text
stringlengths 7
29.6k
|
---|
総販 (システム)の販売端末 通常、みどりの窓口に置かれている端末は「販売端末」と呼称されるものである。マルス端末のメインメニュー内にある「個別業務」という項目が総販に当たる(それ以外はマルスシステム)。その「個別業務」という項目はさらに「鉄道業」「共通業務」と二つに分別される。また、これとは別に旅行業を取扱う画面を持っている。 |
総販 (システム)の鉄道業 鉄道業画面は、乗車券類を発券するのに使用する。乗車券、自由席特急券、定期券、回数券、特別企画乗車券、イベントチケット(イベント券)、契約乗車票(JR各社では「マル契」と呼称)等、自社(JR北海道)完結商品は総販を使用し発券されるが、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要が生じる他社関連の乗車券類、また自社完結であっても指定券の発券は総販では取扱っていないので、マルスシステムからの発券になる。総販では他に、東京モノレール等の船車券の発券もできる。総販で発券された乗車券類は、JR他社において正式に認められているものではないので、自社完結商品しか発売することができない。他社関連の契約乗車票は、東日本旅客鉄道(JR東日本)に係わるものはマルスシステムから発券できるが、それ以外の他社に係わるものに関しては手書きで発売された契約乗車票が使われる。なお、マルスシステムから自社完結商品を発券することもできる。 |
総販 (システム)の共通業務 共通業務画面では、端末を操作する係員が誤って発券した乗車券類、また乗車券類の変更(乗車変更)によって使われなくなった旧券を処理する「控除」や、払戻しに係わる操作に使用する。 |
総販 (システム)の旅行業 旅行業画面では、旅行のパッケージ商品(JR券、宿泊券がセットになった商品等)や、エスコート(添乗員同行)商品の発売が行われる。東京モノレールを除く船車券を発券する際にも使用する。旅館券(宿泊券)、観光券や航空券の発券にも使用するが、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要が生じるものは旅行業画面を使用しない。 |
総販 (システム)の後方端末・情報端末 総販はマルス端末(販売端末)の他、PC端末を用いた「後方端末」「情報端末」から構成されている。 |
総販 (システム)の後方端末 後方端末では、販売端末や自動券売機等の収入を精算(締切)した際に必要になる帳票類の印刷等に使用する。エスコート商品(旅行業)での旅行人員管理等も後方=端末を使用する。 |
総販 (システム)の情報端末 情報端末では、営業成績の閲覧や、そのデータの印刷等に使用する。 |
総販 (システム)の乗車券類の券面表示 総販で発券された乗車券類券面の左下部分には、四角形で囲まれた「総販」という文字が印字される。券番号は、マルスシステムで発券した乗車券類は数字が7桁(5桁-2桁)に対し、総販は10桁(4桁-4桁-2桁)である。総販では、券番号の最初の1桁にチェックディジット(乗車券番号を7で割った余りが表示される)、次の3桁が総販端末番号、次の4桁が乗車券番号(操作通番)、最後の2桁が乗車券番号の枝番号になっている。なお、マルスシステムでは最初の1桁がチェックディジット、次の4桁が乗車券番号、最後の2桁が乗車券番号の枝番号である。また、総販で発券された乗車券類券面の右下部分には「N」の文字と、それに続き3桁の数字が印字されている。これは「N符号」と呼ばれるもので、総販の収入管理日を示すものである。日中にその日の収入の精算を行う場合、精算後に発券される乗車券類は、精算前に発券された乗車券類と日付は同日であっても、N符号は異なる。また、次の日に精算を行うまでは日付が変わっても、N符号は同じということになる。 |
総販 (システム)の簡易委託駅発行 総販では、簡易委託駅で販売する乗車券類の発券も可能である(発券できる駅は限定されている)。この場合、券面に表示される駅名の前に、丸で囲まれた「ム」という表示が付加される。また、発券した駅(発行箇所)の駅名印字部分には、丸で囲まれた「簡」という表示が付加される。発券に際しては、簡易委託駅を管理する駅(管理駅)に受託者が必要枚数を頼んだ上で発券される。この券面には、発行日の部分は管理駅における発券日が印字されているが、乗車券類の使用開始日は空欄にされている。使用開始日欄は、受託者がゴム印(日付印)を押印して使用開始日を表示する。乗車券においては、通常の乗車区間表記の他に金額式表記(「-円区間」と表示)のものもある。 |
総販 (システム)のクレジットカード決済 マルスシステムでは、販売端末の画面上部にある「クレジット」ボタンを押下することによって、乗車券類を発券したと同時に旅客のクレジットカードで決済できる機能が備わっているが、総販に同様の機能はない。クレジットカードの決済で総販の乗車券類を販売する場合、係員は総販の乗車券類を発券した後、マルスシステムに備わっている「CS金額入力」(「CS」とはJR各社で呼称するクレジットカードの意)画面から、販売する金額を手入力で打ち込み、旅客のクレジットカードで決済の操作を行う必要がある。この際、係員は旅客がクレジットカードで乗車券類を購入したことを券面に明示する必要があるので、券面に「C制R---」と印された判子を押捺する。「C制」とは旅客がクレジットカードで乗車券類を購入したことを表し、変更や払戻しに一定の制限があることを示している。「R---」とは、乗車券類を払戻す操作を行う際に必要な3桁の数字が入る通番のことである。なお、ツインクルプラザ(旅行センター)ではマルスシステムの機能を使わず、G-CATやCATT端末が使用される。 |
新港東口駅の概要 富山新港の建設により射水線が東西に分断され、西側が加越能鉄道に譲渡された後、射水線の新しい終着駅として開業した(旧・堀切駅の復活)。駅名は富山新港の東側に位置したことに由来する。対岸の加越能鉄道(当時。現・万葉線)新湊港線越ノ潟駅との間は富山県営渡船により結ばれていた(渡船は現在も運航中)。 |
新港東口駅の駅構造 廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅で、同線の終端駅であった。ホームは線路の南側(新港東口方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有した。使われなくなったホーム南側の2番線は廃止され、線路は撤去されていた。稼働線の1番線の番線表示は継続使用されていた。業務委託駅となっていた。駅舎はホームの南西側に位置しホーム西側に接していた。ホームは上屋を有した。 |
新港東口駅の駅跡 線路跡は四方駅跡南方附近から当駅附近までサイクリングロードとなっている。1997年(平成9年)時点では、線路跡地はそのサイクリングロードであった。2006年(平成18年)時点、2010年(平成22年)時点でも同様であった。駅跡地は1997年(平成9年)時点では縫製工場、サイクリングロード、並木のある緑地となっていた。2006年(平成18年)時点、2010年(平成22年)時点でも同様であった。尚、駅舎跡地が縫製工場、旧2番線及びホーム跡地がサイクリングロード、線路跡地が並木のある緑地という位置関係であった。また、2006年(平成18年)時点では、駅跡の西側、海岸附近に「堀切鉄橋」の橋台が残存し、防波堤を越えた海中にも鉄橋の橋脚が1基残存していた、2010年(平成22年)時点でも同様であったが2013年7月に隣接する堀切橋跡とともに撤去された。。 |
ヘムスリンゲンの位置 ヘムスリンゲンはローテンブルク (ヴュンメ)の南東約14kmに位置する。この町を構成する2つの集落の間をブルーフヴィーゼンバッハ川が流れている。この町の最高地点は海抜52.8mのホラーベルクである。 |
ヘムスリンゲンの町の構成 ヘムスリンゲンの町はヘムスリンゲンとゼーリンゲンの2つの集落からなる。 |
ヘムスリンゲンの議会 この町の町議会は11議席からなる。 |
ヘムスリンゲンの紋章 銀の斜め波帯で二分割。向かって右上は緑地に白黒で描かれたヨシ葺き屋根の2階建ての寄棟造の木組み建築。向かって左下は、赤地に白黒で描かれた切妻屋根と互いに垂直に並んだ小窓を持つ4階建て木組み建築。 |
ヘムスリンゲンの経済と社会資本 この町の地中に天然ガスがある。ヘムスリンゲン周辺地域はドイツ最大の天然ガス田である。 |
明石家ウケんねん物語の番組概要 2001年9月まで放送されていた明石家さんま司会の『明石家マンション物語』をリニューアルした番組。番組の方向性自体は受け継いだものの、コーナーは総入れ替えとなったためタイトルを変更した。しかし視聴率が1桁台に低迷し半年で終了することとなった。後番組は、同じ水曜日の23時台に放送されていた『ココリコミラクルタイプ』を内包した『水10!』。 |
復興特別税の概要 東日本大震災からの復興に当てる財源の確保を目的として所得税、住民税、法人税に上乗せするという形で徴収される。所得税は2013年(平成25年)1月1日からの25年間、税額に2.1%を上乗せするという形で徴収される。法人税は2012年(平成24年)4月1日以降から始まる事業年度からの2年間、減税をいったん実施した上で、税額の10%を追加徴収する。住民税は2014年度(平成26年度)から10年間、年間(給与から天引きの特別徴収では6月から翌年5月)1,000円引き上げる。個人所得税が25年間であるのに対し法人税はわずか2年間である。税の使途は被災地に限定しており、政府はこれらの増税で10.5兆円を捻出する予定。なお、復興特別たばこ税の導入が検討されたが、結果取り止めになった。 |
復興特別税の復興特別法人税 2012年(平成24年)4月1日から2014年(平成26年)3月31日までの2年間の事業に対し課税される。当初は3年間の予定であったが、2013年(平成25年)12月2日、自民党・公明党の両党は与党税制協議会で、復興特別法人税の1年前倒し廃止を正式決定し、平成26年の税制改正法(所得税法等の一部を改正する法律(平成26年法律第10号))の成立により短縮が法的に確定した。 |
復興特別税の住民税 2014年(平成26年度)から2023年(令和5年度)まで10年間にわたり、住民税の均等割に対し、道府県民税、市町村民税を各500円(総合計1,000円)を加算する。 |
復興特別税の問題点 成人書籍の電子化や地方アイドル、無人島への防潮堤工事など復興とは関係の無いまたは薄い事業や自治体などに税金が流用されていることが発覚している。 |
兒玉怜の活動履歴 baroque、kannivalismとしての活動は、それぞれの記事を参照。 |
トモコトラフシジミの形態 前翅長は17-19mm。翅表は R. zamona に似るが、翅裏は多少とも緑色がかる。 |
トモコトラフシジミの生態 一年を通じて見られるので、発生は多化性と思われる。飛翔は活発だが、しばしば葉上に飛来し休止する。 |
ロベルト・ラデッケの略歴 現在のポーランド・ドルヌィ・シロンスク県ジェチュモロヴィチェ(Dziećmorowice、ドイツ語名:ディトマンスドルフ・バイ・ヴァルデンブルク)に生まれる。兄は高名な作曲家ルドルフ・ラデッケ。シュテルン音楽院院長、またベルリン宮廷歌劇場総監督としてドイツ楽壇に重きをなす。指揮者ブルーノ・ワルター、作曲家ゲオルク・フォラートゥーン、同じく作曲家カミッロ・シューマンの師である。ヴェルニゲローデに没した。 |
サムピックの歴史 最初のアイルランド伝統音楽の全国規模のフェスティバルは1951年にマリンガー(Mullingar)で開催された。1951年9月に開かれた最初の会議で、CCÉはこのフェスティバルが全国的な伝統音楽イベントになることを目指してフラー・キョールという名を命名した。フラーはこれまでアイルランド島内の様々な土地で開催されてきている。年々出演志望者の数が膨らんでいったことに伴って、州(county)や地方の単位で適切なステージが整えられている。さらに、フラー・ヌア(Fleadh Nua (「新しいフラー」の意味。毎年5月にエニスで開催される))、Fleadh na Breataine (All-Britain fleadh) とグレートブリテン島内地域本部毎のフラー、アメリカでの2つの主要なフラーは、どれもCCÉの毎年恒例の行事になっている。始まった当初より、フラー・キョールの目的はコンクールを通じてアイルランド伝統音楽の標準を設けることにあった。フラーは主にコンクールとして発展したが、多くのコンサート、ケイリー、パレード、そしてセッションも同時に開かれている。50年近く経過した今日、フラーは各々のレベルで伝統を受け継ぐ何千もの 音楽家、歌手、ダンサーへ舞台と出会いの場を提供している。2万前後の出演者が毎年フラーで競い合っている。最大のフラーは2013年デリーであり、43万人が楽しんだ。 |
ジェームズ・C・コリンズの経歴 フラー・キョールの開催を希望する町や都市は数種類の申請書類をArdchomhairle an Chomaltais (CCÉ.内部の最高委員)へ提出する。Ardchomhairleは申請された町とその立地条件を精査する。その後、前回のフラーの数週間後、通常は9月に最終決定が行われる。 一度フラー・キョールのホストに選ばれた町は、2年続けてホストの役割を引き受ける。しかしながら、CCÉ はどんなフラーの成功した町についても2年目の開催に対する拒否権を有する。たとえばその町の開催1年目に土地の貧弱さや組織的な問題などが明らかになった場合がそのようになりうる。北アイルランドでは、2013年にデリーで初めてフラーが開催された。なお、デリーでフラーが開催された大きな理由の1つに、 イギリス文化都市2013に選ばれていたことが挙げられる。 |
小田中古墳群の概要 コリンズは、祖父であり彼の名前の由来にもなったジミー・コリンズによって書かれた自伝『テスト・パイロット』(Test Pilot, Doubleday, Doran & Co., 1935年)を再出版した。ジミー・コリンズは1930年代にグラマン社(Grumman military aircraft company)のチーフ・テスト・パイロットを務めており、1938年に公開されたこの書籍の映画版『テスト・パイロット』ではクラーク・ゲーブルが彼を演じた。ジミー・コリンズはF3複葉機のテストにおけるクラッシュで死去した。この事故の前、彼は死を予見し、それを説明していた。 |
善能寺 (鶴ヶ島市)の歴史 親王塚古墳については、椀貸伝説がある。その中で、貧しい村人たちが小田中の親王塚の頂上にある小穴に膳椀衣装などの借用を頼めば、翌朝揃えてあった。しかし借りたまま返さない者がいたため、それからは貸してくれなくなったと伝える。 |
サスイクコリ湖の交通アクセス 東武東上線坂戸駅から車で5分 |
武蔵増戸駅の駅構造 サスイクコリ湖(カザフ語: Сасықкөл)は、カザフスタン東部、46°35′0″N 81°0′0″E付近にある湖。面積600 km²(高水位時)、水深平均3.3m、最大4.7m。漁業が行われている。コブハクチョウ、オオハクチョウ、ヘラサギが生息する。湖はアラコル生物圏保護区の一部となっている。 |
アバディーン (メリーランド州)の地理 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅だが、うち1線はホームに柵が設置され客扱いはできない。駅舎側が単式ホームの1番線で、島式ホームの内側が2番線である。島式ホームの外側に柵で仕切られた線路がある(上り1番線)。ホーム間はエレベーターつき跨線橋で結ばれている。ホームは最長6両対応に対して、屋根は約3両分に留まる。JR東日本ステーションサービスが業務を受託する業務委託駅で、拝島駅が当駅を管理している。駅舎内部には自動券売機や自動改札機が設置されている。2006年にみどりの窓口が廃止され、その代替として「もしもし券売機Kaeruくん」が設置されたが、2012年1月30日をもって営業終了し撤去された。 |
破門のユダヤ教 アバディーンには、アメリカ陸軍のアバディーン性能試験場 (Aberdeen Proving Ground, APG) がある。実験場は議会の法によって確立され、1918年1月に施行された。APGは、ハーフォード郡の72,500 ac以上の面積を占める。アメリカ陸軍試験評価コマンド (Army Test and Evaluation Command, ATEC) の司令部やアメリカ陸軍武器科の武器科長官房局がある。APGには7,500人以上の民間人と5,000人の軍人が勤務している。2005年に発表された基地再編閉鎖プログラム (Base Realignment and Closure, BRAC) によって、APGは軍人3,862人分と民間人290人分の職とともに武器学校及び関連研究開発施設を失うことになっており、これらはバージニア州フォート・リーへ移転することが計画されている。逆に、ニュージャージー州フォート・モンマスから軍人451人分と民間人5,661人分の職を得るため、アバディーン性能試験場はBRACプログラムで差し引き軍人3,411人分の仕事の減少が、民間人5,371人分の仕事の増加が生じることになる。 |
アーサー・タンズリーの抗争への発展 親組織から子組織に対して、又は組織間相互において破門ないし絶縁の処分が行われることは、ヤクザの世界においては一種の宣戦布告であり、そのまま抗争へと至ることが多い。実際に起こった例として、1984年(昭和59年)から1989年(平成元年)まで続いた山口組と一和会の抗争(山一抗争)は、山口組総本部が一和会に対して出した義絶状と呼ばれる文書に端を発する。また、山一抗争の終結直後に起こった五代目山口組総本部と竹中組の抗争(山竹抗争)は、総本部が竹中組組長ら4人について幹部一同の名義で「今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする事実上破門の義理回状を出したことがきっかけとなっている。近年では、六代目山口組総本部から分裂した初代神戸山口組に対して総本部が、また神戸山口組からさらに分裂した任侠山口組に対して総本部と神戸山口組が、それぞれ参加した組や幹部らを絶縁や破門などとする措置をとっている。 |
会者定離の略歴 ロンドンに生まれた。父親は成功したビジネスマンで、ボランティアとして教育のために熱心に働いた人物である。1889年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学び、動物学者のレイ・ランケスターや植物学者のフランシス・ウォール・オリヴァーの影響を受けた。1890年からケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだ。1894年に学位を得た。1900年から、セイロン、マレーの調査を行い、1902年に学術誌、"The New Phytologist"(Phytologistは「植物学者」)を創刊し、1931年まで編集・発行を続けた。1907年にケンブリッジ大学の植物学の教授となり、1911年に、"Types of British Vegetation"を出版した。1913年にイギリス生態学会(British Ecological Society)を設立し、初代の会長を務めた。1917年に"Journal of Ecology"を創刊した。1927年から1937年の間、オックスフォード大学の植物学の教授を務めた。1929年にニューヨークで開かれた、国際植物科学会議を組織した。 1915年に王立協会のフェローに選ばれ、1923年に英国科学振興協会の植物学部門の長に選ばれた。1936年にドイツの科学アカデミーレオポルディーナの会員に選ばれた。1941年にロンドン・リンネ協会からリンネ・メダルを受賞した。タンズリーは生態学を、外部環境との関係および生物どうしの関係を研究対象とし、擬人的な"community"という用語にかわって、生態系("ecosystem" )という用語を使うことを提唱した。生物群集の遷移の最終段階で見られる平衡状態の極相に関して、フレデリック・クレメンツの同一の気候帯であれば、最終的には単一の極相に至るとする単極相説に対して、タンズリーは地形等の条件によって異なった植生が成立とするを多極相説を主張した。 |
京阪石山坂本線の概要 仏典のひとつである遺教経の文章が原典。日本では四字熟語として有名だが、本来は「生者必滅会者定離」でひとつの意味をなしている。命あるものは必ず死に、出会った者は必ず別れることになるという意味。 |
松田治の歴史 石山坂本線は大津電車軌道によって開業した。最初の開業区間は大津(現:びわ湖浜大津) - 膳所(現:膳所本町)間で1913年3月1日のことだった。これは官設鉄道東海道線として建設され、前日まで国鉄が大津線として旅客営業をしていた大津 - 馬場(現:膳所)間を電化および三線軌条化したものである。国鉄大津線当時の途中駅は石場駅・紺屋関駅の2つであったが、大津電車軌道開業時には大津・紺屋ヶ関・島ノ関・石場・馬場駅構内・馬場駅前・錦・膳所の8つの停留所が設置された。以降、膳所から順次延伸され、1914年には浜大津 - 石山(現:石山寺)間が開通した。石山から先、南郷まで特許を取得していたが風致上の関係で着工は難航し1915年に失効。京阪電気鉄道に合併されるまで螢谷 - 石山寺間にモーターボートを運航して連絡していた。大津電車軌道は1927年に太湖汽船と合併して琵琶湖鉄道汽船となり、同年に石山 - 坂本(現:坂本比叡山口)間が開通した。またこの年、後に近江鉄道八日市線となる湖南鉄道を合併している。これらは琵琶湖に勢力を拡大していた京阪電気鉄道への対抗策として行われたものであった。三井寺 - 坂本間の路線は高速電気鉄道を指向した設計で、将来は堅田から草津まで琵琶湖南岸を半周する路線とすることをめざしていた。車両も路面電車規格ではなく郊外電車規格の100形が用意された。しかし、期待に反して坂本延長線は乗客がきわめて少なく、投資が回収できなかったことから、1929年に湖南汽船の仲介もあり京阪電気鉄道の傘下に入ることになり、旧・湖南鉄道の鉄道路線を八日市鉄道に、汽船部門を京阪系の湖南汽船から改称した太湖汽船(現:琵琶湖汽船、前出の太湖汽船とは別)に譲渡して京阪電気鉄道に合併、同社の石山坂本線となった(坂本駅からの堅田方向への未成区間0.4kmは1930年6月25日付けで事業廃止された)。合併後は石山方面と直通し、持て余していた100形は京阪本線に転属し800型(初代)となった。800型は京阪最後の木造車として京阪本線や晩年は交野線で使われ続け、廃車されるまで大津の地に戻ることはなかった。廃車後機器類が石山坂本線用に新造された350形へ流用され、復帰を果たした。1997年、京津線の京都市営地下鉄東西線乗り入れ開始に伴い、石山坂本線も架線電圧を1500Vに昇圧した。 |
小笠原瑛作の来歴 松田 治(まつだ おさむ、1940年 - 2006年)は、日本の古典古代文学者。 奄美大島生まれ。東京教育大学文学部卒業。東京大学大学院西洋古典学修士課程修了。流通経済大学教授、つくば国際大学教授。 |
ハイクビジョンの概要 2001年に創立。当初はハネウェルなどの外国製品を製造するも2007年から海外進出を始め、アメリカ同時多発テロによって高まった治安対策の需要を取り込み、2011年から2017年にかけて世界最大の監視カメラメーカーとなり、2017年時点の世界シェアは38%ともされた。2010年代からアメリカ合衆国でもシェアを伸ばし、アメリカ合衆国の警察やアメリカ国防兵站局も導入し、カリフォルニア州職員退職年金基金などのアメリカの公的年金基金も投資を行っていた。2018年に米中貿易戦争を受けて成立した2019年度国防権限法によって同じ中国企業で監視カメラ世界シェア2位のダーファや通信機器世界最大手のファーウェイなどとともにアメリカ合衆国の政府調達から排除されたが、政府調達の禁止後も米フロリダ州の海軍基地が購入し、ピーターソン空軍基地など複数の米軍基地では撤去されていなかったことが問題となった。2019年10月にはアメリカ合衆国商務省産業安全保障局が新疆ウイグル自治区の人権侵害(天網)への関与を理由にハイクビジョンやAI企業のセンスタイムなど28法人への米国製品の輸出をエンティティ・リスト(禁輸措置対象リスト, EL)によって禁止した。中国政府直轄の中国電子技科集団(zh:中国电子科技集团、通称:CETC)の子会社が所有する企業である。 |
アマダレガイの分布 会長の陳宗年(zh:陈宗年)は中国共産党員で、全国人民代表大会にも参加。 |
水口大地の独立リーグ時代 特に知られていない。 |
福井県道103号福井三国線の選手としての特徴・人物 独立リーグ時代で50メートル走のタイムは5秒8。長崎セインツ時代から香川オリーブガイナーズ入団時には打席を両打ちとしていたが、その後左打ちに専念し、香川2年目および西武入団時は左打ちとして登録されている。憧れの選手は、俊足の二塁手という共通点がある片岡易之。非常に小さい体つきだが力強い打撃も持ち味としている。身長を高校時代は171cm、西武入団時は165cmとサバを読んで登録していたが、3年目開幕前には実際の高さである163cmに修正した。 |
ブラチスラヴァ空港の概要 起点付近および終点付近は片側1車線の確保されだが、途中2か所九頭竜川の堤防上を走る区間があり、ここでは1.6車線程度の若干の狭路となる。離合に困るほどではないが、ワンボックスカーなど車体の大きい車と普通車が離合しようとすると道幅いっぱいになってしまう。また堤防上の区間は増水の際には通行止めとなってしまうため、その際は並行する福井県道106号を利用するのが望ましい。 |
ディエゴ・コリャードの檀特山 太子町と姫路市にまたがる標高165.1mの山。山頂にある大きな岩には伝説があり、岩のくぼみは応神天皇の御沓・御杖の跡、または聖徳太子が馬に乗って登り修行をした時についた蹄の跡と言われる。詳細は檀特山を参照。 |
2003年のバロンドールの金融 指定金融機関:兵庫西農業協同組合 |
エジプト末期王朝の第26王朝 ネドベドはチェコ国籍として初めての受賞者である(チェコスロバキア国籍としては1962年のヨゼフ・マソプストがいる)。ユヴェントス所属の受賞者は1961年のオマール・シボリ、1982年のパオロ・ロッシ、1983年と1984年と1985年のミシェル・プラティニ、1993年のロベルト・バッジョ、1998年のジネディーヌ・ジダンがおり、ネドベドは6人目の受賞者である。 |
スペシャル・ブロードキャスティング・サービスの多言語放送 第31王朝の第2アケメネス朝があった。(紀元前343年-紀元前332年) |
酒井了明の人物 ラジオ放送は68言語で行っている。1週間に1時間、オーストラリア内での使用者数の多い言語にはさらに多くの放送枠が与えられる。ラジオ番組はシドニーとメルボルンからそれぞれ半数の言語の番組を制作・生放送する。時差で遅れる地域には現地時間に合わせ、録音放送する。テレビ放送はシドニーで制作・送出されている。連邦首都キャンベラと各州都にはスタジオがある。テレビニュース "Worldwatch" は日本、香港特別行政区、中華人民共和国、フィリピン、イタリア、ドイツ、スペイン、フランス、ロシア、ギリシャ、ドバイ、インドネシア、アメリカ合衆国、ハンガリー、韓国、チリ、マルタ、ポーランド、ウクライナなどからのニュース番組を録画放送する。英語字幕はついていない。英語圏以外からのテレビ番組、映画を購入し、英語字幕または吹き替えて放送する。英語版を共同制作して放送することもある。 |
門田守人の経済 米、バナナ、パイナップル、芋、砂糖黍、ソルガム等の農業が中心である。 ダイアモンドや錫石等の鉱物資源も豊富である。 国内大都市からの輸入に大きく依存している。 |
1954年のロードレース世界選手権のシーズン概要 1954年シーズンは前年同様の全9戦となったが、フランスGPの開催地がルーアンからランス・グーに変更になり、前年コースの安全性を巡ってボイコット騒動が起きたドイツGPはショッテンリンクから一昨年までのソリチュードに戻った。また第3戦アルスターGPの500ccクラスは悪天候のために179kmを走ったところで中断され、レース成立に必要な最低走行距離200kmに満たなかったために選手権ポイントの対象から除外された。各クラスの勢力図は前年からほとんど変化がなく、全クラスで前年と同じメーカーのマシンが、そして250ccから500ccまでの3クラスで前年と同じライダーがチャンピオンとなっている。伝統的にマン島にはワークスとして出場してこなかったジレラは、この年初めてマン島にワークス・チームを送り込んだ。前年にデビューしたBMWのストリームライナーに端を発し、各メーカーがオートバイの空力に関する試行錯誤を始めたのがこの年である。この流れをリードしたのはファクトリーに風洞を持っていたモト・グッツィで、前年の終わりにデビューした新型4気筒マシンはダストビン・フェアリングと呼ばれるカウリングでフロントホイールまで包み込まれていた。カウリングを使用することに無関心だったAJSを除くMVアグスタやNSU、ジレラ、ノートンといった他のメーカーもこの流れに追従して様々な形状のカウリングをテストし、NSUのイルカのくちばしが突き出たような形状のカウリングはドルフィン・フェアリングの異名をとった。タイトルを獲得したジレラの500ccマシンは、ダストビン・フェアリングの効果もあって最高速度240km/hに達していた。まだまだレーシングマシンとしてのスタンダードと言えるようなメカニズムは確立されておらず、各社は空力以外でも様々な試みを繰り返していた。モト・グッツィは2レースで4気筒の500ccマシンを走らせたが、やがて単気筒に戻していた。ノートンはそのモト・グッツィが350ccで成功していた水平単気筒エンジンを試作したが日の目を見ることはなかった。NSUの単気筒125ccや2気筒250ccは12,000rpm以上の回転数を実現している。その一方でシーズン中に主任設計者を失ったノートンとAJS、そしてエースライダーを事故で失ったNSUがこの年限りでワークス活動を中止したが、市販レーサーの開発と販売は翌年以降も継続している。この年、ホンダの本田宗一郎が初めてマン島TTに視察に訪れた。この年の3月にマン島に出場して勝利を目指すという「TT宣言」を発表した本田だったが、本場のグランプリやGPマシン、中でもこの頃小排気量クラスで圧倒的な強さを誇っていたNSUチームにショックを受け、日本では手に入らないヨーロッパ製の最新パーツを山ほど日本に持ち帰った。ホンダが今度はヨーロッパのメーカーのライバルとしてマン島に戻ってくるのは、この時から5年後の1959年のことである。 |
1954年のロードレース世界選手権の500ccクラス 500ccクラスは前年に引き続いてジレラのジェフ・デュークが席巻した。第4戦のベルギーがシーズン初優勝となったデュークだが、そこから5連勝を飾って第7戦のスイスGPで2年連続となる最高峰クラスのタイトルを手中にした。デュークの500ccクラスタイトル獲得は3度目であり、同一クラスで3度チャンピオンになった最初のライダーとなった。有効ポイント制が採用されていたこの頃は高ポイントを獲得したチームが終盤のレースを欠場するということは日常的に行われており、早々にタイトルを決めたジレラとデュークが欠場した最終戦のスペインではディッキー・デイルが乗るMVアグスタが今シーズン唯一の500ccクラス勝利を挙げている。 |
1954年のロードレース世界選手権の350ccクラス 緒戦のフランスでは地元のピエール・モネレがフランス人初のグランプリ優勝を飾り、第2戦マン島TTではロッド・コールマンがAJSにとってのグランプリ最後の勝利を記録した。前年チャンピオンのファーガス・アンダーソンとモト・グッツィがシーズン初勝利を飾ったのは第5戦のダッチTTだったが、シーズン後半だけで4勝を挙げたアンダーソンはこのクラスの2年連続タイトルを決めた。 |
1954年のロードレース世界選手権の250ccクラス 前年同様に小排気量クラスを支配したNSUだったが、特に250ccクラスではランキング上位6人のうちNSUに乗るライダーが5人を占めるという圧倒的な強さを見せた。特に前年のチャンピオンのヴェルナー・ハースは、開幕戦のフランスで162.59km/hという250ccとしては初めてとなる100mph(約161km/h)以上の平均速度で優勝するとそのまま好調さを維持して連勝を続け、4連勝目となった第4戦ダッチTTで早くもタイトル防衛を決めた。そしてタイトルが決定したにもかかわらず次戦の地元ドイツGPに出場したハースはここでも優勝し、このクラスでは初となる開幕からの5連勝を達成した。さらに連勝記録を伸ばすべくスイスGPに出場したハースは、しかし1周目で転倒を演じて連勝はストップ、NSUのチームメイトであるルパート・ホラースがこのクラスでは唯一となる勝利を飾った。ホラースにとっては、この勝利が生涯最後のグランプリ優勝となってしまった。 |
1954年のロードレース世界選手権の125ccクラス 250ccクラス同様、このクラスもNSUがシーズンを支配した。ただし、シーズンをリードしたライダーはディフェンディングチャンピオンのヴェルナー・ハースではなく、前年デビューしたばかりのルパート・ホラースだった。ホラースは125ccクラスの開幕戦となったマン島でグランプリ初優勝を飾るとそのままの勢いで4連勝、第4戦のドイツGPでタイトルを決めた。しかし、第5戦イタリアGPの予選中のクラッシュで頭蓋骨骨折の重傷を負ったホラースは、手術の甲斐もなく帰らぬ人となった。モーターサイクルレースにおいて、死後にワールドチャンピオンとなったのはホラースのみである(2010年現在)。ホラースへの追悼の意を表し、NSUはグランプリにおけるワークス活動から撤退した。 |
FUTURE WAR 198X年の概要 制作時期に国際的な問題となっていた米ソの冷戦激化を題材にして制作された劇場アニメ。プロデューサーの吉田のコメントによれば、近未来戦争の恐怖を訴えつつ、『地獄の黙示録』や『復活の日』の面白さを取り入れて完成させた作品。ほぼ同時期に制作された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』シリーズで実績のあった舛田利雄や勝間田具治を監督として起用、また制作に際して『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』のポスターのイラストなどでも知られていた生頼範義にイメージイラストを依頼している。当初制作主体として予定されていた東映動画は、労働組合が「内容が好戦的である」として制作をボイコットし、これはマスコミでも取り上げられた。このため作画などの実制作は大半が外注スタッフによって行われている。 |
FUTURE WAR 198X年のあらすじ 198X年、宇宙探査機ボイジャー2号が人類の平和と友好のメッセージを発信しながら宇宙を旅している頃――。ソビエト連邦の潜水艦基地からは、戦略原潜「リューリック」が出航していった。東西ドイツ国境ではNATO軍兵士のマイケルが地元の少女マリーネと出会い、互いに惹かれあう。そして宇宙空間では、アメリカ合衆国対戦略核ミサイル用のレーザー砲搭載衛星の射撃テストが行われていた。テストは成功し、計画の主任であるバート・ゲイン博士と三雲渡、そしてバードの妹のローラは喜ぶが、翌日ゲイン博士がソ連のスパイに拉致されてしまう。秘密保持を最優先課題としたギブスン大統領は、博士が乗せられていた原子力潜水艦をミッドウェー沖で核魚雷によって撃沈した。ソ連の主戦派の筆頭であるブガーリン国防相は、これを好機と考えオルロフ書記長に開戦を提案したが、書記長はこれを退けた。だがその後、東西ドイツの国境付近でソ連の最新鋭戦闘機「ブラック・ドラゴン」が亡命を求めて西ドイツの空軍基地に不時着。オルロフは機密保持のためにこの空軍基地の攻撃を指示したが、これによってNATO軍とワルシャワ条約機構軍の機甲部隊が戦闘状態に陥った。そのさ中、戦火でマリーネを失ったマイケルは、錯乱して戦術核ミサイルでワルシャワ軍を攻撃。これによって戦火は世界中に拡大。穏健派のオルロフが病床にあったことから、ブガーリンが政府の実権を握り、撤兵条件に北緯38度線以北の中近東の割譲を要求。ブガーリンに抵抗するクツーゾフ外相らも逮捕されてしまう。リューリックでは政治将校が艦長を殺害して戦略核ミサイルを発射。アメリカ各地に核弾頭が降り注ぎ、ギブスンは戦略核ミサイルによる報復攻撃を決意する。一方、病状が回復したオルロフは、「名誉ある敗北」を望みホットラインによる会談に挑むが、その最中に射殺され、ブガーリンは西側主要都市への核ミサイルの発射スイッチを押し、ついに米ソ双方が戦略核ミサイルを打ち合う事態に発展した。ギブスンは、レーザー搭載戦闘衛星「スペース・レンジャー」4基に核ミサイル迎撃を指示する一方、ソ連訪問による講和を考える。しかし、打ち上げられた「スペース・レンジャー」も、全てキラー衛星に破壊されてしまう。折りしも、世界各地で厭戦ムードが広がり、ソ連ではクツーゾフ外相らが解放され主戦派を拘束し、ブガーリンは射殺される。だが、ブガーリンは死の間際にさらに核ミサイルを発射した。支援スペースシャトルに乗り込んでいた三雲は、2時間分の携行空気だけで半壊した「スペース・レンジャー」に乗り込み、核ミサイルを阻止しようとする。そしてローラは宇宙船に乗り込み、三雲を救出に向かった。 |
FUTURE WAR 198X年の反対運動とその反響 制作準備段階だった1981年2月、東映動画の労働組合は本作の準備台本1冊を入手し、これがコピーされて職場で回覧される。現場の従業員からは「戦争がカッコよくしかもリアルに描かれ危険」という意見が出され、組合は教職員組合やPTAにも呼びかける形で反対運動を開始した。この運動は同年4月3日付朝日新聞に「組合が本作の一切の製作協力拒否を会社側に通告」という形で掲載され、この記事に関心を寄せた団体「日本母親大会」が反対運動に参加。5月15日には日本母親大会や東京都教職員組合、「日本子どもを守る会」など38団体が日本教育会館で集会を開いて「戦争アニメを作らせないようにしよう」というアピールを採択し、7月17日に「『198X』に反対する会」が結成された。アニメ雑誌『アニメージュ』は本作の完成が近づいた1982年4月号で「FUTURE WAR198X年をきみたちはどう見るか!?」という記事を掲載した。その内容は、本作の最高責任者(製作総指揮)である東映の渡邊亮徳常務に芸能評論家の加東康一が質問する形での対談と、アニメ監督の勝間田具治や東映動画労組の副委員長、子ども調査研究所長の高山英男、日本母親大会事務局長の談話を並べた「私はこう思う!」と題したコメント集からなっていた。対談の中で渡邊は「”動くゲルニカ”を作ってやろうと思った」「第三次世界大戦が起こったらどうなるのかを観客に提示することが、ほんとうの意味で平和への示唆になる」と製作理由を述べている。また、アニメでリアリティが出るのかという加東の質問には「生頼範義のイラストへの起用とコンピューター・アニメ(原文ママ)でリアリティを出そうとした」と答えている。渡邊はそれらも含めた総制作費を6億円と明かし、フルオーケストラ音楽の使用やフランスの有名デザイナーへの衣装デザイン発注などもおこなったと述べている。当時の「右傾化」傾向の延長ではないか、現実の世界大戦を想定した作品を中高生という「子ども」に見せるのは危険ではないかという加東の問いに対して、渡邊は戦争映画即右傾化ではない、悲劇も描いており、なぜ未来を描いて「右傾化」になるのかと答え、「絶対、好戦映画にはしてありません」と述べた。「私はこう思う!」では勝間田が自分にも戦争体験があり好戦的作品は絶対に作らないと発言する一方、組合の副委員長は作品に平和への尊厳がない、スタッフの中にも生活のために「いやいややっている」人がたくさんいると述べ、高山英男は「台本には平和の志がないが、組合側も平和を望むなら実力行使でもして止めるべき」と両者を批判するとともに作ること自体には反対ではないが自分の子どもには見せないとコメントした。監督の舛田利雄は、組合のボイコットを受けて作品内容をより平和を希求する方向に修正したと後年回想しており、上記記事で「日本母親大会」の事務局長も自分たちが反対の声を上げたことで、シナリオの内容がどんどん変わったと述べている。当時、『アニメージュ』にエッセイ「月づきの雑記帳」を連載していた安彦良和は、次の5月号でこの話題に触れ、「まじめな反戦映画になるだろうなどとは全然思わない。そういうものを目指して企画されたとも思っていない」と述べた上で、「大変月並みで通俗でマトを得ていない(原文ママ)政治認識をあたかも最もシビアな現実であるかのように錯覚して、その上に物語を築いてしまったこと」を「(本作が)犯してしまった最大の間違い」と批判した。さらに、アニメのリアリズムは「ウソのかたまり」であるアニメをそれらしく見せるための手段に過ぎず、戦争を真剣に考えるためのフィルムとしてはアニメは不適であると指摘している。また、衣装デザイナーや生頼範義のイラストの起用などを「大ゲサ趣味」と評し、「百歩譲って、現実政治を素材としてリアリズムで反戦を謳うというモチーフがありえたとしても、その作品は多分6億円などという法外な製作費は必要とはしないはずだ」と述べている。渡邊の「アニメでゲルニカ」発言には「偽善のニオイ」を嗅ぎつけて反感をおぼえたという。安彦はこのエッセイの最終回で、この回の内容に対する反響の多くが「あなたの言うことはわかったからそれが正しいかどうかは自分で考えてみる」という真摯なものだったことが嬉しかったと記した。 |
茶木ひろみの概要 1977年、『デラックスマーガレット』(集英社)に掲載された、「委員長が変です!?」にて正式デビュー。代表作は『銀の鬼』など。初期の作風は『かのこ』に代表されるロマコメが中心だったが、『真珠姫』・『姫-クラシックガール-』など日本史(桃山時代・江戸時代初期)が絡む伝奇小説的な作品もある。『銀の鬼』以後、『お幻さま』などホラー・ミステリー色の濃い作品が多くなった。主人公は『銀の鬼』の主人公を代表とする、気が強く凛とした感じの女性像が多く、作中では白髪で描かれるが、『姫-クラシックガール-』や『お幻さま』の主人公など、黒髪で描かれる大人しくて芯の強いタイプも見られる。作中には設定や場面、ネーミングなどを含め、菓子と雪が多く登場する。主人公のペットとして猫の登場も多い。茶木は1989年8月に刊行された『悪徳の栄え』以後作品の発表を停止していたが、2004年春、新作『変な探偵』を自費出版(300部)し復帰を果たした。2006年6月に茶木の公式サイトが開設され、WEB上のみで新作のDL販売を開始したが、2007年6月13日に予告無しで突然閉鎖となり、DL販売も中止された。同年8月に公式サイトが再開され作品のDLも復活したが、2009年4月にサイトが再び閉鎖された。2009年6月19日、ブッキングから発売された『銀の鬼 目覚め』3巻の続編として、デジタルコミックとして新作発表がなされた。PC版では『銀の鬼 ―目覚め―(11)副題:秘密』としてチーコチーカ扱いで買う事が出来るが(ブッキングからの新作発行は『変な探偵』が最後となっているため)、デジタルコミックではなく紙の書籍として読むことは当分出来ないと作者ブログにも説明があった。2009年7月28日には茶木としては初めて、日本国外である韓国でもデジタルコミックとして作品の発売が開始された。ブッキングから発売された『銀の鬼目覚め』3巻の続編として、茶木の自費出版本がAmazonにて販売中。銀の鬼11~14巻銀の鬼15~17巻銀の鬼18~21巻銀の鬼22~23巻銀の鬼24~27巻(2019年9月発売予定)銀の鬼外伝(全1巻)絹のヒーロー4巻おれはバラ・母なる男ミックス電子版はKindle独占契約で配信中。銀の鬼1~27巻銀の鬼外伝1~5巻変な探偵1、2巻母なる男1、2巻マダム・ソレイユ1、2巻おれはバラ1、2巻おれはバラ・母なる男ミックスごはんだよ!桃ノ花の疾走/熱くなれ!真珠姫1、2巻かのこびわとオハギとカレーライス(カレーライスの王子さま改題)/くちづけどろぼう絹のヒーロー1~4巻幻の少女1、2巻(姫・クラシックガール改題)お幻さま悪徳皇帝との恋(悪徳の栄え改題)あなたのプロフィールももいろ宝石(2019年9月配信予定)純恋夜(2019年9月配信予定)翻訳版銀の鬼The silver demon1~6 |
アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵)の略歴 第10代准男爵、サー・フレデリック・ニコルソン提督とその妻メアリー・ロッチの間に長男として生まれる。ラグビー校を経てオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジに進学したが、学位を取得せずに退学。1899年、准男爵位を継ぐ。1907年、サンクトペテルブルクにて英露協商に調印した。 |
アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵)の著書 「the History of the German Constitution」(1873年) |
アジア冬季競技大会スノーボード競技の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は635平方マイル (1,644.6 km²)であり、このうち陸地634平方マイル (1,642.1 km²)、水域は1平方マイル (2.6 km²)で水域率は0.16%である。 |
ミショーテの結成まで 1971年頃、後に村八分に参加するカント(渡辺作郎)を中心にマルチ・アート集団「○△□(まるさんかくしかく)」が活動し始め、これにレック、チコヒゲも参加。即興演奏中心のアバンギャルド音楽のバンドだった。1973年に○△□のバンド名がそのままタイトルになったアルバムが限定盤として発売。1975年、レック(当時はギター)、チコ・ヒゲ(ドラムス)、ヒゴ・ヒロシ(ベース)の3人で結成した「3/3」のアルバムを10枚のみ制作。1977年、レックはNYへ。コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスに参加。また、レックの後を追ってNYへ渡ったチコ・ヒゲもコントーションズに参加し、2人でノー・ウェーブ・ムーブメントを肌で実感した。 |
立正大学付属立正中学校・高等学校の概要 2006年、レックと中村達也(ドラムス)の2人編成で復活。同年8月にライジング・サン・ロックフェスティバルに出演し、2007年にはフジ・ロック・フェスティバルの最終日に出演。また、初のベスト・アルバム『Maniacs』、研究書『FRICTION The Book』を発売。2009年、2人編成での初の作品となるミニ・アルバム『Deepers』を発売。2010年には2枚組ライブ・アルバム『2013-Live Friction』を発売。 |
ピーエリスの神話 ピーエリア王・ピーエロスとパイオニア王国のエウイッペーとの間に生まれた9人の娘である。ムーサたちと全く同じ名前の9人の姉妹で、ムーサたちと同一視されることもある。ピーエリスたちを描いた神話原典は古代ローマの詩人・オウィディウスによる『変身物語』第5巻が有名。ピーエリアから自信と傲慢を持つピーエリスたちはムーサたちの長姉・カリオペーに歌勝負を挑んで、強い負けてカササギという鳥に姿を変えられた。 |
Dear Friends IVの解説 歌手・岩崎宏美の「Dear Friends」シリーズ第4弾となる、約2年ぶりのカバー・アルバム。本シリーズ恒例の、岩崎良美との姉妹デュエットは本作品でも収録されている。多くの歌手にカバーされているスタンダード・ナンバー「夢で逢えたら」「上を向いて歩こう」が収録された。ほか、中島みゆきのカバーは、『Dear Friends』(2003年3月21日)の「時代」・『Dear Friends II』(2003年11月26日)の「恋文」に続き、3曲目となった。なお2005年3月24日には、初めて中島みゆきから提供を受けたオリジナル楽曲「ただ・愛のためにだけ」をシングルリリースしている。なお、「夢で逢えたら」はビクター所属だった1981年に発売したアルバムの「すみれ色の涙から…」に萩田光雄編曲で収録されており、今回のカバーは2度目である。本アルバムは「思秋期」を除いて他アーティストのカバー集であるが、前年の9月には、自身のオリジナル楽曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でセルフカバーした『PRAHA』(2007年9月27日)というアルバムが発表された。本アルバム収録の「思秋期」は、再度プラハを訪れてドヴォルザークホールで新録音されたバージョンで、『PRAHA』収録のものとアレンジは同一であるが、テンポはずっと遅くなっている。 |
クアラ・クブ・バル駅の概要 KTMコミューターの運行区間拡大にともない駅が移転、新築された。移転以前は、クアラ・クブ・ロード駅 (Kuala Kubu Road Railway Station) と称していた。KTMインターシティの一部の列車が停車する。 |
ディック・マーティンの略歴 ミシガン州立大学卒業。キャリアの初期にはラジオのシットコム『ダフィーズ・タヴァーン』の構成作家として働く。1952年、コメディアンのダン・ローワンと共にコメディ・チーム「ローワン&マーティン」を結成、国内外のナイトクラブを回り始める。このコンビは最初のコントでマーティンが酔いどれのシェイクスピア俳優を演じてローワンのせりふにたびたび野次を入れ、そのままマーティンの役回りとして定着するなどそのときどきにパンチのきいたアイデアをつけ加えていく点が特徴だった。またNBC放送のお笑い番組『コルゲート・コメディー・アワー』は底抜けコンビなど有名コンビが持ち回りの出演者兼進行役を務め、ローワン&マーティンも何度かその役目を引き受けている。喜劇映画の初出演は1958年の西部劇『ワンス・アポン・ア・ホース』 (ハル・カンター監督) だったものの興行は振るわなかった。NBCとの契約は話し合いの上、4年繰り上げて1960年に終了。1962年からソロとして活動、1964年まで主演ルシル・ボールのカムバック第1弾のシットコム『ザ・ルーシー・ショー』で隣人の航空パイロットのハリー・コナーズを演じた。続いてローワン&マーティンのコンビで再びクラブ回りを始めると1966年の夏、『ディーン・マーティン・ショー』が休むあいだの番組に出演。マーティンは 1966 年の映画『マーメイド作戦』でドリス・デイ、ロッド・テイラーと共演する。 |
ディック・マーティンのテレビ・シリーズ 『ラフ・イン』 ローワン&マーティンの活躍はやがてテレビ・プロデューサーのエド・フレンドリーとジョージ・シュラッターに見出され、NBC で『ラフ・イン』 (1968年–1973年) の放送が始まると、2ヶ月でたちまち全米1位の人気シリーズとなって2シーズンその人気が続く。この番組は速いペースでつぎつぎにギャグを演じては照明を落として場面を切り替える構成が目新しく、笑いを誘う性的な話題や風刺、名ぜりふをところどころに意図的に差し込んでいた。キャストには無名時代のゴールディ・ホーンやリリー・トムリン、アーテ・ジョンソン他を起用している。大いに笑いが盛り上がるとベテランのローワンとマーティンが登場して観客の興奮を高めていく。後年「おかしな事ばかり言うコメディアンが入れ替わり立ち代り出演するなか、まともなのはわれわれ二人だけでおろおろしている設定にした」とマーティンは語っている。また喜劇役者マーティンの設定は「まぬけで好色な男」として笑われ、同時に観客の共感を引き出すところにあったという。実生活でも1960年代は女性に囲まれるパーティーの花形で、豪華さにふけり気ままに遊び楽しんだ。パートナーのローワンは落ち着いたマイホーム型である。ローワンがショービジネスから引退すると、マーティンは『マッチゲーム』や『パスワード・プラス』ほかのクイズ番組にしばしば出演、またクイズ番組のパロディー版『チープ・ショー』 (1978年)と『マインドリーダー』(1979年)で司会を務めた。 |
ディック・マーティンの監督、客演 コメディー番組の監督として力を発揮し、デビュー作『ボブ・ニューハート・ショー』を皮切りに10作を超える番組を監督する。1980年代には『ニューハート』でチーフ監督の座に着いた。1998年、人気を集めたシットコム『ナニー』にゲスト出演したマーティンは、フラン・ファインが公園で出会うホームレス役 (実はニューヨークで指折りの富豪プレストン・コリアー) を演じる。『サード・ロック・フロム・サン』 (1996年) に社会学者のベン・リットメイヤー博士役で客演した |
ディック・マーティンの家庭 1971年8月22日にPLAYBOYのプレイメイトで『ワイルド・パーティー』のスター女優ドリー・リードと結婚、1974年6月に離婚するものの、1978年に再婚し生涯を共に過ごす。初婚は女優で歌手のペギー・コネリー。子どもは息子2人、リチャード・マーティン (映画監督)とキャリー・マーティン。 |
安岡重明の略歴 大阪府大阪市出身。1953年大阪大学経済学部卒業。59年同大学院博士課程修了、経済学博士号を授与される。同年同志社大学助手。1967年同大学教授。1980年同大学商学部長。86年同大学教務部長を経て1999年同大学名誉教授。 |
ウランバートル駅の駅構造 単式ホーム1面、島式ホーム1面を持つ地上駅である。駅舎内にはレストランがある。ホームへは駅舎を通らずに出入り出来る。 |
ウランバートル駅の利用状況 当駅はモンゴル鉄道の旅客、貨物を扱う中核で最大の駅である。モンゴル縦貫線はモンゴル国内の列車だけでなく、モスクワ、北京、フフホトへの国際列車が発着する。ナライフ支線は貨物専用線である。なお、駅内での写真撮影は基本的に禁止されている。 |
ウランバートル駅の駅周辺 当駅はウランバートル市街の西よりにある。駅の外れにはモンゴル鉄道博物館があるが、建物は無く車輌が6輌ほど展示されている。 |
黒の女教師の概要 学校内外にはびこるさまざまな問題を、「課外授業」と称して法外な金額と引き換えに法を犯すこともいとわず解決していく3人の女性教師の姿を描くアクションサスペンス活劇である。従来の学校教師ドラマとは対極をなす『女王の教室』(2005年7月期、日本テレビ)にも通じる内容 となっており、主演の榮倉奈々は初の教師役で、かつ初めてダークヒロインを演じた。また、トリンドル玲奈は本作が連続テレビドラマ初出演となった。本作は第1回TBS連ドラ・シナリオ大賞で佳作を受賞した山下友弘の『夜の女教師組』で のドラマ化であり、山下は企画・脚本を手がける、TBS連ドラ・シナリオ大賞受賞作品のドラマ化は初となる。また、都立國文館高校のシーンは埼玉県の山村国際高等学校でロケ撮影が行われている。 |
黒の女教師のキャスト 「*」の人物は夕子たちによる「課外授業」で制裁を受けた者(ただし、ゲスト内の「*」の人物は鉄拳制裁を受けた容疑者。)。 |
カリ・アルナソンのクラブ経歴 スウェーデンのヨーテボリで生まれ、5歳の時にアイスランドの首都レイキャヴィークに移住。1999年から5シーズンヴィキングル・レイキャヴィークでプレー。その間、大学のサッカー部でもプレーした。ヴィキングルでの活躍が評価され、2004年にアルスヴェンスカンのユールゴーデンIFに移籍。2007年、デンマークのオーフスGFと2年契約を結んだ。2009年夏、フットボールリーグ・チャンピオンシップに所属するプリマス・アーガイルFCのトライアルに参加した。最終的に単年契約を勝ちとった。2011年6月、プリマス退団後にイタリアで行われていたハート・オブ・ミドロシアンFCのプレシーズンツアーに参加した。ハーツからはオファーがなかったが、7月に同じスコティッシュ・プレミアリーグのアバディーンFCに加入した。2012年6月、ロザラム・ユナイテッドFCに移籍。2015年6月、マルメFFと2年契約を結んだ2017年1月、オモニア・ニコシアに移籍。2017年6月、古巣アバディーンに復帰。2018年5月15日、1年契約でヴィキングルに復帰した。 |
カリ・アルナソンの代表歴 2005年3月に代表初招集、イタリア戦に出場し代表デビュー。2005年10月のスウェーデン戦で初ゴール。UEFA EURO 2016のメンバーにも選ばれた。初戦のポルトガル戦では、クリスティアーノ・ロナウドを徹底マークしスコアレスドローに持ち込んだ。グループステージ最終戦のオーストリア戦ではアシストを決めマンオブザマッチに選ばれた。ラウンド16のイングランド戦でも再びアシストを決め、歴史的番狂わせに貢献した。 |
向麻山公園の地理 向麻山一帯を整備した総合公園で、山麓には児童公園やテニスコート・ゲートボール場、散策の小径などが設置されている。山頂は芝生広場が広がっており、竜眼神社と御嶽神社が鎮座する。山内には桜が200本、つつじが500本、さつきが300本、それぞれ植えられており、花見の名所となっている。 |
2017年最高裁判所裁判官国民審査の概要 7人の最高裁判所裁判官に対して国民審査が行われ、全員罷免しないとされた。投票率は53.34%(前回審査と比べて+2.44%)。前回の国民審査まで、期日前投票制度では衆議院総選挙の期日前投票は公示日の翌日から可能であるのに対して、国民審査の期日前投票は投票日の7日前からとされており、衆議院総選挙は公職選挙法第31条により投票日より12日以上前に公示することが定められているため、少なくとも4日間のタイムラグが生じることになっていた。2016年12月に最高裁判所裁判官国民審査法が改正され(2017年1月1日施行)、今回の国民審査からは衆議院総選挙と同じく公示日の翌日から期日前投票ができるようになった。18歳選挙権が認められた初めての国民審査であり、初めて18歳・19歳に国民審査権が付与された。 |
神戸市立駒ケ林小学校のその他 旧長楽小学校には最晩年の渋沢栄一が「共存共栄」と書いた額が保存されていたが、統合により現在は当校の校長室に飾られているという。 |
病気の定義 病気は曖昧な概念であるが、個人で定義していいものではない |
病気の分布の数で判断しようとする試み ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。ある性質の集団の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の正規分布の母集団の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×SDまでの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している糖尿病や、数多くの合併症をもたらす肥満までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである。 |
病気の定性的に定義しようとする立場 逆に、質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。ひとつには本人の認識している状態(あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲 が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症・嗜癖や骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。 |
病気の医療関係者の主観を織り込もうとする試み 医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述)) |
病気の医療人類学での見解 医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。 |
病気の社会的状況 冒頭に説明したように、何が病気であるのか病気でないのかを決めるのは、容易なことではなく、各立場なりの見解があり、一般の人々は多くは自分が感じている感覚内容で病気か病気でないか判断していて、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義がそのまま当たるようなことが日常的には行われているが、医師の集団は医師の集団で医師なりの立場で生物学寄りの見方をしてみたり統計を見たりし、臨床医師では、一般論は脇に置いておいて、目前に現れた患者の個別的な症状と医学書に書かれている慣習的な判断基準を見比べて便宜的に判断する 等々等々、さまざまなことが行われている。それらの見解は様々に複雑に相互影響しあう。現実の社会では病気に対する見解は立場ごと・文脈ごとに異なり、さまざまな見解が複雑にせめぎ合う。実際、臨床の現場では医師と患者の見解はしばしばずれたり対立することがある。上では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。 |
病気の病気と健康 病気の対義語は、一般に健康であると考えられている。WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない西洋医学風の用語で言えば、健康というのは恒常性が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい。さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる。 |
病気の周辺の語の概念 しばしば病気は、「症候群」「疾患」「疾病(しっぺい)」「障害」「怪我」「変異」等の語との概念上のオーバーラップがある。病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを病態(びょうたい)あるいは病像(びょうぞう)という。病状(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。 |
病気の病気と「疾患」・「疾病」 医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な疾患(しっかん)、疾病(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による骨折は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「障害(disorder)という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。 |
病気の疾患・疾病・病気と「症候群」 症候群(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。 |
病気の疾患・疾病・病気と「症状」 症状(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを自覚症状(じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。例えば、脱水という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。近視は症状の名前としても病名としても使われる。本態性高血圧という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で高血圧という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険診療報酬や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。症状を研究する医学の一分野に、症候学がある。 |
病気の病気と年中行事 日本では古くは病気は鬼のせいだとか、キツネの魂が人間に宿るためだとかと考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために祈祷師を呼んでお祓いをしてもらうということがあった。現代の日本でも年中行事として、病気をしないように(鬼が来ないように)節分に豆まきをする、端午の節句に菖蒲湯に入るなどといった習慣が残っている。 |
菫青石の産出地 高温低圧型の広域変成岩や接触変成岩、特に泥岩を起源とするホルンフェルスに見られるほか、花崗岩にも含まれることがある。 |
菫青石の桜石 菫青石の六角柱状結晶が分解すると、その形を残したまま白雲母や緑泥石に変化する(仮晶)。そして岩石が風化すると結晶が分離し、その断面が花びらのように見えることから桜石(cerasite)とよばれる。京都府亀岡市薭田野町の「稗田野の菫青石仮晶」は1922年3月8日に国の天然記念物に指定されている。 |
菫青石のサイド・ストーリー 英名のコーディアライト(コーディエライト、cordierite)は、フランスの地質学者ルイ・コルディエ(1777 - 1861)の名に由来している。 |
ビアフラ戦争の概要 厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気、北部州における虐殺により、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ人、西部のイスラム/キリスト教混合のヨルバ人、東部のキリスト教主体のイボ人の三大民族が、その他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ人は比較的教育レベルが高く、下級の官吏や軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒いユダヤ人」と呼ばれることもあった。1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ人地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ人政治家はヨルバ人の一部政治家と連携し、連邦を支配しようとした。1966年、軍のイボ人主体の中堅将校が、クーデターを起こし、北部系の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ人出身の軍司令官であるジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作り、イボ人を多く登用した。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部ではイボ人に対する反発が強まり、数千人のイボ人が殺害され、イロンシ将軍も、ハウサ人の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐が軍事政権を握り、イボ人出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ人への迫害は一層強くなり、1万を越えるイボ人が殺害され、100万人近い難民が東部州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチュクエメカ・オドゥメグ・オジュク中佐は、州内の連邦資産を接収し、税収を全て東部州で管理することにし、独立性を強めた。これに対し、連邦は東部州の分割を狙ったため、1967年5月30日オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言した。直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが、ビアフラ軍の士気も高く、戦況は膠着状態を示した。ビアフラにはフランスと南アフリカ等が支援したが、大部分の国はビアフラに同情する一方で消極的ながら正規政府である連邦を支持。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスと、アフリカへの影響力強化を狙うソ連は、積極的に連邦を支援した。また、少数の白人傭兵がビアフラ側で戦った。1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側が、それらの救援も妨害するようになったため、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏し、そのまま崩壊に向かった。他のアフリカの内戦の例から見ると、意外にもハウサ人による極端な報復や虐殺は行われず、国民和解の方針が採られた。しかし、少なくとも150万人以上の人間が、飢餓、病気、戦闘によって死亡したとされている。当時、各国の新聞に掲載された「骨と皮にやせ細っているが、お腹だけが異様に膨らんでいる子供達」の姿は世界中に衝撃を与え、ビアフラという言葉は飢餓と同義語として使われるようになった。 |
都 (姓)の歴史 秦代には巴郡、漢代には宕渠県に属していた。魏晋南北朝時代には県域は安固県、綏安県、宕渠県が設置されている。621年(武徳4年)、唐朝により朗池県が設置、1012年(大中祥符5年)に宋朝により営山県と改称された。 |