text
stringlengths
7
29.6k
東北急行バスの概要 元は沿線事業者の共同出資で、社名の通り東京と東北地方を結ぶ長距離バス(東北自動車道が開通する前は一般国道経由)を運行していたが、2002年(平成14年)の東武資本への一本化を機に方向が全く異なる近畿・中国方面への路線を開設しており、現在は東武グループにおける長距離高速バス事業者の位置付けとなっている。
東北急行バスの車両 東武グループの他のバス事業者と同様に、日野自動車・いすゞ自動車製の車両が主力である。かつてはボルボ・アステローペも保有していた。カラーリングはクリーム色をベースに窓下に紺色の帯を巻き、細い赤帯が加わる。2000年(平成12年)頃までは帯が紺色ではなく赤だった。側面の社名表記は TOHOKU EXPRESS となっているが、旧デザインでは EXPRESS TOHOKU となっていた。2015年に東武グループ国際十王交通から移籍した車両が、貸切車在籍時代以来となる東武グループ共通カラーのままで投入されており、2017年頃より投入された新車からは正式に東武グループ共通塗装にて運行されている。現在の車両過去の車両
ロック岩崎の経歴 1970年3月、千葉県立船橋高等学校卒業。同年4月航空自衛隊に航空学生第26期として入隊。F-86F、F-104、F-15などのジェット戦闘機操縦者として飛行任務に従事する。ニックネームの「ロック」は「岩崎」の岩を英訳した在官時代のTACネームに由来する。また、F-15戦闘機で低高度での「ナイフエッジ」飛行を成功させたほか、「横転コルク抜き」という独自の空戦機動を編み出したことでも有名である。1995年7月に二等空佐で航空自衛隊を退官。その後はエアショー・パフォーマーを目指し渡米、サンノゼ市アルプスナイスエアーを拠点として、カリフォルニア州キングシティーに所在するショーン・D・タッカーに師事する。1996年3月に優秀な成績でプロ・エアーショーライセンスを取得し帰国。同年8月に「民間版ブルーインパルス」を目指しアクロバット飛行チーム AIRock(エアロック)を設立、11月に和歌山県南紀白浜空港で開催された「スカイレジャージャパン'96」で日本初のプロ・エアショーパイロットとしてデビューを果たす。以後は航空自衛隊の航空祭を中心に各地で曲技飛行を披露していた。「戦闘機は運用安全上、8Gまでしか出せないが、ショーの曲技飛行なら11Gが出せる」と、求道者としてのコメントを残している。自著『最強の戦闘機パイロット』において、自衛隊を辞しエアショー・パイロットとして再出発しようとした動機を「戦闘機乗りとしての寿命が尽き地上勤務を命ぜられるよりも、いつまでも空を飛び続けて人々に夢を与えたかったから」と語っている。単座(一人乗り)機へのこだわりや、操縦系統などが自動化される以前のシンプルな機体に対する愛着なども語っている。ブルーインパルスへ引き抜く話があったが、所属する飛行隊が手放すのを拒み実現しなかった。本人がそれを知ったのは退官後のことである。
ロック岩崎の事故死 2005年4月21日午前11時20分頃、但馬空港にて飛行訓練中に乗機が滑走路脇の草地へ墜落。全身を強く打ち、豊岡市内の病院へ運ばれたが1時間半後に死去した。死因は心臓破裂、53歳没。事故の一報は国内の主要メディアも報道した。事故は曲技飛行の一種である「ホリー・ホック・マイアー」の訓練中に発生。兵庫県警察による実況見分では、急上昇や急降下を繰り返しているうちに高度約150メートルから墜落したことが判明した。航空・鉄道事故調査委員会の調査では、機体の姿勢回復操作の開始が遅れたことが原因となり地面に激突したと結論づけている。同委員会は操作が遅れた理由として、持病である花粉症の治療薬による影響などを指摘している。
北上市文化交流センター さくらホールの施設概要 大ホール、中ホール、小ホールの他、ミュージックルーム、録音スタジオ、アクティングルーム、和室などをもつ。北上市内外の文化活動において貢献、公演者のための託児施設もある。主な用途は、コンサート、講演会、演劇、文化教室等である。レストランなど飲食施設もある。さくらホール内にあるサテライトスタジオでは、火曜日に『モコの夜はこれから!』の公開生放送、毎週金曜日に『STUDIO SAKURART』(スタジオさくらーと)の公開収録が行われている(放送局はいずれもFM岩手)。大ホールが1503人、中ホールは450人収容できる。
北上市文化交流センター さくらホールの建築概要 さくらホールは、2004年度のグッドデザイン賞建築・環境デザイン部門、2005年度の第46回BCS賞、2006年の日本建築学会賞(作品)を受賞している。
北上市文化交流センター さくらホールの受賞歴 平成29年度地域創造大賞(総務大臣賞)
川田孝子の経歴 姉の川田正子が歌手を引退後、童謡歌手として1959年(昭和34年)に結婚し引退するまで長く活躍した。数多くの童謡作品を歌い、姉の正子と共に人気を博した。当時、川田孝子は他の童謡歌手よりも非常に声量が豊かであったと言われている。姉のような変声期もなく、NHK紅白歌合戦にも2回連続出場している(詳細は下記参照)。1947年、代表曲ともいえる「お花のホテル」や「見てござる」を発表し広く愛唱された。2001年、東京のNHKホールで開催された川田正子の歌手生活60周年記念コンサートに応援で登場した(歌は歌っていない)。2006年1月22日、姉の川田正子が死去。 同年3月に放送された昭和歌謡大全集第26弾(テレビ東京)の川田正子追悼コーナーに緊急出演(歌は歌っていない)するなど、歌手として引退はしているものの、70年代から現在まで時折テレビや公演などの依頼があれば出演をしている。
大相撲平成24年3月場所の場所前の話題など この年の2月、大阪場所担当部長に貴乃花親方が就任してそのPR活動が世間の注目を浴びており、観客動員数が増えることが期待された。前場所で初めて優勝した大関把瑠都の横綱昇進がかかっており、その結果が期待された。関脇鶴竜が前場所までの2場所に関脇の地位で連続10勝をあげており、結果次第では場所後の大関昇進の可能性もあるということで、その結果が期待された。
大相撲平成24年3月場所の優勝争い 綱取り大関把瑠都は4日目に大関取りを狙う関脇鶴竜に敗れて土。6日目には全勝は横綱白鵬と鶴竜の2人となり、それを稀勢の里を除く4大関と平幕4人の8人が追う展開となった。7日目にはそのうちの把瑠都と翔天狼を除く6人が敗れ、前半戦終了時点で早くも全勝2人、1敗2人という展開になっていた。中日に鶴竜は稀勢の里に敗れて土がつき、白鵬と1敗2人はそれぞれ白星だったが、翌9日目に白鵬は鶴竜に敗れて土がつき、1敗4人と2敗が3人という優勝争いに変わった。10日目も1敗4人は変わなかったが、把瑠都と翔天狼は11日目からともに連敗し、12日目終了時点では1敗2人を大関日馬富士が追う展開へと変化した。13日目白鵬は稀勢の里に敗れて2敗、日馬富士は把瑠都に敗れて3敗にそれぞれ後退したが、鶴竜は1敗を守り単独トップ。翌14日目も鶴竜、白鵬が共に勝って優勝争いは千秋楽にもつれ込んだ。千秋楽、鶴竜が先に土俵へ上がり、勝てば14勝1敗で初優勝が決まるところだったが、平幕の豪栄道にあっさりと敗れて2敗。白鵬は把瑠都に勝って2敗をキープしたため、この2人による優勝決定戦が行われることになった。優勝決定戦は上手投げで白鵬の勝ち。白鵬が千秋楽逆転で2場所ぶり22回目の幕内最高優勝となった。
大相撲平成24年3月場所のトピック 場所後に関脇鶴竜の大関昇進が正式に決まり、綱取り大関把瑠都は10勝5敗で綱取りに失敗したため、史上初の6大関時代へと突入することになった。場所後の2012年4月25日に元小結垣添と元幕内剣武が現役を引退した。垣添は年寄押尾川を襲名し、藤島部屋付き年寄となった。
AbemaGOLDEN 9の概要 AbemaTVがさらなる視聴習慣定着を目指し、地上波テレビでも活躍するタレント、ミュージシャンを起用した番組を毎日夜9時に「AbemaGOLDEN 9(アベマゴールデンナイン)」として編成。月曜枠「おぎやはぎの「ブス」テレビ」、土曜枠「BPM 〜BEST PEOPLE's MUSIC〜」は既存番組。それぞれの番組冒頭にはサウンドステッカーが挿入されている。名称が似通う番組チャンネル「AbemaGOLDチャンネル」とは直接的には無関係。
國場幸之助の来歴 沖縄県那覇市生まれ。生家はゼネコン「國場組」の創業者一族で、父は元國場組代表取締役社長の國場幸治。那覇市立開南小学校、那覇市立上山中学校、沖縄尚学高等学校卒業。学生時代に政治家を志す。高校卒業後、1年間の浪人生活を経て日本大学文理学部哲学科に入学するも古代ギリシャ語で挫折し、中退した。その後、保守系政治家を多く輩出した早稲田大学雄弁会に憧れ、早稲田大学社会科学部社会科学科に入学した。岡沢憲芙ゼミで比較政治学を専攻し、雄弁会では幹事長を務めた。卒業後はアメリカ合衆国のコロンビア大学に語学留学した。帰国後、1998年の沖縄県知事選挙で当選した稲嶺惠一の秘書を務めた。2000年、沖縄県議会議員選挙に保守系無所属で那覇市選挙区から出馬し、トップ当選した。沖縄県議会で、20代の議員が誕生するのは史上初だった。当選後、自由民主党に入党した。2003年、県議を辞職。同年11月の第43回衆議院議員総選挙に沖縄3区から保守新党の推薦を受けて無所属で出馬したが、自民党前職の嘉数知賢、社会民主党前職の東門美津子に次ぐ3位で落選した。なお、前回の第42回衆議院議員総選挙では義父の西田が無所属の会公認で出馬しており、同区は2度続けての保守分裂選挙であった。2004年の県議選では自民党の公認を受けられず無所属で出馬、再び那覇市選挙区でトップ当選。当選後、自民党に復党した。2008年、自民党沖縄県第1選挙区支部は次期衆議院議員総選挙で、沖縄1区に國場を擁立する方針を決定する。自民党は自公連立政権下での選挙協力により、2000年の第42回衆議院議員総選挙から沖縄1区に公認候補を立てず、公明党の白保台一に譲っていたが、白保が2005年の第44回衆議院議員総選挙で下地幹郎に敗れて落選したため、独自候補の擁立を模索していた。そのため國場は、2008年の県議選への立候補を見送った。白保は当初、返り咲きに意欲を見せていたが、同年8月に引退を表明し、公明党は國場を推薦した。しかし、2009年の第45回衆議院議員総選挙では国民新党前職の下地幹郎に敗れ、比例復活も出来ず落選した。落選後も県議には復帰せず、2012年の第46回衆議院議員総選挙に再び沖縄1区から自民党公認で出馬。「沖縄復帰日の5月15日を国民の休日(主権回復記念日)にする」「日米地位協定の改定」「米軍普天間基地の県外移設」等を公約に掲げ、現職の閣僚である国民新党幹事長の下地を破り、当選した。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、沖縄1区で日本共産党の赤嶺政賢に敗れたが、比例九州ブロックにて復活し、再選。2015年5月、歴史修正主義的なナショナリズムを排除した保守を目指し、戦後70年の日本の歩みを検証する勉強会「過去を学び“分厚い保守政治”を目指す若手議員の会」の立ち上げに参加し、國場、武井俊輔、石崎徹の3人の衆議院議員(いずれも当選2回)が共同代表世話人に就任した。2017年の第48回衆議院議員総選挙では、赤嶺に惜敗率89.8%で敗れたものの、比例九州ブロックで3選した。2018年4月、沖縄県出身者としては初めて自民党副幹事長に就任。自民党沖縄県連会長に就任。2018年10月、沖縄県知事選・豊見城市長選・那覇市長選で自民党が推した候補がいずれも敗北したことを受け、自民党沖縄県連会長の辞任を表明した。
國場幸之助の憲法改正 日本国憲法の改正に賛成。改正すべき項目として、戦争放棄と自衛隊・緊急事態条項・衆議院の解散を挙げる。
國場幸之助の安全保障 集団的自衛権の行使を禁じた内閣法制局の憲法解釈の見直しに賛成。
國場幸之助の経済・財政 消費税10%にどちらかと言えば賛成。増えるべき税収の使いみちとして、幼児教育の無償化や高等教育の負担軽減を挙げる。
國場幸之助の労働・社会福祉 働き方改革関連法案の立法に際し、沖縄と鹿児島の砂糖製造業への残業時間の上限制導入について、繫忙期の季節労働者の確保や技術習得、宿舎整備などには3年では足りず5年は必要だとの製糖業関係者の声を予算委員で指摘、現地視察など働きかけ、法施行からの準備期間を3年から5年の延長を実現した。
國場幸之助の普天間移設問題 普天間基地移設問題について、第46回衆議院議員総選挙では辺野古への移設を容認する党本部の方針に反して「県外移設」を公約に掲げ、当選後も同様の主張を行っていた。また選挙前の2010年4月6日、自身のブログで代替施設建設案を提示した民主党政権に対し、公約違反を厳しく批判していた。2013年4月、同様に普天間飛行場の県外移設を主張していた沖縄4区選出の西銘恒三郎、沖縄県選挙区選出の島尻安伊子が党本部からの要請により、辺野古への移設を事実上容認する姿勢に転向したが、國場は転向を拒否し、7月の第23回参議院議員通常選挙において党本部が辺野古への移設の推進を掲げた際も、県外移設を求める方針を堅持する考えを強調した。しかし、参院選後に高村正彦副総裁ら自民党幹部が相次ぎ、辺野古移設を容認しない所属国会議員への離党勧告を示唆した。。11月19日に石破茂幹事長から辺野古移設を容認するよう説得を受け、25日に記者会見を開いて、正式に辺野古への移設を容認する意向を表明した。これに対し、県外移設を求めてきた自民党所属の那覇市議らは強く反発し、那覇市議会の保守系会派「新風会」に所属する10議員及び会派「自由民主党」に所属する4議員の計14名は國場が支部長を務める自民党沖縄1区支部の役職を一斉に辞任した。
國場幸之助の家族制度 選択的夫婦別姓制度導入について、「結婚したら全員が夫婦同姓にすべき」としている。
國場幸之助のその他 女性宮家の創設に反対。
6-アミノペニシラン酸の概要 6-アミノペニシラン酸の分子式はC₈H₁₂N₂O₃Sで、分子量は約216.26 である 。 常温常圧では白色の粉末状の固体であり、融点は198℃から200℃である 。 水への溶解度は、25 ℃において水100 mlに対して0.4 gである。6-アミノペニシラン酸は、天然型でR体のL-システインと、天然にはほとんど存在しないR体のD-バリンを材料にして生合成される。
6-アミノペニシラン酸の用途 6-アミノペニシラン酸は、ペニシリンが薬理作用を発揮するために必要とする、ペニシリンの中核的な部分である。β-ラクタム系抗菌薬の中でも半合成のペニシリン系抗菌薬を合成するための主な出発物質として、この6-アミノペニシラン酸が用いられる。なお、同じβ-ラクタム系抗菌薬でも半合成のセフェム系抗菌薬の合成の際には、出発物質として6-アミノペニシラン酸ではなく7-アミノセファロスポラン酸を主に用いる。
6-アミノペニシラン酸の歴史 1958年に、ペニシリンの中核的な部分として6-アミノペニシラン酸が報告された。そして、この6-アミノペニシラン酸を出発物質として、半合成のペニシリン系抗菌薬が幾つも作成されていった 。
タージ・マハルの敷地 タージ・マハルは南北560m、東西303mの長方形の敷地にある。南端の約1/4部分は前庭があり、その北端にある大楼門を挟み広がる庭園は一辺296mの正方形であり、水路と遊歩道によって東西南北それぞれに2等分され、さらにそれぞれが4つの正方形で区分されている。その北には敷地の約1/4を占める基壇の上に、廟堂を中心に西側にモスク、東側に集会場がある。南の大楼門はダルワーザー、ムガル式四分庭園はバギーチャー、西側のモスクはマスジド、東側の迎賓施設はミフマーン・カーナー(ジャマート・カーナー)、そして高さ42mの4本の尖塔(ミナレット)を従える墓廟はマウソレウムと言う。タージ・マハルの基本設計は、ムガル帝国の墓廟方式の伝統を踏襲している。しかし、例えばフマーユーンの廟やアクバルの廟とは異なる点もある。これらは正方形の庭園の中心に廟堂があり、四方のどの門から入っても同じ景色が目前に広がるように設計されている。それに対し長方形構造と墓廟を北の端に配したタージ・マハルはこの例に倣っていない。また、敷地内にモスクを持つ事も独特である。
タージ・マハルの前庭部と大楼門 大楼門の南には前庭や車だまりおよび従者が控える建物がある。大楼門は赤砂岩づくりで高さ約30m。イスラーム建築で多用される大きなアーチを持つイーワーンであり、両側には八角形の太い塔がある。イーワーンの上には、ファテープル・シークリーの寺院にも見られる白い鍾乳石の型体をした11個の丸屋根がある。
タージ・マハルの庭園 大楼門をくぐった先に広がる庭園には天上の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天上の泉を表す池が配置されている。これはペルシャ様式のチャール・バーグ式を踏襲している。水の供給には直径約23cmの管路から行われる。庭園植物への灌水の他、これはさらに細い管を通して水路の南北にある計24基と、中央の泉にある5基の噴水へ水の供給が行っている。通常ならば取水口から遠い噴水には水圧が低下するが、タージ・マハル庭園ではそれぞれの噴水の下に壺が埋め込まれ、ここに一度水を貯めることで各噴水の高さに差が現れないよう工夫されている。ムガル朝の霊廟形式では、本来庭園の中心に墓廟があり、四方いずれからも同じ景色をつくる。タージ・マハルの庭園の中心には、墓廟の代わりに一辺23mの四角い白大理石づくりの基壇がある。中央の泉は一辺13mの方形であり、池と基壇の各辺の比は、墓廟とその基壇の比とほぼ一致する。霊廟の庭園は、イスラーム教徒にとって砂漠の中の楽園を意味する。タージ・マハルも同様に列柱回廊で囲まれ、東西には門の代わりにバルコニーを備えた二階の楼台(バラダリ)がある。その中には豊かな花々や果樹が植えられ、季節によってバラ、チューリップ、ユリ、マリーゴールド、水仙などが咲き、マンゴー、オレンジ、レモン、ザクロ、リンゴ、ブドウなどが実を結んでいた。現在の庭園は糸杉の並木と芝が一面に植えられ、大樹がところどころにあるが、これは19世紀にイギリス人が作り変えたものである。
タージ・マハルの基壇と尖塔 庭園奥には中央に高さ5.5mの基壇の上に立つ白亜の墓廟があり、四隅には4本の尖塔が建っている。向かって左(西)にモスク、右(東)に集会場がある。基壇を昇る階段は庭側から見えない場所に設置されている。ムガル帝国の霊廟では、この基壇周囲にはアーチ状の列柱とその後ろに小部屋が据えられ、一族や縁者の墓石を置く例が主だが、タージ・マハルの基壇にあるアーチは単なる浮き彫りであり小部屋も無い。これは、タージ・マハルがあくまでムムターズ・マハルだけのために建設されたことを表している。4つの尖塔は「皇妃に仕える4人の侍女」に喩えられる。しかしその形は灯台と小さなバルコニーを備えただけの単純で、イギリスの小説家オルダス・ハックリスは「人類が手がけた中で最も醜悪な建築物のひとつ」とさえ形容した。ただしこれらは主役の墓廟を際立たせるとともに、全体で視覚的なバランスに寄与している。
タージ・マハルの墓廟 墓廟は横と奥行きがどちらも57mの正方形を基本に、四隅が切られた変形八角形をしている。対して高さは丸屋根上部までが58m、上に据えられた頂華の長さを加えると更に高くなる。この比率はタージ・マハルが目前から見上げられる際に威容を感じさせるためのである。しかし遠目から見るとバランスに欠ける。そのため基壇の端に塔を置き、視覚的な重心に配慮している。最上部にムガル建築の様式である三日月と水差しを重ねてあしらった頂華を備え、繋ぐ部分には蓮の花弁を象った飾りパドマコサを持つ丸屋根は、建物本来の高さ約23mから持ち上げるため下に長い円筒が置かれ、その総重量は12,000トンにもなる。この重さは内部にある八角形の石積みの柱が支え、ずれや傾きを防ぐために工夫された楔で固定されている。建物の屋上には丸屋根を囲む四隅に小さな丸屋根を持つ小楼(チャハトリ)が配される。建物の正面を含む4つの面には大きなアーチ型飾り門があり、その両隣と切られた四隅にはそれぞれ上下2段の小さなアーチ飾り窓がある。さらに八角形の建物のそれぞれの角と飾り門の両端には飾り柱があり、先端は建物の上に伸びている。飾り門や窓は意図的に深い奥行きを持たせており、太陽や月の光がつくる濃い影を作らせ、建物の微妙な表情を演出させる。墓廟の内部に入ると丸天井は24mしかない。これは二重殻ドームという形式で、外観上の丸屋根と内部の天井の間に空洞が置かれ、屋外から見るデザインと屋内の空間とのバランスを両立させる形式であり、この工夫は16世紀の西アジアで考え出された。内部中央の八角形のホールには、その中心に白大理石にコーランの章句や草花の連続文様が装飾された衝立が囲うムムターズ・マハルの墓石がある。そしてその横(庭から入ると向かって左)には一回り大きな墓石があるが、これは夫のシャー・ジャハーンのものである。中央ホールを取り囲む四隅には本来は親族を葬るために造られる八角形の小部屋が4つある。しかしそこへ至る通路はすべて閉じられ、事実他の誰の墓部として使われていない。タージ・マハル墓廟には地下室がある。庭側入り口の脇には狭い階段があり、そこを下ると基壇内に造られ床は庭と同じ高さになる玄室がある。ここにはホールの真下にムムターズ・マハル本来の墓石が安置されている。ホールの墓石はあくまで象徴的な参拝用のものであった。なお、その横には同様にシャー・ジャハーンの本来の墓石がある。この地下室は閉じられていたが、現在は観光用に見学ができる。
タージ・マハルのモスクと集会所 墓廟を挟むモスクと集会場は、対称な形で向かい合い、いずれも赤砂岩づくりの外観である。しかし、内部は大きく異なる。モスクには礼拝のために聖地メッカの方向を示すアーチ形のミソラーブがあるのに対し、集会場の内部には迎賓などのための広い空間だけがある。このようなモスクや集会場がある霊廟は、他のムガル帝国廟にはない。
タージ・マハルの周囲 周囲にはムムターズ・マハルの侍女サティー・ウン・ニサー、シャー・ジャハーンの他の妃であったシルヒンディー・ベーグムやアクバラーバーディー・ベーグムといった縁者の墓がある。北側はヤムナー川に接し、かつてはアーグラ城塞から船でタージ・マハルの北から廟内に入っていたが、現在では訪問客は南から大楼門をくぐって訪れる。その南にはかつてはムムターズバード、今はタージ・ガンジーと呼ばれる街区があり、商業や宿泊施設などが広がっている。タージ・マハルと対面するヤムナー川の北岸には、対応するように胸壁があり、この中央には楼台、左右には望楼が置かれ、これらの北にも庭園がある。
タージ・マハルの設計 設計にはイスラーム世界から広く名声を博した建築家や工芸家らが集められた。20世紀にインド政府考古学調査局長のB・L・ダーマは研究書『ザ・タージ』にて設計者をイスラームに帰依したインド人ムハンマド・イーサー・エフェンディーと述べた。しかし、これも当時のヒンドゥー至上主義の影響を受けたもので、事実上設計者名は不明なままである。シャー・ジャハーンの主任建築家だったウスタード・アフマド・ラホーリーの墓碑には彼がタージ・マハルの設計者だったと記されているが、これも多くの工匠らが持ち寄った設計を纏める役割に過ぎなかったと考えられる。しかし名が伝わる部分の設計担当や工匠らもいる。円筒と組み合わせた丸屋根の設計はトルコから招かれたイスマーイール・ハーン、頂華の製作はラホールのカーシム・ハーン、大理石象嵌はデリーのチランジー・ラール、大楼門や墓廟に刻まれたコーラン文字はシーラーズのアナマト・ハーンとシリアのラウシャン・ハーンの2人の書家、透かし彫りや貴石の細工はバルーチスターンから細工師のアミール・アリー、石組みにはバグダードから技師のムハンマド・ハニーフが呼ばれ、他にも集められた有名な技師たちは多く、知られているだけでも37名が雇われた。彼らは高給を与えられ、例えばムハンマド・ハニーフは月1000ルピー、カーシム・ハーンは月695ルピーを得た。一般の熟練工で月5〜6ルピー、人夫は月1.5ルピー程度だったが、当時の通貨価値では1ルピーで小麦80kgが買えた。職人はペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人ほどを集めた。
タージ・マハルの建設 17年とも22年と言われる建設期間中には、常に2万人もの人々が工事に携わった。タージ・マハルが建つヤムナー川の岸は傾斜しており、庭園を囲む回廊の外側には厚い石垣が積み上げられ、土地を水平に造成している。建材はインド中から1,000頭以上もの象で運ばれてきたといわれ、大理石はラージャスターン地方のジャイプル産という。赤砂石はファテープル・シークリーの石切り場から運ばれた。翡翠や水晶は遠く中国から、トルコ石はチベットから、サファイアや瑠璃はスリランカから、カンラン石はエジプトから、珊瑚や真珠貝はアラビアから、ダイヤモンドはブンデルカンドから、アメジストや瑪瑙はペルシャから集められた。他にも、碧玉はパンジャーブ地方から、ラピスラズリはアフガニスタンから、カーネリアン(紅玉髄)はアラビアから取り寄せられたものだという。全体で28種類もの宝石・宝玉が嵌め込まれていた。タージ・マハル建設にどれだけの費用がかかったかは明らかではない。宮廷史家アブダール・ハミード・ラホーリーは著書『皇帝行伝(パードシャー・ナーマ)』にて500万ルピーと記しているが、その他にも980万、1850万、4000万ルピーという説もある。
タージ・マハルのタージ・マハル建設の意義 ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流される。霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒が持つ墓は簡素なものに過ぎない。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えたが、これは専制君主の権勢を示す目的があった。権力を握っていたわけでもないただの王妃に対し壮大な墓廟が建設された例は、他にはほとんど無い。タージ・マハル着工の頃、シャー・ジャハーンはヒンドゥー教を抑圧する令を発するなど、イスラーム教国家建設に取り掛かっていた。その中でタージ・マハルはイスラーム教徒の精神的中心として構想された。聖者信仰はイスラームにもヒンドゥーにも見られ、その墓所は霊力が宿るという考えはムガル王朝期のインドでは強かった。ムムターズ・マハルを聖者とみなす根底には、イスラーム社会が女性に夫への愛と子を生すことを求め、産褥による死は男性が聖戦で死す事と同義とみなす母性信仰があり、生涯で14人の子を産み36歳で死んだ彼女は殉教した聖者になるに充分だったと言える。この意義に叶うため、タージ・マハルは巡礼者を受け入れる施設を持たされた。訪問中にメッカへ礼拝するためのモスク、食事や宿泊のための集会所、巡礼者の車場置き場、そして外部の市場もこの機能を補助した。タージ・マハルが完成した時に、その美しさにシャー・ジャハーンが詠んだ詩には、ここが罪を負う者が悔恨し、罪行から自由になり、許され清められる典雅な高殿であり、神の光とともにあると述べられている。
タージ・マハルのシャー・ジャハーン廃位 ムガル王朝は常に皇子らの間で皇位を巡る激しい争いが起こり、「王冠か死棺か」とさえ言われた。第三皇子だったシャー・ジャハーンも例外ではなく、皇位継承権を持つ一族すべての男性を殺して帝位に就いた。そしてこれは、シャー・ジャハーンとムムターズ・マハルの間に生まれた息子たちの間でも繰り広げられ、1657年にシャー・ジャハーンが重病に陥ると4人の息子が帝位をめぐり争った。シャー・ジャハーンは第一皇子のダーラー・シコーに皇位を継がせようと手元に置き教養を与えた。しかしヒンドゥーやバラモン教にも理解を示す兄に、敬虔なイスラーム教徒であった第三皇子のアウラングゼーブには許しがたい背信に映った。16歳から戦場に身を置き、その中で果敢な性格と皇位を狙う野心を育てていたアウラングゼーブは反乱の挙兵を起こし、1658年に兄の軍を破ると父シャー・ジャハーンの前で兄を異端に堕ちた者と弾劾し、自らの行動を認めさせ、アウラングゼーブは皇位に就いた。しかしシャー・ジャハーンはダーラー・シコーを支援する旨を記した手紙を秘かに送ったが、アウラングゼーブの知るところとなり、彼は父をアーグラ城塞内に幽閉した。幽閉されたままのシャー・ジャハーンは1666年1月22日に亡くなった。翌日彼の遺体はタージ・マハルに運ばれ、妻の脇に葬られた。対称性を重視するイスラーム建築にあって、これに反する夫妻の墓碑の並びは、アウラングゼーブが父をいかに憎んでいたかを物語る。アウラングゼーブも遠征先で帯同させた妃ディルラース・バーヌー・ベーグムを産褥で失った。彼は皇帝に就く前年の1657年から着手し、妃が亡くなったアウランガーバードに60万ルピーの費用をかけて彼女の墓廟ビービー・カ・マクバラー廟を建設した。これは白亜の廟堂と4本の尖塔など、タージ・マハルを模倣して設計された。
タージ・マハルの略奪 アウラングゼーブの死から十数年後、アーグラの街は地方領主に占領され、タージ・マハル内ムムターズ・マハルの墓石に掛けられていた真珠を散りばめた刺繍布チャーダルが奪われた。チャーダルはイスラーム教聖人の墓石に通常掛けられているが、なぜかその後作り直されなかった。1764年にはスーラジュ・マル率いるヒンドゥー教徒のジャート族によって堂内の宝石類が剥ぎ取られた。1803年、イギリス東インド会社がアーグラ支配を確固たるものにすると、彼らもタージ・マハルで略奪を働いた。この時、丸屋根の上にある頂華を包む金箔が剥がされた。1828年から総督に就いたウィリアム・ペンディングはタージ・マハルを退廃的と見て、解体しイギリスで売り払う提案をしたというが、これは実行されなかった。
タージ・マハルの観光 タージ・マハルはインド観光の目玉的存在であり、多くの観光客を魅了している。ユネスコの記録ではすでに2001年に200万人以上の観光客を記録しており、2014年には約700万〜800万人に増加した。2017年段階でも少なくとも年間700万人の観光客が訪れている。タージ・マハルの入場料は2段階の価格となっており、インド国民の入場料は大幅に安く、外国人料金は高額に設定されている。2018年には、インド国民の料金は50インド・ルピー、外国人観光客の入場料は1100ルピーとなっていた。最も観光客が訪れるのは、涼しい時期である10月、11月、2月である。排気ガスを出す交通手段は施設の近くでは禁止されているため、観光客は駐車場から歩くか電気バスに乗らなければならない。Khawasspuras(北の中庭)は現在新しいビジターセンターとしての使用のために修復されている。タージ・マハルの南に位置するTaj GanjiまたはMumtazabadとして知られる小さな町は、当初タージ・マハルを訪れる人々や労働者のためのキャラバンサライ、バザール、および市場によって構成されていた。約1億人が投票して2007年に発表された新・世界七不思議などのように、お勧めの旅行先のリストには、しばしばタージ・マハルの名が挙げられる。営業時間は通常朝6時から19時の間であるが、金曜日は基本的に休日で、礼拝のためにモスクが昼の12時から14時の間開くだけである。夜間の入場は本来できないが、満月の夜とその前後2日間のみ夜間入場が許可される。ただし、金曜日およびラマダンの時期は夜間入場は行われていない。
タージ・マハルの環境問題 インドの経済成長に伴い大気汚染が深刻化し、タージ・マハルの損傷が問題化している。排ガスによる直接的な汚れの他、酸性雨によって大理石が溶解する現象などが報告されている。政府はこれを防止するため周辺での石炭の利用禁止や、駐車場からタージ・マハルへ向かう手段を排気ガスを出さない電気自動車に限るなどの対策を取っているが白い大理石の黄ばみが目立ってきており、この汚れを取るために施設の表面に泥を塗り、乾燥させてからこそげ落とす処理を2015年・2016年と行った。さらに入場者数の激増により施設に負担がかかっているとして、2018年よりインド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表した。週末には7万人以上が訪れていた訪問者を減らすのが目的であるが、平日の平均入場者数は1万から1万5000人であり、また外国人観光客にはこの制限は適用されない。しかしその後も汚染は悪化の一途をたどり、2018年5月2日にはインドの最高裁判所がインド政府のタージ・マハルの保護の怠慢を激しく非難した。また、同年4月12日には暴風によって入口の門の尖塔2本が倒壊した。
タージ・マハルの軍事的観点 インド政府はタージ・マハルはパキスタン空軍の空爆の標的になりやすいと考えており、パキスタンとの緊張が高まった時期には、タージ・マハルに布をかぶせて偽装を行っている。また、容易に偽装できるよう、中央ドームの外壁にフックが打ち込まれている。
タージ・マハルの両手を切り落とされた工匠 タージ・マハル造営を命じられた工匠は、美しいムムターズ・マハルを秘かに慕っている男だったという。彼はその想いを建設に注ぎ、シャー・ジャハーンを満足させる美しい墓廟を完成させた。シャー・ジャハーンが工匠に褒美を取らせようと王宮に呼んだところ、工匠は、墓廟を完成できたことで満足だと答えた。シャー・ジャハーンは男が内に秘めたものに気づき、男に両手を前に出すよう命ずると「これが褒美だ」と剣でその両手を切り落としたという。
タージ・マハルの対岸の黒大理石の墓廟 シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に対となる自分自身の黒大理石の廟の建設を構想していたともいう。これは、タージ・マハルがイスラーム建築の原則である対称性に則していないことから発したもので、北岸に同じ形の黒い墓廟があれば南北の対称性は果たされる。シャー・ジャハーンの失脚で、白大理石のタージ・マハルと対となる、黒大理石の墓廟の計画は幻に終わった。北岸の胸壁と望楼は、その基礎工事の名残とも言われる。
タージ・マハルのヨーロッパ人の設計者 タージ・マハルの設計には、ヴェネツィア出身の金細工師ジェロニモ・ヴェロネオという男が名を連ねたという。19世紀に「密林の中に発見した」タージ・マハルは、イギリス人にとって驚きのものだった。未開の地にある荘厳な建造物に、やがてヨーロッパ人の関与があったという発想に至った。1884年に出版された『北西インドの歴史と地誌』第2巻には、ジェロニモ・ヴェロネオが300万ポンドの費用で建設を請け負ったが、1641年にスペイン人の托鉢僧マンリケが同地を訪問した時にはヴェロネオは死去しており、コンスタンティノープルから来たトルコ人のエフェンディが引き継いだという説を紹介し、大理石を象嵌した技術はフランスのボルドー出身のオスティンヌという工匠が支援したとも添えた。この説はヨーロッパで広く知られ、1957年ケンブリッジ大学出版局刊『インド史』第4巻ではヴェロネオが設計図を皇帝に献じたと、1972年ニューズウィーク出版の『ザ・タージ・マハール』も、タージ・マハル建設の名誉を自らのものにし同じような建造物が二度と建てられないようにするため、皇帝が工匠頭ヴェロネオを断首したことはセバスチャン・マンリケの口伝にあると記した。
M1 90mm高射砲の歴史 第二次世界大戦前、アメリカの主要対空高射砲はM1918 3インチ砲(76.2mm L/50)であり、この口径の弾薬は同スケールの火砲に広く用いられていた。類似の兵器がイギリスやソ連にも存在した。これは運用中にいくつかアップグレードが施されており、実験的なT8およびT9型が1930年代に開発され1930年代末に配備される予定であった。しかし、陸軍はこれではなくさらに効果的な兵器に関心を持つようになり、1938年6月9日に2種類の新型火砲の開発契約を発表した。それは片方は人力装填にて高い仰角を取らせることのできるギリギリの大きさである90mmと、もうひとつは装填補助装置を用いる120mmである。この新型は旧式の3インチの発展型であるT9 3インチ砲より優れていると考えられ、こちらは1938年ちょうどに生産準備に入るところであったがキャンセルされた。1940年、90mm砲の第二の発展型であるT2がM1 90mm高射砲として制式化されその従兄弟はM1 120mm高射砲となった。数百のM1が完成したころ、いくつかの改良が加えられたM1A1 90mm砲が開発された。1940年後半に製造が開始され、1941年5月22日に制式化が認められた。このM1A1は砲架や砲尾のラマー(砲弾を砲へ押しこむ装置)に改良が加えられた結果、射撃速度が20発毎分に向上した。アメリカ参戦のころには数千門が運用可能であり、M1A1はアメリカ軍の標準的な対空砲として残りの戦争期間を戦い抜いた。月々の生産数はピーク時で数千門にもおよんだ。ドイツ軍の88mm砲やイギリス軍のQF 3.7インチ高射砲のようにM1A1は対戦車戦闘に直面したが、他とは違い効果的な射撃ができなかった。1942年9月11日、陸軍は対戦車任務を可能な新型の砲架の開発を命令した結果、M2 90mm高射砲が完成した。同砲の新型砲架は10度の俯角をとることができ、また電動補助付きラマーも装備していた。
M1 90mm高射砲の対空任務 この高射砲は通常は4門が連携して運用され、M7ないしM9高射指揮装置、またはケリソン指揮装置に管制された。レーダー管制はSCR-268によるものが1941年に開始され一般化し、砲と直接連動するには不充分であったが、交戦中ずっと正確な距離を把握することができた。夜間においてはサーチライトが広域に光線を放ち目標を光にさらしてレーダーを補助することで、昼間と同様に交戦を続けられるようにする。1944年にこのシステムはSCR-584マイクロウェーブレーダーに更新され劇的に性能が向上した。これにより0.06度(1ミル)の精度と自動追尾機能を獲得した。SCR-584によって方位・距離をベル研究所開発のM3砲データコンピューターとM9管制装置に伝達し、それをもとに砲を目標に自動追尾させる。運用者は全員が砲架の上で作業する。
M1 90mm高射砲の対戦車任務 装甲戦闘車両の主砲として試作されたT7がM3 90mm砲となった。試射は1943年初頭にM10駆逐戦車を載せ代えて行われた。この砲はM36ジャクソンやM26パーシング重戦車が装備した。マズルブレーキを備えたT14、初速を975m毎秒に増加させたT15、それをさらに改良したT18、砲身短縮を試みたT19、装輪車両に搭載するT21やより大型の装薬を利用するためにM101 105mm榴弾砲の砲尾を利用したT22などM3を元にしたいくつかの試作派生型が開発された。これら派生型はどれも制式採用されなかった。大戦後にT15はより高初速でタングステン砲弾を発射可能なT54として開発が続いた。このT54はM47およびM48パットン戦車、M56スコーピオン対戦車自走砲などの主力装備となった。
M1 90mm高射砲のM1A1 1940年に生産が開始された高射砲。M8A1バネ式ラマーが特徴。発射速度毎分20発。
M1 90mm高射砲のM2 完全な対地対空両用砲として再設計された。給弾方式は改良され、M20ラマー兼信管自動調定装置が備えられた。これにより射撃速度は毎分24発に向上した。また、10度の俯角を取らせることができるよう改良された。砲手を保護する大型の金属防盾も装着する。1943年5月13日に制式化。移動体勢から砲架の展開まで3分、完全射撃体勢まで7分で可能である。1944年からは近接信管も利用可能となった。
M1 90mm高射砲のM3 対戦車砲型であり、M36やM26に搭載された。90mm L/53としても知られる。
福岡県道96号八女瀬高線の概要 起点から終点へ南西方向に向かう斜めルートである。八女市街や筑後市の船小屋地区が2車線整備されている他は全体を通じて1.5車線程度の幅員である。また、筑後市の船小屋地区では幅員改良された迂回道路と旧道いずれも県道96号として案内しているが筑後船小屋駅とつながる福岡県道724号船小屋停車場線交点で再度合流するようになっている。2013年5月25日に開通した国道442号八女筑後バイパスの開通に伴い、起点付近の道路区画が変更されている。筑後市の船小屋ルートを通るため、国道442号および国道209号の混雑回避にも利用できる。
エヤル・ヤニロブの来歴 エヤルは1973年からクラヴ・マガを始めて、1980年代からはイミにもっとも信頼された弟子として活動していた。イミはエヤルを、クラヴマガ・プロフェッショナル委員会の委員長に指名し、1984年にはイミはエヤルをクラヴマガの書籍を編纂する責任者に任命した。また、1981年のアメリカでのクラヴマガ・インストラクターコース開講以来、エヤルは世界中でクラヴ・マガの指導を行うことになった。1990年代、国際クラヴマガ連盟が設立され、エヤルは設立メンバーに名前を連ねた。1996年、エヤルはイミより、マスター三段、エキスパート八段を授けられた。また、イミより「創始者認定優秀証書」も授けられている。
石川敏夫の出品略歴 昭和会展招待、東京セントラル美術館油絵大賞展、上野の森美術館絵画大賞展、彫刻の森美術館秀作展、一陽展、一陽会東京支部展、二科展、二科東京会展、銀座大賞展、日本風景美展、具象表現展、EAST MEETS WEST展(ニューヨーク)、ART EXPO NEW YORK招待(ニューヨーク)、Art San Diego (カルフォルニア)、日仏現代美術展(パリ、東京、大阪)、サロン・ドートンヌ展(パリ)、オートフィユ展(パリ)、北京首都芸術博覧会(北京)、JR上野駅展示、無限会展等出品。各地デパート等で個展。現在、一陽会会員、一陽会東京支部会員、ハプスブルグ芸術交友協会会員。
アリャクサンドル・ルィバークの出自 ルィバークは、ソビエト連邦の白ロシア・ソビエト社会主義共和国の首都であるミンスクで生まれた。ルィバークは5歳のときにピアノとヴァイオリンを始めた。6歳のときにルィバークは家族とともにノルウェーに移住した。ルィバークは、当時好きだった楽器はヴァイオリンであると話している。ルィバークは「私の人生の20年間をエキサイティングなものにしたのは、ヴァイオリンだ」と語った。5歳のときから楽器を弾いていたルィバークは、ヴァイオリンとピアノを演奏できる。ルィーバクの母親ナタリア・ヴァレンティノヴナ・ルィバーク(Natalia Valentinovna Rybak)はクラシック音楽のピアニストであり、父親イーゴル・アレクサンドロヴィチ・ルィバーク(Igor Alexandrovich Rybak)は著名なクラシック音楽のヴァイオリニストで、ピンカス・ズーカーマンとも共演している。アリャクサンドル・ルィバークは「私は常に人を楽しませることが好きで、つまり、それが私の天職だ」と話している。ルィバークは、ノルウェーの首都オスロ郊外のNesoddenに居住している。
アリャクサンドル・ルィバークの職歴 ルィバークはオスロのBarratt Due Institute of Musicにて10歳から教育を受けており、同期間の学士課程にあったが、ユーロビジョンでの成功を受けて休学していたが、現在は卒業している。ルィバークは2004年にはAnders Jahre文化賞を受賞した。2006年、ルィバークはタレント・オーディションKjempesjansenで優勝した。この大会はノルウェー放送協会(NRK)が主催したもので、ルィバークは自身が製作した楽曲「Foolin'」で大会に挑んだ。ルィバークはa-haのリード・シンガーモートン・ハルケットや、Arve Tellefsenなどとも共演したことがある。2007年、Oslo Nye Teaterの製作による「屋根の上のバイオリン弾き」でバイオリン弾きの役を演じた。この演技によって、ルィバークはHedda賞を受賞した。ルィバークは、Grete Salomonsen監督の映画『Yohan』でLeviの役を演じた。
アリャクサンドル・ルィバークのユーロビジョン2009 ルィバークは、ロシアのモスクワで行われたユーロビジョン・ソング・コンテストの2009年大会で、「Fairytale」を歌い、史上最高記録となる387得点を集めて優勝を果たした。楽曲はノルウェーの民俗音楽に着想を得たものであった。楽曲はルィバーク自身によって作詞・作曲された。楽曲は、ノルウェーの現代フォークダンスの会社Frikarの演技とともに披露された。楽曲は、ノルウェーの新聞Dagbladetにて6段階中最高の6とされ、好評を受けた。ESCtodayでは、準決勝から決勝に進んで欲しいアーティストの人気投票が行われ、ルィバークが参加した準決勝の組については71.3%がルィバークに投票した。大会に先立って行われたノルウェー代表を選ぶ国内選考では、ノルウェー国内の9つの選挙区すべてでルィバークが首位となり、視聴者投票と審査員投票あわせて747,888得点を挙げ、次点のTone Damli Aabergeの121,856得点に大差をつけて優勝している。ルィバークは準決勝を通過し、決勝への進出を決めた。決勝では、自国への投票ができないノルウェーを除く全ての国からルィバークに得点が与えられた。最終的に、2006年にローディが達成した292得点を大幅に上回り史上最高となる387得点を挙げ、次点のアイスランドに史上最高の得点差となる169点差をつけて優勝を果たした。
初風 (駆逐艦)の艦歴 陽炎型駆逐艦全19隻のうち、神戸川崎造船所で建造されたのは初風1隻である。 1937年(昭和12年)12月3日起工。1938年(昭和13年)9月20日、初風は姉妹艦2隻(親潮、夏潮)と共に命名された。同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十二潜水艦、第十一号掃海艇、第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録。 1939年(昭和14年)1月24日進水。同年11月15日附で高橋亀四郎中佐(吹雪型駆逐艦曙駆逐艦長)は初風の艤装員長に任命された。11月20日、初風艤装員事務所を設置。1940年(昭和15年)1月20日、姉妹艦の雪風は竣工と共に佐世保から呉へ回航される。 1月27日附で第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)が編制された。初代司令駆逐艦は雪風。 初風は2月15日に竣工した。同日附で高橋中佐は本艦初代駆逐艦長となる。呉鎮守府籍。神戸から呉に移動して雪風に合流した。また黒潮は2月24日になり、大阪から呉に回航されている。 当初の第16駆逐隊は、陽炎型3番艦黒潮、陽炎型8番艦雪風、陽炎型9番艦初風で編制され、第二水雷戦隊に所属。10月11日に実施された紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式では、初風は第16駆逐隊司令駆逐艦として式典に臨んだ。11月15日、黒潮は第15駆逐隊に編入されて16駆を離れたが、陽炎型9番艦天津風と陽炎型10番艦時津風が漸次16駆に編入される。1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(初風、雪風、天津風、時津風)編成で開戦を迎えた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。同水雷戦隊は第8駆逐隊(朝潮、荒潮、大潮、満潮)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎、不知火、《朝潮型駆逐艦:霞、霰》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた。だが第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下に属して南雲機動部隊警戒隊となり、真珠湾攻撃に参加。16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。
初風 (駆逐艦)の沈没 11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦阿賀野の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した。経過は以下の通り。11月1日、連合艦隊は第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊を編制し、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内〔旗艦〕、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野〔旗艦〕、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)という戦力を揃える。連合襲撃隊はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸したアメリカ軍に対し、逆上陸計画を企図していた。だが輸送隊の準備は遅れたこと、アメリカ軍機の触接を受けたことから逆上陸作戦は中止され、輸送隊はラバウルへ避退した。連合襲撃隊そのものは、アメリカ軍輸送船団を撃滅すべく進撃を続けた。一方のアメリカ軍は日本艦隊の接近を知ると、輸送船団を護るためアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊を派遣した。11月2日00時45分、時雨の敵艦隊発見報告をきっかけに約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と艦位を失った初風の衝突を招いた。妙高と初風の衝突時間は午前1時7分。 その後、主隊(妙高、羽黒)は午前1時16分に射撃を開始したが、時雨の報告から26分も経過しており、主隊と第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)は戦局にまったく貢献できなかった。午前1時34分、大森司令官は『明日ノ敵機ノ来襲ヲ顧慮シ、全軍ニ対シ315度方向ニ避退スベキ』を電令して戦場からの離脱をはかり、米艦隊は敗走する日本艦隊を追撃する。艦首を失い、戦場に取り残されていた初風はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分地点で沈没した。艦長以下164名が戦死した。川内は漂流したのち、午前5時30分に沈没した。翌朝、重巡羽黒からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっている光景が見られたという。目撃した羽黒の下士官は「初風の額の皮」という表現を使っている。本海戦は2隻(川内、初風)を喪失した上に、アメリカ軍輸送船団の撃破に失敗した日本艦隊の完敗で終わり、阿賀野以下日本艦隊は11月2日午前9時以降、順次ラバウルへ帰投した。 12月6日、第16駆逐隊司令は島居大佐から古川文次大佐に交代する(島居は12月22日より軽巡龍田艦長。龍田沈没まで同職)。 駆逐艦初風は1944年(昭和19年)1月5日附で 不知火型駆逐艦、 帝国駆逐艦籍、 第16駆逐隊 のそれぞれから除籍された。初風の除籍から約2週間後の1月16日、第16駆逐隊僚艦の天津風が米潜水艦の雷撃で大破して長期離脱を余儀なくされ(古川第16駆逐隊司令戦死)、健在艦は雪風1隻となってしまった。3月31日附で第16駆逐隊は解隊され、雪風は陽炎型4隻編制の第17駆逐隊(磯風、谷風、浦風、浜風)に編入された。
木村実の来歴 桐光学園高校を経て東洋大学を卒業後、関東実業団の新生紙パルプ商事に入社。全日本社会人に2年連続で出場し、第3回(2007年)で準優勝となる。2008年、クラブチームの横浜ギガスピリッツへ移籍。2009年、ドラフト外で東京アパッチに入団。2011年、横浜ビー・コルセアーズに移籍。2012-13シーズンbjリーグ優勝に貢献。2013年オフ、岩手ビッグブルズに移籍。2014年オフ、ライジング福岡に移籍。
岐阜県道63号美濃加茂和良線の概要 美濃加茂市太田町(加茂川町1交差点)を起点に、国道41号美濃加茂バイパスの側道として北に進む。JR高山本線の踏切を渡ると高山本線と長良川鉄道(越美南線)の間を西に200mほど進んで、北に方向を変えて、長良川鉄道の踏切を渡る。美濃加茂市蜂屋町、伊深町を経て、関市に入る。関市の神野交差点から若栗交差点までは岐阜県道58号関金山線と重複している。関市と合併した旧武儀郡武儀町、旧上之保村の中心部を通り、やがて郡上市八幡町野々倉地区に入る。野々倉地区は旧八幡町の中心部からはかなり離れている。野々倉地区からつづら折りを越えると旧和良村に入り、郡上市和良町三庫の国道256号が終点。
岐阜県道63号美濃加茂和良線の地理 途中、ゴルフ場が多く点在する。
イシマキガイの特徴 貝殻はアマオブネガイ類に共通した半球形で、成貝は殻長25mmに達する。螺塔(巻き)は最高4階だが、殻頂部がカルシウムイオンに乏しい河川水によって侵蝕されボロボロになる。2cmほどの老成個体では体層のみになることも珍しくない。殻上面は艶のない緑褐色の殻皮に覆われ、細かい三角形の斑紋が並ぶ。この三角斑は1辺のみが太いので、同属のカノコガイ C. faba (2辺が太い)と区別できる。幼貝は淡い色帯が2-3本出たり三角斑が明瞭に出現したりもするが、成貝はこれらの模様も目立たなくなり、色彩変異は乏しい。殻下面は黄褐色-緑褐色で、D字形の殻口周辺には滑層があるが、海産種やヒロクチカノコ Neritina(Neripteron) sp. ほどは広がらない。殻口奥は青白い。蓋は石灰質で淡黄褐色だが、外縁に赤い角質が露出し赤く縁取られたように見える。
イシマキガイの生態 西太平洋沿岸の熱帯・温帯域に分布し、日本では本州中部以南の南日本で見られる。成貝は淡水・汽水生だが、両側回遊をするため小河川や離島の川でも見られる。幼体や成体は河川の中流から河口域にかけて生息し、岩盤・転石・コンクリート護岸に付着する。同じ科のカノコガイやヒロクチカノコに比べて淡水の影響が強い区域に多く、汽水域のみならず純淡水域にも進出する。また水から遠く離れて出歩くことはなく、潮が引いた河口域では水が残った澪筋や転石下に集まる。産地によっては高密度で生息することがある。岩石表面を這い、岩石に付着した微細藻類などの微生物が形成するバイオフィルムを歯舌で削り取って摂食する。淡水域ではカワニナなどと共にゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫に捕食される。
イシマキガイの生活史 成体は春から夏にかけて交尾し、メスは交尾後に岩石や他個体の殻表に直径1-2mm程度・扁平なドーム状・黄白色の卵嚢を産みつける。卵嚢の中には100個余りの卵が入っている。孵化したベリジャー幼生は海に流れ下り、植物プランクトンを摂食しつつ長期の浮遊生活に入る。充分成長したベリジャー幼生は河川の汽水域に遡上、着底後変態して幼貝となる。幼貝は黄褐色で模様も明瞭だが成長するにつれ黒味が増し模様が目立たなくなる。成長しながら河口を数km遡上したあたりの淡水域まで分布を広げるため、一般的には河川の上流に行くにつれ大型個体の割合が増える。
イシマキガイの人間との関係 観賞魚水槽の美観を損ねる藻類除去、いわゆる「コケとり」用のタンクメイト(水槽同居動物)として盛んに利用されている。ただし両側回遊の生活史を営むため、一般家庭での飼育下における繁殖は困難である。
11:30 info DELIの放送時間 毎週月~木曜日 11:30~11:55
セロジネの特徴 セロジネは東南アジアを中心に分布するラン科植物の群で、洋ランとして古くから栽培されてきた。大きな葉を持つ着生ランで、白っぽい花を穂状に垂らして咲くものがよく知られているが、形態的にはより多様である。学名は「へこみ」と「女性」を意味する2語からなり、これは柱頭が深く凹んでいることに由来するとされる。学名の読みとしてはコエロギネも有力だが、園芸ではセロジネが定着している。
セロジネの特徴 普通は樹上や岩の上に着生する常緑性の多年草。茎は捕捉横に這い、先端に偽鱗茎を生じる。偽鱗茎は肥厚した卵形などで、互いに接して生じるか、やや間を開ける。鱗茎の先端に1から4枚の葉をつける。葉は楕円形で、やや硬くて肉厚。花は偽鱗茎の先端に葉の展開と共に出るものと、偽鱗茎の基部から出すものがある。花茎には1花を付けるものから総状に多数花を付けるものまであり、花茎は立ち上がるものから下垂するものまである。また蕾は長い苞葉に包まれる。花茎の花は一斉に開花するタイプと次々に開花しながら花茎が伸び続けるタイプがあり、後者では数年に渡って伸び続ける種もある。花は小型ないし中型で色彩は白から緑が多いが赤みを帯びる種もある。唇弁には黄色や黒っぽい斑紋が入るものが多い。萼片は披針形から長楕円形、側花弁は萼片より幅が狭いものが多い。唇弁は三裂し、側裂片が蕊柱を包むように位置する。距はない。蕊柱は長くて側面に板状の突起がある。花粉塊は4個。
セロジネの分布 スリランカからインド、インドネシアを経てフィージー諸島に渡る分布域がある。
セロジネの分類 約150種が知られる。
宣材写真の背景 1年間限定という名目でスタートしたKUWATA BANDのデビューシングル。ジャケットでは「Ban BAN Ban」と表記されており、オリコンチャートでもこの表記でチャートインしていた。しかし作品内の表記や曲表記は「BAN BAN BAN」となっており、オリコンでも再発盤発売時には正式なものに修正されている。ちなみに本作のジャケットでは、アーティスト名義も“Kuwata Band”と小文字の混じった表記になっている。
共興村の村名の由来 本作はデビューシングルにして、4枚のシングルで最大の売り上げを記録している。また、本作発売当時はおニャン子クラブ全盛期などでランキングは毎週入れ替わっていたが、本作はオリコンチャート13週連続TOP20入りを果たした。オリコンチャートでは最高3位止まりだったが、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』では1位を記録し、通算5週にわたり1位を獲得した。また、同番組の年間チャートでも1位を記録している。年間ベストテン1位にてスタジオ出演した際には、1位を記念して、実際の演奏をゴールドディスクにライブ録音(演奏前には、司会者の「KUWATA BAND、年間ベストテン1位おめでとう!」とのメッセージ入り)し、ゴールドディスクはバンドにプレゼントされた。
AMDAの生涯 母マーガレットは娘の出産後間もなく死亡した 。父エイリーク2世はその後、のちのスコットランド王ロバート・ブルースの妹イザベルと再婚した。1286年3月19日、祖父アレグザンダー3世が44歳で全ての子に先立たれたまま急死した。そこで長老・重臣たちは、アレグザンダー3世の血を引くマルグレーテ(マーガレット)に白羽の矢を立てた。こうして、わずか3歳のスコットランド初の女王が誕生したが、マーガレットはノルウェーの王宮にとどまったままだった。隣国イングランドのエドワード1世(マーガレットの母方の大伯父にあたる)はスコットランド王位の継承権を狙って、4歳の王太子エドワード(後のエドワード2世)とマーガレットの結婚を迫った。スコットランドの長老・重臣たちにはこの要求をはねのけることができず、1290年3月に2人の結婚に同意することをエドワード1世に通知した。同年7月18日、スコットランド南部で結婚条件が取り決められたが、国境地帯にイングランド軍を配置するばかりか、スコットランドの王位継承権をイングランド側に移すという屈辱的な内容であった。結婚のためスコットランドに渡ることになったマーガレットを乗せた船が、ノルウェーのベルゲンからスコットランドを目指した。途中で大時化に遭いながらも、船は9月26日にオークニー諸島へ到着した。しかし、マーガレットは極度の船酔いで亡くなった。わずか7歳であった。マーガレットの死によってスコットランドのアサル王朝は断絶し、ジョン・ベイリャルら13人の王位請求者が乱立する事態となった。死から10年後の1300年、マーガレットを自称する偽マルグレーテがベルゲンに出現したが、ほどなく処刑された。
廈門駅の利用状況 鷹廈線、福廈線の終点であり、北京、上海等の各地へ始発列車があり、一日の発着する旅客列車は2010年5月現在各種別を含め80本を超える。2007年の出発旅客数は385.52万人、旅客収入は5.99億元であった。高崎駅(元廈門北駅・貨物駅)、集美駅、杏林駅及び前場駅の4駅を管轄する。
廈門駅の歴史 1956年12月19日、鷹廈線が完成し、本駅も建設された。次年の1957年1月6日に本駅に初めての列車である1本の貨物列車が上海から到着した。同年の4月12日に最初の旅客列車(客車列車)が到着し、三等客貨運総合駅として正式に営業を開始した。当時の駅面積は800m²で発着線は4本であった。1979年9月に本駅の拡張計画が鉄道部の認可を得た。次年の1980年5月に工事を開始し、1983年5月1日に使用開始した。新たな駅舎は4階建で、2つの待合ロビーと出札口、貸切及び貴賓待合室を含み建築面積は8,575m²である。1993年12月には鷹廈線の電化が本駅まで達した。1999年9月10日に一等旅客駅となり、2004年5月9日には南昌鉄路局直属の管轄となった。3本目のホームを増設する工事中である。2010年4月26日に福廈線が開業した。
西水橋町の地理 北側は富山湾に面する。
ミハイル・ボンダレンコの前半生 1903年9月8日(ユリウス暦8月26日)、ロシア帝国ヘルソン県エリザヴェトグラードの鍛冶屋の家庭に生まれた。地元の高等小学校を卒業して1917年から鍛冶屋見習いとして働き始め、その後「エリヴォルティ」農機工場の旋盤工を務めた。1919年末にコムソモールへ加盟し、同年から1922年まで工場のコムソモール文化部部長を務めた。1923年にはロシア共産党の党員候補となり、1925年1月に党員となった。1923年から翌1924年までは地元のクラブマネージャーとして働き、1925年から翌1926年までは党の工場委員会で煽動・宣伝部部長を勤めた。同年から翌1927年まではジノヴィエフスク管区 (uk) ソビエト執行委部長、同年から翌1928年まではウクライナ共産党コンパネーエフカ地区委書記、1929年には管区労組会議文化部部長、1930年には管区新聞編集者を歴任。同年から翌1931年までは、党ジノヴィエフスク市委文化・宣伝部部長を務めた。しかし同年にはトビリシへ送られ、1933年まで全連邦共産党ザカフカース地方委煽動・大衆キャンペーン部部長および副部長に就いた(この頃、ラヴレンチー・ベリヤと協同)。1933年から翌1934年まではアゼルバイジャン共産党バクー市委組織部部長、同年から翌1935年まではアジズべコフ市委第一書記、同年から翌1936年まではシャウミャノフスク地区委第一書記を務め、1935年からはアゼルバイジャン共産党中央委員候補にもなった。1936年2月には「石油計画の順調な実施」に果たした役割を賞して労働赤旗勲章を授与されている。
ミハイル・ボンダレンコのウクライナでの活動 しかしボンダレンコ自身はウクライナ人として祖国で働くことを望んでおり、同年にモスクワからハリコフでの勤務を打診された際には、これを了承した。そして12月4日から翌1937年7月まで、ボンダレンコはウクライナ共産党ハリコフ市委第二書記を務めた(実際には1936年10月から着任)。1937年7月から翌8月まではハリコフ州委第二書記に就いたが、大粛清の空席を埋める形で同月16日から翌9月までヴィーンニツァ州委第一書記を代行した。8月30日に開催されたウクライナ共産党中央委 (uk) 総会において、ボンダレンコは他の出席者に同調し、人民委員会議議長パナス・リュプチェンコについて「反革命的民族主義組織への関与は完全に立証されており、疑いの余地は一切ない」と非難した。そして8月30日にリュプチェンコが自殺すると、党中央委幹部会によって同日ボンダレンコは後任の人民委員会議議長、そして党政治局員 (uk) に就けられた。政府長としてボンダレンコは、「キエフ市のレーニン博物館 (ru) 建設について」(9月3日)、「1937年の綿の収穫について」(4日)、「馬の繁殖状況を改善するための措置について」(8日)、「ウクライナ果物トラストのウクライナ食品産業人民委員部への移管について」(21日)、「ウクライナの司法機関の施設および設備の提供について」(同日)、「地場産業人民委員部ハリコフ市木工所トラストの軽工業人民委員部への移管について」(25日)などの法令に署名し、また十月革命20周年記念式典へ向けた予算配分を指導した。その一方で、キエフのピオネール宮殿 (uk) に冠せられていたリュプチェンコの名を「人民の敵・反革命・民族主義者・スパイ」として削除させる決定にも関与した。
ミハイル・ボンダレンコの粛清 10月8日にボンダレンコは、人民委員会議と党中央委の合同決議に基づいてモスクワへ派遣されたが、13日に逮捕・投獄された。そして「石油産業で活動していた反ソビエト・トロツキズム・テロリズム・怠業組織」に加わっていた罪に問われた。ボンダレンコは「ソビエト権力の濫用と資本主義の回復を目的とするトロツキズム団体に1931年に徴募され、その中心人物であった」とされ、翌1938年1月27日にはウクライナ共産党政治局員を解任された。そして、翌2月8日に連邦最高裁軍事参議会の非公開審理によって資産没収および死刑の有罪判決を下され、10日にモスクワで処刑された。その後、ボンダレンコは1956年4月14日に名誉回復がなされた。
豆台風の名称の由来 1939年8月に関東地方に上陸した台風に対し、初めて「豆台風」の名称が用いられた。8月5日、中央気象台では関東の南東海上にあった大型の台風を警戒していたが、当日昼過ぎ、銚子の測候所から台風が上陸中との速報が入った。至急天気図を解析した結果、南東海上のものとは別の小さな台風が銚子に上陸したことがわかった。この時に中央気象台に勤務していた大谷東平らが新聞に「豆台風銚子に上陸」と発表し、その後広まったものである。大谷は、気象観測がはじまった明治時代から時折そのような台風が記録されていた事を著書で明らかにしている(例えば、『台風の話』岩波新書 1955年、等)。
豆台風の定義 一般には1960年代頃まで、暴風雨の起こっている範囲は狭いが、中心気圧は低く風も強く、また大雨を伴う場合もあり、小さいからと言って油断できない台風と理解されていた。しかし、現在用いられている台風の定義がおおよそ確定したのは1951年であり、台風の主な統計もそこを基準にしているため、それ以前から用いられている豆台風の用語については厳密な定義はなく、51年以降も新たな定義付けは行なわれていない。加藤茂数(かとう しげかず)は、『気象と災害』(1949年 三省堂)で、豆台風を直径200km以下の台風としているが、そこで言う直径が、暴風域か等圧線か或いは他のものであるかについては言及していない。1950年頃までは暴風域についても定義は明確ではなく、平均風速10m以上、20m以上などの値が用いられたし、大谷東平は『台風の話』においても、室戸台風の規模を示すのに平均風速5m以上の範囲を用いているという具合である。従って、豆台風の基準は明確なものではなく、恣意的に規模の小さい台風を指すものと考えるべきであろう。ただし、伊勢湾台風以後、気象庁では台風の規模と強度に関する階級区分を設け、規模については1000hPaの等圧線の半径が100km未満の台風を「ごく小さい」と規定したが、新聞で報道された台風関連の記事の中では、この「ごく小さい」台風を豆台風と表現した事もある。台風における「小さい」・「弱い」などの表現は誤解を招いて警戒心を弱め、災害につながる等の理由で、2000年からはこうした用語は用いられなくなった。豆台風という概念ができた要因の一つとして、特に第二次世界大戦以前は気象観測技術も体制も理論も不充分で、台風そのものへの理解が完全でなかった事が考えられる。と言うのは、特に第二次世界大戦後にアメリカ軍が飛行機によって直接かつ継続的に台風の観測を行なうようになって、台風の複雑な生態が明らかになり、その勢力と規模には決して強い相関関係があるのではない事実が明らかにされた。つまり、規模は小さいが強い勢力の台風もあれば規模は大きくとも勢力の弱い台風もあり、しかもそれらの間にも多数の移行型があって、豆台風が特殊なカテゴリーに属するものではない事が判明したが、それ以前はそうした事実がはっきりせず、豆台風という特別なものがあると考えられたものであろう。戦前は気象観測体制が不充分であった点も、豆台風の存在を印象付けたと考えられる。当時は、海上の気象資料を得る手段は船舶からの通報のみであり、規模が余りに小さい台風が船の航路から離れた海域を進んで来た場合はその存在を知る事もできなかった。名称の由来の項で述べた通り、当時は豆台風の襲来を事前に察知する事は極めて難しく、ほとんどの場合に不意討ちの形で上陸したため、大きな被害を出す例がしばしば見られた。
豆台風の発生原因 大谷東平は、気象予報官として幾つもの豆台風を観測した自身の経験や過去の記録を検証した上で、豆台風は台風の特殊な一群ではなく、通常の台風がその発生初期に取りうる普遍的な状態であろうとしている。すなわち、台風が発生し発達する時、中心気圧は急速に下っていくが、規模、例えば暴風域や1000hPaの等圧線の半径などはまだあまり大きくならず、狭い範囲に激しい暴風雨を伴うようになる。特に台風が日本のすぐ南の海上で発生した時には、規模が大きくなる前に接近・上陸する。それが豆台風として認識されるのであろうという事である。上記のような第二次大戦後の観測成果の充実によって、大谷のこの考えは大筋で正しい事がわかっている。個々の台風によって違いはあるが、多くの場合は中心気圧の低下が先行し、規模の拡大は気圧の極小を過ぎてから起こる。ただし、まれに暴風域等が極めて小さいまま衰弱・消滅する例もある。1973年の台風17号は、最盛期には中心気圧が895hPaまで達したが(『気象年鑑』1975年版)、暴風域は半径90km(当時のNHK第二放送の気象通報による)に過ぎず、そのまま衰えて消滅に至った。また、1950年には北太平洋高気圧の軸が非常に北に偏ったため、台風の発生海域も平年より緯度にして10度くらい北偏したが、そこでできた多くの台風が小規模・未成熟なままで日本に接近・上陸し、結果として豆台風の多発が見られた。
PEARL (アルバム)の概要 全曲、Joey Carboneとの共作で行った、新生PEARLとしての初のリリース作品は最大のヒット・アルバムとなった。「虚ろなリアル 〜Lay your hands on me, baby〜」は後に、リカットされる。
腔腸動物の概要 クラゲの仲間である刺胞動物とクシクラゲの仲間である有櫛動物は、厚い間充織と胃水管系(腔腸)を持つクラゲ型成体の存在や、体腔を持たないこと、呼吸器や排泄器を欠くことなど、共通の特徴を持つ。そのため、これらの動物を腔腸動物と呼び、1つの動物門とする立場が伝統的であった。腔腸動物のうち刺胞を持つものを有刺胞類、持たないものを無刺胞類として、2つの亜門に分類されていた。(腔腸動物が1847年にロイカートにより提唱されたときには、海綿動物も含まれていた)。ところが、有刺胞類(刺胞動物)と無刺胞類(有櫛動物)の間には大きな違いがある。刺胞動物は上皮細胞が筋肉の役割を兼ねた上皮筋細胞となり、1つの細胞に1本の繊毛があるが、有櫛動物の上皮細胞は多繊毛性で、筋肉細胞は上皮細胞とは別に中胚葉から生じる。刺胞動物は刺胞、有櫛動物は膠胞を持つが、これらは全く異なるものである。刺胞動物では複数の感覚器が放射状に並ぶが、有櫛動物は感覚器を1つしか持たない。有櫛動物の触手は櫛状だが、刺胞動物にそのような触手を持つものはいない。発生学的には、有櫛動物は決定性卵割を行うが刺胞動物はそうではない。分子系統学からは、刺胞動物と有櫛動物が単系統であることを疑う知見が得られた。これらの知見に基づき、刺胞動物と有櫛動物はそれぞれ独立の門とされるようになり、腔腸動物としてまとめられることは少なくなった。腔腸動物という語は有櫛動物を含む分類群ではなく、刺胞動物の別名として用いられることがある。
プライド (U2の曲)の解説 Warツアーのハワイ公演のサウンドチェックの際に曲の原型が出来上がり、サウンド・エンジニアのジョー・オハーリーが録音していたものを「The Unforgettable Fire」セッションの際に持ち出して、手を加えた。当初、歌詞は強硬な外交政策を採ってリベラル層から反感を買っていたアメリカ大統領ロナルド・レーガンを批判する内容だったが(「Pride」とはレーガンの傲慢なプライドの意味だった)、上手くいかなかった。「僕はある賢者の言葉を思い出した。『光で闇と戦おうとするな。ただ光を照らせ』とね。僕はレーガンを過大評価していたんだ」とボノは語った。その後、ボノはシカゴ平和博物館を訪れ、広島・長崎の原爆被害者が書いた絵とマーチン・ルーサー・キングの展示会を見てインスピレーションを受け、さらにキングとマルコムXの伝記を読んで、市民運動や暴力と非暴力を曲のテーマにすることを思いついた。そのアイデアを初めて聞いたとき、エッジは、アイルランドでは暴力が日常沙汰なのに非暴力をテーマにするなんてU2に相応しくないと思ったのだが、ボノが歌ってみせるとすぐに気に入り、その方向性で曲作りを進めることにした。「俺が……平和の体現者たちに興味を持つのは、自分が彼らのような人間ではなく、でも彼らのようになりたいと願っているからなんだ。実生活では僕は決して『もし右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい』なんて男じゃない」「自分が感情的になりやすいのにはうんざりするね。高い理想や大望についても歌っているし、マーティン・ルーサー・キング牧師とかジョン・ヒュームとか、平和主義者の人々に憧れてもいるのに……俺ときたら、暴力的なことだってやりかねない人間なんだ。自分の中でそういう感情が頭をもたげて、抑えきれずに誰かを殴ったら最低じゃないか」— ボノしかし、ボノは歌詞の出来には満足しておらず、後年、未完成に終わった「Bad」の歌詞とともに「単なるスケッチだ」と言い、「素晴らしい曲だとは思うけれど、一体なんの曲なんだい? ただ母音を連ねて偉大な人物を描写しているだけじゃないか。感覚的には素晴らしいアートだろう……もしも英語を話せれなければだけれどね」と腐している。 共作者のエッジもイーノもラノワも「感覚的」な人間で、歌詞にあまり重きを置いていなかった。しかも、実際キングが暗殺された時刻は午後6時にもかかわらず、歌詞は「Early morning, April 4」と誤って記されており、そのためライブでは「Early evening」と歌い直すこととなった。レコーディングは困難を極め、特にコーラスが上手く行かなかったのだが、ちょうどダブリンをライブで訪れていたプリテンダーズのクリッシー・ハインドがバッキング・ボーカルを入れ、ようやく完成に漕ぎ着けた。なお、クリッシーは当時シンプル・マインズのジム・カーと結婚していたため、クレジットでは"Mrs. Christine Kerr"と記されている。ブライアン・イーノは終始「Pride」(と「The Unforgettable Fire」)には関心を示さなかったが、レコーディング中にスタジオを訪れたスティーヴ・リリーホワイトは、 「『プライド』がある限り、君たちは大丈夫だ」とメンバーを励まし、実際にはU2の代表曲となった。後年、ボノは「僕たちが書いた中でもっとも成功したポップソングだ」と語っている。「僕は『ポップ』という言葉をもっともポジティブな意味で使っている。僕にとってポップとはわかりやすいということだ。聴けば、すぐに理解できる。本能で理解できるんだ。多くのアルバムは全然そんなんじゃないよ」と。 なお、キングの未亡人コレッタ・スコット・キングは、この曲がリリースされると、U2をアトランタのマーチン・ルーサー・キング・センターに招待、84年のアメリカ・ツアーの際にメンバーは訪れた。
プライド (U2の曲)のB面 「Boomerang I」「Boomerang II」「I」がインスト曲で、「II」がヴォーカル曲。アフリカ音楽を採り入れたTalking Headsと一緒に仕事をしたイーノのプロデュースということで、アフリカ音楽の影響を受けた曲である。ラノワがベース、イーノがキーボードを弾いている。素材以上のものではないが、B面曲には最適というのがエッジの感想である。「The Unforgettable Fire」のデラックス・エディション収録。
プライド (U2の曲)のライブ 「Pride」はライブの定番曲で、「I Will Follow」に次いで2番目にライブで演奏された回数の多い曲である。曲の終盤では、バンドは時に演奏を止めて、観客に最後のコーラスを歌わせている。また、ライブにスクリーンが導入されてからは、スクリーンにキングの映像を映すことが多くなった。09年1月18日のバラク・オバマ大統領の就任を祝賀して行われたコンサート『ウィ・アー・ワン:オバマ就任祝典』では、U2は「Pride」と「City Of Blinding Lights」を歌った。曲の最後、ボノは観客にキングの夢を問いかけた。その夢をイスラエル・パレスチナ問題に結びつけて、「イスラエル人の夢でもあり、パレスチナ人の夢でもある」と言った後、「アメリカ人だけの夢ではない。アイルランド人の夢でもあり、ヨーロッパ人の夢でもあり、アフリカ人の夢でもある」と言い、最後に「自由の鐘を鳴らせ! 自由の鐘を鳴らせ! 自由の鐘を鳴らせ! すべての村に、すべての部落に、すべての国に、すべての町に。自由の鐘を鳴らせ!」という有名なキングの「I Have a Dream」の演説の一節で締めくくった。しかし、ファンサイトのアンケートでは「ライブから外して欲しい曲」1位となっている。
PFCナフバホール・ナマンガンの歴史 クラブの歴史は1974年に「テクスティルシュチク (Tekstilshchik, ロシア語: Текстильщик)」というクラブ名で始まる。1978年以降、ソビエト連邦サッカーリーグのウズベキスタン地区リーグ (3部)に所属していた。1989年、ナフバホールはソビエト連邦リーグ2部へと昇格し、1991年には9位という成績を残した。ウズベキスタンが独立を果たした1992年以降、クラブはウズベク・リーグに参加している。ナフバホールはFCブニョドコル、ネフチ・フェルガナと並び、2部に降格していない3つのクラブの一つである。1996年、ナフバホール・ナマンガンはウズベク・リーグで初優勝を果たした。また、1999年にはウズベキスタン・スーパーカップでも優勝を果たしている。2004年シーズンの3位を最後に、クラブはウズベク・リーグでは良い成績を残せずにいる。2009年シーズンには16チーム中14位に沈み、下位2チームの降格枠を危うく免れている。
都シティ 大阪天王寺の概要 近鉄南大阪線・大阪阿部野橋駅に隣接する「阿部野橋ターミナルビル東館」に設置されたホテルで、JR西日本・天王寺駅東口の向かいに位置する。近畿日本鉄道(近鉄)が所有、子会社の近鉄ホテルシステムズが運営し、客室数は200室。会議室・宴会場、レストラン、ラウンジを有する16階建ての白亜の建物である。
都シティ 大阪天王寺の沿革 前身は1962年に国鉄天王寺駅の天王寺ステーションビル(同天王寺区悲田院町)の開業と同時に上層階にオープンした大阪都ホテルである。当初は客室95室と6つの宴会場、結婚式場を設けた施設であった。その後、1964年と1968年に増築が行われたことで151室となった。天王寺ステーションビルに大阪都ホテルを開設するに当たっては、近鉄もステーションビルへ出資したほか(現在は撤退)、運営会社として近鉄と都ホテルの共同で「株式会社大阪都ホテル」を設立している。1983年に上本町駅ターミナル整備に伴い、近鉄は同駅に隣接して高層ホテル「都ホテル大阪」を建設することになったのに伴い、当ホテルは大阪都ホテルから「天王寺都ホテル」に改称、運営会社名も「株式会社天王寺都ホテル」と改められた。近鉄は、阿部野橋ターミナル整備事業によりターミナルビルの増築工事が完成した(1988年)のに続き、新宿ごちそうビルを挟んだ東側にホテル棟となる東館を建設、1992年に現在の建物となる「天王寺都ホテル新館」が開業した。以後、天王寺ステーションビルの旧館(営業時は本館)と新館の2館体制であったが、2001年8月に旧館は閉鎖し、新館に集約した。2006年1月1日にスカイラウンジ「エトワール」のランチバイキングが全席禁煙となる。運営会社の株式会社天王寺都ホテルは1999年に近鉄ホテルシステムズ(初代)に営業譲渡し、天王寺都ホテル社はアール・イー・エム天王寺に称号を変更し2003年に清算した。近鉄ホテルシステムズ(初代)は2005年に吸収分割により近鉄に合併、ホテル営業は近鉄ホテルシステムズ(2代目・2015年4月に近鉄・都ホテルズに社名変更)。2019年4月のブランド再編で、名称を「天王寺都ホテル」から「都シティ 大阪天王寺」に変更した。
1961年ウィンブルドン選手権の参考記事 新浪網(中国語)「英記茶荘-変化をしながら老舗を守る」
マーチン・パールの略歴 ニューヨーク出身。両親はロシアのポーランド人居住区からのユダヤ人移民。1948年にブルックリンのポリテクニック大学(NYU タンドン・スクール・オブ・エンジニアリング)を卒業し、1955年にコロンビア大学で博士号を取得した。その後、ミシガン大学とSLAC国立加速器研究所(スタンフォード線形加速器センター)で働いた。現在は米国のための科学者と技術者のアドバイザリー委員を務めている。
TOHOシネマズ渋谷の渋東シネタワー 1991年(平成3年)7月6日、渋谷東宝会館は『渋東シネタワー』と改称し、4スクリーンに増設して再オープンした。「渋東」の名称は、かつてこの地にあった「渋谷東宝」に由来する。2006年(平成18年)9月30日までは、シネタワー1・2・4は東宝が、シネタワー3は2007年2月28日まで渋谷文化劇場が所有していたが、2007年(平成19年)3月1日よりTOHOシネマズに合併統合された。
TOHOシネマズ渋谷のTOHOシネマズ渋谷 2011年(平成23年)、開館から20周年を迎えた渋東シネタワーは大幅なリニューアル工事を実施。まず同年2月より上層階にあったシネタワー1と2を閉鎖・改装し、同年7月15日、TOHOシネマズ渋谷スクリーン1・2・3・4がオープン。次いで下層階のシネタワー3・4を改装し、同年11月30日にTOHOシネマズ渋谷スクリーン5・6がオープン。同時に全スクリーンの上映方式も長らく続いた35mmフィルム上映からデジタル上映へと移行した。これにより映画館としての渋東シネタワーは消滅することになったが、建物自体は引き続き渋東シネタワーの名称が使用されている。TOHOシネマズになってからは、東宝系の邦画・洋画のみならず、丸の内ピカデリー1・2・3で上映される松竹映画やワーナー・ブラザース映画も一部上映するようになった。
堺市立陵南中学校の沿革 学制改革と同時の1947年に、堺市(当時の市域)で最初の中学校9校のうちの1校「堺市立第八中学校」として開校した。開設当初は堺市立工業高等学校に本校を置き、堺市立深井小学校と堺市立東百舌鳥小学校の2ヶ所に分校を設置した。翌1948年には旧制堺市立百舌鳥高等女学校(現在の大阪府立堺西高等学校の前身校の一つ)跡に移転したが、1954年に元大阪府立大学教育学部跡の現在地に移転している。地域の人口増加に伴って生徒規模が過大化したため、当校から堺市立東百舌鳥中学校・堺市立中百舌鳥中学校・堺市立深井中学校・堺市立深井中央中学校の4中学校が分離開校している。
関東バス阿佐谷営業所の車両 関東バスで唯一、国産4メーカー全ての車両が揃っている。日産ディーゼル(現:UDトラックス)製の車両が主体だが、いすゞ自動車製の車両の割合も多く、エルガとエルガミオが所属している。いすゞ自動車製の車両は、以前は阿佐谷営業所のみに配置されていたが、現在は武蔵野営業所にも配置されている。その他、ごくわずかに日野自動車製のブルーリボンⅡも所属する。三菱ふそう製大型車は、日産ディーゼルのバス製造・販売が終了した2011年からエアロスターが導入されるようになり、当初は大型ワンステップバス1台(A1431号車)のみだったが、2017年7月に初めて大型ノンステップバス(2400番台)が配置されて以降徐々に数を増やしている。以前は関東バスの他の営業所と同様に3扉車が多く、1995年には日産ディーゼル車に混じり、いすゞ自動車製の3扉車として1500番台が2台導入されていた。1996年から1997年に同じく富士重工7EボディのキュービックLTも導入され、廃車まで他の営業所に転属することなく活躍していた。旧中野区コミュニティバス「なかのん」には、三菱ふそう製小型車であるエアロミディMEを使用していたが、現在は中型車との共通運用である。なかのん専用車はデザインも既存の関東バスのものと異なり、なかのんの愛称をデザインした専用塗装となっていたが、2012年に実施されたボディ更新に合わせ、既存の関東バスと同様のカラーに変更となった。旧なかのん専用車の中には他の営業所に転属して、狭隘路線用として使用されている車両もある。2014年11月17日より、ご当地ナンバー第2弾のうちの一つとして杉並ナンバーが発足したのにともない、同日以降の新車および他営業所からの転入車は、これまでの練馬ナンバーから杉並ナンバーでの登録となる。
伊藤伸の略歴 1978年生まれ。北海道本別町出身。北海道帯広柏葉高等学校、同志社大学法学部卒業。同志社大学在学中より、衆議院議員秘書を務め、卒業後に参議院議員秘書を歴任。2005年より日本に真に必要な政策を「民」の立場から立案・提言、そして実現するため、非営利独立のシンクタンクとして活動を行う構想日本に政策スタッフとして参加し、2008年より政策担当ディレクターとなる。2009年より内閣府行政刷新会議事務局参事官として入府し行政改革全般や行政刷新事務局のとりまとめ等を担当。2013年2月、内閣府を退職し構想日本に帰任(総括ディレクター)。2013年9月より法政大学非常勤講師(NPO論)を務める。2015年7月よりNPO法人「NPOサポートセンター」理事就任
北条氏邸・円成寺跡の概要 鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の本貫地(平安時代 - 鎌倉時代)の居館跡である。北条氏滅亡後(室町時代初期)は北条高時の母である覚海円成が一族の女性たちと共に韮山の地に移り住み、一族の菩提を弔う寺院「円成寺」を建立した。室町時代には関東管領の上杉氏の娘などが尼僧としてこの寺に入っていたが、寛正元年(1460年)にそれまで御所としていた国清寺を火災で失った堀越公方足利政知が円成寺を接収して御所とした。この時、大幅に寺域が縮小したとみられる。その後、廃寺となった。伊豆の国市教育委員会により、史跡整備のための発掘調査により、非公開である。入口は狩野川沿いにあるが、調査中のため立ち入り禁止となっている。入口の南側にある守山登山道を途中まで登ると、林越しに中の様子を見ることができる。2007年現在、発掘調査は休止しており、調査地区は砂で埋め戻されている。2007年春に守山登山道入口脇に案内看板が設置され、調査の概要や全景写真などが掲載され、紹介されている。
北条氏邸・円成寺跡の円成寺の遺構 いくつかの建物の跡と、それぞれを区切る区画溝、池の跡などが検出されている。
北条氏邸・円成寺跡の北条氏邸の遺構 現在、調査中のため詳細は不明。
エフオンの概要 企業等の省エネルギー支援サービス事業を行うほか、グループ会社で木質バイオマスや太陽光をエネルギー源とする発電事業を行っている。
エフオンの社名の由来 旧社名ファーストエスコのFとEの2文字と、事業継続のONを合わせたもの
総販 (システム)の概説 総販は、JR北海道のみどりの窓口やツインクルプラザ(旅行センター)を支えるオンラインシステムで、JR各社で使用されるマルスシステムとは別の、JR北海道独自のシステムである。発券に係わるシステム部分がマルス端末内の一部として、コンピュータのメインメニューに組み込まれている。JR北海道のマルス端末で発券した乗車券類のデータは、全て総販のホストコンピュータに登録され、乗車券類の券番号からデータの照会等を行える仕組みになっており、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要のない、自社(JR北海道)完結商品の発売の際に利用される(後述)。