それは、火星人の子供なんだよ。ひきころされた火星人の腹の中に、その子供がいたんだ",
"子供? 子供なら、やはりぐにゃぐにゃしていなきゃあならない。あれは、干物のようにこちこちだったよ。子供じゃないだろう",
"そんなことを言うと、ますますわけがわからなくなるじゃないか"
],
[
"だが、軍隊を出すということは、そうかんたんにいかないのだ。総監はどんな目にあおうとも、ぜひとも、警官隊でもって、火星兵団をつかまえるようにと厳命しておられるのだ",
"課長さん。それはどう考えても無理な話ですよ"
],
[
"ねえ、新田さん。せめて佐々刑事に連絡をとる方法がないものかねえ",
"さあ、困りましたな"
],
[
"佐々は、火星人に殺されてしまったのかも知れないのだ。この上あんたが行って、またそれっきりになったら、どうして火星人を攻めて行ってよいか、見当がつかなくなる",
"だって、私などが……",
"いや、この上は、火星人のことを少しでも知っている者は、大事にしておかなければならない"
],
[
"大江山さん。あなたは、蟻田博士を、どう思っているのですか",
"どう思っているとは?",
"つまり、博士はいい人だとか、悪い人だとかいうことです",
"さあ、そんなことは、うっかり言えないがねえ"
],
[
"じゃあ、蟻田博士が、とうとい大学者であることを、大江山さんはみとめたわけですね",
"まあまあ、それに近いと思って下さい。だが、我々は博士について、全く気を許してしまうわけにはいかないと思っている",
"え、気が許せないというのですか。それはまた、なぜです",
"それはつまり、これもここだけの話だが、蟻田博士は、火星のスパイではないかと、そんな気もするのだ"
],
[
"大江山さん。私は、これから行って、博士を探して来ます",
"何、博士を探しに行くというのですか"
],
[
"そうです。すぐ出かけます",
"それは、我々にとってもありがたいことだが、新田さん、あなたには、博士がどこにいるか、わかっているのかね"
],
[
"……いやだなあ。これはいよいよくさって、落ちてしまうだろう",
"ふん、なるほど。だいぶんひどくなったねえ。何とか手当をしないといけない。博士は、このことを知っているのか",
"知っているよ。博士は、薬を作っているのだ。だが、それはいつになったら出来上るのか、見当がつかないんだ",
"困ったねえ"
],
[
"えっ",
"そんなもので打っては、減圧幕に穴があいて、こわれてしまう。減圧幕に穴があけば、私たちは、一ぺんに死んでしまう"
],
[
"じゃあ、君たちの国では、もっと、うすい空気の中で暮しているのだね",
"そうだとも",
"君たちの国というのはどこだ。もしや、君たちの国は火星じゃないのかね"
],
[
"私たちが火星人でなければ、どこにほんとうの火星人がいるものか。私たちは火星人だ",
"いや、違う。火星人は、大きな強い胴を持っていて、背も我々人間と同じくらいだ。それから、ちゃんと人間と同じような首を持っている。もっともその首は、よくころげ落ちるので、ちょっとへんだが……"
],
[
"何がおかしい",
"いや、それでわかった。あなたの言うのは、火星兵団の隊員のことだろう",
"君たちは、火星兵団を知っているのかね",
"もちろん知っているよ。しかし、人間なんて、ばかなものだね。私たちと火星兵団の隊員とが、同じ火星人だということに気がつかないのかしら。ほっ、ほっ、ほっ",
"君たちと火星兵団の隊員とは、同じ火星人だって?"
],
[
"じゃあ、そのわけを言うがね。たいしたことではないのだ。さっきも言ったように、私たちが、地球の上でちゃんと生きているのは、この檻の内側に、目には見えないが蟻田博士の発明した減圧幕を張ってあるためだ。ところが、火星兵団の連中は、こんな便利な減圧幕のあることを知らないために、あの大げさな入れ物の中に、はいっているのだ",
"入れ物?",
"そうだ。入れ物だよ。入れ物というのは、ほら、さっきあなたが言ったではないか。たいへんかたい胴! ドラム缶のような胴! あれがその入れ物なんだよ",
"火星人がはいっている入れ物? あのいかめしい胴中に火星人がはいっているのかね。地球の空気があんまり濃すぎるので、あの胴のような入れ物の中に、火星人がはいっているのかね。ほんとうかね。いや、ほんとうらしい。ふうん、それは驚いた。へええっ"
],
[
"博士、どうしてここへ?",
"どうしてここへ? ふん、あたり前だ。ここは、わしの研究所なんだからな。他人のさしずを受けるものか"
],
[
"助ける工夫はない。たとえ、助ける工夫があっても、今日のような、おろかな人間どもを助けることは無用だよ",
"そ、そんな、らんぼうな考えは、よくないと思います",
"わしは、今日の人類には、あいそがつきているのだ。そんな連中を助けてみたって、始らんではないか",
"博士、そんなことを言わないで、人類のために力を出してやって下さい。博士が本気になってやって下されば、モロー彗星衝突の惨禍から、かなりたくさんの人間が救われるのではないでしょうか。救われれば、どんなに心がけのわるい人間でも、心を入れかえるに違いありません",
"わしは、そんなことを信じない。助けを乞う時には、ちょっといい人間になるが、助けられてしまったあとは、またもとのように、だらしのない人間に戻ってしまう。ふだん自分勝手な、欲ばったことばかりをして、自分さえよければ、この地球がどうなってもいいなどと思っている、そんな心がけのよくない人間を、助けてみても一向つまらんよ"
],
[
"どういう病気といって、こういう病気にきくのだ。ほら、見ていたまえ。この通り火星人のくさりかかった体が、どんどんきれいに、なおっていく",
"なるほど、不思議ですなあ。そんなによくきく薬なら、わたしにも分けていただきたいですね。実は、わたしの……",
"だめだよ、新田君"
],
[
"この薬はね、君のような動物には、さっぱりきかないんだ",
"動物?"
],
[
"え? 博士の言われることが、よくわかりませんが",
"わからないと言うのか。ふん、君にはそこまでわかるまい"
],
[
"この二人は、ずっと前わしが火星に行った時、助けて連れて来てやった火星人なんだ",
"え? 博士は火星へ行かれたことがあるのですか"
],
[
"おや、そのことはまだ話をしてなかったかね",
"それはうそです。博士は、人間の力では火星へ行けないと言われたことが、あったではありませんか"
],
[
"ふん、お前にはそれが信じられないかも知れん。いや、むりもない。だが、それはほんとうのことなのだ。――その女王ラーラは、非常にすぐれた者じゃった。我々地球の生物のように、やさしい情ある心を持っていた。だから女王は、地球の人類と、たがいに手をとって、力になり合おうと考えた。それが、他の火星人どもの気に入らなかったのじゃ",
"火星国に、せっかく地球人類と手をにぎってやっていこうという女王ラーラが現れたのに、多くの火星人は大反対をして、とうとう女王を殺してしまった。女王だけではない。百人近い女王の子供たちも、ほとんど全部殺されてしまったのだ"
],
[
"ほう、ずいぶん残酷な話ですね",
"残酷は、元来、火星人の持って生まれた悪い性質なのだ。わしは、女王ラーラとその子供たちが死ぬところを見たが、いやもう気の毒なものじゃった。火星人は、女王たちを、森の中につくった大きな牢にぶちこんだ。その牢は、上から見ると、円形で、高い壁にかこまれ、そうして天井がなかった",
"ほほう",
"女王たちを、この天井のない牢にぶちこむと、火星人たちは、今度は水をそそぎ入れた",
"水の中に、おぼれさせるのですね",
"そうではない。水は、わずか十センチぐらいの浅いものだったが、その後で投げこんだものが、恐るべきものじゃ"
],
[
"それは、一種の藻じゃ。見たところは、たいしたことのない緑色の藻じゃが、その藻こそ、恐るべき繁殖力を持ったやつじゃ",
"繁殖力?",
"そうじゃ。つまり藻がふえるのじゃ。その藻は、水の中では大へんな勢いでふえるのじゃ。しかも、そばに他の生物がいると、それにとりつき、その生物の体から養分をすいとって、どんどん繁殖していくのじゃ。恐るべき寄生藻だ"
],
[
"――女王ラーラとその子供たちは、四日目には、その恐しい藻に包まれて、全く死んでしまったのだ",
"ああ、かわいそうに……",
"その時、わしは、森の中の一本の木の上にのぼって見ていたのだが、あまりかわいそうなので、何とかして、せめて子供だけでも助けてやりたいと思い、いろいろと助けてやる方法を考えたのじゃが、どうも、なかなかいい智慧が出ない。ところが、そのうち、ふと、思いついたことがあった",
"何です、その思いつかれたことは?",
"それはほかでもない、わしが持っていた長さ五十メートルの長い巻尺じゃ",
"巻尺? あのぐるぐるまいて、ケースにはいっているあの巻尺のことですか",
"そうじゃ、その巻尺じゃ。わしが火星へ持って行ったやつは特別につくらせたもので、丈夫な鋼鉄で出来ている。わしは、その巻尺の一端に、わしが護身用に持っていた猟銃をゆわいつけると、木の上から、やっと掛声をして、十メートルばかり離れた牢へなげこんだのじゃ",
"あはははは"
],
[
"なぜ、お前は笑うのか",
"博士、ほら話はいけませんね。いくら博士がその時お若かったにしろ、そんな重いものを、十メートルも離れた遠いところへ、やすやすと投げられるものですか",
"お前こそ、何をたわけたことをいう。火星の上では、物の重さが約三分の一に減ることを、お前は知らないのか",
"火星の上では、物が軽くなる? なるほどそうでしたねえ。うっかりしていました"
],
[
"うふふん。わしの計画は、うまく行ったのだよ。投げこんだ巻尺を、今度は手もとへたぐって、引上げてみると銃身に二つの青黒い塊がついていた。それは火星人の――いや、女王ラーラの子供だった。つまりここにいるロロとルルが、その時に巻尺を力にして、おそろしい寄生藻の牢獄をぬけ出た幸運な女王の遺児たちなのだ",
"な、なるほど。それはいいことをなさいました",
"わしが、ロロとルルとを引上げた時は、二人とも、頭から足まで寄生藻をかぶって真青だった。そのままでは、どんどん体がまいるから、わしは二人をかついで急いで木の上から下りると、二人を連れて、さらに森の中深く分入り、川の流れをさがして歩いた。小川が見つかった。わしはさっそく二人を流れにつけ、ごしごしと洗ってやったよ",
"そうでしたか。二人はよくも助かったものですね",
"ロロは割合に元気だったが、ルルの方はだいぶん弱っていた。その時は、かなりひどく寄生藻にやられていたのだ。でも、わしは出来るだけの手をつくした。その結果、ともかくも二人の体を、すっかり元のように、なおしてやった。わしは火星人に二人をうばいかえされることをおそれ、わしの宇宙艇の一室に二人をかくして、外へ出さなかったのだ。――こうして、ロロとルルの二人を、この地球へ連れて来ることが出来たのだ"
],
[
"ねえ、博士。博士は、火星人ロロやルルにたいして、そんなにしんせつならば、人間にたいしてももっと思いやりを持って下さってもいいではありませんか。やがて四月四日、モロー彗星に衝突されて、むなしく死んでしまわねばならぬ地球人類にたいして、危難をまぬかれる何かいい方法を考えて下さいませんか",
"人間は大きらいじゃ"
],
[
"それに、もうすでに時おそしじゃ。何をやっても、もう間に合わないだろうよ",
"そこを、何とかならないものでしょうか。何千年・何万年という輝かしいわが人類の歴史を考えると、このまま人類を絶滅させるには、しのびないではありませんか",
"人間たちの心がけがよくないから、そんなことになるのだよ。今ごろになって言っても、もう始らないが、わしは三十年このかた、地球人類に警告をして来たのだ。近ごろになっても、あの『火星兵団』についての警告放送をやったりしたが、誰も本気になって、それを聞かないのだ。対策を考えようとしないのだ。万事、もうおそいよ。自業自得だ"
],
[
"すると博士はどうされるのですか。四月四日の前に、ロロとルルを連れて、火星へお帰りになるのですか",
"何をばかなことを! 火星へ行くのは、ロロとルルを処刑場へ連れて行くようなものだ"
],
[
"ふん、わしの心はきまっている。しかしそれをお前に話をするわけにはいかん",
"なぜ、話して下さらないのですか"
],
[
"何だ、お前はいやにしょげてしまったじゃないか。若い者のくせに、そんなことでどうなるのか",
"ですが、博士。博士のお言葉は、私から元気をうばい取ってしまいます",
"誰でも、最後まで勇気が必要だ。わしを見ろ。この通りの老人だが、どんな時にも、勇気をうしなわないで、たたかって来た。――そうだ、お前にいいものを見せてやろう。こっちへお出で"
],
[
"そうだとも、もちろん彗星だ",
"すると、この彗星はもしや……",
"もしやも何もない。それがモロー彗星なのだ。おどろくべき快速度をもって、刻々地球に近づきつつあるモロー彗星なのだ"
],
[
"博士。火星人が動物でないと言うのは、ほんとうですか。動物でなければ、一体、何ですか",
"ふうん、そのことだ。が、人間には、とてもむずかしすぎる問題で、言ってもわかるまい"
],
[
"おお、佐々さん。私の声が火星へ聞えたのですね。私は新田ですよ。おわかりですか。新田です",
"おう、新田先生か。やあ、いいところで返事をしてくれた。ああ、なつかしいねえ"
],
[
"ああ、わかった、わかった。僕はさっきもこの宇宙電話で放送したんだが、火星人は、ゆだんが出来ないやつだよ",
"そのことですが、私は一つの推理を立てました。火星人というのは、植物の進化したやつで、動物のような情心を知らないです。だから生まれつき、たいへん残酷なんです。どうですか、その通りでしょう"
],
[
"もしもし新田先生、聞いているかね",
"聞いていますよ、佐々さん。――で、どうなんですか、火星人の考えは? 我々地球の人間をどうするつもりなんでしょうか",
"それは、さっきもちょっと言ったが、地球の人間をひっぱって来て、飼って利用しようと思っているんだ。ちょうど、人間が豚や鶏を飼っているように、火星人は、人間を飼って、自分たちの勝手なことに使おうとしているのだ。そうなれば、地球人類の降服だ。火星人の奴隷になることだ。いや、奴隷以上のはずかしめを受けることになるだろう。だから、火星兵団に対しては、一歩もゆずってはいけない。彼等が、人間をすくってくれると思っていては大まちがいだ"
],
[
"だから、だんぜん、火星兵団と戦うんだ",
"戦っても、どっちみち人間は助からないではないですか",
"助かるか助からないか、とにかくやってみなければわからない。戦ってたおれれば、もともとだ。もうだめだからと言って、負けるつもりになっていることがいけないんだ。せめて日本人は、建国精神によって、はなばなしく戦ってもらいたいなあ。火星兵団に降参してしまったなどという、ふがいない歴史なんか、残してもらいたくない"
],
[
"あれが、モロー彗星ですか",
"そうですよ。今にあれがどんどん大きくなって、月よりも大きくなるそうです",
"もしもし、月よりも大きくなるどころじゃありませんよ。彗星は自分で光っているんですから、太陽よりも明かるくなりますよ",
"ほんとうですか。あれは自分で光っているんですか",
"そうですとも。今に空いっぱいに彗星がひろがりますよ",
"ええっ、何ですって",
"つまり、空というものが見えなくなってしまうのです",
"えっ、よくわかりませんなあ",
"さあ、どう言ったらいいか。つまりですな、空が見えなくなって、その代り彗星の表面ばかりが見えるようになるでしょう。その時は、他の星は全く見えなくなりますよ",
"へええ、驚きましたなあ。太陽も月も見えなくなるのですか",
"そうですとも。太陽も月も、地球から言うと、モロー彗星の向こう側になってしまうのですからねえ"
],
[
"まず、相談料をいただきます。相談料は先払で百円です",
"百円? 高いですね",
"高いと思えばおよしなさい。何しろここで、あなたの家の御家族の命が助かるか、助からないかという場合ですからな。別に私どもは、こんなことでお金をもうけようとは思わないのです。ただ、この通りたくさんのお客さんに押寄せられ、門や家がこわれそうなので、その混雑を防ぐために、少しばかり高いお金を支払ってもらって、入場整理をやっているのです。気に入らなければおよしなさい。ただし、命のせとぎわですからな"
],
[
"それはいい方法があります。しかし、決して、ほかの人に洩らしてはいけませんよ。つまり鉱山――銅や石炭やそういう鉱物の出る山の坑道の、奥深く逃げこんでいるのです",
"鉱山の坑道にはいっておれば、かならず助かりますでしょうか"
],
[
"しかし所長さん、地球が粉々にこわれるだろうという話ですが、その時は、坑道の底にいても地表にいても、やられることは同じことでしょう",
"いや、同じではありません。地表にいる人間がやられる時、坑道の底にいる人間は、まだ生きています",
"しかし、遅かれ早かれ、坑道の底にいても、やられるではありませんか",
"それは仕方がありませんよ。少しでも、いのちが長くのびれば、それでいいとしなければならんですぞ。まず五、六分は長くのびます。あまりよくばりなさるな"
],
[
"つまりその、潜水艦に乗っているのです。陸はいくらぐらぐらしようと、また海上にどんなに波が立とうと、海の中は、あんがい静かです。たとえぐらぐらしても、潜水艦なら、どんなにゆれても大丈夫です。上と下とがあべこべになっても、心配はありません。だから命が助かりたいと思ったら、ぜひ潜水艦の中へ、ひなんをなさるのですな",
"なるほど、潜水艦はなかなかいい思いつきですなあ"
],
[
"どうです、モロー彗星も、だいぶん大きく見えるようになりましたね",
"そうですねえ。あなたは、どちらへ御ひなんなさいますか",
"いいえ、べつにひなんはいたしません。このままにしています",
"ははあ、どうして、ひなんなさらないのですか",
"いや、さわいでも、どうなることでもないのです。何しろ相手は彗星ですからねえ。我々に、彗星を動かす力があればともかくもですが、そんな力はないのですから、後はもう自然の成行にまかせておくよりほか仕方がありません",
"たいへんおちついておいでですね。しかし、死ぬことはおいやでしょう",
"べつにいやとも思いません。いやだと思っても、どうなることでもないのですから。それよりも、わたしは、たいへん楽しいことに思っています。つまり、地球は生まれてから八十億年もたっているのに、地球が崩壊するところが見られるのは、今日の時代の我々だけにかぎられているということは、なかなかすばらしいことではありませんか。わたしは、地球がどんなに崩壊し、そうして人間などが、どんな風に死んでいくか、ゆっくり見物しようと思っていますよ"
],
[
"どうしたのかね",
"ただ今、当地からロケットが一台飛出しました",
"ふん、それは人間が乗っているロケットかね",
"そうであります。アメリカ一流の飛行士ピート大尉が乗りこんでいるのです。そのロケットは、火星に向けてとんでいるものと思われますが、すでにもう成層圏を通り越して、ぐんぐんとまっくらな宇宙に光の尾を引いて走っていきます",
"そうか。では、こっちからも見えるじゃろう。よろしい"
],
[
"おい、千二。わしはお前に金でこしらえた、おもちゃをやろうと思うよ",
"ほんとう? ほんとうならうれしいなあ"
],
[
"きのうだったか、そっちから火星へ戻って来た宇宙艇があった",
"なるほど",
"お前も知っているのだな。――その宇宙艇は、着星したのはいいが、いつまでたっても誰も出て来ないのじゃ。入口の扉をどんどん叩いても、中からあけようともしない。仕方がないから、こっちから通信でもって、『おい、早く扉をあけて出て来んか。何をぐずぐずしているのか』と言っても、さらに答えなしじゃ",
"ほほう。それは、けしからん",
"通信が中へ聞えないかと思うと、そうでもない様子だ。中には、火がついたり消えたりもするし、それからまた中から電波を発射していることもわかっている。そのくせ扉をあけないのじゃ",
"逆乱軍でしょうかな",
"えっ、逆乱軍? おいほんとうか。そんなものが起るわけはないのだが……。とにかく宇宙艇の扉と来たら、内側からあけないかぎりは、外からはどんな事をしても、あかない仕掛になっている。全く困ってしまったよ",
"それは困りましたな",
"おいおい、マルキ。お前が涼しい顔をしていては困るじゃないか。お前の監督が悪いから、このような命令を聞かない者が出来るのじゃ。しかも、この宇宙艇は、たしかに、地球派遣軍の火星兵団に属している宇宙艇だから、お前が責任をとらなければならないぞ!"
],
[
"なるほど、それは、私の責任かも知れません。しかし実際を考えてみて下さい。今地球と火星との間を連絡するために、火星兵団は、毎日のように宇宙艇を幾台も飛ばしているのです。中には、内側からあかない宇宙艇もあるかも知れません",
"何を言う、マルキ!"
],
[
"わしがお前に言いたいことは、宇宙艇の警戒を怠って、むざむざ人間に取られてはならぬと言うことだ。人間とて、相当頭が進んだ生物だから、宇宙艇の中を知れば、同じものをまねしてつくるかも知れない。もしそんなことがあったら、我々は人間から、さらに強い手向かいを受けることになって、困るのじゃ",
"大丈夫です。そんなえらい人間はいませんよ",
"そうではない。むかし、この火星へアリタ博士というのがやって来たが、彼などは、なかなかすぐれた頭を持っていた。ああいう連中に見せたら、後がよくない",
"ですがペペ王、モロー彗星は、あと十日ぐらいして地球を粉々にこわしてしまうのですよ。ですから、たとえ宇宙艇を人間に見せたところで、あと十日では、そのうちの一台だって作り上げられませんよ。心配は御無用です"
],
[
"どうにも手段がない。どんなことをしてみても、火星兵団を打破る見込は立たない",
"仕方がない。この上は世界同盟をつくり、各国の智慧者を集めて、火星兵団の暴力に手向かう方法を考え出すことにしようじゃないか",
"それがいい。それの外はない"
],
[
"そんなことを言っても、今から寄合をして、いい考えを出したんじゃ、もうおそいよ。そんなことは、もっと早くから気がつかなければならなかったんだ",
"だって仕方がないよ。今になって、やっと地球総力戦の体制をつくることに気がついたんだ。それに、今まではお互に各国とも、にらみ合っていたんだから、そうかんたんに一しょにはなれないよ"
],
[
"ああ、あそこに見える黒いものは何だ",
"え、ああ、あの黒い点のようなものか。風船でもなさそうだが、事によると……"
],
[
"あっ、火星兵団だ!",
"うん、やっぱりそうだったか。おい、火星兵団の大襲来だ!"
],
[
"今度は、大丈夫だと思っていたのに……",
"あれでいけなかったら、われわれ地球人類は、絶対に火星人に降服する外はない",
"もっと早くから、対火星戦を、考えておくんだったな"
],
[
"しかし、博士。……",
"こら、だまっておれというのに……"
],
[
"博士",
"何じゃ",
"博士は、私が、博士のおためにならないようなことをする人間だと思っておられますか",
"さあ、どうかな",
"さあ、どうかな――とは、おなさけないお言葉です。博士、あなたは、私にとっては尊い師です。師のためにならないようなことを何でしましょうか",
"そうかね",
"……私は、博士の冷たいお心をなおして、今死の直前に立っている地球人類のために、大いに力を貸していただこうと毎日力めているのです。しかし博士は、一向、そういう気になって下さらない。博士、私は、そんなに信用出来ない人間でしょうか",
"人間には、もうこりごりだよ"
],
[
"おお新田。これからわしは、お前に、はじめて本心をうちあけるよ",
"えっ、本心?"
],
[
"わしとて、お前と同じ地球の上で生まれた人間であることに変りはない。だから地球人類が栄えるように、ねがうことについても人後に落ちない。しかし、今までそのことを誰にも話をすることが出来なかったのだ。なぜかと言うのに、火星人は絶えずわしの身のまわりに、目には見えないが、きびしい監視の網をはっているのだ。火星人は、わしが何か言えば、かならずそれを聞いてしまっている。だから、うっかりしたことは言えない",
"博士、それは、ほんとうですか。私は、博士のおっしゃる火星のスパイを、見たことがありませんが……",
"今も言うとおり、お前などの目には見えないのだ。わしにも見えない。しかし、わしはそれを知っている。火星人は、わしの声の特徴をよくしらべている。わしが声を出すと、非常に精巧な検音受信機で、わしのしゃべることを向こうで録音してしまうらしい。何しろ火星人の智力と来たら、人間よりもすぐれているのだから、始末がわるい。わしは火星人に、自分のしゃべることをけっして聞かれないために、苦心の結果、この防音室をつくった"
],
[
"だが、わしは火星兵団のことについては、いち早く地球人に知らせておいた。地球人は、それに発憤して、何か新発明の兵器でもつくるかしらんと思ったが、やっぱり智力が足りなかった。わしは、どうせそんなことじゃろうと思い、火星人には、絶対に気がつかれないように注意を払いつつ、或る研究をつづけていたのだ。その研究は、やっと完成した。これさえ使えば、火星兵団をうち破ることはそうむずかしいことではないと思う。そこでわしは、お前だけに、ほんとうのことを、うちあける気になったのだ。これまで、お前にも、わざとつらい目に合わせて気の毒だった。今こそわしは、全力をあげて火星兵団とたたかうぞ",
"おお、博士!……"
],
[
"十号ガスというのですか。なかなかすごいものですねえ。その十号ガスのため、火星人の殻が蒸発して、なくなってしまうと、それから火星人はどうなります",
"どうなると言うのか。それはわかっているではないか。火星人は、はだかになってしまう。地球の上で、火星人がはだかになれば、彼等は、すぐに死んでしまわにゃならん。なぜって、地球の上では大気の圧力が強すぎて、火星人の体はもたないのだ。火星人の体を、地球の強い圧力の大気から守るために、火星人は殻をつけているのだからねえ。それを取られりゃ、一たまりもなく、火星人は死んでしまうはずじゃ"
],
[
"博士、私にお手つだいをさせて下さい",
"いや、それは困る。これはわしひとりが、たましいをうちこんで、作らんことには、いいものが出来ないのだ。誰かがそばにいると、気が散っていいものが出来ない",
"しかし博士、地球最期の日は、もうあと一週間そこそこですよ。十号ガスの製造に、あまり長く日がかかると、もう間にあいませんよ",
"それは大丈夫だ。あと三日あればいいのだ。じゃ、あとを頼んでおくよ",
"ああ博士、どこへ行かれるのですか"
],
[
"わが天文台は、一昨日から月に関する天文放送を始めていますから、今日以後の放送を、よく御注意下さい",
"なんじゃ、この放送者は、どうも頭がおかしいぞ。気がへんになったのじゃないかな"
],
[
"ああ、まずうまくいったつもりだ。これから毎日、十トンずつの十号ガスの原液を作り出せることとなった。これだけあれば、火星人と戦っても、まず大丈夫だろう",
"ほう、そんなにたくさん出来ますか"
],
[
"その十号ガスの原液は、どこにあるのですか",
"水道のように、管から出るようになっているよ。原液製造機械が動くと原液が出来る。それを地下タンクにためる仕掛になっている。そのタンクには、別に圧搾空気を使うポンプがとりつけてあるから、管の栓をひねると、その原液は水のように、いくらでも出て来るのだ"
],
[
"ははあ、驚きましたねえ。ところで、その原液は、私たち人間にかかるとどうなりますか。やっぱり体が蒸発してしまいますか",
"いや、そんなことはない。人間の体を蒸発させるような、そんなものではない。しかし、何か作用があると思われるが、そのことは試験をしているひまがなかった。何分にも、早くこれを使わないと、火星兵団のため、崩壊前の地球を、すっかり占領されてしまうことになるからのう"
],
[
"これかな。一挺お前にわたしておく。これは十号ガスを発射するガスピストルだ。あまり遠くへはとばないよ。まず百メートルが関の山だ",
"百メートル? 百メートルなら使いものになりますよ"
],
[
"だめだめ。こんなところで、そのピストルを撃ってみても、こわれるものは一つもありはしない。それよりも、これからわしと二人で、火星兵団の奴を追いかけて、ためしてみようではないか。支度をしたまえ",
"えっ、ためしに火星人を撃ってみるのですか"
],
[
"ああ、博士。やっぱり博士だったのですか",
"そうだ、わしだよ",
"でも、わたしは、たしかに火星人の姿を見かけたのですが……",
"わははは、まだまじめくさって、そんなことを言っているのか。あれはわしじゃよ。火星人の姿をしていただけじゃ。ほら、ここに衣裳があるのだ"
],
[
"どうしたのですか、博士。なぜ火星人の姿などをなさるのですか",
"お前もずいぶん血のめぐりの悪い男だなあ。火星兵団のそばへいくには、こっちもやはり火星人の姿をしていかなくちゃ、向こうはゆだんをしないではないか",
"なるほど",
"さあ、お前も早くこの衣裳をつけて、火星人に化けるのだ。ほら、ここにある"
],
[
"おい、新田。ちょうどいい。いっしょに下の方へ下りていってみよう。赤羽橋あたりへ出れば、火星人に出会うかも知れない",
"はい"
],
[
"博士、町は、たいへん静かですよ。この様子では、火星人は、引上げていったのかも知れません",
"そうだなあ、ちと静かすぎるのう"
],
[
"あそこだ。おい、新田、そっとあそこへ近づくのだ。ガスピストルは、わしがうつまではお前もうってはならないぞ",
"はい、承知しました"
],
[
"博士、課長や警官を見ごろしにするのですか。私はもう、がまんが出来ません。ガスピストルを撃ちますが、いいですか",
"待て、ガスピストルを撃つには、いい折がある。火星人のゆだんするまで待て"
],
[
"大江山さん。そんなに興奮しちゃいかん。わたしだ、新田ですぞ",
"新田だ? 新田の声のまねをしても、きさまは火星人だ",
"ちがう、ちがう"
],
[
"おい、新田、火星人とまちがえられるのは、その服装がいけないのだ。もう火星人はいないから、服装をぬいだがいい",
"ああ、なるほど。どうも今日はあわてていけない"
],
[
"これは新田先生、たいへんめずらしいが、どうしたのかね",
"いや、お話をすれば長い話があるのです。しかし、短く言えば、課長、喜んで下さい。蟻田博士が、火星兵団の奴らをやっつける、すばらしい熔解ガスを発明されたのです。そこらにころがっている赤黒い怪物は、みんな蟻田博士の発明された十号ガスのため、やっつけられてしまったんです。どうか喜んで下さい"
],
[
"ねえ、課長。わたしたちは思いちがいをしていたのです。博士はりっぱな人物です。そうして人類の大恩人ですぞ",
"それは、どうかな"
],
[
"おい、大江山さん。そのおかしな博士は、ここにいて、あんたの手に繃帯を巻いておるよ。わしのことは後でゆっくり新田から聞くがいい",
"やあ、あなたは蟻田博士……",
"驚くことはないよ。それよりも、いよいよ明日から全国の火星人征伐をやりなさい。十号ガスはたくさん用意があるから、いくらでもあげる。今夜は休んで、明日突撃隊でも作って、その先頭に立つがいい"
],
[
"今からまず帝都附近一帯に出動して、火星人と見たら、今一同の手に渡したガス弾でやっつけてしまうのだ。火星人を見つけたら、決して見逃さないようにすること。ここで一人の火星人を逃せば、十人、二十人の尊い日本人の生命を犠牲にする上、もしも火星にまで逃帰られたら、それこそどんな新兵器を持った新手の火星兵団が、この地球へ攻寄せて来るかわからないのである。だからわが突撃隊員は、火星人を見たら仕損じなく、そうしてすばしこく火星人を倒すよう心がけることだ。わかったか、わかったろうな",
"はい、わかりました",
"よろしい、各隊、出発!"
],
[
"ははあ、また麓の方から人間隊がやって来たぞ",
"おお、また来たか。人間というやつは、なかなかしぶといやつだな"
],
[
"また性こりもなく、人間どもが攻めて来やがった。見ろ、たたかわない前から元気がないや",
"そのようだな。負けるとわかっておれば、攻めて来なければいいのに、人間は、頭がわるいね",
"みな殺しにされるまで、ああやって攻めて来るつもりなんだろう。さあ、今日は人間を何人やっつけてやるかなあ。十四、五人を手だまにとって、谷底へ投げこんでやるかな",
"おれは、火星へみやげに連れて帰るのだから、よく働きそうな奴をよって捕えるつもりだ。そして奴らの体に、おれの名前を焼きつけておこうと思う"
],
[
"あいつ、いやな奴だなあ。敬礼をしてやっても礼を返さないよ",
"ふん、きっと地球の空気を吸いすぎて、おかしくなっているのじゃないか"
],
[
"どうも、おかしいぞ。あやしい奴が、はいりこんだらしい。おいみんな、気をつけろ",
"気をつけるどころじゃないぞ。これを見ろ、たいへんだ。いつの間にか防圧の壁がとけてしまって、みんな、はだかになって死んでいくぞ。どうもへんだ。わしもやられたらしいぞ。た、助けてくれ",
"この煙がおかしい。おや、あそこにいる二人の火星兵めが妙なものを手に持って、わしらの仲間の胴中に、何かしきりに撃ちこんでいるぞ。こら、お前たちは何をしているのか。おい待て",
"うん、さっきから、その二人は、あやしい奴だと思っていた。やい、手に持っているものを、こっちへわたせ"
],
[
"博士、どうやら、こっちの正体を見やぶられたようですよ。どうしましょうか",
"なあに、かまわん。今のうちに、手あたりしだい、ぶっぱなしておけ。こいつらをたおしておけば、向こうにいる本隊の火星兵どもは、まだ当分、気がつかないでいるだろう。そら、そこにいる火星先生にも一発……"
],
[
"突撃隊、つっこめ! 恐れてはならん、おちついて、一発ずつ正確な射撃をしろ! 第一隊は正面、第二隊・第三隊は左へいって、横合から攻めろ。第四隊以下は、我らにかまわず、敵の本隊へ突入せよ!",
"うわあっ、うわあっ"
],
[
"博士、新田さん。何だか火星兵の様子がおかしいですぞ",
"おお、大江山さん。にわかに静かになりましたね。博士、これはどういうわけでしょうか",
"さあ、わしにもよくわからん。だが、とにかく今度は、人間部隊の勝ったことには間違なしだ。ひとつ、ここらで威勢よくときの声をあげろ",
"いいでしょう。おい、突撃隊! 大勝利を祝って、大声で、ばんざい三唱だ。それ、ばんざあい"
],
[
"なんじゃの",
"火星兵どもは、すっかり、宇宙艇の中に逃込んでしまいました。この上は、宇宙艇の中へ攻込んで、火星兵を残らずやっつけたいのですが、何かいい方法はありますまいか"
],
[
"え、一度引上げるのですか",
"うん、早くせい"
],
[
"隊長、ピストルがぐにゃぐにゃになってしまいました",
"わたしのもそうです。いやそればかりではない。腰についていた剣がどろどろにとけて、地面に落ちてしまいましたぞ",
"わたしのも、とけてしまった。これはどうも、へんなことになったものだ"
],
[
"うん、察するところ、火星兵団では、金属をとかす怪力線を使っているらしい。あのぴかぴか光るのがくせものだ。とにかく、ここにいては、きけんだから、ひき上げたがよい。おい、大江山隊長ざんねんだろうが、ここはひとまず、ひき上げたがいいぞ",
"そうですか。ひき上げなければなりませんか。ここまで攻めたてたのに、ざんねんだなあ"
],
[
"こいつはひどい",
"これでは、火星兵をなぐりつけることも出来ない"
],
[
"蟻田博士、火星兵団の怪力線をふせぐ方法はないものですかなあ",
"それは、わしも道々考えて来たことだが、大きな反射鏡をつくるか、それとも、電気か磁気をうまく使って、怪力線を途中でまげるかだな",
"それはいいですね。さっそく、つくっていただきたいものです",
"そう君の言うように、かんたんにつくれるものか。いくら早くつくっても、二週間や三週間はかかる。それでは、モロー彗星に衝突されたあとのことになるから、もう間にあわんよ",
"いけませんか。外に方法は……",
"博士、十号ガスを爆弾の中に入れ、飛行機を使って空中から火星兵団を爆撃してはどうでしょうか"
],
[
"だめだ、そんなことは。なぜって、飛行機がとんでいっても、火星兵団が怪力線を出せば、飛行機がとけてしまうではないか",
"ああ、なるほど。困りましたね",
"ただ一つ、わりあいに早くやれる方法がある。多分、うまくいくじゃろう"
],
[
"いないよ。全くいないよ",
"みんな、逃げてしまったらしいね。不意打に怪力線をひっかけてやったので、人間どもの持っていた金属製のものが、みんなぐにゃぐにゃになっちまって、きもをつぶしたのだろう。人間のくせに、我々高等生物をやっつけようなどとは、ふらちな奴どもじゃ"
],
[
"おい千二、ちょっと待て",
"はい、兵団長"
],
[
"はい。けさから頭が、われるように痛いので、こまっています",
"なに、頭がわれるように痛いか"
],
[
"兵団長、たいへんです。わが兵団は、ただ今大損害を受けつつあります。すぐお出でを願います",
"大損害とは、どうしたんだ。何事がはじまったのか",
"たいへんです。宇宙艇がぽかぽかこわれていくのです。どんどんかけて、煙のように消えていくのです",
"なんじゃ、宇宙艇が煙に……。そうか、それはたいへんだ。今、そっちへいくから、みんなに、しっかりしろと言え"
],
[
"うーん、こいつはよわった。敵のやつ、蒸発ガスを砲弾にこめて砲撃して来たんだな。こっちにゆだんがあった。おい、逃出すことよりは、敵の砲兵陣地を探しあてることだ。早くいって、この砲弾を撃出している陣地を探して来い",
"敵の砲兵陣地ですか。へーい"
],
[
"参謀、よくわかりません。山のかげになっていて、陣地など見えはしません",
"そうか、山のかげになっとるか。それは困ったなあ。なんとかして知る方法はないか",
"さあ、困りましたな"
],
[
"おい、兵団長が返事を待っておられるではないか。どうしたんだ。人間隊の砲兵陣地がある場所は?",
"おい、早くしろということだ。ぐずぐずしているから、また宇宙艇が三隻ばかり煙になってしまったぞ。これでは約束が違う。こっちの命があぶない"
],
[
"よし、仕方がない。この上は兵団長に言って、少しも早く宇宙艇を全部、空に舞上らせることだ。それしか助かる方法は考えられない",
"じゃ、早く兵団長にそう言って下さい"
],
[
"ああ、宇宙艇の一部が、逃出したのじゃないかな",
"おお、逃げていく。鬼のような火星兵団が、そろそろおじけづいたぞ"
],
[
"だまれ。こっちの偵察艇はゆだんをして低空におりたから、ガス弾のために、あんなむざんな最期をとげたのだ。うんと高空から、怪力線をおとせばいいのだ",
"しかし、万一のことがありましては、火星へもどりました時に、われわれは……",
"われわれはおもく罰せられると言うのだろう。いや、とめるな。ここで、わが火星兵団が人間隊に負けたとあっては、火星軍の恥である。どうせ地球人はもう永いことはないのだから、きっと、こっちが勝つにちがいない。全艇に出動命令を出せ"
],
[
"それに、困ったことが起ると思います",
"困ったこととは……",
"宇宙艇がとびあがると、中にはたたかうどころか、さっさと、また火星へにげてかえる艇が出るにちがいありません",
"そういう艇兵は、あとできびしく罰するから、ほうっておけ。とにかく高空へのぼり、全艇同時に敵の砲兵陣地へ向けて、怪力線を出せば、きっとこっちの勝だ。おい、早く命令しないか",
"はい"
],
[
"隊長、いよいよ全艇そろって、まい上りました。あとに、宇宙艇は、一つも、のこっていません",
"そうか。よろしい。どうも、蟻田博士の予言したことが、いちいちそのとおりになるねえ",
"はあ、そうですかねえ",
"いまに、全艇が、高空から、われわれめがけて、まい下りて来るだろう。これも博士の予言だ",
"ははあ、博士は、そんなことまで、見とおしていられるのですか"
],
[
"じゃあ、博士、どうかお願いします",
"よろしい。引きうけました"
],
[
"博士、ほんとうに、大丈夫ですか",
"うん、自信はあるのだ。まあ、見ているがいい",
"この部屋に、いつまでも、こうしているのですか",
"そうじゃ。じゃが、間もなく、この部屋もろとも、出発じゃ",
"え?"
],
[
"新田、この部屋が、かわった作りかたをしてあるのが、お前にはわからないか",
"えっ、かわった作りかたといいますと……",
"なぜ、こんなにせまいのだろうかと、考えなかったかね。また、なぜ、こんなにトンネルのように、奥行ばかりふかいのだろうかと、うたがわなかったかね"
],
[
"博士、わかりませんなあ",
"わからんか。よほど、お前は血のめぐりが悪い。じゃあ。これを見よ"
],
[
"まだ、わからんか。――新田、お前の坐っているところの正面に、やがて窓があくから、よく気をつけていろ",
"はあ、窓ですか"
],
[
"ほら、外を見ろ",
"えっ!"
],
[
"わからないかねえ。われわれは今、大空艇にのっているのだ",
"大空艇? 大空艇というと……",
"これは、わしが、かねてこしらえておいた新式の飛行艇だ。麻布の高台の下に、うずめておいたが、トンネルのような長い部屋と見せて、実は、魚雷を大きくしたような形の飛行艇なのだ",
"そんなりっぱなものが、地底にうずめてあったのですか",
"そうだ。しかしこの大空飛行艇は、飛行機ともちがうし、ロケットともちがう。わしが、苦心をして作った原子弾エンジンをつかっている世界無比――いや、ことによると、外の遊星にも、あまり類のない飛行艇じゃ。小型のくせに、今までのロケットなどの速度よりも、十倍でも二十倍でも早くなる。空気のないところへ出れば、もっと桁ちがいの快速度が出る",
"それが、どこから、とび出したのですか",
"研究所の横に、崖があったね。あの崖をつきぬけて、とびだしたのだ",
"じゃあ、今、窓の下にみえる市街は、東京市なのですか",
"そうじゃ。もう今は通りすぎて見えないが、あれは東京市じゃった。――そんなことは、おどろくに足りないが、この大空艇のすばらしい性能は、地球の引力圏外にとびだしてみれば、はっきりわかるのだ",
"え、引力圏外へ? すると、火星までも、とべるわけですか"
],
[
"どうしました、博士",
"どうも、変だ。せっかくの原子弾エンジンが、ちょっと工合が悪いのだ",
"そうですか。困りましたね。どこが悪いのでしょうか",
"おお、ここがいけないのじゃな。冷却用の水が、うまくまわらないのだ。冷却管のいい材料がなくて、仕方なしに、つなぎ目に、ゴム管を使ってある。そのゴム管が、どうかしたのじゃないかと思う。ゴム管というやつは、折れたり、または上から重いものがのると、平ったくなってしまって、穴がふさがってしまう",
"博士、私が見てきましょう",
"お前に、わかるかなあ。しかし、わしは、ここをちょっと離れられないから、とにかくお前にたのもう。となりの部屋に、あかりをつけて、見てくれないか。ここに図面がある。ここのところだ"
],
[
"はい、ただ今。――冷却管を今調べます",
"冷却管はもういいんだ。何を間がぬけたことを言っとる",
"はあ、冷却管は、もういいのですか",
"ちゃんと、なおったよ。お前が、なおしたから、なおったのじゃないか",
"ははあ、そうですか"
],
[
"先生、冷却管がどうかしたのですか",
"うむ、冷却管に、水が通らなくなって、さわいでいたのだ。そこに見える冷却管がねえ……"
],
[
"博士、冷却管の故障を見つけにいったところ、そこに、この少年がいたのです",
"なんじゃ、その少年がいたというのか。どこかで、見かけたような子供じゃが、だれだったかな",
"千二少年ですよ",
"千二少年? そうか、そうか。おもいだしたよ。天狗岩で、火星のボートを見つけたのは、この少年だったな",
"そうです",
"それから、火星人を見たのも、わしをのけると、この千二少年がはじめてじゃ。しかし、なぜ、となりにいたのかね"
],
[
"もういい、話はそのくらいにしておけ。火星兵団の宇宙艇が、向こうに見えて来たわ",
"えっ、見えましたか",
"いるわ、いるわ。わが突撃隊のいる森の上に群れている。まるで鳶が喧嘩しているように見える。おお、森をめがけて、なにか怪しい光線をかけている。あれは、鉄がとける怪力線にちがいない。お前たちも、そこにある望遠鏡をのぞいて見なさい"
],
[
"はて、あの中で、どれが丸木ののっている宇宙艇かしらん",
"丸木の乗っている宇宙艇ですか。それなら、ぼくがよく知っていますよ"
],
[
"知っているか。知っているなら、おしえてくれ",
"望遠鏡でよく見ると、わかるんです。丸木の宇宙艇には、背中のところに、赤い三角の旗が立っていますよ。それが司令艇です",
"ほう、赤い三角の旗が立っているか。うむ見えた。あれじゃな。わかった、わかった",
"丸木の宇宙艇を、まっ先にやっつけるのですか"
],
[
"博士。丸木は悪いやつかもしれませんが、ぼくは、丸木に情心をおこすことをおしえたので、ぼくは、言わば、丸木の先生です。そうなりますねえ",
"それはそうだ",
"ぼくは、丸木を、いい火星人になおしてやりたいのです",
"だめだよ。火星の生物は、植物の進化したやつなんだから、生まれつき、ざんこくだ。どんな、むごたらしいことでもやってのける。少しくらい、情の心をおしえても、たぶん、それはだめだよ",
"でも、ぼくは、きっと、それが出来るとおもうのです。しかし、丸木はあばれん坊です。ですから博士、丸木をうまく捕虜にすることは出来ませんか。そうしたら、ぼくが……"
],
[
"博士、大丈夫です。用意は出来ました",
"そうか。まっ先にとんでくるやつから、うちおとそう"
],
[
"博士、今、前からこっちへむかってくる艇の中には、丸木ののっている宇宙艇はまじっていないですよ",
"そうかね。お前は、そこで、そうして、丸木ののっている艇をみつけてくれ。わかったら、すぐ知らせるのだよ",
"博士、さっき、ぼくがおねがいしたことは、どうなるのですか",
"ああ、丸木を捕虜にすることか。まあ、考えておく。――そら、来たぞ",
"博士、敵は、なんだか、あやしい光線を出しました。あれは、怪力線じゃないのですか"
],
[
"そうだ、あれは怪力線だ",
"では、わたしたちが今のっている大空艇は、やっつけられるのではありませんか。つまり、鉄のかべが、怪力線のため、どろどろととけてしまって、墜落するのではありませんか",
"なあに、大丈夫じゃ。わしは、そんなことは、ちゃんと、かんがえてあるのじゃ"
],
[
"ほんとうに、大丈夫ですか",
"まあ、見ておれ"
],
[
"うしろは、ほうっておけ。うしろから来てもかまわん",
"大丈夫ですか、博士",
"大丈夫だ"
],
[
"博士、あの音は……",
"あの音か。あれは、うしろから来た火星の宇宙艇が、怪力線を、わが大空艇に、あびせかけたのだ",
"えっ、この艇に、怪力線が命中したのですか。そいつは、たいへんだ。艇はこわれてしまうのではありませんか",
"大丈夫だと、いくども言っているではないか",
"しかし博士、怪力線という奴は……",
"心配するな。そんなこともあろうかと、わしは、わが大空艇の外に、怪力線よけの遮蔽網をはっておいた。あの音は、その遮蔽網が怪力線を吸いとる時に出る音だ",
"ああ、そうですか。それは、よかった",
"おい、撃て、新田。あと三台の敵艇を、はやいところ、片づけろ"
],
[
"博士、うまくいきましたね。ばんざいです",
"すごいなあ、この大空艇は"
],
[
"あっ、きました、きました。新手の宇宙艇が、こっちへとんできます",
"うむ。森の中の大江山隊を攻めていた火星兵団が、われわれに気がついたのじゃ。そうじゃろう、宇宙艇が五台ともやっつけられたので、これはたいへんというわけじゃろう",
"こっちへきます。みんなきます",
"千二、丸木ののっている宇宙艇は、まだみつからないか",
"ああ、博士、いました!",
"え、いたか。どこに",
"先頭から三番目の宇宙艇です。左からかぞえて、三番目になります",
"うむ、あれか。なるほど、赤い三角旗のようなものが見える。――おい、新田、ガス砲の用意を! こんどは、なかなか骨が折れるから、そのつもりで……",
"はい、しっかりやります",
"千二も、しっかり見張をしているんじゃぞ",
"博士、ぼくのことなら、心配いりませんよ",
"よろしい。みんな、それでよろしい。今ここで、火星兵団を叩きつぶさないと、地球人類は、かれらの奴隷とならなければならんのじゃ。しっかりいこう"
],
[
"いました、博士。丸木艇が、ちょうど正面にいます",
"なに、正面に……。ああ、あれか。わしにも見えたぞ",
"丸木艇は、うろうろしていますねえ",
"うん、そのとおりだ。よろしい、これから丸木艇と一騎打をやるぞ。新田も千二も、この際がんばってくれ",
"わかりました",
"やります",
"では、突進するぞ"
],
[
"うむ、とうとう決戦をするかくごだな。新田、ガス砲をしっかりたのむぞ",
"大丈夫です、博士"
],
[
"あたらぬとはおかしい。おちついて、一発必中と、よくねらえ",
"はい"
],
[
"おい、丸木。われわれ地球人類が、いかにつよいかということを、もう十分、さとったであろう。このへんで降参したがいい",
"なにを、蟻田め、それは、こっちで言うことだ。モロー彗星に衝突されれば、地球人類は、みな死んでしまうのだぞ。それを助けてやろうとしているのに、恩を仇でかえすなんてことがあるか。この上は、ゆるせない。その血祭に、まず、貴様ののっているそのロケットを、うちおとして、息の根をとめてやるぞ",
"丸木。こっちは、平気じゃよ。それに反して、わがガス弾が、一発『ドーン』と、お前ののりものにあたれば、たちまち煙となって、おしまいになるぞ。つまり、空中葬になってしまうのだ。このへんで、降参したがいい",
"ばかを言え。おれは、もう、貴様のような人間は、相手にしないことにする"
],
[
"うむ、たしかに、にげるつもりだ。――おい、新田、撃方やめ。今よりわが大空艇は、丸木艇を追いかける。速度をあげるから、すこし気もちがわるくなるかもしれん。みな、しんぼうするのだぜ",
"はい。しんぼうします"
],
[
"さあ。もうすこし、丸木艇の行方を見ていなければ、たしかなことは言えないが……",
"博士、さっき丸木艇が、だいぶん大きく見えだしましたが、今また、ずんずん小さくなって行きますよ"
],
[
"ふん、おかしいね。日が暮れたのにしては、おかしい。下を見ると、あのとおり、地球は、まぶしく太陽の下に光っている。なにしろ太陽も、ちゃんと、ああして空に輝いているのだからねえ",
"先生、どうしたのでしょうか、これは……",
"さあ、おかしいねえ。ここは太陽の下にいながら日が暮れ、地球の上は、ぎらぎら光って、真昼なんだ"
],
[
"お前たちは、なにを、ばかなことを言っているのか",
"は、あまり、ふしぎですから……。まさか、まだ成層圏へ来たわけでもないでしょうと思いますから……",
"なにを言っとるか。もう、われわれは成層圏の中にいるのだ。成層圏にはいったればこそ、夕暮みたいな景色になったのだ",
"えっ、もう成層圏へ来ていたのですか。たいへん早いですなあ"
],
[
"成層圏というのはね、千二君、地上からはかって、大体二十キロぐらいから上の空のことだ。そのあたりには、空気が非常にうすくなるから、太陽の光が、ちらばらない。だから、空は暗く見えるのだ",
"太陽の光が、散らばらないとは、なんのことですか",
"つまりたくさんのガラス玉をとおして、光を見ると、どこから見てもぎらぎら光って見えるだろう。空気はガラス玉と同じはたらきをするのだ。太陽の光を、空気の粒がちらばらせるので、空気のある空は、明かるいのだ。空気のないところでは、太陽の光がちらばらないから、空は暗く見えるのだ"
],
[
"丸木艇は、さかんに逃げていくわい",
"逃げていきますか。どこへいくのでしょうか",
"さあ、今のところでは、なんともわからないが、多分、火星へ戻るかもしれないよ。君は無電を注意していてくれ",
"はい。どこの無電を……",
"丸木艇が、やがて、火星と通信するかもしれない。それを、こっちでも、ききとってくれ。何か、参考になることがあろうからなあ",
"はい、わかりました"
],
[
"千二。お前、髪床やさんになってくれぬか",
"えっ、髪床やさん",
"そうじゃ。丸木艇においつくまでには、まだちょっと時間があるから、お前、わしの後へ廻って、髪をつんでくれ"
],
[
"博士、おしゃれをするのですか。ぼくには、髪床やさんは、できません",
"なあに、わけなしじゃ。ここに便利な電気鋏があるから、これでぐるぐるとやってくれればいい"
],
[
"待て待て。とこやさんがやるように、肩のところへ、白い布をかけてくれ",
"博士。ぜいたくを言っては困りますよ。ここは、成層圏ですからね",
"成層圏はわかっているが、とこやさんを、やってもらうには、やっぱり、白い布をかけた方がいいよ。そこにある機械おおいを取って、肩にかけてくれ",
"へい。これですか、機械おおいは……"
],
[
"博士、どうなさいます",
"どうするとは?",
"丸木艇に、おいつけますか。おいつけないときは、地球へ戻るのですか、それとも、あくまでも、丸木艇をおいかけていくのですか",
"どこまでも、追いかけていくのだ"
],
[
"え、すると、火星までいくのですか",
"そういうことになるかもしれない、もしこっちが、追いつけなければ……",
"はあ"
],
[
"大丈夫かどうか、わからない。しかし、今となっては、火星であろうが、どこであろうが、丸木艇を追いかけていくしか、方法がないのだ",
"そうでしょうか",
"丸木は、地球に対して、はじめて戦いをいどんだ敵だ。この宇宙の侵入者を、ここで撃ちおとしておかなければ、地球人類の大恥である。わしは、あくまで、丸木艇を撃墜し、丸木を、やっつけてしまうのだ"
],
[
"もちろんですとも。どこへでも、いきますよ。われわれは、大宇宙にある第一線部隊ですね",
"うむ、そうだ。だから、どんなことがあっても、負けられんのじゃ"
],
[
"じゃ、いくら追いかけても、だめでしょうか",
"いや、そうともかぎらない。丸木艇が、もし故障でもおこしてくれれば、しめたものだが……",
"なるほど、そうですか。しかし、丸木艇も、なかなか調子よく、にげていくじゃありませんか",
"うむ、敵ながら、感心していたところだ。もうあと百キロばかり間をつめることができれば、ガス弾がとどくんだがなあ",
"ほう、あと百キロですか"
],
[
"ええ、丸木艇は、百三十キロのところをとんでいますよ",
"ふふん、そうか。あと百キロぐらい、宇宙の大きさにくらべると、何でもないがなあ"
],
[
"博士、どこへいかれます",
"おお、わしは、ちょっとここを留守にするよ。新田、お前、しばらくここをあずかっていてくれ。すぐに戻ってくるから",
"承知しました。しかし博士は、どちらへ……",
"ちょっとした用事じゃ。すぐ戻る"
],
[
"先生、博士は、どこへいかれたんですか",
"さあ、どこだかなあ。博士は、ことさら返答をさけたようだ",
"髪をつんだり、座席を立ってどこかへいったり、なんだか博士の様子が、へんですねえ",
"そうだね。へんだと言えば、へんだが、まさか、まちがいはあるまいと思うが……"
],
[
"ねえ、先生",
"なんだ、千二君",
"博士は、はじめから火星へいくつもりでは、なかったのでしょうか",
"はじめから、火星へいくつもり? どうしてだい",
"つまりですね、地球は、あと二、三日したら、モロー彗星に衝突されて、こわれてしまうでしょう。だから、博士は、粉々になる地球の上にいて死んでしまうのはいやだから、その前にこの大空艇にのって地球をはなれ、火星へいくつもりじゃなかったのでしょうか",
"なるほどねえ、それは、ちょっと理窟になっているねえ。ははあ、博士は、そういうつもりで、地球をはなれたのかしらん"
],
[
"先生は、火星へいったことがありますか",
"いや、いったことなんかないよ。第一、人間が火星へいけるなんて、よっぽど先のことだと思っていた。そうして、たとえ人間が火星へついたにしろ、大空艇から出て、火星の表面をあるくのは、なかなかむずかしいことじゃないかねえ",
"そうですか。火星と地球とは、気候やなんかが、ちがうのですね",
"ああ、たいへんちがうのだ。空気はあるけれど、非常にうすい。一日のうちに、たいへん寒くなったり暑くなったりするのだ",
"それじゃ万一火星へついても、だめですね。ぼくたち人間は、火星におりても、いきがくるしくて、死んじまいますね"
],
[
"そういうわけだね。丸木など火星人たちは、地球へくるについて、たいへん用意して来た。ドラム缶のような固いいれもののなかにはいり、地球のつよい大気の圧力が、自分たちのからだに、じかにあたらないようにしているのだ。それほどの用心をしてこそ、あのように、地球の上を、らくに歩いたり、平気でくらしていたのだ。だから、逆に、われわれが、火星の上におりて、安全に生きているためには、やはり用意がいるわけだね",
"用意というと、やはり何か着るのですか",
"もちろん、着る必要もあろうし、第一、空気がうすいのだから、酸素のはいったタンクのようなものを、持っていく必要があるとおもうね",
"先生、ぼくは、そんなものを持っていませんが、じゃあ、火星へおりられませんね",
"持っていないのは、千二君だけじゃないよ。先生だって、持っていない",
"じゃあ、博士は持っているでしょうか",
"ああ、博士かね。そうだなあ、博士は、火星にいたことがあるというから、きっと持っているとおもうが、はっきりしたことはしらない",
"先生、こんなことは、ないでしょうか。火星へついて、博士だけが下へおりて、いってしまう。あとに、先生とぼくとは、いきがくるしくなって、死んでしまう……",
"そんなことがあっては、たまらないね"
],
[
"あ、そうだ。わたしたちの前にもう一人、火星へいっている男がいるのだよ。あの男はどうしたかしらん",
"へえ、ぼくたちの前に、火星へいっている人があるのですか。だれです、その人は……"
],
[
"ああ、あの人ですか。山梨県の山中で、火星の宇宙艇をうばって、逃げた人でしょう",
"そうだ、あの人だ。一時は、佐々刑事の無電がはいったものだが、このごろしばらく佐々刑事から、たよりをきかない。今どうしているのだろうか。おお、そうだ。この受信機で、佐々刑事の電波をさがしてみよう",
"それがいいですね"
],
[
"どうですか。はいりますか",
"いや、きこえないね。このへんで、たしかにきこえたはずだが、今日は、ぴいっという、うなりの音も出ない"
],
[
"いいか、千二君。おどろいてはいけない。この大空艇には、いつの間にか火星兵団のやつが、しのびこんでいたのだ。しかも、二人だ",
"えっ。火星兵団のやつばらが、ここにいるのですか",
"そうだ。しかも、その二人は、博士を両方からかこんでいる。博士は、なれなれしく、二人と話をしている。何を言っているのか、話はあついガラスにへだてられて、わからないがね。とにかく、博士は、火星兵団のやつと、一しょに組んでいるらしい。いや、それにちがいない",
"そうですか。博士は、また、気がかわったのかしら",
"われわれを、控室へひきとらせたのも、われわれが、操縦室にいては、都合がわるいからだ。もう、こうなれば、かくごをきめて、たたかうだけたたかって、たおれるばかりだ",
"そうかなあ。博士は、なぜそんなに、急に気がかわったんだろうなあ"
],
[
"千二君。君は博士の変心が、信じられないらしいね。では、あそこまで来て、あの部屋をのぞいてごらん。すると、それがわかるから……",
"じゃあ、火星兵と博士が話をしているのが見えるところまで、つれていってください"
],
[
"ほんとですね。あれは、たしかに、火星兵です",
"君にも、そう見えるだろう。さあ、これから、われわれは、どうしてあの火星兵をやっつけるかという問題だが……",
"先生、ガス砲弾を、あの火星兵に、ぶっつけてやればいいではありませんか。手榴弾をなげつけるような工合にねえ",
"さあ、そいつは、どうかな。手榴弾をなげつけるようにはいくまい。なにしろ、ガス砲というやつは、外を飛んでいるやつをうつには都合がいいが、こうして、敵が艇内にいるのでは、ガス砲の向けようがない。どうも工合がわるいね"
],
[
"いま、こちらが心配して、わしにあいさつがあった。『この二人の人間は、何かおこっているようだが、どうしたのですか』と、言われるのだ。わしは、『どうぞ、ご心配のないように。この二人は、わしの子供と孫みたいなものですから、べつに、けんかをしているのでも、なんでもないのです』と、言ったのだ",
"なに者ですか。博士が、そんな、ていねいなことばをつかう火星兵は……"
],
[
"火星兵ではないよ、火星人ではあるけれども……",
"では、なに者……",
"ロロ公爵とルル公爵だ。火星から、地球へ亡命して来ておられる方だ",
"ああ、ロロとルル……"
],
[
"先生、どうしたのですか。なにが、安心なんですか",
"ああ千二君。ロロさんとルルさんなら、こういうわけだ"
],
[
"そうですか。博士はこの前、火星へいったとき、この二人の遺児をたすけて、地球へつれてきたのですか。すると、博士は、この二人の火星人には、大恩人なんですね",
"そうだ。だから、火星兵とは、ちがうのだ。安心していいよ",
"でも、このロロさんとルルさんは、火星兵と同じすがたを、しているではありませんか。なぜでしょう",
"なるほど、これはどういうわけかな。ひとつ、博士にうかがってみよう"
],
[
"では、これから始めます。今日は、とくべつに、とっておきのいいお料理を出して、ロロ公爵とルル公爵の御健康を祝すことにいたします",
"どうもありがとう"
],
[
"千二。それほど、驚くことはないよ。ほら、テーブルの真中を見ているがいい。ごちそうの鉢が、どんなふうに出てくるか、よくわかるじゃろう",
"え、テーブルの真中ですか"
],
[
"なあに、鉢が走るのじゃない。テーブルのうえに張ってある耐水セロファンの帯が、鉢をのせたまま、うごくのじゃ。つまり、工場でつかっているベルトコンベヤーみたいな仕掛じゃ",
"ベルトコンベヤーって、なんですか",
"それを知らんかね。工場へいけば、どこでも使っているよ。たくさんの職工さんが並んでいる仕事机のよこを、はばのひろい帯が、たえずうごいているのじゃ。一人の職工さんが、自分の加工した製品を、このベルトの上にのせると、ベルトは、たえずうごいているから、その製品をのせて先の方へはこんでいく。ベルトの端には別の職工さんがまっていて、ベルトではこばれた製品をおろすといったわけじゃ",
"ああ、名は知らなかったけれど、その仕掛なら、知っていますよ"
],
[
"博士、やっと、わかりました。そういう仕掛のあることを知らないと、まるで魔術をみているようですね",
"そうだ。科学知識のない人や、勉強の足りない人は、なんでも魔術だと思うのだよ。百年も前に死んだ人を、今の世の中に、もう一度息をふきかえさせてみると、この大空艇などはもちろんのこと、ロケットでも飛行機でもテレビジョンでも、みんな魔術としか、見えないだろう"
],
[
"さあ、始めましょう。ではロロ公爵とルル公爵の御健康を祝して、乾杯します。おめでとう",
"おめでとう",
"おめでとうございます",
"ありがとうございます"
],
[
"そういうわけで、火星と地球とは隣組同志であります。もし宇宙に隣組とか隣保班とかをつくるのだったら、わが火星と地球とは、同じ組にはいるべきはずです。助けられたり助けたりの、そういうお隣同志でありながら、両方がけんかをしているのは、よくないことです",
"なるほど"
],
[
"先生、丸木艇は、あいかわらず、全速力で飛んで行くようですね",
"そうだねえ。だいぶん小さくなったような気がする。丸木艇は、なかなかスピードが出るなあ",
"先生、佐々刑事はどうしたのでしょうか"
],
[
"さあ、そのことだよ。火星は、空気がうすいから、そのままでは外に出られないわけだ。成層圏をとぶ時のように、酸素吸入器をつけて、下におりるより、仕方がないだろうね。そのままでは、酸素が足りなくなって、たおれてしまうだろう",
"そうなると、佐々刑事は、いよいよ気の毒ですね。きっと困っているのでしょうね"
],
[
"先生、地球はどうなったでしょうね。それから、大江山隊は、どうしたでしょうね",
"おお、そのことだよ。火星へいくことばかりに気をとられていて、地球のことは、わすれていた。大江山隊は、どうしたろうなあ"
],
[
"なにを話しているのか",
"大江山隊のことを思い出して、心配していたところです",
"ああ、大江山突撃隊のことか。あれなら心配なしだ",
"はあ、心配なしですか。どうなったのか、博士は、ご存じですか",
"大江山隊は、とうとうがんばって、火星の宇宙艇群を撃退したよ。わしはちゃんと、それを見て知っている",
"博士はいつ、それをごらんになったのですか"
],
[
"えっ、あと、二十四時間後ですか。もうそんなに、さしせまりましたか。もっとも我々は、丸木艇とたたかうことに夢中になっていて、時間のたつのを、すっかり忘れていました",
"多分、それにまちがいがない。なお、くわしいことは計算表を見てもいいし、望遠鏡で測って見てもいい"
],
[
"さあ、それは、だいたい、同じ時刻になろう。いや、火星につく時刻の方が、すこし、早いかもしれない",
"ここから、地球へ引きかえすと、モロー彗星の衝突する前に、地球にもどれますか"
],
[
"あ、もう、間に合わないのですか",
"そうじゃ。もうおそい。地球のことは、あきらめなければならない",
"えっ。もう、どうしても、地球の上にすんでいる人たちは、すくえないのですか",
"どうも、しかたがない。残念だけれど",
"ぼくだけが、大空艇に乗るんじゃなかったなあ"
],
[
"はーあっ、そうですか",
"ふうん"
],
[
"ねえ、先生。地球のことは、もう、僕たちの力でどうにもならないんですから、あきらめましょうよ。先生のお父さんやお母さんや、それから、しんるいの方もお友だちも、たくさんいらっしゃるのでしょうが、もう、こうなっては、しかたがないではありませんか",
"うむ。――千二君に慰めてもらおうとは、思っていなかったよ"
],
[
"なあんだ、お前たちのその顔は……",
"博士、あなたは、地球に家族もなければ、なんの心のこりもないのでしょう。だから、地球の最期が来ても、涙一滴出さずにいられるのです。私や千二君などは……",
"おい新田、待て。そういうとわしは、なんだか鬼みたいな人間に聞えるではないか。わしにも家族はある",
"え、博士に家族がおありですか。それは失礼ですが、ほんとうですか",
"全く失礼なことをいう奴じゃ。家族のない人間は、未完成というか、感心出来ないよ。わしには家族があって、ちゃんと地球の上に住んでいる",
"そうでしたか。しかし博士は、その家族の方のために、一滴の涙もこぼされないのは、どういうわけですか"
],
[
"ここで、いくらたくさんの涙をこぼしてみても、どうにもならないではないか。ええ、そうだろう",
"しかし……",
"まあ、お聞き。わしに言わせれば、人間が悲しんだり、それからまた体を楽にしたりすることは、死んでからあとのことにすればいいのだ",
"えっ、なんでしょう、今おっしゃったことは?……",
"これが通じないかなあ。つまり、人間は死んでしまえば、そのあとにはもう用事もなくなるし、たずねてくる者もない。そこで、死んでからゆっくり悲しめばいいし、また休んだり楽をしたりすればいい。生きている間に、悲しんだり楽をしようとしたりするのは、大まちがいというものだ。生きている間は、そんなことは後まわしにして、どんどん働くのだ。生きているうちにやる仕事は、たくさん残っている"
],
[
"これを頭にかぶるのじゃ。いや、まだ今からかぶらなくてもいいが、大空艇が火星に着陸し、いよいよ火星の地面の上を歩く時には、これをかぶるのじゃ。そうしないと、われわれ地球の人間は息が苦しくなる。火星の表面では、空気が少いのだからなあ",
"ああ、すると、これは酸素を出すマスクですね",
"そうだ。このかぶとの横に、耳のような筒が左右にぶらさがっているが、この中には固形酸素がはいっているのだ。その上にある弁を動かせば、かぶとの中に出てくる酸素の量がかわるから、好きなようにやってみるがいい"
],
[
"どうだ、わかったか",
"ええ、わかりました。しかし、この重いかぶとをかぶると、僕は歩けないなあ。子供用のかぶとはないのですか。これは大人用でしょう"
],
[
"それはね、火星の外側は、塵のようなものが、たいへんたくさん集っていると、ある学者が発表したことがある。だから、その火星塵の、あつい層を下へつきぬけなければ、火星の表面は、はっきり見えないわけだ",
"火星塵の、あつい層ですか。地球にはないものが火星にはあるのですね",
"そうだ。地球と火星とは、形こそ似ているが、違うことはいろいろたくさんあるよ。ほら、あそこをごらん。火星のお月さまが見える",
"えっ、どこですか",
"あそこだ"
],
[
"ああ、あれも、火星の月だ。小さい方の月だ",
"えっ、小さい方の月? すると、火星には、大きい方の月もあるのですか"
],
[
"そうなんだ、千二君。君は、火星に二つの月が、ついてまわっていることを、知らなかったのかねえ",
"二つの月ですって。お月さまは、一つだけのものだと思っていました。火星には、月が二つもあるのですか",
"そうだよ。小さい月がデイモス、大きい方の月がホボス、そういう名なんだ",
"へんな名前ですね。一度じゃあ、おぼえられないや"
],
[
"デイモスにホボスだよ",
"あっ、先生、こっちの大きいお月さまは早いですね。もう、あんなに動きましたよ",
"そうだ。ホボスの方は、たいへん早くまわるのだ。一日のうちに、火星のまわりを三回ぐらいまわるのだ。デイモスの方は、一日では火星のまわりを、まわりきらないのだ。三十時間しないと、一回分まわらないのだよ",
"火星って、実に不思議な国ですね。お月さまが二つあったり、それがたがいに反対にまわったり、それから一方のがのろのろしていて、他方のがかけ足で三回もまわったり、ああ、ぼくらの地球とは、まるで違うのですねえ"
],
[
"そうです。カリン下の洞窟のことですね。あそこは、かくれるのに持って来いのところです",
"洞窟と岬との間には、抜道のようなものがありましたね",
"ああ、ありますとも。五つの扉をあけないと通れませんが、階段がついていますよ",
"その扉は、どうすればあくのでしたかねえ",
"呪文を唱えればいいのです",
"その呪文は",
"ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレと言えばいいのです",
"むずかしい呪文ですなあ。ロラロラロラ、リリリルロ、ロルロルレか"
],
[
"そこでロロ公爵、あなたは、火星へ帰られると、すぐ旗あげをせられますか",
"ええ、やりますとも。ルルが、ぜひともやると言って、意気ごんでいるのです"
],
[
"本城は、クイクイ運河地帯を目の前に見渡すペペ山におくつもりです",
"なるほど、ペペ山ですか。ペペ山なら、なかなかいいところです。あの切りたったような断崖は、まことにりっぱですね。わしもこの前火星へいったときには、ペペ山へは時々いってみましたよ",
"ペペ山は、私たちの祖先たちが、かならず大事にしていたところです。祖先のたましいが、あの山いっぱいに、こもっているのです。そうして何か大変な時には不思議なことがあって、私たちをまもってくれる霊山です。この前は、あの山を敵のため、すぐ奪われたので、いけなかったのです"
],
[
"先生、ぼくは、なんだか夢を見ているような気がします。いま、ぼくは、ほんとに火星のそばまで来たのでしょうか",
"そう思うのは、もっともだ。わたしも、火星へ来たのは、はじめてだ。やっぱり夢を見ているような気がするよ"
],
[
"千二君。窓ガラスをよく見たまえ",
"え、窓ガラスですか",
"ガラスの上に、何か見えないかね",
"さあ。――"
],
[
"ああ、この黒い粉みたいなものは、何でしょう",
"わかったかね。それは火星塵だ。つまり、火星のまわりを、こまかい塵の層がつつんでいるのだ。それを火星塵の層といっているが、いまわれわれは、その塵の層のまん中に、はいったのだよ。だから、まっ暗なんだ",
"ああ、そうですか"
],
[
"それはね、土けむりの中に、はいっていると向こうが見えないが、土けむりの外からだと、土けむりをとおして、向こうが見えるのと同じだよ",
"へえ、そうですか",
"だから、いまに火星塵を通りぬけると明かるくなる。火星の表面がはっきり見えるようになる",
"そうですかね"
],
[
"さあさあ、もうすぐ火星につくぞ。お前たちも、このとおりのかっこうをしなければならないのじゃ。服やなにかも、むこうに出しておいた。酸素かぶとは先に教えたとおり、かぶり方がむずかしいから、気をつけてやれよ。服やズボンや靴は、あたりまえにつければよろしい。さあ、いそいで、やりなさい",
"はいはい"
],
[
"それは、わかっているじゃないか。先にズボンをはき、それから服を着、そのうえから、酸素かぶとをかぶるのじゃ",
"靴は、いつはくのですか",
"わかっているじゃないか。靴は、ズボンをはいてから、はけばよいのじゃ。酸素かぶとをかぶってからでもよいぞ。なかなかせわのやける奴じゃ"
],
[
"それは、軽いのがあたりまえだ",
"へえ、なぜかしら",
"それは、つまり、重力というものが、火星の上では減るからじゃ。地球の重力よりも、火星の重力の方が軽いのじゃ。だから、火星の上では、ものが軽くなったような気がするのじゃ",
"はあ、そうですか"
],
[
"やれやれ、やがてこれをぬいで、はだかになれると思うと、ありがたいなあ",
"僕はからだが弱いから、よけいに、そうなる日が待ちどおしい"
],
[
"さあ、丸木先生、これから何と言って火星王に報告することじゃろうか。さだめて、大きなほらを吹くことじゃろう",
"火星には、火星王というのが、いるのですか。丸木が、火星で一番いばっているのでは、ないのですか"
],
[
"いや、別に火星王というのがいるのじゃ。その火星王は、たいへん悪い奴で、ロロ公爵とルル公爵の母にあたる前火星女王をほろぼし、位を奪ったのじゃ。丸木は、その軍部大臣の役をしているのじゃ",
"では、これからロロ公爵とルル公爵は火星へ帰ると、火星王のために捕えられはしませんか",
"もちろん、両公爵が帰って来たことを知ったら、捕えに来るのであろうなあ。だが、ロロ公爵もルル公爵も、今は、りっぱな大人になった。そうして、わしのところでいろいろと勉強もした。だから、火星王が攻めて来ても、そうかんたんに、やっつけられないよ。わしも今度は出来るだけのお力になり、ロロ公爵やルル公爵が、ふたたび火星をおさめるようにしてあげたいと思っているのじゃ",
"それはいいことですね。僕もそうなる日を祈っています"
],
[
"それはそうだ。明かるいところを下りていくと、丸木たちがうるさいからね",
"では、火星の夜のところへ大空艇を着けるのですね",
"そうだ、カリン岬に着けるよ",
"博士、丸木は、僕たちが後を追いかけて来たことを、知っているでしょうね",
"もちろん、知っているよ。だから、火星へ上陸しても、なかなかゆだんはならないよ",
"そうですね。僕たちも、丸木と戦わなくてはならないのですね",
"それくらいの覚悟はしている必要があるね。もっとも、ロロ公爵の旗の下へ集って来る兵も少くないであろうが、とにかく、はじめのうちは、あぶないぞ",
"博士、火星兵と戦うには、何をつかうのですか。もう、ガス弾などは役にたたないのでしょうねえ",
"ああ、ガス弾か。ガス弾をつかえば、火星兵はやっぱり死んでしまうよ。しかし、味方の兵まで殺してしまっては、なんにもならないから、今度は、また別の兵器をつかうのだ",
"別の兵器? それは、どんなものですか",
"火星の上で使う新兵器は、ここにあるこれだよ"
],
[
"これは何ですか。中に穴が通っていて、こっちの太い端には、ゴムの口あてのようなものがついていますね",
"わからないかね。君たちの得意なものだろうと思うが……",
"僕たちの得意なものですって。ははあ、そういえば、思い出した。これ、ふき矢をいれる管みたいですね",
"そうだ。あたったよ。そのとおりだ",
"博士、ふき矢をいれる管を、どうするのですか",
"やっぱり、ふき矢をいれて、ふくのだよ。火星人にあてるためだ"
],
[
"千二君は、大事なことを忘れているよ。火星の上でふき矢をふくと、ずいぶん遠くまでいくのだ。地球の上で機関銃を撃った時よりも、もっと遠くまでいくのだ",
"そんなことはないでしょう。人間のいきは、そんなに強くありませんからね",
"わからん子供じゃなあ。千二、火星の上では重力が小さいのじゃ。ぷっと上にふけば、かなり長らく落ちてこないのだ。だから、ふき矢だとて、ばかにならない。遠くへ飛ぶのだ"
],
[
"ああ、そのことかね。それは、しんぱいなしさ。かぶったままでも、らくにふけるのだよ。かぶとの中に、口のあたるところがある。そこへ口をつけるのさ。それから、ふき矢の口は、かぶとの外に穴がある。ほら、ここのところだ。口よりすこし下のところに、へそみたいなものがあるだろう。この穴にあてればいい。そうして、口で、ぷうとふけば、ふき矢は、ちゃんとあたりまえに、とんでいくのだ。わけなしのことだよ",
"ああ、そうですか。なるほど、この穴ですね"
],
[
"しかし、博士。こんなところに、穴があいていると、かぶとの中の酸素が、みんな外にもれてしまいませんか。また、外から、火星の空気がはいって来ませんか",
"それは大丈夫だ。人間の心臓に、べんというものがついている。そのべんは、一方からは通るけれども、その反対の方向からは、通らないのだ。これをべんといって、心臓だけではなく、世の中にある機械にも、べんのはたらきをするものが、よくつかわれている。このかぶとの中につけてあるのは、つよい特殊ゴムでできたべんである。だから、お前のいうしんぱいはないよ"
],
[
"もう見えますか。おい、新田、操縦室へ来い",
"はい"
],
[
"そこにあるハンドルを、しっかりにぎっておれ",
"はい、これですね",
"そうだ。わしが命令したら、その盤の上にかいてある数字を見ながら、左へまわしてくれ",
"はい、わかりました。このハンドルをうごかすと、どうなります",
"それは、いよいよ火星へ上陸した時、この大空艇の扉をあけるためだ。扉をうまくあけないと、大空艇の内部と外部との空気の圧力がちがうから、大事な機械がこわれるおそれがあるからだ。だから、わしの言うとおり、うまくハンドルをうごかしてくれ",
"はい、わかりました。どうぞ……"
],
[
"おい新田、はじめるぞ。用意はいいか",
"はい、大丈夫です"
],
[
"おい、新田、ハンドルを二十一へ!",
"はい、二十一"
],
[
"ハンドルを十九へ",
"はい、十九!"
],
[
"ハンドルを十七へ!",
"はい十七"
],
[
"ハンドルを十三へ",
"はい十三",
"ハンドルを、あとしずかに零までまわせ",
"はい、しずかにまわします"
],
[
"いや、わからなかったのは、むりはありませんよ。火星へ着いたというので、あなたがたは防寒服を着たり、酸素かぶとをつけたりしました。ところが、それと反対に、われわれは今まで着ていたきゅうくつな耐圧缶をぬいで、もとの、はだかになりました。たいへんらくになったので、よろこんでいますよ",
"なるほど、なるほど。あなた方と僕たちは、ちょうど、あべこべですね"
],
[
"蟻田博士、いろいろおせわになりましたが、それでは、これから出かけます",
"おお、いよいよお出かけかな。では、どうぞ、おげんきにな。大勝利を、いのっていますぞ"
],
[
"じゃあ、新田先生も千二君も、さようなら",
"どうぞ、しっかりやって下さい",
"ロロ公爵、ルル公爵、ばんざあい",
"ありがとう、ありがとう"
],
[
"じゃあ、いって来ます",
"いってらっしゃい、お元気で……"
],
[
"いよいよ旗あげをするのだ。二人はペペ山へ、いったはずじゃが、そこには二人のために、火星国を元にもどそうと考えている三角軍という、ひみつの兵がいるそうじゃ。二人の公爵がペペ山へもどったことがわかると、同志の者も、おいおい集って来ることじゃろう",
"博士、ぼくたちは、これからどうするのですか。このふき矢をもって、すぐ火星兵団の方へ、せめていくのですか"
],
[
"いや、火星兵団をせめると言っても、たったわれわれ三人では、どうにもならない。結局、ロロ公爵とルル公爵の成功をまって、火星兵団へ、はなしをつけるほかない",
"おやおや、戦争をするのじゃなかったのですか。このふき矢をつかって、火星兵団をやっつけるのだと思っていましたが……"
],
[
"いや、それはちがう。ふき矢は万一のときに、われわれが身をふせぐ道具なのじゃ",
"じゃあ、ぼくたちは、これからどうするのですか",
"ロロ公爵とルル公爵の旗あげが、うまくいくかどうかわかるまで、まっているのさ。いや、こんどは多分うまくいくだろうと思っている"
],
[
"そうか、どのへんかね",
"あのへんです"
],
[
"でも、やがて、こっちへ火星兵の大軍が、攻めて来ましたら……",
"まあ、心配するな。わしに、まかせておきなさい"
],
[
"ああ、これか。これは丸木じゃないか。丸木がとうとうやって来たぞ",
"どうして、このむぎわら帽子が丸木なんですか",
"だって、帽子の下をごらん。目が光っているじゃないか。丸木のからだが、みどり色だから、みどりの林の中では、帽子だけしか見えないんだよ",
"ああ、そうか"
],
[
"逃げたわけではない。この火星に、もどって来た方が得だということが、わかったからだ",
"ふん、負けおしみを言うな"
],
[
"負けおしみではない。げんに、おれは、こうして博士よりは、得な立場に立っているのだ。ふふふふ",
"得な立場だって。なにが得な立場だ。きさまを、やっつけようとすれば、すぐにも、やっつけられるのだ。大きなことを言うまいぞ"
],
[
"おい、博士。ここを一体、どこと思っているのか。ここは火星の上だぜ。あの地球の上とはちがうぜ",
"それが、どうしたというのか",
"あれっ。まだわからないのか。いいかね。おれは地球へでかけていって、お前などとたたかい、まず五分五分の勝負で引上げた。おれたちは火星人だから、地球の上でたたかっては、たいへん勝手がわるいのだ。それでも五分五分の勝負だった。ところがここは火星の上だ。わかるだろう",
"火星の上だから、きさまは、わしたちに勝てると思っているのか",
"そうだよ。火星人は火星の上でたたかうのには不自由をしない。お前たちはどうか。まず自分のからだを見ろ。そんな不便のものをつけているし、人数は少いし、われわれに勝つ見込はないじゃないか。早く降参した方がいいぞ"
],
[
"しまった、また、はずれた",
"おい千二君。ふき矢のくだを、あまりかたくにぎっていると、いけないよ。そうして、こういうぐあいに、ふうっとふくといい"
],
[
"おい、丸木。なぜ、にげる",
"うむ。にげるわけじゃない。これも、作戦のうちだ"
],
[
"丸木。にげるな。一騎討でこい。くるのが、おそろしければ、降服しろ。そうして、ロロとルルの旗の下にはいれ",
"だれが、そんな、はなしにのるものか"
],
[
"にげると、きさまもふき矢をはなって、ねむらしてしまうぞ",
"そんなものが、おれにあたってたまるか"
],
[
"おい、千二。おれだよ。おれは丸木だ",
"ああ、丸木さんですか",
"久しぶりじゃないか。さっき、お前を見かけたから、ぜひあいたいと思っていた。どうだ、おれと一しょに来ないか。おれはお前のために、この火星国をすっかり案内するよ",
"ええ、案内もしてもらいたいけれど、蟻田博士や新田先生が僕を待っていますから、また、あとにして下さい",
"なにっ。いやだというのか"
],
[
"丸木さん。いやだと言っているわけじゃないんです。博士と先生に、ひとこと話をしていきたいと思ったんだが、あなたがそういうのなら、つれていって下さい",
"おおそうか。なかなかよろしい。そう来なくちゃいけないよ。これで、あらたまって言うようでおかしいが、おれは、君が大好きなんだ"
],
[
"丸木さん。僕をどこへつれていってくれるのですか",
"まず、おれの屋敷へいこう",
"あなたの屋敷ですか。何かおもしろいものがありますか",
"おもしろいものならいくらでもある。第一、おれが地球に関するいろいろなものを、どのくらいたくさん、あつめているか、地球博物館というのを見せてやろう"
],
[
"ああ、そんなものは、もうたくさんです",
"なぜだ。何がたくさんだ",
"だって、丸木さん。僕は地球の人間だから、地球博物館なんか、ちっともおもしろいことはありませんよ",
"ああ、そうだったな。じゃあ、土星から逃げて来た動物を見せてやろう。そいつはもう数万年も飼ってあるのだ",
"えっ、土星の動物ですって"
],
[
"わが軍が苦戦だというが、一体、何者とたたかっているのか",
"さあ、それが、よくわからないんですが、敵の立てている旗を見ると、むらさきの地に、まん中のところに白い四角をくりぬいてあります",
"なに、むらさきの地に、まんなかのところが白い四角形にぬいてある旗? はてな、どこかで、見たような旗だが……",
"なにしろ、クイクイ岬のわが兵営が、いきなり、焼きうちにあったのです。兵営は全滅です。そこへ、いまの旗を立てた軍ぜいが切りこんで来たのです",
"むこうの兵は、どんな、かたちをしていたか",
"それが、みんな胸のところと背とに、いま申した白四角形のむらさき旗をぶらさげているのです",
"はてな。むらさきに白い四角形の旗というと"
],
[
"丸木大臣閣下、相手がいけません",
"相手がいけないとは……",
"ペペ山にこもっているのは、火星の前の女王の王子たちです。ロロ公爵とルル公爵です",
"ほう、ロロとルルか。あの死にぞこないめが、もうそんなところに立てこもって、いばりちらしているのか",
"丸木閣下、相手は、なかなかすごいいきおいで、こっちへ攻めかけて来ます。この分では……",
"おれが来たからには、もう大丈夫だ。うむ、ちょうどいい。ペペ山をぐるっととりまいて、ロロとルルをここで完全にやっつけてしまおう。あいつら二人さえいなければ、火星の上は、だれも苦情を言うものがなくて静かなんだ。それから蟻田博士なども、きっと、おとなしくなるだろう"
],
[
"なんだ、こっちも、どしどし撃っているのに、こっちが負けているなんて、へんなことじゃないか。おい、司令官。これは、どうしたわけだ",
"それなんです、丸木閣下。こっちの撃っているのは破壊弾なんですが、ロロ軍が撃って来るのは、奇妙な砲弾なんです",
"奇妙な砲弾とは",
"一種の溶解砲弾です。しゅうと飛んで来て、ぽかんと破裂すると、白っぽい汁をあたりへまき散らすのです。そこからガスみたいのものが、もうもうと出て来ます。こっちの兵が、それにあたると、からだが、とろとろにとけてしまうのです",
"ああ、そうか、なるほどなるほど",
"丸木閣下、かんしんなさっていては困ります",
"いや、その砲弾なら、われわれ火星兵団が地球へ攻めていった時、ふりかけられて弱ったやつだ。うむ。察するところ、ロロとルルの奴、蟻田博士からそのような砲弾のつくり方を教えられ、それをひそかにつくってペペ山にかくしておいたものにちがいない"
],
[
"とにかく、わが軍の死者すでに何千という、たいへんな損害です。どうしましょう",
"弱ったなあ。まさか、そのようなものを持っているとは、考えていなかった。よろしい。それでは、こっちは地下をもぐっていく戦車隊をくりだそう。そうしてペペ山を、その真下から根こそぎ爆発させてしまおう。それなら、相手のもっている溶解砲弾はペペ山とともに爆発するから、ペペ山にこもっているはんらん軍は、全滅になるはずだ。ふん、これなら大丈夫うまくいくぞ"
],
[
"いや、いいんだよ。これが戦争なんだ。第一、おれにそむく奴なんか、一刻も、生かしておけないよ",
"丸木さん、あなたは自分のことばかり考えて、火星国全体のことを考えないから、いけないと思うなあ",
"いや、いずれはおれが火星国を、おさめるようになるのさ。おれが一度号令すると、火星兵団は手足のように、うごくのだ。だから、今の火星王よりは、ほんとうは、おれの方がえらいのさ"
],
[
"丸木さん、それはよくない考えだよ。きっと、今に自分で自分がわるかったと、さとるときが来るだろう。僕は、ほんとうの力もないのに、からいばりをしたり、むちゃをする者は大きらいだ",
"なにを。千二、なまいきな口をきくと、ただではおかないぞ"
],
[
"ふむ、いい時に、お前は、にげだしたものだ",
"そうですか。なぜです",
"いや、その地底戦車隊は、丸木の号令にしたがわなくなったのだ。そうして丸木たちを、ぐるっととりかこんで、降服せよと言った。もちろん丸木は聞かない。そこで今丸木たちは、あたまの上から砲弾の雨をくらっているところだ"
],
[
"えっ、それはほんとうか。おれの職を、そんなにやすやすと、うばわれてたまるものか。誰がおれの職をはぎとったのだ。そうしてまた、なぜおれを、そのようなひどい目にあわせるのか",
"おだまりなさい。国王の命令です",
"そんなはずはない。国王は、おれと相談のうえでなければ、すべての火星兵団員の任命や免職は、できないことになっているのだ。ましてや、このおれを免職するなんて、そんな不都合なことはないぞ"
],
[
"丸木どののいわれる国王は、前の国王のことです。わが火星国には、ここ十五分ほど前に、新しい国王が位につかれたのですぞ",
"なんだ。国王がかわった? そんなことがあるものか。誰が国王になったのか",
"ロロ公爵です。それからルル公爵が、副王となられました。前の国王は、火星兵団を地球へむけて、大負けに負けてしまったその責任をとって、位をしりぞき、ロロ新王に忠誠をちかわれましたぞ。あなたも、忠誠をちかわれたがいい"
],
[
"そんなばかな話はない。ロロであろうがルルであろうが、そんな子供くさい者に、この火星国をにぎられてたまるものか。火星国で一等えらい者が国王になればいいのだ。火星兵団をひきいて地球までいった英雄は、このおれだぞ。おれは、只今、火星王の位につくぞ。他に、国王をなのるものがあれば、それは、にせ国王だ",
"だめです、そんなことは、だめです",
"いや、おれは火星王だ。そうしてこの大宇宙をおさめるのだ。地球なんかこわれてしまえ。わしは金星を攻略し、木星を従え、水星も土星も、わが領土とするぞ。そうしておれは、更に他の太陽系の星をめがけて、突進するのだ"
],
[
"ああ、それは、おめでたい。それでこそ、わたしたちの骨おりがいが、あったというものです。さあ新田、千二、新王ロロに、おめでとうを言いにいこうではないか",
"はい、おともしましょう。千二君も、いくだろうね",
"ええ、先生、いきますとも。火星国の王城というのは、どんなところだか、早く見たいですね"
],
[
"ああ蟻田博士。よくおいでくださいましたね。おかげさまで、ごらんのとおり、火星国は、りっぱにおさまりました。お礼を申しますよ",
"おお、ロロ王。ごりっぱです"
],
[
"あのう、先生。もう時刻は、すぎたのではないでしょうか",
"なんだね、時刻がすぎたとは",
"先生、わすれているのですか。モロー彗星が地球に衝突する時刻は、もうすぎたのでしょう。地球は、どうなったでしょうか。こなごなになって、それから……"
],
[
"おお、佐々刑事だ",
"ほう、これが佐々刑事か",
"蟻田博士、あなたは地球が……"
],
[
"佐々刑事は、火星のボートを分捕ったと放送していたが、今まで、そのボートの中にがんばっていたのだろうね。そうして蟻田博士が来たという話を聞いたので、ボートの扉をひらいて、とびだして来たわけだろう。ずいぶん、がんばりやさんだなあ",
"なるほど。元気がいい人ですね",
"いずれ、あとで、おもしろい話を、たくさん、聞かせてくれるだろう"
],
[
"ええあれは、何という星ですか",
"あれは地球じゃ",
"えっ、地球ですか。地球は、モロー彗星に衝突されて、まだ、あそこに、かけらでもが、のこっているのですか"
],
[
"いや、あれは地球のかけらではない。かけらどころか、地球は、ちゃんとしているのだ",
"えっ、地球は、ちゃんとしているのですか。モロー彗星は、地球に衝突しなかったのですか"
],
[
"非常な幸運であったといえる。モロー彗星は、当然地球に正面衝突するはずだったのだ。ところが、思いがけないことがおこった。それは、モロー彗星が地球に衝突する前に、月がモロー彗星の方へ近づき、両方で引張りっこをはじめたのだ。だから、モロー彗星は、地球のそばまで来て、もうすこしでぶつかるというところで、月のために軌道が曲ってしまったんだ。だから、地球は、あやういところで、モロー彗星に衝突されないですんだのだ。どうだ、わかったかね",
"なるほど、なるほど。そんなうまいことがあったのですか",
"ははあ、それはおどろいたなあ"
],
[
"じゃあ、博士。地球に住んでいる人には、異状がなかったでしょうね",
"さあ、それは、どうかなあ。多分月の軌道もちがったことだろうし、モロー彗星とすれちがうときに、颱風の何十倍かも大きいような大風雨なども起ったり、地球磁気の影響で、思いがけないことがあったり、また、そのようなことが、相当地球の人類をおどろかしたことだろうが、とにかく、外から見たところでは、あのように地球は、あいかわらずきらきらと光っているのだから、そう、しんぱいしなくてもいいと思う"
],
[
"いや、地球が大丈夫だと、はっきり知ったのは、たった今地球のすがたを、夜の大空に仰いで、はじめて知って安心したんだ",
"でも、さっき博士は、前からそれを知っていられるような口ぶりでしたよ",
"ああ、あれかね。あれは、こういうわけだ。もし、地球とモロー彗星とが、宇宙で衝突すれば、火星のうえにいるわれわれにも、なにか大きな振動を感じるはずだし、また大きな光が宇宙にひろがるから、火星のうえでも、大さわぎがはじまるわけだ。だが、衝突の時刻をすぎても、すこしもそんなことがなく、たいへんしずかだったので、わしは、かねて月がすこし異状をおこしかけていたことを思いあわせ、ははあ、これは、地球がうまく、あやうい目をのがれたんだなと、さとったんだよ。それだけのことじゃ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:「大毎小学生新聞」大阪毎日新聞社
1939(昭和14)年9月24日~1940(昭和15)年12月31日
「東日小学生新聞」東京日日新聞社
1939(昭和14)年9月24日~1940(昭和15)年12月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2007年1月4日作成
2012年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"それに変だといえば、大将の急死がおかしい。いくらなんでも、あんなに早く逝くものかネ",
"僕は大将の邸で、変な男を見かけたことがある。肺病やみのカマキリみたいなヒョロ長く、そして足をひいている男さ。あいつが何か一役やっているに違いない",
"でもあいつは其後死んじゃったという話じゃないか……"
],
[
"モシモシ、甲野君じゃないか……",
"あ――"
],
[
"いいかネ。君は細君を亡くしたネ。たしか君たちは熱烈な恋をして一緒になったのだネ。君は輝かしい恋の勝利者だった。……",
"ナ、なにを今頃云ってるんだい",
"うん、……そこでダ、君に訊いてみたいのは、君は亡くなった細君――露子さんと云ったネ、あの露子さんに逢いたかないかネ",
"露子に?"
],
[
"……いいかネ、甲野君。俺は一旦死んで、たしかにあの花山火葬場の炉の中に入れられたんだ。それを見たという証人もいくらでもあるよ。その人達にとっては、俺の生きていることを信ずることよりも、死んだことの方を信ずる方が容易だろうと思う。本当に俺は死んだのだ。一旦死んだ世界へ行ってきて、それから再びこの世に現れたのだ。思いちがいをしてはいけないよ。君には俺がよく見えるだろうけれど、俺はとくの昔に、この世の人ではないのだ",
"莫迦莫迦しい。もうそんなくだらん話は止し給え。誰が君を死人の国から来た男だと思うだろうか。それよりも、君の生きていたことを祝福して、一つ乾杯しようじゃないか"
],
[
"それはこっちの話さ。いまに判るがネ。つまり君は俺がこの世の者でないという俺の説を信じてくれる見込がついたからさ。……さあ酒が来た。君のために乾杯だ",
"なんだって? 君は……"
],
[
"クックックッ",
"はッはッはッ"
],
[
"じゃいよいよ出すかネ",
"うん、出し給え",
"では一宮先生、とりかかってよろしゅうございますか",
"うむ。始めイ……"
],
[
"あッ――",
"甲野君、一つ御紹介をしよう"
],
[
"こちらは一宮大将でいらっしゃる",
"やっぱり一宮大将!"
],
[
"私は死にませんよ。死んだ覚えはありません",
"死なない覚えはあっても、死んだ覚えはあるまい。――それはとにかく、君は死んだればこそ、ほらあれを見い、棺桶の中に入っていたではないか"
],
[
"ああ、それでは――それでは、やっぱりここは冥途だったんですか",
"そうでもないのじゃ",
"え?"
],
[
"それは、君を此処へ連れて来たからには、もう絶対に日本へ帰って生活することを止めてもらいたいのだ。第一君はもうお葬式をすませ、戸籍面からハッキリ除かれているのだからネ。いま日本へ帰っても、君が僕を幽霊と間違えたように、君は幽霊だと思われて人々を驚かせる外になんの術も施すことができないのだからネ",
"お葬式を済ませたというと……",
"そうだ。君は覚えているだろう。新宿の酒場で飲んでいたときフラフラと倒れたことを。あれは僕が密かに盛った魔薬の働きなのだ。あれで君は仮死の状態になった。恐らく医師が診ても、あれを本当の死としか考えられなかったろう。君は行き倒れ人として一旦アパートへ引取られそれから親類総出でお葬式を営まれたのだ。君の両親も友人もその葬式に参列し、あの花山火葬場で焼いて骨にしたと信じている",
"そんな馬鹿なことが……",
"君の遺族は、壺に一杯の骨を貰って、何の疑うところもなく、家に引取ったのだ",
"その骨というのは……",
"無論、どこの馬の骨だか判らぬ人間の骨なんだよ。君は知るまいが、人間の骨なんて、いまの世の中には、手を廻せばいくらでも手に入るものだよ",
"ナ、なんていう奴だ。恐ろしいインチキ罐係め",
"そうだ、インチキ罐係の言葉は当っている。君は僕の少年時代のことを思い出して呉れるだろう、僕はいくら運が悪くなっても、ぼんやり暮らしているほど、自分の力量に自信のない男ではない。云いかえると、罐係をやったのも、一つの大きな目的があってのことだ。僕は何を考えて罐係になったか、想像がつくかい"
],
[
"僕は花山火葬場に長く勤めているうちに、火葬炉に特別の仕掛けを作ることを考え出した。早く云えばインチキ火葬だ。誰でも棺桶を抛り込んで封印をしてしまえば、それで安心をする。しかし封印をしたのは表口だけのことだ。封印をしてないところが上下左右と奥との五つの壁だ。一見それは耐火煉瓦なぞで築きあげ、行き止まりらしく見える。誰一人として、あの五つの壁を仔細に検べようと思った者はない。僕はそこを覘い、一旦封印をして表口を閉じた上で、側方の壁から特設の冷水装置をつきだして棺桶の焼けるのを防ぐ仕掛けを作った。その次にあの罐の真下に当る地下室から棺桶を下げおろす仕掛けを作った。そして予め用意して置いた人骨と灰とを代りに、あの煉瓦床の上に散らばらしておく。それでいいのだ。遺族の者は、すこしも怪しむことを知らない",
"ああ、悪魔! 君はそうして、私の妻の死体を引っ張り出して、自由にしたのだな",
"まア待ち給え。――僕はこの仕掛けに成功すると、こんどは人間を仮死に陥れる研究に始めて成功した。こいつはまた素晴らしい。奇妙な毒物なんだが溶かすと無味無臭で、誰も毒物が入っていると気がつかない。これを飲んで、識らないでいると、昏睡状態となり、そして遂に仮死の状態に陥すことができる。しかも医師たちはそれを真死と診断する外はない程巧妙な仮死だ。この二つの発明が、僕に火葬国の理想郷を建設する力を与えて呉れた。それからこっちというものは、これはと思う人物を、巧に仮死に導いては、飛行機に乗せてこの火葬国へ送りつけ、そして君がこの部屋で経験したような順序で蘇生させていたのだ。傑出した男であれ花恥かしい美女であれ、僕のこうと思った人間は、必ず連れて来て見せる。ここに居られる一宮大将においでを願ったのも、この火葬国建設の指揮を願うのに最も適任者だと思ったからだ。大将はすっかり共鳴されて、私財の全部をわが火葬国のために投ぜられたのだ",
"するとここは一体何処なのだ。日本ではないのだネ",
"そうだ。小笠原群島より、もっと南の方にある無人島なのだ",
"僕の露子はどうした。早く逢わせて呉れ給え",
"露子さんか"
],
[
"露子さんに逢わせてもいいが、その前に、君から誓いを聞かねばならぬ",
"誓いとは?",
"この火葬国の住民となって、文芸省を担任して貰いたいのだ",
"文芸省?",
"そうだ。君の文芸的素養をもって、この火葬国に文芸を興して貰いたい",
"文芸を興せというのかい"
],
[
"僕は断る。僕はやっぱり東京へ帰るよ",
"なに東京へ帰る。……あの露子さんに逢いたくないのかい",
"うん、急に逢いたくなくなった。僕はそんなに突拍子も無い幸福に酔おうとは思わないよ。あのゴミゴミした東京で、妻を失ったやもめの小説家としてゴロゴロしているのが性に合っているのだ。僕は帰る!"
],
[
"うん帰る!",
"よオし是非もない"
]
] | 底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「帝都日日新聞」
1935(昭和10)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003519",
"作品名": "火葬国風景",
"作品名読み": "かそうこくふうけい",
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"初出": "「帝都日日新聞」1935(昭和10)年",
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"いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が要りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……",
"お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、且又非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを煩わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという夥しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起していまして、本課は全力をあげて約四十日間捜索を継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……",
"お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々重大人物博士の失踪について非常なる憂慮と不安と焦燥とを覚えている次第でございます",
"失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査申請をせられたい",
"それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。況んや博士に於ては家出せられるほどの事情は痕跡ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐したと見なければならない甚だ重大刑事事件であります。果して然らば、刑事部捜査課長たる足下が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします",
"一体誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……",
"赤見沢博士のことです。あの有名な実験物理学の権威、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解になるでしょう"
],
[
"昨夜は極めて静穏でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜池袋駅停りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです",
"えっ、鞄と仰有いましたか",
"ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……",
"その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……",
"二十五前後の青年男子だと報告して来ています",
"ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は確か本年六十五歳になられる老体なんですからね",
"それはお気の毒"
],
[
"これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……",
"粗茶ですが、どうぞ"
],
[
"仔猫?",
"そうです。猫の子ですなあ"
],
[
"猫の子がどうしたというんです",
"課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました",
"君はよほど猫ぎらいと見える。ははは",
"いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、宙にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね",
"どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井から紐でぶら下げてでもあったのですか",
"そんなことなら、僕はきゃッなどと恥かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上げられているのでもなく、宙にふわふわと……",
"それは本当の猫じゃないのでしょう",
"本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛をしていましたがね",
"腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……",
"さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です",
"それは魔法かな、奇術かな",
"奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです",
"君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい"
],
[
"臼井。うしろを閉めろ",
"はい"
],
[
"臼井。その鞄を持って、こっちへ下りて来てくれ。鞄は大切に取扱うんだぞ",
"はい、承知しました"
],
[
"開いていいですね",
"ああ、あけてくれ。丁重に扱えよ",
"はあ"
],
[
"さっきは、ひやひやしたよ。これを調べているうちに一件がもそもそ動き出しやしないかなあと思ってね",
"はあ",
"とにかく、ひどく心配させたが、これをこっちへ引取ることが出来たのは非常な幸運だった。――いや、君の骨折も十分に認める。さあ、その材木みたいなものを、外に出したまえ。そっと卓子へ置くんだよ。乱暴に扱うと、急に跳ねだすかもしれないからなあ"
],
[
"ただの鞄だと断定するのは、まだ早すぎると思います。もっとよく研究してみるべきではないでしょうか",
"駄目だ。これだけ色々とやってみても、がたりともせんじゃないか。ただの鞄に過ぎないことは明白だ。赤見沢博士謹製のものならこんなことはない",
"おかしいですね。……博士はこの鞄と共に警察署へ保護されていたんで、間違いはない筈なんですがね。それとも……"
],
[
"わしの命令から逸脱するような者をこのまま黙って許しておけると思うか。事の破綻はみんな貴様のよけいなことをしたのに発している。こんな鞄が何に役立つ。この材木は一体何だ。風呂桶の下で燃すのが精一杯の値打だ",
"そんな筈はないんですがなあ。もっと慎重によく調べさせて下さいよ",
"その必要はない。何もかもおれには分っとる。おまけに博士をあんなに生ける屍にしてしまって。……わしの計画は滅茶滅茶じゃないか",
"博士は外出時に変装するということを貴方が僕に注意しなかったのが、そもそも手落ちですよ",
"博士のラボラトリーの前から警戒監視すべきが当然だ。しかるに貴様は骨を惜んで田端駅で待っていた。横着者め。そして博士が到着しないと分ると、そこで初めて目黒へ駆けつけた。そのときはもう後の祭だ。博士はもの言わぬ人となって目白署へ収容され……そうだ、まだ貴様にいうことがあった。貴様は田鍋のところでよけいなことを喋ったな。知っているぞ、ちゃんと知っている。博士の部屋へ入ると、猫の子が宙に浮いてばたばたやっていたと喋ったろう。それから博士に仕事を頼んだことまでべらべら喋っちまったんだろう。どうだ、それに違いなかろう",
"それは……それは、そういわないとあの場合、捜査課長の心を動かすことが出来なかったからです",
"バカ。捜査課長にあれを連想せしめるような種を提供して、わしの方は一体どうなると思うんだ。田鍋のやつは、勘は鈍いが、あれで相当克明でねばり強いから、そのうちにはきっと一件を感づくに違いない。そうなったら……ああ、そうなったら万事休すだ。わしの最後の一線が崩れ去るのだ。憎い奴だ、貴様は……",
"まだ投げるのは早いです。打つべき手は、まだいくらでもありましょう。こんどは間違いなくやります。一命を抛ってやります。命令して下さい",
"貴様に対する信用はゼロなんだが……よしもう一度使ってやる。いいか、こうするんだ。田鍋のところへ行くんだ。さっきの十万円で買収だ。買収に応じなかったら田鍋の奴を早いところ誘拐してしまえ",
"はい"
],
[
"臼井、早くしろ。十万円はその書類棚の上に入っているから、開いて出したまえ",
"はあ"
],
[
"怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人に糾してみましたか",
"だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦依怙地となったら、殺されても喋らないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし――帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎も落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる",
"万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄が空を走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい",
"さあ、わしには分らんね、全く……",
"万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除する容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小なる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……",
"頭の痛くならんように喋ることはできないものかね",
"ご尤もです。……それでそれは――第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致し来って、それによる引力を、万有引力以上に効き目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……",
"待った。もうたくさん",
"第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて",
"みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか",
"とんでもない。要するに、第二又は第三の素因によって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜の焼跡をうろつこうと、真昼のビル街を掠めようと問題ではない。そうでしょうが……",
"いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある",
"そんなことは仕掛の工合でどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチが外れるようになっていて異変は起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因により万有引力に勝って浮きあがる――つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな",
"実際に出来るのかね、そんな仕掛が……",
"発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんか極めて容易ですよ",
"ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円を脅すことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心を摘出して、犯人を検挙せにゃいかん",
"犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省を続けていて、何一つ出来ない",
"わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。序に、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない",
"その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急に突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留めなければならないですね",
"はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい",
"いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ",
"もうそろそろ本格的に化け猫になる頃だという意味かね",
"あの助手女史が保管していないでしょうか",
"あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ"
],
[
"おやア……",
"あッ"
],
[
"あっ、苦しい。一度下りて下さい",
"こっちもそう願いたい"
],
[
"今見たでしょうね、あの仔猫を……。仔猫を博士の人形の中に入れると、あのとおり博士の人形はふわふわと空中に浮きあがって天井に頭をつかえてしまった",
"ええッ、あれは人形か。人形だったのか"
],
[
"田鍋さん。あの女はやっぱり猫又を隠していたんですよ。そして博士の人形を作ったり、その他へんな装置をつけたりして、一体何をするのか、このへんで中へ踏込んだら、どうです",
"うん。しかし、もうすこし見ていよう",
"課長。一度下りて下さい、肩の骨が折れそうだから",
"これ大きな声を出すな。家の中へ聞えるじゃないか"
],
[
"どうもそういうことらしいね。しかしラジウムとお化け鞄と、どういうつながりになっているか見当がつかんが、君は何か思いあたることがあるかね",
"そのことだが、僕の考えでは、あの盗難に遭ったラジウムは、今どこか知らんが、兎に角ちょっと手の届かない場所にあるんだと思うんですね。それでさ、あの万沢とかいう男が小山すみれ嬢を唆かして、仔猫利用の吊上げ装置を作らせたんだと解釈する",
"どうしてそうなるのかね",
"博士の人形も焼けちまい、すみれさんも焼け死んだので、はっきりしたことは分らないけれど、あの博士の人形は猫又の浮力――というか重力消去装置の力というか、それを利用しで浮き上る力を持たせてある。靴に仕掛けた放射線計数管は、ラジウムの在所を探すための装置だ。無電の機械は、計数管に現われる放射線の強さを放送する。それからもう一つ、あの人形には電波を受けて、靴の下に仕掛けてある浚渫機みたいな、何でもごっそりさらい込む装置――あの装置を動かせるようになっているんだと思う。つまり電波による操縦で浚渫機を動かすんだ。これだけのものを、あの人形は持っていたと思う",
"そんなものを、どうする気かな"
],
[
"ふうん、なるほど",
"それからこんどは、例の猫又の力を借りて、人形ごとずっと上へ浮き上らせるわけなんだが、僕にも分らないのは、重力消去装置の力を借りる必要のあるラジウムの隠し場所とは一体どこなんだか、見当がつかないんだ",
"はてな、一体どこなんだかね。そういうへんな人形の力を借りなければ取出せない場所というと……"
],
[
"瀬戸さん。えらいものを下ろして来たな",
"なんじゃろうかなあ、この臭いのは……",
"その鞄の中が怪しいなあ。へんなものが入っているんじゃよ。女の生首かなんかがよ",
"嚇かしっこなしよ",
"鞄から出ている赤い紐な。それは若い女の腰紐じゃぞ。その腰紐が、先が裂けて切れているわ。それにさ、紐の先んところが赤黒く染っているが、血がこびりついているんじゃないのかい"
],
[
"よおし、何が入っているか、一つ鞄をあけてくれよう",
"よしなよ、気味が悪い。海へ捨てちまいな"
],
[
"鞄をあけてから捨てても遅くはないだろう。もし紙幣が百万円も入っていてみな、わしらの大損だよ",
"ははは、慾が深いよ、工長さんは……"
],
[
"そのことかね。それはあの臼井が、いつだったか、密書を拾ったんだ。その密書に簡単ながら、そういう意味のことが書いてあった。その密書は臼井が持っている。わしではない",
"その密書の差出人は誰か。また受取人は誰なのか",
"名前ははっきり書いてなかった。ただ、差出人の名前に相当するところには、矢を二つぶっちがえた印が捺してあった",
"矢を二本ぶっちがえた印が、ふうん。そして受取人の方には……",
"受取人の名前に相当する場所には、三本足の黒い烏の絵が書いてあった",
"何という、三本足の黒い烏の絵が?"
],
[
"それは恐るべき賊のしるしだ。烏啼天駆という怪賊があるが知っているかね",
"ああ、怪賊烏啼か。烏啼のことなら聞いたことがあるが、若いくせに神出鬼没の悪漢だってね。一体どんな顔をしているのかな、その烏啼というやつは……",
"それがよく分らない。烏啼と名乗る彼に会った者は誰もない。しかし脅迫状などで、烏啼天駆の名は誰にも知れ亙っている",
"捜査課長ともあろう者が、そんなぼやぼやしたことで、御用が勤まると思うのか",
"何をいう。いい気になって……"
],
[
"えっ、赤見沢博士が昏睡状態から覚めたというか。そして君は博士に会って話をして来たって?",
"そうなんです。その結果、いろいろと分って来ましたよ。第一に、博士はあの晩、只の鞄の中に、例のお化け鞄――つまり重力消去装置の仕掛けてある立派な把柄のついている鞄を入れて、電車に乗ったんだそうです。決して角材や古新聞紙は入れなかったといいます。つまり賊は、博士の鞄とそっくりの鞄を用意し、その中に角材を入れて、二重鞄と同じ位の重量とし、博士の鞄と掏りかえるつもりだったらしい。博士は言明しています、自分が座席に座っていると、よく似た鞄を持った乗客が近寄って来て、博士の前に立ったそうです",
"そやつが怪しい!",
"そうです。誰が聞いても怪しい奴ですが、そのとき博士は大いに要慎して、自分の持っている鞄を奪われまいとして、一生懸命抱えこんだそうです。すると怪しい乗客の連れである若い女が博士の方へ身体をおっかぶせるようにのしかかって来て、女の膝が博士の膝を強く押した、すると急に博士は気が遠くなってしまったんだそうです",
"どうしたのだろう",
"女の膝から博士の膝へ、或る麻薬の注射が施されたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。――それから博士は、意識の朦朧たる裡にも、膝の間に挟んでいた鞄が掏りかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……",
"怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね",
"そうなんです。これが頗る重大な事柄なんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよく覚えているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻の整った美しい人物だったといいますよ",
"えっ、何という。美男美女だって?",
"正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男――万沢とかいいましたね――あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人らしいのですよ",
"ふーん、そうか"
],
[
"ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない",
"あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄を奪ったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いに睨み合っていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれを唆のかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女が嗅ぎつけて、暴れこんだという訳なんでしょう",
"そうだ、それに違いない。するとわが輩も大迂回をやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日初版発行
※「深夜の研究室」において、小山嬢が綱を結びつけたところは、「壁際の鉄格子」と「飾椅子」の二つが示してある。矛盾しているが、底本のママとし、本文中には注記しなかった。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年7月21日公開
2006年7月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"ちょっとお尋ねするが、この村に、大工さんで松屋松吉という人が住んでいたですが、御存知ありませんかナ",
"えッ……"
],
[
"松さん。お前さんたち、今夜なにか用事があったんだろう",
"イヤなに、大した用事でもないんだ……"
],
[
"おう、あの北鳴四郎は、すごい財産を作ってなア、そしていま博士論文を書いているということだア",
"どうも豪いことだのう。あいつは内気だったが、どこか悧巧なところがあると思ったよ。それにしても、四郎はあの爪弾きの松吉を莫迦に信用しているらしいが、今に松吉の悪心に引懸って、財産も何も滅茶滅茶にされちまうぞ",
"瀬下の嫁ッ子は、どう考えているかなア",
"ああ、お里のことかネ。……お里坊も考えるだろうな。四郎があんなに立身出世をするなら、英三のところへなんか嫁にゆくのでなかったと……",
"フフン、そんなことはお里の親の方が考えて、今になって失敗ったと思ってるよ。こうと知ったらお里を四郎から引放さんで置くんじゃったとナ",
"もう後の祭だ。あの慾深親父も、今更どうしようたって仕方がないだろう",
"いや、あの親父も相当なもので、町長の高村さんに頼みこんで、四郎との仲をこの際どうにか取持ってくれと泣きついているそうだ",
"町長は、どういっとる?",
"どういっとるも、こういっとるもない。高村町長はお里と英三の婚礼の媒酌人じゃ。四郎の前に出るには、ひょっとこのお面でも被ってでなければ出られまい"
],
[
"……この町から博士が出るなんて、考えても見なかった名誉なことじゃ。わしはなんなりと四郎……君のために便宜を図るを厭わぬつもりじゃ。遠慮なく、申出て下され",
"いや私が珍しく帰って来たからといって、そんなに歓待して頂こうとは期待していません。ただ今申したとおり、この夏中数ヶ所に撮影用の櫓を建てて廻る地所を貸して頂くことだけには、特に便宜を与えて下さい",
"それくらいのことは何でもない、もっともっと、用を云いつけて下され。何しろ町の名誉にもなることじゃから……"
],
[
"これは避雷針かい、それとも雷避けのお呪いかい",
"もちろん、避雷針だよ。銅だって、一分もある厚いやつを使ってあるんで……。それにあの針と来たら、少し曲ってはいるが、ああいう風にだんだんと尖端の方にゆくにつれて細くするには、とても骨を折った。……それを嗤うというのは、可笑しい",
"うん、見懸けだけは、松さんが云ったとおり立派さ。だがこれでは近いうちに、この梯子の上に、きっと落雷するよ",
"冗談云っちゃいけない。四郎……さんは、そりゃ豪くなったことは豪くなったろうが、この建築にかけては、儂の方が豪いよ",
"梯子は建築だろうが、避雷針は電気の学問だ。それについては、私の方がずっと知っているよ。落雷するといったら、落雷することに間違いはない。夕立がやってきたとき、この梯子に登っている者を見たときは、すぐに降りるように云ってやらにゃいけない"
],
[
"……ああ、お忘れになったも無理はない。私は五年前からひどい腎臓を患うたもので、酒と煙草とを断ち、身体は痩せるし顔色は青黒くなるし、おまけに白髪が急に殖えてきて……とにかく姿は変りましたが、稲田仙太郎ですわい",
"稲田仙太郎?……ああ稲田のお父っさんでしたか",
"稲田のお父っさん?……おお、よく云って下すった。お父さんと今でも呼んで呉れますかい。それでは貴方はこの私を憎んではいなさらぬのだナ。ああ私はどんなにか安心をしましたわい。……北鳴さん、立派になられたなア。こんなに立派になられようとは、遉の私も全く思いがけなかった",
"はッはッはッ。なにを仰有います。……"
],
[
"……聞けば、博士論文を書くため、この町へ帰って来られたそうだが、この高い櫓も、その博士論文の実験に使うとかいう話を聞きました。私の家の二階からは、丁度この二つの櫓が、よく見えるので……どっちも私の家から丁度同じ位の距離ですナ……それで御機嫌伺いかたがたやって来ましたが、仕事のお閑には、ぜひ家へ寄って下さい。婆も、貴方に一度お目に懸って、是非一言お詫びがしたいといっていますわい",
"お詫びなどと、そんな話はよしましょう。……しかしお薦めに従い、近いうちにお邪魔に上りますよ"
],
[
"ええ、ではちょっと御厄介になりますかな",
"ああ、それは有難い。……ささ、そうなされ"
],
[
"オイ松さん。松さんは居ないか",
"おお化の字。儂はここに居るが……何か用か",
"やあ松さん、たいへんだ。お前の建てた半鐘梯子に雷が落ちたぞ。バラバラに壊れて、燃えちまった。下に繋いであった牛が一匹、真黒焦になって死んでしまったア",
"ええッ。……"
],
[
"折角ですが、酒はいただきませぬ",
"まあ、そう仰有らずに、昔の四郎さんになってお一つ如何"
],
[
"いや、博士論文が通るまでは、酒盃を手にしないと誓ったので、まあ遠慮しますよ",
"へえ、四郎さんが、博士になりなさるか。……"
],
[
"はッはッはッ。あれを見て、貴方がたはどんな風にお考えですか。いやさ、どんな感じがしますかネ",
"どんな感じといって、……別に……"
],
[
"あれは、赤外線写真でもって、活動写真を撮るためなんですよ",
"へえ活動ですか。……何の活動を……",
"それはつまり甲州山岳地方に雷が発生して近づいてくる様子を撮るのです。この写真機というのが私の発明でしてネ。従来の赤外線写真では出来ない活動を撮ります",
"ははア、雷さまのことだから、高い櫓が要るのですナ。しかし二本も櫓を建てたのはどういう訳ですか"
],
[
"なるほど。……して、その活動は誰が撮るのですか",
"それは私です。私只一人が、あの櫓にのぼって撮ります",
"ほほう、それは危い",
"ナニ大丈夫です。……私はネ"
],
[
"北鳴の旦那。避雷針の荷が今つきました。ちょっと見て頂きとうござんす",
"そうか。荷は皆下ろしたかネ"
],
[
"ああ、これは危険だねエ。稲田さん、いつこんな油の商売を始めたんです",
"へへへへ。――これはもう二年になりますネ。東京から商人が来ましてネ。しきりにこの商売を薦めていったもんです。資本はいらないから始めてみろ、商売がうまく行けば、信用だけでドンドン荷を送るというので、つい始めてみましたが、……たいへんよく気をつけてくれるので、まあそう儲りもしないが、損もしないという状態で……",
"これはサンエスの油ですネ。そして笹川扱いだ",
"ほう、よく御存知ですナ。……博士になる人は豪いものだ、何でも知ってなさる"
],
[
"こういう油類を扱っているのなら、屋根に避雷針をつけないじゃ危険ですよ。もし落雷すれば階下から猛烈な火事が起って、貴女がたは焼死しますぞ",
"ええ、そうだと申しますネ。娘夫婦も前からそれを云うのですが、そのうちに避雷針を建てることにしましょう",
"それがいいですよ。しかしこの松さんには頼まぬがいい。この人の避雷針は、肝心な避雷針と大地とを繋ぐ地線を忘れているから、さっきの火の見梯子の落雷事件のように、避雷針があっても落雷して、何にもならぬのです。私は、こんど建てたあの櫓の上に、理想的に立派な避雷針をたてるつもりですから、是非見にいらっしゃい"
],
[
"おう、火事だ。ひどい火勢だッ",
"これはたいへんだぞ。勢町の方らしいが、あの真黒な煙はどうだ。これは油に火が入ったな"
],
[
"おう、火事は何処だア",
"勢町だア。稲田屋に落雷して、油に火がついたからかなわない。ドンドン近所へ拡がってゆく……",
"そうか、油に火が入ったのだと思った。蒸気喞筒はどうした",
"油に水をかけたって、どうなるものかアと騒いでいらあ。……"
],
[
"稲田屋のお爺イとお婆アとが、焼け死んだとよオ。……",
"そうかい。やれまあ、気の毒に……。逃げられなかったんだろうか",
"逃げるもなにも、雷に撃たれたんだということだ。たとい生きていても、階下に置いてあった油に火がつけば、まるで生きながらの火葬みたいなものだ。どっちみち助からぬ生命だ"
],
[
"やあ、お里ちゃん。暫くでしたネ。……ところで今度は、御両親たちは飛んだ御災難で……",
"ええ、飛んだことになりまして。……"
],
[
"こら化助。お前はとんだ思い違いをしているぞ。この儂は、まだ鐚一文も、四郎から受取っちゃ居ねえのだ。これは本当だ",
"嘘をつけッ、このヒョットコ狸め! 誰がそれを本当にするものかい",
"……だから手前は酔っているんだ。……お前も知ってのとおり、四郎に請負った仕事は、たった一ヶ所だけ済んだばかりだ。約束どおり、あと二ヶ所の約束を果さなきゃ、四郎の実験は尻切れ蜻蛉になるちゅうで、つまりソノ……お金は全部終らなきゃ、儂のところへは、わたらぬことになっとるじゃア! な、分ったろう",
"うまく胡魔化しやがる。……それは、ほ、本当かい",
"本当だとも、あと二ヶ所だ。……それが全部済んだら、きっと呑ましてもやるし、今云った金子も呉れてやる。……",
"呉れてやるとは、ヘン大きくお出でなすったなア……だ。……じゃ松テキ、その約束を忘れるなよ。忘れたり、俺を袖なんぞにして見ろ。そのときは警察に罷り出で、おおそれながら、実は松テキの野郎と長い竹竿を持ちまして、町内近郊をかくかく斯様でと。……",
"コーラ、何と云う。……"
],
[
"おい松さん。酒は仕事が済めばいくらでも呑ませる。それまでは呑むなといっといたじゃないか",
"へへい。……へえい。……"
],
[
"オイ、本当にもう大丈夫か。酔っとりはしないというのだな",
"へえ、もう大丈夫でして。……"
],
[
"素人に、何が分る。雷は、お前たちの手にはどうにもなりゃしない",
"では、雷には玄人の旦那には、雷が手玉に取れるとでも云うのですかネ。そんなことがあれば、仕事の上に大助かりだね。教えて貰いたいものだ",
"莫迦を云いなさい。……私には勿論のこと、誰にもそんなことが分っているものか"
],
[
"オイお里。……どう考えても、北鳴氏は親切すぎやしないかねえ",
"アラいやアね。また始まった。一体貴郎は幾度疑って、幾度信じ直せば気がすむんでしょ。……すこし気の毒になってきたわ",
"なアに、疑っているというほどではないよ。……それは親切でなくて、僕たちが幸運で、お誂え向きのところへ嵌ったといった方がいいかもしれない。とにかく、この家は素敵だぜ"
],
[
"まあ本当だわ。右と左と、同じような櫓ですわネ",
"どこかで見たような櫓だネ",
"どこかで見たって、ホホホ、もち見た筈よ。だって、里のお父さんの家の二階から見えたと同じような櫓ですわ",
"そうそう、憶い出した。……すると、あれは矢張り、北鳴氏の実験に使うものなんだネ。ほう、妙な暗合だ",
"赤外線を採集して映画を撮るんだということですけれど、それなら櫓は一つでよかりそうなものだわ。二つは要らないでしょうにネ。変だわネ"
],
[
"うん、そうだ。赤外線写真と云えば、君の兄さんも、しきりにあれに凝っていたっけ",
"そうよ、雅彦兄さんは、赤外線写真が大の自慢よ。……そうだ、そういえばあたし兄さんのところへ、手紙を出すのを忘れていた",
"なんだ。またかい、忘れん坊の名人が。……"
],
[
"なんだ、松さん。……素晴らしい出来栄えじゃないか",
"ねえ旦那。儂は今度は、なんだか自暴に気持が悪くて仕方がない。なんだかこう、大損をしたような、そしてまた何か悪いことがこの櫓に降って来るような気がして、実に厭な気持なんで……。最後の、三番目の仕事までは、旦那がなんといったって、儂は暫く休みますぜ",
"なんだ、気の弱い奴だ。この櫓に、どうして悪いことが起るものか、そんな馬鹿げたことは金輪際ないよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「サンデー毎日 秋期特大号」毎日新聞社
1936(昭和11)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月6日作成
2007年9月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"臨検はどうぞ御勝手に。その前に、船長がちょっと隊長さんにお目にかかりたいと申して、このむこうの公室でまっています",
"なに、向うの室へ、船長がこいというのか。なかなか無礼なことをいうね。用があれば、そっちがここへ出て来いといえ",
"はい、それがちょっと出られない事情がありまして、ぜひにまげて御足労をおねがいしろとのことです",
"出て来られない事情というのは何か。それをいえ"
],
[
"ふん、竹見太郎八か、お前、なぜこんな中国船の水夫となってはたらいているのか",
"はい。私はなにも申上げられません。しかし、さっきも申しましたとおり、船長があなたにお目にかかりたいといっていますから、まげて船長の公室へおいでくださいませんか。これにはいろいろ事情がありまして……"
],
[
"本船のせきは、日本か中国か",
"もちろん日本でございます",
"日本船なら、なぜ船尾に日章旗を立てないのか",
"おそれ入りますが、これにはいろいろ仔細がございまして……"
],
[
"はあ、そうでしたか",
"そうでしたかというところを見ると、貴公は知らないと見えるね。――その法会に参加した人数は五十人あまり、法会の模様からさっすると、これは団体的葬儀の略式なるものであったということが分った。その中に一人、容貌魁偉にして、ももより下、両脚が切断されて無いという人物が混っていたそうだが、そういうはなしを貴公は聞いたことがないか。なんのためのひめたる団体葬儀であろうか。仏の数が五十人あまり、参会者もまた同数の五十人あまりだという。一体だれの葬儀なのであろうか"
],
[
"な、なにをッ",
"なにをじゃないぜ。さっきお前は、もうすこしで水兵の銃剣にいもざしになるところじゃった。あぶないあぶない"
],
[
"なんだ、丸本。貴様は俺がいもざしになるところをだまってみていたのか。友達甲斐のないやつだ",
"ははは、なにをいう。お前みたいなむこう見ずのやつは、一ぺんぐらい銃剣でいもざしになっておくのが将来のくすりじゃろう。おしいところで、あの水兵……",
"こら、冗談も休み休みいえ。あの銃剣でいもざしになれば、もう二度とこうして二本足で甲板に立っていられやせんじゃないか",
"そうでもないぞ。あの、われらの虎船長を見ろやい。足は二本ともきれいさっぱりとないが海軍さんを見送るため、ああしてちゃんと甲板に立った。お前だって、いもざしになってもあれくらいのまねはできるじゃろう",
"おお虎船長!"
],
[
"おお、あの船が、やっと旗を出した",
"なるほど、あれはノールウェーの旗ですな、ノールウェーの船とは、ちかごろめずらしい"
],
[
"どうもあのノールウェー船はあやしいよ。むこうも貨物船だが、あのスピードのあることといったら、さっきは豆粒ほどだったのが、今はこうして五千メートルぐらいに近づいている",
"ノーマ号と、船名がついていますぜ、一体なにをつんで、どこへいく船なのかなあ",
"きっと軍需品をつんでいるよ、あのかっこうではね。たしかにあやしいことは素人にもそれとわかるのに、ノールウェーでは、海軍さんも手の下し様がないんだろう",
"残念、残念。宣戦布告がしてないと、ずいぶんそんだなあ"
],
[
"ああ船長。私は、折角ですが、この船から下りたいのであります",
"なにィ……"
],
[
"はい。私は本船を下りたくあります",
"な、なにをいうか、本船にのりこむ前に、あれほど誓約したではないか。本船にのったうえからは、本船と身命をともにして、目的に邁進すると。ははあお前は、南シナ海の蒼い海の色をみて、きゅうに臆病風に見まわれたんだな"
],
[
"船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか",
"なに、用談アリ、停船ヲ乞ウといってきたか。どれ、向うはどういう様子か"
],
[
"ううっ、竹見か、お前は、行くことならんぞ。下船したいなどといい出すふらちなやつだ……",
"ちがいます。私が下船したいといったのは……"
],
[
"ははア",
"ははアじゃないよ。君もぼんやりしとるじゃないか。いまボートにのって出懸けたのは、事務長と六名の漕手だから、みんなで七名だ。ところが今見ると、いつの間にやら八名になっている",
"ははア、するといつの間にかどっかで一名ふえたようですな。これはどうもふしぎだ"
],
[
"えっ、やっぱり竹見でしたか",
"うぬ、船長の命令を聞かないで、わが隊のとうせいをみだすやつは、もうゆるしておけない。かえってきたら、おしいやつだが、ぶったぎってしまう"
],
[
"こら、その缶詰を、こっちへかえせ",
"さっきおれたちがもらった缶詰だ。こっちへよこせ"
],
[
"ハルクよ。お前は世界一の巨人だぞ!",
"ふふん、それほどでもないよ"
],
[
"貴船は貨物船らしいが、なにをつんでおられるのですか",
"鉱石である"
],
[
"なんだ",
"本船からの信号でさあ。はやくかえってこいといってますぜ"
],
[
"ああ、いますぐかえると、手旗信号で返事をしてくれ",
"ねえ、事務長",
"なんだ。まだなにかあるのか",
"へえ、もう一つ、厄介なことをいってきました。虎船長から、じきじきの命令でさあ"
],
[
"なんだ、やっかいなことというのは",
"ほら、あの竹のことでさあ。さっきわれわれ一行の中に紛れこんでいましたね。彼奴はカンバスの下に野菜と一緒になってかくれていたんですよ。ところが虎船長、大の御立腹ですわい。いまも船からの信号で、竹の手足をしばってつれもどれとの厳命ですぜ。ようがすか",
"ふむ、そうか。竹見……いや竹の手足をしばってつれもどれと、船長の命令か。無理もない、船長の許可なくして船をぬけだすことは、一番の重罪だからな",
"じゃあ、やりますかね",
"なにを?",
"なにをって、竹の手足を縛ってつれてかえるかということです",
"もちろんだ。なぜそんなことをきくのか",
"だって、彼奴は大力があるうえに、猿のように、はしっこいのですからね。こっちがつかまえると感づくと、この船内をはしりまわって、なかなかつかまえられませんぜ",
"ふーん、それはお前のいうとおりだな"
],
[
"おい、こまったな。お前一つ、骨をおってくれないか",
"えっ",
"お前は竹と仲よしなんだろう。だからお前がむかえば、竹は反抗しないでつかまるだろう",
"ごめんこうむりましょう。そんなことをすれば、わしゃ、ねざめがわるいや。とらえられりゃ、どうせ竹の野郎は、死刑にならないまでも、船底に重禁錮七日間ぐらいはたしかでしょう"
],
[
"竹の刑罰のことは、おれが保証して、かるくしてやるから、お前一つつかまえろ",
"困ったなあ。重禁錮にしない約束、くい物と酒はたっぷり竹にやってくれる約束、それなら引受けますぜ。わしゃ計略をもって、竹のやつを縛っちまいまさあ",
"くうものはくい、のむものはのむ囚人なんて聞いたことがないが……仕方がない、おれが虎船長にとりなすから、はやくお前はかかってくれ。おれたちはこっちで、おとなしく控えている、しかし加勢をしろと合図をすれば、すぐとびかかるから",
"ようがす。じゃあ、いまの約束は、男と男との約束ですぜ。まちがいなしですぜ",
"うん、くどくいわなくてもいい。まちがいなしだ"
],
[
"おい竹よ。いま事務長さんから特別手当が出た。ほら、わたすよ。手を出せ",
"なんだ。特別手当だって、いくらくれるのか知らないが、はて、あの事務長め、いつからこんなに気がきくようになったか"
],
[
"あっ、おれをどうするのか",
"わるくおもうな、おとなしくしろい。お前を縛ってつれもどれと、虎船長の命令だ"
],
[
"いやだい。あんな船へ、だれがかえるものか。お前、おれを売ったな",
"売ったなどと、人聞きのわるいことをいうな。これもお前のためだ。わしは飯も酒も……",
"いうな、うら切りお爺め! お前なんぞにふんづかまってたまるかい"
],
[
"あっ",
"うーむ"
],
[
"おお",
"うむ、いけねえ"
],
[
"へえ、私はもう、あの船へかえりたくないんです",
"なぜ。なぜか、そのわけをいえ",
"かえれば、死刑になりますからね",
"なぜ死刑になる?"
],
[
"日本人だったら、大人は、なにか、わしに呉れるんですかい",
"よくばるな。貴様に何一つ、呉れてやる理由があるか",
"なあんだ。それじゃ、日本人であってもなくても、同じことだ。つまらねえ"
],
[
"貴様は、相当図々しいやつだ。一たい、誰のゆるしを得て、このノーマ号のうえを歩いているのか",
"わしの気に入ったからですよ",
"なにッ",
"おどろくことはありませんや。船長さん、あなただって、この船が気に入ってればこそ、こうしてノーマ号にのって、船長とかなんとかを引きうけているのでしょう"
],
[
"とにかく、貴様みたいなわけのわからない小僧には、貴重な本船の食糧を食べさせておくわけにはいかん、日本人ならともかくもだが、中国人などに、用はない",
"……",
"用はないから、貴様をかたづけてやる。わが輩の腕力が、いかに物をいうかについては、貴様もさっき舷をとびこえて二匹の濡れねこが出来あがったことを知らないわけじゃあるまいね。どうだ"
],
[
"よわい者を、おどかしっこ無しだ",
"なにを、ぐずぐずいうか"
],
[
"さあ、どうだ。このまま舷へもっていって、ぽいとすててやろうか",
"なぜすてるのか",
"わかっているじゃないか。この船に、中国人なんか、用はないんだ。それとも、まっすぐに日本人だと、白状するか"
],
[
"よオし、貴様は、日本人でないことが、よくわかったぞ",
"えっ、中国人だということがわかりましたか",
"うふん。たしかに貴様は中国人であるということにしておけ。しかしよく見ているがいい、今に吠えつらをかかないがいいぞ。そのときは、なにをいってもおそいんだぞ。それまでは、この船で貴様を、やとっておいてやる"
],
[
"もし火薬船というのが本当のことなら、ノーマ号へのこるといった竹見の奴は、さすがにわしの部下らしく見上げた者じゃ。じゃが、あの男は、どうもたちがわるいから、俄に信用はできない",
"ええ船長、竹見のいっていることは、本当です。間違いはありません。私は太鼓判を捺しますよ"
],
[
"船長。どう決心がつかれましたか",
"ああ、わが艦隊へ無電を打つことか"
],
[
"やはり、艦隊へ無電をうつことは、当分見合わせよう",
"そうですか。見合わせますか"
],
[
"はい、さっき南西へ針路をてんじました",
"ほう、南西へ。どこへいく気かな"
],
[
"長官閣下、そのへんは、念入りによくしらべあげてあります。容貌や身長だけでなく、指紋までもしらべました。全く、例のポーニンにちがいありません",
"じゃあ、ただ一つちがっているのは、名前だけなんだね",
"そうです。フランス氏と名乗っていますが、もちろんこれは変名です。フランス氏などという名前は、フランスにだって、そう沢山ある名前じゃありませんからね",
"よし、わかった。では、謎の人物ポーニンに相違ないものとして、話をすすめよう"
],
[
"そこでじゃ。ポーニンが、しきりにセメントを買いあつめているというが、それは本当か",
"本当ですとも。まだ口約束だけのことですが、私の部下のしらべてきたところによると、こんなに有ります。このとおり、全部あつめるとたいへんな量です"
],
[
"ええと、これが五百袋。こっちの商会が、千二百袋。またこっちは、三百袋。……",
"合計して、どのくらいになるのか",
"ざっと勘定しまして、九百トンです",
"ふーン、九百トンのセメントか。相当の分量だ。そんなセメントを買いこんで、どうする気かな",
"当人は、今にセメントが値上りするから、買いしめておくのだ、といっているそうです",
"すると、値上がりのところで、売ってもうけるつもりなんだな。すると、単に、目さきの敏い商人でしかないではないか"
],
[
"それは、どうもおかしいですな",
"ポーニンが、金儲けだけに、うき身をやつしているとは思われませんねえ。イギリス大使からの内報をよんでも、単に、それだけの人物とはおもえない"
],
[
"ああ長官閣下。じつは、もう一人、報告をしてくるはずの者がいるのですが、とうとうこの時間に間にあいませんでした。すみませんです",
"もう一人というと、誰のことだ",
"は、それは……"
],
[
"格安のセメントというと",
"さようですな、お値段のところは、まあ殆んど半額みたいなものでございます。まったく、ばかばかしい値段で……",
"それは、どうした品物かね。つまり品質のところは、どうだね",
"いや、その品質という奴が、すこし他のものとはかわって居りましてナ、そこのところが値段をお安くねがっているところでございますが、つかいみちによっては、りっぱに使えますので……"
],
[
"値段のところは、まあどっちになってもいいんだが、普通品に比べてその品物の欠点というと、どんなことかね",
"実は二三の欠点がございます。まあしかし、そのうち主な欠点というのは、太陽の光線に会いますと、表面が白くなってまいります。つまり一種の風化作用が促進されるというわけですナ",
"ああ、太陽光線による風化作用か。そんなことはどうでもいいが、その他の欠点というのは……"
],
[
"いや、黒く色がつくだけのことで、べつに品質がかわるという意味ではございませんので……",
"もう他に、どんな欠点があるのか",
"いや、もうあとに、なにもありません",
"そうか。ではすこしかんがえたうえで、買うか買わないかを、はっきり決めよう。そのうちに、僕の方から電話をするからね",
"へい、どうもありがとうございます。どうぞよろしく"
],
[
"おい、どうだったか、モロ警部",
"ああ、長官。ポーニンの奴は、はなはだ奇怪なところへ、あの多量のセメントを売りこむようですよ",
"ふん、そうか。それで……",
"第一に、そこは太陽の照っていない場所です。第二に、そこは、塩分がある場所なんです。どうです、お分りになりますか"
],
[
"なんだ、それは。まるで謎々のだいみたいではないか。このいそがしいのに、そんな遊戯はよそうではないか",
"はははは。長官閣下、これは、遊戯的な謎々ではありません。現下の国際情勢の複怪奇性を解く重大な鍵の一つでありますぞ",
"ほう、モロ警部。はやく結論をいったがいい"
],
[
"つまり、長官閣下、これはポーニンの買いこんだセメントが、海底でつかわれることを物語っているのです",
"なんじゃ、海底でセメントを使う?",
"そうです。そのセメントは太陽光線で風化するぞと、私はポーニンにいったんですが、そんなことは平気だ、というのです。これはつまり風化をおそれないのではなくて、そこには太陽光線がとどかないから、だからおそれないという意味なんです。太陽光線のとどかないところといえば、地底か海底か、そのいずれかです",
"なるほど、手のこんだ推理だ"
],
[
"それから私は、潮風や塩分によって、そのセメントはすぐくろくなるぞといったのです。ポーニンは、これをきいて、くろくなるということは、セメントが分解して変質でもするという意味かと、聞きかえしました。私は、そうではない。黒ずんで見た目がわるいだけのことで、品質にはかわりないといったところ、ポーニンは、それなら自分の使い途にはさしつかえないというので、近日はっきり注文すると約束をしてくれました",
"うん",
"つまり、これで判断すると、ポーニンがこれからそのセメントをつかおうとする所は、塩気があるのです。――さきに申上げた第一で、地底か海底かのどっちかときまり、次の第二で、塩分の多いという条件が入れば、結局その答は、ポーニンのやつ、海底でそのセメントをつかうのだということになるではありませんか",
"なるほど、なるほど。それでよく分った。たった二つの質問でもって、そのような重大事実をつきとめたとは、最近モロ警部はなかなか凄腕になったものだ"
],
[
"えッ",
"セメントを海底へもっていって、一体何をするつもりかという問題じゃ",
"はあ、なるほど",
"なんだ、モロ警部。君が感心していては、こまるじゃないか。そのところが、事件の核心をつくものだとおもうが、君はまだその方をしらべきっていないのかね",
"はあ、まだですが……"
],
[
"例のフランス氏こと実はポーニン氏から、モロ警部さんあてにお電話よ。しっかりして、応対してくださいね",
"わーっ、とうとう来たか。よし、おちつくぞ。――つないでもいいぞ"
],
[
"ああ、もしもし。フランスですがね。あなたはこの間私のところへ来られた……",
"ああ、そうです、そうです。えッへん"
],
[
"ところで、例の話のことですがね、すぐお出でをねがいたい。場所はモンパリという料理店です。私の名をいっていただけば、すぐわかります",
"ははア、承知いたしました。す、すぐにうかがいますでございます。えッへん"
],
[
"ああ僕が知っているよ。さっき御当人から知らせがあったよ。料理店のモンパリにいるといってたよ",
"えっ、モンパリ、なんだ、同じ店じゃないか。あらためて出かけるまでもなく、モロ警部は、モンパリにいるのか。なんだかはなしがへんだね",
"すこしも、へんじゃないよ。モロ警部は、実は昨日から、ずっとフランス氏のあとをつけてまわっているんだよ。今の電話も、当人のモロ警部が、机の下かなんかにはいこんだまま、お先へ聞いてしまったかもしれないよ",
"うむ、なんでもいいから、すぐモンパリへ連絡しなきゃ、あとで大へんなおしかりに会うぞ"
],
[
"なにか御用ですかい。こんどは、トップスルまで、十五秒半でのぼって御覧に入れますかい",
"だまって、わしについてこい。面白いものを見せる",
"面白いもの?"
],
[
"まあ、入れ",
"はあ。ここは船長室ですか",
"ふん、それがどうした",
"いやに綺麗ですね。へえ、今夜はなにか始まるんですか。これは小型映画の機械じゃないですか"
],
[
"ははあ、おまえ、なかなかインテリだな",
"いえ、わしは活動の小屋で、ボーイをしていたことがあるんで",
"なんでもいい。面白いものを見せるといったのは、サイゴンに入港する前、お前にぜひ見せておきたいフィルムがあるんだ。今うつすから、まあそこで見ていろ",
"えっ。船長さん、おどかしっこなしですよ"
],
[
"ふふふふ、どうだ、この映画は、さぞ貴様の気に入ったろう",
"うむ――"
],
[
"わしには、よく分らないが、平靖号を映画にとるなんて、フィルムの方が勿体ないじゃないですか",
"ふふふふ。相手は平靖号だから、こうして貴重なフィルムをついやすだけの値打があるわけさ",
"ふん、ばかばかしい。きつい道楽というものですよ。とび魚のとんでいるところや、甲板を怒濤があらうところなどをとっておいた方が、よほど値打がありますよ",
"あはははは。そう狼狽しないでもいいじゃないか。この映画を見れば、平靖号の乗組員が、本当の中国人か、それとも偽せの中国人だか、よく分るのだ。これほど値打のある映画は、そうざらにあるものか"
],
[
"ふふふふ。貴様はなかなかはなせる男だぞ。そこでこっちのたのみというのは、平靖号まで貴様に、使いにいってもらいたいのだ",
"なに、わしに平靖号へ、つかいにいけというのですかい"
],
[
"そうだ、平靖号へいって、船長に、こっちの用件をつたえてくれ。その用件というのは、平靖号はこれからサイゴンに入港し、貨物を全部売りはらうか下すかして、そしてあらためて新しい貨物をつんで出航してもらいたいのだ",
"なんです、それは……"
],
[
"はやくいえば、サイゴン港において、平靖号をやといたいのだ",
"ああ、雇船となるのですか。そいつは駄目だ"
],
[
"貴様に平靖号をやとうから承知をしてくれなどといっているのじゃない。むこうの船長に、こっちの命令をつたえりゃ、それで貴様の役目はすむんだ",
"命令? 平靖号がそんな不法な命令を聞く必要がどこにあるものですか"
],
[
"これは命令だ。このノルマンの命令なのだ。平靖号の船長が、それを聞かないといったら、こういってくれ。“しからば、こっちは、お前の船が、中国人を装った日本人の乗組員でうごいていることを、むこうの官憲に知らせてやる。こっちには、それを証拠だてる映画があるぞ”と、そういってやるのだ。映画のことは、貴様に見せておいたから、どの位の値打のある映画だか、貴様から、よくはなしてやるんだ",
"それは脅迫だ。恫喝だ",
"ふん、なんとでもいえ。わしは、一旦決心したことは、やりとおす主義だ。さあ、これからすぐ用意をしろ、本船は、間もなく平靖号に接近して、停船信号を出す"
],
[
"船長。ああいう場面を撮影されちまったんですから、サイゴンに入港するとたんに訴えられ、そこでそのまま拿捕されてしまいますぞ",
"いや、われわれ日本人は、東洋水面において、他国人から威嚇される弱味は、なんにも持っていないんだ"
],
[
"船長。潜水艦がいます。ノーマ号から注意のあったとおり、本船の左舷前方、わずか五百メートルのところに、潜望鏡が見えます",
"なに、潜水艦が、本船を狙って五百メートルの近くに……。うむ、そうか"
],
[
"おいそがしいところをよびつけて、すみませんなあ。じつはおり入って、あなたに相談があるんです",
"はあ、セメントの値段を、もっとまけろとおっしゃるのですか",
"いや、その話は、べつです。後でしましょう",
"ははあ、セメントのはなしでないというと、はて、どんなことでしょうか"
],
[
"いや、外でもないが、あなたに大金儲けをさせたいんです",
"大金儲け? ほう、この私にですか",
"そうですとも、それには、あなたに、今つとめているセメント会社をやめてもらって、その代り、私の所有船の船長になってもらいたいのです",
"えっ、セメント会社の社員をやめて、船長になれというんですか",
"私のもうけの二割を、あなたに提供します。数十万フランにはなるでしょう",
"一体その船は、何という船ですか",
"私が買う以前は、平靖号という船名を持っていた中国の貨物船なんです"
],
[
"ノーマ号に屈服するなんて、なにがなんでも、あまり情けないことです。船長、わが平靖号が日本を出発するときの、あの天をつくような意気は、どこへおとしてしまったんですか",
"かりそめにも、ノールウェーの一汽船のため、あごでつかわれるとは、日本男児のはじです。あとのことはあとのこととして、サイゴンへ入らないうちにノーマ号の中へ斬りこんでは、どうでしょう",
"そうだ。それがいい。平靖号をノーマ号のそばへ持っていって、いきなりぶっつけるのもいいとおもう。竹見のはなしによると、むこうの船は、火薬船だということだから、こっちからぶっつけたとたんに、火薬が爆発して、船長ノルマンはじめ船もろともに、空中へふきあげられてしまうだろう。ねえ、船長。それをやってみようじゃないですか"
],
[
"だが、われわれは匹夫の勇をいましめなければならない",
"えっ、いまさら、匹夫の勇などとは……"
],
[
"なにごとも、自分のおもいどおりになるものじゃないのだ。全力をつくしても、そこには運不運というやつが入ってくる。時に利のないときにも、かならず突破しなければならぬとおし出していくのは、猪武者だ、匹夫の勇だ。すすむを知って、しりぞくを知らないものは、真の勇士ではない",
"じゃあ、船長は、どうしろというのですかい"
],
[
"だから、わしはお前たちに、かんがえなおせというのだ。あんな不利な映画まで撮ったノルマンという船長は、只者ではないぞ。汽船だって、ノールウェー汽船といっているが、そうじゃあない。ここは、こっちの負けだ。こっちに油断があったのだから、仕方がない。負けを負けと承知して、しばらく運とともにながれてみようじゃないか",
"運とながれるって、船長、どうしろというのですか",
"つまり、しばらくノルマンのいいなり放題になっていることさ",
"ううん、癪だなあ",
"そうして様子をうかがっていれば、そのうちに、むこうにきっと、油断ができるにちがいない。そのときこそは、わしが号令をかけるから、そこでみな立って、日東健児の実力をみせてやるのだ。わしの好きな大石良雄はじめ赤穂四十七義士にも、時に利あらずして、雌伏の時代があったではないか"
],
[
"うわっはっはっ。はじめから、あっさり、それを承知すればいいのに。つまらんことで、いい加減、手数をかけやがった。さあ、おくれた船足をとりかえして、先へいそごうぜ",
"はい、はい。心得ました"
],
[
"いよいよ、やってきたぜ。あれみろ、妙なかっこうの寺院みたいなものが見えらあ",
"ふん、あれはノートル・ダムだろう。おれたち俘虜ども一同そろって、はやく武運をさずけたまえと、おいのりにいこうじゃないか",
"やかましいやい。捕虜だなんて、おもしろくねえことを、いうもんじゃない"
],
[
"船長。いよいよ来ましたぜ。船長ノルマンが、七八人ひきつれて、船長に会いたいといってやってきました。竹見の奴も、いけしゃあしゃあと、案内に立っていやがるんです",
"なに、もうノルマン一行が来たか。おい、事務長。ここはいいから、お前がすぐいって、応接しろ"
],
[
"そこにすわっているのが、虎船長です。両脚がないんだから、椅子から下りて、気をつけをしろなどとは、いわないようにねがいますよ",
"ふん、そうか。わしは、足のない船長に、用事をいいつけようとはおもわない。新しい船主のフランス氏も、同じことをいっていられるよ"
],
[
"いや、本船の積荷を売りはらうことは、いずれゆっくり、かんがえることにして、まず大いそぎで、この積荷を下ろしてもらいましょう",
"へえ、すぐというと、今夜にもといういみですか",
"そうです。夜分の荷役は、なかなかむずかしいというかもしれないが、やってやれないことはない。さあロロー船長。はじめて船長になったあなたのうでだめしだ。すぐはじめてください"
],
[
"もっと後とは、いつのことですか。酒なんてものは、はやい方がいいのだが……",
"それは、私がゆるしません。酒をのめば、仕事をする力がなくなる。ここはなんでも、私の命令どおり、まず雑貨をいそいで下ろし、それに引きつづいて、セメントをいそいでつみこんだ上で、酒宴をゆるすことにしましょう",
"ははあ、セメントを、はやくつむことが必要なのですね。どうして、そんなにセメントをはやくつみこまなければならないのですか"
],
[
"おい船長。われわれは、いま事業のうえで、非常時に立っているのだ",
"どうも、わかりませんね。雑貨をセメントにつみかえることが、なぜ非常時なんですか。私は船長として、部下にたいし、わけのわからないことに、無闇に力を出せとは、命令しかねます",
"どうも、こまったやつだ"
],
[
"君、こまるじゃないか。すこしは、こっちのむねの中を察してくれなくちゃ。日ごろ、あたまのいい君にも似合わないぜ",
"一体どうしたというんです。そのわけというのは",
"あべこべに、取調べをうけているようなかっこうだ。いやだね"
],
[
"じつは、こうなんだ。私が今、うけおっている仕事というのは、海の底に、潜水艦の根拠地をつくるという大仕事なんだ",
"ええっ、海のそこに、潜水艦の根拠地を? 一たいそれは、どこの国の計画なんですか"
],
[
"ふふん、どうもこうもない。計画したことは、途中でどんな邪魔がはいろうと、かならずその計画どおりにやりとげるのが私の主義だ",
"すると、すぐ、この平靖号の荷役がはじまるというわけですな",
"もちろん、そのとおりだ。君の船からも、出せるだけの人数を出して手つだわせてもらおうかい。あの方の仕事は、一日でもはやくかからないと間に合わないからね",
"はい、わかりました。では、帰船して、力のあるやつを、できるだけたくさんかり出しましょう",
"うん、そうして呉れ、私も一しょに、君の船へいこう。ほかに、すこし相談したいこともあるから……"
],
[
"なんだい、あの白人は。いやに、すごい目を光らせていたじゃないか",
"あいつが、この船を買って、セメントをつみこむんだとさ。どうも、この平靖号もおかしなまわりになってきたのう",
"虎船長にもう一度いって、今夜のうちに、サイゴンからずらかることにしちゃ、どうかな",
"そうもなるまい。ノルマンのやつは、どうやらこの土地でも、にらみが利く男らしいから、うっかりしたことはできない。まあ、虎船長のはなしじゃないが、こちとらは時節をまっているんだね",
"どうも、いまいましいあのノーマ号だ"
],
[
"このうえは、彼奴を、なんとかしなければなりませんね",
"そうだ、そのことだ"
],
[
"えっ、青斑の毒蛇を……",
"これ、声が高い!"
],
[
"なあに、大したことはありませんや。このあんばいじゃ、夜明けまでにかたづくでしょう",
"いや、私はもっとはやいような気がする。もう下には、いくらも貨物がのこっていませんよ。すめば、あなたの申出があったように、酒を出します",
"ああ、酒なんか、もうどっちでもいいです",
"いやいや、御遠慮はいらない。倉庫のところからすこしいったところに、あなたも知っているでしょうが、雑草園という酒場がある。あそこへ酒の用意をさせましょう",
"えっ、雑草園ですか。もう、そこへ酒をたのんだのですか"
],
[
"うまくいきそうですね",
"ふむ、やっこさん、雑草園へいけば、きっとガーデンの卓子の前にこしかけて、一ぱいやりたくなるにきまっている。そのとき、なんとかいった大きな男が出ていって、うしろから知れないように、うまくやるだろう",
"ああ、あれは巨人ハルクです。青斑の毒蛇は、ハルクにわたしておきました",
"ハルクか。そのハルクは、きっとうまくやるだろうね。毒蛇を仕こんでおいたステッキの蓋の明け方を、彼はよくおぼえただろうね。あれは、知らない者がやっても、決して明かないように、複雑な機構にしてあるんだ",
"あの明け方は、一度や二度きいたのでは、おぼえきれませんよ。ですから、私は、予め蓋をもうすぐ明くというところまで外して、ゆるめておきました"
],
[
"さあ。わしはなんにも知りませんが、今雑草園へ入っていった旦那に、このステッキをわたしてくれと、たのまれましたのです",
"ふーん、それをたのんだのは何者か",
"さあ、わしの知らない人ですが、どうやらそのすじの人らしい……",
"よし、わかった。もう後をいうな。ステッキをこっちへよこせ"
],
[
"あっ、船長",
"余計な口をきくな。はやくやれ、はやく。その先生をかかえて、こっちへ来い"
],
[
"まず、これでいい",
"船長、ひどいことをするじゃないか。わしには何にもいわないで……",
"れいをする。だから喋るな",
"毒蛇をわしにあずけておいて、用心しろ、咬まれるとお前の生命があやういぞともいってくれなかったのは、いくらなんでも……"
],
[
"おや、お前どうした、ハルク",
"あ、いけねえ……",
"なに、いけない。なにが、いけないというのか"
],
[
"うむ、さては",
"船長。あの蛇は、毒蛇だったんだな"
],
[
"こら、ハルク。しっかりしろ。お前が、どじをふんだもんだから、だれをうらむこともないぞ",
"なにを、船長ノルマン。お前は、ず太いが、卑怯者だ。なぜ、正直者のおれに人ごろしをさせた。しかもおれには、わけもなんにも知らせないで……。おれをペテンにかけやがった。正直者のおれを……"
],
[
"おい、ここじゃ、具合がわるい。かたをかしてやるから、つかまれ。あっちで、医者に診せてやるから",
"うーん、いたい"
],
[
"うっ、くるしい。もっと、しずかに……",
"ちぇっ、なんだ、ふだんは巨人ハルクといわれていばっているあらくれ男のくせに。これくらいのことで音をあげるたあ、死に損いの女の子みたいじゃないか",
"ま、まって……",
"しっかりしろ。ぐずぐずしてりゃ、二人ともつかまっちまう"
],
[
"おう、だれにもいうな。こいつ、意気地がないから、やられちまったんだ。おくへ入るから、だれにもだまっているんだぞ、いいか",
"へい、へい"
],
[
"さわぐな。お前には関係のないことだ。むこうへいけ――",
"いやだ、仲間のくるしんでいるのを知って、放っておけるものですか",
"なに、反抗するか。竹、船長の命令だ。おもてへいって、お前は仕事をつづけろ",
"いくら命令でも……",
"うるさい野郎だ。じゃあ、早いところ、はなしをつけるぞ。これでも、おれの命令にしたがわぬというか"
],
[
"船長。は、はやく……",
"おい、ハルク",
"ええッ",
"くたばるものなら、はやくくたばってしまえ",
"な、なんと……",
"そうじゃないか。お前の不注意で、蛇にかまれたんだ。そのおかげで、おれにまで、つまらない心配と、無駄な時間とをついやさせやがった。お前がはやく死んで呉れれば、おれはたすかるのだ。おればかりではない、全乗組員も、ポーニン委員も、皆たすかるんだ",
"ううーッ",
"お前も、そのくらいのことは、察しがつくだろうがな。お前を医者にかけてみろ。お前が雑草園で、なにをしたかということが、すぐ世間へばれてしまうじゃないか。ノーマ号と平靖号とが、特別の積荷をそろえて、無事このサイゴン港を出航できるまでは、お前のその身体は、だれにも見せたかないんだ",
"うう、この悪魔め!",
"こういうわけだと、そのわけを聞かせてやるのも、あの世へたび立つお前への手土産のつもりだ。もっとも、医者にみせたって、この有様じゃ、所詮たすかる見こみはないにきまっていらあ",
"ち、畜生! お、おれは死なないぞ!",
"これ、しずかにしろ",
"お、おれの死ぬときゃ、き、貴様たちも、地獄へ引ぱっていくんだ。は、うん、くるしい",
"まだ、喋るか",
"だれが、き、貴様たちの計画どおりに――",
"だまれ!"
],
[
"お、おのれ!",
"おい、ハルク、おれだ、竹だ。お前の仲よしの竹だよ、ほら、よく見ろ"
],
[
"一体どうしたのだ。ハルク。おや、脚をしばったり……。おお。脚が紫色に腫れあがっているぞ",
"へ、蛇だ。ど、毒蛇だ……",
"なに、毒蛇にやられたのか、そいつは災難だなあ",
"いや、ノルマン……"
],
[
"た、竹。おれは、うれしいぞ。おれは、まだ死にはしない",
"うん、死ぬものか"
],
[
"おい、た、竹。おれのズボンのポケットから、水兵ナイフを出して……刃を起せ!",
"水兵ナイフ! 危いじゃないか",
"いや、は、はやくしろ。そして、おれの手ににぎらせてくれ"
],
[
"はやく、は、はやく、こっちへ呉れ。な、なにをぐずぐずしている……",
"はやく渡せといっても、お前、これをにぎってどうするつもりか"
],
[
"ほら、そんな無理をするから、余計にくるしくなるじゃないか。おい、ハルク、おれが、これから出かけて、医者をさがして、呼んできてやる",
"い、医者なんか、だめだ。お、おれは、自分で、やるんだ"
],
[
"もっと強く、しばれ",
"でも、これ以上やると、皮がやぶけるぞ",
"皮ぐらい、やぶけてもいいんだ。なんだ、お前の力は、それっばかりか",
"なにを。うーん"
],
[
"これでいいか",
"うん、よし"
],
[
"竹、お前、向うへいっておれ",
"なんだと、――",
"お前がいると邪魔だ。向うへいっておれ",
"なにをするつもりだ",
"ええい、うるさい野郎だ。見ていてこしをぬかすな。これが、おれのさいごの力一杯なんだ!",
"えっ"
],
[
"おい、ハルク",
"だまっておれ! くそッ"
],
[
"おい、結果を早く聞こう。あれは、どうした。そのすじの密偵を片づけることは?",
"あははは、もう安心してもらいましょう。あいつは二度と、この船へはやって来ませんぜ。万事すじがきどおり、うまくいきました。蛇毒で昏倒するところを引かかえて、あの雑草園の下水管の中へ叩きこんできました。死骸は、やがて海へ流れていくことでしょうが、それは永い月日が経ってのちのことで、そのときは、顔もなにもかわっているし、この船も、このサイゴン港にはいないというわけです",
"そうか。それはよかった。ハルクには、特別賞をやらにゃなるまい",
"そのハルクも、序に片づけておきましたよ。万事片づいてしまいました。あとは、一意、われわれの計画の実行にとりかかるだけです"
],
[
"なに用だ、事務長",
"なんだか、へんなやつが、船へやってきましたよ。ロロー船長がこっちに来ていないでしょうか、と、たずねているのです",
"なに、ロロー船長?"
],
[
"船長ロローは、上陸したが、なにか用事があって、まだ帰ってこない――と、そういえ",
"はい",
"それから、なにか用なら、聞いといてやるからと、そういってみろ",
"はい、かしこまりました"
],
[
"ごらんなさい。さっそく警備庁の連絡係が、ロローのところへのりこんできたんですよ",
"ふん、あの一件を嗅ぎつけたんだろうか。それとも、平靖号の乗組員が、こっちを裏切って、密告したんだろうか"
],
[
"ふん、それでよかろう。では、さっそく、雑草園で、大盤ふるまいをはじめよう。お前、みなにそう伝えろ。船にのこっているやつも、できるだけ、上陸させてやるがいい",
"ええ",
"どうする、その大盤ふるまい始めの命令は。お前がもう一度上陸して、伝えることにするかね",
"いや、私はここにいます。そして事務長を上陸させましょう。",
"お前は上陸しない。なぜだ",
"雑草園には、あなたや私がいない方がいいのですよ。いりゃ、またそのすじのやつなどにつかまって、こっちも、したくない返事をしなきゃならない。われわれがいないで、みなに勝手に飲ませて、大いにわいわいさわがせておけば、官憲が調べようたって、手のつけようがありませんよ",
"ふむ、なるほど。それは名案だ。じゃあ、事務長をよんで、お前から上陸命令をつたえろ",
"よろしゅうございます"
],
[
"だ、誰だ!",
"なんだ、やっぱり竹じゃねえか",
"そういうお前は……",
"誰でもねえや。おれだ。丸本だ!",
"えっ、丸本、なんだ、貴様だったのか。ちえっ、おどかすない"
],
[
"こら、あんな雑草園のふるまい酒ぐらいに酔いたおれるなんて、だらしがないぞ",
"冗談いうな。おれは酔っちゃいない"
],
[
"おお、そうか。虎船長は、いまは平靖号の船長ではなくなって、さぞさびしいことだろう。おれは、ひょっとすると、ハルクが、平靖号へにげこんでやしないかとも思っていたところだから、これから一緒に平靖号へ帰ろうじゃないか",
"うん。帰るというのなら、ちょうどいま、ランチが一せき、あいているんだ。おれは、それにのって帰ろうと思っていたところだ。じゃあ、ちょうどいい"
],
[
"おーい、そのランチ、待て",
"だ、誰だ",
"おれだ"
],
[
"おや。一等運転士。どうなすったので",
"うん、雑草園でぐいぐいと酒をあおっていたんだが、妙に船が気になってなあ。それでぬけて来たんだ",
"えっ、そうですか。妙に船が気になるなんて、どうしたというわけです",
"どうもわからん。こんな妙な気持になったことは、初めてだ",
"ははああ、虎船長のことが、やっぱり心配になるんでしょう",
"いや、船長のことは心配しなくともいいんだが、船のことが、いやに気になってねえ。ともかくも、早くランチをやれ",
"へえ、合点です。おい、竹見、考えこんでないで、手つだえよ",
"なんだ竹もいるのかね",
"へい、一等運転士。そういえば、わしもなんだか船のことが気がかりなので……",
"よせやい、竹。お前の心配しているのは、ハルクのことじゃないか。いやに調子を合せるない",
"うん、ところが、おれも急に今、船のことが気がかりになってきたんだ。どうもへんだねえ",
"ふん、何をいい出すか……"
],
[
"いやに静かだねえ",
"そうでしょうとも。虎船長のほかに、だれもいないんですよ",
"まさかネ"
],
[
"――そういえば、思い出した。さっき、丁度この真上の甲板あたりで、がたんと、大きな音がしたんだ。なにか、物をなげつけたような音だった。行ってみようと思ったが、生憎傍にはだれもいないし、そのままにしておいた。あれは何の音だったか、だれかいって、見てくるがいい",
"はあ、この真上の上甲板あたりでしたか。その音のしたのは?"
],
[
"あっ、それはハルクの持っていた水兵ナイフだ!",
"えっ?"
],
[
"おい、なにか手紙みたいなものが、えにまいてあったぞ",
"手紙?"
],
[
"なに、ほう、これは竹見、お前あての手紙だ",
"なんですって、何と書いてあるんですか"
],
[
"こういうんだ“親愛ナル竹ヨ。俺ハ復讐ヲスルンダ。コノ手紙ヲ見タラ、オ前ノ船ハスグニ抜錨シテ、港外へ出ロ。ハルク”どういう意味だろうか、この手紙は",
"えっ、復讐! 復讐は、わかるが、お前の船は、すぐにいかりをあげて、港外にでろというのがわからない",
"ふむ、お前に喧嘩を売るんだったら、親愛なる竹よは、へんだね",
"あっ、そうだ!"
],
[
"一等運転士、すぐに抜錨を命じてください。でないと、この船は沈没しますぞ",
"なぜだ、とつぜん何をいう。なぜ、そんなことを",
"さあ、すぐ抜錨しないと危険です。一秒を争います。さあ、命令を……",
"おお、この事かなあ、さっきからの、わしのむなさわぎは!"
],
[
"大至急、抜錨。総員、部署につけ!",
"な、なんだって!"
],
[
"避難演習かね、これは",
"だまって、はやくやれ! 本物なんだぞ",
"気はたしかかね",
"お前、死にたくないのなら、黙って、命ぜられたとおりやれ!"
],
[
"早くやるんだ。じゃあ、錨は、そのままにしておいて、船を出せ。全速力! 全速力でやるんだ",
"全速といっても、錨が……",
"かまうことはない、錨索はフリーにしておいて、船を走らせるんだ"
],
[
"だめです。一等運転士。錨が上らなきゃ、もうどうしてもうごきません",
"もっと石炭を放りこめ、蒸気が、まだ十分あがっていないじゃないか",
"だめです。そんなに早くは…………",
"石炭! 送風機! バルブ全開! 錨を切っちまにゃ……"
],
[
"ああッ!",
"うむ、爆発だ!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
初出:「大日本青年」(「浪立つ極東航路」のタイトルで。)
※「丸本慈三」と「丸本秀三」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年3月5日作成
2009年7月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"どう? うまくなったかい",
"いいえ、先生。とても駄目ですわ。――棺桶の蔽いをとるところで、すっかり力がぬけちまいますのよ",
"それは困ったネ。――いっそ誰か棺桶の中に入っているといいんだがネ……"
],
[
"なんだい、小山",
"先生、あたしが棺の中に入りますわ",
"ナニ君が……。それは――"
],
[
"おお、これはどうしたッ",
"アラ小山さんが……"
],
[
"……あのゥ先生、棺をもちあげたとき、あたし変だと思ったんですのよ。だって、小山さんの身体が入っているのにしては、とても軽かったんですもの",
"ええ、あたしもびっくりしたわ",
"でも、担いでしまったもんで、つい云いそびれていたんですわ"
],
[
"オイ房子",
"なによォー",
"どうだ、今夜は日比谷公園の新音楽堂とかいうところへいってみようか。軍楽隊の演奏があってたいへんいいということだぜ",
"そう。――じゃあたし、行ってみようかしら",
"うん、そうしろよ、これからすぐ出かけよう",
"アラ、ご飯どうするの",
"ご飯はいいよ。――今夜は一つ、豪遊しようじゃないか",
"まあ、あんた。――大丈夫なの",
"うん、それ位のことはどうにかなるさ。それに僕は会社で面白い洋食屋の話を聞いたんだ。今夜は一つ、そこへ行ってみよう。君はきっと愕くだろう",
"あたし、愕くのはいやあよ",
"いや、愕くというのは、たいへん悦ぶだろうということ、さあ早く仕度だ仕度だ、君の仕度ときたら、この頃は一時間もかかるからネ"
],
[
"だってあんたと出かけるときは、メイキャップを変えなきゃならないんですもの。それにあんただって、なるたけ色っぽい女房に見える方が好きなんでしょ",
"……",
"ねェ、黙ってないで、お返事をなさいってば。――あんた怒っているの",
"莫迦ッ。だ、だれが怒ってなぞいるものかい"
],
[
"いいじゃないか",
"だめ、だめ。駄目よォ"
],
[
"あッ、素敵。――さあ、お見せ",
"ホホホホ――",
"さあお見せ、といったら",
"髪がこわれるわよォ、折角結ったのにィ――"
],
[
"あんたってば、無口なひとネ",
"いや、感きわまって、声が出ない"
],
[
"おばさん、ちょっと出掛けます",
"あーら、松島さん、お出掛け? まあお揃いで――。いいわねえ",
"おばさん、留守をお願いしてよ",
"あーら、房子さん。オヤ、どこの奥さんかと見違えちゃったわ。さあ、こっちの明るいところへ来て、このおばさんによく見せて下さいな",
"まあ恥かしい。――だって、あたし駄目なのよ、ちっとも似合わなくて。ホホホホ"
],
[
"ミチミ、お美味いかい",
"ええ、とってもお美味いの。このお料理には、どこか故郷の臭がするのよ。なぜでしょう",
"ほう、なぜだろう。――セロリの香りじゃない",
"ああセロリ。ああそうネ。先生のお家の裏に、セロリの畑があったわネ",
"また云ったネ。――今夜かえってからお処刑だよ",
"アラ、あたし、先生ていいました? ほんと? ごめんなさいネ。でもあなたがミチミなどと仰有るからよ",
"ミチミはいいけれど、先生はいけないよ",
"まあ、そんなことないわ。あたし先生ていうの大好きなのよ。いいえ、あなたがお叱りになるように、けっして他人行儀には響かないの。それはそれはいい響きなのよ。先生ていうと、あたしは自分の胸をしっかり抱きしめて、ひとりで悩んでいたあの頃のいじらしいミチミの姿を想い出すのよ。おお杜先生。先生がこうしてあたしの傍にいつもいつも居てくださるなんて、まるで夢のように思うわ。ああほんとに夢としか考えられないわ",
"ミチミ、今夜君は不謹慎にも十遍も先生といったよ。後できびしいお処刑を覚悟しておいで"
],
[
"またいつもの十八番が始まったネ。今夜はもうおよしよ",
"アラいいじゃないの。あたし、あの話がとても好きなのよ。まあ、こういう風にでしょう。――僕はすっかり落胆した。恐怖と不安とに、僕の眼前はまっくらになった。ああミチミはどこへ行った? 絶望だ、もう絶望だッ!",
"これミチミ、およしよ",
"――しかし突然、僕はまっくらな絶望の闇のなかに、ほのかな光り物を見つけた。僕は眼を皿のように見張った。明礬をとかしたように、僕の頭脳は急にハッキリ滲んできた。そうだ、まだミチミを救いだせるかもしれないチャンスが残っていたのだ。僕はいま、シャーロック・ホームズ以上の名探偵にならねばならない。犯行の跡には、必ず残されたる証拠あり。さればその証拠だに見落さず、これを辿りて、正しき源を極むるなれば、やわかミチミを取戻し得ざらん――",
"もういいよ。そのくらいで……",
"僕は鬼神のような冷徹さでもって、ミチミの身体を嚥んだ空虚の棺桶のなかを点検した。そのとき両眼に、灼けつくようにうつったのは、棺桶の底に、ポツンと一と雫、溜っている凝血だった。――おかしいわネ。そのころあたりはもうすっかり暗くなっていたんでしょう。それに棺桶の底についていた小さい血の雫が分るなんて、あなたはまるで猫のような眼を持っていたのネ",
"棺桶の板は白い。血は黒い。だから見えたのに不思議はなかろう。――だが、もう頼むから、その話はよしておくれ。どうして君は今夜にかぎって、そう興奮するのだ"
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"あたし、なんだか今夜のうちに、思いきりお喋べりしておかないと、もうあんたとお話しができなくなるような気がしてならないのよ",
"そんな莫迦げたことがあってたまるものか。ねえ、君はすこし芯がつかれているのだよ",
"そうかもしれないわ。でもほんとに、今夜かぎりで、あんたと別れ別れになるような気がしてならないのよ。ああ、もっと云わせてもらいたいんだけれど――そこで先生が、棺桶のなかから、凝血を採集していって、それを顕微鏡の下で調べるところから、それは人血にまぎれもないことが分るとともに、その中からグリコーゲンを多分に含んだ表皮細胞が発見されるなんてくだりを……",
"ミチミ。僕は君に命令するよ。その話はもうおよし。それに日比谷の陸海軍の合同軍楽隊の演奏がもう始まるころだから、もうここを出なくちゃならない。さあ、お立ち"
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"オイ火事はこっちだッ",
"いや、向うだよ",
"いけねえ、あっちからもこっちからも、火事を出しやがった",
"おう、たいへんだ。早く家の下敷になった人間を引張りださないと、焼け死んでしまうぜ"
],
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"駄目だ。これは抜けない",
"アノもし、あたしが痛いといっても、それは本心じゃないんです",
"え、本心とは",
"あたしは生命をたすかるためなら、手の一本ぐらいなんでもないと思ってます。痛いとは決していうまいと思っているのに、手を引張られると、心にもなく、痛いッと叫んじゃうの。……ああ、あたしが泣くのにかまわず、手首を引張って下さい。そこから千切れてもいいんです。あたし、死ぬのはいや。どうしてもこんなところで死ぬのはいや"
],
[
"お内儀さん、気をたしかに持つんだよ",
"なむあみだぶつ――"
],
[
"待って。――後生ですから、あたしを、連れていって下さい",
"困るなァ。僕は僕で、これから会社へちょっと寄って、それから浅草の家がどうなったか、その方へ大急ぎで廻らなければならないんですよ。とてもお内儀さんの家の方へついていってあげるわけにはゆきませんよ"
],
[
"――すみません。あたしが気が利かないで。――",
"なァに、そんなもの、なんでもありゃしない"
],
[
"危い危い。冗談じゃない。そんな無茶を云うんだったら、僕はそこで手を離して、君だけ河ンなかへ落としちまう――",
"いやよいやよ。お前さんが離しても、あたしは死んだってお前さんの首を離しやしないわ、どうしてお前さんはそう邪怪なんでしょうネ。いいわ、あたしゃ、ここで死んじゃうわよ、もちろんお前さんを道づれにして――",
"こーれ、危いというのに。第一、みっともない――"
],
[
"あぶないッ――これ止せッ",
"これ、生命を粗末にするなッ"
],
[
"――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ",
"ええッ。――",
"意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ"
],
[
"あんた、お金持ってないの",
"うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って",
"あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、蝋燭を買わない。今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ",
"なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな",
"こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ",
"よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ"
],
[
"ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった",
"フフン、それはビールのせいだろう",
"いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱カタルになったと思うのよ。――"
],
[
"き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――",
"はッはッはッ、無断で無断でと仰有りますが、実はこのことについて貴公に伺いたいのだ",
"なんだとォ――"
],
[
"フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ",
"なにッ――では君は",
"もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――",
"ああ、そうだったか。貴方は、死んだことと思っていたが――",
"ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる",
"さあ――"
],
[
"――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町の殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁をつけに来たのよ。あなた心配しないでネ",
"でも、こうなっては僕も――",
"心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ",
"そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込か芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――"
],
[
"たしか麹町の殿様半次とか云っていました",
"ええっ、殿様半次だと、――"
],
[
"ああよかった。いらっしったのネ",
"ど、誰方?――"
],
[
"よく分ったネ。こんな所にいるということが――",
"ええ。――でも、新聞に貴郎のことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ",
"いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔がさしたんだネ。誰を怨むこともないよ"
],
[
"もうわざとらしい云い訳なんかしないでいいよ。君は正面きってあの長髪の御主人の惚気を云っていいんだよ",
"まあ、――"
],
[
"貴郎はあたしのことを誤解しているのネ。きっと御自分のことを考えて、あたしの場合も恐らくそうだろうと邪推しているんでしょ。そんな勝手な考え方はよしてよ。あたしムカムカしてきてよ",
"いやにむきになるじゃないか。むきにならざるを得ないわけがありますって、自分で語るようなものだよ。もうよせったら、そんなこと。僕は一向興味がないんだ",
"先生――"
],
[
"先生、あたしはもともとそんなに節操のない軽薄な女なんでしょうか。いえいえそれは全く反対です。先生はそれをよく御存知だったじゃありませんか。先生がどんなことをされていても、あたしはそれに関係なく、いつも純潔なんです。魂を捧げた方に、身体をも将来をも捧げますと固く誓った筈です。それをどうしてムザムザあたしが破るとお考えなんです。あたし、ほんとに無念ですわ。無念も無念、死んでも死に切れませんわ。あたしが先生のために、どんな大きな艱難に耐えどんなに大きな犠牲を払ってきたか、先生はそれを御存知ないんです。しかし疑うことだけはよして下さい。少くともあたしの居る前では。――あたしはいつでも先生の前に潔白を証明いたします。今でももし御望みならば――",
"おっと待ちたまえ。君はまるで、夢の中で演説しているように見えるよ。長髪の青年氏と同棲していて、なんの純潔ぞやといいたくなる。もっとも僕は一向そんなことを非難しているわけではないがネ",
"まあ、そ、それは、いくら先生のお言葉でも、あんまりですわ、あんまりですわ。――"
],
[
"さあそれでいいわ。――ではバラックの中にあるあたしの必要なものを片づけましょう。一緒に行って、片づけてくれない",
"ウン、行ってもいいかしら",
"もう大丈夫よ。有坂は、もうなんにも邪魔をしないわよ"
],
[
"これがあたしの自由を奪っていたものよ。この有坂さんは、この前は今夜貴郎がやってくれたと同じようにお千さんの始末をするのを手伝ってくれたのよ。もちろん、すべての計画と命令とは、あたし一人がやったんだわ",
"人を殺してどうするんだ",
"そんなことはよく分っているじゃないの。あたしはただ貴郎が欲しいばっかりよ。だからそれを邪魔する者を片づけたばかりなんだわ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「ぷろふいる」
1937(昭和12)年1~3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年12月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003532",
"作品名": "棺桶の花嫁",
"作品名読み": "かんおけのはなよめ",
"ソート用読み": "かんおけのはなよめ",
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"初出": "「ぷろふいる」1937(昭和12)年1~3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-01-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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} |
[
[
"つッ突き当りやがって、挨拶をしねえとは何でえ。こッこの棒くい野郎奴",
"……",
"だッ黙ってるな。いよいよもう、勘弁ならねえ、こッ此の野郎ッ"
],
[
"死線は近づいたぞ",
"かねて探していた敵の副司令が判ったというわけだな",
"ウン、義眼を入れたレビュー・ガールとは、うまく化けやがった",
"だが間諜座へ入ることは、地獄の門をくぐるのと同じことだ。固くなったり、驚いたりして発見されまいぞ",
"あのなかは敵の密偵で一杯なんだろうな",
"毎夜、観客の中に百人近くの密偵が交っているということだ。そして何か秘密の方法で、舞台上の首領と通信をしているそうだ",
"首領よりか副司令のあの小娘が恐ろしいのか",
"そうだ。あの小娘は悪魔の生れ代りだ",
"するとあの副司令を今夜のうちに、こっちの手でやッつける手筈になったんだな",
"ウン。――どうしてやッつけるかは知らないが、副司令のやつ、義眼を入れてレビュー・ガールに化けているてぇことを、嗅ぎつけられたが運の尽きだよ。おお、もう五時半だ。あといくらも時間が無いぞ。さア出発だ"
],
[
"地獄で会おうぜ",
"世話になったな"
],
[
"ウン",
"ところで注意を一つ餞別にする",
"ほほう。ありがとう",
"あの間諜座ね『魚眼レンズ』のついた撮影機で、観客一同の顔つきが何時でも自由自在にとれるんだそうだ。ぬかりはあるまいが、顔色を変えたり、変にキョロキョロしちゃいかん。皆の笑うところでは笑い、皆が澄ましているときには澄ましていなくちゃいかん。いいかね",
"魚眼レンズを使っているのか? よおし、油断はしないぞ",
"義眼を入れたレビュー・ガールの名前をつきとめるんだって、誰にも尋ねちゃ駄目だぞ。敵の密偵は巧妙に化けている。立ち処に殺されちまうぞ",
"ウン、誰にもきかんで、見付けちまおう",
"見付ける方策が立っているのか",
"うんにゃ、そういうわけでもないが、プログラムを探偵すれば、何々子という名前がきっと判るよ",
"それで安心した。じゃ別れるぞ。しっかりやれ、同志QX30!",
"親切有難うよ"
],
[
"さア、お前はどこに決めるんだ",
"俺は断然、この丸花一座を観る",
"じゃ俺もそう決めた。……いいよいいよ、今夜は俺が払うから、委しとけ",
"イヤ駄目だい。今夜は俺に払わせろ",
"いいんだよオ",
"いけないよォ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「日曜報知」報知新聞社
1932(昭和7)年11月12日号
※「茶店娘《ちゃみせむすめ》」は底本のプログラムでは「薬屋娘」ですが、底本通りとしました。
入力:土屋隆
校正:田中哲郎
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001243",
"作品名": "間諜座事件",
"作品名読み": "かんちょうざじけん",
"ソート用読み": "かんちようさしけん",
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"原題": "",
"初出": "「日曜報知」1932(昭和7)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-17T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
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"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本名1": "海野十三全集 第2巻 俘囚",
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} |
[
[
"……といったようなわけでありまして、憎むべき烏啼天狗は理不尽にもわが最愛の妻を奪取しようというのであります。およそかかる場合において、夫たる身ほど心を悼ましむ者が他にありましょうか",
"令夫人を相手に渡さなければ、あなた様のご心痛もなくて済むわけでしょう"
],
[
"では、令夫人をお渡しになりますかな",
"いや、飛んでもない。只今は比較の言論をお聞かせしただけのこと。実際においては家内を渡すことは困るです。しかし渡さなければ後がこわい……",
"後がこわくないように私が計らいましょう。ちゃんと相手に令夫人を渡しましょう",
"いや、それでは困る",
"なあに困りゃしません。これはあなた様と私だけの了解事項なんですが、その当日その場で令夫人を渡したように見せかけ、実は令夫人は渡さないのです",
"ふうん。よく分りませんなあ、猫々先生の仰有る言葉の意味がね",
"これが分らんですかなあ。早くいえば、令夫人の身替りを相手へ渡すんです",
"なるほど、家内の身替りをね。ほほう、これは素晴らしい着想だ。遉に烏啼天狗専門店の名探偵袋猫々先生だけのことはある",
"叱ッ。大きな声はいけません。……よろしいか、この事は大秘密ですぞ"
],
[
"やあ。ご苦労じゃ。まだ賊は現われんかね",
"はい。どういうわけか、まだ現われません",
"もう現われる頃じゃ、警戒厳重にな",
"はい",
"苅谷氏に会ってみたい。案内してくれんか",
"はい。どうぞこちらへ……"
],
[
"なにしろ、私の扱った夥しい探偵事件の中において、今回の事件ほどひどい目に遭ったことはありません。文字通り心身共に破滅に瀕するという始末です",
"一体どうしたというわけですか。誘拐された先で、どんな目にお遭いなすったんで……"
],
[
"で烏啼天狗はどんなことをやらかして居ましたか",
"それがね予想に反しましてね、烏啼は最初私を後宮へ連れこむまでは居ました。しかしすぐどこかへ行ってしまって、それ以来今に至るまで、烏啼とは顔を合わさないのです。ですから彼奴を相手に目論んだこともあったのですが、そういう次第で実行にうつさないでしまいました",
"それくらいの穏健な勤めなら、なにも家内を隠すほどのこともなかったですね",
"いや、そうでもありませんよ、苅谷さん。大事な奥さまを一度あの後宮の空気で刺戟した日にゃ、失礼ながらあなたは永生きが出来ませんよ。――それはそれとして、私は烏啼について新しく語るべきものを持って帰りました",
"お土産ですか",
"正にお土産です。帰り際になると、私は女執事からこのような立派なダイヤ入りのブローチを貰いました。小さいけれどこれは間違いなくダイヤモンドです。かの女執事のいうことには、これは主人があなたへのお支払としてお渡しするものだから持って帰るようにといわれました。つまり三日間の勤務に対する代償だというんです",
"いいブローチですね",
"かねて烏啼天駆は、掏摸といえども代償を支払うべしとの説をかかげていたのですが、彼はそれを自ら実行しているのですよ。私の三日間の窒息しそうな勤労に対してこのブローチ一箇が代償なんです。これは天駆があなたの令夫人に対して贈ったものですから、そちらへお収め下さい"
],
[
"実はその、繭子夫人を隠匿してあるところと申すのは、私の事務所なんです。そこはいつも私だけが居まして、食料品も料理の道具も揃って居り、寝具もバスもあり、一人の生活には事欠かないのです。私は夫人を私の事務所へ籠っていただいているのです。しかもです、念のためには夫人はすっかり私に変装して居られるのです。ですから御心配には及びません",
"ほう。それは意外でしたね。さすが猫々先生だけあって御名案です。恐れ入りました",
"ですから私はこれから事務所へ戻りまして、夫人をお連れして早速ここへ引返して参ります。暫時お待ち下さい"
],
[
"うちの家内の告白したとこによりますとね、家内は三日間に亘り、あなたの事務所に起伏していましたが、その間ずっとかの憎むべき烏啼天狗と一緒だったといいますよ。これは先生もご存じないことなんでしょうね",
"ふうん。それは意外……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「交通クラブ」
1947(昭和22)年10月~11月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2006年8月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002711",
"作品名": "奇賊は支払う",
"作品名読み": "きぞくはしはらう",
"ソート用読み": "きそくはしはらう",
"副題": "烏啼天駆シリーズ・1",
"副題読み": "うていてんくシリーズ・いち",
"原題": "",
"初出": "「交通クラブ」1947(昭和22)年10月~11月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card2711.html",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
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"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月15日",
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[
[
"それは同情する。君としちゃあ、このまま放置するには忍びないだろう。パチンコの的矢と来ては、返事をする代りにピストルの弾丸を送る奴だからねえ。わしも彼奴に前後三回、身体に穴をあけられたよ",
"どうも済まん。それをいわれると、おれは胸を締められる想いだ。ねえ、何とかして貰えんだろうか。一生のお願いだ。哀れなる烏啼天駆を助けてくれ",
"うん。外ならぬ貴公から是非にと頼まれたのは前代未聞じゃから、何とかしてあげたいものだ。どうするかね、これは……"
],
[
"おい貫一。こんどはお前も自ら責任をとって万事をやれよ",
"はい、はい",
"責任ある生活を始めるには、何といってもまず身を固めにゃならねえ。結論をいえば、お志万と結婚し新家庭を作れやい",
"いや、それは御免を蒙りましょう",
"御免を蒙る。なぜだ。可哀想にお志万は、お前の出獄するのを指折りかぞえて待っていたんだぜ",
"それはどうも済みません、だが、兄貴の言葉にゃ従いかねる",
"お前はお志万が嫌いかい。はっきり返事をしなさい",
"お志万さんだけじゃねえ、僕は、およそ女と名のつくものが好きになれないんだ"
],
[
"僕は約束があるんだ。だから……",
"約束なんかないよ。ごま化すない。それよりも、おれはお前にいいつけることがある、さ、もう一度座りなよ",
"お志万さんのことなら、何度いっても駄目だ",
"そのことじゃねえ。商売のことさ。出獄したところでお前に一つ腕前を奮って貰わなくちゃ、烏啼天駆の弟で候のといっても、若い奴らが承知しねえ。かねておれが用意しておいた大仕事があるんだ。お前は仕事始めに、それをやるんで。その代り骨が折れるぜ"
],
[
"お前、胆っ玉は大丈夫だろうね",
"兄貴は本気でものをいっているのかね",
"なにを寝ぼけてやがる。――どじを踏んでみろ。皆から洟もひっかけられねえぜ。お前の腕は確かだろうね。焼きが廻っているんじゃないか"
],
[
"憚りながら的矢の貫一、胆玉がよわくなったの、腕があまくなったのといわれちゃあ――",
"そんならいい。今夜から仕事に行ってくれ。お前ひとりでやるんだぜ、五体揃えば、五百万両の仕事だ",
"五百万両。それなら仕事の返り初日にはちょうど手頃のものだ。一体それはどこへ行って貰ってくるんで……",
"本当にやる気があるのかい。臆気をふるっているんなら、『まあ見合わせましょう』というがいいぜ。今が最後のチャンスだ"
],
[
"貫一。この仕事はお寺さまから仏像を盗みだすんだ",
"えっ、仏像を……",
"仏像といっても、けちなものじゃない。いずれ準国宝級のものだ。こういう風変りな仕事をおっ始めたわけは、近頃の坊主どもの中には悪ごすい奴がだんだん殖えて来やがって、生活難だの復興難だのに藉口して、仏像を売払う輩が多くなった。まさか本尊さまを売飛ばすわけには行かないが、それと並べてある割合立派な仏像を、いい値で売払いやがるんだ。途方もねえ坊主どもだ。そこでおれの調べたところによると、これからいう五体の仏像はとりわけ尊いものばかり、それを売り飛ばしにかかっている坊主の先廻りをして、お前にこっちへ搬んで貰うんだ。どじを踏むなよ、いいか",
"へえ。それは又変った仕事だねえ",
"五つの寺の所在と、さらって来る仏像の名前とスケッチは、この紙に書いてある。さあ、これをそっちへ渡しとくぜ"
],
[
"ほほう。第一は目黒の応法寺。酒買い観世音菩薩木像一体。第二は品川の琥珀寺。これは吉祥天女像、第三は葛飾の輪廻寺の――",
"まあ、後でゆっくり読んで、案を練るがいい。それについてもう一ついって置くが、そのピストルはこっちへ預けて行け"
],
[
"じょ、冗談を。それを召上げられては、こちとらは――",
"貫一。こんどの出獄を機会に、ピストルの使用を禁ずる。それがお前の身のためだ。しかといいつけたぞ",
"そんな無茶な……あっ、兄貴"
],
[
"そうですかい。この辺は物騒ですから、気をおつけなさい",
"お前さんは物騒でないのかい"
],
[
"とんでもない。私は刑事ですよ",
"刑事? ははン、それはどうも……",
"じゃあ、気をつけてお出でなせえ、さようなら"
],
[
"君は、たしかに毎晩出て来る男に相違ないよ。君は幽霊かい",
"冗談じゃないですよ。私はこのとおりぴんぴん生きています"
],
[
"でも変だね。たしかに命中して腕をとばし脚を千切り……いや、これはこっちのことだが、おれはさびしいや",
"全くこの辺は物騒ですから、気をおつけなさい"
],
[
"貫一。このお二人さんによくお礼を申上げな。これはお前たちの大恩人だからね",
"この幽霊め、また今夜も出て来たか",
"おい、そんなことをいってはいけない。この方は、袋猫々先生が特に探して来て下すった福の神で、実はこの方は、戦争で両腕両脚をなくされて、手足四本とも義手義足をはめられていられる方なんだ。いいかね、そこでお前は思い当ることがあるだろう",
"おお……",
"義手や義足をピストルで撃ってみても、すぐお替りをはめて元のようになるわけだ。もっともこの春山さんは、赤インキなども用意して実感を出して下さったようだが、とにかくお前がピストルと別れてくれたことはおれも嬉しい。今の時勢に、ピストルを振廻して人命を傷つけるなんてことは、野蛮にして下劣、最も罪が重いんだからね",
"兄貴の智慧にしちゃ上出来だ",
"いや、この芝居はおれが書いたんじゃなくて、ここにお出でなさる名探偵袋猫々先生にお智慧拝借の結果だよ。猫々先生によくお礼を申上げなよ。……しかしおれはお前のお蔭で、これまで下げたことのない頭を、宿敵猫々野郎の前に下げたんだぜ。ざまはねえや"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「実話と読物」
1947(昭和22)年5月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2006年8月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002713",
"作品名": "奇賊悲願",
"作品名読み": "きぞくひがん",
"ソート用読み": "きそくひかん",
"副題": "烏啼天駆シリーズ・3",
"副題読み": "うていてんくシリーズ・さん",
"原題": "",
"初出": "「実話と読物」1947(昭和22)年5月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第12巻 超人間X号",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月15日",
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} |
[
[
"あの白い白樺の幹と、女の股とは、どっちが色が白いだろうなア",
"ウン。うわッはッはッ",
"うわッはッはッ"
],
[
"これさえ見れば如何なる悪漢といえども犯行を隠しきれるものではない",
"先生。では此の装置を早速大量に製作して全国の法廷と警察に送られては如何でしょうか。無駄な取調べを廃して、直ぐ事実が判明するわけですから、司法上の一大改革だと思います"
],
[
"さあ、私には判りませんですが",
"判らん? じゃ教えてやろう。これは異常興奮なんだ。精神異常者としての素質のあるのを物語る興奮なんだ。そして此の異常性興奮のあるのは例の三人だけではないのだよ。興安嶺隧道殺人事件に関係のあった残りの三十六人について測定した曲線にも、少しずつ現れているのだ。わしが其の他に測定したものにも大抵K興奮の隆起がでている。つまり結論はこうだ。『人間は誰人に限らず、精神異常の素質を有す』ということになる。素敵な発見じゃないか",
"例外はないのですか。つまり、ソノK興奮のない人間は……",
"有るには有る。しかし最近わしの測定した分には全てK興奮がある。無いという例外は、古い昔に測定したものの中にチラホラするだけで、それは問題は無いと思う。兎に角、人間は誰でも精神に異常を来す素質があるんだ! なんとこわいことではないか。丘君",
"イヤ恐ろしいことです"
],
[
"すると――",
"ところが、どんなにやってみても、一向に駄目なんです。調べれば調べるほど、彼等ギャング一味に関係のない証拠が上ってきて、実際困りましたよ。今度という今度はネ",
"それで……",
"それで――とは痛い御言葉ですな。こうなれば、貴方の御説を拝聴するより外に、途がなくなったんです"
],
[
"言葉をかえていうと、『人間には誰にでも必ず精神異常の素質がある』というのがキド現象です。僕のは『人間には誰にでも精神異常の素質があるとは云えない』という反対の結論なんです",
"精神異常の素質がないというのですか。そいつは一応有難いことだ。しかし博士のには確かにK興奮が多数の人からとった曲線に出ていますよ。失礼ながら、貴方の測定の誤りではないのですか"
],
[
"そうです。里見謙先生です。ところが結果は予想通りに木戸博士のとは違って出ました。これです。第七、八、九図の三つです。木戸博士の測定せられた第一、二、三図を並べて見ましょう。どうです。博士の方のには同じ形のK興奮が、どの曲線にも現れているのに、僕の測定した分には一つも出ていないのです。どれもこれも男の胸のように――博士はいつだかも、そんな風に云われましたが――興奮のところは、真ッ平なんです。これが本当の曲線なんです。こうもあろうかということは、ずっと以前、僕の入所当時ですが、恰好の悪いながら、第四図というのを取ったときに、この扁平なのが出たので、鳥渡疑いをもったのです。其の後いろいろ研究の結果、一層確信するに至りました",
"すると博士のキド現象に現れているK興奮は一体どうなるのです。またそれが博士の失踪となにか関係があるのですか"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
底本の親本:「新青年」
1933(昭和8)年1月号
初出:「新青年」
1933(昭和8)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。
「二十七ヶ所の違った」
「英米独仏の四ヶ国」
※図版は初出からとりました。
入力:門田裕志
校正:宮城高志
2010年9月9日作成
2011年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046859",
"作品名": "キド効果",
"作品名読み": "キドこうか",
"ソート用読み": "きとこうか",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1933(昭和8)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-10-30T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第2巻 俘囚",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年2月28日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年2月28日第1版第1刷",
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"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"おいしい?",
"おいしくなかったら、七面鳥を連れて来て、ここにある豆を皆拾わせてもいいですよ"
],
[
"や、こいつは一本参った。この鬼仏洞のいいつたえによると、たしかにこの水牛仏が、青竜刀をふるって、桃盗人の細首をちょん斬ったことになっとるのじゃが、どういうわけか、始めから桃盗人の人形が見当らんのじゃ",
"それは、どういうわけじゃ",
"さあ、どういうわけかしらんが、無いものは無いのじゃ",
"こういうわけとちがうか。この鬼仏洞の中には、何千体か何万体かしらんが、ずいぶん人形の数が多いが、桃盗人の人形は、どこかその中に紛れこんでいるのと違うか",
"あー、なるほど。なかなかうまいことをいい居ったわい。はははは。しかしなあ、紛れ込んどるということは、絶対にない。もう何十年も何百年も、毎日毎日人形の顔はしらべているのじゃからなあ。それに、その桃盗人の人形の人相書というのが、ちゃんとあるのじゃ",
"本当かね",
"本当じゃとも、その桃盗人の人相は、まくわ瓜に目鼻をつけたる如くにして、その唇は厚く、その眉毛は薄く、額の中央に黒子あり――と、こう書いてあるわ。まるで、そこにいる顔子狗の顔そっくりの人相じゃ。わはははは",
"あははは、こいつはいい。おい、顔子狗、黙っていないで何とかいえよ",
"……"
],
[
"やよ、顔子狗。なんとか吐かせ",
"それで、わしを嚇したつもりか、盗人根性をもっているのは、一体どっちのことか。おれはもう、貴様との交際は、真平だ"
],
[
"お前とは、もう会えないだろう。気をつけて行け。はははは",
"勝手に、笑っていろ"
],
[
"おっ、お嬢さん、大手柄だ。しかし、早くこの場を逃げなければ危険だ",
"えっ"
],
[
"抗議をなさいますの。鬼仏洞は、もちろん閉鎖されるのでございましょうね",
"やがて閉鎖されるだろうねえ。しかし、今のところ、抗議をうちこむため、鬼仏洞は大切なる証拠材料なんだ。現場へいった上で、あなたが撮影した顔子狗の最期の映画をうつして見せてやれば、何が何でも、相手は恐れ入るだろう"
],
[
"やあ、風間さん、大手柄をたてた女流探偵の評判は、実に大したものですよ。それが私だったら、今夜は晩飯を奢ってしまうんですがねえ",
"あら、あんなことを……",
"いや、遠慮なさることはいらない。何しろあの場合の、咄嗟の撮影の早業なんてものは、人間業じゃなくて、まず神業ですね",
"おからかいになってはいや。で、帆村さんは、政府側の委員のお一人でしょうが、どんなお役柄ですの",
"僕ですか。僕はその、戦争でいえば、まあ斥候隊というところですなあ",
"斥候隊は、向こうへいって、どんなことをなさいますの",
"そうですねえ。要するに、斥候隊で、敵の作戦を見破ったり、場合によれば、一命を投げだして、敵中へ斬り込みもするですよ",
"まあ、――"
],
[
"やあ、陳程委員さん、私は帆村委員ですがね、こんなところで押し問答をしても仕方がない。現場へいって、常時の模様をよく説明してください",
"現場かね。現場は、ちゃんと用意ができている。すぐ案内をするが、あなた方は、洞内の規定を守ってもらわなければならん。第一、わしの許可なくして、物に手を触れてはならない。第二、煙草をすってはならない。第三に……",
"そんなことは常識だ。さあ、現場へ案内してください"
],
[
"とんでもない。人形が動いたり廻ったりしてはたいへんだ。傍へいって、よく調べたがいいじゃろう",
"調べてもいいですか。あなたは、困りゃしませんか",
"あの人形が動いているのを見た人があったら、わしは水牛の背に積めるだけの銀貨を呈上する",
"本当ですな、それは……",
"くどい男じゃ、早く調べてみたがよかろう"
],
[
"誰だ、照明をかえたのは……",
"照明は、自然にかわるような仕掛になっているのじゃ"
],
[
"棒を切ったのは、鋭い刃物です。その刃物は、皆さんの目には見えないと思うでしょう。ところが、ちゃんと見えているのですよ。この水牛仏が手にしている大きな青竜刀――これが、今この棒を叩き斬ったのです",
"おい君。そんな出鱈目をいっても、誰も信用しないよ"
],
[
"出鱈目だというのか。じゃ、君は、立ったまま、ここまで来られるか",
"行けないで、どうするものか",
"えっ、ほんとうか。危い、よせ!"
],
[
"残像にごま化されているといいますと……",
"つまり、こうですよ。今、目の前に、回転椅子を持ってきます。僕がこれを、一チ、二イ、一チ、二イと、ぐるぐる廻します。そこであなたは、目を閉じていて、僕が、一とか二とかいったときだけ、目をぱっと開いて、またすぐ閉じるのです。つまり、一チ二イ一チ二イの調子にあわせて、目をぱちぱちやるのです。すると、この椅子が、どんな風に見えますか。ちょっとやってみましょう"
],
[
"三千子さん、椅子は、どんな具合に見えましたか",
"さあ――",
"椅子は、じっと停っていたように見えませんでしたか",
"あ、そうです。椅子は、いつも正面をじっと向いていました。ふしぎだわ",
"そうです。それで実験は成功したのです。つまり、僕は椅子を廻転させましたが、あなたには、椅子がじっと停っているように見えたのです。これは、なぜでしょうか。そのわけは、あなたは、僕の号令に調子を合わせたため、椅子がちょうど正面を向いたときだけ、ぱっと目をあけて椅子を見たことになるのです。だから、椅子は、じっとしていたように感ずるのです",
"まあ、ふしぎね",
"そこで、あの恐しい水牛仏のことですが、あれも青竜刀をもって、ぐるぐる廻転していたのです。とても、目にもとまらない速さで廻っていたのです。しかしちょっと見ると、じっと静止しているように見えるのです",
"そう見えましたわ。でも、あたしたちは、誰も、目をぱちぱち開閉したわけではありませんわ",
"もちろん、そうです。しかし目をぱちぱち開閉するのと同じことが行われていたのです",
"同じことが行われていたというと……",
"水銀灯がつきましたね。あの水銀灯が、非常な速さで、点いたり消えたりしていたのです。しかも、水牛仏の廻転と、ちょうど調子が合っていたのです。つまり、水牛仏が正面を向いたときだけ、水銀灯は点いて、あの部屋を照らしたのです。だから、水牛仏は、廻転しているとは見えないで、いつも正面をじっと向いていたように見えたのです。お分りになりますか",
"ええ。それは、そうなりそうですけれど、しかしあたしは、あの水銀灯が、別に点滅しているように感じませんでしたわ",
"それは、人間の眼が残像にごま化されるからです。あなたは、普通の電灯が、明るくなったり暗くなったり、ちらちらしているように感じますか",
"いいえ。電灯は、いつも明るいですわ",
"ところが、あの電灯も、実は一秒間に百回とか百二十回とか、明暗をくりかえしているのです。しかし人間の眼は、大体一秒間に十六回以上明滅するちらつきには感じがないのです。本当は明滅するんだけれど、明滅するとは感じないのです。映画でも、そうですよ。あれは、一秒間に十六齣とか二十齣とかの規定があって、画面がちょうどレンズの前に一杯に入ったときだけ、光源から光がフィルムをとおして、映写幕のうえにうつるのです。その間は、映写幕は、まっくらなんですが、人間の眼には残像がしばらく残っているから、画面がちらちらしない。だから、フィルムをうんと遅く廻すと、画面がちらついて見えます",
"そのお話で、いつだか教わった映画の原理を思い出しましたわ",
"それが分れば、しめたものです。猛烈な勢いで廻転している水牛仏が、あたかも、じっと静止しているように見えるわけがわかったでしょう。分らなければ、今の廻転椅子のことを、もう一度思い出してください",
"やっと、分ったような気がしますわ。しかし水牛仏の前を通った人で、首を斬り落とされなかった人が沢山あるのじゃないでしょうか",
"そうです。赤色灯のついているときは、安全なんです。そのときは、水牛仏は静止しているのです。そして水銀灯に切り替ると、水牛仏が廻転を始めるのです",
"あの水牛仏が、廻りだしたことが、よくお分りになったものね。危かったわ",
"いや、本当に危いことでしたが、僕にそれを知らせてくれたのは、煙草でしたよ",
"煙草?",
"そうなんです。長老陳程に叱られて、僕が捨てた煙草は火のついたまま、真直に煙をあげていたのです。その煙が、急に乱れたので、僕は、はっと気がついたんです。尤も、それまでに、あの水牛仏の人形が、或いは廻りだすのじゃないかと疑いをもっていたが、煙草を捨てた直後には、煙がしずかにまいのぼるのを見たので、そのときは人形が動いていないことを知ったのです",
"そのときは、まだ赤色灯がついていたのですね"
]
] | 底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年10月21日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003230",
"作品名": "鬼仏洞事件",
"作品名読み": "きぶつどうじけん",
"ソート用読み": "きふつとうしけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2002-10-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3230.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第7巻 地球要塞",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月30日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "浅原庸子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3230_ruby_7211.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3230_7212.html",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"話がある。ちょっと顔を貸して呉れ",
"話? 話ってなんです",
"イヤ、手間は取らさん"
],
[
"仙太がどうかしたんですか",
"余計なことを訊くな。貴様、仙太と何処で逢った。何時のことだ"
],
[
"オイ何とか云えよ",
"黙っていちゃ、駄目じゃないか"
],
[
"うむ、事件だぞ",
"すぐ其処だ。行くか……"
],
[
"直ぐ行こう",
"だが此奴をどうする?",
"うむ。さあ、どうする?"
],
[
"そうだ、仙太だ。すっかり顔形が違っている感じだが、仙太に違いない",
"誰が殺ったんだろう?"
],
[
"死んでいる。……とうとう殺られたのだ。",
"全くひどい。後頭部から背中にかけて、弾丸を撃ちこんだナ",
"銃声は聞えなかったが……",
"どこから撃ったのだろう"
],
[
"うん、取れた。……あッ、これは……",
"なんだ、金じゃないか!"
],
[
"ナニ、金貨が落ちている?",
"本当だ……"
],
[
"沢山の金貨だ。これは一体、どういうのだろうな",
"この金貨と、仙太殺害とはどんな関係があるのだろう。それからあの金塊事件とは……"
],
[
"強奪に遭ったのなら、なぜ金貨が滾れ残っているのだ。それにわれわれが駈けつけたときにも、別に金貨を探しているような人影も見えなかった",
"そりゃ君、仙太を殺したからさ。……いいかネ。仙太は数人のギャングに取り囲まれたのだ。前にいた奴が、仙太の握っている金貨を奪おうとした。取られまいと思って格闘するうちに、手から金貨がバラバラと転がったのさ。手強いと見て、背後にいた仲間が、ピストルをぶっ放したというわけだ。前にいた奴は仙太を殺すつもりはなかった。仙太の仆れたのに駭いて、あとの金貨は放棄して、逸早く逃げだしたのだ。見つかっちゃ大変というのでネ"
],
[
"じゃ、どう思う?",
"僕のはこうだ。仙太のやつ、ここまで来て金貨を数えていたのだ。ここは人通もない暗いところだけれど、向うの街の灯が微かに射しているので。ピカピカしている金貨なら数えられる。そこを遥か後方から尾けて来たやつが、ピストルをポンポンと放して……",
"ポンポンなんて聞えなかった。……尤も俺は消音ピストルだと思っているが……",
"とにかく、遥か後方から放ったのだ。見給え、この弾痕を。弾丸は撃ちこんだ儘で、外へは抜けていない。背後近くで撃てば、こんな柔かい頸の辺なら、弾丸がつきぬけるだろう"
],
[
"どうですい。一つここらで手柄を立ててみる気はありませんか",
"なんだとオ。……生意気な口を利くない",
"素敵な手柄が厭ならしようが無いが……"
],
[
"なんだか知らないが、聞こうじゃないか",
"聞いてやろうと仰有るのですかい、はッはッはッ。……まア、それはいいとして、旦那方。私は犯人の居処を知っていますよ",
"ナニ、犯人の居処? 犯人は誰だッ",
"犯人は誰だか知らない。だが犯人の居処だけは知っているのですよ……ホラ、ここに真暗な崩れ懸ったような倉庫がありますネ。犯人はこの中に居るのですよ",
"何故だ。どうして此の中へ逃げこんだというのだ",
"喋っていると、犯人が逃げだしますよ",
"しかしわれわれは、意味もないのに動けないよ",
"じゃ簡単に云いましょう。いま仙太のポケットから出た五枚の金貨ですがネ、あの金貨には泥がついていたのをご存知ですか",
"……",
"もう一つは、そこに錆びた五寸釘を立てて置きましたが、路面に垂直に、小さい孔が明いていますよ"
],
[
"これは?",
"ピストルの弾丸が入っているのですよ。今掘りだしてみましょう"
],
[
"いいですか、上を向いちゃ、犯人が気付きますよ。下を向いていて下さい。犯人は倉庫の二階の窓から仙太を撃ったのです",
"そりゃ変だ。仙太は背後から撃たれている",
"いいえ、傷はあれでいいのです。仙太のポケットに入っていた金貨は泥がついていたでしょう。仙太の野郎は、あの金貨を皆、この路面から拾ったのです。だから泥がついているんです。金貨は、同じ倉庫の二階から犯人が投げたのです。仙太がそれを拾おうと思って、地面に匍わんばかりに踞んだのです。いいですか。そこを犯人は待っていたのです。丁度われわれが今こうしている此の恰好のところを、上からトントンと撃ったのですよ",
"ナニ、この恰好のところを……"
],
[
"さア早く、この建物の出口を固めるのです",
"よオし。おれは飛びこむ",
"だが、この屍体をどうする?"
],
[
"そうか。……だが危いぞ。おれはピストルを持っているけれど……",
"なーに、平気ですよ"
],
[
"文句がなければ、金はいまでも渡そう",
"そうけえ。済まないが、そうして貰うと……",
"ホラ、千円だア。調べてみな"
],
[
"確かに千両。わしゃ、お礼の言葉がない",
"お礼は云うにゃ及ばないよ。それよか爺さん、ちょっと云って置くことがある",
"へーい",
"私が金を出したことは、誰にも云っちゃならないよ。しかしそれがためにあの建物がまだ爺さんの手にあるのだと思って、買いたいという奴が出て来たら、あの建物はいつでも返してやるから、直ぐ私のところへ相談に来なさい。いいかい爺さん",
"へーい、御親切に。だがあれを買いたいなんて物ずきは、これから先、出て来っこないよ、あんたにゃ気の毒だけれど……",
"はッはッはッ"
],
[
"昨日はてんで相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ",
"うん、うん"
],
[
"――じゃあ、売っておやりよ",
"えッ",
"売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵を切るんだ",
"そいつはどうも",
"云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつは儲け話なんだ。相手は屹度買うよ。彼奴等はきっと今朝がた、留置場のカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ"
],
[
"どうして?",
"もう此上横浜に居たって、面白いことは降って来やしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減に見切をつけて、横浜をオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ",
"……",
"そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ"
],
[
"満洲へゆくんだ。丁度幸い、今夜十一時に横浜を出る貨物船清見丸というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ",
"満洲かい。……それもよかろう",
"じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。外には誰にも話しちゃ駄目だぜ"
],
[
"莫迦に遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃ拙いのかい",
"ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身を少し搬び出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる"
],
[
"そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ",
"そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ"
],
[
"ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい",
"立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ",
"へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……",
"いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ"
],
[
"でも……",
"ところが屍骸にならないばかりか、借金を返した上に、五千両の金まである。その上、言い分があってたまるか",
"感謝しているわ。あたしたちはいろいろと儲けものをしているのに、政ちゃんは損ばかりしているのネ"
],
[
"それはいいが、その九万円の黄金液はどう始末したのかい",
"警視庁へ引き渡したよ"
],
[
"本当に渡したよ。私は金が欲しいわけでこの仕事をやったんじゃない。目的は銀座の縄張へ切りこんできたカンカン寅の一味に一と泡ふかせたかっただけさ",
"それじゃ警視庁は大悦びだろう",
"うん。――"
],
[
"なんだ、清子",
"あたしは船を下りるわよ"
],
[
"なにを云うんだ。横浜にいちゃ、生命がない。カンカン寅の一味は張り子の人形じゃないぞ",
"生命が危いくらい、あたし知っているわ。でも……でも、あたし死んでもいいのよ、政ちゃんの傍に少しでも永く居られるなら……"
],
[
"まあ嬉しい。あたし下りてもいいの",
"いや、いけない"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「キング」
1934(昭和9)年6月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"ええ、それは誰かが叫んでいたからですわ。なにごとか大事件が起ったような叫び声でしたわ。だもんで、自動車を停めて、ここまで来てみると、この有様なんですのよ。貴方、たいへんだわ。この学生さん、死んでいましてよ",
"そうです。死んでいるというよりも、殺されているといった方がいいのです。これは僕の本当の弟なのです",
"ええ、なんですって。貴方がこの方の兄さんだと仰有るのですか",
"そのとおりです。僕は四郎の兄の一郎なんです"
],
[
"そうだ、貴方はいまその辺に見なかったですか、怪しい男を……",
"怪しい男? 貴方以外にですか",
"ええ、もちろん僕のことではないです。こう顔の半面に恐ろしい痣のある小さい牛のような男のことです",
"いいえ。あたくしは今、車を下りて、真直にここまで歩いたばかりですわ"
],
[
"僕たちのことを怪しいと思ってるんだネ、ジュリアさん。僕たちは、ちっとも怪しかないよ。僕たちはこれでも私立探偵なんだよ。知っているでしょ、いま帝都に名の高い覆面探偵の青竜王ていうのを。僕たちはその青竜王の右の小指なんだよ",
"まあ、あなたが小指なの",
"ちがうよ。小指はこの大辻さんで、僕が右の腕さ",
"青竜王がここへいらっしゃるの?"
],
[
"どうだかなア。――そこで犯人は、表へ廻って、この屍体の側に近よった。そして咽喉のところを喰っ切って血を出してしまったのさ。こうすると全く生きかえらないからネ",
"それくらいのこと、わしにだって分らないでどうする",
"へーン、どうだかな。――殺される前に、学生さんは一人の美しい女の人と一緒に話をしていたのに違いない。その草の間にチョコレートの銀紙が飛んでいる中に、口紅がついたのが交っている",
"ええ、本当かい、それは……",
"ほーら、大辻さんには分っていないだろう。――学生さんは女の人と話しているうちに、女の人はなにか用事が出来て、ここから出ていったのさ。すぐ帰ってくるから待っていてネといったので、学生さんはじっと待っていた。その留守に頸を締められちまったのさ",
"青竜王の真似だけは上手な奴じゃ",
"それからまだ分っていることがある……"
],
[
"だが勇坊、お前はいけないよ、あんな秘密なことまで喋ったりして",
"あんなこと秘密でもなんでもありゃしない。僕はもっと面白いことを二つも知っているよ",
"面白いことって?",
"一つは赤星ジュリアの耳飾りのこと、それからもう一つは、いまのもう一人の男の顔にある変な形の日焼けのことだよ",
"ほほう。早いところを見たらしいネ。だがそんなことが何の役に立つんだネ",
"それは大辻さんが発見した日記帳以上に役に立つかも知れない"
],
[
"犯人は、被害者の実兄だと称している西一郎(二六)なのでしょう",
"今のところそんなことはないよ",
"西一郎の住所は?",
"被害者と同じ家だろう?",
"冗談いっちゃいけませんよ、課長さん。被害者は下宿住居をしているのですよ。本庁はなぜ西一郎のことを特別に保護するのですか",
"特別に保護なんかしてないさ"
],
[
"うわーッ、赤星ジュリアだ!",
"われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ!",
"うわーッ"
],
[
"そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな",
"イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります"
],
[
"これは舞台でもこの通りやるんです。それに真逆痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……",
"だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です",
"じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか"
],
[
"大江山君、この儘じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ",
"突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません"
],
[
"雁金さん、雁金さん――",
"おう、誰だッ",
"落付いて下さいよ、僕です。分りませんか",
"ナニ……そういう声は"
],
[
"どこにいるのだ、青竜王!",
"青竜王、声を出して下さーい!"
],
[
"なにッ",
"痣蟹を早く押えて――"
],
[
"た、大変です、課長さん、あの舞台横の柱の陰に、一人のお客が殺されています",
"なんだ、いまの機関銃か拳銃でやられたのだろう",
"そうじゃありません。その方の怪我人は片づけましたが、私の発見したそのお客の屍体は惨たらしく咽喉笛を喰い破られています。きっとこれは、例の吸血鬼にやられたんです。そうに違いありません",
"ナニ、吸血鬼にやられた死骸が発見されたというのか",
"そういえば、先刻暗闇の中で『赤い苺の実』の口笛を吹いていたものがあった……"
],
[
"はッはッはッ。あの男なら大丈夫だよ",
"そうですかしら。――そう仰有るなら申しますが、さっき暗闇の格闘中のことですが、いくら呼んでも返事をしなかったですよ。そして唯、あの『赤い苺の実』の口笛が聞えてきました。それから暫くすると、急に青竜王の声で(痣蟹はここにいますぞオ)と喚きだしたではありませんか。その間、彼は何をしていたのでしょう。なにしろ暗闇の中です。何をしたって分りゃしません"
],
[
"あれは君、青竜王のやつが痣蟹に組み敷かれていたんで、それで声が出せなかったのだろう。それをやッと跳ねかえすことが出来て、それで始めて喚いたのだと思うよ",
"そうですかねえ。――第一私は青竜王のあの覆面が気に入らないのです。向こうも取ると都合が悪いのでしょうが、私たちは捜査中気になって仕方がありません。あの覆面をとらない間、青竜王のやることは何ごとによらず信用ができないとさえ思っているのです",
"それは君、思いすぎだと思うネ"
],
[
"はッはッはッ。君は青竜王が覆面をとれば痣蟹だというのだネ。いやそれは面白い。はッはッはッ",
"私は何事でも、疑わしいものは証拠を見ないと安心しないのです。またそれで今日捜査課長の席を汚さないでいるんですから……",
"じゃ仕方がないよ。僕の身元引受けが役に立たぬと思ったら遠慮なく彼の覆面を外してみたまえ、僕は一向構わないから",
"イヤそういうわけではありませんが……。しかし今夜はもう青竜王は出て来ませんよ。彼は逃げだせば、それでもう目的を達したんですから"
],
[
"雁金さん。痣蟹の逃げ路が、とうとう分りましたよ。このキャバレーの縁の下を通って、地階の物置の中へ抜けられるんです。そこからはすぐ表へとびだせます。貴方の号令がうまくいっていないのか、その物置の前には警官が一名も立っていないので、うまく逃げられた形ですよ",
"ナニこの柱から物置へ抜けて、表へ逃げちまったって"
],
[
"それはわたくし、知りません。この仕掛はこの建物をわたくし買った前から有りました",
"ナニ前からこの仕掛があった? 誰から買ったのかネ",
"ブローカーから買いました。ブローカーの名前、控えてありますから、お知らせします",
"うむ、大江山君。そのブローカーを調べて、本当の持ち主をつきとめるんだ。――それはいいとして何故こんな抜け路をそのままにして置いたのかネ。何故痣蟹に知らせて、利用させたのだ",
"わたくし痣蟹と称ぶミスター北見仙斎を信用していました。あの人、わたくし故国ギリシアから信用ある紹介状もってきました",
"ギリシアから紹介状をもってきたって。ほほう、痣蟹はギリシアに隠れていたんだな。イヤよろしい。君にはゆっくり話を聞くことにしよう。しかしもし痣蟹から電話でも手紙でも来たら、すぐ本庁へ知らせるのだ。いいかネ。忘れてはいけない",
"よく分りました"
],
[
"もう一つ、お尋ねしますが、赤星ジュリアは昨夜ここへ来たのが始めてですか",
"いえ、たびたび来て、歌わせました。もう七、八回も頼みました",
"たいへん御贔屓のようですね",
"そうです。ジュリア歌う――お客さま悦びます。わたくしも悦びます。なかなかよい金儲けできますから、はッはッはッ"
],
[
"昨夜は青竜王、素敵でしたネ。だけど、もう僕たちを呼んで下さるかと思っていたのに、ちっとも呼んで下さらないので、ガッカリしちゃった",
"勇君も大辻も来ていたのは知っていたが、昨夜の事件は危くて、手伝わせたくなかったのだよ",
"その代り僕は、いろいろな土産話を青竜王にあげるつもりですよ。昨夜舞台下で殺された男ネ、あれは竜宮劇場に毎日のように通っていた小室静也という伊達男ですよ。いつも舞台に一番近いところにいて、ジュリアが出ると誰よりも先にパチパチ拍手を送るイヤナ奴ですよ。あの男のことは、竜宮劇場のファンなら誰でも知っていますよ",
"ああ、そうだったのか。それはいいことを聞いた",
"あの伊達男小室の咽喉にあった凄い切傷も、この前、日比谷公園で殺された学生の咽喉の傷も、どっちも同じことですね。つまりどっちも吸血鬼がやったんですよ"
],
[
"すると勇君の説によると、はじめ五月躑躅の陰で恋人の少女と楽しく語っていた。その話半ばに、少女は何か用事ができて、学生を残したまま出ていった。吸血鬼は学生が独りになったところを見澄まして、背後から咽喉を絞め、つづいて咽喉笛をザクリとやって血を吸ったというのだネ",
"その通りですよ、青竜王",
"それから、その恋人の少女は現場へ帰って来たかネ"
],
[
"でもこの二人の外に誰も少女は帰って来なかったんだろう。一応そこを考えてみなくちゃいけない。それに先刻の話では、四郎――イヤその学生の日記帳の数十頁が、いつの間にか破られていたというし……",
"そのことは大辻さんがたいへん怒っていますよ。どうしても二人に尋ねるんだといって、今日出かけていったんです",
"ジュリアの耳飾右の方のはチャンとしていたけれど、左のは石が見えなくて金環だけが耳朶についていたというのは面白い発見だネ",
"僕は耳飾から落ちた石が、もしや吸血鬼の潜んでいた草叢に落ちていないかと思って探したんだけれど、見付からなかった。それからジュリアの歩いたと思う場所をすっかり探してみたんだけれど、やはり見付からなかった。それでジュリアの耳飾の青い石は、あの辺で落したものじゃないということが分ったんですよ。青竜王"
],
[
"君は少年の屍体の辺もよく探してみたかネ",
"もちろん懐中電灯で探したんだけれど、何遍やってみても見つからなかったんです",
"ほう、そうかネ"
],
[
"どうしたんです、青竜王",
"なアに、痣蟹が竜宮劇場の裏口を通っていたのを発見して、また警官隊と銃火を交えたのだそうだ。痣蟹はとうとう逃げてしまったので、疲れ儲けだ。しかし痣蟹は竜宮劇場の外を歩いていたのか、それとも中から出て来たのか分らないそうだ"
],
[
"でも変ですね。痣蟹はあの恐ろしい横顔を知られずに、どうして昼日中歩いていられたのでしょう",
"ウン痣蟹は田舎者のような恰好をして、トランクを肩にかついで、たくみに痣をかくしていたそうだ",
"なるほど、うまいことを考えたなア。はははは",
"大辻はジュリアに会って日記帳のことを聞いたが、あたしは知りませんといわれたそうだ、まずいネ"
],
[
"時間のことは覚悟をしてきました。今夜は徹夜しても拝見します",
"うん。時刻はこれから午前二時ごろまでが一番油の乗るときだ。君の時刻の選択はよかったよ。しかしいくら弟の屍体かは知らぬが、君は熱心だねえ。もしここから上にあるものならば、必ず君の目的のものを発見してあげるから安心するがいい。イヤどうも皮下脂肪が発達しているので、メスを使うのに骨が折れる。こんなことなら電気メスを持ってくるんだった……"
],
[
"いま怪しい奴が、その硝子のところからこっちを睨んだ。ピストルらしいものがキラリと光った、と思ったら腰がぬけたようだ。どうも極りがわるいけれど……",
"ナニ怪しい奴ですって?"
],
[
"あッ、冷たい。君の手は濡れているじゃないかい。向うで手を洗ったのかネ",
"いえなに……",
"なぜ手を洗ったんだ。一体何をしていたんだ。法医学教室の神聖を犯すと承知しないよ"
],
[
"うん、違いない。早く追い駆けてくれたまえ",
"もう駄目ですよ。逃げてしまって……",
"何を云っているんだ。君の弟の屍体なんじゃないか",
"追いついても、ピストルで撃たれるのが落ちですよ。それよりも警視庁へ電話をかけましょう",
"君のような弱虫の若者には始めて会ったよ。駄目な奴だ"
],
[
"あら、改まってお礼を仰有られると困るわ。――だけど勉強していただきたいわ、あたしが紹介した、その名誉のためにもネ",
"ええ、僕は気紛れ者で困るんですが、芸の方はしっかりやるつもりですよ",
"頼母しいわ。早くうまくなって、あたしと組んで踊るようになっていただきたいわ",
"まさか――"
],
[
"じゃここでお待ちにならない",
"ええ、待たせていただきましょう。その間に僕はジュリアさんにお土産をさしあげたいと思うんですが――"
],
[
"お土産ですって。まア義理固いのネ。――一体なにを下さるの",
"これですけれど――"
],
[
"あなたはあたしを……",
"ジュリアさん、誤解しちゃいけません。まあまあ落着いて、こっちへ来て下さい"
],
[
"それは四郎の倒れていた草叢の中からです",
"嘘ですわ。あたしは随分探したんですけれど、見当りませんでしたわ",
"それが土の中に入っていたのですよ。多勢の人の靴に踏まれて入ったものでしょう",
"まあ、そうでしたの。……よかったわ"
],
[
"仰有るとおりですわ。宝石のことは、楽屋へ入ってから気がついたんですの。随分探しましたわ。ほんとにあたし感謝しますわ。でもこのことは、誰にも云わないで下さいネ",
"ええ、大丈夫です。その代り、何か犯人らしいものを見なかったか、教えて下さい",
"犯人? 犯人らしいものは、誰もみなかったわ――"
],
[
"ジュリアはたしかに百年に一人出るか出ないかという大天才だ。見給え、どうだい、あの熱情とうるおいとは……。今日はことに素晴らしい出来栄えだ",
"僕も全く同感だ。どこからあの熱情が出てくるんだろう。ちょっと真似手がない。――",
"ジュリアには非常に調子のよい日というのがあるんだネ。今日なんか正にその日だ。見ていると恐い位だ",
"そうだ。僕もそれを云いたいと思っていた。僕は毎日ジュリアを見ているが、調子のよい日というのをハッキリ覚えているよ。この一日に三日、それから今日の四日と……",
"よく覚えているねえ",
"いやそれには覚えているわけがあるんだ。それが不思議にも、あの吸血鬼が出たという号外や新聞が出た日なんだからネ",
"ははア、するとああいう事件が何かジュリアを刺戟するのかなア。だが待ちたまえ、今日は何も吸血鬼が犠牲者を出したという新聞記事を見なかったぜ。はッはッ、とうとう君に一杯担がれたらしい。はッはッはッ",
"はッはッはッ"
],
[
"気にせんがいいよ。そうムキになるほどのことではない。たかが私立探偵だ",
"いまも電話をかけましたが、青竜王は所在が不明です。その前は十日間も行方が分らなかった",
"まアいい。あれは悪いことの出来る人間じゃないよ",
"それから所在不明といえば、あの西一郎という男ですネ。彼奴は犠牲者の兄だというので心を許していましたが、イヤ相当なものですよ。彼奴は無職で家にブラブラしているかと思うと、どこかへ行ってしまって、幾晩もかえって来ない。留守番のばあやは金を貰っていながら、気味わるがっています。昨夜もそうです。蝋山教授を騙して、不明の目的のために四郎の屍体を解剖させているうちに、怪漢を呼んで屍体を奪わせた。そのくせ当人は、痣蟹が屍体を盗んでいったと称しています。あれは偽せの兄ですよ。本当の兄なら、屍体を取返そうと思って死力をつくして追駈けてゆきます",
"イヤあれは本当の兄だよ",
"私は随分部下や新聞記者の前を繕ってきましたが、今日かぎりそれを止めて、本当の考えを発表します。第一今日はキャバレー・エトワールの事件で、青竜王のところのチンピラ小僧にうまうませしめられて、面白くないです"
],
[
"今日何か新しい吸血鬼事件があったでしょう",
"ほい、もう嗅ぎつけたか。あれは絶対秘密にして置いたつもりだが、実は――"
],
[
"雁金さん、ポントスは昨夜から今日の昼頃までに殺されたんですよ",
"そう思うかネ。誰に殺された。――",
"もちろん吸血鬼に殺されたんですよ。屍体はその近所にある筈ですよ。発見されないというのは可笑しいなア",
"やっぱり吸血鬼か。そうなると、これで三人目だ。これはいよいよ本格的の殺人鬼の登場だッ。――ところで君はいま何処にいるのだ。勇が探していたが、会ったかネ",
"場所はちょっと云えませんがネ。そうですか、勇君は何を云っていましたか。――"
],
[
"青竜王のいるところが分りました。いま電話局で調べさせたんです。青竜王、いま竜宮劇場の中から電話を掛けたんです。私は青竜王に一応訊問するため、職権をもって拘束をいたしますから……",
"午後四時十分。――"
],
[
"男らしくもない。――",
"ヘン何とでも云え。まず第一におれの欲しいのはこれだア。――"
],
[
"やっぱり俺のものになったね。――",
"出ておゆき。ぐずぐずしていると人が来るよ",
"どっこい。もう一つ貰いたいものが残っているのだ。うぬッ――"
],
[
"ああ、一郎さん、助けてエ――",
"曲者、なにをするかア、――"
],
[
"それで勇君が、ポントスの部屋の隠し戸棚から発見した古文書というのはどんなものだネ",
"僕には判らない外国の文字ばかりで、仕方がないから大辻さんに見せると、これがギリシャ語だというのです。大辻さんは昔勉強したことがあるそうで、辞書をひきながらやっと読んでくれましたが、こういうことが書いてあるそうですよ。――明治二年『ギリシャ』人『パチノ』ハ十人ノ部下ト共ニ東京ニ来航シテ居ヲ構エシガ、翌三年或ル疫病ノタメ部下ハ相ツギテ死シ今ハ『パチノ』独リトナリタレドモ、『パチノ』マタ病ミ、命数ナキヲ知リ自ラ特製ノ棺ヲ造リテ土中ニ下リテ死ス――それからもう一つの文書は比較的新らしいものですが、これには――『パチノ』ノ墓穴ハ頻々タル火災ト時代ノ推移ノタメニ詳カナラザルニ至リ、唯『ギンザ』トイウ地名ヲ残スノミトハナレリ。マタ『パチノ』ガ『オスミ』と称スル日本婦人ト契リシガ、彼女ハ災害ニテ死シ、両人ノ間ニ生レタル一子(姓不詳)ハ生死不明トナリタリ。ソレト共ニ『パチノ』ノ墓穴ニ関スル重要書類ハ紛失シ、只本国ヘ送リタル二三ノ通信ト『パチノ』ノ墓穴廓内ノ建築図トヲ残スノミナリ――というのです。聞いてますか、青竜王",
"イヤ熱心に聴いているよ。それで分った。キャバレーの主人ポントスも、本国からそのパチノの墓穴探しに来ているのだ。その一方、痣蟹もたまたまこの秘密を嗅ぎだして、本国で墓穴の建築図などを手に入れ、日本へ帰って来たのだ。すべての秘密はそのパチノ墓穴に秘められているのだよ。パチノ墓穴の場所については、いささか存じよりがあるが、しかしパチノの遺族を捜し出すのはちょっと骨が折れるネ。しかし何事も墓穴の中に在ると思うよ。では勇君、――",
"待って下さい。青竜王はいま何処にいるのです。これから何処へ行くのですか",
"僕のことなら、決して心配しないがいいよ。――"
],
[
"青竜王本人が電話をかけて来たんですか",
"ええ、そうよ。――なぜ……",
"はッはッ、なんでもありませんけれど"
],
[
"え、え、一体どうしたのでしょうか。私はまだ何も知らないんですが……",
"知らない? 知らないで済むと思うかネ。すぐキャバレー・エトワールの地下に入ってパチノ墓地を検分したまえ。その上でキャバレーの出入口を番をしていた警官たちを早速、伝染病研究所へ入院させるんだ。いいかネ"
],
[
"いいや、やっぱり無駄かも知れない。これは痣蟹の屍体とは認めるけれど、青竜王の屍体と認めるのにはまだ早い。……君のために作られたような舞台だといったのは、実はこれなのだ。つまり青竜王の覆面を取れば痣蟹であるという誤が起るように用意されてある。……",
"では検事さんは、これを見ても、痣蟹が青竜王に化けていたとは信じないのですか",
"それはもちろん信じる。しかし真の青竜王が痣蟹だったということとは別の問題だ"
],
[
"大江山君、その問題は後まわしとして、この痣蟹は、明らかに吸血鬼にやられているようだが、君はどう思うネ",
"ええ、確かに吸血鬼です。この抉りとられたような頸もとの傷、それから紫斑が非常に薄いことからみても、恐ろしい吸血鬼の仕業に違いありません",
"すると、痣蟹が吸血鬼だという君のいつかの断定は撤回するのだネ"
],
[
"おっしゃる通り、痣蟹が吸血鬼なら、こんな殺され方をする筈がありません。吸血鬼は外の者だと思います",
"では撤回したネ。――すると本当の吸血鬼はどこに潜んでいるのだ。もちろん大江山君は、吸血鬼が覆面探偵・青竜王だとはいわないだろう"
],
[
"誰のことかネ",
"それはこのキャバレーの主人オトー・ポントスです。あいつがやっていたのでしょう",
"ポントスはどこかに殺されているのじゃないか。いつか部屋に血が流れていたじゃないかネ",
"そうでした。でも私はあのときから別のことを考えていました。それが今ハッキリと思い当ったんですが、ポントスは殺されたように見せかけ、実はこの莫大な財産とともに何処かへ逐電してしまったのじゃないでしょうか。悪い奴のよくやる手ですよ",
"そういう説もあるにはあるネ"
],
[
"そうだよ。彼は昨夜十二時、ここへ忍びこんだそうだ。すると、例の恐怖の口笛を聞きつけた。これはいけないと思う途端に、おそろしい悲鳴が聞えた。近づいてみると、痣蟹が自分の服装をして死んでいたというのだ",
"ああ青竜王! するとこれは偽せ物で、本物の方は、やっぱり生きていたのか"
],
[
"何処へ行くといって出掛けたのかネ",
"玉川の方です。骸骨のパチノとお澄という日本の女との間に出来た子供のことについて調べに行くと云っていましたよ"
],
[
"ポントスは本当のギリシア人ですよ。あいつはパチノ墓地を探しに来て、その墓地の上だとは知らずに、あのキャバレーを開いていたのです",
"ポントスでなければ誰だい。それとも痣蟹かネ",
"痣蟹は日本人ですよ。青竜王が探しているのは混血児ですよ"
],
[
"課長さん――は競技の間云わないことにしましょうよ、お嬢さん",
"あら――ホホホホ"
],
[
"ほう、お嬢さんはどこか悪いのかネ",
"あら、嘘。――このとおり元気ですわよ"
],
[
"そんなのは居ませんよ",
"いないというのかネ。君はハッキリ云うから愉快だ、何も知らない癖に……"
],
[
"検事さん。青竜王は貴方がたにゴルフをさせて置いて、自分はこの玉川でパチノの遺族を探しているそうですが、御存知ですか",
"そうかも知れないネ",
"では青竜王の居るところを御存知なんですネ。至急会いたいのです。教えて下さい",
"教えてくれって? 君が行って会えばいいじゃないか"
],
[
"なーに、千いちゃん",
"あたし、何だか怖いわ。だってあまり静かなんですもの",
"おかしな人ネ。静かでいい気持じゃないの"
],
[
"お姉さまが黙っていると、なんだか、独ぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?",
"あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ"
],
[
"その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか",
"咄嗟の出来ごとで、何も分らないそうだ。背後から組みついたので、顔も見えないというのだよ"
],
[
"ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです",
"一郎君が見えないネ。――"
],
[
"自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです",
"フーン"
],
[
"もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日で癒ります。身体にはどこにも傷がついていません。ただ駭きが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい",
"あたくし、誰かに逢いたいのですが",
"イヤ尤もです。そのうち誰方か見えましょう"
],
[
"誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ",
"僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分外に誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ",
"ええ、貴方が仰有ることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん",
"なんです、千鳥さん",
"あたくし、貴下に、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……",
"感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体に障りますよ。何ごとも暫くは忘れていることです。誰かが聞いても、何にも喋ってはいけません。千鳥さんは当分、生ける屍になっていなくちゃいけないんですよ、いいですか",
"生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ"
],
[
"君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよ儂たちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠しはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径の中なら、一軒一軒当っていっても多寡が知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方が六ヶ敷いと思うが……",
"イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だと睨んでいて、別途から犯人を探しています",
"別途からというと、君の覘っている犯人というのは誰だい",
"ポントス――つまりキャバレーの失踪した主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中にきっと発見してみせますから",
"彼奴はもう死んでいるのじゃないか",
"死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです"
],
[
"雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ",
"ほほう。イヤこれは盛んなことだ",
"まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……",
"犯人を国外に逃がす相談なら、今からお断りだ",
"そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです",
"うん、それはお誂え向きだ。では新選組を百名ばかり貸そうかネ",
"いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです",
"そんな勝手な条件なんか、蹂躙したまえ",
"そうはいかないですよ。――で僕は独りで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下のところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい"
],
[
"まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ",
"云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――",
"僕はこれまで、かなり君を庇ってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないで済んだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔して、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……",
"なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ"
],
[
"僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲に知れると、立ち所に君は殺人魔として捕縛されるところだった。僕はそれを西一郎の手を経て君の手に戻してやった",
"出鱈目をお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間は剰すところ一分だよ",
"君に悔い改めさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか",
"感傷はよせよ。みっともない",
"ああ、到頭僕の力には及ばないのか。……では僕は一切を諦めて殺されよう。だが只一つ最後に訊きたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ",
"そんなことなら、あの世への土産に聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ",
"そうか、パチノが先祖から承けついだ吸血病か、そうして遂に君にまで伝わったのか、パチノの曾孫にあたる吾が……"
],
[
"ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です",
"ポントスを生捕りにしたのかネ",
"いえ仰しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです",
"ほほう、それは出かしたネ",
"ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折れ釘でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫くは生きていたらしいですネ",
"おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ",
"吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています"
],
[
"よろしい。――が、いま時刻は……",
"もう三分で午後九時です",
"そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂が待っている電話があるのだから"
],
[
"では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇している場合ではありません。直ちに私たちに踏みこませて下さい",
"うん。……それでは儂も一緒に出かけよう"
],
[
"はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません",
"そうかネ、フーム……"
],
[
"どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか",
"あたしも先刻から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう"
],
[
"ジュリア! 世界一のジュリア!",
"われらのプリ・マドンナ、ジュリア!",
"殺してくれい、ジュリア!",
"百万ドルの女優!"
],
[
"ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ",
"呀ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと滴れる!"
],
[
"君は(――と一郎は愛妻のことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの亡くなった時まで知らなかったろう",
"アラ自惚れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ",
"へえ、そうかネ",
"へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目を開いてみたんですの。貴下の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ",
"そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君にしたことは大成功だろう。はッはッはッ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1934(昭和9)年8月号~11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「青竜王」と「青龍王」、「竜宮劇場」と「龍宮劇場」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"へいへい。有難うございます。おっしゃったものは皆そろって居ります",
"へえ、皆そろって居るって、本当かね",
"嘘じゃありません。まあ、ごゆっくり召上って頂きましょう"
],
[
"燻製も、一番うまいのはカンガルーの燻製ですな。第二番が璧州の鼠の子の燻製。三番目が、大きな声ではいえませんが、プリンス・オヴ・ウェールス号から流れ出した英国士官の○○の燻製……皆ここに並べてございまさあ",
"ええっ、何という……"
],
[
"とんでもない。彼奴は油断のならない喰わせ者だよ",
"へえ、喰わせ者",
"そうよ。器用な早業で、カンガルーの股燻製を一挺、上衣の下へ隠しやがった。あいつは掏摸か、さもなければ手品師だ",
"まあ、そんな早業をやったのかね、あの半病人のふらふら先生が……",
"まあいい。それよりは商売だ。金博士の耳に一刻も早く届くように、世界一の燻製料理の宣伝にかかることだ。さあいらっしゃい。世界一屋の燻製料理。種類の多いこと世界一。味のよいこと世界一。しかも値段のやすいこと世界一。さあいらっしゃい。早くいらっしゃってお験しなさい"
],
[
"だめじゃないか",
"どうしたんでしょうね、あの人は……"
],
[
"……そういうわけでしてのう。お礼の点については、憚りながら世界一の巨額をお払いしますじゃ。チャーチルも申しとりましたが都合によっては、カンガルーの産地オーストラリア全土を博士に捧げてもよいと申して居りますぞ。どうぞその代り、博士が今お手持ちの発明兵器で、世界一なるものを余にお譲りねがいたい。そこに大英帝国の最後の機会がぶら下って居るというわけでしてな、どうぞ御同情を賜りたい。いかがですな、目下お手持の発明兵器で世界一と思召すものは……",
"ふむ、ふむ、ふむ"
],
[
"まだ現れんね",
"どうしたんでしょうか。居ないわけはないんですけれどね"
],
[
"まあ、そういう頼母しい御方さまに巡り会いますなんて、神様のお引合わせですわ",
"そうだとも。それに……ちょっとこっちへ来てください、美しい鉛華さん",
"あら、お口がお上手なのね。警戒しますわ",
"いやなに、ざっくばらんの話ですが、貴女が金博士にわれわれをとりもって下されば、博士の貴女に対する信頼は五倍も十倍も増しますよ。俸給も上るでしょうし、うまいものも喰べられる。そればかりじゃない、われわれも儲けの一部を貴女に配当します。もちろんこれは断じて闇取引じゃない、正当なる利得ですし、それにねえ鉛華さん……"
],
[
"先生、町に素敵な燻製料理を売っていましたので、買って参りました",
"燻製か。燻製はもうたくさんじゃ",
"あらっ、先生のお好きな燻製でございますよ"
],
[
"燻製はもうたくさんじゃというのに。さっき、いやというほどカンガルーの燻製を喰ったよ。腹一杯になった",
"まあ、どうして召上ったのですか",
"泥棒がここへ持って来て、わしに喰えといった",
"泥棒が……",
"そうだよ。チーア卿といってな、チャーチル奴の特使じゃよ。モヒ中毒を装った苦が苦がしい男じゃ",
"それが泥棒でございますか",
"大泥棒じゃ。あれを見よ。わしの大金庫から新兵器の設計書袋を二抱えも持って逃げよった。怪しからん奴じゃ",
"まあ、それで先生は、その泥棒をお捕えにはなりませんでしたの"
],
[
"あの泥棒は逃がしてやった。それにわしはすっかり腹がくちくなって、指一本動かすのも大儀じゃったからなあ",
"まあ、いつもの先生なら、決してお逃がしになるのではありませんでしたのに……"
],
[
"うむ。むにゃむにゃ……",
"それを使えば、敵側は全く処置なしという凄いものを御提供願いたい。そのお礼の一つとして、博士をアラスカへ御案内したいですな。エスキモーの燻製など、天下の珍味でございますよ",
"わしは人間は喰わぬ"
],
[
"今のはベラントの失言でございます。博士、世界をたちまち慴伏させる新兵器といたしましては、どんなものを御在庫になっていましょうか",
"分っているよ。では案内しよう"
],
[
"これは何でしょうか",
"これは何ですの",
"ああ、それは陳腐なものばかりじゃ。今列国の兵器研究所が、秘密に取上げているものばかりだよ。今頃そんなものに手をつけては手遅れじゃ。こっちへ来なさい"
],
[
"この大金庫の中には、世界一を呼称する新兵器の設計書袋が五百五十種入って居る",
"ほう、五百五十種もですか",
"そうじゃ。さっき泥的チーア卿が、この中の五十三種を攫っていってしまったよ",
"ええ、チーア卿が……あの、五十三種も……。それはたいへんだ",
"なあに、愕くには当らんよ。もうあと三十分もすれば、チーア卿は後悔するだろう",
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"あの五十三種の書類はあと約三十分すれば、自然発火するんじゃ",
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"そうじゃ。この書類は一定の温度と湿度と気圧のところに在る限り安全じゃ。つまりこの部屋はその適切なる恒久状態においてある恒温湿圧室なのじゃ。したが、一旦他へ搬ばれ温度と湿度と気圧が違ってくると、一定時間の後には用紙が変質して自然発火するのじゃ。チーア卿は、さっきの装置で調べると、今飛行機にあれを積んでインド方面へ向けて飛行中だが、見ていなさい、あと三十分で飛行機は空中火災を起して墜落じゃ。泥棒にはいい懲しめじゃよ",
"へえん、それはそれは……"
],
[
"わしは元来淡白じゃ。君たちの要求をもう一度改めて聞いて、すぐそれに適ったものを売ってあげよう。希望をいってみなさい",
"はあ、それは有難うございます。博士、アメリカの欲しいものは、世界一の物凄い破壊新兵器で、これを防ぐに方法なしというものを頂きとうございますの",
"そうなんです。戦艦と雖も飛行機には弱く飛行機と雖もロケーターには弱く、ロケーターと雖も逆ロケーター式ロケット爆弾には弱い、金博士と雖も燻製料理には……いや、これは失礼……というわけですが、ルーズベルトのお願いしたいと申す新兵器は絶対に弱味のない不死身の手のつけられないハリケーンの如き凄い奴を、どうぞ御提供願いまする",
"そうか。そういうことなら共軛回転弾が条件にぴったり合っている",
"えっ、共軛回転弾。ああ、なんというすばらしい名称でしょう。大統領はどんなにおよろこびになることでしょうか",
"ええと、あれは第五十四号だったな"
],
[
"共軛回転弾というのは、こういう具合に、二つの硬い球が、丁度鎖の環のように互いに九十度に結合して、猛烈な高速で回転するのだ。そして互いに相手を励磁して回転を促進し、永久に停まらない。この硬い球は、原子核の頗る大きいものだと思えばよろしい、わしが五年かかって特製したものだ。硬いこと重いことに於て正に世界一。そしてこれを共軛回転させてスピード・アップすると、その速力は音波の速力の約三十倍となる。そこへ持って来て、これは一名『鉄の呪い』という名があるくらいで、鉄材を追駆けて走りまわるのじゃ。じゃによって、いかなる戦車群、いかなる大艦群、いかなる武装軍も、たちまちこの回転弾のために粉砕されてしまうというわけだ。この共軛回転弾によって破壊し得ないものは、この地上に一つもない。どうじゃ、聞いているのか",
"ええ、聞いていますとも、まあなんというすばらしい新兵器でしょう",
"ああ、一千億ドルの値打があるよ。現物はこっちにある。来てみなさい"
],
[
"これじゃ。この中に入っとる",
"まあ、危くありませんの",
"いや、まだ起動して居らぬから危くない。この棒を抜くと、まず一部分に静かなる化学変化が起り始める。その化学変化がだんだん発達して、小さな歯車が動きだす。電気が起る。小さいモーターが廻る。だんだんと大きな牽引力が起り、電力が発生し、やがて二つの硬球が双方から寄って来て、ぐるぐると回転をはじめる。するとこの箱がめりめりと壊れる。中から回転弾が、ぼうんと飛び出す。あとはめりめりもりもりと破壊が始まる",
"すげえもんだなあ",
"目的地にこの箱がつく時刻が分って居れば、この時限管の適当なるものを壊しておいてから起動棒を抜くと、ちゃんと所定の時刻に回転を始める仕掛になって居る。目的地へこの箱のつくのは何時間後じゃな"
],
[
"はい。目的地へつくのは、これから輸送機を呼んで、一時間後には当地を出発できますから、あとワシントンまで六千九百九十九キロを平均時速八百キロで飛んで、八時間と四十五分。飛行場から直ちに白堊館まで自動車で搬んで大統領に謁見するとしてその時間が十五分。合計丁度十時間。十時間です。博士",
"十時間、ああよろしい。正確に十時間後と調整して置こう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1944(昭和19)年9月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003352",
"作品名": "共軛回転弾",
"作品名読み": "きょうやくかいてんだん",
"ソート用読み": "きようやくかいてんたん",
"副題": "――金博士シリーズ・11――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・じゅういち――",
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"初出": "「新青年」1944(昭和19)年9月号",
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[
"よし、行こう",
"それできまった。行こう、行こう"
],
[
"ああ、夏休みになるまで、ずいぶん日があるよ。退屈だねえ",
"今年は暑いから、夏休みを一週間早くしてくれてもよさそうなもんだね"
],
[
"ジミー、これを買おうや",
"うん、買おうな"
],
[
"ただ、忘れてならないことは、潜るときに、上甲板への昇降口が閉まっているかどうか、それは必ずたしかめてからにすること。いいかね",
"はいはい。聞いています",
"それから、潜るときの注意としてもう一つ。それは上甲板に水につかっては困るものが残ってやしないか、それに気をつけること",
"なんですか、水につかっては困るものというと……",
"実例をあげると、すぐ分る。たとえば、上甲板に人間が残っている。それを忘れて、そのまま艇が海の中に潜ってしまえば、その人間は、たいへん困るだろう。困るどころか、溺死してしまうからね",
"ははーん、なるほど",
"第二の例。上甲板に、虫のついた小麦粉を陽に乾してある。それを中へ入れるのを忘れて、その潜水艦が海の中へ潜ってしまえば、小麦粉はもう、永久にサヨナラだ",
"ああ、分かりました"
],
[
"しまったね。見られちゃったね",
"扉の鍵は君がかけたんだろう",
"たしかにぼくがかけた。おやおや、これではだめだ。戸がすいているから、鍵をかけても開くんだもの"
],
[
"見つけた。六隻よりなる船団!",
"えっ、六隻よりなる船団だって。おい、よく見ろよ。それは艦隊じゃないのか。艦隊をおどかしたら、大砲やロケット弾でうたれて、こっちはこっぱみじんだぞ"
],
[
"よく見た。六隻よりなる船団なれども……",
"なれども――どうした",
"帆を張った現地人のカヌーじゃ",
"なんだ、カヌーか。カヌーじゃ、おどかしばえもしないが、店開きだから、やってみよう"
],
[
"ねえサム。あの汽船は、きっといい望遠鏡を持っているだろうから、遠くの方で浮きあがって、近くへ寄らないのがいいだろう",
"うん。しかし、あまり遠くはなれては、相手の方で恐龍の存在に気がつかないかもしれない。花火をあげる用意をしておけばよかったね",
"恐龍が花火をあげるものか"
],
[
"ふふふ、これが、こしらえ物の恐龍だと分からないのかなあ。船長まであわてているらしい",
"おやおや、針路をかえだしたぞ。逃げだすつもりと見える"
],
[
"しょうがないね。まだ飛行機のやつ、下界をのぞいているぜ",
"困ったねえ。もうすぐ日が暮れる。ぼくたちは夜間航海を習っていないから、明日の朝まで、ここを動くことはできやしないよ",
"そんなら、今夜はここに泊まろう"
],
[
"いやに大がかりになって来たね",
"きっと恐龍事件は世界中の大ニュースになって、さわがれているんだぜ",
"痛快だなあ。しかしカが多くていけないや"
],
[
"だめだ。まだ飛行機が、空にがんばっているよ",
"夜がすっかり明けちまうと、ちょっと出にくいんだ。困ったね"
],
[
"よし、今のうちに出航だ。しかしその前にヤシの実を十個ばかり拾って、艇内にはこんでおく必要がある。これからまだどういう目にあうかもしれないから、水の用意はしておかないといけないんだ",
"なるほど。では二人で、五個ずつ拾ってくればいいんだね。ゆこう"
],
[
"うむ。ぼくの目はどうかしているらしい。恐龍の首が二つ見えるんだ",
"あははは、何をいっているか"
],
[
"おどろいたね。この島には本物の恐龍がすんでいるんだよ",
"恐龍島って、ほんとうにあるんだな。あいつは人間を食うだろうか",
"恐龍は爬虫類だろう。爬虫類といえばヘビやトカゲがそうだ。ヘビは人間をのむからね。従って恐龍は人間を食うと思う",
"なにが『従って』だ。食われちゃ、おしまいだ。ああ、困ったなあ",
"ぼくはそんなことよりも、あのけだものが、ぼくらの恐龍号の恐龍に話しかけても返事をしないものだから、腹を立ててしまってね、ぼくらの艇をぽんと海の中へけとばして沈めてしまやしないかと心配しているんだ",
"あっ、そうだ。昇降口をしめてくるのを忘れたよ。困った。本物の恐龍は相手が口をきかないものだから、きっと腹を立てるだろう",
"そうなれば、ぼくらは、乗って帰る船がなくなるよ。そしてこの島に本物の恐龍といっしょに住むことになるだろう",
"わーっ。本物の恐龍と同居するなんて、考えただけで、ぶるぶるぶるぶるだ"
],
[
"ねえ、サム。恐龍は、鼻がきくだろうか。つまりにおいをかぎつけるのが鋭敏かな",
"なぜ、そんなことを聞くんだい",
"だって、ぼくはこれからそっと湾の方へ行って、本物の恐龍がどうしているか見てこようと思うんだ。しかし、もし恐龍の鼻がよくきくんだったら、ぼくが近づけば、恐龍に見つかって食べられてしまうからね",
"恐龍の臭覚は鈍感だと思う。なぜといって、ぼくらの作り物の恐龍のそばまで行っても、まだ本物かどうか分かりかねていたからね",
"じゃあ行ってみよう",
"ぼくも行く"
],
[
"おや恐龍はいないぞ",
"ほんとだ。今のうちに、恐龍号に乗って逃げようよ",
"よし、急げ、早く"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行
入力:海美
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月22日公開
2006年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000874",
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"初出": "「少年読物」別冊、1948(昭和23)年6月",
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[
[
"あっ、甲板へ行ってほえていますよ",
"うむ。どうしたというんだろう。幽霊をおっかけているわけでもあるまいが、とにかく何か変ったことがあるに違いない。行ってみよう"
],
[
"ほう。そんな高いところへ上って。何をしているんだ",
"海の上を見てほえていたんですが、今おとなしくなりました",
"海の上? 何もいないようだが……"
],
[
"早いところ、筏は一つに組みなおすことが必要だ",
"やりましょう"
],
[
"なんか食べものは漂流していなかったかしらん",
"ああ、それはほんのすこしばかりしか手に入らなかった。おお、そうか。君は腹ぺこなんだね",
"早くいえば、そうです",
"なんだ、えんりょせずに早くいえばいいのに。よし、ごちそうするよ、待っていたまえ",
"いや、筏の組みかえがすんでからで、いいんです",
"そうかね。じゃあ筏の方を急ごう。なんだかあそこに、いやな雲が見えるからね、仕事は急いだ方がいいんだ"
],
[
"どうだ、塩味がききすぎていたろう",
"いや、そんなことは分りませんでしたよ"
],
[
"もっとたべていいよ。そのうちには、どこかの船に行きあって、助けられるだろうから",
"もう十分たべました"
],
[
"あれかい。あれは雲じゃないかなあ、僕もさっきから見ているんだが……",
"島ですよ。山の形が見える"
],
[
"明るいうちに、島へつきたいものだね",
"こぎましょうか",
"こぐったって、橈もなんにもない"
],
[
"無人島でしょうか",
"どうもそうらしいね",
"人食い人種がいるよりは、無人島の方がいいでしょう",
"それはそうだが、くいものがないとやり切れんからね"
],
[
"人がいますか",
"いや、そんなものは見えない。しかし島の左のはしのところを見てごらん。舟つき場らしい石垣が見えるじゃないか"
],
[
"もうあの島には、人が住まなくなったのでしょうか",
"それにしては、あの石垣がもったいない話だ"
],
[
"どうしたんですか",
"この島は、恐竜島じゃないかなあ。たしかにそうだ。あのおかを見ろ。恐竜の背中のようじゃないか。気味のわるいあの色を見ろ。もしあれが恐竜島だったら、われわれは急いで島から放れなくてはならない"
],
[
"ラツールさん。上陸しないの、それともするの",
"だんぜん上陸だ。運命は上陸してから、どっちかにきまるんだとさ。かまやしない。それまではのんきにやろうや。どうせこのまま海上に漂流していりゃ、飢え死するのがおちだろうから、恐竜島でもなんでもかまやしない、三日でも四日でも、腹一ぱいくって、太平楽を並べようや"
],
[
"きれいな魚がいますよ。ラツールさん。あっ、まっ赤なのがいる。紫色のも、赤と青の縞になっているのも……",
"君は、この魚を標本にもってかえりたいだろう",
"そうですとも。ぜひもって帰りたいですね、全部の種類を集めてね、大きな箱に入れて……",
"さあ、それはいずれ後でゆっくり考える時間があるよ。今は、さしあたり、救助船へ信号する用意と、次は食べるものと飲むものを手に入れなければいかん。その魚の標本箱に、われわれの白骨までそえてやるんじゃ、君もおもしろくなかろうからね",
"わかりました。魚なんかに見とれていないで、早く上陸しましょう",
"おっと、まった。まずこの筏を海岸の砂の上へひっぱりあげることだ。このおんぼろ筏でも、われわれが今持っている最大の交通機関であり、住みなれたいえだからね",
"竿かなんかあるといいんだが。ありませんねえ。筏の底が、リーフにくっついてしまって、これ以上、海岸の方へ動きませんよ",
"よろしい。ぼくが綱を持ってあがって、ひっぱりあげよう",
"やりましょう"
],
[
"さあ、そこでさっきの仕事を大急ぎでやってしまうんだ。そこから枯草のるいをうんと集めてきて、山のように積みあげるんだ。もし今にも沖合に船影が見えたら、さっそくその枯草の山に火をつけて、救難信号にするんだ",
"はい。やりましょう"
],
[
"どうしたんです。ラツールさん。しっかりして下さい",
"大丈夫だ、玉ちゃん。うわッはっはっはっはっ"
],
[
"ラツールさん。気をおちつけて下さい、どうしたんです",
"むだなんだ。こんなことをしても、むだなのさ"
],
[
"何がむだなんです",
"これさ。こうして枯草をつみあげても、だめなんだ。すぐ役に立たないんだ。だって、そうだろう。枯草の山ができても、それに火をつけることができない。ぼくは一本のマッチもライターも持っていないじゃないか。うわッはっはっはっ",
"ああ、そうか。これはおかしいですね"
],
[
"第一の仕事がだめなら、第二の仕事にかかろうや。この方はかんたんに成功するよ。ねえ玉ちゃん。腹いっぱい水を飲みたいだろう",
"ええ。そうです。その水です",
"水はそのへんに落ちているはずだ。どれどれ、いいのをえらんであげよう"
],
[
"さあ、そこで第三の仕事にうつろう",
"こんどは何をするんですか",
"火がなくて、沖合へのろしもあげられないとなれば、いやでもとうぶんこの島にこもっている外ない。そうなれば食事のことを考えなければならない。何か空腹をみたすような果物かなんかをさがしに行こう",
"ああ、それはさんせいです",
"多分この密林の中へはいって行けば、バナナかパパイアの木が見つかるだろう",
"ラツールさんは、なかなか熱帯のことに、くわしいですね。熱帯生活をなさったことがあるんですか"
],
[
"熱帯生活は、こんどが始めてさ。しかしね、二三年前に熱帯のことに興味をおぼえて、かなり本を読みあさったことがある。そのときの知識を今ぼつぼつと思い出しているところだ",
"そうですか。どうして熱帯生活に興味をおぼえたんですか",
"それは君、例の水夫ヤンの――"
],
[
"どこでしょう。あ、やっぱりこの林の奥らしい",
"どうしたんだろう。玉ちゃん、行ってみよう。しかし何か武器がほしい"
],
[
"おっと、ポチを呼ぶのは待ちたまえ",
"ええ、やめましょう。でもなぜですか",
"犬が吠えているところを見ると、あやしい奴を見つけたのかもしれない。今君が大声でポチを呼ぶと、あやしい奴がかくれてしまうかもしれない。そしてぼくたちが近よったとき、ふい打ちにおそいかかるかもしれない。それはぼくたちにとって不利だからねえ"
],
[
"だから、ポチにはすまないが、しばらくほっておいて、犬の吠えているところへ、そっと近づこうや",
"いいですね。こっちですよ"
],
[
"まるで地面の下でほえているように聞える",
"地面の下なら、あんなにはっきり聞えないはずだ。どこかくぼんだ穴の中におちこんでほえているのじゃなかろうか",
"ほえているのは、こっちの方角だが、どこなんでしょう"
],
[
"あッ、また地震だ",
"いやだねえ、地震というやつは……"
],
[
"へんなところがあるって。なぜ?",
"だって地震は、たいてい一回でおしまいになるでしょう。何回もつづく場合は、はじめの地震がよほど大きい地震でそのあとにつづいて起る余震は、どれもみなくらべものにならないほどずっと小さい地震なんでしょう。ところがさっきの地震は、そうでなかったですね。どの地震も同じくらいの強さの地震だったでしょう。だからへんだと思ったんです"
],
[
"ポチは、あやしいものを見つけて、ほえているんですよ",
"そうらしい。この沼の向うがわだ。そして地面の下でほえているように思う",
"ラツールさん。ぼくはこれから沼のむこうへ行って、ポチを早く助けだしてやりたいです",
"行くかね。きみが行くなら、わたしも行く。しかし玉ちゃん。すこしのことにも深く注意して、すこしずつ前進するんだね。もしもこの島が恐竜島だったら、われわれはすぐさまこの島をあとにしてのがれなければならないんだ。命の危険、いやそれいじょうのおそろしいことが恐竜島にはあるんだ"
],
[
"なぜそんなことが起ったのか。人間がひとりも見えない無人島で、まさか土木工事が行われようとも思われない。とにかく、もうすこしそこらを見てまわろうじゃないか",
"それがいいですね。きっとどこかに、ポチのもぐりこんだ穴があるにちがいありませんよ"
],
[
"なぜこんな崖をつくったんだろうか。いみが分らない",
"それなら、崖の上までのぼって見てはどうでしょうか。上に行くと、きっとなにかありますよ",
"なるほど。崖というものは、下より上の方が大切なのかもしれない。じゃあ、のぼってみよう"
],
[
"なんべんお聞きになっても、ここですよ。おっしゃったとおりの地点で、まちがいなしですよ。それに、ごらんのようにあの島の形は、おあずかりしている水夫ヤンのスケッチと同じ形をしていますからねえ",
"その島の形じゃが、わしにはよく見えんでのう。これは八倍の双眼鏡だがね",
"見えないことはありませんよ。しばらくじっと見ておいでになると、島の輪廓がありありと見えてきます。わしらには肉眼でちゃんと見えているんですからねえ。この見とうですよ"
],
[
"おことばですが閣下、もうそろそろ珊瑚礁になりますんで",
"リーフになったら、どうするというのかね",
"そうなると、この汽船は珊瑚礁の上にのりあげて、船底を破るおそれがあるのです。ですから本船はこれ以上深入りしないことにして、用事のある方だけ夜明けをまって、ボートに乗って島へ上陸されたらいいでしょう"
],
[
"へへん",
"……と思うまもなく、その恐竜は、どぼんと海中にとびこみ、そしてわしたちの乗っている船をめがけて、追いかけてきた",
"恐竜は水泳ができると見えますな",
"さあ、わしは恐竜が泳ぐところを見たことがない",
"だって、海を泳いで、閣下たちの乗っていられる船を追っかけて来たのでしょう",
"いや、そうではない。そのとき恐竜は、たしかに海の底を歩いていたのだ。しかし恐竜の首は、海面から百メートルぐらいも上に出ていた。船のマストよりも高いんだから、おどろいたね",
"ほんとうですか。わしは信じませんね",
"ほら話をいっているんじゃないよ。じっさいに恐竜を見たわしらでなくては、恐竜がどんなに大きいけだものであるか、どんなおそろしいやつか、とても想像がつかないよ",
"へーん。……で、それからどうなりましたか",
"それから……それからがたいへんだ。恐竜は、そこまでやってくると、大きな口をあいた。口の中はまっ赤だ。蛇のように長い舌をぺろぺろと出したかと思うと、いきなり船のマストにかみついた",
"ふーん。それはたいへんだ",
"かみついたと思うと、船がすうーッと上にもちあがった。恐竜の力はおそろしい。じっさいに船をもちあげたんだからね",
"ほう",
"船からは、恐竜にむかってさかんに発砲した。しかし恐竜は平気なものさ。船長はついに大砲を持ちだした。それをどかんとやると、恐竜の首をかすった。恐竜は、はじめておどろいて、へんないやらしい声で泣いた。とたんに、くわえていたマストをはなしたもんだから、こっちの船は五十メートルばかり下の海面へぼちゃんと落ちて、ぐらぐらと来た。あのときばかりは船長以下、舵もコンパスも放りっぱなしにして、みんながいっしょにすがりついて、船橋をごろごろころがった",
"そうでしょう。ステアリングどころじゃない",
"すると恐竜は、山のような大波をたてて海の中にもぐった。その波にあおられて、船は一マイルほど沖合へおし流された。それが幸いで、ようやく恐竜にくわれるだけは助かった。というのは、船体はさけてがたがたになっている。浸水がひどくて、手のつけようもない。それから三十分ばかりのうちに沈んでしまった。乗組員は少ないボートに乗れるだけ乗ったが、その夕刻の暴風でひっくりかえり、助かったのは、このわしひとりよ",
"これはおどろいた。恐竜がそんなにおそろしいという話を、今までどうしてお話にならなかったのですか。伯爵閣下",
"それはあたり前さ。そんな話をすれば、君たちはここまで船を進ませてくれなかったろうから",
"あ、なるほど",
"だから、恐竜の害をうけないように、夜でなくては、その島へ近づけないのだ",
"それはもっともなことです"
],
[
"閣下、どうなさる。船は引返しましょうか、それともここからボートで上陸されますか",
"もっと、この汽船を海岸へ近よせてもらいたい",
"それはだめです。いくらおっしゃっても、リーフに船底をやられてしまっては、この船はぶくぶくの外ありません。ボートで、早く下りていただきましょう。こんなおそろしいところでぐずぐずしていて、またこの前のように、恐竜のためにマストをかじられることは歓迎しませんからね"
],
[
"なにかね",
"さっきお話の恐竜は、あのとき死んだのですか、それとも生きのびたですかね",
"多分死んだろうね。なにしろ首を大砲の弾丸でけずられてみたまえ、君だって生きていられまい",
"なるほど。それで安心しました",
"しかしその恐竜が死んだという確証はない。では、さよなら、ボールイン船長"
],
[
"やれやれ、かわいそうに。ボートは大波にゆすぶられてすぐには島へつけないだろう",
"もう一時間おそく、本船を放れりゃよかったのになあ",
"とんでもない。こんなおそろしいところに、あと一時間もまごまごしていられるかい"
],
[
"おもー舵いっぱい",
"そのとおり、おも舵いっぱいなんですが、船が逆にまわっています",
"そんなばかなことがあるか。お前は何年舵をとっているんだ"
],
[
"船長。船の上に、何かいますよ",
"なにッ。何がいるって",
"メインマストの上のあたりをごらんなさい。なにか黒い大きなものが立っています。竜巻かな、いや竜巻じゃない"
],
[
"恐竜だ。みんなピストルでも何でもいいから、あいつをうて",
"いや、うつな。あいつを怒らせると、たいへんなことになる"
],
[
"だめです。あのけだものは、大おこりにおこっていますぜ。あっ、船がかたむく。船長。本船はひっくりかえりますぞ。早く号令を出して下さい",
"号令を出せって。両舷全速だ",
"だめだなあ。本船には両舷エンジンなんかありませんよ。ああ、いけねえ。もうだめだ"
],
[
"お前ら、海へはいってボートを、リーフから下ろしてくれ",
"とんでもないことでございますよ"
],
[
"そんなことをいわないで、はやく海へはいってボートをおしあげてくれ",
"あっしゃ、鱶という魚がきらいでがんしてね。あいつはわしら人間が海へはいるのを一生けんめいねらっているんです。はいったところをぱくり。もものあたりから足をくいとられたり、お尻の肉をぱくりとかみ切っていったり。えへへ、なんでしたら閣下が鱶へ食糧をおあたえなすっては……"
],
[
"恐竜がどうしたんで……",
"どうしたといって、わしらがボートで出たあと、海中からとつぜん恐竜が現われ、船は沈没してしまった"
],
[
"これはたいへんだ。恐竜とこの島に同居するのでは、たいへんだ",
"やっぱり恐竜は人間をくうんだね。そこまでは考えなかった",
"人間をくうとは、まだはっきり断定できないだろう",
"いや、あの小さい総督が今いった話によると、ラツールとかいうフランス人がくわれ、ポチという犬が恐竜にくわれたそうじゃないか",
"目下行方不明だというんだろう。くわれたかどうか、そこまではまだわかっていない",
"くわれたにきまっているよ。こんな小さな島で、行方不明もないじゃないか。それにわれわれは母船を失った。あのとおり親船のシー・タイガ号はまっぷたつにちょん切られて、もう船の役をしない。われわれはこれから恐竜島に缶詰めだ。そこで今日は一人、あすは次の一人という工合に、恐竜の食膳へのぼっていくのだ。はじめの話とはちがう。ああ、これはたいへんだ",
"なるほど。これはゆだんがならないぞ"
],
[
"さんせい。すぐ出かけよう",
"よろしい。われわれもゆく"
],
[
"おいおい。いくら老人団長でも、そうもうろくしてもらってはこまるぜ。問題は、われわれの生命にかかっている。危機一髪というところで、子供がわあッと泣いたため、恐竜がわれわれのいることに気がついてとびかかって来たらどうするんだ。われわれの生命の安全のために、われわれは幼児の同行に反対する。さあ、団長。はっきり宣言したまえ",
"それはこまる",
"なにイ……",
"まあ、まちたまえ。団長、モレロ君。恐竜島へ上陸したとたんに、せっかくにここまではるばる仲よくやってきた隊員の間で争いがおこるというのはおもしろくない。よく話し合って、協調点をみつけてくださいよ",
"生命の問題は、ぜったいだ。協調なんかして死ぬのはいやだ",
"今さら、隊員の自由をしばるのはいやだ",
"どっちも、もっともです。しからば、こうしたらどうです。ツルガ博士がゆくときは、モレロ君はあとにのこる。次回はモレロ君がゆき、ツルガ博士はあとへ残る。そんならいいでしょう"
],
[
"おーい。待ってくれーッ",
"おーい"
],
[
"ツルガ博士。くわしく観察するのは後にして、まずみなさんといっしょに、行きつくところまで行ってみようじゃありませんか",
"しいッ、しずかに……"
],
[
"じょうだんをいってはこまる。恐竜はわしが飼っているのではない",
"夜間撮影はだめなんですよ。昨日のように出られても、こっちはとりようがありませんからね。こんどから太陽の光がかがやいているうちに出して下さい",
"まだそんなことをいう。わしは、恐竜動物園の園長でもないし、また恐竜の親でもないんだからね",
"ロケーションは、このへんがもうし分なしですね。あのそぎたったような崖、たおれた大榕樹、うしろの入道雲の群。そうだ、あの丘の上へ恐竜を出しでもらいたいですね。つまり崖の上ですよ。団長さん",
"ああ、なんとでも勝手にいいたまえ。君は昨日の事件で頭がへんになったのにちがいない。あーあ、あわれなる者よ",
"じょうだんでしょう。気がへんになっていては、こんなに見事に仕事の註文をつけられませんよ。僕たちは、この恐竜撮影に成功して、本年の世界映画賞を獲得する確信をもって、やっているんですからね。だから団長さんも、その気になって、僕達に協力してもらいたいですよ",
"ああ、いよいよ、のぼせあがっている。かわいそうに",
"もっと註文をつければ、崖の上のあの丘を舞台にして、右手の方から恐竜を追出してもらいたいですね。そしてでてきたら、恐竜は首をうんと高くのばして入道雲のてっぺんをぺろぺろなめるんです。もちろんそれはかっこだけで、ほんとうに雲のてっぺんをなめなくてもよろしい",
"わしはもう君の相手はごめんだ。わしの方が、頭がへんになる",
"それからこんどは、大恐竜は、おやッという顔をして、長いくびを曲げ、崖の下を見る。そこで崖下にいるわれわれの存在に気がついて、長いくびをのばして、あれよあれよというまに崖の下にいる僕らのうちの誰かの頭にがぶりとかみつき、むしゃむしゃとたべてしまう。大恐竜の口にくわえられた探検隊員は、それでも助かろうとして、手足をばたばたさせる。どうです、すごいじゃありませんか。団長さん。あんたは、恐竜の口にくわえられて、手足をばたばた動かせますか",
"とんでもないことをいう人だ。わしゃ、かなわんよだ",
"まあ、そのときは、一つ全身の力をふるって、手足を大いにばたばたと、はでに動かして下さいよ。それについて団長とけいやくしましょう。十分映画効果のあるように、はでにばたばたやって下されば、その演技に対して僕は二百五十ドルをあんたにお支払いいたしましょう。どうです、すばらしい金もうけじゃあないですか",
"とんでもない。瀕死の人間が、そんなにはでに手足をばたばたさせられるものか。たとえ、それができるにしても、わしは恐竜にたべられるのは、いやでござるよ",
"ちぇッ。こんないい金もうけをのがすなんて、団長さんも慾がなさすぎるなあ"
],
[
"おい、ダビット。“恐竜崖の上に現わる”の大光景は、もちろんうまくカメラにおさめたろうね",
"失敗したよ。怒るな、ケン",
"えッ。失敗したとは、どう失敗したんだ"
],
[
"レンズのふたを取るのを、忘れてたんだ。あやまるよ",
"なに、撮影機のレンズのふたを取るのを忘れたというのか。それじゃ、あの息づまるような恐竜出現の大光景が、たった一こまもとれていないのかい。じょうだんじゃないぜ。生命がけで、こんな熱帯の孤島まで来て苦労しているのに……",
"今後は気をつけるよ、ケン。なにしろ、おれは恐竜のあまりでっかいのにびっくりして、レンズのふたを取るのを忘れてしまったんだ。これからは、こんな失敗はくりかえさない。しかし、ああ、どうも、全くおどろいたね",
"恐竜を恐れていては仕事ができないよ。あんなものは、針金と布片と紙とペンキでこしらえあげた造り物と思って向えばいいんだ。しっかりしろよ",
"すまん。全く、すまんよ",
"こうなると、次はもっとすごい場面に出あいたいものだ。おお、隊長どの。この次、恐竜はどこに出ますかね"
],
[
"そうだ。そのことだ。それを知っていないと、これから恐竜とのつきあいにさしつかえるからね",
"そのことだが、恐竜は猛獣のように荒々しいともいえるし、そうでもないともいえるし",
"なんだ、それじゃ、どっちだかはっきりしないじゃないか",
"いや、はっきりしていることはしているのだ。つまり相手によりけりなんだ。自分の気にいらない相手だと、くい殺してしまうし、自分の好きな相手なら、羊のようにおとなしい",
"恐竜は、好ききらいの標準をどこにおいているんだろうね",
"まず、虫が好くやつは好きさ。虫が好かんやつはきらいさ",
"それはそうだろうが、もっとはっきりと区別できないかな"
],
[
"わしの経験では、或る種のエンジンの音をたいへんきらうようだ。ほら、昨日シー・タイガ号が恐竜におそわれて、あのとおりひどいことになったが、あれは恐竜がエンジンの音が大きらいであるという証明になると思う",
"好きなエンジンもあるんだろうか"
],
[
"鍛冶屋のとんてんかんというあの音は好きらしい。蓄音器のレコードにあるじゃないか。“森の鍛冶屋”というのがね",
"それはエンジンの音ではないよ",
"飛行機のエンジンの音が問題だ。こいつはまだためしたことがないから分らない。そうそう、原地人の音楽も、恐竜は好きだね。あのどんどこどんどこと鳴る太鼓の音。あれが鳴っている間は、恐竜はおとなしいね"
],
[
"おお。やっぱりそうだ。あれは恐竜の巣の出入口なんだろう。おい、ダビット。カメラ用意だぞ",
"あいよ"
],
[
"この前、わたしたちがここを通ったときにはね、ここらあたりは赤土の小山だったがね、たしかに、穴なんかなかった",
"じゃあ、いつの間にか、その小山が陥没して穴になったんでしょうか",
"そうとしか思えないね。まさか道をまちがえたわけではないだろう"
],
[
"オー、ケー",
"注意しとくが、ピストルも銃も、いよいよというときでないと撃たないことだね。恐竜をびっくりさせることは、できるだけよしたがいいからね",
"よし、わかった"
],
[
"おお、そうだ。たしかに風が通っていく",
"やっぱり生ぐさい風だね",
"いや、さっきの生ぐさい風とはすこしちがうようだ"
],
[
"まあ、信頼するに足りますよ",
"まあ――とは気にいらないね。あの犬は気がへんになることもあるのかね",
"そうですね。このごろ、時によると、急にさわぎ出すんです"
],
[
"えええッ",
"うーむ"
],
[
"これでまに合うかな",
"大丈夫、あそこまでとどきますよ",
"とどくことは分っているが、このロープはすこし古いからね。切れやしないかと思う",
"大丈夫でしょう、こんなに太いんだから"
],
[
"ダビット。君が先へおりてくれ",
"よろしい"
],
[
"とんでもない。ぼくが下ります。注射もしなくてはならないのです",
"いや、わしだって注射はできるぞ",
"まあまあ。ここでまっていて下さい",
"そうかね。それでは行って来たまえ。そしてすんだらすぐ上ってくれ。下でぐずぐずしたり、余計なよそ見をするんじゃないよ",
"なにをいうんですかい、おじいちゃん"
],
[
"はり倒すぜ。お伽噺じゃあるまいし。さあお伽噺より現実の方がだいじだ。君はこのラツール君を背中にしばってこのロープをつたわってあがれるかい",
"オー・ケー。大いに自信がある"
],
[
"たいへんなことができたんですよ。マルタンさん。この奥の恐竜洞へいった人たちが岩から落ちて、上ってこられなくなったんです。ラツールもやはり落ちていたのです",
"ええッ"
],
[
"玉太郎君。あの人はほうっておいて、早く海岸へ行って、他の人たちに協力をもとめようではないか。その方が早い",
"ええ、それでは急いで、海岸へもどりましょう"
],
[
"たいへんです。恐竜の洞窟の中で、みんなが遭難してしまったんです",
"ロープが切れて、みんな崖の中段のところに、おきざりになってしまったんだそうだ。すぐみなさん、救援にいって下さい",
"それは大事件ですね。ロープだけでいいのでしょうか"
],
[
"すごいところがあったもんだ",
"地球の上に、こんな別天地があろうとは、夢にも思わなかった",
"これは、地獄の入口かも知れない",
"恐竜の巣にとびこむなんて、契約になかったぞ"
],
[
"さあ、作業はじめだ。ロープを、まず四本は、下へおろさなくてはならない。そこらにしっかりした岩を見つけてロープの端をしばりつけるのだ",
"見物はあとにして、こっちへ集って下さい"
],
[
"モレロ君。君は自分の分を、このロープでくくりつけたまえ",
"わたしはいやだよ。下に下りる気はない",
"ほんとかね。わしはかけをしてもいい。今に君は、きっと下へ下りるだろう",
"とんでもないことだ。しかしあの恐竜をたねに、なんとか金もうけを……うむ、むにゃむにゃむにゃ",
"では、張さん。あなたは身体がかるいから、水夫がおろしたロープで、先へ下りて下さい。なあに、下の連中に、元気のつくような話をしてくれれば、それでいいんですよ"
],
[
"伯爵の姿は見えんですね",
"そうです。張君。玉太郎君の話によると、一番下まで落ちたそうです",
"どうして彼ひとりが落ちたんですかな"
],
[
"伯爵は、とつぜんロープに下って下りてきたのです。ところがそのロープにはダビットさんとラツールさんがとりついていたもんだから、三人の人間の重味にはたえられなくなって、ぷつりとロープが切れたんです",
"ほう、ほう",
"上の方にいた伯爵は、もんどりうって一番下まで落ちました。なぜそんなむちゃを伯爵がしたのか分りませんが、ぼくが感じたところでは、伯爵はなにかにおどろいたためだと思います",
"なにかにおどろいたとは?",
"その前に、伯爵はひとりで、洞窟のあちこちを見まわしていましたがね、そのうちにおどろきの声とともに何か一言みじかいことばをいって、ロープへとびついて下りようとしたのです",
"短いことばというと……",
"ぼくは、よくおぼえていないのですが、なんでも、“あ、見えた、金貨の箱だ”といったように思ったんです",
"えっ、金貨の箱"
],
[
"よかったねえ、ラツールさん",
"ありがとう。君は三度もぼくの生命をすくってくれた"
],
[
"ははあ、あれだな。ぴかぴか光っていらあ",
"ほんとに、あれは金貨らしい光だ"
],
[
"じゃあ、誰の頭なんでしょうね",
"さあ、誰かなあ。とにかくこの恐竜の洞窟には、永い興味がある歴史があるんだね"
],
[
"やあ、これはたいへんだ",
"いやだね、ぼくたちはこんな風になりたくない"
],
[
"おいラルサン。おれたちはいよいよ百万長者になるんだぜ。あのぴかぴかしているのは、恐竜の卵なんだ。え、すばらしいじゃないか、恐竜は、あんなにぴかぴかと金色にひかる卵をうむんだぜ",
"フランソア、気をしっかり持ってくれ。たとい恐竜の卵を見つけたにしろ、どうしておれたちは百万長者になれるんだ",
"二人でな、この崖を下りて、あれを取るんだ。フランスまで持ってかえれば、一箇につき五万フランや十万フランで買い手がつくよ。いや、もっと高く売れるかもしれない",
"恐竜の卵が、そんなにいい値段で売れるかい、いくらぴかぴか金色に光っていても、卵だもの、とちゅうでくさりゃおしまいだ",
"あほうだよ、お前は。恐竜の卵とニワトリの卵といっしょになるものか。恐竜の卵は、すぐにはくさらないんだ。金色をしているのが何よりの証拠じゃねえか",
"金色していると、永くくさらないのかい",
"はて、分り切ったことをいう。金色だから、熱もはじくし、中へバイキンも侵入できないし、おおそうだ、お前も見て知っているだろうが、ロンドンの博物館に恐竜の卵がたくさん陳列してあったじゃないか",
"ああ、あれなら見たよ。あれがどうかしたか",
"どうかしたかもないもんだ。あれは五百万年前の恐竜の卵なんだ。五百万年も、あのとおり、くさらないで、ちゃんと形をくずさないでいるじゃないか",
"そうかなあ",
"だからよ、ここから、フランスまではこぶのに、二週間あれば大丈夫だから、その間にくさることはありゃあしないよ。なにしろ五百万年もくさらない卵なんだからねえ",
"ふーン。分ったようでもあり、まだすこしのみこめないところもあるんだが……",
"お前はいつものみこみが悪いさ。頭がすごく悪いと来てやがるからね",
"しかしだなあ、フランソア。そうときまったら、早くあのぴかぴか卵をもらってこようじゃないか。お前、先へ行って、あそこへ泳いで卵を一箇か二箇ぐらい取って来るんだ。おれはその間に、細いロープで籠をあんでおくからね",
"それでどうする",
"おれがその籠を、ロープで崖下へ下ろさあ。お前は恐竜の卵を籠に入れて、ロープをひいて、よしと合図する。するてえと、おれはロープをたぐりあげて、ぴかぴかした卵を籠から出し、このへんに積みあげて行かあ。どうだ、いい段取だろう。どんどん仕事がはかどるぜ",
"バカヤロー",
"えっ、なんだって、きたないことばは使わない方がいいよ",
"だってそうじゃねえか。お前はここにずっといるんだから、いい役だよ。しかしおれはどうなるんだ。海を泳いだり、つるつる卵をかかえたり、それからよ、恐竜にいやな目でながめられたり、いい役まわりじゃねえ。だから腹が立つんだ",
"まあまあ、フランソア。お前はいつも気がみじかくて早合点すぎるよ。お前ばかりに、卵をとるために海を泳がせたり、何かいやな目でながめられたりさせやしない。とちゅう、半分ぐらいのところで、お前とおれは交替しようというんだ。だからぜったいに仕事は公平に分担するんだ。怒ることはないよ",
"ああ、そうか。とちゅうで、半分ぐらいのところで交替でやるのか。うん、そんならいいんだ。それを早くいわないから、こっちはまちがえて腹を立てる",
"さあ、そうと話が分ったら、すぐ仕事にかかろう。おれは籠をあみにかかる。お前はそのロープにすがって早く崖の下へ下りて行きねえ",
"よし来た。いや、まてよ……",
"さあ、早く下りねえ。蟇口なんか、とちゅうでなくすといけないから、おれに預けて行きねえ",
"こいつめ。おれが早合点するのをいいことにして、うまくごまかして、先へ恐竜のところへやろうとしやがったな。なんという友情のない野郎だ。フランス水夫の面よごしめ。たたきのめしてやる",
"何を、とんちきめ"
],
[
"おやッ。何が起ったのだろう",
"誰だい、ぶっぱなしたのは……"
],
[
"えいッ",
"それッ"
],
[
"えッ、船大工ですって。わたしたちには、そんな経験はありませんよ",
"なくってもいい。たかがボート一隻こしらえるだけの仕事だ。ボートなら、お前たちは今までいやになるほど扱っているじゃないか",
"いったい、ボートをこしらえて、どうするんですか",
"あのぴかぴかの宝をよ、おれたちが洞窟の外からボートにのってはいって、すっかりちょうだいしようというんだ。えへへ、どうだ、世界一の名案だろうが"
],
[
"ダビット、大丈夫かい",
"ケン、元気だよ",
"玉太郎君は",
"僕も元気です",
"張さん、あなたは",
"私は故郷の山々を思っていたところです",
"みんな元気なんだね"
],
[
"ねえケン",
"なんだ、ダビット",
"僕のお尻がむずむずするんだよ",
"どうしたんだ",
"あ、魚だ、魚にくいつかれた"
],
[
"あ、いててっ、痛い",
"つかまえればいいじゃないか",
"そうはいかんよ、片方の手でカメラを差しあげているんだからね、左手一本じゃつかまらないよ",
"そうか、それゃ残念だね、こっちへ来たらつかまえてやろう、おい、こっちへ追い出してくれよ",
"そうはいかない",
"ダビットの小父さん。大きい、お魚ですか",
"うん。ポケットの中のパンくずをとりにきた奴なんだ。大きさは一センチ位かな",
"なあーんだ。じゃあ、食べられる心配はありませんね",
"ないとも、明日のおかずにとってやりたいところだよ"
],
[
"あ、なんだこれは",
"どうしたい、玉太郎君"
],
[
"ちょっと、あ、これ、なんだろう",
"たこでもとったかい"
],
[
"いや、ちがう、ケン小父さん、ちょっと、これなんでしょう",
"これじゃ僕にもわからないよ、どうしたんだい",
"今、手にあたったものがあるんです",
"だから何がさわったんだよ、じれったいなあ"
],
[
"もう少し強くぶつかると、眼から火が出るところだった",
"その火で見とどけようという寸法だったのかね",
"小父さん、これです。僕の手にさわって、ええ、それ、ね、なんでしょう",
"ぬるぬるしているね",
"長いものですよ",
"まてよ"
],
[
"うん、こりゃ、むずかしいぞ",
"ね、なんでしょう",
"うん。綱だ。綱に苔がついてぬらぬらしているが、たしかに綱だ",
"綱ですって",
"綱が、どうしてこんなところにあるのだろうね、ケン",
"そりゃ、これから考えるんだ"
],
[
"太い",
"何をつないでおいたのかな",
"何がつながれているのかと今考えているんだ。まてよ。この太さは、あっ",
"どうしたのです",
"船で使うロープに似ている",
"船がつないであるのかな",
"まさか",
"ケン小父さん、一つひっぱってみましょう",
"うん、ひっぱってみよう"
],
[
"綱を引いたので、岩がゆるんだのだな",
"岩がゆるんだんじゃない、もっと深い穴がこの先にあったんだぞ、その口をふさいでいた岩を、われわれがどけたのだよ",
"それも綱をひっぱったためなのにちがいない"
],
[
"おいそうだ。僕らはこうしちゃいられないよ。いつかその深い穴にも水がたまるだろう、するとこの流れもその時には止ってしまうにちがいない",
"すると、前と同じになるわけだな",
"喜ぶのは少し早いぞ",
"そうとも、じゃあどうするんだ、ケン",
"一つ希望がある",
"なんです、ケンの小父さん",
"今の岩の変化によって、他にも変化が出来はしないかということだ。たとえば、僕らの頭の上に別の穴があいて、そこから僕らは逃げだせるのではないかという見方さ",
"そんなうまいぐあいにゆくかな。ゆけばよいが、神様どうぞ、そうなりますように",
"待っていたまえ"
],
[
"あった。あったぞ",
"助かったね",
"アーメン"
],
[
"どこだ",
"ここだ。君らのいるところから五六歩のところだ"
],
[
"うむ、君の耳にもきこえたか、僕は耳のせいかと思っていたが……",
"おい、ストップ"
],
[
"フランス語だ",
"いや英語らしい"
],
[
"とすると、この近くに誰かがいるのだな",
"そうだよダビット、あんがいその洞穴の上は道路になっていて、そこに誰かが来ているのかも知れない",
"あ、ラツールさんの声だ"
],
[
"え、ラツール、じゃ、あのフランスの新聞記者のあのラツール君かい",
"そうです。僕信号をしてみます"
],
[
"玉ちゃんかい。どこにいる",
"どこだかわかりません。海に出るらしい洞穴の中です",
"どこから入ったの"
],
[
"やっぱりラツールさんだった。早く会いたいな、どうしているんだろう",
"さっきは、僕らがラツール記者を助けた。今度はラツール記者に僕らが助けられるという事になるらしい",
"おいダビット、神様はまだ我々を見捨てにはならないからね",
"そうだケン、天国行きのバスのガソリンが切れたのだよ、きっと"
],
[
"会えばわかる。ふしぎな人物なり、僕は恐竜の口から彼によって救われたのだ。いずれ大洞窟でお目にかかろう",
"O・K!"
],
[
"もう何米ぐらいはいったかな",
"まだ三米ぐらいだよ",
"あと七米だね、元気を出すぜ"
],
[
"コロンブス時代の船だろ",
"アメリカ大陸発見以前の遺物だ",
"船側はもう苔むしている。船底はおそらくかきのいい住家になっているにちがいない。帆はまきおろされているが、すでにぼろぼろになって、使いものにはならないだろう"
],
[
"ラツールさん",
"おお玉ちゃん、よかったねえ"
],
[
"前の探検隊員の生き残り勇士ですよ",
"数年ぶりで英語が話せて、こんなうれしいことはありません"
],
[
"僕はこのラウダ君に助けられたのです。皆さんが僕を崖の上において、ふたたび崖をおりていった後で、恐竜がやって来ました。それまで僕を看護していた方は、あまりの恐竜のおそろしさに、僕をかかえこむと夢中で逃げだされたのです",
"マルタンさんですね",
"そうだ。ピストルがなった時だ",
"僕らもおどろいて、洞穴の中へ逃げこんでいた時だ",
"ふとったマルタンさんは僕を背負っている事が大へん苦痛だったんです。いくどかころびました。その都度、恐竜の長いおそろしい首がわれわれの方へのしかかって来るのです"
],
[
"最後にころんだ時は、生あたたかい恐竜の息が私の体をつつみました。マルタンは私とはなれて、草むらの中をころがって行きました。僕は気を失ったのです。そして気がついた時は、このラウダ君に助けられていたという寸法なのです",
"恐竜は弱いものいじめはしない。また動物は餌にしません。象のようなものです。草と小さな魚を食事にしているのです。けれどその力は強く、いちど怒ったら巨船でもうち沈めるだけの事をやります。おとなしい割に兇暴な一面をもっています"
],
[
"私はロンドン博物館に勤めていた者です。五年前、そうです、ちょうど五年前です。セキストンという人が探検隊を組織いたしました。彼は別に目的があったのですが、当時のその探検団の企画は南の孤島に住む生物を研究するということでした。私は理学も動物の方を研究していた者ですから、喜んで参加いたしました。そしてこの島にやって来たのです",
"セキストン伯のねらっていたのは、生物ではなく、この島にかくされている海賊の宝だったのではないのかな"
],
[
"そうです。約八百八十年の昔、スペインの海賊船、ブラック・キッドがこの島にその財宝をかくしたという、しっかりした証拠があったのです。セキストン伯はそれを知っていました。そしてこの島に来たのです",
"それで、宝はさがせたのですか",
"さがせませんでした。二三枚の金貨をひろったようです。又波にくだけた宝箱の破片も得ました。ですから賊宝がこの島にあったということは証明されたのです。ですがそれを手に入れぬうちに引揚げざるを得なかったのでした",
"それは何が原因だったのです",
"恐竜です。恐竜がいる事で、探検団の連中はすっかり肚胆をぬかれてしまったのです",
"わかった。探検団は引きあげた。その船は恐竜におそわれて、乗組員はほとんど死んでしまった。残ったのはセキストン伯がたった一人だけだった。ということを伯が僕らに話していたっけ。けれど、もう一人生き残った者がいたのだ。彼はどんな方法かによって島にたどりついた。そしてこの孤島で救いを待ちながら一人生活していたんだ。その男はラウダ君、君だ",
"そうです。その通りです"
],
[
"僕、ラウダはあれから五年間の間に恐竜の性質を研究した事、キッドの船をこの洞窟の中の湖に発見したこと。船の中には宝らしいものはなかったが、その宝は島の洞穴の一部にかくされていること。そしてそこへ行くには恐竜の巣をこえてゆかねばならぬこと。それを発見したのだ",
"さっき見た船、あれがキッドの船なの"
],
[
"ブラック・キッドは、自分の死期が近づいてきたのを知ると、かねてさがしておいたこの島にやってきた。この島の入江の洞穴の中に船を入れるだけの広さがあることを知っていた。しかも一度入れた船は岩をくずすことによって永久に出られぬ仕掛けになることも考えてあった。キッドは船をここに入れて、入口を岩でふさいだ",
"その時には、恐竜はいなかったの",
"さあ、そいつはわからん。恐らくいなかったのだろう、いても島の別の方面に住んでいたかも知れない",
"うん、それで、キッドはどうしたの",
"キッドは宝を乾分共にはこばせると、乾分達を一人残らず殺してしまった。だから世界中キッドの宝がどこにかくされたかを知っている者はないのだ",
"でも、セキストン伯はそれを知っていたのでしょう",
"そうだ。キッドは宝のかくし場所の秘密を自分の子孫にひそかにつたえたに違いない。セキストン伯は彼の子孫からこの秘密を買いとったか、又はぐうぜんの機会から知ったに違いない",
"それで探検隊を組織したんだね",
"そうなのだ。僕らは彼にだまされて、安い賃銀でやとわれてここにやって来たのさ。そのあげくが君らに会えたんだ",
"うん、よかったね",
"よかったとも、僕は助かったんだ。英国に帰れるんだ。文明社会にもどれるんだ",
"その宝はどこにあるか、君は知っているのですか、ラウダ君"
],
[
"君は僕らに会って帰れると喜んだが、僕らの乗ってきた船は、第一回のセキストンの探検隊と同じ運命をたどったんだ",
"え、じゃ、また恐竜にやられたんですか",
"そうだ。僕らはこの島に取りのこされてしまったんだよ。君の兄弟になったまでさ",
"……"
],
[
"玉ちゃん、そいつは無理だよ。いかにポチが名犬だといっても、伝令の役は出来ないよ",
"でもラツールさん。ポチはとっても利口なんです",
"それだったら、すぐに君の危険なことを知って、僕に伝えてくれるはずだ"
],
[
"ラウダさん、手紙を書きたいんですが、紙と鉛筆はありませんか",
"紙と鉛筆なら、僕がもっている"
],
[
"返事が来たのです。ポチがもって来たのです。ごらんなさい、ケン小父さん、これです",
"うん、ポチはなかなかやるね、どれどれ"
],
[
"すぐ出発するか、それとも",
"それともなんですか",
"あの帆船を調べるんだ"
],
[
"僕は十分調べてあるんです",
"その調べた結果をうかがおう"
],
[
"まず船は痛んではいません",
"大洋の航海に出ても大丈夫かしら",
"部分的には朽っているとこもあるが、大丈夫でしょう",
"それはありがたい",
"船は大丈夫でも、あの洞穴から出ることは出来ない",
"出来ないというと",
"なぜだかわかりませんが、船は少しも動かないのです。潮の満ち引きにおうじて、多少なりとも動くべき筈のところ、船底をコンクリートで固定でもさせられたように、動かない。だからだめでしょう"
],
[
"ラウダ君の見落した処もあろうし、また僕たちの新しい発見に期待してよいだろう",
"ケン、いいところへ気がついた。さあ怪船探検へ出発しよう。ラウダ君が先に立つんだ。それからケン、玉太郎、ラツール君の順で行きたまえ、張君はややおくれてあとから……",
"ダビット、何をいっているんだ",
"映画の話だ。僕はここにカメラをすえる。君はそのままの位置でとまってくれ給え、今度は、僕は船の上から、とる。なにしろカメラが一台だから、カメラマンは忙しいんだ",
"ダビットさんは相変らず仕事熱心だなあ",
"そんなに苦労してとったフィルムが、いつ世界の人の眼にとまるのだ。永久にこの宝島に葬りさられるとも限らないのだよ"
],
[
"それは僕らが死ぬということにきめているからだよ。僕らは助かる。そして文明社会に帰れる。帰った翌日にこの映画はもう封切られるのだ。ニューヨーク劇場にしようか。それとも、ワシントン劇場にしようか。僕はそれまで考えているんだ",
"夢のような話だ。奇蹟のむこう側の物語だよ、君のいうことは",
"いや違う。明日の事を、僕はいっているんだ。大統領をはじめ朝野の名士を多数招待して封切る場合はとてもすばらしいぞ。僕はケンと一しょに舞台にのぼる。嵐のような拍手だ。ケンが恐竜島の探検談を一席やる、僕がつづいて島の生活について語る。そして映画についての説明をする。人々はただ驚嘆のうちに僕らの行動をたたえるだろう。リンドバーグのように、ベーブ・ルースのように、僕らは世紀の英雄になるのだ",
"やめてくれ、ダビット。その話は帰りの船の中で聞こうじゃないか"
],
[
"玉ちゃん、しっかりたのむよ",
"うん、大丈夫だ。僕、よく見てくるよ"
],
[
"この帆は役立つかな",
"大丈夫役立つ、現に僕はこの帆をはいで、小型のテントを作った"
],
[
"つまり、船長室に入っちゃならぬというんだね、ケン",
"そうだよダビット、船長室に入ることは、死を意味することだと、この者が説明しているのだ",
"けれども入った者がいるのです"
],
[
"しかし、誰かがすでに運びさっている",
"君か、ラウダ"
],
[
"そうだったら幸福なのだが、そうではないのが残念なのだ。僕らの探検の前に、すでに誰かが、この島に来ていた。そしてキッドの宝物は彼等の手に処分されていたのです",
"あ、ほら、さっきあったあの骸骨ね"
],
[
"僕がセキストン伯爵の首だと思ったあの骸骨、あれがそうじゃないんですか",
"うん、僕もそう思っていたところだよ"
],
[
"何者かがここから運び出して、島のあるところに運んだのです。僕もそう思った。そこで五ヶ年の間、それをさがしつづけてみたのです",
"それでラウダ、君にはわかったのだね",
"確かではないがある程度はね、しかしそこは僕らの手にはおえないところなのだ",
"そりゃどこだ",
"恐竜の巣の穴らしいんだ。それも、らしいというだけで、はっきりはわからない"
],
[
"おや大砲がある",
"およそ古いね",
"大昔の海賊が、おもいやられるね",
"昔はこれで戦ったんだから、戦争も悠長なものだったに違いない"
],
[
"どうしたんだい、ラウダ",
"船の位置が、船の位置がちがっているんだ"
],
[
"見たまえ、ラツール、あんなところにいる。船が動いている証拠だ",
"落ちつき給えラウダ、よく説明してくれ"
],
[
"わかったケン、僕らがあの洞穴で岩をどかしたね。あの時に綱を引いたろう、あの綱だよ。あの綱が、この船をつなぎとめていたんだ",
"それは確かだろうね、ダビット。君の説は正しいと思うよ。ラウダ、船の動いた説明をこんどは、僕らがしよう"
],
[
"なんとしても僕らはこの島から救かるチャンスにめぐまれたんだ",
"よかったねえ、ダビットさん"
],
[
"海岸にまたせてある連中をどうするかな",
"まず海に出てからの問題にしよう。僕らがすっかり安全とわかったら救助に行ってもおそくはあるまい"
],
[
"吾々はこれで助かった。けれど、島にはまだ、吾が友が居る、彼等をどうすべきかが、残された問題だ",
"断然、救わねばならぬ"
],
[
"僕が行きましょう",
"小さい、日本の少年よ、それはこまる"
],
[
"僕も行く。それにこれからどのくらい航海しなければならぬかわからぬ本船には、食糧がない。椰子の実でもなんでもいい、食べるものを集めることもしなければならぬ。救助とともにその両方の任務をおって、僕も行こう",
"では、島に行く希望者をつのります"
],
[
"みんなに行かれては船を守る者がなくてはこまる。どうだろう、誰が船に残るか、誰が島に行くか、僕に一任させてくれないか",
"ケンに一任させよう。僕は賛成だ"
],
[
"僕は船に残りたい。といっても、島の友人たちを救うのがいやだからではないのだ。僕は友人たちがくる前に、船長室のあの不気味な飾りものを処分しよう。死者の霊をあつかう役目に僕を任命していただければ、光栄だ",
"よろしい、張君、君は残れ、それからラツール、君は労れすぎている、君も残れ、それから玉太郎君、君もだ",
"僕は行きたいのです"
],
[
"ダビット、君は……",
"僕は行きたいし、残りたい、というのは、張があのミイラ先生を処分するところをカメラに収めたいし、同時に君ら救援隊の冒険もカメラに入れたいんだ"
],
[
"大丈夫、恐竜については、僕は自信がある。奴等は口笛の音が大好きなんだ。口笛で僕は彼等をあやつる術を知っている",
"口笛",
"うん、あのピー、ピーというしずかな奴だ。奴等の一番恐れているのは雷だ。あの光をもっとも恐れる。だから、汽船のスクリューの音だとか飛行機の爆音なんか大きらいらしい。静かな高い音が、いいらしいね"
],
[
"すばらしい眺めじゃないかケン、どうだこの朝日のかがやいた雄大な景観は、一カット行こうと思うよ",
"いいだろう。下からだんだん上にアップしたまえ"
],
[
"わあ、大へんだ",
"どうしたダビ、なんだ!"
],
[
"そんな目はブロンドの漫画にもないぞ",
"そんなんじゃないんだ。見てくれ、あれを、恐竜だ、恐竜と戦っているんだ",
"何、恐竜だって",
"ほら"
],
[
"御苦労、御苦労、さあ、出来上ったら、御苦労ついでに海まではこぶんだ",
"やれやれ、まだ仕事があったんですかい",
"あたり前だ。ジャングルの中じゃ、ボートは進みはしない",
"そりゃそうですが、海に行ってどうするというんです。まさか、これで島から逃れようなんて、いうんじゃないでしょうね",
"だまって、俺のいうとおりをやりゃあいいんだ。つべこべいうと、どてっ腹に風穴をあけるぞ",
"へい、へい、やりますよ、やりますよ、何も海まで運ばないというんじゃありませんやね"
],
[
"さ、なにをぐずぐずしているんだ。早くのらねえか",
"へえ"
],
[
"モレロさん、どこへ行くんです",
"恐竜の巣だよ",
"え、じゃ、あの",
"今まで俺達は、上からばかり奴等をねらった。それで失敗した。だから今度は下から攻めるんだ",
"恐竜の卵をとりに行くんですかい",
"誰が卵なんかとるものか",
"じゃセキストン伯爵を救けに出発ですか",
"誰があんな慾張り親父を救けるもんか、さあこげ、ボートがあの巣につくまでに、俺の計画をすっかり話してやらあ"
],
[
"俺たちはこっそりと、奴等の巣にしのび寄って行くんだ",
"卵をとるんですかい",
"卵じゃねえ、宝ものだ",
"宝物、恐竜の宝ものですかい",
"恐竜が、宝物なんかもっているものか、海賊ブラック・キッドの宝物だ",
"げっ、ブラック・キッドの"
],
[
"俺はちゃんと知っているんだ。今度の探検は、表向きは南海の孤島の調査ということになっているが、本当はキッドの宝物をさがすのが目的だったんだ",
"へーえ",
"船長セキストン伯は、何かの記録から、キッドの宝物がここにかくされていることを知ったんだ。それで第一回の探検をやった。宝はたしかにあった。しかし恐竜のために命からがら逃げだして、宝物どころの騒ぎじゃなかったんだ。こりゃおめえも知っているだろう",
"へえ、団長一人が救かったといいやしたね",
"セキストンにしてみりゃ、その宝が手に入らなかったのは、返すがえすも口惜しい、なんとかして、それを手に入れようと思ったんだ",
"なるほど",
"ところが、それを俺が知ったという、はじまりなんだ",
"へえ",
"港の酒場で、俺が話に聞いたキッドの宝物のことを話していたら、ぽんと肩をたたく奴があるじゃねえか",
"ええ、え",
"それが奴だったのさ。お前はキッドの宝がどこにかくされているかを知らんだろうが、俺はそれを知っている。しかも実際にこの眼で見たというんだ",
"……",
"はじめは、俺もこの爺さん、かわいそうに少し頭にきているなと思ったんだ。だから相手にもしなかったが、だんだん話を聞いてみると、まんざら嘘でもないらしいんだ。そこで、いろいろ相談することになったんだ",
"……",
"おい、そう身をのり出さなくともいいから、しっかりこげよ",
"そこでな、俺はあるだけの金を出した。それでも船もやとえなけりゃ、水夫もあつめられない。考えたあげくが探検船さ。そうなると物ずきで冒険好きのアメリカの活動屋さんがすぐ賛成して来た。マルタンという野郎も珍らしい島だったら、それを種にして一もうけしようという下心でついて来た。めんどうなのはツルガ博士という考古学者とかいう学問の先生だ。こんな先生はかえって、足手まといにはなるし、金はもっていないが、表面が、島の探検ということになった以上、つれて行かぬことにゃ、世間からへんに思われる。それで仕方なくつれて行くことにしたのよ",
"それで張とかいう中国人は",
"これはマルタンのような下心があるか、ツルガ博士のように勉強のために来たのか、わからねえ、しかし、参加金だけは出したんで、連れて行くことにしたのよ",
"なるほど、お話を伺えば、いろいろとわかって来ましたよ",
"それで、キッドの宝はみつかったんですか",
"それがよ。恐竜の巣のあたりになるんだ",
"あたりって、モレロ親分は見ないんですかい",
"うん、俺は見つけたわけじゃない",
"で、どうして巣のあたりにあるってことがわかったんです",
"まあ、そんな事位、わからあね、まずセキストンがあの崖の上からのぞいて、喜びの声をあげた。そのとたんに、俺は彼が宝ものがぶじだということを知ったのだと思ったんだよ",
"その次に、奴は縄でおりていったろう、そして慾張りの正体をばくろしたんだ",
"というと",
"他の奴等にとられぬうちに、自分で一人じめにしようと思ってな、それがあの結果さ。縄につかまったまま、落ちていった",
"助かったでしょうかね",
"さあ、そりゃわからねえ、アメリカさんがさがしに行ったが、どうなったか",
"助からぬとすると、ちょっと困りますね",
"何がさ",
"宝のあり場所が",
"馬鹿野郎、だからお前はいつまでも水夫で出世しねえんだ。宝はあるんだ。たしかにあるんだ。セキストンが飛び込んだことが第一の証拠だ。あの辺にあるってことがわかりゃいいじゃねえか",
"でも、可哀そうでしたね",
"しかたねえ、一人じめにしようとした罰さ、俺はそんなことはしねえ、お前たち二人に手つだってもらったんだ、分け前はちゃんとやるよ",
"ありがとうございます",
"お礼をいうにゃおよばねえよ。働きにたいしてはそれ相当の報酬をうるのは当然じゃねえか。俺はものを合理的に考えるほうだからな",
"さすがはモレロさんだ",
"一つ、やってくれよ",
"ええ、十分に働きますよ",
"さ、もう静かにしようぜ、巣も近づいて来た"
],
[
"おや、へんな匂がしますね",
"うん、恐竜の匂だ。さ、風がかわったぞ。出かけようか"
],
[
"おっ、モレロ親分",
"どうした",
"セキストン伯爵です",
"何",
"ほら、あすこに倒れているのは",
"うん"
],
[
"なんです",
"スペイン金貨だ",
"これがここにあるところを見ると、宝物も近いぞ。宝物箱をはこぶときに、落したものと見える"
],
[
"音がしたぞ",
"恐竜が寝返りでもした音ですかな",
"いや、鼻の悪い恐竜が、いびきをかいたのだよ",
"出来るだけ、はじによれ。まんなかを歩くと、恐竜にふみつぶされぬとも限らぬ"
],
[
"おい、このままで夜明けまでまとう。恐竜が、外に出ていった留守に探検するんだ",
"恐竜も散歩に行くんですかい",
"散歩じゃない。朝になれば食物をさがしに出かけるだろう",
"なるほど、レストランへ行くんですね。明日の朝飯は何んだろう",
"白い牛乳に、焼きたてのトーストパン、それに香りの高いコーヒーか",
"何をくだらんことをいっているんだ。ここはパリーじゃないよ、コーヒーなんかあるものか",
"あ、そうでしたな",
"恐竜の朝飯は何んでしょうね",
"そんなこと俺が知るものか、恐竜にきいてみろ",
"へーい、もしもし恐竜さん",
"こら、だまれ"
],
[
"だまって、朝まで待ちゃいいんだ……",
"へーい"
],
[
"おい、起きろ、起きろ",
"朝日が出ているのだろう、洞窟の入口がかすかに明るい",
"油断しちゃならねえぞ。恐竜が御出勤だ",
"へえ、どこの会社へ",
"馬鹿野郎、会社へなんぞ行くものか",
"じゃ、お役所ですか、バスに乗って",
"どこまでも間抜けなんだ。眼をさませよ、お前は、何か夢でも見てるんじゃねえのか"
],
[
"おい、恐竜がいるんだ。ちっとは、つつしめ",
"おお、そうだった。何、私はパリの下宿で寝ているのだと、ばっかり思っていましたので、飛んだ感違いでした。ごめんなすって",
"いいから、油断をするなってことよ。おいっフランソア、お前もそうだぞ",
"ええ、わっしは前々から、ここにこうしてがんばっておりまさあ、もしも恐竜がこの穴から飛び出るようなことがあったら",
"どうしようというのだ",
"ただ一発のもとに",
"お前もフランソアと同じように、脳味噌が少し足りないか。頭の組み合せがゆるんでいるらしいな",
"そんなことはありませんや",
"恐竜にさとられたら、それこそ俺たちは生きちゃいられねえんだ。虎口に入らずんば虎児を得ずっていう東洋の格言があらあ、俺たちはキッドの財宝を得るために恐竜の穴に入ったんだ。大冒険なんだぜ、命がけの探検なんだぜ。どうもお前たちは、俺のこの気持がわからねえんでいけないよ。第一……",
"おっと、モレロ親分、恐竜様のお出ましだ"
],
[
"親方親方、ありゃなんでしょう",
"どれなんだ",
"ほら、あそこにぶよぶよしているものがいますぜ",
"兄貴ありゃ、恐竜の赤ん坊だよ"
],
[
"おい兄貴",
"なんだラルサン",
"あれはいいな、金の卵もいいが、卵よりあの方が高く売れるぜ",
"うん、俺も今、それを考えたところだ",
"どうだい、ちょうど二匹ずつに分けようじゃないか、恨みっこなしとゆこう",
"うん"
],
[
"なんです",
"ここをごらん、字が書いてある。二人のうち、読める者はいないか",
"さあ、どうも俺には、文字という奴がにが手でね",
"うん、英語なら少しはわかるんだが、こいつはどこの国の言葉だか知らんが俺にはわからねえんだ"
],
[
"親方、ピストルをお持ちでしょ",
"うん、持っている。が、ピストルの弾丸じゃこの岩はびくともしねえよ",
"ピストルで射つんじゃないんです。弾丸から火薬をぬいて……",
"うん、うん、わかった、わかった、手前はなかなか利口だ"
],
[
"ラウダ、ふしぎなことがおこったな",
"ふしぎでもなんでもない。彼が恐竜に命令したんだ",
"命令",
"うん、つまらん遊びはよせといったのだ"
],
[
"君は恐竜を自由にできるか",
"いや自由にはできない。が、彼等を喜ばせることはできるんだ。僕の口笛がそれだ"
],
[
"死んでいるかも知れない。もしかすると気絶をしているだけかもわからない。僕はここで恐竜をおさえているから、岬のむこう側に行ってくれたまえ、三人の身体は潮の流れにのって、あっちへとどくのだ",
"オーケー"
],
[
"おや、あすこにボートがある",
"うん、誰が乗って来たのだろう、今の我々にはなんといっても絶好の味方だ。拝借しょう"
],
[
"玉ちゃん、聞えないかい",
"なんです",
"ほらあの音"
],
[
"ああ、虫の羽音のようですね、ブーン、ブーンという、蚊のような音ですね",
"うん、あれは君、飛行機の爆音だよ",
"え、飛行機",
"そうだ。しばらく、ようすを見よう"
],
[
"どれ",
"ほら、あすこです"
],
[
"我々を救けに来たのでしょうか",
"そりゃわからない。しかし、なんとか僕らのいる事を教えたいものだ",
"のろしでもあげましょうか",
"そうだ。しかし、僕には任務が残っている。我々が救われたいために、傷ついた友人をそのままにしておくことは出来ない"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三全集 第八巻」東光出版社
1951(昭和26)年6月25日
初出:「PTA世界少年」
1948(昭和23)年1月号~終了月は未詳
※底本に見る「探検」と「探険」の混在は、ママとした。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月28日公開
2006年8月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"だめだねえ",
"だって、錠をこわすのはなんだかもったいないようでね、力がはいらないよ",
"それどころじゃない。早くあけてみないととんだことになるぞ。お三根どんは死んでいるんじゃないかね",
"まさかね。あんな元気のいい人が、心臓まひでもあるまいよ",
"さあ、もう一度力を出して、やってしまおう。こんどは何としてでも錠をこわしてしまうんだよ"
],
[
"あれッ、中で音がしたよ",
"お三根さん、起きているんだよ。ひとが悪いわね"
],
[
"誰か中にいるんだよ。おお、こわい",
"ネズミじゃないかしら",
"ネズミがあんな大きな音をたてて、ガラスをこわすもんですか",
"とにかく、これはただごとじゃないよ。わしらだけであけるのはやめて、お巡りさんにきてもらったうえでのことにしようや"
],
[
"ああッ……",
"こわい!"
],
[
"いいえ、まだです",
"それは、どうして……"
],
[
"私は、ここへくる早々、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました",
"なるほど。しかしそれは変っている人だなあ",
"それは検事さん。針目博士といえば、変り者として、この近所ではひびいているのです"
],
[
"きみは、これからその主人に会って、検事がお会いしたいといっていると、会見を申しこんでくれたまえ",
"はい"
],
[
"かけている。かさがかけている。新しいきずだ",
"ああ、そのガラスの破片なら、ここにこれだけ落ちていました"
],
[
"その破片は、このかさにあうかしらん",
"はい。ぴったりあいます。さっきためしてみました"
],
[
"そこから犯人は、いち早く逃げだしたという考えだね。そうなれば、早くその秘密の出入口を見つけてもらいたいものだ",
"いま一生けんめいに心あたりをさがしているんですが、まだ見つかりません。この家の主人が出てきたら、といただしていただくんですね。主人ならかならず知っているはずですから",
"なるほど",
"検事さん。ここの主人は、どうもくさいですよ。わたしは第六感でそう感じているんですが……"
],
[
"こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人らしい者がいない",
"じゃあ、やっぱり、けがだろう",
"けがじゃないですよ、検事さん"
],
[
"それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ",
"よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ"
],
[
"へんだなあ。なんにもないがねえ",
"そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……"
],
[
"どうなすったんですか",
"足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器が見あたらないんだ",
"おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ"
],
[
"きみの顔から血が垂れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ",
"えっ"
],
[
"やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい",
"さっぱり気がつきませんでした",
"のんきだねえ、きみは……"
],
[
"今になって、ぴりぴりしますがねえ",
"いったい、どこで斬られたのかね",
"さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです",
"きみは、どっちへ首をまげたのかい",
"左へ首をまげました",
"なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命びろいをしたのかもしれないぞ"
],
[
"しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか",
"田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内にあることだけはたしかだ"
],
[
"ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです",
"なるほど",
"わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱していますよ"
],
[
"しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑の黒雲を、呼びよせるようなことをしている",
"ねえ、長戸さん"
],
[
"わしはこの邸にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくりがあるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくりを作るのがじょうずですからね",
"きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか"
],
[
"どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい",
"刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか",
"いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね"
],
[
"わかりました。頸動脈をするどい刃物で斬られて、出血多量で死んだと思います",
"自殺ですか。それとも……",
"自殺する原因があったでしょうか"
],
[
"わたしどもは、他殺事件だと考えています",
"他殺? ふーン。下手人は誰でしたか"
],
[
"真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです",
"ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう",
"それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです",
"ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい"
],
[
"じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが",
"知らんです。人の私行については興味を持っていません",
"まさかあなたがその下手人ではありますまいね"
],
[
"なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです",
"失敬な……"
],
[
"もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない",
"この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……"
],
[
"きみはずいぶんでたらめなことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか",
"いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……",
"おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ",
"お待ちなさい"
],
[
"お三根さんがそのような兇器で殺されたばかりでなく、きょうここへきたわれわれの仲間がふたりまで、その同じ凶器によって重傷を負っているのです。これでもおとぎばなしでしょうか",
"本当ですか"
],
[
"本当ですとも。川内警部と田口巡査のあの傷を見てやってください",
"ああなるほど。それでその矢はどこにあるんですか",
"それがあるなら、事件はかんたんになります。それがどこにも見えないから、われわれは苦労しているのです。あなたにうかがえば、その恐るべき兇器のからくりがわかるだろうと思って、おたずねしているわけです",
"そんなことをぼくに聞いてもわかる道理がない。捜査するのはあなたたちの仕事でしょう。徹底的にさがしたらいいでしょう。かまいませんから、邸内どこでもおさがしなさい",
"そういってくださると、まことにありがたいですが、どうぞそれをお忘れなく――"
],
[
"では、あなたの実験室も拝見したいですし、それからこの天じょう裏をはいまわってさがさせていただきたい",
"天じょう裏はいいが、ぼくの研究室をさがすことはおことわりする",
"今のお約束のことばとちがいますね。それはこまる。そしてあなたに不利ですぞ",
"……",
"研究室をさがすために強権を使うこともできますが、なるべくならば――",
"よろしい。案内しましょう。しかしはじめにことわっておくが、後できみたちが後悔したって知りませんよ"
],
[
"いや、もう大丈夫です",
"やせがまんをいわずと、これをお飲みなさい",
"いや、ほんとにもう大丈夫だ"
],
[
"だからぼくは、あらかじめご注意をしておいたのです。こんな見なれない動物をごらんになって、気持が悪くなったのでしょう",
"いや、そうじゃない。じつは昨夜からかぜをひいて気持がわるかったのだ。この部屋へはいったとき、異様なにおいがして、頭がふらふらとしたのだ。心配はいらんです"
],
[
"ぼくの研究に必要があるからです",
"博士の研究とは、どういう研究ですか",
"そうですね。それはお話しても、とてもあなたがたには理解ができないですね"
],
[
"理解できるかできないかは問題がいです。説明してください",
"じゃあ申しましょう。これはぼくが本筋の研究にかかるについて、その準備のため作った標本です。つまり本筋の研究そのものじゃないのですよ。いいですね"
],
[
"そこでこの標本をごらんになればわかるでしょうが、この動物たちは、自分が持って生まれた脳髄を持っていないのです。そうでしょう。みんな頭部を斬り取られています。そしてかれらは他の動物の脳髄をもらって、それをかわりに取りつけています。あの透明な小箱の中にあるのは他の動物の脳髄なのです。それを取りつけて、生きているのです。おわかりですか",
"よくわかります"
],
[
"これなどは、おもちゃの人形に、ニワトリの脳髄を植えたものですよ。もちろん人形の手足その他へは神経にそうとうする電気回路をはりまわしてありますから、そのニワトリの脳髄の働きによって、この人形は手足を働かすことができるのです。気をつけてごらんなさればわかりますが、この人形の歩きかたや、首のふりかたなどは、ニワトリの動作によく似ているでしょう",
"そのとおりですね"
],
[
"ごらんになるとおり、ぼくが実験に使う部屋です",
"どういう実験をしますか",
"どういう実験といって――"
],
[
"いろんな実験です。数百種も、数千種も、いろいろな実験をこの部屋ですることができます。みんな述べきれません",
"その一つ二つをいってみてください"
],
[
"そうですね。細胞の電気的反応をしらべる実験を、このへんにある装置をつかってやります。もうひとつですね。ここにあるのは生命をもった頭脳から放射される一種の電磁波を検出する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対して検出しやすいように、組み立てたものであります。これぐらいにしておきましょう。おわかりになりましたか",
"今のところ、それだけうかがえばよろしいです。それでは室内をいちおう捜査しますから、さようにご承知ねがいたい",
"職権をもってなさるのですから、とめることはしません。しかしたくさんの精密器械があるのですから、そういうものには手をつけないでください。万一手をつける場合は、ぼくを呼んでください。いっしょに手を貸して、こわさないようにごらんに入れますから",
"参考として、聞いておきます",
"参考として聞いておく? ふん、あなたがたに警告しておきますが、この部屋の精密器械に対して、ぼくの立ち合いなしに動かして、もしもそれをこわしたときには、ぼくは承知しませんよ。場合によって、あなたがたをこの部屋から一歩も外に出さないかもしれませんぞ"
],
[
"研究用に買い入れたんです。証書もあるが見ますか",
"ええ、見せていただきましょう"
],
[
"あとは、第二研究室と倉庫と寝室の三つです。やっぱり見るとおっしゃるんでしょう",
"そうです、見せていただきますよ",
"どうしても見るんですか"
],
[
"見せろというなら見せますが、あなたがたがこの室や標本室でやったように、室内の物品に無断で手をつけるのは困るのです。じつは第二研究室では、ぼくでさえ、非常に注意して、足音をしのび、せきばらいをつつしみ、はく呼吸もこころしているのです",
"それはなぜです。なぜ、そんなことをする必要があるのですか"
],
[
"こまるですなあ、そう大きな声を出しては……",
"職権を行使しているのに対し、きみはそれをとやかくいう権利はない",
"こまった人だ。あとで後悔しても追っつかんのですぞ"
],
[
"これらのものが何であるかは、さっきもちょっといいかけましたが、あとで隣の部屋で申しあげます",
"いや、いまいいたまえ、あとではごまかされる"
],
[
"この部屋には、よほど大切な試験材料がおいてあるらしいね",
"試験材料というよりも、わたしが全霊全力をうちこんで作った試作生物なんです",
"あの針金の屑みたいなものは何ですか。あの中に、その生物がかくれているんですか",
"そうではないのです……。いくどもお願いしますが、説明はあとで隣室ですることでおゆるしください。もしもかれらをくるわせて、悪魔のところへやるようなことがあったら、まったく天下の一大事ですからね"
],
[
"きみ、ごまかそうとしたって、そうはいかないよ。あと骸骨の戸は五、六、七、八と四つあるじゃないか。早く開いて見せなさい",
"あ、そんな大きな声を出しては――",
"これはわしの地声だ。どんなでかい声を出そうと、きみからさしずはうけない"
],
[
"第二研究室の爆発が起こるまえ、針目博士が皆さんを案内して、その部屋にはいったときのことですがね、博士の態度に、なにか変ったことはありませんでしたか",
"さあ、かくべつ変ったということも――いや、ひとつあったよ"
],
[
"すっかりわすれていたが、いま思いだした。それはね、あの第二研究室にはいると、博士はきゅうにおとなしくなったんだ。その前までは博士は気が変ではないかと思ったほど、ごう慢な態度でわたしを叱りつけ、悪くいい、からみついてきた。しかるにあの第二研究室へはいると同時に、博士はまるで別人のように、おとなしい人物になってしまったのだ",
"ふーむ、それは興味ぶかいお話ですね。しかしどういうわけで、そんなに態度が一変したのでしょうか",
"それはわたしにはとけない謎だ",
"あなたはあの部屋へはいると、きゅうにはげしい頭痛におそわれたのでしたね",
"部屋へはいってすぐではなかった。すこしたってからだ。五分もしてからだと思う。それにさっきもいったように、この頭痛はわたしだけでなく、あとからきくと他の同僚たちも、みんなおなじように頭痛におそわれたそうだ。これと博士の態度とに、なにか関係があるのかな。いや、それほどにも思われないが……",
"そのとき博士のほうはどうだったでしょう。やっぱり頭痛になやんでいたようすでしたか",
"ちょっと待ちたまえ"
],
[
"いや、針目博士は頭痛になやんでいるような顔ではなかったね",
"それはどうもおかしいですね"
],
[
"検事さんもごらんになった、あの第二研究室の中の棚に並んでいた、へんな試作物のことですがね。たしか『骸骨の一』から『骸骨の八』までの箱がならんでいたそうですが、あの中にあったへんな試作物こそ、金属Qの兄弟だったんじゃないですかね",
"ふーン"
],
[
"……もし、そうだったら、どうしたというのかね",
"殺人事件の起こるまえに、金属Qだけは、第二研究室から逃げ出していたんです。博士は、それに気がつかないでいた。その金属Qは、お手伝いさんの谷間三根子の部屋にもぐりこんでいた。そして彼女を殺したのです。三根子の両手両腕、肩や胸などに傷がたくさんついていますが、あれはみな、金属Qとわたりあったときにできた傷だと思うんです。どうですか"
],
[
"さあ、その仮定が真なりという証明ですが、これは針目博士に会って聞けば、一番はっきりするんです。しかし困ったことに針目博士は姿を消してしまった",
"針目は死んだと思うか、それとも生きていると思うか、どっちです",
"みなさんの調査では、針目博士はからだを粉砕して、死んだのだろうという結論になっていますね。ぼくもだいたいそれに賛成します",
"だいたい賛成か。すると他の可能性も考えているの",
"これは常識による推理ですが、針目博士はあの部屋の爆発危険をかんじて、あなたがた係官を隣室へ退避させた。そしてじぶんひとり、あの部屋にのこった。博士のこの落ちつきはらった態度はどうです。博士はじぶんが助かる自信があったから、あの部屋にのこったんです。そう考えることもできますでしょう",
"それは考えられる。だがあのひどい爆発は、われわれがあの部屋を去るとまもなく起こった。博士が身をさけるつもりなら、なぜそのあとで、われわれのあとを追って出てこなかったのであろうか。そうしなかったことは、博士は爆発から身をさけることができなかったんだ。それにあの爆発は、じつにすごいものだったからね"
],
[
"あなたがたから見れば、爆発はたいへんすごいものであり、爆発はあッという間に起こったと思われるでしょう。しかし針目博士はあの部屋のぬしなんだから、そういうことはまえもって知っていたと思うんです。だから、いよいよわが身に危険がせまったときに、博士は非常用の安全な場所へ、さっととびこんだ。ただしこれは、あなたがたのあとについて、隣の部屋へのがれることではなかった。つまり、べつに博士は非常用の安全場所を用意してあり、そこへのがれたと考えるのはどうでしょう",
"そういう安全場所のあったことを、焼跡から発見したのかね",
"いや、それがまだ見つからないのです",
"それじゃあ想像にすぎない。われわれとて、もしやそんな地下道でもあるかと思ってさがしてみたが、みつからなかった",
"わたしは、もっともっとさがしてみるつもりです",
"いくらさがしても見つからなかったらどうする。それまでこの事件を未解決のまま、ほおっておくわけにはゆくまい",
"そうです。博士の安否をたしかめるほかに、他のいろいろな道をも行ってみます。そのひとつとして、わたしは金属Qを追跡しているのです",
"え、なんだって、金属Qを追跡しているって。きみは正気かい"
],
[
"検事さん。わたしはもちろん正気ですよ",
"だってどうして金属Qを追跡することができるんだい。そんなものは、どこにもすがたを見せたことがない",
"さあ、そこですよ。金属Qのすがたを見た者はない。また金属Qのすがたがどんな形をしているか、それを知っている人もないようです。ですが金属Qは、まず第一に谷間三根子を殺害しました。あの密室をうちやぶって、中へとびこんだ連中は、室内に金属Qのすがたを発見することはできなかったが、そのすこしまえに金属Qが電灯のかさにあたって、かさをこわす音は耳で聞きました。そうでしょう"
],
[
"つまり、金属Qは、相当のかたさを持っているが、すがたは見えにくいものである。このように定義することができます。このことを裏書するものは、つぎの警部と田口巡査の負傷です",
"あ、なるほど",
"見えない金属Qは、あの室内にとどまっていたんですが、きゅうにふとんのしたかどこからかとび出した。そのとき川内警部の足首の上を、すーッと斬った。そして金属Qは室外へとび出したのです。そこは廊下です。廊下を博士の居間のある、奥のほうへととんでいく途中、田口巡査のほおを斬った。そうでしょう。こう考えて行けば、われわれは金属Qを追跡していることになる。そう思われませんか"
],
[
"それから先、金属Qはどこへ行ったかわからない。わかっているのは、あなたがたが、博士に談判して、倉庫や研究室をおしらべになったことです。それから爆発が起こったというわけです",
"ちょっとまった、蜂矢君。れいの『骸骨の四』ね。第二研究室の箱の中からすがたをけしていて、針目博士がおどろいたあれだ。あの『骸骨の四』と金属Qとはおなじものだろうか。それとも関係がないものだと思うかね"
],
[
"ああ、そのことですか。わたしは問題をかんたんにするため、いちおうその『骸骨の四』と金属Qとが同一物であったと仮定します。もしこの仮定がまちがっていたところで、たいしたあやまりではないと思います。同一物でないとしても、両者は親類ぐらいの関係にあるものと思います",
"ふーン。そうかね",
"つまりどっちも博士の研究物件なんです。そしてどつちも生命と思考力とを持っているものと考えられる。いや、その上に活動力を持っているんです。『骸骨の四』は、金属Qと同一物であるか、そうでないにしても、金属Qは『骸骨の四』から生まれた子か孫かぐらいのところでしょう。けっして他人ではない"
],
[
"われわれは知らないうちに、金属Qと同席していたことになるんだね。これは生命びろいをしたほうかね。いやな気持だ",
"検事さん、これはあなたのお信じにならない、おとぎばなしの仮定のうえに立つ推定なのですよ。それでも気味が悪いですか"
],
[
"それは何だい。きみのいっていることはチンプンカンプンで、意味がわかりゃしない",
"いや、そうとでもいわなければ、その怪事実のあやしさ加減をすこしでも匂わすことができないのです。まあ、それよりは、さっそくこれからご案内しましょう。わたしといっしょに行ってください。そして検事さんはご自分の目でごらんになり、そしてご自分の頭で、その怪事実の奥にひそむ謎をつまみ出してください",
"え、どこへ行ってなにを見ろというのかい",
"今、浅草公園にかかっている“二十世紀の新文福茶釜”という見世物を見物に行くんです。これは、わたしの助手である小杉少年が、わたしに知らせてくれたものです。じつは茶釜じゃなく、めしたき釜の形をしているんですが、それがひょこひょこ動き出し、音楽に合わせておどったり、綱わたりもするんです。しかもインチキではないらしい……",
"インチキにきまっているよ。きみもばかだねえ",
"いや、ところがわたしのしらべたところは、インチキでないのです。わたしは気がついたのです。あの新文福茶釜こそ、金属Qそのものが、茶釜にばけているのかもしれません",
"なに、金属Qだって。よし、すぐ出かけよう。そこへつれていってくれたまえ"
],
[
"しかして二十世紀の物理学の弱点をつき、大宇宙の奥にひそめられたる謎をば、かつギリシャの科学詩人――",
"能書が長いぞ",
"早くやれッ。演説を聞きにきたんじゃねえや。綱わたりをやらかせ",
"そうだ、そうだ。早く茶釜の綱わたりを見せろ",
"……いや、諸君のご熱望にこたえ、くわしき説明はあとにゆずり、ではさっそく綱わたりをお目にかけまする。花形茶釜大夫、いざまずこれへお目どおりを。はーッ"
],
[
"早く綱をわたらせろ",
"足はどうした。茶釜から足がはえないぞ",
"タヌキの首もはえないや",
"さきに説明を打ち切りましたが……"
],
[
"なんだかあやしいね。あれは何か仕掛けがあって綱わたりをしているんだろうね",
"さあ、そこが問題なんですが、まあ、もうすこし見ていらっしゃい"
],
[
"うむ、じつに奇怪きわまる。どうしてあんな空中乱舞ができるのだろうか。あれが仕掛けによるにしても、それは非常にすぐれた仕掛けであるにそういない",
"ぼくはあれについて、三人の技術者と、二人の科学者の意見をもとめましたが、この五人の専門家の感想はおなじでありました。つまりああいう運動は、今日の科学技術の力では、とてもやらせることができないというんです。この言葉は、ご参考になるでしょう",
"ふーむ。すると、あれは仕掛けあって動いているのではないという解釈なんだね",
"そうなんです、その五人の専門家の意見というのはね",
"じゃあ、なんの力で動くのか、解釈がつかないではないか。あの釜を動かしている力のみなもとは、いったいなんだ",
"それこそ金属Qですよ",
"金属Q?",
"針目博士が作った金属Qです。生きている金属Qです。生きているから動きもするし、宙がえりもする",
"はっはっはっ。きみは解釈にこまると、みんな金属Qの魔力にしてしまう。いくら原子力時代でも、そんなふしぎな金属Qが存在してたまるものか。またはじまったね。きみのおとぎばなしが",
"長戸さん。あなたはここへきて、さっきからあれほど、金属Qなるものの活動をごらんになっておきながら、まだその本尊を信じようとはせられないのですか",
"あれは一種の妖術だよ",
"では、誰が妖術を使っていると思われるのですか",
"それはあの燕尾服の男とその一統か、あるいは針目博士だ",
"針目博士ですって。あなたは博士がまだこの世に生きていると思っているんですね",
"いや、確信はない。しかし、もしも針目博士が生きていたら、この種の妖術を使うかもしれないと思うだけだ"
],
[
"やあ、茶釜がこわれた",
"ようよう、芸がこまかいぞ。二十世紀茶釜は、このとおり種もしかけもありませんとさ",
"ああ、そうか。わっはっはっはっ"
],
[
"なるほど。そしてこれは何かの器械らしいが、いったいなんの器械かね。なんに使う器械かね",
"さあ。待ってくださいよ"
],
[
"そうでしょうね。あの怪人物は、なかなか注意ぶかくやっていますね。ただのネズミじゃありませんね",
"そうだ。こうなると、こんな黒箱なんかに目をくれないで、彼奴をおいつめた方がよかったんだ。そして、みんな彼奴の註文に、こっちがはまったことになる。まったくわれながらだらしがないわい"
],
[
"とにかくこの黒箱は持ってかえって、なおよくしらべてみましょう。時間をたっぷりかけてしらべると、もっとはっきりしたこの器械の性質なり使いみちなりがわかるかもしれません",
"そうしてくれたまえ"
],
[
"検事さんは、これからどうしますか",
"もう一度、二十世紀茶釜の小屋のようすを見てから、役所へもどることにしよう",
"では、おともしましょう"
],
[
"へい、だんな。雨谷さんは、さっき寝台自動車にのせられて、なんとか病院へ行きましたがね",
"どこか、からだの工合がわるいのかね",
"へい。なんですか、心臓が悪いとか、アクマがどうしたとかいってましたがね、あっしはよくみませんので。へへへへ"
],
[
"あの雨谷という茶釜使いの人は、たしかに気がへんになったようですよ。はじめは舞台の上にうつぶして、わあわあ泣いていたんですが、しばらくすると、むっくり起きあがりましてね、歌をうたい出したんです。それから踊るようなかっこうをしながら、綱わたりをはじめたんです。文福茶釜にかわって、じぶんが綱わたりを見せようというのです。見物人は、わっとかっさいしました",
"ふーん。それはかわっているね",
"ところが、とつぜん雨谷はおこりだしましてね、見物人をにらみつけて、さかんに悪口をとばすのです。見物人たちの方では、これをおもしろがって、わあわあとさわぎたてる。すると雨谷はますます怒って、ゴリラのように歯をむきだし、どんどんと舞台をふみならし、たいへんな興奮です。あげくのはてに、足もとに落ちていた文福茶釜の破片を拾いあげて、これを見物人席へ投げはじめたからたいへんです",
"ほうほう。それはたいへんだ。見物人はけがをしやしなかったかい",
"けがをしました。だから見物人の方が、こんどはほんとうに怒ってしまいましてね、こんどあべこべに見物人の席から、茶釜の破片を舞台へ向かって投げかえす。すると雨谷の方でも、それに負けていずに投げかえす。しまいには、茶釜の破片だけでなくて、棒ぎれや電球や本や弁当箱までが、見物人席と舞台の間にとびかうさわぎです",
"えらいことになったもんだね",
"小屋の方の人も、ものかげから声をからして、見物人の方へしずまってくださいとたのむのですが、さっぱりききめなしです。そうかといって、そういう人たちは舞台の前へでるわけにもいかないのです。見物人の見えるところへでると、たちまち見物人から何かを投げつけられて、けがをしなければなりませんからね",
"雨谷君は、まだけがをしていなかったのかい",
"けがをしていたらしいが、当人は気が変になっているらしく、けがをしていることに気がつかないで、なおも舞台の上であばれていたんです。ところが、見物人の席から板ぎれがとんできましてね、これが雨谷の頭にごつんとあたったんです。そこで雨谷はばったり倒れてしまいました。そしたら、さわぎはきゅうにしずまってしまったんです。そして見物人たちはどんどん小屋から出ていってしまいました",
"ははあ、なるほど。雨谷君が死んだと思ったんだな。それで人殺しのかかりあいになるのをおそれて、みんな小屋から逃げだしたんだな",
"そうなんでしょう。とにかくこれで、さわぎはしずまりました。雨谷は、外へかつぎ出され、寝台自動車に乗せられて、本所の百善病院へつれて行かれました。ぼくはそれを見おくって、そこを引きあげたんです。これがすべてのお話です。",
"そうかい。よくわかった"
],
[
"あれはどうしたろうか。問題の文福茶釜の破片はどうしたろう",
"ああ、それはですね。ひとつだけぼくが拾ってきましたよ。いま持ってきます。"
],
[
"場内でひろったんですが、たしかにこれは二十世紀文福茶釜の破片の一つです。よく見てください",
"これが、そうなのかい"
],
[
"このほかに、茶釜の破片は落ちてなかったんだろうか",
"さあ。落ちていたかもしれませんが、ぼくの目にとまったのは、これだけでした",
"そうかい。とにかくこれはいいものを拾って来てくれた。これは、ぼくのところに保管しておくが、ひょっとすると今夜あたり、これがコウモリのように空中をとびまわるかもしれないね",
"えっ、なんですって",
"いや、なんでもないよ"
],
[
"……もしもし。探偵の蜂矢さんは、あんたかね",
"そうです。蜂矢十六です。あなたはどなたですか",
"蜂矢君。きみは身のまわりを注意したまえ。ひょっとするときょうあたり、おそろしい奴がたずねて――"
],
[
"ちょっとお待ち。怪しいお客なら、特にていねいに応待をして、応接室へご案内しなさい",
"それでは、あべこべですね。先生、あの長いマントの下から、ピストルがこっちをねらっているかもしれませよ。きっと、そうだ",
"もちろん、こっちは充分に注意をするから大丈夫だ。それにさっき電話で、“きょう怪しい客が行くぞ”と知らせがあったほどだから、怪しい客にはぜひお目にかかりたい",
"先生はかわっていますね。それではぼぐが玄関へ出ますが、先生はくれぐれも注意をおこたらないようにしてくださいよ"
],
[
"茶釜の破片をわたしたまえ。いそいで、それをわたしたまえ",
"なぜ、きみにわたす必要があるんですか。それがわからないと、たとえその破片が手もとにあったとしても、きみにはわたせませんね",
"そんなことは必要ない。早くわたせ",
"きみは礼儀を知りませんね。人間というものは、いやな命令をされると、ますます反抗したくなるものですよ。けっきょくきみは自分の思うとおりにならなくて、困るでしょう。そういうやりかたは、きみにとってたいへん損ですよ",
"早く破片を手にいれたいのだ。これがきみにわからんのか"
],
[
"いや、ぼくは、礼儀を知らない人間とおつきあいをするのは、ごめんです。もちろん、何をおっしゃっても、ぼくは聞き入れませんよ。協力するのはいやです……",
"いうことをきかないと、殺すぞ",
"殺す、ぼくを殺して、なんになりますか。すこしもきみのためにはならない、茶釜の破片をしまってある場所は、もしぼくが殺されると、きみにおしえることができない。それでもいいんですか",
"ううむ――"
],
[
"早く出せ。きみが茶釜の破片を持っていることは、今きみが自分でしゃべった",
"たしかに、持っています。話によれば、おわたししてもいいが、礼儀は正しくやってもらいましょう。まず、そのいすに腰をかけてください。ぼくもかけますから、きみもかけてください"
],
[
"もうきみと口をきく必要はない。しずかにしていろ。きみの脳にたいし直接問いただすことがあるんだ。茶釜の破片のかくしてある場所を問いただすんだ。もうきみには答えてもらう必要はない。用がすめば、きみを殺してやる",
"待て、金属Q! 話が残っているんだ。待ってくれ、骸骨の第四号!",
"ふふふふ。そこまで、きみは知っているのか。それを知っていながらわたしのじゃまをするとは、いよいよゆるしておけない。いじわるの人間よ。あとできっとかたづけてやる",
"まあ待て、きみに一つ重大な注意をあたえる。きみを作った針目博士はちゃんと生きているぞ。博士はきみを逮捕するために、一生けんめい用意をととのえている。それを知っているか",
"針目は死んだ。生きているわけはない。でたらめをいうな",
"博士が死んだと思っていると、きみはとんだ目にあうよ。この前きみが浅草公園の小屋の中で、綱わたりをしていたときに、きみはいつもりっぱに、らくらくとあの芸当をやりとげていた。ところが最後の日、きみは綱わたりに失敗して墜落した。そして茶釜はめちゃめちゃにこわれてしまった",
"それがどうした。過ぎたことが",
"きみは、あの日、なぜ綱わたりに失敗して、墜落したかそのわけを知っているのかい。それをぼくが話してやる。あれはね、針目博士が特殊の電波をもちいてきみをまひさせたんだ。きみは思いだしてみるがいい",
"ふーん。どうもおかしいと思った。針目博士が生きているなら、これはぐずぐずしてはいられない。おい、博士はどこにいる",
"知らないよ。ほんとうに知らない。ぼくたちも博士の居所を探しあてたいと思っているのだ",
"ううーん。うそつきどもの集まりだ。よし、おれは他人の力によって征服されるものか。さあ、仕事だ。茶釜の破片を出せ。いや、きみの返事なんかいらない。直接にきみの脳からきいてやる"
],
[
"うーッ、苦しい",
"はっはっはっ。金庫の中にしまってあるのか。もうきみには用はない。いや、殺してやるんだ"
],
[
"いました。金属Qらしい長マントの怪人が議事堂の塔の上にいます",
"なに。議事堂の塔の上に怪魔がいるというのか"
],
[
"とうとう自分でお陀仏になったか",
"あんがい、かんたんな最期をとげたじゃないか",
"大事なところを弾丸にうちぬかれたのだろう"
],
[
"はてな。なんにもない",
"検事さん、あれがありませんか",
"おお、蜂矢君"
],
[
"あれが見えないよ。人形の首はこのとおりあるが、きみがいったようなやかんのふたみたいなものは見えない",
"もっと徹底的にしらべましょう。しかしあれは怪力を持っていて、危険きわまりないものですから、ぴかりと光ってあらわれたら、すぐ警官隊はそれをたたき伏せなければ、あぶないですよ",
"よろしい"
],
[
"あれだけが逃げたんじゃないかなあ",
"そういう場合もあるでしょう。あなたの部下の誰かが、これを見かけたでしょうか",
"いや、そういう報告はない",
"ふしぎですね"
],
[
"あーッ、おそろしや。死体が棺の中に起きあがって、ふらふらとこっちへやってきた。そしてわたしをにらんだ。わたしは、死体にくいつかれると思った。おそろしいと思ったら、気が遠くなって、あとのことはおぼえていない",
"なるほど、そういえば、死体が一つたりないが、どこへ行ったんだろう"
],
[
"ほう。やっぱり蜂矢探偵でしたね。わたしをごぞんじありませんか、針目です",
"ああ、やっぱりそうでしたか"
],
[
"なかなかご活躍のようですね。とうとう地下室へはいる口を掘りだされたんですね。感心いたしました",
"これは、ごあいさつです"
],
[
"ご主人がいらっしゃるのを知らないままに、わたしが勝手なことをしてしまいまして申しわけありません。しかし、じつは針目博士は、あの爆破事件のとき、粉砕したこの研究室と運命をともになすったように聞いていたのですから、もう博士はこの世に生きていらっしゃらないと思っていました。いや、これはとんだ失礼を申しまして、あいすみません",
"やあ、さあそれもしかたがありません。わたしはあの事件いらいきょうまで、姿をみなさんの前に見せなかったのですから、そういううわさの出たことはしぜんです。悪くはとりません"
],
[
"どうされたんですか、博士は、つまりあの爆発のときのことです",
"それはさっききみが掘りあてたとおり、第二研究室の床の下には、外へのがれる道がこしらえてあったので、いそいでそれへとびこんで、一命をまっとうしたのです",
"ああ、なるほど"
],
[
"それはかんたんなことです。わたしが先へ、その穴へとびこむ。するとそのあとで大爆発が起こり巨大なる圧力でもって、その穴をふさいでしまったんですな。おわかりでしょう",
"あッ、そうか"
],
[
"とにかくこれからきみを、その地下室の中へわたしみずからご案内いたしましょう。さっきのところから入ってみますか。せっかくきみが掘ったものだから",
"じゃあ、そうしていただきましょう。おお、博士は頭に繃帯をしていらっしゃるが、どうなすったのですか――けがでもなさったのですか",
"ああ、これですか"
],
[
"きみから先へはいってください。いいですよ、えんりょしなくても……",
"ぼくには、中の勝手がわかりませんから、博士。どうぞお先に",
"そうですか。では先へはいりましょう"
],
[
"じゃあ、おりますよ",
"さあ、早くおりてきたまえ"
],
[
"わからなければ、教えてあげよう。この機械は、金属人間を製作する機械なんだ。つまりここは、金属人間の製作工場なんだ。どうだ、おどろいたか",
"金属人間の製作工場ですって"
],
[
"くわしいことは知りませんが、針目博士が金属Qの製作に成功せられたことは聞いています",
"ははは、金属Qか"
],
[
"はっきり手にとってみたことはありませんねえ",
"手にとってみるなんて、そんなことはできないよ。だが、すこしはなれて見ることはできるのだ。どうだ、見たいかね",
"ぜひ見たいものですね",
"よろしい。見せてやろう。金属Qを、近くによってしみじみ見られるなんて、きみは世界一の幸運者だ"
],
[
"よく知っているね。そのとおりだ。くわしくいえば、金属Qという名前があたえられた第一号だ。つまり、たくさん作った生きている金属の試作品の中で『骸骨の四』がまっ先に、生きている金属となったのだ、そこでこれを金属Qと名づけた",
"なるほど",
"いま、きみが見たのは、金属Qだけではなくその金属のまわりを、人工細胞十四号が包んでいるものだ。それは金属Qを保護するものなんだ。もっともはじめのころのように、人工細胞十四号は完全に金属Qを包んでいない。欠けている個所があるのだ。そのために、金属Qはいつも不安な状態におかれてある。ああ、人工細胞十四号がほしい。この上の部屋にはあったんだが、この部屋にはないらしい"
],
[
"どっちだと思うかね",
"金属Qでしょう",
"ちがう",
"じゃあ、なんですか",
"針目博士と金属Qが合体したものだ。二つがいっしょになったものだ。しかし、もちろん金属Qは、針目博士よりもかしこいのだから、支配をしているのは金属Qだ。おどろいたかね、探偵君"
],
[
"生命と思考力とを持った金属が、人工でできるなんて、愉快なことだ。人間は、もっと早く、このことに気がつかなくてはならなかったのだ。植物にしろ動物にしろ、また鉱物にしろ、それを作っている微粒子をさぐっていくと、みんな同じものからできているんだからね。だから、植物と動物に生命と思考力があたえられるものなら、鉱物にもそれがあたえられていいのだ。そうだろう",
"植物に思考力があるというのは、聞いたことがありませんね",
"じっさいには、あるんだよ。人間の学問が浅いから、気がつかないだけのことなんだ。とにかく植物のことなんか、どうでもよろしい。今は生きている金属のことだけを論ずればいいのだ。金属を人工するのは、他のものをこしらえるよりも、一番やさしいことだ。そして、そのとき生命と思考力を持つように設計工作してやれば、生きている金属ができあがるのだ。生命も思考力も、電気現象にもとづいているのだから、そういうことを知っている者なら、かんたんにやれるのだ",
"なるほど",
"そこでわしは、これからこの部屋で、生きている金属をじゃんじゃん作ろうと思う。そしてそれを人体に住まわせる。かまうことはない、生きている金属は人間よりもかしこくて、強力なんだから、思いのままに人間を襲撃して、そのからだを占拠することができるんだ"
],
[
"まあ、講義はそのくらいにしてこんどはいよいよ、しんけんな話にうつる。きみをここまでひっぱりこんだことについて、説明しなくてはならない。だが、もうきみはかんづいているだろう",
"なんですって",
"きみのからだをもらいたいのだ。わしは仲間のひとりに、きみのからだを世話したいと思うのだ",
"とんでもない話です。わたしはおことわりします"
],
[
"なにか用ですか",
"そのニセモノのそばへ寄って、頭に巻いている繃帯をぜんぶほどいてくれたまえ"
],
[
"蜂矢君。こんどは、その高いカラーをはずしたまえ",
"カラーをはずすのですね"
],
[
"つぎは、その男の面の皮をはぎたまえ。えんりょなく、はぎ取るんだ",
"顔の皮をむくのですか"
],
[
"ああ、気がついたかね、蜂矢君",
"やッ"
],
[
"死んだんですか",
"いや、まだ油断がならない。金属の本体を取り出して、始末しないうちは、ほんとうの意味で金属Qは死んだとはいえないのだ、今それを始末するところだ。きみは見物していたまえ"
],
[
"針目さん。心配しなくてもいいですよ。長戸検事たちがきてくれたのでしょう",
"わたしは、なにも心配なんかしていない。しかしなぜ今ごろ、長戸検事がこんなところへ来たのか、わけがわからない"
],
[
"わけはわかっているのです。さっきぼくが、ニセの針目博士にここへつれこまれるのを小杉少年が見ていて、いそいで検事に知らせたのでしょう。それで検事がぼくを助けにきてくれたのですよ。戸をあけてもいいですか",
"ふーん"
],
[
"ずいぶん、しばらくお目にかかりませんでしたなあ、針目博士",
"そうでした、そうでした。で、きょうは何用あって、ここへきたのですか"
],
[
"では、さっそくお願いしましょう。議事堂の塔の上から落ちて、からだがバラバラになったマネキン人形がありましたが、あれにも怪金属Qがついていたのでしょうか",
"わかりきった話です。Qがあのマネキン人形を動かしたんでなければ、マネキン人形があんなにたくみに動くことはない",
"すると、文福茶釜となって踊ってみせたのも、やっぱりQのなせるわざですか",
"それも明白。あの二十世紀文福茶釜、じつはアルミ製の釜だが、あの中にQがまじっていたのです。そうでなければ、釜が踊ったり綱わたりができるものではない",
"なるほど、では、なぜQが茶釜になったのですかな",
"針目博士邸――いやこの研究所からとび出したQがねえ、きみ、道ばたで、アルミの屑かなんかをふとんにして寝ていたんだ。Qは金属だから、金属をふとんにしたほうが気持よく眠られる。そこで寝ていたところを、人がひろって屑金問屋へ持っていったんだ――いったんだろうと思う。Qは金属がたくさん集まっているので、いい気になって、その中に寝てくらしているうちにある日、熔鉱炉の中に投げこまれ、出られなくなった。そのうちに、鋳型の中につぎこまれ、やがて、かたまってお釜になっちまった。そうなると出ることができない。やむをえず、文福茶釜を神妙につとめたんだというわけ。そんなところだろうと思う"
],
[
"文福茶釜が綱から落ちてこわれたのはどういう事情でしょう。あれは博士が何か器械をつかって茶釜を落としたといううわさもありますがね",
"そのとおり、博士、いやわしは、見物席にまじっていて、Qの運動の自由をうばう特殊電波を茶釜にむけて発射した。そこで茶釜は落ち、こわれてしまったというわけ。わしはあんなあやしげな見世物を、一日も早くなくしてしまわないといけないと思って、思いきってそれをやったのだ",
"あなたが、その場からお逃げになったのはどういうわけです。逃げなければならない理由はないと思いますがね",
"なあに、あの場でわあわあさわがれるのがいやだったからだ。それにわしは――わたしはぼろ服をまとって変装していたのでね。新聞記者にでもつかまれば、いいネタにされてしまうから、こいつは逃げるにかぎると思って逃げたんだ"
],
[
"まあ、それで――茶釜がこわれたので、Qは解放されて、自由に動きまわれるようになったのですね",
"そのとおりだ。それでマネキン人形をつけて、それをあやつるようになったんだが、その途中Qは、じぶんのからだの一部分が欠けていることに気がつき、それを一生けんめいにさがしてあるいた形跡がある。そこにいる蜂矢君のところへも、Qはおしかけたようだ。そうではなかったかね、蜂矢十六先生"
],
[
"それはきみ、すこしちがっているよ。Qはここにおられなくなったんだ。かれは殺人をやって、ひどく興奮したんだ。その殺人は、かれが計画したものではなく、ぐうぜん、若い女を殺してしまったので、かれの興奮は二重になった。そこへ警官がのりこんでくるし、かれはいよいよあわてた、かれは生きものなんだから、そのように興奮したり、あわてたりするのは、あたりまえだ。そうだろう",
"ごもっともなご意見です",
"かれはね、Qとして生命をえて、うれしくてならない。第二研究室の中で、ひとりぴんぴんとびまわっていたのだ。このときわしは二つの失策をしている。一つは、Qがそんなに活動的になっていることを知らなかったんだ。まだまだ、クモがはうぐらいのものだと思っていた。ところが実際は、Qは三次元空間を音よりも早くとびまわることができたんだ",
"なるほどなあ",
"よろしいか。それから二つには、わしはうっかりしていて、かれQがかぎ穴から抜け出せるほど小さくて細長いからだを持っていることを考えずにいたんだ。だから、ある夜、Qはかぎ穴から外に広い空間があることに気がつき、かぎ穴から抜け出したのだ。つぎの室にはわしがいたが、ちょうど文献を読むことに夢中になっていたので、Qはそのうしろを抜けて、戸のすき間から廊下へ抜け出した。わかるだろう",
"ええ、よくわかりますとも",
"それからお三根さんの部屋へはいりこんだ。めずらしい部屋なので、Qはよろこんで踊りまわっていると、お三根が寝床から起きあがった。水を飲みに行くつもりか、かわやへ用があったのか、とにかく起きあがったところへ、Qがとんでいってお三根ののどにさわった。Qのからだはかみそりの刃のようにするどいので、お三根ののどにふれると、さっと頸動脈を切ってしまったのだ。思いがけなく、Qは人間の死ぬところを見て興奮した。そして、朱にそまって死んでいくお三根のまわりを、なおもとびまわったので、お三根のからだのほうぼうを傷つけた。どうだ。わかるかね",
"よくわかります。それだけよくごぞんじだったのに、あなたはなぜはじめに、そのことをわれわれに説明してくださらなかったのですか",
"おお……"
],
[
"まあ、もうしばらく待ってください。博士、もしあなたがこの答えをなさらないと、あなたは不利な立場におかれますが、かまいませんか",
"答えることはしない。何者といえども、わしの仕事をじゃますることをゆるさない。じゃまをする者があれば、わしは実力を持って容赦なくその者を、外へたたき出すばかりだ"
],
[
"たいへん失礼をしました。おゆるしください。それでは、わたしどもはこれでおいとまいたします。また明日、五分間ほどわれわれに会っていただきたいと思いますが、いかがですか",
"ばかな。もう二度ときみたちの顔を見たくない。早く出ていくんだ",
"ああ、たった五分間です。それも博士のご都合のよろしい時刻をいっていただきます",
"いやだ。帰りたまえ",
"すると明日はご都合がわるいのですかな。どこかお出かけになりますか",
"よけいなことを聞くな",
"では、明後日にどうぞお願いします",
"じゃ、明日会うことにしよう。午後二時から五分間、時刻と面会時間は厳守だ"
],
[
"どうもきょうは調子が出ないのです。ぼくだけ抜けさせてもらえませんか",
"それは困るね。ここまでいっしょにきたのに、いまきみに抜けられては、おおいに困るよ"
],
[
"わかりませんねえ。ただ、さっきはきゅうに気持が悪くなったんです。いまはなんともありません。これは一種の第六感ではないでしょうか",
"きみの第六感だとね。なるほど、そうかもしれない"
],
[
"とにかくきみもぼくも、きのう博士をうさんくさい人物とにらんでいたことは、意見一致のようだね。そうだろう",
"そうです。かれこそ、怪金属Qにちがいありません。Qは、ほくが気絶している間に、本当の針目博士を殺し、そして博士の頭を切り開いて、じぶんがその中へはいりこみ、あとをたくみに電気縫合器かなにかで縫いつけ、ぼくが気がついたときにはすっかり、針目博士にばけていたのにちがいありません",
"そうだ。そうでなくては、われわれを呼びよせて、みな殺しにする必要はなかったはずだ。もし本当の博士だったとしたらね",
"本当の博士なら『わし』などとはいわず『わたし』というはずです。それから話のあいだに、博士であることをわすれて、Qが話しているような失策を二度か三度やりましたね",
"そうだった。そんなことから、Qはぼくたちを生かしておけないと考え、きゅうにきょうの午後二時かっきり、時刻厳守で会うなんていいだしたのだろう。どこまでわるがしこい奴だろう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「サイエンス」
1947(昭和22)年12月~1949(昭和24)年2月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月28日公開
2006年8月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002717",
"作品名": "金属人間",
"作品名読み": "きんぞくにんげん",
"ソート用読み": "きんそくにんけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サイエンス」1947(昭和22)年12月~1949(昭和24)年2月号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card2717.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本名1": "海野十三全集 第12巻 超人間X号",
"底本出版社名1": "三一書房",
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"これですか、あなたア",
"おお、それだ。早く早く。ゴホンゴホン"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「モダン日本」
1937(昭和12)年1月~8月、10月~12月
※初出時の署名は、丘丘十郎です。
入力:tatsuki
校正:Juki
2005年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003357",
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[
[
"まあ、今日はお帰りが遅かったのネ",
"うんフラフラになる程疲労れちまったよ",
"やはり会社の御用でしたの",
"そうなんだ。会社は東京の電灯を点けたり、電車を動かしたりしているだろう。だから若し東京が空襲されたときの用心に、軍部の方々と寄り合って、いろいろと打合わせをしたんだよ",
"空襲ですって! 空襲って、敵の飛行機のやってくることですか",
"うん",
"まあ、そんなことを、今からもう考えて置くんですの。気が早いわねエ",
"気が早かないよ。すこし遅い位いなんだ。尤も相談は前々からやってある。『東京非常変災要務規定』などいうものが、もう三年も前に、東京警備司令部、東京憲兵隊、東京市役所、東京府庁、警視庁の協議できまっているんだからね。今やっているのは、その後いろいろ変更になった事についてなんだよ",
"あら、そうだったの。それは東京だけに、空襲の相談が出来ているのですか。大阪だの九州だのはどうなんです",
"そりゃ、どこもかしこも、日本中はみな出来ているよ。防空演習なんか、むしろ地方が盛んで、東京なんか、まだ一度もやらないぐらいなんだ。どうかと思うよ",
"そんなことないわ。先達て、浅草でやったじゃないの",
"大東京全部として、やったことはない。しかしいよいよ近々、やるそうだが、きわどいところで役に立つんだ",
"きわどいところでなんて、本当に東京は空襲されるの",
"そりゃ、当りまえだよ",
"嘘おっしゃい。飛行機もうんとあるし、それにこんな離れた島国へなんぞ、どうしてそう簡単に攻めて来られるものですか",
"ところが、そうじゃないんだよ。来るに決っているんだから、もう覚悟をしときなさい。第一、今日会った軍部の方がそうおっしゃるのだから、間違いはないよ。東京は必ず空襲されるに決っているトサ",
"いやーネ。それじゃ、陸海軍の航空隊も、高射砲も、なんにもならないんですの",
"なることはなるけれど、陸戦や海戦と違って、敵を一歩も入らせないなどという完全な防禦は、空中戦では出来ない相談なんだ",
"どうして?",
"それはね、世界の空中戦の歴史を調べてもわかることだし、考えて見てもサ、空中戦は大空のことだからね"
],
[
"その爆弾をおとされると、丸ビルの十や二十をぶちこわす事なんざ、何でもない。東京は見る見るうちに灰になってしまうだろうよ",
"敵の大将のような憎らしい口を利くのね。その爆弾は、よほど沢山積んでくるの",
"千キロや二千キロ積んでいるのは、沢山あるよ。最も怖るべきは焼夷弾だ。爆発したら三千度の高熱を発していくら水を掛けて消そうとしても、水まで分解作用を起して燃えてしまう。頑丈な鉄骨も熔ける位だから、東京のような木造家屋の上からバラ撒かれたら大震災のように荒廃させるのは、雑作もないということだ"
],
[
"そりゃもう、大変なことになる。お前と僕とはチリヂリ別れ別れさ。僕は警備員なんかに徴集され、お前のような女達は、甲州の山の中へでも避難することになるだろう。しかし逃げるのが厭なら、お前も働くのだよ。例えば避難所や消毒所で働くのだよ",
"避難所や消毒所? それ、なアに",
"避難所は毒瓦斯の避難所だ。大きい小学校とか、映画館とか、銀行とかいった丈夫な建物を密閉して、そこへは毒瓦斯が侵入しないように予め用意をして置いて、さあ毒瓦斯が来たというときには、往来に悲鳴をあげている民衆を呼んでやるところさ。消毒所は、もう毒瓦斯が地面を匍ってやって来て、そいつのために中毒して道路の上に倒れる人が一時に沢山出来るわけだが、その人達を担架に乗せて消毒所に収容し、解毒法を加える役目なんだ",
"そんなところで働く方がいいわ。しかし一体、戦争は始まるのかしら。そして空襲されるとしたら、一番どこからされ易いの",
"それは第一が中華民国の上海とか広東とかいった方面から。第二は露西亜のウラジオから。第三は太平洋方面あるいはアラスカ方面から",
"まア、どの国も、日本を狙っている国ばかりなのね。しかし本当に戦争は起って?"
],
[
"そうさ、メアリーよ。もう命令一つで、吾が国におさらばだよ",
"大丈夫? 日本の兵士達は強いというじゃないの",
"なに心配はいらない。いくら強くても、わが国の飛行機の優秀さにはかなわないよ。ボーイング機、カーチス機、ダグラス機、こんなに優秀な飛行機は、世界中探したってどこにもない。そして乗り手は、このジョン様だもの、日本を粉砕するなんざ、わけはないさ",
"そう聞くと、たのもしい気もするけれど、あの東洋の島国を、どう攻めてゆくつもり?"
],
[
"しかし、そう容易に太平洋が渡れるの、ジョン",
"そこはプラット提督が、永年研究しているところだよ。大西洋艦隊が太平洋に廻って、一緒に練習をやっているのは、伊達じゃない。わが国の兵器は、正確で恐ろしい偉力をもっている。演習で、その正確さについてもよく合点がいったし、われわれも訓練上の尊い経験を得た",
"ハワイまでは行けても、それから先は、日本の潜水艦が襲撃してきて、サラトガの胴中に穴があきゃしないこと",
"なアに、優秀な航空隊、それに新造の駆逐艦隊に爆雷を積んで、ドンドン海中へ抛げこめばわけはないんだよ。そして現にわれわれは、ハワイの線を越えて、もっと日本の近海に接近したことがあるんだよ。自信はある。小笠原群島に、われわれの根拠地を見出すことも簡単な仕事だ。東京を海面から襲撃するのも、きっと成功するよ"
],
[
"アラスカからも行くとも。飛行場はウンと作ってあるからね。千島群島から、北海道を経て、本州へ攻めてゆくのだが、ブロムリー中尉、ハーンドーン、バングボーン両君、わがリンドバーク大佐、などという名パイロットが日本へ行って、よく調べて来てあるんだ。今にその人達の知識が素晴らしく役に立つときが来るのだよ",
"ほう。何て勇ましい、あの人たちの働きでしょう",
"日本だけではない、中国へも行って、調べてある。ロバート・ショートは上海で死んだが、リンドバーク大佐は残念がっていられる。大佐は中国まで行って、よく調べてきた。中国へ飛行機を送っておいて、ここを根拠地として日本へ襲撃すれば、七時間くらいで東京へ達する。北九州を攻めるんだったら、その半分の三時間半で、間に合う",
"中国は、わが米国と一緒に対日宣戦をすれば、中国全土がわが空軍の根拠地になるわけなのね",
"中国だけでない。ソヴィエート露西亜も日本とはいつ戦端を開くかわからない。そうすれば浦塩から東京まで、四時間あれば襲撃できる",
"フィリッピン群島からは",
"これも出来ないことはない。勿論、空軍の根拠地としては、まことにいいところだ。しかしこれは日本が真先に攻撃して占領してしまうだろう。わが国としては、そう沢山の犠牲を払って、フィリッピンを護ることはない。それよりも帝都東京の完全なる爆撃をやっちまえばいい。グアム島も同じ意味で、日本に献上しても、大して惜しくない捨て石だ",
"あんたのいうことを聞いていると、日本なんか、どこからでも空襲できるようね。そんなら早くやっつけたら、いいじゃないの。そして、ああそうだジョン。日本へ着いたら絹の靴下だの手巾だの沢山に占領して、飛行機に積めるだけ積んでネ、お土産にちょうだいよ、ネ"
],
[
"兄さん、今夜はお家へ泊っていってもいいのでしょう",
"三郎ちゃん。いつ中国の飛行機がこの北九州へ襲来するかわからないのでネ。兄さんは今日は泊れないのだよ",
"そう。つまんないなア。泊って呉れると、僕もっともっと日本の空軍の話を、兄さんに聞くんだけれどなア",
"じゃ、今お話するからいいだろう。しかし一体どんなことが知りたいのかい",
"あのネ、兄さん。僕、この間の夜、中国の飛行機が爆弾を積んで、福岡を襲撃してきた場合には、日本はどこに空軍の根拠地があって、どの方面から来襲する敵国の爆撃隊と戦うのかしらんと思ったら、急に心配になってきたんですよ。兄さんは航空兵だから、よく知っているでしょう、話して頂戴",
"うん。そんなことなら、兄さんでも話せるよ。まず中国の方面から空襲をされたとするとネ、一番先に向ってゆくのは、海軍の第一、第二航空戦隊なんだ。赤城と鳳翔が第一で、加賀と竜驤が第二。これが海軍の艦上機を、数はちょっといえないが、相当沢山積んで、黄海や東シナ海へ敵を迎え撃つ。この航空母艦は、太平洋へでも、南洋へでも、どこへでも移動が出来るから、大変便利だ",
"昭和八年二月にハワイから東京の方へ、三分の二も近くへ来たところに、不思議な島が現れて白い灯が点っているのを、日本の汽船が見たということだけれど、あれは米国の航空母艦かも知れないと新聞に書いてありましたネ。航空母艦は沢山の飛行機を載せて、ドンドン敵の領土へ近づけるから、物凄いんだネ",
"そんな話は、兄さん知らないよ。とにかくまず航空母艦でサ、その次が海軍の佐世保航空隊と、兄さんの所属している陸軍の太刀洗飛行連隊だ。――その外、朝鮮半島の平壌には陸軍の飛行連隊があるし、また中国南部やフィリッピン、香港などに対して、台湾の屏東飛行連隊がある",
"屏東って、台湾のどの辺ですか",
"ずっと、南の方さ。台南よりももっと南で、中心よりは西側にあってね。ほら、鳳山守備隊の近くだよ",
"ははあ、馬公の要塞も、割合、近いんだなア",
"それから、ずっと本州の中心へ向っては、帝都を遠まきにして、要地要地に空軍が配置されている。西の方からいうと、まず琵琶湖の東側に八日市の飛行連隊がある。それから僅か七十キロほど東の方に行った岐阜県の各務ヶ原に、これもまた陸軍の飛行連隊が二つもある。大阪附近も大丈夫だし、浦塩から来ても、これだけ固まっていればよい。帝都の西を儼然と護っているわけサ",
"浜松にも飛行連隊があったネ、兄さん",
"そう。浜松の連隊は、太平洋方面から敵機が襲来するのに対し、非常に有効な航空隊だ。それから、いよいよ東京に近づいてゆくが、東京の西郊に、立川飛行連隊がある。南の方で東京湾の入口追浜には海軍の航空隊がある。鹿島灘に対して、霞ヶ浦の海軍航空隊があるが、これは太平洋方面から襲撃してくる米国の航空母艦に対抗するものであることは明かだ。それから本土を離れた太平洋上にも、海軍の航空隊が頑張っている。東京湾の南へ二百キロ、伊豆七島の八丈島には、海軍の八丈島航空隊、その南方、更に六百キロの小笠原諸島の父島に、大村航空隊がある",
"ははア、随分海軍の航空隊って、太平洋の真中の方にあるんだなア。――それから外には……",
"もうそれだけ",
"おかしいなア、東京から北の方には、一つもないじゃないの、兄さん。アラスカの方から攻めて来たら、困るでしょう",
"しかし今日のところは、それだけ。この上お金が出来てくれば、青森の附近にも、北海道にも、樺太にも、或いは千島にも、航空隊を作りたいのだが……。兎に角、覘われるのは、政治の中心、商工業の中心地帯だ。そこで、こんな配置が出来ているというわけさ"
],
[
"兄さん、空中戦が始まるのですか",
"そうだ。北九州の護りは、今のところ、日本にとって一番重要なんだ。ここを突破しなけりゃ、中国大陸からいくら飛行機を送ってきても駄目だ。今夜か明日ぐらいに、また面白い射的競技が見られるというものさ"
],
[
"しかし隊長どの、防空監視哨からは、何の警報もないじゃないですか。監視哨は、東京を取巻いて、どこの線まで伸びているのですか",
"監視哨は、関東地方全部の外に、山梨県と東部静岡県とを包囲し、海上にも五十キロ乃至七十キロも伸びているのだ。もっと明白にいうと、北の方は勿来関、西へ動いて東京から真北の那須、群馬県へ入って四万温泉のあるところ、それから浅間山、信州の諏訪の辺を通って静岡へ抜け、山梨県を包み、それからいよいよ南の方へ、伊豆半島の突端石廊崎から、伊豆七島の新島、更に外房州の海岸から外へ六七十キロの海上を点々と綴り、鹿島灘の外を通って、元の勿来関へ帰るという大円だ。これが防空監視哨の最も外側に位置をしているもの、それから以内には、三重四重に監視哨を配置してあるんだが",
"聴音隊はどうです"
],
[
"聴音隊はその内側に並べてあるが、これも東京を三重四重に包囲している。一番外側の聴音隊は、北から西へ廻って云ってみると、埼玉県の粕壁、川越、東京府へ入って八王子、神奈川県の相模川に沿って鎌倉へぬけ、観音崎までゆく。浦賀水道にも船を配して聴いている。千葉県へ入って、木更津から千葉をとおり、木下、それから利根川について西へ廻り、野田のすこし北を通って元の粕壁へかえるという線――この線以内に聴音隊が配置されてある",
"防護飛行隊が、監視哨と聴音隊との中間にいるわけでしたね",
"そうだ。立川、所沢、下志津、それから追浜というところが飛行隊だが、命令一下直ちに戦闘機は舞い上って前進し、そこで空中戦を行うのだ",
"その内側が、われわれ高射砲隊ですか",
"その通りだ。大東京の外廓以内に、到るところ、高射砲陣地がある。ことにこの上野公園の高射砲陣地は、もっとも帝都の中心を扼する重要なる地点だ。われ等の責任は重いぞ"
],
[
"大宮聴音隊発警報",
"ウム",
"本隊は午前三時十五分に於いて、北より西に向いて水平角七十二度、仰角八十度の方向に、敵機と認めらるる爆音を聴取せり。終り",
"御苦労"
],
[
"隊長どの、警報電話であります",
"うむ",
"大宮聴音隊発警報、本隊は午前三時二十分において、北より西に向いて水平角六十九度、仰角八十度の方向に、敵機と認めらるる爆音を聴取せり。終り",
"うむ、御苦労"
],
[
"はッ、アラスカの米国極東飛行隊でもないですし、アクロン、メーコン号にしては時刻がすこし喰いちがっています。中国からの襲撃でないことは、近畿以西の情報がないですから……",
"で、何処からだというのか",
"勿論、西比利亜地方からです。ハバロフスク附近を午後八時に出発してやって来たとすると、方向も進路も、従って時刻も勘定が合います",
"ふうん。候補生だけあって、戦略の方は相当なものじゃネ"
],
[
"隊長どの、敵機の高度を判定しました。王子、板橋、赤羽、道灌山の各聴音隊からの報告から綜合算出しまして、高度五千六百メートルです",
"そうか。立川の戦闘機も、ちょっと辛い高度だな。それでは高射砲に物をいわせてやろう。第一戦隊、射撃準備!"
],
[
"でも来ない方がいいよ、そうじゃないか太郎ちゃん",
"警戒管制が出てから、もう一日以上経ったね",
"うん。警戒管制が出て、不用な電灯を消して歩いたのは昨夜の九時だったからネ",
"さっき、空襲警報がいよいよ本当に来たときは、米国空軍なんか何だいと思ったよ",
"あいつらは太平洋方面から航空母艦でやって来るわけだから、千葉県を通って来るんだネ",
"そうサ。今頃は、小笠原の辺で砲火を交えている日米の主力艦隊の運命が決っている頃だろうが、きっと陸奥や長門は、ウエストバージニアやコロラドを滅茶滅茶にやっつけているだろうと思うよ",
"軍艦はやっつけても飛行機だけは、航空母艦から飛び出して、隙間を通ってやってくるんだから、いやになっちまうな",
"しかし、もう平気だよ。この前、爆弾で家を焼かれちまった下町の人なんか、家がなくなって、これでサバサバしたといっていたぜ",
"そうかい",
"あの辺へ行ってみると、直径が十メートルから二十メートルもの大穴がポカポカあいているんだぜ。五十キロ以上一トンまでの爆弾がおっこって作った穴だってさ。下町の人は、その穴の中へ、横の方へまた穴を掘ってサ、その中に住んでいるんだよ。僕、暢気なのに呆れちゃった",
"ふふン、そうかい。一番小さい爆弾で、どのくらい強いんだい",
"まア十二キロぐらいのものでも、落ちれば五メートル位の直径の穴をあけ、十メートル以内の窓硝子を壊して、そして木造家屋なんか滅茶滅茶に壊してしまうんだぞ",
"それじゃ、一トン爆弾なんて、大変だネ",
"うん、大変だ。ほら、浅草の八階もある万屋呉服店のビルディングに落ちたのが一トン爆弾だよ。地下室まで抜けちまって、四階から上なんざ影も形もなくなり、その下の方は飴のように曲ってしまって骨ばかりなんだ。そりゃひどいものだよ"
],
[
"あっ、消えた",
"三十秒消えて、また点いて消えて、それからまた点くといよいよ非常管制だよ"
],
[
"いよいよ非常管制だッ",
"さア、大急ぎで、電灯を消しに行こう"
],
[
"これは消さなくていいね",
"黒い布で見えないようにしてあるから、大丈夫だよ"
],
[
"非常管制警報が出ましたよオ",
"皆さん。灯火を洩れないようにして下さアーい"
],
[
"あたしゃ、中野から来たんですよ。甲州の山の中へ逃げようと思うんですけれど、汽車は新宿からでないと出ないというので歩いて来たんですよ。しかしこの、おっそろしい群衆では、あたしのような年寄はとても乗れませんですよ。どうしたら、ようございましょうね",
"じゃ、お婆さん。慌てて逃げても駄目だから、この駅の地下室へ入っていなさい。今に毒瓦斯でも来ると、地べたで死なねばなりませんからネ",
"毒瓦斯? ほんとうにあの毒瓦斯というのが来るのですか、ヤレヤレ"
],
[
"配給品以外にはないようです。お気の毒さま",
"じゃその配給品を是非売って下さい。このとおり両手を合わせて頼みます。僕はいいのだ。しかし妻が可哀そうだ。肺が元々悪いのですから、同情してやって下さい。ここに三千円ある。これで売って下さい。君、助けて下さい"
],
[
"ど、ど、毒瓦斯がアーッ",
"毒瓦斯が来たぞオ"
],
[
"慌てちゃいかんいかん。平常の国民の訓練を役立てるのは今日のためだった",
"武蔵野館の地下室へ逃げて下さーアい",
"風下へ行っちゃ駄目ですよオ、戸山ヶ原の方へ避難しなさアーい"
],
[
"よくまア、めぐりあえて、あたし……あたし……",
"うん、うん。お前もよく、無事で……"
],
[
"貴方。あなたは一度も帰ってきて下さらなかったのネ",
"僕は予備士官だ。仕方がなかったのだよ",
"だって航空兵だっていう貴方が、軍服を着ていなすったような様子がないじゃありませんか",
"この背広服はおかしいだろう。しかし今だから云うが、僕は空襲下に於いて、敵国へこの日本を売ろうという憎むべき人物を、ずっと監視していたのだ。僕から云うのも変だが、僕の努力で、流石の先生たち、手も足も出なかったのだ。治安のため、そしてまたスパイの情報を得るため、僕は奮闘したのだ。帝都の混乱、帝都の被害の一部分は僕の手でたしかに軽減された。僕の役目も防空機関中の一つに入ってるんだよ",
"まア、そうでしたの。そんなに御国のために働いていらしったの、あたし云い過ぎましたわ、御免なさい",
"なにも気にしないのがいい。損害は極く僅かだ。防空に対する国民の訓練が行き届いていれば、敵の空襲も敢えて怖れるに足らん。今度という今度、わが帝国空軍の強いことが始めてわかった。米国の太平洋爆撃隊は愚か、来襲した敵の空軍は全滅だ。あっちの主力艦はわが潜水艦に悉く撃沈されてしまうし、本国まで逃げてかえったのは巡洋艦くらいだろう。アクロンもメーコンも、飛行船という飛行船は、遂に飾りものに終ったらしい。愛国機や愛国高射砲を献納した国民は、勇敢に戦った精悍な帝国軍人と共に、永く永く讃えられるべきだ。わが帝都のこれくらいの損害や、一時米国の手に渡った千島群島くらい、大局から見れば何でもない。戦闘員にも非戦闘員にも同じく、神武天皇御東征当時からの崇高な大和魂が、今日もまだ宿っていたことがわかった。狼狽したり、悲鳴をあげたり、浅ましい策動などをするのは、本当の大和民族の血をうけついでいない連中のやる真似なんだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「日ノ出 付録 國難來る! 日本はどうなるか」
1933(昭和8)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月25日作成
2012年5月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003517",
"作品名": "空襲下の日本",
"作品名読み": "くうしゅうかのにほん",
"ソート用読み": "くうしゆうかのにほん",
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"初出": "「日ノ出 付録 國難來る! 日本はどうなるか」1933(昭和8)年4月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-12-26T00:00:00",
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[
[
"義兄さんずいぶん家へ帰ってこなかったですね。きょう休暇ですか",
"そうだ。やっとお昼から二十四時間の休暇が出たんだよ。露子がごちそうをこしらえて待っている。迎えかたがた、久しぶりで塩っからい水をなめにきたというわけさ。ハッハッハッ",
"塩っからい水ですって? じゃあ、また海の中で西瓜取をやりましょうか",
"それが困ったことに、来るとき、西瓜を落してしまったんだよ",
"えッ落したッ? ど、どこへ落したんです。割れちゃったの?",
"ハッハッハッ、割れはしなかったがね。ボチャンと音がして、深いところへ……",
"深いところへって? 流れちゃったんですか",
"流れはしないだろう。綱をつけといたからね。ハッハッハッ",
"綱を……ああわかった。なーんだ、井戸の中へ入れたんでしょう……。また義兄さんに一杯くわされたなァ",
"まだくわせはしないよ。さあ、早く帰ってみんなでくおうじゃないか"
],
[
"義兄さん、お天気が定まったせいか、日本海も太平洋と同じように穏かですね",
"ウン、見懸だけは穏かだなァ……"
],
[
"見懸は穏かで、本当は穏かでないんですか。どういうわけですか、義兄さん!",
"ウフフ、旗男君にはわかっとらんのかなァ。君はいま、沖を見て挙手の礼をしていたね。あれは日本海を向こうへ越えた国境附近で、御国のために生命を投げだして働いている、わが陸海軍将兵のために敬意を表していたのかと思ったんだが、そうじゃなかったのかね",
"ええ、敬礼は太陽にしていたんです。……がその国境で何かあったんですか。例の国境あらそいで、世界一の陸空軍国であるS国と小ぜりあいをしているって聞いてはいましたが、……いよいよ宣戦布告をして戦争でも始めたのですか",
"さあ、何ともいえないが、とにかく穏かならぬ雲行だ。それにこれからは、昔の戦争のように、前以て戦を始めますぞという宣戦布告なんかありゃしないよ。S国の極東軍と来たら数年前の調べによっても、たいへんな数で、わが中国東北部駐屯軍の六倍の兵力を国境に集め、飛行機も一千台、ことに五トンという沢山の爆弾を積みこむ力のある重爆撃機が、数十台もこっちを睨んでいる。そしていざといえば、国境を越えて時速三百キロの速力で日本へやって来て爆弾を撒きちらした上、ゆうゆうと自国へ帰ってゆくことが出来る。実に凄いやつだ。そんな物凄いやつを遠いところから、わざわざ日本の近くにもって来ているし、軍隊をしきりに国境近くに集め、毎日のように中国東北部をおびやかしている。もう宣戦布告ぬきの戦争が始まっているようなものだ。お天気が定まってくると油断がならない。昔、蒙古の大軍が兵船を連ねて日本に攻めてきたときには、はからずも暴風雨に遭って、海底の藻屑になってしまったが、今日ではお天気の調べがついているから、暴風雨などを避けるのは訳のないことだ。お天気の続くことが分かったら、いつやって来るか知れない",
"いやだなあ! お天気はもう三日も続いているのですよ。するとこれは危いのかな。ちっともそんな気はしないのだけれど……"
],
[
"……アノ奥さま。いま変な男が、井戸のところをウロウロしているのでございますよ。……故紙業のような男で……",
"アラそう?",
"いえ奥さま。それが変なんでございますよ。ジロジロと井戸の方を睨んでいるのでございますよ。……ああ、わかりましたわ。あのひと、井戸の中の西瓜を狙っているのでございますわ。西瓜泥棒……",
"これ、静かにおし……"
],
[
"どうしたんです。強盗ですか",
"あッ、こんなところに、人間がたおれている。誰が殺したんだ"
],
[
"こいつは、一体何者なんです?",
"ピストルを持っているなんておかしいね"
],
[
"待て、露子……。しばらく井戸に触ってはならん",
"えッ",
"皆さんも、井戸には触らないでください。その前に、この死んだ男の身体を調べたいのだが……、誰か警官を呼んできて下さい"
],
[
"そうです。この死んだ男は、敵国のスパイに違いありません。この直江津の町におそるべきコレラを流行させるために、これを持ちまわって井戸の中に投げこんでいたのです",
"ああ、するとコレラ菌を知らないで飲んでしまった人もあるわけだ。さあ大変……"
],
[
"まあ、しっかりして下さい。今からでも、まだ遅くはない。すぐ手を廻して、町の人々に生水を飲むなと知らせるのですね",
"どうして知らせたらいいでしょう。こんなことがあるのだったら、サイレンか何かで『生水を飲むな』という警報が出せるようにきめておけばよかった"
],
[
"ぐずぐずしていないで、早く新潟放送局に電話をかけて放送してもらえばいいじゃありませんか。いま午後七時半の講演の時間をやっている頃だから、ラジオを持っている家には、井戸が使えないことをすぐ知らせられますよ",
"えらいッ……"
],
[
"なァに、あの西瓜は大丈夫だよ。コレラ菌を入れる前に、上へあげたんだもの。それでも心配だったら、漂白粉を入れた水で、外をよく洗ってもっておいで",
"まあ、あなた、……そんなに食意地をおはりになるものではありませんわ",
"ばかをいっちゃあいかん。意味なく恐れるのは卑怯者か馬鹿者だ。十分注意をはらって、これなら大丈夫だと自信がついたら、おそれないことだ。僕は自信があるから西瓜を食べる。……旗男君、君はどうするかね"
],
[
"僕、食べますッ!",
"姉さんは頂かないわ",
"ウフン、気の毒なことじゃ。ハッハッハッ"
],
[
"義兄さん。あのコレラ菌を持っていたのはやはりスパイでしょうか",
"ウン、立派なスパイだ。日本にまぎれこんで、秘密をさぐっては本国へ知らせるスパイもあれば、あんなふうに、日本に対してじかに危害を加えるスパイもある",
"いまのスパイはS国人ですか",
"いや違う。東洋人だったよ。日本人か、他の国の人間か、いまに警察と憲兵隊との協力でわかるだろう。とにかくS国人に使われているやつさ",
"日本人だったら、僕は憤慨するなあ。しかしS国というのは悪魔のようなことを平気でやる国ですね",
"これまでの戦争は、本国から遠く離れた戦場で、軍隊同士が戦うだけでよかった。しかしこれからの戦争は、軍隊も人民も、ともに戦闘員だ。そして戦場は、遠く離れた大陸や太平洋上だけにあるのではなく、君たちが住んでいる町も村も同じように戦場なんだ。だからあんなふうにスパイが細菌を撒いたり、それから又敵の飛行機が内地深く空襲してきたりする",
"すると僕も戦闘員なんですね",
"そうだとも。立派な戦闘員だ。非戦闘員はというと重い病人と、物心のつかない幼児と、足腰も立たないし、耳も、眼も駄目だという老人だけだ。七つの子供だって、サイレンの音がききわけられるなら、防護団の警報班を助けて『空襲空襲』と知らせる力がある。大戦争になると、在郷軍人も、ほとんど皆、出征してしまう。後にのこった人たちの任務は多いのだ。たとえば防空監視哨といって、敵の飛行機が飛んでくるのを発見して、それを早く防空監視隊本部を経て防衛司令部に知らせる役目があるが、この防空監視哨を、視力が弱い者でも立派にやれるんだ",
"まさか、そんなことが……",
"笑い事じゃない、本当だ。いいかね……"
],
[
"おい沼田。まだ休暇の時間中だぞ、迎えが早すぎる",
"ああ、中尉どの"
],
[
"そうでありますが、非常呼集の連隊命令であります。サイド・カーをもってお迎えに参りました",
"ナニ非常呼集……"
],
[
"義兄さん、お出かけですか",
"ウン旗男君。これはひょっとすると、今夜あたりから、物騒なことになるかも知れんぞ",
"物騒って、これ以上に物騒というと……アーもしや空襲でも",
"そうだ。なんともいえんが、S国の爆撃機が行動を起したのかもしれない。早ければ、ここ二、三時間のうちに敵機がやってくるかもしれない",
"ええッ、本当ですか。たった二、三時間のうちに……",
"距離が遠いといっても、○○○○から七百五十キロばかりだ。時速三百キロで、まっすぐにくるなら二時間半しかかからぬ。……とにかく、敵もさる者で、全くの不意打らしいぞ"
],
[
"姉さん。たいへんですよ。早くここへ来て、放送をお聞きなさい",
"あら、いよいよ始まったの……"
],
[
"うん、命中だ。敵機は墜落するぞう!",
"バ、バンザーイ"
],
[
"火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい。一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう",
"ナニ、S国のスパイ"
],
[
"……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ",
"ええ……"
],
[
"オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……",
"さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……",
"うわーッ"
],
[
"あわてちゃいかん",
"流言にまどうな。落着けッ!"
],
[
"国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな",
"いや全く、そのとおりでさあ"
],
[
"われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ。大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ",
"われわれにも、チャンとありますかなァ。わたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……"
],
[
"どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、鎧戸をおろし、まっくらにして走るんですかね",
"いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ",
"警戒管制になるのはいつでしょうな",
"いまに車掌さんが知らせに来ますよ。それまでは、すこし蒸暑いが、我慢しましょうや",
"我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方。暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか",
"えッ、将棋!"
],
[
"どうも配給がありませんので……",
"オイ車掌君。金はいくらでも出す。至急、防毒面を買ってくれたまえ"
],
[
"お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます",
"じゃ君に百円あげる。拝むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ"
],
[
"……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか",
"委せるぞう……、よろしく頼むゥ……"
],
[
"団長、これは何のまじないだい",
"まじないという奴があるものか。これは防毒面の代用になる防毒壜だ",
"へえ、防毒面の代り? こんな壜が、どうして代りになるのか、わからないねェ。第一これじゃ、顔にはまらない",
"あたりまえだ。顔にはまるものか。……しかし、こうして壜の口を口にくわえればいい。口で呼吸をするのだ。鼻は針金をこんな風にまげ、こいつで上から挟みつけて、鼻からは呼吸ができないようにする。こうすれば毒瓦斯は脱脂綿と炭に吸われて口の中には入ってこない",
"なるほど、こいつは考えたね",
"形は滑稽だが、これでも猛烈に濃いホスゲン瓦斯の中で正味一時間ぐらい、風に散ってすこし薄くなった瓦斯なら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……",
"な、なァる……"
],
[
"皆さん、お互に今後は、せめて直結式の市民用防毒面ぐらいはもっていることにしましょう。あれなら、この五倍ももつ。今くらいの薄いホスゲンなら五十時間の上、大丈夫だ",
"そいつは、どの位出せば買えるかね",
"安いものですよ。たしか、六、七円だと思ったがね",
"六、七円? そりゃ安い。山登を一回やめれば買えるんだ",
"僕は、さっきこのおじさんに教わったように炭と綿とを使って、もっと楽に口につけられるような防毒面を自分で作るよ。断然、その方が安いからな",
"でも、保つ時間が短いよ",
"なァに、換えられるような式にして、三つか四つ炭と綿の入った缶を用意しておけばいいじゃないか",
"僕はその上、水中眼鏡をかけて、催涙瓦斯を防げるようにしようかな"
],
[
"C国の態度はなかなか決まらんだろう。決まらんところがあの国の国がらなのだ。日本が強ければ、日本につこうとするし、日本が弱りかけたとみると、日本を離れようとする。東洋の平和のためには、わが帝国がどうしても強くなければいけないのじゃ",
"閣下のお言葉の通りです、C国はずいぶん優秀な軍用機をもっているのに、はっきりした行動をとれない。S国やU国が飛行根拠地を貸せといって迫っても、断るだけの力がないのです。あわれな厄介な国ですね",
"わが陸軍の主力がほとんど○○とC国とにでかけているのも、一つはこの弱い国を正しく導いてやって、東洋の平和に手落なからしめるためだ。平和を乱す国などに、むやみに飛行根拠地などを借りられるようなときには、わが国は、代って物もいってやらねばならぬ。東洋に於ける帝国の使命は実に重いのだ"
],
[
"司令官閣下、昨夜の空襲によってわが国土のうけましたる被害について御報告いたします",
"ほう、御苦労",
"○○海を越えてきました敵の超重爆四機が、攻撃いたしましたのは、大体に於て、本州中部地方の北半分の主要都市でございました。焼夷弾が十トン毒瓦斯弾が四トン、破甲地雷弾が三トンぐらい、他に照明弾、細菌弾などが若干ございますものと推測いたします",
"十七トンの爆弾投下か。――敵ながらよくも撒いたものじゃ",
"軍隊の損害は、戦死は将校一名、下士官兵六名、負傷は将校二名、下士官兵二十二名、飛行機の損害は、戦闘機一機墜落大破、なお偵察機一機は行方不明であります。破壊されたものは高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、爾後の戦闘には、支障なき程度でございます",
"軍隊以外の死傷は",
"死者約七十名、重傷者約二百名、生死不明者約千名であります。この原因はおもに混乱によるもので、大部分は避難中、度を失った群衆のようであります",
"ウン、恐るべきは爆弾でもなく毒瓦斯でもない。最も恐ろしいのは、かるがるしく流言蜚語(根のないうわさ)を信じ、あわてふためいて騒ぎまわることだ。国民はもっと冷静にして落ちつくべきである",
"はッ、閣下の仰せの通りであります。……圧しつぶされて死んだ者についで、死者の多かったのは毒瓦斯にやられた者で、約二十名。これはふだんから、毒瓦斯とはどんなものか、どうすれば防ぐことができるかをよく心得ておかなかったためだと存じます……"
],
[
"おお、分団長。……昨夜は汽車のなかで、どんなに気をもんだか知れやしない。なにしろ、ふだんの防空演習と違って、いつも先に立って働いてくれた在郷軍人の連中の大部分が、戦地へ召集されて出ていっている。残るは、わし等のような老ぼれと、少年達とばかりだ、それじゃ、とても手が足りなくて困っているだろうと思ったよ",
"ウン、そのとおりだ。全く弱っている。いまラジオでも聞いただろうが、突然また警戒警報が出た。ところが、この小人数になった防護団では、とても手が廻りゃしないことがわかっている",
"一体、人員はどのくらいに減ったのかい",
"とても話にならぬ。半分ぐらいに減っちまったんだよ。その上、頼みになるような若者達がいないと来ている。……これだけで、警護に、警報に、防火に、交通整理に、防毒に……といったところが、とても、やりきれやしない。まさか、こんなに防護団が貧弱になろうとは思わなかったよ"
],
[
"仕方がないよ。防護団も、戦時にはこうなることが初からわかっていたのだ。愚痴をならべたって仕方がない。とにかく御国のために、ぜひ完全に防護してみせなきゃならない。困っているのは、この五反田防護団だけじゃない。日本全国で、みなこの通り手が足りなくて困っているのだ。……よし、俺たちは二倍の力を出すことにしよう。そうすれば、どうにかなるよ",
"他の防護団へ交渉してみようか",
"駄目駄目。それよりも、この際、少年達に大いに働いてもらう方がいい",
"少年達なんて、爆弾がドカーンと鳴るのを聞いたとたんに腰をぬかしたり、泣きだしたりするだろう",
"なんのなんの、そんなことはない。日本の少年の強いことは、むかしから、証明ずみだ。少年時代の頼朝の胆力、阿新丸の冒険力、五郎十郎の忍耐力など日本少年は決して弱虫ではない。ところが、この頃では子供だ、かわいそうだと、ただ訳もなくかわいそうがるから、子供たちは昔の少年勇士のような、勇ましい働きを見せましょうと思っても、見せる時がないのだ。今も昔もかわりはない。日本少年の胆力は、今もタンクのように大きい!",
"タンクのように?"
],
[
"ああ、よく教えてくれた。やはり日露戦役に金鵄勲章をもらってきただけあって、鍛冶屋上等兵はえらいッ!",
"オイオイ、上等兵なんかじゃないぞ、軍曹だぜ!",
"ああ、そうかい。軍曹かい。これは失敬。もっとも、のらくろ二等兵なんかもこのごろ、少尉に任官したそうだからね。ましてや君なんか人間で……",
"こらッ!"
],
[
"あのゥ、これは大きな声でいえないことだけれど、実は、いま新宿駅のそばを通ってきたんですがね、駅のところは黒山の人なんで……",
"黒山の人? 喧嘩か、流言か",
"まァ流言の部類でしょうね。その群衆はてんでに荷物をもって、甲州方面へ避難しようというのです。なんでもいよいよ今夜あたり、帝都は空襲をうけて、震災以上の大火災と人死があるというのです。だから、帝都附近は危険だから、甲州の山の中に逃げこもうという……",
"ナ、ナ、ナ、ナーンだ。帝都から逃げ出す卑怯者が、そんなに沢山いるのか。それは日本人か"
],
[
"それがね。めいめい大きな荷物をしょいこんで、押合いへし合いなんです。女子供が泣き叫ぶ、わめく、怒鳴る、その物凄いことといったら……",
"憲兵や、警官はいないのか",
"いるんでしょうけれど、とてもあの群衆は抑えきれませんよ。……それで思うんですが、避難するなら早くやらないといけない。ぐずぐずしていると避難民はますますふえてきて、列車に乗れなくなりますよ。……全く帝都にいるのは危険だ",
"ほう……"
],
[
"キ、貴様は逃げる気か。逃げたいのか。空襲をうけようとする帝都を捨てて逃げるのか!",
"あッ、苦しいッ、ハハ放せッ。……俺は逃げないが、弱い家族は逃がしたい……",
"ば、ばかッ!"
],
[
"忠勇なる帝都市民は、たとえ世界一の空軍の空襲をうけて、爆弾の雨をうけようが、焼夷弾の火の海に責められようが、帝都を捨てて逃げだそうなどとは思っていないぞ。こんどの国難においては、われわれ市民も立派な戦闘員なんだということがわからんか。考えてもみろ、貴様の家では、家族がみな逃げちまって空家になっているとする。そこへ敵の投下した焼夷弾が、屋根をうちぬいて家の中に落ちてきた。さあ、この焼夷弾の始末は誰がするのだ。おい、返事をしろ",
"……"
],
[
"焼夷弾は、落ちて三十秒以内に始末しなかったら、火事になることはわかっている。空襲下で火事を出すのが、どんなに恐ろしいことか思っても見ろ。貴様の家の火事がわれわれの努力を水の泡にして、この五反田の町を焼き、帝都を灰にしてしまう。それでも貴様は日本人か。貴、貴様というやつは……",
"ワ、わかった、鉄さん。お、おれが悪かった"
],
[
"鉄さん、おれたちは日本人たることを忘れていた。……どんな爆弾が降って来ようと、自分の家を守る。この町を守る……どうか勘弁してくれ",
"そうれみろ。貴様だってわかるんじゃないか。わかれば何もいわない。……警報班長なんて委せておけないと思ったが、もう大丈夫だろうな",
"ウン、大丈夫! ウンと活動するぞ、おれは外で働き、家の方は女房を防護主任にしてやらせる",
"鉄さんのおかげで、わが防護団は俄然強くなった。さあ、二人で握手しろ"
],
[
"あッはッはッ",
"大いにやるッ。ハッハッハッハッ"
],
[
"これァ、いよいよS国の超重爆が攻めてきたんですよ",
"さあ、これは大変だ。うちじゃ防毒室の眼張の糊がまだかわいていないので",
"なぜ、もっと早くこしらえなかったんだい",
"それが、あわてているものだから、糊を作ろうと思って、鍋を火にかけてはこがし、かけてはこがし、とうとう三べんやり直した",
"それで、今度は出来たかい",
"ところが、やっぱり駄目、仕方がないから冷飯を手でベタベタ塗ったんだが、つばきがついているせいか、なかなかかわかない。あッはッはッ",
"こらッ、警報が出るんじゃないか。シーッ"
],
[
"はッ、まだであります",
"遅いなあ。何もわからぬか",
"はッ、さきほど報告いたしましたとおり、敵機らしきものから打ったあやしい無電をちょっと感じましたが、その方向をつきとめないうちに、怪電波は消えてしまいました。北西の方向らしいとわかったきりで、明瞭でありませぬ",
"敵機は、よほど用心しているな。相当に高く飛んで来ているように考えられる"
],
[
"あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ二三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります",
"あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります"
],
[
"おじさん。どうしても灯を消さないというのなら、僕は電灯をたたきこわしちゃうがいいかい",
"そんな乱暴なことをいうやつがあるか。電灯の笠には、チャンと被がしてあるし、窓には戸もしめてあるよ。外から見えないからいいじゃないか",
"だって、皆が消しているのに、おじさんところだけつけておくのはいけないよ。敵の飛行機にしらせるようなものじゃないか。おじさんは非国民だよ",
"なに非国民! これは聞きずてにならぬ。子供だからと思って我慢していたが、非国民とはなんだ。おれはこんなに貧乏して、ゴム靴の修繕をやり、女房は女房で軍手の賃仕事をしているが、これでも立派に日本国民だッ。まじめに働いているのがなぜ悪いんだ。仕事をするためには、下にあかりを出さなきゃできやしないぞ",
"だって、空襲警報の出ている少しの間だけ消せばいいのじゃないか。それをやらないから、非国民に違いないや。オイ皆、いくらいっても駄目だから、電球をとってしまおうよ"
],
[
"なんだ、これァ……防護団の少年と、靴屋さんじゃないか",
"そうだよ、靴屋だよ……",
"まてまて、これァどうしたのだ"
],
[
"よくわかったぞ。……少年たちは任務に忠実で、実に感心したぞ。それから靴屋のおじさんもこの非常時におちついて仕事をはげんでいるのには感心した",
"でも、あかりを消さないから、非国民だい",
"これこれ、もうすこし黙っていなさい。……そこで少年たちよ。今後、帝都が空襲されることは、たびたびあろうと思う。空襲警報もたびたびでて、何時間も非常管制がつづくことだろう。ところがいまは平時とちがって、戦争中だ。戦争は軍人だけでは出来ない。沢山の品物が入用だ。国民は、平時よりも仕事が忙しくなる。すこしでも仕事を休むことは国家の損なのだ。非常管制のたびに、全国の工場が仕事を休むとしたら、戦争に使う品物の製造は間に合うだろうか",
"……"
],
[
"甲の上の、靴屋のおじさんとおばさん、バンザーイ",
"うわーッ、バンザーイ。バンザーイ"
],
[
"いいかね。外から入ってくるときは、この前室をとおって、それからもう一つ奥の防毒室に入るんだよ。つまり家の外の毒瓦斯は途中に前室があるので、奥の防毒室には瓦斯がほとんど入ってこないというわけさ",
"あら、うまいことを考えたのね。どこで教わってきたの",
"なァに、『空襲警報』という本があったのを知っているだろう。あれを本箱の中にしまっておいた。それを、今日は引ぱりだして、見ながら作っているんだよ。ハッハッハッ",
"まあ、その本をしまっておいてよかったわね、兄さん",
"さあ仕事はまだある。急いで急いで"
],
[
"兄さん、ここは、お手伝いさん用の防毒室なのかい",
"そうじゃないよ。お手伝いさんも皆と一緒だ。これは、万一、第一防毒室が壊れても逃げこめるように作ったんだ。つまり第二防毒室さ"
],
[
"ああ、おいしい",
"町の防護団でも、いま、おにぎりを食べていますのよ。ホホホホ"
],
[
"鍛冶屋の大将。今夜は来ないらしいね",
"おお分団長。警報は出ないが、しかし油断はならないぜ"
],
[
"おお、来た来た。あれが敵機だッ",
"うーン、やってきたな。さあ落せるものならどこからなりと、爆弾を落してみやがれ!"
],
[
"爆撃機ハ九機ノ編隊七箇ヨリナル",
"爆撃編隊ハ高度約二千メートル、針路ハ真西ナリ",
"針路ヲ西南西ニ変ジタリ",
"只今上空ヲ通過中ナリ"
],
[
"ワルトキンよ。貴隊は犬吠崎附近から陸上を東京に向かい、工業地帯たる向島区、城東区、本所区、深川区を空襲せよ。これがため一瓩の焼夷弾約四十トンを撒布すべし!",
"承知! 我等が司令! 直ちに行動を始めん"
],
[
"第二編隊長、ミルレニエフ",
"おう、われ等が司令。破甲弾の投下準備は既に完了しあり",
"貴官は東京湾上より北上して、まず品川駅を爆撃したる後、丸の内附近より上野駅附近にわたる間に存在する主要官公衙その他重要建造物を爆撃し、東京市東側地区の上空に進出すべし。但し、東京市上空に進入の時期は第一隊より五分後とす",
"承知"
],
[
"第三編隊長、ボロハン!",
"おう……"
],
[
"貴隊は松戸附近より、東京の北東部にでて、まず環状線道路及び新宿駅を爆撃破壊したる後、東京市北部及び西部の繁華なる市街地に対し瓦斯弾攻撃を行い、住民をして恐怖せしめ擾乱を惹起せしむべし!",
"承知!"
],
[
"うわーッ、あれあれ。爆弾だ、爆弾だ",
"あわてるなあわてるな。落ちるところを注意していろ!"
],
[
"こっちだ、こっちだ",
"おお"
],
[
"おお、担架、担架",
"イヤ何、大したことはない"
],
[
"おお、戦闘ラッパが鳴っている!",
"おお、あれは誰が吹いているのだろう"
],
[
"ホスゲンだ、ホスゲンだ。……防毒面を忘れるな",
"毒瓦斯が流れだしたぞう……"
],
[
"班長、駄目です!",
"駄目? なにが駄目だッ"
],
[
"……ラジオが鳴らないんです",
"鳴らない! 壊れたのかな",
"班長!"
],
[
"これは、きっと送電線が爆弾にやられて、ラジオが駄目になったのですよ",
"ラジオが駄目になったとは困った"
],
[
"どうしたの",
"いや、電話も駄目だ。電線はみなやられたらしい……さあ大変、これじゃ大事な耳も眼も利かなくなったも同然だ",
"するとサイレンも鳴らないんだな",
"これはいかん……"
],
[
"……皆さん、大変ですよ。いま暴動が起っている。下谷、浅草、本所、深川、城東、向島、江戸川などの方から数万の暴徒が隊を組んでやって来る。帝都を守れなかった防護団員を皆殺しにするのだといっている。早く逃げないと、皆さんは殺されちまいますよ……",
"えッ!"
],
[
"……以上申し上げましたようなわけで、S国空軍の三機もわが勇猛果敢なる防空飛行隊、高射砲隊によってついにとどめを刺されました。太平洋に逃げたものは、なお追撃中でございますが、これはもう燃料もあまりありませんので、その最期のほどは知れております。とにかく今回の大空襲で、帝都の被害が案外すくなかったのは、平素からの防空訓練の賜であることは明かであります。東京は只今、二、三火災の所はありますが、一体に静穏であります。防護団にあると家庭にあるとを問わず、この防空第一線を死守されました皆様に、衷心から敬意を表して放送を終ります。JOAK",
"あッ!"
],
[
"ああ、兼ちゃん。君が見えないので、どうしたのかと思っていた",
"あッはッはッ。姉さんが中央電話局から帰って来ないので、心配だから行ってみたんだよ",
"どうだったい……無事だったかい",
"ウン。無事だった。五十人の交換手が、みんな死ぬ覚悟で交換台を守っていたよ。警報の連絡に大手柄をたてたんだとさ。姉さんなんか、大した元気だった"
],
[
"ねえ兼ちゃん。向こうで皆を集めてしゃべっている背広男がいるだろう。あいつけしからん流言をはなっているのだよ",
"どれどれ、あッ、あいつだ。あいつはスパイだよ。さっき丸の内でも、暴徒が品川の方から数万人も押しよせてくるから逃げろといっていた。防護団の人達が捕らえようとすると逃げだした。あいつはお尋者なんだ",
"そうか。そんなひどい奴か。ラジオや電話が切れたと思って、市民の心を乱してゆこうというのだな。よォし、じゃあ兼ちゃんと二人して、あの悪漢を捕らえてやろうじゃないか",
"うしろからいって、二人で彼奴の足を一本ずつ引きたおそう!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「少年倶楽部」別冊付録、大日本雄弁会講談社
1936(昭和11)年7月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003530",
"作品名": "空襲警報",
"作品名読み": "くうしゅうけいほう",
"ソート用読み": "くうしゆうけいほう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年倶楽部」別冊付録、大日本雄弁会講談社、1936(昭和11)年7月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-09-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年7月15日",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "土屋隆",
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[
[
"いま、かアちゃんと、お湯に入ってます。一時間ほど前に、黄一郎と三人連れでやって来ました",
"ほう、そうか、この片っぽの靴下、持ってってやれ。喜代子に、よく云ってナ、春の風邪は、赤ン坊の生命取りだてえことを",
"それが、あの児、両足をピンピン跳ねて直ぐ脱いでしまうのでね、あなた今度見て御覧なさい、そりゃ太い足ですよ、胴中と同じ位に太いんです",
"莫迦云いなさんな、胴中と足とが、同じ位の太さだなんて",
"お祖父さんは、見ないから嘘だと思いなさるんですよ。どれ持ってってやりましょう"
],
[
"弦三はもう帰っているかい",
"弦三は、アノまだですが、今朝よく云っときましたから、もう直ぐ帰ってくるに違いありませんよ",
"あいつ近頃、ちと帰りが遅すぎるぜ、お妻。もうそろそろ危い年頃だ",
"いえ、会社の仕事が忙しいって、云ってましたよ",
"会社の仕事が? なーに、どうだか判ったもんじゃないよ、この不景気にゴム工場だって同じ『ふ』の字さ。素六なんざ、お前が散々甘やかせていなさるようだが、今の中学生時代からしっかりしつけをして置かねえと、あとで後悔するよ",
"まア、今日はお小言デーなのね、おじいさん。ちと外のことでも言いなすったらどう? 貴郎の五十回目のお誕生日じゃありませんか",
"五十回目じゃないよ、四十九回目だよ",
"五十回目ですよ。おじいさん、五十になるとお年齢忘れですか、ホホホホ",
"てめえの頭脳の悪いのを棚にあげて笑ってやがる。いいかいおぎゃあと、生れた日にはお誕生祝はしないじゃないか、だから、五十から引く一で、四十九回さ",
"なるほど、そう云えば……",
"そう云わなくても四十九回、始終苦界さ。そこでこの機会に於て、遺言代りに、子沢山の子供の上を案じてやってるんだあナ",
"まあ、およしなさいよ、遺言なんて、縁起でもない、鶴亀鶴亀",
"お前は実によく産んだね、オイばあさん。ちょいと六人だ。六人と云やあ半打だ。これがモルモットだって六匹函の中へ入れてみろ、騒ぎだぜ"
],
[
"私達がモルモットなら、お父さんは親モルモットになりますね、ミツ坊は孫モルモットで……",
"そうそう、ミツ坊に、この靴下を持ってってやらなきゃあ。おじいさんは、靴下を早く持って行けと云っときながら、あたしのことを掴えてモルモットの話なんだからねえ"
],
[
"お父さん、今日はお芽出とう御座います",
"うん、ありがとう",
"きょうは、店を頼んで、三人一緒に、早く出てきました",
"おお、そうかい",
"久しぶりに、モルモットが皆集まって賑かに、御馳走になります",
"うん、――"
],
[
"清二のやつ、一週間ほど前に珍らしく横須賀軍港から、手紙なんぞよこしやがった",
"ほう、そりゃ感心だな。どうです、元気はいい様でしたか",
"別に心配はないようだ。今度、演習に出かけると云った。ばあさんには、なんだか、軍艦のついた帛紗をよこし、皆で喰えと云って、錨せんべいの、でかい缶を送って来たので驚いたよ。いずれ後で出してくるだろう",
"そりゃいよいよ感心ですね",
"うちのばあさんは、これは清二にしちゃ変だと云って泪ぐむし、みどりはみどりで、どうも気味がわるくて喰べられないというしサ、わしゃ、呶鳴りつけてやった。折角買ってよこしたのに喜んでもやらねえと云ってナ",
"なるほど、多少変ですかね",
"尤も、紅子と素六とは、清兄さんも話せるようになった、だがこれは日頃の罪滅ぼしの心算なんだろう、なんて減らず口を叩きながら、盛んにポリポリやってたようだ",
"清二は乱暴なところがあるが、根はやさしい男ですよ",
"そうかな、お前もそう思うかい。だが潜水艦乗りを志願するようなところは、無茶じゃないかい。後で聞くと、飛行機乗りと潜水艦乗りとは、お嫁の来手がない両大関で、このごろは飛行機乗りは安全だという評判で大分いいそうだが、潜水艦のほうは、ますます悪いという話だよ",
"それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の伊号一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ",
"だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ"
],
[
"駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。寧ろ甲府方面へ出ます。この鼻緒商売も、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね",
"第一、この辺に問屋が多すぎるよ"
],
[
"はッはッは",
"ふ、ふ、ふ",
"ほッほッほ"
],
[
"それもそうだが、弦の居るところは、夜分は電話がきかないらしいんだよ",
"なーに、彼奴清二の二の舞いをやりかかってるんだよ。うちの子供は、不良性を帯びるか、さもなければ、皆気が弱い"
],
[
"工場が忙がしいんです",
"工場が忙がしい? お前の仲間に訊いたら、一向忙しくないって云ってたぜ",
"お父さん、僕だけ、忙しいことをやっているんですよ"
],
[
"バナナじゃありませんよ、僕が工場で拵えてきたんですよ",
"僕知ってらあ。きっとゴム靴だよ。もうせん、僕に拵えてくれたねえ、弦兄さん"
],
[
"それは、瓦斯マスクですよ。毒瓦斯除けに使うマスクなんです",
"瓦斯マスク! ほほう、えらいものを拵えたものだね。近頃、こんな玩具が流行りだしたってえ訳かい",
"玩具じゃありませんよ、本物です。お父さん使って下さい。顔にあてるのはこうするのです"
],
[
"空の固めは出来てないんだって、その軍人さんが云いましたよ",
"莫迦、そんなことを大きな声で云うと、お巡りさんに叱られるぞ。お前なんか、そんな余計な心配なぞしないで、それよか工場がひけたら、ちと早く帰って来て、お湯にでも入りなさい"
],
[
"おや、清二がそう云ったかい。あの子は、演習に行くと云ってきたが、もしや……",
"お母さん、もう戦争なんて、ありませんよ。理窟から云ったって、日本は戦争をしない方が勝ちです。それが世界の動きなんだから",
"戦争があると、商売は、ちと、ましになるんだがなァ。このままじゃ、商人はあがったりだ",
"なんだか、折角のお誕生日が、戦争座談会のようになっちまったね。さア私はお酒をおつもりにして、赤い御飯をよそって下さい"
],
[
"大変ですよ、お父さま。ラジオが、今、臨時ニュースをやっていますって!",
"なに、臨時ニュースだって?",
"背後の受信機のスイッチを入れて下さい。また上海事変ですって!",
"また上海事変だって?"
],
[
"太平洋戦争だ!",
"いよいよ日米開戦だ!"
],
[
"米国の太平洋艦隊は、今や大西洋艦隊の廻航を待ちて之に合せんとし、其の主力艦は既に布哇パール湾に集結を了したりとの報あり!",
"布哇の日系米人、騒がず",
"墨西哥の首都附近に、叛軍迫る、一両日中に、クーデター起るものと予測さる",
"英、仏両国は中立を宣言す",
"注目すべきレニングラードの反政府運動",
"中華民国も一と先ず中立宣言か",
"上海に市街戦起る、○○師団、先ず火蓋を切る。米国空軍は杭州地方に集結"
],
[
"友軍の機影観測が困難になりましたッ",
"うむ"
],
[
"皆で、電灯のスイッチをパチンとひねれば、いいじゃないか",
"だけど、スイッチを誰がひねるか判っていないのですよ。電柱についている電灯だとか、お蕎麦やさんの看板灯なんかは、よく忘れるんですよ。ですから、警戒管制になると空から見える灯火は、いつでも命令あり次第に、手早く消せるように用意をして置くんです。あっても、なくてもいいような電灯は、前から消して置く。これが警戒管制です。僕、受持は、水の公園と、あの並び一町ほどの民家なんです"
],
[
"おや、おかえりなさい",
"うん",
"外は大変らしいのね"
],
[
"なんしろ、警戒管制になったんだもの",
"警戒管制では、まだ電灯を消さなくていいのでしょうか"
],
[
"警戒管制ですから、不用の電灯は消して置いて下さい。この門灯は直ぐ消えるようになっていますかッ",
"ええ、直ぐ消えるように、なってますよ。おや、波二さんじゃないの"
],
[
"あら、そう。御苦労さまだわネ。うちの素六もさっきに出掛けましたよ",
"僕も一生懸命、やっているんですよ、おばさん。この前の演習のときと違って、しっかりした大人は大抵出征しているんで手が足りないの",
"貴方の家の兄ちゃんも、出征なすったんだってネ",
"兄さんは立川の飛行聯隊へ召集されて行ったんだけれど、どうしているのかなア、その後なんとも云って来ないんです",
"心配しないで、観音さまへ、お願い申しときなさい。きっと守って下さるから……"
],
[
"おォ、おォ、亀之助ンとこの子供かい。どうりで見覚えがあると思った。暫く見ないうちに大きくなったもんだネ",
"あの惣領息子が、岸一さんといって、社会局の事務員をしていたのが、いまの話では、立川飛行聯隊へ召集されたんですって",
"ふン、ふン、岸ちゃんてのは知っているよ。よく妹なんか連れて、うちの清二のところへ遊びに来たっけが、もうそうなるかなア"
],
[
"米国の亜細亜艦隊は、通称『犠牲艦隊』じゃというわけじゃったが、中々やりますなア",
"犠牲艦隊じゃったのは四五年前までのことじゃ。日本が東シナ海を、琉球列島と台湾海峡で封鎖すれば、どんなに強くなるかということは、米国がよく知っている。この辺は、日本の新生命線じゃ。そいつを亜細亜艦隊でもって、何とか再三破ってやらなければ、米国海軍は安心して、主力を太平洋に向けることができない。艦齢は新しいやつばかりで、ことに航空母艦が二隻もあるなんて、中々犠牲艦隊どころじゃない"
],
[
"浜松飛行聯隊の戦闘機三十機は、隊形を整えて、直ちに南下せり。一戦の後、太平洋上の敵機を撃滅せんとす",
"よし、御苦労"
],
[
"いよいよアメリカの飛行機は静岡辺まで、やって来たらしいんだ。浜松の飛行隊で、追駈け廻しているけれど、敵の奴を巧く喰止ることが出来ないらしいんだ。それでも五つ六つ墜っことしたらしいってことだ",
"まア、大変だわネ。ンじゃ、今夜のうちにも、東京へ飛んでくるかい"
],
[
"波二も、少年団へ出かけたっきりで、うちには、おばァさんとお舟としか居なくて不用心だから、なるたけ早く帰ってきとくれよ、お前さん",
"あいよ、判ってるよ"
],
[
"空襲警報!",
"サイレン鳴らせィ!"
],
[
"ジャーン、ジャンジャンジャン",
"ボーン、ボンボンボン"
],
[
"お前、今、時計を見なかったか",
"いいえ、暗くなったんで、判りませんわ",
"非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな",
"お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっと点くのですよ",
"感心なもんだな、覚えているなんて――"
],
[
"今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ",
"呀ッ、消えましたわ"
],
[
"ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ",
"誰か、表の電灯を消して下さい"
],
[
"ここは見えやしないよ",
"だって、戸の隙間から、見えちまうじゃないの",
"じゃ、こうしとこうかな。手拭を、姐さん被りにさせて"
],
[
"お父さん",
"おお、弦三か。よく帰って来た",
"この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ"
],
[
"ここに、鉛筆で使用法を書いときましたから、大急ぎで、消毒剤を填めて、皆に附けてあげて下さい",
"弦三、お前まだどっかへ行くのかい"
],
[
"淀橋の、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです",
"なに、黄一郎のところへか",
"ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、三ツ坊の分",
"なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな"
],
[
"駅長、扉を下ろせ!",
"扉を、し、め、ろッ"
],
[
"あなた、女連れだと思って、馬鹿にしちゃいけませんよ",
"いッヒ、ヒ、ヒ、ヒッ。こういう際です。仲よくしましょう。今に、えらい騒ぎになりますぜ、そのときは……"
],
[
"出ろ! とはなんだッ",
"もう一度、言ってみろッ!",
"愚図愚図ぬかすと、のしちまうぞ"
],
[
"横断する方は、こっちへ来て下さい",
"自動車は、警笛を鳴らしながら走って下さい。警笛は、飛行機に聞えないから、いくら鳴らしても、いいですよ",
"懐中電灯は、そのままでは明るすぎますから、ここに赤い布がありますから、それを附けて下さァい"
],
[
"呀ッ!",
"やったぞオ!"
],
[
"毒瓦斯だ、毒瓦斯だッ!",
"瓦斯がきましたよ、逃げて下さい",
"風上へ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい"
],
[
"甲州街道だッ。もっと早く歩けッ!",
"中野の電信隊を通りぬけるまでは、安心ならないぞォ!"
],
[
"キャーッ",
"こ、こ、こ、殺して呉れッ",
"あーれーッ"
],
[
"君は、ずいぶん、落付いてるナ",
"旦那は、どこへ逃げなさるんで……"
],
[
"旦那、行くんなら、あっしも、お伴しますぜ。どうせ、今夜は、仕事が休みなんで",
"僕は、早く研究室へ行きたい――",
"あっしが力を貸しましょう。皆、向うから、こっちを向いてくるのに、先生とあっしだけは、逆に行くんだ。裏通をぬけてゆかなくちゃ、迚も、進めませんぜ",
"君は、防毒マスクを持ってるかい",
"持ってませんよ、そんなものは",
"それでは、毒瓦斯がやってくると、やられちまうぞ。悪いことは云わぬ。その辺の、毒瓦斯避難所へ、隠れていたまえ。生命が無くなるぞ"
],
[
"手拭じゃ駄目だ",
"手拭に、水を浸しては、どうかネ",
"そんなことで、永持ちするものか",
"そいつは、弱ったな"
],
[
"瓦斯弾が、落ちたぞオ",
"毒瓦斯がきたぞオ"
],
[
"少尉殿。聴音機第一号と第三号とが破壊されましたッ",
"第四号の修理は出来たかッ",
"まだであります",
"早く修理して、第二号と一緒に働かせい",
"はいッ。第四号の修理を、急ぐであります"
],
[
"無線電話にも、司令部の応答が、無いであります",
"無線も駄目か。はあて――"
],
[
"帝都の空中襲撃が終るまで、放送するのは危険です。まるで電波で、帝都の在所を報らせるようなものですから",
"いいから、用意をし給え",
"それに軍部の命令……",
"もう一度、云って見給え。同盟の一員として判らなければ、物を云わせるぞ、君"
],
[
"××人が、本当に暴れだしたぞォ",
"東京市民は、愚図愚図していると、毒瓦斯で、全滅するぞ。兵営に、防毒マスクが、沢山貯蔵されているから、押駆けろッ",
"デパートを襲撃して、吾等の払った利益をとりかえせ",
"国防力がないのなら、戦争を中止しろッ",
"放送局を占領しろッ"
],
[
"電気は、来ているのですか",
"猪苗代水電の送電系統は、すっかり同志の手に保持されています。万事オーケーです"
],
[
"次に、灯火を、早くお点け下さいという命令。目下帝都内は暗黒のために、大混乱にありまして、非常に危険でございますので、敵機空襲も片づきましたることでありますからして、市民諸君は、大至急に電――",
"騙されてはいけない、市民諸君、これは偽放送だッ"
],
[
"誰だッ",
"やッ。保狸口がやられたッ",
"保狸口が、やられたかッ。折角、アナウンサーの換玉に、ひっぱって来たのに……"
],
[
"射った奴を探せ!",
"同志の顔を、一々調べて見ろ!"
],
[
"ラジオが、聞えたぞ",
"電灯も点いたぞ"
],
[
"……",
"鬼川君、軍隊だッ。救援隊らしいのが、山を登って来ますぞ。早く指揮をして下さい。鬼川くーン"
],
[
"吾輩は、司令部の穴倉へ、こいつを隠して置こうと思う。司令官に報告しないつもりじゃから、監禁の点は、君だけの胸に畳んで置いてくれ給え",
"しかし、斯くの如き重大犯人を、司令官に報告しないことはどうでありましょうか",
"吾輩を信じて呉れ。二十四時間後には、この事件について、必ず君に報告するから"
],
[
"司令官の御心配は、近くに起る太平洋方面からの襲撃を顧慮されてのことじゃ",
"そうでもありましょう。しかし、快速をもった敵機に対して、性能ともに劣った九二式や九三式で、太刀打ちが出来る道理がありません。帝都の撃滅は、予想以外に深刻であります"
],
[
"放送局との連絡は、ついたろうか",
"無線連絡が、もう間もなく恢復するでありましょう",
"空中襲撃の解除警報を出す用意は、出来ているな",
"はいッ。すこし、困難はありますが、やれる見込みです",
"では、閣下に、お願いして見よう"
],
[
"閣下。例の怪放送者は、すでに先手を打って、敵機の退散をアナウンスして居ります。況んや、唯今、川口町の報告によれば、敵軍は、明かに、機首を他へ向けています",
"君は、今の報告を盗み見たかッ",
"閣下、盗み見たとは、残念な仰せです。参謀長は、あらゆる報告に、一応目をとおす職責がございます",
"ウム",
"此の上は、速かに解除警報の御許可を、お与え下さい。市民は、軍部の、正しいアナウンスを、渇望して居ります。一刻おくれると、市民の混乱は拡大いたします",
"敵国空軍が、川口の上空から、引返して来たとしたら、どうするかッ",
"そのときは、又、警報を出します。しかし以前の監視哨の報告三種を合わせて、敵軍は日本海方面に引揚を開始していることは、明瞭であります",
"確証がつかないのに、司令官として、解除警報を出すわけにはゆかぬ",
"どうあっても?",
"くどい、参謀長!"
],
[
"申上げます。唯今、御面会人で、ございます",
"面会人。誰だッ"
],
[
"湯河原中佐に、聞け。G・P・Uの仕業じゃということじゃ",
"なに、G・P・U!"
],
[
"うん、早く読あげて、一同に聞かせてやれ",
"はッ"
],
[
"そう云えば、防空演習にしても、遺憾な点が多かったですね。東京の小さい区だけの、防空演習だって、なかなか、やるというところまで漕ぎつけるのに骨が折れた。市川とか、桐生とか、前橋とかいう小さい町までもが、苦しい町費をさいて、一と通りは、防空演習をやっているのに、大東京という帝都が、纏った防空演習を、唯の一度もやっていなかったということは、何という遺憾、何という恥辱だったでしょう",
"貴君の云うとおりだ。もしも、帝都として防空演習を充分にやって置いたら、昨夜のような空襲をうけても、あれほどの大事にはならなかったろう。火災も、もっと少かったろう。徒に、圧し合いへし合い、郊外へ逃げ出すこともなかったろうから、人命の犠牲も、ずっと少かったろう。流言蜚語に迷わされて浅間しい行動をする人も、真逆、あれほど多くはなかったろう"
],
[
"見えないか",
"判りましたッ",
"どうだ",
"焼土ばかりです。附近に、家らしいものは、一軒も見えません"
],
[
"御覧なさい、中佐殿。お茶の水の濠の中から、何か、キラキラ閃いているものがあります",
"なるほど、何か閃いているね。おお、君あれは、信号らしいぞ"
],
[
"誰か、来てないか",
"どなたも、見えませんです。なにしろ、この騒動の中ですからナ",
"手紙も、来てないかしら",
"手紙といえば、真弓が、なにかビール樽から、ことづかったようでしたが……",
"そうか。真弓を呼べ"
],
[
"今日は、ゆっくりして行ってネ。あたしも是非、あんたに、相談したいことがあるのよ",
"それよか、手紙を、早く出せったら"
],
[
"呀ッ、これはビール樽だ",
"なんだか、おかしいぞ。危いから、近よっちゃいけない"
],
[
"男爵が、居ないぞ",
"真弓も、どこかへ行った"
],
[
"では、狼の大将は、今朝がた、イーグルへやって来たというのだな",
"そうですわ。そこへ、紅子さんという、浅草の不良モガが、一人でやって来たのよ。狼は、紅子さんと、手を取って、帰って行きましたわよ",
"紅子が、ねえ――",
"ビール樽は、そのころから、お店の周囲をうろついてたんだわ。あいつ、百円紙幣に釣られて、あんたの身代りになったのね",
"では、真弓。これから、故郷へ帰ったら、二三年は、東京へ顔を出しちゃ、危いぞ",
"もう、お降りになるの。いまお別れしたら、何時お目に懸かれるか、判らないわネ",
"お互に、どうなるか、判らない人生だ。帰ったら、お父さんや、子供を、大事にしろ",
"これでも、あたし、古い型の女よ。帰ったら、いいママになりますわ"
],
[
"どうか、頼んだぞ",
"それじゃ、サヨナラ。あたしの、男爵さま――では無かった、帆村荘六様",
"御健在に――"
],
[
"少女紅子を使ったというのは?",
"それは、帆村君が研究している読心術ですな。丁度、塩原参謀が、その少女と、瀕死の重傷を負っていた弟の素六というのを、放送局舎の中から助け出したんです。帆村君は、その少女を見て、駭いたそうです。何でも前から知合いだったそうで……。紅子という少女は、非常に感動しやすい、どっちかというと、我儘も強い方の女性でした。そんな人は、読心術の霊媒に使うと、非常に、うまく働くんだそうです。早く云うと、帆村君は、紅子を昏睡状態に陥し入れ、その側へ、猿轡をした鬼川を連れて来、紅子を通じて、鬼川の秘密を探らせたのです"
],
[
"帆村君に云わせると、いい霊媒を得さえすれば、わけのない事だそうです。いわば、鬼川の身体は、不逞団の秘密という臭気を持っているのです。紅子の方は、それを嗅ぎわける、鋭い鼻のようなものです。常人には、嗅いでもわからないのに、特異性をもった紅子のような霊媒を使うと、わかるんです",
"帆村君は、それで、何を発見したのじゃ",
"彼は、第一に、閣下の偽物が、司令部に頑張っていることを知りました。これは、わたくしも、既に気がついていたことだったので、成程と、信用が出来たのです"
],
[
"それは、閣下に代って、わたくしが遂行いたしました。閣下から信頼を受けてあの重大任務をおうちあけ願っていなかったら、わが国史上に、一大汚点を印するところでありました",
"それは、よかった――"
],
[
"はいッ。草津大尉は、直ちに、お茶の水の濠端より、不逞団の坑道を襲撃いたします。終り",
"うむ、冷静に、やれよ"
],
[
"いよいよ、これァ、大変だ",
"オーさんたら。自分ばかりで、感心してないで、早く教えてよ",
"うん。もうすこしだ――"
],
[
"いま放送局から、アナウンスがあったがね、アラスカ飛行聯隊と、飛行船隊とが、共同戦線を張って、とうとう、青森県の大湊要港を占領しちまったそうだぜ",
"あら、まア、あたし、どうしましょう",
"どうするテ、仕様がないじゃないか。相手は、強すぎるんだ",
"だって、青森県て、東京の地続きでしょう。アメリカの兵隊の足音が、響いてくるようだわ",
"もっと、えらいことが、あるんだぜ",
"早く言ってしまいなさいよ。オーさん",
"飛行船隊の中から、一隻、アクロン号というのが、陸奥湾を横断して、唯今、野辺地の上空を通っているのだ",
"どこへ、逃げてゆくのかしら",
"莫迦だなア、君は。アクロン号は、東京の方へ、頭を向けているのだよ",
"じゃ、また東京は、空襲を受けるの",
"どうやら、そうらしいというのだ。警戒しろということだ",
"いやァね。あたし爆弾の光が、嫌いだわ",
"誰だって嫌いだよ",
"でも、今夜は、大丈夫なんでしょうね",
"ところが、今夜が危いのだ。一時間百キロの速度で飛んでいるから、真夜中の十二時から一時頃までには、帝都の上空へ現れるそうだよ",
"どうして、途中で、やっつけちまわないんでしょうね",
"あっちは、飛行機では、載せられないような、大きな機関砲を、沢山持っているんだ。こっちの飛行機が、近づこうとすると、遠くからポンポンと射ち落しちまうんだ",
"高射砲で、下から射ったら、どう",
"駄目だ。ウンと高く飛んでいるから、中々届かない",
"じゃ、上から逆落しかなんかで、バラバラと撃っちまえば、いいじゃないの",
"そこにぬかりが、あるものか。あっちには、有力な戦闘機が飛行船の上に飛んでいて、近づく飛行機を射落してしまう",
"まア、くやしい。それじゃ、敵の飛行船をみすみす通してしまうことになるじゃありませんか",
"だから、東京市民は注意をしろ、とサ",
"オーさんは、いやに、米国空軍の肩を持つのネ。怪しいわ",
"おいおい、人聞きの悪いことを云うなよ。これでも、愛国者だよ",
"どうだか判りゃしない。あたし、明日になったら、お別れするわ",
"じょ冗談、云うな。折角、この機会に、世帯を持ったのじゃないか",
"世帯って、なにが世帯さア。こんな、焼トタンの急造バラックにさ。欠けた茶碗が二つに、半分割れた土釜が一つ、たったそれっきり、あんたも、あたしも、着たきりじゃないの",
"まだ有るぞ。ほらラジオ受信機",
"……",
"半焼けの米櫃、焼け米、そこらを掘ると、焼け卵子が出てくる筈だ。みんなこの際、立派な食料品だ",
"そりゃ、お別れしたくはないのよ、本当は。あんたは、失業者で、あたしはウェイトレス。こんな騒ぎになったればこそ、あんたも大威張りで、物を拾って喰べられるしサ……",
"オイオイ",
"あたしも、お店が焼けちゃったから、出勤しないであんたの傍にいられるしサ、嬉しいには、違いないけれど……",
"嬉しいところで、いいじゃないか",
"でも、あんたには、愛国心が、見られないのが、残念よ",
"弱ったな。僕だって、愛国心に、燃えているんだぞ",
"アクロン号が、来るというから、あたし、考えたのよ",
"何を、考えたのだい",
"日本が興るか亡ぶかという非常時に、お飯事みたいな同棲生活に、酔っている場合じゃないと、ね",
"同棲生活⁉ 同棲まで、まだ行ってないよ。六時間前にバラックを建てて、入ったばかりじゃないか",
"あたし達、若いものは、こんな場合には、お国のためにウンと働かなきゃ、日本人としてすまないんだわ",
"そりゃ、僕だって、働いても、いいよ",
"じゃ、こうしない",
"ウン",
"あたしは、サービスに心得があるから、これから、毒瓦斯避難所へ行って、老人や子供の世話をするわ",
"僕は、どうなるんだ",
"あんたは、外に立っていて、ヨボヨボのお婆さんなんかが、逃げ遅れていたら、背中の上にのせて、避難所へ連れて来る役を、しなさいネ",
"君が働いている避難所へなら、何十人でも何百人でも、爺さん婆さんを拾ってゆくよ",
"そして、日本が戦争に勝って、そのとき幸運にも、あたし達が生きていたら……",
"生きていたら……",
"そのときは、大威張りで、あんたの所へ行くわ",
"ふうーん",
"あんた、約束して呉れる?",
"条件がいいから、約束すらァ",
"まア、いやな人ね"
],
[
"先行したいのは、山々だが、本隊との連絡が、つかなくなるのを恐れる",
"なにしろ、電灯器具材料を積んでいますから、四十哩以上の速度を出すと、壊れてしまう虞れが、あるのです",
"兎に角、弱ったね。すこし準備が、遅すぎたようだ",
"ですが、目的地の市川へは、八時までには充分着きますから、アクロン号の襲来するのが、十二時として、四時間たっぷりはございますですが",
"四時間では、指揮をするだけでも、大変だぜ",
"松戸の工兵学校は、もう仕事を終えている頃ですから、直ぐ応援して貰ってはどうです",
"工兵学校も、いいが、俺は、千葉鉄道聯隊の連中を、あてにしているのだ"
],
[
"うん",
"思い出しましたが、村山貯水池の方は、誰か行くことになっていましたでしょうか",
"村山貯水池は、臨時に、中野電信隊が出動したそうだ",
"ああ、そうですか",
"あの広い貯水池の水面に、すっかり、藁を敷くのは、想像しただけでも、容易ならん仕事だと思うね",
"でも、藁を敷いて、水面の反射を消すとは、誰が考えたのかしりませんが、実に名案ですな",
"隅田川へ敷くのについて、非常に幸運だったというのは、今夜十二時頃から、次第に、上げ潮になって来るそうで、水面へ抛りこんだ藁が、流出せずに、済むそうだ"
],
[
"大尉どの、いよいよ、穴の奥まで、近づいたらしいですよ",
"そういえば、だんだんと天井が、低くなってきたね",
"入口で、三人、やっつけたばかりで、ここまで来ても、更に敵影を認めず、ですな",
"ちと、おかしいね。どこか、逃げ道が、慥えてあるのだろうか",
"いままでのところには、探さない別坑は、一つもなかったのですが",
"おや、地盤が、急に変ったじゃないか。これは、燧石みたいに硬い岩だ"
],
[
"こんなところに、鑿岩機が、抛り出してあります",
"こっちの方にも、一台、転がっているぞ",
"地盤が、固くなったので、諦めて、引上げたのでしょうか",
"それにしては、おかしい。その辺の壁を、叩いてみよう"
],
[
"行き停りだ",
"押して見ましょう"
],
[
"いよいよ地上へ出たらしい",
"敵の奴、ここから逃げたらしいですね",
"うむ。――あれを見ろ、灯りが、さしているぞ",
"これは、建物の内部です",
"よオし、部下を集結するんだ。一度に、飛び出そう"
],
[
"爆撃の用意は、いいのだろうな",
"勿論です。二十噸の爆弾は、お好みによって、一瞬間の裡に本船から離してもよろしい"
],
[
"ですが、船長。大東京の輪廓が、すこし、明るすぎるように思いますが……",
"なアに、わしの経験によると、湿気の多い五月の天候では、地上の光が、莫迦に輝いてみえるのだよ"
],
[
"航空長、大東京への、距離は?",
"西十一キロ丁度です"
],
[
"どうした。モンストン君",
"大東京が、灯火を、消したんです"
],
[
"なるほど、スパークも見えるし、ヘッド・ライトも、ぼんやり見えるようだね",
"向うの方には、ボッと、ギンザらしい灯が見えますよ",
"そんなことは無いだろう",
"でも、左手に見えるのがシナガワ湾です。ずっと、海と陸との境界線が見えるでしょう"
],
[
"いよいよ、大東京の位置が、はっきり判りました。こっちに、ムラヤマ貯水池が、明るく光っています",
"うん。地形は、ちゃんと合っている。爆撃して呉れと、いわぬ許りだ。では、モンストン君、兼ねての作戦どおり、思うが儘に、爆撃出来るね",
"そうです、大佐どの。第一に、マルノウチ一帯へ、一噸爆弾を三個、半噸爆弾を十二個、叩きつけます。それから、シナガワ附近シンジュク附近とを中爆弾で爆撃し、頃合いを計って、ホンジョ、フカガワ附近の工業地帯を爆破し、尚、余裕があれば、ウエノ停車場を、やっつけて仕舞います"
],
[
"阻塞気球の中へ、引っぱり込まれたらしいです。半数は、気球から垂れている綱に、機体を絡めつけられ、進退の自由を失っているらしいです",
"なに、阻塞気球⁉",
"ほら、御覧なさい。あすこに、ヒラヒラしているのがあります"
],
[
"日本の飛行機は、爆弾と同じことだ",
"ああ、日本の軍人は、気が変だッ"
],
[
"主力の位置は、本日の唯今、北緯四十二度、東経百六十五度。北海道の真東、千八百キロというところだ",
"すると、敵艦隊は、今日になって、進路を急に西の方へ、向け直したことになるぞ"
],
[
"ウフ、それが大したことでなくて、何が大したことなんだ、あッはッはッ",
"うわッはッはッ"
],
[
"何しろ相手は、輪形陣だ、その中心の、そのまた中心にいる航空母艦だ。鳥渡、手軽にはゆくまいな",
"輪形陣が、破れまいと、確信しているところが、こっちの附け目さ。ナニ構うことはないから、平気でドンドン、飛行機を進めて行くさ、輪形陣の中に、こっちが入って行けば自信を裏切られて吃驚する。そこへ、着弾百パーセントという特選爆弾を一発、軽巡奴に御馳走して、マスト飛び、大砲折れサ、ヤンキーが血を見て、いよいよ腰をぬかしている隙に、長駆、大航空母艦の上に、五百キロ爆弾のウンコを落とす",
"うわーッ、千手の奥の手が始まった。もう判った。やめィ"
],
[
"紙洗大尉どの、井筒副長どのが、至急お呼びであります",
"おお、そうか。直ぐに参りますと、そう御返事申上げて呉れい"
],
[
"どれ、部屋へ帰って、今のうちに、辞世でも考えて置こうかい",
"俺は、いまのうちに、たっぷり睡って置こうと思うよ"
],
[
"おいどうした",
"大いに深刻な顔をしているじゃないか"
],
[
"いよいよ防空監視哨が出来るんですの",
"お国のために、やらなけりゃならんことになりました哩。この磯崎は、鹿島灘の一番北の端を占め、しかも町全体が、ズーッと海の真中へ突き出ているから、監視哨には持ってこいの土地ですよ",
"場所は、どこなんですの",
"三ヶ所、作れというお達しでナ、岬に一つ、磯崎神社の林の中に一つ、それから磯合寄りに一つ、と都合三ヶ所、作りましたよ。作ったのはよいが、監視哨に立つ人が、足りないので、弱っています哩",
"でも、ジュラルミン工場には、職工さん達が大勢いなさるから、一人や二人……",
"ところが、そうはならぬのですテ。ジュラルミンの工場は、なんでも国防用の機械を全速力で拵えていましてナ、こっちを手伝って貰うことは、出来ないのですよ。監視哨をやってもらうことにすると、それだけ軍需品の補充が遅れることになるそうじゃ"
],
[
"向うは何しろ軍需品工場ということだからこっちから無理に頼むことは出来ないのですテ",
"じゃ、あたしが、監視哨になりましょうか"
],
[
"お母ァちゃん。――",
"まア、三吉。お前、どこで遊んでいたの。いまみたいな自動車が通るところへ、出ちゃ駄目よ",
"ああ、僕出ないよ。――そいで、あの自動車、こんないいものを落としていったよ"
],
[
"母アちゃん、紅子さんて、誰?",
"紅子さんて、母アちゃんのお友達なのよ"
],
[
"丁度いま、磯崎の防空監視哨と東京の中央電話局との直通電話を架設して来たばかりだ。あれで話せば、直ぐ東京が出る",
"じゃ、あたし直ぐに行ってみますわ",
"うん"
],
[
"ああ、お父さん、そんなこと、いけないわ",
"なあに、わしのことは、心配いらぬよ。こんな身体でお役に立てば死んでも本望だ。ただ三吉を連れて行くのは、可哀想でもあるけれど、あれは案外平気で、行って呉れるだろうと思う"
],
[
"三吉は、まだ七つだけれど、恐ろしく目のよく利く奴さ。三吉の目と、わしの耳とを一つにすると、一人前の若者よりも、もっといいお役に立つかと思う位だよ",
"三吉は、小さいときから、父親のない不幸な子だ。それを又ここで苦しめるのは、伯父として忍びないです",
"ああ、兄さんも、お父さんも、ありがとう。どっちも、三吉の身の上を、それぞれ思っていて下さるのです。あたしは決心しました。三吉も、お祖父さんと行きたいと云っている位だから、あたしは母親として、それを許しますわ。今は、日本の国の、一つあっても二つあるとは考えられない非常時です。この磯崎では、一人の三吉を不憫がっていますけれど、あすこから電話線を伝って行ったもう一つの端の東京には、三吉みたいな可愛いい子供さんが何十万人と居て、同じようにアメリカの爆弾の下に怯えさせられようとしているんです。そのお子さん達の親たちは、お父さんも、あたしのような母親も、どんなにかせめて子供達だけにでも、空襲の恐怖から救ってやりたいと考えていらっしゃるか知れないんです。あたしはそれを思うと、その大勢の同胞のために、喜んで三吉を、防空監視哨の櫓の上に送りたいと思います。いいでしょう、兄さん"
],
[
"なア、三坊、お祖父さんと一緒に、日本の敵のやってくるのを張番してやろうな",
"ウン、あの磯崎神社の傍の櫓なら、さっきよく見てきたよ。お祖父ちゃんと一緒に昇れるのなら、僕、嬉しいな。アメリカの飛行機なんか、直ぐ見付けちゃうよ。ねえ、お祖父さん",
"おお、そうだ、そうだ"
],
[
"真弓、もう時間もないことだ。さァ急いでお前は、東京へ電話をかけるんだ。僕は町長さんのところへ行って、お父さんと三ちゃんの志願のほどを伝えて来よう",
"そう、愚図愚図してられないわねエ"
],
[
"うむ",
"おお"
],
[
"うう、見事に命中! おお、シカゴは、弾薬庫をやられて、爆発を始めたぞオ",
"うわーッ、万歳",
"万歳はまだ早い。止めの一弾を、早く用意せいッ"
],
[
"同感申しあげます、我等の閣下",
"わが空軍の活躍は、アクロン号、いや、こいつは、間違った――ロスアンゼルス、バタビウス、サンタバーバラの飛行船隊と合することによりて、絶頂に達することじゃろう。この空軍だけでも日本全土を、征服してしまうことは、訳のないことじゃ。艦隊の主力たる我が艦列の、彼に勝ること一倍半なることは、此後の戦況に、大発展を予約しているものじゃ。要するに日本海軍というも、日本人というも、栄養不良のヒステリー見たいなものだ。布哇を見い。あれだけの日本人が居ってグウの音も出ないじゃないか。尤も我が米軍の警戒も、完全にやっているせいもあるが、そこへ持ってきて、此の海戦地点たるや日本の海岸を去る七百キロという近さじゃ。ちょいと手を伸ばせば、日本の本土に手が届く。艦上機も、着艦の心配は無用じゃ、一と思いに、日本の飛行場を占領して降りればよい",
"ですが、閣下、日本の飛行場は、到底我等の飛行機全部を収容しきれんだろうと考えますが……。例えばハネダ飛行場にしましても……"
],
[
"提督閣下。わがコロラドは、急速に沈下しつつあります。機雷に懸ったものか、魚雷を受けたものか、附近の兵員からの報告がありませんので、目下取調べ中であります",
"なに、コロラドが、沈没を始めた。何を油断していたのじゃ"
],
[
"閣下、本艦は日本潜水艦に、舵器を半数破壊されました。従って速力が半分に減じまするから、至急、隣に居りますソルトレーキへ御移りを願います",
"なに、本当に潜水艦か! おお、あすこの水面へ浮び上った。呀ッ、イ型一〇一号⁉ すると曩にカリフォルニアの沖合で、襲来した自由艦隊の生き残りじゃな。あのとき一〇一号は射ち止めたと思ったのに……",
"閣下、お早くねがいます",
"莫迦なことを云え。砲術長は何をしているのじゃ。あの潜水艦を、何故早く射撃しないのじゃ。あれがマゴマゴしている裡に、旗艦移乗なんて、どうして出来るものか"
],
[
"さア、ジャップの奴を、のしてしまえ",
"行こう、行こう。メリーのために"
],
[
"いやそれは二人の女性の手柄なんです。一人は危険を覚悟で『狼』の身辺につきまとっている紅子というモダン娘、もう一人は、紅子の密書を拾って逸早く僕のところへ通報して寄越した真弓という若い女",
"ほほう、密書を拾って通報したのは女性なのかい。しっかりした女だなア"
],
[
"あれは特筆すべきお手柄だったが、よく判ったものだね",
"草津大尉どの。太平洋戦争の其後の模様はどうなりました?",
"偵察機隊が火蓋を切ったそうだ。海軍の策戦が図に当って、敵軍は稍疲れが見えるそうだ。しかし勝敗はまだどこへ行くとも判っていない。だが少くとも戸波博士を、ここ一二時間の裡に奪還できない限り、帝国の勝算は覚束ない",
"先生を悪人が殺すようなことは、無ぇでしょうか"
],
[
"草津さん、妙なものが、向うからやって来ますぞッ",
"ほほう、ありゃ牛乳運搬自動車らしいな",
"ところが大尉どの、御覧なさい、牛乳車の癖に莫迦にスピードを出していますよ"
],
[
"大尉どの、博士は健在です。牛乳車の奥に、監禁されていましたぞォ",
"なに、博士が……"
],
[
"飛行機の音はしないけれどネ、大砲の音はだんだん近くなって来たよ。プロペラの音は小さいから、飛んでいても中々区別がつかないのだよ。三ちゃん、見落さないように、左から右へと、ソロソロ見廻わしているのだよ",
"ああ、いいよ。僕、早く見付けて、伯父さんの拵えたこの電話機でネ、東京に住んでいる人と話をしたいの",
"そうか、そうか",
"さっき僕と話をした東京の人は、お姉ちゃんだったよ",
"電話局の交換手さんだからネ、交換手はお姉ちゃんに極っているのだよ",
"そのお姉ちゃんに僕、訊いてみたの。お姉ちゃんには、お母ちゃんと、そいからお父ちゃんもいるのッて尋ねたらネ……",
"うん",
"お父ちゃんも、お母ちゃんも居る筈なんだけれどネ、アメリカの飛行機が爆弾を落として、お家を焼いちゃったもんだからネ、どこへ行っちゃったか、判らないのッて云ってたよ。可哀想だねーェ",
"――オヤ、これは……。おう、プロペラの音が聞こえる",
"ああ、見える、見える。一つ、二つ、三つ……",
"方角は、真東。おや、こっちの方にも聞こえる。三ちゃん。船神磯の方には、何か見えないかい",
"船神磯の方? ああ、来たよ来たよ。飛行船が三つ――随分高く飛んでいるよ。おじいちゃん、電話を懸けていい!",
"そうじゃ、そうじゃ。間違うといけないから、落着いて掛けるのだよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「朝日」
1932(昭和7)年5月~9月号
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2007年1月5日作成
2007年9月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"うむ、例の『火の玉』少尉が、またやって来たのだ",
"えっ、『火の玉』少尉?"
],
[
"大尉どの。自分もここに居てよろしくありますか",
"ああ、よろしい。ぜひそこにいて、『火の玉』少尉を慰めてやってくれ"
],
[
"はあ、きょうは大尉どのに、この姿を見ていささか意を安んじて頂こうと思って参りました",
"おお、これは戸川――戸川中尉どの。ずいぶん久しぶりでありましたな"
],
[
"戸川中尉どの。結果において自分の敗北でありましたよ。中尉どのにお目にかかれば、早速それを申すはずでしたが、きょうまでそれをいう機会がなかったのです",
"あはは、なにをいうか貴様",
"しかし戸川中尉どの。自分は右手を失って、見かけにおいては体力を削減しましたが、その戦闘精神は却って以前よりも旺盛になったことを言明いたします",
"ふふん、それは結構だ"
],
[
"いや失敬いたしました。旧友に会ったものでありますからして、思わず大尉どのへの報告のほうが後になりまして……",
"いや、かまわない。が、報告とはどういうことか。まさか原隊復帰の許可が下りたというのでもなさそうだが",
"その原隊復帰のことで、大尉どのをかなりお苦しめしましたが、きょうはそのことではないのであります。これをごらん下さい。自分は警防団に入りました。原隊復帰が許されるまで、警防団で働くつもりであります",
"そうか、それはよかった"
],
[
"はい、監視班です",
"ほう、監視班とは、なるほどこれはいいところへ配属されたものだ。『火の玉』少尉の監視哨では勿体ないくらいのものだ"
],
[
"今日ほど、監視哨の仕事が重大であり、そして困難を伴っていたことは、未だかつてなかったのです。ソ連極東軍の重爆隊は、今夜にも翼をはって帝都の空を襲うかもしれない情勢であります。自分は今夜から、任務につく決心であります",
"ふーむ、任務につくといって、どうするのか",
"はい、気球に乗ることになっています",
"なに、気球に乗る。どんな気球に乗って、なにをするのか"
],
[
"はい、帝都は今夜から、繋留気球を揚げることになっています。今夜は一つだけでありますが、明日から若干数が殖えることになっています。自分は、その最初の一つに乗りこみまして、深夜の帝都の上空をば監視するのであります",
"夜、見えるか",
"はい、午前三時に月が出るのであります。それまではE式聴音器で、敵機のプロペラの音を探知します",
"ふむ、それは御苦労なことだ。では、しっかり頼むぞ"
],
[
"私は予定どおり乗りますよ。風が吹いていようが、敵機は来ようと思えば来るんだからね",
"いえ、風――風がはげしいからどうのこうのというのではなくて、なんでもこの○○陣地の裏手の垣のところを、怪しい人物が二三人うろついていたという話ですよ。それで班長さんはじめ総がかりでいま見廻り中なんです。気味がわるいじゃありませんか"
],
[
"怪しい人物、ははあ本当かな。臆病者には、蚯蚓が蛇に見える",
"六条さん、そんなことをいっているのを幹部に聞かれると、うるそうがすぜ",
"なにがうるさいものか。この事変下に怪しい奴の一人や二人うろついているのは当り前だよ。なにも班長までが騒ぎまわらなくともいいじゃないか。そんなことは気球に乗らない連中に頼んでおいて、自分たちは予定どおりのるのがいい。敵軍は、こっちにそんな騒ぎがあろうとなかろうと、お構いなしに空襲を仕かけてくるだろうからね",
"そりゃそうですが、さっきもこの気球のあたりを探していましたが、その憲兵さんの話を聞くと、先月横浜沖に碇舶していた貨物船から無断上陸をして逃げたソ連共産党の幹部スパイで、キンチャコフとかいう大物も交っているらしく、なかなかたいへんな捕物なんですよ",
"キンチャコフだって、どっかで聞いたような名前だ。だが、キンチャコフはどこまでもキンチャコフで、監視哨はどこまでも監視哨なんだ。さあ、係員にそういって予定の時刻が来たから、早く気球の綱をとくようにいってくれたまえ",
"へえ、やっぱり六条さんは、一人で上へあがるのですか",
"さっきから幾度もそういっているじゃないか。係員にそういってくれ。ぐずぐずしているようなら勝手にこっちが綱を切ってとびあがるぞと、きびしく一本突込んでおいてくれ",
"えっ、気球の綱を切る? あなた、いくら冗談でもそんな乱暴なことをいうものじゃありませんよ。気球の綱を切れば、地球の外へ吹き流されてしまうじゃありませんか",
"はっはっはっ。もういいから、早く係員に催促をしてきてくれ",
"へえ、かしこまりました"
],
[
"日本人、まだ死なぬか!",
"うーむ"
],
[
"おいキンチャコフ。貴様が××陣地で皆に追駈けられて、仕方なくここへとびこんだことは知っていたぞ",
"それがどうした。なにが仕方なくだ。わしはこの気球で脱れるつもりだから、繋留索をナイフで切ってしまったんだ",
"そんなことは云わなくとも分っているぞ。貴様は、この気球でうまく脱れられるつもりなのか",
"脱れなきゃならないんだ",
"脱れるといっても、この気球は風のまにまに流れるだけなんだ。どこへ下りるか、それとも天へ上ったきりで下りられないか、分ったものじゃない",
"出鱈目をいうな、日本人。気球はいつかは地上に下りるもんだ。天空に上ったきりなんてぇことはない"
],
[
"ふん",
"それが分ったら、ピストルなんざポケットへ収っとくことだ。下手な射撃をして、気球にでも当れば、どういうことになると思うんだ。たちまち気球は火に包まれ、俺たち二人は、火を背負いながら地上に飴のように叩きつけられて、この世におさらばを告げることになるだろうよ",
"……",
"おい、お前は思いきりのわるい奴だな、キンチャコフ。そのピストルなんか収って、これからどうすればわれわれは無事地上に下りられるかを研究して、すぐさま実行にかかるのだ。無駄なことはしないがいい"
],
[
"うまいぞ。たしかにこっちへやってくる",
"すこし変だよ。あれじゃ高度が高すぎて、気球の上を通りすぎてしまいそうだ"
],
[
"畜生、とうとう行かれてしまった",
"どうも無理だよ。こんな小さな灯じゃ仕様がない。そのうえ、千切ったような雲が一ぱいひろがっていて、上からは案外見透しがきかないんだぜ"
],
[
"ほう、なるほど下るわ下るわ。いよいよ墜落の第一歩か",
"あまり嚇すなよ"
],
[
"へんなことをいうと、きっとそのとおりになるという法則がある。ちと慎めよ",
"なあに、今のうちにこれでも喰っておけ。そうすれば元気になるだろう"
],
[
"ああ、海だ",
"おお海だ。どこの海だろうか",
"この色は、日本海だ"
],
[
"なにをするんだ、キンチャコフ",
"いや、嚇しではない、本気なんだ。船が見えたら、貴様は綱をひいて、気球の瓦斯を放出して下におりて、助けられるつもりだろうが、それについて、ちと注文があるんだ",
"それはどういうことか。早くぬかせ",
"日本の船舶が通っても下りないことさ。つまり日本以外の船舶に救助されることをもって条件とするのさ。もちろん、貴様に異議はいわせないがね"
],
[
"そんなものを握っているよりは、下を船が通りやしないかどうかが、生命びろいのためにはその方が肝腎のことだぜ",
"ふん、うかうかそんな手にのるもんかい。飛び道具の方が勝にきまってらあ"
],
[
"おう、気球がまた上りだしたぞ",
"あっ、ちがいない。おお六条。あの黒い雲を見ろ",
"思いきって、ここで瓦斯をぬいて海面へ下りようではないか",
"なにを。下りるのはいやだ。わしは泳げないんだからな",
"俺が助けてやろう",
"いやだといったらいやだ。このピストルが眼にはいらないのか"
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"うーぬ、貴様。さっきからピストルをかまえて、それで俺を嚇かしつけているつもりなのか",
"なにを、来るか日本人。来てみろ、一発のもとに赤い花が胸から咲きでるだろう",
"莫迦野郎!"
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"おい、キンチャ。もうどの辺を漂流しているかなあ",
"この気球は、最初北へいって、その翌日は西へ流れた。そしてもう四、五日にはなるだろう。すると、これはどうも外蒙かザバイカル区の辺まで流れて来ているよ",
"そんなになるかなあ。よし今日はなんとかして腕の力で起きあがる練習をして、一度ゴンドラの外をのぞいてみたいものだ。俺は、太平洋の真中あたりへ出ているような気がするが"
],
[
"気のせいか、××陣地のサイレンと同じ音色だが……",
"なにをいうんだ。あれはザバイカル管区の号笛だ。わしはよく知っている"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「名作」
1939(昭和14)年9月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003371",
"作品名": "空中漂流一週間",
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"ソート用読み": "くうちゆうひようりゆういつしゆうかん",
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"初出": "「名作」1939(昭和14)年9月",
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"生年月日": "1897-12-26",
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} |
[
[
"ウム――相良十吉。おひとりだろうナ",
"イエス、サー",
"では、こちらへ御案内申しあげるんだ"
],
[
"栗戸探偵でいらっしゃいましょうか",
"栗戸利休はわしです。さあどうかそれへ",
"先生で……"
],
[
"私は、先生が、御依頼した事件につき、非常に迅速に、しかも結論を簡単明瞭に、探しだして下さるという評判を承って、大いに喜んで参ったような次第なのですが……",
"それで――お識りになりたい点というのは",
"ハイ。その、それは、今から二十年前のことになりますが――先生もよっく御記憶かと存じますが――東京を出発して無着陸世界一周飛行の途にのぼったまま行方不明となった松風号の最後を識りたいのです"
],
[
"おお、先生はよく覚えていて下さいました。実は、私もあの事件に関係がある人間なので捜査に奔走しましたが……",
"そうでしたね。相良さんは、松風号の設計家の一人だったのですな",
"やあ、これまで御存知でしたか。それで私はどんなにか手を尽して探したことでしょう。私自身も探検隊を組織して印度の国境からゴビの沙漠へかけて探しにゆきました。結果は何等得るところなしでした。全く行方がわからない。これ程さがして知れないものなら、松風号は空中爆発でもして一団の火焔となって飛散したのじゃないか、と随分無理なことまで思いめぐらして見たものでした",
"なるほど"
],
[
"それは人違いではないのですか",
"いえ、なんで人違いなもんですか。たといそれが彼の幽霊であったとしても、それは人違いではないのです"
],
[
"じゃ何故、彼の腕をとって、貴方のお家へ連れこまないのですか",
"あいつは馬鹿力を持っています。彼奴の腕にさわることができても、それこそ工場のベルトに触れでもしたかのようにイヤという程、跳返されるばかりです",
"官憲の手を借りてはどうです",
"それも考えないじゃありません。が、先生。あの有名な事件の人物が二十年後の今日、発見されたことがわかったが最後、可哀想な松井田は警官と新聞記者とに殺到されて、あの男の頭はどこまで変になるか知れないのです。折角判るべき松風号の消息までもが絶えてしまうのは惜しいと思います。今は私共の手で出来るだけの事実を調べた上、松井田の精神状態が恢復してから、先生に真相を発表していただいても遅くはないでしょう",
"ごもっともです。ところで風間さんの遺族は今どうしていられますかね"
],
[
"実はそれも一つ困っている点なのです。御承知かも知れませんが、あの事件からずっと風間夫人、すま子と言います、それを私が引きとって世話をしています。只今は戸籍面も私の妻になっていますし、真弓という二十になる娘もあるようなわけです",
"なるほど、風間氏が生きていたら、甚だ事面倒になるわけですな",
"そのことについては私はもう決心をしています。だが風間は生きていましょうか。すま子には、まだ何事も話をしていないのです",
"よく調べて見ましょう。――それからもう一つ伺いたいのです。あなたは松風号のどの部分を御設計でしたか",
"プロペラです"
],
[
"プロペラの試験は、一番調子がよいとほめられた位です。あの設計は丸一年かかりました",
"それで只今のお仕事は",
"今は航空研究所の依頼品を監督して組立中です。何ものであるかは一寸申上げられませんが、航空機であることはたしかです"
],
[
"ではいつ御返事願えましょうか",
"明晩までに"
],
[
"先生お怪我は? してこいつは何奴でしょう",
"わからないな。ともあれ約束の時間が来る。運転手! お前はこいつを連れて事務所へかえれ。わしと根賀地とは公園を出たところでタキシを呼ぶから……。お客様は丁重に扱うんだぞ"
],
[
"先生、彼奴は昨日お話の松井田じゃありませんか",
"松井田にしちゃ年が若い。まだ二十五六の小僧だったぞ",
"エエ、そうですかい"
],
[
"じゃ松井田の手先ですかい",
"何とも言えないね"
],
[
"昨夜、あれから手術をやって貰ったのでもう心配はない。それからあの若先生だが、もう三十分もしたらこっちへ来て貰うのだナ。昨夜相良氏はどうした?",
"あの男は、今朝も例のとおり、会社へ出かけてゆきましたよ。青い顔はしていましたが不思議に元気でしたよ。昨夜の容子じゃ、自殺するかナ、と思いましたが、今朝の塩梅じゃ、相良十吉少々気が変なようですね",
"なにか手に持っていたか",
"近頃になく持ちものが多いようでしたよ。手さげ鞄に小さい包が二つ"
],
[
"川股と貴女との御関係は?",
"父の助手で、私のためには未来の夫なのでございます"
],
[
"先生、東に何が見えましたか?",
"いや見えない。宇宙艇が越中島を飛び出したのは何時何分だった?",
"張り込んでいた中井の電話では十一時三十三分だそうです",
"もう十八分経っている。――相良が宇宙艇にのりこんだのは本当だろうね",
"宇宙艇係の特別職工が言明したのだから間違いじゃないでしょう。相良一人が乗りこんで試験をしていたのが、どうした拍子にか空へ飛び出したというのです。職工は言っています。相良さんが乗りこんでいる内、機械が故障になって飛び出したのだと",
"そりゃどちらでもよい。会社はさわいでいるか",
"そりゃ大変なものだそうです。いままで秘密も秘密、大秘密にしてあった宇宙艇の建造のことですからね。重役は青くなって今も協議中ですが、会社の建造方針や、相良技師長苦心の設計事情について、直ちにステートメント発表の文案を起草中だそうです",
"そうか。実は昨夜も会社へしのび込んだのだが、あの中までは到頭入れなかったのだ。宇宙艇とまでは気がつかなかった",
"相良氏はどこへ行くつもりなのでしょう。会社では火星航路を開くためだったと言っていますが",
"そいつは今少したってみないと一寸わからない。――根賀地。今日は決っしてピストルを手離しちゃならぬぞ"
],
[
"月の軌道より外へ出ているのか",
"そうです。正に一万キロメートル外方です"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1928(昭和3)年10月号
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001231",
"作品名": "空中墳墓",
"作品名読み": "くうちゅうふんぼ",
"ソート用読み": "くうちゆうふんほ",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「新青年」博文館、1928(昭和3)年10月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-08-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "海野",
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"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷",
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} |
[
[
"いいお月様ですね",
"東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が濁っていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ",
"今夜は満月でしょう",
"そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔嫦娥という中国人は不死の薬を盗んで月に奔ったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ"
],
[
"奥さん、お家の中へお送りしましょう",
"ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい魔物が居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……"
],
[
"ああ、うちの人は帰って来たのかしら",
"いいえ、あれは私の兄ですよ"
],
[
"兄さんですって――",
"二階へ調べに行っています",
"二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた攫われますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい"
],
[
"モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい",
"大事件? 大事件て、どんな事件なんだネ"
],
[
"兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです",
"なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ",
"兄が天井に足をつけて歩いていたんです",
"オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ"
],
[
"まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました",
"なアーンだ。そこは飛行場なのかい",
"飛行場? ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです"
],
[
"警部どの、これァ駄目です",
"扉を壊して入れッ。三人位でぶつかってみろ"
],
[
"警部どの。あれは一体人間なんですか",
"人間ですか。それとも人間でないのですか"
],
[
"オヤ、一人足りないじゃないか",
"一人足らん。誰が集まらんのだろう"
],
[
"ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない",
"そうだ、黒田君が見えんぞ"
],
[
"警部どの、見当りません",
"どうも可笑しいぞ。どこへ行ったんだろう"
],
[
"警部どの。向うに妙な場所があります",
"妙な場所とは",
"池がこの旱魃で乾上って沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土の柔いところに、格闘の痕らしいものがあるんです。靴跡が入り乱れています。あんなところで、誰も格闘しなかった筈なんですが、どうも変ですよ",
"そうか、それア可笑しい。直ぐ行ってみよう"
],
[
"オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ",
"消えているといいますと",
"ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア其処で足跡が無くなっているじゃないか",
"成る程、これア不思議ですネ",
"こんなことは滅多にないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道優賞牌、黒田選手に呈す――",
"あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……",
"うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう?"
],
[
"兄さん。この家は化物の巣なのかしら",
"そうかも知れないよ",
"でも、化物なんて、今時本当にあるのかしら",
"無いとも云いきれないよ"
],
[
"博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら",
"それは皆化物だろう",
"兄さんは化物を本当に信じているの",
"化物か何かしらぬが、僕がこの室で遭ったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光に透かしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。呀ッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕が利かないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこら中を蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体が斜めに傾いたのだ。僕はズデンドウと尻餅をつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体は尚も傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖に怺えきれなくなって、お前を呼んだのだ",
"ああ、あのときのことですネ",
"すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が天井にピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度は頸がギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない――と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか"
],
[
"眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ",
"そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっと検べたいことが沢山あるんだ……"
],
[
"あれは衣服室なのです。それが貴郎、ゾロゾロ動き出して、まるで生物のように此の室を匍い廻ったんです",
"ああ、あの一件ですネ。するとあの洋服はすべて先生と奥様のだったというわけですね"
],
[
"いや、それですこし判って来たぞ",
"どう判ったの、兄さん",
"まア待て――"
],
[
"黒田という者ですがネ。これ御覧なさい。この足跡がそうなんですが、黒田君は途中で突然身体が消えてしまったことになるので、今皆と智慧を絞っているのですが、どうにも考えがつきません",
"突然身体が消えるというのは可笑しいですネ。見えなくなることがあったとしても足跡は見えなくならんでしょう。矢張り泥の上についていなければならんと思いますがネ",
"それもそうですネ",
"僕の考えでは、黒田さんは、私を襲ったと同じ怪物に、いきなり掠われたんだと思いますよ。あの怪物が、追っかけた黒田さんの身体を掴え、空中へ攫いあげたのでしょう。黒田さんの身体は宙に浮いた瞬間、足跡は泥の上につかなくなったわけです。それで理窟はつくと思います"
],
[
"警部どの、警部どの",
"おお、ここだッ。どうした"
],
[
"いま本署に事件を報告いたしました。ところが、その報告が終るか終らないうちに、今度は本署の方から、怪事件が突発したから、警部どの始め皆に、なるべくこっちへ救援に帰って呉れとの署長どのの御命令です",
"はて、怪事件て何だい",
"深夜の小田原に怪人が二人現れたそうです。そいつが乱暴にも寝静まっている小田原の町家を、一軒一軒ぶっこわして歩いているそうです",
"抑えればいいじゃないか",
"ところがこの怪人は、とても力があるのです。十人や二十人の警官隊が向っていっても駄目なんです。鉄の扉でもコンクリートの壁でもドンドン打ち抜いてゆくのです。そして盛んに何か探しているらしいが見付からない様子だそうで、このままにして置くと、小田原町は全滅の外ありません。直ぐ救援に帰れということです",
"その怪人の服装は?",
"それが一人は警官の帽子を着た老人です。もう一人は白い手術着のような上に剣をつった男で、何だか見たような人間だと云ってます。異様な扮装です",
"なに異様な扮装。そして今度は顔もついているのだナ"
],
[
"ありがとう。だんだんと元気が出てきました。僕も連れてっていただきますから、どうぞ",
"どうぞとはこっちの言うことです。貴方がいて下さるので、こんなひどい事件に遭っても私達は非常に気強くやっていますよ"
],
[
"早く夜が明けるといいね",
"どうしてサ",
"夜が明けると、谷村博士のお邸にいた化物どもは、皆どこかへ行ってしまうでしょう",
"さア、そううまくは行かないだろう。あの化物は、あたりまえの化物とは違うからネ",
"あたりまえの化物じゃないというと……",
"あれは本当に生きているのだよ。たしかに生物だ。人間によく似た生物だ。陽の光なんか、恐れはしないだろう",
"すると、生物だというのは、確かに本当なんだネ、兄さん。人間によく似たというとあれは人間じゃないの",
"人間ではない。人間はあんなに身体が透きとおるなんてことがないし、それから身体がクニャクニャで大きくなったり小さくなったり出来るものか。また足を地面につかないで力を出すなんておかしいよ。とにかく地球の上に棲んでいる生物に、あんな不思議なものはいない筈だ",
"じゃ、もしや火星からやって来た生物じゃないかしら",
"さアそれは今のところ何とも云えない。これぞという証拠が一つも手に入っていないのだからネ"
],
[
"あッ、そうだ。その証拠になるものが一つあるんですよ",
"えッ。何だって?"
],
[
"一体なんです。化物が落していったとすると、化物の何です。頭に生えていた白毛ですか",
"イヤそんなものじゃありません。――これはいいものが手に入りました。御覧なさい。これは毛のようで毛ではありません。むしろセルロイドに似ています。しかしセルロイドと違って、こんなによく撓みます。しかも非常に硬い。こんなに硬くて、こんなによく撓むということは面白いことです。覚えていらっしゃるでしょうネ。あの化物の身体は、自由に伸び縮みをするということ、そして透明だということ、――これがあの化物の皮膚の一部なのです",
"皮膚の一部ですって!",
"そうです。化物が硝子窓を破って外へ飛びだしたときに、剃刀よりも鋭い角のついた硝子の破片でわれとわが皮膚を傷つけたのです。そして剥けた皮膚の一部がこの白毛みたいなものなのです。いやこれは中々面白いことになってきましたよ"
],
[
"なんだ",
"イヤ警部どの、もう小田原へ入りましたが、ちょっと外を御覧下さい",
"うむ――"
],
[
"うむ、これはひどい!",
"まるで大地震の跡のようだッ",
"おお、向うに火が見えるぞ"
],
[
"二人の怪人というのはどうした",
"決死隊が追跡中です。小田原駅の上に飛びあがり、暗い鉄道線路の上を東の方へ逃げてゆきました",
"そうか、じゃ私達も行ってみよう"
],
[
"さアまだ見えませんが……呀ッ呀ッ、居ました、居ましたッ",
"どこだ、どこだッ",
"いま探照灯をそっちへ廻しますから……"
],
[
"オーイ、どうして追駆けないのだ。元気を出せ、元気を――",
"いま最後の一戦をやるところです。見ていて下さい。駅の方から機関車隊が出動しますから……",
"ナニ、機関車隊だって……"
],
[
"やっぱりあの化物が機関車を前から押しかえしているのですよ",
"ほう、お前にそれが解るか"
],
[
"隧道の爆発だッ",
"入口が崩れたッ"
],
[
"うわーッ。逃げてきた逃げてきた",
"警官も鉄道の連中も、要領がいいぞオ"
],
[
"いや仕方が無い。報告の内容から推して考えると、ああするより外に道はないのです。むしろ思い切って決行したところを褒めてやって下さい。なにしろ化物は完全に隧道の中に生き埋めだ",
"隧道の向うが開いているでしょう"
],
[
"やあ",
"やあ"
],
[
"私も連れていって下さい",
"ああ、恐ろしくなければ、ついて来給え"
],
[
"どうやら大丈夫のようだね",
"すると化物は、皆この足の下に閉じこめられているというわけなんだな"
],
[
"オヤッ",
"オヤ、これはどうだ",
"オヤオヤオヤオヤ"
],
[
"いいえ、ありませんです。ここはずッと盆地のように平になっていて、青い草が生えていたばかりですよ",
"ほほう、すると何時の間に出来たのだろうか",
"もしや……"
],
[
"もしや、あの化物が明けたのでは……",
"そんなことかも知れん。天井の壁さえ抜けば、あとは軟い土ばかりだったのかも知れない",
"すると化物は、どッどこに……"
],
[
"に、にいさん――",
"おお、気がついたナ、民ちゃん"
],
[
"どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか",
"はッはッ。では夫人に訳を伺ってごらん",
"イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です",
"どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧道の上で……",
"あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ"
],
[
"僕――黒田巡査です",
"ああ、黒田さん",
"僕が土に埋められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです",
"ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ",
"そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ"
],
[
"手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽しだナ",
"そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼もが、まるで様子が違っちまったのだからネ"
],
[
"大変て、どんな実験ですか",
"実はルナ・アミーバーを一匹掴えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸っていないのに、一部分が抉りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ",
"私にも見せて下さい――"
],
[
"おお民彌君。もう元気になりましたか",
"はい",
"いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ"
],
[
"偏光作用といいますと",
"この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ",
"こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに",
"動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外皮を大分引裂いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴締めにしていた奴です。あのとき此奴は、兄さんに苦められたのです。兄さんは護身用に、携帯感電器をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相当参っているところへ、あの硝子の裂け目へつっかかったんで、二重の弱り目に祟り目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍い上りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ"
],
[
"この一匹の外はどうしたのですか",
"もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡でのぞかせてあげましょう",
"すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣を着た若者なども、逃げかえったんですか"
],
[
"では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ",
"そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです",
"しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ",
"あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透かしてみると、ほんの僅か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓が、ぼんやり見えたのですよ",
"ははーん"
],
[
"オヤオヤ。ルナが逃げたッ",
"どうして逃げたんだッ",
"弱っていたと思っていたがな"
],
[
"どうしたんです",
"いえ、彼奴の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです",
"なぜッ",
"真空は、彼奴の住む月世界の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗"
]
] | 底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房
1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行
初出:「科学の日本」博文館
1933(昭和8)年7月~12月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年11月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003379",
"作品名": "崩れる鬼影",
"作品名読み": "くずれるおにかげ",
"ソート用読み": "くすれるおにかけ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「科学の日本」博文館、1933(昭和8)年7月~12月号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-12-06T00:00:00",
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} |
[
[
"まことに以て面目次第も御座りませぬが、高松半之丞様御行方のところは、只今もって相分りませぬような仕儀で……",
"なに、この一年も無駄骨だったと申すか……"
],
[
"へえ、――",
"半之丞が失踪いたして、今日で何ヶ年に相成るかの",
"へえ。――丁度満五年でござりますな"
],
[
"ははッ。それでは捜索打切……",
"そうじゃ。われわれは充分出来るかぎりの捜索を行ったのじゃ。誰に聞かれても、われわれに手落はないわ",
"御尤もなる仰せ……"
],
[
"これにてそちも身が軽くなったことじゃろう。この上は御用専心に致せ。――おお、そうじゃ。聞けばこの程より怪しき辻斬がしきりと出没して被害多しとのこと。町方与力同心など多勢居りて、いかが致し居るのじゃ",
"遺憾ながら、私めにはまだ相分りませぬ",
"うん。これからはもう身軽いそちの身体じゃ。早く赴いて、早く引捕えい。――"
],
[
"ほう、三太か。……いま時分何の用だ",
"へえ、これはよいところでお目に懸りやした。実はお上からのお召しでござります。なんでも、今宵辻斬天狗が大暴れに暴れとりますんで……。それにつきまして、これから帯刀様御邸へお迎えに出るところでござりました",
"そんなに暴れるのか",
"伺いますと、正に破天荒。もう今までに十四、五人は切ったげにござりまする",
"ほほう、十四、五人もナ?",
"さようで。――しかも切られたのが、手先の中でも一っぱし腕利きの者ばかり……"
],
[
"今どこまで追ってるんだ",
"連雀町から逃げだして、どうやら湯島の方へ入った様子でござります",
"ほう、湯島といやあ、これァまた後戻りだわ。……さあ、一緒について来い、三太!",
"合点でござんす"
],
[
"むざむざと十四、五人も切らせるたァ、それは切らせる方に手落ちがあるのだ。よォし、これから行って、拙者の腕を見せてくれる!",
"いや、それでは拙者も連れていってくれ",
"ならぬならぬ。魔物退治は是非とも拙者にお委せあれ"
],
[
"あまりにも美事な太刀傷じゃ。人間業ではないのう",
"やはり天狗の仕業じゃ。それに刃向ったは権四郎の不運!",
"そうじゃ、権四郎の不運じゃ。吾々の知ったことではないわ"
],
[
"とにかく権四郎が悪い。あれは恋敵の高松半之丞に違いない。半之丞の呪咀が、彼を文字どおりの悪鬼にかえたのだ",
"うん、なるほど。そういえばなァ"
],
[
"呀ッ。――",
"思い知ったか、夫の敵!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「逓信協会雑誌」
1936(昭和11)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年8月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003531",
"作品名": "くろがね天狗",
"作品名読み": "くろがねてんぐ",
"ソート用読み": "くろかねてんく",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「逓信協会雑誌」1936(昭和11)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-09-13T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Unno",
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"役割フラグ": "著者",
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[
[
"ああ楊博士、あなたをどんなにお探ししていたか分りません。周子の易に(北緯百十三度、東経二十三度附近にあり、水にちなみ、魚に縁あり、而して登るや屏風岩、いでては軍船を爆沈す)と出ましたが、ああなんたる神易でありましょうか",
"……"
],
[
"いや博士、猛印こそわが中国の首都でありますぞ",
"わしを愚弄してはいかん。中国の首都がインドとわずか山一つを距たった雲南の国境にあってたまるものか。第一そんな不便な土地に、都が置けるかというのだ。この屏風岩から下へとびこんで、頭など冷やしてはどうか",
"いやそれが博士、あなたのお間違いですよ。あなたこの頃、ニュース映画をごらんになりませんね。首都が北京だったのは五、六年前です。それから南京に都はうつり――",
"それは知っとる。首都は南京だろう",
"いえ、ところがそれ以来、また遷都いたしまして、今日は西に、明日はまたさらに西にと遷都して、もう何回目になりますか忘れましたが、とにかく目下のところ中国の首都は、さっき申した猛印にありますのです",
"わしは地理学をよく知らんが、首都をそのようにたびたび変えることは面白くない。第一そうたびたび首都が変って朝に南京を出で、夕西にゆくでは、経費もかかってたまるまい。贅沢きわまるそして愚劣至極の政府の悪趣味といわんければならん",
"いえ贅沢とか趣味とかいう問題ではないのです"
],
[
"なんだ、なにごとか",
"電文によりますと、どうもトーキーのフィルムをそんなにじゃんじゃん消費せられては困るというのです。目下輸入が杜絶していて、あともういくらもストックがないから、フィルムを使うのをやめてくれとのことです",
"な、なんだ。フィルムを消費するのをやめろというのか。怪々奇々なる言かな。吾が輩は政府依嘱の仕事をやるについて、必要だから使っているのだ。フィルムのことは、こっちで心配すべき筋合いではない。よろしくそっちのフィルム係を督戦したまえと、すぐに電信をうってやりたまえ。じ、実に手前勝手なことをいってくる政府だ"
],
[
"楊閣下、これからすぐ、第七十七回目の練魚がやれます",
"よおし、ではそっちへゆこう"
],
[
"では、始めるぞ",
"みんないいか、用意!"
],
[
"ああ楊閣下、いやもうたいへんな発達ぶりです。今朝の診察によりますと、全体的に見まして、鮫の歯の硬さは、二倍半も強くなりました。なかには四倍五倍という恐ろしい硬度をもっているものもあります。もう実戦に使いましても大丈夫でしょう",
"うむ、そうか"
],
[
"おお黄生理学博士。どうです、このごろの虎鮫の反射度は?",
"ああ閣下、それならもう百パーセントだとお答えいたします。ガガーン、ガガーンと銅鑼を聞かせますと、彼らの恐ろしき牙は、ただちにきりきりとおっ立ち、歯齦のあたりから鋼鉄を熔かす性質のある唾液が泉のように湧いてくるのであります"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
※混在する「大師」と「大帥」は、底本通りとした。
入力:大野晋
校正:福地博文
2000年3月8日公開
2006年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000870",
"作品名": "軍用鮫",
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"ソート用読み": "くんようさめ",
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"名ローマ字": "Juza",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"鼠の顔とかけて、何と解きなはるか",
"さあ何と解きまひょう。分りまへんよってにあげまひょう",
"そんなら、それを貰いまして、臥竜梅と解きます",
"なんでやねン",
"その心は、幹(ミッキー)よりも花(鼻)が低い、とナ"
],
[
"十四子さん、貴女の福引はどんなの、ね、内緒で見せてごらんなさいよ",
"――エエわたくしのはホラ『鼠の顔』てえのよ",
"アラ『鼠の顔』ですって、アラ本当ね。まあ面白い題だわ、なにが当るんでしょうネ",
"さあ、わたくしは皆さんと違ってまだチョンガーなんだから、天帝もわたくしの日頃の罪汚れなき生活を嘉したまい、きっと素晴らしい景品を恵みたまうから、今に見ててごらんなさい",
"まあ、図々しいのネ、近頃の処女は――"
],
[
"旦那、そういわないで見ておくんなさい。儂は生れつき胡魔化すのが嫌いでネ、なるべくこうしてお手隙の午前中に伺って、品物をひとつ悠くり念入りに調べてお貰い申してえとねえ旦那、このレッドはいつもそう思っているんですぜ",
"フフン、笑わせるない。生れつき正直だなんて云う奴に本当に正直な奴が居た験しがない。ことに貴様は、ちかごろここへ現れたばっかりだが、その面構えは本国政府からチャンと注意人物報告書として本官のところへ知らせてきてあるのだ。どうだ驚いたか、胡魔化してみろ、こんどは裁判ぬきの銃殺だぞ",
"エヘヘ、御冗談を、儂はそんな注意人物なんて大した代物じゃありませんや、ただ鼠を捕えてきては、この向うのラチェットさんに買って貰ってるばかりなんで",
"うむ、ラチェットという猶太人は、鼠をそんなに買いこんで、何にしようというんだ",
"それァね旦那、これは大秘密でございますが、この鼠の肉が近頃盛んにソーセージになるらしいんですよ",
"えッ、ソーセージ?"
],
[
"いやァ旦那、そう云うけれども、鼠の肉を混ぜたソーセージと来た日にゃ、とても味がいいのですぜ。ヤポン国では、鼠のテンプラといって賞味してるそうですぜ。だから鼠の肉入りのソーセージは、なかなか値段が高いのです。ちょっとこちとらの手には届きませんや",
"手に届かんといって――一本幾何ぐらいだ。オイ正直に応えろ",
"そうですね。一本五ルーブリは取られますか"
],
[
"オイ、員数は?",
"員数は皆で二十匹です",
"二十匹だって。一イ二ウ三イ……となんだ一匹多いぞ。二十一匹居る",
"ああその一匹は員数外です。途中で死ぬと品数が揃わなくなるから、一匹加えてあるんです",
"員数外は許さん。もしも二十一匹で通すなら二十匹までは無税、第二十一匹目の一匹には一頭につき一ルーブルの関税を課する",
"こんな鼠一匹に一ルーブルの課税はひどすぎますよ。そんな大金を今ここに持ってやしません――じゃ二十一匹の中から一匹のけて、二十匹としましょう。それならようがしょう",
"うむ、二十匹以下なら無税だ",
"じゃあ、そうしまさあ、二十匹で無税で、二十一匹となると課税一ルーブルは何う考えても割に合いませんよ"
],
[
"よォし、二十匹だ。無税だァ",
"へえ、有難うござんす。それでいいんですね。じゃ通して貰いましょう"
],
[
"オイ待て。――",
"なんですか、旦那",
"貴様は、もう許しておけんぞ。この卓子の上を見ろ"
],
[
"レッド。勘弁ならぬところだが、今日のところは大目に見てやる。一体こんな金網の籠に時を嫌わず排泄するような動物を入れて持ってくるのが間違いじゃ。この次から、卓子の上に置いても汚れないような完全容器に入れて来い。さもないと、もう今度は通さんぞ",
"へえい。――"
],
[
"旦那ァ。昨日は朝っぱらから来たと叱られたので、きょうはこうして午後になってやってきましたぜ",
"うむ、レッドだな。貴様は怪しからぬ奴だ。昨日儂を胡魔化して、鼠を一匹、密輸入したな。儂は今朝になって、それに気がついた",
"エヘヘ、手前はそんな悪いことをするものですか。旦那がいけないと仰有ったので、鼠を一匹籠から出してポケットに入れました。それはちゃんと自分の家まで持ってかえって放してやりましたよ。嘘はいいませんや",
"そんな口には乗らんぞ。員数外の鼠を自分の家に放したなんて怪しいものだ",
"いえ、本当ですとも、だから今日はちゃんとこの籠の中に入れて来ました。ごらんなせえ、アレアレ、あの腹が減ったような顔つきをしているやつがそうです",
"もういい。鼠が腹が減ったらどんな顔をするか、儂にゃ見分けがつかん。――で、籠は改造して来たろうな",
"へえ、チャンと改造して来ました。籠を置いても、その下が汚れないように、これこのとおり籠の下半分を外から厚い板でもって囲んであります。これなら籠の中で鼠が腸加答児をやっても大丈夫です",
"うむ、なるほど。これなら卓子の上も汚れずに済むというものじゃ。しかし随分部の厚い板を使ったものじゃ。勿体ないじゃないか。――ところできょうの員数は?――",
"員数はやはり二十匹です。きょうは員数外なしで、正確に籠の中には二十匹居ます。どうかお検べなすって",
"うむ二十匹か。――一イ二ウ三イ……。なるほど二十匹だよし、無税だ"
],
[
"旦那、すみません。また鼠が二十匹です。どうか勘定して下さい",
"こら、レッド、貴様は怪しからん奴だ。昨夜酒場でラチェットさんに会ったら、丁度いい機会だと思って、貴様が鼠を幾匹売りつけていったかと訊ねたんだ。すると今日は二十八匹だけ買いましたといっていたぞ。すると貴様は昨日どこかに鼠を八匹隠していたということになる。本官を愚弄するにも程がある。きょうは断乎として何処から何処までも検べ上げたうえでないと通さんぞ"
],
[
"身体の方はいいとして。こんどは籠の方を調べる",
"もし旦那。もう服を着てもいいでしょうネ",
"いや、服を着ることはならん。どんなことをするか分ったものじゃないから、籠の方を調べ上げるまで、そのまま待って居れ。コラコラ、服のところからもっと離れて居れッ"
],
[
"旦那、あんな仔鼠が八匹も籠の外に入っているなんて、手前は知らなかったんですよ、本当に……。あの仔鼠はきっと税関まで来る途中に生れたものに違いありませんぜ",
"莫迦を云え、親鼠が、わざわざ栓のかってある木箱の中に仔を生むものかい"
]
] | 底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房
1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1937(昭和12)年4月
入力:tatsuki
校正:まや
2005年3月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003533",
"作品名": "軍用鼠",
"作品名読み": "ぐんようそ",
"ソート用読み": "くんようそ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1937(昭和12)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-05-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3533.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年7月15日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"きみの言うほどは駄目だったよ",
"じゃ、いくら貸したい。二百円か",
"うんにゃ、その半分。百円だあ",
"ちぇっ、百円ぽっちか、それじゃ治療代にも足りゃしない"
],
[
"どうも気の毒だがね、どうにも仕様がないよ。これがきみの細君の保険だったら、ここんとこできみは一万円の紙幣束を掴んでいるはずだった",
"そういえば、なるほど。どうしておれはこう不運なんだろう!",
"不運といえば、思い出したがね"
],
[
"これを、あとでお読みになってください!",
"⁉"
]
] | 底本:「赤外線男 他6編」春陽文庫、春陽堂書店
1996(平成8)年4月10日初版発行
入力:大野晋
校正:しず
2000年2月26日公開
2005年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000872",
"作品名": "幸運の黒子",
"作品名読み": "こううんのほくろ",
"ソート用読み": "こううんのほくろ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-02-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "赤外線男 他6編",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年4月10日",
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[
[
"だって、ちっともおもしろいことがないんだもの",
"ふん、なるほど",
"おなかはいつもすいているしね、ほしいものは店にならんでいるけれど、高くて買えやしないしね",
"ああ、そうか、そうか",
"その品物だって、とびつくほどほしいものもないし、それから大人の人は、みんな困った困ったおもしろくないおもしろくないといっているしね、ぼくは大人になるのがいやになったの",
"なかなか、いろいろ考えたもんだね。大人になるよろこびがなくなっては、もうおしまいだな。しかしだ、生きているのがいやになったなどというのは人間として卑怯だと思う。また人間というものは、もっと広い世界へ目をやり、遠い大きな仕事のことを考えなくてはならない。いや、そんなお説教をするよりも、今おじさんが三四郎君を一万年ばかり前の世界へあんないしてあげよう。そこで君は、どんな感想をもつだろうか。あとでおじさんは、君に質問するよ",
"ほんとですか。一万年も前の世界へ行くって、そんなことはできないでしょう",
"いや、それがちゃんと、できるのだ。おじさんがこしらえた器械をつかえば、そういう古い時代の有様が見えるんだ。映画のようにうつるんだ。ただ残念なことに、その時代の人々がしゃべっている声が、十分に再生できないんだ",
"じゃあ、トーキではない無声映画というのがありますね。あれみたいなものですか",
"全然無声というわけでもない。映写幕にうつる古代の人々が、ものをいうときに、口をうごかす。その口のうごかし方から、彼らがどんなことをばをしゃべっているのかを、ほんやくすることもできるのだ。しかしこのほんやくことばは、画面の上で、私たちの方へ向いていて、口をうごしかしている人にかぎるんだ。だからうしろ向きの人のいっていることばは分らない。そんなわけで、ときどき、切れ切れながら、彼のいうことばが分るんだ",
"ふしぎな器械ですね。しかしそれはおもしろいですね。しかしほんとうかしら",
"見れば、ほんとだと分るだろう",
"ああ、そうか。その器械は航時器(タイム・マシン)というあれでしょう",
"あれとは、ちがう。顕微集波器と、私は名をつけたがね。つまりこの器械は、一万年前なら一万年前の光景が、光のエネルギーとして、宇宙を遠くとんでいくのだ。そして他の星にあたると、反射してこっちへかえってくる。星はたくさんある。ちょうど一万年かかって今地球へもどってくるものもある。それをつかまえて、これから君に見せてあげよう"
],
[
"うそをいってらあ。月なら、ぼくだってわかりますよ。月が二つもあるわけがないじゃありませんか",
"ところが、それがあるんだよ。この光景にうそはない。一万年前には、地球のまわりを月が二つ、まわっていたんだね",
"ふーン。おどろいたなあ",
"二つの月のうち、その一つは、なくなった。見ていたまえ、やがてそれが見えるはずだ、一方の月がこわれて見えなくなるところがねえ",
"そんな光景が見えるんですか。ぼく、背中がぞくぞく寒くなった",
"それはそうだろう。月がなくなるなんて、たいへんな事件だ。それがために、当時地球に住んでいた人類は、どんな目にあったか。どんな苦しみにあったか。見ていたまえ、今にそれが見えるから……",
"お月様は今すぐこわれるんですか",
"まだ、ちょっと間がある。――この器械は途中をどんどんとばして行くが、今うつっているときからかぞえて、約百年のうちに、月の一つがこわれる",
"百年間も、この器械の前に待っているのですか",
"いや、この器械では、あと十五分ぐらいで百年後の光景がうつり出すことになっている。今おじさんは、地表の光景をもっとはっきり出そうとして一生けんめいやっているのだよ。ほらほら大陸の海岸線ははっきりしてきたろう。白く光っているのが海、くらいのが陸地だ。このへんは、地球上のどこだか分るだろう"
],
[
"ああ、分りました。ヨーロッパですね。このへんがスペインにポルトガル。おやおや、ヨーロッパ大陸と南のアフリカ大陸とがつながっていますね",
"まあ、そうだ。さあ、これから画面の方を移動して行くよ。何が見えるか。",
"大西洋だ",
"そうだ、大西洋だ。だが、これからよく気をつけて見ていたまえ",
"おやおや、へんだぞ。大西洋の中に大陸がある。これは一体どうしたんでしょう"
],
[
"あれはアトランチス大陸だ。当時、世界の文化はアトランチス大陸に集っていたのだ。世界の中心だったんだ。エジプトの文化も、ユーラシア大陸の文化も、まだ誕生前だったんだ",
"でも、今大西洋には、そんな大陸はないじゃありませんか。どうしたんですか",
"さあ、それが大事件なんだ。まあ、しばらく見ていたまえ。器械を調整して、アトランチス大陸の地上へ焦点をあわせてみよう"
],
[
"これが弟月ですか。大きいですね。なぜこんなに大きくなったんです",
"弟月はだんだん下ってきたのだ。地球の引力によってひきよせられたんだ。見ていてごらん。今に弟月は地球にぶつかるから……",
"おじさん。月が地球にぶつかったら、どんなことがおこるんですか",
"見ていたまえ。もうすぐだ"
],
[
"月の一つがなくなったら、地球の上の潮のみちひきが急にかわったのだ。月の海水に働く引力によって、潮のみちひきが起り、また海の水の高さがきまるのだ。月が一つなくなったために、アトランチス大陸のところでは海の水位があがって、大陸をのんでしまったのだ。自然の力は、大きいもんだね",
"人間の力なんて小さいですね",
"そうもいえまい。だってアトランチス大陸は亡んだが、それから一万年以上たって今はどうであろう。このとおり人間はいたるところにふえ、世界は栄えているのだ",
"そうだ。いつの間にか人間がふえた",
"文化も進んだ。アトランチス時代には、思いもつかなかったことだが、今は人類は空をとぶことも出来る。また原子力を使って、大きな土木仕事をおこしたり、宇宙旅行をすることも、やがて出来るのだろう。もしアトランチス時代に飛行機があり、原子力を使うことを知っていたら、多数の人が、他の大陸へ渡って生き残ったかもしれない。――自然の力も大きいけれど、たゆまず努力していく人間の力もまた、ばかにならないものだ",
"敗戦日本には今一台の飛行機もないけれど、わたしたちと同じ同胞であるアメリカ人やイギリス人やソ連人などは、たくさんの飛行機を持っている。だから人類全体として考えると、わたしたちはやっぱり飛行機をうんと持っていることになるんだ。そうですね、おじさん",
"そういう考え方をしてもいいね。日本人がもっともっとりっぱな行いをするようになって、世界の人々から信用されるようになったら、そのときには日本人にも飛行機をのりまわすことが許されるだろう。悲観することはない",
"じゃあ、原子力を使って、宇宙旅行をする日もやがて来ますか",
"日本人に対する信用が回復すれば、そういう日も来るにきまっている",
"うん。そんなら、いいなあ。じゃあ、ぼくたちは今からうんと勉強をしておかなくてはね。さあたいへんだ。急に仕事がふえたぞ。ぐずぐずしていられないや",
"三四郎君。君は今日うちへ来たとき、生きているのがいやになったといってたが、今はどうだね",
"おじさん。あんなことは、もう思っていませんよ。それよりも、ぼくはうんと長生きをしたいと思うようになりました。うんと長生きをして、われらの世界同胞のために、すばらしい発明をしたり、住みよい世界をつくったり、そのほかすることがうんとふえましたよ",
"それはよかった。きみの考えがかわって……",
"今ぼくらは苦しいのだの、つまらないのだの思っているけれど、アトランチス人の最後のことを思うと、ぼくらは元気を出さなくてはならないと思いました",
"それを聞いたら、あの人たちも浮かばれることだろう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「まひる」
1947(昭和22)~1948(昭和23)年頃(掲載年月日不詳)
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003050",
"作品名": "洪水大陸を呑む",
"作品名読み": "こうずいたいりくをのむ",
"ソート用読み": "こうすいたいりくをのむ",
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"副題読み": "",
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"初出": "「まひる」1947(昭和22)~1948(昭和23)年頃(掲載年月日不詳)",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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[
[
"そうでも無いさ。大いに面白かった",
"それにもう一人、君に是非紹介したいと思っていた女も休んでいやがってネ",
"うん、うん、君江――という女だネ",
"そうだ、君江だ。こいつと来たら、およそチェリーとは逆数的人物でネ",
"チェリーというのかい、あのミツ豆みたいな子は……"
],
[
"え?",
"イヤ其の君江というのくらい、性能優れた女性はいないよ。その熱情といい、その魅力といい、更にその能力に於ては、世界一かも知れんぞ。生きているモナリザというのは、正にあの君江のことだ"
],
[
"裏口へ廻って呉れッ。明いてたら、しっかりせにゃ駄目だぞ",
"君は?",
"表から飛びこむッ。急いで――"
],
[
"事件というと、――事件はどの部屋です",
"あすこですよ。ホラ扉の開けっぱなしになっている……",
"犯人は此奴ですか",
"さア、まだ何とも云えないが、あの部屋から飛び出してきて、いきなり私に切ってかかったのでネ"
],
[
"医者はあります。ここを向うへ三町ほど行ったところに丘田さんというのがある",
"じゃ爺さん、ちょっと一走り頼む",
"わしは、どうも……"
],
[
"先生は?",
"イヤ、僕ですよ",
"あ、そうですか、実は……"
],
[
"イヤ、誰方か患者さんがおありじゃないですか",
"有りませんよ。お手伝いが歯を痛がっているのです"
],
[
"そうらしいですネ。ときに丘田さん。この死者の致命傷は、やはりこの外傷によるものでしょうか",
"無論それに違いがありませんが、何か御意見でも……",
"意見というほどのものではありませんが、この死者の身体を見ますと、普通の人には見られない特異性があるように思うんです。例えば、中毒症といったようなものがです"
],
[
"そう仰有れば申上げてしまいますが、実はこの金さんはモルヒネ剤の中毒患者ですよ",
"ほほう、貴方のところへ、治療を求めに参りましたか",
"そうなんです。実はこの四五日この方ですがネ",
"今日も御覧になりましたか",
"今朝診ましたよ。大分ひどいのです。普通人の極量の四倍ぐらいやらないと利かないのですからネ",
"四倍ですか、成程。――"
],
[
"やあー",
"やあ、先程はお報せを……"
],
[
"ときにどうです、被害者の容態は",
"間もなく絶命しましたよ。とうとう一言も口を利きませんでした。……午前零時三十五分でしたがネ",
"ほほう、そうですか。これが金という男ですか。やあ、これはひどい",
"現場はすべて事件直後のとおりにしてありますから",
"いや有難う"
],
[
"いや君、あの男はまだ犯人とは決っていないよ",
"だってあの男は、事件の室から出て来たのだろう。そして薄刃の短刀をもって君に切り懸ったのじゃないか",
"うん、だがあの短刀にはまだ一滴の血もついていないのだ",
"すると、あの袋入の砲丸でやっつけたのだろう。あの大きな男にはやれそうな手段じゃないか",
"それもまだ解らない",
"君はあの男に、まだそれを訊いてみないのかい",
"うん、あの男とは其の後一と言も口を利いていないんだ"
],
[
"じゃ今まで君は、一体何をしていたのかネ",
"金の部屋について調べていたのだ",
"そして何を掴んだのかい",
"いろいろと面白いものを掴んだ。しかし短刀をもった男を犯人と決めるに十分な証拠はまだ集まらない",
"というと、どんなものを"
],
[
"そういえば、五六本、転がっているようだネ",
"五六本じゃないよ。本当は皆で三十二本もあるんだ。といってこれが、五十本も入るシガレット・ケースから転げ出したのじゃないのだよ。そんなケースなんて一つもあの部屋には無いのだ。あるのはバットの、あのお馴染の空箱だけだった。空箱の数はみんなで四個あったがネ",
"ほほう",
"それからもっと面白いことがある。あの部屋には灰皿が三つもあるんだが、さて其の灰皿の中に大変な特徴がある",
"というと……"
],
[
"煙草について、まだ発見したことがある。それは床の上に転がっている三十二本のうち、汚れないのが二十五本で、残りの七本は踏みつけられたものと見え、ペチャンコになっていた。それを調べてみると、ハッキリ靴の裏型がついているから、これは靴で踏みつけられたものと見てよい。しかし靴は、普通ならばあの部屋の入口で脱いで上るようになっている。しかるにこの踏みつけられた七本のバットから考えると、誰か靴を入口で脱がないで、その儘、上へ上った者がいたという説明になるわけだ",
"それが例の短刀をもった男じゃないのかネ",
"そうかも知れない。そうかも知れないが、何しろバットの上につけられた靴の跡のことだ。小さい面積のことだから、ハッキリどんな形の、どんな寸法の靴だとまでは云えないのだ",
"なるほど"
],
[
"さあ、どっちとも解らないネ",
"解らない。解らなければ、それでもいいとして、僕はあの部屋に事件の前後に居たものと思われるもう一人の人物を知っているのだ",
"それは誰のことだい"
],
[
"どうしてそれが判ったのかい",
"それはベッドの上に枕があったが、探してみるとベッドの下にもう一つの枕が転げていて、これには婦人の毛髪がついていた。それだけではない。卓子の上に半開きになったコンパクトが発見された。白い粉がその卓子の上に滾れていた。粉の形と、コンパクトをどけてみた跡の形とから、コンパクトの主があれを卓子の上に置いたのは、相当生々しい時間の出来ごとだと推定される。――それでさっき僕のした質問の目的が解ったことだろうと思うが、或いは君が、その若い女を見かけやしなかったのかと考えたのだ",
"待ってくれ、そう云えば……"
],
[
"もしや金の部屋に寝ていたらしい若い女というのは、丘田氏のところにあった靴跡の女ではないのかネ",
"それは独断すぎると思うネ。しかし丘田氏のところにいた女が、洋装をしていることが判ったのはいいことだ",
"しかし君の云う隣りの室に寝ていた若い女は、直接犯行に関係があるのかい"
],
[
"しかしそれは、あの短刀の男が、箱から出したとしても理屈がつくじゃないか",
"それは別に構わない。あの男は元々怪しい節があるのだから、煙草の上の嫌疑が加わっても捜索には大して困らないのだ。なぜかといえば、あの砲丸を金の肩に投げつけるだけの力は、あの男には十分にあると認められるし、それからまた現にあの部屋から出てきたのを見られている。しかし犯人が若い女の方だとすると、煙草は可也重要な証拠になると思う。金が目醒めている間には、あんなに煙草を撒き散すことは出来ない。男は相当抵抗の末重傷を加えられたと認められるから、そうなるとバットが踏みつけられることなしに満足に転がっている筈がない。そうかと云って男がベッドに睡っている間にあの煙草を撒いたのでもない。其は男がベッドから遠く離れたところで重傷しているので解る。ベッド以外に男が睡っていられるところなんてあるものじゃない。どうしてもあの煙草は、男に兇行を加えた上で撒いたものに違いないとなるじゃないか。もう一つ砲丸を擲げることは、どの若い女にも出来るという絶対の芸当ではないのだ。それとも君は、脆弱い女性にあの砲丸を相手の肩へ投げつけることが出来る場合を想像できるかネ",
"さあそれは、まず出来ないと思うネ。その女が気が変にでもなって、馬鹿力というのを出すのでも無ければネ",
"気が変に? 気が変だとすれば、あの場をあんなに巧みに逃げられるだろうか"
],
[
"うん、東京にいるのが嫌になって、旅に出ていた。実は神戸の辺をブラブラしていたというわけさ。あっちの方は六甲といい、有馬といい、舞子明石といい、全くいいところだネ",
"ほう、そうか。じゃ誘ってくれりゃいいものをサ",
"ところがブラブラしていたとはいいながら、波止場仲仕をやっていたんだぜ",
"波止場仲仕を、か?"
],
[
"ときに君は、近頃ゴールデン・バットへ行っているかい",
"行ってはいるがネ",
"行ってはいるがネというところでは、あまり成功していないようだネ。あすこも金だの海原氏が一時に行かなくなって、寂しくなったことだろう",
"その代り大した後任者が詰めかけているよ",
"そりゃ誰のことだい",
"君には解っているのだろう。あの丘田医師のことさ",
"そうか。丘田氏が行っているか。相手はどの女だい",
"それが例のチェリーなんだ。チェリーはこの頃、断然ナンバー・ワンだよ。君江も居るには居るが昔日の俤無しさ。しかし温和しくなった。温和しいといえば、あの事件からこっち、不思議に誰も彼もが温和しくなったぞ。あれから思うと金という男は、悪魔のようなところのある素晴らしい天才だったんだナ",
"煙草の方は相変らず皆でやっているかい"
],
[
"そんなことは無いでしょう。よく調べて下さい",
"いや確かに合いませんよ。警察の方に報告されている野間薬局売りの数量と合わんですよ"
],
[
"そうです。少くはないのです。少いのはまだ始末がいいと思うんですが、現在高が非常に多すぎる……",
"多すぎるのは、いいじゃないですか"
],
[
"ヘロインですって、ヘロインみたいな粗悪なやつは私のところでは使っていませんよ",
"ではこの儘にして置きましょう。もう外に無いでしょうネ"
],
[
"では一つ、投薬簿の方を見せて下さいませんか",
"投薬簿ですか。そうです、あれは向うの室にあるから取ってきましょう"
],
[
"どうも有難うございました",
"もういいのですか",
"ええ、もう用は済みました。この位で引揚げさしていただきましょう"
],
[
"ありゃチェリーさんだネ",
"うん",
"暫く見ない間に、大変肉づきが発達したじゃないか。まるで別人のようだ"
],
[
"ひどいモルヒネ中毒だというんだろう",
"そうだ。屍体解剖の結果、それは十分に証明されたが、しかしあのモルヒネ中毒は彼の直接死因でないことが証明された"
],
[
"ところが、あの金が如何なる手段でモヒを用いていたか、それについては一向解らなかったのだ。僕はそれを解くのに大分苦心をして、とうとう神戸へ出掛けるようなことになったのだ。しかし僕は遂にその手段を見つけることが出来た。発見のヒントは、金の部屋を探したときに掴んだものだった。それは灰皿の内容物からだった",
"うむ",
"あのとき、君も知っているだろうが、灰皿の中には、燐寸の燃え屑と、煙草の灰ばかりがあって、煙草の吸殻が一つも見当らなかったことを。あれが最初のヒントなのだ。およそ吸殻のない吸い方をするということは、普通の吸い方ではない。それは愛煙家のうちでも、最も特異な吸い方なのだ。火のついた巻煙草がだんだんと短くなってお仕舞いになると脂くさくなる。これは決して美味いところではない。それを大事に最後まで吸いつくすところに、僕は疑問を挟んだのだ。――そこで僕は、或る一つの仮定を置いた。仮定を置いただけでは十分ではない。僕はその仮定を確めるために、神戸の波止場で仲仕を働きながら、不思議な秘密の楽しみをもっている人達の中を探しまわったのだ。そして遂に私の仮定が、或る程度まで正鵠を射ていることを確めた。しかしその上で、尚実際的証人を得る必要があったのだ。それで僕は急遽東京へ引返した。そして第一番に逢って話をしたのがあの君江なのだ"
],
[
"君江というと、彼女は金の情婦として有名だった時代がある。私は一本釘をさして置いた上で尋ねてみた。『君はあのうまい煙草の作り方を、死んだ金から教わったのだろう』と",
"なに、うまい煙草というと?",
"そうなのだ。甘い煙草のことを訊かれて彼女はハッと顔色をかえたが、もう仕方がないのだ。先にさして置いた私の釘は、どうしても彼女の告白を期待していいことになっていたのだ。『ええ、そうですわ』と遂に君江は答えた。そこで私は云った。『煙草にあの白い粉薬を載せて火を点ける。それでいいのだろう』君江は黙って肯いた",
"そりゃ、どういうわけだい",
"なーに、これはあの劇薬を煙草に浸ませて喫う方法なのだよ。鴉片中毒者はモヒ剤だけを吸うが、われわれの場合は、ほんの僅かのモヒ剤を煙草に交ぜて吸うのだよ",
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"それは詳しく云うことを憚るがネ、とにかくその薬の入った巻煙草――あの場合ではゴールデン・バットだが、そのバットの切口のところは、一度火を点けて直ぐ消したようになっているのだ。金のやつは、こうした仕掛けのある煙草を吸っていた",
"そりゃ、うまいのだろうか",
"モルヒネ剤特有の蠱惑にみちた快味があるというわけさ。ところが金という男は頭がよかったと見えて、それを自分だけに止めず、ゴールデン・バットの女たちに秘かに喫わせたのだ。女たちは、真逆そんな仕掛けのある煙草とは知らず、つい喫ってしまったが、大変いい気持になれた。それでうかうか何本も貰って喫っているうちに、とうとうモヒ中毒に懸ってしまった。さアそうなると、今度はどうしても喫まなければ苦しくてならない。仕舞いには、あの仕掛けのある煙草のことを感づいたのだろうが、そのときはどうにもならないところへ達していた。女たちは金に殺到して、そのゴールデン・バットを強要した。金としては思う壺だったろう。バット一本の懸け引きで、気に入った女たちを自由に奔弄していったのだ"
],
[
"それが問題だったが、これも神戸で調べあげた。あれは某方面から密輸入をしたヘロインだったんだ。金はそれを手に入れたときに、あの用い方も一緒に教わったものらしい",
"では、相当貯蔵していたんだネ。でも金の部屋から、そんなものが出て来た話を聞かなかったじゃないか"
],
[
"なるほど。それでどうだというのだ",
"どうだといって、彼女たちは金からモルヒネ剤の供給を断たれたわけだから、大なり小なり、中毒症状をあらわして狂暴になったり、痙攣が起ったりする筈だと思うんだ。ところが案外みんな平気なのはどういうわけだろうか"
],
[
"えッ",
"ちょっと話があるのよオ"
],
[
"早く返せ。な、なにをだい?",
"白っぱくれるなんて、男らしくないわよ",
"なッなんだって?",
"こうなりゃハッキリ云ったげるわよ。――あんた先に丘田さんのところで、盗んでいったものがあるでしょう"
],
[
"よし、考えとくよ",
"考えとくじゃないわよ。早くしないと困るのよ",
"まアいいよ。すこし考えさせろよ",
"あんたお金のことを云っているのネ。すこし位のお金なら、あたしからあげてもいいわ",
"莫迦なことを……"
],
[
"薬を盗んだというが、それなら君に云いそうなものじゃないか",
"うん。そりゃ君のことさ。だから僕があのとき袖を引いて注意をしてやったじゃないか"
],
[
"というと……",
"あの丘田医師の大変な力のことを云っているのだ。気が変になったればこそ、あのような力が出る",
"すると金青年に重い砲丸を擲げつけて重傷を負わせたのは、丘田医師だったのかい",
"もうすこしすれば、誰が犯人か、自然に解る筈だよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1933(昭和8)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001247",
"作品名": "ゴールデン・バット事件",
"作品名読み": "ゴールデン・バットじけん",
"ソート用読み": "こおるてんはつとしけん",
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"初出": "「新青年」1933(昭和8)年10月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-07-10T00:00:00",
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"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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[
[
"何か異ったことでもありましたかい?",
"昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁息をひきとったそうです"
],
[
"偶然の出来ごとでは無いというのかね",
"確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません",
"全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は"
],
[
"君は、犯人の心当りでもあるのかね",
"無いわけでもありませんが、申しあげません",
"僕には言えないというのかね",
"言うのを控えた方がよいでしょう。それにまだ明瞭な証拠を握ったわけでもありませんから……"
],
[
"そういうことを今あなたと議論しようとは思いません。それは、わが陸軍の探知し得た信用の出来る情報です。だが、考えても御覧なさい。×国は三十年も前から仮想敵国として我国を睨んでいるのです。あらゆる術策が我国に施されてある中に、最も陰険きわまるのはこの国際殺人団の本体であるところのJPC秘密結社です。×国は三十年前から各方面に亘って有望なる学才を有し、しかも貧乏だとか、孤児だとか云う恵まれていない人物を探し出して、これに莫大な資金を送り、その人物が立身出世をするように極力宣伝し、遂に今日我国の要路要路の実権を彼等の手に握るようにまで後援したのです。×国の参謀本部の命令一下、彼等×探は、いやが応でもその命令を決行しなければならないのです。若しそれに肯んじなかったら、その男を国事犯で絞首台に送りでも、又、殺人隊をやって絶対秘密裡に暗殺してしまいでも、どうでも自由になるのです。彼等が始めて苦しいジレンマを意識したときには、その行く道は自殺があるばかりです。某博士の自殺、某公使の自殺、某中佐の自殺、それ等、原因のはっきりしない自殺は、皆ここに源があるのです。これだけ申せば、国際殺人団の活躍が如何に必然的なものであり、決死的なものであるか御判りになったでしょう",
"いや、よく判りました。それ以上は、おたずねいたしますまい。またこの御依頼にNOと答えたくても、即座に私の命のなくなることを思えば、YESと申して置くのがなによりであることも判っています。だが、私に大役をお委せになっても、若し私自身が、その結社の一員だったら、閣下は一体どうなさる御考えですか",
"どうも貴方は中々いたいところを御つきになりますね。しかし御安心下さい。その御念には及びません。いくらでも善処すべきみちが作ってありますから"
],
[
"まア、仮装舞踊会へでもいらっしゃるの",
"ムーさん、勇敢な恰好ねえ"
],
[
"だが、今日の問題は、国家の興廃に関する重大事項じゃありませんか",
"それに違いありませんが、この道ばかりは何とやら云いますからね"
],
[
"じゃ、今送ります。時間がよろしいようですから。――弁をみんな開いて七百八十五ミリになりました",
"オウ・ケー"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年5月号
※表題は底本では、「国際殺人団の崩壊《ほうかい》」となっています。
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
2001年12月3日公開
2011年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001225",
"作品名": "国際殺人団の崩壊",
"作品名読み": "こくさいさつじんだんのほうかい",
"ソート用読み": "こくさいさつしんたんのほうかい",
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[
[
"はてさて困った男だ。まるで蒋介石みたいに攻勢的同情を求めるわい。しかしいつまでもわしの部屋に頑張られても困るが、一体貴公の教わりたいという事項は、何じゃったね",
"あれぇ、金博士はもうそれをお忘れになったんですか。そんなことじゃ困りますね"
],
[
"ああそれは済まんじゃった。はてそれは何のことだったか、ああそうか、殺人光線のエネルギー半減距離のことだったかね",
"いえ違いますよ。博士、私が教えてくださいといったのは、そんなむつかしい数学のことではありません。つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるであろうか? その答を伺いたいと申したのです",
"なんじゃ、もう一度いってくれ。何の呪文だか、さっぱりわしには通じない",
"何度でも申しますが、つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるものであろうか? どうです。今度は分りましたろう",
"何遍聞いても、分りそうもないわい。結着のところ、やがて人類はどんな風な暮し方をするかということなのじゃろう",
"そうですなあ。まず簡単粗雑にいうと、そういうところですねえ",
"そうか、そんな質問なら、答はわけのないことじゃ。ピポスコラ族と全く同じようになる。そして一万年か二万年たてば、われわれ人類にはネオピポスコラ族という名前がつくだろうな",
"ははあ。そのピポスコラ族というのは、何ですか。どこにいる民族ですか",
"それは、今わしがいっても、お前はとても信じないと思うから、いうのはよそう",
"博士、それは卑怯というものです。今までに民族学や人類学はずいぶん勉強しましたが、ピポスコラ族なんてものは聞いたことがありません。博士は出鱈目をいっていられるのでしょう",
"莫迦なことをいっちゃいかん。尤も、パルプで慥えたあのやすい本なんかには出とりゃせんだろうが、わしは嘘をいっているのではない",
"じゃ説明してください。或いは、私をそのピポスコラ族の前へ連れていってくだすってもかまいません",
"あはははは。うわはははは"
],
[
"では、こうしよう。来る八月八日を第一回目として、それから十年毎の八月八日に、お前はその日の日記を認めて、わしのところへ送ってきなさい",
"十年毎の間隔は、ちと永いですね",
"そうでもないよ。そうしてお前が、第八回目の手紙を書くようになったときには、お前は否応なしに、ピポスコラ族に出会った話を書かなければならないだろう。それまでわしは、ピポスコラ族のことも、又それと同じ生活様態になるわれわれ人類のことについても、喋らないことにする",
"まるでお伽噺に出てくる人間の姿をした神様の台辞みたいですね。そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……",
"云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ",
"いや、それはお許しねがいたい"
],
[
"入れてくださいよ。入壕証は、その辺で落として来たんですよ",
"その辺で落として来たんなら、これからいって拾ってくるがいいじゃないか",
"それが……"
],
[
"今日だけ、一つ頼みます",
"ううん。たった、これだけか。これだけでは……",
"ああ出します。もうこれで身代限りなんです"
],
[
"よろしい。今度だけ大目に見る。この次は二万元以下じゃ、見のがされんぞ",
"へい"
],
[
"あの、どどーんという爆裂音と、あのずしんずしんという地響と、この二つを無くすることが出来ないものかな。あれを聞くと、生命が縮まる",
"それは無理だと思うね。この重慶にいる限り、どうも仕様がないよ"
],
[
"え、どうして?",
"え、だってそうだろうが。世界中で、われわれほど毎日のように猛爆をうけている市民はいない。従って、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、且つ防空精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。そうでしょうが",
"あ、なるほど、なるほど。しかし、ずいぶん長期戦が続くものですなあ。もういい加減、日本空軍が鉄に困って木製や泥製の爆弾を落としてもいい頃だと思うんだが、相変らず鉄の爆弾を落としとるですが、敵もさるものですなあ",
"いや。もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ",
"でも、木製爆弾なら、あんな逞しい音はしないでしょう",
"そうだね。今日の爆弾は音が、悪い……"
],
[
"それは、いつもと違っている筈だ。今日アメリカ軍が使っている爆弾は液体爆弾なんだ",
"液体爆弾? そんなものは初めて聞いたが、それは一体どんなものかね",
"つまり、アメリカが深い地下街爆撃用にと新たに作った爆弾で、A種弾とB種弾と二つに分れているんだ。まず初めにA種弾をどんどん墜とすのさ。すると爆弾は土中で爆発すると、中からA液が出て来て、それが地隙や土壌の隙間や通路などを通って、どんどん地中深く浸透してくるのさ。ちょうど砂地に大雨が降ると、たちまち水が地中深く滲みこんでいくようなものさ",
"なるほど。そして、そのA液は滲み込むと、爆発するのかね",
"いいや、A液だけでは、爆発はしないのだ。暫く時間を置いて、丁度A液がうまく浸みこんだ頃合を見はからって、こんどはB液の入ったB種弾が投下されるのだ。このB液も、さっきのA液と同様に、地下深く浸みこんでいくが、どこかで先に滲みこんでいるA液と出会うと、そこでたちまち、猛烈な化学反応が起って大爆裂をするというわけだ。おそろしい発明だよ、液体爆弾というやつは",
"ふーん、考えたもんだね。すると、われわれも今までのように、地下百メートルのところにあるからといって安心していられないわけだな",
"そうだよ。おお、君の今いる地区へも、既にA液弾が落ちて、今ずんずん地底へ向けて滲みこんでいるという報告が来ている。この上、B液弾が落ちれば、たいへんなことになるよ。大いに注意しなければいけない",
"大いに注意しろといって、どうするのかね",
"それはね、水はけ――ではない液はけをよくすることだ。上から滲みこんで来た液は、樋とか下水管のようなものに受けて、どんどん流してしまうことだ。しかしA液とB液とを一緒に流しては、さっき云ったとおりに爆発が起るから、その前に、濾過器を据えつけて、A液とB液とを濾し分け、別々の排流管に流しこまなければいけない",
"それはずいぶん面倒なことだね。急場の間に合わないや",
"でも、それをやって置かないと、君たちの生命に係る",
"生命に係るのは分っているが、もうA液は天井のあたりまで滲みこんでいるのに、樋工事を始めたり、濾過器を取寄せたりするわけにいかんじゃないか",
"それもそうだな。じゃあ、仕方がない。ここから君たちの冥福を祈っているよ。南無阿弥陀仏!",
"おい、そんな薄情なことをいうな。おーい、何とか助けてくれ。あ、電話を切っちゃいかん。……"
],
[
"おお、君は洪君",
"そうです、洪です。先生、ぐずぐずしていられませんぞ。私と一緒に逃げてください",
"君の親切は感謝するが、もう迚も駄目だよ。上へ出ても下へ降りても殺されるものなら、ここでしずかにわが生涯を閉じたいのだよ。わしをかまわんで呉れ",
"先生、そんな気の弱いことでは、駄目じゃありませんか。敵の手に至らず、まだ逃げていくところが残っていますぞ",
"へえ、本当かね。それはどこだね",
"それはつまり、深く地底にも降りず、そうかといって地上にもとびださず、丁度その中間のところ、つまりサンドウィッチでいえば、パンのところではなく、パンに挟まれたハムのところを狙って、どこまでも横に逃げていくのです。横へ逃げれば、まだ今のうちなら、無限にちかいほど、逃げていく場所があります。そのうち、どこかで落ちついて、穴居生活を始めるんですよ",
"しかしなあ洪君、横に逃げるといって、穴を掘っていかなければならんじゃないか",
"そうです。穴掘り機械が入用です。ここに私が持っているのが、人工ラジウム応用の長距離鑿岩車です。さあ、安心して、この上におのりなさい",
"そうかね。それは実に大したもんだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年8月
※底本は表題に、「こんじゃくばなしサンドイッチへいだん」と読みを付しています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003345",
"作品名": "今昔ばなし抱合兵団",
"作品名読み": "こんじゃくばなしサンドイッチへいだん",
"ソート用読み": "こんしやくはなしさんといつちへいたん",
"副題": "――金博士シリーズ・4――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・よん――",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1941(昭和16)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊",
"底本出版社名1": "三一書房",
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"私は女房を殺す気はなかったのです",
"女房を殺す気はなかったのに、とうとう殺してしまった"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「読書趣味」
1933(昭和8)年10月創刊号
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001239",
"作品名": "殺人の涯",
"作品名読み": "さつじんのはて",
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"初出": "「読書趣味」1933(昭和8)年10月創刊号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"生年月日": "1897-12-26",
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[
[
"海野さん。さあ、支度をなさい",
"僕は、今日は、乗りませんよ",
"そんなことはない。あんたが乗らないということはない。そんなことをいうと、皆、乗らないといい出すよ。さあ、支度を",
"僕は、からだが悪いので……",
"どこが、どうわるい",
"心臓やその他……機上で人事不省になるなんて、醜態ですからねえ",
"なあに、心臓なんか、大丈夫だ。こんな機会は二度とないから、乗りなさい"
]
] | 底本:「海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション」三一書房
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「航空朝日」朝日新聞東京本社
1940(昭和15)年4月号
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年6月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043838",
"作品名": "三重宙返りの記",
"作品名読み": "さんじゅうちゅうがえりのき",
"ソート用読み": "さんしゆうちゆうかえりのき",
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"初出": "「航空朝日」1941(昭和16)年4月号",
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"公開日": "2005-07-23T00:00:00",
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"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年10月15日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年10月15日第1版第1刷",
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} |
[
[
"こんなところに流れがあったかね",
"いや、知らないね。地図でみると、どうしてもここはうばガ谷のはずなんだが?",
"でも、へんよ。地図からはかって、ここはどうしてもうばガ谷よ。この地図をごらんなさい。ほら、この岩",
"なるほどなあ、あれはたしかに三角岩だ。これはおどろいた。おい君、有名な万年雪が今年はすっかりとけてしまったんだぜ"
],
[
"なるほど。見えるよ。大きな球だ。ぴかぴか光っているね。金属球だ",
"ふしぎだ。とにかくそばへ行ってみよう",
"おいおい、待ちたまえ。あれは危険なものじゃないか",
"そういえば、昔の写真に出ている機雷みたいな形をしていますわね",
"ふん、機雷に似たところもあるけれど、機雷は海の中にあるもので、こんな山の中にあるはずがない"
],
[
"とにかくこの球は、万年雪がとけて、その下から出て来たものだよ。もっと上にあったのが、ころがりだして、ここまで来て停ったんだと思う",
"火星からなげてよこしたものじゃないか。開けると、中から火星人の手紙かなんか入っているんじゃない?",
"火星からじゃないよ。だってこのとおり×取扱注意、扉Aを開け×と、日本文字で書いてあるんだから、これは日本でこしらえたものにちがいない",
"早く、その扉Aというのをあけてみた方がよかないでしょうか",
"そうだ。それがいい。そうしよう"
],
[
"ああ、お話中しつれいですが、じつは二十年じゃなく、あなたが冷凍されてから三十年たっているのですよ。ことしは昭和五十二年なんですからね",
"おやおや、三十年もぼくは睡っていたのですか"
],
[
"ここは見なれないところですが、銀座の近くでしょうか",
"さよう。銀座までは三キロばかりはなれています。しかしすぐですよ、動く道路にのっていけば……",
"なんですって。何にのるのですか",
"動く道路です。そうそう、あなたの住んでいた三十年前には、動く道路はなかったんでしょうね。そのころは電車や自動車ばかりだったんでしょう。今はそんなものは、ほとんどなくなりました。その代りは動く道路がしています。道が動くのです。五本の動く道路が並んでいるのです。昔あったでしょう。ベルトというものがね。あれみたいに動くのです。歩道に平行に五本並んでいて、歩道に一番近いのが時速十キロで動いているもの。次が二十キロ、それから三十キロ、四十キロ、五十キロという風にだんだん早くなります。そしてその動く道路は、どこへ行くか、方向がかいてあるのです。……ほらごらんなさい。これが銀座行きの動く道路ですから"
],
[
"ここはどこですか。みたことがない野原ですね",
"ここが銀座です。あなたの立っているところが、昔の銀座四丁目の辻のあったところです",
"うそでしょう。……おやおや、妙な塔がある。それから土まんじゅうみたいなものが、あちこちにありますね。あれは何ですか"
],
[
"やあ、そのことですがね、まず戦争はもうしないことにきめたようです",
"戦争をするもしないも日本は戦争放棄をしているんだから、日本から戦争をしかけるはずはないんでしょう。もっともこれは今から三十何年もむかしの話でしたがね"
],
[
"正吉君のいうことはただしいです。しかしですね。その後また大きな戦争がおこりかけましてね――もちろん日本は関係がないのですがね――そのために、おびただしい原子爆弾が用意されました。そのとき世界の学者が集って組織している連合科学協会というのがあって、そこから大警告を出したのです。それは二つの重大なことがらでした",
"どういうんですか、その重大警告というのは……",
"その一つはですね、いま戦争をはじめようとする両国が用意したおびただしい原子爆弾が、もしほんとうに使用されたときには、その破壊力はとてもすごいものであって、そのためにわれらの住んでいる地球にひびが入って、やがていくつかに割れてしまうであろう。そんなことがあっては、われわれ人間はもちろん地球上の生物はまもなく死に絶えるだろう。だから、そういう危険な戦争は中止すべきである――というのです"
],
[
"で、戦争は起ったのですか、それとも……",
"もう一つ重大なことがらは"
],
[
"連合科学協会員は最近天空においておどろくべき観測をした。それはどういうことであるかというと、わが地球をねらってこちらへ進んでくるふしぎな星があるということだ。それは彗星ではない。その星の動きぐあいから考えると、その星は自由航路をとっている。つまり、その星は、飛行機やロケットなどと同じように、大宇宙を計画的に航空しているのだ",
"へえーッ。するとその星には、やっぱり人間が住んでいて、その人間が星を運転しているんですね",
"ま、そうでしょうね――だからわれわれは、一刻もゆだんがならないというのです。その星はわが太陽系のものではなく、あきらかにもっと遠いところからこっちへ侵入して来たものだ。そしてその星に住んでいるいきものは、わが地球人類よりもずっとかしこいと思われる。さあ、そういう星に来られては、われわれはちえも力もよわくて、その星人に降参しなければならないかもしれない。そのような強敵を前にひかえて、同じ地球に住んでいる人間同士が戦いをおこすなどということは、ばかな話ではないか。そのために、われわれ地球人類の力は弱くなり、いざ星人がやって来たときには防衛力が弱くて、かんたんに彼らの前に手をつき、頭をさげなければならないだろう。――それをおもえば、今われわれ人類の国と国とが戦争するのはよくないことである。つまり、『今おこりかかっている戦争はおよしなさい』と警告したのです",
"ああ、なるほど、なるほど、そのとおりですね",
"それが両国にもよく分ったと見えましてね、爆発寸前というところで戦争のおこるのはくいとめられたんです。お分りですかな",
"それはよかったですね。しかし、そんならなぜ、あのようにたくさんの原子弾の警戒塔や警報所や待避壕なんかが、今もならんでいるのですか"
],
[
"いやあれは、あたらしく襲来するかもしれない宇宙の外からの敵が原子弾をこっちへなげつけたときに役に立つようにと建設せられてあるんです",
"ああ、そうか。あの星人とかいう連中も、原子弾を使うことが分っているのですね",
"多分、それを使うだろうと学者たちはいっていますよ――それに、もう一つああいう防弾設備がぜひ必要なわけがあるんです",
"それはどういうわけですか",
"それは、ですね。わが地球人類の中の悪いやつが、ひそかに原子弾をかくして持っていましてね、それを飛行機につんで持って来て、空からおとすのです",
"どうしてでしょうか",
"どうしてでしょうかと、おっしゃいますか。つまり昔からありました、強盗だのギャングだのが。今の強盗やギャングの中には、原子弾を使う奴がいるのです。どーンとおとしておいて、その地区が大混乱におちいると、とびこんでいって略奪をはじめるのです。ですから、そういう連中を警戒するためにも、あれが必要なのです"
],
[
"じゃあ、前のような地上の大都市というものは、どこにもないのですね",
"そうですとも。昔は六大都市といったり、そのほか中小都市がたくさんありましたが、いまは地上にはそんなものは残っていません。しかし、地の中のにぎわいは大したものですよ。これからそっちへご案内いたしましょう"
],
[
"それは、ですね。この地下街を建設するためには、あらゆる衛生上の注意がはらってあって私たちが気もちよく暮せるように、いろいろな施設が備わっているのです。たとえば空気は念入りに浄化され、有害なバイキンはすっかり殺されてから、この地下へ送りこまれます。また方々に浄化塔があって、中でもって空気をきれいにしています。ごらんなさい、むこうに美しい広告塔が見えましょう。あれなんか、空気浄化器の一つなんですよ",
"ああ、あれがそうなのですか。広告塔と空気浄化器と二役をやっているのですか"
],
[
"それから湿度は四十パーセント程度に保たれています。ですから、これまでの地下のようなじめじめした感じや、むしあつくて苦しいなどということもありません。また温度はいつも摂氏二十度になっていますから、暑からず寒からずです。年がら年中そうなんですから、服も地下生活をしているかぎり、年がら年中同じ服でいいわけです",
"それはいいですね。衣料費がかからなくていいですね。昔は夏服、冬服なんどと、いく組も持っていなければならなかったですからね。ちょうど布ぎれのないときでしたからぼくのお母さんは、それを揃えるのにずいぶん苦労をしましたよ。――ああ、そういえば、ぼくのお母さんは……"
],
[
"もしもし、正吉君。われわれに、すこし心あたりがあるんです。うまくいくと、君のお母さんに会えるかもしれませんよ",
"えっ、ほんとですか。しかし母は、もう死んでいますよ",
"いや、そのことはやがて分りましょう。これから町を見物しながら、そちらへご案内してみましょう"
],
[
"あの天井には、太陽光線と同じ光を出す放電管がとりつけてあるのです。その下に紺青色の硝子板がはってあります。ですから、ここを歩いていると昔の銀ブラのときと同じ気分がするでしょう",
"ああ、あれはほんとうの空じゃなかったのですか――うん、そうだ。地面の中にもぐっていて、青空が見えるはずがない"
],
[
"まあ、これは区長さん。それにサクラ先生に……",
"今日はめずらしい客人をお連れしました。ここにおられる少年にお見おぼえがありますか"
],
[
"お母さん、よく長生きをしていてくれましたね",
"正吉や。お母さんは一度心臓病で死にかけたんだけれど、人工心臓をつけていただいてこのとおり丈夫になったんですよ",
"人工心臓ですって",
"見えるでしょう。お母さんは背中に背嚢のようなものを背おっているでしょう。それが人工心臓なのよ"
],
[
"かっこうなんか、どうでもいいですよ。その人工心臓の力によって、もっともっと長生きをして下さい",
"お医者さまは、あたしの悪い心臓を人工心臓にとりかえたので、これだけでも百歳までは生きられますとおっしゃったよ",
"百歳とは長生きですね",
"いいえ。お医者さまのお話では、もっと長生きができるんだよ。百歳になる前に、もう一度人工心臓を新しいのにとりかえ、それからその外の弱って来た内臓をやはり人工のものにとりかえると、また寿命がのびるそうだよ",
"じゃあ、お母さん、そういう工合にすると二百歳までも、三百歳までも、長生きができることになるじゃありませんか。うれしいことですね。お父さんなんか、昭和二十年に死んじまって、たいへん損をしたことになりますね",
"ほんとにおしいことをしました。お父さまももう十五、六年生きておいでになったら、わたしと同じように、ずいぶん長生きの出来る組へはいれるのにねえ。そうすればお母さんは、今よりももっと幸福なんだけれど……"
],
[
"あ、お母さん。ここへ、兄さんが訪ねて来てくれたんですって",
"あたしの兄さんは、どこにいらっしゃるの"
],
[
"えっ。この少年が、僕の兄さんですか。ちょっとへんな工合だなあ",
"まあ、ほんとうだわ。写真そっくりですわ。でもあたしの兄さんがこんなにかわいい坊やでは、兄さんとおよびするのもへんですわね",
"正吉や。こっちはお前の弟の仁吉です。またそのとなりはお前の妹のマリ子ですよ",
"やあ、兄さん",
"兄さん、お目にかかれてうれしいですわ",
"ああ、弟に妹か――"
],
[
"君がびっくりするところへ案内します。ちょっぴり、教えましょうか。日本の新しい領土なんです。ハハハ、おどろいたでしょう",
"日本の新しい領土ですって。それはへんですね。日本は戦争にも負けたし、また今後は戦争をしないことになったわけだから、領土がふえるはずがないですがね",
"そう思うでしょう。しかしそうじゃないんです。君がじっさいそこへ行ってみれば分りますよ",
"近くなんですか",
"いや、近くではないです。かなり遠いです。しかし高速の乗物で行くからわけはありません"
],
[
"ねえ区長さん。田畑や果樹園はどうなっているのですか。地上を攻撃されるおそれがあるんなら、地上でおちおち畑をつくってもいられないでしょう",
"そうですとも、もう地上では稲を植えるわけにはいかないし、お芋やきゅうりやなすをつくることもできないです。そんなものをつくっていても、いつ空から恐ろしいばい菌や毒物をまかれるかもしれんですからね。そうなると安心してたべられない",
"じゃ農作物は、ぜんぜん作っていないのですか",
"そんなことはありません。さっきあなたがおあがりになった食事にも、ちゃんとかぼちゃが出たし、かぶも出ました。ごはんも出たし、ももも出たし、かきも出た",
"そうでしたね",
"では、まずそこへ案内しますかな。ちょうどよかった。すぐそこのアスカ農場でも作っていますから、ちょっとのぞいていきましょう"
],
[
"この頃の農作物は、みんなこのようなやり方で栽培しています。昔は太陽の光と能率のわるい肥料で永くかかって栽培していましたが、今はそれに代って、適当なる化学線と電気とすぐれた植物ホルモンをあたえることによって、たいへんりっぱな、そして栄養になるものを短い期間に収穫できるようになりました。こんなきゅうりなら、花が咲いてから一日乃至二日で、もぎとってもいいほどの大きさになります。りんごでもかきでも、一週間でりっぱな実となります",
"おどろきましたね",
"そんなわけですから、昔とちがい、一年中いつでもきゅうりやかぼちゃがなります。またりんごもバナナもかきも、一年中いつでもならせることができます",
"すると、遅配だの飢餓だのということは、もう起らないのですね",
"えっ、なんとかおっしゃいましたか"
],
[
"お分りでしたね。つまりこのように、わが国は今さかんに海底都市を建設しているのです",
"海底都市ですって"
],
[
"あ、小学生の遠足ですね。君たち、どこへ行くの",
"カリフォルニアからニューヨークの方へ",
"えっ、カリフォルニアからニューヨークの方へ。僕をからかっちゃいけないねえ",
"からかいやしないよ。ほんとだよ。君はへんな少年だね"
],
[
"ちかごろの小学生はアメリカやヨーロッパへ遠足にいくのです。この駅からは、太平洋横断地下鉄の特別急行列車が出ます。風洞の中を、気密列車が砲弾のように遠く走っていく、というよりも飛んでいくのですな。十八時間でサンフランシスコへつくんですよ",
"そんなものができたんですか。航空路でもいけるんでしょう",
"空中旅行は、外敵の攻撃を受ける危険がありますからね。この地下鉄の方が安全なんです。なにしろ巨大なる原子力が使えるようになったから、昔の人にはとても考えられないほどの大土木工事や大建築が、どんどん楽にやれるのです。ですから、世界中どこへでも、高速地下鉄で行けるのです",
"ふーン。すると今は地下生活時代ですね",
"まあ、そうでしょうな。しかし空へも発展していますよ。そうそう、明日は、羽田空港から月世界探検隊が十台のロケット艇に乗って出発することになっています"
],
[
"ぼくは辛抱するのが大好きなんです。三十年も冷凍球の中に辛抱していたくらいですからね",
"ああ、そうか、そうか、それほどにいうのなら、連れていってやるかな",
"えっ、今なんといったんですか"
],
[
"じつはね、私たちはこんど、かなり遠い宇宙旅行に出かけることになった。お月さまよりも、もっと遠くなんだ。早くいってしまえば火星を追いかけるのだ。そのような探検隊が、一週間あとに出発することになっているが、君を連れていってやっていい",
"うれしいなあ。ぜひ連れてって下さい",
"しかし前もってことわっておくが、さびしくなったり、辛抱が出来なくなって、地球へぼくを返して下さい、なんていってもだめだよ",
"そんなこと、誰がいうもんですか"
],
[
"大丈夫かい。それから火星を追いかけているうちに、火星人のためにわれわれは危害を加えられるかもしれない。悪くすればわれわれは宇宙を墓場として、永い眠りにつかなければならないかもしれない。つまり、火星人のため殺されて死ぬかもしれないんだが、これはいやだろう。見あわすかい",
"いや、行きます。どうしても連れてって下さい。たとえそのときは死んで冷たい死骸になっても、あとから救助隊がロケットか何かに乗って来てくれ、ぼくたちを生きかえらせてくれますよ。心配はいらないです",
"おやおや、君はどこでそんな知識を自分のものにしたのかね。たぶん知らないと思っていったのだが……"
],
[
"先生は忘れっぽいですね。この間、大学の大講堂で講演なさったじゃないですか。――今日外科は大進歩をとげ、人体を縫合せ、神経をつなぎ、そのあとで高圧電気を、ごく短い時間、パチパチッと人体にかけることによって、百人中九十五人まで生き返らせることが出来る。この生返り率は、これからの研究によって、さらによくなるであろう、そこで自分として、ぜひやってみたい研究は、地球の極地に近い地方において土葬または氷に閉されて葬られている死体を掘りだし、これら死人の身体を適当に縫合わして、電撃生返り手術を施してみることである。すると、おそらく相当の数の生返り人が出来るであろう。中には紀元前何万年の人間もいるであろうから、彼らにいろいろ質問することによって、大昔のことがいろいろと分るであろう。そんなことを、先生は講演せられたでしょう",
"ハハン。君はあれをきいていたのか",
"きいていましたとも、だから、もう今の世の中では、死んでも死にっ放しということは、ほとんどないことで、死ぬぞ、死んだらたいへんだ、なんて心配しないでよいのだと、先生の講演でぼくは分ってしまったんです。ですから連れてって下さい",
"よろしい。連れていってあげる",
"ウワァ、うれしい"
],
[
"なぜ七日間も、窓から外をのぞいちゃいけないんですか、ぼくはその理由を知りたいです",
"それは……それは、今はいわない方がいいと思う。艇長の命令がとけたら、そのとき話してあげるよ"
],
[
"キンちゃん。おかしいよ、そんなにさわいじゃ。ぼくは小杉だよ",
"小杉?"
],
[
"こわい、こわい、正ちゃん。その窓から外を見ない方がいいよ。気が変になるよ",
"あッ、そうか。君は窓から外を見たんだね。艇長に叱られるよ"
],
[
"あのとき一ぺんこっきりだよ。そんなにたびたびやって、たまるものか。それよりか、今日の夕食にはすごいごちそうが出るよ",
"すごいごちそうというと、お皿の上に地球がのっかっているといった料理かね",
"また地球で、わしをからかうんだね。地球のことはもう棚にあげときましょう。さて今夜の料理にはね、牡牛の舌の塩づけに、サラダ菜をそえて、その上に……",
"雨ガエルでも、とまらせておくんだね"
],
[
"あ、あぶない。正吉君、なにを急いでいるのかね",
"いま、食堂ですてきに甘いものをたべて来たので、元気があふれているんです。ですからこれから艇長のところへ行って探検の話でも聞かせてもらって来るつもりなんです。艇長のすごい話はこっちがよほど元気のときでないと、聞いているうちに心臓がどきどきして来て気絶しそうになりますからね",
"このごろどこでも気絶ばやりだね。だから僕もいつもこうして気つけ用のアンモニア水のはいった小さいびんをポケットに入れてもっている"
],
[
"それを貸して下さい。それを持って艇長のとこへ行ってきますから……",
"だめだよ、正吉君、艇長はいまひるねをしておられる。一時間ばかり、誰も艇長を起すことは出来ないのだ",
"ああ、つまらない",
"つまらないことはないよ、機械室へ来たまえ。これから偵察ロケットを発射させるんだから",
"偵察ロケットですって。それは何をするものですか",
"本艇のために、目の役目をするロケットだ。このロケットには人間は乗っていない。電波操縦するんだ。だからこのロケットはうんと速度が出せる。これを発射して、本艇よりも先に月世界の表面に近づかせる。いいかね。ここまでの話、分るかね",
"ええ、分ります",
"その偵察ロケットには、テレビジョン装置がのせてある。だからそれがわれわれの目にかわって月世界の方々を見る。それが電波に乗って本艇へとどく。本艇ではそのテレビ電波を受信して、映写幕にうつし出す。つまりこれだけのものがあると、本艇の目がうんと前方へ伸びたと同じことになる。たいへんちょうほうだ",
"なぜ、そんなことをするんですか",
"これは、もし前方に危険があったときは、偵察ロケットが感じて知らせてよこす。本艇はさっそく逃げることができる。偵察ロケットの方は破壊されてもかまわない。それには人間が乗っていないのだからね",
"音も聞けるわけですね。偵察ロケットにマイクをのせておけばいいわけだから",
"技術上は、そういうこともできる。しかしこの場合、音をきく仕掛はいらない",
"なぜですか",
"だって、月世界には空気がない。空気がなければ、音はないわけだ",
"ああ、そうでしたね"
],
[
"もう地震はないね。月世界はすっかり冷えきって、死んでしまった遊星だから",
"じゃあ、強盗でもあらわれるのですか",
"まさか強盗は出ないよ。いやしかし、強盗よりももっとすごい奴があらわれる心配がある",
"なんですか、そのすごい奴というのは……",
"それはね、われわれ地球人類でない、他の生物が月世界へやってくるといううわさがあるんだ。この前にも、ある探検隊員は、それらしい怪しい者の影をみて、びっくりして逃げて帰ったという話である。また、ある探検隊員は月世界で行方不明になったが、さいごに彼がいた地点では格闘したあとが残っている。またそこに落ちていた物がわれわれ人類の作ったものではないと思われる。そういうことから、他の遊星の生物がかなり、前から月世界へ来ているではないか。それなら、これから月世界へ行くには、よほど警戒しなくてはならないということになったのだ"
],
[
"例の偵察ロケットがね、さっきから月世界の表面に接触したよ。あのロケットが送ってよこすテレビジョンが、いま操縦室の映写幕にうつっているから、見にこない",
"えっ、もう見えていますか。行きますとも"
],
[
"いま見えているのは知っているね。月の表面にある噴火口といわれるものさ",
"ああ、本で見たことがあります"
],
[
"さっきのと、ちがう別の偵察ロケットのテレビジョンに切りかえられたんだ。今うつっているのは月の南東部だ。まん中へんに見える細長い噴火口がシッカルトだ。直径が二百五十キロもある。壁の一番高いところは二千七百メートル。大きいだろう",
"すごいですね"
],
[
"そのずっと左の方に有名なティヒヨ山が見える。高さは五千七百メートル。四方八方へ輝条というものが走っているのが見える",
"ぼくたちは、どこへ着陸するのですか",
"予定では、『雲の海』のあたりだ。そうだ、雲の海は、いま画面のまん中あたりの下の方にある。つまりティヒヨ山から北東の方向へ行ったところにある",
"すごいですね",
"こわくなりゃしない? こわければ上陸しないで、本艇に残っていていいんだよ",
"いいえ、ぼくはだんぜん上陸します。でないと月世界まで来た意味がありませんもの"
],
[
"こんどは装甲車を五台出動させることができる。だから上陸班は十分に活動ができると思う",
"装甲車というと、どんなものですか",
"一種の自動車さ。そしてガソリンではなく原子力エンジンで動く。それから外側が厚さ十センチの鋼板で全部包んである",
"じゃあ、戦車ですね",
"戦車は砲をつんでいる。これは砲はつんでいないから、戦車ではない。やはり、装甲車だ",
"なぜこんな乗物を使うんですか。敵がいるわけでもないのでしょう。なぜそんな厚い装甲がいるんですか",
"それはね、第一に隕石をふせぐために、これくらいの厚い装甲が必要なんだ",
"隕石というと、流れ星のことでしょう。あんなものはこわくないではありませんか。地上に落ちてくるのは、ほとんどないのですから",
"いや、ところがそうではない。地球の場合だと、空気の層があるから、隕石はそこを通りぬけるとき空気とすれ合って、ひどく高温度になり、多くは地上につかないうちに火となって燃えてしまう。しかし月世界には空気がないから隕石は燃えない。そのまま月の上へ落ちてくる。君たちの頭の上へこれが落ちて来たら、頭が割れて即死だ。だからそんなことのないように装甲車に乗って上陸するんだ。分ったかね",
"なるほど。隕石に気をつけないと、あぶないですね。すると私たちは月世界の上を、この二本の足で歩かないのですか",
"歩くことも出来る",
"だって、隕石が上からとんで来て、大切な頭がぐしゃりとやられたんでは……",
"ひとりで歩く場合には鋼鉄のかぶとをかぶって歩く。中くらいの隕石ではあたってもこのかぶとでふせぐことができる",
"ああ、そんなものも用意してあるんですね",
"そうだ。それに、本艇には隕石を警戒している隕石探知器というものがあって、隕石が降ってくると、千キロメートルの彼方で早くもそれを感知して電波で警報を発する。この警報はかぶとをかぶって歩いている連中にも受信できるようになっている。だからこの警報を聞いたら、大急ぎで、反対の側の山かげや地隙にかくれるとか、または本艇へかけもどって来れば、一そう安全だ。だから君たち、心配はいらないんだよ"
],
[
"よかった。おめでとう",
"艇長。おめでとう"
],
[
"さあ、空気服だ。かぶと虫の化けものになるんだ。やっかいだな",
"やっかいだって。でも、空気ににげられちまって死ぬよりはましだろう",
"もちろん死ぬよりはましさ。だが、空気服はきゅうくつだから、ぼくはきらいさ"
],
[
"やれやれ。無事着陸したぞ",
"えっ、無事着陸しましたか。月世界へついたんですね",
"もちろんのことさ。ほかのどこへ着陸するものかね",
"ああ、うれしい。さっそく地球にのこして来た家族へ電話をかけたいものだ",
"それは間もなく許されるだろう。その前に本艇が着陸した目的の仕事を片づけてしまわねばならない",
"その目的というのは、何ですね",
"今に分るよ。見ておいで"
],
[
"先生、いまはなんですか、夜なんですか",
"君はどっちだと思う",
"それが今、分らなくなったんです。山脈がまぶしく輝いていますね。空はまっくらです。地球の満月の夜の景色に似ているけれど、空気のないところでは、どこでも空はまっくらなんでしょう。するとあのまぶしく光る山脈は、太陽の光で照らされているのか、それとも月の光で照らされているのか、どっちだか分らない……",
"待ちたまえ、正吉君。月の光で照らされているというのは、へんだろう。だってここは月の上なんだからね",
"ああ、そうか。これはしくじった"
],
[
"月の光じゃなくて、地球の光というのが正しいですね。つまりわれわれが今いる月は、太陽か地球かに照らされてるんでしょう",
"そのとおりだ。そこでさっきのだが、今は昼なんだ。だから山脈をまぶしくしているのは太陽なんだ",
"えッ、やっぱりこれが月世界の昼間なんですか。へんてこですね"
],
[
"わる口をいうと、おみやげを持ってかえってやらないよ",
"えッ、お土産。ああ、そうか。坊や、いい子だからお土産うんと持って来てくんなよ。ウサギの子でもいいし、ウサギがついた餅でもいいからね"
],
[
"すると、わがマルモ探検隊の乗っているロケットも、ここで故障が起ったんですか",
"いや、故障ではない。われわれの場合は、燃料の一種とするための鉱物を、この倉庫においてあるので、それを取りに来たのだ",
"やっぱりウラニゥムみたいなものですか",
"まあ、そうだね",
"地球を出るときにつんで行けばよかったのに、どうしてそうしないのですか",
"地球には、そのルナビゥムという貴重な鉱物がすくないのだ。この月の中には、かなりうずもれていると思われる"
],
[
"ほう。これはどうしたのかな",
"ルナビゥムがないじゃありませんか。この前、あれだけ集めて、この部屋にいれておいたのに……"
],
[
"これは一体どうしたというのでしょう",
"困ったね。ルナビゥムがないと、探検をこれから先へ進めることができない",
"誰がぬすんでいったのでしょう",
"この部屋から盗むことは、まず不可能なんですがね",
"そうかもしれんが、山ほどつんであったルナビゥムが見えないんだから、ぬすまれたに違いなかろう",
"これはどうもゆだんがなりませんよ。さっきの人骨のことといい、洞内の扉がひん曲っていたことといい、今またこの部屋からルナビゥムがぬすまれていることといい、これはたしかにみんな関係のあることなんですよ"
],
[
"たいへんな仕事になりますが、ルナビゥムの鉱脈のあるところへ行って、もう一ぺん掘るんですなあ。なにしろルナビゥムがなくては、どうすることも出来ませんよ",
"その仕事は、なかなかこんなんだ。それに日数が相当かかるかもしれん。あまり日数がかかることは困る。こんどの探検は、残念だけれど一時中止として、地球へ引返すことにしたらどうでしょう"
],
[
"私は、それを決める前に、この事件の真相を調べるのがいいと思いますね。誰がそれをしたか、何のためにしたか、そして倉庫からぬすまれたルナビゥムは今どこにあるか。そういう事柄が分ったら、われわれが今の場合どうすればいいかということが、自然に分るでしょう",
"なるほど、もっともなことだ。しかしカンノ君。事件を調べるのにどの位の日数がいるだろうか。それが問題だ",
"それはやって見なければ分りませんが、私にこれから四時間をあたえて下さい。出来るだけのことをさぐってみます。装甲車を一台と四、五人を私にかしておいて下さい。そしてその間に他の装甲車でもって、ルナビゥムを掘りに行って下さい。私は四時間あとにそこへ追いつきますから……"
],
[
"この人骨は空気服もなんにも着ていないです。すると、行き倒れになった他の探検隊員だとは考えられないです。もしそうなら空気服ぐらいは、ちゃんとからだにつけているはずですからね",
"なるほど"
],
[
"するとこの人骨の主は、自分でこの洞門の扉をやぶり、中へはいってこの位置でぜつめいしたとは思われません。つまり何者かが、この人骨の主の死体をこの中へ投げこんでいったとしか考えられないのです。そうは思いませんか",
"いや、それにちがいないと思います。博士のすいりは、なかなかするどいですね",
"すると、何者がこんなことをしたか、扉をあのように曲げることも、ふつうの人力ではできません"
],
[
"なんという名前ですか",
"待ちたまえ。ええと、モウリクマヒコと書いてあるらしい",
"えっ、モウリクマヒコですって、ちょっとそのハンカチーフを見せて下さい"
],
[
"あ、これはぼくのおじさんのハンカチーフです。毛利久方彦といって、理学博士なんです",
"ああ、あの毛利博士。私も知っていますよ"
],
[
"ちょっと、これはおかしいぞ",
"なにがおかしいのですか",
"この人骨はね、君のおじさんの毛利博士ではないよ、安心したまえ",
"ええッ、どうして、そんなことが分るんですか"
],
[
"ちゃんと分るんだ。この人骨は現代の日本人の骨ではない。ずっと古い昔の人骨だ。それも百年前ではない。すくなくとも五万年ぐらい前の人骨だ。骨の形で、そう判定ができるんだ。五万年前の人骨、どうだね。君のおじさんの毛利博士の骨でないことは証明されたろう",
"ははあ、そうですか"
],
[
"あッ何者だ",
"なにをするッ。あ、隊長。あやしい奴です",
"らんぼうするな、しかたがない。隊員はこっちへ固まれ。そしてらんぼうする相手に反抗しろ"
],
[
"あっ、あつい、あつい",
"わあ、あつい。助けてくれ"
],
[
"地球をくいつめた強盗団の一味ではないでしょうか",
"彼らはみんなばかに力が強かったですよ。そしてからだもずっと大きく見えた",
"すると何国人のギャングかな",
"いや、あれは、われわれの世界の人間ではないと思う"
],
[
"地球をくいつめた強盗団ではないとおっしゃるのですか",
"うん。早くいえば、月人だと思う。つまり月世界に住んでいる人間なんだ",
"それは、おかしいですね。月は死の世界で、冷えきっています。そして空気もなければ水もない。それなのに、月の世界に住んでいる人間があるんですか"
],
[
"月世界に生物が住んでいられるかもしれないというのは、実にカンノ君のたてた説なんだよ。君、話してやりたまえ",
"はあ。それでは、かんたんに申しますが、元来月は、地球の一部がとび出して、この月となったのです。おそらく今太平洋があるところあたりから、抜けだしたのであろうといわれています。ことわっておきますが、これは私の説ではなく、昔から天文学者の研究で唱えられている学説の一つです"
],
[
"これから後が、私の説なんですが、しからば月が地球を離れるとき、動物も植物もいっしょに持っていったに違いない。そして条件さえ、よければ、月の上で、しばらくはその動物や植物が繁殖し、繁茂したに違いない",
"おもしろいなあ",
"そのうちに、月世界の上にある大異変が起って、だんだん冷却してきた。そこで動物や植物の多くは死んで行き、枯れていった。しかし動物の中で、文化の進んでいた者――つまり人間でしょうね、この人間たちは早くも身をまもることを考え、その仕事にとりかかった。どうしたか分からないが、その人間たちの子孫は今も月世界の中に住んでいると考えられないこともない。たとえば、地中深くもぐりこんで、地熱を利用して生活し、あるいはまた別に熱を起し、空気を作り、食物を作って相当高級な生活をしているのではあるまいかとも考えられる",
"でも、その頃の人間は、あまり文化が進んでいなかったのでしょう"
],
[
"ああ、よく帰って来たね",
"ずいぶん心配していたよ。ここに残っている私たちは、ついに悲壮なる最後の決心をしたほどだ",
"いや、心配させてすまなかった。みんな、助かったよ。ありがとう。ありがとう"
],
[
"とてもだめですね。どうしても、今日採ってきた量の三倍は入用ですね",
"あと、どれだけいるのか。それでは、明日もう一度トロイ谷へ行って掘ることにしよう",
"しかし隊長。トロイ谷へ行くことは、たいへん危険だと思いますが……",
"危険は分っている。しかし火星へ行くのをやめて、このまま地球へ引っ返すこともできないと、みんなはいうだろう",
"それはそうですね",
"そうだとすれば、われわれはもう一度危険をおかさなくてはならない",
"やっぱり、そういうことになりますかなあ。あの倉庫第九号に貯えておいたルナビゥムが盗まれないであれば、こんな苦労をしないですんだのですがね。あれを盗んだ犯人は、もう分かったのですか",
"カンノ君が調べていたんだが、その調べの途中で、僕たちがトロイ谷から救いをもとめたので、カンノ君は捜査をうち切って、われわれの方へかけつけたのだ。そういうわけだから、カンノ君はまだ犯人をつきとめていないだろう"
],
[
"あ、隊長。お願いです。ぼくをもう一度、倉庫第九号へ行かせて下さい",
"あぶないよ、それは。しかし、どうしてもう一度行きたくなったのか",
"ぼくは、おじさん毛利博士の最後を見とどけたいのです。あの倉庫をもっとよく探せば、おじのことが分かると思うのです。それにカンノ博士も、ぼくもいっしょに行ってもいいといっておられます",
"なに、カンノ君までが、そういうのか。みんな自分の生命をそまつにするから困る。もし一人がたおれると、その人だけの損ではなく、わが探検隊全体が弱くなるんだから、そこを考えて自重してもらわないと困る",
"はい"
],
[
"おい君、私は今一つ、発見したよ。このハンカチーフの主――つまり君のおじさんの毛利博士は、少なくとも今から三ヶ月前までは生きていたという事実が分かった。それはこのハンカチーフについている博士の身体からの分泌物の蒸発変化度から推定して今のようにいうことができるんだ。どうだね、この発見は君に何か元気を加えることにはならないだろうか",
"ああ、そうですか。しかし三ヶ月前まで生きていたことが分かっても、大したことではありませんね。今、生きているかどうか、それを知りたいです"
],
[
"ふーン。君はこの発見を、その程度の値打にしか考えないのか。私なら、もっとよろこぶがなあ。つまり三ヶ月前に生きているものなら、今も生きているだろうとね。三ヶ月なんか、この月世界ではなんでもない短い期間だよ",
"そうでしようか。ぼくは、おじが現在生きている姿を見せてくれるまでは、うれしがらないでしょう"
],
[
"あッ、警鈴だ",
"なんだろう、今頃警鈴が鳴るなんて……"
],
[
"早く撃ったがいい。艇をこわして、中へはいってこられたらたいへんだ",
"そうだ。やっつけた方がいい。トロイ谷で、きゃつらは勝ったように思っているのだ。こっぴどくやっつけてやるがいい。"
],
[
"なに、あれが毛利博士だって。それが、どうして君に分る。",
"そういう気がしてならないんです。それにああして戸を叩く格好が、おじに違いないと思うんです。中へいれた上で、よく調べることにしてください。",
"だが、もしほんとうの月人だったら、困ったことになるよ。そのとき君の立場がなくなるが、いいかね",
"ええ、いいですとも。ぼくは自分の責任をとります"
],
[
"おお、ようこそ、毛利博士",
"ほう、やっぱりあんたじゃったか、マルモ君"
],
[
"いや、話は山ほどあるが、そんなことをしていられないのじゃ",
"と、おっしゃると何か――",
"重大事があるから、わしは危険をもかえりみず、老衰した身体にむちうって駆けつけてきたのですわい。そのことだ、そのことだ。マルモ君早くこの土地をはなれないと、月人の大集団が、この宇宙艇を襲撃して、全員みな殺しになるよ",
"それはどうして――",
"分っているじゃないか。月人たちはトロイ谷のことをたいへん恨みに思っている",
"いつ来襲するのでしょうか、月人たちは",
"今、さかんに武器や空気服をそろえにかかっている。あと二、三時間たてば、かならずここに押しかけてくるだろう",
"えっ、たった二、三時間しか、猶予がありませんか",
"二、三時間あれば、この月世界から離陸することはできるじゃろう",
"それはできますが、本艇はルナビゥムをもっとたくさん手にいれなくては予定の宇宙旅行ができないのです。実は倉庫第九号に、そのルナビゥムがかなり豊富に貯蔵してあったのですが、こんど来てみると、それがそっくり盗まれているのです。全く困りました",
"ああ、あの倉庫のルナビゥムのことか",
"おや。モウリ博士は、あの倉庫のことをご存じですかな",
"知っていますよ。あれも月人がやったことです。あとでくわしく話すが、あの倉庫のことを、たいへん気にしているのです。もちろんルナビゥムの用途についても、彼らは勘づいていますのじゃ。そこで地球人を困らせようとして、あの倉庫にあったルナビゥムは全部ほかへはこんでしまった。",
"うーン、それは気がつかなかった。こっちのゆだんでした。で、どこへはこんでしまったのでしょうか、そのルナビゥムを――",
"その場所を教えてさしあげる。近いところじゃ。だから、あと二時間以内に、それを掘りだして、この艇内へはこびこみ、すぐ離陸したらいいじゃろうと思う",
"そのかくし場所はどこですか",
"それがね、おかしな話だが、この宇宙艇は正にそのルナビゥムを埋めてある地点の頂上に腰をすえているんじゃ。これでは月人が気をもんで早く襲撃して全滅してしまいたがっているわけも察しがつくでしょうが",
"ははん、それはおどろきましたな"
],
[
"なにが大人気だというの",
"いや、実は、わしのところで、ちょっとした競走をはじめたんですがね。それが大繁昌なんで。みなさんがどっとおしかけてきてね、部屋の中がぎゅうぎゅうで、たいへんなんですよ",
"どういうわけで?",
"どういうわけでといって、つまり、わしの考えだした競争に人気がすっかり集まってしまったんですよ",
"誰が競争するの",
"誰って、つまりアブラ虫ですよ",
"アブラ虫だって? アブラ虫かい"
],
[
"食堂に出てくるアブラ虫を、大切にして飼っておいたのです。かなり大きいのがいますよ。横綱というのは、一番大きくて、腹が出っぱっているのです。そのかわり、競走させると案外おそいのでねえ",
"なんだって、アブラ虫なんか飼っておいたの",
"たいくつだからですよ。アブラ虫だって、生きてうごいていれば友だちのかわりになりますからねえ。それにバターをなめさせたり、ジャガイモをくわせたりしていると、アブラ虫もだんだんわしになついてくるんでね。そりゃとてもかわいいですよ"
],
[
"滑り下りると、そこには一つの関所がある。重い回転扉のはまった球形の大きい洞穴みたいな部屋だ。つまりこの部屋は、空気の関所だ。それより奥は、空気が濃いのだ、手前の方は空気が薄い。その境界になるのが、この回転扉だ。そこでこの回転扉をまわして中へはいると、その奥には、またもや下へ下りるトンネルがある。構造は、さっきのトンネルと同じことで、まん中のところは『おすべり』ができるようになっており、両側には階段がついている。なかなか大仕掛だ",
"すると月人は、土木工事に優秀な腕前を持っていると見えますね",
"そうだよ。わしもたしかにそれを認める。月人は、あの寒冷で空気のない地面を持っている月世界に、自分たちの生命をつなぐためには、土木工事に上達しないわけにはいかなくなったんだ。つまり、月人は、土地を掘って、地中へ、地中へ、と下りていったんだよ。表面は寒冷でも中はずっと暖かいからね。それに、空気は月の表面からとび散ってしまったが、地中にはいくらかそれが残っていたのだ。だから月人は、地中深く姿を消し、そしてその子孫が今もなお生命をつないでいるんだ。全くけなげな連中だ"
],
[
"いや実際、地中にもぐってみると、案外に空気のたまっているところがたくさんあったのだ。もちろん、そのとき地中にもぐった月人の総数はそんなにたくさんではなかったらしい。数千の集落のうちのいくつかが、地中にもぐりこむことに成功したのだそうだ",
"すると、月世界の空気はある時機になって、急に月の表面から消えてしまったのですか",
"そうなんだ。どうしてそんなことが起ったかというと、そのとき、月のごく近くを、かなり大きい彗星がすれちがった。そのとき月の表面へ、はげしく彗星の一部分が衝突した。そのとき、たくさんの月人が死んだ。彗星が去った。そのときに、月世界の表面から空気がなくなったという話だ。これは月人が子孫にいいつたえている、いわゆる伝説なんだ。だが、これはたしかにほんとうのことらしく思われる"
],
[
"月人は、今いろいろな方法でもって、地中で空気を製造している。われわれ地球人が、水道の栓をひねって、水を出してのむように、月人たちは、自分の家――それはもちろん地下の穴倉式のものなんだが、そこに住んでいて、部屋にひいてある管から、必要のときに空気を出して吸って生きている。そしてさっき話したように、空気が割れ目などを通って地面の外へにげることをおそれ、地表と地中との交通路は、空気をなるべく洩らさないように、厳重な仕掛かりでふせいである",
"なるほど。それでさっきのトンネルや回転扉の話とつづくんですね"
],
[
"そうだ。さっき話したトンネルと回転扉の数珠つなぎだ。第一の回転扉の次に、またトンネルがあり、その先に、また第二の回転扉があるという風に、少なくとも第五の回転扉を経なければ、月人の居住区へは達しないのだ。わたしは、その居住区に永い間暮していたんだ",
"おお、モウリ博士",
"月人は空気をあまりに大切にするあまり、月世界の表面へ出ることも、たいへんいやがる。だから、知能は、われら地球人間よりもすぐれているところがあるし、地球にない貴重な資源を豊富に持っているのに、彼らは一台の飛行機さえ持っていないんだ。だからこのロケットが、月世界を離れて飛びだしさえすれば、あとは月人に追いかけられて危険な目にあうというようなことはないわけだ",
"ああ、そうですか。それを聞いて、たいへん安心しました"
],
[
"モウリ博士。あなたは火星へ行かれたことがありますか",
"いや、こんどがはじめてですよ。しかしかねがね行ってみたくて、研究はしていましたよ。火星は、実に興味の深い星ですね",
"そうですとも。昔からさわがれ、そして今も一番人気のある星ですね",
"マルモさん。あなたは、火星へ何回ぐらい行ったんですかい",
"行ったというと、上陸したという意味ですか。それなら、二回だけです。そして、どっちの場合も大失敗でした。上陸する間もなく、生命からがら離陸しなくてはなりませんでした。火星は全く苦手です",
"あんたでも、そうなのかね。これは意外だ",
"だから今度は、どうしてもうまく上陸して、火星人とも十分に話し合いたいと思います",
"火星人と話し合う。ふーん、そうかね"
],
[
"すると、通信能力はもう前のように回復したんですか",
"さっぱりだめなのよ"
],
[
"それじゃ困るですね",
"でも仕方がないのよ。あたしたちの力ではどうにもならないことなんです。火星のまわりには、宇宙塵がたくさんあつまっている層があるんです。本艇はいまその中を抜けているから、電波が宇宙塵にじゃまをされて、通信がうまくいかないのです"
],
[
"宇宙塵て、正吉さんは知っているでしょう",
"宇宙にたまっている塵のことでしょう",
"そんなことをおっしゃるようでは、本当にご存じないようね。いったい、どんな塵だと思っていらっしゃるの",
"さあ"
],
[
"宇宙の塵というんだから、つまり宇宙旅行中に遭難してこわれたロケット艇なんかの破片や、その中からとび出した人間の死骸や机や、イスや、そんなものが塵みたいになっているのを指していうのでしょう",
"いいえ、ちがいますわ。宇宙塵というのは宇宙をとんでいる星のかけらのことです。つまり隕石も宇宙をとんでいるときは宇宙塵といえるわけです",
"ああ、そうか。なるほど宇宙の塵ですね",
"火星のまわりをとりまいている宇宙塵は、隕石の集まりではなく、大昔に火星のまわりをまわっていた火星の衛星の一つがこわれたものだともいわれ、また、そうではなくて、いまのところその宇宙塵はどうしてできたかその原因は分からないのだともいわれます。とにかく火星のまわりを無数の星のかけらが包んでいるものにちがいありません。そういうものがあると、電波は宇宙塵に吸いとられてしまって、達しにくくなるのです",
"ああ、やっと通信の調子のわるいわけが、ぼくに分りました",
"そして、宇宙塵のあるかぎり通信がうまくいかないわけですね",
"そうです。だから、火星は、地球人とちがって、電波を利用することがあまり上手でないかもしれませんね"
],
[
"あ、痛い",
"な、なんでしょう"
],
[
"どうして火事なんか、ひき起したのでしょうか",
"それはきっと、大きな宇宙塵が本艇の中部倉庫の付近へ衝突して、中部倉庫にしまってあった燃料が発火したのでしょう"
],
[
"へえーツ。そんな大きな宇宙塵があるのですか",
"大きさが富士山くらいある宇宙塵は決して少なくないと、今まで知られています",
"富士山くらいですか。そんな大きなものも、塵とよぶのですか",
"宇宙の塵だから、大きいのですよ",
"そんな大きな塵にぶっつかられたら、本艇なんかひとたまりもなくこわれてしまうじゃありませんか",
"そうですとも。幸いにも、さっき本艇に衝突したのは、小さい岩くらいのものだったのでしょう。あ、信号灯がついた。わたしをよび出しています。めんどうな仕事がはじまるのでしょう。あなたも早く、消火区へ行ってお働きなさい"
],
[
"あっしゃね、あの木が、料理をすれば、けっこう食べられるように思うんだ。ちょいとそれを調べてみたくてね。もし、うまく火星料理ができたら、第一番にお前さんに食べさせてあげるよ。だから、ちょっと行って下さい",
"ひとりで行くのは、こわいのかい",
"こわいことはないさ。しかし気味がわるいんでね",
"じゃあやっぱりこわいんじゃないか。おかしいなあ、大人のくせに"
],
[
"ねえ。あっしゃどういうわけか、身体がふわふわしてしょうがないんだがね",
"それは重力が小さい関係だよ",
"そうですかねえ。なんだか水の中を歩いているような気がするよ。さっき、石につまずいてひっくりかえったが、そのときね、からだはふわッと地面へあたりやがるんだ。ちっとも痛かないんだから、妙てけりんだ",
"地球の上なら、さっそく鼻血を出したところだろうね",
"おっと、さあ来たよ。なるほど、この大木め、いやにぶかぶかしているよ。これなら料理すれば食えるね。すこし切って持っていこう"
],
[
"どうしたい、ちびだんな",
"しいッ"
],
[
"ぼくはその魚料理はたべないよ",
"なぜだね",
"だって、気持のわるいほど大きくて、いやにこっちをぎょろぎょろ見る魚なんだもの。あんな魚の肉をたべると、きっと毒にあたるかもしれない",
"ははあ、毒魚だというのだね。よろしい。毒魚か毒魚でないかはこのキンちゃんが一目見りゃ、ちゃんとあててしまうんだ。こんど出て来たら、すぐあっしに知らせるんだよ",
"しいッ。また、水面から顔を出すようだ"
],
[
"声を出すだけではないよ。あれは、話をしあっているんだよ",
"えッ。話をしあうって。魚と魚と話ができるのかい。いやあ、たいへんだ、いよいよお化け魚ときまった。とてもたべられるしろものじゃない"
],
[
"あの様子を見ると、あの怪魚はぼくらの知っている魚よりも、ずっと高等動物にちがいない。ほら、あの怪魚たちは、さっきからぼくらのいるのを知っているんだよ。だから怪魚たちはスクラムをくんで、じわじわとこっちへ近づいて来る",
"なに、こっちへ近づいて来るって。それはたいへんだ。逃げよう",
"なあに、大丈夫。怪魚たちは、ぼくたちとなにか話をしたいのかもしれない",
"とんでもないことだ、ちびだんな。あっしゃあんなお化け魚にくい殺されるのはいやだ。なんでもいいから逃げよう。さあ逃げるよ"
],
[
"ぼくも連れていって下さい",
"もちろん、案内に立ってもらいましょう"
],
[
"この装置でもって、例の怪魚のことばや、頭脳の働きを記録してくるんだ。これをあとで分析研究して、怪魚がどんな程度の能力を持った生物であるか、また、さらに分かれば、その怪魚たちは、どんなことを考えていたか、どんなことをしゃべっていたかなど調べてくるのだ",
"ははあ。それはおもしろいですね",
"ああ、そうだ"
],
[
"正吉君。例の怪魚のごきげんをとるために、なにか彼らの喜びそうな食べ物をもっていってやる必要がある。何がいいかね",
"ああ。怪魚にやるごちそうのことですね。それならキンちゃんにまかせるのが一番いいですよ"
],
[
"水棲魚人のことばが、分ったんだ。水棲魚人の脳の働きも分った。やっぱり、水棲魚人は、普通の魚ではなく、高等生物だということが分った。おそらくこの水棲魚人こそ『火星人』の正体であろう。つまり、火星では、あの水棲魚人が一番高級な生物だということになる",
"じゃあ、あの怪魚は、地球でいうと、人類の位置を占めているわけですね",
"そうだ。そしてあの水棲魚人は、やがて水中から陸上へはいあがり、陸で暮らすようになるんだと思う。それから、空を飛ぶことも上手になるんではないかと思う。なにしろ火星は重力が小さいから、飛ぶということはわりあい楽にできるんだ。とにかく進化論の筆法でもって、これから水棲魚人が進化発達した姿を想像すると、われわれ人間に似た身体に翼を生やしたようなものになるのではないかと思う",
"おもしろいですね。それは、今から何年のちのことでしょうか",
"さあ、どのくらいあとのことか。早くて二十万年かな、いやもっとだ。三十万年もかかるかもしれない",
"すると、ずいぶん先のことですね。しかし火星に地球人類がどしどし来て、文化を移していくことでしょうから、水棲魚人も、早くかしこくなるでしょうね",
"まあ、そうだろうね",
"でも、地球人類は、常に火星魚人よりかしこいのだから、火星や火星人は、結局わが地球や地球人類の保護をうけて行くことになるんでしょうね",
"それもそうだと思うね。地球人類は火星を植民地とすることだろう。そしてどんどん地球文化を植えつけて、火星の文化水準をできるだけ向上させる必要があるね。火星や火星の生物たちは、地球と地球人類のおかげで、たいへんとくをするわけだ",
"火星には、地球人類よりもえらい生物がすんでいるといううわさがあったので、胸をどきどきさせて火星へ着陸したんですが、もうこのようなことが分ってみると、ぼくたちは不安からのがれたけれど、気がゆるんでしまって、すこしがっかりしましたね",
"ははは、お気の毒さまだったね。それはそれとして、私たちは、火星魚人と話が出来る機械を急いで設計し、それをつくりあげて役に立てたいと思う",
"えッ、火星魚人と話のできる機械ですって。それはすばらしいなあ。いつになったら、それは出来上りますか",
"早くても一週間はかかるだろうね",
"もっと早く出来るといいんだがなあ、ぼくも手伝わせて下さい",
"よしよし。手伝ってもらいましょう"
],
[
"なんだろう、あれは……",
"ふしぎな。宇宙艇でもないし、いったいなんだろう"
],
[
"夢じゃないよ。カコ君、しっかり目を開いて、よく見ておくんだな",
"隊長。いったい、あれはなんですか。何事があそこで起りつつあるんですか"
],
[
"わしには分らない。わしよりも、君の方が専門じゃないか",
"なんとおっしゃいます",
"宇宙弾――といったようなものではないかね。とにかく、この火星の外から飛んで来たものにちがいない",
"宇宙弾といいますと、どんなものですか",
"おいおい、わしに聞くのはだめだよ。それよりも君の専門の眼でもって。あれをよく観察した上で、早くわしに報告してもらいたいな"
],
[
"あれあれ、すごいぞ、また一段高くなった",
"カン詰の塔みたいだよ。あの中に、なにがはいっているのかしらん"
],
[
"火星人といえば、例の水棲魚人のことだ。あれが火星で一番かしこい生物だという話だから、そうなると、水棲魚人の力で、あんなりっぱな塔が建つとは思われないね",
"じゃあ、あれを建てているのは何者ですか",
"さあ、それが分かれば、みんな分かるんだが、何者の仕業か見当がつかない。しかし人間業とは思われないね",
"それでは、だれなんでしょうか。火星人でもなく、人間でもないとすると、いったい何者ですか",
"そばへ行って、よく調べてみないと、はっきりしたことは分からないが、ひょっとすると他の星から飛んできた生物の群れかもしれないね",
"ええっ、他の星から飛んできた生物ですって。そんな生物がいるんですか",
"いないと断言はできない。現にわしは月世界の生物を発見しとる。火星の生物は、水棲魚人という幼稚な生物にしても、他の星には、もっと高等な生物がすんでいて、それが火星へ飛来したのかもしれないね",
"地球と火星のほかに、生物のすめる星があるんですか。あれば金星ぐらいのもので、土星だの水星だの、海王星や天王星や冥王星なんか、生物がすんでいない星だということを、本で読んだことがありますねえ",
"わしが、さっき考えたのは、そういうわが太陽系の遊星に住んでいる生物のことではないのだ。もっと遠いところに住んでいる生物じゃないかと思うんだ。知ってのとおり、この大宇宙にはわが太陽と同じようなものが何億もあって、そのまわりには、わが地球や火星と同じような遊星がぐるぐるまわっているのが、ずいぶんたくさんあると推定されている。その中には、生物が住んでいる星がもちろんあるはずだ。そしてその生物が人間のようにかしこいものもあればまた人間以上にかしこいのもあろう。そういうかしこい生物は、人間が想像することのできないほど大仕掛の仕事をやってのけるだろう、と思うね",
"あっ、そうか。するとおじさんは、あの光る怪塔をこしらえているのは、わが太陽系以外の星に住んでいて、人間よりもずっとかしこい生物だというんですね",
"いや、わしはまだそこまで、はっきり断定してないよ。とにかく、もっとそばへいって、よく調べた上でないと、なんともいえないが、そういうことも、頭の片すみにおぼえておくといいね",
"えらいことになったぞ"
],
[
"いままで観察して来たところによれば、あのような怪塔をあのような方法で組み立てるというのは、人類に近い生物でないと出来ないことです。そして、人類よりもずっと高級な生物にちがいありません。われわれよりも、すこしでも高級であるならわれわれは非常に不利な立場におかれるわけで、これからは怪塔の主に、あたまをおさえられていなくてはならんですからねえ。こんなところへ来て、われわれが捕虜か奴隷のようになるのはいやなことです",
"わたくしは、あの怪塔が、急に大爆発を起すのではないかと思いますの"
],
[
"なんのための爆発かといいますと、火星の地質をしらべるためだと思います。あれを発射した者は、遠くから爆発のおこったときにどんな色の火が出るか、どのくらいの時間燃えるかなどと、いろんなことを観測しようと思って、用意しているんだと思いますわ。もちろんそれは、やがて彼らが、この火星へ移住して来るための準備作業だと思いますわ",
"なんとかして、一刻も早く、相手の正体をたしかめる方法はないものかなあ"
],
[
"いいこととは、なにかね",
"隊長。あの水棲魚人と問答をしてみたいと思います。つまり、水棲魚人は、あのような怪塔をはじめて見たかどうか、それをきいてみましょう。たびたび、あんなものが落下して来たのならそれがどんな仕掛のものであるか、どんなことをするものであるか。それが知れると思います",
"それは名案だ。さっそくきいてみるがいいが、そんなことが出来るのかね",
"それはできます。私とスミレ女史とで、この間から水棲魚人と、思っていることを話し合う研究を完成していますから、大丈夫です"
],
[
"アルファベットだよ。人間の使う文字だ",
"そうかい。なんだ、おどろかされたね。それじゃ、この塔は地球からとんで来たものじゃないか。中には、うんとごちそうが入っているんだろう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日初版発行
初出:「少年読売」
1948(昭和23)年3~12月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2001年7月17日公開
2007年8月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002617",
"作品名": "三十年後の世界",
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[
[
"こんなところに流れがあったかね",
"いや、知らないね。地図でみると、どうしてもここは、うばガ谷のはずなんだが?",
"でも、へんよ。地図からはかって、ここはどうしてもうばガ谷よ。この地図をごらんなさい。ほら、この岩",
"なるほどなあ、あれはたしかに三角岩だ。これはおどろいた。おい君、有名な万年雪が今年はすっかりとけてしまったんだぜ"
],
[
"なるほど。見えるよ。大きな球だ。ぴかぴか光っているね。金属球だ",
"ふしぎだ。とにかくそばへ行ってみよう",
"おいおい、待ちたまえ。あれは危険なものじゃないか",
"そういえば、昔の写真に出ている機雷みたいな形をしていますわね",
"ふん、機雷に似たところもあるけれど、機雷は海の中にあるもので、こんな山の中にあるはずがない"
],
[
"とにかくこの球は、万年雪がとけて、その下から出て来たものだよ。もっと上にあったのが、ころがりだして、ここまで来て停ったんだと思う",
"火星からなげてよこしたものじゃないか。開けると、中から火星人の手紙かなんか入っているんじゃない?",
"火星からじゃないよ。だってこのとおり×取扱注意、扉Aを開け×と、日本文字で書いてあるんだから、これは日本でこしらえたものにちがいない",
"早く、その扉Aというのをあけてみた方がよかないでしょうか",
"そうだ。それがいい。そうしよう"
],
[
"ああ、お話中しつれいですが、じつは二十年じゃなく、あなたが冷凍されてから三十年たっているのですよ。ことしは昭和五十二年なんですからね",
"おやおや、三十年もぼくは睡っていたのですか"
],
[
"ここは見なれないところですが、銀座の近くでしょうか",
"さよう。銀座までは三キロばかりはなれています。しかしすぐですよ、動く道路にのっていけば……",
"なんですって。何にのるのですか",
"動く道路です。そうそう、あなたの住んでいた三十年前には、動く道路はなかったんでしょうね。そのころは電車や自動車ばかりだったんでしょう。今はそんなものは、ほとんどなくなりました。その代りは動く道路がしています。道が動くのです。五本の動く道路が並んでいるのです。昔あったでしょう。ベルトというものがね。あれみたいに動くのです。歩道に平行に五本並んでいて、歩道に一番近いのが時速十キロで動いているもの。次が二十キロ、それから三十キロ、四十キロ、五十キロという風にだんだん早くなります。そしてその動く道路は、どこへ行くか方向がかいてあるのです。……ほらごらんなさい。これが銀座行きの動く道路ですから"
],
[
"ここはどこですか。みたことがない野原ですね",
"ここが銀座です。あなたの立っているところが、昔の銀座四丁目の辻のあったところです",
"うそでしょう。……おやおや、妙な塔がある。それから土まんじゅうみたいなものが、あちこちにありますね。あれは何ですか"
],
[
"やあ、そのことですがね、まず戦争はもうしないことに決めたようです",
"戦争をするもしないも日本は戦争放棄をしているんだから、日本から戦争をしかけるはずはないんでしょう。もっともこれは今から三十何年もむかしの話でしたがね"
],
[
"正吉君のいうことは正しいです。しかしですね。その後また大きな戦争がおこりかけましてね――もちろん日本は関係がないのですがね――そのために、おびただしい原子爆弾が用意されました。そのとき世界の学者が集って組織している連合科学協会というのがあって、そこから大警告を出したのです。それは二つの重大なことがらでした",
"どういうんですか、その重大警告というのは……",
"その一つはですね、いま戦争をはじめようとする両国が用意したおびただしい原子爆弾が、もしほんとうに使用されたときには、その破壊力はとてもすごいものであって、そのためにわれらの住んでいる地球にひびが入って、やがていくつかに割れてしまうであろう。そんなことがあっては、われわれ人間はもちろん地球上の生物はまもなく死に絶えるだろう。だから、そういう危険な戦争は中止すべきである――というのです"
],
[
"で、戦争は起ったのですか、それとも……",
"もう一つの重大なことがらは"
],
[
"連合科学協会員は最近天空においておどろくべき観測をした。それはどういうことであるかというと、わが地球をねらってこちらへ進んでくるふしぎな星があるということだ。それは彗星ではない。その星の動きぐあいから考えると、その星は自由航路をとっている。つまり、その星は飛行機やロケットなどと同じように、大宇宙を計画的に航空しているのだ",
"へえーッ。するとその星には、やっぱり人間が住んでいて、その人間が星を運転しているんですね",
"ま、そうでしょうね――だからわれわれは、もう一刻もゆだんがならないというのです。その星はわが太陽系のものではなく、あきらかにもっと遠いところからこっちへ侵入して来たものだ。そしてその星に住んでいるいきものは、わが地球人類よりもずっとかしこいと思われる。さあ、そういう星に来られては、われわれはちえも力もよわくて、その星人に降参しなければならないかもしれない。そのような強敵を前にひかえて、同じ地球に住んでいる人間同士が戦いをおこすなどということは、ばかな話ではないか。そのために、われわれ地球人類の力は弱くなり、いざ星人がやってきたときには防衛力が弱くて、かんたんに彼らの前に手をつき、頭をさげなければならないだろう。――それをおもえば、今われわれ人類の国と国とが戦争するのはよくないことである。つまり、『今おこりかかっている戦争はおよしなさい』と警告したのです",
"ああ、なるほど、なるほど、そのとおりですね",
"それが両国によく分ったと見えましてね、爆発寸前というところで戦争のおこるのは、くいとめられたんです。お分りですかな",
"それはよかったですね。しかし、そんならなぜ、あのようにたくさんの原子弾の警戒塔や警報所や待避壕なんかが、今もならんでいるのですか"
],
[
"いやあれは、あたらしく襲来するかもしれない宇宙の外からの敵が、原子弾をこっちへなげつけたときに、役に立つようにと建設せられてあるんです",
"ああ、そうか。あの星人とかいう連中も、原子弾を使うことが分っているのですね",
"多分、それを使うだろうと学者たちはいっていますよ――それに、もう一つああいう防弾設備がぜひ必要なわけがあるんです",
"それはどういうわけですか",
"それは、ですね。わが地球人類の中の悪いやつが、ひそかに原子弾をかくして持っていましてね、それを飛行機につんで持って来て、空からおとすのです",
"どうしてでしょうか",
"どうしてでしょうかと、おっしゃいますか。つまり昔からありました、強盗だのギャングだのが。今の強盗やギャングの中には、原子弾を使う奴がいるのです。どーンとおとしておいて、その地区が大混乱におちいると、とびこんでいって略奪をはじめるのです。ですから、そういう連中を警戒するためにも、あれが必要なのです"
],
[
"じゃあ、前のような地上の大都市というものは、どこにもないのですね",
"そうですとも。昔は六大都市といったり、そのほか中小都市がたくさんありましたが、いまは地上にはそんなものは残っていません。しかし、地の中のにぎわいは大したものですよ。これからそっちへご案内いたしましょう"
],
[
"それは、ですね。この地下街を建設するためには、あらゆる衛生上の注意がはらってあって私たちが気もちよく暮せるように、いろいろな施設が備わっているのです。たとえば空気は念入りに浄化され、有害なバイキンはすっかり殺されてから、この地下へ送りこまれます。また方々に浄化塔があって、中でもって空気をきれいにしています。ごらんなさい、むこうに美しい広告塔が見えましょう。あれなんか、空気浄化器の一つなんですよ",
"ああ、あれがそうなのですか。広告塔と空気浄化器と二役をやっているのですか"
],
[
"それから湿度は四十パーセント程度に保たれています。ですから、これまでの地下のようなじめじめした感じや、むしあつくて苦しいなどということもありません。また温度はいつも摂氏二十度になっていますから、暑からず寒からずです。年がら年中そうなんですから、服も地下生活をしているかぎり、年がら年中同じ服でいいわけです",
"それはいいですね。衣料費がかからなくていいですね。昔は夏服、合服、冬服なんどと、いく組も持っていなければならなかったですからね。ちょうど布ぎれのないときでしたからぼくのお母さんは、それを揃えるのにずいぶん苦労しましたよ。――ああ、そういえば、ぼくのお母さんは……"
],
[
"もしもし、正吉君。われわれに、すこし心あたりがあるんです。うまくいくと、君のお母さんに会えるかもしれませんよ",
"えっ、ほんとですか。しかし母は、もう死んでいますよ",
"いや、そのことはやがて分りましょう。これから町を見物しながら、そちらへご案内してみましょう"
],
[
"あの天井には、太陽光線と同じ光を出す放電管がとりつけてあるのです。その下に紺青色の硝子板がはってあります。ですから、ここを歩いていると昔の銀ブラのときと同じ気分がするでしょう",
"ああ、あれはほんとうの空じゃなかったのですか――うん、そうだ。地面の中にもぐっていて、青空が見えるはずがない"
],
[
"まあ、これは区長さん。それにサクラ先生に……",
"今日はめずらしい客人をお連れしました。ここにおられる少年に見おぼえがありますか"
],
[
"お母さん、よく長生きをしていてくれましたね",
"正吉や。お母さんは一度心臓病で死にかけたんだけれど、人工心臓をつけていただいてこのとおり丈夫になったんですよ",
"人工心臓ですって",
"見えるでしょう。お母さんは背中に背嚢のようなものを背おっているでしょう。それが人工心臓なのよ"
],
[
"かっこうなんか、どうでもいいのですよ。その人工心臓の力によって、もっともっと長生きをして下さい",
"お医者さまは、あたしの悪い心臓を人工心臓にとりかえたので、これだけでも百歳までは生きられますとおっしゃったよ",
"百歳とは長生きですね",
"いいえ。お医者さまのお話では、もっと長生きができるんだよ。百歳になる前に、もう一度人工心臓を新しいのにとりかえ、それからその外の弱ってきた内臓をやはり人工のものにとりかえると、また寿命がのびるそうだよ",
"じゃあ、お母さん、そういう工合にすると二百歳までも、三百歳までも、長生きができることになるじゃありませんか。うれしいことですね。お父さんなんか昭和二十年に死んじまって、たいへん損をしたことになりますね",
"ほんとうにおしいことをしました。お父さまももう十五、六年生きておいでになったら、わたしと同じように、ずいぶん長生きの出来る組へはいれるのにねぇ。そうすれば、お母さんは、今よりももっと幸福なんだけれど……"
],
[
"あ、お母さん。ここへ、兄さんが訪ねて来てくれたんですって",
"あたしの兄さんは、どこにいらっしゃるの"
],
[
"えっ。この少年が、僕の兄さんですか。ちょっとへんな工合だなあ",
"まあ、ほんとうだわ。写真そっくりですわ。でも、わたしの兄さんがこんなにかわいい坊やでは、兄さんとおよびするのもへんですわね",
"正吉や。こっちはお前の弟の仁吉です。またそのとなりはお前の妹のマリ子ですよ",
"やあ、兄さん",
"兄さん、お目にかかれてうれしいですわ",
"ああ、弟に妹か――"
],
[
"君がびっくりするところへ案内します。ちょっぴり、教えましょうか。日本の新しい領土なんです。ハハハ、おどろいたでしょう",
"日本の新しい領土ですって。それはへんですね。日本は戦争にも負けたし、また今後は戦争をしないことになったわけだから、領土がふえるはずがないですがね",
"そう思うでしょう。しかしそうじゃないんです。君がじっさいそこへ行ってみれば分りますよ",
"近くなんですか",
"いや、近くではないです。かなり遠いです。しかし高速の乗物で行くからわけはありません"
],
[
"ねえ区長さん。田畑や果樹園はどうなっているのですか。地上を攻撃されるおそれがあるんなら、地上でおちおち畑をつくってもいられないでしょう",
"そうですとも。もう地上では稲を植えるわけにはいかないし、お芋やきゅうりやなすをつくることもできないです。そんなものをつくっていても、いつ空から恐ろしいばい菌や毒物をまかれるかもしれんですからね。そうなると安心してたべられない",
"じゃあ農作物は、ぜんぜん作っていないのですか",
"そんなことはありません。さっきあなたがおあがりになった食事にも、ちゃんとかぼちゃが出たし、かぶも出ました。ごはんも出たし、ももも出たし、かきも出た",
"そうでしたね",
"では、まずそこへ案内しますかな。ちょうどよかった。すぐそこのアスカ農場でも作っていますから、ちょっとのぞいていきましょう"
],
[
"この頃の農作物は、みんなこのようなやり方で栽培しています。昔は太陽の光と能率のわるい肥料で永くかかって栽培していましたが、今はそれに代って、適当なる化学線と電気とすぐれた植物ホルモンをあたえることによって、たいへんりっぱな、そして栄養になるものを短い期間に収穫できるようになりました。こんなきゅうりなら、花が咲いてから一日乃至二日で、もぎとってもいいほどの大きさになります。りんごでもかきでも、一週間でりっぱな実となります",
"おどろきましたね",
"そんなわけですから、昔とちがい、一年中いつでもきゅうりやかぼちゃがなります。またりんごもバナナもかきも、一年中いつでもならせることができます",
"すると、遅配だの飢餓だのということは、もう起らないのですね",
"えっ、なんとかおっしゃいましたか"
],
[
"お分りでしたね。つまりこのように、わが国は今さかんに海底都市を建設しているのです",
"海底都市ですって",
"そうです。海底へ都市をのばして行くのです。また海底を掘って、その下にある重要資源を掘りだしています。大昔も、炭鉱で海底に出ているのもありましたね。ああいうものがもっと大仕掛になったのです。人も住んでいます。街もあります。海底トンネルというのが昔、ありましたね。あれが大きくなっていったと考えてもいいでしょう"
],
[
"あ、小学生の遠足ですね。君たち、どこへ行くの",
"カリフォルニアからニューヨークの方へ",
"えっ、カリフォルニアからニューヨークの方へ。僕をからかっちゃいけないねえ",
"からかいやしないよ。ほんとだよ。君はへんな少年だね"
],
[
"ちかごろの小学生はアメリカやヨーロッパへ遠足にいくのです。この駅からは、太平洋横断地下鉄の特別急行列車が出ます。風洞の中を、気密列車が砲弾のように遠く走っていく、というよりも飛んでいくのですな。十八時間でサンフランシスコへつくんですよ",
"そんなものができたんですか。航空路でもいけるんでしょう",
"空中旅行は、外敵の攻撃を受ける危険がありますからね。この地下鉄の方が安全なんです。なにしろ巨大なる原子力が使えるようになったから、昔の人にはとても考えられないほどの大土木工事や大建築が、どんどん楽にやれるのです。ですから、世界中どこへでも、高速地下鉄で行けるのです",
"ふーン。すると今は地下生活時代ですね",
"まあ、そうでしょうな。しかし空へも発展していますよ。そうそう、明日は、羽田空港から月世界探検隊が十台のロケット艇に乗って出発することになっています"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行
初出:「少年読売」
1947(昭和22)年10~12月
入力:海美
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"おッ母アはどこかへ逃げちまったよ。お前が可愛くはないのだろうテ",
"あの立葵の咲いていた分れ家のネ",
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],
[
"イヤイヤそうじゃないよ。あの子は赤沢の伯父さんが、どっかへ連れていってしまったんだよ。おッ母アは、あの子も可愛くないのだろう",
"じゃお母ア様は、誰が可愛いの",
"そりゃ分らん……赤沢にでも聞いてみるのじゃナ"
],
[
"ねえ、お父さま。もとのお家へ帰りましょうよ、ねえ",
"もとのお家? なぜそんなことを云うのだ"
],
[
"お父さま。あたしたちの故郷は、何というところなの",
"故郷のところかい。おお、お前は小さかったから、よく知らんのじゃなア。イヤ知らなけりゃ知らんでいる方がお前のためじゃ。そんなものは聞かんがいい、聞かんがいい"
],
[
"ほう、こんなことが出ていますわ。――二月一日、『タラップ』ノ手摺ヲ修繕スル。相棒ガ不慣デナカナカ捗ラヌ。去年ノ今頃モ修繕シタコトガアッタッケガ、ソノトキハ赤沢常造ノ奴ガイタカラ、半日デ片付イタモノダ。彼奴ガ下船シテ故郷ニ引込ンダノハソノ直後ダッタ。モウ一年ニナルノニ、彼奴ハ故郷ニジットシテイテ、ドコニモ働キニ行コウトシナイ。ワシハオ勝ノコトガ心配デナラン。ト云ッテモ、オ勝ハモウスグオ産ヲスル。オ産ヲスルマデハ、イクラ物好キナ彼奴トテモ手ヲ出ス様ナコトガアルマイ。トハ云ウモノノ、女ヲ盗ムニハ姙婦ニ限ルトユウ話モアルカラ、安心ナラン――ほほう、亡くなった貴女さまのお父さまは、この赤沢常造という男を大分気にしていらっしゃるようですが、これはどんな関係の方でございましょうか",
"その赤沢というのは、伯父さんだと憶えています。一度父と大喧嘩をしたので、あたしは知っているのです",
"どんなことから大喧嘩なすったのでございましょう",
"さあそれは存じません",
"それは重大なことですね。……それから奥様のお生れ遊ばしたのは何日でございましょうか",
"その日記の最後の日附がそうなのです",
"ああそうでございますか。そうそう、この同じ二月十九日に、貴女さまはお生れ遊ばしたのでございますね"
],
[
"これは現地について調べるのが一番早や道でございますわ。探偵が机の上で結論を手品のように取出してみせるのはあれは探偵小説の作りごとでございますわ。本当の探偵は一にも実践、二にも実践――これが大事なので、そこにあたくしたちの腕の奮いどころがあるのですわ、奥さま",
"でもその現地というのが雲を掴むような話で第一何処だか見当がついていないのですよ",
"それは奥さま、調べるようにいたせば、分ることでございますわ"
],
[
"物売の声で、なにか憶えていらっしゃるものはございません?",
"さあ、――"
],
[
"そうです、魚売りのおばさんの呼び声を思いだしましたわ。こうなんです――いなや鰈や竹輪はおいんなはらーンで、という",
"おいんなはらーンででございますか。たいへん結構なお手懸りでございますわ。ではもう一つ、お祭の名称など、いかがでございます",
"さあ、――明神さまのお祭りだとか、それから太い竹を輪切りにしてくれるサギッチョウなどというものがありました",
"ああ左義長のことですネ。それも結構です。それからこの辺の村の名とか町の名とか憶えていらっしゃいません",
"近所の地名ですか何ですか。アタケといっていましたわ",
"ああアタケ、安宅と書くのでしょう。ああ、それですっかり分りました"
],
[
"そんなことはないでしょう。僕、これでも二十三か四なんです",
"あら、妾が二十三なのを知ってて、わざとそんなことを仰有るのでしょう",
"いえいえ、そんなことはありません。本当に二十三か四なんです",
"二十三か四ですって、三か四かハッキリしないのは、一体どういうわけなの"
],
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"僕を持っていたのは蛭間興行部の銀平という親分でしたが、僕は祭礼に集ってくる人たちから大人五銭、小人二銭の木戸をとった代償として、青いカーバイト灯の光の下に、海底と見せた土間の上でのたうちまわり、自分でもゾッとするような『海盤車娘』の踊りや、見せたくない素肌を曝したり、ときにはお景物に濁酒くさい村の若者に身体を触らせたりしていました。もちろん見物の衆は、僕のことを女だと思っていたのです。本当は僕は立派に男なんです。けれど生れつき血の気のないむっちりとした肉体や、それから親分の云いつけでワザと女の子のように伸ばしていた房々した頭髪などが、僕を娘に見せていたのでしょう",
"海盤車娘って、あんたの身体になにか異ったところでもあるんですか"
],
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"それは異状があれば有るといえるのでしょう。でも結局は興行師の無理なこじつけでした。それで見物の衆はインチキ見世物を見せられたことになると思うのですが、実は僕の背の左側に楕円形の大きな瘢痕があるんです。そして僕がその瘢痕を動かそうとすると、その瘢痕は赤く膨れて背中よりも五六分隆起して上下左右思うままにピクピクと動くのです。ですからどうかすると、むかし僕の背中には一本の腕が生えていたのを、その附け根から切断したために、跡が瘢痕になっているようにも見えるのでした。見世物になるときは、そこにゴム製の長い触手をつけ、それを本当の腕であるかのように動かすのでした。つまり僕は二本の脚と三本の腕とを持っているので、丁度五本の腕の海盤車の化け物だというのです。いかがです。もしお望みでしたら、今此所でその気味の悪い瘢痕をごらんに入れてもようございます",
"まあ、ちょっと待ってちょうだい――"
],
[
"こうして話を伺っていると、あたしとあんたとは、たいへん身の上が似ているように思いますわよ。でも、あたしとしては、知りたいと思う一番大事なことが、いまのあんたの話では説明されてないように思うのよ。第一それはネ、あたしと双生児のその相手というのは、あんたみたいに男ではなくて、女だと信じているわ。つまりこうなのよ。あたしが小さいとき、その双生児の寝ている座敷牢のようなところへ行ったときに、その子は頭髪に赤いリボンをつけていたのをハッキリ憶えているのよ。赤いリボンをつけているんだから、きっとその子は女に違いないと思うわ",
"しかし僕は、長いこと女の子にされてしまって海盤車娘というやつをやっていました。女といえば女じゃありませんか",
"さあ、それは違うでしょう。あんたが女の子に化けたのは八九歳から後のことでしょう。興行師の手に渡ってから、都合のよい女の子にされちまったんじゃありませんか。あたしの憶えているのはずっと幼い五六歳のころのことです。その頃のあたしはちゃんと父母の手で育てられていたので、男の子を特別に女の子にして育てるというようなことはなかったと思うわ",
"そうでしょうかしら"
],
[
"それにサ、世間をみても双生児には男同志とか女同志とかが多いじゃないこと。そしてさっきからあんたの顔を見ているのだけれど、あんたとあたしとはまるで顔形も違っていれば、身体のつきも全然違っているように思うわ。ね、そうでしょう。どこもここも違っているでしょう。強いて似ているところを探すと、身体が痩せていないで肉がボタボタしていることと、それから月の輪のような眉毛と腫れぼったい眼瞼とまアそんなものじゃないこと",
"それだけ似ていれば……",
"それくらいの相似なら、どんな他人同志だって似ているわよ。とにかくあんたは、あたしの探している双生児の一人じゃないと思うわ",
"そういわないで、僕を助けて下さい"
],
[
"それはこうなのでございますわ。あたくしはどうしたものか、極く小さいときから夢遊病を患っていたのでございます。それで夜中に起きてどこかへ行ってしまうようなことがあってはと、いつも座敷牢の中に入れられていたのでございますわ",
"でもいつでも貴女は寝てばかりいて、起きてたところを見たことがないわ。昼間から寝てばかりいたのは何故ですの",
"あれはこうなのでございます。あたくしは或る夜、夢遊して外に出たんですの。そして不幸にも崖から川の中へ落ちて足を挫き、腕を折り、ひどい怪我をしたことがあるので、それで立ち上れなくて、いつも寝ていました",
"ああそうだったの。気の毒だったわネ。でも、脚を挫いているのなら夢遊でも外は歩けないのじゃない",
"いえそれはこうなんですの。夢遊病者は、たとえ足が悪くても、そのときは歩けるのですから不思議ですわ"
],
[
"あの、『三人の双生児』とお父さまがお書き遺しになった言葉ね、あれはどういう意味でしょうね。あなたと妾とだけでは二人の双生児で、三人ではありませんものネ",
"ええあれはお父さまのユーモアであったんですわ。つまりお産の褥の上には、お姉さまとあたくしとの二人の嬰児と、それからお産を済ませたばかりのお母アさまと、都合三人で枕を並べて寝ていたのを御覧になって三人の双生児とお書きになったんですわ",
"アラいやだ。そんなことだったの"
],
[
"真ちゃん。貴方に少し命令したいことがあるのよ。きっと従うでしょう",
"命令ですって。……ええようござんすよ",
"いいのネ、きっとよ。――"
],
[
"あの静枝さんという女は、ありゃ本当は何なんです",
"オヤ早もう目をつけているの、ホホホホ"
],
[
"そりゃ奥さん、大出鱈目ですよ",
"出鱈目だって",
"そうです、みんな嘘っ八ですよ。こうなれば皆申上げてしまいますがネ、あの女は暫く僕と同座していたことがあるのです。やっぱり銀平の一団でしたよ。お八重というのが本名で、表向きは蛇使いですよ",
"人違いじゃない? 速水さんの調べが済んでるのよ",
"いまに尻尾を出すから見ていてごらんなさい。第一年齢が物を云いますよ。あの女は申年なんで、今年はやっと二十一です。奥さんは午の二十三でしょう。それでいて二人が双生児というのは変じゃありませんか。ま、御用心、御用心ですよ"
],
[
"あ、奥さま。お客様がお見えになりました",
"お客様? 誰なの"
],
[
"お若い紳士の方ですが、お名前を伺いましたところ、奥さまに逢えばわかると仰有るのです",
"名前を伺わなければ、あたしが困りますといって伺って来なさい",
"ハア、でございますが、その方……"
],
[
"じゃあ真さん、先へ入って待っててちょうだい。しかし何を見ても出て来ちゃ駄目よ",
"ははア、なんですか。じゃお先へ入っていますよ"
],
[
"まあ変でございますわねえ。いままでここに立っていらっしゃいましたのですけれど、どこへお出でになったのか、姿が見えませんわ",
"まあ、いやーね"
],
[
"これは奥さまの想像していらっしゃるよりも面倒なことになると存じますわ。お世辞のないところ、奥さまの立場は非常に不利でございますわ。お分りでしょうけれど。ことにこの部屋から物を持ちだして証拠湮滅を図ろうとなさっていますし(といって廊下のトランクのことを指し)その上に真一さんが横わっている寝具は誰が見ても奥さまの寝具に違いありませんし、それからこの部屋に焚きこめられた此のいやらしい挑発的な香気といい……",
"ああ、もうよして下さい"
],
[
"速水さん。お願いですから、智恵を借して下さい。十分恩に着ますわ",
"さあ――わたくしも奥さまを絞首台にのぼらすことも、また社会的に葬ることも、あまり好まないんでございますが――"
],
[
"でも困りましたねえ――",
"お礼なら十分しますわ",
"いや銭金で片づかないことでございます"
],
[
"もとこの一座にいたという海盤車娘を御存知?",
"ああ、海盤車娘かネ。海盤車娘もたくさんいるが、どの娘かネ",
"娘と名はついているが、本当は安宅真一という男なんですが……あの肩のところに傷跡の残っている……",
"ああ、真公のことかネ。あいつはついこの間まで居たが、とうとうずらかりやがった。あっしとしては、これんばかりの小さいときから手がけた惜しい玉だったが……貴女さんはなぜ真公のことを訊きなさるのかネ"
],
[
"ああ、真公の生立ちが知りたいというのだネ。あれは今からザット十五六年も前、四国の徳島で買った子だったがネ。当時はなんでも八つだといったネ。病身らしい子で、とても育つまいかとは思ったが、肩のところにある瘤が気に入って買ってしまったのさ",
"誰から買ったんですの",
"さあ、そいつは誰だったか覚えていないが、とにかく何処の国にもある人売稼業の男から買った",
"その親は誰なんでしょう",
"さあ、その親許だが"
],
[
"苗字は安宅というのじゃありませんの",
"イヤ安宅は後になってあっしがつけてやった名前だよ。真公の生れた村の名だからいいと思ったのでネ。さて、本当の苗字はちょっと忘れちまったネ。なんしろ古いことでもありあまり覚える心算もなかったのでね。ひょっとすると、梱の底に何か書附けとなって残っているかもしれない"
],
[
"ああお八重かネ。あいつも先頃までいたが、可哀想なことをしたよ",
"可哀想なことというと……",
"なに、あの女は真公に惚れてやがったが、真公が居なくなると気が変になってしまって、鳴門の渦の中へ飛びこんでしまったよ",
"まあ、誰か飛びこむところを見たんですの",
"見たというわけじゃないが、岩頭に草履やいつも生命よりも大事にしていた頭飾りのものなどを並べてあったのを見つけたんだ。それから小屋の中からは、皆に当てた遺書が出て来たが、世を果敢んで死ぬると、美しい文字で連ねてあった。あの子は仲間の噂じゃ、女学校に上っていたことがあるらしいネ",
"死骸は上ってきたんでしょうか",
"さあ、どうかネ。――なにしろあっし達は旅鴉のことであり、そうそう同じ土地にいつまでゴロゴロして、出奔した奴のことを考えている遑がないのでネ。それと鳴門の渦に飛びこめば、まあ死骸の出ることなんざ無いと思った方がいいくらいだよ"
],
[
"まアどうしたのよオ。お客さまって、誰れ?",
"それが奥さま、いつか夜分にいらっして、名前も云わずにお帰りになった若い紳士の方でございますよ。忘れもしません、あれは真さまがお亡くなりになった晩でございましたわ",
"えッ、あの晩の人が!"
],
[
"アノ、失礼でございますが、貴方は誰方さまでいらっしゃいましょうか",
"ああ、僕ですか。イヤどうも余りに驚いてしまった、名乗ることを忘れて申訳ありません"
],
[
"赤沢というと徳島の安宅の……",
"そうです。よく覚えていましたネ。僕は赤沢常造の息子なんですが、父だの僕だのを覚えていらっしゃいますか"
],
[
"でも、どうして名前を云って下さらなかったの。赤沢と仰有れば、妾必ず出ていったと思うわ",
"イヤそれはネ。貴女に会って驚かせたかったのさ"
],
[
"ちょっと説明しても分らんなア。まア遺伝学みたいなものだが、今までのようなものではない。……イヤもうよしましょう。それよか今日は御馳走でもして貰って、昔話でもしたいネ",
"ええ、御馳走してよ。そして是非泊っていって下さいネ。昔話を沢山したいわ。妾もいろいろ伺いたいことがあるのよ"
],
[
"いや泊ることだけは断る。僕はこれで、ひとの家にお客なんかになっては中々睡れない性分なのでネ。それにチャンとホテルに部屋をとってあるのだから、心配はいらないよ",
"いいから、ぜひお泊りなさいよ",
"いやいや断る。――"
],
[
"どうも小さい折のことで、僕はよく覚えていないけれど、いつか夜、父が子供を連れて来たことを覚えている。僕はその顔をみたわけではないが、二階に上げた子供がヒイヒイと泣いているのを聞きつけた。それが君のいう座敷牢の中にいた同胞だろうと思うが、泣き声から想像すると、二人のようでもあったがネ",
"ええなんですって、連れられていったのは二人だったんですって、まア、――"
],
[
"幼いときのことだから、ハッキリしたことが分らないんだ。それに父の常造も先年死んでしまったし、母はもっと前に死んでいた。今、安宅村へ行っても、その夜のことや、君の同胞の秘密について知っている人は一人もあるまい",
"そうでしょうか。――"
],
[
"でも君の知りたいと思っていることは、絶対に分らないというわけではあるまい。つまりそれは学問の力によることだ。もし君が欲するならば、僕はいかなる手段によってでもその答を探し出してあげようと思う。そう気を落したものでもないよ",
"分る方法があれば、どんなことをしてでも探しだしていただきたいわ。妾、これが分らないと死んでも死に切れないと思うのよ"
],
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"珠枝さん、ハッキリは分らないが、どうやらこれは砒素が入っていたような形跡がある。無水亜砒酸に或る処理を施すと、まず水のようなものに溶けた形になるが、こいつは猛毒をもっている。普通なら飲もうとしても気がつく筈だが、当人が酒に酔っているかなにかすれば、気がつかないで飲んでしまうだろう。砒素は簡単に検出できるから、あとで検べてみよう。しかしまず間違いないと思うネ",
"まア、水瓶の中に砒素が入っていたの、まア恐ろしいこと。一体誰がそんなものを入れたのでしょう",
"いや、今に僕が分らせてみるよ"
],
[
"随分貴方は頑固なのネ。貴方と妾とは従兄妹じゃありませんか。泊っていったって何ともないじゃないの",
"ああ。――"
],
[
"貴女は知らないらしいネ。貴女の西村家と、僕の赤沢家とは、赤の他人なんだよ",
"あら、――でも赤沢の伯父さんと呼んでいたことを覚えているわ",
"ははア、そんなこと、意味ないよ。幼いころは、だれを見ても『おじさん』と呼ぶ。僕は知っているけれど、両家は他人同志だった",
"まア、そうなの――"
],
[
"君は、そうした要求の背後に、いかなる本尊さまがあるのかを知らねば駄目だ",
"本尊さまって?",
"端的に云えば、君は母性慾に燃えているのだ。君の自分の血を分けた子孫を残したがっているのだということに気がつかないかネ。同胞探しは、その根本的要求が別の形になって現れたに過ぎない。本当のところは、君は子供を生みたいのだ"
],
[
"ねえ、貞雄さん、妾、医師である貴方にとても重大なお願いがあるのよ。――",
"医師である僕に、どんな願いがあるというのかネ"
],
[
"それよか、妾の身体に、何か変ったところか、瘢痕のようなものは見付からなくて",
"気の毒だけれど、君を悦ばせるような異状は何一つ発見できなかったよ。――"
],
[
"あッ動いちゃいけない。――",
"アラどうして!",
"もう一時間ばかり、そのまま絶対安静にしているんだよ。いろいろな注射などをしたものだから、その反応が恐い。生命が惜しけりゃ、僕の云うことを聞いて、もう一時間ほど静かに横臥しているのだ"
],
[
"貴女は僕に聞きたい色々のことがらを持っているだろうネ。イヤ、暫く黙っていてくれたまえ。僕が適当な順序を考えて一応話をするからどうか気を鎮めてよく聞いてくれ給え。――まず真一君を殺した犯人のことだが、それは今日、本人の自白によってハッキリ分ったよ",
"まア、誰なのでしょう"
],
[
"そう興奮しちゃいけない。――その犯人というのは、やはり速水女史だった。静枝さんは無関係だ",
"ああ、速水さんが真ちゃんを殺したの",
"そうなのだ。僕は或る交換条件を提出し、その代償として聞いたんだ。で、その条件というのは、君が腹に持っている胎児を流産させることなのだ。イヤ驚いてはいけない。一体、速水女史は事実君の妹でもなんでもない蛇使いのお八重という女を籠絡して、静枝と名乗らせ、この家へ乗り込ませた。それはお八重がたまたま君によく似ていたので使ったまでで、そうすることによって君の財産をお八重に継がせ、そこで速水女史は軍師の恩をふきかけて結局莫大な財産を自由にしようという企みをしたのだ。その計画はたいへん巧く行った。これなら大丈夫と思っていたところ、意外にも意外、君が姙娠してしまったので、速水は大狼狽を始めたのだ。なぜなら、君に子供が生れりゃ、一切の財産はその子供が継ぐに決っているからネ。そこでこれはたまらないと悄気ているところへ、僕が悪党らしく流産手術を持ちだしたものだからすっかり安心して、真一君を亜砒酸で殺したことを自白に及んだというわけさ。もちろん想像していたとおり、この家に潜伏していた女史は、酔っている真一が水を呑むのを見越して、水瓶の中にその毒薬を入れて置いたのだ。女史が事件後、真先にその水を明けに行ったのも肯かれるネ"
],
[
"――駭いてはいけない、この僕なんだよ",
"まア、貴方ですって、――"
],
[
"じゃあ、それが本当なら、なぜ妾は貴方の胤を宿したのです。誰が訛されるもんですか。嘘つき!",
"君と関係を持たなくても妊娠させることは出来る。――君は覚えているだろうが、この前僕が医師として君の身体を検べたときに、簡単な器械で君に人工姙娠をしといたのだ。造作のないことだ",
"じゃあ、忌わしい関係はなかったんですね"
],
[
"でもなんの目的で、妾を身籠らせたんです!",
"それは君、君の頼みを果しただけのことだよ。君は『三人の双生児』のことを知りたがって、どんな手段でもいい、と云ったではないか、実を云えば、先刻話をした結論の中には欠陥があったのだ。それは私の父と君の母親とが果して関係したかどうかということだ。それを僕は遺伝学で証明しようと思った。調べてみると、君の母親の血統には両頭児の生れる傾向があるのだ。真一真二が生れたのは、君の母親が割合に血縁の近い従兄である西村氏と関係したので、その血属結婚の弱点が真一真二の両頭児を生んだのだ。しかし僕の父とは他人同志だから、とにかく健全な君が生れた。そこで君が私の父の子であることを証明するのには僕の考えた一つの方法があると思うのだ。それはそこでもう一度君が君の血族から受精してみると、きっと血族結婚の弱点で両頭双生児が生れるだろうという――これは僕が論文にしようと思っているトピックスだ。そこで僕は学問のためと君の願いのため、僕の精虫を君の卵子の上に植えつけてみたのだ。その結果……",
"おお、その結果というと……"
],
[
"その結果は、果然僕の考えていたとおりだ。僕は偉大なる遺伝の法則を発見したのだ。すなわち君がいま胎内に宿している胎児は、果然真一真二のような両頭児なのだよ。レントゲン線が明かにそれを示して呉れたところだ",
"ああ、双頭児ですって?"
],
[
"僕の研究は一段落ついた。で、この上は君の希望を聞いてみたいと思う。その双頭児をこれから大学の病院で流産させてしまおうと思うのだがネ",
"ええどうぞ、そうして下さい。是非そうして下さい。妾は親となって育てるのはいやです"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1934(昭和9)年9、10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「現代推理小説大系8 短編名作集」(講談社、1973(昭和48)年)を参考に、誤植が疑われる以下の箇所を直しました。(数字は底本のページと行数)
○316-上-1 キュウと唇と曲げて→キュウと唇を曲げて
○320-下-22 遠く距《へただ》って→遠く距《へだた》って
○333-上-15【底本では、右の1行が脱落】→「出鱈目だって」
○358-上-22 妾をそれを覗いた→妾はそれを覗いた
※「妊娠」と「姙娠」の混在は、底本通りとしました。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"おい、あの金博士め、けしからんぞ",
"なんだなんだ、なぜ、博士はけしからんのか",
"わしが案ずるところによると、金博士は、豪商に買収されているのにちがいない",
"買収されているって。それは、なぜそうなんだい",
"だって、そうじゃないか。第一は柱時計、第二は水甕、第三は花瓶、第四は寝台というわけで、今までのところで、この租界の中に於て、この四つの品に限り全部おしゃかになってしまったではないか。われわれは今夜から寝るのを見合わせるわけにも行かない。つまり寝台を新たに買い込まにゃならぬ。花瓶はちょっと縁どおいが、水甕だって時計だってすぐ新しく買い込まにゃならぬ。そうなると、商人は素晴らしく儲かるではないか。なにしろべら棒に沢山売れることになっているからなあ。それに彼奴らのことじゃから、足許を見て、うんと高く値上げするにきまっている。つまり、金博士は、商人に買収されて、あんな警告文を出したのにちがいないと思うが、どうだこの見解は……"
],
[
"ね、分るだろう。だから、あの新聞広告を見て愕いて、水甕を割ったり、寝台をばらばらにしたやつは、大間抜けだということさ。だから、第五号以下、どんなことが、書き並べてあっても、気にすることなんか一向ないのさ",
"なるほど、なるほど。ええと第五号は、紫檀メイタ卓子か。それから第六号が、拓本十巻ヲ収メタル書函か。それから……"
],
[
"先生、尻尾どころか、鱗さえ残っていません。絶望です",
"ふーん、そうかね。ふふーん"
],
[
"おい、秘書よ。劉洋行へ電話をかけてみい。あそこなら、すこしは在庫品があるかもしれん",
"先生、外部への電話は、一切かけてはならないという先生の御命令でしたが、今日はかけてもいいのですか"
],
[
"はいはい、毎度ありがとうござい。こちは劉洋行でございます",
"おお、劉洋行かね。おれは金博士じゃが、なんとかして燻製ものを頒けてくれ。お金に糸目はつけんからのう",
"え、燻製ものでございますか。お生憎さまでございます。ちょっとこのところ、鮭も鱈も何もかも切らしておりまする",
"しかし、冷蔵庫の中とか、後とかを探してみたまえ。棚のものを全部下ろしてみたまえ。燻製ものの一尾や半尾ぐらいはありそうなものじゃ。とにかく金に糸目はつけん。君にもしっかりチップを弾むよ",
"さあ、弱りましたな。ちょっとお待ち下さい、……ところで金博士。一体、十五年先というような長期性時限爆弾は、何の効果があるのですか",
"おや君は、いやに変な声を出すじゃないか。とにかく時限爆弾などというようなものは、長期のものほど効果が大きいのじゃ。たとえば一塊の煉瓦じゃ。新しい煉瓦が路に落ちていれば目につくが、その煉瓦が、建物に使われて居り、既に十五年も経って苔むして古ぼけているとすると、誰がそれを時限爆弾たることを発見するだろうか。その油断に乗じて、どかーんと一たび爆発すれば、相当な損害を与えることが出来る。だから、時限爆弾は長期のものほど大いによろしいのである",
"なるほど。で、もう一つ伺いたいのはその、長期性時限爆弾の正味ですが、その実体はどれくらいの大きさのものでしょうか。定めし、ずいぶん小さいのでしょうなあ",
"時限爆弾の大きさかね。それは大きいのも小さいのもいろいろ有るがね。今まで造ったうちで極く小さいものというと、婦人の持っているコンパクトぐらいじゃね。わしが今覚えている第88888号という時限爆弾は、金色燦然たるコンパクトそのものである。パウダーの下に、一切の仕掛けと爆薬とが入れてある",
"それは危険ですね。金色のコンパクトで、第88888号でしたね。さあ、なんとかして、その運の悪い貴婦人に警告してやらねばなるまい",
"なんだって。こら、貴様は、劉洋行かと思っていたら、いつの間にか相手が変っていたんだな。け、怪しからん。とうとうわしから時限爆弾のことを聞き出し居った。ここな、卑劣漢め!",
"いや、お待ち遠さまでございました。只今倉庫中を調べましたところ……",
"なにをなにを、その手は喰わないぞ。今ごろになって、声を元に戻しても駄目だ。け、怪しからん",
"え、博士。もう燻製は御入用ではないのですか",
"ありゃありゃ。はて、これはたしかに劉洋行の店員の声じゃ。待ってくれ。本物の店員君なら、電話を切らないでくれ。して、燻製があったか",
"有りました。とって置きの、すばらしい燻製です。外ならぬ博士の御用命ですから、主人が特に倉庫を開きましてございます。それがあなた、珍味中の珍味、蟒の燻製なんでございます",
"ええっ、蟒の燻製?",
"はい、たしか蟒です。胴のまわりが、一等太いところで二米半、全長は十一米……",
"それは駄目だ。いくらわしでも、そんな長い奴を、とても一呑みには出来んぞ",
"いや、一呑みになさるには及びません。厚さが十糎ぐらいの輪切になって居りますので、お皿にのせて、ナイフとフォークで召しあがれます",
"おお、そうか。そいつは素敵だ。じゃあ、うまそうなところを一片、大至急届けてくれ"
],
[
"おほん、食事の御用意が整いましてございます",
"おお、待ちかねた。今、そこへ行くぞ"
],
[
"ええ博士、さっきお電話を拝聴していますと、劉洋行とお話の途中に、何者かお電話を横取りにした者があったようでございますな",
"うん、あれか。あれは、後で気がついたが、シンガポール総督の声じゃった――ううん、もうすこし味が何とかならんものか……",
"で、その何でありますが、そうそう、あの電話中に、長期性時限爆弾の大きさについてのお話がありましたが、極く小なるものに至ってはコンパクトぐらいだそうで……",
"そうだよ。どうもこの味がもう一歩……",
"そこで、何でございますなあ、そのコンパクト型爆弾で、純金でもってお作りになったものがありましたそうで……",
"あったよ。すばらしい出来のもので、南京路の飾窓に出ているのを有名なアフリカ探検家ドルセット侯爵夫人が上海土産として買って持っていったことを、わしは今でも憶えている。あっそうだそうだ、あはははは、これはおかしい"
],
[
"ど、どうなさいました",
"いや、思い出したよ。あのコンパクトに仕掛けて置いた時限爆弾は今日が十五年満期となるのじゃ。だから、それ、愉快じゃないか。あの侯爵夫人がジャングルの中かどこかであのコンパクトを出して皺だらけの顔を何とかして綺麗にしようと、夢中になって、鼻のあたまをポンポンと叩いている。途端にコンパクトが、どかーンと爆発してよ、侯爵夫人の顔が台なしになってしまう。ふふふ、考えてみても滑稽なことじゃ",
"なるほど、それは一大事でございますなあ。もう電報を出しても間に合いませんでございましょうな"
],
[
"えっ、侯爵夫人は亡くなられたのでございますか。するとかの時限爆弾が早期に爆裂いたしまして……",
"ちがうよ。爆弾の時限性については、あくまで正確なることを保証する。侯爵夫人は爆死せられたのではなく、アフリカ探検中、蟒に呑まれてしまって、悲惨な最期を遂げられたのじゃ",
"あれっ、蟒に呑まれて……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003349",
"作品名": "時限爆弾奇譚",
"作品名読み": "じげんばくだんきたん",
"ソート用読み": "しけんはくたんきたん",
"副題": "――金博士シリーズ・8――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・はち――",
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"初出": "「新青年」1941(昭和16)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-11-11T00:00:00",
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"名ローマ字": "Juza",
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[
"うむ、たった一つのスイッチを入れたばかりで、こんな巨人のような器械が運転を始め、そして千手観音も及ばないような仕事を一時にやってのけるなんて……",
"イヤそれより恐ろしいのは、この馬鹿正直な器械たちのやることだ。もしこのベルトと歯車との間に、間違って他のものが飛びこんだとしても、器械は顔色一つ変えることなく、ビール瓶と木箱と同じに扱って仕舞うことだろう"
],
[
"なるほど、君の眼は早いな",
"だからネ、もし石炭の吊り籠の上に人間が乗っていて、それが下へ落ちると、地上へは落ちないでこの通風窓にひっかかることだろう。すると勢いでスルスルとこの室に滑りこんでくることが想像できる。滑りこんだが最後、この恐ろしい器械群だ",
"吊り籠に若し人間が乗っていたとしても、この窓にばかり降ってくるなどとは考えられない"
],
[
"しかしもう一つ考えなければならぬ条件は、吊り籠に載っていた人間は気を失っていたということだ",
"ほほう",
"気が確かならば、オメオメこんな上まで搬ばれて来るわけはないし、若し身体が縛りつけられてあったとしたら、下へは墜ちることが出来なかろう。さア、とにかくあのケーブルが怪しいとなると、吊り籠の先生、どこから人間の身体を積んできたかという問題だ。下へ降りて石炭貯蔵場まで行ってみようよ"
],
[
"塀というと――",
"塀というと、あれだ。あの黒い塀だッ。あの塀に、これが貼ってあったのだ"
],
[
"オイどうしたんだ",
"イヤこれは実に大変な場所だよ、君"
],
[
"おいミチ子。今夜は奢ってやるぞ。さア祝杯だ。山野には何かうまいカクテルを作ってやれ。僕は珍酒コンコドスを一つ盛り合わせてコンコドス・カクテルとゆくかな",
"コンコドス? およしなさい。アレ飲むとよくないことよ。それに辻永さん、今夜は顔色がたいへん悪いわよ。どうかして?"
],
[
"さっきの女のうちに、箱詰になった青年が三人とも泊ったことが判った。三人とも夜中にいなくなったので覚えているそうだ。遺留品も出て来た",
"ほほう",
"ところがその青年たちは、申し合わせたように近所の薬屋で、かゆみ止めの薬を買って身体に塗ったそうだ",
"三人が三人ともかい",
"そうなのだ。三人が三人ともだ。それがこの薬屋でかゆみ止めの薬を買って、身体に塗るしさ。女の話では、なんでもその前は全身かゆがって死ぬように藻がいていたそうだ",
"どうしてそんなにかゆがる客をわざわざ取ったのだ",
"イヤそれは、○かゆい(家につくちょっと前から始まる)――なんで、始めからかゆがっていた訳じゃないのだ",
"じゃどこかで拾ってきた客なのだネ",
"これだ。○ストリート・ガール(銀座で引っぱられる)――つまり銀座から、あの場所まで引張ってゆくうちに、かゆくなったのだ",
"どうして、かゆくなったのだ",
"それは後から話すよ"
],
[
"さア一杯やろうよ",
"ウン",
"どーだ、これを飲んでみないか。君の口にはよく合うと思うがな"
],
[
"あの話ネ、かゆくなるというのは、どういうわけなのだ",
"かゆくなるわけかい。ウン、話をしてやろう。――西洋に不思議な酒作りがある。それは禁止の酒を作っては、高価ですき者に売りつけるのだ。法網をくぐるために、酒瓶の如きも普通のウイスキーの壜に入れ、ただレッテルの上に、玄人でなければ判らない目印を入れてある。こうした妖酒のあることは君にも判るだろう"
],
[
"これは大変に高価なもので、到底日本などには入って来ないわけのものだが、だが一本だけ間違ってこの銀座に来ているのだ。或るバーの棚の或る一隅にあるんだ。ところがそのバーの主人も、その酒の本当の効目というものを知らないのだから可笑しな話じゃないか",
"それでは若しや……"
],
[
"ナニ大変なこと!",
"そうだ。大変も大変だ、自分の身体が箱詰めになってしまうんだ。無論息の根はない。再び陽の光は仰げなくなるのだ"
],
[
"まさか――",
"事実なんだから仕方がない。その擬似夢遊病者はフラフラとさまよい出でて、必ず例のユダヤ横丁に迷いこむ",
"それは偶然だろう",
"イヤ地形がユダヤ横丁へ引張りこむのだ。あとは簡単だ。あの夢遊病者のような歩き方が、団員の認識手段なのだ。夢遊病者がやって来た。それ団員だといって、その男を本部へ引張りこむ。その上で尋ねてみると、どうも様子がおかしい。遂に正体が露見するが、結社の本部を知られてはもう生かして置けぬということになる。やっつけられて気を失ったところを、黒塀の向うへ投げこみあの吊り籠に載せて、ギリギリとビール会社の高い窓へ送る。あとは器械に自然に捲きこまれて息の根も止れば、屍体も箱詰めになって、ビールと一緒に積み出される――",
"そんな歯車仕掛けのようにうまくゆくものか。行けば奇蹟だ",
"奇蹟が三人の犠牲者を作るものか。ゆくかゆかないか。第四番目の犠牲者はもう出発を始めているのだ",
"なに?",
"考えても見給え。例の妖酒から始まって、川っぷち、薬屋、ガールの家、ユダヤ横丁、黒塀、クレーンと吊り籠、ビール工場の高窓、箱詰め器械、それかち貨物駅と、これだけのものは次から次へとつながっているのだ。切迫した尿意と慾情とかゆみと夢遊と地形とユダヤ横丁の掟と動くクレーンと動く箱詰め器械と、これだけのものが長いトンネルのように繋がっている。トンネルの入口はあの妖酒で、出口はビール箱だ。入口を入ったが最後、箱詰め屍体になるまで逃げることはできないのだ。なんと恐ろしいことではないか"
],
[
"駄目だった",
"あの人、黄疸だったようネ",
"黄疸! 黄疸というと、なんでも彼でも黄色に見える病気だネ",
"そうよ",
"それで判った。僕のグラスの無色の酒を黄色のコンコドスと見誤り、自分の黄色のコンコドスを、もっと黄色い別の酒と見誤ったのだ。だからコンコドスは最初から註文したとおり辻永の前にあったのだ。彼は話をうまく持っていって、僕にコンコドスを飲ませるつもりだったのに違いない",
"コンコドスの事をまだ云ってるの。――辻永さんはどこへ行ったのでしょう。大丈夫かしら"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「モダン日本」
1933(昭和8)年9月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001246",
"作品名": "地獄街道",
"作品名読み": "じごくかいどう",
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"初出": "「モダン日本」1933(昭和8)年9月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
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[
[
"そうすると三津子さんは、今朝旗田邸から引かれたというわけだね。三津子さんが今朝旗田邸に居たことについて、あらかじめ、君は知っていたの",
"いいや、知らなかった。僕は昨夜は十二時を廻って帰って来たんだ、昨夜は地方版の記事について面倒なことが起って、遅くまで社に残っていたもんだから。……妹の部屋へ声をかけたところ、妹はたしかに返事をした。もちろん寝ていることが分った。声の聞えた見当からね。そこで僕は安心して、自分の部屋に入って寝床へもぐりこんだのだ。ところが今朝僕が起きてみると、妹が居ないのだ。買物にでも行ったのかと思っていたが、なかなか帰って来ない。そのうちに出社の時間が来た。今朝は昨夜からの記事の一件で、早く社へ出ることになっていた。それで僕は、妹にかまわず家を出たんだ。そうだ、あれは七時だったよ",
"なるほど"
],
[
"で、君はその後、妹さんに会ったか",
"いや、会っていない",
"なぜ三津子さんは今朝旗田邸を訪ねたんだろうか。そのわけを知っているかね",
"いや、それは知らない。僕は三津子が旗田と何かの交渉を持っていることについてすら、今日までさっぱり気がつかなかったのだからね。なんという呑気すぎる兄だろうか"
],
[
"はあ。私はそう思いますが……",
"で、その容疑者一号は、ピストルを持っていたかね",
"いや、持って居りません。追及しましたが頑として答えません",
"ピストルで射殺したことは認めたかね",
"ピストルなんか知らないと、頑張りつづけて居ります",
"いえ。ピストルなんか知らないとね。なるほど、そうかね。……で、君がその婦人を容疑者とした理由は?"
],
[
"犯人がこの家の外部の者だと、そこまでは私はいい切っていませんのですが、何分にもハンドバグが屍体の尻の下にあり、そのハンドバグの持主が今朝もこの邸に居わせましたんで、その婦人――土居三津子を有力なる容疑者に選ばないわけには行かなくなりました",
"なるほど。そうすると、土居三津子がどういう手段で旗田を殺害したかという証拠も欲しいわけだが、それは見つかったかね",
"それは、さっきも申しましたが、土居三津子はピストルを持って居りませんので、そのところがまだ十分な証拠固めが出来上っていません"
],
[
"或いはそういう連中のうちに、ピストルを隠している者がいるんじゃないかねえ。それを調べておくんだよ、まだ調べてなければ……",
"はあ、調べます"
],
[
"で、その家政婦と弟の両人は、昨夜居たのか居ないのか、それはどうかね",
"家政婦の小林トメは、夕方以後どこへも外出しないで今朝までこの屋根の下に居りました。それから被害者の弟の亀之介ですが、当人は帰宅したといっています。その時刻は、多分午前二時頃だと思うと述べていますが、当時泥酔していて、家に辿りつくと、そのまま二階の寝室に入って今朝までぐっすり睡込んでしまったようです。当人はさっきちょっと起きて来ましたが、まだふらふらしていまして、もうすこし寝かせてくれといって、今も二階の寝室で睡っているはずです。もちろん逃げられません、監視を部屋の外につけてありますから"
],
[
"その卓子の上に並んでいる飲食物や器物は誰が搬んで来たのかね。それは分っている?",
"はい分って居ります。洋酒の壜以外は、家政婦の小林トメが持って来たものに相違ないといって居ります。それは午後九時、家政婦が地階の部屋へ引取る前に、用意をして銀の盆にのせて持って来たんだそうです"
],
[
"大寺君",
"はあ"
],
[
"死因不明としておいて、その外にもっと調べることが残っているから、その方を先に片づけて行こうじゃないか",
"はあ"
],
[
"私の方はもう殆んど全部、捜査を終ったんですが、検事さんの方でまだお検べになることがあればお手伝いいたします",
"それならば力を貸してもらいたいが……あの鼠の死骸だが、あれは君がこの邸へ来たときに既に死んでいたのかね"
],
[
"そう。事件捜査に当る者は、一応現場附近に於けるあらゆる事物に深い目を向けてみるべきだと思うね。殊に、その事物が尋常でないときには、特に念入りに観察すべきだな",
"はあ。どぶ鼠が死んでいるということは、尋常ではありませんですかな。すると、犯人はそのどぶ鼠を狙い撃ったのですかな。そうなると、犯人は射撃の名手だということになりますね。……おやおや、このどぶ鼠は、どこにも弾丸をくらっていませんですよ"
],
[
"そこに居る帆村君が、その鼠を欲しがっているようだから、氏に進呈したまえ",
"ははあ"
],
[
"帆村さん。検事からのお指図です。わしの見落しているものを教えて頂きましょうか",
"はあ。それでは警部さん。どうぞこちらへ……"
],
[
"いや警部さん。あなたがたが常に大車輪になって活動することを要求せられている現状を、まことにお気の毒に思います。予算をうんと殖やしてもらわねば、これじゃたまりませんよ",
"どうもこれは……"
],
[
"結局、すべての事件は完全に且つ速やかに解決せられなければ、民衆の迷惑は大きいわけですからね",
"それはそうだ"
],
[
"で、警部さんは、どこに興味を感ぜられましたか",
"もちろん、それに残っている指紋のことだよ、鑑識を頼んでおいたから、今に分る",
"それも興味のあることでしょう"
],
[
"しかし私が面白いと感じたのは別のことです",
"別のことというと……"
],
[
"それはですね、その空缶の中はきれいだという点です。なぜきれいであるか。すっかり中身を喰べて洗い清めたものであるか。それとも中に何もつかないようなものが缶の中に入っていたのであるか。それならば、それは一体どんなものだったろうか。中身を喰べたのち洗い清めたものなら、なぜそうすることの必要があったのだろうか……",
"また君の十八番を辛抱して聞いていなきゃならないのかね"
],
[
"まず、事件の当時同じ屋根の下にいた家政婦を呼んで来たまえ",
"家政婦ですか。小林トメですね",
"そうだ、小林トメだ"
],
[
"小林トメさんだったな",
"はい、さようでございます"
],
[
"検事さんが聞かれるから、正直に応えなければいかん",
"はい",
"小林さんはこの邸に住み込みなんだってね"
],
[
"はい。さようでございます",
"そして昨日は、夕方以来どこへも外出せず今朝までこの邸の中にいたそうだね",
"はい",
"亡くなった御主人に最後に会ったのは何時かね。そしてそれは何処であったかね",
"こちらの方にも申上げたのでございますけれど"
],
[
"いつものように、私は昨夜九時五分過ぎにお夜食の皿やコップなどを盆にのせました。それが最後でございました",
"御主人はいつも夜食をとるのかね",
"はい。ちょうどその頃までに旦那様はお仕事をお切上げになります。そして一日の疲れを、洋酒と夜食とでお直しになるのでございます。この日課は毎日同じようにつづいて居りました"
],
[
"この小卓子の上に並んでいるものが、そうなんだね",
"はあ、さようでございます",
"そのとき御主人は、この室内に居られたのかね",
"はい",
"どこに居られたかね",
"私が扉をノックしますと、室内からご返事がありました。そこで私は扉を開いて中に入りましてございます。すると旦那様は、あそこの洗面器のあるところのカーテンを分けてこっちへ出ていらっしゃいました。……それから私は、あの小卓子の上に、盆の上に載せてきたものをいつものように並べたのでございます。その間に旦那様は、窓の方へいらっしゃいまして、両手をうしろに組み、なんだか考え事をなさっている様子で、窓のこっちを往ったり来たりなさっていました。それは私がこの部屋を退りますときまで続いていました"
],
[
"そのとき、この窓は明いていたかどうか、君ははっきり憶えているかしら",
"窓は両方とも、ぴったり閉って居りましてございます",
"じゃあカーテンはどうだろう。今のカーテンの位置と、どこか違っているかね"
],
[
"私が来るまでは、現場はすべてそのままにしておいて貰いたいね",
"はあ。失礼しました。しかしカーテンを開かないと取調べにあまり暗かったものでございますから……"
],
[
"私は窓には指一本触れていません。さっきごらんになりました現場見取図にも、あの窓があの通り明いていたことはちゃんと出て居ります",
"図面は見ているが、ちょっと君に確めてみたかっただけのことだ"
],
[
"どうしたんだ、昨夜の九時五分以後は……",
"はい。私は自分の部屋へ引取りまして、そして睡りましてございます。あのウ……"
],
[
"それから……",
"それから朝になりまして、五時半に起きましていつものように朝食の用意にかかりましてございます。すると誰か入って来まして声を私にかけた者がございます。見ますと、それが……それが例の娘さんなのでございました",
"ふん、土居三津子だったのか",
"はい",
"それは何時かね",
"六時過ぎだと思いますが、正確には憶えて居りません",
"土居三津子は、君に何といったか",
"昨夜ハンドバグを御主人の部屋に置き忘れて帰ったので、それを返してもらいたいと仰有いました",
"土居三津子がはっきりそういったのだね、昨夜主人に会ったことも、自分が主人の居間へ通ったことも認めたんだね",
"さようでございます",
"で、君はどういったのか",
"それはお気の毒ですが、旦那さまは只今おやすみ中ですから、お目覚めになるまでお待ちになって下さいと申上げました",
"ふむ。すると……",
"すると娘さんは、すぐ戻して欲しいのだが、鍵で扉をあけて居間へ入れてくれといいました。もちろん私はそれを断りました。居間の扉を開く鍵は私が持って居りませんので",
"娘はどうしたかね",
"では仕方がないから、御主人がお起きになるまで待たせて下さいといいました。私はそれではどうぞ御随意にと申して、あとは私の仕事にかかりました",
"それから……",
"それから……そのうちに芝山宇平さん――爺やさんです――芝山が出て来る、お手伝いのお末さんが出て来るで、賑やかになりましたが、そのうちに爺やさんが、どうも旦那さまの居間がおかしいぞということになり、それから……",
"ちょっと待った、それからのことは大寺警部に話したとおりだろうから、よろしい。ところで、ちょっと腑に落ちないことがあるんだ、小林さん"
],
[
"いいえ、それは出来ませんです。……私ははっきりしたことを存じませんですけれど",
"だが、君はそれだけ知っているじゃないか、外から玄関を明ける方法のあること、内から外へ出るときは内側から錠を下ろさねばならないこと。それだけ知っているんなら、その方法を知らない筈はない",
"いいえ、私は誓って申します。そんなからくりは存じません",
"じゃあ、さっきいったことを知っているのは、どうしたわけだ"
],
[
"玄関の扉にそういう仕掛があるとしたら、主人の弟の亀之介は、いつでも外から自分で扉を開いて邸の中へ入って来られるわけだね。そうじゃあないか",
"いえいえ、旦那様は弟御さまに、そんな秘密な扉のあけ方をお教えになっていませんのでございます。というのは、旦那様は弟御さまを……"
],
[
"それで帰宅せられたのは何時でしたか",
"さあ、私はそんなことを気にしなかったもんで正確なことは覚えていませんが、家政婦の小林が玄関の戸を開けて私を中へ入れたから、小林が覚えているでしょう"
],
[
"クラブを午前一時半に出たと仰有ったが、それを立証する道はありますか",
"ありますとも。クラブには徹夜の玄関番が居ますからね、会員が帰ればちゃんとしるしを付けることになっています",
"あなたは夕方から翌日の午前一時半まで、ずっとクラブに居られたんですか。その間、外へ出たようなことはありませんか",
"ありません。始終クラブに沈澱していました。嘘と思ったら玄関番と携帯品預り係に聞いて下さい",
"しかし玄関からでなくとも外出する方法はあるでしょうからね"
],
[
"異なことを伺うもんだ。すると貴官がたは、私がクラブから脱けだしてこの邸へ帰って来て兄貴を殺した、それを白状しろというんですか",
"いや、そんな風に意味を取って貰っては困る……"
],
[
"そうです。そういう工合に訊いて下さい。――答は、然りです",
"被害者――あなたの御実兄は何故殺されたか、その原因についてお心当りはありませんか"
],
[
"さあ、はっきりとは知りませんね",
"はっきりでない程度では何か思い当ることがありますか"
],
[
"すると、婦人関係の怨恨でもって御実兄は、殺害されたとお考えなんですね",
"いや、それは私の臆測の一つです。私がちょっと気がついたのはそれだというだけのことです。私は兄貴の事業のことや社交のことを全く知らんですが、もしその方を知っていれば何かお話出来るかもしれませんが、まことにお気の毒です。兄貴は全然そういうことを私に窺わせなかったのですからね",
"遺産のこともですか"
],
[
"遺産がいくらあるか、そんなことを私が知るものですか",
"遺産は、誰方が相続することになっていますか"
],
[
"知りませんね。ひとつ兄貴と関係のある弁護士の間を聞き廻って下さいませんか。そうすれば遺言状があるかも知れませんからね",
"戸籍面から見ると、あなたが相続されるのじゃないですか"
],
[
"あんたはそのイト子という婦人を見たこともないんですか",
"さあ、どうですかねえ",
"見たか見ないか、はっきり答えて下さい",
"見たかも知れず、見ないかも知れない――おっと怒鳴るのは待って下さい。私はこれが伊戸子だと正面から紹介されたことはない。しかしいつどっかで、その伊戸子という婦人を見たかも知れませんからね。例えば兄貴のところへ忍んで来る女の中に伊戸子が交っている場合もあり得るわけですからね",
"ずいぶんひねくれたいい方をするのが好きなんだねえ"
],
[
"私は他にも持っていますから、その燐寸は検事さんに差上げます",
"あ、それはありがとう。……どうだね帆村君。今の人物の印象は……"
],
[
"雇人の取調べを一通りやりあげたいね。あとは誰と誰だったかね",
"爺やの芝山宇平とお手伝いのお末です",
"じゃあ芝山の方から始めよう"
],
[
"君が芝山宇平さんか",
"はい。さようでございます",
"君は通勤しているのかね",
"はい。さようでございます",
"昨夜は、君はどこにどうしていたかね",
"はあ。家に居りました。夕方六時にお邸からいつものようにお暇を頂きまして、家へ帰りついたのが六時半頃、それから本を読みまして十時頃に寝てしまいました。そして今朝はいつものように六時頃お邸へ参りました",
"それは確かかね",
"はい、確かでございます。なんなら家内にお聞き下されば、よく知れますで……",
"君の住所はどこだっけな"
],
[
"どうして気がついたか、話してみなさい",
"ええ、ええとそれは……今朝参りまして、庭に出ました。すると旦那様の御居間に電灯が点いています上に、窓の硝子戸が、一応閉っちゃいますが、いつものように掛金がかかって居りません。つまり硝子戸が平仮名のくの字なりに外へはみ出して居りました。これはふしぎなことでございます。旦那様は戸締を厳重においいつけなさる方で、後にも先にもそんな不要慎な戸の閉め方をなさる方ではありませんでな、わしはたいへんふしぎに思いました",
"なるほど、それで……",
"それでわしは家へ入って、小林さんに、何だか旦那様の御居間の様子が変だぞやと申しましてな、騒ぎだしたようなわけでございます。御居間の戸を開けるのはどうかと思いましたので、一応庭に脚立梯子を立てまして、硝子窓越しに覗いてみました。わしは腰が抜けるほどびっくりしましたよ。なぜって旦那様が首のうしろを真赤にして死んでいらっしゃるんですからなあ、いや、そのときわしは身体が慄えだして、脚立の上から地面へとび下りたものでございますよ",
"それからどうした",
"そこでわしと小林さんは、家へ入ってお手伝いのお末さんも呼び、どうしようかと相談しました。その結果、二階にお休みになっている旦那様の弟御さま――亀之介さまのことでございます――弟御さまを先ずお起ししにかかったんですが、はあどうも、弟御さまは御返事はなさるが一向起きておいでがない。そして段々時間も経ちますので、わしらは困っちまいましてな、そこでとうとう三人で戸にぶつかって錠をこわして中へ入ってみましたんで。あとはごらんになったあの通りでございます"
],
[
"土居三津子という若い婦人を見たことがないかね",
"今朝見ましてございますが、それが初めてでな、前には見たことがございません",
"あの娘が主人を殺した犯人だとは思わないか",
"存じません。全く存じません",
"亀之介という人は怪しいとは思わないか。なんかそれに関して知らないか",
"存じませんです。何にも存じません",
"じゃあ家政婦の小林はどうだ",
"おトメさん? おトメさんは大丈夫です。そんなことの出来るような女じゃありません",
"君はどうだ。犯人じゃないか",
"と、とんでもない……",
"お手伝いのお末というのは怪しくないか",
"あれは真面目な感心な娘で、これも間違いございません",
"亀之介と小林との間に、何か睨み合うような事情があるのを知っているか"
],
[
"そうらしいです。一発発射しています。このピストルを見付けたのは、家政婦の部屋の中です",
"なに家政婦の部屋の中に、このピストルが……"
],
[
"花が活けてある花瓶かね",
"いえ、花は挿してありません",
"じゃあ空かね",
"はい。今ここへ持って参りましょう",
"いや、こっちから行くよ"
],
[
"この花瓶なんだが、底に深さ一糎ばかりの水が残っていた。ピストルは、銃口を下にして入っていたそうだ。ところがピストルの銃口を虫眼鏡でよく調べたが、錆はまだ全然発生していない。だからこのピストルが花瓶の中へ隠されたのはこの一両日のことだということが推察される。それだけのことなんだが……",
"どうもありがとうございました"
],
[
"亡くなったこの家の主人の所有物ではないのかね",
"旦那さまがピストルをお持ちになっていたかどうか、わたくしは存じません"
],
[
"そのピストルは、わたくしの部屋のどこに隠してあったんでしょうか。全くわたくしの知らないことなんです。そんなことがあれば、誰か……誰かがわたくしに罪をなすりつけるためにそのような恐ろしいことを――",
"他人の陰謀だというんですね。それならそれは一体誰です。誰だと思いますか"
],
[
"それは申上げられません",
"言えない。何故言えないのですか",
"…………",
"死んだ主人の弟の亀之介氏ですか"
],
[
"具体的にいって貰いたいですね。お手伝いのお末のことですか、それともあの土居三津子のことですか",
"それは申上げられません。今は何もいいたくないのです。しかしそのピストルは、決してわたくしが使ったものではございません。わたくしはこれまでにピストルというものに触ったこともなければ、ピストルで射撃したことも勿論ございません"
],
[
"あのう、あの花活から花を捨てましたのは昨日の朝のことでございます。その花活がどうかいたしましたか",
"その中に、このピストルが隠してあったのですよ",
"まあ……",
"それについてどういう感想をお持ちですかな",
"何にもございません。全くわたくしの知らないことでございますから……",
"昨夜深更にこのピストルで主人を射殺しそれからこれをあなたの部屋の花瓶の中に隠した。なかなかいい隠し場所ですね。そういうことをなし得る立場にある人物は、極めて数が少いのですぞ。その当時この邸に居合わせたのは、実にあなたひとりである。そうでしょう。だからあなたは、もっとはっきり自分の立場を明らかにする必要がある。そう思いませんか"
],
[
"わたくしがしたことではありません。それに唯わたくしひとりがこの家にいたように仰有いますが、外にも人が出入りしました。あの土居三津子という女のお客さまもそうですし、それから亀之介さまもそうでございました。わたくしだけじゃございません",
"それはそうですが、昨夜土居三津子はあなたの部屋へ入りはしなかったのでしょう。あなたは先に、それを証言している",
"それはそうですけれど……",
"亀之介氏はこの家の主人が殺されてから二三時間後に帰って来た。午前二時頃だったそうですね。あなたもそれを認めている。そうでしょう。",
"は、はい。ですけれど、旦那さまを殺したのはわたくしではありません……"
],
[
"訊問を? 一体誰に訊問をするんですか",
"とりあえず二人あるんです。一人は亡くなった主人の弟の亀之介氏。そのあとが芝山宇平という爺さんですがね"
],
[
"いいでしょう。許可します。しかしここで訊問をして下さい",
"はい、承知しました。じゃあ皆さんの御座興に、僕がちょっと余興をやらせてもらいます"
],
[
"昨夜この邸へお戻りになったとき、玄関の扉を開けてあなたをお入れしたのは、家政婦さんだったそうですね",
"そのとおり",
"家政婦さんはどんな服装をしていましたでしょうか"
],
[
"なるほど。それからあなたはどうしなすったんですか",
"それから? それから僕は二階へ上って自分の部屋へ入り、ぐっすり寝ましたね",
"ああ、ちょっと。その間になにか、なさったことはありませんか",
"その間にですか? ありませんね、何にも……",
"お忘れになっているんでしょうね、あなたは家政婦に冷い水を大きなコップに一杯持ってくるようにお命じになった"
],
[
"腰紐がぶら下っていることや、なまめかしい長襦袢のことはよく覚えていらっしゃるのに、水を貰って呑んだことは記憶がぼんやりしているのですね",
"それは皮肉ですか、こっちは正直に話をしているのに……",
"いや、あまり気にしないで下さい。そして家政婦が水を大きなコップに入れてくるまで、どこで待っていましたか?",
"二階へ上る階段の下です",
"お待ちになっている間、そこからどこへも動かれなかったんですか、例えば小林の後を追いかけて勝手元へ行ってみるとか、或いは又、小林の部屋へ入ってみるとか、そんなことはなかったですか",
"失敬なことをいい給うな。僕が――この邸の主人の弟が、なんであんな婆さんの後を追うんです。僕は色情狂ではない…………",
"いや、よく分りました。これで伺いたいことはすみました。どうぞお引取り下さい"
],
[
"しかし、あの兄にしてこの弟あり、ではないかねえ",
"兄は三津子のような若い美人を相手にしています、弟だって三津子ぐらいのところならいいでしょうが、まさかあの大年増の尻を追うことはないでしょう",
"まあ、もうすこし帆村君の演出を拝見していよう",
"そんなことよりも、ピストルの方を早く片づけたいものですがねえ",
"だから、今土居三津子がここへ来るじゃないか"
],
[
"実は、ピストルが見つかったんです、一発だけ撃ってあるピストルがねえ",
"はあ。わしはピストルは見たこともねえでがす",
"いや、君のことじゃない。……そのピストルが隠してあったところが、ちょっと問題なんだがねえ。はっきりいうと、それは家政婦の小林さんの部屋なんだ",
"えっ、……"
],
[
"小林さんの部屋を入って右手に二畳の間がある。そこに茶箪笥があって、その上に花活が載っている。花は活けてない。水も殆んど入っていない。その花活の中に問題のピストルが、銃口を下にして隠してあったんだ。いいですか",
"へえへえ"
],
[
"さあ、そこであなたに特に知らせて置くわけだが、そのピストルは小林さんが使って主人を撃ち殺し、そのあとで自分の部屋の花活の中に隠した――という嫌疑が小林さんに懸っているんだ",
"それは人違いです。おトメさんはそんな大それたことをするような女じゃあない"
],
[
"だが、小林さんには、その嫌疑を否定する証拠がないんだ。つまり、自分がそのピストルを使わなかったことを証明することが出来ないんだ。また自分がピストルをその夜花活に隠さなかったことも証明できない。小林さんは今、あっちの部屋で気が変になったようになっている",
"残酷だ。おトメさんは人殺しをするような女じゃないです。そんな調べは間違っている",
"だがねえ宇平さん。そうでないという証拠が出て来ないのだよ。或いは小林さんの不運かも知れないが、証拠がないことには、小林さんは殺人容疑者として引かれることになるがね",
"それじゃ天道さまというものがありませんよ。おトメさんが人殺しをしないということは、わしが証人に立ちます",
"どういうことをいって証人に立ちます",
"日頃からよく交際っているが、決してそんな大それたことをする女じゃないと――",
"それだけでは役に立たない。もっとはっきりと証拠をあなたが出さないと駄目ですよ。例えばね、小林さんが部屋を出ていった留守に、或る男が入って来て、そっと上にあがり、花活の中にピストルを入れて、それからまたそっと出て行った。それをあなたがちゃんと見ていた――という風な証言が要るんだ",
"ははァ……",
"或いは又、あの晩、この邸へ来て主人を訪ねた土居三津子という若い女の客が、主人に送られて玄関から出て行った時刻――それは多分正十一時頃らしいが、小林さんがそのすこし前から始まって午前零時半頃までのこの一時間半ばかりの間、決して主人のところへ行って彼を殺さなかったという証明が出来てもいいんです。これにもいろいろの場合があるが、例えばですね、その一時間半に亙って、小林さんは自分の部屋から一歩も外へ出なかったということを、あなたが証明出来るなら、小林さんは晴天白日の身の上になれるんです。どうですか芝山さん"
],
[
"あれはわしが家内にそういって、嘘をいわせたんです。でないと、わしは御主人殺しの関係者と睨まれて、うちはたいへんなことになるから、わしは自宅に居たことにするんだぞと家内を説き伏せたわけです",
"それを妻君にいったのはいつですか",
"今朝のことです。旦那様がいけないと分ってから後で、ちょっと家へ帰って参ったんです"
],
[
"君は、亀之介氏が帰って来たのを知っていますか",
"はい、存じて居ります",
"亀之介氏は、階段の下で、小林さんに冷い水を大きなコップに入れて持って来いと命じたが、その声を聞かなかったですか",
"はい、確かに聞きました。わしはおトメさんの蒲団の中にいながら、外の方に聞き耳を立てていましたから、それを確かに聞いたです。そしてそのあとおトメさんが勝手元の方へ行った様子ですから、これはあぶないぞと思いました",
"なるほど。それで……",
"それでわしは、すぐ蒲団から出るとわしの枕を抱えて、押入れの中に逃げこみました。そして蚊帳を頭から引被って、外の様子に聞耳を立てていました",
"すると、どうしました",
"すると、誰かが戸を開いて、部屋へ入って来た様子です。それはおトメさんではない。おトメさんなら、すぐわしを呼ぶ筈です。何しろ蒲団の中にわしの姿がないんですからなあ。……ところが、入って来た者は、何にも声をかけないのです。しばらく部屋の中を歩き廻っているらしかったが、そのうちがちゃんと音がしました。瀬戸物の音です。瀬戸物に何かあたる音でしたがなあ、確かに聞いたのですよ",
"どの辺りにその音がしましたか。花活のある辺りではなかったでしょうか",
"そうかもしれません。いや、確かにその方角でした。……それから間もなくその人は部屋を出ていきました",
"結局その謎の人物は何分ぐらい部屋にいたことになりますか",
"さあ、どの位でしょう。気の咎めるわしにはずいぶん永い時間のように感じましたが、本当は三十秒か四十秒か、とにかく一分とかからなかったと思います",
"その者が部屋を出て行く時、君はその者の顔か姿を見なかったのですか",
"いいえ、どうしまして。わしはもう小さくなっていました。それからしばらくして、外に――階段の下あたりに、おトメさんの声がしました。それから暫くたって、今度はおトメさんが本当に部屋に入って来たらしく、入口に錠を下ろし、それから上へ上ってから、『おやお前さん、どこへ隠れてんのさ』といいました。そこでわしは、枕を抱えて押入れから出ました。おトメさんはおかしそうに笑っていました",
"もうよろしい、そのへんで……"
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[
"それも同じことだ。死因がはっきりしないのに、その女を訊問しても仕様がないからね",
"ははあ"
],
[
"そうか。すぐ警視庁へ送りかえされるのか。どうだろう、その前ここでちょっと妹に話が出来ないだろうか",
"駄目だろうね"
],
[
"何も用事はなかったんだね",
"はい。別にお知らせするほどの急ぎものはございませんでした。もう現場の方はお済みですか",
"今日の方はお仕舞となった。……で、君は僕が何処に居たか、知っているのかい"
],
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"じゃあ訊くが、何処だい",
"旗田さんのお邸でしょう",
"その通りだ。――でどうしてそれが分ったのかね、僕は何も君へノートを残して置かなかったのに……",
"ノートを残していらしったじゃございませんの"
],
[
"はてね",
"灰皿に真黒焦げになって紙の燃え糟がございました。その燃え殻の紙には、鉛筆で書いた文字の痕が光って残っていました。鉛筆は石墨ですから、火で焼いても光は残って居るわけでございますわね",
"もうよろしい、君は大分仕事に慣れて来たようだ"
],
[
"ははは、今の話かね、こういう訳なんだ、僕が今朝君の電話で事務所を出て行ったとき、この八雲君はまだ事務所へ来ていなかった。そこで僕は旗田邸へ行ったことを紙に鉛筆で書いて、それを机の上に残して行こうと思ったが、ふと思いついて、その紙を灰皿の上で火をつけて焼いてしまったんだ。紙は焼けて黒い灰と化するが、八雲君のいったように鉛筆の痕は残っている。それに八雲君が気がつくかどうかをちょっと験してみたというわけだ。ところがお嬢さんはちゃんと気がついた。そこで及第点を与えたという、それだけのこと",
"ふーン、なるほどね。探偵商売もこれじゃ芯が疲れるわい"
],
[
"僕の観察では君の妹さんに対する係官の嫌疑材料は、今日一日で、まだいくらも殖えなかったと見ている。むしろ妹さん以外の人物へ、新しい嫌疑の眼が向けられ、妹さんの容疑点数はいくらか減ったようにも思われる",
"さあ、その話――今日の調べの話をすっかり僕に聞かせてくれないか"
],
[
"一応そういうことが成り立つわけだ。しかし僕の受けた印象では、この事件はそれで結末がつくとは思えない",
"……というと、どうなるんだ",
"いいかね、これは明日裁判医古堀博士の報告を聴いた上でないとはっきりいえないんだが、まあそれはそれとしてだ、旗田鶴彌氏の心臓麻痺は極めて自然に起ったものか、それとも不自然なものであったかによって、又新しく問題が出来るわけだ",
"どういうことだ、その自然とか不自然というのは……",
"つまり、死ぬ前の旗田氏は心臓麻痺を起すかもしれないというほどの病体にあったかどうかが問題なんだ。もし氏が健康を損ねていて、いつ心臓麻痺が起るかもしれないと、医師が警告していた――というような事実が発見されるなら、旗田鶴彌殺害事件なるものは著しく稀薄になるんだ。しかし反対に、旗田氏が心臓麻痺などを起すような病体でなかったということが証明されると、やっぱり旗田鶴彌殺害事件として扱わねばならなくなる",
"君は、どっちだと考えるのか、今までの材料と君の感じとでは……"
],
[
"知らない、全く知らない",
"犯人の見当ぐらいはついているのじゃないかい",
"いや見当もついていない"
],
[
"確かな証拠というやつは、もう相当集っているのかい",
"うん。僕としてはいくつかのそれを持っている、動かない証拠をね",
"じゃ、それは今どんな形に積みあげられているのかね。どんな方向に向いているのか",
"まあ、それはいわないで置こう"
],
[
"ねえ帆村君、そうだろう。すると、その取調べの途中に、重大なる容疑者として新しく登場した小林トメなんかは、容疑者から解放されたわけだろう",
"ピストルは、やっぱりこの事件に重大な役割をつとめていると思う。だからそれに関する取調べは無駄ではないと思うよ",
"なぜさ。意味がないものは消去して考えたがいいと思うがね",
"しかしねえ、君"
],
[
"たとえ旗田氏が心臓麻痺で事切れた後とはいえ、ピストルは旗田氏に向けて発射されたんだからねえ。引金を引いた主は、旗田氏に対して或る感情を持っていたことになる。つまり、旗田氏の頭部へ弾丸を送り込んだということは、彼が一つの言葉を綴って残したことになるんだ。このことは君にも分るだろう",
"旗田氏を撃ったことが一つの言葉を現わしている――ということは分るがねえ……",
"それが分れば、ピストルがこの事件に重大な役割を持っていることが分るじゃないか",
"なるほど、それはそうだ。だが、一体それはどんな言葉を綴っているんだろう",
"綴っているのはどんな言葉か。それはこれから解きに掛るところだよ。そして重要な点は、あのピストルの引金を引いた主が、そのとき既に旗田氏が死んでいるのを知っていたか、それとも知らなかったのか、そこだと思うよ"
],
[
"旗田氏が既に死んでいると分っていれば、御丁寧にピストルの引金を引くこともなかろうじゃないか。だから当人は、旗田氏が既に死んでいることを知らなかったに違いない",
"君は常識家として正しいことをいっている。しかしだね、引金を引くときには、狙う相手を注視しなければならない。そのときに、相手が既に死骸であることに気がつかない場合というのが一体あるであろうか",
"それはないだろうね。死んでいるか生きているかは、一目見れば分ることだからね"
],
[
"おやおや、僕はいつの間にか矛盾したことを喋っているぞ",
"いや、それは大した矛盾ではない。君は、一目見れば死んでいるか生きているか分るといったが、もし一目さえ見ることが出来なかったら、或いは相手をはっきり見ることが出来なかったとしたら、相手の生死を判別し得ない場合が生ずるんだ。例えば、相手が暗闇の中に居る、それに対してピストルの引金を引き、奇蹟的に命中した場合……",
"それは吾々の場合ではない。なぜって先刻君は、芝山宇平の証言として、旗田氏の部屋には電灯が煌々と点っていたといったじゃないか",
"今吾々は一つの演習をやっているんだが、君が気になるなら、この場合はあり得ないとして、横に置こう。……もう一つの場合としては、引金を引いた者の視力が非常に弱いか、それとも精神が乱れていて、旗田氏が既に死骸であることを判別し得なかった場合――こういう場合がある",
"ふーン、すると誰がやった仕業かな",
"ああ、それがよくない"
],
[
"まだ実証上の条件が揃っていないのに、軽々に人物を決めてかかるのはよくない。非常に危険なことだ",
"だけれど、僕は君のように冷静ばかりで押して行けないよ。だってそうじゃないか、僕の妹が絞首台へ送られるか送られないですむかの瀬戸際に今立っているんだからね。一秒でも早く犯人を突留めたい。犯人らしい有力者でもいいが……",
"深く同情する。しかしそういう場合であるが故に、一層君は冷静でなくてはならないと思う",
"いや、僕はもう我慢が出来ない。皆はっきりさせてしまわないでは居られないんだ"
],
[
"ピストルをぶっ放したのは誰だ。そのピストルは家政婦の部屋から出て来た。家政婦が撃ったに違いない。家政婦は旗田鶴彌に深い恨みを抱いていたんだ",
"家政婦が撃ったと決めるのは軽卒に過ぎる。家政婦があのピストルを使ったものなら、花活の中なんかにピストルを隠しておくものか。部屋を調べりゃすぐ分るからね",
"そうでない。巧妙な隠匿場所だ",
"それに、あのピストルの弾丸が、どの方向から、そしてどんな距離から飛んで来たのかを考えてみたまえ。あれは少くとも旗田の身体から三メートル以上は離れたところから撃ったものだ。そしてその方向に窓があることを思い出したまえ",
"窓? 窓は閉っていた",
"うん、窓は閉っていた、硝子扉が平仮名のくの字なりになって閉っていた――と芝山は証言している。ということは、硝子窓は、いつになく、よく閉っていなかったんだ。内側のカーテンも細目に開いていたという。だから外から窓を開いてピストルの狙いをつけて撃ったんだとしても、今いった条件にあてはまるわけだ"
],
[
"すると犯人は窓の外からピストルを室内へ向けて撃ったというのかね",
"犯人――かどうか知らんが、引金を引いた主は、窓の外から撃った公算大なりと、僕は認めている。このことは尚明日、はっきりした証拠を現場でつかみたいと思っている。もし時間に余裕があればね",
"そんな大事なことなら、今日のうちに調べて置けばよかったのに",
"なあに、ピストルを何処から撃ったかという問題は、大して重大なことじゃないんだ。だから急いで調べるに及ばない",
"僕は反対だ。それは非常に重大なことと思うがね。窓の内側か外側か、どっちから撃ったかということで、容疑者の顔触れががらりと変るんではないかね",
"すると君は、その顔触をどんなに区別するつもりか",
"僕はこう思う"
],
[
"窓の内側――すなわち室内であれば、家政婦の小林か芝山宇平が怪しい。また窓の外からであれば、小林……小林を始め婦人ではあり得ない",
"婦人でないというと誰々のことだ",
"沢山の容疑者がある。亀之介、芝山宇平、その外に死んだ鶴彌と関係のある男たちだ",
"芝山は、部屋の中でも外でも、両方に可能性があるんだね",
"芝山は怪しい奴だ。ねえ、帆村君。君はこの男に目をつけているんじゃないか。怪しい節がうんとあるよ。老人ぶっているかと思うと、若者のようにとんでもない色気を出したり、言うことだって何をいっているか分ったもんじゃないし、その前身だって洗ってみる必要があるよ",
"三津子さんはピストル関係者ではないのかね"
],
[
"もちろん無関係だ。なぜといって、妹は鶴彌氏に送られて玄関を午後十一時頃に外へ出ている。鶴彌氏の死んだのは、それから一時間ぐらい後のことなんだ。その頃僕は家へ帰りついていて、妹はちゃんと家に居た。それからは外へ出なかった、その夜は……。妹はピストルには無関係だ",
"それはいい証言だ。明日大寺警部には是非聴いて貰って置こう。先生は三津子さんが撃ちかねないものと考えているようだから",
"とんでもない話だ。うちの妹はピストルの撃ち方だって知らないんだ"
],
[
"中毒による場合、感電による場合、異常なる驚愕打撃による場合……でしょうな",
"旗田の場合は、その中のどれに該当するのか、カテゴリーだけでも分りませんか",
"感電ではない。もし感電であれば、電気の入った穴と出た穴との二つがなければならず、また火傷の痕がなければならぬ。そういうものはない。だから感電ではない。従って他の二つの場合、すなわち中毒に原因するのか、或いは異常なる驚愕等によるものかどっちかでしょうな",
"そのどっちだか分らんですか",
"分らんねえ。研究の結果がうまく出れば分るかもしれん"
],
[
"ピストルの弾丸が頭の中に入った時刻と、死んだ時刻との差はどの位だか分りますか",
"あまりはっきり分らんね",
"大体何時間ぐらい後になりますか、ピストルの弾丸を喰らったのは……",
"何時間というような長い時間じゃない。極く接近しているよ。一時間前後という所だ",
"すると、死んだのは十一時半、ピストルの弾丸を喰ったのは零時半という訳ですね",
"そんなところだ"
],
[
"それは先刻、書記へ渡しておいたがね",
"いや、そんなものは頂きませんですよ"
],
[
"先生、あれはどうなりました",
"あれとは何じゃ",
"鼠です。鼠を解剖してご覧になりましたか",
"おお、そのこと……解剖はした。解剖はしたが、はっきり分らない。人間の心臓麻痺は一目で分るが、鼠が心臓麻痺したかどうかはちょっと分らんのでね。そのことも実は研究題目の一つにして、今やっているところだ",
"流石は先生ですね、大いに敬意を表します",
"何じゃと……",
"いや、つまり先生が、鼠を解剖して、やはり心臓麻痺かどうかを調べられたその着眼点のよさですね、それに敬意を――",
"わははは、何をいうかい"
],
[
"さっきお電話が先生にありましたんですけれど、いくらお聞きしても自分のお名前を仰有いませんの、そしてただ先生に、“鼠も心臓麻痺じゃ”と、それだけを伝えてくれと仰有いましたんですけれど、何のことだかさっぱり分りません。ひょっとしたらその方は気が変ではないかと……",
"いや、分ったよ、八雲君。それは素晴らしい報告だ。鼠も心臓麻痺で死んだとね。いや全くそれは素晴らしい報告だ"
],
[
"その通り。土居はあの夜、主人鶴彌に面接した最後の者でありますぞ。そして自分のハンドバグを残留してこの屋敷を飛出したほどの狼狽ぶりを示している。一体あの女のこの周章狼狽は何から起ったことでしょうか。これこそ乃ちあの女が当夜鶴彌に毒を盛ったことを示唆している。自分で毒を盛ったが、それに愕いて、急いで逃げ出した。そしてハンドバグを忘れて来てしまった",
"どういうわけで土居三津子はあの屋敷から急いで出たというのかな。その点はどう考えるのか、大寺君",
"アリバイの関係ですよ。土居があの屋敷に残留しているうちに毒が廻って鶴彌が死んでしまったら、あの女の犯行であることは直ちにバレちまって逮捕される。それをおそれて、急いで逃げ出したんですな。あの女が去って後で鶴彌が死んだとなると、あの女は有力なアリバイを持つことになる。もっともハンドバグを忘れるようなヘマをやっては何事も水の泡ですがね",
"どんな方法によって中毒させたか。それはどうなんだね"
],
[
"それは私の領分じゃないんですよ。鑑識課員と裁判医は、それについてもっと明確な報告をしてくれなければならんと思う。あの連中の職務がそれなんですからね。もっとも私は今日容疑者から話を聞き出します。そしてあべこべに鑑識課や裁判医に資料を提供してやろうとまで考えているんですがね",
"ところが裁判医が死因を究明する力なしとその不明を詫びているんだから、困ったもんだね"
],
[
"わざわざ嘘をいうつもりはないよ",
"そうですか。同じ心臓麻痺にしても、中毒による場合と、驚愕による場合とは大いに違うと思うんですが、あなたはどっちだとお思いなんですか",
"出発点にかえったといったろう。だからこれから捜査のやり直しだ",
"本当ですかあ。しかし今までに調べたことが全部だめというわけじゃないでしょう",
"一応白紙に還る。面倒でも、もう一度やりなおしだ。この小さい卓子の上に載っている料理の皿や酒なども、もう一度始めから調べ直すつもりだ",
"ああ、それは実に結構ですね。いや、これはお見それいたしまして、たいへん失礼しました"
],
[
"これだけは残して行くんですか",
"うん。無関係のものまで持って行くことはない",
"無関係のもの? そうですかねえ",
"だって中毒事件には関係がないものではないか。そうだろう。花活然り、蝋燭のない燭台然り、そして灰皿然り",
"そうでしょうかねえ",
"そうでしょうかねえったって、あとのものは中毒に関係しようがないじゃないか。僕が必要以上のものを集めたといって、君から軽蔑されるかと思ったくらいなんだがね",
"とんでもないことです。長谷戸さん。私は大いに敬意を表しているんですよ。あなたがマッチまで持って行かれる着眼の鋭さには絶讚をおしみませんね",
"ふふふ。それは多分君に褒められるだろうと予期していたよ。そうするに至った動機は、君の示唆するところに拠るんだからね"
],
[
"しかしそれなれば、まだお調べになるべきものが残ってやしませんか",
"もう残っていないよ。これですっかり――"
],
[
"大いに気に入りましたね",
"僕もそう思っていた。多分この説は君が気に入るだろうとね",
"しかしですね、長谷戸さん。死んだ主人鶴彌氏は、当夜この部屋ばかりにいたわけじゃないんで、土居嬢を送るために玄関へも行ったでしょうし、手洗いへも行ったでしょう。また寝室や廊下や階上などへも行ったかもしれない。そういうとき吸殻を捨てる場所は到るところにあったわけですね。窓から吸殻を捨てることも有り得るでしょう",
"で、君は何を主張したいのかね"
],
[
"いや、そんなことは考えていない。あの黒い灰をこしらえて以後、被害者は煙草をあまり吸わなかったらしいと認めるだけのことだ。実際、煙草を吸うのをよして、その後は酒を呑み、料理を摘むのに何時間も費したかもしれないからね",
"すると、中毒物件は飲食物の中に入っているとお考えなんですか、それとも他のものの中に……",
"それはこれから検べるんだ。毒物は固体、液体、気体の如何なる形態をとっているか、それは今断言出来ない。中毒性瓦斯についても疑ってみなければならないと思いついたことについては、君の示唆によるわけで、敬意を表するよ"
],
[
"酔ってはいなかったというのですね。しかし鶴彌氏はその椅子について酒を呑んでいたのでしょう。そうではなかったんですか",
"さあ、どうでございますか、あたくしがこのお部屋の扉をノックいたしますと、旗田先生は迎えに出て下さいまして、扉をおあけになりました。ですから、旗田先生がお酒を呑んでいらしたかどうか、あたくしには分りかねます"
],
[
"すると、こちらのテーブルの上はどうなっていたですか。どんなものが載っていましたか。つまり酒壜や料理の皿なんぞが載っていて、酒を呑んでいた様子に見えなかったかとお訊ねするわけです",
"はあ。あのときそのテーブルの上には、別にお酒の壜もお料理のようなものも載っていませんでした。ただ煙草や灰皿だけでございました"
],
[
"さあ、それは……それは、はっきり存じません。憶えていません",
"はっきりでなく、うろ覚えなら知っているんですか"
],
[
"はい。それは、あのウ……あのお戸棚の上に、大きなお盆に載って、あげてあったようにも思いますのですけれど",
"どうして、そういうことをはっきり覚えていないのですか。あなたは当夜、かなり永い時間この部屋に居られた筈ですから、そういうものの置き場所に気がつかないわけはないと思うんですがね。その点どうですか"
],
[
"ところで、当夜あなたが鶴彌氏に対し、何か毒物を与えたのではないかという説があるんですが、これについて弁明出来ますか",
"ドクブツと申しますと――",
"つまり、人間を中毒させる薬をあなたが隠し持っていて、それを鶴彌氏に喰べさせるかなんかしたのではないかというんです",
"まあ、毒物を。そんな……そんな恐しいことを、なぜあたくしが致しましょう。また、たとえあたくしがそんなたくらみをしたとしても、あのとおり気のよくおつきになる旗田先生が、それをすぐお見破りになりますでしょう。ですから、そんなことは全然お見込みちがいでございます",
"それはそれとして、あなたは鶴彌氏が死ねばいいと思っていたんでしょう。どうか正直にいって下さい"
],
[
"それはそうでございます。旗田先生がお亡くなりになれば、この上の悪いことは発生いたしますまい",
"あなたは一体何を恨んでいたんです。それを聞かせて下さい",
"いいえ。何度おたずねになっても、あたくしはそれについては申上げない決心をいたしていますの"
],
[
"この女が如何にしてこの家の主人に毒を呑ませ、そしてこの邸からずらかったか、それを当人から聞くとは新しいことではないですか",
"主人の死んでいた部屋には、内部から鍵を廻してあった。三津子君が殺したものなら、どうしてその密室から出るか。玄関にも、内側から錠を下ろしてあったのだよ",
"ここの窓から飛び下りられますよ。窓には鍵がかかっていなかった。二枚の合わせ硝子戸を寄せてあっただけですから"
],
[
"で、君の結論はどうなんだ",
"結論は今のところそれだけですよ。いや、それをちょっと言い換えましょうか。旗田鶴彌氏もあの鼠も、共に瓦斯体によって中毒したんだといえるのです。――だから、まずこの婦人はこの部屋にいる間にそれを行ったのではないということが分る。なぜならば、そんなことをすればこの婦人も共に瓦斯中毒によってその場に心臓麻痺をおこさねばならないわけになりますからねえ"
],
[
"結果に於てそういうことになるのも已むを得ないですね、もしも僕が今のべた説が真に正しいものであれば……",
"君は、瓦斯中毒説が正しいと思っているのか、それともまだそれほど確信がないのか、どっちなんだい",
"警部さん。僕はほんのすこし前に、瓦斯中毒説をここで主張していいことに気がついたばかりです。これを証拠立てることは、僕としてもこれからの仕事なんです。しかし僕は今後この方面に捜査を続けます。とにかくこの場は、妙な嫌疑をおしつけられそうになった土居三津子氏のために、弁じたことになればいいのです"
],
[
"もう真犯人はきまりましたか。誰でした。え、まだですって、まだ分らないんですか。なるほどこれは大事件だ。連日これだけの有数な係官を擁しても解けないとは。……検事さん、兄は心臓麻痺で死んだという話だが――ええ、早耳でね、僕のところへも聞えて来ましたよ――するてえと兄は病気で急死したんじゃないんですか。しかしそれではあなた方の引込みがつかないから、これは……",
"そこへお懸けなさい。今日は帆村君が代ってお訊ねします"
],
[
"旗田さんに伺いますが、窓の外から兄さんを撃ったピストルを、家政婦の小林さんの部屋の花瓶の中に入れたのは、どういうおつもりだったんですか",
"ええッ、何ですって……"
],
[
"僕が撃ったなんて、誰がいいました。とんでもないことをいう……",
"いや、私は今、あなたが兄さんを撃ったとはいわなかったつもりですが、あなたはそういう風におとりになった。それはともかく、何者かが旗田鶴彌氏射撃に使ったピストルを、あなたは家政婦の部屋に隠した。なぜです",
"そんなことは嘘だ",
"あのとき押入の中に、小林さんの愛人の芝山宇平氏が隠れて居たんですよ。あなたがピストルを空の花瓶に入れたとき、こつんと音がしたことまで芝山氏は証言しています"
],
[
"外出先から帰宅せられたあなたは、家政婦を呼び出して、コップへ水を一ぱい持って来るように命じ、家政婦が勝手の方へ行った留守の間に、あなたはピストルを持って家政婦の居間へ入り、それをしたのです。そうでしょう",
"知らんですなあ、そのことは……",
"じゃあ別の方面から伺いましょう。あなたはあの夜、三度この邸へ帰って来て居られる"
],
[
"第一回は午後十時三十分から十一時の間、第二回は午後十二時から零時三十分の間、そして第三回は、家政婦を起して家へ入れてもらった午前二時。この三回ですが、そうでしょう",
"とんでもない出鱈目だ"
],
[
"東京クラブの雇人たちが証言しているところによれば、あなたは右の時刻前後に亙る三回、クラブから出て居られる。第一回と第二回のときは、帽子も何も預けたまま出て居られる。第一回は窓からクラブの庭へとび下りた。第二回のときはクラブの調理場をぬけて裏口から出た。第三回目は玄関から堂々と出られた。このときは帽子も何も全部、預り処から受取って出た。そうでしょう",
"知らないね、そんなことは"
],
[
"あなたは室内に於て、兄の鶴彌氏と土居三津子の両人が向きあっているところを見た。そこであなたは、時機が悪いと思って、庭園を出てクラブへ引返した",
"君は見ていたのかい。見ていたようにいうからね"
],
[
"……それからあなたは、外からその硝子窓を開いた。あなたはその方法を研究して知っていた。他愛なく開く仕掛になっていたんだ。……それからあなたは、窓につかまったまま、ピストルを撃った。弾丸は見事に鶴彌氏の後頭部に命中した。近いとはいえ、なかなか見事な射撃の腕前です。思う部位に命中させているですからねえ、殊に窓につかまったまま撃ってこれなんだから大した腕前だ。……あなたは大日本射撃クラブで前後十一回に亙って優勝して居られますね。どうです、今の話には間違いないでしょう",
"既に死んでいる者を射撃した。これは死体損壊罪になる可能性はあっても、決して殺人罪ではないですね。ご苦労さまです",
"あなたは兄さんを消音装置のあるピストルで射撃したことを認められたのですね",
"認めてあげてもいいですよ、僕が撃つ前に兄が死んでいたことが立証される限りはね。兄に天誅を加えたときには、もう兄は地獄へ行ってしまった後だった",
"兄さんは天誅に値する方ですか",
"故人の罪悪をここで一々復習して死屍に鞭打つことは差控えましょう。とにかく彼の行状はよくなかった",
"あなたは、硝子窓を外から押して合わせた。きっちりとは入らなかった。どこかに閊えているらしかった。そのままにしてあなたはクラブへ引返した。そうでしょう",
"そうでしょうねえ"
],
[
"そうでもないのですがねえ。例えば、こういう事実が分ったと思います。すなわち鶴彌氏の死ぬ前には、この窓はちゃんと閉っていたのです。それから十二時頃、亀之介の二度目の帰邸のとき窓は開放されたこと、そしてその後で閉じられたが完全閉鎖ではなかったこと――これだけは今亀之介が認めていったのです",
"それはそうだが……",
"毒瓦斯が放出されたとき、この部屋は密閉状態にあったことを証明したかったのです。密閉状態にあったが故に、毒瓦斯は室内の者を殺すに十分な働きをしたわけです。鶴彌氏が死んだばかりではなく、洗面場の下にいた鼠までが死んだのですからねえ"
],
[
"君はひどいね。亀之介をうまくひっかけたじゃないか。芝山は押入の中に入っていたが、入って来た人物の顔を見なかったというのに君がさっき亀之介にいった話は、芝山が亀之介を見たように聞えたよ。もっとも君は、芝山が見たとはいわなかったが、亀之介はあれで見られたと思って恐れ入ったのだろう",
"いや、あれは苦しまぎれの手段です。見のがして下さい"
],
[
"それではね、こんどは残りの品物の中から、いつもこの部屋にあって、あなたに見覚えのある品を選ってみて下さい",
"はい。……しかしあとは全部そうなんですけれど……おや、この缶詰は存じません",
"まあ一々指していって下さい",
"はい"
],
[
"この缶詰に見おぼえがないというんですね。間違いありませんね",
"旦那さまが御自分で缶詰をお買いになって、御自分でこっそりおあけになるということは、今まで一度もございませんでした。ふしぎでございますわねえ",
"いや、ありがとう。あなたにお伺いすることはそれだけでした"
],
[
"うむ、この缶詰だけ知らないというのか。これはたしか、中が洗ったように綺麗な空き缶だったね",
"そうです",
"君は、この缶詰の中から毒瓦斯がすうッと出て来たと考えているんじゃあるまいね"
],
[
"検事さん。こうなると、あの空き缶についている指紋がたいへん参考になるんですが聞いて頂けませんか。もう鑑識課で判別した頃じゃありませんか",
"うむ、それはいいだろう。おい君――"
],
[
"この缶でございますね、レッテルの貼ってない裸の缶で、端のところに赤い線がついている……",
"そうです。それです"
],
[
"その空缶は、たいへん軽い缶詰ではございませんか",
"えッ……そ、そうかもしれません"
],
[
"あなたは、その缶詰をどこで見ましたか",
"その小卓子の上にありました",
"この小卓子の上にね。たしかですね"
],
[
"たしかでございます。あたくしがこの部屋に入って参りましたとき、先生――旗田先生は小卓子の脇を抜けてその皮椅子へ腰をおろそうとなさいましたが、そのときお服がさわりまして、あの缶詰が下にころがり落ちました。あたくしは急いでそれを拾って、この小卓子におのせしました。するとそのとき先生はお愕きになって――下は絨毯ですから、軽い缶詰が落ちても大きな音をたてなかったので、先生はそれにお気づきになっていなかったようでしたわ――それで、あたくしをお睨みになって『余計なことをしてはいかんです』と仰有いました",
"なるほど。それからどうしました",
"それから――それから先生はその缶詰をお持ちになって、あそこの戸棚の引出におしまいになりました。それから元の椅子へおかえりになりました"
],
[
"信用して下さるかどうか分りませんが、それはまるでからっぽみたいでございました",
"中で何か音がしなかったですか",
"さあ、気がつきませんでございました"
],
[
"この缶詰の空缶ですがね、あなたはこれをどこで見ましたか",
"あたくしは何にも存じません"
],
[
"全然存じませんもの。いくらお聞きになっても無駄です。あたくしはこのお部屋へお出入りすることは全然ございませんのですもの",
"それは確かですか。事件の当日、この部屋へ入ったことはありませんか",
"あたくしは誓って申します。あの日、この部屋へ入ったことはございませんです"
],
[
"しかしねえ、お末さん。この缶詰には、あなたの指紋がちゃんとついているのですよ",
"まあ、そんなことが、……そんなこと、信ぜられませんわ",
"あなたの指紋がついているかぎり、あなたはたしかにこの缶詰にさわったことがあるわけです。さあ思い出して下さい。どこであの缶を見たか、そしてさわったか……",
"……"
],
[
"まだ思い出せませんか。あなたは、この缶詰が空き缶になっているときに見ましたか、それともまだ空いていないときに見ましたか",
"見ません。全然あたくしは見たことがないんですから、そんなこと知りません",
"あなたはこの缶詰を、亡くなったこの家の主人鶴彌氏のところへ届けたのじゃないのですか"
],
[
"あたくしはこの一ヶ月、御主人さまの前へ出たこともございません。御主人さまの御用は、みんな他の方がなさるんでございます",
"本当ですか",
"あなただって一目でお分りになりましょう。あたくしみたいな器量の悪い者は、殿方が見るのもお嫌いなのでございます",
"まさか、そんなことが――",
"いえ、お世辞をいって頂こうとは思いませんです"
],
[
"お末さん。あなたはいつこの缶詰を手に持ったのですか。どこで持ったのですか",
"……存じません。全然あたくしには覚えがないんですの",
"だってそれじゃあ君、まさかあなたの幽霊が指紋をつけやしまいし、説明がつかないじゃないですか。あなたがこの缶を手に持ったことは明々白々なんだ",
"あとでよく考えてみますけれど、全くあたしには合点がいかないんです"
],
[
"そうでしょうかねえ。だが、あの空き缶が犯行に一体どんな役目を持つと考えられますか。土居三津子の証言によると、あの缶詰はあけない先から、からっぽ同様に軽かったそうですね。しからば、あの中に入っていた内容物が、鶴彌の胃袋に入って中毒を起したとは考えられない",
"胃袋に入ったとは考えられない。しかし肺臓に入ったとは考えられなくもない",
"肺臓というと……肺臓になにが入るのですか",
"瓦斯体がね。つまり毒瓦斯だ。この缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったとすれば、そんなことになるはずじゃないか",
"毒瓦斯がこの缶詰の中につめてあったというんですか。それは奇抜すぎる。少々あそこの先生かぶれですな"
],
[
"どうしたんだ、君……",
"お末をこの前調べましたね。あの時お末がここでお手伝いをしているかたわら、夜は河田町のミヤコ缶詰工場の検査場で働いていると自供したじゃありませんか",
"おお、そうだった"
],
[
"だから、佐々さんだけに委しておけませんよ。これからすぐにわれわれも出かけましょう。まずお末さんのアパートへ行って家宅捜索をした上で、河田町のミヤコ缶詰工場へ廻ったがいいと思います。きっと何か掴めると思いますねえ",
"そうだ。大寺君。われわれ一同は、すぐ出掛けよう",
"いいでしょう。――で、やっぱり問題の缶詰の中に毒瓦斯がつめてあったという推定で捜査を進めるのですね",
"あ、そのことだが……"
],
[
"その缶詰の中に毒瓦斯そのものを詰めてあったとは考えられません。もし詰めてあったものなら、缶詰の缶のどこかに、少くとも二つの穴があけられていて、あの穴はハンダづけがしてあるはずです。そうしないと、瓦斯をこの中へ送りこむことができないのです。しかしこの缶詰は、ごらんになる通り、穴をあけた形跡がなく、缶の壁は綺麗です。ですから、この缶の中に毒瓦斯そのものが詰めてあったとは考えられないのです",
"なあんだ君は……。君は自分で毒瓦斯説を提唱しておいて、こんどは自分からそれをぶち壊すのかい。それじゃ世話がないや"
],
[
"いや、しかし早く本当のことを説明しておかないと、大寺警部の如き真面目で真剣なる方々から後できつく恨まれますからね",
"じゃあどうするんです。缶詰追及をやるんですか、それともそれは取りやめですか"
],
[
"この上は、お末をここへ引張って来て、訊問するんですな",
"うん"
],
[
"それは後でもいいと思う。それよりは次のミヤコ缶詰工場へ行こう。あそこへ行けば、問題の空き缶についていた未詳の指紋の主が分るかもしれん。その方の調べを急ごうや",
"いいですなあ"
],
[
"ほう、どうしました、亀之介さん",
"やァ、煙草にむせちゃって――あっ、帆村君ですね"
],
[
"知らんですな、そんなこと……",
"ケリヤムグインはドイツで創製せられた毒瓦斯材料で、常温では頗る安定な油脂状のものです。それを高温にあげ、燃焼させますとたちまち猛烈な毒瓦斯となります。ケリヤムグインの一ミリグラムは、燃焼して瓦斯体となることによって、よく大広間の空気を即死的猛毒性に変じます。――あなたは、ケリヤムグインを書簡箋に吸収させました。そしてその書簡箋は、缶詰の中に厳封して、旗田鶴彌氏へ送ったのです。もちろんその書簡箋には、或る文句が書いてありましたがね。……如何です。それを否定なさいますか",
"もちろん否定する。そんな馬鹿気た話を、誰が真面目になって聞くものですか"
],
[
"その書簡箋を鶴彌氏が取出すと、文面を読んで確かめた上で、火をつけて焼き捨てたのです。その焼き焦げの黒い灰が、あそこの灰皿の上に載った。その頃鶴彌氏は、猛毒瓦斯を吸って中毒し、氏の心臓はぱったり停ってしまったのです。そしてそのお相伴をくらって、あそこの洗面器の下の下水穴から顔を出した不運な溝鼠が、鶴彌氏に殉死してしまったというわけなんですが、如何ですな",
"大いへん面白い御創作ですね。どこかの懸賞小説に投稿なさるといいですなあ",
"その書簡箋に書いてあった文面が、また興味あるものなんです。こう書いてありましたがね、“告白書。拙者乃チ旗田鶴彌ハ昭和十五年八月九日午後十時鶴見工場ニ於テ土井健作ヲ熔鉱炉ニ突落シテ殺害シタルヲ土井ガ自殺セシモノト欺瞞シ且ツ金六十五万円ノ会社金庫不足金ヲ土井ニ転嫁シテ実ハ其ノ多クヲ着服ス、其後土井未亡人多計子ヲ色仕掛ヲ併用シテ籠絡シ土井家資産ノ大部分ヲ横領スル等ノ悪事ヲ行イタリ、右自筆ヲ以テ証明ス。昭和十六年八月十五日、東京都麹町区六番町二十五番地、旗田鶴彌印”――というんですが、これは如何です"
],
[
"兄貴は悪い奴ですね",
"こういう貴重な告白書が缶詰の中に入って届けられたものですから、鶴彌氏としては狂喜して、早速それをその場で火をつけて焼き捨てたのですが――まさか自分の書いたその告白書にいつの間にか猛毒ケリヤムグインが浸みこませてあったとは知らず、鶴彌氏は狂喜の直後に地獄へ旅立ったという――これは如何です。御感想は……",
"なかなかお上手ですな、小説家におなりになった方が成功しますね"
],
[
"だがね帆村君。中の灰はこのとおり微粉状になっていますよ。お気の毒ながら、さっき読んだ告白書の文句も見えず、それから……",
"それからケリヤムグインも燃焼して、その痕跡も残っていないと仰有るのですか"
],
[
"そういう御心配があるのなら、あとから御覧に入れましょう。あなたのお取替になった黒い灰は、あれは僕があとから拵えておいた第二世なんです。第一世は、灰の形もくずさず、硝子の容器におさめて、あっちに保存してあります",
"えっ",
"もちろんその灰に、紫外線をかけましてね、さっき読み上げた告白書の文句を読み取ったのです。それからあなたさまにはたいへんお気の毒ながら、その告白書の一部が燃え切らずに残っていましてね――あの黒い灰を灰皿から横へ移してみて始めて分ったのですが、灰の下に、一枚の切手位の面積の燃えない部分が残っていたのですよ。それを分析して――なにをなさる",
"は、はなせ"
],
[
"そこに妙なところにポケットがある。なにか入ってやしませんか",
"あ、ありました。薬の包らしいが……"
],
[
"すると――すると当人の持っている煙草もみんな危険物なんですね",
"そうです。煙草もみんな押収しておかれたがいいでしょう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「自警」
1947(昭和22)年1月~1948(昭和23)年1月(5、6、11月は欠)
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5-86)(「一ヶ月」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「市ヶ谷」)を小振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
2019年1月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003052",
"作品名": "地獄の使者",
"作品名読み": "じごくのししゃ",
"ソート用読み": "しこくのししや",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「自警」1947(昭和22)年1月~1948(昭和23)年1月(5、6、11月は欠)",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-01-22T00:00:00",
"最終更新日": "2019-01-14T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3052.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第11巻 四次元漂流",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1988(昭和63)年12月15日",
"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷",
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} |
[
[
"ときにAさん。",
"なんだいBさん。",
"十年経ったら、ラジオ界はどうなる?",
"しれたことサ。ラジオ界なんてえものは、無くなるにきまってる。",
"へえ、なくなるかい。――今は随分流行ってるようだがネ。無くなるとは、ヤレ可哀相に……。",
"お前は気が早い。くやみを言うにゃ、当らないよ。僕はラジオ界がなくなると言ったが、『ラジオ』までが無くなるとは、言いやしない。",
"ややっこしいネ、Aさん。そんなことが有り得るものかい。",
"勿論サ、Bさん。人間の生活に於ける水や火のように、これからの世の中は、ラジオがすべての方面の生活手段に、必需的なものとなってゆくのだ。『ラジオ界』などという小さい城壁にたてこもることが許されなくなる。一にもラジオ、二にもラジオで、結局、世界はラジオ漬けになるであろうよ。",
"ラジオ漬け――には、今から謝っとくよ。この懐しい世界が、あの化物のように正体の判らないラジオなんぞにつかってしまうと聞いては、生きているのが苦しい。僕はそんなことになる前に、自殺する方が、ましだ。",
"君には気の毒だがネBさん。自殺をしたって、ラジオは自殺者を追い駆ける。なにしろこの世と、死後のあの世とが、ラジオで連絡されるのだからネ。――たとえば此処にC子というトテシャンがあったとする。彼女は或る甚だ面目ないことを仕でかし、面目なさにシオらしく、ドボーンと投身自殺を果したとする。やがていよいよ死の国で、わがC子は正気づく。すると憩う遑もなく、忽ち娑婆から各新聞社が自殺原因をラジオで問い合わせて来る。親たちや、友人や、恋人もラジオで訊ねて来る。受持区域の交番からオマワリさんが調べに来る。冥土に於けるC子の姿は無線遠視に撮られて、直ちに中央放送局へ中継される。娑婆ではこれを、警察庁公示事項のニュースとしてC子の姿を放送する。それは、一ツには冥土への安着を報せ、二ツには娑婆に債権者でもあれば今の内に申し出て、何とか解決方法をとらせるためである……",
"一寸待ったAさん。君の話は面白いが、何だか落語か法螺大王の話をきいているような気がする。Aさん、怒っちゃいけないよ――君は本当に正気で言ってるのかい。",
"度し難いBさん。これは皆、専門の学術から割り出したもので、根拠のないことなど、僕は喋らない。唯、くだけて話すから、落語のように聴こえるのだ。",
"じゃ不審の点を質問するがネ。何故この世とあの世とがラジオで連絡ができるのだい。",
"早い話が『人間は死すとも霊魂は不滅である』という。これが今から十年経たないうちに物理的に証明されるのだ。霊魂はラジオ、即ち電波を発射する。霊魂がラジオを出すんじゃないか、とは今日でもある一部の学者が考えている。しかし電波ならば其の一番大切な性質であるところの波長が何メートルだか判っていないのだ。これが今から十年以内に発見される。電波長が判ればあとはラジオとして物理的に取り扱えるようになる。",
"フーン、そんなものかな。――それから、冥土に居るC子の姿が何故娑婆から見えるのだい。",
"それは無線遠視――つまり、『眼で見るラジオ』というのが完成して実用されるからだ。無線遠視は冥土に於いては夙に発達している。地獄の絵を見ると、お閻魔さまの前に大きな鏡がある。赤鬼青鬼にひったてられて亡者がこの鏡の前に立つと、亡者生前の罪悪が一遍の映画となって映り出す。この大魔鏡こそは航時機を併用して居る無線遠視器である。",
"脅すぜAさん。じゃ矢張りお閻魔さまの前に並んでいる『見る眼』や『嗅ぐ鼻』も、ラジオ的に理屈のあるものなのかい。",
"勿論さBさん。『嗅ぐ鼻』は無線方向探知器の発達したもの。『見る眼』は光電受信機の発達したるものなのサ。これ等も十年後には、君の前へ正体を明らかにするだろう。",
"じゃ、うっかり死ぬわけには行かないネ。無銭飲食をした揚句、自殺と出掛けても娑婆から借金取りが無線で押し寄せるなぞ、洒落にもならない。この世の悪事は、すべて自らが償わねばならなくなるわけだネ",
"だから、この世で悪事をするものが絶えてしまう。ラジオのお蔭で、この世ながらの神の国、仏の国となる。有難いじゃないか。",
"――そりゃいいが、この世からあの世へ伸すことができるというからには、あの世の亡者連中もこの世へ、のさばってくることになりゃしないかい。",
"それは大有りさ。幽霊なんかゾロゾロ現れるだろうな。そりゃどうも仕方がないサ。君を思いつめ、君の奥さんを呪って死んだD子の亡霊なんぞ、早速ドロドロとやってくるぜ。",
"ウワーッ。僕は明日から、参禅生活を始める決心をした!"
]
] | 底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1929(昭和4)年1月号
※この作品は初出時に署名「佐野昌一」で発表されたことが、底本の解題に記載されています。
入力:田中哲郎
校正:土屋隆
2005年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043664",
"作品名": "十年後のラジオ界",
"作品名読み": "じゅうねんごのラジオかい",
"ソート用読み": "しゆうねんこのらしおかい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1929(昭和4)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-01-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card43664.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年1月31日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年1月31日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1993(平成5)年1月31日第1版第1刷",
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"入力者": "田中哲郎",
"校正者": "土屋隆",
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"テキストファイル最終更新日": "2005-01-07T00:00:00",
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} |
[
[
"ほう、十八時だ",
"十八時の音楽浴だ",
"さあ誰も皆、遅れないように早く座席についた!"
],
[
"僕は二時間たたないうちに、いなくなるかもしれないのだ。だから君よ、せめて今……",
"しっ。戒報信号が出たわよ"
],
[
"うう、音楽浴はすんだぞ",
"さあ、早くおりろ。工場では、繊維の山がおれたちを待ってらあ",
"うむ、昨日の予定違いを、今日のうちに挽回しておかなくちゃ"
],
[
"もう誰も室内にはおりませぬが、ご用の筋はどんなことですか",
"ああ、ソノほかでもないが、博士には敬意を表したい。博士の音楽浴の偉力によって、当国は完全に治まっている。音楽浴を終ると、誰も彼も生れかわったようになる。誰も彼も、同一の国家観念に燃え、同一の熱心さで職務にはげむようになる。彼等はすべて余の思いどおりになる。まるで器械人間と同じことだ。兇悪なる危険人物も、三十分の音楽浴で模範的人物と化す。彼等は誰も皆、申し分のない健康をもっている。こんな立派な住民を持つようになったのも博士のおかげだ。深く敬意を表する。……",
"閣下、どうかご用をハッキリ仰せ下さい"
],
[
"人造人間の研究をうちきれとおっしゃるのですか。それはまた何故です",
"というのはつまり、十八時の音楽浴でもって、住民はすべて鉄のような思想と鉄のような健康とを持つようになったではないか。彼等は皆、理想的な人間だ。しからばこの上に、なお人造人間を作る必要があろうか。人造人間の研究費は国帑の二分の一にのぼっている。そんな莫大な費用をかける必要が何処にあるだろうか。音楽浴の制度さえあれば、人造人間の必要はないと言いたい。博士、どうじゃな",
"閣下のおっしゃることは分ります。ひとつ考慮させていただきましょう",
"どうかそうしてくれたまえ。――おお、忘れていた。家内が君に逢いたいそうだ。今夜ちょっと来てもらえまいか",
"はあ承知いたしました。今夜二十時にうかがいます"
],
[
"うんじゃないよ、ペン公。俺たちの自由が束縛され個性が無視されているんだ。本来俺たち人間は、煙草もすいたいんだ。酒ものみたいんだ。それをあの閣下野郎がすわせない飲ませないんだ、これじゃ何処に生き甲斐があるというんだ",
"オイ頼むから、あまり大きな声を出さんでくれ。誰かに聞えるとよくないぜ",
"なアに、誰かに聞えれば、そいつも至極もっともだと思うにちがいない。もっともだと思わないやつは、あの39番音楽にまだたぶらかされている可哀想なやつだよ",
"そういえば、ポール。お前にはミルキ閣下ご自慢の音楽浴もあまり効いていないらしいネ"
],
[
"やッ、これは何だ。何を入れているんだ",
"ふふふ、どうだ分ったか。これはナ、俺が一年間かかって繊維をかためて作った振動減衰器なんだ。知っているとおり、あの音楽浴てえやつは耳から入るのはごく少くて、殆ど全部が廊下から螺旋椅子を伝わって身体の中に入りこむのだ。だからよ、この振動減衰器を臀に敷いてさえいれば、螺旋椅子から伝わってくる39番音楽の振動を相当に喰い止めることができるんだ。だから俺は、あんな人喰い音楽なんかに酔っぱらいやしないんだ",
"ふーン、なるほど。しかしひどいことをする男だ。それが知れたらどうするんだ",
"知れたらペン公が喋ったと思うぜ。いいかい。さもなければ知れっこないんだ。俺はあの人喰い音楽にかかったようなふうにウーンウーンうなるのがとてもうまいのだ。脂汗だってタラタラ流れてくるよ。お前は知るまいが、座席の前面には隠しマイクロフォンがついているんだ。だからこっちのうなり声は、そのまま総理部の監視所へ伝送されるのだ。靴男工ポールのうなっているのは明らかに自記装置に出ている。うなるのを忘れていりゃ警報器が鳴りだすんだ。俺はそんなヘマなことはやらないや"
],
[
"ねえポール。そういえばバラに注意したがいいよ。あの女はお前のことを廃物電池といってさげすんでいたぜ。バラにこの秘密を嗅ぎつかれると大変だ",
"バラはお前の細君じゃないか。お前がしっかりしていりゃ、知れるきづかいはない",
"うんにゃ、バラは男のように鋭い女だ。俺の手にはおえない",
"なんだペン公、亭主のくせに、情ない弱音を吹くな",
"いや亭主はもう廃業しようかと思っている。あんな女に連れ添っていると、世の中がいっそう味気なくならあ",
"へえ、そいつは本気か。別れてしまって、また女房を探すんだろうが、誰かに見当をつけているのかい",
"冗談じゃない。気の合う優しい女なんていないものだな。なあポール。俺はお前が男友達でなくて女友達だったらいいと思うよ"
],
[
"罪悪とは?",
"それは人間性への反逆だからです。第39番の国楽は、支配者の勝手きままな統制条件だけでできています。それは人間をあやつるのに最も都合のいいように、あらためることにあって、そういうあらため方を生きた人間に加えてはたして無理がないであろうかという考慮が払われていません。事実、あの音楽浴のお蔭で国民は体躯においても活動力においても品行においても、みちがえるように立派になりました。だが一方において人間性を没却したことは、国民の身体の中にある毒素の欝積をもたらしています。それは日夜積み重なって、今にきっと爆発点に達するでしょう。わたしは国民の一部が、すでにこの毒素の欝積に気づいているものと見ています",
"毒素の欝積があるとしても、毎日十八時の音楽浴がそれを解消しているではありませんか",
"解消したように見えるだけです。一時は本当に解消するのでしょう。しかしそれは完全に解消するのではありません。麻酔はどこまでいっても麻酔です。賢明なる貴下がそれに気がついていないはずはないのです",
"ミルキ夫人よ。私は閣下に忠誠を誓い、そしてご命令によって動いているだけの学者なのでございます",
"お黙りあそばせ。貴下は音楽浴や人造人間を発明する科学者にすぎないと言うのでしょうが、どうしてどうして、貴下は科学者だけなものですか。貴下は科学者であるよりも、数等卓越した政治家なんです。ミルキ閣下などはそばへ寄れないくらいの偉人なんです",
"お言葉が過ぎるようにぞんじます。私は忠誠を誓う一国民にすぎません。ご命令によって忠実に動くことが精々な人間です",
"そんなことがあるものですか。この国をミルキが支配するよりも、貴下が支配するほうがどのくらいいいかしれないのです。貴下が支配者になれば、わたし自身も今の百倍も幸福になれることでしょう。博士、さあこっちを向いて、わたしの眼を見て下さい。わたしの震える唇を見て下さいましな。この世にわたしが魂と肉体とを献げるべき男性は貴下より外にないのです。さあ、どうかわたしを抱きしめて下さい。わたしに命じて下さい。わたしは貴下のためにどんなことでもしますわ。ミルキ一の美人であるわたしが国民の前でたった一言唇を開けば、国民はわたしの言うとおりになります。わたしの真の敬い、そして愛するのは博士コハクである、皆さんは博士に忠誠を誓いなさいといえば、百万人の国民は立ちどころにそうするにちがいありません。さあ、そうしてもっといい国家を樹てましょう。恋愛だとか性欲だとか嗜好だとか人間の欲望を徹底的に進展する新国家を樹てましょうよ。さあわたしを早く抱きしめて下さい"
],
[
"博士、それはまことにお気の毒ですがネ、テレビ放送にはお二人の所作事が見えただけで、声の方はラジオが停ったきりで高声器はウンともスンとも鳴りませんでしたよ。だから貴下が何を喋ったか、それを知っている国民はただ一人もありませんでしょう",
"えッ、私たちの動作だけを放送して、声を放送しないなんて、そんなばかげたことがあっていいものですか。閣下のお言葉じゃないが、法令によればテレビは必ずラジオとともに放送する規程になっています"
],
[
"見えなくなった。どうしたらいいだろう",
"もう見えなくてもようございますよ。二人とも死んでしまうことは、もう明らかでございますからネ",
"きっと死ねるかネ、アサリ女史",
"問題はありませんわ"
],
[
"君はこの頃、僕が嫌いになったんじゃないか",
"さあ、どうだか。――とにかくわたしはちかごろいらいらしてならないの。どこがどうとハッキリわかっているわけではないけれど、近頃の生活は何だか身体のなかに、割り切れない残りかすが日一日と溜まってくるようで仕方がないわ。いまに精神的の尿毒症が発生するような気がしてならないのよ",
"そういわれると、僕もなんだかそんな気がしないでもないが、要するに、君は僕がいやになって、誰かほかに恋しい人ができているにちがいないよ",
"あら、そんなことうそよ。ペンだけがいやになったわけではなく、人間というものがすべていやになったのかもしれないわ",
"人間全体が嫌いになってはおしまいだ。僕はそうではない。もっとも嫌いな人間がないではない。さっきポールに、『僕はお前が嫌いになった』と言ってやったよ。あいつはいやらしいやつだ。君がいったとおりだったよ",
"わたしがいったとおりとは、どういうこと",
"ほら、ポールは自分で解剖していると、君が言ったろう",
"ウン、あのことなの",
"そうよ。ポールは自分の身体を自分で手術しているんだよ。それがあきれたじゃないか。これはここだけの話だけど、あいつは自分の性を変えようとしている",
"まあ、なんだって? 自分の性を変えるって? ああ、もしかすると――もっとその話のつづきをしてよ",
"話をしてくれといっても、それでハッキリしているじゃないか。あいつは手術によって男性を廃業して女性になりかかっているのだ",
"ええッ、そんなことができるのかしら",
"できるのかしらといったって、あらまし出来ているんだよ、まったくいやになっちまわあ。超短波手術法なんてものが発達して、人間の身体が彫刻をするように楽に、勝手な外科手術をやれるようになった悪結果だよ",
"人造人間さえ出来る世の中だから、そんなこともできるわけだわ。でも、生きた人間が自分で性を変えるなんて、これは素晴らしい決心だわ。素晴らしい思いつきだわ"
],
[
"もちろんよ。わたしにできることは皆したんだけれど、先生はどこにも見つからないのよ。誰も知らないっていうの",
"誰も知らない? 誰って、誰のことだい",
"ホホホホ、誰って、皆のことよ"
],
[
"あ、これは――",
"まあ、閣下が――"
],
[
"なに、アネットというのか。相当いい名前だが、もっと似合のやさしい名前を与えてやった方がいいと思うぞ",
"しかし閣下、誤解なすっちゃいけませんよ。アネットは人造人間です。身体をよく見てやって下さいまし",
"なんだって。身体を見ろというのかい"
],
[
"女大臣、何をなさるのですの",
"お前の知ったことではない。わたしの権限で、この人造人間を殺すのだ",
"殺すのはちょっとお待ち下さいまし",
"なにを邪魔するんだい。生きた人間を殺すのはいけないかもしれないけれど、器械で出来た人造人間を殺すことがなぜ悪いんだい。こんな女のできそこないは、見ているのも胸くそが悪い。わたしは権限をもってアネットを殺してしまうのさ",
"いけませんいけません、アネットを殺しては。アネットは作り上げられてから、もう何週間もこの部屋で試作品の世話をして働いていたのです。わたしたちとも言葉をかわして、仲好しになっているのです。本当の人間と変りはないのです。それを殺すなんて、それは――それはあんまりです"
],
[
"ちょッ。お前さんは女大臣に反抗するんだネ。ようし、もう許して置けないッ",
"でもアサリ大臣、もう一度考え直して頂けません――それにあの、博士が亡くなったのなら、残された人造人間を大事にして置かないと、他の人の手ではもう再び人造人間を作ることができないかもしれないのでございますよ。それはミルキ国にとって最大の損失ですわ",
"最大の損失だなんて、僭越な。ホホホ、察するところお前はこの人造人間を愛しているのだネ",
"……"
],
[
"閣下は昨夜ふけて寝床から抜けてゆかれましたね。おかくしになってもだめよ。一体何処へ行ってらしたのです",
"イヤなにちょっと、その……",
"いくらお隠しになっても駄目ですのよ。わたしの部下が、さっき閣下をアリシア区附近でお見かけしたといっていましたよ",
"アリシア区で見かけたというのかい、このわしを"
],
[
"何のご用があって、わざわざ夜更けに寝床から抜けていらしたのですか",
"何の用って、別に――お前は誤解しているようでいけないよ。昨日もアリシア区を調べてわかったではないか",
"なにがわかったとおっしゃるの",
"ソノつまり、つまりソノ何だ。ええ、昨日アリシア区を調べたが第九室までしか見られなかった。第十室以後は、しいて開けようとすると爆発するという騒ぎだ。しかし第十室以後を見ないというのは、ミルキ国において自分の絶対権力が行われないところもあるという面白くない証拠を残すことになる。それははなはだ残念だからどうにかして中に入りこむ手段はないものかと、行って調べてきたんだ",
"それはどうも近頃勇敢なことです。そして閣下のお望みどおり第十室から奥へ入れましたか"
],
[
"いや駄目だった",
"駄目だということはすぐおわかりでしたろうのに。それにどうして朝になるまでアリシア区にいらしたのですか",
"ナニどうにかして扉を開けたいと思って、頑張っていたんだよ",
"はあ、さようでございますか。どの扉を開けようとなすってらしたのかわかったものじゃありませんわ"
],
[
"いいえ、ピントははちきれるように丈夫ですわ。でも人造人間の肉はまずくて口に合わないといっているのです",
"え、人造人間の肉だって?"
],
[
"さあ、ミルキ閣下。わが国は今日より非常推進を行うのです",
"非常推進か。それでどうしようというのかネ",
"ミルキ国の地下には、金鉱が無尽蔵に埋没されています。あれをこの際向う一週間で全部採掘するのです",
"誰が採掘するのか。僅か一週間で採掘するなんて、第一人手も足りなければ、機械だって揃わないぞ",
"そんなことは訳はありません。わたしに委せておきなさいませ",
"委せておけって。フフン、どうせ失敗するのはわかりきったことだ。博士コハクが生きていりゃ、彼なら立派にやりとおすだろうとは思うがネ。君は政治家であっても、絶対に科学者ではない",
"科学者の要るのは始めのうちだけです。ここまで来れば、あとは運用だけです。いかに巧みに運用して大きな事業をやるか、それは政治家でなくては駄目なんです。科学が政治を征服することは絶対にありませんが、政治はいつも科学を征服しています",
"そう思っていたよ、昨日まではネ。しかし人造人間アネットに会ってからは、その考えがグラグラして来た。ああ美しいアネット。あのアリシア区の第十室の奥には、アネットよりもっと美しい人造人間が百人も千人もいるのかもしれない。全く科学は偉大な力だ",
"科学よりは黄金です。わたしは一週間で地下の黄金を掘りだして、そしてミルキ国のあらゆる道路も部屋も天井も壁もすべて黄金づくりにしてしまうのです。なんと素晴らしい計画じゃありませんか。ミルキ国は黄金でもって世界を支配するのです",
"世界を支配するって。黄金よりも鉄だ。黄金では戦争は出来ない",
"いえ、黄金さえあれば、ミルキ国に代って鉄でまもってくれる国はいくらでもあります。いや戦争をしかけて来た国の宰相をミルキ国に案内して、そして黄金造りの部屋を一つ与える約束でもすれば、もう戦争は起らないでしょう",
"そう簡単にいくだろうか。わしはそれほど楽天主義ではない"
],
[
"ええ音楽浴ですわ。今日から音楽浴令を変えたんですのよ。これからは音楽浴を一時間置きに、つまり一日に二十四回やることにしました。そうすると国民は、今までの二十四倍ちかい仕事をするでしょう。そうなれば、もう眠ることも食べることも不要なんです。音楽浴さえかければ、それの刺戟で国民はあと一時間半を疲れもなく馬車馬のように働くでしょう。その後でまた次の音楽浴をかければいいのです",
"それは乱暴だ。死んだコハク博士もそんなことを計画しなかった",
"博士コハクは生れつき狡いから、わざと音楽浴を一日一回に制限したのです。でもないと博士自身も二十四時間働きつづけにさせられますからネ。わたしはそれを前からちゃんと知っていたのです。政治家でなければ、いちいち国の能率を本当に十二分にあげることは不可能ですよ。科学は政治家に征服されてこそ、真の偉力を発揮するのです"
],
[
"閣下はいまにわたしに感謝なさいますわよ。閣下はご存知ないのでしょうが、今なお国内にて音楽浴の効き目が薄れた倦怠時間になると、怪しき性の手術を施して、男性が女性になったり女性が男性になったり、それはそれは口にするのも唾棄すべき悪行為が流行しているのですよ。そんなことが流行しては、国民の意気はどんなに沮喪することでしょう。閣下は国民に対して甘すぎます。彼等に睡る時間や喰べる時間や考えたり遊んだりする時間を与えるのは全く無駄なことです。そんなものは、彼等を倦怠に導き、そして堕落させる外に、何の効果もないのです。今の悪行為の流行も、その一つの証明です。だからわたしは、国を救うため、そして国民自身をも救うために、音楽浴を二十四時間にふやしたのです。それでもうまくききめが現われないようならわたしの理想とするのべつ幕なしの音楽浴を計画したいと思います。そうすれば国民全体を一人の人間に命令するように不揃いなしに右にでも左にでも向かせることが出来るのです",
"完全に自由を奪うのだね。それまでにしなくともいいだろうに",
"いえ、その方が国民にとっても、どのくらい幸福かしれやしません。国民が心配することは一つもなくなるからです",
"わしはいやだ",
"閣下は、政治家たる素質がおありにならないから、そうお思いになるのです。ではこうなさいませ。生れつきの政治家であるわたしに統治の全責任をお委せになったら。そして閣下は引退なさるのです。そうすればどんなにか気楽ですわ",
"莫迦を言え。それは陰謀だ。わしはミルキ国の永遠の統治者だ。お前にはまかさんぞ",
"ホホホホ。何とおっしゃっても、もうこの国も閣下も、わたしのものですわ。わたしは今ではこの国一番の智慧者なんですもの。閣下は私を力になさるより外に、途がないのですもの。ホホホホ"
],
[
"閣下、明後日にせまる火星ロケット艦の到着を今まで気がつかなかった天文部員の怠慢を、一つ大いに責めなくちゃならんと思いますわ",
"そんなことは後でゆっくり考えることだ。それよりもそのロケット艦が、どんな攻撃武器を積んでいるかを観測させ、一刻も早く報告させた方がいいだろう"
],
[
"――観測が困難を極めております。はい",
"一体どうしたんだネ。わたしは貴下の愛国心を疑うよ",
"いいえ、女大臣アサリどの。部員一同、愛国心には燃えているんです。寧ろ昂奮し過ぎています。だから観測装置をあやつらせても、落ちついて精密な観測をやり遂げる者がいません。日頃の熟練ぶりに比して、五十%ぐらいの能率しか発揮し得ないのです",
"人間て、なんてだらしがないんだろう。では、貴下が自ら観測したらどう?",
"私とて同じことです。どうも頭脳が麻痺しているようです",
"ではもう一度、音楽浴をかけようかネ",
"いやそれはいけません。音楽浴が私どもの頭脳を麻痺しているんですから",
"ちぇッ。この上の弁解は聞きませんよ。そして貴下たちがその職責を尽さなかったときには、わたしはすぐに刑罰吏を派遣しますよ",
"女大臣どの。博士コハクと同じように、私に死刑を与えて下さるのでしたら、只今でも結構ですよ。将来これ以上に劣等化する自分自身を発見するよりは、むしろ早く死んでしまった方が幸福です",
"お黙り、ホシミ。お前は只今より部長の任を解いて監禁します。天文部長は次席のルナミに嘱任します",
"ああルナミ。あの可哀想なルナミに天文部長は勤まりません",
"なぜ? それはなぜです",
"あの肉体も精神も弱いルナミは、音楽浴にすっかりのぼせ上ってしまって、観測などをするどころか、咽が裂けるような声で愛国歌を唄っては天文部の貴重な器機を片ッ端からスパナーでガチャンガチャン壊しては暴れ廻っています。あいつは音楽浴の刺戟にたえきれないで、可哀想に発狂してしまったんです",
"そんな莫迦な。――すぐわたしが行って見てやります。お前は嘘をついてわたしをおどそうとしているのだ"
],
[
"なんだ。困るじゃないか。戦闘準備をよそにして音楽浴に漬からせとくのかネ。この非常時に国民全体が部署を捨てて音楽浴をやっているなんて、そんなべらぼうな話はありゃしない",
"そんなことはありません。そうでもしなければ国民全体をこっちの自由にあやつることは出来やしませんわ",
"君は、火星のロケット艦が毒ガス弾を撃ちだしても、当国ではただいま音楽浴中だからそれが済むまでちょっとお待ち下さいっていうつもりだろう"
],
[
"いかがです閣下。わたしはあの二人の戦隊長があのように感激に震えていたのを、未だかつて見たことがありません",
"そうかネ、わしはもう国民の顔を見るのがいやになった",
"まあ、閣下は神経がお弱いのですね。なあに、あの二人の忠誠な隊長に委せておけば大丈夫ですよ"
],
[
"最後の一策とは?",
"ええ最後の一策ですわ。それはアリシア区の第十室から奥の扉を打ちやぶって、その中から博士コハクの秘蔵している人造人間を引張りだすのです。そしてそれを戦闘配置につかせるのです"
],
[
"なあにそれはまだ確かめたわけではありませんが、そういう気がするのです。わたしはいかなる犠牲を払っても、あの扉を開けてみせます",
"いかなる犠牲を払っても?"
],
[
"ではその扉に突進しよう",
"ええ、それでは"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月1日公開
2006年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"ハッ、やはりあの第四輌目に居りましたが、車掌室が別になっているもんで、早く気がつきませんでした",
"君は車掌室のどの辺に居たか",
"右側の窓のところに頭部を当てて立って居りました",
"事件の前後と思われるころ、何かピストルらしい音響をきかなかったか",
"電車の音が騒々しいもので聞きとれませんでした",
"君は窓外の暗闇に何かパッと光ったものを認めなかったかい",
"ハッそれは……別に",
"君の位置から車内が見えていたか",
"見えていません。カーテンが降りていましたから……",
"車内へ入ってから、銃器から出た煙のようなものは漂っていなかったか",
"御座いませんでした",
"車内の乗客は何人位で、男女の別はどうだった",
"サア、三十名位だったと思います。婦人乗客が四五人で、あとは男と子供とでした",
"その車の定員は?",
"百二名です",
"これは参考のために答えて貰いたいんだが、あの際、銃丸は車内で発射されたものか、それとも車外から射ちこんだものか、何れであると思うかね、君は"
],
[
"じゃ君は何故、あの車輌に居た乗客を拘束して置かなかったのか",
"……只今になってそう気が付いたもんですから",
"そう思う根拠は、なにかね",
"別に根拠はありませんが、そんな気がするんです",
"それでは仕方がないね。なんだったら、ここに居られるあの時の乗客有志を一時退場ねがった上で、君の考えをのべて貰ってよいが……"
],
[
"いえ、寧ろ僕は車外説をとります。弾丸は車外から射ちこまれ、例の日本髪の婦人と僕との間をすりぬけて、正面に居た一宮かおるさんの胸板を貫いたのです。シュッという音は、銃丸が僕の右の耳を掠めるときに聞こえたんだと思います",
"もう外に聞かしていただくことはありませんか",
"現場に居た人間としては、もう別にありません。老婆心に申上げたいことは、あの現場附近を広く探すことですな。もしあの場合銃丸が乗客にあたらなかったとしたら、銃丸は窓外へ飛び出すだろうと思うんです。いや、そんな銃丸が既に沢山落ちているかもしれません。そんなものから犯人の手懸りが出ないかしらと思います。屍体もよく検べたいのですが、何か異変がありませんでしたか"
],
[
"ほほう、これはどこにあった",
"現場附近の笹木邸の塀の下です"
],
[
"お手柄だ。そして笹木邸をあたってみたかい、多田君",
"早手廻しに、若主人の笹木光吉というのを同道して参りました。ここに大体の聞書を作って置きました"
],
[
"九月二十一日の午後十時半には、どこにおいででしたか、承りたい",
"家に居ましたが、もう寝ていました。私はラジオがすむと、直ぐ寝ることにして居りますから……",
"おひとりでおやすみですか",
"ええ、どうしてです。私のベッドに、独り寝ます。妻は、まだありません",
"誰か、当夜ベッドに寝ていられてのを証明する人がありますか",
"ありますまい",
"十時半頃、何か銃声みたいなものをお聞きになりませんでしたか",
"いいえ。寝ていましたので",
"御商売は?",
"JOAKの技術部に勤めてます"
],
[
"そうです、どうかしましたか",
"『ラジオの日本』という雑誌を御存知ですか",
"無論知っています",
"貴方のお名前は光吉ですか",
"光吉です",
"大磯に別荘をお持ちですかな",
"いいえ",
"だれかに恨みをうけていらっしゃいませんか",
"いいえ、ちっとも",
"邸内に悪漢が忍び入ったような形跡はなかったですか",
"一向にききません"
],
[
"あの晩、邸へ遊びに来た親類の女が云っていました。殺されたお嬢さんの直ぐ前に居たのだそうです",
"ああ、それでは若しや日本髪の……",
"その通りです",
"その御婦人はどこに住んでいらっしゃいます",
"渋谷の鶯谷アパート",
"お名前は?",
"赤星龍子"
],
[
"そうだ、多田君どうした",
"あの赤星龍子を渋谷からつけて、品川行の電車にのりました。八時半でした。すると、私と赤星龍子の乗っていた車輌に、また殺人事件がおこりました",
"なに、人が殺された。銃創かい",
"そうです。若い婦人、二ツ木兼子という名前らしいです。弾丸のあたったのは、矢張り心臓の真上です",
"よし、直ぐゆく。乗客は禁足しといたろうな",
"それが皆、出ちまったのです。あまり早く駅についたものですから……",
"馬鹿!"
],
[
"龍子はどうした",
"目黒で降りたようです",
"屍体なんか、どうでもよいから、今度からは龍子を其の場でとりおさえるんだぞ",
"課長、例の十字架に髑髏の標章の入った小布が、死体の袂の中から出てきました"
],
[
"弾丸は、この窓から、とんで入ったらしいです",
"地点はどうかッ!",
"昨日の一宮かおるの場合と全く同じなんです"
],
[
"専務車掌は倉内銀次郎か、どうか",
"違います。倉内は今日非番で、出てこないそうです"
],
[
"唯今、プラットホームへ入って来た上り電車で、乗客がまた一名射殺されました",
"なに、又殺されたッ、女か男か",
"奥様風の二十四五になる婦人です",
"上り電車の窓は皆締めるよう、エビス駅長へ警告しろッ",
"ハッ、でもこの暑さでは……",
"しっかりしろ、暑さよりも生命じゃないか、助役君"
],
[
"冗談云っちゃいけません、大江山さん、貴方は隠しておいでのようですが、省線電車の射撃手は地獄ゆきの標章を呉れておいて殺すというじゃありませんか。三人の犠牲者はどこの人で、どこを通ってきたのかを調べると三人に共通なもののあるのが発見されると思いますよ。そいつをひっぱってゆくと、十字架と髑髏の秘密結社が出てくるんじゃないですか",
"秘密結社ですって?",
"そりゃ僕の想像ですよ"
],
[
"戸浪さん、貴方は弾丸が車内で射たれたか又は車外から射ちこんだか、どっちと考えていますか",
"それですよ、大江山さん。僕は昨日その質問をうけたとき、車外説をもち出しました。今夜の殺人の話をきいてみますと、三人が三人とも同じ地点で、同じ右側にかけた人が、同じく心臓を射たれたそうですね。それは車内で射ったとしてもあり得ることですが、その正確なる射撃ぶりから推して、何か車外の地点に、非常に正確な銃器を据えつけて、機械的に的を覘ったのだと考えた方が、面白くありませんか",
"すると、どんな機械なんでしょう",
"僕もよくは知りませんが、四・五センチの口径をもったピストルなんて、市場にはちょっと見当らない品です",
"ほほう、よく口径を御存知ですね",
"法医学教室にいる友人に聞いたのです。それで犯人は特殊な科学知識をもっていて、恐るべき武器を持っていると考えるのです。ピストルを消音にすること位は、わけはありません。発砲の火を隠すためには、相当長い管をつかって、先に弾丸の出る小さい穴をあけとけばよろしい。専務車掌が窓外に火を見なかったというのも、こんな仕掛けをすれば説明がつきます。あとは、電気を使って発砲させることもできるでしょう"
],
[
"総監閣下、失礼ですが、誰がそんなことを申しましたか",
"帆村荘六氏じゃ、私立探偵の。いま私の邸に見えて居られる"
],
[
"エビス駅を出るときには閉っていたんです",
"よォし、では乗客を禁足しとくんだぞ",
"わかりましたッ"
],
[
"課長どの、殺されたのは赤星龍子です",
"えッ、赤星龍子が――"
],
[
"ここの隅ッ子に龍子が腰を下ろしていました。向い側の窓はたしかに閉っていたんですが、ビール会社の前あたりまで来たときに、そこにいた地方出身の爺さんが、窓をあけちまったんです。私が止めようとしたときにはもう遅うございました",
"君は一体どこに居たんだ",
"向うの入口(と彼は指を後部扉へさしのべた)から龍子を監視していたのです"
],
[
"意識は恢復しないかネ",
"むずかしいと思いますが、兎に角さっきから手当をしています"
],
[
"大江山さん。手筈はいいですか",
"すっかり貴方の仰有るとおり、やっといたです。帆村君"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年10月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年11月8日作成
2013年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名": "省線電車の射撃手",
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[
"お待ち",
"えッ",
"そばへ来てください",
"なんですか。そんなに口をきくと、また血が出ますよ"
],
[
"もう、もう、わしはだめだ。あんたの親切にお礼をしたいから、ぜひ受けて下さい。今、そのお礼の品物を出すから、ちょっと、横を向いて下され",
"お礼なんて、ぼくは、いいですよ。大したことはしないんだから",
"いや、わしはお礼をせずにはいられない。それにこのまま、わしが死んでしまえば、莫大なる富の所在を解く者がいなくなる。ぜひあんたにゆずりたい。あんたは、何という名前かの"
],
[
"ぼくは、春木清というのです",
"ハルキ・キヨシ。いい名前だな。ハルキ・キヨシ君に、わしは、わしの生命の次に大切にしていたものをゆずる。キヨシ君。すまんがわしをもう一度、うつ向けにしておくれ"
],
[
"おお、キヨシ君。悪い奴がこっちへ来る。あんたは、早くそれを持って、洞穴か、岩かげかに早くかくれるんだ。早く、早く。いそがないと間にあわない。そして、空から絶対にあんたの姿が見られないように、気をつけるんだ。さあ。早く……",
"どうしたんですか。そんなにあわてて……",
"わしを殺そうとした悪者の一派が、ここへやって来るのだ。あんたの姿を見れば、あんたにも危害を加えるだろう。よくおぼえているがいい。悪者どもが、ここを去るまでは、あんたは姿を見せてはならない。身体を動かしてはならない。あんたは今、わしからゆずられた大切な品物を持っているということを忘れないように。さ、早くかくれておくれ"
],
[
"この卵みたいなものをどうすればいいんですか",
"な、中をあけてみなさい。早くかくれるんだ。だんだん空から近づくあの音が聞えないのか。早く、早く"
],
[
"おじさん。おじさんの名前は、なんというのですか",
"まだ、そこにぐずぐずしているのか"
],
[
"わしの名はトグラだ",
"トグラですか",
"戸倉八十丸だ。早くかくれろ。一刻も早く! さもなきゃ、生命がない。世界的な宝もうばわれる。早く穴の中へ、とびこめ。あのへんに穴がある。だが、気をつけて……"
],
[
"脈はよくありませんよ。でもまだ生きています",
"新しく傷を負わせたのじゃなかろうね。そうだったら、頭目のきげんが悪くなるぜ",
"ふん、木戸さん、心配なしだよ。おれがそんなへまをやると思いますか。射撃にかけては――",
"そんならいいんだ。担架を持ってくるから、そのままにしておいてくれ"
],
[
"ではすぐ手当をしてもらうんだ。頭目は、すぐにも戸倉をひき寄せて、話をしたいんだろうが、いったいこれから何時間後に、それができるかね",
"世間並にいえば、三週間だよ",
"君の引受けてくれる時間だけ聞けばいいんだ",
"この机博士が処置をするなら今から六時間後だ。それなら引受ける",
"よし、それで頼む。頭目に報告しておくから",
"今から六時間以内は、どんなことがあってもだめ。一語も聞けないといっておいてくれたまえ。銃弾は際どいところで、心臓を外れているが、肺はめちゃめちゃだ。ものをいえば、血とあぶくがぶくぶく吹きでる。普通ならすでに、この世の者ではないさ。しかし奴さん、うまい工合に傷の箇所に、血どめのガーゼ――ガーゼじゃないが、きれを突込んで、器用にその上を巻いてある。奴さんにとっては、これはうちの頭目以上の幸運だったんだ"
],
[
"手術はここでするから、医局員でない者はどこかへ行ってもらいたいね",
"え、ここでするのか、机博士",
"そうさ。どうして、この重態の病人を、動かせるものかね。狭くても、しようがないやね"
],
[
"ちかごろ君の手術の腕前もにぶったと見える",
"肺臓の半分はめちゃめちゃだった。それを切り取ってそのかわりに一時、人工肺臓を接続してある。当人が、自分の手で人工肺臓を外すと、たちまち死んでしまう。つまり自殺に成功するわけだ。だからこのとおり椅子にしばりつけてあるわけだ。当人があばれん坊だからしばりつけてあるわけではない。以上、責任者として御注意しておきます"
],
[
"博士。しかしこの老ぼれは、喋れないわけじゃなかろう",
"ここへ担ぎこまれたときは、血のあぶくをごぼごぼ口からふきだして、お喋りは不可能だった。が、今手当をしたから、発声はできます。もっとも当人が喋る気にならないと喋らないでしょうが、それはわが輩の仕事の範囲ではない"
],
[
"おい、戸倉。きさまの生命を拾って、ここへ連れてきてやるまでには、三人の生命がぎせいになっているのだぞ。きさまを救うためにきさまを襲撃した二人連れのらんぼう者を撃ち倒したのは、わしの部下だった。可哀そうに自分も撃たれて生命を失った。死ぬ前に、彼は携帯用無電機でその場のことをくわしくわしのところへ報告してきた。報告が終ると彼は死んだのだ。いい部下を、きさまのために失ってしまった。わしは、きさまから十分な償いを受けたい",
"私だって、ひどめ目にあっている。おたがいさまだ"
],
[
"こいつが、こいつが……。きさまが黄金の三日月を知らないことがあるか。きさまが持っていることは、ちゃんと種があがっているんだ。早く渡してしまった方が、とくだぞ",
"わしはそんなものは知らない。もちろん、持ってはいない。いくどきかれても、そういうほかない"
],
[
"どうだ。これが見えないか",
"あッそれだ。や、汝が持っていたのか。ちえッ"
],
[
"ふふふ。きさまがおとなしくしていれば、わしは乱暴をはたらくつもりはない。そこでわしが用のあるのは、きさまが目の穴に入れてある義眼だ。それを渡してもらおう",
"許さぬ。そんなことは許さぬ。悪魔め"
],
[
"これでいいんですかね",
"うん"
],
[
"頭目。金槌で義眼をうち割って、中のものを見ようというんでしょう。しかしそれはまずいなあ。かんじんのものに傷がつくおそれがある",
"じゃあ、どうしたらいいというんだ",
"その黄金三日月とやらは、もちろん、金属でしょう。義眼は樹脂だ。それならば、その義眼を、ここにあるX線装置でもって透視すれば、いともかんたんに問題は解決する。なぜといって、X線は、樹脂をらくに透すが、黄金は透さない。だから、中にある黄金三日月が、かげになって、ありありと蛍光板の上にあらわれる。どうです。いい方法でしょうがな"
],
[
"やい、戸倉。どこへ隠したのか、黄金メダルの片割れを!",
"わしは知らぬ。いや、たとえ知っておったとしても、お前のようならんぼう者には死んでも話さぬ"
],
[
"なぜ、とめる?",
"お待ちなさい。戸倉の残る一眼は義眼ではないです。ほんものの眼ですよ。抜き取ろうたって、取れるものですか。やれば、器量をさげるだけですよ。頭目、あんたが器量を下げるのですよ"
],
[
"あッ、無い。無くなっている、黄金メダルの半分が……。いつ、盗みやがったか",
"おさわぎでない。動けば撃つよ。わたしゃ、気が短いからね",
"何奴だ、きさまは",
"まっくらやみで、目が見える猫女と申す者でござる。ほらお前さんの大切な黄金メダルが動きだした"
],
[
"おお、頭目",
"みんなこい。この扉をこじあけろ。こわれてもさしつかえないぞ"
],
[
"それがどうも分らないんだ。牛丸君の家は旧家だから、金がうんとあると思われたのかもしれないな。そんなら、あとになって、きっと脅迫状がくるよ",
"脅迫状ですか",
"うん。牛丸平太郎少年の生命を助けたいと思うなら、何月何日にどこそこへ、金百万円を持ってこい――などと書いてある脅迫状さ。しかしほんとは牛丸君の家は貧乏しているので、そんな大金はないよ。もしそう思っているのなら、賊の思いちがいさ"
],
[
"それじゃあ、なぜ牛丸君は、さらわれたんでしょうね",
"分らないね。牛丸君は、君のようにとび切り美少年だというわけでもないし……そうだ、君は何か心あたりでもあるんじゃないか。あるのならいってみなさい"
],
[
"ぼくは正直にいいますが、戸倉老人だの黄金メダルだのといわれても、何のことやら、さっぱり分りまへん。これはほんとです",
"なにイ……まだうそをつくか。それなれば――",
"いくら拷問されたって、今いったことはほんとです。今いうたとおり、なんべんでもくりかえすほかありまへん。それとも、ぼくからうそのことを聞きたいのやったら、拷問したらよろしいがな"
],
[
"牛丸少年。お前の前にいるのが戸倉老人だ。この老人なら見おぼえがあるだろう。生駒の滝の前で、お前はこの老人から何を受取ったか。それをいっておしまい",
"この人、知りません。今はじめて会うた人です"
],
[
"お前はどこまで剛情なんだろう。そんなに拷問されたいのか。それでは",
"待って下さい。ほんとにぼくは、この人を知りませへん。うそやありません。この人に聞いてもろうてもよろしい"
],
[
"わたくし、ここに二十万円のお金を持っていないのです。それで今手つけ金として二万円おいてまいります。これから家へかえって、のこりの十八万を持ってきますから、それをわたくしに売ったものとして下さい",
"へえーッ。どうもありがとうはんで。あの、二十万円で買いはりますか。よろしおます。二万円のお手つけ金。ここへちょうだいいたしましょう"
],
[
"これはおもしろいものだ。惜しいことに半分になっている。ご主人、これは本物のゴールド(金)かね",
"純金に近い二十二金ですわ",
"ふふん。で、値段はいくら",
"あまり売れ口がええものやないさかい、まあ大まけにまけて三十万円ですな",
"三十万円! あほらしい、そんな値があるものか。ご主人、十五万円ではどうだ",
"あきまへん。三十万円、一文も引けまへんわい",
"そうかね。それじゃこれから三十万円、なんとかして集めてこよう"
],
[
"待って下さい。この品物は、実はもう売約ができていまして、さしあげかねます",
"いくらで売約しましたか"
],
[
"私、五十万円に買う契約、さっき、あなたとしました。私、買います。五十万円の高値でこれを買う人、私より外にありません",
"よろしい。売りましょう"
],
[
"どうしたんやろか、チャンさんは……",
"あっ、こんなところに倒れている"
],
[
"いや、それは商売上手というものだ。そんなことでなにも爺さんは殺されることはないんだ。ああして殺されたのは、爺さんがひどいことして集めた宝石の中に、おそろしい呪いのかかっているダイヤモンドがあったんだ。それは元、インドの仏像のひたいにはめこんであったのを、ある悪い船のりがえぐり取って、盗んでいった。そしてそれをチャン爺さんに売りつけた。するとインドの高僧が船のりに化けてはるばる取返しにきたんだ。爺さんはすなおに返さなかったもんだから、あのように、えいッと刺し殺された",
"ちがうよ。ピストルで撃たれたんだ",
"あ、ピストルか。ピストルでもいいよ",
"ほんとかい、その話は",
"つまり、そうでもあろうかと、わしは考えたんだがね",
"なんだ。ひとが事件に熱中しているのをいいことにして、うまくかついだね",
"とにかく、あの爺さんは、叩けばほこりがでる人物だ。犯人は永久に分らないよ"
],
[
"あはは。金谷先生が、例の殺されたチャンという万国骨董商の店を、昨日のぞいたというんです",
"まあ、いやなことですわ"
],
[
"金谷先生は、あの店主が殺されると分っていたら、店の中へはいって、しげしげと見てくるんだったなどというもんだから、みんなで笑っていたところなんです",
"気味のわるいお話は、もう聞きたくありませんわ",
"金谷先生のいうことに、連れの立花先生がうしろにこわい顔をして立っているものだから、ついにはいるのをあきらめたといってますよ"
],
[
"少年探偵団だって。それはいったい、なんの目的で結成するのかね",
"まず第一の目的は、ぼくたちの級友である牛丸君を一日も早く救いだしたいことです",
"それは警察がやってくれる。君達が手をださないでもいい",
"でも、警察だけにまかせておけないと思うんです。なにしろ、今になっても、警察はすこしも活動をしてないようですからね",
"それは相手が手ごわいから、準備のためにそうとう日がかかるんだろう。君たちがでかけていってもだめさ。相手が強すぎるからね。返り討ちになるよ"
],
[
"第二の目的は、世界にまれな宝さがしに成功することなんです",
"なんだって。世界にまれな宝さがしとは……",
"先生。牛丸君がかどわかされたことも、実はこの宝さがしに関係があると思うんです。そしてほんとうは、ぼくが連れていかれるはずのところ、賊はまちがって牛丸君を連れていったんだと思うんです",
"君のいっていることは、さっぱりわけが分らない"
],
[
"春木君。先生は昨日、君がとられたという黄金メダルの半ぺららしいものを、海岸通りの横丁の骨董店の飾窓の中に見かけたよ",
"ええッ。先生、それはほんとうですか",
"ほんとうかどうか、とにかく君が今話をした三日月形の黄金メダルというのによく似ていた。君の話では、お稲荷さんのお堂に住んでいた男が、あの店へ売ったんじゃないかな",
"あッ、それにちがいありません。先生、その店はなんという店ですか。どこにありますか。教えて下さい。これからぼくはすぐいって、取返してきます"
],
[
"待ちたまえ、春木君。その店の老主人は昨日何者かのためにピストルで殺されてしまったんだよ。今朝の新聞を見なかったかね",
"ああッ。そうか。すると今朝の新聞にでかでかと大きくでていたチャンフー号主人殺しというのはこの店ですね",
"そうなんだ。だからね、今はその筋で殺害犯人を見つけようと鵜の目鷹の目でさがしているから、君なんかうっかりいくと、たちまち捕えられて、容疑者になってしまうよ。そしたら、いつ娑婆へでてこられるか分りゃしない"
],
[
"大丈夫だ。万一のときは、おれがとびこんでくるから、心配はいらねえ",
"こっちから知らせたいことがあっても、それができないとすれば、結局頭目の大損害じゃないですか",
"すると、なにかおれに知らせたいことがあったんだな。それは何だい",
"わしではないんです。机ドクトルが、何か見つけてきたんです。それが三日前のことで、ドクトルは町へいったんです",
"ふーン。三日前のことか"
],
[
"チャンフー殺しのあった日のことだな",
"そうです。あの日の午後、ドクトルは息せき切ってここへ戻ってきましてな、『頭目はどこにいる』と食いつくようにいうんです。どうしたのかと訊くと、『一刻も争うことだ、頭目の耳に入れたいことがある』という。なんだと聞きかえすと、『黄金メダルの半ぺらが、海岸通りのある店の飾窓に売りにでている』というんです。わしはおどろきましたね"
],
[
"それから頭目探しです。みんなをかりたてて、あらゆるところを探しまわりましたね。ところがだめなんです。机ドクトルからは、『まだか、まだか』と、きついさいそく。困りましたね。それで三日間、得るところなしです",
"ばかだなあ。そんなものが見つかれば、なぜすぐに買いにいかないんだ",
"おっと。それはいわないことにしてもらいましょう。この山塞では、四馬剣尺頭目が命令しないことは何一つ行えないきびしいおきてになっているんです。これは頭目、あなたが作ったおきてですよ",
"よし、そんならよし。じゃあ、机博士をここへ呼んでくれ"
],
[
"ご用ですかな",
"今、木戸から聞いたが、三日前に、海岸通りのある店で、黄金メダルの半ぺらを見つけたって",
"偶然に見つけましたよ。さっそく頭目に知らせようと骨を折ったんですが、残念にも、頭目に運がなかったな",
"本物かい",
"さあ、私は本物と鑑定しましたね。それも頭目がこの間まで持っていた半ぺらではなくて、その相手になる半ぺらでしたよ。三日月形をして、骸骨の顔が横を向いているようでした",
"お前は、それを手にとってみたのか",
"手にとってみましたとも。万一、にせ物では頭目に知らせてお叱りをこうむるばかりだから、掌にのせて比重をあたってみました。たしかに純度の高い黄金でできていることにまちがいなし。そこで値段を聞いたら、三十万円というんです。その因業爺のチャンフーという主人がね"
],
[
"ちがいなし。しかしなぜ頭目は、そんなことを聞くんです",
"とほうもない高値だから"
],
[
"しかしこれが例の宝庫へ連れていってくれる案内者なんだから、三十万円はやすいと思うがなあ",
"あの店の商品としては高すぎるんだ、そして君はどうした"
],
[
"チャンフーを殺したのは私じゃありませんよ。あんな老ぼれを殺す理由なんか、私にはありませんからね。……それより頭目。早くあの店へいって黄金メダルを持ってきたらどうです。頭目が今まで持っていたのは猫女に奪われちまったんだし、さびしいですからねえ。あれが一つ手にはいれば――",
"やめろ。あの店にはもう黄金メダルはないんだ。チャンを殺した犯人が持っていったのか、それとも……",
"それとも",
"まあ、それはいうまい",
"頭目。はっきりいって下さい。私が盗んできたとでもいうのですかい",
"おれは知らない。今日までかかって、いろいろと調べたが、手がかりなしだ"
],
[
"あッ、あなたは、どうしてここへ……",
"しずかに、わしは君に聞きたいことがあって、危険をおかしてここへやってきた"
],
[
"あッ、春木君!",
"牛丸君。よくぶじでいてくれたね"
],
[
"いうんだ。いわないと、こいつがとんでいく。お前がよく知っている恐ろしい毒矢がくらいたいか、それともいってしまうか",
"黄金メダルの半分の写真でもお持ちなら、ちょっと見せていただきたいと思ったのです。それだけです"
],
[
"そうだ。これからお前の部屋へいこう。この部屋でやったとおりのことを、おれはお前にやりかえしてやる。部屋のものをみんなひっくりかえして、総探しをやってやる",
"あッ、それは……頭目。許して下さい"
],
[
"はい。今、明るくします。ちょっとお待ちなすって",
"へんなまねをすると許さんぞ。おれはお前のそばをはなれないから、そう思え"
],
[
"お前さんからもらいたいものがあるのさ。すなおに渡してくれないことは分っているから、こっちでお前さんの身体検査を行うわよ",
"なにッ。なにがほしいんだ"
],
[
"とんでもない。私がチャン老人を最後に見たときは、彼はこれから百年も長生きをするような顔をしていた。あの慾ばり爺を殺したのは、私ではない",
"ふん。なんとでもいうがいい。でも、あたしはチャンフーの身内でもなんでもないから、お前さんに復讐しようとは思わない。が、お前さんがやったかどうか、神さまが知っておいでだよ。だからさ、これから神さまのおさばきを受けるように用意をしてあげるよ"
],
[
"この部屋からでようよ",
"うん。今ならでられるやろ"
],
[
"うわははは、たいへんだ。見ちゃおれん",
"たしかに机博士だ。早く下へ網を張れ",
"おい、首領に報告したか",
"知らせたとも。今ここへ、首領もでてくる、といってた"
],
[
"まあ、よいわい。わしが自由の身になったからには、なんとかして取戻す方法がないでもないのじゃ。うまくいったら、君たちにも知らせてあげる。しかしこのことは、他の人には絶対秘密にしておくがよいぞ",
"はい"
],
[
"どうしてそれを知っているのか",
"あそこの店には、なんの品でもおますさかいにな。しかしもうあそこは頼みになりまへん。主人が殺されましたさかい",
"なんという?",
"チャンフーという老主人が、この間ピストルで殺されましてん。まだ犯人はつかまらんちゅう話だす。春木君から、ぼく聞いたんです",
"ばかばかしい。そんなことがあるものか。はははは"
],
[
"おじさん、六天山の方角ですよ",
"よし、外へでてみよう"
],
[
"おじさん、ど、どうしたんですか",
"あれ……あの音をお聞き"
],
[
"ひどいやつだ。いきがけの駄賃とばかりに、機関銃をぶっぱなしていきおった",
"いくらか臭いとにらんだんですね",
"そやそや、ひょっとすると、このなかかも知れんと思うてうちよったんや"
],
[
"いや、地獄の一丁目までいってきたよ。は、は、は、とんだお茶番さ",
"先生、じょ、冗談じゃありませんぜ。いったい、誰があんなことをしたんです",
"猫女だよ"
],
[
"猫女といやあ、いつか首領の手から、黄金メダルの半ペラをうばっていった……",
"そうそう、あいつだ。あいつが暗闇のなかからとびだして、わしをあんな眼にあわせおったのだ。あいつはほんとに闇のなかでも眼が見えるらしい"
],
[
"それじゃ、先生、あいつがまた、この山塞へしのびこんだというのですかい",
"そのとおり、あいつはまるで空気のように、どこからでもこの山塞へしのびこむのだ。ひょっとすると、まだそこらの闇にしのんでいて、だしぬけにズドンと一発……",
"いやですぜ、先生、気味の悪い。いかにあいつがすばしっこいたって、忍術使いじゃあるまいし……",
"いや、そうではない。あいつは暗闇のなかで、眼が見えるくらいだから、忍術も使うかも知れん。だって、考えてみろ。いつかの晩だって、電気が消えたと思ったら、そのとたんあいつの声が四馬頭目のうしろで聞えたじゃないか。それまで皎々と電気がついていたんだ。いったい、どこからいつの間に首領の椅子のうしろまで、忍びこんできたんだ。それ、即ち忍術をつかう証拠だ",
"いやですぜ、先生、変なことはいいっこなしに願いましょう",
"いや、変なことではない。いずれにしてもあんな妙なやつが、ひょこひょこ出入りをするようじゃ、この六天山塞もさきが知れているな"
],
[
"おまえは昨夜、このわたしにどのような無礼をはたらいたか、よくおぼえていような",
"首領、お許しを……",
"黙れ!"
],
[
"さあ、いえ、おまえは何を見たのだ。エックス線で透視して、おまえはいったい、どのようなものを見たのだ",
"首領、ごめんを……そればかりはごめんください",
"ならぬ、いえ! みんなのまえでいってみろ。おれの正体がどのようなものであったかいってみろ!"
],
[
"構わぬ。いえといえば、早くいえ!",
"それじゃいいましょう。首領、あなたは小男なのだ。あなたの、その大きなダブダブの中国服は、その小男をゴマ化すための煙幕なのだ。あなたは足に、一メートル位の棒をつけて、大男に見せかけているが、じっさいは、小男なのだ!"
],
[
"机博士、それがおまえが見たところか。このおれが小男……? おい、机博士、おまえの眼はたしかか、いやさ、おまえのエックス線に狂いはないのか",
"断じてわたしは見たのだ。わたしのエックス線には狂いはないのだ。おまえは、棒でつぎ足した……"
],
[
"な、な、なんですか。なにをだせというんですか",
"白ばくれるな。おまえはチャンフーの店で、黄金メダルの半ペラを、手にとって調べてみたといったな。おまえのような狡猾な男が、金がないからといって、そのまま、かえると思われるか。おまえはきっと、小型カメラで、メダルの両面を撮影してきたにちがいない。そのフィルムをここへだせ"
],
[
"なるほど。さすがは首領だよ。えらい眼力だよ。感服したよ。たしかにわたしはメダルの両面を撮影してきたよ",
"よし、よくいった。それじゃ、それをここへだしてもらおう",
"ない、とられた",
"とられた? 誰に?",
"猫女に……首領、おまえさんは利口だよ。眼はしが利くよ。しかし、猫女はおまえさんより一枚上手だ。さっき、抜穴のなかで、まんまと、猫女にまきあげられたよ。あっはっは、猫女はいつか、おまえさんからメダルの半分をまきあげたね。そして、こんどは他の半分の両面を、撮影したフィルムも手に入れたのだ。大宝物は猫女のものだよ。あっはっはっは"
],
[
"身体検査のしかたが足らん、そいつを素っ裸にして調べてみるんだ",
"素っ裸に……?"
],
[
"机博士、面白い話をきかせてやろうか",
"面白い話……?",
"そうだ。とても面白い話だ。おまえが聞くと、喜ぶと思うんだ。ほら、骨董商のチャンフーが殺された日のことよ。おまえが黄金メダルの半分を見つけて、まんまと両面の撮影に成功して、ひきあげてからのことだ。間もなく顔に、恐ろしい刀傷のある、スペイン人か日本人かわからぬような、外国の船員服をきた男が、骨董店へやってきたのだ。そして、そいつがいくらで買ったのかしらんが、黄金メダルの半分を買ってでていったんだ。ところが、すぐそのあとへまた、あのメダルを買いにきたものがあったんだ。かりにこの人物をXとしておこう。Xは骨董商のチャンフーからいまでていった、船員風の男が、ひとあしちがいで、黄金メダルを買っていったということを聞くと、急いで、そのあとをつけていったんだ。どうだ、机博士、面白い話じゃないか"
],
[
"なんですか。このあいだの晩の、あのものすごい物音は……?",
"あああれですか。あれはねえ、なんでも六天山のなかに山賊が住んでいたんだそうですよ。それが警官に包囲されたので、山塞にしかけてあった爆弾に火を放ったんだっていいますよ",
"へへえ、山賊がねえ。そして、その山賊はとっつかまったんですか",
"ところが、泰山鳴動して鼠一匹でね。つかまったのは雑魚ばかり。大物はみんな逃げてしまったということです",
"それは残念なことをしましたね。しかし、警察も、あれだけの騒ぎをやりながら、どうしてそんなヘマをしたんでしょう",
"それゃ、仕方がありませんよ。向うはヘリコプターとかなんとかいう、竹トンボの親方みたいな、飛行機をもっているんだからかないません",
"なるほど、それで高跳びをしたというわけですか",
"おや、しゃれをいっちゃいけません"
],
[
"春木君、ちょっと。……",
"牛丸君、なあに",
"妙なことがあるんや。ほら、あの万国骨董商な",
"うんうん、チャンフーの店か",
"そやそや、あの店がまた、ちかごろひらいたんやぜ。ぼく昨日、海岸通りへ使いにいったついでに、あの店をのぞいたところ、表がひらいていて、ちゃんとそこに、チャンフーが坐っているやないか。ぼく、びっくりして、胆っ玉がひっくりかえった",
"馬鹿なことをいっちゃいけない。チャンフーはピストルで撃たれて、死んだはずじゃないか",
"そやそや、それやのに、そこにちゃんと、チャンフーがいるんや。どう見てもチャンフーにちがいないのや。ぼく、てっきり幽霊かと、おっかなびっくりで近所のひとにきいてみたんやが、なんと、店にすわっているのは、チャンフーやのうて、チャンフーの双生児の兄弟で、チャンウーちゅうのやそうな",
"へへえ、チャンフーには双生児の兄弟があったの"
],
[
"なあに、春木君",
"いつか戸倉老人はへんなことをいったねえ。チャンフーが死ぬなんて、そんなことはありえないことじゃと……",
"そうそう、いうた、いうた。あら、どういうわけやろ",
"さあ、ぼくにもそこのところがよくわからないんだが、ひょっとすると、あの言葉と、チャンフーの双生児、チャンウーとなにか関係があるのじゃないかしら",
"うん、うん、なるほど"
],
[
"それで、どうだろう。チャンウーというのを、ぼくらの手でさぐってみたら。……戸倉老人は、なにか変ったことがあったら、なんらかの方法で通信するといっていたが、いまだに、何もいってこない。それでぼく、このあいだから、腕がムズムズして仕方がないんだ。だって、このままじゃ、蛇の生殺しみたいで、気が落着かないじゃないか",
"そら、ぼくかて同じことや",
"そうだろう。だから、今度はこっちから積極的にでてみようと思うんだ。といって、さしあたり、どこから手をつけてよいかわからないから、まず、チャンウーの店からさぐってみたらと思うんだが、どんなもんだろ",
"うん、そいつは面白い。それにきめたッ"
],
[
"ああ、びっくりした、あなたがあまり亡くなったチャンフーさんに似ているので、あたし幽霊かと思いましたわ。そうそう、あなたとチャンフーさんは双生児ですってね",
"そう、わたしとチャンフー、双生児の兄弟、あなた、チャンフー、知っていますか",
"ええ、以前いちど、この店へきたことがありますので、……チャンフーさん、お気の毒なことをしましたわね",
"そう、弟、可哀そう、なんとかして私、犯人さがしたい",
"いまにきっとわかりますわ。警察でもほっておきはしませんもの。あたしだって、いちどお眼にかかった御縁がありますから、心当りがあったらお知らせします",
"ありがと。ときに、今日は何か御入用ですか",
"いえ、実は、今日は買物にきたんじゃないのです。反対にこの店で買っていただきたいものがございまして……",
"はあ、結構です。品と値段によっては、なんでもいただきます"
],
[
"おや、この花瓶、なかがつまってますね",
"そうなのです。父が買ってきたときからそうなっているんです。だから父はこの花瓶のことを、開かずの花瓶だなどと笑ってました。が、……きっと、なにかわけがあって、花瓶をつめてしまったのでしょうね"
],
[
"いや、これは珍しい花瓶です。しかし、これくらい大きな花瓶になると、花を飾るよりも、花瓶自身が飾りものです。で、いくら御入用ですか",
"まあ、それじゃ買ってくださいますの。実は、……"
],
[
"ああ、こいつは都合がいいや。小玉君、なんとかしてお父さんに、しばらくこの部屋をかして下さるようにお願いしてくれたまえ",
"いいとも。ぼくのお父さんは、たいへん物分りのいいひとだから、きっと承知してくださるよ"
],
[
"なるほど、それじゃいつか牛丸君を誘拐した、六天山塞の山賊のゆくえをさぐるために、チャンウーの店を監視するというんだね",
"そうです。そうです。ぼくらは警察に協力して、一日も早くあの山賊をとらえたいのです"
],
[
"あ、見給え。チャンウーの店には天窓があるよ。あそこから覗けば、店の様子がよく見えるにちがいないよ",
"そうや、そうや。ぼく、ひとつあの屋根へおりてみようか"
],
[
"ど、どうしたの",
"しっ、静かに! あの大花瓶をごらん"
],
[
"男がドアをひらいて、誰かを呼びこんだんやな",
"そうだ。男は仲間をしのびこませるために、大花瓶のなかに、いままでかくれていたんだよ。それにしても、忍びこんだのはどういうやつだろう"
],
[
"あ、だ、だ、誰だ!",
"猫女よ",
"な、な、なに、猫女……"
],
[
"さあ、これであたしのいうことが、嘘じゃないってわかったでしょう、わかったらおとなしくしておいで。待ってあげるから、早く右手に繃帯をしておしまい。ほらほら、そんなに血が流れているじゃないの。ああ、やっと繃帯ができたわね。それじゃ、奥の部屋へいきましょう。ここじゃ話もできないから",
"いったい、話って、何んのことだ",
"黄金メダルのことよ",
"黄金メダル? お、黄金メダルってなんのことだ",
"ほ、ほ、ほ。白ばくれたって駄目。こっちは何度もいうように、闇のなかでも眼の見える猫女よ。おまえがいまどんな顔をしたか、ちゃんと知ってるよ。これ、よくお聞き。おまえの双生児のチャンフーは、いつか姉川五郎という男から、黄金メダルの半ペラを買いとった。そして、それから間もなく、顔に大きな傷のある、スペイン人みたいな男に、黄金メダルの半ペラを売りつけたが、そのメダルは贋物だったんだよ。だから、この店にはまだ、本物のメダルがあるはずなんだ。それをここへだしておくれ",
"しかし、それゃア、チャンフーの買ったのが、贋物だったんじゃなかったのか"
],
[
"ねえ、牛丸君、いまの猫女の声ね、君、あれに聞きおぼえがあるような気がしなかった?",
"えっ、さあ、ぼくは気がつかなんだが、誰の声に似ていたんやね",
"いや、君が気がつかなかったとすれば、ぼくの思いちがいだろう。だけど牛丸君、さっきの小男はどうしたんだろうねえ",
"さあ。あいつも奥へ入っていったんやないやろか"
],
[
"春木君、大変や、チャンウーが拷問されてるんやないやろか",
"そうだ、そうだ、牛丸君、さっきの部屋へかえろう",
"さっきの部屋へかえってどうするんや",
"警察へ電話をかけて、お巡りさんにきてもらうんだ。さっき小玉君のお父さんにいわれたろう。自分が子供であることを忘れちゃいけないって。だからお巡りさんに電話をかけて猫女と小男をつかまえてもらうんだ"
],
[
"よし、それじゃこれからすぐいく。ときに君たちは何人いるんだ",
"はい、少年探偵団は同志五人であります",
"それじゃね、みんなで手分けして、万国堂の周囲を見張っていてくれ。しかし、くれぐれもいっておくが、よけいなことに手をだすな。われわれがいくまで待っているんだぞ",
"承知しました。できるだけ早くきてください"
],
[
"牛丸君、あれ……あの物音……?",
"なんや、あの物音……"
],
[
"ヘリコプターだよ。ほら、いつか牛丸君を誘拐していった。……",
"ああ、六天山塞の頭目が持っているという……?"
],
[
"ひょっとすると、万国堂めざしてやってくるかも知れないよ。牛丸君。横光君",
"春木君、なんや",
"君たち二人は万国堂の表のほうを見張ってくれたまえ。それから、小玉君と田畑君は、万国堂の裏口の見張りをしてくれたまえ",
"よっしゃ。わかった。しかし、春木君。君はどうするんや",
"ぼくはここにのこって、この窓から万国堂を見張っている。もうそろそろ、警部さんがくる時分だから、みんな早くいってくれたまえ",
"よっしゃ、春木君、気をつけたまえよ",
"大丈夫、君たちこそ気をつけたまえ。警部さんがくるまで、むやみに手だしをするんじゃないよ",
"わかった。わかった。さあ、みんないこう"
],
[
"えっ、それじゃ、小男や猫女もにがしたのですか",
"小男や猫女……そんな、妙なやつはどこにもいないぜ",
"そんなはずはありません。天窓から逃げだしたのは、横綱のような大男です。小男や猫女は、たしかにまだ万国堂のなかにいるはずです"
],
[
"おまえたちは向うへいけ。それから五分たったら、机博士をおれの部屋へつれてこい。よいか、わかったか。わかったら早くいけ",
"しかし、首領、首尾はどうだったのです。本物の黄金メダルの半ペラは、手に入ったのですか",
"そんなことはどうでもいい。早くいけといえばいかんか"
],
[
"肩の傷はなおったか。貴様があんなところへメダルをかくしておくものだから、つい荒療治もせにゃならん。しかも貴様があんなに苦労して、手に入れたり、かくしたりしていた黄金メダルの半ペラが、贋物だったというのだから、こんないい面の皮はない。は、は、は、人を呪わば穴二つとはこのことだな",
"ちがう、ちがう、そんなはずはない"
],
[
"あれが贋物だなんて、そんな、そんな……あれは時代のついた古代金貨だ",
"そうよ、時代のついた古代金貨だ。しかし、やっぱり贋物なんだ。まあ聞け、机博士、そのわけをいま話してやろう"
],
[
"やあ、相変らず、みんなきてるな",
"ああ、警部さん、今日は",
"警部さん、今日は"
],
[
"警部さん、聞いて下さい。この子たちが毎日きてくれるので、わしはどんなに楽しみだか知れません。ちかごろではもう、すっかり子供にかえった気持ちで、いつまでも、こうして、平和に暮したいと思うくらいです",
"ははははは、あなたも変りましたな。しかし戸倉さん、あなたが、そういうふうに平和を愛されるようになったのは結構だが、そのまえに、ぜひとも解決しておかねばならぬ問題がありましょう",
"むろんです。あの四馬剣尺のことでしょう。わしはもちろん、最後まであいつと闘う決心じゃが、警部さん、その後、あいつらの動勢について、何か情報が入りましたか",
"はあ、若干の情報は入っています。しかし、戸倉さん、それよりまえにお聞きしたいのだが、あなたと四馬剣尺とは、いったい、どういう関係なのですか"
],
[
"そうです。われわれもだいたい、そういう見込で、ヘクザ館には厳重な監視をおいています。ところで戸倉さん、あなたの戦闘準備はどうですか。脚のぐあいがよかったら、いっしょにでかけたら、どうかと思うのですがね",
"むろん、いきます。なに、これしきの火傷ぐらい"
],
[
"ロザリオ、このひとたちが、ヘクザ館の内部を参観したいとおっしゃる。おまえ御苦労でも、案内してあげなさい",
"は、承知しました"
],
[
"では、皆さん、私についておいで下さい",
"いや、どうも有難うございます"
],
[
"問題はあの塔にあると思うのじゃがな。みんなも見たろうが、初代院長の聖骨をおさめてある壇、あの周囲がくさいと思うがどうじゃ",
"小父さん、そうすると、四馬剣尺もあの塔を狙っているというのですか",
"ふむ、たしかにそうだと思う。それでどうじゃろう。今夜四馬剣尺がやってくるかどうかは疑問だが、ひとつ、あの塔を、われわれの手で調べてみようじゃないか"
],
[
"ど、どうしたの、横光君……",
"あの音……ほら、ブーンブーンという竹トンボのような音……"
],
[
"どうだ、木戸、仙場甲二郎、おれの腕前はわかったか。おれを裏切ろうとするものはすべてこのとおりだ。どうだわかったか",
"シュ、シュ、首領……"
],
[
"あっしは何も首領を裏切ろうなどと……",
"そうか、おれが小男とわかってもか。ふふふ、なるほど、おれは小男だが、ここにいる娘は恐ろしいやつよ。こいつはな、暗闇でも眼が見えるのだ、そして、男より力が強く、人を殺すことなど、屁とも思っていないのだ",
"お父さん、何をぐずぐずいってるのよ。それより早く、鰐魚をのけて、二つの穴に黄金メダルを入れなさいよ"
],
[
"よし、よし、おい、木戸、仙場甲二郎、その壇のうえにある鰐魚を二つとものけてみろ。ああ、のけたか、のけたらそこに、穴が二つあるはずだが、どうだ",
"はい、首領、ございます、ございます",
"ふむ、あるか、それではな、このメダルをひとつずつ入れてみろ。右の穴には右の半ペラ、左の穴には左の半ペラ……入れたか、よし、それじゃアな。おれが号令をかけるから、それといっしょにぐっと押してみるんだぞ、一イ……二イ……三!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2002年1月12日公開
2006年7月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002615",
"作品名": "少年探偵長",
"作品名読み": "しょうねんたんていちょう",
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"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
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"底本名1": "海野十三全集 第13巻 少年探偵長",
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} |
[
[
"お由――",
"ええ、仆れちゃったきり、どうしても起きないんです。困ってしまってね"
],
[
"弱ったな、相棒は起せないし――",
"ええ?",
"喜多公なんだよ。考えものだからね"
],
[
"ああ、心臓が止っている――",
"なに、心臓が!"
],
[
"死んでいる。もう全く呼吸が無くなっているんだ",
"大変なことになったな――でも、どうして死んだんでしょう",
"どうしてって君、君は今までどうしていたんだい?"
],
[
"矢っ張り私、帰った方が好いわ。あんた怒りゃしないわね。又来るには泊らない方が出好いもの、ね",
"だってもう十二時過ぎだぜ",
"怖かあないわ。こう見えたって白蛇のお由さんだもの。夜道なんか平気よ",
"じゃ、其処まで送って行こう",
"無論だわよ"
],
[
"初めは冗談だと思ったんですよ。けれど、様子が可怪しいんでしょう。だから驚いちゃって――",
"一体、君が此処へ帰って来るまで、詰りお由さんが一人で此処に残っていた時間は、どの位だったの",
"三分とは経っちゃいないんです",
"三分? そして君が帰って来た時、この露路に誰も人は見えなかった?",
"ええ。はっきり覚えてはいないけれど、たしか誰も見えませんでした"
],
[
"あの、今戸の姐御が殺されちゃってね。つい其処にむごたらしく殺られているんでさ。あっしはこれから直ぐ今戸へ行かなけりゃならないんで、すみませんがあんた一つ、今日の当番をかわってくれませんか",
"へえッ!"
],
[
"まあ、いやだ。そりゃいい女だって言うけど、腕も脚も無いんですってさ",
"あら、何うしましょう。私見るのが怖くなっちゃったわ"
],
[
"喜多公、よく覚えて置けよ。殺された女の恨みは七生祟るっていうからな",
"何んですねえ、親分。冗談じゃねえ",
"なに! 女房が殺されたってのに、冗談口を利く亭主が何処にある。てめえの為を思うから言ってやるんだ。後世の事を思ったら、今の内に――"
],
[
"何んだと? てめえはそれじゃ、おれの恩を仇で返す気だな。よし、そんなら言って聞かせる事があらあ。一体、お由の屍骸を一番初めに見附けて来たなあ何処の何奴だ。あの晩、てめえは何処で何をしていやあがったんだ。お由の胸へ匕首を差し附けて……",
"親分、それじゃ姐御を殺したなあ、あっしだと言うのか!",
"胸に聞いたら判ることだ",
"何んだと!"
],
[
"実は、あっしは姐御、詰りお由さんに想いを掛けていたのです。で、幾度も気を引いて見ましたが、なかなか思うようにはなりませんので、あの日、灯が点くと間も無くお由さんが泊り掛けで根岸へ行ったと聞きましたので、あっしは根岸の家の番地を人知れず確しかめて、お由さんの後を追って行きました。根岸へ着いたのは八時頃だったと覚えています。所が何うしても此処と思う家が見当りませんので、今度は一軒一軒裏口へまわって、お由さんの声を目当に探し廻りましたが、矢っ張り知れません。その中に十一時半になってしまいましたので、何んだか急に馬鹿馬鹿しくもなって、其の足でぶらぶら歩いて引っ返し、千住の万字楼という家へ登って花香という女を買って遊びました。登ったのは多分十二時半か一時頃でしょう。翌朝其処を出たのは六時半頃です",
"何故又そんな事を今まで隠していたんだ",
"へッへ、姐御の後を附けたなんてうっかり言っては、飛んだ嫌疑が掛かると思いましたんで――"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年6月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年11月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "001232",
"作品名": "白蛇の死",
"作品名読み": "しろへびのし",
"ソート用読み": "しろへひのし",
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"初出": "「新青年」博文館、1929(昭和4)年6月号",
"分類番号": "NDC 913",
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"姓ローマ字": "Unno",
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} |
[
[
"もしもし、あなた。こんなところであなたは病院の夢を見ておいでなんですか。それとも病院から放りだされた……",
"く、苦しい。た、助けてくれイ……"
],
[
"病院……病院へ、これから行きたいのだ。早く連れてってくれ",
"ごもっともです。しかし一体あなたはどういう事情でこのような軒下に藁蒲団を敷き、そして……"
],
[
"ええっ。わしは君を殺すつもりはない",
"盗まれたッ。盗まれちまったんだ、僕の心臓を盗んでいきやがったんだ",
"なに、心臓を盗まれた。それは容易ならぬ出来事だ。あなたは心臓を盗まれたというんですね。ほう、昂奮せられるのはごもっともですが、どうか気を鎮められたい。そんなばかなことがあってたまるものか",
"早く僕の心臓をかえせ。僕は死んじまう……",
"ははあ、察するところあなたは“ベニスの商人”の物語に読み耽けられたんだな。心配はいらんです。ここにはシャイロックは居ませんし……",
"ああ僕は死ぬ、心臓がなくなっては……",
"それがあなた真理に反しているのですよ。いいですか、およそ人間たるものが、心臓を失ったら、立ち処に死んでしまうでしょう。しかるに君はちゃんとこうして生きて居らるる。それならば君の心臓は盗まれていないと帰納してよいじゃありませんか。どうです"
],
[
"いや、烏啼が下手人である証拠は山のようにありますぞ。あなたがたはそれに気がつかれないのですか",
"どうも残念ながら……猫々先生の専門眼を以てお教えにあずかりたい"
],
[
"あなたはわしをおからかいなのではないでしょうか。いいですか。心臓をちょん切って持っていったのを第一とし、次にこの黒い四角い包みがそうなんですが、これは代用心臓が入っているんです。スットン、スットンと音がしているでしょう。あの音は、この箱の中に仕掛けてある喞筒が、正しく一分間に六十回の割合で、この青年の血液を、心臓に代って、全身へ送り出しているんです",
"ほほう"
],
[
"お分りになったでしょうな。このような優秀な代用心臓を供給し、それを見事に取付ける手際からいって、その下手人は烏啼めの外にはないと断言ができます。これが第二の証拠ですわい",
"ほほう",
"そればかりか、この黒い風呂敷をごらんなさい。ここに見えるのは、烏の形をした染め抜き模様です。これは赤ン坊が見てもそれと判断ができるでしょう、この風呂敷が奇賊烏啼の所有品だということは……。これが第三",
"ほほう、これは気がつかなかった",
"第四には、賊はこの青年紳士安東仁雄君の心臓を強奪すると共に、直ちに代用心臓を与えて居る。つまり賊は、被害者の生命の保護ということについて責任ある行動をして居る。このように仁義のある紳士的な賊は、烏啼天駆めの外にはないのです。有名な彼の言葉に――“健全なる社会経済を維持するためには何人といえども、ものの代金、仕事に対する報酬を支払わなければならない。もしそれを怠るような者があれば、その者は真人間ではない。たとえ電車の中の掏摸といえども、乗客から蟇口を掏り盗ったときは、その代償として相手のポケットへ、チョコレートか何かをねじこんでおくべきだ。そういう仁義に欠ける者は猫畜生にも劣る”――というのがありますがな、猫畜生なる言葉は適切ではないが、その趣旨は悪くないと思う。つまり相手から心臓を奪いながら、すぐさま代用心臓を仕掛けて相手の生命を保護するというやり方は、これは烏啼めのやり方です",
"ふふん、ふしぎなやり方ですな",
"ふしぎじゃないですよ。いくら賊にしろ、お互いに人間同志だから、烏啼のようにやるべきですよ。――まだある、第五には……",
"もう、そのへんでよいです",
"いや、大事な証拠をあなたがたが見落して行かれてはならぬ。第五は、この青年がこのとおり軒下ながら、下に藁蒲団を敷き、風邪をひかぬように暖く五枚の毛布にくるまって居る事実に注意せられたい。これはこの青年が用意したことではない。これまたかの烏啼天駆めの責任的行動である。従来の賊なれば、この青年の心臓を抜いて、残りの身体はそのまま溝の中へでも叩きこんでおいたであろうが、わが烏啼――いや、かの烏啼めに至っては、下に藁蒲団を敷き、被害者の身体は純毛五枚で包んだ上で、ここへ捨てていった。烏啼ならでは、こんなことはしない。第六には……",
"待った。もういいです。われわれも、烏啼の仕業たることを大体確認しましたから",
"第六には……",
"いや、それよりもこの被害者を直ちに病院へ移しましょう。こんなところに永く置いて当人に風邪でもひかせたり、死んでしまわれたりすると、われわれの責任になりますからなあ。そうなると、われわれは烏啼天駆に劣ることになります。――事件の尋問は、この安東氏を病院へ収容した上でのことにしましょう"
],
[
"あんたは心臓盗人としての嫌疑を受けて拘束せられていたのか",
"そうではありません。当局はわしを、烏啼の賊から保護するために泊めておいたのです",
"じゃあ、出されたのはもうあんたを烏啼から保護しなくも危険はないという事態になったと考えていいのか",
"事態がそうなったというよりも、わしの実力を以てすれば烏啼の輩から危害を受けるおそれなしと当局が認めたせいですよ",
"あんたはこれから烏啼と一騎打をするのか",
"従来からも一騎打をして来たですから、もちろんそれを続けますよ",
"烏啼がどこに居るか、あんたは知っているのか",
"はあ、よく知っていますよ",
"当局は烏啼の所在が分らないといっている。あんたは当局に教えてやらないのか",
"訊かれもしないことについて喋らないでもいいでしょう。当局には当局で、お考えもありまた面子もあるのでしょう",
"あんたは、烏啼が本当に安東の心臓を盗んだと思っているのか",
"はい。そう思っています",
"じゃあ、烏啼は何の目的があって安東の心臓を盗んだと思うか",
"恋愛事件が発生しているのですね"
],
[
"探偵さん、僕はもうやり切れんですよ",
"お察しします",
"僕の心臓は見つかりましたか",
"まだです",
"まだですか。困るなあ、見つからなくては……烏啼氏は見つかりましたか",
"わしはまだ彼を訪問していません",
"どこに居るのか分っているのですか",
"多分……。但し、わしにだけはね",
"烏啼氏に会ったら、僕に代って懇願して下さい。金はいくらでも出すから、元のように本当の心臓をはめて下さいって",
"いうだけはいってみましょう",
"とにかくこうして代理心臓を首から釣り下げていたんでは、恰好が悪くてあの娘の前にも出られませんしねえ",
"そう、その“あの娘”について伺いに参ったわけですが、そのお嬢さんのお名前はなんというのですか",
"今福西枝というんです"
],
[
"イマフク・ニシエさんですね。ようござんす。ひとつ努力をして見ましょう",
"探偵さん。お願いですよ。あの娘の前へ、あの娘にいやがられないで出られるように、一日も早くさっきのことを解決して下さい",
"いやに気の小さい台辞を仰せられまする",
"僕は生まれつき気が弱くてね。だからあの娘とまる一年も交際しながら、まだ僕は自分の意志表示さへ出来ないんです",
"あなたの情熱が足りんのじゃないですか",
"そんなことはない。僕は自分の情熱が百度以上に昇っているのを知ってます",
"とにかく後でまたご連絡しましょう"
],
[
"あなたですな。お約束したものですから、その後の判明事項をご報告しますが、おどろいちゃいけません、心臓に悪いですからなあ",
"それはどうもすみません。何ですか、そのおどろいちゃいけないというのは……"
],
[
"ああ、分りました。その野郎なら知っていますよ。どうもいやな野郎だと思っていたが、僕が入院しているのを奇貨として、あの娘をくどいているんですか。けしからん奴だ、あの野郎――月尾寒三というんですよ、そののっぽ野郎は……",
"ほう、月尾寒三ですか"
],
[
"駄目ねえ、探偵さんが僕の恋敵の名前を知らないなんて。が、それはまあ大したことじゃない。僕にとって我慢ならぬのは、その月尾寒三の野郎です。よろしい、僕は決心しました。これから倶楽部へ行って、月尾寒三をのしあげて、今福嬢を奪還します。ではいずれ後で……",
"えっ、それは待った。もしもし。もしもし……"
],
[
"……なにしろ、これじゃあ風呂にも入れませんし――代用心臓は電気で動いている器械ですからねえ。それに西枝と結婚すれば、たいへん困ることが出来るんです。どうか先生烏啼にそういって、僕の心臓を返して貰って下さい",
"困ったねえ"
],
[
"おい烏啼君。この問題についちゃ、君は初めからへまばかりやっているよ。実行に先立ち、なぜもっとよく考えなかったんだ。そうすれば、結果が君の希望と反対になるということが分ったはずだ",
"……",
"いいかね、君は君の恋敵の身体からその心を奪って、恋敵の胸に不細工きわまる代用心臓をぶら下げさせた。それはそういう恰好が今福嬢の嗜好に適しないと考えたからなんだろう。――ところが、実行をしてみると誤算が現われた。ねえ、思い当るだろう",
"……",
"心臓を盗まれた男というんで、恋敵を一躍有名にしてしまった。そればかりか、恋敵の弱い心臓を切取って、その代りに強い代用心臓を取付けてやったもんだから、君の恋敵は俄然男性的と化成して忽ち君を恋愛の敗北者へ蹴落しまった。ねえ、分るだろう。つまり君はわざわざ自分を敗北者へ持って行くようなことをしたんだ。バカだねえ",
"ううッ、……",
"本当にバカだよ君は。君の恋敵は強い機械心臓を取付けて貰って天の恵みと喜んでいるし、今福嬢までが何がうれしいか喜んでいる。するに事欠いて君は、恋敵の弱点であるところの生れつき弱い心臓を、わざわざ強い機械心臓に変えてやって――"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「オール読物」文藝春秋社
1947(昭和22)年3月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2006年8月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002712",
"作品名": "心臓盗難",
"作品名読み": "しんぞうとうなん",
"ソート用読み": "しんそうとうなん",
"副題": "烏啼天駆シリーズ・2",
"副題読み": "うていてんくしりーず・に",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋社、1947(昭和22)年3月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card2712.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第12巻 超人間X号",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月15日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年8月15日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "原田頌子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/2712_ruby_23995.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-08-03T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/2712_23996.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-08-03T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"だって、僕たちは……",
"いけましぇん、いけましぇん。なにいっても、はいれましぇん"
],
[
"じゃあ、イワノフ博士をここへよんでください。僕たちは、お隣りにすんでいる正太とマリ子という兄妹なんです。博士が……",
"なにいっても、日本人はいれましぇん。かえらなければ、私、つよいところを見せます",
"まあ、待ってください。だって博士が、僕たちにぜひ見に来いといって、さっき電話をかけてくださったんです",
"兄ちゃん、もうよしてかえりましょうよ"
],
[
"お待ちよ、マリちゃん。だって博士が見に来いといったのに、受付の人からおいかえされるなんて、そんな変なことはないよ",
"こらっ、どうしてもかえりましぇんか。日本人剛情でしゅ、私、腕をふりあげます",
"あれぇ、兄ちゃん"
],
[
"ドンや。いけましぇん。ああ正太しゃん、マリ子しゃん、待っておりました。さあさあ、こちらへおはいり、ください。この受付に、いいつけるのを、私、わすれていました",
"ああ、あなたはイワノフ博士ですね",
"そうです、イワノフです。ようこそ、正太しゃんもマリ子しゃんも来てくださーいました。こっちへおいでくださーい"
],
[
"あれっ、変だなあ",
"さあさあこっちへおいでくださーい。あなたがたに、とくべつ見せたい人造人間などたくさんあります",
"とくべつ見せたい人造人間て、なんです",
"いや、なかなか面白くできたものが、あります。私、誰も入れませんが、あなたがただけ、とくべつに家のなかへ入れまーす"
],
[
"なあに、あれは人造犬あります",
"えっ、人造犬ですか。マリちゃん、あれは人造犬だってさ",
"まあ、人造犬なの。すると機械で組立ててある犬なのね。まるで本物の犬そっくりだわ",
"そのとおり、ありまーす、人造犬がくいつくと、手でも足でも、ち切れます。本当の犬なら、そうはなりません",
"じゃ、本当の犬よりつよいのですね"
],
[
"いや、僕たちはのみませんから、博士だけでおのみください",
"そうですか。では私もやめまーす、動く卓子をかたづけましょう"
],
[
"はははは、どうです。面白いでしょう。あれも本物の豚ではなく、私がつくった人造豚です",
"はーん、あれは人造豚ですか。おどろいたなあ",
"あたし、なんだか気味がわるくなったわ。兄ちゃん、もうかえりましょうよ"
],
[
"ちょっとお待ちください。もっと面白いもの見せます。自慢の人造人間エフ氏、見せます",
"もうたくさんだわ",
"いや、人造人間エフ氏、なかなかりっぱな人間です。見ておくと、話の種になります。あなたがた近く日本へかえります。よい土産ばなしができます"
],
[
"えっ、僕たちが日本にかえることを、どうして博士はご存知なんですか",
"はははは。それは皆わかります。私には世界中のことが何でもすぐわかります"
],
[
"ここから階段をおりて、地下室へゆきます。マリ子さん、恐ろしいですか。それなら、ここに待っていてください。そこから庭へでてもよろしいです",
"じゃ、マリちゃん。ここで待っててね。僕が来るまで、どこへもいっちゃいけないよ",
"ええ、待っているわ。できるだけ早くかえってきてね、兄さん"
],
[
"博士、人造人間エフ氏というのを、なぜそんなに僕に見せたがるのですか",
"うふん、それは――それはつまり世界中で一番すぐれた人造人間だからです。いままでの人造人間は、ゴリラか巨人のように大きかったですが、人造人間エフ氏は、たいへん小さくできています。日本語も、私たちより、なかなかよく話します",
"へえ、日本語を話すのですか、その人造人間エフ氏は――",
"そうです。日本語のほか、英語でも、ロシヤ語でもよく話します。十三ヶ国の言葉を喋ります。なかなか私、苦心しました"
],
[
"エフ氏って、あれですか",
"そうです。エフ氏は、まだ中身だけしかできていましぇん。まだあの上に、肉をつけ、そして皮をかぶせ、人間に見えるようにいたします。まだできあがっていないのです。しかしよく動きますよ。さあ入りましょう"
],
[
"マリ子しゃん。そんなにさわぐ、よくありましぇん",
"だって博士、兄があたくしをおいてけぼりにして、どこかへいってしまったんですもの",
"正太しゃんのことですか。正太しゃんならこの室にいますから、心配いりましぇん"
],
[
"だって、人造人間の研究はとてもおもしろいんだもの。マリちゃん、お前、一足さきへかえってくれない。兄さんは、もっと実験をみてから、帰るから",
"いけないわ、いけないわ"
],
[
"だって面白いんだがなあ。ねえ、マリちゃん。イワノフ博士って、すてきにえらい方だよ。人造人間をたくさんこしらえて、世界中をもっと幸福にもっと便利にしようといわれるのだよ。僕、人造人間のこしらえ方まで習ってゆきたいと思っているのだがなあ",
"いけないわ、お父さまが心配していらっしゃるわ。すぐ一しょに帰りましょうよね"
],
[
"兄ちゃん。もう二度と、イワノフ博士のところへいっちゃ駄目よ。博士はきっと恐ろしい人だとおもうわ。兄ちゃんは、あの部屋で、博士となにをしていらしたの",
"人造人間エフ氏という骨組だけしかできていない人造人間があるんだよ。そのエフ氏に日本語を教えてやっているんだよ"
],
[
"まあ、人造人間が日本語を覚えるなんて、ずいぶん変なことね",
"なかなかよく覚えるんだよ。僕が“ずいぶん寒いですね”というと、エフ氏もまたすぐ後から“ずいぶん寒いですね”と、おなじことをいうんだよ。そして僕の声をまねして、おなじような声で喋るんだ。あまりおかしくて、僕吹きだしちゃった",
"まあ――",
"するとエフ氏もまたそのあとで、僕がやったと同じように、ぷーっとふきだしたので、大笑いだったよ。あははは",
"まあ、変ね"
],
[
"うん、マリちゃん。あの日ばかりは、さすがの僕も後悔したよ。つまりイワノフ博士の人造人間エフ氏の実験をたいへん長いこと見せてくれたんだが、あの日は、人造人間エフ氏の身体と僕の身体との間になんだか怪しい火花をぱちぱちとばせてさ、急に目まいがして、しばらくなんだか気がぼーっとしてしまったんだよ",
"まあ、ひどいわね。イワノフ博士はまるで魔法使みたいね",
"それからどのくらいたったかしれないが、気がついてみると、僕はいつの間にか安楽椅子のうえにながながと寝ていたんだよ",
"あら、じゃ兄ちゃんは、博士からよほどひどいことをされたんだわ",
"さあ、博士からされたんだか、それとも僕と向いあっていた人造人間エフ氏からされたんだか分らないがね。とにかくそれからのちすっかり気持がわるくなって、家へ帰ってもすぐ寝床へもぐりこんじまったんだよ。お父さまには、だまっていておくれよ",
"兄ちゃんは、電気や機械の実験のことになると、すぐ夢中になるんですもの"
],
[
"えっ、それはどういうこと",
"わけのわからぬ信号だよ。つまり暗号信号なんじゃ。あたりまえの信号でないのじゃ",
"暗号なの。暗号で、どういうことをしらせているの",
"わからん子供じゃなあ。暗号だからなにをしらせているのか、わからんのじゃ。ただわかることは、これからきっと、この船になにかたいへんなことがおこるだろうということだ"
],
[
"では、すぐ手はずをととのえたがいい。この船には、わしがこんな年齢になるまで汗みずたらしてはたらいて作った全財産が荷物になっているのじゃ。船が沈没してしまえば、わしの一生はおしまいじゃ。あれあれ、あの信号旗はなにごとじゃ。それから、この船から放りだした赤と黄との煙の信号は、あれはなにごとじゃ",
"あの煙のことは、私もあやしいとおもっていましらべさせています。誰が、あれを海のなかへ放りこんだか、いますぐにわかります。"
],
[
"なんだ、張か。お前は、なぜあのような煙のでるボールを海のなかへなげこんだのか",
"いえ、船長。わたし、悪いことない。わたし、なにもしらない"
],
[
"こら、うそをいうな。お前がボールをなげこんだところを、おれはうしろからちゃんとみていたんだ。かくしてもだめだ",
"えっ、あなたみていた。それ、うそないか",
"お前こそ、大うそつきだ。よし、いわないなら、いえるようにしてやる"
],
[
"ああ、わたし、いうあるよ、いうあるよ。あたし、ボールたしかに海へなげこんだ",
"それみろ。なぜなげこんだのか",
"それは、わたししらない。よそのひとに、ボールなげこむこと、たのまれたあるよ。わたし、お金もらった。そのお金もわたしいらない。あなたにあげる"
],
[
"わたし、いわない、いわない",
"なにをいっているのか。お前にたのんだのは子供だとまで白状してしまったんじゃないか。いわないといっても、そりゃもうおそいよ。お前にたのんだその子供というのは、どんな顔をしていたか。またどんななりをしていたか。それをいえば、お前の罪はゆるしてやる"
],
[
"おい、張。なにもかも、もうすっかり白状したがいいぞ",
"ううっ――",
"白状すれば、お前の罪をゆるしてやるといっているのが、わからないか。おい、張、さっきお前は、正太という船客の顔をみて、なぜおどろいてにげだしたのだい",
"ああっ、それは――",
"こっちにはすっかりわかっているんだ。はやく白状しただけ、お前の得だぞ"
],
[
"――が、あの子供、そこにいると、わたしいえない",
"あの子供のお客さんはこの船具室にはいないよ",
"ほんと、あるな。では、いう。わたし、あの子供にたのまれた"
],
[
"そうだ。正太君がやらなかったことは、あのときわしも正太君のうしろにいて、みてしっている。正太君につみはない",
"そうですか。これはへんなことになった。張は正太君にたのまれたというし、あなたがたは正太君がやったのではないという。どっちがいったい本当なのだろう"
],
[
"おい、船底の荷物の間から、さかんに煙をふきだしているぞ。ポンプがかりに、そういってやれ。もっと力をいれてポンプをおさないと、とてもものすごい火事を消せないとな",
"おい、こっちだこっちだ。こっちからも煙がでてきた。船客の荷物に火がついたぞ"
],
[
"兄ちゃん。あの潜水艦は、なにをするつもりなのかしら",
"さあ、なにをするつもりかなあ――"
],
[
"なあに、大丈夫だよ",
"いいえ、大丈夫ではないわ",
"ねえ兄ちゃん、あたしたちは火事で焼け死ぬか、潜水艦のために殺されるか、どっちかなんだわ。そうなれば、もう覚悟をきめて、日本人らしく死にましょうよ。そうでないともの笑いになってよ"
],
[
"ねえ、マリちゃん。どう考えても、まだしんぱいすることはないよ。僕も、船員のひとに力をあわせて、ウラル丸がたすかるようにはたらいてくるから、マリちゃんはさびしいだろうけれど、その間、船室で待っておいでよね",
"まあ兄ちゃんちょっと待ってよ",
"兄ちゃんのことはいいよ。はやく船室にはいって……",
"兄ちゃん、兄ちゃん……"
],
[
"船長。どっち道、もうだめですよ",
"そう弱気をだしちゃ、こまるね。しかし無電機をこわされちまったのは困ったな",
"無電技士が、しきりにSOSをうっているとき、うしろに人のけはいがしたので、ふりむいた。するととたんに頭をなぐられて、気がとおくなってしまった。そのとき、ちらりと相手の顔をみたそうですが、それが例の正太という少年そっくりの顔をしていたそうですよ",
"そうか。あの少年は、いつの間にやら、私のところから逃げだしたとおもったが、そんな早業をやったか。無電機をこわしたのも、もちろん無電技士をなぐりつけた犯人と同一の人物にちがいない。――というと、正太という少年のことだが、あんなかわいい顔をしていながら、見かけによらないおそろしい奴だな",
"そうです。おそろしい奴です。そしておそろしい力をもった奴です。無電技士を気絶させたばかりではなく、無電機のこわし方といったら、めちゃめちゃになっていまして、大人だってちょっと出ないくらいの力をもっているんですよ、あの正太という子供は!"
],
[
"船長さん。まだ日本の軍艦はこないんですか",
"えっ?",
"船長さん、SOSの無電はうったのですか。それともまだうたないのなら、早くうってはどうですか"
],
[
"まあ待て一等運転士。そのことよりも、今はあそこに見える潜水艦から魚雷のとんでくることをしんぱいせねばならないのだ",
"船長。それはわかっていますが、でもこの子供のいうことをきいていると、むかむかしてきてたまりません"
],
[
"ねえ船長さん。僕にできることなら、なんでもしますよ。ボートを漕ぐことなんか、僕にだってできますよ",
"ふん。君はだまっていたまえ"
],
[
"あっ、日本の飛行機だ。海軍機だ",
"ああ、はじめにうったSOSの無電が通じて、わがウラル丸をたすけにきてくれたのだ。だから怪潜水艦は逃げだしたのだ。うわーっ、ば、ばんざーい"
],
[
"ま、待ってください。いま船をおりるわけじゃないんです",
"だって、船はここでおしまいですよ。早くおりてください",
"それはわかっていますよ。しかし僕の妹がどこへいったのか、見えないんです",
"えっ、なんですって",
"さっきから妹のマリ子を船内あちこちとさがしているんですが、どこへいったのか、いないんです。僕、困っちゃったなあ"
],
[
"もしもし、ちょっとその切符をみせなさい",
"切符よりも妹をはやくしらべてください",
"いやいやそうはいきません。その切符はあやしいですぞ。君は十九号という切符をもっているが、ほら、これをごらんなさい。十九号という切符は、もうすでに私がちゃんとお客さまからいただいてある。君のもっている切符は、にせ切符だ。君は、どこからそんなにせ切符をもってきたのか。それともじぶんでこしらえたのか。これ、もうにがさんぞ"
],
[
"えっ",
"君は、おもいちがいをしている。この少年の持っている切符の方が本物で、はじめに君がうけとっておいた十九号の切符の方がにせ切符なんだ。この少年を、にせ切符のことでうたがったのはわるかった。君もこの少年にあやまりたまえ"
],
[
"おう、たいへんだ。戦車が燃えている。いやどろどろに熔けている、おい、みんな早くこい",
"何だ。火事か。えっ、鋼鉄づくりの戦車がひとりで焼けている?"
],
[
"うふふふ、これはすごいことになったぞ。三センチもある鉄板が、ボール紙を水につけたようにとけてしまった。とてもおそろしい力だ",
"おい邪魔だ。おじいさん、あっちへどいてくれ。水がかかるよ",
"なあに、水をかけることはないよ。もう火はおさまっている。戦車がとけて、鉄の塊になっただけでおさまったよ。はははは"
],
[
"とにかく全力をあげて、マリ子さんの行方をさがしてみましょう。しかしですね、正太君、いまお話をきいて僕がたいへん面白く感じたことは、あなたの見た怪しい二人づれの少年少女と、昨日九段に陳列してあったソ連戦車をどろどろに熔かした怪事件がありましたが、そのときあのへんをうろついていたやはり二人づれの怪少年少女があるのですが、どっちも同じ人物らしいことです。これはなかなか、手のこんだ事件のように思われますよ",
"戦車事件は、新聞でちょっと読みましたが、たいへんな事件ですね。しかし、妹のマリ子が、あのようなおそろしい事件にかかわりあっているとは、僕にはおもわれないのですが――",
"もちろん、マリ子さんにはなんの罪もないのでしょう。マリ子さんと一しょにとびまわっている少年、つまり正太君のにせ者が、いつも先にたってわるいことをしているのにちがいありません。その少年をひっとらえて、あなたと一しょに並べると、これはまたおもしろいだろうとおもいます。じつは、そのことについては、私にもいささか心あたりがあるのです",
"心あたりというと、どんなことでしょう"
],
[
"ええ、僕はどこへでもついてゆきますよ。ですけれどねえ、探偵さん、マリ子を何時とりかえしてくれますか",
"さあ、それはまだはっきりうけあいかねるが、私の考えでは、この火薬庫の爆発事件も、なにか君の妹さんと関係があるような気がしますよ。とにかく爆発現場へいってみれば、わかることです",
"じゃあ、これからすぐいきましょう",
"よろしい。おい大辻、三人ですぐでかけるが、用意はいいか",
"はい、用意はできています。そんなことだろうと思って、私は車を玄関につけておくように命じておきました"
],
[
"爆発の前に、少年と少女が現場附近をうろついていたというようなしらせはありませんか",
"少年と少女とがうろついていなかったかというのかね。はてな、そういえば誰かがそんなことをいっていたよ。その少年と少女とが、どうかしたのかね",
"その少年が、どうも怪しいんですよ。あれはただの人間じゃありませんよ"
],
[
"化物の一種だとすると、狸かね狐かね。はははは、そんなばかばかしいことが……",
"警部さん。その怪少年というのは、ここにいる私の連れの正太君そっくりの身体、そしてそっくりの顔をしているのですよ",
"なんだ、この少年と似ているのか。ふーん、じゃ、あの化け物もかわいい少年なんだね",
"そうです。似ているというよりも、双生児のように、いやそれよりも写真のようにといった方がいいでしょうが、この正太君そっくりなんです",
"なんだ双生児なのか",
"いや、双生児のようによく似ているというはなしです。それがたいへんおかしい。だから私は、こう考えているのです。あの怪少年は、人造人間にちがいない",
"えっ、人造人間? はははは、君はますますへんなことをいうね",
"いやじつは、さっき正太君から聞いた話で思いあたったのですが、あの怪少年こそ、ウラジオの人造人間研究家のイワノフ博士がこしらえた人造人間エフ氏じゃないかと思うのです。これはこれからのち、よくしらべてみないとわかりませんけれど",
"人造人間エフ氏!",
"いよいよこれはなんだかわからなくなった"
],
[
"ちょっとお待ち、正太君。あの老人にあうのは、ちょっと待って下さい",
"なぜ大木老人にあってはいけないのですか。あの老人は、僕にもマリ子にもたいへん親切だったんですよ、さっき、僕が帆村さんにくわしくお話したでしょう"
],
[
"ねえ正太君。私はあの老人を一番あやしいと睨んでいたのですよ。なんだってあの老人は、怪少年があらわれると、いつでもかならずそのあとに姿をあらわすのでしょうか",
"僕、大木老人はいい人だと思うがなあ。船の中でも、僕のことをたいへんかばってくれましたよ。あのとき僕は、もうすこしで船の中の牢屋にいれられるところだったんです。そのとき大木老人がきてくれて、僕が無罪だということをさかんにいってくれたんです。だから僕は、牢にも入らないで、船の中をずっと自由に歩きまわることができたくらいなんですよ",
"それがどうもあやしい",
"あれ、どうしてです。僕を助けてくれた人があやしいとは、わけがわかりませんよ",
"いや、いまによく分るでしょう。私には、大木老人となのるあの怪人物が、なにをもくろんでいたか、分るような気がするのです。正太君、いま僕のいった言葉を忘れないように",
"どうもへんだあ"
],
[
"とにかく私は、大木老人をおいかけます。君は私についてきますか、ついてくるのがいやなら、私ひとりでいきます",
"僕は、マリ子の方をさがしたいのです",
"そうですか。よくわかりました。では、正太君には、私の助手の大辻をつけてあげましょう。大辻はなかなか力があるから、きっと君の役に立つでしょう"
],
[
"じゃあ大辻さん。僕が探偵長になるから、大辻さんは僕の助手というようにしてこれから妹と怪少年のあとをおいかけようや",
"なに、わしは助手か。ああなさけない。わしはいつまでたっても万年助手だ",
"じゃあ、いやだというの",
"いやじゃない。いやだなどといったら、あとで先生から、叱られるよ",
"ついてくるのなら、それでもいいが、大辻さんは、あまり役に立たない探偵なんだろう",
"じょ、じょうだんいっちゃこまるよ。先生もさっきいったじゃないか。力にかけては、双葉山でも大辻にはかなわないとね",
"あんなことをいってらあ。やっぱり双葉山の方がつよいにきまっているよ",
"子供のくせに、なまいきなことをいうな。出かけるものなら、さっさと出かけようぜ"
],
[
"けしからん怪少年だ。お前さんの妹さんは、へたばりそうじゃないか",
"大辻さん。一二三で、おいかけようや",
"うむ。お前さんはそうしなさい。わしは、この草むらの中を通って、先まわりをしよう。ちょうど、あの曲り道の向こうあたりで、両方からはさみうちだ",
"よし、じゃあ元気でやろうね",
"いよいよわしの大力をお前さんに見てもらうときがきた"
],
[
"はやまっちゃいけない、大辻さん。僕だよ、正太だよ",
"えっ、正太君か",
"そうだ、いま僕が人造人間をたおして、妹をとりかえしたんだ",
"そうか。そいつはでかした。わしはまた、人造人間め、うまく化けたなと思ったよ。ははは、もすこしで君をなぐり殺すところだった"
],
[
"大辻さん、なぜ僕を見て逃げるんだい",
"あっ、人殺しだあ。人造人間がわしの背中に噛みついた! わしはエフ氏にくい殺される!"
],
[
"大辻さん、しっかりしておくれよ。僕は、ほんとの正太だよ",
"いや、もうその手には、誰がのるものか。人殺し!",
"ほんとに正太だというのに、それがわからないのかなあ。大辻さんは、人造人間エフ氏にどうかされたらしいね",
"どうかされたところじゃない。もう一つやられると、この世のわかれになって死んでしまうところだったよ。ほんとにお前さんは、正太君かね",
"いやだなあ。よく見ておくれよ。人造人間じゃない、ほんとの正太だよ",
"いやいや、さっきのエフ氏も、そのようになれなれしい言葉をつかいやがった。そしてこっちの油断をみすまして、ぽかりときやがるんだ。わしはなかなかほんとの正太君だとは信じないよ。それとも、ほんとの正太君だという証拠があるなら、ここへ出してみるがいい"
],
[
"あっ、そうだ。大辻さん、これを見ておくれ!",
"なにっ? おお、なるほどお前さんは人造人間じゃない"
],
[
"どうだい。大辻さん。よくわかる証拠を見せてやったろう",
"うむ、よく分った。むし歯のある人造人間なんて聞いたことがないからね。お前さんのむし歯も、ふだんは困ったものだが、こういうときにはたいへん役に立つよ。わっはっはっ"
],
[
"それはいいが、大辻さんはエフ氏を逃がしてしまったらしいね",
"そうなんだ、ちときまりが悪いがね",
"どっちへ逃げたんだろう。エフ氏はマリ子をつれていたかい",
"いいや、マリ子さんは見えなかった",
"じゃマリ子をどうしたんだろう",
"なにしろ、エフ氏というやつは、足も早いし、力もたいへんつよい。じつに強敵だ",
"ははあ大辻さんは、エフ氏がおそろしくなったんだね",
"いや、おそれてはいない。ただ、あの怪物は、よくよく手におえない奴だということさ"
],
[
"うむ、マリ子もやっぱり人造人間エフ氏につれられていったのだ。そして二人はこっちの方向へ逃げていった",
"えっ、正太君。どうしてそんなことがわかる",
"だって、ここをごらんよ。マリ子の足あとと、人造人間の足あとがついているじゃないか"
],
[
"大辻さん。ぐずぐずしていると、間にあわないかもしれない。さあ、すぐ行こうぜ",
"行こうって、どこへ",
"わかっているじゃないか、人造人間エフ氏の手からマリ子を奪いかえすんだよ。今日中にそれをやらないと、かわいそうにマリ子は死んじまうんだ",
"ええっ、今から人造人間のあとを追うのかね。やがて山の中で日が暮れてしまうがなあ",
"ずいぶん弱虫だなあ、大辻さんは。僕の何倍も大きなからだをしているくせに、そんな弱音をはいて、それでよくも、はずかしくないねえ",
"じょ、冗談いっちゃいけない。わしは山の中でやがて日が暮れるだろうと、あたり前のことをいったまでなんだ。からだが大きければ力も強い。人造人間をおそれたりするような弱虫とは、だいたいからだの出来具合からしてちがうんだ"
],
[
"よし、それならいい。さあ、この足あとについて、どんどん追いかけていこうよ",
"ああ、それもわるくないだろう。が、どうも今日はだいぶん疲れたね。第一腹が減って、目がまわりそうだ",
"あれっ、強いといばった人が、もはやそんなに弱音をふくんじゃ、やっぱり弱虫の方だね。いいよ、大辻さんはここにおいでよ。僕一人でたくさんだ。一人で行くからいいよ"
],
[
"おや、正太君か",
"ええ、そうです",
"うむ、本物の正太君じゃないか。こんな危いところへどうしてきたのか"
],
[
"えっ、大木老人もここへやってきたんですか",
"そうだとも。どうやらここは、人造人間エフ氏やイワノフ博士の秘密の隠れ家らしい",
"えっ、イワノフ博士ですって",
"正太君、僕はあの大木老人が実はイワノフ博士の変装だということをつきとめたよ",
"ええっ、大木老人がイワノフ博士だったのですか。あの、大木老人が……"
],
[
"うぬ、探偵め、まだ死にそこなって、そこにいたか",
"ああ、大木老人!",
"おや、正太もそこにいたか。これはちょうどいいあんばいだ。二人とも一しょに片づけてしまおう。ここは山の中だ。助けをよんでも、誰も来ないところだぞ"
],
[
"大木さん。なぜ僕をうつのですか。あなたは、船の中で、僕をかばってくれたのに",
"ふふ、ふふ、なにをいっているか、この小僧め。あのときは、お前に味方したとみせたが、じつはこっちの都合でそうしたのじゃ、あのときお前を縛っておくと、船がついたとき人造人間エフ氏をお前に仕立ててわしがつれてでようと思っても、できないじゃないか。まだわからんか。あたまのわるい子供じゃ。人造人間エフ氏をお前に仕立てて、船を出ようとしても、そのまえにお前を縛ってあれば、わしのつれているのが本物の正太ではないということがすぐわかってしまうじゃないか",
"ああ、なるほど、そうか。僕のかえ玉をつかうために、僕をわざと助けておいたんだな。そうとはしらず、今の今まで、大木さんをありがたい人だと思っていた僕は、ばかだった",
"ふふふふ、今ごろ気がついたか。もうおそいわい。わしがイワノフ博士としられたからには、もう帆村も正太も、ゆるしておけない。二人とも、いよいよ殺されるかくごを、きめたがいいぞ!"
],
[
"まあ、そこへおかけ。そうだそうだ、そのとおりだ。――ところでエフ氏よ、いよいよかねての計画をここではじめようとおもうが、君の考えはどうかな",
"いいでしょう。ぜひはやくおはじめなさい",
"うまいうまい、その調子で、もっとたのむぞ。――ところで、それをやる前に、日本中の人間をふるえあがらしておきたいとおもうのだ。それには、ラジオでおどかすのが一番いいとおもう。どうだ、お前一つ臨時放送局となって、日本国民をびっくりさせるような放送をやってみる気はないか",
"いや、僕はバナナよりも林檎の方がすきです",
"おかしいぞ、へんなことをいいだしたな。どうもこっちへきてから人造人間をつかいすぎたせいか、ときどき故障がおこるのには閉口じゃ。どれ、ちょっとしらべてやろう"
],
[
"マリ子さんでしょう。わしは探偵じゃ、名探偵長の大辻という者です。えへん。正太君からたのまれて、ここまでマリ子さんをさがしにきたのです",
"それは本当ですか、あたし、マリ子よ",
"やっぱりそうだった。名探偵長がここへ来たからには、マリ子さん、安心をなさい",
"まあ、あたし、本当に助かるのかしら。あたしまた夢をみているのじゃないかしら"
],
[
"なあに、そんな心配は無用だ",
"どうして?",
"だって、わしは、この穴の上から、ここへおっこったんだもの。だからこの穴を逆に上にのぼっていけば、必ず外に出られるわけだ。ねえ、そうでしょう",
"そうね。でも、こんな深い縦穴をのぼるなんて、あたしにはそんな力はないのよ"
],
[
"大辻さん。しっかりしてよ",
"ふーん",
"はやくにげましょうよ。だれか追いかけてくるとたいへんだから",
"ふーん"
],
[
"ねえ正太君。いま見ると、壁の穴から、大してとおくないところに、イワノフ博士が大事にしている人造人間エフ氏を操縦する器械が見える。机のうえに乗っているんだ。あいつを、なんとかして壊してしまおうではないか。すると人造人間はきっとうごかなくなってしまうとおもうよ",
"ああ、それはうまい考えですね",
"博士がかえってこないうちに、あれを壊してしまおう。ちょっと横にどいていたまえ"
],
[
"これで、もう一度やってみよう",
"なるほど、帆村さんは、うまいことを考えだすなあ。僕すっかり感心しちゃった"
],
[
"帆村さん、大丈夫?",
"うん、たいてい大丈夫だろう"
],
[
"帆村さん。エフ氏は、なぜあばれているんですか",
"さあ、よくは分らないが、さっきエフ氏を動かす器械を下におとしたろう。あのとき、その器械のどこかがこわれてしまったので、それでエフ氏が急にあばれだしたんだと思うよ"
],
[
"さあ、イワノフ博士。しずかになさい",
"あっ、わしをおさえて、一体どうしようというのか"
],
[
"どうです、博士。人造人間エフ氏は、あなたの心にそむいて、こんなに壁に穴をあけ天井をつきぬき、そのうえどこかへとびだしました。まさか、あなたは、エフ氏に対し、博士が苦心してつくったこの岩窟を、こんな風にこわせとは、命令されなかったのでしょうにねえ",
"うむ。それは……",
"博士。エフ氏を、このまま放っておいて、それでさしつかえないのですか。エフ氏に勝手なことをさせておいていいのですか。もしやエフ氏が、海の中へとびこんだとしたらどうでしょう。たちまち海水が、身体の中の器械をぬらしてしまって、動かなくなるでしょう、そうなれば、折角の人造人間が、だめになってしまいます",
"海水ぐらいは平気じゃ。いや、これは……"
],
[
"ねえ、博士。人造人間が、こわれないうちに、この操縦器をつかって、おとなしく呼びもどしておいたがいいでしょう",
"うん、それはそうだが、わしの手は動かない。この縄をといてくれ",
"はははは。あなたの方でといてくれといいだしましたね。しかし、とくことはなりません",
"なぜとかないのか。とかないと、人造人間は大あばれにあばれて、今に、日本の国民全体が、大後悔しても、どうにもならんような一大事がおこるが、それでもいいのじゃな"
],
[
"なるほど、あなたの手は動きません。しかし口は利けるのですから、口でいってください。僕がそのとおりに、操縦器のスイッチを切ったり入れたりしましょう",
"ははあ、分った。貴様、人造人間の操縦法を、わしから聞きだそうというのじゃな",
"そうです。早くいえば、そうです"
],
[
"さあ、おしえるから、よくおぼえるのだ、いいかね。この主幹スイッチをおすと、電波が出て、エフ氏の身体の中にある受信機に感じるのだ",
"なるほど"
],
[
"帆村のおじさん。こうすればいいのじゃないんですか。つまり、その操縦器をこわしてしまうんですよ。それさえこわしてしまったら、エフ氏も自然うごかないんじゃないのですか",
"うん、正太君、えらい。それはいい思いつきだ、じゃあ、操縦器をうちこわすか!"
],
[
"イワノフ博士、あなたは、悪い人だ。帆村さんを、元のようにかえしてあげなさい",
"なにをいうか、正太。お前も、一しょにそこで長くのびているがいい"
],
[
"行こう、保土ヶ谷へ",
"行きましょう"
],
[
"よかったですね。エフ氏は、間もなくつかまりますよ。博士は、どうしたんでしょうか",
"博士も、現場へいったのではないかしらん。早く電話のかけられるところまで出たいものだ。だが、大体、もう安心だろう。博士だって、老人だから、そのうちにくたびれて、警官にとっつかまるだろう"
],
[
"それはイワノフ博士にちがいないというんですね。え、老人ですよ、小さい探照灯で照してよく見ましたが、洋服のまま泳いでいました。とにかく追跡しているうちに、その怪人は、海中に出ている大きな浮標のようなものに泳ぎつき、そのうえによじのぼったんです。浮標の上からも、数人の水兵が、手をさしのべて、この怪人をひっぱりあげました。こうお話しても、浮標の上に、水兵がいるのは、おかしいとおっしゃるのでしょう。ごもっともです。それは、これから説明しますが、おやおやと私が訝しく思っているうちに、その浮標は、ずんずんと海中に沈んでいったんです。(あっ、潜水艦だ!)と気がついたときには、もうあとの祭です。つまりその怪人はそこに待ちうけていた潜水艦の中にひっぱりこまれ、そして逃げてしまったんです。いや、でたらめではないのです。当局のえらい方からも、後で話を聞きましたが、その潜水艦は、たしかに○○のものにちがいないとの話でした",
"私の話というのは、まあざっと話すと、このへんでおわりですが、その怪人は、なぜ魚雷のように海面を走ったのか、その謎はさっぱり解けないのです。帆村さん、あなたには、この話をきいて、なにか思いあたることはありませんか"
],
[
"あッ、そうか。それで分った。なぜ、もっと早く気がつかなかったろう",
"えっ、何が?"
],
[
"おい正太君。あのイワノフ博士というのも、じつは人造人間だったんだよ",
"ええッ、博士も人造人間ですか。まさか――",
"ううん、それにちがいない。エフ氏は、あの操縦器でうごく人造人間、イワノフ博士の方は、潜水艦の中に操縦器がある人造人間――それだけのちがいだ。それで始めて、潜水艦との関係がはっきりした。どこまで恐ろしい科学の力だろう。われわれ日本人は、しっかりしなきゃならない!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ子供のテキスト」日本放送協会出版
1939(昭和14)年1月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。ただし「保土ヶ谷」は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003372",
"作品名": "人造人間エフ氏",
"作品名読み": "じんぞうにんげんエフし",
"ソート用読み": "しんそうにんけんえふし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「ラヂオ子供のテキスト」日本放送協会出版、1939(昭和14)年1月~12月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-04-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"校正者": "土屋隆",
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[
[
"おおジョン。まあよかった。あたし、貴方に会いにきたところよ。とっても大変なことが起ったわよ",
"大変なこと? 大変というとどんな大変ですか",
"今家に帰ってみるとあの人が死んでいるのよ。あたしどうしましょう",
"おう、あの人が――あの人が死にましたか。私、すぐ診察に行きましょうか",
"診察ですって、まあ。そんなことをしてももう駄目ですわ。あの人の頭は石榴のように割れているんですもの",
"石榴というと",
"滅茶滅茶になって、真赤なんです。トマトを石で潰したように……",
"おおそれは大変! どんな訳で、そんなひどい怪我をしたのですか"
],
[
"ねえ君。これは逃げた梟でも捕える演習しているのかネ",
"冗談じゃありませんよ。ここの主人が殺られたんですよ",
"ほう、竹田博士殺害事件か。それにしてはいやに静かだねえ。国際連盟は押入から蒲団でもだして、お揃いで一と寝入りやっているのかネ",
"じょ、冗談を……"
],
[
"ナニ血がついているって。おおこれはひどい",
"やあ、函の底にも、血痕が垂れている。おう、ちょっと函の前を皆、どいたどいた"
],
[
"ホラホラ。ここにもある、ウム、そこにもある。血痕がズーッと続いているぞ",
"なアんだ、寝台のところまで、血痕がつながっているじゃないか。すると、――",
"すると、この人造人間めが、博士を殺ったことになる……のかなア",
"えッ、この人造人間が殺害犯人とは……"
],
[
"私は躊躇なく、こいつを逮捕しますがネ。しかし真逆……",
"そうだ。だからわれわれは、この人造人間が博士を殺害してこの函の中に入ったまでの運動をなしとげたことを証明できればよいのだ。だがこの人造人間が果して動くものやら動かないものやらわれわれには一向分っていない",
"なアに雁金さん。こいつが動くことだけは確かですよ。今こいつの腹の中では、機械がしきりにゴトゴト廻っているのですよ。誰かこの人造人間に命令することができればいいのです。見わたしたところ貴官など最も適任のように心得ますが、一つ勇しい号令をかけてみられては如何ですか"
],
[
"そうなると、まずこの家の家族なんですが、夫人のウララ子が見えません。ばあやのお峰というのは、この事件を知らせて来たので、いま警察に保護してあります。ばあやは耳がきこえないのですが、夫人が外出先から帰ってきたので、お茶を持って上ってきたときに、夫人が入っていたこの部屋の中で惨劇をチラリと見たのだそうです",
"ウララ夫人は、いつ帰宅したんですか",
"ばあやの話によると、今夜八時をすこし廻ったときだったといいます",
"すると博士が死体となった鑑識時刻とあまり違わないネ。その夫人が、今家に居ないし、警察へ届出もしないというのはどうもおかしい"
],
[
"彼は亡った博士の助手をして、永くこの部屋に働いていたのです。しかしどっちかというと、彼は怠け者で、いつも博士からこっぴどく叱られていたということです。これもばあやのお峰の話なんですがネ。そして彼が博士の家を出るようになった訳は、どうもウララ夫人によこしまな恋慕をしたためだという話です",
"なるほど、そいつは容疑者のうちに加えておいていいネ"
],
[
"只今、馬詰丈太郎が門前を徘徊して居りましたので、引捕えてございます",
"おおそれは丁度いい。早速その軟派の甥を調べてみようと思いますが、如何で……"
],
[
"すると君は、外国のスパイかなんかのことを云っているようだが、なにかそんな話を知っているのかネ",
"そんな話は、こっちで伺いたいくらいのものですよ。しかし私だって、すこしは気がついていますよ。この向うのサンタマリア病院の内科医ジョン・マクレオなんざ、ずいぶん奇怪な行動をしているじゃありませんか。僕は向うの国の興信録をしらべてみましたが、医者としてマクレオの名なんか見当りませんよ。それにあいつの目の鋭いことはどうです。彼奴は物差こそ持っていないが、ひと目睨めば大砲の寸法も分っちまうという目測の大家に違いありませんよ。あんな奴が、帝都の白昼を悠々歩いているなんざ、全く愕きますよ"
],
[
"他人の話なんか、お前に聞かされないでもいいんだ。それよりお前の現場不在証明を聞こうじゃないか。博士の殺害された今夜の八時前後、お前は一体何処にいたんだ。それを云え",
"私が何処にいたというのですか、折角ですが、それは別に御参考にはなりませんよ"
],
[
"くわしくいうと、私は今夜七時三十分から八時五十分までJOAKにいましたよ",
"なんだ放送局にか。そこで何をしていたんだ"
],
[
"AKの文芸部に訊いてごらんになれば分りますよ。つまり早くいうと、私の書いたラジオドラマが今夜八時から三十分間、放送されたのです。出演者はPCLの連中でしたがネ。そんなわけで私はずっとAKのスタディオにつめていたんです。なんなら貰って来た原作ならびに演出料の袋をお目にかけてもいいのですが",
"あああの『空襲葬送曲』というやつですネ"
],
[
"そうです。お聞き下さったですか",
"ええ聞きましたよ。なかなか面白かったですよ。あの地の文章を読んでいたのは、千葉早智子ですか",
"ええええそうです。どうかしましたか",
"いや、今夜はお早智女史、いやに雄壮な声を出していましたネ",
"それはそうでしょう。戦争ものですからネ。緊張するのも無理はありません"
],
[
"ウララ夫人を早く捜しださにゃいけませんネ。一度外から帰って来て、死んでいる博士をそのままにして外へ出たという行動は腑に落ちませんネ。警察とか医師とかにすぐ電話すべきが本当ですからネ",
"君、あの留守番のばあやは大丈夫かネ",
"あああれは大丈夫ですよ。老人なんで、なにが出来るものですか",
"しかし君、人造人間が博士を殺したことが分れば、そんな生きた人間を調べても何にもならんじゃないか",
"いや、人造人間に霊魂がない限り、これは生きた人間の仕業に違いありませんよ",
"うん、この点をハッキリしたいんだがネ、どうも機械というやつは、苦手だ。この人造人間がどうして動くかということがハッキリ分るといいんだが。そうだ、帆村に調べさせよう",
"それがいいですね"
],
[
"するとこの人造人間はどうすれば動くかといえば、結局このマイクに何か信号音を送ってやればいいのだネ",
"まあ今のところ、機械の接続はそうなっていますね",
"ハハア――すると、どんな信号音を送ってやれば、どんな風に動くかという人造人間操縦信号簿といったようなものがなければならぬ。さあ皆さん。その辺を探してみて下さい",
"よオし、人造人間操縦信号薄か。――"
],
[
"ほうほう、荒天――首ヲ左ニ曲ゲル。魚雷――首ヲ前後ニ振ル。なるほど、いろんな暗号が書いてあるぞ。偵察――『時間ガ来タ』ト発言スル。滑走――膝ヲ折ル。……これでみると、人造人間を動かす号令は、短かい単語ばかりだ",
"これを見ると、号令単語は四、五十もありますね",
"オヤ、これはおかしい。どうも変だと思ったら、暗号表が一枚、ひき破られているよ。うむ、これは重大な発見だ。おい皆、破れた暗号表の一枚を探してみろ"
],
[
"どうも、ないようですよ",
"そうか。ウム、よしよし。それで分ったぞ。やっぱりこれは人造人間に霊魂があったわけでなく、やっぱり生きている人間が、この人造人間を示唆したのだ。犯人はその暗号表を持っているのに相違ない"
],
[
"いやあ、昨日はどうも、いかがです、博士殺しの犯人は決まりましたか",
"ウン、決ったとまでは行かないんだが、重大なる容疑者を捕えて、今盛んに大江山君が訊問している",
"それは誰ですか",
"ウララ夫人だよ",
"えッウララ夫人? 夫人はとうとう捕ったのですか。どこに居たのですか",
"なあにサンタマリア病院に入院していたのだよ。別に大した病気でもないのだがネ",
"するとあのジョン・マクレオは怪しくないのですか",
"マクレオは午後二時から午後九時半までずっと病院にいたことが分った。あの外人の現場不在証明は完全だ",
"そうですか。馬話丈太郎も完全なのでしょう",
"そうだ。あの男は放送局に居たことが証明された。結局残るのはウララ夫人と、耳の聞えないばあやの二人た。ばあやはウララ夫人が外出から帰ってのち、使いに山の手までやられたのだが、その足で警察へ駈けこんだ。ばあやは博士が殺害されるとき、あの家に居たことは疑う余地がない。しかしばあやは口がきけない。犯人がもし人造人間に号令をかけたものとすればばあやは犯人であり得ない",
"なるほど、するといよいよウララ夫人という順番ですかネ。ウララ夫人の帰宅と、博士の殺害と、どっちが早いのですか",
"さあ、それが判然しない。君も知っている通り死体検索から死期が推定されるが、二十分や三十分のところは、どうもハッキリしないのでネ。……とにかく大江山君もウララ夫人の剛情なのには参ったといって滾しているよ",
"どうも僕には、夫人が博士を殺したような気がしないのですよ。夫人はあの外人と、密かな邪恋に酔っていたでしょうが、いまのところ博士は無能力者であり、自分は誰にも邪魔されず研究していられりゃいいのであって、その点、妻君の自由行動をすこしも遮げていないのです。そのウララ夫人が急に博士を殺すとは考えられませんね",
"オヤオヤ、君も反対論を唱えるんだネ",
"ほう、すると外にも反対論者が居るのですか",
"そうなんだよ。私もそのお仲間だ。私はむしろジョンの行動に疑念をもつ。なにかこう近代科学をうまく利用して、サンタマリア病院に居ながら、五、六丁はなれたところに住んでいる竹田博士を殺害する手はないものかネ。私はこの点、君の応援を切に望むものなんだよ"
],
[
"駄目なんですよ。私が最初にここへ来たものですから、現場を動けないことになっています。もっともときどき交代で、下へ行って寝て来ますがネ。お得意の手で早く犯人を決めて下さいよ、ねえ帆村さん",
"ウフ、そのお得意のお呪いをするために、こうしてやって来たわけなんだよ。だが、どうも人殺しのあった部屋というのは、急に陰気に見えていけないネ。なんとこれは……"
],
[
"じょ、冗談じゃありませんよ、帆村さん。経済市況で亡霊を払いのけることができるものですか。このラジオは勝手に鳴っているんです。とても騒々しいので、私はむしろ停めたいのですけれど、課長からすべて現状維持とし、何ものにも手をつけるなというので、その儘にしてあるんですよ",
"えッ、現状維持を――するとラジオは昨夜から懸けっ放しになっていたのか。しかし変だなア、昨夜ここへ来たときは、ラジオは鳴っていなかったが……",
"それはそうですよ。貴方がたのお見えになったのは、もう十時ちかくでしたものネ。ミナサン、ゴキゲンヨクオヤスミナサイマセを云ったあとですよ。私は今朝睡いところを、午前六時のラジオ体操に起され、それからこっちずうっとラジオのドラ声に悩まされているのですよ。御親切があるのなら、課長に電話をかけて下すって、ラジオのスイッチをひねることを許してもらって下さいよ",
"そうか。そいつは素敵な考えだッ",
"ええ、スイッチをひねることが、どうしてそんなに素敵だというんですか"
],
[
"どうした、帆村君は。まだ放送局から帰って来ないかネ",
"ええ、放送局ですって。……別に放送局へ行くともなんとも聞きませんでしたが",
"おおそうか。まあいい。そうかそうか"
],
[
"おお大変だ。人造人間が動きだしたぞ",
"こっちへどいた"
]
] | 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「オール読物」文藝春秋
1936(昭和11)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003522",
"作品名": "人造人間事件",
"作品名読み": "じんぞうにんげんじけん",
"ソート用読み": "しんそうにんけんしけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物」文藝春秋、1936(昭和11)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本名1": "海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島",
"底本出版社名1": "三一書房",
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[
[
"何か土産を持っている様子か",
"なんだか、大きな風呂敷包を、背負って居ります。どうやら羊か何からしく、X線をかけると、長い脊髄骨が見えました",
"羊の肉は、あまり感心しないが、糧食難の折柄じゃ、贅沢もいえまい",
"では、通しますか",
"とにかく、こっちへ通してよろしい。土産物を見た上で、話を聞くか、追払うか、どっちかに決めよう"
],
[
"いや、博士。本日は、わが醤主席の密命を帯びてまいりましたもので、きっと博士のお気に入る珍味をもってまいりました",
"羊の肉は、くさくて、嫌いじゃ。第一、羊の肉が、珍味といえるか",
"羊の肉ではございません。なら、用談より先に、これをごらんに入れましょう"
],
[
"燻製じゃな。いくら燻製にしても、羊特有の、あの動物園みたいな悪臭は消えるものか",
"まあ、黙って、これをごらん下さい"
],
[
"ほう、これは大きな鼠じゃな",
"金博士。鼠ではございません。これはカンガルーの燻製でございます",
"カンガルーの燻製?"
],
[
"さようです。カンガルーです。これは只今醤主席の隠れ……あ、むにゃむにゃ、ソノ、特別特製でございます",
"特製はわかったが、むにゃむにゃというところがよく聞えなかったし、一体これは、どこの産じゃ",
"はあ、それは御想像に委せるといたしまして、とにかく醤主席は、かような珍味を博士に伝達して、その代り、博士におねだりをして来いということでありました",
"なんじゃ、わしにねだるというと、また新発明の兵器を譲れというのじゃろう。昔の因縁を考えると、わしとて、譲らんでもないが、しかしあのように敗けてばかりいるのでは張合いがない。――で、当時、醤の奴は、どこにいるのか。重慶か、成都か、それとも昆明か"
],
[
"……あのう、それ、人造人間戦車の設計図をお譲り願ってこいと申されました。どうぞ、ぜひに……",
"あれッ。ちょっと待て。わしが極秘にしている人造人間戦車の発明を、どうして、どこで知ったか",
"それはもう、地獄耳でございます。それを下されば、このカンガルーの燻製を置いてまいります。下さらなければ、折角ですが、カンガルーの燻製は、再び私が背負いまして……",
"わかったよ、もうわかった。あの醤め、わしが、珍味に目がないことを知っていて、大きなものをせびりよる。よろしい。では、その設計図をやろう。これが、そうだ。組立のときには、わしに知らせれば、行って指導してやってもいい。しかしそのときは、うんと代償物を用意して置けよ"
],
[
"はい。それだけに、私の苦心の要ったことと申したら、主席によろしくお察し願いたい",
"それはよろしく察して居る。褒美には、何をとらせようか。カンガルーの燻製はどうだ",
"いや、カンガルーは動物園のような臭いがしていけません。――いや、それはともかく、想像していた以上に、これは実に立派にひかれた製図でございますが、更にその内容に至っては、正に世界無比の強力兵器だと申してよろしいと存じます",
"それで、わしには鳥渡分らんところもあるから、お前、この図について、報告せよ。一体、“人造人間戦車”とは、どんなものか"
],
[
"……人造人間戦車とは、ソノ……",
"早くいえ。気をもたせるな。褒美は、なんでも望みをかなえさせるぞ",
"はい、ありがとうございます。さて、その人造人間戦車とは、実に、人造人間にして、且つ又、戦車であるのであります",
"余には、さっぱり意味が分らん",
"つまり、ソノ金博士の申しまするには、ここに百人から成る人造人間の一隊がある",
"ふん。人造人間隊がねえ",
"この人造人間隊が、隊伍を組んで、粛々前進してまいります。お分りでしょうな",
"人造人間隊の進軍だね",
"はい。このままで放って置けば何日何時間たっても、遂に人造人間隊でございますが、必要に応じて、司令部より、極秘の強力電波をさっと放射いたしますと、これがたちまち戦車となります",
"そこが、どうも難解だ。極秘の強力電波を放射すると、なぜ人造人間隊が戦車となるのか。お前の話を黙って聞いていると、まるで狐狸の類いが一変して嬋娟たる美女に化けるのと同じように聞える。まさかお前は、金博士から妖術を教わってきたのではあるまい"
],
[
"どうもそれはけしからん仰せです。かりそめにも、科学と技術とをもってお仕えする油学士であります。そんな妖術などを、誰が……",
"ぷんぷん怒るのは後にして、説明をしたがいいじゃないか。お前は、すぐ腹を立てるから、立身出世が遅いのじゃ"
],
[
"はっ、これは恐縮。で、その秘術は、かようでございます。只今申した極秘の電波を人造人間隊にかけますと、その人造人間隊は、たちまちソノー、主席はフットボールを御覧になったことがございますか",
"余計なごま化しはゆるさん",
"ごま化しではございません。フットボール競技に於て、さっとプレーヤーが、さっとスクラムを組みますが、つまりあれと同じように、人造人間が、たちまちスクラムを組むのでございます。そしてたちまち人造人間のスクラムによって、一台の戦車が組立てられまして、こいつが、轟々と人造人間製のキャタピラを響かせて前進を始めます。いかがでございますか。これでもお気に召しませんか"
],
[
"おい。油学士。この人造人間は、もううごくようになっているか",
"いや、まだでございます",
"なんじゃ。うごかないものを、どんどんこしらえて、どうするつもりか",
"すべて合理的な能率的なマッス・プロダクションをやって居りますです。人造人間をこしらえるときには、人造人間だけをつくるのがよいのであります。主席、どうか製作に関しては、いつも申上げるとおり、すべて私にお委せ願いたいものです",
"それは、委せもしようが、しかしこんなに一時に作っても、これが万一やりそこないであって、さっぱりうごかなかったら、そのときは一体どうするのか。百万台をまた始めからやりかえるのは困るぞ。それよりも、一台の人造人間戦車に必要な各部分を一組作りあげ、それで試験をしてみて、うまく動いてくれるようになれば、次にまた第二の戦車を一組作るといったように、手がたくやってもらいたいものじゃ"
],
[
"御心配は、御無用にねがいたい。天下に有名なるかの金博士の発明品に、作ってみて動かなかったり、組合わせてみて働かなかったり、そんなインチキなことがあろうはずはありません。現に、私が博士のところを辞しますときに、博士からこの人造人間戦車の模型を見せていただきましたが、実にうまく動きました。大したものでした",
"お前は、動かしてみたかね",
"はい。もちろん、上海では、やってみました。戦車を動かしますのは、渦巻気流式エンジンというもので、じつにすばらしいエンジンですな",
"渦巻気流式エンジンというと、どんなものじゃ",
"これは金博士の発明の中でも、第一級の発明だと思いますが、つまり、気流というものは、決して真直に進行しませんで、廻転するものですが、その廻転性を利用して、一種の摩擦電気を作るんですなあ。その電気でもって、こんどは宇宙線を歪まして……",
"ああ、もういい。渦巻気流を応用するものじゃと、かんたんにいえばよろしい"
],
[
"なんじゃ、騒々しい",
"たいへんもたいへん。あの醤なんとかいう東洋人の邸の中には、死骸が山のように積んであります。あの東洋人は、弱そうな顔をしていたが、あれはおそろしい喰人種にちがいありません。たいへんなものが、移民してきたものです",
"えっ、それは本当か。死骸が山のように積んであるって、どの位の数か"
],
[
"その数は、なかなか夥しい。ええと、どの位だったかな",
"そうさ、あれは、たいへんな数だ。九つと、九つともう一つ九つと、九つとまだまだ九つと九つと九つと……"
],
[
"もう、そのへんでよろしい。お前のいうところによるとこれはたいへんな数である。わしが生れてこの方、この眼で見た鳥の数よりもまだ多いらしい。よろしい、これは、ぐずぐずしていられない。者共、戦争の用意をせよ",
"えっ、戦争の用意を……",
"そうだ、かの醤軍と闘うんだ。わが村の忠良にして健康なるお前たちやわしが死骸にさせられない前に、あの醤軍の奴ばらを、あべこべに死骸にしてしまうのだ。どうも前から、いやな奴だと思っていたよ。彼奴は、おれたちのところから、カンガルーを何頭、盗んでいったかわからない。その代金も、ここで一しょに払わせることにしよう。それ、太鼓を打て、狼烟をあげろ",
"へーい"
],
[
"ああ醤主席、あなたが心痛されるのは、それは一つには私を御信用にならないため、二つには金博士を御信用にならないためでありますぞ。金博士の設計になるものが、未だ曾て、動かなかったという不体裁な話を聞いたことがない。主席、あなたのその態度が改められない以上、あなたは、金博士を侮辱し、そして科学を侮辱し、技術を侮辱し、そして……",
"やめろ。お前は、まるで副主席にでもなったような傲慢な口のきき方をする。見苦しいぞ。わしはお前には黙っていたが、こんどの人造人間戦車が、満足すべき実績を示した暁には、お前を取立てて、副主席にしてやろうかと考えているんだ。しかし実績を見ないうちは、お前は一要人にすぎん。――どうだ。本当に大丈夫か。仕度は間に合うか"
],
[
"おい、油学士。もう人造人間をくりだしてもいいじゃろう",
"はい。只今、命令を出します"
],
[
"おい、油学士。もう始めてよかろう。わしは早く見たいぞ。見て、まず安心をしたいのじゃ",
"はい。では、スイッチを入れましょう。まず第一のスイッチでは人造人間がばらばらと寄り、見事なスクラムを組んで戦車と化します",
"早くやれ!",
"では、――"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年6月
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003343",
"作品名": "人造人間戦車の機密",
"作品名読み": "じんぞうにんげんせんしゃのきみつ",
"ソート用読み": "しんそうにんけんせんしやのきみつ",
"副題": "――金博士シリーズ・2――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・に――",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1941(昭和16)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日",
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[
"おい、ハンス。これから、どうするつもりか",
"すぐフランス国境へ逃げださないと、もう間にあわないぞ、手取り早く、用意をしろ。――おい、早くここをあけないか",
"なんだ。あんなに大きな音をたてながら、まだ扉はあいてないのか",
"よけいなことは、一口もいうな"
],
[
"今のを聞いたか。ドイツの落下傘部隊だ!",
"えっ、そんなものが、やってきたか"
],
[
"おい、千吉。早くしろ、早くしろ。例のものを、持ち出すんだ",
"例のもの?",
"ほら、例のものだ。モール博士から預けられた例の密封した二本の黒い筒を持ちだすのだ",
"うん、あれか。あんなものを持って逃げなければならないか",
"もちろんだ。われわれ二人の門下生は、特に博士から頼まれてるのだ。博士の信頼をうら切ってはならない"
],
[
"あたし、ニーナよ。でも、千吉、うまく気がついてくれて、よかったわね。あたし、千吉はもう、死んでしまうのかと思ったのよ。だって、あたしが見つけたときは、千吉は、青い顔をして倒れているし、上衣は血まみれだし、シャツの腕からは、傷口が見えるし……",
"傷?"
],
[
"どうしたの、千吉",
"大切な品物だ。私は黒い筒をもっていたんだが、ニーナはそれを見なかったかね"
],
[
"黒い筒ならちゃんとあるわ",
"どこに?",
"千吉の寝ている藁の下にあるわ",
"えっ、ほんとうか"
],
[
"ここはね、ドイツ軍に属する秘密の、地下工場なのよ",
"ええっ!"
],
[
"昨夜、町から見えた灯は、イルシ段丘の灯台の灯ではないのよ。このベン隧道のうえに点いていた灯よ",
"だって、ベン隧道のうえに、灯が点く設備があるなどということを、きいたことがない",
"わかっているじゃありませんか。このベン隧道の下には、どこに国の人々が働いているかを考えれば……"
],
[
"で、私は、だれに、助けられたのかね。君かね、ニーナ",
"あたしじゃないわ",
"じゃあ、誰?",
"フリッツ大尉よ",
"フリッツ大尉って、誰だい"
],
[
"おう、どうだ、君の傷のいたみは?",
"ええ、大して痛みません",
"そうか、痛みだしたら、またいいたまえ。注射をうってあげよう"
],
[
"ところで、君は、何国人かね。ニーナには、よく分らないらしい",
"中、中国人です。センという姓です"
],
[
"おい、セン。お前は、モール博士と知り合いなのか",
"いいえ、知りませんなあ、モール博士などという人は"
],
[
"なぜだろうな、セン。説明したまえ",
"私が、なにを知っているものですか。あの筒の中に、こんなすばらしい設計図が入っていると知ったら、私は、あんなところにぐずぐずしていませんよ",
"ふしぎだ。が、まあ今日のところは、これでいいだろう"
],
[
"脱走なんて、そんなこと、出来るの",
"うん、出来るのだ。人造人間を使って、ここを脱がれるんだ",
"ええ、人造人間? そんなこと、出来るのかしら"
],
[
"これからどうなさるの",
"これから、人造人間の背中に、おんぶされて、ここを脱出するのだ",
"まあ、そんなことが、ほんとに出来るかしら"
],
[
"へんだなあ",
"それごらんなさい。人造人間は、うごかないじゃありませんか",
"そんなはずはないんだが……今押した人造人間は、故障かもしれない。他の人造人間をうごかしてみよう"
],
[
"人造人間を、三人も呼んで、どうなさるの。あたしたち二人をのせて脱出するのだったら、二人でたくさんじゃない。一人、あまるわ",
"そうじゃないんだ。どうしても、三人の人造人間が必要なんだ。のこりの一人の人造人間がたいへん大事な役をするんだ。見ていなさい、今すぐに分る"
],
[
"ニーナ、おちないように、人造人間の背中に、しがみついているんだ!",
"ええ"
],
[
"ねえ、私たちの前を、へんな自動車が走って行くわよ。髯もじゃの紳士が、のっていて、反射鏡で、しきりに、こっちをみているわ",
"えっ、そんな奴が、前にいたか"
],
[
"博士。でも、へんですな",
"なにが、へんだ",
"でも、私は、この人造人間が、私たちを国境附近へつくまでは、全速力で走るように、ちゃんと器械を合わして来たのに、ここで停ってしまったのは、どういうわけでしょうか",
"なんだ、そんなことか。それは造作ないことさ。ふふふふ"
],
[
"造作ないとは?",
"つまり、わしが停めたのさ。発明者であるわしには、あの設計によるA型人造人間を停めることなんか、わけはないのだ。幸いに、その器械をつんだ自動車が、あそこにああして、こわれずに、ちゃんとしているんだ"
],
[
"博士はこれから、どうされるのですか",
"わしかね。わしは、やはり国境を越えて、フランスに入るつもりだ。君にあって、たいへんうれしいが、あと、ハンスのことが気がかりだが、仕方があるまい。では、君たち、わしの自動車に、一緒にのったがいい"
],
[
"この人造人間は、ここで片づけていく",
"片づけていくとは……",
"なあに、壊していくのさ",
"そんなことが出来るのですか",
"出来るとも。わしが設計したんだもの。しかもこのA型人造人間も、ハンスの持っているB型人造人間も、じつはどっちも、不完全なんだから、こわすのは、わけなしだ"
],
[
"不完全ですって。なにが、不完全なんですか",
"そのわけは、ちょっと簡単にいえない。が、要するに、ちょっとやれば、すぐ壊れてしまうようなものは、不完全の証拠だ。わしは……"
],
[
"おお、そうか。いよいよやって来たか",
"やって来た? なにがやって来たのです",
"人造人間部隊の襲来だ。おそらく、お前たちが出発してすぐその後から、ドイツ軍がくりだしたものだろう。おお、見える見える。もうあそこまで来た。畜生、わしのものを失敬して、わしを攻めるとは、けしからんドイツ軍だ。だが、今に見ておれ"
],
[
"あっ、撃った",
"えっ",
"人造人間の腕に仕掛けてある機銃が、一せいにこっちに向いて、撃ちだしたぞ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
初出:「小学六年生」
1940(昭和15)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2006年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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"作品名": "人造人間の秘密",
"作品名読み": "じんぞうにんげんのひみつ",
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[
[
"貴女はどうしても、僕の希望に応じて呉れないのですか",
"いやなことですわ、ひどい方",
"こんなに僕が、へいつくばってお願いをするのに、それに応じてはくださらないのですか",
"あたしは、どうあってもいやなんです",
"ほんの僅かな時間でよいのですから、この上に寝て下さい",
"いくらなんでも、貴下の前に、そんなあられもない恰好をするのは、いやですわ",
"お医者さまの前へ行ったのだと思って我慢して下さい",
"お医者さまと、貴下とでは、たいへん違いますわ",
"なんの恥かしいものですか、僕が――"
],
[
"暴力に訴えなさるのですか(とキリリとした雪子夫人の声音、だが語尾は次第に柔かにかわる)まア男らしくもない",
"でも今を置いては、機会は容易に来ないのですから",
"あたしは、貴下の御希望に添う気持は、一生ありません。貴下も神に仕える身でありながら、まだ生れないにしても、一つの生霊を自ら手を下して暗闇から暗闇にやってしまうなんて、残酷な方! ああ、人殺し……",
"大きい声をしないで下さい。どうしてこれだけ僕が説明をするのに判ってくれないんです。貴女が僕の胤を宿したということが判ったなら、僕は一体どうなると思うのです。社会的地位も名声も、灰のように飛んでしまいます。そうなると貴女とだって、今までのように贅沢な逢う瀬を楽しむことが出来なくなるじゃありませんか。僕の病気が再発しても、最早博士は救って下さいません。それを考えて、僕は愛していて下さるのだったら、僕の言うことを聞きいれて、この簡単な堕胎手術をうけて下さい",
"何度おっしゃっても無駄よ、あたしはもう決心しているのよ。あたしがお胎にもっている可愛いい坊やを、大事に育てるんです",
"ああ、それでは、博士を偽って、博士の子として育てようというのですか",
"まア、どうしてそんなことが……。右策とあたしとの間に子供が無かったのは、右策自身が子胤をもちあわさないからおこったことなんです。右策は、それを学者ですからよく知っているのです。だから、あたしが今、妊娠したとしたら、その場であたしの素行を悟ってしまいます",
"だが、僕の子だかどうか判らないとも云える……",
"莫迦なことをおっしゃいますな。生れてきた胎児の血液型を検査すれば、それが誰の胤であるか位は、何の苦もなく判ってよ、それに貴方は右策とは切っても切れない患者と主治医じゃありませんこと。あなたの血液型なんかその喀痰からして、もう夙くの昔に判っていることでしょうよ",
"ああ、それでは貴女はこれからどうしようというのです。この僕をどんな目に遭わせようとするのです",
"あたしは、貴方との間にできた坊やを、大事に育てたいんです。あたしは、もうすっかり決心しているのよ。右策がこのことに気付いたときは、出て行けというなら出て行くし刑務所へ送りこんでやろうというなら送りこまれもする。しかしいつか、あたしは自由の身となって、坊やと二人で貴方があたしのところへ帰ってくるのを待つんです",
"ウン判った。さては生れる子供を証拠にして、僕の財産をすっかり捲きあげようというのだな。金ならやらぬこともない。だが、交換条件だ、その胎児を××しまって下さい",
"ほほほ、そううまくは行きませんことよ。お金よりも欲しいのは貴方です。この子供が生きている間は、貴方はあたしの懐から脱けだすことができないんですわ。あたしは、あなたの地位を傷けなくてすむもっとよい方法も知っていますのよ。だけど、どうあっても貴方を離しませんわ。貴方はあたしの思うままに、なっていなければならないんですわ。背けば、貴方の地位も名声もたちまち地に墜ちてしまいますよ。あたしがしようと思えば、ね。だがそれまでは、貴方は無事に生きてゆかれるのよ。貴方の生命は、一から十まで、みんなあたしの掌の中に握られてしまってるのよ、今になってそれに気のついた貴方はどうかしてやしない……",
"……",
"アッ、貴方は短銃を握っているわね。あたしを殺そうというのでしょう。ええ判っているわ。でもお気の毒さまですわね。あたしを殺したら、その翌日と言わず、貴方は刑務所ゆきよ。貴方はあたしが殺されたときのことを準備していないようなぼんやり者だと思っているの? あたしが死ぬと同時に、一切が曝露するという書類と証拠が、或る所に保管されているのを知らないのねえ",
"ああ、僕は大莫迦者だった"
],
[
"奥さん、今夜はどうかなすったんですか、お顔の色が、すこし良くないようですね",
"あら、そお。そんなに悪い?",
"なんともないんですか",
"そう云われると、今朝起きたときから、頭がピリピリ痛いようでしたわ。きっと、芯が疲れきっているのねえ",
"用心しないといけませんよ。今夜はなる可く早くおかえりになっておやすみなさい",
"ええ、ありがとう、秋郎さん"
],
[
"なんだか、やけに地味な音なのねえ",
"どうです、この牧歌的な音色は……",
"牧歌的なもんですか、地面の下でもぐらが蠢いているような音じゃありませんか"
],
[
"……",
"あなたの祈りは、とうとう聞きいれられたのよ。あたしたちの可愛いい坊やは――ホラあなたにも会わせたげるわ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:taku
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001221",
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[
[
"河の向うだ",
"河の向うというと……本所ですか、深川ですか",
"業平橋を越えたところで下して呉れ",
"へえ、もっと先まで行きましてもよろしゅうございますが……へへえ、お楽しみで……",
"フフン、気の毒だネ"
],
[
"あッ――",
"あッ――"
],
[
"……しかし思い違いなすっているようだが、僕は別に悪いことをしたわけじゃないんです",
"あッはッはッ、隠すところは、まだ可愛いいな。悪いことをしない奴は、あんな風に逃げないもんだぜ"
],
[
"落したな。――",
"いいえ、そうじゃないんで、ここに入っているんですが、どうしたのか出て来ないんです。なにかにくっついているようなんです。うーン"
],
[
"これが、その証拠物件なんで……",
"…………"
],
[
"お前さんは、右のポケットにナイフを持っているだろう。それも型のすこし大きいやつだろう",
"えッ、――"
],
[
"この時計の針を見て御覧よ。どうだネ",
"ははア"
],
[
"そうだ、ちょうど二時間四十分遅れている。これは面白い。これだけの材料があれば、この事件の仕掛が分らんこともあるまい",
"どうも貴方は不思議な人ですね。まるで探偵のようなことを云うじゃありませんか。それに科学にもなかなか精しいようだし……"
],
[
"なアに付け焼刃さ。科学の方は速水輪太郎から輸入した聞き覚えだ",
"速水輪太郎?",
"うん、奇妙な街の科学者さ。そうだ、速水に、この謎を解かせるのが一番いい。君、いいやお前さん、済まないが、この時計とニッケル貨幣とを速水に届けてくれまいか。もちろん今手紙を書くがネ",
"…………"
],
[
"これを速水輪太郎氏に届けるんですね。速水氏の所番地は?",
"なアに所番地なんか要るものか。……銀座のM百貨店の裏通りにブレーキという十銭洋酒立飲店がある。夜といわず昼といわず、そこで虎になっている年増女の客がいるから、そいつに云ってこれを速水へ渡してくれといえばいいんだ。それだけで分らなかったら、女の左の耳朶を見るがいい。そこにRと入墨がしてあるのが、その虎女だ"
],
[
"ご苦労、――",
"お言葉、まことに有難うさんで……"
],
[
"いいかネ。頼んだことを忘れるな",
"承知しましたッ"
],
[
"写真? 僕の写真を、何処で……",
"何処でって、忘れっぽいのネ。お前さんの部屋に飾ってあったじゃないの"
],
[
"ああ、すると僕の家に侵入したのは、貴女だったんですネ",
"あら、まだ気がつかなかったの。呆れるわねえ。わざわざ花束まで机の上に捧げて来たのに。……",
"では、時計だの十銭玉だのを取ったのも。……",
"まあ察しが悪いのネ。一杯お酒でも飲むといいわ。いま取ってきてあげる。……"
],
[
"じゃあ、もう僕は用事がないわけですね。貴女はあのボロ布に包んだものを、たしかに速水輪太郎氏に渡して下すったのでしょうネ",
"それは間違いなしだわ。……妾の方に用事はないけれど、あなたの方になにか話があるのじゃないかと思ってたのよ",
"飛んでもない、僕の方にどうして話なんか有るものですか"
],
[
"それともこの妾が、隠しているようにでも思っているの。あんたは知らないだろうけれども、『深夜の市長』さんにいいつかったことを一つでも間違えようものなら、あたし達は一夜だって無事に生きてゆけないのよ。変なことを云い出さないでヨ",
"じゃあ、たしかに速水輪太郎に渡したんだな",
"分ってるじゃないの",
"よオし。それなら僕はこれから速水輪太郎のところへゆくんだ。君はその男の居る場所を知っているだろう。さあ、そいつを教えて呉れ給え"
],
[
"それは分ってるじゃないか。僕はこの変な事件や、この妙な環境から、一分間でも早く逃出したくなったのだ。速水氏から、僕の拾った証拠物件を返して貰ったら、そいつを直ぐその筋へ差出して堂々と裁きをつけて貰うつもりだ。僕はすこしも怪しいところなんかありゃしないのだ",
"へん、どうですかねえ。自分だけよければそれでいいと云うんだろう。男らしくもない",
"君は僕に速水氏のところを教えないというんだな"
],
[
"……つまりソノ、今夜は昨夜に比べて温いですか、寒いですかネ",
"さあ、それは……"
],
[
"……寒暖計だとか湿度計だとかいう器械で測るよりは、人間の感覚で推知する方が、本当の数値を云いあらわす……ことを御存知でしょうネ。つまりそれで僕は知りたいのですよ。昨夜と今夜との外気の温度の比較をネ。……",
"そうですねえ、今夜の方が昨夜よりすこしばかり寒いように思いますよ"
],
[
"丘田お照さんというのですか。……そのお照さんが、貴下にお届けした筈の懐中時計と十銭玉とを返して頂きに参ったのですが……",
"ああ、あれ? あれなら、もう用は済んだ。そこの机の上に載っているから持ってゆきたまえ"
],
[
"解答は至極簡単である。例の殺された男は、昨日の午後七時五十一分三十秒に、あの懐中時計を狂わせる原因を得ている。それが答だ",
"それが答?"
],
[
"預ってきたのなら、どうして昨夜のうちに『深夜の市長』さんに渡さなかったの。あの方に頼まれて、そんなに統制を乱したのは、あんたが始めてだわ。いけないじゃありませんか。『深夜の市長』さん随分お待ちかねだったのよ",
"なんだ、そんなことか。僕は今夜、『市長』に渡すつもりだったが……",
"もっとも輪太さんともあろうものが、あんたのようなひとに頼んだのも、そりゃよくなかったんだけれど。しかしこれだけは『市長』さんの言伝ですから、ちゃんとあんたに通じて置くけれど、警察ではあんたのことをしきりに探しているそうだから、注意をしていろだってさア。……聞いているのあんた。ねえ、よくって、注意をしていろというのが分った?",
"……ほう、警察の手が、僕の上にねえ……"
],
[
"ねえ、お照さん、僕は至急に『深夜の市長』さんに会いたいんだけれど、亀井戸のあすこのところに居なさるだろうかなア",
"ううん。……"
],
[
"じゃ、何処へゆけば逢える?",
"駄目駄目。昼間は駄目よ。どこにいらっしゃるか、誰も知っているものなんかないわ"
],
[
"まあ、――昨夜も妾に、そんなことを聞いたじゃないの。答は同じことよ。そんなに知りたければ自分でもって尋ねてみるといいわ",
"話して呉れるかネ",
"話しちゃ呉れないわ"
],
[
"おいオジサン、この車でも走るかい",
"走るかいとは腹が立つね。走り方が気に入らなかったら銭はいりませんや",
"よし、それでは僕を乗せて、ちょっと走ってみてくれ、お銭はその上で決めるよ。……ほら、向うへ走るんだ"
],
[
"もっと遅くともいいぞ。……霞ヶ関まで、一両でやってくれ",
"一両は要らねえ。四貫で沢山だ。しかしよく覚えて置いて下せえよ。円タクは古いほど、よく走るもんだてえことを……"
],
[
"お目玉を貰うって、誰からかね",
"ははア、お前さんがたの知ったことじゃないよ"
],
[
"しかし僕は市会と市長との対立に、只ならぬ殺気を感ずるよ。これが昔の御前試合の立合ででもあったら、横から出ていって立合を中止させたいところだ。手に真剣を持っていなくて、木刀だけの覘い合いでも、その場で人命に係るような試合もあるからネ。……そうだ、君のクラスメートかなんかが、市長の傍で働いているとかいったが、あれは誰だったい",
"助役をしていますが、中谷銃二です",
"注意したがいいなア。……"
],
[
"ああ、それは願ってもない幸いじゃないですか。失礼だが年齢を考えると、行って厄介になった方がいいですよ",
"莫迦を云え、お前も思いの外とんちきだな。誰が行ってやるものかい"
],
[
"一体あれは何者です",
"何とか委員というのだろうが、あの達磨のように肥っていた奴が、有名な市会議員の動坂三郎という人物だ"
],
[
"市議の大立物たる動坂三郎が訊ねてくるなんて、変ですね",
"なに変でもないよ。こっちは『深夜の市長』さんだから、市議が来ても大して不思議じゃないじゃないか。うわッはッはッ",
"貴方は深夜の市長! そうでしたネ。あッはッはッ",
"……変に儂の機嫌をとったりしやがって、ほんとに彼奴はイヤな野郎だよ。はッはッはッ"
],
[
"……なるほど、流石は輪太郎だ。これなら間違いなしの答だ。三月二十九日午後七時五十一分三十秒に、あの時計を狂わせる原因を得ているというのだな。よオし、それでは早速出かけるとしよう",
"出かけるって、どこへ行くんですか。その前に、どうして街の科学者が、そんな答を出したのですか、僕に説明して下さい",
"どうして答が出たなんてことを、今喋っている隙はない。そんなことは輪太郎から聞いたらいいだろう。それよりも例の事件を早く解決しなければならないのだ。そうだ、恰度いい。お前さんも一緒に来て、手伝ってくれないか"
],
[
"うん、そうして貰いたい。その代り駄賃として、途中で面白い話を聞かせてやる。一昨夜油倉庫の火事があったことを知っているだろう。あの火事も一と通りの火事とは訳が違うという話だ。どうだこれなら面白いだろう",
"ああ、あの夜の火事が曰くつきなんですか。……",
"そうともそうとも、新聞には出ていないが、あの火事場に半焼けになった人間の片腕が転がっていたのだ",
"ほう、片腕が、……ですか",
"うん。ところがその片腕を拾おうとすると、なんのことだ何処に行ったか、影も形も見えなくなっていたというんだ",
"焼け棒杭かなんかが、人間の片腕に見えたのでしょうか",
"そういう解釈もあるねえ、何しろ油倉庫にいた人達の中には行方不明者なんか一人も居らないし、それに……それに附近にいたルンペンどもの頭数もちゃんと揃っていた。だから眼の誤りだという解釈もあるが、しかし見た男は、確かにそこに片腕が転がっていたと保証するのだ。それが本当なら、変な話じゃないか。……さあ、その後は歩きながら話すとしてお前さん一足先に外へ出てくれ"
],
[
"ええッ。……",
"さあ、向うの角に見えるのが、明治昼夜銀行の亀沢支店だ。そこへ行って、支店長を呼んで貰ってなるべく小さな声で――ちょっと用事が出来ましたから、恐縮ですがお願いいたします……と丁寧に云うんだよ。それから一つ、これを頸にかけていってくれ。……"
],
[
"早速ですが、二十九日の午後七時五十一分頃に、貴方のお店から新しい十銭白銅貨を沢山受取っていった男がなかったでしょうかね",
"はッ。十銭白銅を沢山に……二十九日の午後七時五十一分でございますか。はアて、当行に於きましては左様なお客様がお見えになりませんでした"
],
[
"……拇指のない右腕が、あの火事場に転がっていた。そしていつの間にか見えなくなった。しかも焼け死んだ人間の心当りはないというのだから、面白い話じゃないか",
"それは、また下に落ちて燃えだしたか、それとも別の人が持っていったか、どっちかでしょうね"
],
[
"そうだ。そのどっちかだろう。ところが現場をいくら探しても、右腕の骨は見当らなかった。尤も他の骨も見当らなかったのだ。だからもともと腕だけが投げこんであったものか、それとも身体全体があって腕だけ焼け残っていたのか分らないが、とにかく油倉庫の火事のことだ。うまく真中のところで焼けると、人骨なんか粉々になって、形を止めないだろう。それはこの頃の火葬場のように、重油を使って焼いた屍体を見るがいい。実によく焼けているからねえ。あれをもっと火力を強くすることは訳はないのだ。そのとき人骨は粉々になってしまうだろうと想像するのは、これは容易なことだろうじゃないか、ねえ君",
"はア……。そうですねえ",
"いや思わず演説しちまった。儂は昔、雄弁大会というのを聞いたことがあったのでねえ。はッはッはッ"
],
[
"そのお客様は、右手の四本指を見せまいと気にしていたようだったかナ",
"いえ、そんな気配はありません。恥かしいともなんとも思っちゃいないようなようでした",
"大ぴらで四本指を見せていたんだと……ハテナ。それからもう一つ訊きたいことは、始めの方のお客様が棒包みを作る前に、そのニッケル貨幣はバラバラだったかね。それとも……",
"さあ、それはハッキリ覚えていませんが、こうっと……。そうです。なんでもそのお客様は小型の鞄をもっていらっしゃいまして、それを台の蔭でお開きになり、それからニッケルを取出されましたが、応接台の上に二十枚ずつキチンと積みあげたものを私どもの目の前にお並べになりました。つまりバラバラなところは見なかったように思いますが……",
"ああ、それでよく分った。どうも支店長さん、いろいろ済みませんでした。後は小切手の番号から振出人と裏書に書いた四本指の男の名前、それからその十分前にニッケルを預けていった男のことなどが伺いたいんだが、また何れ後からもう一度来ますから、それまでに調べて置いて下さいな。いや、どうも済みませんでしたね"
],
[
"驚きましたネ、貴方は。まるで名探偵のようじゃないですか。真逆、名探偵の化けたのじゃないでしょうね",
"はッはッ。変なことを云いっこなしだ",
"しかし貴方はどうして二十九日の夜の事件や、銀行を訪ねてまわって今の話のようなことを知りたがるのですか",
"知りたがるのは、儂の道楽なのじゃ。説明しろといったって、それ以上説明ができるものかね。だが、あの横丁の殺人事件、油倉庫出火事件、それにいまの銀行の話と、都合三つの真相さえ分ればお前さんも警察に追っ駆けられたりする心配がなくなるじゃないか",
"僕自身のことも、大変有難いですが、こうして考えてくると、今の三つの話はどうやらお互いに関係がありそうですね",
"そうかも知れないよ。どれ、腹が減ったが、その辺で、ワンタン屋の屋台でも見つけようじゃないか。権之助坂を下れば、どこかに店が出ているぜ。ほう、ひどく冷えてきやがった。……"
],
[
"ああ、僕のことですか。……",
"……燐寸をお使い遊ばせな"
],
[
"お嬢さん、もうこの辺でお別れいたしますか",
"ええ、ありがとうございました。お蔭で助かりましたわ。……貴方のお家、こんな淋しいところなんですの",
"いえ、飛んでもない。僕の家は、まるで方向違いですよ。もっとも昔この辺に下宿していたことがありましたのでね、咄嗟に思いついてこんなところへ車を命じたのです",
"まあ、そうなの。……どこかこの辺にホテルか何かございませんでしょうか"
],
[
"……あたし、いま困っていますのよ。助けていただきたいの。簡単に取引させていただきたいのですけれど……",
"ああッ、分りました。……"
],
[
"アラ、あたし困るわ。心変りなすっては……",
"いえ、心変りなんかしませんよ。お役に立つつもりでいます",
"まあ、……あたし実は今夜が始めてなのですのよ。あまりお窘めならないでネ。……"
],
[
"取っておいて下さい。取引はそれで済みました。……",
"これでは、取引ではありません。",
"いいえ、取引になっています。僕は真夜中に、こんな素晴らしい天使を拾ったのですからねえ。だが今夜始めてだという話ですが、貴女のような立派な風采をした方が、どうしてこんな商売を始めたんです。それを聞かして下さると、僕の方はお銭をさしあげるだけの材料を得たことになります"
],
[
"あたくしの名はマスミでございます",
"ああ、マスミさん。たいへんいいお名前ですね。ところで、兄さんのお名前と住所とを教えて下さい"
],
[
"貴方、ほんとうにそうして下さる。あたくし心からお願いするわ。兄の名は、四ツ木鶴吉というのです。住所はどこへ越していったのか、もう分らないのですけど、兄が勤めているところが分っていますから、そこへ行って尋ねて下さいな",
"勤め先というと……?",
"兄は動坂三郎という市会議員のところで働いているのです。ずいぶん古くから、動坂さんのために粉骨砕身して仕えています。……",
"ナニ動坂三郎?",
"アラ、動坂さんを御存知なんですの",
"知っているというほどではありませんがネ……"
],
[
"下町ですって。下町、結構です。僕も下町の方へ帰るんですから……",
"浅草なんですのよ。あたし恥かしいけれど",
"なアに、浅草はいいところです。僕も浅草に住んでいるのですからネ",
"まあ、不思議ですことネ。これも何かの御縁と思いますわ",
"そうかも知れませんね"
],
[
"もう雷門! そこで左へ曲るんですわ。あたしの家、吉野町なんですわ",
"へえ、吉野町かい。……"
],
[
"……『深夜の市長』さんに万一のことがあったら、あたしゃ、浅間の奴の咽喉笛を喰い切ってやるわ",
"いや『深夜の市長』の行方がこのまま分らないそのときは浅間氏の始末については君の手なんか借りないです。私が彼氏を霊振機に掛けて、彼氏の生命はなくなるとも、彼氏が『深夜の市長』について知っていることだけは、絞りだしてごらんに入れるです"
],
[
"そんなことが有るかもしれんですね",
"あの時刻は、結局貴方が算出した時刻でしたネ。何秒とかいう端たはついていたが……",
"そうです。例の事件の現場で、君が拾って来た時計から算出したんだから、間違いっこなしです"
],
[
"毎時間三十五分六だけ遅れることは分れば、後は簡単です。あの時計が遅れだしてから、何時間になるか、これを勘定すればいいのです。つまり毎時それだけずつ遅れていて『深夜の市長』が見たときには二時間四十分遅れていたのだから、これを三十五分六で割ればよろしい。これは小学生でも出来る算術で、恰度四時間三十分前と出て来ます。つまりあの狂った時計が指す午後十一時四十分の四時間前ですから、それは午後七時五十分と出て来るではありませんか",
"なるほど、午後七時五十分ですかナ",
"その数字に、僕の使った測定器の誤差と、気温の変化とを考慮に入れて補正すると、一分三十秒だけ加えて、結局午後七時五十一分三十秒となる!",
"へえ――すると、その時刻にどうしたというのです"
],
[
"ハア、市庁へですか",
"そうだ、市庁へ行って、あすこの事務管掌といわず、議場その他、内部の構造物も一と通り見学して来たまえ。どうせそのうちに行かにゃならんのだから……"
],
[
"そいつは困った、そうなると、一件書類を金庫から出さにゃならぬねえ",
"そりゃ必要ですね。市長さん、どうかなすったのですか",
"……ウム。実は金庫が開かないのだ"
],
[
"あああ、――イヤ実に参った。実はその『市長の鍵』をどこかへ失してしまったか、盗まれたかしたのだ。昨日になってそれに気がついた。……イヤ弱り果てたよ、中谷君",
"そいつは全く困りましたネ。ここへ来て『市長の鍵』がないじゃ、どうにも納りがつかないじゃありませんか"
],
[
"なんです、この変った道行は……",
"いえ、お母アさんが見えないというので、あたし連れて来たのよ。今朝起きてみたら、勝手の板の間の下でゴトゴトいうのよ。あけてみると、まあ愕くじゃありませんか、この子が縁の下を匍いまわっていたのよ。……それからとりあえず、上に上げて聞いてみると、お母アさんが居なくなったというでしょう。その方、昨夜から、お宅に泊っていた粋な方ネ。それから同情しちゃって、連れ出したのよ",
"ほほう、絹坊は縁の下に寝かされたのかい。ひどい女だなア……"
],
[
"実をいえばあたし……昨夜、あの狭いベッド・ルームのある苺園ホテルで貴方と二人っきりでいたことが、深く心臓の上に刻みつけられて、もう忘れられなくなったのよ。貴方は立派な紳士ね。憎いほど紳士だわ。あたしはそう云う方にこそ、どうかされたいと思って貴方の迫ってくるのを烈しく待っていたんだけれど……やっぱり貴方は紳士だったわネ。そのためにあたしは兄の四ツ木鶴吉のところへ詫びをしてくださいなんて、神妙なお願いを貴方にしちまったのよ。あたしは貴下のような頼母しい方にお目に懸ることができて、どんなにか嬉しいの。あたしは神様にお祈りをしたのよ。どうかお隣りの紳士の手で、罪深きあたしが救われますようにといって……。でも……でも、本当はマスミは駄目だわ。恵まれていないのよオ。あたしだけが熱望していたって、相手の方が氷のように冷やかなんじゃ仕方がないわ。こういっちゃなんだけれど、貴方は成程紳士らしくて、そりゃ立派よ。それは分ってるわ。しかし真の紳士というものは、百パーセントは間違いなしの生活をしていたんじゃ駄目なの。百パーセントは間違いなしの生活をした上、同時に別の百パーセントは間違いばかりの生活が出来るような能力を備えていなければいけないんだわ。ここのところ鳥渡六ヶ敷いんだけれど、貴方に分んなさる?",
"……さあ、百パーセント白で、百パーセント黒の生活をしろ、合計二百パーセントの生活をしろと云ってるんだろうが、よく嚥みこめないね",
"ああ、それだけ分っている癖に、貴方は分らないと仰有るの。あたし、どうしたらいいだろう。救われそうでいて……さっぱり救われないわ",
"君はいま、心底から力強く保護をしてくれる者が必要なんだ。よろしい、僕はきっと君の兄さんを訪ねて君の必要とするものを与えるように頼んでやる",
"アラ、まだそんなことを云って……。いいわ、あたし斯うなれば修道院に入りたい!"
],
[
"ほほう、そいつは意味深な唄だネ。もっと子供らしいのはないのかなア",
"こんなのはどう?……鼻をつまんでニヤリと笑うウ、お前は深夜のオ市長さん、夜が明けるヨイショコショ、もうお帰りかア……",
"うん、それもおじさんにゃ深刻に響くよ。……ねえ、絹坊一体お前の、お父ちゃんは無いのかい",
"お父ちゃんは一人いるんだってよ。でもあたいはお父ちゃんの名前は知らないの。だって母アちゃんが教えて呉れないんだもの",
"お前はそのお父ちゃんという人を見たことがあるのかい",
"一度ちょっとだけ見たことがあるわ。お料理店の黒い門から出て来て自動車に乗っていっちまったの",
"どんな顔をしていたい",
"どんな顔?……あたし覚えてないわ",
"それっきりで見たことがないのかい。会いに行ったことなんかないのかネ",
"それはねエ、お母ちゃんが一緒に会いにゆこうといってあたいを引張ってゆくことはあるんだけれど、いつも途中までいって停めにしちゃうのよ。だからあたしつまらないわ。そして帰りにお母ちゃんはいつもあの唄を歌うのよ。この子を生んだア……って"
],
[
"おじちゃんは、あたいのお父さんがいい人だと思う。それとも悪い人だと思う",
"さあ――どっちだろうね",
"鬼みたいな人だっていうのよ、母アちゃんは。鬼は人間を喰べちゃうのだってよ。あたいたちも見つかると喰べられちゃうかもしれないから、喰べられそうになったら、早く鬼を殺してしまわないといけないんだって……",
"ああ、もうそんな話はよそう。……さあ、酒場ブレーキはもうすぐそこだ。母アちゃんが来ているといいネ……"
],
[
"――『深夜の市長』? ああ、誰があんな悪魔の行先なんか知るもんですか",
"ナニ、『深夜の市長』が悪魔だって?"
],
[
"そうですわ。あんな悪魔がのさばっている間は、このT市は救われませんわ",
"なぜそんな事を云うのだい君は……"
],
[
"正直な人だった? だったというと……",
"ええ、だったのよ。だって今は居ないのですものネ。死んでしまったかも知れないの。いや、殺されちまったんだわ!",
"殺されちまった! それは穏やかでない話だネ",
"穏やかでないことが、貴方にも分る。……そう分るならそれでいいのよ。千代子さんの兄さんを殺したのは一体誰だったでしょうか。……"
],
[
"…………",
"この可哀そうな千代子さんの兄さんを殺したのは一体何処の何奴だったでしょうか! 知っている? 知らない?……では教えたげましょうか。その人殺しをした奴は……『深夜の市長』なのさ!"
],
[
"愕いたでしょう。そして『深夜の市長』が、大悪魔だったことが分ったでしょう。この千代子さんは……",
"話の途中だが、その殺された兄さんというのは、何という名前の人かネ",
"それは四ツ木……鶴吉ていうのよ",
"呀ッ、四ツ木鶴吉! ほんとかい、それは……"
],
[
"でも、どんな証拠があって『深夜の市長』が殺したというのかネ。また千代子さんの兄さんは何処で殺されたのかネ",
"なぜかって、あの悪魔が殺したのに違いないのよ"
],
[
"あれは……兄は二十九日の夜帰って来なかったんですから、翌三十日の夕方のことでしたわ。兄さんの便りを聞くために町子さんについていって貰って、一緒に動坂さんのお邸へ伺ったとき、秘密に話をしていただいたんですわ",
"それっきり、兄さんは帰って来ないの",
"ええ、そうなの……"
],
[
"ねえ、千代子ちゃん。貴女の兄さんの身体を見て、これが兄さんだと分る特徴がありますか",
"ええ、顔を見れば分りますわ。それから兄はアノ……右手の拇指が無いのですから、手だけ見たって、直ぐそれと分りますよ",
"おお、それではあの四本指の手の男が……"
],
[
"ああ、今のは市長が自殺したというんだよ",
"あら、『深夜の市長』が自殺したんですか",
"『深夜の市長』が……。違うよ。本物の高屋市長がやったというんだ"
],
[
"君は辰巳芸者のいる深川門前仲町の待合街を知っているかネ。ところでそこに紅高砂家という待合がある。そこへ直ぐ行って貰いたい",
"はア、待合で何をいたしますか",
"金曜会という会合がある。そこに川田さんという変名で、黒河内警視総監が居られるから、この手紙を持っていって貰いたい",
"えッ、警視総監が待合に……",
"誤解や早合点は慎しむがいいぞ。職務のために行って居られるのだ。手紙を渡したら何か挨拶があろう。後は総監の命令を遵奉して行動すること。分ったかネ。余り役人風を吹かせるんじゃないよ"
],
[
"はッ、これは総監閣下でいらっしゃいますネ。これをお届けいたします",
"いや御苦労……"
],
[
"それア何度云っても同じことですよ。猶予するもせんも儂にはどうにもならぬことです",
"しかし動坂さん。聞くところによると、本案を今日上程するように計らったのは、貴下だということだが……",
"黒河内さん。それは何者かの為めにせんとするデマですよ。貴下も、その連中に乗じられているのだ。第一、あの土地払下の件は今更始まった問題ではなし、前から下相談もあり、誰も異議はないといっている。市長も数日前、賛成のような口吻を洩している。それだのに、上程がなぜいかんのか、儂には腑に落ちん",
"それは市長も説明しているように、この件について、ちょっと取調べを要することが出来たという……",
"いまさら取調べなんて迂濶千万ではありませんか。が、まあ取調べもいいでしょう。しかし市会の意思を蹂躙して上程をさせまいとするのはいかん。上程してみた上で、取調べの必要ができたからと云って、そこで延期を図ればよろしい"
],
[
"実は市長このところ大失態をやった。それは大事にしなけれアならんT市の黄金の鍵を二、三日前失ってしまったんです",
"ナニ、T市の黄金の鍵を……。ああ、それは飛んだことだ。あれは一つしかない。T市では一番大切な品物だ。それを無くしたとは、一体全体何ごとだ! 市長! これぁ辞職や切腹だけでは、済みませぬぞ"
],
[
"そのとおり、全く高屋さんの大失態だ。しかしネ、動坂さん。いろいろ訪ねてみると、その鍵がどうして紛失したかハッキリしないのです。つまりそれは落したものか、それとも盗まれたものか分らない",
"どっちにしろ、市長の責任は遁れられぬ。T市五十年の名誉はどうなるのだ。儂の耳に早く入ったからいいようなものの、これが他の議員に知れて御覧なさい。どんな騒ぎが起ると思う……",
"ところで、動坂さん。貴方の御意見を伺いますが、もしそのT市の鍵が、落したのではなくて、誰かが盗んだのだったらどうします。その盗んだ人間を、どう処置すればいいでしょうか",
"黒河内さん。儂は警視総監じゃありませんよ。盗人の処分なんか、貴公の役目じゃありませんか",
"そうです。だから私は、自分の職務を遂行しようかと考えているのです。結局私は気の毒な検挙をしなければなりません。それでもいいでしょうか"
],
[
"……だから、お照さん。云わないこっちゃない。……",
"さあ、愚図愚図しないで、早く逃げるんだ。刑事や巡査がやってくると面倒だ",
"自動車は向うに待っている。早く早く"
],
[
"おお、浅間君。黒河内さんがやられたッ",
"ええッ、総監がですか。……"
],
[
"姐さん、ここに買って来た握り寿司があるんだが、喰べても構わないかネ",
"アラ御馳走さまネ。どうぞ御遠慮なく……"
],
[
"ふふふふ。彼の女がねエ。……図星だと云いたいが、ちょっと的を外れたねえ",
"まア憎らしい。そんなに恥かしがらなくてもいいわよ。オホホホホ"
],
[
"イヤいつもあるやつでさあ。なにネ、熔鉱炉の中に、誰だか飛びこんだ人間があるようだというのでちょっと騒いだんでさあ",
"えッ、熔鉱炉……",
"そうですよ。この工場の熔鉱炉と来た日にゃ、人間が好きでたまらねえと見えて、よくやるんですよ。なにしろ炉は野天に置いてあるんだし、外から持っていった屑金を直ぐ抛りこめるように、入口から近いところにあるんで、誰でも直ぐ入れまさあネ。そこへ持ってきて、高い炉口に上っている梯子は薄暗く、上にゃ職工が一人きゃいないで、こいつが小さい車を押してあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。だからやろうと思えば誰でも飛び込めるんです……",
"今夜も本当に飛びこんだんですか",
"どうかなア。怖じ気のついた野郎どもが、よく幽霊を見て本当の人間が飛びこんだと早合点することがあるのでネ",
"ほう、幽霊……。つまり幻影を見るんですネ"
],
[
"おう、恰度いい。済まんが僕のお尻を持ち上げて呉れ給え",
"こーらッ。貴様は太いやつだ。警官の見ている前で、泥棒に入るとは何だ。俺は警官だぞ",
"ナニ警官だ。そりゃ都合がいい。……",
"なんだとオ。……服装はしっかりしているが……。貴様の住所が何処だ。商売はあるのかア。……",
"住所だ、商売だアというのかア。それなら名刺を呉れといえば話が早いじゃないか。さあ手を出せ一枚二枚三枚……もっと欲しいかア"
],
[
"これは失礼しました。……",
"住所と商売が分ったら、早く僕のお尻をもちあげて呉れ",
"ハッ承知いたしました"
],
[
"ああ、気がついたようです。……",
"ウン、もう大丈夫じゃ"
],
[
"なんだって? あたしを捕えるんだって。ヘン笑わせるじゃないか。なんだってあたしを捕えるんだい",
"知れたことさ。君は今夜、門前仲町の待合、紅高砂の前でピストルを撃ったじゃないか。撃っただけじゃない。高官に重傷を負わせた。その高官は誰だったと思っている。警視総監の黒河内さんを君は狙撃したのだぞ",
"いけすかないよ。この人は……。そんな脅しの手に誰が乗るもんかネ。あたしには警視総監なんぞ狙うわけはないんだよ"
],
[
"なにが尊敬すべきなもんか。待合に足を踏み入れるような奴に碌な者がいるもんかネ",
"コレお照さん。黙らんかというのに!"
],
[
"さあ、時分は恰度よいようですが、出懸けましょうか",
"そうか。では出発としよう"
],
[
"でも私だけでは、到底目的を達せそうもありませぬ",
"ウン、そうでもあろうが……",
"仲間のなかから、至急信用の置けるのを選びましては……",
"いかんよ、それは……。極秘が破れる。友人の名誉のために、T市の光輝ある歴史のために、それからまた……",
"なんだか知らないが、僕に手伝わせて下さい。僕はきっと秘密を守ります"
],
[
"でも、これじゃ『深夜の市長』を見殺しにするようじゃないかネ",
"仕方がない、後はお照に委せるんだ。躊躇している場合ではない"
],
[
"T市の黄金の鍵を奪還するんだ",
"奪還? やっぱりねえ。……その黄金の鍵は何処にあるのかネ",
"市会の巨頭動坂三郎が持っている。これから彼の邸を襲って、奪還するのだ",
"失礼だが、君のような科学者に、泥棒のような忍び込みができるのかネ",
"心配無用!"
],
[
"君は何故、あんな場所に、あんな塔を建てたのだい。一体何をするのが目的なのかい",
"…………"
],
[
"速水さん、見張りの連中は、僕たちの目的を知っているのかネ。皆いやに黙っているので気味が悪いナ",
"彼等は見張りだけが任務なんだ。――黙っているのは『深夜の市長』の威令が行われている証拠だよ。規律が弛緩すれば、場所がらを弁えず、詰らぬお喋りなどをするものだ"
],
[
"もう済んだのかい",
"準備は済んだ。これからいよいよ本舞台だ。君、こいつを頭から被りたまえ、こんな風に……"
],
[
"この家は留守なのかい",
"どうして?……ホラ、これを見給え"
],
[
"ちと静かにしないと、起きられるんじゃないか",
"なんの、起きるものか"
],
[
"……死んでいるのか",
"なアに、よく睡っているだけだ。先刻床下から注射した毒瓦斯はそれを嗅いだ人間を正味二時間に亘って、生きた屍にする。あの注射器もこの毒瓦斯も、僕が作ったものだ"
],
[
"速水さん。ちょっと手を貸してくれたまえ",
"手を貸す? 何をするのかネ",
"この動坂氏を裸にしてみるのだ",
"ナニ、この人を裸に……"
],
[
"速水君。これを見給え。嗜みのいい動坂氏は、寝ていても、防弾チョッキを外していないよ",
"ほほう、なるほど……"
],
[
"おおT市の鍵だあ。万歳!",
"ああ黄金の鍵! 私たちの使命は遂に全うせられたッ"
],
[
"ねえお照さん、『深夜の市長』は?",
"なにを云ってるのよオ。もちろん明けないうちに、お帰りになったわよ。……さあ牛乳にトーストよ"
],
[
"いや済まない。……『市長』はあんな重態でも、やはり夜明け前には居なくなるのかネ。……それはそうあるべきだろうけれど……",
"なにが、そうあるべきサ",
"イヤ、あの人の生活は、ちょっと僕に似ているところがある",
"ちっとも似てやしないよ。似ているといやあ、うちの絹坊に似ているよ。お陽さまが嫌いなところがネ",
"ああ絹坊! 絹坊といえば、絹坊はどうしているネ",
"けさ速水さんが病院に連れていったよ。お陽さまを恐がるのをセイシンブンセキとかで癒すためにネ。あたしは余計なことだと思っているんだけれど、あの人は癒してやるってきかないのだよ"
],
[
"あんたは、このあたしを縛るつもりなのネ",
"……うんにゃ、縛るのはもうよしたよ、はッはッはッ",
"だってそれじゃお役目をどうするの……",
"お役目か、お役目なんざ……もう罷めちまうばかりだ",
"ヘン、云ってるよ。あんたが本当にお役人を罷めたら、あたしは逆立をしてあんたの周りをグルグル廻ってみせるわ",
"そうか。じゃそれを娯しみにしているが……あの淡海節に詠みこんだ『この子を生ませたあなた』というのを教えろ",
"知らないッ。……",
"知らない? じゃあヨイショコショ教えてやろう、こっちから……。あの子の父親は……いいかネ……動坂三郎だッ",
"まあ、どうしてそれを……",
"君は彼奴が待合から出てくるのを覘って撃ったのだ。弾丸は美事に命中したのだ。しかし彼奴は死なない",
"そうなのか。確かに当ったのに……",
"防弾チョッキを着てやがるんだ。生命には別条ない。昨夜彼奴の防弾チョッキを見たが、君の呪いの弾丸が二発鋼鉄の上に浅い凹みを造っていたぜ。もし徹りぬけりゃ、心臓を射留めたろう",
"卑怯な男!",
"だがお照さん、今日は君のために、市会の真唯中で彼奴をとっちめてやるからネ",
"ああ、市会でネ。……そういえば、アラもう遅いわよ。けさ早く『深夜の市長』さんから電話が掛って来て、あんたを十時半までに、市庁へ着かせるようにッて!",
"十時半だって……。なぜそれを早く云わないんだ"
],
[
"……T市の金庫を、たった今、明けてみせるか、それとも明けられない事情を説明するか?",
"よろしい。……では金庫を明けてお目に懸けよう!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷
初出:「新青年」博文館
1936(昭和11)年2月~6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
「霞ヶ関まで」
※「浅間信十郎」と「浅間新十郎」の混在は底本の通りです。
入力:電子JUの会(吉野真帆)
校正:門田裕志
2010年10月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001219",
"作品名": "深夜の市長",
"作品名読み": "しんやのしちょう",
"ソート用読み": "しんやのしちよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1936(昭和11)年2月~6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-11-15T00:00:00",
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"名": "十三",
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"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
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"没年月日": "1949-05-17",
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"それはたいへんだ。すると犯人は猛烈に凄い奴ですね。少くともルパン級。いや、もっと上のスーパー・ルパン級の悪人ですか。困ったなあ、あの生命にも替えがたい名画『カルタを取る人』は遂に永遠に僕の手に戻りませんかねえ",
"そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。まあしばらく、私にこの事件をお委せ下さい。一週間のうちに解決しなかったら、天下の何人といえども、この事件を解決し得ないのです。しからば今日はこれにて失礼します。いや、明日より一日に一度は御連絡申上げますから……"
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"全く不愉快だ。おい天門堂。この絵を片付けてくれ。そうだ、庭へ持出して、焼いてしまってくれ。なに構わんから",
"焼き捨てろと仰有いますか。それはまことに――いや、御立腹はご尤もであります。御下命によりまして早速お目通りからこの珍画を撤去いたしまするが、しかし御前、お焼き捨てになりまするなら、どうか天門堂へ適当なる価格をもって御払い下げ願わしゅう存じます、はい。勉強いたして頂戴いたしまする"
],
[
"なんだ。お前も変っているな。とんでもない模写のニセ名画を買い取って、どうするつもりか",
"いえ、もちろん手前の手に渡れば金儲けの糧にいたします。出鱈目な説明を加えましてな、セザンヌの弟子が『カルタを取る人』を模写中発狂して、こんな画を描いてしまったが、とにかくこれはセザンヌの弟子なるフランス人の筆であるから、一枚五千円だと申しまして売りつけます"
],
[
"じゃあ、いくらで買っていくね",
"左様。大奮発をいたしまして一千五百円では如何さまで",
"おい、ひどく儲けるつもりだね。さっき五千円で売りつけるといったのに、ここから買っていくときはたった千五百円か",
"ははは、これは御前、恐れ入りました。売りつけますにはいろいろと手のかかるものでございまして、それ位の利益を見ておきませんことには……ええい、ようございます。特に大々奮発いたしまして、ぎりぎりのところ四千円で頂きまする。千円は儲けさせて頂きたいもので、はい"
],
[
"本当かね",
"いや、それについてご説明をいたさなくては信用なさらないでしょう。実は、例の怪賊の手口からして糸口を辿っていったのですが、実に実に賊は容易ならん奴ですぞ",
"賊は誰でも差支えないが、あの名画は、何時僕のところへ戻るだろうか",
"名画の取戻し方については、まださっぱり自信がないのですがが賊の見当だけは果然つきましたゆえ……",
"待ちたまえ。今も云うとおり、賊は誰であっても僕は構わない。問題は、あの名画が僕のところへ戻るか戻らないか、それを早く報告して貰いたい",
"それは逐次順を追って捜査いたし、御報告をいたします。しかし今日御報告に参りましたのは、私には斯くのとおりの捜査手順がついて居りますことをお知らせいたし、すこしでも御安心願おうと存じまして……",
"聞きましょう、君の話を。犯人の素性その他について、聴取しましょう"
],
[
"これは私でなくては図星を指す者は居ないのでございますが、この犯人は、かの憎むべき奇賊烏啼天駆の仕業でございます",
"なに、ウテイ・テンクとは何者です。それが色白の女賊の名ですか",
"いえ、違います。二人組の男の方が、烏啼天駆なんで。こ奴は、すこぶる変った賊でございまして、変った物ばかり盗んで行くのです。建物から一夜のうちに時計台を盗んでいったり、科学博物館から剥製の河馬の首を盗んでいったり、また大いに変ったところでは、恋敵の男から彼の心臓を盗んでいったりいたしました",
"残酷なことをする。憎むべき殺人鬼だな",
"いや、殺人はいたしませぬ",
"しかし恋敵の男から心臓を抜けば彼は死んでしまう",
"ところが奇賊烏啼の堅持する憲法としまして“およそ盗む者は、被害者に代償を支払わざるべからず。掏摸といえども、財布を掏ったらそのポケットにチョコレートでも入れて来るべし”てなことを主張して居りまする奇賊――いや憎むべき大泥坊でございます。そんなわけで、こちらの御盗難の場合においても、代償として別の画をはめていったものでありまして、稀に見る義理堅い――いや、憎みても余りある怪々賊であります",
"なるほど。これは奇々怪々だ"
],
[
"で、その烏啼とやらが、僕の名画を盗んだことを白状したのかね",
"いえいえ、まだ、そこまでは行って居りませぬ。犯罪の性質と手口から判断して、この事件は彼烏啼の仕業にちがいないと推理した結果を御報告に参ったわけです",
"そんなら一刻も早く烏啼天駆とやらを縛りあげて、僕のところへ連れて来給え",
"ああ、そのことですが、実は私は烏啼を常に監視しつづけているのですが、どうしたわけか、この半年ほど、烏啼は本部に居ないのです。つまり行方をくらましているのです。彼のことですから、死んだのではないと思います。彼の部下もちゃんと元気に秩序立って活動していますから、頭目烏啼は死んだのではなく、どこかに隠れているにちがいありません。ですから私は、これから烏啼の在所を、極力捜査にかかる決心です",
"それはまた、たより無い話だね。さっき聞いた犯人が烏啼であるという結論までたより無くなって来た。君、大丈夫かね"
],
[
"大丈夫ですとも。怪賊烏啼を捕る力量のある者は天下に私ひとりです。どんなことがあっても彼の尻尾をつかんで取押えてごらんに入れます",
"待ち給え。毎度いうように、犯人を捕えることよりも、名画を僕の手に戻してくれることに力を入れてくれ給え",
"名画といえば、入れ替わりの名画はどうなさいました。壁からお外しになって、おしまいになったんですか",
"いや。あのインチキ名画は、出入りの美術商に四千円で払い下げてやったよ",
"それはどうも。お気のはやいことで",
"一日に何十回と見るたびに胸糞が悪くなるから、無い方がせいせいするよ",
"しかし、どうも、ちと気がお早すぎましたね。これはどうも"
],
[
"あなたが、あたしにいい言葉をかけて下さるのは、こんな仕事をした直後だけに限るのよ。憎らしい人",
"さあ、急ごう、仕事が終れば、早々退場だ"
],
[
"そうお急ぎになっても、同じことですわよ",
"いや、早く幕を取除いて、その下にある本体を見せてもらわないことには、安心ならない。藤代女史、急いで……"
],
[
"やあ、珍客入来だ。これはようこそ、袋猫々先生",
"こんなことだと思ったよ。悪趣味だね",
"なんの、合法的だよ。不正な取引はしていない"
],
[
"だが、こんなことは、もうよしたがいいね。種はたった一つだ。この種で、何べんも繰返しているなんて、烏啼天駆らしくもない",
"ふん、忠告か。そういえば、同じ手法のくりかえしで気がさすが、世の中には鈍物が多いから、まだこの手法を知られていないつもりだが",
"あんたも焼きがまわっているよ"
],
[
"美術商岩田天門堂に化けて二度も同じ手を使うとは、なんて拙いことだ。それにさ、この画だって、ニセ物だということを君は知らんのか",
"ニセ物? この画が……。うそも休み休み云って貰おう。これは本物だ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「小説読物街」
1949(昭和24)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2007年11月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002715",
"作品名": "すり替え怪画",
"作品名読み": "すりかえかいが",
"ソート用読み": "すりかえかいか",
"副題": "烏啼天駆シリーズ・5",
"副題読み": "うていてんくしりーず・ご",
"原題": "",
"初出": "「小説読物街」1949(昭和24)年1月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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[
[
"では、僕の手を握ってください",
"よオし、握った"
],
[
"その手は、僕の身体に繋っているでしょうか",
"ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ",
"僕が喋るときには、この唇が動いているでしょうか",
"なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひとを舐めやがって"
],
[
"君、君ンとこは、まだ飲ませるだろうな",
"モチよ、よってらっしゃい",
"おいきた。友達甲斐に、もう一軒だけ、つきあってくんろ、いいかッ"
],
[
"ビールだ。で、君の名前は?",
"マリ子って、いうわ、どうぞよろしく"
],
[
"先生、こっちは曽我貞一です。神田仁太郎を連れてあがりました",
"曽我貞一に、神田仁太郎? そんな名は知らぬぞ"
],
[
"あの袋小路には、カラクリがある",
"どんなカラクリだい",
"そいつは判らん。だが追々わかってくるだろう",
"神田仁太郎のことなら、小石川の、その何というのか心霊実験会みたいなところで訊けばわかりやしないか"
],
[
"無論、住所は二人とも出鱈目だった",
"あの神田という青年は、なんだって、あんな恰好で銀座裏なんかに現われたのだい。あれは神田氏だけの問題なので、気が変になったとか或いは酔払っていたとか(ここで私はクスリと忍び笑いをしなければならなかった)そういったことだけなのか。それともあれが、もっと大きな事件の一切断面だとでも云うのかい"
],
[
"君は、僕の嗅いだ目の醒めるような匂いのことも忘れちゃいないだろうネ",
"うん、あれは僕の想像に、裏書をしてくれるようなものだ",
"ボラギノールの薬壜は?",
"ボラギノールの薬壜? そいつは僕の眼前に見えるタッタ一本の縄だ、この一本の縄があるばかりに、僕はたちまち今日から何をなすべきかということを教えられている",
"それで何をしようというのだい",
"明日から当分、午前九時から午後一時まで、君はこの事務所へきて、僕の代りに留守番をしていてくれたまえ",
"それで君は?"
],
[
"その代り、すばらしい拾いものをした",
"む、なにを拾ったネ",
"カフェ・ドラゴンと、泥船が沢山舫っているお濠との間に、脊の高い日本風の家がある。ところがこの家の二階の屋根にすこし膨れたところがある。鳥渡見たくらいでは別に気がつかないほどの膨らみだ。トランシットでビルディングの上から仔細に観察してみると、その膨れた屋根は隣のカフェの煉瓦壁のところで止っている。僕の眼は、煉瓦壁の上をスルスル匍ってカフェ・ドラゴンの屋根に登っていった。すると其処に、大きな煉瓦積の煙突があるのだ。ところがこの煙突の根元へ焦点を合わせてみて判ったことだが、灰色のモルタルの色で、この煙突だけは、つい最近出来たものだということが判った。これは面白いことだ。あの二階家を建てたためにあの煙突ができたと考えることはどうだろう。その次には、二階家につける筈の煙突を、どうしてとなりにつけたのかと考えてはどうであろうか。さらにもう一つ、日本建の二階家になぜ煙突が入用なのであるかと考えては、いけないであろうか"
],
[
"すると、そのあたりに、怪青年が隠れているというんだね",
"うん、一度入った者は、いつかは出てこなければならない。そうだろう。あとは根気競べだ"
],
[
"なに!",
"一刻も早く御帰国なさい。だが此所で御覧のとおり、事態は極度に悪化しています。遁れる路は唯一つ、お濠をくぐって、山下橋へ"
],
[
"こっちで騒ぎを大きくしたようなものさ",
"ボラギノール一壜で、君があんなに器用な真似をするとは思わなかった"
],
[
"だが孫火庭が呼びに来てくれるまでは、気が気じゃなかった",
"あの風変りな新聞広告が、きいたのだね"
],
[
"漢青年は、うまく脱走したかなァ",
"大抵大丈夫だろう"
],
[
"すると、マリ子という女は、一体どうしたわけのひとなんだね",
"あれは、すこしばかり儲け仕事をした女にすぎない。無論中国人ではなく、われわれと同じ国籍をもっているんだよ。事件の中に若い女が一人とびだすと、すぐその女が主人公になってしまうことが世間には多いが、今度の事件では彼女は一個のワンサ・ガールに過ぎなかった。殺人がなかったことと、それとが、今度の事件の二つの特異性だったとでも、こじつけ迷説を掲げて置くかね。はっはっは"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1932(昭和7)年4月号
入力:浦山聖子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001226",
"作品名": "西湖の屍人",
"作品名読み": "せいこのしじん",
"ソート用読み": "せいこのししん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1932(昭和7)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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} |
[
[
"どこに御座いましたのですか",
"これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅からゴミと一緒に拾い出したのだ",
"さあ、どうも見当がつきませんが……"
],
[
"とうとう、新宿の轢死美人の身許が判ったてじゃありませんか。誰だったんです",
"自殺の原因は何です",
"全然素人じゃないという噂さもありましたが……"
],
[
"うむ",
"昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死に様でございますから、お通夜も身内だけとし、今日の夕刻、先祖代々伝わって居ります永正寺の墓地へ持って参り葬ったのでございます",
"それから……",
"葬いもすみまして、自宅の仏壇の前に、同胞をはじめ一家のものが、仏の噂さをしあっていますと、丁度今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて……仏が帰って来たのでございます"
],
[
"いや、それがです。実は火葬にしなかったのです",
"火葬にしなかった?",
"はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々土葬ということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の遺骸も、白木の棺に納めまして、そのまま土葬してございますような次第です"
],
[
"そうです、深山ですが……",
"あたくし、理科三年の白丘ダリアです。先生のところで実習するようにと、科長の御命令で、上りましたのですけれど",
"ああ、実習生。――実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい"
],
[
"右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ",
"なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え"
],
[
"色盲でも無いようだが……気のせいじゃないか",
"いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?",
"莫迦云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの眼病だよ"
],
[
"警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……",
"なに、警視庁へ",
"あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……"
],
[
"黒河内尚網という是れでも子爵なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました",
"黒河内京子――君の伯母さんか",
"先生、伯母をご存知ですの"
],
[
"赤外線男というものが棲んでいるそうだ",
"そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか",
"深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか"
],
[
"発見当時のことを残らず述べてみなさい",
"あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇の戸外へ一歩踏み出した途端に、脾腹をドスンと一つきやられて、その儘何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂は元の室の土間の上に転がっているという始末。それから駭いて窓から外へ飛び出すと、門衛のいますところまで駈けつけて、大変だと喚きましたようなわけです",
"すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか",
"それが何にも見えませんでございました",
"序に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか"
],
[
"君、一つ発見したよ。この室の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ",
"靴の跡ですか",
"そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵の摩滅具合から云ってこれは血気盛んな青年のものだと思うよ"
],
[
"その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか",
"それは勿論、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ",
"それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽じゃないでしょうか"
],
[
"仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六をサ",
"帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです"
],
[
"どうして怪我をしたんですか",
"いいえ、アノ一昨晩、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸の壜が破裂をしたのです。その拍子に、棚が落ちて、上に載っていたものが墜落して来て、頭を切ったのです",
"そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか",
"何しろ疲れていたもので、直ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図しているうちに、頭髪についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています"
],
[
"いいですか",
"いいよ"
],
[
"アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触りましたのよ。吃驚して、窓をあけたんですの",
"ああ、もう出たかッ――",
"赤外線男!",
"窓を皆、明けろッ!"
],
[
"いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀でしたわ。ホホホ",
"なあーンだ"
],
[
"じゃ早くカーテンを下ろしなさい",
"済みません"
],
[
"どッどうした",
"まッ窓だ窓だ窓だッ",
"ランプ、ランプ、ランプ!"
],
[
"赤外線男!",
"ああ、あいつの仕業だ"
],
[
"延髄を一と突きにやられている……",
"太い鍼だッ",
"指紋を消さないように、手帛でも被せて抜けッ"
],
[
"大江山さんですか。また何かありましたか",
"ええ、あったどころじゃないです。唯今総監閣下が殺害されました",
"ナニ総監閣下が……? 本当ですか",
"困ったことですが、本当です",
"一体どうしたのです。どこでやられたのです",
"今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻総監閣下が急に見たいと仰有るので到頭ご覧に入れちまったのです"
],
[
"で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ",
"そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています",
"現像は……",
"今やっています。直ぐこれからおいで願いたいのです",
"ええ、参ります"
],
[
"出来たのですが……",
"どうしたんです?",
"駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心のところは真暗で、何にも写ってやしません"
],
[
"深山氏とダリア嬢は、調べましたか",
"今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈なく調べ、繃帯もすっかり取外させるし、眼鏡もとられて眼瞼もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得るところもありません",
"ダリア嬢の眼はどうです",
"ますますひどいようですよ。左眼は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです",
"ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか",
"ところが深山氏は閣下にいろいろと詳しく説明していた最中なのです。深山氏が喋っているのに、閣下はウーンといって仆れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ",
"すると二人の嫌疑は晴れたのですか",
"まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室内へは行かないと云っていますよ",
"では犯人は一体誰なんです",
"赤外線男――でしょうナ",
"課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか",
"今となっては満足しています。昨日までは稍信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません",
"しかし、レンズは室内を睨ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ"
],
[
"なに、又誰かやられたんですか",
"こうなると、私は君まで軽蔑したくなるよ"
],
[
"浅草の石浜というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝という女で、男というのが……",
"男というのが?",
"深山理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった"
],
[
"そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた",
"大いに同感ですな",
"視えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった",
"僕は兎に角、見に行って来ます。あれは日本堤署の管内ですね"
],
[
"じゃ、よっぽど永く経った死骸なんですネ",
"そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ"
],
[
"そこは、その女の人の借りている室なんですか",
"いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……",
"その潮さんというのは、若しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう"
],
[
"潮君",
"呀ッ"
],
[
"映画ですか。あたし、代りに行きましょうか",
"そうですか。じゃ子爵の御了解を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう",
"ええ、いくわ"
],
[
"ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ",
"退屈ですわネ"
],
[
"射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ",
"じゃいい。行ってみましょう"
],
[
"そんなことを云わないで、やってごらんなさいな",
"だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ"
],
[
"それはそうですよ。貴女みたいな方をお招きすることもありますのでネ",
"だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ"
],
[
"さあ、いよいよこの次だ",
"一体どんな映画なのだろう"
],
[
"ああ、これは……",
"ウム……"
],
[
"白丘ダリア。いま汝を逮捕する",
"あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい",
"まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛する。それッ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1933(昭和8)年5月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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} |
[
[
"ちがう。ちがうよ。奴は死んだか、どうだか、一寸調べてくれないか",
"た、短刀を、おしまい下さい。た、短刀を……"
],
[
"駄目らしいようでございます。息も脈もないようでございます",
"脈も無い――大変なことになっちまった",
"医者を呼びましょうか"
],
[
"警察の方は、届けたもんでございましょうか",
"なに警察! 届けないといけないだろうか",
"兎も角も、医者が参った上での相談にいたしましょうか",
"そうしてくれ給え、その方がいい",
"短刀を、ひき出しの中へでも、おしまいになっては如何ですか",
"そうだ。そうだった。僕が奴をころしたんでないことは、お前も知っているだろう",
"私は信じます。短刀は、唯、手に遊ばしていただけと存じます",
"そんならお前は、僕に殺意があったと……。ウ、ウ……おれにも判らない"
],
[
"貴方の外に画伯の臨終を見た人はありませんか",
"私と対談中に倒れたのでして、外にはないようです",
"どんな風に倒れましたか",
"すこし興奮した様子で、安楽椅子から立ち上りましたが、ウンと言うなり床の上に倒れたのです。その時、卓を倒したものですから、その上に載っている茶碗などが壊れてしまいました",
"対談中、だれかこの部屋に入って来たものはありませんか",
"執事の勝見が案内して来たのと、姪の百合子がお茶などを運んで来たきりでした",
"貴方が中座されたようなことはありませんか。又は画伯のことでもいいのですが",
"私は中座しなかったように思います。画伯も中座しなかったろうと思いますが、よく気をつけていませんでした",
"よく気をつけていなかったとは、どういう意味ですか",
"一寸しらべものをやっていたので、注意力が及ばなかったかも知れないというのです",
"対談中、お仕事をなさっていたのですナ",
"まア、そうです",
"お話はどんな種類のことですか",
"そ、それは、まア早く言えば僕等の新婚生活をひやかしていたのです",
"ハア、なるほどそうですか。奥様はどちらにいらっしゃいますか",
"一寸おひるから友達のところへ出掛けましたがネ、もう帰って来る頃でしょう",
"いや、どうもお手数をかけました"
],
[
"眠っている! 死んだのではないのですか",
"いや死んだのです。心臓麻痺だとサ",
"心臓麻痺だと言いましたか。笛吹川さんは何時此処へいらしって",
"三時過ぎだったよ、どうして",
"ハア――なんでもないのよ"
],
[
"笛吹川さんは、ほんとうに死んだの",
"本当でございます。お疑いならば日暮里の火葬場へお尋ね下さい。それから画伯の骨を埋めた今戸の瑞光寺へお聞き合わせ下さい。しかし何故、奥様はそんなことをおっしゃるのです",
"わたしには、あの人が死んだように思われないの。あの通りエネルギッシュな笛吹川さんが、そう簡単に死ぬもんですか。ことに心臓麻痺で頓死なんて、可笑しいわね",
"可笑しくても仕方がありません。画伯はもう骨になっています。それでも死んでいないとおっしゃるのですか",
"あんたの言うようなら、死んだのに違いないでしょう。しかしわたしの直感を正直に言ってしまえば、笛吹川さんは、死んでいないか、さもなければ、誰かに殺されたのに違いない。――あんたは何か知っているのでしょう",
"はい、私は二三のことを存じて居ります",
"言ってごらんなさい、なにもかも",
"では申しあげます。先ず第一に、笛吹川画伯の亡くなった時刻に、奥様は何処にいらっしゃいましたか?",
"まア、お前は……。何を失礼なことを考えているんです。わたしは、どこにいようと、余計なお世話です",
"失礼だとあれば、私は追窮はいたしますまい。しかし万一、捜査課の警部たちがひきかえして来て、奥様にこの質問をいたしたものと仮定しますと、唯失礼だと許りで追払うことは出来ますまい。不幸にもあの時刻に於ける奥様の現場不在証明は不可能でいらっしゃいましょう",
"……",
"第二には、旦那様のご存じないところの、笛吹川画伯と奥様との御交渉でございます。これも失礼と存じますので、内容は申しあげません。第三に……"
],
[
"あなた、このごろ勝見の様子が、どこか変じゃありませんこと?",
"笛吹川が亡くなったので、気を落しているのだろう",
"そうでしょうか。勝見が独りでいるところを横から見ていますと、何かに憑かれているようなんですよ。話をして見ても、言語のはっきりしている割合に、どことなく陰険なんです。それに勝見はこんな顔をしていたかしらと思うこともあるのです。あの眼。このごろの勝見の眼は、死人の腐肉を喰べた人間の眼ですよ",
"そりゃ、よくないね。君は神経衰弱にかかっているようだよ。養生しなくちゃ……",
"神経衰弱なんでしょうか?……でも気味が悪いんですもの。わたしもあの男に喰べられてしまうかも知れないわ",
"馬鹿なことを言っちゃいけない。だからこれからは、麻雀競技会を時々開いて大勢の人に来て貰うのさ。今に、親類のように親しくなる人が三人や四人は出来るよ",
"勝見に暇をやることはいけなくって?",
"ウム。いけないこともないが、時期がある。つまらないことを喋られてもいやだからな",
"私はもうこの館が、いやになったわ"
],
[
"勝見さん、兄さんは屹度実験室よ、行ってみて下さい",
"承知しました。――奥様は?",
"姉さんはあちらよ。姉さんがそう言ったわ、銚子無線の時報を聞きに行ったんでしょうって……"
],
[
"この室に残された記録から、犯人を探し出すことは絶望である。コップの上に印された指紋をとろうと思えば、まるで団扇を重ねたように沢山の人々の指紋だらけで識別もなにも出来たもんじゃない。この泥足の跡も結構だが、これでは銀座街頭で足跡を研究する方がまだ容易かも知れない。犯行時間に確実なる現場不在証明をなし得る人間は九十名近い人達の中で二十名とあるまい",
"この証拠湮滅は、あまりに立派すぎる。偶然にしてあまりに不幸な出来事だし、若し故意だとするとその犯人は鬼神のような奴だと言わなければならない。他殺の証拠を見付けることは困難だ。結局病死とするのが一番平凡で簡単な解決だ。しかし自分は到底それで満足できないのだ。この上は屍体解剖の結果を待つより外はあるまい"
],
[
"決してそう言うわけではありません。唯私の健康状態が許しませんので……",
"あんたが居なくなっちゃうと、今度は、姉さんの健康状態がわるくなってよ",
"どういたしまして。お姉様のようにお美しい方のところへは、幾人でも忠実な男がやって参ります",
"まあ、勝見さん。お上手なのねえ――。そしてあんたは、何処がお悪いの?",
"一寸申上げ兼ねる健康状態でございます。いずれ其の内には判ってしまいましょうが、私の口から申し上げることはお許し下さい"
],
[
"でも魅力のある悪魔なんでしょう。姉さん、あたし、なにもかも知っててよ",
"出て行ったんだから、何も言うことはないでしょう。百合ちゃん。あの人は悪魔でも、あれからこっち外に相談する男のひともないんですもの"
],
[
"他殺か自殺か、それは未だ残された問題なのです。ですが解剖の結果、青酸中毒の反応が充分出て来たことと、青酸加里を包んであったらしいカプセルの一部が胃の中に発見せられました。それからお姉様の枕頭にはレモナーデのコップがあったのです。覚えていらっしゃいますか、お兄様の死体の側にもレモナーデのあったことを。それから、これは一寸お嬢様には申し上げ悪いことなのですが、お姉様のおやすみになった寝台には何者か男性がいたことが確認されました。しかしホテルの方では、お姉様はたしかに人をお待ちのようでしたが、その人は遂に来なかったらしいと申しています。恐らく、男はその旅館の中に、知らぬ顔をして泊っていたのでしょう。しかし自殺か他殺かは、前にも申した通りわかっては居りません。只今は、極力、お姉様と一夜を共にした男を捜査中でございます",
"では、兄も青酸で死んだのでございましょうか"
],
[
"お兄様の御生前には、そうしたことをお気付きでありませんでしたか",
"疑えば疑えないでもありませんが、よくは存知ません。唯、兄と姉とが、勝見のことで変に皮肉な言葉のやりとりをしているのを一二度、耳にしたことがございました",
"いや、よく判りました。おっつけ勝見を呼び出しますから、一層事実がわかることでしょう"
],
[
"どうもおかしなことになりました。私は早速、彼奴の郷里である岡山県のS村に行きましたが、彼奴の居所がさっぱりわからないのです。村の人達にきいてやっと知れたことは、勝見は病気のため村を去ったそうです",
"病気? そしてどこへ行ったのか?",
"村人の話では、肉腫が出来ていたそうで、実に気の毒なことだと言っています。行先は村役場できくことが出来ましたが、K県の管轄になっている孤島であります。療養所が設けられてあるところだそうです。私は思い切ってその島を尋ね、勝見に会って来ましたが、気の毒なものです。しかし勝見の写真で見覚えのある面影があった上に、赤耀館のことも何から何までよく知っていましたから、勿論勝見に違いありません。そんなわけで彼奴をひっぱって来ることは、絶対に不可能なんです。それにひっぱって来たって駄目なことが判りました。というのは、綾子夫人が死んだ七月三十日には、彼奴は療養所の中から一歩も外へは出なかったことが判明したのです。御覧なさい、ここに療養所長の証明書があります"
],
[
"赤星君、君は何かを発見したかネ",
"発見したとも。犯行も、犯人も、まるで活動写真を見るように、はっきりと出ているじゃないか",
"冗談はよしてくれ、まさかそんな馬鹿なことが……"
],
[
"そりゃ君、犯罪となにか関係があるのかネ?",
"判りきったことを聞くじゃないか。犯人も自分の画像がこんな無神経な器械の中に、自記されていようとは思っていなかったろう",
"どこにか写真仕掛けでもあって、犯人の顔がうつっているのかい",
"じゃないんだ。ほら見給え、この紫の曲線を。こいつを飜訳して見ると、犯人の画像が、ありありと出て来ようという寸法さ。しばらく質問を遠慮して呉れ給え"
],
[
"どうしたんです、尾形さん。パイロットの赤ランプが点いているじゃありませんか、さあこれから、すこし面倒な実験をやります。尾形さんは、私の言ったように、外に居て、私達の持って来たX線の装置を壁に添い、静かに動かして呉れ給え。此の室は暗室にして、私が独り居ましょう。お嬢様は外へ出ていらっしゃってもよろしいし、おいやでなければ此室に居て下さい。なにか面白いものをお目にかけられるかもしれないのです",
"私はこの室に居とうございますわ",
"そりゃ勇しいことですな。ですが、私の許しを得ないで無暗に動き廻ると、X線を浴びて石女になるかも知れませんよ。はっはっ",
"まア"
],
[
"こりゃ君、婦人じゃないか。それも、綾子夫人の身体と同じ位の大きさだ",
"お嬢様、亡くなった奥様の洋服を一着、借して頂きとう存じます"
],
[
"お嬢様、私たちの失敗は、そこにあるのです。ごらんなさい。綾子夫人の像から二寸ばかり離れた場所に、大きな手の跡がX線によって発見されています。これは丈太郎氏の右手なのです。綾子夫人を壁ぎわに押しつけたとき丈太郎氏の手は夫人の濡れた衣服をつかんでいたのでした。そのとき丈太郎氏は中毒のために力を失い、この壁の上にぬれた手をつくなり、バッタリ下に斃れてしまったのです。丈太郎氏の臨終は正に午後九時三分であると断言することが出来ます。周囲の状況から考えますと、綾子夫人は丈太郎氏のところへ、レモナーデを搬んで来たのです。丈太郎氏は九時二分過ぎに時報受信の実験をやり、やさしい夫人の捧げるレモナーデを手にとって一口に飲んだのでした。ところが丈太郎氏は忽ち身体に異常を覚え、これはてっきり綾子夫人が毒を仕掛けたレモナーデを飲ませたせいであると思い、忽ち夫人に飛びかかって壁際に押しつけはしたものの、其の時、中毒作用は丈太郎氏の心臓を止めてしまったのです。私どもの実験は綾子夫人を犯人として画き出すほか、何の効果もありませんでした。しかし私は夫人を犯人とするに忍びないのです。いやまだまだ此の室には、私達の未だ発見していないような参考資料がある筈です。第一に探し出さねばならぬことは、丈太郎氏は如何なる手段によって青酸を口にせられたかということです。コップの中に青酸加里があったとすると、綾子夫人も青酸瓦斯を吸いこんで命を其の場に喪った筈なのです。お嬢さんにお伺いいたしますが、丈太郎氏は、何かものを口にくわえるといった風な癖をお持ちではありませんでしたでしょうか",
"まあ、よく御存知でいらっしゃいますこと――私もウッカリ忘れて居ました。兄は不思議な癖のもち主でございました。こういう風に左手の親指と、人差指と中指とをピッとひねり、そのあとで人差指と中指とを一緒に並べたまま、下唇の内側をこんな風に……",
"ま、待って下さい、お嬢さん、そんな悪い真似は本当におやりにならぬように。しかしそれはいいことを伺いました。第三の発見ができるかも知れません。尾形さん、そこにある受信機をそのままそっと窓の方へ一緒に担いで呉れ給え。なるべく静かに、そして端の方をもって……"
],
[
"彼奴の指紋だ。とうとう証拠を押えちまったぞ",
"お嬢さん、大方様子でお察しのとおり、ある人間が、お兄さまの癖を利用するために、あの受信機のダイヤルに、青酸加里をぬりつけて置いたのです。不幸なお兄さんは、あの夜時報を受けるとて受信機の目盛盤を廻しているうちに、左の指に青酸加里をベットリつけてしまいました。開閉器をきり、綾子夫人からレモナーデを受けとる前に、青酸加里は指から口の中へ既に、いとたやすく搬ばれていました。右手でレモナーデのコップをとりあげて一息に飲み下したのだから、何条たまりましょう。たちまち青酸瓦斯が体内に発生して一分と出でぬ間に急死してしまったのです。あの惨劇のあった後犯人はひそかに、青酸を塗った目盛盤を外し、これを綺麗に洗滌しようと思って此の室にやって来たのです。しかるに犯人のために不幸な出来事が突発した。というのは、折角とり外したダイヤルが、コロコロ転ってしまってどこかに隠れちまったのです。犯人は色をかえて探したことでしょう。注意深い彼に似合わしからぬ立派な犯跡をのこすことになるのでネ。ところが御覧のとおりダイヤルは受信機の下に転げこみ、所謂灯台下暗しの古諺に彼奴はしてやられたのです。これも天罰というやつですかな。その上、拙かったことは、警察の連中にダイヤルの一つ欠けた受信機に気付かれ、不利な探索の行われるのを恐れたので、そのあとには同じ形の新しいダイヤルをつけて置いたのです。これが反って私に発見されたことになったじゃありませんか。――そして隠れたダイヤルの裏には、その男の指紋がありありと残っています。恐ろしい犯人の名は、勝見伍策と名乗る奴です",
"それでは、あの勝見さんが、犯人なのでございますか。しかしあの方は、姉の死には無関係だと伺いましたが……",
"そうです。本当の勝見伍策は、たしかに殺人犯人ではありません。そしてたしかに彼は島に暮しています",
"では、家に居るのは本当の勝見ではなかったのですか、まア……。しかし一体あれは誰でございましたかしら",
"お嬢さんは勝見が笛吹川画伯の屍体に附き添い、赤耀館を出て行ったのを御存知ですか。あの時までの勝見伍策は、正真正銘の本人でした。あれから五日ほどのちに帰って来た勝見、そして、丈太郎氏の死後に暇を貰って行ったまでの勝見は、全く偽物なのです"
],
[
"そうです。あれは笛吹川画伯の変装だったのです",
"それでは笛吹川さんは、あのとき亡くなったのでは無かったのですか。それが今日まで、どうして知れなかったのでございましょう。あたくし、一寸信じられませんの"
],
[
"御苦労だった。これは少いがお礼にとって置け",
"どうも親分すみませんな",
"あの若僧の死骸は浮き上るようなことアあるまいな",
"永年の荒療治稼業、そんなドジを踏むようなわっしじゃございやせん"
]
] | 底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年10月号
※「湿度・気温・気圧曲線」の図は、初出からスキャンし、つぶれのはなはだしい文字を入力し直しました。その際、「午后」を「午後」に、「粍」を「ミリメートル」に置き換えました。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年11月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001233",
"作品名": "赤耀館事件の真相",
"作品名読み": "せきようかんじけんのしんそう",
"ソート用読み": "せきようかんしけんのしんそう",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1929(昭和4)年10月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-12-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1233.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第1巻 遺言状放送",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷",
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} |
[
[
"ああ五助ちゃんか。五助ちゃんは元気らしいが、此頃ちっとも家へ遊びに来ないよ",
"ふうん。僕が居ないからだろう",
"それもあるだろうがな、しかし噂に聞けば、五助ちゃんたちは三日にあげず山登りに忙しいそうだ",
"山登りって、どの山へ登るの。こんなに雪が降っているのに……",
"さあ、それはお父さんも知らないがね。とにかくあの家の者は変っているよ。今につまらん目にでもあわなきゃいいが……",
"つまらん目って、何のこと"
],
[
"やっぱりもう知れわたっているんだな。だから僕は、こんなことをかくしておいても駄目だと、はじめにいったんだけれどね",
"五助ちゃん。何か悪いことをやっているのかい"
],
[
"彦くんのことだから、何もかくさないで話をするけれどね、実は一造兄さんが久しく山の中にこもっているんだ",
"へえ、そうかい",
"一造兄さんは、雪の中に大きな穴を掘ってその中にこもっているんだ。そして休みなしにカンソクをしているんだよ",
"カンソク? それは何のこと",
"僕もよく知らないけれどね、器械をたくさん持ちこんでね、地面の温度をはかったり、地面をつたわって来る地震を、へんな缶の胴中へ書かせたりしているのさ。これは春までつづけるんだって"
],
[
"じゃあ研究のために観測しているんだろう。それなら悪いことじゃないから、村の人たちにかくさなくてもいいじゃないか",
"しかしね、一造兄さんはこのことは黙って居れときびしく命令を出しているんだよ。で、僕達が三日毎に山登りをして、兄さんの食物なんかはこぶことさえ誰にも知られないようにしろというんだよ"
],
[
"ちがうさ。うちの兄さんは、そんな欲ばりじゃないよ",
"じゃあ、どこの山。山の名を聞かせてくれたっていいだろう"
],
[
"誰にもいっちゃいけないよ。そして君もおどろいてはいけないよ",
"誰がそんな秘密をもらすものかい。もちろん、おどろきやしないよ",
"さ、どうかなあ。で、その山というのはね、あの青髪山なのさ",
"えっ、青髪山! あの、誰も近づいちゃいけないという……",
"大きな声を出すなよ"
],
[
"実はね、一造兄さんはね、この冬こそ、青髪山の魔神の正体をつきとめてくれると、はりきっているんだよ",
"魔神の正体をだって。しかしそんな器械で魔神の正体が分るだろうか。第一、あの山に魔神がすんでいるなどというのは伝説なんだろう。誰もほんとうに見た者はないんだから……"
],
[
"ところがね、彦くん、魔神は実際あの山に居るんだよ",
"うそだよ、そんなこと",
"だって……だって見たんだよ、この僕が!",
"ええっ、君が魔神を見たって……"
],
[
"疲れたら、僕が代って、前を歩くよ",
"なあに彦くん、大丈夫だ"
],
[
"ああ、地蔵の森か。魔神は見えるかい",
"いや、今日は出ていないや"
],
[
"銃声だ。どうしたんだろう",
"何かあったんだ。しかし誰が撃ったんだろう",
"早く行ってみよう。兄さんの雪穴へ……"
],
[
"兄さーん。どうしたんです",
"一造兄さん。今行きますよウ"
],
[
"兄さん、兄さん",
"どうしたんですか、さっきの銃声は……"
],
[
"いや、分らない。でも、ほら、雪の上には僕たちの足跡の外に誰の足跡もついていないよ。すると兄さんは外へ出ないわけだ。やっぱり穴の中だよ",
"そうかしらん。しかしへんだね。穴の中には、たしかにいないんだがね"
],
[
"おかしいねえ、あかりがいつもついているんだが、今日は消えていらあ",
"そうだ、暗くて分りゃしない。あかりを早くおつけよ",
"どこだったかなあ、電池のあるところは……"
],
[
"五助ちゃん。早く外へ出ないとあぶない。雪崩がやって来たぞ",
"えっ、雪崩。それはたいへんだ",
"早く、早く……"
],
[
"ああ、こわかったねえ",
"もう死ぬかと思ったよ。兄さんはどうしたかしらん",
"さあ、困ったねえ"
],
[
"しかしさっきの銃をうったあの響で、雪崩が起ったのかもしれない",
"そんなことがあるもんかなあ",
"たまにはあるんだよ。しかし、どっちかといえば、めずらしい出来事だ"
],
[
"五助ちゃん、怪我をしているじゃないか。手から血が出ているぜ",
"えっ、手から血が出ているって……"
],
[
"どこにも、怪我はないんだがねえ",
"でもへんだね。ちゃんと血がついているんだからね。ずいぶんたくさんの血だよ"
],
[
"ふしぎだねえ。どうしたんだろう",
"全くふしぎだ。気味が悪いねえ",
"ああ分った",
"分ったって。どういうわけなの"
],
[
"五助ちゃん。山を下りよう。そしてこのことを皆に知らせようや",
"そうだ。村の人にそういって、雪崩の下から雪穴を早く掘りだして見なければ……"
],
[
"いや、行かないよ。行かれないんだよ、彦ちゃん",
"なぜさ",
"だって、この村では、青髪山の魔神のたたりがおそろしいといって、もう誰も山へのぼらせないことになったんだ"
],
[
"そうとも",
"そこまでは無事だったが、僕たちが山をのぼって来ると銃声がきこえ、それからここへかけつけると、穴の中に一造兄さんのすがたが見えなかった。五助ちゃんは穴の中を奥まで行って、電池がひっくりかえっているのを見た。そのとき雪崩が来たから僕が穴の外から大声で呼んだ。君は穴からはい出してくる、そして向こうの山へひなんした。雪崩のあとで君の手を見ると血がついていた。そうだったね"
],
[
"うん、皆、A型だ。お父さんもお母さんもA型だからねえ",
"そう、だから一造兄さんももちろんA型なのさ。ところが君の手についていた血を、あのとき僕が持って帰っても東京でしらべてもらったんだがね、一体その血液型が何とあらわれたと思う"
],
[
"あの血の型は、今いったとおり、A型でもなく、またO型でもなく、B型でもなく、AB型でもなかった",
"えっ、じゃあ……人間じゃなく、けだものの血かね"
],
[
"謎がそこにあるんだ。その謎をこれからぼくたちの手でときたいね",
"彦ちゃんには、すこしは見当がついているのかい"
],
[
"でっかい穴だね",
"兄さんが掘った穴ではないようだね。もうずいぶん古くからあった穴らしい"
],
[
"彦ちゃん。どうしたッ",
"なに、大丈夫。足がすべっただけだ。水が流れているよ"
],
[
"ぼくんじゃないぞ",
"じゃあ誰のだろう",
"へんだねえ。こんなところに手帳を落とした者がいるなんて……"
],
[
"あ、これは兄さんのだ",
"えっ、一造兄さんの手帳かい",
"そうだとも。文字に見おぼえがあるし――あ、ほら、そこにほくの名が書いてある"
],
[
"あ、兄さんが、危険をぼくらに知らせているんだ",
"そうだ。よし、先を読もう"
],
[
"ああ、かわいそうに。君の兄さんは最後のピストルを二発うって、怪物につかまったんだよ。ぼくらがもっと早く来ればよかった",
"いや、ぼくらが早く来れば、ぼくらもまた怪物につれていかれたかもしれない。兄さんはぼくたちの生命をすくってくれたことになるんだ",
"なるほど、そうだったね。五助ちゃん、もっと奥を探してみようか",
"いや、よそう。兄さんは、危険だから早くふもとへひきあげろと書置してある。さあ早く穴を出ようや",
"そうかい、ざんねんだなあ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「東北少国民」河北新報社
1946(昭和21)年3月~9月号
※この作品は初出時に署名「丘丘十郎」で発表されたことが解題に記載されています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年11月12日公開
2011年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002685",
"作品名": "雪魔",
"作品名読み": "せつま",
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"原題": "",
"初出": "「東北少国民」河北新報社、1946(昭和21)年3月~9月号",
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"姓読み": "うんの",
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"生年月日": "1897-12-26",
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[
[
"旦那人殺しでがすよ",
"ナニ人殺しだって? 何処だッ、誰が殺されたのだッ、原稿の頁が無いのだ、早く云え",
"そッそんなに急いでも駄目です。場所は向うの橋の下ですよ。手足がバラバラになっていまさあ、いわゆるバラバラ事件というやつでナ",
"被害者の人相に見覚えは無いかネ",
"ああバラバラじゃ、人相は判りっこなしでさあ",
"じゃ直ぐに行ってみよう。さあ急げッ"
],
[
"殺されているのは、一体誰だろう?",
"それはレッド親分に極っていますよ",
"アレッ。人相は判らぬと先刻云ったじゃないか",
"人相はモチ判りませんよ。しかしここに転がっている腕に『ケテー命』とあるからにゃ、レッド親分に間違いなしでサ"
],
[
"犯人ヤーロが待ち疲れています。早くお調べが願いたいと云って喧しくて仕方がありません",
"そうか、五月蠅い奴じゃ。紅茶を一ぱい飲んでからのことだ"
],
[
"では調べを始めるとしよう。被害者の用意は、もういいナ",
"はい、出来ています。連れて参りましょうか",
"まだいいよ。加害者のヤーロが先だ。ここへ引立ててこい"
],
[
"課長さん。早速ですが自白しますよ。レッドの奴をバラバラにしたなア、このあっしでサ。刑罰はどの位ですか",
"そんなことは、まだ云えない。それよりもお前は何故レッドを殺害したのか",
"ナーニね。あいつの面がどうにも気に喰わねえんでサ。むしゃくしゃとして、やっちゃいました。それだけのことです",
"よオし。では次に被害者を呼べ。レッドを呼ぶのだ"
],
[
"やッ、ヤーロ奴、ここにいたな",
"こらッ、静まれ、喧嘩をしちゃいかん。ところでレッド、被害者として何か申立たいことはないか",
"へえ、ありがとうごぜえやす。あっしを殺したこのヤーロの奴を、ウンと罰してやっておくんなさい。終り",
"それだけだナ。よし決まった。判決。ヤーロはレッドを殺害したる罪により、金五万円也の罰金に処す。但し二十日以内に納付すべし",
"えッ五万円を二十日間に……。そりゃひどい。月賦にしておくんなさい。毎度のことじゃありませんか",
"駄目だ、毎度のことじゃから……。閉廷!"
],
[
"課長、大変です。本庁の前で殺人です!",
"ホイ、また流行ったか",
"レッドがヤーロをバラバラにしてしまいました。先刻と反対です。レッドの身体を本庁で縫い合わせたとき、肩の肉が途中で落したものか無かったため、穴ぼこになっているのです。そうなったのもヤーロのせいだというので、ヤーロの肩の肉をナイフで切り、その序にバラバラにしてしまったのです",
"仕方がない。早く両人を集めてこい。こんどは罰金をすこし高くしよう"
],
[
"二人揃ったネ。揃ったら、そのまま此の手術室へ入れッ",
"なにをするんです、課長さん",
"罰金は二、三日うちに届けますよォ",
"黙って入らんか。わしの命令だッ!"
],
[
"当分この状態で暮してみろ。不便で参ったら、例の罰金を調達してこい。そうすれば元々どおり、レッドはレッド、ヤーロはヤーロの身体にしてやる。金が払えないうちは駄目だぞォ",
"課長、ひでえや。もう一人のあっし達はどうなるんで……",
"あれは人質にとっといて今日から下水掃除をさせる。辛けりゃ早く金を納めて引取りに来い"
]
] | 底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房
1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行
初出:「モダン日本」モダン日本社
1934(昭和9)年7月号
入力:tatsuki
校正:田中哲郎
2005年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "003520",
"作品名": "一九五〇年の殺人",
"作品名読み": "せんきゅうひゃくごじゅうねんのさつじん",
"ソート用読み": "せんきゆうひやくこしゆうねんのさつしん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「モダン日本」1934(昭和9)年7月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-05-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": " ",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年4月15日",
"校正に使用した版1": "1989(平成元)年4月15日第1版第1刷",
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"入力者": "tatsuki",
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} |
[
[
"まことにお気の毒ですが、こんな重い大きな荷物は、会社の飛行機には乗りませんので……",
"大きいけれど、そんなに重くはないよ",
"……それに御行先の方面は只今気流がたいへん悪うございましてエヤポケットがナ……それにもう一つ残念ながら御行先の方の定期航路は一昨日以来当分のうち休航ということになりましたので……それに……",
"ああ、もうよろしい"
],
[
"何かこう、古くて役に立たない飛行機があったら、一つ売って貰いたいものじゃが、どうじゃろう",
"古くて、役に立たない飛行機といいますと",
"つまり、翼が破れているとか、プロペラの端が欠けているとか、座席の下に穴が明いとるとか、そういうボロ飛行機でよいのじゃ。兎に角、見たところ飛行機の型をして居り、申訳でいいから、エンジンもついて居り、プロペラの恰好をしたものがついて居ればいいのだ",
"そういう飛行機をどうなさいますので……",
"なあに、わしが乗って、自分で飛ばすのじゃ",
"そんな飛行機が飛ぶ道理がありませんですよ",
"わしが乗れば、必ず飛ぶんだ。詳しいことを説明している暇はないがね、兎に角、そういう飛行機を売ってくれるか売ってくれないか、一体どっちだい",
"売ってさし上げても差支えはないのでございますが、生憎そんなボロ飛行機は只今ストックになって居りませんので……",
"無いのかい。そ、それを早くいえばいいんだ。この忙しいのに、だらだらとくそにもならん話をしてわしを引きつけて置いて……ほう、早く行かにゃ、大先生と約束の時間に、○○へ入市できないぞ"
],
[
"船室? 船室はあるじゃないか。このとおり広い部屋があいているじゃないか",
"これはサロンでございまして、船室ではありません。御覧の通り、おやすみになるといたしましても、ベッドもありませんような次第です",
"いや、このソファの上に寝るから、心配しなさんな",
"それは困ります。では何とか船室を整理いたしまして、ベッドのある部屋を一つ作るでございましょう",
"何とでも勝手にしたまえ。わしは汽船に乗ったという名目さえつけばええのじゃ",
"え、名目と申しますと……",
"それは、こっちの話だ。ときにこの汽船は何時に○○港へ入る予定になっとるかね",
"はい、○○港入港は明後日の夕刻でございます",
"何じゃ明後日の夕刻? ずいぶん遅いじゃないか。わしは、そんなに待っとられん",
"待っとられないと仰有っても、今更予定の時間をどうすることも出来ません",
"ああもうよろしい。わしは明朝には○○港着と決めたから、もう何もいわんでよろしい",
"はあ、さいですか"
],
[
"なにしろ波浪が、檣の上まで高くあがるんだぜ",
"冗談いうない。どんな嵐のときだって、舳から甲板の上へざーっと上ってくるくらいだ。檣の上まで波浪が上るなどと、そんな馬鹿気たことがあってたまるかい",
"いや、その馬鹿気たことが現に起っているんだから、全く馬鹿気た話さ"
],
[
"どうも不思議だ。機関部は十五ノットの速力を出しているというが、実測するとこの汽船は四十五ノットも出ているんだ",
"そうだ。たしかにそれくらいは出ているかもしれない。機関部の計器が狂っているのじゃないか",
"どうもあまり不思議だから、今機関部に命じてノットを零に下げさせているんだがね"
],
[
"なに、機関の運転を中止したって、冗談じゃない。今現に実測によると本船は四十ノットの快速力で走っているじゃないか",
"惰力で走っているのじゃないですか",
"そうかしらん"
],
[
"いやだね。エンジンが停って、速力が殖えるなんて、どうしたことだ。おれはもう運転士の免状を引き破ることに決めた",
"いや、俺は気が変になったらしい",
"わしは、もう船長を辞職だ"
],
[
"おい、何といっても、これは、わが汽船は○○港の陸上へのしあげたのだよ。ここは○○市だ",
"そんなべら棒な話があるかい。○○港なら、まだ二日のちじゃないと入港できないんだ",
"馬鹿をいえ。お前たちの目にも、ここが○○市だってぇことが分るはずだ。ほら向うを見ろ。幾度もいってお馴染みの木馬館の塔があそこに見えるじゃないか",
"ははん、こいつは不思議だ。あれはたしかに木馬館だ。するとやっぱり本当かな、わが汽船が○○市に乗りあげたというのは"
],
[
"そんなところから降りてはいけません。第一、まだ税関がやってこないのです。トランクの中を調べないと、上陸は不可能です",
"厄介なことを云うねえ。じゃ、今開けるから、お前ちょいと見て置いて、後で税関へ見せるようどこかへ書いておいて貰おう。さあ見てくれ"
],
[
"もしお客さん。これは税金が相当懸りますぞ。いいですか",
"税金なぞかかる筈はない。全部身のまわりの品物だ",
"そうともいえませんね。だって、身のまわり品である筈の洋服もシャツも歯ブラシも見当りませんですぞ。詰め込んであるのは、ラジオの器械のようなものに、ペンチに針金に電池に、それから真空管にジャイロスコープに、それからその不思議なモートルにクランク・シャフトに発条にリベットに高声器に……",
"いくら数えてもきりがないから、もうよしたらどうじゃ。要するに右に述べたものは全部わしの身のまわり品だから、誤解して貰っては困る",
"尤も、新品はないから、商品じゃないということは分ります。ではよろしゅうございます。品名だけはノートして置きますが、まず此場は税金を懸けないで、お通り願うということにいたしましょう",
"ほう、漸く話がわかってきたね"
],
[
"はて、面妖な。あれだけ重い道具を入れて、こんなに軽いとは、まるで手品みたいだ。お客さん、あなたは早いところ、あの道具類をトランクから抜いて、どこかへ隠してしまいましたね",
"冗談いっちゃ困るよ。あの身のまわり品はちゃんと中に入っているよ。ほら、このとおり……"
],
[
"おや、このモートルの重さだけでも、トランクより重いくらいだ。すると、或る重いAなる物品を入れたトランクBの総重量AプラスBプラスアルファは、元のAよりも軽い――というのは、どういう算術になるのかしらん。どうも式が成立たんように思うが",
"おい事務長さん。お前さんは中学校で算術の点が優か秀だったらしいね"
],
[
"だが、わしのトランクに関するかぎり、そのような純真な算術は成り立たないのだよ。忙しいから説明をしていられないが、しかしこれは事実なんだ。つまり、AはAプラスBプラスアルファよりも大なりという場合が有り得るんだ。この解法がお前さんに分ったら、お前さんに人造モルモットを一匹、褒美にあげてもいいよ",
"へえ、そうですかね。しかし私には、とても分りません。なんとか今、説明していってください",
"そうかね、聞きたいかね。それじゃちょっと説明しようかね"
],
[
"いいかね。ここにABCDEなる五つの部分品があったとする。いずれも、重さは十キロずつとして、合計五十キロの重さのものだったとする",
"はい、その算術は分ります",
"ところが、そのABCDEの部分品を一処にして測ると、総重量がたった二十キロしかないんだ",
"そこがどうも分りませんなあ。一つ十キロのものが五個あれば、どんな場合でも総量は五十キロです",
"ところが、それが何とかの浅ましさというやつなんだ。いいかね。ABCDEの部分品をばらばらにして置いて一々測ると総計五十キロある。これはよろしい。その部分品を組合わせて測ると、これがなんと二十キロになる――という場合は、只一つある。それは、その部分品で組立てた器械が、重力打消器であった場合だ",
"え、重力打消器というと……",
"つまり、重さの源である重力を打消す器械のことを、重力打消器というのだ。つまり五十キロの部分品から成るその重力打消器は、組立てられることによって、三十キロの重力を打消す性能のものだったんだ。だから五十キロ引く三十キロで、残りは二十キロと出る。どうだこの算術は間違いなしによく分るだろう",
"うへーッ、こいつは愕きましたな"
],
[
"それで何ですか、貴下のお持ちになっている三つのトランクの内容物は、いずれも重力打消器の全部分品なんですか。で、何でまあ重力打消器を三つも、ぶら下げて歩かれるのですか",
"折角だが、お前さんの想像力は、すこしばかり弱いよ。わしのトランクの中に入っている身のまわり品は、必要とあれば重力打消器を組立てることも出来るし、また必要とあらば、ラジオ送受信機としても組立てられるし、又或る場合には兵器――いやナニムニャムニャムニャ――で、つまりその又或る場合には、喞筒みたいなものにも組立てられるのだ。どうだ、魂消たか",
"へー、さいですか。こいつはいよいよ愕きましたな。そしてお話を伺っていると、そのトランクがだんだん欲しくなってきましたが、いかがですか、その一つを私にお分け下さるわけには……"
],
[
"もし、お客さんへ。もう一つ、伺いたいことがあるのです。ちょっとお待ちを……",
"ええい、よく停める男だね。もういい加減に放してください",
"私のもう一つ伺いたいことは、この汽船が、機関部とは無関係なすばらしい快速を出して○○市に乗り上げてしまいましたが、あの快速ぶりは、お客さんがそこにお持ちのトランクの内容品と、何か関連があるのですかな",
"ああ、そのことか"
],
[
"それは大いに関係ありじゃ。わしが乗らなきゃ、ああは快速が出るものか。あれはつまり、わしが船室内で、このトランクの中に入っている部分品を組合わせて、一つの強力動力装置を作ったんじゃ。そしてそれを動かしたもんだから、それであのように、二日半もかかるところを一日で来たんじゃ",
"へえ、やっぱり、さいでしたか",
"実は、わしのあの器械を使えば、汽船もいらないし、飛行機もなくて、ちゃんと快速旅行が出来るのだ。しかしそれをやると、世間の眼についていかんのじゃ。じゃによって、わしは何か尤もらしくした乗物に乗ることにしている。それに乗った上で、わしはわしの都合により、あの強力動力装置を組立ててそれを動かし、ちょっと一ひねりやっても、あのような汽船としては快速の部に入る速力を出せるのじゃ。どうじゃ、もうその辺でよろしかろう"
],
[
"某国大使館なら、ほら、向うの山の麓に、塔の上にきれいな旗がひらひらしている城のような建物がありましょう。あれが某国大使館です。しかしお客さん? あなた、あそこへお出でになるのでしたら、おやめになるようおすすめします",
"そりゃ何故かね",
"何故って、あの大使館は当時評判がよろしくないんで……。過去一年間に、あの大使館をくぐった者は、総計七千七百七十七人です。ところがあの門を出て来たものがたった四千四百四十四人なんです。不思議じゃありませんか",
"別に不思議とは思われんがのう。算術をすると、すぐ答が出るじゃないか。七千七百七十七人マイナス四千四百四十四人イコール三千三百三十三人と御明算が出る。すなわちこの人数たるや、某国大使館内に現に寝泊りしている館員の数である。どうじゃ、簡単な算術ではないか",
"いえ、そうじゃないんで……。あの大使館員は、実数わずかに三百三十二名なんですぞ",
"たった三百三十二名",
"そうです。すなわち、もう一度引き算をいたしまして、三千三百三十三名から引くの三百三十二名は三千一名と答が出来まして、この三千一名なる人間が、奇怪にもあの某国大使館に入ったきり、出ても参らず、館内に生活もして居らずという無理数的存在なんです。ですからお客さんも、その無理数の中にお加わりになりませんようにと御注意申上げますような次第で、へい",
"いや、よく分りましたわい。しかしわが金博士に限って、心配は無用でござる。では、さらばさらば"
],
[
"大先生、おなつかしゅうございますな。ところで、この某国大使館では近々先生の馘るという話を御書面で承知しましたが、けしからんですなあ。私がこれから某国大使に会いまして、それを思い停らせましょう",
"いやなに、それには及ばないよ。どうせ仕方がないのだもの",
"仕方ないなどと、今の積極時代に引込んで居られることはありません。私が大使に強談判をして……",
"いや、そんなことをしても無駄じゃ。わしが馘になるだけではなく、大使自身も馘になるのだ。大使ばかりではない。参事官も書記生も語学将校も園丁もコックも、みんな馘になるのじゃ",
"はて、それは一体どういうわけ……",
"早くいえば、この大使館の本国が亡びるのじゃ。ドイツ軍は、もう間近に迫っている。だからこの某国大使館も解散の外ないのである",
"はあ、そんなことでしたか。しかしこれだけ立派な建物を空き家にするのは惜しい。大先生、私この建物を買ってもいいですよ。全く惜しいものだ"
],
[
"天井のあそこにある彫刻な、あれは中々古いもので、純金だよ。よっく御覧!",
"へえ、あれがね"
],
[
"あははは、今のは猫がとび出したのじゃ",
"あれで猫ですか。へえ、おどろきましたな。○○の猫は、ずいぶん大きくて人間ぐらいの大きさがあると見えますなあ"
],
[
"とにかく金よ、お前も長途の旅行で疲れたろう。この寝室を貸してあげるから、ゆっくりひと寝入りしなさい。その間に、われわれは万端の用意を整えることにするから",
"はあ、大先生、お構い下さいますな。どうぞ大袈裟な用意などなさらぬように……",
"まあいい、この部屋は静かだから、よく睡れるだろう。では、おやすみ。夕刻になったら起してやろう",
"はあ、恐れ入ります"
],
[
"おや、お前、足をやられたか",
"はあ、柊の樹から落ちたものですから。ところで大先生、あいつは何をしていますか",
"ああ金のことか。金は今わしたちの部屋で旅の疲れを癒すため、一寝入りさせているよ。実は早いところ空気中に睡眠薬をまいて置いたから、金のやつはもう二十分のちには両の瞼がくっついて、それからあと正味六時間は、死んだようになってぐうぐう睡ることだろう",
"ああそうですか。それは手間が省けていい。じゃあこの大使館の始末を借りるまでもなく、余自らが彼の寝室に忍びこみ、余自らの青竜刀を以て、余自らが彼の首をはねてしまいましょう",
"そうするか。わしのためには、可愛いい弟子だったが、悪に魅られた今となっては、泪をふるって首を斬ることにするか。おおもう四十分経った。金のやつ、ぐっすり寝こんでいる頃じゃ"
],
[
"ありゃ、あんなところに、変なものがあるぞ",
"小型タンクなど、誰が持って来たのでしょう"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年10月号
※「四谷怪談」における「伊右衛門」の妻は、「民谷岩」とされます。「居谷岩子女史《おいわさん》」と「民谷岩」の関係に疑問が残ったので、当該箇所にママ注記を付しました。
入力:tatsuki
校正:まや
2005年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003347",
"作品名": "戦時旅行鞄",
"作品名読み": "せんじりょこうかばん",
"ソート用読み": "せんしりよこうかはん",
"副題": "――金博士シリーズ・6――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・ろく――",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1941(昭和16)年10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3347.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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[
[
"フルハタ助教授。そうですね",
"そうです。フルハタです。扉をあけてくだすってありがとう",
"一千年前の世界に住んでいた一人類を、こうして発見したことはわたしのたいへん悦びとするところです。わたしは、あなたの記録を、百九十九区の防空劃を壊しているうちに発見したのですが、長い不錆鋼鉄管のなかに入っていました",
"ああ、そうでしたか"
],
[
"で、あなたの名は、なんとおっしゃるのですか",
"わたしのことですか。わたしはハバロフスク大学の考古学主任教授のチタです",
"えっ、主任教授! 失礼ながらそんな若さで、主任教授とは、たいへんなものですね"
],
[
"ほほほほ。なにが若いことがありましょうか。今年で九百三回日の誕生をむかえるのですよ",
"えっ、するとあなたは九百三歳なのですね。それはとても信じられない"
],
[
"すると、九百三歳のあなたは、やっぱり代用臓器のおかげでもって、そう永く生きているわけですか",
"もちろん、そうですわ",
"へえ、おどろいたですね。どこにその代用臓器があるのか、外からは分らないほどです。すると、ずいぶん代用臓器は、軽くなりもし小型になりもしたわけですね。だが、へんなこともあるなあ。チタ教授、あなたは私をからかっているのではありませんか",
"なぜ、そんなことをおっしゃるの。ちっともからかったりしていませんわよ",
"でも、おかしいではありませんか。そういう代用臓器を取付けたものなら、胸のところとかお腹のところとかに、手術の痕がのこっていなければならないはずです。ところが、こうして拝見したところあなたの肉体は、十九か二十の処女のごとくに美しい。針でついたほどの傷もない。これはどうもおかしいではありませんか"
],
[
"フルハタさん。外科手術なんて九百五十年前にすっかり技術を完成し、傷がつかないようになりましたのよ。だが、わたしの身体に傷痕のないのは、昔の外科手術のおかげというようなもののおかげではなく、これは人造皮膚をつけているから、傷痕がないのです",
"えっ、人造皮膚というと",
"つまり人造肉と似たようなものです。人造なんですから、いつでもこれをばりばりと破って、新しいのと貼りかえられます",
"ははあ、そうでしたか"
],
[
"じゃ、失礼ながら、今のあなたの身体というものは、昔、母体から生れて大きくなったあなたの本当の身体とは、大部分違った別物なのですね",
"まあ、そういっても、大した間違いではありません",
"昔のままのあなたとしてのこっているのは脳髄と骨格と顔かたちとだけじゃないのですか",
"いや、そうではありません",
"じゃ、もっと残っているものがありますか",
"いや、その反対です。いまあなたのおっしゃった顔かたちも別物です。正直なことをいうと、わたしは生れつきあまり美人ではなかったのです。額はとびだし、眼はひっこみ、口は大きく、鼻は曲っていました。そこでわたしは、すっかり顔をとりかえてもらいました。顔のカタログをみて、そのうちで一等好きな顔に直してもらったのです。顔の美醜ほど、昔人類を悩ましたものはありません。だが考えてみると、あの頃の人間も知恵のない話でした。顔の美醜とは、いわゆる顔を構成している要素であるところの眼や眉や鼻や唇や歯の形とその配列状態によって起るのです。眼がひっこんでいるのなら、そこに肉を植えればいいのです。そんなことは大した手術ではありません。ことに人造肉や人造皮膚ができてから、醜い人間はどんどん顔を直して、美男美女になってしまいました。これから街へ出てみましょうか。きっとあなたは、ただの一人も醜男醜女をも発見できないでしょう",
"おお、――"
],
[
"ちがいますよ、フルハタさん。あれは人間が駈けだしているのではなくて、道路が動いているのです。昔の道路は、じっと動かないで、そのうえに自動車だとか列車とかが走っていたそうですね。今の道路は、いずれも皆、快速力で動いているのです。人間がその上にのれば、どこまででも搬んでくれます",
"道路が動くなんて、たいへんな仕掛けだ。動力だけ考えても、ちょっと算盤がとれまいし、第一資源が……"
],
[
"ねえ、チタ教授。今の世の中でも、戦争はありますか",
"戦争? ええ戦争はありますとも"
],
[
"今のは、どうしたというのです。あの大きな声は、やはり高声器ですかね",
"そうです。移民指令部からの知らせなんです。ある番号までの人間は、早く地上へのぼって、移民ロケットの前に集まれというのです",
"ははあ、するとここは地上じゃないのですか",
"そうですとも、地下五百メートルのところですよ",
"地中街というわけですね。チタ教授、私は地上を見たいのですが、どんなふうに地上の様子が変ったかを早く知りたいのです"
],
[
"移民て、どこへ移民するのですか",
"金星へゆくんです。定期的に、地球上の人類をどんどん金星へ送っています"
],
[
"うまくゆけば、もうあと三ヵ月のうちに、地球上の人間はすっかり金星へうつってしまいます",
"えっ、すると地球は空っぽになるのですか。いったいそれはどうしたわけです。この尊い地球を捨てるなんて",
"あとちょうど一年たてば、地球はエックス彗星と衝突して、めちゃめちゃに壊れることが分っているのです"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月11日公開
2006年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000877",
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[
[
"はい。今おきますよ",
"おきますよ? そのよがいけない。はい、おきます――だけでいいんだ。よけいなよをつけるない"
],
[
"艇夫長、お早う。もう朝になったのですかい",
"知れたことだ。あと三十分で、お前の交替時間だぞ。時計は、七時半をさしていらあ"
],
[
"おい、三郎。早く飯を食って、交替時間におくれるな。いいかい、小僧",
"へーい"
],
[
"……というわけなんだが、なんかいい名前を考えてくれよ",
"そうさなあ。そんなことはわけなしだい。チュウイチてえのはどうだ",
"チュウイチ? どんな字を書くのかね",
"宇宙の宙と、一二三の一よ。つまり宙一というわけだ。お前は、はじめて噴行艇にのって宇宙へのりだしたんだろう。だから、その留守に生れた子供に宙一とつけるのは、いいじゃないか",
"なるほど、宙一か。よい、いい名前だ。昨夜からおちつかなかったが、これでやっと、気がおちついたぞ"
],
[
"お前、どこへいくんだい",
"知れたことよ。これから無電室へいって、今すぐ家内のやつを、無電で呼びだしてもらって宙一という名をおしえてやるのさ。説明してやらなくちゃ、うちの家内は、あたまが悪いと来ているから、通じないよ",
"まあ、なんとでもするがいい。ついでに、うちの家内にことづけをして、お前の家内のところへ、子供の誕生の祝物をとどけるようにいってくれ",
"ばかなことをいうな。こっちから、さいそくをする――それではおかしいよ",
"遠慮するようながらでもあるまいに、あははは",
"あははは。とにかくいって来よう"
],
[
"ああはいったが、すこしは里心がついているのじゃないかな。つまり、この噴行艇がこんど地球に戻るのは十五年後だから、昨夜生れたあの男の子供が、十五六歳にならなきゃ、わが児の手が握れないんだからなあ",
"うむ、まあ、そうだ。だが、そんな話はよそうや。こっちまでが、里心がつくからな"
],
[
"おれはこれで三度目の宇宙旅行なんだが、お前は始めてだから、勝手がわからないで困るだろう",
"困ることも、ありますねえ。第一、朝になった、昼になったといわれても、外はこのとおりまっくらですからねえ。勝手がちがいますよ",
"そうだろう。永年、太陽の光の下でくらしていた身になれば、まっくらな夜ばかりの連続では、くさくさするのも、むりじゃない",
"太陽の光線は、今となっては、とてもなつかしいものですね"
],
[
"ああ、重力のことか。重力は大いに減ってしまったさ。しかし、重力が減りすぎると、われわれの仕事や何かに、すっかり勝手がちがってくるので困るのさ。だから、今は、機械をうごかして、この艇内には、人口重力が加えてあるのさ",
"人口重力て、なんですか",
"人口重力というのは、人間の手でこしらえたにせの重力のことさ。そうでもしないと、たとえばこの食卓のうえに味噌汁のはいった椀がおいてあったとして、お椀をこういう工合に、手にとって口のところへ持ってくるんだ。すると、お椀ばかりが口のところへ来て、味噌汁の方は、食卓のうえに、そのまま残っているようなことがおこるんだ",
"えっ、なんですって"
],
[
"あまりへんな話だから、分らないのも無理はないよ。その話は、この前、僕が宇宙旅行をしたときに、実際あったことなのさ。そのとき僕はずいぶん面くらったよ。なにしろ、口のそばへもってきたお椀は空なのさ。そして味噌汁が、食卓のうえに、まるで雲のようにかかっているのさ",
"雲のようにかかっているとは、どんなことかなあ",
"雲のようにというのが、分らないのかね。つまり、よく富士山に雲がかかっているだろう。あれと同じことで、味噌汁が、下へこぼれ落ちもせず、まるでやわらかい餅が宙にかかっているような恰好で、卓上の上をふわふわうごいているんだ。僕はおどろいたよ。そして、仕方がないから、両手をだして、宙に浮いている味噌汁をつかんでは、椀の中におしこみ、つかんではおしこんだものさ。あははは"
],
[
"ずいぶん、おもしろい話ですね",
"おもしろいのは、話として聞くからだ。ほんとうに、こんな目にあってごらん。それこそ、あまりふしぎで、気もちがわるくて仕方がないよ"
],
[
"分りました。交替艇夫、休息についてよろしい",
"え、えらそうなことを!"
],
[
"艇長、大丈夫ですか",
"なんだ、どうしたのか。わしの寝床を、どこへ持っていったか"
],
[
"艇長。只今、重力装置が故障であります",
"なに、重力装置の故障か。それは……"
],
[
"艇長。どうされました",
"ああ風間か。わしのことなら、大丈夫じゃ。今、下におりる"
],
[
"あはは。艇長が落ちたりして、どうするものか。ちゃんと棚の上に手をかけて、つかまっていたよ",
"でも、さっき大きい音がしましたねえ。艇長が落ちられたのにちがいないと思いました。すると、あの音は、何の音だったんでしょうか",
"ああ、あの音かい"
],
[
"艇夫。それよりも、コーヒーだ",
"コーヒーは、今、やりなおしています。重力装置の故障のとき、すっかりこぼれてしまったんです",
"そうか。それはもったいないことをした",
"艇長。コーヒーがわくあいだに、話をしてくださってもいいでしょう",
"はははは。お前はなかなか、うまいことをいって、ききだそうとする。しかし、だめだよ。コーヒーがわくあいだに、わしは地球儀をかくことにしよう。たしか、印度洋のへんまで、かいたおぼえがある"
],
[
"艇長。只今、地球が夜明けになりました、どんどん夜が明けております",
"ああそうか",
"雲があるようですが、相当うつくしい輝いて見えます。おわり",
"ああそうか。ご苦労"
],
[
"ほら、うまく出てきた。これが地球の夜明けだ。いや、夜明けは、この端のところだけで、きらきら光っているところは、もうすっかり朝になっている",
"えっ、地球が見えているんですか、なんだか銀の櫛みたいだなあ",
"よく見なさい。まっ黒な宇宙を丸く区切って、ここに地球の輪廓が見える"
],
[
"月は、どのくらいに見えますか",
"そうだねえ。月がこの噴行艇のそばへ廻ってくれば、これよりももっと大きく見えるはずだよ。おい艇夫。コーヒーが、ぷうぷうふいているじゃないか",
"あっ、コーヒーのことを忘れていた"
],
[
"お出かけになりますか",
"うん、司令室へ入る",
"宇宙塵とは、なんですか",
"そんなことは、誰か他の者に聞け。今、それを説明しているひまはない"
],
[
"艇長。コーヒーはおのみになりませんか",
"おお、そうだ。コーヒーをのもうと思っていて、忘れていた。おれも、よほどあわてたらしいね"
],
[
"なあんだ。コーヒーは、みんな茶碗の外にこぼれてしまったじゃないか。艇夫、こんど、わしが戻ってきたら、そのときはすぐコーヒーをのませるんだぞ",
"へーい。どうもお気の毒さまで……",
"わしは今日、コーヒーにたたられているようじゃ"
],
[
"故障? 本艇のどこが故障したの",
"本艇の後方に、瓦斯の噴気孔があるだろう。つまりわが噴行艇を前進させるために、はげしいいきおいでこの噴気孔から後方へ向け瓦斯を放出しているわけだが、その噴気孔が、どうかしてしまったらしいのだ。さっぱり速度が出ないうえに、妙な震動が起ってとまらないのだ。ほら、あのとおり気味のわるい震動がしているだろう",
"あ、なるほどねえ"
],
[
"鳥原さん、一体どうして、そんな故障が起ったんだろうねえ",
"それは、宇宙塵が襲来したからさ",
"宇宙塵? やっぱりねえ"
],
[
"鳥原さん、宇宙塵て、一体、どんなもなの。さっきから、宇宙塵だ宇宙塵だという話ばかりで、ぼくは面くらっているんだよ",
"なんだ、三ぶちゃんは、あの宇宙塵を知らないのか"
],
[
"宇宙塵というのは、わかりやすくいうと、星のかけらのことさ",
"星のかけら? じゃあ、隕石のこと",
"そうそう、隕石も、宇宙塵のお仲間だよ。隕石は、地球へおちてくる宇宙塵のことだけれど、この大宇宙には、地球へおちてこない星のかけらがずいぶん宇宙をとんでいるんだ。時には、それがまるで急行列車のように、或いは集中砲火のように、砂漠の嵐のようにとんでくるんだ。いや、それは、とてもわれわれ人間の言葉ではいいつくせないほど、ものすごいものなんだ。ちょうど本艇は、運わるく、その宇宙塵にぶつかったんだ。いや、宇宙塵が、斜めうしろからものすごいいきおいで追いかけてきたんだ。そして、あっという間に、がんがんがんと、うしろから本艇を叩きつけて通りすぎてしまったのだが、そのときに、宇宙塵が本艇の噴気孔を叩き壊していったらしいという話だ",
"へえ、宇宙塵というやつは、ものすごいねえ",
"そうさ。空の匪賊みたいなものだ",
"空の匪賊だって、鳥原さんはうまいことをいうねえ",
"はははは。さあ、私もむこうへいって、手つだってこよう"
],
[
"あ、鳥原さん。待ってくださいよ",
"なんだ、三ぶちゃん。君は、本艇が故障を起したので、ふるえているのかね。元気を出さなくちゃ……",
"ふるえているわけじゃないよ。ただ、一刻も早く、ほんとうのことを知りたいのだよ。――で、本艇は、これから、どうなるのかね。どんどんと、宇宙の涯へおちていくのかしらねえ",
"さあ、それは何ともいえない。今、本艇の総員が力をあわせて、故障の個所発見と、それを一刻も早く直す方法を研究中なんだ。もうすこしたたないと、はっきりしたことは、だれにも分らないのだ。さあ、私もここでぐずぐずしてはいられない"
],
[
"艇長。本艇の故障は直りそうですか",
"うん、極力やっているが、飛びながら直すのはちと無理らしい。この調子では、本艇を陸地につけて直すことになるらしい",
"本艇を陸地へつけるというと、またもう一度地球へ戻るのですか",
"いや、地球までは遠すぎて、とても引返せない。着陸するのなら、月の上だよ",
"へえ、月の上に着陸するのですか"
],
[
"艇長。月の上には空気がありませんね。すると人間は、呼吸ができないではありませんか",
"それはわけのない話だ。酸素吸入をやればよろしい。われわれも現に噴行艇の中で、こうして酸素吸入をしながら安全に宇宙をとんでいるではないか。だから、月の上に降りれば、一人一人が酸素吸入をやればいいのだよ",
"なるほど、そうですか。じやあ、一人一人が、酸素のタンクを背負うのですね",
"まあ、そうだよ"
],
[
"艇夫、お前は、月の世界へいってから、ずいぶん意外な思いをするにちがいない。今からたのしみにしておきなさい",
"なぜですか、艇長。意外なことというと、どんなことですか",
"まあ、今はいわないで置こう。とにかく、お前たちが月の上に安全に降りられるようにと、ちゃんとりっぱな宇宙服が用意してあるから、安心をしていい。それを着て、月の上を歩いてみるのだねえ。きっと目をまるくするにちがいない。まあ、後のおたのしみだ",
"そうですか。早くその宇宙服を着てみたいですね",
"そのうちに、宇宙服の着方を、だれかがおしえてくれるだろう"
],
[
"鳥原さん。何の用で?",
"いよいよ月の世界へ下りることになったので、皆、むこうで宇宙服の着方をおそわっているのだ。君も早く来い",
"あ、宇宙服ですか、もう始まったんですね。じや、艇長にちょっとお許しを得ていくことにしましょう"
],
[
"そのほか、この宇宙服には、いろいろな仕掛けがついていますが、いずれも自動的にはたらくようになっているから、みなさんは、べつに手をつけなくてよろしい。つまり、その仕掛けというのは、保温装置や、酸素送出器は自動的にはたらいてくれます。照明装置や、小型電機などもついていますが、これも自動的にはたらいてくれるから、心配はいらない。つまり、暗くなれば、兜の上や、腹のところや、靴の先から、強い電灯がつくようになっている。明るくなれば、自然にスイッチが切れて消える。無電も、いつでもはたらく。号令は、みな無電で入ってくる。ずいぶん便利に出来上っている。かんしんしたでしょう",
"うまく出来ているなあ"
],
[
"……肉と書いてある釦を押すと、同じ管の出口から肉がとび出します。これはかたい肉ではなく、煮たものをひき肉にしてあって、おまけに味もつけてあります。それから薬と書いてある釦からは、ねり薬がとびだします。これは野菜を精製したもので、やはり糊のようになっていますから、たべやすい。この水と肉と薬の三つを、すこしずつたべていれば充分活動ができるのです。わかりましたか",
"なぜ、おべんとうをもっていって、手でつかんで口からたべないのですか"
],
[
"なるほど、こいつは妙だ",
"なるほど、ちゃんとあなたの声がきこえますよ。ふしぎだなあ",
"あははは。これは奇妙だ。僕はわざと小さい声で話をしているのですよ"
],
[
"さあ、それではみなさん。それぞれの職場へ戻ってください",
"はいはい。宇宙服をぬぐのですねえ",
"いや、宇宙服を着たまま、それぞれの職場へもどってください。もうすぐ、月へ上陸することになるから、今から宇宙服に身をかためていてください",
"たばこがのめないから、つらいなあ",
"たばこはのめないですよ。しかしがまんをしてください。月の世界への上陸が失敗したり、それからまた、噴行艇の故障がうまく直らなかった日には、それこそわれわれ一同は、そろって死んでしまうわけだから、それくらいのことは、がまんをしてください",
"わかりました。たばこぐらい、がまんをします"
],
[
"いつの間にか、艇長も宇宙服を着られたのですね",
"おお、お前は艇夫の風間三郎だな。どうだ、なかなか着心地がいいだろう",
"そうですねえ。思いのほか、重くはないんだけれど、なんだか動くのが大儀ですね。どうもはたらきにくい",
"それはそうだ。月の上へ降りれば、もっとらくになるよ"
],
[
"ああ、どうも失礼を……",
"気をつけないといかんねえ"
],
[
"さようです。この計算には、まちがいありません",
"よろしい。では、今から『笑いの海』を目標に、着陸の用意をするように",
"はい、かしこまりました。あと三時間ぐらいで、月の表面に下りられる予定です",
"うむ、充分気をつけて……",
"かしこまりました"
],
[
"は、どうも気持がへんです",
"気持がへんだって。胸がむかむかしてきたのかね",
"いえ、そうではありませんです。この宇宙服の重さが急になくなって気持がへんなのです。まるで紙でこしらえた鎧をきているようで、狐に化かされたような感じです。艇長は、へんな気持がしませんか",
"はははは。そんなことは、べつにふしぎでないよ。月の上で、身体が自由にうごくようにと、この宇宙服の重さがはじめからきめられてあるんだ。これでいいのだよ"
],
[
"さっき、わしが号令をかけて、窓をあけさせたのは知っているね",
"ええ、知っていますよ"
],
[
"窓をあけると、わが噴行艇の中の空気は、一せいに外へながれだして、艇内に空気がなくなったのだ。音は空気の波だから、空気がなくなれば、音は急にきこえなくなったのだ。それくらいのことは、お前にもわかるじゃろう",
"ははあ、なるほど"
],
[
"光っている陸地が見えたろう。『笑いの海』は、あの中にある。もうすぐ着陸だ",
"ああ艇長。『笑いの海』というと、月の世界に、海があるのですか",
"ほんとうの海ではないよ。月には水がない。だから海どころか、小川も水たまりもない",
"じゃあ、いよいよへんですね、『笑いの海』だなんて……",
"それは、こうだよ。地球のうえから月を見ると、黒ずんだところがある。その黒ずんだところが、ちょうど海のように見えるので、それで『海』というのだ。『笑いの海』というのが、つまりは、岩でできた平原なんだ。降りてみれば、よくわかるがね",
"はあ、そうですか。『笑いの海』の『笑い』というのは、どんなことですか",
"それは地名だよ。伊勢湾の伊勢と同じことだよ。しかし一説に『笑いの海』の黒ずんだ形がなんとなく笑っている人間の横顔みたいだから、それで笑いの海というのだと説く人もある",
"へえ、笑っている人間の横顔ですって"
],
[
"ほら、あそこだ。一番高い山の左をごらん。まだ形がはっきりしないが、あの黒いところが『笑いの海』だ。笑っている人間の、鼻だの口だの頬だの、あたりが見えている",
"ああ、見えます、よく見えます"
],
[
"艇長、下艇の用意ができました",
"よろしい。わしが月の世界への第一歩をふみだすぞ"
],
[
"やあ、三郎。月の世界って、殺風景だね。まるで墓場みたいじゃないか",
"それはそうさ。生物一ぴきいないところだからね",
"しかし、なにかめずらしいものがありそうなものだね。二人で、そのへんを、ぶらぶらしてみないか",
"ああ、いいよ。いまのうちに、ちょっと歩いてくるか",
"さあ、いこう。あそこに見えるすこし高い丘のうえまでいってみよう"
],
[
"どうもへんだね。地球の上の歩き心地と、ぜんぜんちがうね",
"これはおもしろいや。歩いているつもりだけれど、ふわりふわりと、とんでいるような感じだね"
],
[
"こんなへんな模様みたいなものを、今まで見たことがないじゃないか",
"なるほど、そういえば、へんな模様だね。なんだか判じ物みたいだけれど、だれがこんなものをかいたのかなあ",
"クマちゃん、それよりもねえ、もっとふしぎに思っていいことがあるよ。君は気がつかないか",
"え、もっとふしぎなことって。それはどんなことだい",
"それはねえ……"
],
[
"……そんならいうがね。ねえクマちゃん。この月の世界には、生物はすんでいないはずだろう",
"そうさ",
"ところが、この缶詰の空き缶のころがっているところをみると、何者かがこの月にすんでいると考えられるのだ。つまり、この缶詰をあけてたべた奴こそ、月にすんでいるふしぎな生物なんだ",
"気もちがわるくなった"
],
[
"クマちゃん。だから、われわれはゆだんはならないよ。こうしているときも、いつどこから不意に、月にすんでいる先住生物におそわれるかもしれない",
"はあ、いよいよ気もちがわるくなった",
"早くひきかえして、みんなにこの空き缶をみせて知らせてやろうじゃないか",
"そうだねえ。だが、ちょっとお待ちよ",
"なにを待てというの",
"いや、ちょっとお待ちよ。三ぶちゃん。君は、ぼくをおどかそうと思って、この月の上に、へんな生物がすんでいるなどといったんだね。わかっているよ"
],
[
"あれ、クマちゃん。ぼくは君をおどかすようないじわるじゃないよ。なぜそんなことをいうんだい",
"だって、缶詰というものは、人間が発明したものじゃないか。月の先住生物が、人間と同じように缶詰を発明したとすると、あまりにふしぎだよ",
"このへんなしるしは……",
"そんなものは、符合だから、書こうと思えば人間にだってかけるよ。だから、この缶詰のからは、これまでに誰かこの月世界にとんできた地球人間の探険隊が、ここにすてていったものじゃないかと思う。きっとそうだよ"
],
[
"クマちゃん、あそこに誰かいるよ",
"誰かがいるって、誰がさ"
],
[
"ほらあそこだ。この丘の下の、大砲みたいに先のとがった岩の下だよ。かげになってくらいから、はっきりわからないが、ほら、丸い頭がうごいているじゃないか",
"丸い頭が……",
"ほら、日なたへ出てきた、先頭の一人が……。おやッ"
],
[
"……あれは何者だろう。人間じゃない……",
"え、人間じゃないって"
],
[
"あれは何だろう",
"すごい化け物だ。月世界の生物だ",
"月世界には、生物はいないはずだが……",
"だって、あの怪物は、ちゃんとぼくたちの眼に見えているんだぜ。夢をみているわけじゃない。あれは鳥の化け物だろうか、それとも甲虫の化け物だろうか",
"どっちだか、わからない。おや、あの怪物は、手に缶詰をもっているじゃないか"
],
[
"ふしぎ、ふしぎ",
"三ぶちゃん、あれは何をやっているのだろうね",
"あれは、缶詰をたべているのさ",
"缶詰をたべているって、頭で缶詰をたべるのかい。おかしいじゃないか。なぜ口でたべないで、頭でたべているのだろうか",
"さあ、そんなこと、ぼくにはわからないよ"
],
[
"クマちゃん。早くひきかえして、辻中佐たちにしらせようじゃないか",
"ああ、そうだったね。ぼくたちは、おもいがけなく斥候隊になっちまったね"
],
[
"つまり、われわれに覚悟さえあればいいんだ、国家のために生命をなげだすという覚悟のことだ。わかるかね。よろしい。わしは同志をつのるよ。そして必要な人員をあつめる。そして噴行艇の大部隊をつくって大宇宙遠征をやろうではないか",
"え、どうして、そんなことが……。また、噴行艇でとびだして、なにをするのですか"
],
[
"なにをするって、君、わかっているじゃないか。つまりムーア彗星のところまでとんでいって、その超放射元素ムビウムとやらを採ってくるのさ",
"それはだめです。ここから、ムーア彗星までは、たいへんな距離です",
"たいへんな遠方でもよろしい。生命のあるかぎり、いけるところまでいってみようじゃないか",
"はあ",
"なにかね、そのムーア彗星は、これからのち、もっと地球に近くならないのかね",
"え?"
],
[
"こら待て、いくら自分の頭だからといって、そうらんぼうに殴るとはいかん……",
"いや、大竹閣下。自分は、今閣下からいわれるまで実はたいへんなことを忘れていました",
"たいへんなことを忘れていた。それは何か。いってみなさい、それを",
"いや、外でもありません。そのムーア彗星が、やがてどのへんまで地球に近づくか、その計算をまだしてなかったのです",
"ふーん",
"そうだ。何ヶ月か何年か待てば、ムーア彗星は今よりもっと地球に近くなるかもしれない",
"そのとき、こっちから出かけていけばいいではないか",
"そうでした。閣下におっしゃられて、はじめて気がつきました。計算をしてみれば、よくわかりますが、これからのちには、きっと今よりも、ずっと地球に近づくときがあるはずです",
"じゃあ、すぐ計算にかかりたまえ",
"はい。どのへんまで近づくか、早くしりたいものですねえ",
"あわててはいかん。まちがいのない計算をたてたまえ。そのあとで、どうしてそのムビウムを採取するか、その仕掛けのことも考えるんだ。性能のいい噴行艇をそろえるにも、これから相当の日がかかるだろう、何年かあとに、一等近づいてくれると、こっちには都合がいいのだが……"
],
[
"はい、はなはだ容易ならぬことでございます",
"月世界に、火星人の先遣隊がいっていたなどとは、わしは知らなかった。これは本当かな",
"は、月世界に不時着しましたアシビキ号に対し、只今連絡中でございますから、もうしばらくおまちねがいたいものです。しかし今迄の報告では、月世界は昔のとおりの無人の境地だと書いて居りました。もし偵察者213の報告が正しいものとすれば、容易ならぬことであります",
"そうか。早くアシビキ号の辻中佐を呼びだしてもらいたいものじゃ。二名の日本人が、火星人につかまえられたというが、どうしてつかまえられたものじゃろうか。一体、そいつは誰と誰なのか、それも早く知りたいものじゃな",
"は、ごもっともです",
"もし火星人と戦いを始めるようなことになれば、こっちは捕虜になっている者が二人もあるわけだから、相当こっちは不利じゃね",
"は、さようでございます",
"辻中佐の豪胆なることについては、わしも知らないわけではないが、そういう不利な態勢でもって、思いがけなく火星人と月世界の上で戦うのでは、ずいぶんとやりにくかろう"
],
[
"おい、火星人がこの附近にいると、司令艇から知らせがあったのだ",
"ええっ、火星人がこの月世界に……",
"そうなんだ。しかも、この火星人のために、日本人が二人捕虜になっているというが、誰と誰だろうか",
"日本人が二人? はてな、誰でしょうか。では、すぐ点呼をしてみましょう",
"それがいい"
],
[
"なに、火星人が、この月世界にいたのですか。それは意外だ",
"アシビキ号が、不時着で修理中のところをねらって火星人は一あばれする気だな"
],
[
"さあ、どうしたわけでしょうか。こっちからも、さっきからたびたび第四斥候隊あてに、無電で信号呼出をうっているのですが、更に応答なしです",
"無電機がこわれたのかな",
"さあ、そんなことはまずないはずだと思います。こっちを出かけるときに、そういう機械るいは充分に点検をしていくことになっていますから、故障のはずはありません。しかし、ひょっとすると……"
],
[
"なんだね、ひょっとするとどうしたというのかね",
"いや、あまり不吉な言葉をはいては申わけないと思い、ためらっているのですが……ひょっとすると、第四斥候隊は火星人の猛撃をうけて、どうかなったのではありますまいか",
"おお、そうか。火星人の猛撃をくらって、どうかしたのではないかというのか。ふうむ"
],
[
"おい、無電員。今の第五斥候隊の位置は、わかって居るか",
"はい。大体見当はついております",
"今の最後の無電をうってきたとき、方向探知器で、その電波の発射位置をたしかめて置いたか",
"は。それはとうとう間に合いませんでした。しかし、その十五分前に来た電波で方向がしらべてありますから、まずそれで間に合うと思います",
"その地点はどこか",
"ヨーヨーの峡谷です。大砲岩から、北の方へ十キロばかりいったところです",
"ふん、ヨーヨー峡谷か"
],
[
"おい無電員、何か現場よりの報告は来ないか",
"はい。あれきりです。新しい報告はまだ一つも入りません",
"そうか。ふうむ"
],
[
"おや、第四斥候隊が、こっちを呼んでいるぞ。これはめずらしい",
"えっ、第四斥候隊それにまちがいがないか。今まで、何のしらせもなかった第四斥候隊か"
],
[
"はい、すでに第五斥候隊へ、救援隊は二ヶ隊出発し急行中であります。第四斥候隊への救援隊は只今間もなく出発いたします",
"ふむ、そうか。――おい無電員、第四斥候隊を呼出して命令を伝えるんだ。いいか、第四斥候隊はその皿のような形をした火星人の乗物を確保していろ、敵に渡してはならん。それからただちに救援隊を向けるということも伝えてやれ",
"はッ"
],
[
"どうも困りました。第四斥候隊とは又連絡が切れてしまいました",
"ふむ、何か起ったかな",
"何、また返事をせんのか、ふーん、すると火星人が自分たちの乗物のところに帰ってきたのかも知れんな"
],
[
"火星人は、力はあまり強くないと見えますな",
"ふむ、火星は地球によく似とるが、重力は地球に比べて三分の一ほどだからな、火星人たちが月に来れば、だいぶ重力が減ったので急に力持ちになったように思っとったんじゃろうが、しかし地球人が月に来たことを思えば問題にならんよ"
],
[
"はあ。――それでは第一、第二、第三の各斥候隊に帰艇を命じましょうか",
"うむ、そうしてくれ、それから飛空機上の第四斥候隊とはまだ連絡がとれるか",
"はッ。おい無電員、第四斥候隊の方はどうか。何か連絡があったか",
"一向にありません、あッ、監視灯がつきました",
"第四斥候隊か",
"そうであります"
],
[
"まあ、それが本当なら結構じゃが……。しかし火星の飛空機が月から帰って来たのに、いざ着いて見ると、中から火星人ならぬ地球人がぞろぞろ現われた、とあっては火星人共がびっくり仰天してどんなことをするか知らんからな",
"はい。――では第四斥候隊に連絡して、火星に着いたならば先ずその火星人の給仕だけを外に出し、一同によく説明せしめてからそのあとで降りるように伝えましょう",
"そうだ、そういってやってくれ"
],
[
"だから、奪ったのではないのだ。元々は君たちが悪い、あの二少年をあんな眼に合わせたので助けに行った者が発見し、あの乗物の出入口を全部閉めたらひとりでに飛出してしまったのだ",
"ああ、それでは引力遮断機が働いてしまったのだ……。何も私たちはあの二少年をひどい眼には合わせませんぞ、ただ詳しく地球のことが聞きたかっただけです",
"しかし君たちは非常に日本語がうまいじゃないか、どうして日本語を知っているんだね",
"なんでもありませんよ、私たちは地球から放送されているラジオを聞いて勉強したんです、毎日地球のラジオニュースを聞いていますから、地球上のことなら大てい知っています",
"ふーむ"
],
[
"ふーむ、で、その引力遮断機というのはどうなっているんだね",
"なんでもありませんよ、その名のように引力を打消してしまう装置です、つまり月の上に置いて月の引力を打消し、われわれの火星の引力を受けるようにすれば、自然に舞上って火星に引かれて行ってしまうわけです。同じように月に来る時も、われわれの火星の引力を打消して月の引力に引ッ張られて来るわけです",
"ふーん、なるほどね。しかし火星人たる君たちが、こんな荒れ果てた月世界に来てどうするんだね、同じ来るならすぐ近くの地球にやってくればいいのに",
"なるほどそれは一寸おかしいかも知れませんな、しかしこういうわけです。われわれの火星は月や地球に比べると、もうずっと古いのです。それで、地中にあった或る物質をもうすっかり採りつくしてしまったんです。しかもその物質は、われわれにとって是非とも必要なので、同じ太陽から分れ出た地球の、それから又分れ出た月の世界ならばまだきっとあるだろうというので、それを採るためにわざわざやって来ているわけですよ。――地球に行かないで、月に来たわけですか、それは研究の結果、地球には人間という思いのほか進歩した生物がいるし、――いや、これは失礼、本当の話だからおこらないで下さい――、われわれが行っても果して黙ってその物質を採らしてくれるかどうかわからなかったし、一方月の方ならば、これは御覧のように生物一ついないのですから邪魔もはいらぬだろう、と考えて、まあ月の方をえらんだわけです。しかもわれわれは今度がはじめてではなく、もう何度もその物質を採りに来ているんです",
"ふーん、そうか、それでわかった。いや君たちの気持はよくわかるよ、というのは我がアシビキ号も同じような目的で地球を飛出したんだからね",
"ほほお、そうですか",
"そうなんだ、しかも君たちが火星から月へ来るよりか、もっともっと大冒険の途中なんだ。ムーア彗星にある超放射元素のムビウムという貴重物質を採るためなんだからね、これが緑川博士の新動力発生装置に是非とも必要なのだ。そのために我々は大竹中将の指揮下に四万余名の大遠征隊を組織してムーア彗星めがけて飛出したんだ",
"へーえ、あのムーア彗星までムビウムを採りに……"
],
[
"しかし残念ながら、我がアシビキ号は故障のため一行に遅れてしまったのだ",
"そうですか、それはお気の毒です。幸い私たちの中には機械修理にかけては火星でも有数の者をつれて来ておりますから早速お手伝いをさせましょう",
"そうか、そうしてくれると有難いね、うまく修理が出来たら、ついでに火星に寄って、君たちを送りとどけてあげることも出来る",
"そうですか、そうして頂ければ助かります"
],
[
"いや駄目です",
"駄目とはなんだ、折角親切にいって下さるのに"
],
[
"いや、そういうわけではありません、われわれ火星人は物を食べる、ということを忘れてしまったのです",
"ナニ、何だって?",
"われわれ火星人も祖先の時代にはやはり物を食べたのです。しかし、物を食べるのは口で噛んだり、胃や腸を使ったりして、滋養分を血の中に吸収させ、その血が身体中を廻って持っている養分を身体に補給することでしょう。われわれにはもう胃や腸が退化して無くなってしまったといってもいいのです。われわれはもう充分によく消化されたような『食物』を口からではなく直接血管の中に注ぎ込んで生きているんです",
"ふーむ、すると病人が葡萄糖の注射をするようなものだな"
],
[
"駄目です、駄目です、この司令室は地球と同じ気圧になっていますから、私がこの鎧をぬいだら一ぺんで参ってしまいます",
"あっ、そうか、では仕方ないな"
],
[
"火星人部隊の協力によって、ただいま本艇の修理が完了いたしました",
"そうか、ご苦労",
"では、直ちに出発じゃ、火星へ向って出発! それから司令艇クロガネ号へ連絡をとって、アシビキ号は修理完了、ただちに本隊に追行することを報告しろ"
],
[
"おどろいたね、三ぶちゃん",
"なんだか、身体中が鉛になったみたいだね、うっかりしていると地面に貼りついてしまうぜ",
"うーん",
"そうだ、クマちゃん、辻艇長の特別スイッチを入れろ!",
"そうだ、アッ、らくになったぞ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
初出:「国民五年生」
1941(昭和16)年4月号~(終号未詳)
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年3月5日作成
2019年1月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"うーむ、これは何処で買ってきたんだい",
"買ったんじゃないよ。僕が一週間かかってこしらえちゃったんだい",
"あはっはっはっ。嘘をつけ、子供にこんな立派な細工が出来るものかい"
],
[
"おーい清ちゃん。こっちの窓へお廻りよ",
"ああ、いまいかあ。――"
],
[
"じゃ、早く見なよ。これがほら、この前いったユンカースの重爆機だよ。七十四型というのだ。どうだ凄いだろう。ドイツでは、今から十年も前に、これを旅客機として作ったんだ。そのころのドイツは、軍用機を一つもつくることができなかったんだが、いざという場合には、この旅客機を重爆機として、祖国を苦しめる敵軍を爆撃するつもりだったんだ。ほら、よくごらんよ。この翼の形は、どうだい。操縦席のところも、ずいぶん凄いだろう",
"うん、凄いや凄いや"
],
[
"ねえ丁坊、本社で聞いたんだけど、そのうち北の方で大戦争が起るんだってさ",
"へえ、北の方で大戦争が……"
],
[
"北の方って、どこだい",
"北の方って、よくは分らないけれど、つまり北極に近い方をいうのだろうさ",
"こんな寒いときにも、北極で戦争をするのかい",
"あんなことをいってらあ、北極の附近なら、年がら年中、氷が張っているじゃないか",
"それはそうだけれど、あの辺だって、夏になると、すこしは氷が溶けるのだよ、氷山なんか割れるしね"
],
[
"いまの大戦争は北極を中心として、シベリヤ、アラスカ、カムチャツカなどという、日本の樺太や北海道よりもずっと北の方へひろがるだろうといってたぜ",
"どうしてそんなところに戦争が起るんだい"
],
[
"そりゃ分っているよ。北の方で、世界の国々が、自分のために力をひろげておかねばならぬと喧嘩をはじめるんだとさ。ソ連、米国、英国なんて国がさわいでいるんだよ。日本も呑気に見ていられないだろうといっていた",
"ふーむ、日本もね"
],
[
"まだお父さんもお母さんも、御病気がよくならないのかい",
"ええ、まだなんです"
],
[
"丁ちゃん。兄ちゃんは、きょう怪我をしたから、配達ができないのよ",
"えっ、兄ちゃんが怪我をしたって。どうして怪我をしたの、そしてどんな怪我なんだい"
],
[
"その大きい硬いものって、何だったの",
"それが分らないのよ。土中に深く入っていて、中々掘りだせないんですって"
],
[
"さあ知らないね",
"でもチンセイさんは、この飛行機の各室を見まわっているえらい人だというから、知らないことはなかろう",
"うん、えらいことはえらいが、知らんことは知らないよ。しかし今に機長が話をしてくれるだろう",
"えっ、機長てなんだい",
"機長かね。機長はこの飛行機の中にのっている百二十人の人間のなかで、一等えらい人のことだ",
"ああそうか。船でいうと、船長みたいなものだね"
],
[
"チンセイさん。この飛行機は、なんのためにこんな寒いところを飛んでいるのかね",
"それはわかっているじゃないか。客と荷物をはこぶためだ"
],
[
"チンセイさん、この飛行機には名前がないのかい",
"名前はあるよ。それは――つまり日本語でいうと『足の骨』というんだ",
"えっ、『足の骨』! へんな名前だなあ。いったいこの飛行機は、どこの国のものなんだい",
"どこの国の飛行機?"
],
[
"チンセイさん。僕のことを早く話しておくれよう",
"おう、そうだったな"
],
[
"なんでもお前は、この空魔艦の秘密を見たそうじゃないか。空魔艦がとんでいるところを見たんだろう。そういってたぜ",
"嘘だよ。空魔艦なんか、僕の村にいたときは見なかった。ただ林の中で、成層圏の測定につかった風船や器械が落ちているのを発見しただけのことだ",
"それ見ろ。そいつが困るんだ。おれは三年前、この仲間に入ったから、多少は知っているんだが、この空魔艦の一つの仕事は、あの高い成層圏を測量し、そして世界中のどの国よりも早く、成層圏を自由に飛ぼうと考えているらしい",
"なぜ成層圏なんて高い空のことを知りたがっているのかい",
"それはつまり――つまり何だろう、成層圏を飛行機でとぶと、たいへん早く飛行が出来るのだ。たとえば今、太平洋横断にはアメリカのクリッパー機にのってもすくなくとも三日間はかかる、ところが成層圏までとびあがって飛行すれば、せいぜい六時間ぐらいで飛べるんだ。ただし空魔艦ならもっと早く飛べるよ",
"へえ! 空魔艦も成層圏をとぶのかい",
"そうさ、第一あのふしぎな恰好を見ても分るじゃないか"
],
[
"――だがね、僕が林の中で成層圏探険の風船がおちているのを見ていたぐらいで、さらうのは、おかしいじゃないか",
"そうじゃないよ。空魔艦が、そういうものを日本の国の上で測量しているのが知れては困るというんだ。だからお前をさらってきたんだ",
"へえ、一体、空魔艦は、どこの国の飛行機なのかね",
"うふん、また訊いたね。いくど訊いても同じことだ。空魔艦は、世界のどこの国の飛行機でもないんだ。それ以上は、今は云えない。しかし気をつけたがいい、お前は逃げないかぎり日本へは帰れないだろう。あの人たちはお前を逃がさんつもりらしいぞ",
"ええッ、日本へかえさないって"
],
[
"チンセイさん。もう一つの空魔艦は、ついてこないのかい",
"いや、一緒に来るはずだよ。ほらほら、いま滑走をやっているよ"
],
[
"もう一つの空魔艦は、なんという名前なの",
"ああ、あれかい、あれは『手の皮』というんだ",
"へえ、変な名前だね。これが『足の骨』で、もう一つのが『手の皮』かい"
],
[
"なんだい、丁坊。ちと黙っていろよ",
"だってチンセイさん。僕はこうして、いつまでたっても毛皮の袋の中に入れられたっきりだぜ。いやになっちまうなあ。チンセイさんから頼んで、僕を袋から出してくれないか。僕はもう逃げやしないよ。日本へ帰ることもあきらめている。だけれど、こんな窮屈な袋の中にいれられているのはいやだ。出して呉れればコックのことだって、ボーイの役目だってなんなりとするよ"
],
[
"じゃあ一つ、機長の『笑い熊』さんに聞いてみてやろう",
"『笑い熊』だって?",
"ああそうだよ。それが機長の名前なんだよ。じゃおとなしくして、しばらく待っておれ、いいか"
],
[
"な、なんだって、――お前は日本語をしっているのか",
"知らないでどうするものか。見よ東海の天あけて――僕、日本人だもの"
],
[
"なんだ二村、いいじゃないか。これは日本少年だ。声をかけてやるのが当り前だ",
"いや、いけない。お前はこの子供が、空魔艦の者だということを忘れているのだろう。かるはずみなことをして、大月大佐に叱られたら、どうするつもりだ",
"そうだったね、二村"
],
[
"じゃ丁度いいじゃないか。わけを報告してこの日本少年をどうしましょうと聞けやい",
"そうだったね。うむ、聞いてみよう"
],
[
"おお、大佐は、少年を船へつれてこいていわれる。ただしそのまま担いでこいということだ",
"それ見ろ。大佐も俺も同感らしいじゃないか"
],
[
"おお、大佐、たいへんです。船腹がさけました。船はめりめり壊れています。もう間もなく――そうです、十分とたたないうちに、この船は氷の下に沈んでしまいますぜ",
"ええ、船が――船がとうとう氷に壊されたか。今までそんなけはいも見えなかったのに、どうしたんだろう。いや、これも空魔艦のなせる業にちがいない。さあ全員をよびあつめて、そしてすぐ氷上へ避難だ"
],
[
"いや、どう無理をしてもエンジンは出さなきゃいけない。無電室に小さいのがあったじゃないか",
"あれは前から壊れているのです",
"壊れている? 壊れていても、エンジンを一つも出さないよりはましだ。出して置いた方がいい。それから椅子や卓上や毛布など隊員の生活に必要なものは一つのこらず出してくれ",
"ええ、そいつはもうすっかり出してあります。船の向う側へ抛りだしてあるんです",
"無電装置は出したろうな",
"ええ、短波式のを一組、いま出しにかかっているところですが、この分じゃ間に合うかなあ",
"間に合うかなあと心配ばかりしてはいけない。無電装置はぜひ入用だ。いいからすぐ全員をその方に向けて、なんとしても取出すんだ",
"はい、承知しました"
],
[
"どうだ、丁坊――といったな。若鷹丸はとうとう沈んでしまった。お前はいい気持だろう",
"えっ、なんですって"
],
[
"お前は、いい気持だろうというんだ",
"すこしもいい気持ではありません。僕、たいへん口惜しいです。隊長そんなことを、なぜ僕にいうのですか"
],
[
"お前にはよく分っているじゃないか。お前は空魔艦の廻し者だ。そして若鷹丸を沈めにきたということはよく分っている",
"なんですって、隊長さん。ぼ、僕は日本人ですよ、空魔艦に攫われた者ですよ。空魔艦を恨んでも、どうして同国人である隊長さんなどに恨みをもちましょう",
"ごま化してはいけない。じゃあ聞くが、なぜ空魔艦はお前をこの若鷹丸の難破しているところへ落下傘で下ろしたのだ。その理由を説明したまえ"
],
[
"僕、なんにも知らないのです。なぜこんなところに下ろされたか知らないのです。もし知っていれば同じ日本人の隊長さん方に喋りますとも",
"いや、儂には、お前が本当に日本人かどうかということが分らないのだ",
"ええっ、僕が日本人でないかも知れないというのですか。ああ、そんな馬鹿なことがあるものですか。僕は立派な日本人です"
],
[
"――じゃあ丁坊。よく聞け。これは大秘密だがお前も知ってのとおり、このごろ北極に近い地方に、恐ろしい大型の飛行機をもった国籍不明の団体が集っていて、なにかしきりに高級な研究をやっているという情報が入った。北極のことなんかどうでもよいという人が多いのだけれど、儂はそれを聞いてびっくりした。というわけは、昔はこの氷の張りつめた北極地方はほとんど船で乗りきることができないので、交通路として三文の値打もなかった。ところが近年航空機がすばらしい発達をとげてからというものは、なにも氷をわけてゆかなくとも空を飛行機で飛べば、この北極地方を通りぬけられるという見込がついた。しかしこの北極航空にはまだいろいろ問題がある。そういう非常に寒いところでは、エンジンも電池もすっかり働きがわるくなるし、お天気などのこともよく分っていないし、飛行機に使っている金属材料もたいへん折れやすくなるなどという風に、いろいろと困ったことや分らないことがあるのだ。だから飛行機さえ持っていれば、極地をかんたんに飛びこえられると思うのは間違いである。わかるだろうね、丁坊",
"ええ、分りますとも",
"例の国籍不明の団体は、空魔艦によってこの北極にのりこみ、いろいろと研究を始めているらしい。その研究も、なかなか油断のならぬ研究であることは、空魔艦がときどき日本内地の上空に現れることからも察しられる",
"そうですとも。僕なんかも、東京に住んでいたのにとつぜん空魔艦にさらわれたんですものねえ",
"うん、そこだ。空魔艦団なるものは、明らかに日本を狙っているのだ。日本に対しどういうことをしようと思っているのか、それはまだはっきり分らないけれど、この際、それを知って置かねば日本国民は枕を高くして安心して寝てはいられない。われわれが若鷹丸に乗ってこんな大冒険をしてまでここへやってきたのもそれを突きとめるためだ"
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"隊長さん、どうせ死ぬことが分っているのなら、皆で隊を組んで、空魔艦のいるところまで攻め行ってはどうですか。僕は、そこまで案内しますよ",
"空魔艦のいるところまで攻めてゆく。あっはっはっ、お前はなかなか勇敢なことをいう"
],
[
"だって、何でもないではありませんか。幸い氷はどこまでも張っているから、氷の上の歩いてゆけば、きっと空魔艦の根拠地へつきますよ",
"それは容易なことではなかろうが、理屈は正にそのとおりだ。いや丁坊君。よくいってくれた。儂は大いに元気づいた。これから食料品や武器がどのくらいあるかをしらべた上で、出来るものなら、空魔艦遠征部隊をつくることにしよう"
],
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"そうか。やっつけるなら、早い方がいい、急いでくれ",
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],
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"そうか。それは爆弾だぜ",
"爆弾! あっ落ちてくる。ぐんぐんこっちへ近づいてくるぜ。これはいけねえ"
],
[
"隊員のかずがすくなくなっても、日中戦争の徐州攻略のときのように、うまい作戦をたてれば成功することもあるんだ。よし、やっぱり決死隊を作って一か八か攻めてゆこう",
"それがいい。ばんざーい"
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"どうか本当に空魔艦をぶん捕っておいでよ。丁坊くん、ばんざーい",
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"うん、大丈夫だ。いまにたいへんなことになるぞ",
"じゃあこの辺で、空魔艦のタイヤをぶちこわそう。さあ、みんな掛れ!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2005年5月3日作成
2008年7月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003376",
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"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
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"底本名1": "海野十三全集 第9巻 怪鳥艇",
"底本出版社名1": "三一書房",
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"入力に使用した版1": "1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷",
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"校正者": "土屋隆",
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} |
[
[
"今日は、わしをどうしようというのかな。わしも、あなた以上に忙しい身の上だから、早いところ用事を片づけてもらいましょう",
"いや、博士、例の氷河の件ですがね。今日は、皆で博士の話を承ろうというので、集まってきたんです。さあ、皆さん、そこらへ席をとってください"
],
[
"この連中は、何者じゃな",
"皆、本庁関係の者ですよ。博士の氷河の話に、たいへん興味をもっている人たちです。――博士、氷河期が近くこの地球に襲来するというのは、本当ですか",
"本当か嘘か、そんなことをいまさら論じているひまはない。氷河期が来ることは、もはや疑いのないことだ。われわれは早速、これに対する防衛手段を講じなくてはならない"
],
[
"氷河期が来ると、どんなことになるか。そんなことは、わしに聞くまでもない。要するに、地球の大部分――いや、今度やって来る第五氷河期は、おそらく地球全体を蔽いつくしてしまうだろう。このままでいけば、地球のあらゆる生物は死滅し、あらゆる文化が壊滅し、軍備も経済も産業も、すべてめちゃくちゃになる。たとえ幸運に推移して、いくらかの人間が生残ったとしても、人類の勢力は、約二万年昔に後退するであろう。なんという恐ろしいことではないか",
"もし、博士のいわれるとおりの事態が来たとすると、これはたいへんですね",
"それが来ることには、まちがいないのだ。わしが、これほどはっきりいってやるのに、君たちは、まだそれを信じないのか",
"そういうわけでもないのですが、しかし、あまりとっぴな話ですからね",
"天災は、すべてとっぴなものだ。人類は、自分たちのもっている知力を過信している。まだまだ今の人知力では、天災を喰い止めるだけにいたっていない。そうではないか。火山の爆発の予知さえできていない。台風の通路を計算する力さえない。冷害の年がくることを予報する力さえない。天気予報が、このごろになって、やっと大分あたるようになったくらいだ。自然の大きな力に刃向う人知の大きさは、人間に手向う蟻の力よりもはるかに小さい。いったい、このごろの人間は、自惚れすぎているよ。この大宇宙の中で、人間はいっとう知力の発達した生物だとひとりぎめをしているのだからなあ"
],
[
"そのことは、なかなかむずかしい学問になるから、君たちにいっても、ますます信ぜられなくなるばかりだ。だから、君たちは、わしのいうとおり、氷河期が来るという結論を信じて、さっそく防衛手段に急ぐのがよろしい",
"しかし博士、私たちは、そう簡単に、結論だけを信じかねます。なにか、もっとほかに、氷河期の来るという証拠を目にし耳にしないと、信じられないのです"
],
[
"むだなことはありません。いや、むしろ、それとは反対に、必要なことです。博士、世間では、博士のことを、氷河狂と申していますぞ。氷河期が来るから、さあ皆、その用意をしろと、博士は叫びまわっておられる。博士は、親切にそういっているのに、世間では、信じない。それは、博士がなぜ氷河期が来るか、その筋道をはっきりおさせにならないから、そんなことになるのです。おわかりでしょうね",
"ご意見はいちおう忝けないが、それはやはりむだである。世間の大衆には、わしの話はむずかしすぎて、これを説く力がないのだ。いや大衆だけではない。おそらく現存の科学者の中でも、果してそのうちの何人が、わしの説明を了解するであろうか。結局それは無駄だよ",
"博士が、そうおっしゃると、中には、博士は嘘をついて脅かしているんだと思う者がいます。わからなくとも、いちおう、なぜ氷河期が来るのかということについて、説明されるのが、お身のためでしょうと思います"
],
[
"氷河期の徴候は、もうだいぶ現われはじめている。第一は、このごろの、へんに熱くるしい気温のことだ。冬だというのに、まるで四、五月ごろの気温ではないか。それに近頃、東京地方では、地震が頻発しているが、これもその前徴の一つである",
"気温が高いということは、氷河期とは、ぜんぜん反対の現象のように思いますが、いかがですか。こう暖かければ、なかなか氷河期なぞ来ないだろうと思われます",
"それは素人考えだよ。今に見ていなさい。大きな地震がやってくる。一度や二度ではない。記録にもないほどの大地震が頻発するのだ。それから、火山が活動をはじめるだろう。それも記録破りの大活動をな。それは、もう間もなく起るだろう。そのときは、わしのいった言葉を思い出すがいい"
],
[
"博士、そういう大噴火の後に来るものは? それはいったい何です。早く聞かせてください",
"……"
],
[
"どうしたのですか、北見博士",
"ああ――"
],
[
"なにをする。貴公も、早く避難することじゃ",
"ごまかして、逃げだそうとしても、そうはいきませんぞ。元の席へ、おかえりなさい"
],
[
"実は、そのことについて、私は迷っているのです。というのは、前回においては、私は氷河期が来るという北見博士の説を一蹴しましたが、最近になって、少し気になることを発見して、迷っています",
"ほう、気になる発見というと……",
"それは、世界各地からの気温報告を統計によって調べてみますと、例年同期に比して、平均七度の降下を示しています",
"なるほど",
"ところが、われわれは、それほどの気温降下を感じていないのです。これは噴火等などのため地殻の温度が上がり、従ってそれほど気温降下のあるのを感じていないのであります。気温はかなり下っています。しかも平均七度というのは、世界全体を通じての観測結果なのですから、たとえば、日本だけとか、支那大陸だけとかいうのではなく、世界の平均気温が寒冷になっているというのですから、これはちょっと注意すべきことではないかと思うのです",
"しかし志々度君。その気温が七度下っているというのは、一時的現象ではないのかね。つまり太陽の黒点が急に増えたとか、そこへもってきて、噴火の煙で、太陽が遮られて、気温が下るとか……",
"そうです。私は、その噴火の噴出物が空を蔽って、気温が降下しているという説には賛成なんですが、今、青倉先生は、これを目して一時的現象といわれましたが、私は、これが相当長くつづくのではないかと心配する者です。従って、気温は、さらに低下していくのではないか",
"そんなことはないだろう。噴火は局部的だ。そして、噴出物の灰は、今もどんどん落下して、地上に堆積しつつある。だから、今後それほど顕著な気温降下はないと思う。それに地殻の変動によって、大地の温度がうんと上昇しているから、まるで炬燵をかかえているようなもので、地表は春の如しさ。心配はあるまい"
],
[
"私は、青倉先生ほど、これを楽観的には考えられないのです。噴出物は、相当おびただしい量にのぼっています。空中へ舞い上ったものが、なかなか下へ落ちてこないようです。つまり、空中には火山灰の量が日増しにふえてくるように思います。確実な計算はできませんが、この調子でいくと、やがては、全世界の空が、暗曇程度に蔽いつくされるのではないでしょうか。すると太陽の輻射熱は、少くとも五、六十パーセントを失うようになる。悪くすれば、八十パーセント以上を失うかもしれない。それが毎日続いたとすると、これは一大事ではないかと思う。この前、北見老博士の説を、私は一笑に附しましたが、この頃になって、私は、老博士の説が、ある程度事実に近いと思うようになったのです",
"いや、それは、思いすぎだ"
],
[
"総監閣下。これからある意外なご報告をいたそうと思いますが、その前に、閣下に対し、おわびを申しておかねばならないことがあります",
"なんじゃ、吾輩に詫びることがある。ふーん、そうか。君にしては珍らしい話だ。よろしい。怒りはせん。いいたまえ",
"はい。実は、閣下には申し上げないで、私一存によりまして、調査していたことがございました",
"ふむ。それは、どういう事項か",
"それは、北見博士の行動についてでございます。あの震災の日老博士から聞いた話が、非常に私を刺戟しました。多分、老博士の頭脳が変調を来たしているのだとは思いましたが、それにしても、万一老博士のいうことが本当であったら、どうであろうか。われわれは、博士が狂人だと思いちがいをしていたために、もし氷河期がやって来たとき、われわれは呆然として手の下しようもないというのでは、申し訳ないと思い……",
"よしよし、そのへんはよく分る。で、君は、吾輩に秘密裡に、どんなことをやったというのか",
"北見老博士の跡を、優秀なる二人の刑事に追わしめました",
"博士は、どうしているのか"
],
[
"二人の刑事は、ただいま、アメリカにおります",
"なに、アメリカに……。すると、北見老博士も、アメリカにいるとでもいうのか"
],
[
"北見氷子女史の話は、わが二人の刑事の報告と、完全に合っています",
"博士は、アメリカで何をしているのかね",
"廃坑を五カ所、買いました",
"廃坑とは、役に立たなくなった鉱山のことかね",
"そうです。すっかり鉱石を掘りつくした鉱山のことです。博士が買ったところは、いずれも非常に深く掘り下げてあるところだそうです。それから博士は、しきりに罐詰を買いあつめています。アメリカには、この前の大戦のとき、全体主義国側に渡すまいとして、要りもしないのに百五十億ドルもの罐詰を買って持っているんです。これが今日、二束三文で買えるのです。博士は、それを買って、どんどん廃坑の中へしまいこんでいます",
"ほう。それは愕いた",
"博士は、廃坑の底にエンジンを持ちこんで、地底で発電しようと計画しています。それから薬品を買い込んだり、書籍を集めたり、大童で働いているそうです",
"アメリカ人は、博士の計画を知っているのだろうか。つまり、博士が、氷河期の用意をしているのだということを",
"いや、博士は、それに関しては一語も語っていないようです",
"今までの費用は、どこから出ているのか",
"博士の舎弟が、カルフォルニアに大きな農園を経営していますが、その舎弟から、二百万ドルの融通をうけたそうです",
"博士は、アメリカ人をすくうためにやっているのだろうか",
"それはよくわかりませんが、女史の持ってきた手紙を信用すれば、日本人を救うつもりでしょう",
"だって、アメリカだよ、その避難坑は",
"なあに、飛行機で飛べば、たった一日で太平洋を越えて行けます。博士を信じていいのではないでしょうか"
],
[
"吾輩は、そのような事業の表面に立つことを許されていない。たとえその筋に持ち出したとしても、なかなか通るまい。通ったとしてもずいぶん日数もかかれば、たくさんの反対にも遭い、金額も削減されるだろう。それでは、この緊急の事態に備えることはできない",
"では、老博士のせっかくの計画も、ほんの一部しか達せられないわけですね"
],
[
"吾輩は、表面に立てないが、君は、一身を犠牲にする覚悟なら、やってやれないことはあるまい。おい、多島。吾輩は、君に、ある有力な財閥人を紹介する。そして志々度博士と緊密なる関係のもとに、協力してやっていくことだ。アメリカに一万人の日本人を収容することも結構だが、できれば、もっと多数の日本人を救いたいではないか",
"よくわかりました、総監閣下"
],
[
"すると、閣下は、第五氷河期が、いよいよ本当にやってくることをお信じになったわけですね",
"いや、それは、そうともいえないのだ。吾輩も君も、科学者ではないから、信ずるも信じないも、その力がないのだ。だから吾輩は、表面に立つことはできないのだ。だが、素人であるだけに、かえって科学というものを純粋にうけいれる素直さを持っているともいえようではないか。あとは、もう聞かないがいい。そして吾輩は、君の覚悟と手腕に期待する"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
2000年3月29日公開
2006年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000868",
"作品名": "第五氷河期",
"作品名読み": "だいごひょうがき",
"ソート用読み": "たいこひようかき",
"副題": "",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "海野",
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"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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} |
[
[
"は。王老師は、当館にお泊り中でございますが、まだお目ざめになりませんので……",
"まだ目がおさめにならぬ。はて、年寄のくせにずいぶん寝坊でいらっしゃるな",
"はい。今までこんなことはなかったのでございますが、ふしぎなことで……。只今、医師が参りまして、診察をして居ります",
"診察? 老師は、睡りながら病気に罹られたのかね。ずいぶん御器用じゃ",
"いや、そうじゃございません。あまり睡りすぎるというので、一同心配のあまり、医師をよびましてございます。それに醤買石先生も、同様一昨日の夜以来、睡り込んでいられますので……",
"なんじゃ、醤買石?"
],
[
"ははあ、読めたぞ。おい、王先生のところへ案内頼むぞ",
"は。ではこっちへどうぞ"
],
[
"ああ、王老師。どこへ行かれる",
"人払いじゃ",
"ああ、王老師はここに居て頂かねばなりません。そうでないと、話が出来ません",
"するとわしは人の部類に入らない訳じゃな。やれやれ情けない"
],
[
"何よりもまず、余が依存いたすことは、老師の手腕と、この某国大使館における始末機関の偉力とですぞ。昨夜は失敗しましたが、今日は十分に駆使して、金博士を綺麗に始末していただきたい。大丈夫でしょうな",
"商売熱心なるその言葉、恐れ入ったぞ。今日こそは、始末機関をフルに働かして、邪弟金の奴を片づけてしまうであろう",
"いや、その御言葉で、余は安堵しました。さあ、後は十分おくつろぎ下さい。ボーイを呼びましょう"
],
[
"ああ、アナウンサー鶯嬢も、どうかしているな。今日は十五日であるのを、十六日といいまちがえた。近頃の若い者は、熱心が足りない",
"老師、今日は十六日ですよ。余の腹心の部下からの報告があったから、まちがいなしですわ",
"そんなことはない。醤どのは、算術を忘れてしまわれたか。十四日の次は十五日であるが、決して十六日ではない",
"いや、老師、私たちは、一日余計に睡ったのですよ。部下の報告から推して考えると、金博士を睡らせる睡眠瓦斯が、余と老師とにも作用した結果です",
"そんなことはない",
"いや、そうです。われわれ二人は、金博士が睡ったかどうかをみるために、うっかり金博士の部屋に入ったではありませんか、あのときあの部屋に残っていた睡眠瓦斯を、われわれが吸いこんだのです。そして足かけ二日間に亘りばかばかしく睡りこんだ……",
"ああ、そうか。いや、それにしても四十幾時間も睡るわけがない。わしの調合によれば、せいぜい前後十時間ぐらいは睡るように薬の濃度を決めたつもりじゃったが……",
"しかし結果は、このとおり四十二時間も効いたのです。ねえ、王老師、失礼ながら老師は、学問的にすこしく疲れていられるのではありませんか。もしそうだとすると、これからあの金博士の奴を、この某大使館の始末機関で始末していただこうと余は大いに期待しているわけですが、それが甚だ覚束ないことになりますなあ。老師、大丈夫ですかなあ"
],
[
"いや、お互いの年齢となっては、疲れを除くには睡眠にかぎるようじゃ。すなわち、いよいよ年齢をとれば、大量の睡眠が必要となり、すなわち永遠の眠りにつくというわけじゃ",
"御教訓、ありがたいことでございます"
],
[
"チェリオ!",
"はあ、ペスト!"
],
[
"どうじゃ、美酒じゃろうが、もう一杯、いこう",
"さいですか。どうもすみませんねえ"
],
[
"仲々いい庭園じゃろうが。ちと散歩をしてきたらどうじゃ",
"はい。では老師先生"
],
[
"老師は、いらっしゃらないので……",
"ああ、わしはちょっとソノ……食事のあとで用を達すことがあるので、そちだけでいってくれ",
"は。では、散歩をして参りましょう"
],
[
"叱ッ。ボーイが、こっちを向いている。いやよろしい、窓の方を向いた。……いや、醤どの、うまくいったよ。あの無類の毒酒を、まんまと三杯も乾してしまったよ。致死量の十二倍はある。あと十五分で、金博士の死骸が庭園に転がるだろうから、お前の部下に手配をして、早いところ取片づけるように",
"そうですか。あと十五分ですか。それは大成功だ",
"やれやれ、醤どののためとはいえ、殺生なことをしてしまったわい"
],
[
"王老師、ことごとく失敗ですぞ。どうしてくださる",
"どうしてくださるといって、どうも不思議という外ない",
"余はあのように多額の報酬金を老師に支払ったのも、当館の始末機関に絶対信頼を置いたればこそです。然るに況んやそれ……",
"当館の始末機関は絶対に信頼し得るものじゃったのじゃ、すくなくとも昨日までのところは……。しかしあの金博士に限り効目がないので呆れている。察するところ、金博士のあの素晴らしい食慾が、一切を阻んでいるのかもしれん",
"食慾なんかに関係があるもんですか。あの毒酒にしても毒蛇にしても、インチキじゃないかな",
"そんなことはない。あの毒酒では、過去において千七百十九名の者が斃れ、毒蛇では百九十三名が斃れ、いずれも百パーセントの成功を見たのじゃ。殊にあの毒蛇に咬まれた者のあのものすごい苦しみ方に至っては……",
"それは余も一度見たことがありますが、実に顔を背けずにはいられなかったです。その毒蛇と今日の毒蛇と、毒性は同じものですかね",
"毒性に至っては、今日のやつは、特別激しいものを選んだのだ。しかも今日のやつは、非常に獰猛で、人を見たら弾丸のように飛んでいって咬みつくという攻撃精神に燃え立っている攻撃隊員というところを五匹ばかり選り抜いたので、それで相手が斃れないという法はないのじゃ。不思議という外ない",
"ですが、わが部下の話では、その突撃隊の毒蛇が、金博士の腕と足とにきりきりと巻きついたのを双眼鏡でもって確めたというとるですが、博士は別に痛そうな顔もせず、銅像のように厳然と立っていたそうですぞ。本当に突撃隊ですかなあ",
"すぐとんでいってきりきり巻きつくところから見ても、それが突撃隊員だということが分る。その毒蛇が人語を喋ることが出来れば、もっと詳しいことが分るのじゃが……"
],
[
"委員長。たいへんです。金博士が、只今これへ現れます",
"え、こっちへ金博士が……",
"あ、あの足音がそうです"
],
[
"いや、老師先生。ここの酒は、あまり感心しませんなあ",
"そ、そんなはずは……ごほん、ごほん",
"どうも、感心できませんや、砒素の入っている合成酒はねえ。口あたりはいいが、呑むと胃袋の内壁に銀鏡で出来て、いつまでももたれていけません",
"ま、真逆ね",
"本当ですよ。気持がわるくなって、庭園を歩いていましたが、ふしぎなことにぶつかりました",
"ふしぎなことって、それは耳よりな、どうしたのかね",
"この庭園には、冬だというのに、蛇が出てくるんですよ",
"ああ一件の……いや、二メートルの蛇か",
"二メートルもありませんでしたが、頤のふくれた猛毒をもった蛇です。トニメレスルス・エレガンスに似ていますが、それよりもすこし長くて九十五センチぐらいありました",
"それはたいへん。君に咬みつかなかったか",
"すこしは咬みついたらしいですが、私は感じがにぶいのでねえ。ですが、脚だの腕だのにきりきり巻きついて歩くのに邪魔をしますので、癪にさわって、補えて来ました。ほらこれです"
],
[
"まあそう焦せるな。あの手この手と、まだやることはたくさんある",
"この上、金の奴に一分間でも余計に生きていられては、余の面目にかかわる",
"さわぐな。いよいよ今日は彼を貴賓の間に入れることにしたから、こんどは大丈夫だ",
"ああ貴賓の間ですか。それは素敵だ。見たいですな、中の様子を……",
"見たいなら、見せるよ。こっちへ来なさい、テレビジョン器械をのぞけば、貴賓室の模様は、手にとるように分る",
"おお、それはいい"
],
[
"王老師、あれは弾丸ぬきの機関銃を撃ったのですかい",
"おお醤どの。ふしぎという外ない。しかしまだあの部屋には、かずかずの始末道具があるから、まだ失望するのは早い"
],
[
"王老師。見ましたか。あれではシャンデリアが饅頭の皮で出来ているとしか思えないですぞ",
"ばかいわっしゃい。あの落ちた音で分るが、大した重さのものだ。ほほ、注意、博士が椅子に坐るぞ",
"椅子に坐ることが、何か重大なる意味があるのですか",
"まあ、黙って見ていりゃ分る"
],
[
"ほら、あれを見たか。あれが、叩きつける“椅子”じゃ。あれでは硬い壁に叩きつけられて、生身の人間は一たまりもあるまい。可哀そうに死んだか",
"王老師、壁に穴があきましたよ。人体の形をした穴です",
"何じゃ",
"そして金の奴の姿が見えませんぞ。あっ、あの穴から、部屋の中をのぞいています。王老師、金は自分の身体で壁をぶちぬき、無事に廊下にとびだして、部屋の中をじろじろみているのですよ。可哀そうに死んだかも何もあるものですか",
"ふーん、これは想像に絶して、あの金博士め、手硬い奴じゃ"
],
[
"王老師、どうしてくれる",
"待て、せっかちな!"
],
[
"もう一つ、やってみることがある。これなら、きっとうまくいく",
"どうだかなあ、信用は出来ん",
"いや、これは確実だ。火薬炉の中につきおとして密閉し、電熱のスイッチを入れて、じゅうじゅう焼いてしまうのだ",
"本当にそのとおりいくのなら、大したものだが……",
"きっとうまくいく。さあ見て居れ。今、金博士が、あの廊下の角を曲ると、とたんに床が外れて、金の身体は奈落へおちる。その奈落には、火薬炉が大きな口をあけて待っているのだ……",
"能書はあとにして、金博士を骨にして見せて下され",
"いざ、いざ、これを見よや"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1941(昭和16)年11月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003348",
"作品名": "大使館の始末機関",
"作品名読み": "たいしかんのしまつきかん",
"ソート用読み": "たいしかんのしまつきかん",
"副題": "――金博士シリーズ・7――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・しち――",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1941(昭和16)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-11-08T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷",
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"入力者": "tatsuki",
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[
[
"……",
"まさか君は、大切な二本の脚を……",
"何だと",
"君の大切な脚を、迎春館へ売飛ばすつもりじゃないんだろうね。もしそうなら、僕は君にうんといってやることがある"
],
[
"迎春館? ほう、君は迎春館を知っていたのかい",
"あんな罪悪の殿堂は一日も早くぶっ潰さにゃいかん。何でも腕一揃が五十万円、脚一揃なら七十万円で買取るそうじゃないか",
"ふふふふ、もうそんなことまで君の耳に入っているのか",
"迎春館などという美名を掲げて、そういうひどい商売をするとは怪しからぬ。そうして買取った手足は、改めて何十倍何百倍の値段をつけて金持の老人たちに売りつけるのだろうが……",
"だがねえ鳴海。この世の中には、そういう商売も有っていいじゃないか。老境に入って手足が思うようにきかない。方々の機能が衰えて生存に希望が湧いてこない。そういう時に、若々しい手足や内臓が買取れて、それが簡単なそして完全な手術によって自分の体に植え移され、忽ち若返る。移植手術、大いに結構じゃないか",
"いや、僕は何も移植手術そのものが悪いといっているのじゃない。移植手術のすばらしい進歩は、人類福祉のために大いに結構だ。しかしこの種の手術を施行するについては、瀬尾教授のやっておられるように、飽くまで公明正大でなければならぬと思う。つまり瀬尾教授の場合は、例えばここに交通事故があって肝臓を破って死に瀕した男があったとすると、これを即時手術してその肝臓を摘出して捨て、それに代って、在庫の肝臓を移植する。その肝臓というのは、肝臓病ではない死者から摘出し、予ねて貯蔵してあったものであり、そしてそれはその遺族が世界人類の幸福のために人体集成局部品部へ進んで売却したものなんだ。まあこういうのが公明正大で、瀬尾教授の手術を受ける者は一点の後めたいところもない。これでなくちゃいかんよ"
],
[
"どうだ闇川。聴いているのか",
"うん、聴いている。で、君は迎春館の話を一体誰から仕入れて来たのかね",
"或る新聞記者からさ。尤もその記者は、倶楽部で仲間からの又聴きなんだそうな。その話によると、迎春館は表通を探しても見つからないそうだが、一度その中へ飛込んだ者はその繁昌ぶりに愕かされるそうだ。そして何でも、僕たち小説家仲間に、迎春館のことについてとても詳しい奴がいるんだそうな、生憎その名前を聞くのを忘れたがね。おや、何を笑うんだ"
],
[
"事実、迎春館主の和歌宮鈍千木氏の技倆は大したもんだ。和歌宮鈍千木氏は……",
"そのワカミヤ、ドンチキとかいうのは主任医なのかね",
"そうだ。頭髪も頬髭顎髯も麻のように真白な老人だ。しかし老人くさいのは毛髪だけで、あとの全身は青春そのもののように溌溂としている。尤もお手のものの移植手術で修整したんだろうが……",
"呆れた、呆れた。いつの間に、君はそんな悪魔と近づきになったんだい。悪いことはいわん。その和歌宮館主には、もう近づくなよ。そんなところへ出入りをしていると、末にはとんでもない目にあうぞ"
],
[
"君も一度、和歌宮先生に会ってみるのがいいよ。すると、きっと今の言葉を取消すだろう",
"ちえっ、誰がそんな汚い奴の傍へ近づくものか",
"その和歌宮先生が、私の長い脛をつくづく見ていうのだ。“あなたの脛は非常に立派だ。四十三糎という長い脛は比較的めずらしい方に属するばかりか、あなたの脛骨と腓骨の形が非常に美しい。脛骨の正面なんか純正双曲線をなしている”とね。そして、もしこれを売る意志があるのだったら、九十九万円には買取るというのだ",
"ばかなことは、よせ。ここではっきりいって置くぞ。天から授かった神聖な躯を売却していいと思うか。それも物質的欲望のために売却するなんて、猛烈に汚いことだ。万一君がそんなことをすれば、もう絶交だぞ"
],
[
"売った方がいいという事情があれば、売ってもいいじゃないか。それにそういうものを売るか売らないかは、僕ひとりが決めていいのだ",
"それは許せない。売ってはならない。それに……それに、もし珠子さんがそれを知ったら、どんなに嘆くと思う。君達の間に、きっと罅が入るぞ、それも別離の致命傷の罅が……",
"そんなことが有ってたまるか",
"大いに有りさ。考えても見給え、珠子さんが……",
"珠子が、それを望んでいるとしたら、君はまだ何かいうことが有るかね",
"……"
],
[
"君は素人のくせに、和歌宮師の手術の手際にけちをつけるなんてよろしくないよ。この十年間に外科手術は大発達を遂げた。そしてその第一は、今までのような醜い痕跡残存が完全に跡を絶ったことだ。だから顔面整形手術の如きものが、どんどん行われるようになったのだ。しかも和歌宮師の手術は、この点では当代に並ぶものがない。実際僕は先生のところで何十人、いや何百人もの手術者を見たが、痕跡らしいものを見付けたことは只の一度もない",
"ふうん、そうかね。まあ、それならそれとしてだ、太い脚の代りに細い脚を接いだときはどうなるのか。継ぎ目の皮には痕跡が残らないとしても、太い脚に細い脚をつければ当然そこのところが段になるではないか。そうなるとやっぱり醜くないことはないね",
"君は非常識だよ。美観を一つの条件とする現代の外科手術において、そんな段になるような手際の悪いことをすると思うかね。手術の前には、回転写真撮影器による精密な測定が行われ、それからブラウン管による積算設計がなされて接合後の脚全体が資材範囲内で純正楕円函数又は双曲線函数曲線をなすように選定される。従って接合部切口における断面積も算出されるわけだから、これらの数値によって不要なる贅肉は揉み出して切開除去されるのだ。だから股と移植すべき脚との接合部はぴたりと合う。醜い段などは絶対に起り得ない。分ったかね",
"ふん、理屈は分った。しかし実際はどうかなあ。いや、君の言葉を信用しないわけではない。それにいくら外科手術が進歩した現代かは知らぬが、マネキン人形を接ぐわけじゃあるまいし、生きた肢体の接合をするんだから、相当むずかしい筈だ。例えば、血管と血管との連結はどうする。また神経細胞の連結はどうする。これはたいへん困難なことだぜ",
"一向困難な問題ではない。太股のところでずばりと切断されると、その切口は直ちに写真に撮られ、そして現像後は壁一杯に拡大されて映写される。それから、接ぐべき脚の切口も同様に撮影され、拡大映写される。この二つはもちろん同一ではないが、同じ人類のことゆえ相似である。しかし接合するためには相似の程度では困るので、是非とも同一でなければならぬ、つまり骨、血管、神経、筋肉、皮下脂肪、皮膚などの配列状態がねぇ。そこで相似から同一へと、配列の調整が設計される。もちろんこれはまず骨と骨とを一致せしめ、血管、神経などはその後に順番に配列座標が決定される。それから配列替えの手術だ。電気メスと帯電器具と諸電極とを使ってこの手術は僅か五分間にて完了する。そうなれば太股の切口も、これに接ぐべき脚の切口も、はんこを捺したように同一の配列、太さ、形をとるわけだ。だからあとは両者をぴたりと合わせて電気をかけ、瞬間癒着を行うのだ。残るは皮膚と皮膚の接合部に対する適切なる処理だ。これも済めば、全部の手術が終ったことになる。どうだ、これなら納得できるだろう。部品を組合わせてエンジンを組立てるのと同等の技術をもって、この手術は確実且つ容易に行われるのだ"
],
[
"どうだ、鳴海。納得いったんだね",
"まあ、或る程度はね。それにしても、接がれた脚がすぐ脳髄の命ずるとおり働くだろうか"
],
[
"それはもちろん周倒な試験がなされる。特に神経反応は念入りに検べられる。血行状態は心臓カージオグラフによって完全に確かめられる。運動と筋肉の関係は有尺高速映画で撮影され、筋肉圧はブラウン管の光斑点の動きで検定するが、これは同時撮影されるから、もしも異状があれば、直に発見される。麻酔の解かれるのは、これらの試験が全部終了した上でのことだ",
"ふうん。君はなかなか詳しいね。それ位なら和歌宮師の助手が勤まるだろう"
],
[
"もはや現代の医術は天才的特技ではなくなった。それは普遍性ある機械的技術となり、機械力によりさえすれば誰にも取扱えるものとなりつつある。わが和歌宮先生の特技と称せらるるものも実は先生が把握した真理を大胆率直に機械的技術に移し、これを駆使するのに外ならない",
"そういっちまえば、君の崇拝する和歌宮師は、魔術師の一種だてぇことになる。とにかく君は即時即刻あのような人物との関係を清算せにゃならんのだ。切に忠告する",
"何をいうか。僕のことは僕が決めるんだ"
],
[
"珠子さんと一緒じゃなかったのかい",
"なにい……"
],
[
"いや、機嫌を悪くしたら、勘弁したまえ。なあに、さっき珠子さんの後姿を見つけたもんだから……",
"えっ、どこで珠子を……。詳しくいってくれ"
],
[
"君を興奮させるつもりはなかったのだ。H街を彼女は歩いていたよ",
"ひとりきりか。それとも連れがあったか",
"さあ……困ったなあ",
"本当のことをいってくれ。僕は今真実を知りたいんだ。珠子は他の男と歩いていたのだろう。その男は、どんな奴だったい"
],
[
"別に怪しい人物ではなかったよ",
"でも……どんな男だ、其奴は……",
"君の知っている人だよ",
"じらせてはいけない。珠子の連れの男は誰だったか、早くそれをいってくれ",
"いっても差支えなかろう。瀬尾教授だ",
"なに、瀬尾教授。あの、大学の瀬尾外科の主任教授である瀬尾先生か",
"そうだ。だから君は別に興奮しないでよかったのだ"
],
[
"君は今、H街だといったな",
"おい、血相かえて何処へ行くんだ。待て、待てといったら"
],
[
"君も莫迦だよ。いくら珠子さんは美人か知らないが、あれが生れながらの美人なら、それは君のように追駈け廻わす価値があるかもしれない。しかしよく考えて見給え、そんな価値はありやせんよ",
"生れながら、どうしたって",
"そこなんだ。いいかい、珠子さんという人は瀬尾教授とも古くから親しくしているんだぜ。或る人の話によると、珠子さんは以前はあんな美人じゃなく、むしろ器量はよくない方だった。それが急に生れかわったような美人になったんだそうで、そこにはそれ瀬尾教授の施した美顔整形手術の匂いがぷうんとするじゃないか。そういう人為的美人に、君という莫迦者は愚かにも純粋の生命と魂を捧げているんだ。いわば珠子さんは、雑誌の口絵にある印刷した美人画みたいなものだぜ。そういうものに熱中する君は、よほどの阿呆だ",
"……"
],
[
"何故急にそんなことを訊くんだい",
"だって僕は、これまで和歌宮を散々尋ねて歩いたんだが、遂に彼を見ることができなかった",
"探し方が悪いんだろう",
"いや、そうとは思えない。僕の調べたところでは、多くの人々が迎春館という名を知っており、和歌宮鈍千木師の名前も聞いて知っているが、さて迎春館のはっきりした所在も知らず、また和歌宮師に会った者もないのだ。変な話じゃないか。君は、これに対してどういう釈明を以て僕を満足させてくれるかね",
"はっはっはっはっ"
],
[
"なぜ笑うのか",
"だって君はあまりに懐疑的だよ。和歌宮先生の如き貴人が、そう安っぽく人前に現われるものか。先生や迎春館に関する話がたくさん知られていることだけでも、その存在はりっぱに証明されるじゃないか。先生は、本当に人体売買の手術を希望する当人以外には会っている遑がないのだ。仕事も忙しいし、それに更に深い研究を続けておられるものだからねえ",
"じゃ、君は僕を和歌宮師のところへ連れていって会わせて呉れ",
"駄目だよ、君はそういう手術を希望していないんだから、やっぱり駄目だよ",
"とにかく僕は大きな疑惑を持っている。よろしい、そういうんなら他の方法によって、この疑惑を解いてみせる"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「富士」
1945(昭和20)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003048",
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[
[
"かまわないから、その缶をあけてみたまえ。そして中にあるものをよくしらべてみたまえ",
"あけていいのですね"
],
[
"ところが、そうも考えられないのだ。第一それを書いた第九平磯丸という船は、たしかに船籍簿にのっているし、船の持主のところへいって調べると、たしかに漁にでているとのことだった。また三浦須美吉という漁夫もたしかに乗りこんでいったそうで、このへんのことは、実際とよくあうのだ。するとこの手紙は本当のようにおもう",
"原大佐は、そんな魔物が、太平洋に棲んでいるとおもわれるのですか",
"だから君を呼んだのだ"
],
[
"私をお呼びになって、それでどうなさるおつもりなんですか",
"ひとつ君にくわしく調べてきてもらおうと思うのだ",
"化物探検ですか。この私が……"
],
[
"ほう、なかなか強硬だな。君のその真面目な性格を見こんでいればこそ、あえて私はそれを頼むのだ",
"まことに失礼とは思いますが、この事ばかりはどうかお許しください",
"それはどうかと思う。おい太刀川。君はたいへん思いちがいをしているぞ。架空だとか不真面目とかいうが、そんなものではない。私はこれが実際そうあり得ることではないかと思うから、君に調べ方を頼むのだ。第一考えてもわかるだろう。わが海軍が、そんな不真面目なことを命令するだろうか。断じて否である。今日の国際情勢を見なさい。世界列強は、いずれも競争で武装をしているではないか。科学のあのおそろしい進歩をごらん。これからの戦争には、なにが飛びだしてくるかわからないのだ。野心に眼を狼のように光らせている国々がある。それに対し、われわれは、極力警戒をしなければならないのだ。この手紙は、漁夫の書いたものではあるが、ともかく太平洋の怪事をしらせているのだ。この空缶は、わが琉球のある海岸に流れついたものである。太平洋は、わが大日本帝国の東を囲む重大な区域だぞ。太平洋の怪事を、そのまま放っておけると思うか。漁夫の目には、それが化物に見えたかしらぬが、科学者である君が見れば、それは科学の粋をつくした最新兵器であることを発見するかもしれない。そこだよ、大切なところは。これほど真面目な重大な使命が、ほかにあるだろうか。国防の最前線に立つ将校斥候を、あえて君は不真面目というのか"
],
[
"おお、わかってくれたか。太刀川",
"はい、わかりました。私をお選びくださって、忝うございます。皇国のために、一命を賭けてこの仕事をやりとげます",
"おお、よくぞいった。それでこそ、私も君を呼んだ甲斐があった"
],
[
"原大佐。それで私は、どういう事をすればよいのですか",
"うん、そのことだ。いずれ後から、くわしく打合わせをするが、まず問題の場所だ。これは今もいったとおりこの空缶は、流球のある海岸にうちあげられたのだ。どうしてそんな場所へうちあげられたかをいろいろ研究してみると、謎の空缶の投げ込まれた場所は、北赤道海流のうえであると推定されたのだ",
"はあ、北赤道海流ですか",
"そうだ。君も知っているとおり、この北赤道海流というやつは、太平洋においては、だいたいわが南洋諸島の北側にそって東から西へ流れている潮の流だ。それはやがて、フィリッピン群島にあたって北に向をかえ、わが台湾や流球のそばをとおり、日本海流一名黒潮となる。だから、もし南洋附近の潮の道に空缶を投じたものとすれば、潮にのって押しながされ、琉球の海岸へうちあげられてもふしぎでない",
"そのとおりですね",
"だからあやしいのは、その北赤道海流のとおっている南洋のちかくだということになる。そこで君は、香港までいって、香港から出る太平洋横断の旅客機にのりこみ、アメリカまで飛んでもらいたい",
"え、旅客機で、太平洋横断をするのでありますか",
"そうだよ。あの旅客機は、幸いにもちょうど北赤道海流の流れているその真上を飛んでゆくような航空路になっている。君は機上から、一度よく偵察をするのだ。その模様によって、第二の行動をおこすことにしてくれたまえ",
"はい。誓って任務をやりとげます"
],
[
"これはステッキですね。ありがたく頂いてまいります",
"ちょっと待て。このステッキは、見たところ普通のステッキのようだが、実はなかなかたいへんなステッキなのだ",
"え、たいへんと申しますと",
"うん。このステッキの中には、精巧な無電装置が仕掛けてある。これをもってゆき、こっちと連絡をとれ。しかし、むやみに使ってはならぬ",
"はい、これは重宝なものを、ありがとうございます",
"なお、このステッキは、いよいよ身が危険なときに、身を護ってくれるだろう。あとからこの説明書をよんでおくがいい。しかしこれも、むやみに用いてはならない"
],
[
"では、いってまいります",
"おお、ゆくか。では頼んだぞ。日本を狙う悪魔の正体を、徹底的にあばいてきてくれ。こっちからも、必要に応じて、誰かを連絡のために向ける。とにかく何かあったら、その無電ステッキで知らせよ。こっちの呼出符号は、そこにも書いてあるとおり、X二〇三だ",
"X二〇三! ほう、二十三は、私の年ですから、たいへん覚えやすいです"
],
[
"な、なんだなんだ。誰も挨拶しねえな。さては俺を馬鹿にしやがって、甘く見ているんだな。俺ががさつ者だと思って、馬鹿にしてやがるんだろうが、金はうんと持っているぞ、力もつよい。えへへ、りっぱな旦那だ。それを小馬鹿にしやがって――",
"おいリキー。おとなしくしていなよ"
],
[
"だって、大将――いや、ケント夫人! 俺の足の骨を折ろうとたくらんでいる奴がいるのでがすよ。我慢なりますか",
"おいリキー。あたしは二度いうよ。おとなしくしておいでと"
],
[
"な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな",
"ステッキをかえしてくれたまえ",
"いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう",
"いや、かえしてください"
],
[
"あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い",
"リキー、およしよ。三度目の注意だよ"
],
[
"やあ、すみません",
"いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます"
],
[
"艇長、本社から無電です",
"なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか"
],
[
"艇長、お呼びでしたか",
"うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ"
],
[
"どういたしましょう",
"飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った",
"しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません",
"いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ"
],
[
"とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう",
"はい、かしこまりました。では早速……",
"うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ",
"よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう",
"うん、うまくやってくれ"
],
[
"なんだ、密航者か",
"ふとい奴だ",
"いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ"
],
[
"まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから",
"艇長なんかに用はない。そこを放せ"
],
[
"な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ",
"ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?"
],
[
"あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません",
"何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ",
"いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです",
"馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ",
"いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません",
"そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ",
"だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです",
"なにを。こいつが!"
],
[
"もう泣かないでもいい、こっちへおいで",
"?"
],
[
"どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね",
"はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした",
"私の受持でも、駄目でした",
"そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね"
],
[
"何だ",
"あの本社からの秘密無電に、誤りがあるのではないでしょうか。もう一度、本社へたずねてみては、いかがでしょう",
"そうだね。いや、もっともだ"
],
[
"天候が悪くなったそうだよ",
"そうですか"
],
[
"海の上の気象は、これだから困る。操縦室へ、注意をしてやれ、それから事務長、マニラへ無電をうって、すぐさま近海気象をたずねてくれたまえ",
"はあ、ではすぐ連絡方を、通信室へいって頼んできましょう"
],
[
"おお、操縦長か。あの雲を見たろう。針路をすぐに北へ四十度曲げてくれ",
"北へ四十度。するとマニラへはだんだん遠くなりますが――"
],
[
"仕方がない。このままマニラへ近づくことは、あの黒雲の中の地獄へ近づくことだ",
"はい。ではすぐ",
"そうだ、そうしてくれ。そして当分全速力でぶっ飛ばすんだ、嵐より一足先にこっちが逃げちまわないと、たいへんなことになる"
],
[
"ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね",
"小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へ向をかえたよ",
"はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね",
"おれの名かい",
"そうだ",
"石福海というのだ。こういう字を書くんだよ"
],
[
"小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ",
"えっ"
],
[
"お前は、何をいうんだ。今出ていったのは、お婆さんじゃないか。お前は目が見えないわけじゃなかろう",
"そうなんだよ、小父さん",
"何だって",
"おれは目がわるくて、目の前ほんの一、二米ぐらいしかはっきり見えないんだよ",
"ほほう。そうか。そんなに悪い目をしていて、出入口を通る人をあてるなんて、おかしいじゃないか。はははは"
],
[
"ちがうよ。そんなことは、目でみなくたって、おれには、ちゃんと分かるんだよ",
"なに、目でみないでも分かるって、馬鹿なことをいうものでない。いいからもうだまっておいで"
],
[
"どうだ。まだ入らないか",
"マニラはやっと入りました。しかしニューヨークの本社が、さっき入りかけて、また聞えなくなってしまいました"
],
[
"マニラの気象通報は、どうだった",
"あっちも、悪いそうです。北々西の風、風速二十メートルだといってました",
"そうか"
],
[
"通信長。ニューヨーク本社が出ました",
"なに、本社が出た。それはお手柄だ"
],
[
"はあ、はあ、ダン艇長がいま出ます",
"おお、本社が出たか"
],
[
"おい、写真電送で、二人の顔を送ってくる。すぐ受ける用意をしたまえ",
"はい"
],
[
"は、用意ができました",
"もしもし、本社ですか。用意ができました。写真をすぐに送ってください"
],
[
"写真電送をうけるのが、も少し早かったら、君は、おれのりっぱな肖像を、手に入れたことだろう。いや、そうなっては、こっちが都合が悪かったんだ。いや、きわどいところだったよ。あっはっはっ",
"なに! じゃ貴様は、例の二人組の共産党員の片われ?",
"ほほう、いまになって、やっと気がついたのか。名のりばえもしないが、君がしきりに探していた共産党太平洋委員長のケレンコというのは、おれのことだ。忘れないように、よく顔をおぼえておくがいい"
],
[
"貴様は、この艇長の自由をしばって、どうしようというのか",
"どうしようと、おれの勝手だ。文句をいわずに手をあげろ、四の五のいうと命がないぞ",
"なに、命がない? 馬鹿をいうな。艇長を殺すことは、貴様も一しょに死ぬことだぞ。艇長がいなくなって、このサウス・クリパー号が安全に飛行できると思うか。それに――",
"それにどうした",
"わが艇員は、貴様のような無法者をそのままにしておかないだろう。無電監視所が変事をききつけて、いまに救援隊がかけつけて来る",
"うふふふ。何をほざく。貴様のうしろを見ろ、無電装置が、ピストルの弾で、こわされているのに気がつかないのか。そんなことに、手ぬかりのあるケレンコ様か",
"え――"
],
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"なんです。あの銃声?",
"うふ、そんなに知りたいのかね、まあお待ち。いいものを見せてあげよう"
],
[
"あ、リキー",
"そうだ。リキーだよ。艇長さんは、よくおぼえていたね",
"あの酔っぱらいを忘れるやつがあるか",
"そうだ。誰も知っているよ。しかしリキーというのは、およそ彼に似あわしからぬ名だ。おい、ダン艇長さんとやら。あの手におえない男の本名を教えてやろうかね",
"え、なんだって",
"そうおどろかないでもよい。おれの片腕として有名な男。潜水将校リーロフという名を、きいたことがありはしないかね",
"うーむ、リーロフがあの男か!"
],
[
"これで写真電送の器械も役にたたなくなったし、無電装置もこわれて、外との無電連絡は一さいだめになった。そこでこんどは、この艇の操縦室へ行く番となった。さあ案内しろ",
"私がか",
"そうだ。君は人質なんだ"
],
[
"ふん、これか。なるほど本艇はいま、ここにいるのだな。しめた。マニラからよほど北にそれているのだな",
"外はひどい暴風雨です。だから北へ避けているのです"
],
[
"本艇の針路を、もうすこし北へまげろ。もう二十度北へ",
"え、もう二十度も北へですって"
],
[
"それじゃあんまりです。マニラへはいよいよ遠ざかり、太平洋のまん中へとびこんでゆくことになります",
"わかっている。いいから、わがはいの、いうようにするんだ。君は命令にそむく気じゃあるまいな",
"でも、そっちへ行けば、マニラへひきかえすだけの燃料がありません。海の中におちてしまっていいのですか",
"だまって、わがはいの、いうとおりにしろ。それから、スピードをあげるんだ。いまは毎時二百キロしかでていないようだが、それを三百五十キロにあげろ"
],
[
"やあ皆さん、ちょっと失礼しますよ",
"おお、あなたは――"
],
[
"え、どうしてそんなことが――",
"いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ"
],
[
"あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ",
"このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう"
],
[
"あ、たいへんなときに停電だ",
"こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ"
],
[
"電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ",
"はい。では発電室へいってみます"
],
[
"電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……",
"なんでもいいから、かけてみろ",
"はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば",
"大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる"
],
[
"おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?――",
"こら、他の話をしちゃならん。早く電灯をつけろといえ"
],
[
"おい、停電したが、どういうわけだ。なに暴風雨で発電機の中に水がはいった。……蓄電池だけで、電話とエンジンの点火とだけを辛うじて保たせてあるって。ええ、なんだ?――ふん、そうか、よしよし。わかったわかった",
"こら、なにをいう。他のことを話しちゃならぬといっているのがわからないか",
"いや、故障のところを説明させているんです"
],
[
"おい、それからどうするというのか。………うん、わかった。早くなんとかなおせ。そうか、こっちは大丈夫だ。じゃ、あと十分後を期して、一せいに、よし、わかった",
"なんだ、おい。十分後というのは"
],
[
"あのとおり方向舵が曲ってうごかなくなってしまったんだ。あれを直さないかぎり、本艇は海上に墜落のほかない!",
"なにを!"
],
[
"あの方向舵の故障は艇内でなおすわけにはいかない。しかし、この暴風雨の艇外に出て、そんなはなれわざが、できるものじゃない",
"ケレンコさん、それをやるのです。やらなければ、われわれは死ぬよりほかないのですよ。二人でやればできないこともないと思います。僕とあなたで、早いところやろうではありませんか",
"え、君とわがはいとで……"
],
[
"さあ、ケレンコさん。これで胴中をゆわえて、僕と一しょに早くきて下さい",
"ちょ、ちょっと待て。わ、わがはいはこまる。誰か外の艇員をつれてゆけ"
],
[
"僕は鋼条とペンチを持つ、リーロフ、君は手斧だ",
"おれが手斧を持つのか。うふふふ。それはたいへんいいことだ"
],
[
"そうだったか。よし、じゃ一たんは、おれの負としておこう。あの日本の青二才に、うまくひっかけられたかたちだ。しかし見ていろ。いまにお前たちは、おれの前に平つくばってお助け下さいと言うようになるぞ",
"何をぬかす、この強盗殺人めが!"
],
[
"おお太刀川さん。お気がつかれましたか",
"ああ、ダン艇長",
"そうです、ダンです。しかし私はいま、全米国民を代表して、大勇士であるあなたに、大きな大きな感謝と尊敬とをささげます。いや、全米国民だけではありません。全世界の人類を代表して、お礼を申さねばなりません"
],
[
"いや、そんなことを言っていただかなくてもいいのです。しかし気の毒なことをしました。リーロフ氏が墜落したのに、たすけることができなくて――",
"え、気の毒ですって? あれこそ天罰ではありませんか。あなたの綱を切った時には、私たちは思わず眼をおおいました。やつは悪魔です。でもあなたが無事に元気にかえってこられて、こんな喜ばしいことはありません。あの時、例の中国人少年石福海が、御恩がえしに、あなたをたすけにゆくといって、艇外へとびだそうとするのには、ほんとうにこまりました"
],
[
"ああ、石少年ですか。どこにいます",
"ここにいますよ。あなたの右手をにぎっているのが石少年です",
"おお石福海! お前は――",
"ああ太刀川先生、じっとして、先生の手、氷のように死んでいる。わたしすぐあたためて、生かしてあげる。はあ、はあ"
],
[
"艇長! スミス操縦長からの伝言です",
"おお、なんだ",
"本艇は、艇長の命令により、二千メートルの下降をおわりました。やがて雲の下に出られる見こみがたちました",
"そうか、ついに暴風雨をのりきったか。では操縦長にこうつたえよ。下界が見えるところまで雲の下に出ろとな",
"は、そうつたえます",
"それから針路は、さっき言ったとおり、もとの方向へもどっているだろうなと言え。もう一つ、ガソリンの量を至急しらべて報告してくれ",
"はい"
],
[
"艇長、ケレンコはどうしました",
"ケレンコは、あなたの計画どおり捕らえて、貨物室におしこめてあります",
"本艇は、暴風雨圏からうまくのがれたのですか",
"そうです。もう風雨はしずまっています",
"着陸地点までとべますか。無電連絡はまだつきませんか"
],
[
"艇長、たいへんです。ケレンコがにげました",
"なに、ケレンコがにげたって",
"綱をゆるめて、貨物室の窓をやぶって、外へとびだしました",
"え、外へとびだしたか。どっちへ落ちた",
"あ、こっちです。見えます見えます。ほら、あそこへ落ちてゆきます"
],
[
"おお落下傘を、どうしてケレンコが? ああ、しかしあれは本艇の落下傘ではないな",
"そうです。艇長。ケレンコは服の下に、あの奇妙な落下傘をしのばせていたんです",
"そうか、あんなものを持っていたか。ざんねんだ。とうとう二人ともつかまえそこねた"
],
[
"太刀川君かね。こちらは原大佐だ",
"ああ原大佐!"
],
[
"待っていたぞ、太刀川君。僕は今、君もよく知っている、役所の例の机の前にすわっているよ。さあ聞こう。話したまえ",
"ああ"
],
[
"私は今フィリピンの、はるかはるか北の沖に不時着しようとしているサウス・クリパー艇の中にいます。つい今しがた例の大海魔が海面からあらわれ、そしてすぐひっこんでしまうところを見ました",
"そうか、やはり本当にそのような怪物がいたのか。よし、じゃ、くわしく話したまえ",
"まず、形は――"
],
[
"もう時間がありませんから、この飛行艇が沈むまでに、できるだけのことを、報告しておきます。お書きとり下さい",
"よし、こっちの準備はできている。さっきから、君の話は、すべて録音されているのだ。では、はじめたまえ"
],
[
"太刀川先生、早く……ほら、もうすぐ海におちる",
"おお、石福海か、ちょ、ちょっと待て"
],
[
"ああ、だめだ、先生!",
"心配するな、しっかり僕の手につかまっておれ!"
],
[
"だまって、おまえは目がわるくて、二メートル先も、よく見えないのだろう。じゃ、夜だって昼だって同じことじゃないか",
"それ、ちがう、さっきの海魔、わたしの足くわえ、海の底、ひっぱりこむような気がする",
"はっはっはっは……何のことかと思ったら、それか。ところが僕は、あの海魔に、もう一度会いたいと思っているんだよ"
],
[
"あっ",
"あれ、あれ",
"きゃっ"
],
[
"先生、あの声は?",
"うん、みんなの声だ。いよいよ出たか",
"え、何がです",
"心配するな、何でもないよ"
],
[
"あ、先生。わたしの体、ながされる。おお、大きな渦、先生、あぶない",
"なに、渦だ。うーむ。いよいよやってきたか"
],
[
"おう、クイクイの神だ!",
"クイクイの神よ。われにつきまとう悪霊をはらいたまえ"
],
[
"わあー、わあー",
"ふ、ふ、ふーん"
],
[
"わあー、わあー",
"ふ、ふ、ふーん"
],
[
"よし、いよいよ買うか。では、そのかわり、わしがほしいといったものを、こっちへよこすか",
"それは承知した。ちゃんと持ってきてある。これこのとおりだ"
],
[
"では、こっちは、クイクイの神をもらってゆくぞ",
"たしかに、とりかえた"
],
[
"おい、何をぼやぼやしている。早く立て、委員長閣下のお呼びだ",
"何、委員長?"
],
[
"来い",
"おう"
],
[
"よろしい。君等の宣伝はその位にして、用件というのを承ろうじゃないか",
"ははは……太刀川君。まず腰を下したまえ、君がいかに強くても、もはや我々のとりこだ。生かすも、殺すも我々の意のままだ"
],
[
"なあんだ、ガルスキー、まだ、潜望テレビジョンがつけてないじゃないか",
"いや、閣下がおいでになってから、うつしだそうと思っていたのです。では、ただ今"
],
[
"おい、ガルスキー。怪力線砲の射撃用意!",
"え、怪力線砲の射撃? あれを二隻ともやってしまうのですか"
],
[
"なにをいっている。君は、わしの命令どおりにやればよいのだ",
"ですが、委員長。アメリカの駆逐艦はともかく、後のは、わが同盟国のイギリスの商船ですよ。それを撃沈する法はないと思います"
],
[
"軍艦であろうと同盟国の船であろうと、わが海底要塞をうかがおうとするものに対しては、容赦はないのだ。つまらぬ同情をして、せっかくこれまで莫大な費用と苦心をはらってつくったこの海底要塞のことがばれようものなら、日本攻略という我々の重大使命はどうなるのだ。なんでもかまわん、やってしまえ",
"ケレンコ委員長。さしでがましいですが、イギリスの商船のことは、もう一度考えなおしてくださらないですか"
],
[
"くどい。太平洋委員長兼海底要塞司令官たるわしの命令を、君は三度もこばんだね。よろしい、おい、ガルスキー。司令官の名において、今日、ただ今かぎり、副司令の職を免ずる。直ちに自室へ引取って、追って沙汰のあるまで待て",
"え、副司令を免ずる。そ、それはあまりです。もし、ケレンコ閣下、それだけは",
"くどい。おいそこの衛兵。ガルスキーを向こうへつれてゆけ。そしてリーロフを呼べ"
],
[
"おい、リーロフはどうした",
"私は少しも知りません"
],
[
"どうだ、この中の先生は、その後おとなしくしているか",
"はい、はじめはたいへん静かでしたが、さっきからごとごとあばれまわっています"
],
[
"おい、へんじゃないか。中には誰と誰とが入っているのか",
"さあ、誰と誰とが入っているのか、私は知りません。さっきこの部屋の前を私が通りかかると、中から一等水兵がでてきて、(急に胸がわるくなったから、向こうへいってくる。その間、お前ちょっと代りにここの番をしていてくれ)といって、いってしまったんです。それから私が立っているんですが、どうしたのか、まだ帰ってきません",
"それはおかしい。一等水兵は誰か",
"はき気があるとかいって、顔を手でおさえていたので、よくは見えませんでした。小柄の人でしたが……",
"いよいよ腑におちない話だ。よし、扉をあけてみろ。おい、みんな射撃のかまえ。中からとびだして反抗すれば、かまわず射て"
],
[
"副司令、お手伝をいたしましょう",
"いや、手伝はいらない。この潜水服は、自分ひとりで着られるのが特長だてえことを貴様は忘れたか"
],
[
"はて、貴様の顔はばかにもやもやしているが、貴様は誰か",
"は、昨日着任しました一等水兵マーロンであります。本日ただ今副司令当番となってまいりました",
"なんだ、一等水兵マーロンか。貴様は日本人太刀川のことを知っているか",
"は、名前はきいて知っております",
"そうか、知っとるか。その太刀川は、もうつかまったかどうか、貴様は知らないか",
"私はまだ聞いておりません",
"知らない。知らなければちょっと捜査本部に行って、様子を聞いてこい",
"はい。しらべてきます"
],
[
"おい、みんな。あそこにおれの潜水服を着ているあやしい奴をとりおさえろ。胸のところに、これと同じように大佐の縞がついている潜水服を着ている奴だ!",
"しまった!"
],
[
"おとなしくしろ",
"副司令の服なんか着こんで、ふとい奴だ"
],
[
"やったな、こいつ!",
"なにを!"
],
[
"このやろう!",
"このやろう!"
],
[
"おい、ああしてとりくんでいるが、どっちがリーロフ大佐なのかね",
"いや、おれにも、どっちがどっちか、わからなくて困っているんだ"
],
[
"おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか",
"おい、なにをぐずぐずしている。みんな、手をかさないか"
],
[
"何をいう。おい、お前たちにはこのリーロフの声がわからないのか",
"おや、おれの声をまねるとは、こいつふとい奴だ。おい、みんな、早くこいつを銃で撃ちとれ",
"あ、あぶない。おれはリーロフだ。おれの相手を撃て"
],
[
"海坊主とは、海にいる幽霊のことだ",
"海にいる幽霊、ははあ、吸血鬼のことですか。かねてうちの母から、海中にはおそろしい吸血鬼がすんでいると聞いていましたが、な、なーるほど"
],
[
"さあ、そいつのしまつができたら、さっきの命令どおりに、はやく商船の中にはいりこんで、積荷をとりだすんだ。はやくやらないと、吸血鬼が、船の中のものを食いにやってくる。それとぶつかってもおれは知らないぞ",
"ちぇ、もう吸血鬼の話は、たくさんですよ",
"文句をいわないで、早く船腹の、こわれたところから入りこむんだ",
"へえ、へえ、――"
],
[
"なんだ、あわてたかっこうをして?",
"積荷をとりだせという御命令でしたが、船の中に、もぐりこんでみると、中は爆発で、めちゃくちゃにこわれております。積荷は、ほとんどだめです。ちょっと御検閲をねがいます",
"ちょっ、じゃ、ウイスキーの箱は、あてはずれか"
],
[
"た、た、たいへんです。海の吸血鬼がきているんです",
"この奥のところです。そ、そいつは太いパイプの中で、歯をむきだして、こっちをにらみつけました",
"い、いのちがちぢまった。吸血鬼を見たのは、うまれてはじめてだ。おおこわい",
"ばかども!"
],
[
"いや、これから君と一しょに海底要塞を検閲しようとおもうのだ。副司令として、君にみてもらいたいところがあるのだ。潜水隊員は、わしからひきとるように命じておいたから、心配せんでもよい",
"は、では、さっそくおともしましょう",
"いや、なかなかよろしい。君は副司令になってから、言葉づかいも日頃のらんぼうさも、急にあらたまったようだな。いや、わしもまんぞくじゃ"
],
[
"ふーん、それは君ともあらためて相談したいと思っていたんだ。わしは、はじめ、時期を待つつもりであったが、もうこうなれば早い方がいいとおもう",
"こうなればといいますと――",
"つまり、サウス・クリパー艇を墜落させたことは失敗じゃったのだ。それにつづいて、米国の駆逐艦と英国の商船とをしずめたが、その結果、わが海底要塞のひそむ海面は、全世界の注意をひきつけることになった。各国の艦艇が、ぞくぞくとこの海面へ集って来ては、めんどうだから、その前に行動をおこした方が、得策のように思うが……"
],
[
"まだ十分の準備ができていないのに、戦をはじめて、はたして勝利がえられましょうか。もしも計画どおり行かなかったときは、すぐモスコー(ソビエトの首府)によびかえされて、反逆者の名のもとにどーんと一発、銃殺されてしまいますぜ",
"なんだ、君らしくもない。はじめからやぶれるつもりで戦って、勝てたためしがあるか。わが海底要塞の戦闘準備は、まだ、完全とはいえないが、敵の防備を破壊し、首都東京をおとし入れるだけの自信は十分あるよ。四百隻からなるわが恐竜型潜水艦は、だてやかざりにつくったのじゃない。いかに日本の海軍が強くとも、これにかかっちゃ、手のほどこしようがなかろう。わずか一時間で、東京およびその附近は、全滅じゃ。地上地下、生物は、猫の子一匹ものこるまい。考えただけでも胸がおどるじゃないか。いや、君を前において恐竜型潜水艦の自慢をするのは、あべこべじゃったねえ。ふふふふ"
],
[
"もしもし、海底要塞の正面へ来ました。どこへつけますか",
"うむ、恐竜格納庫第六十号へつけろ"
],
[
"あははは、あははは。司令官閣下から御注意をうけるまでもなく、私の分だけなら、ここに十分もってきていますよ。あははは",
"うむ、じゃ、どうするつもりなんだ",
"つまりその、あなたがたが、のみたくなったときに、こまると思いましてね",
"なに",
"いや、今日の演習がおわるまでに、きっと、酒をのみたくなることが、できてきますよ。きっとそうなります。そのときに、私ばかりがのんでは、いやはやお気の毒さまで……"
],
[
"は。閣下はまだ出発号令をおかけになりませんので……",
"ばか、ばか、ばか。貴様は何年運転士をつとめているのか。よし、こんどかえったら、銃殺だ",
"ええっ、閣下。それはあんまり……",
"やかましい。早く快速艇を走らせろ",
"へえい"
],
[
"正面、舳のわずか右上に、うす黒く、ぼんやりしたものがあるでしょう",
"あああれか。なるほど"
],
[
"司令官閣下。どういたしましょう",
"うむ……"
],
[
"恐竜にのっていりゃ、海上の様子も、テレビジョン鏡で手にとるように見えるのだが、……今から恐竜にのりうつることもできない。あと十分でアメリカ大艦隊とぶつかるというどたんばに来ては――",
"え、アメリカ大艦隊?"
],
[
"貴様は、また酒をくらって酔っぱらっているんだな",
"いえ、酒などは……"
],
[
"は、はい",
"はやくハンドルをまわせ。ぐずぐずしていると、みんなこっぱみじんになるぞ。敵の爆弾が、近くの海面におちはじめたんだ!",
"は、はい!"
],
[
"司令官閣下もうだめです。快速艇は、うごかなくなりました。どうしたらよいでしょう",
"心配しないでもよい。今に他の艦が通りかかるだろう。――それより、あれはどうした。太――いや、リーロフ大佐は?",
"リーロフ大佐は、さっき艇から下り、前へまわって、故障をしらべていたようですが"
],
[
"お、お前は無事じゃったか",
"はい。ごらんのとおり、だが、この艇はもうだめです。ただ今、無電をもって、別の艇をよんでおきました",
"ほう、それは手まわしのいいことだ"
],
[
"お前のいったとおり、こんな目にあうと知ったら、酒を用意してくるんだったね",
"いや、どうもお気の毒さまで……"
],
[
"司令官閣下。おむかえにまいりました。おめでとうございます。恐竜第六十戦隊が、三十数隻のアメリカ艦艇を撃沈して、全艦無事いま凱旋してくるというしらせがありました",
"うむ、そうか。三十数隻では、十分とはいえないが、とにかく恐竜万歳だ。祝杯をあげよう",
"祝いの酒は、本艦内にたくさん用意してまいりました。さあすぐおのり下さい。いま潜水扉をあけます"
],
[
"はなしてください、ケレンコ司令官。この太刀川こそ、わが海底要塞にとって、たたき殺してもあきたりない人物じゃないですか",
"そんなことは、よく知っているよ。しかしお前は、あんがい頭が悪いね。太刀川と知りつつ、海底要塞を案内したり、恐竜型潜水艦の威力を見せてやったりしたのは、一たい何のためか、それぐらいのことがわからないで、副司令の大役がつとまるか"
],
[
"でも、ケレンコ閣下、太刀川みたいなあぶない奴は、早く殺しておかないとあとで、とんだことになりますぜ",
"それだから、お前はだめだというんだ。太刀川は、日本進攻の際の、このうえないいい水先案内なんだ。お前には、それが分からないのか",
"え?",
"この男は、海洋学の大家だぞ。ことに、日本近海のことなら、なんでも知っているはずだ。この知識をわれらの目的につかうまでは、太刀川は大事な人間なんだ。おい太刀川。貴様にも、はじめてわけが分かったろう。生かすも殺すも、わしの勝手だ。だが、わしの命令にしたがえば、恩賞はのぞみ次第だ"
],
[
"おい、衛兵長。それまでこの太刀川を監禁しておけ",
"は。どこへ放りこみますか",
"あいている部屋ならどこでもよい。それから、上等の食事に、酒をつけてな",
"は。たいへんな御馳走ですな",
"余計なことをいうな。しかし、逃げないように。もし逃がしたら、お前をはじめ衛兵隊全員、銃殺にするぞ",
"は、はっ"
],
[
"なんだね、このむかむかする臭は",
"缶詰がくさったらしいんです。捨てろという命令が出ないので、そのままになっているんです"
],
[
"おい、できたか。どうもこの悪臭には、降参だな",
"もう大丈夫です。絶対に逃げられません",
"そうか。では、その方は、それでよしと、あとは飯をくわせてやれ。酒もすこしばかりつけてやれ。だがこの悪臭の中で、食えるかな"
],
[
"衛兵長。どこへいくのですか",
"うん、おれはちょっと、司令官のところへ報告をしてくる。お前たちは、いいつけたとおり見はっているんだ"
],
[
"ここならまだ、ましだ。この中にいちゃ、目まいがしそうだ",
"じゃおれは食物をとってくるからな",
"いや、それはおれがいこう",
"待て、おれもいく"
],
[
"太刀川さん。これは、すばらしい探検記ですよ。だが、僕たちは、このまえ一度、あなたをみかけましたね",
"そうそう、海底の汽船が沈没していたところでしょう",
"そうです、あの時、僕はあなたを見つけたのですが、あまりのことにびっくりしたのです。実は、太刀川さん。僕はこの酋長ロロのすんでいるロップ島へながれついて、一命を助ったのです。酋長ロロは、なかなかりっぱなそして勇敢な人間です。そのロップ島からすこしはなれたところにカンナ島という石油が出る島がありますが、そのカンナ島の古井戸から、この海底城(ダン艇長は海底城という言葉をつかった)へ、秘密の通路があることを知って、僕たちをつれてきてくれたのです"
],
[
"いうまでもなくこの海底城をつくった人間がつくったのです。カンナ島に、かくれた石油坑があればこそ、この海底城に、電灯がついたり、ポンプがまわったりしているのです",
"なるほど"
],
[
"アナタハ、ニッポンジンカ。ワタクシモ、ニッポンジンダ",
"ほほう、……"
],
[
"僕は日本人で、太刀川時夫というんだ。君は誰だ",
"ああ、やっぱりあなたも日本人!"
],
[
"うれしい。こんなところで日本人に会うなんて、まったく夢のようです。ダン艇長が、あなたのことタツコウとよぶので、フィリピン人かと思っていたんです。よかった。わたしも日本人、三浦須美吉という者です",
"え、三浦須美吉"
],
[
"じゃ、君が三浦須美吉君か",
"そうです。あなたはどうしてわたしの名前を……",
"知っているとも、僕は、君が海中へ流した空缶の中の手紙によって、はるばる大海魔を探しに来たのだ。それにしても君はよく生きていたね"
],
[
"無礼なことをいうな。よし、ただ今かぎり、貴様の副司令の職を免ずる",
"なに、副司令の職を免ずる"
],
[
"ところで衛兵長、お前は、三人のあやしい男を発見したとかいったが、あとの二人はどうしたのか",
"はい、二人はその場で、鉄砲でうちたおしてあります。ご安心ください",
"おお、そうか"
],
[
"おお、神の力は、広大無辺である",
"あれ、いやだねえ。とうとうわしは卵を生むようになったか"
],
[
"おい、リーロフ大佐。どこへいく",
"どこへいこうと、おれの勝手だ",
"いっちゃならん。日本進攻を前にして最後の幕僚会議を開こうというのに出ていくやつがあるか",
"副司令でもないおれに、会議の御用なんかまっぴらだ。おれはおれの実力で自由行動をとる。あたらしい副司令には、太刀川時夫を任命したがいいだろう",
"なにをいうんだ。リーロフ、少し口がすぎるぞ、貴様は、明日のことをわすれているのか。われわれが、スターリン(ソビエトの支配者)の命令をうけ、これだけの時間と労力と費用とをかけて、この海底大根拠地をつくったのは何のためであったか。明日こそいよいよ恐竜型潜水艦をひきいて、日本艦隊を屠り去り、そして東洋全土にわれわれの赤旗をおしたてようという、多年の望がかなう日ではないか。その明日を前にして、貴様のかるがるしい態度は、一たいなにごとか",
"いや、おれはケレンコ司令官の戦意をうたがっているのだ。いつも、口さきばかりで、今まで一度も言ったことを実行したことがないではないか。君は、要塞の番人にあまんじているのだ。ほんとうの戦闘をする気のない司令官なんか、こっちでまっぴらだ",
"リーロフ大佐、何をいう。近代戦で勝利をおさめるのに、どれほどの用意がいるかを知らないお前でもないだろう。ことに相手は、世界に威力をほこる日本海軍だ。われわれはどうしても今日までの準備が必要だったのだ",
"ふふん、どうだか、あやしいものだね。君がやらなきゃ、おれは今夜にも、恐竜型潜水艦で、東京湾へ突進する決心だ。なあに、日本艦隊がいかに強くとも、東京湾の防備が、いかにかたくとも、あの怪力線砲をぶっとばせば、陸奥も長門もないからねえ。いわんや敵の空軍など、まあ、蠅をたたきおとすようなものだ"
],
[
"おい、リーロフ。それほど何もかもわかっている君が、なぜ目先のみえない乱暴なふるまいをするのか",
"おれは、日本艦隊を撃滅するのをたのしみに、はるばるこんな海底までやってきたんだ。勝目は、はじめからわかっているのに、いつまでもぐずぐずしている司令官の気持がわからない。明日攻撃命令を出すというが、ほんとうか、どうか、いつもがいつもだから、あてになるものか"
],
[
"よし、わかった。君の心底は、よくわかった。余が君を副司令の職から去ってもらおうとしたのは、大事を前にして、粗暴な君に艦隊をまかせておけないと思ったからだ。君がそれほど戦意にもえているのなら、今後は、粗暴なことをやるまい。なにしろ明日になれば、わが全艦隊は出動して、余も君も、ひたむきに太平洋の水面下を北へ北へと行進するばかりだからね",
"わたしもというと……",
"リーロフ大佐、君をあらためて副司令に任命するのだ",
"なんじゃ。それは、ごきげんとりの手か"
],
[
"わが海底要塞に、今ある潜水艦は、三百八十五隻だ。余はそのうち二百五十五隻をひきいて、これを主力艦隊とし、大たいこの針路をとって、小笠原群島の西を一直線に北上する",
"ふん。そこで、のこりの百三十隻の潜水艦は?",
"その百三十隻をもって、遊撃艦隊とし、われわれよりも先に出発させ、針路をまずグァム島附近へとって、日本艦隊をおびきよせ、そのあたりで撃滅し、次に北上を開始し、紀淡海峡をおしきって、瀬戸内海をつくんだ。そのうえで、艦載爆撃機をとばせて、大阪を中心とする軍需工業地帯を根こそぎたたきつぶしてしまう",
"ふふん。話だけはおもしろい。この遊撃艦隊をひきいていく長官は、誰だ。もちろん、わたしにそれをやれというんだろう"
],
[
"そのとおりだ。遊撃艦隊司令長官リーロフ少将だ。そうなると、君は提督だぞ。これでも君は、人をうたがうか。いやだというか",
"わたしは少将で、そっちは太平洋連合艦隊司令長官兼主力艦隊長官ケレンコ大将か。ふん、どうでも、すきなようにやるがいい"
],
[
"ただ今、十日午後六時。北北西の風。風速六メートル。曇天。あれ模様。海上は次第に波高し",
"よろしい"
],
[
"……日本第一、第二艦隊は、かねて琉球附近に集結中なりしが、ただ今午後六時三十分、針路を真東にとり、刻々わが海底要塞に近づきつつあり。彼は、決戦を覚悟せるものの如し",
"ほう、日本艦隊もついにはむかってくるか。どこで感づいたのだろうか。いやいや、もっと見はってみないと、にわかに日本艦隊の考えはわかるまい。とにかくリーロフ提督、君のひきうける敵艦隊の行動について、ゆだんをしないように"
],
[
"先生、今日という今日は、じつに、うまくいきました",
"なにがさ",
"この外にいる衛兵たちを、みんな眠らせてしまったのです。酒の中に、眠薬を入れておいて出しましたから、衛兵たちは、それをたらふくのんで、今しがたみんな、だらしなくころがって、眠ってしまいました。逃げるなら、今のうちですよ",
"ふーむ、そうか。石、よくやってくれた"
],
[
"先生、わたくしは、先生がこの要塞の中にいられることを前から知っていました。わたくしもあの日、渦にまきこまれて気をうしないましたが、気がついてみると、魔城の一室にとらえられていたのです。それから、ずっと大食堂の給仕につかわれていたのです。おしらせしたいと思ったですが、なかなか見張がきびしくて、とても近づけませんでした",
"おお、そうかそうか"
],
[
"いや、待ってください。どうやら今夜は、われわれにとって、このうえない好機会のようです。わが祖国のために、又世界の平和のために彼等をうちのめしてやるのには……",
"それは危険だ。一まず、カンナ島へひきあげて、それからにしては……",
"僕は、今宵ソ連兵たちが大盤ぶるまいをうけたのは、おそらく明日、太平洋へ乗りだすための前祝だと思うのです。もしそうだとすると、ぐずぐずしていたのでは、間にあいません。今夜のうちに、彼等をやっつけてしまわないと、おそいかもしれません",
"でも、このきびしい海底城を、どうすることもできないではないですか"
],
[
"いよいよ、カンナ島の用意が出来たんだ",
"じゃ。こっちからも、信号を"
],
[
"番をしている兵がいる",
"よし、やっつけるばかりだ"
],
[
"ああ、あそこに水中快速艇がある",
"早く、早く。あともう四分しかない。これでは、安全なところまで、逃げられないかもしれない。たいへんなことになった",
"なあに、ダン艇長。心配は、あとにして、一刻も早くとび出そう"
],
[
"あと、もう二分!",
"もう一キロメートル半、遠のいた"
],
[
"もうあと一分だ!",
"三浦、ロロの二人は、うまくやってくれたろうか"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社
1939(昭和14)年1月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2006年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003374",
"作品名": "太平洋魔城",
"作品名読み": "たいへいようまじょう",
"ソート用読み": "たいへいようましよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1939(昭和14)年1月~12月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-07-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
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"生年月日": "1897-12-26",
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[
[
"第一不思議なのは本艦の方向だよ。或時は東南へ走っているかと思うと、或時は又真東へ艦首を向けている",
"そうだ。俺は昨夜、オリオン星座を見たが、こりゃひょっとすると、飛んでもない面白いところへ出るぞと思ったよ",
"面白いところへ出るって、どこかい。おい、いえよ",
"うふ。その面白いところというのはな",
"うん",
"それは……"
],
[
"大日本帝国、万歳!",
"ばんざーい",
"ばんざーい",
"ばんざーい"
],
[
"貴艦の武運と天佑を祈る",
"ありがとう存じます。それでは直に行動に移ります。ご免ッ"
],
[
"あッ――",
"やられたな、どうした伝令兵!"
],
[
"万歳!",
"潜水戦隊、万歳!"
],
[
"やれやれ",
"お祝いに、煙草でものもう"
],
[
"おや、あいつ、こっちへ向ってくるぞ",
"こりゃ怪しいですな。大砲を持っているわけでもないらしいですが",
"とにかく停船命令に一発、空砲を御馳走してやれ",
"はッ――主砲砲撃用意ッ"
],
[
"うん。とうとう仮面を脱ぎよったぞ、飛行機を積んでいるから、先生気が強いのだ",
"艦長どの。艦上攻撃機です",
"カーチス機だな"
],
[
"救いの駆逐艦を呼べ!",
"その辺に××××の潜水艦はいないか",
"飛行機が下りて来たぞ、ガソリンがなくなったらしい"
],
[
"日本の潜水艦がいないのです。さっきから、水中を伝わって来ていた敵艦のスクリューの音が、パタリとしなくなりました",
"なに、推進機の音がしなくなった? それはいつのことだ",
"もう十分ほど前です",
"なぜもっと早く知らせないんだ",
"敵艦は、もう逃げてしまったのでしょう",
"ばか! な、な、なんてことだ……"
],
[
"はッ",
"まだ旗艦からの無線電信は入らぬかッ",
"まだであります",
"そうか"
],
[
"はッ、ここにおります",
"まだ旗艦からの信号はないかッ",
"残念ながら、まだであります",
"そうか"
],
[
"おお、そうか",
"旗艦からの報告です"
],
[
"うッ、命中だッ",
"やったぞ。万歳"
],
[
"とうとう、やられてしまったのだ",
"ああ勇敢だった第十潜水艦!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社
1933(昭和8)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "003516",
"作品名": "太平洋雷撃戦隊",
"作品名読み": "たいへいようらいげきせんたい",
"ソート用読み": "たいへいようらいけきせんたい",
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"原題": "",
"初出": "「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1933(昭和8)年5月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "うんの",
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[
[
"ああ、なんだか身体が、あんな風になっちゃったんだよ。もういたくも何ともないよ。――それで僕は伯父に……",
"だけれど、へんね。まるで、目まいでも起こしたようだったわね",
"なあに大したことはないよ。僕、このごろすこし神経衰弱らしいのでね"
],
[
"あら、およしなさいよ、松島さん",
"あれッ、ひどいよ、君ちゃん。君の方が、ぶつかっておいて……"
],
[
"あれえ、誰かいるわよ",
"さあ、誰もいやしないよ",
"あら、誰もいないのね。いま、へんだぞとかなんとかいったように思ったけれど……"
],
[
"……",
"なんだい、その顔は。鼠が鏡餅の下敷きになったような当惑顔をしているじゃないか"
],
[
"それは、分っているさ、別にその人(実はわたくしのこと)の身体が見えなかったわけじゃないのさ",
"えっ?",
"つまり、あんなところで密会している若い男女にとって、向うから突き当ってくるその人は、不気味な恐ろしい人物と見えたので、そこで触らぬ神に祟なしのたとえのとおりで、見て見ぬふりをしたというわけだ。つまり、その人を怒らせて、物事をあらだてては、二人の大損だからね",
"ふーん、なるほど。そうだったか。はははは",
"なにがおかしいんだ。へんな男だ"
],
[
"ふうむ、君の人相を仔細に見たのは今が初めてであるが、君の人相は天下の奇相であるぞ。愕いたもんだ",
"なんだね、その奇相というのは……"
],
[
"むかしわれ等の先輩の一人は、草履取木下藤吉郎の人相を占って、此の者天下を取ると出たのに愕き、占いの術のインチキなるに呆れ、その場で筮竹をへし折り算木を河中に捨て、廃業を宣言したそうであるが、その木下藤吉郎は後に豊太閤となった。だが、わしは今、この天眼鏡と人相秘書とを屑屋に売り払おうと思う",
"おい、脅かしっこなしだ。なに事だね、一体それは……",
"つまり君の人相だ。実に千万億人に一人有るか無しの奇相である。それによると、君はわれわれが今見ている現実世界の住人ではない",
"えっ、なんだって、少しもわけがわからない",
"わからないことはない。君は、超宇宙人種だ",
"超宇宙人種? いよいよわからなくなった。超宇宙人種かもしれないが、現にこうしてりっぱな日本人として、君の目の前にいる"
],
[
"これを分り易くいえば、わが眼に今見えている君は、君の実体を或るところから、すぱりと斬ったその切り口に過ぎない。たとえば、ここに一本の大根がある。その大根を、胴中からすぱりと切り、その楕円形の切り口の面だけを見ていると同じことだ。つまり“ほほう、これは真白な、じくじく水の湧いた楕円形の面だ”と思う。しかるに、その白面は、大根の一つの切り口に過ぎないのである。面だけのものではない。だから、今目の前に見えている君は、君の実体の一つの切り口に過ぎないのだ。君の実体は、かの白い切り口における大根そのものの如く、われわれの想像を超越した何者かである",
"どうもよくわからん",
"理窟だけなら、よくわかっているじゃないか。では、こういうことを考えて見たまえ。われわれの世界では、物は皆、縦と横と高さとを持つ。つまり三次元だ",
"うん、三次元の世界だ",
"しかるに今、二次元の世界があったと仮定しろ。それは縦と横とがあるきりで、高さがない。まるで静かな水面のような世界だ。平面の世界だ",
"うん、二次元の世界か",
"今、水面へ、さっきの話の大根をしずかに漬けていったとしよう。はじめは、大根の尻ッ尾が水面に触れる。そのとき二次元の世界では、大根は一つの小さな点だとしか見えない",
"ふふん",
"ところが、大根を、ずんずん水の中におろしていくと、水面に切られている部分は、だんだん大きい白円に拡がっていく。二次元の世界では、点がだんだん大きい白円に生長していくのが見えるのだ。そしてついに、大根の葉っぱのところが水面で切られると、今まで白円と思っていたものが、急に一変して、多数の青い帯が散乱しているように見える。その青い帯が、たえず動き、そして形が変るのだ。そして大根の葉っぱの一番上のところが、水面をとおりすぎて下におちると、とたんに二次元の世界には、なんにもなくなる",
"ふふん、奇妙なことだ",
"はじめ白い点から始まり、やがて大きい白い円盤となり、やがてそれが青い帯の散乱となり、ついにぱっと消えてしまうまで――二次元の世界の生物には、それは一種の幽霊的現象として映ずるが、われわれ三次元の世界の者をして云わしむれば、それは要するに、一本の大根が、静かなる水面に交わり、しずかに下に下っていったに過ぎないのだ。だが二次元の世界の生物には、われわれが認識しているような大根の形をついに想像出来ないのだ。二次元の者には、三次元の物を認識する能力がないのだ",
"ふーん、君はなかなか科学者だ",
"そうだ、人相見の術は、科学なのである。そこで君のことに帰るが、わしの観相によると、君は三次元の生物ではなく、四次元の生物であると出ているのだ。そんなばかばかしいことがあってたまるものかと思うが、そう出ているんだから、よういわん。わしは、きょうかぎり、人相見をよそうと思う。インチキ極まる術だ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「ユーモアクラブ」
1940(昭和15)年1月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003381",
"作品名": "第四次元の男",
"作品名読み": "だいよじげんのおとこ",
"ソート用読み": "たいよしけんのおとこ",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「ユーモアクラブ」1940(昭和15)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-08-12T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3381.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第6巻 太平洋魔城",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年9月15日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1989(平成元)年9月15日第1版第1刷",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "土屋隆",
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"テキストファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"あたくしをつけ廻さないように……あたくしの眼界から完全に消えてしまうように、きまりをつけていただきたいのでございます",
"その男に約束させるか、その男を殺すかですね。奥様はどっちを……"
],
[
"――しかし事は完全に処置されることを条件といたします",
"彼に死を与えるか、それとも完全に約束させるかのどっちかですが、果して彼が完全に約束を守るような男かどうか――おお、それについて、一体、かの男は奥様とどういうご関係の人物であるか、それについてお話し願いたいのですが……"
],
[
"今までに何の関係もなかった男なんでございますの。これまで全然見たこともなかった人でございますの。あんな醜い歪んだ顔の人を、これまでに一度でも見たことがあれば、忘れるようなことはございませんもの。それなのに、あたくしは今、あの化物みたいな男にしょっちゅうつけ狙われているんでございます。ああ、いやだ。おそろしい。気が変になりそう……",
"そういう次第なら、警察へ訴えて、かの男に説諭して貰うという方法が、この際もっとも常識的かと思われますが",
"ああ、何を仰有います。警察があたくしたちのために何程のことをしてくれるものでございましょうか。ただ、徒らにかきまわし、あたくしたちをいらいらさせ、そして世間へいっとき曝しものにするだけのことで、あたくしの求めることは何一つとして得られないのです。ごめんですわ。あたくしは直線的に効果ある方法を採るのです。それが賢明ですから。あなたさまは、事件の秘密性をよく護って下さる方であり、ほんのちょっぴりしかお尋ねにならないし、そして思い切った方法で解決を短期間に縮めて下さる、その上に常に事件依頼者の絶対の味方となって下さる方だと世間では評判していますので、それで依頼に参ったわけですわ。この世間の評判は、どこか間違っているところがございまして",
"過分のお言葉でございます。とにかく早速ご依頼の仕事にとりかかることといたしまして、只一つお伺いいたしますことは、甚だ失礼でございますが、御つれあい様とのご情合はご円満でございましょうか"
],
[
"はあ、至極円満……つれあいはあたくしを非常に愛し、そして非常に大切にしてくれて居ります",
"あなたさまの方は如何です、おつれあい様に対しまして……"
],
[
"あたくしのつれあいは碇曳治でございます。桝形探険隊の一員でございますわ。そう申せばお分りでもございましょうが、桝形探険隊は今から六年前の昭和四十六年夏に火星探険に出発しまして、地球を放れていますこと五年あまり、今年の秋に地球へ戻ってまいりました。これだけ申上げれば、あたくしがこんど始めて家庭を持ったことを信じていただけると存じますが、いかがでございましょう。実際あたくしは、あの人と知り合ってから六年間という永い間を孤独のうちに待たされたのでございます",
"イカリ・エイジと仰有いましたね"
],
[
"ええ、碇曳治ですわ。宇宙の英雄ですわ。あたくしのつれあいは、ロケット流星号が重力平衡圏で危険に瀕したとき、進んで艇外へとび出し、すごい作業をやってのけたんでございますのよ。その結果、流星号はやっと危険を脱れて平衡圏を離脱し、この大探険を成功させる基を作りましたのです",
"なるほど、なるほど。……それでは数日間の余裕を頂きまして、この事件の解決にあたりますでございます。もちろん解決が早ければ、数日後といわず、直ちに御報告に伺います。では、私の方で御尋ねすることは全て終りましてございます。そちらさまからお尋ねがございませんければ、これにて失礼させて頂きとうございます",
"それではここに手つけの小切手と、あたくしの住所氏名を。しかしこの件についてはつれあいにも秘密厳守で進めて頂きますから、そのおつもりで"
],
[
"おじさま、お早ようございます",
"やあ、ムサシ君か"
],
[
"惚れているとは……よくまあそんな下品な言葉を発し、下品なことを考えるもんだ。今の若い者の無軌道。挨拶の言葉がないね",
"だって、そういう結論が出て来るでしょう。おじさまは今のお客さんから当然聞き出さなくてはならない重大な項を、ぼろぼろ訊き落としています。なぜ名探偵をして、かの如く気を顛倒せしめたか。その答は一つ。老探偵――いや名探偵は恋をせり、あの女に惚れたからだと……",
"というのが君の推理か。ふふん。で、私がいかなる重大事項を訊き落としたというのかね",
"たとえば、ええと……あの婦人がなぜその男を恐れているのか、その根拠をはっきりついていませんね",
"恐怖の理由は、あのひとがはっきり説明して行った。その男の顔がたいへん恐ろしいんだそうな。それがいつもあのひとをつけねらっていると思っている。それだけの理由だ",
"それはあまりに簡単すぎやしませんか。恐怖の理由をもっと深く問い糺すべきでしたね。真の原因は、もっともっと深いところにあると思う",
"君はわざわざ問題を複雑化深刻化しようとしている。それはよくないね。物事は素直に見ないと誤りを生ずる",
"でも、それではおじさまの判定は甘すぎますよ。これはすごい大事件です",
"そうかもしれないが、とにかくあの婦人の立場においては、あれだけのことさ",
"僕は同意が出来ませんね。おじさま。あの婦人が恐怖しているその男はどんな顔の男か。それを訊かなかったじゃないですか。こいつは頗る大切な事項なのに……",
"そんなことは訊くまでもないさ。これから行って、あのひとにまといついているその男の顔を実際にわれわれの目が見るのが一番明瞭で、いいじゃないか",
"呑気だなあ",
"ムサシ君。事件依頼者からは、なるべくものを訊かないようにするのがいいのだよ。こっちの手で分ることなら、それは訊かないに越したことはない",
"そうですかねえ"
],
[
"君も一緒に行ってくれるだろう。私はあと五分で出掛ける。もちろんあの恐ろしい顔の男を見るためにだ",
"僕はもちろんお供しますよ、おじさま"
],
[
"七つ目のアーチの蔭に――ほら、身体を前に乗り出した",
"見えます、僕にも。ああッ。……実にひどい顔!"
],
[
"おいムサシ君。これからあの人物に、面会を求めてみる",
"逃げ出すようなら取押えましょうか",
"いや、相手の好きなままにして置くさ。機会はまだいくらでもある"
],
[
"なにが駄目だい",
"まずいじゃありませんか。いきなりあの男に、谷間シズカさんのことを聞いたりして……。あれじゃ彼は大警戒をしますよ",
"あれでいいんだよ。わしはちゃんと見た。あの男にとっては、谷間シズカなる名前は、さっぱり反応なしだ。意外だったね",
"ははあ、そんなことをね"
],
[
"船乗りだったろうの方は反応大有りさ。そこでわしを突倒して逃げてしまった",
"どうして船乗りだと見当をつけたんですか",
"それはお前、あの帽子の被り方さ。暴風帽はあのとおり被ったもんだよ",
"ははあ。それで彼が船乗りだったら、この事件はどういうことになるんです",
"それはこれから解くのさ。彼が船乗りだというこの方程式を、われわれは得たんだ",
"関連性がないようですねえ",
"いや、有ると思うね。彼が船乗りだということが分ると、そのことがこの事件のどこかに結びつくように感じないか",
"さあ、……"
],
[
"さて、ちょっと谷間夫人を訪問して行くことにしよう",
"正式に面会するんですか",
"いや略式だよ。君に一役勤めて貰おう。こういう筋書なんだ"
],
[
"どういう御用でしょうか。おっしゃって頂きます",
"実は御主人のファンから手紙とお金が届いているんです。つまり御主人が火星探険隊員として大きな殊勲をたてられたことに対して一読者から献金して来たんですがね、そのことについて一寸お話したいんです"
],
[
"どうも何とも申訳ありません。あのひとは非常な謙遜家でございまして、このごろでは自分を英雄として宣伝されることをたいへん嫌って居りますんですのよ。新聞社の方へは、あたくしが代りに伺いまして、お詫びやらお礼を申上げますから、どうかお気を悪くなさらないように",
"いや、気は悪くしてはいませんが、ファンの手紙と金は受取って下さい。じゃあ郵便でそっちへお送りしましょう"
],
[
"今の僕のやり方でよかったですか",
"結構だった",
"そんならいいが……しかしおじさま、あれだけでは碇に怒鳴りつけられただけで、さっぱり収穫はないじゃないですか"
],
[
"え、新しいことをですか。どんなことです。それは……",
"君にも分っていると思うんだが、あの二人は正に同居していたこと",
"そんなことなら僕だって分る……",
"それからシズカ夫人は碇氏を誇りとしていること。ところが碇氏はそうでなくて、探険隊員のことで宣伝されるのを厭がっていること――このことが私には最も大きな収穫だった。それによって私は、これからすぐに訪問しなければならない所が出来た",
"面白いですね。どこへでもお供します。しかしおじさま。事件の本筋を離れるんじゃありませんか。だって碇氏の方のことを調べたって、シズカ夫人につけまとう恐ろしい顔の男の方は解決されないでしょうから……",
"まあ、私について来るさ。とにかく何でもいいから、腑に落ちないものが見つかれば、それをまず解決して行くのがこの道の妙諦なんだ。案外それが、直接的な重大な鍵を提供してくれることがあるんでね",
"またおじさまの経験論ですか。それは古いですよ。統計なんておよそ偶然の集りです。確率論で簡単に片附けられる無価値なものですよ",
"条件をうまく整理すれば、そんなに無価値ではなくなる。まあ、行こうや"
],
[
"何だ、仕事かい。まさか新しい利益配当の提訴事件じゃないんだろうね。もう隊には、儲けはちっとも残っていないんだから",
"そんなことじゃない。或る探険隊員について知りたいのだ。碇曳治という人がいたね。新聞やラジオで、宇宙の英雄ともちあげられた男だ",
"ははあ、又縁談の口かね。あの男ならもう駄目だよ。七年越しの岡惚れ女と今は愛の巣を営んでいるからね",
"谷間シズカという女のことをいっているんだね",
"おや、もうそれを知っているのか。それでないとすると、どういう事件だい",
"僕の仕事は依頼者のために秘密を守る義務を負わされているのでね。……ところであのときの記録綴を見せて貰いたいんだ。いつだかもすっかり見せて貰ったが、書庫へ行った方が、少しは君たちの邪魔にならなくていいだろうね"
],
[
"どうも変だね。始めの方には、隊員名簿の中に碇曳治の名がない、途中から以後には彼の名がある。これはどういうわけかね",
"はははは。そんなことかい。名探偵にそれ位のことが分らないのか",
"最初の隊員総数三十九名。帰還したときには四十名となっている。碇曳治は、始めつけ落されている。なぜだろう。隊長たる君が勘定から洩らしている隊員。ああ、そうか碇曳治は密航者なんだ。そうだろう",
"もちろん、そういうことになる"
],
[
"桝形君。ここのところに抹消されたる文字があるが、これはどう読むんだろう",
"抹消、すなわち読まなくていい文字だ",
"だってこれを読まないと文章が舌足らずだぜ",
"文芸作品じゃないからそれでもよかろう",
"記録文学の名手が、ここでだけ手をぬくのは変だね。とにかくこの碇洩治が密航者としての処断を受けないで一命を助かり、隊員に編入せられたのに彼は大感激し、あとで大冒険を演じ流星号の危機を救い、一躍英雄となった――というわけなんだね",
"そのとおりだ。実際彼の活躍ぶりは……"
],
[
"抽籤で、碇曳治が流星号の中に残されることとなった。そして他の一名は、法規に照らして交川博士の手により処理された。それに違いない。――他の一名は何者か。どういう処理をしたのか。説明して貰えないかしら",
"その判断は君の常識に委そう",
"分っていることは、姓名不詳の密航者は流星号の中に停ることを許されず、その日の二十三時に、外へ追放されたんだ。そうだね。それは死を意味するのかね",
"艇外のことについて、僕は責任を持っていないんだ。だからどうなったか知らない"
],
[
"君は何でも知っているじゃないか",
"いずれ全部を知るだろう――。しかし今は知りつくしていない。――博士と話をすることが出来ないなら、通信部の誰かに会って訊いてみたい。紹介してくれたまえ",
"もう解散してしまって、誰も居ないよ。通信部は完全に解散してしまったのだ",
"そうか。それは残念だ。しかし名簿は残っているだろうから、それを手帖へ控えて行こう"
],
[
"おい、出掛けるよ。ついて来るかい",
"行きますとも。ですが、一体どこへ?"
],
[
"行ってみましょう! 何事が――",
"待て、ムサシ君。もう遅いのだ"
],
[
"なにが遅いというのです",
"射殺されたのだよ。あの男が……",
"あの男とは?"
],
[
"夫人は見えないのです。それから手廻り品なども見えないし、衣類戸棚も空っぽ同様なんです。夫人はどこかへ行っているらしいですね",
"おお、そうですか"
]
] | 底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行
初出:「探偵よみもの」
1947(昭和22)年10月号
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "断層顔",
"作品名読み": "だんそうがん",
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[
[
"――ちょっと! 西向観音裏山とか笹やぶとか、ざっとでいいから現場付近の様子を教えておいてくれたまえ",
"――現場は、高さ三十メートル、周囲三百メートル余りの雑木山で深い笹藪におおわれていて、二すじの小径が通っている。死体は頂上に近い小径のすぐ傍、十間ほどの笹藪のなかで発見されたんです。この付近はご存知でしょうが昭和五年以来、芸者、人妻、などの殺人事件があったという因縁の場所。ちかごろは、毎晩十二時、一時まで闇の女たちの、舞台になっていたという、昼間でも合意のうえでなければちょっと立寄れぬようなところなんです",
"――で、いまのところ捜査本部の見通しは?"
]
] | 底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
初出:「読売ウィークリー」
1946(昭和21)年8月24日号
入力:フクポー
校正:高瀬竜一
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "058612",
"作品名": "探偵会話 下駄を探せ",
"作品名読み": "たんていかいわ げたをさがせ",
"ソート用読み": "たんていかいわけたをさかせ",
"副題": "――芝公園 女の殺人事件――",
"副題読み": "――しばこうえん おんなのさつじんじけん――",
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[
[
"しかしその小平某は、へまなことをやったものさ。始めからその犯行がばれることは分っている",
"どうして、どこがへまなんだ"
]
] | 底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
初出:「ぷろふぃる」
1947(昭和22)年4月号
入力:フクポー
校正:高瀬竜一
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058613",
"作品名": "探偵小説と犯罪事件",
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} |
[
[
"イヤ何でもないことだよ。……只ネス湖の怪物がネ",
"ネス湖の怪物? 怪物て、どんなもの。お化けのことじゃない"
],
[
"そうさ。怪物といえばその字のとおり、怪しい物ということさ",
"その怪物がどうしたの"
],
[
"ああ、大隅先生のお話なの。あの先生のお話では、当てにならないわ。よく突飛なことをいって、ひとを脅かすんですもの",
"そうでもないよ。先生は僕たちが知らないような珍らしいことを沢山知っているんだ。知らない者には、それが嘘のように思われるんだが、この世に不思議なことは沢山あるんだよ。とにかくネス湖の怪物の話は本当だよ。なぜって大隅先生はその記事や絵が載っている外国雑誌を僕に見せて下すったもの",
"そう? 本当に出ていたの",
"僕も見たんだから嘘じゃない。しかし先生は云われるんだ。ネス湖の水面から変な格好をした怪物が鎌首をもちあげたのは本当だろうけれど、恐竜などという前世紀の巨獣が今日生き残っているか、どうか、その辺はどうも問題だと仰有っていた",
"ああ、――それでも怪物がネス湖の水面から顔を出したことだけは本当なのネ。本当なら、まあ気味が悪い。いまの世の中に東京駅よりも大きい巨獣が棲んでいるなんて、それだけでもう沢山よ。あたしなんだか急に恐くなってきたわ",
"しかし怪物はそれほど大きかったかどうかもハッキリしているわけではないそうだよ。人間の眼は、近くのものを、遠くにあるように勘ちがいをすることがあって、そんなときには遠くの方にたいへん大きなものがいるような気がするものだそうだ。霧の深い朝、アルプスの山にのぼると、谷の向うに雲を衝くような巨人が出るという話がある。それをよくよく調べてみると、自分の影が霧にうつっているのを巨人と勘ちがいをするのだってネ。つまり太陽は自分の後方にあるから、自分の影がどうしても前方に出来る。霧がなければ、影は見えないが、すぐ前に濃い霧があると、これが映写幕の働きのようなことをして、その上に影がうつるんだ。自分が動けば、もちろんその影も動く。その霧が目の前にあることが分っている人には、恐ろしくもなんともないが、それを知らない人はその巨人の姿がはるか向うの空間にあると思うと、莫迦に大きく見誤るのだ。それと同じことを、いま目の前に手をかざしてみても実験できるよ"
],
[
"この手をこう動かしてくると、向うに見える辻川博士の洋館がすっかり隠れてしまうだろう。つまり手は近くにあるから、眼の立体角が大きくて遠くにある洋館を隠してしまうのだ。しかし遠近がハッキリしない場合、この手とあの洋館とが同じ場所に並んでいたと考える人があったらどうだろう。あの洋館のところに、洋館よりも大きい手が生えていて、それがモクモクと動いて洋館を掌のうちに隠してしまった――などと思うかも知れない。すると、この小さい手がたいへん大きく見えたことになるネ。近ければ近いほど、大きくみえる。だからネス湖の怪物というのも、その正体は案外近くの水面に浮いていた流木か、それとも何でもない蛇の頭だったかもしれないという話もあるそうだよ。すこしは安心したろう",
"でも、あたし、やはり恐いわ。自分の眼で、それが流木だったか蛇の頭だったか見きわめないうちは、安心できないわ",
"じゃ、安心するために、お美代ちゃんはこれから蘇格蘭のネス湖まで出かけてみるかい。はッはッはッ",
"ホホホホ。……"
],
[
"ああ、あすこに見える。……",
"もっと奥の方に、大きいサイカチの木があってよ"
],
[
"そんな変な木はよして、あっちの方のサイカチを探してみない",
"うん、そうしよう。……"
],
[
"なにか居るの",
"居るよ。なんだか居るんだ。三つ股のうしろに止っている。亀みたいなものがいる。亀がサイカチの木にのぼっているんだよ"
],
[
"亀じゃないでしょう。亀が木にのぼれて?……どの辺なの。あたしも下から見てみるわ",
"……黒くて、楕円形で、弁当箱の二倍くらいもあるんだ。亀によく似ているが、脚が変だな。いま竹でつっついて、下に落とすから、どこへ落ちたか、よく注意しているんだよ"
],
[
"うん、お美代ちゃん。居たよ居たよ。ネス湖の怪物がいたよ",
"えッ、ネス湖の……",
"イヤ本当は甲虫のデッカイのだよ。亀かと思ったら、今までに見たこともないような大きな甲虫だ。いま叩き落とすから、目を離さないようにネ",
"アラ甲虫なの",
"さあ、叩き落とすよ"
],
[
"葛の葉の向うよ。ほらほら、葉がガサガサ動いているわ。……",
"うん、分った。ここに待っといで……"
],
[
"武坊の家を訪ねたが、お母アは腰を抜かして居ったぞ。武坊は出かけたままで、どこにも居らんそうじゃ",
"なに分にも、肝腎のお美代坊が譫言ばかりいうていて、なかなか正気づかんのじゃから、どこでどんな目に遭ったのか皆目分らせんのじゃ",
"やはり様子が知れぬかのう",
"甲虫甲虫と譫言をいうとるがのう。お美代坊は山の方から駈け下りて来たそうじゃで、ことによると、あの魔の森へ近よったための間違いかも知れんと思うが、どんなものじゃろか",
"魔の森かい。魔の森のことなら、武坊は知らんかもしれんが、お美代の方は恐ろしいことをよく知っている筈じゃ。なぜそんなところへ武坊を連れこんだのかのう",
"さあ、それが魔がさしたというものかもしれんでなア",
"これは困ったことになった。武坊が魔の森に迷いこんでいるのだとすれば、これはちょっと救うのがむずかしいわい",
"そうじゃ。誰も生命が惜しいから、魔の森へ入ろうという者はあらせんわ。そういえばお主は昨日の真夜中、甚平が魔の森の方角で見たという怪しい一件の話を知っとるか",
"うん、あの一件か。あれなら知っとるどころか、この儂も見た一人なのじゃ",
"おお和作、お主も見た仲間なのか。どんな風なものじゃったか、話して聞かせい",
"うんにゃ、それは出来ねえだ。あとの祟りが恐ろしいわい。魔の森は、遂に魔の森じゃ。そのとき仲間同志で喋らないことに約束したのじゃ。聞かんで呉れ。その方がお主のためでもあり、また皆のためじゃ"
],
[
"書記さん。私はあの櫟林の中を探して、武夫君の行方をつきとめたいんですが、貴方も一緒に行って呉れませんか",
"ナニあの魔の森へ……。いや、あの森ばかりは勘弁して下せえ",
"おや、貴方もやっぱり恐怖組ですね。では仕方がありません。私一人で出かけましょう",
"まあ、待った待った。あの森へ行くのは見合わせなされ。この村で、あの森に入る奴があったら、それはそいつが悪いのじゃということになっている。……",
"では、武夫君を見殺しにするのですか",
"見殺しなんて、そういうわけじゃないけれど、とにかく祟りが恐ろしい。やめて下され、やめて下され",
"一体、なぜあの櫟林が魔の森なんです。そのわけを聞かせて下さい",
"わしは知らん。とにかくいかんのじゃ。お前さんがあの森に出かけて、万一のことがあると、村の迷惑じゃ。お美代や武夫がこんなことをしでかしたのも、もともとその親どもの注意が足りないからじゃ。だから現にこんなに迷惑をしとる"
],
[
"何者だッ、卑怯な真似をしないで、早くここへ出て来いッ",
"ああ、先生。あまり大きな声を出さないで下さい"
],
[
"おお、そういう君は……",
"分って下さいましたか。僕は武夫なんです。分るでしょうね。大隅先生"
],
[
"武夫君なら、いまそこに落とした私の懐中電灯を拾ってくれたまえ",
"いや、それはいけません。それはどうか待って下さい",
"変じゃないか。どうも君らしくないが……。一体君はどこで話をしているのだ。本当に生きているのかね。それとも……"
],
[
"僕は生きているようでもあり、死んでしまったようでもあるのです。……ああ、そんなことは今云っている場合じゃなかった。先生僕は重大なるお願いがあるのです。聞いて下さいますか",
"重大なる願いだって。……うん聞いてあげよう",
"では申しますが、それより前に、まずお断りをして置かなければならないことは、僕と先生とがここでお話をしたことは、誰にも秘密にして置いて頂きたいことです。たとえ僕の母親が聞いても、喋っていただいては困るのです。もしそんなことがあれば、たいへんな事が起るのです。実は先生とこうしてお話することもいけないのですが、先生が秘密を守って下さると思うので、それでお呼びしたというわけです",
"よく分ったよ、武夫君。私は約束する。必ず秘密を守るから、君の願いというのを云ってみたまえ"
],
[
"ああ、お美代ちゃんだネ。よく来てくれたねえ。おや、その赤ちゃんはどうしたの",
"ホホホ。これはうちの赤ン坊なのよ。あたしの妹ですわ。お守りをしているようなふりをしてソッとここまで抜けて来たのですわ。そうでもしなければ、昨日の今日でしょう。誰が外へ出してくれるもんですか",
"なるほどなるほど"
],
[
"あたしに出来ることなら、どんなことでもしますわ。あたし元気になったら、もう一度あの森へ行ってみようと考えているくらいなんですもの",
"あの魔の森へ? まあ、それは当分見合わせて置く方がいいと思う。ところでまず第一に訊きたいのは、今から丁度一年ほど前に、この沖に着いた白塗りの外国船があった筈ですが、そのときこの村の衆のうちで、雇われて沖の本船まで行った人は誰と誰とだろうね"
],
[
"ああ、古花甚平さん。あの人かア。――それから、今度は、大宗寺の庭に墜ちた径が五十センチある隕石を後で掘りだしたそうだが、あれは今誰が持っているの",
"あれは、この向うの山腹に見える洋館に住んでいる辻川博士ですわ",
"そうか、辻川博士か。――それからもう一つ、この村では赤蜻蛉が出てくるのは何時ごろからかネ。そしてその赤蜻蛉が飛びながらいつも向いている方角はどっちの方だろうね",
"まあ、変なことばかりお聞きになるのネ。赤蜻蛉が出るのは去年からたいへん遅くなりました。いつもは七月頃に出てくるんですけれど、去年は十月になってやっと出て来たので、変だ変だと思っていましたわ。飛んでゆく方角はこっちの方ですから、真西よりこの位北によっていますわ"
],
[
"フフーン。いや有難う。また聞くことがあろうけれども、今日知りたいと思ったことはそれだけだった",
"まあ気味がわるい。そんなことがどんなお役に立つんですの",
"いや今に分るから、それまでは黙っていて貰いたい。とにかくこの村には、今後も、もっといろいろの変事が起るかもしれない",
"あら、まア……"
],
[
"お内儀さん。あの家に住んでいる辻川博士というのを見掛けたことがあるかネ",
"辻川博士のことかネ。……"
],
[
"では、辻川博士はあまり町へは出て来ないんだネ",
"そんなに出て来られてたまるもんかネ",
"博士は一体誰に喰べさせて貰っているんだろう。奥さんや雇人があるのかネ",
"奥さんは昔あったが亡くなったという事じゃ",
"……いうことじゃとは、どういうわけかネ",
"それは話に聞いただけで、村の衆は誰も奥さんの死に顔を見た者がなかったけんな。しかしあの人には惜しいような器量よしじゃったがのう。今はたった一人の雇人がいるばかりじゃ。岩蔵といってナ、右脚がない男じゃ。いつも棒杭をその股に結びつけて、杖もつかずにヒョックリヒョックリと歩いているがのう。外にはいろいろな動物を飼っているということじゃが、よくは知らぬわい"
],
[
"ああ、そうですか。――しかし困りましたね。貴方の飛行機は壊れちまったようで……",
"ああ、あれなら大したことアないよ。一日か二日あれば、すっかり直る"
],
[
"……すると、沖についた白い汽船は、どこの船だか国籍が分らなかったというのだネ。碧眼の船長は何を君たちに頼んだのか、それを思い出してみなさい",
"……籐で編んだ四斗樽よりまだ少し大きい籠を三個陸揚げすることを頼まれたなア。持ち上げようとすると、それは何が入っているのか三人でやっと上るほどの重さじゃった。……",
"そうだ。そこでボートに乗せて、海岸まで搬んでいったね。船長も一緒について来たね。それから三つの籐の籠を、どうしたんだったかネ",
"……海岸の暗闇の中には、誰か手提電灯を持って立っていた者があった。近づいてきたのを見ると、それは辻川博士じゃった"
],
[
"うん、辻川博士だったネ。それから?",
"辻川博士は何か分らぬ異人語で船長と話をしていたが、相談がまとまったものと見え、その三つの籠をわし等に担がせて、山麓の博士の家へ持ちこませたことじゃった",
"そうだそうだ。そこで取引は済んだのだ。それからどうした……",
"それからわし等は、一室に入れられてたいへん御馳走になって、たんまり金を貰った。しかし用事はまだ残っていたのじゃ。わし等がたらふく腹を膨らませて無駄話をしていると、さあこの籠をもう一度船までもっていってくれというのじゃ。それからわし等は、また三つの籠を担ぎあげた。ところが奇体なことに、二つの籠は軽くて中が空っぽだと分ったが、もう一つの籠はズッシリと重いのじゃ。そして肩に担ぎあげていると、どうも変な具合じゃ。あれは何が入っていたのじゃろうかどうも腑に落ちん。……"
],
[
"いやあ、よくやって呉れたネ。君のお蔭で辻川博士の行状が大分明かになってきたよ",
"どうも惜しいところで催眠術が利かなくなっちゃったよ。そのうちに何とかして、もう一度やってみせるよ"
],
[
"佐々君。この村にはどの点から見ても吾人の想像を許さぬ一大秘密が隠されていると確信する",
"一大秘密? ようよう、それだそれだ。そう来なくちゃ面白くない",
"まず失踪した武夫君が見たという亀のように大きな甲虫のこと、それから森の中に武夫君の声だけがあって姿を見せないこと、一年前突如として沖に碇泊した外国船のこと、辻川博士の怪行動のこと、蜻蛉の発生がたいへん遅れている上にいつも真西より三十度ほど北にふれた方角にばかり向いて飛んでいること、それから、お美代ちゃんの妹の失踪のこと……",
"まだある。佐々砲弾が忙しい東京の職場を離れてわざわざこんな土地に飛んで来たこと、それから大隅学士が暑中休暇の勉強地をわざわざこんな田舎に選んだこと、……",
"いや実を云えば、僕はどういうわけか、この矢追村の地形が気に入ったというか、気になるというか、とにかく非常に僕の心を惹きつけるところがあるのでネ、それでフラフラとやって来たのだ",
"第六感というところだネ",
"そうかも知れない。まあそんなわけで、この村には興味ふかい謎がウンと落ちているのだ。まるで多元連立方程式の、その要素をなす一つ一つの方程式があっちこっちにバラバラ落ちているといったような形だ。それを適当に組合わせてそれぞれの答を得るのも面白いことだが、その答の奥の奥にまた一つの大きい答があるような気がする。それは一つの世界を誘導することになる。たとえば個々の未知数を解いてみたらば、これが悉く無理数であって、それでわれわれはその無理数の形づくる無理世界を想像することを強いられるかもしれん。その無理世界を確認した暁には、われわれは逆に今日われわれが唯一無二だと信じているこの実在世界の絶対性を否定して、今まで実在世界だと思っていたのは或るホンの一例題の世界に過ぎなかったのだと、自殺的結論を建てなければならなくなるかもしれない。ああ何という遥けき真理、ああ何という恐ろしき疑惑……"
],
[
"おう先生、昨日先生が寝言みたいな変なことを喋ったが、あのときは頭がどうかしていたのじゃないかネ",
"莫迦を云っちゃいかん。気は確かだ",
"ほほう。あれは本気で喋っていたのかい"
],
[
"……余計なお喋りをやめて、飛行機の修理の方に熱中したまえ。大事な修理を間違えたりした揚句、われわれが空中に飛び上った途端に『空の虱』の空中分解式が始まったりするんじゃ厭だぜ。はッはッはッ",
"なアに、こっちの方は大丈夫さ"
],
[
"さあ、いよいよ出発だ",
"ああ、もうソロソロいい時刻だ。では出掛けるとしよう"
],
[
"じゃ、しっかり頼むぞ",
"うん大丈夫。では君もしっかりやれよ"
],
[
"貴様ア……",
"ウヌ、何者かア……"
],
[
"おれをどうしようというのだい",
"黙って、歩け!"
],
[
"あらまア、大隅先生。わたしゃ心配していましたがナ。貴方さまは一体どうなすったというの……",
"イヤ突然だったけれどもネ、ちょっと東京へ出かけたんです。知らせる間もなくてどうも……"
],
[
"ああ、佐々君か。彼も一緒に東京へ行ったんだが、そのうち帰ってくるだろう",
"そんなに宿へも知らさんし、支度もせんでお出掛けになるとは、一体どんな御用かいのう"
],
[
"おお、お内儀さん。今のは、あれは何ですかネ",
"ナ、何ですかって、わたしもあんな恐いもの知らへんがのう。どう見ても幽霊じゃ。先生が寝とらす周りをグルグルと何遍も廻っていたがのう",
"ナニ僕の寝ている周りをグルグル廻っていた?……やっぱりあれは幽霊かなア"
],
[
"おう、甚平さんか。……うちでは、えらいことじゃ。今しがた、二階のところをナ、白い着物を着た幽霊がフワフワと飛んでいたのじゃ",
"ナニ白い幽霊が。……お前の家にもか?",
"アレお前の家にもかって、他へもあの幽霊が出るのかの?",
"いや、いま村中はその幽霊のことで大騒ぎじゃ。太郎作のところへ出たのが最初で、それから小学校の用務員室に出る、酒屋の喜十の店先に出る……そんなわけであっちからもこっちからもの注進で、その図々しい幽霊は六ヶ所に現れよったのじゃ。おばアのところのを入れると、都合七軒になる。いま村の衆で自警隊を組み、幽霊狩りを始めているところじゃ",
"おンや、そんなら幽霊の出たのは、わたしのところばかりじゃないのじゃな",
"そうだともそうだとも。なんじゃ知らぬが、昨夜大戸神灘の沖合に落ちた大火柱といい、今夜の幽霊さわぎといい、どうもこの矢追村には怪かしがついているようじゃ",
"おお、昨夜の火柱のう。わたしゃあんな気味の悪い火の柱は生れて始めて見たわい。寿命が縮まったが、それに昨夜の今夜じゃ。村長さんに頼んで、村中の総お祓いをしてもろうたらどうかいなア……",
"うん。わしももう生きた心地がないのじゃ。……ドレ皆の衆に追いつかにゃ……"
],
[
"どうだネ。河村さんの容態は?",
"どうもまだ分りませんな。気が一向ハッキリして来ねえのです。傷の方は、いい塩梅に化膿しないで済みそうですよ。明日一杯が勝負というところでしょうな",
"そうか。君の手で合わなきゃ、土地の事情を知らぬ東京から医者を呼んでもいいが……"
],
[
"オイ、岩蔵君。どうして河村さんを、こんな押入れの中に入れちまったんだ。座敷に寝かして置くのがいやなのかい",
"いえナニ、そういう訳じゃないんですが、……いつまた誰がこのお邸に来て、あの人を見つけるかしれませんからねえ。そうなるとあの人の為めになりませんよ"
],
[
"ええッ――",
"僕は、貴方にぜひ教えて貰いたいんだが……去年の夏のこと、この沖合に外国船が一艘やって来て辻川博士と連絡したでしょう。あのとき、どんな用事があったんだか、話してくれませんか",
"ウン、あれかネ……"
],
[
"ねえ、河村さん。……僕はぜひ、貴方に見せたいものがあるんだが、見てくれませぬか",
"見せたいものって……"
],
[
"そうです。ぜひ見せたいものです。……実は貴方の息子さんの武夫君が、この辻川博士邸内にいるのです。しかも気の毒なことに、博士のために監禁せられているのです。どうです、見たくはありませんか",
"ナニ、あの武夫がこの邸に監禁せられているって?……ああ、それは一体どういう訳だ。なぜ辻川は、俺の伜を監禁したのだ。さあ聞こう、その訳を……",
"その訳を話せといっても、それは辻川博士に聞いてみなくちゃ分りませんよ",
"だって、お前さんも知っているのだろう。さあ、教えてくれ。……監禁されていることを知っていながら、お前さんはなぜ伜を救おうとはしないのだ。可笑しな真似をすると、俺は許さんぞ……"
],
[
"それはよく知らない。イヤこれは本当に知らないんだ。俺たちは、辻川博士の命令に従って、荷物を船に搬んだり、船から荷物をこの邸へ持ってきたりしただけだ",
"ほう、何を船から持ってきたんです",
"なにかわけの分らない器械だった。そいつは函の中に入っていたので中身は判らない。しかし辻川博士は大喜びだった。その外国船の大将と幾度も握手をして喜んでいた",
"その外国船の大将というのは誰です",
"ドクトル、シュワルツコッフ"
],
[
"それはいいが、この邸から船へ搬んだ品物というのが、たいへんな品物なんだ",
"ええッ、たいへんな品物というと……",
"そいつは袋の中に入っていた。グニャリとした品物さ。その中身を知っているものは俺ばかりだろう。俺はソッと開けてみて愕いたのだ"
],
[
"……イヤ、お客さんが見えたので……",
"客が見えた。客とは誰か?",
"……ドクトル、シュワルツコッフ"
],
[
"辻川博士がいないことを云ったかネ",
"ええ、云いましたよ。するてえと、ちょっと愕いた顔をして、はるばる来たものだから、休憩させてくれというのでさあ",
"君はなぜ、本館の方へ行ったんだ",
"えッ、それは……それは何です。ドクトルが、もう一度、博士の部屋をよく見て来てくれ、もしかすると帰っていられるかも知れんから……というのです。それで私は、本館へ行って、博士を探してみたんですが、矢張り見えやしません。それだけのことですよ"
],
[
"僕の命令どおりになさい。そうでないと……",
"そうでないと……",
"そうでないと、貴方の生命は有りませんよ"
],
[
"あッ、それは危い。ま、待て……",
"貴方は一体何者です。辻川博士の書斎を荒し、そして秘密書類を勝手に取り出すとは……"
],
[
"ドクトルは、今まで何をしておいででしたか",
"私?……私は睡っていました。たいへん元気になりました"
],
[
"どうも可笑しいことですね",
"可笑しい。何、可笑しいですか"
],
[
"ドクトルは、辻川博士とどういう風のお知り合いですか",
"ああそれは、二人は同じ研究をやっているからです。私はドイツで、辻川博士は日本で、世界中外には誰もやっていない研究をやっているのです",
"世界中で二人きりの研究というと、それはどんなことですか"
],
[
"なかなかむずかしい研究です。誰に説明しても分るというものではありません。しかし簡単に云いますと、近年この地球上に、有史以来始めて見る異変が起っているのです。その著しいものは、生物の異常成長です。辻川博士はその異常成長の研究材料を、沢山持っています",
"なるほど、生物の異常成長! すると、魔の森において発見された亀のように大きい甲虫もそれなのですね",
"おお、貴君はよく知っていますね。あのX甲虫も、その一つです。まだもっと愕くべきものが沢山ありますよ",
"それは人間のことを云うのでしょう",
"ほう、貴君はよく知っていますね。辻川博士はその研究材料を沢山蒐めています。これは世界中で極めて珍らしいものです。日本とアルゼンチンの山奥と、この二ヶ所しかないのです",
"えッ、アルゼンチンにもあるのですか",
"そうです。私、そのアルゼンチンの探険を終えて帰国の途中、辻川博士に逢いに来たのです"
],
[
"その成長異常は、どうして日本とアルゼンチンだけなのですか",
"そこが一つの解決の鍵です。アルゼンチンに成長異常例があるだろうということは、私の推理から遂に云い当てたことです",
"貴方はドイツにいて、どうしてそれを発見したのですか",
"それには面白い話があるのですが、それは長くなるから止しましょう。とにかく私が第一にこの現象を発見するに至ったのは、気象上の変化に基きます"
],
[
"結局、辻川博士の指摘したとおり、日本の中においても、この矢追村だけが、殊に異常状態に置かれてあることが分ったのです。成長異常の出るのも日本国中、この矢追村だけである。ですから矢追村こそは、この大研究についての世界の宝庫である。……おお、そして私はその宝庫をもう一つ探し当てたのだ。それは、今申したとおりアルゼンチンの山奥カピランクという地方です。そこには、また面白いことが起りつつある",
"ねえドクトル。一体この成長異常などという怪現象の原因というのは、何んなものなのでしょうネ。白幽霊ウラゴーゴルなどは、何んな役割をつとめているのでしょう"
],
[
"ウン、分った分った、君も随分悩んだことだろう",
"でもそのとき僕は、いくつかの不思議なことをお話したでしょう。あれは昼間、辻川博士の室にいるとき、博士が座を外したときに卓子の上にある博士の手帳をソッと覗いて、あれだけのことですが、ともかくも謎にみちた問題をつかまえたのです",
"そうだったネ。それについて、もっとよく相談したいんだが、なんとかしてその檻から出てこられないかネ",
"さあそれは弱りましたネ。この鍵は辻川博士がピチンと下ろしてもっていってしまったのです。この節、辻川博士の姿を一向見かけませんが、とにかく博士に頼まないとここは開きませんよ。身体が大きくなったからさぞ腕力も増したろうと思って、たびたび押してみたのですが、なにしろ太い鋼鉄の棒で組立てられた檻ですから、どうにもなりません"
],
[
"武夫君、君が僕に委ねた質問は半分はとけ、半分は今もとけないのだよ。一年前、この沖へ来た外国船というのは、シュワルツコッフ博士がアルゼンチンから帰り道の寄港であって、辻川博士と同じ研究をしているので、連絡をしにやって来たというわけだ。それから、去年から赤蜻蛉の出ようが遅くなり、この飛んでいる方向がすこし違ったわけは、近頃この地球上に起っている異常気象と関連しているものと思われるものであって、要するにこの地球上に近年異変が起っているという事を指摘すれば足りるのだ",
"するとこれは、やはりあの白幽霊ウラゴーゴルと関係があるんでしょうね",
"僕もそう思う。あのウラゴーゴルというのは、要するに他の遊星に住んでいる生物だと思うよ。あれは一種のアミーバーから成長した高等動物だと思えばいい。あのウラゴーゴルが、なにかこの地球に働きかけているせいだと思うよ",
"それに違いありませんよ。辻川博士は以前からあれと交際していたのですね",
"うん、そうなんだろう。ところで、どうも訳のわからないのは、外国船に博士邸から積みこんだ荷物なんだが、このことは君の……"
],
[
"これも運命なら、仕方がありません。しかし母は知っているでしょうか。僕はきっとこの敵をうちます",
"まあそう興奮してはいけない。とにかく只今問題の秘密をすっかり解いてしまえば、何もかも事情がハッキリするに違いない。暫くはまあ心をしっかり持って、お互いに努力するのだネ。ところであの外国船に積みこんだ荷物の中身というのがハッキリしないのだよ。君の亡くなったお父さんは知っていられたが、それを云おうとしたらば何者かのために殺害されてしまった。尤も僕は、その下手人を、偽の方のシュワルツコッフ博士だと思うよ。一体彼は何者なのだろうネ",
"そんな奴がこの邸内に徘徊しているようじゃ、僕たちも油断がなりませんネ",
"うん、僕も極力注意を払っている。とにかくその荷物の内容がハッキリしなくて困っている。――それからもう一つは、大宗寺の庭に落ちた径五十センチの隕石のことだが、あれを掘りだして持っていったのが、この辻川博士だということまでは分った。しかし分らないのは、あの隕石がどんな役目をつとめているかということだ",
"隕石というのは、宇宙に飛んでいる星のかけらなのでしょう。そしてその成分は、殆んど鉄ばかりだという",
"そうだ、鉄もなかなかいい質の鉄だということだ。しかし鉄ばかりではなく、外の物質も混っていることがある。そうそう、それで思い出したが、これはギブソンの『有史前における生物発生論』に出ていた仮説であるけれど、なんでもこの地球だの火星だのに、どうして動物だの植物だのが発生したかというと、これは既に動植物の存在する星――たとえば、この地球もその一つと考えていいのだが、その星が他の星と衝突して粉々に破壊し、つまりそれは隕石となって宇宙に飛散するのであるが、その隕石にバクテリアなどが附着したまま遠くへ搬ばれる。そして他の星の上に落ちると、そのバクテリアから、新着の星の上に動植物の種を植えつける。こうして多くの星へ動物や植物が移植されてゆくのだということが書いてある。ちょっと面白い説じゃないか",
"それは面白いですね。先生、するとウラゴーゴルなどという怪物は、そんなことで発生したものではないでしょうか",
"大きにそうかも知れない"
],
[
"うー、愕いた、今のは何だったろう",
"ぼ、僕の眼は潰れたんじゃないでしょうか"
],
[
"呀ッ、これはどうしたんだろう",
"えッ、先生なにごとが起ったんです"
],
[
"おお、これは君、大変なことになったぜ。こんなことがあっていいだろうか。今まで向うに建っていたに違いない本館が跡方もなくなっているぜ",
"えッ、本当ですか。ああやっとボンヤリ見えるようになってきた。なるほどなるほどそうですね。たしかに先刻までは、あの樹の向うに古城の怪塔のような本館が見えていましたのに"
],
[
"そうだ。ここに違いない。あれ見給え、建物の跡だけが、まるでマグネシウムを燃やしたように真白になっているよ",
"ははあ、よく分りますよ。たしかに本館の跡です。――本館は爆発してしまったのでしょうか",
"うん、爆発したのかもしれないね。待て待て、ことによると、これは……"
],
[
"ああ武夫君。あれだあれだ。あれを見給え",
"ええ、あれとは……"
],
[
"ホラ、向うに見える白い雲の切れ目のところだよ。妙な恰好なものがピカピカ閃光を放ちながら舞い上ってゆくじゃないか",
"ええ見えます見えます。呀ッ、あれは家の形をしていますよ",
"そうだともそうだとも。よく見給え。あれはさっきまでそこに立っていた本館だよ",
"ええッ、あれが本館!"
],
[
"ねえ――先生。あの中には、シュワルツコッフとかいう博士がいたんじゃないのですか",
"そうそうシュワルツコッフ博士だ。それから偽のシュワルツコッフ博士もだ。二人のシュワルツコッフ博士が一緒に天上してしまったのだ。なぜだろう。なぜだろう。僕は気が変になりそうだ"
],
[
"ほう、それをどうして知っているのです",
"いやあ、そのことですよ。貴方はご存じないでしょうが、東京は大騒ぎですよ。なにしろ佐々砲弾発で突然無線電話がかかってきたのですからネ",
"えッ、佐々砲弾が……。佐々君は、まだ生きていたのですか"
],
[
"佐々君が生きているとは、よかった! もう死んだことと思っていましたが。あの先生、今どうしているのですか",
"ウラゴーゴル星に上陸しているそうです",
"ええッ、ウラゴーゴル星に上陸? ほう、そうですか",
"なんでも空に舞い上って、もう死ぬなと覚悟したんです。しかしそのうちに何とはなしにウラゴーゴル星に着陸しちゃったそうで、そこから無線電話をかけてきたのでわれわれも愕きましたよ。さあその辺で、こっちの質問に答えて下さい。――まず、佐々砲弾がこの土地から飛びだしたときの模様を喋ってみて下さい。願います"
],
[
"願いて何です。僕たちもお礼の意味で、どんなことでも骨を折りますよ",
"ぜひそうお願いしたいのです。お願いというのは外でもありません。佐々砲弾君と無線電話で話の出来るところへこれからすぐ僕を連れていってくれませんか",
"ああ佐々と話のできるところへですか?"
],
[
"大隅さん。それでは特に一台飛行機をお貸ししますから、これからすぐに東京へ飛んで天文台にいらっしゃい。あすこに素晴らしい送受信機が一組あるのです。われわれが佐々と会話したのもあれです。外の器械では、どうやってみても駄目でしたよ",
"ああ三鷹村の天文台ですか。じゃ僕を連れていって下さい",
"オーケイ。おい松田君。君早く頼むぜ"
],
[
"オイ、君は素晴らしい人気者になったじゃないか",
"えッ。先生、それはなんのことです",
"いやウラゴーゴル星のことだよ。それからあの矢追村の異常成長現象のことだよ。君はその発見者として、本年度の科学賞を受けることになるだろう。いや、おめでとう",
"いえ先生、そんな大したことではないのです。僕は単に傍観者の一人なんです",
"そんなことはない。佐々砲弾が東京の新聞に君の説を細大洩らさず連日の紙上に書いた。君は明かに金鵄勲章功一級というところだ。学界はいま大沸騰をしているよ",
"そうそう、その佐々砲弾で僕は今やってきたのです。先生この天文台の台長さんを紹介して下さい。僕は佐々と是非無線電話で話をしてみたいのです",
"ああそうか。それはいいだろう",
"先生は台長をご存じでしょうネ。紹介していただけますか",
"そんなことはわけはない。台長はこの儂じゃ",
"えッ、先生が……。なあンだ"
],
[
"君、さっきネ、辻川博士の本館がロケット仕掛けになって空中に飛び出したから、そういううちにそっちへ着陸するかもしれないよ",
"ちぇッ、そんなことだったか。……いや知らせてくれてありがとう。今なんだかウラゴーゴルのけだもの連中が、いやに騒いでいるんだ。じゃあ彼等は、そいつを見つけたんだな",
"そうかい。中にはシュワルツコッフ博士というのが二人乗っているんだ",
"なんだ、二人の博士。それは双生児かい",
"そうじゃない。一人は本物のシュ博士で、もう一人は他分偽せ者だろう",
"偽せ者? そうか。イヤ心当りがある。オヤオヤ、今到着したよ。なるほど変な恰好のロケットだ。ああウラゴーゴルの群衆が、ロケットめがけてドンドン飛んでゆく。たいへん殺気だっているが、これア少し変だネ"
],
[
"佐々君。どうしたのだろうネ。君、しっかり見て、しっかり報告してくれ給え",
"よしよし。――ヤヤ、入口から外国人が出てきたぞ。これかなア、シュワルツコッフ博士というのは",
"茶色の洋服を着た大きな人物だ。頤髭を生やしているよ",
"ウン、正にそのとおり。――オヤ、もう一人後から出て来たよ。おう、これは可笑しい。なんだ、あれは辻川博士じゃないか",
"えっ、辻川博士? それア可笑しい。博士ならずっと前に海中に墜落して死んだはずだ",
"いや違う。僕の眼に誤りなしだ。たしかに辻川博士に違いないよ。――おッとおッと。辻川博士はウラゴーゴルに捕って、手足をバタバタしているよ。博士がどうかしたらしいぜ",
"ナニ辻川博士が……。そりゃ大変だ。君、早いところ視察して、即時報告してくれたまえ。オヤ、モシモシモシ、モシモシモシ佐々君。オーイ砲弾クーン"
],
[
"――一つお許しを得て、僕は頗る大胆なる説を出したいと思います",
"ほほう、大胆なる学説とは、頗る結構だ",
"それはどういうのですか、大隅君"
],
[
"お気に入るかどうかと存じますが、このウラゴーゴル星の接近は、従来の予測では解決できないものだと思います。つまりこれも異常現象の一つです",
"異常であることは、よく分るが……",
"そして、これはウラゴーゴル星が地球に近づいたというよりも、僕の信ずるところではウラゴーゴル星が、わが地球を自分の方に引き寄せたと云った方がいいと思います",
"ナニ、ウラゴーゴル星が、地球を引き寄せたというのですか。ウフフ、それはどうも、大胆すぎる。遊星の運動は、人力ではどうすることもできない",
"イヤ生物の力でどうすることも出来ないと思うのは、古い考え方です。それは決して不可能ではありません。現にウラゴーゴル星は地球に向ってそれを断行したのです。わが地球はウラゴーゴルのために手許へ引き寄せられました。つまり地球は久しい以前から盗難に遭っていたのです",
"盗難? 地球が盗まれていたというのか。いやこれは面白い。地球盗難か。ずいぶん大きなものを盗んだものだな。はッはッはッ"
],
[
"モシモシ大隅さんですか。こっちは天文台ですが、例のウラゴーゴル星への電話がまた通じましたから、すぐいらっしゃいませんか",
"えッ、ウラゴーゴルが、また出ましたか。そうですか。それは有難い。すぐ参りますから……"
],
[
"えッ、どうしたのです。出ることは出るがどうしたというのです",
"――まあ聴いてごらんなさい。相手は佐々砲弾氏が出ます"
],
[
"モシモシ。こっちは大隅ですが、佐々砲弾君ですか。――モシモシ。オヤ、これは聞えないぞ",
"聞えないわけではないのですが、たいへん音が小さいのです。まアよく聴いてごらんなさい",
"ああそうですか。モシモシ砲弾君"
],
[
"おお佐々君。これはどうしたのだ",
"いや大隅さん。僕はウラゴーゴル星を離れて、今ロケットで宇宙を飛んでいるんだ",
"なんだって、君はウラゴーゴル星を離れたのか。それは一体どういうわけだ",
"ウン、あそこにいては生命が危くなったんだ。それにウラゴーゴル星と地球の距離は五日前からドンドン遠くなってゆくことが分ったので、もうどうにも我慢が出来なくなったんだ",
"えッ、地球との距離が? どうしたんだろうなア、君そのわけを知っているだろう",
"そんなことは、君の方が知っている筈じゃないか。――例の隕石のことだよ",
"隕石て? ああ、あの大宗寺とかいうお寺の庭に落ちて、辻川博士がそれを掘って邸内にもって帰ったというやつかネ",
"そうだそうだ。その隕石だ",
"それがどうしたというのだ",
"君も案外、頭脳がわるいネ。あの隕石はウラゴーゴル星から故意に地球へ向って撃ちだした錨のようなものだ",
"えッ、錨というと……",
"つまり捕鯨船が、鯨の背中に向って、綱のついたモリを打ちこむじゃないか。あれと全く同じことなんだよ。あの隕石には、眼に見える綱こそ附いていないけれど、それと同じ働きをするものがあるんだ",
"なるほどなるほど。分ってきたぞ。するとあの隕石だが、あれは尋常一様の隕石じゃないんだネ",
"そうだと云ってたぜ。ウラゴーゴル星の国立研究所で、五十年がかりで作りあげた特殊物質なのだ。あれを地球に撃ちこんで置き、そして一方ウラゴーゴル星に建設せられた大きな機械を廻すとあの特殊物質を素晴らしい力で引張りつける。まあ一種の磁石みたいなものだが、その何千億倍のそのまた何千億倍かの力を持っているんだ。だから地球がスルスルとウラゴーゴル星の方に引き寄せられていったという話だぜ",
"うん、そうか。それで分った。僕の知りたいと思っていた答案ができた。君に感謝する。――そして今話の、一種の磁力みたいなものとは、何んなものかネ",
"ウフフ。そんな六ヶ敷いことが俺に分るかというんだ。――しかしウラゴーゴルのけだものたちは、その力のことをシュピオルと呼んでいたぜ",
"シュピオル? なんのことだろう。これはまた新しい大きな謎だ",
"まあその辺で勘弁してくれたまえ。俺のロケットの電池は、電圧がウンと下ってきたのだ。すこし倹約しないと、地球へ帰りつくまで保たないかもしれないからネ"
],
[
"――おーい、誰ですか?",
"僕は――僕は大隅という者です",
"大隅さん。ああ先生だッ"
],
[
"大隅先生。僕、武夫ですよ",
"えッ、武夫君。武夫君なら、もっと身体が大きい筈だ",
"ええ先生、悦んで下さい。僕の身体は四五日前からだんだん小さくなって、とうとう元のようになったんです。まるで、夢みたいで嬉しくて仕方がありません。お美代も、たいへん悦んでくれていますよ",
"おおそうか。やっぱり武夫君だったのか。僕も嬉しい。気になって仕方がなかった",
"僕だけじゃないんです。大きくなったものは全部小さくなりましたよ。ほら、石亀のように大きかった甲虫がありましたネ。あれもこの通り小さくなりましたよ"
],
[
"ウン武夫君、やっと分ったよ。ウラゴーゴル星が遠くへ離れていったから、それであの不思議な力が弱くなり、それで皆元のように小さくなったんだ。それで分るじゃないか",
"ああ、そうなんですか。オヤお美代も先生の声を聞きつけて起きて来ましたよ"
]
] | 底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ科学」
1936(昭和11)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。
「そんな六ヶ敷《むずかし》いことが」
※「甚平」のルビに「じんべい」と「じんぺい」が、「大戸神灘」のルビに「おおとがみなだ」と「おおとかみなだ」が混在しているのは底本通りです。
入力:門田裕志
校正:宮城高志
2010年9月3日作成
2011年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001258",
"作品名": "地球盗難",
"作品名読み": "ちきゅうとうなん",
"ソート用読み": "ちきゆうとうなん",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「ラヂオ科学」1936(昭和11)年",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2010-10-30T00:00:00",
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[
[
"若旦那さま。持参いたしました。これでよろしゅうございますか",
"うん、待てよ、忘れものがあってはたいへんだ"
],
[
"若旦那さま、ヘルナー山にお登りかと存じますが、御承知のとおり只今の気候は登山によろしくございませんで……",
"爺や、危険を顧みている隙はないのだよ。切迫した事情があるんだ。そしてそれは僕を一躍世界の寵児にしてくれるかもしれないのだ。お前が僕だったら、こんな千載一遇の機会をのがすかね",
"はい。それは……しかし一体あの雪崩の峰に如何たる幸運が隠されているのでございますか。爺やは合点が参りませぬ",
"お前だって、一目見れば分るよ。窓のところへ行ってヘルナーの峰を見てごらん。疑問はたちどころに氷解するだろう",
"何と仰せられます"
],
[
"水戸、そうしてぼんやりしている一分間というものが、全世界にとって如何に尊い浪費であるか、今に分るだろう。さあ、すぐ仕度に取り懸るんだ、早くしろ水戸",
"ドレゴよ。何故……",
"それは車の中で詳しく話をするよ。前代未聞の大事件発生だ",
"なに、前代未聞の大事件",
"そうだとも。そうしてわれわれは、一生涯の中に、二度とない機会を与えられているんだ。いや、君のように泰然と構えていては、その絶好の機会も掌の中からどんどん逃げ出しそうだ。早くせんか、この黄色い南瓜の君よ",
"これは済まぬことをした。待っていてくれ、急いで支度をするから……"
],
[
"食糧はある。君の大切にしている君の国の酒の壜だけは忘れないように",
"おう、合点だ"
],
[
"おお、そのことだ。言葉で説明する前に、まず君の目で見て貰った方がいいだろう。ヘルナーの頂に注意して見給え",
"なに、ヘルナーの峰を見ろというのか"
],
[
"なに、ヘルナーの峰が燃えているって。そんなはずはない",
"そんなはずはないといっても、確かに燃えているよ。炎々たる火焔が空を焦がしている",
"え、それは本当か"
],
[
"よし、見て来よう",
"それからこの事件の名称だ。ドレゴ君は名誉あるこの事件の発見者だから、君がいい名称を択ぶんだよ",
"うん、すばらしい名称を考え出すよ"
],
[
"ねえハリ。口惜しがったり、くさったりする前に、君が是非とも果さなければならない義務があるじゃないか",
"なに、義務というと……",
"困るなあ、君は……。君は、この大事件の名誉ある発見者でありながら、まだその義務を世界に向かって果していないではないか。つまり君は、まだこの大事件について、一本の通信も送っていない"
],
[
"無線機の用意はすっかり出来ているよ。さあ、今こそ君は光栄ある報道者として、この驚天動地の怪事件の第一報を、最も十分なる表現をもって全世界に放送するのだ。ハリ、原稿を書くがいい",
"うむ。よし。書くぞ"
],
[
"やっ、これは書いたね。“汽船ゼムリヤ号は突然発狂した。何月何日の深夜、この汽船は発狂の極、アイスランド島ヘルナー山頂に坐礁した。そして目下火災を起し、炎々たる焔に包まれ、記者はあらゆる努力をしたが、船体から十メートル以内に近づくことが出来ない。この前代未聞の怪事件は、本記者の如く、自らの目をもって見た者でなければ到底信じられないであろう。このゼムリヤ号発狂の謎を、解き得る者が果たしてこの世界に一人でもいるであろうかと、疑わしく思う。もちろん本記者も決してその一人でないと、敢えて断言する。それほどこの事件は常識を超越しているのだ。だが本記者は、同業水戸記者の協力を得て、これより最大の努力を払って本事件の実相を掘りあて、刻々報道したいと思う”なるほど、これは上出来だ",
"ほめるのは後にして、大いにこき下ろして貰おう"
],
[
"そうだなあ。敢えて、こき下ろすとすれば、この記事は長すぎる。前半だけで沢山だ。それに……",
"それに?",
"ねえ、ハリ。君は“ゼムリヤ号発狂事件”という名称が大いに気に入っているのだと思う。いや、全くのところ、僕も君の鋭い感覚と、そして大胆なるこの表現とに萬腔の敬意を表するものだ。しかし、欲をいうならば、この驚天動地の大怪奇事件を“ゼムリヤ号発狂事件”という名称で呼ぶには小さすぎると思うんだ",
"ほう。そのわけは……",
"つまり、ゼムリヤ号が発狂してこんな山頂にとびあがった――というよりも、もっとスケールの偉大な物凄い事件だよ。発狂した者がありとすれば、その当人は一ゼムリヤ号ではなく、もっとでかいものだよ",
"ふふん。じゃあ、一体何が発狂したというのかね",
"そのことだが、僕なら、こう命名するね。“地球発狂事件”とね",
"なに、“地球発狂事件”? 君は、地球が発狂したというのかい、この巨大なる地球が……",
"そうなんだ。地球が発狂したのでもなければ、この一万数千トンもある巨船が、標高五千十七メートルのヘルナー山頂に噴きあげられた理由が説明できんじゃないか。もちろん地球が発狂したといっただけでは完全なる説明にはなっていないが、とにかく常識破りのこの怪事件のばかばかしさというものは、地球が発狂したとでもいわないかぎり、そのばかばかしさを伝える表現法が見付からない。そうは思わんかね、君は……",
"それは大いに思う。しかし……しかし、何だか僕の頭が変になって来るよ。地球発狂の次に、ハリ・ドレゴの発狂が起りそうだ",
"ははは、世界第一の報道記者がそんな気の弱いことでどうする、さあ、そのへんで、とにかくその第一報を全世界へ向かって送ろうや"
],
[
"ジム・ホーテンスって、アメリカのCPの記者のことか。あの背の高いそして口から煙草を放したことのない……",
"そうだ、あの寡黙な仙人のことだ。彼は見かけによらず、よく物を見通しているよ",
"水戸。君はホーテンスと話をしたんだな",
"うん。僕はどういうわけか、ホーテンスから話かけられてね、かなり深く本事件について意見を交換したんだが……",
"で、結論はどうだというんだ"
],
[
"……ホーテンスは、さすがに烱眼で、いい狙いをつけているよ。彼は、燃えるソ連船ゼムリヤ号の焔の中に飛びこむ代りに、七つの海の中からその前日までのゼムリヤ号の消息を拾いあげようと努力している",
"あのゼムリヤ号はソ連船かい",
"そうだ",
"なるほど、僕はそういう大切なことを調べないでいたわけだ。そしてホーテンスは、ゼムリヤ号について目的を達したかね",
"残念ながら、今朝までのところはね"
],
[
"ホーテンスは、今この山にいない",
"えっ、ここにいない。では何処にいる……",
"あそこだよ"
],
[
"有難う。まず君達を喜ばせるだろうと思うことは、あのゼムリヤ号は最新鋭の砕氷船だということだ",
"砕氷船! そうか、砕氷船か"
],
[
"それも並々ならぬ新機軸を持った砕氷船なんだ。この船は、外部から氷に押されるとだんだん縮むのだ。船の幅で六十パアセントに圧縮されても沈みも壊れもしないで平気でいられるという凄い耐圧力を持った砕氷船なんだ。こんな新機構の船が今までに考えられたことを聞かないね",
"ふうん、凄い耐圧力だ。それだけの圧縮に平気なら、氷原でも何でもどんどん乗り切って行くだろう"
],
[
"その雑誌の中に、今君がいったゼムリヤ号は六十パアセントの圧縮に耐えると記されていたのかね",
"そのとおりだよ、ドレゴ君。君もゼムリヤ号の特殊構造には興味を感じるだろう",
"全く、大いに感じる。第一、そういう凄い耐圧力を持たせるには普通の鋼材では駄目だね。何という材料かなあ",
"そのことは雑誌に少しも記されていない。だが我々は近き将来において、その材料のことや構造のことをはっきり知ることができるだろう。焼け落ちたとはいえ、その資料はヘルナー山頂に横たわり、今も我々の監視下にあるんだからね"
],
[
"だがねえ、仮にゼムリヤ号のような砕氷船が百隻揃って北氷洋や南氷洋に出動したと考えて見給え。そうなると極寒の海に俄然常春が訪れるじゃないか、漁業や交通やその他いろいろの事業に関して……",
"ほう、これは面白い想定だ。ううむ、そして実現性もある",
"だが、僕はそう思わないね。ゼムリヤ号があのような強い耐圧力を持っている理由はもっと外にあるような気がするよ",
"というと、どういう意味かね、ドレゴ君"
],
[
"……事件の日から三週間前のことだが、ゼムリヤ号に相違ないと思われる汽船が、フィンランドの北岸ベチェンカ港外に現われたことが分ったのだ。ゼムリヤ号は沖合に碇泊し、港内へは入らなかったが、傭船を以て給水を受けた。そして三時間後には愴惶として抜錨し北極海へ取って返した。どうだ、面白い話ではないか",
"ふうん。一つの有力なる手懸りだ",
"ところがさ、ゼムリヤ号の消息は、それっきり知られていないのだ。つまり事件の発生した日までの三週間に亙る行動は全く不明なんだ。そこでこういう説が行われている。ゼムリヤ号は、或る予期せざる椿事のため、或る巨大なる力を受けて北極海から天空に吹きあげられ、そして遂にこのアイスランドのヘルナー山頂へ墜落したのだろう。勿論この推定は漠たるもので、何等確実なる証拠がないが、常識からいって、そう考えられるという程度に過ぎないが……"
],
[
"ゼムリヤ号が北極海からこのアイスランドへ飛来したという説は、全く事実に反するものだ",
"なに、事実に反するって。それは面白い。君は早速それについて説明をしてくれるだろうね"
],
[
"ああ、是非聴いて貰いたいね。つまりこうなんだ。僕の結論を先にいえば、ゼ号は南方からこの島へ飛来したのだと思う。いいかね、南方からだ。君のいうように北方からではない。そしてそれには歴然たる証拠がある",
"ほう、全く正反対の説だ。で、その歴然たる証拠とはどんな事だ。そしてその証拠はどこにあるのかね",
"その歴然たる証拠物件は、何を隠そう、実は吾輩の寝室にあるんだよ。はっはっはっ"
],
[
"そうなんだ。事件の当夜、あの事件の発見に先立つこと数時間前、水戸も知っているとおり僕はあの夜泥酔していて漸く自分の寝台に登ったわけだが、忽ち深い眠りに落込んだ。ところがその深い眠りを突然覚ますような事件が起ったんだ。ガーンとでかい物音が眠りを破った。それは寝室の北側の壁のあたりから発したように思った。僕はその物音に一旦目を覚ましたものの、音は一度きりだったので、又眠ってしまった。そして夜が明けた。僕はふとぼんやりした記憶に呼び戻されて、目を北側の壁へやったところが、愕いたね、そのときは……。なぜってそこに懸けてあった額縁が上下に真二つに割れ、壁にはその上半分だけが残ってぶら下っているんだ。それから僕は目を壁伝いに下に移した。床の上に、額縁の破片と一緒に、見慣れない手斧が落ちていた。その手斧は柄の一部が折れていたが、その上には明らかに、ゼムリヤ号の船名が彫りつけてあった。聞いているかね",
"聞いているとも。実に素晴らしい話だ。先を続けてくれたまえ"
],
[
"それから僕は、この手斧がどこから部屋の中へ飛込んだかを確かめようと思ったさ。それは苦もなく分った。何故って、寝台の南側の窓のカーテンが一個所大きく、引き裂かれていたではないか。疑いもなくゼ号の手斧は南の窓から飛込んでカーテンを裂き、それから北側の壁の額縁にぶつかったんだ",
"なるほど、なるほど……",
"その手斧は、飛びつつあったゼ号からこぼれ落ちたものに相違ない。然らば、この手斧の運動方向とゼ号の飛行方向とは同一でなければならない。そうだね。するとゼ号は空中を、いやもっと精密にいうなれば、我家の真上を南から北へ飛び過ぎたものと断定して差支えない。さあどうだ、これが吾輩の握っている確かな証拠さ"
],
[
"この事件は原子爆弾には無関係だよ。何故そういうか。これは現在の僕の力では十分に確かめるわけに行かなくて遺憾ではあるが、とにかくこの事件は従来地球上で信じられている法則を破っている点に注目したい",
"すると結局かねて君の自慢の命名、“地球発狂事件”に収斂するわけじゃないか。抑々どこを捉えて本事件を“地球発狂”というか、ということになる",
"真面目な話だが、僕は思うのに、この事件を解くには、ヘルナー山頂のゼムリヤ号にたかっていたのでは駄目で、寧ろ大西洋の海底全域を探す方が早いと思う",
"はははは、大きなことを云うぞ、君は。おい水戸、誰がそんなことを実行に移すだろうか。大西洋は広く且つ深いのだ。全域に亙って探すということになれば一年懸るか二年懸るか分らない",
"いや、それには探し様があるのだ。普通のやり方では勿論駄目だが僕の考えている方法でやるなら四週間位で結果が出ると思う",
"ふふふふ、すごい法螺を吹くぜ、君は"
],
[
"おう、ドレゴ君に水戸君",
"やあホーテンス君だよ",
"へえ、そうかね、何事だい",
"一つの機会が、今君達の前にある。どうかね、これからワーナー博士の調査団に加わって一週間ばかり船旅する気はないか",
"ワーナー博士って、あの原子核エネルギーの権威であるワーナー博士のことか"
],
[
"そうだよ",
"ふうん、すると大西洋の海底を探ぐるんだな",
"ほう、よく知っているね",
"ぜひ連れていって呉れ。事件の鍵はあそこになければならないのだ。おいドレゴ君、君も是非行くんだ"
],
[
"私の説は、まだ証拠がないのですから、大した価値はありませんが、推理としてはゼムリヤ号があの事件当時居た大西洋で、まさか原子爆弾の実験が行われる筈はないと思ったからです",
"なるほどそれは同感だ",
"それにゼムリヤ号を山頂にまで吹飛ばした巨大なる力はもちろん原子核エネルギーを活用すれば得られますが、しかし原子核エネルギーは今のところ爆弾の形においてしか存在しません。で、原子爆弾を使ったとすればゼムリヤ号の船体はヘルナー山まで飛ぶことは飛ぶが、あのように船体が中程度の損傷で停っている事はないと思うのです。つまり原子爆弾の力によるものならば、吹飛ぶ前にゼムリヤ号の船体はばらばらに解体していなければならんと思うのです",
"それは卓見だ。どうぞ、もっと君の意見を聞かせてもらいたいものだ"
],
[
"そしてね、最も興味あることは、異常地震が始めて記録されたのが、例のゼムリヤ号事件の起った日に極く近いのだ",
"それは面白い、どっちが早かったのですか、同じ日じゃなかったんですか"
],
[
"同じ日ではなかった。異常海底地震の方が五時間ほど前に記録されているんだ",
"五時間前! すると前日の十九時から二十時の間ですね",
"そうだ。詳しい時刻は十九時三十五分と記録されている",
"五時間も喰い違いがあると合わないなあ"
],
[
"もう火災も消えたから船の中へ入って、さかんに瓦斯焔切断機で鉄壁を切開いていることだろう。そして何かを発見するつもりだろう",
"ふふむ。いい手懸りの品物が見つかるだろうか"
],
[
"だってね、そもそもゼムリヤ号はあの事件の被害者なんだから、船内を探してみても何にも有りはしないよ。参考になるのは、被害程度だけだ、それなら、われわれが外から見た結果と大した変りはない筈",
"ふうん。だが、原子爆弾の破片でも船内に残ってはいないかな、放射線をすごく出すやつがね",
"呆れたね、君は。ドレゴ記者は、まだ原子爆弾説を堅持しているのかね",
"そんな大きな眼をして僕を見詰めるなよ"
],
[
"実をいうとね、僕は君の説である所の原子爆弾反対説になるべく同意したいと努力していたんだがね、ところがだ、この船に乗る直前、うちの爺やのガロが、僕のところへサンドウィッチの包といっしょに一通の手紙を持って来たんだ",
"ほう。それで……",
"その手紙の文句というのが、こうなんだ、――君は君の寝室へ飛込んだゼ号の手斧に放射能物質が付着しているかどうか確かめたことがあるだろうか、もし君がそうした注意を怠らなかったとしたら、君は今日サンキス号の客になりはしなかったろう、君の崇拝者より――というのだ",
"へえ、そいつは愕いたね"
],
[
"で君はどう思う",
"そういわれりゃ僕も手落があったよ"
],
[
"だがね、いつもいうことだが、そんなことは本事件の中の末梢部分なんだ、どっちでもよい、いや僕は恐らく手斧に放射能物質は付着していないと思う、それよりも問題として捨てておけないのは、その手紙を寄越した『君の崇拝者より』というやつだが、一体誰だね、君の崇拝者というのは",
"さあ、さっぱり見当がつかないよ。全文タイプでうってあるしね",
"その手紙、持っているかい",
"うん、ここにある"
],
[
"この手紙を書いたのは女だよ",
"へえ、女か、どうしてそれが分る",
"とにかく女だと分る。しかしこの警告は、果してこの女から出たか、それとも他に糸を引張っている者があるかどっちか分らない。それはそれとして、われわれは今まで少し呑気すぎたよ。これからはもっと注意を深くせにゃならない"
],
[
"観測はもう始まっている",
"何か手懸りになるようなものが出ましたか"
],
[
"いや、まだまだ。異常海底地震帯へ本船が入るのは、今から三時間後だ",
"三時間後。ほう、もうそんなに現場へ近づいているんですか。本船はトップ・スピードで走っているんですね"
],
[
"おお、気がついた。どうした。何かあったか",
"しっかりしろ、ドレゴ。何か物をいえ"
],
[
"なあんだ、……",
"水はないか。目が廻ったんだ。咽喉がひりひりする",
"それだけか",
"おお水戸。異常現象らしいものが何か起ったね。どうだ",
"ふうん。冗談じゃないよ。てっきり君がその異常現象に喰われたと思ったんだ",
"莫迦をいえ。僕はそんなものに喰われるような間抜け男じゃない",
"いずれにしてもだ。こういうときはあまりアルコールを呑み過ぎるものじゃない。下手すれば脳溢血で、あの世へ急行だぞ",
"同感だ。水戸に同感"
],
[
"博士。何があったのですか、地震はどこに現われていますか",
"叱ッ"
],
[
"もちろん計器の上に感じた地震だ。すごい伝播速度のものだ。秒速二千四百キロメートルを観測したよ",
"なるほど、普通の地震の場合の三十倍以上の高速ですね"
],
[
"そうだろう。地震には余震が付きものなんだから……",
"そうかね。僕には、ぴんと来ないがねえ。何かもっと目に見える派手な事件でも、起こって呉れなくちゃ、僕には異常現象たることが諒解できない。ああ、とにかく草臥れたよ。外へ出て、冷い潮風に当たって来ようや。君もちょっと出ないか"
],
[
"護衛艦たちは、いやに遠くへ離れちまったねえ、水戸君",
"うん、観測の邪魔にならないように、本船の間に相当の距離を置いたんだろう",
"そうかなあ。あれは駆逐艦らしいが、いい格好だねえ。おや、どうしたッ。変だぞ、あの艦は……"
],
[
"が、二つの事件は同一手段によったとしか考えられません。もちろんさっきの事件も、原子爆弾によるものとは思われない",
"なぜ原子爆弾でないというのかね",
"ホーテンス君。君だってその点については充分疑問を持っているのではないかね。もしあれが原子爆弾だとしたら、いくら水中での爆発にしろ、あの駆逐艦D十五号だけがあんなにひどく損傷して粉砕したばかりか全部が気化してしまうことはないだろう、恐ろしい力だ。それにも拘らず僕が乗っているこのサンキス号を始め、僚艦は大した損傷を蒙っていないではないか。だからさっきのを原子爆弾と見ることは正しくないと思うのだ"
],
[
"ところがねホーテンス君。これは博士に笑われると思うが僕は一つの仮定を置いたのだ。その結果、二つの事件に同一原因説を敢えて圧しつけているわけだが、つまりこうなんだ、その仮定というのは――",
"ふう",
"……同一原因による力が働いたんだが、その原因物と被害物体との距離にかなりの相違があったため、その結果である損傷程度に著しい相違を生じた――こう考えてはどうだろうか。つまりゼムリヤ号事件のときはその怪力源が相当遠くにあった。しかし駆逐艦D十五号の場合はずっと近くにあった。そう考えることはいけないだろうか"
],
[
"そうだ、冒険だ、わしは準備の出来次第、その冒険を決行するつもりだ、何しろプログラムに全然なかったことを、水戸君から得たヒントで行くんだから、少々手数がかかる",
"先生その冒険というのは、どんなことですか"
],
[
"左様、その冒険というのは外でもない、わしは、今後の事情がそれを許すなら、潜水服を着て、あの海底地震帯へ下りてみようと思う",
"えっ、海底へ博士が御自身であの潜水服を着て下りられるというんですか"
],
[
"それが近道だと思うからだ。海底へ下りてみれば何もかも分かるかも知れない",
"しかし先生、そんな危険なことをどうしてなさるのですか",
"危険は、海上にいても出会うだろう。海底が危険なら、それと同様に海上もまた危険だよ。……とにかくわしは近いうちにそれを決行することとして計画を樹ててみる。職員以外にも希望者があれば同行を許可するから、あとで僕のところへ申出で給え"
],
[
"なによりもまず生命の危険率が頗る大きいことを考えなくてはね、仮りにかの怪奇なる怪力源問題がなかったとしても大西洋の海底を人間が潜水服でのこのこ歩くなんて前代未聞の冒険だよ",
"やっぱり歩一歩と地味な観測を続けるのがいいのではないか。それが一番の近道ではないだろうか",
"いや、団長は人類の幸福のため自分の尊い生命を犠牲にしておられるのだ。その崇高な決意に対し、われわれもまた団長と同一精神に燃え、世界人類の幸福のために大西洋の海底を歩くべきだ"
],
[
"何でもいいよ、しかしなるべく豪華なところを願いたいもんだよ。金貨が一杯入っている袋とか、金剛石紅玉青玉がざらざら出てくる古風な箱だとか、そういうものなら僕は悪くないと思うね",
"それは誰だって悪くないよ。君の欲の深いのには呆れたもんだ",
"そんなら貴様も海底へ出張すればいいじゃないか"
],
[
"いや、僕は駄目だ。船員というものは船を離れると駄目なんだ。あんな芋虫の化物のような潜水服を着て、のこのこ海底を歩くなんてぇことは、われわれ船員の柄じゃない",
"うまくいってるぜ。しかし僕たちがこれから下りて行く海底はそんなものは見付からないだろう。お目に懸れるのは、骸骨に、腐った鉄材、それに深海魚ぐらいのところだろうよ",
"いや、必ず持って来てやるよ、はははは"
],
[
"遺留品は、その表にあるように、殆ど原形を停めないまでに破壊されている。その二三のものを電子顕微鏡下において調べたが破壊面は非常な微粒子――コロイド程度にまで粉砕されている。火薬などによる普通の破壊事件では見られない現象だ",
"なぜそんなに破壊面が粉末化しているのでしょうか",
"それは今のところ不可解だ",
"その破壊面附近に、ウラニウムなどの放射性物質がついていませんでしたか",
"今までのところ、それを検出し得ない。多分付着していないのであろうと思う",
"それはおかしいですね"
],
[
"すると、D十五号は原子爆弾によって破壊されたのではないといい切っていいわけですか",
"まだ、そこまではいい切れないが、とにかくこれまでに知られたウラニウム爆弾でないといえる可能性が多分にある",
"どうもそれはおかしい。原子爆弾でなくて如何なるものがあんなひどい破壊を生ぜしめるでしょうか。いや、これは素人考えに墮していますかな"
],
[
"不思議は不思議さ。およそ何もかも不思議なんだ。だがその不思議と映る現象――その事件そのものを素直に受取るより外ないね",
"ははは。そこで君の持説“地球発狂事件”かね",
"そうなんだ。それはとにかくD十五号事件によって、あの驚異の力には方向性があるといえると思うんだ",
"方向性だって",
"そうだ。方向性があればこそ、D十五号だけがあのような大破壊を受け附近にいた水上艦艇も水中にいた潜水艦も共に惨害から免れたのだと思う。だからわれわれが水中であの種の驚異力の発生を感付いたら、すぐに物蔭に寝るといいと思うね。水中では波動速度がのろいから、きっとそれでも間に合うと思うよ",
"なるほど。それはいい考えだ、覚えておこう"
],
[
"すると、昨日から始めた海底調査の結果なんか、何もいって来ませんかね",
"ええ、たいして詳しいことも",
"あれはうまく行っているんでしょうか"
],
[
"なかなか面倒らしいですね。昨日の午後になって本国へ航空隊の来援を打電していたようですよ",
"航空隊の来援を……。すると何か重大な発見でもあったのかな"
],
[
"あたくし、がっかりしましたわ。ドレゴ様とあろう方が、気がおききになりませんのね。あたくしの手紙をごらんになり電報をお読みになれば、あなた様が必ず水戸さんを連れて帰っていらっしゃらなければならないことは、お分りの筈じゃありませんか。あたくし――",
"まあ待ってくれ、エミリー"
],
[
"だってそれは無理だよ。あの手紙や電報では、そんな意味には取れやしない",
"そんなこと、ございませんわ。あなた様は水戸さんの唯一無二の御親友で……",
"唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え",
"だって……",
"だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい",
"あたくしは、あなた様も大いに崇拝いたしておりますわ",
"えっ、それはややこしいね",
"――だってあなたさまは愛する水戸の唯一無二の親友でいらっしゃいますものね",
"たははは……"
],
[
"浴槽を用意して貰おう",
"はい。もう用意ができておりますでございます",
"ふん。――何か変わったことはないか、早く僕に報告しなければならない性質のもので……",
"はい、ございます、昨日午後四時より始まりまして、サンノム家のエミリー嬢が坊ちゃま……おほん、若旦那様に至急の御用があるとかで六回もお見えになりましてございます",
"困ったねえ、あの女には",
"……",
"今朝は、まだ来ないか",
"はい、まだお見えになりませんよ",
"やれやれ、早いところ風呂へ入って、ずらかるかな"
],
[
"まだお目ざめではないと申し上げては置きましたが……",
"いや会おう……昨日僕は頓馬だった、たとえエミリーがどう思っていようと、僕はゼムリヤ号事件の名誉ある発見者として、その最新情報を集め、その核心へ、突進しなければならないのだ"
],
[
"こ、困りますね。広間でお待ち願うよう申上げたつもりでございますに……",
"一秒を争うことなんです。ドレゴさんにすぐお目にかからねばなりません"
],
[
"ところがたいへんなのよ。ケノフスキーが飛行機で行っちまうんです",
"ケノフスキー?",
"そうなの。うちに下宿しているケノフスキーです。ゼムリヤ号に関しては、あの人が一番謎を知っているんです。そしてそれに関する取引も、あの人だけが握っているんです"
],
[
"それで彼はゼムリヤ号についてどういう地位にあるのかね",
"原子爆弾防衛委員の一人ですわよ。そしてアイスランド海域の監視人なのよ",
"なに、やっぱり原子爆弾か。これはたいへんだ。エミリー、すぐ外へ出ておくれ。僕は湯舟から出るからね"
],
[
"わしはヤクーツク造船所の一代理人だが、原子爆弾防衛委員でもなければ、アイスランド海域の監視人だなんて、それは嘘ですよ。しかしゼムリヤ号のことについては相当承知していますよ。あれは優秀砕氷船です。だがそれ以上の目的を持った試作船でさ。もうお察しでしょうが、あの船は、外部からの極めて大きな圧力に耐えるように、そして熱線を完全に防ぎ、それから放射性物質の浸透を或る程度食いとめるように設計されてある、つまり結局、原子爆弾の恐るべき破壊力にも耐えられるだけのことが考えられてあるんでさ。こういう船を作っちゃいかんというわけはないですからね。いや、それよりも全人類が原子爆弾の脅威に曝らされている今日、われわれ人類は生存の安全のため一日も早く、あの脅威を防ぎ留める工夫をしなければならぬことは当然のことです。その対策としては、われわれが全く地底に隠れるのも一方法だが、しかしそれでは移動性に欠け、所要の交通や貿易ができなくなるわけだ。それじゃ困るですからな",
"航空機に耐力を持たせることも、今のところ不可能です。あれはマッチ箱みたいなものですからね。結局船である。水の上にふんわりと浮かんでいる船なら、伸縮があっても大丈夫、吹き飛ばされようが広い海の上なら大したことはない。陸の上じゃそうはいかん。結局船がいいということになるが、わがヤクーツク造船所では、マルト大学造船科にその設計を依囑したところ従来の造船工学にはアイデアのなかった顕著に伸縮性のある船を考え出してくれたのです。そしてそれは試作船として一先ず成功をおさめたといえる。君も見て知っているでしょう。あの山頂に叩きつけられたゼムリヤ号が、ほとんど外形を損じていなかったことを!"
],
[
"なぜ内部から爆発が起こったんですかね",
"知らんね。それは造船所の代理人たるわしに関係のないことだ"
],
[
"せっかく丈夫な船が出来たにしろ、乗組員がその場で全部死んでしまうんでは、買い手がつかないですからなあ",
"いや、あれは当時乗組員用の衝撃緩和装置が間に合わなかったせいだよ。何しろ試運転を急いだものだから……今ならその安全器械は十分間に合うのだ",
"一体あの事件のとき、ゼ号の乗組員はどういうわけで死んだんですかね。いやもちろん激しい外力によって、壁に頭をぶつけ、脳震盪を起こしたんだろうと想像していますが、それにしてもゼ号をあのように高い山の上へ吹き飛ばした外力というものは一体何物だったんですか",
"そのことだがね。これは慎重な態度で取扱わねばならぬ問題だが、とにかく巨大なる外力が働いたことは確かであるし、それは海において発生したものであること……",
"それは原子爆弾にやられたんですか",
"そこが、その微妙なところで……実はこういう話があるんだが……"
],
[
"いつ帰って来ますか",
"後で詳しく手紙にして送る。さよなら。さよなら"
],
[
"エミリー、ありがとう。かなりの収穫があったよ、が、時間が切れて話は胴中から尻方の方だけが残った恰好だ",
"ぼんやりしているのね、あの人だったら抜け目なく頭まで手にいれるんだけれど",
"水戸のことをいっているんだね"
],
[
"僕は君の気持ちを知らなかったもんだから、彼を大西洋に置いてきたんだ、一体君はいつ頃から水戸を愛していたんだね",
"もう古いことよ。水戸がうちへ下宿するようになって間もなくだわ"
],
[
"これは愕いた。水戸はちっともそんな気配を見せなかったのでね",
"あら、ドレゴさん。早合点しないでよ。あたし達の間はまだ何でもないし、第一水戸さんはご存じないのよ"
],
[
"わが可憐なるエミリー嬢が見掛けとはおよそ似つかぬ清純たる恋に悩んでおられるとは、さっぱり気がつかなかったね",
"おおきにお世話よ、鈍感坊ちゃん",
"これはお言葉、痛み入る。しかしエミリー、実をいえば僕も水戸をひとり残して来たのをたいへん後悔しているんだがね",
"あたしも変に胸さわぎがするのよ。あっちで何か間違いでもあったんじゃないかしら"
],
[
"あれは海底地震ではないというのですか、すると何ですか、あの異常震の正体は……",
"ホーテンス君。その正体をこれから調べにかかるのだよ……全員集合"
],
[
"大警戒を要するのだ。前方百メートルのところに、海底からとび出したものがある",
"海底からとび出したもの?",
"そうだ。その正体はまだ分からぬ。沈没している船かもしれない。或いは岩かもしれない。とにかくこれから油断をしないで前進するように、との博士の注意だ"
],
[
"ワーナー博士。気がつきましたか。僕は水戸です。お怪我はありませんか",
"ああ、水戸君か。ここ……ここは何処なのかね",
"もうすぐ観測器具を置いてある根拠地ですが……",
"ああ、そうか。やっぱり海底だね。皆はどうした、隊員たちは……"
],
[
"アメリカ・インディアンは、コロンブスの船が着く以前において、この世の中に白人というものが存在することを知らなかった。インディアンとしては、それは無理もないことだと思う。当時のインディアンは驚愕と茫然自失の外に、途がなかったのだ。しかしわれわれの場合はどうであろうか",
"なんといわれます?"
],
[
"新しいコロンブスは、地球の外から到着したのだ。遂に到着したのだ。われわれは、昔のインディアンと同じような驚愕と困惑にぶつかった。だがわれわれは昔のインディアンの場合とは違い、実は新しいコロンブスのやがて到来するだろうということを予想し得る能力を備えていたのだ。それにも拘らず、われわれはその用意がなかったのだ。私はある天文学者が遙か以前においてそれに関する警告を発したことを憶えている。しかしわれわれはその可能性を肯定したけれど、まさかそれが、われわれの時代に実現するとは思わなかった。だから、新しいコロンブスを迎える用意は全然していなかったのだ",
"新しいコロンブスというのは何者ですか"
],
[
"それは何者であるか、不幸にして私は知らない。しかしこれだけは分っている。その新しいコロンブスたちは、地球以外の惑星に生を受けた生物であること、それからその生物たちは多分われわれ地球人類よりもずっと知能が勝れているということ――これだけは確かだといえよう",
"すると、さっき私たちの見たのは、あれは火星人だったのでしょうか"
],
[
"火星人かもしれないし、そうでないかもしれない",
"ですが、火星は、わが地球に一番よく似ていて、そこには植物が繁り生物が棲息していることは前からいわれていたではありませんか。ですから、地球の外から到来する可能性のある者といえば、火星人なんじゃありませんか",
"さあね。もしあれが火星人だとしたら、まだ問題は軽い方だ",
"問題は軽い方だ? すると博士は、彼らが火星人でなく、他の生物だとおっしゃるのですか。そういう可能性もあるのですか。一体彼らはどこから来た生物だとお考えなんですか",
"水戸君。生物が棲息し得る惑星というものは、何も火星だけに限らないのだよ。なるほどわが太陽系においては、生物の棲息し得る惑星、わが地球と火星とをおいて、その外には見当らないかもしれない。だが大宇宙は広大だ。そこには二百億個以上の恒星が眩しく輝いているのだ。つまりその二百億個以上の恒星や太陽の中には、地球や火星の如き生物棲息に都合のよい大気圧や気温や環境を具備した惑星を率いているものが相当にあると考えられるではないか、いわんやわが太陽の如きは、恒星の中でも極く小さい方だ。それでいて、ちゃんと生物棲息の条件を備えた二個の惑星を持っている。それなら、他の太陽の中には、もっと夥しい数の、かかる惑星を抱えていると考えられる。つまり大宇宙には、本当に数え切れないほど無数の生物があると思っていいのだ",
"なるほど、それは気味のわるいことですねえ",
"気味のわるい以上のものだよ。そういう生物は、われら地球人類と同等の知能を持っていると考えるだけでは正しくない。彼らの中にはわれら地球人類以来の歴史たる二万年よりももっともっと夥しい年代を経ているものも少くないであろう。従ってその知能や文化程度においては、とてもわが地球人類の及びもつかない程、高級の生物たちであると推定して差支えないと思う。恰も猿対人間、いやそれ以上に知能の差があるのではないか。さあ、そういう場合、劣等なるわれら地球人類は一体何をなし得るだろうか",
"何という淋しいことでしょう"
],
[
"絶対無抵抗の外なしだ。絶対服従だ。わが地球全土は、われら地球人類もひっくるめて、彼らの意のままに従わなければならないのだ",
"ああ、何という恐しいことでしょう。僕はそういう局面にめぐり合いたくない",
"が、それが、やがてわれら地球人類の迎えなければならない運命なんだ。好むと好まざるとに拘らず……",
"博士。ちょっと待って下さい。博士が今おっしゃっていることは予想です。それは夢です。われらはまだ、何も現実に彼らによって征服されたわけでない。新しいコロンブスの船らしいものが今この海底に来ていることは来ているようですが、彼らはまだほんのちょっぴりの交渉を持っているだけです",
"だが、それは、疑問に包まれた恐ろしき運命の第一頁が開かれたることを意味する",
"でも、先生。われらのやり方一つで、その新しいコロンブスと平和的な交際を取結ぶことが出来るんではないかと思うんですがね",
"それはねえ水戸君。それは希望的観測というもんだよ。われわれは優れた者の持つ力の働く範囲と程度とを冷静に観測し、そして最悪の場合を予想して置かねばならない。何しろわれわれ地球人類の間には、地球外の生物を迎えるための用意が少しもなされていない事実に、深く思いをせねばならない",
"そうでもありましょうが、われわれは努力によって好転させる可能性があるように思うんですがね。地球の全人類が共に血のつづいた同胞である如く、全宇宙の生物の間にも、当代同胞としての自覚が樹てられる筈、だから仲よく手を握りあえないことはないと思うんですがねえ",
"それはそうだが……",
"全宇宙のどこの隅にも不幸な者があってはならないのです。そういう不幸な一部があるということは、所詮宇宙の不幸なんですからねえ。この理屈は、如何なる時代にも、如何なる相手にも納得されることだと思うんですがねえ",
"水戸君。君のその信念は正しいと思う。そして君の熱情が、われわれが今怯えている影を吹き払って、われわれを不幸から救ってくれることを祈る",
"ええ、こうなったら、僕は一身を投げて、この問題の解決に努力しますよ"
],
[
"ワーナー先生。船へ帰りましょう。さあ、僕の背に乗って下さい",
"うむ。すまないねえ、水戸君",
"元気を出して下さいよ。船へあがるまでは……"
],
[
"また、戦争じゃろうか",
"ふん。そうかもしれん。一体何国だろうか。あんなところに海底要塞なんか築いたのは……"
],
[
"一体このニュースを初めに出したのは、どこの誰だい",
"それがおかしいのだ。今日の十一時にWGY局が短波で呼出され、あの第一報が伝えられたんだそうな。WGY局ではおどろいて政府当局に連絡して、真偽のほどを質問した。すると政府のスポークスマンは、それを否定もしないし、また肯定もしないと回答した。ところで、それではあの通信に幾分の真相が含まれているものと見なし、正午に全世界へ報道したというわけだそうだぜ",
"ちょっと妙だよ。政府のその態度は。当局の意向として云々という文句があるのに、それを否定も肯定もしないというのは……",
"だからね。僕の考えじゃあ、政府当局はあの事件についてまだ調査中なんじゃないかね。調査中だから確かなことはいえない。だがともかくもああいう事件は事実存在する。そこであんな態度に出たと思うね",
"まあ、その辺だろう。と、われわれはもっと真相を知らねばならない。さあ、そうなるとどこから入り込むか",
"発信者の所在を早く探出すことだね"
],
[
"いや、それよりはワーナー博士一行の所在地へ飛び込むことだ",
"それは出来ないんじゃないか。まさか、大西洋の海底まで下りて行くことは出来ないだろう",
"遭難し全滅したというんだから、仕様がないじゃないか"
],
[
"ところがね、僕は博士一行が全部死に絶えたとは思わない。全滅とは必ずしも全部が死んでしまったという意味じゃない。死ぬか、さもなければ怪我をするかして、満足に動ける者がなくなりゃ、これをやっぱり全滅と報道していいんだ。だから皆死んだとは断定できない",
"しかしねえ……",
"まあ、待てよ。それにだ、もし博士一行が海底で全部死んだものなら、海底に怪人集団を発見したことを報告できやしないよ。われわれの場合は、ちゃんとそれを報告しているんだ。しかも吾人の想像に絶する巨大なる力を有するものだとか“性情頗る険呑なるもの”などと相当深い観察までが伝えられている。おまけに今後の調査団の強化までが決定されているじゃないか。そして、“全世界に有史以来の大恐慌が起るであろう”などと相当責任のある予想をつけ加えている。これらのことを考え合わすと、ワーナー博士の一行が全部海底で死滅したんでは、こんなしっかりしたことは報道できやしないよ。そうじゃないかね",
"君の説に賛成するよ"
],
[
"一体これからどうなるんだ、われわれ人間さまは……",
"ビフテキ――いや人間テキにされちまって彼等にぱくつかれらあな",
"君なんかは肥っていて肉が軟かで、人間テキにはおあつらえ向きだってね",
"何をいうか、僕はテキになるまでこんなところにまごまごしてやしない",
"ふうん。自殺するってわけか",
"うんにゃ、自殺は嫌いだ",
"じゃあ、どうするんだ",
"ふふふ、こいつはあまり誰にも聞かせたくないビッグ・アイデアだがね、外ならぬお仲間たちだから喋るが、実はアルプスの山の中へ立籠るんだ。氷に穴をあけてね。そこにいれば大丈夫だよ",
"なぜ",
"なぜって、例の怪物は今海底にいるところから考えると、あれは魚類の親類なんだ。魚類の親類なら氷の山の上までは昇ってこられないよ。もし来たら冷凍されちまうからね",
"なんだ、ばかばかしい。それにアルプスの中はいいが、末には食糧に困るぞ",
"うん、そのときは夜な夜な下山して、あの怪物狩をして、あべこべに彼等の肉でフィッシュ・フライを作って喰べる",
"はっはっはっ。そんなことはうまく行きやしないよ。僕はもっと違ったすばらしいアイデアを持っている",
"というと、どんな迷案かね",
"最もすぐれたアイデアだよ。某研究所が秘蔵している長距離ロケット機があるんだ。どうせそうすれば、あのロケット機に乗って地球から逃げ出す奴がいるに違いないから、前もってあの機中に潜伏していて、密航するというわけだ。そして月世界あたりへ行ってしまう",
"それはお伽噺だ。今、月世界まで行きつくロケット機なんてあるかよ。不可能だ。それにたとえ月世界に行きついたとしても、向うには空気は全然無いぜ、だから腹ぺこになるよりは、空気に飢えて呼吸の根が停ってしまうよ。だめだめ、そんなことは……",
"いや、アルプスへ籠るよりは冒険的で近代的で――やあ、部長。どこへ行っていたんですか、さっきから探していましたよ",
"遂に、テームズ河口に繋留してある浮標Dの十一号までは、つきとめたよ",
"テームズ河口の浮標Dの十一号とは一体何ですか",
"それはね、第二報の入りこんだ道筋なんだ",
"第二報の入りこんだ道筋?",
"そうだ。第二報はいきなりWGY局から放送された。WGY局は第二報をどこから手に入れたか。それを調べてみたんだ。さきの第一報は無電で入った。ところがこんどの第二報は無電ではなかったんだ。それは有線電信で入ったことが分った。どこからその電信がうたれたか。WGY局でそれを見せて貰ったがね、ニューヨーク中央電信局扱いになっている。発信局はロンドンなんだ。海底電信で来たんだね。近頃めずらしい古風なやり方だ"
],
[
"たしかにそこに一つの性格が認められるね、この発信者のだ……。そこでロンドン局を呼出して、追及してみたよ。するとその電信を受付けた局員が出て来たが、結局それはテームズ河口の浮標Dの十一号から依頼されたものだという……",
"浮標が電信を依頼するということがあるだろうか",
"浮標そのものが依頼したわけじゃない。その浮標に繋留していた船から依頼されたわけだ。その浮標とロンドン局とは、やはり電纜で連結されているんだ。ところでDの十一号までは、つきとめたが、残念なことに、その浮標に当時繋留していた船の名が分らない。そこでこの調査も一応終りさ",
"ふうん。その浮標に繋留した船がありながらその船名が分らないというのはおかしいね。必ず分らなければならない筈だ",
"ところが、港湾局にも記載がないのだ。つまりその日D十一号浮標に繋留した船はないと言明している",
"それはいよいよおかしい。ちゃんと電信依頼がロンドン局へ届いている。そんなら繋留船が存在しなければならない",
"そこに何か曰くがありとしなければならないだろうな。……とにかくさ、要するにロンドン港がくさい。これからロンドンへ網をかぶせるべきだ。誰か四五名、ロンドンへ行って貰おう。特別に社機を出して貰うよう、局長には話をして来たぜ",
"よし、僕が行こう",
"僕も行く。ワーナー博士一行の生残者か、それとも遺骸かもしれないが、とにかくそれがロンドン内に隠されていることは間違いなしだ",
"うん。成功を祈る。君たちの……"
],
[
"やあ、エミリー。今日は珍しい人から手紙が来たよ",
"あら、うれしい。水戸さんから……",
"何でも皆、水戸の話だと思っちまうんだね。違うよ。水戸から手紙が来たんだったら、すぐ電話をかけるよ",
"まあ、つまんない。じゃあ誰から",
"ケノフスキーからだ。モスクワから出した手紙なんだ。これは僕が、約束しておいた手紙なんだ",
"……"
],
[
"いや、全文読んだ上で、エミリーによろしくと来ないと、感じがでないからね。はっはっはっ……それはいいが、このケノフスキーの提案をどうしたもんだろうね",
"あたしに相談したって、何が分るものかね",
"うん。水戸がいれば早速彼の意見を徴するんだ、生憎水戸がいないから代りに水戸夫人の卵さんに伺ってみた次第だがね",
"あたしを馬鹿になさるのね、ドレゴさん"
],
[
"真面目な話なんだよ。僕は困ってしまった。ケノフスキーに恨まれたって何とも思やしないが、しかし何だかこう胸を圧迫されるようなものが残りそうで、いやだね",
"取引をなさってはどうなの。いい条件らしいじゃありませんか",
"だって、こっちからだして提供するものはありゃしないからね。僕はワーナー調査団について大西洋まで行くには行ったが、そのまま引返して来たんだからね、或る婦人の策謀にうまうまのせられて……",
"まあ、ドレゴさん",
"要するに、僕はケノフスキーを満足させるほどの物を持っていないのだ。お気の毒さまだがねえ",
"新聞を片端から切抜いて送ったらどう",
"ケノフスキーを怒らせるばかりだ",
"だって、あなたのような方に、それ以上を求めるのは酷だわ",
"はいはい、よくご承知で……。水戸君とは違いましてね",
"あら、そんな意味でいったんじゃないわ。本当に無理なんですもの",
"まあいいや。少し考えることにしよう。それじゃエミリー夫人。また会うまで"
],
[
"使うことは大有りさ。年中時期を選ばず、氷の中で漁業が出来らあね。これは大した儲け仕事だよ、年中休みなしで漁獲があるんだからね",
"えへっ、そんなに年中儲けてどうするんだ。これ以上酒を呑めといっても呑めやしないぜ",
"儲けるのがいやならいやでいいが、この砕氷船を買っとけば、いざ戦争というときには原子爆弾よけには持ってこいなんだ。ほう、あのゼムリヤ号の事さ。あんなに遠方から空中を吹きとばされ山の上にぶちあたってもすこしも壊れないですむんだ。長生きがしたけりゃ一隻買っておきなさい",
"ばかいわねえもんだ。おれは長生きしたいなんて、一度もいったことはねえぞ"
],
[
"やあ、ドレゴ君だったね。アイスランド火酒の味が忘れられないで、またやって来たよ",
"船長、二年間も忘れているなんて、そんな法はないですよ。なんだって永いこと、来なかったんですか",
"会社の重役に訊いてくれたまえ。わしたちは命ぜられなければ、行きたいところへも行けないんでね",
"こんどはどうして来たんです。特別の使命ですか",
"可哀そうな記者君。君たちは地獄の港までも紙と鉛筆を持って行くつもりなんだろう。……魚油と毛皮と、それから例の火酒を少々貰いに来たのさ",
"それだけですか。もっともこんな船じゃあね……",
"こんな船とは……",
"船長、ゼムリヤ号のことは知っているでしょう。すばらしい耐圧力を持った砕氷船でさ。あのゼ号よりもっと強靱な船を買いませんか。ヤクーツク造船所製のすばらしいやつですぜ",
"おや、君は記者の方は廃業したのかね。いつブローカーになったんだ",
"今日からブローカー開業ですよ。これからの安全航海には、ぜひあのような耐圧力の大きい船が必要なんです",
"そうらしいね。こんど本国へ帰ったら重役にそういう船を買うよう話をして置こう",
"あっ、そうだ"
],
[
"船長。この船はアメリカからこのアイスランドへ直航したんでしょう",
"そのとおりだ",
"そうでしょう。じゃあ大西洋の真中を通って来たわけだ。何か見たでしょう、ものものしい風景を……",
"ははは、あれかね。怪人集団の一件だろう"
],
[
"見ましたか。どんな風だったですか",
"やあ、あれには愕いたね。午前二時頃だったね、わしたちが気がついたのは……",
"ほう。それで……"
],
[
"……飛行機の爆音が夜空を圧しているのに気がついた。夥しい飛行機だ、四発の……。それでこれは演習かな、それとも遂に何事か始まったかなと思った。こっちが爆撃せられちゃたまらんから、わしは全船室に点灯を命ずると共に、探照灯のスイッチを入れて、飛行機の音のする方を照射させた",
"ほう。見えましたか",
"見えたね、銀翼がきらりと光った。飛鳥の群が空へ飛上ったかと思われるような光景だった。四、五十機は見えたがね、それが大体五百メートルぐらいにつっこんで来て、何かをぽいと放り出すんだ。と、落下傘が開いて、そのものがふわふわと暖かい海面へ落ちて行く。何だろう、あれは……。食糧投下かな、それとも機雷投下か。わしたちは船橋に固まって、今にも爆発音が起るかと耳と目とに全神経を集中していたが、一向爆発の起る様子もない。ふしぎだわいと首をひねっていると、大きな声がして無電局長がとびこんで来た。“船長、空中からの命令の無電です。すぐ探照灯を消せといって来ました。これが命令です”。わしは受信紙をとって読んだ。絶対の命令だ。違反すれば、軍行動の妨害者と見なすと注意がしてあった。わしは愕いて、すぐさま探照灯を消させた。わしが見たのはそれだけだ。その後も頭上ではいつまでも飛行機の音がひっきりなしにぶんぶんいっていたがね"
],
[
"解釈は君の勝手さ",
"――その地点は……",
"間違いなく例の海域だった",
"機雷攻撃ぐらいで、あの怪人集団が参るでしょうか",
"機雷じゃないと思うね。水中爆雷でもない。もっと別のものだろう",
"船長は、それが何だと想像されるんですか",
"今もいうとおり、解釈は君の勝手さ。しかしねえ、ちょっと面白いことがあるんだよ"
],
[
"この機械は何だか分るかね",
"いや、分らないね。僕はさっぱりだ、この方面のことは……",
"これはテレビジョンの受影機なんだ。航海中アメリカやイギリスのテレビジョンを受けようと思って、僕が試作中のものなんだ",
"テレビジョン? 遠方の光景を映画のようにうつして見える器械のことだったね",
"そのとおり。この映写幕にうつるのさ"
],
[
"どうだい、ドレゴ君分ったかね",
"ふしぎな光景だね。これはトリック映画だろうか",
"とんでもない。実写だ。而も現に今起りつつある実景だ",
"だって変だぜ。魚の大群が空を飛んでいる",
"空ではない、海水の中だ",
"えっ、海水の中をだって、だだっ広い草原がつづいていて、魔物のボイラーかなんかが放り出してある……",
"違うよ。これは海の中の光景なんだ。名誉ある記者ドレゴにも、やっぱり分らないんだね。よく見たまえ、草原じゃない、海底だ。だから魚群が現われたって、すこしもふしぎではない",
"が、海の中がこんなに明るいだろうか",
"赤外線で照射してあるから、明るくうつるんだ",
"ふうん。すると……すると、あのボイラーみたいなものは何だ。もしやあの怪人……",
"そうらしいんだ。僕らにも最初のうちはよく分らなかったけれど、船長や一等運転士などといろいろ意見を交換し合った結果、これは例の怪人集団の写真だという推定に落付いたんだ。あのボイラーみたいなものは、怪人たちが立籠っている城塞なんだろうよ",
"なにッ、あれが怪人集団の城塞だって。ああ、こんなに愕いたことはない"
],
[
"局長、これはみな本当だろうか。映画のテレビジョンかなんかを中継して、この映写幕へ出しているんじゃないか",
"君が信じなきゃ、それまでだよ。だがこれは映画じゃないと僕はかたく信じている。その証拠には、受信電波をかえると、これと同じものが別の角度や距離からうつるんだ。見ていたまえ"
],
[
"ドレゴ君、ここを見給え、この籠みたいなもの――上からぶら下っていると見えて鋼条が光っているが、これは海中へ投げこまれた別のテレビジョン送影機だぜ。あ、あそこにも見える。あんな風に、送影機はいくつも海中に投げこまれているんだ。分るかね、ドレゴ君、これは皆アメリカの飛行機が投げこんで行ったものだよ",
"うへえッ。飛行機がテレビジョンの送影機を投げこんで行ったとは、一体どういうわけなんです。爆雷を投げこんで行くのなら、わけは分りますがね",
"うん、これはわれわれのような専門家じゃないと分らないだろうね。アメリカの飛行機は、怪人集団の様子を偵察するために、あのとおり送影機を投げこんで行ったんだと思う。それは賢明なやり方だからね",
"そうかね、そんなに賢明かな",
"知っているだろう、ワーナー博士の調査団一行があの海底で遭難したことを。それに代ってテレビジョンの送影機を投げこむと、尊い人間の生命を脅かされることは全然ないんだからね。それにテレビジョンの送影機をあんなにどっさり相手の周囲に投げこむなんてぇ、こんな大掛りなことは、わがアメリカじゃなけりゃ何処の国がやるだろうか。痛快じゃないか",
"なるほどね、ずいぶん突飛なことを考えたもんだ。ビッグ・アイデアだよ",
"あの籠みたいなものに、送影用のレンズや発振器装置などがついているんだ。そしてあの鋼条の中には絶縁されたアンテナ線が海面までつづいていて、海面からそれがテレビジョンの像電波を発射しているんだ。それをアメリカ本国では、沢山の受影機に捕捉し、あらゆる角度から怪人集団の様子を監視しているのだと思うね",
"すると、怪人の姿もうつっていいわけだよ。それはこの器械じゃ見えないのかね",
"僕もそう思って、さっきから、いろいろと同調波長を変えて、違った映像をうつしてみたんだが、残念ながらそれらしいものを捉えている電波はなかった"
],
[
"周波数はちゃんと合っているのに……変だなあ、電波が消えたらしい",
"どうしたんだ、停電かね"
],
[
"どこだ。痛いといったではないか",
"わははは。幕の上でぱっと光ったので、僕は手榴弾かなんかを投げつけられたような気がしたんだ。わははは、神経だよ、全く神経のせいだ"
],
[
"おいドレゴ君、分るかい。折角投げこんでおいたテレビジョンの送影機が、今片端から破壊されて行くのだ",
"ええッ、何だって",
"送影機が片端から壊されて行くんだよ。あっ、光った。見たかね、怪人集団の城塞に、小さな灯がつくと、すぐそのあとで送影機が爆発してしまうんだ。城塞から何か出しているよ、怪力線か放射線か、何かそういう強力なものを……",
"すると怪人集団が、あの籠を見つけて壊しにかかっているんだろうか",
"そうらしい"
],
[
"あっ、やられた",
"えっ",
"今まで像を送ってくれていた送影機がやられちまったんだ。ああ、それで分った。さっきもこんなことがあったね。あの前の送影機もやられちまったんだ",
"すると、怪人集団がどんどん送影機を壊しているというわけか",
"そうなんだ。それに違いない、早くも彼等は悟ったんだね。テレビジョンで見張られていては都合が悪いというんで、どんどん壊しにかかっているんだ。ああ、折角の名案も効なしか"
],
[
"しずかに……。御同席ねがえましょうかな",
"君は誰?――ああ、そうか……",
"しずかに。重大なんだ。極めて重大なんだから……"
],
[
"僕が今自由の身になってこの町にいるということが知られては、非常に拙いんだ",
"そうか",
"しかし君の力を借りないでは、僕は思うように行動がとれないんだ",
"力は貸そう。で、身体はどうなんだ。一行全部遭難して全滅だと伝えられているが……",
"それは心配するな。少くとも僕自身は大した負傷でもない",
"それを聞いて安心した。このナイフは君へ返しとこう。いつ僕のポケットへ突込んだのか",
"あの汽船の舷梯の下で……",
"あっ、あのときか"
],
[
"頭から顔にかけてぐるぐる包帯を巻いていた怪我人が君だったのか",
"叱ッ"
],
[
"これから何をしようというんだ、人々の目から隠れて……",
"むずかしい使命だ、ワーナー博士からの切なる懇請によって……",
"ワーナー博士も無事なのか",
"まあねぇ",
"で、何をするって",
"潜水艦を手に入れなければならない",
"潜水艦? そんなものはアメリカにたくさんあるんだろうに……",
"アメリカのでは駄目。ぜひヤクーツク造船所製のものが必要なんだ",
"ヤクーツク造船所のものが……。だってあそこで潜水艦を作った話は聞いていないぞ。それに、何もわざわざあんなところの手を借りなくても……"
],
[
"……そうか、あの一件だな、ゼムリヤ号の耐圧力……",
"そうなんだ。あのすばらしい耐圧力を持った潜水艦がぜひ欲しいんだ",
"ふうん、それは……それはどうかなあ、果たしてうまく行くかなあ。困難だねえ、大困難だねえ。それにあそこで潜水艦をこしらえたという話は一向耳にしていないからね",
"たとえこれまでに建造したことがなくっても、今度ぜひ建造して貰わねばならないのだ",
"大困難。不可能。たとえ百の神々が味方したって、まず絶望に近いね"
],
[
"あなたたち二人が気絶した後で、あたしはゆっくり目をまわすつもりよ",
"女は気が強いね。無理もない。大事な、殿御を先ずもって介抱する義務があるからね。おい水戸。エミリーの言葉を聞いていたかい",
"聞えたようだがね",
"僕も恋人を一緒に連れてくればよかった",
"有りもしないのに、仰有るわねえ"
],
[
"どうしたんだろうか。怪人たちは移動したんだろうか",
"でも、われわれは動けないと、咋日滾していたようだが……",
"そうだったね。だが、たしかに見えない。早く傍まで行ってみよう"
]
] | 底本:「海野十三全集・第11巻・四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「協力新聞」
1945年9月1日~1946年(終号未詳)
※初出時の署名は、丘丘十郎です。
入力:もりみつじゅんじ
校正:武内晴惠
2000年2月2日公開
2011年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000875",
"作品名": "地球発狂事件",
"作品名読み": "ちきゅうはっきょうじけん",
"ソート用読み": "ちきゆうはつきようしけん",
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"初出": "「協力新聞」1945(昭和20)年9月1日~1946(昭和21)年(終号未詳)",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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],
[
"六万MC、するとこの間も、ちょっと聴えた怪放送だね。――録音器は、廻っているだろうね",
"ええ、始めから廻っています",
"ああ、よろしい。では、五分ほどたって、そっちへいく"
],
[
"やあ、久慈君か。こっちは私だが、なにか変った話はないか",
"おお、お待ち申していました。たいへんなことを、聞きこんだのです。いよいよ汎米連邦は戦争を決意したそうです。連邦の最高委員長ワイベルト大統領は、今から一時間ほど前に、極秘のうちに、動員令に署名を終ったそうです",
"そうか。とうとう、開戦か",
"そうです。またまた世界戦争にまで発展することは、火をみるより明らかです。ああ、今度はじまれば、実に第三次の世界大戦ですからね"
],
[
"おい、久慈、最後の始末をして、すぐ地下道へ逃げろ",
"はい。――おや、地下道もだめです。機銃と毒瓦斯弾をもった監察隊員が、テレビジョンの送像器の前を、うろうろしています。ああ、困った。仕方がない、あれを使います",
"あれを使うか。――いよいよ仕方がなくなったときにつかえ。できるなら、使うな",
"そっちは、大丈夫ですか。この調子では、そっちへも、監察隊が、重爆撃機にのって、急行するかもしれませんですよ",
"こっちのことは、心配するな",
"あッ、来ました。もうだめだ。どうか気をつけてくださいッ!"
],
[
"おや、誰もいない。たしかに、この部屋の中に怪しい奴がいたんだが……",
"おかしいなあ。逃げられるわけはないのですがねえ"
],
[
"もっと探せ。おや、その書棚のうしろが、おかしいぞ。黄いろい煙が出ている。やっ、くさい!",
"書棚のうしろですか。よろしい、書棚をのけてみましょう"
],
[
"あっ、ここから逃げたんだ。鉄筋コンクリートの壁に、こんな大きな穴が開いている。これは、今開けた穴だ。それにしては、この黄いろい煙がへんだ。合点がいかない",
"わかったわかった。もっと奥の方の壁に、穴を開けているんだ。よオし、二人して、とび込もう",
"待て! とびこむのは、あぶない。この穴の開け方は尋常でない。相手はたいへん強力な利器をもっているぞ。とびこんではあぶない",
"だが、もう一息というところだ。では、自分が入る!",
"よせ、あぶないぞ",
"なあに、これしきのこと!",
"あっ、とびこんでしまった!"
],
[
"大至急、下へお下りになってください。この方面へ、怪しい艦艇が近づいてまいります",
"なに、怪しい艦艇が……"
],
[
"姫、籐椅子を、下にもってきてくれ",
"はあ",
"それから、後を頼むぞ",
"はい"
],
[
"どこの国の艦だか分らないか",
"艦籍不明!"
],
[
"先任参謀、測量班へもう一度、注意をうながせ",
"はい"
],
[
"――測量班、深度測定をやっとるか",
"はい、やっております"
],
[
"やっているか。まだ深度異常は認められないのか",
"はい、一向変化がありません。この辺の海底は、三十メートル内外で、殆んど平らであります"
],
[
"島影も見えず、沈下した様子もないとは、変だなあ。――どうだ、水中聴音器で、立体的にも測ってみたか",
"もちろんですとも。しかしお断りするまでもなく、水平方向は一万メートル以上は、指度があやしいのです",
"そうか。じゃ、引続き測量を行え。――司令、お聞きのとおりです。一向予期した海底異状がないそうであります"
],
[
"司令、予定された地点は、もう後になってしまいました。そうです、只今、一キロばかり、行き過ぎました",
"そうか。やっぱり駄目か"
],
[
"僚艦からも、かくべつ、ちがった報告はないんだね",
"そうであります。本艦と全く同様の結果を得ております",
"方向探知局の測定に誤差があったのかな。今まで、そんなへまをやったことはないのだがねえ",
"測定の誤差というよりも、測定方法がいけないのじゃないか",
"そんな筈はないのですが……たしかに、こっちの専門家が、苦心して三つの中継局を探しだし、確信のうえに立っているといわれたものですが……",
"とにかく、もう一度、連合艦隊旗艦へ連絡をとってみることにしよう。旗艦を呼び出したまえ",
"は"
],
[
"き、貴様は、何者か!",
"ふふん、わしの姿を見たいというのか。よし、今そっちへ廻って、わしの姿を、見せてあげよう"
],
[
"あははは、そう無理をするなといっているのに、君は分らん男だなあ。その体で、わしに手向うことは出来ないではないか。そうすればわしは、君に代ってこのクロクロ島の実権を握っているようなものだ",
"こいつ、いったな",
"何をいおうと、わしの勝手だ。わしは、わしの欲することを、全部意のままにやるだけのことだ。しかし黒馬博士、わしはまだこのクロクロ島は、ほんの一目見ただけだが、人間業としては、なかなか出来すぎたものだね"
],
[
"答えるかどうかしらんが、早く、それをいってみたまえ",
"うん、いおう。このたび、いよいよ地球の上に捲き起ることとなった第三次世界大戦は、どういう目的とするかね"
],
[
"そりゃ、解決するさ。勝者と敗者とができて、勝者は敗者のもっていた資源を利用する",
"あははは、そんな子供だましの答は御免蒙る。なるほど、一応解決するように見えるさ、見えることは見えるが、勝者は敗者のもっていた資源を奪って使うといっても、敗者は全然亡くなったのではない。敗者といえども人間には相違ないので、ちゃんと生きているのだ。やっぱり喰わねばならない。しかも勝者も敗者も、人間であるからには、年と共に人口が殖えていく、だからいくら戦争をしてみても、資源の足りないことは、ついに蔽いがたい。つまり、人間の欲望を充たすためには、地球の資源では不足だという時代になっているのだ。そう思わないかね"
],
[
"まあ、そういう風にも考えられる。しかし、まだ、いろいろやってみることがある",
"もちろん、やってみることはあるだろう。空中窒素の固定のように、空中から資源をとるのもいい。海水から金を採るのもいいだろう。海底を掘って鉱脈を探すのもいい。しかしやっぱり足りなくなる日が来るのだ。そのときはどうするつもりか",
"どうするかといって、いろいろやってみても資源がこれ以上出てこないということになれば、やむを得ないさ、仕方がないと、諦めるより外ない",
"諦めるより外ない。そりゃ本当かね、口では諦めるといっても、実際足りなきゃ人類は困るよ。喰べられなければ、生きてゆけないではないか。そこでどういう新手をうつつもりか"
],
[
"私には云う資格がない。いや、ありがとう。そんなところで、諦めていると聞いて、わしは安心した。やあ、大きにお邪魔をした。いずれそのうち、また君のところへやってくるよ",
"えっ! 君は、帰るのか",
"どうして。用がすめば帰るさ。用があれば、又やってくるさ",
"おい、身勝手なことをいうと、許さんぞ。待て!"
],
[
"おお、久慈か。よく、脱出できたね",
"や、ありがとう"
],
[
"もういけないかと思った。なにしろ、戦友が、ばたりばたりとやられるのだ……でも、集るだけは集って、抵抗した。そして、皆で智慧をしぼって試験中の成層圏飛行機で、とびだしたものだ",
"ほう、成層圏飛行機! それじゃ、たいへん高空へ逃げたというわけだな",
"エスエス一〇三型という奴で、こいつがまた素晴らしい高速を出す試験中の飛行機なんだ。だから、これを追跡できる飛行機は、外にはないというわけだ。――そしてクロクロ島の緯度経度を測って、うまく飛び下りた",
"すると、何者にも、追跡せられていないというのだね",
"そうだ。まず、九割九分まで、大丈夫だ",
"乗ってた飛行機は、どうした",
"ああ、あれか。あれは、操縦者なしで、いまだにどんどん飛行をつづけているだろうよ。そのうち、どこかの海へ墜ちてわからなくなるだろう",
"それはよかった。実は昨日、君のところからの通信以来、このクロクロ島も、すこし安心ならなくなった形だ"
],
[
"や、やっぱり、後をつけてきやがったか! 畜生!",
"仕方がない。戦闘だ! 手荒なことはしたくないがクロクロ島の秘密を知られては、面倒だ。さあ、君たちいそいで、そこの階段を下りたまえ"
],
[
"それは尤もだが、戦闘に時期を失っては、たいへんだぞ",
"もうすこしだ。殿りの敵機が、せめてもう二十キロばかり、近くなったときに……"
],
[
"敵の司令機が、無電を打ち始めました",
"えっ、無電を……さては、見つかったか。もう、猶予はならん"
],
[
"祝盃だ、祝盃だ!",
"なんという、すばらしい戦闘だったろうか。ああ、思いだしても、胸がすく!"
],
[
"よかろう。おい、オルガ姫、灘の生一本を、倉庫から出してこい",
"はい、はい"
],
[
"――だが、この盃をもって、皆さんに対し、お別れの盃を兼ねさせていただきたい",
"なんだって"
],
[
"実は、さっき、本国から、至急戻ってくるようにと、命令があったのだ。だから私は、お別れして、いそぎ東京へ戻らなければならない",
"ほんとうかね。われわれをからかっているのではないかね。クロクロ島の主人公が、ここを離れるなんて",
"いや、クロクロ島は、依然としてここにおいておく。久慈君に、後を頼んでおく。もちろん本国から君あてに、辞令が無電で届くことだろうが……",
"ほんとうかね。黒馬博士が、クロクロ島を離れるなんて、そいつはちょっと困ったなあ",
"困るって、なにが……",
"僕には、このクロクロ島が、つかいこなせないと思うのだ。なにしろ、このとおり、複雑な働きをする大潜水艦だからなあ",
"複雑だといっても、殆んどみんな機械が自動式にやってくれるのだから、君は、司令マイクに、命令をふきこむだけでも、かまわないんだよ",
"それはそうかも知れんが、このふかい意味のある西経三十三度、南緯三十一度付近においてクロクロ島本来の使命を達成するには、僕では、器が小さすぎる"
],
[
"やあ、ご苦労です",
"鬼塚元帥が、たいへんお待ちです。どうぞ、お早くこの自動車へ……。申しおくれましたが、妾は、鬼塚元帥の秘書のマリ子でございます",
"やあ、どうも"
],
[
"元帥閣下は、そんなにお待ちかねの様子でしたか",
"はい、それはもう、たいへんお待ちかねで、潜水洞四十三番へ、たびたび電話をおかけになるというようなわけで……",
"元帥閣下は、なにか、怒っていられる様子は、なかったですか",
"いいえ、たいへん上機嫌でいらっしゃいました。どうやら、あなたさまは、御栄転になるとの噂が専らでございますわ。黒馬博士、このたび、あなたさまは、どっちの方面から、お帰りになったのでございますの",
"今度はね、私は……"
],
[
"貴官は、本物でしょうな",
"田島大佐です",
"しかし、第五列が猖獗をきわめているようじゃありませんか。現に私は今……",
"申し訳ありません。私たちも、途中で、第五列部隊のため、妨害をうけたのです。もちろんそれは、プラットホーム付近で、博士を誘拐する目的だったのでしょう。とにかく、近頃めずらしい事件です",
"事件のあとで、めずらしい事件だと感心していては困るですね",
"全く、御説のとおり。警備部隊の引責はのがれませんが、またその一方において、敵がいかにわが黒馬博士を高く評価しているかという証拠になります。博士、今後も、どうぞ御注意のほどを……",
"わかりました"
],
[
"私が、早くに、この女は第五列だなと、気がついたから、よかったようなものの、気がつくのが遅ければ、どこへ連れていかれたか分らんですぞ",
"大きに、御説のとおりです。して、その第五列というのは、どこにいますか",
"顛覆している自動車の中を見てください。そこに、運転手もろとも、長くなって伸びているでしょう"
],
[
"いえ、博士。この女は、元帥の秘書のマリ子でありますぞ",
"なに、元帥の秘書のマリ子?"
],
[
"そうですか、それにちがいありませんか",
"たしかに、マリ子です。マリ子の顔を見まちがえるようなことはない"
],
[
"いや、博士。これは、とんだ失礼を。笑ったのは、博士が思いちがいをしていられるからです。元帥の秘書のマリ子なら、毒瓦斯などで死ぬような者ではありません。なぜといって、マリ子は人造人間なんですからね",
"ああ、やっぱり人造人間ですか"
],
[
"元帥閣下、大東亜共栄圏を侵略しようとする外国があるにしても、只今すぐには、手が出ないのではありませんか",
"なぜじゃ、それは……",
"でも、只今、米連と欧弗同盟とは、第三次の戦争を起そうとしています。一方は北南アメリカ大陸に陣どり、他方はヨーロッパとアフリカの両大陸を武装し、これから喰うか喰われるかの大戦闘が始まるのではありませんか。ですから、只今、大東亜共栄圏に手を伸ばすにも、その余裕がない筈です。そうではありませんか",
"うん、われわれも、昨日までは、そう思っていた。そう信じていたのじゃ。ところが、昨日になって、おどろくべき真相が曝露したのじゃ"
],
[
"皆、聞け、よろしいか。始めて聞いたのでは、信じられないかもしれないが、米州連邦と欧弗同盟国とは、互いに戈を交えて、戦闘を開始するのではない。彼等は、協力して東西から、わが大東亜共栄圏を挟撃しようというのである",
"まさか、そんなことが……"
],
[
"米連と欧弗同盟とは、戦闘開始の一歩前に、このどんでんがえしの盟約を行ったのである。白人の外交は、いつの世にも、あまりに複雑怪奇である",
"すると、白色人種と有色人種との間に、歴史的な、そして宿命的な戦闘が始まるのですか"
],
[
"白色人種だの有色人種だのという区別を考えることが、既におかしいのである。だが、白人の中には、或る利己的な謀略上、そういう考え方を宣伝する悪い奴がいるのだ。われ等有色人種の道義としては、全く想いもよらないことだが、白人の中には、有色人種を今のうちに叩いておかなければ、やがて有色人種のため、白色人種が奴隷になってしまう日が来ると、本気でそう信じている者がいる。そして、今、この誤れる思想が、燎原の火の如く、白人の間にひろがっているのだ。だから、われわれの真の敵は、一般白人にあらずして、今回謀略上このような怪思想の宣伝を始めた黒幕の主こそ、われわれの真の敵である",
"なるほど。その黒幕の主こそ、正しくわれわれの大敵でありますな"
],
[
"……しかし、それが不成功に終った暁には、われわれは、大東亜共栄圏の自衛上、武器をとって立ち上らなければならないのだ。そして、世界史始まって以来の最大の死闘が、この地球上に展開されるであろう。そのへんの覚悟は、して置いて貰いたい",
"元帥閣下、よく分りました。貴官のお考えでは、戦闘はいつから始まりますか",
"余の予想では、早ければ、あと二十四時間のちだ",
"え、二十四時間のち?"
],
[
"そして私に対する何か新しい御命令がありますか",
"そのことじゃ、黒馬博士"
],
[
"多分、クロクロ島司令への命令は、一つとして、困難でないものはないであろう。且つ、今日は大西洋に、明日は南氷洋にと、ずいぶんはげしい移動を命ずることであろう。どうか、われわれの大東亜共栄圏のため、粉骨砕身、闘ってもらいたい",
"承知しました。大丈夫です",
"では、すぐさま、クロクロ島へ戻ってもらいたい",
"はい。すぐさま、出発いたします",
"折角、祖国へ戻ってきたのに、何の風情もなく、すぐさま追いかえして、気の毒じゃのう",
"いえ、今は、それどころでは、ありません。いずれ、あの世で、ゆっくりお目にかかりましょう",
"うん、わしも今それをいおうと思っていたところだ"
],
[
"そうではないか、X大使、断りもなく、わがクロクロ島の内部まで侵入して来るような相手に対しては、吾々は、いかなる手段を用いても、防衛するのだ。当り前のことではないか",
"なあんだ、そんな意味か。ばかばかしい"
],
[
"君の方では、あれで、厳重な戸締りをしたつもりなんだろうねえ。人間なんて、自惚ばかりつよくて哀れなものだ",
"人間? お互いに人間であることに、変りはない。X大使よ、君は人間の悪口をいうが、それは天に唾をするようなものではないか。つまり自分の悪口をいっているわけだからねえ"
],
[
"あははは、可哀いそうな者よ。なんとでも、好きなように自惚れているがいい。そのうちに君たちの大東亜共栄圏は、白人たちの土足の下に踏みにじられるだろう",
"やあ、そういう君は、白人種結社から派遣されたスパイだろう",
"違う"
],
[
"……まあ、なんとでも想像するがいい。しかしとにかく、わしは君に警告しておく。もう、あのようなくだらん磁力砲などを仕掛けるのはよせ",
"余計な御忠告だ。そういう君は、磁力砲の偉力に、すっかり参ったというわけだろうが……"
],
[
"どうだ、わしの姿が見えるだろう",
"舞台の上の大魔術というところだ。入場料をとっているなら、拍手を送りたいところだが、そんな手で、私はごま化されないぞ。これは、君の本当の体ではなくて、幻影にすぎないのだ",
"幻影? 可哀いそうな人間よ。これでも、幻影か"
],
[
"おい、オルガ姫。クロクロ島の所在は、どうした",
"はい。まだ、見当りません"
],
[
"自記計器のグラフを見ますと、三分間ばかり、はげしい擾乱状態にあったことが、記録されています",
"なに擾乱状態が……"
],
[
"おい、オルガ姫。三角暗礁へ、艇をつけろ",
"三角暗礁へ! はい"
],
[
"ふーん、約七十キロ、東か。よし、じゃあ、すぐ出かけよう。オルガ姫、魚雷型快速潜水艇の入口をあけておけ",
"はい"
],
[
"出発!",
"はい、出発します"
],
[
"煙幕放出用意。第一号から第五号まで、安全弇抜け",
"はい"
],
[
"はい。第一号から第五号まで、安全弇抜きました",
"よろしい。上昇始め",
"はい、上昇始めます。深度八十、七十六、七十四、七十二……"
],
[
"あっ、別な敵だ。背後から襲撃しやがったんだな。オルガ姫、いま背後を掠めて通ったやつを追いかけろ",
"はい"
],
[
"はい、速度下げます。只今、三百五十キロ。はい、三百四十、三百三十……",
"あ、そんなことじゃ駄目だ。もっと下げろ。最大急行で、下げろ",
"はい。最大急行で下げます"
],
[
"……時速二十、時速十五、時速十。時速十になりました",
"よ、よろしい"
],
[
"深度が、自然に殖えていきます。本艇は、沈下しつつあります",
"えっ、沈下? そいつは、いけない。どうにかしろ、おいオルガ姫……"
],
[
"X大使。私は、敵の捕虜になりたくないのだ。それから又、わが艇の内部を敵に見せることを好まないのだ",
"それで……",
"それで、私とわが艇とを、敵の手から放して貰いたい",
"よろしい。そんなことはわけなしだ。君は、望遠鏡で鎖を見ていたまえ"
],
[
"ええっ、エンジンが駄目か。それは弱った。じゃあ、わが艇は、これからどんどん沈んで、海底にもぐりこむだけだね。どうかならないか、X大使",
"エンジンをなおすのは、わしには出来ない。すこし複雑すぎるからね",
"でも、折角助けてもらったのに、このままでは、海底で寒さと飢えのため、死ぬばかりだ。どうかして、手を貸して呉れたまえ",
"わしに出来ることは、君の艇を、三角暗礁の埠頭につけることだ",
"そうして貰えば、こんな幸いなことはない。あとは、向うの工作機械をつかってなおすから……"
],
[
"そんなことなら、訳なしだ。ほら、その出入口の扉を開いて見たまえ",
"えっ、何だって",
"何だっても、ないよ。もう、ちゃんと、三角暗礁の埠頭に横づけになっているよ。嘘だと思ったら、外を見るがいい",
"それは嘘だ。たった今、敵艦の鎖をふり切ったばかりなのに……"
],
[
"オルガ姫、出入口の扉をあけろ",
"はい"
],
[
"おい、黒馬博士。待ちたまえ",
"うむ"
],
[
"そんな心配は無用だ。安全に行ける方法がある。君は、ピース提督に会い、そして安全にここへ戻って来られるのだ。決して間違いのないことを、わしは保証する",
"しかし、私には信じられない。少くとも敵は、私を捕虜にしないではいないだろう",
"安心したまえ。ねえ、黒馬博士。君は、わしの力を信じないのかね。あの七、八本の鎖を切断したときのことを考えて見給え。それから、一瞬のうちに、三角暗礁へ艇をつけてあげたことを考えてみるがいい。君は、私の力を信じないのか",
"いや、信じないわけではない。しかし、私には、君が何故そのような不思議な力を持っているか、それが解らないのだ。また、なぜ、そんな不思議なことが出来るのか、理解できないのだ。これまで君のやっていることは、物理学の法則を蹂躙している",
"あははは、物理学の法則を蹂躙しているは、よかったねえ。しかし、これは、人間――いや君たちの勉強が、まだ不充分なためだよ",
"なんだと……",
"わしの力の不思議さを探求したかったら、わしを信じてこれから旗艦ユーダにいってみるがいいではないか"
],
[
"では、X大使。私を、米連艦隊の旗艦へつれていって呉れたまえ",
"よろしい。向うへいったら、君が訊きたいと思うことを訊いてよろしい。しかし、わしの代りに、一つ二つ訊いてもらいたいことが出来るかもしれない。そのときは、ぬかりなく、やってくれたまえ。むろん相手には、悟られぬようにな"
],
[
"ピース提督、おさわぎあると、貴官の生命を頂戴いたしますぞ",
"ええッ! 誰だ、そういう声の主は……",
"温和しく、貴官の椅子に腰をおろされたい。ちと伺いたい話があるのだ",
"おお、声だけは聞える。息づかいも、聞える。しかるに姿は見えない。君は、何者だ。姿を現わせ!"
],
[
"それは、日本民族を、大東亜共栄圏から、叩きだすことにあるのだ",
"なに、日本民族を叩き出すといわれるか。日本民族を、元の日本内地へ押しこめることではないのか",
"ちがう。日本民族を叩きだすのだ",
"では、叩きだして、どこへ送るのか",
"適宜に使役するつもりだ。家僕として、日本人はなかなかよくつとめる",
"無礼なことをいうな"
],
[
"四次元の人、乱暴はよせ。君は、紳士と話しているのだ",
"何が紳士か"
],
[
"貴官は、日本民族を、家僕として使役するつもりだといっているのだ。日本民族が、アメリカ人の家僕などになってたまるか",
"おや、君はへんなことに腹を立てるではないか。――いや、日本人が使役されることを好まなければ、余は彼等を海の中になげこむばかりだ",
"云ったな"
],
[
"黒馬博士。どうも、ご苦労だった。君は、なかなかうまくやってくれたので、わしは悦んでいる",
"いやあ、ご挨拶、いたみ入る"
],
[
"X大使、これから、どうなるのかね",
"どうなるって、君の心配しているのは、米連主力艦隊のことであろう。うむ、いよいよ米連側は、高角砲をもって火蓋を切りだしたよ。おお、三千機の超重爆機から成る欧弗同盟のアフリカ第四空軍は、今、異常なる混乱に陥った。おお、空中衝突だ。不意うちをくって、空軍の損害はなかなか大きいぞ。いや、陣形がかわってきた。いよいよ敵意がはっきりしたようだ。これはますますやるぞ"
],
[
"すると、不測の戦闘が起ったというわけですね",
"そうじゃ。これが、開戦のきっかけじゃ。たとえ間違いから起っても、これだけの戦闘が開始されると、ついに全面的大戦争に追いこまれる筈なんだ。……いや、米連主力艦隊が苦戦だ。あっけなくやっつけられては、こっちの計算に反する。どりゃ、ちょっと、向うへいって来る",
"また、向うへいくのかね、X大使",
"そうだ。わしは、これから出掛ける。じゃあ失敬。そのうちに、また会おうよ",
"うむ。まあ、気をつけていきたまえ",
"なに、気をつけていけって。あははは。人間じゃあるまいし、心配することなんか、何もありはしないよ。あははは"
],
[
"はい。修理はすみました。いつでも、出動できます",
"そうか。では、すぐ出かけよう。日本へ急行するのだ",
"はい"
],
[
"どうした、オルガ姫",
"たいへんです。東京港の潜水洞があった場所まで来ましたが、肝腎の潜水洞が見えません",
"場所がちがっているのではないか、よく探してみろ",
"いいえ、間ちがいなく此処なんです"
],
[
"オルガ姫、上陸地点を探して、艇をそこへつけたまえ",
"はい"
],
[
"異常なしです",
"じゃあ、どうしたのか。あれから随分になるのに、まだ上陸地点が見つからないのか"
],
[
"はい。上陸地点が、どこにも見つからないのです。北は樺太までいきましたし、南は海南島から小笠原あたりまでいってみました。しかし、どこにも上陸地点は見当りませんのよ",
"それは、おかしいな。じゃあ、日本内地というものが、全然浪の上に出ていないということになるじゃないか"
],
[
"いえ、そうなのです。日本のあったところは、すっかり何もなくなっています。有るのはただ洋々たる大海だけなんですわ",
"え、本当かい"
],
[
"おい、オルガ姫。艇の前に今見えている黄色い竜宮城みたいなものがあるが、あの地点はどこかね。つまり、日本の地図から探すと、あそこは、どのへんに当るかね",
"はい、あれは室戸崎付近です",
"なに、室戸崎だって。すると、四国だな"
],
[
"じゃあ、艇を、ここから東北東微東へ向けて走らせよ。いや、要するに、紀州の南端潮岬へ向けて見よ",
"はい。潮岬へ来ました",
"おお、もう来たか"
],
[
"オルガ姫、こんどは、東京へ向けてみよ。途中、富士山にぶつかるだろうから、その地点を忘れないで教えて、ちょっと停めよ",
"はい"
],
[
"オルガ姫とにかく東京までいってみろ",
"はい"
],
[
"ふうむ、やっぱり同じことだ。オルガ姫、艇をこのまま沈ませて、しずかに、あのベトンのうえにつけよ",
"はい"
],
[
"ベトンから、塔のようなものが、もちあがってきました。右舷前方、約十メートル先です",
"なに、塔のようなものが、もちあがってきた?"
],
[
"はい、もう五分間、お待ち下さい",
"早くやってくれ"
],
[
"はい、解読を終りました",
"そうか。じゃあ、始めから、読んでくれ"
],
[
"では、読みます。――鬼塚元帥は、黒馬博士坐乗の魚雷型快速潜水艇を認めて、博士の健在を大いに慶祝するものである",
"おお、そうか。想像していたとおり、やっぱり、鬼塚元帥からの通信だったか。それで、どうした。先を読め",
"――わが敬愛する黒馬博士に対し、甚だ遺憾なることなれども、余は博士を、当分の間、わが日本より閉め出すの已むなき事態に至れることを、謹みて通告する次第である",
"なに、日本より閉め出すというのか。オルガ姫、その先を……",
"――何故に、かくの如き手段をとるに至りたるかについては、余はその説明に、非常なる困難を覚ゆるものにして、まず劈頭において、わが日本国が、海面沈下したることを告ぐるなり",
"海面下に沈下したことは、知っている",
"――海面下○○メートルまでの陸地は、これを原子弾破壊機によりて、悉く削り取り、瀬戸内海をはじめ各湾、各水道、各海峡等を埋め、もって日本全土を、簡単なる弧状に改め、その外側を、堅牢なるベトンをもって蔽いたり",
"ほう、たいへんなことをやったものだ。とうとう原子弾破壊機をもち出したのか。なるほど、それを使えば、このような大工事も、極く短い時間内に、仕上がるだろう"
],
[
"――かくして、わが日本は、外部より見て、完全に、要塞化したるばかりか、内部においても高度の要塞設備を有するに至りたるものにして、特に四次元振動を完全に反撥するように留意せられたり",
"四次元振動! はて、耳よりな話が出てきたぞ",
"――四次元振動の反撥装置は、かねて未来戦科学研究所において、研究ずみのものにして、これは凡そ百年ののちに役立つ見込みのものなりしが、最近急に実施の必要を生ずるに至りたるものにして、その理由は、実に、わが地球が、地球外の強力なる敵より、襲撃せらるる徴候見えしによる",
"地球外の敵? はてな、ではその敵というのは、あのX大使のことではあるまいか。オルガ姫、早く、その先を読め",
"――地球外の敵とは、実に、かの金星に住む超人のことなり。金星超人は、わが地球人類よりも、はるかに高度の文化を有す。その証拠の一をあぐれば、かれ金星超人は、四次元振動を発生するの技術を心得おりて、その怪振動を利用し、自己の姿を透明にし、いかなる鉄壁なりといえども、自由に侵入し来ること之なり。ああ、金星超人こそ、正に現代の恐怖の生物、宇宙の喰人種というも過言にあらざるなり",
"ああ、四次元振動か。なるほど、四次元振動で、海が見えなくなったり、鉄扉を透して侵入したり、ふしぎなことをして、私を愕かしたのか。すると、X大使というのは、金星超人だったというわけだな。ほう、おそろしいことだ!"
],
[
"――故に、わが日本は、急ぎ金星に対して、防禦手段を講ずるの必要に迫られたるものにして、強烈なる磁力と、混迷せる電波とをもって巧みなる空間迷彩を施し、その迷彩下において、極秘の要塞化をなしたるものにして、今やわが日本は、空中より見るも、その所在を明らかにせず、また水中よりうかがうも、その地形を察知すること能わず、もし強いて四次元振動をもって、ベトンに穿孔せんとすれば、侵入者は反って激烈なる反撥をうけ、遂には侵入者の身体は自爆粉砕すべし。かくして、今や日本は、金星超人の襲来を恐れず、日本要塞は完成したるなり",
"ふうん、そうだったか。日本全体が、一つの要塞となったわけだな。オルガ姫、それからどうした?",
"――さりながら、黒馬博士に対して、余、鬼塚元帥は、そぞろ同情を禁じ得ざるものなり。以上述べたるところにより明らかなる如く、日本要塞は、外部より何者といえども、絶対に侵入するを許さざる建前により、戒厳令中は、たとえ黒馬博士なりとも、ベトンを越えて日本要塞内に入ることを許されず。すなわち、黒馬博士は、戒厳令中、日本要塞より締め出されたる状態にあり、乞う諒解せよ",
"なんだ、私は、祖国日本から、締め出しをくったのか。こいつは、けしからん"
],
[
"――されど黒馬博士よ。貴下の勲功は偉大なり、貴下は、救国の勇士なり",
"えっ、私が救国の勇士だというか",
"――貴下は、或いはクロクロ島を操縦し、或いはまた三角暗礁に赴き、或いは魚雷型潜水艇を駆って東西の大洋を疾駆し、そのあいだ、巧みに金星超人X大使を牽制し、X大使の注意を建設進行中わが日本要塞の方に向けしめざりし殊勲は、けだし測り知るべからざる程大なり。もし貴下がX大使を牽制せざれば、X大使は、必ずわが本土に近づきたるべし。わが本土に近づけば、未完成のベトンを浸透して、国内に侵入し、わが要塞建設を察知すべく、よって直ちに金星へ通信し、金星大軍は、時を移さず、わが本土内に攻め入り、ひいては地球の大敗北を誘致するに到りたるものと想像し得らるるなり。黒馬博士の殊勲に対し、余鬼塚元帥は、深甚なる謝意と敬意とを捧ぐるものなり",
"ああ、そうだったか。あのX大使というのは、金星超人だったか。なるほど、それでこそ、四次元振動を起して、風の如く鉄扉を越えて闖入してきたり、それから、私に四次元振動をかけて、ユーダ号へ連れていったり、魔術のようにふしぎなことを、やってみせたのだな"
],
[
"X大使。まだ私に、用があるのかね",
"おお、用事というのは、外でもない、わしは、これから自分の国へ帰ろうと思うのだ。君には世話になったから、一言挨拶をしていきたかったのだ",
"挨拶だって?",
"そうだ。鬼塚元帥から君へあてた電文の内容は、わしも知っているよ",
"そんな筈はない",
"なあに、わしは、オルガ姫が読んでいるのを、潜水艇の外から聞いていたのだ。だが、そんなことは、どっちだっていい。とにかく、地球へ派遣せられたわしの任務も、一段落となったから、これから帰途につくのだ。米連艦隊と欧弗同盟空軍とを闘わせたのは、地球に内乱を起させ、自壊作用を生じさせ、大いに消耗させたつもりだったが、日本が、その誇るべき科学力をもって、四次元振動の反撥装置をもったベトンの中に隠れてしまったことには、さすがのわしも、すこしも気がつかなかったのだ。わしたちは、少々自惚れていたと思う。四次元振動という新兵器をもっていけば、地球を圧迫することなどは訳なしだと思っていたのだ。ところが、それが誤りだったことが、はっきり分った。わしは、出直してくるよ。それから、わしの国の首脳部の者共へも、地球を再認識するよう、極力説いてまわるつもりだ。やあ、黒馬博士、それでは君の友情を感謝して、さよならを告げるぞ",
"もう、帰るのか"
],
[
"オルガ姫。お前は、久慈たちを知らないか",
"ああ、久慈さんたちは、今そこに現われかけています"
]
] | 底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行
初出:「譚海」
1940(昭和15)年8月~1941(昭和16)年2月号
※底本の「わが撤いた」を「わが撒いた」に改めました。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003239",
"作品名": "地球要塞",
"作品名読み": "ちきゅうようさい",
"ソート用読み": "ちきゆうようさい",
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"初出": "「譚海」1940(昭和15)年8月~1941(昭和16)年2月号",
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"公開日": "2004-07-03T00:00:00",
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[
[
"おいボーイ君。この汽船は、ガソリンの切符をなくしでもしたのかね",
"え、ガソリンの切符ですって?"
],
[
"あのご両人以外の博士一行は、もうちゃんとこの汽船に乗っていらっしゃるんですよ。ところがけさ宿をお出かけのとき博士が急病になられて、乗船がこんなに遅れたというわけなんで",
"あの婦人は、轟博士の娘かね",
"さあどうですか。私はそこまで存じませんが、立ち入ったお話が、あの方はちょっと別嬪さんでいらっしゃいますな。えへへへ"
],
[
"先生は、こんどもやっぱり火星研究のご旅行なんですか",
"なんじゃ、妙なことを聞く男じゃ",
"いや、ちがいましたら、おゆるしください",
"あっはっはっ。なにがちがうどころか。およそわしは、火星以外のことで旅行をしたり、金をつかったりすることは絶対にないのじゃ。君は知らんのか。この五月十八日に、火星はいちばん地球に近づくのじゃ。だから、それを期して、いろいろ興味ある観測をせんけりゃならん。そうでもなきゃ、花陵島なんて、あんな辺鄙なところへ金と時間とをかけて行きゃせぬわい"
],
[
"うん、なんじゃ志水",
"さっき持ってこいとおっしゃったのは、この鞄でございましょうか",
"ああ、それそれ。そこへおいておけ。その椅子のうえに――",
"はあ、ではここに"
],
[
"では、こんどのご旅行も、火星の運河などを写真にとって、実際私たちにみせてくださるためなんですか",
"火星の運河? あっはっはっ火星の運河などがあってたまるものか。火星に運河があるというのは、火星の表面に見える黒い筋を運河だと思っているのだろうが、それは大まちがいだ。船みたいなもので交通しなければならぬような、そんな未開な火星ではない。地球上の常識で、運河説を得々と述べる者は、身のほど知らぬ大馬鹿者だというよりほかない"
],
[
"わしのいうことに、絶対まちがいはない。加瀬谷は、それを信じなかった。あいつは見かけ以上の愚者じゃ",
"でも先生、私にも信じられませんね。わが地球の海底地震が、なぜ火星と関係をもつのでしょう。火星と関係をもつならば、地球にもっと近い月と関係をもちそうなものではありませんか",
"ばかをいっちゃァいかん、月には、生物が棲んでいるかい。問題にならん",
"じゃあ火星には生物が棲んでいるのですか"
],
[
"あの原動力輸送路が、網状をなしているのは、なぜだとおもうか。あれは原動力を、必要によっていつでも一つところへ集めるためじゃ。あの輸送路が東西南北から集った交叉点においては、わが人類の頭では到底考えられないほどの巨大な力が集るのじゃ",
"そんなに巨大な原動力を、火星の生物はどういうことに使うのですか"
],
[
"サチ子さん。よろこんでください。きょうは相当著しい海底地震を記録することができましたよ。まったく愕きましたね。この辺の海底には、ひっきりなしに小地震が起っているんです",
"まあ愕きましたわね。それで、その海底地震がなぜ起るかという結論が、もうおつきになったの",
"いや、どういたしまして。その方の結論は、わが研究所本部で総がかりで議論しているのですが、とけないのです。僕の力でとけるはずがありませんよ",
"大隅さんは火星の影響を考えてごらんになったことがありまして"
],
[
"だが。待てよ、この海底地震の原因をいろいろと探してもわからないのだから、ひょっと火星の影響という問題を研究する必要があるのかもしれないなあ",
"ほほほほ。とうとう大隅さんが、うちの先生にかぶれてしまいなすったわ、ほほほほ"
],
[
"じゃ、ど、どうしたんです",
"しっ、――"
],
[
"えっ。なにがそんなにへんで恐いのですか",
"あのね、あなたにだけお話するのよ。誰にもいっちゃいけないのよ、絶対に。うちの先生にもおっしゃらないでね",
"ええ、いいませんとも、あなたがいうなとおっしゃるのならね。一体どうしたというのです"
],
[
"死骸が埋まっているところを見たのよ、大隅さん",
"なんです、死骸ですか"
],
[
"そして、その死骸は、どこに埋まっているんですか",
"あたしの泊っている小屋の、すぐうしろの砂原の中よ、椰子の木が三本、かたまって生えているところの根元なのよ",
"どうしたのかな。そこが塚かなんかで、土地の人が死人を埋葬したんじゃないですか"
],
[
"あのね、誰かちかごろ行方不明になった者はありませんか",
"行方不明になったものですか。さあ、そういうものは――"
],
[
"マリアって、誰です",
"先生とあたしの身のまわりを世話している下婢の土人娘です。ああどうしましょう。あんな温和しいいい娘が殺されるなんて、誰が殺したんでしょうか。あたしは、殺人者が死刑になっても許してやれないわ"
],
[
"もうすこしのところで、博士に締め殺されるところでしたわ",
"ぼ、僕は、博士を撃ってしまった!",
"いいわ。だって正当防衛ですもの"
],
[
"僕は、博士を殺してしまった",
"ほんとに死んでしまったのかしら",
"胸を撃ちぬいたのですから、もう駄目でしょう"
],
[
"へんなことがあるものですね",
"どうしたのでしょう。もっとよく調べてごらんなすったら"
],
[
"サチ子さん。ひょっとすると、これは火星の生物かもしれませんよ",
"ええっ、火星の生物ですって",
"しかし、火星の生物が、轟博士に化けていたとはどういうわけだろう"
]
] | 底本:「十八時の音楽浴」ハヤカワ文庫、早川書房
1976(昭和51)年1月15日発行
1990(平成2)年4月30日2刷
入力:大野晋
校正:しず
2000年2月21日公開
2010年10月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000867",
"作品名": "地球を狙う者",
"作品名読み": "ちきゅうをねらうもの",
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"姓ローマ字": "Unno",
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"没年月日": "1949-05-17",
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[
[
"それは有難う。では九万ルーブル、いただきましょう、ネルスキー",
"えっ、君は手を出したね。じゃあ、金博士はまだ生きていたんだね。ウラー、九万ルーブルはやすい。その倍を支払うよ。さあ、銀行まで来たまえ。どうせ君は、金を受取らなきゃ、喋りゃすまいから……"
],
[
"……ねえ、金博士は、上海の邸で、時限爆弾にやられて死んだという噂なんだよ。いや、噂だけではない、わしも実地検証をしたが、博士が爆発のとき居たという場所は、すっかり土が抉られてしまって大穴となっている。かりそめにも、博士の肉一片すら、そこに残っているとは思えないのじゃよ",
"あほらしい。金博士ともあろうものが、死んだりするものですか",
"いくら金博士でも、身は木石ならずではないか",
"それはそうです。木石ならずですが、たとい爆弾をなげつけられようとも、決して死ぬものですか。おしえましょうか。あのとき博士は、“これは時限爆弾だな、そしてもうすぐ爆発の時刻が来るな”と感じたその刹那、博士は釦を押した。すると博士は椅子ごと、奈落の底へガラガラと落ちていった。しかも博士の身体が通り抜けた後には、どんでんがえしで何十枚という鉄扉が穴をふさいだため、かの時限爆弾が炸裂したときには、博士は何十枚という鉄扉の蔭にあって安全この上なしであったというのです",
"なーるほど、ふんふんふん",
"しかし博士の部屋は、跡形なくなってしまったので、博士はもうそこにはいられず、或るところへ移った",
"それはどこかね。早く話してくれ",
"なにもかも教えましょう。香港にある博士の別荘ですよ、そこは",
"香港の別荘に金博士は健在か! あーら嬉しや、これでもう大願成就だ"
],
[
"そうじゃないかね金博士。お前さんは、この広い世界に只一人しかいないオールマイティーの科学者だということであるが、へん、オールマイティーが聞いてあきれるよ。ダイヤのクイーンか、クラブのジャックぐらいのところだろう。ねえ、そうじゃないか。わが聯邦が今死守しているシベリア地方から、あの呪わしい雪と氷とを奪い去るくらいのことが、お前さんに出来ないのかね。シベリアの各港を不凍港にして貰いたいというのだ。シベリアに棲むのに、毛皮の外套なんか用なしにして呉れというのだ。ペチカも不要、犬橇なんかおかしくて誰が使うかという風に笑い話の出来るようにして貰いたいのだ。いや、もう何もいうまい。われわれが抱いていた夢はすべて消えた。科学の魔王金博士が健在なる間は、われわれの望みはきっと実現されるものと思っていたが、そもそもそれが思い違いだった。なにが科学の魔王だ。シベリアから雪と氷とを追放するぐらいのことが出来ないで、へん、何が金博士さまだ",
"やろうと思えば、そんなことぐらい訳なしだ"
],
[
"で、博士。それなら実際問題として、どういうことをなされます。これは宰相に報告する貴重なる材料となりますので、ぜひお話し置き願いまする",
"さっきから聞いていれば、わしが一口喋る間にお前さんは二十口も喋るね。北国人には珍しいお喋りじゃ",
"これは御挨拶です",
"まず何よりも決めて貰いたいのは報酬問題じゃ。これが成功の暁には何を呉れますかな",
"ああ報酬ですか。これは申し遅れて、まことに申訳なし。わが宰相から委任されている範囲内でもって、如何様なる巨額の報酬でもお支払いいたす。百ルーブル紙幣を、博士の目の高さまで積んでもよろしいです",
"いや、ルーブル紙幣の名を聞いただけで、寒気がしてぶるぶると慄えが出る。そんなものを紙幣で頂こうなど毛頭思っとらん",
"では何を……。あ、そうそう、カムチャッカでやっとります燻製の鰊に燻製の鮭は、いかがさまで……",
"それだ。初めから、そういう匂いがしていた。燻製の本場ものはさぞうまいことじゃろう。そっちから申込みの仕事は、その燻製が届いてから始めるから、仕事を早く始めて貰いたかったら、一日も早く現品をわしのところへ届けなさい。では失礼"
],
[
"宰相閣下、あの一件と申しますと……",
"あの一件を忘れているようじゃ困る。ほら、あれじゃ、燻製のあれを、ほら中国の金博士に届けろといったあれだ。まだ届けてないんだな、こいつ奴",
"いやいやいや、とんでもない。金博士のところへお届けする燻製十箱は、もう三日も前に向うへ着いています。そのことは、書類でもって御報告して置きました筈ですが",
"なんだ三日前に届いたのか。書類というはよく途中で紛失するものだ。そういう重大なることは、口答でするように",
"申訳ありません。では失礼を"
],
[
"ああ宰相閣下。それはとんでもない御思い違いであります。私は石炭を無駄使いして居りませぬ。いや本当です。只今ペチカには一塊の石炭も燃えては居りませぬ。嘘だとお思いなら、こちらへ来て御覧下さるように……",
"なにを、うまいことを云って、わしをごま化そうとしても、なかなかごま化されないぞ。たとい宰相閣下を――いや、わしは宰相閣下だが、ごま化されるものか。ペチカに一塊の石炭も入っていないで、こんなにぽかぽかするものかい。わしの額からは、ぽたぽたと汗の玉が垂れてくるわ",
"ああ宰相閣下。そうお思いになるのは無理ではありません。今日は外気の気温の方が室内よりも高いのでありますぞ。窓をお開きになってみて下さい。途方もないいい陽気です",
"外はいい陽気?"
],
[
"あっ、そうか。いや、早いものじゃ。燻製の効果が、こうも早く出てくるとは思わなかった。いや偉大なものじゃ、豪いものじゃ",
"これはこれは過分なる御褒めの言葉で恐れ入ります。本員といたしましては……",
"莫迦、今のはお前を褒めたのではない。はきちがえるな",
"はあ。それは御卑怯というものです。私と電話でお話になっていて、御褒めになったのですから、これはどうしても私の取得です。そうではありませんか、宰相閣下"
],
[
"さあ、私は訳をよくは存知ませんがね、とにかく冷房装置をここ一時間のうちに取りつけろという御命令です",
"冷房装置を? ふふん、それは宰相閣下の御命令なのか",
"いや、私の受けたのは、気象委員部からです。これはここだけの話ですが、宰相閣下は暑さ負けがせられて、心臓に氷をあてておやすみ中だとの噂がありますよ",
"それはデマだろう。宰相閣下はあのとおり丈夫な方で……いや、しかしこのような温気には初めて遭われて、おまごつきかもしれない。おい、貴公は寒暖計を持っているか",
"私は持って居りませんが、この壁にかかっています。これは自記寒暖計ですよ。ほう、只今摂氏の二十七度です。暑いのも道理ですなあ",
"ほう、二十七度か。うん、シベリアがウクライナ以上の豊庫になる日が来たぞ",
"これをごらんなさい。全くふしぎなことがあるのですよ。今からたった十分前が摂氏二十度です。気温は急速に騰りつつあります。おや、また騰りましたよ。いま正に摂氏の三十度。私はもう蒸し殺されそうです。失礼ですが上衣を脱がせて頂かねば、生命が保ちません",
"なるほど、これは暑くて苦しい。わしも上衣を脱ごう。ついでにズボンも外そう",
"ふう、暑い暑い。これは一体どういうわけですかな。急に気温は騰るわ、雪は融けるわ、その水蒸気のせいで湿度百パーセント、なんという蒸し暑さでしょう",
"なるほどなるほど、宰相閣下が氷の塊を心臓の上におのせになるのも無理ではない"
]
] | 底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
1942(昭和17)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003350",
"作品名": "地軸作戦",
"作品名読み": "ちじくさくせん",
"ソート用読み": "ちしくさくせん",
"副題": "――金博士シリーズ・9――",
"副題読み": "――きんはかせシリーズ・く――",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1942(昭和17)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-11-14T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3350.html",
"人物ID": "000160",
"姓": "海野",
"名": "十三",
"姓読み": "うんの",
"名読み": "じゅうざ",
"姓読みソート用": "うんの",
"名読みソート用": "しゆうさ",
"姓ローマ字": "Unno",
"名ローマ字": "Juza",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1897-12-26",
"没年月日": "1949-05-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日",
"入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "門田裕志",
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} |
[
[
"では明日中にどうぞ",
"大丈夫です。不肖ながら大辻がこの大きい眼をガッと開くと、富士山の腹の中まで見通してしまいます。帆村荘六の留守のうちは、この大辻に歯の立つ奴はまずないです"
],
[
"その荷物というのは、なーに?",
"地下鉄会社が買入れた独逸製の穴掘り機械だ。地底の機関車というやつだ。三噸もある重い機械が綺麗になくなってしまったんだ"
],
[
"あんなこといってら。先生に頼みに来たんだよ。誰が大辻老なんかに……",
"ところが、ヘッヘッヘッ。――先生は今フランスへ出張中だ。先生が手を下されることは出来ないじゃないか。そうなれば、次席の名探偵大辻又右衛門先生が出馬せられるより外に途がないわけじゃないか。つまりわしが頼まれたことになるのじゃ。オホン"
],
[
"船客だけじゃない、船員もですよ",
"それは勿論ですとも。しかし先刻機関長をお連れになりましたね"
],
[
"いまのが地下鉄の始発電車ですよ",
"よしッ。仕事に掛ろう!"
],
[
"何を笑うんだい。これが役に立つことを知らないね",
"だってその潜水服、始めから濡れていたんだろう?",
"そうさ",
"じゃ駄目だよ。その服は海中で使ったばかりだったんだ。大きい男というからには、岩にちがいない。ほーら御覧、赤字で岩と書いてあるじゃないか。僕たちは、馬鹿にされているんだよ"
],
[
"岩の奴は、汽艇の中で発見されなかったろう。それは、追付かれる前に、この潜水服を着てヒラリと海中に飛びこんだからだ。この潜水服には酸素タンクがついているから、一人で海底が歩けるのだ。どんどん歩いて月島の海岸に近づくと大辻さんの隙をねらって、海面から海坊主のような頭を出し、いちはやく服をぬいで、大辻さんに渡し、自分は逃げてしまったのだ",
"そうかなア。先生をよこすといっていたけれどね",
"先生も生徒も来るものか。それよりか足跡でも探してみようよ"
],
[
"あの自動車隊は立派すぎると思わない? 何を積んでいるのかわからないが、皆ズックの覆いをかけている。どこへ行くんだか検べてみようよ",
"よし、見失わないように追掛けよう。……この潜水服は勿体ないが、ここに捨てておけ"
],
[
"チェッ。まだ大通へ出られないのかなア",
"早く円タクでもつかまえないと駄目だぞ",
"ああ、しめしめ。あっちからボロ貨物自動車がやって来た。オーイ、オーイ",
"オーイ。乗せてってくれよオー"
],
[
"わしは反対じゃ。わしは理科大学の地質学講座を持っている真鍋じゃ。探偵のお伴は御免じゃ。皆下りてくれんか。この車はわしが契約しとるのでな",
"こいつ大きな口を利く男じゃな。畳んじまった方が早い"
],
[
"僕の思っていたとおりの大事件だ。これからはもっともっと凄いことがあると思うよ",
"これは大変なことになった。帆村先生にフランスから帰って頂くことにしてはどうかな"
],
[
"事件の正体?",
"そうだ。これを御覧よ――"
],
[
"ああ、もしもし。大江山ですが……",
"大江山さんだね"
],
[
"大汽船エンプレス号が百万弗の金貨を積んで横浜に入港しているが、あれは拙者が頂戴するから、悪く思うなよ",
"なッ、なにをいう。何物かッ貴様は――"
],
[
"そうじゃないよ。形のことじゃなくてこの青い土のことさ",
"ほほう、この青い土がおかしいって? 青い土がおかしいなら、この辺の赤い土はおかしくないかね、黒い土なら、さあどうなるかな"
],
[
"僕、この青い土のことで、ちょっと知っているのだよ",
"はて、何を知っているのじゃ",
"この前、地下鉄工事が僕んちの近所であった。僕んちは日本橋の真中だ。始めは赤い土、黒い土ばかりだったが、ある日珍しく、この青い土が出た。僕は珍しかったので、工事をしている監督さんに尋ねてみたんだ。大変青い土ですね、おじさん、とね",
"ふんふん",
"すると監督さんは、この青い土は、全く珍しい土で、東京附近でも、この日本橋の地底だけにしか無い土だ。その日本橋も、日本銀行や三越や三井銀行のある室町附近にかぎって出てくる特有の土だといった。この青い土が、それなんだよ",
"そりゃおかしい。だってこの土は、トラックで月島から運んでくるものじゃないか。してみると、あの辺の土だと考えていい、日本橋室町附近の土が、月島から掘りだされて本郷へ運ばれるというのは、こりゃ信ずべからざることでアルンデアル"
],
[
"だけど大辻さん、何か訳さえ考え出せると、おかしいと初めに思ったことも、おかしくなくなるのじゃないかね。日本橋の土が、なぜ月島から掘りだされるかという訳さえつけられればね",
"そんな訳なんかつくものかい"
],
[
"大辻さんは何だかその靴型を壊しそうで、横から見ていてハラハラするよ",
"なーに大丈夫。ほらごらん、ここに三つの足跡が、この軟らかい土の上についている。これを一つ調べておこう"
],
[
"ところがそうとも安心していられないよ。さて第二の足跡。これは小さい足跡だ。これでは合うはずがない。これも大丈夫",
"それは誰の足跡だい",
"これはお前の足跡じゃ",
"僕の足跡? まあ呆れた大辻さんだね",
"もう一つ、これが第三の足跡。おやおや、これは大きすぎて合わない。これも岩ではなさそうだ",
"その足跡は誰の?",
"これはわしの足跡さ",
"なんだって",
"つまりわしは、岩じゃないということさ。どうだ、ちゃんと理窟に合っているじゃろう"
],
[
"たいへんとは?",
"港内に碇泊している例のエンプレス号が突然火を出したのです。原因不明ですが、火の手はますます熾んです。この上は、あの百万弗の金貨をおろさにゃなりますまい"
],
[
"もうこれで一杯です。これ以上出すと、壊れます",
"壊れてもいいから、やれッ。岩に、また一杯喰わされるよりはましだッ"
],
[
"大丈夫かい",
"大丈夫にもなんにも、人一人やって来ないというわけさ"
],
[
"異状なし",
"全く異状ありません"
],
[
"夜が明けるぞ。とうとう、岩はやってこなかった",
"あいつもやきが廻ったと見える。昨日のうちに貰うぞといっときながら、一向やってこんじゃないか。尤も僕たちの警戒がうまく行ってるので、恐れをなして寄りつかなかったんだろうけれど"
],
[
"あッ",
"おお、金貨が見えない"
],
[
"そんな地中路はありゃせんよ",
"でも地底機関車を使えば作れますよ",
"地底機関車を見たものは一人もないじゃないか。そんなあぶなげな想像は、学者には禁物だ",
"じゃ、僕は地底機関車をきっと発見してきますよ",
"ばかなことを",
"とにかく先生。先生の考案された携帯用地震計を貸して下さい。それで地底機関車を探し当てて来ますから",
"それほどにいうのなら、あいているのを一台貸してあげよう"
],
[
"三吉、そんなもの何にするのだよオ",
"これで僕が手柄を立てて見せるよ"
],
[
"うッ、親分だッ",
"親分は無事だったぞ"
],
[
"おれも相当な代価を払ってきた",
"なんですって、親分?",
"こ、これを見ろ!"
],
[
"どう気がつくべきだったんです",
"爆弾に手首を吹き飛ばされ、痛いッと叫んだ瞬間に、俺は気がついたのだ。恐るべき俺の敵が、日本に帰ってきているということを――"
],
[
"なに、お前やるかッ",
"私も参ります",
"私も是非やって下さい"
],
[
"なに反対をする。この弱虫め!",
"僕はいままで探偵してきたことを続けてゆく方がいいと思うんだ",
"なんのかんのというが、実はこわいのだろう。わしはそんな弱虫と一緒に探偵していたくはないよ。帆村先生が帰って来て叱られても、わしは知らぬよ",
"叱られるのは大辻さんだよ",
"いや、もう弱虫と、口は利かん"
],
[
"大辻さん。その足型を壊しちゃ駄目だよ",
"なアに大丈夫……おっとッとッ。お前とは口を利かぬ筈じゃった"
],
[
"一体、何を測るんだい",
"おじさんの家は大丈夫だということが分るんですよ",
"なにが大丈夫だって",
"それは今に分りますよ。フフフ"
],
[
"うわーッ、たいへんだッ",
"どうしたどうした",
"今通った道が崩れて、帰れなくなった"
],
[
"左、左、左へ曲れ",
"オヤ道が行きどまりだ。おかしいぞ",
"うん、これは一杯食ったかな――集れッ"
],
[
"そんな意地の悪いことをいわないで……",
"どいたどいた、わしが探す。ホラ皆さん、足を出して……",
"失敬なことをいうな"
],
[
"いませんよ。大丈夫です。隊長さん",
"じゃ、今まで来た軟かい道の上から行方不明の警官の足跡を探して、調べてみたまえ",
"はいはい"
],
[
"あッ、あった、あった。岩だ、岩だ",
"本当かッ"
],
[
"いま面白いところへ案内してやるッ",
"なにをッ"
],
[
"オイ岩。もう駄目だぞ",
"なにを、この小僧奴",
"お前は室町の地下で、どんな大悪事を企んでいるのだ。それをいえ。いわないと苦しがらせるぞ",
"誰がいうものか。死んでもいわねえ。しかし日本国中の人間どもが泣き面をすることは確かだ。もうとめてもとまらぬぞ。ざまアみやがれ"
],
[
"親分、もう時間がありませんぜ",
"そうか。いよいよ、もう始る時刻だったな。それじゃ小僧にかまってなどいられない。さア地底機関車に全速力を懸けて飛ばすんだ"
],
[
"あッ痛テ。なにを親分……",
"き、貴様、おれに反抗する気かッ"
],
[
"あッ――て、てめえは……",
"小僧探偵の三吉だ。神妙に、向うを向いてそのまま地底機関車を走らせるんだ。そしてあの現場へ急がせろッ"
],
[
"さア、もうあと三十秒です",
"もっと速力を出すんだッ"
],
[
"地底機関車は壊れてもいい。もっと速力を出せッ",
"もう一ぱい出ています",
"そこを、もっと出せ!",
"ううッ。あッもう駄目だッ"
],
[
"岩はどうした",
"……"
]
] | 底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「講談雑誌」
1937(昭和12)年1月号~10月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年12月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
"おい、一等運転士。これは一体、どうするね",
"は、船長。風向きは幸い北西ですから、当分このままに流されていったら、どうでしょうか",
"まあ、そんなところだろうな。だが、新フリスコ港につくのがいつになるやら、見当がつかなくなった。とにかく、今すぐに、無電で新フリスコ港へ連絡してみなさい",
"は、リント少将を、呼びだしますか",
"それがいいだろう。少将は、明日この船が到着することを、いくども念を押していたから、すこしは叱られるかもしれないぞ",
"はい、やってみましょう、ともかくも……"
],
[
"なに、船がおくれる。こっちへ到着するのは、二日のちか三日のちか、見当がつかないって。冗談じゃないよ。それじゃ万事、めちゃくちゃだ。どうするつもりだ",
"さあ、よわりましたな"
],
[
"なにしろ、ひどい吹雪で、人力では、どうにもなりません。先が見えないのですから、いつ流氷に舳をくだかれるか、わかったもんではないのです",
"困ったなあ。汽船なんか、旧時代の遺物だね。潜水艦などは、大吹雪も平気で、どんどんこっちへついているんだ。君では、話にならない。船長をよんでくれたまえ",
"はあ、船長ですね"
],
[
"一等運転士のいうとおりですよ、全くどうにもなりません",
"船長の見込みでは、アーク号は、いつ到着するのかね",
"全く、わかりません。天の神様にでも、うかがってみなくてはなりません",
"おい、子供にお伽噺をしているんじゃないよ。はっきりしてくれたまえ、はっきり。こっちは、アメリカ連邦の興廃について、責任を感じているんだからな",
"でも、こればかりはどうも",
"では、仕方がない。こっちから、別の汽船か軍艦を迎えにやることにしよう",
"それは、どうも。迎えていただいても、貨物の積みかえにはどうにもなりませんよ",
"そうだ、その船につんでいる貨物が、明日中にこっちへ到着しないと、せっかく二年間を準備に費した大計画が、水の泡になってしまうのだ"
],
[
"ゲームは、おれの勝だ。あとは誰かと入れかわろう",
"中尉どの、わしが出ます",
"おう、ピート一等兵か。お前、やるのか。めずらしいのう",
"いや、さすがに気長のわしも、もうこの部屋の生活には、あきあきしましたので、なにかかわったことをしたいというわけです",
"あははは、ピートが、とうとう陥落したぞ。この部屋を呪わない者は、一人もなくなったよ、あははは"
],
[
"全く、永い航海だ。外は見えないし、新聞も来ないし、そしてこのとおり波にゆすぶられ通しでよ、これであきあきしなかったら、どうかしているよ",
"そういえば、今日は、ばかに揺れるじゃないか。そして、すこし冷えるようだね"
],
[
"なにをいうんだ。おれが知っているくらいなら、もうとっくの昔に、お前たちに話をしてやったよ。上陸してみないことには、なんにも分らないんだ",
"どうもへんですな。隊長が、われわれの隊の任務について全然知らないというのは、どうもふにおちませんよ。どうかいってください。われわれは、どんなことをきかされても、尻込みをしませんよ。国家へ忠誠をちかいます",
"知らないんだ、本当に",
"ほんとですか。戦車兵が、船にのる場合はどんな任務のもとにおかれるのでしょうか。それを考えてみてください。私だけに、そっといってくだすってもよろしいんですよ。私は、誰にも洩らしませんから。それなら、いいでしょう",
"だめだ。ほんとにわしは知らないのだ。いうときには、皆にいうよ。だってそうじゃないか。中尉だの一等兵だのという区別はあるが、無名突撃隊の一員であることについては、すこしもかわりがないのだからなあ"
],
[
"おい、皆、そこでストップだ。食事をやってからにしよう",
"よし来た。今日は、どうか、陽なたくさいほうれん草のスープは、ねがいさげにして……",
"おいよろこべ",
"なんだ、例のスープか。セロリが入っているんだろう",
"いいや、陽なたくさいほうれん草のスープだよ",
"うわーッ"
],
[
"船長。これはもうだめですね",
"うん、だめなことはわかっている",
"ばかばかしいではありませんか。リント少将には、なんとかあとでいいわけをすることにして、せめて吹雪のやむまで、船を流すことにしては",
"もう、それは、おそい。リント少将は、大きな賭をしているのだ。大アメリカ連邦のために、この大きな賭をしているのだ。われわれもまた、この大きな賭に加わらなければならない。なぜならば……",
"あっ、船長、氷山が……",
"うん、しまった。――無電で、リント少将へ……"
],
[
"皆、おちつくんだ。ここは南極に程近いが、やがてリント少将が、救援隊をよこしてくれるだろう",
"えっ、南極?",
"そうだ、もういっても遅いが南極こそ、われわれ無名突撃隊の目的地だったんだ。われわれは、リント少将の指導下に入って、はじめて、行動の命令をうけるはずであったのだ。それから、われわれは……",
"おーい、ボートはこっちだ。無名突撃隊! 早く、こっちへ来い!"
],
[
"パイ軍曹どの。なかなか壮観でありますな",
"なにィ、おい、お前は、くそおちつきに、おちついているじゃないか。われわれは、ここで死ぬかもしれないんだぞ",
"一度死ねば、二度と死にませんよ。ゆるゆるとこの千載一遇の壮観を見物しておくのですな",
"ふん、お前と話をしていると、わしは、コーヒーでもわかしてのみたくなるよ"
],
[
"おい、ボートはもう一ぱいだ。おれたちは、はいれやしない。ど、どうなるんだろうか",
"うん、仕方がない。艫の方へいって、さがしてみろ。わりこめる席があるかもしれない",
"だめだだめだ。舳の方をさがせ。艫の方はボートごと、ひっくりかえって、たいへんなさわぎだ"
],
[
"おい、ピート。ボートはもう駄目らしい。お前は、あの冷い南氷洋で競泳する覚悟ができているかね",
"わしは、競泳には、自信がねえです。誰よりも一等あとで、海水につかることに、はらをきめました",
"一等あとで海水につかるって、一体どうするんだ",
"いや、なに、一等背の高い檣のうえへ、のぼっちゃうてえわけでさ",
"ばかをいえ。それだから、お前のような陸兵は、役に立たねえというんだ。陸に生えている林檎の樹とはちがうぞ。船がどんどん傾いてしまうのだから、一等背の高い檣てえのが、一向当てにならないのさ",
"そうですかい。なるほど、甲板が、いやにお滑り台におあつらえ向きになってきましたねえ。ところで、軍曹どの。あなたは、これから一体どうなさるおつもりなんで……",
"今に、リント少将の飛行船かなんかがこの上へとんで来て、エレベーターかなんかを、この甲板におろすだろうと思うんだ。そいつをこうして、待っていようてえわけだ",
"あっはっはっはっ。軍曹どの。ここは、寄席の舞台のうえじゃあ、ありませんよ"
],
[
"あっ、隊長だ!",
"あ、カールトン中尉どのだ"
],
[
"隊長どの、しっかり!",
"カールトン中尉! 傷は、かすり傷ですよゥ!"
],
[
"おお、パイに、ピートか。おれは……おれは、もう。……",
"おれはもう――おれはもう帰還されますか?",
"こら、ピート一等兵、だまれ。隊長どのは、これから遺産のことについて述べられるのだ。しずかにしろ",
"こら、二人とも。お前たちは、こここの場にのぞんで、恐怖のあまり、気、気がちがったな"
],
[
"はい、いるであります",
"ちゃんと、いるであります"
],
[
"そ、そんなら、よし! そこで、三番船艙の中にはいって……はいって、その、そこにある戦車の中に、おれを乗せてくれ。おお、お前たちも乗れ",
"えっ、三番船艙に、戦車があるんですか",
"そうだ。お、お前たちの、お眼にかかったことのない恰好をした新型の、せ、戦車だ。さあ、は、早く、わしをつれていけ",
"隊長どのは、その戦車に乗られて、どうなさるのでありますか",
"わ、わが輩は、せ、折角ここまで持ってきた戦車に、生前、一度は、の、乗ってみたいのだ。そ、その地底戦車というやつに……",
"地底戦車?",
"そ、そうだ。地底戦車だ。リント少将は、そ、その地底戦車をつかって、南極の地底をさぐる――さぐる計画を、たてられているのだ。は、早くしろ。船が、もう、沈む",
"は、はい!"
],
[
"おい、ピート、急ぎ、進め!",
"合点です。お一チ、二イ",
"三ン、四イ"
],
[
"おい、ピート、早くしろ",
"えっ",
"ほら、お前の足もとを見ろ。下から、海水がぶくぶく湧いてきたじゃないか",
"あっ、もういけませんなあ",
"おい、戦車の扉を開け",
"待ってください。すぐあけます",
"おい、早くしないと、隊長どの、折角の希望が水の泡になる",
"えっ、もう泡をふきだしたのか",
"ちがうちがう。早く、戦車をあけろ",
"やあ、もう大丈夫。さあ、あきますぞ!"
],
[
"あきました、あきました、軍曹どの",
"ばか。もう間にあわないや",
"えっ。どうしました",
"中尉どのは、昇天された。“生前に、一度でいいから、折角ここまで持ってきた地底戦車に乗ってみたい”といわれたのに、お前が戦車の扉をあけるのに手間どっているもんだから、ほら、もうこのとおり、天使になってしまわれた。ああ、さぞかし無念でしょう。中尉どの、これ一重に、平生ピート一等兵が、訓練に精神をうちこまなかったせいです",
"ねえ、軍曹どの。こうなりゃ、気は心でさあ。中尉どのは、息を引取られたかはしらないけれど、一度、この戦車の中へ入れて、座席につかせてあげては、どうでしょう",
"この野郎。中尉どのに、申しわけないと気にして、いやに中尉どのにサービスするじゃないか",
"軍曹どの、早く。ぐずぐずしていると、戦車の中に、海水が入ります。中の器械が、濡れてしまいますぜ"
],
[
"あっ、軍曹どの。早く、こっちへ入って、戦車の扉をしめてください。いよいよ、これは浸水、まぬがれ難しです",
"そうか。あっ、ほんとだ。それ、そこから海水が流れこんでいたじゃないか、靴をぬいで、どんどんかいだせ",
"軍曹どの、扉を!",
"おお、そうだ。扉を閉めるぞ!"
],
[
"おい、ピート一等兵。カールトン中尉どのの姿が、見えないじゃないか",
"そうです、軍曹どの。いま、私が申上げようと思ったところです。あなたは、なぜ、中尉を外に置いたまま、その扉をお閉めになったんですか",
"ふーん、失敗った。おれが悪いというよりも、貴様が、たいへんな声を出して、扉を閉めろ閉めろと、さわぎたてるもんだから、とうとうこんなことになったんだ",
"あっ、そうでありましたか。じゃあ、わしがすぐいって、お連れしてまいりましょう"
],
[
"なにを、このばか者! この扉をあけて、どうしようというのか。この扉をあければ、たちまち海水が、どっと流れこんでくるじゃないか",
"えっ、そんなことはありません。どっと、流れこんでくるなんて、そんな……",
"さっきとはちがうぞ。あれからかなり時刻がたっている。おいピート。この戦車は、もう海面下に沈んでしまった頃だぞ"
],
[
"ええっ、本当ですか、軍曹どの。この戦車は、ついに、海面下に没しましたか",
"大丈夫、それに違いない",
"それじゃ、わしたちは、もう海の上を見ることかできなくなったんですか",
"もう、よせ。貴様がくだらんことをいうから、くだらんことを思い出す",
"いや、くだらんことではないです。わしは、この戦車が、われわれの棺桶であることを、どうかして、早く信じ、なお且つ、ついでに、この棺桶を一歩外へ出た附近の地理を、なるべく、頭の中に入れておこうと思って、懸命に努力しているところです",
"もういい。戦車の外のことなんて、もうどうでもいい",
"じゃあ、この棺桶は、じつにすばらしいですなあ。オール鋼鉄製の棺桶ですぞ。棺桶てえやつは、たいていお一人さん用に出来ていますが、軍曹どの、われわれのこの棺桶は、ぜいたくにも、お二人さん用に出来上っていますぜ",
"おい、しばらく、黙っとれ。おれは、なにがなにやら、わけがわからなくなった"
],
[
"おい、たいへんだ",
"足が、ひとりでに、上へ向いていくぞ"
],
[
"うーむ",
"あ、いたッ"
],
[
"うーん、あ、たたたたッ",
"とめ、とめ、とめ、とめてくれたか"
],
[
"はい、軍曹どのが、あれから今まで、一度も号令をかけてくださらないものでありますから自分もつい休めをしていたのであります",
"なにをいうか。頭に大きな瘤をこしらえて休めもないじゃないか",
"いや、これも、軍曹にならったわけでありますが、さすがに上官の瘤は、自分の瘤よりも、一まわりずつ大きいのでありますな",
"ばかをいえ"
],
[
"おい、ピート、水が飲みたいが、水を持ってこい",
"はい、どこから、持ってきますか",
"……"
],
[
"パイ軍曹どの。一体自分は、只今、生きているのでありますか、それとも死んでしまったのでありましょうか",
"なにッ。死んだ奴が、そんなに上手に口がきけるか。また、おれの声が、きこえたりするものか。ばかなことも、やすみやすみいえ"
],
[
"はあ、やっぱり、只今は生きているのでありますか。なるほど",
"只今も、なるほどもないよ。ちと、しっかりしなきゃいけない。びっくりするのも、無理ではないけれど……",
"いや、軍曹どの。自分は、たしかに一度死んだんです。それから再度、生きかえったのです、たしかに、或る期間、死んでいました",
"そんな、へんなことをいうものじゃないよ。死んだ奴が、どうして生きかえるものか",
"いや、そうではありません。軍曹どの。なぜ、そんなことをいうかと申しますと、さっき自分は死んでいる間に、幽霊を見かけました。幽霊が見えたんです。そのへんを、すーっと歩いていましたよ"
],
[
"いえ。ほんとです。軍曹どのとは、全くちがった服装をしていました。幽霊の足音が、ことんことん床を鳴らしたのを、聞いたようですよ",
"ふーん"
],
[
"軍曹どの、なにが、おかしいのですか",
"あははは"
],
[
"おい、ピート一等兵。幽霊が出るなんて、嘘だよ",
"はあ、嘘ですか",
"つまり、これは生理的の現象だ。いいかね。おれたち二人は、さっきから、同じように頭をがんがんとうったじゃないか。だから、同じように、頭がへんになって、同じように幽霊みたいなものの姿が、見えたというわけだよ",
"ははン、同じように頭がへんになって、同じような幽霊の姿が、頭の中にうかび出たというわけですか。なるほど、そうかもしれませんなあ。軍曹どのと自分とは、前から、双生児のように、なんでも気が合うのですから、そういう場合に、二人の頭の中に、別々に出てくる幽霊が同じ姿をしていても、かくべつふしぎでないわけですなあ。なるほど、ああなるほど",
"お前のように、臆病で、びくびくしていると、西瓜が、機雷に見えたりするのだ。しっかりしろ。あははは"
],
[
"あれ、煙草がない。しまった、船へ、おいてきた。軍曹どのは、お持ちですか",
"なんだい、煙草か。うん、煙草なら、ここにあるが、まさか、この戦車の中じゃ、油があるから、危くてすえないよ",
"ははあ、なるほど"
],
[
"あっ、たいへんだ。軍曹どの",
"なんだ、おどかすない",
"たいへんですよ、これは。煙草のないのはいいが、一体これからのわれわれの食事はどうなるんでしょうか",
"うん、そのことには、よわっているんだ。しかし、一体われわれは、いつまで生きているかということの方が、先の問題だよ。まあ、どうせ、無い命なんだから、それまでは、朗かにやろうぜ",
"朗かにやれといっても、食うものがなくちゃ、朗かにやれませんぜ",
"ぜいたくいうな。とにかく、この戦車は、深い深い海底へおちこんでいるんだから、救援隊は来っこなしさ。ただ、こうして死をまつばかりだよ",
"いやだなあ。どうせ、乗るんだったら、戦車よりも、破れボートの方がよかった",
"なぜ?",
"だって、ボートにのってりゃ、仰向けば、天から降ってくる雪を、口の中にいれることができるし、たまにゃ、近くの流氷の上に白熊がのっているかもしれませんから、銃をぶっぱなして、白熊の肉にありつけるかもしれない",
"やめろ、そんなうまそうな話は! よけいに腹が減って、よだれが出るばかりだ"
],
[
"軍曹どの。奇蹟です。大奇蹟です",
"なんじゃ、奇蹟とは",
"あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ",
"あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ",
"だめです。自分が見つけたんです",
"一寸見せろ。この林檎は、どこにあったのか",
"軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください",
"食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、喰いかけだぞ。お前、早い所、やったな",
"いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません",
"それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ",
"さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません",
"じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々しい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?"
],
[
"わ、幽霊が、あの林檎をかじったんだ",
"ああ、幽霊の歯型! やっぱり、この戦車の中にゃ、ゆ、幽霊がいるんだ!"
],
[
"おい、ピート一等兵",
"へーい"
],
[
"お前、これから、戦車の隅から隅までさがして、幽霊がいないかどうか、たしかめてみろ",
"そ、そんな役まわりは、ごめんです",
"なに、お前は、上官の命令に背くのか",
"いえ、そんな精神は、ないであります。ですが、軍曹どの。自分は、生きている敵兵は、たとえ百万人が押しかけてこようと、尻ごみはしないのですが、死んでいる幽霊は、たとえ一人でも、どうも虫がすきませんであります",
"お前は、あきれた臆病者だ。そんな弱虫とは知らず、おれはこれまで、お前にずいぶん眼をかけてやった。アイスクリームが、一人に一個ずつしか配給されないときでも、おれはひそかに、お前には二つ食べさせてやったのだ。あああ損をした"
],
[
"おい、ピート一等兵。さっきの林檎を、もう一度、しらべたい。林檎は、どこにある",
"さあ、どこへいきましたかしら……"
],
[
"おい、ピート。そっちへ、離れてみよ。猿の子供みたいに、いつまでも、おれに抱きついていても仕方がないじゃないか。お前が、あの林檎を、尻の下に、しいているのではないか。早く、のけ!",
"はい、今、のきます"
],
[
"あっ、わかりました。軍曹どの、林檎が見えなくなったわけが、わかりました",
"お前に、わかった? どういうわけか",
"つまり、あの林檎も、幽霊だったんです。林檎の幽霊だから、とつぜん、林檎の姿が、かきけすように、見えなくなってしまったというわけです",
"なるほど、林檎の幽霊か、そういうことが、あるかもしれないなあ。ああ気持がわるい!",
"ああ軍曹どの。林檎の幽霊! ああ、おそろしいですなあ"
],
[
"ばか。ニューヨークまで、こんな地底戦車にのってかえれるものか",
"しかし、軍曹どの。われわれ軍人は、常にそれくらいの元気は、もっていなければならぬと思うのであります",
"それは、わかっとる。しかし、ニューヨークまでかえるには、何ヶ月かかるかわからない。その間重油をどうするんだ。また、われわれは、なにを食べて、その何ヶ月かを生きていればいいんだ"
],
[
"どうかなると、口でいうだけでは、どうもならん",
"だめです。軍曹どのは、やってみないうちから、もういけないとおもっていられるから、だめなんです。どうせ、死ぬときは死ぬのですから、じっとしていて死ぬよりも、軍人らしく、この地底戦車で突進しながら、たおれた方が、軍人らしい最期ではありませんか",
"なるほど、なあ"
],
[
"異状ないか",
"はい、全員異状、ありません"
],
[
"部署につきました",
"よし。では、出動! 針路、真南! 傾斜をなおしつつ、前進"
],
[
"どうしたのでありますか、軍曹どの",
"うん、ちょっと、外をのぞいてみようと思うのだ",
"ああ、そうですか。多分、海底の氷の塊の中でしょう",
"そうかもしれないなあ"
],
[
"えっ。土の中ですか",
"そうだ。われわれは、もうすでに、陸にぶつかっているのだ。これをどんどん進んでいくとうまくいけば、やがて、わが南極派遣隊の駐屯しているところへ出られるかもしれないぞ",
"そうですか。そいつはいい。うまくいくと、これは、たすかりますね",
"うん、とにかく、もっと前進をしてみよう、前進!"
],
[
"軍曹どの。もう、自分に対し、勲章でも、下さるのですか",
"ばかをいえ。もし、このままうまく地上にでられることがあったら、お前を銃殺するよう、上官に申請してやる",
"じょ、冗談を……",
"いや、ほんとだ。貴様は、じつに、けしからん奴だぞ。この地底戦車内において、指揮官たるおれの眼をごま化し、貴重なる食料品を無断で食べてしまうなどということが、許せると思うか",
"はあ、――"
],
[
"一歩前へ! 口を大きくひらけ!",
"ええッ"
],
[
"こら、もっと下を向いて、口をあけろ",
"下へ向けないであります。さっきから首の骨が、どうかなったのであります。幽霊のことを、あまり心配したせいであろうと思います",
"つべこべ、喋るな。命令どおりすればよいのだ。――もっと下へむけ。それから、号令とともに、大きく、息をはきだせ。さあ、はじめる。お一イ"
],
[
"軍曹どのは、その林檎を、ひとりで、召しあがるつもりなんでしょう",
"そうだ。さっきの林檎は、お前がくってしまった。こんどは、おれに食べる権利があるのだ",
"半分ください",
"いや、やるものか"
],
[
"あ、軍曹どの。お待ちなさい",
"なんだ、なぜ、とめる",
"その林檎は、どうも、たいへんあやしいですよ。さっき、自分がたべたとき、へんな味だと思いましたが、ああ、あいた、あいた、あいたたたッ"
],
[
"おい、どうしたピート。しっかりしろ",
"あ、あいた、ああいたい。軍曹どの、その林檎を食べてはいけません。その林檎の中には、毒が入っています。うわーッ、いたい"
],
[
"毒がはいっているって? ほんとかなあ",
"ほんとです。毒のある林檎であります。軍曹どの、自分はもうさっきの林檎の毒にあたってとても助かりません。ですから、そのついでに、軍曹どののもっておられる林檎も、自分が食べてしまいましょう。そうでないと、自分が死んだのち、軍曹どのが、この林檎を召し上るようなことになると、軍曹どのもまた一命を……",
"だまれ、ピート一等兵。貴様は、林檎がほしいものだから、そんなうそをついているんだな。ふふん、その手には、のるものか。これをみろ!"
],
[
"こら、手を出すな",
"いや、自分も食べたいのです"
],
[
"貴様、どこの何奴か",
"僕の顔をみれば、大よそ見当はつくでしょうがな"
],
[
"用事は、いろいろありますがね、まず第一は、お二人さんが召し上った林檎の代金を、こっちへもらいたいのですよ",
"林檎の代金、すると、あの林檎は、君の……",
"そうです。僕が持ってきた林檎です。さあ金を払ってくれますか。おやすくしておきますよ"
],
[
"幽霊という名は、あなたがたが、僕につけてくだすったんですよ。あなたがたは、僕が床にころがした林檎を拾って、たべてしまったじゃありませんか",
"ああ、あの林檎は、君の林檎だったのか。なぜ、林檎をもって、こんなところへ入っていたのか",
"それは、あなたがたが、どうでも勝手に考えてください"
],
[
"じゃあ、もう用がすんだのだろうから、君は、戦車から出ていってくれ",
"あははは。パイ軍曹あなたは、もうこの戦車の中では、命令権がないのですよ。これからは、僕が命令しますからねえ"
],
[
"お前たち二人とも、わしが指揮をとることに不服はないのだな。それでは、ただちに命令する。二人とも、操縦席につけ!",
"うへッ"
],
[
"おい、パイ軍曹。針路を、ちゃんと正しくなおせ。お前は、命令をきかないつもりか。きかないつもりなら、ここでお弁当代りに銃弾を五、六発、君の背中にお見舞い申そうか",
"いや、いや、いや、いや"
],
[
"は。もうこれ以上、出ませんです",
"うそをつけ"
],
[
"おい、スピードのことは、ちゃんとわかっているのだぞ。極秘の陸軍試験月報によれば、地底戦車は、地中では最高三十五キロ、海底では、百五十キロまで出ると発表されているぞ",
"えっ、それまで知っているのですか。――では仕方がない。――ほら、スピード・メーターをみてください。いま、三十三キロまで出ていますよ。もうストップです",
"ごま化しては、いかん。それは地中スピードだ。しかるに、わが戦車は、いま海底を伝って前進しているのではないか。ほら、その計器をみろ。岩や土をそぎとる高速穿孔車輪が、すこしもまわっていないではないか。ほら、こっちのスイッチが、ひらかれたままになっている。ごま化すのは、いいかげんにしろ",
"うへッ"
],
[
"わかりました。おっしゃるとおりいくらでもスピードをあげます。しかし幽霊閣下は、この戦車を、一体どこへお向けになろうというのですか",
"目的地か。そんなことは、聞かないでも分っていそうなものではないか。ほら、その地図のうえの、ここだ!"
],
[
"ぐ、軍曹どの。じ、自分は、もういけません。……",
"こら、上官を見殺しにする気か。よおしこの機銃を、こっちへうばいとったら、第一番にこの幽霊をたおし、その次には、き、貴様の胸もとに、銃弾で貴様の頭文字をかいてやるぞ! うーん"
],
[
"こら、幽霊。そこをはなせ。はなさないと、き、貴様を……",
"ほッほッほッほッ。パイ軍曹、君の腕の力は、たったそれだけか",
"な、なにを。うーん"
],
[
"さあ、パイ軍曹。君に、これがとれるものなら、もっと倍くらいの力を出したまえ",
"な、なにを。うーん"
],
[
"戦車の中には、食料品が不足だというのに、無駄に、力を出していいのかね",
"えっ"
],
[
"ふん、そういう気なら、願いは、聞き届けてやる。きっと、今いったことを、忘れるなよ",
"は、決して忘れませぬ。アーメン"
],
[
"さあ……",
"計器に水が入ったかナ"
],
[
"そうだ。われわれの感じとしては、まだまだ深海の底にいるような気がする。しかし、この深度計は、たしかにこわれていないのだから、この上は、深度計が示していることを信ずるのが正しい。わけはわからないが、たしかに、この戦車は、地上に出ているのだ",
"そんなばかばかしい夢みたいなことが……",
"全く、全くだ!"
],
[
"じゃ、僕は、この地底戦車の扉をあけて、外へ出てみるから……",
"ああ待ってもらいましょう。扉をあけりゃ、そこから水がどっと入ってきて、われわれはたちまちお陀仏だ",
"じゃあ、助かりたくないのか",
"扉をあけりゃ、とたんに、死んでしまいますよ。助かるどころの話じゃありませんよ。これは、わしの永年の経験からいうのだ"
],
[
"おお、どうした!",
"おや、いつの間にか、天井と床とが、あべこべになって、戦車は、とうとうもとどおりになったぞ!"
],
[
"こら、ピート一等兵。そんな弱音をはいちゃ、幽霊指揮官どのに、笑われるじゃないか",
"でも、自分はもう、このとおり、からだ中から、脂がぬけちまって、もうあと、いくらももちません",
"え、からだの脂がぬけたって",
"はい。うそじゃありません。このとおり、ズボンの下から、たらたら脂が、たれてくるのです",
"そうか。本当なら、こいつは一命にかかわるぞ。どれ、見てやろう"
],
[
"おや、こいつは、ひどく、たれている。ふん、かわいそうだな。これじゃ、もう、助かるまい",
"軍曹どの、自分は、もういけませんか。もう、だめでありますか",
"もう、いかんぞ。どうも、くさい。いやにくさい。きさまは、からだが大きいせいか、鯨の油みたいな脂を出しよる"
],
[
"うわーッ、いけねえや",
"おい、ピート。何ということをする……胸の中が、どうかしたのか",
"あははは。大失敗でさ。わけをいうと軍曹どのに叱られ、そしてここにおいでの幽霊どのに笑われてしまいます",
"ははあ、きさま、また欲ばったことをやったな。服を開いて、中をみせろ",
"はい、どうも弱りました"
],
[
"やっぱり、そうだ。きさま、鯨油の入っている缶を、盗んでいたんだな。どうするつもりか、鯨油を、懐中に入れて",
"どうも、弱りました。まさかのときは、これでも、腹の足しになると思ったものですから……",
"なに",
"つまり、鯨の油ですから、こいつは、魚の脂です",
"鯨は、魚じゃない",
"そうでしたな。元へ! 鯨は、けだものの脂ですから、石油とはちがって、食べる――いや、飲める理屈であります",
"あはァ、それで、飲むつもりで、かくしていたのか",
"はい。ところが、あのとおり、戦車の中で、あっちへ、ごろごろ、こっちへごろごろごろんとやっているうちに、缶がこわれて、鯨油がズボンの中へ、どろどろと流れだして、こ、このていたらく……",
"なんだ、そんなことか。お前は、幸運じゃ",
"軍曹どの。からかっちゃ、いかんです",
"からかっちゃおらん。もしもその脂がお前のからだから流れ出した脂だったら、今頃はどうなっていたと思う",
"へい。どうなっていましたかしら",
"わかっているじゃないか。そんなに脂がぬけ出しちゃ、お前は今頃は冷くなって、死んでいたろう",
"冗談じゃありませんよ。はっくしょん"
],
[
"ピート一等兵。早く、前をしめろ。風邪をひくじゃないか",
"へーい、指揮官どの"
],
[
"だから、さっきから、僕は、この戦車の扉を開けろといっているんだ。さあ、早く開けろ",
"開けても、大丈夫かなあ",
"大丈夫だ。水の中じゃない。うそだと思ったら、中から信号をして、外には水があるかないか、たずねてみろ"
],
[
"おお、痛い。ピート一等兵。早く、扉をあけろ。外には、我が軍が、待っているそうだ。早くしろ",
"わが軍が……。ああ痛い。腰骨が、折れてしまったようです。軍曹どの。あなたにおねがいします。自分には、出来ません",
"わしに出来るなら、きさまに頼みやせん"
],
[
"陸軍戦車軍曹ジョン・パイ",
"陸軍戦車一等兵アール・ピート",
"……"
],
[
"おい、なぜ、黙っとる。早く官姓名を名のらんか",
"……",
"おい、お前は聞えないのか",
"こいつは"
],
[
"地底戦車長、黄いろい幽霊",
"なに、もう一度、いってみろ",
"この地底戦車長の黄いろい幽霊だ",
"黄いろい幽霊! ふざけるな"
],
[
"こいつは、中国人――いや、日本人の密偵にちがいありません。この戦車の中に、しのびこんでいたので、自分が捕虜となしたものであります",
"え、日本人? そいつは、たいへんだ。それ、取りおさえろ",
"別に、逃げかくれはせん。逃げたって、この氷原を、どこへ逃げられるだろうか。アメリカ兵は、思いの外あわて者が多い",
"なに! かまわん、しばれ",
"いや、待て!"
],
[
"は",
"その、黄いろい幽霊がいうとおり、こんなところで、逃げだしても、食糧がないから、生命がないことが分っている。だから、ことさら取りおさえる必要はない",
"しかし、閣下……",
"なに、かまわん。余に、思うところがある。そのままにしておけ"
],
[
"みなさんがたは、南極派遣軍だということは、さっき戦車の天蓋を叩いて信号したときに、承知しましたが、あそこにいられるえらい方は、一体だれですか",
"あの方か。あの方を知らんか。リント少将閣下だ",
"えっ、リント少将閣下",
"そうさ、南極派遣軍の司令官だ",
"ええっ、すると、ここはリント少将のいられる基地だったんですね",
"ふん、そんなことが、今になって分ったか"
],
[
"正直なところを申上げますと、すみませんが、パイ軍曹どののいうことは、すべて嘘っ八でありまして、ソノ……",
"嘘か。それで、どうした",
"ソノ、つまりこの地底戦車が、遭難船の船底をぬけおちまして、海底ふかく沈没しましたときから、自分は敢然、先頭に立って、この戦車を操縦しつづけたのであります。ぜひともこの大困難を克服しまして、この貴重なる地底戦車を閣下のおられるところまで、持ってこなければならんと大決心しまして、パイ軍曹どのと、この幽霊どのをはげましながら、ついにかくのとおり閣下のまえまで乗りつけることに成功しましたわけで、その勇敢なる行動については吾れながら……"
],
[
"軍司令官閣下。こいつは、地底戦車の秘密を知った奴ですから、今すぐに、銃殺してしまうべきであります",
"自分も、同じことを考えます。こいつは日本のスパイに、ちがいありませんから、殺してしまうのが、よろしい。このまま、生かしておくと、またどんなことをするかもしれません。日本人という奴は、大胆なことをやるですからなあ"
],
[
"コーヒーを、もってきてくれたのか。どうも、すまんなあ",
"すまんことはないよ。わしは、ここだけの話だが、お前に、感謝しているよ……",
"おい、ピート一等兵。ことばをつつしめ"
],
[
"そのわけは、お前がいなければわしは、地底戦車の中で、腹ぺこの揚句、ひぼしになって死んでしまったことだろう。お前のおかげで、こうして、氷の上にも出られるし今も、たらふくビフテキを御馳走になったりして、まるで夢をみているような気がするのだ、これは、一杯のコーヒーだけれど、やっとごま化して、持ってきたのだよ。さあ、のんでくれ",
"や、ありがとう",
"ピート一等兵、待て。衛兵たるおれが、承知できないぞ。そういうことは、禁じられている"
],
[
"やあ、どうも、すまん",
"わしとお前との仲だ。そう、いちいち礼をいうには、あたらない。さあ、これだ。これをとれ"
],
[
"すまん",
"こら、なにもいうな。――ほら!",
"えっ"
],
[
"けしからん奴じゃ、貴様は",
"いや、たいへん、ごちそうさまでした",
"貴様には、うんと、おかえしをするつもりじゃった。地底戦車の中で、よくも、ひどい目に、あわせたな。ゆるさんぞ",
"ゆるさんとは、どうするのですか",
"ここで、貴様が立っていられなくなるくらい、ぶん殴ってやるんだ。廻れ右。こら、うしろを向けい",
"うしろを向かなくとも、いいでしょう。私を殴るのなら正面から殴りなさい。遠慮はいりませんよ",
"廻れ右だ。ぐずぐずしていると、ピストルが、ものをいうぞ"
],
[
"……敵ながら、あっぱれなものだ。三人でもって、よくまあ、この地底戦車を、ここまでうごかしてきたものだ",
"ではここで改めて、運転いたしましょうか",
"そうだ。うごかしてみろ",
"はい"
],
[
"ああ、あれは、日本の飛行機じゃないか",
"日の丸のマークはついているが、まさか、この南極に、日本の飛行機がやってくるはずはない",
"でも、日の丸がついていれば日本機と思うほかないではないか"
],
[
"おい、高射砲はどうした",
"高射砲なんか、あるものか",
"じゃあ、高射機関銃もないのか",
"それは、どこかにあった",
"どこかにあったじゃ、間に合わない。総員機銃でも小銃でも持って、空をねらえ"
],
[
"ちく生。日本機め、うまくにげやがった",
"もう一度、とんでこい。そのときは、おれが一発で、うちおとしてやる",
"だが、日本の飛行機は、なにをするつもりだったんだろうか",
"そりゃ、わかっているよ。わが南極派遣軍がなにをしているか、監視のためにやってきたんだ"
],
[
"ああ飛行隊の出動だ。これは、おもしろくなったぞ",
"いやあ、よせばいいのに。五機出発して、五機帰還せずなんてえのはいやだからね"
],
[
"パイ軍曹どの、気分は、どうもありませんか",
"うん。正直なところすこし困っている。なにしろ、おれは地底戦車兵であるが、航空兵ではないのだからなあ。お前はどうか",
"はい、もちろん、自分も軍曹どのと、同じことであります。どうも自分は、スピードの早いものは、にが手なんで……。この飛行機は、落ちませんかな",
"落ちそうだなあ。地底戦車が落ちた場所とちがって、飛行機が落ちれば、われわれの生命はないぞ",
"だから、自分は、戦車の方が好きなんです。ねえ、パイ軍曹どの。一つ指揮官へ無線電話をかけて、われわれ戦車兵を飛行機にのせるのは違法であるから、この五番機だけ、早く元の氷上へかえしてくださいといってくれませんか",
"ふん、それはいい。ではそうしようか"
],
[
"早くせんか。ピート一等兵は、後方機銃座へつけ。パイ軍曹は、爆撃座へつけ。早くやれ",
"はい"
],
[
"はい。今、うちます。しかし機長どの。自分は戦車の銃手はつとめましたが、飛行機の上の射撃はまだ教育をうけておりません。参考書でもあったら、ちょっと……、ここへ放ってください",
"ばかをいえ。今になって、参考書をよんで間にあうか……。あっ、前に、日本機がいるじゃないか。向うがうたないさきに、おいピート一等兵、うて!",
"困ったなあ。うてといわれても、どうしてねらったらいいか、困ってしまうではありませんか",
"照準具がついているじゃないか。それを見て、ねらえ",
"この照準具には輪がついていますね、どうするのですか",
"飛行機のスピードによって、ちがった輪の上に飛行機の胴をねらうのだ。飛行機はその中心の円に向うようにしろ。一番外の輪が、時速六百キロ、次は五百、次は四百という風に、中心へ来るほど、時速が少くなっているんだ。わかったろう",
"わかりませんなあ",
"早く、うて。間にあわないじゃないか。うて、うて何でもいいからうて。こっちがうたないと、敵は、こっちに弾丸がないのだと思って、安心して、第一番にねらわれるからなあ。うて、うてッ",
"困ったなあ。――パイ軍曹どの、ここへ来て、自分に代ってうってください",
"いやだ。おれは、おれの持ち場がある。ピート一等兵。はやく、うて!",
"いやになっちまうな。地底戦車兵に、飛行機のうえで射撃をしろなどと命令するのは、らんぼうな話だ。うてといわれれば、うつが、どんなことが起っても、自分はしらんぞ"
],
[
"困った奴じゃな。射撃命中率は、なかなかいいのじゃが、味方をうっちゃ、しようがないじゃないか、お前は照準をあべこべにやっているから、弾丸が左へいくところが、右へいってしまうのじゃないか",
"なんといっても、自分はだめであります。地底戦車兵を、飛行機にのせるというのが、そもそも始めからあやまっているのであります。軍曹どの。上へあがってください",
"いやだよ。おれはここにいる",
"そういわないで、あがってください",
"いやだ。あとから、おれがやったようにいわれるのはいやだからな",
"困ったなあ"
],
[
"ピート一等兵。お前にも同情する。いいから、機銃座はあけておけ。そしてここにいてもいいぞ",
"それはいけません。機銃座にだれもついていないなんて、眼にたちますよ",
"なあに、お前が戦死したことにしておけばいい",
"なるほど。しかし戦死はいやですね",
"重傷でもいいなあ。そしておれも重傷だ。どっちも、うごけないというのならいいだろう",
"なるほど、それは名案だ"
],
[
"ああパイ軍曹どの。射撃をしなくなったです。どうしたのでしょうかなあ",
"さあ、どうしたかなあ。察するところ日本機は全部、うちおとされたのかもしれないぞ"
],
[
"そうですかなあ。急に、こっちがつよくなったんですね",
"お前みたいな下手くそな射手ののっているのは、この飛行機だけだ。他のやつは、元来航空兵なんだから相当に射撃には自信があるはずだ。ついに、ぽんぽんとやっつけたんだろう",
"下手くそだといっても、自分は元来地底戦車兵なんですからね。それは仕方がありませんよ",
"それは大したいいわけにならないよ",
"え、なぜです",
"あれを見ろ",
"えっ",
"下を見ろというんだ。あそこの氷上に見えてきたのは、日本軍の基地にちがいない。今おれが爆弾をおとしてみせるから、よく見ていろ。おれはお前とちがって、うまく命中させてみせるぞ。同じ地底戦車兵でもパイ軍曹はかくのとおり、空中勤務にまわされても、腕はたしかだというところを今見せてやる",
"えへ、本当ですか",
"本当だとも。この爆撃照準器の使い方は、ちょっとむずかしいんだが、おれはかねて、こんなこともあろうかと、あらかじめ研究しておいたのだ。こういう具合にやるんだ。ええと、もすこし右へまわして……いや、いきすぎた左へまわして、この目盛を、こっちの零に合わしてと……これでいい、そこで、二つの数字が合ったところで、爆弾を支えている腕金をはずせばいいんだ。一チ、二イ、三ン!",
"あっ"
],
[
"パイ軍曹どの。どうせられましたか",
"いかんわい。やめたよ",
"なぜ、やめられましたか",
"下に見えているのは、日本軍の基地だと思っていたが、よく見ると、何のことじゃ。さっきまで、おれたちのいたアメリカ基地だったのじゃ。とんだ間違いを、やらかすところじゃった。もうすこしでリント少将閣下を爆撃するとこだった。いや、あぶなかった",
"へえ、あぶないことでしたな",
"基地へかえってきたことを、おれたちにおしえてくれないから、いかんのだ",
"しかし軍曹どの。機長から命令もないのに爆撃をするから、こういう間違いがおこるのですぞ",
"なにを。お前は、だまれ。上官にむかってなにをいうか",
"へーい"
],
[
"おお、そうか。そして、戦闘の結果は、どうであったか。撃墜数を報告せんではないか。撃墜状況はどうか",
"はい。撃墜は、ありません",
"なんだ、撃墜はないというのか。これだけの犠牲をはらって、撃墜は一機もなしというのか。お前たちは、それでもアメリカ飛行隊の勇士か。よくまあ、はずかしくないことだ"
],
[
"司令。自分は撃墜しました",
"おお、お前はピート一等兵だな。それはでかした。何機撃墜したか"
],
[
"はい。あのう、二機であります",
"おお、二機も、やっつけたか。それは抜群の手柄じゃ。よし、あとで、褒美をやろう。昇進も上申してみるぞ"
],
[
"勇士ピート一等兵。二機撃墜のときの状況をのべよ。まず聞くが、お前が、撃墜した日本機はいかなる機種のものであったか",
"え、日本機?……"
],
[
"順序をたてないでよろしい。はなしやすいように、はなせ",
"うわーッ"
],
[
"おお、飛行司令。リント少将は、こっちに見えていないか",
"リント少将? 閣下は、こっちへ来ておられません。どうかしましたか",
"いや、一大事だ。さっきのさわぎのうちに、リント少将の姿が、急に見えなくなったのだ。もう、しらべるところは、全部しらべた。困ったなあ。君のところも、もう一度、念入りにしらべてくれたまえ",
"はい、承知しました"
],
[
"冗談じゃありませんよ。パイ軍曹どの、はやく囚人をかえしてください。黄いろい幽霊を……",
"わしは、知らん",
"わしは、知らんじゃ、困るじゃありませんか。軍曹どのが、監房の扉をあけて、囚人を引っぱりだしたのですぞ。それから、ピストルでおどかしたり、靴で、けとばしたりしたではありませんか",
"けとばすわけがあったから、やったまでだ。そんなことについて、貴様のさしずはうけない",
"さしずをしているのではありません。黄いろい幽霊を、かえしてくださいと申しているのです",
"わしが、そんなことを知るものか。囚人の番をするのは、貴様ら衛兵の仕事じゃないか",
"ああ、それはひどい。軍曹どのが、囚人を自由にしておきながら……",
"なにを云う。上官に対して無礼者め"
],
[
"どこにも、おられないじゃないか",
"ふしぎなこともあるものだな",
"おや、もう一つ紛失したものがあるぞ。ここにあった",
"何がなくなった?",
"地底戦車が、どこかへいってしまった"
],
[
"一体、これはどうしたんだ",
"うむ、これは、容易ならぬ事件だ"
],
[
"……君が余に要求するものは何か。なにが、ほしいのか。早く、それをいえ",
"少将閣下、お考えちがいをなさらないように。私は閣下からなにを、ちょうだいしようとも思わないのです。ただ、地底戦車の乗り心地をうかがっているだけです"
],
[
"……早くいってくれ。何でも、君の要求にしたがう。だから、外へ出してくれ",
"外へ出せといって、今はもう、氷の中に入っているのです。おのぞみなれば、このまま海底ふかく、墜落してみてもいいのです",
"もうわかった。君は、余を、不名誉きわまる捕虜としたうえ、東洋流の、ざんこくなる刑にかけようというのだな",
"ざんこくは、東洋よりも、むしろ閣下の国で、さかんに行われているではありませんか――しかし、そのように、外へ出たいといわれるなら、出してさしあげましょう。しばらく待っていただきましょう"
],
[
"どうです、お分りですか。ここが、どこであるか",
"うむ",
"お分りのはずですが、私が、説明しましょうか。ここは、大和雪原です。西暦でいって千九百十二年、大日本帝国の白瀬中尉がロット海を南に進んで、この雪原に日章旗をたてたのです",
"大和雪原。それなら知っている。ああ、しかしいつの間に日章旗が……おお、そして、いつの間にあのように飛行機が……"
],
[
"いや、別におどろかれることは、ありますまい。ここは、わが大日本帝国の領土であるがゆえに、飛行機がいても、ふしぎではないのではありませんか。わが日本人は今や、世界第一の飛行機乗りになったのです。内地から、こんなところへ飛んでくるのは、なんでもありません。丁度地底戦車については、貴国が世界一であるのと、似たようなものです。では、少将閣下、大和雪原の日章旗をどうぞお忘れなきように、そしてここで活躍をはじめようとする日本人たちを妨害なさらぬように、私から、とくにお願いいたします。さっきもありましたが、日本機が、弾丸を一発もうたないのに、アメリカ機が、機銃をうって、挑戦してくるなどということは、もうおやめください。そっちの御損ですからね",
"うーむ",
"では、この地底戦車によって、閣下を、再び司令部のあるテント村へお連れいたしましょう。永々、この地底戦車をお借りしていまして、どうもありがとうございました"
]
] | 底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ子供の時間」(「地底戦車兵の冒険」のタイトルで。)
1940(昭和15)年2月~
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2006年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "003377",
"作品名": "地底戦車の怪人",
"作品名読み": "ちていせんしゃのかいじん",
"ソート用読み": "ちていせんしやのかいしん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「ラヂオ子供の時間」(「地底戦車兵の冒険」のタイトルで。)1940(昭和15)年2月~",
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"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-03-05T00:00:00",
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[
[
"今日は三月二十七日ですね",
"はあ",
"もっとも、この次、時計が鳴れば二十八日になりますが……。この手紙の日附より一週間後といえば、二十五日に七日を加えて、つまり、四月一日となる。ははは、春部さん、失礼ながらあなたは田川君から四月馬鹿で担がれているんじゃありませんか",
"いいえ、そんなことはございません"
],
[
"よく分りました。全力をつくしてあなたの田川君を探し出しましょう。あと四日の余裕がありますから、その間に解決してしまいたいものです",
"どうぞ、そうお願いいたします。そしてわたくしも先生のお伴をして、捜査に従事したいんです。さもないとわたくしは、不安と孤独感とで気が変になってしまうでしょう。ね、先生、お連れ下さいますわね"
],
[
"先生、今夜から、わたくしを助手に使って頂きますわ。ご迷惑でも、泊らせて頂きますよ",
"ここへお泊りにならない方がいいですね。でないと結婚を待っていらっしゃるあなたにとって……",
"いえ、先生。わたくしはそんなことを気にしませんし、大丈夫ですわ。それよりも、先生は、この事件に不吉な影がさしていると思うとおっしゃいましたが、それを説明して頂けません",
"困りましたね"
],
[
"まあ。すると先生は田鶴子さんを四年も前からご存じでいらしったんですの",
"私は、正確にいうとそれよりももう三年前から田鶴子なる少女を知っていました。しかし田鶴子は私を何者であるか、知っていないと思います。というのは、田鶴子は古神子爵が経営していた喫茶店の女給みたいなことをしていたんです。私はしばしば感じのいいその喫茶店の入口をくぐりましたがね、この店が古神子爵の経営店であることを知ったのは、ずっと後のことなんです。なにしろ現今ならともかく、その当時は、子爵が喫茶店を経営しているということが知れては大変なことになる時代でしたからね",
"まあ――",
"そのとき格別田鶴子を注意していた訳じゃありませんが、こっちがはっきり四方木田鶴子へ注目するようになったのは、子爵の遭難からです。早くいえば、私は子爵の本家筋にあたる池上侯爵家からの秘密なる依頼で、田鶴子には気付かれないように、秘密裡に彼女を調べたのです。私は常に黒幕のうしろに居り、田鶴子には婦人探偵の錚々たるところの数名を当らせたんです。要点は、池上侯爵家からの依嘱により、“もしや四方木田鶴子があの雪山で古神子爵を雪崩の中に突き落としたのではないか”を明らかにするためだったのです",
"まあ、なんという恐ろしいお話でしょう"
],
[
"だが、その結果は、そういう嫌疑は無用だということになったんです。婦人探偵たちの一致した答申でした。そこで私はこの旨を池上侯爵家へ報告しました。それでそのことは片附いたんです。しかしその四方木田鶴子さんの姿を今年になってから突然見掛けたのでびっくりしていました。キャバレのビッグ・フォアでしたよ、実はそのときは田川君が連れていってくれたんですがね",
"わたくしもそうなんです",
"え。何がそうなんです",
"田鶴子さんに初めて紹介されたのが、ビッグ・フォアだったんです。やっぱり田川が連れていってくれたんです",
"ああ、そうですか。するとこれはなかなか因縁が搦み合っていますね"
],
[
"あの事件のときの婦人探偵の一致した『否』という答申を侯爵家に報告したのは責任者の私だったんです。それでお分りでしょう。しかしあのときの田鶴子さんに対する見解が、今日も尚続いているとはいえません。私達は、ここで改めて田鶴子さんを観察する必要があります",
"田川は、田鶴子さんを信ずるな、近よるなと、わたくしへ警告しています。それから考えると、田鶴子さんはわたくしたちへの悪意を持っているものとしか考えられないんですけれど……。いかがでしょうか",
"あの言葉はおよそ四つの場合に分析出来ると思いますよ。よくお考えになってごらんなさい",
"四つの場合でございますか。……さあ、どうして四つの場合が……",
"それは明日でもいいです。ゆっくりお考えなさい。今夜はもうやすんで頂きましょう。今、寝室を用意して来ますから",
"あ、わたくしの泊ることをお許し下さるんですね",
"ええ。その代り私はこの部屋で少し窮屈な寝方をしなければなりません",
"お気の毒ですわ",
"そして明日は田川君のアパートと、田鶴子の身辺を探って、田川君の所在をつきとめることにしましょう"
],
[
"怨霊の餌食になったところを、誰か見た者があるのかね",
"見た者はねえけれど、餌食になり果てたことは誰にも知れているよ。その証拠には、駅を下りて千早館へ向った若い者の数と、それが引返して来て汽車に乗って行った者の数とが、うんと喰い違っているって、駅員さんは言っとるがのう。帰って行った衆は、ほんの僅かの人数だとさ",
"中に泊り込んでいるんじゃないかね",
"ばかいわねえこった。あんな八幡の藪しらずのような冥途屋敷の中に、どうして半年も一年も暮せるかよう。第一その間、ちょっくら姿も見せねえでおいてよう",
"なるほど。で、その八幡の藪しらずというのは何だね",
"わたしも話に聞いただけだが、なんでも千早館の中に入ると、廊下ばかりぐるぐる続いていて、気味がわるいといったらないってよ。そして寝る部屋はおろか、住む部屋さえ見当らないということよ",
"じゃあ現在、誰も住んでいないんだね",
"魔性の者なら知らぬこと、まともな人間の住んでいられるところじゃない"
],
[
"ああ、あの女画描きかね。あの女ならちょくちょく来るが、ほんとに物好きだよ。物好きすぎるから嫁にも貰い手がなくて、あんなことしているんだろう",
"その女画家は、千早館に泊るんかね",
"いいや、聖弦寺に泊るということだよ。聖弦寺というのは、千早館の西寄りの奥まったところにあるお寺のこんだ",
"寺に女を泊めるのかね",
"なあに、住職なしの廃寺だね。そこであの女画描は自炊しているという話じゃが、女のくせに大胆なこんだ",
"お婆さん。その女画家から何か貰ったね",
"と、とんでもねえ。わたしら、何を貰うものかね、見ず知らずの阿魔っ子から……"
],
[
"二十五日か二十六日というと三日前か四日前だね。はて、聞かないね、その話は……",
"五尺七寸位ある大男で、小肥りに肥って力士みたいなんだ、その人はね。もっとも洋服を着ているがね。髪は長く伸ばして無帽で、顔色はちと青かったかもしれない……",
"聞きませんね、そんな人のことは……"
],
[
"先生、田川は本当に、ここへ来ているのでしょうか",
"それは今のところ分らない。しかし田鶴子の動静を掴むことが出来たら、はっきりするでしょう。ああ、あなたは、私が田鶴子ばかりを睨っているように見えるもんだから、それで不満なんでしょう",
"ええ。でも田川より田鶴子さんの方がずっと探偵事件的に魅力があるんですものね、仕方がありませんわ",
"冗談じゃないですよ、春部さん。私はあなたの御依頼によって田川氏の行方を突き停めようとしてこそあれ、あの今様弁天さまの魅力に擒になっているわけじゃありませんよ"
],
[
"日本人の感覚を超越していますね",
"しかし人間の作ったものとしては、稀に見る力の籠り工合だ。超人の作った傑作――いや、それとも違う……魔人の習作だ。いや人間と悪魔の合作になる曲面体――それも獣欲曲面体……",
"えっ、何の曲面体?"
],
[
"あれは古神子爵がひとりで設計なすったんですの",
"さあ、全部はどうですかね。しかし古神君は非常な天才であり、そして実に多方面に亙る知識を持っており、時間さえ構わなければ、彼ひとりの力でもって設計をやり遂げることも出来たと思います",
"じゃあ超人ね",
"超人――超人という程でもないが……",
"ねえ先生"
],
[
"はい",
"わたくし、何だか前から気になっていたんですが、古神子爵というのは本当の御苗字ですの",
"フルカミが本当の苗字かとお訊きになるんですね。いやあれは本当ですよ。高等学校でも……その前の中学校でも彼は古神行基でしたからね。なぜです、そんなことを気にするのは",
"だって、あまり沢山ない御苗字ですもの",
"殿様の末裔ですからね、殿様にはめずらしい苗字の人が多い",
"じゃあ、あの田鶴子さんの苗字の四方木というのはどうでしょうか。あれこそ変った苗字ですわね"
],
[
"あ、気のせいだろうか。地鳴りがしたようだが……。春部さん、あなたは今、地鳴りを聞きませんでしたか、地鳴りでなければ、エンジンの唸りを……",
"なんだか聞えましたね。でも、わたくしは奏楽だと思いました"
],
[
"奏楽ですって……。はてな、もうなにも音がしないようだ。ふしぎだな",
"わたくしにも、もう聞えません",
"さっきは確かに音がしたんだ。どういうわけだろうか"
],
[
"電線があのとおりぷっつり切れています。千早館への電気の供給は、あのとおり電線が切られたとき以来停っているのですよ",
"すると、あの建物の中は電灯もつかないから真暗なわけね",
"ま、そうです。従って、さっきわれわれが聞いた音は、配電会社には関係のない音だということになる",
"そんなことが何か重大な事柄なんですの",
"いや、それは私の頭を混乱させるばかりです。うむ、ひょっとするとこれもわれらへの挑戦かもしれないぞ",
"挑戦ですって、誰からの挑戦? そんなことは今までにちっとも仰有らなかったのに……",
"それはそうです。この千早館のまわりをぐるぐる廻っているうちに、ふとそれに気がついたのです。春部さん、これはいよいよ油断がなりませんよ。さあ、どしどしすることを急ぎましょう"
],
[
"ああ、千早館をここから監視なさるのね",
"そうです。今、よく見えています。交替で監視を続けましょう。そして、もし誰かが千早館を出入りするようだったら、それはどこから出入りするのか、よく見定めるのです。……しかしこの仕事は退屈ですよ。まず三十分交替としましょう。始めはもちろん私がやります。あなたはそれまでぶらぶらそこらを歩くなり、草の上で仮眠をするなり好きなようになさい"
],
[
"困りましたね。なにか重大なものを発見したらしいが、この千早館の監視は一秒たりとも中断することが出来ないのです。一体何ですか、あなたの発見したものは……",
"あの人の着ていた服地です",
"えっ、何といいました",
"田川のいつも着ている服の裏地なんです。それがこまかく切られて、鋏でつまんだ髪の毛のようになっているんですが、それが池の中に浮いているんです……",
"間違なしですか。見誤りじゃないでしょうね",
"いいえ、決して間違いではありません。わたくしは念のために、竹を拾って池の水に漬け、そのこまかく切られた服の裏地をそっと引揚げたのです。これがそうです。この瑠璃色とくちなし色と緋色の絹糸を、こんな風に織った服の裏地は、わたくしがあの人へ贈ったもので、他にはない筈のものです。どうしてあの人の服の裏地が、あんな池の中に浮いていたのか、ああ、恐ろしい……",
"なるほど。そうだとしたら、これは重大だ",
"ねえ帆村さん。千早館の入口を探すよりも、あの池をさらえる方が急ぎますのよ。もしもあの池の中に、あのひとの死骸が沈んでいたら……ああ、いやだ、いやだ",
"お嬢さん。気を鎮めなければいけませんよ、まだ、そう思ってしまうのは早い……",
"でも、わたくしは、もうじっとしていられません。下へ行って人を呼んで来て、あの池をさらって貰います",
"待ちなさい、春部さん。今が大事なところだ、私が――"
],
[
"今、ねえ、たしか田鶴子と思われる女が外から戻って来て、千早館の中へ入っていったのですよ。玄関の脇に、巧妙な仕掛がある。あんなところから自由に出入りしていたんです。さあ、急いで行ってみましょう",
"どっちへ行くんですか。千早館ですか、池の方ですか",
"ああ、池……。池へ行ってみましょう"
],
[
"すると田川の死骸は、今池の底に沈んでいないと断言なさるのですか",
"そういう理屈になるというわけです。恐らくそれに間違いありません。が、何故あのように裏地の布片が中から浮いて来るか、この説明は今直ぐにつかないですね。しかしこれは直接田川君の死を決定するものではない。田川君の生死の鍵は、むしろあの千早館の中にあるのだと思います。それも今、相当切迫した状態にあると思うんです。ですから春部さん、池の方は今はこれくらいにして置いて急いで私たちは千早館の中へ入ってみましょう。もちろん冒険ですよ。しかしわれわれは今、冒険を必要とする要路にさしかかっているんです",
"ええ、分りました。では千早館へ行きましょう"
],
[
"あ、音楽だ。あなたが朝聞いたのはあれでしたか",
"ああ、そうです。あの曲は田川の作曲したものですわ。“銃刑場の壁の後の交響楽”",
"カズ子さん、入りましょう。その穴の中へ入るのです"
],
[
"地の底から聞えて来るようですね。あなたは感じませんか、足の裏から振動が匐いあがって来る",
"ええッ……"
],
[
"えッ、何がふしぎ……",
"さっきあなたも塀の外で見たでしょうが、この建物への電気供給は断たれている。それにも拘らず、ほらあの通り、薄赤い光で照明されており、それから電気蓄音器も鳴っている……",
"あれはこの館の中で演奏しているんじゃないんですの"
],
[
"カズ子さん。どうやらこれは普通の廊下でなくて、迷路のようですよ",
"メイロというと……",
"今朝バスで一緒になったお婆さんがいったでしょう。千早館の中には八幡の藪しらずがあるとね。その八幡の藪しらずというのがこの迷路なんですよ。待って下さい。思い出しかけたことがある……"
],
[
"むかし古神君は、迷路の研究に耽っていましたよ。彼は主に洋書を猟って、世界各国の迷路の平面図を集めていましたが、その数が百に達したといって悦んで私たちにも見せました。……この千早館の中に迷路があるのは、だからふしぎではない。が、早く知りたいのは、彼がどんな迷路を設計したかということです。さあ、先へ進んでみましょう",
"ええ",
"あ、ちょっと待って下さい。迷路を行くには定跡がある。これはあなたにお願いしたい。春部さん。あなたの左手は自由になるでしょう。その左手で、このチョークを持って、これから通る左側の壁の上に線をつけていって下さい。必ず守らなければならないことは、チョークを絶対に壁から離さないことです。いいですか"
],
[
"なぜそんなことをしなければならないんですか",
"迷路に迷わないためです。その用意をしなかったばかりに、迷路に迷い込んで餓死した者が少くないのです",
"まあ、餓死をするなんて……",
"気が変になるのは、ざらにありますよ。さあ行きましょう。もし、チョークのついているところへ戻って来たら、知らせて下さい"
],
[
"さあ、それはまだ断定できないです。今のは迷路を正しい法則に従って無事に一巡しただけなんです。これからもう一度廻ってみて、この迷路館が用意している地獄島を見付けださねばならないんです",
"何ですって。地獄島とおっしゃいましたか",
"いいました。地獄の島です。迷路の或るものには“島”というやつが用意されてあるんです。この島へ迷い込んだが最後、なかなかそこを抜け出すことが出来ないんです",
"わたくしには、よく意味がのみこめませんけれど……",
"島というのはねえ、そのまわりについていくらぐるぐるまわっても、外へは出られないんです。そうでしょう、島ですからね。当人にそれが島だと気がつけば、そこで道が開けるんです。向いの壁へ渡っていけば、島を離れて本道へ出られるチャンスが開けるからです。しかしそれに気がつかないと、いつまでも島めぐりを続けて、遂には発狂したり斃れたりします",
"先生は、千早館にそのような島のあることを予期していらっしゃるんですか",
"有ると思いますよ。古神君は、迷路の島には異常な興味を沸かしていましたからねえ",
"島がみつかれば、どうなるんでしょう。そういえば私たちは、田鶴子さんの姿を見つけなかったし、田鶴子さんの憩っている部屋も見かけなかったですわねえ",
"そのことです。島を探しあてることが出来たら、そこに何かあなたの疑問を解く手懸りがあるだろうと思っています",
"田川の居る場所は? いや、田川の死骸のある場所といった方がいいかも知れませんが……",
"まず迷路の島を。島が分れば田鶴子の居所が分る。田鶴子に会えば、田川君の所在が分る――と、こういう工合に行くと思うんです",
"まるで歯車が一つ一つ動き出すようなことをおっしゃいますのね",
"でも、今は、そういう道しか考えられないんですよ。もしもその間の連絡が切れているとしたら、捜査にも恐るべき島が――いや、そんなことはあるまい。連絡はきっとつく"
],
[
"あ、危い、待った!",
"ええッ",
"軽率に入ってはいけません。これこそ、この千早館の中の最大の謎なんでしょうから",
"千早館の最大の謎ですって?",
"なんと異様なものばかりが並んでいるじゃありませんか"
],
[
"綺麗ですわ。趣味はいいとは、思われないけれど……",
"異様ですよ。グロテスクですよ",
"あの金魚のことをおっしゃるのでしょう、白と紫の斑の……呀っ、先生どうなすったんです",
"何がです。私がどうかしましたか",
"ああ、どうなすったんです。先生の唇、血の気がありませんわ。紫色よ。気分がお悪いのですか"
],
[
"カズ子さん、あなたの唇も紫色ですよ",
"まあ。わたくしの唇も……"
],
[
"だが、もう訳が分りました。心配しないでいいのです。これは光線のせいです。ここを照らしている白っぽい光は、水銀灯が出す光線なんです。紫の方の波長の光線ばかりで、黄や赤の光線が殆ど欠けているから、赤いものでも紫または黒っぽく見えるのです",
"まあ、どうしてそんな気持のわるい光線でここを照らしているのでしょう",
"そこですよ、謎の一つは……"
],
[
"向うに見える『戸ろ』とは何だ。それんばかりの謎がとけなくてなんの帆村荘六か。戸の『ろ』号だ。『ろ』だ、『ろ』だ。『ろ』は何だ。そうだ、戸の『ろ』号があれば『戸ノい』があってよろしい。『戸ノは』もあってよろしいわけ……『戸い』、『戸ろ』、に『戸は』……はっはっはっ、僕は莫迦だった。なんと頭の働きの悪い男だろう、はっはっはっ",
"せ、先生。どうなすったんですの"
],
[
"カズ子さん、謎は解けました。全く子供騙しのような謎なんです",
"どうして、それが……",
"私はポン助だから、今気がついたのですよ。いいですか。ここは千早館でしょう",
"ええ、そうです",
"千早ふる神代もきかず龍田川――知っていますね。小倉百人一首にある有名な歌です。その下の句に、からくれないに水くぐるとはとあるではありませんか。からくれないとは、正面奥の、あの真赤に塗った壁です。水くぐるとはこの水族館です。左右の金魚槽の間を脱けて奥へ進めば、水くぐるです。最後の『とは』はすなわち『戸は』です。正面に見ているのは『戸ろ』だから、その隣りに『戸は』がある筈です。その『戸は』を開け――というのがこのところに集められた謎の解答なんです。行ってみましょう、この奥にある筈の『戸は』のところへ。それからきっと、秘密の間に続く道があるんでしょう"
],
[
"待った、恐ろしい関があるんだ。この水銀灯の光だ。カズ子さん、このままあなたがこの小路を奥へ駆込めば、あなたの首はすっとんで、あたり一面はそれこそ唐紅ですぞ",
"まあ、恐ろしいことを仰有る",
"これを見てごらんなさい"
],
[
"さあ、私についていらっしゃい",
"え、あなたは奥へいらっしゃるの。生命をお捨てになるんですか",
"なあに、この下を潜れば危険はないのです。千早ふるの歌に、水くぐれと示唆しているじゃありませんか。つまり腰を低くしてそこを通れば、水槽の間を抜けることになるから、それで安全だというわけです。さっき私はまだそのことに気がついていなかったんです"
],
[
"この中ね",
"いや、これも気に入らない、この部屋の照明も、さっきと同じ水銀灯だ"
],
[
"へい、遅くなりやして……",
"仕様がないね。あたしが替りに怒られているのよ。早く謝ってよ",
"へいへい。――どうぞお手をおあげ下さい"
],
[
"……わしの臨終に、間に合うように来てくれたか。しかしピストルとは無風流な……",
"おお、古神行基か",
"そう……今気がついたのか。ひっひっひっひっ",
"君はまだ生きていたのか",
"……設計どおり人は揃った。カズという名の女人、こっちへお入り……",
"入っちゃいけない"
],
[
"ひっひっひっ。帆村荘六、何をいうか。……あっ、もう迎えだ。地獄へのお迎え……吸血鬼がひとり消える。さらば……",
"あなた!"
]
] | 底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「ロック 増刊 探偵小説傑作選」
1947(昭和22)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003053",
"作品名": "千早館の迷路",
"作品名読み": "ちはやかんのめいろ",
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"初出": "「ロック 増刊 探偵小説傑作選」1947(昭和22)年8月",
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[
[
"やあ、すごい、すごい",
"すごいねえ、戸山君。やっぱり、塔はくずれているよ。ほら建物もあんなに大穴があいているよ",
"ほんとだ。あのとき、塔も建物も、火の柱に包まれてしまったからね、もっとひどくやられたんだろうと思ったが、ここまで来てみると、それほどでもないね",
"いや、かなりひどく破壊しているよ。塔なんか、半分ぐらい、どこかへとんじまっているよ。それに建物が、めちゃめちゃだ。ほら、こっちがわにも大穴があいているよ。落雷と同時に、中で爆発をおこしたものかもしれない",
"中に住んでいる人は、どうしたろうね",
"どうなったかなあ、塔や建物がこんなにひどく破壊しているんだから、中に住んでいた人たちは、もちろん死んじまったろう",
"死んじまったって。そんならたいへんだ。みんなで中へはいって、調べてみようじゃないか。そして、もしかしてだれか生きていたら、その人はきっと重傷をしているよ。ぼくたちの手で、すぐ手あてをしてやろうよ",
"うん。それがいい。じゃあ、あの建物の中にはいってみよう",
"よし。さあ行こう"
],
[
"あっ、たいへんだ。中が、めちゃめちゃにこわれているよ",
"どうしたんだろうねえ。この建物は、なにをするところなの",
"なんとか研究所というんだから、なにか研究をするんだろう",
"ここは、有名な谷博士の人造生物研究所だよ。ぼくはおとうさんから聞いて知っているんだ"
],
[
"あ、人がたおれている",
"ええッ",
"あそこだよ。白い実験着を着ている人が、たおれているじゃないか。壁のきわだよ",
"ああ、たおれている"
],
[
"あ、生きかえったらしいぞ",
"さあ、葡萄酒の番だ",
"よし、ぼくが、のませてやる"
],
[
"目が見えない? そうです。今は目が見えない。さっき実験をやっているとき、目をやられて、見えなくなったのです。困った。まったく困った",
"おじさんはだれですか",
"私はこの研究所の主人で、谷です。君たちは少年らしいが、どうしてここへ来ましたか。いや、それよりも、もっと早く知りたい重大なことがある。この部屋は、どうなっていますか。器械や実験台などは、ちゃんとしていますか"
],
[
"えッ。ガラス箱なんか、どこにも見えませんか。ガラスの皿もですか。その皿の上にのっていた灰色のぶよぶよした海綿のようなものも見えませんか。よく探してみてください。そのぶよぶよした海綿みたいなものを、どうか見つけてください。それが見つからないと、ああ、たいへんなことになってしまう",
"そんなものは、どこにも見えませんよ",
"ほんとですか。ああ、目が見えたら、もっとよく探すのだが……",
"そのぶよぶよした海綿みたいなものというのは、いったいなんですか",
"それは……それは、私が研究してこしらえた、ある大切な標本なのです",
"標本ですか",
"そうです。その標本は、生きているはずなんだが、ひょっとすると、死んでしまったかもしれない",
"動物ですか",
"さあ、動物といった方がいいかどうか――"
],
[
"この機械人間はおじさんがこしらえたのですか。おじさんはえらい技術者なんですね",
"おお、君。わしのため力を貸してくれんか"
],
[
"ああ、いいです。ぼくたち、よろこんでおじさんのために働いていいですよ。そのかわり、あとで、もっとくわしく機械人間の話をしてください。そしてぼくたちにも、機械人間を貸してください",
"それは、わけないことじゃが――ああ、今はそれどころではない。ただ今、わしの目の前においてふしぎなことが起こっている。そのふしぎの正体を急いでつきとめなくてはならない。君――なんという名まえかね、少年君",
"ぼくは、戸山です",
"おお、戸山君か。戸山君、わしを機械人間の制御台のところへ早くつれていってくれ。おねがいする",
"いいですとも。その制御台というものは、どこにあるのですか",
"この部屋の……この部屋の階段の右手に、奥にひっこんだ戸棚がある。そのまん中あたりに立っている横幅二メートル、高さも二メートルの機械で、正面のパネルは藍色に塗ってある。それが制御台だ",
"ああ、それは、めちゃめちゃにこわれています。まん中と、そのすこし上とに、砲弾がぶつかったほどの大穴があいて、内部の部品や配線がめちゃくちゃになっているのが見えます。あんなにこわれていてはとても働きませんね",
"うーん、それはたいへんだ。だれがこわしたのかしら。するといよいよおかしいぞ。機械人間は、ひとりで上に動きだすはずはないのだ。いや、待てよ。地階の倉庫に、古い型の制御台が一つしまってあった。あれをだれかが使って、機械人間をあやつっているのかな",
"それなら地階へいってみましょうか",
"おお。すぐつれていってくれたまえ。ここから見えるはずの階段のわきから、地階へおりる階段があるから、それをおりるんだ",
"はい。分かりました。おい羽黒君、井上君。手を貸してくれ。おじさんを両方から支えてあげるのだ。……おお、よし。おじさん、さあ歩いてください",
"ありがとう"
],
[
"おじさん。あの機械人間が、ぼくたちのうしろからついて来ますよ",
"うーむ、ふしぎだ。今まで、あれはどこにどうしていたのかしらん",
"ぼくらの前に立って、おじさんの話をじっと聞いていたようですよ",
"なに、わたしたちの話を聞いていたというのか、あの機械人間が……"
],
[
"おお、それじゃ、で、どうじゃな、機械はこわれているかね",
"べつにこわれているようにも見えません",
"機械は動いているのかね",
"さあ、どうでしょう。機械が動いているかどうか、どこで見わけるのですか",
"パネルに赤い監視灯がついていれば、機械に電気がはいっているのだ。それから計器の針を見て――",
"ちょっと待ってください。監視灯は消えています",
"消えているか。機械の中に、どこかに電灯がついていないかね",
"なんにもついていません。この機械に電気は来てないようですよ。あ! そのはずです。電源の線がはずされています",
"ふーん。それではこの旧式の制御台も動いていないのだ。待てよ、わしが来る前に、スイッチを切ったのかもしれん。君、戸山君。パネルに手をあててごらん。あたたかいかね、つめたいかね",
"つめたいですよ。氷のように冷えています",
"え、つめたいか。するとこのところ、この制御台を使わなかったのだ。はてな。するといよいよわけが分からなくなったぞ。これはひょっとしたら……"
],
[
"君たちは、気をつけなくてはならない。もしも何か怪しいことを見たら、すぐわしに知らせるのだよ。だが……だが、まさか、まさか……",
"なにをいっているのか、さっぱり分からない。おもしろくない。ほかの場所へいってみよう"
],
[
"え、なんといった。今、ものをいったのはだれだ",
"私だ。なにか用かね",
"君はだれだ",
"私かい。私は私だが、私はいったい何者だろうかね。とにかくあっちへ行こう"
],
[
"だれだい、君は。ちょっと待ちたまえ",
"おじさん。今おじさんと話をしていたのは機械人間ですよ。奥の方へ行ってしまいました"
],
[
"一生けんめいに、機械や何かを見ていますよ。あッ、箱を見つけました。たいへんだ。ダイナマイトと書いてある箱ですよ",
"ううむ。とうとう見つけたか。困った。手あらくあつかわないようにしてもらいたいものだが、……あッ、そうだ。さっきのふるい制御台を使って、あの機械人間を取りおさえてしまわねばならない。戸山君たち、さっき調べた旧式の制御台のところへ、もう一度わしを連れていってくれたまえ"
],
[
"計器を見てくれたまえ。一番上に並んでいる計器の右から三番めの四角い箱型の計器を見てくれたまえ。その針は、どこを指しているか",
"百五十あたりを指していますよ",
"百五十か。すると百五十ワットだ。これだけ出力があるなら、十分に機械人間を制御できる。さあ、見ておれ。おい君、今わしが仕事をはじめる。君たちは、機械人間のところへ行って、あいつがどうなるか、見ていてくれ。あいつが、しずかに立ちどまって、死んだように動かなくなるはずだ。そうなったら、すぐわしに報告してくれ。よいか"
],
[
"さっきから、からだの中が、もぞもぞとこそばゆくてならないと思ったら、君がこの旧式の制御器で、制御電波を出しているんだね",
"だれだ。そういう君は何者だ",
"私だよ。さっきも君が聞いてくれたね。わけのわからない私だよ。この足音を聞いたら、分かるだろう"
],
[
"よしてくれ。人間でもない、へんな恰好をした鉄の化物のくせに、人間さまのやったことにけちをつけるなんて、なまいきだぞ",
"そうだ、そうだ。分かりもしないくせに、なまいきなことをいうな。さあ、出て行け"
],
[
"私のいうことは正しい。うそと思うなら、私について来なさい。私は、ダム建設の失敗箇所へダイナマイトをあててみる。それでこのダムがひっくりかえったら、私のいったことは正しいのだ。来たまえ、諸君",
"きさまは化物であるうえに、気も変になっているんだな。いったいだれがこの機械人間をあやつっているのだろう",
"早く来たまえ。このダムはかんたんにくずされるのだ",
"はははは。何をいうんだ。おどかすな。見に行ってやることはないよ",
"ちょっと大池君。あの化物が手に持っている箱には、ダイナマイトと書いてあるぜ。本物のダイナマイトを持っているんなら、たいへんだぜ",
"なあに、よしや本物のダイナマイトであろうとも、ダムがひっくりかえるなんてことはないさ。とにかくあの化物を遠くへ追いはらう必要がある――"
],
[
"あッ、たいへんだ。早く、ふもとの村へ危険を知らせるんだ",
"どこへ一番はじめに、電話をかけますか",
"どこでも早くかけろ",
"じゃあ、第二発電所を呼びだしますか",
"だめだ。もうあのおそろしい水は、第二発電所へぶつかって、おしつぶしているだろう。南無阿弥陀仏だ。もっと下へ電話で危険をしらせろ",
"じゃあ、どこへかけりゃいいんですか。はっきりいってください",
"おれはよく考えられないんだ。君、いいように考えて電話をかけてくれ",
"困ったなあ",
"あッ、だれか鐘をならしているぞ。そうだ。のろしをあげろ",
"もしもし、ここも危険ですよ。水に洗われて、土台にひびがはいって来ました。ぐずぐずしていると、家もろとも洪水の中に落ちこみます。早くにげなさい。早く、早く",
"ええッ、ほんとかい。それはたいへんだ",
"おーい、おまえさんもにげなさい。命をおとしてもいいのかい",
"にげるけれど、猫がいないから探しているんだ"
],
[
"あ、あいつだ。あいつが、この大椿事をおこしたんだ。あいつを捕えろ",
"警察へ電話をかけて、犯人がここにいるからといって、早く知らせるんだ",
"だめだよ。電話どころか、庁舎も下の方へ流れていってしまった",
"おお、そうだったな。それじゃあ、みんなであの怪しいやつを追いかけよう。棒でもなんでもいいから、護身用の何かを持ってあいつを追いかけるんだ",
"よしきた。おれが叩きのめしてやる"
],
[
"ああこわかった。あれは、ただの人間じゃないじゃないか。すごい化物だ",
"もうすこしで、おれは腰をぬかすところだった。おどろいたね、みそ樽ほどもある岩を、まるでまりをなげるように、おれたちになげつけるんだからなあ。おそろしい大力だ。あんなものがあたりや、こっちのからだは、いちごをつぶしたように、おしまいになる",
"なんだい、あの化物の正体は",
"さあ、なんだろうなあ。まっ黒だから、お不動さまの生まれかわりのようだが、お不動さまなら、まさか人間を殺そうとはなさるまい。あれは黒い鬼のようなものだ",
"黒鬼か。赤鬼や青鬼の話は聞いたことがあるが、黒鬼にお目にかかったのは、今がはじめてだ。しかし、待てよ。鬼にしては、あいつは角が生えていなかったようだぞ",
"いや、生えていたよ、たしかに……"
],
[
"いや、だめだとはきまっておらん。今の療法をもうすこしつづけたい。それが、効果がないとはっきり分かったら、また別の方法でやってみる",
"いよいよ目がだめなら、ぼくは人工眼をいれてみるつもりだ",
"人工眼か? 君の発明したものだね。まあ、それはずっと後のことにしてくれ。君はぼくの病院の患者なんだから、よけいな気をつかわないで、ぼくたちに治療をまかしておいてくれるといい",
"うん、それは分かっているんだ"
],
[
"もう例の事件がおこってから十三日めになるが、犯人はつかまったかね",
"いえ、まだです",
"いま、どこにいるんだか、分かっているの",
"国境あたりまでは、追っていったんですが、そこで見うしなって、そのあと、どこへ行ったか、あの怪しい機械人間の行方は分からないのだそうです",
"それは困ったな。すると、ゆだんはならないぞ",
"ぼくたちも、なんとかしてあの怪物をつかまえたいと思って、五人集まって探偵をしているんですが、まだなんの手がかりもないです",
"それはけっこうなことだが、諸君はあの怪物とたたかうのはやめなさい。たいへん危険だからね",
"危険はかくごしています。とにかくあんな悪いやつは、そのままにしておけませんからねえ",
"だが、君たちは、とてもあの怪物とは太刀うちができないだろう。いや、君たち少年ばかりではない。どんなかしこい大人でも、あれには手こずるだろう。もしもわしの予感があたっていれば、あれは、超人間なんだ。超人間、つまり人間よりもずっとかしこい生物なのだ。わしは、あれのために、ひそかに名まえを用意しておいた。“超人間X号”というのがその名まえだ。超人間だから、君たちがいく人かかっていっても、あべこべにやっつけられる。だから、手をひいたがいい"
],
[
"君は、さっきこの死刑囚のそばへ行ったのか。いや、まだぼくが、死刑囚の足の台をひかない前のことだ",
"いいえ。私は上の準備をすると、ここへおりまして、今までずっとここにいました",
"ええッ。ずっと君はここにいたのか"
],
[
"そうでした。頭のいやにでっかいやつの影でした。私は、地獄から、閻魔の使者として大入道が迎えに来たのかと思いました",
"ははは、なにをいうですか、おどかしっこなしですよ"
],
[
"あのすごい塔は、どうしたんだね",
"へえ、あれは谷博士さまの研究所でございましたがね。なんでも雷さまを塔の上へ呼ぶちゅう無茶な実験をなさっているうちに、ほんとに雷さまががらがらぴしゃんと落ちて、天にとどくような火柱が立ちましたでな、それをまあ、ようやく消しとめて、あれだけ塔の形が残ったでがす。博士さまの方は、目が見えなくなって、それから後はどうなったことやら。おっ死んでしまったといううわさもあるが、いやはやとんでもねえことで、そもそも雷さまなんかにかかりあうのが、まちがいのもとでがす"
],
[
"だんな、ほんとうですかい。ほんとに人間があの塔の中にいますか",
"いるとも。ちゃんと見える",
"はて、何者かしらん。このあたりの衆はだれひとり近づかないはず。だんな、その人はどんな姿をしていますか",
"ちゃんと服を着ているよ。頭のところに白い布で鉢巻きをしている。鉢巻きではなくて繃帯かもしれんが……。ちょいと君、これで見てごらん"
],
[
"やあ、あれは谷博士さまだ。博士さまは、ご無事だったのけえ",
"幽霊かもしれんよ",
"待った、だんな。このお山の中で幽霊なんていっちゃならねえ。お山が、けがれますからね",
"でも、君が塔の中の人を見て、あまりふしぎがっているからさ",
"いや、博士さまにまちがいはねえ。これは土産ばなしができたわ"
],
[
"博士さまは、これからどうするつもりかの",
"金になるものは売って金にかえ、三角岳から引きあげるのじゃなかろうか。あんなにこわれては、直しようもないからねえ",
"もう、それに、こんどというこんどは、雷さまの天罰にこりなさったろう"
],
[
"まあまあ、博士さま、なにをおっしゃいます。そんなごていねいな挨拶じゃ、みんなおそれいります。あのときは大してお役にもたてず、すみませんでした",
"いや、それどころじゃない。えらいことみなさんにごめいわくをかけました。ところでこんどわしは雷を使う研究はぷっつりやめて、あの研究所からべんりな機械を製造しますわい。そこで職工さんを二十名と雑役さんを十名雇いたいのじゃ。給料は思いきって出しますから、希望の人は、どんどんわしのところへ申しでてくだされ。その製造事業がさかんになると、しぜんこのへんの村々へも大きな金が流れこむことになりますわい。ぜひとも力を貸してくだされや"
],
[
"おお、そのことだ。……いや、心配をかけたが、わしの目も今はすっかり直って、よく見えるようになった。安心してください",
"それはけっこうなこと。目が不自由だと、一番つらいからの",
"そうじゃ、そうじゃ"
],
[
"博士さまの、その頭の鉢巻きは、どうしたのけえ",
"作十よ。おまえ、ものを知らねえな。博士さまが頭に巻いているのは鉢巻きではない。あれは繃帯ちゅうものだ",
"繃帯ぐらい、わしは知っているよ。繃帯のことを略して鉢巻きというんじゃ",
"強情だの、おまえは",
"博士さま、その頭の繃帯は、どうしなすったのじゃ"
],
[
"この繃帯は、じつは悪性の腫物ができたので、そこへ膏薬をつけて、この繃帯で巻いているのです。悪いおできのことだから、いつまでも直らなくて、わしも困っていますわい",
"そんなところへできるできものは、ほんとにたちがよくないから、くれぐれも気をつけなされや。そうだ。ふもと村の慈行院へいって、お灸をすえてもらうと、きっと直る",
"うんにゃ、それよりも鎮守さまのうしろに住んでいる巫女の大多羅尊さまに頼んで、博士さまについている神様をよびだして、その神様に“早う、おできを直すよう、とりはからえ”と頼んでもらう方が、仕事が早いよ",
"いや、みなさんのご親切はうれしいが、わしは十分の手あてをしているから、ご心配はいらん。それでは、雇人のことを頼みまするぞ"
],
[
"わしは職工の仕事なんか、生まれてはじめてじゃが、それでも雇ってくれるかな",
"わしも職工というがらではないが、ええのかね",
"いや、けっこう。みなさん、けっこう。みんな雇います"
],
[
"うれしいなあ。わしは、こんなりっぱな機械を使いこなせるようになった",
"わしもうれしいよ。とにかくふしぎな気がする。わしは生まれつき不器用で、死んだ父親からさんざんと叱られたもんじゃったがのう",
"なんだかしらんが、なにかがわしにのりうつって、うまく作業をこなしていってくれるような気がしてならん。わしの力だけとは、どうしても思われんな",
"おれも、そういう気がする",
"ばかをいえ。そんなことがあってたまるか。やっぱりおれたちの技術者としての腕があったんだ"
],
[
"すると、谷博士の研究所あとで、だれかあんな工場をはじめたと見えるね",
"博士は知っていられるのだろうか",
"さあ、知らないだろうね。もっとも、知らせるといっても、博士はあれ以来、ずっと面会謝絶で、意識がはっきりしないということだから、知らせようがないわけだね",
"だれが経営しているんだろうか。まさか、例の機械人間の形をした怪物がやっているのではなかろうか",
"そんなことはないだろう。だって、もしそんなことがあったら、大評判になるから、東京へもすぐ知れるよ",
"とにかく、あの研究所を利用することを考えたところは、なかなか頭がいいや"
],
[
"あ、あそこに谷博士がいるよ",
"どこに。ああ、あれか。なるほど、谷博士さんそっくりだ。しかしおかしいぞ。博士は重病なんだから、こんなところにいるわけはない。だれかにたずねてみよう"
],
[
"谷博士は、わしです",
"いいえ、あなたではない",
"わしが自分で谷だといっているのに、なにをうたがいますか",
"それなら申しますが、谷博士は、目をわるくして、今も病院で目を繃帯し、まったくなにも見えないのです。あなたは、谷博士に似ているが、目はよくお見えになるようです。すると、あなたはほんとうの谷博士ではないということになりますねえ",
"あっはっはっは。なにをいうか、君たち。なにも知らないくせに。まあ、こっちへ来たまえ",
"いやです。おい、みんな早く、外へ出よう"
],
[
"たいへんです。大事件なんですから。東京の警視庁へ電話をかけてください",
"だめだねえ。この電話は、一週間まえから故障で、どこへも通じないんじゃよ",
"ちぇッ。しょうがないなあ"
],
[
"どうしたんですか。まにあわなかったとは",
"というわけは、きのうの真夜中のことだが、雷鳴の最中に柿ガ岡病院に怪人がしのびこんで、谷博士の病室をうちやぶり、博士を連れて、逃げてしまったのだ。追いかけたが、姿を見うしなったそうだ。こっちは、その報告をうけて、すぐに手配をしたが、今もって犯人もつかまらなければ、谷博士も発見されない。困ったことになってしまったよ"
],
[
"ややッ、君は死刑囚の火辻軍平だな",
"正確にいうと、それはちがうんだがね"
],
[
"火辻のからだを借りている者さ。よくおぼえておくがいい。わしはX号だよ。谷博士がわしを作ったのだ。超人間のX号さ。うわははは",
"ええッ、X号は君か",
"おどろいたか。よく顔を見て、おぼえておくがいい",
"うぬ。そのうちにきっと君を捕縛してみせるぞ",
"それは成功しないから、よしたがいい。とにかく、それでは早く仕事にかかろう。君とはもう口をきかないことにする",
"早く、私のからだを自由にせよ。君には、私を捕らえる権限がないじゃないか",
"そのうちに、君を自由にしてやるよ。当分ここにいて、わしの仕事に協力してもらうのだ",
"いやだ。X号の仕事のお手つだいをさせられてたまるものか",
"吠えるのはよしたほうがいいよ。わしは、だれがなんといおうと、計画したことはやりとげるのだ"
],
[
"よう、みごとだ、みごとだ。もしもしお嬢さん。わしの話が分かるでしょう",
"なにが、お嬢さんだ。私は山形警部だ"
],
[
"えッ、同情していてくださいますか。ありがたいです。氷室検事。あなたのほかにはだれもわしを山形警部だと思ってくれないのです",
"えッ、なんだと"
],
[
"たしかですとも、それから、今この女のひとが話したところによると、その研究所の最地階には、三人の人がいたことが分かります。その三人とは、この女の人と、例の死刑囚火辻に似た怪人、それからもう一人は、目に繃帯をした谷博士だと、この人はいっているのです。ああ、谷博士は、怪人のために病院から連れだされ、研究所の最地階に幽閉され、どんなに苦しめられていることでしょうか。博士が責めころされないまえに、一刻も早く救いだしてください。もちろんぼくたちも一生けんめいお手つだいいたします",
"戸山君のいったとおりです。谷博士を早く助けてください"
],
[
"谷博士、ここに来られた皆さんも、ぜひ先生を無事にお救いしなくてはならないと、危険をおかして来られたのです。こちらが氷室検事です",
"やあ、氷室さんですか。ご苦労さまです。あつくお礼を申します"
],
[
"ありがとう、目はすっかりなおったよ。もうよく見えるようになった。わしはうれしくてならない",
"それはよかったですね。おからだの方も、病院にいられたときとちがい、ずっと、お元気に見えますが……",
"はははは、わしの家へもどって来たから、元気になったんだね。やっぱり自分の家が一番くすりだ",
"ああ、そうですか"
],
[
"おお、そのことじゃ。わしは、諸君につつしんで報告する。あの怪物は、わしの手でもってしとめたよ",
"しとめたとおっしゃるのですか。すると博士が怪人をとりおさえたといわれるのですか"
],
[
"怪人はどこにいるのですか",
"冷蔵室の中においてある。この部屋だ。今開ける"
],
[
"そのX号の電臓とやらは、どうしたんですか",
"うむ、それこそおそるべきものなのだ。わしはX号を高圧電気によって殺した。そして今は死んでしまったX号の電臓はここにしまってある"
],
[
"これが、氷室君たちを悩ませ、わしを苦しめた恐るべきX号の死体なんじゃ。もうこれで諸君も天下の人々も安心してよいのじゃ",
"ふーん、これがあのおそろしい力を持っていたX号の電臓ですか"
],
[
"これで安心していいわけかな",
"どうだかなあ"
],
[
"ねえ、谷博士は、いやにあやまっているじゃないか。あんなこと、あやまらないでもいいと思うんだがなあ",
"谷博士は、目があいてから、人がらがかわってしまったね。目が見えないときは、もっと気むずかしい人だったがね",
"目の見えていた人間が、急に目が見えなくなると、あんなにいらいらするものだ。その反対に、目があくと、たいへん朗らかになる。心持ちがゆったりとするんだよ",
"そうかしら。でもぼくは、あの気むずかしい博士の方に親しみが持てる",
"それはそうだ。どういうわけだろう",
"どういうわけだろうかねえ"
],
[
"なぜです。それはなぜですか、私をこんな姿にしたのは、博士、あなたじゃありませんか",
"わしではない。X号がやったのです",
"でも、あなたが指導しました。あなたが手術のやりかたをX号に教えなければ、私はこんなからだにかえられなくてすんだのです",
"わしは、X号に強いられた。そしてX号はわしの脳の働きを盗んだ。憎いやつだ",
"だから、博士、あなたは、私をもとのからだに直すことができるのです。私のもとのからだは、あの冷蔵室にちゃんとそのままになって保存されています。さあ、早く、あのもとのからだへ私の脳髄を移しかえてください。博士、お願いします。私は、こんな女の子のからだで、これ以上生きていられません"
],
[
"もう研究所の塔が見えていいはずなんだが、さっぱり見えやしないよ。いったい、どっちへ行ったら三角岳の研究所へ出られるんだか、どうしたら知れるだろうね",
"さあ、分からないねえ"
],
[
"だれかが、ぼくたちに話しかけたじゃないか。だれだろう。どこにいるんだろう",
"ぼくも声は聞いたが、あたりには、ぼくたち二人きりで、ほかにだれもいないじゃないか",
"じゃあ、気のせいかな。だれかに道を教えてもらいたいと思うものだから、村の人の声が聞こえたように思ったのかしらん",
"それにちがいない"
],
[
"もしもし、それなら、あなたがたは道をまちがえていらっしゃいます",
"ははア……"
],
[
"もしもし、あなたがたは、ここから道を八百メートルばかり引きかえすのです。すると地下壕の中にはいります。そこであなたがたは、一階上にあがるのです。そして4と書いてある方向標を見つけ、その方向へどんどん歩いていらっしゃれば、まちがいなく、三角岳研究所の下へでます。お分かりですか",
"どうもありがとう"
],
[
"たははは",
"うふふふふ"
],
[
"この三角岳メトロポリスには、われわれ木のほかに、昆虫、鳥、小さい獣、石などにも、人間と同じように考えたり、お話をうけたまわったり、ご返事できる者が、たくさんいるのですよ",
"ふしぎだ。それはいったい何のためです",
"生化学の研究が、生命と思考力を持った電臓を作りあげることに成功したのです。これによって、あらゆる物品は、生命と思考力を持つことができるのです。谷博士のすばらしい研究です。こうして種あかしをしてしまえば、ふしぎでもなんでもありませんでしょう。ねえ、学生さん",
"ありがとう。では、お別かれします"
],
[
"だんだん化けもの村になるよ。困ったことだ",
"気がいらいらして来てたまらない。昔の村はのんきでよかったね"
],
[
"あッ、おそろしい。ぼくは、もう見ていられないよ",
"なぜだろう。なぜあんなことをされているのだろう。だれが谷博士を、あんな目にあわせているのだろう"
],
[
"はい、もう部屋にかえって寝たと思いますが、見てまいりましょうか",
"きょうはおそいから、もういいよ。しかしあの五人の行動にはちょっとふにおちないところもある。あすからあの部屋に、電臓をしかけて、その行動をいちいち報告させるようにしてくれ",
"はい。かしこまりました。何にしかけましょうか",
"テーブルか、壁か、そうだ。壁がよかろう。むかしから壁に耳あり、というからな。はっはっは"
],
[
"おい、着物をくれ",
"はい……"
],
[
"サルはどうしている。食物はよく食べているかね",
"はい。どうしておれを、こんな檻の中へ入れるんだ、などといって、大あばれにあばれておりますが、大丈夫ですよ。くたびれて寝てしまったようです"
],
[
"では、あすの準備はよろしくたのむ",
"承知しました",
"それでは寝てよろしい",
"お休みなさい"
],
[
"戸山君、いったい博士はどうしたのだろうね。どんな悪者のために、あんな目にあわされているのか知れないが、みんなで助けに行こうじゃないか",
"うん……"
],
[
"戸山君、どうしたんだい。早く行こうよ",
"君たち、これはたいへんな話だよ。ちょっとあわてずに待ちたまえ。いったいあれはほんとうの谷博士かしら",
"そんなこと、あたりまえじゃないか。谷博士でなかったら、だれだというんだい",
"もしかしたら、……X号が博士のからだの中にしのびこんで……"
],
[
"どうして……どうして、そんなことがわかる",
"だって、君、ふつうの人間なら、百万ボルトの電流を頭にかけられたら、一分一秒でも、生きていられるわけがないじゃないか。それだのに、博士はにやにや笑っている。ほんとうの博士なら、どんなに不死身だって……"
],
[
"そんなことができるくらいなら、X号が谷博士を殺して、その屍体の中へはいりこみ、われわれの目をごまかすことも、ちっともむずかしいことはないだろう。そうだよ。きっとそれにちがいないとも。それだから、ああして百万ボルトの電流をあびても、平気で生きていられるんだよ",
"そうかも知れないね。だけど、それではぼくたちは、どうすればいいんだい",
"X号というのは、どんなことを考えているのか。ぼくたちにはまだよく分らない。だが、こうしてこのあたりが、まるでお化けばかり住んでいるような、ふしぎな国になっているのは、X号が何かをたくらんでいることをものがたっている。これはこのままにはしておけないよ",
"それではどうすればいいんだね",
"なんとかして、X号の秘密を探りだして、みなに報告するんだ",
"どうして探るんだい",
"うーむ。それはね……"
],
[
"どうしたのか、実験室の戸は開いているし、中にはだれの姿も見えない。しかし、たしかに博士はあの部屋から出たはずはないから、どこか秘密の抜け穴がつくってあるにちがいないよ。みんなでその秘密をさぐろうじゃないか",
"うん、ではみんなで行ってみようよ"
],
[
"いや、きっとどこかに、秘密の抜け穴があるんだよ",
"でも、それなら、なんだよ。壁なり床のどこかに接ぎ目がありそうなもんじゃないか。このとおり、床は厚いコンクリートだし、壁もそのとおり、探すだけ、むだだぜ",
"そんなのあたりまえの考えかたさ。ここの建物は、まるで化物屋敷だから、どこにどんなかくし戸や抜け道があるかも知れないよ"
],
[
"ちぇッ、残念だなあ。どこかにあるにはちがいないんだがなあ。むかしのアラビアンナイトというおとぎばなしなら、こうして立って壁へ向かって、何か呪文をとなえると、大きな岩が動きだして、宝のかくし場所への道がひらくんだぜ",
"どんなふうにするんだい。やってごらんよ",
"あの呪文はなんといったっけな。そうそう、たしかひらけゴマと叫ぶんだよ……",
"あッ、戸山君、壁が、……壁が動きだしたよ……"
],
[
"これだ。これだったんだ。あの物語と同じようにひらけゴマといえば、秘密の通路への入口がひらくんだよ",
"じゃあ、どうする",
"このままにしちゃおけないよ。いったんこうして入口が見つかった以上、最後の最後まで博士の秘密を見やぶってやろうじゃないか",
"よし、では行って見よう"
],
[
"戸山君、これはだめだよ。きっとちがうところへはいったんだ。このとおり、中には何もないじゃないか。出ようよ",
"いや、きっとここには何かあるはずだ"
],
[
"この部屋はだめだね。何もないよ",
"それでは別な部屋を探そうや"
],
[
"どうしてなんだい",
"だって、博士がエレベーターへ乗って、上へあがってしまったろう。そして博士が実験室へ出てしまったら、エレベーターは上へあがりきりになるんだから、ぼくたちは帰るわけには行かないじゃないか"
],
[
"こまったな",
"みんなどうする"
],
[
"戸山君が、あんまりむちゃなことをやりだすから、こんなことになるんだよ",
"そんなことをいったって、いまさらどうにもしようがないよ。ここまでせっかく来たんだから、博士の出てきた部屋には何があるか、まずそれから探ることにしようじゃないか。そのうちには、また名案も浮かぶだろう"
],
[
"おや、へんだね。サルが泣くなんてことがあるのかしら",
"きっと、目にごみか何かが、はいったんだよ",
"しかし、博士はこの部屋で、サルを相手に、いったい何をしていたんだろう"
],
[
"おや、だれか、ほくの名まえを呼んだかね",
"だれも呼ばないよ",
"へんだね。気のせいかしら",
"戸山君、ぼくだよ。ぼくが分からないかね"
],
[
"早くここから出してくれ。そうしないと、たいへんなことがはじまるんだ。早く、早く、この檻を開けてくれ",
"あなたはいったいだれなのですか"
],
[
"よく分かりました。だけど、この檻はどうしてあけたらいいのです",
"となりの部屋に、鍵がおいてあるはずだから、それをさがして来てくれたまえ"
],
[
"ところで先生、先生はどうしてこんな所にとじこめられたのです",
"それがね、ぼくもゆだんしていたんだ。X号がぼくを病院からさらって逃げたことは、君たちもよく知っているだろう。ところが君たちが、ぼくに化けたX号をにせ者だと見やぶって、この研究所を襲撃したので、X号は火辻軍平のからだにはいっていては危険だと思ったんだね。それでぼくを殺して、ぼくのからだの中へはいりこみ、君たちの目をごまかしたんだ。そしてぼくの脳髄だけを、このサルのからだに移して、あとでまた、役に立てようとしたんだよ",
"すると、となりの部屋にいたサルは……",
"あのサルも、ぼくのからだと同じ、人工のサルだよ。ただむこうは、サルの脳髄しか持っていないし、こちらは人間の脳髄を持っているだけのちがいだよ",
"それでX号は、これからどんなことをやりだそうというのです",
"あいつは恐ろしいやつなんだ。智恵の力はふつうの人間とは、くらべものにならないくらいすぐれているが、感情だの、道徳だのというものは少しも持ってはいないんだ。あまり自分の力がすぐれているんで、あいつはこのごろでは、少し増長して来たらしく、地球上の人類を全部殺してしまって、自分らがそのかわりにとってかわろうとしているんだ",
"そんな恐ろしいことが、ほんとうにできるんですか"
],
[
"できる。X号にならできるとも。君たちは、この地下室をなんだと思うかね",
"さあ、ぼくたちには、よく分かりません"
],
[
"べつに……何も……",
"早く、自分の部屋にかえりたまえ。こんなところでうろうろしているところを、博士に見られたらたいへんだ。みんな殺されてしまうよ"
],
[
"そんなばかな……そんなはずは……だがいったいそれはほんとうですか",
"ほんとうだったら、どうするんだ",
"そういえば、声もたしかに先生の……これは失礼いたしました。ずいぶん先生を、おさがししていたんですがね。まさか、こんなところにおられるとは気がつきませんでしたから。先生、X号の陰謀をごぞんじですか。地球上の人類を絶滅させて、自分らがそのかわりにとってかわろうという………",
"知っている。知っているとも。X号は気が変になってしまったんだ",
"そのとおりです。先生、早くこの檻から出てください。そして先生のお力でなんとかして、このX号を倒してください。さもないと、あとわずかのうちに、とりかえしのできないことになりますから……",
"わかっているよ。君がそんなにいうのなら、ともかくここから出してくれたまえ",
"承知しました"
],
[
"それでは先生、みなさん、こちらへ",
"いったい、君は何者なんだね"
],
[
"えッ、君はすると……",
"しッ、先生、大きな声を出しちゃいけませんよ。この建物の中では、何一つゆだんして物がいえないのですよ"
],
[
"先生、たいへん、たいへんですよ",
"なんだ、うるさい。朝っぱらから、そんな大きな声でさわぎたてては、朝飯がまずくなってしまうじゃないか"
],
[
"でも、先生、これは天下の一大事ですよ。あの五人の少年が、どこかへ姿を消しました",
"なんだと"
],
[
"そればかりではありません。実験室の二つ向こうの部屋から実験室の中がうつるような、望遠装置がしかけてありました。きっとあいつらのしわざにちがいありません",
"ちくしょう"
],
[
"見張りはなにをしているんだ。この建物から夜のあいだに出はいりすれば、かならず電波探知機で、非常警戒のベルが鳴るはずなのに、機械は故障でも起こったのか",
"いいえ、機械にも何も異状はありませんし、見張りの機械人間も、だれの姿も見うけなかったと申しております。窓も戸口も内がわから鍵がかかっていて、逃げだした形跡はどこにも残っておりません",
"よーし、それではあいつらは、まだこの研究所からは逃げだしていないな。きっとわしの姿を見てこわくなって、どこかへかくれて、青くなって、がたがた震えているのにちがいあるまい。そんなスパイを生かしてかえしては、せっかくのわしの計画も水の泡だ。研究所の中を隅から隅まで、捜索して、あいつらの居所を探しだせ"
],
[
"Z16号報告。実験室から地下工場へ通ずるエレベーターの報告によりますと、ゆうべおそく、五人の子供は、地下十六階へおりたそうであります。ただしその後あがって来た形跡はありません。報告おわり",
"さては、あいつら、わしのあとをば、つけおったな。どうするかおぼえておれ"
],
[
"Z27号、おまえはいまどこにいる",
"はい、地下十二階におります"
],
[
"地下十六階から、なんとも返事がないんだが、どうしているのか、おまえ行ってしらべてくれ。ゆうべ、五人の少年が、しのびこんだような形跡があるが、谷博士と連絡をとられたら一大事だからな",
"はい、行ってまいります"
],
[
"おかしいな。この階で鍵のかかっている所はないか",
"サルの部屋に鍵がかかっていて、その鍵がどうしたのか見えません",
"ははあ、分かった。あいつらはその部屋へ逃げこんで、中から鍵をかけおったな。みんなこの扉を叩きこわせ",
"はい"
],
[
"そんな手で、わしをだまそうとしたって、ききめはないぞ。さあ、小僧たちに何をおしえた",
"キャーッ、ウォーッ"
],
[
"毒ガス注入終りました",
"よし、それではすぐに圧縮空気を吹きこんで、毒ガスを追いだせ",
"はい"
],
[
"それでは火焔放射器で、この扉を焼ききれ",
"はい"
],
[
"それはいったいどうするのです",
"恐ろしい方法だが、いまここではいえない。それよりもまず、一刻も早く、外部に連絡をとろう。山形君、短波放送で、警察に連絡をしてくれたまえ",
"はい"
],
[
"先生、たいへん、たいへんですよ。倒れていた機械人間が、また動きだしました",
"そんなばかな……"
],
[
"どうしてです",
"いまの爆風と破片で、こちらの操縦装置がこわれてしまったんだよ。もうこちらからはなんの電波も送れないんだから、機械人間の活動を妨害する方法はないんだ。いまに毒ガスでも使われたら、こちらには防ぐ方法がない。早く山形君が、発電装置をこわしてくれないかぎり、戦いはこちらの負けだよ"
],
[
"山形君、どうしたんだね",
"先生、だめなんですよ。発電室の前には、何十人という機械人間が、火焔放射器を持って立っていて、めったなことでは近づけません。こちらの戦法を、向こうに横どりされましたよ。それでこうして逃げて来たんです"
],
[
"困ったな。それで君のだいているそのからだは、いったいどうしたんだい",
"どうせ死ぬのなら、こんな女のからだではなく、せめて自分のからだで死にたいと思いましてね。いよいよ玉砕ときまったら、先生に手術してもらいたいと思いまして……"
],
[
"M53号報告。七階全部に、毒ガスの充満おわりました",
"よし、第一機械人間操縦室へ侵入して、敵の屍体を確認、収容せよ。敵は七名。機械人間の中にはいっているはずだ"
],
[
"どうした。屍体は発見できたか",
"それがだめです。ここにいる機械人間は全部味方のものばかり、人間などはどこにもはいっておりません"
],
[
"X号よ。X号よ。わしの声が聞こえるか",
"なんだ、きさまは谷博士だな",
"そうだ。谷だ。X号よ、おまえの野望もこれで完全に破砕されたぞ。おまえのような、感情を持たない生物のために、人類が滅亡させられたりしてたまるものか。おまえの命も、これでもうおしまいだぞ",
"何を世まよいごとをぬかす。わしは無限の生命を持って生まれた。火でも水でも電気でも、わしを殺すわけにはいかないのだぞ",
"そのとおり。だがわしはおまえの生みの親として、おまえを殺す、ただ一つの方法を知っている――",
"それは――",
"原子爆弾で、この研究所の建物といっしょに、おまえのからだをこっぱみじんに吹っとばす。おまえの生命をつかさどる電臓も、原子力の前には、何の力もないのだ",
"ちくしょう"
],
[
"そんなことをしてしまったら、きさまらだって生命はないぞ",
"もとよりそれはかくごのまえだ。X号よ。では永遠におさらばだよ"
],
[
"はい。ご用はなんですか",
"五分以内に、原子爆弾全部と、原料ウラニウムを、二十四階に運びあげろ",
"はい。承知しました",
"よし、あれが手もとにありさえすれば――"
],
[
"ストップ、ストップ、この車をはやくとめるんだ",
"はい"
],
[
"すみません。署長さんが、あまり急げ急げといわれましたし、それにまた、この車が思いがけなくとまりましたので",
"それはそうと、全員総退却だ。何をぐずぐずしているんだ",
"ここまで来て、ひっかえすんですか"
],
[
"ばか。命令だから引っかえせ。たった今、山形警部から、短波放送で連絡があった。あと十分もすれば、原子爆弾の爆発がおこって、あの研究所はこっぱみじんに吹っとぶんだ。おまえたちは、原子爆弾の恐ろしさが分からないか",
"えッ、原子爆弾ですか。それではわれわれもまごまごしていると、原子病にかかるわけですね",
"そうだ。そのとおり。さあ、引っかえそう"
],
[
"おや、あれはなんだ",
"きっとV一号だぜ"
],
[
"それが心配だったら、冷蔵室へ入れておきたまえ",
"この中には、冷蔵室はあるのですか",
"もちろんだよ。この下の二階の中央のM17と書いてある部屋だ",
"ああ、それでやっと安心した。では行って来ましょう"
],
[
"先生、ものすごいスピードですね",
"ああ、あれが富士山ですか"
],
[
"先生、どうしたんですか",
"とまっては、ついらくしやしませんか"
],
[
"先生、千五百メートルですよ",
"よし、では原子爆弾を投下しよう"
],
[
"おまえはだれだ。何者だ――",
"きさまが殺したとばかり思っていたX号だよ。おれの力が分かったか。おれは無限の生命力を持っている。原子爆弾の爆発ぐらいでは、おれのからだはびくともしないぞ",
"それではまだ、おまえは死んでいないのか",
"あたりまえだ。これからきさまにこの復讐をしないうちは、死んだりなどしてたまるものか。おれが全精力をかたむけて作りあげた研究所をこわされ、おれの計画のじゃまをされたうえは、きさまたちは、生かして地上へは帰さないからかくごしろ"
],
[
"先生、先生、たいへんです。たいへんなことが起りましたよ",
"これ以上、たいへんなことが起こるもんか"
],
[
"先生、X号がこの飛行機の中にしのびこんでいますよ",
"えッ、なんだって、それはほんとうかい。どうしてそんなことが分かった――"
],
[
"いま、冷蔵室へ、私のからだを運びこんで出て来たとき、廊下の端を曲った男があったんです。それがなんと――先生にそっくり、あのX号にちがいないんですよ",
"そしてその男はどこへ行った",
"気がつかないように、あとを追いかけましたが、どこにも見えません。X号の恐ろしさはよく私も知っていますから、一人であぶないことをするよりは、こう思って、先生に報告をしに帰って来たんです",
"そうか。よくやってくれた。それならばまだいくらか望みはあるぞ……"
],
[
"あの放送をしてから、この航空船が飛びだすまでには、五六分の時間があったろう。そのあいだに、きっとX号はこの冒険をやってのけたのだよ",
"それではいったいどうすればよいのです",
"X号を倒して、機械の調子を直し、また地上へ帰りつくのだ。きっとどこかでX号が機械の調子を狂わせているのにちがいないのだから、X号を倒しさえすれば、またこの航空船は、思うとおりに動くようになるよ"
],
[
"先生、これはなんですか",
"テレビジョンだよ。この航空船の各部屋には、テレビジョンの送信装置がしかけてあって、どの部屋でいまどんなことが起こっているか、すぐこの操縦室に分かるようになっているんだ。それでX号の場所を探してごらん"
],
[
"いったいなんの部屋なんです",
"第二操縦室だよ。万一、この操縦室がだめになったとき、その部屋から操縦ができるように設計しておいたのだが、二カ所で思い思いに機械を動かしては、このロケットも、変になるのもあたりまえだよ",
"それはどうすればよいでしょう",
"ぼくはここで機械を守っているから、君たちは火焔放射器でX号を攻撃してくれたまえ",
"でもX号は、火焔放射器には抵抗できるのでしょう",
"いや、電臓は殺すことはできないが、皮膚にやけどをさせることはできるのだから、X号もある程度は、力を失うことになる。そのあいだに、向こうの操縦装置を破壊して、このロケットを、思うように動かし、負傷させたX号を、この航空船の中にはいっている小型ロケット機に乗せて発射し、それを原子ロケット砲で粉砕するんだ"
],
[
"やはり、先生のいったとおりだ。X号はどこにもいないよ",
"ほんとうだね。あの紙きれに書いてあったとおり、もとの操縦室をテレビジョンにうつして見ようじゃないか"
],
[
"どうするんだろう",
"ちょっと待ってみよう"
],
[
"先生、それはほんとうですか",
"ほんとうだとも、うそだと思うなら、これを見たまえ"
],
[
"時限爆弾だよ。あと五分で爆発する",
"さあ、それはたいへんだ。先生、助けてください。みんな、早く逃げだそうじゃないか"
],
[
"先生、それそこに、先生のからだにはいりこんだX号が……",
"なんだと……"
],
[
"それみんな、ふたをしめろ",
"それ"
],
[
"ああ、戸山君か。ここはどこだね",
"先生、大丈夫ですか。ここは地上二万五千メートルの高空、宇宙航空船の中ですよ",
"ああ、そうだった。頭がずきずきいたんで仕方がないが、X号はどこにいるんだ",
"一階の最後部の部屋の穴の中へ、おとしこみました"
],
[
"しめた。それでX号もこんどこそ完全に運のつきだぞ。あの下は小型ロケット機の内部なんだ。よし、あれを外部に発射してやろう。戸山君MLQと書いてあるスイッチを切ってくれ",
"こうですか"
],
[
"先生、いまのはいったいなんですか",
"ロケットがとびだした反動だよ。前のスクリーンには何も見えないかね"
]
] | 底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「冒険クラブ」
1948(昭和23)年8月~1949(昭和24)年5月号
同誌の休刊により中断。
「超人間X号」光文社
1949(昭和24)年12月刊行の上記単行本で完結。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2011年10月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名": "超人間X号",
"作品名読み": "ちょうにんげんエックスごう",
"ソート用読み": "ちようにんけんえつくすこう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「冒険クラブ」1948(昭和23)年8月~1949(昭和24)年5月号、「超人間X号」光文社、1949(昭和24)年12月刊行の上記単行本で完結",
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