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秋草の花のうち、最も早く咲くは何であらう。萩、桔梗、などであらうか。
桔梗も花壇や仏壇で見ては、厭味になりがちである。野原のあを〳〵とした雑草のなかに、思ひがけない一輪二輪を見出でた時が本統の桔梗らしい。
汽車が甲州の韮崎駅を出て次第に日野春、小淵沢、富士見、といふ風に信濃寄りの高原にかゝつてゆく。その線路の両側に、汽車の風にあふられながらこの花の咲いてゐるのをよく見かけた。そして、あゝもう秋だな、と思つたことが幾度かある。
あのあたりには撫子も咲いてゐた。桔梗よりも鮮かでよく眼についたが、この花は寧ろ夏の花かも知れない。
萩も夏萩などがあつて、梅雨あがりのしめつた地に咲き枝垂れてゐるのを見る。そのせゐか、『秋』といふ感じから、ともすれば薄れがちである。
但し、この花の丈高く咲きみだれた草むらを押し分けて栗を拾つた故郷の裏山の原の思ひ出のみは永久に私に『秋』のおもひをそゝる。
では、最も早く秋を知らせるのは何であらう。
私は先づ女郎花を挙げる。
この花ばかりは町中を通る花屋の車の上に載つてゐてもいかにも秋らしい。同じ車の上にあつて桔梗なども秋を知らせないではないが、どうもそれは概念的で、女郎花の様に感覚から来ない。
ましてこれが野原の路ばたなどに一本二本かすかに風にそよいでゐるのを見ると、しみ〴〵其処に新しい秋を感ずる。
この花、たゞ一本あるもよく、群つて咲いてるのもわるくない。
をとこへし、これは一本二本を見附けてよろこぶ花である。あまり多いとぎごちない。
女郎花咲きみだれたる野辺のはしにひとむら白きをとこへしの花
僅かに一本二本と咲き始めたころに見出でて、オヽ、もうこれが咲くのかと驚かるゝ花に曼珠沙華がある。私の国では彼岸花といふが、その方が好い。
これこそほんたうに一本二本のころの花である。くしや〳〵に咲き出すとまことに厭はしい。
曼珠沙華いろ深きかも入江ゆくこれの小舟のうへより見れば
東京の、三宅坂から濠越に見る宮城の塀の近くに唯だ一個所だけこの花の群つて咲くところのあるのを偶然見つけて、毎年それを見に行つたものだが、今でも咲くかどうかと、ふといま思ひ出された。東京の近郊にはこの花は少なかつた。相模野には非常に多い。
蝦夷菊、これは畑の花だが、東京近郊には頻りに作らるゝ。厭味の花と見ればそれ、それを忘れてぼんやり見てをればこれまた秋のはじめのものである。手にとつては駄目、畑のまゝで見るべきである。
ひしひしと植ゑつめられし蝦夷菊の花ところどころ咲きほころべり
蝦夷菊の花畑のくろにかいかがみ美しみ見ればみな揺れてをる
蝦夷菊の花をいやしと言ふもいはぬも眼のかぎりなるえぞ菊の花
彼岸花も水辺に多いが、みぞ萩もまたさうである。眼につかぬ花で、見てをればいかにも可憐である。
このあたり風のつめたき山かげに咲きてあざやけきみぞ萩の花
この花は、幼いころの記憶からか、私によく旧のお盆を思ひ出させる。続いては小さい紅色をして空に浮んでをる精霊蜻蛉が思ひ出されて来る。
みぞ萩の花さく溝の草むらに寄せて迎火たく子等のをり
蝦夷菊は畑の花、それを野原に移した様な松虫草がある。
寒国の花と見え、この近在でも見かけるには見かけるが、信州あたりのゝ方が遥かに色がいゝ。むらさき色の花である。
桔梗も山国の方がいゝ様だ。
おなじく山国の花に、竜胆がある。春竜胆もあるが、秋がほんたうの竜胆らしくていゝ。
これは秋も末、冬のはじめの日向などに落葉に茎を埋められて咲いてゐるのが、ほんたうにいい。濃紫にいくらか藍のまじつたといふ様な深い色、それはどうしても落葉の早い山国でなくては見られない。
つづらをりはるけき山路登るとて路に見てゆく竜胆の花
散れる葉のもみぢの色はまだ褪せず埋めてぞをる竜胆の花を
さびしさよ落葉がくれに咲きてをる深山竜胆の濃むらさきの花
摘みとりて見ればいよいよむらさきの色の澄みたるりんだうの花
越ゆる人まれにしあれば石出でて荒き山路のりんだうの花
笹原の笹の葉かげに咲き出でて色あはつけきりんだうの花
また、
わが妻が好めるはなは秋は竜胆春は椿の藪花椿
おなじく秋の終りの花に刈萱があり、吾木香がある。
寂びた様で、おもひのほかにつややかなのは吾木香であらう。故あつて髪をおろした貴人の若い僧形といつたところがある。
刈萱もまた見るにつれてあたたかみの感ぜらるゝ花である。すがれ始めた野辺のひなたの花である。
秋のはじめから終りまで、そのときどきに見て見飽かぬのは薄であらう。
わが越ゆる岡の路辺のすすきの穂まだ若ければ紅ふふみたり
の頃もよく、十五夜十三夜のお月見に何はなくともこの花ばかりは供へたく、また、秋もいつしか更けて草とりどりに枯れ伏したなかにこの花ばかりがほの白い日かげを宿してそよいでゐるのも侘しいながらに無くてはならぬ眺めである。
おなじく平凡だが、書き落してならぬものに野菊があり、姫紫苑がある。
自分の好みからか、いつ知らず私は野原の花ばかりを挙げて来た。庭の花に、ダリヤあり、コスモスあり、鶏頭がある。
ダリヤは夜深く机の上に見るがよく、コスモスは市街のはづれの小春日和を思はせる。鶏頭はまた素朴な花で、隠れ栖む庭の隅などに咲くべきであらう。
動かじな動けば心散るものを椅子よダリヤよ動かずもあれ
灯を強みダリヤがつくるあざやけき陰に匂へるわれの飲料
眼にも頬にも酔あらはれぬ夜なるかな黒きダリヤの蔭に飲みつつ
はなやかに咲けども何かさびしきは鶏頭の花の性にかあるらむ
伸び足りて真赤に咲ける鶏頭にこのごろ咲くは西づける風
くれなゐの色深みつつ鶏頭の花はかすかに実をはらみたり
今、考へてみると不思議に私はコスモスの歌を作つてゐない。
薄の花を虫にたとへたならば先づこほろぎではあるまいか。さほどに際立つたものでなく、サテいつ聞いてもしみ〴〵させられるはこほろぎである。
わがねむる家のそちこち音に澄みてこほろぎの鳴く夜となりにけり
こほろぎのしとどに鳴ける真夜中に喰ふ梨の実のつゆは垂りつつ
使ひ終へていまたてかけしまな板の雫垂りつつこほろぎの鳴く
こほろぎと同じく、飼つておくわけでもないに部屋のうちに来て鳴く虫に茶たて虫といふがゐる。かげろふのずつと小さな様な虫で、ほとんど眼にもつかぬほどであるが、よく障子の桟にとまつてゐて鳴く。声とてもほのかなものではあるが、聞くとなく耳の傾けらるゝ侘しい音色である。夜ふけなど、ともすると時計のちくたくと聞違へることもあり、時計虫とも呼ばれてゐる。茶たて虫とは茶をたてる茶碗のなかのかすかな響に似てゐる謂であらう。
松虫鈴虫はあまりに月並化されてゐる。ではどの虫が好きだらうと考へて来ると私には先づ馬追虫である。
いつも田舎住ひをしてゐる難有さに、この虫がをりふし蚊帳にとんで来てとまつて鳴くのを聞く。
やすらかに足うちのばしわが聞くや蚊帳に来て鳴く馬追虫を
めづらしく蚊帳に来ていま鳴き出でし馬追虫の姿をぞおもふ
家人のねむりは深し蚊帳にゐて鳴くうまおひよこゑかぎり鳴け | 底本:「日本の名随筆94 草」作品社
1990(平成2)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第七巻」雄鶏社
1958(昭和33)年11月
入力:増元弘信
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月26日作成
2005年1月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000885",
"作品名": "秋草と虫の音",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓読みソート用": "わかやま",
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"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
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わたしは、日向うまれである。むづかしくいふと宮崎縣東臼杵郡東郷村大字坪谷村小字石原一番戸に生れた。明治十八年八月廿四日のことであつたさうだ。村は尾鈴山の北麓に當る。そこの溪間だ。この溪は山陰村にて耳川に注ぎ、やがて美々津にて海に入る。山陰村より美々津港までの溪谷美(といつても立派な河であるが)は素晴らしいものであるが、邊鄙のことゝて誰も知るまい。同地方特産の木炭の俵の上に乘せられてこの急瀬相次ぐ耳川を下ることは非常に愉快である。下り終ると美々津の港の河口に日向洋の白浪の立つてゐるのがそこの砂濱の上に見える。小さい時山奧から出て來てこの浪といふものを見た時はほんとに驚喜したものであつた。
さうした、山あひの村のことゝて、わたしの七歳八歳のころには普通の小學校はまだできてゐなかつた。在るにはあつたがいはば昔の寺小屋の少し變つたやうなものであつた。うやむやのうちに尋常小學を過し、十歳のとき、村から十里あまり離れた城下町である延岡に出て高等小學校に入つた。そして、やがてその土地に創立された延岡中學校の第一囘入學生として入學した。
だから、わたしは小學生の時から(大抵は中學か專門學校になつてゞあるが)『歸省』の味を味はつた。冬と夏との休暇、それを待ち受けて行く喜び樂しみの、なんと深いものであつたか。十歳や十一二の身でわたしはその十里の道を終始殆んど小走りに走つて家に歸つた。延岡から富高まではそのころでも馬車があつたが、日に幾度だか、或はまた出るか出ないか解らない状態であつたので、少年の氣短にはそんなものに頼つてゐる餘裕がなかつた。ひとりで走つた方が氣持がよかつた。
冬の休みは短かつた。一週間か十日ぐらゐのものであつたらう。その間にお正月があつたりして、何か知らわけもわからずに過ごしてしまふのが常であつた。だが、夏休みは永かつた、ひと月であつた。このひと月の間をば殆んど毎日釣をして過ごした。
父も釣が好きで、よく一緒に出かけて行つた。たゞ、父の釣はあゆつり(郷里ではあゆかけといつてゐた)だけであつたが好きな割には下手で、却つて子供のわたしの方がいつも多く釣つてゐた。この父は愉快なる人で、性質は善良無比、そして酒ばかりを嗜んだ。
また夏休みの話だが、夏休みに歸つてわたしはいつも二階に寢てゐた。そして朝寢をしてゐると、父はそうつと幾度も階下から覗きに來た。そしていよ〳〵となると、
『繁、起けんか。今朝、いゝぶえんが來たど』
といつた。ぶえんとは多分無鹽とでも書くのであらう、氷も自動車もなかつた當時にあつては、普通の肴屋の持つて來る魚といへば鹽物か干物に限られてゐた。中に一人か二人の勇ましいのがあつて涼しい夜間を選んで細島あたりからほんたうの生魚を擔いで走つて來る。彼らはもう仕入れをする時からどこには何をどれだけ置いとくときめてやつて來るのだ。だから走りつく早々臺所口にかねてきめておいた分を投げ込んで置いてまた次へ走る。亂暴な話で、こちらではもう買ふも買はないもないのである。
父は飮酒家の癖で、朝が早かつた。誰よりも先に起きて圍爐裡に火など焚きつけてゐた。そこへその無鹽賣りが來る。彼はそれを待ち受けてゐて、やがて自身で料理にかゝる。刺身庖丁の使ひぶりは彼の自慢の一つであつた。そして綺麗に料理しあげて、膳をこしらへて、臺所の山に面した縁端へそれを持ち出し、サテ、わたしの起きて來るのを待つのである。澁々私が起きてゆく、父はちやんと用意してあつた膳の上から一つの盃をとつて、
『マ、一ぱいどま、よかろ』
といつてさす。年齒僅に十幾歳の忰を相手に彼はいかにも滿足げに朝の一時間だか二時間だかを過したのである。
その父逝いて十五年、忰もいつか父に劣らぬノミスケとなり、朝晩、ふら〳〵しながらかうしてたま〳〵遙に故郷のことなど思ひだすとおのづから眼瞼の熱くなるのを覺ゆるのである。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002208",
"作品名": "鮎釣に過した夏休み",
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先づ野蒜を取つてたべた。これは此處に越して來た時から見つけておいたもので、丁度季節なので三月の初め掘つて見た。少し過ぎる位ゐ肥えてゐた。元來此處の地所は昨年の春までは桃畑であつた。百姓たちが桃畑の草をとつて畑つゞきの松林の蔭に捨て、毎年捨てられた草が腐つて所謂腐草土となり、その腐草土の下にこの野蒜は生えてゐたのである。しかも無數に生えてゐる。ざつと茹でて、酢味噌でたべる。いかにも春の初めらしい匂ひと苦味とをもつた、風味あるものである。
神武天皇だかの御歌の中に『野蒜つみに芹つみに……』といふ句のあるのがあるが、わたしは郷里で幼い時よくこの野蒜つみ芹つみをやつた。野蒜は田圃の畦にあり、芹は水氣をもつた田中の土に生えてゐた。どうしたものかこの野蒜つみはわたしのすぐ上の脚の不自由な姉と關係して考へ出される。多分一二度も一緒に行つたことがあつたのであらう。それでも水田のくろを這ふ樣にして摘んで歩く彼女の姿を端なくも見出でた記憶が殘つてゐるのかも知れぬ。
つぎに嫁菜をよく摘んだ。これは寧ろ細君の方が先に見つけそして彼女の好みで摘んだものである。家の東は桃畑、北は桑畑となつてゐるが、二三人の百姓しか通らぬ桃畑の畔にも桑畑の畔にもいつぱいに生えて居る。はうれん草にも飽く頃で、一二度はおいしいものである。
たんぽゝの根は、牛蒡の樣に、きんぴらにしてたべる。柔かだつたら牛蒡と違つた味をもつてゐてうまい。東京にゐた時、まだ學生の時分、戸山ケ原で掘つて歸つて下宿の内儀を困らせたことがある。稀に八百屋の店さきでも見かけたことがあつた。此處では誰も見返りもしない。
家の東と北は畑で、西と南は庭さきから直ぐ大きな松林となつてゐる。所謂沼津の千本松原の續きで、ツイ先頃までは帝室御料林であつたが、今は縣が拂下げてしまつた。二三町三四町の廣さで、海岸ぞひに四里近い長さを持つた松原である。この松原の他と違つてゐるのはその下草に種々の雜木が繁茂してゐる事である。松は多く二抱へ三抱への大きさで聳え立ち、その枝や幹の下蔭に實にいろいろな木が茂つてゐるのである。で、海岸の松原とはいふものゝ、中に入つてしまへばいかにも奧深い森林らしい感じがする。その雜木のなかにわたしは楤を見付けて喜んだ。
楤の芽はうまい。これも季節の味で、その頃になれば自づと思ひ出さるゝ。そしてなか〳〵手に入らぬものゝ一つである。この木は竿の樣な幹で、幹にとげを持つて居る。そして芽は幹の尖端に生ずる。枝を持つたのもあるが、先づ幹だけの一本立が多い。何しろとげだらけの幹を撓めて摘むので、なかなか骨が折れる。そしてその芽のやゝ伸びて葉の形をなしたものには裏にも表にもまたとげを生じて居る。この木が不思議とこの松原の中に多いのだ。庭さきから林に入つて行けば早や四五本のそれを見るのである。晩酌の前に一寸出かけて摘んで來ることが出來る。但し、番人に見つかればこれは叱られるに相違ない。
楤を探しつゝくさぎの芽をも見付けた。臭木と書くのであらうとおもふが、この木はその葉も枝も臭い。たゞ、若芽のころ摘んで茹づればそのくさみは拔け、齒ざはりのいゝあへものとなるのである。
ともに味噌あへにするのであるが、楤には少し酢を落すもよい。楤の芽の極く若い大きいのだと、紙に包んで水に濕めし、それを熱灰の中に入れてむし燒にするのが一等うまい。獨活の野生の若いのをもまたさうしてたべる。これは然し、ほんの一つか二つ、初物として見出でた時に用ゐらるゝ料理法でもある。つまり非常に珍重してたぶる謂である。
二階などからはわたしの庭とも眺められるその松原にはまた無數の茱萸の木が繁つてゐる。それこそ丈低い林をなしてゐる所がある。苗代ぐみもあれば秋茱萸もある。苗代茱萸は今が丁度熟れどきである。昨日の朝、濱に出て地曳を見てゐた。そして一緒に網のあがるのを待つてゐた二人の娘がいつか見えなくなつた。程なく歸つて來た彼等はわれ先にと『阿父さん、手をお出しなさい』といふ。見れば二人とも袂にいつぱい赤い小さな粒々の實を摘みためてゐるのであつた。
松原で咲く花のうち、最も早く咲いた木苺の花は既に散つて、こまかな毛を帶びたその青い實が見えて來た。そして森なかの常磐木にからんで枝垂れてゐる通蔓草の花がいま盛りである。桃畑であつた時のまゝに置いてある家の垣根にもこの蔓草はいつぱいにからんでゐる。(四月十九日) | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002198",
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友人と共に夕食後の散歩から歸つて來たのは丁度七時前であつた。夏の初めにありがちのいやに蒸し暑い風の無い重々しい氣の耐へがたいまで身に迫つて來る日で、室に入つて洋燈を點けるのも懶いので、暫くは戲談口などきき合ひながら、黄昏の微光の漂つて居る室の中に、長々と寢轉んでゐた。
しばらくして友が先づ起き上つて灯を點けた。その明るさが室の内を照らし出すと、幾分頭腦も明瞭したやうで先刻途中で買つて來た菓子の袋を袂から取り出して茶道具を引寄せた。そして自分は湯を貰ひに二階から勝手に降りた。折惡しくすつかり冷え切つてゐますので沸かして持つて參ります、と宿の主婦は周章へて炭を火鉢につぐ。宿といつても此家は普通の下宿ではない、ただ二階の二間を友人と共に借切つて賄をつけて貰つてるといふ所謂素人下宿の一つである。自分等の引越して來たのはつい三ヶ月ほど以前であつた。
序でに便所に入つて、二階の室に歸つて行くと、待ち兼ねてゐたらしい友は自分の素手なのを見て
「又か?」
と、眉をひそめて、苦笑を浮べる。
無言に點頭いて、自分は坐つてまた横になつて、先づ菓子を頬張つた。渇き切つた咽喉を通つて行くその不味加減と云つたら無い。思はずも顏をしかめざるを得なかつた。
自身にもこの經驗をやつたらしい友は、微笑みながら自分のこのさまを見守つてゐたが、
「どうも困るね、此家の細君にも。」
と低聲で言つて、
「何時行つてみても火鉢に火の氣のあつたことは無い。」
と、あとは大眞面目に不足極まるといふ顏をする。
「まつたくだ。今に見給へ、また例の泥臭い生温の湯を持つて來るぜ。今大周章で井戸に驅け出して行つたから。」
「水も汲んでないのか、どうもまつたく驚くね。丁度今は夕方ぢやないか。」
「よくあれで世帶が持つて行ける。」
「行けもしないぢやないか。如何だい、昨夜は。」
と言つてたまらぬやうに、ウハヽヽヽと吹き出した。續いて自分も腹を抱へて笑つた。
昨夜の矢張り今の頃、酒屋の番頭が小僧をつれて、先々月からの御勘定を今日こそはといふので今まで幾十度となく主人の口車に乘せられて取り得なかつた金を催促に押しかけて來た。丁度主人は不在だつたので彼等は細君を對手に手酷く談判に及んだ折も折、今度はまた米屋の手代が、これも同じく、もう如何しても待つてはあげられませぬと酒屋が催促して居る眞最中に澁り切つてやつて來た。狹苦しい門口は以上の借金取りで、充滿になつて居るといふ騷ぎ。あれやこれやといろ〳〵押問答がやや久しく續けられてゐたが、終には喧嘩かとも思はるるばかりの烈しい大聲を張り上げるやうになつて來た。殊にいつもこの事に馴れきつて居る酒屋の番頭の金切聲といふものは殆んど近邊三四軒の家までも聞え渡らうかと思はれる位ゐで、現に三四人の子供は面白相に眼を見張り囁き交して門前に群がつて居る。こんな有樣で二階に居る身も氣が氣でない。宛ら自分等があの亂暴な野卑な催促を受けて居るかのやうで二人とも息を殺して身を小さくして縮んでゐたのである。
折よく其處へ主人が歸つて來て、どういふ具合に斷つたものか定めし例の巧みな口前を振つたのであらう、先づ明晩まで待つて呉れといふ哀願を捧げて、辛くも三人を追ひ歸した。
其後ではまた細君を捉へて罵る主人の怒つた聲が忍びやかに聞えてゐた。
斯んなことは決して今に始まつた事でないので、僕等が此家に移つて以來、殆んど數ふるに耐へぬ程起つて居るのである。
「然し……………」
と友は笑ふのをやめて、眞面目になつて、
「然し、細君はあれが全然氣にならぬと見えるね。」
「まさか、何ぼ何だつて幾分かは……」
「いや、全然だぜ。あんなに酷い嘲罵を浴びせられても、それは實にすましたもんだよ。出來ないものは幾ら何と言つても出來ないんだからつて具合でな。全くどうも洒々たるもんだ。」
「大悟徹底といふわけなんだらう。」
「さうかも知れない、それでなくてどうして毎日々々のあの債鬼に耐へられるもんか。然し洒々と云つても何も惡氣のある洒々ではないのだよ。だからあの亭主のやうにうまく對手を丸めて歸すとか何とかいふ手段をも一つも執ることが出來ないのだね。見給へ、細君一人の時に取りに來た奴なら何時でもあんな大聲を出すやうになる……」
と言つて、また暫くして、
「いや、それが出來ないのではなからう、爲んのだらう。負債も平氣、催促も平氣、嘲罵も近隣の評判も全然平氣なんだからな。少しも氣にかからんのだからな。」
「もうあれが習慣になつたのかも知れない。」
「習慣――幾らかそれもあるだらう。が、此家が斯んなに窮してるのもほんの昨今のことだといふから、郷里に居た昨年頃までは立派に暮して來たんだらうぢやないか。してみるとさう早くあんなに慣れ切つて仕舞ふわけもない。」
と今は湯の事などは少しも頭にないらしく、いつしか可笑しい位ゐ熱心になつて言つて居る。自分は微笑みながら手近の辭書を枕にしてこの若い友の言ふのを聞いて居る。西の窓を通して大きな柏の木の若葉が風にも搖れず靜まり返つて居る。室にはまだ微光が漂つて居る。
「如何しても天性なんだよ。催促の一事に限らず萬事が君、ああいふ風ぢやないか。僕はいつも他事ながら癪にさはるやうに感ずるのだが、そら君、此家の夕食の膳立を知つてるだらう。あの爺さんばかりはこの貧乏のくせに毎晩四合の酒を缺かさずに、肴の刺身か豚の鍋でも料理へてゐないことはない。それに君如何だ、細君は殆んど僕等の喰ひ餘しの胡蘿蔔牛蒡にもありつかずに平素漬物ばかりを噛つてる、一片だつて亭主の分前に預つたことはないよ。」
自分は思はず失笑した。
「イヤ事實だよ。それも君、全然彼女は平氣なんだから驚くぢやないか。幾ら士族の家だつたからつて、ああまで專制政治を振り𢌞されちや叶はん。イヤ、今言つたのは極く些細の例を取つたのだが、萬事がさうだ。どんな事でも皆失策といつたら細君が背負ふんだぜ。そして愚にもつかぬ事を取つ捉へてあの爺さんが無茶苦茶に呶鳴り立てて終には打抛る。然るに矢張り彼女は大平氣さ。何日ぞやは障子を開けておいたのが惡いとかいつて、突然手近にあつた子供の算盤で細君の横面を思ひきり抛つた。細君の顏はみる〳〵腫れ上つた、眼にも血が浸んで來た。僕はそれを見て可哀相で耐らんので、そのあとで心を籠めて慰めようと、一二言言ひかくると、彼女は曰くサ、否ネ、向うが鐵鎚で此方も鐵鎚なら火も出ませうけれど、此方は眞綿なんですからね、とその腫れた面を平氣で振り立てて、誰からか教はつて來たらしい文句を飽くまでも悟り濟ましたやうに得意然として言つてるぢやないか。僕は一言も返事することが出來なかつた。」
不圖したことから話はいつもよく出る細君の性格研究に移つてしまつた。自分も常に見聞してゐる事實ではあるし、つい惹きこまれて身を入れて聽いて居ると、不意に階下で子供の笑ひ聲が聞えた。續いて現に話の題目に上つて居る細君の笑ふのもきこえる。いつも乍らの力のない面白くも無さ相な調子である。細君といふのは三十五六歳の顏容子も先づ人並の方であらうが、至つて表情に乏しい、乏しいといふより殆んど零に近いほど虚心した風をして居るのである。亭主はそれより十五六歳も年長で兩人の中に女の子供が兩人ある。昨年の秋郷里の名古屋から上京して來たとかで亭主は目下某官署の腰辨を勤めて居るのである。
いま友人の語つて居るやうに、此家の細君は確かに異つた性質を有つて居る。萬事が消極的で、自ら進んでどう爲ようといふやうな事は假初にもあつた例がない。いや、消極的といふと大いに語弊があるので、今より以前の女大學流で育て上げられた日本の女性は大方が消極的であるのであるが、此家のはそれとも違ふ。その一般の婦人といふのは幼い時の教育や永らくの習慣やらで行爲の上には萬事控へ目であつても、負けず嫌ひの虚榮心に富んだ感情的のものであるだけ内心では種々と思ひ耽ることが多い、或は忍ぶ戀路に身を殺すなどといふやうな類もあらうし、或は亭主の甲斐性なしを齒掻ゆく思ふといふのもあらうし、或は物見遊山に出かけたいといふもの、或は麗衣美食を希ふもの、極く小にしては嫉妬とか、愚痴とか種々樣々なものを、無理に内心に包み込んで居るに相違ない。
ところが此家の細君に至つては殆んどそれが皆無に近いらしい。戀の色のといふことは小説本で見たことも無いだらうし、第一當時二十一二歳の者が四十歳近い男と結婚したといふのを見てもよく解らう。現に自分等がここに移つて以來夫婦らしい愛情の表れた事などを見たことがなく、一日中に利き合つて居る夫婦の語數もほんの數へ上げる位ゐにすぎぬ。家計の不如意で債鬼門に群るをさへ別に氣にかけぬのは前にも言つた。一軒の酒屋からは二月とは續いて持つて來ぬやうに借りて飮む、毎晩四合の酒に對しても細君別に何の述懷も無いらしい。物見遊山の、美衣美食のと夢にさへ見たことがあるかどうか頗る怪しいものだ。曾て自分等が細君を上野の花見かたがた目下開會中の博覽會見物に誘ふたことがある。主人も行くがいいと勸め、我々兩人もたつてと言つたのだが、妾はそれよりも自宅で寢て居る方がいいとか言つて終に行かなかつた。二三ヶ月の間に町内の八百屋と肴屋とに出る外細君の外出姿を自分等は未だ曾て見かけたことがないのである。
であるから、家内に大した風波の起らう筈もないが、家庭らしい温みも到底見出し得ない。良人に對してはたゞ盲從一方、口答へ一つしたこともなければ意見の一つ言つたこともない。兩人の子供に對してさへ殆んど母親らしい愛情を有つて居るとは思へぬ。
曾て姉妹とも同時に流行の麻疹に罹つたことがある。最初は非常の熱で、食事も何も進まなかつた。その當時の或る夜自分は十時頃でもあつたか外出先から歸つて來た。所が、しきりに子供が泣いて居る。それも病體ではあるしよほど久しく泣いてゐたものと見えその聲もすつかり勞れ切つて呻吟くやうになつてゐた。兩人の病人を殘して夫婦とも何處へ行つたのだらうと一度昇りかけた階子段から降りて子供の寢てをる室を窺いて見ると、驚くべし細君はその子供の泣く枕上に坐つてせつせと白河夜舟を漕いで居るのであつた。それのみならず酷く子供の看護を五月蠅がつて仕事が出來ずに困りますと言ひきつてゐた。そのくせ仕事と云つては手内職の編物一つもしてゐないのである。その代りまた斯んな風で烈しく子供を叱るといふこともない。と同時に子供もまた少しも母を重んじない、頭から馬鹿にしてかかつて居る。夜でも競うて父親の懷ろに眠らうと力めて居るといふ有樣、それが實に今年八歳と十歳になる女の子の行爲である。頑是のない子供心にも尚ほ且つこの母の他と異つて居る性質を何となく飽き足らず忌み嫌ふて居るのであるかと思ふと、そぞろにうら寂しい感に撲たれざるを得ないのである。
それかあらぬか兩人の娘の性質も何となく一種異つた傾向を帶びて行きつつあるかの觀がある。娘共の懷しがつて居る父親といふのも曾ては獄窓の臭い飯をも食つて來たとかいふ程で、根からの惡人ではなさ相だが何となく陰險らしい大酒家、家に居るのは稀なほど外出がちで、いつも凄いやうな眼光で家内中を睨め𢌞して居る。その胸に包まれたものであつて見れば子に對する愛情といふのも略ぼ推せらるるのである。それに子に取つては先づ第一に親しかるべき母親は以上のやうな有樣、萬事母親讓りに出來て居る姉娘の虚心したのは虚心したままに拗けて行き、それとはまた打つて變つた癇癪持の負嫌ひの意地惡な妹娘は今でさへ見てゐて心を寒うするやうな行爲を年齡と共に漸々積み重ねて行きつつあるのである。で、從つて近所の娘連中からは遠ざけられ家に入れば母親は斯ういふ状態、自づと彼等の足は歩一歩と暗黒な沙漠の中に進み入らざるを得ないのである。
露ほどの愛情を有たぬ女性の生涯、その女性を中心とした一家の運命、見る聞くに如何ばかり吾等若い者の胸を凍らしめて居るであらう。
然ればと云つて彼女に常識の缺けて居る所でもあるかといふと、それは全然ちがひで、物ごとのよく解りのいい立派な頭を有つて居るのだ。
友と自分とは更にいろ〳〵と細君の蔭口をきいてゐた。少しも料理法を知らぬといふこと、(これも實際の事で、八百屋に現はれるその時々の珍しい野菜にさへ氣附かぬ風である。自分等の豚肉などと共に三つ葉とか春菊とかを買つて來ると、初めてそれに氣がついたやうに、それからはまた幾久しく一本調子にその一種の野菜が膳に上る。それも時に料理法でも變へるなどといふことは決してないのである。)食器類その他の不潔だといふこと、何だかだと新しくもないことを言ひ合つてゐたが、それにも倦んで、やがては兩人とも默り込んでしまつた。子供の高い聲と細君の例の調子の笑ひ聲とが、また耳に入つて來た。
「あれを聞くと、僕は一種言ひ難い冷氣を感ずる。」
と、突然友は自分の方に寢返りして言つた。丁度自分もそれを感じてゐたところであつたので、無言に點頭いた。
斯くするうち漸く階子段の音がして、細君は鐵瓶を持つて二階に昇つて來た。そしていつものやうに無言に其處にそれを置いて降りて行くだらうと思つて居ると、火鉢の側に一寸膝を下したまま、襷に手をかけながら、いかにも珍奇な事實を發見したといふ風に微笑を含んで、
「不思議なこともあるものですわねえ。」
と、さも不思議だといふ風に兩人をゆつくりと見比べる。兩人とも細君の顏を見てそして次の句を待つてゐたが、容易に出ないので、待ちかねて友は訊いた。
「如何かしたのですか。」
「先日、妾は夢を見ましたがね、郷里で親類中の者が集つて何かして居るところを見ましたがね、何をして居るのやら薩張り解らなかつたのでしたがね……」
と、一寸句を切つて
「そしたら先刻郷里の弟から葉書を寄越しましたがね、父親が死んだのですつて。」
「エ、お父樣が、誰方の?」
「妾の父親ですがね、十日の夕方に死んだ相ですよ……。それも去年妾共は東京に來た時一度知らしたままでまだ郷里の方にはこちらに轉居したことを知らしてやらなかつたものですから、以前の所あてに弟が葉書を寄越したものと見えて附箋附きで先刻それが屆きました。」
「貴女のお父樣ですか?」
友は自己の耳を疑ふやうに眼を眞丸にして訊き返して居る。
「エヽ。」
と、細君は、まだ何か言ふだらうかと云ふ風に友を見詰めて居る。
「さうですか、それはどうも飛んでもない事でしたね、嘸ぞ……」
と自分は起き直つて手短かに弔詞を述べた。
が、斯ういふ具合に述べ立てらるると、世に一人の父親が死んだといふ大きな事實はどうしても頭の中に明らかに映つて來ないので、自然形式的の挨拶しか出て來ない。それでも、其場のつくろひに、まだそれほどのお年でもなかつたでせうに、などと言ふと、
「エ、今年で五十七か八か九かでしたよ。イエもう妾は去年家を出る時にお別れのつもりで居ましたから、どうせ斷念めてはゐました。」
と、例の悟つた風をわざ〳〵しいやうに現して見せる。いよ〳〵こちらでも愁傷げに裝ふことすら出來にくい。友はまた驚き切つたといふ風に一語をも發せずに居る。微かな風が窓から流れてランプの白い灯がこころもち動いて居る。黄昏の靜けさはそぞろに室に充ちて居る。
「それでも……さうですな、さう言へばさうですけれど、……阿父さんの方で會ひたかつたでせう。」
「それはね、少しは何とか思つたでせうけれど、……思つたところで仕樣のないことなのですからねえ。」
と、また微笑まうとする。
「阿母さんはまだお達者なのですか。」
自分は今度は他のことを訊いてみた。
「エ、彼女こそ病身なんですが、まだ何とも音信がありません。」
「お寂しいでせうな、その阿母樣が。」
突然友が口を入れた。
「エ、それはね、暫くは淋しうございませうよ。」
「貴女も寂しうございませう。」
にや〳〵しながら彼は自分の方を見𢌞してゆるやかに斯う言つた。でも彼女は頗る平氣で、
「エ、でもね、どうせ女は家を出る時が別離だと言ひますから……」
「で、お歸國にでもなりますか、貴女は?」
自分は見かねてまた彼女の話の腰を折つた。
「アノ良人では歸れと言ひますけれど、歸つたところでね……それに十日に死んだとしますと今日はもう十四日ですから……今から歸つたところで仕樣もありませんし……」
「お墓があるではありませんか。それにその病身の阿母さんも待つておゐでではありませんか。」
耐りかねたといふ樣子で友は詰るやうに言つた。
「さうですね、それはさうですけれど……」
と、苦もなく言つて、茫然窓越しに向うの空を眺めて居る。暮れの遲い空には尚ほ一抹の微光が一片二片のありとも見えぬ薄雲のなかに美しう宿つて居る。この女はいま心の中で父親の死んだといふことよりも、夢の合つたのを珍しがつて居るのかも知れない。
階下ではまだ子供が騷いで居る。そして姉の方が妹から追はれたと見えて、きやつ〳〵言ひ乍ら母を呼んで階子段を逃げ登つて來ようとする。
「來るでない!」
と言ひ乍ら細君は立つて、子供と共に下に降りて行つた。
あとで兩人はやや暫く無言に眼を見合せてゐた。自分は微笑んで、友はさも情無いといふ風で。
「如何だ、實にどうも!」と友。
「ウフ! 流石に驚いたね!」と自分。
友はいま細君の降りて行つた階子段の方を見送つてゐたが、
「あれでも矢張り生きて居る……」
と、獨言つやうに言つた。
自分もその薄暗い階子段を眺めてゐて、何となく眼のさきの暗くなるやうな氣持になつて來た。
と、友は
「どうしても普通の人間では無い。不具では……白痴では無論ないけれども確に普通ではない。あれで人間としての價値があるだらうか。」
「價値?」
「價値といふと可笑しいが、意味さ、人間として生存する價値が、意味があるだらうか。」
「サア……然し」
と言ひかくると、自身にも解らぬ一種言ひがたい冷たい悲哀の念が霧のやうに胸の底からこみ上がつて來た。
「然し、然し、あれでも子を産んだからな、しかも二個!」
と、口早やに言ひ棄てて埓もなくウハヽヽヽヽと笑ひ倒れた。
倒れると窓越しの大空が廣々と眺めらるる。今は早や凝つた形の雲とては見わけもつかず、一樣に露けく潤んだ皐月の空の朧ろの果てが、言ふやうもなく可懷しい。次いでやや暫くの間、死んだやうな沈默がこの室内に續いてゐた。
附記、この「一家」の一篇は次號を以て完了すべし。然しただ本號のこの一章のみを以て獨立せるものと見做さるるも強ちに差支へなし。(作者) | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鷄社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「東亞の光」
1907(明治40)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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正覺坊
いつもより少し時間は遲かつたが、晩酌前の散歩をして來ようと庭つゞきの濱の松原へ出かけて行つた。其處には松原を縱に貫いて通じてゐる靜かな小徑があり、朝夕私の散歩徑となつてゐる。一二町も歩いたところで、濱から上つてその小徑を切る小徑がある。其處で三人連の漁師の子供に出會つた。いづれも十歳ばかりの見知らぬ子供たちであるが、なかの一人が行きちがひさまに矢庭に私に向つて兩手をひろげて、
『龜があがつたよ、斯んなにでつけえ龜が……』
と言つた。
するとあとの二人も振返つて同じ樣に兩手を押しひろげながら、
『龜があがつたよ、でつけえ龜が……』
村に知らせにでも行くか、息をはずませてゐる。
『さうか、それはよかつた、其處の濱だけで……』
彼等のうなづいて飛んで行くのを見ながら私は濱徑へ折れた。
濱はまだ明るかつた。そして網の曳きあげられた浪打際から十四五人の人が何やら大きなものを擔いでこの松原つゞきの濱の高みに登つて來るところであつた。
なるほど大きな龜である。二本の棒で、四人の若者に擔がれたこの怪物はやがて漁師小屋の前におろされた。まさしく二抱への胴のまはりと、それに相應した背丈とを持つてゐた。淡色をした首は厚ぼつたく幾重かに皺ばんで、ずつと縮めた時は直徑一尺もあるかに見えた。
あふ向けになつたまゝ置かれてゐるので彼は動く事は出來なかつた。そして時々その不恰好な身體に合せては小さい四肢をかたみがはりに動かして自分の腹部の甲良を打つてゐた。打つごとにがちやりがちやりと音がした。網で痛めたか、眼は兩方ともに血走り、蝋涙の樣なものが斷えず流れて、その末は白くねばりついてゐた。腹の甲良は龜甲形の斑を帶びながらいかにも滑らかで、そして赤みを帶びて黄いろく、美しかつた。
『玳瑁といふでねヱかナ』
漁師の一人がその甲良を撫でながら言つた。
『さア、玳瑁ならたえしたもんだが、たゞの龜づら』
なぜ此處に來たらうといふのがまた問題になつた。どうせ八丈か小笠原島から來たであらうが、卵を産みに來たでは遠すぎるし、何に浮れて出て來たか、『酒でも御馳走になりに來たづらよ』などと、半裸體の漁師たちも子供の樣になつて浮れてゐた。
龜の首を伸ばすのを待つては子供たちはその口へ木片などを押し込んだ。かなりの大きいものも、ぽき〳〵と噛み折られた。中には石ころを噛ませる者もあつた。廿歳にも近からう大きな惡童は腹にとび乘り、右左に踏み動かして、誰だかに叱られた。
見物人が追々と集つた。逃がすか逃がさないかの相談が持ち出されたのでその結果が聞きたく私も暫らくその中に立つてゐたが、そんな姿をいつまでも見てゐるのが不愉快で、聞き流して立ち去つた。そして浪打際の網の方へ行つてみた。
みな龜に集つて、網の跡始末をしてゐるのはほんの二三の老人たちであつた。濡れた砂の上には網からあけられたしらすが笊に四五杯置き竝べてあつた。生絹のきれはしの樣なこの小さな透明な魚たちはまだ生きてゐて、かすかにぴしよ〳〵と笊の中で跳ねてゐた。
その翌日の夕飯の時である。濱から歸つて來たといふ三人の子供たちが、がや〳〵とお膳に押し並んでゐた。そして私が自分の膳につくのを見るや否や、
『阿父さん、僕また龜を見て來た』
と末の子が言つた。
『ふうちやん、違ひますよ……』
と次の姉は一寸考へてゐたが、今度は私に向つて、
『阿父さん、あれは正覺坊ですつて、龜ぢや無いんですつて』
『ほゝウ、正覺坊か』
と何か知ら驚いた樣な氣持で私は返事したが、やがてわれともなく、
『ふゝうん』
と附け足した。
『正覺坊だつて?』
それを聞いたか濡手をふきふき子供たちの母が勝手から出て來た。
『丁度いゝや、阿父さんのお友達だから』
『なぜ、なぜ、なぜ正覺坊が阿父さんのお友達なの?』
幼い姉弟はむきになつて母に問ひ寄つた。
『はゝア、解つた、お酒飮だろ、正覺坊は』
一番上の中學一年生の兄が言つた。
『ア、さうだ、お酒を飮まして海んなかへ逃がしてやつたよ、いま』
先刻の姉と今一人の姉とは競爭して言つた。
『さうか、逃がしてやつたか、それはよかつた』
父も苦笑しながら話の中に入つてゐた。
『どうして正覺坊はお酒飮なの、お母さん』
『阿父さんに訊いてごらん』
『どうして正覺坊はお酒飮なの、阿父さん』
『さアテ、なア、……』
『どうして正覺坊を、折角とつたのに』
『さアテ、……』
漸く一段落ついた所で私は妻に言つた。
『いゝ香具師もつかなかつたと見えるな』
『さうでせうとも、……、早く逃がしてやればいゝのに、慾張たちが』
逃がす、といふ言葉がなぜだかふつと私に例の姿を想ひ出させた、何處か其處らの海の中をせつせといま泳いでゐるであらうその姿を。
鴉
松原の幅が約二百間、西の海に面したそのはづれからかなり急な傾斜で五六十間あまりもなだれて行つてゐるのが濱である。千本濱といひ千本松原といふと優しく聞えるが、なか〳〵大きな松原であり、荒い濱である。
この正月ころからめつきり身體に出て來た酒精中毒のために旅行はおろか、町までへの外出をもようしなくなつた私にとつてこの松原と濱とは實にありがたい散歩場所であるのである。それも少し遠くまで歩くと動悸が打つので、自分の家に近いほんの僅かの部分を毎日飽くことなく一二度づつ歩いてゐるのである。從つて歩く徑も――松原の中には漁師のつけた徑が無數にある――きまつてをれば、腰をおろして休む場所も自づときまつてゐる。
しげ〳〵と立ち竝んだ松原のはづれ、其處から眞白い小石原の傾斜になつてゐるところに休み場の一つがある。腰をおろすに恰好な形を持つた場所に芝草が茂り、腰をおろして海に向つた頭の上には老松が程よく枝をひろげて居る。漁師小屋とも遠く、普通の徑とも離れてゐるので、人に向つて挨拶を交す事さへもない。そして、濱の全部、駿河灣の全部を居ながらに眺めわたすことが出來る。
多く一人でぶら〳〵するのであるが、時には子供を連れて出かける。子供といつても上の三人は學校に行つてゐるので、大抵いつも末つ子の六歳になる男の子にきまつてゐる。そして休むべき場所には一緒に休む。子供も心得てゐて、自分から先に行つて休んでゐることもある。中で一番多く休むのは右に云つた濱の高み、松の木の蔭である。ぼんやりと海を見、海を越しての伊豆の山の此頃青み渡つたのを見るにはまつたく其處は申分のない位置にある。
このごろ其處で面白いことに氣がついた。我等父子が休んでゐると、何處から飛んで來るか二羽の鴉が飛んで來て、頭の上の松にとまる。一羽のときもあるが、多くは二羽だ。そして高い枝から次第に低く、ともすれば私の手のとゞく所までもおりて來て頻りに、
『カアオ、カアオ』
と啼く。或る時は松の皮を嘴で突き剥いで我等の上に落す。
それだけならばまだしも、我等が其處を立つて家の方に歸らうとすると、あとになりさきになり、松から松の枝を傳つてあとを追つて來る。そして、いよ〳〵家の側の松まで來て、そこでやめる。一度や二度ならば氣もつかなかつたらうが、自づと解る程にまでそれを繰返してゐるのである。そしてそれは多く子供を連れて行つてゐる時で、私一人の時にはあまりやつて來ない。
『ふうちやん、あの鴉は屹度君と遊びたいんだよ、それであんなに君のあとを追つて來るのだよ』
『さうか知ら、あの鴉、僕と遊びたいのかなア、さうかなア』
この生意氣先生、甚だ得意であつた。そして早速そのことを母親に報告した。初めは相手にしなかつたが、やがて母親もそれを承知せざるを得なくなつた。
『ほんとだ、ふうちやんと仲好しになりたくつてしやうがないんだよ、遊んでおやりなさいよ』
『うむ、僕、遊んでやらア』
或る日、また滑稽な場面を見出した。矢張り子供を連れて松原の中を歩いてゐた。すると夥しい音をさせながら松原の小石を蹴立てゝ走り𢌞つてゐるものがある、私の家に飼つてゐる犬である。痩身な身體を地に磨りつける樣にして右往左往に走り狂つてゐる。其處は松のやゝまばらなところで、廣い石ころの原である。見れば二羽の鴉が犬とすれ〳〵の低さにまで下つて、あつちに飛びこつちに飛びして、がア〳〵と啼き騷いでゐる。一羽の鴉が松の枝からフラツとまひおりて來て犬の背を蹴る如くにして向うにゆく、犬が追ふ、反對の側からまたの一羽がフラツとおりて來る、追ふといふ騷ぎである。
『はゝア、彼奴等だナ』
と私はその鴉を見た。我等父子の姿を見て犬は一層元氣が出たらしかつた。そしてその爭鬪だか遊戲だかは我等の歩むにつれて、松原をはづれて濱に出た。今度は松の木の代りに鴉のとまり場は其處に置き竝べてある漁舟の舳となり艫となつた。追ひつめた犬は勢ひこんで前脚を舷までは打ちかけるが、ほんの一二尺の距りで鴉に及ばない。鴉は嘴をつん〳〵と突き出しながら、『がア、がア』と啼く、其處へ他の一羽が犬の横からつういとやつて來る。
子供も浮かれて犬と共に走つた。そして犬と一緒に舟に縋つて舳へ手をあげる。もう少しで鴉にとどくのである。下手をして、眼でも突つかれては大變だと頻りに氣を揉んだが、そんなこともなかつた。
今日である。少し考へごとをしながら私は一人濱に出た。そして例の松の蔭の休み場に休んでゐた。松の皮が頻りと落ちて來る。ぢいつと眼を擧げると、これも今日は一羽、例の鴉が其處に來てゐる。啼きもしない。
『此奴、親爺まで犬と一緒にしてゐる』
と苦笑されたが、われ知らず何か言ひかけたい氣にもなつた。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2004年8月30日修正
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眼の覺めたままぼんやりと船室の天井を眺めてゐると、船は大分搖れてゐる。徐ろに傾いては、また徐ろに立ち直る。耳を澄ましても濤も風も聞えない。すぐ隣に寢てゐる母子づれの女客が、疲れはてた聲でまた折々吐いてゐるだけだ。半身を起して見𢌞すと、室内の人は悉くひつそりと横になつて誰一人煙草を吸つてる者もない。
船室を出て甲板に登つてみると、こまかい雨が降つてゐた。沖一帶はほの白い光を包んだ雲に閉されて、左手にはツイ眼近に切りそいだ樣な斷崖が迫り、浪が白々と上つてゐる。午前の八時か九時、しつとりとした大氣のなかに身に浸む樣な鮮さが漂うて自づから眼も心も冴えて來る。小雨に濡れて一層青やかになつた斷崖の上の木立の續きに眼をとめてゐると、そのはづれの岩の上に燈臺らしい白塗の建物のあるのに氣がついた。
「ハヽア、此處が潮岬だナ。」
と、先刻から見てゐた地圖の面がはつきりと頭に浮んで來た。尚ほ見てゐると燈臺の背後は青々した廣い平原となつて澤山の牛が遊んで居る。牧場らしい。
小雨に濡れながら欄干に捉つてゐると、船は正しくいまこの突き出た岬の端を𢌞つてゐるのだ。舵機を動かすらしい鎖がツイ足の爪先を斷えずギイ〳〵、ゴロ〳〵と動いて、眼前の斷崖や岩の形が次第に變つてゆく。そして程なくまた地圖で知つてゐた大島の端が右手に見えて來た。
「此處が日本の南の端でナ。」
氣がつかなかつたが私の側に一人の老人が來て立つてゐた。そして不意に斯う、誰にともなく(と云つて附近には私一人しかゐなかつた)言ひかけた。
「左樣なりますかネ、此處が。」
「左樣だネ、此處が名高い熊野の潮岬で、昔から聞えた難所だよ。」
日本の南の端、臺灣や南洋などの事の無かつた昔ならばなるほど此處がさうであつたかも知れぬと、そんな事を考へてゐると老人は更に種々と話し出した。丁度此處には沖の大潮(黒潮のことだと思つた)の流がかかつてゐるので、通りかかつた他國者の鰹船などがよく押し流された話や、鰹の大漁の話、先年土耳古軍艦の沈んだのも此處だといふことなど。
かなりの時間をかけてこの大きな岬の端を通り過ぎると、汽船の搖は次第に直つて來た。そして程なく串本港に寄り、次いで古座港に寄つて勝浦に向つた。
船にしていまは夜明けつ小雨降りけぶれる崎の御熊野の見ゆ
日の岬潮岬は過ぎぬれどなほはるけしや志摩の波切は
雨雲の四方に垂りつつかき光りとろめる海にわが船は居る
勝浦の港に入る時は雨はなほ降つてゐた。初め不思議に思つた位ゐ汽船は速力をゆるめて形の面白い無數の島、若しくは大小の岩の間をすれすれに縫ひながら港へ入り込んで行つた。その島や岩、またはその間に湛へた紺碧の潮の深いのに見惚れながら、此處で降りる用意をするのも忘れて甲板に突つ立つてゐると、ふと私は或事を思ひ出した。そして心あての方角を其處此處と見𢌞してゐると、果してそれらしいものが眼に入つた。深く閉した雲の下に山腹が點々と表れてその殆んど眞中あたりに、まことに白々として見えて居る。奈智の瀧である。勝浦の港に入る時には氣をつけよ、側で見るより寧ろいいかも知れぬからと、曾て他から注意せられて來たその奈智の大瀧である。なるほどよく見える。そして思つたよりも山の低いところにその瀧は懸つてゐるが、何といふことなく難有いものを見る樣な氣持で、私は雨に濡れながら久しくそれに見入つてゐた。
入つて見れば此處の港は意外な廣さを持つて居る。双方から蜒曲して中の水を抱く樣に突き出た崎の先には、例の島や岩が樹木の茂りを見せながら次々と並んで、まるで山中の湖水の樣な形になつて居る。そして深さもまた深いらしく、次第に奧深く入り込んだ汽船はたうとう棧橋に横づけになつてしまつた。熊野一の港だと聞いたがなるほど道理だと思ひながら、洋傘をさし、手提をさげてぼんやりと汽船から降りた。降りたには降りたが、其からさきの豫定がまだ判然と頭のなかに出來てゐなかつた。そして子供らしい胸騷ぎを覺えながら、兎も角もぶら〳〵と海岸沿ひに歩き出した。雨は急に強く、洋傘がしきりに漏る。街はまた意外に大きくも賑かでもないらしく、少し歩いてゐるうちに間もなく其處等中魚の臭のする漁師町に入り込んだ。鰹の大漁と見え、到るところ眼の活きた青紫の鮮かなのが轉がしてある。或所ではせつせと車に積み、或所では大きな釜に入れて煠でてゐた。
幾ら歩いてゐても際が無いので、幸ひ眼に入つた海の上にかけ出しになつてゐる茶店に寄つて、そこにも店さきに投つてある鰹を切つて貰ひ、一杯飮み始めた。濡れた手提から地圖を引き出して茶店の主人を相手に奈智や新宮への里程などを訊いてゐるうちに、私は不圖この勝浦の附近に温泉の記號のつけてあるのを見出した。主人に訊くと、彼は窓をあけてこの圓い入江のあちこちを指さしながら、彼處に見えるのが何、こちらに見えるのが何、いま一つ向うの崎を越すと何といふのがあるといふ。斯う鼻のさきに幾つとなく温泉のあることを聞いて何といふ事なく私は嬉しくなつた。そして立つて窓際に主人と竝びながら其處此處と眼を移して、丁度そこから正面に見える彼處は何といふのだと訊くと、赤島だといふ。ひた〳〵に海に沿うた木立の深げな中に靜かに家が見えて居る。行くなら船で渡るのだが、呼んで來てやらうかといふので早速頼んで其處に行くことにきめた。
小さな船で五六分間も漕がれてゐると、直ぐに着いた。森閑とした家の中から女中が出て來て荷物を受取る。何軒もあるのかと思つてゐたらこの家ただ一軒しか無いのであつた。海に面した二階の一室に通されて、やれ〳〵と腰を下すと四邊に客も無いらしくまつたく森としてゐる。湯はぬるいがまた極めて靜かで、湯槽の縁に頭を載せてゐると、かすかに浪の寄る音が聞えて來る。湯から出て庭さきの浪打際に立つてゐると、小さな魚が無數にそこらに泳いでゐる。磯魚の常で何とも云へぬ鮮麗な色彩をしたのなども混つてゐる。藻がかすかに搖れて、それと共にその魚の體も搖れてゐる樣だ。雨は先刻から霽つてゐたが、對岸の山から山へかけて、白雲も次第に上に靡いて、此處からもまた例の大きな瀧が望まれた。
凪ぎ果てた港には發動船の走る音が斷間なく起つて居る。みな鰹船で、この二三日とりわけても出入が繁いのださうだ。夕方、特に注文して大ぎりにした鰹を澤山に取り寄せた。そして女中をも遠ざけて唯一人、いかにも遠くの旅さきの温泉場に來て居る靜かな心になつて、夜遲くまでちび〳〵と盃を嘗めてゐた。
したたかにわれに喰せよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
熊野なる鰹の頃に行きあひしかたりぐさぞも然かと喰せこそ
いまは早やとぼしき錢のことも思はず一心に喰へこれの鰹を
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹をうまし〳〵と
あなかしこ胡瓜もみにも入れてあるこれの鰹を殘さうべしや
六月三日、久しぶりにぐつすりと一夜を睡つて眼を覺すとまた雨の音である。戸をあけてみると港内一帶しら〴〵と煙り合つて、手近の山すら判然とは見わかない。たゞ發動機の音のみ冴えてゐる。
朝の膳にもまた酒を取り寄せて今日は一日この雨を聞きながらゆつくりと休むことにした。東京の宅を立つたのが先月の八日、二週間ほどの豫定で出て來た旅が既うかれこれ一月に及ぼうとしてゐるのである。京都界隈から大阪奈良初瀬と𢌞つて紀州に入り込んだ時はかなり身心ともに疲れてゐた。それに今までは到る所晝となく夜となく、歌に關係した多勢の人、それも多くは初對面の人たちに會つてばかり歩いて來たので心の靜まるひまとては無かつた。それが昨夜、和歌の浦からこの熊野𢌞りの汽船に乘り込んで漸く初めて一人きりの旅の身になつた樣な心安さを感じて、われ知らずほつかりとしてゐた所である。初めの豫定では勝浦あたりに泊る心はなく、汽船から直ぐ奈智に登つて、瀞八丁に𢌞つて新宮に出て、とのみ思うてゐた。が、斯うして思ひがけぬ靜かな離れ島の樣な温泉などに來てみるとなか〳〵豫定通りに身體を動かすのが大儀になつてゐた。それにこの雨ではあるし、寧ろ嬉しい氣持で一日を遊んでしまふことに決心したのである。
午前も眠り、午後も眠り、葉書一本書くのが辛くてゐるうちに夜となつた。雨は終日降り續いて、夜は一層ひどくなつた。客は他に三四人あつたらしいが、靜けさに變りはない。
翌日も雨であつた。また滯在ときめる。旅費の方が餘程怪しくなつてゐるが、此處に遊んだ代りに瀞八丁の方を止してしまふことにした。午後は晴れた。釣竿を借りて庭さきから釣る。一向に釣れないが、二時間ほども倦きなかつた。澄んだ海の底を見詰めてゐると實に種々な魚が動いてゐるのだ。
六月五日、また降つてゐた。
でも、今日こそは立たうと思つてゐた。瀞八丁を止すついでに奈智の瀧も此處から見るだけに留めて置かうかとも思つたが、幾らか心殘りがあるので思ひ切つて出かける。船頭の爺さんに頼んで汽船から見て來た港口の島々の間の深く湛へたあたりを漕いで𢌞る。見れば見るほど、景色のすぐれた港だと思はれた。そして對岸の港町に上つて停車場へ行つた。雨が烈しいので、袴も羽織も手提も一切まとめて其處に預けて、勝浦新宮間に懸つてゐる輕便鐵道に乘り込んだ。間もなく二つ目の驛、奈智口といふので下車。
雨はまるで土砂降に降つてゐた。幾ら覺悟はしてゐてもこれでは餘にひどいので少し小降になるまで待つてから出かけようと停車場前の宿屋に入つた。そして少し早いが晝食を註文してゐると、突然一人男が奧から馳け出して來て私の前に突つ立つた。その眼は妙に輝いて、聲まで逸んでゐる。貴下は東京の人だらう、と言ひながら頭の頂上から爪先まで見上げ見下してゐる。何氣なく左樣だと答へると、何日にあちらを立つたと訊く。ありのままに答へると、さもこそと云はむばかりに獨り合點して更に何處から何處を𢌞つてゐたかと愈々勢込んで來た。そのうちに奧からも勝手からもぞろぞろと家族らしいもの女中らしいものが出て來た。その上、先刻から店さきに休んでゐた同じく奈智行らしい一行の人たちも立つてこちらを覗き込んで來た。私は何とも知れぬ氣味惡さを感じながら無作法に自分の前に突つ立つてまじ〳〵と顏を覗き込んでゐる痩せた、脊の高い、眼の險しい四十男を改めて見返さざるを得なかつた。そして簡單に京都大阪奈良と答へてゐると、急に途中を遮つて、高野山に登つたらうと言ふ。まことに息を逸ませてゐる。私はもう素直に返事するのが不快になつた。で、左樣だ、と言つた。實は其處には登る筈ではあつたが登らずに來たのであつた。それを聞くとその男は愈々安心したといふ風に、脊を延ばして初めて氣味の惡い微笑を漏らしながら、左樣でせう、確かに左樣だらうと思つた、サ、何卒お二階にお上り下さい、實は東京からあなたを探ねていらした方があるのです、と言ふ。今度は私の方で驚いた。そして思はず立ち上つた。
「え、誰だ、何といふんです、……僕は若山と云ふのだが。」
「へゝえ、誰方ですか、もう直ぐこれへ歸つておいでになりますで、……實はあなたを探して一先づ瀧の方へおいでになりましたので、もう直ぐこれへお歸りで御座いますから、まア、どうぞお二階へ。」
といふ。
この正月の事であつた、私は伊豆の東海岸を旅行して二日の夜に或る温泉場へ泊つた。すると、同じその夜、その土地の、同じ宿屋の、しかも私と襖一重距てた室へ私の友人の一人が泊り合せて、さうして二人ともそれを知らずに、翌日それ〴〵分れ去つた事があつたのだ。この番頭らしい怪しき男の今までの話を聞いてゐて、端なく思ひ出したのはその事である。そして私がこの頃この熊野を通つて、奈智へ登るといふ事は東京あたりの親しい者の間には前から知れてゐた事實である。誰か氣まぐれに後から追つて來て、今日それが此處を通つたかも知れぬといふ事は強ちに否定すべき譯に行かなかつた。まして此場の異常に緊張した光景は確かにそれを思はするに充分であつた。
「え、誰です、何といふ男が來ました?」
あれかこれかと私は逸速くさうした事をしさうな友人を二三心に浮べながら、もう眼の前にそれらの一人の笑ひ崩るる顏を見る樣な心躍りを感じて問ひ詰めた。
今度は相手の方がすつかり落ち着いてしまつた。環を作つて好奇の眼を輝かせてゐる女中や家族や客人たちをさも得意げに見𢌞して、兎に角此處では何だから二階にあがれ、と繰返しながら、一段聲を落して、
「東京では皆さんがえらく御心配で、ことに御袋樣などはたとへ何千圓何萬圓かかつてもあなたを探し出す樣にといふわけだ相で……」
と言ひ出した。
此處まで聞いて私は再びまた呆氣にとられた。何とも言へぬ苦笑を覺えながら、
「さうか、それでは違ふよ、僕は東京者には東京者だが、そんな者ぢアない、人違ひだ。」
と馬鹿々々しいやら、また何かひどくがつかりした樣な氣持にもなつて再び其處へ腰掛けやうとすると、なか〳〵承知しない。
「いえもうそれは種々な御事情もおありで御座いませうが、……實は高野山から貴下のお出しになつた葉書で、てつきりこちらへおいでになる事も解つてゐましたので、ちやんともうその人相書まで手前の方には解つてゐますので……」
「ナニ、人相書、それなら直ぐその男かどうかといふ事は解りさうなものぢアないか。」
「それがそつくり貴下と符合致しますので、もうお召物の柄まで同じなのですから、……兎に角お二階で暫くお待ち下さいまし、瀧の方へおいでになつた方々にも固く御約束をしておいた事ですから此處でお留め申さないと手前の手落になります樣なわけで……」
私はもうその男に返事をするのを見合せた。そして其處へ來て立つてゐる女中らしいのに、
「オイ、如何した飯は、酒は?」
と言ふと、彼等は惶てて顏を見合せた。先刻からの騷ぎでまだ何の用意にもかかつてゐないのだ。
「ええ、どうぞ御酒でもおあがりになりながら、ゆつくり二階でお待ち下さいます樣に……」
と、その男は終に私の手を取つた。
先刻からむづ〳〵し切つてゐた私の肝癩玉はたうとう破裂した。
「馬鹿するな、違ふ。」
と、言ふなり私は洋傘を掴んで其處を飛び出した。そしてじやア〳〵降つてゐる雨の中を大股に歩き始めた。軒下まで飛んでは出たが流石にその男も其處から追つて來る事はしなかつた。
幸に私の歩き出した道は奈智行の道であつた。何しろ恐しい雨である。熊野路一帶は海岸から急に聳え立つた嶮山のために大洋の氣を受けて常に雨が多いのださうだが、今日の雨はまた別だ。幾らも歩かないうちに全身びしよ〳〵に濡れてしまつた。先刻からの肝癪で夢中で急いではゐるものの、程なく疲れた。そして今度は抑へ難い馬鹿々々しさ、心細さが身に浸み込んで來た。矢張り來るのではなかつた、赤島の温泉場から遠望しておくだけに留めておけばよかつた、斯んな状態で瀧を見たからとて何になるものぞ、いつそ此處からでも引返さうか、などとまで思はれて來た。赤島で三晩ほど休んでゐる間に幾らか身體の疲勞も除れて來た。この調子で奈智へ登つて、其處の山上にあるといふ宿屋に籠つて青葉の中の瀧を見てゐたら、それこそどんなに靜かな心地になれるだらう、それでこそ遙々出て來た今度の旅の難有さも出るといふものだ、と種々な可懷しい空想を抱いて雨の中を出かけて來たのだが、まだ山にかかりもせぬ前から先刻の樣な騷ぎに出會つて、靜かな心も落ちついた氣分もあつたものではなかつたのである。半分は泣く樣な氣持でわけもなく歩いてゐると、後から馬車が來た。そして馬車屋が身近くやつて來て乘れと勸める。何處行きだと訊くと奈智の瀧のツイ下まで行くといふ。直ぐ幌を上げて乘り込むと驚いた。先刻の宿屋に休んでゐた三人連の一行が其處に乘り込んでゐたのだ。
向うでは前から私だと知つてゐたらしく、お互ひにそれらしい顏を見合せて默り込んだ。平常ならば私も挨拶の一つ位ゐはする所であるが、彼等の好奇に動く顏を見るとまた不愉快がこみ上げて來て目禮一つせず、默つたまま、隅の方に腰を下した。四方とも黒い油紙で包み上げた馬車の中は不氣味な位ゐ暗かつた。そして泥田の樣な道を辿つてゐるので、その動搖は想像のほかであつた。四五丁も行つたと思ふころ、馬車屋が前面の御者臺の小さなガラス窓から振返つて私あてに聲をかけた。この降るなかをお詣りかと訊くのだ。奈智と云へば私は唯だ瀧としか聯想しなかつたが、其處には熊野夫須美神社といふ官幣か國幣の大きな神社があり、西國三十三ヶ所第一の札所である青岸渡寺とい古刹もあるのである。併し、御者のわざ〳〵斯う訊いたのは決して言葉通りの意味でないことを私は直ぐ感じた。此奴、驛前の宿屋で聞いて來たナ、と思ひながら慳貪に、
「イヤ、瀧だ。」
と答へた。
「瀧ですか、瀧は斯んな日は危う御座んすよ。」
と言ふ。にや〳〵してゐる顏がその背後から見える樣だ。
暫く沈默が續くと、今度は私と向ひ合ひに乘つてゐる福々しい老人が話しかけた。このお山は初めてか、といふ樣なことから、今日は何處から來たか、お山から何處へ行くかといふ樣な事だ。言葉短かにそれに返事をしてゐると、他の二人も談話の中に加はつて來た。これは老人とは違つた、見るからに下卑た中年の夫婦者である。私はよく〳〵の事でなければ返事をせず、一切默り込むことにしてゐた。すると次第に彼等同志だけで話が逸んで來て、後には御者もその仲間に入つた。多くは瀧が主題で、この近來どうも瀧に飛ぶ者が多くて、そのため村では大迷惑をしてゐる、瀧壺の深さが十三尋もあつて、しかもその中は洞になつてゐると見え、一度飛んだ者は決して死骸が浮んで來ない、所詮駄目だと解つてはゐるものの村ではどうしても其儘捨てておくわけにゆかぬ、村の青年會は此頃殆んどその用事のみに働いてゐる位ゐだ、況して斯ういふ田植時にでも飛び込まれやうものならそれこそ泣顏に蜂だ、といふ風のことをわざとらしい高聲で話してゐるのだ。續いて近頃飛んだそれぞれの人の話が出た。大阪の藝者とその情夫、和歌山の呉服屋、これはまた何のつもりで飛んだか、附近の某村の漁師、とそれ〴〵自殺の理由などまで語り出される頃は馬車の内外とも少からぬ緊張を帶びて來た。今まで私と同じくただ默つて聞いてゐた老人まで極めて眞面目な顏をして斯ういふ事を言ひ出した、人が自分から死ぬといふのは多くは魔に憑かれてやる事だ、だから見る人の眼で見るとさうした人の背後に隨いてゐる死靈の影がありありと解るものだ、と。
私は次第に苦笑の心持から離れて氣味が惡くなつて來た。何だか私自身の側にその死神でも密著いてゐる樣で、雨に濡れた五體が今更にうす寒くなつて來た。をり〳〵私の顏を竊み見する人たちの眼にも今までと違つた眞劍さが見えて來た樣だ。濡れそぼたれて斯うして坐つてゐる男の影が彼等の眼にほんとにどう映つてゐるであらうと思ふと、私自身笑ふにも笑はれぬ氣がして來たのである。
氣がつけば道は次第に登り坂になつてゐた。雨は幾らか小降りになつたが、心あての方角を望んでも唯だ眞白な雲が閉してゐるのみで、山の影すら仰がれない。小降りになつたを幸ひに出て來たのだらう、今まで氣のつかなかつた田植の人たちが其處等の段々田に澤山見えて來た。所によつては夏蜜柑の畑が見えて、黄色に染つた大きな果實が枝のさきに重さうに垂れてゐる。
程なく馬車は停つた。やれ〳〵と思ひながら眞先きに飛び降りると、成程いかにも木深い山がツイ眼の前に聳えて居る。瀧の姿は見えないが、そのまま山に入り込んでゐる大きな道が正しくその方角についてゐるものと思はれたので、私は賃金を渡すと直ぐ大股に歩き始めた。すると、他の客の賃金を受取るのもそこ〳〵にして馬車屋が直ぐ私のあとに隨いて來た。
「何處へ行くんだ?」
私は訊いた。
「へへえ、瀧まで御案内致します。」
「いいよ、僕は一人で行ける。」
「へへえ、でもこの雨で道がお危うございますから……」
「大丈夫だ、山道には馴れてる。」
「それでも……」
「オイ、隨いて來ても案内料は出さないよ。」
「いいえ、滅相な、案内料などは……」
勝手にしろ、と私も諦めて其儘急いだ。が、たうとう埓もない事になつたと思ふと、もう山の姿も雲のたたずまひも眼には入らず、折角永年あこがれてゐたその山に來ても、半ば無意識に唯だ脚を急がせるのみであつた。
「見えます、彼處に。」
馬車屋の聲に思はず首を上げて見ると、いかにも眞黒に茂つた山の間にその瀧が見えて來た。流石に大きい。落口は唯だ氷つた樣に眞白で、ややに水の動く樣が見え、下の方に行けば次第に廣くなつて霧の樣に煙つてゐる。われともなく私は感嘆の聲をあげた。そして側の馬車屋に初めて普通の、人間らしい聲をかけた。
「何丈あるとか云つたネ、あの高さは?」
「八十丈と云つてゐますが、實際は四十八丈だとか云ひます。」
「なアるほど、あいつに飛んだのでは骨も粉もなくなるわけだ。」
言ひながら、私は大きな聲を出して笑つた、胸の透く樣な、眞實に何年ぶりかに笑ふ樣な氣持をしながら。
その瀧の下に出るにはそれから十分とはかからなかつた。凄く轟く水の音をツイ頭の上に聞きながら深い暗い杉の木立の下を通ると、兩側に澤山大小の石が積み重ねてある。馬車屋はそれを指して、みな瀧に飛んだ人の供養のためだと云ふ。
「では一つ僕も積んで置くかナ。」
また大きな聲で笑つたが、その聲はもう殆んど瀧のために奪はれてゐた。
瀧を眞下から正面に見る樣な處に小屋がけがしてあつて、其處から仰ぐ樣になつてゐる。平常は茶店なども出てゐるらしいが、今日は雨で誰も出てゐない。二三日來の雨で、瀧は夥しく増水してゐるのだ相だ。大粒の飛沫が冷かに颯々と面を撲つ。ぢいつと佇んで見上げてゐると、唯だ一面に白々と落ち下つてゐる樣で、實は團々になつた大きな水の塊が後から後からと重り合つて落ちて來てゐるのである。時には岩を裂く樣に鋭く近く、時には遠く渡つてゆく風の樣なその響に包まれながら、茫然見て居れば次第に山全體が動き出しても來る樣で、言ひ難い冷氣が身に傅はつて來る。
「これで、瀧壺まではまだ二丁からあります。」
同じくぼんやりと側に添うて立つてゐた馬車屋はいふ。それを聞くと私の心には一つの惡戲氣が浮いて來た、私が其處まで行くとするとこの馬車屋奴はどうするであらうと。
私は裾を高々と端折つて下駄を脱ぎ洋傘をも其處に置いて瀧壺の方へ岩道を攀ぢ始めた。案の如く彼は一寸でも私の側から離れまいとして惶てて一緒にくつ着いて來た。苦笑しながら這ふ樣にして岩から岩を傳はらうとしたが、到底それは駄目であつた。殆んど其處等一帶が瀧の一部分を成してゐるかの如く烈しい飛沫が飛び散つて、それと共にともすれば岩から吹き落しさうにして風が渦卷いてゐるのである。それでも半分ほどは進んだが、たうとう諦めてまた引き返した。安心した樣な、當の外れたやうな顏をして馬車屋もまた隨いて來た。私はこの男が可哀相になつた。はつきり人違ひの事を知らせて、酒の一杯も飮ませてやらうなどと思ひながら、もとの所に戻つて來ると、先刻の馬車の連中が丁度其處へやつて來た。お寺の方へ先に行く筈であつたが、私達が如何してゐるかを見るためにこちらを先にしたものかも知れぬ。驚いた樣に私達を見て笑つてゐる。私は再び彼等と一緒になる事を好まなかつたので、直ぐ其處を立ち去らうとした。そして馬車屋を呼んだが、彼は何か笑ひながら向うの連中と一緒になつてゐて一寸返事をしただけであつた。
少し道に迷つたりして、やがてお寺のある方へ登つて行つた。何しろ腹は空いて五體は冷えてゐるので、お寺よりも宿屋の方が先であつた。その門口に立ちながら、一泊させて呉れと頼むと、其處の老婆は氣の毒さうな顏をして、此節はお客が少いのでお泊りの方は斷つてゐる、まだ日も高いしするからこれからまだ何處へでも行けませう、といふ。實は私自身強ひて泊る氣も失くなつてゐた時なので、それもよからうと直ぐ思ひ直した。そして、それでは酒を一杯飮ませて呉れぬかといふと、お肴は何もないが酒ならば澤山あります、といひながらその仕度に立たうとして彼女は急に眼を輝かせた。
「旦那は東京の方ではありませんか?」
オヤ〳〵と私は思つた。それでも既う諦めてゐるので從順に左樣だよと答へて店先へ腰を下した。
「それなら何卒お上り下さい、お二階が空いて居ります、瀧がよく見えます。」
といふ。
それも可からうと私は素直に濡れ汚れた足袋を脱いだ。その間にまた奧からも勝手からも二三の人が飛んで來た。
二階に上ると、なるほど瀧は正面に眺められた。坂の中腹に建てられたその宿屋の下は小さい竹藪となつてゐて、藪からは深い杉の林が續き、それらの上に眞正面に眺められるのである。遠くなり近くなりするその響がいかにも親しく響いて、眞下で仰いだ姿よりもこの位ゐ離れて見る方が却つて美しく眺められた。切りそいだ樣な廣い岩層の斷崖に懸つてゐるので、その左右は深い森林となつてゐる。いつの間に湧いたのか、その森には細い雲が流れてゐた。
がつかりした樣な氣持で座敷に身體を投げ出したが、寢てゐても瀧は見える。雲は見る〳〵うちに廣がつて、間もなく瀧をも斷崖をも宿の下の杉木立をも深々と包んでしまつた。瀧の響はそれと共に一層鮮かに聞えて來た。
やがて酒が來た。襖の蔭から覗き見をする人の氣勢など、明らかに解つてゐたが、既うそんな事など氣にならぬほど、次第に私は心の落ち着くのを感じた。兎に角にこの宿屋だけはかねてから空想してゐた通りの位置にあつた。これで、今朝の事件さへ無かつたならば、どんなに滿足した一日が此處で送られる事だつたらうと、そぞろに愚痴まで出て來るのであつた。
一杯々々と重ねてゐる間に、雲は斷えず眼前に動いて、瀧は見えては隱れ、消えては露れてゐる。うつとりして窓にかけた肱のさきには雨だか霧だか、細々と來て濡れてゐるのである。心の靜かになつて來ると共に、私はどうもこのままこの宿を去るのが惜しくなつた。此儘此處に一夜でも過して行つたら初めて豫てからの奈智山らしい記憶を胸に殘して行くことが出來るであらう、今朝からのままでは餘りに悲慘である、などと思はれて來た。折から竹の葉に音を立てて降つて來た雨を口實に、宿の嫁らしい若い人に頼んでみた、特に今夜だけ泊りを許して貰へまいかと。案外に容易くその願ひは聞屆けられた。そして夕飯の時である、その嫁さんは私の給仕をしながらさも〳〵可笑し相に笑ひ出して、今日は旦那樣は大變な人違ひをせられておゐでになりました、御存じですか、と言ひ出した。
「ホ、人違ひといふ事がいよ〳〵解つたかネ、實はこれ〳〵だつたよ。」
と朝からの事を話して笑ひながら、
「一體その人相書といふのはどんなのだね?」
と訊くと、齡は二十八歳で、老けて見える方、(私は三十四歳だが、いつも三つ四つ若く見られる)身長五尺二寸(私は一寸二三分)、着物はセルのたて縞(丁度私もセルのたて縞を着てゐた)、五月六日に東京を(私は五月八日)出て暫く音信も斷え、行先も不明であつたが、先日高野山から手紙をよこし、これから紀州の方へ行つてみるつもりだといふ事と二度とはお目にかかれぬだらうといふ事とが認めてあつたのだ相だ。洋酒屋の息子とかで、家はかなり大きな店らしく、その手紙と共に大勢の追手が出て、その一隊が高野からあと〳〵と辿つて今日一度この山へ登つて來、諸所を調べた末一度下りて行つたが、驛前の宿屋で今朝の話を聞いて夕方また登つて來たのだ相である。
「旦那樣が御酒をお上りになつてる時、其處の襖の間から覗いて行つたのですよ。」
といふ。
「兎に角ひどい目に會つたものだ。」
と笑へば、
「何も慾と道づれですからネ。」
といふ。
「え、……?」
私がその言葉を不審がると、
「アラ、御存じないのですか、その人には五十圓の懸賞がついてゐるのですよ。」
末ちさく落ちゆく奈智の大瀧のそのすゑつかたに湧ける霧雲
白雲のかかればひびきうちそひて瀧ぞとどろくその雲がくり
とどろ〳〵落ち來る瀧をあふぎつつこころ寒けくなりにけるかも
まなかひに奈智の大瀧かかれどもこころうつけてよそごとを思ふ
暮れゆけば墨のいろなす群山の折り合へる奧にその瀧かかる
夕闇の宿屋の欄干いつしかに雨に濡れをり瀧見むと凭れば
起き出でて見る朝山にしめやかに小雨降りゐて瀧の眞白さ
朝凪の五百重の山の靜けきにかかりて響く奈智の大瀧
雲のゆき速かなればおどろきて雲を見てゐき瀧のうへの雲を
その翌日、山を降りて再び勝浦に出た。そしてその夜志摩の鳥羽に渡るべく汽船の待合所に行つて居ると、同じく汽船を待つらしい人で眼の合ふごとにお辭儀をする一人の男が居る。見知らぬ人なので、此處でもまた誰かと間違へてゐると思ひながら、やがて汽船に乘り込むとその人と同室になつた。船が港を出離れた頃、その人は酒の壜を提げていかにもきまりの惡さうなお辭儀をしい〳〵私の許へやつて來た。
その人が、昨日の夕方、奈智の宿屋で襖の間から私を覗いて行つた人であつた。 | 底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kamille
校正:林 幸雄
2004年9月25日作成
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――ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて
別れきさなり今ぞ逢ひぬる――
十月二十八日。
御殿場より馬車、乗客はわたし一人、非常に寒かつた。馬車の中ばかりでなく、枯れかけたあたりの野も林も、頂きは雲にかくれ其処ばかりがあらはに見えて居る富士山麓一帯もすべてが陰欝で、荒々しくて、見るからに寒かつた。
須走の立場で馬車を降りると丁度其処に蕎麦屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して来た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて来て貰つた着茣蓙を羽織り、脚軽く蕎麦屋を立ち出でた。
宿場を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は発する、息は切れる、幾所でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手当為事で睡眠不足が続いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと〳〵と眠つてしまつた。
「モシ〳〵、モシ〳〵」
呼び起されて眼を覚すと我知らずはつとせねばならなかつた程、気味の悪い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。
「風邪をお引きになりますよ」
わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。
わたしはやゝ恥しく、惶てゝ立ち上つて帽子をとりながら礼を言つた。
「登りでしたら御一緒に参りませう」
とその若い男は先に立つた。
酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は東京で震災でこの大火傷を負うた旨を語りつゝ峠に出た。
吉田で彼と別れた。彼は何か金の事で東京から来て、昨日は伊豆の親類を訪ね、今日はこれより大月の親類に廻つて助力を乞ふつもりだといふ様な事を問はず語りに話し出した。いかにも好人物らしく、彼が同意するならば一緒に今夜吉田で泊るも面白からうなどとわたしは思うた。が、先を急ぐと云つて、そゝくさと電車に乗つて彼は行つてしまつた。
ほんの一寸の道づれであつたが、別れてみれば淋しかつた。それにいつか暮れかけては来たし、風も出、雨も降り出した。其儘、吉田で泊らうかと余程考へたが、矢張り予定通り河口湖の岸の船津まで行く事にし、両手で洋傘を持ち、前こゞみになつて、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ。
午後七時、湖岸の中屋ホテルといふに草鞋をぬいだ。
十月二十九日。
宿屋の二階から見る湖にはこまかい雨が煙つてゐたが、やや遅い朝食の済む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を売買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。
真上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ真上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿ふた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦労してゐるのださうだ。熔岩地帯であるためだといふ。
渡りあがつた所の小村で郡内屋と別れ、ルツクサツクの重みを快く肩に背に感じながらわたしはいい気持で歩き出した。直ぐ、西湖に出た。小さいながらに深く湛へてゐるこの湖の縁を歩きつくした所に根場といふ小さな部落があつた。所の祭礼らしく、十軒そこそこの小村に幟が立てられ、太鼓の音が響いてゐた。
不図見ると村に不似合の小綺麗なよろづ屋があつた。わたしは其処に寄り、酒と鑵詰とを買ひ、なほ内儀の顔色をうかがひながらおむすびを握つて貰へまいかと所望してみた。お安いことだが、今日は生憎くお赤飯だといふ。なほ結構ですと頼んで、揃つた夫等を風呂敷に包んで提げながら、其処を辞した。今朝、雨や舟やで、宿屋で此等を用意するひまがなく、また急げば昼までには精進湖まで漕ぎつけるつもりで立つて来たのであつた。然し、次第に天気の好くなるのを見てゐると、これから通りかゝる筈の青木が原をさう一気に急いで通り過ぎることは出来まいと思はれたので、店のあつたのを幸ひに用意したのであつた。
樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたのはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森木の欝蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相当の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帯に火山岩の地面で、土気の少いためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美しかつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂らしい木の、葉も幹も真黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。
わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ様な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の様な落葉の音の中に混つて頻りに山雀の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に来て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い声でけたゝましく啼き交はしてゐる。
長い昼食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに会はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其処に今までのいづれよりも深く湛へた静かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。
十月三十日。
宿屋に瀕死の病人があり、こちらもろくろくえ眠らずに一夜を過した。朝、早く立つ。
坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなつた。名だけは女坂峠といふ。堀割りの様になつた凹みの路には堆く落葉が落ち溜つてじとじとに濡れてゐた。
越え終つて渓間に出、渓沿ひに少し歩き渓を渡つてまた坂にかゝつた。左右口峠といふ。この坂は路幅も広く南を受けて日ざしもよかつたが、九十九折の長い〳〵坂であつた。退屈しい〳〵登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登つて行つてわたしは驚喜の声を挙げた。不図振返つて其処から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、而してまたいかばかり美しくあつたことか。
空はむらさきいろに晴れてゐた。その四方の空を占めて天心近く暢びやかに聳え立つてゐる山嶺を仰ぐにはこちらも身を頭をうち反らせねばならなかつた。今日の深い色の空の真中に立つこの山にもまた自づと深い光が宿つてゐた。半ばは純白の雪に輝き、なかばは山肌の黒紫が沈んだ色に輝いてゐた。而してその山肌には百千の糸巻の糸をほどいて打ち垂らした様に雪がこまかに尾を引いてしづれ落ちてゐるのであつた。
峠を下り、やゝ労れた脚で笛吹川を渡らうとすると運よく乗合馬車に出会つてそれで甲府に入つた。甲府駅から汽車、小淵沢駅下車、改札口を出ようとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から来た中村柊花君が宿屋の寝衣を着て其処に立つてゐた。
「やア!」
「やア!」
打ち連れて彼の取つてゐた宿いと屋といふに入つた。
親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを楽しんでゐて、サテ相対して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は酔うてゐた。
一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ来客があつた。この宿に止宿してゐる小学校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高説拝聴と出て来られたのである。
漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほど〳〵で引上げて行つた。が、我等二人となつても初めの気持に返るには一寸間があつた。
「あなたはさぼしといふものを知つてますか」と、中村君。
「さア、聞いた事はある様だが……」
「此の地方の、先づ名物ですネ、他地方で謂ふ達磨の事です」
「ほゝウ」
「行つて見ませうか、なか〳〵綺麗なのもゐますよ」
斯くて二人は宿を出て、怪しき一軒の料理屋の二階に登つて行つた。そしてさぼしなるものを見た。が不幸にして中村君の保証しただけの美しいのを拝む事は出来なかつた。何かなしに唯がぶ〳〵と酒をあふつた。
二人相縺れつゝ宿に帰つたはもう十二時の頃でもあつたか。ぐつすりと眠つてゐる所をわたしは起された。宿の息子と番頭と二人、物々しく手に〳〵提灯を持つて其処に突つ立つてゐる。何事ぞと訊けば、おつれ様が見えなくなつたといふ。見れば傍の中村君の床は空である。便所ではないかと訊けば、もう充分探したといふ。サテは先生、先刻の席が諦められず、またひそかに出直して行つたと見える。わたしはさう思うたので笑ひながらその旨を告げた。が、番頭たちは強硬であつた。あなた達の帰られた後、店の大戸には錠をおろした。その錠がそのまゝになつてゐる所を見ればどうしてもこの家の中に居らるゝものとせねばならぬ……。
「実はいま井戸の中をも探したのですが……」
「どうしても解らないとしますと駐在所の方へ届けておかねばならぬのですが……」
吹き出し度いながらにわたしも眼が覚めてしまつた。
如何なる事を彼は試みつゝあるか、一向見当がつきかねた。見廻せば手荷物も洋服も其儘である。
其処へ階下からけたゝましい女の叫び声が聞えた。
二人の若者はすはとばかり飛んで行つた。わたしも今は帯を締めねばならなかつた。そして急いで階下へおりて行つた。
宿の内儀を初め四五人の人が其処の廊下に並んで突つ立つてゐる。宵の口の小学校教師のむつかしい顔も見えた。自からときめく胸を抑へてわたしは其処へ行つた。と、またこれはどうしたことぞ、其処は大きなランプ部屋であつた。さまざまなランプの吊り下げられた下に、これはまたどうした事ぞ、わが親友は泰然として坐り込んでゐたのである。
「どうもこのランプ部屋が先刻からがたがたといふ様だものですから、いま来て戸をあけて見ましたらこれなんです、ほんとに妾はびつくりして……」
内儀はたゞ息を切らしてゐる。怒るにも笑ふにもまだ距離があつたのだ。
わたしとしても早速には笑へなかつた。先づ居並ぶ其処の人たちに陳謝し、サテ徐ろにこの石油くさき男を引つ立てねばならなかつた。
十月三十一日。
早々に小淵沢の宿を立つ。空は重い曇であつた。
宿屋を出外れて路が広い野原にかゝるとわたしの笑ひは爆発した。腹の底から、しんからこみあげて来た。
「どうして彼処に這入る気になつた」
「解らぬ」
「這入つて、眠つてたのか」
「解らぬ」
「何故戸を閉めてゐた」
「解らぬ」
「何故坐つてゐた」
「解らぬ」
「見附けられてどんな気がした」
「解らぬ」
一里行き、二里行き、わたしは始終腹を押へどほしであつた。何事も無かつた様な、まだ身体の何処やらに石油の余香を捧持してゐさうな、丈高いこの友の前に立つても可笑しく、あとになつても可笑しかつた。が、笑つてばかりもゐられなかつた。二晩つづきの睡眠不足はわたしの足を大分鈍らしてゐた。それに空模様も愈々怪しくなつて来た。三里も歩いた頃、長沢といふ古びはてた小さな宿場があつた。其処で昼をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても予定の通り国境を越え、信州野辺山が原の中に在る板橋の宿まで行かうといふ。
我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所所に部落があり、開墾地があり雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。
止むなく彼の言ふ所に従つて、心残りの長沢の宿を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので予定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ〳〵登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の通路であつたのだ。幅はやゝ広く、荒るゝがまゝに荒れはてた悪路であつた。
とう〳〵雨がやつて来た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい〳〵に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身体の労れてゐない筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長沢から仕入れて来た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。
恐れてゐた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が野末をこめて来た。地図と時計とを見較ベ〳〵急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか〳〵思ふ様に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう〳〵我等の前後を包んでしまつた。
まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。
入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲爐裏の火、竃の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲爐裏で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。
我等のほかにもう一人の先客があつた。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、囲爐裏の焚火を囲みながら飲み始めた酒がまた大変なことゝなつた。
折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩ぢ切る様な霧がむく〳〵とこの一座の上を襲うて来た。
十一月一日。
酒を過した翌朝は必ず早く眼が覚めた。今朝もそれであつた。正体なく寝込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の囲爐裏ではぱち〳〵と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。
まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い〳〵、この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の学者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて来て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。
「昨晩はどうも御馳走さまになりました」
と、やがてそのマリヤの父親はにや〳〵しながら言つた。
「イヤ、お騒がせしました」
とわたしは頭を掻いた。
其処へ荷馬車挽きも起きて来た。
煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで来た。顔を洗ひに戸外に出ようとその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度真正面に、広々しい野原の末の中空に、富士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで来たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。
膳が出たが、わが相棒は起きて来ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。
そしていつの間に出て来たものか、見渡す野原も、その向う下の甲州地も一面の雲の河となつてしまつた。富士だけがそれを抜いて独りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此処は甲州と信州との境に当つてゐるのでこの家のことを国境といふとかいふ様な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。
困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐいとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか〳〵御神輿が上らない。「とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ」とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。「いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ」
と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて来た。ランプ部屋ではまだ何処やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。
早速出立、実によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の気持はまさしく脳にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて来た八ヶ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにうつすらと雪が来てゐた。
「大丈夫か、腰の所を何かで結へようか」
「大、丈、夫です」
と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎮座ましまし、こくり〳〵と揺られてゐる。
野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち続いてゐる様はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方数里に亙つてこれであろう。
漸く歌を作る気にもなつた。
日をひと日わが行く野辺のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
落葉松は痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただに真白かりけり
二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ来た。此処にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので昼食をする事にした。
其処より逆落しの様な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調を整えて存外に早く松原湖に着き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も来てゐなかつた。
程なく布施村より重田行歌、荻原太郎君の両君、本牧村より大沢茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて来た。これだけ揃うとわたしも気が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。
夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび〳〵その二階の揺れるのを感じた。
宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寝た。
遠く来つ友もはるけく出でて来て此処に相逢ひぬ笑みて言なく
無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを
酒のみの我等がいのち露霜の消やすきものを逢はでをられぬ
湖べりの宿屋の二階寒けれや見るみずうみの寒きごとくに
隙間洩る木枯の風寒くして酒の匂ひぞ部屋に揺れたつ
十一月二日。
夜つぴての木枯であつた。たび〳〵眼が覚めて側を見ると、皆よく眠つてゐた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでゐるのである。その木枯が今朝までも吹き通してゐたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聴いてゐたのであつたが、果して細かな雨まで降つてゐた。
午前中をば膝せり合せて炬燵に噛りついて過した。昼すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがつた。他の四君は茸とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで帰らねばならぬといふ高橋君を送つて湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽ち落葉の渦に包まれてしまつた。
茸は不漁であつたらしいが、何処からか彼等は青首の鴨を見附けて来た。山の芋をも提げて来た。善哉々々と今宵も早く戸をしめて円陣を作つた。宵かけてまた時雨、風もいよ〳〵烈しい。が、室内には七輪にも火鉢にも火がかつかと熾つた。
どうした調子のはずみであつたか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我等は一斉に笑ひ出した。甲笑ひ乙応じ、丙丁戊みな一緒になつて笑ひくづれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ続きつ一時間以上も笑ひ続けたであらう。あまり笑ふので女中が見に来て笑ひこけ、それを叱りに来た内儀までが廊下に突つ伏して笑ひころがるといふ始末であつた。たべた茸の中に笑ひ茸でも混つてゐたのか知れない。
十一月三日。
相も変らぬ凄じい木枯である。宿の二階から見てゐると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、水面をかしくてしまふのである。それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて来た。そしてたま〳〵風が止んだと見ると湖水の面にはいちめんに真新しい黄色の落葉が散らばり浮いてゐるのであつた。落葉は楢が多かつた。
今日は歌を作らうとて皆むつかしい顔をすることになつた。
木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ
声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる
樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ
はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は
ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵
笑ひこけて臍の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ
笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く
十一月四日
今日はわたしは皆に別れて独り千曲川の上流へと歩み入るべき日であつたが、「わが若草の妻し愛し」とばかり言ひ張つてゐる重田君の宅を布施村に訪うてそのわか草の新妻の君を見る事になつた。
やれとろゝ汁よ鯉こくよとわが若草の君をいたはり励まし作りあげられた御馳走に面々悉く食傷して昨夜の勢ひなくみなおとなしく寝てしまふた。
十一月五日
総勢岩村田に出で、其処で別れる事になつた。たゞ大沢君は細君の里なる中込駅までとてわたくしと同車した。もうその時は夕暮近かつた。
四五日賑かに過したあとの淋しさが、五体から浸み上つて来た。中込駅で降りようとする大沢君を口説き落して汽車の終点馬流駅まで同行する事になつた。
泊つた宿屋が幸か不幸か料理屋兼業であつた。乃ち内芸者の総上げをやり、相共に繰返してうたへる伊那節の唄
逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい
十一月六日
どうも先生一人をお立たせするのは気が揉めていけない、もう一日お伴しませう、と大沢君が憐憫の情を起した。そして共に草鞋を履き、千曲川に沿うて鹿の湯温泉といふまで歩いた。
其処で鯉の味噌焼などを作らせ一杯始めてゐる所へ、裁判官警察山林官聯合といふ一行が押し込んで来た。そして我等二人は普通の部屋から追はれて、台所の上に当る怪しき部屋へ押込まれた。下からは炊事の煙が濛々として襲うて来るのである。
「これア耐らん、まつたくの燻し出しだ」
と言ひながら我等は膳をつきやつてまた草鞋を履いた。
夕闇寒きなかを一里ほど川上に急いで、湯沢の湯といふへ着いた。
十一月七日。
朝、沸し湯のぬるいのに入つてゐると、ごう〳〵といふ木枯の音である。ガラス戸に吹きつけられ、その破れをくゞつて落葉は湯槽の中まで飛んで来た。そしてとう〳〵雨まで降り出した。
終日、二人とも、炬燵に潜つて動かず。
十一月八日。
誘ひつ誘はれつする心はとう〳〵二人を先日わたしと中村君と昼食した市場といふ原中の一軒家まで連れて行つた。其処で愈々お別れだと土間に切られた大きな炉に草鞋を踏み込んで盃を取らうとすると不図其処の壁に見ごとな雉子が一羽かけられてあるのを見出した。これを料理して貰へまいかと言へば承知したといふ。其処へ先日から評判の美しい娘が出て来て、それだつたら二階へお上りなさいませといふ。両個相苦笑して草鞋をぬぐ。
いつの間にやら夜になつてゐた。初めちよい〳〵顔を見せてゐた娘は来ずなり、代つてその親爺といふのが徳利を持つて来た。そして北海道の監獄部屋がどうの、ピストルや匕首が斯うのといふ話を独りでして降りて行つた。小半日、ぐづぐづして終に泊り込んだ我等をそれで天晴れ威嚇したつもりであつたのかも知れない。
二階は十六畳位ゐも敷けるがらんどうな部屋であつた。年々馬の市が此処の原に立つので、そのためのこの一軒家であるらしい。
十一月九日。
早暁、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。
また久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ヶ嶽には早やとつぷりと雪が来てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野辺山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。
野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて来れば
大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む
わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し真白き野辺を
はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく
枯れて立つ野辺のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
わが袖の触れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
八ヶ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ヶ嶽の山
昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ヶ嶽の山
冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ヶ嶽の山
見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ
入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり
おもうて来た千曲川上流の渓谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。
大深山村附近雑詠。
ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峡間の紅葉時過ぎにけり
この谷の峡間を広み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり
岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな
とろとろと榾火燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き来るなり
居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ
とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。
此処の宿屋でまた例の役人連中と落合ふことになつた。ひとの食事をとつてゐる炬燵にまで這入つて来て足を投げ出す傍若無人の振舞に耐へかねて、膳の出たばかりであつたが、わたしはその宿を出た。そして先刻知り合ひになつた爺さんのうちにでも泊めて貰はうとその家を訪ねた。爺さんはまだ夕闇の庭で働いてゐた。見るからに荒れすたれた家で、とても一泊を頼むわけに行きさうにもなかつた。当惑しながら、ほかにもう宿屋は無からうかと訊くと、木賃宿ならあるといふ。結構、何処ですといふと爺さんが案内して呉れた。木賃宿とは云つても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり続いた一番奥の間に通された。
煤びた、広い部屋であつた。先ず炬燵が出来、ランプが点り、膳が出、徳利が出た。が何かなしに寒さが背すぢを伝うて離れなかつた。二間ほど向うの台所の囲炉裡端でもそろ〳〵夕飯が始まるらしく、家族が揃つて、大賑かである。わたしはとう〳〵自分のお膳を持つてその焚火に明るい囲炉裡ばたまで出かけて仲間に入つた。
最初来た時から気のついてゐた事であつたが、此処では普通の厩でなく、馬を屋内の土間に飼つてゐるのであつた。津軽でもさうした事を見た、余程この村も寒さが強いのであろうと二疋並んでこちらを向いてゐる愛らしい馬の眼を眺めながら、案外に楽しい夕餉を終つた。家の造り具合、馬の二疋ゐる所、村でも旧家で工面のいゝ家らしく、家人たちも子供までみな卑しくなかつた。
十一月十日。
満天の星である。切れる様な水で顔を洗ひ、囲炉裡にどんどと焚いて、お茶代りの般若湯を嘗めてゐると、やがて味噌汁が出来、飯が出た。味噌汁には驚いた。内儀は初め馬の秣桶で、大根の葉の切つたのか何かを掻きまぜてゐたが、やがてその手を囲炉裡にかゝつた大鍋の漸くぬるみかけた水に突つ込んでばしや〳〵と洗つた。その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出来上つたのである。
馬たちはまだ寝てゐた。大きい身体をやゝ円めに曲げて眠つてゐる姿は、実に可愛いゝものであつた。毛のつやもよかつた。これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくはないぞよと心の中で言ひかけつゝ、味噌汁をおいしくいたゞいた。
寒しとて囲炉裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は
まるまると馬が寝てをり朝立の酒わかし急ぐ囲炉裡の前に
まろく寝て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
のびのびと大き獣のいねたるは美しきかも人の寝しより
其処へ提灯をつけて案内の爺さんが来た。相共に上天気を喜びながら宿を出た。
十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。
三国に跨がるこの大きな森林は官有林であり、其処にひそひそ盗伐が行はれてゐた。中でもやゝ組織的に前後七年間にわたつて行はれてゐた盗伐事件が今度漸く摘発せられたのださうだ。何しろ関係する区割が広く、長野県群島県東京府の役人たちがそのために今度出張つて来たのだといふ。わたしは苦笑した。その役人共のためにわたしは二度宿屋から追放されたのだと。
いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり〳〵と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。
幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州地に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雑で、なか〳〵其処の川の姿を見る事は出来なかつた。
やがて夕日の頃となると次第にこの山の眺めが生きて来た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、沢、渓間の間にほのかに靄が湧いて来た。何処からとなく湧いて来たこの靄は不思議と四辺の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。浅間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州地、秩父地、上州地、信州地は無論のこと、杳かに越後境だらうと眺めらるゝもろ〳〵の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ様なき荘厳味を醸し出して呉れたのである。
「ホラ、彼処にちよつぴり青いものが見ゆるづら、」
と老爺はうなづいて、其処の伝説を語つた。斯うした深い渓間だけに、初め其処に人の住んでゐる事を世間は知らなかつた。ところが折々この渓奥から椀のかけらや、箭の折れたのが流れ出して来る。サテ豊臣の残党でも隠れひそんでゐるのであろうと、丁度江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手に向うた。そして其処の何十人かの男女を何とかいふ蔓で、何とかいふ木にくゝつてしまつた。そして段々検べてみると同じ残党でも鎌倉の落武者の後である事が解つて、蔓を解いた。其処の土民はそれ以来その蔓とその木とを恨み、一切この渓間より根を断つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其処に見出せないのださうである。
日暮れて、ぞく〳〵と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着いた。此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた。
十一月十一日。
爺さんはまた七里の森なかの峠を越えて梓山村へ帰つてゆくのである。わたしは一人、三峰山に登つた。そして其処を降つて、昨日尾根から見損つた中津川が、荒川に落ち合ふ所を見度く、二里ばかり渓沿ひに遡つて、名も落合村といふまで行つて泊つた。
翌日は東京に出、ルックサックや着茣蓙を多くの友達に笑はれながら一泊、十七日目だかに沼津の家に帰つた。 | 底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※1927(昭和2)年冬記
※「ルツクサツク」と「ルックサック」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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少年世界愛讀者諸君。これはわたしの小さかつた時の思ひ出話で、小説ではありませぬ。地名人名等、すべて本名を用ゐてあります。
わたしの十二歳の春、丁度高等の二年から三年に移らうとしてゐた時の、今から三十三年以前の話です。その頃は小學校の學級の制度が現在とは違つてをり、尋常科高等科ともに四年づつになつてゐました。ですから高等二年といふと、現在の尋常六學年級に當ります。
日向の國延岡町といひますと、今は相當開けてゐるさうですが、その頃は極くひつそりした田舍町でありました。でも、内藤豐後守といふ御譜代の殿樣のお城のあつた城下町だけに、寂しいけれど上品なところのある町でした。
五個瀬川と大瀬川といふ二つの河が、丁度、島のやうにその町やその隣村をかこんで流れてゐました。――今でも流れてゐますが。
町の西寄りのはづれに、城山といふ小さいけれど嶮しい山が孤立してゐました。名の示すごとくお城の跡の山で、千人殺などいふ高い石垣などもその一部に殘つてゐます。今は公園になつたとかでたいへん綺麗になつてゐるさうですが、わたしどもの少年の頃には草木の茂るにまかせた、荒れ廢れた舊城趾の山でした。
たゞ、頂上に鐘つき堂と堂守の小屋とがあり、一時間ごとに鐘をついて、町や村の人たちに時間を知らせてをりました。今でも多分殘つてをりませう。
三月のなかばすぎのよく晴れた日でありました。
わたしは村井の武ちやんといふ、同じ級の仲好しの友だちと二人で、この城山に登つて遊んでをりました。丁度、學年試驗が昨日から始つたといふ日曜日のことでした。昨日濟んだ試驗は算術と圖畫とであつたことを不思議によく覺えてゐます。試驗最中に山に登つて遊ぶなどといふとひどく怠惰者のやうに聞えますが、たしかに二人とものんき者ではありました。いや、現在でもひと一倍ののんきものなのです。武ちやんはいま東京驛前の大きなビルヂングに事務所をおいて、立派な建築技師になつてゐます。
ほんたうによく晴れた春の日で、日向はごぞんじのとほり暖い國ですから、三月の中旬といふと、もう多分櫻の花なども咲きかけてゐたでありませう。雪雀も囀つてゐたに相違ありません。
西南戰爭で有名な可愛嶽は東に、北から西にかけては行騰山速日峰といふ大きな山々が屏風のやうに延岡平野をとりかこみ、平野のなかをば大瀬五個瀬の大きな河が流るゝともなく流れてをり、やがてその二つの河が相合して流れ落つる南のかたには、縹渺として限りのない日向洋が、太平洋がうち開けてゐるのです。
そして、すべてが霞んでゐました。野も霞み、河も霞み、山も霞み、海もまたよく凪いで夢のやうに霞んでをりました。眼下の延岡町も麗らかな日光を受けながらも、ほのかに霞んでをりました。
どんなことを二人して話してゐましたか、多分試驗のこと、試驗休みに歸つてゆく郷里のことなどを話してゐたでありませう。武ちやんもわたしも、その延岡町から十里ほど引つ込んだ山奧の村からでてきて延岡高等小學校に遊學してゐたのです。武ちやんの村も、わたしの村も寂しい村で尋常小學校ばかりしか無かつたのです。いろ〳〵の話にも倦んだころ、ふつと武ちやんがいひました。
『繁ちやん〳〵。ありう見ね。汽船が通つちよるよ』
今では若山牧水などとむづかしい名をつけてゐますが、その頃は若山の繁ちやんであつたのです。なるほど、眞向うの海の片つ方の岬の端から、一艘の汽船が煙をあげてでてきました。
『ウム、大けな汽船ぢやごたるネ』
その頃の日向は、ほんたうにまだ開けてゐなかつたものですから、汽車は全然通じてゐず、港から港へ寄る汽船の數も、極く少なかつたのです。で、汽船を見ることがまだ珍しうございました。
その汽船を眺めてゐるうちに、ふと、ある一つの聯想がわたしの頭に浮びました。そして、そのことを武ちやんに話しました。
話とはかうなのです。ツイ一兩日前に、郷里の母親からわたしに手紙が來て、今度急に思ひたつて都農の義兄と一緒に讚岐の金比羅さまにお參りする。そして、そのついでに大阪見物をもして來る、歸りには何かお土産を買つて來るがお前は何がほしいか、こちらあてに返事を出したのではもう間に合はぬから、何日までに細島港の船問屋日高屋に宛てゝ、手紙を出せばそれを受取つて汽船に乘る、と、いつて來てあつたのです。やれ嬉しやとあれを考へこれを考へ、土産物の種類を三つも四つも書きたてゝ、ツイ昨日細島港あてに手紙を出したところだつたのです。
得意氣に、わたしがその土産物の名を竝べたてゝてゐると、武ちやんは默つてそれを聞いてゐましたが、やがて考へ深さうな顏をしてわたしに言ひました。
『繁ちやん、それアお前も一緒に從いち行きね。行た方がいゝが、……土産物どん貰ちよつたちつまらん。それア行たほがよつぽづいゝが……』
これを聞くと、わたしは愕然としました。まつたく喫驚しました。今まで全然氣のつかなかつた一大事を、いま突然教へられたやうな驚きであつたのです。忽ち胸はどきどきとしだしましたが、それもすぐ納りました。
『でも、試驗があるぢアねエけ』
『試驗どま、どうでむいゝが、お前はゆう(能くの意)出來なるとぢアかに、先生が落第やさせならんが』
これを聞くと、わたしの胸はまたどき〳〵とし始めました。
汽船は今は全く岬を離れて、丁度眞向ひの沖の深い〳〵霞のなかに、その煙を靡かせてゐました。沖あひ遙かに通つてゐるこの汽船の姿は未知の世界に對する子供の憧憬心をそゝるに全く適當してゐました。が、わたしはその時のことを思ひ出すと、どうしたものか汽船そのものより、汽船を包んでゐた霞のことが先づ頭に浮びます。
前もうしろも、上も下もまつたくとろりとしたやうなうすむらさきの霞が、深々と垂れ籠めてゐましたが、十歳や十一歳の身そらで、だいそれた謀叛をたくらんだといふのも一つはたしかに、その霞の誘惑だつたとわたしはいま思ひます。
それからどのくらゐの間、二人してその城跡の山の上の枯草原で密議を凝らしましたか、二人とも非常な昂奮を抱いて山を降りる頃は、日はもうとつぷりと暮れてをりました。汽船はとつくの前に沖合を通り過ぎ、一方の方に突き出てゐる岬の蔭に姿をかくしてゐたのです。
密議の結果はかうです。武ちやんは明日學校で、繁ちやんは郷里の阿母さんが急病で迎ひが來て歸りました、と先生に屆けること。わたしは今夜書置の手紙を書いて、明日の朝それを机の上において、いつも學校にゆくやうな風をして宿を出ること。そして、郷里には歸らず、一直線に細島港に向つて走ること、その他でありました。當時わたしの預けられてゐましたのは評判のやかまし屋の士族の家でありましたので、正直に打ちあけて願つた所で、とても許される筈はない。許されるどころか、拳固の二つ三つは當然覺悟しなくてはならない。書置に詳しく書いておいて、逃げ出すが一番安全の策だといふことに、決つたのです。
事はすべて計畫どほりに運ばれました。延岡から細島港まで六里あります。その間をわたしは殆んど走りづめに走りました。さう急ぐことはないのだが、脚がひとりでに走つてゐるのです。しかも、細島に近づいた所では大膽にも山越の近道をやりました。山に入つて近所に人のゐなくなつたのを知るや否や、わたしは泣きながら走りました。初めはしく〳〵と泣き、後には大聲をあげて泣きました。何故、泣いたか、わたしにもよく解りません。諸君の御推察にまかせます。
細島港の日高屋は、船問屋に旅館業其他を兼ねた大きな家でありました。わたしのその家に入つたのは初めてゞしたが、わたしの家とは舊くからの知合で、この家の人でわたしを知つてゐるのが二三人ありました。で、たいへん都合よく、十一歳の少年は一人前の旅客として、ある一室に通されました。そして、胸を躍らせつゞけに、その日の夕方を待つことになりました。
その日の夕方、豫定どほりに母と都農の義兄とは馬車でその宿にやつて來ました。都農の義兄といふのは都農といふ町で肥料雜穀商を營んでをり、その處へわたしの一番上の姉が嫁いでゐました。
思ひもかけぬわたしの顏をその宿屋で見出した母の驚きは、これはもう言葉の外でありました。驚き、怒り、且つ嘆き、これからすぐ夜道をして延岡へ歸れ、自分も送つて行くといふのです。流石に、わたしも迷ひが覺めて、それではこれから夜道を踏んでまた六里を走らうと思ひ出しました。ところが都農の兄といふのが田舍者としては、割に手廣く商賣をしてゐますだけに度胸も大きく、わたしの今度の企てた亂暴にひどく興味を覺えたと見えて、わたしに味方し、しきりに母にとりなして呉れました。
また折々商用でわたしの村に來て、わたしの家に泊つたりしてわたしを可愛がつて呉れてゐた日高屋の番頭の庄さんといふのも、わたしに代つて詫びつ頼みつして呉れましたので、終には母の怒も解け、愈々金比羅參り大阪見物のお伴が許されることになりました。
その道中記が素晴らしく面白いのだが、それはまたの時にゆづります。なにしろ三十三年前のことで、日向から大阪にゆくといふのはたいしたことであつたのです。汽船も百噸か二百噸の小さなもので、細島から大阪までまる三日かゝつて到着するのは極くいゝ方で、風雨の都合荷物の都合では、四日も五日もかゝつたものなのです。
學校の先生は日吉昇先生といふかたでした。たいへんいい先生で、無論わたしのやつたことの眞相をば推察されたでせうが、知らぬ振をして叱りもせず落第もさせず、今まで一番であつた席次を四番だかに下げて、及第さしてありました。書置をして來た宿の立腹はたいしたもので、早速下宿を斷る旨の手紙がわたしの郷里坪谷村の父の許に飛び、驚き狼狽へた父が、早速延岡まで出かけて行つて、これもどうやらもと通りに納りました。
話はずつと飛んで一昨年、大正十四年のことになります。わたしがこの駿河の沼津に自分の住宅を建てようとする企てのある事が、或る新聞の文藝消息欄に出ました。すると一通の手紙がわたしの許に屆きました。若山、君は家を造るさうだが、その設計は乃公がしてやるから一切任せろ、といふ文面です。いふまでもなく村井建築技師から來たもので、わたしも大いに嬉しくなり、それまでの腹案をば捨てて、難有い、一切頼むと返事しました。彼とはその後、中學をも同級で過し、東京の學校に來る時も一緒でした。
そして、彼は建築學の方の學校を卒業し、わたしは文學の方を出ました。お互ひにのんき者のことで、學校を出るなり音信不通の有樣で、右の手紙など恐らく十五六年目に見た彼の手蹟であつたのです。
彼は早速東京からやつて來ました。そして敷地を見、大體の設計をし、愈々工事にかゝつてからも忙しい中を、一週間に一度位ゐづつこの沼津へ通つて來ては、大工たちに種々と注意してゐました。そして家ができ上つた祝ひの席にも來てくれました。その時わたしが、
『村井君、せめて汽車賃位ゐ出さないと僕もきまりが惡いが……』といひますと、彼はぐるりと眼玉を剥いて、
『馬鹿んこつ言ふな』
と、久しぶりの日向辯でいつて、わたしを睨みました。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
青空文庫作成ファイル:
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今まで自分のして來たことで多少とも眼だつものは矢張り歌を作つて來た事だけの樣である。いま一つ、出鱈目に酒を飮んで來た事。
歌を作つて來たとはいふものゝ、いつか知ら作つて來たとでもいふべきで、どうも作る氣になつて作つて來たといふ氣がしない。全力を擧げて作つて來たといふ氣がしない。たゞ、作れるから作つた、作らすから作つたといふ風の氣持である。寢食を忘れてゐる樣な苦心ぶりを見聞きするごとにいつもうしろめたい氣がしたものである。
わたしは世にいふ大厄の今年が四十二歳であつた。それまでよく體が保てたものだと他もいひ自分でも考へる位ゐ無茶な酒の飮みかたをやつて來た。この頃ではさすがにその飮みぶりがいやになつた。いやになつたといつても、あの美味い、いひ難い微妙な力を持つ液體に對する愛着は寸毫も變らないが、此頃はその難有い液體の徳をけがす樣な飮み方をして居る樣に思はれてならないのである。湯水の樣に飮むとかまたはくすりの代りに飮むとかいふ傾向を帶びて來てゐる。さういふ風に飮めばこの靈妙不可思議な液體はまた直にそれに應ずる態度でこちらに向つて來る樣である。これは酒に對しても自分自身に對しても實に相濟まぬ事とおもふ。
そこで無事に四十二歳まで生きて來た感謝としてわたしはこの昭和二年からもつと歌に對して熱心になりたいと思ふ。作ること、讀むこと、共に懸命にならうと思ふ。一身を捧じて進んで行けばまだわたしの世界は極く新鮮で、また、幽邃である樣に思はれる。それと共に酒をも本來の酒として飮むことに心がけようと思ふ。さうすればこの廿年來の親友は必ず本氣になつてわたしのこの懸命の爲事を助けてくれるに相違ない。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
2012年12月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002199",
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"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第八巻",
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山には別しても秋の來るのが早い。もう八月の暮がたからは、夏の名殘の露草に混つて薄だとか女郎花だとかいふ草花が白々した露の中に匂ひそめた。大氣は澄んで、蒼い空を限つて立ち並んで居る峯々の頂上などまでどつしりと重みついて來たやうに見ゆる。漸々紅らみそめた木の實を搜るいろ〳〵の鳥の聲は一朝ごとに冴えまさつた。
お盆だ〳〵と騷がれて、この山脈の所々に散在して居る小さな村々などではお正月と共に年に二度しかない賑かな日の盂蘭盆も、つい昨日までゝすんだ。一時溪谷の霧や山彦を驚かした盆踊りの太鼓も、既う今夜からは聽かれない。男はみな山深くわけ入つて木を伐り炭を燒くに忙しく、女どもはまた蕎麥畑の手入や大豆の刈入れをやらねばならなかつたので何れもその疲勞から早く戸を閉ぢて睡て了つた。昨夜などはあんなに遲く私の寢るまでもあか〳〵と點いてゐた河向ひの徳次の家の灯も夙うに見えない。たゞ谷川の瀬の音が澄んだ響を冴え切つた峽間の空に響かせて、星がきら〳〵と干乾びて光つて居る。
私は書見に勞れて、机を離れて背延びをしながら牕に凭つた。山々の上に流れ渡つて居る夜の匂ひは冷々と洋燈の傍を離れたあとの勞れた身心に逼つて來る。何とも言へず心地が快い。馴れたことだが今更らしく私は其處等の谷川や山や蒼穹などを心うれしく眺め𢌞した。眞實冷々して、單衣と襦袢とを透して迫つて來る夜氣はなか〳〵に悔り難い。一寸時計を見て、灯を吹き消して、廣い座敷のじわ〳〵と音のする古疊の上を階子段の方に歩いて行つた。
下座敷に降りて見ると、中の十疊にはもうすつかり床がとつてある。けれども寢て居るのは父ばかりで、その禿げ上つた頭を微かな豆ランプの光が靜かに照らして居る。音たてぬやうに廊下に出ると前栽の草むらに切りに蟲が喞いて居る。冷い板を踏んでやがて臺所の方に出た。平常は明け放してある襖が矢張り冷いからだらう今夜はきちんと閉めてある。それを見ると何となく胸が沈むやうなさゝやかな淋しさを感じた。
襖を引開くると、中は案外に明るくて、かつと洋燈の輝きが瞳を射る。見ると驚いた、母とお兼とばかりだらうと想つてゐたのに、お米と千代とが來て居て、千代は圍爐裏近く寄つた母の肩を揉んで居る。
「ヤア!」
と思はず頓狂な聲を出して微笑むと、皆がうち揃つて微笑んで私を見上ぐる。一しきり何等か談話のあつたあとだなと皆の顏を見渡して私は直ぐ覺つた。
切りに淋しくなつてゐた所へ以て來て案外なこの兩人の若い女の笑顏を見たので、私は妙に常ならず嬉しかつた。母に隣つてお兼が早速座布團を直して呉れたので、勢よくその上に坐つた。さゝやかながら圍爐裡には、火が赤々と燃えて居る。
「如何したの?」
と、矢張り微笑んだまゝで母と兩人の顏を見比べて私は聲をかけた。默つたまゝで笑つてゐる。誰も返事をせぬ。
「たいへん今夜は遲かつたね。」
と、母がそれには答へず例の弱い聲で、
「いま喚んでおいでと言つてた所だつた。」
と、續くる。
「ナニ、一寸面白い本を讀んでたものだつたから……え、如何したの、遊びかい、用事かい?」
と兩人を見交して言つてみる。
「え、遊び!」
と、千代が母の陰から笑顏でいふ。
「珍しい事だ、兩人揃つて。」
と、私。
「兩人ともお盆に來なかつたものだから……それにお前今夜は十七夜さんだよ。」
と、私に言つておいて、
「もう可いよ、御苦勞樣、もういゝよ眞實に!」
と、肩を着物に入れながら、強ひて千代を斷つて、母は火をなほし始めた。
兩人は一歳違ひの姉妹で、私とは再從妹になつて居る。姉のお米といふのは私より二歳下の今年二十一歳。同じ村内に住んでゐるのではあるが、兩人の居る所から此家までは一里近くも人離れのした峠を越さねばならぬので、夜間などやつて來るのは珍しい方であつた。
「さうか、それは可かつた、隨分久しぶりだつたね、たいへんな山ん中に引込んでるつてぢやないか。」
と、母の背後から私と向合ひの爐邊に來た妹の方を見ていふと、
「え、たいへんな山ん中!」
と、妙に力を入れて眉を寄せて、笑ひながら答へる。
休暇に歸つて來てから一寸逢ふことは逢うたのであつたが、その時は仕事着のまゝの汚い風であつたのに、今夜は白のあつさりした浴衣がけで、髮にも櫛の目が新しく、顏から唇の邊にも何やら少しづつ匂はせて居るので、珍らしいほど美しく可憐に見ゆる。山家の娘でも矢張り年ごろになれば爭はれぬ處女らしい色香は匂ひ出て來るものだ。それに兩人ともツイ二三年前までは私の母が引取つてこの家で育てゝ居たので他の山家の娘連中同樣の賤しい風采はつゆほども無かつた。
「淋しいだらう!」
「え、だけど妾なんか馴れ切つてゐるけれど……兄さんは淋しいで御ざんせう!」
「ウム、まるで死んでるやうだ。」
「マア、斯んな村に居て!」
と仰山に驚いて、
「だけれど、東京から歸つて來なさつたんだからねえ!」
と何となく媚びるやうな瞳附で私の眼もとを見詰むる。さも丈夫相な、肉附もよく色の美しい娘で、勿論爭はれぬ粗野な風情は附纒うて居るものゝ、この村内では先づ一二位の容色好しと稱へられて居るのであらう。そんな噂も聞いて居た。
「ア、ほんに、お土産を難有う御座んした。」
と、丁寧に頭を下ぐる。
「氣に入つたかい?」
「入りやんしたとむ!」
と、ツイ逸んで地方訛を使つたので遽てゝ紅くなる。
「ハヽヽヽヽヽ、左樣か、それは可かつた、左樣か、入りやんしたか、ハヽヽヽ。」
埓もなく笑ふので母も笑ひ、お兼も笑ふ。と、母が、
「マア、米坊よ、お前どうしたのだ、そんな處に一人坊主で、……もつと此方においでよ。」
私も氣がついて振向くと、なるほど姉の方は窓際に寄りつきりで、先刻から殆ど一言も發せずに居る。
「オ、然うだ、如何したんだね米ちやん、もつと此方に出ておいでよ、寒いだらう、其處は。」
「エー」
と長い鈍い返事をして、
「お月さんが………」
云ひ終らずにおいて身を起しかけて居る。
「お月さん? 然うか、十七夜さんだつたな」
と、私は何心なく立つて窓の側に行つて見た。首をつき出して仰いで見ても空は依然として眞闇だ。星のみが飛び〳〵に著く光つてる。
「戲談ぢやない、まだ眞暗ぢやないか!」
「もう出なさりませう。」
と、ゆる〳〵力無く言ひながら立上つて、爐の方に行つて、妹の下手に音無しく坐る。氣が附けば浴衣はお揃ひだ、彼家にしては珍らしいことをしたものだと私は不思議に思つた。
「厭だよ姉さんは、もつと離れて坐んなれ!」
と、妹は自身の膝を揃へながら、突慳貪に姉にいふ。
すると母が引取つて、
「お前が此方においでよ、斯んなに空いてるぢやないか。」
と、上から被つてゐる自身の夜着の裾を引寄せて妹に言ふ。千代は心もちその方にゐざり寄つた。お兼は母の意を受けて鑵子に水をさし、薪を添へた。
「姉さんの方が餘程小さいね。」
と兩人を見比べて私がいふ。
妹は姉を見返つてたゞ笑つてる。
「千代坊は精出して働くもんだから。」
と、姉は愼しやかに私に返事して、
「お土産を私にも難有う御座んした。」
と、これもしとやかに兩手をつく。
「ハヽヽヽヽヽ、これもお氣に入りやんしたらうね。」
そのうち母の平常の癖で葛湯の御馳走が出た。母自身は胸が支へてゐるからと言つて、藥用に用ゐ馴れて居る葡萄酒をとり寄せて、吾々にも一杯づつでもと勸むる。私はそれよりもといつて袋戸棚から日本酒の徳利を取出して振つて見ると、案外に澤山入つて居るので、大悦喜で鑵子の中へさし込む。お兼が氣を利かせて里芋の煮たのと味附海苔とを棚から探し出して呉れる。その海苔は遙々東京から友人が送つて呉れたものだ。
二三杯立續けに一人で飮んで、さて杯を片手にさし出して皆を見𢌞しながら、
「誰か受けて呉んないかな!」
と笑つてると、母も笑つて、
「千代坊、お前兄さんの御對手をしな。」
「マアー」
と言つて、例の媚びるやうな耻しさうな笑ひかたをして、母と私と杯とを活々した輝く瞳で等分に見る。
「ぢや一杯、是非!」
私はもう醉つたのかも知れない、大變元氣が出て面白い。強ちに辭みもせず千代は私の杯を受取る。無地の大きなもので父にも私にも大の氣に入りの杯である。お兼はそれになみ〳〵と酌いだ。
見て居ると、苦さうに顏をしかめながらも、美しく飮み乾して、直ぐ私に返した。そしてお兼から徳利を受取つて、またなみ〳〵と酌ぐ。私は次ぎにそれを姉のお米の方に渡さうとしたが、なか〳〵受取らぬ。身を小さくして妹の背中にかくれて、少しも飮めませぬと言つてる。千代はわざと身を避けて、
「一杯貰ひね、兄さんのだから。」
と繰返していふ。面白いので私は少しも杯を引かぬ。
「では、ほんの、少し。」
と終に受取つた。そしてさも飮みづらさうにしてゐたが、とう〳〵僅かの酒を他の茶碗に空けて、安心したやうに私に返す。可哀さうにもう眞赤になつて居る。
私は乾してまた千代にさした。一寸嬌態をして、そして受取る。思ひの外にその後も尚ほ三四杯を重ね得た。私は内心驚かざるを得なかつた。
でも矢張り女で、やがて全然醉つて了つて、例の充分に發達して居る美しい五躰の肉には言ひやうもなく綺麗な櫻いろがさして來た。特に眼瞼のあたりは滴るやうな美しさで、その中に輝いてゐる怜悧さうなやゝ劒のある双の瞳は宛然珠玉のやうだ。暑くなつたのだらう、切りに額の汗を拭いて、そして鬢をかき上ぐる。平常は何處やらに凜とした所のある娘だが、今はその締りもすつかり脱れて、何とやら身躰がゆつたりとして見ゆる。そして自然口數も多くなつて、立續けにいろ〳〵の事を私に訊ぬる。いろ〳〵の事といつても殆ど東京のことのみで、嘸ぞ東京は、といつた風にまだ見ぬ數百里外のこの大都會の榮華に憧れて居る情を烈しく私に訴ふるに過ぎないのだ。人口一萬の某町に出るのにさへ十四里の山道を辿らねばならぬ斯んな山の中に生れて、そして、生中に新聞を見風俗畫報などを讀み得るやうになつてゐるこの若い女性の胸にとつてはそれも全く無理のない事であらう。
私は醉に乘じて盛んに誇張的に喋りたてた。丁度私の歸つて來る僅か以前まで開かれてあつた春の博覽會を先づ第一の種にして、街の美、花の美、人の美、生活の美、あらゆる事について説いた〳〵、殆ど我を忘れて喋つた。また氣が向けば不思議な位話上手になるのが私の癖で、その晩などは何を言つても酒は飮んでるし、第一若い女を對手のことで、それに幾分自身と血の通つてゐる女であつてみれば、遠慮會釋のといふことはてんで御無用、途方もなく面白く喋つた。
聽手は勿論頭から醉はされて了つて、母とお兼は既う二三度も繰返して聽かされて居るにも係らず矢張り面白いらしく熱心に耳を傾けて居る。特に最初から私の話對手であつた千代などは全然當てられて、例の瞳はいよいよ輝いて、ともすれば壞れやうとする膝を掻き合はせては少しづつ身を進ませて、汗を拭いて、一生懸命になつて聽き入つて居る。お米の方はさすがにこの娘の性質で、同じ面白相に聽いては居たやうだが、相變らず默然とした沈んだ風で、見やうによつては虚心してゐるものゝやうにも見ゆる。顏も蒼白くて、鈍く大きくそして何となく奧の深かり相な瞳のいろ。眼瞼をば時々重も相に開いたり閉ぢたりしてゐる。山家の夜の更けて行く灯の中に斯うしてこの娘が默然として坐つてゐるのに氣が附くと妙に一種の寂しい思ひがして、意味深い謎でもかけられたやうな氣味を感ぜずには居られない。
語り終つて私は烈しく疲勞を覺えた。聽いて居る人もホツとしたさまで、一時に四邊がしんとなる。僅かの薪はもう殆ど燃え盡きて居て、洋燈は切りに滋々と鳴つて窓からは冷い山風がみつしりと吹き込んで來る。
母は氣附いたやうに、兩人の娘に中の間に寢るか次ぎの座敷に寢るかと訊く。何處でもと姉。中の間に一緒がいゝ、二人だけ別に寢るのは淋しいからと妹が主張する。では押入から蒲團を出して、お前達がいゝやうに布くがいゝとのことで、兩人は床とりに座敷に行つた。それを見送り終つて、
「あの事で來たんでせう。」
と低聲で私は母に訊いた。
「ア、左樣よ。」
「如何なりました、どうしても千代が行くんですか。」
「どうも左樣でなくてはあの老爺が承知をせんさうだ。あの娘はまたどうでも厭だと言つて、姉に代れとまで拗ねてるんだけど、……姉はまたどうでもいゝツて言つてるんけど……どうしても千代でなくては聽かんと言つてる相だ。因業老爺さねえ。」
「まるで※(けものへん+非)々だ。そんな奴だから、若い女でさへあれば誰だツていゝんでせう。誰か他に代理はありませんかねえ、村の娘で。」
「だつてお前、左樣なるとまた第一金だらう。あの通りの欲張りだから、とても取れさうにない借金の代りにこそ千代を〳〵と言ひ張るのだから。」
如何にも道理な話で、私にはもうそれに應へることが出來なかつた。
兩人の家はもと十五六里距つた城下の士族であつたのだが、その祖父の代にこの村に全家移住して、立派な暮しを立てゝゐた。が、祖父が亡くなると、あとはその父の無謀な野心のために折角の家畑山林悉く他手に渡つて、二人の娘を私の家に捨てゝおいたまま父はその頃の流行であつた臺灣の方に逐電したのであつた。そして二三年前飄然と病み衰へた身躰を蹌踉はせてまた村に歸つて來て、そして臺灣で知合になつたとかいふ四國者の何とかいう聾の老爺を連れて來て、四邊の山林から樟腦を作る楠と紙を製るに用ふる糊の原料である空木の木とを採伐することに着手した。それで村里からは一二里も引籠つた所に小屋懸けして、私の家で從順に生長くなつてゐた兩人の娘まで引張り出して行つて、その事を手傳はしてゐた。所が近來その老爺といふのが二人の娘に五月蠅く附き纒ふやうになつて、特に美しい妹の方には大熱心で、例の借金を最上の武器として、その上尚ほその父親を金で釣り込んだうへ、二人一緒になつて火のやうに攻め立てた。それでどうか逃れやうはなからうかと一寸の隙を見ては私の母に泣きついて來たのであつた相なが、同じやうに衰頽して來て居る私の家ではなか〳〵その借金を拂ひもならず、まア〳〵と當もなく慰めてゐたのであつたといふが、いよ〳〵今夜限りで明日の晩から妹は老爺の小屋に連れ込まれねばならぬことになつたのだ相な。
それでも既う今夜はあの娘も斷念めたと見えて、それを話し出した時には流石に泣いてゐたけれども、平常のやうに父親の惡口も言はず拗ねもせずあの通りに元氣よくして見せて呉れるので、それを見ると却つて可哀相でと、母は切りに水洟を拭いてゐる。三人とも默然として圍爐裡の火に對して居ると、やがて兩人の足音がして襖が明いた。耐へかねたやうに妹は笑ひ出して、
「伯父さんが、ホヽヽヽヽヽ姉さんを、兄さんと間違へて、ホヽヽヽヽヽ。」
蓮葉に立ち乍ら笑つて、尚ほそのあとを云はうとしたらしかつたが、直ぐ自身の事が噂せられた後だと、吾等の素振を見て覺つたらしく、笑ふのを半ばではたと止めて、無言にもとの場所に坐つた。私はそれを見ると耐らなく可哀相になつて來たが、何といつて慰めていゝのかも一寸には解らず、わざとその背後に立つてゐる姉に聲かけて、
「何だ、さも寒む相な風をしてるぢやないか。此方へおいでよ。」
と、身を片寄せて微笑みながらいふと、同じく微笑んで、例の重い瞼を動かして私を見詰めてゐたが、やがて默つて以前坐つてゐた場所に座をとつた。
「どれ妾はもう寢よう。明朝はお前だちもゆつくり寢むがいゝよ。」
と母は立上つて奧へ行つた。お兼もそれを送つて座を立つたので、あとは吾々若いものばかり三人が殘つた。
「兄さん。」
と不意に千代は聲かけて、
「蒸汽船は大へん苦しいもんだつてが、……誰でも然うなんでせうか?」
「それは勿論人に由るサ、僕なんか一度もまだ醉つたことは無いが……」
云ひかけて、
「如何するのだ?」
「如何もせんけど……先日本村のお春さんが豐後の別府に行つてからそんなに手紙を寄越したから……」
と何か切りに思ひ乍ら云つて居る。
「別府に? 入湯か?」
「イエ、機織の大きな店があつて、其處に……あの人は近頃やつと絹物が織れるやうになつたのだつたが……妾に時々習ひに來よりましたが……」
談話は切れ〴〵の上の空である。で、私は突込んだ。
「行くつもりかい、お前も!」
「イゝエ!」
と仰山に驚いて、
「どうして妾が行けますもんけえ!」
と、つとせき上げて來たと見えて見張つた瞳には既う涙が潮して居る。
「ウム、大變なことになつたんだつてねえ、どうも……嘸ぞ……厭やだらう!」
返事もせずに俯頭いてゐる。派手な新しい浴衣の肩がしよんぼりとして云ひ知らず淋しく見ゆる。まだ幾分酒のせゐが殘つてゐると見えて、襟足のあたりから耳朶などほんのりと染つてゐる。
「どうも然し、仕樣がない。全く思ひ切つて斷念るより仕方がない。然しね、そんな場合になつたからと云つても、自分の心さへ確固してゐたら、また如何とかならうから、そしたら常々お前の言つてたやうに豪くなる時期が來んとも限らん。第一非常の親孝行なんだから……」
と言ひかけて、ふと見ると、袂を顏にひしと押當てゝ泣きくづれて居る。
私はそれを見て、今強ひて作つて云つた慰藉とも教訓とも何とも附かぬ自分の言葉を酷く耻しく覺えた。自己のもとの身分とか又は一家の再興とかいふことに對しては少女ながらに非常に烈しく心を燃やしてゐた彼女にとつては、今度の事件はたゞ單に普通の處女が老人の餌食になるといふよりも、更に一種烈しい苦痛であるに相違ない。彼女は痛く才の勝つた女で、屹度一生のうちに郷里の人の驚くやうな女になつてやらねば、とは束の間も彼女の胸に斷えたことのない祈願であつた。才といつた所で、もとより斯んな山の奧で育てられた小娘のことなので、世に謂ふ小才の利くといふ位のものに過ぎなかつた。然し兎に角僅か十七八歳の娘としては不相應な才能を有つてゐるのは事實で、それは附近の若衆連を操縱する上に於ても著しく表はれてゐるらしい。一つは田舍での器量好であるがためか隨分とその途の情も強い方で現に休暇ごとに歸つて來る私を捉へて、表はには云ひよらずとも掬んで呉れがしの嬌態をば絶えずあり〳〵と使つてゐた。然しあまりに私が素知らぬ振をしてゐるので、さすがに斷念めたものか、昨年あたりからはその事も失くなつてゐた。そしてそれ以後は私の前では打つて變つて愼しやかに從順くなつてゐた。
何時までも泣いて彼女は顏を上げぬ。私も續いて默つてゐた。爐の火は既に殆ど燃え盡きて厚い眞白の灰が窓からの山風にともすれば飛ばうとする樣で、薪形に殘つて居る。座敷の方で煙草盆を叩く音がする。母と老婢ともまた屹度この哀れむべき娘のことに就いて、頼り無い噂を交はして居るのであらう。
お米は妹の泣きくづれて居る側に坐つてゐて、別に深く感動したさまも無く、虚然と、否寧ろ冷然としてそのうしろ髮の邊を見下してゐる。その有樣を見て居ると、今更ながら私は何とも知らずそゞろに一種の惡感を感ぜざるを得なかつた。兎角するうちとぼ〳〵足音をさせてお兼が入つて來た。私は立上つて土間に降りて、そして戸を開いて戸外に出た。
戸外はまるで白晝、つい今しがた山の端を離れたらしい十七夜の月はその秋めいた水々しい光を豐かに四邊の天地に浴びせて居る。戸口の右手、もと大きな物置藏のあつた跡の芋畑の一葉一葉にも殘らずその青やかな光は流れてゐて、芋の葉の廣いのや畑の縁に立ち並んでゐる玉蜀黍の葉の粗く長いのが、露を帶び乍らいさゝかの風を見せてきら〳〵搖らいで居る。今までの室内を出て、直ぐこの畑の月光に對した私は一時に胸の肅然となるのを感じた。蟲の音が何處やらの地上からしめやかに聞えて來る。
そのまま畑に添うて、やがて左手の半ば朽ちかゝつた築地の中門を潛つて、とろ〳〵と四五間も降るとこの村の唯一の街道に出る。街道と云つたところで草の青々と茂つた道で、僅かに幅一間もあらうかといふ位ゐ、その前はあまり茂からぬ雜木林がだら〳〵と坂のままに續いてゐて、終に谷となる。谷はいまこの冴えた月のひかりを眞正面に浴びて、數知らぬ小さな銀の珠玉をさらさらと音たてゝうち散らしながら眞白になつて流れて居る。谷を越えては深い森林、次いで小山、次いではどつしりと數千尺も天空を突いて聳え立つ某山脈となつて居る。山も森も何れもみな月光の裡に睡つて水の滴り相な輪郭を靜かな初秋の夜の空に瞭然と示して居る。
私は路の片側に佇んで、飽くことなく此等の山河を見渡してゐた。酒のあと、心を亂した後に不意に斯かる靜かな自然の中に立つて居ると、名の附けやうのない感情、先づ悲哀とでもいふのか、が何處からともなく胸の中に沁み込んで來る。果ては私は眼をも瞑つて宛も石のやうになつて立つてゐた。
すると背後の中門の所から何時の間に來たのか、
「兄さん」
と千代が私に聲かけた。
返事はせずに振向くと、例の浴衣の姿が半ば月光を浴びてしよんぼりと立つて居る。
「兄さん、もう皆寢みませうつて。」
「ウム、いま、行く。」
と言つておいて私は動きもせず千代を見上げて居る。千代もまたもの言はず其處を去らずに私を見下して居る。何故とはなく暫しはそのままで兩人は向き合つて立つてゐた。私の胸は澄んだやうでも早や何處やらに大きな蜿蜓がうち始めて居る。
やがてして私は驚いた。千代の背後にお米が靜かに歩み寄つて物をも言はずに一寸の間立つてゐて、そうして、
「何してるのけえ?」
と千代に云つた。
「マア!」
としたゝかに千代は打驚かされて、
「何しなるんだらう!」
と、腹立たしげに叱つた。お米は笑ひもせず返事もせぬ。斯くて千代もお米も私も打ち連れて家に入つた。そして臺所の灯をば其處に寢るお兼に頼んでおいて、私等は床の敷いてある座敷に行つた。
片側には父が端で、次が母、その次が私の床。それと枕を向き合はせて片側には彼等姉妹の床、廣い着布團を下に敷いて兩人一緒に寢るやうにしてある。
父もよく睡入つてゐた。病人の母もこの頃はよく睡れる。一つは涼しくなつた氣候のせゐもあるだらう。それを覺さぬやうに私達は靜かに寢支度をして床に入つた。私の方は男のことで、手輕く寢卷に着換へて直ぐと横になつたが、女だと左樣はゆかぬ。一度次の間に行つて、寢衣の用意もないので襦袢一つになつたまゝ、そゝくさと多く私に見られぬやうにと力めながら、何か低聲で云ひ合ひつゝ床に入つた。私とは少し斜向ひになつて居るので、眼を開けると水々しい結ひ立ての銀杏返しに赤い手柄をかけたのが二つ相寄つて枕の上に並んだのが灯のなかに見えて居る。髮のほつれや肩のあたりの肉の丸み、千代は此方側に寢て居るのだ。
それを見て居るとまた種々のことが思ひ𢌞らされて、胸は痛むまでに亂れて、なか〳〵に睡られ相にない。千代も左樣らしくあちこち寢返りをして、ふと私と顏を見合はせては淋しく微笑む。噫、その優しい美しい淋しい笑顏、見る毎に私の胸は今更らしくせき上げて來るのであつた。千代がそんな風であるからだらう、お米も同じく睡られぬらしく、何かともぢ〳〵してゐたが終に彼女の發議で枕もとの灯を消すことにした。
灯を消すと一段と私の眼は冴えた。父の鼾母の寢息、相變らず姉妹の身を動かして居る樣子など交々胸に響いて、いつしか頭はしん〳〵と痛み始めて居る。これではと私の常に行り馴れて居る催眠法をいろ〳〵と行つて辛くもとろ〳〵と夢うつゝの裡に睡るとも覺めるともなき状態に陷つて了つた。それがどの位の間續いてゐたであらう。不圖、
「伯母さん」
といふ聲が微かに耳に入つた、千代のだ。尚ほ耳を澄ませて居ると、また、
「伯母さん」
と極めての低聲。
それから暫く間を置いて、更に一層きゝとれぬ程に低く、
「兄さん」
といふ。私はどきつとして、故らに息を殺した。それからはもう何とも云はぬ。空耳だつたかなと思つてゐると、今度は確かに身を動かして居る容子が聽ゆる。私は思はず眼を見開いてその方を見遣つたが、油のやうな闇で何にもわからぬ。と、暫て疊の音がする。此方へ來るのかなと想ふと私は一時にかつと逆上せて吾知らず枕を外して布團を被いだ。
程なく千代は私の枕がみに來て、そしてぶる〴〵と打慄ふ聲で、
「兄さん、兄さん!」
と二聲續けた。そして終にその手を私の布團にかけたので、同じく私も滿身に火のやうな戰慄を感じた時、
「千代坊、何爲てゐるのけえ、お前は!」
とあまり騷ぎもせぬはつきりした聲で、お米が突然云ひかけた。
「アラ!」
と消え入るやうに驚き周章へて小さな鋭い聲で叫んだが、直ぐまた調子を變へて、落着かせて、
「何も何も、……灯を點けて……一寸便所にゆき度いのだから……マツチは何處け。」
と、漸次判然と云ひ來つて、そして更めて起き上つてマツチを探し始めた。お米はもう何も言はぬ。私は依然睡入つた風を裝うてゐたのであつたが、動悸は浪のやうで、冷い汗が全身を浸して居る。やがて千代は便所に行つて來た。そして姉に布團を何とやら云ひ乍ら、又灯を消して枕に着いた。
それから暫くはまた私も睡入られなかつたが、疲勞の極でか、そのうちにおど〳〵と不覺の境に入つて了つた。
次いで眼を覺されたのが東明時、頓狂な母の聲に呼び起されて見て、私は殆ど眞青になつた。千代はその時既にその床の中に居なかつた。
書置の何のといふものもなく、逃げたのか、それとも何處ぞで死んでゐるのか、それすら解らぬ。あの娘のことだ、とても死にはせぬ、若し死ぬにしたら人の眼前に死屍をつきつけてからでなくては死なぬ、どうしても逃げ出したに相違ない、逃げたとすれば某港の方向だ、女の足ではまだ遠くは行かぬ、それ誰々に追懸けて貰へ、と母は既に半狂亂の態である。
然し、私は思つた、一旦逃げ出してみすみす捉へらるゝやうな半間な眞似はあの娘に限つて爲る氣遣はない、とうとうあの娘は逃げ出した、身にふりかゝつた苦痛を脱して、朝夕憧れ拔いて居る功名心を滿足せしむべく、あの孱弱い少女の一身を賭して澎湃たる世の濁流中に漕ぎ出したと。
何よりも早くあの父親に告げ知らせねば、と母は此方にも氣を揉んで、早速若い男を使した。半病人の彼女の老父は殆んど狂人のやうになつて、その片意地に凝り固つた兩眼に憤怒の涙を湛へつゝ息急とやつて來た。そして一人の娘の行衞などを氣遣ふといふよりも、先づ眞先に一人殘つた姉のお米を引捉へて、斯く叫び立てた。
「可し、ぢや貴樣が彼奴の代理になるんだぞ、もう今度こそは!」
と、血の樣な眼をして娘を睨みすゑた。
幾人も集つて居る中に混つて、私も同じくハラ〳〵としながら見詰めて居ると、案外にも娘は、お米は、
「ハイ」
と低く云つて、例の大きい鈍い瞳を閉ぢて、そして又開いた。 | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「新聲」
1907(明治40)年12月号
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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著者
書くとなく書きてたまりし文章を一册にする時し到りぬ
おほくこれたのまれて書きし文章にほのかに己が心動きをる
眞心のこもらぬにあらず金に代ふる見えぬにあらずわが文章に
幼く且つ拙しとおもふわが文を讀み選みつつ捨てられぬかも
自がこころ寂び古びなばこのごときをさなき文はまた書かざらむ
書きながら肱をちぢめしわがすがたわが文章になしといはなくに
ちひさきは小さきままに伸びて張れる木の葉のすがたわが文にあれよ
おのづから湧き出づる水の姿ならず木々の雫にかわが文章は
山にあらず海にあらずただ谷の石のあひをゆく水かわが文章は
書きおきしは書かざりしにまさる一册にまとめおくおかざるにまさるべからむ | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年7月2日公開
2005年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002693",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "01 序文に代へてうたへる歌十首",
"副題読み": "01 じょぶんにかえてうたえるうたじっしゅ",
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私は草鞋を愛する、あの、枯れた藁で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
あの草鞋を程よく兩足に穿きしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。
呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊の空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。
机上の爲事に勞れた時、世間のいざこざの煩はしさに耐へきれなくなつた時、私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。
二三度土を踏みしめてゐると、急に新しい血が身軆に湧いて、其儘玄關を出かけてゆく。實は、さうするまではよそに出懸けてゆくにも億劫なほど、疲れ果てゝゐた時なのである。
そして二里なり三里なりの道をせつせと歩いて來ると、もう玄關口から子供の名を呼び立てるほど元氣になつてゐるのが常だ。
身軆をこゞめて、よく足に合ふ樣に紐の具合を考へながら結ぶ時の新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしつくりと足の甲を締めつけるあの心持、立ち上つた時、じんなりと土から受取る時のあの心持。
と同時に、よく自分の足に馴れて來て、穿いてゐるのだかゐないのだか解らぬほどになつた時の古びた草鞋も難有い。實をいふと、さうなつた時が最も足を痛めず、身軆を勞れしめぬ時なのである。
ところが、私はその程度を越すことが屡々ある。いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々足を痛める。もうさうなるとよほどよく出來たものでも、何處にか破れが出來てゐるのだ。從つて足に無理がゆくのである。
さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左樣なら!』
よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。
私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。
さうした旅をツイ此間私はやつて來た。
富士の裾野の一部を通つて、所謂五湖を𢌞り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い〳〵原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂はゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。その原を通り越すと今度は信州路になつて野邊山が原といふのに入つた。これは、同じ八ヶ岳の裏の裾野をなすもので、同じく廣茫たる大原野である。富士の裾野の大野原と呼ばるゝあたりや淺間の裏の六里が原あたりの、一面に萱や芒のなびいてゐるのと違つて、八ヶ岳の裾野は裏表とも多く落葉松の林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林などで埋つてゐるので見た所いかにも荒涼としてゐる。丁度樹木の葉といふ葉の落ちつくした頃であつたので、一層物寂びた眺めをしてゐた。
野邊山が原の中に在る松原湖といふ小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、一日は物すごい木枯であつた。あゝした烈しい木枯は矢張りあゝした山の原でなくては見られぬと私は思つた。其處から千曲川に沿うて下り、御牧が原に行つた。この高原は淺間の裾野と八ヶ岳の裾野との中間に位する樣な位置に在り、四方に窪地を持つて殆んど孤立した樣な高原となつて居る。私は曾つて小諸町からこの原を横切らうとして道に迷ひ、まる一日松の林や草むらの間をうろ〳〵してゐた事があつた。
其處から引返して再び千曲川に沿うて溯り、終にその上流、といふより水源地まで入り込んだ。此處の溪谷は案外に平凡であつたが、その溪を圍む岩山、及び、到る所から振返つて仰がるゝ八ヶ岳の遠望が非常によかつた。
そしてその水源林を爲す十文字峠といふを越えて武藏の秩父に入つた。この峠は上下七里の間、一軒の人家をも見ず、唯だ間斷なくうち續いた針葉樹林の間を歩いてゆくのである。常磐木を分けてゆくのであるが、道がおほむね山の尾根づたひになつてゐるので、意外にも遠望がよくきいた。近く甲州路の國師嶽甲武信嶽、秩父の大洞山雲取山、信州路では近く淺間が眺められ、上州路の碓氷妙義などは恰も盆石を置いたが如くに見下され、ずつとその奧、越後境に當つた大きな山脈は一齋に銀色に輝く雪を被いてゐた。
ことにこの峠で嬉しかつたのは、尾根から見下す四方の澤の、他にたぐひのないまでに深く且つ大きなことであつた。しかもその大きな澤が複雜に入りこんでゐるのである。あちこちから聳え立つた山がいづれも鋭く切れ落ちてその間に深い澤をなすのであるが、山の數が多いだけその峽も多く、それらから作りなされた澤の數はほんとに眼もまがふばかりに、脚下に入り交つて展開せられてゐるのであつた。そしてそれらの澤のうち特に深く切れ込んだものゝ底から底にかけてはありとも見えぬ淡い霞がたなびいてゐるのであつた。
峠を降りつくした處に古び果てた部落があつた。栃本と云ひ、秩父の谷の一番奧のつめに當る村なのである。削り下した嶮崖の中に一筋の繩のきれが引つ懸つた形にこびりついてゐるその村の下を流れる一つの谷があつた。即ち荒川隅田川の上流をなすものである。いま一つ、十文字峠の尾根を下りながら左手の澤の底にその水音ばかりは聞いて來た中津川といふがあり、これと栃本の下を流るゝものとが合して本統の荒川となるものであるが、あまりに峽が嶮しく深く、終にその姿を見ることが出來なかつた。
栃本に一泊、翌日は裏口から三峰に登り、表口に降りた。そして昨日姿を見ずに過ごして來た中津川と昨日以來見て來てひどく氣に入つた荒川との落ち合ふ姿が見たくて更にまた川に沿うて溯り、その落ち合ふところを見、名も落合村といふに泊つた。
斯くして永い間の山谷の旅を終り、秩父影森驛から汽車に乘つて、その翌日の夜東京に出た。すると其處の友人の許に沼津の留守宅から子供が脚に怪我をして入院してゐる、すぐ歸れといふ電報が三通も來てゐた。ために豫定してゐた友人訪問をも燒跡見物をもすることもなくしてあたふたと歸つて來たのであつた。
この旅に要した日數十七日間、うち三日ほど休んだあとは毎日歩いてゐた。それも兩三囘、ほんの小部分づつ汽車に乘つたほか、全部草鞋の厄介になつたのであつた。
自宅に歸ると細君から苦情が出た、何日には何處に出るといふ風の豫定を作つておいて貰ふか毎日行く先々から電報でも打つて貰はぬことにはまさかの時に誠に困るといふのである。
もつともとも思ふが、私の方でも止むを得なかつた。たとへば千曲川の流域から荒川の流域に越ゆる間など、ほゞ二十里の間に郵便局といふものを見なかつたのだ。
また私は健脚家といふでなく、所謂登山家でなく冒險家でもないので、あまり無理な旅をしたくない。出來るだけ自由に、氣持よく、自分の好む山河の眺めに眺め入り度いためにのみ出かけて行くので、行くさき〴〵どんな所に出會ふか解らぬ間は、なか〳〵豫定など作れないのである。
それにしてもどうも私には旅を貪りすぎる傾向があつていけない。行かでもの處へまで、われから強ひて出かけて行つて烈しい失望や甲斐なき苦勞を味ふ事が少なくない。
然しそれも、『斯ういふ所へもう二度と出かけて來る事はあるまい、思ひ切つてもう少し行つて見よう。』といふ概念や感傷が常に先立つてゐるのを思ふと、われながらまたあはれにも思はれて來るのである。
今度の旅では幾つかの湖と、幾つかの高原と、同じ樣に幾つかの森林と、溪谷と、峰と、澤とを見、且つ越えて來た。順序よく行けば十日あれば𢌞り得る範圍である。それにしてはよく計畫された旅であつた。私の十七日かゝつたのは例の貪慾癖と、信州路で三四日友人等と會談してゐたゝめであつた。
机の上に地圖をひろげて見てゐると、まだまだなか〳〵行つて見度い處が多い。いつも考へる事だが、斯うして見ると日本もなか〳〵廣大なものだ。どうか出來るならばせめてこの日本中の景色をでも殘る所なく貪り盡して後死にたいものだとしみ〴〵思はざるを得ぬのである。
草鞋を穿いて歩く樣な旅行には無論幾多の困難が伴ふ。先づ宿屋の事である。次に飮食物の事である。
今度の旅でも私は二度、原つぱの中の一軒家に泊めて貰つた。二軒ともこの邊の甲州と信州との間の唯一の運送機關になつてゐる荷馬車の休む立場の樣な茶店で、一軒は念場が原の眞中、丁度甲信の國境に當つた所であつた。時雨は降る、日は暮れる、今夜の泊りと豫定した部落まではまだこの荒野の中を二里も行かねばならぬと聞き、無理に頼んで泊めて貰つたのであつた。一軒は野邊山が原のはづれ、千曲川に臨んだ嶮崖のとつぱなの一軒家で、景色は非常によかつた。
それから妙な𢌞り合せで裁判所の判檢事、警察署長、小林區署長といふ客の一行から私は二度宿屋を追つ拂はれた、一度は千曲川縁の小さな鑛泉宿で、一度はそれから一日おいて次の日、その千曲の溪の一番の奧にある部落の宿屋で。一夜は一里あまり闇の中を歩いて他に宿を求め、一夜は辛うじて同じ村内に木賃風の宿を探し出し、屋内に設けられた厩の二疋の馬を相手に村酒を酌んで冷たい夢を結んだ。別に追つ拂はれる事もないのだが矢張り斯うして長いものに卷かれてゐた方が自分の氣持の上に寧ろ平穩である事を知つて居るからであつた。
信州では、ことに今度行つた佐久地方では鯉は自慢のものである。成程いゝ味である。がそれも一二度のことで、二度三度と重なると飽いて來る。鑵詰にもいゝ物はなく、海の物は絶無と云つていゝ。
たゞ難有いのは山の芋と漬物とであつた。私は何處でも先づこの二つを所望した。とろろ汁は出來のよしあしを問はず生來の好物だし、斯うした山國の常として漬物だけには非常な注意が拂つて漬けられてゐるので確かにうまい。味噌漬もいゝが、ことに梅漬がよかつた。この國では(多分この國だけではないかと思ふ)梅を所謂梅干といふ例の皺のよつた鹽鹸いものにせず、木にある生の實のまゝの丸みと張りと固さとを持つた漬け方をするのである。そして同じく紫蘇で美しく色づけられてゐる。これが何處に行つても必ず毎朝のお茶に添へて炬燵の上に置かるゝ。中の核を拔いて刻んで出す家もあり、粒のまゝの家もある。これをかり〳〵と噛んで澁茶を啜るのはまことに私の毎朝の樂しみであつた。殆んど毎朝その容器をば空にした。また、時として酒のさかなにもねだつた。
田舍の漬物のことで一つ笑ひ話がある。ずつと以前、奧州の津輕に一月ほど行つてゐた事があつた。このあたりの食物の粗末さはまた信州あたりの比ではない。たいていのものをば喰べこなす私も後にはどうしても箸がつけられなくなつた。そして矢張り中で一番うまいのは漬物だといふ事になり、そればかり喰べてゐた。やがて其處を立つて歸る時が來た。土地の青年の、しかも二人までが、見てゐるところ先生はよほど漬物がお好きの樣である、どうかこれをお持ち下さいと云つてかなりの箱と樽とを差出した。眞實嬉しくて厚く禮をいひ、幾度かの汽車の乘換にも極めて丁寧に取り扱つて自宅まで持ち歸つた。そして大自慢で家族たちに勸めたところが、皆、變な顏をしてゐる。そんな筈はないと自分にも口にして見て驚いた。たゞ驚くべき鹹味が感ぜらるるのみで、ツイ先日まで味はつてゐた風味はなか〳〵に出て來ないのである。やがて私は獨りで苦笑した、津輕にゐた時には他の食物に比してこれがうまかつたが、サテ他のものゝ味が出て來るともうこの漬物の權威はなくなつてゐるのであつたのだ。
酒であるが、因果と私はこれと離るゝ事が出來ず、既に中毒性の病氣見たいになつてゐるので殆んどもうその質のよしあしなどを言ふ資格はなくなつてゐると言つていゝ、朝先づ一本か二本のそれが濟まなくてはどうしても飯に手がつけられない。晝の辨當を註文する前に一本のそれを用意する事を忘れない。夕方はなほのことである。
それも獨りの時はまだいゝ。久し振の友人などと落合つて飮むとなると殆んど常に度を過して折角の旅の心持を壞す事が屡々である。恨めしい事に思ひながら、なほそれを改め得ないでゐる。いゝ年をしながら、といつも耻しく思ふのであるが、いつかは自づとやめねばならぬ時が來るであらう。
旅は獨りがいゝ。何も右言つた酒の上のことに限らず、何彼につけて獨りがいゝ。深い山などにかかつた時の案内者をすら厭ふ氣持で私は孤獨の旅を好む。
つく〴〵寂しく、苦しく、厭はしく思ふ時がある。
何の因果で斯んなところまでてく〳〵出懸けて來たのだらう、とわれながら恨めしく思はるゝ時がある。
それでゐて矢張り旅は忘れられない。やめられない。これも一つの病氣かも知れない。
私の最も旅を思ふ時季は紅葉がそろ〳〵散り出す頃である。
私は元來紅葉といふものをさほどに好まない。けれど、それがそろ〳〵散りそめたころの山や谷の姿は實にいゝ。
谷間あたりに僅かに紅ゐを殘して、次第に峰にかけて枯木の姿のあらはになつてゐる眺めなど、私の最も好むものである。
路にいつぱいに眞新しい落葉が散り敷いてその匂ひすら日ざしの中に立つてゐる。その間から濃紫の龍膽の花が一もと二もと咲いてゐるなどもよくこの頃の心持を語つてゐる。
木枯の過ぎたあと、空は恐ろしいまでに澄み渡つて、溪にはいちめんに落葉が流れてゐる、あれもいい。ホ、もうこの邊にはこれが來たのか、と思ひながら踏む山路の雪、これも尊い心地のせらるゝものである。枯野のなかを行きながら遠く望む高嶺の雪、これも拜みたい氣持である。
落葉の頃に行き會つて、これはいゝ處だと思はれた處にはまた必ずの樣に若葉の頃に行き度くなる。
これは一つは樹木を愛する私の性癖からかも知れない。
事實、世の中に樹木といふものが無くなつたならば、といふのが仰山すぎるならば、若し其處等の山や谷に森とか林とかいふものが無くなつたならば、恐らく私は旅に出るのをやめるであらう。それもいはゆる植林せられたものには味がない、自然に生えたまゝのとりどりの樹の立ち竝んだ姿がありがたい。
理窟ではない、森が斷ゆれば自づと水が涸るゝであらう。
水の無い自然、想ふだにも耐へ難いことだ。
水はまつたく自然の間に流るゝ血管である。
これあつて初めて自然が活きて來る。山に野に魂が動いて來る。
想へ、水の無い自然の如何ばかり露骨にして荒涼たるものであるかを。
ともすれば荒つぽくならうとする自然を、水は常に柔かくし美しくして居るのである。立ち竝んだ山から山の峯の一つに立つて、遠く眼にも見えず麓を縫うて流れてゐる溪川の音を聞く時に、初めて眼前に立ち聳えて居る巍々たる諸山岳に對して言ふ樣なき親しさを覺ゆることは誰しもが經驗してゐる事であらうとおもふ。
私の、谷や川のみなかみを尋ねて歩く癖も、一にこの水を愛する心から出てゐるのである。
今度の旅では千曲川のみなかみを極めて、荒川の上流に出たのであつた。
その分水嶺をなす樣な位置に在る十文字峠といふのは上下七里の難道であつたが、七里の間すべて神代ながらの老樹の森の中をゆくのである。
その大きな官有林に前後何年間かにわたつて行はれた盜伐事件が發覺して、長野埼玉兩縣下からの裁判官警察官林務官といふ樣な人たちがその深い山の中に入り込んでゐた。そしてそれらの人たちのために二度宿屋を追はれたのであつた。
千曲川の上流長さ數里にわたつた寒村を川上村と云つた。
ずつと以前利根川の上流を尋ねて行つた時、水上村といふのに泊つたことがある。
村の名にもなか〳〵しやれたのゝあるのに出會ふ。上州の奧、同じく利根の上流をなす深い溪間の村に小雨村といふのがあつた。恐しい樣な懸崖の下に、家の數二十軒ばかりが一握りにかたまつてゐる村であつた。その次の村、これはそれよりも一二里奧の同じ溪に臨んだ小雨村よりももつと寂しい京塚村といふのであつた。この村をば私は對岸の山の上から見て過ぎたのであつたが、崖の中腹に作られた七八軒の家が悉くがつしりした構へで而かも他に見る樣にきたなつぽくなく、いかにも上品な古びた村に眺められたのであつた。どうしたのか、折々この村をば夢に見ることがある。
荒川の上流と言つたが、二つの溪が落合つて本流のもとをなすのである。その一つの中津川といふものゝ水上に中津川といふ部落があるさうだ。昔徳川幕府の時代、久しい間この部落の存在は世に知られてゐなかつた。よくある話の樣に、折々その溪奧から椀の古びたのなどが流れてくる。箭の折れたのも流れて來た。若しや大阪の殘黨でも隱れてゐるのではないかと土地の代官か何かゞ大勢を引率してその上流を探して行つた。果して思ひもかけぬ山の蔭に四五十人の人が住んでゐた。それといふのでその四五十人を何とかいふ蔓で何とかいふ木にくゝしつけてしまつた。そしてよく聞いて見ると大阪ではなくずつと舊く鎌倉の落人であることが解つた。村人はその時の事を恨み、この後この里にその何とか蔓と何の木とはゆめにも生ゆること勿れと念じ、今だに其の木と蔓とはその里に根を絶つてゐるといふ。
傳説は平凡だが、私は十文字峠の尾根づたひのかすかな道を歩きながら七重八重の山の奧の奧にまだまださうした村の在るといふことに少なからぬ興味を感じた。落葉しはてたその方角の遙かの溪間には折から朗かな秋の夕日がさしてゐた。その一個所を指ざして、ソラ、あそこにちよつぴり青いものが見ゆるだらう、あれが中津川の人たちの作つてゐる大根畑だ、と言ひながら信州路から連れて來た私の老案内者はその大きなきたない齒莖をあらはして笑つた。
燒岳を越えて飛騨の國へ降りついたところに中尾村といふ村があつた。十四五軒の家がばらばらに立つてゐるといふ風な村であつたが、その中の三四軒で、男とも女ともつかぬ風態をした人たちが大きな竈に火を焚いてせつせと稗を蒸してゐた。
越後境に近い山の中に在る法師温泉といふへ、上州の沼田町から八九里の道を歩いて登つて行つたことがある。もう日暮時で、人里たえた山腹の道を寒さに慄へながら急いでゐると不意に道上で人の咳く聲を聞いた。非常に驚いて振仰ぐと、畑ともつかぬ畑で頻りと何やら眞青な葉を摘んでゐる。よく見ればそれは煙草の葉であつた。
下野に近い片品川の上流に沿うた高原を歩いた時、その邊の桑の木は普通の樣に年々その根から刈り取ることをせず、育つがまゝに育たせた老木として置いてある事を知つた。だから桑の畑と云つても實は桑の林と云つた觀があつた。その桑の根がたの土をならしてすべて大豆が作つてあつた。すつかり葉の落ちつくした桑の老木の、多い幹も枝も空洞になつてゐる樣なのゝ連つた下にかゞんでぼつ〳〵と枯れた大豆を引いてゐる人の姿は、何とも言へぬ寂しい形に眺められた。
今度通つた念場が原野邊山が原から千曲の谷秩父の谷、すべて大根引のさかりであつた。枯れつくした落葉松林の中を飽きはてながら歩いてゐると、不意に眞青なものゝ生えてゐる原に出る。見れば大根だ。馬が居り、人が居る。或日立寄つた茶店の老婆たちの話し合つてゐるのを聞けば今年は百貫目十圓の相場で、誰は何百貫賣つたさうだ、何處其處の馬はえらく痩せたが喰はせるものを惜しむからだ、といふ樣なことであつた。永い冬ごもりに人馬とも全くこの大根ばかり喰べてゐるらしい。
都會のことは知らない、土に噛り着いて生きてゐる樣な斯うした田舍で、食ふために人間の働いてゐる姿は、時々私をして涙を覺えしめずにはおかぬことがある。
草鞋の話が飛んだ所へ來た。これでやめる。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年4月4日公開
2005年11月9日修正
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その一
伊豫の今治から尾の道がよひの小さな汽船に乘つて、一時間ほども來たかとおもふ頃、船は岩城島といふ小さな島に寄つた。港ともいふべき船着場も島相應の小さなものであつたが、それでも帆前船の三艘か五艘、その中に休んでゐた。そして艀から上つた石垣の上にも多少の人だかりがあつた。一寸重い柳行李を持てあましながら、近くの人に、
『M――といふ家はどちらでせう。』
と訊くと、その人の答へないうちに、
『M――さんに行くのですか。』
と他の一人が訊き返した。同じ船から上げられた郵便局行の行嚢を取りあげやうとしてゐる配達夫らしい中年の男であつた。
『さうです。』
と答へると、彼は默つて片手に行嚢を提げ、やがて片手に私の柳行李を持ち上げて先に立つた。惶てながら私はそのあとに從つた。
二三町も急ぎ足にその男について行くと彼は岩城島郵便局と看板のかゝつてゐるとある一軒の家に寄つて私を顧みながら、
『此處です。』
と言つた。
其處のまだ年若い局長であるM――君は夙うから我等の結社に加入して歌を作つた。その頃一年あまり私は父の病氣のために東京から郷里日向の方に歸つてゐた。そのうち父がなくなり、六月の末であつたか、私は何だか寂しい鬱陶しい氣持を抱きながら上京の途についたのであつた。そしてその途中、豫ねてその樣に手紙など貰つてゐたので、九州から四國に渡り、其處から汽船に乘つてこのM――君の住む島に渡つて行つたのである。手紙の往復は重ねてゐたが、まだ逢つた事もなく、どんな職業の人であるかも知らなかつた。
M――君はたいへん喜んで、急がないならどうぞゆつくり遊んでゆく樣に、と勸めて呉れた。身體も氣持もひどく疲れてゐた時なので、言葉に甘えて私は暫く其處に滯在する事にした。M――君はその本宅と道路を中にさし向つた別莊の雨戸をあけて、
『こちらが靜かですから……』
自由に起臥する樣にと深切に氣をつけて呉れた。
M――家は島の豪家らしく、別莊などなか〳〵立派なものであつた。私の居間ときめられた離宅は海の中に突き出た樣な位置に建てられ、三方が海に面してゐた。肱掛窓に凭つて眺めると、ツイその正面に一つの島が見えた。その島はかなり嶮しい勾配を持つた一つの山から出來てゐて、海濱にも人家らしいものはなかつた。山には黒々と青葉が茂つてゐた。その島の蔭から延いて更に二つ三つと遠い島が眺められた。遠くなるだけ夏霞が濃くかゝつてゐた。手近の尖つた島と自分の島との間の瀬戸をば日に一度か二度、眼に立つ速さで潮流が西に行きまた東に流れた。汐に乘る船逆らふ船の姿など、私には珍しかつた。
一方縁側からは自分の島の岬になつた樣な一角が仰がれた。麓からかけて隨分の高みまで段々畑が作られて、どの畑にも麥が黄いろく熟れ、滯在してゐるうちにいつかあらはに刈られて行つた。
その頃私は或る私立大學を卒業して五六年もたつてゐるに係らず、まだ職業らしい職業を持つてゐなかつた。『金にもならぬ和歌ばかり作つてゐて一體お前はこの若山家をどうする氣か』と云つて、先頃まで歸つてゐた郷里の家で、病父の枕許で、年とつた母や親戚たちから私は責められた。苦しい中から學資を貢がせられ、漸く卒業したと思ふに五年たつても六年たつても金の一圓送つて貰へない彼等の身になつて見るとその苦情も當然であつた。たゞ父だけはその性分からか、さまでに氣にかけず『もう少し待つて見ろ、そのうちに何かするだらう』と寧ろ彼等を慰めてゐた。その父が死んで見るといよ〳〵私の立場は苦しくなつた。是から東京に出て新聞社などに勤めた所で幾らの送金が出來るわけでもなし、いつそこのまゝ母の側にゐて小學校なり村役場なりに出て暮らさうかとまで考へて、その口を探したがなまじひに何々卒業の肩書のあるのが邪魔になつて都合よく行かなかつた。いよいよ弱つたはてにまた母や姉から若干の旅費を貰つて、ともかく東京へ出て見ようといふ途中に、この瀬戸内海の中の小さな島に立ち寄つたのであつた。
凭り馴れた肱掛窓に凭つてかけ出しの樣になつてゐる窓下を見るともなく見てゐると、丁度干潟になつた其處に何やら蠢くものがある。よく見ると、飯蛸だ。一つ、二つ、やがては五つも六つも眼に入つて來た。それを眺めながら、私は懶く或る事を考へてゐた。父危篤の電報に呼び返さるゝ數日前に私は結婚してゐた。一軒の家でなく、僅か一室の間借をして暮してゐたので、私の郷里滯在が長引くらしいのを見ると、妻も東京を引きあげて郷里の信州に歸つてゐた。そして其處で我等の長男を産んでゐた。私が今度東京に出るとなると、早速彼等を呼び寄せなくてはならぬ。要るものは金である。その金の事を考へてゐるうちに見つけたのが飯蛸であつた。そして可愛ゆげに彼等の遊び戲れてゐるのに見入りながら、不圖一つの方法を考へた。一年あまりの郷里滯在中は初めから終りまで私にとつては居づらい苦しい事ばかりであつた。どうかしてそれを紛らすために、いつか私は夢中になつて歌を作つてゐた。その歌が隨分になつてゐる筈だ。それを一つ取り纒めて一册の本にして多少の金を作りませう、と。
括つたまゝ別莊の玄關にころがしてあつた柳行李を解いて、私はその底から二三册のノートを取り出した。そしてM――君から原稿紙を貰つて、いそ〳〵と机に向つた。左の肱が直ぐ窓に掛けられる樣に、そして左からと正面からと光線の射し込む位置に重々しい唐木の机は置かれたのである。
が豫想はみじめに裏切られた。それ以前『死か藝術か』といふ歌集に收められた頃から私の歌は一種の變移期に入りつつあつたのであるが、一度國に歸つてさうした異常な四周の裡に置かるゝ樣になると、坂から落つる石の樣な加速度で新しい傾向に走つて行つた。中に詠み入れる内容も變つて來たが、第一自分自身の調子どころか二千年來歌の常道として通つて來た五七五七七の調子をも押し破つて歌ひ出したのであつた。何の氣なしに、原稿紙を擴げて、順々にたゞ寫しとらうとすると、その異樣な歌が、いつぱいノートに滿ちてゐたのである。實は、郷里を離れると同時に、時間こそは僅かであつたが、やれ〳〵と云つた氣持ですつかり其處のこと歌のことを忘れてしまつてゐたのであつた。そしていま全く別な要求からノートを開いて見て、其處に盛られた詩歌の異樣な姿にわれながら肝をつぶしたのである。
其處には斯うした種類の歌が書きつらねてあつた。
納戸の隅に折から一挺の大鎌ありなんぢが意志をまぐるなといふが如くに
新たにまた生るべしわれとわが身に斯くいふ時涙ながれき
あるがままを考へなほして見むとする心と絶對に新しくせむとする心と
ともし斯くもするはみな同じやめよさらばわれの斯くして在るは
いづれ同じ事なり太陽の光線がさつさとわが眼孔を拔け通れかし
感覺も思索も一度切れてはまたつなぐべからず繋ぐべくもあらず
日を浴びつつ夜をおもふは心痛し新しき不可思議に觸るるごとくに
言葉に信實あれわがいのちの沈默よりしたたり落つる言葉に
さうだあんまり自分の事ばかり考へてゐたあたりは洞穴の樣に暗い
自分の心をほんたうに自分のものにする爲にたび〳〵來て机に向ふけれど
自分をたづぬるために穴を掘りあなばかりが若し殘つたら
何處より來れるやわがいのちを信ぜむと努むる心その心さへ捉へ難し
眼をひらかむとしてまたおもふわが生の日光のさびしさよ
死人の指の動くごとくわが貧しきいのちを追求せむとする心よ
といふ樣なのがあるかと思へば、また、
ふと觸るればしとどに搖れて影を作る紅ゐの薔薇よ冬の夜のばらよ
開かむとする薔薇散らむとするばら冬の夜の枝のなやましさよ
靜かにいま薔薇の花びらに來ていこへるうすきいのちに夜の光れり
傲慢なる河瀬の音よ呼吸烈しき灯の前のわれよ血の如き薔薇よ
悲しみと共に歩めかし薔薇悲しみの靴の音をみだすなかればらよ
吸ふ息の吐く息のわれの靜けさに薔薇の紅ゐも病めるがごとし
むなしきいのちに映りつつ眞黒き珠の如く冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き枝葉の薔薇を踏まむ悲しきものを滅ぼさむため
薔薇に見入るひとみいのちの痛きに觸るる瞳冬の日の午後の憂鬱
古びし心臟を捨つるが如くひややかに冬ばらの紅ゐに瞳向へり
愛する薔薇をむしばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるる如くに
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
この冬の夜に愛すべきもの薔薇ありつめたき紅ゐの郵便切手あり
やや深き溜息をつけば机の上眞青のばらの葉が動く冬の夜
ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ深き闇の部屋に
餘り身近に薔薇のあるに驚きぬ机にしがみつきて讀書してゐしが
忘れものばかりしてゐる樣なおちつきのない男の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら〳〵と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが水を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
かと思ふと、或る海岸の荒磯に遊んでは、
あはれ悲しいで衣服をぬがばやと思ふ海は青き魚の如くうねり光れり
とかくして登りつきたる山のごとき巨岩のうへのわれに海青し
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
身體は一枚の眼となりぬ青くかがやける海ひらたき太陽
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた市街へ歸るのだ
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
と云ふ風の歌を作つてゐるのであつた。
ツイ、僅かばかり前に一生懸命して自分で作つておきながら、いま改めて見直すとなつて殆んど正體なく驚いたのである。どうしてあんなに驚いたのか今考へればわれながら可笑しいが、とにかくに驚いた。ほんの數日ではあつたが、郷里を離れてさうした島の特別にも靜かな場所に身を置いたゝめ、前と後とで急に深い距離が心の中に出來てゐたのかも知れぬ。
驚愕はいつか恐怖に變つた。何だか恐しくて、とても平氣でそんな歌を清書してゆく勇氣がなくなつてしまつた。と云つて、心の底にはさうして作つてゐた當時の或る自信が矢張り何處にか根を張つてゐた。そしてその自信は書かせようとする、故のない恐怖は書かせまいとする、その縺れが甚しく私の心を弱らせた。二日三日とノートと睨み合ひをしてゐるうちに終に私は食事の量が減り始めた。氣をまぎらすためにM――君から借りて讀んだ萬葉集の、讀み馴れた歌から歌を一首二首と音讀しようとして聲が咽喉につかへて出ず、強ひて讀みあげようとするとそれは怪しい嗚咽の聲となつた。萬葉の歌を眞實形に出して手を合せて拜んだのはこの時だけであつた。
終に友人が心配しだした。そして、では私が代つて清書してあげませうと言ひながら、次から次と書きとつて行つた。それをば唯だ茫然と私は見てゐた。さうなつてからは日ならずして二三册のノートの歌が一綴の原稿紙の上にきれいに寫しとられてしまつた。
折角久し振におちついてゐた私の心はその清書にかゝらうとした時から再びまた烈しい動搖焦燥の裡にあつた。そして友人の手によつて清書が出來上るや否や、それを行李に收め、あたふたと私はその靜かな島を辭した。
丁度十年ほど前にあたる。いまこの島の數日を考へてゐると、其處の友人の家の庭にあつた柏の木の若葉、窓の下の飯蛸、または島から島にかけて啼き渡つてゐた杜鵑の聲など、なほありありと心の中に思ひ出されて來る。
その二
いま一度、私は瀬戸内海の島に渡つて行つたことがある、備前の宇野港から數里の沖合に在る直島といふのへ。
夏の初、やゝもう時季は過ぎてゐたがそれでもまだ附近の内海では盛んに名物の鯛がとれてゐた。その鯛網見物にと、岡山の友人I――君から誘はれて二人して出懸けたのであつた。直島附近は最もよく鯛漁のあるところと云はれてゐるのださうだ。
附近に並んでゐる幾つかの島と同じく、直島も小さな島であつた。名を忘れたが、島の主都に當る某村に郷社があり、其處の神官M――氏をI――君は知つてゐた。そして網の周旋を頼むためにこんもりと樹木の茂つた神社の下の古びた邸にM――氏を訪ねて行つた。
M――氏は矮躯赭顏、髮の半白な、元氣のいゝ老人であつた。そして私は同氏によつてその島が崇徳上皇配流の舊蹟で、附近の島のうちでも最も古くから開けてゐた事、現にM――家自身既に十何代とか此處に神官を續けて來てゐる事等を聞いた。内海の中に所狹く押し並んでゐる島々のうちにも、舊い島新しい島の區別のあることが私には興深く感ぜられた。
『では、參りませう。網は琴彈の濱といふ所で曳くのですが、途中を少し𢌞つて上皇の故蹟を見ながら參りませう。』
『でも、たいへんではありませんか。』
『いゝえなに、島中くるりと𢌞つても半日とはかゝりませんからな、ハヽヽ。』
私も笑つた。その小さな島にさうした歴史の殘つてゐることがまた面白く感ぜられた。多分、船着場や潮流のよしあしなどの關係から出てゐることであらうとも思つた。
邸の前から漁師の家の間を五六十間も歩くと直ぐ山にかゝつた。とろ〳〵登りの坂ではあつたが早くも汗が浸み出た。晴れてはゐても、空には雲が多かつた。
『あそこに見えますのが……』
杖をとつて先に立つてゐた老人は立ち止つた。まばらに小松が生え、下草には低い雜木が青葉をつけ、そしてところどころそれらが禿げて地肌の赤いのを露はしてゐる樣な山腹を登つてゐた時であつた。老人にさし示されたところは我等より右手寄りの谷間に當つて其處ばかり年老いた松が十本あまり立ち籠つてゐた。
『上皇のお側に仕へてゐた上臈がおあとを慕うて島へ渡つて參り、程なく身重になつた。で、身二つになるまであそこの谷間に庵を結んで籠つてゐたと云ひ傳へられてゐる處です。』
むんむと蒸す日光の照りつけたその松林にははげしい蝉時雨が起つてゐた。
『さうして生みおとされたお子さまなどは、どういふことになつたのでせう。』
『さア、どうなられましたか……、まだほかに上皇の姫君も父君のおあとを慕つて參られましたが、どうしたわけか御一緒におゐでずに、此處とは別な谷間に上臈と同じく庵を結んで居られたと申します。』
程なくその島の背に當つてゐる峠を越した。そして少し下つた處に崇徳上皇を祭つたお宮があつた。あたりは廣い松林で、疎ならず密ならず、見るからに明るい氣持がした。お宮もまた小さくはあつたががつしりした造りで、庭も社殿も清らかな松の落葉で掩はれてゐた。ことにいゝのは其處の遠望であつた。眼下の小さな入江、入江の澄んだ潮の色、みないかにも綺麗で、やゝ離れた沖の島の數々、更に遠く眺めらるゝ四國路の高い山脈、すべてが明るく美しく、それこそ繪の樣な景色であつた。
其處から二三丁下つたところに所謂行宮の跡があつた。其處も前の上臈の庵のあとゝ同じく小さな谷間、と云つても水もなにもない極めて小さな山襞の一つに當つてゐた。松がまばらに立ち並び、雜木が混つてゐた。平地と云つても、ほんの手で掬ふほどの廣さでM――氏に言はるゝままに注意して見るとその平地が小さく三段に區分されてゐるのが眼についた。それ〴〵の段の高さおよそ三四尺づつで、茂つた草を掻き分けて見ると僅かに其處に石垣か何かの跡らしいものが見分けられた。段々になつた一番下の所に警護の武士の詰所があり、二番目が先づお附の人の居た場所、一番上の狹い所が恐らく上皇御自身の御座所ででもあつたらう、といふM――老人の解釋であつた。とすると、御座所の御部屋の廣さは僅かに現今の四疊半敷にも足りない程度のものであつたに相違ないのである。そして、一番下の警護の者の詰所から十間ほどの下には、黒い岩が露はれて波がかすかに寄せてゐた。あたりを見𢌞しても嶮しい山の傾斜のみで、此處のほかには一軒の家すら建てらるべき平地が見當らない。同じ島のうちでも、全然家とか村とかいふものから引離された、斯うした所を選んで御座所を作つたものと想像せらるゝのであつた。斯ういふ窮屈な寂しい所に永年流されておゐでになつて、やがてまた四國へ移され、其處で上皇はおかくれになつたのだつたといふ。
其處から路もない磯づたひを歩いて入江に沿うた一つの村に出た。玉積の浦というた。其處を右に切れて田圃を拔けるとまた一つ弓なりに彎曲した穩かな入江があり、廣々とした白砂の濱を際どつて一列の大きな松の並木が並び、松の蔭に四五軒の漁師小屋があつた。其處が名にふさはしい琴彈の濱といふのであつた。
丁度、晝前の網を曳きあげたところであつたが、一疋の鯛もかゝつてゐなかつた。次の網は午後の三四時の頃だといふ。途方に暮れて暫らく松の蔭に坐つてゐたが、やがてM――老人は急に立ち上つて漁師共の寄つてゐる小屋へ出かけて行つた。そしてにこ〳〵と笑ひながら歸つて來た。
『えゝことがある、今に仰山な鯛を見せてあげますぞ。』
老人からこつそりとわけを聞いてI――君も踊り上つて喜んだ。そして時計を出して見ながら、
『早う來んかなう。』
などと幾度となく繰返して私の顏と沖の方とをかたみがはりに眺めて笑つてゐた。その間に老人は一人の漁師を走らせて酒や酢醤油をとり寄せた。
程なく右手に突き出た岬のはなの沖合に何やら大きな旗をたてた一艘の發動機船の姿が見えた。
『來た〳〵。』
さう叫びながら漁師たちは惶てゝ小舟を濱からおろした。解のわからぬまゝに私も促されてそれに乘つた。二人は漕ぎ、一人はせつせと赤い小旗を振つてゐた。
入江の中ほどに來ると、その發動機船は徐ろに停つた。我等の小舟はそれを待ち受けてゐて、漕ぎ寄するや否や一齋に向うに乘り移つた。私もまた同樣にさうさせられた。そして、引つ張られてとある場所にゆき、勢ひよくさし示された所を見て思はず聲をあげた。
この大型の發動機船の船底は其儘一つの生簀になつてゐた。そして其處に集めも集めたり、無數の鯛が折り重なつて泳いでゐるのである。I――君は機船の人に問うた。
『なんぼほど居ります。』
『左樣千二三百も居りますやろ。』
おゝ、その千二三百の大鯛が、中には多少弱つてゐるのもあつたが、多くはまだいき〳〵として美しい尾鰭を動かして泳いでゐるのである。
その中から二疋を我等はわけて貰うた。小舟の漁師たちと機船の人たちとの間に何やら高笑ひが起つてゐたが、やがて漁師たちは幾度も頭をさげて小舟へ移つた。機船は直ぐ笛を鳴らして走り出した。聞けば彼女はこの瀬戸内の網場々々を𢌞つて鯛を買ひ集め、生きながら船底に圍うて大阪へ向けて走るのださうである。
濱の松の蔭では忽ちに賑やかな酒もりが開かれた。うしほに、煮附に、刺身に、鹽燒に、二疋の鯛は手速くも料理されたのである。
いつか夕方の網までその酒は續いた。そしてたべ醉うた漁師達の網にどうしたしやれ者か、三疋の鯛がかゝて來た。よれつもつれつ、我等三人は一疋づつその鯛を背負うて、島の背をなす山の尾根づたひの路を二里ばかりも歩いた。歩いてゐるうちに月が出た。折しも十五夜の滿月であつた。峠から見る右の海左の海、どこの海にも影を引いて數多の島が浮んでゐた。斯くて今朝早朝に發動船で着いた船着場とは違つた今一つの港に着いて、其處から一艘の小舟を雇ひ、漕ぎに漕がせて宇野港へ歸りついたのは夜もよほど更けてゐた。可哀相に、其處まで送つて來てくれたM――老人は其處からまた島まで一人で歸るのであつた。晝間の酒をほど〳〵に切り上げて午後の定期の發動船に間に合ふ樣に老人の村まで歸つて居つたらば斯うした苦勞はせずとも濟んだであつたのに。
その三
船子よ船子よ疾風のなかに帆を張ると死ぬがごとくに叫ぶ船子等よ
大うねり傾きにつつ落つる時わが舟も魚とななめなりけり
次のうねりはわれの帆よりも高々とそびえて黒くうねり寄るなり
はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび來て向かむすべなし
やとさけぶ船子の聲にしおどろけばうなづら黒み風來るなり
舳なるちひさき一帆裂くるばかり風をはらみて浪を縫ふなり
色赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖邊の岩を見て走るなり
かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
友が守る燈臺はあはれわだなかの眞はだかの岩に白く立ち居り
むら立てる赤き岩々とびこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
あはれ淋しく顏もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれど
別れゐし永き時間も見ゆるごとくさびしく友の顏に見入りぬ
たづさへしわがおくりもの色燃えしダリヤの花はまだ枯れずあり
ダリヤの花につぎて船子等がとりいだす重きは酒ぞ友よこぼすな
歩みかねわが下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれに履かする
友よ先づわれの言葉のすくなきをとがむな心なにかさびしきに
相逢ひて言葉すくなき友だちの二人ならびて登る斷崖
石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶその若き妻
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
友醉はずわれまた醉はずいとまなくさかづきかはし心をあたたむ
石室のちひさき窓にあまり濃く晝のあを空うつりたるかな
これらの歌は今から七八年前、伊豆下田港の沖合に在る神子元島の燈臺に燈臺守をしてゐる舊友を訪ねて行つた時に詠んだものである。
神子元島は島とは云ふものゝ、あの附近の海に散在してゐる岩礁の中の大きなものであつた。赤錆びた一つの岩塊が鋭く浪の中から起つて立つてゐるにすぎなかつた。島には一握の土とてもなく、草も木も生えてはゐなかつた。其處の一番の高みに白い石造の燈臺が聳え、燈臺より一寸下つたところに、岩を刳り拔いた樣にして燈臺守の住宅が同じく石造で出來てゐた。暴風雨の折など、ともすると海の大きなうねりがその島全體を呑むことがあるので、その怒濤の中に沈んでも壞れぬ樣にと、たゞ頑丈一方に出來てゐた。謂はば一つの岩窟であるその住宅は、中が四間か五間かにくぎられてゐた。階級は一等燈臺で、燈臺守の定員は四人とかいふのであつたが私の行つた時には一人缺員のまゝであつた。臺長といふのはもういゝ年輩で、夫婦にちひさい子供が二人ゐた。私の友人はその少し前に郷里で細君を貰つて其處へ連れて行つてゐた。そしてそのほかに廿六七歳の獨身の人が一人ゐた。
その友人を知つたのはそれよりも六七年前、私が早稻田大學の豫科生の時であつた。當時私は讀み耽つてゐた『透谷全集』を教室にまで持ち込んで、授業中にも机の下に忍ばせて讀んでゐた。或る時偶然同じ机に隣り合つて坐つたのがその友人で、彼も亦同書の愛讀者であつた。それが緒で折々往來する樣になつたが、別に親しいといふ程ではなかつた。そのうち半年もたつと急に彼の姿が教室から見えなくなつた。一年たち二年たちする間に、同級生であつた彼の同郷人から聞くとなく彼の噂をとび〳〵に聞いてゐた。彼は佐賀縣の或る金滿家の息子で、急に學校が厭になると郷里に歸つて、以後一切關係を斷つ約束のもとに家から數萬圓の金を分けて貰ひ、肥前の平戸沖あたりの小さな島を全部買ひ切つて一人して其處へ移り牛や鷄を放し飼にして樂しんでゐた。それもほんの暫くでいやになり、二束三文で全てを賣り拂つた金で大盡遊びを續け、金が盡きると或る炭鑛の鑛夫になつた。それも僅の間で、親類たちに多少の金をねだつて米國へ渡り、昨今はあちらで鑵詰工場の職工をしてゐる相だ、といふ樣なことを。が、それも學校にゐる間の事で、學校を出ると同時に彼の同郷人の級友ともすつかり別れてしまつたので、其後の噂を聞くたよりもなかつた。
學校を出て一年あまりもたつた頃、私は或る新聞の記者となつてゐた。其處へ突然見すぼらしい風をして訪ねて來たのが彼であつた。いきなり私の前へ五六圓の金を投げ出して言つた。
『僕は今度、亞米利加から船中で團扇で客を煽ぐ商賣をやつて來た。これはその金の殘りだ。これで一杯飮まうよ。』
それから幾日か私の下宿にころがつてゐたが、多少繪の心得のある所から自分からたづね歩いて或るペンキ屋に入り込み、キヤタツを擔いで看板繪をかいて歩いてゐた。それもほんの數日で、或る日またふらりとやつて來た。
『いまペンキ屋の親爺を毆つて飛出して來たよ。』
程經て市内電車の運轉手になつた。これは割合に永く續いたが、何かの事で首になつた。其後、彼に似氣なく入學試驗といふものを受けて入學したのが横濱に在る航路標的所何とかいふ、つまり燈臺守の學校であつた。六ヶ月間の學期を無事に終へて、初めて任命されて勤めたのが、この神子元島燈臺であつた。そしてかれこれ一年あまりもたつたであらうか、漸く自分も從來の放浪生活の非をしみ〴〵覺つて、今後眞面目にこの燈臺守の靜かな朝夕の裡に一生を終へようと思ふ樣になつた、さう決心すると同時に郷里に歸つて妻をも貰つて來た、この心境の一轉を見るために一度この島に遊びに來ないか、といふ風の手紙を二三度も私の所によこしてゐたのであつた。
彼ほど徹底してはゐなかつたが、私もまた彼のいふ放浪生活の徒の一人であつた。學校を出て、一箇所二箇所と新聞社にも出て見たが、何處でも半年とはよう勤めなかつた。轉じて雜誌記者となつたが、これも三四ヶ月でやめてしまつた。自分等の流派の歌の雜誌を自分の手で出して見たが、初めは面白くやつてゐても直ぐ飽きが來た。さうかうしてゐるうちにいつか自分もひとの夫となり親となつてゐた。さうしてその日の米鹽すら充分でない樣な朝夕をずつと數年來續けて來てゐたのである。さういふ場合だつたので、今まではさういふ島があるといふ事すら知らなかつたこの島からの友人のたよりは、割合深く私の心にしみたのであつた。そして、終に其處に出かける氣になつた。
秋のダリヤの盛りの頃であつた。一本の木草すら無いといふその島には恰好の土産であらうと私はそれを澤山買つて行つた。先づ靈岸島から汽船で下田まで行き、其處で彼も吾も好物の酒を買つて第二の手土産とした。下田から一週間おきに燈臺通ひの船が出ることになってをり、その船で水から米、其他燈臺守たちの必需品を運ぶのであった。前に友人からよく樣子を知らして來てあつたので、都合よくそれに便船する事が出來た。下田を出ると、船は忽ち烈しい波浪の中に入つた。何處でも岬のはなの浪は荒いものであるが、其處の伊豆半島のとつぱなは別してもひどかつた。それは單に岬だけの端といふでなく、其處には無數の岩礁が海の中に散らばつてゐた。形を露はしたものもあり、僅かに其處だけに渦卷く浪によつて隱れた岩のあるのを知る所もあつた。それらの岩から岩の間にかもされた波浪は、見ごとでもあり凄くもあつた。船には大勢の船頭が乘り込んでゐた。
多分今日の船で來るであらうと、友人は朝から雙眼鏡を持つて岩の頭に立つてゐたのださうだ。船の島に着いたのは午前十時頃であつた。そして、つれられてその岩窟内の彼の居間に通つて、二年振ほどで彼と對座したのであつた。彼の妻とは初對面であつた。まだ年も若く、何も知らない田舍の娘と云つた風の人であつた。
氣のせゐかいかにも從來の彼としてはおちつきが出來てゐた。おちついたといふより、急に老けて見えた。それにさうした變つた場所のせゐか、私自身が浪や船に勞れてゐた爲か、それとも初對面の細君が側にゐる故か、久し振に逢つたにしては今までの樣に間が調子よく行かなかつた。彼もそれを感じてゐたらしく、大きな聲で先づ酒を出す樣にとその妻に言ひつけた。
年若い妻は案の如く大輪のダリヤの花を見て驚喜した。そして珍客の接待よりも先づその花をあり合はせの器に活けて、その部屋にたゞ一つしかないガラス窓の所に持つて行つて据ゑた。窓のツイ向うには刳り取つた岩の斷層面がうす赤く見えてゐた。そしてその岩の上僅か一尺ばかりの廣さに空が見えた。何といふ深い色であつたことだらう。今でもそれを思ひ出すごとに私にはその空の色が眼に見えて來る。照り澄んだ秋の眞晝であつたとは云へ、まことに不思議な位ゐの藍色が其處に見られた。そして、この深い藍の色は一層私の心を、沈んだ、浮き立たぬものにした樣に感ぜられた。その色の前にあるダリヤの花はすべてみな褪せさらばうたものにさへ眺められた。
直ぐ始まつた酒は一時間二時間と續いて行つた。が、最初にそれ始めた私の心の調子はどうしても平常の賑かな晴々しい所に歸つて行かなかつた。友人とても亦たさうであつた。そしてどうかしてその變調子を取り除かうと努めてゐるのがよく解つた。
其處へ、積荷を上げ、晝食をとり、一休みした船頭たちの一人が顏を出して友人に言つた。
『ではもう船を出しますが、別にお忘れの御用はございませんか。』
それを聞くと私は咄嗟に決心した。
『K――君、では僕もこの船で歸らう、ただ顏を合せればそれで氣が濟むと思ふから……』
さう言ひながら、居ずまひを直さうとした。不意に彼は立ち上つた。これは、と思ふ間もなく彼の烈しい拳が私の頭に來た。惶てゝ身をかはす間に二つ三つと飛んで來た。呆氣にとられた船頭は漸く飛びかゝつて彼を背後から抑へた。隣室からは臺長夫妻が飛んで來た。
『何だと、……歸る、ひとを散々待たしておいて、來たかと思ふと歸るとは何だ。歸れ、歸れ、直ぐ歸れ、この馬鹿野郎……』
彼はなほ立つたまゝ私を睨み据ゑて、息を切らしてゐる。たうとう私は平あやまりにあやまつて改めてこの次の船まで、その島に滯在することにきめてしまつた。
燈臺は島で一番の高い所に立つてゐた。燈臺の高さ十六丈、その根から直ぐ斷崖になつて二十丈ほどの下には浪が寄せてゐた。で、燈臺の最高部、燈火の點る燈室から眞下を見下す事は私の樣な神經質の者には到底出來なかつた。たゞ其處からの遠望はよかつた。伊豆半島が案外の近さに眺められた。半島の中心をなす天城山が濃く黒く、どつしりとして眼前に据つてゐた。半島から島までは例の白渦の流れてゐる狹い海、それを除いた三方にはすべて果しもない大きな荒海があつた。晴れた日には黒潮の流が見えた。見えたといふより感ぜられた。動くともなく押し移つてゐる大きな潮流が、その方面を眺めてゐるうちにしみ〴〵として身に感ぜられて來た。伊豆七島のうち二三の島がその潮流のうへにくつきりと浮んで見えた。丁度西風の吹き始めた季節で、黒ずんで見ゆるその濃藍色の大きな瀬の上にあまねくこまかな小波の立ち渡つてゐるのが美しくも寂しかつた。夜は、燈臺の火を眼がけていろんな鳥が飛んで來た。そして燈臺の厚いガラス板に嘴を打ちつけては下に落ちた。朝、燈臺の下に行つて見ると幾つかのそれを拾ふ事が出來た。海鳥が多かつたが、中には伊豆の天城から飛んで來るらしい山の鳥も混つてゐた。
燈室の床はその四壁と同じく厚いガラス張となつて居り、その下に宿直室があつた。ガラス張を天井とするこの宿直室は、一尺四方ほどの小さな窓を二つほど持つてはゐたが明りは主としてその天井から來た。一脚の卓子と椅子とが、燈臺の形なりの狹い圓型のその室内にあり、圓いなりの石の壁には小さな六角時計がかけてあつた。海上三十餘丈の上の空中にぼつつと置かれたこの部屋の靜けさは、また格別であつた。私はこつそりと螺旋形の眞暗な階子段を登つて來てはこの不思議な形をした小さな部屋の椅子に凭る事を喜んだ。よく當る風にしろ、よほど強く吹いてゐない限りは四尺厚さの石の壁を通してその薄暗い室内には聞えて來なかつた。
その空中の宿直室に居なければ私は多く事務室にゐた。それは燈臺守たちの住宅の岩窟の一角に、他の部屋よりはやゝ廣目に作つてあつた。壁には日本地圖世界地圖、萬國々旗表、といふ樣なものが張つてあり、その一方の戸棚には僅かの書物や書類と共に、幾品かの藥品が入れてあつた。この寂び古びた壜や箱の藥品が私には常に氣になつた。凪いで居ればこそ一週間ごとに船が來るが、荒れたとなれば十日もその上も一切他と交通のきかぬこの離れ島に住んで居る幾人かの生命をば僅かにこの幾品かの藥品が守つてゐるのである。大きなテーブルの一部の埃を拂つて凭りかゝりながら、おなじく埃でよごれてゐる大きな地圖を見、棚の上の藥壜を眺め、または窓から見ゆる蒼空を仰いで、靜かな樣な、そして何となく落ちつかぬ時間を私はその部屋で過ごした。
でなければ、釣であつた。よほどの鋭い角度で海底から突つ立つてゐるらしいこの岩礁の四周の磯は到る所が深かつた。浪さへなければ、餌をおろせば大小さま〴〵の魚がすぐ釣れた。餌はそこらの岩の間に棲んでゐる蟹であつた。
或る日、私は獨りでとある岩の角に坐つて釣つてゐた。其處へ友人がやつて來た。何か用ありげに私の側に腰をおろしてゐたが、やがて、
『若山君……』
と呼びかけて、
『どうだね、一つ、君も東京あたりにいつまでもぐづ〳〵してゐないで、いつそ諦めてこの燈臺守にならんかね。』
と言ひ出した。彼自身これまでに通つて來た境遇の繁雜なのに飽いて、何處か斯う目をつぶつて暮せる樣な靜かな境地はないものかと考へて、他にもかくして航路標的所の試驗を受けた、そして實地此處に來て見ると前から空想してゐた靜かな生活といふ事よりも先づ身にしみたのは暮らしむきの安全といふことであつた、今まで自分も隨分といろんな事をやつて來たが、要するに頭には故郷があつた、親や親類の財産があつた、いよ〳〵それから見離されたとなると、自づと考へらるゝのはその日〳〵の生活である、それもはつきりと具體的に考へてゐたのではなかつたが、此處に來て見ていよ〳〵さうであつたことが解つた、それにまたどうしても自分の歳や健康のことも考へられて來る、それにはこの燈臺守位ゐ安全な生活法はないのだ、月給にした所が他に比べては非常にいゝ、早い話が君が四五年かゝつて大學を出てから新聞社に勤めた月給より僕が六ヶ月の學期を終へて此處に勤めてのそれの方が多いではないか、また、貰つた月給は殆んど貰つたなりに殘つてゆくのだ、見給へ此處で斯うしてゐる分には自分等の食ふ米味噌代のほかには金の使ひやうがないではないか、此處に限らない、灯臺の在る所は大抵似たり寄つたりの場所ばかりなのだ、現に此處の臺長なども幾個所か勤めて歩いて來たのだがその間に溜めた金と云つたら素晴らしいものだ、今では伊豆の方に澤山な地所も買つてあり家をも建てゝ、其處から長男長女を中學校女學校に出してゐる、君もいつまでも歌だの文學だのと言つて喰ふや喰はずにゐるよりか、一つ方角を變へてこの道に入らないか、入つたあとでまた歌なり何なり充分に勉強出來るではないか、見給へ、僕等は四人詰で此處に斯うしてゐるが、職業に就いて費す時間と云つたら朝の燈臺の掃除と夕方の點火と二三行の日記を書く事と、全部で先づ毎日三四十分の時間があつたらいゝのだ、あとは何をしてゐやうと自分の勝手ではないか、いろいろ慾を考へずにさうきめた方が幸福だと思ふよ、と私の顏を見い〳〵いつもの荒つぽい調子に似合はず、ひそひそとして説き勸めて呉れるのであつた。そして、私の身體に目をつけながら、
『それに第一、遠方から來るといふのにそんな小ぎたない風態をして來る奴があるものか、君の細君も細君だ、僕は最初の日、羽織袴で出迎へて呉れた臺長の手前、ほんとに顏から火が出たよ、其處へもつて來ていきなり歸るなんか言ひ出すもんだからあんな騷ぎになつたのだよ。』
と言つて苦笑した。
私もいつか竿をあげて聽いてゐた。島に來てから見るともなく、其處の彼等の生活がいかに簡易で、靜かであるかを見てゐながら、多少それを羨む氣持が動いてゐたところなので、一層友人のこの勸告が身にしみた。同じく苦笑しながら、
『ウム、難有う、まア考へておかう。』
と言つてその日は濟んだ。が、それからといふもの、例の空中の宿直室に在つても岩かげの事務室にゐても、釣絲を垂れながらも、私の心はひどくおちつきを失つてゐた。燈臺守になるならぬの考へが始終身體につき纒うてゐたのである。なつての後、いかに其處により善く生活してゆくか、本を買ふ、讀書をする、遠慮なく眼を瞑ぢて考へ且つ作る、さうした樂しい空想もまた幾度となく心の中に來て宿つた。
が、何としても今までのすべてと別れて其處に籠る事は、寂しかつた。よしそれを一時の囘避期準備期として考へても、とてもその寂しさに耐へ得られさうになかつた。その寂しさに耐ふる位ゐなら其處に何の生活の安定があらうとさへ思はれた。そして、或る日、見るともなく事務室の藥品棚の中にある古錆びた藥品を見詰めながら、私は獨りで笑ひ出した。そして自分に言つた、斯うしたものに預けておくには自分の身體にはまだ〳〵少々膏が多過ぎる、と。
さう思ひきめると、急に東京が戀しくなつた。其處にゐる妻や友人たちが戀しくなつた。そして豫定の日が來ると、私は曾つて私の來る時に友人がしたといふ樣に、朝早くから雙眼鏡を取つて岩の頭に立ちながら、向うの方に表はれて來るであらう船の姿を探した。
いよ〳〵船に乘り移らうとする時、何となく私はこれきりでこの友人とももう逢ふ機會があるまいといふ樣な氣がした。そして、固くその手を握りながら、
『どうだ、臺長に願つてこれから一緒に下田まで行かんか、あそこで一杯飮んで別れようぢやないか。』
と言つた。一年も續けて土を踏まずにゐると脚氣の樣な病氣に罹りがちなので、折々交替に二三週間づつ陸地の方へ行つて來るといふ話を思ひ出してさう言つた。
『フヽツ』
と彼は笑つた。
『まアよさう、行くなら東京へ訊ねて行かうよ、君もまたやつて來て呉れ、今度はもう毆らんよ、ハヽヽヽ』
『ハヽヽ』
自分も笑つた。送つて來て呉れた燈臺中の人も、船頭たちも、みな聲を合せて笑つた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年4月16日公開
2005年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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この沼津に移つて來て、いつの間にか足掛五年の月日がたつてゐる。姉娘の方が始終病氣がちであつたのが移轉する氣になつた直接原因の一つ、一つは自分自身東京の繁雜な生活に耐へられなくなつて、どうかして逃げ出さうとしてゐたのが自然さうなつたのでもあつた。自分は山地を望んだが、子供の病氣には海岸がいゝといふわけで、そしていつそ離れるなら少なくも箱根を越した遠くがいゝといふので、何の縁故もないこの沼津を選んだのであつた。
何の縁故もないとはいふものゝ、自分等の立てゝゐる歌の結社にこの沼津から一人の青年が加入してゐたのをおもひ出して、先づ彼に手紙を出し、とりあへず一軒の借家を見付けて貰ふ樣に頼んだ。程なく返事が來て、心當りの家があるから一度見に來る樣にとの事であつた。今から五年前の八月十日頃であつたと記憶する。早速出かけて來て見ると、分に過ぎた大きな邸であつた。荒れ古びてこそをれ、櫻の木に圍まれて七百坪からの廣さがあつた。もう少し小さい家はないかと訊き合せたが、隨分と探したけれど、町内ならとにかく郊外に當つてゐるこの界隈には今のところ此處だけだといふ。それに家賃も格安だつたし、一先づ此處にきめておかうと、その青年父子に――青年のお父さんといふは年老いた醫師であつた――厚く禮を述べ、一晩ゆつくりして行つたらいゝだらうと勸めらるゝのをも斷つて、その日の汽車で私は東京へ歸つた。そしてその旨妻に報告すると共に、翌日から荷造りにかゝつた。
家の下見に行つた時、その家は本當の空家ではなかつた。まだ人が住んでゐた。何でも或る粘土からアルミニユームを採る方法を發明したと稱へて一つの會社を起さうとしてゐる男であつた。型のごとき山師で、其處に六七箇月住んでゐる間に町の酒屋呉服屋料理屋等にすべて數百圓からの借金を拵へ、たうとう居たゝまらなくなつて私の行つた一月ほど前に何處かへ逐電してしまつたところであつた。そしてその留守宅にはその男の年老いた兩親が殘つてゐた。父親は白い髯など垂らした、品のいい老爺であつた。私が前に言つた青年やその父の老醫師や、東京の或る實業家の持家であるその家を預つて差配をしてゐる年寄の百姓たちと邸の中に入つて行つた時、老爺は庭で草とりをしてゐた。各部屋を見て𢌞つて、此處が湯殿ですと離室に續いた一室の戸を引きあけると、其處で髮を洗つてゐたのが母親であつた。私は見まじきものを見た樣な、厭はしい痛はしい氣がした。その時、私達を案内してゐた差配の百姓、この男ももう相當の爺さんで、小柄の、見るからに險しい顏をした男であつたが、庭でせつせと草を拔いてゐる老爺を呼びかけて、故らに大きな聲で、斯うしてお客樣を案内して來たから、氣の毒だけれど早速この家をあけて貰ひたい、もう斯うなると今度こそは待つてあげるわけにゆかぬから、と宣告した。髯の白い老爺は立ち上つてずつと我等を見𢌞しながら、丁寧にお辭儀をした。
『どうも始末にいかねエんですよ、毎日々々追立を喰はしてるんですけど、どうしても動かねエんでね、……然し今度は立退くでせうよ、斯うして旦那がたをお連れ申したんだから。』
差配は狡猾らしい笑ひを漏らしながら我等を顧みて斯う言つた。
『だつて行く先が無くちや困るでせうに。』
私は言つた。
『なアに、息子とはちやアんと打合せが出來てるでせうよ、どつちもどつちで、煮ても燒いても食へる奴等ぢやアねエんですから。』
家賃は僅か一ヶ月分を拂つたのみで、その上うまく擔がれて、多少現金をもその男から捲きあげられてゐる話をひどい早口で差配は話して聞せた。
家族を連れて沼津驛に降りたのはその月の十五日であつた。その夜一晩、町はづれの狩野川に沿うた宿屋に泊り、翌朝起きてみるとこまかい雨が降つてゐた。二階から見下す下の通りをば番傘をさした近在の百姓女たちが葱や茄子の野菜の籠を擔いで通つてゐたが、それら眞新しい野菜も雨に濡れてゐた。そして窓から少し顏を出して見ると、今度借りた家のうしろに位置してゐる香貫山といふ小松ばかりの圓つこい岡が同じく微雨の中に眺められた。
『何だかたいへん靜かな生活に入つてゆける樣な氣がしてならないが、お前はどうだ。』
早急な引越騒ぎに勞れ果てたらしい顏をしてゐる妻を顧みて私が言ふと、
『ほんとですね、どうかさうしたいものですね。』
と、微かにさびしく笑ひながら答へた。其處へ例の差配をしてゐる百姓がやつて來た。一わたりの挨拶を濟まして歸つて行つたあと、妻は聲をひそめて、
『何だかいやな顏した爺さんではありませんか。』
とさゝやいた。
三日五日とかゝつて荷物の片付が終ると、夫婦ともにその前後の疲勞から半病人の樣になつてしまつた。そして多くの日を寢たり起きたりで過してしまつた。喜んだのは子供たちで、急に廣くなつた家の内、庭のあちこちを三人して夢中になつて飛んで𢌞つた。
さうかうしてゐるうちに、秋が來た。邸の前は水田、背後は畑であつたが、田のもの畑のもの、みなとりどりに秋の姿に移つて來た。私たちの疲勞も幾らかづつ薄らいで、漸く瞳を定めて物を見得る樣なおちつきが心の中に出來て來た。第一に氣付いたのは來客の無くなつた事であつた。東京にゐては一日少なくも一人か二人、多い日には十人からの來訪者を送迎せねばならなかつたのに此處に來て以來、一週間も十日も家人以外の誰もの顏を見ずに濟ますことが出來た。自づと時間が生れて、するともなく庭の隅の土を起して草花の種を蒔いたり、やさしい野菜物を作つたりする樣になつた。
『これはいゝ、やつぱり此處に越して來てよかつた、どれだけこの方が仕合せか知れない。』
と心から思ふ樣になつた。娘の健康も眼に見えてよくなつて來た。それに毎日の自分の爲事の上から云つてもおちついて机に向ふ事が出來るし、我等の爲事に附きものである郵便の都合もたいへんによかつた。東京と云つても私のそれまで住んでゐたは郊外の巣鴨であつたが、其處と市内との往來に要する郵便の時間よりも、東京と沼津との間に要する時間の方が寧ろ速い程であつた。
さうした有樣で、一二年の豫定が延びていつの間にか此處に足掛五年の永滯在となつてしまつた。斯うなると改めて東京へ歸つてゆくのが億劫になつた。いつそ此儘この沼津に住んでしまはうではないか、などと夫婦して話す樣になつた。然し、その五年間を押し通して最初に考へた通りの幸福な時間が送られたわけでは決してなかつた。半年一年とたつうちに自づと東京にゐた時と同じ樣な環境が自分の身體のめぐりに出來て來た。東京にゐた時とは違つた交際がまた此處でも始められた。東京では廣くはあつたが多く書生づきあひの簡單なものであつた。それが土地の狹いこの沼津となると、なまじひに世間的になつてゐる自分の名前のために、一種形式的な窮屈ないはゆる社會的交際をせねばならぬ場合が多くなつて來た。自分の最も恐れてゐた飮友達も、いつ出來るともなく出來て來た。斯くて初めに願つてゐた隱栖といふ生活とは違つた朝夕がいつともなしに送らるゝ樣になつてゐたのだ。それでもまだ〳〵東京よりましだと信じてゐた。イヤ現にさう信じてゐるのではある。
初めに老醫師の世話で借りた家は、戸じまりも充分に出來兼ぬるほど荒れ古びた家で、しかも間取も甚だ拙く、うまく使へる部屋とても無かつたが、とにかく部屋の數は九つあつた。書生や女中や家族たちをそれ〴〵に配置して、まだ來客に備ふる一室位はどうやら殘つてゐた。家の古いこと、町から遠くて不便なこと(これも最初はさうでなかつたのだが、生活の間口が廣くなるにつれて次第に不便を感じて來た。)家の前後から襲うて來る田畑の肥料の臭氣、其他あれこれのことをば我慢しても、出來ることなら此儘此處にぢいつと暮して行かうと思つてゐたのであつたが、さう出來ぬ事情になつた。
表面の理由は他にあつたが、要するに差配の爺さんの我慾と狡猾とに我等は追はれたのであつた。なほ詮じてゆくと、其處にはその爺さんと私の妻との感情問題も遠い因をなしてゐた。第一印象としての彼女の彼に對する不快は年ごとに深くなつて、事ごとに眼に見えぬ衝突が兩人の間に行はれてゐたのであつた。
今年四月末、二ヶ月もかゝつた中國九州地方の長旅行から歸つて來て見ると、四圍の事情は私の留守の間に急變してゐて、どうでも差迫つた時間内にその家をあけ渡さねばならなくなつてゐた。喧嘩腰になつてかゝればさう周章へる必要もなかつたのだが、それはこちらの氣持が許さなかつた。喧嘩どころか、もうさうなると一刻も速くこちらから逃げ出したい氣がいつぱいになつてゐるのであつた。で、苦笑しながら私は早速に空家さがしを始めた。東京へ引揚ぐるのはもともといやだし、他の土地へ移るといふも億劫だし、矢張り沼津を――私が越して來てゐるうちに沼津町から沼津市に變つてゐた――中心として恰好な空家は無いかと探し始めた。自身はもとより、手の及ぶ限り知人たちにも頼んであちこちと探した。
さて、無かつた。極く小さな家ならばぼつ〳〵と眼についたが、泊り客の多いこと、また毎月出してゐる自分達の歌の流派の機關雜誌の事務室の必要なこと等から、どうでも六つの部屋を持つた家でなくては都合が惡く、その見當で探すとなると、一向に見あたらなかつた。偶々あつたとすると、それは避暑避寒地としての貸別莊向に建てられた家で、家賃が大概月百圓を越してゐた。
たうとうこの家探しの騷ぎのために夫婦とも頭を痛くしてしまつた。その間、私はおちついて机に向ふ餘裕を失つて、爲事の方もすつかり支へてしまつた。其處へ、頼んでおいた或る友人から斯ういふ家があるがどうかと言つて來た。いま現に建築中のもので間數は玄關女中部屋を入れて五室、場所は市内千本濱の松原の蔭だといふ。餓ゑては食を選ばず、私は少なからず喜んだ。ではそれで我慢するとして雜誌發行の事務室だけをばまた他に間借りでもする事にしようと、早速その示された場所へ出懸けて見た。松原の蔭はよかつたが、ツイ背後に私立の女學校があり、僅かの田圃を距てた眞前に遊郭があつた。ほんの手狹な空地を利用して建てられたもので、庭らしい庭もなく兼々自分の望んでゐた樣な靜かな、他とかけ離れた樣な場所では決してなかつた。が、今更そんな贅澤は言つて居られなかつた。早速私は家主と逢つて、借りる約束をきめた。それは六月の始めで、今月一杯には出來上るとの事であつた。
やがて六月の末が來たが、家にはまだ壁も出來なかつた。七月十五日まで待つて呉れといふ。止むなく待つ事にした。其處へ運惡くも二番目の娘が病みついた。二三日ぶら〳〵してゐて、いよいよ寢込んだのが七月の朔日か二日であつた。初め二三日、症状がはつきりせず、ともすると腸チブスではないかなどといふ熱の工合であつた。が、程なく肋膜炎だと解つた。しかも、起らねばいゝがと恐れられてゐた肺炎をも併發した。夫婦は晝夜つき切りにその枕頭に坐らねばならなくなつた。
一方差配の爺さんからはそんなことに頓着なく、家のあけ渡しを迫つて來た。病兒の看護のひまを盜み〳〵私は新しい家の出來上りの催促に通はねばならなかつた。十五日は過ぎ、二十日は過ぎ、たうとう七月は暮れてしまつたが、まだ何彼と手間取つて、その松原の蔭の小さな可愛らしい家には一人二人と大工や左官たちが呑氣さうに出入りしてゐるのみであつた。
壁位ゐは引越してから塗らしてはどうです、といふやうな亂暴を例の差配の爺さんは言ひ出した。よく〳〵腹に据ゑかねたが、要するに喧嘩にもならなかつた。そして改めて新しい家の方をせきたてて、この八月の九日の朝、いよ〳〵引越す事にきめた。業腹ながら爺さんの言葉通りに、荒壁の上塗だけは越してから塗ることにして、九日曉荷物を運び込む故、疊だけは必ず敷いておいて呉れ、と固くも頼んで、看護の片手間にこそ〳〵と荷造りにかゝつた。醫者は子供を氣遣うて、もともと絶對安靜を要する病氣なのだから出來得る限り、動かす事を延ばさぬかと言うて呉れたが、どうもさうして居られない状態にあつた。
九日早曉、手傳の人と共に先づ二臺だけの荷馬車を新しい家の方へ差立てた。そしてそれの引返して來る間に私は俥で近所の挨拶𢌞りに出た。引返して來た荷馬車屋は、行つてみた所まだ一枚の疊も敷いてなく、荷物の置場所に困つたがとりあへず庭先に置いて來たと云ふ。まだ歸さずにおいた俥に乘り、私は新しい家に駈けつけて、せめて病人を寢せる部屋だけでいゝから早速疊を入れて呉れる樣にと頼んでまた舊い方の家に引返し、やがて階下の六疊と八疊とに疊が入つたといふ報告を聞いて後、妻と共に病兒の俥につき添うて、五年間住んで來た古びた大きな邸の門を出た。
斯うして苦勞して入つた今度の家は、六疊の茶の間八疊の座敷に、中二階の樣になつた西洋まがひの六疊の部屋があり、他に玄關女中部屋湯殿が附いてゐて、いかにも小ぢんまりした、新婚の夫婦などには持つて來いの家である。が、九人家内の我等には相應すべくもない。越して來て今日で丁度十日目だが、まだ荷物も片付かず、新しい家に落ち着いたといふ喜びも安心も更に心の中に生れて來てゐない。
唯だ難有いのは、ツイ裏手に千本松原のある事と、自分の書齋にあてゝゐる中二階から幾つかの山を望み得る事とである。書齋は東と北とに窓があいてゐる。東の窓からは近く香貫徳倉の小山が見え、やゝ遠く箱根の圓々しい草山から足柄の尖つた峰が望まるゝ。北の窓からは愛鷹山を前に置いた富士山が仰がるゝ。
が、それらの山よりも松原よりも、此頃最も私の眼を惹いてゐるのは、その松原に入らうとする手前に、丁度松原に沿うた形で水田と畑とを限つた樣にして續いてゐる畔に長々と植ゑられた木槿の木である。
むらさき色の鮮かな花といへばいかにも艷々しく派手に聞ゆるが、不思議とこの木槿の花に限つてさうでない。さうでないばかりかその反對に、見れば見るほど靜かな寂しさを宿して咲いてゐる花である。この花の咲き出す頃になると思ひ出される例の芭蕉の句の、
道ばたの木槿は馬に喰はれけり
は如何にもよくこの花の寂しさを詠んでゐるが、なほそれでも言ひ足りないほどに今年などはこの花に對して微妙な複雜な心持を感じたのであつた。この芭蕉の句も彼が旅行の途次、富士川のあたりを過ぎつゝ馬上で吟じたものであるといふが、この花は不思議にまた我等に『旅』の思ひをそゝる。この花を見るごとに、秋を感じ、旅をおもふ。何物にともなく始終追はれ續けてゐる樣な、おちつかぬ心を持つた私にとつては殊更にもこの花がなつかしいのかも知れぬともおもふ。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年4月16日公開
2005年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002623",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "04 木槿の花",
"副題読み": "04 もくげのはな",
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"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-04-16T00:00:00",
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"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第七卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
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"入力者": "柴武志",
"校正者": "浅原庸子",
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夏と旅とがよく結び付けられて稱へらるゝ樣になつたが、私は夏の旅は嫌ひである。山の上とか高原とか湖邊海岸といふ所にずつと住み着いて暑い間を送るのならばいゝが、普通の旅行では、あの混雜する汽車と宿屋とのことをおもふと、おもふだに汗が流るゝ。
夏は浴衣一枚で部屋に籠るが一番いゝ樣である。靜座、仰臥、とりどりにいゝ。ただ專ら靜かなるを旨とする。食が減り、體重も減る樣になると、自づと瞳が冴えて來る樣で、うれしい。
夏深しいよいよ痩せてわが好む面にしわれの近づけよかし
十年ほど前に詠んだ歌だが、今でも私は夏は干乾びた樣に痩せることを好んで居る。それも、手足ひとつ動かさないで自然に痩せてゆく樣な痩せかたである。耳に聽かず、口に言はず、止むなくば唯だ靜かにあたりを見てゐるうちにいつ知らず痩せてゐてほしい。
夏の眞晝の靜けさは冬の眞夜中の靜けさと似てゐる。おなじく身動きひとつ出來ない樣な靜けさを感ずることがあるが、しかも冬と違つて不氣味な靜けさではない、ものなつかしい靜けさである。明るい靜けさである。
北南あけはなたれしわが離室にひとり籠れば木草見ゆなり
青みゆく庭の木草にまなこ置きてひたに靜かにこもれよと思ふ
めぐらせる大生垣の槇の葉の伸び清らけし籠りゐて見れば
こもりゐの家の庭べに咲く花はおほかた紅し梅雨あがるころを
しいんとした日の光を眼に耳に感じながら靜かに居るといふことは、從つて無爲を愛することになる。一心に働けば暑さを知らぬといふが、完全に無爲の境に入つて居れば、また暑さを忘るゝかも知れぬ。ところが、凡人なかなかさう行かない。
怠けゐてくるしき時は門に立ちあふぎわびしむ富士の高嶺を
なまけつつこころ苦しきわが肌の汗吹きからす夏の日の風
門口を出で入る人の足音にこころ冷えつつなまけこもれり
心憂く部屋にこもれば夏の日のひかりわびしく軒にかぎろふ
なまけをるわが耳底にしみとほり鳴く蝉は見ゆ軒ちかき松に
無理強ひに仕事いそげば門さきの田に鳴く蛙みだれたるかも
蚤のゐて脛をさしさす居ぐるしさ日の暮れぬまともの書きをれば
殆んど夏の間だけの用として、私はほんの原稿紙を置くに足るだけの廣さの小さなテーブルを作つた。其處此處と持ち歩いて、讀書し、執筆するのである。
部屋のまんなかに置くこともあれば、廊下の窓にぴつたりと添うて据ゑることもある。庭の木蔭にも持ち出せば、家中で風が一番よく通るので風呂場の中に持ち込むこともある。いまは丁度廊下の窓に置いてある。椅子に凭りながら、片手を延ばせばむつちりと茂つた楓の枝のさきに屆く。葉蔭に咲き滿ちてゐる可愛らしいその花が、昨日今日ほのかに紅みを帶びて來た。
私のいま住んでゐる附近には辨慶蟹が非常に多い。赤みがかつた、小さな蟹である。庭の木にも登れば、部屋の中にも上がつて來る。ツイ二三日前、何の氣なしに縁側のスリツパを履かうとするとその爪先に這入り込んでゐて大いに驚いた。今年三歳になる男の子のよき遊び友だちである。
これが庭の柘榴の木に、どうかすると三四匹も相次いで這ひ登つてゐることがある。苔の生えかけた古木の幹だけに、たいへんにその形が面白い。眞紅な花の散り敷く梅雨の頃が最もいゝ。
草花いぢりも夏の一得であらう。氣を換へるに非常にいゝ。筆の進まぬ時氣持の重い時、ひよいと庭の畑に出て、草をむしり、水を遣る。言はず聴かずの暫しの時間を過ごすべく、私にはいまこれが一番である。花もよく、四五株の野菜を植うるも愛らしい。
眼に見えて肥料ききゆく夏の日の園の草花咲きそめにけり
あさゆふに咲きつぐ園の草花を朝見ゆふべ見こころ飽かなく
いま咲くは色香深かる草花のいのちみじかきなつぐさの花
泡雪の眞白く咲きて莖につく鳳仙花の花の葉ごもりぞよき
朝夕につちかふ土の黒み來て鳳仙花のはな散りそめにけり
しこ草のしげりがちなる庭さきの野菜ばたけに夏蟲の鳴く
葱苗のいまだかぼそくうすあをき庭のはたけは書齋より見ゆ
いちはやく秋風の音をやどすぞと長き葉めでて蜀黍は植う
その廣葉夏の朝明によきものと三畝がほどは芋も植ゑたり
もろこしの長き垂葉にいづくより來しとしもなき蛙宿れり
紫蘇蓼のたぐひは黒き猫の子のひたひがほどの地に植ゑたり
青紫蘇のいまださかりをいつしかに冷やし豆腐にわが飽きにけり
みじか夜のあはれさも私の好きな一つである。春の夜、秋の夜、冬の夜、どこかすべてあくどいが、夏にはそれがない。香のけむりの立ち昇るにも似たはかなさがある。
ことに私はその明けがたを愛する。眼が覺むれば枕もとの窓がほのかに明るい。時計を見れば四時まだ前、或は少し過ぎてゐる。立つて窓を開くと、かろやかに風が流れて、蚊がひそかに明るみへまつてゆく。
夜ふかくもの書き居れば庭さきに鳴く夏蟲の聲のしたしさ
みじか夜のいつしか更けて此處ひとつあけたる窓に風の寄るなり
夜爲事のあとの机に置きて酌ぐウヰスキイのコプに蚊を入るなかれ
このペンをはや置きぬべし蜩の鳴き出でていま曉といふに
降りたてば庭の小草のつゆけきにかへる子のとぶ夏のしののめ
みじか夜の明けやらぬ闇にかがまりてものの苗植うる人の影見ゆ
あかつきをいまだ點れる電燈の灯影はうつる庭のダリヤに
朝靜のつゆけき道に蟇出でてあそびてぞをる日の出でぬとに
旗雲のながれたなびきあさぞらの藍のふかきに燕啼くなり
まひおりて雀あめゆる朝じめり道のかたへのつゆ草のはな
一首蜩の歌を引いたが、ありとも見えぬこの小さな蟲の鳴き澄む聲はまつたく夏のあはれさ清らかさをかき含んだものである。ゆふぐれよりも朝がいゝ。地はしめり、草は垂れ、木々の葉ずゑに露の宿つた曉に聞くがもつともいゝ。
蜩が夏のあはれであるならば、その寂しさをうたふものは何であらう。あそこにも、此處にもその寂しさをひきしめてうたつてゐるものがゐる。曰く郭公である。筒鳥である。呼子鳥である。佛法僧である。郭公は朝に、筒鳥は晝に、呼子鳥はゆふぐれに、佛法僧は夜に。
みな夏に限つて啼く鳥である。山も動け、川も動け、山も眠れ、川も眠れと啼き澄ます是らの鳥のはげしい寂しい啼聲を聽く時は、自づとこの天地のたましひがかすかに其處に動いてゐる神神しさを感ずるのである。
鶯も浮き、雲雀も浮き、鈴蟲も松蟲もみな浮いてゐるが、ひとりこれらの鳥の聲だけは天地の深みに限りも知らず沈んでゐる。
土用なかばに秋風ぞ吹く、といふ言葉がある。恐らく誰いふとなく言ひすてたものであらうが、この言葉は私には何ともいへぬ寂寥味を帶びて響いて來る。
土用芽といつて、春一度芽の萌えた樹木に、再び芽の萌え出すことがある。夏も更けて、その葉も殆んどもう黒みを含んで來たころに、うす鈍い黄色をふいて萌え出るこの土用芽はまことに見る目寂しいものである。温度などから言へばまさに暑いまさかりで、多くの人はたゞもう汗にまみれて瞼を厚くしてゐるころである。
そのころに何處とはなしに忍びやかにつめたい風が吹いてゐるのである。眼に見えぬ秋のおとづれである。風の音にぞ驚かれぬる、の誇張より、土用なかばに秋風ぞ吹くの正直な俚言がそのころどれだけ私には身にひゞいて聞えて來るであらう。
秋づきしもののけはひにひとのいふ土用なかばの風は吹くなり
うす青みさしわたりたる土用明けの日ざしは深し窓下の草に
園の花つぎつぎに秋に咲き移るこのごろの日の靜けかりけり
畑なかの小路を行くとゆくりなく見つつかなしき天の河かも
うるほふとおもへる衣の裾かけてほこりはあがる月夜の路に
野末なる三島の町のあげ花火月夜のそらに散りて消ゆなり | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年5月3日公開
2005年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002213",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
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"副題": "05 夏を愛する言葉",
"副題読み": "05 なつをあいすることば",
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駿河なる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹の山
東海道線御殿場驛から五六里に亙る裾野を走り下つて三島驛に出る。そして海に近い平地を沼津から原驛へと走る間、汽車の右手の空におほらかにこの愛鷹山が仰がるる。謂はば蒲鉾形の、他奇ない山であるが、その峯の眞上に富士山が窺いてゐる。
いま私の借りて住んでゐる家からは先づ眞正面に愛鷹山が見え、その上に富士が仰がるゝ。富士といふと或る人々からは如何にも月並な、安瀬戸物か團扇の繪にしかふさはない山の樣に言はれないでもないが、この沼津に移住して以來、毎日仰いで見てゐると、なか〳〵さう簡單に言ひのけられない複雜な微妙さをこの山の持つてゐるのを感ぜずにはゐられなくなつてゐる。雲や日光やまたは朝夕四季の影響が實に微妙にこの單純な山の姿に表はれて、刻々と移り變る表情の豐かさは、見てゐて次第にこの山に對する親しさを増してゆくのだ。
一體に流行を忌む心は、もう日本アルプスもいやだし、富士登山も唯だ苦笑にしか値しなかつた。與謝野寛さんだかゞ歌つた「富士が嶺はをみなも登り水無月の氷の上に尿垂るてふ」といふ感がしてならなかつた。それで今まで頑固にもこの名山に登ることをしなかつたが、こちらに來てこの山に親しんで見ると、さうばかりも言へなくなり、この夏は是非二三の友人を誘つて登つてゆき度い希望を抱くに到つてゐる。
閑話休題、朝晩に見る愛鷹を越えての富士の山の眺めは、これは一つ愛鷹のてつぺんに登つて其處から富士に對して立つたならばどんなにか壯觀であらうといふ空想を生むに至つた。ところが其頃私の宅にゐた土地生れの女中は切にこの思ひ立ちを危ぶんで、愛鷹には魔物がゐると昔から言ひなされて、土地の者すらまだ誰一人登つたといふ話を聞かぬ、何も好んでそんな山へ登るにも當るまいと頻りに留めるのだ。妻は無論女中の贊成者であつた。それこれで暫くその愛鷹登りが滯つてゐたが、次第に秋が更けて、相重なつた二つの山の輪郭がいよいよ鮮かになり、ことにその前の山の中腹以上にある森の紅葉がはつきりと我等の里から見える樣になると、もうとても我慢が出來なくなり、細君たちの安心を請ふために私は自宅の書生を伴れて、或る晴れた日にその頂上をさして家を出た。
最初私の眼分量できめた豫定は宅を朝の六七時に出て十一時には頂上に着く、そして一二時間を其處で休んで歸りかける、歸りみちにはあたりの松山で初茸でも取つて來やうといふ樣なことであつた。ところが登りかけて見て少なからず驚いた。行けども〳〵同じ樣な傾斜の裾野路が續いて、頂上に着く筈の十一時にはまだ山らしい坂にもかゝる事が出來ずにゐた。
愛鷹山は謂はゞ富士の裾野の一部にによつきりと隆起した瘤の樣なもので、山の六七合目から上は急峻な山嶽の形をなしてゐるが、それより下は一帶の富士の裾野と同じく極めてなだらかな、そして極めて細かな襞の多い、輕い傾斜の野原となつてゐるのである。で、こちらから望んだ丈では地圖の示す通りの海拔四千四五百尺の普通の山であるが、サテ實際に登りかけて見ると今言つた通り、こちらからは一寸見に解らないだらしのない野原をいつまでも〳〵歩いてゆかねばならなかつたのだ。
幸に麥蒔時で、その廣大な裾野にそちこちと百姓が麓の里から登つて麥を蒔いてゐた。それでなくては到底何處が何處だか路などの解る野原ではないのであつた。百姓達はみんな我等二人の言ふのを聞いて一笑に付し去つた。今からなどとても〳〵峠まで行けるものではない、それよりも今から路を少し右にとつて、山の中腹にある水神さまにでも參つたがよいであらう、其處へならまだ行つて歸る時間もあらうし、若し、遲くなれば其處の堂守に頼んで泊めても貰へると言ふのだ。さう言はれると落膽もし癪にもさはつた。殘念さうに私が返事もせずに山のいたゞきを望んで立つてゐるの見た彼等の中の一人の若者は――彼等は丁度晝飯を喰つてゐた――笑ひ〳〵立ち上つて來てその山の方を指ざしながら、それなら斯うしたらどうだ、ソレあの山の八合目にかけた森の中に土龍の形に似た枯草の野があるだらう、あれはこの麓の村から牛馬の飼料を刈りにゆく草場で、その形からこの邊ではムグラツトと呼んでゐる、今はもう草刈時でもないが兎に角あそこまでは細い道がついてゐる、あそこまで登つて、そしてまア頂上まで行つたつもりになつて其處から降りて來るのだ、あれから先は路もないし、とても深い森でなか〳〵登れるわけのものでない、ムグラツトまで行つたにしても歸りは夜に入るが、兎に角麓の村まで出て來ればまたどうとでもなるだらう、と言ふのだ。
兩人は顏を見合せたが、それでも水神樣にゆくよりその方が多少心を慰められる氣がしたので、若者に禮を言ひ捨てゝ急いでその森の中の枯草の野へ向けて足を速めた。それからは兩人とも急に眞劍にならざるを得なかつた。腹も空いたが大事をとつてムグラツトまでは辨當を開かぬ事とし、もう今までの無駄口も自づと消えて只だひたすらに急いだ。間もなく流石に長かつただらだら登りも盡きて山らしい坂になつた。畑もなくなり、人影も見えなくなつた。ともすれば見失ひがちの小徑は水の涸れた谷をあちこちと横切つて多く笹の原の中を登つて行つた。そして程なく鬱蒼たる森林地に入り込んだ。
裾野の廣いのに驚いたと同じく、この中腹からかけての森の大きく美しいのもまた私を驚かした。
沼津あたりから見るのでは、中腹以上が一帶にうす黒く見渡されて其處が森をなしてゐることだけはよく解るが、たゞ普通の灌木林か乃至は薪炭を作る雜木林位ゐにしか考へられなかつた。いま眼の前に見るその森の木は灌木どころかすべて一抱へ二抱への大木で、多くは落葉樹、そしてもうその紅葉は半ばすぎてゐた。しかも眼の及ぶ限りその落葉しかけた大木が並び連つて寂然とした森をなしてゐるのである。少し樹木の開けた所から見れば、峯から谷へ、谷から峯へ、峯から峯へ、すべて山の窪み高みを埋めつくして鬱然と押し擴がつてゐるのであつた。
樹木好きの、森好きの私はそれを見るに及んで、一時沈み切つてゐた元氣を急に恢復した。昨今頻りに散り溜りつゝある眞新しい落葉をざく〳〵と踏みながら、ほんとに檻から出た兎の樣な面白さで、這ひながら走りながらその深い〳〵森の中の木がくれ徑を登つて行つた。考へて見れば其處の森は御料林の一つで、今時珍しい木深さなども故あることであつたのだ。
大君の御料の森は愛鷹の百重なす襞にかけてしげれり
大君の持たせるからに神代なす繁れる森を愛鷹は持つ
この山のなだれに居りて見はるかす幾重の尾根は濃き森をなせり
蜘蛛手なす老木の枝はくろがねのいぶれるなして落葉せるかも
時すぎて今はすくなき奧山の木の間の紅葉かがやけるかな
一しきりその森を登つてゆくと間もなくそのムグラツトに出た。これも遠目と違つてなか〳〵大きな草原であつた。荒々しく枯れ靡いてゐる草を押し分けて――もうその草原に來ると路は絶えてゐた――その一番高い所まで登つてゆくと、其處に兩人ともがつくり倒れてしまつた。
たのしみ〳〵手をつけずに持つて來た二合壜の口を開いて喇叭飮を始める頃になると、漸く私にも眼を開いて四方の遠望を樂しむ餘裕が出て來た。よく晴れた日で、前面一體には駿河灣が光り輝き、その左に伊豆半島、右手に御前崎が浮び、山の麓の海岸には沼津の千本松原からかけて富士川の川口の田子の浦、少し離れて三保の松原も波の間に浮んで見える。明るい大きな眺めであるが、矢張り富士の見えないのが寂しかつた。その富士はツイ自分等の背後峯の向うに立つてゐる筈なのである。
酒の勢、腹の滿ちた元氣で、我等はまたその草原から上の森林の中へ入り込んで行つた。今來た道を沼津へ出ようとすればこそ夜にもなるが、頂上から最も手近な麓の村へ一直線に降りる分にはどうにか日のあるうちに降りられやう、頂上には小さなお宮があると聞くので、屹度何處へか通ずる道があるに相違ない、折角此處まで來て富士を見ぬのは何とも氣持の惡い話だといふ樣な事から、時計が既に午後の二時をすぎてゐるのにも構はず、それこそ脱兎の勢で登り始めたのであつた。
既に草原に絶えた路はそれ以上にある筈はなかつた。然し、大體の見當では其處の一つの尾根を傳つてさへ行けば十町か二十町の間に必ず頂上へ出るといふ見込をつけたのであつた。もう樹木を見るの紅葉を見るのと云ふのでなかつた。また、其處から上はやがて樹木は絶えて打續いた篠竹の原となつていた。一間から二間に伸びたその根の方を殆んど全く這ひ續けて分け登つたのであつた。
辛うじて頂上に出た。案の如く富士山とぴつたり向ひ合つて立つことが出來た。然し、最初考へたが如く、一絲掩はぬ富士の全山を其處から見ると云ふことは不能であつた。たゞ一片の蒲鉾を置いた樣にたゞ單純に東西に亙つて立つてゐるものと想像してゐたこの愛鷹山には、思ひのほかの奧山が連り聳えてゐるのであつた。沼津邊からはたゞその前面だけしか見えぬのだが、その背後に寧ろ前面の頂上よりも高いらしい山嶺が三つ四つごた〳〵と重つてゐるのであつた。しかも自分等の立つた頂上からも最も手近に聳えた一つの峯は我等の立つてゐる山とは似もつかず削りなした樣な嶮しい岩山であつた。その切り立つた岩山を抱く樣にして、大きく眞白く、手に取る樣な眞近な空にわが富士山は聳え立つてゐるのであつた。しげ〳〵とそれを仰いで坐つてゐると、我等の登つて來たとは反對の山あひに幾疋か群れてゐるらしい猿の鳴くのが聞えて來た。
眞裸體の富士山を見ようといふねがひは前の愛鷹山で見ごとに失敗した。然し、何處かでさうした富士を見ることが出來るであらうといふ心はなか〳〵に消えなかつた。
そして寧ろ偶然に足柄と箱根との中間にある乙女峠を越えようとしてその願ひを果したのであつた。私はその時箱根の蘆の湖から仙石原を經て御殿場へ出ようとしてこの峠にかゝつたのであつた。乙女峠の富士といふ言葉を聞いてはゐたが實はその時極めてぼんやりとその峠へ登つて行つたのであつた。當時の事を書いた紀行文を左に拔萃する。
登りは甚だ嶮しかつたが、思つたよりずつと近く峠に出た。乙女峠の富士といふ言葉は久しく私の耳に馴れてゐた。其處の富士を見なくてはまだ富士を語るに足らぬとすら言はれてゐた。その乙女峠の富士をいま漸く眼のあたりに見つめて私は峠に立つたのである。眉と眉とを接する思ひにひた〳〵と見上げて立つ事が出來たのである。まことに、どういふ言葉を用ゐてこのおほらかに高く、清らかに美しく、天地にたゞ獨り寂しく聳えて四方の山河を統ぶるに似た偉大な山嶽を讚めたゝふることが出來るであらう。私は暫く峠の眞中に立ちはだかつたまゝ、靜かに空に輝いてゐる大きな山の峯から麓を、麓から峯を見詰めて立つてゐた。そして、若しその峠へ人でも通り合せてはといふ懸念から路を離れて一二町右手の金時山の方に登つて、枯芒の眞深い中に腰を下した。富士よ、富士よ、御身はその芒の枯穗の間に白く〳〵清く〳〵全身を表はして見えてゐて呉れたのである。
乙女峠の富士は普通いふ富士の美しさの、山の半ば以上を仰いでいふのと違つてゐるのを私は感じた。雪を被つた山巓も無論いゝ。がこの峠から見る富士は寧ろ山の麓、即ち富士の裾野全帶を下に置いての山の美しさであると思つた。かすかに地上から起つたこの大きな山の輪郭の一線はそれこそ一絲亂れぬ靜かな傾斜を引いて徐ろに空に及び、其處に清らかな山巓の一點を置いて、更にまた美しいなだれを見せながら一方の地上に降りて來てゐるのである。地に起り、天に及び、更に地に降る、その間一毫の掩ふ所なく天地の間に己れをあらはに聳えてゐるのである。しかもその山の前面一帶に擴がつた裾野の大きさはまたどうであらう。東に雁坂峠足柄山があり、西に十里木から愛鷹山の界があり、その間に抱く曠野の廣さは正に十里、十數里四方にも及んでゐるであらう。しかもなほその廣大な原野は全帶にかすかな傾斜を帶びて富士を背後におほらかに南面して押し下つて來てゐるのである。その間に動いてゐる氣宇の爽大さはいよ〳〵背後の富士をして獨りその高さを擅ならしめてゐるのである。
伊豆の天城から見た富士もまた見ごとなものであつた。愛鷹からと云ひ乙女峠からと云ひ、贅澤を言ふ樣だが實は少々近過ぎる感がないではなかつた。丁度の見頃だとおもふ距離をおいて仰がるゝのはこの天城山からであつた。
天城も下田街道からでは恰好な場所がない。舊噴火口のあとだといふ八丁池に登る途中からは隨所に素晴しい富士を見る事が出來た。高山に登らざれば高山の高きを知らずといふ風の言葉を幼い時に聞いた記憶があるが、全く不意にその言葉を思ひ出したほど、登るに從つていよ〳〵高くいよ〳〵美しい富士をうしろに振返り〳〵その八丁池のある頂上へ登つて行つたのであつた。
天城もまた御料林である。愛鷹と比べて更に幾倍かの廣さと深さとを持つた森林が山脈の峯から峯へかけて茂つてゐる。その半ばからは杉の林であるが、上は同じく落葉樹林である。私の登つたのは梢にまだ若葉の芽を吹かぬ春のなかばであつたが、鑛物化した樣なその古木の林を透かして遙かに富士をかへりみる氣持は實に崇嚴なものであつた。
高山に登り仰ぎ見たか山の高き知るとふ言のよろしさ
天地の霞みをどめる春の日に聳えかがやくひとつ富士が嶺
わが登る天城の山のうしろなる富士の高きは仰ぎ見飽かぬ
山から見た富士ばかりを書いた。最後にひとつ海を越えて見た富士を記してこの文を終る。これは曾て伊豆の西海岸をぼつ〳〵と歩いて通つた紀行の中から拔いたものである。
今度は獨りだけに荷物とてもなく、極めて暢氣に登つて行くとやがて峠に出た。何といふことはなく其處に立つて振返つた時、また私は優れた富士の景色を見た。いま自分の登つて來た樣な雜木林が海岸沿に幾つとなく起伏しながら連つてゐる。その芝山のつらなりの間に、遙かな末に、例のごとく端然とほの白く聳えてゐるのである。海岸の屈折が深いから無數の芝山の間には無論幾つかの入江があるに相違ない。その汐煙が山から山を一面にぼかして、輝やかに照り渡つた日光のもとに何とも云へぬ寂しい景色を作つてゐるのである。現にいま老人と通つて來た阿良里と田子との間に深く喰ひ込んだ入江などは眼の醒むる樣な濃い藍を湛へて低い山と山との間に靜かに横はつて見えて居る。磯には雪の樣な浪の動いてゐるのも見ゆる。私は其儘其處の木の根につくねんと坐り込んで、いつまでも〳〵この明るくはあるが、大きくはあるが、何とも云へぬ寂びを含んだながめに眺め入つた。富士の景色で私の記憶を去らぬのが今までに二つ三つあつた。一つは信州淺間の頂上から東明の雲の海の上に遙かに望んだ時、一つは上總の海岸から、恐ろしい木枯が急に吹きやんだ後の深い朱色の夕燒けの空に眺めた時、その他あれこれ。今日の船の上の富士もよかつた。然しそれにもまして私はこの芝山の間に望んだ寂しい姿をいつまでもよう忘れないだらうと思ふ。
この中に「信州淺間の頂上から云々」とある。その廣々とした雲海の上に聳えて私の眼についた二つの山があつた。一つは富士、これはその特殊の形からすぐ解つた。今一つは細く鋭く尖つた嶺の上にかすかに白い煙をあげた飛騨の燒嶽であつた。
その燒嶽に昨年の秋十月、普通の登山者の絶え果てた時に私は登つて行つた。よく晴れた日で、濛々と煙を噴きあげてゐるその頂に立つて見てゐると、西に、北に、南に、東に、實に無數の高い山がうす紫の秋霞の靡いた上にとび〳〵に見渡された。その中に矢張りきつぱりと一目にわかる富士の山が遙かの〳〵東の空に望まれたのであつた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年5月3日公開
2005年11月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002624",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "06 四辺の山より富士を仰ぐ記",
"副題読み": "06 あたりのやまよりふじをあおぐき",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
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"底本名1": "若山牧水全集 第七卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
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その一
酒の話。
昨今私は毎晩三合づつの晩酌をとつてゐるが、どうかするとそれで足りぬ時がある。さればとて獨りで五合をすごすとなると翌朝まで持ち越す。
此頃だん〳〵獨酌を喜ぶ樣になつて、大勢と一緒に飮み度くない。つまり強ひられるがいやだからである。元來がいけるたちなので、強ひられゝばツイ手が出て一升なりその上なりの量を飮み納める事もその場では難事でない。たゞ、あとがいけない。此頃の宿醉の氣持のわるさはこの一二年前まで知らなかつたことである。それだけ身體に無理がきかなくなつたのだ。
對酌の時は獨酌の時より幾らか量の多いのを厭はない。つまり三合が四合になつても差支へない樣だ。獨酌五合で翌朝頭の痛むのが對酌だと先づそれなしに濟む。けれどその邊が頂點らしい。七合八合となるともういけない。
人の顏を見れば先づ酒のことをおもふのが私の久しい間の習慣になつてゐる。酒なしには何の話も出來ないといふ樣ないけない習慣がついてゐたのだ。やめよう〳〵と思ふ事も久しいものであつたが、どうやら此頃では實行可能の域にだけは入つた樣だ。何よりも對酌後の宿醉が恐いからである。
運動をして飮めば惡醉をせぬといふ信念のもとに、飮まうと思ふ日には自ら鍬を振り肥料を擔いで半日以上の大勞働に從事する創作社々友がいま私の近くに住んでゐる。この人はもと某專門學校の勅任教授をしてゐた中年の紳士であるが、さうして飮まれる量は僅かに一合を越えぬ樣である。その一合を飮むためにそれだけの骨を折ることは下戸黨から見ればいかにも御苦勞さまのことに見えるかも知れない。然し得難い樂しみの一つを得るがための努力であると見れば、これなども事實貴重な事業に相違ない。まつたく身體または心を働かせたあとに飮む酒はうまい。旅さきの旅籠屋などで飮むののうまいのも一に是に因るであらう。
旅で飮む酒はまつたくうまい。然し、私などはその旅さきでともすると大勢の人と會飮せねばならぬ場合が多い。各地で催さゝる歌會の前後などがそれである。酒ずきだといふことを知つてゐる各地方の人たちが、私の顏を見ると同時に、どうかして飮ましてやらう醉はせてやらうと手ぐすね引いて私の一顰一笑を見守つてゐる。從つて私もその人たちの折角の好意や好奇心を無にしまいため強ひてもうまい顏をして飮むのであるが、事實は甚ださうでない場合が多いのだ。これは底をわると兩方とも極めて割の惡い話に當るのである。
どうか諸君、さうした場合に、私には自宅に於いて飮むと同量の三合の酒を先づ勸めて下さい。それで若し私がまだ欲しさうな顏でもしてゐたらもう一本添へて下さい。それきりにして下さい。さうすれば私も安心して味はひ安心して醉ふといふ態度に出ます。さうでないと今後私はそうした席上から遠ざかつてゆかねばならぬ事になるかも知れない。これは何とも寂しい事だ。
獻酬といふのが一番いけない。それも二三人どまりの席ならばまだしもだが、大勢一座の席で盃のやりとりといふのが始まると席は忽ちにして亂れて來る。酒の味どころではなくなつて來る。これも今後我等の仲間うちでは全廢したいものだ。
若山牧水といふと酒を聯想し、創作社といふと酒くらひの集りの樣に想はれてる、といふことを折々聞く。これは私にとつて何とも耳の痛い話である。私は正直酒が好きで、これなしには今のところ一日もよう過ごせぬのだから何と言はれても止むを得ないが、創作社全體にそれを被せるのは無理である。早い話が此頃東京で二三囘引續いて會合があり、出席者はいつも五十人前後であつた。その中で眞實に酒好きでその味をよく知つてるといふのは先づ和田山蘭、越前翠村に私、それから他に某々青年一二名位ゐのものである。菊池野菊、八木錠一、鈴木菱花の徒と來ると一滴も口にすることが出來ないのだ。そしてその他の連中は唯だ浮れて飮んで騷ぐといふにすぎない。にや〳〵しながら嘗めてゐるのもある。酒徒としてはいづれも下の下の組である。一度も喧嘩をしないだけ先づ下の上位ゐには踏んでやつてもいゝかも知れぬ。噂だけでも斯ういふ噂は香ばしくない。出來るだけ速くその消滅を計り度い。心から好きなら飮むもよろしい。何を苦しんでかこれを稽古することがあらう。一度習慣となるとなか〳〵止められない。そしてだらしのない、いやアな酒のみになつてしまふのだ。
全國社友大會の近づく際、特にこれらの言をなす所以である。
旅さきでのたべものゝ話。
折角遠方から來たといふので、たいへんな御馳走になることがある、おほくこれは田舍での話であるが。
これもたゞ恐縮するにすぎぬ場合がおほい。酒のみは多く肴をとらぬものである。もつとも獨酌の場合には肴でもないと何がなしに淋しいといふこともあるが、誰か相手があつて呉れゝばおほくの場合それほど御馳走はほしくないものである。
念のために此處に私の好きなものを書いて見ると、土地の名物は別として、先づとろゝ汁である。これはちひさい時から好きであつた。それから川魚のとれる處ならば川魚がたべたい。鮎、いはな、やまめなどあらばこの上なし。鮒、鮠、鯉、うぐひ、鰻、何でも結構である。一體に私は海のものより川の魚が好きだ。但しこれは海のものよりたべる機會が少ないからかも知れない。
それから蕎麥、夏ならばそうめん。芋大根の類、寒い時なら湯豆腐、香のものもうまいものだ。土地々々の風味の出てゐるのはこの香の物が一番の樣に思ふがどうだらう。
田舍に生れ、貧乏で育つて來た故、餘り眼ざましい御馳走を竝べられると膽が冷えて、食慾を失ふおそれがある。まことに勿體ない。ないがしろにされるのは無論いやだが、徒らに氣の毒なおもひをさせられるのも心苦しい。
飯の時には炊きたてのに、なま卵があれば結構である。それに朝ならば味噌汁。
その二
女人の歌。
『どうも女流の歌をば多く採りすぎていかん、もう少し削らうか。』
と私が言へば、そばにゐた人のいふ。
『およしなさいよ、女の人のさかりは短いんだから。』
いやさかと萬歳。
『十分ばかりお話がしたいが、いま、おひまだらうか。』
といふ使が隣家から來た。
ちやうど縁側に出て子供と遊んでゐたので、
『いゝや、ひまです。』
とそのまゝ私の方から隣家へ出かけて行つた、隣家とは後備陸軍少將渡邊翁の邸の事である。土地の名望家として聞え、沼津ではたゞ「閣下」とだけで通つてゐる。私を訪ぬるために沼津驛で下車した人が若し驛前の俥に乘るならば、
「閣下の隣まで」
と言へば恐らく默つて私の家まで引いて來るであらう。首から上に六箇所の傷痕を持つ老將軍である。
翁の私に話したいといふ事は「いやさか」と「萬歳」とに就いてゞあつた。日本で何か事のある時大勢して唱和する祝ひの聲はおほよそ「萬歳」に限られてゐる。第一これは外國語であり、而かもその外國語にしても漢音呉音の差により一は「バンゼイ」と發音さるべく、一は「マンザイ」と發音されねばならぬのにかゝはらず、現在の「バンザイ」ではどちらつかずの鵺語となつてゐる。ことにその語音が尻すぼまりになつて、つまり「バンザイ」の「イ」が閉口音になつてゐるために、陰の氣を帶びてゐる。めでたき席に於て祝福の意味を以て唱和さるべき種類のものとしてはどの點から考へても不適當であるといふのである。
それも他に恰好な言葉が無いのならば止むを得ないが、わが國固有の言葉として斯る場合に最もふさはしい一語がある。即ち「いやさか」である。「彌榮え」の意である。これは最初を、「イ」と口を緊めておいて、やがて徐ろに明るく大きく「ヤサ、カァ」と開き上げて行く。
どうかして「萬歳」の代りにこの「いやさか」を擴め度い、聞けば君は世にひろく事をなしてゐる人ださうだから、君の手によつてこれを行つて貰ひ度い、それをいま頼みに行かうと思つてゐたのだ、と翁は語られた。
これは筧克彦博士が初めて發議せられたものであつたとおもふ。翁もさう言はれた。そして翁は多年機會あるごとにこの實地宣傳を試みられつゝあるのださうだ。
何かで筧博士のこの説を見た時、私は面白いと思つたのであつた。端なくまた斯ういふところで思ひがけない人からこの話を聞いて、再び面白いと思つた。然し、一方は口馴れてゐるせゐか容易に呼び擧げられるが、頭で考へる「い、や、さ、か」の發音は何となく角ばつてゐて呼びにくいおもひがした。その事を翁に言ふと、翁は言下に姿勢を正して、おもひのほかの大きな聲で、その實際を示された。思はず額を上ぐるほどの、實に氣持のいゝものであつた。
「いッ」と先づ脣と咽喉と下腹とを緊め固めて、一種氣合をかける心持で、そして徐ろに次に及び、最後の「かァ」で再び腹に力を入れて高々と叫び上げるのださうである。
私は悉く贊成して、そして出來るだけの宣傳に努める事を約して歸つて來た。社友にも同感の人が少くないと思ふ。若し一人々々の力の及ぶ範圍に於てこれを實地に行つて頂けば幸である。
全國社友大會の適宜な場合に渡邊翁に音頭をとつていたゞいて先づその最初を試み度く思ふ。
梅咲くころ。
今年は梅がたいへんに遲かつた。
きさらぎは梅咲くころは年ごとにわれのこころのさびしかる月
私はちらりほらりと梅の綻びそめるころになると毎年何とも言へない寂しい氣持になつて來るのが癖だ。それと共に氣持も落着く。
好かざりし梅の白きを好きそめぬわが二十五の春のさびしさ
この一首が恐らく私にとつて梅の歌の出來た最初であつたらう。房州の布良に行つてゐた時の詠である。
年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花をけふ見つけたり
うめ咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
これらは『砂丘』に載つてゐるので、私の三十歳ころのものである。
うめの花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに
梅の花さかり久しみ下褪せつ雪降りつまばかなしかるらむ
梅の花褪するいたみて白雪の降れよと待つに雨降りにけり
うめの花あせつつさきて如月はゆめのごとくになか過ぎにけり
これらはその次の集『朝の歌』に出てゐる。
梅の木のつぼみそめたる庭の隈に出でて立てればさびしさ覺ゆ
梅のはな枝にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな
うめの花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
褪せ褪せてなほ散りやらぬ白梅のはなもこのごろうとまれなくに
その次『白梅集』には斯うした風にこの花を歌つたものがなほ多い。
昨年はことに梅を詠んだものが多かつた。ほめ讚へたものもあつたが、矢張り淋しみ仰いだものが多かつた。
春はやく咲き出でし花のしらうめの褪せゆく頃ぞわびしかりける
花のうちにさかり久しといふうめのさけるすがたのあはれなるかも
ところが今年はまだ一首もこの花の歌を作らない。もう二月も末、恐らくこの儘に過ぎてしまふ事であらう。朝夕の惶しさがこの靜かな花に向ふ事を許さぬのである。
その三
『山櫻の歌』が出た。私にとつて第十四册目の歌集に當る。
此處にその十四册の名を出版した順序によつて擧げて見よう。
海の聲 (明治四十一年七月) 生命社
獨り歌へる (同 四十三年一月) 八少女會
別離 (同 年四月) 東雲堂
路上 (同 四十四年九月) 博信堂
死か藝術か (大正 元年九月) 東雲堂
みなかみ (同 二年九月) 籾山書店
秋風の歌 (同 三年四月) 新聲社
砂丘 (同 四年十月) 博信堂
朝の歌 (同 五年六月) 天弦堂
白梅集 (同 六年八月) 抒情詩社
寂しき樹木 (同 七年七月) 南光書院
溪谷集 (同 七年五月) 東雲堂
くろ土 (同 十年三月) 新潮社
山櫻の歌 (同 十二年五月) 新潮社
となるわけである。この間に『秋風の歌』まで七歌集の中から千首ほどを自選して一册に輯めた
行人行歌 (大正 四年四月) 植竹書院
があつたが間もなく絶版になり、同じく最初より第九集『朝の歌』までから千首を拔いた
若山牧水集 (大正 五年十一月) 新潮社
との二册がある。
處女歌集『海の聲』出版當時のいきさつをばツイ二三ヶ月前の『短歌雜誌』に書いておいたから此處には略くが、思ひがけない人が突然に現はれて來てその人に同書の出版を勸められ、中途でその人がまた突如として居なくなつたゝめ自然自費出版の形になり、金に苦しみながら辛うじて世に出したものであつた。私が早稻田大學を卒業する間際の事であつた。
『獨り歌へる』は當時名古屋の熱田から『八少女』といふ歌の雜誌を出して中央地方を兼ね相當に幅を利かしてゐた一團の人たちがあつた。今は大方四散して歌をもやめてしまつた樣だが、鷲野飛燕、同和歌子夫妻などはその頃から重だつた人であつた。その八少女會から出版する事になり、豫約の形でたしか二百部だけを印刷したものであつた。形を菊判にしたのが珍しかつた。
程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた〴〵で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。
『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を𢌞るつもりで先づ甲州に入り、次いで信州に𢌞つた。かれこれ半年もそんなことをしてゐるうちにまた東京が戀しくなつて歸つて來て出版したのが『路上』である。これは當時小石川の竹早町に主として古本を買つてゐた博信堂といふ店の主人が或る紙屑屋から古人尾崎紅葉の未發表の原稿を手に入れたといふのでそれで大いに當てる積りで急に出版を始め、案外にも失敗して困つてゐた頃太田水穗さんの紹介でその店から出すことになつたのであつた。これには珍しく油繪の口繪が入つてゐる。私の歌集に肖像寫眞以外斯うした口繪の入つてゐるのはこの一册だけである。この口繪に就いて思ひ出す。出版する少し前に山本鼎君と一緒に數日間下總の市川に遊びに行つてゐた。或日同君が江戸川べりの榛の若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。それを見た同君は急に榛の木をやめて眠つてゐる私を寫生してしまつた。サテ東京へ引上げようとなつて宿屋の拂ひが足りず、その繪を其處に置いて歸つた。それを博信堂の主人と共に幾らかの金を持つて出懸けて受取つて來て三色版にしたのであつた。原畫は私が持つてゐたのだが、富田碎花君がいつしか持ち出し、それをまたその愛人だかゞ持ち出し、思ひがけない何處か長崎あたりへ行つてゐるといふ話をあとで聞いた。
『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたのでそんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で周章へて歌を纒めて東雲堂へ持ち込み、若干の旅費を作つて歸國したのであつた。で、この本の校正をば遠く日向の尾鈴山の麓でやつたのであつた。最初の校正刷を郵便屋の持つて來た時、私は庭の隅の据風呂に入つてゐて受取つた。そして濡れた手で封を切つてそれを見ながら、何となしに涙を落したことを覺えて居る。
郷里には一年ほどゐた。一時よくなつた父がまた急にわるくなつて永眠したあと、いつそ郷里で小學校の教師か村役場にでも出て暮らさうかなどとも考へたのであつたが、矢張りさうもならず、五月ごろであつた、非常に重い心を抱いてまた上京の途についた。そしてその途中、前から手紙などを貰つてゐた伊豫岩城島の三浦敏夫君を訪ふことにした。先づ伊豫の今治に渡り、それから瀬戸内海の中の一つの小さな島に在る同君宅を訪ねて行つた。勸めらるゝまゝに同家の別莊風になつた一軒に暫く滯在してゐた。海の上に突き出しになつた樣な部屋は實に明るくて靜かであつた。フツと私は其處で郷里に歸つてゐた間に詠んだ歌を一册に纒めて見たいと思ひついた。そして荷物を解いてノートを取り出し一首々々清書し始めたのであつたが、それは私にとつて意外にも苦しい事業である事を知つた。郷里の一年間は異樣に緊張した感傷的な、また思索的な時間を私に送らせたのであつた。だから詠んだ歌にしろ、いつか平常の埒を放れて一首が四十四五文字もある樣なものになつたり、雅語から離れて口語になつたり、今までにない變體なものばかりが出來てゐた。それを、その郷里から離れてそんな一つの島の岸の靜かな所で見直し始めたので、周圍の環境が急變したゝめに、己れ自身自分の心の姿に驚いたのであつた。一首を寫し二首を清書してゐるうちに、全く息のつまる樣な苦しさを覺えて來た。後には飯が食へなくなつた。それを見て三浦君がひどく心配し、では私が清書しませうと云つて、大半彼が代つて寫しとつて呉れたのであつた。それを持つて上京して、當時『ホトトギス』を發行してゐた籾山書店に頼んで出版したのが『みなかみ』であつた。この歌集は私のものゝ中でも最も記念すべきものである樣に思はるゝ。その前の『死か藝術か』あたりから多少づつ變りかけてゐた私の詠歌態度が、この集に於て實に異樣に緊張して變つて來てゐるのである。『みなかみ』が出ると世間で例の破調問題が八釜敷くなり、短唱だの何だのといふものが行はるゝ樣になつた。
『みなかみ』の次に出したのが『秋風の歌』であつた。
『みなかみ』を瀬戸内海の島で編輯してゐた時のことで書き落した一事がある。餘りに急變した自分自身の歌の姿に驚いた私は、一首を書いてはやめ、二首を清書しては考へ込み、一向に爲事の捗らぬその間にまた行李を解いて萬葉集を取り出してぼつ〳〵と讀み始めた。心を靜めたいためとひとつは古來の歌の姿をさうした場合にとつくりと眺め直して見度いためであつた。そしてこの事は一層私に歌集清書の筆を鈍らしたのであつた。
とかくして出來上つた『みなかみ』の原稿を持つて上京した私は、程なく小石川の大塚窪町に家を借り、一時信州の里へ歸してあつた妻子(その間に長男が生れてゐた)を呼んで、初めて家庭らしい家庭を構ふることになつた。そして其處に永い間の獨身時代の自由や放縱やまたは最近一二年間の歸省時代の妙に緊張してゐた生活と異つた朝夕が始まつた。鎭靜があり、疲勞があつた。さうした一年間のあひだに詠まれたものが『秋風の歌』である。これは『みなかみ』の奔放緊張は急に影を消していかにも懶い寂寥が代つて現れて居る。この本は友人郡山幸男君の經營してゐた新聲社といふのから出したのであつたが、程なく閉店したゝめ、同君の手により他の何とかいふ本屋の手にその紙型は渡つて今でも其處から出版されてゐるさうである。散文集『牧水歌話』も亦た同樣であつた。
『秋風の歌』で見るべきは、最初『海の聲』あたりから『路上』に及ぶまで殆んど感傷一方で詠んで來たものが『死か藝術か』に及んで(その名の示すが如く)多少の思索味を加へて來、『みなかみ』で一層その熱を加へてやがて本書に及んでるのであるが、これには熱叫するといふ樣なところがなく、たゞ在るがままの自分を見詰めて歌つてゐるといふ形に表れてゐる事などであらう。
大塚窪町に住んでゐる間に妻が病氣になつた。轉地を要するといふので相模の三浦半島に移り住んだ。大正三年の二月末であつた。そして其處で詠んだものを輯めたのが『砂丘』である。これにはいかにも物蔭に隱れて勞れを休めてゐるといふ樣な、か弱い感傷から詠まれたものが大部分を占めて居る。春の末から夏にかけての景象を歌つたものが多く、いはゞ「夏の疲勞」とも謂ふべき歌集であつた。前に『路上』を出した博信堂主人が一度悉く失敗した後、琴の音譜の本を出して大いに當て日本橋の方に引越して開業してゐる店から出版したのであつた。今でもその當時の樣にこの店が繁昌してゐるかどうか其後一向に消息をしらない。
次が『朝の歌』である。『砂丘』と同じく三浦半島北下浦の漁村で詠んだ歌が大半を占め、東北地方の旅行さきで出來たものが加はつてゐる。同じ三浦半島で詠んだものではあるが、前の『砂丘』とは歌の性質がすつかり變つてゐる。前と違つて歌に生氣がある。しかも『みなかみ』の樣に神經質のそれでなく、おほどかな靜かな力を持つた生き〳〵しさであると思つて居る。この歌集あたりから私の詠風といふ樣なものがほぼ一定して來たのではないかと考へらるゝ所がある。最近の著『くろ土』『山櫻の歌』はまさしくこの『朝の歌』直系の詠みぶりであると見ることが出來るのである。さういふ所から前の『みなかみ』とはまた異つた意味で私には忘れ難い一册である。これは神樂坂に天弦堂といふを開いてゐた中村一六君の書店から出したのであつたが、これも程なく閉店し、紙型は他へ轉賣せられてしまつた。同じ店から出した散文集『和歌講話』また然りである。
いつまでもその漁村に引込んでゐるわけにゆかず、大正五年の夏から私だけ上京して本郷の下宿に住んで原稿などを書いてゐた。その間に出來た歌を輯めたのが『白梅集』である。これはまた歌の姿が『朝の歌』とは急に變つてゐるのが不思議なほどだ。ひどく神經衰弱的で、そしてすべてが絶望的な主觀で滿ちてゐる。謂はゞ『みなかみ』をきたなくした樣なもので、それだけまた鋭くなつたとはいへるであらう。
これは妻の歌との合著になり、内藤鋠策君の抒情詩社から出したものであつた。當時妻も恢復して上京し、小石川の金富町に住んでゐた。
『寂しき樹木』はその次、巣鴨の天神山に移つた頃、出したものであつた。これはよく『砂丘』の詠みぶりに似通つたもので、即ち夏の輝やかしさとその光の中に疲れて居る自分の心とを詠んだ歌が一册の基調をなしてゐる。細いけれど、何處にか光を含んだものとしてこの本を振返ることが出來る。これは本郷邊の印刷所に勤めてゐた青年が(その以前籾山書店にゐた關係から歌集出版などに眼をつけてゐたと言つてゐた)突然訪ねて來て叢書の中の一編として出したいからと云つて急に原稿を纒めさせられたものであつた。彼はひどく病身で、それに初めての事ではあり、事ごとにまごついて原稿を渡してから出版まで隨分な時間がかかり、ためにその半年ほど後に東雲堂から同じく歌集叢書の一編として出す事になつた『溪谷集』の方が先に町に出てしまつたのであつた。しかも彼はこの一册を(その前に吉井勇君の『毒うつぎ』といふのがあつた)出すと直ぐ死んでしまつた。そしてこの本もそれなりになつてしまつた。印税の約束で出版した『秋風の歌』『砂丘』『朝の歌』『寂しき樹木』、それに散文集二册、すべて初版を出すか出さぬに本屋の都合でその版權が行衞不明になつてしまふなど、よくよくの貧乏性に生れて來たものと苦笑せざるを得ない。
その『寂しき樹木』と前後して出たものに『溪谷集』がある。『朝の歌』と比べれば歌の柄の大きさに於て劣り、清澄さに於て――狹く迫つてゐることに於いて優つて居るであらう。これは主として二つの連作から成つてゐると見ていゝ。即ち一つは秋の秩父の溪谷を巡り歩いて詠んだものと、一つは伊豆の土肥温泉に滯在してその海濱の早春を詠んだものとである。
其處で自分の歌集の出版が一寸途切れて居る。それまでは必ず一年に一册、どうかすると二册づつも出して來てゐたのであるが、『溪谷集』を出してからまる三年の間何物をも出してゐない。そして大正十年三月に出したのが『くろ土』であり、二年おいて同十二年五月出版のものが即ち最近の『山櫻の歌』となるのである。この二册に就いては多く諸君の知悉せらるる所だらうと思ふので筆を略く。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「飮」と「飲」の混在は「飮」に統一した。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月20日公開
2005年11月10日修正
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櫻の花がかすかなひかりを含んで散りそめる。風が輝く。その頃から私のこゝろは何となくおちつきを失つてゆく。毎年の癖で、その頃になると必ずの樣に旅に出たくなるのだ。また、大抵の年は何處かへ出かけてゐる。
櫻の花の散りゆくころ、やはらかく萌えわたる若葉の頃、その頃の旅の好みを私は海よりもおほく山に向つて持つ。山と云つても、青やかな山と山との大きな傾斜が落ち合ふ樣な、深い溪間が戀しくなる。
上州の吾妻川は澁川町で沼田の方から來た利根川と落ち合つてゐるが、その澁川町から十里ほど溯つたあたりに普通に關東耶馬溪と呼びなされてゐる溪谷がある。兩岸は切り立つた樣な斷崖で、その斷崖には意外なほど多くの樹木が生えてゐる。その相迫つた斷崖の底に極めて細く深く青み湛へた淵は、時にまた雪白な飛沫をあげた奔湍となつて流れ下る。
溪流そのものも矢張り他に見られぬ面白さを持つて居るが、私はことにその流を挾む兩岸の斷崖に茂つて居る木立を愛するものである。樹は多く年を經た老樹で、土氣とぼしい岩の間に、殆んど鑛物化した樣なその根を張り枝を伸ばして、形あやしく立つて居る。私が初め其處を見たのは秋の末、落葉の頃であつた。いはゆる寒巖枯木の風情は充分に眺められたが、それを見るにつけても若葉の頃がなほ一層にしのばれた。で、その翌年の五月、はる〴〵とまた其處へ出かけて、山櫻が咲き、山櫻が散り、とりどりの木の芽が萌え、躑躅が咲き、藤の花の咲き出すまで、二十日ほども其處に程近い川原湯温泉に泊つてゐて、毎日々々その溪間の眺めを樂しんだものであつた。川原湯温泉から直ぐその不思議な眺めを持つ峽谷に入つて出はづれるまで約一里、出はづれると遙かに大きな吾妻川の流域が見渡された。野原とも云ひたいこの廣大な溪谷にももく〳〵とした若葉の呼吸が萌え立つてゐるのであつた。
朝づく日峯をはなれつわが歩む溪間のわか葉青みかがやく
朝づく日さしこもりたる溪の瀬のうづまく見つつ心しづけき
溪合にさしこもりつつ朝の日のけぶらふところ藤の花咲けり
荒き瀬のうへに垂りつつ風になびく山藤の花の房長からず
溪間と云へばおほく其處に多い温泉を見逃がすわけにはゆかぬ。谷にそつた川原湯温泉は吾妻川に臨んだ斷崖の上に在つて、非常に靜かな、景色もいゝ所である。其處から、少し下つて中之條町より左折した一支流の谷間には四萬温泉がある。また、澁川から利根川の方へ溯ればその本流に沿うて十幾個所かの温泉が出てゐるのだ。私の其處を𢌞り歩いたは秋であつたが、若葉の頃、ことに細かな雨のそゝぐ曙など、人知らぬそれら谷間の湯にひつそり浸つてゐるのは決して惡くあるまいと思ふ。
東京近くの溪では秩父であらう。信越線熊谷驛から入つて三峰山に登る間の溪流、それから東京山手線の池袋驛から武藏野を横切つて飯能に到り、其處から沿うて上つてゆく名栗川の溪流、共に秩父の山から出て、前のはやゝ大きく、後者は極めて小さい流であるが、小さいなりにいかにも清らかなすが〳〵しい溪である。名栗川の上流には名栗鑛泉がある。杉木立の青々した中に、ちよろ〳〵と流れる水を控へて二軒の湯宿があつた。
朝ばれのいつかくもりて眞白雲峰に垂りつつ蛙鳴くなり
下ばらひ清らになせし杉山の深きをゆけばうぐひすの啼く
つぎつぎに繼ぎて落ちたぎち杉山のながき峽間を落つる溪見ゆ
しらじらとながれてとほき杉山の峽の淺瀬に河鹿なくなり
湖もいゝ。山の奧の靜かな湖、新樹がひそかに影をひたして、羽蟲の群がひくゝ水の上にまひ、小魚がをり〳〵跳ね、郭公が岸の木立の中で啼く。さうした景情を私は榛名山の上の湖で心ゆくまで味つた事がある。
その湖には伊香保温泉を經て登つてゆくのだ。伊香保の若葉のよさは多くの人が知つて居ることゝおもふ。温泉町附近の木立の深いのもよく、其處から見渡した前面の廣々しい雜木原の新緑は全く心を躍らせた。人はよく伊香保の紅葉といふが、紅葉は何と云つても感じが乾いてゐる。枯れてゐる。
其處から湖までたしか二里か二里半の登りであつたと思ふ。その間、多くは松や落葉松の植林地を行くのであるが、その林の中に郭公がよく啼いた。松林を通り越すと、一里四方もありさうな廣い草原が見出された。其處の山窪の上の空には夏雲雀が無數に啼いてゐた。その草原を通り過ぎると湖の輝きが岸の木立がくれに見えて來るのだ。
湖岸に在る宿屋も氣持のいゝものであつた。宿の前の湖でとれた魚や蜆をいろいろに料理してたべさせてくれたのも嬉しかつた。私の行つた日の夕方からはら〳〵と雨が落ちて來て、翌朝はまたこの上ない晴であつた。
みづうみのかなたの原に啼きすます郭公の聲ゆふぐれ聞ゆ
湖ぎはにゆふべ靄たち靄のかげに魚の飛びつつ郭公きこゆ
吹きあぐる溪間の風の底に居りて啼く郭公の煙らひきこゆ
となりあふ二つの溪に啼きかはしうらさびしかも郭公聞ゆ
それは山上の湖、これは例の『あやめ咲くとはしほらしや』の唄で潮來あたりの水の上を船で𢌞つたも同じく初夏の頃であつた。香取の宮から河とも湖ともつかぬ所を漕いで鹿島の宮へ渡り、更に浪逆の浦を潮來へ横切る時には小雨が降つてゐた。『潮來出島の眞菰のなかで』といふ眞菰や蒲の青々した蔭にはあやめはやゝ時過ぎてゐたが、薊の花の濃紫が雨に濡れて咲き亂れてゐた。舟はあやめ踊を以て聞えて居る潮來の廓の或る引手茶屋の庭さきの石垣下に止つた。そして船頭の呼ぶ聲につれて茶屋の小女は傘を持つていそ〳〵舟まで迎ひに來たのであつた。
明日漕ぐと樂しみて見る沼の面の闇のふかみに行々子の啼く
わが宿の灯かげさしたる沼尻の葭のしげみに風さわぐなり
苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆の浦はかきけぶらへり
雨けぶる浦をはるけみひとつ行くこれの小舟に寄る浪聞ゆ
さきに私は若葉の頃になれば旅をおもふといふことを書いた。さういふ言葉の裏にはその季節に啼く鳥の聲、山ふかく棲むいろいろな鳥の啼聲をおもふ心がかなり多分に含まれてゐるのを自分では感じてゐる。
先づ郭公である。次いで杜鵑である。筒鳥である。呼子鳥である。その他山鳩の啼く音、駒鳥の啼く音、それからそれと思ひ出されて來て、斯う書いてゐながらも何處やらにそれらの鳥のそれぞれの寂しい聲の聞えてゐるのを感ずるのだ。まつたく若葉のころの山にはいろ〳〵な鳥が啼く。しかも何處にか似通つた韻律を持ち、その韻律の中にはまた同じ樣な寂しさが含まれてゐるのを思ふ。杜鵑、駒鳥は鋭くて錆び、郭公、筒鳥、呼子鳥、山鳩のたぐひはすべて圓みを帶びた聲の、しかも消しがたい寂しさをその啼聲の底に湛へてゐる鳥である。筒鳥と呼子鳥とは同じものだといふ人もあるが、よく聞くと矢張り違ふ。筒鳥は大きく、呼子鳥の聲は小さい。初め私はこれを親鳥雛鳥のちがひだと思うたが、耳を澄ませば確かに違つて居る。筒鳥は大きく、呼子鳥は小さい。一は晝間の日の光りかがよふ溪間によく、一は日暮方の木立の奧に聞くべき鳥である。杜鵑は空を横切る姿がよく、思はずも聞きつけたその一聲二聲が甚だいゝ。續けば或は耳につくかも知れない。郭公のたぐひには私は終日耳を傾けてなほ飽きない。
それらの鳥を最も多く聞いたのは山城の比叡山々中の古寺に泊つてゐた時であつた。彼處は全山が寺領で、それこそ空を掩ふ大きな杉がぎつちりと生ひ茂り、銃獵を許さぬのであゝまで鳥が多いのだらうと思はれた。然し、少し山深い所に行けば大抵の所ではこのうちのどれかは聞ける。郭公はなかなか姿を見せぬ鳥だといふが、上州の草津から信州の澁へ白根山の中腹を縫うて越した時、其處の噴火の山火事あとの落葉松林の梢から梢へ移る姿を見た。年老いた案内者は、『はアあれかね、あれはハツポウ鳥だよ』と事もなげに言ひすてた。澁峠の頂上に近づくと五月の中ばすぎといふに、雪は一面に栂や樅の森林を埋めつくし、その梢ばかりが僅かに表はれてゐる荒涼たる原野の樣な中で、杜鵑と郭公とはかたみがはりに啼いてゐたのであつた。
山深いところなどで不圖聞きつけた松風の音や遠い谷川のひゞきに我等はともすると自分の寄る邊ない心の姿を見るおもひのすることがある。然し、松風や水のひゞきは終に餘りに冷たく、餘りに寄る邊ないおもひがしないではない。それに比べて私は遙かにこれらの鳥の啼く音に親しみを持つのである。カツコウ、カツコウと啼くあの靜かな寂しい温かい聲を聞いてゐると、どうしても私は眼を瞑ぢ頭を垂れ、其處に自分の心の迷ひ出でて居る寂しさ温かさを覺えずにはゐられないのだ。
うき我をさびしがらせよ閑古鳥
芭蕉の閑古鳥はたしかに郭公鳥の事であらねばならぬ。東北の或る地方ではまたこの鳥を豆蒔鳥とも呼ぶさうだ。ソレあの鳥が啼く、豆を蒔けといふのであらう。いゝ名だとおもふ。
海も強ちにいけないのではない。海ならば岬が好きだ。また、島もいゝ、入江も若葉にふさはしく、奧深い港もこの頃靜かである。外洋そのものはどうも秋の風の冴えた頃がいゝ樣に思はれる。
紀州の熊野浦、勝浦の港に入らうとする頃であつた。五月雨の雲の斷間に遙かの山腹に奈智の瀧の見えた時の感興を忘れ得ない。そしてその勝浦港の港口、崎山の茂みの蔭にある赤島温泉に二三日雨に降りこめられながら鰹の大漁に舌鼓を打つたことも思ひ出さるゝ。
瀬戸内海の中でも鯛漁の本場だと言はれてゐる備前沖の直島に鯛網を見に行つたも五月であつた。島は極めて小さい島だが、其處に崇徳上皇の流され給うた遺跡があつた。島の八幡宮の神官に案内せられて其處へ行くと、何のそれらしい面影もなく、たゞ一面に小松の立ち並んでゐる浪打際の山の蔭であつた。伸び揃うた小松のしんの匂ひが寂しい心を誘ふのみであつた。琴彈濱といふ所で鯛を取つて、これも折からの雨に濡れながら松蔭の海人の小屋で、さま〴〵に料理して貪り喰うた事も忘れ難い。夜に入つて小松ばかりの島山の峯づたひに船着場まで歸らうとすると、ちやうど晴れそめた望の夜の月が頭上にあつた。うち渡す島から島への眺めに時を忘れて、定期の發動機船に乘り遲れ、わざ〳〵小舟をしたてゝ備前路までその月の夜を漕がせた事をも思ひ出す。
繁山の岬のかげの八十島をしまづたひゆく小舟ひさしき
したたかにわれに喰はせよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹の限りは無けむ
琴彈の濱の松かぜ斷えぬると見れば沖邊を雨のゆくなり
山や海の事ばかり書いてゐた。京都の嵯峨から御室、嵐山から清涼寺大覺寺を經て仁和寺に到るあたりの青葉若葉の靜けさ匂はしさを何に譬へやう。單に青葉若葉と云はない、あのあたり一面におほい松の林の松の花、蕪村が歌うた
若竹やゆふ日の嵯峨となりにけり
の篁つゞきの竹の秋の風情、思ひ起すだに醉ふ樣な心地がする。
また、新藥師寺唐招提寺の古い御寺をたづね歩いて、過ぎ去り過ぎゆく『時』のかをりに身を沈め、奈良の春日の森の若葉の中に入り行く心を誰に告げやう。鹿の子の群れあそぶ廣い〳〵馬醉木の原は漸くあの可憐な白い花に別れやうとする頃である。若草山のみどりは漸く深く、札所九番の南圓堂の鐘の音に三笠山の峯越しの雲の輝きこもる頃である。
吾子つれて來べかりしものを春日野に鹿の群れをる見ればくやしき
葉を喰めば馬も醉ふとふ春日野の馬醉木が原の春すぎにけり
奈良見人つらつら續け春日野の馬醉木が原に寢てをれば見ゆ
つばらかに木影うつれる春日野の五月の原をゆけば鹿鳴く
思ひ起し、書きつらねて行けばまことに際がない。
私のこの文章を書いてゐるのもまた旅さきに於てである。伊豆天城山の北の麓、狩野川の上流に當る湯ヶ島温泉にもう十日ほど前から來てゐるのだ。來た頃に咲きそめた山ざくらは既に名殘なく散つて、宿の庭さきを流るゝ溪川に鳴く河鹿の聲が日ましに冴えてゆく。晴れた日に川原に落つる湯瀧に肩を打たせながら見るとなく、仰ぎ見る山の上の雲の輝きは何と云つてももう夏である。
彼處か此處か、行つて見度いところを心に描いてゐると、なか〳〵斯うぢつとしてゐられない氣持である。旅にゐてなほ旅を思ふ、自づと苦笑せずにはゐられない。(四月十一日、湯ヶ島湯本館にて) | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年9月7日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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○
乾きたる
落葉のなかに栗の實を
濕りたる
朽葉がしたに橡の實を
とりどりに
拾ふともなく拾ひもちて
今日の山路を越えて來ぬ
長かりしけふの山路
樂しかりしけふの山路
殘りたる紅葉は照りて
餌に餓うる鷹もぞ啼きし
上野の草津の湯より
澤渡の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂峠
○
朝ごとに
つまみとりて
いただきつ
ひとつづつ食ふ
くれなゐの
酸ぱき梅干
これ食へば
水にあたらず
濃き露に卷かれずといふ
朝ごとの
ひとつ梅干
ひとつ梅干
○
草鞋よ
お前もいよいよ切れるか
今日
昨日
一昨日
これで三日履いて來た
履上手の私と
出來のいいお前と
二人して越えて來た
山川のあとをしのぶに
捨てられぬおもひもぞする
なつかしきこれの草鞋よ
○
枯草に腰をおろして
取り出す參謀本部
五萬分の一の地圖
見るかぎり續く枯野に
ところどころ立てる枯木の
立枯の楢の木は見ゆ
路は一つ
間違へる事は無き筈
磁石さへよき方をさす
地圖をたたみ
元氣よくマツチ擦るとて
大きなる欠伸をばしつ
○
頼み來し
その酒なしと
この宿の主人言ふなる
破れたる紙幣とりいで
お頼み申す隣村まで
一走り行て買ひ來てよ
その酒の來る待ちがてに
いまいちど入るよ温泉に
壁もなき吹きさらしの湯に | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年5月3日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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冷たさよ
わが身をつゝめ
わが書齋の窓より見ゆる
遠き岡、岡のうへの木立
一帶に黝み靜もり
岡を掩ひ木立を照し
わが窓さきにそゝぐ
夏の日の光に冷たさあれ
わが凭る椅子
腕を投げし卓子
脚重くとどける疊
部屋をこめて動かぬ空氣
すべてみな氷のごとくなれ
わがまなこ冷かに澄み
あるとなきおもひを湛へ
勞れはてしこゝろは
森の奧に
古びたる池の如くにあれ
あゝねがふ
わが日の安らかさ
わが日の靜けさ
わが日の冷たさを | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴武志
校正:浅原庸子
2001年5月3日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002626",
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"副題": "10 冷たさよわが身を包め",
"副題読み": "10 つめたさよわがみをつつめ",
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"姓読み": "わかやま",
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わが家の、
北に面した庭に、
南天、柘榴、檜葉、松、楓の木が
小さな木立をなしてゐる。
南天の蔭には、
洗面所の水が流るゝため、
虎耳草、秋海棠、齒朶など、
水氣を好む植物が
一かたまりに茂つて、
あたりは一面の苔となつてゐる。
その中の柘榴の木に、
今年はひどく花がついた。
こまかな枝や葉の茂みから
清水でも滲み出る樣に
眞紅な花が咲き擴がつた。
初め一輪二輪と葉がくれに咲き、
やがてその葉の色をも包んで、咲き盛ると
いちはやくまた一輪二輪と散り出した。
厚い花辨の中に無數の蘂をちぢらせた
眞紅な花が、
一つ二つと散り出した。
それを眞先きに見付けたのは、
私の子供たちだ。
五歳と八歳の二人の娘は、
毎朝早起をしてその花を拾ひ競うた。
そして二三日のうちに飽いてしまつた。
代つてその夥しい落葉を拾ひ始めたのは、
私の年若な書生だ。
耳のとほい無口な小柄な彼は、
誰に云ひつけられたでなく、
その木の蔭にしやがんでは、
ひつそりと拾ひとつて塵取の中に入れた。
いよいよ散る眞盛りとなると、
彼も終ににや〳〵と笑ひながら、
熊手を持つて來て、
うるほひ渡つた青苔を剥がぬ樣に、
その上にうづだかい落花を掻き寄せた。
その庭は、
離室の私の書齋からよく見える。
苔に落ちた花も見え、
枝垂れ咲いた軒端の花もよく見えた。
子供の拾ふのも可愛いゝと見、
書生の拾ふのもいとしいと見てゐた。
が、
流石にその夥しい花も散り盡くる時が來た。
一朝ごとに減つてゆくその落葉をば、
いつか書生も捨ておく樣になつた。
けふ、
ふと私はその庭におりて行つて、
柘榴の木の下に立つた。
減つたとは云つてもまだ其處等一面に花びらは散つてゐた。
ただ古び朽ちてきたなくなつただけだ。
茂つた老木の枝には、
これはまたおもひのほかに、
殘つてゐる實がすくない。
みな今年のは空花であつたらしい。
柘榴の茂み檜葉の茂みを透いて、
紺の色の空が見えた。
浮雲ひとつ無い空だ、
めらめらと燃える樣にとも、
または、
死にゆく靜けさを持つたとも、
いづれとも云へる眞夏の空だ。
十本たらずの庭木の間に立つて、
ぼんやりとその空を仰ぎながら、
ぼんやりと呼吸する、
長い呼吸の間に混つて、
何とも云へぬ冷たい氣持が、
全身を浸して來るのを私は覺えた。
名も知れぬ誰やらが歌つた、
土用なかばに秋風ぞ吹く、
といふあの一句の、
荒削りで微妙な、
丁度この頃の季節の持つ『時』の感じ、
あれがひいやりと私の血の中に湧いたのであつた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年5月25日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002214",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "11 夏の寂寥",
"副題読み": "11 なつのせきりょう",
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"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第七卷",
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底深い群青色の、表ほのかに燻りて弓形に張り渡したる眞晝の空、其處には力の滿ち極まつた靜寂の光輝があり、悲哀がある。
朝燒雲、空のはたてに低く細くたなびきて、かすけき色に染まりたる、野に出でて見よ、滴る露の中に瓜の花と蜂の群とが無數に喜び躍つてゐる。
向日葵の花、磨き立てた銅盥の輝きを持つて、によつきりと光と熱との中に咲いてゐる。歩み移る太陽の方にかすかに面を傾くるといふにもこの花のあはれさが感ぜられる。づばぬけて大きいだけになほ。
夜。空氣も濡れ、燈火も濡れ輝いてゐる。ほのかに汗ばむアイスクリームの湯氣。
晝寢。したゝかに吸ひ太りたる蚊のよちよちとまひゆける下、疊よ、氷の如く冷かなれ。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年5月25日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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ソレ、君と通つて
此處なら屹度釣れると云つた
あの淀み
富士からと天城からとの
二つの川の出合つた
大きな淀みに
たうとう出かけて行つて釣つて見ました
かなり重い錘でしたが
沈むのによほどかゝる
四尋からの深さがありました
とろりとした水面に
すれ〳〵に釣竿が影を落す
それだけで私の心は大滿足でした
山の根はいゝが
惜しいことに
釣つてゐる上に道がある
なるたけ身體を
小松の蔭にかくしてゐるのだが
竿だけは上から眼につく
「あたりますかナ」
一人の男が上に蹲踞んで云ふのです
「イヤ一向……
一體此處では何が釣れるのです」
この私の問には
向うで困つたやうです
「さア……
うなぎ
なまづ
ふな
まア、まるた位ゐでせうナ……
餌は何です」
「みゝずです」
「みゝずなら
何にでもいゝ」
と言つてのそりと大きな男は立ち上りました
そして言ひ添へました
「どうも此頃
あたらなくなりましたよ」
「ですかねヱ……
左樣なら」
私は振返つて言ひました
そのうち
こまかな雨が來ました
身體のめぐりの
曼珠沙華が次第に濡れて
なんとも云へぬ赤い色です
それが水にも映つてる
對岸の藪の向うでは
見えはしないが
蟲送りでせう
かん、かん、かんと秋らしい鉦が聞える
富士から愛鷹にかけては
いちめんに塗りつぶした樣な雲で
私の釣竿からも
たうとう雫が落ち出しました | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年5月25日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002628",
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光を含んだ綿雲が、軒端に見える空いつぱいに輝いて、庭木といふ庭木は葉先ひとつ動かさず、それぞれに雲の光を宿して濡れた樣に靜まつてゐる。蝉の聲はその中のあらゆる幹から枝から起つてゐる樣に群り湧いて、永い間私の耳を刺して居た。
數日續いた暴風雨のあとで、今朝屆いた雜誌を一册載せたばかりの机の上には冷たい濕氣が浸みてゐた。讀むともなく開いた表紙の折目の蔭になつた隙間に口に含んだ煙草の煙を吹き込むと雜誌の向側から直ぐ眞白な濃い煙がさアつと机のおもて一面に擴がつて出た。そして机のしめりに浸み込む樣にベツトリと木地にくつ着いたまゝ這ひ擴がつてゆくのみで少しも上へは昇らない。もう一度私は同じ樣に折目の下から煙を吹いた。前の煙のあとを追うて浸み擴がつたそれは、やがてよれ〳〵に小さな渦卷を作りながら僅かに上に昇らうとする。二つ、三つと小さな渦は出來たが、矢張り上には立たなかつた。一二寸の高さに昇つたかと思ふと、くづるゝ樣に下に靡いて擴がつた。渦卷は山の形に、下に這ふ煙は信濃あたりの高い山から山の間に見る雲の海の形にも似て眺められて、私は幼い靜かな興味を覺えながら幾度となくその戲れを繰返した。
不圖落付かぬ何やらの音が聞えた。紙とガラスの二重になつてゐる窓の障子の間にまひ込んだ何やらの羽蟲が立つる音である。疲れ果てたそして極めて靜かなその場の氣持を壞さない樣に、私はわざわざ座を立つてその蟲を逃がさうとした。見ると、それは大きな虻であつた。一度も二度も今朝がたから私を螫して逃げて行つたそれである。
波立つ胸で私はその少し前に用意して來てゐた蠅叩きを取つた。そして一打ちにその大きな虻を打ち落した。あり〳〵と強過ぎる力で打たれた蟲は、片羽をもがれ、腸を出して死んでしまつた。
そのきたない死骸を見て一時當惑した私はすぐそれを可愛がつてゐる蟻に與へようと思つた。離室になつてゐる私の書齋の石段には、常に三四種類の蟻が來て餌をあさつてゐた。眼にも入らぬ埃の樣な追ふにも追はれぬ小さな薄赤い蟻はよく机から本箱の隅までも這ひよつて來た。ぶつぶつ胴體が三つに區切れて長さ七八分から一寸にも及ぶ大きな黒蟻もよく机のめぐりにやつて來て私を驚かした。常に鋭く尻を押つ立てて歩くやゝ小さな黒蟻は好んで人を螫し、またこれに螫されると必ず二三日脹れて痛かつた。これ等のほかに、長さ一分ほどのほつそりした赤黒い蟻がゐた。この蟻は部屋にも上らず、どうかして着物に附いても容易に螫すことをしなかつた。で、私は餌さへあればこの見たところも他よりは可愛い蟻に與へるのを樂しみとしてゐた。
降りこめられてゐたあとの日和で、三段になつた石段にありとあらゆる蟻が出揃つて駈け𢌞つてゐた。辛うじてその中に私の目指す蟻の一疋を見出した私は、その忙しげに歩いてゆく鼻先に虻の死骸を置いた。考へ深さうにその大きな餌のめぐりを一周した彼女は、くるりと向を變へると恐しい速力で或る方角へ駈けだした。思ひがけぬこの大收獲を報告し、少しも速く巣へ運搬するためにその仲間を呼びに走つたのである。
報告に行つた留守の間に他の蟻の族が幾度となくその周圍にやつて來た。私は力めてそれらを餌に近附けさせぬ樣に用心した。この日の私の疲れた心はさうした場合に當然起る兩方の蟻の間の爭鬪を見るのがいやであつた。やがて、一つの石段の角の所からいまの一疋と思はれるのが姿を出した。と見ると、そのあとに引續いてぞろ〳〵ぞろ〳〵と長い列を作つてうねる樣にその仲間がやつて來た。
やれ〳〵と私も微笑しながら其處を離れた。そしてそのまゝ茶の間に行つて夙くに時間の過ぎて居る藥を一服飮んで來た。再び離室に歸つて机に向はうとしながら一寸その石段を覗いて見て驚いた。ほんの僅かの間に、其處には既う私の見るを厭つた大爭鬪が石段の半ば以上に亙つて開かれてゐた。埃の樣な赤い小蟻、尻を立てた黒蟻、それに最初から餌を運んでゐた蟻、この三種族が眞黒になつて虻の死骸を中に噛み爭つてゐるのである。むらむらと湧いた肝癪から私はまだ其儘其處に在つた蠅叩きを取るや否や、ぴしやりとその黒い蟲のかたまりに一撃を喰はした。そして續けさまにぴしや〳〵と叩きつけて一切を其處から遠くはたき落してしまつた。
僅かの事にも波立ち易くなつてゐる自分の心持を鎭めるために、私は心を入れて机の上の雜誌を讀まうとした。耳に入るは蝉の聲である。さながら軒端から射す雲の光の中に電氣でも通つて居る樣に、ひり〳〵ひり〳〵と耳から頭に響いて聞えて來た。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年4月4日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002622",
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"作品名読み": "じゅもくとそのは",
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"副題読み": "14 あぶとありとせみと",
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"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
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"生年月日": "1885-08-24",
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噴火口のあとともいふべき、山のいただきの、さまで大きからぬ湖。
あたり圍む鬱蒼たる森。
森と湖との間ほぼ一町あまり、ゆるやかなる傾斜となり、青篠密生す。
青篠の盡くるところ、幅三四間、白くこまかき砂地となり、渚に及ぶ。
その砂地に一人寢の天幕を立てて暫く暮し度い。
ペンとノートと、
愛好する書籍。
堅牢なる釣洋燈、
精良な飮料、食料。
石楠木咲き、
郭公、啼く。
誰一人知人に會はないで
ふところの心配なしに、
東京中の街から街を歩き、
うまいといふものを飮み、且つ食つて𢌞り度い。
遠く望む噴火山のいただきのかすかな煙のやうに、
腹這つて覗く噴火口の底のうなりの樣に、
そして、千年も萬年も呼吸を續ける歌が詠み度い。
遠く、遠く突き出た岬のはな、
右も、左も、まん前もすべて浪、浪、
僅かに自分のしりへに陸が續く。
そんなところに、いつまでも、立つてゐたい。
いつでも立ち上つて手を洗へるやう、
手近なところに清水を引いた、
書齋が造り度い。
咲き、散り、
咲き、散る
とりどりの花のすがたを、
まばたきもせずに見てゐたい。
萌えては枯れ、
枯れては落つる、
落葉樹の葉のすがたをも、
また。
山と山とが相迫り、
迫り迫つて
其處にかすかな水が生れる。
岩には苔、
苔には花、
花から花の下を、
傳ひ、滴り、
やがては相寄つて
岩のはなから落つる
一すぢの絲のやうな
まつしろな瀧を、
ひねもす見て暮し度い。
いつでも、
ほほゑみを、
眼に、
こころに、
やどしてゐたい。
自分のうしろ姿が、
いつでも見えてるやうに
生き度い。
窓といふ
窓をあけ放つても、
蚊や
蟲の
入つて來ない、
夏はないかなア。
日本國中の
港といふ港に、
泊まつて歩き度い。
死火山、
活火山、
火山から
火山の、
裾野から、
裾野を
天幕を擔いで、
寢て歩きたい。
日本國中にある
樹のすがたと、
その名を、
知りたい。
おもふ時に、
おもふものが、
飮みたい。
欲しい時に、
燐寸よ、
あつて呉れ。
煙草の味が、
いつでも
うまくて呉れ。
或る時に
可愛いいやうに、
妻と
子が、
可愛いいと
いい。
おもふ時に
降り
おもふ時に
晴れて呉れ。
眼が覺めたら
枕もとに、
かならず
新聞が
來てるといい。
庭の畑の
野菜に、
どうか、
蟲よ、
附かんで呉れ。
麥酒が
いつも、
冷えてると、
いい。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年5月25日公開
2005年11月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002629",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "15 空想と願望",
"副題読み": "15 くうそうとがんぼう",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-05-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/card2629.html",
"人物ID": "000162",
"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第七卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年11月30日",
"入力に使用した版1": "",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "柴武志",
"校正者": "浅原庸子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/2629_ruby_20352.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2005-11-12T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000162/files/2629_20353.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-12T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
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それほどにうまきかとひとの問ひたらば何と答へむこの酒の味
眞實、菓子好の人が菓子を、渇いた人が水を、口にした時ほどのうまさをば酒は持つてゐないかも知れない。一度口にふくんで咽喉を通す。その後に口に殘る一種の餘香餘韻が酒のありがたさである。單なる味覺のみのうまさではない。
無論口であぢはふうまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味ひを持つて居る。あの「醉ふ」といふのは心が次第に酒の味をあぢはつてゆく状態をいふのだと私はおもふ。斯の酒のうまみは單に味覺を與へるだけでなく、直ちに心の營養となつてゆく。乾いてゐた心はうるほひ、弱つてゐた心は蘇り、散らばつてゐた心は次第に一つに纒つて來る。
私は獨りして飮むことを愛する。
かの宴會などといふ場合は多くたゞ酒は利用せられてゐるのみで、酒そのものを味はひ樂しむといふことは出來難い。
白玉の齒にしみとほる秋の夜の酒は靜かに飮むべかりけり
酒飮めば心なごみてなみだのみかなしく頬を流るるは何ぞ
かんがへて飮みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
われとわが惱める魂の黒髮を撫づるとごとく酒は飮むなり
酒飮めば涙ながるるならはしのそれも獨りの時にかぎれり
然し、心の合うた友だちなどと相會うて杯を擧ぐる時の心持も亦た難有いものである。
いざいざと友に盃すすめつつ泣かまほしかり醉はむぞ今夜
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけりいざ酒酌まむ
汝が顏の醉ひしよろしみ飮め飮めと強ふるこの酒などかは飮まぬ
朝の酒の味はまた格別のものであるが、これは然し我等浪人者の、時間にも爲事の上にもさまでに嚴しい制限の無い者にのみ與へられた餘徳であるか知れぬ。雨、雪など、庭の草木をうるほしてゐる朝はひとしほである。
時をおき老樹のしづく落つるごと靜けき酒は朝にこそあれ
普通は晩酌を稱ふるが、これはともすれば習慣的になりがちで、味は薄い。私は寧ろ深夜の獨酌を愛する。
ひしと戸をさし固むべき時の來て夜半を樂しくとりいだす酒
夜爲事の後の机に置きて酌ぐウヰスキーのコプに蚊を入るるなかれ
疲れ果て眠りかねつつ夜半に酌ぐこのウヰスキーは鼻を燒くなり
鐵瓶のふちに枕しねむたげに徳利かたむくいざわれも寢む
醉ひ果てては世に憎きもの一もなしほとほと我もまたありやなし
一刻も自分を忘るゝ事の出來ぬ自己主義の、延いて其處から出た現實主義物質主義に凝り固まつてゐる阿米利加に禁酒令の布かれたは故ある哉である。
洋酒日本酒、とり〴〵に味を持つて居るが、本統におちついて飮むには日本酒がよい。
サテ、此處まで書いて來るともう與へられた行數が盡きた。
初め、酒の讚を書けといふ手紙を見た時、我知らず私は苦笑した。なぜ苦笑したか。
要するに私など、自分の好むものにいつ知らず救はれ難く溺れてゐた觀がある。朝飯晝飯の膳にウヰスキーかビールを、夕飯の膳にはまた改めていはゆる晩酌を、といふ風に酒びたりになつてゐる者に果して眞實の酒の讚が書けるものだらうか。
いま一つ苦笑して苦笑の歌數首を書きつけこの稿を終る。
その一。
一杯を思ひきりかねし酒ゆゑにけふも朝より醉ひ暮したり
なにものにか媚びてをらねばならぬ如き寂しさ故に飮めるならじか
醉ひぬればさめゆく時の寂しさに追はれ追はれて飮めるならじか
その二。これは五六年前、腎臟を病み醫者より絶對の禁酒を命ぜられた時の作。
酒やめてかはりに何か樂しめといふ醫者が面に鼻あぐらかけり
彼しかもいのち惜しきかかしこみて酒をやめむと下思ふらしき
癖にこそ酒は飮むなれこの癖とやめむ易しと妻宣らすなり
宣りたまふ御言かしこしさもあれとやめむとは思へ酒やめがたし
酒やめむそれはともあれ永き日のゆふぐれごろにならば何とせむ
朝酒はやめむ晝酒せんもなしゆふがたばかり少し飮ましめ
酒無しに喰ふべくもあらぬものとのみ思へりし鯛を飯のさいに喰ふ
おろか者にたのしみ乏しとぼしかるそれの一つを取り落したれ
うまきもの心に並べそれこれとくらべ𢌞せど酒に如かめや
人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※表題には「讃」、本文には「讚」とある表記の揺れは、統一しなかった。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私は宗教といふものを持たない。また、それを知らない。知るべき機會にまだ遭遇しないでゐるのである。
既成宗教に對する概念も極めて漠たるもので、寧ろ古いお寺とかお宮とか佛像とか、または昔の多くの殉教者たちの傳説などに親しみを感じてゐる位ゐのもので、全く宗教といふことに就いて云々する資格はないのである。
然し斯ういふ心持は或はその宗教といふものに通じてゐるのではあるまいかといふことを折々考へる事がある。それは「歌」に對する私の心情である。
歌に對する私の考へを極く簡單に言ふと、歌は自分を知りたいために詠むもの、守り育てたいために詠むもの、慰め樂しませ勵ますために詠むものと私は思つて居る。
自分の生れて來てゐること、生きて行かうとしてゐること等に氣のついてゐる人は餘り多くあるまい樣におもはれる。多くはたゞ其處に置かれてあるとだけにぼんやりと生きてゐるので、オヤオヤこれが自分か、これが眞實の自分かと自分の姿に對して眼を見張る人すらも少ない樣に思はれてならない。
それに反して歌を求むる心のうちには多少とも確に自分自身といふものに氣づいてゐる心が動いてゐるのを感ずる。また、何か知ら自分の思つてゐることを言ひ現はしてみたいといふ心の下には必ずその「自分」といふものが動いてゐねばならぬ筈である。
斯くして漸く自分といふものゝあるのを知る。さうして其處に見出でた唯一無二の自分といふものに對して次第に親しみを感じ始めるのはこれは自然である。親しみを感ずると共にその自分を一層濁りのないものに、美しいものに、深い大きいものに進めてゆきたい心の起るのもまた自然であるといはねばならぬ。
一首々々と拙い歌を作り重ねて行きつゝあることは、要するにこの自分といふものをもつとよく知らう、もつとよくしようといふねがひから出てゐる樣に私には思はるゝのである。斯ういふ風に言つて來るといかにも概念的に理窟つぽく聞えるのを思ふが、實は無自覺ながらに自づとさういふ傾向をとつて來てゐる樣に思はれてならないのである。
私の曾つて詠んだ一首に、
わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄めるこころか
といふのがある。
まつたく歌に詠み入つてゐる瞬間は、普通の信者たちが神佛の前に合掌禮拜してゐる時と同じな、或はそれより以上であらうと思ふ法悦を感じてゐるのである。
おそらく私はこの歌の道を自分の信仰として一生進んでゆくであらうとおもふ。さうしていま自分の前に横たはつて居る歌の道はいよ〳〵寂しく、そしていよ〳〵杳かに續いてゐるのを感ずるのである。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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生の歡びを感ずる時は、つまり自己を感ずる時だとおもふ。自己にぴつたりと逢着するか、或はしみじみと自己を噛み味つてゐる時かだらうとおもふ。
さういふ意味に於て私にとつては矢張り歌の出來る時がそれに當る樣である。それも、うまく出來て呉れる時である。
歌が思ふ樣に出來る時は萬事萬物すべてが無意味でなくなつて來る。自分を初め、自分の周圍に在るすべてがいきいきと生きて來る。自分を中心としてめい〳〵が光を放つてゐる樣な明るさを感ずる。自分を中心として全てが成り立つてゐる樣な力を感ずる。初めて、我此處に在り、といふ歡びが五體の中に湧いて來るのを感ずる。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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降るか照るか、私は曇日を最も嫌ふ。どんよりと曇つて居られると、頭は重く、手足はだるく眼すらはつきりとあけてゐられない樣な欝陶しさを感じがちだ。無論爲事は手につかず、さればと云つてなまけてゐるにも息苦しい。
それが靜かに四邊を濡らして降り出して來た雨を見ると、漸く手足もそれ〴〵の場所に歸つた樣に身がしまつて來る。
机に向ふもいゝし、寢ころんで新聞を繰りひろげるもよい。何にせよ、安心して事に當られる。
雨を好むこゝろは確に無爲を愛するこゝろである。爲事の上に心の上に、何か企てのある時は多く雨を忌んで晴を喜ぶ。
すべての企てに疲れたやうな心にはまつたく雨がなつかしい。一つ〳〵降つて來るのを仰いでゐると、いつか心はおだやかに凪いでゆく。怠けてゐるにも安心して怠けてゐられるのをおもふ。
雨はよく季節を教へる。だから季節のかはり目ごろの雨が心にとまる。梅のころ、若葉のころ、または冬のはじめの時雨など。
梅の花のつぼみの綻びそむるころ、消え殘りの雪のうへに降る強降のあたゝかい雨がある。櫻の花の散りすぎたころの草木の上に、庭石のうへに、またはわが家の屋根、うち渡す屋並の屋根に、列を亂さず降り入つてゐる雨の明るさはまことに好ましいものである。しやあ〳〵と降るもよく、ひつそりと草木の葉末に露を宿して降るもよい。
わが庭の竹のはやしの淺けれど降る雨見れば春は來にけり
しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
窓さきの暗くなりたるきさらぎの強降雨を見てなまけをり
門出づと傘ひらきつつ大雨の音しげきなかに梅の花見つ
ぬかるみの道に立ち出で大雨に傘かたむけて梅の花見つ
わがこころ澄みてすがすがし三月のこの大雨のなかを歩みつつ
しみじみと聞けば聞ゆるこほろぎは時雨るる庭に鳴きてをるなり
こほろぎの今朝鳴く聞けば時雨降る庭の落葉の色ぞおもはる
家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの讀み始む
障子さし電燈ともしこの朝を部屋にこもればよき時雨かな
など、春の初めの雨と時雨とを歌つたものは私に多くあるが、大好きの若葉の雨をばどうしたものかあまり詠んでゐない。僅かに、
うす日さす梅雨の晴間に鳴く蟲の澄みぬる聲は庭に起れり
雨雲のひくくわたりて庭さきの草むら青み夏むしの鳴く
などを覺えてゐるのみである。
夕立をば二三首歌つてゐる。
飯かしぐゆふべの煙庭に這ひてあきらけき夏の雨は降るなり
はちはちと降りはじけつつ荒庭の穗草がうへに雨は降るなり
俄雨降りしくところ庭草の高きみじかき伏しみだれたり
澁柿のくろみしげれるひともとに瀧なして降る夕立の雨
一日のうちでは朝がいゝ。朝の雨が一番心に浸む。眞直ぐに降つてゐる一すぢごとの明るさのくつきりと眼にうつるは朝の雨である。
眺むるもよいが、聴き入る雨の音もわるくない。ことに夜なかにフツと眼のさめた時、端なくこのひゞきを聽くのはありがたい。
わが屋根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寢ざめて聽けば
あららかにわがたましひを打つごときこの夜の雨を聽けばなほ降る
雨はよく疲れた者を慰むる。
あかつきの明けやらぬ闇に降りいでし雨を見てをり夜爲事を終へ
遠山の雲、襞から襞にかけておりてゐる白雲を、降りこめられた旅籠屋の窓から眺める氣持も雨のひとつの風情である。
山が若杉の山などであつたらば更にも雨は生きて來る。
紀伊熊野浦にて。
船にして今は夜明けつ小雨降りけぶらふ崎の御熊野の見ゆ
下總犬吠岬にて。
とほく來てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ
信濃駒ヶ嶽の麓にて。
なだれたち雪とけそめし荒山に雲のいそぎて雨降りそそぐ
上野榛名山上榛名湖にて。
山のうへの榛名の湖の水ぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ
常陸霞が浦にて。
苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ
平常爲事をしなれてゐる室内の大きなデスクが時々いやになつて、別に小さな卓を作り、それを廊下に持ち出して物を書く癖を私は持つて居る。火鉢の要らなくなつた昨日今日の季候のころ、わけてもこれが好ましい。
廊下に窓があり、窓には近く迫つて四五本の木立が茂つてゐる。なかの楓の花はいつの間にか實になつた。もう二三日もすればこの鳥の翼に似た小さな實にうすい紅ゐがさして來るのであらうが、今日あたりまだ眞白のまゝでゐる。その實に葉に枝や幹に、雨がしとしと降つてゐる。昨日から降つてゐるのだが、なか〳〵止みさうにない。
楓の根がたの青苔のうへをば小さい辯慶蟹の子が二疋で、さつきから久しいこと遊んでゐる。
ゆきあひてけはひをかしく立ち向ひやがて別れてゆく子蟹かな | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年9月7日公開
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003409",
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"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "19 なまけ者と雨",
"副題読み": "19 なまけものとあめ",
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"分類番号": "NDC 914",
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"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "若山牧水全集 第七卷",
"底本出版社名1": "雄鷄社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年11月30日",
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"入力者": "柴武志",
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貧しとし時にはなげく時としてその貧しさを忘れてもをる
ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに
小生の貧困時代は首尾を持つてゐない。だからいつからいつまでとそれを定める由もない。そんな状態であるために殆んどまたそれに對する感覺といふものをも失つて居る觀がある。從つてオイソレとその記憶を持ち出して來ることが困難である。止むなくこれを細君にたづね相談して見た。
流石に彼女にはあの時はあゝであつた、あそこでは斯うであつたといふ相當に生々しい感傷がある樣である。然しそれとても尋ねられたから思ひ出した程度のもので、要するに亭主同樣この永續的貧乏に對しては極めてノン氣であるらしい。
早稻田の學校を出たのはたしか二十四歳であつた。學校にゐる間も後半期は郷里からの送金途絶えがちであつたので半分自ら稼いで過してゐた。學校を出ると程なく京橋區の或る新聞社に勤めた。
月給は二十五圓であつた。社命で止むなく大嫌ひの洋服を月賦で作つたが、ネクタイを買ふ錢がなく、それ拔きで着て出てゐたところ――さうだ、靴をば永代靜雄君のを借りて穿いたのだつた――社の古老田村江東氏が見兼ねて自分のお古を持つて來て結んで呉れた。居ること約半年、社内に動搖があつて七人ほど打ち揃うて其處を出た。そしてまた間もなく同區内の他の新聞社に出ることになつた。ところが前のと違つてどうもその社内の空氣が面白くなく、前社同樣二十五圓の月給をば二箇月分か貰つたが出社して事務をとつたのは僅々五六日であつた。
それから暫く浪人してゐてやがて短歌中心の文藝雜誌『創作』を京橋の東雲堂から發刊する事になつた。編輯を續けること四五ヶ月、漸く雜誌の基礎も定まる樣になると月並で煩雜なその仕事がイヤになり、それをば他の友人に讓つておいて所謂「放浪の旅」に出た。三四年間の豫定で、各地の歌人を訪ねながら日本全國を𢌞つて來ようといふのであつた。
先づ甲州に入り、次いで信州に𢌞つたところ、運わるく小諸町で病氣に罹つた。そして其處の或るお醫者の二階に二ヶ月ほども厄介になつてゐた。出立早々病氣に罹つた事が、いかにも出鼻を挫かれた氣持で、折角企てた永旅もまたイヤになつて東京へ引返して來、當時月島の端に長屋住居をしてゐた佐藤緑葉君の家に身を寄せた。初冬の寒い頃であつた。或日彼の細君から「若山さん、二圓あるとお羽織が出來ますがねエ」と言つて嘆かれた事を不圖いま思ひ出した。その前後であつたのだらう、北原白秋君の古羽織を借りたが借り流しにしたかの事も續いて思ひ出されて來た。
それから再び『創作』の編輯をやることになり、飯田河岸の、砲兵工廠の眞向ひに當る三階建の古印刷所の三階の一室を間借して住む事になつた。あのどろ〳〵に濁つた古濠の上に傾斜した古家屋の三階のこととて、二三人も集つて坐りつ立ちつすればゆらつくといふ實に危險千萬なものであつたが――實際小生が其處を立退くと直ぐその家は壞されてしまつた――その時はさうした變なところが妙に自分の氣持に合つてゐたのだ。その前後が最も小生の酒に淫してゐた頃で、金十錢あれば十錢、五錢あれば五錢を酒に代へ飮んでゐた。イヤ、それだけでなく帽子が酒になり、帶までもそれに變つた。
さうしてその頃小生の詠んでゐた歌は次の樣なものである。
正宗の一合壜のかはゆさは珠にかも似む飮まで居るべし
わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
誰にもあれ人見まほしき心ならむ今日もふらふら街出であるく
其處此處の友は今しも何をして何想ふならむわれ早やも寢む
わだつみの底に青石搖るるよりさびしからずやわれの寢覺は
明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸することのいかにさびしき
寢ざむればうすく眼に見ゆわがいのちの終らむとする際の明るさ
夜深く濠に流るる落し水聞くことなかれ寢ざむるなかれ
かなしくも命の暗さきはまらばみづから死なむ砒素をわが持つ
青海のひびくに似たるなつかしさわが眼の前の砒素にあつまる
あゝした落ちつかぬ朝夕を送つてゐながら斯ういふ小綺麗な歌ばかりを詠んでゐたといふことが今から見るといかにも滑稽の感を誘ふのである。
サテ、斯うして順々に書いてゐたのでは結局一種の自叙傳を書くことになつてゆく。間を端折つて結婚後の事を少し書き添へておきたい。すべて貧乏史の續きならぬはないが、多少その間に色彩の變化がある樣であるからである。
私等が結婚したのは小生の二十八歳の時であつた。當時彼女は新宿の女郎屋の間に在る酒屋の二階を借りて、其處で遊女たちの着物を縫つて身を立てゝゐたので取りあへず其處に同棲する事になつた。謂はゞ亭主が女房の許に寄食した形であつた。小生は小生でその頃休刊してゐた以前からの雜誌『創作』を自分の手で復活經營したく頻りと金を集めることに腐心してゐたのであつた。折も折、其處へ小生の郷里から父危篤の電報が來て九州の日向まで歸らねばならぬことになつた。病氣は中風で次第に永引き、終には其儘眠つてしまつた。かた〴〵で約一年ばかりも郷里に留り、大正二年六月上京して小石川の大塚窪町にさゝやかな一戸を構へた。その時はもう長男が生れてゐた。
其處で或る金主がついていよ〳〵其の雜誌を再興する事になつた。なるにはなつたが、なかなか思ふ樣に成績が擧らず、小生の受くる報酬なども一向に定つてゐなかつた。それに妙に小生の家には來客が多かつた。毎日五人か十人、而も一向にこちらの事にはお察しのつかぬ人たちだつた。小生自身もまた前の頽廢期間の惰力から逃れ得ずに相手さへあれば二日でも三日でも酒に浸つて醒めなかつた。從つて雜誌の方の仕事も進まず金主との間も面白くない、間に在つて唯だもう困るのは細君ばかりであつた。初めに言つた彼女の記憶といふのは概ねこの大塚窪町時代に係つてゐるのも無理ならぬ話である。幸にツイ近所に同じ樣に貧しい友人が住んでゐた。中の一人の若い畫工などは一圓でも二圓でも金が手に入れば必ず先づその一割を以て鹽を買ひ、五分を以て胡麻を買ひ、殘り八割五分の金で米を買つて置く。米と胡麻鹽とさへあれば人間決して死なゝいといふのがこの人の言分であつた。そしてさう言ひながら我等の間には明朝の米今夜の米の貸借が行はれてゐたのである。斯うした貧しい同志が相隣つて住んでゐた事はお互ひにとつて少なからぬ力であらねばならなかつた。
細君はたうとう病氣になつた。つてを求めて雜司ヶ谷に在る或る慈善病院に入れたが、次第に永引きやがて醫師のすゝめで相州三浦半島に轉地した。その頃流石に小生自身も疲れてゐたのでいつそ一緒に行くがよからうと一家して移つて行つた。此處に來ると細君は非常に安らかな氣持になつたらしい。代つて苦しんだは小生である。轉地と共に雜誌も休刊したので、一定の收入といふものから全然離れてしまつた。せつせと書く原稿料とても知れたもので、歌の選科亦然りであつた。歌人仲間が短册會を起して金を拵へ、細君の藥代として送つてよこして呉れたもその時であつた。が、此處でもまた一人貧しい友達が出來た。これは寧ろ我等のあとを追つて移つて來た樣な人たちで、同じく親子三人連で、そして同じく細君は病んでゐた。
この夫婦の貧乏は我等よりもつとひどかつた。「オイ、これをこれだけ借りてゆくよ」と言つて主人公自身、我等の借りてる部屋の隅の炭箱から木炭を一掴み抱へて行つた姿など、今でもまだ眼の前にある心地がする。
三浦を引上げたは大正五年の暮であつた。
そしてその後をなほ語るとすればそれは寧ろ日常生活の貧乏といふより雜誌發行者としての貧窮談になる。即ち多く印刷工場を相手としての苦鬪史である。休刊してゐた『創作』をその年から自分自身の手でまた〳〵再興して今日まで續けて來てゐる道中の話となるのである。
然し、どうしたものか小生には實のところ貧乏といふものがさほどには苦にならない。よくよくの貧乏性に生れて來てゐるのか、その時〳〵ですぐ忘れてしまひ得る幸福な性質を持つてゐるのか、その場はとにかく、その前後などを考ふることに於て、さほどには苦にならない。もう歳も歳だし、子供も大きくなつたし、それに三界無宿の身で、今少し何とか考へねばならぬのだが、考へるつもりではゐるのだが、どうもまだ身にしみて來ない。おしまひまでこれで押してゆくのかも知れない。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
2005年11月14日修正
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今月號の或雜誌に佛法僧鳥のことが書いてあつた。棲むところはきまつてゐて夏のあひだだけ啼く鳥なのかと思つてゐたら、遠く南洋の方から渡つて來て秋になればまた海を渡つて歸つて行く鳥であるさうだ。
私たちの結婚した年であつたから恰度今から十一年前にあたる、武藏の御嶽山に一週間ほど登つてゐた事がある。山上のある神官の家に頼んで泊めて貰つてゐた。ある夜、私は其處の厠に入つてゐた。普通の家のよりずつと廣い厠であつた。良い月の夜で、廣やかな窓から冴えた光がいつぱいに射しこんでゐた。其處へ聞きなれぬ鳥の聲が聞えて來た。何でもツイ厠に近い樹の梢からであつた。
私の癖の永い用を足して自分の部屋に歸つたが、閉め切つた雨戸を漏れてなほその澄んだ聲が聞えて來る。ランプの灯影にぢいつと耳を傾けてゐたが、僅の定つた時をおいて續けさまに聞えて來るその鳥の聲のよさに私はたうとう立ちあがつて戸外へ出た。そしてあの樹であらうと思つてゐた何やら大きな樹の根がたに歩み寄つた。然しその時は其處とは少し離れた他の樹の梢にその聲は移つてゐた。足音を忍ばせてその樹へ近づいて行つたが、それを知つたかどうか、またその先の杉の樹に啼き移つてゐた。毎晩霧の深いに似ず、その夜はまつたくよく晴れて、見渡す峰といふ峰は青みを帶びてくつきりと冴え、眼下の谷を埋めて立ち竝んでゐる杉の一本一本の梢すらも見分けられさうな月夜であつた。其處へその鳥の聲だけがたつた一つ朗かに冴えて響いてゐるのである。鋭いといふでなく、圓みを持つた、寂びた聲で、幾分の濕りを帶びながら、石の上を越え落つる水の樣になめらかに聞えて來るのである。
次第に昂奮した心で私は飽くことなくその聲を追うて山の傾斜の落葉の上を這ひながら立ち込んだ杉の樹の根から根を傳つて行つた。どうかその聲の落ちて來る眞下でとつくりと聽き入りたかつたからである。けれど一聲か二聲を啼き捨てゝは次の樹へ移るこの鳥にはとても追ひつくことは出來なかつた。ほどほどで諦めてぴしよ〳〵の朽葉を踏みながら宿の庭まで歸つて來ると、相變らず月はよく冴え、恰も其の月の夜の山や川の魂でゝもあるかの樣に私にとつては生れて初めて耳にするこの不思議な鳥は澄んで寂しく聞えてゐたのであつた。翌朝、この事を宿の人に訊くと、それは佛法僧ですと教へて呉れた。
驚きと昂奮とが先に立つて私はその時の鳥の聲がどんな風であつたかを明瞭に覺えてゐない。それから數年後のある初夏に山城の比叡山に登り、山上にある古い寺に滯在してゐた時、これによく似た鳥を聞いた。寺の僧に訊くと彼は筒鳥だと答へた。これを聞いたのは多く晝であつた。晝といつても午前三時頃から啼き出すので、谷には雲がおり空には月の冴えたなかに聞いたこともあつたのである。その時に書いた紀行の中にこの鳥のことを斯う書いてゐる。
日が闌けて木深い溪が日の光に煙つた樣に見ゆる時何處より起つて來るのだか、大きな筒から限りもなく拔け出して來る樣な聲で啼きたてる鳥がある。初めもなく終りもない、聽いてゐれば次第に魂を吸ひ取られてゆく樣な、寄るべない聲の鳥である。或時は極めて間遠に、或時は釣瓶打に烈しく啼く。この鳥も容易に姿を見せぬ。聲に引かれてどうかして一目見たいものと幾度も木の雫に濡れながら林深くわけ入つたが終に見ることが出來なかつた。筒鳥といふのがこれである。
この筒鳥といふのが若しかしたら佛法僧ではあるまいかと私は思つてゐる。右に引いたある雜誌には佛法僧の姿を『鳩より心持小さく羽毛全體緑色勝ち、頭は淡黒色、嘴は朱色をして短く末端が少しく曲り、背と腹は緑色、それにコバルト色の冴えた斑があり、翼は碧緑色をして約七寸ばかり、翼と尾の端は黒く濡れ羽色をしてゐる』と記したあとにその啼き聲を書いて『ホツホー、ホーホーホーホー』といふ風に啼くとしてある。これだと私の聞いた筒鳥とよく似てゐるのだ。
然し、いづれにせよこの鳥の啼き聲は到底文字などに書き現せるものではない。聲に何の輪郭がない。まつたく初めもなく終りもない。そしてこの鳥の啼いてゐる間、天も地もしいんとする樣な靜けさを持つた寂びた聲である。
これに似たものに郭公がある。これは『カッコウ、カッコウ』と二聯の韻を持つて啼きつゞける。筒鳥よりも一層寂しく迫つた調子を帶びてゐる。同じく明け方から晴れた日の晝にかけて啼く。降る日は聲が少ない。雨にふさふのは山鳩であらう。
もう一つ、呼子鳥がある。これは一層よく筒鳥に似てゐる。矢張り文字には書けないが、先づ『ポンポンポンポンポン』と云つた風に啼きつゞける。筒鳥より聲も調子も小さく聞える。これは夕暮方によく啼いたとおもふ。
すべて若葉に山の煙るころから啼きそめる鳥である。榛名山に登る時、ずつとうち續いた小松の山の大きな傾斜に松のしんがほのぼのと匂ひ立つてゐるなかに聞いた郭公なども忘られ難い。奧州で豆蒔鳥と呼ぶのはこの郭公のことらしい。
若葉といひ、松のしんといひ、うちけぶつた五月晴の空といひ、そんなことを思ひ浮べると、どうしてもこれらの深山の鳥の啼く聲が身に浸み響いて來てならない。いま手をつけてゐる忙しい爲事を果したら早速三河の鳳來寺山に登るつもりである。この山は古來佛法僧の棲むので名高い山である。身延の奧の院七面山あたりにも啼いてゐることゝおもふ。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
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いちはやく秋風の音をやどすぞと長き葉めでて蜀黍は植う
私は蜀黍の葉が好きである。その實を取るのが望みならば餘り肥料をやらぬ方がよい。然し、見ごとな葉を見やうとならばなるたけ多く施した方がよい。
書齋の窓に沿うた小さな畑に私は毎年この蜀黍を植ゑる。今年はその合間々々に向日葵を植ゑて見た。兩方とも丈の高くなる植物で、一方はその葉が長く、一方はその花が大きい。
一年中さうではあるが、夏は別して私は朝が早い。大抵午前の三四時には窓をあけて椅子に倚る。此頃だともう三時半には戸外がうす明るくなつて來る。そのさやかな東明の微光のなかに、伸びるだけ伸びつくしたこの二つの植物が、一つは黒ずんで見えるまでの青い葉を長々と垂れて立ち、一つは今朝にも咲き出でた樣に鮮かな純黄色の大輪の花を大空に向けて咲いてゐるのを見ると、まつたく眼のさめる思ひがするのである。窓からさした電燈の光で見ると、蜀黍の葉の兩側には點々として露の玉が宿つて居り、なほよく見るとその葉のまんなかどころにちよこなんと一疋の青蛙が坐つてゐる。不思議にこの葉にはこのお客樣が來てゐるものである。
ぢいつとそれらに見入つてゐると、その畑の中から蟋蟀の鳴く音が聞ゆる。もうこの蟲が鳴き出したかと思つてゐると、遠くでは馬追蟲の澄んだ聲も聞えて來るのである。
夏の末、秋のはじめの斯うしたこゝろもちはいかにも佗しいものである。
愛鷹山の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏のをはりとおもふ
明がたの山の根に湧く眞白雲わびしきかなやとびとびに涌く
畑なかの小みちを行くとゆくりなく見つつかなしき天の川かも
沼津の町から私の住んでゐる香貫山の麓まで田圃の路を十町ほど歩いて來ることになる。
をり〳〵町に出て酒を飮む。客と共にすることもあり、獨りの時もある。そしてそれは多くは夜で、その歸りは大抵夜なかの一時となり二時となる。
たゞ獨りして田圃中の路を歸つて來る氣持を私は好む。
歸つて來る路の片側には小さな井手が流れてゐる。ほんのちよろ〳〵とした小ながれにすぎぬが、水は清らかで、水邊には珠數草と螢草とが青々と茂つてゐる。
醉つた身體の重い足取で、その井手のそばに通りかゝると、珠數草の根を洗ひながら流れてゐる水のせゝらぎが耳につく。一度、小用をするか何かでそれに耳にとめて以來、いつか癖となつて通りかかるごとに氣を附ける樣になつたのかも知れぬ。晝間や、用事を持つた時には殆んど忘れてゐる小流が、さうした場合にのみ必ずの樣に耳について來る。
下駄をぬいで揃へてそれに腰をおろす。足は自づと螢草の茂みにだらりと垂れることになるのである。さうして何を見るともなく、聽くともなく、幾らかの時を過す。時としては、一時間前後もさうしてぼんやりしてゐることがある。水の音の靜かなのが身に沁みるのではあらうが、さればとてわざ〳〵それを聽かうとするでもない。たゞさうして醉つた身體を休めて風に吹かれるのが嬉しいのらしい。夜なかの一時二時となるともう人も通らない。廣い田圃のたゞ中に煙草を吸ふのも忘れてさうした時間を送ることは酒の後でなくては出來ず、また夜なかでなくては出來ぬ話である。
野末なる三島の町の揚花火月夜の空に散りて消ゆなり
うるほふとおもへる衣の裾かけてほこりはあがる月夜の路に
天の川さやけく澄みぬ小夜更けてさし昇る月の影は見えつつ
路ばたの木槿は馬に喰はれけり (芭蕉)
この句は私の大好きな句である。延いて木槿の花も好きなものゝ一つとなつた。
秋の來たのを知らせる花で先づ咲き出すのはこの木槿であらう。夏のうちから咲くのであるが、彼の『土用なかばに秋風ぞ吹く』のこゝろもちで、どんな暑い盛りに咲いてゐてもこの花には秋のこころが動いてゐる。紫深い、美しくてさびしい花である。
走り穗の見ゆる山田の畔ごとに若木の木槿咲きならびたり
畑の隈風よけ垣の木槿の花むらさき深く咲き出でにけり | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002620",
"作品名": "樹木とその葉",
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"副題": "22 秋風の音",
"副題読み": "22 あきかぜのね",
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きさらぎは梅咲くころは年ごとにわれのこころのさびしかる月
梅の花が白くつめたく一輪二輪と枯れた樣な枝のさきに見えそむる。吹きこめた北の風西の風がかすかな東風にかはらうとする。その頃になるときまつて私は故のない憂欝に心を浸されてしまふ。
眼をあけてゐるのもいやだが、而かも心の底は明るく冷やけく澄んで居る。爲事のいやになるのもこの頃である。煙草のいゝのを喫ひたくなるのもこの頃である。
あたりの木々も、常磐樹ならば金屬の樣に黒く輝き、落葉樹ならばたゞ明るく靜けく枯れた樣に立つてゐる。根がたの草はみなひとしく枯れ伏してうすら甘いその頃の日ざしを含んでゐる。さうしたなかに一りん二りんと咲き出づる梅の初花を私は愛する。
年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花を今日見出でたり
梅咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
梅の花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに
然し何と云つても春は櫻である。それもお花見場所の埃つぽいのは花のおもひがせぬ。靜かな庭に咲き出でた一本二本、雨の後などとりわけて鮮けく、照り澄んだ日ざしのなかにほくらほくらと散り澄んで輝いてゐるのもいゝ。
夕霽暮れおそきけふの春の日の空のしめりに櫻咲きたり
雨過ぎししめりのなかにわが庭の櫻しばらく散らであるかな
ひややけき風をよろしみ窓あけて見てをれば櫻しじに散りまふ
春の日のひかりのなかにつぎつぎに散りまふ櫻かがやけるかな
さういふうちにも私はほんたうの山櫻、單瓣の、雪の樣に白くも見え、なかにかすかな紅ゐを含んだとも見ゆる、葉は花よりも先に萌え出でて單紅色の滴るごとくに輝いてゐる、あの山櫻である。これは都會や庭園などには見かけない、どうしても山深くわけ入らねばならぬ。
うす紅に葉はいちはやく萌え出でて咲かむとすなり山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれのうへに笑み傾ける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれやすわりてあふぐ山ざくら花
うらうらと照れるひかりにけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002216",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
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"副題": "23 梅の花桜の花",
"副題読み": "23 うめのはなさくらのはな",
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"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
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旅と云つても、ほんの一夜泊の話なのですが――。
私のいま住んでゐます沼津から程近く、六七ヶ所の温泉があります。
なかの吉奈温泉から、病氣でいま此處に來てゐる、おひまならお遊びにおいで下さいませんかといふ思ひがけない手紙がF――さんから來ました。F――さんは我々の歌の社中の人で、そして踊りの師匠として世に聞えた婦人なのです。夙うから病氣入院中の事をば知つてゐたが、もう湯治に出かけられる樣になられたかと喜びながら私は早速家を出て、夕方早くその宿に着きました。
田舍に似合はぬ大きな宿ですが、その最も奧まつた一室が――Fさんの部屋でした。きちんと片附いたなかに思つたよりもなほ元氣よく美しく坐つておゐでゝした。縁側からすぐ小さな池となり、池の向うが築山、築山の向うはもう天然の山で峻しい坂に欝蒼と樹木が茂り、その茂みの中には他處から引かれたのでせう、きれいな岩を傳うて愛らしい瀧となつて流れ落ちてゐました。
少し位ゐなら歩き度いとの事で食事後、打ち連れて近所を散歩しました。宿から一二町も歩くとすぐ眞青な稻田で、稻田の向うに溪が流れてゐました。もう八月に入つてゐましたに何といふ螢の多さだつたでせう、稻田のうへ一面、それこそ歩いてゐる我等の顏にも來てあたりさうに、點りつ消えつ靜かに〳〵まひ遊んでゐるのです。それでゐて私にはたゞ美しいとか見ごとだとかいふより何やらしみじみした寂しいものに眺められたのでした。矢張りもう秋の螢といふ樣な感じが何處かに動いてゐたに相違ありません。螢の話、歌の話など、一つ二つ語り合つてほど〳〵に宿に歸り、やがて私は私の部屋に引き上げました。部屋は築山や池を斜めにF――さんの所と向き合つてゐました。そとから入れば流石に部屋は暑苦しく、一度入つた蚊帳から出て、縁側に腰をかけてゐると、山から降りてくるひやゝかな風、瀧のひゞき……
みじか夜をひびき冴えゆく築庭の奧なる瀧に聽き恍けてゐる
燈火のとどかぬ庭の瀧のおとを獨り聽きつつ戸を閉しかねつ
翌日は半日あまりF――さんの部屋で遊びました。そして、眼前の景物を題に一首二首と詠むことになりました。F――さんにも面白いのが出來たのでしたが、惜しい事にはいま思ひ出せません。
水口につどへる群のくろぐろと泳ぎて鮒も水もひかれり
いしたたきあきつ蛙子あそび恍け池にうつれる庭石の影
まひおりて石菖のなかにものあさる鶺鴒の咽喉の黄いろき見たり
庭石のひとつひとつに蜥蜴ゐて這ひあそぶ晝となりにけるかな | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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或る日の午前十一時頃、書き惱んでゐる急ぎの原稿とその催促の電報と小さな時計とを机の上に並べながら、私は甚だ重苦しい心持になつてゐた。
机に兩肱をついて窓のそとを見てゐると頻りに櫻が散つてゐる。小さな窓から見える間に一ひらか二ひらか、若しくははら〳〵とうち連れて散り亂れてゐるか、その花片の見えない一瞬間だに無い樣に、ひら〳〵、ひら〳〵、はら〳〵と散つてゐる。曇り日の濕つた空氣の中に何となく冷たい感觸を起しながら、あとから〳〵と散つてゐる。割合に古木の並んだ庭さきのその木の梢にはまだみつちりと咲きかたまつてゐるのだが、今日はもう昨日の色の深みはない。見るからにほの白く褪せてゐる。その褪せた花のかたまりの中から限りもなげに小さな花びらが散り出して來るのである。
『今年の櫻もけふあたりが終りかナ。』
さう思ひながら私はたうとうペンを原稿紙の上に置いて立ち上つた。そして窓際の椅子に行つて腰掛けた。見れば窓下の庭も、庭つゞきの畑も、いちめんに眞白になつてゐる。たま〳〵あたりの木等に冷たい音を立てながら風が吹いて來ると、ほんとに眼の前に渦を卷いて花の吹雪が亂れたつのである。
少し身體を前屈みにすると眞白な櫻木立の間に香貫山が見える。その圓みのある山を包んだ小松の木立もこの數日急に春めいて來た、といふより夏めいて來た。山いちめんの小松原の色がありありとその心を語つてゐる。黒みがかつたうへにうす白い緑青を吹いてゐるのである。
何といふことなく私の心は靜かに沈んで行つた。そして頻りに山の青いのが親しくなつた。時計を見るとかれこれ十二時である。あれこれと考へたすゑ、私は椅子を立つた。
茶の間に來て見ると妻は裁縫道具を片づけてゐた。晝飯を待つて兩人の小さな娘はもうちやんと其處に來て坐つてゐる。
『濟まないが、お握りを三つほど拵へて呉れないか、海苔に包んで……』
不思議さうにこちらを見上げた妻は、やがて笑ひながら、
『何處にいらつしやるの。』
と訊いた。
『山に行つてお晝をたべて來やうと思ふ。ウヰスキーがまだ殘つてゐたね。』
その長い壜を取り出して見ると、底の方に少し殘つてゐた。それを懷中用の小型の空壜に移して、坐りもせずに待つてゐると眞黒な握り飯が出來て來た。
『おさいが何もありませんが……』
『澤庵をどつさり、大切りにして入れておいて呉れ。』
それらを新聞紙に包んで抱へながら裏木戸から畑の中へ出た。
畑つゞきにその山の麓まで私の家から五丁と離れてゐないのだ。畑には大抵百姓たちが出てゐた。麥は穗を孕み、豌豆には濃い紫の花が咲いてゐる。附近の百姓家からでも來るのか、そんな畑の中にも櫻の花片の散つてゐるのが見られる。古い寺の裏を通りすぎて登りかゝる道はこの海拔六百六十尺の小山に登る四つ五つの道のうち、最も嶮しい道である。然し、それが私の家からは一番近い。
小山ながら海寄りの平野に孤立して起つた樣な山なので、この頂上からは四方の遠望が利く。北東には眞上に富士が仰がれる。が、その山の形よりその裾野の廣いのを眺めるのに趣きがある。次第高になつてゆく愛鷹と足柄との山あひの富士の裾野がずつと遠く、ものゝ五六里が間は望まれるのである。然し、その日は私は頂上まで行き度くなかつた。其處ではどうしても氣が散りがちであるからだ。そして中腹の、やゝ窪みになつた所に行つて新聞包を置いた。
其處には矢張り他の場所と同じく一面の小松が生えて、松の下には枯草が程よく地を覆うてゐる。よく私の行く所なので多分私が吸ひすてたに相違ない煙草の吸殼などが枯草のかげに落ちてゐる。蜜柑の皮の乾びたのも見えた。其處からは海を見るに都合がいゝ。ことに廣い駿河灣一帶よりも直ぐ眼の下に見える江の浦の細長い入江を見るに恰好な所に當つてゐる。
『やれ〳〵』
何といふ事なく獨り言を言ひながら、私は其處につき坐つた。そして煙草に火を點けた。
入江を越した向うの伊豆の連山には重い白雲が懸つてゐた。上は濃く、下は淡く、そしてその淡いところだけがかすかに動いてゐる樣に見えた。山かげの入江の海はいかにも冷たく錆び果てて、何處をたづねても小波ひとつ立つて居やうとも思はれなかつた。不思議とまた、いつもは必ず二つか三つ眼につく發動船も小舟も一向に影を見せなかつた。入江に沿うたこちら側の長い松原の蔭には萼ばかりが散り殘つてゐる樣な桃の畑が濕り深い空氣の中に氣味惡い赤味を帶びて連り渡つてゐた。
ふところから小さな壜を取り出すと、一二杯續けてウヰスキーを飮んだ。重い曇りの底を吹くともなく吹いてゐる風は、ことに山の上だけに相當に寒かつた。一杯二杯と續けてゐるうちに、ぽつりと冷たいものが額に當つた。氣をつけると袖にも足袋にも小さな雨が降つてゐる。然し眞上の空は青みこそ無けれいかにも明るく晴れてゐるので、私はそのまゝぼんやりと海を見ながら盃をなめてゐた。幾らかづつ𢌞つてゆく酒の醉は次第に心を靜かにし、眼さきを明らかにしてゆくのであつた。
が、終にあたりの葉の深い松の木を探してその蔭に引込まねばならなかつた。急に雨の粒が大きく荒くなつて來たのである。然し、一度落ち着いた心持を撥き立てるほどの降りかたでもなかつた。松の蔭に入ると、惜しいことには海は見えなくなつた。そして、小松のことで、眞直ぐにしやんと坐つてゐることも出來なかつた。前くぐみになりながら片手に持つた小壜の酒は不思議な位ゐ減りかたが遲かつた。壜を持つたまゝ、片手で新聞包を開いて澤庵をつまみ握飯にも手をつけるのだが、それでもなか〳〵盡きなかつた。
次第にあたりの松の葉が濡れて行つた。それ〴〵の小松のそれ〴〵の枝のさきにはいづれにも今年の新しいしんがほの白く伸びてゐる。淡い緑のうへに白い粉を吹いた樣なその柔かなしんのさきにはまた、必ず桃色か紅色の小さな玉が三つ四つづつ着いてゐた。露ほどの大きさで紅色の美しいのもあり、既に松かさの形をして紅ゐの褪せてゐるのもあつた。それに微かに雨がそゝいでゐるのである。また、枯草の中には眞紅なしどみの花が咲いてゐた。濡れた地べたにくつ着いたまゝ、勿體ない清らかな色に咲いてゐる。
帽子のさきに垂れてゐる松の葉のさきからぼつり〳〵と雫が垂りだした。まだ然し羽織の袖は充分には濡れて來ない。幾度かすかして見る壜の底にはまだ少量の酒が殘り、寧ろ海苔の握飯の方が先に盡きかけた。心はいよ〳〵靜かに明るく、あたりの木も草も、眞直ぐに降る山窪の雨の白さも、みな極めて美しい眺めとなつて來た。
『燕!』
私は思はず聲に出して、自分の前の山合にまひ降りてはまた高くまひ上つてゆく小さな鳥に眼をとめた。まつたくそれは今年初めて見る燕の鳥であつた。
『來たなア』
さう思ひながら私は松の蔭に這ひ出して行つた。
一羽、二羽、三羽と續いてその身輕な鳥は眞青な小松の原を渡つてゐるのだ。
幸ひと雨は晴れて來た。急に輝いて見える伊豆の山の白雲の蔭の海の色は山の根だけ日本刀の峰などに見る青みを宿し、片側の廣い部分にはさら〳〵として細かな波を立て始めてゐた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002218",
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"副題": "25 或る日の昼餐",
"副題読み": "25 あるひのちゅうさん",
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"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
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武藏から上野へかけて平原を横切つて汽車が碓氷にかゝらうとする、その左手の車窓に沿うて仰がるゝ妙義山の大岩壁は確かに信越線中での一異景である。丁度そのあたり、横川驛で機關車は電氣に代る。そして十分か十五分の停車時間がある。辨當賣の喧しい聲々の間に窓を開いて仰ぐだけに、空を限つて聳え立つたこの異樣な山の姿が一層旅心地を新たにする樣だ。
驛から發車して間もなく、同じ左手にかなり強い角度を以て碓氷川へ傾斜してゐる桑畑か何ぞの中に坂本といふ舊い宿場が見下さるゝ。今は横川驛の影響でゝもあるか、幾らか賑つて居る樣に見ゆるが、まだ汽車が蒸氣機關車の煤煙と共に碓氷の隧道に走り入つてゐた頃は、まるで白晒れた一本の脊髓骨の捨てゝある樣な、荒れ果てた古驛であつた。明治四十一年の眞夏、私は輕井澤を午後に立つて碓氷の舊道を歩いて越え、日沒頃にその坂本に入つた。碓氷峠を挾んで西と東、輕井澤と共に昔の中山道では時めいた宿場だつたに相違ない其處なので一軒位ゐはあるであらうとあてにして來た宿屋がまるで無かつた。ただ一軒、蔦屋といつたと思ふ、木賃宿があつた。爺さんと婆さんとに一度斷られたのを無理に頼んで泊めて貰ふことになつた。
酒を取つて來て貰つたが酸くて飮めない。麥酒を頼んだが、そんな物はないといつて取合はない。せめて葡萄酒でもと今度は自分で探しに出たが、全く何も無かつた。そして代りに燒酎を買つて來た。酸くないだけでも遙かにましであつた。夏も火を斷たぬ大圍爐裡で爺さんを相手に飮んで床に入つた。宿は爺婆だけで、他に誰もゐなかつた。息子も娘もあるのだが、土地には何もする用がないので皆出稼ぎに行つてゐるのださうだ。
ほんのとろ〳〵としたと思ふと眼が覺めた。湧く樣な蚤の襲撃である。一度眼が覺めたと共にもうどうしても眠れない。時計を見るとまだ宵の口だ。私は戸をあけて、月の出た石ころ道を少し歩き下つてまた燒酎を買つて來た。も少し醉つて眠らうとしたのである。
翌朝、まだ月のあるうちにその宿を立つた。そして近道をとつて妙義山へ登らうとした。一度碓氷川を渡つて少しゆくと、また一つの谷を渡らねばならなかつた。其處には橋が流れ落ちてゐた。二三日前の豪雨のためで、まだ其時の水量が相當に殘つてゐた。殘りは爺さんの置土産にしようと思つて買つて來た燒酎をあらかた私は飮んでしまつてゐたので、其頃もまだ充分に醉つてゐた。普通ならばあと戻りをしたであらうが、その醉が躊躇なく私を裸體にした。そして頭に着物と荷物とを押し頂いて、しかも下駄を履いたまゝその谷川の瀬の中へ入つて行つた。
山谷の事で、流の中に隱れてゐる石は二抱へ三抱への荒石ばかり、少年の頃の經驗からその岩の頭を拾つて足を運ばうとしてゐたのであつたが、洪水の名殘は思ひのほかに激しく、僅か七八歩も踏み出したと思ふと、忽ち私は途方に暮れた。そして自信力の失せると共に、何の事もなく私は横倒しに倒れてしまつた。倒れたまゝ三四間が間くる〳〵と押し流された。辛うじて瀬の中に表れた大きな岩と岩との間に踏み止つた時には、私の手には帶でくるんだ着物だけが僅かに殘つてゐた。書籍手帳其他を入れた手馴の旅行袋も、帽子も下駄も、面白い勢ひで二三間さきをくる〳〵と流れて行きつゝあつたが、もう手を出す勇氣は無かつた。見れば其處から七八間下を碓氷川の本流が中高に白渦を卷きながら流れて下つてゐた。其處まで落ちてゆけば、荷物はおろか、自分自身の運命も大抵想像出來るのであつた。
這ひ上つた岩は自分の渡らうとした向う岸に近かつた。必死の覺悟で、再び流の中に入つてゆくと、速く下駄をぬげばよかつたと悔まれたほど、意外に樂に渡り上ることが出來た。渡り上ると共に濡れた着物を乾かす智慧も出ず、長い間私は石の上につき坐つて息を入れた。そして束ねたまゝで雫の垂れるそれを着て――財布と時計とが袂の中から出て來たのが無闇に嬉しく勇氣をつけて呉れた――とぼとぼと歩き出した。
其處は妙義の麓の、かなり深い雜木林に當つてゐた。雨のあとの、それでなくとも濕つぽい林の中の道を濡れそぼたれた白地の浴衣で、下駄も履かず、ぴしや〳〵ぴしや〳〵歩いてゆく姿は、われながら年若いあはれな乞食を想はせられた。幸ひに人に逢はなかつたが、半道も歩いた頃、向うから大きな笊を提げて來る年寄の百姓を見た。初め彼は氣がつかなかつたが、行き違はうとする頃になつて私の姿を見て喫驚した。お互ひに默禮して行き違ひさまに見るとその笊には桃がいつぱい入れてあつた。何の氣なく行きすぎたが、私は急にその爺さんに聲がかけて見度くなつた。そして、其儘振返つて見ると、爺さんも丁度こちらを見やうとした所であつた。
『ア、ちよつと、お爺さん!』
爺さんは明らかにびくりとした。が、流石に私の聲を聞いて走り出すまでにはならなかつた。返事はしなかつたが、立止つて不安さうに振返つた。
『その桃を二つ三つ賣つて呉れませんか。』
さう言ひながら、二三歩私は歩き戻つた。
『桃かね。』
爺さんもさう言つて、無理に笑はうとした。
『今朝、宿屋で御飯を待たずに出て來たのでおなかがすいて困るのです。それに、其處の谷で斯んなになつて……』
袂をあげて見ると、まだしと〳〵と濡れてゐた。
『ハヽア、さうかね、其處の谷でかね……』
爺さんの聲も漸く落ちついて來た。そして私が財布をとり出すと、
『二つ三つなら錢はいらねエ、たゞ上げますべえよ。』
と齒の無い、皺深い顏で、ニコ〳〵と笑ひながら片手で桃を掴んで呉れた。
『いゝえ、それぢア困る……、ではこれだけ取つといて下さいな。』
つまみ出した十錢銀貨もまだ露つぽかつた。
『うゝん、そんなにヤいらねエ、おつりもねエ。』
爺さんは惶てゝ手を振つた。
『ではもう二つこれを下さい。』
と手づから私は桃を取つた。そして、何といふことなく爺さんを其處に呼びとめておく事が氣の毒になつたので、
『どうも難有う、お蔭で元氣が出ましたよ、左樣なら!』
と帽子のない頭を下げながら、急ぎ足に歩み出した。爺さんはなほ暫く立つてゐたが、やがてこれも、あちら向きにしよぼ〳〵と歩き出した。
私は惶てゝ一つの桃に齒をあてた。大口に噛み缺かれた桃の頭は、實に滴る樣な鮮かな紅ゐの色をしてゐた。全く打ち續けてその汁を啜り取る樣に私は口をつけた。
一つ二つと夢中に噛んで、ひよつと上を見るといつか疎らになつた林の眞上いつぱいに例の妙義の岩山が眞黒い樣に聳え立つてゐるのが見えた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002219",
"作品名": "樹木とその葉",
"作品名読み": "じゅもくとそのは",
"ソート用読み": "しゆもくとそのは",
"副題": "26 桃の実",
"副題読み": "26 もものみ",
"原題": "",
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"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
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"底本出版社名1": "雄鷄社",
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くもり日は頭重かるわが癖のけふも出で來て歩む松原
三月××日
千本松原を詠んだなかの一首に斯んな歌があつたが、けふもまたその頭の重い曇り日であつた。朝からどんよりと曇つてゐた。
非常に急ぎの歌の選をやつてゐたが一向に氣が乘らない。五首見て一ぷく、十首見ては一服と煙草ばかり吸つていつの間にか晝近くなつてゐたところへ、近所の服部さんの宅から使が來た。庭の紅梅が過ぎかけたから見にいらつしやい、一緒にお晝をたべませうといふ事である。赤インキのペンをさし置いて早速立ち上つた。そして使の人の歸つて行くうしろからてく〳〵と歩いて行つた。
紅梅はまだ眞盛りであつた。かなりの老木で、根もとから直ぐこま〴〵と八方に枝を張り渡した、丈の餘り高くない木にいちめんに咲いてゐる。花もまた枝と同じくこま〴〵と小さく繁く咲いてゐるのである。花の向うには低い杉の生垣、生垣を越しては直ぐ香貫山の麓が見える。全山こと〴〵く小松原であるこの山も麓の方には稀に櫟林や萱の原がある。紅梅を見越しての麓の原はちやうどその櫟の林となつてゐた。まだ落ちやらぬその木の枯葉の背景が、その紅ゐの花をひどく靜かなものに見せてゐる樣であつた。紅梅のめぐりには尚ほ四五本の白梅が半ば散りかけて立ち竝んでゐる。
お晝は目下伊豫の松山から來訪中で、近く此家の主人と結婚さるべき櫻井八重子孃の手料理であつた。障子をあけ放つには少々寒さのきびし過ぎる今日の日和であるだけに、温い酒の味は一層であつた。少し健康を害して暫く東京より歸郷中である主人公にはお構ひなく、私は殆んど手酌で手早く杯を重ねて行つた。
その書齋には犬養木堂翁の額がかゝつてゐた。國民黨宣傳部理事である人の書齋に翁の筆のあるのは當然として、またその筆致のよしあしは別として、私にはその文句が目についた、たゞ大きく『不惑不懼不憂』と書いてある。その靜かな境地を思ひ浮べながらその事を言ふと、イヤそれはこれを書いた當人と思ひ合せるとなほ一層この言葉が生きて來るといふことであつた。さう答へながら服部さんは『さうだ、古奈の犬養さんの別莊に或る軸物の箱書が頼んであるんだが、食事が濟んだらそれを受取りかた〴〵古奈まで遊びに行つて見ませんか。そして其處の温泉に一つ入つて來ませう、犬養さんは來てゐませんが兎に角もう出來てる筈です、行つて見ませう、八重さんも行きませんか。』
と言ひ出した。
一先づ沼津の町へ出て、其處から自動車で古奈に向つた。里程三四里、程なく二升庵の門前に着いた。小さな岡の根に、高田早苗、鈴木梅四郎兩氏の別莊と相竝んで名前は前から知つてゐたこの二升庵は在るのであつた。まだ附近の開けなかつた昔、米二升さへ持つて來れば誰でも泊めるといふのでこの珍しい庵の名はつけられたものださうだ。
箱書は出來てゐた。蓋には漢文で、由來箱書などは卑俗な茶人共の爲す業である、それを自他ともに新人を以つて許す服部純雄君が求めてくるとは以つての外の話である、大隈侯病篤しと稱へられ余もまた病褥にある日、といふ風な事が細字で認められてあつた。
甚だ失禮だとは思ひながら、この留守宅の湯殿に滾々と湧いてゐる温泉に身を浸した。彼の老政治家が何か事を案ずる際には常に人目を避けてこの別莊に籠ると云ふ。必ずこの湯槽の縁の石に頭を凭せて靜かに思ひを纒めらるゝに相違ないなどと思ふと、同じ温泉でもこの清らかな湯がよそならぬものゝ樣に思ひなされて、たゞ靜かにたゞつゝましく浸つてゐた。
やがて待たせてあつた車に乘つて、夕闇の降りて來た下田街道を徐ろに走らせた。道は田圃の中にあつて、直ぐ且つ平かである。湯上りのつかれごころで三人とも多く無言のまゝの車の窓に、近く右手に赤々とうち廣がつた野火のほのほが見渡された。箱根山の枯草を燒くものである。
四月×日
東海道五十三次のうち丸子の宿はとろゝの名物と云ふことをば古い本でも見、現在でも作つてゐることを人から聞いてゐた。そのとゝろ汁が私は大の好物である。あまり暖くならぬうち一度是非行つて見たく、ついでに其處の宇津の谷峠をも越えて見たいと思ふうちにいつか桃の花が咲いて來た。ぐづぐづしてはゐられないと急に思ひ立つて、其の頃私の宅に來て勉強してゐた村松道彌君を連れ朝まだ月のある頃に沼津の町を過ぎて千本松原に入り込んだ。松原の中に通じてゐる甲州街道をずつと富士川まで歩いて行かうといふのである。どうしてこの松原の中の道を甲州街道と云ふか、或はまだ東海道の出來ぬ以前に此處にこの道があり、末は駿州から富士川にでも沿うて甲州の方へ入つてゐたものかも知れぬ。兎に角現在の汽車道は昔の東海道に沿ひ、その東海道は沼津から富士川の岸に到るまで三四里の間この千本松原に沿うてゐる。そしてその松原の中に細々として甲州街道と稱へらるゝこの小徑がついてゐるのだ。街道とは名ばかりで、ほんの漁師共の通ふにすぎぬものではあるが、五町十町と私はこの松原の蔭を歩くのが好きであつた。そしていつかこの小徑のはづれまで、言ひかへれば富士川の川口で盡きてゐる松原のはづれまでぼつぼつと歩いて見度いものと思つてゐた。名物の名殘を喰ひに今は亡んだ宿場まで出かけるならいつそ汽車をよして歩くがよく、歩くならば月竝な東海道を歩くよりこの人知れぬ廢道を行つた方がよからうと云ふ兩人の間の相談からではあつたが、要は靜かな海岸沿ひの長い〳〵松原を歩き盡したいといふにあつた。
松原に入つた頃はまだ薄暗かつた。松はたゞしつとりと先から先に立ち竝んで、ツイ左手近く響いてゐる浪の音もあるかなしかの凪ぎである。やがて空の明るむにつれて、高々と枝を張つてゐる松の梢を透して眞白な富士が見えて來た。そして同じくその右手の松の根がたに低く續いた紅ゐの色が見え出した。今を盛りに咲き揃つた桃の畑である。松原の幅は百間から二百間、その間にほゞ中央にではあるが、時には右寄り左寄りに我等の歩く徑が通じてゐる。その徑の都合で深い木立を透して花を望むことにもなり、時には松原から出て眞向ひにこの美しい畑と相向ふことにもなる。畑の幅もおほよそ二三町のもので、それが續きも續いたり、松原の見ゆる限りは同じ樣にこの燃え立つた花の畑が東西にかけてうち續いてゐるのである。一體に靜浦沼津から原にかけ、桃の名所と聞いてゐたが、斯うまであらうとは思はなかつた。花がなければ桑の畑も同じに見ゆるので、今まで氣がつかなかつたものであらう。何しろ、この松をとほしての桃の花見は今日の旅に思ひがけぬ附録なので、兩人とも早や何とならぬ旅めいた浮かれ心地になつて松原の中の徑を急いだ。
が、何しろ濱の松原である。歩いてゐる小徑はすべて濱から續いた石ころ道で、しかも砂氣のない拳大の小石ばかりが揃つてゐる。初めは快く歩き出したものゝ、ものゝ一里も歩いて來ると早や草鞋の裏が痛くなつた。『濱へ出て見ようか』と言ひながら松原を左に拔けて、白々とした荒濱に出て見ると駿河灣の輝きが眼の前にあつた。麗かな日ざしに照らされた海面からは靄とも霞ともつかぬものがいちめんに片靡きに湧き立つて、左手向うに突き出てゐる伊豆半島の根にかけうつすらと棚引いてゐる。それと向ひ合ふ筈の御前崎のあたりは全く霞み果てゝ影も見えず、僅かに手近の三保の松原が波の光の上に薄墨色に浮んで見える。ちら〳〵と寄する小波も全くこんな大海の岸であるとは思はれぬ凪である。見てゐる瞳は自づと瞑ざされ吐く呼吸は自づと長く、いつか長々と身體をも横たへたい氣持となる。
また松原の中の小徑に歸つて歩き出したが、桃の花は相變らず其處に美しく見えてゐるが、兎に角に痛い足の裏である。なまなかにいま投げ出して休んだだけ、一層に痛みを感じ出して來た。終に我を折つて桃畑の向うに町の家並の見え出したを幸ひにそちらへ向けて松原から出てしまつた。そしてその町の取つ着きから平坦を極めた廣やかな大道を伸び〳〵として歩き出した。即ち其處は五十三次のうち沼津の次に當る原の宿であつたのだ。
一筋町の細長い其處を離れると、いよ〳〵廣重模樣の松並木が道の兩側に起つて來た。並木を通して右手眞上には富士、左には今までと反對に桃畑を前にした松原が見えてゐる。道のよさに歩みも早く、いつか鈴川近くなつたが、おほかた田子の浦はこの邊に當ると聞いてゐたので道を左に折れ、この邊よほど木立の疎くなつた松原を拔けて濱へ出て見た。濱の砂は先程休んだあたりの小石原と違つてこまかい眞砂であつた。そして濱はずつと廣くなつてつぎ〳〵に低い砂丘が起伏して居る。松原つづきの小松が極めてとび〳〵にそれらの砂丘に散らばり、所によつてはそれとも見えぬ痩麥が矢張り畝をなして植ゑられてゐた。一帶の感じが何となく荒涼としてゐて、田子の浦といふ物優しい名の聯想とは全く異つてゐるのを感じた。振向くと見馴れた富士の姿も沼津あたりとは違つて距離も近く高さも高く仰がるゝのであつた。傍へに富士川があり、前にこの山を仰ぎ背後に駿河灣を置いた眺めは太古にあつては一層雄大なものであつたに相違ないと思はれた。
思はず長い時間を其處で費し、また街道に出て暫く行くと道はやゝに海岸を離れて愛鷹山の根に向ふ形になる。そしてその向うに吉原宿の町が見えてゐる。なるほど此處では廣重の繪の左富士を想はす角度にその山を仰ぐのであつた。然し、我等は吉原には行かず、鈴川驛から汽車で富士川を渡り、蒲原の宿で降りて、またてく〳〵と歩き出した。
蒲原から由比にかけては道は直ちに海に沿うた山の根をゆくのであつた。海岸には土地名物の櫻海老がうす赤く乾し並べられ、山には一帶に植ゑ込まれた蜜柑畑の間に、とび〳〵に山櫻が咲いてゐた。由比を出拔くる時、惜しい事に薩陀峠の舊道を越すのを忘れて、汽車沿ひの磯端を歩いてしまつた。そして汽車の隧道のあるあたりでは、浪打際に降りて手を洗つたり貝を探したりして戲れた。
今日は興津泊りの豫定であつたが、先づ其處の園藝試驗場に知人を訪ねてみると伊豆の方へ旅行して留守だといふので、まだ日は高いしいつそ靜岡まで伸して置かうと急ぎ足に宿はづれの清見寺に詣で、早速汽車に乘つてしまつた。日は高くとも、もう脚の自由はきかなくなつてゐたのだ。
靜岡驛を出ると細かい雨が降つてゐた。思ひがけぬ事であつたが、惡い氣持はしなかつた。驛前通りの宿屋によつて、湯上りの勞れた脚を投げ出しながらちび〳〵酒を呑んでゐると、雨はいよ〳〵本降りになつて來た。丁度宿屋の前に何やらの神社があつて四五本の櫻がその庭に咲き綻び、しよぼしよぼと雨に濡れ、まだうす明るい夕方の灯に映つてゐる眺めなど、何だか久しぶりに旅に出てゐる樣な氣持を誘つて自づと銚子の數を増して行つた。
遲い夕飯を終つた頃、幸ひ雨間となつてゐたので出て七間町あたりを彷徨ひ、カフエーパウリスタといふ名を見附けて其處へ寄つた。ひどく醉つた末、明朝訪ねるつもりであつた法月俊郎君方に電話をかけると、彼は驚いて弟浩二君と共に其處へやつて來た。そして更に一杯飮み直し、十二時すぎて宿に歸つた。
朝眼が覺めるとばしや〳〵といふ雨の音である。どうしやうかと、枕のまゝで永い間村松君と今日の事やら無駄話をしてゐたが、幾らかづつ明るんで來る空を頼みに、豫定通りに出懸けることにきめた。法月君方に立寄つたが、濡草鞋を解くがめんだうさに店先に立話をして別れて行かうとすると、それでは私も丸子まで出かけませう、幸ひその側に吐月峯がありますから其處へも寄つて見ませうといふ。吐月峯とは可笑しな名だと思ひながら問ひかへすとさういふ名のお寺で、もとその寺から例の灰吹を作り始めたとかいふことだといふ。
びしや〳〵と三人雨の中を歩き出したが、明るむどころかます〳〵ひどい降りである。我等はどうせ濡れる覺吾の尻端折だが、足駄ばき長裾の法月君にはいかにも氣の毒であつた。名物の安倍川餅屋が安倍川橋の袂にあつて、大きな老木の柳のみどりがその門におほらかにそよいでゐた。法月君にすすめられたが、先づ〳〵先きの芋汁を樂しみに餅だけは割愛する事にして橋にかゝつた。隨分長い橋である。横飛沫の傘の蔭から見る川上の方に、これもこの邊の名所の木枯の森といふのが川原の中に見えた。
歩くこと二里ばかり、丸子の宿は低い藁屋の散在してゐる樣な古驛であつた。宿はづれの小川の橋際に今は唯だ一軒だけで作つてゐるといふとろゝ汁屋にとろゝを註文しておいて其處から右折、四五町して吐月峯に着いた。先づ小さな門を掩うてゐる深々しい篁が眼についた。そしてその篁の蔭には一二本づつの椿と梅とが散り殘つて、それに幾羽とない繍眼兒が啼き群れてゐた。門を入ると、泉水から續いた裏の山に山櫻の大きいのが二本ばかり、二分三分咲きかけてゐるのが見えた。花も莟もいいが、ことに雨に濡れていよ〳〵柔らかな薄紅色にそよいでゐる若葉が何ともいへず美しかつた。法月君と知合らしい住職は留守であつたが、通された部屋で暫く休んだ。寺とは云つても謂はゞ庵で、造りも小さく、年代も餘程古寂びてゐた。土地の有志たちは目下この由緒ある建物のすたれるのを惜んでとり〴〵に修繕費募集中であるさうだ。
庭も同じく小さなものであるが如何にも靜かに整つた寂びたものであつた。一帶の造りが京都の銀閣寺の庭に似てゐるのでその事を法月君に話すと、この庵を結んだ人は足利義政に愛せられた人で、現に庭先を圍んでゐる篁の竹などもわざ〳〵嵯峨から持つて來て植ゑたものなのださうだ。かすかに池に音を立てゝ降り頻つていゐる雨を、またその雨の中に折々忍び音に啼いてゐる小鳥を聽いてゐると、もうとても宇津の谷峠を越して行く氣分がなくなつてしまつた。
先のとろゝ汁屋に歸つてその名物を味つた。とろゝ屋と云へばよく聞えるが實際は一膳飯屋が好みに應じて作るとろゝ汁なのである。それにもう季も過ぎてゐるし、確かに名物に何とやらの折紙ではあつたが、ツイ窓際近く迫つてゐる山に白雲の去來するのを眺めて一杯二杯と重ねてゆく地酒の味と共に矢張り拙いと言ひ切ることの出來ぬものではあつた。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002220",
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"副題": "27 春の二三日",
"副題読み": "27 はるのにさんにち",
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一週間か十日ほどの豫定で出かけた旅行から丁度十七日目に歸つて來た。さうして直ぐ毎月自分の出してゐる歌の雜誌の編輯、他の二三雜誌の新年號への原稿書き、溜りに溜つてゐる數種新聞投書歌の選評、さうした爲事にとりかゝらねばならなかつた。晝だけで足らず、夜も毎晩半徹夜の忙しさが續いた。それに永く留守したあとのことで、訪問客は多し、やむなく玄關に面會御猶豫の貼紙をする騷ぎであつた。
或日の正午すぎ、足に怪我をして學校を休んでゐる長男とその妹の六つになるのとがどや〳〵と私の書齋にやつて來た。來る事をも禁じてある際なので私は險しい顏をして二人を見た。
『だつてお玄關に誰もゐないんだもの、……お客さんが來たよ、坊さんだよ、是非先生にお目にかかりたいつて。』
坊さんといふのが子供たちには興味を惹いたらしい。物貰ひかなんどのきたない僧服の老人を想像しながら私は玄關に出て行つた、一言で斷つてやらう積りで。
若い、上品な僧侶が其處に立つてゐた。あてが外れたが、それでもこちらも立つたまゝ、
『どういふ御用ですか。』
と問うた。
返事はよく聞き取れなかつた。やりかけてゐた爲事に充分氣を腐らしてゐた矢先なので、
『え?』
と、やや聲高に私は問ひ返した。
今度もよくは分らなかつたが、とにかく一身上の事で是非お願ひしたい事があつて京都からやつて來た、といふ事だけは分つた。見ればその額には汗がしつとりと浸み出てゐる。これだけ言ふのも一生懸命だといふ風である。何となく私は自分の今迄の態度を恥ぢながら初めて平常の聲になつて、
『どうぞお上り下さい。』
と座敷に招じた。
京都に在る禪宗某派の學院の生徒で、郷里は中國の、相當の寺の息子であるらしかつた。幼い時から寺が嫌ひで、大きくなるに從つていよ〳〵その形式一方僞禮一點張でやつてゆく僧侶生活が眼に餘つて來た。學校とてもそれで、父に反對しかねて今まで四年間漸く我慢をして來たものの、もうどうしても耐へかねて昨夜學院の寄宿舍を拔けて來た。どうかこれから自分自身の自由な生活が營み度い。それには生來の好きである文學で身を立て度く、中にも歌は子供の時分から何彼と親しんでゐたもので、これを機として精一杯の勉強がしてみたい。誠に突然であるけれど私を此處に置いて、庭の掃除でもさせて呉れ、といふのであつた。
折々斯うした申込をば受けるので別にそれに動かされはしなかつたが、その言ふ所が眞面目で、そしてよほどの決心をしてゐるらしいのを感ぜぬわけにはゆかなかつた。
『君には兄弟がありますか。』
『いゝえ、私一人なのです。』
『學校はいつ卒業です。』
『來年です。』
『歌をばいつから作つてゐました。』
『いつからと云ふ事もありませんが、これから一生懸命にやる積りです。』
といふ風の問答を交しながら、どうかしてこの昂奮した、善良な、そしていつこくさうな青年の思ひ立ちを飜へさせようと私は努めた。別に歌に對して特別の憧憬や信念があるわけでなく、唯だ一種の現状破壞が目的であるらしいこの思ひ立ちを矢張り無謀なものと見るほかはなかつたのだ。
然し、青年はなか〳〵頑固であつた。永い間考へ拔いて斯うして飛び出して來た以上、どうしても目的を貫きます、先生が許して下さらねばこれから東京へなり何處へなり行きます、と言ひ張つてゐる。
私は彼を散歩に誘うた。初めはほんのかりそめごとにしか考へなかつたのだが、あまりに彼の本氣なのを見ると次第にこちらも本氣になつて來た。そしていろ〳〵自宅の事情を聞き、彼の性質をも見てゐると、どうしても彼を此處で引き止めねばならぬ氣になつて來た。氣持を變へるため、散歩をしながら若し機會があつたら徐ろにそれを説かうと、出澁ぶるのを無理に連れだつて、わざと遠く千本濱の方へ出かけて行つた。
其處に行くのは私自身實に久しぶりであつた。松原の中に入つてゆくと、もう秋といふより冬に近い靜けさがその小松老松の間に漂うてゐた。海も珍しく凪いでゐた。入江を越えた向うには伊豆が豐かに横はり、炭燒らしい煙が二三ヶ所にも其處の山から立昇つてゐるのが見えた。
砂のこまかな波打際に坐つて、永い間、京都のこと、其處の古い寺々のこと、歌のこと、地震のこと、それとはなしにまた彼の一身のことなどを話してゐるうちに、いつか上げ潮に變つたと見えて小波の飛沫が我等の爪先を濡らす樣になつた。では、そろ〳〵歸りませうか、と立ち上る拍子に彼は叫んだ。
『ア、見えます〳〵、いいですねヱ。』
と。先刻からまちあぐんでゐた富士が、漸くいま雲から半身を表はしたのだ。昨夜の時雨で、山はもう完全にまつ白になつてゐた。
『ほんたうにいゝ山ですねヱ、何と言つたらいゝでせう。』
私はそれを聞きながら思はず微笑した。漸く彼が全てを忘れて、青年らしい快活な聲を出すのを聞いたからである。
歸つて來ると、子供たちが四人、門のところに遊んでゐた。そして、
『ヤ、歸つて來た〳〵。』
と言ひながら飛びついて來た。一人は私に、一人はその若い坊さんに、といふ風に。
『なぜ斯んな羽織を着てんの?』
客に馴れてゐる彼等は、いつかもうその人に抱かれながらその墨染の法衣の紐を引つ張り、斯うした質問を出して若い禪宗の坊さんを笑はすほどになつてゐた。
その翌朝であつた。日のあたつた縁側でいま受取つた郵便物の區分をしてゐると、中から一つの細長い包が出て來た。そしてその差出人を見ると、私は思はず若い坊さんを呼びかけた。
『これは面白い、昨日君に話した比叡山の茶店の老爺から何か來ましたよ、また短册かな。』
さう言ひながらなほよく見ると、表は四年も昔に引越して來た東京の舊住所宛になつてゐる。スルト、こちらに越して來てから一度の音信もしなかつたわけである。中から出たのは一枚の短册と一本の扇子であつた。
短册には固苦しい昔流の字で、
『うき沈み登り下りのみち行を越していまては人のゆくすゑ、粟田』
と書いてある。粟田とは彼の苗字である。變だなア、といひながら一方の扇子を取つて見ると何やら書いた紙で包まれてある。紙には矢張粟田爺さんの手らしく、
『失禮ながら呈上仕候』
とある。中を開いてみると、
『粟田翁の金婚式を祝ひて』
といふ前書きで、
『茶の伴や妹背いそちの雪月花、佳鳴』
と認めてある。
『ホホオ!』
私は驚いた。
『あのお爺さん、金婚式をやつたのかね。』
『ヘヽエ、もうそんなお爺さんですか、でもねエ、よく忘れずに斯うして送つて呉れますわネ。』
いつか側に來てゐた妻も斯う言つた。
さうすると短册の、『うき沈み…』も意味が解つて來る。念のために裏をかへしてみると、『大正十二年』と大きく眞中に書いて、下に二つに割つて『七十六歳、六十五歳』と並べて書いてあるのであつた。
大正七年の初夏であつた。私は京都に遊んで、比叡山に登つてすぐ降りて來るといふでなく、暫く滞在したい希望で、山上の朝夕をいろいろ心に描きながら登つて行つたのであつた。登りついたのは夕方で、人に教はつてゐた通り、大勢の人を泊めて呉れるといふ宿院といふに行き、取次に出た老婆に滞在のことを頼んだ。ところが老婆の答は意外であつた。今はたゞ一泊の人を泊めてあげるだけで、滞在の人は一切泊めることはならぬ規則になつてゐるのぢや、といふのだ。イヤ、今までよく滞在させて貰つたといふ話を聞き、その積りで登つて來たので是非さうして貰ひたい、と頼むと、今までは今までや、ならんといふたらならんのぢや、といふ風で、まご〳〵するとその夜の泊りも許されまじい有樣となつた。止むなく、私はどうか今夜だけ、と頼んで漸く部屋に通された。老婆がその通り、給仕に出た小僧も亦た不愉快千萬な奴で、遙々樂しんで來たこの古めかしい山上の幻の影は埓もなくくづれてしまつた。
で、翌朝夜があけるのを待つて宿院を出た。すぐ下山しようとしたが、斯んな風では恐らく二度とこの山に登る氣にもなれまい、來たを幸ひ、普通一遍の見物だけでもやつて行かうと踵を返して、根本中堂からずつと奧の方へ登つて行つた。當山の開祖傳教大師の遺骨を納めてあるといふ淨土院へゆく路と四明ヶ嶽へ行く路との分れ目の所に一軒の茶店のあるのが眼についた。その時のことを書いておいたものがあるのでその文章を此處に引いて見よう。
ちやうど通りかかつた徑が峠みた樣になつてゐる處に一軒の小さな茶店があつた。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れてゐて、覗いてみれば薄暗い小屋の中で一人の老爺が頻りに火を焚いてゐる。その赤い火の色がいかにも可懷しく、ふら〳〵と私は立ち寄つた。思ひがけぬ時刻の客に驚いて老爺は小屋の奧から出て來た。髮も頬鬚も半分白くなつた頑丈な大男で、一口二口話し合つてゐるうちにいかにも人のいい老爺であることを私は感じた。そして言ふともなく昨夜からの愚痴を言つて、何處か爺さんの知つてる寺で、五六日泊めて呉れる樣な所はあるまいか、と聞いてみた。暫く考へてゐたが、あります、一つ行つてきいて見ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽のとほり私一人しかゐないのでこれからすぐ出かけるといふわけにはゆかぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るからそしたら直ぐ行つて問合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひがけない深切な話である。私は喜んだ、それが出來たらどれだけ仕合せだか分らない。是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見𢌞すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊ほどの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處にゐるのか、ときくと、夜は年中一人だが、晝になると麓から女房と娘とが登つて來る、と言ひながら、ほんの隱居爲事に斯んなことをして居るが馴れて見れば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。小屋のうしろは直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧がその溪いつぱいに密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にもいくらか青いところが見えて來た。では一𢌞りして來るから何卒お頼みすると言ひおいて私は茶店を出た。
その頼みは叶つたのであつた。叶つて私の泊る事になつた寺は殆んど廢寺にちかい荒寺で、住職もあるにはあるのだが麓の寺とかけ持ちで殆んどこちらに登つて來ることもなく、平常はただ年寄つた寺男が一人居るだけであつた。それだけに靜寂無上、實に好ましい十日ばかりを私は深い木立の中の荒寺で過すことが出來た。
その寺男の爺といふのがひどく酒ずきで、家倉地面から女房子供まで酒に代へてしまひ、今では木像の朽ちたが如くになつてその古寺に坐つてゐるのであつた。耳も殆んど聾であつた。が、同じ酒ずきの私にはいい相手であつた。毎日酒の飮める樣になつた老爺の喜びはまた格別であつた。旦那が見えてからお前すつかり氣が若くなつたぢアないか、と峠茶屋の爺やにひやかされるほど、彼はいそいそとなつて來た。峠茶屋の爺やもまたそれが嫌ひでなかつた。
私の滯在の日が盡きて明日はいよ〳〵下山しなくてはならぬといふ夜、私は峠茶屋の爺やをも招いてお寺の古びた大きな座敷で最後の盃を交し合つた。また前の文章の續きを此處に引かう。
寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持つて朝から麓に降りて、實に克明にいろ〳〵な食物を買つて來た。酒も常より多くとりよせ、その夜は私も大いに醉ふ積りで、サテ三人して圍爐裡を圍んでゆつくりと飮み始めた。が、矢張り爺さんたちの方が先に醉つて、私は空しく二人の醉ぶりを見て居る樣なことになつた。そして口も利けなくなつた二人の老爺が、よれつもつれつして醉つてゐるのを見てゐると、樂しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたび〳〵泣笑ひをしながら調子を合せてゐた。やがて一人は全く醉ひつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが、脚がきかぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も涙を落してしまつた。
その峠茶屋の爺さんが即ち今度金婚式を擧げた粟田翁であるのだ。その時、山から京都に降りると其處の友だちが寄つて私のために宴會を催して呉れた。その席上で私は山の二人の老爺のことを話した。するとその中の二三人が其後山に登つてわざ〳〵茶屋に寄り、斯く〳〵であつたさうだナといふ話をした。へええ、さういふ人であつたのかと云つて爺さんひどく驚いたといふことをその人から書いてよこした。それから程なく、古い短册帖に添へて、これは昔から自分の家に傳はつて居るものであるが、中に眼ぼしい人の書いたものが入つてゐはせぬか、どうか見て呉れと云つてよこした。これが粟田淺吉といふ名を知つた初めであつた。
短册帖には三十枚も貼つてあつたが、私などの知つてゐる名はその中にはなかつた。斯ういふことに詳しい友だちにも持つて行つて見て貰つたが、當時の公卿か何かだらうが、名の殘つてゐる人はゐないといふことであつたのでその旨を返事し、なほ自分自身のものを一二枚添へてやつたのであつた。それらのことを、昨日千本濱で京都附近の話の出た時に、その若い坊さんにしたのであつた。其處へこの短册と扇子とが送つて來たのだ。爺さん、まだ頑丈であの山の上の一軒家に寢起きしてゐるのであるかとおもふと、いかにもなつかしい思ひが胸に上つて來た。すると、あの寺男の爺さんはどうしてゐるであらう。
さういふことを考へてゐると、若い坊さんは急に改めて兩手をついた。そして、昨日からのお話で、今度の自分の行爲が餘りに無理であることが解つた、自分の一生の志願を全然やめ樣とは思はぬが、とにかく今の學校だけは卒業して年寄つた父をも安心させます、では早速ですがこれから直ぐお暇します、といふ。さうすると私も妻も、わづか一日のうちに親しくなつてしまつた幼い子供たちも、何だか名殘が惜しまれて、もう二三日遊んで行つたらどうかと、勸めたけれども、學校の方がありますので、と云つて立ち上つた。家内中して門まで送つて出た。帽子もない法衣のうしろ姿を見送りながら私は大きな聲で呼びかけた。
『歸つたら早速比叡に登つて見給へ、さうしてお爺さんに逢つてよろしく言つて下さい。』 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月16日修正
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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日向の山奧から出て來て先づ私の下宿したのは麹町の三番町であつた。其處の下宿屋から早稻田の學校まで、誰かに最初教へて貰つた一すぢ道を眞直ぐに往復するほか、一寸した𢌞り道をもようせずに通つてゐたのが二三ヶ月以上も續いた。散歩をすると云へば靖國神社の境内から九段坂を降りて神田の表神保町の本屋を見て歩く、僅かにそんなことであつた。そのほかに遠出をするといふのは田舍者にとつて如何にも億劫な、恐しいことであつたのだ。
それが、或日どうしたことであつたか、大方受持教授の休講の時間でゝもあつたらうとおもふ、ふら〳〵と學校を出て穴八幡の境内に入り、更にその森つゞきの木の下道(あとでその森が戸山學校であることを知つた)をくゞつて出外れて見て驚いた。おもひもかけぬ大きな平野が其處に開けてゐたのである。
まつたくその時の驚きはいま考へても可笑しい樣である。何しろ山と山との間の峽谷に生れて、今まで曾てさうした大きな野原をば見た事がなかつたのである。しかもそれが二三ヶ月以上もぐつしりとかぢりついて離れなかつた自分の學校のツイうしろから開けてゐやうとは、夢にも思ひがけぬところであつたからである。
驚きのあまり、授業の事をも忘れて私は恐る〳〵なほその小徑を野原の方へ歩いて行つた。そして行き着いたのが戸山ヶ原の櫟林であつたのだ。驚きはいつか一種の哀愁に變つて、足音をぬすむ樣にして私は其處に群立してゐる木から木の間の下草を踏み分けて歩き𢌞つたものであつた。明治三十七年初夏のことであつた。
さうした大發見をした二三日後、私は直ぐ三番町を引上げて、今は早稻田高等學院が建つてゐる穴八幡下に在つた下宿に移つて來た。そして毎日々々私の戸山ヶ原散歩は始まつたのであつた。
斯ういふ記憶を呼び出しながら現在の戸山ヶ原を見ると如何にもうら寂しい。その頃は四方野つゞきの、ほんたうの野原の一部であつた。今は工場や住宅に圍まれて野原といふよりたゞの空地といふに過ぎぬ場所になつてしまつた。自づと人出が多いので、下草は踏み荒され、堆かつた落葉なども今は殆んど見るよしがない。
代々木の原は戸山ヶ原より更に粗野な感じを持つてゐた。が、今ではたゞ土埃を捲きあぐる赭土原となり終つてゐる。僅かにその傍の明治神宮の境内に幾分の面影を偲ぶことが出來やうか。
大正二年三年の頃、小石川の大塚窪町に住んでゐた。其處の近くには護國寺の森があつた。寺と皇族墓地との境の窪みが小さな池ともつかぬものになつてゐて、其處に初夏ならば藤の花が咲いて垂れてゐた。これは恐らく今でもあるだらう。其處を出て少し行くと東京市經營の廣い養樹園があつた。公園とか並木とかに植うべき樹木を育つる場所である。殆んど全てが落葉樹であつたゝめ、若芽のころ、落葉のころ、實に柔かな親しい眺めを持つてゐた。園の中に二三條の路があつて自由に通れることになつてゐた。今は全部これが石も土も眞新しい墓地の原と變つてゐる。
それを出外れると鬼子母神の森、これも入口の例の大欅の並木から舊墓地内の杉の落葉など、なつかしいものであつた。私の學生時代のころ、この森に來て杜鵑を聞いたこともあつた。(書き落したが前の皇族墓地では春のころよく雉子が鳴いた、これは恐らく今でも聽く事が出來るだらう。)
其處までぶら〳〵歩いて來ると、若し空でもよく晴れてゐたならば、いよ〳〵自宅に歸るのがいやになつて、もう少し歩かうといふことになる。そして目白橋を渡つて、左折、近衞公のお邸に行き當つて右折、一二町もゆくととろ〳〵とした下り坂になつた其處の窪地全體が落合遊園地といふものになつてゐた。それこそ誰も知らない遊園地で、窪地の四方をば柔かな雜木林がとり圍み、中には小さな池があり、池の中の築山には東屋なども出來てゐた。
また、遊園地に入らずにその入口の處から左に折れてゆく下り坂があつた。其處もほそ長い窪地になつてゐて、いろ〳〵な雜木のなかに二三本の朴の木が立ち混り、夏の初めなどあの大きな白い花が葉がくれに匂つてゐたものである。降りきつた右手の所に、藤の古木があるので藤稻荷と呼ばれてゐる稻荷の祠があつた。(今でもこれはあるだらう。)その境内も一寸した高みになつてゐた。其處から丘づたひに左は林右は畑といふ處を歩いたのもいゝ氣持であつた。そして此處の丘にはこの邊に珍しい松の木立があつた。ほんのばらばらとした小さなものであつたが、東京の北から東にかけての郊外では全く珍しいものであつた。今は稻荷の側からかけて幾軒かの大きな別莊になつてゐたとおもふ。
その丘を降りた所に氷川神社といふがあり、神社の境内に小さな茶店などの出てゐる事もあつた。もう少し歩かうとそのまゝ丘に添うて西北へゆく。
この邊は右に雜木の丘を、左に田圃や畑を見てゆく丘の根の路となつてゐるのだ。(二三年前からこの邊は向う十四五町がほどにずらりと立派な別莊が建ち並んでしまつた。)斯くして歩くことなほ二三十町ほどで中野の藥師さまに着くのであつた。藥師さま附近の一二軒の小料理屋なども鄙びていゝものであつた。
ばら〳〵松の小さな木立を珍しいと書いたが、東京の西部の郊外にはそれが到る所に茂つてゐた。即ち澁谷、目黒あたりから西へ入り込んだ丘陵の上にだ。
池袋雜司ヶ谷戸山ヶ原板橋附近の郊外は總じて平地で、其處に茂つてゐるものは櫟であつた。そしてその下草には芒が輝いてゐた。が、西の方の目黒附近では丘と窪地との交錯が極めて複雜に相交はり、其處に生えてゐるのは松であり、孟宗竹の藪であつた。無論楢櫟等武藏野らしい雜木もその間に立ち混つてはゐるけれど。
そしてこちらの郊外の背景をなすものは遠く西の空に浮んでゐる富士山の姿であることを忘れてはならぬ。何處からでも大抵は見えるこの山ではあるが、ことに此處等の赤松林の下蔭、幾つか連つた丘陵の一つのいたゞきから望み見る姿は、たゞの野原であるのより遙かに趣きが深いのだ。
さう書くと、ほんの赤土の崖の上である樣な東の郊外田端の高みから望む筑波のことをも書かねばならぬ。同じく西の郊外から見る野の末の秩父の連山、よく晴れゝば其處まで見る事の出來る甲州信州上州路かけての遠山の事などをも。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月13日公開
2005年11月16日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002222",
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"作品名読み": "じゅもくとそのは",
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"副題": "29 東京の郊外を想ふ",
"副題読み": "29 とうきょうのこうがいをおもう",
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"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
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駿河灣一帶の風光といふとどうしても富士山がその焦點になる。久能山より仰ぐ富士、三保の松原龍華寺の富士、薩埵峠の富士、田子の浦の富士、千本松原の富士、牛臥から靜浦江の浦にかけての富士など説明を付けるのがいやになる位ゐもう一般的に聞えた名勝となつてゐる。名物にうまいものなしの反對で、以上とり〴〵にみな見られる景色であるだけに却つて筆の執りにくいおもひもするのである。
なかで私の一番好きなのは田子の浦の富士である。田子の浦といふと何となく優美な――例へば和歌の浦とか須磨の浦とかいふ風の小綺麗な海濱を豫想しがちであるが、事實はひどく違ふ。意外な廣さ大きさを持つた砂丘の原であるのである。
九十九里が濱の荒涼は無いが、東海道沿ひの松並木から續いて、ばらばら松の丘となり、やがて草も木もない白茶けた砂丘となり、ところどころにうねりを起しながらおほらかな傾斜をなした大きな濱となつてゐるのである。濱の廣さは、ばら〳〵松の丘から浪打際まで六七町から十町あまりあるであらう。西はすぐ富士川の河口となり、東はずつと弓なりに四里近くも打ち續いた松原となつて居る。松原の東のはずれには狩野川の河口があり、河口に近く沼津の千本濱があるのである。
薩埵峠などを含む由比蒲原あたりの裏の山脈は富士川の西岸で盡き東の岸からは浮島が原の平野となつてずつと遠く箱根山脈の麓まで及んで居る。その平野の東寄りの奧に愛鷹山がある。沼津あたりからはこの山が丁度富士の前に立ちはだかつて見えるのであるが、田子の浦から見るのだと、恰かも富士の裾野の東のはづれに寄つてしまつて、殆んど富士の全景に關係がなくなつてゐる。つまり廣大な裾野の西のはづれから東のはづれを前景にして次第に高く鋭く聳えて行つた富士山の全體が仰がるるわけである。
富士山は何處から見ても正面した形で仰がるゝ山であるが、わけてもこの田子の浦からは近く大きく眞正面に仰がるゝ思ひがする。豐かに大地に根ざして中ぞら高く聳えて行つた白麗朗のこの山が恰も自分自身の頭上へ臨んでゐるかの樣な親しさで仰がるゝのである。何の技巧裝飾を加えぬ、創造そのまゝの富士山を見る崇嚴を覺ゆるのである。繪でなく彫刻でなく、また蒔繪や陶器の模樣でない山そのものの富士山を仰ぐことが出來るのである。
人影とても見當らぬ砂丘の廣みのまんなかに立つて、ぢいつとこの山を仰いでゐると、そゞろに遠い昔の我等の祖先の一人が此處を通りかゝつて詠み出でたといふ古い歌を思ひ出さざるを得ない。
天地の分れし時ゆ、神さびて高く貫き、駿河なる富士の高嶺を、天の原振りさけ見れば、渡る日の影も隱ろひ、照る月の光も見えず、白雲もいゆき憚り、時じくぞ雪は降りける、語りつぎ言ひつぎ行かむ、富士の高嶺は、
田子の浦ゆうち出でて見れば眞白くぞ富士の高嶺に雪は降りける
この歌の時代には四邊に人家もなく田畑もなく、恐らくたゞうち續いた原野か森林であつたらうとおもふと、砂丘のはづれで響いてゐる浪の音など一層身にしみて聞きなされる。
三保あたりから見るのも惡くはないが、入江だの丘陵だのといふ前景が付いて却つて富士山を小美しく小さなものにしてゐる。ともすれば模樣繪の富士山にしてしまふ恐れがあるのである。
前景のあるを嫌ふと言つた。もう一ヶ所前景なしに富士山を見るに恰好な場所がある。それは御殿場の南に當る乙女峠である。御殿場から箱根の仙石原や蘆の湖方面に越ゆる峠で、御殿場驛から二里あまりもあらうか。
其處で見た富士山の事をば私は曾て書いておいた。それを此處に引く。仙石原から御殿場へ越えた時の事である。
登りは甚だ嶮しかつたが、思つたよりずつと近く峠に出た。乙女峠の富士といふ言葉は久しく私の耳に馴れてゐた。其處の富士を見なくてはまだ富士を語るに足らぬとすら言はれてゐた。その乙女峠の富士をいま漸く眼のあたりに見つめて私は峠に立つたのである。眉と眉とを接するおもひにひた〳〵と見上げて立つ事が出來たのである。まことにどういふ言葉を用ゐてこのおほらかに高く、清らかに美しく、天地にたゞ獨り聳えて四方の山河を統ぶるに似た偉大な山嶽を讚めたゝふることが出來るであらう。私は暫く峠の路の眞中に立ちはだかつたまゝ靜かに空に輝いてゐる大きな山の峯から麓を、麓から峯を見詰めて立つてゐた。(中略)
乙女峠の富士は普通いふ富士の美しさの、山の半ば以上を仰いでいふのと違つてゐるのを私は感じた。白妙に雪を被つた山巓も無論いゝ。が、この峠から見る富士は寧ろ山の麓、即ち富士の裾野全帶を下に置いての山の美しさであると思つた。かすかに地上から起つたこの大きな山の輪郭の一線はそれこそ一絲亂れぬ靜かな傾斜を引いて徐ろに天に及び、其處に清らかな山巓の一點を置いて、更にまた美しいなだれを見せながら一方の地上に降りて來てゐるのである。地に起り、天に及び、更に地に降る、その間一毫の掩ふ所なく天地の間に聳えて居るのである。しかもその山の前面一帶に擴がつた裾野の大きさはまたどうであらう。東に雁坂峠足柄山があり西に十里木から愛鷹山の界があり、その間に抱く曠野の廣さは正に十里、十數里四方にも及んでゐるであらう。なほしかもその廣大な原野は全體にかすかな傾斜を帶びて富士を背後におほらかに南面して押しくだつて來てゐるのである。その間に動く氣宇の爽大さはいよ〳〵背後の富士をしてその高さを擅ならしめてゐるのである。
幼い形容詞が多くお羞しい文章であるが、初めて乙女峠から富士を見た時は私はまつたくこの通りに感じたものであつた。此處の富士も田子の浦と同じく、その裾野を置くほかは何等の前景を持たぬ富士それ自身の眺めである。しかも山全體を一眸の裡に收め得ること亦た同じい。たゞ一方は海岸であり、一方は山上であるの相違だ。
乙女峠から眺めて十里四方にも及ぶであらうと言つた曠野は大野原と呼ばれてゐる。その大野原の奧、富士の根がたまで秋に一度初夏に一度私は出懸けて行つたことがある。その時々に詠んだ歌を此處に引いて其處から見た富士の説明に代へよう。
富士が嶺や麓に來りあふぐ時いよよ親しき山にぞありける
富士が嶺の裾野の原のまひろきは言に出しかねつただに行き行く
富士が嶺に雲は寄れどもあなかしこ見てあるほどに薄らぎてゆく
日をひと日富士をまともに仰ぎ來てこよひを泊る野のなかの村
草の穗にとまりて啼くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は
雲雀なく聲空に滿ちて富士が嶺に消殘る雪のあはれなるかな
張りわたす富士のなだれのなだらなる野原に散れる夏雲の影
夏雲はまろき環をなし富士が嶺をゆたかに卷きて眞白なるかも
以上、すべてその麓の近い處からのみ仰ぐ富士山を書いて來た。今度は少し離れた位置からの遠望を述べて見よう。富士は意外な遠國からも仰がれて、我知らず驚いた事が屡々あるが、此處には駿河灣一帶の風光の約束のもとに、さまでは離れぬ遠望を書くことにする。
支那の言葉に、高山に登らざれば高山の高きを知らずといふのがあると聞いた。この言葉の眞實味をばよくあちらこちらの山登りをする時ごとに感じてゐたのであるが、伊豆の天城山に登つて富士を仰いだ時、將にそれを感じた。そしてそゞろに詠み出た歌がある。
たか山に登り仰ぎ見高山の高き知るとふ言のよろしさ
初め私は絶頂近くにあるいふ噴火口あとの八丁池といふを見るがために天城登りを企てたのであつた。そしてせつせと登つてゐるうちに不圖うしろを振返つて端なく自分の背後の空に、それこそ中天に浮ぶと云つた形でづばぬけて高く大きく聳えてゐる富士山を見出して、非常に驚いたのであつた。
ツイ眼下には狩野川の流域である伊豆田方郡の平野があつた。それを取り圍む形でやゝ遠く左寄りに眞城、達磨の山脈があり、近く右手に箱根連山があり、その中にも城山、寢釋迦山、鳶の巣山、徳倉山等の低きが相交はり、ずつと遠くには駿河信濃國境に連亙した赤石山脈が眞白に雪を被つてつらなつてゐた。そして殆んど正面にこれも常よりは高く見ゆる愛鷹山が立ち、それの裾野の流れ落ちた所には駿河灣が輝いてゐた。それらの山や海を前景として、まつたく思ひがけない高い空に白々としてうち聳えてゐたのであつた。
三保あたりからは前景がうるさくていやだと前に言つたが、この位ゐの大きな前景となると少しも惡くなかつた。前景の大きさが、いよいよ富士の大きさを増した樣にも見えた。これもその時詠んだ數首の歌を引いて當時の自分の驚嘆を現はさうと思ふ。
わが登る天城の山のうしろなる富士の高きはあふぎ見飽かぬ
山川に湧ける霞の昇りなづみ敷きたなびけば富士は晴れたり
まがなしき春のかすみに富士が嶺の峯なる雪はいよよ輝く
富士が嶺の裾野に立てる低山の愛鷹山はかすみこもらふ
愛鷹の裾曲の濱のはるけきに寄る浪白し天城嶺ゆ見れば
伊豆の國と駿河の國のあひにある入江の眞なか漕げる舟見ゆ
野や濱や山の上から見た富士山のみを書いて來た。海から見るそれをひとつ書いて見よう。
狩野川の河口、即ち沼津の町から出て伊豆の西海岸の諸港を經、その半島の尖端に在る下田港まで行く汽船がある。この汽船の甲板に立つてゐたならば、そしてその日がよく晴れてゐたならば、殆んど到る所の海上からこの靈山が仰がるゝのである。海と空との間に唯一つ打ち聳えたこの山の姿の靜けさは麓に立つて仰ぐのと自づからまた別である。ことに富士のよく晴れる季節の秋から冬にかけてはこの伊豆西海岸には殆んど毎日西風が吹くために、紺碧な海上いちめんに白浪が泡立つてゐて一層の偉觀を添へる。またこの海岸線は斷崖絶壁といつた風のところが多く、どうかするとその斷崖の眞上に、またはその中腹に半ば隱れて見えたりすることがある。
サテ、富士の事ばかり書いて來た樣である。そのほかで附近の案内を書くとすると先づ江の浦附近の入江であらうか。
これは全く模型的な入江だといふ氣のする處である。伊豆の大瀬崎と、狩野川々口以東の海岸の圍み合ふ入江は二三里ほどの奥まりを持つて居る。その入口に駿河路では牛臥靜浦があり伊豆路では西浦内浦があり、一番奥が即ち江の浦となつてゐるのである。一帶に非常に深い海で、江の浦の岸邊でも底の見えぬ青みを湛へて居る。海岸は曲折に富み、道路はその崎に沿ふことをせず、多く隧道を穿つて通じてゐるほどだ。海に臨んだ小山には多く松が茂り、小波もない深みの上に靜かに影を投げて居る。
江の浦は遠州灘駿河灣伊豆七島あたりへ出かくる鰹船の餌料を求めに寄るところで、小松の茂つた崎の蔭の深みには幾箇所となく大きな自然の生簀が作られ、其處に無數の鰯が飼はれて居る。で、普通の漁師町以上に整つた宿場をなしてゐるのであるけれど、いゝ宿屋が無い。江の浦から曲りくねつた海岸ぞひの路を更に一里半行くと三津といふ船着場があるが、其處は料理屋兼業其他の三四の宿屋があり、小さくはあるが洋式の三津ホテルといふもある。三津のまん前には淡島といふ小さな尖つた島があつて、その島のなゝめ横に例の富士山が海を前にして仰がるゝ。其處より背後の岡を越えて一里歩くと長岡温泉がある。三津に斯うした土地不似合の料理屋宿屋のあるのは單に景色がいゝといふばかりでなく、一つはこの長岡温泉があるためである。
この三津まで、沼津の御成橋の下から午前午後の二囘乘合の發動機船が出る。狩野川の川口を出るとすぐ左折して蠶の這つた樣な牛臥山を左に、靜浦の御用邸附近の深い松原を見て江の浦に入り、附近の山蔭に介在してゐる小さな舟着場二三箇所に寄つて三津で終るのである。航程約一時間半、舟賃二十五錢、最も簡易な入江見物が出來るわけである。
冬田中あらはに白き道ゆけばゆくての濱にあがる浪見ゆ(五首静浦附近)
田につづく濱松原のまばらなる松のならびは冬さびて見ゆ
桃畑を庭としつづく海人が村冬枯れはてて浪ただきこゆ
門ごとにだいだい熟れし海人が家の背戸にましろき冬の浪かな
冬さびし靜浦の濱にうち出でて仰げる富士は眞白妙なり
うねり合ふ浪相打てる冬の日の入江のうへの富士の高山(二首静浦より三津へ)
浪の穗や音に出でつつ冬の海のうねりに乘りて散りて眞白き
舟ひとつありて漕ぐ見ゆ松山のこなたの入江藍の深きに(四首江の浦)
奥ひろき入江に寄する夕潮はながれさびしき瀬をなせるなり
大船の蔭にならびてとまりせる小舟小舟に夕げむり立つ
砂の上にならび靜けき冬の濱の釣舟どちは寂びて眞白き
富士川の鐵橋を過ぎて岩淵蒲原由比の海岸、興津の清見寺、さらに江尻から降りて三保の松原に到るあたりのことを書くべきであらうが、蒲原由比は東海道線を通るひとの誰人もがよく知つてゐる處であらうし、三保にもさほど私は興味を持たぬ。海も松原も割合に淺くきたなく、唯だ羽衣の傳説と三保と呼ぶ名稱の持つ優美感とが一つの美しい幻影を作りなしてゐる傾きが無いではない。
松原ならば私は沼津の千本松原をとる。公園になつてゐるあたりはつまらないが、其處を少し離れて西へ入ると實にいゝ松原となつてゐる。樹がみな古く、且つ磯馴松と見えぬ眞直ぐな幹を持ち、一樣に茂つた三四町の廣さを保つてずつと西三里あまり打ち續いて田子の浦に終つてゐるのである。海岸の松原としては全く珍しいと思ふ。昔或る僧侶が幕府に獻言し、枝一本腕一本とかいふ嚴しい法度を作り、この松原を育てゝその蔭の田畑の潮煙から蒙むる損害を防いだものであるさうだ。
この松原を詠んだ拙い自分の歌を添へてこの案内記を終る。
むきむきに枝の伸びつつ先垂りてならびそびゆる老松が群
風の音こもりてふかき松原の老木の松は此處に群れ生ふ
横さまにならびそびゆる直幹の老松が枝は片なびきせり
張り渡す根あがり松の大きなる老いぬる松は低く茂れり
松原の茂みゆ見れば松が枝に木がくり見えて高き富士が嶺
末とほくけぶりわたれる長濱を漕ぎ出づる舟のひとつありけり | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年6月14日公開
2005年11月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私は日向國耳川(川口は神武天皇御東征の砌其處から初めて船を出されたといふ美々津港になつてゐます)の上流にあたる長細い峽谷の村に生れました。村の人は多く材木とか椎茸とか木炭とかいふ山の産物で生活してゐるのです。
ですから、正月といつても淋しいものでした。今でもまださうではないかと思ひますが、村には新の正月と舊の正月とがありました。新の正月はたゞ學校でやる位ゐのことでしたが、その新年式の式場に飾るために野生の梅の花を學校の裏にある谷間にとりに行つたことを私はよく覺えてゐます。何でも二度ほど取りに行つたと思ひます。先生に連れられて、鉈を持つて、四五人の者が狹い谷間のあちらこちらに咲いてゐる眞白な花を探して歩いた記憶が不思議にはつきりと殘つてゐます。子供心にもさうした谷間に春の來るといふことがよく〳〵嬉しかつたのでせう。それにその頃既に梅が咲くといふ樣な季候違ひの事實もその印象を深めてゐるに違ひありません。山の中と云つても海岸から五六里しか離れてゐず、年中雪を見ることのない程暖かな土地でした。
私の父は醫者で、その頃村で新人でした。で、門松をば必ず新の正月に立てました。この松の切出しには必ずまた父と私が出かけました。背戸から出て小さな岡を越えると其處に一つの谷が流れて兩岸にやゝ平な野原があり、其處に松ばかり茂つてゐる一箇所がありました。父の好みはなか〳〵にむつかしく、容易にこの木がいゝとは言ひません。あとではいつも私と喧嘩をしました。さうして辛うじて伐り倒した松があまりに大きくて我等の手に合はず、いろ〳〵の目標をしておいてあとで下男をとりによこしたりしました。この松伐りも今ではなつかしい思ひ出です。それに父はなか〳〵のきまり家で、多少にせよ新の正月にも餅をつかせましたので、舊の正月の時と二度餅の喰べらるゝのも幼い私の自慢であり喜びでありました。
新の元旦には母など一向に父を相手にしませんので、父は私を相手に『元日』の屠蘇を祝ひました。他の者が平常着なのに父と私とだけ(私は男の子としては一人子なのです。父の四十二の時の誕生だと云ひますから齡もたいへん違つてゐたのです)が紋附を着て、廣い座敷に向ひ合つて坐るのがいかにも變でした。
舊の正月はそれでも家中たいへんです。それに村ではすべての勘定事が盆と節季の二度勘定にきまつてゐますので、半年分の藥代を村の者がみな大晦日に持つて來るのです。來た者には必ず酒を出す習慣で、どうかすると二三十人も落合つて飮み出すといふ騷ぎになり、父も母も私たちまでもその夜は大陽氣でした。
舊正月は村全體の正月であるが、これとてたゞ業を休んで酒を飮む、𢌞禮をするといふだけで別に變つた事もありませんでした。我等子供たちの遊戲ですが、晴れゝばそとへ出て『根つ木』といふ遊びをした。生木の堅いのを一尺か二尺に切り、先を尖らせて地へ互ひに打ち込んで相手の木を倒して取るのです。降るか或は寒い日は家の中で『針打ち』をしました。半紙をめいめい一枚づつ出し合つて疊の上に積み重ね、一本の縫針に二三寸の絲を附け、針のさきを唇にくはへ、絲を烈しく引いて疊の上の紙にその針をつき立てる樣に打ちおろします。さうして徐ろに絲を引いて針の先に引き留められて來たゞけの紙を自分の所得とするこれも賭事あそびです。凧をも揚げるには揚げましたが、何しろ平地の少ない溪間の事ゆゑ、大勢して揚げるなどといふわけにはゆきませんでした。
いつの正月であつたか、珍しく雪の降つた事がありました。私の七八歳の頃だつたでせう。我等子供はうろたへて戸外へ出て各自に大きく口を開けながらちら〳〵と落ちて來るその雪を飮み込まうとしたものです。そんなに雪は嬉しい珍しいものでした。附近一の高山、尾鈴山といふのの八合目ころから上にほのかに雪の積ることがありました。大抵は夜間に積むのですが、すると父は大騷ぎをして私を呼び起しました。
『繁、起けんか〳〵、尾鈴山に雪が降つたど、早う起けんと消えつしまうど!』
と言ひながら。
その父が亡くなつてから十年たちました。頑健な母はまだ強情を張りながら、古びた家に唯一人殘つてをり、私が學問をするために尋常科しかなかつたその村を出てから今年で丁度二十八年たつわけになります。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年6月14日公開
2005年11月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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東京にてM――兄。
伊豆の東海岸には御承知の通り澤山温泉があるけれど、西海岸には二個所しかありません。一つはずつと下田寄りの賀茂温泉、一つはいま私の來てゐる土肥温泉です。此處には沼津から汽船、二時間足らずで來られます。賀茂にはまだ行つて見ません。至つて開けぬ所ださうで、湯の量は非常に多く、浴用よりそれを使つて野菜の促成栽培をやつてゐるとか聞きました。
土肥も似たものですけれど賀茂よりましでせう。旅館も七八軒ありますし、村の人家も相當に寄つてゐます。いゝのは冬暖く夏海水浴の出來ることで、困るのは交通の不便です。ことに、この冬季、十二月から二、三月にかけては誠に西風が立ち易く、それが立つと汽船が止り、汽船が止ると殆んど交通杜絶です。船原越修善寺越といふ二つの山道がありますが、餘程脚の達者な者でないと歩けない難道です。一は四里程で船原温泉に出、一は六里程で修善寺温泉に越ゆるのです。二日も三日も汽船が出ないとなると爲方がなしに人足を雇つてはその峠へかゝつてゆく女連子供連の客が見かけられます。
私はこの五六年、毎年正月元日に此處にやつて來てゐます。朝暗いうちに自宅で屠蘇を祝つて、五時沼津の狩野川河口を出る汽船に乘るのです。幸ひと今迄この元日には船が止りませんでした。然し毎年相當に荒れました。私は船に強いので、平氣で甲板に出て荒浪の中をゆく自分の小さな汽船の搖れざまを見てゐます。晴れゝば背後に聳えた富士をその白浪のうへに仰ぐことになります。河口を出て靜浦江の浦の入江の口を横切り大瀬崎の端へかゝると船は切りそいだ樣な斷崖の下に沿うてゆくことになります。十丈二十丈の高さの斷崖の頭の方は篠笹の原か茅の野になつて居り、その下は殆んど直角に切り落ちて露出した岩の壁です。冬のことで、篠笹原はうすい緑の柔かなふくらみを持つて廣がつて居り、枯茅の野は鮮かな代赭色に染つてゐます。そして岩壁は多くうす赤い物々しい色をして聳えてゐます。
その眞下に立つ浪の中をゆらり〳〵と搖れてゆく小さな汽船の姿を想像してごらんなさい。
正月ごとに私の此處に來ますのは、一つはその時に押懸けて來る所謂年始客から逃るゝためでもあるのですが、本統はその頃此處に來てゐますと梅の花の咲き始めを見ることが出來るからです。
年の寒さで多少の遲速はある樣ですが、先づ一月の十日には咲き出します。元日に來て既に庭に咲いてゐるのを見て驚いたこともあります。また、この土地にはこの木が非常に多い。一寸出ても家の垣根とか田圃の畔とか、かすかな傾斜を帶びた山の枯草原などに白々と咲いてゐるのが目につきます。或る古い寺があり、其處の竹藪の中にも咲いてゐます。
梅の花はなか〳〵散らないもので、あとの方になるといかにも佗しい褪せざまを見せて來ます。山櫻の花などとは其處はすつかり違つてゐます。が、その咲き始める時はまことにいゝ。一りん二りん僅かに枝に見えそめた時の心持は全くありがたいものです。毎年のことですが、心がときめきます。
梅の花と共にこのころ此處に來て眼につくのは橙です。また、夏蜜柑です。これも一軒の家には必ず二三本のその木があり、橙は赤く、夏蜜柑は黄いろく、いづれもぎつちりとあの厚い葉の茂つた木になりさがつてゐるのが見えます。
この果物の熟れてゐる色はいかにも明るい感じのするもので、一寸散歩しても右に左に見えて居るこの色がさながらにこの土肥温泉の色彩の樣な氣がするのです。
何處の温泉場でも何か土地に相應した樣なものを考案して土産物として賣つてゐますが、土肥では先づ枇杷羊羹でせう。つまり土地に枇杷が多いのです。蜜柑と同じく、ずつと高くまで段々畑が作られてこれが植ゑてあります。正月は褪せながらもまだこの木の寂しい花が葉がくれに見えてゐます。そしてそれに寄り集うた眼白鳥が非常に多い。
羽根の青い、眼の縁の白い、親指ほどもないこの小さな鳥は暗い樣な枇杷の木の茂みに幾羽となく入り籠つてちい〳〵と啼いてゐます。花の蜜に寄るものと見えます。そして、時々この小鳥の群がその枇杷の木を離れて附近の山の櫟林に入り込んでゐるのを見ます。櫟はまた梅が咲くといふのにも枯葉を落さないで、から〳〵に乾いたまゝの鮮かな色をして山の傾斜に立ち竝んでゐます。
土肥は斯うした櫟林や、蜜柑畑や、枇杷の畑のある小山を北から東にかけて背負うて、西また南に海を受けた僅かの平地の土地なのです。
もう一つ土肥の土産物に小土肥海苔、八木澤海苔といふのがあります。小土肥は西に、八木澤は東に、共にこの土肥から二十町ほどを距てた漁村ですが、其處で取れる海苔をそれ〴〵に斯う呼ぶのです。淺草海苔などの樣に粗朶に留つたものを取るのでなく、荒浪の打ち寄せる磯の大きな岩の肌に着いた海苔を板片などで搖き取つて乾すものです。ですから風味もずつと違ひます。私などどちらかといふとこの荒磯の味を好む者ですが、惜しいかな製法が未熟なため、ともすると中に貝殼のかけらや砂の屑などが入つてゐます。中で小土肥海苔の方は其處の岩が滑かなため、八木澤のよりややその混入物が少ないといふことになつてゐます。
西南に海を控へ北と東に山を負うて僅かな平地を持つた土地と先に言ひましたが、その僅かな平地は一つの小さな流に沿うてやゝ深く東の方へ切れ込んでゐます。そしてその平地の兩側は例の雜木の山、果物畑の山となつてゐるのです。
もう少し私はこの雜木林の山のことをお話したい。一體、君は雜木林といふものがお好きでしたか知ら。
櫟林とだけ言ひましたが、單にそれだけではありません。いろ〳〵の樹木がその日向に向いた山に生えてゐます。先づ竹の林が眼につきます。杉の木立の、冬の日にうす赤く錆びてゐるのが見えます。何の木だか、竹箒の樣にその落葉した枝や梢をこま〴〵と張りひろげて立つてゐるのがあります。楠かタブの木か、みつちりと黒く茂つた若木もその間に立ち混つてゐます。
斜め上りになつてゐる澤の奥のつめの所に一竝び細く杉の木立の立ち續いてゐるのはいかにも靜けく明るく眺められます。またすぐその下に續いて寧ろ淡黄色をした竹の林がこまかな葉を日光に晒して立つてゐるのもいかにも柔かな眺めです。それからは例の櫟の林、名もない木立の冬枯、やがて枇杷の畑、蜜柑の畑。
すべてが明るく、すべてが柔かく、すべてが暖かです。そしてすべて其處におちついて眺められます。大きくはないが、まつたく靜かです。
湯は海岸寄りの中濱といふのと、山の窪地に沿うて五六町入り込んだ奥の番場といふ二部落に湧いてゐます。私は毎年その中濱の方のこの宿に來てゐますが、ツイ裏が山の根がたとなつてゐて海にも近く、湧く湯の量も甚だ豐かです。
弱鹽類泉とかいふのださうで、無色無臭、實によく澄んでゐます。この宿には湯が二個所に湧き、而かもその五六分通りは捨ててしまはねば熱くて入り得ぬといふ有樣です。ですから少し浴場を作り變へたら所謂千人風呂位ゐ直ぐ出來るでせう。
正月の三ヶ日あたりは流石にこみます。今年は地震のあとで例年の樣なことはあるまいと思つてゐると、もう三十日あたりから滿員になつたとの事でした。客は學生が多く、次に老人です。何しろ來る道中が道中だものだから、身體の弱い人、氣の弱い人、または時間にきびしい制限のある人たちには一寸出かけて來られないのです。
その正月の混雜は先づ四五日に半減され、七日か八日に及んで更に半減されます。そしてそれから後は次第に平常の靜けさに歸ります。今年も十二三日になるとこの大きな宿に僅か五六人の客がゐるだけでした。それも論文を書く學生とか少々リウマチの氣のあるといふ老人とかですから靜かなものです。
たゞ困るのは女中の不馴なことゝ粗野なことですが、聞けば正月とか暑中とかの書入時には近所の民家の娘たちを雇ひ入れるので、客や帳場で小言でも言へばどん〳〵歸つてゆくとかで、致しかたのない話です。で、私はこの一二年をば半自炊の氣でやつてゐます。即ち炭から水から茶道具酒道具寢道具を一切自分の部屋にとり寄せておいて隨時自分の氣の向いた時に飮んだり寢たりするのです。至つて成績がよろしい。
單に女中に限らず、帳場そのものからほゞそれに近いものなのです。不自由と云へば不自由、親しみの眼で見れば却つてなまなかに開けた温泉よりいゝ氣持です。
二つある湯殿の一つにはよく日が當ります。六疊敷ほどの湯槽が三つに爲切つてあり、その一つの隅にぼんやりと一人入つてゐますと、ツイ側に落ちてゐる湯口の音のみ冴えて、いつ知らずうと〳〵としたくなる靜けさです。眼の前の湯の中に動いてゐる微塵に似た湯垢の一つ〳〵にはかすかに虹の樣な日光の影が宿り、湯槽の縁から溢れ出る湯は同じくほがらかに日が當つて乾き切つてゐる流し場の一端に細い小波をたてゝ流れて行つてゐます。
湯槽からあがつてその流の中に横たはりますと、身體半分は温浴、半分は日光浴が出來るといふ有樣です。
西風が立つたとなればあはれです。
眞正面から打ちつけて來る怒濤の響がまつたく一人でゐる時など、戸障子を搖するかと聞ゆる時があります。
二日續き、三日續くとなると出る客も入る客もなくなり、新聞は來ず、郵便は遲れる。郵便だけは荒れが續けば山を越えて來ますが、平常は矢張り船に據つてゐるのです。すべてを沼津から取つてゐる御馳走も杜絶えるといふ始末で、たゞもうおとなしく湯の中に浸つてゐるほかはありません。
要するに梅の初花を見に來るお湯でありませう。しかも野の梅です。すべてにさういつた趣きを此處の湯は持つてゐます。多分私は今後もその花を見にやつて來ることゝ思ひます。
梅を見るには此處に、そして山櫻の花を見るためには私は毎年矢張りこの伊豆の天城山の北麓にある湯が島温泉へ出かけてゐます。いづれまた其處のことはその時に書きませう。
ところで、M――兄。
今朝の地震には嚇かされました。何しろ地震と聞くと妙に神經質になつてゐるものですからですが、今朝のは確かに恐しい一つでした。戸外に逃げ出した寒さを拂はうと急いで湯殿へ駈けつけてまた驚きました。湯が眞白に濁つてゐるのです。地の中がどんな具合で搖れるのかとその湯に浸りながら考へました。この調子では屹度また何處ぞがひどくやられてゐる事と思ひます。ほんたうにいやな事だ。
ではこれで失禮します。一月十五日。伊豆土肥温泉土肥館にて。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年6月14日公開
2005年11月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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昨年の八月いつぱいを伊豆西海岸、古宇といふ小さな漁村で過しました。これはその思ひ出話。
八月いつぱい、子供を主として何處かの海岸で暮したい、さういふ相談を妻としてから七月の初め私はその場所選定のため伊豆の西海岸へ出懸けました。西海岸と云つてもさう不便な場所では困るので、この沼津から靜浦灣を挾んで、殆んど正面に見えて居る西浦海岸を探す事になつたのです。幸ひそちらには我等の歌の社中の友人も居るので、大よその事をその友人に調べておいて貰ひ、先づ此處等がよからうといふ事を聞いた上、私は出懸けました。そして指定せられた二三箇所を見て𢌞つた末、矢張りその友人の居村である古宇村といふにきめたのでした。
其處は半農半漁の、戸數五十戸ほどの村でした。半農と云つてもそれは殆んど蜜柑の栽培が重でそのほかに椎茸木炭などを作り出すと云つた風の山爲事なのです。その村の少し手前の江の浦重寺三津などの漁村には所謂避暑地としての善惡それ〴〵の發展が見えてゐましたが、その古宇村にはまだ全然それらの影響がありませんでした。友人に案内せられて行つた宿屋は村内唯一の宿屋で、寧ろ漁師と百姓とを主業としてゐる風に見えました。
旅客用の部屋は母屋と鍵形になつた離室の方で、二階二間、階下二間、すべて六疊づつの部屋なのです。二階は東北、及び僅かに西がかつた方角とが開けてゐて、ツイ眞下に、それこそ欄干から飛び込めさうな眞下に海がありました。そして海の向うには靜浦牛臥沼津の千本濱がずらりと見渡されて、その千本濱の少し左寄りの上の空に富士が圖拔けて高く聳えて居るのでした。
『これは素敵だ、早速此處にきめませう。』
二階に上るや否やさう言つて、坐りもやらずに、二つの部屋をぐる〳〵と私は𢌞つて歩きました。階下の部屋も欲しかつたのですが、折々𢌞つて來る常客などのために其處だけは空けておきたいとのことで、諦めねばなりませんでした。
『イヤ、二階だけで澤山だ、そちらを子供部屋にして、此處に自分の机を置いて……』
その夜一泊、翌朝早くの船で沼津へ歸る筈でしたが、折よく降り出した雨をかこつけにもう一日滯在することにしました。そして雨に煙つて居る靜かな入江の海を見て何をすることもなく遊んで居りますと、丁度二階の眞下の海に沿うた小徑を三人の女が何やら眞赤な木の實らしいものの入つた籠を重々と背負つて通るのが眼にとまりました。木の實の上は瑞々しい小枝の青葉が置かれ、それに雨が降りかゝつてをりました。
『山桃!』
さう思ふと惶てゝ私は彼等を呼留めました。
そして中の一人から大きな笊いつぱいその珍しい果物を買ひとりました。聞けばこの近くの江梨といふ附近の山にはこの木が澤山あるのださうです。この山桃は東京あたりではなか〳〵喰べられない。そして私は幼い時からこれを飽きるほど喰べて來たので、季節の來るごとに自づと思ひ出されてならぬのでした。早速皿に盛り、滴る樣な濃紫の指頭大の粒々しい實の上にさら〳〵と鹽を振つて、サテ徐ろに口に含みました。
斯くして八月の朔日に先づ尋常三年生の長男と書生とが出懸け、二三日して殘り三人の子供と妻と私とがその古宇の宿屋へと行きました。子供達の喜びは言ふまでもありません。宿から二三町離れた所に砂濱があり、割に遠淺になつてゐるので早速彼等の泳ぎ場にきまりました。長男だけ辛うじて五六間の距離を泳げるといふのみで、あとはみなぼちや〳〵黨なのです。妻もまた大きな圖體で、折々このぼちや〳〵組に混つてゐるのです。私だけは宿の直ぐ前の石段から直ぐざんぶと躍り込んで彼等の場所まで泳いで行くのです。何年にも泳いだことがなかつたので最初は少し變でしたが、やがて氣持よく手足を伸して、綺麗な潮を掻き分け得る樣になりました。
まつたく潮は綺麗でした。二階から見てゐますと、眞前の岸近く寄つて來て泳いでゐるいろいろの魚の姿がよく見えました。細長い姿のさよりやうぐいはその群までも細長く續いて、折れつ伸びつ、ちよこ〳〵と泳いで行き、黒鯛はおほく獨りぽつちでぼんやりとその大きな體を浮かせ、何か事があるとぴんと打たれたやうにかき沈んで忽ち何處へやら消え去りました。折々雨の降り出したかの樣にぴよん〳〵ぴよん〳〵こまやかな音を立てゝ水面に跳ねあがり、それが朝日か夕日かを受けて居れば、青やかな銀色に輝くのはしこの密群でした。若しこの大群がやゝ遠くを過ぐる時は、海面が急にうす黝く皺ばむのでした。その他、名も知らぬ魚の族がいろいろの色や形で我等の面前に現はれました。中に一つ、土地では海金魚とか言つてゐましたが、樫の葉くらゐの大きさで、それこそ若葉の日に透いた樣な眞みどりの魚が始終其處の大きな岩の蔭に泳いでゐました。二三疋から五六疋どまりの群で引汐の時には見えなくなり、上げ汐となればきまつてその岩の蔭にやつて來ました。これは六つに九つの姉妹の一番の仲好しで、兩人競爭してこの眞みどりの着物をつけた友だちの現はれるのを待つてゐるのでした。ほかにまた、これは少々厄介者でしたが海丹がゐました。これも上げ汐につれずつと海岸沿ひに一列になつて押し寄せて來るのです。例の栗の毬の形で、いつ動くとなくむんづ〳〵とやつて來るのです。見てゐれば可憐ですけれど、泳ぎの時に若し誤つて此奴を踏まうなら、彼は忽ちその黒紫の毬を足裏の肉深く刺し通すのです。拔かうとすれば折れて殘り、やがてじく〳〵と痛み出します。僅に脱脂綿に酢を含ませて局部にあて、痛みの去るのを待つほかはないのです。いゝことに、此奴案外に神經質と見え、泳ぎの場所近くやつて來たと見れば宿から物乾竿を持ち出してその一群の中の五つ六つを突きつぶすのです。すると四邊四五間四方位ゐに群れてゐた連中はいつ動くとなくまた何處へともなく逃げ隱れて行くのです。そして少なくとも一兩日の間は其處に姿を見せませんでした。
魚の話のついでに釣の事を申しませう。
私の釣りに行つたのは多く磯魚でした。土地では根魚と呼んでゐます。海底が磯になつてゐる所即ち砂でなくて石や岩の重疊した樣な場所にのみ居る魚の總稱です。味は一體に大味ですが、色や形には誠に見ごとなのゝ多いのが特色です。かさご、あかぎ、ごんずい、くしろ、おこぜ、海鰻、その他なほ數種、幾ら聞いても直ぐ忘れてしまふ樣な奇怪な名を持つた魚たちが四邊の海で釣れました。餌はしこ、またその一族のはま何とかいふさよりに似た細身の魚を最上とし、それが間に合はずば大方の魚の切肉、即ち共餌ででも釣れるのです。岡からも釣れますが、どうしても船です。一體に此處の入江は入江としては非常に深く、ことに岸から直ぐずつと深く切れ込んでゐる深みが多いのです。その深み――所によれば二三十尋に及びました――に舷から絲を垂れて釣るのです。
技巧は簡單で、舷に掌を置き、そして親指と人差指との間に持つて垂れた釣絲の感觸によつて魚の寄りを知り、やがて程を見て手速く船の中に卷き上ぐるのです。唯だ絲の降りてゐる海底が岩石原であるため、馴れないうちはよく鉤をそれに引つ懸けました。宿の主人が名人とやらで、それに教はつて釣り始めたのですが、三度四度と行くうちにいつか主人より私の方が餘計釣る樣になりました。親爺負惜しんで曰く、
『おめえたちは指がびるつこいせえに追つつかねヱ。』
びるつこいとは柔かな、せえには故にの意。蓋し指の柔かなためいち速く絲の感觸を受くるから釣りいゝのだとの事でせう。
何しろ二三十尋もある深みの底から一尺大のかさごなどがその大きな口をあいて、一條の絲につれて重々とあがつて來る時の指から腕、腕から頭にかけての感覺の面白さはまつたく別でした。海鰻は淺い所でも釣れました。だからその海底に魚の姿を見ながらに釣れるのです。大瀬崎といふ岬の蔭の磯に此奴の無數に棲んでゐる所がありました。此處では先づ用意して行つた魚の腸(臭い程いゝの故、腐つてゐればなほよし)を海中に投じ、徐ろに其處等の岩や石の間を窺いてゐるのです。すると間もなく赤黄色の斑のある海鰻先生がどの石の蔭からともなくのろつと現はれます。出たぞ、と絲をおろすころには、出るは〳〵、のろり〳〵と大きな七五三繩の繩片のやうな奴が縒れつ縺れつ岩から岩の蔭を傳うて泳ぎ𢌞ります。それの鼻先へ(この先生、眼がろくに見えず唯だ匂だけで動くのださうです、だから餘計に間が拔けて見えます)餌を突きつけて釣るのですからわけはありません。但し此奴釣りあげてから厄介で、私などの細指をば唯だの一噛みで噛み切らうといふ鋭い齒を持つてゐるので、鉤をはづすが大難澁、私など大抵一匹ごとに鉤を切つて新たなのを用ゐました。大きいのになると幅二三寸長さ二三尺のものがゐました。形美ならず、味また不美。
思ひ出して來るといろ〳〵ありますが、もう一つ、毎日の夕方の事を書いてこれを終りませう。ア、朝起きてから顏も洗はずに、まだ日のさゝぬうす黒い海面へ庭さきからざぶりと飛び込む愉快さをも書き落してゐましたね。
この村から毎日早朝沼津へ向けて出る發動機船があります。そしてそれは午後の四時、五時の頃に村へ歸つて來るのです。私はいち速くこの船の人たちと懇意になつて、いろ〳〵と便宜を得ました。そんな佗しい漁村の、そんな佗しい宿屋のことで、何も御馳走がありません。殆んど自炊をしてゐる形で私たちは其處の一月を送つたのですが、その食料品をば全てこの發動機船に頼んで沼津から取り寄せたのです。そればかりでなく、沼津の留守宅から𢌞送して來る郵便や新聞等も途中一二箇所の郵便局の手を經るよりもこの船に頼んで持つて來て貰ふ方がずつと速かつたのです。
夕方の四時近く、いつとなく夕涼が動き出して西日を受けた入江の海の小波が白々と輝き出した頃、泳ぎに疲れた二階の一家族は誰かれとなく一樣に沖の方に眼を注ぎます。
『來た、來た、壯快丸が見えますよ、父さん!』
兄が斯う叫びます。
『どれ、どれ、……うゝん、あれは常盤丸だよ、壯快丸ではないよ。』
『嘘言つてらア、御らんよ、ぺんきが白ぢやァないか。』
『ア、さうだ、今日も兄さんに先に見附けられた、つまんないなア。』
と妹が呟きます。
大抵親子二三人してその壯快丸の着く所へ出懸けます。そして野菜や(海岸には大抵何處でもこれが少ない)肉や郵便物を受取つてめい〳〵に持つて歸ります。歸つてから兄は水汲み、妻は七輪、父親はまた手網を持つて岸近く浮けてある生簀に釣り溜めておいた魚をすくひに泳ぎ出すのです。
八月が終りかけると母と子供とは學校があるので家の方に歸り去り、父親一人は釣に未練を殘してもう二三日とその宿に殘りましたが、越えて九月一日の正午、例の大地震を食つて大いにうろたへたのでした。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年6月14日公開
2005年11月17日修正
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伊豆半島西海岸、古宇村、宿屋大谷屋の二階のことである。九月一日、正午。
その日の晝食はいつもより少し早かつた。數日前支那旅行の歸りがけにわざ〳〵其處まで訪ねて來て呉れた地崎喜太郎君が上海からの土産物の極上ウヰスキイを二三杯食前に飮んだのがきいて、まだ膳も下げぬ室内に仰臥してうと〳〵と眠りかけてゐた。
其處へぐら〳〵ツと來たのであつた。
生來の地震嫌ひではあるが、何しろ半分眠つてゐたのではあるし、普通ありふれたもの位ゐにしか考へずに、初めは起上る事もしなかつた。ところが不圖見ると廊下の角に當る柱が眼に見えて斜めになり、且つそれから直角に渡された雙方の横木がぐつと開いてゐるのに氣がついた。
とおもふと私は横つ飛びに階子段の方へ飛び起きた。同時に階下の納戸の方で内儀の
『二階の旦那!』
と叫ぶ金切聲が耳に入つた。が、その時にはその人より私の方がよつぽど速く前の庭にとび出してゐた。
すると、ゴウツ、といふ異樣な音響が四方の空に鳴り渡るのを聞いた。見れば目の前の小さな入江向うの崎の鼻が赤黒い土煙を擧げて海の中へ崩れ落つるところであつた。オヤオヤと見詰めてゐるとツイ眼下の、宿から隣家の醫師宅にかけて庭の塀下を通つてゐる道路が大きな龜裂を見せ、見る〳〵石垣が裂けて波の中へ壞れて行つた。
これは異常な地震である、と漸く意識をとり返してゐるところへ、また次の震動が來た。地響とか山鳴とかいふべき氣味の惡いどよみが再び空の何處からか起つて來た。村人の擧ぐる叫びがそれに續いてその小さな入江の山蔭からわめき起つた。
三度、四度と震動が續いた。そのうち隣家醫師宅の石塀の倒れ落つる音がした。それこれを見てゐるうちに先づ私の心を襲うたものはツイ眼下から押し廣まつて行つてゐる海であつた。海嘯であつた。
不思議にも波はぴたりと凪いでゐた。その日は朝からの風で、道路下の石垣に寄する小波の音が斷えずぴたり〳〵と聞えてゐたのだが、耳を立てゝもしいんとしてゐる。そして海面一帶がかすかに泡だつた樣に見えて來た。驚いた事にはさうして音もなく泡だつてゐるうちに、ほんの二三分の間に、海面はぐつと高まつてゐるのであつた。約一個月の間見て暮した宿屋の前の海に五つ六つの岩が並び、滿潮の時にはそのうちの四つ五つは隱れても唯だ一つだけ必ず上部一二尺を水面から拔き出してゐる一つの岩があつたが、氣がつけばいつかそれまで水中に沒してゐる。
『此奴は危險だ!』
私は周圍の人に注意した。そしてまさかの時にどういふ風に逃げるべきかと、家の背後から起つて居る山の形に眼を配つた。
海の水はいつとなく濁つてゐた。そして向う一帶の入江にかけて滿々と滿ちてゐたが、やがて、「ざァつ」といふ音を立つると共に一二町ほどの長さの瀬を作つて引き始めた。ずつと濱の上の方に引きあげてあつた漁船もいつかその異常な滿潮にゆら〳〵と浮いてゐたのであつたが、急激な落ち潮に忽ち纜を斷たれて悠々と沖の方へ流れてゆく一つ二つが見えた。あれほど常平生船を大事にする濱の人たちも、それを見ながら誰一人どうしようといふ者がなかつた。
さうした景色を見ながら直ぐ心に來たのは沼津の留守宅の事であつた。四人の子供に、あの舊びはてた家屋、男手の少ないところでどうまごついてゐるであらうとおもふと、とてもぢつとしてゐられなかつた。この有樣では既に電報線のきく筈はないと思ひながらも、兎に角郵便局まで行つて見ようと尻を端折つた。數日前から階下の部屋に滯在してゐる群馬縣の社友生方吉次君も、
『一人では心細いでせう、私もゆきませう。』
と同じく裾をまくしあげた。
郵便局は古宇村から一つの崎の鼻を曲つた向うの隣村立保といふに在るのであつた。その鼻に沿うて海沿ひにゆく道路はツイ先刻第一の震動と共に崩壞するのを眼前見てゐた。で、その崎山の峠を越えてゆく舊道があるといふことをフツと思ひ出して、それを越えてゆくことにした。
古宇村は戸數六十戸ほどの、半農の漁村で、二つの崎山の間に一掴みに家が集つてゐるのである。その部落の間を通り拔けやうとすると、なんと敏速に逃げ出したことか、家といふ家がみな戸をあけすてたまゝ、屋内には早や一個の人影をも留めてゐなかつた。そしてずつと山の手寄りの田圃の間に一かたまりに集つて海面に見入つてゐるのが見えた。
部落を通り拔けて舊道を登りにかゝると、其處には木立のたちこんだ間に、幾つかの龜裂の出來てゐるのが見えた。荒れ古びた小徑の草むらの中には先から先と大小の石塊が眞新しく轉げ落ちてゐた。とても徐歩する事が出來ず、小走りに走つてその山蔭の村立保へと降りて行つた。
此處の龜裂は古宇より更にひどかつた。か細い女の身で大きな箪笥を横背負に背負ひ込んで山手の方へ青田中を急いでゐる者や、米俵を引つ擔いで走つてゐる若者などが入り亂れて見えてゐた。海岸の高みには老人たちが五六人額をあつめて遠くの海上を眺めてゐた。
郵便局に行くと一人の老人を廣い庭の眞中に寢かして、二三人の若い女が手に〳〵傘を持つてその周圍に日を遮つてゐた。病人らしかつた。案の如く電報電話とも不通であつた。心休めに、若し通ずる樣になつたら早速これを頼みますと頼信紙を頼んでおいて、二人はまた山の舊道を越えた。
古宇の村はづれにかゝると、土地の青年團の一人がわざ〳〵我々の方に歩いて來て、
『今夜は津浪が來るさうですから直ぐ彼處に行つてゝ下さい、村の者は皆行つてゐますから。』
と山の方を指ざした。坐りもやらず群衆は其處に群つてゐる。
『難有う!』
海岸に似合はない人氣のいゝ人情の純なこの村の氣風を、改めてこの紅顏の一青年に見出しながら私達は禮を言つて急いで宿に歸つた。
宿でも評定が開かれてゐた。元來いま歸りがけに見て來たところでは村内全部が雨戸を閉ぢて山の方へ引上げてゐるので、まだ平常のまゝに戸をあけてゐるといふのはこの宿屋一軒きりであつたのだ。それを私は私たちに對する宿の遠慮からだとおもつた。で、いま途中で逢つて來た青年の勸告のことを告げて、一緒にこれから立ち退かうと申し出た。
『それがネ旦那』
宿の婆さん――主人の母で七十近くの――が私の側に寄つて來た。そして安政二年にも地震と共に大津浪がやつて來て、この古宇村全帶を破壞し、洗ひ浚つて行つたことがある。その時に不思議にも此處一軒だけは地震にも崩れず、津浪にも浚はれず、人々に奇異の思ひをさせたのであつたが、もともとこの家は裏の山續きの岩を切り拓いてその上に建てたものであり、また僅かの事だが家の所在が一寸して崎の鼻の蔭に位置してゐるので津浪からも逃れたのであらうといふことになつてゐた。だから今度も大抵大丈夫であらうとおもふが、それとも旦那たちが氣味が惡ければ逃げませう、まアまア念のために飯をばいまうんと炊いてゐる處だといふのだ。
しつかり者のこの老婆の言ふことをば何故だが其儘信用したかつた。そして若しもの事のあつた時の用意だけをしておいて山へ逃げるのを暫く見合はすことにした。
それでも屋内に入つて居れなかつた。縁側に腰かけるか庭に立つか、斷えず搖つて來るのに氣を配りながらも海面からは眼が離せなかつた。
『や、壯快丸ぢやないかナ。』
私は思はず大きな聲でさう言ひながら庭先へ出て行つた。遙かの沖に、唯だ一個の白點を置いた形で眼に映つた船があつた。其時どうしたものか見渡す沖には一艘の小舟も汽船も影を見せなかつた。其處へ白い浪をあげて走つて來るこの一艘が見え出したのだ。
『ア、ほんとだ、壯快だ〳〵、オーイ、壯快丸がけえつて來たよう。』
宿の息子も誰にともない大きな聲をあげた。壯快丸とはこの古宇村の人の持船で、此處から他三四ヶ所の漁村を經て沼津へ毎日通つてゐる發動機船であるのだ。
『今日は直航でけえつて來たナ、どうだいあの浪は!』
裸體のまゝの宿の亭主も出て來た。なるほどひどい浪である。舳にあがつてゐるその白浪のために、こちらに直面してゐる船の形は殆んど隱れてしまつてゐるのだ。
『ひでえ煙を出すぢアねヱか、まるで汽船とおんなじだ、全速力で走つてやがんナ。』
いよ〳〵壯快丸だと解つた頃には山に逃げてゐた人たちもぞろ〳〵とその船着場ときめてある海岸に降りて來て集つた。私たちもその中に入つてゐた。船は全く前半身を浪の中に突き入れる樣にして速力を出してゐる。そして間もなく入江の中に入つて來た。
船内には無論客も荷物もなく、丸裸體の船員だけが二三人浪に濡れて見えてゐた。
『どうだい、沼津は?』
『えれえもんだ、船着場んとこん土藏が二三軒ぶつ倒れた、狩野川がまるで津浪で船が繋いでおかれねえ。』
まだ碇をもおろさない船と陸の群衆との間には早や高聲の問答が始まつた。
小舟で漕ぎつける人も出て來た。そして其處あたりから傳へられたらしく、今夜の十二時に氣をつけろ、でつけえ奴が搖つて來ると沼津の測候所でふれを出した、三島町は全滅で、山北では汽車が轉覆して何百人かの死人が出たさうだ、などと入江向うの新聞が異常な緊張を以て口から口に傳へられた。其處へ誰から渡されたとも氣のつかぬ手紙が私の手に渡された。大悟法利雄君の手である。胸を躍らせながら封を切つた。
ひどい地震でしたネ、先生大丈夫ですか。こちらは唯だ壁と屋根瓦が落ちたゞけで皆無事ですから御安心下さい。
引き續いて來た三つの大震動がいまやつと鎭まつたところ、先生が心配していらつしやるだらうと思ふので取敢へずこれだけを書いて船に驅けつけます。
と簡單だが、これだけ讀んで私はほつとして安心した。そしてよくこそ取込んだ間にこれだけでも知らして呉れたと大悟法君に感謝し、船の人たちにも感謝した。
いそ〳〵と宿へ歸らうとすると、其處の道ばたに一人の少年が坐つてゐる。見れば見知合の郵便配達夫で、顏色が眞蒼だ。
『どうした、おなかでも痛いか。』
と訊くと、自分の頭を指ざす。
幸ひその側に醫者の家があるので其處へ連れて行つた。
『ア、腦貧血ですよ、これは!』
と言つたきり、藥の事をば何とも言はず、そゝくさと何處かへ出て行つた。お醫者樣ひどく惶てゝゐるのである。
止むなく私は宿に少年を連れて歸つた。そして縁側に寢かし、仁丹など飮ませて靜かにさせながら、やがて訊いて見ると、これから二里ほど岬の方に離れて江梨といふ漁村がある、其處まで配達に行つて歸つて來る山の中で例の『ドシン!』に出合つたのださうだ。山の根に沿うた路のことで大小雜多な石ころが、がら〳〵と落ちて來る、人家はなし、走らうにも足がきかず、漸く此處まで出て來たらもう立つて居る事も出來なくなつたのださうだ。
夕方まで寢てゐると、顏色も直つて、笑ひながら歸つて行つた。
『サテ、慓へてばかりゐても爲樣がない、一杯元氣をつけませうか。』
さう言ひながら私は二階に酒の壜をとりに上つて行つた。そして、思はず立ち止りながら大きな聲で笑ひ出した。倒れも倒れたり、一升壜が三本麥酒壜が三本――これらは皆カラであつた――ウヰスキイ(一本はカラ)二本が、全部横倒しになつて部屋のそちこちに泳ぎ出して來てゐるのだ。時ならぬ笑聲に驚いて宿の亭主も上つて來た。そして一緒に笑ひ出した。
『一本取つて來ませう。』
『然し、店は戸をしめてましたよ。』
『なアに、こぢあけて取つて來ますよ。』
村はほんとにノンキであつた。果して一升壜を提げて、なほ罐詰をも持つて、人の子一人ゐない部落の方から亭主は歸つて來た。『先生、惜しいことをしましたよ。店では實のある奴が二三本ぶつ壞れて酒の津浪でしたよ。』
庭の一隅に板を並べ茣蓙を敷き、其處を夕餉の席とした。生方君と今一人、二三日前から泊り合せてゐる眞田紐行商人の老爺との三人が半裸體になりながら冷酒のコツプを取つた。其處へ消防が來、青年團の人たちが見舞にやつて來た。その間にも、ヅシン、ヅシンと二三度搖つて來た。海は然し却つて不氣味な位ゐに凪いでゐた。そしてまた何といふ富士山の冴えた姿であつたらう。
雲一つない海上の大空にはかすかに夕燒のいろが漂うてゐた。そしてその奧には澄み切つた藍色がゆたかに滿ち渡つてゐる。其處へなほ一層の濃藍色でくつきりと浮き出てゐるのが富士山であるのだ。
『斯んな綺麗な富士をば近來見ませんでしたねヱ、何だか氣味の惡い位ゐに冴えてるぢアありませんか。』
暫くもそれから眼を離せない氣持で私は言つた。
やがて四邊が暗くなつた。暮れた入江の丁度眞向う、山の端の空が、半圓形を描いてうす赤く染つて見えた。
『火事だナ、三島には遠いし、何處でせう。』
『小田原見當ですネ。』
『箱根の山でも噴火したではないでせうか。』
噴火ならば爆音がある筈である。火事とするととても小さなものではない。
『今夜の十二時に氣をつけろつてのは本當でせうか、どうしてさういふ事が解るでせう。』
『中央氣象臺からでも何か言って來たのでせう。』
『電報がきくか知ら。』
戸外に寢るには私は風邪が恐かつた。で、縁側に床を伸べて横になつた。ツイ鼻さきの前栽には鈴蟲が一疋、夜どほしよく徹る聲で鳴いてゐた。
夜警の人が折々中庭に入つて來た。
九月二日早朝、出澁る壯快丸を村中して促して沼津に向つた。乘船した人の過半は沼津の病院に病人を置いてゐる人たちであつた。
壯快丸から降りると私はすぐ俥を呼んだ。町中すべて道路に疊を敷いて坐つてゐた。一月ほど見なかつたこの町の眼前の光景が一層私には刺戟強く映つた。
『オ、今、お歸りですか。』
と聲をかくる知人もあつた。
香貫の自宅近くの田圃中の畦道には附近の百姓たちが一列に蓆を敷き、布團を敷いて集つてゐた。
私の姿を見るや否や、
『ア、けえつて來た〳〵。』
と誰となくさゝやく聲が聞えた。笑顏の二三人は立ち上つて頭をさげた。
門を入らうとすると、青い蚊帳が見えた。門から中門までの砂利の上、松や楓の木の間に三つ吊つてあるのだ。夜具が見え、ぬぎすてた着物が木の枝にかけてあつた。
『やア、とうさんだ〳〵、かアさアん、とうさんが歸つて來たよウ!』
忽ち湧き起る四人の子供たちの叫びが私を包んだ。
思ひがけぬ綿引蒼梧和尚の大きな圖體がのつそりと半吊りの蚊帳から表はれた。
『やア、君が來てゐたのか!』
『ウン、一昨日來てひどい目にあつたよ。』
『さうか、それはよかつた。』
星君も日疋君も出て來た。彼等の下宿してゐる龜谷さん一家が私の宅に逃げて來て一緒に蚊帳を並べたのださうだ。大悟法君は壁の落ちた玄關から出て來た。
臨時の炊事場が裏庭に出來てゐた。頬かむりの妻がほてつた顏をして其處から來た。
『ヤアとうさんだ〳〵、うれしいな〳〵。』
子供の叫びはなか〳〵に止まなかつた。
三日には雨が來た。しかも強い吹き降りであつた。うろたへて庭のものを取り込んでゐる一方では室内にぽと〳〵といふ雨漏りの音が聞え初めた。もと〳〵舊い家で、少し降りが強いと必ず漏るには漏つたが、それは場所がきまつてゐた。今度もツイその氣でゐると、座敷が漏る、茶の間が漏る、玄關、奧座敷、二階などは天井の板の目に列をつらねて落ちてゐる。噐具を片寄せる。疊をあげる。不圖氣がついて一つの押入をあけて見ると其處の布團はぐつしよりだ。周章へて他のをあけて見ると其處も同斷である。臺所、便所にまでポチ〳〵と音が聞えだした。僅かに離室とそれに隣つた湯殿とだけが無事だ。湯殿は早速物置になつた。
其處へ例の「風説」がやつて來た。今夜から土地の青年團が夜警をするから、庭の木戸など一切締めずに彼等の通行に自由ならしめて貰ひ度い、と達して來た。
『恐いなア、おとうさん、どうしませう。』
子供たちは眞實顏色を變へてゐる。
四日の夜なかであつた、たゞならぬ聲で私を呼ぶ者がある、一人ならぬ聲だ。三日の雨から庭に寢るのをよした代りに、雨戸はすべてあけ放つてあるので、早速私はその聲の方へ出て行つた。
見ると五六人の青年が一人の男の兩手をとり、肩を捉へて居る。呆氣にとられてよく見ると、捕へられてゐる男は古宇で別れて來た、生方君であつた。急に私の方に來たくなり、夜みちをしてやつて來る途中、青年團につかまつた。何處へゆく、斯ういふ人の所へ行く、嘘を言へ、何が嘘だ、が嵩じてたうとう此處まで引きずられて來たのださうだ。青年たちも生方君も汗ぐつしよりである。
二日、三日、四日と夢中で過して漸く落着きかけた五日の午後、私は三島町の塚田君を見舞はうと思ひ立つた。同君には沼津の稻玉醫院副院長時代、始終子供たちの身體を診て貰つてゐた。三島に單獨に開業してまだ幾らもたゝぬにこの騷ぎで、しかもそちらは隨分ひどくやられたと聞いて前から氣になつてゐたのである。電車の運轉が止まつてゐるので、舊街道の埃道をてく〳〵と歩き始めた。
尻端折で歩くといふ事が不思議に私の心を靜かにしてくれた。と共に急にいろ〳〵な事が思ひ出されて來た。先づ東京横濱の知人たちの身の上である。
この三日あたりから今度の事變の範圍が漸く解りかけた。そして何より驚かされたのは東京横濱地方に於ける出來事であつた。殆んど信じ難い事であつたが、而かも刻々にその事實が確められて來た。次いで起つて來たのはさうした大事變の中に於ける我が知人たちの消息如何である。何處々々が燒失したと聞けば其處に住んで居る誰彼の名が、顏が、直ぐ心に浮んだ。死傷何萬人と聞けばどうしてもその中に二人や三人は入つてゐなければならぬ樣な氣がしてならぬのである。丸ビルの八階はどうだ、六階はどうだつたらう、窓から飛んで二百人死んだといふではないか、通新石町の土藏はこれは最も危險だ、女の身でどうして逃げられたらう、身一つならばだが親を連れてはどんなに難儀したであらう、とそれからそれと想像が走る。しかも明るい方へは行かないでどうしても暗い方へ〳〵とのみ走りたがるのだ。先月伊豆に訪ねて來て呉れた時、今から思へばいつもほど元氣がなかつた、蟲が知らしてお別れに來たのではなかつたか、などと全く愚にもつかぬ事まで氣になつて來る。
便所に行つた時、枕についた時、僅かの隙を狙つては起つて來る此等の懸念や想像が、いま斯うして獨りで歩いてゐると恰も出口を見付けた水の樣に汪然として心の中に流れ始めたのだ。果ては歩調も速くなつて、汗をかきながら急いでゐたが、黄瀬川の橋にかゝつた時、私は歩くのをよして其處の欄干に身を凭せかけた。そして汗を拭き帽子をとつてその熱苦しい想像邪念を追拂はうと努めた。
が、それは徒勞であつたばかりでなく、却つて一種の焦燥をさへ加へた。焦燥はやがて一つの決心を私に與へた。
『よし、行つて來よう、行つて見て來よう!』
さう思ひ立つともう大抵無事だと解つてゐる三島の方へなど行つてはゐられなかつた。三島はあと𢌞しだ、と思ひ捨てながらとつとゝ踵をかへして歩き始めた。
家に歸つてから妻との間にいろ〳〵の問答や相談が繰返された。入京の非常に難儀なこと、私自身の健康のこと、旅費のこと、それからそれと頭の痛くなるほど繰返されてゐるところへ、ひよつこり庭先へ服部純雄さんがやつて來た。彼は昨日岡山から職員總代、學生總代其他と三人の人を連れて、
『君たちを掘り出すつもりでやつて來たのだが、まア〳〵噂の樣でなくてよかつた。』
と、言ひながら、その明るい笑顏を見せたのであつた。關西地方では最初沼津地方激震死傷數千云々といふ風に傳へられ、それに驚いて飛んで來たのであつたさうだ。その服部さんが勇しい扮裝を見せながら、『とても君危險で箱根から向うには行けないさうだ、此處まで來たついでに東京まで行つてやらうといま町でいろ〳〵用意をしたんだが……』
と、その種々の危險を物語つた。
『それではあなたにも到底駄目ですネ。』
と諦め顏に細君が私を見た。
そして、その日の夕方、代りに大悟法君が萬難を冒して出かくるといふことに事は急變したのであつた。
明けて六日の午前中、大悟法君と二人沼津中を馳け𢌞つて用意を整へ、正午、折柄安否を氣遣つて伊豆から渡つて來て呉れた高島富峯君と共に大悟法君の悲壯な出立を沼津驛に見送つたのであつた。
箱根を越え、御殿場を越えて逃げて來た所謂罹災民の悲慘な姿で沼津驛前あたりが一種の修羅場化してゐる話をば人づてに聞いてゐたが、私が直接にさうした人を見たのはその六日の夕方、自宅の庭に於てゞあつた。
玄關に立つてゐる異樣ないでたちの青年に見覺えはあつたが、直ぐには思ひ出せなかつた。名乘られて見ればそれは三年ほど前に、當時長野市にゐた紫山武矩君方で逢つた同君の末弟四郎君であつた。
『ア、さうでしたネ、さアお上んなさい。』
『まだ二人ほど連れがあるんですが……』
『どうぞ、お呼びなさい。』
一人は四郎君のすぐ上の兄さんで早稻田大學、一人はその友人で農科大學の學生だと解つたが、三人とも古びた半纒を引つかけたまゝで下はから脛の、見るからに變な樣子であつた。
『アツ!』
私は初めて氣がついた、彼等はすべて小田原の人であつたのだ。それで、この異樣な樣子が呑み込めると同時に口早やに問ひ掛けた。
『君等はやられたのですね、どうでした、小田原は?』
『すつかりやられました、身體一つで燒出されました……』
漸く私は彼等を座敷に招じた。聞けば彼等は三人共各學校柔道の選手で、九月一日には小田原小學校で始業式の濟んだあとが柔道大會となり、彼等は全て柔道着か裸體かになつて式場(雨天體操場などであつたらうと思ふ)に出てゐた。ドツと來ると共に學校は潰れてしまつた。幸ひ彼等のゐた場所は場内の中央であつたゝめ、落ちた屋根も其處だけは多少の空隙を殘してゐて壓死をば免れたが、まん中どころ以外に並んで見物してゐた幼い生徒たちは殆んど全部ひしやがれてしまつた。そのうち小使部屋から火が出た。何處をどう掻き破つて出たのだか兎に角に三人とも素裸體で、諸所に擦傷を負ひながらもつぶれた屋根の下から這ひ出す事が出來た。出て見ると町にはすつかり火が𢌞つてゐたさうだ。其處へ津浪が寄せ、やがて凄じい龍卷が起つて紙片の樣に人間其他を空中に卷きあげた。
『何しろ町中全部が燒けたものですから食物が無いのです、救助米が多少𢌞つてるのですけれど、如何してだか東京方面を主にして小田原などにはほんの申譯ばかりにしかよこさないのです、で、米を少し持つてゆかうとこれから鈴川の親戚まで行くところです。』
と一人が言ふと、一人は笑ひながら着てゐる半纒を引つぱつて、
『裸體ではしやうがないものですから、途中の親戚で道了講の宿屋をしてゐる家に寄つてこれを三枚貰つて來たのです。』
私は今朝小田原から山を越えて來たといふ三人に強ひて足を洗はせて、今夜此處に泊る事にさせた。そしてようこそ此處に私の住んでゐる事を思ひ出して呉れたと想つた。
酒を取りにやつた女中が歸つて來たらしく、勝手の方で時ならぬ笑ひ聲がするので行つて訊いて見ると、近所の者が酒屋に集つて、
『いま若山さんところに不逞鮮人が三人入つて行つたが、どういふ事になるだらう。』
と騷いでゐたといふのだ。なるほどさう言はれゝば三人共髮の長い、眼のぎよろりとした、背の痩高い連中で、おまけに人夫などの着さうな半纒を着たところ、鮮人と見られても否やは言へぬ風采であつたのだ。
久し振だ、勿體ない樣だと言ひながら三人の人たちが盃をあげてゐるところへ、
『先生、やつて來ましたよ。』
と、聞き馴れた聲が玄關で起つた。思ひもかけぬ笹田登美三君が大きな荷物を擔いで立つてゐるのだ。
『やア笹田さんだ〳〵。』
子供たちが一齊に飛び出して來た。同君は矢張り大阪地方の新聞記事を見て、不安でならぬので出懸けて來て呉れたのであつた。そしてそれこそ喰べものにも困つてゐはせぬかとわざ〳〵澤山な餠をついて擔いで來て呉れた。なほ來がけに寄つた大阪の某君の許から頼まれたと云つて渡された包を開いて見ると、食料、藥品、燃料と、くさぐさの心づくしが收めてあつた。
『まアほんとに、どうしませうねヱ。』
一つ〳〵手にとつては妻は早や涙ぐんでゐる。
やがて皆床を敷いて横になつた。その前から小さなのが一つ二つとゆれてゐたのであつたが、九時頃でもあつたか、やゝ大きいのがゆら〳〵と動いて來た。丁度私は便所に行かうと廊下を歩いてゐた所で、『來たナ』と思つて立ち止つた途端にツイ眼の前の座敷から、
『ワツ!』
と言ふと身體を揃へて庭の方へ飛び出したものがあつた。びつくりして見ると小田原組の三人だ。揃ひも揃つて長いのが三人、水泳の飛び込み其處のけの恰好で、双手を突き擴げて二三間あまりも闇を目がけて跳躍した有樣はまつたく壯觀で、フツと思ふと同時にこみあげて來た笑ひは永い間私の身體を離れなかつた。
彼等も私に合はせて笑ふには笑つたが、それからどうしても屋内に眠る事が出來なくなり、たうとう茣蓙を持ち出して庭の木蔭に三人小さくかたまつて寢てしまつた。私たちは三日の雨の夜から引續いて屋内に寢る事になつてゐたのだ。
待たれるのは被害地からの便りであつた。
大悟法君からの第一便は名古屋驛から來たがそれからぴつたり止つたまゝで何の音沙汰も無い。東京、横濱の誰一人からも來ない。毎日町へ出かけて買つて來る大阪地方の新聞紙は日一日と不安を強め確かめてゆくばかりだ。
其處へ十日の正午少し前、電信配達夫が門前に自轉車を乘りすてた。その姿を見るとすぐ私は机を離れて玄關へ急いだのであつたが、妻の方が速く其處に出て受取つた。そして發信人の名を、
『ミ、チ、ヤ』
と讀んだのを耳にした。
『ナニツ!』
と言ひさま彼女の手から引つとつて中を見た。
『コチラヘキタアスユク』
シズオカ局發である。
妻とたゞ眼を見合せた。
『生きてたナ!』
といふ感じが、言葉にならずに全身に浸み巡つたのである。
電報は二通であつた。他の一通の發信人には『トシヲ』とある。
『トウケウミナブ ジ アンシンセヨイマヨコハマニユク』
發局は同じく靜岡だ。
『道彌さんが生きて歸つて、それに利雄さんがことづけたのだ。』
と直ぐ思つた。
皆無事、の範圍は解らないが兎に角に重な人たちに事の無かつたとだけは解してよろしい。
泣くとも笑ふとも解らぬ顏を突き合せて夫婦はなほ暫く無言のまゝ縁側に立つてゐた。
『オイ、今日のお晝には一杯つけるのだよ。』
嚴として妻に命令した。地震記念に私は永年の習慣となつてゐた朝酒と晝酒とをやめる事に三四日前からなつてゐたのだ。
九月六日附、「再度上京の時」と脇書した鉛筆の葉書が十一日に中島花楠君から來た。あとで思つたのだが恐らくこれは高崎の停車場あたりで書かれたものだらう。
貴方のお宅もお見舞ひせず、失禮。遂々本所の兩親弟妹四人が完全に燒死したといふ悲しきお知らせをします。何が何だか解らない頭で燒跡をウロ〳〵してゐます。是から義弟の家へ(是は無事)整理にゆく處です。咲子の家(芝新堀)も全燒です。是にはまだ行きませんから生死は判りません。社友の中にも氣の毒な方が少くないでせう、高久君はどうしたらう。
中島君が早々東京へ出立した事をば名古屋の他の社友から早速通知があつて知つてゐた。行つてそして斯んな事になつたのだ、と暗然とした。後で直ぐこの取消は來たのであつたが。
十一日にミチヤさんが靜岡の實家からやつて來た。見るからに憔悴して、さながら生きた幽靈と云つた形である。不思議な氣持で食卓を中に相向ひながら、私は幾度も涙を飮んだ。瞳孔も緊つてゐず、ともすれば話の返事もちぐはぐになりがちであつた。
然し、この人に逢つて愈々東京の大體は解つた。誰も無事、彼も無事、あの人も私同樣着たまゝで燒出されたさうですけれど、命だけは助かりました、といふ同君の話を聞きながら、又しても瞼は熱くなつて來るのである。
『さうすると、殆んど全部東京の知人は助かつたといふわけか、どうも本統でない樣な氣がするが。』
『まつたく何かの奇蹟を聞く樣ですね。』
と妻も食卓にしがみつく樣にしてゐて言つた。
サテ横濱が氣になる。長谷川も、齋藤も、梅川も、自宅は横濱で、會社は東京だ。
其處へ『トシヲ』の電報が來た。十二日午後零時三十分、『テツセンダイ』局發だ。
『ギ ンサクキリコブ ジ イヘマルヤケ』
越えて十三日にまた同文のものが『ゴテンバ』局發で來た。おもふに同君が大事をとつて一は東北方面へ、一は關西方面へ逃げてゆく人に托して同文のものを發したのであつたらう。
それから續いて追々と各自に無事を知らせる通知が來たが、中に横濱の高梨武雄君からの封書で(前略)以上の人みな無事、唯だ一人金子花城君のみ今以て行衞不明です。
と云つて來た。そして終にこの人だけは永遠に我等の世界の人でなくつた事を、ずつと遲れて二十七日に知る事が出來た。
豫定した行數を夙うに超過しながら書きたい事は一向に盡きない。いつそ、この十日前後の記事を以てこの變體な日記文を終らうと思ふ。この偉大な事變に對して動かされた我等の心情も實に多大なものがあつた。然し、それはまだ〳〵ものに書き綴るべき境地にまで澄んでゐない。我等はいまなほ實に不安な動掻の中に迷つて居るのだ。此處には唯だノート代りのこの記事を殘して恐しかつた『彼の時』の思ひ出にするのみである。(九月二十九日) | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月20日公開
2005年12月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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信州白骨温泉は乘鞍嶽北側の中腹、海拔五千尺ほどの處に在る。温泉宿が四軒、蕎麥屋が二軒、荒物屋が一軒、合せて七軒だけでその山上の一部落をなしてをるのである。郵便物はその麓に當る島々村から八里の山路を登つて一日がかりで運ばるゝのである。急峻な山の傾斜の中どころに位置して、四邊をば深い森が圍んでゐる。溪川の烈しい音は聞えるが、姿は見えない。
胃腸病によく利くといふので友だちに勸められ、私は其處に一月近く滯在してゐた。九月の中ごろからであつた。元來この温泉は信州といつても重に上下の兩伊那郡及び木曾路一帶、美濃の一部にかけての百姓たちがその養蠶あがりの疲勞をいやすために大勢して登つて來るので賑ふ湯ださうで、八月末から九月初めにかけては時とするとその四軒の宿屋に七八百人の客が押しかける事があるといふ。私の行つた時はほぼその時期を過ぎてもゐたし、丁度蠶の出來が惡くて百姓たちも幾らか遠慮したと見え、それほどの賑ひを見ずにすんだ。白骨に行けばその年の蠶の出來榮が判るとまで謂はれてゐるのださうである。然し、行つた初めには私の宿屋にだけでも二百ほどの客が來てゐた。が、彼等は蠶が濟んで一休みすると直ぐまた稻の收穫にかゝらねばならぬので、永滞在は出來ない。五日か七日、精々二週間もゐれば歸つてゆく。初め意外な人數と賑ひとを見て驚いた私の眼にはやがて毎日々々五人十人づつ打ち連れて宿の門口から續いてゐる嶮しい坂路を降りてゆく彼等の行列を見送ることになつた。そして私自身その宿屋に別るゝ頃にはそのがらんどうの宿屋に早や十人足らずの客しか殘つてゐなかつた。
幾つか折れ込んだ山襞の奧に當つてゐるので、場所の高いに似ず、殆んど眺望といふものがなかつた。唯、宿屋から七八町の坂を登つて、或る一つの尾根に立つと初めて打ち開けた四方の山野を見る事が出來た。竝び立つたとり〴〵の山の中に、異樣な一つの山が眼につく。さほど高いといふでないが他とやゝ離れて孤立し、あらはに禿げた山肌は時に赤錆びて見え時に白茶けて見えた。そしてその頂上から、また山腹の窪みから絶えずほの白い煙を噴いてゐる。考ふるまでもなくそれは乘鞍嶽に隣つてゐる燒嶽である。
私は前から火山といふものに心を惹かれがちであつた。あらはに煙を上げてをるもよく、噴き絶えてたゞ山の頂きをのみ見せて居るも嬉しく、または夙うの昔に息をとゞめて靜かに水を堪へてをるその噴火口の跡を見るも好ましい。で、永滞在のつれ〴〵に私は折があればその尾根に登つてこの燒嶽の煙を見ることを喜んだ。そしてどうかして一度その山の頂上まで登つて見たいと思ひ出した。が、もう其處に登るには時が遲れてゐて、宿屋の主人も番頭も私のこの申し出でに對して殆んど相手にならなかつた。止むなくそれをば斷念して、せめてその山の中腹を一巡し、中腹のところどころに在ると聞く二三の温泉にでも入つて來ようと思ひ立つた。
私はまた温泉といふものをも愛してをる。同じ温度の湯でも、たゞの水を人の手で沸かしたものより、この地の底の何處からか湧いて來る自然の湯にいひ難い愛着を感ずるのである。色あるも妨げず、澄みたるは更によく、匂ひあるも無きも、手ざはり荒きも軟かきも、すべてこの大地の底から湧いて來る温かい泉こそはなつかしいものである。其處に靜かに浸つてゐると、そゞろに大地のこころに抱かれてゞもゐる樣な心やすさが感ぜられる。
十月十五日、私は白骨温泉の宿屋の作男を案内として先づ燒嶽のツイ麓に在る上高地温泉に向うた。行程四里、道は多く太古からの原始林の中を通じてゐた。そして其廣大な密林を通り過ぎると、大正三年燒嶽の大噴火の名殘だといふ荒涼たる山海嘯の跡があり、再びまた寂び果てた森なかを歩いてやがて上高地温泉に着いた。一軒建の温泉宿はその森のはづれに、山の上とは思はれぬ大きな川を前にしてひつそりと建つてゐた。川は梓川である。
上高地温泉といへば日本アルプスの名と共に殆んど一般的に聞えた所であるが、アルプス登山期が七月中旬から八月中旬に限られてある樣に、その時期を過ぐれば此處もほんの山上の一軒家になり終るのである。況して私どもの辿りついた十月なかばといふには無論のこと一人の客もなく、家には玄關からして一杯に落葉松の松毬が積み込まれてあつた。通された二階は全部雨戸が閉ざされて俄に引きあけた一室には明るく射し込んだ夕日と共に落ち溜つた塵埃の香がまざ〳〵と匂ひ立つた。湯ばかりは清く澄み湛へてゐたが、その流し場にはほんの一部を除いて處狹く例の松毬が取り入れられてあつた。これを碎いて中のこまかな種子を取れば一升四圓とかの値段で賣れるのださうである。そのために二三人の男が宿屋の庭で默々と働いてゐた。
部屋に歸つて改めて障子を開くと眩ゆい夕日の輝いてゐる眞正面に近々と燒嶽が聳えてゐた。峯から噴きあぐる煙は折柄の西日を背に負うて、さながら暴風雨の後の雲の樣に打ち亂れて立ち昇つてゐるのであつた。
その夜は陰暦九月の滿月をその山上の一軒家で心ゆくばかりに仰ぎ眺めた。そして、月を見つ酒を酌みつしながら、私は白骨から連れて來た老爺を口説き落して案内させ、終にその翌日一時諦めてゐた燒嶽登山を遂行することになつたのであつた。
山の頂上に着いたのは既に正午に近かつた。晴れに晴れ、澄みに澄んだ秋空のもと、濛々と立ち昇る白煙を草鞋の下に踏んだ時の心持をば今でもうら悲しいまでにはつきりと思ひ出す。この火山は阿蘇や淺間などの樣に一個の巨大な噴火口を有つことなく、山の八九合目より頂上にかけ、殆んど到る處の岩石の裂目から煙を噴き出してゐるのであつた。その煙の中に立つて眞向ひに聳えた槍嶽穗高嶽を初め、飛騨信州路の山脈、または甲州から遠く越中加賀あたりへかけての諸々の大きな山岳を眺め渡した氣持もまた忘れがたいものである。更にあちらが木曾路に當ると教へられて振向くと其處の地平には霞が低く棚引いて、これはまた思ひもかけぬ富士の高嶺が獨り寂然として霞の上に輝いてゐたのである。
頂上から今度は路を飛騨地にとつて昨日よりも更に深い森林の中に入つた。まことにこれこそ千古のまゝの森といふのであらう。見ゆる限り押し竝んだ巨樹老木の間に間々立枯のそれを見ることがあるとはいへ、唯の一本もまだ人間の手で伐り倒されたらしいものを見ないのである。第一、私には斯うした火山の麓に斯うした大森林のあるのからが不思議に思はれた。森の中を下る事二里あまり、一つの川に沿うた。川に沿うて下る事約一里、蒲田温泉があつた。其處に泊る事にきめて來たのであつたが、昨年とか一昨年とかの大洪水に洗ひ流されたまゝまだ殆んど温泉場らしい形をも作つてゐなかつた。更に下ること二里、福地温泉があつた。此處は全く影をも留めず洗ひ流されてゐた。
止むなく其處から寒月に照らされながら更に二里の山路を歩いて平湯温泉といふに辿り着いた。此處は謂はゞ飛騨の白骨温泉ともいふべく、飛騨路一帶から登つて來た骨休めの農夫たちで意外な賑ひを見せてゐた。
この平湯温泉から安房峠といふを越えて約四里、信州白骨へ通ずるのである。即ち白骨、上高地、平湯其他の諸温泉が相結んで一個の燒嶽火山を圍んでゐるのである。之等の諸温泉はひとしくみな高山の上にあつて、所謂世間の温泉らしい温泉と遠く相離つてゐる。それがまた私には嬉しかつた。折があらばまたこの三つ四つの山の湯を廻つて見度いと思ふ。唯私はあらゆる場合に於て大勢の人たちのこみ合ふ中に入つて行くことが嫌ひである。で、よし行くにしても七八月の登山期、若しくは蠶あがりの頃には行きたくない。
因にいふ、平湯はたしかに一年中あるであらうが、白骨も上高地も雪の來るのを終りとして宿を閉ぢて、一同悉く麓の里に降つてしまふのである。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月20日公開
2005年11月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私はよく山歩きをする。
それも秋から冬に移るころの、ちやうど紅葉が過ぎて漸くあたりがあらはにならうとする落葉のころの山が好きだ。草鞋ばきの足もとからは、橡は橡、山毛欅は山毛欅、それ〴〵の木の匂を放つてゞも居る樣な眞新しい落葉のから〳〵に乾いたのを踏んで通るのが好きだ。黄いな色も鮮かに散り積つた中から岩の鋭い頭が見え、其處には苔が眞白に乾いてゐる。時々大きな木の根から長い尾を曳いて山鳥がまひ立つ。その姿がいつまでも見えて居る樣にあらはに明るい落葉の山。
それも餘り低い山では面白くない。海拔の尺數も少ない山といふうちにも暖國の山では落葉の色がきたない。永い間枝にしがみついてゐて、そしていよ〳〵落つる時になるともううす黝く破れかぢかんでゐる。一霜で染まり、二霜三霜ではら〳〵と散つてしまふといふのはどうしても寒國の高山の木の葉である。從つて附近での高山の多い甲州信州上州といふ風のところへ私はよく出かけてゆく。今年もツイこの間そのあたりを歩いて來た。
昨年の十月の末であつた、利根の上流の片品川の水源林をなす深い山に入り、山中にある沼で鱒を飼つてゐる番人の小屋に一晩泊めて貰ひ、翌日そこの老人を案内に頼んで金精峠といふを越えた。その山の尾根は上州と野州との國境をなすところで、頂上の路ばたには群馬縣栃木縣の境界石が立つてゐた。それも半は落葉に埋つてゐた。越えて來た方は峽から峽、峰から峰にかけて眼の及ぶ限り、一面の黒木の森であつた。栂や樅などの針葉樹林であつた。そして、これから下りて行かうとする眼下には、遠い麓の湯元湖の水がうす白く光つて見えた。その湖の縁には今夜泊らうとする湯元温泉がある筈であるのだ。
正午近い日がほがらかに照つてゐた。尾根の前もうしろも見下す限り茂り入つた黒木の森だが、僅かに私たちの腰をおろして休んでゐる頂上附近だけそれが斷えて、まばらな雜木林となつてゐた。無論もう一つ葉も枝にはついてゐない枯木の林だ。其處へほつとりと日がさして、風も吹かず、鳥も啼かない。まことに静かだ。
不圖私は自分の眼の前にこまかにさし交はしてゐるその冬枯の木の枝のさきに妙なものゝ附いてゐるのを見つけた。初めは何かの花の蕾かとも思つた。丁度小豆粒ほどの大きさで幾重かの萼見たやうな薄皮で包まれてゐる。然し、いま咲く花もあるまい、さう思ひながら私はその一つを枝から摘み取つて中をほぐして見た。そしてそれが思ひがけないその木の芽であることを知つた。木の芽と云ふが、それが開いて葉となる、あれである。
一つ葉も殘つてはゐないと云ふものゝ、ほんの昨日か一昨日散つてしまつたといふほどのところであつた。さうして散つてしまつたと見ると、もう一日か二日の間に次の年の葉の芽が斯のやうに枝ぢゆうに萌え出て來て居るのである。私はまつたく不思議なものを見出した樣な驚きを覺えた。
これら高山の、寒いところの樹木たちは斯うして惶しい自分等の生活の營みを續けてゐるのである。暫らくもぼんやりしてゐられないのだ。少しの時間をも惜んで、自分を伸ばして行かうとしてゐるのである。霜がおりて葉が染まる、落ちる、程なく雪がやつて來るのである。そしてそれからの永い間を雪の中に埋つてゐるのだ。その間こそ彼等のどうにもならぬ永い〳〵休息の時である。年を越えて、恐らく五月か六月の頃までさうして靜かにしてゐねばならぬのであらう。サテ雪が解ける。それとばかりに昨年の秋からこらへてゐたその芽生の力をいつせいに解きほぐすのである。さう思ひ始めると私はその靜寂を極めた冬枯の木立の間にまことに眼に見えず耳に聞えぬ大きな力の動いてゐるのを感ぜずにはゐられなかつた。大きな力が、何處ともなしに方向を定めて徐ろに動きつゝあるのを感ぜずにはゐられなかつた。
峠をおりて私は湯元温泉に一泊した。そして翌朝其處を立つて戰場ヶ原の方へ出やうとして不圖振返ると、昨日自分等の休んだ峠からやゝ南寄りに聳えて居る尾根つゞきの白根山には昨日のうちに早やしら〴〵と雪の來てゐるのを見た。
それは樹木の場合である。さうした山國の山の奧で人間たちの營んで居る生活に就いても同じ樣な感慨を覺えたことがある。それは畑ともつかぬ山畑に一寸ばかりも萌え出て居る麥の芽を通してゞあつた。
信濃から燒岳を越えて飛騨へ下りたことがある。十月の中旬であつた。麓に近い山腹に十軒あまりの家の集つた部落があつた。そしてその家のめぐりの嶮しい傾斜に小さな畑が作られ、其處に青々と伸び出てゐる麥の芽を見て私は變に思つた。暖國に生れ、現に暖い所に住んでゐる私にとつては、麥は大抵十二月に入つてから蒔かれ、五六月の頃に刈り取られその間に稻が蒔かれ刈らるゝものといふ考へしかない。それに其處では十月の半だといふのに、もう一寸も伸びてゐるのである。その事を連れてゐた案内者に言ふと、もう一月も前に蒔かれたもので、これを刈るのは七八月ごろだと答へた。すると一年の殆んど全部をその山畑の僅かな麥のために費すことに當るのである。これとても半年以上を雪のために埋めらるゝ結果であること無論である。そしてその尊い乏しい麥をたべて彼等は生きて行くのだ。
何といふみじめな生活であらうと私は思つた。自然と戰ふといふは無論當らず、自然の前に柔順だといふのがやゝ事實に近からうが寧ろ彼等そのものが自然の一部として生活してゐるのではないかと私には思はれたのであつた。
暖國ではどうしても人は自然に狎れがちである。ともすると甘えがちで、どこか自然を馬鹿にする所がある。都會人、ことに文明の進んだ大きな都會では殆んど自然の存在するのを忘れてゞもゐる樣な觀がある。唯だ人は人間同志の間でのみ生活して、自然といふものを相手にしない、相手にするもせぬも、初めからその存在を知らない、といふ風のところがある。そして日一日とその傾向は深くなるかに思はれる。
此間の樣に大地震があつたりなどすると、『自然の威力を見よや』といふ風のことをいふ人のあるのをよく見かけるが、私は自然をさうした恐しいものと見ることに心が動かない。あゝした不時の出來事は要するに不時の出來事で、自然自身も豫期しなかつた事ではなかろうかと思はれる。大小はあらうが、自然もまた人間と同樣、あゝした場合にはわれながらの驚きをなす位ゐのことであらうと思はれる。
そして私の思ふ自然は、生存して行かうとする人類のために出來るだけの助力を與へようとするほどのものではなからうかと考へるらるゝのだ。多少の曲折はあるにしても、その生存を共同しようとする所がありはせぬかと考へらるゝ。と云ふより、自然の一部としての人間人類を考ふることに私は興味を持つのである。
たゞ、人間の方でいつの間にかその自然と離れて、やがてはそれを忘るゝ樣になり、たま〳〵不時の異變などのあつた際に、周章へて眼を見張るといふところがありはせぬだらうか。
火山の煙を見ることを私は好む。
あれを見てゐると、「現在」といふものから解き放たれた心境を覺ゆる樣である。心の輪郭が取り拂はれて、現在もない、過去もない、未來もない、唯だ無限の一部、無窮の一部として自分が存在してゐる樣な悠久さを覺ゆる。
常にさうであるとは言はないが、折々さうした感じを火山の煙に對して覺えたことがある。自然と一緒になつて呼吸をしてゐる樣な心安さがそれである。心の、身體の、やり場のない寂しみがそれである。
高山のいたゞきに立つのもいゝものである。
一つの最も高い尖端に立つ。前にも山があり、背後にも見えて居る。そして各々の姿を持ち、各々の峰のとがりを持つて聳えてゐる。
靜まり返つたそれら峰々のとがりに、或る一つの力が動いてゐる樣な感覺を覺ゆることが折々ある。峰から峰に語るのか、それらの峰々がひとしく私に向つてゐるのか、とにかくそれらの峰の一つ〳〵に何か知らの力、言葉が動いてゐる樣な感じを受取つたことが屡々ある。
いま斯う書きながら、囘顧し、空想することに於てもそれと同じいものを感じないではない。
雲が湧く。深い溪間から、また、おほらかにうち聳えた峰のうしろから。
その雲に向つても私は私の心の開くのを覺ゆる。煙の樣にあはい雲、掴み取ることも出來る樣な濃いゝ雲、湧きつ昇りつしてゐるのを見てゐると、私の心はいつかその雲の如くになつて次第に輕く次第に明るくなつて行く。
眼を擧げるのがいゝ時と、眼を伏せるのゝ好ましい時とがある。更に唯だぢいつと瞑ぢてゐたい時もある。
伏せてゐたい時、瞑ぢてゐたい時、私は其處にかすかに岩を洗ふ溪川の姿を見、絲の樣なちひさな瀧のひゞくのを聽くのである。
溪や瀧の最もいゝのも同じく落葉のころである。水は最も痩せ、最も澄んでゐる。そしてそのひゞきの最もさやかに冴ゆる時である。
捉へどころのない樣な裾野、高原などに漂うてゐる寂しさもまた忘れ難い。
富士の裾野と普通呼ばれてゐるのは富士の眞南の廣野のことである。土地では大野原と云つてゐる。見渡す限り、いちめんの草野原である。この野原を見るには足柄連山のうちの乙女峠、または長尾峠からがいゝ。この野の中に御殿場から印野、須山、佐野などいふ小さな部落が散在してゐるが、いづれもその間二里三里四里あまりの草の野を越えて通はねばならぬ。
富士のやゝ西に面した裾野はまたいちめんの灌木林である。そしてその北側はみつちり茂つた密林となつてゐる。いはゆる青木が原の樹海がそれである。
八ヶ岳の甲州路の廣大な裾野を念場が原といふ。方八里といはれてゐるこの原を越えてゆくと信州路に入る。そして其處に展開せられた高原を野邊山が原といふ。
野邊山が原から御牧が原を横切つてゆくと淺間の裾野に出る。追分、沓掛、輕井澤あたりの南に面したあたりもいゝが本統に高原らしい荒涼さを持つてゐるのはその裏山にあたる上州路の六里が原である。これはまた打ち渡した芒の原で、二抱へ三抱への楢の木がところ〴〵に立枯になつてゐる。富士の大野原は明るくやはらかく、この六里が原は見るからに手ざはり荒く近づき難い。
阿蘇山の太古の噴火口の跡だつたといふ平原は今は一郡か二郡かに亙つた一大沃野となつてゐる。この中央の一都會宮地町から豐後路へ出やうとして眞直ぐの坦道を行き行くとやがて思ひもかけぬ懸崖の根に行き當る。即ちこれが昔の噴火口の壁の一部であつたのださうだ。私の通つた時には、その崖には俥すら登る事が出來なかつた。九十九折の急坂を登つて行くと、路に山茶花の花が散つてゐた。息を切らしながら見上ぐると其處に一抱へもありさうなその古木が、今をさかりと淡紅の花をつけてゐたのである。私はいまだにこの山茶花の花を忘れない。そしてその崖を登り切ると其處にはまた眼も及ばない平野がかすかな傾斜を帶びて南面して押し下つてゐたのである。私はこの崖――たしか坂梨と云つたとおもふ――を這ひ登る時に、生れて初めての人間のなつかしさ自然の偉大さを感じたのを覺えてゐる。まだ十七八歳の頃であつた。
芒が刈られ楢が伐られて次第に武藏野の面影は失せて行くとはいへ、まだ〳〵彼の野の持つ獨特の微妙さ面白さは深いものである。彼の野をおもふと、土にまみれた若い男女をおもひ、また榾火の灰をうちかぶつた爺をおもひ婆をおもふ。かとおもふと其處にはハイカラなネクタイも目に見え、思ひ切り踵の高い靴のひゞきも聞えて來る。芒がなびき、楢の葉が冬枯れて風に鳴る。
これらの野原がすべて火山に縁のあるのも私には面白い。武藏野はもと〳〵富士山の灰から出來たのであるさうな。
人は彼の樹木の地に生えてゐる靜けさをよく知つてゐるであらうか。ことに時間を知らず年代を超越した樣な大きな古木の立つてゐる姿の靜けさを。
獨り靜かに立つてゐる姿もいゝ。次から次と押し竝んで茂つてゐる森林の靜けさ美しさも私を醉はすものである。
自然界のもろ〳〵の姿をおもふ時、私はおほく常に靜けさを感ずる。なつかしい靜寂を覺ゆる。中で最も親しみ深いそれを感ずるのは樹木を見る時である。また、森林を見、且つおもふ時である。
樹木の持つ靜けさには何やら明るいところがある。柔かさがある。あたゝかさがある。
森となるとやゝ其處に冷たい影を落して來る。そして一層その靜けさが深んで來る。森の中でのみは私は本統に遠慮なく心ゆくばかりに自分の兩眼を見開き、且つ瞑づる事が出來る樣である。山岳を仰ぐ時、溪谷を瞰下す時に同じくそれを覺えないではないけれども。
森をおもふと、かすかに〳〵、もろ〳〵の鳥の聲が私の耳にひゞいて來る。
自分の好むところに執して私はおほく山のことをのみ言うて來た。
海も嫌ひではない。あの青やかな、大きな海。うねり浪だち、飛沫がとぶ。大洋、入江、海峽、島、岬、そして其處此處の古い港から新しい港。
然し、いまそれに就いて書き始めるといかにも附けたりの樣に聞える虞がある。
庭さきに立つ一本の樹に向つてゐても、春、夏、秋、冬の移り變りの如何ばかり微妙であるかは知り得べき筈である。
況してや其處に田があり畑があり、野あり大海がある。頭の上には常に大きな空がある。
それでゐて人はおほく自然界に於けるこの四季の移り變りのこまかな心持や感覺やを知らずに過して居る樣である。僅かに暑い寒いで、着物のうつりかへで寧ろ概念的に知り得るのみの樣である。
何といふ不幸なことであらう。
一寸にも足らぬ一本の草が芽を出し、伸び、咲き、稔り、枯れ、やがて朽ちて地上から影を消す。そしてまた暖い春が來ると其處に青やかな生命の芽を見する。いつの間にか一本は二本になり三本になつてゐる。
砂糖の壜に何やら黒いものが動いてゐる。
『オヽ、もう蟻が出たか!』
といふあの心持。
私はあれを、骨身の痛むまでに感じながらに一生を送つて行きたいと願つてゐる。それは一面、自然界のもろ〳〵のあらはれが自分の身を通して現はれて來る意にもならうかと思はるゝ。 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月20日公開
2005年11月17日修正
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"作品ID": "002635",
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大正十年の春から同十三年の秋までに書いた隨筆を輯めてこの一册を編んだ。並べた順序は不同である。
何々の題目に就き、何日までに、何枚位ゐ書いてほしいといふ註文を受けて書いたものばかりである。
なほ、非常に編輯を急いだため、当然爲さねばならなかつた取捨をようしなかつたので多少文章に重複した様なところなどあるのを校正の際に發見し、誠に申譯なく思ふ。
とにかく序歌にも云つてある通り、幼く且つ拙いものゝみである。一册となればなほ一層それが目立つであらう。それを充分見詰むることによつて多少とも今後によき文章が書けたならば難有いと思ふのである。
大正十四年二月初旬
沼津千本松原の蔭なる寓居にて
著者 | 底本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年7月2日公開
2005年11月17日修正
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約束した樣なせぬ樣な六月廿五日に、細野君が誘ひにやつて來た。同君は千葉縣の人、いつか一緒に香取鹿島から霞ヶ浦あたりの水郷を廻らうといふ事になつてゐたのである。その日私は自分の出してゐる雜誌の七月號を遲れて編輯してゐた。何とも忙しい時ではあつたが、それだけに何處かへ出かけ度い欲望も盛んに燃えてゐたので思ひ切つて出懸くる事にした。でその夜徹夜してやりかけの爲事を片附け、翌日立つ事に約束した。一度宿屋へ引返した細野君はかつきり翌廿六日の午前九時に訪ねて來た。が、まだ爲事が終つてゐなかつた。更に午後二時までの猶豫を乞ひ大速力で事を濟ませ、三時過ぎ上野着、四時十八分發の汽車で同驛を立つた。
三河島を過ぎ、荒川を渡る頃から漸く落ち着いた、東京を離れて行く氣持になつた。低く浮んだ雲の蔭に強い日光を孕んでをる梅雨晴の平原の風景は睡眠不足の眼に過ぎる程の眩しい光と影とを帶びて兩側の車窓に眺められた。散り〴〵に並んだ眞青な榛の木、植ゑつけられた稚い稻田、夏の初めの野菜畠、そして折々汽車の停る小さな停車場には蛙の鳴く音など聞えてゐた。
手賀沼が、雜木林の間に見えて來た。印幡沼には雲を洩れた夕日が輝いてゐた。成田驛で汽車は三四十分停車するといふのでその間に俥で不動樣に參詣して來た。此處も私には初めてゞある。何だか安つぽい玩具の樣な所だと思ひながらまた汽車に乘る。漸く四邊は夜に入りかけてあの靄の這つてゐるあたりが長沼ですと細野君の指さす方には、その薄い靄のかげにあちこちと誘蛾燈が點つてゐた。終點の佐原驛に着いた時は、昨夜の徹夜で私はぐつすりと眠つてゐた。搖り起されて闇深い中を俥で走つた。俥はやがて川か堀かの靜かな流れに沿うた。流れには幾つかの船が泊つてゐて小さなその艫の室には船玉樣に供へた灯がかすかに見えてゐた。その流れと利根川と合した端の宿屋川岸屋といふに上る。二階の欄干に凭ると闇ながらその前に打ち開けた大きな沼澤が見渡されさうに水蒸氣を含んだ風がふいて、行々子が其處此處で鳴いてゐる。夜も鳴くといふことを初めて知つた。風呂から出て一杯飮み始めると水に棲むらしい夏蟲が斷間なく灯に寄つて來た。
六月廿七日、近頃になく頭輕く眼が覺めた。朝飯を急いで直に仍から一里餘の香取神社へ俥を走らせた。降らう〳〵としながらまだ雨は落ちて來なかつた。佐原町を出外れると水々しい稻田の中の平坦な道路を俥は走る。稻田を圍んで細長い樣な幾つかの丘陵が續き、その中にとりわけて樹木の深く茂つた丘の上に無數の鷺が翔つてゐた。其處が香取の森であると背後から細野君が呼ぶ。
參拜を濟ませて社殿の背後の茶店に休んでゐると鷺の聲が頻りに落ちて來る。枝から枝に渡るらしい羽音や枝葉の音も聞える。茶店の窓からは殆ど眞下に利根の大きな流れが見えた。その川岸の小さな宿場を津の宮といひ、香取明神の一の鳥居はその水邊に立つてゐる相だ。實は今朝佐原で舟を雇つて此津の宮まで廻らせて置き、我等は香取から其所へ出て與田浦浪逆浦を漕いで鹿島まで渡る積りで舟を探したのだが、生憎一艘もゐなかつたのであつた。今更殘念に思ひながら佐原に歸り、町を見物して諏訪神社に詣でた。其處も同じく丘の上になつてゐて麓に伊能忠敬の新しい銅像があつた。
川岸屋に歸ると辨當の用意が出來てゐて、時間も丁度よかつた。宿のツイ前から小舟に乘つて汽船へ移る。宿の女中が悠々として棹さすのである。午前十一時、小さな汽船は折柄降り出した細かな雨の中を走り出した。大きな利根の兩岸には眞青な堤が相竝んで遠く連り、その水に接する所には兩側とも葭だか眞菰だか深く淺く茂つてゐる。堤の向側はすべて平かな田畑らしく、堤越しに雨に煙りながら聳えてゐる白楊樹の姿が、いかにも平かな遙かな景色をなしてゐる。それを遠景として船室の窓からは僅かに濁つた水とそれにそよぐ葭と兩岸の堤とそれらを煙らせてをる微雨とのみがひつそりと眺めらるゝ。それを双方の窓に眺めながら用意の辨當と酒とを開く。あやめさくとはしほらしやといふその花は極めて稀にしか見えないが堤の青草の蔭には薊の花がいつぱいだ。
午後二時過ぎに豐津着、其處に鹿島明神の一の鳥居が立つて居る。神社まで一里、雨の中を俥で參る。鹿島の社は何處か奈良の春日に似て居る。背景をなす森林の深いためであらう。かなりの老木が隨分の廣さで茂つて居る。其の森蔭の御手洗の池は誠に清らかであつた。香取にもあつたが此處にもかなめ石と云ふのがある。幾ら掘つてもこの石の根が盡きないと云ひ囃されて居るのだ相な。岩石に乏しい沼澤地方の人の心を語つて居るものであらう。此所の社も丘の上にある。この平かな國にあつて大きな河や沼やを距てた丘と丘とに對ひ合つて斯うした神社の祀られてあると云ふ事が何となく私に遙かな寂しい思ひをそゝる。お互ひに水邊に立てられた一の鳥居の向ひ合つて居るのも何か故のある事であらう。
豐津に歸つた頃雨も滋く風も加つた。鳥居の下から舟を雇つて潮來へ向ふ、苫をかけて帆あげた舟は快い速度で廣い浦、狹い河を走つてゆくのだ。ずつと狹い所になるとさつさつと眞菰の中を押分けて進むのである。眞みどりなのは眞菰、やや黒味を帶びたのは蒲ださうである。行々子の聲が其所からも此所からも湧く。船頭の茂作爺は酒好きで話好きである。潮來の今昔を説いて頻りに今の衰微を嘆く。
川から堀らしい所へ入つて愈々眞菰の茂みの深くなつた頃、或る石垣の蔭に舟は停まつた。茂作爺の呼ぶ聲につれて若い女が傘を持つて迎へに來た。其所はM――屋といふ引手茶屋であつた。二階からはそれこそ眼の屆く限り青みを帶びた水と草との連りで、その上をほのかに暮近い雨が閉してゐる。薄い靄の漂つてをる遠方に一つの丘が見ゆる。某所が今朝詣でゝ來た香取の宮である相な。
何とも云へぬ靜かな心地になつて酒をふくむ。輕やかに飛び交してをる燕にまじつてをりをり低く黒い鳥が飛ぶ。行々子であるらしい。庭ききの堀をば丁度田植過の田に用ゐるらしい水車を積んだ小舟が幾つも通る。我等の部屋の三味の音に暫く棹を留めて行くのもある。どつさりと何か青草を積込んで行くのもある。
それらも見えず、全く闇になつた頃名物のあやめ踊りが始まつた。十人ばかりの女が眞赤な揃ひの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐはぬ勇敢無双の踊りであつた。一緒になつて踊り狂うた茂作爺は、それでも獨り舟に寐に行つた。
翌朝、雨いよ〳〵降る。
霞が浦即興
わが宿の灯影さしたる沼尻の葭の繁みに風さわぐ見ゆ
沼とざす眞闇ゆ蟲のまひ寄りて集ふ宿屋の灯に遠く居る
をみなたち群れて物洗ふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり
鹿島香取宮の鳥居は湖越しの水にひたりて相向ひたり
苫蔭にひそみつゝ見る雨の日の浪逆の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ | 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一週間か十日ほどの予定で出かけた旅行から丁度十七日目に帰って来た。そうして直ぐ毎月自分の出している歌の雑誌の編輯、他の二三雑誌の新年号への原稿書き、溜りに溜っている数種新聞投書歌の選評、そうした為事にとりかからねばならなかった。昼だけで足らず、夜も毎晩半徹夜の忙しさが続いた。それに永く留守したあとのことで、訪問客は多し、やむなく玄関に面会御猶予の貼紙をする騒ぎであった。
或日の正午すぎ、足に怪我をして学校を休んでいる長男とその妹の六つになるのとがどやどやと私の書斎にやって来た。来る事をも禁じてある際なので私は険しい顔をして二人を見た。
「だってお玄関に誰もいないんだもの、……お客さんが来たよ、坊さんだよ、是非先生にお目にかかりたいって。」
坊さんというのが子供たちには興味を惹いたらしい。物貰いかなんどのきたない僧服の老人を想像しながら私は玄関に出て行った、一言で断ってやろう積りで。
若い、上品な僧侶が其処に立っていた。あてが外れたが、それでもこちらも立ったまま、
「どういう御用ですか。」
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返事はよく聞き取れなかった。やりかけていた為事に充分気を腐らしていた矢先なので、
「え?」
と、やや声高に私は問い返した。
今度もよくは分らなかったが、とにかく一身上の事で是非お願いしたい事があって京都からやって来た、という事だけは分った。見ればその額には汗がしっとりと浸み出ている。これだけ言うのも一生懸命だという風である。何となく私は自分の今迄の態度を恥じながら初めて平常の声になって、
「どうぞお上り下さい。」
と座敷に招じた。
京都に在る禅宗某派の学院の生徒で、郷里は中国の、相当の寺の息子であるらしかった。幼い時から寺が嫌いで、大きくなるに従っていよいよその形式一方偽礼一点張でやってゆく僧侶生活が眼に余って来た。学校とてもそれで、父に反対しかねて今まで四年間漸く我慢をして来たものの、もうどうしても耐えかねて昨夜学院の寄宿舎を抜けて来た。どうかこれから自分自身の自由な生活が営み度い。それには生来の好きである文学で身を立て度く、中にも歌は子供の時分から何彼と親しんでいたもので、これを機として精一杯の勉強がしてみたい。誠に突然であるけれど私を此処に置いて、庭の掃除でもさせて呉れ、というのであった。
折々こうした申込をば受けるので別にそれに動かされはしなかったが、その言う所が真面目で、そしてよほどの決心をしているらしいのを感ぜぬわけにはゆかなかった。
「君には兄弟がありますか。」
「いいえ、私一人なのです。」
「学校はいつ卒業です。」
「来年です。」
「歌をばいつから作っていました。」
「いつからと云う事もありませんが、これから一生懸命にやる積りです。」
という風の問答を交しながら、どうかしてこの昂奮した、善良な、そしていっこくそうな青年の思い立ちを飜えさせようと私は努めた。別に歌に対して特別の憧憬や信念があるわけでなく、唯だ一種の現状破壊が目的であるらしいこの思い立ちを矢張り無謀なものと見るほかはなかったのだ。
しかし、青年はなかなか頑固であった。永い間考え抜いて斯うして飛び出して来た以上、どうしても目的を貫きます、先生が許して下さらねばこれから東京へなり何処へなり行きます、と言い張っている。
私は彼を散歩に誘うた。初めはほんのかりそめごとにしか考えなかったのだが、あまりに彼の本気なのを見ると次第にこちらも本気になって来た。そしていろいろ自宅の事情を聞き、彼の性質をも見ていると、どうしても彼を此処で引き止めねばならぬ気になって来た。気持を変えるため、散歩をしながらもし機会があったら徐ろにそれを説こうと、出渋ぶるのを無理に連れだって、わざと遠く千本浜の方へ出かけて行った。
其処に行くのは私自身実に久しぶりであった。松原の中に入ってゆくと、もう秋というより冬に近い静けさがその小松老松の間に漂うていた。海も珍しく凪いでいた。入江を越えた向うには伊豆が豊かに横わり、炭焼らしい煙が二三ヶ所にも其処の山から立昇っているのが見えた。
砂のこまかな波打際に坐って、永い間、京都のこと、其処の古い寺々のこと、歌のこと、地震のこと、それとはなしにまた彼の一身のことなどを話しているうちに、いつか上げ潮に変ったと見えて小波の飛沫が我等の爪先を濡らす様になった。では、そろそろ帰りましょうか、と立ち上る拍子に彼は叫んだ。
「ア、見えます見えます、いいですねエ。」
と。先刻からまちあぐんでいた富士が、漸くいま雲から半身を表わしたのだ。昨夜の時雨で、山はもう完全にまっ白になっていた。
「ほんとうにいい山ですねエ、何と言ったらいいでしょう。」
私はそれを聞きながら思わず微笑した。漸く彼が全てを忘れて、青年らしい快活な声を出すのを聞いたからである。
帰って来ると、子供たちが四人、門のところに遊んでいた。そして、
「ヤ、帰って来た帰って来た。」
と言いながら飛びついて来た。一人は私に、一人はその若い坊さんに、という風に。
「なぜ斯んな羽織を着てんの?」
客に馴れている彼等は、いつかもうその人に抱かれながらその墨染の法衣の紐を引っ張り、斯うした質問を出して若い禅宗の坊さんを笑わすほどになっていた。
その翌朝であった。日のあたった縁側でいま受取った郵便物の区分をしていると、中から一つの細長い包が出て来た。そしてその差出人を見ると、私は思わず若い坊さんを呼びかけた。
「これは面白い、昨日君に話した比叡山の茶店の老爺から何か来ましたよ、また短冊かな。」
そう言いながらなおよく見ると、表は四年も昔に引越して来た東京の旧住所宛になっている。スルト、こちらに越して来てから一度の音信もしなかったわけである。中から出たのは一枚の短冊と一本の扇子であった。
短冊には固苦しい昔流の字で、
「うき沈み登り下りのみち行を越していまては人のゆくすゑ、粟田」
と書いてある。粟田とは彼の苗字である。変だなア、といいながら一方の扇子を取って見ると何やら書いた紙で包まれてある。紙には矢張粟田爺さんの手らしく、
「失礼ながら呈上仕候」
とある。中を開いてみると、
「粟田翁の金婚式を祝いて」
という前書きで、
「茶の伴や妹背いそちの雪月花、佳鳴」
と認めてある。
「ホホオ!」
私は驚いた。
「あのお爺さん、金婚式をやったのかね。」
「ヘヘエ、もうそんなお爺さんですか、でもねエ、よく忘れずに斯うして送って呉れますわネ。」
いつか側に来ていた妻も斯う言った。
そうすると短冊の、「うき沈み……」も意味が解って来る。念のために裏をかえしてみると、「大正十二年」と大きく真中に書いて、下に二つに割って「七十六歳、六十五歳」と並べて書いてあるのであった。
大正七年の初夏であった。私は京都に遊んで、比叡山に登ってすぐ降りて来るというでなく、暫く滞在したい希望で、山上の朝夕をいろいろ心に描きながら登って行ったのであった。登りついたのは夕方で、人に教わっていた通り、大勢の人を泊めて呉れるという宿院というに行き、取次に出た老婆に滞在のことを頼んだ。ところが老婆の答は意外であった。今はただ一泊の人を泊めてあげるだけで、滞在の人は一切泊めることはならぬ規則になっているのじゃ、というのだ。イヤ、今までよく滞在させて貰ったという話を聞き、その積りで登って来たので是非そうして貰いたい、と頼むと、今までは今までや、ならんというたらならんのじゃ、という風で、まごまごするとその夜の泊りも許されまじい有様となった。止むなく、私はどうか今夜だけ、と頼んで漸く部屋に通された。老婆がその通り、給仕に出た小僧もまた不愉快千万な奴で、遙々楽しんで来たこの古めかしい山上の幻の影は埒もなくくずれてしまった。
で、翌朝夜があけるのを待って宿院を出た。すぐ下山しようとしたが、斯んな風では恐らく二度とこの山に登る気にもなれまい、来たを幸い、普通一遍の見物だけでもやって行こうと踵を返して、根本中堂からずっと奥の方へ登って行った。当山の開祖伝教大師の遺骨を納めてあるという浄土院へゆく路と四明ヶ嶽へ行く路との分れ目の所に一軒の茶店のあるのが眼についた。その時のことを書いておいたものがあるのでその文章を此処に引いて見よう。
ちょうど通りかかった径が峠みた様になっている処に一軒の小さな茶店があった。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れていて、覗いてみれば薄暗い小屋の中で一人の老爺が頻りに火を焚いている。その赤い火の色がいかにも可懐しく、ふらふらと私は立ち寄った。思いがけぬ時刻の客に驚いて老爺は小屋の奥から出て来た。髪も頬鬚も半分白くなった頑丈な大男で、一口二口話し合っているうちにいかにも人のいい老爺であることを私は感じた。そして言うともなく昨夜からの愚痴を言って、何処か爺さんの知ってる寺で、五六日泊めて呉れる様な所はあるまいか、と聞いてみた。暫く考えていたが、あります、一つ行ってきいて見ましょう、だが今起きたばかりで、それに御覧のとおり私一人しかいないのでこれからすぐ出かけるというわけにはゆかぬ、追っ附け娘たちが麓から登って来るからそしたら直ぐ行って問合せましょう、まア旦那はそれまで其処らに御参詣をなさっていたらいいだろうという思いがけない深切な話である。私は喜んだ、それが出来たらどれだけ仕合せだか分らない。是非一つ骨折って呉れる様にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見廻すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあって、奥には土間の側に二畳か三畳ほどの畳が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此処にいるのか、ときくと、夜は年中一人だが、昼になると麓から女房と娘とが登って来る、と言いながら、ほんの隠居為事に斯んなことをして居るが馴れて見れば結局この方が気楽でいいと笑っている。小屋のうしろは直ぐ深い大きな渓で、いつの間にか此処らに薄らいだ霧がその渓いっぱいに密雲となって真白に流れ込んでいる。空にもいくらか青いところが見えて来た。では一廻りして来るから何卒お頼みすると言いおいて私は茶店を出た。
その頼みは叶ったのであった。叶って私の泊る事になった寺は殆んど廃寺にちかい荒寺で、住職もあるにはあるのだが麓の寺とかけ持ちで殆んどこちらに登って来ることもなく、平常はただ年寄った寺男が一人居るだけであった。それだけに静寂無上、実に好ましい十日ばかりを私は深い木立の中の荒寺で過すことが出来た。
その寺男の爺というのがひどく酒ずきで、家倉地面から女房子供まで酒に代えてしまい、今では木像の朽ちたが如くになってその古寺に坐っているのであった。耳も殆んど聾であった。が、同じ酒ずきの私にはいい相手であった。毎日酒の飲める様になった老爺の喜びはまた格別であった。旦那が見えてからお前すっかり気が若くなったじアないか、と峠茶屋の爺やにひやかされるほど、彼はいそいそとなって来た。峠茶屋の爺やもまたそれが嫌いでなかった。
私の滞在の日が尽きて明日はいよいよ下山しなくてはならぬという夜、私は峠茶屋の爺やをも招いてお寺の古びた大きな座敷で最後の盃を交し合った。また前の文章の続きを此処に引こう。
寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持って朝から麓に降りて、実に克明にいろいろな食物を買って来た。酒も常より多くとりよせ、その夜は私も大いに酔う積りで、サテ三人して囲炉裡を囲んでゆっくりと飲み始めた。が、矢張り爺さんたちの方が先に酔って、私は空しく二人の酔ぶりを見て居る様なことになった。そして口も利けなくなった二人の老爺が、よれつもつれつして酔っているのを見ていると、楽しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたびたび泣笑いをしながら調子を合せていた。やがて一人は全く酔いつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで帰るというのだが、脚がきかぬので私はそれを肩にして送って行った。そうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだろうが、と言われてとうとう私も涙を落してしまった。
その峠茶屋の爺さんが即ち今度金婚式を挙げた粟田翁であるのだ。その時、山から京都に降りると其処の友だちが寄って私のために宴会を催して呉れた。その席上で私は山の二人の老爺のことを話した。するとその中の二三人がその後山に登ってわざわざ茶屋に寄り、斯く斯くであったそうだナという話をした。へええ、そういう人であったのかと云って爺さんひどく驚いたということをその人から書いてよこした。それから程なく、古い短冊帖に添えて、これは昔から自分の家に伝わって居るものであるが、中に眼ぼしい人の書いたものが入っていはせぬか、どうか見て呉れと云ってよこした。これが粟田淺吉という名を知った初めであった。
短冊帖には三十枚も貼ってあったが、私などの知っている名はその中にはなかった。斯ういうことに詳しい友だちにも持って行って見て貰ったが、当時の公卿か何かだろうが、名の残っている人はいないということであったのでその旨を返事し、なお自分自身のものを一二枚添えてやったのであった。それらのことを、昨日千本浜で京都附近の話の出た時に、その若い坊さんにしたのであった。其処へこの短冊と扇子とが送って来たのだ。爺さん、まだ頑丈であの山の上の一軒家に寝起きしているのであるかとおもうと、いかにもなつかしい思いが胸に上って来た。すると、あの寺男の爺さんはどうしているであろう。
そういうことを考えていると、若い坊さんは急に改めて両手をついた。そして、昨日からのお話で、今度の自分の行為が余りに無理であることが解った、自分の一生の志願を全然やめ様とは思わぬが、とにかく今の学校だけは卒業して年寄った父をも安心させます、では早速ですがこれから直ぐお暇します、という。そうすると私も妻も、わずか一日のうちに親しくなってしまった幼い子供たちも、何だか名残が惜しまれて、もう二三日遊んで行ったらどうかと、勧めたけれども、学校の方がありますので、と云って立ち上った。家内中して門まで送って出た。帽子もない法衣のうしろ姿を見送りながら私は大きな声で呼びかけた。
「帰ったら早速比叡に登って見給え、そうしてお爺さんに逢ってよろしく言って下さい。」 | 底本:「仏教の名随筆 1」国書刊行会
2006(平成18)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第七卷」雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2019年7月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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疲れはてしこころのそこに時ありてさやかにうかぶ渓のおもかげ
いづくとはさやかにわかねわがこころさびしきときし渓川の見ゆ
独りゐてみまほしきものは山かげの巌が根ゆける細渓の水
巌が根につくばひをりて聴かまほしおのづからなるその渓の音
二三年前の、矢張り夏の真中であつたかとおもふ。私は斯ういふ歌を詠んでゐたのを思ひ出す。その頃より一層こゝろの疲れを覚えてゐる昨今、渓はいよ〳〵なつかしいものとなつて居る。ぼんやりと机に凭つてをる時、傍見をするのもいやで汗を拭き〳〵街中を歩いて居る時、まぼろしのやうに私は山深い奥に流れてをるちひさい渓のすがたを瞳の底に、心の底に描き出して何とも云へぬ苦痛を覚ゆるのが一つの癖となつて居る。
蒼空を限るやうな山と山との大きな傾斜が――それをおもひ起すことすら既に私には一つの寂寥である――相迫って、其処に深い木立を為す、木立の蔭にわづかに巌があらはれて、苔のあるやうな、無いやうなそのかげをかすかに音を立てながら流れてをる水、ちひさな流、それをおもひ出すごとに私は自分の心も共に痛々しく鳴り出づるを感ぜざるを得ないのである。
渓のことを書かうとして心を澄ませてをると、さま〴〵の記憶がさま〴〵の背景を負うて浮んで来る。福島駅を離れた汽車が岩代から羽前へ越えようとして大きな峠へかゝる。板谷峠と云つたかとおもふ。汽関車のうめきが次第に烈しくなつて、前部の車室と後部の車室との乗客が殆んど正面に向き合ふ位ゐ曲り曲つて汽車の進む頃、深く切れ込んだ峡間の底に、車窓の左手に、白々として一つの渓が流れて居るのをみる。汽車は既によほどの高処を走つて居るらしくその白い瀬は草木の茂つた山腹を越えて遥かに下に瞰下されるのである。私の其処を通つた時斜めに白い脚をひいて驟雨がその峡にかゝつてゐた。
汽車から見た渓が次ぎ〳〵と思ひ出さるる。越後から信濃へ越えようとする時にみた渓、その日は雨近い風が山腹を吹き靡けて、深い茂みの葛の葉が乱れに乱れてゐた。肥後から大隅の国境へかからうとする時、その時は冬の真中で、枯木立のまばらな傾斜の蔭に氷つたやうに流れてゐた。大きな岩のみ多い渓であつたとおもふ。
おしなべて汽車のうちさへしめやかになりゆくものか渓見えそめぬ
たけながく引きてしらじら降る雨の峡の片山に汽車はかかれり
いづかたへ流るる瀬々かしらじらと見えゐてとほき峡の細渓
秋の、よく晴れた日であつた。好ましくない用事を抱へて私は朝早くから街の方へ出て行つた。幸ひに訪ぬる先の主人が留守であつた。ほつかりした気になつたその帰り路、池袋停車場へ廻つて其処から出る武蔵野線の汽車に乗つてしまつた。広々した野原へ出て、おもふさまその日の日光を身に浴びたかつたからである。一度途中の駅へおりたのであつたが、其処等の野原を少し歩いてゐるうちに野末に近くみえてをる低い山の姿をみると是非その麓まで行き度くなり、次の汽車を待つてその線路の終点駅飯能まで行つた。着いた時はもう日暮で、引き返すとすると非常に惶しい気持でその日の終列車に乗らねばならなかつた。それに何といふ事なく疲れてもゐたので、余り気持のよくない乾き切つたやうな宿場町の其処にたうとう泊つてしまつた。運悪くその宿屋に繭買ともみゆる下等な商人共が泊り合せてゐて折角いゝ気持で出かけて来た静かな心をさん〴〵に荒らされてしまつた。不愉快な気持で翌朝早く起きて飯の前を散歩に出た。漸く人の起き出た町をそのはづれまで歩いて行つて私は思ひもかけぬ清らかな渓流を見出した。飯能と云へば野原のはての、低い丘の蔭にある宿場だとのみ考へてゐたので、其処にさうした見事な渓が流れてゐやうなどゝは夢にも思はなかつたのである。少なからず驚いた私はあわてながらその渓に沿うて少しばかり歩いて行つた。真白な砂、洗はれた巌、その間を澄み徹つた水が浅く深く流れてゐる。昨夜来の不快をも悉く忘れ果て、急いで宿屋へ帰つて朝飯をしまふなり私はまたすぐ引き返して、すつかり落ちついた心になり、その渓に沿ひながら山際の路を上つて行つた。渓をはさんだ山には黄葉も深く、諸所に植ゑ込んだ大きな杉の林もあつた。細長い筏を流す人たちにも出会つた。ゆる〳〵と歩いてその日は原市場で泊り、翌日は名栗まで、その翌日長い峠にかゝると共にその渓は愈々細く、終には路とも別れてしまつた。そして落葉の深い峠を越すと其処にはまた新たな渓が流れ出してゐた。
朝山の日を負ひたれば渓の音冴えこもりつつ霧たちわたる
石越ゆる水のまろみをながめつつこころかなしも秋の渓間に
うらら日のひなたの岩にかたよりて流るる淵に魚あそぶみゆ
早渓の出水のあとの瀬のそこの岩あをじろみ秋晴れにけり
鶺鴒来てもこそをれ秋の日の木洩日うつる岩かげの淵に
おどろおどろとどろく音のなかにゐて真むかひにみる岩かげの滝
浅瀬石川といふのは津軽の平野を越えて日本海の十三潟に注ぐ岩木川の上流の一つである。其処きりで鱒の上るのが止るといふ荒い瀬のつゞく辺に板留といふ小さな温泉場がある。温泉は川の右岸に当る断崖の中腹に二個所とその根がたの川原に接した所に一個所と、一二丁づゝの間隔を置いて湧いて居る。私の好んで入つたのはその断崖の根の温泉で、入口には蓆が垂らしてあるばかり、板の壁はあらかた破れて湯に入りながら渓の瀬がみえてゐた。或る日の午後ぼんやりと独りで浸つてゐると次第に湯がぬるんで来た。気がつくと板壁の根の方から渓の水がひそかに流れ込んで来てゐるのである。四月の廿日前後であつたが、その日あたりから急に雪が解け始めたらしく、渓の水の濁つて来るのは解つてゐたが斯う急に増さうとは思はなかつた。呆気にとられて裸体のまゝ小屋の外に出てみると、赤黒く濁つた水がほんの僅かの間に全く川原を浸して流れて居る。丁度其処の対岸の木立のなかに――そのあたりにも水が流れ及んでゐた――網を提げた男が一人、あちこちと歩いてゐる。雪解を待つて鱒は上つて来るといふ事を聞いてゐたが、彼はいまそれを狙つてゐるのらしい。やがて、また一人あらはれた。
雪が解けそめたとは云へ、四辺の山は勿論ツイその川岸からまだ真白に積み渡してをるのである。その雪と、濁つた激しい渓と、珍しく青めいたその日の日光とのなかに黙々として動いてゐるこの鱒とりの人たちがいかにも寂しいものに私の眼には映つた。遥かな渓を思ふごとに私の心にはいつもそれら寂しい人たちの影が浮んで来る。
雪解水岸にあふれてすゑ霞む浅瀬石川の鱒とりの群
むら山の峡より見ゆるしらゆきの岩木が峰に霞たなびく
相模三浦半島のさびしい漁村に二年ほど移り住んでゐた事があつた。小さな半島に相応した丘陵の間々に小さな渓が流れてをる。一哩も流れて来れば直ぐ汐のさしひきする川口となるといふやうな渓だ。それでも私はその渓と親しむことを喜んだ。川に棲むとも海に棲むともつかぬやうな小さな魚を釣る事も出来た。
わがこころ寂しき時しいつはなく出でて見に来るうづみ葉の渓
わが行けば落葉鳴り立ち細渓を見むといそげるこころ騒ぐも
渓ぞひに独り歩きて黄葉見つうす暗き家にまたも帰るか
冬晴の芝山を越えそのかげに魚釣ると来れば落葉散り堰けり
芝山のあひのほそ渓ほそほそとおち葉つもりて釣るよしもなき
こころ斯く静まりかねつなにしかも冬渓の魚をよう釣るものぞ
みなかみへ、みなかみへと急ぐこゝろ、われとわが寂しさを噛みしむるやうな心に引かれて私はあの利根川のずつと上流、わづか一足で飛び渡る事の出来る様に細まつた所まで分け上つたことがある。
狭い両岸にはもうほの白く雪が来てゐた。断崖の蔭の落葉を敷いて、ちょろ〳〵、ちょろ〳〵と流れてゆくその氷の様になめらかな水を見、斑らな新しい雪を眺めた時、何とも言へぬこゝろに私は身じろぎすら出来なかつた事を覚えてをる。いま思ひ出しても神の前にひざまづく様な、ありがたい尊い心になる。水のまぼろし、渓のおもかげ、それは実に私の心が正しくある時、静かに澄んだ時、必ずの様に心の底にあらはれて私に孤独と寂寥のよろこびを与へて呉れる。
渓の事はまだ沢山書き度い。別しても自分の生れた家のすぐ前を流れてゐる故郷の渓の事など。更にまたこれからわけ入つて見たいと思ふ其処此処の河の上流のことなど。 | 底本:「日本の名随筆33 水」作品社
1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第六巻」雄鶏社
1958(昭和33)年6月
※「渓をおもふ」は1920年の発表で翌年刊行の「静かなる旅をゆきつつ」に収められた。
入力:砂場清隆
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月26日作成
2005年1月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私は寢上戸とかいふ方で、酒に醉ふと直ぐ眠つてしまふ。いまの晩酌が大抵五時半か六時から始つて七時半か八時に及ぶ。飮むだけ飮んでしまへばものゝ三十分と起きてはゐられないで床に潜る。そして午前の二時か三時、遲くも四時には起き上つて書齋に坐る。そのために其處には小さな爐が切つてあり、毎晩火が埋けてある。
此頃は頭の工合も惡いため、讀書らしい讀書もせず、氣を入れてものを書くとか歌を作るとかいふこともしない。煙草を吸ひ、茶をいれ、新聞雜誌の選歌などをしながら夜の明けるのを待つ。
四人の子供のうち、上と下の兄弟は寢坊だが中の姉妹は早起きである。暫くは床の中でひそ〳〵とおしやべりをやつてゐて、やがて起き上つて私の部屋にやつて來る。五時前後である。無論雨戸はしまつてゐるし、どの部屋でもまだ寢靜まつてゐるので、此處に來るよりほかないのである。
今朝は私は割に早く起きた。ひどい雨の音である。火をねんごろにおこして、好きな雨を聽きながら赤ペンをとつてゐた。爲事も捗り、いつもより早目に私は酒の燗をつけた。朝爲事のあとで一杯飮むのも永い間の習慣である。嘗める樣にしてゐてもいつかうつとりと醉つて來る。其處へ姉妹揃つてやつて來た。机や爐の側に寄ると叱られるので、きまつて部屋の隅におさげとおかつぱの頭をつき合せながら幾度か讀みかへしたらしい繪雜誌などを開いて見始めるのである。無論おしやべりをすれば叱られる。それが今朝何やら頻りに小聲で話し始めた。憚りながらもツイ高目な聲で、十二よ、いゝヱ十三よ、と爭ひながら、めい〳〵に指を折りつゝ何やら數へてゐる。
『何だネ』
父親もツイ口を入れた。
『ねヱ阿父さん、うちの庭にあるたべものゝ木は十三本だネ』
『違ひますよ、やまざくらの實はたべられるにはたべられるけど、たべものの木ではないわねヱ、あれは花の木だねヱ』
父親も數へ始めた。子供たちの氣のつかないのも幾つも出て來たが、サテ愈々幾本とはなか〳〵きまらなかつた。
『よし、其處で言つてごらん、阿父さん書いてゆくから』
子供たちの聲につれて沒書になつた歌の原稿の上に書き始めた。
かき、みかん、もゝ、くり、ざくろ、なつみかん、なし、りんご、ぶだう、さくらんぼ、うめ、びは、ぐみ、ゆず、だいだい、あんず、はだんきやう、ゆすらうめ、の十八種に問題のやまざくらの實をも數へる事に話はきまつた。
『ほゝウ、隨分たくさんあるのねヱ、うれしい〳〵』
私自身も一寸意外であつた。數へれば斯んなにもなるのか、と思つた。漸く昨年の春から集めだしたものである。
柿と栗は何よりも私のほしいものであつた。たべものとしてもだが、柿はその枝ぶりが好く、栗は落葉のなかに落ちてゐる姿が見たかつた。甘柿二三本、澁は七八本もあるであろう。もつとも中にはまだ三四尺のたけのもあるのである。甘柿の熟れるのを待つて齒をあつる味はあれはまつたく秋のはじめの味である。水氣あるがごとく無きがごとく、甘味あるがごとくなきが如くたべてもせい〴〵一つか二つ位ゐのところ、甘柿の味はまつたく初秋のものである。圓き、平たき、やゝとがれる、まだらな青き、まつたく熟れたる、枝に在る、手に持てる、實の形も愛すべきものである。甘柿は早く紅葉し早く落つる。色は澁柿の方が深い。が、何と云つても柿は枝と幹とである。しかも幹は太く固く瘤だち、枝はこまかく繁く垂れた老木が難有い。殘念ながら私はその姿を自分の庭に見て死ぬわけにはゆかぬ。然し、この秋から實のなるのは二三本ある。末の子供は此頃毎日その落花を拾つて來る。花も面白い姿をして居る。また、あの眞紅の色を見つくすべく、澁柿はどうか熟れて落ちるまで梢におきたいものである。
栗は花も木もわづらはしいが、乾いた落葉と、その中に實を含みながら笑みわれて落ちてゐる毬を見るのは樂しい。毬ばかりか、それこそ、本當の栗色をしたあの實の形も可愛いいではないか。柿が田舍の村の日向を思はすならば、この落栗は野山の日向であらう。うまいのはそれこそ野山の灌木林などにある實の小さい柴栗がうまいが、うちにあるのは今のところみな丹波栗である。これもいま花をつけつゝある。
柚子。これもたべるより見るが樂しみで熱心に探して來て植ゑた木である。これはその黄いろく熟れた實を見るのである。枝もこまかく密生して一寸趣きがある。柚子味噌も惡くはない。
橙。これは食用である。濱にあがつた鰺の三杯など。
蜜柑。これも先づ果物として考へ易い。硬い樣な、黒い樣な葉のかげにまんまろくうす赤い實のなつてゐるのを見るのもわるくはないが、柿や柚子と違つて何となく冷たい。
柚子、柿、蜜柑、夏蜜柑、いづれもみな今が花どきである。
『晝はさうでもないが、夜は蜜柑の花の匂ひで庭はたいへんネ』昨日か、妻が言つてゐた。夜はわたしは庭までも出たことがない。然し晝間は三四度づつも此等の木の間をさまよふ。
柘榴もいまたくさんな蕾をつけて居る。一本はやゝ古木、一本はほんの若木である。古木の方は實柘榴だが、わか木の方は花柘榴らしい。たくさんついてゐる蕾が甚だ大きい。柘榴の實は見るべきである。枝にあるもよく、とつて來て机の上にころがすもよい。
梨は先づ花だけであらう。これは普通枝を棚にわたさせ、棚の下に幾つもの實が垂れてゐるといふものであるが、惜しいかなみな紙袋をかぶらされる。私は棚にもせず、袋もかぶせず、出來るなら松の木位ゐの大きさに伸び、頭大の實を結べよと祈らるゝのだが、わが庭の梨の木はまだわが長男中學一年生のたけに及ばぬのである。
杏と巴旦杏。杏は二本とも若木であるが、巴旦杏は本當ならいま實を結ぶわけであつた。花は咲いたが、どうもこの木、枯れるらしい。痩せてはゐるがかなりの古木で、枝ぶりもいゝのに惜しいとおもふ。杏では思ひ出す事がある。信州の松代から長野にかけ、所謂善光寺だひらにこの杏が非常に多い。町家農家を問はず、戸毎に數本のこの木を植ゑて居る。で、これの花どきに小高い山に登つて平野を見下すと到る所この花で埋つてゐるのを見る。私の面白いと思つたのは、里にこれの咲く頃も山はまだ雪である。その雪の山から丁度この花のころ盛んに尾長鳥が里に出て來る。尾長鳥は羽根の美しい鳥で、そしてさほどに人に怯ぢず、私の泊つてゐた松代町の宿屋の庭の木にも、また折々飮みに行つた料理屋の庭にも、ほんの縁さき窓さきの木の枝で遊んでゐた。杏の花と聞けば私はこの美しい、少し愚かげな鳥の姿を思ふのである。
梅。これも數へれば七八本もあるであらうが多くは野梅である。花の小さい、實の小さい、枝のこまかな梅である。豐後梅、紅梅も一本宛あるにはあるが。この木の花は正月の末ころ一りん二りんと咲くあの時がいゝ。褪せながらいつまでも咲いてゐるのはわびしいものである。然し私は花よりも寧ろ實を見るのを好む。まんまろい青いのが黒い樣な枝に幾つとなくくつ着いてゐるのは愛らしい。それこそ子供たちの背丈にも及ばぬ小さな木の青葉の蔭に十も二十もなつてゐるのがある。これが黄ばんで自づと落ちる頃もいゝ。
枇杷。この木を植ゑると家に病人が出るといふので細君など盛んに反對したが、二三本植ゑた。もう少しで實の色づくころである。この木の花は寒に咲く。そしてよくその花のそばに眼白鳥が啼いてゐる。
桃。元來この地所は昨年まで桃畑であつたので普請をする時殘しておけば幾本でも殘しておけたのだが癪にさはる事がありみな伐つてしまつた。それでも隅々に十本位ゐは殘つてゐる。天津桃とかいふので、味はわるいが大きな肉の眞紅な桃である。が、あくどい花といひ、袋をかぶつた實といひ、桃は要するに子供たちの持ちである。
山櫻の實。櫻のうちで私は山櫻を最も好む。そしてこの木は普通にはない。吉野染井などならば幾らでも手に入るのだが、私はわざ〳〵富士の裾野の友人に頼んで其處の山から三四本掘つて來て貰つた。中の一本が痩せてはゐるが相當の古木で、昨年も今年も實によく咲いてくれた。何ともいへない清淨な花のすがたであつた。そしてこの木に澤山の實がなつた。小さな〳〵まんまろい黒紫の實である。この實をとることをば父親があまりやかましく言はないので子供たちはこの木によく寄つて行つた。そして脣からヱプロンなどまで黒紫の色に染めては母親に叱られた。
櫻桃と林檎。ともに北國の木で、この沼津の海岸には一寸思ひがけぬものである。然し林檎も花だけはきれいに咲くさうである。實も或る程度まで大きくなつて落ちるといふ。櫻桃は意外にも今年立派な實をつけた。山形秋田あたりのものに比べて、さして見劣りのせぬ實をつけたのは意外であつた。來年は十分に肥料をやらうとおもふ。
茱萸。これは茱萸としては先づ見ごとな木である。苗代茱萸でも秋茱萸でもない所謂西洋茱萸であるが、根もとから幾本かに分れて枝の茂つてゐる大きな木である。地味にふさふのだか、一度だけ肥料をやつたに葉も枝も艷々しく茂つて、それこそ無數の實を結んだ。今が丁度まつさかりの熟れどきである。親指のさきほどの圓い眞紅なのが、枝といふ枝のさきからさきにかけてぎつしりとなり枝垂れてゐる。昨日今日の雨で、枝の二三本はおも〳〵と地についてしまつた。裏返つた葉の白みに雨のかゝつてゐるのも美しい。
ゆすらうめ。木も花も實も、可憐なものである。これにも深い思ひ出がある。部屋の掃除をするとかで、涼しい縁側に暫らく母の床の移されてゐた間に不用意に私は生れたのであつたさうだ。縁さきに見ごとなゆすらうめの木があり、ぎつしりなつた實の色づいてゐるのを見てゐるうちに不意にお前は生れたのだ、と母はよくその縁さきの美しい木の實の熟れるのを見ては私に語つた。子供心に私はそのゆすらうめが自分の友だちでゝもある樣な氣がしてならなかつた。一昨年、何年振かで歸つてみると故郷のこの木は枯れてゐた。それこれで、特に氣を使つて植ゑつけたゆすらうめである。眼にもたたぬ、まだほんの小さい木で、それでも五つぶ六つぶの實がなつて、いま少しづつ色づくところである。この木をばもう二三本集めるつもりである。(五月三十一日、早曉擱筆) | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002203",
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ちひさな鶯
雪のつもつた
枝から枝へ
ちひさな鶯
あをい羽根して
ぴよんぴよん渡る
小枝さらさら
雪はちらちら
ちらちら動いて
羽根はあを
あアをい鶯なぜ鳴かぬ
うぐひすよ
うぐひすよ
ちひさな鶯寒むいか
寒くばどんどと
火にあたれ
どんどと燃ゆる
圍爐裏のそばで
默つて聞けば
なアいた 啼いた
ほう ほけ べちよ
ほう ほけ べちよ
春の雨
木の芽がふくらんだ
窓のさきの木の芽
木の芽のさアきに
雫が一つ生れた
うまれた雫
雫がまるく光つた
光つたと思つたら
きらきらきらりと落つこつた
落つこつたと思つたら
またひとつ生れた
木の芽 木の芽
木の芽のめぐりに雨が降る
たんぽぽ
たんぽぽが咲いた
はたけの畔に
お地藏さんの横に
たんぽぽの花は
まつ黄な花よ
まつ黄な花が
ずらりと咲いた
はたけの畔に
お地藏さんの横に
まつ黄に咲いた
たんぽぽやたんぽぽや
雲雀
雲雀が啼いてるね兄さん
どこで啼いてるのだらう
ずゐぶん澤山ゐるね兄さん
お日さまのひかりが
ぴちぴちはぢけてる樣だね兄さん
聞いてゐると
ねむくなるね兄さん
早く走りませう
兄さん 兄さん
春の日向
ちいぴいちいぴい
鳥が啼く
ひいんこつこつ
また別な鳥
遠くか近くか
柿の木か
ちいぴいちいぴい
ひいんこつこつ ひいんこつこつ
窓を開けたら
太陽が ばア
櫻眞盛り
おほきなおほきな櫻の木
まんまんまるい花ざかり
あつちから見てもこつちから見ても
まんまんまるい花ざかり
風は吹けども花散らず
小鳥とべども花散らぬ
おほきなおほきな櫻の木
まんまんまるい花ざかり
櫻散る散る
昨日もひらひら
今朝もひらひら
今もひらひら
櫻ひらひら
ひらひらひらひら
千散り
萬散り
千萬散り散り
散つても散つても
散り盡きない
螻のねぼけ
畦の穴からひよつこりと
螻が一疋とび出して
『今晩は、今晩は』と云ひました
空には霞んだ月ばかり
返事がないのでこそこそと
おほきなお尻を振り向けて
いま出た穴へと入りました
おほかたねぼけでござりましよ
蟻
まいにちまいにち
見てをれば
お庭の蟻も
かはゆくなる
蟻よ蟻よと
こちらで云へば
返事しいしい
頭ふりふり
せつせとこちらにやつて來る
蟻に御馳走
やりませう
夏のけしき
槍持 旗持
眞白 小白
雨の行列
川の向うを急いで通る
雷は峠を越えて
雨の行列も行き過ぎ
山から山に
虹の橋が懸つた
富士の笠
富士が笠かぶつた
饅頭笠かぶつた
雲の笠かぶつた
富士が笠かぶりや
伊豆の沖から降り始め
駿河の濱邊を降りかすめ
相模の國に降りぬけて
甲斐の山々降りつぶす
大雨小雨
土砂降り小降り
富士が笠かぶつた
はだか
裏の田圃で
水いたづらをしてゐたら
蛙が一疋
草のかげからぴよんと出て
はだかだ はだかだと鳴いた
やい蛙
お前だつてはだかだ
ダリヤ
ダリヤ、 ダリヤ
赤いダリヤ
大きなダリヤ
あたいの顏と
くらべて見たら
あたいの顏より
大きなダリヤ
眞赤なダリヤ
秋のとんぼ
茅萱のうへに
ほろほろと
きいろい
胡桃の葉が落ちる
茅萱の蔭から
ゆめのよに
赤い蜻蛉が
まアひ立つ
とんぼ可愛や
夕日のさした
胡桃の幹に
行てとまる
百舌鳥が一羽
粟の畑で
百舌鳥が一羽
雀の眞似して
啼いてゐたが
雀は來ぬので
ひろい黄いろい粟畑越えて
向うの山にとんで行つた
雪よ來い來い
雪よ來い來い坊やは寒い
寒いお手々をたたいて待つた
雪よこんこと降つて來い
雪よ來い來い坊やは寒い
さむい天からまん眞白に
ちいろりちろりと降つて來い
雪よ來い來い坊やは寒い
さむいお手々は紅葉のやうだ
雪のうさぎがこさへたい
冬の畑
冬のはたけは土ばかり
なんにも見えない土ばかり
見えない向うに五六本
青い大根の葉がみえる
大根の蔭からパラパラパラ
砂をまいたよに
空の青いのに
雀がちゆんちゆとまひたつた
八兵衛と兎
八兵衛 なまけもの
お嬶に叱られて
鐵砲かついで
お山に出かけた
八兵衛 近眼
よぼよぼの爪先に
兎を三疋
見つけた
八兵衛 有頂天
鐵砲おろして
一發ずどんと
身構へた
八兵衛 あわてもの
お嬶に叱られて
家を出るとき
とんと彈丸を忘れた
兎 横着
それと見てとつて
逃足かへして
云ふことに
八兵衛 はげあたま
御飯のお釜の蓋とつて
もんももんもと
湯氣出した
その湯氣なんになる
草葉に宿つて露となる
きらきら輝く露となる
その露嘗めろ
ウワツハツハ
ウワツハツハ
やアい八兵衛の禿頭
禿げた處をなめて見ろ
嘗めた なんの味
澁い腐つた柿の味
その柿捨てろ
八兵衛の頭にぶつつけろ
つうけろ つけろ
禿げた處に土つけろ
つけて見たれば草生えた
ぴんぴん草がちよいと生えた
生えた 生えた
八兵衛の頭に毛が生えた
八兵衛若いぞ
わアかいぞ若いぞ
八兵衛もとより浮れ者
いまは鐵砲投げすてゝ
餅つく兎の腰つきで
ウワツハツハ ウワツハツハ | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鷄社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「小さな鶯」弘文館
1924(大正13)年5月
入力:小川幸子
校正:土屋隆
2009年4月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049620",
"作品名": "小さな鶯",
"作品名読み": "ちいさなうぐいす",
"ソート用読み": "ちいさなうくいす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小さな鶯」弘文館、1924(大正13)年5月",
"分類番号": "NDC K911",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-05-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "若山",
"名": "牧水",
"姓読み": "わかやま",
"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
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"底本名1": "若山牧水全集 第九巻",
"底本出版社名1": "雄鶏社",
"底本初版発行年1": "1958(昭和33)年12月30日",
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"テキストファイル最終更新日": "2009-04-21T00:00:00",
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降るか照るか、私は曇日を最も嫌ふ。どんよりと曇つて居られると、頭は重く、手足はだるく眼すらはつきりとあけてゐられない様な欝陶しさを感じがちだ。無論為事は手につかず、さればと云つてなまけてゐるにも息苦しい。
それが静かに四辺を濡らして降り出して来た雨を見ると、漸く手足もそれ〴〵の場所に帰つた様に身がしまつて来る。
机に向ふもいゝし、寝ころんで新聞を繰りひろげるもよい。何にせよ、安心して事に当られる。
雨を好むこゝろは確に無為を愛するこゝろである。為事の上に心の上に、何か企てのある時は多く雨を忌んで晴を喜ぶ。
すべての企てに疲れたやうな心にはまつたく雨がなつかしい。一つ〳〵降つて来るのを仰いでゐると、いつか心はおだやかに凪いでゆく。怠けてゐるにも安心して怠けてゐられるのをおもふ。
雨はよく季節を教へる。だから季節のかはり目ごろの雨が心にとまる。梅のころ、若葉のころ、または冬のはじめの時雨など。
梅の花のつぼみの綻びそむるころ、消え残りの雪のうへに降る強降のあたゝかい雨がある。桜の花の散りすぎたころの草木の上に、庭石のうへに、またはわが家の屋根、うち渡す屋並の屋根に、列を乱さず降り入つてゐる雨の明るさはまことに好ましいものである。しやあ〳〵と降るもよく、ひつそりと草木の葉末に露を宿して降るもよい。
わが庭の竹のはやしの浅けれど降る雨見れば春は来にけり
しみじみとけふ降る雨はきさらぎの春のはじめの雨にあらずや
窓さきの暗くなりたるきさらぎの強降雨を見てなまけをり
門出づと傘ひらきつつ大雨の音しげきなかに梅の花見つ
ぬかるみの道に立ち出で大雨に傘かたむけて梅の花見つ
わがこころ澄みてすがすがし三月のこの大雨のなかを歩みつつ
しみじみと聞けば聞ゆるこほろぎは時雨るる庭に鳴きてをるなり
こほろぎの今朝鳴く聞けば時雨降る庭の落葉の色ぞおもはる
家の窓ただひとところあけおきてけふの時雨にもの読み始む
障子さし電灯ともしこの朝を部屋にこもればよき時雨かな
など、春の初めの雨と時雨とを歌つたものは私に多くあるが、大好きの若葉の雨をばどうしたものかあまり詠んでゐない。僅かに、
うす日さす梅雨の晴間に鳴く虫の澄みぬる声は庭に起れり
雨雲のひくくわたりて庭さきの草むら青み夏むしの鳴く
などを覚えてゐるのみである。
夕立をば二三首歌つてゐる。
飯かしぐゆふべの煙庭に這ひてあきらけき夏の雨は降るなり
はちはちと降りはじけつつ荒庭の穂草がうへに雨は降るなり
俄雨降りしくところ庭草の高きみじかき伏しみだれたり
渋柿のくろみしげれるひともとに滝なして降る夕立の雨
一日のうちでは朝がいゝ。朝の雨が一番心に浸む。真直ぐに降つてゐる一すぢごとの明るさのくつきりと眼にうつるは朝の雨である。
眺むるもよいが、聴き入る雨の音もわるくない。ことに夜なかにフツと眼のさめた時、端なくこのひゞきを聴くのはありがたい。
わが屋根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寝ざめて聴けば
あららかにわがたましひを打つごときこの夜の雨を聴けばなほ降る
雨はよく疲れた者を慰むる。
あかつきの明けやらぬ闇に降りいでし雨を見てをり夜為事を終へ
遠山の雲、襞から襞にかけておりてゐる白雲を、降りこめられた旅籠屋の窓から眺める気持も雨のひとつの風情である。
山が若杉の山などであつたらば更にも雨は生きて来る
紀伊熊野浦にて。
船にして今は夜明けつ小雨降りけぶらふ崎の御熊野の見ゆ
下総犬吠岬にて。
とほく来てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ
信濃駒ヶ嶽の麓にて。
なだれたち雪とけそめし荒山に雲のいそぎて雨降りそそぐ
上野榛名山上榛名湖にて。
山のうへの榛名の湖の水ぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ
常陸霞が浦にて。
苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ
平常為事をしなれてゐる室内の大きなデスクが時々いやになつて、別に小さな卓を作り、それを廊下に持ち出して物を書く癖を私は持つて居る。火鉢の要らなくなつた昨日今日の季候のころ、わけてもこれが好ましい。
廊下に窓があり、窓には近く迫つて四五本の木立が茂つてゐる。なかの楓の花はいつの間にか実になつた。もう二三日もすればこの鳥の翼に似た小さな実にうすい紅ゐがさして来るのであらうが、今日あたりまだ真白のまゝでゐる。その実に葉に枝や幹に、雨がしとしと降つてゐる。昨日から降つてゐるのだが、なか〳〵止みさうにない。
楓の根がたの青苔のうへをば小さい弁慶蟹の子が二疋で、さつきから久しいこと遊んでゐる。
ゆきあひてけはひをかしく立ち向ひやがて別れてゆく子蟹かな | 底本:「日本の名随筆43 雨」作品社
1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
1991(平成3)年10月20日第10刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:加藤恭子
校正:浦田伴俊
2000年8月18日公開
2005年6月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001079",
"作品名": "なまけ者と雨",
"作品名読み": "なまけものとあめ",
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濱へ出る漁師たちの徑に沿うたわたしの庭の垣根は、もと此處が桃畑であつた當時に用ゐられてゐた儘のを使つてゐる。杭も朽ち横に渡した竹も大方は朽ちはてゝゐるのであるが、其處に生えた篠竹やその間に匐うてゐる蔓草のために辛うじて倒壞を免れてゐる。蔓草も幾種類か匐うてゐる樣であるが、通蔓草が最も多い。そしていまその若葉と、若葉の間に垂れて咲いてゐる花とが、まことに美しい。花は初め袋なりにつぼんでゐるが、やがて小さく開く。色は淡い紫である。
門を出てこの垣根に沿ひ十間も行くと、徑は森の間に入る。森の木深いところにもこの通蔓草は茂つてゐる。此處は樹木の背が高いだけ、あけびも高く伸び上つて、とりどりの木の梢からその蔓の先を垂らしてゐる。
森の木はおほかた常盤木である。中でも犬ゆづり葉の木とたぶの木とが多い。たぶの木は玉樟とも犬樟ともいふので樟科の、その葉の匂なども樟に似た木である。犬ゆづり葉は同じくゆづり葉の木そつくりの木で、葉柄の紅いところまで同じである。たゞ葉が本當のゆづり葉より小さい。そのほかには椿、鼠冬青木、とべらなどの常盤木が混り、落葉樹には櫨、楢、楝、其他名を知らぬ幾多の雜木がある。
元來此處は潮風を防ぐために昔から設けられた大きな松原で、年を經た黒松が亭々として茂つて居り、その松の下草に右云うた樣ないろ〳〵の木が森を成してゐるのであるが、ともするとわたしは此處の松原である事を忘れ、此等雜木の密生してゐる森林とのみ思ふ事が多いのである。松も多いが、雜木は更に茂つて居る。
此等の雜木を松の下草とするならば、雜木のための下草がまたあるのである。森の深い所ならば虎杖、齒朶、少し木の薄い所には茅や芒である。それからこれはわたしは名を知らぬが面白い木がある。幹は眞書の筆の軸ほどで、せい〴〵伸びて二尺か二尺五寸、繁々と幾本となく枝を張り、枝には細い刺を持つて居る。小さいなりにみな相當の樹齡を持つて居るらしく、枝ぶりがいかにも寂びてゐる。花は春の末に開き、こまかく白い。實は秋の頃より眞赤く熟れ、次の年の花が咲いてもなほ半は枝に殘つてゐる。南天の實の粒よりも更に小さくまんまるで、こまかい枝のあちこちにいつぱいに熟れてゐるところは誠に綺麗である。今、隨所の木の根がたに見られる。
齒朶はたいへん森を深く見せる。まつたくこの海ばたの森にこれを見出した時はわたしは驚いた。これの茂みに入つて行つて立つてゐるとツイ其處に自分の住居があらうなどとは一寸考へにくい。
今は虎杖の芽の萌ゆるさかりである。無論山の溪間などにあるやうな大きなのは見られないが、それでも親指位ゐのはある。これはこのまゝ喰べるもうまく、一二時間うすい鹽で漬けておくと珍重すべき漬物となる。たべものゝ話のついでゝあるが、わたしは昨日の夕方、一寸森に入つてたらの芽を摘んで來た。味噌あへにして、獨りの晩酌のさかなには恰好であつた。
虎杖を取らうとして森の木蔭に這ひ込んで驚くのは落椿である。椿は花期が永く、いつもなら十二月の末からぼつ〳〵咲き出して三月末まで續くのだが、今年は寒さのため咲くのが遲れ、今がまだ盛りといつてよい。この森の或る一部などはいまこの木の落花がそれからそれへと殆んどいちめんに散り敷いてゐる。元來椿の木はその木だけあらはに立つてゐるか、若しくは木立をなしてゐるものである。それが此處の森では他の常盤木に混つて數限りなく立ち續いてゐるのである。他の木を拔いて伸び出でて日向に咲いてゐるもあり、しつとりと木蔭に濕つて咲いてゐるのもある。
椿のほかにいまこの森で目につく花は木苺である。漸う萌え出た柔かな葉のかげに純白色に咲いてゐる。幹がほそくしなやかで、風にゆれながら咲いて居る。
楢の花、これは葉の芽生えより先に咲かうとするので、時には間違ひ易い。氣をつけて見れば野趣のある花である。
が、何と云つてもこの森には常盤木が多く目につく。花をつける木は少ない。もう少したてば楝の花のむらさきが見られるが、まだ早い。そして、今は雜木の芽の美しい盛りである。
殘念にもわたしはそれら雜木の名を知らない。知らないなりに三種五種とそれ〴〵に美しいのを數へることは出來る。野葡萄の蔓の節々についた珠のやうな芽の美しさなどはまつたく言葉には現はせない。
これらの芽は二日三日のうちに忽ち伸び開いて、謂はゞ若葉となる。いやもう既にさうなつてゐる。春、春と思うたのもほんの數日間のことで、昨日今日ではもうそゞろに初夏の感じである。木々の深みに啼いてゐる鶯の聲も漸くこのごろ調つて來たばかりであるに早やもう珍しくなくなつた。(四月六日) | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002205",
"作品名": "庭さきの森の春",
"作品名読み": "にわさきのもりのはる",
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"姓読み": "わかやま",
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"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
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"生年月日": "1885-08-24",
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私が沼津に越して来ていつか七年経つた。或はこのまゝ此処に居据わることになるかも知れない。沼津に何の取柄があるではないが、唯だ一つ私の自慢するものがある。千本松原である。
千本松原位ゐ見事な松が揃つてまたこの位ゐの大きさ豊さを持つた松原は恐らく他に無いと思ふ。狩野川の川口に起つて、千本浜、片浜、原、田子の浦の海岸に沿ひ徐に彎曲しながら遠く西、富士川の川口に及んでゐる。長さにして四里に近く、幅は百間以上の広さを保つて続いてをる。この全体を千本松原といふは或は当らないかも知れないが、而も寸分の断え間なく茂り合つて続き渡つてゐるのである。而して普通いふ千本松原、即ち沼津千本浜を中心とした辺が最もよく茂つて居る。松は多く古松、二抱へ三抱へのものが眼の及ぶ限りみつちりと相並んで聳え立つてゐるのである。ことに珍しいのはすべて此処の松には所謂磯馴松の曲りくねつた姿態がなく、杉や欅に見る真直な幹を伸ばして矗々と聳えて居ることである。
今一つ二つ松原の特色として挙げたいのは、単に松ばかりが砂の上に並んでゐる所謂白砂青松式でないことである。白砂青松は明るくて綺麗ではあるが、見た感じが浅い、飽き易い。此処には聳え立つた松の下草に見ごとな雑木林が繁茂してゐるのである。下草だの雑木だのと云つても一握りの小さな枝幹を想像してはいけない。いづれも一抱へ前後、或はそれを越えてゐるものがある。
その種類がまたいろ〳〵である。最も多いのはたぶ、犬ゆづり葉の二種類で、一は犬樟とも玉樟ともいふ樟科の木であり、一は本当のゆづり葉の木のやゝ葉の小さいものである。そして共にかゞやかしい葉を持つた常緑樹である。その他冬青木、椿、楢、櫨、楝、椋、とべら、胡頽子、臭木等多く、楤などの思ひがけないものも立ち混つてゐる。而して此等の木々の根がたには篠や虎杖が生え、まんりやう藪柑子が群がり、所によつては羊歯が密生してをる。さういふ所に入つてゆくと、もう浜の松原の感じではない。森林の中を歩く気持である。
順序としてこれ等の木の茂み、またはその木の実に集まつて来るいろ〳〵の鳥の事を語らねばならぬ。が、不幸にして私はたゞ徒にその微妙な啼き声を聴き、愛らしい姿を見るだけで、その名を知らぬ。僅に其処に常住する鴉――これもこの大きな松の梢の茂みの中に見る時おもひの外の美しい姿となるものである、ことに雨にいゝ――季節によつて往来する山雀、四十雀、松雀、鵯、椋鳥、鶫、百舌鳥、鶯、眼白、頬白等を数ふるに過ぎぬ。有明月の影もまだ明らかな暁に其処に入つてゆけば折々啄木鳥の鋭い姿と声とに出会ふ。
夜はまた遠く近く梟の声が起る。見ごとなのは椋鳥の群るゝ時で数百羽のこの鳥が中空に聳えた老松の梢から梢を群れながら渡つてゆくのは壮観である。
秋の紅葉は寒国のもので、暖かい国だとよく紅葉しない。楓など寧ろきたない黄褐色に染つて永い間枝頭にくつ着いてゐる。僅に櫨のみ暖国でもよく紅葉する。どうしたものかその櫨がこの松原の中に多い。なか〳〵大きいものもある。老松の間に在つてこの木の漸く染まる頃からこの松原はよくなつて来る。茅萱が美しい色に枯れ、万両や藪柑子の実の熟れて来る冬もいゝ。冬は朝にゆふべに、淡い靄が必ずこの松原の松の根がたに漂うて居る。十二月には椿が咲いて――その頃まで撫子も咲いてゐるが――やがて春になる。春もいゝ。小鳥の声の次第に多くなる初夏、この時もいい。たゞ真夏だけは感心しない。
この広く且つ長い松原の中央に縦に一筋の小径が通じてゐる。狩野川の川口から原町の停車場に到る間二里あまりは紛れなく通じて居るが、それから西は判然してゐない。この小径はもと甲州街道とも甲駿街道とも呼ばれたもので、その出来た初めは現在の東海道よりずつと旧いものださうだ。想ふに今の東海道の通じてゐる辺は昔は現在の浮島村附近の如く一帯に深い沼沢地であつて道路など造れなかつたものであらう。而してこの海岸沿ひの砂丘の上に一筋の道をつけて通行してゐたであらう。それはとまれ、私はこの松原の中の甲州街道を歩くことを非常に好む。何とも云へぬ静けさ、何ともいへぬ明るさ、何ともいへぬうるほひがこの松原の、といふより長い長い森の中の小径に漂ふてゐるのである。たま〳〵出会ふのは漁師たちで、たゞ松風とやゝ遠い浪の音と小鳥の声とがあるのみである。芝居でやる伊賀越の沼津の平作が腹を切つたは東海道でなく、この甲州街道を使つてあるさうだ。
沼津から千本浜へ出やうとする浜道の右手に千本山乗運寺といふ寺がある。当代よりは廿六世以前、山城国延暦寺乗運公の実弟、増誉上人といふ人がこの沼津の地に来り、以前鬱蒼として茂つてゐたと伝へらるゝ松原が相模の北条と甲斐の武田との戦ひの戦略から一本残らず伐り払はれ、見る影もない荊棘の曠原となつてゐたのを嘆き自ら植樹に着手した。然し、今もさうだが此処の浜は砂地でなく荒い石の原である。植ゑてもなかなか根づかない。ために上人は一本植うるごとに阿弥陀経を誦し、植ゑ且つ読経しながら辛うじて先づ一千本を植ゑつけた。而して時の政府に建言し、枝一本腕一本といふきびしい法度を設けて苗木を愛護し、数代の苦心によつて現在の壮大な松原が出来上つたものださうだ。元来この東駿河地方は秋口から春にかけて吹きつくる沖の西風の極めて烈しい所で今でも大の男がまともに歩きかぬる風に出会ふことが屡々ある。松原の絶えてゐた時代、その西風が海から汐煙を吹きあげて遠く四周に撒き散らし、農作物は出来なくなつてしまつた。増誉上人は単に松の眺めの絶えたを惜しんだばかりでなく、斯うした済世救民の志もあつたのである。この大きな松原に遮られて汐煙はおろか、風そのものすらも遠く数町の間には落ちて来ぬのである。
初め私がほんの一二年間休養するつもりでの転地先をこの沼津に選んだのは、その前年伊豆の土肥温泉に渡らうとして沼津に一泊し端なくこの松原の一端を見出し、それに心を惹かれてのことであつた。で、沼津に移つて来てからは折あればこの松原にわけ入つて逍遥した。そして終に昨年、その松原の松の蔭の土地を選み、自分の住家を建てた。それこそ松原の直の蔭で、隣接する家とてもなく、いまだに門に人力車を乗りつくる事も出来ぬといふ不便の地点の一軒家である。無論松に親しむ心が先立つたのであつたが、一つはこの冬の西風を避けたいためでもあつた。そしてこの二つの願ひは願ひどほりに叶うたのである。此処で私は今まで何といふことなしに始終追はれ通しに追はれて来た様な慌しい生活を棄て、心静かに自分の思ふまゝの歩みを歩むといふ様な朝夕に入らうとしたのであつた。
ところが、昨今、聞くに耐へぬ忌まはしい風説を聞くことになつた。曰く静岡県は何とかの財源を獲むがために沼津千本松原の一部を伐採すべしといふのである。
元来この千本松原は帝室御料林に属してゐた。それを永年運動の効があつて静岡県は今年これを自分の手に納めた。納むるや否や、百年の風雨に耐へて来たこの老樹の幹の皮を剥いで黒々と番号を書き込んだのである。松ばかりか、茂り合うて枝葉を輝かしてゐるたぶの木にも犬ゆづり葉の木にもみなそれが記された。薪に売らむがためである。
無論、松原全体を伐らうといふのではない。右云うた甲州街道から北寄りの沼津市内に属する部分を伐らうといふのである。然り而うして其処は実に東西四里にわたる松原のうち最も老松に富み、最も雑木が茂り、最も幅広く、千本松原の眼目とも謂ふべき位置に当るのである。此処を伐られてはもう千本松原は日本一の松原ではなくなる、普通の平凡な一松原となり終るのである。
流石に沼津も騒ぎ始めた。沼津として此処を伐り払はるゝ事は全く眉を落し頭を剃りこぼたるるに等しい形になるのである。また、静岡県としても此処を伐つて幾らの銭を獲むとしてゐるのであらうか。幾らの銭のために増誉上人以来幾百歳の歳月の結晶ともいふべきこの老樹たちを犠牲にしようといふのであらうか。
私は無論その松原の蔭に住む一私人としてこの事を嘆き悲しむ。が、そればかりではない。比類なき自然のこの一つの美しさを眺め楽しむ一公人として、またその美しさを歌ひ讚へて世人と共に楽しまうとする一詩人として、限りなく嘆き悲しむのである。まつたく此処が伐られたらば日本にはもう斯の松原は見られないのである。豈其処の蔭に住む一私人の嘆きのみならむやである。
静岡県にも、県庁にも、また沼津市にも、具眼の士のある事を信ずる。而して眼前の些事に囚はれず徐に百年の計を建てゝ欲しいことを請ひ祈るものである。
(九月六日、徐ろに揺るる老松の梢を仰ぎつゝ) | 底本:「大きな活字で読みやすい本 新編・日本随筆紀行 心にふるさとがある4 海風に吹かれて」作品社
1998(平成10)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「日本随筆紀行第一〇巻 静岡|山梨 仰ぎ見る富士は永遠」作品社
1988(昭和63)年10月10日第1刷発行
※「いゝ」と「いい」の混在は、底本通りです。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
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發動機船は棧橋を離れやうとし、若い船員は纜を解いてゐた。惶てゝ切符を買つて棧橋へ駈け出すところを私は呼びとめられた。いま休んでゐた待合室内の茶店の婆さんが、膳の端に私の置いて來た銀貨を掌にしながら、勘定が足らぬといふ。足らぬ筈はない、四五十錢ばかり茶代の積りに餘分に置いて來た。
『そんな筈はない、よく數へてごらん。』
振返つて私はいつた。
『足らん〳〵、なアこれ……』
其處を掃除してゐた爺さんをも呼んで、酒が幾らで肴が幾らでこの錢はこれ〴〵で、と勘定を始めた。私はそれを捨てゝおいて船へ乘らうとした。
爺さんと婆さんは追つかけて來た。切符賣場からも男が出て來た。船の窓からも二三の顏が出た。止むなく私は立ち留つた。そして婆さんの掌の上の四五枚の銀貨を數へた。どうも足らぬ筈はない。
『これでいゝぢやアないか、四十錢ばかり多いよ。』
『馬鹿なことを……』
婆さんの聲は愈々尖つた。そして、酒が幾らで、肴が幾らで、と指を折り始めた。私もそれを數へてみた。そして、オヤ〳〵と思ひながら一二度數へ直して見ると、矢つ張り私の間違ひであつた。茶代拔きにして丁度五十錢ほど足りなかつた。私は帽子を脱いだ。そして五十錢銀貨二枚を婆さんの掌に載せた。載せながら婆さんの眼の心底から險しくなつてゐるのに驚いた。汗がぐつしより私の身體に湧いた。
船は思ひのほかに搖れながら走つた。船内の腰掛には十人ほどの男女が掛けてゐた。
『間違ひといふものはあるもんで……』
私の前に掛けてゐた双肌ぬぎの爺さんは私に言つた。この爺さんは茶店で私が酒を飮んでゐる時から二三度私に聲をかけてゐた。
『イヤ、どうも、……』
私は改めて額の汗を拭いた。今日はもう一つ私は失敗をやつてゐた。鷲津までの切符を買つてゐながら一つ手前の新居町驛で汽車を降りた。濱名湖が見え出すと妙に氣がせいて、ともすると新居町から汽船が出るのではないか知らといふ氣になつたからであつた。が、矢張り淡い記憶の通り、鷲津から出るのであつた。そして通りがかりの自動車を雇つて鷲津の汽船發着所へ着いたのである。然しその時の船はもう出てゐた。次の正午發まで一時間半ほど待たねばならぬ。そして私は酒をとつた。朝飯を五時に濟まして來たので妙に食慾があり、茶店で出した肴だけでは足りなかつた。茶店の婆さんは附近の宿屋だか料理屋だかに電話をかけて二三品のものを取り寄せて呉れた。それこれの勘定が間違のもとゝなつたわけである。
永年の酒の毒が漸く身體に表れて來た。ことに大厄だといふ今年の正月あたりからめつきりと五體の其處此處に出て來た。この半年、外出らしい外出すらしないで私は部屋に籠つてゐた。花のころ、若葉のころ、毎年必ず出かけてゐた旅にもよう出ないで、我慢してゐた。それがこの梅雨の季節に入つていよ〳〵頭が鬱して來た。いつそ息拔きに何處かへ出かけてゞも見るがよくはないかと自分にも思ひ、家人も言ふので企てられた今度のこの濱名湖めぐりから三河行の小さな旅行であつた。そしてその第一日早々から重ねられたこれらの失敗であつた。
湖全體を一周するには別に船を仕立てねばならなかつた。私の乘つたのは鷲津から湖の西岸に沿うて氣賀町まで行くものであつた。肌ぬぎの爺さんはいろ〳〵と山や土地の名などを教へて呉れた。梅雨晴とも梅雨曇とも云ひ得る重い日和で、うす濁りの波の色は黒く見えた。湖を圍む低い端山の列も黒かつた。物洗ひ場かとも見ゆる簡單な船着場に二三度船は止つて、一時間もした頃館山寺に着いた。私は裾を端折つて降り仕度をしながら、いかにも酒ずきらしいこの爺さんに言つた。
『お爺さん、一緒に降りませんか、次の船の來る間、一杯御馳走しませう。』
爺さんは仰山に打ち消した。
『とんでもねエ、わしはこれで氣賀で降りて、其處から荷物を背負つてまだ五里も歩かなくちやならねエ。』
館山寺は古い由緒のある寺だとかだが、ひどくすたれて、此頃ではたゞ新しい遊覽地として聞え出して來た、と謂つた所であつた。殆んど島かと見ゆる小さな半島全體が圓やかな岡となり、汀からいたゞきにかけ、みつちりと稚松が茂つてゐた。寺の横から岡を越えて裏に出ると、廣い湖面に臨んだ小さな斷崖となつてゐた。腰をおろし、帽をぬげば、よく風が吹いた。そして漸く私は、
『ヤレ、ヤレ。』
といふ氣になつた。
湖には釣舟が幾つか浮び、三味線太鼓の起つて居る所謂遊覽船も一艘見えてゐた。風のためか日光のせゐか、湖いちめんがほの白く輝いて見えた。岡の松はみな赤松であつた。そしてその下草にところ〴〵山梔子が咲いてゐた。花の頃の思はるるほど、躑躅の木も多かつた。岡のあちこちに設けられた小徑はまだ眞新しく、新聞紙など散らばつてゐた。惜しいと思つたは稚松の間に混つてゐた椎の老木を幾つとなく伐り倒したことで、みな一抱へ二抱への大きいものであつたらしい。恐らく美しい小松ばかりの山にせむために伐つたものであらう。
二十分もかゝつたか、私は岡を巡つて寺に出た。次の船の來る迄にはまだ二時間もある。止むなく寺の前の料理兼旅館の山水館といふに寄つた。上にあがればめんだうになると思つたので、庭づたひに奧に通つて其處の縁側に腰かけながら、兎に角一杯を註文した。
庭さきの水際の生簀に一人の男が出て行つた。私のために何か料理するものらしい。そして當然鯉か鮒が其處から掬ひ上げられるものとのみ思ふて何氣なく眺めてゐた私は少なからず驚いた。思はず立ち上つてその手網を見に行つた。見ごとな鯒がその中に跳ねてゐた。
『ホヽウ、此處に海の魚がゐるのかネ。』
番頭の方が寧ろ不思議さうに私を見た。
『よく釣れます、今朝お立ちになつたお客樣はほんの立ちがけに子鯖を二十から釣つてお持ちになりました。』
宿屋の前は背後の岡と同じ樣な小松の岡にとりかこまれた小さな入江になつてゐた。入江といふより大きな淵か池である。青んで湛へた水面には岸の松樹の影がつばらかに映つて居る。其處から鯖の子を釣りあぐる……、何としても私には變な氣がした。聞けば今は子鯖とかははぎの釣れる盛りだといふ。かははぎは皮剥ぎの謂で、形の可笑しな魚だが、肉がしまつてゐておいしい。私の好物の一つである。兎に角、濱名湖は淡水湖なりや鹹水湖なりやとむづかしく考へずとも、汽船で一時間も奧に入り込んで來た此處等のこの山の蔭にこれらの魚が棲んでゐやうとはどうも考へにくい事であつた。
館山寺前の入江を出た船は袋の口の樣な細い入口を通つてまた他の入江に入つて行つた。此處はやや大きく、引佐細江といふ。細江の奧、下氣賀で船を乘換へた。今度の小さな發動機船は入江を離れて、堀割りに似た都田川といふを溯るのである。川の西岸にうち開けて、ひたひたに水をたゝへてゐる廣田には何やら藺の樣なものがいちめんに植ゑ込んである。乘合の婦人に尋ぬると、あれはルイキユウですとのことであつた。
氣賀町に上つた私は迷つた。豫定どほりだと其儘輕便鐵道に乘つて終點奧山村に到り半僧坊に詣でて一泊、翌日は陣座峠といふを越えて三河に入り、新城町に病臥してゐる友人を見舞ひ、天氣都合がよければ鳳來寺山に登つて佛法僧を聽く、といふのであつた。が、氣賀町には我等の歌の結社創作社社友Y――君が住んでゐた。自分の身體の具合もあるので今度は途中誰にも逢はないで行き過ぎるつもりで出て來たのだが、サテ、實際その人の土地に入り込んで見ると一寸でも逢つてゆきたい。それこそ玄關でゝも逢つて、それから輕便鐵道に急いでも遲くはあるまいと、通りがかりの女學生に訊くとこの友の家は直ぐ解つた。
私の名を聞いて奧から出て來た背の高い友の白髮は、この前逢つた時より一層ひどいものに眼についた。その細君には初對面であつた。頻りに固辭したが、終に下駄をぬがせられ、やがて一晩厄介になる事になつてしまつた。そして夕飯の仕度の出來るまで、近くを散歩した。公園の何山とかいふに登れば眺望がいゝとの事であつたが、勞れてゐて出來なかつた。錢湯に行くすら億劫であつた。勞れるわけはないのだが、久し振に家を出た氣づかれとでもいふであらう。或は失敗勞れであつたかも知れぬ。
氣賀町は寂びて靜かな町に見えた。昔、何街道とかの要所に當り、關所の趾をそのまゝにとつてある家などあつた。町はづれを淺く清らかな伊井谷川が流れてゐた。橋に立つて見ると、鮎や鮠の群れて遊んでゐるのがよく見えた。泳いでゐる魚の姿を久し振に見た。
この友はこの附近で小學校の校長を長い間やつてゐた。それをこの四月にやめて、今は土地に新設された實科女學校に出てゐるとの事であつた。廣くもない庭に、植ゑも植ゑたり、蟻の這ふ隙間もないまでに色々なものが植ゑてあつた。いま花の眼についたは、罌粟、菖蒲、孔雀草、百日草、鳳仙花、其他、梅から柿梨茱萸のたぐひまで植ゑ込んである。その間にはまた、ちしや、きやべつ、こんにやくだま、などの野菜ものも雜居してゐるのである。それでゐて何處か落ちついてゐる。妙に調和した寂びが感じられた。
夜は酒嫌ひで言葉少なのこの友を前に私は一人して飮み一人して喋舌つた、これだから誰にも逢つてはいけないと思つたのにと思ひながら。
六月二十二日。
學校を一日なまけてY――君もけふ一日私と歩かうといふことになつた。停車場の附近にも昨日見たルイキユウの田が廣い。聞けばこれは琉球から取り寄せた藺ださうで、それを土地の人はルイキユウと呼び、稻よりもこれを作る者が多くなつてゐるさうだ。疊表其他の材料として支那の方にも行くといふ。
伊井谷神社の深い森を車窓に眺めて過ぎた。宗良親王を祀るところといふ。親王のお歌は若い頃私の愛誦したものであつた。程なく奧山終點着。
奧山半僧坊の名はかなり聞えてゐる。で、私は何とはなしに成田の不動の樣な盛り場を想像してゐたが、案外に靜かな山の中の寺であつた。門前町に三四軒並んでゐる宿屋なども、なつかしい古び樣を見せてゐた。
奧山の村を外れて陣座峠の路にかゝる。路は伊井谷川の源とも見受けらるゝ溪に沿うてゐた。溪は細く、岩の床で、岸の一方は直ちに雜木林となつてゐた。流れつ湛へつしてゐる水際には岩躑躅が到るところに咲いてゐた。いよ〳〵登りにかゝらうとするあたりで水を飮まうと谷ばたに降りてゆくと、其處の澱みには大きなやまと鮠が四五疋、影も靜かに浮んでゐた。谷のいよ〳〵細くなつたあたりの岩の蔭にはあぶらめといふ魚が遊んでゐた。幼い時、三尺か四尺の釣竿でこれらの魚を釣つて歩いた故郷の山奧の溪が思ひ出された。空は昨日と同じく晴とも曇ともつかぬ梅雨の空であつた。
陣座峠は遠江と三河との國境に當つて居る。國境の山といふと大きく聞えるが、僅か一千五百尺ほどの高さ、登りも下りも穩かな傾斜で、明るい峠であつた。ことに遠州路の方は木立が深くて登るに涼しかつた。その深い木立の下草に諸所木苺の實がまつ黄に熟れてゐた。いゝ歳をした二人、ことに一人は半白以上の白髮、あとの一人にもこの頃めつきりそれが見えだして來たといふ二人はわれさきにとその小さい粒の實を摘みとつてたべた。
八合目ほどの所の路ばたによく囀る眼白鳥の聲を聞いた。見れば其處の木の枝に籠がかけてあつた。見𢌞すと近くの木蔭に壯年の男がしやがんで險しい眼をして我等を見てゐた。聲をかけて通りすぎると程なく峠、丁度時間もいゝので用意の握飯を出して晝にした。私は半僧坊で二合壜を仕入れて來てゐたので先づそれにかゝつた。するとY――君も亦た一本とり出して、とても一本では足るまいと思つて……、と笑ひながら差出した。松の蔭で、あたりには遲い蕨などが萌え立つて居り、三河路の方から涼しい風が吹きあげて來た。
其處へ先刻の男が眼白籠を提げてやつて來た。そして變な顏をして立ちどまつてゐたが、其儘其處に坐つてしまつた。Y――君は持つてゐた盃をさしたが、酒は大嫌ひだとて受けなかつた。三十前後の屈強な身體で、眼尻のたるんだ、唇の厚ぼつたい男であつた。話好きと見え、ほゞ三四十分の間、一人で喋舌つてゐた。おめエたちは一體何處で何の身分で、何をしに斯んなところに來たのか、といふのが彼の話題の第一であつた。根掘り葉掘り訊いた上、
『どうも、さつぱり解らねエ。』
と諦めた。そして代りに自分自身の事を語り始めた。何處何處の生れで、何處其處とさんざ苦勞をした揚句、今では斯んな所に引つ込んで何とか線の線路工夫をしてゐると語つた。
『線路工夫……?』
と聞きとがめると、Y――君が、
『いゝエ、電燈線の線路工夫でせう、此頃この邊に引かれた電燈線があるのです。』
と説明した。
眼白でも飼はねばなア、斯んな山の中では何の樂しみもねエ、と言ひながら彼は立ちがけに、私のころがして置いた空壜を取りあげて、これ、貰つて行くよ、酢を入れとくにいゝからナ、とどんぶりに入れた。
我等も程なく其處を立つた。するとまた眼白籠が路ばたの枝に懸けられ、鳥ばかりが高音を張つて、見𢌞してもその主人公はゐなかつた。
『ア、あんな所に!』
見れば成程、路から一寸離れた櫟や小松の雜木林の中に立ててある眞新しい電柱の上に登つて彼は何やら爲しつゝある所であつた。
下りつけば其處は幾つかの小山の裾の落ち合つた樣なところで、狹い澤となつてゐた。片寄りに一すぢの溪が流れ、あちらの山こちらの山の根がたにすべてゞ十二三軒もあらうかと思はるゝ藁家が見えた。それらの家に圍まれた樣な澤はみな麥の畑で、黄いろくも黒くも見ゆるそれをせつせといま刈つてゐた。黄柳野村といふのであつた。
村に一本の路を急いで居るとツイ路ばたにすつかり戸障子をあけ放した一軒の家があつた。そして部屋の中にも軒端にもいつぱいに眼白籠が懸けてあり、とり〴〵に囀り交してゐた。部屋の中には酌婦あがりとも見らるる色の黒い三十年増が一人坐つて針をとつてゐた。友人と私とは相顧みて、微笑した。
狹い村を通り終れば路はまた登りとなつた。吉川峠といふ。
山は陣座峠より淺かつた。そして雜木の茂つた灌木林の中に澤山の黄楊が見かけられた。犬黄楊らしかつたが、殆んどその木ばかりの茂つた所もあつた。さつき通つた村の名もこれから出たのだと思はれた。陣座峠でも見かけたが、私には珍しい山百合があちこちと咲いてゐた。莖は極めて細く、花もしなやかで、色がうすもゝ色であつた。普通の、白い百合も稀に咲いてゐた。
勞れて來たせゐか、今度の下りは長かつた。自づと話がはずんだが、元氣のいゝ話ではなかつた。自分の爲事の不平、朝夕の暮しの愚痴、健康の不安、中にもこの友が自分の子供に對する心配などは身にしみて聞かれた。
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ともするとその枕許に坐つて話をする事になりはせぬかと氣遣つて來た新城町の友K――君は幸にも起きてゐた。而かも私の訪問がだしぬけであつたので、呆氣にとられながら小躍りして喜んだ。然し、いつもながら聲はろくに出なかつた。結核性の咽喉の病氣にかゝつて六七年も私の沼津に來て養生してゐたのだが、この數ケ月前、其處を引上げて郷里に歸つてゐたのである。その姉も、その父も、友に劣らずこの突然の訪問を喜んだ。姉も、父も、この病人のために全てを犧牲にしてゐると謂つた樣な境遇に在る人たちなのである。
突然ではあり、時間ではあり、ことに初めての氣賀町の客人のために町の料理屋に出て夕飯をとらうといふ事になつた。それを聞くとY――君は驚いて、イヽエ私は歸りますといふ。これからどうして歸れます、それに折角の事だから、と家の人たちも總がかりで留めたが、一日はまだしも二日とはどうも學校が休めない、と言つて立ち上つた。なアに四五里の道だし自轉車ならわけはありません、と私の顏を見て笑ひながら言つた。私にはいま漸く彼があの乘れもしない山坂路を一生懸命になつて自轉車を押して來たわけが解つた。歸りは無論その山坂路でなく、他にいゝ道路があるのださうである。そしてその車のベルを鳴らしながら、たけ高いうしろ姿を見せて彼は歸つて行つた。夏のことだで、まだざつと二時間は明るいが、樂ではないぞなど此處の老父はそれを見送りながら言つた。
然し、夕飯には町へ出る事になつた。たつて止めたが早や立ち上つたこの友の、兩手を振りながら出もしない聲を絞つて、先生、後生ですから私のためにだしになつて下さい、私だつてたまには明るい所へ出て行きたいですよ、といふのを聞くと、矢張りいなめなかつた。その父と姉と友と私と、わざと町裏の田圃路を通つてこの前來た時も行つた事のある遠い料理屋へ出かけて行つた。新城町は桑畑の中に在り、兵兒帶の樣な長いながい一筋町である。
杯をなめながら、席に出た藝者たちから私は意外な事を聞いた。鳳來寺山の佛法僧聽きが近來急に流行り出し、なほその宣傳のため土地の有志に招かれてわたしたち一組は昨夜出かけ、殘る一組は今夜鳳來寺に佛法僧聞きに行つてゐる、といふのだ。呆れながら、お前たちがあの鳥を聞いて何にするのだ、と言へば、いゝえ、お客樣ごとにその事を吹聽して勸めるのですよ、といふ。その代り佛法僧は近來頻りに啼くのださうだ。この前、私の聽きに來た時は山の上の寺に九晩泊つて辛うじて二晩だけ聽き得たのであつた。今は行きさへすれば毎晩聞けるといふ。聲を絞つて友人は言つた、佛法僧もえらく商賣氣を出したもんですネ、と。
『それも先生のおかげサ。』
早や醉つて顏は眞赤に、豐かな頬鬚のつや〳〵と白い老父は笑つた。この前來た時、私は『鳳來寺紀行』にこの鳥の事を書いて雜誌『改造』に出した。それが今まで殆んど無關心であつたこの附近の人たちに意外な反響を喚んだのださうだ。現に主要な停車場には佛法僧の繪をかいたポスターが張られ、私の文章の中の文句が大きな字で引かれてあるといふ。
六月二十三日。
私の居る事はこの友人の身體によくない樣に思ひながら晝過ぎまでも愚圖々々してゐた。その間、私の膝の側には朝からずつと盃と徳利とが置いてあつたのである。豐川の鮎の蓼酢など、近來になくうまいものであつた。
昨夜の藝者の話で鳳來寺行きはかなり興が醒めたが、然し毎晩啼くといふ佛法僧を樂しみに矢張り出かくる事にした。電氣に變つた豐川鐵道で長篠驛下車、驚くべし其處には鳳來寺行乘合自動車が出來てゐた。沿うて走る寒狹川の岸の岩には、昨日名も無い溪で見て來たと同じく岩躑躅が咲きこぼれてゐた。
直ぐ鳳來寺の山に登り、寺に一二泊を頼まうかと思ふたが、今では其處にも毎晩十人位ゐの泊客があると聞いたので遠慮され、とりあへず麓の宿屋に一泊することにした。この宿屋もこの前の紀行には『これも廣重の繪などに見るべき造りの家である』と書いてある通り、曾木板葺きの古び果てた宿であつたが今は一枚ガラスの大戸を玄關に立てた立派な宿館に新築されてあつた。通された二階はまだ荒壁のまゝで、唐紙もろくに入れてなかつた。やう〳〵疊だけは入れました、と宿の者は言つた。
一ぷく吸つたまゝ私は宿から二三軒先の硯造りの家に出かけて二三の硯を買つた。この山から出る鳳鳴石といふのでその質のいゝ事をばかねて聞いてゐながらこの前は荷になるのを恐れて買はなかつた。今度は自動車電車だから大丈夫である。
恐れてゐた相合客は夜に入るまで來なかつた。不思議なことです、と宿の主婦は呟いたが、私はほつかりした。取り寄せた晩酌の酒のさまでゝないのも嬉しかつた。此處にも豐川の鮎が入つてゐた。
窓から見る宿の前の溪端に一つ二つと飛ぶ螢が見えだした。それまでに山の方で啼いてゐたいろいろの鳥の聲も靜まつた。軒を仰ぐと、曇つてゐるが月明りのある空である。その空を限つて嶮しく聳え立つた鳳來寺山の山の端は次第に墨色深く見えて來た。
其處へ、心おぼえの啼聲が聞えて來た。まさしくあの鳥である。佛法僧の聲である。月を負うた山の闇から、闇の底から落ちて來る、とらへどころのない深い〳〵聲である。聽き入れば聽き入るだけ魂の誘はれてゆく聲である。玉をまろがすと言つては明るきに過ぎ、帛を裂くと言つては鋭きに過ぐる。無論、佛、法、僧などの乾いた音色ではゆめさら無く、郭公、筒鳥の寂びた聲に較べては更に數段の強みがあり、つやがある。眼前に見る大きな山全體のたましひのさまよひ歩く聲だとも言ひたいほど、何とも形容する事の出來ない聲である。
『ア、啼く、啼く、……』
私はいつか窓際にすり出て、兩手を耳にあて、息を引きながら聽き入つた。相變らず所を移して啼く。一聲二聲啼いては所を變へる。暫くも同じところに留らない。ともすれば、山そのものが動いてゐるかとも聞きなさるることすらある。
私は膳を窓側の縁に移した。一杯飮んでは耳に手をあて、一杯飮んでは眼を瞑つた。二三本も飮んだが、一向に醉はない。
『よう啼きますやろ。』
宿のお婆さんが笑ひながらお銚子を持つて來た。流石に私もきまりが惡くなり、それを濟ますと床についた。
この鳥の啼聲を文字に移し得ざる事を憾む。内田清之助博士著『鳥の研究』の中に「高野山中學校教諭榎本氏が幾年かに渉つて聞かれた所によれば次の如くである。」として、
この鳥の啼く聲はギヨブツコー、ギヨブツコー、或はグブツクオーと聽えるものを凡そ一秒弱の間を揷んで繰返し、時々はギヨブツクオー、コー、或はギヨブツ、ギヨブツ、クオーを加へる。ギヨブツクオー、コー、の場合には第二音クオーと第三音コーとの間に、第一音と第二音との間よりも、少し長い間を置き、且つ第三音コーは第二音よりも調子低く、またギヨブツ、ギヨブツ、クオーの場合には各間隙に長短はなく、殆んど三音を連唱する。下略。
云々と書いてある。流石によく調べてある。強ひて書けば先づ斯うであらう。が、本物とこれとの差は雀と佛法僧との差に相等しい。
枕許の水を飮むために眼を覺す。
啼いてゐる。
夜の更けたゝめか、或は麓近く移つて來たか、宵の口より一層澄んで聞える。
起きて窓に凭ると、月も曇を拭つて照つてゐた。山の森の茂みにも月の光があつた。そして、宵の口は多く右の、ギヨブツコー、ギヨブツコー、の二聲づつを啼いたに夜の更けてからは、ギヨブツ、ギヨブツ、コーの三聲を續ける啼きかたをしてゐた。この啼きかたは非常に迫つて聞える。
六月二十四日。
朝、洗面所で顏を洗つてゐると、その横の部屋から一人の泊客、痩せた青年が出て來て私を見てゐるらしかつたが、不意に牧水先生ではないか、と言ふ。君は、と問ひ返すと意外にも前のY――君やK――君たちと同じく我等の創作社々友T――君であつた。この人は入社して何年にもならぬが、歌に異色があり、印象の深い人であつた。同じく昨夜佛法僧聞きに來てゐたのであると。彼は名古屋の八高の生徒である。
朝食を共にし、一緒に山に登つた。實は昨夜よく聞いたには聞いたが、耳の惡い私には、もう少し近かつたら、の慾が出たのである。そして山の寺に一二泊を頼まうと思ふたのであつた。寺にはこの前の時の知合の僧侶がゐた。
彼も少なからず驚いて上へ招じて呉れた。そして、朝から酒ばかり飮んで何をする人かあの時はさつぱり解らなんだが、といふ四年前の囘顧談などが出た。あの時は三度々々梅干ばかりさしあげたが、今では寺でも相當の用意がしてある故、どうぞゆつくりして行つて呉れ、と勸められた。實は梅干すらその時は出し惜しまれたのであつた。そして明けても暮れても麩ばかりであつた。天氣も惡く、寺は毎日雲霧に包まれてゐた。で、私は麩化登仙の熟語を作つて自ら慰めたものである。人に眼だたぬ廊下の隅がその時の私の居場所であり飮場所であつた。その隅を眺めつつ四年の昔を戀しく思つた。
寺の中もすつかり綺麗になつてゐた。それとなく聞いてみると今夜豐橋の實業家たちが登つて來て佛法僧を聞き乍ら寺で謠曲會を開くのだといふ。T――君と相顧み、麥酒など勸めらるるのをも辭して別れた。東照宮の方に行く途で、見覺えのある老爺に出會ふた。寺の寺男である。毎日私のために飮料を麓から運んで呉れた恩人であつた。銀貨を紙に捻り、不審がる彼に渡して別れた。
宿屋に歸り、折柄の自動車に飛び乘り、長篠に出で、折角の奇遇をこのまゝ別るゝも辛く、其處より二三驛上手の湯谷温泉まで行つて共にゆつくり話さうといふことになり、電車に乘つた。車内は相當にこんでゐたが、湯谷驛に近づくやみな降り仕度をし始めた。名古屋邊から來た所謂散財の客らしい。また相苦笑して其處を乘越し、終點驛川合まで出てしまうた。そして其處に唯だ一軒の宿屋二木屋といふに荷物を置き、行く所もないまゝに百間瀧などといふ邊を散歩した。このあたり豐川ももうほんの溪谷となり、下駄ばきのまゝ徒渉出來るのであつた。岸の岩には相變らず躑躅が咲き、河鹿が頻りに鳴いた。
夜、柄にもなく旅愁を覺え、この病身の初對面の友を相手に私は酒を過した。そして終に藝者と名乘る女をも呼んで伊奈節を聞いたり唄うたりした。宿屋の前の往還が信州伊奈に通ずるものであることを聞いて思ひついた事であつたらう。
『先生、いつそ伊奈まで行きませうか。』
四五杯の酒に醉うた年若い友はその痩せた手を擧げて言うた。
六月二十五日。
頭をよくするどころか、へと〳〵になつて、夜遲く沼津に歸つた。靜かにならう、靜かにならうと努めつゝいつか知ら結果はその反對になる、いつもの癖を身にしみじみと感じながら。
硯はよき土産であつた、机の上に靜かである。鳳來寺の山よ。希くは永久に靜かな山であつて呉れ。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2012年12月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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梅のかをりを言ふ人が多いが、私は寧ろ沈丁花を擧げる。梅のいゝのは一輪二輪づつ枯れた樣な枝の先に見えそめた時がいゝので、眞盛りから褪せそめたころにかけては誠に興ざめた眺めである。そしてその頃になつて漸く匂ひがたつて來る。もつとも一輪摘んで鼻の先に持つて來れば匂ふであらうがそれでは困る。何處に咲いてゐるのか判らない、庭木の日蔭に、または日向の道ばたに、ありともない風に流れて匂つて來る沈丁花のかをりはまつたく春のものである。相當な強さを持ちながら何處か冷たいところのあるのも氣持がよい。
どちらかと云へば沈丁花は日蔭の花。それを日向の廣場に匂ふものとして見るべきものに菜の花がある。この花の匂ふところには必ずこの花と同じい色の蝶々がまつてゐるであらう。そしてその近くの何處かには麥畑の青さがあるであらう。そしてまた必ずその上には一羽か二羽の雲雀の聲が漂うてゐねばならぬ。
月並でも梅の一輪二輪は矢張り春のおとづれを知らすものである。それほどに目立つことなく、そして恐らくこれは北國に限られた花かも知れぬが同じ樣に春意を傳へるものにまんさくの花がある。花と云つてもほんの粟粒ほどの大きさで、同じくこまかなしなやかな冬枯の枝のさきにつぶつぶとして黄いろく咲きいづる。根はまだ雪や氷にとざされながら、細々として入りみだれた枝のさきに咲き出づる。永い間雪に包まれた人たちにとつては嘸かしこの見榮えのせぬさびしい花に心を惹かるゝことであらう。東京の植物園にも甘藷先生の碑のあたりに一本だかあつたとおもふ。
同じく北國で田打櫻と呼ばれてゐる辛夷の花も氣持のいゝ花である。木蓮に似てゐるがそれよりずつと小さく、木蓮の佛臭なく、色は白である。木蓮の樣にぶよ〳〵した枝でなく、まんさくに似た細い枝の、しなやかで而も雪に耐ふる強みを持つて落葉しはてた枝のさきに白々と咲くのである。枝がしなやかなせゐか、花の眞盛りとなると多くみな枝垂れて咲く。まんさくの寂しさなく、いかにもうらゝかな眺めを持つ。雪漸く消えて久し振に田圃の地面が見えだすころに咲くといふのでこの異名があるのださうだが、いかにもそれらしい心を語る花である。矢張り小石川の植物園の温室から向うに入つた樟の木の蔭、立ち竝んだくわりんの木の間にまじつて一本咲いてゐた姿を思ひ出す。
枝垂れて咲く花の中では枝垂櫻も私の好きな一つである。駿河灣の奧、靜浦から江の浦に續く入江の岸に三津といふ漁村があり、其處の海に臨んだ高みに何とかいふ古い寺がある。その門のところに相對して立つた二本の巨大な枝垂櫻がある。五六年前に見附けてから毎年私は見に行つた。昨年であつた、二抱へ三抱への大きな木のめぐりにこまかに垂れ下つた枝のしげみにいつもはしつとりと咲き匂つてゐる筈のうす紅いろの花が、その時に限つて甚だ少く、妙にさびしい氣がした。が、そのことを其處の僧に言ふと、僧は苦笑しながら、今年はどうしたのかこの裏山から奧にかけて鷽の鳥が誠に多く、みな彼等に花の蕾をたべられてしまひましたといふ。へヱえ、鷽は櫻の蕾をたべますかと訊くと、えゝもう大好物ですとのことであつた。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
青空文庫作成ファイル:
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山上の宿院に着いた時はもう黄昏近かつた。御堂の方へ參詣してからとも思うたが、何しろ私は疲れてゐた。「天台宗講中宿泊所」「一般參詣者宿泊所」といふ風の大きな木の札の懸つてゐるその冠木門を見ると、もう脚が動かなかつた。
門を入るとツイ眼の前に白い花がこんもりと咲き枝垂れてゐた。見るともなく見れば、思ひもかけぬ幾本かの櫻の花である。五月の十八日だといふに、と思ふと、急に山の深いところに來てゐるのを感じた。飛石を傳つて、苔の青い庭を玄關まで行つたが、大きな建物には殆んど人の氣も無く、二三度訪うても返事は聞かれなかつた。途方に暮れてぼんやりと佇んでゐると、何やら鳥の啼くのが聞える。靜かな、寂しいその聲は曾つて何處かで聞いたことのある鳥である。しばらく耳を澄ましてゐるうちに筒鳥といふ鳥であることを思ひ出した。思ひがけぬ友だちにでも出會つた樣に、急に私の胸はときめいて來た。そして四邊を見𢌞すと何處もみな鬱蒼たる杉の林で、その夕闇のなかからこの筒拔けた樣な寂しい聲は次から次と相次いで聞えて來てゐるのである。
坂なりに建てられたこの宿院のずつと下の方に煙の上つてゐるのを見た。どうやら人の居る氣勢もする。私は玄關を離れてそちらへ急いだ。あけ放たれた入口の敷居を跨ぐと、中は廣大な土間で、老婆が一人、竈の前で眞赤な火を焚いてゐる。私はいきなり聲をかけてその老婆の側に寄りながら、五六日厄介になりたいがと言ひ込んだ。驚いた老婆はさも胡亂臭さうに私を見詰めてゐたが、此頃こちらでは一泊以上の滯在はお斷りすることになつてゐるからといふ素氣もない挨拶である。
私は撲たれた樣に驚いた。そして一寸には二の句がつげなかつた。初めこの比叡山に登つて來たのは參詣のためでなく、見物でもなく、或る急ぎの仕事を背負つて來たのであつた。自分のやつてゐる歌の雜誌の編輯を今月は旅さきで濟ませねばならぬ事になり、東京から送つて來たその原稿全部をば三四日前既に京都で受取つてゐたのである。そして急いで京都でそれを片附けるつもりであつたが、久しぶりに行つた其處では同志の往來が繁くて、なか〳〵ゆつくりそんな事に向つてゐるひまが無かつた。印刷所に𢌞さねばならぬ日限は次第に迫つて來るし、困つた果てに思ひついたのはこの山の上であつた。それは可からう、其處には宿院といふのがあつて行けば誰でも泊めて呉れるし、幾日でも滯在は隨意だし、と幾度びか其處に行つた經驗のある或る友人も私のその計畫に贊成して呉れたので早速私は重い原稿を提げて登つて來たのであつた。京都から大津へ、大津から汽船で琵琶湖を横切つて坂本へ、坂本から案外に嶮しい坂に驚きながらも久しぶりにさうした山の中に寢起きする事を樂しみながら、漸く斯うして辿り着いて來たのである。
さうして斯ういふ思ひもかけぬ返事を聞いたので、私はまつたくぼんやりしてしまつた。そして尚ほ押し返へして二三度頼んでみた。老婆の態度はます〳〵冷たくて、まご〳〵すればそのまま追ひ出しも兼ねまじき風である。終に私も諦めた。では一晩だけ泊めて下さいと言ひ棄てながら下駄を脱いだ。長くはさうして立つてゐられぬ位ゐ、私の脚は痛んでゐた。
通された部屋はもう薄暗かつた。投げ出された樣に其處に突き坐つてゐると、廣い屋内の何處からか微かな讀經の聲が聞ゆる。聞くともなく耳を傾けてゐるとまた例の鳥の啼くのが聞えて來た。山鳩の啼くよりは大きく、梟よりは更に寂び、初めもなく終りもないその聲に耳を澄ましてゐると、もう先程の疳癪も失望もいつか知ら消え失せて、胸はたゞ言ひ樣のないさびしさものなつかしさで一杯になつて來る。私は立ち上つて窓をあけた。少しの庭を距てて、眼の及ぶ限り一面の杉である。戸外はまだ明るかつた。ぼんやりと其處らを見𢌞してゐると、ふと大きな杉の間に遠く輝いてゐるものを見出した。琵琶湖だナ、と直ぐ思ひついた。
讀經は何時か終つたが、筒鳥は尚ほ頻りに啼く。それに混つて何だか名も知らぬ小鳥らしいのの啼くのも聞えて居る。窓に倚りかゝりながら、私はいよ〳〵耐へ難いさびしさを覺えて來た。そして、端なく京都の友人の言つてゐた言葉を思ひ出して、そそくさと部屋を出た。
案の如くその宿院から石段を一つ登れば一軒の茶店があつた。其處で私は二合入の酒壜を求めながら急いで部屋へ歸つて來た。出來るなら飯の時に飮み度いが、今通りすがりに見れば食堂といふ札の懸つてゐる大きな部屋があつた。飯は多分其處で大勢と一緒に喰べなくてはなるまいし、ことに寺院附屬のこの宿院で公然と酒を飮むのも惡からうと、壜のまま口をつけやうとしてゐるところへ、薄暗い窓のそとからひよつこり顏を出した者がある。十四五歳かと思はれる小柄の小僧である。
「酒買うて來て上げやうか。」
「酒……? 飮んでもいいのかい?」
「此處で飮めば解りアせんがナ。」
「さうか、では買つて來て呉れ、二合壜一本幾らだい?」
「三十三錢。」
それを聞きながらこの小僧奴一錢だけごまかすな、と思つた。たつた今三十二錢で買つて來たばかりなのだ。
「さうか、それ三十三錢、それからこれをお前に上げるよ。」
と、言ひながら白銅一つを投り出してやつた。
犬の樣に闇のなかに飛んで行つたが、直ぐまた裏庭から歸つて來て窓ごしにその壜をさし出した。
「燗をして來てあげやうか。」
「いや、これで結構だ。」
彼はそのまま窓に手をかけて立つてゐたが、
「酒好きさうな人やと思うてゐた。」
と言ひながら行つてしまうた。
苦笑しい〳〵私は手早くその冷たいのを一口飮み下した。二口三口と續けて行くうちに、次第に人心地がついて來た。窓の前の庭も今は全く暗く、遠くの峰に幾らか明るみが殘つてゐるが、麓の湖はもう見えない。筒鳥の聲もいまは斷えた。部屋はまだ闇のままである。なるやうになれ、と投げ出した心の前には却つてこの闇も親しい樣に思ひなされてゐたが、やがて廊下に足音が聞えて薄赤い洋燈を持つて入つて來た。先刻の小僧である。思つたより更に小柄で、實に險しい顏をして居る。
翌朝は深い曇りであつた。窓もあけられぬ位ゐ霧がこめて、庭に出てみると雨だか木の雫だか頻りに冷たく顏に當る。
未練が出て今一度老婆に滯在のことを頼んでみたが生返事で一向埓があかず、幾らか包んでやれば必ず效能があつたのだと、あとで合點が行つたが最初氣がつかなかつた。ことに朝飯の知らせに來た例の小僧が、滯在は出來ぬが今日山を下るのなら早う來て飯を食ひなされ、と言つたのに業を煮やし、早速引き上げることに決心して、早速其處を飛び出した。そして、一應山内の重なところだけでも見て來ようと獨りぶらぶらと山みちを歩き出した。まだ朝が早いので一山の本堂とも云ふべき根本中堂といふ大きな御堂の扉もあいて居らず、行き逢ふ人もなく、心細く細かな徑を歩いて居ると次第に烈しく杉の梢から雫が落ちて來る。種々の期待に裏切らるる事に此頃では私も馴れて來た。あれほど樂しんで來たこの山も、斯んな有樣で早々引き上げねばならぬのかと思ふと實に馬鹿々々しくてならぬのだが、その下からまた直ぐ次の計畫を考へるだけの餘裕も出來てゐた。今日この山を降りて、何處か湖畔の靜かなところを探し、其處で例の仕事を片附けようと思ひついてゐたのである。
何とも言へぬ深い感じのする山である。その日は四方を霧が罩めてゐたせゐか、特にその樣に思はれた。木立の梢には折々風が立つらしく、急にばら〳〵と大きい雫が散亂して、見上ぐれば眞白な雲か霧か颯々と走り續いてゐる。梢ばかりでなく、歩いてゐる身近にも茂つた青い木や草が頻りに搖れ靡いて、立ち止つて眺めて居れば何だか恐ろしい樣な思ひも湧く。
根本中堂から十三丁とかある樣に道標に記された淨土院を訪はうと私は歩いてゐた。淨土院は當山の開祖傳教大師の遺骨を納めた寺で、この大正十年が同大師の一千一百年忌に當るのだ相だ。一時は三千坊とか稱へて山内全部に寺院が建ち並んでゐた相だが、今では寺の數三十ほど、そのうち人の住んでゐるのは僅か十六七だらうといふことである。山の廣さ五里四方と云ひ、到る處杉檜が空を掩うて茂つてゐる。ちやうど通りかかつた徑が峠みた樣になつてゐる處に一軒の小さな茶店があつた。動きやまぬ霧はその古びた軒にも流れてゐて、覗いてみれば小屋の中で一人の老爺が頻りと火を焚いてゐる。その赤い色がいかにも可懷しく、ふら〳〵と私は立ち寄つた。思ひがけぬ時刻の客に老爺は驚いて小屋から出て來た。髮も頬鬚も殆んど白くなつた頑丈な大男で、一口二口話し合つてゐるうちにいかにも人のいい老爺である事を私は感じた。そして言ふともなく昨夜からの愚痴を言つて、何處か爺さんの知つてゐる寺で、五六日泊めて呉れる樣なところはあるまいかと訊いてみた。暫く考へてゐたが、あります、一つ行つて聞いて見ませう、だが今起きたばかりで、それに御覽の通り私一人しかゐないのでこれから直ぐ出かけるといふわけに行かぬ、追つ附け娘たちが麓から登つて來るから、そしたら早速行つて聞合せませう、まア旦那はそれまで其處らに御參詣をなさつてゐたらいいだらうといふ思ひもかけぬ深切な話である。私は喜んだ。それが出來たらどんなに仕合せだか解らない、是非一つ骨折つて呉れる樣にと頼み込んで、サテ改めて小屋の中を見𢌞すと駄菓子に夏蜜柑煙草などが一通り店さきに並べてあつて、奧には土間の側に二疊か三疊くらゐの疊が敷いてあるばかりだ。お爺さんはいつも一人きり此處に居るのかと訊くと、夜は年中一人だが、晝になると女房と娘とが麓から登つて來るのだといひながら、ほんの隱居仕事に斯んな事をしてゐるが、馴れてしまへば結局この方が氣樂でいいと笑つてゐる。
小屋の背後は直ぐ深い大きな溪で、いつの間にか此處らに薄らいだ霧は、その溪一杯に密雲となつて眞白に流れ込んでゐる。空にも幾らか青いところが見えて來た。では一𢌞り𢌞つて來るから、何卒お頼みすると言ひ置いて私は茶店を出た。雀一羽降りてゐぬ、靜かな淨土院の庭には泉水に水が吹き上げて、その側に石楠木が美しく咲いてゐた。其處を出て釋迦堂、五輪塔と五町三町おきに何か由緒のあるらしい寺から寺をぶら〳〵と訪ね𢌞つて茶店に歸つて來たが、中學生らしい大勢の客のみで、まだその娘たちは來てゐなかつた。それから私は更にこの比叡の絶頂である四明嶽に登つて行つた。その昔平將門が此處に登つて京都を下瞰しながら例の大野望を懷いたと稱せらるる處で、まことに四空蒼茫、丹波路から江州その他へ延びて行つた山脈が限りもなく曇つた空の下に浪を打つて續いて居る。風が寒くて、とても高い處には立つて居られない。少し頂上から降りて、風にねぢけたばら〳〵の松原に久しい間私は寢ころんでゐた。一羽の鶯が其處らに巣でもあると見えて、遠くへは暫しも行かず、松の葉かげに斷えず囀り續けてゐた。
其處を降りて再び茶店に歸つて行くと私の顏を見た爺さんは、いま娘が來たので早速寺へ問合せにやつた、多分大丈夫と思ふが、兎に角暫く待つてゐて呉れといふ。幸ひ二三本酒壜の並んでゐるのを見たので、それを取つて冷のままちび〳〵飮んでゐると、二十歳位ゐの色の小黒い、愛くるしい顏をした娘が下の溪から上つて來た。それと二三語何か話し合ふと老爺は直ぐ齒の無い顏に一杯に笑みを含んで私の方に振向いた。私もそれを見て思はず知らず笑ひ出した。
話は都合よく運んだのであつた。が、何しろその寺はこの山の中でも一番荒れた寺で、住職もあるにはあるのだが平常は其處にゐず、麓の寺とかけもちで何か事のある時のほかはこちらへは登つて來ない、ただ一人の寺男の爺さんがゐるばかりで、お宿をすると云つてもその寺男の喰べるものを一緒に喰べて貰はなくてはならぬがそれで我慢が出來るか、とまた心配相に爺さんは私に問ひかけた。却つてその方が私も望むところだ、何しろ望みが叶つて嬉しい、お爺さんも一杯やらないか、と冷酒の茶椀をさすと、いかにも嬉しさうに寄つて來て受取つて押し頂く。お爺さんも好きらしいネ、と笑へば、これが樂しみでこそこんな山の中にもをられるのだといふ。幸ひ客も無かつたので二人してちびちびと飮み始めた。その途中にふつと氣のついた樣に、若しこれから旦那がその寺でお酒をお上りになる樣だつたら一杯でいゝから寺男の爺に振舞つて呉れ、これはまた私以上の好きで、もとはこの麓で立派な身代だつたのだがみなそれを飮んでしまひ、今では女房も子供も何一つない身となつてその山寺に這入つてゐる程の男だから、としみ〴〵した調子で爺さんが言ひ出した。宜しいとも、私も毎日これが無くては過せない男だが、それでは丁度いい相棒が出來て結構だなどと話し合つてゐるところへ、溪の方から頭を丸く剃つた、眼や口のあたりに何處か拔けた處のある、大きな老爺がのそ〳〵と登つて來た。ア、來た〳〵と云ひながら茶店の老爺は立ち上つて待ち受けながら、今度はまた世話になるな、といふと、何も出來ぬが客人が困つてなさる相だから、と言ひ〳〵側にやつて來た。私も立ち上つて禮をいふと、向うはただ默つて眼をぱち〳〵させながら頭を下げてゐる。それを見ると娘はさも〳〵可笑しいといふ樣に、顏を掩うて笑ひ出した。茶店の爺さんも笑ひながら、旦那、この爺さんはまことに耳が遠いのでそんな聲ではなか〳〵通じないといふ。自分の聲は人並外れて高調子なのだが、これで聞えないとすれば全然聾同然だ、この爺さんとその荒寺に五六日を過すことか、と私も今更ながら改めて眼の前にぼんやり立つてゐる大きな、皺だらけの人を見守らざるを得なかつた。
やがてその爺さんに案内せられて私は溪の方へ降りて行つた。今までの處より杉はいよ〳〵古く、徑は段々細くなつた。そして、なか〳〵遠い。隨分遠いのだなといふと、なアに今の茶店から七町しか無いといふ。近所に他にお寺でもあるのかと聞くと、釋迦堂が一番近いが其處には人がゐないのだから先づ一軒だちの樣なものだといふ。
なるほど四方を深い木立に距てられた一軒だちの寺であつた。外見は如何にも壯大な堂宇だが、中に入つて見るとその荒れてゐるのが著しく眼に付く。この部屋を兎に角掃除しておいたから、と言はれて或る部屋に入つて行くと疊はじめ〳〵と足に觸れて、眞中の圍爐裡には火が山の樣に熾つて居た。ぼんやりと坐つてゐると、何やらはら〳〵と烈しく聞えて來た。縁側に出てみると、いつの間にかまた眞白に霧が罩めて大粒の雨が降り出してゐた。 | 底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
入力:kamille
校正:小林繁雄
2004年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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私は五六歳のころから齒を病んだ。そして十歳の春、私の村にない高等小學校に入るために、村から十里離れた或る城下町の父の知人の家に預けられ、其處でも一二年續いて齒痛のために苦しめられた。
預けられた二三軒先の隣に鈴木の健ちやんといふ仲よしの同級生がゐた。子供の眼にもつく美少年であつた。その健ちやんの阿母さんが非常に優しい人で、それこそ子供の眼にもつく美しい人であつた。健ちやんに二人の妹があつた。その人たちが七つに九つといつた年ごろであつたとおもふ。或る日、健ちやんの阿母さんは私の齒痛を見かねて、その三人の子供と私とを連れて齒痛どめの神さまとして知られてゐる附近の村の水神さまにお詣りに行つてくれた。
水神さまは村の人家からずつと離れた溪川の岸に在つた。岩の斷崖の一部を掘り窪めたやうなところに小さなお宮が建てゝあり、その眞下は底も見えぬ清らかな淵となつてゐた。お詣りが濟むと我々はお宮の前の狹い狹い岩の窪みに坐つてお辨當を開いた。
その日もしく〳〵と私は齒が痛んでゐた。そしてともすると涙を落したい樣な氣持になつてゐた。膝を押し並べた三人の美しい友だちとその阿母さんとに泣き顏を見られるがいやさに、お辨當をたべわづらひながら、ふと眼をそらすとお宮の横から淵の上にかけて眞盛りのうすむらさきの藤の花が岩を傳うて咲き枝垂れてゐるのであつた。
藤といふと、いつもその日の事を思ひ出す。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月3日公開
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002201",
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自分の故郷は日向國の山奧である。恐しく山岳の重疊した峽間に、紐のやうな細い溪が深く流れて、溪に沿うてほんの僅かばかりの平地がある。その平地の其處此處に二軒三軒とあはれな人家が散在して、木がくれにかすかな煙をあげて居る。自分の生れた家もその中に混つて居るので、白髮ばかりのわが老父母はいまだに健在である。
斯く山深く人煙また極めて疎なるに係らず、わが生れた村の歴史は可なりに古いらしい。矢の根石や曲玉管玉等を採集に來る地方の學者――中學の教師などが旅籠屋の無いまゝによく自分の家に泊つては、そんな話をして聞かせた。平家の殘黨のかくれ棲んだといふ説も或は眞に近い、よく檢べたら必ずその子孫が存在して居るに相違ないとも言つた。斯かる話は斯かる峽間の山村に生れたわが少年の水々しい心を、いやに深く刺戟したものであつた。自分の家は村内一二の舊家を以て自任し、太刀もあり槍もあり、櫃の中には縅の腐れた鎧もある。
自分の八歳九歳のころ、村に一軒の小學校があつた。とある小山の麓に僅かに倒れ殘つた荒屋が即ちそれで、茅葺の屋根は剥がれ、壁は壞れて、普通の住宅であつたのを無理に教場らしく間に合せたため、室内には不細工千萬に古柱が幾本も突立つてゐた。先生はこの近くの或る藩士の零落した老人で、自分の父が呼寄せて、郡長の前などをも具合よく繕つて永くその村に勤めさせてゐたものであつた。恐しい酒呑みで頑固屋で、癇癪持ちで、そして極めての好人物であつた。自分は奇妙にこの老人から可愛がられ、清書がよく出來た本がよく讀めたと云つては、ありもせぬ小道具の中などから子供の好きさうなものを選り出して惜しげもなく自分に呉れてゐた。飮仲間の父に對つてはいつも自分のことを賞めそやして、貴君は少し何だが、御子息はどうして中々のものだ、末恐しい俊童だ、精一杯念入にお育てなさるがいゝ、などと口を極めて煽てるので、人の好い父は全くその氣になつてしまひ、いよいよ甘く自分を育てた。
學校に於ける大立者は常に自分であつた。自身の級の首席なるは勿論のこと、郡長郡視學の來た時などの送迎や挨拶、祝日の祝詞讀みなども上級の者をさしおいて、幼少の矮小の自分が獨りで勤めてゐた。で、自づと其處等に嫉妬猜疑の徒が集り生ぜざるを得ない。そしてその組の長者と推薦せられたのは、矢野初太郎といふ一少年であつた。
初太郎は自分に二歳の年長、級も二級うへであつた。その父は博勞で、博徒で、そして近郷の顏役みたやうなことをも爲てゐた。初太郎はその父とは打つて變つた靜かな順良な少年で、學問も誠によく出來た。田舍者に似合はぬ色の白い、一寸見には女の子のやうで身體もあまり強くなかつた。以前は自分もよく彼に馴染んで、無二の親友であつたのだが今云ふ如く自分の反對黨のために推されて、その旗頭の地位に立つに及び小膽者の自分は飜然として彼を忌み憎み、ひそかに罵詈中傷の言辭を送るに忙しかつた。
それやこれやで、初太郎の自分に對する感情も以前の通りであることは出來難くなり、自然自分を白眼視するに至つた。なほそれで止らず、この感情はわが一家と彼の一家との間に關係するに至つた。その頃、博奕で儲けあげて村内屈指の分限であつた初太郎の父は兼ねて自分の父などが、常々「舊家」といふを持出して「なんの博勞風情が!」といふを振𢌞すのが癪に障つて耐らなかつた所であつたので、この一件が持上るに及び、忽ち本氣になつて力み出した。そして萬事につけ敵愾心を揷むに至つた。小さな村のことではあり、このことは延いて一村内の平和にも關係を及ぼさうかといふ勢になつた。で、當の兩個は全く夢中になつて啀み合はざるを得ない。自分の如きは晝夜戰爭にでも出てゐる氣持で勉強した。殆んどもう何年級などといふことには頓着無く、教科書ばかりでは飽足らず、「少國民」「幼年雜誌」などといふ雜誌をも取寄せて耽讀し、つゆほどの知識をも見逃すまじと備へた。
所が初太郎は突如として、その村の小學校を去つて(彼はその頃、尋常科の補習部にゐた)縣廳所在地の宮崎町の高等小學に轉じた。自分との啀み合ひが無かつたのならば當然彼は土地の尋常科補習部を卒業したままで、靜かにその山村生活に入るべきであつたのである。
取殘された自分は、さらばといふので舊藩主の城下たる延岡町の高等小學に進んだ。兩個の少年は遠く三十里の平原を距てゝ尚ほ且つ力み合つてゐたのである。高等小學二年を修業して自分が其土地の中學校へ入つたころは、初太郎は既に中學の二年級であつた。彼の勉強はその地方の評判に上る位ゐになり、勉強狂人と人は評し合つてゐたといふ。勿論自分も勉強した。一時は級の首席をも占領し、可なりに勉強家といふ評判をも取つてゐた。けれどもさういふ時期は極めて短かかつた。中學の二年級の終りの頃からででもあつたらう、嚴格を極めてゐた寄宿舍内の自分の机の抽斗の奧には、歌集「みだれ髮」がかいひそみ、縁の下の乾いた土の中には他人の知らぬ「一葉全集」が埋められてあるやうになつたのは。机に對ふことも極めて少なくなり、多くの時間は學校の裏山の木の蔭や、程ちかい海のほとりの砂原で費されるやうになつて了つた。撃劍や野球の稽古に常に小鳥の如く輝いてゐた自分の瞳には日に増し故の無い一種の沈悒を湛へて來た。珍しく机に對つても茫然と考へ込むことが多かつた。
いつの年であつたか、自分は久しく忘れてゐた初太郎の名を新聞で見た。彼が初めから終りまで首席で通して目出たく今囘卒業したことを賞讚した報道で、次いで今後直ちに彼は高等學校の醫學部に進むべしと書き添へてあつた。丁度その年のこと、夏になつて自分は休暇で村に歸省した。父母はこの一二年前よりの自分の成績の惡くなつたことを口を極めて叱責し、聲をひそめて、初太郎を見ろと言つた。それでもすぐまた續けて、父は微かな冷笑を眼に浮べて、然し、幾ら勉強が出來たところで、あの身體ぢや既う駄目だ、と言ひ足した。母も續いて、それにあゝ𢌞りがわるくては傳造も息子をば如何することも出來ないだらう、とこれも口の邊で聲を出さずに笑つた。自分は心の中で、初太郎が熊本で高等學校の入學試驗を受けに行つてゐて勉強過度の結果急に血を咯いて、其父の傳造が迎ひに行つてからもう一ヶ月半にもなるといふ話を思ひ起してゐた。なほ聞けば、この一年程以前からあの傳造の賽の目の出が急にわるくなつて、瞬く間に財産の大半をば減つてしまつたとかいふことで、どうせ泡のやうに出來たものだから泡のやうに無くなつて行くのも無理は無からうと、母は父を見遣つて微笑した。その横顏を見てゐて自分は少なからず淺間しく且つ面憎く思はざるを得なかつた。我等自身の家でもその年は血の出るやうな三度目の山賣りを斷行して、辛くも焦眉の急の借財を返した當座では無かつたか。先祖代々が命より大事にして固守し來つた山林田畑を自分等の代になつて賣拂つて、そして「舊家」を誇るといふは少々面の皮が厚過ぎはしないだらうか。斯く思ふと自分はその座の酒さへ耐へがたく不味かつた。
その夏は暮れ、翌年の夏、自分はまた歸村した。初太郎の肺病はやゝ輕くなつてゐて、その頃は折々溪河へ魚釣などにも出て來ることがあつた。或日のこと、自分は我家のすぐ下の瀧のやうになつて居る長い瀬のほとりの榎の蔭で何か讀書してゐた。日は眞晝、眼前の瀬は日光を受けて銀色に光り、峽間の風は極めて清々しく吹き渡り、細かな榎の枝葉は斷えず青やかな響を立てゝそよめいてゐた。雲も無い空は峯から峯の輪郭を極めて明瞭に印して、誠に強烈な「夏の靜けさ」に滿ちた日であつた。何を讀んでゐたのであらう、定かには覺えて居らぬ。とにかくしんみりと身も心をも打ち込んで、靜かな感興を放肆にしてゐたに相違ない。所が不圖何ごころなく眼を書物から外すと、すぐ自分の居る對岸に一個の男が佇んで釣竿を動かして居る。注意するまでもなく自分は直ちに彼の初太郎であることを知つた。
なるほど痩せた。特に濡れた白襦袢一枚のぴつたりと身に密着いて、殆んど骨ばかりの人間が岩上に佇んで居るとしか見えない。多く室内にゐて珍しく出かけて來たのであらう、日に炒りつけられた麥藁帽子の蔭の彼の顏は痛々しく蒼白く、微かに紅みが潮してゐるのがなか〳〵に哀れである。彼の特色の大きい黒い瞳ばかりはさして昔に變らず、すが〳〵しく釣竿の一端に注がれてある。重さうに彼は時々兩手でその竿を動かす。竿が動き、糸が動き、糸のさきにつながれて居る囮の鮎まで銀色の水の中から影を表すことがある。いま彼のあはれな全生命は懸つてその竿の一端にあるのだ。暫く見つめて居るうち、一尾の魚が彼の鉤にかゝつたらしい。彼は忽ち姿勢を頽して、腰から小さな手網を拔きとり、竿を撓ませて身近く魚を引寄せ、終に首尾よく網の中に收めて了つた。そして彼はそれを靜かに窺き込んで居る。噫、その無心の顏、自分は自分の瞼の急に重くなるを感じた。
一尾を釣り得て彼は少なからず安堵したらしく、竿をば石の間に突き立てゝおいて、岩の上に蹲踞んだ。兩手で腭を支へて茫然と光る瀬の水を凝視して居る。自分との間は十間と距つてゐない。けれども榎の根もとの岩蔭の自分は彼の眼には入り難い。餘程起き出でて彼を呼ばうかとも思つたが、彼の姿を見てゐては何とも言へぬ一種の壓迫を感じて急かに聲をも出しがたい。自分は終に默つてゐた。やがて彼はまた立ち上つた。少し所を變へて再び竿を動かしてゐる所へ、その背後の方からまた一人竿を持つて人が來た。傳造である。彼等父子は顏を見合つて莞爾した。そして無言のまゝ竿を並べて瀬に對つた。自分は久しいこと巖蔭の冷たいところへ寢てゐなくてはならなかつた。
その翌年の夏、自分がまた村に歸つた時には初太郎は死んでゐた。或日わざ〳〵前年彼を見た榎の蔭に行つてみた。同じく晴れた日で、風は冴え瀬は光つてゐたけれども、既にその時は如何に力めても、其處の岩上に佇みし彼、曾て自分同樣に此所等に生息してゐた彼、及び現に空冥界を異にしてゐる彼を切實に思ひ浮べることは出來なかつた。彼は死んだ、彼は死んだと徒らに思つたのみで。
不幸は靜かな湖面に石を投げたやうなものであらう、一點から起つて次第に四邊に同じ波紋を擴げて行く。初太郎の死後幾日ならずして彼の父は博奕のことから仲間を傷けて、牢屋に送られたのみならずその入獄の際には彼は烈しい眼病をわづらつてゐたとのことである。これらの話を話す時は、流石にわが母も笑はなかつた。自分の家でも父の手を出してゐた二三の鑛山事業がいよいよ失敗と定まつたので、また近々に大決斷で殘部の山や畑を賣拂はねばならぬことになつてゐたのである。萬事につけ父も母ももう人の惡口を言ふたり笑つたりしてゐる餘裕などはかりそめにも失くなつてゐたのだ。自然無言勝ちになつた父母の顏には汚い白髮が、けば〳〵しく眼に立つて來た。
その翌春、自分は中學を卒業すると同時にひそかに郷國を逃げ出して東京へ出て、或る私立學校の文學科に入つて了つた。卒業前、父はわざ〳〵村から自分を中學の寄宿舍まで訪ねて來て、いつもに似ず悄然と、何卒この場合精紳を堅固にして迷はぬやうに心がけて呉れと寧ろ哀訴するやうに自分に注意した。迷はぬやうにとは、父はかねて自分を直實な醫者にするつもりであり、自分は文學をやると言ひ張つて、久しく言ひ合つてゐたのであつたが、終に自分は内心策をかまへて、表面だけ父の意に從ふやうに曾つて誓つたことがあつたので、何卒その誓ひを完うして呉れといふのである。けれども自分は終にこの老いたる父に反いた。四月六日の夜、細島港を出帆する汽船某丸の甲板に佇んで、離れゆく日向の土地を眺めやつた時、自分は欄を掴んで、父の顏を思ひやつた。
三年目に自分は重い病氣にかゝり父母から招かれて國へ歸つた。二階のお寺のやうな廣い冷たい座敷に寢て居ると、溪を越して小高く圓い丘に眞青に麻の茂つて居るのが見える。其丘は二三年前まで松や檜の鬱蒼と茂つてゐた所である。その森は父より三代目以前の人とかゞ植ゑ始めたものだと傳へられてゐた。森をめぐつて深い溪がある。丁度我家から見れば淵は青く瀬は白く、ずうつと森を取卷いてゐるやうに見えて、その邊一帶が大きな自然のまゝの庭園ともなつて居るし、朝夕斯う見馴れては他の處と違つてどうしても手離しがたい、こればかりはどうとかして賣らずに置きませうと家中皆が話し合つて居たその森もとうとう斯んな青い畑になつて了つた。よく見れば麻畑の隅の方に粟らしいものが作つてある。もうよく實つてゐると見えて、うす黄に色づいたその畑中に男が一人女が二人、眞晝の日光を浴びてせつせとそれを刈つて居る。唄もうたはず、鎌のみが時々ぴか〳〵と光る。
或日のこと、母が幼い子供を抱いて笑ひながら二階に上つて來た。不思議に思つて見て居ると、母は自分の枕もとに坐つて、その子を自分の方に押し向けて、なほ笑つて居る。田舍者の産んだらしくもない可愛らしい男の子だ。
『何處の子です?』
と訊くと、
『それ、あの初さんのだよ。』
といふ。自分は驚いた。いつの間に初太郎は斯んなのを産へておいたのであらう。聞けば彼の病氣の烈しかつた時一生懸命になつて彼を看護した彼の家の下女が是を産んだのだ相だ。彼女は初めはどうしても誰の子であると言はなかつたさうだが、幾月も經つてからとうとう打明けて了つたといふ。何故かくしておいたかと訊いたら、肺病人の子と知れたらとても眞人間扱ひはせられないだらうと思つたからだと答へるので、それなら何故ずつと隱し通さなかつたと重ねて訊くと、日が經つに從つて段々死んだ人に似て來るからだと言つた相だ。初太郎は自身の子を見ずに死に、勿論子は永久にその父を知らない。自分は急に逢ひたくなつて用事に來て居るといふその子の母を見に下に降りて行つた。色こそ可なりに白けれ、頬骨の太い眉の太い鼻の小さな唇の厚い、夥しく醜い女である。けれども心はいかにも好いらしく、一寸見たゞけでも自分もこの女を可愛く思つた。今は半分盲目のその子の祖父に仕へて羨しいほど仲睦じく暮して居るといふ。自分はその子を抱いてみた。割合ませた口を利く。なるほど見れば見るほど氣味のわるいまで亡き友に酷似して居る。自分の心の奧にはあり〳〵と故人の寂しい面影が映つてゐた。
自分の病氣は二ヶ月あまりで辛くも快くなつた。それを待つて暇を告げて自分は郷里を去つた。いよ〳〵明日出立するといふ前の晩、兩人の親と一人の子とは、臺所に近い小座敷で向き合つて他人入らずの酒を酌んだ。そのころ、山の深い所だけにこゝらの天地には既う秋が立つてゐた。言葉數も少なく、杯も一向に逸まぬ。座の一方の洋燈には冷やかに風が搖いで居る。此ごろでは少し飮めばすぐに醉ふやうになつてゐる父が、その夜は更に醉はない。
『お前、一體そのお前の學校を卒業すると何になれるのだとか云つたな?』
暫く何か考へてゐて彼は斯う問ひかけた。
『左樣ですね、まア新聞記者とか中學校の教師とかでせう。』
『すると何かい、月給でいふとどの位ゐ貰へるのかい?』
自分は窮した。まさかD氏が何新聞で二十二圓、S氏が何中學で二十五圓貰つて居ると、自分の先輩の先例を引くわけにも行かなかつた。自分の默つて居るのをじろ〳〵と見てゐて、
『せめて五十圓も取れるのかい?』
『え、まア確かにとは言へませんがね……それに何です、私はそんな者にならうとは思つてゐませんのですから……』
『そんな者つて……では一體何になるのや?』
『文學……純文學を目下研究してゐますので……』
とは言ひかけたが、是にも窮つた。如何してもこの髮の白い人に向つて、私は詩人になるのです、小説家になるのです、とは言ひ得なかつた。
母も常に不安の眼をおど〳〵させて自分等の話を聽いてゐたが、自分がいよ〳〵答へに困つて來るのを見ると、
『とにかく何かになつて呉れるのだらうね、お前のことだからまさかのこともあるまいと思つて、まア安心はして待つてゐるよ。家もお前、毎年々々斯んな風になつてゆくのでね、阿父さんも急に老けたし、今まで通りの働きも無くなつたしね、まアほんとにお前、夜も晝も心配の絶えたといふことは無いんだから、たゞもうお前一人が頼みでね……』
母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬なくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。膝を兩手で抱いて、身を反して開け放した窓さきの樹木に日光の流れてゐるのを拭ひもせぬ眼で見つめて居ると、母もいつしか語を止めてゐた。
自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を渡舟で渡ると、道はやゝ長いこと上り坂になつて居る。その坂の中ほどで自分は久しぶりに傳造に出會つた。黒い眼鏡をかけて、酷くやつれてゐたけれど、自分にはすぐ解つた。一も二もなく自分は歩み寄つて言葉をかけた。彼はもう誰だか少しも覺えが無い。見えない眼を切りに働かせて見定めようとする。
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえと言ひながら懷中へ兩手を入れてやがて紙にひねつて、ほんの草鞋錢だが持つて行つて呉れとさし出した。自分はうれしく頂いて袂に入れて、何かまだ話し出さうとすると、彼はすぐ一人でお辭儀をしてとぼ〳〵と坂下の方に降りて行つた。
自分はその次の驛から馬車に乘つた。思ひ出して袂から先刻のひねりを取出して見ると、五十錢銀貨が三枚包んであつた。 | 底本:「若山牧水全集 第九卷」雄鶏社
1958(昭和33)年12月30日発行
初出:「新潮」
1909(明治42)年6月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年1月20日作成
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沼津から富士の五湖を𢌞つて富士川を渡り身延に登り、その奧の院七面山から山づたひに駿河路に越え、梅ヶ島といふ人の知らない山奧の温泉に浸つて見るも面白からうし、其處から再び東海道線に出て鷲津驛から濱名湖を横ぎり、名のみは久しく聞いてゐる奧山半僧坊に詣で、地圖で見れば其處より四五里の距離に在るらしい三河新城町に𢌞つて其處の實家に病臥してゐるK――君を見舞ひ、なほ其處から遠くない鳳來山に登り、山中に在るといふ古寺に泊めて貰つて古來その山の評判になつて居る佛法僧鳥を聽いて來よう、イヤ、佛法僧に限らず、さうして歴巡る山から山に啼いてゐるであらう杜鵑だの郭公だの黒つがだの、すべて若葉の頃に啼く鳥を心ゆくまで聽いて來度いとちやんと豫定をたててその空想を樂しみ始めたのは五月の初めからであつた。折惡しく用が溜つてゐて直ぐには出かけられず、急いでそれを片附けてどうでも六月の初めには發足しようときめてゐた。
ところが恰度そのころから持病の腸がわるくなつた。旅行は愚か、部屋の中を歩くのすら大儀な有樣となつた。さうして起きたり寢たりして居るうちにいつか六月は暮れてしまつた。七月に入つてやや恢復はしたものの、サテ急に草鞋を穿く勇氣はなく、且つ旅費にあてておいた金もいつの間にかなくなつてゐた。
七月七日、神經衰弱がひどくなつたと言つて勤めさきを休んで東京からM――君がやつて來た。そして私の家に三四日寢轉んでゐた。その間に話が出て、それでは二人してその計畫の最後の部である三河行だけを實行しようといふことになつた。
七月十二日午前九時沼津發、同午後二時豐橋着、其處まで新城からK――君が迎へに來てゐた。案外な健康體で、ルパシカなどを着込んでゐた。まだ然し、聲は前通りにかれてゐた。豐川線に乘換へ、豐川驛下車、稻荷樣に詣でた。此處は亡くなつた神戸の叔父が非常に信仰したところで、九州へ歸省の途中彼を訪ふごとに、何故御近所を通りながら參詣せぬと幾度も叱られたものであつた。謂はゞ偶然今日其處へ參詣して、この叔父の事が思ひ出され、その位牌に額づく思ひで、頭を垂れた。
再び豐川線に乘つて奧に向ふ。この沿線の風景は武藏の立川驛から青梅に向ふ青梅線のそれに實によく似てゐた。たゞ、車窓から見る豐川の流が多摩川より大きいごとく、こちらの方が幾分廣やかな眺めを持つかとも思はれた。
新城の町は一里にも餘らうかと思はれる古びやかな長々しい一すぢ町で、多少の傾斜を帶び、俥で見て行く兩側の店々には漸くいま灯のついた所で、なか〳〵に賑つて見えた。豐川流域の平原が次第につまつて來た奧に在る附近一帶の主都らしく、さうした位置もまた武藏の青梅によく似てゐた。
K――君の家はその長々しい町のはづれに在り、豫ねて聞いてゐた樣に酒類を商ふ古めかしい店構へであつた。鬚の眞白なその父を初め兄夫婦には初對面で、たゞ姉のつた子さんには沼津で一度逢つてゐた。名物の鮎の料理で、夜更くるまで馳走になつた。
翌日一日滯在、降りみ降らずみの雨間に出でて辨天橋といふあたりを散歩した。この邊の豐川は早や平野の川の姿を變へて溪谷となり、兩岸ともに岩床で、激しい瀬と深い淵とが相繼いで流れてゐる。橋は相迫つた斷崖の間にかけられ、なか〳〵の高さで、眞下の淵には大きな渦が卷いてゐた。淵を挾んだ上下は共に白々とした瀬となつて、上にも下にも鮎を釣る姿が一人二人と眺められた。この橋の樣子は高さから何から青梅の萬年橋に似て居り、鮎を名物とするところもまた同所と似て居る。武藏の青梅は私の好きな古びた町であつた。
夜はK――君父子に誘はれて觀月樓といふ料理屋に赴いた。座敷は南向きで嶮崖に臨み、眼下に稻田が開けて、野末の丘陵、更に遠く連山の起伏に對するあたり、成程月や星を觀るにはいい場所であらうと思はれた。惜しいかなその夜も數日來打ち續いた雨催ひの空で、低く垂れた密雲を仰ぐのみであつた。
友の老父も酒を愛する方であつた。徐ろに相酌みつつ終にまた深更まで飮んでしまつた。
七月十四日。眼が覺めるとすさまじい雨の音である。今日は鳳來山へ登らうときめてゐた日なので、一層この音が耳についた。
樫、柏、冬青、木犀などの老木の立ち込んだ中庭は狹いながらに非常に靜かであつた。ことごとしく手の入れてないまゝに苔が自然に深々とついてゐた。離室の縁に籐椅子を持出してぼんやり庭を見、雨を聞いて居るのは惡い氣持ではなかつたが、サテさうしてもゐられなかつた。M――君と兩人で出立の用意をしてゐると、家内總がかりで留めらるる。そのうちに持ち出された徳利の數が二つ三つと増してゆく間に、いつか正午近くなつてしまつた。雨は小止みもないばかりか、次第に勢を強めて來た。
漸く私は一つの折衷案を持ち出した。鳳來山登りをやめにして、今日はこれからK――君も一緒にこの溪奧に在る由案内記に書いてある湯谷温泉へ行きませう、そして其處から我等は明日山へ登り、君はこちらへ引返し給へ、若し君獨り引返すのがいやだつたら姉さんを誘はうぢやないか、と。
斯くして四人、降りしきる中を停車場へ急いで、辛く間に合つた汽車に乘つた。古戰場で聞えてゐる長篠驛あたりからの線路は峽間の溪流に沿うた。そして其處に雨と雲と青葉との作りなす景色は溪好きの私を少なからず喜ばしめた。
三四驛目で湯谷に着いた。改札口で温泉の所在を訊くと、改札口から廊下續きの建物を指して、それですといふ。成程考へたものだと思つた。湯谷ホテルと呼んでゐるこの温泉宿はこの鐵道會社の經營してゐるものであるのだ。何しろ難有かつた。この大降りに女連れではあるし、田舍道の若し遠くでもあられては眞實困るところであつたのだ。
通された二階からは溪が眞近に見下された。數日來の雨で、見ゆるかぎりが一聯の瀑布となつた形でたゞ滔々と流れ下つてゐる。この邊から上流をば豐川と言はず、板敷川と呼んで居る樣に川床全體が板を敷いた樣な岩であるため、その流はまことに清らかなものであるさうだが、今日は流石に濁つてゐた。濁つてゐるといふより、隨所に白い渦を卷き飛沫をあげて流れ下つてゐた。對岸の崖には山百合の花、萼の花など、雨に搖られながら咲きしだれてゐるのが見えた。その上に聳えた山には見ごとに若杉が植ゑ込んであつた。山の嶮しい姿と言ひ、杉の青みといひ、徂徠する雲といひ、必ず杜鵑の居さうな所に思はれたが、雨の烈しいためか終に一聲をも聞かなかつた。
温泉と云つても沸かし湯であつた。酒や料理は、會社經營の手前か、案外にいいものを出して呉れた。繪葉書四五十枚を取り寄せ知れる限りに寄せ書きをした。
七月十五日。かれこれしてゐるうちに時間がたつて、十二時幾分かの汽車に乘つた。重い曇ではあるが、珍しく雨は落ちて來なかつた。M――君と私とは長篠驛下車、寒狹川に沿うて鳳來山の方へ溯つて行つた。寒狹川もまた岩を穿つて流れてゐる溪であつた。
途中、鮎瀧といふがあつた。平常から見ごとな瀧とは聞いてゐたが、今日は雨後のせゐで凄しい水勢であつた。路を下りてそれに近づかうとすると遠く水煙が卷いて來て、思はず面を反けねばならなかつた。
行くこと二里で、麓の村門谷といふに着いた。見るからに古びはてた七八十戸の村で農家の間には煤び切つた荒目な格子で間口を𢌞らした家なども混つてゐた。山駕籠や、芝居でしか見ない普通の駕籠などの軒先に吊るされてあるのも見えた。とある一軒に寄つて郵便切手を買ひながら山上のお寺に泊めて貰へるか否かを訊ねた。上品な内儀が、泊めては貰へませうが喰べ物が誠に不自由で、とにかく今日の夕飯だけでもこの村の宿屋で召上つてからお登りになつたがいいでせうといふ。
厚意を謝して其處を出ると直ぐ一軒の宿屋があつた。これも廣重の繪などで見るべき造りの家である。其儘立ち寄らうとしたが、然し其處で夕飯をとるとすると到底今日山へ登る事をばようしないにきまつてゐる。私はいいとしてもM――君は明日はまた山を下らねばならぬ人である。それを思うて、兎にも角にも寺まで行つて見ようといふことになつた。宿屋のはづれに硯を造つてゐる一二軒の家が眼についた。この山の石で造るもので良質の硯の出來るといふ話を聞いたのを思ひ出した。
黒々と樹木のたちこんだ岩山が眼の前に聳えてゐた。妙義山の小さい形であるが、樹木の茂みが山を深く見せた。宿を外れると直ぐ杉木立の暗い中に入り、石段にかゝつた。僅に數段を登るか登らぬに早やすぐ路の傍へから啼き立つた雉子の聲に心をときめかせられた。
石段の數は人によつて多少の差はあつたが、いま途中で休んだ茶店の老爺老婆は一千八百七十七段ありますと言下に答へたのであつた。數は兎に角兩人は直ぐ勞れてしまつた。一度二度と腰をおろして休みながら登るうちに右手に一軒の寺があつた、松高院と云つた。今少し登ると醫王院といふがあり、接待茶、繪葉書ありの看板が出てゐた。其處へ寄つて茶の馳走になり繪葉書を買ひ、本堂再建の屋根瓦一枚づつの寄進につき、更に山上遙に續いてゐる石段を登り始めやうとすると、應接してゐたまだ三十歳前後の年若い僧侶が、貴下は若山といふ人ではないか、と訊く。いぶかりながらその旨を答へると、實は今日の正午頃に私の知人の某君といふが來て、昨日か今日、その人が佛法僧鳥を聽くために登つて來る筈だ、來たらばこの寺に泊めて呉れと言ひ置いてツイ先刻歸つたばかりだとの事であつた。では新城町のK――家から山のお寺へも紹介しておくからとの話はその事であつたのかと思ひながら、意外の便宜に二人とも大いに喜んだ。のんきな我等は、この石段の續いた果にまだお寺があるだらうしその一番高い所に在るお寺に泊めて貰はうなどと言ひながらなほ勞れた足を運ばうとしてゐたのであつた。聞けばこの上には東照宮があるのみで、お寺はもう無いのださうである。もと本堂があつたのだけれど、この大正三年に燒失したのださうだ。
喜びながら手荷物を其處に預け、足ついで故その東照宮までお參りして來ようと再び石段を登つて行つた。大きくはないが古びながらに美しいお宮は見事な老木の杉木立のうす暗いなかに在つた。社務所があつても雨戸が固く閉ざされてゐた。
お寺に引返して足を伸して居ると、程なく夕飯が出た。新城から提げて歩いてゐた酒の壜を取出して遠慮しながら冷たいまゝ飮んでゐると、燗をして來ませうと温めて貰ふ事が出來た。お膳を出されたのは、廊下に疊の敷かれた樣な所であつたが、居ながらにして眼さきから直ぐ下に押し降つて行つてゐる峽間の嶮しい傾斜の森林を見下すことが出來た。誠によく茂つた森である。そして峽間の斜め向うにはその森にかぶさる樣に露出した岩壁の山が高々と聳えてゐるのである。湧くともなく消ゆるともない薄雲が峽間の森の上に浮いてゐたが、やがて白々と其處を閉ざしてしまつた。そしてツイ窓さきの木立の間をも颯々と流れ始めた。
まだ酒の終らぬ時であつた。突然、隣室から先刻の年若い僧侶――T――君といふ人で快活な親切な青年であつた――が、
『いま佛法僧が啼いてゐます。』
と注意してくれた。
驚いて盃を置き、耳を傾けたが一向に聞えない。
『隨分遠くにゐますが、段々近づいて來ませう。』
と言ひながらT――君はやつて來て、同じく耳を澄ましながら、
『ソレ、啼いてませう、あの山に。』
と、岩山の方を指す。
『ア、啼いてます〳〵、隨分かすかだけれど――。』
M――君も言つて立ち上つた。
まだ私には聞えない。何處を流れてゐるか、森なかの溪川の音ばかりが耳に滿ちてゐる。
二人とも庭に出た。身體の近くを雲が流れてゐるのが解る。
『啼いてますが、あれでは先生には聞えますまい。』
と、M――君が氣の毒さうにいふ。彼は私の耳の遠いのを前から知つてゐるのである。
近づくのを待つことに諦めて部屋に入り、酒を續けた。酒が終ると、醉と勞れとで二人とも直ぐぐつすりと眠つてしまつた。
M――君はその翌十六日、降りしきる雨を冒して山を下つて行つた。そして私だけ獨りその後二十一日までその寺に滯在してゐた。その間の見聞記を少し書いて見度い。
鳳來山は元來噴火しかけて中途でやみ、その噴出物が凝固して斯うした怪奇な形の山を成したものださうである。で、土地の岩層や岩質などを研究するとなか〳〵複雜で面白いといふことである。高さは海拔僅かに二千三百尺、山塊全體もさう大きなものではないが、切りそいだやうに聳えた大きな岩壁、それらの間に刻み込まれた溪谷など、とにかく眼に立つ眺めを持つて居る。それにさうした岩山に似合はず、不思議によく樹木が育つて、岩壁や裂目にまで見ごとな大木が隙間もなくぴつたりと立ち茂つてゐる。この樹木の繁いことが少なからずこの山の眺めを深くもし大きくもしているのである。多く杉檜等の針葉樹であるが、間々この山獨特の珍しい草木もあるとのことである。
南面した山の中腹に鳳來寺がある。推古天皇の時僧理修の開創で、更に文武天皇大寶年間に勅願所として大きな堂宇が建立されたのださうだ。その後源頼朝もいたくこの寺の藥師如來を信仰して多くの莊園を奉納し、下つて徳川廣忠は子なきを患ひて此所に參籠祈願して家康を生んだといふので家光家綱相續いて殿堂鐘樓樓門その他山林方三里、及び多大の境地を寄附し、新に家康の廟東照宮を置き一時は寺封千三百五十石、十九ヶ村の多きに上つたといふことである。(加藤與曾次郎氏著『門谷附近の史蹟』に據る)ところが明治の革新に際し制度の變遷から悉く此等の寺封を取除かれ、その上明治八年及び大正三年兩度の火災で本堂初め十二坊からあつた他の寺々まで燒け失せて今では僅に醫王院松高院の二堂を殘すのみとなつている。現在の住職服部賢定氏これを嘆いて數年間に渉つて鳳來山の裏山にあたる森林の拂下げを願ひ出て終に許可を得、それより費用を得て目下本堂建築の工事中である。拂下げを受けた面積三千百十三町七反歩、而かもなほ寺の境内として殘してある森林の面積百五十八町三反歩といふのに見ても如何にこの山を包む森林の廣いかは解るであらう。
或日私は案内せられて東照宮の裏手から山の頂上の方に登つて行つた。前にも言う通りこの山は岩山ゆゑ、みつちりと樹木の立ち込んだ峯のところ〴〵に恰も鉾を立てた樣に森から露出して聳え立つた岩の尖りがある。それらの一つ一つに這ひ登つてこちらの溪、そちらの峽間に茂り合つて麓の方に擴がつて行つてゐる森の流を見下してゐると、まことに何とも言へぬ伸びやかな靜かな心になつてゆくのであつた。
何百丈か何千丈か、乾反り返つて聳え立つた岩壁の頂上に坐つて恐る〳〵眼下を見てゐると、多くは迫になつた森の茂みに籠つて實に數知れぬ鳥の聲が起つてゐる。我等の知つてゐるものは僅にその中の一割にも足らぬ。多くは名も聲も聞いた事のないもののみである。僅に姿を見せて飛ぶは鴨樫鳥に啄木鳥位ゐのもので、その他はたゞ其處此處に微妙な音色を立てゝゐるのみで、見渡す限りたゞ青やかな森である。
中に水戀鳥といふのゝ啼くのを聞いた。非常に透る聲で、短い節の中に複雜な微妙さを含んで聞きなさるゝ。これは全身眞紅色をした鳥ださうで自身の色の水に映るを恐れて水邊に近寄らず、雨降るを待ち嘴を開いてこれを受けるのださうである。そして旱が續けば水を戀うて啼く、その聲がおのづからあの哀しい音いろとなつたのだと云ふ。
私は此處に來てつく〴〵自分に鳥についての知識の無いのを悲しんだ。あれは、あれはと徒らにその啼聲に心をときめかすばかりで、一向にその名を知らず、姿をも知らないのである。山の人ものんきで、殆んど私よりも知らない位ゐであつた。
石楠木のこの山に多いのをば聞いてゐたが、いかにも豫想外に多かつた。そして他の山のものと違つた種類であるのに氣がついた。さうなると植物上の知識の乏しいのをも悲しまねばならぬことになるが、兎に角他の石楠木と比べて葉が甚だ細くて枝が繁い。檜や栂の大木の下にこの木ばかりが下草をなしてゐる所もあつた。花のころはどんなであらうと思はれた。葉も枝もどうだんの木と少しも違はないやうな木で釣鐘躑躅といふのがあつた。花がみな釣鐘の形をなし、それこそ指でさす隙間もないほどぎつちりと咲き群がるのださうである。ふり仰ぐ絶壁の中腹などに僅に深山躑躅の散り殘つてゐるのを見る所もあつた。また、苔清水の滴つている岩の肌にうす紫のこまかな花の咲いてゐるのがあつた。岩千鳥といふのださうでいかにも高山植物に似た可憐な花であつた。鳳來寺百合といふ百合も岩に垂れ下つて咲いてゐた。この百合もこの山獨特のものだと聞いてゐた。
山の尾根から傳つて歩いてゐると、遠く渥美半島が見えた。またその反對の北の方には果もなく次から次と蜒り合つた山脈が見えて、やがて雲の間にその末を消してゐる。美濃路信濃路の山となるのであらう。さうした大きな景色を眺めてゐると、我等の坐つた懸崖の眞下の森を啼いて渡る杜鵑の聲がをり〳〵聞えて來た。もう時季が遲いために、この鳥の啼くのはめつきり少なくなつているのださうである。
私が山に登つてから三日間は少しの雨間もなく降り續いた。しかも並大抵の降りでなく、すさまじい響をたてゝ降る豪雨であつた。で、その間は全くその山を包んだ雨聲の中に身うごきもならぬ氣持で過してゐたのである。雨に連れて雲が深かつた。明けても暮れても眞白な密雲のなかに、殆んど人の聲を聞かず顏を見ずに過してゐた。
十八日の晝すぎから晴れて來た。
『今夜こそ啼きますぞ。』
寺の人が斯う言つて微笑した。最初この寺に登つて來た晩に遠くで啼いたと聞くばかりで、私はまだ樂しんで來た佛法僧を聞くことなしにその日まで過して來たのであつた。この鳥は晴れねば啼かぬのださうだ。
『啼きませうか、啼いて呉れるといゝなア。』
その夕方は飮み過ぎない樣に酒の量をも加減して啼くのを待つた。洋燈がともり、私の癖の永い時間の酒も終つたが、まだ啼かない。庭に出て見ると、久しく見なかつた星が、嶮しい峰の上にちらちら輝いてゐる。墨の樣に深い色をした峽間の森には、例の名も知れぬ鳥が頻りに啼いてゐるのだが、待つてゐるのはなか〳〵啼かない。
九時頃であつた。半ば諦めた私は床を敷いて寢ようとしながら、フツと耳を立てた。そして急いで廊下の窓のところへ行つた。其處の勝手の方からも寺の人が出て來た。
『解りましたか、啼いてますよ。』
『ア、矢張りあれですか、なるほど、啼きます、啼きます。』
私はおのづから心臟の皷動の高まるのを覺えた、そしてまたおのづからにして次第に心氣の潛んでゆくのをも。
なるほどよく啼く。そして實にいゝ聲である。世の人の珍しがるのも無理ならぬことだと眼を瞑ぢて耳を傾けながら微笑した。
『自分の考へてゐたのとは違つてゐる。』
とも、また、思つた。
私は初めこの佛法僧といふ鳥を、山城の比叡山あたりで言つてゐる筒鳥といふのと同じものだと豫想してゐた。その啼き聲が、佛、法、僧といふと云ふところから、曾つて親しく聞いたことのある筒鳥の啼き聲を聯想せざるを得なかつた。筒鳥の聲が聞きやうによつてはさう聞えないものでもないからである。たゞ筒鳥は單に佛、法、僧といふ如く三音に響いて切れるでなく、ホツホツホツホツホウと幾つも續いて釣瓶打に啼きつゞけるのである。然し、その寂びた靜かな音いろはともすると佛法僧といふ發音や文字づらと關聯して考へられがちであつたのだ。
まことの佛法僧は筒鳥とは違つてゐた。然し、その啼き聲を佛、法、僧と響くといふのも甚だ當を得てゐない。これは佛法の盛んな頃か何か、或る僧侶たちの考へたこぢつけに相違ないと私は思つた。この鳥の聲はそんな枯れさびれたものではないのである。いかにも哀音悲調と謂つた風の、うるほひのある澄み徹つた聲であるのだ。いかにも物かなしげの、迫つた調子を持つてゐるのである。
そして佛、法、僧という風に三音をば續けない。高く低くたゞ二音だけ繰返す。その二音の繰返しが十度び位ゐも切々として繰返さるゝと、合の手見た樣に僅かに一度、もう一音を加へて三音に啼く。それをこぢつけて佛法僧と呼んだものであらう。普通はたゞ二音を重ねて啼くのである。
たとへば郭公の啼くのが、カツ、コウと二音を重ねるのであるが、あれと似てゐる。然し似てゐるのはたゞそれだけで、その音色の持つ調子や心持は全然違つてゐる。郭公も實に澄んだ寂しい聲であるが、佛法僧はその寂びの中に更に迫つた深みと鋭どさとを含んで居る。さればとて杜鵑の鋭どさでは決してない。言ひがたい圓みとうるほひとを其鋭どさの中に包んでゐる。兎に角、筒鳥にせよ、郭公にせよ、杜鵑にせよ、その啼聲のおほよその口眞似も出來、文字にも書くことが出來るが、佛法僧だけは到底むつかしい。器用な人ならば或は口眞似は出來るかも知れぬが、文字には到底不能である。それだけ他に比して複雜さを持つてゐるとも謂へるであらう。
不思議に四月の二十七日か若しくはその翌日の八日かゝら啼き始めるのださうである。殆んどその日を誤らないといふ。南洋からの渡り鳥で、全身緑色、嘴と足とだけが紅く、大きさはおほよそ鴨に似てゐるさうだ。稀には晝間に啼くこともあるさうだが、決して姿を見せない。山に住んで居る者でも誰一人それを見た者はないといふ。
この鳥も郭公などと同じく、暫くも同じところに留つてゐない。啼き始めると續けさまにその物悲しげな啼聲を續けるのであるが、殆んどその一聯ごとに場所を換へて啼いてゐる。それも一本の木の枝をかへて啼くといふでなく、一町位ゐの間を置いて飛び移りつゝ啼くのである。このことが一層この鳥の聲を迫つたものに聞きなさせる。
十八日、私は殆んど夜どほし窓の下に坐つて聽いてゐた。うと〳〵と眠つて眼をさますと、向うの峯で啼くのが聞える。一聲二聲と聞いてゐると次第に眼が冴えて、どうしても寢てゐられないのである。
星あかりの空を限つて聳えた嶮しい山の峰からその聲が落ちて來る。ぢいつと耳を澄ましてゐると、其處に行き、彼處に移つて聞えて來る。時とすると更け沈んだ山全體が、その聲一つのために動いてゐる樣にも感ぜらるゝのである。
十九日の夜もよく啼いた。そして午前の四時頃、他のものでは蜩が一番早く聲を立つるのであるが、それをきつかけに佛法僧はぴつたりと默つてしまふ樣である。それから後はあれが啼きこれが叫び、いろ〳〵な鳥の聲々が入り亂れて山が明けて行く。
二十日に私は山を下つた。滯在六日のうち、二晩だけ完全にこの鳥を聞くことが出來た。二晩とも闇であつたが、月夜だつたら一層よかつたらうにと思はれた。また、月夜にはとりわけてよく啼くのださうである。いつかまた月のころに登つてこの寂しい鳥の聲に親しみたいものだ。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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細かな地図を見ればよく解るであらう。房州半島と三浦半島とが鋭く突き出して奥深い東京湾の入り口を極めて狭く括つてゐる。その三浦半島の岬端から三四里手前に湾入した海浜に私はいま移り住んでゐるのである。で、その半島の尖端の松輪崎といふのは私たちの浜からやゝ右寄りの正面に細く鋭く浮んで見ゆる。方角はちやうど真南に当る。また、前面一帯は房州半島で、五六里沖に鋸山や二子山が低く聳え、左手浦賀寄りの方には千駄崎といふ小さな崎が突き出てゐる。だから眼前の海の光景は一寸見には四方とも低い陸地に囲まれた大きな湖のやうで、風でも立たねば全く静かな入江である。それで、奥には横浜あり、東京あり、横須賀があつて、其処へ往来の汽船軍艦が始終出入りしてゐるので、常に沖辺に煙の影を断たず、何となく糜爛した、古い入江の感をも与へる。
私の居るのは千駄崎寄りの長さ二三里に亘つた白浜で、松の疎らに靡いた漁村である。浜に出ると正面に鋸山が見える。続いて目につくのは右手に突き出た松輪崎である。細かくおぼろに霞の底に沈んでゐた時も、うす〳〵と青みそめた初夏の頃も、常になつかしく心を惹いてゐた。一度その崎の端まで行つて見度いとは、早春こちらに移つて来て以来の永い希望であつた。盛夏のころ一月あまりを私は下野信濃の山辺に暮してゐたのであつたが、帰つて来て眺めやつた海面は、いつの間にかすつかり秋になつてゐた。日毎に微かな西風が吹いて、沖一帯にしら〴〵と小さな波が立つてゐる。とりわけて目を引いたのは松輪崎の尖端に立つてゐる白浪で、西から来る外洋のうねりを受け、際立つて高い浪が真白に打ちあげて、やがては風に散つて其処等を薄々と煙らせてゐる。
其処からずつと脊を引いた岬一帯の輪郭は秋めいた光のかげにくつきりと浮き出て見えて居る。
或日、とりわけて空の深い朝であつた。食後を縁側の柱に凭つてゐたが、突然座敷の妻を見返つた。
『オイ、俺は今から松輪まで行つて来るよ、いゝだらう。』
『今から?』
とは驚いたが、兼ねて行き度がつてゐるのを知つてゐるので、留めもしなかつた。
『そして、いつお帰り? 今夜?』
『さア、よく解らんが、彼処に宿屋があるといふから気に入つたら一晩か二晩泊つて来やう、イヤだつたら直ぐ帰る。』
幾らか小遣銭を分けて貰つて私はいそ〳〵と家を出た。風が砂糖黍の青い葉さきに流れて、今日も暑くなりさうな日光がきら〳〵と砂路に輝いてゐる。
道路を外れて直ぐ浜に出た。下駄を脱いで手頃の縄に通して提げながら高々と裾を端折つた。波打際の濡砂の上を歩いてゆくと、爪先が快く砂に入つて、をり〳〵は冷たい波がさアつと足の甲を洗ふ。
今日も風が出てゐた。渚から沖にかけて海はしら〴〵とざわめいてゐる。不図目をあげると思ひも寄らぬ方にほんのりと有明月が残つてゐた。沖の波に似た白雲の片々が風に流れて、紺深く澄み入つた空の片辺に、まつたく忘れられたものゝやうに懸つてゐる。ア、と思ふ自分の心の底には早や久しく忘れてゐる故郷の山川が寂しい影を投げてゐた。故郷と有明月、何の縁も無さゝうだが、有明月を見るごとにどうしたものか私は直ぐ自分の故郷を思ひ起すのが癖である。渓間の林の間を歩いてゐた自分の幼い姿をすぐ思ひ浮べる。
その朝は何故か渚に漁師の姿が少ないやうであつた。下駄を砂上に引きずりながら、私はこの有明の月をどうがなして一首の歌に詠まうものと夢中になつて苦心した。一里あまり、二里ほども歩いてゆくうちにとう〳〵その一首も出来ず、雪の様な浜は尽きて真黒な岩の磯が表れた。浪の音が急に高く、岩上に吹く松風の声もあり〳〵と耳に立つ。兎も角もと私は其処に腰を下した。足の裏がちくちくと痛んでゐる。雲の片は次第に消えて白い月影のみいよ〳〵寂しい。
大概の見当をつけて崖を這ひ上つてみると果して小さな路があつた。今度は下駄を履いて松や雑木の木の間を辿る。ずつと見はるかす左手の海の面がいかにも目新しく眺められて、ツイ磯の深い浪の間には無数の魚が群れて居さうに思はれる。小さな丘を越すと一つの漁村があつた。金田といふ。も一つ越すとまた一つあつた。狭い渓谷みたいな所に二三十戸小さな家が集つてゐる。中に一軒お寺があつて切りに鉦が鳴つてゐた。風のせゐか、此処の漁師も沖を休んで居るらしく、其処此処に集つて遊んでゐた。小さな茶店に休んでゐると其処にも四五人がゐて、何か戦争の話が逸んでゐた。村出身の予備後備の軍人の年金の話で、いま一戦争あつて引出されると俺もこれでまた一稼ぎ出来るがなア、何しろ斯う不漁ぢア仕様がねえと図太い声を出したのを見るともう五十歳に近い大男であつた。年金を当に戦争に出度がる、耳新しいことを聞くものだと思つた。
それから暫く嶮しい坂になつて、登り果てた所は山ならば嶺、つまりこの三浦半島の脊であつた。可なり広い平地で、薩摩芋と粟とが一杯に作つてある。思はず脊延びして見渡すと遠く相模湾の方には夏の名残の雲の峯が渦巻いて、富士も天城も燻つた光線に包まれて見えわかぬ。眼下の松輪崎の前面をば戦闘艦だか巡洋艦だか大きなのが揃つて四隻、どす黒い煙を吐いて湾内を指してゐる。此頃館山港に三十隻からの軍艦が集つて、それから垂れ流す糞便で所の者は大困りだといふ二三日前の誰かの話を不図思ひ出した。その演習も終つていま横須賀に帰つて行く所であらう。斯うして揃つた姿を見てゐると、何とはなしに血の躍る心地がする。松輪への路を訊くと、芋畑の中にゐる爺さんが伸び上つて、その電信柱について行きさへすれば間違ひはないと教へてくれる。なるほどこの丘の脊を通して電信柱が列なつてゐる。そしてその先が小さくなつてゐる。
やがて柱の行列の尽きる所に来た。なるほど、この電線はこの岬端にある剣崎灯台(土地では松輪の灯台と呼んでゐる)に懸つてゐるものであつたのだ。灯台は今はたゞ白々と厳しい沈黙を守つて日に輝いてゐるのみである。そして附近に人家らしいものも見えぬ。あちこちと見廻してゐると、すぐ眼下の崖下にそれらしい一端が見えて居る。私は勇んで坂を降りて行つた。咽喉も渇き、腹も空いてゐた。
降りて行つて驚いた事には其処は戸数五十近くの旧い宿場じみた漁村であつた。前に小さな浅さうな入江があつて、山蔭の事でぴつたりと静まつてゐる。一わたり歩いてみた所では宿屋らしい家も見えず、腰かけて休むべき店すら見つからぬ。此処が松輪かと訊くと、左様だといふ。兼ねて想像してゐた松輪には小綺麗な宿屋か小料理屋の二三軒もあつて、何となく明るい賑かな浦町であつた。これは〳〵と呆れたり弱つたりしたが、何しろ飯を食ふ所がない。宿屋が一軒あつたが客が無いので今は廃めたのだ相だ。それならもう少し歩いて三崎までおいでなさい、これから一里半位ゐのものだと、その漁村の外れの藁葺の家に帰り遅れた避暑客とでも云ふべき若い男が教へて呉れる。窺くともなく窺くと年ごろの痩形の廂髪が双肌ぬぎの化粧の手を止めて此方を見てゐる。その前の鏡台からして土地のものでない。仕方なく礼を言ひながら其処を去つて少し歩くと小さな掛茶屋があつて、やゝ時季遅れの西瓜が真紅に割かれて居る。其処に寄つてこぼすともなく愚痴を零すと、イヤ宿屋はあるにはあるといふ。エ、では何処にあると息込んで問ひ返すと、灯台の向ふ側にいま一ヶ所此処みたいな宿屋があつて其処にさくら屋といふのがあるといふ。いゝ宿屋か、海のそばかと畳みかければ、二階建で、海の側で、夜は灯台の光を真上に浴びるといふ。それではと矢庭に私は立ち上つた。そして教へられた近路を取つて急いだ。これで今夜は楽しく過される。兼ねて楽しんでゐた独りきりの旅寝の夢が結ばれるともう其事ばかり考へて急いだ。前の丘を越え戻つて、灯台の下の磯を目がけて行くと木がくれに二三の屋根が表はれ、やがて十軒あまりの部落に出て来た。先づ目についたはさくら屋といふ看板で、黒塗りのブリキ屋根の小さな軒に懸つてゐる。海のそばといふ私の言葉には直ぐ浪うち際の岩の上にでもそそり立つてゐる所を想像してゐたのであつたが、これは狭い砂浜の隅に建てられたマツチ箱式の二階屋である。再び驚いたが、もう落胆する勇気も無い。私はつか〳〵とその店頭へ歩み寄つた。
むく〳〵肥つた四十恰好の内儀が何だか言つてゐるのを聞き流して私は取りあへずそこの店さきにある井戸傍に立つた。頭から背から足さきまで洗ひ流して、直ぐ二階に上らうとした。また内儀が何か言ふ。あまりに頬の肉が豊富で口はその奥に引込んで而かも歯が欠けてゐるため、何をいふのか甚だ解し難い。下座敷がよくはないかといふ様なことではあつたが、私はずん〳〵階子段を上つてしまつた。そして海に向いた方の部屋の障子を引きあけてみて驚いた。其処はふさがつてゐた。しかも三十前の男女が恐しい風をしてまだ蚊帳の中に寝てゐる。惶てゝ其処を閉めたが、サテ他にはその反対側に今一つきり部屋がない。てれ隠しに恐々それをも窺いてみると三畳位ゐで、而かも日が真正面に当つてゐる。
すご〳〵下に降りると内儀は笑ひながら奥の間(と云つてもこれより外に座敷らしい処はない)の縁側に近い所へ座布団を直した。兎もあれ麦酒を一二本冷やして呉れといふと、そんなものは無いといふ。いよ〳〵なさけ無くなつたが、それでも酒はと押し返すと、どの位ゐ飲むかと訊く。何しろ大変なものであらうが、兎に角少しでもやつて見ようと決心して、二合ばかりつけて呉れ、それに缶詰でも何でもいゝから直ぐ飯を食はしてくれと頼むと、缶詰もないと呟く。そして小さな燗徳利を持つて戸外へ出てゆく。オヤ〳〵二合だけ買ひに行くのと見える。
裸体になつて柱に凭つてゐると、流石に冷たい風が吹く。日のかん〳〵照つてゐる庭さきには子供が三人長い竿で蜻蛉を釣つてゐる。赤い小さいのが幾つも幾つもあちこちと空を飛んでゐるのだ。二階で起き上つた気勢がして何やら言ひ争つて居る。その声の調子から二人とも芸人だなと直ぐ気づかれた。降りて来た男を見ると髪が長い、浪花節だなとまた思ふ。女の方はずつと若く、綺麗な荒んだ顔をしてゐた。
むく〳〵動いて内儀さんが帰つて来た。そしてまた蜻蛉釣の子供を呼んで何やらむぐ〳〵言ひつけてゐる。やがて物を焼く匂ひがする。はゝア壷焼きだなと感づいた頃はもう好し悪しなしに燗のつくのが待ち遠かつた。
案じてゐた程でもないと思ふと、直ぐまたあとを酒屋に取りにやつた。少しづつ酔の廻るにつけて、何となく四辺が興味深く思ひなされて来た。矢張り初めの思ひ立ち通り此処に一晩泊つて帰らうか。それともこのまゝ一睡りして夕方かけて先刻の路を歩かうか、浪花節語りと合宿も面白いかも知れぬ、肥つちよの内儀さんも面白さうだ、などと考えてゐると次第に静かな気持になつて来た。柱に凭れたまゝ斜めに仰ぐ空には高々と小さな雲が浮んで、庭さきの何やらの常磐樹の光も冷たく、自身をのみ取り巻いてゐるやうな単調な浪の音にも急に心づき、秋だ〳〵と思ふ心は酒と共に次第に深く全身を巡り始めた。またしても有明月の一首をどうかしてものにしたいと空しく心を費す。
二度目の酒も終つた。飯も済んだ。泊らうか帰らうかの考へはまだ纏らぬ。其うち二階ではまた何か言ひ合ひ始めた。壊れた喇叭の様な男の声に混つてゐる女の声はまるでブリキを磨り合せてゐるやうだ。それにしてもなか〳〵いゝ女だ、久しぶりにあゝした女を見た、などとまたあらぬ事を考へ始める。
うと〳〵してゐると、突然ぼう――つといふ汽船の笛が直ぐ耳もとに落ちて来た。
三崎行だな、と思つた時には既に半分私は立ち上つてゐた。
『おばさん、勘定々々、大急ぎだ。』
『…………?』
『三崎だ〳〵、大急ぎ!』
駆けつけた時は丁度砂から艀を降す所であつた。身軽に飛び乗るとする〳〵と波の上に浮び出た。小さな、黒い汽船はやゝ離れた沖合に停つてまだ汽笛を鳴らしてゐる。房州の端が眼近に見え、右手は寧ろ黒々とした遠く展けた外洋である。せつせと押し進む艀の両側には、鰹からでも追はれて来てゐたか、波の表が薄黒く見ゆる位ゐまでに集つた鯷の群がばら〳〵〳〵と跳ね上がつた。 | 底本:「日本の名随筆92 岬」作品社
1990(平成2)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第五巻」雄鶏社
1958(昭和33)年5月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2002年11月12日作成
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004448",
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十月十四日午前六時沼津發、東京通過、其處よりM―、K―、の兩青年を伴ひ、夜八時信州北佐久郡御代田驛に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌會に出席せんためである。驛にはS―、O―、兩君が新聞社の人と自動車で出迎へてゐた。大勢それに乘つて岩村田町に向ふ。高原の闇を吹く風がひし〳〵と顏に當る。佐久ホテルへ投宿。
翌朝、まだ日も出ないうちからM―君たちは起きて騷いでゐる。永年あこがれてゐた山の國信州へ來たといふので、寢てゐられないらしい。M―は東海道の海岸、K―は畿内平原の生れである。
「あれが淺間、こちらが蓼科、その向うが八ヶ岳、此處からは見えないがこの方角に千曲川が流れてゐるのです。」
と土地生れのS―、O―の兩人があれこれと教へて居る。四人とも我等が歌の結社創作社社中の人たちである。今朝もかなりに寒く、近くで頻りに山羊の鳴くのが聞えてゐた。
私の起きた時には急に霧がおりて來たが、やがて晴れて、見事な日和になつた。遠くの山、ツイ其處に見ゆる落葉松の森、障子をあけて見て居ると、いかにも高原の此處に來てゐる氣持になる。私にとつて岩村田は七八年振りの地であつた。
お茶の時に山羊の乳を持つて來た。
「あれのだネ。」
と、皆がその鳴聲に耳を澄ます。
會の始まるまで、と皆の散歩に出たあと、私は近くの床屋で髮を刈つた。今日は日曜、土地の小學校の運動會があり、また三杉磯一行の相撲があるとかで、その店もこんでゐた。床屋の内儀が來る客をみな部屋に招じて炬燵に入れ、茶をすすめて居るのが珍しかつた。
歌會は新聞社の二階で開かれた。新築の明るい部屋で、麗らかに日がさし入り、階下に響く印刷機械の音も醉つて居る樣な靜かな晝であつた。會者三十名ほど、中には松本市の遠くから來てゐる人もあつた。同じく創作社のN―君も埴科郡から出て來てゐた。夕方閉會、續いて近所の料理屋の懇親會、それが果てゝもなほ別れかねて私の部屋まで十人ほどの人がついて來た。そして泊るともなく泊ることになり、みんなが眠つたのは間もなく東の白む頃であつた。
翌朝は早く松原湖へゆく筈であつたが餘り大勢なので中止し、輕便鐵道で小諸町へ向ふ事になつた。同行なほ七八人、小諸町では驛を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」の長詩で名高い懷古園に入つた。そしてその壞れかけた古石垣の上に立つて望んだ淺間の大きな裾野の眺めは流石に私の胸をときめかせた。過去十四五年の間に私は二三度も此處に來てこの大きな眺めに親しんだものである。ことにそれはいつも秋の暮れがたの、昨今の季節に於てであつた。急に千曲川の流が見たくなり、園のはづれの嶮しい松林の松の根を這ひながら二三人して降りて行つた。林の中には松に混つた栗や胡桃が實を落してゐた。胡桃を初めて見るといふK―君は喜んで濕つた落葉を掻き廻してその實を拾つた。まだ落ちて間もない青いものばかりであつた。久しぶりの千曲川はその林のはづれの崖の眞下に相も變らず青く湛へて流れてゐた。川上にも川下にも眞白な瀬を立てながら。
昨日から一緒になつてゐるこの土地のM―君はこの懷古園の中に自分の家を新築してゐた。そして招かれて其處でお茶代りの酒を馳走になつた。杯を持ちながらの話のなかに、私が一度二度とこの小諸に來る樣になつてから知り合ひになつた友達四人のうち、殘つてゐるのはこのM―君一人で、あと三人はみなもう故人になつてゐるといふ事が語り出されて今更にお互ひ顏が見合はされた。ことにそのなかの井部李花君に就いて私は斯ういふ話をした。私がこちらに來る四五日前、一晩東海道國府津の驛前の宿屋に泊つた。宿屋の名は蔦屋と云つた。聞いた樣な名だと、幾度か考へ出したのは、數年前その蔦屋に來てゐて井部君は死んだのであつた。それこれの話の末、我等はその故人の生家が土地の料理屋であるのを幸ひ、其處に行つて晝飯を喰べようといふことになつた。
思ひ出深いその家を出たのはもう夕方であつた。驛で土地のM―君と松本から來てゐたT―君とに別れ、あとの五人は更に私の汽車に乘つてしまつた。そして沓掛驛下車、二十町ほど歩いて星野温泉へ行つて泊ることになつた。
この六人になるとみな舊知の仲なので、その夜の酒は非常に賑やかな、而もしみ〴〵したものであつた。鯉の鹽燒だの、しめじの汁だの、とろゝ汁だの、何の罐詰だのと、勝手なことを云ひながら夜遲くまで飮み更かした。丁度部屋も離れの一室になつてゐた。折々水を飮むために眼をさまして見ると、頭をつき合はす樣にして寢てゐるめい〳〵の姿が、醉つた心に涙の滲むほど親しいものに眺められた。
それでも朝はみな早かつた。一浴後、飯の出る迄とて庭さきから續いた岡へ登つて行つた。岡の上の落葉松林の蔭には友人Y―君の畫室があつた。彼は折々東京から此處へ來て製作にかゝるのである。今日は門も窓も閉められて、庭には一面に落葉が散り敷き、それに眞紅な楓の紅葉が混つてゐた。林を過ぐると眞上に淺間山の大きな姿が仰がれた。山にはいま朝日の射して來る處で、豐かな赤茶けた山肌全體がくつきりと冷たい空に浮き出てゐる。煙は極めて僅かに頂上の圓みに凝つてゐた。初めてこの火山を仰ぐM―君の喜びはまた一層であつた。
朝飯の膳に持ち出された酒もかなり永く續いていつか晝近くなつてしまつた。その酒の間に私はいつか今度の旅行計畫を心のうちですつかり變更してしまつてゐた。初め岩村田の歌會に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其處で東京から一緒に來た兩人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む、それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とさういふのであつたが、斯うして久しぶりの友だちと逢つて一緒にのんびりした氣持に浸つてゐて見ると、なんだかそれだけでは濟まされなくなつて來た。もう少しゆつくりと其處等の山や谷間を歩き廻りたくなつた。其處で早速頭の中に地圖をひろげて、それからそれへと條をつけて行くうちに、いつか明瞭に噸序がたつて來た。
「よし……」と思はず口に出して、私は新計畫を皆の前に打ちあけた。
「いゝなア!」
と皆が言つた。
「それがいゝでせう、どうせあなただつてもう昔の樣にポイポイ出歩く譯には行くまいから。」
とS―が勿體ぶつて附け加へた。
さうなるともう一つ新しい動議が持ち出された。それならこれから皆していつそ輕井澤まで出掛け、其處の蕎麥屋で改めて別杯を酌んで綺麗に三方に別れ去らうではないか、と。無論それも一議なく可決せられた。
輕井澤の蕎麥屋の四疊半の部屋に六人は二三時間坐り込んでゐた。夕方六時草津鐵道で立つてゆく私を見送らうといふのであつたが、要するにさうして皆ぐづ〳〵してゐたかつたのだ。土間つゞきのきたない部屋に、もう酒にも倦いてぼんやり坐つてゐると、破障子の間からツイ裏木戸の所に積んである薪が見え、それに夕日が當つてゐる。それを見てゐると私は少しづつ心細くなつて來た。そしてどれもみな疲れた風をして默り込んでゐる顏を見るとなく見廻してゐたが、やがてK―君に聲をかけた。
「ねヱK―君、君一緒に行かないか、今日この汽車で嬬戀まで行つて、明日川原湯泊り、それから關東耶馬溪に沿うて中之條に下つて、澁川高崎と出ればいゝぢやないか、僅か二日餘分になるだけだ。」
みなK―君の顏を見た。彼は例のとほり靜かな微笑を口と眼に見せて、
「行きませうか。行つてよければ行きます、どうせこれから東京に歸つても何でもないんですから。」
と言つた。まつたくこのうちで毎日の仕事を背負つてゐないのは彼一人であつたのだ。
「いゝなア、羨しいなア。」
とM―君が言つた。
「エライことになつたぞ、然し、行き給い、行つた方がいゝ、この親爺さん一人出してやるのは何だか少し可哀相になつて來た。」
と、N―が醉つた眼を瞑ぢて、頭を振りながら言つた。
小さな車室、疊を二枚長目に敷いた程の車室に我等二人が入つて坐つてゐると、あとの四人もてんでに青い切符を持つて入つて來た。彼等の乘るべき信越線の上りにも下りにもまだ間があるのでその間に舊宿まで見送らうと云ふのだ。感謝しながらざわついてゐると、直ぐ輕井澤舊宿驛に來てしまつた。此處で彼等は降りて行つた。左樣なら、また途中で飮み始めなければいゝがと氣遣はれながら、左樣なら左樣ならと帽子を振つた。小諸の方に行くのは二人づれだからまだいゝが、一人東京へ歸つてゆくM―君には全く氣の毒であつた。
我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごつとんごつとんと登りにかゝつた。曲りくねつて登つて行く。車の兩側はすべて枯れほうけた芒ばかりだ。そして近所は却つてうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。
疲れと寒さが闇と一緒に深くなつた。登り登つて漸く六里が原の高原にかゝつたと思はれる頃は全く黒白もわからぬ闇となつたのだが、車室には灯を入れぬ、イヤ、一度小さな洋燈を點したには點したが、すぐ風で消えたのだつた。一二度停車して普通の驛で呼ぶ樣に驛の名を車掌が呼んで通りはしたが、其處には停車場らしい建物も灯影も見えなかつた。漸く一つ、やゝ明るい所に來て停つた。「二度上」といふ驛名が見え、海拔三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあつた。見ると汽車の窓のツイ側には屋臺店を設け洋燈を點し、四十近い女が子を負つて何か賣つてゐた。高い臺の上に二つほど並べた箱には柿やキヤラメルが入れてあつた。そのうちに入れ違ひに向うから汽車が來る樣になると彼女は急いで先づ洋燈を持つて線路の向う側に行つた。其處にもまた同じ樣に屋臺店が拵へてあるのが見えた。そして次ぎ〳〵に其處へ二つの箱を運んで移つて行つた。
この草津鐵道の終點嬬戀驛に着いたのはもう九時であつた。驛前の宿屋に寄つて部屋に通ると爐が切つてあり、やがて炬燵をかけてくれた。濟まないが今夜風呂を立てなかつた、向うの家に貰ひに行つてくれといふ。提燈を下げた小女のあとをついてゆくとそれは線路を越えた向う側の家であつた。途中で女中がころんで燈を消したため手探りで辿り着いて替る替るぬるい湯に入りながら辛うじて身體を温める事が出來た。その家は運送屋か何からしい新築の家で、家財とても見當らぬ樣ながらんとした大きな圍爐裡端に番頭らしい男が一人新聞を讀んでゐた。
十月十八日
昨夜炬燵に入つて居る時から溪流の音は聞えてゐたが夜なかに眼を覺して見ると、雨も降り出した樣子であつた。氣になつてゐたので、戸の隙間の白むを待つて繰りあけて見た。案の如く降つてゐる。そしてこの宿が意外にも高い崖の上に在つて、その眞下に溪川の流れてゐるのを見た。まさしくそれは吾妻川の上流であらねばならぬ。雲とも霧ともつかぬものがその川原に迷ひ、向う岸の崖に懸り、やがて四邊をどんよりと白く閉して居る。便所には草履がなく、顏を洗はうにも洗面所の設けもないといふこの宿屋で、難有いのはたゞ炬燵であつた。それほどに寒かつた。聞けばもう九月のうちに雪が來たのであつたさうだ。
寒い〳〵と言ひながらも窓をあけて、顎を炬燵の上に載せたまゝ二人ともぼんやりと雨を眺めてゐた。これから六里、川原湯まで濡れて歩くのがいかにも佗しいことに考へられ始めたのだ。それかと云つてこの宿に雨のあがるまで滯在する勇氣もなかつた。醉つた勢ひで斯うした所へ出て來たことがそゞろに後悔せられて、いつそまた輕井澤へ引返さうかとも迷つてゐるうちに、意外に高い笛を響かせながら例の小さな汽車は宿屋の前から輕井澤をさして出て行つてしまつた。それに乘り遲れゝば、午後にもう一度出るのまで待たねばならぬといふ。
が、草津行きの自動車ならば程なく此處から出るといふことを知つた。そしてまた頭の中に草津を中心に地圖を擴げて、第二の豫定を作ることになつた。
さうなると急に氣も輕く、窓さきに濡れながらそよいでゐる痩せ〳〵たコスモスの花も、遙か下に煙つて見ゆる溪の川原も、對岸の霧のなかに見えつ隱れつしてゐる鮮かな紅葉の色も、すべてみな旅らしい心をそゝりたてゝ來た。
やがて自動車に乘る。かなり危險な山坂を、しかも雨中のぬかるみに馳せ登るのでたび〳〵膽を冷やさせられたが、それでも次第に山の高みに運ばれて行く氣持は狹くうす暗い車中に居てもよく解つた。ちら〳〵と見え過ぎて行く紅葉の色は全く滴る樣であつた。
草津ではこの前一度泊つた事のある一井旅館といふへ入つた。私には二度目の事であつたが、初めて此處へ來たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の佗しい笛の音が鳴り出した。それに續いて聞えて來る湯揉みの音、湯揉みの唄。
私は彼を誘つてその時間湯の入口に行つた。中には三四十人の浴客がすべて裸體になり幅一尺長さ一間ほどの板を持つて大きな湯槽の四方をとり圍みながら調子を合せて一心に湯を揉んでゐるのである。そして例の湯揉みの唄を唄ふ。先づ一人が唄ひ、唄ひ終ればすべて聲を合せて唄ふ。唄は多く猥雜なものであるが、しかもうたふ聲は眞劍である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、聲を絞つてうたひ續けるのである。
時間湯の温度はほゞ沸騰點に近いものであるさうだ。そのために入浴に先立つて約三十分間揉みに揉んで湯を柔らげる。柔らげ終つたと見れば、各浴場ごとに一人づつついてゐる隊長がそれを見て號令を下す。汗みどろになつた浴客は漸く板を置いて、やがて暫くの間各自柄杓を取つて頭に湯を注ぐ。百杯もかぶつた頃、隊長の號令で初めて湯の中へ全身を浸すのである。湯槽には幾つかの列に厚板が並べてあり、人はとりどりにその板にしがみ附きながら隊長の立つ方向に面して息を殺して浸るのである。三十秒が經つ。隊長が一種氣合をかける心持で或る言葉を發する。衆みなこれに應じて「オオウ」と答へる。答へるといふより唸るのである。三十秒ごとにこれを繰返し、かつきり三分間にして號令のもとに一齊に湯から出るのである。その三分間は、僅かに口にその返事を稱ふるほか、手足一つ動かす事を禁じてある。動かせばその波動から熱湯が近所の人の皮膚を刺すがためであるといふ。
この時間湯に入ること二三日にして腋の下や股のあたりの皮膚が爛れて來る。軈ては歩行も、ひどくなると大小便の自由すら利かぬに到る。それに耐へて入浴を續くること約三週間で次第にその爛れが乾き始め、ほゞ二週間で全治する。その後の身心の快さは、殆んど口にする事の出來ぬほどのものであるさうだ。さう型通りにゆくわけのものではあるまいが、效能の強いのは事實であらう。笛の音の鳴り饗くのを待つて各自宿屋から(宿屋には穩かな内湯がある)時間湯へ集る。杖に縋り、他に負はれて來るのもある。そして湯を揉み、唄をうたひ、煮ゆるごとき湯の中に浸つて、やがて全身を脱脂綿に包んで宿に歸つて行く。これを繰返すこと凡そ五十日間、斯うした苦行が容易な覺悟で出來るものでない。
草津にこの時間湯といふのが六箇所に在り、日に四囘の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて來る。
たぎり沸くいで湯のたぎりしづめむと病人つどひ揉めりその湯を
湯を揉むとうたへる唄は病人がいのちをかけしひとすぢの唄
上野の草津に來り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも
十月十九日
降れば馬を雇つて澤渡温泉まで行かうと決めてゐた。起きて見れば案外な上天氣である。大喜びで草鞋を穿く。
六里ヶ原と呼ばれてゐる淺間火山の大きな裾野に相對して、白根火山の裾野が南面して起つて居る。これは六里ヶ原ほど廣くないだけに傾斜はそれより急である。その嶮しく起つて來た高原の中腹の一寸した窪みに草津温泉はあるのである。で、宿から出ると直ぐ坂道にかゝり、五六丁もとろ〳〵と登つた所が白根火山の裾野の引く傾斜の一點に當るのである。其處の眺めは誠に大きい。
正面に淺間山が方六里に渡るといふ裾野を前にその全體を露はして聳えてゐる。聳ゆるといふよりいかにもおつとりと双方に大きな尾を引いて靜かに鎭座してゐるのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立つてやがて湯氣の樣に消えてゐる。空といひ煙といひ、山といひ野原といひ、すべてが濡れた樣に靜かで鮮かであつた。濕つた地をぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地圖を見ると丁度その地點が一二〇八米突の高さだと記してあつた。
とり〴〵に紅葉した雜木林の山を一里半ほども降つて來ると急に嶮しい坂に出會つた。見下す坂下には大きな谷が流れ、その對岸に同じ樣に切り立つた崖の中ほどには家の數十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えてゐた。九十九折になつたその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ樣な村があり、普通の百姓家と違はない小學校なども建つてゐた。對岸の村は生須村、學校のある方は小雨村と云ふのであつた。
九十九折けはしき坂を降り來れば橋ありてかかる峽の深みに
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
蠶飼せし家にかあらむを壁を拔きて學校となしつ物教へをり
學校にもの讀める聲のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
生須村を過ぎると路はまた單調な雜木林の中に入つた。今までは下りであつたが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登つてゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いてゐる。音を立てゝ踏んでゆく下からは色美しい栗の實が幾つとなく露はれて來た。多くは今年葉である眞新しい落葉も日ざしの色を湛へ匂を含んでとり〴〵に美しく散り敷いてゐる。をり〳〵その中に龍膽の花が咲いてゐた。
流石に廣かつた林も次第に淺く、やがて、立枯の木の白々と立つ廣やかな野が見えて來た。林から野原へ移らうとする處であつた。我等は双方からおほどかになだれて來た山あひに流るゝ小さな溪端を歩いてゐた。そして溪の上にさし出でて、眼覺むるばかりに紅葉した楓の木を見出した。
我等は今朝草津を立つときからずつと續いて紅葉のなかをくゞつて來たのである。楓を初め山の雜木は悉く紅葉してゐた。恰も昨日今日がその眞盛りであるらしく見受けられた。けれどいま眼の前に見出でて立ち留つて思はずも聲を擧げて眺めた紅葉の色はまた別であつた。楓とは思はれぬ大きな古株から六七本に分れた幹が一齊に溪に傾いて伸びてゐる。その幹とてもすべて一抱への大きさで丈も高い。漸く今日あたりから一葉二葉と散りそめたといふ樣に風も無いのに散つてゐる靜かな輝かしい姿は、自づから呼吸を引いて眺め入らずにはゐられぬものであつた。二人は路から降り、そのさし出でた木の眞下の川原に坐つて晝飯をたべた。手を洗ひ顏を洗ひ、つぎつぎに織りついだ樣に小さな瀬をなして流れてゐる水を掬んでゆつくりと喰べながら、日の光を含んで滴る樣に輝いてゐる眞上の紅葉を仰ぎ、また四邊の山にぴつたりと燃え入つてゐる林のそれを眺め、二人とも言葉を交さぬ數十分の時間を其處で送つた。
枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
溪川の眞白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
其處を立つと野原にかゝつた。眼につくは立枯の木の木立である。すべて自然に枯れたものでなく、みな根がたのまはりを斧で伐りめぐらして水氣をとゞめ、さうして枯らしたものである。半ばは枯れ半ばはまだ葉を殘してゐるのも混つてゐる。見れば楢の木である。二抱へ三抱へに及ぶそれ等の大きな老木がむつちりと枝を張つて見渡す野原の其處此處に立つてゐる。野には一面に枯れほうけた芒の穗が靡き、その芒の浪を分けてかすかな線條を引いた樣にも見えてゐるのは植ゑつけてまだ幾年も經たぬらしい落葉松の苗である。この野に昔から茂つてゐた楢を枯らして、代りにこの落葉松の植林を行はうとしてゐるのであるのだ。
帽子に肩にしつとりと匂つてゐる日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いてゐると、をり〳〵鋭い鳥の啼聲を聞いた。久し振りに聞く聲だとは思ひながら定かに思ひあたらずにゐると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、廣い野原のあちこちで啼いてゐる。更にまたそれよりも澄んで暢びやかな聲を聞いた。高々と空に翔ひすましてゐる鷹の聲である。
落葉松の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり
楢の木ぞ何にもならぬ醜の木と古りぬる木々をみな枯らしたり
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすすきほうけて光りたる枯木が原の啄木鳥の聲
枯るる木にわく蟲けらをついばむと啄木鳥は啼く此處の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の聲のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける聲のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の聲のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり來てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の聲あはれなり啼けるをとほく離り來りて
ずつと一本だけ續いて來た野中の路が不意に二つに分れる處に來た。小さな道標が立てゝある。曰く、右澤渡温泉道、左花敷温泉道。
枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかゝつた文字を辛うじて讀んでしまふと、私の頭にふらりと一つの追憶が來て浮んだ。そして思はず私は獨りごちた、「ほゝオ、斯んな處から行くのか、花敷温泉には」と。
私は先刻この野にかゝつてからずつと續いて來てゐる物靜かな沈んだ心の何とはなしに波だつのを覺えながら、暫くその小さな道標の木を見て立つてゐたが、K―君が早や四五間も澤渡道の方へ歩いてゐるのを見ると、其の儘に同君のあとを追うた。そして小一町も二人して默りながら進んだ。が、終には私は彼を呼びとめた。
「K―君、どうだ、これから一つあつちの路を行つて見ようぢやアないか。そして今夜その花敷温泉といふのへ泊つて見よう。」
不思議な顏をして立ち留つた彼に、私は立ちながらいま頭に影の如くに來て浮んだといふ花敷温泉に就いての思ひ出を語つた。三四年も前である。今度とは反對に吾妻川の下流の方から登つて草津温泉に泊り、案内者を雇うて白根山の噴火口の近くを廻り、澁峠を越えて信州の澁温泉へ出た事がある。五月であつたが白根も澁も雪が深くて、澁峠にかゝると前後三里がほどはずつと深さ數尺の雪を踏んで歩いたのであつた。その雪の上に立ちながら年老いた案内者が、やはり白根の裾つゞきの廣大な麓の一部を指して、彼處にも一つ温泉がある、高い崖の眞下の岩のくぼみに湧き、草津と違つて湯が澄み透つて居る故に、その崖に咲く躑躅や其の他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いてゐる樣だから花敷温泉といふのだ、と言つて教へて呉れた事があつた。下になるだけ雪が斑らになつてゐる遠い麓に、谷でも流れてゐるか、丁度模型地圖を見るとおなじく幾つとない細長い窪みが、絲屑を散らした樣にこんがらがつてゐる中の一個所にそんな温泉があると聞いて私の好奇心はひどく動いた。第一、そんなところに人が住んで、そんな湯に浸つてゐるといふ事が不思議に思はれたほど、その時其處を遙かな世離れた處に眺めたものであつたのだ。それがいま思ひがけなく眼の前の棒杭に「左花敷温泉道、是より二里半」と認めてあるのである。
「どうだね、君行つて見ようよ、二度とこの道を通りもすまいし、……その不思議な温泉をも見ずにしまふ事になるぢやアないか。」
その話に私と同じく心を動かしたらしい彼は、一も二もなく私のこの提議に應じた。そして少し後戻つて、再びよく道標の文字を調べながら文字のさし示す方角へ曲つて行つた。
今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた。立枯の楢がつゞき、をり〳〵栗の木も混つて毬と共に笑みわれたその實を根がたに落してゐた。
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の實
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の實の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗となりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野猪も出でぬか猿もゐぬか栗美しう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其處を越ゆると片側はうす暗い森林となつてゐた。そしてそれが一面の紅葉の渦を卷いてゐるのであつた。北側の、日のさゝぬ其處の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもゐるかと思はるゝ色深いものであつた。然し、途中でやゝこの思ひ立ちの後悔せらるゝほど路は遠かつた。一つの溪流に沿うて峽間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登つて行つた。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村といふのには小學校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄つた先生が二十人ほどの生徒に體操を教へてゐた。
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の學校に
ひたひたと土踏み鳴らし眞裸足に先生は教ふその體操を
先生の頭の禿もたふとけれ此處に死なむと教ふるならめ
遙か眞下に白々とした谷の瀬々を見下しながらなほ急いでゐると、漸くそれらしい二三軒の家を谷の向岸に見出だした。こごしい岩山の根に貼り着けられた樣に小さな家が竝んでゐるのである。
崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入つて先づ湯を訊くと、庭さきを流れてゐる溪流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るといふ。不思議に思ひながら借下駄を提げて一二丁ほど行つて見ると、其處には今まで我等の見下して來た谷とはまた異つた一つの谷が、折り疊んだ樣な岩山の裂け目から流れ出して來てゐるのであつた。ひた〳〵と瀬につきさうな危い板橋を渡つてみると、なるほど其處の切りそいだ樣な崖の根に湯が湛へてゐた。相竝んで二個所に湧いてゐる。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。
相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄つて手を浸してみると恰好な温度である。もう日も晷つた山蔭の溪ばたの風を恐れながらも着物を脱いで石の上に置き、ひつそりと清らかなその湯の中へうち浸つた。一寸立つて手を延ばせば溪の瀬に指が屆くのである。
「何だか溪まで温かさうに見えますね。」と年若い友は言ひながら手をさし延ばしたが、慌てゝ引つ込めて「氷の樣だ。」と言つて笑つた。
溪向うもそゝり立つた岩の崖、うしろを仰げば更に膽も冷ゆべき斷崖がのしかゝつてゐる。崖から眞横にいろ〳〵な灌木が枝を張つて生ひ出で、大方散りつくした紅葉がなほ僅かにその小枝に名殘をとゞめてゐる。それが一ひら二ひらと絶え間まなく我等の上に散つて來る。見れば其處に一二羽の樫鳥が遊んでゐるのであつた。
眞裸體になるとはしつつ覺束な此處の温泉に屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り來いで湯のなかに
樫鳥が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り來わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
夜に入ると思ひかけぬ烈しい木枯が吹き立つた。背戸の山木の騷ぐ音、雨戸のはためき、庭さきの瀬々のひゞき、枕もとに吊られた洋燈の燈影もたえずまたゝいて、眠り難い一夜であつた。
十月二十日
未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其處を立ち出でた。驚いたのはその、足もとに斑らに雪の落ちてゐることであつた。慌てゝ四邊を見廻すと昨夜眠つた宿屋の裏の崖山が斑々として白い。更に遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたをちこちの峰から峰が眞白に輝いてゐる。
ひと夜寢てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
起き出でて見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ峽間の路にはだら雪積み
上野と越後の國のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは檜の森の黒木の山に降れる故にぞ
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
昨日の通りに路を急いでやがてひろ〴〵とした枯芒の原、立枯の楢の打續いた暮坂峠の大きな澤に出た。峠を越えて約三里、正午近く澤渡温泉に着き、正榮館といふのゝ三階に上つた。此處は珍しくも双方に窪地を持つた樣な、小高い峠に湯が湧いてゐるのであつた。無色無臭、温泉もよく、いゝ湯であつた。此處に此の儘泊らうか、もう三四里を歩いて四萬温泉へ廻らうか、それとも直ぐ中之條へ出て伊香保まで延ばさうかと二人していろ〳〵に迷つたが、終に四萬へ行くことにきめて、晝飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。
私は此處で順序として四萬温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもふ。いかにも不快な印象を其處の温泉宿から受けたからである。我等の入つて行つたのは、といふより馬車から降りるとすぐ其處に立つてゐた二人の男に誘はれて行つたのは田村旅館といふのであつた。馬車から降りた道を眞直ぐに入つてゆく宏大な構への家であつた。
とろ〳〵と登つてやがてその庭らしい處へ着くと一人の宿屋の男は訊いた。
「ヱヽ、どの位ゐの御滯在の御豫定でいらつしやいますか。」
「いゝや、一泊だ、初めてゞ、見物に來たのだ。」
と答へると彼等はにたりと笑つて顏を見合せた。そしてその男はいま一人の男に馬車から降りた時強ひて私の手から受取つて來た小荷物を押しつけながら早口に言つた。
「一泊だとよ、何の何番に御案内しな。」
さう言ひ捨てゝおいて今一組の商人態の二人連に同じ樣な事を訊き、滯在と聞くや小腰をかゞめて向つて左手の溪に面した方の新しい建築へ連れて行つた。
我等と共に殘された一人の男はまざ〳〵と當惑と苦笑とを顏に表して立つてゐたが、
「ではこちらへ。」
と我等をその反對の見るからに古びた一棟の方へ導かうとした。私は呼び留めた。
「イヤ僕等は見物に來たので、出來るならいゝ座敷に通して貰ひ度い、たゞ一晩の事だから。」
「へ、承知しました、どうぞこちらへ。」
案のごとくにひどい部屋であつた。小學校の修學旅行の泊りさうな、幾間か打ち續いた一室でしかも間の唐紙なども滿足には締つてゐない部屋であつた。疊、火鉢、座蒲團、すべてこれに相應したものゝみであつた。
私は諦めてその火鉢の側に腰をおろしたが、K―君はまだ洋傘を持つたまゝ立つてゐた。
「先生、移りませう、馬車を降りたツイ横にいゝ宿屋があつた樣です。」
人一倍無口で穩かなこの青年が、明かに怒りを聲に表はして言ひ出した。
私もそれを思はないではなかつたが、移つて行つてまたこれと同じい待遇を受けたならそれこそ更に不快に相違ない。
「止さうよ、これが土地の風かも知れないから。」
となだめて、急いで彼を湯に誘つた。
この分では私には夕餉の膳の上が氣遣はれた。で、定つた物のほかに二品ほど附ける樣にと註文し、酒の事で氣を揉むのを慮つて豫じめ二三本の徳利を取り寄せ自分で燗をすることにしておいた。
やがて十五六歳の小僧が岡持で二品づつの料理を持つて來た。受取つて箸をつけてゐると小僧は其處につき坐つたまゝ、
「代金を戴きます。」
といふ。
「代金?」
と私は審つた。
「宿料かい?」
「いゝえ、そのお料理だけです。よそから持つて來たのですから。」
思はず私はK―君の顏を見て噴き出した。
「オヤ〳〵君、これは一泊者のせゐのみではなかつたのだよ、懷中を踏まれたよ」
十月廿一日
朝、縁に腰かけて草鞋を穿いてゐても誰一人聲をかける者もなかつた。帳場から見て見ぬ振である。もつとも私も一錢をも置かなかつた。旅といへば樂しいもの難有いものと思ひ込んでゐる私は出來るだけその心を深く味はひたいために不自由の中から大抵の處では多少の心づけを帳場なり召使たちなりに渡さずに出た事はないのだが、斯うまでも挑戰状態で出て來られると、さういふ事をしてゐる心の餘裕がなかつたのである。
面白いのは犬であつた。草鞋を穿いてゐるツイ側に三疋の仔犬を連れた大きな犬が遊んでゐた。そしてその仔犬たちは私の手許にとんで來てじやれついた。頭を撫でてやつてゐると親犬までやつて來て私の額や頬に身體をすりつける。やがて立ち上つて門さきを出離れ、何の氣なくうしろを振返ると、その大きな犬が私のうしろについて歩いてゐる。仔犬も門の處まで出ては來たがそれからはよう來ぬらしく、尾を振りながらぴつたり三疋引き添うてこちらを見て立つてゐる。
「犬は犬好きの人を知つてるといふが、ほんたうですね。」
と、幾度追つても私の側を離れない犬を見ながらK―君が言つた。
「とんだ見送がついた、この方がよつぽど正直かも知れない。」
私も笑ひながら犬を撫でて、
「少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此處まで來ないで澤渡にあのまゝ泊つておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……。」
「それにしても昨夜はひどかつたですネ、あんな目に私初めて遭ひました。」
「さうかネ、僕なんか玄關拂を喰つた事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の氣風を表はしてゐるのかも知れない。ソレ上州には伊香保があり草津があるでせう、それに近頃よく四萬々々といふ樣になつたものだから四萬先生すつかり草津伊香保と肩を竝べ得たつもりになつて鼻息が荒い傾向があるのだらうと思ふ。謂はゞ一種の成金氣分だネ。」
「さう云へば彼處の湯に入つてる客たちだつてそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く處に行つていたんぢやア入湯の氣持はせぬ、朝晩は何だ彼だとかゝつて來てうるさくて仕樣がない、なんて。」
「とにかく幻滅だつた、僕は四萬と聞くとずつと溪間の、靜かなおちついた處とばかり思つてゐたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその樣に聞いてゐたし……、惜しい事をした。」
路には霜が深かつた。峰から辷つた朝日の光が溪間の紅葉に映つて、次第にまた濁りのない旅心地になつて來た。そして石を投げて辛うじて犬をば追ひ返した。不思議さうに立つて見てゐたが、やがて尾を垂れて歸つて行つた。
十一時前中之條着、折よく電車の出る處だつたので直ぐ乘車、日に輝いた吾妻川に沿うて走る。この川は數日前に嬬戀村の宿屋の窓から雨の中に佗しく眺めた溪流のすゑであるのだ。澁川に正午に着いた。東京行沼田行とそれ〴〵の時間を調べておいて驛前の小料理屋に入つた。此處で別れてK―君は東京へ歸り私は沼田の方へ入り込むのである。
看板に出てゐた川魚は何も無かつた。鷄をとり、うどんをとつて別杯を擧げた。輕井澤での不圖した言葉がもとになつて思ひも寄らぬ處を兩人して歩いて來たのだ。時間から云へば僅かだが、何だか遠く幾山河を越えて來た樣なおもひが、盃の重なるにつれて湧いて來た。午後三時、私の方が十分間早く發車する事になつた。手を握つて別れる。
澁川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走るのである。その電車が二度ほども長い停電をしたりして、沼田町に着いたのは七時半であつた。指さきなど、痛むまでに寒かつた。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になつてゐた郵便物を受取つた。局の事務員が顏を出して、今夜何處へ泊るかと訊く。變に思ひながら澁川で聞いて來た宿屋の名を思ひ出して、その旨を答へると、さうですかと小さな窓を閉めた。
宿屋の名は鳴瀧と云つた。風呂から出て一二杯飮みかけてゐると、來客だといふ。郵便局の人かと訊くと、さうではないといふ。不思議に思ひながらも餘りに疲れてゐたので、明朝來て呉れと斷つた。實際K―君と別れてから急に私は烈しい疲勞を覺えてゐたのだ。然し矢張り氣が濟まぬので自分で玄關まで出て呼び留めて部屋に招じた。四人連の青年たちであつた。矢張り郵便局からの通知で、私の此處にゐるのを知つたのださうだ。そして、
「いま自轉車を走らせましたから迫つ附けU―君も此處へ見えます。」
といふ。
「アヽ、さうですか。」
と答へながら、矢つ張り呼び留めてよかつたと思つた。U―君もまた創作社の社友の一人であるのだ。この群馬縣利根郡からその結社に入つてゐる人が三人ある事を出立の時に調べて、それぞれの村をも地圖で見て來たのであつた。そして都合好くばそれ〴〵に逢つて行きたいものと思つてゐたのだ。
「それは難有う。然しU―君の村は此處から遠いでせう。」
「なアに、一里位ゐのものです。」
一里の夜道は大變だと思つた。
やがてそのU―君が村の俳人B―君を伴れてやつて來た。もう少しませた人だとその歌から想像してゐたのに反してまだ紅顏の青年であつた。
歌の話、俳句の話、土地の話が十一時過ぎまで續いた。そしてそれ〴〵に歸つて行つた。村までは大變だらうからと留めたけれど、U―君たちも元氣よく歸つて行つた。
十月廿二日
今日もよく晴れてゐた。嬬戀以來實によく晴れて呉れるのだ。四時から強ひて眼を覺まして床の中で幾通かの手紙の返事を書き、五時起床、六時過ぎに飯をたべてゐると、U―君がにこ〳〵しながら入つて來た。自宅でもいゝつて言ひますから今日はお伴させて下さい、といふ。それはよかつたと私も思つた。今日はこれから九里の山奧、越後境三國峠の中腹に在る法師温泉まで行く事になつてゐたのだ。
私は河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其處にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な處に出會ふと、胸の苦しくなる樣な歡びを覺えるのが常であつた。
矢張りそんなところから大正七年の秋に、ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようとこの利根の峽谷に入り込んで來たことがあつた。沼田から次第に奧に入つて、矢張り越後境の清水越の根に當つてゐる湯檜曾といふのまで辿り着いた。そして其處から更に藤原郷といふのへ入り込むつもりであつたのだが、時季が少し遲れて、もうその邊にも斑らに雪が來てをり、奧の方には眞白妙に輝いた山の竝んでゐるのを見ると、流石に心細くなつて湯檜曾から引返した事があつた。然しその湯檜曾の邊でも、銚子の河口であれだけの幅を持つた利根が石から石を飛んで徒渉出來る愛らしい姿になつてゐるのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍つてその石から石を飛んで歩いたものであつた。そしていつかお前の方まで分け入るぞよと輝き渡る藤原郷の奧山を望んで思つたものであつた。
藤原郷の方から來たのに清水越の山から流れ出して來た一支流が湯檜曾のはづれで落ち合つて利根川の溪流となり沼田の少し手前で赤谷川を入れ、やゝ下つた處で片品川を合せる。そして漸く一個の川らしい姿になつて更に澁川で吾妻川を合せ、此處で初めて大利根の大觀をなすのである。吾妻川の上流をば曾つて信州の方から越えて來て探つた事がある。片品川の奧に分け入らうと云ふのは實は今度の旅の眼目であつた。そして今日これから行かうとしてゐるのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋といふ橋の近くで利根川に落ちて來てゐる赤谷川の源流の方に入つて行つて見度いためであつた。その殆んどつめになつた處に法師温泉はある筈である。
讀者よ、試みに參謀本部五萬分の一の地圖「四萬」の部を開いて見給へ。眞黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中に唯だ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符號の記入せられてゐるのを、少なからぬ困難の末に發見するであらう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた讀者よ、その少し手前、沼田の方角に近い處に視線を落して來るならば其處に「猿ヶ京村」といふ不思議な名の部落のあるのを見るであらう。私は初め參謀本部のものに據らず他の府縣別の簡單なものを開いて見てこの猿ヶ京村を見出し、サテも斯んな處に村があり、斯んな處にも歌を詠まうと志してゐる人がゐるのかと、少なからず驚嘆したのであつた。先に利根郡に我等の社中の同志が三人ある旨を言つた。その三人の一人は今日一緒に歩かうといふU―君で、他の二人は實にこの猿ヶ京村の人たちであるのである。
月夜野橋に到る間に私は土地の義民磔茂左衞門の話を聞いた。徳川時代寛文年間に沼田の城主眞田伊賀守が異常なる虐政を行つた。領内利根吾妻勢多三郡百七十七箇村に檢地を行ひ、元高三萬石を十四萬四千餘石に改め、川役網役山手役井戸役窓役産毛役等(窓を一つ設くれば即ち課税し、出産すれば課税するの意)の雜役を設け終に婚禮にまで税を課すに至つた。納期には各村に代官を派遣し、滯納する者があれば家宅を搜索して農産物の種子まで取上げ、なほ不足ならば人質を取つて皆納するまで水牢に入るゝ等の事を行つた。この暴虐に泣く百七十七箇村の民を見るに見兼ねて身を抽んでて江戸に出で酒井雅樂守の登城先に駕訴をしたのがこの月夜野村の百姓茂左衞門であつた。けれどその駕訴は受けられなかつた。其處で彼は更に或る奇策を案じて具さに伊賀守の虐政を認めた訴状を上野寛永寺なる輪王寺宮に奉つた。幸に宮から幕府へ傳達せられ、時の將軍綱吉も驚いて沼田領の實際を探つて見ると果して訴状の通りであつたので直ちに領地を取上げ伊賀守をば羽後山形の奧平家へ預けてしまつた。茂左衞門はそれまで他國に姿を隱して形勢を見てゐたが、斯く願ひの叶つたのを知ると潔く自首するつもりで乞食に身をやつして郷里に歸り僅かに一夜その家へ入つて妻と別離を惜み、明方出かけようとしたところを捕へられた。そしていま月夜野橋の架つてゐるツイ下の川原で磔刑に處せられた。しかも罪ない妻まで打首となつた。漸く蘇生の思ひをした百七十七箇村の百姓たちはやれ〳〵と安堵する間もなく茂左衞門の捕へられたを聞いて大いに驚き悲しみ、總代を出して幕府に歎願せしめた。幕府も特に評議の上これを許して、茂左衞門赦免の上使を遣はしたのであつたが、時僅かに遲れ、井戸上村まで來ると處刑濟の報に接したのであつたさうだ。
舊沼田領の人々はそれを聞いていよ〳〵悲しみ、刑場蹟に地藏尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は更に月夜野村に一佛堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と稱へたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかつた。が、次第にその御堂も荒頽して來たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地藏尊を本尊として其處に安置する事になつた。
斯うした話をU―君から聞きながら私は彼の佐倉宗吾の事を思ひ出してゐた。事情が全く同じだからである。而して一は大いに表はれ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。さう思ひながらこの勇敢な、氣の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU―君にそのお堂へ參詣したい旨を告げた。
月夜野橋を渡ると直ぐ取つ着きの岡の上に御堂はあつた。田舍にある堂宇としては實に立派な壯大なものであつた。そしてその前まで登つて行つて驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあつたからである。そして附近には唯だ雀が遊んでゐるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の仕事に就く前に一人々々此處にこの香を捧げて行つたものなのである。一日として斯うない事はないのださうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衞門を思ひ、茂左衞門に對する百姓たちの心を思ひ瞼の熱くなるのを感じた。
堂のうしろの落葉を敷いて暫く休んだ。傍らに同じく腰をおろしてゐた年若い友は不圖何か思か出した樣に立ち上つたが、やがて私をも立ち上らせて對岸の岡つゞきになつてゐる村落を指ざしながら、
「ソレ、あそこに日の當つてゐる村がありませう。あの村の中ほどにやゝ大きな藁葺の屋根が見えませう、あれが高橋お傳の生れた家です。」
これはまた意外であつた。聞けば同君の祖母はお傳の遊び友達であつたといふ。
「今日これから行く途中に鹽原太助の生れた家も、墓もありますよ。」
と、なほ笑ひながら彼は附け加へた。
月夜野村は村とは云へ、古めかしい宿場の形をなしてゐた。昔は此處が赤谷川流域の主都であつたものであらう。宿を通り拔けると道は赤谷川に沿うた。
この邊、赤谷川の眺めは非常によかつた。十間から二三十間に及ぶ高さの岸が、楯を並べた樣に並び立つた上に、かなり老木の赤松がずらりと林をなして茂つてゐるのである。三町、五町、十町とその眺めは續いた。松の下草には雜木の紅葉が油繪具をこぼした樣に散らばり、大きく露出した岩の根には微かな青みを宿した清水が瀬をなし淵を作つて流れてゐるのである。
登るともない登りを七時間ばかり登り續けた頃、我等は氣にしてゐた猿ヶ京村の入口にかゝつた。其處も南に谷を控へた坂なりの道ばたにちらほらと家が續いてゐた。中に一軒、古びた煤けた屋根の修繕をしてゐる家があつた。丁度小休みの時間らしく、二三の人が腰をおろして煙草を喫つてゐた。
「ア、さうですか、それは……。」
私の尋ねに應じて一人がわざ〳〵立上つて煙管で方角を指しながら、道から折れた山の根がたの方に我等の尋ぬるM―君の家の在る事を教へて呉れた。街道から曲り、細い坂を少し登つてゆくと、傾斜を帶びた山畑が其處に開けてゐた。四五町も畦道を登つたけれども、それらしい家が見當らない。桑や粟の畑が日に乾いてゐるばかりである。幸ひ畑中に一人の百姓が働いてゐた。其處へ歩み寄つてやゝ遠くから聲をかけた。
「ア、M―さんの家ですか。」
百姓は自分から頬かむりをとつて、私たちの方へ歩いて來た。そして、畑に挾まれた一つの澤を越し、渡りあがつた向うの山蔭の杉木立の中に在る旨を教へて呉れた。それも道を傳つて行つたのでは廻りになる故、其處の畑の中を通りぬけて……とゆびざししながら教へようとして、
「アツ、其處に來ますよ、M―さんが。」
と、叫んだ。囚人などの冠る樣な編笠をかぶり、辛うじて尻を被ふほどの短い袖無半纏を着、股引を穿いた、老人とも若者ともつかぬ男が其處の澤から登つて來た。そして我等が彼を見詰めて立つてゐるのを不思議さうに見やりながら近づいて來た。
「君はM―君ですか。」
斯う私が呼びかけると、ぢつと私の顏を見詰めたが、やがて合點が行つたらしく、ハツとした風で其處に立ち留つた。そして笠をとつてお辭儀をした。斯うして向き合つて見ると、彼もまだ三十前の青年であつたのである。
私が上州利根郡の方に行く事をば我等の間で出してゐる雜誌で彼も見てゐた筈である。然し、斯うして彼の郷里まで入り込んで來ようとは思ひがけなかつたらしい。驚いたあまりか、彼は其處に突立つたまゝ殆んど言葉を出さなかつた。路を教へて呉れた百姓も頬かむりの手拭を握つたまゝ、ぼんやり其處に立つてゐるのである。私は昨夜沼田に着いた事、一緒にゐるのが沼田在の同志U―君である事、これから法師温泉まで行かうとしてゐる事、一寸でも逢つてゆきたくて立ち寄つた事などを説明した。
「どうぞ、私の家へお出で下さい。」
と漸く色々の意味が飮み込めたらしく彼は安心した風に我等を誘つた。なるほど、ツイ手近に來てゐながら見出せないのも道理なほどの山の蔭に彼の家はあつた。一軒家か、乃至は、其處らに一二軒の隣家を持つか、兎に角に深い杉の木立が四邊を圍み、濕つた庭には杉の落葉が一面に散り敷いてゐた。大きな圍爐裡端には彼の老母が坐つてゐた。
お茶や松茸の味噌漬が出た。私は圍爐裡に近く腰をかけながら、
「君は何處で歌を作るのです、此處ですか。」
と、赤々と火の燃えさかる爐端を指した。土間にも、座敷にも、農具が散らかつてゐるのみで書籍も机らしいものも其處らに見えなかつた。
「さア……。」
羞しさうに彼は口籠つたが、
「何處といふ事もありません、山でゝも野良でゝも作ります。」
と、僅かに答へた。私が彼の歌を見始めてから五六年はたつであらう。幼い文字、幼い詠みかた、それらがM―といふ名前と共にすぐ私の頭に思ひ浮べらるゝほど、特色のある歌を彼は作つてゐるのであつた。
收穫時の忙しさを思ひながらも同行を勸めて見た。暫く默つて考へてゐたが、やがて母に耳打して奧へ入ると着物を着換へて出て來た。三人連になつて我等はその杉木立の家を立ち出でた。恐らく二度とは訪ねられないであらうその杉叢が、そゞろに私には振返へられた。時計は午後三時をすぎてゐた。法師までなほ三里、よほどこれから急がねばならぬ。
猿ヶ京村でのいま一人の同志H―君の事をM―君から聞いた。土地の郵便局の息子で、今折惡しく仙臺の方へ行つてゐる事などを。やがてその郵便局の前に來たので私は一寸立寄つてその父親に言葉をかけた。その人はゐないでも、矢張り默つて通られぬ思ひがしたのであつた。
石や岩のあらはに出てゐる村なかの路には煙草の葉がをりをり落ちてゐた。見れば路に沿うた家の壁には悉くこれが掛け乾されてゐるのであつた。此の頃漸く切り取つたらしく、まだ生々しいものであつた。
吹路といふ急坂を登り切つた頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでゐると、をり〳〵路ばたの畑で稗や粟を刈つてゐる人を見た。この邊では斯ういふものしか出來ぬのださうである。從つて百姓たちの常食も大概これに限られてゐるといふ。かすかな夕日を受けて咲いてゐる煙草の花も眼についた。小走りに走つて急いだのであつたが、終に全く暮れてしまつた。山の中の一すぢ路を三人引つ添うて這ふ樣にして辿つた。そして、峰々の上の夕空に星が輝き、相迫つた峽間の奧の闇の深い中に温泉宿の燈影を見出した時は、三人は思はず大きな聲を上げたのであつた。
がらんどうな大きな二階の一室に通され、先づ何よりもと湯殿へ急いだ。そしてその廣いのと湯の豐かなのとに驚いた。十疊敷よりもつと廣からうと思はるゝ湯槽が二つ、それに滿々と湯が湛へてゐるのである。そして、下には頭大の石ころが敷いてあつた。乏しい灯影の下にづぶりつと浸りながら、三人は唯だてんでに微笑を含んだまゝ、殆んどだんまりの儘の永い時間を過した。のび〳〵と手足を伸ばすもあり、蛙の樣に浮んで泳ぎの形を爲すものもあつた。
部屋に歸ると炭火が山の樣におこしてあつた。なるほど山の夜の寒さは湯あがりの後の身體に浸みて來た。何しろ今夜は飮みませうと、豐かに酒をば取り寄せた。罐詰をも一つ二つと切らせた。U―君は十九か廿歳、M―君は廿六七、その二人のがつしりとした山國人の體格を見、明るい顏を見てゐると私は何かしら嬉しくて、飮めよ喰べよと無理にも強ひずにはゐられぬ氣持になつてゐたのである。
其處へ一升壜を提げた、見知らぬ若者がまた二人入つて來た。一人はK―君といふ人で、今日我等の通つて來た鹽原太助の生れたといふ村の人であつた。一人は沼田の人で、阿米利加に五年行つてゐたといふ畫家であつた。畫家を訪ねて沼田へ行つてゐたK―君は、其處の本屋で私が今日この法師へ登つたといふ事を聞き、畫家を誘つて、あとを追つて來たのださうだ。そして懷中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口繪の肖像と私とを見比べながら、
「矢張り本物に違ひはありませんねヱ。」
と言つて驚くほど大きな聲で笑つた。
十月廿三日
うす闇の殘つてゐる午前五時、昨夜の草鞋のまだ濕つてゐるのを穿きしめてその溪間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えてゐる空の光にも土地の高みが感ぜられて、自づと肌寒い。K―君たち二人はけふ一日遊んでゆくのださうだ。
吹路の急坂にかゝつた時であつた。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作つて登つて來るのに出會つた。眞先の一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして各自に大きな紺の風呂敷包を背負つてゐる。訊けばこれが有名な越後の瞽女である相だ。收穫前の一寸した農閑期を狙つて稼ぎに出て來て、雪の來る少し前に斯うして歸つてゆくのだといふ。
「法師泊りでせうから、これが昨夜だつたら三味や唄が聞かれたのでしたがね。」
とM―君が笑つた。それを聞きながら私はフツと或る事を思ひついたが、ひそかに苦笑して默つてしまつた。宿屋で聞かうよりこのまゝこの山路で呼びとめて彼等に唄はせて見たかつた。然し、さういふ事をするには二人の同伴者が餘りに善良な青年である事にも氣がついたのだ。驚いた事にはその三々五々の組が二三町の間も續いた。すべてゞ三十人はゐたであらう。落葉の上に彼等を坐らせ、その一人二人に三味を掻き鳴らさせたならば、蓋し忘れ難い記憶になつたであらうものをと、そゞろに殘り惜しくも振返へられた。這ふ樣にして登つてゐる彼等の姿は、一町二町の間をおいて落葉した山の日向に續いて見えた。
猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で晝食をとつた。相迫つた斷崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め眞上に相生橋が仰がれた。相生橋は群馬縣で第二番目に高い橋だといふ事である。切り立つた斷崖の眞中どころに鎹の樣にして架つてゐる。高さ二十五間、欄干に倚つて下を見ると膽の冷ゆる思ひがした。しかもその兩岸の崖にはとり〴〵の雜木が鮮かに紅葉してゐるのであつた。
湯の宿温泉まで來ると私はひどく身體の疲勞を感じた。數日の歩きづめとこの一二晩の睡眠不足とのためである。其處で二人の青年に別れて、日はまだ高かつたが、一人だけ其處の宿屋に泊る事にした。もつともM―君は自分の村を行きすぎ其處まで見送つて來てくれたのであつた。U―君とは明日また沼田で逢ふ約束をした。
一人になると、一層疲勞が出て來た。で、一浴後直ちに床を延べて寢てしまつた。一時間も眠つたと思ふ頃、女中が來てあなたは若山といふ人ではないかと訊く。不思議に思ひながらさうだと答へると一枚の名刺を出して斯ういふ人が逢ひ度いと下に來てゐるといふ。見ると驚いた、昨日その留守宅に寄つて來たH―君であつた。仙臺からの歸途沼田の本屋に寄つて私達が一泊の豫定で法師に行つた事を聞き、ともすると途中で會ふかも知れぬと言はれて途々氣をつけて來た。そしてもう夕方ではあるし、ことによるとこの邊に泊つて居らるゝかも知れぬと立ち寄つて訊いてみた宿屋に偶然にも私が寢てゐたのだといふ。あまりの奇遇に我等は思はず知らずひしと兩手を握り合つた。
十月廿四日
H―君も元氣な青年であつた。昨夜、九時過ぎまで語り合つて、そして提灯をつけて三里ほどの山路を登つて歸つて行つた。今朝は私一人、矢張り朗らかに晴れた日ざしを浴びながら、ゆつくりと歩いて沼田町まで歸つて來た。打合せておいた通り、U―君が青池屋といふ宿屋で待つてゐた。そして昨夜の奇遇を聞いて彼も驚いた。彼はM―と初對面であつたと同じくH―をもまだ知らないのである。
夜、宿屋で歌會が開かれた。二三日前の夜訪ねて來た人たちを中心とした土地の文藝愛好家達で、歌會とは云つても專門に歌を作るといふ人々ではなかつた。みな相當の年輩の人たちで、私は彼等から土地の話を面白く聞く事が出來た。そして思はず酒をも過して閉會したのは午前一時であつた。法師で會つたK―君も夜更けて其處からやつて來た。この人たちは九里や十里の山路を歩くのを、ホンの隣家に行く氣でゐるらしい。
十月廿五日
昨夜の會の人達が町はづれまで送つて來て呉れた。U―、K―兩君だけは、もう少し歩きませうと更に半道ほど送つて來た。其處で別れかねてまた二里ほど歩いた。收穫前の忙しさを思つて、農家であるU―君をば其處から強ひて歸らせたが、K―君はいつそ此處まで來た事ゆゑ老神まで參りませうと、終に今夜の泊りの場所まで一緒に行く事になつた。宿屋の下駄を穿き、帽子もかぶらぬまゝの姿である。
路はずつと片品川の岸に沿うた。これは實は舊道であるのださうだが、故らに私はこれを選んだのであつた。さうして樂しんで來た片品川峽谷の眺めは矢張り私を落膽せしめなかつた。ことに岩室といふあたりから佳くなつた。山が深いため、紅葉はやゝ過ぎてゐたが、なほ到る處にその名殘を留めてしかも岩の露はれた嶮しい山、いたゞきかけて煙り渡つた落葉の森、それらの山の次第に迫り合つた深い底には必ず一つの溪が流れて瀧となり淵となり、やがてそれがまた隨所に落ち合つては眞白な瀬をなしてゐるのである。歩一歩と醉つた氣持になつた私は、歩みつ憩ひつ幾つかの歌を手帳に書きつけた。
きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも
木々の葉の染まれる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
歩みつつこころ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
わが急ぐ崖の眞下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
しめりたる紅葉がうへにわが落す煙草の灰は散りて眞白き
とり出でて吸へる煙草におのづから心は開けわが憩ふかも
岩蔭の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
苔むさぬこの荒溪の岩にゐて啼く鶺鴒あはれなるかも
高き橋此處にかかれりせまりあふ岩山の峽のせまりどころに
いま渡る橋はみじかし山峽の迫りきはまれる此處にかかりて
古りし欄干ほとほととわがうちたたき渡りゆくかもこの古橋を
いとほしきおもひこそ湧け岩山の峽にかかれるこの古橋に
老神温泉に着いた時は夜に入つてゐた。途中で用意した蝋燭をてんでに點して本道から温泉宿の在るといふ川端の方へ急な坂を降りて行つた。宿に入つて湯を訊くと、少し離れてゐてお氣の毒ですが、と言ひながら背の高い老婆が提灯を持つて先に立つた。どの宿にも内湯は無いと聞いてゐたので何の氣もなくその後に從つて戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異つたたいへんな處へ湯が湧いてゐるのであつた。手放しでは降りることも出來ぬ嶮しい崖の岩坂路を幾度か折れ曲つて辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を通る。その中洲の樣になつた川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いてゐるのだ。
這ひつ坐りつ、底には細かな砂の敷いてある湯の中に永い間浸つてゐた。いま我等が屋根の下に吊した提灯の灯がぼんやりとうす赤く明るみを持つてゐるだけで、四邊は油の樣な闇である。そして靜かにして居れば、疲れた身體にうち響きさうな荒瀬の音がツイ横手のところに起つて居る。やゝぬるいが、柔かな滑らかな湯であつた。屋根の下から出て見るとこまかな雨が降つてゐた。石の頭にぬぎすてゝおいた着物は早やしつとりと濡れてゐた。
註文しておいたとろゝ汁が出來てゐた。夕方釣つて來たといふ山魚の魚田も添へてあつた。折柄烈しく音を立てゝ降りそめた雨を聞きながら、火鉢を擁して手づから酒をあたゝめ始めた。
十月廿六日
起きて見ると、ひどい日和になつてゐる。
「困りましたネ、これでは立てませんネ。」
渦を卷いて狂つてゐる雨風や、ツイ溪向うの山腹に生れつ消えつして走つてゐる霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滯在ときめて漸くいゝ氣持に醉ひかけて來ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。
「オヤ〳〵、晴れますよ。」
さう言ふとK―君は飛び出して番傘を買つて來た。私もそれに頼んで大きな油紙を買つた。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに兩手の出る樣にして、くる〳〵と油紙と紐とで包んでしまつた。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさゝずとも間に合ふ用意をして、宿を立ち出でた。そして程なく、雨風のまだ全くをさまらぬ路ばたに立つてK―君と別れた。彼はこれから沼田へ、更に自分の村下新田まで歸つてゆくのである。
獨りになつてひた急ぐ途中に吹割の瀧といふのがあつた。長さ四五町幅三町ほど、極めて平滑な川床の岩の上を、初め二三町が間、辛うじて足の甲を潤す深さで一帶に流れて來た水が或る場所に及んで次第に一箇所の岩の窪みに淺い瀬を立てゝ集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集つた川全體の水は、まるで生絲の大きな束を幾十百綟ぢ集めた樣に、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るゝ事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵となつて青み湛へてゐるのである。淵の上にはこの數日見馴れて來た嶮崖が散り殘りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の淺瀬が岩を掩うて流れてゐるのはすが〳〵しい眺めであつた。それが集るともなく一ところに集り、やがて凄じい渦となつて底深い岩の龜裂の間を轟き流れてゆく。岩の間から迸り出た水は直ぐ其處に湛へて、靜かな深みとなり、眞上の岩山の影を宿してゐる。土地の自慢であるだけ、珍しい瀧ではあつた。
吹割の瀧を過ぎるころから雨は霽れてやがて澄み切つた晩秋の空となつた。片品川の流は次第に瘠せ、それに沿うて登る路も漸く細くなつた。須賀川から鎌田村あたりにかゝると四邊の眺めがいかにも高い高原の趣きを帶びて來た。白々と流れてゐる溪を遙かの下に眺めて辿つてゆくその高みの路ばたはおほく桑畑となつてゐた。その桑が普通見る樣に年々に根もとから伐るのでなく、幹は伸びるに任せておいて僅かに枝先を刈り取るものなので、一抱へに近い樣な大きな木が畑一面に立ち並んでゐるのである。老梅などに見る樣に半ばは幹の朽ちてゐるものもあつた。その大きな桑の木の立ち竝んだ根がたにはおほく大豆が植ゑてあつた。既に拔き終つたのが多かつたが、稀には黄いろい桑の落葉の中にかゞんで、枯れ果てたそれを拔いてゐる男女の姿を見ることがあつた。土地が高いだけ、冬枯れはてた木立の間に見るだけに、その姿がいかにも佗しいものに眺められた。
そろ〳〵暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家C―を訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。
村を過ぎると路はまた峽谷に入つた。落葉を踏んで小走りに急いでゐると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望の夜近い大きな月の照りそめてゐるのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になつてゐる宿屋まで辿り着くことが出來た。
此處もまた極めて原始的な湯であつた。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちてゐた。湯から出て、眞赤な炭火の山盛りになつた圍爐裡端に坐りながら、何は兎もあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いといふ。驚き慌てゝ何處か近くから買つて來て貰へまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹づれで飛び出したが、やがて空手で歸つて來た。更に財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走つて貰つた。
心細く待ち焦れてゐると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでゐる頭に、この氣まぐれな山の時雨がいかにも異樣に、佗しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れてゐる溪川の音とに耳を澄ましてゐるところへぐしよ濡れになつて十二と八歳の兄と妹とが歸つて來た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄額に大きな壜を取り出して私に渡した。
十月廿七日
宿屋に酒の無かつた事や、月は射しながら烈しい雨の降つた事がびどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇ふこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飮み代でもある酒を買つて來て貰ふことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであつたが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其處に浸つてゐた。顏の蒼い、眼の瞼しい四十男であつた。
昨夜の時雨が其の儘に氷つたかと思はるゝばかりに、路には霜が深かつた。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでゐた。溪に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折の嶮しい坂にかゝつた。それと共に四邊はひし〳〵と立ち込んだ深い森となつた。
登るにつれてその森の深さがいよ〳〵明かになつた。自分等のいま登りつゝある山を中心にして、それを圍む四周の山が悉くぎつしりと立ち込んだ密林となつてゐるのである。案内人は語つた。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である。平地に均らして五里四方の上に出てゐる。そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙會社に賣り渡した。代價四十四萬圓、伐採期間四十五箇年間、一年に一萬圓づつ伐り出す割に當り、現にこの邊に入り込んで伐り出しに從事してゐる人夫が百二三十人に及んでゐる事などを。
なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の樣にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでゐた。そしてをり〳〵溪向うの山腹に大風の通る樣な音を立てゝ大きな樹木の倒るゝのが見えた。それと共に人夫たちの擧げる叫び聲も聞えた。或る人夫小屋の側を通らうとして不圖立ち停つた案内人が、
「ハハア、これだナ。」
と呟くので立ち寄つて見ると其處には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあつた。
「これは旦那、楓の木ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいつて評判になつてるんですがネ、……なるほど、いゝ木理だ。」
撫でつ叩きつして暫く彼は其處に立つてゐた。
「山が深いから珍しい木も澤山あるだらうネ。」
私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何處とかから途方もねえ黒檜が出たつて云ひますがネ、みんな人夫頭の飮代になるんですよ、會社の人たちア知りやしませんや。」
と嘲笑ふ樣に言ひ捨てた。
坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の廣やかな澤に入つた。澤の平地には見る限り落葉樹が立つてゐた。これは楢でこれが山毛欅だと平常から見知つてゐる筈の樹木を指されても到底信ずることの出來ぬほど、形の變つた巨大な老木ばかりであつた。そしてそれらの根がたに堆く積つて居る落葉を見れば、なるほど見馴れた楢の葉であり、山毛欅の葉であつた。
「これが橡、あれが桂、惡ダラ、澤胡桃、アサヒ、ハナ、ウリノ木……。」
事ごとに眼を見張る私を笑ひながら、初め不氣味な男だと思つた案内人は行く〳〵種々の樹木の名を倦みもせずに教へて呉れた。それから不思議な樹木の悉くが落葉しはてた中に、をり〳〵輝くばかりの楓の老木の紅葉してゐるのを見た。おほかたはもう散り果てゝゐるのであるが、極めて稀にさうした楓が、白茶けた他の枯木立の中に立混つてゐるのであつた。
そして眼を擧げて見ると澤を圍む遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり眞黒に茂り入つた黒木の山であつた。常磐木の森であつた。
「樅、栂、檜、唐繪、黒檜、……、……。」
と案内人はそれらの森の木を數へた。それらの峰の立並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穗を見て聳えてゐるのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかつた。
下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
時知らず此處に生ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも
散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてて雪のごと見ゆ
わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が嶽の岩山は見ゆ
遲れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木が中に
枯木なす冬木の林ゆきゆきて行きあへる紅葉にこころ躍らす
この澤をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ
墨色に澄める黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
澤を行き盡すと其處に端然として澄み湛へた一つの沼があつた。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ續いた火山湖のうちの大尻沼がそれであつた。水の飽くまでも澄んでゐるのと、それを圍む四邊の山が墨色をしてうち茂つた黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしてゐるのであつた。
その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて靜かに水の上に浮んでゐたのである。思はず立ち停つて瞳を凝らしたが、時を經ても彼等はまひ立たうとしなかつた。路ばたの落葉を敷いて飽くことなく私はその靜かな姿に見入つた。
登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅黒檜黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸邊なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと靜けしと見つつこころかなしも
山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の廣みに
鴨居りて水の面あかるき山かげの沼のさなかに水皺寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて靜かなるかも鴨鳥の群
おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つつかなしも
風たてば沼の隈囘のかたよりに寄りてあそべり鴨島の群
さらに私を驚かしたものがあつた。私たちの坐つてゐる路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずつと茂り續いてゐるのが思ひがけない石楠木の木であつたのだ。深山の奧の靈木としてのみ見てゐたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うてゐるのであつた。私はまつたく事ごとに心を躍らさずにゐられなかつた。
沼のへりにおほよそ葦の生ふるごと此處に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月にまた見に來むぞ此處の沼見に
また來むと思ひつつさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でて來む
天地のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上の凍みいちじるし今はゆきなむ
昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小徑の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云ふべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちてゐる處に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であつた。
沼と山の根との間の小廣い平地に三四軒の家が建つてゐた。いづれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閑ざされてゐた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて來た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て來た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請ひ、直ぐ大圍爐裡の榾火の側に招ぜられた。
番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、實はもう一人、棟續きになつた一室に丁度同じ年頃の老人が住んでゐるのであつた。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農務省の水産局からC―家に頼んで其處に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になつて、もう何年かたつてゐる。老人はその技手であつたのだ。名をM―氏といひ、桃の樣に尖つた頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髮を留むるのみで、つる〳〵に禿げてゐた。
言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出來るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答へると、それでは沼で釣つて見ないかと言ふ。實はこちらから頼み度いところだつたので、ほんとに釣つてもいゝかと言ふと、いゝどころではない、晩にさしあげるものがなくて困つてゐたところだからなるだけ澤山釣つて來いといふ。子供の樣に嬉しくなつて早速道具を借り、蚯蚓を掘つて飛び出した。
「ドレ、俺も一疋釣らして貰ふべい。」
案内人もつゞいた。
小舟にさをさして、岸寄りの深みの處にゆき、糸をおろした。いつとなく風が出て、日はよく照つてゐるのだが、顏や手足は痛いまでに冷えて來た。沼をめぐつてゐるのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところ〴〵雪白な樹木の立ち混つてゐるのは白樺の木であるさうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て來た。そして驚くほどの速さで山腹を走つてゆく。あとから〳〵と濃く薄く現はれて來た。空にも生れて太陽を包んでしまつた。
細かな水皺の立ち渡つた沼の面はたゞ冷やかに輝いて、水の深さ淺さを見ることも出來ぬ。漸く心のせきたつたころ、ぐつと絲が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかゝつて來た。私にとつては生れて初めて見る魚であつたのだ。慌てゝ餌を代へておろすと、またかゝつた。三疋四疋と釣れて來た。
「旦那は上手だ。」
案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更に魚が寄らぬのであつた。一疋二疋とまた私のには釣れて來た。
「ひとつ俺は場所を變へて見よう。」
彼は舟から降りて岸つたひに他へ釣つて行つた。
何しろ寒い。魚のあぎとから離さうとしては鈎を自分の指にさし、餌をさゝうとしてはまた刺した。すつかり指さきが凍えてしまつたのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなつた。
丁度十疋になつたを折に舟をつけて家の方に歸らうとすると一疋の魚を提げて案内人も歸つて來た。三疋を彼に分けてやると禮を言ひながら木の枝にそれをさして、やがて沼べりの路をもと來た方へ歸つて行つた。
洋燈より榾火の焔のあかりの方が強い樣な爐端で、私の持つて來た一升壜の開かれた時、思ひもかけぬ三人の大男が其處に入つて來た。C―家の用でこゝよりも山奧の小屋へ黒檜の板を挽きに入り込んでゐた木挽たちであつた。用が濟んで村へかへるのだが、もう暮れたから此處へ今夜寢させて呉れと云ふのであつた。迷惑がまざ〳〵と老番人の顏に浮んだ。昨夜の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持つて來たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであつた。これは早や思ひがけぬ正月が來たと云つて、彼は顏をくづして笑つたのであつた。そして私がM―老人を呼ばうといふのをも押しとゞめて、たゞ二人だけでこの飮料をたのしまうとしてゐたのであつた。其處へ彼の知合である三人の大男が入り込んで來て同じく爐端へ腰をおろしたのだ。
同じ酒ずきの私には、この老爺の心持がよく解つた。幾日か山の中に寢泊りして出て來た三人が思ひがけぬこの匂ひの煮え立つのを嗅いで胸をときめかせてゐるのもよく解つた。そして此處にものゝ五升もあつたならばなア、と同じく心を騷がせながら咄嗟の思ひつきで私は老爺に言つた。
「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元まで降りようぢやアないか、其處で一晩泊つて存分に飮んだり喰べたりしませうよ。」
と。
爺さんも笑ひ三人の木挽たちも笑ひころげた。
僅かの酒に、その場の氣持からか、五人ともほと〳〵に醉つてしまつた。小用にと庭へ出て見ると、風は落ちて、月が氷の樣に沼の眞上に照つてゐた。山の根にはしつとりと濃い雲が降りてゐた。
十月廿八日
朝、出がけに私はM―老人の部屋に挨拶に行つた。此處には四斗樽ほどの大きな圓い金屬製の煖爐が入れてあつた。その側に破れ古びた洋服を着て老人は煙管をとつてゐた。私が今朝の寒さを言ふと、机の上で日記帳を見やりながら、
「室内三度、室外零度でありましたからなア。」
といふ發音の中に私は彼が東北生れの訛を持つことを知つた。そして一つ二つと話すうちに、自身の水産學校出身である事を語つて、
「同じ學校を出ても村田水産翁の樣になる人もあり、私の樣に斯んな山の中で雪に埋れて暮すのもありますからなア。」
と大きな聲で笑つた。雪の來るのももう程なくであるさうだ。一月、二月、三月となると全くこの部屋以外に一歩も出られぬ朝夕を送る事になるといふ。
老人は立ち上つて、
「鱒の人工孵化をお目にかけませうか。」
と板圍ひの一棟へ私を案内した。其處には幾つとなく置き並べられた厚板作りの長い箱があり、すべての箱に水がさらさらと寒いひゞきを立てゝ流れてゐた。箱の中には孵へされた小魚が蟲の樣にして泳いでゐた。
昨夜の約束通り私が老番人を連れてその沼べりの家を出かけようとすると、急にM―老人の部屋の戸があいて老人が顏を出した。そして叱りつける樣な聲で、
「××」
と番人の名を呼んで、
「今夜は歸らんといかんぞ、いゝか。」
言ひ捨てゝ戸を閉ぢた。
番人は途々M―老人に就いて語つた。あれで學校を出て役人になつて何十年たつか知らんがいまだに月給はこれ〳〵であること、然し今はC―家からも幾ら〳〵を貰つてゐること、酒は飮まず、いゝ物はたべず、この上なしの吝嗇だからたゞ溜る一方であること、俺と一緒では何彼と損がゆくところからあゝして自分自身で煮炊をしてたべてゐる事などを。
丸沼のへりを離れると路は昨日終日とほく眺めて來た黒木の密林の中に入つた。樅、栂、などすべて針葉樹の巨大なものがはてしなく並び立つて茂つてゐるのである。ことに或る場所では見渡す限り唐檜のみの茂つてゐるところがあつた。この木をも私は初めて見るのであつた。葉は樅に似、幹は杉の樣に眞直ぐに高く、やゝ白味を帶びて聳えて居るのである。そして賣り渡された四十五萬圓の金に割り當てると、これら一抱へ二抱への樹齡もわからぬ大木老樹たちが平均一本六錢から七錢の値に當つてゐるのださうだ。日の光を遮つて鬱然と聳えて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覺えざるを得なかつた。
長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があつた。菅沼と云つた。それを過ぎてやゝ平らかな林の中を通つてゐると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出てゐる水を見た。案内人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
ばしや〳〵と私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる樣に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飮んだ。
草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終に金精峠の絶頂に出た。眞向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男體山であつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。これから行つて泊らうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。ツイ右手の頭上には今にも崩れるばかりに見えて白根火山が聳えてゐた。男體山の右寄りにやゝ開けて見ゆるあたりは戰場ヶ原から中禪寺湖であるべきである。今までは毎日毎日おほく溪間へ溪間へ、山奧へ山奧へと奧深く入り込んで來たのであつたが、いまこの分水嶺の峰に立つて眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるゝ。これからは今までと反對に廣く明るいその方角へ向つて進むのだとおもふと、自づと心の輕くなるのを覺えた。
背伸びをしながら其處の落葉の中に腰をおろすと、其處には群馬栃木の縣界石が立つてゐた。そして四邊の樹木は全く一葉をとゞめず冬枯れてゐる。その枯れはてた枝のさき〴〵には、既に早やうす茜色に氣色ばんだ木の芽が丸みを見せて萌えかけてゐるのである。深山の木は斯うして葉を落すと直ちに後の新芽を宿して、さうして永い間雪の中に埋もれて過し、雪の消ゆるを待つて一度に萌え出づるのである。
其處に來て老番人の顏色の甚しく曇つてゐるのを私は見た。どうしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、といふ。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行つて引返すころになるといま通つて來た路の霜柱が解けてゐる、その山坂を酒に醉つた身では歩くのが恐ろしいといふ。
「だから今夜泊つて明日朝早く歸ればいゝぢやないか。」
「やつばりさうも行きましねヱ、いま出かけにもあゝ言ふとりましたから……。」
涙ぐんでゐるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見てゐると、しみ〴〵私はこの老爺が哀れになつた。
「さうか、なるほどそれもさうかも知れぬ……。」
私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買つて來て、何處か戸棚の隅にでも隱して置いて獨りで永く樂しむがいゝや。では御機嫌よう、左樣なら。」
さう言ひ捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとつとと掌を立てた樣な急坂を湯元温泉の方へ驅け降り始めた。 | 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1923(大正12)年4月記の記載あり。
※作品中「眞」が29字、「真」が5字使われているが、すべて「眞」に統一して入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
2004年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"姓": "若山",
"名": "牧水",
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"名読み": "ぼくすい",
"姓読みソート用": "わかやま",
"名読みソート用": "ほくすい",
"姓ローマ字": "Wakayama",
"名ローマ字": "Bokusui",
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"生年月日": "1885-08-24",
"没年月日": "1928-09-17",
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"底本名1": "現代日本紀行文学全集 東日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
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序文
幼い紀行文をまた一冊に纏めて出版することになった。実はこれは昨年の九月早々市上に出る事になっていて既に製本済になり製本屋に積上げられてあったところを例の九月一日の震火に焼かれてしまったものであった。幸い紙型だけは無事に印刷所の方に残っていたので、本文をばすべてもとのままにし、僅かにこの序文だけを書き改めて出すことになったのである。
紀行文集として本書は私の第三冊目にあたる。第一は『比叡と熊野』(大正八年九月発行)、第二は『静かなる旅をゆきつつ』(大正十年七月発行)、そしてこれである。なおそれ以前雑文集として出したものの中にも数篇の紀行文があったとおもう。
本書に輯めた十二篇は、新しいのを初めに、旧い作を終りの方に置いてある。即ち「みなかみ紀行」は昨年四月初めの執筆で最後の「伊豆紀行」は一昨々年あたりに書いたものであった。或る一つの旅のことを幾つかの題目のもとに分けて書いてあるのがあるが、これは新聞や雑誌等から求められて書いた場合にその要求の行数や期日に合わすために自ずと斯うなったもので、中には永い時日を間に置いて書き継いだものなどもある。従って文体や筆致及び文の長短等に調和を欠いた処のあるを憾む。
なお言い添えておきたいのは、私の出懸ける旅は多く先ず心を遣るための旅である。ためにその紀行文もともすればその場その場の気持や情緒を主としたものとなりがちで、どうしても案内記風のものとは離れてゆこうとする。で、大概は当っているであろうが、文中に認められた里数とか方角とかに就いては必ずしも正確を期し難いという事である。要するに若し読者が私と共にこれら山川の間に心を同じゅうして逍遥し得らるる様な事にでもなれば本書出版の望みは達せられたと見ていいのである。
旅ほど好ましいものはない。斯うして旅に関して筆を執っていると早やもう心のなかには其処等の山川草木のみずみずしい姿がはっきりと影を投げて来ているのである。折も折、いまは一年中落葉のころと共に私の最も好む若葉の季節で、峰から渓間、渓間から野原にかけて茂っているであろう樹木たち、その間に啼きかわして遊んでいるであろういろいろの鳥たちのことを考えると、しみじみ胸の底が痛んで来る。
旅はほんとに難有い。よき旅をし、次第によき紀行文を書いてゆきたいものといままた改めて思う。
大正十三年五月廿日
富士山麓沼津市にて
若山牧水
みなかみ紀行
十月十四日午前六時沼津発、東京通過、其処よりM―、K―、の両青年を伴い、夜八時信州北佐久郡御代田駅に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌会に出席せんためである。駅にはS―、O―、両君が新聞社の人と自動車で出迎えていた。大勢それに乗って岩村田町に向う。高原の闇を吹く風がひしひしと顔に当る。佐久ホテルへ投宿。
翌朝、まだ日も出ないうちからM―君たちは起きて騒いでいる。永年あこがれていた山の国信州へ来たというので、寝ていられないらしい。M―は東海道の海岸、K―は畿内平原の生れである。
「あれが浅間、こちらが蓼科、その向うが八ヶ岳、此処からは見えないがこの方角に千曲川が流れているのです」
と土地生れのS―、O―の両人があれこれと教えて居る。四人とも我等が歌の結社創作社社中の人たちである。今朝もかなりに寒く、近くで頻りに野羊の鳴くのが聞えていた。
私の起きた時には急に霧がおりて来たが、やがて晴れて、見ごとな日和になった。遠くの山、ツイ其処に見ゆる落葉松の森、障子をあけて見ているといかにも高原の此処に来ている気持になる。私にとって岩村田は七八年振りの地であった。
お茶の時に野羊の乳を持って来た。
「あれのだネ」
と、皆がその鳴声に耳を澄ます。
会の始るまで、と皆の散歩に出たあと、私は近くの床屋で髪を刈った。今日は日曜、土地の小学校の運動会があり、また三杉磯一行の相撲があるとかで、その店もこんでいた。床屋の内儀の来る客をみな部屋に招じて炬燵に入れ、茶をすすめて居るのが珍しかった。
歌会は新聞社の二階で開かれた。新築の明るい部屋で、麗らかに日がさし入り、階下に響く印刷機械の音も酔って居る様な静かな昼であった。会者三十名ほど、中には松本市の遠くから来ている人もあった。同じく創作社のN―君も埴科郡から出て来ていた。夕方閉会、続いて近所の料理屋で懇親会、それが果ててもなお別れかねて私の宿屋まで十人ほどの人がついて来た。そして泊るともなく泊ることにより、みんなが眠ったのは間もなく東の白む頃であった。
翌朝は早く松原湖へゆく筈であったが余りに大勢なので中止し、軽便鉄道で小諸町へ向う事になった。同行なお七八人、小諸町では駅を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」の長詩で名高い懐古園に入った。そしてその壊れかけた古石垣の上に立って望んだ浅間の大きな裾野の眺めは流石に私の胸をときめかせた。過去十四五年の間に私は二三度も此処に来てこの大きな眺めに親しんだものである。ことにそれはいつも秋の暮れがたの、昨今の季節に於てであった。急に千曲川の流が見度くなり、園のはずれの嶮しい松林の松の根を這いながら二三人して降りて行った。林の中には松に混った栗や胡桃が実を落していた。胡桃を初めて見るというK―君は喜んで湿った落葉を掻き廻してその実を拾った。まだ落ちて間もない青いものばかりであった。久しぶりの千曲川はその林のはずれの崖の真下に相も変らず青く湛えて流れていた、川上にも川下にも真白な瀬を立てながら。
昨日から一緒になっているこの土地のM―君はこの懐古園の中に自分の家を新築していた。そして招かれて其処でお茶代りの酒を馳走になった。杯を持ちながらの話のなかに、私が一度二度とこの小諸に来る様になってから知り合いになった友達四人のうち、残っているのはこのM―君一人で、あと三人はみなもう故人になっているという事が語り出されて今更らにお互い顔が見合わされた。ことにそのなかの井部李花君に就いて私は斯ういう話をした。私がこちらに来る四五日前、一晩東海道国府津の駅前の宿屋に泊った。宿屋の名は蔦屋と云った。聞いた様な名だと、幾度か考えて考え出したのは、数年前その蔦屋に来ていて井部君は死んだのであったのだ。それこれの話の末、我等はその故人の生家が土地の料理屋であるのを幸い、其処に行って昼飯を喰べようということになった。
思い出深いその家を出たのはもう夕方であった。駅で土地のM―君と松本市から来ていたT―君とに別れ、あとの五人は更らに私の汽車に乗ってしまった。そして沓掛駅下車、二十町ほど歩いて星野温泉へ行って泊ることになった。
この六人になるとみな旧知の仲なので、その夜の酒は非常に賑やかな、而かもしみじみしたものであった。鯉の塩焼だの、しめじの汁だの、とろろ汁だの、何の缶詰だのと、勝手なことを云いながら夜遅くまで飲み更かした。丁度部屋も離れの一室になっていた。折々水を飲むために眼をさまして見ると、頭をつき合わす様にして寝ているめいめいの姿が、酔った心に涙の滲むほど親しいものに眺められた。
それでも朝はみな早かった。一浴後、飯の出る迄とて庭さきから続いた岡へ登って行った。岡の上の落葉松林の陰には友人Y―君の画室があった。彼は折々東京から此処へ来て製作にかかるのである。今日は門も窓も締められて、庭には一面に落葉松の落葉が散り敷き、それに真紅な楓の紅葉が混っていた。林を過ぐると真上に浅間山の大きな姿が仰がれた。山にはいま朝日の射して来る処で、豊かな赤茶けた山肌全体がくっきりと冷たい空に浮き出ている。煙は極めて僅かに頂上の円みに凝っていた。初めてこの火山を仰ぐM―君の喜びはまた一層であった。
朝飯の膳に持ち出された酒もかなり永く続いていつか昼近くなってしまった。その酒の間に私はいつか今度の旅行計画を心のうちですっかり変更してしまっていた。初め岩村田の歌会に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其処で東京から一緒に来た両人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む。それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とそういうのであったが、斯うして久しぶりの友だちと逢って一緒にのんびりした気持に浸っていて見ると、なんだかそれだけでは済まされなくなって来た。もう少しゆっくりと其処等の山や谷間を歩き廻りたくなった。其処で早速頭の中に地図をひろげて、それからそれへと条をつけて行くうちに、いつか明瞭に順序がたって来た。「よし……」と思わず口に出して、私は新計画を皆の前に打ちあけた。
「いいなア!」
と皆が云った。
「それがいいでしょう、どうせあなただってももう昔の様にポイポイ出歩くわけには行くまいから」
とS―が勿体ぶって附け加えた。
そうなるともう一つ新しい動議が持ち出された。それならこれから皆していっそ軽井沢まで出掛け、其処の蕎麦屋で改めて別盃を酌んで綺麗に三方に別れ去ろうではないか、と。無論それも一議なく可決せられた。
軽井沢の蕎麦屋の四畳半の部屋に六人は二三時間坐り込んでいた。夕方六時草津鉄道で立ってゆく私を見送ろうというのであったが、要するにそうして皆ぐずぐずしていたかったのだ。土間つづきのきたない部屋に、もう酒にも倦いてぼんやり坐っていると、破障子の間からツイ裏木戸の所に積んである薪が見え、それに夕日が当っている。それを見ていると私は少しずつ心細くなって来た。そしてどれもみな疲れた風をして黙り込んでいる顔を見るとなく見廻していたが、やがてK―君に声かけた。
「ねエK―君、君一緒に行かないか、今日この汽車で嬬恋まで行って、明日川原湯泊り、それから関東耶馬渓に沿うて中之条に下って渋川高崎と出ればいいじゃアないか、僅か二日余分になるだけだ」
みなK―君の顔を見た。彼は例のとおり静かな微笑を口と眼に見せて、
「行きましょうか、行ってよければ行きます、どうせこれから東京に帰っても何でもないんですから」
と云った、まったくこのうちで毎日の為事を背負っていないのは彼一人であったのだ。
「いいなア、羨しいなア」
とM―君が云った。
「エラいことになったぞ、然し、行き給い、行った方がいい、この親爺さん一人出してやるのは何だか少し可哀相になって来た」
と、N―が酔った眼を瞑じて、頭を振りながら云った。
小さな車室、畳を二枚長目に敷いた程の車室に我等二人が入って坐っていると、あとの四人もてんでに青い切符を持って入って来た。彼等の乗るべき信越線の上りにも下りにもまだ間があるのでその間に旧宿まで見送ろうと云うのだ。感謝しながらざわついていると、直ぐ軽井沢旧宿駅に来てしまった。此処で彼等は降りて行った。左様なら、左様なら、また途中で飲み始めなければいいがと気遣われながら、左様なら左様ならと帽子を振った。小諸の方に行くのは三人づれだからまだいいが、一人東京へ帰ってゆくM―君には全く気の毒であった。
我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごっとんごっとんと登りにかかった。曲りくねって登ってゆく。車の両側はすべて枯れほおけた芒ばかりだ。そして近所は却ってうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。
疲れと寒さが闇と一緒に深くなった。登り登って漸く六里ヶ原の高原にかかったと思われる頃には全く黒白もわかぬ闇となったのだが、車室には灯を入れぬ。イヤ、一度小さな洋燈を点したには点したが、すぐ風で消えたのだった。一二度停車して普通の駅で呼ぶ様に駅の名を車掌が呼んで通りはしたが、其処には停車場らしい建物も灯影も見えなかった。漸く一つ、やや明るい所に来て停った。「二度上」という駅名が見え、海抜三八〇九呎と書いた棒がその側に立てられてあった。見ると汽車の窓のツイ側には屋台店を設け洋燈を点し、四十近い女が子を負って何か売っていた。高い台の上に二つほど並べた箱には柿やキャラメルが入れてあった。そのうちに入れ違いに向うから汽車が来る様になると彼女は急いで先ず洋燈を持って線路の向う側に行った。其処にもまた同じ様に屋台店が拵えてあるのが見えた。そして次ぎ次ぎに其処へ二つの箱を運んで移って行った。
この草津鉄道の終点嬬恋駅に着いたのはもう九時であった。駅前の宿屋に寄って部屋に通ると炉が切ってあり、やがて炬燵をかけてくれた。済まないが今夜風呂を立てなかった、向うの家に貰いに行ってくれという。提灯をさげた小女のあとについてゆくとそれは線路を越えた向側の家であった。途中で女中がころんで灯を消したため手探りで辿り着いて替る替るぬるい湯に入りながら辛うじて身体を温める事が出来た。その家は運送屋か何からしい新築の家で、家財とても見当らぬ様ながらんとした大きな囲炉裡端に番頭らしい男が一人新聞を読んでいた。
十月十八日。
昨夜炬燵に入って居る時から渓流の音は聞えていたが夜なかに眼を覚して見ると、雨も降り出した様子であった。気になっていたので、戸の隙間の白むを待って繰りあけて見た。案の如く降っている。そしてこの宿が意外にも高い崖の上に在って、その真下に渓川の流れているのを見た。まさしくそれは吾妻川の上流であらねばならぬ。雲とも霧ともつかぬものがその川原に迷い、向う岸の崖に懸り、やがて四辺をどんよりと白く閉している。便所には草履が無く、顔を洗おうには洗面所の設けもないというこの宿屋で、難有いのはただ炬燵であった。それほどに寒かった。聞けばもうこの九月のうちに雪が来たのであったそうだ。
寒い寒いと云いながらも窓をあけて、顎を炬燵の上に載せたまま二人ともぼんやりと雨を眺めていた。これから六里、川原湯まで濡れて歩くのがいかにも侘しいことに考えられ始めたのだ。それかと云ってこの宿に雨のあがるまで滞在する勇気もなかった。酔った勢いで斯うした所へ出て来たことがそぞろに後悔せられて、いっそまた軽井沢へ引返えそうかとも迷っているうちに、意外に高い汽笛を響かせながら例の小さな汽車は宿屋の前から軽井沢をさして出て行ってしまった。それに乗り遅れれば、午後にもう一度出るのまで待たねばならぬという。
が、草津行きの自動車ならば程なく此処から出るということを知った。そしてまた頭の中に草津を中心に地図を展げて、第二の予定を作ることになった。
そうなると急に気も軽く、窓さきに濡れながらそよいでいる痩せ痩せたコスモスの花も、遥か下に煙って見ゆる渓の川原も対岸の霧のなかに見えつ隠れつしている鮮かな紅葉の色も、すべてみな旅らしい心をそそりたてて来た。
やがて自動車に乗る。かなり危険な山坂を、しかも雨中のぬかるみに馳せ登るのでたびたび胆を冷やさせられたが、それでも次第に山の高みに運ばれてゆく気持は狭くうす暗い車中にいてもよく解った。ちらちらと見え過ぎてゆく紅葉の色は全く滴る様であった。
草津ではこの前一度泊った事のある一井旅館というへ入った。私には二度目の事であったが、初めて此処へ来たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の侘しい笛の音が鳴り出した。それに続いて聞えて来る湯揉みの音、湯揉みの唄。
私は彼を誘ってその時間湯の入口に行った。中には三四十人の浴客がすべて裸体になり幅一尺長さ一間ほどの板を持って大きな湯槽の四方をとり囲みながら調子を合せて一心に湯を揉んでいるのである。そして例の湯揉みの唄を唄う。先ず一人が唄い、唄い終ればすべて声を合せて唄う。唄は多く猥雑なものであるが、しかもうたう声は真剣である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、声を絞ってうたい続けるのである。
時間湯の温度はほぼ沸騰点に近いものであるそうだ。そのために入浴に先立って約三十分間揉みに揉んで湯を柔らげる。柔らげ終ったと見れば、各浴場ごとに一人ずつついている隊長がそれと見て号令を下す。汗みどろになった浴客は漸く板を置いて、やがて暫くの間各自柄杓をとって頭に湯を注ぐ、百杯もかぶった頃、隊長の号令で初めて湯の中へ全身を浸すのである。湯槽には幾つかの列に厚板が並べてあり、人はとりどりにその板にしがみ附きながら隊長の立つ方向に面して息を殺して浸るのである。三十秒が経つ。隊長が一種気合をかける心持で或る言葉を発する。衆みなこれに応じて「オオウ」と答える。答えるというより捻るのである。三十秒ごとにこれを繰返し、かっきり三分間にして号令のもとに一斉に湯から出るのである。その三分間の間は、僅かに口にその返事を称うるほか、手足一つ動かす事を禁じてある。動かせばその波動から熱湯が近所の人の皮膚を刺すがためであるという。
この時間湯に入ること二三日にして腋の下や股のあたりの皮膚が爛れて来る。軈ては歩行も、ひどくなると大小便の自由すら利かぬに到る。それに耐えて入浴を続くること約三週間で次第にその爛れが乾き始め、ほぼ二週間で全治する。その後の身心の快さは、殆んど口にする事の出来ぬほどのものであるそうだ。そう型通りにゆくわけのものではあるまいが、効能の強いのは事実であろう。笛の音の鳴り響くのを待って各自宿屋から(宿屋には穏かな内湯がある)時間湯へ集る。杖に縋り、他に負われて来るのもある。そして湯を揉み、唄をうたい、煮ゆるごとき湯の中に浸って、やがてまた全身を脱脂綿に包んで宿に帰ってゆく。これを繰返すこと凡そ五十日間、斯うした苦行が容易な覚悟で出来るものでない。
草津にこの時間湯というのが六個所に在り、日に四回の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて来る。
たぎり沸くいで湯のたぎりしづめむと病人つどひ揉めりその湯を
湯を揉むとうたへる唄は病人がいのちをかけしひとすぢの唄
上野の草津に来り誰も聞く湯揉の唄を聞けばかなしも
十月十九日。
降れば馬を雇って沢渡温泉まで行こうと決めていた。起きて見れば案外な上天気である。大喜びで草鞋を穿く。
六里ヶ原と呼ばれている浅間火山の大きな裾野に相対して、白根火山の裾野が南面して起って居る。これは六里ヶ原ほど広くないだけに傾斜はそれより急である。その嶮しく起って来た高原の中腹の一寸した窪みに草津温泉はあるのである。で、宿から出ると直ぐ坂道にかかり、五六町もとろとろと登った所が白根火山の裾野の引く傾斜の一点に当るのである。其処の眺めは誠に大きい。
正面に浅間山が方六里にわたるという裾野を前にその全体を露わして聳えている。聳ゆるというよりいかにもおっとりと双方に大きな尾を引いて静かに鎮座しているのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立ってやがて湯気の様に消えている。空といい煙といい、山といい野原といいすべてが濡れた様に静かで鮮かであった。湿った地をぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地図を見ると丁度その地点が一二〇八米突の高さだと記してあった。
とりどりに紅葉した雑木林の山を一里半ほども降って来ると急に嶮しい坂に出会った。見下す坂下には大きな谷が流れ、その対岸に同じ様に切り立った崖の中ほどには家の数十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えていた。九十九折になったその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ様な村があり、普通の百姓家と違わない小学校なども建っていた。対岸の村は生須村、学校のある方は小雨村と云うのであった。
九十九折けはしき坂を降り来れば橋ありてかゝる峡の深みに
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
蚕飼せし家にかあらむを壁を抜きて学校となしつ物教へをり
学校にもの読める声のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
生須村を過ぎると路はまた単調な雑木林の中に入った。今までは下りであったが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登ってゆくのである。日は朗らかに南から射して、路に堆い落葉はからからに乾いている。音を立てて踏んでゆく下からは色美しい栗の実が幾つとなく露われて来た。多くは今年葉である真新しい落葉も日ざしの色を湛え匂を含んでとりどりに美しく散り敷いている。おりおりそのなかに竜胆の花が咲いていた。
流石に広かった林も次第に浅く、やがて、立枯の木の白々と立つ広やかな野が見えて来た。林から野原へ移ろうとする処であった。我等は双方からおおどかになだれて来た山あいに流るる小さな渓端を歩いていた。そしてその渓の上にさし出でて、眼覚むるばかりに紅葉した楓の木を見出した。
我等は今朝草津を立つとからずっと続いて紅葉のなかをくぐって来ていたのである。楓を初め山の雑木は悉く紅葉していた。恰も昨日今日がその真盛りであるらしく見受けられた。けれどいま眼の前に見出でて立ち留って思わずも声を挙げて眺めた紅葉の色はまた別であった。楓とは思われぬ大きな古株から六七本に分れた幹が一斉に渓に傾いて伸びている。その幹とてもすべて一抱えの大きさで丈も高い。漸く今日あたりから一葉二葉と散りそめたという様に風も無いのに散っている静かな輝やかしい姿は、自ら呼吸を引いて眺め入らずにはいられぬものであった。二人は路から降り、そのさし出でた木の真下の川原に坐って昼飯をたべた。手を洗い顔を洗い、つぎつぎに織りついだ様に小さな瀬をなして流れている水を掬んでゆっくりと喰べながら、日の光を含んで滴る様に輝いている真上の紅葉を仰ぎ、また四辺の山にぴったりと燃え入っている林のそれを眺め、二人とも言葉を交さぬ数十分の時間を其処で送った。
枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
渓川の真白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
其処を立つと野原にかかった。眼につくは立枯の木の木立である。すべて自然に枯れたものでなく、みな根がたのまわりを斧で伐りめぐらして水気をとどめ、そうして枯らしたものである。半ばは枯れ半ばはまだ葉を残しているのも混っている。見れば楢の木である。二抱え三抱えに及ぶ夫等の大きな老木がむっちりと枝を張って見渡す野原の其処此処に立っている。野には一面に枯れほおけた芒の穂が靡き、その芒の浪を分けてかすかな線条を引いた様にも見えているのは植えつけてまだ幾年も経たぬらしい落葉松の苗である。この野に昔から茂っていた楢を枯らして、代りにこの落葉松の植林を行おうとしているのであるのだ。
帽子に肩にしっとりと匂っている日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いていると、おりおり鋭い鳥の啼声を聞いた。久し振りに聞く声だとは思いながら定かに思いあたらずにいると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥である。一羽や二羽でなく、広い野原のあちこちで啼いている。更らにまたそれよりも澄んで暢びやかな声を聞いた。高々と空に翔びすましている鷹の声である。
落葉松の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり
楢の木ぞ何にもならぬ醜の木と古りぬる木々をみな枯らしたり
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすゝきほゝけて光りたる枯木が原の啄木鳥の声
枯るゝ木にわく虫けらをついばむと啄木鳥は啼く此処の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の声のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける声のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の声のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり来てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の声あはれなり啼けるをとほく離り来りて
ずっと一本だけ続いて来た野中の路が不意に二つに分れる処に来た。小さな道標が立ててある。曰く、右沢渡温泉道、左花敷温泉道。
枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかかった文字を辛うじて読んでしまうと、私の頭にふらりと一つの追憶が来て浮んだ。そして思わず私は独りごちた。「ほほオ、斯んな処から行くのか、花敷温泉には」と。
私は先刻この野にかかってからずっと続いて来ている物静かな沈んだ心の何とはなしに波だつのを覚えながら、暫くその小さな道標の木を見て立っていたが、K―君が早や四五間も沢渡道の方へ歩いているのを見ると、其儘に同君のあとを追うた。そして小一町も二人して黙りながら進んだ。が、終には私は彼を呼びとめた。
「K―君、どうだ、これから一つあっちの路を行って見ようじゃアないか、そして今夜その花敷温泉というのへ泊って見よう」
不思議な顔をして立ち留った彼に、私は立ちながらいま頭に影のごとくに来て浮んだ花敷温泉に就いての思い出を語った。三四年も前である。今度とは反対に吾妻川の下流の方から登って来て草津温泉に泊り、案内者を雇うて白根山の噴火口の近くを廻り、渋峠を越えて信州の渋温泉へ出た事がある。五月であったが白根も渋も雪が深くて、渋峠にかかると前後三里がほどはずっと深さ数尺の雪を踏んで歩いたのであった。その雪の上に立ちながら年老いた案内者が、やはり白根の裾つづきの広大な麓の一部を指して、彼処にも一つ温泉がある、高い崖の真下の岩のくぼみに湧き、草津と違って湯が澄み透って居る故に、その崖に咲く躑躅や其他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いている様だから花敷温泉というのだ、と云って教えて呉れた事があった。下になるだけ雪が斑らになっている遠い麓に、谷でも流れているか、丁度模型地図を見るとおなじく幾つとない細長い窪みが糸屑を散らした様にこんがらがっている中の一個所にそんな温泉があると聞いて私の好奇心はひどく動いた。第一、そんなところに人が住んで、そんな湯に浸っているという事が不思議に思われたほど、その時其処を遥かな世離れた処に眺めたものであったのだ。それがいま思いがけなく眼の前の棒杭に「左花敷温泉道、是より二里半」と認めてあるのである。
「どうだね、君行って見ようよ、二度とこの道を通りもすまいし、……その不思議な温泉をも見ずにしまう事になるじゃアないか」
その話に私と同じく心を動かしたらしい彼は、一も二もなく私のこの提議に応じた。そして少し後戻って、再びよく道標の文字を調べながら、文字のさし示す方角へ曲って行った。
今までよりは嶮しい野路の登りとなっていた。立枯の楢がつづき、おりおり栗の木も混って毬と共に笑みわれたその実を根がたに落していた。
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の実
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の実の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗となりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野猪も出でぬか猿もゐぬか栗美くしう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其処を越ゆると片側はうす暗い森林となっていた。そしてそれがまた一面の紅葉の渦を巻いているのであった。北側の、日のささぬ其処の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもいるかと思わるる色深いものであった。然し、途中でややこの思い立ちの後悔せらるるほど路は遠かった。一つの渓流に沿うて峡間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登って行った。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村というのには小学校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄った先生が二十人ほどの生徒に体操を教えていた。
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の学校に
ひたひたと土踏み鳴らし真裸足に先生は教ふその体操を
先生の頭の禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ
遥か真下に白々とした谷の瀬々を見下しながらなお急いでいると、漸くそれらしい二三軒の家を谷の向岸に見出だした。こごしい岩山の根に貼り着けられた様に小さな家が並んでいるのである。
崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入って先ず湯を訊くと、庭さきを流れている渓流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るという。不思議に思いながら借下駄を提げて一二丁ほど行って見ると、其処には今まで我等の見下して来た谷とはまた異った一つの谷が、折り畳んだ様な岩山の裂け目から流れ出して来ているのであった。ひたひたと瀬につきそうな危い板橋を渡ってみると、なるほど其処の切りそいだ様な崖の根に湯が湛えていた。相並んで二個所に湧いている。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。
相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄って手を浸してみると恰好な温度である。もう日も晷った山蔭の渓ばたの風を恐れながらも着物を脱いで石の上に置き、ひっそりと清らかなその湯の中へうち浸った。一寸立って手を延ばせば渓の瀬に指が届くのである。
「何だか渓まで温かそうに見えますね」と年若い友は云いながら手をさし延ばしたが、惶てて引っ込めて「氷の様だ」と云って笑った。
渓向うもそそり立った岩の崖、うしろを仰げば更に胆も冷ゆべき断崖がのしかかっている。崖から真横にいろいろな灌木が枝を張って生い出で、大方散りつくした紅葉がなお僅かにその小枝に名残をとどめている。それが一ひら二ひらと断間なく我等の上に散って来る。見れば其処に一二羽の樫鳥が遊んでいるのであった。
真裸体になるとはしつゝ覚束な此処の温泉に屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り来いで湯のなかに
樫烏が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り来わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
夜に入ると思いかけぬ烈しい木枯が吹き立った。背戸の山木の騒ぐ音、雨戸のはためき、庭さきの瀬々のひびき、枕もとに吊られた洋燈の灯影もたえずまたたいて、眠り難い一夜であった。
十月二十日。
未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其処を立ち出でた。驚いたのは、その足もとに斑らに雪の落ちていることであった。惶てて四辺を見廻すと昨夜眠った宿屋の裏の崖山が斑々として白い。更らに遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたおちこちの峰から峰が真白に輝いている。
ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
起き出でゝ見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ狭間の路にはだら雪積み
上野と越後の国のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは檜の森の黒木の山に降れる故にぞ
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。峠を越えて約三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館というのの三階に上った。此処は珍しくも双方に窪地を持った様な、小高い峠に湯が湧いているのであった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。此処に此儘泊ろうか、もう三四里を歩いて四万温泉へ廻ろうか、それとも直ぐ中之条へ出て伊香保まで延ばそうかと二人していろいろに迷ったが、終に四万へ行くことにきめて、昼飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。
私は此処で順序として四万温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもう。いかにも不快な印象を其処の温泉宿から受けたからである。我等の入って行ったのは、というより馬車から降りるとすぐ其処に立っていた二人の男に誘われて入って行ったのは田村旅館というのであった。馬車から降りた道を真直ぐに入ってゆく宏大な構えの家であった。
とろとろと登ってやがてその庭らしい処へ着くと一人の宿屋の男は訊いた。
「エエ、どの位いの御滞在の御予定で被入っしゃいますか」
「いいや、一泊だ、初めてで、見物に来たのだ」
と答えると彼等はにたりと笑って顔を見合せた。そしてその男はいま一人の男に馬車から降りた時強いて私の手から受取って来た小荷物を押しつけながら早口に云った。
「一泊だとよ、何の何番に御案内しな」
そう云い捨てておいて今一組の商人態の二人連に同じ様な事を訊き、滞在と聞くや小腰をかがめて向って左手の渓に面した方の新しい建築へ連れて行った。
我等と共に残された一人の男はまざまざと当惑と苦笑とを顔に表わして立っていたが、
「ではこちらへ」
と我等をそれとは反対の見るからに古びた一棟の方へ導こうとした。私は呼び留めた。
「イヤ僕等は見物に来たので、出来るならいい座敷に通して貰い度い、ただ一晩の事だから」
「へ、承知しました、どうぞこちらへ」
案のごとくにひどい部屋であった。小学校の修学旅行の泊りそうな、幾間か打ち続いた一室でしかも間の唐紙なども満足には緊っていない部屋であった。畳、火鉢、座布団、すべてこれに相応したもののみであった。
私は諦めてその火鉢の側に腰をおろしたが、K―君はまだ洋傘を持ったまま立っていた。
「先生、移りましょう、馬車を降りたツイ横にいい宿屋があった様です」
人一倍無口で穏かなこの青年が、明かに怒りを声に表わして云い出した。
私もそれを思わないではなかったが、移って行ってまたこれと同じい待遇を受けたならそれこそ更らに不快に相違ない。
「止そうよ、これが土地の風かも知れないから」
となだめて、急いで彼を湯に誘った。
この分では私には夕餉の膳の上が気遣われた。で、定った物のほかに二品ほど附ける様にと註文し、酒の事で気を揉むのをも慮って予じめ二三本の徳利を取り寄せ自分で燗をすることにしておいた。
やがて十五六歳の小僧が岡持で二品ずつの料理を持って来た。受取って箸をつけていると小僧は其処につき坐ったまま、
「代金を頂きます」
という。
「代金?」
と私は審った。
「宿料かい?」
「いいえ、そのお料理だけです、よそから持って来たのですから」
思わず私はK―君の顔を見て吹き出した。
「オヤオヤ、君、これは一泊者のせいのみではなかったのだよ、懐中を踏まれたよ」
十月廿一日。
朝、縁に腰かけて草鞋を穿いていても誰一人声をかける者もなかった。帳場から見て見ぬ振である。もっとも私も一銭をも置かなかった。旅といえば楽しいもの難有いものと思い込んでいる私は出来るだけその心を深く味わいたいために不自由の中から大抵の処では多少の心づけを帳場なり召使たちなりに渡さずに出た事はないのだが、斯うまでも挑戦状態で出て来られると、そういう事をしている心の余裕がなかったのである。
面白いのは犬であった。草鞋を穿いているツイ側に三疋の仔犬を連れた大きな犬が遊んでいた。そしてその仔犬たちは私の手許にとんで来てじゃれついた。頭を撫でてやっていると親犬までやって来て私の額や頬に身体をすりつける。やがて立ち上って門さきを出離れ、何の気なくうしろを振返ると、その大きな犬が私のうしろについて歩いている。仔犬も門の処まで出ては来たがそれからはよう来ぬらしく、尾を振りながらぴったり三疋引き添うてこちらを見て立っている。
「犬は犬好きの人を知ってるというが、ほんとうですね」
と、幾度追っても私の側を離れない犬を見ながらK―君が云った。
「とんだ見送がついた、この方がよっぽど正直かも知れない」
私も笑いながら犬を撫でて、
「少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此処まで来ないで沢渡にあのまま泊っておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……」
「それにしても昨夜はひどかったですネ、あんな目に私初めて会いました」
「そうかネ、僕なんか玄関払を喰った事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の気風を表わしているのかも知れない、ソレ上州には伊香保があり草津があるでしょう、それに近頃よく四万四万という様になったものだから四万先生すっかり草津伊香保と肩を並べ得たつもりになって鼻息が荒い傾向があるのだろうと思う、謂わば一種の成金気分だネ」
「そう云えば彼処の湯に入ってる客たちだってそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く処に行っていたんじゃア入湯の気持はせぬ、朝晩に何だ彼だとかかって来てうるさくて為様がない、なんて」
「とにかく幻滅だった、僕は四万と聞くとずっと渓間の、静かなおちついた処とばかり思っていたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその様に聞いていたし、……、惜しい事をした」
路には霜が深かった。峰から辷った朝日の光が渓間の紅葉に映って、次第にまた濁りのない旅心地になって来た。そして石を投げて辛うじて犬をば追い返した。不思議そうに立って見ていたが、やがて尾を垂れて帰って行った。
十一時前中之条着、折よく電車の出る処だったので直ぐ乗車、日に輝いた吾妻川に沿うて走る。この川は数日前に嬬恋村の宿屋の窓から雨の中に侘しく眺めた渓流のすえであるのだ。渋川に正午に着いた。東京行沼田行とそれぞれの時間を調べておいて駅前の小料理屋に入った。此処で別れてK―君は東京へ帰り私は沼田の方へ入り込むのである。
看板に出ていた川魚は何も無かった。鶏をとりうどんをとって別盃を挙げた。軽井沢での不図した言葉がもとになって思いも寄らぬ処を両人して歩いて来たのだ。時間から云えば僅かだが、何だか遠く幾山河を越えて来た様なおもいが、盃の重なるにつれて湧いて来た。午後三時、私の方が十分間早く発車する事になった。手を握って別れる。
渋川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走るのである。その電車が二度ほども長い停電をしたりして、沼田町に着いたのは七時半であった。指さきなど、痛むまでに寒かった。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊るかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出してその旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。
宿屋の名は鳴滝と云った。風呂から出て一二杯飲みかけていると、来客だという。郵便局の人かと訊くと、そうではないという。不思議に思いながらも余りに労れていたので、明朝来て呉れと断った。実際K―君と別れてから急に私は烈しい疲労を覚えていたのだ。然し矢張り気が済まぬので自分で玄関まで出て呼び留めて部屋に招じた。四人連の青年たちであった。矢張り郵便局からの通知で、私の此処にいるのを知ったのだそうだ。そして、
「いま自転車を走らせましたから追っ附けU―君も此処へ見えます」
という。
「ア、そうですか」
と答えながら、矢っ張り呼び留めてよかったと思った。U―君もまた創作社の社友の一人であるのだ。この群馬県利根郡からその結社に入っている人が三人ある事を出立の時に調べて、それぞれの村をも地図で見て来たのであった。そして都合好くばそれぞれに逢って行き度いものと思っていたのだ。
「それは難有う、然しU―君の村は此処から遠いでしょう」
「なアに、一里位いのものです」
一里の夜道は大変だと思った。
やがてそのU―君が村の俳人B―君を伴れてやって来た。もう少しませた人だとその歌から想像していたのに反してまだ紅顔の青年であった。
歌の話、俳句の話、土地の話が十一時過ぎまで続いた。そしてそれぞれに帰って行った。村までは大変だろうからと留めたけれど、U―君たちも元気よく帰って行った。
十月廿二日。
今日もよく晴れていた。嬬恋以来、実によく晴れて呉れるのだ。四時から強いて眼を覚まして床の中で幾通かの手紙の返事を書き、五時起床、六時過ぎに飯をたべていると、U―君がにこにこしながら入って来た。自宅でもいいって云いますから今日はお伴させて下さい、という。それはよかったと私も思った。今日はこれから九里の山奥、越後境三国峠の中腹に在る法師温泉まで行く事になっていたのだ。
私は河の水上というものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れ出している、という風な処に出会うと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった。
矢張りそんなところから大正七年の秋に、ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようとこの利根の峡谷に入り込んで来たことがあった。沼田から次第に奥に入って、矢張り越後境の清水越の根に当っている湯檜曾というのまで辿り着いた。そして其処から更らに藤原郷というのへ入り込むつもりであったのだが、時季が少し遅れて、もうその辺にも斑らに雪が来ており、奥の方には真白妙に輝いた山の並んでいるのを見ると、流石に心細くなって湯檜曾から引返した事があった。然しその湯檜曾の辺でも、銚子の河口であれだけの幅を持った利根が石から石を飛んで徒渉出来る愛らしい姿になっているのを見ると矢張り嬉しさに心は躍ってその石から石を飛んで歩いたものであった。そしていつかお前の方まで分け入るぞよと輝き渡る藤原郷の奥山を望んで思ったものであった。
藤原郷の方から来たのに清水越の山から流れ出して来た一支流が湯檜曾のはずれで落ち合って利根川の渓流となり沼田の少し手前で赤谷川を入れ、やや下った処で片品川を合せる。そして漸く一個の川らしい姿になって更に渋川で吾妻川を合せ、此処で初めて大利根の大観をなすのである。吾妻川の上流をば曾つて信州の方から越えて来て探った事がある。片品川の奥に分け入ろうと云うのは実は今度の旅の眼目であった。そして今日これから行こうとしているのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋という橋の近くで利根川に落ちて来ている赤谷川の源流の方に入って行って見度いためであった。その殆んどつめになった処に法師温泉はある筈である。
読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中に唯だ一つ他の集落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更らにまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の集落のあるのを見るであろう。私は初め参謀本部のものに拠らず他の府県別の簡単なものを開いて見てこの猿ヶ京村を見出し、サテも斯んな処に村があり、斯んな処にも歌を詠もうと志している人がいるのかと、少なからず驚嘆したのであった。先に利根郡に我等の社中の同志が三人ある旨を云った。その三人の一人は今日一緒に歩こうというU―君で、他の二人は実にこの猿ヶ京村の人たちであるのである。
月夜野橋に到る間に私は土地の義民磔茂左衛門の話を聞いた。徳川時代寛文年間に沼田の城主真田伊賀守が異常なる虐政を行った。領内利根吾妻勢多三郡百七十七箇村に検地を行い、元高三万石を十四万四千余石に改め、川役網役山手役井戸役窓役産毛役等(窓を一つ設くれば即ち課税し、出産すれば課税するの意)の雑役を設け終に婚礼にまで税を課するに至った。納期には各村に代官を派遣し、滞納する者があれば家宅を捜索して農産物の種子まで取上げ、なお不足ならば人質を取って皆納するまで水牢に入るる等の事を行った。この暴虐に泣く百七十七個村の民を見るに見兼ねて身を抽んでて江戸に出で酒井雅楽守の登城先に駕訴をしたのがこの月夜野村の百姓茂左衛門であった。けれどその駕訴は受けられなかった。其処で彼は更らに或る奇策を案じて具さに伊賀守の虐政を認めた訴状を上野寛永寺なる輪王寺宮に奉った。幸に宮から幕府へ伝達せられ、時の将軍綱吉も驚いて沼田領の実際を探って見ると果して訴状の通りであったので直ちに領地を取上げ伊賀守をば羽後山形の奥平家へ預けてしまった。茂左衛門はそれまで他国に姿を隠して形勢を見ていたが、斯く願いの叶ったのを知ると潔く自首するつもりで乞食に身をやつして郷里に帰り僅かに一夜その家へ入って妻と別離を惜み、明方出かけようとしたところを捕えられた。そしていま月夜野橋の架っているツイ下の川原で礫刑に処せられた。しかも罪ない妻まで打首となった。漸く蘇生の思いをした百七十七個村の百姓たちはやれやれと安堵する間もなく茂左衛門の捕えられたを聞いて大に驚き悲しみ、総代を出して幕府に歎願せしめた。幕府も特に評議の上これを許して、茂左衛門赦免の上使を遣わしたのであったが、時僅かに遅れ、井戸上村まで来ると処刑済の報に接したのであったそうだ。
旧沼田領の人々はそれを聞いていよいよ悲しみ、刑場蹟に地蔵尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は更らに月夜野村に一仏堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と称えたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかった。が、次第にその御堂も荒頽して来たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地蔵尊を本尊として其処に安置する事になった。
斯うした話をU―君から聞きながら私は彼の佐倉宗吾の事を思い出していた。事情が全く同じだからである。而して一は大に表われ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。そう思いながらこの勇敢な、気の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU―君にそのお堂へ参詣したい旨を告げた。
月夜野橋を渡ると直ぐ取っ着きの岡の上に御堂はあった。田舎に在る堂宇としては実に立派な壮大なものであった。そしてその前まで登って行って驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあったからである。そして附近には唯だ雀が遊んでいるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の為事に就く前に一人一人此処にこの香を捧げて行ったものなのである。一日として斯うない事はないのだそうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衛門を思い、茂左衛門に対する百姓たちの心を思い瞼の熱くなるのを感じた。
堂のうしろの落葉を敷いて暫く休んだ。傍らに同じく腰をおろしていた年若い友は不図何か思い出した様に立ち上ったが、やがて私をも立ち上らせて対岸の岡つづきになっている村落を指ざしながら、「ソレ、あそこに日の当っている村がありましょう、あの村の中ほどにやや大きな藁葺の屋根が見えましょう、あれが高橋お伝の生れた家です」
これはまた意外であった。聞けば同君の祖母はお伝の遊び友達であったという。
「今日これから行く途中に塩原太助の生れた家も、墓もありますよ」
と、なお笑いながら彼は附け加えた。
月夜野村は村とは云え、古めかしい宿場の形をなしていた。昔は此処が赤谷川流域の主都であったものであろう。宿を通り抜けると道は赤谷川に沿うた。
この辺、赤谷川の眺めは非常によかった。十間から二三十間に及ぶ高さの岩が、楯を並べた様に並び立った上に、かなり老木の赤松がずらりと林をなして茂っているのである。三町、五町、十町とその眺めは続いた。松の下草には雑木の紅葉が油絵具をこぼした様に散らばり、大きく露出した岩の根には微かな青みを宿した清水が瀬をなし淵を作って流れているのである。
登るともない登りを七時間ばかり登り続けた頃、我等は気にしていた猿ヶ京村の入口にかかった。其処も南に谷を控えた坂なりの道ばたにちらほらと家が続いていた。中に一軒、古び煤けた屋根の修繕をしている家があった。丁度小休みの時間らしく、二三の人が腰をおろして煙草を喫っていた。
「ア、そうですか、それは……」
私の尋ねに応じて一人がわざわざ立上って煙管で方角を指しながら、道から折れた山の根がたの方に我等の尋ぬるM―君の家の在る事を教えて呉れた。街道から曲り、細い坂を少し登ってゆくと、傾斜を帯びた山畑が其処に開けていた。四五町も畦道を登ったけれど、それらしい家が見当らない。桑や粟の畑が日に乾いているばかりである。幸い畑中に一人の百姓が働いていた。其処へ歩み寄ってやや遠くから声をかけた。
「ア、M―さんの家ですか」
百姓は自分から頬かむりをとって、私たちの方へ歩いて来た。そして、畑に挟まれた一つの沢を越し、渡りあがった向うの山蔭の杉木立の中に在る旨を教えて呉れた。
それも道を伝って行ったでは廻りになる故、其処の畑の中を通り抜けて……とゆびざししながら教えようとして、
「アッ、其処に来ますよ、M―さんが……」
と叫んだ。囚人などの冠る様な編笠をかぶり、辛うじて尻を被うほどの短い袖無袢纏を着、股引を穿いた、老人とも若者ともつかぬ男が其処の沢から登って来た。そして我等が彼を見詰めて立っているのを不思議そうに見やりながら近づいて来た。
「君はM―君ですか」
斯う私が呼びかけると、じっと私の顔を見詰めたが、やがて合点が行ったらしく、ハッとした風で其処に立ち留った。そして笠をとってお辞儀をした。斯うして向い合って見ると、彼もまだ三十前の青年であったのである。
私が上州利根郡の方に行く事をば我等の間で出している雑誌で彼も見ていた筈である。然し、斯うして彼の郷里まで入り込んで来ようとは思いがけなかったらしい。驚いたあまりか、彼は其処に突立ったまま殆んど言葉を出さなかった。路を教えて呉れた百姓も頬かむりの手拭を握ったまま、ぼんやり其処に立っているのである。私は昨夜沼田に着いた事、一緒にいるのが沼田在の同志U―君である事、これから法師温泉まで行こうとしている事、一寸でも逢ってゆきたくて立ち寄った事などを説明した。
「どうぞ、私の家へお出で下さい」
と漸くいろいろの意味が飲み込めたらしく彼は安心した風に我等を誘った。なるほど、ツイ手近に来ていながら見出せないのも道理なほどの山の蔭に彼の家はあった。一軒家か、乃至は、其処らに一二軒の隣家を持つか、兎に角に深い杉の木立が四辺を囲み、湿った庭には杉の落葉が一面に散り敷いていた。大きな囲炉裡端には彼の老母が坐っていた。
お茶や松茸の味噌漬が出た。私は囲炉裡に近く腰をかけながら、
「君は何処で歌を作るのです、此処ですか」
と、赤々と火の燃えさかる炉端を指した。土間にも、座敷にも、農具が散らかっているのみで書籍も机らしいものも其処らに見えなかった。
「さア……」
羞しそうに彼は口籠ったが、
「何処という事もありません、山ででも野良ででも作ります」
と僅かに答えた。私が彼の歌を見始めてから五六年はたつであろう。幼い文字、幼い詠みかた、それらがM―という名前と共にすぐ私の頭に思い浮べらるるほど、特色のある歌を彼は作っているのであった。
収穫時の忙しさを思いながらも同行を勧めて見た。暫く黙って考えていたが、やがて母に耳打して奥へ入ると着物を着換えて出て来た。三人連になって我等はその杉木立の中の家を立ち出でた。恐らく二度とは訪ねられないであろうその杉叢が、そぞろに私には振返えられた。時計は午後三時をすぎていた、法師までなお三里、よほどこれから急がねばならぬ。
猿ヶ京村でのいま一人の同志H―君の事をM―君から聞いた、土地の郵便局の息子で、今折悪しく仙台の方へ行っている事などを。やがてその郵便局の前に来たので私は一寸立寄ってその父親に言葉をかけた、その人はいないでも、矢張り黙って通られぬ思いがしたのであった。
石や岩のあらわに出ている村なかの路には煙草の葉がおりおり落ちていた。見れば路に沿うた家の壁には悉くこれが掛け乾されているのであった。此頃漸く切り取ったらしく、まだ生々しいものもあった。
吹路という急坂を登り切った頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでいると、おりおり路ばたの畑で稗や粟を刈っている人を見た。この辺では斯ういうものしか出来ぬのだそうである。従って百姓たちの常食も大概これに限られているという。かすかな夕日を受けて咲いている煙草の花も眼についた。小走りに走って急いだのであったが、終に全く暮れてしまった。山の中の一すじ路を三人引っ添うて這う様にして辿った。そして、峰々の上の夕空に星が輝き、相迫った峡間の奥の闇の深い中に温泉宿の灯影を見出した時は、三人は思わず大きな声を上げたのであった。
がらんどうな大きな二階の一室に通され、先ず何よりもと湯殿へ急いだ。そしてその広いのと湯の豊かなのとに驚いた。十畳敷よりもっと広かろうと思わるる浴槽が二つ、それに満々と湯が湛えているのである。そして、下には頭大の石ころが敷いてあった。乏しい灯影の下にずぶりっと浸りながら、三人は唯だてんでに微笑を含んだまま、殆んどだんまりの儘の永い時間を過した。のびのびと手足を伸ばすもあり、蛙の様に浮んで泳ぎの形を為すのもあった。
部屋に帰ると炭火が山の様におこしてあった。なるほど山の夜の寒さは湯あがりの後の身体に浸みて来た。何しろ今夜は飲みましょうと、豊かに酒をば取り寄せた。鑵詰をも一つ二つと切らせた。U―君は十九か廿歳、M―君は廿六七、その二人のがっしりとした山国人の体格を見、明るい顔を見ていると私は何かしら嬉しくて、飲めよ喰べよと無理にも強いずにはいられぬ気持になっていたのである。
其処へ一升壜を提げた、見知らぬ若者がまた二人入って来た。一人はK―君という人で、今日我等の通って来た塩原太助の生れたという村の人であった。一人は沼田の人で、阿米利加に五年行っていたという画家であった。画家を訪ねて沼田へ行っていたK―君は、其処の本屋で私が今日この法師へ登ったという事を聞き、画家を誘って、あとを追って来たのだそうだ。そして懐中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口絵の肖像と私とを見比べながら、
「矢張り本物に違いはありませんねエ」
と云って驚くほど大きな声で笑った。
十月廿三日。
うす闇の残っている午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿っているのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えている空の光にも土地の高みが感ぜられて、自ずと肌寒い。K―君たち二人はきょう一日遊んでゆくのだそうだ。
吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作って登って来るのに出会った。真先きの一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負っている。訊けばこれが有名な越後の瞽女であるそうだ。収穫前の一寸した農閑期を覗って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだという。
「法師泊りでしょうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね」
とM―君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思いついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞こうよりこのままこの山路で呼びとめて彼等に唄わせて見たかった。然し、そういう事をするには二人の同伴者が余りに善良な青年である事にも気がついたのだ。驚いた事にはその三々五々の組が二三丁の間も続いた。すべてで三十人はいたであろう。落葉の上に彼等を坐らせ、その一人二人に三味を掻き鳴らさせたならば、蓋し忘れ難い記憶になったであろうものをと、そぞろに残り惜しくも振返えられた。這う様にして登っている彼等の姿は、一丁二丁の間をおいて落葉した山の日向に続いて見えた。
猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとった。相迫った断崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め真上に相生橋が仰がれた。相生橋は群馬県で第二番目に高い橋だという事である。切り立った断崖の真中どころに鎹の様にして架っている。高さ二十五間、欄干に倚って下を見ると胆の冷ゆる思いがした。しかもその両岸の崖にはとりどりの雑木が鮮かに紅葉しているのであった。
湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年に別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊る事にした。もっともM―君は自分の村を行きすぎ其処まで見送って来てくれたのであった。U―君とは明日また沼田で逢う約束をした。
一人になると、一層疲労が出て来た。で、一浴後直ちに床を延べて寝てしまった。一時間も眠ったとおもう頃、女中が来てあなたは若山という人ではないかと訊く。不思議に思いながらそうだと答えると一枚の名刺を出して斯ういう人が逢い度いと下に来ているという。見ると驚いた、昨日その留守宅に寄って来たH―君であった。仙台からの帰途本屋に寄って私達が一泊の予定で法師に行った事を聞き、ともすると途中で会うかも知れぬと云われて途々気をつけて来た、そしてもう夕方ではあるし、ことによるとこの辺に泊って居らるるかも知れぬと立ち寄って訊いてみた宿屋に偶然にも私が寝ていたのだという。あまりの奇遇に我等は思わず知らずひしと両手を握り合った。
十月廿四日。
H―君も元気な青年であった。昨夜、九時過ぎまで語り合って、そして提灯をつけて三里ほどの山路を登って帰って行った。今朝は私一人、矢張り朗らかに晴れた日ざしを浴びながら、ゆっくりと歩いて沼田町まで帰って来た。打合せておいた通り、U―君が青池屋という宿屋で待っていた。そして昨夜の奇遇を聞いて彼も驚いた。彼はM―と初対面であったと同じくH―をもまだ知らないのである。
夜、宿屋で歌会が開かれた。二三日前の夜訪ねて来た人たちを中心とした土地の文芸愛好家達で、歌会とは云っても専門に歌を作るという人々ではなかった。みな相当の年輩の人たちで、私は彼等から土地の話を面白く聞く事が出来た。そして思わず酒をも過して閉会したのは午前一時であった。法師で会ったK―君も夜更けて其処からやって来た。この人たちは九里や十里の山路を歩くのを、ホンの隣家に行く気でいるらしい。
十月廿五日。
昨夜の会の人達が町はずれまで送って来て呉れた。U―、K―の両君だけはもう少し歩きましょうと更らに半道ほど送って来た。其処で別れかねてまた二里ほど歩いた。収穫時の忙しさを思って、農家であるU―君をば其処から強いて帰らせたが、K―君はいっそ此処まで来た事ゆえ老神まで参りましょうと、終に今夜の泊りの場所まで一緒に行く事になった。宿屋の下駄を穿き、帽子もかぶらぬままの姿でである。
路はずっと片品川の岸に沿うた。これは実は旧道であるのだそうだが、故らに私はこれを選んだのであった。そうして楽しんで来た片品川峡谷の眺めは矢張り私を落胆せしめなかった。ことに岩室というあたりから佳くなった。山が深いため、紅葉はやや過ぎていたがなお到る処にその名残を留めて、しかも岩の露われた嶮しい山、いただきかけて煙り渡った落葉の森、それらの山の次第に迫り合った深い底には必ず一つの渓が流れて滝となり淵となり、やがてそれがまた随所に落ち合っては真白な瀬をなしているのである。歩一歩と酔った気持になった私は、歩みつ憩いつ幾つかの歌を手帳に書きつけた。
きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも
木々の葉の染れる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
歩みつゝこゝろ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
わが急ぐ崖の真下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
しめりたる紅葉がうへにわが落す煙草の灰は散りて真白き
とり出でゝ吸へる煙草におのづから心は開けわが憩ふかも
岩陰の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
苔むさぬこの荒渓の岩にゐて啼く鶺鴒あはれなるかも
高き橋此処にかゝれりせまりあふ岩山の峡のせまりどころに
いま渡る橋はみじかし山峡の迫りきはまれる此処にかゝりて
古りし欄干ほとほとゝわがうちたゝき渡りゆくかもこの古橋を
いとほしきおもひこそ湧け岩山の峡にかかれるこの古橋に
老神温泉に着いた時は夜に入っていた。途中で用意した蝋燭をてんでに点して本道から温泉宿の在るという川端の方へ急な坂を降りて行った。宿に入って湯を訊くと、少し離れていてお気の毒ですが、と云いながら背の高い老爺が提灯を持って先に立った。どの宿にも内湯は無いと聞いていたので何の気もなくその後に従って戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異ったたいへんな処へ湯が湧いているのであった。手放しでは降りることも出来ぬ嶮しい崖の岩坂路を幾度か折れ曲って辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を辿る。その中洲の様になった川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いているのだ。
這いつ坐りつ、底には細かな砂の敷いてある湯の中に永い間浸っていた。いま我等が屋根の下に吊した提灯の灯がぼんやりとうす赤く明るみを持っているだけで、四辺は油の様な闇である。そして静かにして居れば、疲れた身体にうち響きそうな荒瀬の音がツイ横手のところに起って居る。ややぬるいが、柔かな滑らかな湯であった。屋根の下から出て見るとこまかな雨が降っていた。石の頭にぬぎすてておいた着物は早やしっとりと濡れていた。
註文しておいたとろろ汁が出来ていた。夕方釣って来たという山魚の魚田も添えてあった。折柄烈しく音を立てて降りそめた雨を聞きながら、火鉢を擁して手ずから酒をあたため始めた。
十月廿六日。
起きて見ると、ひどい日和になっていた。
「困りましたネ、これでは立てませんネ」
渦を巻いて狂っている雨風や、ツイ渓向うの山腹に生れつ消えつして走っている霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滞在ときめて漸くいい気持に酔いかけて来ると、急に雨戸の隙が明るくなった。
「オヤオヤ、晴れますよ」
そう云うとK―君は飛び出して番傘を買って来た。私もそれに頼んで大きな油紙を買った。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに両手の出る様にして、くるくると油紙と紐とで包んでしまった。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさされずとも間に合う用意をして、宿を立ち出でた。そして程なく、雨風のまだ全くおさまらぬ路ばたに立ってK―君と別れた。彼はこれから沼田へ、更らに自分の村下新田まで帰ってゆくのである。
独りになってひた急ぐ途中に吹割の滝というのがあった。長さ四五町幅三町ほど、極めて平滑な川床の岩の上を、初め二三町が間、辛うじて足の甲を潤す深さで一帯に流れて来た水が或る場所に及んで次第に一個所の岩の窪みに浅い瀬を立てて集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集った川全帯の水は、まるで生糸の大きな束を幾十百捩じ集めた様に、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るる事七八十間、其処でまた急に底知れぬ淵となって青み湛えているのである。淵の上にはこの数日見馴れて来た嶮崖が散り残りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の浅瀬が岩を掩うて流れているのはすがすがしい眺めであった。それが集るともなく一ところに集り、やがて凄じい渦となって底深い岩の亀裂の間を轟き流れてゆく。岩の間から迸り出た水は直ぐ其処に湛えて、静かな深みとなり、真上の岩山の影を宿している。土地の自慢であるだけ、珍しい滝ではあった。
吹割の滝を過ぎるころから雨は晴れてやがて澄み切った晩秋の空となった。片品川の流は次第に痩せ、それに沿うて登る路も漸く細くなった。須賀川から鎌田村あたりにかかると、四辺の眺めがいかにも高い高原の趣きを帯びて来た。白々と流れている渓を遥かの下に眺めて辿ってゆくその高みの路ばたはおおく桑畑となっていた。その桑が普通見る様に年々に根もとから伐るのでなく、幹は伸びるに任せておいて僅かに枝先を刈り取るものなので、一抱えに近い様な大きな木が畑一面に立ち並んでいるのである。老梅などに見る様に半ばは幹の朽ちているものもあった。その大きな桑の木の立ち並んだ根がたにはおおく大豆が植えてあった。既に抜き終ったのが多かったが、稀には黄いろい桑の落葉の中にかがんで、枯れ果てたそれを抜いている男女の姿を見ることがあった。土地が高いだけ、冬枯れはてた木立の間に見るだけに、その姿がいかにも侘しいものに眺められた。
そろそろ暮れかけたころ東小川村に入って、其処の豪家C―を訪うた。明日下野国の方へ越えて行こうとする山の上に在る丸沼という沼に同家で鱒の養殖をやっており、其処に番小屋があり番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰い度く、同家に宛てての紹介状を沼田の人から貰って来ていたのであった。主人は不在であった。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てての添手紙をも貰う事が出来た。
村を過ぎると路はまた峡谷に入った。落葉を踏んで小走りに急いでいると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望の夜近い大きな月の照りそめているのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷うことなく白根温泉のとりつきの一軒家になっている宿屋まで辿り着くことが出来た。
此処もまた極めて原始的な湯であった。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちていた。湯から出て、真赤な炭火の山盛りになった囲炉裡端に坐りながら、何は兎もあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いという。驚き惶てて何処か近くから買って来て貰えまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹つれで飛び出したが、やがて空手で帰って来た。更らに財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走って貰った。
心細く待ち焦れていると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでいる頭に、この気まぐれな山の時雨がいかにも異様に、侘しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れている渓川の音とに耳を澄ましているところへぐしょ濡れになって十二と八歳の兄と妹とが帰って来た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄顔に大きな壜を取出して私に渡した。
十月廿七日。
宿屋に酒の無かった事や、月は射しながら烈しい雨の降った事がひどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇うこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飲み代でもある酒を買って来て貰うことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであったが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其処に浸っていた。顔の蒼い、眼の険しい四十男であった。
昨夜の時雨が其儘に氷ったかと思わるるばかりに、路には霜が深かった。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでいた。渓に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折の嶮しい坂にかかった。それと共に四辺はひしひしと立ち込んだ深い森となった。
登るにつれてその森の深さがいよいよ明かになった。自分等のいま登りつつある山を中心にして、それを囲む四周の山が悉くぎっしりと立ち込んだ密林となっているのである。案内人は語った。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である、平地に均らして五里四方の上に出ている、そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙会社に売り渡した、代価四十五万円、伐採期間四十五個年間、一年に一万円ずつ伐り出す割に当り、現にこの辺に入り込んで伐り出しに従事している人夫が百二三十人に及んでいる事などを。
なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の様にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでいた。そしておりおり渓向うの山腹に大風の通る様な音を立てて大きな樹木の倒るるのが見えた。それと共に人夫たちの挙げる叫び声も聞えた。或る人夫小屋の側を通ろうとして不図立ち停った案内人が、
「ハハア、これだナ」
と咳くので立ち寄って見ると其処には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあった。
「これは旦那、楓の板ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいって評判になってるんですがネ、……なるほど、いい木理だ」
撫でつ叩きつして暫く彼は其処に立っていた。
「山が深いから珍しい木も沢山あるだろうネ」
私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何処とかから途方もねえ黒檜が出たって云いますがネ、みんな人夫頭の飲代になるんですよ、会社の人たちゃア知りやしませんや」
と嘲笑う様に云い捨てた。
坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の広やかな沢に入った。沢の平地には見る限り落葉樹が立っていた。これは楢でこれが山毛欅だと平常から見知っている筈の樹木を指されても到底信ずる事の出来ぬほど、形の変った巨大な老木ばかりであった。そしてそれらの根がたに堆く積って居る落葉を見れば、なるほど見馴れた楢の葉であり山毛欅の葉であるのであった。
「これが橡、あれが桂、悪ダラ、沢胡桃、アサヒ、ハナ、ウリノ木、……」
事ごとに眼を見張る私を笑いながら、初め無気味な男だと思った案内人は行く行く種々の樹木名を倦みもせずに教えて呉れた。それから不思議な樹木の悉くが落葉しはてた中に、おりおり輝くばかり楓の老木の紅葉しているのを見た。おおかたはもう散り果てているのであるが、極めて稀にそうした楓が、白茶けた他の枯木立の中に立混っているのであった。
そして眼を挙げて見ると沢を囲む遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり真黒に茂り入った黒木の山であった。常磐木の森であった。
「樅、栂、檜、唐檜、黒檜、……、……、」
と案内人はそれらの森の木を数えた。それらの峰の立ち並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穂を見せて聳えているのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかった。
下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
時知らず此処に生ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも
散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてゝ雪のごと見ゆ
わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が岳の岩山は見ゆ
遅れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木が中に
枯木なす冬木の林ゆきゆきて行きあへる紅葉にこゝろ躍らす
この沢をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ
墨色に澄める黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
沢を行き尽くすと其処に端然として澄み湛えた一つの沼があった。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ続いた火山湖のうちの大尻沼がそれであった。水の飽くまでも澄んでいるのと、それを囲む四辺の山が墨色をしてうち茂った黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしているのであった。
その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて静かに水の上に浮んでいたのである。思わず立ち停って瞳を凝らしたが、時を経ても彼等はまい立とうとしなかった。路ばたの落葉を敷いて、飽くことなく私はその静かな姿に見入った。
登り来しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅黒檜黒木の山のかこみあひて真澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸辺なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと静けしと見つゝこゝろかなしも
山の木に風騒ぎつゝ山かげの沼の広みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の広みに
鴨居りて水の面あかるき山かげの沼のさなかに水皺寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて静かなるかも鴨鳥の群
おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つゝかなしも
風たてば沼の隈回のかたよりに寄りてあそべり鴨鳥の群
さらに私を驚かしたものがあった。私たちの坐っている路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずっと茂り続いているのが思いがけない石楠木の木であったのだ。深山の奥の霊木としてのみ見ていたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うているのであった。私はまったく事ごとに心を躍らせずにはいられなかった。
沼のへりにおほよそ葦の生ふるごと此処に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月にまた見に来むぞ此処の沼見に
また来むと思ひつゝさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でゝ来む
天地のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上の凍みいちじるし今はゆきなむ
昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小径の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云うべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちている処に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であった。
沼と山の根との間の小広い平地に三四軒の家が建っていた。いずれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閉ざされていた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて来た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て来た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請い、直ぐ大囲炉裡の榾火の側に招ぜられた。
番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、実はもう一人、棟続きになった一室に丁度同じ年頃の老人が住んでいるのであった。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農商務省の水産局からC―家に頼んで其処に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になって、もう何年かたっている。老人はその技手であったのだ。名をM―氏といい、桃の様に尖った頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髪を留むるのみで、つるつるに禿げていた。
言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出来るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答えると、それでは沼で釣って見ないかと云う。実はこちらから頼み度いところだったのでほんとに釣ってもいいかと云うと、いいどころではない、晩にさしあげるものがなくて困っていたところだからなるだけ沢山釣って来いという。子供の様に嬉しくなって早速道具を借り、蚯蚓を掘って飛び出した。
「ドレ、俺も一疋釣らして貰うべい」
案内人もつづいた。
小舟にさおさして、岸寄りの深みの処にゆき、糸をおろした。いつとなく風が出て、日はよく照っているのだが、顔や手足は痛いまでに冷えて来た。沼をめぐっているのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところどころ雪白な樹木の立ち混っているのは白樺の木であるそうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て来た。そして驚くほどの速さで山腹を走ってゆく。あとからあとからと濃く薄く現われて来た。空にも生れて太陽を包んでしまった。
細かな水皺の立ち渡った沼の面はただ冷やかに輝いて、水の深さ浅さを見ることも出来ぬ。漸く心のせきたったころ、ぐいと糸が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかかって来た。私にとっては生れて初めて見る魚であったのだ。惶てて餌を代えておろすと、またかかった。三疋四疋と釣れて来た。
「旦那は上手だ」
案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更らに魚が寄らぬのであった。一疋二疋とまた私のには釣れて来た。
「ひとつ俺は場所を変えて見よう」
彼は舟から降りて岸づたいに他へ釣って行った。
何しろ寒い。魚のあぎとから離そうとしては鉤を自分の指にさし、餌をさそうとしてはまた刺した。すっかり指さきが凍えてしまったのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなった。
丁度十疋になったを折に舟をつけて家の方に帰ろうとすると一疋の魚を提げて案内人も帰って来た。三疋を彼に分けてやると礼を云いながら木の枝にそれをさして、やがて沼べりの路をもと来た方へ帰って行った。
洋燈より榾火の焔のあかりの方が強い様な炉端で、私の持って来た一升壜の開かれた時、思いもかけぬ三人の大男が其処に入って来た。C―家の用でここよりも山奥の小屋へ黒檜の板を挽きに入り込んでいた木挽たちであった。用が済んで村へかえるのだが、もう暮れたから此処へ今夜寝させて呉れと云うのであった。迷惑がまざまざと老番人の顔に浮んだ。昨夜の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持って来たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであった。これは早や思いがけぬ正月が来たと云って、彼は顔をくずして笑ったのであった。そして私がM―老人を呼ぼうというのをも押しとどめて、ただ二人だけでこの飲料をたのしもうとしていたのであった。其処へ彼の知合である三人の大男が入り込んで来て同じく炉端へ腰をおろしたのだ。
同じ酒ずきの私には、この老爺の心持がよく解った。幾日か山の中に寝泊りして出て来た三人が思いがけぬこの匂いの煮え立つのを嗅いで胸をときめかせているのもよく解った。そして此処にものの五升もあったらばなア、と同じく心を騒がせながら咄嗟の思いつきで私は老爺に云った。
「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元まで降りようじゃアないか、其処で一晩泊って存分に飲んだり喰べたりしましょうよ」
と。
爺さんも笑い、三人の木挽たちも笑いころげた。
僅かの酒に、その場の気持からか、五人ともほとほとに酔ってしまった。小用にと庭へ出て見ると、風は落ちて、月が氷の様に沼の真上に照っていた。山の根にはしっとりと濃い雲が降りていた。
十月廿八日。
朝、出がけに私はM―老人の部屋に挨拶に行った。此処には四斗樽ほどの大きな円い金属製の暖炉が入れてあった。その側に破れ古びた洋服を着て老人は煙管をとっていた。私が今朝の寒さを云うと、机の上の日記帳を見やりながら、
「室内三度、室外零度でありましたからなア」
という発音の中に私は彼が東北生れの訛を持つことを知った。そして一つ二つと話すうちに、自身の水産学校出身である事を語って、
「同じ学校を出ても村田水産翁の様になる人もあり、私の様に斯んな山の中で雪に埋れて暮すのもありますからなア」
と大きな声で笑った。雪の来るのももう程なくであるそうだ。一月、二月、三月となると全くこの部屋以外に一歩も出られぬ朝夕を送る事になるという。
老人は立ち上って、
「鱒の人工孵化をお目にかけましょうか」
と板囲いの一棟へ私を案内した。其処には幾つとなく置き並べられた厚板作りの長い箱がありすべての箱に水がさらさらと寒いひびきを立てて流れていた。箱の中には孵えされた小魚が虫の様にして泳いでいた。
昨夜の約束通り私が老番人を連れてその沼べりの家を出かけようとすると、急にM―老人の部屋の戸があいて老人が顔を出した。そして叱りつける様な声で、
「××」
と番人の名を呼んで、
「今夜は帰らんといかんぞ、いいか」
と云い捨てて戸を閉じた。
番人は途々M―老人に就いて語った。あれで学校を出て役人になって何十年たつか知らんがいまだに月給はこれごれであること、然し今はC―家からも幾ら幾らを貰っていること、酒は飲まず、いい物はたべず、この上なしの吝嗇だからただ溜る一方であること、俺と一緒では何彼と損がゆくところからああして自分自身で煮炊をしてたべている事などを。
丸沼のへりを離れると路は昨日終日とおく眺めて来た黒木の密林の中に入った。樅、栂、などすべて針葉樹の巨大なものがはてしなく並び立って茂っているのである。ことに或る場所では見渡す限り唐檜のみの茂っているところがあった。この木をも私は初めて見るのであった。葉は樅に似、幹は杉の様に真直ぐに高く、やや白味を帯びて聳えて居るのである。そして売り渡された四十五万円の金に割り当てると、これら一抱二抱の樹齢もわからぬ大木老樹たちが平均一本、六銭から七銭の値に当っているのだそうだ。日の光を遮って鬱然と聳えて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覚えざるを得なかった。
長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があった。菅沼と云った。それを過ぎてやや平らかな林の中を通っていると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出ている水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だという。それを聞くと私は思わず躍り上った。それらの沼の水源と云えば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
ばしゃばしゃと私はその中へ踏みこんで行った。そして切れる様に冷いその水を掬み返えし掬み返えし、幾度となく掌に掬んで、手を洗い顔を洗い頭を洗い、やがて腹のふくるるまでに貪り飲んだ。
草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終に金精峠の絶頂に出た。真向いにまろやかに高々と聳えているのは男体山であった。それと自分の立っている金精峠との間の根がたに白銀色に光って湛えているのは湯ノ湖であった。これから行って泊ろうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。ツイ右手の頭上には今にも崩れ落つるばかりに見えて白根火山が聳えていた。男体山の右寄りにやや開けて見ゆるあたりは戦場ヶ原から中禅寺湖であるべきである。今までは毎日毎日おおく渓間へ渓間へ、山奥へ山奥へと奥深く入り込んで来たのであったが、いまこの分水嶺の峰に立って眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるる。これからは今までと反対に広く明るいその方角へ向って進むのだとおもうと自ずと心の軽くなるのを覚えた。
背伸びをしながら其処の落葉の中に腰をおろすと、其処には群馬栃木の県界石が立っていた。そして四辺の樹木は全く一葉をとどめず冬枯れている。その枯れはてた枝のさきざきには、既に早やうす茜色に気色ばんだ木の芽が丸みを見せて萌えかけているのである。深山の木は斯うして葉を落すと直ちに後の新芽を宿して、そうして永い間雪の中に埋もれて過し、雪の消ゆるを待って一度に萌え出ずるのである。
其処に来て老番人の顔色の甚しく曇っているのを私は見た。どうかしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、という。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行って引返すころになるといま通って来た路の霜柱が解けている、その山坂を酒に酔った身では歩くのが恐ろしいという。
「だから今夜泊って明日朝早く帰ればいいじゃないか」
「やっぱりそうも行きましねエ、いま出かけにもああ云うとりましたから……」
涙ぐんでいるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見ていると、しみじみ私はこの老爺が哀れになった。
「そうか、なるほどそれもそうかも知れぬ、……」
私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買って来て、何処か戸棚の隅にでも隠して置いて独りで永く楽しむがいいや。では御機嫌よう、左様なら」
そう云い捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとっとと掌を立てた様な急坂を湯元温泉の方へ馳け降り始めた。
中禅寺湖にて
裏山に雪の来ぬると湖岸の百木の紅葉散り急ぐかも
見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり
湖をかこめる四方の山なみの黒木の森は冬さびにけり
舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺の紅葉照り匂ふ日を
鳴虫山の鹿
聞きのよき鳴虫山はうばたまの黒髪山に向ふまろ山
鹿のゐて今も鳴くとふ下野の鳴虫山の峰のまどかさ
友が指す鳴虫山のまどかなる峰の紅葉は時過ぎて見ゆ
草枯れし荒野につゞくいたゞきの鳴虫山の紅葉乏しも
大野原の夏草
富士の裾野のうちで、富士をうしろにし、真正面に足柄山、右に愛鷹山、左に名も知らぬ外輪山風の低い山脈を置いた間の広大な原野を土地では大野原と呼んでいる。地図にもそう書いてあるので、これが此野の固有名詞かも知れない。名の示す通り、うち見たところ十里四方にも及びそうな大きな原野である。東海道線の汽車はその野のはずれ、ずっと足柄山に寄ったところを通って、野原の中に駿河駅、御殿場駅、裾野駅があり、裾野の傾斜を下りつくしたところに三島駅がある。
御殿場から歩いてこの広大の野原を横断したのは一昨年の秋であった。野原いちめんの芒がほおけ、松虫草のすがれた十月であった。若草の伸び揃うた頃にもう一度この野の中を歩いて見度いとその時思ったのであったが、昨年は病気がちで果さず、今年もその春の頃をば空しく過ごして、いつのまにかすっかり夏めいた六月のはじめに漸くその望みを遂ぐることが出来た。
今度は裾野駅で汽車から降りた。そして其処からてくてく歩いて、野原の中の西寄りに在る唯一の集落須山村というまで、軽い傾斜を四里があいだ片登りに登って行った。
裾野駅はもと佐野駅と云った。その佐野の旧い宿場を出はずれる時が丁度十一時であったので其処で稲荷鮨を買って提げたが、程なく土ぼこりの立つ道を歩き歩き喰べて行った。心あてにした恰好な木蔭もなく、茶を貰って飲む茶屋らしいものにも行き会えそうになかったからであった。それでも一里ほどの間はとびとびに人家があり、やがてそれが絶えて一面の麦畑と桑畑との原となった。麦は半ば黄色に熟れて、諸所、刈っているのにも出会った。桑には小さな美しい実がなっていた。子供の時の記憶を思い出して、路ばたのそれを一つ二つと摘みとって喰べて見ると、ほほら温いうす甘いものであった。
路の埃は実に夥しいものであった。このあたりの地質が火山性の乾き易い土らしいのに、数日うち続いた日照のあとであるのだ。途中に渡った黄瀬川など、僅に岩から岩の筋目を辿ってちょろちょろと流れているにすぎなかった。そしてその細い流れも底に着いた水垢のため、枯葉の様な色に見えている。鮎の上って来る話を聞いていたので、暫く橋の上に立ってあちこちとその流れを――水垢の色が透くので色づいては見えるが水はよく澄んでいるのだ――見ていたがなかなかその魚のすがすがしい姿などは見えなかった。ぼくぼくと草鞋で踏んで登るその野の路の両側には麦や桑の畑の中に、またはこまごまと茂り合った丈低い雑木林の中に、頬白の鳥がつぎつぎと啼いていた。路の行手にはあらわに晴れた富士山が鹿の子まだらに雪を残してゆったりと聳えていた。
真日中の日蔭とぼしき道ばたに流れ澄みたる井手のせせらぎ
道ばたに埃かむりてほの白く咲く野いばらの香こそ匂へれ
桑の実のしたたるつゆに染まりたる指さきを拭くその広き葉に
埃たつ野なかの道をゆきゆきて聞くはさびしき頬白の鳥
腰から下をほの白く土埃に染めながら、登るともなく登って、この野の中のただ一つの村を包むうす黒い杉の林を見出でた時には、富士は全く眼の前に、愛鷹山はツイ左手に迫って見えた。広い野を歩き尽してそのはての山の根に近づくなつかしさをばよく武蔵野で経験したものであったが、久しぶりに今日またそのしみじみした心持を味わった。杉の林を歩き抜けると、一握りにかたまった須山村があった。四方にめぐらした杉林は恐らく風を防ぐためであろう。秋の時に泊った清水館というに草鞋を脱いだ。
この前通された部屋は富士を仰ぐによかったが、今は繭買が入り込んでいてそちら側は全部ふさがっていた。反対の側の一室に入ると、今度は愛鷹の裏山の青々と茂っているのが真向いに見えた。並び立った若杉、渦を巻いて見える雑木の若葉、眼の覚める眺めであった。末広がりに広がり下った野の末には足柄箱根の連山が垣をなしてうす青く見渡された。
まだ時間は早かったが、塵に労れて散歩をする元気もなかった。障子をあけ放ってぼんやり煙草に火をつけていると、宿屋の軒下の庭には、伊豆あたりからでも登って来たらしい鰹節売が一杯に荷を拡げていた。そして其処も矢張り軽い坂をなした門さきの路を通る百姓たちを呼び留めては無理強いに一本二本と売りつけていた。多くは真青な桑を脊負ったままの百姓たちは大抵それをばにやにやと笑いながら受取って行き過ぎた。
一時、その客足の断えた時があった。其処へ一人の男が通りかかった。二十代か三十かそれとも四十にかかっているか、一向に年齢の解らぬ背の低い丸坊主であった。帯をば尻の頭にしめて、だらりと両手をふところに入れて居る。一目見てそれと解る白痴である。門にもたれていた鰹節売の六十爺はそれを見ると、矢庭に声をかけた。
「××!」
と名を呼んでおいて、
「あれにナ、石を投げて見ろよ、あたるといい音がするぜ!」
見ると宿屋の石の門の真向いには半鐘柱が立っていた。男はニヤリと笑ったが、やがてその猪首を傾げて、眩しそうに柱の上に吊ってある半鐘を見上げた。そしてまた鰹節売の胡麻塩の頭を見て、ニヤリと笑った。上の前歯が三四本ずらりと欠けているのだ。それが一層この男を白痴らしくも、また可愛らしくも見せて居る。
「投げて見ろよ、見ろ、ソラ!」
云いながら爺は足許の小石を拾いあげて半鐘の方へ向けて投げあげた。うす赤い歯茎をあらわに見せて相変らず同様な笑いを続けていた男は、度々爺の勧むるままに、やがて自分も一つの小石を取りあげた。そして徐ろに首を動かして高い柱の上を見上げた。
直ぐ投げるかと見ていると、彼は投げなかった。腕を曲げて投ぐる姿勢に首をも身体をも傾げてはいるが、なかなか投げなかった。もどかしがって胡麻塩頭の脊の高い爺は更に二三度自身が投げて見せて、果は本気になって嗾しかけていたが、終に投げなかった。そしてその投ぐる姿勢をば少しもくずさずにじいっと其処に突っ立っていたが、やがてそろそろと三四間坂の下手に降りて行って其処から改めて振返ってまた半鐘を見上げた。その顔が二階の私からよく見えた。いつか以前のにやにやした笑顔は失せて、いかにも真剣の真顔である。それでも、歯の折れた唇頭は矢張り少しあいていた。この歯も誰かの悪戯で折られたものに相違ないと私は思った。
其処へ桑を負った客が通りかかった。この客に四本の鰹節を売りつけた爺は、何やら追従を云いながら不図またこの白痴の真面目な顔を見て大きな声で笑い出した。
私が風呂に入って出て来るまで彼は少しも前と変らぬ姿で石を持って其処へ立っていた。夏でも蚊帳を吊らぬというその野原の夕方は沼津あたりと違ってかなりに冷えた。暮れそめていよいよ青みを増してゆく山を見るのは楽しみであったが、あまりに冷えるので私は夕飯の膳に酒を添えて持って来たのと同時に、障子をしめたのであった。その時までも同じ様に彼は立っていた。上に行き下に行き、四五間の間を廻りながら片手に石を持って半鐘を見上げているのである。鰹節売はいつの間にか荷を片附けて、姿は見えなかった。
長い食事が終ると、私は立って障子をあけたが、もう白痴の姿も見えなかった。そして半鐘には冷たい月の光が落ちていた。月夜の富士を心に描いて惶てて私はそとに出た。宿から少し坂を登った所から富士はよく仰がれた。朧な月の影を帯びて、昼間よりも一層高みを増して墨絵の様に仰がれた。月には大きな暈があった。見渡す野原いちめんに冷たいその暈の影が落ちているのが感ぜられた。
ぐっすりと眠っていると、恐ろしい物音が私を呼び覚した。繭買と鰹節売とが私のまん前の部屋で掴み合いの喧嘩を始めていたのである。徳利や皿の割れる音が続いて起った。苦笑しながら蒲団を被っていると、二三の人々が駈けつけて来た。暫く経って後、うとうとと私はまた眠って行ったが再び異様な音に襲われた。半鐘の音である。しかもツイ軒先で鳴るそれである。驚いて私は飛び起きた。そして雨戸を繰りあけた。月光に浮いて一人の男が柱の上の半鐘を打ち鳴らしている。やがて二人三人と宿の前の坂道を人が走り出した。凄じい音で喞筒も坂を降りて行った。此処から一里半ほど下の山蔭に在る下和田村というのが焼けているのだそうだ。時計を見ると丁度一時半であった。
拵えて貰った握り飯を腰に提げて、新しい草鞋に履代えて朝早くその宿を出ようとすると驚いた。例の白痴がいつのまにかやって来て昨日の通りに石を持ち腕を曲げ首をかしげて、今朝ほどじゃんじゃんと鳴りわめいた半鐘の下に佇んでいたのである。側をそっと通り抜けながら、私はその真面目な顔を見るのが恐ろしかった。
村を出はずれると、一里ほどの間低い灌木の林の中を登った。つゆじめりのした林の茂みには黒つがという鳥があちらこちらで啼いていた。行々子に似た啼声で、それより遥に寂びのある山の鳥の声である。一里ほど登ったところで、私は路を右にとった。真直ぐに行けば戸数十軒あまりの十里木という峠村を越えて、駿河湾に面した裾野の森林帯を横切って大宮の方へ行くのである。一昨年はそれを行ったのであったが、今度は十里木まで行かず、その手前で折れて、いわゆる大野原の夏草原の中間を横断して御殿場へ出ようというのである。
林から折れて出ると直ぐ大野原の一端に入り込んだ。この前の時も一寸此処へ立ち入って、涯のない野原の美しさと、それを前に置いて独り高く聳えて居る富士山の神々しさにつくづくと心を酔わせたのであった。その時は眼に満つる一面の秋草の野であった。たまたまに野のうねりの円い岡から岡へ啼いて飛ぶのは鶉であった。いまはまた見ゆる限りの青草の海である。珍らしく紅空木の花が咲いて居るほかは何ひとつ花とて無く、名さえもわかぬ草の種類がひた茂りに茂って居る。そして天にも地にも入り乱れて雲雀が啼き交わして居るのであった。
元来この大野原は陸軍野砲兵の実弾射撃演習地となっているのだ。野の中央所に砲を据えて、一日は野の下部を目がけて撃ち、一日は上手の方に的を置いて撃つのだそうだ。今日は幸いにもその上手に当る富士の根際の方の休みの日であった。それで其処を通る事が許されていたのである。
それでもやがて下の方で撃ち出した大砲の殷々たる響きを聞くと何となく心が騒いだ。ことに自分の通っている道から両側にかけ三四尺四方の穴を穿って落下した弾の痕が無数に散らばっているのを見ると、あたり一面に草のみ茂って人の影とても無い中のことで、どうしても落ちついて歩いている気になれなかった。大海のうねりの様に、野から野にかけて穏かな円みを持った岡が柔かな草に掩われて連り亘っているのであるが、その中でもやや大きな岡のあるのを見ると道から逸れてその上へ登って行った。そして其処へ腰をおろして両手で膝を抱きながら眼の前に聳えた富士を仰ぐのが楽しみであった。空は紺青色に晴れているのだが、何処からとなく薄い雲が生れては富士の方へ寄って行って、やがてまた夢の様に消えていた。その雲も眩ゆく寂しく、その雲の落すうす黒い影の動きも富士の肌えに寂しく仰がれた。
二三里をひたすらに草の中を歩いて、印野村へ出た。須山より更に小さい野中の村であった。通り抜けるとまた野原である。更に二三里を歩いて御殿場へ出た時は、漸く正午に近い頃であった。
ひそやかにもの云ひかくる啼声のくろつがの鳥を聞きて飽かなく
草の穂にとまりて鳴くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は
夏草の野に咲く花はたゞひといろ紅空木の木のくれなゐの花
寄り来りうすれて消ゆる真日中の雲たえまなし富士の山辺に
追憶と眼前の風景
私は日向の国尾鈴山の北側に当る峡谷に生れた。家の前の崖下を直ぐ谷が流れ、谷を挟んで急な傾斜が起ってほぼ一里に渉り、やがて尾鈴の嶮しい山腹に続いて居る。
この山は南側太平洋に面した方は極めてなだらかな傾斜をつくり、海抜四千何百尺かの高さから海に向って遠く片靡きに靡き下っているのであるが、私の生れた村に臨んだ側は殆んど直角とも云い度い角度で切り落ちた嶮峻な断崖面をなして聳えて居る。無論岩骨そのままの山肌で、見るからにこごしい姿であるが、その割には樹木が深い。伐り出すにも伐り出せないところから、いつとはなしに其処に生えたいろいろな樹が昔のままに芽ぐみ茂っているのであろう。村人に聞くと樅の木など最も多いという事である。そして春になると其処に意外に多くの山桜の咲き出すのが仰がれた。
一日二日と雨がつづけば、その山腹には三つも四つも真白な見ごとな滝が懸った。日頃はあるかなきかに流れているその岩壁の水が雨のために急に相当の谷となり滝となって現われて来るのである。そうしてそういう日には実にいろいろの形をした雲が山に生れて、あちこちと動くのが見えた。それほど嶮しい山であっても唯だ一面の鏡を立てた様な岩壁となっているのではない。その間には、全体の傾斜に添う様な嶮しい角度で幾多の襞が切れている。無論そういう山肌である処から縦に切れる処は無く、多くはみな横に切れて畳まっているものらしい。そしてその畳まった岩襞の間から雲は生れて来るのである。
この雨の日の滝と雲とが、どれほど幼い頃の私を喜ばして呉れたであろう。子供心にも常の日のその自分の眼の前の山は余りにも嶮しく余りにも鋭く感ぜられたに相違ない。眼鼻があかないという気がしていたに相違ない。それが雨の日となると全く山の姿が変ってしまう。襞々から湧いた雲は、平常ただ一面に聳えて居る岩の山を、甚だ奥深いものに見せて呉れた。更らに雲は濃く淡くたなびいて、幾つかに畳まり聳えて居る岩山の尾根の樹木の茂みをそれぞれに浮き立たせて見せて呉れた。そしてそれらの雲よりもなおはっきり白く落ちて居る大小の滝は平常の寂しい山を甚だ賑かにし柔かにして呉れた。その山の雨の日に対する讃美と感謝とからであったろう、私は中学を出る頃まで自ら若山雨山と号していたことを思い出す。そしてなおそれと共に思い出すのは、その山に山桜の花の咲き出す頃の美しさである。
尾鈴からその連山の一つ、七曲峠というに到る岩壁が、ちょうど私の家からは真正面に仰がれた。幾里かに亘って押し聳えた岩山の在りとも見えぬ襞々にほのぼのとして咲きそむる山ざくらの花の淡紅色は、躍り易い少年の心にまったく夢のような美しさで映ったものであった。そんな山だけに樹という樹は大抵年代を経た古木であったに相違ない。うすべに色に浮んで見ゆるその山ざくらの花は多くふくよかな円みをもっていた。枝を張り渡した古木にみっちりと咲き静もっている花のすがたであったのだ。その円みを持った一団の花一樹の花が、うす黒い岩山の肌に其処此処に散らばって見渡さるる。北側だけに、山腹にはおおく日が昃っていた。そのうすら冷い日蔭に在ってもなおこの花だけはほのかに日の光を宿しているかの様に浮き出でて見えたのであった。
さくら花咲きにけらしなあしひきの山の峡より見ゆるしら雲
中学の文法の時間に、或る引例として引かれてあったこの古歌に無上の憧憬を覚えたのも矢張りそうした心を桜に対して懐いていたからであった。私の生れた処はそうした山奥であったために、その頃尋常小学だけしか村になかった。で、高等小学と中学とをば村から十里余り離れた海岸の城下町で学んだのであったが、その中学の寄宿舎に在って恋しいものはただ父であり母であり、その故郷の山の山ざくらの花であった。その頃、幼いながらに詠んだ歌にそのこころが残っている。
母恋しかゝるゆふべのふるさとの桜咲くらむ山のすがたよ
父母よ神にも似たるこしかたにおもひでありや山ざくら花
そうした山あいの郷里を出て来てから十七八年たっている。その間におりおり思い出す郷里のことは、年のたつに従って種々の事情と共に私にはあまり香ばしからぬ心持をのみ起さしめる様になって来た。それでも不思議にその谷間から仰ぎ馴れていた山ざくらに対してだけは寧ろ年ごとになつかしい追懐を深めてゆく傾向があるのである。十七八年の間に二三度帰国はして居るが、いつも惶しい時間であったり、その花の咲く季節でなかったり、心ゆくまでそれに向うということを一度もようしていない。いつか一度ゆっくりその花の頃を選んで帰国したいと思いながら次第に年を重ねて来ている。そしてその季節に逢うごとに、オ、もうあの花が咲くのだなア、とその面影を心に描くのが常となっている。
一体桜には非常に種類が多いとかで、東京近郊に咲くのだけでも何十種とかに上るそうである。専門的の詳しい事を私は知らないが、此処に謂う山桜は花よりも早く葉が出て、その葉は極めて柔かく、また非常にみずみずしい茜色をしている。花の色は純白、或は多少の淡紅色を帯びているかとも思われる。或はその美しい葉の色が単弁のすがすがしい花に映じて自ずと淡紅色に見えるのかとも思われる。多くは山地にのみ見られる様で、あれほど桜の多い東京にもこの花ばかりは殆んど見掛けなかった様におもう。
丁度その花の頃は旅行のしたい季節ではあるし、よくあちこちと出かけて行っては山に咲き野に咲く一本二本のそれを見出して心を躍らしていたのであったが、今年偶然にもこの花の非常に多い処を発見した。それはいま私の滞在している伊豆湯ヶ島温泉附近である。
東海道三島駅で分れた駿豆鉄道の終点大仁駅から四里、乗合の馬車なり自動車なりによって軽い片登りの道を登ってゆくと天城山の北の麓に在る湯ヶ島の宿場に着く。その宿はずれから右手を見下すと其処は思いがけぬ嶮しい崖となっていて丁度崖の下で二つの渓流が落ち合い、白い奔湍となって流れ下っているのを見る。その渓沿いに、川下にまた川上に、次ぎから次ぎと実に限りないこの山桜の花の咲いているのを私は見たのである。
私の此処に来たのは三月の末、廿八日であった。右に云った宿はずれの崖の上から見下した渓間の流れに臨んで二軒の温泉宿がある。その一軒に暫く滞在して病後の疲れを直そうと思って来たのであったが、その時に既に或る場所の桜は咲いていた。同じ山桜のうちにも幾つかの種類があるらしく、また樹齢にもよると見えて、その時からかけて次ぎ次ぎと咲き継いだ花は到る所の渓間にそのみずみずしい姿を見せていた。
此の渓流は天城山及びその連山から流れ出して来た流で末は沼津町の裏に青々と湛えて伊豆通いの汽船をも入れ、千本松原近くの海に落つる狩野川となるのであるが、まだこの湯ヶ島附近では岩から岩を越え石から石に飛沫をあげて走る純然たる渓流である。その渓を挟む両岸の木立のなかに眼覚むる様な色とかがやきとを点じて最も多く咲き混っているのである。或は木立から抜けて真白な瀬の上にあらわに咲き垂れているのもある。また渓から山腹に茂っている杉山の中に、一本二本くっきりと鮮かに咲いているものもある。杉山のはずれが薄黄いろい枯萱の山窪となり、その山窪の原の中に一本ぽっつりと寂しく咲いているのもある。またその萱山のいただきの円みの上に何かの目じるしででもある様に見ごとな古木がうららかに咲き盛っているのも見えた。常磐木の茂みのなか、または流れくだる瀬々のうえに咲いているのはいかにもみずみずしく鮮かであるが、萱野のなかに独りだちに咲いているのはあたりの日の光を其処に集めて咲いてでもいる様に美しいなかに何とも云えぬ寂しさを含んでいる。炭焼の煙のうすあおく立ち昇る雑木林のまだ芽ぶかぬなかに咲いているのもまたほのかでものさびしい。
普通湯ヶ島温泉と云っている二軒の湯宿――それも渓に沿うた三四丁の上と下とに在るのだが――から七八丁川上の方へ入ると其処にまた世古の湯木立の湯という温泉が渓を距てて湧いている。二つとも極めて原始的な温泉で世古の湯の方には二軒の小さな宿屋があるにはあるが、湯はその二軒の間の渓ばたに僅かに屋根といい壁という名のみのものを持った浴場の中に湧き、殆んど脱衣場や休憩室というべき場所もないので、晴天の日は人は多く渓の石の頭に衣服を脱ぎ、飛沫のかかる瀬際に立って浴後の赤い素肌を晒すのである。この湯は晴雨によって温度を異にし、雨となると少し過ぎる位いの熱さとなる。その湯の筋向うの同じく渓ばたに湧く木立の湯というのは更らに変っている。地面よりやや低く掘り下げた四周に石垣が築かれ、その上に草葺の屋根が拵えてある。それが即ち浴場なのだが、唯だこれだけの設備があるのみで附近に人家も無ければ何も無い。切り立った岩に挟まれた深い淵とそれに続く激しい瀬と岩の崖と崖の上の森とが在るのみなのだ。湯槽の中には堆く散り溜って腐れた落葉の間に、僅かに両足を置いて蹲踞むだけの石が二つ三つ置いてある。湯は泡の玉をなしてその落葉の間に湧き、温度は極めてぬるいが、ラジュウムを含んでいる事では伊豆諸湯のうち一二を争うのだそうだ。
私は此処でこの不思議な二つの湯の紹介をしようとしたわけでなく、唯だ云い度いのはこの二つの湯を囲む渓ばたの樹木のうち、殆んどその半ばが山桜ではないかと疑わるるほど、その花の多いのに驚いたことであるのだ。若木も多いが、更らに老木が多い。樫や椎の茂みを抜き、この木とは思えぬほどのたけ高い梢を表わして咲き靡いているのもあれば、同じ様に伸び古りた幹や枝を白々とした瀬の真上にさし横たえて滴る様に咲いているものもある。世古の湯の崖に咲けば、対岸の木立の湯の背後の森には更らに見ごとに咲き出でているのである。
其処から四五丁上にのぼれば二百枚橋という橋がある。そのあたりは両方が萱山で、岸に木立とてもなく、やや打ち開けた川原となっているが、その川原にすら二三本の老樹が山の風に片靡びきに傾かせられたままの枝にみっちりと花をつけて咲き静もっていた。
地味に適しているのか、薪炭に伐られぬのか、兎に角此処の渓間にはこの花が多い。散る盛りには渓の流の淵という淵淀みという淀みに到るところ純白な花片が散り浮いていた。
そしてこの渓には河鹿が頻りに鳴く。よほど早くから鳴くと見え、私の来た時には既にその声が聞えていた。ようよう窓の明るみそめる夜明方の浴槽にたんだ独りひっそりと浸りながら、聞くともなくそれの鳴く音に耳を澄ますのはまた渓間の温泉の一徳であろう。
山魚、うぐい、鮠などの魚が瀬や淵で釣れる。どういうわけだか、私はこれらの川魚、といううちにも渓間の魚をば山桜の花の咲き出す季節と結んで思い出し易い癖を以前から持っていた。冬が過ぎて漸くこれらのうろくずと近づき始めた少年時の回憶からのみでなく、矢張り味も色もこの頃が一番いいのではないかとおもう。
温泉場から一里ほど上に溯ったところに浄蓮の滝という、伊豆第一の名瀑と伊豆案内記に書いてある滝があるが、其処の滝壺で釣れる山魚の腹からはよく蛇や蜥蜴を見出すことがあるという。荒瀬にふさわしい敏捷な魚ではあるが、また誠に美しい色と姿とを持った魚である。
天城山が火山であったということは極めて当然な様な話で、しかも私はそれを知らなかった。その噴火口のあとが山上にあって、小さな池となり、附近に青篠の茂っているところから青篠の池ともいい、周囲が八丁あるところから八丁池とも呼ぶという話はことに私の興味をそそった。或る日、案内せられて其処へ登ることになった。
登り三里の山路というので、病後で弱っている身体には少し気にもなったが、久しぶりに履きしめた草鞋の気持は非常によかった。四月十二日、天気もまた珍しい日和であった。
何しろ眼につく山ざくらの花である。温泉宿の附近はもうその頃はおおかた散っていたが、少し山を登ってゆくと、まだ真盛りであった。そして眼界の広まるにつれて、あちらの渓間こちらの山腹と、例のくっきりと縁をとって浮き出た様に咲き盛った一本二本の花の樹木がまったく数かぎりなく見渡された。東京あたりに多い吉野桜などは先ず遠く望む時にはいいが、近づいて見るといかにもこてこてと花弁ばかりが枝さきにかたまっていて、ともすれば気品に乏しい憾みを抱く。山ざくらは近寄って見たところもまことに好い。そのうす紅いろのみずみずしい嫩葉がさながらその花びらを護る様にもきおい立って萌えて居る。その中にただ真しろくただ浄らかな花がつつましやかに咲いているのだ。雨によく、晴によい。ことに私の好きなのはうららかな日ざしのもとに、この大木の蔭に立ってその花を仰いだ時である。この文章のなかに私はよく咲き籠る咲き静もるという言葉を使った様に思うが、それは晴れた日に見るこの花の感じがまったくそれである。葉も日の影を吸い、花びらもまた春の日ざしの露けさを心ゆくまでに含み宿して、そしてその光その匂を自分のものとして咲き放っているのである。徒らに日光を照り反す様な乾いたところがなく、充分にくくみ含んで、そして自ずと光りかがようという趣きがある。それがこの花を少なからず露けくし輝やかにし、咲きこもり咲き静もるという言葉が自ずと出て来ることになるのである。そうして近くから仰ぐもいいが、斯くまた山の高みからあちこちに咲き盛っているのを見渡すのも静かで美しい。一つ一つと飛び飛びに咲いているのがいかにもこの花に似つかわしい。
「海が見えだしました」案内の一人が云った。
「静浦から江の浦の海ですね、そうれ、沼津の千本松原も見えます」
と、も一人がいう。
いつ湧いたともない霞がその入江その松原をうす色に包んでいた。
「オ、富士!」
私は思わず手を挙げた。
ツイ其処から続いているのが箱根の連山、その次ぎが愛鷹山、それらの手前に青々した平野が田方郡の平野、中にうねうねと輝いているのが狩野川、それらを囲む様にして低くごたごたと散らばっているのが城山、徳倉山、寝釈迦山その他で左に寄って高く連っているのが真城、達磨の枯草山であり海の向うにずうっと雪を輝かしているのが赤石山脈の連峰であるとそれぞれに教えられながら、私は暫くは富士のいただきから眼を離すことが出来なかった。
何という高さにその嶺は照り輝いていたことであろう。たとえそれを背後にして登って来たとは云え、既に幾度か振り仰いでいねばならなかったこの嶺に、今まで気づかずにいたのは、まったくそれが思いがけぬ高い中空に聳えていたからである。毎日毎日見馴れているこの山でありながら、全く異った趣き、異った高さで仰ぎ見ねばならなかった。斯うした場合によく思い出す言葉の、高山に登り仰がずば高山の高きを知らず、という意味が事新しく心に湧いて来るのであった。その意味に於て乙女峠から見た富士もよかった。愛鷹のいただきに這い登って見た富士もよかった。また遠く信州の浅間、飛騨焼岳の頂上に立って足許に湧き昇る噴煙に心をとられながらも端なく遥かな雲の波の上に抜き出でている富士を見出でて拝み度い思いに撲たれたこともあった。が、乙女愛鷹は余りに近く、狎れ過ぎる感がないではない。焼岳浅間山では余りに遠くて、ただ思いがけなく望み見た心躍りが先立ったものとも云い得る。そういう点に於て富士を望み仰ぐに同じ山地からするにはこの天城などが最も恰好な位置に在るのではあるまいかとも自ずと思い出でられたのであった。
ちょうどまたその日は程よい霞が麓の平野を罩めていた。箱根愛鷹の峰もそれに浮んでいる形であったが、富士はまったくその水際だった美しい大きな傾斜を東西ともに深い霞の中に起して、やがて大空の高みに哀しく鋭くそのいただきを置いているのである。麓の野山の霞み煙っているだけに雪に輝く中腹以上の美しさはいよいよ孤独にいよいよ神々しいものとなっているのである。その背景には更らに深い霞のおちに赤石連山が白栲の峰をつらね、前景ともいうべき一帯には愛鷹箱根の山の散らばりから裾野の端を包むに海があり、其処の渚には静浦の浜に起り千本浜を経てとおく富士川の河口田子の浦に及ぶ松原あり、少し離れては三保の松原がさながら天の橋立の形に浮んでいる。然し、そういうものを一向に内に入れずに、富士の山だけ、遥かに青い空に聳えて美しく寂しく仰がるるのであった。
其処等は丁度御料林の杉の植林地帯であった。
温泉場から十四五町も来た頃から直ぐに御料地となり、打ち渡す峰から峰、渓から渓がすべて御料林であり御猟場であるのであった。十五年から二十年に及ぶらしい若々しい杉の木立が行けども行けども尽きなかった。そしてその林道の曲り角、山の襞へ折れ込もうとするあたりごとに振返ると必ず富士が仰がれたのであった。その山の襞、僅かに水の落ちている様な渓あいにまた一つ珍しいものを見出でた。それは山葵沢であった。
天城山の山葵という名をば久しく聞いていた。そしてその山葵沢なるものをも絵葉書などではたびたび見ていた。然し眼のあたりに親しく見るのは初めてであった。山と山との間の渓に石垣で築きあげて小さな段々田とか棚田とかいう風のものを幾つも幾つも作りなす。その田の中には程よい小石を一面に敷きならし、それに全体にゆきわたる様に次ぎ次ぎにちょろちょろと水を落す。その小石原いちめんに真緑の山葵が植えつけられているのである。水を行きわたらせる為か小さいは小さいなりに大きいは大きいなりにその次ぎから次ぎの田はすべて極めて平らかに作られてある。茂りならんで居る山葵の大きさも殆んどみな相均しい。蕗に似て更らに小さな柔かな葉を、ただいちめんに瑞々しくうち広げて茂っているのである。見るからに清浄なすがすがしいものであるのに、今が季節と見えて其処にも葉の茂みから抜けた一尺ほどの茎に群って花弁の小さな真白な花が咲いていた。虎耳草に似て、疑いもなく深山のものらしい花である。
通ってゆく道ばたでもその幾つかに出逢ったが、それらはみな杉の蔭の小さなものであった。
「ア、彼処を御覧なさい、あんなに大きい山葵沢が」
と呼ばれて見た渓向うのそれは、道で見て来たものより遥かに見ごとなものであった。向う側の山はこちらと違って雑木林であった。そしてまだ少しも春の気の見えぬ落葉林であった。こまかに網の目を張った様な落葉樹の枝の煙り渡っているなかに、それこそ眼覚むる様なその段々田が山の襞に沿うて長々と下から上へ作りあげられているのであった。然かも一つならず二つ三つと山の切れ目ごとに、大きく縦に群青の縞をなし朽葉色の森の中に浮き出でているのであった。
二里あまりも登った頃、やがて我等三人はいま渓向うの山葵沢つづきに眺めて来たと同じい落葉樹林のなかへ歩み入った。年代といい、植物性といい、すべてそういうものから超越してしまっている様な、珍しい面白いを通り越し何となく不思議なものを見る様なそれら老樹の幹や枝の限りなく群り連っているなかを、私はただひっそりと二人の案内者のあとについて歩いて行った。うずだかい落葉朽葉の柔かく草鞋を埋むる道を二十町も歩いたであろうか、我等がきょうの目的として登って来た旧噴火口のあとだという青篠の池に着いたのであった。
その広い林を出はずれたあたりはやや下り坂になっていたが、其処を降りて相向ったこの池は先ずいかにも可憐なものに眺められた。周囲八丁というのが卵なりに湛えているのである。一寸から二三寸の深さが汀から二三間ずつ相続き、さきは小波が輝いてよく見えぬが湖心でも三四尺どまりの深さだろうという。水は清く澄んで、飲むことも出来ると聞き、私は先ず手頃の朽木を汀の浅みに置いてそれに飛び移り、草鞋を濡らすことなしに充分に咽喉をうるおした。
そして、汀に近く枯れ伏した草の中につき坐って、更らにこの可憐な池に向えば、池のめぐりはなるほど一面の青篠の原である。我等のいま降りて来た南側と幾分西がかった側の両面には近く大きな落葉樹林が迫って居るが、それでも林と池との間の多少の坂地には矢張りいっぱいに茂って居る。そして東と北との側には汀から極めてなだらかな傾斜が高まり行き、やがて両方ともまんまるい頂きをつくり、其処にはただ青篠の密生があるのみである。これらの茂みが作る青やかなふくらみは、一層この池を優しいもの可憐なものに見せているのだ。
水際の枯草の上ではやがて楽しい昼餉のむしろが開かれた。酒とウイスキイと魔法瓶とお茶と蜜柑と林檎と、折詰の料理と、味噌焼の握飯とが、白茶けた柔かな草の上にひろげられたのだ。海抜四千尺の山上では流石に伊豆の春ともおもえぬうすら冷い風が吹いて、眼の前の小さな池は断えず一面に皺ばみながら微かに白く光り、枯草続きの汀のこまかな砂の上ではそれでも湛えた水のめぐりの際を示すようにちゃぶちゃぶという音を立てて居る。茶と酒とウイスキイとはめいめいの手に配られながら、楽しい時間が極めて静かにたって行った。
我等の坐っている真正面の池越しの篠山の上に鋭く尖った落葉樹林のいただきが見えて居る。それがこの天城連山中の最高峰である万次郎岳というのだそうだ。実は初めは其処まで登って、炭焼小屋か山葵沢の小屋を探して一晩野宿しようかという相談が起ったのであったが、まだなかなか寒かろうというので見合せることにしたのであった。来て見ればなるほど寒い。四合壜を独りであけて、後にはウイスキイの人の領分にまで侵入して行ったが、それでも私はまだ寒くて酔うことが出来なかった。
然し、野宿せぬのは惜しかったと、ぼんやりと水の輝きから青篠の山の円み、次いで万次郎岳の尖った頂きなどを見廻しながら、考えていると、不図或る面白い企てを思いついた。私の友人にまだ年若い一人の政治家がいる。その友人は自分の好みからわざわざ一人寝の携帯天幕を作らせて持って居る。そしてそれを自分の主義政策発表宣伝のための途上に使う目的でこの次ぎの総選挙から用いるのだと云っている。あの天幕を借りて、この夏此処に登って五日なり十日なりを独りで過して見たらどうであろうと思いついたのであった。
そう思うとその天幕の出来上った頃、東京の或る新聞に大きな写真となって出ていたその小さな天幕、天幕の中に唯だ一つ吊るされた丸型のランプ、その下の寝台に腰かけている友人、さては天幕の入口際に立ってさびしく微笑している某政党の老首領の面影などまで、ありありと眼の前に浮んで来た。みな私の親しみ尊とんでいる人たちである。
然し、よく独りで、この山上の夜に耐え得るであろうか。此処は帝室御猟地で、猪や鹿の巣とされている深山の奥である。然かも彼等は自分等の恰好な遊び場としてこの池を選んでいるのではなかろうか。然し、求めて彼等から危害を加えることはあるまい。唯だこちらの気持、その中にいて動ぜぬ気持だけである。それだけの信念を持ち得るかどうか。まんざら持てないこともない、と平常の自分を考えながら私は思った。一夜だけならば知らず、五日十日となると唯だの興味だけの事ではなくなるだろう、そうなれば……。
ふとした思いつきから、いつか本気になってその天幕の中で勉強するという事にまで空想して行っていた時、傍らの一人は私を呼びかけた。
「ねえ先生、そんなに野宿に心残りならこの六月か七月かにも一度いらっしゃい。その頃なら野宿だって出来ますよ。それにその頃だと万次郎は石楠木の花ざかりですからね」
単に万次郎岳での野宿の事ばかり考えていると思ったか、斯う云って彼は慰めて呉れたのであった。石楠木も此処の名物であることを思い出しながらなるほどその頃の山もいいだろうと思った。そしてなおひそかに天幕の空想を追おうとした。が、いつかそれも本気ではなくなっていた。
池には飛び跳ねる小魚もいぬのであった。風は幾らか凪いで来て、池の輝きも薄れた。唯だひっそりとした篠山の向うに垂れた蒼空の重たい霞、池の左手に突き出て来ている雲の様な落葉樹の端、すべてが唯だ静かであった。
ただ可憐だとのみ見ていた池に対する私の考えが次第に変って来た。いわゆる池らしくないこの水面の明るみも、水の浅いのも向う側に低く円くつづいている篠の山も、森のはずれも、それらの上に垂れた大空も、何れもみな相寄って此処に一つの大きな調和を作っているのを感じて来たのである。矢張りこれは山上の池である、噴火口跡の池であると思う心が、一種の寂しさが、眼の前の小波のひかりの様に、また枯草の蔭に寄せているその小さな音の様に、親しく身体に浸みて来た。箱根の蘆の湖や、榛名の榛名湖などに覚えた親しさが、自ずと私の心に来て宿っていたのである。
「ほととぎすは啼きませんか」
私は先刻の石楠木の花の話を思い出しながら、一人に訊いた。私の国の尾鈴山の八合目以上が夏の初めになるとこの石楠木の花の原でそして其処に非常に杜鵑の多かった事を思い出していたのだ。
「居ますとも、よく啼きますよ」
「郭公は?」
「……?」
「カッコウ、カッコウと啼く、あれです」
「ア、居ます」
他の一人が答えた。
これはどうしても、もう一度出直して来なくてはいかぬと私は思った。小さい天幕の中に唯だ一つ吊りさげられている丸型ランプの影がまた心をかすめて行った。
そんな話をする頃、私たちは池の汀を歩き出していた。そのあたりの砂――不思議なほど白いこまかい砂であるのだ、おりおり海浜の何処かで見る様な――や枯草には真新しい、二三日前の激雨に消されていない獣の脚あとが盛んについているのを見た。これは猪で、これは鹿だという説明を聞きながら、私はまた故郷に於ける自分の少年時代を思い出した。幼い頃よく其処の山の沢などでこの二つの脚あとを見つけ出しては心をときめかしたものであった。私の父は医者であったが、私の友だちの父は大抵は猟師であった。
汀の一点から折れて青篠の中に入り込んだ。入って見ると肩をかくす深さである。先に行く人のそれを押し分くるざわざわという音が、まるで人間でない様な気をそそった。
「それ、見えます、ツイ其処です」
二人のうち、一人の中年の案内人は篠から身体を伸び出す様にして山の下を指ざしながら私を顧みた。
黒いかと思われるまで蒼い海が眼下の山の峡間から向うに広がって見下された。今まで見て登って来たのは駿河湾の海であった。此処のは相模湾である。
「それが大島です」
島とはおもわれぬまでに近い所にそれは見えた。意外に大きい島だともおもわれ、極めて小さい島だとも思われた。私の好きな三原山の頂上の煙は、その時途断えていたか、見えなかった。
さきに食事をした場所に引き返して二三服の煙草を吸い、この可憐しい池に「左様なら」をした。時計は午後一時半であった。そして、また前の森の中を落葉の音を立てながら歩み始めた。
さきに私たちの登って来る時、私は涯知れぬこの森を見渡して、殆んどただ一葉の青い木の葉をも見ないと思ったのであった。そして池の縁に坐ってこの森のはずれが池に差し迫ったあたりを見ながら、其処に初めて一団のうち茂った常磐樹のあるのを見た。黒光りのする緑葉で、一本一本がまるまると茂って居る。落葉木の中にも見え、森から青篠の中にもとびとびに立っていた。何の木であろうとその時思ったのであったが、いま帰り路に近づいて見ると、どうもその葉が馬酔木に似ている。然し、その幹は違っている様にも見え、またそうらしくも思われる。これは何の木ですと訊いて見ると、たけ高い方の案内人は言下に、
「牛殺しです」
と答えた。では矢張り馬酔木であったのだ。この木の葉に毒素があって、好んで植物を喰う獣も、この木ばかりは喰わないのだそうだ。そこから馬の酔う木と云い、此の土地では牛殺しの木と呼ぶのに相違ない。けれども驚いたのはその幹である。例の鹿の群に木の芽立を荒らされるを恐れて殆んどこの木ばかりが植えてある奈良の春日神社の公園にかなりの老木があったと覚えていたが、なかなかそれらの比ではない。幹のまわりは正に一抱えに余り、元来が灌木である筈のこれの高さが一丈から一丈五尺に及んでまるまると茂って居る。幹の大きさで驚いたのはこの木ばかりでない。大抵普通の大きさが普通の鉄瓶位いのものと思っていた百日紅の幹を試みに私は両手で抱えて見たが、なかなかその半ばにも及ばず、両人で腕を伸ばし合って辛うじて抱き廻すことが出来た。
此処に私がこの二種類の樹木を引いてこの山の森の木の大きさを語ろうとするのはこの二つが最も普通に知られた木であり、且つ一種はその葉で、一種はその幹の特殊の色でこの森の中に在っても私にも見分がつき易すかったからであるがその他の樹木に対しては、平常樹木の好きなだけに普通の人よりは幾らか樹木に就いての知識のある身だと自信している私にも皆目見当がつかぬのであった。山桜山桜といつも大騒ぎをしている私が、この山桜などは随分大きい方でしょうねエと案内人に杖で叩いて見せられて、その根その幹その枝さきまで熟視しながらまだ山桜だと納得出来兼ねたのを見ても、それは知れる。山毛欅だの、欅だの、これは此処で初めて名をも聞いた木のうりの木だの、そのの木だのというのの幹の大きさ枝の繁さ、そしてその全体の美しさ不思議さに至っては私は初めから筆にすることを断念せねばならぬのである。
私は初めに、年代を超越し植物性を超越した樹木の森と云った。全くその通りなのである。罅裂の入った巨岩が其処に立っていると見れば、それはぼろぼろとした緑青色の苔を纏うた何やらの樹の幹であるのだ。うち交し差し渡した枝のさきの、殆んど電信線にも似た細さのものがある。試みにそれを杖のさきで叩いて見ると意外にも動こうとはしないで、ただカンカンと響いて金属同様の音を立てる。二本の木が一二丈の高さのところで一本に結ばりついて真直ぐに立って行っているのもあれば、横倒しに倒れた大きな直い幹から直角に伸び出でた枝とも蘖ともつかぬ二三本がそれぞれ一抱え以上の大きな木となって並び立っているのもある。そしてその倒れた幹の根は四畳敷の座敷全体ほどの容積を持った土壌をまだしっかりと抱いて放たず、その土の上から周囲には小さな庭園にでも見る様な木立が新たに出来て茂っている。一体この木などはどの位い昔に生れ、どの位い前に横倒しになったものであろう。
なめらかな木肌の色のうす赤い百日紅ばかりが唯だ一面に矗々と伸び茂っている所もあった。山毛欅ばかりがその巨大な根や幹を並べつらねて、空には日の光さえ煙ろうばかりに細かい枝を張り渡しているところもあった。おおくは落葉樹の林だが、時には樅の老木の一ところ茂っているのを見た。これはまたいかにも世を譲った老人たちの集りらしくも仰がれて可笑しかった。また稀に半ば折れたか朽ちたかした様な杉が一本だけぽっつりと落葉木の中に混って立っているのをも見た。死ぬのを忘れ、知慧を忘れた老婆が眼を瞑り指を組んで其処に坐っている様であった。或る窪地では思いがけない樒の密生林に出会った。いまその青黄いろい花の盛りで、烈しい香気が樹木に酔い樹木に疲れた私の心に怪しい注射を射す様に思われた。
初め私たちは池から離れてまた二十町も戻った時、最初に入り込んだ林をば出はずれたのであった。そして其処から更にもと来た道を下って行けば何の事もなかったのだが、不図其処に一条の分れ道のあるのを見て、これは何処へ行くのかと訊くと、ずっと林の中を通って下田街道の峠にあたる隧道のところへ出る道だというので、それでは是非これを行こう、なあに途中で暮れても月があるじゃないかというので強いて其道へ折れたのであったが、さて行けども行けども森であり林であった。おりおり振り返って見ると、落葉の枝の網の目を透して遥かに遠く富士山の姿が望まれるばかり、他に何もなかった。流石に私も疲れ果てて、折から右手に折れる小径のあったを幸いそれを辿って、やがて落葉林を出はずれ、杉の林に入り、永い間そのうす暗い木下道を急いで降りて来ると漸く枯れなびいた萱草山の頂上に出た。
其処に来ると、久しぶりに遠望が利いた。やれやれと立って眺むると、其処の峰、彼処の襞、眼下の渓間と到るところにほのぼのとして暮れ残っている山桜の花が見渡された。
萱山を馳せ下ると、其処には下田街道の広い往還があるのであった。
(伊豆湯ヶ島にて)
杜鵑を聴きに
毎月一回、きまって東京から歌を見て呉れと云ってやって来るS―君が、今月十四日の夕方に来た。歌を見て貰うのも目的の一つではあろうが、一緒に一晩飲もうというたのしみが寧ろ大きいかも知れぬ。
その夜は子供たちのがやがやする私の宅の茶の間でとりあえず一杯飲むことにした。そして、明日は何処かへ出かけようという相談が二人の間に交わされた。土地の料理屋も珍しくないし、静岡まで延すか、それとも近くの長岡温泉にするか、裾野へ登って五竜園の滝を見るのもそろそろ時候がよくなった、と杯の重なるにつれて(その癖彼は四五杯も飲むと赤くなる側なのだが)いろいろな行きたい処が話題に上って来た。
「君、箱根へ行こう、蘆の湖だよ、屹度いま杜鵑が啼いているに相違ない」
かなり更けたが、まだ其処だけあけ放ってある雨戸の間から灯かげの流れた庭さきの闇の色をうっとりと眺めながら、私は或る感覚を覚えて斯う云い出した。湿りを含んだ夜風が、庭木の柔かな葉むらを動かしているのを見ていると、不意にこの鳥の鋭い声が身に感ぜられたのだ。
「そうだ、彼処に限る、もう屹度啼いているよ、……」
私の追っかけて云う言葉と共に、話はすぐきまった。小田原へ廻らずに、三島から旧道を登って蘆の湖へ出る。そして其処へ一泊して、翌日は蘆の湖から強羅へ廻って小田原へ降りる、という風に。そうきまると、ちびちび飲んでいるのが面倒になって、直ぐ二人とも床に入ってしまった。床に入りながらも、私には湖水の縁で啼いている鳥の声があれこれと想像せられた。ことに、一夜眠った明方の湖水の静けさ、恐らく深々とあたりの山腹に動いているであろう朝靄の真白さ、その中を啼いて渡る杜鵑の声、若葉の輝き、すべて身近にまじまじと見る様な気がして、なかなかに寝附かれないほどであった。
翌朝、私は三時に起きた。或る二つの雑誌へその日のうちに歌の原稿を送らねばならなかったのだが、歌は幸いにもその前、伊豆の湯ヶ島温泉滞在中に詠んだのがあったが、すべて詠みすてたままで、イザ清書するとなるといろいろと見直さねばならぬ処が多かった。それで友人の起き出るまでに一つの雑誌へ出す分をば辛うじて清書し終えたが、一方分だけは残ってしまった。止むなくそれを蘆の湖の宿屋でやる事にして、午前九時二人とも草鞋を履いて、門を出た。初夏の頃にありがちの朝曇の深い空であった。
三島の宿を出はずれると直ぐ旧道の登りになるのだが、いつの間に改修されたのか、名物の石だたみ道はすっかり石を掘り出して普通の砂利敷道に変っていた。雲助やごまの蠅や関所ぬけやまたは種々のかたき打だの武勇伝などと聯想されがちであったこの名高い関所道も終に旧態を改めねばならなくなったのかと思いながら、長い長い松並木の蔭を登る。山にかかった頃から雲は晴れて、うしろに富士が冴えて来た。
見晴らしの利く木蔭などを見つけては幾度となく腰をおろした。労れたわけではなかったが、私は湖に着くまでにS―君の持って来た歌稿を見てあげようと思ったのであった。或る処では真正面に富士の聳え立って居る松の蔭で見た。或る処では伊豆駿河の平野に続いて同じ様な重いみどりの色に煙っている海面を見下しながら、脚に這い上る山蟻を払い払い深い若葉の蔭で見た。次第に登って道ばたに樹木の絶えた草山の原を登る処に来ると、帽子をぬぎ、肌をも抜いであらわに日の光に照らされながら、やわらかな芒の茂みの中で見た。そして、肩を並べながら、此処が面白くない、この句を斯うしたらいいだろうと、一々ペンでノートに書き入れて行ったのであったが、部屋の中で向き合って見る時よりも遥かに身が入って、私自身にも面白かった。また、この人の熱心はいつとなくその作の上に今迄にない進歩を見せているのであった。
片登り四里の傾斜を登りつくして、峠の青草原から真下に蘆の湖を見下した時は、流石にいい心持であった。この前私独りで矢張りこの旧道を登って此処から見下した時はあたりの草も湖辺の樹木も悉く落葉しつくした冬であった。その時はいかにもこの山の間の湖が寂しい荒れたものに眺められた。今日見るのはすっかりその時と趣きを変えて、水の色も柔かく、ことに向う岸の権現の社からかけて大きな森林に萌え立った若葉の渦巻の晴々しさ、その手前に聳えた島の上の離宮の輪奐の輝やかさ、すべてみな明るい眺めに満ちていた。真青な上に白い波を立てて走っている一二のモーターボートも親しい思いをそそった。
程なく旧本陣石内旅館の離室に我等はおちついた。部屋の玻璃窓の下にはすぐ小波がちゃばちゃばと微かな音を立てておる。広々と山から山の根を浸した湖の面を坐りながらに眺むる事が出来た。
お茶を一杯飲むと直ぐ私は机に向わねばならなかった。側にいて邪魔をすまいと、今まで途々ひろげて来たノートを懐中しながらS―君は散歩に出かけた。乱暴に鉛筆で書き捨ててある歌を一首一首とノートから拾って原稿紙に写しとってゆくのだが、作る時にはみな相当に思い昂って詠んだものでも、暫くの時日を経ていま改めて見直すとなると、なかなかに意に満つものがない。一句写してはペンを擱き、一首書いては一服吸いつけるという風で、一向に為事がはかどらない。二十首写そうとして、漸く六七首も写し終えた頃風呂がわいた。丁度S―君も帰って来た。あとは明日の朝早く起きて書き次ぐことにして、諦めて机を片附けた。
風呂から上って来ると、湖には一面に夕空の明るい光が映っていた。庭さきの石垣の上に濡手拭をさげて立っていると、少し離れた山の根の岸で、頻りに何やらの鳥の啼いているのが聞える。そのみずみずしい音色からたしかに水鳥の声ではあるが、行々子とも違うし、友もその名を知らなかった。其処へ、思いがけなく杜鵑の啼くのが聞えて来た。
実は宿屋に着く早々、机に噛りついたので最初楽しみに来たこの鳥の事など、まるで忘れていたのであった。また、実際昼間は啼かなかったのかも知れない。そして次第に夕づいて来た空や山や湖の静けさのなかに、いま漸く嘴を開いたものであろう。実に久しぶりに聞くおもいである。昨年も聞いたではあろうが、聞かずにおいた筈はないが、サテ、何処で聞いたか一寸思い出せない。或はどうかして聞かなかったのかも知れない。一昨年もまたそうである。とにかく心の中に奥深く巣くっているこの声が、久しぶりにそのねいろを挙ぐるが様に、一声二声と耳を傾けているうちに、胸は自ずとそのときめきを強めて来た。啼く啼く、実によく啼く。この鳥の癖で、啼き始めたとなると全く矢継早に啼きたてるのである。
部屋には膳が運ばれた。山の上の空気の意外の冷たさには初め部屋に入った時から驚いていたのであるが、今は湖に面した側の玻璃戸を悉くあけ払い、ツイ眼下に小波のきらめきを眺めて二人は徐ろに盃をふくんだ。杜鵑の声は、湖とは反対の側の山の上から落ちて来るのであった。夕日の光が向う岸の森のうえに聳えて居る山のいただきに消えてしまっても、なお暫くは啼き続けていた。その山の中腹から上の草原は、まだ真冬のままの枯れほおけた色を残しているのであるが、その枯野の色と杜鵑の声とが妙に寂しい調和をなす様にも思われて、円味を帯びた頂上の暮れてゆくのが惜しまれた。わざと点けずにおいた電燈の光が部屋を照らしてもなお暫くこの鳥は啼きつづけていた。
気持よく飲んだ酒のあと二三時間を実によく熟睡する癖の私は、やがてからりとしたすがすがしい心地で眼を覚ました。あおむけのまま、身うごきもせずに眼を開いている瞬間に、
「ほったんかけたか、ほったんかけたか、けきょ、けきょ」
と啼く例の声が耳に入った。オヤ、と思いながら、なお静かに待っていると、ツイ軒ちかくででも啼く様に、しみじみと聞えて来る。僅かに首を傾けて縁側の方を見ると、玻璃戸がほんのりと明るい。サテよく眠ったものだと、枕許の時計を見ると矢張り真夜中で、丁度二時半であった。
「すると月夜だナ」
そう思いながら私は躊躇なく夜具から出た。そして、玻璃戸から覗くと、何という明るい静かな景色であろう、湖も、山も、しっとりと月の光を吸い込んでいるのである。
友人はよく眠っていた。私はひそかに手拭を取って、戸をあけて、庭へ出た。湿った水際の土に自分の影が墨の様に映った。月は丁度湖水の真中の空に在った。岸に並ぶもろもろの山も森もすべて一抹の影を帯ぶる事なく、あらわにその光を浴びているのであった。この明るい世界の中に、何処にひそんで啼くのか、実に自由自在に、ほしいままにこの鳥は啼き入っているのである。
私は岸にしゃがんで手拭を水に浸した。そして冷い音を立てながら丁寧に髪を洗い顔を洗った。水の揺らぎが遠く丸く、月のもとに影を起してひろがった。それを見ている間も、澄み張った鳥の声は、声から声を追うものの様に、明るい中へ落ちて来るのであった。
次ぎの間の電気をつけて、私は机に向った。昨日の残りの為事を続けるためである。四辺の気配と、自分の頭の澄んでいるために、昨日より遥かに心地よくペンを動かす事が出来た。時々労れて、頭を挙ぐると、玻璃戸越しの月明とそれをうつした水の輝きとが、この静かな部屋を包んでいるのである。私は次第に興奮して、終には小さな声に出して、いま写している自分の歌をうたい始めた。
其処へ、次ぎの部屋から友人が顔を出した。黙ったまま私のゆびさす戸外を見て、彼も急に眼を瞠りながら、そっと庭へ出て行った。そして永い間、帰って来なかった。
夜が次第に明けそめた。私も、大抵で諦めて、為事の机を片附けた。そして友を探すともなく戸外へ出た。月はいつか、湖心を去って、うしろの山の端近く移っていた。そして、先刻は見なかった陰影が山々の襞に生れていた。ことに、湖に浸った麓の方に、それが深かった。
何処からとなく薄い靄が水のおもてに動きそめた。山の方にも、ところどころにそれが見え出した。またたくうちに、どちらからとなくそれらが落ち合って、やがて湖も山も、すべて姿をまっ白い中に消してしまった。
宿の庭から、モーターボートのための小さな桟橋が湖の中へ設けられてあった。その端にしゃがんで、飽くことなく煙草を吸って居る私のめぐりの水の上に、無数のかすかな音が聞え始めた。靄がぴったりと水のおもてを閉ざしてしまうと、急に其処にも此処にも魚が跳び始めたのである。ちょぴっ、ちょぴっ、ちゃぽん、ちゃぽん、と実に数かぎりないその音が、さながら俄雨でも降り出した様にあたり一面の水の面に起ったのである。
靄の中から友の影が現われて私の側に来た。たけの高い彼の姿が、しめっているものの様にも思われた。同じ様に彼も蹲踞んだ。そしてこのちいさな水の音に久しい間、二人とも聞きとれていた。
朝飯の膳に一二本の熱い酒を啜っていると、嘘の様に靄は晴れて行った。まったく不思議な速さで、影もなく何処かへ消えてしまった。それとともに、柔かな日の光が向うの峰から滑って来た。魚のとぶのも一斉に減ってしまったが、稀にとびあがる小さな姿は銀の色に輝いて見えた。そして、魚のとぶ音から離れた聴覚は、また、
「ほったんかけたか、ほったんかけたか」の湿った、鋭い声に神経を澄ませねばならなかった。
白骨温泉
嶮しい崖下の渓間に、宿屋が四軒、蕎麦屋が二軒、煎餅や絵葉書などを売る小店が一軒、都合唯だ七軒の家が一握りの狭い処に建って、そして郵便局所在地から八里の登りでその配達は往復二日がかり、乗鞍岳の北麓に当り、海抜四五千尺(?)春五月から秋十一月までが開業期間でその他の五個月は犬一疋残る事なく、それより三里下の村里に降って、あとはただ全く雪に埋れてしまう、と云えば大抵信州白骨温泉の概念は得られる事と思う。そして胃腸に利く事は恐らく日本一であろうという評判になっている。
松本市から島々村まではたしか四里か五里、この間はいろいろな乗物がある。この島々に郵便局があるのである。其処から稲㧡村まで二里、此処に無集配の郵便局があって、附近の物産の集散地になって居る。それより梓川に沿うて六里、殆んど人家とてもない様な山道を片登りに登ってゆくのだ。この間の乗物といえば先ず馬であるが、それも私の行った時には道がいたんで途絶していた。ただ旧道をとるとすると白骨より三里ほど手前に大野川という古びた宿場があって、其処を迂回する事になり、辛うじて馬の通わぬ事もないという話であった。温泉はすべてこの大野川の人たちが登って経営しているのだ。女中も何もみな大野川の者である。雪が来る様になると、夜具も家具も其儘にしておいて、七軒家の者が残らずこの大野川へ降りて来るのだ。客を泊めるのは大抵十月一杯で、あとは多く宿屋の者のみ残り、いよいよ雪が深くなってどんな泥棒も往来出来なくなるのを見ると、大きな家をがら空きにしたまますべて大野川に帰って来るのだそうだ。稀な大雪が来ると、大野川全体の百何十人が総出となって七軒の屋根の雪を落しに行く、そうしないと家がつぶれるのだそうだ。
信州は養蚕の国である。春蚕夏蚕秋蚕と飼いあげるとその骨休めにこの山の上の温泉に登って来る。多い時は四軒の宿屋、と云っても大きいのは二軒だけだが、この中へ八百人から千人の客を泊めるのだそうだ。大きいと云っても知れたもので、勿論一人若くは一組で一室を取るなどという事はなく所謂追い込みの制度で出来るだけの数を一つの部屋の中へ詰め込もうとするのである。たたみ一畳ひと一人の割が贅沢となる場合もあるそうだ。彼等の入浴期間は先ず一週間、永くて二週間である。それだけ入って行けば一年中無病息災で働き得るという信念で年々登って来るらしい。それは九月の中頃から十月の初旬までで、それがすぎて稲の刈り入れとなると、めっきり彼等の数は減ってしまう。
私の其処に行っていたのは昨年の九月二十日から十月十五日までであった。矢張り年来の胃腸の痛みを除くために、その国の友人から勧められ遥々と信州入りをして登って行ったのであった。松本まで行って、其処でたたみ一畳ひと一人の話を聞くと、折柄季節にも当っていたので、とてももう登る元気は無くなったのであったが、不思議にまた蕎麦の花ざかりのその季節の湯がよく利くのだと種々説き勧められて、半ば泣く泣く登って行ったのであった。前に云った稲㧡からの道で馬の事を訊ねたほど、その頃私の身体は弱っていた。
が、行ってみると案外であった。その年は丁度欧洲戦のあとの経済界がひどく萎縮していた時だとかで、繭や生糸の値ががた落ちになっていたため、それらで一年中の金をとるお百姓たちのひどく弱っている場合であったのだそうだ。白骨の湯に行けば繭の相場が解ると云われているほど、その影響は早速その山の上の湯にひびいて、私の行った時は例年の三分の一もそれらの浴客が来ていなかった。一番多かった十月初旬の頃で四五百人どまりであった。ために私は悠々と滞在中一室を占領する事も出来たのであった。
彼等の多くは最も休息を要する爺さん婆さんたちであるが、若者も相当に来ていた。そしてそうした人里離れた場所であるだけその若者たちの被解放感は他の温泉場に於けるより一層甚だしく、入湯にというより唯だ騒ぎに来たという方が適当なほどよく騒いだ。騒ぐと云っても料理屋があるではなく(二軒の蕎麦屋がさし当りその代理を勤めるものであるが)宿屋の酒だとて里で飲むよりずっと割が高くなっているのでさまでは飲まず、ただもう終日湯槽から湯槽を裸体のまま廻り歩いて、出来るだけの声を出して唄を唄うのである。唄と云っても唯だ二種類に限られている。曰く木曾節、曰く伊奈節、共に信州自慢の俗謡であるのだ。また其処に来る信州人という中にも伊那谷、木曾谷の者が過半を占めている様で、従ってこの二つの唄が繁昌するのである。朝は先ず二時三時からその声が起る、そして夜は十一時十二時にまで及ぶ。私は最初一つの共同湯に面した部屋にいたのであるが、終にその唄に耐え兼ねてずっと奥まった小さな部屋へ移して貰ったのであった。然し、久しくきいているうちに、その粗野や無作法を責むるよりも、いかにも自然な原始的な娯楽場を其処に見るおもいがして、いつか私は渋面よりも多く微笑を以てそれに面する様になった。粗野ではあっても、卑しいいやらしい所は彼等には少なかった。これは信州の若者の一つの特色かも知れぬ。
湯は共同湯で、二個所に湧く。内湯のあるのは私のいた湯本館だけであったが、それは利目が薄いとか云って多く皆共同湯に行って浸っていた。多勢いないと騒ぐに張合が無いのであろうと私は割合にその内湯の空くのをいつも喜んでいた。サテ、湯の利目であるが、私はその湯に廿日あまりを浸って、其処から焼岳を越えて飛騨の高山に出、更らに徒歩して越中の富山に廻り、其処から汽車で沼津に帰って来たのであったが、初め稲㧡から白骨まで六里の道を危ぶんだ身にあとでは毎日十里十一二里の山道を続けて歩き得たのも、見様によっては湯の利目だと見られぬこともない。然し私は温泉の効能がそう眼のあたりに表わるるものとは思わぬ者である。胃腸の事はとにかく、風邪にも弱い私が昨年の冬を珍しく無事に過し得たのは(もっとも伝染性の流感には罹ったが)一に白骨のお蔭だと信じている。其処の湯に三日入れば三年風邪を引かぬとも称えられているのだそうだ。
山の上の癖に、渓間であるため眺望というものの利かぬのは意外であった。渓もまた渓ともいえぬ極めて細いものであった。八九町も急坂を登ると焼岳と相向うて立つ高台があった。紅葉が素敵であった。十月に入ると少しずつ色づきそめて、十日前後二三日のうちにばたばたと染まってしまった。それこそ全山燃ゆるという言葉の通りであった。附近の畑にはただ一種蕎麦のみが作られていた。「蕎麦の花ざかり」の言葉もそれから出たものであろうと思われた。
私は時間の都合さえつけば今年の秋も登って行き度いものと思っている。夏がいい、夏ならば東京からも相当に客が来るのでお話相手もあろうから、と宿の者は繰返して云っていたが、それよりも寧ろ芋を洗う様な伊那節を聞く方が白骨らしいかも知れぬ。それに一時はアルプスの登山客で大変だそうだ。私の考えているのは、それらの何にもが影を消すであろう十月の半ばから雪のちらちらやって来る十一月の半ば頃まで、ぽっちりとその世ばなれのした湯の中へ浸っていたいということだ。無論、ウイスキーに何か二三種のよき鑵詰などどっさり用意してだ。其処から四里にして上高地、六里にして飛騨の平湯がある。共に焼岳をめぐった、雪の中の温泉である。
通蔓草の実
宿を出て二三丁とろとろと降ると宿の横を落ちて来た小さな渓が洞穴を穿って流れている処がある。其処まで見送るつもりで、私は友人親子と今一人の女客と共に宿を出た。が、何となく別れかねてせめて峠まで行こうかと云いながら、洞穴の上を越して森の中へ入って行った。檜峠は温泉より二里ばかり、その渓を越すと径はずっと深い森の中を片登りに登ってゆくのである。
一月あまりも降り続けた雨が漸くその一二日前から霽っていた。そしてそれと共に今まで遅れていたという附近の山々の紅葉が一時に色を増した。それは全く湯宿の二階から眺めていて可笑しい位いに一晩二晩のうちに真紅に燃えたって来た。私どもの登ってゆく大きな国有林も同じく二階から望んで呆れた山の一つであるのだ。紅葉している木はみな喬木であった。中でも山毛欅が最も多く、橡も美しくその大きな葉を染めて立ち混っていた。樅、栂などの常磐木にはことに見ごとな老木があった。白樺ばかりが山の窪に茂っている所もあった。これの紅葉は既に過ぎて、針のように棒の様に大小さまざまな幹のみがその雪白の色を輝かせ窪みに沿うて立ち続いているのである。径を埋めている新しい落葉もかなりに深く、私ども四人が踏む足音は際立って森の中に響いていた。山鳥の尾の長いのがツイ足許からまい立って行った事もあった。
森と云っても平野のそれと違い、極めて嶮しい山腹に沿うて茂っているので、木立の薄い処では思いがけぬ遠望が利いた。遥かな麓に白々と流れている渓流が折々見えた。日本アルプスの山々を縫うて流れて来た梓川の流である。それに落つる他の名もない渓が、向うの山腹に糸の様に細々と懸っているのも見えた。そして峠真近になった或る崖の端からは真正面に焼岳が望まれた。その火山の煙は頂上からも、また山腹の窪みからも、薄々とほの白く立ち昇っていた。晴れ渡った秋空にその煙の靡いているのを見ると、続けて来た話を止めて、ツイ両人とも立ちどまってぼんやりと瞳を凝らさねばならぬ静けさが感ぜられた。また、思いもかけぬ高い山の腹に炭焼の煙の立っているのをも見出すことがあった。歩きながら一二首の歌が出来た。
冬山に立つむらさきぞなつかしき一すぢ澄めるむらさきにして
来て見れば山うるしの木にありにけり樺の林の下草紅葉
声に出してそれを歌ってみると、友人はひどく昂奮して讃めて呉れた。
「これは佳い、この調子だときょうは珍しく出来るかも知れませんね」
身体の具合を損ねて以来、私はまったく久しい間歌らしい歌を作らずにいたのであった。そう云われてみると、これらを皮切りに今日は何だか詠めそうな気もして、我にもなく私まで珍しい昂奮を覚ゆるのであった。
峠には一軒の茶屋があった。其処で私どもはお別れの杯を挙げ、女たちは早昼のお弁当を使うということになった。肴には幸いにも串のままの岩魚が囲炉裡に立ててあったので、それで燗をぐっと熱くして一杯二杯と飲み始めた。十月初旬でも其処等の山中はもう充分に寒かった。それに別盃というので自然飲む速度も早く、酔うのも早かった。ツイ自分の横手の障子に暖く日影のさしているのを見ながら、お蔭さまで山の淋しさにも多少は馴れた、これからはゆっくり心を据えて湯治をしようとか、この次ぎにはいつ何処で逢うのかね、などと云っていると私の心には何とも云えぬ或る落ちついた寂しさが萌えて来た。そうですね、またほどなく逢えるでしょう、大抵一年に一度位いは何処かで逢える様に自然となっている様だからと友人もやや酔って赤い顔を挙げながら云った。この友人と私とはよしあしにつけその性質に実によく似た所を持っていた。自ずと話もよく合った。で、楽しい時、寂しい時に最もよく思い出されるのはこの友人であった。逢うのは嬉しく、別れるのはいつでも辛かった。
その日もそうであった。二本ときめて飲み始めた銚子が三本となり、四本目になった時、私は笑いながら云い出した。
「ねエ君、ついでに峠の下まで送って行こう、何だかもう少し歩き度いとも思うからね」
「そうですか」
と云った友人も笑い出した。峠から麓までは一里ほどの坂であったが、今までよりずっと嶮しいのをお互いに知っていた。
「それは難有いが……」
友人はすぐ真顔になって、
「帰りが大変でしょう」
「帰りかね、……帰りは、なアに大野川の方に廻って今夜は其処で泊って来るよ」
と、ほんの突嗟の思いつきで私は口に出して了った。白骨温泉は湯宿が四軒、他の家が三軒、それだけの七軒が全く他の集落とかけ離れた山の奥にあるのであった。そして其処から一番近い集落というのが大野川であった。のみならず七軒の人たちはすべてその大野川の者で、一年のうち五月から十一月まで、雪の消えた間だけ其処から登って白骨で営業しているのであった。で、飲食物から何から、すべて大野川から運んで来るのを私は知っていた。そしてその耳に馴れた大野川という宿場に種々な好奇心が動いていたのである。然し、その日峠から其処へ出かけて行こうとは全く夢にも思いがけぬ、酔が云わせた即興にすぎなかったが、そう言葉に出してしまって見ると可笑しくも実際にそうしてもいいという気が湧いて来た。
「そうですか、なるほど、それも面白い」
友人も勢い立って調子を合せた。
「あアれ端や、お前先生にそんな事してお貰い申しちゃ済まねエに」
年寄は惶てて息子の名を呼びながら注意した。が、なアに、それもいいでしょうと笑いながら息子は相手にならなかった。
其処からの下りのひどく嶮しいのを知っている私は、茶店で草鞋を買って下駄に代え尻端折の身軽になりながら、下駄には別に手紙を添えて丁度白骨の湯宿の方へ通りかかった牛引の若者にことづけた。何を運ぶにも此処では殆んど牛を使っていた。馬では道が通りかぬるのだそうだ。
茶屋を出て少し下ると四五軒の古び果てた百姓家が窪みを帯びた傾斜なりの畑の中に散らばっていた。そして其処で路は二つに分れる。一つは大野川の方に向う本道で、一つは私たちの行こうとしている新道である。私はいま新道を下って明日その旧道を登ろうというのだ。左に折れた新道は山腹というより懸崖というに近い大きな傾斜を横切って、ひた下りに下る。この辺、今までの森は既に尽きて多く一帯の灌木林となっている。右手真下に先刻とは異った一つの渓流が同じく真白になって流れ下っている。即ち乗鞍岳から出た大野川である。その大野川と、先に左手下に遠望した梓川とが合う所で、この新道もまた峠から大野川の宿を廻って来た旧道と相合うことになる。其処で我等は別れることになっているのだ。
その別れの場所は程なく来た。一里あまりの急坂を下りて来た我等は其処で釣橋を渡って大野川を越え、直ぐ左手に梓川の思いの外の大きな奔流が岩を越え岸を噛んでいるのに相対したのである。四人は先ず一服と水に臨んだ路傍の落葉を敷いてそれぞれ煙草に火をつけた。もう云うことも無さそうに見ゆる別れの言葉が何度も取り交わされ、そして改めて帽子をとり手拭をとって辞儀をしながら三人は梓川の流に沿うて南の方稲㧡の宿へ、私一人は逆に大野川の右岸を溯って大野川宿の方へ、いよいよ最後の「左様なら」をした。時計はまだ午後一時であった。
一人となって急に私の歩みの速度は増した。酒の酔も眼立って出て来た様に感ぜられた。今までは片側の空のうち開けた山の中腹を通って来たのであるが、其処からは両方に嶮しい山の切り立った狭い狭い峡間の底を渓に沿うてゆくのである。別れた三人も北と南の差はあるが、これも今日一日同じ様な谷底道を歩かねばならぬのだ。「左様なら」「左様なら」という心持がいつまでも胸に残って、わけもなく私は急いだ。寂しいとか悲しいとか云うのではないが、急がずには紛らし兼ぬる心持なのだ。然し、程なく疲労がやって来た。元来が白骨籠りの病人には今日の道は無理であった。それに友人が多く飲んだにしても兎に角二人で四本の田舎酒が身体に入っている。「疲れた!」と思うと、埒もなく手足の筋が緩み痛んで来た。
一日のうち一時間も日光が射すだろうかと思われるこの谷間の径には到る処に今を盛りの通蔓草の実が垂れ下っていた。じめじめと湿った落葉の上を踏んで急いでいると、ツイ其処の鼻さきに五つも六つも十あまりもうす青くまたうす紫に一条の蔓に重なり合って熟れているのなどが眼についた。一つ二つと手すさみに取って食いながら歩いていたが、私は不図遠くの留守宅に兄妹三人して仲よく遊んでいる子供たちの事を思い出した。彼等にとっては恐らく生れて初めて見るものらしいこの山の果物を手にとる時の彼等の笑顔がはっきりと思い浮べられた。そして母を取巻いてぞろぞろと青い葉や蔓と共にこれを引出す彼等のそれぞれを思い浮べると同時に、私は早速これを蔓のまま箱詰にして郵便局から送ってやろうと思い立った。普通の郵便局は白骨から八里松本市の方に離れた島々村でなくてはない事を知っているが、無集配局ならば島々より二里近い稲㧡村にあるのだから当然大野川にもあるものと思われたのだ。そう思うと其処等に下っているこの通蔓草の実を無関心で見る事が出来なくなった。あれかこれかと選み始めたが、サテそうなると多い様でもかっきり都合のいいのになかなか行き会わなかった。さがっている枝が余りに高かったり、滝の中流に垂れていたり、粒が小さかったり、青過ぎたり、五町十町と道ぞいに探してゆくに甚だ骨が折れた。それでもいつか片手には青々としたその蔓が幾重にか垂れ下って来た。
或る一本の樫の木に草鞋のままに攀じ登って頻りに蔓を引いていると、不図遠くの方でうたう唄声を聞いた。人にも会わぬ寂しい山路であったので、いかにも思いがけないものに思われ、茂った枝葉の中に身を静めながら耳を澄ますとそれは例の伊奈節を唄っている男の声であった。唄はよくわからぬが一人か二人の声である。信州を旅行した人はよく知っているであろうが、この国に専ら流行している民謡に二つの節がある。一は木曾川の流域を本場とする木曾節であり、一は天竜川に沿うた伊奈谷の伊奈節である。簡素に於ては前者まさり、優婉の節廻しは伊奈節遥かに木曾節にすぐれて居る。いまその伊奈節がこの日影乏しい秋の渓間に起って居ようとは思わなかった。そぞろに身内に湧く興趣に心をときめかせてなお聴いていると、やがてはその唄も解って来た。
東高津谷西駒ヶ岳あいを流るる天竜川
天竜下れば飛沫がかかる持たせやりたやひのき笠
私はそれを例の牛を追って来る若者たちの唄だと思った。そして彼等を驚かすことを恐れて急いで樫から降りて来た。何故ならば私の登っていた枝はその渓間の径の真上にさして出ていたからである。そしてまた急ぎ足に歩き始めた。程なく途中で逢うことときめて来た牛追いたちにはなかなか出逢わなかった。が、やがてその伊奈節は渓に沿うて洪水のためにくずれ落ちた道路を直している若者の唄っているものであることを知った。一人の老爺と二人の若者とが其処の川原に榾火を焚きながら石を起し、砂を掘っていた。薄暮の様な深い日蔭が其処を掩い、流れの白い飛沫と榾火の煙との間に動いている三人の姿は如何にも寂しいものに私には眺められた。やがて其処に私が近づくと、二人は唄をやめた。老爺も背を伸してこの不意の旅客の通りがかりを見詰めた。私は帽子をとりながら、二言三言の挨拶を置いて足早に通り過ぎた。通蔓草とりの間に私の酒の酔はすっかり醒めていた。そして気味の悪い様な寒さと寂さが足の先までも浸みて来た。
山路
朝八時、案内者と共に白骨温泉を立つ。逗留二十日の馴染で宿の者は皆出て来て名残を惜んで呉れる。ことに今まで誰がそれだか気もつかなかった無口の内儀などは急に勝手許から飛んで来て、既に草鞋をつけて土間に立っている私の袂をとらえて、これは俺からあげるのだからと云いながら手拭やら煙草やら菓子包やらを無理強いに押し込んで呉れた。
送られて裏の脊戸口を離れると直ぐ切り立った崖の森となっている。嶮しい径にかかると其処には真新しい落葉が堆く積って、濡色をした美しい橡の実も沢山落ちていた。三四丁も登ると崖は尽きて山間の枯芒のなかをとろとろ降りに降ることとなった。着物や着茣蓙の端に触れて頻に音をたてながら芒の霜が落つる。この辺の霜は雪ともつかず氷ともつかぬ細かな結晶となっていて地といわず草木の枝葉といわず、一面に真白に置き渡しているのである。
先に立ってその荒い霜を落しながら歩いていた老案内者は不意に径からそれて傍の雑木の中に入って行った。そして高い脊を屈めて頻りと何かを探している。やがて一種の昂奮をその赭ら顔に見せて林から出て来た。如何したのだ、何があったと訊くと、イヤ熊が出たという。熊はこの深山に円い土の塔を作って棲んでいる蟻の群を好んで食うので、先刻から熊の足あとらしいものをちょいちょい見て来たのだが、いまその蟻を食った跡があったので愈々そうだということが解った。而もその跡の乾いている所を見れば一昨夜の雨より後、昨夜あたり出たに相違ないという。此辺にも出て来るのかと呆れれば、どうしてどうして温泉宿の勝手口の裏にもよく餌をあさりに来るという。
蟻の巣の跡を見てからこの七十歳前後の老人は急に雄弁になった。そして自分のこと他人のこと、いろいろな熊狩の話をしだした、一人で年々七八頭も打つ者がいるが、それ等はそれで十分一年の生活費が得らるるわけだけれど皆博奕に打込むので、もともとだとも笑った。昨今はよほど熊も少くなったが、まだまだ向うの、と我等の歩いている渓向うに大らかに峰を張って朝日を浴びた木深い山を指さしながら、霞沢岳などにはかなりの数が棲んでいるだろう。現にもう今年もあの山で一頭打った者がいたが、まだ鑑札日の前だったので値段はずっと安かったそうだ、と語りながら、ふと気づいた様に、
「今日からが丁度鑑札日だが、宿の総領も、あとから若い衆打ちに来る筈だ」
という。成程その日は十月十五日、銃猟の解禁日であった。若い衆とは何だと訊くと、猿の事だそうだ。そして、俺も旦那のお供をしねエと総領と一緒に来るのであったと如何にも残念そうに云った。お前もそんな歳をしていてまだそんな荒猟をやるのかと笑いながら振向いて老爺の顔を仰ぐと、熊打にはもうよう出かけねエが若い衆位なら何でもねエ、去年は七尺からある大鷲を打ったが、斯んな山でもあれ程の鷲をば皆珍らしがったとややてれ気味に自慢する。そして話は鷲に移って、折々田畑に出ているとこの大きな鳥が飛んで来て被っている手拭を浚ってゆく、それも若い者と老人とをよく見分けて老人のばかりを狙って来る、然し俺はまだこの歳になるが一度も浚われた事がない、老人でも少し違うのが鷲にも解るらしいとまた自慢である。手拭をば巣を編む材料にするのだそうだ。温泉宿に乾した着物なども浚われる事があるという。
「この山だよ、若い衆の居る山は」
渓ばたに出て一里ほども来て、径が再び山腹の傾斜を登る頃、老爺は立ち止まって私に教えた。我等の歩いている大きな傾斜は一面に荒れた野原となっていた。火を放って焼いたあとらしく、二抱えも三抱えもある大きな白樺の幹が大方は半ば燃えたままに立ち枯れていた。そしてその跡には落葉松の苗が井条式に植えられてあるのだが、多くはまだ芒の蔭となっている位の大きさであるのだ。その野原の続き、山の頂上に近いあたりから深い森となってずっと奥に茂って行っている。その森を彼は指しているのであった。森はまた見ごとな紅葉の森であった。こんもりと立ち並んだ喬木から喬木がいずれもまだ渦を巻いた様な茂みをなして、そして残りなく美しく染っている。思わず挙げた私の讃歎の声を聞いて案内者は云った。
「そうだ、今日あたりが丁度さかりずらよ、明日明後日となるとへエ散るだから」
私は雨ばかり続いた温泉宿の二階から其処の渓向うの山を毎日眺めていたのであったが、丁度昨日一昨日その長雨があがると同時にほんとに瞬く間に見まがうほどの紅葉の山と染まったのを見て驚いたのであった。高山は季節を急ぐという。今日見てゆくこの紅葉もまったく明日は枯木の山となっているのかも知れない。
枯芒を折り敷いて我等は暫く其処で休んだ。其処からは焼岳が手近く真正面に見えた。我等の休んでいる山と、向うの霞沢岳と次第に奥狭く相迫った中間の空にあらわれて見えるのである。焼岳と硫黄岳と二つ並んだ火山からは相連なって濛々たる白煙を上げ、その煙は僅に傾いて我等のいる方角に靡いているのであった。きょうは別しても煙が深い様に見えた。時とするとほんの一筋二筋、それこそ香の煙の様に立ち昇っていることもあるのである。きょうは山の根方からも中腹からも頂上からも山全帯が薄白く煙りたっている様に見ゆる。
「この天気も永くねエな、煙が信州地の方へ向いているだから」
老爺は煙草の煙を吹きながら私と同じ茣蓙に坐っていて云った。
「ホウ、あの煙の向うは飛騨かね」
向う向きに飛騨に靡けば晴れるというのを聞いて私は云った。そして我慢していた慾望が腹痛の様に身内に起きて来るのを覚えながら、それを押し静める如くひそかに息を呑んだ。そして自分も惶しく一二本の煙草を吸いすてたが、やがてツイ側の老爺の顔に微笑を投げ乍ら云ってみた。
「ねエ爺さん、お前さんはどうしてもあの山に登るのはいやかね、ほんとにそんなに危険なのだろうかナ」
老爺も私の微笑を感ずる様に矢張り向うを見たままに薄笑いして、
「登れねエことはねエだが、何しろもう永いこと登って見ねエだからなア、路がどうなってるだかサ」
「上高地の宿屋で今夜詳しい事を訊けばいいじゃアないか、大体の事はお前よく知ってるわけなんだから、路だってそう大した変りはないだろうよ」
私は持病の胃腸によくきくというので遥々駿河からこの信州の白骨温泉というへやって来て三週間ほど湯治していた。島々郵便局所在地から八里もあるという全く世の中と隔離した山奥の温泉場であった。乗鞍岳の北麓に当り、海抜四千八百尺、温泉宿の裏山に登ると殆んど相向いにこの火山と対することが出来た。そしてどうかして一度その煙の傍まで登って行きたくてたまらず、頻りに機会を窺ったが不幸にもその滞在中殆んど雨ばかりが続いて、よく完全に朝から晴れたという日がなかった。漸くその天候の定まりかけた頃になると私は其処を立たねばならぬ日取に当っていた。それも初め入って来た松本市へ出て行く道を帰るが惜しく、白骨から上高地温泉へ出、其処から飛騨へ越して平湯温泉というへ廻り、更に飛騨の都高山町へ出て遠く越中路へ歩き、富山市から汽車で駿河へ帰ろうと定めたのであった。そして白骨から上高地へ、上高地から平湯への道を地図で見ればすべてこの火山の麓を通ることになっているのである。そこで宿の者を呼んで焼岳登りの相談をして見た。どうせ山深い道を通るのだから平湯までは案内者を伴れなくてはならぬが、それにしても今頃は焼岳登山は危険である。第一あの山をよく知っている案内人がいまこの湯にいない、八月二十日頃を先ず登山期の終りとしてあるので其頃までだと幾人もいるのだが……と番頭は云った。更に主人に逢って訊いてみると、平湯までは誰にでも案内させるが、焼岳は先ず無理でしょう、何しろもう十月の半ですから、と云って笑った。そう云われて見ると私も笑って諦めねばならなかった。そしていよいよ昨夜、平湯までならこの年寄が詳しいからと案内人の定まると共にそれとなく案内人自身にももう一度私は謎をかけて見た。そして矢張り同じ結果を得ていたのであったのだ。
この背の高い、年老いた案内者はそれでも此処に来て終に私の熱心に動かされた。今夜上高地温泉でよく訊いてみて、あまり昔の道と変らない様だったら一つ登って見ましょう、なアに、行って見れば何程の事もないに相違はないのだから、と云う様にまでなって呉れたのだ。私は思わず立ち上って遠く真白な煙に向いながら帽子を振った。そして何ということなく一声二声の大きな叫びを挙げた。すると老爺も惶てて立ち上ってその大きな掌を振った。
「あんまりあの辺で高話をして若い衆を追い散らすでねエと今朝総領が云うとりました」
と笑う。成程そうかともう一度私はこの深い色に燃え立っている頭上の大森林を見上げて新たな讃美と歓喜の情を致した。
径は程なくその森つづきの密林の中へ入って行った。誠に驚くべき樹木である。いろいろと木の名をも尋ねたが、一番眼についたのは山毛欅であった。いずれも幹の直径二尺から三尺に及び、おおかた青い苔を纏うて真直ぐに天に聳えて行っているのである。それが十本二十本百本と次ぎ次ぎに相聳えてすくすくと伸びた大枝小枝のさきに鮮黄色の葉をつけている。既に地に散っているのもあるが、まだ枝にある方が多い。まことに今日を盛りの黄葉の木であり森であるのであった。この木の葉は朴に似てやや小さく、長さ八寸幅二寸位い、朴よりも繁く枝についている。そして同じく葉脈のすじを浮かして見せるほどの鮮かな色に黄葉している。中にはまた常磐樹の栂もあった。樅も立っていた。樅などの老いて倒れたあとは其儘に小さな野菜畑にもなりそうに広く苔づいて朽ちているのがあった。到る所のそれらの朽木には種々雑多な茸が生えていた。食えるもの、毒なもの、闇に置けば光るものなど、私には到底見分けもつかず名も覚えられないものであった。そのうちでも美味なものというのを老爺は行く行くもぎ取って行った。今夜宿で煮て貰おうというのである。
国有林であるというこの森林を我等はただ黙々として一時間も一時間半も歩いて行った。行けども行けどもただ樹木であり、幹であり、黄葉であり、落葉であるのだ。洩日の美しい所もあった。じめじめとうすら冷い日蔭をくぐって行く所もあった。たまたまからりと晴れた所に出たと思うと、直ぐ足もとから下が何千尺の山崩れとなった断崖の上に立っているのであった。
丁度そうした崖に近い所にちょろちょろと水が流れ落ちていた。日を真正面に受けて、下を覗けば目眩く高さだが、径のめぐりには綺麗に乾いた落葉が散り敷いて極めて静かな場所であった。其処で我等は昼食をすることにした。時計も折よく十二時にほどなかった。
落葉の上に坐ると、遥に崖下に白々と輝いて流れている渓が見えた。梓川の上流であらねばならぬ。単に山崩れの場所といわず、附近の山全帯が屏風を立てた様な殆ど垂直の嶮しい角度で双方に切り立って起っている底をその渓は流れているのであった。其処に見え、なおそのずっと上の方にも見えた。すべて激しい奔流となっているのであろう、飛沫をあげて流れている雪の様な白さである。我等の眼の前に一本の楓の木が立っていた。さほど大きい木ではなかったが、清らかに高く伸びていた。その紅葉も真盛りであった。一葉二葉と酒の香に似た秋の日の光の中に散り浮いて来る小さな葉は全く自ら輝くもののごとくに澄んだ光を含んでいた。山蕗の葉で傍えの清水を掬んで咽喉をうるおしながら永い時間をかけて、そして何となくうら悲しい様に静かな心になりながら握り飯を貪り喰った。歌が一二首出来る。
うち敷きて憩ふ落葉の今年葉の乾き匂ふよ山岨道に
うら悲しき光のなかに山岨の道の辺の紅葉散りてゐるなり
其処を立って暫く行くと上高地に行く道と平湯に向うのとの分れる所に来た。明日は焼岳から降りてまた此処を通って飛騨へ越すのだナ、と話し合いながら右に折れた。また暫く森が続いたが、やがて思いがけぬ異様な場所に通り懸った。今まで続いた密林と截然たる区劃を置いて其処には全部白々とした枯木の林立があった。枝は折れて巨大な幹のみ聳ゆるもあり、ばらばらと白い枝を張り渡して枯れているもある。これらはみな数年前、大正二三年の頃の焼岳大噴火の時にその熱灰を被ったものであったのだ。なお少し行くと次第に枯木は尽きて、終に山肌一面が真白に崩れ落ちている所に出会った。此処を通るはかなり危険であった。上下何百丈かにわたるざらざらとした崖を横に切って紐の様な径がついているのだが、両足を揃えては立ち停る事も出来ぬほどの狭さである。自然崖の腹を両手で抱く様にべったりと身体を崖に寄せて片足ずつ運ばすのである。心して踏むその足許からは断えず音を立てて白色の土塊が落ちてゆくのだ。ばらばらと崩れ落ちてゆく遥かの下には梓川が岩の間を狭く深く流れている。
其処を過ぎると広大な川原に出た。ただの川原でなく、山の火の流れたあとの川原である。見る限り、浪の起伏に似た岩石の原となって、ところどころに例の骨ばかりの枯木が梢を見せている。そして其処からは直ぐ眼の上にその火山のあらわな姿が仰がれた。遠くから望んだ通りに、この火山は山の八合目ほどより上の到る所から煙を噴いているのであった。濛々とした煙は今は空をさして立つことなく、山に沿うて我等の立っている真白な川原の方にしめりを帯びて流れ落ちて来ているものの如くであった。
異様な緊張が私の心に起った。そして、静かに杖を両手に執って見廻すと徒らに広いその岩の原の中にはもう径というものがついていなかった。夏を過ぎては往来もないらしく、稀に通った人の足あとは先日来の長雨ですっかりかき消されていた。老爺にもよく行くさきの見当がつかなかった。で、両人して手分をしてあちこちと適当らしい方角を選んで岩から岩を渡って行った。そして其処に私は旧い地図には記されていない一つの大きな池、兼ねてよく話には聞いている大正池というのを眼の前に見た。
大正池は噴火の熔岩が梓川の流を堰き留めて作りなした池である。蒼々と湛えられた池の中には先に見て来たと同じい枯木の林が白々として梢を表わし、枝を張っているのである。そうした森全部を地殻と共に此処まで押し流して来たのか、それともまだ以前の森のままでいる間に下を堰かれて水に浸ったものかであるであろう。私は見失わない様に岩の中の最も巨大なものの傍に案内人を置いて独りでその池まで石原を横切って行った。池の近くには流石に痩せた熊笹などが疎らに生えていた。水は真蒼に澄んでいた。汀から急に深くなった水中の枯木の幹や枝には藻草が青く纏っていた。そしてその中には何やら小魚の群などでも潜んでいるらしく眺めらるるも寂しかった。三四町の幅をおいた池の向うには岩ばかりから成り立った嶮しい山が恰もその池を抱く様にして聳えていた。何の声なく音なく、ただ冷く湛えた水と、いつか夕づいて来た日の光とが私の眼の前にあるばかりであった。
急に寂しくなって、私は水際を離れた。大股に岩の原を歩き出して見返ると、例の大きな岩に登ってわが老爺は頻りに煙草の煙を吹いていた。言葉少なになった両人は折々声をかけ合わせつつ次第にその岩の原を渡り終り、また一つの森の中に入った。これは殆んど栂の木から出来ている様な常磐木の寒い森であった。森で辛うじて一本の径を見出すと、老案内者はその顔に寂しい微笑を浮べて云った。
「もう大丈夫だ、この森を抜けさいすりゃ宿屋だ」
まことにその森を抜け切ろうとするあたりで、俄に烈しい犬の吠声が我等を目がけて起って来た。そして今見て来た池の上流なる川の岸に二棟三棟の屋根の低い家が見えた。それが今夜私達を休ませ眠らせて呉れる上高地温泉旅館であったのだ。
やれやれと安心して振返ると、今通って来た黒い森の上に濛々として焼岳の山の煙が流れ落ちているのが見えた。今夜はよくその煙までへの路を聴きただす必要もあるのであった。
或る旅と絵葉書
この一篇は大正十年秋中旬、信州から飛騨に越え、更らに神通川に沿うて越中に出た時の追懐を、そのさきざきで求めて来た絵葉書を取出して眺めながら書きつづったもので、前に掲げた「白骨温泉」「通蔓草の実」「山路」の諸編に続くものである。
上高地温泉
上高地の温泉宿はこの時候はずれの客を不思議そうな顔をして迎えた。そして通された二階にはすっかり雨戸が引いてあった。一つの部屋の前だけがらがらとそれが繰りあけらるるとまだ相当に高い西日が明るく部屋にさし込んで来た。その日ざしの届く畳の上できゃはんを解いていると、あたりのほこりのにおいが感ぜられた。
やれやれと手足を伸ばしてうち浸った温泉は無色無臭、まったく清水の様に澄んでいた。そしてこの宿に入った時玄関口に積まれてあった何やらの木の実がこの湯槽の側までも一杯に乾しひろげてあった。よく見ると落葉松の松毬であった。この松毬をよくはたいて中の粒をとり、種子として売るのだそうで、一升四円からする由をあとで聞いた。湯から出てそこ等を窺いてみると座敷から廊下からすべてこの代赭色の鮮かな木の実で充満しているのであった。一年にとり入れるその種子が何斗とか何石とかに及ぶそうで、金にして幾ら幾らになると、白骨温泉から私の連れて来た老案内者は頻に胸算用を試みながらその多額に上るのに驚いていた。
長湯をして出てもまだ西日が残っていた。下駄を借りて宿の前に出て見ると、ツイ其処に梓川が流れていた。どうしてこの山の高みにこれだけの水量があるだろうと不思議に思わるる豊かな水が寒々と澄んで流れている。川床の真白な砂をあらわに見せて、おおらかな瀬をなしながら音をも立てずに流れているのであった。私は身に沁みて来る寒さをこらえて歩むともなく川上へ歩いて行った。
川に沿うた径の左手はすぐ森になっていた。荒れ古びた黒木の森で、樅栂の類に白樺などもまじり七八町がほども沢の様な平地で続いてやがて茂ったままの山となっている。川の向う岸は切りそいだ様な岩山で、岩の襞には散り残りの紅葉が燃えていた。そして川上の開けた空には真正面に穂高ヶ岳が聳えているのであった。
天を限って聳え立ったこの高いゆたかな岩山には恰もまともに夕日がさして灰白色の山全体がさながら氷の山の様な静けさを含んで見えているのであった。今日半日仰いで来たこの山は近づけば近づくだけ、いよいよ大きく、いよいよ寂しくのみ眺められ、立ちどまって凝乎と仰いでいるといつか自分自身も凍ってゆく様な心地になって来るのであった。
そぞろに身慄いを覚えて踵をかえすと、其処には焼岳が聳えていた。背後に傾いた夕日に照らし出されて真黒に浮き出た山の頂上にはそれこそ雲の様に噴煙が乱れて昇っていた。
右を見、左を見、この川端の一本道を行きつ帰りつしているうちに私はいつか異様な興奮を覚えていた。これほど大きく美しく、そして静かな寂しい眺めにまたと再び出会うことがあるであろうか、これはいっそ飛騨に越す予定を捨ててここに四五日を過ごして行こう、そのためどれだけ自分の霊魂が浄められることであろう、という様なことを一途になって考え始めていたのであった。
いはけなく涙ぞくだるあめつちの斯るながめにめぐりあひつつ
またや来むけふこの儘にゐてやゆかむわれの命の頼みがたきに
まことわれ永くぞ生きむ天地のかかるながめをながく見むため
その夜は凍った様な月の夜であった。数えて見ると九月十五夜の満月であった。
焼岳の頂上
焼岳の頂上に立ったのはその翌日の正午近かった。普通日本アルプスの登山期は七月中旬から八月中旬の間に限られてあるのに私がその中の焼岳を越え様としたのは十月十六日であったため案内者という案内者が求められず、僅かに十年前そこに硫黄取りに登っていたというだけの白骨温泉の作男の七十爺を強いて口説いて案内させたので、忽ち路に迷ってしまった。そして大正三年大噴火の際に出来た長さ十数町深さ二三十間の大亀裂の中に迷い込んだのであった。初めは何の気なしにその中を登っていたが、やがてそれが迷路だと知った時にはもう降りるに降りられぬ嶮しい所へ来ていた。そしてまごまごしていれば両側二三十間の高さから霜解のために落ちて来る岩石に打ち砕かるる虞れがあるので、已むなく異常な決心をしてその亀裂の中を匍い登ったのであった。
あとで考えると全く不思議なほどの能力でその一方の焼石の懸崖から匍い出した時は、両人ともただ顔を見合わせるだけで、ろくに口が利けなかった。そして兎にも角にもその山の頂上、濛々と煙を噴いている処に登って来たのであった。
悲しいまでに空は晴れていた。
真向いに聳え立った槍や穂高の諸山を初め、この真下の窪みはもう飛騨の国で、こちらが信州地、あれが木曾山脈でそのなお左寄りが甲州地の山、加賀の方の山も見える筈だと身体を廻しながら老案内者の指し示す国から国、山から山の間には霞ともつかぬ秋の霞がかすかに靡いて、真上の空は全く悲しいまでに冴えていた。
黙然と立ってそれらの山河を眺め廻しているうちに、私は思わず驚きの声を挙げた。木曾地信州地と教えられた方角に低くたなびいた霞のうえに、これはまた独り静かに富士の高嶺が浮き出て見えているのであった。
群山の峰のとがりの真さびしくつらなるはてに富士のみね見ゆ
登り来て此処ゆ望めば汝が住むひむがしのかたに富士のみね見ゆ(妻へ)
この火山は阿蘇や浅間の様な大きな噴火口を持っていなかった。其処等一面の岩の裂目や石の下から沸々と白い煙を噴き出しているのであった。
岩山の岩の荒肌ふき割りて噴き昇る煙とよみたるかも
わが立てる足許広き岩原の石の蔭より煙湧くなり
平湯温泉
噴火の煙の蔭を立去ると我等はひた下りに二三里に亘る原始林の中の嶮しい路を馳せ下った。殆ど麓に近い所に十戸足らずの中尾という集落があった。そして家ごとに稗を蒸していた。男とも女とも見わかぬ風俗をした人たちがせっせと静に火を焚いている姿が何とも可懐しいものに私には眺められた。この辺にはこの稗の外は何も出来ないのだそうである。
一刻も速く其処に着いて命拾いの酒を酌み、足踏み延ばして眠ろうと楽しんで来た蒲田温泉は昨年とか一昨年とかの洪水に一軒残らず流れ去っているのであった。そしてその荒れすさんだ広い川原にはとびとびに人が動いて無数の材木を流していた。その巨大な材木が揃いも揃って一間程の長さに打ち切ってあるので訳を訊いてみると川下の船津町というに在る某鉱山まで流され、其処で石炭代りの燃料とせらるるのだそうである。
止むなく其処から二里ほど歩いた所に在るという福地温泉というまで来て見ると、此処もまた完全に流されていた。そうなると一種自暴自棄的の勇気が出て、其処から左折して更に二里あまりの奥に在るという平湯温泉まで行くことにきめた。実は今日焼岳に登らなかったならば上高地から他の平易な路をとってその平湯へゆく筈であったのである。福地からの路は今迄の下りと違って片登りの軽い傾斜となっていた。月がくっきりと我等の影をその霜の上に落していた。
焼岳と乗鞍岳との中間に在る様なその山あいの湯は意外にもこんでいた。案内者の昔馴染だという一軒の湯宿に入ってゆくと、普通の部屋は全部他の客人でふさがっていた。止むなく屋根裏の様な不思議な部屋に通されたが、もう然し他の家に好い部屋を探すなどという元気はなかったのである。
やがてその怪しき部屋で我等二人の「命びろい」の祝いの酒が始まった。まったく焼岳の亀裂の谷では二人とも命の危険を感じたのであった。這いかけた岩の腹から辷り落るか、若しくは崖の上から落ちて来る石に打たるるか、どちらかの運命が我等のいずれにか、或は双方ともにか、落ちて来るに相違ないと思われたのであった。其時の名残に荒れ傷いた両手の指や爪をお互いに眺め合いながら一つ二つと重ねてゆく酒の味いは真実涙にまさる思いがするのであった。
路に迷ったのは兎に角として蒲田や福地温泉の現状すら知らずにいた此老爺は或はもう老耄し果てているのではあるまいかと心中ひそかに不審と憤りとを覚えていたのであったが、其皺だらけの顔に真実命びろいの喜びを表わして埒もなく飲み埒もなく食い、埒もなく笑いころげている姿を見ていると、わけもなく私はこの老爺がいじらしくなった。そしてあとからあとからと酒を強いた。彼の酒好きなことをば昨夜上高地でよく見ておいたのであった。
そのうち彼は手を叩いてその故郷飛騨の古川地方に唄わるるという唄をうたい出した。元来が並外れた大男ではあるが、眼の前で頻りに打ち鳴らしている彼の掌は正しく団扇位の大きさに私には見えたのであった。
オンダモダイタモエンブチハウノモオマエノコジャモノ、キナガニサッシャイ、イカニモショッショ。
ヒダノナマリハオバエナ、マタクルワイナ、ソレカラナンジャナ、ムテンクテンニオリャコワイ、ウソカイナ、ウソジャアロ、サリトハウタテイナ。
斯うしたものを幾つとなく繰返して唄った末、我を忘れて踊り出そうとしてはその禿げた頭をしたたかに天井に打ちつけて私を泣きつ笑いつさせたのであった。
としよりの喜ぶ顔はありがたし残りすくなきいのちを持ちて
余りに疲れ過ぎたせいかその夜私はなかなかに眠れなかった。真夜中に独り湯殿に降りてゆくと、破れた様な壁や窓から月が射し込んでいた。平湯温泉には一箇所共同湯があるのみであるが、僅かにその宿だけが持っているというその内湯の小さな湯殿の三方は田圃となっていた。そして霜の深げな稲の上に照り渡っている月光は寧ろ恐ろしいほどに澄んでいた。
飛騨高山町
翌朝、老案内者は別れて安房峠というを越えて信州地白骨温泉へ帰って行った。私は平湯峠を越えて高山町まで出るつもりであったが、流石に昨日の疲労で足が利かず、途中の寂しい村に泊って其次の日の夕方高山町に着いた。
高山では某という旅館が一等いいという話を聞いていたので、とぼとぼとその門口へ辿り着いて一泊を頼んだ。ところが茣蓙を背負い杖をつき、一月余りも床屋に行かなかった私の風態からか、一も二もなく断られてしまった。然し、もう私は其処から動くのが苦しかった。でもう一度押し返して頼んでいると内儀が笑いながら帳場から出て来て、どんな部屋でもよろしくば、ということで階子段上の長四畳に通された。それでも嬉しく、風呂から上って夕飯の膳に向いながら一杯飲み始めていると、階子段の下で珍らしい音の鳴り響くのを聞いた。電話の鈴が鳴っているのである。オヤオヤ高山に電話があるのか、と先ず思った。これは強ち高山町をそう見たわけではなかった。私は二十日余り、郵便局まで八里もあるほどの白骨温泉に身を養っていて、二三日前から急に無理な歩行を続けて来たので、全く世離れのした、茫乎とした気持になっていた。其処へ不意にその珍らしい音が鳴り響いたのでひどく不思議に聞えたのであった。それを聞きながら私は不図或る事を思い浮べた。そして急いで女中に電話帳を持って来させた。
幸いにその中に福田という姓を見出したので、この福田という家に斯ういう人がいはせぬかと女中に訊くと、おいでになります若旦那様ですという。それを聞くと私は躍り上って喜んだ。そして大急ぎで女中に電話口までその福田夕咲君を呼び出して貰った。
「君は福田夕咲君か、僕だ僕だ、解るかね僕の声が!」
解りようはなかった。私が高山町に来て福田君の事を思い出すのはそう不自然でなかったが、斯うして電話口で私の声を聞こうとは彼にとっては全く思いもかけぬ事であったのだ。
彼と私とは早稲田の学校で同級であった。そして同じ詩歌友達で、飲仲間であったのだ。そして聞くともなく彼の郷里が飛騨の高山で、その父か兄かが其所の町長をしていると云う様な事をも耳にしていた。それを偶然その高山町に来て思い出したのであった。
彼も丁度夕飯を喰いかけていたのだそうだが箸を捨てて飛んで来た。話し合って見ると八年振の邂逅であった。その間彼はずっとこの郷里に引込んで居り、筆無精のお互いの間には手紙のやりとりも断えていたのであった。
何しに、どうして来たのかと彼は問うた。実は私の此処に来たのはひどい気紛れからで、胃腸病には日本一だというその山奥の白骨温泉に一箇月間滞在の予定で遥々駿河の沼津からやって来て居り、その帰りを長野市に廻って其処で我等の社中の短歌会を開く事になっていた。その歌会までにあと六日七日というところまで来ると、じいっとその寂しい湯の中に浸っているのがいやになった。そして順路を長野市まで出るより、四五日をかけて飛騨から越中を廻って其処へ出る方が面白そうだと急に白骨を立って斯んな所まで来たのであった。
で、頻りに滞在を勧める彼の言葉をも日数の上からどうしても断らねばならなかった。そして明日早朝出立だと云い張っていると、彼は不意に怒った様に立ち上った。そしていま取り寄せたばかりの膳を突きやって、それでは斯うして宿屋の酒など飲んでいられない、さア、速く立ち給えという。
それからが大変であった。此処の家は高山一の老舗で、娘は歌も詠むし詩も作ると云って一軒の料理屋に連れて行かれた。やがてすると、高山一の庭のいい家を見せようと云って、その歌を詠む娘や芸者たちを引率した儘また他の料理屋へ行った。「あそこはオツなものを食わせるネ」とまた他へ移った。よくよく時間が切れて流石馴染の料理屋でも困り切る様になるとそれでは夜通し飲める所へ行こうと大勢して或る明るい一廓へ出かけて行った。斯くしてとろりともせず飲んでるうちにいつか東が白んで来た。サテ引上げようとその明るい街から出ようとすると丁度その出口に古びはてた三重の塔が寂然として立っていた。例の飛騨のたくみの建てたものであるという。
飛騨古川町
高山一泊は終に二泊になり、次ぎの日には郊外の高台に在る寺で歌会が開かれた。そして三日目の朝また茣蓙を着、杖をついてその古びて静かな町を離れる事になった。
福田君は急に忙しい事が出来たという事で、自動車の出る所で別れ、その代りに昨日の歌会に出席した中の同君の友人某々両君が高山の次ぎの町、四里を離れた古川町まで送って呉れる事になった。古川町と云えば二三日前に平湯で別れた老爺の故郷である。高山よりももっと古びた平かな町であった。そぞろになつかしい思いで自動車から降りて眺め廻していると、一寸草鞋酒をやりましょうと、とある家に案内せられた。草鞋を履いてからの別れの酒の意味だそうだ。
正直にそのつもりでいると、終に草鞋をぬがされた。そして一二杯と重ぬるうち、いつか知らこの二三日来の身体に酔の廻るが速く、うとうととなっている所へ、なんの事だ、いま別れて来たばかりの福田君がひょっこりと立ち表われた。長距離電話で呼び出されて、自動車で駆けつけて来たのだそうだ。そうなるといよいよ私も腰を据えて杯を取らざるを得なくなった。
折から雨が降り出した。この雨では屹度鮎の落つるのが多かろうと、急に夕方かけて其処から二里の余もある野口の簗というへ自動車を走らす事になった。
簗は山と山の相迫った深い峡谷に在った。雨は次第に強く、櫟の枝や葉で葺いた小屋からは頻りにそれが漏り始めたが、然し、どんどと燃える榾火の側に運ばるる鮎の数もそれにつれて多くなった。連れて来た二三人の中に今日初めて披露目をしたという女がいた。今迄一切黙って引込んでいたのが、その雨漏に濡れながら急に唄い出した声の意外にも澄んで清らかであったも一興であった。
時雨降る野口の簗の小屋に籠り落ち来る鮎を待てばさびしき
たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
簗の簀の古りてあやふしわがあたり鮎しらじらととび跳りつつ
かき撓み白う光りて流れ落つる浪より飛びて跳ぬる鮎これ
おほきなる鯉落ちたりとおらび寄る時雨降るなかの簗の篝火
翌朝は三人に別れて雨の中を船津町へ向った。途中神原峠というへかかると雨いよいよ烈しく、洋傘などさしていてもいなくても、同じようなので、私は古川町で買って来た一位笠(土地の名物一位の木にて造る)を冠ったまま、ぐっしょりと濡れて急いだ。
野なかの滝
八月×日。
此頃は大抵毎朝斯うだが、今朝はことに空の紺が深い。
その空の右手寄りにずっと低く伸びて行っている富士の裾野の一部が見ゆる。おおらかに張り渡した傾斜のうえにはおたまじゃくしに似た薄雲がちらちらと散らばって、如何にも朝明の風を思わしめる。
門の前に立って暫くそれらを眺めていたが、急にその辺を歩いて見度い気持が起きて来た。埃をあびた草の原の大きな傾斜、そのなかにぼつぼつと咲いている撫子や桔梗などの花、そうしたものがまざまざと思い浮べられて来た。
顔を洗ったままの濡手拭を持って急いで門口から入って、汽車の時間表と時計とを見比べると其儘に私は家を飛び出した。それでも停車場に着いてみるとまだ六時五十分発のに十分ほど余裕があった。余りに急いだので、其処までで私はもう労れを覚えていた。爪先から裾にかけては土埃でうす白くなっていた。そして夥しい場内の人ごみを見るとツイ先刻の感興にも可なりの嫌気がさして来て、よほど其儘自宅へ引返そうかと思った。然し、帰ったところで家内の者に笑われる位いのもので其処には何の事も無かった。で、出札口への行列にいつとなく入って兎に角に裾野駅までの赤切符を買った。
車内に辛うじて一つの席をとるとお茶と弁当とを買った。発車と共に始めた朝食の間に、私はゆっくりと窓から富士を見ることが出来た。これはまた一層深い紫紺の色に晴れて、頂上近い地肌の色さえも見とめられる。そのあたり、二三ヶ所の残雪がくっきりと浮き出ている。見ている間に一時澱んだ気持もまた少しずつ冴えて来るのを覚えた。三島を過ぎ、次第に野原を登る様になると、矢張り出て来てよかったと思う様になった。
次ぎの駅、裾野で降りた。初めて下車する駅である。停車場から真直ぐに型の様に田舎びた一本筋の宿場町が出来ている。料理屋、医院、郵便局、小さな銀行出張所、そうしたものが眼につきながら二三丁も行くと、行きどまりになって、左右にやや広やかな道路が通じている。ぽくぽくと乾き果てたそれは左から右へ微かな登りになっている。即ち三島から御殿場へ登っているものである。それを登って御殿場まで出れば沼津から見た傾斜の一端を縦断することになるのだが訊いてみれば四里からの道のりだという。私は真白く続いたそれを見て暫く其処に佇んだ。
その道路を突き切る径があった。私はぶらぶらとそれへ歩いて行った。六七軒の家並を出はずれると眼の前には斜めに広く黒ずみ渡った林が見られた。見るからに裾野らしい植林である。喜んでその方へ歩んでいると、とろとろと降りた田圃のはずれに意外に綺麗な橋が架っていた。温情橋と真新しく記されてある。
その名から思い出したのは一時大阪で鳴らした実業家の岩下清周という人が富士の裾野に広大な土地を買い込んで、其処に一種の植民事業を試み、そのために学校をも建て、橋をも架けたと聞いていたそれである。それとすればその学校の校長をしている柳下君は兼てから歌などやる人で、私も一二度逢っていた。突嗟の思いつきでその人を訪ねて行こうと思った。
橋に立って見ると、下を流れている水はまことに清らかに澄んでいる、そして水量も豊かだ。散らばった岩の一つ一つに白い瀬を立てて、淙々と流れている。渡るとすぐかすかな登りになって、あたりは瑞々しい林だ。老木というではないが、いずれも伸びやかに伸び揃った青々しい樹木である。道には真青な小さい櫟の実などが落ちていた。冷やかな風があって、眼下の瀬の音をかき消す位いの蝉時雨が林を包んでいる。
温情舎と呼ぶその学校は林を出はずれた所にあった。洋風二階建の立派なものである。校舎の二階の開け放たれた辺に人のけはいがするので、其処へ声をかけようとして門を入って行くと、草花など植えた庭の右手に平屋建の長屋風の家があって、その一番はずれに柳下という門標が出ていた。其処へ歩み寄って、二三度声をかけたが、返事がない。やがて真向いの校舎の二階から三十歳あまりのしとやかな婦人が私の声を聞きつけたと見えて降りて来た。聞けば其家の主人は沼津の少年団を率いて御殿場の奥で植林の講習とかをやっているという。奥さんは町の医者に出かけられたのだそうだ。そう聞けばいま橋の渡りあがりの林の中でそれらしい若い身持の婦人に逢ったのであった。
然し私は落胆しなかった。これはもう一度訪ねて来たいものだと思いながら、其処を辞した。引返して橋を渡って、佐野(停車場の名も以前は佐野と呼んでいた様に其処は佐野という土地である)の町へ出たが、前に困った道端へ出てまた途方に暮れた。朝日もそろそろ暑くなっていた。兎に角もう少しこの道路を上の方へ登って草の深い渓ばたにでも出会ったら其処で遊んで帰ろうと心をきめた。
その道路沿いにもさびしい宿場町が続いていた。門口にはちょろちょろと澄んだ水が流れて、ダリヤ、おいらん草、松葉菊などの紅い草花が水のほとりに植えられてあった。五六町でまた田圃中に出た。金時足柄長尾などの低い山垣が田圃越しの右手に見え、左には野原を距てて森の深い愛鷹山の墨色が仰がれた。富士は此処に来ると、愛鷹を前にせず、ただ単独に青広い野の中に聳えているのである。見馴れた雲というものが一片もそのあたりに見えない。千とか二千とかいう登山客が今日は大喜びでその山を這い登り這い下りしているのであろうと思いながら仰いでいるとそぞろにその晴れたあらわな山の姿に微笑が湧く。
なお十町も歩いてゆくと、不図左手に立てられた古びた木札に佐野瀑園五竜館佐野ホテル入口と和洋の文字で認められてあるのを見た。雑誌の口絵などから記憶のある富士裾野佐野の滝というのの滝の形が思い出されて来た。余りのあてなさに困っていたこととて、一も二もなく私は其処を左に曲ってとろとろと降りて行った。埃を浴びた畑の中の石ころ路である。
古びて骨の出た樅か栂らしい枝つきのままの大きな木の門を入ってもまた畑が続く。滝のひびきはかなりの重みを含んで近くに響く。木立があって、その蔭に俥が四五台休んでいた。木立の中を下ろうとすると前面に滝が見えた。一つ、二つ、三つ、見廻せばなお一つ二つのそれが岩と樹木との間に僅かの距離をおいて白々と相並んで落ちているのである。滝の前に架けられた危い橋には水煙がまっていた。その向うの高みに洋館まがいの宿屋が建っているのである。
通された部屋からは六つあるうちの四つの滝がよく見えた。庭木立を距ててであるが、その木立には水煙が薄い輪をひろげて後から後から降りかかっているのである。滝壺にはいちめんにちゃぱちゃぱと波が押し合っている。滝の高さはすべて四丈ばかり、彎曲した断崖の五六ヶ所から三間四間、乃至は十間十五間の間に分れてとりどりに落ちているのだ。うち一つ二つのの水量は意外に豊かなものであった。滝のめぐりをば浅い林がずうっと囲っている。林の向うは斜め登りの畑になっているわけだ。
部屋の裏手には孟宗竹が少しばかり並んで、その奥が小広い櫟の林となっている。滝からと林からと入り乱れた微風が室内を吹き通した。
思いもかけぬ処に来たという気がした。部屋のまんなかにつくねんと坐ると、滝を見るでも何でもないが、とにかくに好い処へやって来たと思わずにはいられなかった。サイダーを飲みながら、これでは今夜一晩ゆっくり此処に睡って行こうかという気も起きて来るのであった。昼飯の註文を訊きに来た少女の女中の態度も気に入って、
「今夜一晩泊めて貰います」
と云ってしまった。そして枕を借りて昼飯の時間までぐっすり其儘睡ってしまった。
ツイ庭さきの滝のそばまで下りてゆくのも懶かったが、午後二時三時となると流石にたいくつした。そして昼食の時に聞いておいた景が島というのへ出かけて見ることにした。
裏手の林を抜けると其処は一段高い平地の青やかな田圃であった。小さな渓を渡り、集落を過ぎ、小山の間に入り込んだ所にその景が島というのはあった。小さな渓が深々と岩を穿って流れている或る一ヶ所に、水が二手に分れ、中に二三十坪ほどの広さの岩塊を置いて流れている。その岩塊には松や雑木が茂り、中に何やらお堂が祭ってある。其処が即ち景が島であるのであった。二手に分れて流るるとは云え、その一方は今は悉く水が涸れて、狭深い岩の間に小石原のみが見られた。一方の流れは同じく深く岩を刳って、小さいが青く湛えた淵と、飛沫をあげて流れくだる短い瀬とが岩の蔭に連続していた。
景が島の景色のいい話を女中から聞きながら私は何故だか広やかな浅瀬の中に大きい円い石が無数に散らばって、水がそれらの間をしゃあしゃあざあざあと流れ騒いでいる――そんな処を想像していた。つまり部屋から見えているすべての滝を合せた上流のそうした処であったのだが、来て見ると僅かに滝の一つに相当する位いの水の流るる一支流の斯うした景色であった。
が、これもまた好かった。木立の深いが先ずよく、筋ばった岩もよく、岩を穿って流るる渓はことに私の心を惹いた。私は嶮しい岩を流まで下りて行った。
下りた所は小気味の悪い淵と淵とをつなぐ小さな激しい瀬であった。滑らかなうねりを作り、真白な泡と玉とを打ちあげて流れていた。暫く蹲踞んでそれを見ていたが、やがて私は着物をぬいで肌襦袢一つになり、その瀬の中に入って行った。膠のような、そして実に強い力を持った水の筋は滑かに冷かく私の病み痩せた両脛を押したくって流れてゆく。私は手近の石の頭につかまって一生懸命に身体を支えていねばならなかった。
押し流される様にして二三間下へ下って行った。其処はもう壺の様な淵である。瀬から上って淵の頭の岩の蔭に私は腰をおろした。前も岩、うしろも岩、左は淵、右は短い激しい瀬、見上ぐれば蒼い空にさし出て両岸の樹木が茂っている。
切り立った様な両岸の岩はみなふところ深く刳れている。そしてその刳れた所に模型地図の山脈などに見る幾つかの高まりが縦横に岩面を走っているのである。前を見、うしろを見して私は思った。此辺一帯が火山岩とか火山何岩とかいう軟かな岩質で――というよりか富士の噴火のあとのまだ硬まらぬ上を水が流れて斯う細く深く刳ったものであろうと。そして宿の前に滝を懸けた断崖なども溶岩の流れの毛すじほどの皺に相違なかろうと。そう思うと裾野一帯のだだっ広い平野の中に、普通に見ては眼につかぬほどの自分一人の窪みを作ってひそかに流れている此処等の渓がいじらしくもまた滑稽にも考え出されて来た。
立てば頭のつかえる岩蔭に坐った私に気づかぬのであろう、眼の前の石に鶺鴒がとんで来た。頻りに尾を振って、石から石へと移っている。脚のほそさ、糞を落す微妙さ、そして其処に一羽の友が飛んで来ると一緒にくるくるところがる様にまって行った。鶺鴒を見ていた私の眼は、其処にまた一つの小さな生物を見出した。うす黒い岩にぴったりとしがみついた蛙である。痩せに痩せて、そして岩と全く同じい色あいの、果物の皮の落ち散っている様な平たい蛙である。多分河鹿であろうと思うが、それにしてはやや大きい様にも見ゆる。これは水際の泡にまい寄る細かな羽虫を覗っているのだ。そう見ると眼と口とは生き生きとした矢張まがいのない生物である。おりおり水に飛んだ。そして円みを作って拗れながら流れている激しい水の中を眼にもとまらず敏捷に泳ぎ渡る。
淵ではおりおり魚が飛んだ。ぴしょん、ぴたりと云うかすかな冷たい音が、岩の蔭から蔭へ伝わる。淵の上からは蜩の声が雨の様に落ちているのであった。その中に法師蝉の夕日づいた澄んだ声も混っていた。
景が島を去って田圃に出ると、矢張り裾野のみが持つ風景の広さ大きさがしみじみと感ぜられた。下るともなく下り行った傾斜の遥かな四方には夕方の低い雲の波が起って、近い山、遠い山脈をうす黒く浮ばせている。埃を被って咲いているみそ萩の花が路傍に続き、田から田に落ちているかすかな水のひびきもそぞろに秋を思わせる。立ち止ってうしろを見送ると、富士もまたむら雲の渦巻の中に夕日に染まりながら近々と立っていた。
宿に帰ると、先刻とは違った女中がやって来てどうか部屋を換って呉れ、此処には多勢連の客を通し度いからという。まったくその部屋は一室だけ小高く離れた離室になっており、混雑する場合など私一人には勿体ない部屋であった。移された部屋の隣りにもやがて二人連の客が来た。私は鈴を押して女中を呼んだ。そして、いま見る所では向うの西洋室が皆あいている様だ。あちらに私をゆかして呉れぬかと尋ねた。帳場に訊きに行った女中はやがて帰って来て、先刻横浜から電報で西洋人が来ることになっており、どの部屋もすべて駄目だという。諦めて風呂に行って帰って来ると、女中が来て、一室だけ不要の様ですから西洋室にお移り下さいという。喜んでそちらへ移って、粗末な椅子を窓に寄せて滝を見ながら麦酒をとり寄せた。暑かろうが、静かなだけを喜ぼうと洋室を選んだのであったが、来て見るとよく風が通した。今夜は十二三日頃の月夜の筈、珍らしい寝台の上からゆっくり月と渓の流とを見て一夜を明そうと、子供の様に楽しんでいると、また女中が来た。そして如何にも云いにくそうに、また意外な西洋人から電報でいま直ぐ此処に来るように云って来た、他に洋室が無いし、誠に申兼ねますがもう一度あちらの日本間へ移って頂き度いというのである。
私は暫く黙って麦酒を口に含んでいた。いつもならば必ず此処で顔の色を変えるか、大きな声を出すかする所であるがと思いながら、その日の私は自分でも不思議な位い怒る気になれなかった。困り切って立っている女中の顔を見やりながら、承知の旨を答えて、手ずから飲み残しの壜とコップとを持って立ち上った。移ってみると、流石に気持は平らかではなかった。病気によくないのを知りながら更らに一本の麦酒を命じて、惶しく飲み乾すと散歩に出た。
今度は宿の前の橋を渡って、昼間初めてやって来た御殿場道の方へ歩いて行こうとした。橋に来ると、面を掩い度い水煙である。月が明かに滝に射して、はじけ散る荒い飛沫も、練る様に岩から落つる大きな流もただ一様に白々と月光の裡にある。暫く橋の上に立っていると、滝の流は断えずこまかに動いているものであることを知った。際立って風があるでもないに、滝は決して真直ぐには落ちていない。或は右に、或は左に、時には飛沫のかたまりの様に砕けて落ち、時には生絹を練る様に滑らかに円く光って落ちている。滝から起る響きもまたそれにつれて変っていた。
木立を通りすぎると野なかの畑である。豆畑があった。玉蜀黍畑があった。茄子畑があった。桑の枝の乱れている畑もあった。それらがごちゃごちゃに植わっている様な狭い畑もあった。すべてが打ち開けた月光の世界である。そして蟋蟀が鳴き、馬追が鳴き、或るものの細かな葉さきには露の玉が光っていた。ことに私の心を動かすのは玉蜀黍の長い垂葉とそのほおけた花の穂さきである。ひっそりと垂れた葉のみだれには月の影も乱れながらにこまごまと静けく宿っているのであった。
睡れ、睡れと念じながら帰って蚊帳に入ると、難有や願いの通りぐっすりと睡りつくことが出来た。
翌朝早く起きて便所にゆくと、廊下で一人の大きな西洋人に逢った。注意して見ると西洋人はこの男一人であった。私の一寸いた室は勿論、他の室も空いていた。室料が高く私を気の毒がっての宿の処置か、それともこちらの懐中を危ぶんだか、または電報の約束が間違ったか、変な事をするものだと思いながら、朝飯を待った。
宿を出て御殿場道に出ると忽ちこの野中の滝も西洋建の宿屋も青い田圃に隠れてしまった。停車場に入ると運よく汽車が来た。案の如くこんでいた。一番最後の列車の、展望車の様にうしろのあいている昇降台に立っていると、側にいた東京者らしい少年が、
「やア、活動写真活動写真!」
と叫ぶ。
見れば汽車の停ったあとの線路の中を一人の女が裾もあらわに馳けて来るのであった。乱暴なことをするものだと呆れて見ておると、それでも車掌が二三十秒も笛を吹くのを待ったためか、とうとう汽車に乗ってしまった。そして私のまん前に来て立った。切符をば無論車掌から買ったのである。
十七八歳の、肉づきのいい、女学生風の女であった。横顔が汽車の壁に凭って立っている私の正面一二尺の所に見ゆる。ゆたかな耳朶は濃い紅いに染り、水際だった襟からは見る見る汗が玉となって滴った。そして大きく吐く息づかいがこちらの身にも伝わる様であった。
眼をそらすと富士は昨日の朝の様に同じく深い紫紺の色に冴えて汽車のうしろに聳えて見えた。汽車はおおらかな野原の傾斜を素直ぐに走せ下ってゆく。
秋近し
畑なかの小みちを行くとゆくりなく見つつかなしき天の河かも
うるほふと思へる衣の裾かけてほこりはあがる月夜の路に
園の花つぎつぎに秋に咲き移るこのごろの日の静けかりけり
うす青みさしあたりたる土用明けの日ざしは深し窓下の草に
愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏の終りとおもふ
明けがたの山の根に湧く真白雲わびしきかなやとびとびに湧く
或る島の半日
旅さきの癖で朝飯の膳に一二本の酒をとり寄せ重苦しい宿酔を呼び出しながら飲んでいると、惶しく女中が飛んで来てほんとうにもう舟が出ますという。案内役の伊勢崎君もその顔を見て流石に腰を浮かした。そして窓に出て向うを見ていたが、
「ほんまに出よるわ、しようのないやっちゃなア」
と舌打ちしながら、手を振り声をあげてその舟を呼んだ。そして私共二人は飯も喰うことなしにあたふたと袴を著けてその舟まで駆け著けた。「郵便船やよって、出るとなったら一分も待ちよりゃしまへん」という宿屋の女中に「なアに、あの船頭知っとるよって、構うことあらへん」と伊勢崎君はたかをくくっていたのであったが、矢張り斯う周章えねばならなかった。
あたふた乗り込んだ舟は普通の漁船の小型なもので、中央に屋根が葺いてあり、その上に〒の字の旗が立ててあった。先客のために屋根の中に入り得ない私たちは艫の荷物の上に辛うじて腰掛けたが、ツイ眼の前には昨夜真夜中に著いた停車場が見えた。停車場から左寄りの山蔭と海岸の石垣との間に寂しげな宇野の町が眺められた。石垣に寄する小波の音といい、朝あがりの日かげに忙がしげに行き交うておる船頭や仲仕や客人や泣いてる子供や、聞きわけかぬるふれ声の女の魚売やの姿が、惶しい自分の心に如何にも粗雑な新開港であるという感じを抱かせた。
それらの背景に極めて不似合に大きな見ごとな桟橋が停車場前から突き出ていた。山陽線と四国鉄道とをつなぐ連絡船は即ちその桟橋から発著するのである。我等の小舟は桟橋につかまりながら徐々と海に出て、帆を張った。
「えろう此頃は郵便船も見識が高うなったのう、万作さん」
伊勢崎君は汗を拭き拭き船頭に声かけた。裾長の著流しで学生帽を被った四十年輩の船頭はただにやにやと笑いながら懐中から煙管を取り出していた。
「お蔭で飯もよう喰わんと走り出して来居って……、ひもじゅうて叶わんがな」
「どだい此処等の宿屋の女中があきまへんわ」
船頭の代りに屋根の下から答うる者がいた。白髪でもありそうな年恰好の声であった。
「じっきに出るのはよう解り切ってるのに、まだじゃまだじゃと吐しおって……」
「おなごの手じゃわい、そりゃ」
「ちょっとでも長う楽しもうと思うてけつかるのや」
屋根の下は急に賑わって来た。
桟橋を離れると前面の海に幾つかの島が見え出した。海に島が浮んでいると云うより、島に囲まれた海と云った方が適当か知れない。ぺたりと凪いで、池の様に静まっている。そしてその古池の様な海に瀬戸特有の潮流があらわな水脈となって流れておるのが見ゆる。奥から奥へと並んだ島々の蔭にかけて、その流はほの白う流れ渡っているのである。大小さまざまな船がまたそれらの島蔭に見えていた。上り下りの帆の向きの異っているのも馴れぬ眼には興深く眺められた。何百間かに亘る天然石に日蓮の寝像を刻みかけている牛が首島というのも、遠く近く垣の様につらなり渡った島の中にさし示された。
「ホウ、金毘羅参りが来居った」
一艘の帆前が綺麗に満艦飾を施しながらとある島の蔭から現われて来た。
「えらい静かなお参りや」
誰やらが云った様に、すれちがうまでに近づいてもその青や赤の新しい旗で飾り立てた船はただひっそりと走るのみで人影もろくに見えず話声ひとつ聞えなかった。
「これが直島ですよ、もう著きます」
長い旅の疲れと朝酒の酔とで、ろくに何を見るともなくぼんやりと何やらの荷に腰かけて風に吹かれている耳のはたで伊勢崎君が囁いた。
「そう、もうこれが直島ですか」
私は船の右手に近く塩田でもあるらしい砂浜の出た一つの島を改めて見やりながら強いて睡気を追おうとした。時計を見れば宇野を出てから一時間ほど経っている。見廻せばそのあたり左手の海にも三つか四つの島が濃淡の影を重ねて居るのであった。
舟から上ると、其処は小さな舟著場らしい集落になっていた。この直島の主都に当る所だという。友人のあとについてその集落を横切り、この島の郷社八幡宮の下に宮司三宅其部氏を訪うた。三宅氏の家はこの島の神官職を勤むる十数代にわたり、当主其部翁は友人伊勢崎君の為に月下氷人に当るのだそうだ。きょう突然両人して翁を驚かしたのは瀬戸内海の中のこの小さな島に崇徳上皇配流の故跡があるというのと、今一つは瀬戸名物の鯛網を見物するにこの島は甚だ恰好だというのとで、私は岡山市滞在中同市の人伊勢崎君に勧められ同君はまた島の三宅翁を頼って、此処までやって来たのであった。
髪にも髭にも白いのがかなり混った割には極めて元気な矮躯赭顔の翁は折柄処用で外出しかけて居たにも係らず、懇ろに我等がために古文書を展き、絵図を示し、流されてこの島に三年の月日を送られた上皇の故跡をいろいろと説明せられた。そして当時上皇の詠まれた
松山や松のうら風吹きこして忍びて拾ふ恋忘貝
という歌によって忘れ貝と呼ばれて居るこの島特有の貝殻の拾い取ってあったのを特に私のために分けられたりした。中に美しい純白なものがあったが、これなどは今極めて稀にしか拾えない種類なのだそうだ。
併し、惜しい事に歴史上の年代や考証がかった話を聴くべく余りに私は旅に疲れていた。今度の旅に出てまだ幾日もたってはいないが、その出立前からかけての烈しい不摂生、不健康、ことに岡山に来てからの四五日が間、夜昼なしに飲み続けていた暴酒や不眠のために殆ど全くの病人となっていた私にとってはそれらの入り込んだ話はともすると頭の中で纏らぬがちであった。幸いに翁は説明を中途でやめ、これから順々と重もな故跡を案内しましょうと自分から立ち上った。そしてそのあとを兼ねて鯛網見物の場所ときめてあった琴弾の浜へ出ようというのである。
「なアに、御覧の通り島が小さいのですから全体を廻るにしてもざっと半日あれば足りますよ」
と云って、長い杖を一本私に渡しながら大きい声で翁は笑った。
三人続いて門を出ると、直ぐ径は坂になった。若い松がまばらに生えて、山の肌はうす赤い。雲は多いが、折々暑い日が漏れて、私の身体はすぐ気味の悪い汗になった。その赤い山襞のあちこちに遥々都から御あとを追うて来た御側の女がやがて身重になって籠ったあとの森だとか、同じくおあとを慕われた姫宮がどうなされたとかいう様な伝説のあとを幾箇所も見てすぎた。
程なくその島の脊に当っていると思わるる峠を越すと、今まで見て来たと違った海が割合に広々と見渡された。峠に崇徳上皇を祭ったお宮があった。小さいながらにがっしりとした造りで、四辺には松が一面に枝を張っていた。東南に向った海の眺め、海に浮ぶ二三の島の眺め、それらを越して向うに見渡さるる四国路の山から山の大きい眺め、流石に私も暫しは疲れを忘るる心地になった。其処を磯の方にとろとろと二三丁も下ると、きょう目ざして来た重もの目的のお宮の跡というのに出た。
其処も小さな山襞の一つに当っていた。波の寄せている磯まではほんの十間もないほどの僅かに平たい谷間で、あたりには同じく松がまばらに立ち並び、間々雑木が混っていた。三宅翁は携えた杖で茂った草や落葉をかき分けていたが、やがて目顔で私を呼んだ。行って見ると、その杖の先には小さな石を畳んだ石垣風の所が少し現われていた。
「どうした建築の法式でしたか、この石垣が三段に分れて積まれています、此処が一段とその上と、もひとつ上の平地と……」
翁の杖の先に従って眼を移すと、成程それぞれ三坪ほどの平地を置いて、二三尺の高さに三段に重なっているのである。想うにこの一段ごとに一軒ずつの小屋があり、御座所やお召使または警護の者共それぞれの住所にあてられていたものらしいと想われた。二坪ほどの御居間に三年余もお籠りになった当時の御心持を想うと、古い歴史のまぼろしが明かに眼の前に現われて来る様な昂奮を覚えずにはいられなかった。仰げば峰まで二三丁の嶮しい高さ、下はとろとろと直ぐ浪打際になって、真白な小波が寄せて居る。住民とても殆んど無かったと伝えらるる当時のこの小さな島の事を心に描いて来ると、あたりに立っている松の木も茅萱の穂も全く現代のものではない様な杳かな杳かな心地になって来るのであった。
いつまで立っているわけにもゆかなかった。帽子をとって四辺の木や草に深く頭を下げて、私たちは磯の方に降りて行った。崖下の浪打際をややしばし浪に濡れて歩いて行って、やがて少し打ち開けた平地の所に出た。其処等にもくさぐさの伝説のあとがあった。平地の南の端、三四十の家の集っている玉積の浦(この名もなつかしい)には寄らずに田園を西に横切って行くと一列の並木の松が見えた。其処に著くと松並木の蔭におおらかに湾曲した大きな浜があって、同じく弓なりに寄せている小波が遥かに白く続いていた。例の忘れ貝は多くただ其処からのみ出るという琴弾の浜(この名も同じ上皇に因縁した伝説から出たものであった)が其処であった。そして其処に粗末な漁師の小屋が五六軒松の根に建ててあった。私たちは其処でこれから鯛を網しようというのであった。
はつ夏
うす日さす梅雨の晴間に鳴く虫の澄みぬる声は庭に起れり
雨雲のけふの低きに庭さきの草むら青み夏虫ぞ鳴く
真白くぞ夏萩咲きぬさみだれのいまだ降るべき庭のしめりに
コスモスの茂りなびかひ伸ぶ見れば花は咲かずもよしとしおもふ
いま咲くは色香深かる草花のいのちみじかき夏草の花
朝夕につちかふ土の黒み来て鳳仙花のはな散りそめにけり
伊豆紀行
二月九日。
O―君とS―君と、一人は会社を一人は学校を怠けて、東京駅まで見送って来た。この二人は昨日珍しく降った雪に浮れて私を訪ねて来、ツイ雪見酒が過ぎて昨夜そのまま泊っていたのである。
停車場の食堂の入口で飲み始めたビールが暫てウイスキイに変る頃は十二時幾分かの汽車に乗るのがいやになって、一時三十五分の京都行に延ばす事にきめた。昨夜の名残もあるので、三人とも直ぐ真赤に酔った。
「先生は斯んな帽子を被って旅行しようというのですか、一体これはもう何年被りました、僕のを貸してあげますよ、これをお被りなさい、ソラ、よく似合うでしょう」
と、首まで赤くなったS―君は自身の帽子をぬいで私に被せた。何という型だか、毛の深い温い帽子である。
「ほんとだ、それに手袋もお持ちでありませんネ、これを差上げましょう、まだ買ったばかりのだから」
とO―君は、これも毛深い真新しい手袋を取って私に渡した。あやしき帽子を被って眼の垂れた私の顔が食堂の鏡に映って居る。食堂内には西洋人が多かった。
歩廊に登ると、まことに好い天気だ。雪を被った全市街の上にうららかに射し渡した日光の底の方には微かに霞が醸されている。静かに汽車は動き出した。
駅を出ると直ぐ私は睡った。品川をも知らなかった。そして眼をさますと汽車は停っていた。見廻せば国府津である。乗降が大分混合っている。其処を出ると足柄か天城か、真白に雪の輝いた連山が眺められた。車窓近くの百姓家の段々畑の畔に梅が白々と咲いて居る。今年初めて見る梅である。箱根にかかると私の好きな渓流が見え出した。そして、細かな雪がちらちらとまい始めた。御殿場では構内を歩く駅の人が頭布を被って居る程繁く降っていた。而かも其処を離れて裾野を汽車が走せ下ると次第に晴れて遥かの西空は真赤な夕焼、竜巻に似た黒雲が二すじ三すじその朱色の光の中に垂れ下っていた。
沼津駅下車、直ぐに俥で狩野川の川口へ行く。この前泊った川岸の宿は満員というので名も知らぬ小さな船宿へ入る。ぬるい風呂に浸っている頃から耳についていた風は次第に烈しく雨戸を揺るがし何という事なく今夜の酒は飲むだけ次第に気を沈ませてゆく。三方壁の様になった――一方に小さい四角な高窓がついてはいるが――四畳半の煤びた部屋の床に古木らしい大きな枝の梅がなかなか器用に活けてある。
「いい梅でしょう、わたしが自宅から持って来たの」
あやしげな女がひょっこり入って来て煙草をねだりながら云う。活けたのもお前か、と訊けば、それは此家の旦那だと正直に頭を振る。不図思いついた事があって沼津在に二瀬川という所があるそうだが、と尋ぬると二瀬川はツイこの川向うで、わたしの家はその隣村だという。そんなことから、私はもと上州前橋の生れで、沼津の廓に身を売り、その何とか村の者に受出されていたが姑との仲が合わず、今は此処に預けられている。兄さん(と彼女は云った)は旦那より五つ年下だと側の宿帳をひろげながらの身の上話などが出た。そのうちに階下から呼ばれて降りて行ったがまた上って来て、此家の旦那は根が遊人だけによく解っているがお内儀さんは芸者上りの癖にちっともわけが解らず、辛らくて為様がないという風の事をまだ抜け切らぬ上州弁で話して、たとえ何にせよ宿屋一軒に番頭板場が居るでなし、女中はわたし一人で昼は子守までさせられ、肩が張って斯の様だと骨をめきめきいわせながら泣顔をする。
漸く私も酔うのを断念して、直ぐ床に入る。風はいよいよひどい。明日はどうせ汽船は出まい、そうなればその二瀬川の知人を訪ねて見ようなどと思っているうちに案外に早く熟睡した。
二月十日。
夜中一二度眼の覚めた度び毎に例の風を聞いたのであったが、朝六時過ぎ、暫く耳を澄ましてもひったりと何の音もせぬ。怪しみながら床を出て高窓の戸を引開けて見ると驚いた、その小汚い窓の真正面にそれこそ玲瓏を極めた大富士の姿が曙のあやを帯びて如何にも光でも発するものの様に聳えているのである。見廻したところ其処等の樹木の梢から屋根からいずれもみなしんと静まり返って唯だ雀の声のみ鮮かだ。惶てて階下に降りて訊くと汽船は二時間遅れてこの七時半には出るそうだという。
以前はツイこの川岸に横着けになっていたものだが、今は川口が浅いため汽船は沖にいて其処まで艀を発動船で運ぶのだ。川口を離れると昨夜の名残らしく随分大きい浪が打ち寄せる。四五十人鮨詰に立っていた艀の人達も大抵は蹲踞んでしまうほどであった。本船に移って大半は階下の船室に入り込んだが私は早速蓆を敷いて甲板に席を作った。船に強そうな十二三人もみなその様にした。積荷は既に済んでいたらしく、程なく発船、私の席からは其処に積み重ねられた魚の空樽の間に殆ど断えず富士が仰がれた。やがてそれぞれの人の間に船の上らしい談話が交わされ始めた。どうも今朝五時頃に裾野に靡いていた雲で見ると私は東南風らしいと見たがという人が居ると、イヤ、あれは確かに西風だ、今こそ斯う不気味に凪いでいるがやがてこれが月の落ちぐちにでもなったらどっと吹いて来ましょうよという老人もある。この老人の言葉に私は狭苦しい席に身体をねじ向けて空を探すと、なるほどくっきりと澄んだ沖近くに二十日頃の有明月が寂しく懸っているのであった。
戸田近く、汽船は断崖にひたひたと沿うて走る。切りそいだ崖の根がたにどばんどばんと浪の打ちあげている所もあり、またその根に狭く荒い石原があってそれに白々と寄せている所もある。崖の上は大抵一面に枯れ果てた萱山で、海岸沿いに電信柱が一列遠く連っているのが見ゆる。一昨日この辺も降ったらしく、雪が斑らにその山のいただきに残って居る。浪の色は深い紺碧、風は無くても船はいい加減に揺れて居る。
戸田の港を出た後から先刻の老人の予言が力を表して来た。煙筒や帆柱に風のうなりが起る様になると、船は前後に烈しく揺れ始めた。私は幸に身体を凭せ懸ける所を持っていたのでよかったが、そうでない人々は坐りながらに前後にずり動かされねばならなかった。いつの間にか話声はぴたりと止んで、例の吐すうめきが起り出した。階下の船室から這い出して来て欄干にしがみつきながら吐いている若者もあった。ものにつかまりながら辛くも立ち上って沖の方を見ると空は物凄いほどにも青く冷く澄み渡って、沖一面の白浪が泡立ちながら此方を目がけて寄せて来ているのである。この西伊豆の海岸は、西風の吹き出す秋口から冬にかけてよく荒れがちであるのだそうだが、終に今日もその例に漏れぬ事となったのである。あとで聞くと、その荒れるうちでも今日のなど最も強いものであったそうだ。
土肥には寄るには寄ったが、なかなか艀が近付かない。またそれに乗り移る時汚物によごれた婦人客の有様など、見て居られなかった。そして此処ではまだずっと先きまで、松崎とか下田とかまで行く可き人のうちでもものを吐き吐き下船する人が随分あった。いたましい汽笛を残してこの小汽船米子丸はまた外洋の白浪の中に出て行った。土肥は温泉のあるため乗降客は多いが港らしくなっていないので船は永く留っている事も出来ぬのである。
土肥を出て直ぐ、私は眼覚しい風景に接した。高い岩壁に沿うて十丈又は十五丈もある黒鉄色の岩礁が二三本鎗の穂尖の様に鋭く並んで聳え立って居る。沖から寄せた大きなうねりはその岩礁という岩礁、岩壁という岩壁に青く寄せ白く砕け縦横自在に荒狂っているのである。わが汽船はその真近に吹き寄せられながら或は高く或は低く上りつ下りつして実にあわれな心細い歩みを続けて行く。その辺に来るともう私すらが無事に坐っている事は出来なくなった。物につかまりながら立つか、或はぺったりとこれも同じく何物かに身を寄せて俯伏せに寝ているか、いずれかでなくては身が保てない。私は飛沫を浴びながらS―君の帽子を耳までも深く被って全身に力をこめながら立っていた。そして時には甲板よりも高く蜒ってゆく長いうねりを息をひそめて見つめていたが、思わず知らず或時大きな声を上げてしまった。岩壁と岩礁との僅かの間、浪という浪が狂い廻ってうち煙っている真中に実に見ごとな、遥かな富士を発見したからである。何という崇厳、何という清麗、朝見たよりも益々うららかに輝き入って、全面白光、空の深みに鎮っているのである。富士は近くてはいけないが、いつの間にか此処あたりは恰度距離も見ごろな所となっていたのである。船よ、御身もこれで幾らかずつは歩いているのだナ、と思わず欄干を叩いて微笑せざるを得なかった。
然し、甲板の上は富士どころの騒ぎでないのであった。三つずつ積み重ねて七八所に束ねてあった空樽が余りの動揺にいつか束ねた縄を切って一斉に甲板の上に転げ出したのである。甲板にいた人たちは幾らか船に強い方の人であるべきだが、うち見た所私のほかには最初強風を予言した例の痩老人のみが先ず生色あるのみで、他は大抵もうへたばってしまって居る。汚物の鑵が倒れ溢れても起さず、汐を被っても拭わず、ただもうべったりと甲板にしがみついているのである。その上を鱗だらけの空樽が幾つとなく転げ廻るのだから耐らない。思わず私も手を出しかけたがつかまっている手を離せば忽ち私自身空樽同様とならねばならない。為方がないから唯だ大きな声を上げた。私と反対の側に掴って立っていた老人も等しく金切声を張りあげた。聞きつけて船長らしい大男と今一人若いのとが出来たが、彼等だとてそう自由に歩けるものではない、暫く樽と角力をとっていたが流石に如何にかくくりつけてしまった。今までの遠景から眼を移してその樽の転げるのを見廻しているうちに私も何だか少し気持が変になって来た。嘔くのかナ、と思っている所へ向側の老人が這う様にして私の方へやって来た。そうして私に並んで立ちながら、
「どうも貴方は豪気ですナ、私は始終この船には乗っているからだが、普通の人でこの荒れに酔わないとは珍しい、まったく豪気だ」
と讃める。そうなるとこちらも気を取り直さねばならず、暫く話しているうちにいつか嘔気をも忘れてしまった。老人は年六十七八、墨染の十得の長い様なものを着て、まだ斯んなに船の揺れなかった前にはちゃんと正座しながら茶道捷径という本を手提の上に置き、歯の無い声で高らかに読んでいたのであった。沼津本町の人、茶を教えに田子港まで行くのだそうな。ひとしく浪の面を見詰めながら並んで立っていると彼は口のうちで、然しかなりいい声で、「鳥も通わぬ八丈が島へ……」と追分を唄い出した。それが船の烈しい動揺につれては間々常磐津に似た節廻しにも移ってゆくのである。
そうしている間に船は八木沢、小下田、宇久須という様な幾つかの寄港場を悉く見捨て阿良里という港へ非常な努力で入って行った。この港はどの風にも浪一つ立たぬ附近唯一の良港であるという。成程小さくはあるが港らしい港だ。奥に入ってゆくと赤茶色の山の蔭に僅かに沖の余波を思わせる小波が立っているのみであった。あわれな汽船は其処に入りながら寧ろ物悲しい汽笛を長々と鳴らし始めた。
私は元来今日はこの船で松崎まで行くつもりであった。イヤ、若し船の都合がよかったらずっと一息に下田まで行ってもいいと思っていた。が、今日は一切此処より出船しないという。それもまた強ちに悪くないと私は快く諦めた。そして何処に泊るも同じだからこの思いもかけなかった小さな港に一夜を明すも面白かろうと心にきめた。艀に移ろうとして不図見ると例の老人が――彼はこの次ぎの田子港まで乗る筈で、其処には迎いの人も来るべき筈であったのだそうだが――幾つかの手荷物を持て余している。私はそれを手提一つと風呂敷包一つとに区分させ、自身のものをば腰に結びつけて、その手提をば代って持ってやることにした。サテ、陸に上って、私はこの老人と別れ様としたのだが、此処から田子まで距離が約一里、其間に峠もあると聞いて、その田子に宿屋の有無を訊きながら其処まで老人と一緒に行く事にまた覚悟を変えた。そしてとぼとぼと歩き始めると、船にいたよりも私は身体のふらつくのを感じた。最初の峠は随分嶮しく、且つ路が水の無い渓見た様な路なので歩きにくい事夥しい。其処を幾度となく礼を云い云い先きに立ってちょこちょこ歩いて行く老人の後に従いながら私は彼れの健康さに舌を巻かざるを得なかった。
二つ目の峠――という程でもなかったが――を登り切ると、泡浪立った広い入江の奥に位置する田子の宿が直ぐ眼下に見えた。屋並の揃った、美しい宿場である。鰹節の産地で、田子節というのは此処から出るのだと老人は説明した。宿屋は高屋と云った。ところが、生憎と部屋がいま全部閉がっていて合宿で我慢して頂くわけには行くまいかという事である。私を案内して一緒に其処まで行って呉れた老人はそれを聞くと却って喜んだ様に、それでは矢張りこれから私の行く家へ御一緒に参りましょう、極く懇意な仲で、ことに私はいつも其家の離室に滞在する事にきめてあるので少しの遠慮もいらないから、とたって勧める。兎に角昼飯だけ――もうその時二時を過ぎていた――此家で済ませましょう、貴方も如何です、と当惑しながら私がいうと、ではそうなさい、その間に私は向うに行って主人にもよく話をして来ます、後程伺いますからと云い置いて老人はそそくさと出て行った。
日の当る窓際で私は焦れていた酒にありつき乍ら考えた、斯うした浦曲で茶の師匠と相食客をするのも面白くなくはないが、多少でも窮屈の思いをするのは嫌だ、それに茶の一手でも弁えているとまだ便利だが、どうも新派和歌では始まらない、これは矢張り断るに限る、と思うと今更ら老人に逢うのも面倒で、大急ぎで飲み乾して飯をば喰べず其処を出た。出がけに手紙代りの歌を一首、書きつけて宿に頼んで来た、もう一度あの好人物そうな老人の顔を見たくも思いながら。
如何にも鰹節が到る所に乾してあった、高くなった高くなったと朝晩勝手で女中を相手に嘆している妻の顔などが心に浮んで苦笑しながら無数に乾しひろげられたそれ等を見て通り過ぎた。風は相変らず烈しく、私の五六歩前を歩いていた二人の若い酌婦風の女の上にまだ乾かぬ乾物が竿のまま落ちて来たりした。宿場を離れると直ぐまた山にかかった。
酒のせいか、幾らか風をよけた山蔭のせいか、その峠をば私も極めて穏かな気持で登り始めた。梅が幾つか眼につく。初めこの旅を思い立った時、この花の盛りを見る気でいたのであったが次第に日が遅れてもう過ぎてしまったろうと諦めて来たのにまだ結構見らるる。浪に揉まれながらの船からも海岸の崖の上に咲いているのがよく見えていた。一帯にこの国にはこの木が多いかも知れぬ。段々畑の畔などに列を作って咲き靡いている所もある。伊豆は天産物の豊かな上によく細かな所にまで気をつけて人々がその徳を獲ようとする、と云った数年前天城を越す時道連になった年若い県技手の話を私は端なく思い出した。国が暖かだから山椒の芽や桜餅に用いる桜の葉などを逸早く東京あたりへ送り出す、その山椒の価額が年平均何万円、桜の葉が何万円、などとその技手は細かな数字をあげて話して呉れたのであった。そんな風でこの伊豆には模範村と表彰された村が全体で何個村とかあると云う事であった。気候や地味を利用する事には余程鋭敏な国であるらしい。
今度は独りだけに荷物とても無く、極めて暢気に登って行くとやがて峠に出た。何という事なく其処に立って振返った時、また私は優れた富士の景色を見た。いま自分の登って来た様な雑木山が海岸沿に幾つとなく起伏しながら連っている。その芝山の重なりの間に、遥かな末に、例の如く端然とほの白く聳えているのである。海岸の屈折が深いから無数の芝山の間には無論幾つかの入江があるに相違ない。その汐煙が山から山を一面にぼかして、輝やかに照り渡った日光のもとに何とも云えぬ寂しい景色を作っているのである。現にいま老人と通って来た阿良里と田子との間に深く喰い込んだ入江などは眼の醒むる様な濃い藍を湛えて低い山と山との間に静かに横わって居るのである。磯には雪の様な浪の動いているのも見ゆる。私は其儘其処の木の根につくねんと坐り込んで、いつまでもいつまでもこの明るくはあるが、大きくはあるが、何とも云えぬ寂びを含んだながめに眺め入った。富士の景色で私の記憶を去らぬのが今までに二つ三つあった。一つは信州浅間山の頂上から東明の雲の海の上に遥かに望んだ時、一つは上総の海岸から、恐しい木枯が急に吹きやんだ後の深い朱色の夕焼の空に眺めた時、その他あれこれ。今日の船の上の富士もよかった。然しそれにもまして私はこの芝山の間に望んだ寂しい姿をいつまでもよう忘れないだろうと思う。
風が冷く夕づいて来たのに気がついて身体を起すと、また此方側の麓には藍甕の様な海と泡だった怒濤とがあった。雑木の木の間にそれを眺め眺め下りて行くと時雨らしいものが晴れた空からはらはらと降って来る。最初はほんとに時雨か霰かと思った。が、まことは風が浪の飛沫を中空に吹きあげて、それが思わぬあたりに落ちて来るのである。汐けぶりなどいう言葉ではとても尽されない、汐吹雪、汐時雨、しかもそれがいい加減に高い山を越えて降って来るのである。そして海と風とのどよめきが四辺を罩めている中に、ちちちちと木の葉の様な眼白鳥が幾つとなく啼いて遊んでいる。この小鳥もこの海岸には非常に多いらしい。
私が異常な昂奮に自ら疲れて仁科村字浜町という漁村に着いたのはもう灯の点く頃であった。普通に歩けばその日のうちに充分松崎まで行けたのであるが、また行くつもりでもあったが、この附近の余りに景色のよさに諸所道草を食っていて斯うなったのであった。其処の鈴卯旅館というに泊る。
二月十一日。
終夜怒濤を聞きながら睡りつ覚めつして朝早く起きて見るとよく晴れたなかに相変らず風が荒れて、日の丸の旗が惨めに美しく吹きはためかされている。紀元節なのだ。朝食をすますと風の中を犬の子の様にして散歩に出た。昨日通って来た海岸をもう一度見直し度かったからである。昨日の夕方、もううす赤くなりかけた夕日のなかを疲れ切って歩いて来ると片方は麦畑になっている、とある路傍に思いがけなく怒濤の打ち上る音を聞いた。終日濤声に包れていたのであるから普通なら別に驚かないのだが通りかかった其処は左がやや傾斜を帯びた青い麦畑で右手海寄りの方は一寸した窪地を置いて直ぐその向うに小高い雑木林の丘がある許り、その附近暫く浪や海の姿に遠のいている場所であった。其処へ突然足許からどばーんというのを聞いたのだ。怪しみながら窪地の辺を窺いて見ると、一つの大きな洞穴がその雑木の丘の根にあいていて、その洞の中で例の浪が青みつ白みつ立ち狂っているのである。しかもその洞が外洋から如何通じているのか、打ち見たところどの方角からにせよ直径二三丁の距離を穿っているのでなくては浪は導けない地勢にある。私は痛い足を引きずりながら洞の側へ下りて行った。洞は次第に奥が広くなっているらしく、暗いなかに大小の浪が怪しい光を放ちつつ縦横に打ち合っているのであった。宿に着いてその話をすると、向う側は三所から洞になって入り込み中程で落ち合い乍らこちらに抜けている、その中ほどの所には上からも大きな穴があいていてそれを土地の人は「窓」と呼んで居るという事であった。今日はその「窓」をも見たい希望であった。
この浜町という所は――この附近全体がそうではあるが――恰も五本の指をひろげた様に細高い丘が海中に突出して、その合間合間が深い入江となって居るという風の所である。で、一つの入江の浪打際を過ぎて丘を越ゆると思いもかけぬ鼻先に碇泊中の帆柱がゆらりゆらりと揺れていると云った具合だ。宿を出外れた所に御乗浜と呼ばれた大きな入江がある。その前面、即ち外洋に面した方には大小数個の島礁が並び立って、美しく内部を取り囲んで居る。風の無い日ならばどんなにか静けく湛えているであろうに今日はまた隅から隅まで浪とうねりとに満ち溢れ、宛ら入江全体藍の壺を揺りはためかす形となっている。路は崖を鑿って入江に臨んで居る。岩蔭に身を跼めて暫くその浪と島と風とに見入って居ると、駿河湾を距てた遥かな空には沖かけての深い汐煙のなかに駿河路一帯の雪を帯びた山脈がほの白く浮んで見えて居る。富士は見えなかった。
洞穴に来て見ると昨日の通りに暗い奥から生物の如く大きな浪が打ち出して居る。その「窓」というのへ行こうと其処等を探したが勝手が解らない。また一度路傍まで出て久しい間行人を待ったが流石に土地の人もこの風をば恐れたか誰一人通らない。見ると山際の麦畑の中に百姓家らしい唯だ一軒の藁屋が日を浴びて立って居る。四方森閑と締め廻してあるのでてっきり留守と思い諦めているとたまたま戸口があいて一人の老婆がちょこちょこと出て来て直ぐまた引っ込んだ。私はそれを見ると喜んでその一軒に登って行った。そして裾に吠えかかる小犬を制しながら庭に立ったまま戸口にはやや遠くから声をかけた。暫て先刻遠くから見たらしい老婆が着ぶくれた半身を現わしてさも不審そうに私を見て居る。私は口早に(犬が恐かったのだ)この路下の洞穴のほかにもう一つ附近に洞穴があるそうだが(矢張り犬のために窓という言葉を忘れていた)それにはどう行くかと訊くと、それには……と云いかけてそそくさと奥へ引っ込んで了った。そして今度は愛憎笑いの顔を出して、とにかくこちらへ入れという。犬に追われながら戸口を入って私も意外な思いをした。唯だの百姓家とのみ思い込んでいたのに、中に入って見ると其家は何かの御堂であった。土間の左手はささやかながら物寂びた本堂、正面の所が庫裡――と云っても長四畳程の小さな部屋で、中に切られた炉には赤々と焚火が燃えていた。そしてその囲炉裡の正面には小机を置いて六十歳あまりの和尚らしい人が坐り、同じく不審そうに私を見迎えていた。
雪の天城越
幾年か見ざりし草の石菖の青み茂れり此処の渓間に
乗合自動車の故障の直されるあいだ、私はツイ道ばたを流れている渓の川原に降り立って待っていた。洪水のあとらしい荒れ白んだ粒々の小石の間に伸びている真青な草を認めて、フト幼い頃の記憶を呼び起しながら摘み取って嗅いで見ると正しく石菖であった。五つ六つから十歳位いまでの間夏冬に係らず親しみ遊んだ故郷の家の前の小川がこの匂いと共に明らかに心の底に影を浮べて来た。私の生れた国も暖い国であるが、なるほどこの伊豆の風物は一帯に其処に似通っている事などもなつかしく思い合わされた。
まだ枯葉をつけている櫟林や、小松山や色美しい枯萱の原などを、かなり烈しい動揺を続けながらこの古びた乗合自動車は二時間あまりも走って、やがて下田街道へ出た。其処で私だけ独り車と別れた。車は松崎港から下田港へ行く午後の定期であったが、私は下田とは反対の天城の方へ歩こうというのであった。
裾を端折って歩き出すと、日和の暖かさが直ぐ身に浸みた。汗が背筋に浮んで、歩かぬさきから何となく労れた気持ちであった。時計は午後の三時すぎ、今夜泊ろうと思う湯が野までは其処から四里近い道と聞いて、少し急がねばならぬ必要もあった。
梅が到るところに咲いていた。ことに谷向うの傾斜畑の畔に西日を受けて白々と咲き並んでいるのが何れも今日の日和に似つかわしく眺められた。暖くはあるが、はっきりと照らない日ざしに今をさかりらしいこの花の白さは一本一本静かな姿で浮き出しているのであった。
同じ湯が野まで帰るという荷馬車屋と道づれになった。少し脚を速めて行って、矢張り少しは夜に入ろうという。そう聞けばなおこの荷馬車を離れるのが心細く、一生懸命に急いで彼に遅れまいとした。木炭を下田まで積み出しての帰りだということで、炭の屑が真黒に車体に着いていたが暫て私は彼の勧めて呉れるままにその荷馬車に乗ってしまった。二十歳前後の口数少い荷馬車屋は、そう勧めると同時に馬車を留めておいて田圃の中へ走り出したと見ると其処の積藁の中から一束の藁を抱えて来て炭屑の上に打ち敷きながら席を作って呉れた。労れ始めた身には、そんな事が少からず嬉しかった。その藁の上に尻を据えて、烈しい動揺に耐えながら、膝を抱いて揺られて行くとまったくそのあたりは梅の花の多いところで、山の襞田圃の畔到るところにほの白く寂しい姿を見せていた。
長い長い坂を登りつくして、山の頂上らしい処で一つの隧道を通り過ぎると、思いもかけぬ大海が広々と見渡された。そしてツイ眼下とも云いたい近くに一つの島が浮んでいた。驚いて名を訊くと、あれが伊豆の大島だという。いかにも、ほのかに白い煙が島のいただきに纏り着いている。島全帯が濃い墨色に浮んでいるので、このかすかな火山の煙がよく眼立つのであった。
「明日は雨だよ」
と若い馬車屋は云う。斯う島が近く明かに見えると必ず降るのだそうだ。
また長い長い坂を降りる処があった。右手下、海に近い処に遥かに電燈らしい灯の集りが見下された。河津の谷津温泉だという。少し行くと更らに前方に一団の灯影が見えて来た。それが今夜泊ろうとしている湯が野温泉であるのであった。
とっぷりと暮れてその渓間の小さな温泉へ着いた。若者に厚く礼を云って別れ、その別懇だという宿屋へ寄って、やれやれと腰を伸した。荷馬車に乗ったのは生れて初めての事であったが、併しそれに出会わないとすると案外に山深い街道の独り夜道となる処であった。
困ったことに私の通された部屋の真下が共同湯の浴場となっていた。多分先刻の若者なども毎晩此家に入浴に来る処から此家と親しくしているのであろうが、その喧騒と来たら実に烈しいものであった。しかも夜の更けるに従って温泉の匂いとも人間の垢の匂いともつかぬ不快な臭気がその騒ぎと共に畳を通して匂って来て愈々眠り難いものとなった。止むなく私は出立の時東京駅の売店で買って来た西洋石鹸の香気の高いのを思い出してそれを枕の上に置き、やがて鼻の下に塗り込む様にして臭気を防いだ。
眠り不足の重い気持で翌朝早くその宿を出た。見廻すとまったく山蔭の渓端に小ぢんまりと纏り着いた様な温泉場であった。自分の泊ったのよりずっと気持のよさそうな宿屋が他に一二軒眼についた。
温泉場の裏から直ぐ登り坂となっていた。一里二里と登って漸く人家も断えた頃から思いがけない雪が降り出した。長い萱野の中の坂を登って御料林の深い森の中に入る頃には早や道には白々と積っていた。立枯になった樅、掩い被さる様な杉の木などの打ち続いた森の中に音もなく降り積る雪の眺めは美しくもあり恐ろしくもあった。峠に着いた時には既に七八寸の深さとなっていたが其処の茶屋で飲んだ五六合の酒に元気を出して留めらるるのを断りながら終にその日、天城山の北の麓に在る湯が島温泉まで辿り着いたのであった。その渓端の温泉も無論円やかに深々と雪を被っていた。真白に濡れながら上下七里の峠道を歩き歩き詠んだ歌二三首をかきつけてこの短い紀行文を終る。
冬過ぐとすがれ伏したる萱原にけふ降り積る雪の真白さ
大君の御猟の場と鎮まれる天城越えゆけば雪は降りつゝ
見下せば八十渓に生ふる鉾杉の穂並が列に雪は降りつつ
天城嶺の森を深みかうす暗く降りつよむ雪の積めど音せぬ
岩が根に積れる雪をかきつかみ食ひてぞ急ぐ降り暗むなかを
かけ渡す杣人がかけ橋向つ峰の岨につづきて雪積める見ゆ | 底本:「みなかみ紀行」中公文庫、中央公論社
1993(平成5)年5月10日発行
底本の親本:「みなかみ紀行」書房マウンテン
1924(大正13)年7月
※「陰」と「蔭」、「着いた」と「著いた」、「背」と「脊」、「舟」と「船」、「湯ヶ島」と「湯が島」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年7月11日作成
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小さな流
この沼津の地に移住を企てゝ初めて私がこの家を見に来た時、その時は村の旧家でいま村医などを勤めてゐる或る老人と、その息子さんと、この家の差配をしてゐる年寄の百姓との四人連で、その老医の息子さんが私たちの結んでゐる歌の社中の一人であるところから斯んな借家の世話などを頼むことになつたのであつたが、先づ私の眼のついたのは門の前を流れてゐる小さな流であつた。附近を流るる狩野川から引いた灌漑用の堀らしいものではあるが、それでも水量はかなり豊かで、うす濁りに濁りながら瀬をなして流れてゐた。
『今日は雨の後で濁つてますが、平常はよく澄んでるのですよ。』
と、早稲田の文科の生徒でその頃暑中休暇で村に帰つてゐたその息子さんは、同じくその流に見入りながら私に言つた。
いよ〳〵家族を連れて東京から移つて来て見ると家が古いだけにあちこちと諸所造作を直さねばならぬところがあつた。井戸の喞筒などもその一つであつた。完全に直すとすると十八円ばかり出さねばならなかつた。その時その余裕が私に無く、差配一人でも出し渋つた。そしてほんの当座の修繕をしておく事にして、差配は私と妻とを連れて勝手口から小さな畠の畔を通りながら桜や柳の植ゑ込んである一ならびの木立の下まで来て、
『なアに、これがありますからあちらはほんの飲み水だけで沢山ですよ、何や彼やの洗物はみな此処でなさいまし。』
と言つた。
其処には特に目にたつ大きな枝垂柳が一本あつて、その蔭の石段をとろ〳〵と降りて例の流に臨んだ洗場がこさへてあつた。
其処は石段が壊れてゐて足場がわるく、向側の道路からあらはに見下されたりするので妻などはよくよくの時でなくては出掛けて行かなつたが、埃つぽい真夏の道を歩いて来た時など下駄のまま其処から流の中に歩み入つてゆくのは心地よかつた。八歳になる長男などは泳ぎも知らぬ癖に私の其処に行くのを見付けては飛んで来て真裸体になりながら一緒になつて飛び込んだ。水の深さは恰度彼の乳あたりに及ぶのが常であつた。後にはその妹も兄や父に手を取られながらその中へ入つてゆくやうになつた。そして其処に泳いでゐる小さな魚の影を見たと云つては大騒ぎをして父子して町に釣道具などを買つて来たりした。
その年の八月が過ぎ、九月も半ば頃になるといつとなく子供たちは其処に近づかなくなり、水量も幾らか減つて次第に流が澄んで来た。そして思ひがけなくもその柳の蔭の物洗場に一面に曼珠沙華が咲き出した。まつたく思ひがけないことで、附近の田圃の畦などに真赤なその花を一つか二つ見附けてひどく珍しがつた頃まで、まだ気がつかなかつたのであつた。オヤ〳〵と思ふうちに、咲きも咲いたり、まつたく其処の土堤を埋めて燃えひろがる様に咲いて行つた。
盛りの短い花で、やがてまた火の消えた様にいつとなくひつそりと草隠れに茎まで朽ちてしまふと、今度は野菊が咲き出した。ぽつり、ぽつり、とそれこそ一つ二つの花が光の中に浮くやうに静かに徐ろに草むらのなかに咲いて来た。附近の田圃も其処此処と刈られ始めて今は全く灌漑の用はなく、唯だ斯うした家ごとの洗場や野菜洗のために流れてゐるらしい水はいよ〳〵このごろ痩せて澄んで来た。柳や桜の葉も次第に散つて手足を洗ひに日に一度位ゐづゝ私の出てゆくその洗場の石段などはおほかたその落葉のために埋れてしまつた。
土橋
道路から小さな流の上にかけられた厚ぼつたい土橋があり、それを渡ると花崗岩の門が立つてゐる。その門から一二間の広さでゆるやかに曲りながら十四五間ほど小砂利が敷かれて、其処にまた蔦のからんだ古びた冠木門がある。私の好きなのはその石の門と土橋との間にある二坪あまりの所から富士を仰ぎ、遠く沼津の町の方面を見ることである。土橋の上も無論よい。移つてからもう三月ちかく、よほどの雨の日でもなくば私は先づ毎朝此処に来て眼を覚すのを楽しみとしてゐる。
この家はもとどんな人が建てたのだか、元来は矢張り百姓家らしいが、それから何代かの間を経てあちらに継ぎ足しこちらを造作して今日に及んでゐるらしい。が、とにかくその入口の土橋はまさに正しく富士の嶺に向つて架けられてある。
駿河なる沼津より見れば富士が嶺の前に垣なせる愛鷹の山
愛鷹の真黒き峰にまき立てる天雲の奥に富士は籠りつ
先づ愛鷹の山が見える。この愛鷹山は見やうによつては富士の裾野の一部が瘤起したものとも思はるゝほどの位置と形とを持つて居る。やはらかに四方になだれた裾野の、海に向つた一端に其処だけ不意に隆起したやうな、三千尺ほどの高さを持つた山である。そして沼津あたりの海岸から見ればこの山の麓からまた直ちに富士の裾野と調子を合はせて西南東の三方にゆるやかに拡がつてゐる。山の五合目近くまで、即ち富士の裾野と同じ様なゆるやかな傾斜を持つた部分までは大抵いま開墾されてゐるやうで、それから上が急に嶮しくなり、そのあたりから御料林だといふことで墨色をした木深い峰となつてゐる。その峰の真上の空に富士山は静かに高く聳えてゐるのである。
移つて来た頃からツイこの十日ほど前まで、この富士山もまだ真黒な色をしてゐた。木深いためではなく、露はに見ゆる山の肌が黒いので、愛鷹の峰とちがつて何となく寂しく寒く眺められてゐた。この山は矢張り遠くから見るべき山だ、近くでは駄目だ、と毎日思つてゐたものであつた。
が、いつであつたか、もう二十日も前のこと、或朝非常によく晴れて寒い朝があつた。附近の野菜畑の間を歩いてゐると畑中にゐる女房たちが、寒い筈だ、今朝は初めて山に雪が見えたと挨拶してゐる声を聞いた。よく見ればいかにも鮮かな朝日を受けた頂上のあたりに、微かに白く降つてゐるのが見えた。それは昼になつてはもう影もなくなつたが、それから折々さうした日が続いた。そして一昨日の夜のことであつた。かなりに烈しい雨が降つて、朝かけてからりと晴れた。何気なく私はいつものやうにその朝早く門前の土橋の上まで来て思はず息を呑んで立ち止つた。真青な空に浮き出た山全体が、それこそ毛ほどの隙もなく唯だどつしりと真白くなつてゐたのである。驚いて家に飛び込んで、まだ睡つてゐた妻子や、信州から来て滞在してゐた友人やを引き起して、土橋の上まで連れ出してそれを仰がしめたのであつた。そして恐らくこれが今年この山の根雪となるものと思はれたのであつた。斯うなるとまたこの山の姿は一段と美しく見えて来る。もう遠近をいふ必要がなくなつて来るのを感ずるのだ。寧ろ近いだけいゝかも知れない。
沼津の町はこの大正三年に全焼したのであつた。狩野川の川口に在る漁師町らしい場末などが多数残つただけで殆んど全部焼けてしまつた。で、今の町は建て直されてからまだ間のない町なのだ。和風洋風と半々に混つた町の建築がいづれもみな新しく、且つ土地の気風から殆んど東京化してゐる様な所なのでその建てぶりもなか〳〵に気が利いてゐる。そのうら若い町の横顔が私の門前の土橋の上から実にくつきりと見渡さるゝ。
土橋を道路に出ると、道路の下からずつと左右東西に打ち開けた水田で、田の向側には一列に青い竹藪が連つてゐる。その竹藪の向うの蔭をば極めて水のゆたかな狩野川が流れてゐるが、その四五丁下流に当つた向岸に町の半面は見えてゐるのである。
その辺は町の中心でも目貫の場所で、会社銀行料理店などから普通の商家まですべて大きいのゝみが並んでゐる。それをずばりと切断した様な河岸の軒並がはつきりと水田の末に眺めらるゝのだ。十四五丁距てた距離から云つても、東南の日光を受くる方角から云つても、次第に刈られる冬の姿を表はしてゆく昨日今日の田圃の前景から云つても、いよ〳〵この町の遠望は私に楽しいものとなつてゆく様である。 | 底本:「日本の名随筆84 村」作品社
1989(平成元)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「若山牧水全集 第六巻」雄鶏社
1958(昭和33)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2011年5月28日作成
2016年1月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051133",
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夕闇の部屋の中へ流れ込むのさへはつきりと見えてゐた霧はいつとなく消えて行つて、たうとう雨は本降りとなつた。あまりの音のすさまじさに縁側に出て見ると、庭さきから直ぐ立ち竝んだ深い杉の木立の中へさん〳〵と降り注ぐ雨脚は一帶にただ見渡されて、木立から木立の梢にかけて濛々と水煙が立ち靡いてゐる。
其處へ寺男の爺さんが洋燈に火を點けて持つて來た。ひどい降りだ、斯んな日は火でも澤山おこさないと座敷が濕けていけないと言ひながら圍爐裡に炭を山の樣についでゐる。流石に山の上で斯うせねばまた寒くもあるのだ。そして早速雨戸を締めてしまつた。がらんとした廣い室内が急にひつそりした樣であつたが、それも暫しで、瀧の樣な雨聲は前より一層あざやかにこの部屋を包んでしまつた。來る早々斯んな雨に會つて、私は深い興味と氣味惡さとに攻められながらも改めてこの朽ちかけた樣な山寺の一室をしみ〴〵と見𢌞さざるを得なかつた。
爺さんはやがて膳を運んで來た。見れば私の分だけである。先刻の峠茶屋の爺さんの言葉もあるので私は強ひて彼自身の分をも此處に運ばせ、徳利や杯をも取り寄せ、先刻茶屋から持つて來た四合壜二本を身近く引寄せて二人して飮み始めた。
爺さんの喜び樣は眞實見てゐるのがいぢらしい位ゐで、私のさす一杯一杯を拜む樣にして飮んでゐる。斯ういふ上酒は何年振とかだ、勿體ない〳〵といひながら、いつの間にか醉つて來たと見え、固くしてゐた膝をも崩し、段々圍爐裡の側へもにぢり出して來た。爺さん、名を伊藤孝太郎といひ、この比叡山の麓の坂本の生れで、家は土地でもかなりの百姓をしてゐたが、彼自身はそれを嫌つて京都に出て西陣織の職工をやつてゐた。性來の酒好きで、いつもそのために失敗り續けてゐたが、それを苦に病み通した女房が死に、やがて一人の娘がまた直ぐそのあとを追うてからは、彼は完全な飮んだくれになつてしまつた。郷里の家邸から地面をも瞬く間に飮んでしまひ、終には三十五年とか勤めてゐた西陣の主人の家をも失敗つて、旅から旅と流れ渡る樣になり、身體の自由が利かなくなつて北海道からこの郷里に歸つて來たのが、今から六年前の事であるのださうだ。歸つたところで家もなし、ためになる樣な身よりも無しで、たうとう斯んな山寺の寺男に入り込んだといふのである。その概略をば晝間峠の茶屋で其處の爺さんから聞いて來たのであつたが、いま眼の前にその本人を見守りながらその事を思ひ出してゐるといかにもいぢらしい思ひがして、私は自分で飮むのは忘れて彼に杯を強ひた。
難有い〳〵と言ひ續けながら、やがてはどうせ私も既う長い事は無いし、いつか一度思ふ存分飮んで見度いと思つてゐたが、矢つ張り阿彌陀樣のお蔭かして今日旦那に逢つて斯んな難有いことは無い、毎朝私は御燈明を上げながら、決して長生きをしようとは思はない、いつ死んでもいいが、唯だどうかぽつくりと死なして下されとそればかり祈つてゐたのであるが、この分ではもう今夜死んでも憾みは無い、などと言ひながら眼には涙を浮べて居る。五尺七八寸もあらうかと思はれる大男で、眼の大きい、口もとのよく締らない樣な、見るからに好人物で、遠いといふより全くの金聾であるほど耳が遠い。それが不思議に、酒を飮み始めてからは案外によく聞え出して、後では平常通りの聲で話が通ずる樣になつた。そして今度は向うで言ふ呂律が怪しくなつて、私の耳に聞き取りにくくなつて來た。
今夜死んでもいいなどといふのを聞いてから、急に斯う飮ませていいか知らと私も氣になり出したのであつたが、いつの間にか二本の壜を空にしてしまつた。私だけは輕く茶漬を掻き込んだが、爺さんはたうとう飯をよう食はず、膳も何も其儘にしておいて何か鼻唄をうたひながら自分の部屋に寢に行つた。私も獨りで部屋の隅に床を延べて横になつたが妙に眼が冴えて眠られず、まじ〳〵としてゐるとまた耳につくのは雨の音である。まだ盛んに降つてゐる。のみならず、妙な音が部屋の中でする樣なので細めた灯をかきあげてみると果して隅の一本の柱がべつとりと濡れて、そのあたりにぽとぽとと雨が漏つてゐるのである。枕許まで來ねばよいがと、氣を揉みながらいつか其儘に眠つてしまつた。
眼が覺めて見ると雨戸の隙間が明るくなつてゐる。雨は、と思ふと何の音もせぬ。もう爺さんも起きた頃だと勝手元の方に耳を澄ませても何の音もせぬ。まさか何事もあつたのではあるまいと流石に胸をときめかせながら寢たまゝ煙草に火をつけてゐると、朗かに啼く鳥の聲が耳に入つて來た。
何といふその鳥の多さだらう。あれかこれかと心あたりの鳥の名を思ひ出してゐても、とても數へ切れぬほどの種々の音色が枕の上に落ちて來る。私は耐へ難くなつて飛び起きた。そして雨戸を引きあけた。
照るともなく、曇るともなく、燻り渡つた一面の光である。見上ぐる杉の木立は次から次と唯だ靜かに押し並んで、見渡す限り微かな風もない。それからそれと眼を移して見てゐると、私は杉の木立と木立との間に遙かに光るものを見出した。麓の琵琶湖である。何處から何處までとその周圍も解らないが、兎に角朧々とその水面の一部が輝いてゐるのである。
餘りに靜かな眺めなので私はわれを忘れてぼんやりと其處らを見𢌞してゐたが、また一つのものを見出した。丁度溪間の樣になつて眼前から直ぐ落ち込んで行つてゐる窪地一帶には僅かの間杉木立が途斷えて細長い雜木林となつてゐるが、その藪の中をのそり〳〵と半身を屈めながら何か探してゐる人がゐるのである。頭を丸々と剃つた大男の、紛ふ方なき寺男の爺さんである。それを見ると妙に私は嬉しくなつて大聲に呼びかけたが、案の定、彼は振向かうともしなかつた。
後、庭に降りて筧の前で顏を洗つて居ると爺さんは青々とした野生の獨活を提げて歸つて來た。斯んなものも出てゐたと言ひながら二三本の筍をも取出して見せた。
この××院といふのは比叡の山中に殘つてゐる十六七の古寺のうち、最も奧に在つて、また最も廢れた寺であつた。住持もあるにはあるが、麓の寺とかけ持ちで、何か事のある時のほか滅多には登つて來ず、年中殆んどこの寺男の爺さんが一人で留守居をして居るのである。四方唯だ杉の林があるのみで、しかも溪間の行きどまりになつた所に在るために根本中堂だの淨土院だの釋迦堂だの、または四明嶽、元黒谷などへ往來する參詣人たちも殆んど立ち寄る事なく、まる一週間滯在してゐる間、私はこの金聾の爺さんのほか、人間の顏といふものを餘り見る事なくして過してしまつた。
多いのは唯だ鳥の聲である。この大正十年が當山開祖傳教大師の一千一百年忌に當るといふ舊い山、そして五里四方に亙ると稱へらるる廣い森林、その到る所が殆んど鳥の聲で滿ちてゐる。
朝、最も早く啼くのが郭公である、くわつくわう〳〵と啼く、鋭くして澄み、而もその間に何とも言ひ難い寂を持つたこの聲が山から溪の冷たい肌を刺す樣にして響き渡るのは大抵午前の四時前後である。この鳥の啼く時、山はまつたく鳴りを沈めてゐる。くわつと鋭く高く、さうして直ちにくわうと引く、その聲がほゞ二つか三つ或る場所で續けさまに起つたかと思ふと、もうその次は異つた或る頂上か溪の深みに移つて居る。彼女は暫くも同じ所に留まつてゐない。而して殆んどその姿を人に見せた事がない。杜鵑も朝が滋い。これは必ず其處等での最も高い梢でなくては啼かぬ。この鳥も二聲か三聲しか聲を續けぬが、どうかすると取り亂して啼き立つる事がある。その時は例の本尊かけたかの律も破れて、全く急迫した亂調となつて來る。日のよく照る朝など、聽いてゐて息苦しくなるのを感ずる。この鳥は聲よりも、峰から峰、梢から梢に飛び渡る時の、鋭い姿が誠にいゝ。それから高調子の聲に混つて、何といふ鳥だか、大きさは燕ほどでその尾の一尺位ゐ長いのがゐて、細々と、實に細々と息を切らずに啼いてゐるのがある。これは下枝から下枝を渡つて歩いて、時には四五羽その長い愛らしい尾をつらねてゐるのを見る。
日が闌けて、木深い溪が日の光に煙つた樣に見ゆる時、何處より起つて來るのだか、大きな筒から限りもなく拔け出して來る樣な聲で啼き立つる鳥が居る。初めもなく、終りもない、聽いて居れば次第に魂を吸ひ取られて行く樣に、寄邊ない聲の鳥である。或時は極めて間遠に或時は釣瓶打ちに烈しく啼く。この鳥も容易に姿を見せぬ。聲に引かれて何卒して一目見たいものと幾度も私は木の雫に濡れながら林深く分け入つたが、終に見る事が出來なかつた。筒鳥といふのがこれである。
筒鳥の聲は極めて圖拔けた、間の拔けたものであるが、それをやゝ小さく、且つ人間くさくしたものに呼子鳥といふのが居る。初め筒鳥の子鳥が啼いてゐるのかと思つたが、よく聞けば全く異つてゐる。山鳩にも似、また梟にも近いが、そのいづれとも違つた、矢張り呼子鳥としての言ひ難い寂びを帶びた聲である。
數へれば際がない。晴れた朝など、これらの鳥が殆んど一齊に其處此處の溪から峰にかけて啼き立つる。茫然と佇んで耳を澄ます私は、私の身體全體の痛み出す樣な感覺に襲はるる事が再々あつた。
或日の夕方、もう暗くなりかけた頃、ぼんやり疲れて散歩から歸つて來ると、思ひもかけぬ本堂の縁の下から這ひ出して來る男がゐた。喫驚して見ると、寺男の爺さんである。何をするのだと訊くと、にや〳〵笑つてゐて答へなかつたが、やがてどうも狐や狸の惡戲がひどいので毎晩斯うして御飯を上げて置くのだといふ。どんな惡戲だと訊くと、晝間でも時々本堂の方で寺の割れる樣な音をさせたり、夜になると軒先に大入道になつて立つてゐたり、便所の入口をわからなくしたり、暗くなつて歸つて來る眼の前に急に大きな瀧を出來したりする、が、ああしてお供へをする樣になつてからそんな事はなくなつたと言ふ。では僕たちはお狐さんと一つ鍋の飯を喰つてるわけだネ、と言つて笑つたが、その晩から私は小便だけは部屋の前の縁先から飛ばす事にした。
毎晩爺さんとの對酌が日毎に樂しくなつた。山の茶屋から壜詰を取つてゐては高くつくからと言ひながら爺さんは毎日一里半餘りの坂路を上下して麓の宿の酒屋から買つて來る事にした。爺さんの留守の間、私は持つて來た仕事(旅さきでやる事になつた自分の雜誌の編輯)をしながら、淋しくなれば溪間に出て蕨を摘んだり、虎杖を取つたり(これは一夜漬の漬物に恰好である)、獨活を掘つたりしてその歸りを待つのである。
此處に一つ慘しい事が出來た。この四五年の間、爺さんは酒らしい酒を飮まず、稀に飮めばとて一合四五錢のものをコツプで飮む位ゐで、斯うした酒に燗をつけて、飮むといふ事は斷えて無かつたのである。所が私が來て以來毎晩斯うして土地での上酒に罐詰ものの肉類に箸をつけてゆくうちに彼は久しく忘れてゐた世の中の味を思ひ出したものらしい。元來この寺は廢寺同然の寺で、唯だ毎朝お燈明を上ぐるか折々庭の掃除をする位ゐのもので仕事と云つては何もない。その代りただ喰べてゆくといふだけで、報酬といふものも殆んど無かつた。それでまた諦めてゐたのであるが、彼は急にそれで慊らなくなつた。或る夜、得々として私に言ひ出した。今日酒屋から歸りに△△院といふに寄つて、前から話のあつた事ではあるしどうかこちらへ私を使つて呉れぬかと頼んだ所、お前さへよければいつ來てもいい、働き一つで五圓でも六圓でも金はやるからと言はれた、明日早速里に降りてこちらのお住持には斷りを言うてあちらのお寺へ移る事にする、さうすれば私もまたこれから時々は斯うしたお酒も飮めるからと、いかにも嬉しげなのである。何となく困つた事を仕出かした樣にも思うたが、強ひて止めるわけにもゆかず、それでいつから移るのだと訊くと、旦那がこゝを立たれる日に直ぐ移るといふ。こちらの住持が困りはせぬかと言へば、少しは困るだらうが致し方が無い、大體こちらのお住持が餘りに吝嗇だから斯ういふ事にもなるのだといふ。
いよ〳〵私の寺を立つ日が來た。その前の晩、お別れだからと云ふので、私は爺さんのほか、最初私をこの寺に周旋して呉れた峠茶屋の爺さんをも呼んで、いつもよりやや念入りの酒宴を開いた。茶屋の爺さんは寺の爺さんより五歳上の七十一歳だ相だが、まだ極めて達者で、數年來、山中の一軒家にただ獨り寢起きして晝間だけ女房や娘を麓から通はせてゐるのである。
寺の爺さんは私の出した幾らでもない金を持つて朝から麓へ降りて、實に克明に種々な食物を買つて來た。酒も多く取り寄せ、私もその夜は大いに醉ふつもりで、サテ三人して圍爐裡を圍んでゆつくりと飮み始めた。が、矢張り爺さん達の方が先に醉つて、私は空しく二人の醉ひぶりを見て居る樣な事になつた。そして、口も利けなくなつた、兩個の爺さんがよれつもつれつして醉つてゐるのを見て、樂しいとも悲しいとも知れぬ感じが身に湧いて、私はたび〳〵涙を飮み込んだ。やがて一人は全く醉ひつぶれ、一人は剛情にも是非茶屋まで歸るといふのだが脚が利かぬので私はそれを肩にして送つて行つた。さうして愈々別れる時、もうこれで旦那とも一生のお別れだらうが、と言はれてたうとう私も泣いてしまつた。
翌日、早朝から轉居をする筈の孝太爺は私に別れかねてせめて麓までと八瀬村まで送つて來た。
其處で尚ほ別れかね、たうとう京都まで送つて來た。
京都での別れは一層つらかつた。 | 底本:「若山牧水全集 第五卷」雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日発行
入力:kamille
校正:小林繁雄
2004年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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三月廿八日、午前五時ころ、伊豆湯ケ島温泉湯本館の湯槽にわたしはひとりして浸つてゐた。
温まるにつれて、昨夜少し過した酒の醉がまたほのかに身體に出て來るのを覺えた。わたしは立つて窓のガラスをあけた。手を延ばせば屆きさうな所に溪川の水がちよろ〳〵と白い波を見せて流れてゐた。ツイ其處だけは見ゆるが、向う岸は無論のこと、だう〳〵とひどい音をたてゝゐる溪の中流すらも見えぬ位ゐ深い霧であつた。
流石に溪間の風は冷たい。わたしはまた湯に入つて後頭部を湯槽の縁に載せ、いまあけたガラス戸の方に向つて、出て行く湯氣、入つて來る霧の惶しい姿を見るともなく仰いでゐた。
何しろ深い霧である。そして頻りとそれの動いてゐるのが見えて來た。くるり〳〵と大きな渦を卷きながら流れ走つてゐるらしい。
三分か五分かゞ過ぎた。わたしはまた立つて其處の低い窓に腰かけた。今度は溪の流が見えて來た。天城山の雪解のため常より水の増してゐる激流は大きな岩と岩との間をたゞ眞白になつて泡だち渦卷きながら流れてゐる。その雪白な荒瀬のなかのところ〴〵にうすらかな青みの宿つてゐるのをすらわたしは認めた。夜はいよ〳〵明けて來たのである。
また湯槽に歸つた。溪に見入つてゐた間に霧はよほど薄らいでゐた。と共にしゆつ〳〵と流れ走る速度の速さはよく見えた。そして終にその流の斷間々々に向う岸の、切りそいだ樣に聳えてゐる崖山の杉の木の青いのが見えて來た。
宿醉はいよ〳〵出て來た。霧を見るのをやめ、眼を瞑ぢてをると、だう〳〵と流れ下つてゐる瀬の音が、何となく自身の身體の中にでも起つてゐる樣に思ひなされて來た。
三度び窓に腰かけた。其儘その窓を乘り越えて溪端の岩の上にでも立ちたいほどの身體のほてりである。然し、流石に雪解の風は冷たい。
『一體、今日の天氣はどうなのだらう』
わたしは杉の森の茂つて居る崖山の端に空を求めた。が、其處はまだ霧が深くつて何ものも見えなかつた。
もう一度湯の中に入つた。
のぼせたせゐか、暫しの間わたしは瀬の音も霧も忘れてゐた。
サテもう出ようと湯槽の縁に眼を開くと、丁度さうして仰ぐにいゝ具合になつてゐる向う岸の崖山の端のところを相變らず霧は走つてゐた。が、もう其處の霧も薄らいでゐた。そして薄らいだ霧のなかゝら何とも言へぬ鮮かなみづみづしい空の色が見えて來た。それこそ滴るやうな水色の空であつた。わたしはふら〳〵と先刻眞白な荒瀬の渦の中に見た水の深みのうすみどりを思ひ浮べてしみ〴〵といかにも早春らしいその空の色に見入つた。 | 底本:「若山牧水全集第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷
入力:柴武志
校正:小林繁雄
2001年2月8日公開
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むかし、式部大輔大江匡衡といふ人がありました。まだ大學の學生であつた時のことであります。この人は傑れた才子でありましたが形恰好が少し變で、丈は高く肩が突き出て、見苦しかつたので、人々が笑つてゐました。ある時、宮中の女官たちがこの匡衡を嘲弄しようと企んで、和琴(日本の琴、支那の琴に對していふ)を差し出して、
「あなたは、なんでも知つておいでなされるといふことであるから、これをお彈きになるでせう。一つ彈いて聞かせて下さい」
といひました。匡衡は、それには返事をしないで、
逢坂の關のあなたもまだ見ねば
あづまのことも知られざりけり
といふ歌を讀みました。女官たちは、その返歌が出來なかつたので、笑つて嫌がらせることもならず、默つて一人起ち、二人起ちして、みな奧へ逃げてしまひました。
この匡衡は漢文や、詩の方は至極の名人であつたが、その上に歌もこの通り、うまく讀んだと語り傳へたそうです。 | 底本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語 No.33」復刻版日本兒童文庫、名著普及会
1981(昭和56)年8月20日発行
底本の親本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」日本兒童文庫、アルス
1928(昭和3)年3月5日発行
入力:しだひろし
校正:noriko saito
2011年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048322",
"作品名": "今昔物語",
"作品名読み": "こんじゃくものがたり",
"ソート用読み": "こんしやくものかたり",
"副題": "21 大江匡衡が歌をよむ話",
"副題読み": "21 おおえまさひらがうたをよむはなし",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
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"人物ID": "001072",
"姓": "和田",
"名": "万吉",
"姓読み": "わだ",
"名読み": "まんきち",
"姓読みソート用": "わた",
"名読みソート用": "まんきち",
"姓ローマ字": "Wada",
"名ローマ字": "Mankichi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1865-10-07",
"没年月日": "1934-11-21",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "竹取物語・今昔物語・謠曲物語",
"底本出版社名1": "復刻版日本兒童文庫、名著普及会",
"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年8月20日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年8月20日",
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むかし、いつの頃でありましたか、竹取りの翁といふ人がありました。ほんとうの名は讃岐の造麻呂といふのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはひつて、竹を切り取つて、いろ〳〵の物を造り、それを商ふことにしてゐましたので、俗に竹取りの翁といふ名で通つてゐました。ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。不思議に思つて近寄つて、そっと切つて見ると、その切つた筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がゐました。いつも見慣れてゐる藪の竹の中にゐる人ですから、きっと、天が我が子として與へてくれたものであらうと考へて、その子を手の上に載せて持ち歸り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいひつけました。お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。
このことがあつてからも、翁はやはり竹を取つて、その日〳〵を送つてゐましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはひつてゐる竹を見つけることが度々ありました。それで翁の家は次第に裕福になりました。
ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかつたと見えて、ずん〳〵大きくなつて、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。そこで少女にふさはしい髮飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奧にかこつて外へは少しも出さずに、いよ〳〵心を入れて養ひました。大きくなるにしたがつて少女の顏かたちはます〳〵麗しくなり、とてもこの世界にないくらゐなばかりか、家の中が隅から隅まで光り輝きました。翁にはこの子を見るのが何よりの藥で、また何よりの慰みでした。その間に相變らず竹を取つては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になつて、家屋敷も大きく構へ、召し使ひなどもたくさん置いて、世間からも敬はれるようになりました。さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れてゐましたが、もう大きくなつて名のないのも變だと氣づいて、いゝ名づけ親を頼んで名をつけて貰ひました。その名は嫋竹の赫映姫といふのでした。その頃の習慣にしたがつて、三日の間、大宴會を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝ひました。
この美しい少女の評判が高くなつたので、世間の男たちは妻に貰ひたい、又見るだけでも見ておきたいと思つて、家の近くに來て、すき間のようなところから覗かうとしましたが、どうしても姿を見ることが出來ません。せめて家の人に逢つて、ものをいはうとしても、それさへ取り合つてくれぬ始末で、人々はいよ〳〵氣を揉んで騷ぐのでした。そのうちで、夜も晝もぶっ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢つて志を見せようと思ふ熱心家が五人ありました。みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。この人たちは思ひ〳〵に手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした。翁もあまりのことに思つて、ある時、姫に向つて、
「たゞの人でないとはいひながら、今日まで養ひ育てたわしを親と思つて、わしのいふことをきいて貰ひたい」
と、前置きして、
「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。今のうちによい婿をとつて、心殘りのないようにして置きたい。姫を一しよう懸命に思つてゐる方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなつた人を選んではどうだらう」
と、いひますと、姫は案外の顏をして答へ澁つてゐましたが、思ひ切つて、
「私の思ひどほりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出來ません。それは大してむづかしいことでもありません。五人の方々に私の欲しいと思ふ物を註文して、それを間違ひなく持つて來て下さる方にお仕へすることに致しませう」
と、いひました。翁も少し安心して、例の五人の人たちの集つてゐるところに行つて、そのことを告げますと、みな異存のあらうはずがありませんから、すぐに承知しました。ところが姫の註文といふのはなか〳〵むづかしいことでした。それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある佛の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の莖、白玉の實をもつた木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴の大納言には龍の首についてゐる五色の玉、石上の中納言には燕のもつてゐる子安貝一つといふのであります。そこで翁はいひました。
「それはなか〳〵の難題だ。そんなことは申されない」
しかし、姫は、
「たいしてむづかしいことではありません」と、いひ切つて平氣でをります。翁は仕方なしに姫の註文通りを傳へますと、みなあきれかへつて家へ引き取りました。
それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覺悟した五人は、それ〴〵いろいろの工夫をして註文の品を見つけようとしました。
第一番に、石造皇子はずるい方に才のあつた方ですから、註文の佛の御石の鉢を取りに天竺へ行つたように見せかけて、三年ばかりたつて、大和の國のある山寺の賓頭廬樣の前に置いてある石の鉢の眞黒に煤けたのを、もったいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。ところが、立派な光のあるはずの鉢に螢火ほどの光もないので、すぐに註文ちがひといつて跳ねつけられてしまひました。
第二番に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといひふらして船出をするにはしましたが、實は三日目にこっそりと歸つて、かね〴〵たくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに註文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持つて行きました。翁も姫もその細工の立派なのに驚いてゐますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやつて來て、千日あまりも骨折つて作つたのに、まだ細工賃を下さるといふ御沙汰がないと、苦情を持ち込みましたので、まやかしものといふことがわかつて、これも忽ち突っ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。
第三番の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり惡ごすくは巧まず、ちょうど、その年に日本に來た唐船に誂へて火鼠の皮衣といふ物を買つて來るように頼みました。やがて、その商人は、やう〳〵のことで元は天竺にあつたのを求めたといふ手紙を添へて、皮衣らしいものを送り、前に預つた代金の不足を請求して來ました。大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしてゐます。これならば姫の氣に入るに違ひない、きっと自分は姫のお婿さんになれるだらうなどゝ考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。姫も一時は本物かと思つて内々心配しましたが、火に燒けないはずだから、試して見ようといふので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめら〳〵と燒けました。そこで右大臣もすっかり當てが外れました。
四番めの大伴の大納言は、家來どもを集めて嚴命を下し、必ず龍の首の玉を取つて來いといつて、邸内にある絹、綿、錢のありたけを出して路用にさせました。ところが家來たちは主人の愚なことを謗り、玉を取りに行くふりをして、めい〳〵の勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠つたりしてゐました。右大臣は待ちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落さうと思つてゐるうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の濱に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになつて磯端に倒れてゐました。やう〳〵のこと、國の役人の世話で手輿に乘せられて家に着きました。そこへ家來どもが駈けつけて、お見舞ひを申し上げると、大納言は杏のように赤くなつた眼を開いて、
「龍は雷のようなものと見えた。あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。お前たちはよく龍を捕らずに來た。うい奴どもぢや」
とおほめになつて、うちに少々殘つてゐた物を褒美に取らせました。もちろん姫の難題には怖じ氣を振ひ、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄らうともしませんでした。
五番めの石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろ〳〵と人に相談して見た後、ある下役の男の勸めにつくことにしました。そこで、自分で籠に乘つて、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがつて籠を降す合圖をしたところが、下にゐた人が綱をひきそこなつて、綱がぷっつりと切れて、運わるくも下にあつた鼎の上に落ちて眼を廻しました。水を飮ませられて漸く正氣になつた時、
「腰は痛むが子安貝は取つたぞ。それ見てくれ」
といひました。皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。中納言はそれきり腰も立たず、氣病みも加はつて死んでしまひました。五人のうちであまりものいりもしなかつた代りに、智慧のないざまをして、一番慘い目を見たのがこの人です。
そのうちに、赫映姫が並ぶものゝないほど美しいといふ噂を、時の帝がお聞きになつて、一人の女官に、
「姫の姿がどのようであるか見て參れ」
と仰せられました。その女官がさっそく竹取りの翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいといふと、翁はかしこまつてそれを姫にとりつぎました。ところが姫は、
「別によい器量でもありませぬから、お使ひに逢ふことは御免を蒙ります」
と拗ねて、どうすかしても、叱つても逢はうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち歸つてそのことを申し上げました。帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕へにさし出すならば、翁に位をやらう。どうにかして姫を説いて納得させてくれ。親の身で、そのくらゐのことの出來ぬはずはなからうと仰せられました。翁はその通りを姫に傳へて、ぜひとも帝のお言葉に從ひ、自分の頼みをかなへさせてくれといひますと、
「むりに宮仕へをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまひませう。あなたのお位をお貰ひになるのを見て、私は死ぬだけでございます」
と姫が答へましたので、翁はびっくりして、
「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。しかし、宮仕へをしても死なねばならぬ道理はあるまい」
といつて歎きましたが、姫はいよ〳〵澁るばかりで、少しも聞きいれる樣子がありませんので、翁も手のつけようがなくなつて、どうしても宮中には上らぬといふことをお答へして、
「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養つただけのことでありますから、氣持ちも世間普通の人とはちがつてをりますので、殘念ではございますが……」
と恐れ入つて申し添へました。帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山邊に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。すると、まばゆいように照り輝ぐ女がゐます。これこそ赫映姫に違ひないと思し召してお近寄りになると、その女は奧へ逃げて行きます。その袖をおとりになると、顏を隱しましたが、初めにちらと御覽になつて、聞いたよりも美人と思し召されて、
「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」
と仰せられました。
「私がこの國で生れたものでありますならば、お宮仕へも致しませうけれど、さうではございませんから、お連れになることはかなひますまい」
と姫は申し上げました。
「いや、そんなはずはない。どうあつても連れて行く」
かねて支度してあつたお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまひました。帝も驚かれて、
「それではもう連れては行くまい。せめて元の形になつて見せておくれ。それを見て歸ることにするから」
と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。帝も致し方がございませんから、その日はお歸りになりましたが、それからといふもの、今まで、ずいぶん美しいと思つた人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいち〳〵お返事をさし上げますので、やう〳〵お心を慰めておいでになりました。
さうかうするうちに三年ばかりたちました。その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。それがだん〳〵つのつて、七月の十五夜などには泣いてばかりゐました。翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、
「月を見ずにはゐられませぬ」
といつて、やはり月の出る時分になると、わざ〳〵縁先などへ出て歎きます。翁にはそれが不思議でもあり、心がゝりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、
「今までに、度々お話しようと思ひましたが、御心配をかけるのもどうかと思つて、打ち明けることが出來ませんでした。實を申しますと、私はこの國の人間ではありません。月の都の者でございます。ある因縁があつて、この世界に來てゐるのですが、今は歸らねばならぬ時になりました。この八月の十五夜に迎への人たちが來れば、お別れして私は天上に歸ります。その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでゐたのでございます」
姫はさういつて、ひとしほ泣き入りました。それを聞くと、翁も氣違ひのように泣き出しました。
「竹の中から拾つてこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎へに來ようとも渡すものではない。もし取つて行かれようものなら、わしこそ死んでしまひませう」
「月の都の父母は少しの間といつて、私をこの國によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、こゝのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しうございます」
二人は大泣きに泣きました。家の者どもゝ、顏かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。
このことが帝のお耳に達しましたので、お使ひを下されてお見舞ひがありました。翁は委細をお話して、
「この八月の十五日には天から迎への者が來ると申してをりますが、その時には人數をお遣はしになつて、月の都の人々を捉へて下さいませ」
と、泣く〳〵お願ひしました。お使ひが立ち歸つてその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよ〳〵十五日が來ると高野の少將といふ人を勅使として、武士二千人を遣つて竹取りの翁の家をまもらせられました。さて、屋根の上に千人、家のまはりの土手の上に千人といふ風に手分けして、天から降りて來る人々を撃ち退ける手はずであります。この他に家に召し仕はれてゐるもの大勢手ぐすね引いて待つてゐます。家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱へて土藏の中にはひり、翁は土藏の戸を締めて戸口に控へてゐます。その時姫はいひました。
「それほどになさつても、なんの役にも立ちません。あの國の人が來れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戰はうとする人たちも萎えしびれたようになつて力が出ません」
「いやなあに、迎への人がやつて來たら、ひどい目に遇はせて追っ返してやる」
と翁はりきみました。姫も、年寄つた方々の老先も見屆けずに別れるのかと思へば、老とか悲しみとかのないあの國へ歸るのも、一向に嬉しくないといつてまた歎きます。
そのうちに夜もなかばになつたと思ふと、家のあたりが俄にあかるくなつて、滿月の十そう倍ぐらゐの光で、人々の毛孔さへ見えるほどであります。その時、空から雲に乘つた人々が降りて來て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。「それ來たっ」と、武士たちが得物をとつて立ち向はうとすると、誰もかれも物に魅はれたように戰ふ氣もなくなり、力も出ず、たゞ、ぼんやりとして目をぱち〳〵させてゐるばかりであります。そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持つて來ました。その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、
「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやつたが、今は姫の罪も消えたので迎へに來た。早く返すがよい」
と叫びます。翁が少し澁つてゐると、それには構はずに、
「さあ〳〵姫、こんなきたないところにゐるものではありません」
といつて、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土藏も自然と開いて、姫の體はする〳〵と出ました。翁が留めようとあがくのを姫は靜かにおさへて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持つて來た不死の藥一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乘つて、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇つて行きました。これを見送つて翁夫婦はまた一しきり聲をあげて泣きましたが、なんのかひもありませんでした。
一方勅使は宮中に參上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と藥をさし上げました。帝は、天に一番近い山は駿河の國にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の藥を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになつて、その藥の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るといふことであります。 | 底本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語 No.33」復刻版日本兒童文庫、名著普及会
1981(昭和56)年8月20日発行
底本の親本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」日本兒童文庫、アルス
1928(昭和3)年3月5日発行
※拗促音の小書きの散在は、底本通りです。
入力:しだひろし
校正:noriko saito
2011年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048310",
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竹取物語に就いて
竹取物語は我國に小説あつて始めての者である。製作の時代は平安朝の初期といふだけで、その外のことはわからず、作者は全く不明である。其頃の小説らしい者も他にいくらかあつたのであらうが、それらは一つも傳はらず『竹取』たゞ一部が後世に遺つた。其後小説類が追々現れて來て、中にも『字津保』、『落窪』、『源氏』の諸物語などが有名であるが、文章や語法の上から見ると、この『竹取物語』は格別に古體である。この『竹取』のことは『源氏物語』の中に引用されて、巨勢相覽の畫、紀貫之の書の一本のあつた趣が見えてゐる處を見ると(それは假設であること勿論ではあるが)、延喜年代以前に世間に流行してゐたといふ想像はつく。詞つきがいかにも素朴で、構造の單純な處も、何さま早い頃の假作物の特徴と謂はれる。大體についていふと、説話小説の部類に屬し、ちようど後世のお伽話の稍長いようなものであり、頗る滑稽趣味に富んだ無邪氣な一片の談話である。もとより短い者であるけれど、後世の諸物語のようにやゝもすると缺卷や錯簡があるのに反して、全く無瑕に傳はつてゐるのは結構である。我國の小説がかういふもので幕を開けたことは文學史上に注目すべきことであるが、どこの國の假作文學も發端は大抵同樣である。其點で『竹取物語』は相當の價をもつのであらう。
此物語の大略の筋が『今昔物語』卷第三十一中の一篇として現れてゐるのを見ると、平安朝の後期頃には本元の『竹取物語』は一時影が薄くなつて、單に梗概だけが一箇の傳説のように傳はつてゐたのではあるまいか。これは次ぎの『今昔物語』に關係のあることであるから、ちよつと述べて置く。
今昔物語に就いて
『今昔物語』は宇治大納言と呼ばれた源隆國(承暦四年齡七十四で薨去)の所編といふことになつてゐる。編者の名を取つて『宇治大納言物語』とも呼ばれた。但し隆國薨後の寛治頃の源義家阿部宗任などの記事が交つてゐる處から推して、後人の補筆もあることを拒否し得ない。
この物語はもと三十卷あつたのであるが、中ごろ缺卷(卷八 十八、廿一)が生じ、また一卷内の缺章も出來て、今では聊か不完全の姿になつてゐる。それでも現存の説話千有餘に上り、我國に於ける説話集の最大最古のものである。一話ごとに『今は昔』と云ふ冒頭を置いてある處から、全集の題名が起つてゐる。
内容の豐富なのに驚かれるばかりでなく、取材の多方多面なのも他の説話集の比でない。大體を三部に別けて天竺(印度)震旦(支那)本朝(日本)の傳説、逸事、史譚、怪談、巷説の類を根氣よく集め、それを編者一流の氣骨ある文章で記してある。天竺の部は佛教に關したものが多く、震且の部、本朝の部またやゝ同樣であるが後の二部には史傳其他世俗のことに係る逸話も相半してゐる。三部の中、最も話數の多いのは本朝の部で、全編の約三分二を占める。その本朝の部だけで佛法の話が九卷、世俗談及史譚と謂ふべきが五卷、その外宿報、靈鬼、惡行、雜事の各一二卷が區別されてある。
題材に取られた人物は、天竺の部では釋迦及び其弟子の羅漢たちから釋迦に親縁ある人々、さては佛教界の大徳名匠の類であつて、釋迦の一生がこの部の中心になつてをり、その出處は近くは『法苑珠林』『佛祖統記』等の外、遠くは『因果經』『佛本行經』等多數の經典である。
震旦の部では取題の人物は秦の始皇、漢の高祖、楚の項羽、後漢の明帝、梁の武帝、唐の玄宗等の王者から、玄奘三藏、善旡畏等の諸高僧や、郭巨、孟宗等の孝子、孔子、莊子、季札、蘚武等、また上陽人、楊貴妃などに及び、その出處は、『史記』『漢書』『唐書』『白氏文集』『世説』『説苑』諸子百家の書、詩話、隨筆等さまの書である。
本朝の部では上題の人物は最も廣く、聖徳太子、行基菩薩、役小角、玄昉、鑒眞、空海、傳教以下の智識高僧や、良岑宗貞、大江定基、源滿仲、藤原顯基等の名流や、藤原氏歴世の貴紳、源平兩家の武將中で聞えた人、その外詩歌、藝能、術數の道などで凡そ名ある者の限りが出て來る。其他鬼魔談、盜賊談、怪異談、戀愛談、滑稽談に結びついた著名の人物も少くない。出典は『日本書紀』『續日本記』『靈異記』『往生傳』『聖徳太子傳暦』及び諸大寺の縁起など一々擧げるに遑がない。この本朝の部には印度や支那の傳説類で我國のことに作り替へられたものも少々ある。
要するに印度、支那、日本を通じて佛教思想の輪回轉生や因果應報に基いた説話が甚だ多く、また法華經などの功徳や觀音、地藏などの靈驗を述べたものが澤山あるのは、いかに當時の我國民生活が佛教の影響を蒙つてゐたかを窺ひ得られる。しかし我國固有の優しい歌物話りも、雄々しい武者物語りも、かなり多數に集められてあつて、なか〳〵に變化に富んでゐる。よくもかくまでに多種多樣の説話を蒐集し得たものとの感想は一たび本書を讀んだ人の頭に必ず浮ぶことであらう。
後世の人の手に成つた多くの説話集、即『宇治拾遺物語』『十訓抄』『寶物集』『沙石集』『古今著聞集』『古事談』等に本書から採られてゐる話が少くないし、又『扶桑略記』『帝王編年記』『平家物語』『源平盛衰記』その他諸寺の縁起等に引用されてある揷話類も本書から出たと思はれるものがあることを考へると、つまり本書は我國に於ける傳説の大集成として空前かつ絶後の者である。此點で頗る貴重の一書たるを失はぬ。もし此書がなかつたならば、傳説學者は研究の資料を求めるに少からぬ不便を感ずるであらう。
文學書としては眞率直截の書き方で、強ひて文詞を修飾した痕は見えぬが、其處に氣あり力あり、一種淨潔な趣もあつて、かへつて讀者をして心を弛緩せしめぬ所が妙である。編者の博覽洽聞は勿論驚くべきものである。
全部千章もある中から特に面白そうな説話、ことに兒童の了解に適ふものを拔いて、本書の一斑を示さうと試みるのは、稍むづかしい業であるが、他日原本を手にするまでの階梯として上の三十篇を擧げることにした。
謠曲に就いて
謠曲とは足利義滿將軍の時代應永年中觀世觀阿彌、同世阿彌父子の大成した猿樂の能のうたひ物の謂で、其作者としては觀世世阿彌(元清)、同小次郎(信光)、同彌次郎、金春禪竹、同禪鳳、宮増新九郎等が有名で、中にも世阿彌の作最も多く且傑作に富む。其後も斷えず新曲が製出されて遂に千有餘篇にも及んだが、後世に至つて自然に廢れたものも少からず、近代は二百曲内外を以て普通とすることになつた。能の流派即、觀世、寶生、金春金剛、喜多の五流によつて所用の曲數に相違があり、同一の曲でも文章に幾分の異同があるけれど、大體は似よつたものである。
さて謠曲の題材は神話、佛説、史的逸話、戀愛談、怪異談、その他諸種の傳説巷談及び古代の假作物語類の一節等を採つたのが多く、舊來之を大別して神祇物、修羅物、女物(かづら物)雜の四部に立ててゐる。文章は製作當時の通行文よりも稍古い時代の風格を經として、室町期の通用語を緯とし、前者には多く譜節を附して諷吟させ、後者は臺詞(白)として、諷吟の間を點綴するやうにしてある。
普通の説話文と違つて舞臺文學である謠曲には、曲中の人物が相手なしの獨語的に自己の所懷を述べて、觀客に曲の筋や意趣を釋くような箇處が必ずある。往々地の文と曲人の白との差別のつかぬ場合も出て來る。
それから能の構造には單複の二樣があつて、單式では一曲の主人公たる者が其曲を通じて更らぬのに、複式では主人公が前後姿を變へ又は人格を更へて現れる。謠曲の文にも其次第は率ね寫し出されてゐるけれども、其變り方のいかようであるかの明示を缺くこともある。此等は單に謠本を見たのみでは十分の理解をなしかねる。どうしても能を觀て知るべきである。
謠曲には佛教思想を取り込んでゐる者が多いが、これは作製當時の一般民衆の心的趨向を考へてのことであるから、特に謠曲に因果應報談の少からぬことを求めるわけにゆかぬ。怪力亂神的の曲が大分にあるのも、やはり時代の信念の反映に外ならぬ。
少くとも二百餘曲の現行されてゐる中から、代表的の數曲を選ぶことは頗る困難であるが、主ら能として早分りがしてしかも興味のあるもの十篇をとつて、兒童をして謠曲の概觀をなし得るようにした。たゞし實際大人の賞翫に價する曲はこの外に尚澤山あることを斷つて置く。 | 底本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」復刻版日本兒童文庫、名著普及会
1981(昭和56)年8月20日発行
底本の親本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」日本兒童文庫、アルス
1928(昭和3)年3月5日発行
入力:しだひろし
校正:noriko saito
2011年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048311",
"作品名": "父兄の方々に",
"作品名読み": "ふけいのかたがたに",
"ソート用読み": "ふけいのかたかたに",
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"分類番号": "NDC 914",
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"姓読みソート用": "わた",
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"姓ローマ字": "Wada",
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"生年月日": "1865-10-07",
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"底本初版発行年1": "1981(昭和56)年8月20日",
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居留地女の間では
その晩、私は隣室のアレキサンダー君に案内されて、始めて横浜へ遊びに出かけた。
アレキサンダー君は、そんな遊び場所に就いてなら、日本人の私なんぞよりも、遙かに詳かに心得ていた。
アレキサンダー君は、その自ら名告るところに依れば、旧露国帝室付舞踏師で、革命後上海から日本へ渡って来たのだが、踊を以て生業とすることが出来なくなって、今では銀座裏の、西洋料理店某でセロを弾いていると云う、つまり街頭で、よく見かける羅紗売りより僅かばかり上等な類のコーカサス人である。
それでも、遉にコーカサス生れの故か、髪も眼も真黒で却々眉目秀麗な男だったので、貧乏なのにも拘らず、居留地女の間では、格別可愛がられているらしい。
――アレキサンダー君は、露西亜語の他に、拙い日本語と、同じ位拙い英語とを喋ることが出来る。
桜木町の駅に降りたのが、かれこれ九時時分だったので、私達は、先ず暗い波止場の方を廻って、山下町の支那街へ行った。
そして、誰でも知っているインタアナショナル酒場でビールを飲んだ。ここの家はどう云う理由か、エビス・ビールを看板にしているが、私はずっと前に、矢張りその界隈にあるハムブルグ酒場で、大変美味しいピルゼンのビールを飲んだことがあった。
独逸へ行こうと思っていた頃で、そこの酒場に居合せた軍艦エムデン号の乗組員だったと称する変な独逸人に、ハイデルベルヒの大学へ入る第一の資格は、ビールを四打飲めることだと唆かされて、私はピルズナア・ビールを二打飲んだのであった。
『そのエムデンは店の人です、つまりサクラですね。――』
と、アレキサンダー君はハムブルクを斥けた。
『それに、あすこには、こんな別嬪さん一人もいませんです。つまらないですね。』
アレキサンダー君は、さう云いながら、私達の卓子を囲んで集まった、各自国籍の異るらしい四五人の女給の中で、一番器量良しの細い眼をした、金髪の少女の頤を指でつついたものだ。
『マルウシャ! 日本人の小説を書く人に惚れています。――マルウシャ、云いなさい!』
その少女の噂は、私も既に聞いていた。彼女は私に、××氏から貰ったのだと云う手巾を見せたりした。
それから彼女は、アレキサンダー君と組んで踊った。ストーヴの傍にいた家族の者らしい老夫婦が、ヴァイオリンと竪琴とでそれに和した。私はエビス・ビールが我慢出来なかったので、酒台のところに立って火酒を飲んだ。
若い時分には、可なりの美人だったらしい面影を留めている女主人が、酒をつぎ乍ら私の話相手になってくれた。
いいよ 君が死ねば僕だって死ぬよ
私達は予定通り、恰度一時間を費して、インタアナショナルを出た。
真暗な河岸通りに青い街灯が惨めに凍えて、烈しい海の香りをふくんだ夜風が吹きまくっていた。
元町へ抜けて、バンガロオへ寄って、そこで十二時になるのを待った。アレキサンダー君が、このダンス場の看板時間まで踊り度いと云うので、踊の出来ない私は、ぼんやりウイスキーを舐めるばかりで、旺んなホールの光景を見物しながら待っていたわけである。
へべれけに酔っぱらった大そう年をとり過ぎた踊子が、私の傍へ来て、ポートワインをねだるので、振舞ってやると、やがて彼女は、ダンス位出来なくては可哀相だから、教えてやると云って、私の両手を掴んで立ち上がるのであった。
だが、彼女は直ぐに、蝋引きの床の上に滑ってころがった。何度でもころがった。
私は到頭、やっかいな老踊子を、静かに長椅子の上に寝かしてやらなければならなかった。
十二時にバンガロオを追い出されて、私達はさて、大方寝てしまった元町通りを、真直に徒歩で大丸谷へ向った。
『大丸谷は本牧より半分安いですが、悪い。そして、日本人は好かれませんよ。』と、アレキサンダー君は、私と腕を組ませて歩きながら云った。
草の生えている真暗な坂道を上がって行くと、左側に何々ホテルと記した、軒燈りの見える家が幾軒となく立ち並んでいた。
私達はその中で、一等堂々として見える新九番館を的にして行ったのだったが、玄関も窓も、すっかり暗くなっていたので、已を得ず、その裏側にある東京ホテルの玄関を敲いた。
『何国?――』と云う声と共に、傍の小窓が開いた。
窓明りを背負って現われた黒い女の顔は、玄関の扉にくっ着いているアレキサンダー君よりも、その後に立った私の方を主に窺った。
『支那人。』とアレキサンダー君が咄嗟に答えた。が、『満員!――』そして忽ち、窓は閉まった。
『ちえッ!――』アレキサンダー君は、唾を甃石の上へ吐きつけた。
『チボリへ行っても寝ています、本牧へ行きましょう。』
『オールライト!』
と、私は答へた。
私達は、それから本牧へタキシイを駛らせながら、十二天と小港の何れを択ぶべきかと相談した。
そして結局、キヨ・ホテルはブルジョワ・イデオロギイであると云うので、後者をとることになった。車は夜更けの海辺を疾走した。
狭い横町を左へ折れて、梅に鴬の燈りが灯っているホテルの前を過ぎると、間もなくアレキサンダー君は車を停めさせた。私達は、エトワールと云うホテルに入った。ひきつけとも云うべき明るい広間に、十人もの六月の牡丹の如く絢爛たる女が並んでいた。
アレキサンダー君には、すでに馴染があったが、私はその中で、最も自分の気に入ったどの女をでも、選択することが出来たのである。
女達はアレキサンダー君を、『サーシャ』『サーシャ』と呼んで取り巻いた。アレキサンダー君の女は、頭を美事な男刈にした、眉根の険しい感じのする、十七八にしか見えない小娘であった。
『サーシャ、タンゴ――』と、その女は直ぐに男の体に絡みついた。
私は自分の女を択ぶことを、『酒場さん』なる鴇母さんに催促された。私は大勢の女の一等後の方で、蒼い顔をして外っぽを向いている、痩せた女を指してしまった。
彼女はさっきから、私の心を殊の外惹いていた。それと云うのは、彼女は他の女達のように、私へ笑いをかけることをちっともしなかったし、それに脆弱な花のように、ひどくオドオドとした哀れな風情が、その大きな愁しげな眼や、尖った肩さきなどに感じられたからである。
併し、これは鴇母さんにも、他の女達にもまたサーシャにも、少からず意外であるらしかった。が、私は彼女を膝の上に腰かけさせて、その艶のない頬を撫でてやった。
私共は二人分として二十五円払った。勘定が済むと、それぞれの寝室へ入った。私の女は、私の衣服をたたんで、鏡台のついた箪笥へしまってくれた。『あなた、偉い方?』と女は私の髪を骨ばった指で弄びながら訊いた。女の声は喉もとで嗄がれて、長い溜息のような音を立てた。
『ああ、華族様さ。けれども男爵だよ。』と、私は嘘を吐くのであった。
『そう、いいわねえ。』彼女の声は風のように鳴った。
『君、病気なんだね。肺病だろう?』
『ごめんなさいね――あたし、死ぬかもわからないの。』
『いいよ、いいよ。君が死ねば、僕だって死ぬよ。』
『まあ――調子がいいわね。』私は彼女の、小さな頭を胸の中に抱いた。
『お止しなさいな。あたし、もっと悪い病気なのよ。』と、彼女は唇をそらそうと踠いた。
『いいよ、いいよ。』私は、そして、無理遣りに彼女の頬を両腕の中におさえた。――そんな病気は、世界中の何万何億と云う男と女とを、久しい時代に渡って一人一人つないで来た――云いかえれば、男女の間の愛と同じ性質のものである――と云った、アレキサンダー君の言葉を思い出しながら…… | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「講談雑誌」
1929(昭和4)年4月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月8日公開
2007年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002569",
"作品名": "ああ華族様だよ と私は嘘を吐くのであった",
"作品名読み": "ああかぞくさまだよ とわたしはうそをつくのであった",
"ソート用読み": "ああかそくさまたよとわたしはうそをつくのてあつた",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」1929(昭和4)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
"姓読みソート用": "わたなへ",
"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
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"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
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"底本名1": "アンドロギュノスの裔",
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………………
………………
(――あたしの赤い煙突。なぜ煙を吐かないのかしら? お父さまとお母さまの煙突からは、あんなに沢山煙が出ているのに……)
彼女は七つの秋、扁桃腺炎を患って二階の窓の傍に寝かされた時、はじめてその不思議を発見した。
秋晴れの青空の中に隣の西洋館の屋根の煙出しが並んで三本あった。両側の二本は黒く真中のは赤い色をしていた。そしてその赤い色の一本はずっと小さくて何処か赤い沓下をはいた子供の脛のような形であった。彼女にはまるでその様子が父親と母親との間に挾まった自分であるかのように見えた。けれども、おかしいことにも、彼女は毎日々々寝床の中から殆どそれらの煙突ばかりを見ていたのだが、赤い色のはついぞ一度も煙を吐かなかった。……彼女は感動しやすい子供だったので、その小さな煙突をひどく可哀相に思って、しまいには泪を浮かべて眺めた。
(――あたしの赤い煙突は屹度病気なんだわ……)と彼女は思った。
併し、間もなく彼女の病気は癒ったが、彼女の赤い煙突はやはり煙を吐かなかった。
彼女は生れつきひ弱かったので、その後も幾度となく病気をした。そして二階の窓の傍へ寝かされた。その度に彼女は気を留めて隣の三本煙突を見た。赤い小さい煙突は決して煙を吐いていなかった。
(――可哀相なあたしの煙突!……)
彼女は白いレースの飾のしてある枕に泪を滾しながら、赤い煙突と彼女自身の身の上を憐んだ。彼女は子供心にも、こんなに体が弱くては到底父親や母親のように大きく成ることは出来ないだろうと思っていた。
彼女は十六になった。痩せて蒼白い頬に仄かな紅みがさして、彼女は美しい脆弱な花のような少女であった。
今彼女は寝床から起き上って窓敷居に凭りかかっていた。彼女は風邪をひいて寝ていたのだが、もう殆どよかった。
夏が近く、日暮に間もない空が、ライラック色と薔薇花とのだんだらに染まって見えた。隣の邸の周囲には背の低い立木が隙間もなく若葉を繁らせて、その上から屋根がほんの僅かと三本の煙突とがのぞかれた。煙突はもう大分古くなって煤けていた。併し、この頃の季節に朝や夕方煙を出すのは矢張り両側の二本だけであった。
彼女はその年になってもなお真中の小さい煙突を哀れに思うことをやめなかった。
(あたしの赤い煙突。なぜ煙を吐かないの?……お父さまとお母さまとの煙突はあんなにどっさり煙を吐いているのに……可哀相なあたしの赤い煙突!)
尤も最早赤い煙突ではなかった。赤かった色は醜い岱赭色に変っていた。
その時ふと隣の邸の中から唄声が聞えて来た。
…………
妙に清らの、ああ、わが児よ
つくづく見れば、そぞろ、あわれ
かしらや撫でて、花の身の
…………
どうやら若い男の声であった。彼女は今迄一度だって隣の邸でそんな唄声のしたのを聞いた事がなかったので、窓枠の外に顔をさしのべて耳を欹てた。頸の両側へ綺麗に編んで垂れた真黒な振分髪の先に結んである水色のリボンが夕方の風に静かに揺らいだ。
いつまでも、かくは清らなれと
いつまでも、かくは妙にあれと
…………
唄の声が段々近くなって、やがて彼女の窓と真正面に向き合ったところにある紅がら色に塗った裏木戸が開くと、全く見知らない一人の背の高い青年が出て来た。ところが青年は思いがけない彼女の顔に出遇うと顔を赭くした。そして周章てて表通の方へ出て行った。その素振りには、まるでひどく気を悪くでもしたようなところが見えた。
だが、次の日の夕方になって彼女はその青年と言葉を交した。昨日と同じ位の時刻に、同じメロディを今度は口笛で吹きながら、紅がら色の裏木戸から出て来た。そしてやはり赤い煙突に眺め入っていた彼女と顔を合わせると、またちょっとばかり赭くなりはしたが、極めておずおずと呼びかけた。
――今日は、お嬢さん。お病気はよろしいんですか?」
――ええ。……」
彼女はなぜ青年が自分のことを知っているのか不思議に思った。
――お嬢さんは、何時でもそこのお部屋にいるんですか?」
――ええ。……」
彼女を見上げている青年の眼が、決して少しも彼女を見つめようとはしないのを不思議に思った。
――何を見ていらっしゃったの?」
――あなたのお家の赤い煙突。」
――僕の家の赤い煙突ですって?」
青年は変な顔をして、自分の出て来た邸の屋根を振り仰いで見た。けれども青年のいるところからは煙突は見えなかった。
――でも、ちっとも煙が出ないんですもの。赤い煙突はなぜ煙を吐かないのでしょう?……」
――さあ、なぜでしょうかね……」
青年は曖昧な風に笑った。そして青年は彼女の振分髪の先で、夕風に大きな花びらのように揺いでいる二つの水色をしたリボンを、恰も本当の花を見るような眼ざしでもって見入った。
それから間もなく彼女はその青年と十年も前から知り合いであったのとちっとも変らない位親しくなった。青年は彼女の体のために運動が必要だと云ってはお天気のいい日ならば必ず彼女を散歩に誘った。彼女の両親もそれを気にかけはしなかった。むしろ殆ど満足な遊び友達も得られない程病弱な一人娘をそんなにも可愛がってくれるのを喜んだ。(なに、安心だよ。何しろ未だほんのねんねえなんだからな――)と彼女の父親は母親にそう云った。病身な彼女は全く体も心もたしかに二三年は幼かった。彼女は青年の手につかまりながら往来を歩いた。
彼等は散歩と云うと大抵町端れの月見草が一っぱい生えている丘へ行った。「月見ヶ丘」と町の人は呼んでいた。秋になって月を見るのにもいい丘であったから。……その丘からは港の瑠璃色の海や、船着場の黄色い旗や、また彼女の家や青年の邸も悉く手に取るように一眸の中におさめられた。
青年は何よりも歌を唄うことが得意だったと見えて、丘のきりぎしに立つといつでも唄った。彼女はおとなしく歌を聞きながら町の方をじっとながめていた。そして若しも青年の歌が悲しいメロディを持っている時なぞには、忽ち彼女の大きな眼に泪が溢れて来た。青年はそれに気がつくとびっくりして歌を止めてたずねた。
――どうしたの?……家へ帰り度くなったの?」
――いいえ。……でも、なぜあなたのお家の赤い煙突からは煙が出ないのでしょうね。」
――どうしてそんな事ばかり云っているの。……へんなお嬢さんだなあ。」
――あの赤いのは、それでも何だか、あたしみたいな気がして可哀相なんですもの。……ねえ、そう見えるでしょう。……両側の大きいのはお父さまとお母さまよ。……」
青年は自分の邸の屋根を遙かに眺めて当惑した。
冬が来て、毎日のように雪が降り続いた。彼女は今度は肺炎に罹った。今度こそ助からないだろうと人々は思った。隣の邸の青年は昼も夜も彼女の枕辺から離れなかった。彼女の両親はようやく青年を不思議な人間だと思った。
彼女は熱に浮かされている間中、かさかさに乾いた唇をあえがして譫言を云った。
――あたしの赤い煙突!……あたしの赤い煙突!……屹度病気なのだわ……可哀相なあたしの赤い煙突……」
青年は窓の外を見た。夜が更けて雪が降りしきっていた。向い側の真白な屋根の隅に、三本の煙突の黒い影があった。両側の二本はこうこうと鳴りながら薄赤い焔を上げていた。しかし、真中の哀れな一本は、雪に塗れ寒く小さかった。……
だが、幸なことに彼女は死ななかった。すでに病の峠を越えると熱はずんずん退いて行った。彼女は静かに楽々と眠りつづけた。彼女の両親も青年も全く安心してよかった。
幾日ぶりかで彼女の眼がはっきりと見開かれた時、彼女は枕元にたった一人で坐っている青年を見た。
――おや、眼がさめたんですね。」青年は何かしら、うろたえるように云った。
――お父さんや、お母さんは?……あなたお一人?」
――ええ。」
――あたし、もういいのかしら…」
そう云い乍ら彼女はふと窓に眼を遣った。すると彼女は唐突に笑い出した。病気のためにひしゃがれたような笑声だったが、丈夫な時にだってそんなにも喜ばしげに晴々と笑うことは滅多にないのだった。そしてその却々に止まり相にもない笑いを辛うじて飲み込みながら、窓の外を指さして云った。
――あれを、あれを、ごらんなさいな!……あたしの赤い小っちゃな煙突から煙が出ているじゃありませんか!……まあ、一体どうしたって云うことなのかしら!……」
青年は三本の煙突を見た。なる程、真中の小いさな岱赭色をした煙突からも両側のと同じように盛に煙が吹き出ていた。
――なあんだ。そうか……そんなことか。……」そう云って、今度は青年も一緒になって笑った。が、彼女はひょっと青年の眼に泪が一ぱい溜っているのを見たように思った。
それから彼女の赤い煙突は毎日煙をあげつづけた。三すじの青い煙や黒い煙が雪の中を勢いよく流れて行った。夜になると、風に懐しい音をたてて、ばら色の炎のさきをのぞかせた。彼女はそれを二階の窓からぼんやり眺めていた。病気でない日も、毎日眺めていた。ところが、彼女の心は、喜ばしさではなく、今は反対に薄い悲しみに鎖されていた。
(――どうして、あたしの赤い煙突は煙を吐いているのかしら?……)と彼女はそれが不当なことであるかのように思った。なぜと云って――その煙を吐いている赤い煙突のある西洋館の青年は、彼女の病気が癒ってしまうと、やがてぴったりと遊びに来るのを止めてしまったのだから。……
再び、夏が廻って来た。彼女の赤い煙突は朝夕煙を吐いた。彼女は二階へ上って毎日隣の邸を眺めた。窓敷居に凭って窓から首をさしのべると紅がら色の裏木戸も見えた。彼女の振分髪の先端には、今年も去年と同じ水色をしたリボンが華奢なはなびらのような姿に結ばれていた。併し、隣の邸からは、彼女の待っているような歌の声も聞えて来なければ、また背の高い青年の姿も現われなかった。………
彼女は一人で月見ヶ丘へ行ってみた。港の海は瑠璃色に輝き、船着場には新しい黄色い旗が上がっていた。
(なぜ、あたしの赤い煙突はあのように元気よく煙を吐くのかしら……そんな筈ではないのに!……そんな筈ではないのに!……)
彼女はそんな小さな赤い煙突に裏切られた自分を可哀相に思って泣いた。
秋の初めになって到頭、青年から手紙が来た。
僕の好きな人――僕はあなたが好きです。けれども、それはいけない事なのだそうです。あなたのお父さんもお母さんもそう仰有って僕をお叱りになったし、また僕のお父さんもお母さんもそう云って僕を叱りました。
僕も明日、イギリスの学校へ入るので、ここの家に、そしてあなたの二階の窓にもお別れします。
もう一生会えないかも知れません。
あなたが何時迄も丈夫でいられるように神様へお祈り致します。さ よ な ら
それから、うちの赤い煙突は、これから後、また煙が出なくなるかも知れませんけれども、心配しては駄目ですよ。あんな小っちゃな煙突が、あなたとどんな拘りがあるでしょう。ねえ、今日からそんなつまらない事は忘れておしまいなさい。きっと忘れてしまわなければいけませんよ。
彼女は四つ折りの白い厚い紙に書いてあるその文句を読んでいる中に、段々胸の中に大きな穴が開いて、そしてその奥から何時ものとはまるで異う泪が湧きあふれて来るのを感じた。
間もなく、青年の言葉通り、赤い煙突は再び煙を吐くことがなくなった。どうしてだか彼女には全くわからなかった。
けれども彼女は、
(――あたしの赤い可哀相な煙突は煙を吐かない。でも、やっぱりそれが本当だわ。……可哀相な煙突!……そして可哀相な可哀相なあたし!)と満足して、泪でぼんやりした眼で、青年のいなくなった西洋館の屋根を眺めた。
十年の歳月が流れてしまった。
彼女の両親はすでに死んでいた。彼女は結婚して、西洋館の隣とは異う家に住んでいた。町端れの、月見ヶ丘に近いところであった。したがって最早や、赤い煙突を可哀相に思うこともなかった。併し、彼女は決して幸福ではなかった。彼女の良人は相当腕のいい機械技師で人間も悪くなかったが、酒を飲むと病弱な妻をひどくいじめた。それに一層悪いことには、彼女は近頃になって、毎日のように執拗な――彼女の肉体の分解が大して遠くはないことを予知させるような熱に襲われて殆ど床をはなれることがなかった。それで良人は家へ帰らない日が多くなった。しまいには一週間にたった一度も帰らないことがあった。そして家計にも困るようになった。
彼女は子供の時からずっとそうして来たように二階の窓の近くに床をのべさして寝ていた。けれどもそこの窓から見えるものは西洋館の屋根の三本煙突ではなかった。碧い色の海と月見ヶ丘のきりぎしとであった。月見ヶ丘には恰度月見草がさかりであった。たそがれが迫る頃、彼女は窓敷居に凭掛って首をさしのべて淡黄色い花でいっぱいになった丘の方を眺めた。彼女の顔の両側には最早や大きなリボンを結んだ振分髪は垂れていなかった。長い病気のために、ざらざらに脱けて少なくなった毛が、夕風に悲しげにそよいでいた。
(――可哀相な、可哀相なあたし!……)
彼女は十六の彼女と少しも変らない泪を滾して子供のように泣いた。彼女の感動し易い性質は年と共に決して薄れて行きはしなかった。……併し、到頭その無限の泉のようにさえ思えた彼女の泪も涸れる時が来た。
或る日、一人の老婆が彼女を訪れた。町で芸者をしていた、老婆にはたった一人の娘が彼女の良人と一緒にそこの港から姿を消してしまったと云うのである。
――極道な娘でございます。お気の毒なお嬢さま……」と老婆はしょぼしょぼした眼を拭いながら彼女に詫びた。
彼女は――お嬢さま――と云う言葉を聞いて、その老婆を何処かで見たことがあるような気がした。そして、昔あの三本煙突の西洋館にいた炊事婦であったことを思い出した。
……三本の煙突! 彼女の胸は俄に痛み初めた。
――ねえ、お婆さん。もうせんお婆さんのいたお邸の屋根の三本煙突の真中の一本は、何時でも煙を吐かなかったわねえ……」
――煙突でございますって?」老婆は遉に彼女の突飛な質問を解しかねたようであった。
――ええ、そう。……でも、ほら、十年位前にちょっと一年ばかし煙が出ていたことがあったわね。お婆さん御存知?……」
――おやまあ、お嬢さまこそよく憶えていらっしゃいましたこと……」と老婆はようやく思い出して云った。「そうそう、そんな事もございました……なんでも、あの時は恰度御本家の若様が来ていらっしゃった頃でございます……若様は或る日不意に、あの赤い煙突から煙を出すんだと仰有いまして、危いところを梯子をかけて煤で真黒になりながら、赤い煙突の下へ管を通して、無理矢理に煙を出したんでございます。……なあにねえ、お嬢さま、あの赤い煙突は初めっから壊れて――煙穴が続いていないので、ただまあ飾り同様のものだったのでございますよ。……どうしてまあ、わざわざあんな莫迦げたものをつけたのでございますか……」
そこで、彼女の心からはどんな悲しみも消え失せた。
(――飾も同様だって!……初めっから壊れていたのだって!……若しも、あの赤い煙突があたしだったとすれば、あたしは初めっから生まれて来る筈じゃなかったのだわ!……)
彼女は老婆が帰って行って一人になると、古い手筥の中から、久しい間大切にして蔵ってあった四折の厚紙に書いてある手紙を取り出して、それを声を出して読んで見た…………
僕の好きな人――僕はあなたが好きです。けれども、それはいけない事なのだそうです。あなたのお父さんもお母さんもそう仰有って僕をお叱りになったし、また僕のお父さんもお母さんもそう云って僕を叱りました。
………………
――あの方はあたしより八つ年が上だったから、これを下すった時は二十五だわ。……まあなんて可愛らしいお坊っちゃんだったのでしょう。二十五にもなってこんな手紙を書いたりして! まるで十八位にしか思えないわ……それに煤だらけになりながら梯子をかけて煙穴のない煙突へ管を通しに上ったりなんかして……可笑しい人ね……そうそう、あたしの肺炎が快くなりかけて、はじめてあの煙突から煙の出ているのを見付けて笑った時、あの人は泣いていたわ……けれども、もう、みんな……みんな……台なしだわ!……でも、若しあの人が何時迄もあの赤い小いさな煙突の下に住んでいてくれたなら、あの煙突はまるで最初から飾物でなぞなかったような顔をして、毎日々々煙を吐きつづけたかも知れなかったのに……」
それから彼女はその手紙を幾つにも幾つにも細かく引き裂きはじめたのであった。…… | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年11月16日公開
2007年10月10日修正
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1
母一人娘一人の暮しであった。
生活には事かかない程のものを持っているので、母は一人で娘を慈しみ育てた。娘も母親のありあまる愛情に堪能していた。
それでも、娘はだんだん大人になると、自分の幼い最初の記憶にさえ影をとどめずに世を去った父親のことをいろいろ想像する折があった。
『智子のお父さんは、こんなに立派な方だったのだよ――』
母親は古い写真を見せてくれた。
額の広い、目鼻立ちの秀でた若者の姿が、黄いろく色褪めて写っていた。
『ほんとに、随分きれいだったのねえ。――お母さん、幸せだったでしょう?』
『そりゃあ、その当座はね――』
『思い出して、愁しくなること、あって?』
『死んでから、もう二十年近くにもなるんだもの。それに、この写真みたいに若い人じゃ、まるで自分の息子のような気がしてね。……』
母親はそう云って笑った。だが、娘は、母親の若よかな靨のある頬が鳥渡の間、内気な少女のように初々しく輝くのを見た。
『そうね、あたしだって、こんな若いお父さんのことを考えるのは変な気がしてよ。』
『いっそ、お前のお婿さんなら、似合いかも知れない――』
『ひどいお母さん。――でも、お母さんは、どうしてそれっきり他所へお嫁にいらっしゃらなかったの?』
『どうしてって。――お前のお父さんのことが忘れられなかったし、それにあんまり悲しい目に会うと、女は誰でも臆病になってしまうんだろうね。』
『さびしかったでしょう?』
『少しの間さ。すぐにお前が、みんな忘れさせてくれるようになったもの。……』
母の声は草臥てでもいるように聞こえた。
娘は、若い時になら自分よりも器量よしだったに違いない面影の偲ばれる母親が、そんなに早く青春から見捨てられてしまった運命を考えて胸を窄めた。
2
その年の春、智子は女学校の高等科を卒業して、結婚を急ぐ程でもなし、遊んでいるのも冗だったので、小遣い取りに街の或る商事会社へ勤めた。
朝霧の中に咲いた花のような姿が、多くの男たちの目を惹いたのは云う迄もなかった。智子は、併し、賢い考え深い生まれつきだったので、何時も上手に身を慎しむことが出来た。
さて、夏の始めだった。――
智子は、或る日、事務所と同じ建物の地下室にある食堂へ昼食をとりに降りた。其処は何時でも混んでいるので、大てい外へ出て食事をする習慣だったが、その日は仕事が忙がしくてそんな余裕がなかった。
やっと隅っこの方に、たった一つ空いた卓子を見つけて、リバアのサンドイッチと玉蜀黍のシチュとを誂えた。ところが、サンドイッチを半分も食べない中に、同じ卓子に彼女と差し向いに、更に一人の客が席をしめた。
『リバアのサンドイッチと玉蜀黍のシチュ。大急ぎで!――』とその客が給仕に命じた。
智子は顔を上げて、自分とすっかり同じ品を注文する客の方を見た。青い仕事衣の胸からネクタイを着けない白い襯衣の襟をはみ出させている体格のいい青年だった。青年は食事などよりも、もっと他に心を充していることがあるらしい様子で、ぼんやり娘の食物の皿を眺めおろしていた。その恍けた大きな眸とぶつかった時、智子は少なからず狼狽した。
青年の方でも、俄かに鼻さきへ突きつけられた美しい娘の顔に気がついて、どぎまぎしながら羞明そうに横を向いた。
(はて?――)と智子は考えたのである。確かに何処かで見たことのある親しい眼だった。……直ぐに、それが死んだ父親の写真にうつっている眼ざしだったことを思い出した。
(まあ、それに額の立派なところ迄よく似ているわ――肩幅は少し広すぎるけれど……でも、お父さんは夭折なすったのだから、こんなに元気そうではなかったのに違いない……)
併し、彼女はあんまり長いこと、知らない若い男を瞶めているのは非常に不躾だと気がついたので、いそいで食事を済ませて卓子から離れた。晩に家へ帰ってから母親にその話をした。
『綺麗な男の人はみんなお父さんに似ているかも知れないね。』と、母親は娘の大袈裟な話ぶりを聞いて、笑い笑い云った。『さもなければ、お前が心の中でその人を好きになったんだよ。好きな人なら、どんな風にだって良く見えるから。……けれどもお父さんは若い娘を狙うような真似なんかしなかった。』
『あら、同じ食べものを誂えたからって、まさか狙ったとも云えなくってよ。お母さんと来たら、随分苦労性ね。大丈夫。あたし、お母さんなんかに些とも心配かけやしないわ。』
娘は何時になくはしゃいだ調子で答えた。
次の日、出勤の折、会社の扉口の前で智子は再び青年と出遇した。青年は、恰度廊下を隔てて筋向いになっている自動車会社の事務所から姿をあらわしたところだったが、彼女と顔を見合わせると、周章てて眼を外らせて、まるで慍ったような硬い表情を浮べながら、玄関の方へ歩み去った。
智子が考えてみるのに、その青年は前から其処の自動車会社に勤めていて、これ迄も幾度かお互に顔を合わせながら、どんな男の社員たちにも殆ど関心をもたなかった彼女だったので、つい見過ごしていたのかも知れなかった。
その後、彼女は屡彼の姿を気にとめて見かけるようになった。そしてやがて、彼がその自動車会社の技師で浅原礼介と云う名であることや、またこの頃自動車の発動機に就いて、何か新発明を完成させて、相当嘱望されていることなどを知った。
土用に入って最初の夕立がした。恰度退勤時刻だったが、雨支度がなかったので、智子は事務室に居残って、為事の余分を続けながら、晴れ間を待っていた。日が暮れ落ちても雨脚は弱らなかった。それで、待ちあぐんで、兎も角建物の玄関迄出て見た。通りがかりのタクシィでもあればと考えたのだが、そんな裏町を退勤時刻過ぎて通り合わせる車は滅多になかった。近所の自動車屋へ電話をかけてみると、生憎みんな出払っていた。
智子は途方に暮れたまま、青白い街燈の中に銀色に光る逞しい雨の条を眺めていた。
すると、其処へ彼女の背後から靴音をさせて浅原が出て来た。浅原は、雨だれに向ってしょんぼり佇んでいる智子の姿を一瞥して、鳥渡躊躇したらしく、立ち止まりながら暗いひさしの外を仰いだが、さて上衣の襟を立てると、人道を横切って、そのむこう側に着けてあった小さな二人乗箱型の自動車の扉をあけてそれへ乗った。智子も先刻からその自動車には気がついていたのだが、遉に浅原の乗用とは考え及ばなかった。
浅原は硝子窓の内側から、熱心な眸で智子の方を瞶めた。
(あの人、乗せてくれるかも知れないわ――)
智子は、そんな期待を感じて、胸をかたくした。
だが、そのまま浅原のクーペは軽いエンジンの音を響かせて滑り出した。そして、哀れな智子を置いてきぼりにして、忽ち赤い尾燈を鳶色の雨闇の奥へ渗ませながら消えて行った。智子は、苦笑などでは紛らわしきれない程、ひどく当の外れたような物足りなさを覚えた。人けのない、雨のビショビショ降る事務所街の薄暗がりに、たった一人立っている自分が俄かに佗しい気さえした。……
到頭、智子は本通りまで濡れて行くことに決心した。そこで、袴の裾をつまんで、甃石の上を歩き出そうとした時だった。
行く途の町角を強いヘッドライトの光芒が折れたかと見ると自動車が一台、沫を上げながら走って来た。そして、智子が、ひょっとしてそれが『空き車』の札を掲げてはいまいかと思って、踏み出した爪先を、ためらっている目の前へ来て、ピタリと停車したのである。『空き車』の札は何処にも見当らなかった。
ところが、扉を開けて降りて来た運転手が、智子へ慇懃に挨拶をしたのである。
『お待ち遠さまでした。』
『はあ?……』智子はびっくりした。
『タクシィでございます。ただ今、表通りでクーペを御自分で運転していらした紳士の方から、そう云いつかってまいりました。あなたさまではございませんでしょうかしら?』
智子は、それで漸く合点することが出来た。
『ええ、あたし、――あたしよ。御苦労さま。』
草色天鵞絨のクッションの中に身を落ち込ませて、智子はホッとした。すると、何だか曾てない明るい嬉しさと一緒に、おかしさが込み上げて来て、ひとりでクックッ笑えてならなかった。
郊外の住居へ着いた時に、代金を払おうとすると、すでに浅原から貰ってあると云う運転手の言葉だった。
3
秋になって――
智子から、彼女が浅原と婚約したと云う話を唐突に聞かされた時に、母は遉におどろいた。娘の利発な思慮深い性質を充分信じていたので、その恋愛についても、危懼する必要は殆どないわけだったが、不運な想い出をもった母親にしてみれば、矢張り心もとなく思われたのであろう。
『とにかく一度お会いになって下さい。お母さんだって、屹度お気に入ることと思うわ。』
『そりゃあ、お前がいいと考えた人なら、間違いはないに違いないけれど。……でも、ついこないだ迄、やんちゃで私を散々困らしていたお前が、もうお嫁さんになるなんて、とても本当とは考えられない程だよ。お嫁さんになって、赤ちゃんを生んで……そうすれば、あたしは祖母さんなのかしら――おかしいわねえ。……』
母親は、溜息のように笑った。その平生は、どうかするとひどく子供っぽく澄んで見える瞳に愁しげな影がさしていた。
(長い間、あたしと二人っきりで暮して来たのに、今度あたしの愛情が半分、見も知らない他所の人にとられてしまうので、それでお母さんは淋しがっているのだわ……)
智子は母親の気持がわからなかったわけではないのである。併し、そのために、彼女の新しい正しい愛が、不当に歪められなければならぬ理由は何処にもなかった。
そうして、或る土曜日の夕刻から、智子は初めて浅原を晩餐に招いて、母親とひき合せた。凡そ、浅原ならば、誰の眼にも申し分のない婿と見えていい筈だった。
だが――。
恋人と、やさしい母親とを一緒に並べて、せい一ぱい幸福だった智子は、その母親の憂愁の色が一層深くなっていたのには心づかなかった。
『ねえ、お母さん、お父さんに似ているとお思いにならなくって?』と智子が母親に云った。
『ほんとうに、そっくりでいらっしゃること――』
母親の声は、虚にひびいた。
『お母さん、せいぜい懐かしがって頂だい。』
『そんなに、似ていますかなあ。』
浅原はてれ臭そうに頤の辺を撫で廻した。
『いろいろ娘から伺って居りますが――お父さまはお亡くなりになったのでございますってね。』
『ええ、僕が中学校を出た年――もう九年からになります。アメリカで死にました。』
『おや、アメリカへ行っていらしたのですか?』
『ええ、この事は、話す必要もないし……あんまり話したくなかったので、智子さんには未だ云わずにいました。』
『お父さんの御苗字は、もとから浅原と仰有いましたか?』
『いいえ、浅原と云うのは僕の母方の姓です。父は松岡と云う家から養子に来たのです。』
『マツオカ⁈――』
智子の母親は咽喉をひきつらせた。
『御存知でいらっしゃいますか?……』浅原が吃驚して訊き返した。
『いいえ、いいえ。……それで、あなたも、アメリカでお育ちになったのですか?』
『ええ、生まれたのは彼地です。でも、小学校に入る年頃になると直ぐに、母方の祖父の意見で、母と一緒に日本へ呼び戻されて、それからずっと母の実家で育ちました。――父だけは、何と云っても此方へ帰ることを承知しなかったそうです。』
『なぜでしょう?』
『知りませんが――』
『…………』
智子は、この時ようやく母親の顔色がひどく蒼ざめているのに気がついた。
『お母さん、御気分が悪いのじゃなくって?――』
そう云いながら、その手を握ると、冷たく汗ばんで慄えていた。
『ほんの少し頭痛がするだけなんだけれど、――ちょっと休ませて頂こうかね。』
母親は、浅原に会釈してから、娘に肩を支えられて力ない足どりで出て行った。
智子が一人で部屋へ戻って来ると、浅原は思い切ったように智子に云った。
『智子さん、あなたのお父さんの写真と云うのを、見せて下さい。』
智子は直ぐに立ってアルバムを出して来た。彼女も何かしら容易ならぬ不安を感じて、アルバムをめくる指さきがおののいた。
『ああ!……』
智子に示された写真を見て、浅原が鋭い叫び声を立てた。
『僕のお父さんだ!――いや、少くともこの写真はそうです。僕はこれと同じ写真を家から持って来てお見せすることが出来ます。……』
『そんな莫迦な!』
智子は、いきなり真暗な底の知れない穴の中へ転落して行くような激しい眩暈を感じた。
恋人同志が、同じ一人の父親をもっていたとすれば、これ以上惨めなローマンスの破綻はない。
男は畳の上に突伏したまま絶望のあまり気を失いかけている女を後に残して、逃れるように戸外へ飛び出して行った。
4
翌る朝、未だ明け切らない中に、浅原が再び訪ねて来た。智子は、一晩中泣き明かして眠らずにいた。
『どうしても合点の行かない節があるのです――』と浅原は白けた唇をわななかせながら、せき込んだ調子で云うのであった。『――僕の父は、あなたが生まれる五六年も前にアメリカへ渡ったのですが、それ以来ただの一度も日本へ帰らなかったことは、私の母をはじめ誰に聞き合せてみても、確な事実らしいのです。……あなたのお母さんに、本当のことをお訊ねしなければなりません。お母さんは何処にいらっしゃいますか?』
『母は、昨夜から――あの時きり、二階のお部屋から出て参りませんの。』
『あれっきり?――』浅原はギョッとしたらしかった。『直ぐにお母さんにお目にかからなくちゃあ!』
浅原は、智子の腕をつかんで階段をかけ上った。二階の廊下へ出ると、はげしいガスの匂が鼻をついた。そして寝室の扉には鍵が卸りていた。(――まことにお誂え向きにも、郊外風の割にガッシリした和洋折衷の建築だったのである。)
浅原が岩畳な体ごとぶつけて、扉を押し破って入って見ると、果して瓦斯ストーヴ用の瓦斯の栓を開け放した儘、智子の母親は寝床の中で白蝋のように冷たく眠っていた。枕元に書置が載せてあって、次のようなことが辿々しく記されてあった。
――智子。
あなたと、礼介さんは決して兄妹ではありません安心して結婚していいのですよ。つまり、あの写真の人があなたのお父さんだと云ったのは、まるっきり嘘だったのです。…………そして、実を云えば、私があの人と結婚したと云うのも嘘なのです。ただ私たちは――私と松岡とは、田舎にいた時分、許嫁だったのです。その頃私は漸く物心がつきはじめた位の子供でしたが、それでも行く行く自分の一生を委せる夫はあの人以外にないものと信じていました。あの人も私を誰よりも愛してくれました。……
松岡は大学を出るとアメリカへ行きました。ほんの一年か二年と云う約束だったのにも拘わらず、三年経っても五年経っても一向戻って来ませんでした。それでもなお私は変らぬ愛情をあの人の上に捧げていたのですが、その中に風の便りに、あの人がどうやらアメリカで結婚したらしいと云う噂を聞きました。――それで、私の周囲の人々は、私にあの人を諦めるようにといろいろ説いて聞かせ初めました。
併し、私はやっぱり、たとえば、ペア・ギュントの帰りを頭が白くなる迄も辛抱強く待っていたソルヴェジのように、どんなに寂しく永い間置きざりにされていようとも、一生の中には何時か帰って来てくれる日があるような気がして、甲斐なく望みをかけていました。
併しやがて両親が次々に死んで、私は本当にたった一人で暮さなければならなかったのですが、それでは余り淋しすぎたので、恰度知己の貧しい学校の先生の家で、七人目の赤ん坊が生まれて、育てかねていたのを貰って養うことにしたのです。
その赤ん坊が、あなただったのです。……私はそれから何かと面倒な田舎を捨てて、あなたと二人きりでこの都へ出て来ました。
私はあなたが大きくなるにつれ、あの人を父親であるようにあなたに信じさせることに依って、段々私自身もそんな風な夢や錯覚の中でなぐさめられようとつとめました。そして、十年も十五年も経つ中に、あなたに感ずる愛情が、何時とはなく、あの人への因果な思慕を諦めさせた程、根強い親身なものとなってしまったのです……
それにしても、そのあなたが、あの人の息子と結婚するなどとは、何と云う不思議な廻り合せなのでしょう。私の不運の代りに、あなたの恋には神様のお恵みがありあまることと信じます。
私が死ぬのは――死ななくともよかりそうなものにと、あなたは思うかも知れませんが――あの人が死んでしまって、そして斯う打ち明けてしまえば、可愛いあなたとも、やっぱり他人同士に返らなければならないし、これ以上年寄りの寂しさを我慢して望み少ない世の中を生き延びて行くのには疲れ過ぎてしまいました。
それでは、誰よりも仕合せにお暮しなさい。――
………………
………………
一生、いじらしい処女であった母!
智子は書置を信ずることが出来た。
そして、二十年の永い間、慈愛深い母親として自分を育て上げてくれた、浄かな童女の死顔の上に、永いこと泪に暮れていたのであった。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「朝日」
1929(昭和4)年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年8月21日公開
2007年10月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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――曾て、哲人アビュレの故郷なるマドーラの町に、一人の魔法をよく使う女が住んでいた。彼女は自分が男に想いを懸けた時には、その男の髪の毛を或る草と一緒に、何か呪文を唱えながら、三脚台の上で焼くことに依って、どんな男をでも、自分の寝床に誘い込むことが出来た。ところが、或る日のこと、彼女は一人の若者を見初めたので、その魔法を用いたのだが、下婢に欺かれて、若者の髪の毛のつもりで、実は居酒屋の店先にあった羊皮の革袋から毮り取った毛を燃してしまった。すると、夜半に及んで、酒の溢れている革袋が街を横切って、魔女の家の扉口迄飛んで来たと云うことである。
頃日読みさしのアナトール・フランスの小説の中にこんな話が出ていた。
魔女の術をもってしても、なお斯の如きままならぬためしがある。
だが、たとえば、アメリカの機械靴の左右を合わせるのに、ほんの寸法だけで左足の堆積と右足の堆積とから手当り次第に掴み取りして似合の一対とするように、人間が肢を八本もっていたアンドロギュノスの往古に復り度い本能からばかりならば、幾千万の男と幾千万の女との適偶性もまた幾千万と云わなければならない。思うに天のアフロバイテを讃える恋の勝負は造化主の意思の外にあるのであろう。神さまは、ただ十文半の黄皮の短靴の左足は十文半の黄皮の短靴の右足こそ応わしけれ、と思し召すだけに違いない。
男と女。男と女。――たった二種類しかない人間が、何故せつない恋に身を焦がしたりしなければならぬのであろうか?
*
Y君が片恋をした。
相手は比の頃、ベルクナルにも劣るまいと評判の高い活動写真の悲劇女優である。
それに引きかえてY君は、第三十騎兵連隊勤務の一等安手の下士官の身分に過ぎないのだから、この恋に到底望みのなさそうなことを杞虞する程の己惚れさえも持ち合わせない。はじめは当り前のファンで、週末の休み日毎に、たとい二度三度見直す同じ狂言であろうとも、きまって彼女の出る映画ばかりを漁っている中に、だんだん彼女の何時も深い愁しみに隈どられた面輪が、頭の中のスクリインに大写しのようにいっぱいに映ったまま消えなくなったのである。
こんな身の程を弁えぬ恋をしてしまったことは、容易ならぬ不幸せだ――とY君は考えた。一生、ひそかに恋わたっているだけのことで、それでもいいのだろうか?
だが、それ以上、Y君にはどう思案するすべもなかった。
さて、偶、或る休み日に、彼女の映画が市内の何処の活動小屋にも掛っていなかったのである。そこで、Y君は諦めがたく、夕景頃から、彼女の住居のあたりを散歩してみたい気持に誘われた。Y君は、俳優名鑑に依って、夙に彼女の身元位は諳んじていたのだから。
悲劇女優の住居は、公園の松林の中の大きな池の辺にあった。窓に菫色の日覆を取り付けた簡素な木造の二階家が、丈の高い松の木立ちと一緒に、池の面に姿を映していた。Y君は水際のベンチに腰を下すと、長いサーベルの柄頭に両手を重ね、その上に頤を載せて深い溜息を吐いた。
Y君は一時間もそんな風にじっとしていた。スクリインやエハガキの上に空しい想いをつのらせているのに比べれば、遣る瀬なさなり不安なり、はるかに本物らしい恋慕の情がはげしく胸をふくらませるのであった。直に水の上の日ざしが薄れて、松の梢に夕風が鳴った。やがて、カタンと窓の開く音がした。Y君はとても真面に家を見上げる勇気がなかったので、池の中を覗き込んだ。日覆を取り外しているらしい白い顔が小さく揺いでいた。Y君は軍服の背中じゅうを硬わばらせた。窓のその白い顔は、ちょっとY君の方を見ただけで、すぐまた奥へ隠れてしまった。犬を呼んでいる男の子の声がした。しばらくすると、二階でピアノが鳴り初めた。チャイコフスキイのバルカロレである……
Y君は、それからまた一時間も、じっとそのまま動かずにいた。
もうすっかり夜になった。
やさしい窓に薔薇色の灯がついた。
そして薄いレースの窓帷を時々優雅な人影が横切った。
公園にはアーク・ライトがともった。夜の女の群れが、その中を近づいて来た。
『ちょいと、意気な龍騎兵の士官さん。あたし未だやっと十三になったばかりなのよ――』と、抜け落ちてしまって一つかみにも足りない髪を、大きな鴇色のリボンで結んだ女が云った。
Y君は、そこで、もうこちらの姿を見咎められるおそれもなかったので、威勢よく立ち上がって、窓に向って別れの敬礼をすると、剣と拍車とを鳴らしながら帰って行った。……
Y君の休日の日課があらためられた。恋しい人の映画が掛っている時なら、それを見に行くことは云う迄もないが、それは必ず昼の中に切り上げて、夕方からは彼女の住居をよそながら眺めるために、公園へ散歩することにきめた。
久しいことこの習慣が根気よく保たれた。
雨降りの休み日が二十一度、その中六度は外套を透して、長靴の中へ流れ込む程の豪雨であった。そんな時には、無論窓にいかめしい目かくしが下りていた。
霧のために窓の灯が見別け難かったことが十三度。
風のあまり吹かない地方なのだが、それでも池の水が波立って、四辺の景色を映さなかった日が一ダース。
散歩季節の夕月の美しい時分には、沢山の散歩者から自分をあきらかにするために、ハーモニカで時花節などを奏した。(ハーモニカにかけては、Y君は隊内随一の名手であった)
愛情の故には、どんな大胆な振舞いに出ようと、たとえ恋人の家の扉の前に寝ようと、恥にもならぬし、また咎められるようなこともない。すべて恋をする者の行為には、一種優美な趣が加っているものである。――Y君もまたプラトオンの「饗宴」を愛読した折があって、パウサニアスの愛の論議に信頼していたので、容易に勇気を挫かなかった。
ただ雨よりも霧よりも一番Y君を閉口させたのは、例の夜の女の群れであった。殆んど天上なるものへの思慕の如く一途に汚れなきこの恋の精進を、みにくい悪魔の誘惑に邪げられることが堪えられなかった。Y君は、何時でも、彼女たちの当のないあぶれた足音が歩道の上を近寄って来ると、甃石に唾をはきつけて退却した。
ところが、その運命的な休みの一日、未だそんなに遅くない刻限で、ようやく暮れなずんだ水の色を見つめながら、Y君は池の縁の柔らかい草むらに足を投げ出していた。すると、だしぬけに、そっとY君の両肩につかまった者があった。振向いて見ると、一目でそれと判るような、小綺麗なエプロンを胸にかけた可愛らしい女中が、悲しそうな顔に何か訴えたいような風情を示しているのであった。
『どうなすったのですか、お嬢さん?』と恋の修道士は訊ねた。
『あなた、あなた、あなたは、まさか、この池に身を投げて、お果なさるおつもりではないでしょうね?――』と娘は、吃りながら云うのであった。
『さあ?――』とY君は訊き返した。
『あなたは、きっと、此処の――』と娘は悲劇女優の家の方を指さしながら、『此処の邸の者に恋をしていらっしゃるのですわね。いいえ、もう、すっかり存じて居りますわ。それに、その事がいけなかったなんぞとは、ちっとも未だ申し上げませんもの。決して、御心配なさるには及びません。』
『いや、僕は、そ、それでも――』
Y君は我にもなく面喰ってしまったのである。
『さ、どうぞ、はっきり仰有って下さいまし。こんなに長い月日の間、あなたが恋こがれていらした女は、此処の家の誰なのですか?』
『あなたは、何だって、そんな莫迦な物の訊き方をなさるのです?』
『莫迦なですって? まあ、飛んでもない。妾は、あなたのその飛びはなれた執心のお蔭で、この邸をたった今追い出されたばかりなのですからね。』
『いやはや、どうも、僕には信じ兼ねます。』
『お解りにならないのですか? つまり、こうなのです。――あなたを一番初めに見付けたのは、お嬢さまなのです。御存知でしょうね、世界中でレデレルの相手役をして見劣りがしないのは、家のお嬢さまたった一人だと云うんですからね。お嬢さまは何度も何度も、休み日にはきまって、あなたが同じような恰好で此処のところに坐っていらっしゃるのを見かけたのです。お嬢さまは、間もなくお覚りになりました。そして或る日爺やさんに「あの兵隊の襟章を見て来ておくれ」と云いつけたのです。爺やさんが橙色だと云うことを確めて来ると、お嬢さまは「第三十騎兵連隊の下士だわねえ。龍騎兵の将校さんででもあれば、ともかく――屹度、家の女中に恋しているのに違いない」と仰有いました。それから、女中達がみんな一人一人きびしい吟味を受けたのですけど、誰も名告って出る者がないのです。お嬢さまは、誰よりも一番妾を疑いました。それと云うのは、他の女中達はみんな不器量で、見初められそうなのは一人もいなかったからですわ。でももとより妾自身の方には少しも覚えのないことだし、妾はあくまでも知らないと頑張り通しました。すると、お嬢さまは、相手が縦令どんなに取るに足らなそうな男でも、そのひたむきな純潔な愛は天地にかけ更えもない優美な貴いものだ――その愛情にほだされない様な女は永遠に真実の愛に祝福される機会を取り逃がす不幸せな女だ、と仰有って、しまいには泪さえ流して、あなたのために弁護なさいました。そして、挙句の果に大そう御機嫌を害ねて、到頭今日限り妾はお払い箱になってしまったのです。人の情を知らない冷酷な女だって……妾、一体、どうすればよろしいのでしょう。……』
『どうするって……』
Y君は、恥かしさのあまり、本当にこの女中の見ている前で、池の中へ飛び込んでしまいたい程だった。
『ですから、あなたが、やっぱり恋をなすっていらっしゃるのが事実なら、その相手をはっきり仰有って頂き度いのですわ。殿方からそんなに強く愛されることが、どんなに幸せか、そりゃあ、妾にしたって解り過ぎる程解って居ますわ。でも、何しろ、肝心な妾の方にはそんな心当りはちっともないのですし、ひょっとそんな闇雲な己惚れを出して、それこそ如何な辛い恥をかかなければならないかも知れないし。……それに、お嬢さまは、ああ仰有るものの、下士官が天下の名女優に恋をしていけない道理もありませんわ。』
『いやいや、飛んでもない。そんな大それた願いを、どうして僕が抱くものでしょうか。は、は、は、は……』Y君は、自分がみじめなピエロに過ぎないことを感じた。
『それでは、まさか――』娘は眼を瞠った。
『そうです、野菊のように可愛らしい娘さん。僕の想いを寄せる女が、貴女の外にあって堪まるものですか! 神かけて、嘘ではありませんよ、僕のベアトリイチェ。……ごめんなさい。何てお呼びすればよろしいのでしょうか?』
『そうよ。ベアトリイチェ。……でも、あなた、どうして妾を知っているの?』
娘は白々とアーク・ライトに濡れながら、不意に泪ぐんだ。
『初め、あなたが、窓の日覆いを外そうとしていたところを、偶然通りすがって、見そめてしまったのですよ。僕は直ぐ夢中になる性分なんです。僕は毎晩のように、あなたの夢を見て、あなたの名を――「僕のいとしい女中さん」と寝言に呼んで、隊中の者から揶われました。……』Y君は、そんな風に云いながら、娘の肩に腕を廻した。
娘は鳥渡の間、傍を向いて、まるでひどく気を悪くでもしたかのような表情を浮かべたが、直ぐに肩をゆすぶらして哂った。
『窓の日覆いを外していたの? それ、ほんとに妾だったこと? 人違いじゃなくって? 大丈夫?』
『間違いあるもんですか。それから、僕は、あなたが、裏木戸のところで犬を呼んでいるのを見かけたことだってあるんですぜ。』
『まあ!――嬉しいわ。』
二人はそこで接吻をした。
例の辻君たちが通りかかったが、恋人同志だと気付くと、エヘン! と咳払いを浴せながら行き過ぎた。
二人は立ち上がった。
『妾の伯母さんの家へ行きましょう。何時でも帰れるように、妾のお部屋が別にあるの。ちっとも気兼ねなんか要らないわ。』
『たった今約束したばかりで、もうそんな真似をしてもいいのかしら――』Y君は遉にびっくりした。
『なあに? 誰がお泊んなさいって云って? ――可笑しい人ねえ。でも、大丈夫。泊めて上げてよ。』
Y君と娘は楽しく腕を組み合わせながら。公園を抜けると、空車を拾って乗った。伯母さんの家と云うのは、暗い山の手町にある下等な下宿屋の一軒だった。そこの狭い階段を娘に手を引かれながら上がる時、上の方から降りて来た病気持ちらしい醜い大年増が、すれ違いざまに娘の耳を引っぱって笑った。Y君はその女が、公園で最初の夜に、自分に云い寄った鴇色のリボンの女に似ているような気がしてならなかった。
『伯母さん?』
『ええ、そう――』
Y君はいきなり娘の手をふりもぎって、戸外へ走り出し度くなったのを漸く我慢した。方々の扉の隙間から、風体の悪い下宿人共が羨ましそうにY君を眺めていた。
『ベアトリイチェや、帳場へ行って電話をかけて来ておくれ。』とY君は突然思い付いたように云った。
『中央区、二千七百九○番――お嬢さんにお休みなさいまし、とね。それだけで、いいんだよ。』
『あら、お安くないわね。何処のお嬢さん?』
『君なんか知る必要のない人さ。とにかく、それだけ取次いでくれたまえ。こちらの名は、ピアノの先生でもお医者でも撮影所の小使でも何でもいい。……』
Y君は、娘が出て行ってしまうと、さて寝台の上に引っくり返って、ありったけ大声で笑ってみた。
それから、鏡台の上の酒を択んで、幾杯も幾杯も立てつづけに祝盃を上げた。青春との別れのために……
翌朝。
軍服にブラシをかけてくれる女にY君はきいた。
『一体、いくら上げればいいのだろうね?』
すると、女は嬉しそうに微笑してみせた。
『いいえ、いくらでもないの。――あなたを口説き落すことは、もう永いこと、あたしたちの賭けだったんですもの。……』
Y君は、併し、幾許も入ってはいなかったが紙入れごと、彼女の手の中に握らせて帰った。
Y君は、それから間もなく、小さい時から知り合いの、帽子工場に働いている娘と結婚して、最も善良な夫になったと云う。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1929年8月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月30日公開
2007年10月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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1
父親は病気になりました。あんまり年をとり過ぎているので再び快くなりませんでした。父親は自分の一生がもうおしまいになってしまったことを覚って、二人の息子を――即ちイワンの兄とイワンとを枕元へ呼び寄せて遺言しました。
先ず兄に云いました。
『お前は賢い息子だから、私はちっとも心配にならない。この家も畑もお金も、財産はすべてお前に譲ります。その代り、お前は、イワンがお前と一緒にいる限り、私に代って必ず親切に面倒をみてやって貰い度い。』
それからさて父親は小さな銀製の箱を寝床の下から取り出しながら、イワンの方を向いてこう云いました。
『イワン。お前は兄さんと引きかえて、まことに我が子ながら呆れ返る程の馬鹿で困る。お前には、畑やお金なぞをいくら分けてやったところで、どうせ直ぐに他人の手に渡してしまうに違いない。そこで私は、お前にこの銀の小箱をたった一つ遺してゆこうと考えた。この小箱の中に、私はお前の行末を蔵って置いた。お前が、万一兄さんと別れたりしてどうにもならない難儀な目に会った時には、この蓋を開けるがいい。そうすれば、お前はこの中にお前の生涯安楽にして食べるに困らないだけのものを見出すことが出来るだろう。だが、その時迄は、どんな事があってもかまえて開けてみてはならない。さあ、此処に鍵があるから誰にも盗まれぬように大切に肌身につけて置きなさい。……』
イワンの兄も、イワンも、決して不平は云いませんでした。
二人はただ父親の冥福を神に祈りました。
最早や思い残すことのない父親は、やがて、エンゼルの姿をした二人の息子に手をとられて色とりどりの麗わしい花園を歩いている夢を見ながら、天国へ去りました。
2
兄弟はよそ目にも羨しい程仲よく暮しました。
『さあさあ、イワンや、眼をおさまし。仕立屋が二人お揃の縞羅紗の散歩服を届けてくれたよ。今日はそれを着て遊園地にでも遊びに行こうではないか……』
朝ならば、イワンの兄はそんな事を云って、寝坊なイワンを起こしてくれました。
信心深いイワンは安息日の礼拝に出席するのを怠るようなことはなかったとしても、その他の日は、一日爐ばたに寝そべって独将棋をしたり、遊園地へ行って観覧車に乗ったり、さもなければ二階の窓から遠方の嶺に雪の積っている山を眺めたりして、気儘に暮すばかりでありました。
父親が生きていた時は、父親は馬鹿な息子の身を案じて、そんな風なイワンを時々叱ることがあったけれども、イワンの兄は何時も何時も優しい笑顔を見せてくれました。
イワンは兄の親切に満足して、少しの苦労もありませんでした。
晩になって、晩御飯がすむとイワンは直ぐに眠くなりました。すると、イワンの兄はイワンに寝仕度をさせながら云いました。
『お休みよ、イワン。楽しい夢を見たらば、憶えていて、明日の朝兄さんにも聞かしておくれ。――』
イワンの兄は、裸になったイワンの胸から三角に細い銀鎖を引っぱってその端にさがっている銀の鍵を見ると、さて決まったように、こう云うのでありました。
『イワンや、金貨一袋とこの鍵とを取り換えてはくれまいか。』
『金貨一袋だって?――でも、だめだよ。』とイワンは答えました。
『畑も半分上げよう。』
『だめだよ。』
『屋敷を半分上げてもいいのだよ。』
『だめ、だめ!……』イワンはひどく困ってしまうのでした。『お父さんが死ぬ時に誰にもこの鍵をやってはいけないと云ったんだもの。』
『本当にそうだっけ!……いいよ、いいよ、大切にしてしまってお置き。』
だが、兄は毎晩々々必ず同じ言葉を繰り返してイワンを弱らせました。
3
イワンの兄は、イワンが寝てしまってから、イワンなぞの知らない悪い仲間と一緒に夜遊びに行って、夜明けになって帰って来ました。
ある夜のこと、もうじき噎っぽい朝に近かったのですが、イワンの兄は、遊園地の裏の青い瓦斯灯の下に、夜通し夜露に濡れながら立っていた娘を見つけました。娘は、けばけばしい色の新しい靴下を穿いて、それを使い古したリボンで結いて留めていましたが、娘は孤し児で暮しに困ったため、その晩はじめてそんな処に立ったのでした。それだから、娘の姿は野菊の花のように哀れで清らかでした。イワンの兄が娘のその風情に惹きつけられたのは無理もない次第だったのです。
『僕のお嫁さんにならないか?』とイワンの兄は娘に云い寄りました。
『あなた、あたしを愛して下さるの?』娘は薔薇色の紅が褪せてしまった唇をやっと開いてそう訊きました。
『勿論さ。誓ってもいいよ。』
『あたし、それじゃ、あなたのお嫁さんにして頂くわ。』
『明日の晩、結婚式をあげよう。』
そこでイワンの兄はその孤し児の娘を連れて家に帰りました。
4
イワンの兄はふとした拍子で、美しい花嫁を迎えることが出来たから、一方ならず嬉しく思いました。
『イワンや、目をさましなさい。こんな気分のいい朝に寝坊をするなんて不幸の骨頂だよ。早く起きて、そして窓の外を見てごらん。』
イワンの兄は、その朝そう云ってイワンを揺り起しました。
イワンは窓から金色の朝日のいっぱいにさしている庭の景色を眺めました。するとイワンのおどろいたことには、花畑の間を、今迄についぞ見たこともない人形のように可愛らしい娘が、如何にも楽しげに、小踊りしながら歩き廻っているではありませんか。イワンは眼を瞠ったまま訊ねました。
『兄さん。あの人は誰だろうか?』
『兄さんのお嫁さんさ。』
『それで家の人になったのだね――』
『そうだよ。』
イワンは、そんな綺麗な女の人と一つの屋根の下に住んでいられることを思うと、胸が躍りました。
イワンは併し、娘の姿に見恍れているうちに、だんだんせつなくなりました。
イワンは、娘の頭の先から足の先迄に、恋をしてしまったのです。
イワンは、到頭思い切って云いました。
『兄さん。兄さんはお嫁さんと、僕の銀の箱の鍵とでは、どっちが余計欲しいと思う?――』
『なぜ、そんな事を云い出したのだ?』とイワンの兄は、喫驚してきき返しました。
『僕は兄さんが、金貨や畑なんかではなく、あのお嫁さんと鍵とを取り換えてくれればいいと思うのだけれど。』
『それは本当のことかい? イワンや!』
『本当だとも!』
『よろしい。兄弟同志の事だもの。ちっとも遠慮なぞしなくてもいい。お嫁さんは、どうせどっちかに一人いれば済むのだから、兄さんはお前さえよければ、喜んで取換えてあげようよ。』
イワンは胸から、あんなに大切にして肌身につけていた銀の小箱の鍵をとって、惜しげもなく兄に渡してしまいました。
5
その晩、イワンと娘との盛んな結婚式が挙げられました。――どうしたものか、一家の主であるにも拘らず、イワンの兄は弟の晴れの祝宴に姿を見せようともしませんでした。
娘は何時の間にか、花婿が変ってしまっているのに、おどろきました。
『あなた、あたしを本当に愛して下すって?』と娘はイワンに訊きました。
『神さまに誓ってもいいよ――』
イワンは、生れてない感動に我を忘れて、そう叫びました。
『そう。でも、あなたのお兄さんは、何故あたしに嘘をついたのかしら?――』
『嘘をついたのじゃないよ。誰よりも優しい親切な兄さんだもの!』
イワンは周章て、自分の鍵の話を花嫁に仔細に物語って聞かせました。
すると娘は怒ってみるみる顔色を変えました。
『あなたに引きかえて、あなたの兄さんは、山羊の裘を被った狼です。そして、可哀相にあなたは、あたしのために、折角お父さんが遺して行って下された大切な「行末」を失くしておしまいになったのね。……でも、安心していらっしゃい。あたしが、必ずその銀の小箱の代りに、あなたに楽しい「行末」をこしらえて差し上げますから……』
そう云って、娘はイワンに温い接吻をしました。
イワンの兄は、不思議なことにも、それから幾日経っても、幾月経っても幾十年経っても再び姿を現わしませんでした。そこで、イワンは改めてそこの邸の主となって、愛しい妻と共に何不自由なく仕合せな日を送ることが出来ました。
…………
ところでさて、イワンの兄は一体どうなってしまったのでしょうか。
自分の花嫁と鍵とを取り換えることの出来たイワンの兄は、その鍵で早速箪笥の中に蔵ってあった銀の小箱を開けて見ました。だが中には、ただ一本細い綱を束ねたものが入っているきりでした。その結びめのところに小さな紙片が挾んであって、それに次のような言葉が書きつけてありました。
(窖の北の隅の床石を持ち上げて、その裏についている鉤にこの綱を通して地の底へ降りて行きなさい。そこにお前の安楽な半生が準備してあります。)
イワンの兄は、いよいよ宝の穴を掘り当てたような気持で、その紙片の教える通りを実行しました。もう何十年もの昔から使ったことのない古い窖へ忍び込んで、そこの北の隅の埃だらけの重たい床石をやっと持ち上げてみました。すると果して、その裏側に手頃の鉤がついていたので、それへ銀の小箱の中に入っていた綱をひっかけて、轟く胸をおさえながら、そろそろと地の底へ降りて行きました。ところが、あらかじめ仕掛けがしてあったのでしょう。綱はプツリと音を立てて切れました。呀ッと云うとイワンの兄は忽ち深い深い穴の底へ落ち込みましたがうまい工合に大そう柔いベッドがすっぽりと体を受けとめて呉れました。その穴の何処か一番高い天井の辺から明るい日の光が洩れてくるようにつくられてあったので、そのベッドが未だ新らしい却々上等なものであることが判りました。
イワンの兄は、どうやら其処が宝の蔵ではなさそうなのに気がついて、うろたえて、探し廻りました。穴の中にあったすべてのものは、そのベッドの他に、物々しいパンの山とそして幾十樽かの葡萄酒とでした。
考え深い父親が、馬鹿な息子の身を案じて工夫した食うに困らぬ安楽な「行末」とは、ただそれだけのことでした。
決して他人に邪魔されぬような場所を、わざわざ択んで設けた程のものでしたから、またその中でどのように叫び立てたとて、それが万が一にも誰かの耳に聞えるようなことはありませんでした。
イワンの兄は、そんな穴の底で、イワンの代りにその余生を暮さなければなりませんでした。
みなさんは、それでもイワンの父親がその息子たちのためにして置いた事をば、間違いだとはお考えにならないだろうと思います。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」
1928(昭和3)年1月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年2月11日公開
2007年10月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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夕方の神楽坂通りは散歩の学生や帰りがけの勤め人なぞでいつもいっぱいである。
私は久し振りで坂を上って牛込館を見に行った。
錦輝館だの豊玉館だの――矢張りそんな時分に栄えた牛込館がそのまま取り残されている。窓のところに客寄せの楽隊でもいてくれたなら、ひょっとして無性に懐かしい気持がしたかもしれない。
× ×
此処は未だ階下ばかりしか入ったことがないので、今日は一円五十銭払って二階の中等席へ上ってみた。ブリキを張った天井裏が頭につかえそうで、むき出しの装飾電燈が客席を見下ろしている。そして桃色の緞帳のかかった舞台の傍にある弁士出入口のカーテンをかかげて、説明者が現われるのであるが、我々と同期のファンにとっては、むしろ居心地のよい程のギャラントリイとも云えそうだ。
× ×
番組は
―サンライズ
―滑れ、ケリイ、滑れ!
音楽は武蔵野館の派遣で八九人いて相当よいらしい。説明者も一流だが、僕は此頃説明には殆ど贅沢を云わない習慣になっている。それに僕は大ていの場合、説明者や音楽を知覚しないですますことが出来る。音のない所は、音のない闇の中で眺めることが一番楽しく思われる。だから僕は、映写機とスクリインと通風と腰かけの工合さえよければ、どんな倉庫のような活動小屋だっていいので、その他の設備は二番目の問題である。ピアノトリオ位で非常に優れた室内音楽でも附属しているのは決して悪いものではないとしても、併し「演出効果」なぞと云う大掛かりな仕掛けは実際邪魔になり過ぎる場合がある。
× ×
牛込館のお客様は、西洋物の見物だけに上品でおとなしい。矢張り大方学生のようで、近所に芸者街があるのだが、それらしい姿はあまり見かけられなかった。
僕の直前にいた青年達が「サンライズ」を見ながら話していた。
――いい景色だな。実にいい景色だ。天然の景色にはこんなに美しいものは滅多にないに相違ない。」
――何と云ってもムルナウは豪勢な男だ。面白くないのはムルナウの罪ではない。愚劣な筋をこれだけに生かしたのがムルナウだからね。」
――原作はヘルマン、ズウテルマンだよ。」
――はてな!」
――だが、それだから却ていけないと云うことにもなるさ。」
――それあそうだ」
なかなか心がけのよいファンである。
× ×
この青年達は「スライド・ケリー・スライド」の時も、こんなことを云った。僕は今日は一々気にとめて聞いたのである。
――ヘインズってのは気持が悪いね。」
――ケリイの役が憎らしいのではないか?」
――そうだね。見ていて憎らしくなる主人公を出す喜劇はよろしくない。」
――ハアリイ・ケエリイは嬉しかろう。去年モンロウ・サルスベリイが来た時、日本館へ見に行ったら誰かがミスタ・ハアリイ・ケエリイは近頃どうしていますかって聞いたら、彼は今はもうお金が溜って大牧場の主人になって安楽に暮していますと云ったがね。」
――あれのピストルの持ち方はエス・ハートなぞよりもずっと確かだと云う噂だった。」
活動ファンと云うものは、一方ならず学究的素質を持っているものだと僕は思った。 | 底本:「時事新報」時事新報社
1928(昭和3)年10月14日
初出:「時事新報」時事新報社
1928(昭和3)年10月14日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は総ルビですが、入力に当たって一部を省略しました。
入力:匿名
校正:富田倫生
2012年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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雪降りで退屈で古風な晩であった。
井深君の邸に落ち合った友達が五六人火のそばに寄って、嘘吐き――話の話しくらべをした。自分の素晴しい嘘で人を担いだ話や、またはそのあべこべのしくじり話やらをめいめいが語った。
そしてさて、主人の井深君の番になった。井深君は、誰よりも一番多くその生れ付きの中に小説家的な要素をもっていたばかりではなく、日頃の生活も当り前の様式とは少からず異っていたので(――それらの点はこの話を聞くだけでも直ぐ察せられる事なのだが)誰も斉しく井深君の番になるのを待ち構えていたのだった。
――偽瞞こそあらゆる芸術の本体だ、と誰かそんな風な事を云った西洋人があった。嘘と云っても、それが何人にもどんな損害をも与えない場合になら勿論少しも悪かろう筈はない。昔噺をして聞かせるのとちっとも変りはしないのだもの。僕は御存じの通り非常な空想家だ。それだから、つい思わぬ無用な嘘を吐く時がある。何故と云って、空想を最も効果的に他人に伝えるためには、どうしても大きな嘘を吐かなければならない事になるのだから。……で、これから話す話は、僕がひょっとしたはずみにくだらない嘘を云ってしまったお蔭で、意外な莫迦を見た話なんだがね。話の筋は極くたわいもないのだが、それでもよく考えてみると、何だかこうひどく妙な気がするんでね。尤も僕だから妙な気もするのかも知れない。だから君たちにはつまらないかも知れない。が、まあ話してみよう……
……お正月の松がとれてから未だ幾日も過ぎない頃であった。夕ぐれ近い空は雪空で、低く垂れ下がったまま白っちゃけて凍りついていた。井深君は銀座を散歩していたのである。北風が唸りながら舖道の紙屑やごみを浚って吹いた。遉の銀座通りではあったが、行き交う人々はみんな身を竦めながら忙しそうにして歩いていた。井深君の如き純粋な散歩者は他には殆ど見当らなかったと云ってもいいに違いない。井深君はそれこそもう散歩の中毒みたいになっていて、毎日々々たといどんなに空あんばいがすぐれなくても、どんなにひどい木枯が吹きまくろうとも、この日課だけは決して忽せにしなかった。そしてその散歩に、人一倍おしゃれな井深君は何時もきまって中山帽をかぶり立派な黒服を着て出かけるのだった。――断っておくが、井深君の齢は、そんな身形をしても、未だ三十二歳には少し間があって、しかもその実際よりも更に三つ四つ若く、つまり弱冠そこそこにしか見えないような童顔をしていた。
で、とにかく何の用事もなく、何の的もなく、新橋の方から銀座通の左側の舗道をぶらぶら歩いて行った。そして尾張町の四辻より一つ手前の四辻に差しかかった時である。その角から不意に、まるでそこの横通りを吹き抜ける風にあおられた操人形のような足取りで、若い女がオレンジ色のジャケツを着て飛び出して来たのであった。帽子をかぶらぬお河童で赤ん坊みたいな顔をした娘であった。ところで、それがどういうつもりか井深君の前に危くヒョイと踏み止まったが、井深君の中山帽子の頂からスパッツをつけた靴の尖まで、ジロリと一っぺんに見上げ見下ろすと、さて身を転じて颯々と肩をゆすり乍ら歩いて行ったのである。
(まあ! なんて女なんだろう!……)
井深君は今日が日迄幾十度となく、いや恐らく幾百度となく同じような身形で銀座を歩いた。併しついぞ一度だって通り掛りの者なぞからそんな風にして見られたためしはなかったのだ。だから屹度彼女は偶然井深君と見間違える程よく似た恰好の男をその知己にもっていたのであろう。……が、たといそうとしても何という厚かましい不躾な眼付きだったのだろう! ……育ちのよい少年の如く殊の外気弱な井深君は胸を動悸させ乍ら、逆毛立ってやわらかい草むらのように縺れ合っているお河童頭の後姿を見送った。
ところが、それから一時間も経ったかと思う頃、同じ場所でもまたもや彼女と出会ったのである。井深君はその小一時間の間、ブライヤアのパイプと一緒に甃石の上を歩き続けながらも、喫茶店でポスタムを啜り乍らも、如何にもそのへんな娘の姿が気になってならなかった。それ程だから再びその四角へ通りかかった時には、勿論横の通りを振向いて見る位の用意はあったのだ。それで振り向いてみた。すると曲り角からつい三間ばかりのところを、その娘がスペインの踊子のように両手を腰にかって大きく肩をゆすりながら向うへ歩いて行くのである。甚だ奇妙なことであった。と云うのは、彼女が若しも其処の甃石の中から突然せり上って来て歩き出したのでもない限り、そのあたりは恰度××ビルディングの普請場の板囲が続いているところだったので、彼女がそうした工合に意気揚々と立ち出でそうな玄関口なぞは一つもなかったのだから。
(おや――)と井深君は屹驚してちょっとの間足を停めた。その途端にオレンジ色の娘はクルリとお河童の頭だけを廻して井深君を見た。そしてあけっぴろげな笑顔でニッコリ笑ったものである。が、直ぐまたすた〳〵と威勢よく肩に波を打たせながら歩き出した。
(ははあ、あいつ、不良だな――)と井深君はその時はじめて気が付いた。
気早な冬の陽ではあったし、それに空模様はいよいよ怪しくなって来ていたので、もう四辺の色合はすっかり物悲しげに夕づいて見えた。そのトワイライトの中を風に吹かれて、オレンジ色の大胆らしく大股に遠ざかって行くのを見守っている中に、井深君はどう云うものか、ふと後をつけてみたい誘惑に囚えられたのである。……こんな風に云うと或は井深君を誤解する人があるかも知れない。併し実際は稀にみる温厚の士で、その年になって未だ茶屋酒の味はおろか、飯を食べに這入るカフェだって白粉の臭のしそうな家はひたに敬遠している程の井深君である。ただ、おそろしく気まぐれでその上並々ならぬ空想癖をもっていたために、それが偶々こうした思いがけない調子外れの行為となって現われる迄の事であった。
井深君は外套の襟を深く立て、ついていた蛇紋樹のステッキを小脇にかい込むやもう一町も先の方へ小さく薄れて行くオレンジ色のジャケツを追いかけ始めた。井深君は人並より背の高い方であったし、女の足の一町程ならば容易に取り返すことが出来た。が、そう早く追い付いてしまったところで、さてどうにもならない話なのである。井深君は少くとも五間の間隔を残して置かなければならなかった。娘はと云うのに、何も気が付かないらしい様で、無論そんな莫迦な事はあるべくもないのだが、とにかく決して背後に心を配るような素振なぞは見せもせずに真直に歩いて行く。そして何時の間にか、今しがたまであれ程派手で威勢のよかったのに引きかえ、後姿ながらひどく元気を失い如何にも悲しげな恰好に首や肩をまるまるとすぼめているのであった。
二人は間もなく山下町の河岸に出た。黒くよどんだ河水は乏しい街燈が凍えて映って暗く淋しかった。そして悪いことに到頭雪が降って来たのである。しびれを切らしていたような勢いではげしく降って来た。
井深君は、みるみる雪のために、帽子もかぶらないお河童の頭とオレンジ色のジャケツが白く塗れて行くのを眺めているうちに、少々変な気持がし出した。
(はてな! これは見損いをしたかな――)
だが、殆ど同時に娘もそれと同じことを考えたらしかった。そして俄に踵を返すと、まともに井深君の前へ立ちふさがった。
「?……」今にも泣き出しそうな子供の大きな眼で見上げた。
「今晩は――」と井深君は辛うじて云った。
「あたし、寒くて、それにお腹が空いて……」と娘はさもさもそんな風な声で云うのであった。
「何処か、この付近にいい家がある? それとももう一ぺん銀座迄戻りましょうか。」
「いいえ、この直き裏の通りにあたしの知っている家があるわ。」と娘は赤くかじかんでしまった指で指さしながら云った。
「そう、じゃ其処へ行きましょう。」
井深君は娘を連れてその家へ行った。狭い路地を這入ったところにある見るからに不景気そうな家で、青い花電気のさしている見世窓のガラスへ弓形にローマ字でカフェ・マンゲツとしるしてあった。
(マンゲツ……満月と云う意味かしら)
と井深君はそんな事を思い乍ら雪をはらって其処の二階へ上がった。お客は他に一人もなかった。それでも仕合せなことに、ガス・ストオヴが薔薇色の炎を輝し乍ら盛にたかれているのを見て井深君はホッとした。
「召上り物は?」
更紗の前かけをかけたひねこびたような女給が、二人がストオヴの傍の食卓へ着くのを待ってそう云った。
「何?――」と井深君は娘に訊いた。
「何でも――」と娘はつつましやかに答えた。
井深君は少しく勝手が違っているように思った。娘が「あたしの知っている家」と云った以上、そんな女給ともよく識り合っていて、食べ物は勿論万事さぞ気儘に振舞ってみせるだろうと考えていたのに、全くそうではなかったのである。そしてまた女給にしろ、娘に対してどんな特別な親しさをも、或は怪しさをも示さなかった。してみると、娘が知っていると云ったのは単にその家の所在を意味するだけのことらしい。二人は全くフリのお客に過ぎなかった。
そこで井深君は、自分でも未だ夕飯前だったので、兎に角あまり上等ではないその家の料理を娘につき合って食べた。娘はいかにもおずおずと振舞いはしたものの、彼女の胃袋は井深君の二倍の食慾をもってむさぼり食べた。井深君はその様子を決して不愉快ではない、むしろ或る愛情をもって観察した。年恰好は十六七位の見かけなのだが、それでも本当はもっと余計なのかも知れない。マシマロのように豊かな顔の輪廓に思い切り短く刈り上げてしまったお河童がちっとも不自然でなくよくうつっていた。目鼻立ちもわりに品があってそう悪くはなかった。殊に眼は、物を食べ乍ら時々見上げては極り悪そうに笑う眼は、睫毛が長く散りひろがって、少しばかりやぶ睨みで、ひどく子供っぽい表情になって可愛らしかった。だがさて着ているオレンジ色のジャケツは、銀座通りでひょっと見た時には随分花やかで立派だったのに、よく見るともうすっかり古びてしまって肩のあたりには大きな穴が三つもあいているのであった。(おやおや、これはひどい――)と井深君は何だか急に果無いものを見たような気がした。
やがて食事が終ると女給は張り合いの無さそうな挨拶をして階下へ降りてしまった。
「さあ、御飯がすんだら、少し火のそばで暖まろう――」
井深君はそう云い乍ら椅子をガス・ストオヴの前へ引き寄せた。
「ええ。」娘もおとなしく井深君の真似をした。
「君、外套がほしいだろう?……」と井深君は薔薇色をしたストオヴの中を見たままで云った。
「ええ。」
「五十円もあれば買えるかな?……」
「そりゃあ、買えてよ……」
井深君はそこで黙ってふところから沢山の紙幣束を呑んで大きく膨らんだ紙入を出すとその中から五枚の草色をした紙幣を引き抜いて傍のテェブルに置いた。しかし、娘はそれを見ると周章てて井深君の手をおさえて云うのであった。
「いらないわ、いらないわ。……あたし、そんなにはどっさり、あんたからは貰おうなんて思わないわ。……五十円なんて!――五円もあれば沢山。ほんとに五円もあればいいの……そうすればこの毛糸の上衣の穴が隠れる位の襟巻が買えるから。」
そうして娘は両手をジャケツの穴のところへ当てて、巧みに目ばたきをさせながら笑って見せたのである。井深君はそれを見ると一層ひどく可哀相になった。
「私が上げたくて上げるのだから、へんな風に遠慮なんかするものではないよ。ね、取ってお置き。」
「嫌。あたし、ほんとに要らないんですもの。……まあ、あなた! とてもいいネクタイピンをしていらっしゃるわね。」
娘は両手を肩に当てた儘、その肱をテーブルの上につき乍ら井深君の胸に目をつけてふとそんなくっ着かない事を云った。
「これかい?――」
「ええ。ダイヤモンドでしょう。あなた、なかなかおしゃれね。」
「――そんな事はどうだっていいじゃないか。それよりも早くこのお金をおしまいなさい。」
「嫌。あたし、そんなに沢山嫌よ。下さるのなら五円でいいの。」
「強情っぱりだね。けれども私だってもっと強情っぱりだ。どうしても取らなけりゃ承知しないよ。――なぜと云って、これには私としてみれば立派な理由があるのだからね……」そう云って、井深君は急に真面目な顔をした。
「理由?」
「うん。……君は今、私のタイピンの事を云ったね。このタイピンがその理由なのだ。まあ聞きたまえ。面白い話なのだから……」
「え、聞かして――」娘もちょっと面喰った様子で、井深君の顔とそのネクタイピンをば見くらべた。
「去年の春だよ。或る日、日が暮れたばかりでね、私はやっぱり銀座通りを散歩していた……」と井深君は両手の指を膝の上でくみ合せ乍らストオヴの方へ向いたまま話しはじめた。
「何時ものように、一っぺん新橋の橋の袂迄行き尽して、また引き返そうとした時だった。私はふとあすこの博品館の横手の薄暗がりの中に、ぼんやり立って、どうやら泣いているらしい恰度君位の背恰好の女の子の姿を見出したのだ。身形はと云うと、お河童で橙色のジャケツを着て――つまり、君の今のなりと同じようなのだね。悪く思っちゃいけないよ。大して変った風と云うわけじゃなし、同じ身形の人が一人や二人いたって、ちっとも不思議はないさ。――で、ともかく私はその女の子のそばへ行ってきいてみた。女の子はやっぱり泣いていた。そして、姉さんと一緒に銀座迄買物に来たのだが、はぐれてしまって、電車賃もないし、家へ帰れない――とこう云うのだ。……なぜ妙な顔をするのだね? そりゃあ、無論その女の子は嘘を吐いたのさ。併し、私はその時はそれを嘘だと思わなかった。その泣き乍ら物を云う様子は、どうしたって、私の心にそんな冷めたい疑いをさしはさめる程の余裕なぞ与えなかったのだもの。私はすっかり同情してしまって、その子に一円のお金を貸してやった。するとその子は非常に喜んでね。そうしてそのお礼にと云って、持っていた伊太利革の手提の中から一本のネクタイピンを――とり出すと、私がどんなに断っても、自分の手で私のネクタイにさしてくれると云い張って聞かないのだ。私はそれで為方なく、(何と云う無邪気な面白い子なのだろう……)と笑い乍ら、どうせそんな年のいかない女の子が持っているのだから、二十銭位のおもちゃかも知れないそのピンをさして貰うために、腰を屈めて首を差し出した。ところが、どうだろう。女の子はピンをさし終えるが早いか、突然いやに冷めたい手で私の両耳にぶら下がると、私の唇に接吻して、どんどん暗やみの方へ逃げて行ってしまったではないか。私は呆気に取られて茫然としていた。……ところが、それから暫くして気が付いたのだが、私はその女の子のためにふところの紙入を掏られていた。つまり、一本のネクタイピンと素早いキスの代価をうまうまと支払わせられたわけになるのだね。……が、それはそう企んだ先方のとんだ見当違いでね。と云うのは、お恥しい話だが、私はその頃或る事情で甚だお金に困っていた。それで紙入にお腹を空かせて置くのも私の性分でへんにみっともない気がしたので、新聞紙をお紙幣の大きさに切ってどっさり入れて置いたのだよ。本物のお金と来たら五円も入っていなかったろう。……いいかね。そして、それに引きかえて、二十銭位だろうと思ったネクタイピンは後でしらべてみると、どうして立派な物で大丈夫五十円の値打はあると云う品物だった。……尤もその女の子だって、何れもともとは何処からか不当な取引で手に入れたのだろうから、それ程高価な品物とは気が付いていなかったかも知れないのだが。……それにしても、私はどうも気の毒でならないのだ。私にはどうしてもあの女の子がそう大外れた悪者とは思えないのだがね。あんな無邪気らしい――と云っても何分暗かったので顔は到頭はっきり見る事が出来なかったのだけれども。ひどく冷めたい手をしていた事だけは覚えている。一体手の冷めたい人間と云うものは、西洋の小説なぞにもよく書いてあることだが、たいてい内気でおとなしいものだ。屹度付近の物蔭にあの子を操っている悪い奴が隠れていたのに違いないと思う。……話と云うのはそれだけだよ。で、つまり私はその時以来、このネクタイピンに対する相応の代価を、その女の子に遇ったならば返してやろうと心がけていたのだ。だが、それはどうも無駄らしい。もう時日も大分経ってしまったし、そうかと云って、警察に頼める性質のものではなし、それに第一肝心なその子の人相が私自身にすらはっきりと見とめられてはいなかったのだから。……そうしてみれば、その子に、たとい身なりだけなりと似通っている君に、――そしてまた、変な事を云うようだが、その子だってどうせ銀座辺にそうしていたのだから、やっぱり君たちの知合かも知れない――その君に、この五十円を上げるのは満更無意味でもなかろう。……どうだい?ね、わかったろう。だから、遠慮しないでこれを全部持って行く方がいいよ。」
井深君は、そう語り終えて娘の方を見た。
すると、おどろいたことに、娘は両手を顔におし当てて、シクシクと泣いているではないか。そして泣きじゃくりながら云うのである。
「――あたし、……あたし……なんて悪い子なんでしょう。……すみません、すみません。あなたみたいな良い方にそんな事をするなんて……」
井深君はびっくりした。
「おや、君は何を云い出すのだ? 何を泣くんだ?……」
「あたし……あたしがその悪い子だったのよ。」
「え、君が⁈」
井深君はハタと当惑した。なぜと云って、井深君の今話して聞かせたのは、便宜上、そして無論揶揄半分の気持も手伝って喋った全然根も葉もない井深君一流の作り噺だったのだから。タイピンは、つい一月程前に新しく買ったものである。
(どこまでも途方もない小娘なのだろう……)
遉の井深君も呆れ返ってしまった。が、なんぼなんでも今更自分でそれをぶち壊わすわけにも行かない。井深君はまるで魔法にでもかかったような頼りない気持で娘の肩に手をかけて云ったのである。
「――もういい。もういい。泣くのはお止し。私は最早や何とも思ってやしないのだから。……いや、それどころか、今も云った通り私はむしろ気の毒にさえ感じていたのだ。」
「すみません。すみません。……あんた本当にいい方ね。あの時だってそう思ったのだけれど。……だけど、あの時のあたしの顔を思い出せないなんてないわ。ねえ、あたしだったでしょう?……あたしの顔、よく見て。ねえ、もっとそばでよく見てちょうだい。……」娘はそう云い乍ら目や鼻や顔が涙ですっかり濡れ輝いている頬を井深君の顔のすぐ前まで持って来た。そして井深君の両手をつかんで、
「それから、あたしの手? ね、ほら、冷めたいでしょう。まるで氷のようだわ……でも、今は冬だから当にならないこと?……」
「うん、……ほんとに、君だったかも知れない。いや、全く君だったようだ。」と井深君はほとほと弱って云った。「しかし、そう判ったらなおのこと結構だ。このお金は当然君の物と云えるわけだ。だから早く蔵いなさい。私はもう帰らなければならないのだよ。」
「嫌だわ、あたし、嫌だわ。あたしはもう五円のお金だって欲しくないの一銭もいらないの……」
「これ程事の道理がはっきりわかってもかい? 何という聞きわけのない子だろう!」
「どうしても嫌だわ。なんでもかんでも貰わなければいけないのなら、いっそそのネクタイピンを貰うわ。」
「莫迦な、こんなピン十円にもなりやしない……」
「あら! でも、あんた、今五十円位するってそう云ったでしょう。」
「うん、それは、併し、買値の話だよ。売るとなるとなかなかそうはいかない。」
「あたし売りやしなくってよ。だから、それをちょうだい。」
「わからずやの子だね――」
井深君はそれでも為方がないので、タイピンをば取って娘に渡した。
「まあ、素敵!……ちょいと、あたしにだって似合うでしょう。」
娘は心から喜ばしそうに、そのピンを橙色の胸にさして、ちょっとポーズをしてみせながら明るい蓮葉な声で笑った。
「さあ、ほんとにそれでいいかね。……それでは、それでいいものとして、私はもう帰るよ。」
「待って。あたしも帰るわ。」
それから二人はその家をカフェ・マンゲツを出た。おもてには雪がさかんに降りしきっていて地べたはもう隙なく塗りつぶされてしまった。二人とも傘がなかったので、再び雪に塗れ乍ら電車道まで歩いた。娘のお河童頭とオレンジ色のジャケツとは忽ち真白になった。
(あんなタイピンなんか貰うよりも、なぜ外套でも買うことをしないのだろう! 考えれば考える程へんな娘だ――)
井深君は娘のその痛々しい有様を何とも云えない心持で眺めたのであった。
電車道に出ると、ふと娘は立ち止まった。そして、ひどく愁しそうな顔をして井深君を見上げて云ったのである。
「あたし、やっぱりお返しするわ、このピン……」
「うん、それがいい。それがいい。そして、やはりお金を持っておいで――」
井深君は、ほっとした気持で、直ぐ外套と上衣の釦を外してふところに手を差し入れた。すると娘はあわただしくそれを押え止めて、
「嫌よ、嫌よ。お金なんか!……あたし、つまんないわ。」と殆ど泣きそうな声でそう云うのである。
「だって、それでは可笑しいじゃないか――」
「いいの。その代り、お願いがあるのよ。このピンを、もう一っぺん私の手であなたにささせて下さらないこと?……おいや?」
「ちっとも嫌なことはないが、しかし……」
「有難う!」
娘はちょっと背延びをし乍ら、井深君の首に片腕を巻きつけて、そしてそのタイピンをさした。それからそれが済むと、両手で井深君の耳をひっぱって、井深君に雪だらけの目と鼻と口とで接吻するが早いか、「サヨナラ!」と叫んで、威勢よく雪の中を駆け出して消えてしまったのである……
* * *
「……僕は、それで呆然としてしばらく其場に佇んでいた。……」と井深君は鳥渡言葉を切って、軽い溜息を一つ吐いた。
「なんだ。それでお終いかい? いやはや! 僕たちは何も君のローマンスを聞く筈ではなかったのだが――」と聴き手の一人が苦情を申し立てた。
「それでお終いにしてもいい。――それだと、それっきりだと誠に可憐でいいではないか。……が、残念なことに未だ少しあとがある。……それは、なぜ僕がその場に雪だるまのようになり乍ら呆然と立ち尽してしまったかと云うことだ。君たちに解るかね?」
「なぜだ?」
「つまり、僕は自分の愚しい思い付きの嘘から、そのオレンジ色の娘に如何にして僕のふところの紙入を盗み取るかを教えてしまったからさ――」
「なる程!小娘のために見事にしてやられたのだね。……が、ところで、どっこい、その紙入の中はまた古新聞の束ばかりだったと云うのだろう! こいつあ傑作だね。は、は、は、は……」と始終探偵小説ばかりを愛読している友がしたり顔に云って笑った。
「いやいや、早合点をしてくれては困る。それ程あくどい洒落ではない。――それに、そんな酷い細工をするには、相手はあまりに可愛らしい好い子だった。ざっと二千円。紙入の紙幣は全部本物だったよ……」井深君はそう云って口を噤んだ。
「すっかり本物だって? 二千円!……」不思議な不安の影が居合せた人々の顔に行き渡った。
井深君は、そこでこうつけ加えた。
「諸君、そんなに妙な顔をするものではない。紙幣は正しく全部本物だったが、安心したまえ。――この話全体は僕が考え出した嘘なのだから。」 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1927年3月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年9月14日公開
2007年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000883",
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1
倫敦の社交界に隠れもない伊達者ヘンリイ・ウォットン卿はたまたま、数年前にかの興奮から突然姿をくらまして色々と噂の高かった画家ベエシル・ハルワアドを訪れた。そしてその東邦の数奇を凝らした画室の中央に立てかけられて、完成しかけている一青年の肖像画の、比ぶべきものもなく思われて美しい面影に驚嘆した。
『象牙と薔薇の葉とでつくられたアドニス……』とヘンリイ卿は云った。『美は真実の美しさは、知識の萠しと共に亡びるものだ。知的であることはそれ自身ひどく大袈裟で、そして如何なる容貌の調和をも破壊してしまう。ところが、この絵に描かれた君の不思議な若い友達と来ては滅法素敵だ。彼は全く無心だ。彼はまるで何か無知な美しい生物のようにも思えるではないか。……ドリアン・グレイと云うのだね?――紹介してくれ給え。』
『ドリアン・グレイは僕の最も親しい友だ。』と画家は憂わしげに云うのであった。『それにこの上もなく純粋で優雅な気質を持っている。彼の素直な生まれつきを、君の不逞な影響で害ねないでくれ、世間は広いのだから、沢山の素晴しい人々がいるに違いない。どうぞ、僕の芸術がもつ程の総ての魅力を与えてくれる唯一の存在、云い代えれば僕の芸術家としての全生命が只管懸けられているところの彼を僕から奪い去らないでくれ給え。解るだろうね、ハアリイ、僕は君を信ずる。』
2
ドリアン・グレイはモデル台に上って、若い希臘の殉教者のような姿勢をしたまま、ヘンリイ卿の雄弁に耳をかたむけた。ヘンリイ卿の声には妙に人を惹きつける響があった。ヘンリイ卿はこの若者の世にもめでたき美貌を惜しく思った。そして、人生と幸福とについて新らしい見方を教えた。それは計らずも、ドリアンの心の奥なる、曾て触れられたこともなかった秘密の琴線に鳴りひびいたのである。
『――誘惑に打ち勝つ唯一の方法は、それに従うことだ。何故と云って、禁制のものを願う慾望は徒に人間の魂を虐げるばかりだから。……魂を癒すものは感覚に他ならないし、感覚を癒すものは魂に他ならない。これは人生の大きな秘密だ。……ああ、君のおどろくべき美しさ! 君の燦しい青春こそは、日光の如く、春の日の如く、月の如く、全世界を魅惑することが出来るであろう。……併し、青春は再び帰らない。やがて、我々の肉体は衰え、感覚は枯れる。そして過ぎた日に素晴しい誘惑に従う勇気を持たなかったことを後悔しはじめるであろう。ああ、青春! 青春! 現世には青春以外の何ものもない。』ヘンリイ卿の言葉は、まことに狡猾極まる魔法にも等しかった。如何に明快に活々と、しかも残酷にドリアンの童心は鞭打たれたであろうか。ドリアンは俄かに人生が彼に向って火の如く燃え上がるのを感じた。
3
『さあ、すっかり出来上った。』とベエシル・ハルワアドは絵筆を措いて云った。
『ドリアン、今日は珍しくじっとしていてくれたものだね。有難う。』
画家は、ドリアンとヘンリイ卿との間にどんな会話が取り交されたものか、少しも気がつかなかった程、為事に心を奪われていたのである。
『それは僕のお蔭さ。ねえ、グレイ君。』とヘンリイ卿が云った。
ドリアンは黙って絵の前に立った。見事に刻まれた唇、青空の如く深く晴れやかな瞳、豊かな金色の捲毛、ドリアンは自分の美しさに初めて堪能した。が併し、その絵姿が美しければ美しい程、云いようのない愁しみの影が心の底に頭を擡げて来るのをドリアンは気がついた。
『僕は永遠に亡びることのない美が妬ましい。僕は僕の肖像画が妬ましい。何故それは、僕が失わなければならないものを何時迄も保っていることが出来るのであろうか。若しも、その絵が変って、そして僕自身は永久に今の儘でいることを許されるのだったならば! その絵はやがて、僕を嘲うに違いない――何と云う恐しいことだろう。』
ドリアン・グレイは泪を流して、恰も祈りでもするかのように椅子の中に身を沈めた。
『これはみんな君のした事だ。』と画家は痛々しげに云った。
へンリイ卿は肩をゆすった。
『これが本当のドリアン・グレイなんだ。』
4
ドリアンは、今や人生のすべてを知り尽したい慾望にかられた。
ドリアンは公園の中を漫ろ歩くにしても、ピカデリイを散歩するにしても、行き交う人々の顔をいちいち、彼等が一体どんな生活を営んでいるものかと怪しみながら、狂いじみた好奇心でながめた。それらの或る人々は彼を惹きつけたし、また或る者は彼を恐怖せしめた。空気は微妙なる毒に漲っているように感じられた。彼は何かしら異状な出来事を待ち憧れた。
そして、或る夕べの事、ドリアンはふと思い立って醜悪な犯罪人と華麗な罪悪とにみち溢れた灰色の怪物倫敦の下層区を探険するべく出かけた。危険はドリアンにとってはむしろ快楽であった。ドリアンは当もなく東の方向を択んで進む中に、忽ち陰気な薄暗い街の中へ迷い込んで、やがて小さな立ちくされた芝居小屋の前に出た。そしてゆらめく瓦斯の光とベカベカな狂言ビラとにドリアンは足を止めた。そこの入口のところには奇妙な胴衣を着た卑しげな猶太人が粗悪な葉巻を燻らして立っていたが、ドリアンを見ると、『閣下どうぞお入り下さいませ。』と云って、うやうやしくドリアンの帽子をとって中へ招じ入れたのである。
出し物は、『ロメオとジュリエット』である。
南京豆ばかりを食い散らしている下等な見物人と、おそろしいオーケストラとは、遉のドリアンも堪え難かった。が、さて幕が開いてうら若いジュリエットが姿を舞台に現わすに及んでドリアンは思わず歓声を洩した。
5
やっと十七八らしいその可憐な花の如き女優は、ドリアン・グレイがこれ迄に見た如何なるものに優って愛らしかった。暗褐色の髪を振り分けに編んだ小さなギリシャ型の頭や、情熱の泉のような菫色をした瞳、それに薔薇の葩の如き唇、ドリアンは泪のために娘の顔が見分け難くなる程感動した。そしてまたその声は、やわらかな笛の音のように、或るいは夜明け前の鴬の唄声のように、やさしく澄んでいるのだった。
ドリアンは、生れてはじめて身も世もない恋慕の思いに胸をかきみだされた。彼女の名前をシビル・ヴェンと云った。
ドリアンはシビル・ヴェンを忘れかねて、それから毎晩、その怪しげな芝居小屋へ通った。
三日目の晩にドリアンは、恰度ロザリンドに扮した彼女へ花を投げた。そしてその幕が済んだ後で、彼は猶太人に導かれて楽屋へ通った。
シビル・ヴェンは未だ初々しい内気な娘であった。彼女はドリアンが彼女の芸を称讃するのをばただ不思議そうに眼を瞠って聞いていた。彼女のその様子には自分の力量を意識しているようなところが少しも見えなかった。彼女はおずおずとドリアンに云った。
『あなたは王子さまのようでいらっしゃいますのね。これからプリンス・チャーミングと呼ばせて頂きますわ。』
彼女もまたそんな職業や生活ではあったが、人生については全く無智な子供に過ぎなかった。
6
シビルはメルボルーンへ向けて航海しようとしている弟のジェームスと共に明るい日ざしの中をユーストン通りの方へ歩いていた。
『その人は、プリンス・チャーミングって云うの。ねえ、随分すてきな名前じゃなくって? お前だって一目その人を見たなら屹度その人が世界中で一番立派な人だと思えるに違いないわよ。誰でも、みんなその人を好きだし、それにあたし……あたしその人を愛しているの。ねえ、ジム、恋をしながらジュリエットの役をするなんて、なんて幸せなことなんだろう。』
『男には、とりわけ紳士と云う奴には気をつけなくちゃいけないよ。』とジェームスは云った。
『ジム、もうあきあきしたわ、そんな事。おっつけお前が誰かと恋に落ちた時に、はじめて解ることだわ。』その時だった。彼女は思いがけもなく二人の貴婦人と共に馬車を駆って過ぎるドリアン・グレイの金髪と笑いかけた唇とを見つけた。
『ああ、あすこにプリンス・チャーミングが!』
と彼女はとび上った。
『何処に?』とジムはびっくりした。『どれ、どの人だ。見覚えて置かなければならない。』併し、馬車は早くも雑踏の中に疾り去った。『残念なことをした。――僕はそいつが姉さんに悪いことでもしようものなら必ず生かしちゃ置かないつもりなのだから。僕はどんなにしてもそいつを探し出して犬のように刺し殺してやるぞ!』ジムはそう云いながら幾度も短剣をつき刺すような恰好をしてみせた。
7
ヘンリイ卿とハルワアドは、ドリアン・グレイからシビル・ヴェンとの恋を打ち明けられて少からずおどろいた。
それで二人は一夜、ドリアンに案内されてその裏町の見窶しい劇場へ見物に出かけた。その晩はどうしたものか満員で、暑さのために上衣も胴衣も脱いだ見物人たちが劇場を縦横に呼び交し合っていた。また酒場の方からはさかんにコルクを抜く音が聞こえて来た。
『女神もいいが、これはまあ、とんだ所ではないか!』とヘンリイ卿は云った。『併し彼女が舞台に現われさえすれば、あなたはすべてを忘れてしまいます。』とドリアンは云った。『どんな不作法な見物人達も悉く鳴りを静めておとなしく彼女に見とれるのです。そして彼女は、自分の思うままに、見物人を泣かせもし、笑わせもするのです。』十五分の後に遂にシビル・ヴェンはわれるばかりの喝采と共に舞台にその姿を現わした。
如何にも彼女は今迄見たどんな女よりも美しい――とヘンリイ卿は思った。――が、それにしても、何と云う拙い芸なのであろう。こんな冷淡なジュリエットがまことあるであろうか。彼女はロメオを見ても少しも悦ばし気ではなかった。彼女の声は良いには違いなかったが、全く調子を外していた。ドリアンの顔色は真蒼になった。
ああ、このおどろくべき失態は一体どうしたと云うのだろう。彼女は病気なのかも知れない。見物人は総立ちとなって、床を踏み、口笛を吹き鳴した。
ヘンリイ卿とハルワアドとは堪えかねて、ドリアンを残したまま、先に帰って行った。
8
ドリアンの心臓は無残に引き裂かれた。彼は最後の幕が降りるや否や楽屋へ走り込んだ。
娘は彼を待っていた。『ねえ、今晩は随分あたし拙かったでしょう。ドリアン。』『おそろしく! おそろしく拙い。まるでなってやしない。あなたは病気ではなかったのか。あなたはそんな平気な顔をして。僕がどんなに苦しい思いをしたか……』『ねえ、ドリアン、解って下さるでしょう。』と娘は微笑んで云うのであった。『あたし、これからも、決して上手な芝居はしないのよ。何故って、あたし、あなたにお会いする迄は芝居だけがあたしの本当の生活だったのよ。そして、ベアトリチェの喜びはあたし自身の喜びであり、コルデリアの悲しみはとりも直さずあたしの悲しみだったの。絵具を塗った画割があたしの住む世界でした。ところが、そこへあなたが美しいあなたが現われて、あたしにはじめて影ではない真実の物の姿を見せて下さいました。』
ドリアンは顔をそむけて嘆息した。
『あなたは僕の恋を殺してしまった。僕があなたを愛したのは、あなたが僕の幻想を呼びさましてくれたからだ。大詩人の夢を再現し、その芸術の影に形と実質とを与えてくれたからだ。それをあなたは、見事に打ち壊してしまった。何と云う浅墓な愚かな娘であろう。僕はもう再びあなたも、あなたの名前さえも思い出すことはあるまい。』
ドリアンは、そう云い捨てると泣き沈んでいるシビルを残して立ち去った。
9
――真実であろうか。肖像画が変化を生ずるなんて、そんな事実がこの世に有り得るであろうか。それともそれは単なるたあいもない幻想がその朗かであるべき容貌をひょっとして忌しいものに見せたに過ぎないのだろうか。……だが、それはあまりにまざまざとしていた。最初は覚束ない薄明りの中で、次には輝しい曙の光の中で、ドリアンはれいのハルワアドの画いた肖像画の歪んだ唇の辺に漂う冷酷な蔭を見たのであった。彼は恐しかったが、併し、それをもう一度確めなければならないと考えた。そこで彼はひそかに部屋にこもって、その肖像画の前に立った。そして恐る〳〵絢爛たるスペイン革の覆いを除けて、彼自身の姿と向き合った。果して、それは幻ではなかった。肖像画は明らかに変っていた! 彼は慄然として長椅子に身を落としながら、その画像を云い知れぬ恐怖を以て瞶めた。彼はシビル・ヴェンに対して如何に無慈悲で残酷であったかを思い出して慚愧の念に心を噛まれた。彼はあらためてシビルと結婚したいと思った。それで程なく訪ねて来たヘンリイ卿の顔を見ると、直ぐにその決心を打ち明けた。するとヘンリイは額を曇らして云った。
『君の妻だって⁈ ドリアン! では君は僕の手紙を未だ見なかったのだね?』
『手紙? そうそう、ごめんなさい。未だ見ずにいました。』
『シビルは死んだ。』とヘンリイ卿は云った。
『昨夜十二時半頃あやまって毒を、青酸か何かを飲んだらしいと今朝の新聞に出ていた。』
10
ベエシル・ハルワアドもまたシビルの死を知ったのでドリアンを訪れた。そして、ドリアンの口から彼女の死が自殺であることを聞かされて、彼のあまりにも冷酷な振舞いをいたく心外に思った。『だが、ドリアン。』と彼は悲しげな微笑を浮かべて云った。『もうこれっきり、この恐ろしい事件について語るのを止そう。僕はただ君の名が、それに拘り合いにならなければいいと思うのだが。『大丈夫。』とドリアンは答えた。『ただ洗礼名だけだが、それだってシビルは誰にも話さなかったに違いない。彼女は僕の事を何時もプリンス・チャーミングと呼んだ。却々可愛いではないの。……そこでベエシル、彼女の僅かばかりの接吻と口説との思い出に、一つ彼女の姿を画いてはくれまいか。』『お望みとあらば、画いてもいい。但し、それには矢張り君自身がモデルになってくれなければいけない。』『それは困る!』画家は吃驚した。『君は僕の画いた絵を好まないとでも云うのか? あの絵はどうした? どうして、君は、その様な覆いをかけて置くのだ? 見せ給え。』
ドリアンは恐しい叫びを上げて画家の前に立ち塞がった。『いけない! 断じて! 強いて見ようと云うならば僕達の間はもうこれ迄だ!』
『ドリアン!』
『黙り給え!』ドリアンは頑強に拒んだ。
そして彼はその日の中に、その肖像画を階上の廃れた勉強部屋にこっそりと移してしまった。
11
幾許かの歳月が流れた。併しドリアン・グレイの容色の煌しさはさらに衰えを見せなかった。そして倫敦中の社交界や倶楽部なぞに於て、彼の身の上に関する最も不名誉な怪しむべき噂を耳にした人々でも、一度彼を見てはその誹謗を信ずることをやめた。彼こそは常にこの世の如何なる汚れにも染まらずにいるように思われたからである。彼の姿は人々の心の中に曾ては自分たちも持っていたところの純情を思い出させた。ドリアンは屡々姿を晦ました。さまざまな憶測は概ねそんなことに生まれた。そして長い不在から帰って来ると、ドリアンは必ず秘密の部屋へ通ずる階段を上って行った。部屋の鍵は何時も肌身を離さなかった。ドリアンは其処で、ベエシル・ハルワアドの画いた己れの絵姿と向き合って、更に鏡の中に本当の自分の姿を映して見比べているのであった。まことに驚くべきその対照は彼の感覚を無上に楽しませた。彼は自分の美貌に見惚れれば、更に一層深く自分の魂の堕落に興味を覚えたわけである。彼は丹念にあらためながら、時にはひからびた額に刻まれた険悪な皺や、陰欝な口の辺に生々しく這う線に不気味な凄惨な悦びを味い、また時にはそれらに表われた罪悪の徴と歳月の痕と、果して何れがより恐しいかと訝しむこともあった。
善美を尽した宴と、香わしい夜の部屋と、変装の冒険と、波止場の怪しげな旅籠の一室とにドリアン・グレイの不思議な生活は続いた。
12
それは九月九日、ドリアンの第三十八回目の誕生日の夜の事であった。
ドリアンはヘンリイ卿の晩餐に招かれてその帰りがけに、霧深い町角でゆくりなくもベエシル・ハルワアドと出逢った。画家は今迄ドリアンの邸で彼の帰りを待っていたのだった。画家は、製作のために夜中の汽車で巴里へ立ったのだが、その前に是非とも彼に話さなければならないことがあるのだと云った。そこでドリアンは止なく画家を伴って帰った。既に晩かったので召使等は寝ていたが、ドリアンは自分で鐉を外して入った。
『話と云うのは君自身に関することだ。』とベエシルは云った。『今やロンドン中に於ける君の評判は君自らも勿論知っているに違いないと信ずる……』ドリアンは溜息を吐いた。
『知り度いとは思わない。他人のことならいざ知らず、自分の醜聞を愛する奴はたんとは、あるまいよ。』
『すべて罪悪と云うものは必ずそれ自身を当事者の面に表現せずにはいない。断じて隠し了せるものではない。それだのに君は、実に浄らかな燦かな玲瓏たる紅顔を何時迄も保っている。どうして君に対する忌しい取沙汰なぞを信用出来ようか。だが併し、それでは例えばバアイック公爵を初めとしてその他の多くの名流の紳士達が君と同席することを嫌うばかりでなく交わり迄を断とうとするのはどうしたことであろう?……それにまた僕は実際君と一時親交のあった多くの青年紳士や貴婦人達が何れも同じように世にも不幸な破滅を遂げたことを知っている……』
13
『……僕には君の真実が解らない。僕が君の魂を見たい。』と画家は云った。『僕の魂を見る⁈』とドリアンは呻いた。『そうだ。併し、それは神様でなければ出来ないことだ。』と画家は愁しげに云った。鋭い侮りの笑い声がドリアンの唇から洩れた。『君は今晩そいつを見ることが出来るよ。僕は君に自分の魂を見せてやろう。』『ドリアン、君は何と云う恐しいことを云い出すのだ!』と画家はひどく驚かされた。『いいから僕について二階へ来給え。僕の今迄の一切を記した日記がしまってあるのだ。』二人はそこで足音をひそめて真暗な二階へ上って行った。仄暗いランプの光は壁や階段に奇怪な影を浮かせた。窓は夜風に鳴っていた。『さあ、うしろの扉を閉め給え。』とドリアンは古い部屋の冷たい夜気に肩をふるわせながら云った。
画家は訝しげに部屋の中を瞶めた。埃にまみれた椅子や机や空になった本函や色褪せたフランダース風の壁掛なぞの間に混って、かけられた一枚の絵が彼の目を惹いた。『神様だけが見ることの出来る僕の魂とはそれだ。ベエシル、カーテンを除け給え!』ドリアンにそう命ぜらるるままその帷を開いた画家は思わず恐怖の叫びを上げた。それは正に彼が描いたドリアンの姿に相違なかった。ああ、併し、何と云う激しい変り方であろう! 画家は醜いドリアンの顔に戦慄すべき無残な悪魔の面影を見とめた。だが、ドリアンの魂の秘密を知った画家は、次の瞬間背後から窺い寄ったドリアンの鋭い刃を首筋に受けて其場に昏倒した。
14
翌朝、陽はうらうらと晴れ、九月の青空は明るかった。ドリアンは朝の珈琲を飲んだ後に手紙を二通したためた。そして一通をポケットに収め一通は召使を呼んで渡した。『これをハートフォド街百五十二番地のキャンベル氏へ届けてくれ。』ドリアンはそれから時計を幾度となく眺めながら部屋中を歩き廻った。彼の胸は堪え難い不安と焦慮のためにかきむしられた。到頭青年科学者アラン・キャンベル氏がやって来た。『アラン! 親切なアラン! よく来てくれた。』と待ち兼ねたドリアンが云った。『僕は再び君の家の閾をまたぐまいと固く決心したのだったが……』とアランは答えた。
『僕の生死の問題だ。そんなことを云わずとこの願いを聞き届けてくれ……』そこでドリアンは、昨夜自分が殺人を行って、その死体は二階の秘密の部屋に隠してある旨を打ち明け、そしてそれをば化学の力で巧みに処理して欲しいと頼んだのである。『いやだ! 御免を蒙ろう。』アランは顔色を変えて叫んだ。『どうしても不承知と云うのか?』『絶対に!』『よし……』ドリアンは憫笑を浮かべながら黙って紙片に何事かを書いて、それをアランに渡した。アランは紙片を読んで狼狽した。『あく迄嫌と云うならばお気の毒だ、もう一通の手紙は此処に書いて持っている……承知してくれるね。二階には瓦斯の火もあれば石綿もある。また必要な薬品なぞは一切使いをやって買わせればいい。二人の間の永遠の秘密だ……』
15
その夜ドリアンはナルポウロ家の夜会に出席したが遉に心は鉛の如く重たく沈んで少しも浮き立たなかった。遂に居堪まらなくなって、ヘンリイ卿やその他の人々の引き止めるのを振り払うようにして席を外した。そしてボンド街で二輪馬車を拾うと、夜更けの街を一散に疾駆させた。月は低く懸って恰も黄色い頭蓋骨のように見えた。時々大きな黒雲がむくむくと長い腕を伸してそれを包んだ。やがて街燈の数も乏しくなり街は次第に狭く荒廃し陰惨になって行った。『魂は感覚に依って慰められ、感覚は魂に依って慰められる――』波止場の辺でドリアンは馬車を乗り捨てた。そして廃れた工場の間に挾まれた小いさな汚れた家へ入った。そこは阿片窟である。阿片の強烈な匂によろめきながら暗い小部屋へ入ろうとしたドリアンは、ランプの上に屈んでパイプへ火をつけようとしている一人の友と会った。ドリアンは誰も自分を知った者のいないところでたった一人になりたかったので直ぐに其の場から逃げ出そうとした。すると酒場のところに居合せた窶れ果た女がドリアンに呼びかけた。『プリンス・チャーミング!』この声を聞いて今迄部屋の隅のテーブルに突伏していた一人の水夫が突然その顔を擡げた。そうして憤怒に燃えた眼射で四辺を眺め廻したが、扉が閉まる音を耳にすると、矢庭に跳び上がって恰も追跡するかのように戸外へ飛び出した。
16
ドリアン・グレイは波止場に沿って、ビショビショと降り出した雨の中を急いだ。彼は阿片窟で会った若い友の悲惨極まる運命もまたベエシルの云った如く自分に関りがあるのだろうかと思い返した。彼は唇を鳴した。彼の眼はほんの少しの間悲し気に曇った。だが、結局それだからと云って如何なるものでもないではないが……彼は一層足を早めて、そして近道をするために薄暗い拱路へ入った。するとこの時何者かが矢庭に背後から彼を引っつかむと、彼が抗う暇もなく兇暴なる腕は、彼の首をしめつけたまま忽ち壁に向って押し戻した。彼は必死になって踠いて漸くその恐しい指を払い除けることが出来たが、今度はピストルの金具の鳴る音を聞き、そして彼の頭を真直ぐに狙っているギラギラ磨かれた銃口とずんぐりとした汚れた男の顔と向き合った。
『何をするんだ?』とドリアンは喘いだ。『静かにしろ!』と男は云った。『貴様はシヴィル・ヴェンを殺した。俺は彼女の弟だ。俺は復讐を誓って十八年もの間お前を探し求めていた。』『十八年?』ドリアンの蒼ざめた顔に勝利の色が浮んだ。『十八年! 僕を明るい灯の下でしらべて見給え。』そこで水夫はドリアンを拱道から出して、風に揺ぐ街燈の下でその顔をあらためた。ところが彼が見とめ得たのは二十才にも満たない紅顔の美少年だった。水夫は愕然とした。『旦那、どうぞ許しておくんなさい。私はとんでもない間違をするところでしたよ……』
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『ピストルを蔵って家へ帰り給え。さもない時には君の為にならないぜ。』ドリアンはそう云うと、踵を返して静かにその場を遠ざかって行った。ジェームス・ヴェンは恐しさのあまり甃石の上に立ちつくした。彼は爪先から頭の天辺迄慄えていた、しばらくすると其処の濡れた壁にへばり着いていたような黒い影が明るみの中に現われて、こっそりと彼に近寄って来た。それは阿片窟の酒場にいた女の一人であった。『何故彼奴を殺さなかったんだい?』と彼女は声をひそめて云った。『妾はお前が彼奴をつけているのを知っていたんだよ。何と云う馬鹿だろうね、お前さんは。殺せばいいのにさ、彼奴は何しろしこたまお金を持っている上に、またひどい悪なんだからね。』『人違いだ』と彼は答えた。『俺は金なんぞは欲しくねえ。俺の欲しいのは男の命だ。そいつはどうしたってもう四十近い年輩の筈だ。あんな小僧っ子じゃねえ。だが、血を流さなかったのは全く神様のお蔭よ。』女はけたたましい声で笑った。『小僧っ子だって? 冗談じゃないよ。プリンス・チャーミングが妾をこんな目に遭せてからざっと、もう十八年からになるんだからね。』『嘘を吐け!』とジェームスは叫んだ。『神様かけて!』『誓うのか?』『誓うともさ。』彼は凄じい唸声と共に街角へ走った。併し夙にドリアンの姿は暗にまぎれて消えていた。そして後を振り返った時には女の姿もまた消え失せていた。
18
それから一週間程して、ドリアンはセルビイ・ロイヤルの植物室で、そこの硝子窓に白い手巾の如くに貼りついて彼を瞶めているジェームス・ヴェンの顔を見出して気を失って倒れた。それ以来ドリアンはことごとに怯かされた。彼は終日部屋に身をひそめていた。風の動く壁掛の影にも戦いた。眼を閉じさえすれば、霧に曇った硝子窓から覗き込む水夫の顔を見た。云い知れぬ恐怖が彼の心臓をつかんだ。その上また彼が犯した血塗れの罪悪は暗い部屋の隅から絶えず彼に呼びかけ、彼を嘲笑い、そして氷のような指で彼の眠りを揺り起した。彼は蒼ざめ、果は狂気の如くに泣いた。併し彼は強いて覚束なくなりかけた心と争った。彼は取るにも足らない良心の脅迫を軽蔑したかった。朗らかに晴れて松の香の漲った冬の或る朝、彼は久し振りで馬を駆って狩猟の仲間に加った。空気は香り高く、森は赤と鳶色の光に輝き、勢子のどよめき、鋭い銃声は新鮮な自由の歓びに充ち溢れていた。ドリアンは気も軽々とモンマウス公爵夫人の弟のジョフレイと並んで進んだ。
突然彼等の前方二十碼程のところの草むらが揺れたかと思うと、一匹の黒い耳の兎が飛び出した。ジョフレイは素早く銃を肩に当てがってそれを覗った。『待ち給え!』と我ともなくドリアンは叫んだ。だが既に遅かった。二つの叫び声が聞えた。兎のそれと、凄じい人間の悲鳴とであった。
19
ジョフレイ氏に依って撃ち殺されたのは他ならぬジェームス・ヴェンであった。ドリアンはそれと知って身を慄わした。ドリアンは倫敦を去って静かな田舎にかくれた。そこの小さな宿屋の一室に籠って、新しい生涯の第一歩を踏み出し度かった。ドリアンは美しい村娘のヘテイと恋に落ちた。彼女はまるでシビル・ヴェンの如くに優しく愛らしかった。ドリアンは真実ヘテイを愛した。到頭二人は或る日林檎の畑の中で明日の夜明けに手をとりあって村から逃げ出す約束までした。併し、ドリアンは娘の身の幸せを考えて娘を置きざりにしたままひそかに倫敦へ帰った。『……僕は彼女を矢張り何時までも花の如き娘として残して置き度かったのだ。』とドリアンはその話をヘンリイ卿に打ち明けた。
『物語風の動機が君に悦びを与えただけの話だね。』とヘンリイ卿は笑った。『君の生活改善なるものも甚だ怪しい次第さ。彼女は君の善き忠告に依って無残に胸を引き裂かれたことだろう。』『そんな莫迦な! 勿論彼女は泣いた。併し彼女は汚れてはいない。彼女はペルデイタの如くに彼女の花園で薄荷と金仙花の間で生活することが出来る……』
『ふっ、何と云う君は子供だろう。その娘はやがて馬車曳きか百姓と結婚して、そして君から教えられた通りに彼女の夫を欺き、立派な生涯を送ることに違いあるまい。……それはそうと、ベエシルの失踪とそれからあのキャンベル君自殺事件を知っているかね?』
20
過去ったことはどうなるものでもない。自分自身と未来について考えなければならぬ。ジェームス・ヴェンはセルビイの墓地に名も知られずに葬られたし、アラン・キャンベルは自分の研究室でピストル自殺を遂げたし、ベエシル・ハルワアドの失踪も永遠の秘密としてやがて人々から忘れ去られるだろう。新しき生活! ドリアンの希うのはひたすらそればかりだった。そして、ドリアンは既にその一歩を踏み出していたのだった。彼は村の娘ヘテイに対する心づくしを考えた時、ひょっとしてあの肖像画に、新しい変化が生じていないものでもないと思った。少くともこれ迄よりも兇悪なものではなくなっている筈だ。おそらく悪魔の面影だけは消え去っていることであろう。ドリアンは周章ただしくランプをとって階段を上って行った。そして素早く中へ這入ると何時もの如くに後に扉を閉して、さて絵姿に掛けられた紫の覆を引いた。その途端に彼は苦痛と憤怒の叫びを発した。絵姿は少しも変っていないばかりでなく、その眼は新に狡猾な色を湛え唇は偽善の皺に刻まれて一層醜く歪んでいたではないか! ドリアン・グレイは絶望のあまり曾てベエシル・ハルワアドを刺した同じ短剣でその絵姿を刺し貫いた。すると、それと同時にドリアンは恐しい叫喚とともに打ち倒れた。物音を聞きつけた人々がその部屋に入って来た時、人々は美貌の少年の絵姿の前に、夜会服の胸を刺し貫いて倒れている醜い陰惨な人相をした男の死体を発見したのであった。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1928年11月(二回分載)
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月8日公開
2007年10月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002223",
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1
その朝、洋画家葛飾龍造の画室の中で、同居人の洋画家小野潤平が死んでいた。
コルク張りの床に俯伏せに倒れて、硬直した右手にピストルを握り、血の流れている右の顳顬には煙硝の吹いた跡がある。
恰度葛飾は昨夜から不在で、それを最初に発見したのは葛飾の妻の美代子である。
『昨夜十時頃小野さんは街から帰って来ました。わたくしはもう寝床に入っていましたし、小野さんも顔を出しませんでした。――銃声ですか? いいえ、何も存じません。』と美代子はおろおろ声で、出張して来た役人に答えた。
検視官は厭世自殺と認める。
だが、遺書がないのだ。――そこで一人の敏腕な刑事が疑いを残してみたくなる。
『此処に打撲傷があります。』と刑事は死人の顎をぐいと持ち上げた。下顎骨の左の方に暗紫色の痕が見える。
『めりけんを喰ったのではないでしょうか?』
『ふむ、何の為だね?』と上役は仔細に傷痕を検べながら云った。『併し、これは君、もっと尖った固いものだよ。見たまえ、皮膚が切れて血が渗んでいる。おそらく倒れるはずみに卓子の角にでもぶつけたのだろう――』
刑事は、卓子の位置と死人の姿勢とが上役のこの観察を否定していないので押し返して云い張るわけにもいかない。
すると其処へ葛飾が悄然と立ち帰って来た。新しいインヴァネス――倫敦仕立てのの洒落たものだが、その羽は惨めに綻びているし、それにシャツの襟にはネクタイもない。そんな乱れた姿が直ぐに刑事の目を惹いたことは云うまでもない。
『何処へ行っておいででした?』
『八木恭助と云う友人の家です。』
『昨夜は其処にお泊りになったのですね?』
『そうです。問い合せて下すっても、差し閊えありません。――』葛飾は友人の家の所番地を刑事に告げた。
『まるで喧嘩でもしたような恰好ですね。尤も画家には服装などをあまり気にしない性質の人が多いようですが。』
『ええ――』と葛飾は当惑したらしく言葉を濁すのである。
『恥を申し上げるのですが、実は昨夜妻と掴み合いの喧嘩を致しました。』
『ほほう。』と役人は葛飾と美代子との顔を見比べて不遠慮な薄笑いを浮かべた。『失礼ですが、どう云うことが原因で?』
『お話し致し兼ねます。』
『併し、未だ自殺と決定したわけでもないのですし、よしまた自殺にしても、我々は出来るだけ事件の前後の模様を明かにして置く必要があるのですが。』
『何かの嫌疑をかけられても、どうも已を得ません。』
『ともかく、こうした際にあっては、極く些細な秘密も大きな疑いを招くことがあります。お互いに面倒なわけです。』
『けれども、その反対の場合もあると思います。』葛飾は唇を噛んだ。
ところが、この時突然美代子が泣き出したのである。
『わたくしが、小野さんを殺したのも同じでございます。ただただわたくしの浅果なたくらみからでございます――』彼女は泣きじゃくりながら、そう云うのだ。
役人たちはそれぞれに頷き合った。
2
さて美代子の陳述は大体次のようである。――
美代子は葛飾の妻だが、葛飾よりも小野の方を先に知った。当時、美代子は悪く凝り過ぎたため却って盛らない場末の酒場の女給で、小野はそこの酔っぱらいの常客だったのである。美代子と小野とが可なり懇意な口を叩ける程になった頃、或る晩葛飾は初めて小野に連れられて来た。葛飾は却々男前もよかったし、それに勇気がある。葛飾は一目で美代子を見初めてしまった。『葛飾の女房になって、三人で一緒に暮そうじゃないか――』と、橋渡しは小野の役だった。
これは後になって解ったことだが、葛飾は親譲りの銀行預金だけで不自由なく暮して行ける身分である。しかも時勢に乗った新興美術家同盟の指導者として世間の評判も相当よろしい。それにひき更えて小野の方は、画学校時代にこそ秀才で通ったこともあるが、彼の奉じている浪漫主義の影が薄れ無論天性の不勉強も祟って、今では全く尾羽打ち枯らしてしまって、ただ学生当時からの情誼で葛飾の画室を半分貸して貰いながら居候同様に同居しているわけであった。
殆ど冗談のように、美代子は小さな行李一つを持って葛飾のもとへやって来た。ところが恰度その頃から、葛飾は同盟の展覧会やらパンフレットの発刊などに忙殺されて家に落着いている時よりも同盟本部につめ切っていることの方が多くなった。それに此処の住居は郊外の大きな寺の境内にあったので、墓地や林や古沼などに取り囲まれていて非常に淋しい。それで葛飾の留守の間は自然小野が美代子のおもりをつとめなければならなかった。小野はこれ迄のように夜になって酒を飲みにも出て歩けない。もともと小野の方が長い馴染みでもあるし、美代子は葛飾よりもむしろ小野に親しさを増すのだ。しかも葛飾の潔癖な性格はそんな二人の間を更に気に留める様子も見えなかった。
やがて、小野は美代子をモデルにして久し振りで丹精したものを描いてみたいと云い出した。併しニュードではないのだから、葛飾はもとよりそれを承諾した。ところがそうして毎日々々二人きりでさし向いの為事をしている中に、何方から云い出すともなく、小野と美代子はつい過ちを犯してしまったのである。小野は昨日の午後初めてその事を葛飾に打ち明けて美代子をあらためて譲り受けたいと申し出た。すると葛飾は、裏切られたのを非常に憤って小野に自分の家から出て行くことを要求した。美代子に就いては、彼は依然として彼女を愛していたので、彼女の自由意志に任せると云った。だが愈々そうなって見ると、彼女自身にも実際二人の何方を愛しているものやら俄かには極め難いものがあったのである……
夜になって、小野が街へ多分酒でも飲みに出かけてしまった後で、美代子は居間で気を腐らせながら読書していた葛飾のところへ詫びに行った。それが却って葛飾を一層怒らせることになって、挙句の果に葛飾は、ヒステリイを起してまるで頑是ない子供のようにむしゃぶりつく美代子を振りもぎって戸外へ飛び出して行った。葛飾が夫婦喧嘩の原因を話すことを拒んだのはそんな次第からなのである。……
『――折角の葛飾の心遣いを空にするようですけれども、それだからと申しまして、わたくしにしてみればこれ以上隠し立てをするわけにはゆきません……』と美代子は咽び泣きながら役人に打ち明けた。
わたくしはそれで、結局小野さんと葛飾と何方が果して、一層深く自分を愛していてくれるか、知り度かったのでございます。何方でも愛情の度合の優っている方に、自分の行末を委ねなければならないと考えました。わたくしは以前、古い支那の小説で、ある人妻が佯って、井戸の中に身を投げたように見せかけて、どれ程夫が嘆き悲しむか、それに依って夫の、自分に対する愛情を測ると云う話を読んだことがございました。わたくしは、その故事に倣って、こんな不幸を惹き起した罪を償うために、裏の古沼に陥って死にます――と云う遺書を部屋に遺して、物置の中にひそみながら、男たちの戻るのを待って居りました。すると先に帰って来たのが小野さんでした。小野さんは、ひどく酔っていたようですけれども、直ぐにわたくしの遺書を見付けたものとみえて、殆ど泣き声のような叫びを上げながら裏の沼の方へ駆けて行きました。それから間もなく引返して来て、画室へ入ってしまうと、やがて、鈍い銃声が聞こえたのでございます。わたくしは、取り返しのつかない間違いを仕出かしたことを知りました。わたくしは無性に恐しくなって、その偽の遺書を火鉢に燻べてしまったのでございます――』
3
この陳述は係官を納得させたらしい。
『では、矢張失恋自殺でしょうかな。』
『いや、むしろ情死と見なすべきだろう。』
彼等はそんな意見を云い合った。
それから、追って沙汰をする――ことになって役人の一行は引き上げかけた。
ふと、この時、さい前の刑事が電気に打たれたようにぎくりとしたのである。
『このピストルは小野さんのですね?』と刑事は葛飾に訊ねた。
『そう――一昨年僕と二人で上海へ遊びに行った折、買ったものです。』
『届けは?』
『してありません。』
『ふむ――』
刑事は死体と一番近い部分の壁を一心に瞶めている。白い壁の面に一銭銅貨程の大きさに、新しく欠け落ちた箇所がある。
『あの痕はどうしたのですか?』
『知りませんね。僕はそんな些細な莫迦げたことを気にかけたためしはないのです。』
と葛飾は腹立し気に答えた。
刑事はそれを黙って聞き流しながら、しきりにその壁の欠け目の位置を目で計った。
刑事はピストルを手巾で注意深く取り上げて鞄に入れて帰って行った。
刑事は路すがら考えた。――どうも、あの女の話は当になったものでない。支那の小説を読んでそれに倣ったところが男が本当に死んでしまったなぞと云うのは、如何にもあんな娘の好きそうな空想ではないか。三角関係が主因になっている点はおそらく事実であろう。その方が事件の筋みちが立つ――他殺に相違ない。あのピストルの持ち方は何と云う子供だましの錯誤だ! 顳顬に一発射ち込んで、それから倒れたのではないか。しかも卓子の角に強か顎を打ちつけている。ふっ、失恋自殺も素晴しい!……犯人は葛飾か美代子の何れかに決っている。共犯かも知れない、だが、共謀して計画的に殺すと云うことは甚だ合点が行かぬ。やはり一人の仕事だ。その犯跡を後から他の一人が共謀して眩ます位のことは考えられる。たとえば、小野が女に駈落ちを強いる。女が諾かない。小野はそれでは目の前で死ぬとか何とか云ってピストルを出して顳顬に当てて見せる。女が周章ててそれを奪い取ろうとして争うはずみに引金がひけてしまう。女は相手が倒れたのを見て恐ろしさのあまりピストルを投げ棄てて葛飾の部屋へ走り込む。葛飾は自分故に愛しい女が殺人の罪を犯したものと信じて、犯跡を紛らすために床に落ちていたピストルを死人の手に持たせる。……これとあべこべに葛飾が犯人である場合も同様だ。わけて、葛飾が一晩中家を明けていたことや、取乱した服装や、そんなことは何れも夫婦喧嘩のせいだとは云うものの、同時にもっと悪い事実を裏書きしていないとも限らない。……併し、この想像は少しばかり甘すぎるかな。自分で罪を犯しておきながら、かまえて訝しまれるような態度をとり繕わずにいると云うことは洵に道理に合わない。やはり女に対する疑を――若しも運悪く他殺と知れた時に、女に懸かる疑惑を出来るだけ外らそうとするための工夫なのであろうか?……うっかりしてはいられないぞ。――と。
若いこの刑事は上役や同僚を出し抜き度い功名心で胸をふくらませた。
刑事は警察へ帰ると早速ピストルに就いて検べた。
柄の底の部分に僅ばかり白い粉がついている。刑事は会心の笑を洩らした。
(――犯人が最初に投げ棄てた拍子にあの壁へぶつかったのだ)
それから指紋である。最近二人の人間がそれを掴んだらしかった。
(もちろん被害者自身と――鮮明な方が犯人だ)
ところが翌日になって、果してそれ等の指紋は小野と、美代子とに付合することが判明したのである。
4
『――まことに恐れ入りました。ピストルを小野さんの手に持たせましたのは如何にもわたくしでございます。けれども何と仰せられましても、自分で射ち殺した覚えなぞは毛頭ございません。今度こそ本当のことを悉皆申し上げてしまいます。――致し方もございません。
『一昨日の晩、葛飾は、泣いて詫びるわたくしをまるで突き倒すようにして外へ飛び出して行きました。わたくしはあんな淋しい家の中にたった一人取り残されて、いよいよ心細くなったので、それから間もなく寝床へ這入ってしまいました。それで小野さんが戻りました時にも、未だ漸く十時をちょっと廻ったばかりだったのですが、どうせひどく酔っているのに違いないと思いましたし、わたくしは声をかけなかったのでございます。そして恰度十一時が――葛飾の居間に掛っている寺院の鐘のような工合に響く時計が十一時を鳴り終って直ぐ、画室の方でゴトンと何か重い物の倒れた音がしました。わたくしは小野さんが画架でも顛覆したのだろうと考えて、別に気にも留めませんでした。屋根裏にある小野さんの寝室は画室から出入りするのでございます。――朝になったら、兎に角あの人にも自分の身の振り方に就いて相談しなければなるまい、などと思案しながら、その中にわたくしは眠ってしまいました。
『ところが、昨日の朝、わたくしが画室へ入って参りますと恐しいことにもあの人はそこの床の上に冷たくなって死んでいたのでございます。少し離れた壁際にピストルが落ちて居りました。わたくしはありったけの勇気を奮い起こして、出来るだけ落ち着こうと力めました。わたくしは注意深く小野さんの体の周囲を探がしました。その結果、小野さんの胴衣の襟とシャツとの間から三尺ばかりの細い黒いリボンを発見することが出来たのでございます。――葛飾はネクタイの代りに何時でもそんなリボンを結んで居るのでございます。……小野さんに死なれて、葛飾が犯人として捕えられてしまえば、わたくしの身の上は一体まあどうなることでございましょう。しかも、そんな怖しい過ちのもとは、みんなわたくし自身なのでございますから。……わたくしは、リボンの始末をすると同時に、ピストルを小野さんの手に握らせました。……実を申しますとあのピストルだって、葛飾の箪笥の中に何時も蔵ってあるので、小野さんのものではないのだそうでございます。それに、葛飾はインヴァネスを破って帰って参りましたが、わたくしはそれ程乱暴をした覚えはないのでございます。……ああ、けれども、わたくしはみんなすっかり喋ってしまいました。……わたくしは、葛飾を身に覚えもない罪に陥してしまったのではございませんでしょうか。ああ! 御慈悲でございます。……』
美代子は、刑事の厳重な吟味に対して、到頭そう云う自白をした。
5
これは刑事にとっても意外である。
刑事は直に葛飾を訊問した。
『あなたが、家を出たのは何時頃ですか?』
『八時頃でしょう?』
『それから真直ぐ八木恭助氏の宅へ行かれたのですな?』
『いいえ、××座へ活動写真を観に行きました。』
『ほう――自動車でですか?』
『電車。』
『そんなに遅くから活動写真を観たのですか?』
『そうです。何でも気のまぎれるものならばよかったのです。併し、入ると直ぐに、二三日前に小野と妻とが二人連れで矢張りそこの小屋へ同じ映画を観に来たことを思い出したので、三十分と経たない中に出てしまいました。』
『その晩の切符の切れ端しでも残ってはいないでしょうか。』
『ありません、そんなもの。』
『二三日前に二人が行ったか否かは調べれば直ぐ判ることです。――それから?』
『街を一時間近く散歩して、裏通りのヨロピン酒場へ寄りました。そこで夜中の一時近くまで酒を飲んで、それからタクシイを呼んで貰って八木の家へ泊りに行ったのです。』
小野が殺されたのは十一時頃だから、葛飾の答弁は現場不在証明を申し立てているのである。刑事は反証を上げなければならない。
活動写真を観て散歩したと云うのは全く出鱈目であろう。――尤も美代子は実際その二三日前に小野と一緒に××座へ見物に行って当日の番組も持っていた。だが、そんなことは甚だ薄弱な口実として利用されたのに過ぎないのだ。
ヨロピン酒場に照会してみると葛飾が来たのは、それから三十分位経って軒灯を消したのだから多分十一時半頃だろうと云う答えであった。ところで、葛飾の住居からヨロピン酒場迄の道程は電車に乗って約一時間半、だから自動車ならば三十分で充分来られるわけである。刑事は、併し、彼の自動車に乗っているところを見かけた者があると云う報告を得ることが出来なかったのだ。
刑事は已を得ず、別の方法に依った。即ち葛飾に美代子が自白した旨を告げて、彼もまた潔く自白することをすすめたのである。
『あなたがネクタイ代りに結んでいる黒いリボンが死体から発見されたのはどう云うわけでしょうか?』と真向からせめた。
『そんな莫迦な!――』と葛飾は慍った。『あの女が勝手に仕組んだことにきまっているじゃありませんか。美代子は僕にむしゃぶりついた時に偶然――まさか計画的にではないでしょう――僕のネクタイを毮りとったので、いい加減な出鱈目を思いついたのです。』
『奥さんは、それに、あなたのインヴァネスが破れていたのも自分の知らぬことだと云って居られます。』
『あいつは不良少女上りです。亭主を売る位は平気なのです。』
『しかし、それでは尚更、奥さんが小野氏を殺す理由が考えられんではないですか?』
『僕の愛を取り戻したかったからでしょう。――そして、万一の時には僕に罪をしょわせるのです。』
『ピストルは平常あなたの居間の箪笥に入っていたのだそうですね。』
『併し、その箪笥には鍵をかけてありません。……一体ピストルにのこっていた指紋が美代子のものだと云うのは嘘なのですか?』
刑事は当惑した。葛飾を犯人と断ずべき物的証拠は何一つとしてない。
刑事は葛飾を警察に留めて置いて、葛飾の住居のある郊外迄出かけてゆくと、その界隈の自動車屋と云う自動車屋を一軒々々残らず聞いて廻った。けれども彼等の中に当夜、葛飾らしい客を乗せたと明確に答えうる者も一人もなかった。
刑事はそこで念のためにもう一度ヨロピン酒場を調べた。すると前に来た時には休んで居合せなかったと云う女給の一人が、思いがけなくも次のような事実を教えてくれたのである。『――あの晩、わたくしはお夜食のお蕎麦を注文するので公衆電話をかけに裏口から戸外へ出ましたところが、恰度その時お店の前に自動車が止まって葛飾さんがお降りになるのをお見かけ致しました。』
××座とヨロピン酒場とは目と鼻の間にある。自動車に乗って街を廻ったとは云わなかった。葛飾が嘘を吐いていることは最早や明らかである――刑事は飛んで帰った。
そして葛飾はあらためて訊問された。
『あなたは、自動車でヨロピン酒場へ行ったのだそうですね。――何故あなたは偽を述べなければならなかったのです?』
『……』葛飾は狼狽した。
『××座で活動写真を見物したことも、街を散歩したことも悉く嘘だらけなのですね。』
『そうです、併し……』
その時、刑事はふと葛飾が膝の上で両手を揉み合しているのを眺めた。
『おや、あなたは右手に指輪を嵌めていられますか?――紫水晶のようですね。始終そうして嵌めていられますか?』
『ええ――』
『ちょっと検べさせて下さい。』
刑事は葛飾の指輪を持って扉の外へ出て行った。十五分経って帰って来た。そして峻烈な口調でこう云ったのである。
『いい加減に白状してしまったらどうです。この指輪の石には血がついている。被害者の顎にのこっていた傷は、卓子に打ちつけたためではなくて、実はあなたに一撃された痕なのだ……』
葛飾は遂に絶望の叫びをあげた。
勿論、指輪に血がついていたなどと云うのは刑事のトリックなのだ。だが、葛飾は容易くそれに乗せられたわけである。
6
法廷に於て葛飾は有罪と決定した。
彼は併しあくまで犯行を否定した。
『当夜、私は非常に亢奮して家を飛び出ましたが、街へは行かずに近所の沼の辺や林の中を夜風に吹かれながら矢鱈に歩き廻っていました。そして可なり長いことそうやっている中に漸く落ち着きを取り戻して来て、それに段々寒気が辛くなったりするので、家の方へ引っ帰しました。ところが、門口のところで街から帰って来た小野とばったり出会いました。小野はひどく自暴酒でも仰ったと見えて強か酔っぱらっていましたが、私の顔を見るといきなり私の胸に取り縋って泣き出したのです『――勘弁しておくれよ、勘弁しておくれよ――長い間俺の面倒を見てくれた君だもの、俺の気質ならよく心得ている筈じゃないか。……俺みたいなだらしのない意気地なしを、君は二人と知っちゃいまい……美代子さんだって、君があんまり素気なくしてちっとも一緒にいて可愛がってやらないから、それに今迄不仕合せに暮していたもんだから、つい頼りなくなっちまったんだ。……怒らないでくれ。……君から憎まれたら僕は本当に立つ瀬がないんだ……と彼は私をかき口説くのでした。私は腹立しさのあまり、彼の腕をふりもぎりながら、力まかせに顎のあたりを殴りつけました。すると彼ははずみを喰って蹌踉くとたあいもなく尻もちをつきましたが、その時私のインヴァネスの羽を掴んで破ってしまったのです。――併し、リボンの方は何時の間に失ったのやら少しも気がつきませんでした。美代子と揉み合ったために落としたものか、或はその折解けかかっていたのが小野に絡みつかれている間に、あんな薄いヘラヘラしたものですからうまい工合に彼の外套のふところか何かへ紛れ込んだものか、どっちともはっきりしたことは思い当りません。私は直に踵をかえして表通りに出ると、通りがかりのタクシイを呼び止めて、それで街のヨロピン酒場へ参りました。そして一時近く迄一人で飲んで、それから八木の家へ泊りに行ったことは先に申し上げた通りです。
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こう云う葛飾の弁明には『偽を申し立てた要心深さ――若しくは、臆病さ』に就いて裁判官を納得させるのに充分なものがなかったらしい。
ピストルに犯人が指紋をのこさなかったのも、その位に要心深い人間であってみれば当然である――と役人は述べた。
そして葛飾は幾年かの懲役を云い渡された。
7
美代子はたった一人取りのこされて、その広い淋し過ぎる家で、蒼ざめた不吉な追憶と一緒に暮さなければならなかった。
葛飾の罪が決定してから一月も経った頃、美代子はやはり画室の中で縊れて死んだ。
今度は――遺書があった。裁判官へ宛ててある。
『……小野潤平を殺したのは私でございます。
あの晩、小野は酔って帰って来まして、私に一緒に逃げてくれと申しました。そして私がそれをはねつけますと、いきなりポケットからピストルを出して、自分の頭を狙ってみせました。私は吃驚してその手に飛びついて、ピストルを捥ぎ取ろうとしました。ところが、私はあやまって引金に指をかけてしまったのでございます……』
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『あの黒いリボンのネクタイのことは偽でございます。私が葛飾の胸からむしりとったのを、そんな風に仕組んだまでに過ぎません……』
葛飾は無実と云うことになって放免された。
8
さて話はこれでおしまいであるが――
作者はここで小野潤平の死が本当の自殺であった場合を考えてみ度い。
小野は酔っぱらって帰って来ると門口で葛飾と出会ったのでめそめそと泣いて詫びた。するとそれが却って葛飾の気を悪くして、殴り倒された。
小野は画室に入ってからもだらしなく泣き続けていたに違いない。
卑屈な禀性や、すたれた才能や、いかさま生活や……いろんな自己嫌悪がむらがって来る。そこで覚束ない酔っぱらいの気持に唆かされて自殺しようかと思う。葛飾の箪笥の抽斗からピストルを出して来ると、悲劇役者のような恰好にそれを顳顬にあてがう。はっきりした自殺の意識なぞは要らなかったのだ。
そして、その次にたあいもなく引金をひいてしまう。――恰度十一時で、教会堂の鐘の響のような時計の音が一入効果を添えたことであろう。
遺書は――認めている程の余裕があったならば、自殺しなかったかも知れないのである。
翌朝、美代子が死体を発見して、投げ出されているピストルを見て、黒いリボンでもあれば尚更のこと、葛飾に殺されたものと思い込む。そして葛飾を庇うためにピストルを死人の手に握らせる。
だが彼女は、意外にもその疑が自分の上にかかって来てのっぴきならなくなった時に、あくまでも葛飾を庇いきる程の勇気もなかった。
しかも結局、二人の男の一生を自分故に台なしにしてしまった自責の念と果無さとに堪えかねて、せめてもの罪滅しにと、偽の遺書を遺して死んだのである。心の中では矢張り葛飾を有罪と信じながら――
そして葛飾は美代子のその哀れな志も空に、彼女こそ真の犯人であると考えている。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1929年5月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2001年10月30日公開
2007年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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すたれた場末の、たった一間しかない狭い家に、私と姉とは住んでいた。ほかに誰もいなかった。私は姉と二人きりで、何年か前に、青い穏やかな海峡を渡って、この街へ来たのであった。
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姉は、断っておくが、ほんとうの私の姉ではない。姉の母は、私の従姉である。私の父は姪に姉を生ませた。しかも姉は生まれ落ちてみると唖娘であった。
だが、もう私達の父も、姉の母も、私の母もみんな死んでしまって、今はふるさとの海辺の丘に並んだ白い石であった。
唖娘の姉と二人で久しい間暮していて、私達と往来する人はこの街に一人もいなかったし、私は一日中つんぼのように、誰の声をも聞かなかった。
姉がどんなに私をいつくしんでくれたか! 姉は毎晩々々夜更けてから、血の気のない程に蒼ざめて帰って来、私にご飯を食べさせてくれた。
姉はまた、私を抱いて寝てくれもした。私は、魚のように冷めたい姉の手足が厭であったけれども、それでもすなおな私は、姉の愛情にほだされて、何時でも泪ぐんで、姉の体を温めてやった。
その中に姉は悪い病気に罹った。胸の悪くなるような匂が、姉の体から発散した。姉は、私にその病気が伝染するのを恐れて、もう一緒に寝るのは止してしまった。
私は淋しく一人で寝た。そして一人で寝ている中に、何時の間にか大きい大人になった。
2
到頭、或る日姉は私が本当の大人になってしまったことを覚った。
遊び友達のない私は、家の裏の木に登って、遠くの雲の中に聳え重なっている街を見ていた。すると姉は私の足をひっぱって、私を木から下ろしてしまった。
姉は私のはいている小さな半ズボンをたくし上げた。
姉はさて悲しい顔をして首を縦に振ってうなずいた。
姉が首を縦に振ってうなずく場合には、我々普通の人間が首を横に振って、いやいやを、するのと同じ意味なのであった。彼女の愚な父と母とは、ひょっと誤って、幼い彼女にそんなアベコベを教えてしまったのだ。不具者のもちまえで、彼女は頑に、親の教えた過ちを信じて改めなかった。
姉は幾度も私の脛を撫ぜて、幾度も首を縦に振った。
――姉さん。どうしたの?」と私は訊ねた。
姉は長い間に、私と姉との仲だけに通じるようになった。精巧な手真似で答えた。
――ワタクシ、オマエガ、キライダ!」
――なぜです?」
――オマエハ、モウ、ソレヨリ、オオキクナッテハ、イケマセンヨ。」
――なぜです?」
――ワクシハ、オマエト、イッショニ、クラスコトガ、デキナクナルモノ。」
――なぜです?」
姉は私の硯箱を持って来た。私は眼に一丁字もない彼女が何をするのかと、訝んだ。ところが姉は筆に墨をふくめて、いきなり私の顔へ、大きな眼鏡と髯とをかいた。それから私を鏡の前へつれて行った。
――立派な紳士ですね。」と私は鏡の中を見て云った。――
――ゴラン!ソノ、イヤラシイ、オトコハ、オマエダヨ。」
姉は怯えた眼をして首を縦に振った。
私は姉をかき抱いて泪ながらに、そのザラザラな粗悪な白壁のような頬へ接吻した。姉は私の胸の中で、身もだえして唸った。
3
姉は、夜更けてから、血の気の失せた顔をして帰って来て、私にご飯をたべさせてくれた。
どんなに、姉は、私を愛しんでくれることであろうか!
姉は腕に太い針で注射をした。――姉の病気は此頃ではもう体の芯まで食いやぶっていた。
姉はそして昼間中寝てばかりいた。姉は眠っている時に泣いた。泪が落ちくぼんだ眼の凹みから溢れて流れた。
私は真昼の太陽の射し込む窓の硝子戸に凭りかかって、半ズボンと靴下との間に生えている脛毛を、ながめてばかりいた。
(――私は、姉を食べて大きくなったようなものだ。)
私の心は、そんなにひどい苦労をして、私を大人に育て上げてくれた姉に対する感謝の念で責められた。私にとって、姉の見るかげもなく壊れてしまった姿は、黒い大きな悲しみのみだった。私はなぜ、私が大人になるためには、それ程の大きな悲しみが伴われなければならなかったのだろうか、と神様に訊き度かった。……大人になったことも、姉を不仕合せにしたことも、私の意志では決してないのだ。親父と二人の阿母とに、地獄の呪いあれ!……私は堪え難い悲嘆にすっかりおしつぶされてしまって、あげくの果に、声をしのんで嗚咽するのであった、私は寧ろ死んでしまいたかった。
私は一人でじっとしていることがやり切れなくなって、そこで姉を揺り起こした。
――姉さん、ごらんなさい。あの雲の中にそびえている大きな建築を。」
私は窓を開け放して、姉に遙かの町の景色を見せてやるのであった。
――僕は、いまに、あれよりももっと立派な大建築をこしらえて、姉さんを住まわしてあげますよ。」
すると姉は首を上下にうなずかせながら、手真似をして答えた。
――バカヤロウ、アレハ、カンゴクジャナイカ!」
――ちがいますよ!」と私はびっくりして答えた。
――オマエハ、バカダカラ、シラナイノダ。ワタシハ、オオキイウチハ、ミンナキライダヨ。」
――では、みんな壊してしまいましょう。」と私は昂然として云った。
――アンナ、オオキイウチガ、オマエニ、コワセルモノカ、ウソツキ!」
――ダイナマイトで壊します。」
――ソレハ、ナンノコト?」
――薬です……」
私は、黒い本を開いて読み上げた。
「ニトログリセリン 〇・四〇
硝石 〇・一〇
硫黄 〇・二五
粉末ダイアモンド 〇・二五
――ワタシハ、ソノクスリヲ、ノンデ、シニタイト、オモウ……」
4
夕方になると、夕風の吹いている街路へ、姉は唇と頬とを真赤に染めて、草花の空籠を風呂敷に包んで、病み衰えた身を引きずって出かけた。
私は窓から、甃石道を遠ざかって行く姉の幽霊のように哀れな後姿を、角を曲ってしまう迄見送った。
たそがれの空は、古びた絵のように重々しく静かに、並木の上に横っていた。
私は、急に胸を轟かして、並木の黒い蔭を一本一本眺め渡した。私はすぐに派手な、紅い短い上衣を着た若い女の姿を見つけ出した。彼女は、毎晩、そうして男を待っているのである。待つが程なく男はやって来る。男は黒いマントを長く着て、黒い大きな眼鏡をかけ、そして黒い見事な髭をはやしていた。私は軍人の父が形見に残していった望遠鏡で男と女との媾曳を覗いた。その事は私に、今迄ついぞ経験したこともない、不思議なる悦びを感じさせた。私は毎晩々々のぞいた。その紅い上衣の女は、しばしば街の飾窓や雑誌などの写真で見覚えの或る名高い女優らしかった。男は、私が覗く度毎にドキンとさせられる程、いつか姉が私の顔へ眼鏡と髭とを悪戯書したその時の私の人相と、まるでそっくりなのである。
私はそこで顔ばかりでなく、心迄がその男と共通のものを持っていたと見えて、その恋人である女優へ、まことにやみがたい恋慕の情を抱きはじめるに至ったのである。
私は姉の眼をぬすんで、ひそかに黒い眼鏡と、黒いつけ髭とを買いととのえた。
そして或る晩私は遂に、その男よりたった一足先廻りをして彼女と会った。
私は毎晩、その男のすべての動作をよく研究して会得していた。私は口笛を軽く吹きながらステッキを振って、ゆっくりと大胆に近づいて行った。女は、そんなに巧みに変装した私にどうして気がつく筈があろう。果して、、彼女は並木の木蔭からいそいそ走り出ると、ニッコリ笑いかけて、優雅な身振りで可愛らしい両手をさしのべた。私は、恥しさと、嬉しさと不安とでぶるぶる慄えた。
目近くに見た彼女は何と云う美しい女であろう! 私は彼女のエメロオドのような瞳に、またもぎ立ての果物のような頬に、また紅い花模様の上衣の下にふくらんだ胸に、私の命を捨てても惜しくはなかった。
私は勇気をふるって、鳶色の木下闇で彼女を抱き寄せた。
――いけないわ。」
彼女は危く私のつけ髭の上へ唇を外らした。
――ニセ者!」と彼女は私を叱った。
私は、失敗った、と思った。
――未だ、つけ髭なんかでごまかしているのね。なぜ、ほんものの髭を生やさないの?」
――姉が、ゆるさないものですから……」と私はどもった。
――姉さんなんか、捨てておしまいなさいよ。」
――あなたは、僕の哀れな姉を、御存知ですか?」
――ほんものの髭が生える迄は、あたしお会い出来ませんわ。」
――どうぞ!」と私は喘いだ。
――いや!」
彼女は強か私を振りもぎって立ち去りかけたが、ちょっと足をとめてふり返って、――もしも、髭がほんとに生えたならば、あなたの窓へ、汽車のシグナルみたいな赤い電気をつけてちょうだい。」と云った。そしてまたすたすたと、連なる並木の蔭へ吸い込まれて行った。
私は茫然と立ちつくすのみであった。
――男は髭を生やさなければ、ほんとうの値打が現われないものであろうか?」
だが、その次にふと私は、頭の中に今頃は何処かの四辻に立って、草花を売っているに違いない、姉のしなびた醜い顔を思い浮かべて、またしても泪に暮れた。
――可哀相な姉よ!
5
――姉さん、どうしたのです?」
姉は、さも憎々しげに私を睨みつけながらうなずいていた。
――オマエ、ヒゲヲ、ハヤス、ツモリカエ?」
――だって、僕はもう大人になったのですから生やしたいのです。」
――オトナハ、ワタシ、キライダ!」
――そんなことを云ったって、無理ですよ。僕は大人になって、姉さんを広い家に住まわせて、仕合せにして上げようと思うのです。」
――イイヨ。カッテニ、スルガイイ。ワタシハ、アノクスリヲノムカラ!」
――薬ですって?」
姉は首を横に振って、机の上の黒い本を開いて見せた。
――ダイナマイトは、また、食べることも出来ます。」
私は姉のザラザラな粗悪な壁土のような頬に接吻した。
私はそして、姉の見ている前で、剃刀を研いで、うっすらと生えかかって来た髭を剃り落としてしまったのだ。
だが、――またその翌日の夕方になると、私は姉の後姿を窓から見送って、それからさて、れいの並木の方を眺め渡すのであったが、女はその言葉通りあの夜以来とんと姿を現わさなかった。男の姿も――あの男は、あの夜五分遅れてやって来て、彼女に思いがけない私という新しい恋人の出来たことを見てしまったのでもあろうか、とにかく再び姿を見せなかった。
並木の上に月が出ても、甃石へうつる影は並木ばかりであった。
私は窓の縁に、深い溜息をついて、もう決して髭を剃るまいと心に誓った。
6
私の髭は日ましに青草のように勢いよく延び初めた。今朝目をさまして見ると、もう殆どつけ髭にも劣らない位立派に生え揃っていた。
姉は勿論、怒って、泣いた。けれども私は、固い決心をもって姉のたあいもない我儘に抗った。
――髭を生やすことがなぜいけないのか?
私は、毀れてしまった操り人形のように、あわれにも精も根も尽き果てた様子で、明るい真昼間の日ざしの中で眠りこけている姉の寝姿を見ていると、自分もつい悲しくなるのだが、しかし私は姉をそんなに不幸にしてしまったとしても、それはあくまで自分の罪でないことを、自分の胸に幾度も云いふくめた。……私は、姉の体を食べても大きくなる事が必要だったのだ。して見れば今になって、唖娘の気紛れな感傷のために、大人になることを妨げられなければならない理由は何処にもない筈だ。……人生の曙に立って、私に価値あるものは、哀れな片輪者の泪ではなくして、立派な髭と、そしてあの美しい娘の恋だけである! と。
――自分は先ず自由な一本立ちの生活をしなくてはならない、と私は思い立った。
併し、その前に私は、姉の正体を、姉が一体果して、尋常な路傍の草花売りであるか否かをたしかめたかった。この頃になって気がついた事だが、姉の草花を入れる小さな籠に一輪の花はおろか枯れ葉や花の匂も、ただの一度だって、そこに花なぞの入っていたらしい形跡をみとめ得たためしはなかった。それにそんな籠一杯の花の数が、私達二人の生活を支えるのには、あまりに少なすぎることをも理解するようになったし、私は姉の商売をしているところを見届ける必要があると切実に感じた。
暮方近くになって、姉が眼をさました時に私は姉にたずねた。
――姉さんは、何処で商売するのですか?」
姉は、明かにギクリとしたらしかったが、つとめて平静を装って、窓から遙かの夕焼雲の下にそびえ重さなる街をゆびさした。
――アノ、ニギヤカナ、マチデサ。」
――ほんとですか。姉さんの花を売るところを僕に見せて下さい。」
姉は、すると、いよいようろたえた様子であった。
――バカ! オマエハ、ウチデ、オトナシク、ルスバンヲシテイレバ、ソレデ、イイノダヨ。」
――僕は、いつかしら、屹度姉さんに知れないように、跡をつけて行ってしまいますよ。」と私は云った。
姉は顔色を変えて唸った。そして劇しく、上下に首をふって、泣きじゃくった。
7
哀れな姉は、それでもいつもの時間が来ると、唇と頬とに紅を塗って、草花の空籠を風呂敷に包んで、夕風の吹いている街路へ出て行った。
私はそれを窓から見送っていた。姉は私を疑って、幾度も幾度も振り返りながら、甃石道を遠ざかって行った。
姉の姿が程近い街角を曲り切ってしまうと、私はすぐさまマントを取り上げて、姉の跡を追った。並木の路を一散に走って行ったので、そこの街角を注意深く曲って眺めた時、私はそんなに骨を折る程でもなく、姉の一きわ目立ってみじめな痩せた肩をば、見出すことが出来た。私はマントをすっぽり頭からかぶって、見えつ隠れつ、姉を尾行した。電車道に沿ったり、坂を上ってまた下りたり、裏町のうす暗がりを抜けたりして、長い長い道のりを姉は小刻みな足どりで歩いて行った。そして遂に、私達の家の窓から雲にそびえて見える、あの宏大な建物ばかりが、押し合い、重なり合って並んでいる繁華な町へ出た。色とりどりの美しいイルミネエションの中に陽気な広告の楽隊が鳴り響いていた。私はそんな賑かな街区へ足を踏み入れたのは、全くこれが初めてであったけれども、私はひたすら姉を見失うことをおそれて、高貴なる香水の匂にみちた人波を、押し分け押し分けして、姉を追いかけた。追いかけながら、私はこれ程繁昌な巷に立って見窶しい唖娘の姉が、取るに足らない草花なぞを売って、果してそれを気にとめて買ってくれる人が少しでもいるのであろうか――これは、いよいよ姉は私を欺いているらしいと考えるのであった。
姉はやがて宏大なるビイルディングの一つをえらんで、些の踌躇なく這入って行った。そのビイルディングの軒端には「フラワー・ハウス」と云う電飾文字が明滅していた。それで私も黒いマントを脱いで大胆にその玄関へ踏み込んだ。金モールのいかめしい制服を着た門番も、その他の誰も、私を怪しむ様子はなかった。
姉はやはり私に気がつかないまま地下室の方へ降りて行った。階上の立派さに引き更え、地下室の廊下は、灰色の汚れた壁の間に挾まれて息苦しい程細く、そして低い天井に灯っている電燈はおそろしく薄暗かった。姉はその廊下の両側に幾つとなく並んだ木の扉の一つを開けて、その内側へ消えてしまった。洒落た身装の男達が退屈そうに廊下を往ったり来たりしながら、時々それらの扉の前に佇んだ。私は暫くためらった後に、リノリウムの上に足音を忍ばせて、マントをかぶってそっと姉の隠れた部屋へ近寄って見た。
木の扉に、いつか私が姉に頼まれて書いてやった覚えのある値段書が、もう色褪せて貼られてあった。
室咲名花
ダリヤ ………………………………五十銭
シクラメン………………………………五十銭
菊…………………………………………時価
そしてそれより少し上の、恰度私の眼の高さ位のあたりに手首の這入る程の円い穴があけてあって部屋の中を覗けるように出来ていた。私はそこから恐る恐る覗いて見た。部屋の中にはうす桃色の灯がともされて、その下にたった一つ粗末な木造の寝台があって、それへ姉が一人で腰かけていた。何時の間に着替えたのか、姉は肩のピンと糊でつっ張った紫と白との疎い棒縞の衣裳を着ていた。姉の紅で濃く染めた顔はたえ難く愁しく私の心臓をひき裂いてしまった。
――どうです、綺麗な花ですか?」
にやけた山高帽をかぶった不良少年が、私の肩を敲いて通り過ぎた、私は我を忘れて、コツコツと扉を打った。
姉は耳敏くそれを聞きつけると、私の覗いている扉の穴へ向ってニッと笑って見せた。私は周章て、廊下の端れまで走って、そこのうすくらがりの中へうずくまった。
姉は扉をあけて首をさしのべた。それから玄関へ上る階段のところまで行ってみたが、彼女のお客の姿は何処にも見当らなかったので、落瞻したらしい様子で肩をすぼめて部屋の中へ引き込んで行った。私はそこで再び取って返すともう一度丸穴から覗き込みながらコツコツと扉を敲いた。
姉はやはりいそいそと身を起した。
私は前の時のように廊下の隅っこで、姉の出て来るのを待った。姉は扉から首を出して見て、それからまた階段の方へ歩いて行った。私はその隙に素早く部屋の中へ飛び込んで、寝台の下へもぐった。
二度も誑かされた姉は、溜息を吐きながら戻って来た。私の眼の前に姉の痩せ細った脚がぶら下った。私はあらん限りの勇気を奮い起して、泣きたい心を抑えつけた。
――コツコツ、コツコツ」と扉が鳴った。
姉は懲りもしないで、直ぐに立って行って扉をあけた。
だが、今度は本当にお客様であった。その花を買うお客は頭も顔もつるつる光った肥っちょの紳士であった。紳士は物をも云わずに姉を抱き寄せた。……紳士がどんな見るに堪えない侮辱を姉に加えたか、私は語りたくない。
私はとにかく、突然寝台の下から躍り出してその紳士を襲った。私は紳士の背部深く短刀を突き刺した。……哀れな姉は、紳士の胸の中で気を失って、一緒に床の上に倒れた。
私は短刀を姉の手に握らせた。
それから、私は血に塗みれた手を洗面台ですっかり洗い落として、さて落ちつき払ってその部屋を立ち出でた。
8
私はたえてない楽しい気持で家路を辿った。
何んと云う思いがけない幸福が向いて来たものであろう!
私の勇気は、あらゆる人生の不幸をうち亡ぼしてしまったではないか。
おそらく姉は、今頃は警察の手に抑えられて、そして
――この十万長者を殺したのはお前であろう。ウムよろしい金が欲しさに殺したと云うのだな。」
と云う署長の厳しい問に対して、彼女は何度でも首を縦に振って、狂気のようにうなずいていることであろう。
もう、今夜からは夜更けて姉が帰って来る憂いはない。
可哀相な姉よ!
だが、私は髭もすでに立派に生えたし、これからは誰に憚るところもなく、一人前の大人として世を渡って行くことが出来るのだ。
私は途中で、汽車のシグナルのような赤いランプを一つお土産に買った。
その赤いランプを、今は唯一の主人である我家の窓へとりつけて、私の美しい恋人を呼びとめてやるためであることは云う迄もない。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」
1927(昭和2)年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年2月11日公開
2007年11月4日修正
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*
そこの海岸のホテルでの話です。
彼女は女優でした。少しばかり年齢をとりすぎてしまいましたが、それでもいろいろな意味で最も評判のよい女優でした。
劇場が夏休みなので、泳ぎにたった一人で海岸へ来ていたのです。
ところが、ホテルのヴェランダで、ゆくりなくも誰とも知らない一人の青年を見初めてしまいました。――これは日頃の彼女にしてみれば非常に珍しいことで、しかもその青年はちっとも美青年でもなんでもなくて、むしろうち見たところひどく不器用な感じしかない男なのですが、そんな点がいっそ却って彼女の心をひいたのかも知れません。
*
彼女と青年とはよく申し合せたようにヴェランダで一緒になりました。それもたいてい他に人目のない時が多かったのです。
(あの人がもしちょっと後を振向いてそしてあたしを恋していると一言いってくれたらば――)と彼女は思うのでした。(……でも結婚なんてあたし厭だわ。弟ならいいわ。あんた、あたしの亡くなった弟とそっくりなんですもの……とそういおうかしら――)
青年とても、屹度彼女に恋しているのに違いありません。その証拠には、青年は殊の外なる臆病者と見えて、彼女とそこで顔を合わせるや、いつでも真赤になって、そっぽ向いて、ひたすら海や松林の景色なぞ、あらぬ方ばかりを眺めるのです。
もしかして自分が世にも名高い女優であることを、このあざらしのように内気な青年は知らないのではあるまいかと疑ってもみるのですが、いつか海岸で恰度青年がしゃがんでいた砂の上に彼女の名前が大きく書かれてあるのを見かけたことさえあったし、そんな道理はない筈です。――彼女は華車な両肩がぴんと尖った更紗模様の古風な上衣を着て、行儀よくいずまいしたまま、青年の後姿を腹立しげに睨むより仕方がありませんでした。
*
彼女は、なんとかして青年と近づきになれるような大きなきっかけを作ろうと思いました。そこで、彼女は青年が泳ぎに行くような時を見計らって、彼女も海へ行って、青年の泳いでいる付近で溺れて助けて貰おうかと考えたのですが、その計画は実行されるに至りませんでした。青年は泳ぎが非常にまずくて、殆ど腰ほどの深さのところばかりに立っているのに、彼女は五哩遠泳位はやれそうな腕前なのでしたから。
青年は、砂の上に寝ころんで、はるかに、赤と青とのだんだら縞の水着を着た彼女のか細い腕が、抜き手を切って波と戯れているのを、不思議そうに見物していました。
*
「――失礼ですが、お嬢さん……」
到頭、それでも、或る晩のことヴェランダで青年の方から、こう彼女へ声をかけました。
*
「――失礼ですが、お嬢さん。……あなたに、もしや、お兄さんが一人おありになりはしませんでしたろうか?……」内気な青年は、極めておどおどとして口籠りながらそういいました。
「兄⁈ 兄があったかとおっしゃるのでございますか。ございましたわ! ええ、ええ。それは非常に優しい兄が一人ございました……」と彼女は、びっくりしながらも、喜び勇んでそう答えました。
「そうですか。それで、そのお兄さん、今は御一緒にはいらっしゃらないのですか?――」
「はあ、――もう、別れ別れになりましてから――そうでございますね、かれこれ十五年にもなろうかと存じます。何分私なぞまだあまり幼い時分のことだったものでございますし、一体どんなひどい家庭の事情があったものでございますやら、その後誰も聞かせてくれるものもございませんし、今もって全く判らないのでございますが。……ですが、その兄が、どうかしたのでございますか?」彼女は顔を輝かしてそうきき返しました。
「十五年?――そんなに経ってしまったのでは、もうまるでおもかげさえもおぼえてはいらっしゃらないかも知れませんね。……いや、実は、あんまりはっきりとしたことを最初からお受合いするわけにもまいらないのですが、少しばかり友達から聞かされましたので……」
「とおっしゃいますと――あの、兄らしいものでも、どこかにいるのでございましょうかしら?」
「まあ、そうなのです。詳しいことを申し上げないとわかりませんが、……大分へんな話なのですよ。それできっと御信用なさらないだろうと思うのですけど。」
「信用いたしますわ……どんなことだって。」
「実は、お驚きになってはいけませんよ、あなたのお兄さんはずっと前からあなたの芝居をあなたとは知らずに始終観に行っていたのです……」
「まあ!……でも、無理もありませんわ。十五年もあわずにいて、しかも舞台顔で、名前までまるっきり変って別の名前なのでございますからね。それに兄だって、まさか私がこんな職業の女になっていようとは、それこそ夢にも考えてみもしませんでしたろうし……」
「ええ、全くそうなのです。兄さんは、あなたと別れて以来、いい具合にもそんなに不仕合せな目にも会わず、殊にこの頃ではお伽噺の作家として割合に評判もよくなって、殆ど不自由なく気ままな暮しをしていますが、やはり一日だってあなたの身の上を忘れることはなく、何とかして早く見つけ出して一緒になりたいと念じていたのでした。そんなにまで心にかけていながら、兄さんとしたことが、あなたの舞台姿を見て、親身の妹の幼顔を思い出すことが出来なかったばかりでなく、――実に怪しからんことにも、あなたにひどく恋してしまったのです。その恋のためには身も世もなくなるほどの気持でしてね……」
「まあ!……」女優は全くうろたえてしまいました。
「で、ぜひとも結婚しなければ、……命にかけても結婚すると堅く心に誓ったのですが、それほど思い詰めていたにも拘らず、あなたの兄さんと来たら、お話にならない位気の弱い人でしてね、どうしてもその心のたけをば、あなたに会って打あける勇気が出なかったものです。そこで、兄さんのごく親しい友達の一人がえらばれて、代ってあなたのところへそのことの話をつけるために出かけて行くことになりました……」青年は言葉をちょっと途切らして、さて溜息を洩らしました。
「では、そのお友達というのが、あなたでいらっしゃいますの?――でも、あなた、ちっともお困りになることはございませんわ……」
女優は感動しながら、やさしくそういいました。
「いやいや、違います。そうではありません。……困ったことというのは、そのえらばれた友達が、よせばいいのに、といったところでいつかは知れるには相違ないことなのですが、あなたへお話する前に、責任を感じたものとみえて、私立探偵に頼んで、あなたの身元をしらべ、その序に兄さんの方も調べてみてもらったところが、図らずもこの二人は元々一本の幹から出たもので、兄さんはどうやらあなたの真実の兄であるらしいということが判ったのです。――さあ、そうなってみると、その友達は途方に暮れてしまいました。なぜといってもしそんなことをうっかり兄さんに打ち明けようものなら、兄さんは失望のあまり、人生を呪って必ずや我身を亡ぼしてしまうに違いないと思ったからです。いっそ、何もわからずに、知らないまんまで、兄と妹とがやみくもにうまく結婚してしまえば何事もなかったろうが、と今更悔んでも追っつきません。到頭その友達は可哀相なことにも、自責の念に堪えかねて、或る夜のことどこかへ逃亡してそれっきり行方も判らなくなってしまったような始末です。」
「…………」
「けれども、一旦私立探偵がそうと嗅ぎつけた以上、たといその友達が姿をくらましたにせよ、そんなことをすればするだけ、いつまでもその秘密が洩れないで済む道理がありません。――或る晩、倶楽部で酔っぱらいの友達同士が、声高らかにその内しょ話をしゃべっているのを私は――そうです、私は、聞いてしまいました。もちろん私たるものの驚きはたとえるものもありません。一体こんな残酷な運命の悪戯を、果してわれわれはそのまま許容してしまっても差閊えないものであろうかと、私は嘆き、悲しみ、憤りました。だが、いずれにしても、こうした事実はお互のために極めて判然とさせなければならないと考えまして、それ以来あらためて自分の手でいろいろ調査をしてみました。そして到頭、今朝になって、その動かすべからざる調査の結果を知り得たのです……」
「え! なんでございますって⁈ それでは、あなたは、もしや……」女優は感激のあまり頭を抑えて立ち上がりました。「若しや……あなたがそのお兄さんではないのですか?……」
「そう、そう……ですけれども、ああ、それが、それが……」青年はすっかり胸をつまらせて、息苦しそうにどもりました。
「まあ!――」女優は、いきなり青年の肩をしっかりとかき抱いて、幾度も幾度も接吻しながらさて小さい声で囁くようにこういいました。「まあ!――嘘吐き! あんたって人はなんて嘘吐きなの! あたしには、兄さんなんて、厄介な者はたった一人だってありゃしなくってよ!……」
青年は抱かれながら、おろおろ声で弁解しました。
「だって僕は、――僕のいおうとしたのは、その調査の結果が、やっぱり僕とあなたとは兄妹ではなくて、その友達が自分も同じようにあなたをすきだったので、そんな出鱈日を捏造したまでであるということなのです……」
「ばか! まだそんなことをいっているの!」
女優は、そしてまるで楽しいピアノのような音を立てて笑いくずれました。
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女優とその童話作家だという青年とは、それから間もなく結婚して仕合せに暮しました。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「サンデー毎日」
1927(昭和2)年7月
入力:もりみつじゅんじ
校正:田尻幹二
1999年1月27日公開
2003年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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1 (溶明)晴れたる空。輝く十字架――教会の屋根だ。
2 教会。結婚式――青年とその十五になったばかりの可愛らしい花嫁と。――花と、音楽と。
3 春の港に浮べる新造船。
4 帆柱の尖端に飜る船旗。――新しき五月の花よ。モンテ・カルロへ! 万歳!――と書かれてある。
5 船室には、青年と可愛い花嫁とがモンテ・カルロへ新婚旅行をするので乗り込んでいた。
6 二人は勿論恋人同志だったから、深く愛し合った。
7 出帆。――注意、この航海は処女航海である。
8 肥った船長。黒ん坊の運転士。大ぜいの水夫たち。
9 舵手――一心に舵輪を廻している。
10 だが! 船尾に到ってよくよく見るならば、この船には全く一つの舵もついていないのだ。
造船工がヒョッとして付け忘れてしまったのらしい。そしてそのことを舵手を始め、船長も誰も知らないとは、ああ、なんたる失敗であろう!
11 風景。
12 大洋を走る運命の船。
13 楽しい航海生活。――遊戯や、踊りや、酒や……。
14 一等船客たちの華美なる舞踏会。
15 青年とその美しい花嫁も踊っている。
16 突然花嫁は卒倒しかける。叫ぶ。
「あたし、寒くて寒くて、凍えそうだわ!」
17 青年はびっくりして、花嫁の華車な人形のような体を抱き上げる。
青年の顔に恐怖の色。叫ぶ。
「ガタガタ慄えているね。お前は熱病にかかったのだ!」
18 船客たちのどよめき。
「熱病!」
「熱病……」
「印度洋の熱病だ!」
「印度洋の熱病だ‼」
19 青年は花嫁の体を腕にかかえて、
20 そして船室のベッドへ運ぶ。
21 船医が診察する。首を大きく振って、
「印度洋の特有な悪性の瘧らしい」
22 忽ち船全体に大袈裟な消毒が始まる。
23 しかし、すでに遅く、悪疫は船内に瀰漫しつつあった。まず花やかな薄羅に包まれた淑女たちが、それから紳士と船員が次々にたおれた。みんな恐ろしい寒気を身に感じて、そしてまるで「慄える玩具」のように劇しく絶え間なく戦慄した。
24 花嫁の枕辺で絶望している青年。青年自身も堪え難い寒気に襲われた。
25 船長室。――肥った船長はベッドの中で氷嚢に冷やされながら慄えていた。
26 黒ん坊の運転手は慄えながら神を祈った。
27 電信技師は慄える手先で辛うじて発信機を打つ。
――S・O・S! 印度洋にて。新しき五月の花――
28 帆柱高く上がる非常信号旗。
――我等、危険に瀕せり!――
29 ただ船底の火夫だけが丈夫で働いた。
30 羅針盤。不良――と書いた紙が貼ってある。
31 舵手室。舵手は蒼ざめて、厚まくれた外套にくるまりながら、決然たる態度で舵輪を廻している。
32 船尾。
33 舵機――舵のついていない心棒ばかりが波間に空しく廻転した。
34 大洋を走る運命の船。(溶暗)
35 長い夜。おそろしく泡立っている真っ暗な海面。
36 (溶明)朝。青年の船室。
37 青年ひどく厚く重ねた夜具の中で眼をさます。そして傍を見た。
38 花嫁がいない。
39 青年は周章てて船室を飛び出す。
40 一歩、船室を出るならば、ああ、見よ!
41 船は白皚々たる雪に埋もれていたではないか!
42 大雪の港の景色。
43 船は進路を誤って、アラスカへ着いたのであった。
44 青年は雪の甲板を走った。
45 はるかの船首に両手を上げて突っ立っている花嫁の姿。
46 青年は喜びの叫びを上げる。そして走り寄る。
47 しかし、花嫁は身動きもしなかった。
48 それもそのはずである。小いさな可愛い花嫁は、天へ向って両手を差しのべたまま、氷となって、固く固く凍りついて死んでいた。
49 そして、悲嘆にくれた青年が、その胸にいくら熱い泪をそそぎかけながらかき抱いても、氷の花嫁は再び生き返りはしなかった……。(溶暗) | 底本:「新青年傑作選 爬虫館事件」角川ホラー文庫、角川書店
1998(平成10)年8月10日初版発行
初出:「新青年」
1927(昭和2)年4月号
入力:網迫、土屋隆
校正:山本弘子
2008年1月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "046404",
"作品名": "氷れる花嫁",
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"初出": "「新青年」1927(昭和2)年4月号",
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何が 南京鼠だい
『エミやあ! エー坊! エンミイ― おい、エミ公! ちょっと来てくれよオ、大変々々!』出勤際に、鏡台へ向って、紳士の身躾をほどこしていた文太郎君が、突然叫びたてました。
『なあに? なんて、けたたましい声を出すの? お朔日の朝っぱらから気の利かないブン大将』
妻君のエミ子が、台所から米国製の花模様のあるゴムの前掛で、手をふきながら出て来ました。
『まあ頭を、ちょっと嗅いでみておくれ? 臭いの何んのって!』文太郎君は顰めっ面をしながら、もみ苦茶になった頭をさし出しました。
『どうしたの? コリス?――』
コリスと云うのは希臘語で、その昆虫の名前だと、或る大学生が何時かエミ子に教えてくれたのです。
『違うよ。ウイスキイだよ。頭が、ウイスキイなんだってば……』『まあ、本当だわ。ぷんぷん――迚も、景気のいい香よ。でも、何だって今時分酔っぱらっちゃったの。あんたの頭?』
エミ子は兎も角、タオルで、ゴシゴシと旦那様の頭をこすってやりました。
『オウ・デ・コロンをつけたんだよ。四七一一番のオウ・デ・コロンはアルコオルがうんと入っていて、古くなるとウイスキイに変質するって話でも、聞いたことあるかい?』
『何を云ってんの、莫迦々々しい! あたしが、今朝わざと取り更えて置いたんじゃありませんか。あんたが、いくら不可ないって云っても、あたしのオウ・デ・コロンをフケ取りの香水の代りに使うから、懲しめのためにやったの。ウイスキイに両替すれば、勿体ないってことがあんたにも解ったでしょう。いい気味だわ。』
『畜生! 不礼者!』文太郎君は、タオルをかぶった儘頭をふりたてました。
『そんなに憤るもんじゃないわ。今日は、だって、四月一日よ。』『四月一日が如何した?』
『あら、あんた四月馬鹿を知らないの?』
『出鱈目云うない。そんなもの知ってるもんか!』
『呆れたわねえ、ブン大将は! そんな、古ぼけた頭にオウ・デ・コロンをつけようってんだから、いよいよもって図う〳〵しいわよ。四月馬鹿ってのはね――あんただって、チャールストンとワルツの違い位は知っているんだから、教えといて上げるわ。――四月のお朔日は一年にたったいっぺん、どんな途方もない出鱈目をやって、人を担いでもいい日なの。あたしたちには、クリスマスなんかより、もっと祝福すべき祭日なのよ。』
『ほう、本当かね――』文太郎君は、こすった位では、迚も芳醇の香の抜けない髪の毛を諦らめて櫛で、撫でつけ乍ら目を瞠りました。『そう云われれば、なる程、西洋の小説で読んだこともあるような気がする。』
『アスファルトの道を散歩する資格なしね。去年の四月馬鹿なんか、随分面白かったわ。あたし、学校を出たばかりで恰度神戸へ遊びに行っていたんだけど、海岸通りの石道を昼間一人で何の気もなしに歩いていたの。そうすると割合に寂しい横丁の出口のところで、日本人のお婆さんが、長さ五尺位の菰でくるんだ大きな荷物を道ばたに立てて、それをウンウン唸りながら担ごうとしているんだけど、迚も重たくって担げそうもないのよ。』
『それで、エンミイが馬鹿正直に担いでやったのかい? ところが中味が矢張り菰ばかりで、軽々と、担がれたってね。ザマあ見ろ! はっはっはっ……』
『黙ってお聞きなさいよ。担いだのも、担がれたのも、あたしじゃないの。折から通りかかった一名の西洋紳士。それを見つけると、吃驚したように立止って、お婆さんの様子を眺め、それから、あたしの方を見て、淑女の面前である手前、どうにも義侠心を出さずにはいられなくなったらしかったわ。直ぐとお婆さんの傍へ寄って、「オモイオモイデスカ。ワタクシ、オブッテサシアゲマス」云いながら、その菰包みに腕をかけて、ヤッとばかりに持ち上げようとしたんだけど、さてビクともしないじゃありませんか。大の毛唐が、いくら真赤になって呻いても大盤石の如く貧乏揺ぎもしなかったわ。ところが、その中にお婆さんが、唐突にゲラゲラ腹をかかえて笑い出すと、その菰をつい剥がしたの。すると中から現われたのが、何だと思って? 荷物と見せかけたのは、郵便ポスト――だったじゃありませんか。毛唐は真逆日本のお婆ちゃんがと油断してかかったのだろうけど、四月一日であってみれば、怒るに怒れず頭を掻いて逃げて行ったわ。』
『そいつあ豪気な話だ。なる程、四月馬鹿とは、嬉しい習慣だね。そう云うことならよろしい。今日は一つその手を用いて、会社の木偶共も片っ端から落してくれるかな。』
『タイピストや、電話姫なんかばっかり落としちゃうんじゃないの?』
『まさに図星と云うところかも知れないね。』
『大人気ないわ。』
『本気になりなさんな、自分で仕込んで置きながら。万事四月一日だ。』文太郎君は仕立下ろしの春外套を羽織ると、それでも毎朝と変らぬ真心こめたベエゼを、エミ子に捧げて威勢よく玄関へ出て行きました。そこで、ピカピカに爪先を光らして揃えてあった編上靴を穿きかけたのですが、どうしたものか却々手間どれるのです。
『もう、九時を廻って居てよ。早くなさらないといけないわよ。』
『うん。だって、今朝は随分早そうな陽の色なもんだからそれに、どうしてこう人通りが少いのだろう。エンミイは時計の針をやたらに、廻して置いたんじゃないかい?』
『疑う?』
『やっぱり早過ぎるんだろう。漸く七時半位のものかな。でも、どうせ今日は繰り越し仕事が溜っているんだから、偶には早出も信用を取り返していいだろうさ。……おや! どうも先刻から此方の足が入らないと思っていたら、両方とも右足じゃないか! ちえッ、四月の馬鹿野郎め! 御丁寧に古靴なんか持ち出しやがって!……』文太郎君は三和土の上に靴を投うり出すし、エミ子さんは仏蘭西鳩のような声を出して笑いました。恰度その折から、電話のベルが鳴りました。
『ハイハイ。こちら兎沢でございます。……おや、山崎さん、お早ようございます。ええ、ただ今、靴をはいているところで……文ちゃん、何を寝ぼけたことか、こんなに早々と、おホホホ……。え? 何でございますって? 今日会社お休みですって? まあ、いいえ、ちっともそんなこと申して居りませんわ。はあはあ、南京鼠の改良種をね。まあ、左様でございますか。え? ちょっと、お待ち下さいませ。』
エミ子は、電話口を手で蓋して、如何にも吃驚したような顔で文太郎君に詰問しました。
『文ちゃん。今日お休みだっていうじゃありませんか? どうしたって云うこと? あなた知らなかったの?』
『そ、そんな馬鹿な!』あらためて、正しく左の靴を穿き終った文太郎君は、些か面喰った様子ではげしく首をふりました。『とんでもない、何もかも、みんな四月馬鹿だ!』
『だって、山崎さんたら、今日、文ちゃんと南京鼠の競進会を見に行く筈だったって、そう云ってるの……』
『な、な、何が、南京鼠だい! もう沢山だ。四月馬鹿、四月馬鹿!』文太郎君は、ステッキを引つかむと、身をひるがえすように外へ飛び出して行きました。
『待ってよ。文ちゃん! 文ちゃん! お待ちなさいってば!……』エミ子は周章てて、受話器をかけて、門口迄追いかけたのですが、文太郎君は一散走りに通りへ曲って行ってしまいました。
富士山が見える媾曳
エミ子は不安な予感にかられました。そう云えば、今日から新しく春外套に着かえたし――四月になって冬外套も着ていられまいと云えばそれ迄だけれども、併し何時だって、抱えて出る筈の折鞄も、今日に限って置いて行ったし、こんなに早過ぎることを承知で周章てくさって飛んで行ったのは――エンミイが四月馬鹿にしようと思って時計をすすませて置いたのを、気がついていながらワザといいことにして、出掛け迄黙っていたらしいことは確かだ。
疑ってみれば、疑える節々が思い当らないでもなかったのです。直ぐ会社へ電話で問い合せてみようかとも考えたのですが、夫の勤め先が休みか否か解らないでいるなんて、そんな恥しい、可哀相な女房になるのは、自尊心が許さなかったので止すことにしました。
エミ子はしょんぼりと、茶の間に坐って考え込んでいましたが、やがて帯の間に挾んだ手を抜いて、思いついたように夫の置いて行った折鞄を開けて、中味を仔細に点検してみました。昨日の夕刊が二枚と、『探偵小説全集』が一冊と、『南京鼠の合理的長命法』と云うパンフレットと、古い帝国ホテル舞踏会の案内状が一枚出て来たばかりでした。
エミ子は、それから、文太郎君が昨日迄着ていた冬外套を持ち出して、ポケットをすっかり裏返して見ました。
ところが、胸のポケットから、手巾と一緒に小さな紙片のまるめたのが飛び出して来たので、その皺をのばして見ると、それは会社の便䇳紙で、何と次のような片仮名が、電報みたいに並んでいるのでした。
エノシマヘフタリッキリデデカケルノイヤ? フジサンヤウミガミエルアイビキ!
『江の島へ二人っきりで出かけるの厭? 富士山や海が見える媾曳――だって。まあ! あきれた。何て図う〳〵しい……』エミ子は蒼くなって、泪をポロポロ滾して口惜しがりました。まことに無理もない次第です。何も浮気をするにことを欠いて、江の島へ行かなくとも!エミ子は、どんな男刈にした奥さんにだって負をとらない位、近代夫婦生活の新様式を理解しているつもりだったのですが、それだから尚更のこと堪え難い侮辱でした。
と云うのは、実は一昨日の日曜に彼女は文太郎君に向って、
『春の海辺を歩き度いわ。靴も沓下もぬいで、裸足で砂を踏んで歩くの。楽しかあない?』
『うん。』
『江の島へ連れてってよ。いや?』
『ああ。でも、今日は調べ物があるんでね。その中に、伊豆あたりへ遠出するように心がけようじゃないか。第一江の島なんて、弁天さまに対してだって、今更気恥しくって歩けやしない。フロリダとでも云うんならいいがね。』
『日曜のダンスホールなんてご免よ。あたし、海の風に吹かれ度いの。』
『誰がダンスホールの話をしたい? 江の島へ行き度ければ一人で行っておいで!』
『よくってよ。行かないわ。』『怒ったのかい?』
『エンミイ、いい子よ。そんなことで、怒ったりなんぞしないわ。その代り今度もっと暖かになったら、本当に遠くへ連れてって下さらなけりゃ厭あよ。』そんなわけで、エミ子は折角の春日楽しい日曜を、家にいて『収入一割貯金法』を読んだり、近所の子供に表情遊戯を教えたりして温順しく過ごしたのです。そして、文太郎君の調べ物と云うのは、例によって、南京鼠の運動神経組織改良と云うようなものでした。
それだのに、その言下に軽蔑し去った江の島へ、密女と共に遊びに出かけると云うのなら、いくら春のバンジョーのように朗らかな気立てのエンミイ夫人でも、腹に据えかねるのが当然です。
わが唇は生まれのままに朱し
人妻なりきとて何の咎めそ
…………
巴里の時花歌を、泪の塩の辛い口笛で吹きながら、エミ子は姿見に向って、お化粧をはじめました。シュタイン会社製舞台化粧用の三番ピンク色のパフを、はたいてもはたいても、細い泪が溝をつけてしまいます。眼の縁に、思い切って空色の顔絵具を入れました。
化粧が終ると、エミ子は、親類中で爪弾きをされている従兄の、また従兄位に当る音楽学校を退学されて、今は銀座の蓄音器屋の嘱託しているピアニストの雄吉君のところへ電話をかけました。この男は、自分が年齢の半分も子供に見られ度がる嗜好から、自ら『お雄坊』と名告っていると云う程の品質で、エミ子さんが結婚する前には、幾度か付け文をしたことのある男です。
『――モシモシ、お雄坊? 今日、いいお天気ね。暇? え、暇だけど、暇なんかには飽きてるって?……そう、あのね、これから江の島へ連れてって上げようか? 嘘なもんか、本当さ。行きたけりゃ、余計なことを云わずに、直ぐ仕度をしておいで。だけど、あんまり気障な姿して来ちゃいけなくってよ。』
エミ子はそれから、黒地のフロックの首や手首に金箔の条を巻きつけた洋服を着て、真赤なお椀帽子をかぶって、待っていました。ペンギン鳥の恰好をした手提げのお腹には、勿論ありったけのお紙幣と銀貨とを押しこみました。
やがて、雄吉君が桃色みたいな派手なゴルフ服を着て、鼻眼鏡をかけてやって来ました。
『やあ、金ピカだなあ! 金ピカのグレタ・ガルボオですか。迚も素晴しいや。』と、雄吉君はエミ子の姿を眺めて、大袈裟に驚いてみせました。彼は、エミ子さんが、何だって自分をこんな風に優しい方法で思い出して誘ってくれたのか、全く嬉しさに燥ぎきっている様子でした。
『お雄坊を世間の知らない人が見て、あたしの旦那様だと思ってもそう不似合いじゃない位、立派にしていてくれなくちゃ駄目よ。』
エミ子さんは、鳥渡ばかり青い眼ぶたを伏せるようにして、そう云いました。
『よろしいです。お嬢さん!』雄吉君は手をこすり合わせながら、お辞儀をしました。
『あたしが、お嬢さんだって……奥さんと云って頂戴。……あたしの靴なんか揃えてくれなくたっていいのよ。男の癖にみっともない……』二人はこうして、江の島へ出かけて行きました。
いいん いん いん
わざと小田急には乗らずに、東京駅から鎌倉へ行って、鎌倉から幌を取らせた自動車で稲村ヶ崎を抜けて、海辺づたいに真直ぐに、江の島へ向いました。
おそらく一二時間先に、文太郎君とその恋人とが江の島に着いているとすれば、まず人目の少い片瀬から七里ヶ浜の砂浜辺りで、肩すり寄せて語らい合っているかも知れないと思われたからです。浜辺にいる人からも必ず、松林の縁の街道を走る自動車の姿は一目で見える筈だし、そうすれば、幌なしの座席に相乗りしたアメリカの活動役者の恋人同士のように颯爽たる男女の様子は、この上なく羨ましい光景として見送られるに相違ないのです。
けれども、七里ヶ浜の銀色に光る砂にかざす色あだめいたパラソルは幾つとなく点在し、そしてそれらの多数の傍には、それぞれ嬉しい人達がくっついていたにも拘らず、肝心の文太郎君の姿は一向に見当らなかったのです。
それで、エミ子は、片瀬で自動車を乗り棄てると、先刻から富士の秀麗を讃嘆しようが、春の海の香りが風信子よりもすぐれていはすまいかと同意を求めようが、更にエミ子が取り合ってくれないので、遉に気を腐らしている雄吉君を従えて、長い長い桟橋を渡って、江の島の音に聞えた険路を急ぎ足で一巡し、岩屋の奥迄尋ね尽したが、その甲斐もなかったのです。まさか宿屋を聞いて廻るわけもならず、エミ子はすっかり気抜けがしてしまいました。――ひょっとして、岩本樓あたりに憩んでいるのかも知れない。どうせ昼飯前なのだから、自分達も憩んでもいいと考え、岩本樓の石の門の前に足を止めたのですが、その時雄吉君が俄かに元気づいて、『――岩本院の稚児上がり、平素着なれた振袖から……』と、壊れた韛のような声を出したので、吃驚して逃げ出しました。
『誰が、そんな声色を聞かしてくれって云って?』エミ子さんは癇癪をピリピリさせて、可哀相なピアニストを叱りつけました。『あんまり見っともない真似をすると、ほんとに追い返すわよ。』
『だって、初めっから、僕が来たいって云い張ったんじゃないんですからね。』雄吉君は鼻をならしました。『僕たちは一体この春の最も楽しい一日に、何しに此処迄出かけて来たのかしら。徒らに……』
『お黙んなさい。あんたは唯あたしの御亭主として、恥しくないように控えていればいいのよ。』
『だって、御亭主なら御亭主らしく、女房の腕をかかえるとか何か、もっとこう、幸福感を味わう機会があってもいい筈です。』
『贅沢云うなら、サッサと帰って頂戴。そんな幸福感を味わっちゃったら、あんたはあたしを、恰で女房かなんかのような気がするでしょうよ。馬鹿々々しい!』
『エミちゃんは、どうしてそうロマンティストになり切れないのかなあ。』
『背負ちゃ駄目よ。――それよりか、ちょいと水族館でも覗いて見ないこと?』エミ子は、ぶすぶす云っている雄吉君を連れて水族館へ入りました。水族館にも、文太郎組の姿は見かけられませんでした。
亀の子、泳いでいる大章魚、あなご、ごんずい……大して面白い見せ物ではありません。併し、あの物凄い『猫鮫』だけは当館第一の怪物です。雄吉君は、長いことその前に立ち止っていました。『猫鮫』みたいな醜怪なる化物を、この世で初めて、エミ子もお雄坊も見せつけられたのです。
あれを眺めた者は、誰だって覚えずにはいられない本能的憎悪を、雄吉君は人一倍にしつこく、強く感じたらしかったのです。
『畜生、一つブン殴ってやり度いな。ステッキを持って来なかったのが何より手ぬかりだった。』と、彼はいたく口惜しがりました。
『ほんとに憎らしいこと。家のブン大将が怒った時とそっくり……』
『てへッ。何とか仰有られたようですな。』
雄吉君は、到頭我慢がなり兼ねたと見えて、足もとに転がっていた砂利の一番大きそうなのを拾うと、いきなり猫ザメめがけて投げつけました。けれども怪物はビクともしないで、却って、ニヤリと笑ったとも思えるような工合に白い鋭い歯をのぞかせて、あぶくを二つ三つ噴き出してみせた位です。
『お止しなさい。雄ちゃん、見つかると叱られてよ。』
エミ子は雄吉君を止めました。
ところが、それでもきかずに、猶幾度か化物の折檻をこころみている中に、雄吉君はつい誤って、小石を硝子枠にぶつっけてガチャン! と、大きな硝子を一枚破ってしまったのです。番人が仰天して、遠くの方から馳けつけて来て、雄吉君を取り抑えました。それでエミ子は、さんざん詫びた末、五円の弁償金を代りに払ってやりました。そうしてほうほうの体で逃げ出さなければなりませんでした。
再び桟橋を渡って、片瀬から今度は鵠沼の方へ続く寂しい海岸を暫らく見て廻ったのですが、これもやっぱり甲斐ないことでした。エミ子は、何とも云えない遣るせない気持になって、また泣けて来そうでした。お雄坊の前なんかで不覚の泪を流すのは辛かったので、それに陽ざしもそろそろ赤くなって来ていたし、思い諦めて江の島遊園地を引き上げました。
東京へ帰ると、もう日が暮れていました。高架線の上から銀座の灯を眺めた時、エミ子さんはほんの少し元気になりました。
『お雄坊、お腹が空いたでしょう。あたし、些も気がつかなかった。ご免なさいね。』
『うん、まるで破れた大太鼓みたいに空っぽになった。』
『いいわ。サンタモニカの晩御飯を御馳走して上げてよ。』
そこで、東京駅から銀座裏へ引っ返して温い西洋料理の食卓につきました。雄吉君は、食後にウイスキイを二三杯ねだって飲まして貰うと、俄かに勇気を出しました。
『実はね、先刻から訊こう〳〵と思っていたんだけど、此の頃エミちゃんの処で、誰か赤ちゃん生んだ人ない?』
と、雄吉君は赤い顔をテラテラさせながら、突然そんなことを云い出したものです。
『赤ちゃん? あたしでも生まなけりゃ、真逆、ブン大将が生む訳はないでしょう。莫迦なことを云うもんじゃなくってよ。』
『うん、僕もエミちゃんのお腹を見て、妙だと思ったんだけど――変だなあ、でも、まあいいや。』
『どうしてそんなこときくの?』
『……』雄吉君は、飛んでもないことを云い出して、ひどく困ったと云うような顔をしました。
『え? 誰かそんな噂でもしたの?』
『ううん……どうだっていいことなんだよ。』
『いいこたあないわ。はっきり仰有い。……云わないの? じゃあ、もう聞かないわ。』
『困ったなあ。実は一週間ばかり前に、文太郎さんと銀座で会って、一緒に富士屋でお茶を飲んでいたら、恰度其処へ来合せたお友達らしい人へ文太郎さんが、これは未だ内証なんだがね。今度とても素晴しい子供が生まれたよ。四月一日には誕生祝賀会をやるから是非出席してくれたまえって、云っていたんです……それで、「赤ちゃんが生まれたんですか?」って僕が聞くと、黙ってニヤニヤ笑っていたけど……だから。』
『あんた! あたしの子だと思ったの?』
『ええ。だから、エミちゃんから電話をかけられた時には吃驚したんだけど、でも、僕なんかに解らないことがあるかも知れないし、僕は何だか、エミちゃんが可哀相になっちゃって』
『大きなお世話よ。――あたし、もう帰るわ。左様なら。』
エミ子は、呆気にとられている雄吉君を置いてサッサと食堂を飛び出しました。
ところが――エミ子が、文太郎君の怪しい所業の数々に身も世もなく心細くなって、誰もいないところで精いっぱい泣き度い程の気持で、家へ帰ってみると、さて文太郎君が凡そ上機嫌で彼女を抱きかかえてくれたのです。
『江の島の春はよかったかい?』
『まあ! 知らないわ……』エミ子は夫の腕の中で身もだえして泪にむせびました。
『エンミイが江の島へ行き度い〳〵って、せがむからさ。』
『誤魔化そうとしても駄目々々。あたし、あの便䇳の文句を読んだのよ。』
『エノシマヲフタリッキリサンポスルノイヤ? フジサンヤウミノミエルアイビキ!……五字ずつ飛ばして読んでごらん。エから五字目がフ、フから五番目がリ……ルそれからフ、ウ、ル……四月馬鹿さ。はっはっはっ……』
『あら!……』
『僕が今日何処にいたかってことは、エンミイの大嫌いな南京鼠協会へ問い合せれば直き解かるよ。実は、僕がエンミイに内証で手がけた南京鼠が迚も素晴しい新種の子供を生んで、それが首尾よく仏蘭西へ輸出する見本として通過したので、今日は大祝賀会が開かれ、僕は、その上、巴里のシュバリエ商会から五千円の権利金を貰うことになったんだよ。……これは、正真正銘の本当だ。四月馬鹿じゃないから安心おし。お前の大嫌いな南京鼠のお蔭で、今度の日曜あたりには、伊豆の温泉へでも何処へでも遠出が出来ると云うわけさ。』
『いいん、いんいん、いんいん……』エミ子は文太郎君の胸に顔を埋めて、思いのたけ泣いてしまいました。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一千九百三十九年一月×日
街裏の酒場「騒音と煙」の一隅に於て、酔っぱらいの私がやはり酔っぱらいのオング君を、十年振りに見出したと思いたまえ。オング君は、一昔前と変らぬリボンをネクタイに結んだ懐しい姿で、赤ラベルの安三鞭酒を煽りながら、私に呼びかけたのである。
『やあ、新年お目出度う。……久しくお遇いしませんでしたが、髭なんぞ生やして、随分お年を召されたようですね。今何をしておいでですか? そう、やはり市役所の方へお勤めなのですか? 奥さんは、今度こそ、もうおもちでしょうな? それはそれは。……で、僕ですか? 僕は活動写真業です。ほら、お互に末だあまり年をとり過ぎてしまわなかった頃、港の裏山の草っ原に寝ころんで計画しあったではありませんか。青空の中に翩翻として橙色の旗が翻っているマキアベリイ理想映画会社について。それを今度僕がたった一人で実現したのですよ。嘘だと思うなら、近々お天気のいい日にでも散歩がてらいらっして下さい。港の裏山には、我々が曾て空想した通りの、橙色の旗が翩翻として青空に翻っています。……』
もう不惑に近く、海豹のように無口になってしまった私に向かって、彼は十年前と少しも変らぬ雄弁を以て語るのであった。
『君はその時分は一方ならぬ映画ファンで、何時でも僕に嘆いていたのを、僕はよく憶えていますよ。……今時の映画と来たら、単なる機械製産品以外の何者でもあり得ない。それに映画批評家たちの眼目とする映画の価値はひたすらカメラワアクに依って決定されるスピード第一、アイモの移動、云々。映画の内容は? 内容とは筋ではない、映画が若しも如何なる意味に於てか芸術で有り得るとするならば、その芸術自身の姿だが、そんなものは全く蔑にされ忘れられてしまっているではないか、と。……僕は常に君のそう云う意見に賛成していました。それで僕はその後いろいろなお互の事情で会いそびれてしまってからも、この不幸な芸術の正系を守るためにマキアベリイ理想映画撮影所を建設し度いと心を砕いていました。ところが、喜んで下さい、今度到頭父が亡くなって、その遺産三千万円と云うものが全部僕のものとなったのですよ。僕は自分の財産の銀行利息だけでマキアベリイ撮影所を経営して行くことが出来るのです。つまり、一年に百万乃至百五十万円の費用をかけて、丸損したところで、僕の家産の傾く憂は更にないわけです。今や、我がマキアベリイ映画にあらゆる興業政策を無視しても差し閊えないのです。ああ、何と永い間の夢でしたろう……。
『製作映画の種類ですか?――ところで、君は近頃やはり昔のような映画ファンですか? ほう、十年から御覧にならないのですか? いやいや、それも決して無理とは申されますまい。未だ十年前の方がましでした。この頃の愚劣さ加減と来てはお話の外です。それに、一昔前のような音のない活動写真は極めて稀で、殆ど全部トーキーと云う馬鹿げた仕掛けのフィルムです。活動写真が物を云うなんて、それこそ子供が夢を見ながら寝小便をしてしまった程に、不愉快なものです。ところが、この間「誉高き婦人」と云う映画が掛って、大そう評判だったので見に行ったのですが、おどろいたことにもこの映画の中の女主人公が夫を怒鳴りつけて殴る場面になると、我々男の観客は何れも自分の頭をしたたかに殴られたような衝撃を感じたものです。何か、特種な光波の作用に依るのでしょうが、まことに驚嘆すべき技術の進歩ではありませんか。お蔭で気の弱い少年の見物客の中には発作に襲われて卒倒したものもあるそうです。……こんな工合では、やがてのことも我々は、雨降りの映画を見ればビショ塗れになるだろうし戦争の映画を見れば多数の見物が悶絶してしまう程に、効果的なフィルムが市場に出現するに違いありますまい……検閲制度ですか? そうそう、そんな習慣もあるにはあるのですが、何しろ今時の様にこう特等席の中でお客が接吻することを公許しなければならない時世になってみれば今更映画の風紀をやかましく取締っても始まらないわけだし、また思想上の事に関してなら、御存知の四五年前のあの反動時代のお蔭で、僅かばかりのお金でそんな危げな脚本を書こうとでも云う男は根こそぎ滅ぼされてしまったし、それに第一映画製作は大産業として、我国第一の資本家の手一つに収められてしまって見れば、全く検閲なぞの必要はないことになったのです……
『そこで、僕のマキアベリイ映画は勇ましく旗上げをしました。市場にどれ程売行きが悪くても僕はビクともしません。また、検閲も恐れません。僕たちは当局の忌諱に触れるような映画も憚りなく作って、そして会員ばかりでこっそりと見て娯しむことが出来ます。これは僕の私有財産として何時でも金庫の中に蔵って鍵をかけて置けばそれですむわけです。現在「αωに就いて」と云うその種のフィルムが一本蔵ってありますが、お望みならば、何時でも内密でお眼にかけましょう。市場に売り出した第一回作品は「非金儲主義」と云う喜劇で、曾てはナポレオンの如く遍く世界中を風靡したことのあるチャーリー・チャップリン――そう云う喜劇役者を憶えておいででしょうな――に主演させました。云わば我々の会社の精神を宣伝するための映画のようなもので、それにこの老優のうらぶれた芸があまり今の見物にはピッタリしなかったと見えて大して受けなかったようです。第二回作品は十年前に君が僕に提供してくれた台本による風景映画「諸君の故郷」です。トーキー時代以前に人気のあった役者たちを世界中から格安な給料でかりあつめました。チャールス・ファーレル、ウイリアム・パウエル、ジャック・クーガン、ゲイリイ・クウパア、ドロレス・デルリオ、ルイス・ブルックス、フェイ・レイその他日本で云えば山内光とか竜田静枝とか云うようなトーキーに幸いされなかった連中のあつまりで、それぞれ彼等の故郷の風景映画でつくりました。これは、非常に静かな映画ですから或いは市場に於ても珍奇なものとして相当歓ばれるかも知れません。第三回は今撮影中ですが、ジャン・ジャック・ベルナアルの「旅の誘い」を僕が書きなおしたものです。ヴオジュの山麓と巴里の景色を悉くセットで作りました。役者はポール・ムウネ・ジュニアですが、この映画は全部フルシインとロングばかりで、アップはおろかバストも一切用いません。またフェイドとかオウヴァ・ラップとかそんな技巧は一切用いないのです。尤も、僕のところのカメラは甚だそうした高等技術には不適当なやつで、高密式の百写しと云う機械です。何故と云って、僕の考えでは最も効果的に活動写真の本質をしめすのは、なるべく上等でないカメラに限るようです。……おや、もうお帰りですか? まだ早いですのに……
本を暗誦して居ると色々役に立つのであります。
余等が其の頃相談るのは、氷雪の様に白い肌膚が処女の様にナメラカな仙人の棲んでいる藐姑射山の風物とか、夜になると壺の中へ飛び込んでしまう老仙人の習性とか、歩き方を忘れて這って帰った男の話とか、魯の酒より楚の酒の方が美味い事とか、お天陽様を睨んでも眩しがらなかった玉戎の話とか、盗※(さんずい+石)が孔子を怒鳴る件とか、野蛮人が斧を川に落した話とか、辟陽がうらやましい話とか、つまりマルクス・ボーイのラッパズボンやエンゲルス・ガールの赤旗事件などとは全く関係の無い事であった、のであります。
で、芥川龍之介の澄江堂とか、室生犀星の魚眠洞とかに対抗(?)して、余も何かスバラしいのを考えたのですが、どうも気の利いたのは全部昔の奴が使ってしまった後なので、今更もう発見し得ないのか、と散々考えて居た所、東京は京橋、中橋広小路、千疋屋の隣の自動車屋の向いにある骨董屋の屋号が何と「壺中居」というのであったのであります。前に書いた壺の仙人だ……畜生、早い事やりやがった! と口惜しがった、のであります。
さて、何の話であったか。
そうだ、「ニヒリストたる心得」忘れてやしない!
何でも知っているぞ。まあ教えて進ぜよう。
が、編集者から命令された紙数までにはあと三行しかない。
三行で「ニヒリストたる心得」が書けるもんですか、ねえお嬢さん。全く、編集者は無茶を云って困る…… | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年1月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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井深君という青年が赤坂の溜池通りを散歩している。
これは一昔若しくはもっと古い話である。今時の世の中にこんな種類の青年を考えることはあまりふさわしくない。
中山帽子をかぶって、縁とりのモオニング・コートを着て、太い籐の洋杖を持って、そして口にはダンヒルのマドロス・パイプを銜えている。これが井深君の散歩姿である。
井深君は銀座の散歩の続きか、或は活動写真を見た帰りか何かで、その春の夕暮れ時、あの物静かな通りを赤坂見附の方に向って、当もなくただ一人でぶらぶら歩いていたものと見える。日が落ちたばかりで、水浅黄色の空の底には黄昏の薄明りが未だ消えきらなかったのに、月は早い月なのでもう可なり上っていた。一体、あすこいら辺はガラアヂだとか倉庫みたいなものばかりあって、灯影が割合に乏しく、道を歩く人もわけて日暮れ頃なぞには少いのだが、その夕方はどうしたものか井深君はたった一人も、兎に角自分の体の付近にはたった一つの人影をも見ることが出来なかったのである。勿論車道の方には時折電車も通れば自動車も疾っていたが、併しその電車や自動車の内側の明るい光や乗客の姿は、無心にたあいもなく走り去ってしまうので、一人の生きた人間の数にも入らなかった。車道は何の係りもない別の世界で、電車にしろ自動車にしろ暗がりの幕の上に映った活動写真みたいに、全く少しの音もたてずにひっそりと動いているようにさえ思えた。そこで、その薄暗い山王下あたりへ続くまことに寂しい並木のある甃石道を、うしろから青っぽい靄をふくんだ月の光に照らされながら歩いているうちに、井深君は何時しかそんな場合に似合わしい気分に落ち入って行ったのである。
と云ったところで、井深君は未だ少年の域を脱け切らない年頃ではない。毎日々々のらくらしているばかりで何一つ為事らしいものも持ってはいなかったが、それでも立派な法学士で――そんな肩書なぞは全くどうでもいいのだが――兎に角三十歳近い大人であった。併し、時々、少年になろうと云う意識は動いた。それと云うのが、井深君は恰度恋愛をしていた。それも――井深君は殊の外内気な性向で、かつ多分それ故に謹直で、ついぞ遊びもしないし、酒も飲まないし、女の噂さえも滅多に口にすることのない人間なのだが、どう云う事のはずみか井深君が屡々遊びに行く友だちの妹で、やっと十八位にしかならない少女に生まれてない恋慕の情を覚えそめていたのである。恋慕の情を覚えそめていた――と云うだけの話だから、その少女の方ではどんな風に感じていたのかも判らない。甚だもの果無い恋愛である。井深君自身もそう思った。が、井深君の気質にしてみれば、そして又別の恋も知らずに三十歳もの年を重ねてしまった身にして見れば、それ程のもの果無い恋の方がいっそ心に叶っていたのではあるまいか……。
井深君は、自分のひきずっているステッキが甃石にカラカラ、カラカラと鳴る音ばかりではもの足りない気がした。そこで、あらためて前後左右を見返して、人影のないのを確めると、さて――(何しろ春の黄昏で、月がさしていたことだし……)と心の裡に言いわけをして、その少女が好んで唄っている「汝が像」と云うハイネの詩にシューバアトが曲をつけた歌を口笛で吹いてみた。
Ich stand in dunkeln Träummen und
starrt, ihr Bildness an,
Und das gelibte Antlitz
hoimlich zu leben begann.
……………………………………
…………………………
ところが、一章唄い切らない中に井深君はやめた。
行くての向う側の家並に切れ目が見えて、つまり横通りがあって、其処の角の赤と緑との明るい灯がついている下に何やら人々がごたごたとたかっているのである。色のついた灯は Owl Grill & Restaurant と大きく切り抜いた西洋料理店の軒燈であった。おや――喧嘩かな。アウル・グリル・エンド・レストラントか? 上海にいた時分には、あすこへよく飯を食いに行ったものだったが……。と、井深君は、平常ならば銀座の真中で土地の人気者たちの大喧嘩があって、どんなに黒山の人だかりがしていたにしろ、足をとめたりなぞしないのだが、その晩に限ってどうしたわけか、その大袈裟な軒燈につられたものか、つい電車道を横切って、そっちの方へ近寄ってみたのであった。その西洋料理店は名前こそ堂々としていたが、もとよりペンキ臭い安普請のけちな店構えであった。植木会社の貸物らしい大きな糸杉の植木を飾った入口の仏蘭西扉の前に十人位の者が立って中を覗き込んでいた。仏蘭西扉の傍には、何のつもりか舶来の酒の壜や前菜料理の材料なぞと一緒に大きくふくらましたゴム風船の沢山浮んでいる見世飾があって、それらの透き間から垣間見ている者もいた。
――帰れ! やい、けえれねえのか、てめえ宿なしじゃあるめえな!」
先ずだみた男の声でそう怒鳴るのが井深君の耳に入った。井深君も人々の後から内部の出来事をうかがった。井深君は人並より丈が高かったので、溝板か何かを足場にして少し背延びをするとすっかり見ることが出来た。井深君は入口に近い卓子の一つに顔を伏せている小ざっぱりした空色の水兵服を着て赤い飾り玉のついた仏蘭西様の水兵帽をかぶった十七八の少女と、その傍に立って二人の女給らしい、ひどくまるまると肥って赤ら顔の女と、それとまるであべこべに痩せこけて蒼い女と、それに主人とも見える背広服を着て頭の頂をてかてかに禿げ上らせた男とを見た。
――あんた、泣いたって、泣き真似なんかいくらしたって、誰あれも可哀相だなんて思やしなくってよ。早くお帰んなさいよ。」と肥った女が云った。
なる程、安物の置電燈のうす紫の笠の下で、水兵帽子の赤い玉のかすかに揺れているのがわかった。
――交番へそう云うじゃなし、帰ってもいいなんて、有難いと思わないのかね。いけ洒々と泣いて見せたりしやがったって、そんな手なんかに乗って堪るかってんだ、ほんとうに。足元の明るいうちに、さっさと帰れ、帰れ!」と今度は痩せた女が、そう罵ると、見物の方を向いて哂って見せた。
――足許はとっくに暗えや、日が暮れてるぞ! 帰る家がなかったら俺ん家へ来い。ただで泊めてやらあな。」と見物の一人が怒鳴った。それで、見物人たちは、一斉に笑い出した。
――全くしぶとい小娘だ。服装こそちゃんといい服装をしているんだが、不良少女なんて図々しいもんだな。」と主人らしいのが感心したように云った。
すると、水兵服の娘は突然顔を上げて井深君を見たのである。恰も井深君が其処に見物人たちの後から覗き込んでいるのをはっきり知っていたかのように。――(けれども、部屋の中は明るくて戸外は暗いのだから、井深君の方では見たと思っても先方では見えなかったかも知れない。まして井深君が其場に居合せたことに気の付こう道理なぞはないのだが、何しろあまり突然に、ぴったり二人の眼が出会ったのだ)青ざめて、眼が先の広がった睫毛まで泪に輝いて、可愛らしい輪廓をもった顔である。井深君は、そこで危く声を上げようとする程驚いた。突然見つめられたためばかりではない。井深君は、実に其処に自分の恋渡っている少女と他ならぬ少女を見出したのである。――いやいや、こんな風に不器用な云い廻しは決して許されない。第一それではこの話は話にならなくなってしまう……。上品な額や、花車な頤や、さては振分け髪を一束づつ載せた細りとした肩のあたりと云い、瓜二つどころか全く豆と豆との如くと云っても足りない位である。こんなにもよく似た顔が二つ以上も、この世に存在して差閊えないものであろうか! と井深君は思った。
井深君は知らず識らず人々の一番前に出てしまった。そして、どうして井深君にそんな敢為な志が湧き起こったのであろうか、それはただその少女があまりにも自分の恋人にそっくりであったから――と云う理由だけに過ぎない。井深君はその頭の禿げ抜けた主人らしい男に事の顛末を訊ねたのである。頭の禿げた男は井深君の中山帽子やその他の身なりに対して敬意を表しながら可なり丁寧に説明して聞かせた。その少女は夕食のために定食を食べたのだが、食べてしまうと、金入れを紛失くしたと云って代を払わなかったと云うのである。
――二円? それ位の金で、こんな年のいかないお嬢さんにこんな恥をかかせるものではない。僕が払いましょう。」井深君は話が存外やさしい事柄であったのに安心しながら云った。
――あなたさま、お知り合いでいらっしゃいますか?」
――そう、まあ知り合いですね。……江戸川の立派なお邸のお嬢さんだよ、お父さんは男爵でね。電話をかけましょう。――君は不良少女なぞと云ったことを、勿論みんなの前でお詫びする気でしょうね。」
井深君は、この少女の身元を証明するために本物の恋人の兄のところへ電話をかけよう、そしてあとで訳を云ってあやまればいいと思ったのである。井深君はこの思いつきに嬉しくなって水兵服の少女の方をみた。しかし、少女は井深君と顔を合せることを恐れでもしているように、部屋の隅っこの方へ体を向けて顔をふせていた。
――モシモシ、園田男爵ですか、園田君いますか、こちら井深です。ええ井深。……ああ園田君、今ね、赤坂見附で妹さんと――ああちえ子さんとお会いしたんだがね。これからすぐ送って帰るよ。さよなら、くわしい事はあとで話すよ、さよなら……」と井深君は相手の声が何を云おうとお構いなしに、大きな声でおっかぶせるようにそれだけしゃべってすぐ電話を切った。
果して、その電話のおかげで、主人や女給はひどく申訳のないような顔をしてひたあやまりに、井深君と水兵服の少女とにあやまるし、入口に立っていた野次馬もこそこそとそれぞれ散らばってしまった。
ところでさて、井深君はその水兵服の少女を連れて其処を出なければならなかった。中山帽をかぶってステッキをついた紳士と空色の水兵服を着た少女とは、やがて赤坂見附の方へ、うす暗い歩道を歩いて行った。月は今は真上から静かにさしかけていた。
――君、どうして、あんなところへ入ってご飯を食べなければならなかったの?」と二人っきりになると、そんな少女に対しても井深君は固くなって口をきいた。
――あたし、でも、おなかが空いたんですもの。虎の門の裏でお友達とテニスをしたのよ……」と甘えるような声で少女は答えた。何てしゃあしゃあしていることだろう――と井深君は思った。しかし、まあなんてその声までが、そっくり自分の恋人そのままであることよ――と感嘆した。そして、もしも、あのようなところで遇ったのではなくして、はじめから、恋人と二人で此処を散歩していたものとしたならば、(――何と云う幸福な仮想であろう!)自分は決してこの少女が、自分の恋人と別人かも知れないなぞと云う疑をさえ差し挾まなかったのだが……それにしても、なぜこんなにまでよく似た人間が二人もいるものであろう、恐しい事だ――
――君、家で食べればいいじゃないか。君の家どこ?」
――ご存じのくせに……」
――どうして? 僕知るもんか。」と井深君はドギマギとして云った。
――あら、だって、さっき電話をおかけになったでしょう。」
――電話だって? あれは君をたすけるための出鱈目さ。」
――ああら、どうして出鱈目なんか仰有るの。」
――どうしてって、その方が君のためだもの。」
――…………。」
――君の名前はなんて云うの?」
――ソノダチエ子。どうしてきくのイブカさん。」
――止したまえ! ふざけるのにも程がある。電話まで聞きのがさない。」
純良な青年の井深君は、不良少女と云うものは実におそるべきものであると感じた。井深君はそれで黙ってしまった。姿や声はこれ程よく相似ているのにも拘らず、どうして一方にはこんな末恐しい少女が育てられて来たのであろうか。外にあらわれているところが似ているように、心だって屹度、生まれた時は素直な上品な子だったに違いなかったのだろうに――井深君は境遇や周囲の不良少女に及ぼす影響に就いて、法学士らしく考えてみたりした。
――君はどっちへ帰るの。」と井深君は立止ってきいた。
――それは小石川よ、どうしてそんな判り切ったことをきくの? イブカさん……」と水兵服の少女は、もうすっかり晴れやかな様子になっていて、井深君の腕につかまり乍ら一層甘えるような声で云った。井深君はあたりを見廻した。
――ばか、ばかなことを云うのはお止し。そして、いい子にならなくてはいけない……ねえ、わかったかい……じゃあ、さよなら……」と云うと、いきなり、その水兵服の少女を抱きしめて強く接吻した。そしてすぐ、はるかに平河町の方から坂を下ってくる電車をめがけて後をも見ずに駈け出した。
ところが、その翌朝のこと、園田の声で電話がかかった。
(――井深君、井深君。昨晩は妹がとんだ厄介になって、どうも有難う。あいつはお転婆だからね、いい薬だったろうよ。それでも、妹は君がとても親切にしてくれていい人だって、ひどく喜んでいたよ――)と云うのである。井深君はそれで、三十分も電話の前に黙って立ちつくしていた。
――僕はなぜ、はじめ見た瞬間に、その空色の水兵服の少女が、園田の妹に(似ている――)なぞと思ってしまったのでしょうかね、わかりませんよ。なぜ、園田の妹だ、とすなおに思わなかったのでしょうかね、全くわかりませんよ。――僕は人間の、しかも自分自身の目でも耳でも頭でも、あんまり信用出来ないものだと、しみじみ思いましたね……」
と云う井深君の話である。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「三田文芸陣」1925年11月号
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年5月14日公開
2007年11月9日修正
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1
兄を晃一、弟を旻と云う。
晃一は父親の遺して行った資産と家業とを引き継いで当主となった。旻は実際的な仕事が嫌いだったし、それに大学の文科へ入って間もなく肺病にとりつかれたので、海辺の別荘へばかり行って、気儘な暮しをしていた。
兄弟仲は決して悪い方ではなかった。一月に一度はかかさず、兄は嫁の幸子と共に、あらかじめ弟の欲しがっている手土産なぞを打ち合せて置いて、はるばる別荘へ遊びに行った。
ところで、晃一の嫁の幸子は幼い時分から晃一の許嫁として、兄弟と一緒に育てられた身なのだが、未だ女学校にいる頃、高等学校の学生だった旻と恋に落ちて、駈け落ち迄したことがあった。
二人が捕えられて連れ戻された時、晃一は親たちにせがんでその事件を暗黙に揉み消して貰った。
――お前の罪は責めるまい。本当ならば、幸子をお前に譲ってやるべきだろうけれど、僕には彼女を思い切ることは到底出来そうにもない。どうか、お願いだから手を引いてくれ。」晃一は、弟に向って、そう云った。
そして、旻と幸子とは厳重に引きはなされてしまったが、時が経つ中に二人の情熱も漸く冷めて、その儘案外容易におさまることが出来た。
晃一と幸子との結婚式の折には、旻はもう肺病になって海岸へ転地していたのだが、わざわざ出て来て席に連なった。
――三人とも子供の時分は本当の兄弟だと思っていたんだがね。」
病気窶れがして寂しい頬の色だったが、旻は新夫婦の顔を見比べて、そう云って笑った。
2
その秋に入って、旻の病勢は頓にすすんだ。
それで幸子は夫の同意を得て、義弟の看護のために別荘に逗留することとなった。晃一も殆ど毎度の週末には泊りがけで遊びに来た。
旻にして見れば兄夫婦が、それこそ唯一つの身内だったのでこの上もなく喜んだ。
幸子は寝食を忘れて病人の看護につくした。
病人は、海にむかって硝子戸を立てめぐらした座敷で、熱臭い蒲団に落ち込んだ胸をくるんで、潮風の湿気のために白く錆びついた天井を見つめた儘、空咳をせきながら、幸子の心づくしに堪能していたが、それでも覚束ない程感動し易くなっていたので、時々幸子を手古摺らせた。
――僕は幸子さんにそんなにして貰うのは苦しい。いっそ死んでしまい度いよ。どう考えたって、僕なんてのは余計者なんだからね。」
――そんなことを云うと、あたしもう帰ってよ。」
――ああ、帰っておくれ!」
そんな時には熱は直ぐ上った。そして、それが幸子の故だと云って、彼女は鳥渡でも姿をかくしたりすると、旻は一層亢奮して看護婦や女中を怒鳴りつけて、幸子を呼んでくれと云い張ってきかなかった。夜更けて氷嚢を取り更えるのにも旻は眼を大きく輝かせて、若しそれが幸子以外の者である時にはひどく機嫌が悪かった。
併し、遉に晃一が居合わせる際なら、そう我儘も云うわけにはいかなかった。晃一に対してはまことに素直に振舞った。
晃一は所在ない陰気な日曜をまる一日、弟の枕もとに寝そべって弟のために買って来た新刊書などを自分で読みながら過すのだったが、ふと二人の顔が会うと、旻は黙って微笑してみせて、さて大儀そうに首をそむけて眼を閉じた。
3
上天気が続いて日毎に晴々とした青空の色が深くなって行った。海は一番はるかな島影もはっきりと浮かせて、湖のように静かであった。
旻の病気は鳥渡もち直したかたちであった。
その日の午後、旻は久し振りで、陽の一っぱいに当っている縁先の籐の寝椅子に出て見た。
幸子は庭に降りて、誰も構うものがないので、延び放題に延びてたおれかけたコスモスの群れをいくつにもまとめて紐で縛りつけていた。
――おかしな花だよ。たっていられない程なら、こんなに背を高くしなくたって、よかりそうなものだわねえ。」
――僕も手伝ってやろうか。」
――お止しなさい。あんたの方がコスモスより、よっぽどヒョロヒョロのくせに。」
旻は、支那服のような派手なパジャマを着てしゃがんでいる幸子の肩から襟のあたりにこっそりと目を送った。
――ねえ。」
――なあに。」
――明日、兄貴来る日だね。」
――ええサラミを買っていらっしゃるわ。」
――僕が、起きているのを見て驚くだろうな。」
――そうね。でも、あんたいい気になって、あんまり無理しちゃ駄目よ。」
幸子は何気なく振返った拍子に旻の眼を感じて、身を固くした。
――ねえ。」
――なあに?」
――僕は、幸せだよ。」
――…………」
――幸子さんが、たった一度接吻してくれたばかりで、こんなに元気がついてしまったのだって、兄貴にそう云ってみようかな。」
――あんたは、悪党よ。」
――結構……」
――あたしが、あんたを愛しているとでも思ったら、それこそ大違いだわ。」
幸子は、花をうっちゃって立ち上がった。
――嘘だ! 幸子さんは、心の底では誰よりも一番僕を愛していなければならない筈だ。一時眠っていた昔の僕たちの恋が目をさましたのだよ。あんなに一途だった人間の愛情がそう簡単に亡びてしまうわけはないのだからね。僕は長いこと待った……」
――あたし、死にかけた人間なんかに恋をしなくってよ!」
幸子は、そう云い捨てると、駈け出した。
旻は、周章て縁側から芝生へ飛び降りた。そして跣足のまま、蹌踉きながら、咳につぶれた声で呼び立てた。
――幸ちゃん! ごめん、ごめん。……幸子さん!」
併し、幸子は、振返りもせずに、どんどん裏木戸から断崖の松林の方へ走り去った。旻は踏石の上の庭下駄を突っかけて、その跡を追った。
間もなく、旻一人だけ切なそうな息を切らせて戻って来た。
――何処へ行ったのか、見えなくなってしまったよ。」と旻は、家の者に告げた。旻は苦しがって、それから直ぐ床についてしまった。
ところが、何時迄待っても、夕方になってやがて浜辺や松林の景色が物悲しく茜色に染まって、日が暮れかけても、幸子は帰らなかった。人々は漸く気遣いはじめた。そこで幸子の立ち廻りそうな極めて少数の家々と停車場とへ問い合せてみたが、一向に知れなかった。
夜っぴて、幸子は帰らずにしまった。
旻は旻で、ひどく熱を出して、多量に喀血した。
4
夜明に近い頃、蝋燭のたってしまった白い提灯を下げた捜索の村人の一人が、蒼い顔をして報告を持って来た。幸子が断崖の下の岩蔭に落ちて死んでいると云うのである。
別荘の人々は狼狽した。肝心な旻は殊の外重態でそんなことを耳に入れるのさえ非常に危ぶまれたし、年のゆかない女中や看護婦ばかりで、全く途方に暮れた。
先ず晃一に知らせてやらなければならないのだが、併し恰度その日は晃一が来る日で電報を打ったところで行き違いになる迄のことだと云うので見合せられた。
検屍は朝の中に済んだ。幸子の死体は、別荘から三町と隔てない崖の真下に、半ば干き潮になりかけた海水に漬りながら横たわっていた。前額と胸とを鋭い岩角に打ちつけて、それが致命傷らしかった。明らかに溺死ではなかった。断崖の高さは五丈位で、三分の一程のところにちよっとした突起があって、そこから生え出た小さな松の木の枝に彼女のパジャマの袖がちぎれて、風にふかれながら、ひっかかっていた。落ちる途中、その突起に衝突して、そこで一度バウンドしてから、真逆様に墜落したものらしい。死後十五六時間を経過していたが、生憎岩礁だらけの磯で、夏場ではなし、魚とりの小船の廻るようなところでもなかったので、容易に人目にふれずにいたわけである。それを最初に発見した村人は、甲斐ない捜索にくたびれ果て、其処を通りかかりふとその崖の上から覗き込んだ時に、明け方の薄ら明りの中にヒラヒラと飜っている黒地に真赤な刺繍を彩したパジャマの片袖におどろかされたのであった。
自殺とも他殺とも考えられる適当な理由が見出されなかったので、係の役人達は簡単に過失死と断定した。
幸子の屍は、とりあえず別荘に移されて、あらためて白い寝床に寝かされて、晃一の到着を待った。
ところが、何時でもそれに決まっている正午の汽車に、晃一の姿は見えなかった。そしてその代りに停車場へ出迎えに行った人々が空しく帰って来るよりも、一足先に電報が届いた。
ツゴウワルシ アスユク――としてあった。
それでうろたえた人々は直ぐに至急電報で打電し返した。
晃一は終列車でやって来た。
――入札があって、遅れた。」
冬の厚いトンビの襟を立てて、唇を慄わせながら、迎えの者にそう云った。
幸子の体はもうすっかり傷口を繃帯して、綺麗に拭き浄められてあった。晃一は冷めたい妻の顔に頬ずりして、泪にくれた。
5
葬式を済ましてから、晃一は仕事を人に任せて、もう一度別荘へ戻って来た。暫く静かに休養したかったし、また一つには幸子が最後の日迄起き伏しをしていた部屋で、遺品の品々の間に、愛しい妻の面輪をいつくしみ度い心からでもあったろう。
旻はそれ以来すっかり衰弱してしまって、もういくばくも持ちそうにもなかった。併しそうなっても気持だけは割合に冴えていた。
或る雨降りの、急に冬がやって来たかのように冴え々々とする晩のことであった。
晃一は弟とならんで床に入ったが、荒模様になった潮鳴りが耳について、却々眠られなかった。枕元のスタンドランプには、幸子が編んだ南京玉のついたレースの覆いがかけてあった。
――兄さん。」
眠っていると思った旻が突然呼びかけた。
――何だね、氷か?」
――いいいや、……兄さん、兄さんは、幸子さんが本当に誤って落ちて死んだものと信じていますか?」
――どうして? だって、それ以外に考えようがないじゃないか。」
――ところが、実際はそうではないのだ。」
――彼女には自殺する程の不満はなかった筈だ。彼女は、せい一っぱい僕を愛し、そして僕に愛されることによって満足していた。」
――嘘だ。あの人が愛していたのは、兄さんではなかったのだ。」
――お前は、まさか、幸子が自分で飛び降りて死んだなぞと云うのではあるまいな。」
二人の声は、夜更けの空気の中にからみ合った。
――そうではない。幸子さんは殺されたのだ。」
――何だって⁈」
――幸子さんは、突き落とされたのだ。……僕が幸子さんを突き落としたのだ。」
――しッ! 下らないことを云うのは止せ。冗談にしろ、看護婦にでも聞かれたら厄介な話だ。」
――誰が冗談にこんなことを云うもんか。すっかり話をしよう。」
――お願いだ。もっと静かな声で喋ってくれ。」
そこで、旻は兄に次のようなことを打ち明けた。
――僕の幸子さんに対する愛情は、僕たちが引きさかれてしまってからだって、ちっとも薄らぐことはなかった。いくら諦めなければいけないと自分の心に云いふくめてみたところで、所詮無駄だった。そして兄さんを怨んだ。我々の如き境遇にあって、たとえ幸子さんが兄さんの許婚であったにせよ、二人がお互に一切を擲って愛し合っているものを、引きはなす権利が兄さんの何処にあろうか! 兄さんが彼女を愛しているから、なぞと云うのはまことに理不尽千万な、この上もなく無法な理屈だ。僕には到底ゆるせなかった。僕は、どんなことがあったって、必ず幸子さんを自分のものにしてみせる覚悟だった。併し、悲しいことに、間もなく当の幸子さんが心変りしたものと見えて、むざむざと兄さんの妻になった。僕は結婚式に列った時、心の中に復讐を誓った。まさか殺そうとまで計画しなかったけれども、そんなに義理人情を弁えない兄夫婦であるならば、その無節操な嫂に対して敢えて不倫を行ったところで、自分の良心に恥ずべきところは些もない筈だと考えて、窃に機会を待つことにした。これは今になってみると如何にも卑劣極まる考え方に違いないのだが、生れつき小心な上に病気のお蔭で一層卑屈になった根性で、どうにもならなかったのだ。兄さん達が結婚後二人連れで、僕を見舞に来てくれる度毎に、睦しい夫婦仲を見せつけられて、僕のさもしい情慾は愈々残酷に鞭うたれた。僕は焦せりはじめた。けれども、幸子さんは、僕が思った様ないたずら女ではなかったらしく、そんな機会はいつかなやって来そうもなかった。その中に僕の病気は次第に悪くなった。僕の罰当りな悪だくみそれ自身が、病勢を募らせる有力なる原因だったことは云う迄もない。秋口に入って、僕が寝起にも自由を欠く程の有様になってから、幸子さんは泊りがけで看病に来てくれたが、併しそれと同時に、最早や単に情慾なぞと云う生やさしいものではなく、もっと執拗な純然たる復讐の形の下に、たとえ破れかぶれであろうともこの目的を果さなければならないと決心するに至った。僕は到頭或る晩のこと、四辺に幸子さんの外誰もいない時を見計って、幸子さんに向って、僕は久しい歳月の間一時だって幸子さんを忘れたことがなく、どんなに恋しがっていたかを、泪ながらに打ち明けた。ところが、僕がくどくどと掻き口説くのを黙って聞いていた幸子さんは、いきなり、僕の、熱のためにカサカサ乾いた唇へ接吻したではないか。そして――ごめんなさいね。でも、今では、あたし、あんたよりも晃一さんの方が好きなんですもの。」とそう云うのだ。僕は胸を轟かせながら、あらためて云った。――それは僕にだってよく解っている。それに僕はこれから先ほんの僅しか生きられない人間だ。決して、兄貴を振捨てて、縒を元へ戻してくれと云うのではない。それどころか、こうして幸子さんに看護されて死ぬことが出来るのを、何より嬉しく思って感謝している位だ。が、そこで、せめてその上の我儘な願と云うのはたとえ仮初であるにせよ、幸子さんが自分の天地をかけての恋人であると信じながらあの世へ行けたなら、どんなにか幸せであろうかと思うのだ。ねえ、お願だから、どうかもう一度昔の通りの恋人らしく振舞っておくれ。もとより、らしくと云うからには、単にその見せかけで結構なのだ。勿論誰にも知らせないで、おっつけ土くれになってしまう僕の体と一緒に亡びてしまう秘密だ。ねえ、どうぞ、この子供っぽい果敢ない望みを叶えてはくれまいか」とね、幸子さんはしばらく思案していた様子だったが、やがてその眼に大きな美しい泪の玉が浮かび上ったかと思うと、こっくりと一つ頷いて――いいわ。……あたし、本当はやっぱり誰よりも旻さんが好きだったの。あんたこそ、あたしのたった一人の恋人よ。」と云った。そして優しく僕を抱いて、幾度も幾度も僕にくちづけしてくれた。僕の心は俄かに怪しくなった。幸子さんのその素振りが、果して芝居であるか、真実であるか、僕には判断が付き兼ねたのだ。幸子さんと僕とは、それから始終、人目を憚っては愛撫し合った。初めの、僕の計画では、二人の媾曳を、まざまざと兄さんに見せつけてやるつもりだったのだが、僕はあべこべ兄さんに対して密夫らしい要心をしはじめた。僕は意気地のない話にも、この自分で書き下ろした芝居の恋に、たあいなく溺れてしまったのだ。
僕は少年の日の恋を、あらためて復習しはじめた。僕は楽しかった。そして段々元気にさえなった。……それだのに、僕は幸子さんを殺すことになってしまった。あの日だって別に何時もと変ったことはなかったのだが、庭先でほんの鳥渡した心のゆるみから何気なく口にすべらした冗談が、意外に幸子さんの気に障ったらしかった。
幸子さんが、唐突に走り出したので、何というわけもなく僕もその後から追いかけた。幸子さんは松林の端れの断崖の縁に立って泣いていた。幸子さんは僕の顔を見るとひどくヒステリックになって、如何にも憎々しげに怒鳴った。――卑怯者! 死んでおしまい! 誰があんたなんか愛しているもんか! あんたは自分であたしに芝居をしてくれと頼んだじゃないの。それを今更居直ったりして何と云う悪党なんだ!」僕は絶望のどん底に叩き落とされて、目の前が真暗になった。そうだ、芝居だったのだ!……自分でたくらんだ浅ましい芝居だったのだ! 僕は幸子に詫びた。これからは決してこんなに思い上った真似はしないから、どうかもう少し我慢してこの芝居を続けてくれるようにと、哀訴し歎願した。だが幸子は冷酷にそっぽを向いて諾かなかった。僕はそこで遂に幸子に斯う云った。――よし、それでは仕方がない。この芝居の大詰は模様更えだ。心変りのした憎い女め! 俺は貴様を殺してやるぞ!」そして、僕はそう云い終るが早いか、真蒼になって立ちすくんだ幸子さんを崖の上から突き落してしまったのだ。咄嗟の場合、僕は愛する女を、永劫に人手に渡さぬためには、自分の手で殺してしまうよりほかなかったのだ…………」
旻は、さて枕に顔を押し当てて、すすり泣いた。
晃一は、黙って夜具をかぶってしまった。
風をまじえた雨の、雨戸へふきつける音が聞こえた。
6
しばらくして、晃一は蒲団から顔を出すと、穏かな調子で旻へ話しかけた。
――旻、お前の話は嘘ではあるまいと思う。」
旻は返事をしなかった。
――だが旻、幸子を殺したのは、少くともお前ではないのだ。なある程お前は殺すつもりで、突き落したかも知れないけれど、幸子は墜落の途中松の木にひきかかって気絶してしまった。その時は未だ死んではいなかったばかりでなく、せいぜい僅かな擦り傷を負った位のものだろう。それをお前達の後をつけて行った一人の男が、幸子の悲鳴におどろいて、その場へ駈けつけて見るともうお前の逃げ去った後だったが、崖の下に幸子がひきかかっているのが見えたので、早速何処かへ行って綱を持って来て、それを頼りに幸子のところへ降りて行った。そして、その男は幸子を助けると思いの外、そこでしばらく思い迷った様子だったが、どういうつもりかあらためて幸子の体を下へ蹴り落したのだ。その男と云うのは僕に外ならない。……何故また、僕がそこでそんな風にして幸子を殺さなければならなかったかと云うのか?……僕は最初から、お前たちの間を信用してはいなかったのだ。我々の様なお互の関係に置かれて、まるきり疑いをさし挾まないですませることは不可能だからね。僕は段々その疑を荷重に感じ始めた。僕は表面に平静を装いながら猟犬のように、お前たちを嗅ぎ廻った。併し、真実お前たちの間に未だ何もなかったのか、それともお前たちの方が役者が一枚上であった故か、容易に僕は尻尾らしいものを掴むことが出来なかった。僕は自分ながら可笑しい程妙な焦燥に堪えられなくなった。まるで、最初からお前達の不義を待ち構えて、ただそれだけの理由で、お前たちをペテンに掛けるために計画的な結婚を敢えてしたのでもあるかのような気持にさえなった。……ところが、やがてお前の病気が重って、幸子は泊りがけで看護に行き度いと云い出した。僕は直ぐに賛成した。僕は女中の一人をスパイに使ってお前達を見張らせた。すると果せる哉、どうやらお前たちが人目をしのんで、接吻したり抱擁し合ったりしているらしい気配があると云う報告が来た。もとより、これがお前の仕組んだ芝居で、可哀相な幸子はただ死にかけたお前に対する憐憫から心にもない一役を演じたに過ぎないなぞとは、知るべくもなかったのだ。僕は、自分でじかに、お前たちの不仕だらを目撃したいと思った。そこであの日は金曜日だったが、わざと誰にも知られないようにして一日早く出かけて来た。僕は先ず、お前の病室や裏庭のよく見晴らせる松林の中に入って、そこから双眼鏡で様子を窺った。折よく庭さきと縁の上とで親しそうに話し合っているお前たちの姿が映った。お前たちは、やがて何か一口二口云い合いをしたかと思うと、矢庭に幸子が走り出した。お前もあわただしくその後を追った。幸子は裏木戸を開けて、僕の隠れている松林へ向って一散に走って来た。僕は、お前たちに見つからないように素早く松林の奥深くかくれた。ところが、しばらくすると断崖の方から鋭い幸子の悲鳴が聞こえた。続いてバタバタという騒々しい足音と共にお前がひどく狼狽しながら息を切らして姿を現わすと、再び別荘の方へ走って行くのが木の間がくれに見られた。僕は直ぐに事態の容易ならぬのを察して、幸子の悲鳴のした方へ飛んで行った。すると果して、幸子は高い断崖の途中に危くぶら下っているのではないか。僕は大声で助けを呼ぼうとしたが止した。そして急いで松林を出ると、とっつきの百姓家の納屋に忍び込んで、有り合せた井戸綱を一束抱えてとって返した。僕はその綱を手近の木の根に縛りつけて、それに縋りながら、幸子のところ迄首尾よく降りることが出来たが、さて気絶した幸子の顔を見ると俄かに気が変った。――わざわざこんな不貞な妻を助けるなんて、何と云う愚なことだろう。女を殺してその姦夫を殺人罪に陥れてしまえば、それでいいではないか。旻自身が既に彼女を殺したつもりなのだからこれ程容易な話はない。ここで、彼女の生命を助けたりすることはむしろ神様の思召を無にするにも等しい。僕はそう覚悟をきめると力任せに、彼女の体を蹴とばした。彼女はパジャマの片袖を松の枝に残したまま、真逆様に白い波の砕け散っている岩の上に落ちて行った。僕はそのパジャマの袖を取って、それを崖の上に置いて、如何にもそこで幸子とお前との間に格闘でも行われたように見せかけて、その筋の発見を早めようかと思ったがなまじそんな細工をして、お前自身に第三者の介在を気付かれては却って困ると考えて、止めた。僕はそれから、綱をもとの百姓家へこっそりと返して置いて、すぐに汽車に乗って家へ帰った。停車場では降りる時も乗る時も、あらかじめ何時もの僕とは服装を更えて、黒眼鏡までかけていたので、駅員達に見咎められずに済んだ。僕は家へ帰ると、早速、幸子の名宛で別荘へ遅れる旨の電報を打った。決してアリバイにはならないけれども、稍それに紛らわしい効果を持たないでもない。そして翌日になって幸子変死の電報に接して倉皇とした風で、別荘へやって来た。ところが、お前は、殆ど意識不明な程の高熱で、呻吟していた。僕はお前が、前日縁先で、幸子と口論してその後を追ったと云う廉で、幸子殺害の容疑者として拘引されている位に考え、そうであったならば、僕はお前と幸子の関係を説明して、婉曲にお前の有罪を立証する役に立つつもりだったのだが。しかも、幸子は過失死と断定されてしまっていた。僕は少し位不細工でも、たとえばパジャマの袖を崖の縁へ置くなりして、歴然と他殺の証跡を捏造して置くべきだった。僕は少からず失望した。だが、僕はもう一度、考え直した。……瀕死の病人を殺人罪に陥れたところで、しかも彼自身がそれを明らかに意識している場合、実際のところ何の甲斐もない話ではあるまいか。それよりも、むしろ幸子の夫である僕が、彼の犯罪を悉く知っているばかりでなく、彼が不覚にも成し遂げなかった目的を、代って果してやったと、打ち明けた方が、余程効果のある趣向ではないだろうか……」
旻は低い呻き声をあげた。
――兄さん、幸子さんは、ただお芝居をしただけなんだ。幸子さんは兄さんだけを、真実愛していたんだ。それを兄さんは知りもしないで……」旻は激しく咳入った。そして白い枕の上に真赤な血を吐いた。
――旻、僕の云い度いと思ったのは、併しそんな意味のことではないのだ。ねえ旻や……」晃一は弟の背中を、そう云いながら、やさしく撫でてやった。
7
それから、一週間程経って旻は死んだ。晃一は、その忌しい別荘にいることが堪えられなくなって、都へ引き上げることにした。それで晃一は、いろいろの道具の整理をした。すると旻の生前使っていた書物机の中から、一通の粗末なハトロン紙の封筒に入った手紙のようなものが出て来た。
上書に、兄上様――旻。傍に「秘」としてあった。晃一は、それを片手にしてしばらく思いためらった。晃一はその儘火にくべてしまおうかと考えた。が結局、思い切って封を切った。
――兄さん。この性の悪いいたずらをゆるして下さい。兄さんがこの手紙をためらいながら封を切ったとすれば、兄さんは、本当に幸子さんや僕を愛していてくれたものと信じます。その兄さんの気持に甘えて、神かけて最後の真実をお話しします。幸子さんの愛していたのは、兄さんではなく、やっぱり僕だったのです。あの日幸子さんは、どう云うものか、ひどくヒステリックになっていて、あのきりぎしの上で僕が幸子さんを捕まえると、幸子さんは泣きながら、僕に一緒に死んでくれと云いました。
僕は、兄さんを愛しているし、それにいくら僕が永く生きられない身だからと云って、幸子さんの気紛れな感傷につけ込んで心中なんかするのは嫌だから、断然それを拒絶したのです。すると、幸子さんはいきなり何かわめいたかと思うと、身を躍らして崖の下へ飛び込んでしまったのです。僕は、幸子さんを殺しはしなかった。幸子さんを殺したのは、兄さんです!
では、何故僕は自分で幸子さんを殺したなぞと云い出したのかと、不思議に思うかも知れないけれど、それは只兄さんが死んだ幸子さんの思い出や、形見ばかりに綿々としている様子が、僕にはひどく哀れに思えると同時に、我慢のならない程反感を感じさせたからです。僕は兄さんの居ない世界で、幸子さんと二人で暮せるかと思うとこの上もなく幸せです。
晃一は、マッチを摺って、その手紙に火を点じた。
――なる程。旻は、そんなに迄、幸子を自分のものにして置きたかったのか。旻から幸子を取り返したことは、くれぐれも自分のあやまりだった。
晃一は、縁側へ出ると、誰もいない海の景色を見つめたまま長いこと考え込んだ。それから海に向って呼びかけた。
――けれども旻や、僕は、あの時の光景をはじめから見て知っているのだ。恥しいことだが、お前たちのあとをつけて行って、窺っていた僕は、すぐ傍の木影からすっかり見てしまったのだ。幸子はお前に追いつめられて断崖の縁迄出たのだが、そこでなおも執拗に追い迫るお前を避けようとしたはずみに、足を踏みすべらして、墜落したのだ。お前は驚きのあまり幸子の安否を見届けることもしないで、逃げ帰ったではないか。幸子は、あの崖の途中の突端にほんのちよっと袖を引っかけただけで、真直ぐに落ち込んでしまったのだ。お前が、彼女を殺さなかったと同様に、僕も決して彼女を殺しはしなかった。だが、とにかくこの勝負はどうやらお前の勝らしいね。……安心して眠るがいい。」 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」1928年10月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月25日公開
2007年11月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私も中村も給料が十円ずつ上がった。
私は私のかぶり古した山高帽子を中村に十円で譲って、そしてそれに十五円足して、シルクハットを買った。
青年時代に一度、シルクハットをかぶってみたい――と、私は永いことそう思っていた。シルクハットのもつ贅沢な気品を、自分の頭の上に載せて見たくてたまらなかった。
私は天鵞絨の小さなクッションで幾度もシルクハットのけばを撫でた。帽子舗の店さきの明るい花電燈を照り返している鏡の中で、シルクハットは却々よく私に似合った。
また中村は自分の古ぼけた黒羅紗の帽子をカバンの中へおし込んで、山高帽子を冠った。ムッソリニのような顔に見えた。
私共は、それから、行きつけの港の、砂浜にあるパブリック・ホテルへ女を買いに出かけた。その日は私共の給料日で私共は乏しい収入をさいて、月にたった一度だけ女を楽しむことにきめていたのである。
シルクハットは果してホテルの女たちをおどろかした。私の女はとりわけ眼を瞠って、むしろドギマギしたように私を見た。彼女は一月の中に見違うばかり蒼くやつれてしまっていた。もとから病気持ちらしい彼女だったので、屹度ひどい病いでもしたのであろう。
彼女は私と共に踊りながら、息を切らして、果は身慄いした。私はそれで、すぐに踊るのをやめることにした。小さい女は私の膝に腰かけた。
「苦しそうだね。」と私はきいてみた。
「もうよろしいの。――でも、死ぬかも知れませんわ。」女は嗄がれた声で答えた。
中村は、なじみの男刈りにした肥っちょの娘と、独逸麦酒をしこたま飲んだあとで、アルゼンチン・タンゴを怪しげな身振りで踊っていた。その娘は眉根の𡸴しい悪党みたいな人相だったが、中村はいっそそこが気に入ったと云うのであった。
寝室に入る前に、私達はめいめい金を払う。
私は紙入れを女の目の前で、いっぱい開けて見せながら「今夜は未だ大分金があるぞ。」と云った。月々の部屋代と食費と洋服代との全部であった。女は背のびをして、紙幣の数をのぞきこむと、「まあ――」と云って笑った。
女は少しばかり元気になったのかも知れなかった。
女の部屋に入って、寝る時、女は枕元の活動役者の写真をべたべた貼りつけた壁に、私のシルクハットをそっと掛けて、そしてさて手を合せて拝む真似をした。シルクハットの地と云うものは、物がふれると直ぐケバ立ってしまうので、女は非常にこわごわと取扱わなければならなかった。
そこでシルクハットは、私達の頭の上で、夜中艶々しく光っていた。
寝ていて、女は再び一層気落ちがした様子で幾度となく大きな溜息をもらした。
「病気って、どこが悪いの?」と私はきいた。
「いけない病気なのよ。」女の声は咽喉の奥でぜいぜい鳴った。
「声がおかしいね。呼吸病かしら?」
「ええ。だから助からないわね。あなた、そんな病気の女、おいやでしょう?」女は、私の髪の毛を細い指の間にからませながら、そう訊き返した。
「君が、死ぬなら、僕も一緒に死ぬよ。」と私は答えた。
すると女は両手をその顔に当てた。
「それでは、一緒に死んで下さらないこと?」
「いいとも。」
「……あなた、華族様なの?」
女は、そう云って、シルクハットの方へ眼を上向けてみせた。
「本当を云うと、僕の家は伯爵だけど。」と私は嘘をついた。
「あたし、華族様と二人で死ぬのは、嬉しくってよ。」
「そうかな――」
女の四肢は、なめし皮のように冷めたくて、不愉快に汗ばんでいた。
風が出て、窓の外の浪の音が烈しくなって、私は寝苦しかった。
「君の女は、かさかきだって話だぜ。」
翌朝早く、波止場の上で、沖の方に朝の陽を浴びて碇泊している西洋の軍艦を眺めて、休んでいた時に、中村はそう云った。
「僕は肺病だと思った。」
「かさかきだよ。西洋のひどい奴だそうだ。」
「はて、僕に一緒に死んでくれって、そう云ったが。」
「余程、性悪の女だね。」
「僕は一緒に死ぬことを受け合ったんだよ。そして僕は、肺病のばいきんを口一杯に引き受けてやったんだが。」
「君は、西洋の水兵のかさを引き受けたわけだ。」
「そいつは、弱ったな。」
私は深い嘆息と共に、シルクハットを脱いで膝の上に載せたが、あやまってそのケバを逆にこいてしまった。すると毛並は荒々しくさか毛立って、強い潮風に戦いた。私の胸は取り返しのつかない間違いをしてしまった後悔の心で重たく沈んで、そして俄に泪がこみ上げて来た。泪はシルクハットの上にも落ちた。
「けれども、それは男と女との関係だから仕方がないさ。」と中村は云った。
「そのかさはもう何百年もの間に、世界中の何千万と云う男と女とを一人ずつつないで縛って来たんだね。」と私は云った。
「男と女との愛と同じ性質のものさ。それに、君はシルクハットをかぶっているのだし、誰だって君をかさかきだなぞと云って蔑みはしないよ。――さあ、元気になり給え。」
私は、ようやく気を取り直して、あらためてシルクハットをかぶると、朝の空気を大きく吸った。
山高帽子の中村は、そこで薄笑いを浮べながら口笛を吹き鳴らした。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」1928年4月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
2000年7月25日公開
青空文庫作成ファイル:
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『…………』
西村敬吉はひどくドギマギとして、彼の前に立った様子のいい陽気な客の顔を眺め返した。西村敬吉はつい一週間程前にこの××ビルディングの四階に開業したばかりの若い弁護士である。そして彼の前に立った様子のいい陽気な客は彼の開業以来最初の依頼人であった。
室内には明るく秋の陽ざしが流れていて、一千九百――年の九月末の或る美しく晴れた日の午後の話である。
『僕は活動役者の清水茂です。』と、客は正にそんな風な職業らしい愛想のいい微笑や言葉つきで挨拶した。『あんまり有名な方じゃありませんから多分御存知ないでしょうけれど――イヤ、でも僕は坊城君とは非常に親密な間柄なんだから、清水って名前位は坊城君からお聞き及びになっていらっしゃるかも知れませんねえ。今日こうして伺ったのも、じつは坊城君にすすめられたからなのです。』
『おお、清水君でしたか。どうも何処かでお目に掛った事がある様に思われましたが、はッはッはッは。』
左様、西村は彼の古い友である△△映画協会の美術監督をしている坊城の口から幾度となく清水の話は聞かされてもいたのだが、西村自身も相当にそんな方面の趣味を持っていたので、しばしば映写幕の上では清水の本物の数十倍も大きい顔に接して、よく見知っていた。しかも大ていの場合主役を演めていた清水は、決して彼自身が謙遜して言う程有名でない役者ではなかったのだから……
『坊城君が大変熱心にあなたをおすすめしてくれたものでしたから――それに僕にしたって並の依頼事件とは少し違うんだしなるべくならやっぱり気心のよく知れた方がいいと思いまして……』と言って清水はふと暗い眼つきをした。
『オヤオヤ、では離婚訴訟じゃァなかったのですね。僕ァまたてっきりそうだと思ったんですが…』
『恐れ入ります。尤もあまり違わないかも知れません。どっち道、縁切り話には相違ないのですから――しかし、同じ縁切りでも、いや縁切られですよ――こいつァ、つまりこの世との縁切られ話なのです。はッはッはッ。』
『はッはッはッ――』西村も清水も共に陽気な笑声を立てた。
『閻魔の庁で公事を起こそうってわけですね。』
『いいえ。けれども、冗談ではないのです。西村さん! 僕は遺言状を作成して頂きたいのです。』清水の声音は本当に真面目であった。
そうして再びその眼にはふいと暗い影がさした。
『え? 何だって! 清水君! 遺言状だって? ――これァまた途方もない。君は何か、そんな危険な活劇物でも撮ろうって云うのですか――だが、それにしてもちっと可笑しいじゃありませんか。』
『西村さん。愕かないでください。本当を言うと僕は――』と清水は一流の名優らしく、突き出した両手を蟹の様にひらいて、それをはげしく慄わせながら、そうして双眼をまるくみはりながら云った。『本当を云うと――僕は今日死ななければ、しかも殺されなければならなかったのです。』
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『いいえ。本当になさらないのも御尤もですけれど、今も申し上げた通りこれは決して冗談や洒落じゃないのです。』
『本当にするもしないも――君……』
と、云いかけたが西村はこの時始めて清水の眼に宿る満更芝居でもなさ相な、ただならぬ暗いかげに気がついてハッとした。
『そう――やっぱり比処からお話しした方がいい――西村さん。あなたは坊城君から八日の日に撮影場で撮影技師の中根が誤って射殺されたと云う話をお聞きになりはしませんでしたか。』
『彼とはしばらく会いませんから聞く機会もなかったですが、新聞でみましたよ。何とか云った女優が、撮影中に真っ向から撃ったんですってねえ。』
『そうですよ。(嘆ける月)の撮影中でした。丁度その女優が――松島順子が、大写でカメラに向ってピストルを射つところだったです。射つ当人は勿論のこと、その場に居合せたほどの総ての人、むろん僕もおりました、誰だってそのピストルに実弾が込っていようなんて思いもかけやしませんでした。ドオン! と云う銃声ともろとも仰のけざまにぶッ倒れた時には、実にすさまじい勢で打ち倒れたのですが、私たちは鳥渡、本気にしませんでしたよ。何時の間にか、そのピストルには何人かの手に依って故意に実弾がこめられてあったのですね。誰がやったものやら未だに判りませんが、何しろ二間とははなれないで射ったのですから堪りませんや。大ていの心得のない奴だって外しっこありません。可哀相に――中根は僕の身代りに立ったのです。』
ここ迄云うと言葉は途切れた。そして到頭、一層暗くなっていたその眼からは涙がぽとぽとと流れ出したのであった。
西村はすっかりたじたじとなった。這入って来た時はひどく陽気な顔をしていたくせに、涙なんぞ滾して、柄にもなく案外感情家のこの活動役者は、すでに充分こっちを戸惑いさしておきながら、この先更に何を云い出すか解らない――
『身代りに? ――わからない。』
『左様――たしかに中根は僕の身代りに立ったのです。と云うのは、恰度その時の場面は僕の扮したある青年が順子の扮しているある若い女に嫉妬のためピストルで撃たれると云う筋なので、脚本通りに演れば無論僕は本当に撃ち殺されていたのです、所が、その時ヒョイと、しかも中根自らの思いつきで、射撃する瞬間の順子の大写を其処に揷むことになったのでした。哀れな中根は自分で引金をひいたも同然、見事に額の真中を射ぬかれてしまいました。』
『併し……ただそれだけの事で、どうして君の命をねらう曲者がある――と仰言るのでしょう? ――どうしてそんな事を云われるのです。ほんの何かの不幸な偶然から、そのピストルに実弾がこもっていたのかも知れないじゃありませんか。』
『いいえ。中根の心の中からこそ恐しい偶然は飛び出しましたけれど、ピストルには、少くともピストルだけには如何な意地の悪い偶然だってひそみ得るスキはなかったのです。その一時間程前に、僕自身がその武器の空弾の装填をしたのですからね。今はともかく、その時分はたしかに僕は未だ自殺したいなんて不仕合せな考を起してやしませんでしたよ。が、そんな事よりも一層たしかな証拠は、その前夜かかって来た電話なのです――』
『ほう! 電話⁈ ……フム。』と西村は少からずつりこまれたかたちで、ぐいと椅子を乗り出して、相手の眼の中をのぞき込んだ。
『聞き覚えのない様なある様な、ですからよし聞いた事があったとしても余程古い昔に違いないのです。男の声で、「清水君。清水君! 君は明日スペエドのジャックをひきますよ」と云うのです。けれどもその時は、それが果して如何な意味であるか、僕にはまるでわからなかったのです。が、誰かの――たとえば、よくある活動好きの少年の悪戯位に考えて別に気にも止めませんでした。それが中根の死の何かの係り合いを持つ不吉な電話であろうとは、つい昨夜まで気がつかなかったのです。』
『なる程――ところが、それと全く同じ様な電話が昨夜再び君のもとへ掛って来たと云うのですね。それで君は、俄に恐しく神経を悩ましはじめたのだ――』
西村はシャアロック・ホルムズの様な口調でこう云うと、少し勿体ぶった手つきでスリーカッスルをつめたマドロスパイプを脂さがりに斜めに銜えた。
『御推察の通りです。如何にも昨夜、七日の晩と少しも違わない電話が、矢張り同じ声で掛って来たのです。オヤ⁈ と思った途端、まざまざと僕の頭に浮んだのは、不幸な中根の死骸でした。スペエドのジャック! スペエドのジャック! 西村さん! それは舟乗仲間で使われる死骸って云う言葉であったのじゃありませんか。ヒョイと、忘れかけていた僕の過去の生活の暗い記憶が思い出させてくれたのです。今度こそは駄目だ! 僕はもうすっかり諦めてしまいましたよ。こいつァ、今更どう悪あがきしたところで始まらない――それで僕は、もとより極く少額ではあるが、たった一人身の僕が有っている財産――て程のものじゃない、身のまわりの物全部を、アメリカに行っている弟へ遺して行く手続でもしようと思って、こうやってあなたの所にあがった次第なのです。ははははは。』
こう云った清水は何時の間にか再び最初の陽気な客に立ち戻って、燥いだ声をたてたのである。が、西村はパイプを銜えたまま、俊鋭らしい眉間に十字に皺を刻んで、痛ましそうに相手のその様子を見やった。
『そりゃあ、仰せとあれば遺言状も作りますがね、尤もこれは少し商売ちがいなのだが――併しそれにしても、ひどく悪あがきしなさすぎるじゃありませんか……警察の方にはむろん届け出たでしょうな。』
『警察? ええ。届けるには届けました。併し凡そ警察ってものは、あれァ学者の寄り集りですよ、殺されてからの後の推理や観察は極めて丁寧に、綿密に、一々ご尤にやっては呉れるでしょうがね。生きている人間、つまり、殺されるかも知れない人間にとっては、甚だ心細いものにすぎませんのでねえ……』
『僕は何時だったか、坊城から、君があのアメリカ帰りの監督の狭山氏と何か女の事から面白くない争いをしたって話を聞きましたが――何か、そんな風な、他人からはげしい恨を抱かれる様な覚はありませんか。』
『はッはッはッ、狭山ですか。なる程あいつなら僕を殺し兼ねますまいよ。何しろすさまじい権幕でしたからねえ――事の因りってのは、何ァに大した事じゃありません。大体あの狭山って男はひどい好色漢でしてね。撮影所に出入する目星い女優には誰彼の差別なく、働きかけなきゃ――と仲間の連中は云いますがね。つまりものにしなけりゃ承知しない、と云った風で――まだ、彼の歓心を買っておかないと如何なにすぐれたいい女優でも決して出世が出来なかったのです。ところが、一人、弓子って云う所長のお声掛りで一番年も若いし一番美しい娘がいて、これがまた非常に見識が高くて、どうしても狭山の意に従わなかったのです。狭山は躍起となって持前の蛇の様にねちねちした性分で、愈々しつこく弓子にまとわりついて行ったものです。狭山のこの卑しいやり口を兼ねてから癪に障っていた僕は、ここで到頭堪え切れなくなって、あっさりと弓子を横取りしてしまいました――何も、決して僕自身、弓子に如何のって気はなかったのですがね――そしてあげくに、僕は或る日狭山を皆の前で散々っぱら遣っ付けてしまったのですよ……そうそう、その為に到頭い堪まらなくなって協会を脱退する時、彼は、「清水の野郎奴! 俺はあいつの首っ玉へ何時かは必ず匕首をお見舞申してやるぞ!」って凄い捨てぜりふを残して行ったそうです……』
『フム。では狭山氏の事は勿論警察に云ってあるでしょうね。』
『ええ。一応はそう云っておきましたが――併し、悲しい事には、西村さん。僕の命をねらっている奴はたしかに狭山ではないのですよ。そして、また、もし狭山であってくれたなら、僕は何もこれ程の騒ぎをせずともすみましたろう……』
『如何して曲者が狭山氏でないと云う事を君には断言が出来るのですか。もちろん何かしっかりしたお心あたりでもあって仰言るのでしょうね。』
『そこなのですよ。狭山と云う想像を根こそぎ打ち壊わしている一つの事実こそ、同時に、僕の命をほしがる敵が意外にも恐るべき奴であった事を証拠立てているのです。と云うのは、昨夜はじめてそれと思い合せたのですが、よくよく考えて見ると実は、「スペエドのジャック」の電話は、ズーッと以前、左様恰度七年前に確に一度聞いていたのでした。しかもそれは上海でです。七年前の上海――狭山と何の拘わりもあろう筈がなかろうじゃありませんか。』
『上海?――』
西村は瞬間、かすかに顔色をうごかした。
『そうですよ。上海でです。僕の生涯中でおそらく一番いんさんな時代のことでした――お聞きください……』
と、清水は、古い記憶をそろそろとほぐし出す人の寂しい、ぼんやりとした眼ざしをしながら語りはじめた。
『……その頃――長らくつづいた世界戦争がやっと終りを告げた年の春も末の頃でした。僕は、当時、ひと頃はずいぶんと人気を呼んだ暁星歌劇団のテノール歌手をやっていたのですが、戦争終局と共に、ばたばたとやって来た大不景気のために最も有力な金主を失ってしまった結果、おまけに肝心な客足はゲッソリと減るし、到頭一座はご多聞に洩れず、何れあじけない旅烏とならなければなりませんでした。そして方々と何れもあまり思わしくない興業を打って廻った末に、思い切って、海を越えて上海くんだりまで落ちてみる事になったのです……所が、上海でもまた、初手からお話にならないひどい不入りでして――もともと、殆ど西洋と云ってもいい位なこの都で怪しげなジャップたちが、怪しげなオペレットを、しかも日本語で演って人気を取ろうなんて、実際、今思えば虫のいい限りなのですが――客席は文字通り数ぞえる程の頭数で、とうとう、最初は四馬路の緑扇座どころで開けていたのが、ひと月と経たない中に新世界のバラエテーに迄おち込んでしまって、そしてそのあげくが遂に、この知らぬ他国で解散と云う悲運に到達したのです。
それでも、大ていの連中はさまざまなやりくりをして、裸同様な身になりながらもどうやらみんな日本に帰って行った様でした――が、不仕合せな僕だけは、(――併し、勿論その当時は決して、そうは思ってもいませんでしたが)不仕合せにも、僕の泊り合せていた旅籠の、それは霞飛路にあったのですが、その旅籠屋の女将のフランス女と、だらしがない役者根性の果に、つい造ってしまった情事のおかげで、僕一人だけはみんなと別れて、その儘べったりと上海に居残ってしまう破目になったのでした。彼女は、未だうら若い寡婦さんで――尤も僕よりは一つ方姉さんでしたが――健康そうな肉体を持った相当美しい女であったので、少らず僕の心を囚えていたし(いや決してあなたを前にしてのろけるわけじゃありませんが、何しろ今も申し上げた通り、それは不仕合せだったのですからね)それに実際、また僕は他の皆の様に血の出る様な苦しい算段までして帰国する程の気力もなかったのだし……
で、そんなわけで、僕はそれから半年と云うものを上海で送りました。もとより、地道な働きなんか出来ようともする気のなかった僕であったので、そしてまた、そのフランス女は――マドレエヌと云うのです――彼女は可成りの額の金を蓄えていたので、僕は毎日々々飲んだり打ったりして、この都の怪しい世界ばかりをうろうろとほっつき廻っていました。それにはまた恰度よく(?)その当時宿に、マドレエヌの兄でショコラアって云う呼名を持ったのんだくれのマドロスが転がり込んでいて、彼はおそろしくのんだくれではあったけれども、性質はその呼名の如く非常にお人好しの愛すべき男なのであって、地理に暗い言葉の不自由な僕を、妹の情夫のやっぱりやくざ者であるジャップの僕を、毎日親切にさまざまの遊び場へ、地下室に大きなばくち場の開けている酒樓や、阿片窟や、それから美しい鶏たちの群がっている彼女らの巣窟へと連れて行ってくれるのでした。
するとそのうちに、ある日の事、僕たちは――いや、僕は、遂にある恐しい秘密倶楽部の倶楽部員になることとなってしまったのです。勿論、やっぱりショコラアが引っぱって行ったのですが、ショコラアはもとっからそこの倶楽部員だったのですよ。それは、オールドカルトンとかニューカルトンとかカフェマキスィムとか云ったたぐいの家々と共に上海一流の酒樓であるところの、「上海の赤風車亭」と呼ぶ家の地下室にあった倶楽部なのです。僕ははじめて其処に入る時は――いや、入った当座しばらくの間も、それがそんな恐るべき倶楽部であろうなぞとは夢にも思っていませんでした。が、しばらく経って後そうと気がついた時はすでに遅かったし、また、もはや阿片や酒毒のおかげで可成りにちぐはぐな、おぼつかないものに成っていた僕の頭は、そんな恐ろしい秘密結社になぞ加入した事に対して、妙な事にも、返ってしびれる様な淡い快さ――ひょっとしたら感傷的な、快さを感じていたらしかったのでした。併し、その倶楽部は恐しいと云っても決して見境もなく無闇矢鱈と恐ろしい事を企てるのではなくて、ただ倶楽部で決められた則をやぶった者に対してだけ少しの容赦もなくその法外にきびしい制裁を下すと云うのであって、彼等倶楽部員は皆、極端なる、「不正を悪くむ紳士方」であるのです。紳士方――左様、なかにはショコラアの様な水夫も大勢いましたが、本当に立派な上流の紳士方も沢山、それは殆ど世界中のあらゆる国籍を網羅して出入していました。
そしてその倶楽部で、「不正を悪くむ紳士方」の毎日やっておられる主な仕事は、ばくち、「麻雀」と呼ぶばくちなのだから面白いではありませんか――僕は間もなく、ショコラアに連れられることなくして勝手に、その薄ぐらい倶楽部の地下室に入り浸って、麻雀に時の過ぎるのも忘れ果てているようになったのでした。
で、もうこの頃はすでに、悪魔の黒犬は僕の背中に噛みついていたのでした。と云うのは、僕たちは毎日々々麻雀をやってお互に、一瞬にして途方もない大尽になるか、それともただ一つ、自殺だけを残して他のすべてを失おうか――と云う全くすさまじい勝負を争っていたのですが、幼い時分からそんな方にはからっきし運のなかった僕であったのに、どうしたものか、この倶楽部に入ってからと云うものは殆ど負らしい負も見ずにとんとん拍子に素晴らしい目にばかり打つかるのじゃありませんか。おかげで思わぬ成金になった僕は浅はかにも、こりゃ大した運が開らけて来たものだ、みんなと一緒に日本へなぞ帰らないでいい事をした――とすっかり有頂天になって喜びました。所が、だしぬけに、ここに偶と妙な事が湧いて起ったのです……と、さて、いよいよ僕は僕の身の上にふりかかって来た忌まわしい出来事についてお話しなければならない順序となりました。
ある夜のこと――上海生活が始ってからもうやがて半年は過ぎようと云うある夜、おそくのことでした……いや、未だ宵の口だったかも知れない、それとも夜の明け方であったろうか――何しろ時間の観念はまるでなくなっていた僕でしたから。とにかく戸外は真暗な夜に違いなく、その地下室の倶楽部には美しい吊燈籠が仄明るくともっていました。その夜も僕は云う迄もなく、麻雀に夢中になっていたのですが、僕の相手と云うのは、倶楽部の番人で胡と云う中年の支那人でした。胡は古くからこの倶楽部にいて、因業な、併し物固い(?)そして恐しくばくち運の強い男として知られていました。所が、その夜は流石の彼も僕の為に散々な負け方をして、一文なしどころか手も足も出ない程の莫大な借金をしょわされてしまったのです。彼はしばらく卓の上に顔を伏せてひどく悲しげな、小犬の様な声を洩らして泣いていましたが、やがてふらふらと立ち上って何処かへ出て行きました。が、間もなく彼は再び戻って来て僕をそっと、部屋の隅の紫檀の衝立の蔭に呼び寄せたのです。そして其処で彼は、青繻子の上衣のだぶだぶな袖の中から一つの見事な象牙の牌を取り出して僕に示しながら、ぶつぶつと囁く様に云いました。「……これをあなたに上げます。けれども、これは、どんな事があっても、決して、他の誰にも見せてはいけませんよ。よござんすか、屹度ですよ――」と、僕には彼の言葉の意味はよく解らなかったけれども、とにかく、その牌は僕の要求するものより遙かに値打があるものらしかったので、即座にその旨を承知しました。
僕は到頭、麻雀に、かけがえのない命までを賭けてしまったのです……
宿にかえってから、それでも矢張り何となく胡の云った言葉が気にかかっていたと見えて、扉に鍵を下ろして窓をすっかり閉めてから、さて、密かにその牌をあらためて眺めました。と僕はそれが、先に値ぶみしたよりも更に高価な品であるらしいのでびっくりしました。古びた、厚み五分、二寸四方位の四角い上等な象牙で、表面には精緻な菊花が一面に彫り出されてあって、しかもその花のひとつひとつが何れも素晴しいルビイの芯を有っているのです。その真赤な宝石の色の鮮かさは、真白い滑々の象牙の中に埋まって不気味な迄に生き〳〵として――何故かそんな感じがしました――燦っているのでした。そして、その裏面には何処の国のとも、僕にはさっぱり解らない象形文字みたいなものがべたに彫りきざまれてありました。僕はこの全く思い設けぬ掘出し物にホクホクと喜んでしまいました。可笑しなもので、すっかり大金持になった気持の僕はそこで、急に日本へ帰りたくなり出したのです。そうして、一端そう思い立つともう矢も楯もたまらなくなって、恰度その日から一週間目に出る便船で、出発つことに決めてしまったものです。
ところが、その愈々たつと云う、三日前の晩でした。冷たい雨が少し強加減に降る晩でした。僕は朝っから手まわりの荷物の始末などしてずうっと晩になっても宿にいました。夜、僕が何処へも出ずに宿におち着いているなんて、ほんとうにめったにない珍しい事でした。ただ一人、部屋に籠って明々と燃えているファイヤープレイスの前に揺椅子をひき据えていました。何故ならば、もう世の中には冬がやって来ていて、大陸の夜気は可成り底冷えがしていましたから。そして窓外のザアザアと云うはげしい――と云っても決してそれは不愉快でない程度におけるはげしさの雨の音をじっと聞き乍ら、久方振りで眺められる懐しい東京の風景……家こそもう失くなっていたが僕の生まれた土地である美しい浜町河岸の夕まぐれや……こんな雨の晩にはさだめし絵の様に綺麗に見えたであろう、人形町通りや……または白い水鳥がいくつも飛んでいる霧のかかった大川の眺めや……それから或は幼ななじみのいろんな年寄りや友達や……それらのさまざまな楽しい想い出に浸って、可成り上機嫌になっていたのですが、その楽しい瞑想をしばしば不意に破る者がありました。それは僕の室から程近い玄関口の方に当って時折、するどく、けれども何となく物悲しい余韻をひびかせて、犬が吠え立てるのであって、僕はあまり雨降りの夜に犬の吠声を聞いた事がなかったもので(むろんそれは人通りの少い故にもよるのだろうが)――ちょっと訝しく思ったのでした。殊にその夜の雨足は今も云った様にかなりはげしかったのですからね。けれどもまたそれだけに一層、碌に泊客もないらしいこの宿屋の一室には物寂しい、しみじみとした静閑さがみちていました……と、僕はふと耳を澄ましました。僕は気のせいか、或かすかな物音を――窓ガラスを誰かが極めて静かに叩いている様な物音を聞いた様に思ったのです。僕は立って窓帷を開けてみました。けれども勿論、そんな真暗な大雨の夜に窓から訪れて来る様な酔狂なお客様の影なぞは見とめるべくもなかったので、再びファイヤープレイスの前に戻りました。そして巻煙草箱から新しい奴を一本つまんで銜えた途端です――オヤ! 再び、今度は前よりもはっきりと物音を聞いたのです。ヒョイと窓の方を、いま窓帷を開けたなりにして来た窓の方をふり返ると、まァ! どうでしょう。窓ガラスに、ぼんやりと一人の支那人の顔が浮んでいたのじゃありませんか。胡なのですよ。ずぶずぶに濡れているとみえて髪の毛がべっとりと額にみだれかかっていて、真蒼な顔色をして、おびえ切った様な眼で僕の方を見入り乍ら、何か喋っているのか、しきりと喘ぐ様に口を動かしているのです。あまりの事に僕は度ぎもを抜かれて了ってしばらくは唖然としていました。が、やがて、やっと立ち上がって其処へ進み寄ろうとしたその時、急に彼の眼に非常な恐怖と怨恨との入りまじった色が浮び出てグイと僕をねめつけたかと思うと、突然、その顔は消えてしまいました。それはまるで、大きな機械にでも巻きこまれた様な、急激な勢で闇のなかへ消え去ったのでした。僕は思わずぶるぶるっと身を震わして二三歩あとずさりをしました。そして再び窓ぎわにかけ寄ってガラス戸を押し開いてみた時には、もはや、戸外の闇の中には何ものの気はいもありませんでした。ただ、犬がこの時またひとしきりはげしく吠えはじめていたのが、怪しいと云えば怪しかったかも知れません。(――清水茂は異常な恐怖に迫われているらしく顔色を蒼白に変えながら語った)……はて、これは訝しなことがあるものだ。気の迷いかしら、それとも揺椅子でぬくもりながらついウトウトとしてしまって夢をみたのかしら――酒と阿片とでいい加減狂いかけている俺の頭だもの、その位の気の迷いや夢がないとも云えない――が、併しそんな風に簡単に思いなしてしまうには、どうもすべてがあんまりまざまざとし過ぎている。雨の音だって、犬の吠え声だって前後とちっとも変らない明瞭さで聞こえていたのだし、それに彼奴の恨めし相な凄い顔! いや、どうして気の迷いや夢とは思われん……むしろ幽霊を信じた方がもっと間違いがなさ相だ……おやおや、俺はひょっとしたら本当に気が狂いかけているのかも知れないぞ! ――と、そんな風に僕はそれこそ本当にその場で狂気でもし兼ねない迄の気持になってしまいました。するとこの時、けたたましく卓上電話のベルが鳴りひびいたのです。出てみると、聞き覚えのない男の声が遠くで、併しはっきりと聞こえていました。「……清水君。清水君! 君は明日スペエドのジャックをひきますよ」とね。僕は腹が立ったので、「誰だ! 縁起でもねえ!」と怒鳴りつけてやったのですが電話はその儘切れてしまいました……かさねがさねの薄気味の悪い出来事に、僕は一層気を滅入らしてしまったのですが、併し勿論そんな電話なぞは誰かの悪洒落、と思えば思えないこともなかったし、それよりか先刻の胡の顔の方が遙かにまして僕の心をひきつかんでいたので、ついそれっきり忘れてしまいました――そしてその電話の事はそれから七年の間、ついぞ一度も思い出した事がありませんでした――で、その夜は、折角の楽しい瞑想を目茶々々に打ち壊されてしまったのがひどく腹立たしかったので、またその底気味の悪い怪しい出来事に何時までも思い悩まされているのはとても堪らなかったので、有合したコニャク酒をしたたかに呷るとその儘、寝込んでしまいました。
するとその翌朝になって帳場のそばの溜まりで、ガルソンから、けさ一人の支那人が宿から程遠からぬ所を流れている黄浦江の河岸に惨殺されていた、と云う話を聞かされたのです。ところがその殺された支那人と云うのが、年恰好や人相や服装がどうも胡らしいのではありませんか。僕は愈々すっかりおびやかされてしまいました。若しその場に探偵でも居合せたなら必ずや僕のそぶりに容易ならぬ疑をかけたに相違ありません。僕にはとても、その死骸をわざわざ見届けに行く程の勇気はありませんでした。(併しそれは正しく胡に違いなかったのです。その日の夕刊に詳細にしるされてありました)胡は僕の室の窓ぎわで室内の僕にむかってまさに何かを告げようとしていた時だしぬけに背後から加害者――多分大ぜいの、加害者のために引きずり倒されて拉致し去られたものと見えます。その証拠には僕はその窓下で、雨に濡れた庭草や植木などが泥だらけの足痕で散々に踏みみだされているのを発見しました……併し、それならば胡は何者のために殺されたのだろう……そしてまた何の目的をもっておそろしい雨の夜僕の部屋外まで出かけて来たのであろう……何を彼は僕に語ろうとしたのであろう――昨夜の青ざめたすごい支那人の顔が、僕の気の迷いでも、夢でももちろん幽霊でもなかったと判ると、返って益々それが僕にはわけの解らないものになってくるのでした。で、その日一日僕はぼんやりと考えつづけていました。その、あんまり打ち沈んでいる僕の様子を見かねたのでしょう、マドレエヌは僕にむかって、今宵ニューカルトンの仮装舞踏会に行こうと云い出しました。このすてきな思いつきには、喜んで僕は賛成をしました。何故ならば、そうする事によって幾分なりと気を紛らせ得ると考えたのは勿論のことでしたが、明後日になれば愈々この不思議な都上海にも、亦、それは可成り僕の心を悲しくさせたことなのだが、マドレエヌ――六ヶ月の間僕の親切な女房であったフランス女にも、お別れをしなければならなかったので、ともにせめてもの名残りを惜しみたかったからでした。それにニューカルトンの踊場の豪勢さは噂でこそ兼々聞いてもいたが、ついぞ未だ一度も行ってみたことがなかったので日本への土産話に見ておきたいとも思ったのでした。女は何であったかよく覚えていませんが、僕はたしかサムライの服装をして行きました。で、さっきも申し上げた通りスペエドのジャックの電話のことはまるで頭にとどめてなかったのですから――その日、身に恐しい厄が迫っていようなぞとは夢にも思っていなかったばかりでなく、目を驚かす絢爛たる踊場の有様に、どうやら胡の顔の幻すら忘れ果てて、僕はマドレエヌと共に心ゆくまで踊りぬくことが出来たのでした。そして少からず疲れたので、まだ時刻は早かったが、と云っても十二時は廻っていたのですが、そろそろ切り上げて帰ることにしました。と、階段わきのクロークルームの前でぱったり、ピエロの仮装をした少年紳士の郁さんに出遇ったのでした――郁少年の事はたしかまだお話し致しませんでしたね。彼は僕が上海に来た当時からひと方ならず親しくしていたこの都の若い金持のお坊っちゃんで、絵――洋画を大変上手に画くハイカラな美少年でした――で、郁少年はこの時初めて、僕の帰国することを知って、さまざまと残念がりました。僕も何だかついつり込まれてひどくセンチメンタルな気持になってしまいました……実際また郁少年はいかにも支那の金持のお坊っちゃんらしい素なおなやさしい若者であったのですからね。そしてそこで彼は、記念にと云って僕の着ていたサムライの衣裳を所望したのです。勿論僕は快く彼にそれを与えた上、さらに、恰度持ち合せていた阿母の片見の金側時計、古風な厚ぼったい唐草の浮彫のしてある両蓋の金側時計を副えて贈りました。彼は僕にそのしゃれたピエロの服をくれました――それから間もなく僕たちは郁少年と別れて霞飛路の宿へ帰って行ったのでした。
で、到頭その日、即ち電話の予告のあった翌日一日は、何事もなく、少くとも僕の一身には何事も起らずに過ぎてしまったわけでした――が、可哀相なことにも、郁少年の身の上には実に容易ならぬ事件が突発していたのです。僕はそれを、その翌々日、酒山碼頭を日本へ向って解纜しかけた船の中で知りました。波止場で買った新聞に偶と、次の様な意味の短い三面記事を見出したのです。
再び黄浦江の惨殺死体
(去る××日胡某の惨殺され居りたるウインソア橋に近き黄浦江河岸に復た〳〵昨朝午前六時頃年若き男の惨殺死体漂着せるを発見せり。胡同様、無慙にも顔面の皮膚を剥ぎそられ何処の者とも判明せざれど年齢二十三四歳位にて、サムライの仮装着を着けたるところより多分前夜何処かの仮装舞踏会に出席したる日本人にあらざるかと推測さる。懐中には数百円入りの紙入れと唐草の浮彫をほどこせし古風なる金側懐中時計を所持したるをみれば盗賊の仕業にてはあるまじく多分深き遺恨ある者の所為なるべし……)
上海ではあまり珍しくもない事件なので、極めて簡単にしか出ていませんでしたが、それでもその殺された若い男が確かに、郁少年に違いないと推断させるには充分でした。あわれな郁少年! 道理で、あれ程どんな事があろうとも船までは見送りに来ると云っていた彼の姿は見えずにしまったのだ……(清水の眼には泪がいっぱいに溢れていた)
長崎に上陸するとすぐ僕は、例の象牙の牌を三千円で、ずいぶん廉いとは思ったが、売り払ってしまいました――郁少年の無慙な死に弥が上にも憂欝になっていた僕は、殆ど毎日終日船室の中に引きこもっていたのですが、その間に僕は幾度となく密かにその牌を取り出しては眺め入りました。すると、どうしたわけあいか、不思議なことにも、段々とその不気味な白と赤との対照がたまらなく不愉快に、ついには見る毎に鮫肌たつ程いやらしいものに感じられて来たのです――三千円じゃァたしかに廉すぎましたよ。本当の値うちの十分の一にも当らないでしょう。併し、僕はその外にも、約その二十倍位の現金を――麻雀で儲けた金を持っていたので、とにかくあっ晴れ一っぱしの海外成功者の様な気になって、一年振りかで再び懐しい東京へ戻って来たのでした……』
と、ながながと物語って来た清水は、ここでしばらく語を切るとさて、ひとつ重い溜息をもらしたのである。
『それで、君はそこでもその郁と云う支那人がつまり、君からサムライの衣裳を貰ったばっかりに君の身代りに立ったと云うのですね。だが、それではまたどんな理由で何人に、君は命をつけねらわれなければならなかったのです? 未だその点、その最も肝心な点は一向はっきりとしていない様ですけれど……』と西村は亢奮のためか、頬を少し上気させながらもどかし相に訊ねた。
『どんな理由って、あなた。それは勿論、象牙の牌の祟りですよ。』
『象牙の牌?……』
『そうです。だから先刻僕は、麻雀に僕の命を賭けてしまったと申し上げたじゃありませんか。その象牙の牌は、今になって考えてみると、それを僕にくれた胡のものではなかったのでした。彼はそれを倶楽部から盗んで僕にくれたのです。そしてそれは倶楽部にとっては、非常に貴重な品物であったに違いないのです――例えば、むろん牌その物も甚だ高価な得がたい品には違いないのだが、それよりもその裏面に刻まれてあった象形文字が何かの重大な秘密文であったかも知れない様な――で若し左様であったとしたらば、それを持ち出した僕に倶楽部から死刑の宣告が下るのは疑もないことなのです。僕はあの倶楽部が、どの位まで恐しい、どの位まで大きな力を持っているかをあまりによく知りすぎていますからね……胡の哀れな運命を見てもわかるじゃありませんか。』
『いや、清水君! 併しそう君みたいに勝手な因縁ばかり結び付けちまえばたまらない。疑心暗鬼を生ずって奴でね……第一、おかしいじゃないですか。若し君の云う通りだとすると、どうして最初の、「スペエドのジャック」の電話と今度のそれとの間に七年なんて云う長い隔があるのですか。』
『なに、それには不思議はないのです。何故ならば――彼等はつい最近までニューカルトンの舞踏会の夜殺した郁少年を全く僕だと信じて疑わなかったのです。そのために、僕は七年の間日本で安穏な日を送ることが出来たのでした。が、決して悪魔の奴は僕を見捨てていはしなかったのです。と、云うのは、僕は一昨年の春から今の△△映画協会へ入る様になりました。これが本当の運の尽きだったのです。彼等の或る者は長崎か神戸あたりでふと僕の映画を見て、まだ僕が生きていた事をゆくりなくも知ってしまいました。』
『それで、再び彼等は君に向ってその黒い手をのばしはじめたと云うのですね。フム……成る程……「スペエドのジャック」と、象牙の牌……菊の花の浮彫があって……象牙菊花倶楽部と云う……フム、フム……』
西村はこう口の中でぶつぶつつぶやきながら、憐れむ様な眼でじいっと清水を見据えた。
『象牙菊花倶楽部⁈……』清水は顔色を変えてとび上がった。
『違いない!――そ、それを西村さん。あなたは御存知なのですか!……』
『ええ。多少、思い当ることがないでもありません――いや実は大ありなのですが――清水君。こいつァ相手が悪い……が清水君。君は象牙の牌は長崎で売ってしまって、今は持っていらっしゃらないのでしょう――それに気のつかない象牙菊花倶楽部の連中ではなかろうに――それに君は胡に欺されて貰ったと仰言る――しかもその支那人はすでに殺されてしまった……云わば今の君には全く何の係り合いがないも同然だ。それを承知しながら君の命を取ろうって云うのなら、なんぼなんでもあんまり残酷すぎるじゃありませんか――少くとも、君の仰言られた、「不正を悪くむ紳士方」にはふさわしくない遣り口ですよ……清水君、君は何か他に、僕には打ち明けなかったことで、あくまでも倶楽部の奴等から仇をされる様な覚えはないのですか。』
と、西村は名探偵の鋭い口調で、さぐりを入れる様に云った。
『ありません。』清水はきっぱりと云った。
『ありませんねえ。あなたに打ち明けないって――どうせ今夜中には殺されると覚悟した僕です。何でくだらない隠し立てなんか致しましょう。』
『そうですか――なる程、そう云えばそうですね。』西村の眼には深くあわれみの色が満ちた。『では、お気の毒ながらやっぱり遺言状をお作りしてあげなけりゃなりますまい……僕にはどうも、それ以上、お力になる事は出来ません。相手は象牙菊花倶楽部ですもの。どうしたって――左様、金輪際君の命は助かりませんね。』
『あなたもやはりそうお思いになりますか。今更どうも仕方がありません。これからひとつ、G――通りにでも廻って、大いに飲んで飲んで、飲みつぶれて、あのローマの意気な貴族ペトロニューの様にドラマティックな最期を遂げたいと思っていますよ。はッはッはッはッ。』
と、清水はひどく愉快相に哄笑ってみせたのである。
『いや、ところが、お気の毒ですがそれも叶いますまいよ。』
『え⁈ 何と仰言る?……』
『つまり、君の死はもう、思いのほか間近に的確に迫って来ていたと云うことですよ。』
西村は落ちつきはらった調子で静かにこう云った。
『?……』清水は流石に狼狽してあたりを見まわした。
『その証拠は――』西村はそう云いながら、立って部屋の一隅に置かれた典雅な書棚の抽斗を開けて、しばらくゴソゴソやっていたが、※(身+応)て、ひとふりの抜き身の支那型の短剣を取り出して来た。
『これですよ……』
『おお‼』清水は突き出されたその短剣の𣠽に目をやると、うめいた。其処には白く、菊花を彫った象牙の飾りが嵌められていたのである……
いきなり、清水は椅子を蹴たおして窓口にかけよった。が、そこを追いすがって後から苦もなく羽交いに抱きかかえると、ズブリ、ひとつ胸元を刳ぐっておいて、さて、西村敬吉は心持青ざめた顔に薄笑いを浮かべて云った。
『清水君。どうも仕方がない。これは我々「不正を悪くむ紳士方」の集まりである象牙菊花倶楽部の正当なる報酬なのだからねえ。もちろん、君が麻雀で大負けをして金に窮した結果、我が善良なる僕胡を欺いて君の宿に呼び寄せて惨殺し、そして彼の持っていた鍵を奪って倶楽部の象牙の牌を盗み出した、と云う事実に対してさ。君をうまく比の室に追い込んでくれた坊城は云うまでもなく僕と同様倶楽部員の一人だ。だから撮影場のピストルに悪戯をしておいたのは無論彼だろうね。わかったかい……併し、流石の僕も君には感心させられたよ。先ず、おそろしく覚悟のいい事にね。それから、そんなに覚悟がよくていながら、おそろしくどっさり嘘を並べること――ひょっとすると僕までが、うっかりオヤ! こいつァ一体何処から何処までが本当で、何処から何処までが嘘なのかしら――と、一寸けじめがつき兼ねた程の巧みな嘘を、さまざまと小説的才能を以て並べたてることだ。お蔭さまで、ずいぶんと面白い物語を聞かされたわけなのだが、併し惜しいことには、君のその卓越した嘘がまたこの物語を大分つじつまの合わないものにしてしまっているのだ。殊にこの際大詰めとして君を殺してしまう事になると一層、全体として小説的約束を破っていはしまいか――と思うと、僕も鳥渡考え直したくなる……だが、……清水君。清水君! おや、もう君は死んでしまったか――では、やっぱり、どうも仕方がなかった……』 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「雄辮」
1926(大正15)年5月
※この作品は初出時に署名「渡辺裕」で発表されています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年8月21日公開
2007年12月17日修正
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こないだの朝、私が眼をさますと、枕もとの鏡付の洗面台で、父は久しい間に蓄えた髭を剃り落としていた。そよ風が窓から窓帷をゆすって流れ込んで、そして新鮮な朝日のかげは青々と鏡の中の父の顔に漲っていた。
おもてで小鳥が啼いた。
「お父さん、いいお天気だね。」と私は父へ呼びかけた。
「上天気だ! 早くお起き。今日はお父さんが港へ船を見物に連れて行つてやる。」と父は髭の最後の部分を丁寧に剃り落しながら云うのだった。
「ほんと? 素敵だな!……」私は嬉しくてたまらなくなった。それから何気なくきいてみた。
「お父さん、何だって髭を剃っちまったんだね?」
「髭がないとお父さんみたいじゃないだろう。どうだ?……」と父はくるっと振向いて私を見たが、その次に細い舌をぺろりと出して眉根を寄せてみせた。
「どうしたのさ⁈」
「こうなれば、ちよっとお父さんみたいじゃなくなるだろう。……今日お前を連れて遊びに行ったところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。うまく考えたもんだろう……」
父はそう云って笑った。
「嘘だい!」と私は寝床の上へ身を起しながらびっくりして叫んだ。
さて、父にせかれて仕立下ろしのフランネルの衣物に着換えた私は、これも今日はじめて見る香い高い新しい麦わら帽子をかぶって、赤色のネクタイを結んだ父と連れだって家を出た。
はつ夏の早い朝の空は藍と薔薇色とのだんだらに染まって、その下の町並の家々は、大方未だひっそりとして眠っていた。
停車場へ行く人気のない大通りを父はステッキを振りまわしながら歩いた。
「誰にも出遇わなくて幸だ。」と父は独言を云った。
「なぜ?」と私はきいた。
父は返事をしなかった。
だが、その代りに父はまた独言を云った。
「ほんとにいやな息子だ。十ちがいの親子だなんて! ああ俺も倦き倦きしたよ。」
「なぜ!」私は父の顔をのぞき込んできいた。
父は、併し、私の声が聞こえなかったものか、黙ってにやにや笑っていた。
私は悲しくなって、父の腕に私の腕をからませた。ところが父はそれを邪慳に振り払った。そして声だけは殊の外やさしくこう窘めた。
「およしよ。君と僕とが兄弟だと思われても、また、困るからね。およしよ。」
私は赤色がかったネクタイを結んで、髭がなくて俄かにのっぺりとしてしまった父の顔に、性の悪い支那人のような表情をみとめた。
汽車に乗ってからは、父は窓の外を走っている町端れの景色の方へ向いて、「ヤングマンスファンシイ」の口笛なんかを吹き鳴らしていた。そして私に対しては一層冷淡な態度をとった。
「ね、港へ船見に行くの?……」と私は不安な気持できいた。
「うん。船に乗るかも知れない……」
父はそう返事しながら、胸のかくしから疎い紫の格子のある派手なハンカチと一緒に大きな鼈甲縁の眼鏡をとり出すと、それをそのハンカチでちよっと拭いて悪くもない眼へ掛けた。コティの香水の匂がハンカチからむせ返る程ふりまかれた。
「港の眺め程ロマンチックなものはないと思うよ。」と父は云った。
「お父さん。どうして、そんな眼鏡かけんの?」私は父の不似合な顔の様子を気にかけて、そうたずねた。
すると父はひどく慍った。
「お父さんだって? 莫迦だな、君は!……僕がどうして君のお父さんなもんか! もしも、も一度そんな下らない間違いをすると、なぐるぞ!」
「………………」
私はそこで、不意に、本当にこの支那人のような顔をした男は、父ではないような気がしだした。
私は眼をさました時に、大きな見まちがいをしてしまったのかも知れないと思い返してみた。私は父と子との関係について――父なぞと云う存在が私にとって果してどれ程密接な関係に置かれているものか――しかも、私の父は、私とはたった十年しかちがいはないのだが――それらがみんな今更大きな誤りだったように思われて……私はだんだん、強か酔っぱらってしまった時のように、信じ得べき存在はただ自分一個だけになって途方に暮れた。
「君、そんな蒼い顔しちゃいやだよ。……泣きっ面なんかしてると汽車の中へ置いてきぼりにしちゃうから!」父はまたずけずけとそう云ったが、それでも直ぐ機嫌をとるようにつけ加えた。
「嘘だよ。そんな悪いことをするもんか。それどころか。僕は君に送って来てもらって本当に喜んでいるんだよ。」
父はそして声をたてて笑った。
私は、今日こんな風にうっかりと出かけて来たことを悔みながら窓外の爽かな田園の風光が、愁しい泪の中に消えて行くのを見守っているより仕方もなかった。
港の停車場に着くと、父は車夫を呼んでチェッキで大きな赤革のスートケースを二つも受け取らせた。そのスートケースの一つと共に車に乗って波止場へ向う道々、私は何時の間に父がこんな大きな荷物を持ち出したものかと思い迷った。そしてそれについていた名札をあらためてみたが、一字も書き込まれてはいなかった。
すぐ前を走っている車の上から父は新しい夏帽子の縁に手をかけて時々うしろを振返ってみては、どう云うつもりか、鼈甲縁の眼鏡で私へ笑いかけた。その度に赤色のネクタイがひらひらと飜った。……その度に、ああ、何と云う厭な狡猾な親しみのない顔なのだろう! と私は胸一ぱいに不愉快になりながら、そっぽ向かなければならなかった。
(サクソニヤ号。午前七時出帆――。)と波止場の門の掲示板に書いてあった。父はそのサクソニヤ号へ二つのスートケースと一緒に入って行った。
私は波止場に立って真黒な船腹のさびついた鉄板を見ていた。やがて、船の奥の方から銅羅が響いて、次いで太い煙突が汽笛を鳴らした。
父は甲板から、にこやかに挨拶をした。
「どうも、ありがとう。お丈夫で!」
「――お丈夫で!」と私は甲板を仰ぎ見ながらそう叫んだ。
船は波止場をはなれた。父は新しい麦わら帽子を高く振った。私は自分の汚れた黒いソフトを一生懸命に振った。
私は波止場の石垣に腰かけたまま、風に吹かれて殆ど半日も我を忘れていた。
到頭金釦をつけた空色の制服を着ている税関の役人が私の肩を敲いた。
「どうしたんです? まさか、身投げをするつもりじゃないでしょうね。」
私は急に悲しくなってむせび泣いた。
「おやおや、困りますね、一体どうしたって云うのでしょう。泣いてちゃわかりません。わけをお話しなさい。」
「お父さんが、いなく、なった、のです!……」と私はようやく答えた。そして、それから、父のためにどんな風にしてあざむかれてしまったかを語った。
「お父さんはどんな様子の人です?」と役人はきいた。
「よく思い出せないのです。そう、恰度あなたみたいな人です。髭がなくなってつるつるした顔をしていました。そして、しかもやっぱりそんな大きな眼鏡をかけていました。ああ、ほんとにあなたとそっくりです!」と私は叫んだ。
税関の役人はドギマギとしてその髭のない貧しげな顔を両手で抑えた。
父。髭なし。麦わら帽子。鼈甲縁眼鏡(時として使用す)赤地ネクタイ。その他、潚洒たる青年紳士――。
親切な税関の役人は右のような人相書を作って、サクソニヤ号の次の寄港地へ宛てて照会した。しかし、もとよりそんな人相書は、たとえばその中の赤地のネクタイ一本がもつ手がかりよりも、決して重要な特徴を示していなかったことは事実である。
私はそして、到頭その朝、そんな風にして父から見捨てられてしまった。これから私は全くたった一人ぼっちで、この堪え難い人生を渡って行かなければならないのだ……。
それにしても、自分の父の顔位は、よしやその髭がなくなったとしても、決して見忘れない程度に、よく見憶えて置くべきことである。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」
1929(昭和4)年7月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年7月28日公開
2007年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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1
二組の新婚夫婦があった。夫同士は古い知己で隣合って新居を持った。二軒の家は、間取りも、壁の色も、窓も、煙突も、ポオチもすっかり同じで、境の花園などは仕切りがなく共通になっている。
一週間経つと花嫁と花嫁とも交際をはじめた。
「――お隣の奥さん、今日も一日遊んでいらしたのよ。」
そうAの細君が、勤めから退けて来たAに報告るのであった。
「二人で、どんな話をして遊ぶんだい?」
「あの方、それぁ明けっぴろげで何でも云うの。あたし、幾度も返事が出来なくて困ったわ。」
「たとえば?」
「あのね。……あなたの御主人は、朝お出かけの時、今日はどのネクタイにしようかって、あなたにおききになる? なんて訊くの。」
「返事に困る程でもないじゃないか。」
「それから、あなたが泣くか、っても訊いたわ。」
「僕が泣くか、だって?」
「ええ。あたし、だから、未だ一ぺんもAの泣いたのなんか見たことがありませんて、そう云ったの。」
「してみると、Bの奴女房の前で泣くのかな。――あんな本箱みたいな生物学者を泣かすなんて、どうも偉い細君だな。いやはや。」
Aは煙管の煙に噎ぶ程哄笑ったが、哄笑いながら、細君の小いさなギリシャ型の頭を可愛いくて堪らぬと云ったように撫でてやった。
「お前も、ちっと位僕を泣かしてくれたっていいよ。」と彼は云った。
次の土曜日の夕方だった。
Bの細君が、帝劇にかかったニナ・ペインのアクロバチック・ダンスの切符を二枚もってAの細君を誘いに来た。
だが、生憎Aの細君は、歯医者へ行く旁々街へ買物に出たばかりで留守だった。帰るのを待っている程の時間がなかった。
「B君は行けないのですか?」と、一人で蓄音器を鳴らしていたAが訊き返した。
「調べ物が忙しいし、それにあんまり好きじやありませんの。」
Bの細君は、派手な大きな網の片かけの房につけた鈴を指さきで、ちゃらちゃらさせながら、鳥渡考えてから云った。
「Aさん、あなた御一緒して下さらなくて?」
Aは多少極まり悪そうだったが、切符を無駄にするのは勿体ないと云うので、お供をすることにした。
「本当は僕だって、切符を買うつもりだったんですが、女房がちっとも賛成してくれないもんだから……」
Aは、いそいそと上衣を着換えると、細君へ一言書き残した紙片を茶卓の上へ置いて出かけた。
帝劇の終演が思いの外早かったので、彼等はお濠ばたを、椽の並木のある公園の方へ散歩した。アアチ・ライトの中の青い梢が霧に濡れていた。誰も彼等と行交わなかった。彼等はお互の腕を組み合わせて歩いた。
「他人が見たら、御夫婦と思うでしょうね。」と云ってBの細君が笑った。
「僕の女房は、こんな風にして歩きませんよ。」
Aは、そう答えて、振り返った拍子に、彼女の耳飾りを下げた耳の香水を嗅いで、胸を唆られた。
「おとなしくて、いい奥さんね。あなた、随分長いこと愛していらしゃったんでしょう。」
「ええ、子供の時分から知ってたんです。」
「その間、ちっとも浮気をなさらなかったの?」
「勿論、僕は、ひどく何て云うか、ガール・シャイとでも云うんですかね、他の女はみんな怖かったんです。」
「まあ。」
「あなた方は如何だったんです?」
「たった一日恋人だったの。スケート場の宿屋で泊ったのよ。その話は御存知なんでしょう?」
「Bは何とも云いませんでした。」
「フィギュアをやってる時、あの人と衝突して、あたし仰向に倒れて気絶しちゃったの。そうして、介抱して貰ったの。あの人は、とても親切にしてくれましたわ。でも今考えてみると、その女があたしじゃなくてよかったのですわ。」
「何故ですか?」
「だって、あの人、近頃ではあたしの性分があんまり好きじゃなさそうなんですもの。Aの奥さんみたいになれって、毎日あたしを叱るのよ。」
「そりゃあ好かった。家の女房ならば、Bの為事の助手位はやるでしょう。何しろ、自然科学にかけては、僕の十倍も詳しいと云う女ですからね。」
「あたしは頭脳が悪いから駄目。――あたし、いっそBと別れちまおうかしら。……」
Bの細君は、そこで大きな溜息を吐いたが、Aは何とも返事をしなかったので、ちょっと両肩をすくめると、口笛を鳴らしはじめる。
折から通りかかったタクシーを、Aがステッキを上げて停めた。
家へ帰ると、Aの細君は寝室の水色の覆をかけた灯の下で、宵に街から買って来た絹糸でネクタイ編みながら未だ起きていた。
「ごめんよ。さびしかったろう?」
「いいえ……Bさんが鳥渡遊びにいらっしったわ。」
「Bが?」
「怖そうな人ね。それに、まるでだんまりやよ。」
「うん。あれでなかなか気の好いところもあるんだがね。僕たちのことを何も云ってやしなかったかい?」
「別に、でも、一言二言皮肉みたいなことを云ったわ。」
「何て?」
「あなた、気を悪くするかも知れないの。」
「何て云ったい?」
細君は、編みかけの赤とオリイヴ色とが交ったネクタイをいじりながら返事をしなかった。
「ねえ、本当に何て云ったんだ?」Aは、飲みかけの紅茶をさし置いて追及した。
「あのね、こんなネクタイを編ませたりするAの気が知れない。こんなものは、街へ行けばもっと安く、手軽に買えるじゃありませんか、って。」
Aは苦笑した。
「フム、学校で生物学の講義でもしていると、どんなことでもそんな風にしか考えられなくなるんだよ。……自分の細君のことは何とも云わなかったかい?」
「――いない方が、邪魔にならなくていいんですって。それに、僕の女房は僕に、A君が気に入っているのだし、A君とならよく似合うから恰度いいだろうって仰有ったわ。」
「下らない! 変な冗談を気にかけちゃいけないよ。僕はBの細君なんかと一緒に行ったって、ちっとも楽しくなんかなかった。本当に、悪かったら、勘弁しておくれ。」
Aは細君をやさしく抱いた、すると彼女は身をかたくした。
「なぜ、そんな風に仰有るの?」
「莫迦! 泣く奴があるもんか」
「だって、あなたが、そんなことを仰有るからよ……」
「これから、決してお前ひとり置いて行ったりなどしないよ。……いい子だ、いい子だ。」
Aは細君の泪に接吻してやった。
2
併し、Aと、B夫人との間はそれから加速度的に接近して行った。
夫の仕事の邪魔になるからとか、学校の研究会で帰りが遅くなって、一人でいるのは淋しいとか、いろいろな口実のもとに、Bの細君はAの家に入り浸った。
一度なぞは、Aの役所の退け時に、さも偶然らしく役所の前を通りかかって、一緒に散歩してお茶を飲んだり、自動車に乗ったりして帰って来た。尤も、その時はAも表面で全く成心なさそうに振舞ったが、併し家へ帰ると、二人ともそのことを内秘にしていた。
またBの細君はタンゴ・ダンスがうまかったので、A夫婦にも教えることにした。けれども、Aの細君の方が何時も気のすすまない顔をしていたので、大ていAばかりを相手にして踊った。Aは彼女と四肢を張り合わせるようにくっつけて、客間の中を引っぱり廻された。そして女の体を胸の中に抱きかかえる姿勢のところに来ると、自分の細君の方を振り返って赧くなるのだが、だんだん狎れると、一層赧い顔をしながら、そっと両腕に力を入れた。
「ごめんなさい、奥さん。――」とBの細君は、Aの細君へ彼女の夫の腕の中に身をたおしたまま声をかけるのであった。すると蓄音器係のAの細君が
「どうぞ。――」と冷かにそれに答えた。
結婚して三週間経つか経たない中に、Aは新妻を裏切ってしまった。
或る晩、矢張りタンゴを踊っていたのだが、Aは細君が退屈そうに脇見をしている隙を覗って、素早くパアトナーの唇に接吻した。そして、彼女が帰る時にも、わざわざポオチまで送って出て、そこの藤の緑廊の蔭で長い接吻をしたのである。
だが、その後で彼は直に家の中へ飛び込んで行って、すっかり細君に白状した。彼女も遉にびっくりして泣いた。
「あたし、何だか、そんなことになるのが前から判っていたような気もするの……」と彼女は泣きじゃくりながら云った。
「そう薄々感づいていながら、平気でいたお前にだって責任の一半はある。」Aは我儘な子供のように焦れったがった。
「あなた、なぜ、あたしを捨ててしまおうとなさらないの?」
「僕はお前と別れようなんて夢にも考えてやしないよ。……お前が、お前一人で、僕を堪能させてくれなかったからいけないのだ。結婚したばかりで、妻が夫の心の全部を占領していないなんて間違いだと思う。」
「――別れるの可哀相だから嫌だと云うだけでしょう?」
彼女は泣くのをやめて、ぼんやり考え込んだ。
「しばらく海水浴にでも行って、二人きりで暮そうじゃないか。」とAが急に思いついたように云った。「明日の朝、出発しよう。……お互にしっかり隙のない生活に嵌り込むことが必要だ。」
翌朝、役所へだけ届けをして、B夫婦には断らずに、海岸へたった。
ところが、一日置いて、海岸のAの細君から、Bの細君へ宛てて手紙が来た。
――突然ここの海辺へやって来ました。お驚きになったでしょう。だしぬいて驚かしてやろうとAが主張したのです。ごめんなさいね。
此処の海は人があんまり入りこまないので、水が澄んで底の方まですっかり透き通って見えるし、それに何時でも潟のように穏かです。
Bさんも、もう学校がお休みでしょう。あたし共ばかりでは、淋しくて困りますから、Bさんに願って、お二人連れでいらっしゃいませんか。――
Bの細君は、昨日からA夫婦の突然の行方不明が気懸りでならなかったのだが、この手紙で一先ずほっとしたわけである。そしてBにもこれを読ませると、Bは何時になく気軽にそこの海岸へ、夫婦のあとを追って海水浴に行くことを賛成した。
二三日して、学校の暑中休暇が初まると早々出発した。
途中の汽車の中で、Bは偶と、細君に向って、こんなことを云い出した。久し振りで不精髯を剃ったので、平生より余計蒼白く骨ばった顔をしたこの生物学の教師は、支那人のように無愛想な笑いを浮べながら、
「Aの細君は、お前たちのことを、やっと今になって感づいたのかな?」
Bの細君は忽ち蒼ざめてしまった。
「あたしたちのことを⁈」
「そんなに吃驚するところを見ると、お前は僕迄騙していたつもりらしいが、実を云えば、僕なんか、或はお前たち自身よりも、もっと早くお前たちの今日を気がついていたかも知れないのだ。」
「まあ、何てひどい!」と彼女は、泪を流して、併し人目を憚って泣声を噛み殺しながら云った。
「あなたは、あたしを罠に落そうとなさるんですか? どんなに確かな証拠があって――」
「そう、たった一ぺん、こないだの晩、Aの家のポオチでお前たちが接吻し合っているのを見たきりだが、併し、Aが自分の女房よりお前の方を余計愛していることや、お前が僕よりAを愛していることは、そんな他愛もない証拠などを云々する迄もなく、誰でもお前たちの様子を一目見さえすれば納得が行くに違いない。」
「…………」
「そして、誰だって無理はないと思うことさ。だが、僕をごまかして置こうなんてのは沙汰の限りだ。」
「ああ! あたし、どうすればいいのでしょう。どうしても誘惑に打ち勝てなかったのです。……でも、もういくら悔んだところで、追い付かないことだわ。」
「今更、なまじ後悔なんかされると、恋の神様が戸惑いなさるよ。矢鱈に後悔したり、詑びたりし度がるのは、悪い癖だ。」
「――ごめんなさい。」
「僕は昔からAの性質を知っているが、彼奴は見かけだけ如何にも明快そうにしていて、その実ひどく卑怯な性質だ。気がいいと云えば云えないこともないが、それだからと云って、僕の生活までが、そんな被害を甘んじてうけ入れていられるものではない。」
「あなた、それを承知で、これから乗り込んで行って、どうなさるおつもりなの?」
「適当に自分の決心を実行するだけだ。僕は科学者だから、何時だって冷静に計画を立てることが出来る。」
「決心って、どんなことをなさるの?」
「歯には歯、眼には眼さ。――だがA夫婦と会って見た上でなければ判らない。」
「ねえ、お願いですから、あたし一人、さきにAさんと会わせて下さい。」とBの細君は歎願した。
「いいとも。そして、Aに決意をすすめるがいい。出来るだけ、自分の浅はかさを手厳しく感じさせてやりたまえ。尤も、僕はAのために、一時間だって待って遣るわけにはいかないがね。――だが、細君は、若しかすると未だ何も判っていないのかも知れないのだから、兎に角細君の前では出来るだけ何気なく振舞わなければいけない……」
Bはそう答えると、外景の夕暮れた窓に向って、ガラスの中に映った自分の不機嫌な顔を瞶めるように、むっつりと口を鎖した。
細君は大きな不安に怯えながら、泪を乾して思案に暮れた。
3
B夫婦が、A夫婦の泊っている海岸の宿屋についたのは、もう大分遅かったので、四人は極く短い時間を談笑してからそれぞれの部屋に寝た。
翌朝、起き抜けに、Bの細君はAに案内を頼んで、浜辺へ散歩に出た。
濃い朝霧の中に、上天気の朝日のさしている砂丘に並んで腰を降ろして、Bの細君は昨日の汽車の中のことをすっかり話した。
Aは果して狼狽した。
「僕は、もう当分あなた方に会うまいと思って此処へ来たのだったに!」
「奥さんは、御存知なのですか?」
「僕が残らず喋ってしまったんです。けれども、彼女は何もかも仕方がないと云ってゆるしてくれました。そして、此処へ着くとすぐ自分が勝手にあなた方へ手紙を書いたのです。」
「お互に覚悟を決めようじゃなくって? あたしあなたとなら海へ飛び込むことも出来ますわ。」
「Bは僕を卑怯者だと云ったのですか?」
「あの人は、少しでも曲ったことを許して置けない性分なの。それに、冷静に計画を遣り遂げることが出来ると云っていました。」
「僕は、これ以上卑怯者と譏られないために、もう逃げ隠れはしません。Bが僕に復讐を決心したのなら、平気でそれを受けて見せます。」
「――あたしたちは、お互に、未だ結婚してから一月と経たないのよ。それだのに!……なぜ、神さまは、最初にあたしとあなたとを会わせて下さらなかったのでしょう。……」
二人は抱き合って、今更ながら余りに理不尽と思える運命のからくりを嘆いた。それから昔のけなげな恋の受難者たちのように、最後迄勇気を失さぬことを誓い合って、砂丘を降りた。
朝食が済んだ後で、霧がはれて、海がギラギラ青い鋼鉄色に煌きはじめると、二組の夫婦はそろって海水浴に出かけた。
Bは何事も云い出しそうな素振りを見せなかった。むしろ、皆の中で一番気楽そうに振舞った。それでも、他の誰とよりも、やはりAの細君と口数多く喋った。
「Bさん、お家にいらしても、こんなにお元気? Aをごらんなさい。どうしたわけか、あんなに悄げています。まるであべこべね……」
そう云ってAの細君が笑った。
「Aは屹度海が怖いのでしょうよ。」とBが答えるのであった。
「尤も、僕なんかでも、ひどく自然の姿に恐怖を感ずることがありますがね。人間の卑屈な知恵や小力が、どう悪あがきしても侮り難い強大な意志に圧迫されるのでしょうな。……」
Aは、それを聞いて苦笑いをしたが、直ぐに歯をギリギリ音を立てて噛み鳴らした。
やけた砂の上に足を投げ出しながら、Bは自分の細君に何気ない調子で訊ねた。
「Aに、例のことを話したのかね?」
「ええ――」Bの細君は思わず頬を硬ばらせた。
「ふむ――」
BはそこでAの方を振り向いて云った。
「A。君とはあんまり泳いだことがないが、どの位泳げるんだ?」
「そうだな。子供の時分なら相当泳げた方だが、併しそれも大てい河ばかりで泳いだものだ。」
「それなら確だ。どうだ、一つ遠くへ出て見ようじゃないか?」
「うむ。――」
Aが応じて立ち上がりかけると、その途端にAの細君の足がAの目の前に延びた。Aは彼女の白い足裏に、焚火の残りの消炭か何かで黒く、(アブナイ!)と書かれてあるのを認めた。だが、彼は躊躇してはいなかった。
二人は肩をそろえて沫を切りながら、沖を目がけて泳いだ。やがて安全区域の赤い小旗の線を越した。沖の方の水は蒼黒く小さい紆りを立てていて、水温も途中から俄かに変って肌がピリピリする程だった。Bは脇目もふらずに無表情な頤を波の上につき出して進んで行った。Aは実際は、それ程水練に熟練していなかったので、間もなく手足に水の冷たさが堪えた。そして、だんだん草臥れて、息が乱れて来るのがわかった。だが、弱音を吐かずに我慢しなければならなかった。初めの中こそ二人並んでいたのだが、直きにBは可なりの距離を残してAの先に立った。決して、蒼ざめ果て顔を引歪めているAの方を振り返って見なかった。Aはその中に、幾度か塩水を飲み込んで噎せた。そして到頭、右の脚をこむら返りさせて、ぶくぶく沈みはじめた。
Aの叫び声を聞いて、たちまちBは引き返して来ると、浪の下にもみこまれているAの腕を危く掴まえて浮んだ。そして折よく近くにい合せた小舟に救い上げてもらった……
Aが、宿屋の床の中で、はっきり吾に返った時、枕元について看護していたのは、Bの細君一人だけだった。
「僕は、どうして助かったのですか?」
「Bが助けました。」
「…………」
「Bは大へん心配していました。あなたに、人のいないところで泳ぎながら、あのお話をするつもりだったのですって。」
「うちの女房はどうしたでしょう?」
「奥さんは何も御存知ないの。あなた方が泳ぎはじめると、直ぐに『眩暈がする』と仰有って、宿に戻ったのですけれど、それっきり皆を置いてきぼりにして家へ帰ってしまったらしいの。帳場で聞いたら、ただあなたに『急に思い出したことがあるから――』と云うお言伝だったそうです。」
「Bは?」
「自分の部屋にいます。」
「呼んで来てくれませんか。」
Bの細君は、Bを呼びに立ったが、直き一人で、右手に黒いガラスの小壜を持って引返して来た。
「Bも帰ってしまいました!――」と彼女は震え声で、やっとそれだけ云った。
「何とも断らないでですか?」
彼女は點頭いて、黒いガラス壜を差し出して見せた。小いさな髑髏の印のついたレッテルに、赤いインキで(空虚の充実。お役に立てば幸甚!)と書かれてあった。
二人は容易にその意味を理解した。そしてその夜、壜の中の赭黒い錠剤を一個ずつ飲んで、天の花園へ蜜月旅行に旅立つために、二人はあらためて、花嫁となり花婿となった。……だが、何時間経っても、ただ一度Aが苦い噯気を出した以外に、薬の効き目はあらわれなかった。夜が明けかけても、二人の男女は少しも悪い容体にならずに、現世に存えている。Aは到頭我慢が出来なくなって、もう一度薬を飲むことにした。併し、三錠目は壜の中にパラフィン紙がつまっていて、なかなか出て来なかった。マッチの棒を使って漸くパラフィン紙ごと出してみると、今度は白い錠剤だった。
「これが本物らしい。屹度、さっきのは解毒剤だったのかも知れませんね。」と男が云った。
女は白い錠剤を手の掌に載せて眺めていたが、やがて長い溜息と一緒に首を振った。
「ここにアスピリンと書いてあってよ――」
こころみに噛んで味ってみる迄もなく、なる程アスピリンに違いなかった。Aは偶と、パラフィン紙の皺を伸ばしてみた。すると、それには鉛筆でこう書いてあった。
「――刃物、縊死、鉄道往生、その他いろいろ自殺の方法を、このあまりに感情的だった動物は考え出した。だが、まあ、君たちが飲んだ亜刺此亜風の薬の効き目はあらたかだったに違いないと信ずる。……さあ、直ぐに君たちの祝福された住居へ帰って来たまえ。(ねつさましなど飲む必要はないよ。)」
4
半信半疑の気持で、二人が帰ってみると、先に帰っていた二人が仲よく肩を押し並べて彼等を迎えた。
「ねえ、Aの奥さん。あなた方の新家庭の飾りつけは、もう今朝の中に、あたし共がして置きましたわ――」とBの細君に向って、Aの細君が云うのであった。
「まあ!」
Aの家の中には、これ迄そこに見慣れた女主人の持ち物と入れ代りに、もとBの家に飾ってあった女の道具が残らずキチンとそれぞれの場所に、新しい女主人を待ち受けていたではないか。
「ねえ、Aの奥さん。うちの先生はあなたとAさんと、タンゴ・ダンスを踊るのが見たいんですって?」
「まあ、いやですわ。Bの奥さんたら。あたしたちこそ、あなたの先生の優しい助手振りを拝見させて頂きたいものよ。」
と云う工合に、彼女たちの接頭詞が互に入れ違ってしまったのである。
「どうだね、これで魚は水に、蝶は花に棲めるわけだ。君も満足だろう。」とBは親しげにAの肩を敲いて云った。
「ああ! 君には何とお礼を云っていいのかわからないよ。」Aは古い友人の親切に全く感激していた。「こんな僕の我儘をこれ程まで寛大に許してくれるなんて!」
「我儘を許す? 莫迦云っちゃいかん。これが正しい生活さ。我々は、ちょっとした間違いでも、気がついたなら即座に訂正しなければならないのだ……」
彼等は、さてそれから、楽しい新婚祝賀の晩餐会を開いて、夫々の新しい幸福の永遠性を祈った。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」
1929(昭和4)年9月
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ
1999年9月14日公開
2008年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000373",
"作品名": "花嫁の訂正",
"作品名読み": "はなよめのていせい",
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"副題": "――夫婦哲学――",
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馬車はヴェラクルスへ向けて疾っていた。お客は私と商人のパリロ氏と牧場主のラメツ氏と医師のフェリラ氏とそしてその他に全く得体の知れぬ二人連れの男女が乗っていた。男は鍔広帽子を眼深にかぶり上衣の襟を深く立てて、女は長い睫毛の真黒な眼だけを残してすっぽりと被衣を被っている。二人共如何にも世を忍ぶ風情である。女の耳のあたりには素晴らしく赤い薔薇の花が一輪留めてあった。
バランカで一休みして馬車は再び走り初めた。空は美しく谷あいの風は新鮮であった。
突然パリロ氏がその二人連の方を目くばせしながらフェリラ氏に囁いた。
「御存知ですか?」
「左様、婦人の方ならば。ロジタ・フェレスと申される侯爵夫人です。数日前、エグザノ橋の辺で二人の男が彼女のために決闘をして、その一人は死にました。」
「やれやれ、して相手はどうなりました?」
「多分、今一緒にいる男がそうでしょう。」
「山賊みたいな奴ですな。」
医師はそこでギョッとした。医師はこの街道筋が追剥の巣窟だったと云う事実を思い出したのに違いない。そして、そう云われてみれば成る程ひどく剽悍そうな体つきをしている、その見知らぬ男の顔をまじまじと眺めたのであった。と忽ち男の顔に不吉な影が浮んだ。
「併し一概に山賊などと云っても中には却々い儀深い奴もいるものですよ。」と医師は周章て眼を外らし乍らそんなことを云い出した。
「たとえばあの有名なザバタスの如きですな。私は何とかして彼と一度出会って見たいものだとさえ思います。」
すると見知らぬ男は口を挟んだ。
「ドクトル! ヴェラクルスへ着く前にあなたは彼奴と会うことが出来そうですよ。」
「それは素敵だ!」と医者はその男に云った。「私はいろいろと彼の噂を聞いています。此の間もプエブラの新聞にこんな事が出ていました。何でもザバタスが或時停めた馬車の中にアリバヤ侯爵夫人とグアスコの僧正とが乗っていたのだ相ですが、ところで、ザバタスが一体どんなことをしたとお考えです?」
「さあ」と男は首をかしげた。
「ザバタスは先ず僧正に向って「坊さま、あなたのよき祝福を下さいませ」と云ったのです。勿論僧正は彼の望むものを授けてやりました。ザバタスはそれから、そのすべての宝石を差し出している侯爵夫人に対して、いとも慇懃に帽子を脱ぐとさて「いやいや、奥さま。何卒宝石はお蔵い下さい。そして叶いますことならば、あなたのお髪の花を頂かせて下さいませ」と云ったものです。侯爵夫人は直にその甚だ優しい願を容れられました。で、ザバタスは彼女の手にキスをしたのです。……決してその指輪には触れることなく。……実にザバタスこそは紳士の手本として我々の学ぶべき人間です」
「莫迦げた話を――」と牧場主が云った。「何故と云って、それからその馬車が少しばかり駈り初めた時に、山賊の一人が息せききって駈戻って来たのです。そうして侯爵夫人をつかまえて親方が彼の女の指輪を貰うのを忘れたから改めて貰って来いと言附けられたと云って、到頭指輪を奪って帰りました。――これを見てもザバタスは立派な碌でなしであることが分るじゃありませんか。」
「失礼ですが――」と見知らぬ男は云った。
「ザバタスは全く彼の部下のした事を与り知らなかったので、やがてそれを発見するに及んでその無頼漢を縊り殺してしまった上、指輪は侯爵夫人へ送り返したと云う事実を、何故あなたはお考え下さらないのですか?」
「なんですって? そんな事をどうして君は知っているのです?」
「私がそいつを縊り殺したからさ」
「あ、あ、あなたがザバタスなんですか⁉」
当人はおののき憟えて叫んだ。
「如何にも私こそ彼自身です。」と見知らぬ男は様子ぶってお辞儀をした。
医者も、牧場主も、商人も青くなって、倉皇として馬車から降りて行った。そして最後に私が降りかけた時、私は睦じげな囁きを聞いた。
「あなたはなぜあんな出鱈目を仰有ったの?」
「ふっ! 僕はお前とたった二人っきりでこの楽しい旅がしたかったのだよ。――」 | 底本:「時事新報」時事新報社
1927(昭和2)年4月17日
初出:「時事新報」
1927(昭和2)年4月17日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は総ルビですが、入力に当たって一部を省略しました。
※「[い]儀深い」と「[おのの]き」の、[]を付した箇所は判読できなかったため、ルビを頼りにこのように入力しました。
※「追剥《をーるどあっぷ》」は「追剥《ほーるどあっぷ》」とも思われましたが、明確に判読できませんでした。
入力:匿名
校正:富田倫生
2012年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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1
上野の博覧会で軽気球が上げられた。軽気球はまるで古風な銅版画の景色の如く、青々と光るはつ夏の大空に浮かんだ。
この軽気球はそもそも商店の広告なぞではなく、一時間一円で博覧会のお客を乗せる目的から備えつけられたものである。
私は非常に幼い頃、父に連れられて、何かの博覧会を見物したが、その時の会場には大きなフェアリイ・ランドがあって、観覧車やウォタア・シュウトなぞの新奇な乗物とともに、やはり軽気球がお客を満載して上野の杜の天辺に浮かんでいた。(風船なんて危いものはもっての外だ――)と云って、年寄の父はいくら私が強請んでも乗らしてくれなかった。それ以後「風船」は私の最も大きな願望の一つとなった。何もない中空で、一片の雲のように易々と、停っていられると云う道理は、人生の曙に於いて、はじめて私が直面した記念すべき謎であった。
二十年も過ぎて、乗物の風船が、再び現われた。
私は久しい宿望を叶えられる喜びのあまり、お天気の日ならば必らず博覧会の門をくぐった。
風船は、併しちっとも人気がなかった。
私の幼い心と共に最早や時世から取残されてしまったものと見える。一月と経たない中に、日にたった数人のお客しか呼べない場合があった。
私はそれで、それをば幸いに、殆ど自分がその風船の主ででもあるかのように、寛いだ気持で空の楽しい一時間を費すことが出来た。
地上五百米突の高さから見晴した文明都市の光景は、それこそ一番素晴らしいパノラマの眺めである。凡そあらゆる速力と物音とを失って、麗らかな日ざしを宿したうす塵埃のかげろうの底で、静かに蠕動するそのたあいもない姿を、私はこの上もなく愛した。
2
私は搭乗券を売る娘と顔なじみになった。
私たちはお互に挨拶をした。
――正直なところ、なんだってそう毎日々々、こんな風船に乗りにいらっしゃるのだか、あたしにはもうすっかり考えようがなくなってしまったわ。」
或る日、その娘は、軽気球から降りて帰りかけた私をとらえて、そう云った。
――それは、君に会いたいばかりにさ。」と私は答えた。
――まあ! 憎いことを仰有るのね。でもあたし、はじめは鳥渡そんな気がしないでもなかったけれど。ふ、ふ、ふ、ふ……。」
娘は蓮葉な声で笑いかけたのを周章てて呑み込むと、居住いを直しながら、低声で私に注意した。
――おや、あなたの相棒がいらしたわよ。」
この上天気に雨傘を携えた丈の高い西洋人が私共の方へ近づいて来た。西洋人もまた軽気球に乗りに来たのであった。
私は彼の雨傘とそれから灰色の立派な顎髯とに見憶えがあった。私はびっくりして娘に訊ねた。
――あの異人さんも、時々来るのかね?」
――毎日いらっしゃるわ。だから、あなたの相棒だって、そう云うの。」
――はてな?」
――ことによると、やっぱりあたしを張ってるのかもわからないわね。ふ、ふ、ふ、ふ……。」
――僕は、あしたから、あの異人さんと一緒に乗せて貰うよ。」と私は云った。
私は帰る途々、西洋人について仔細に考えてみた。そう云われればなる程、恰度この位の時間に帰るおりなら、会場の出口迄の間の何処かで、大抵その人と出会ったように思われた。私はただ、博覧会の事務所にでも関係のある人だろう位に考えて、別して深く気をとめたこともなかったが。――どうも、西洋人ともあろうものが、しかもあの年輩をして、風船なぞへ乗って楽しむなんて、なかなか信じ難い話だ。何か重大なる理由がなくては叶わぬ。……
3
翌日私はわざと何時もより一回分、つまり一時間だけ遅らせて行った。
――異人さん、もう乗っていらっしやるわよ。」
と娘に教えられる迄もなく、私は切符を買いながらそっと、軽気球の籠をまたぎかけている背の延びた岱赭色の洋服を見てとった、私はいそいそとそのあとに従った。
私と西洋人との他に、丸髷に結った田舎者らしい女の人が、少しばかり蒼ざめた顔をして、その連れの中学生と二人で乗っていた。
西洋人は籠の外へ顔をそらした儘、パイプの煙草を吸った。
やがて、新しい瓦斯を充満した軽気球は砂袋を落として、静かに身をゆすぶりながら上騰しはじめた。すると丸髷の女の人は声を立てて中学生の肩へしがみついた。そのために、均合をはずした籠がドシンと大きく傾いたので、西洋人もおどろいて振り返った。
西洋人は無精髯を一っぱい生やしていたが、それでもツルゲエネフのような優しい顔であった。そして薄い茶色の眼は、ひょっとしたら愁しげな光を含んでいるように、私は感じた。
――おろしてくんねえかな!」と丸髷の女の人は泣き出しそうになって云った。
――駄目だよ。いごくから余計と揺れるんだ。ちっともおっかねえもんかね。」と中学生は狼狽えて相手を叱った。だが、中学生もやっぱり、茫漠と涯しもない天空のただ中で、小さな籠一つへ身を托したことが、そぞろ恐ろしくなって来たに違いなく、歯の根をカチカチ鳴らしていた。
――じっとして坐っていらっしやい。もっと高く上ってしまうと、却って怖くなくなりますよ。」と私が二人をなぐさめると、西洋人はちらりと私の方を見たようであった。
軽気球はそれを繋留する綱の長さだけ上りつくして、さて止った。空の上のことだから、どんな日和にしても、必ず目に見えない風が流れていて、私共もそれに従って右や左に多少は揺られるのであった。田舎の女の人と中学生とはすっかり勇気をなくしてしまって、籠の底に坐ったまま到頭起き上がろうとしなかった。
西洋人は、上衣の下へ斜めに懸けた革のサックから双眼鏡をとり出して下界を眺めた。けれどもそれは単なる風光の見晴しが目的ではなく、正しく何か探し物をしているのであった。細長い指を苛立たしげに慄わせて、幾度となく焦点を更えては、何時迄も、何時迄も、大東京の市街の表に刻まれた一つ一つの物蔭を丹念に漁るつもりらしかった。
私は、自分の娯しみを全く等閑にして、ひたすら西洋人の態度をぬすみみた。だが、そのツァイスの精巧なレンズの目標が、果してどの見当であるかさえ、皆目推量もつかなかった。
――一体全体どんな情景をこのブリキとカンナ屑の都から摘出しようとこころみているのかしら?……
その翌日も、私は西洋人と一緒に風船へ乗った。西洋人は矢張り双眼鏡ばかり覗いた。
そして更に、その翌日も全く同じ事が繰り返された。
その次の日も。
次の日も。
…………
4
私の好奇心は加速度的に膨れ上って、遂にはこの西洋人は何処かの軍事探偵ではないかしらと云う容易ならぬ仮想迄発展して行った。こうなると最早や私一個の風船に対するあどけない興味なぞは心の隅に追い込められてしまった。
西洋人の方でも、私を訝しく思ったに違いない。一日、西洋人はためらいながら口を開いた。
――毎日同じ時間にお目にかかりますね。」
――為事の都合でこれ以上早くは来られないのです。」と私は答えた。
――軽気球をそれ程お好きですか?」
――そうです。軽気球から眺めた景色はどんな上手な風景画よりも美しいと思います。」
――天国により近いせいで、地上のすべての汚れが浄められて見えるかも知れませんね。」そう云って西洋人は微笑した。
私は思い切って訊き返した。
――それでは、あなたの毎日探して居られる秘密について教えて下さい。」
すると西洋人は忽ち狼狽した。
――いやいや、これだけはうっかりお話しするわけに参りません、そう、しいて云うならば地上の宝です。は、は、は、は……」
彼はそれからふいと慍ったような顔をして、くるりと背中を向けると、再び双眼鏡を覗きはじめた。
だが、その後間もなく、私は途方もない不徳な誤解を、西洋人に対して抱いていることを知るに致った。
軍事探偵なぞと云うものは、内気なツルゲエネフのような顔をしていたり、またそんな子供の運動帽子みたいな色彩をした風船に乗っていたりするものではない――と私は、心のうちでひそかにくやんだことであった。
5
開期三ヶ月の博覧会も終りに近づくと、季節はだんだん梅雨時へかかって来た。雨が降れば勿論軽気球は上がらなかった。そして私はしめった不健康な家の中で、まるで羽衣を失った天人のように、みじめに圧しつぶされて、所在なく寝ころんでいるばかりであった。
朝の中は薄日が当っていても、午後になって欝陶しいつゆ空に変って、やがてビショビショと降り初めると、軽気球は折角出かけて行った私共の前で悲しくつぼんでしまうようなことさえ幾度かあった。私と西洋人とは、諦め難く、永い間どんな小さな雲の切れ目でも見付け出そうとして待ちあぐんだ果に、いよいよ本降りになった雨の中をお互に慰さめ合うような苦笑を洩しながら肩をならべて帰った。
彼がスフィンクスであったにしても、私共はともかくその位の親密な体裁にはいきおいならざるを得なかった。ミハエル某と云う彼の名前も私はおぼえた。
その日もひどく覚束ない空模様で、天気予報も雨天を報じているのに拘らず未練がましく出かけて行った私が、電車を降りた時にはすでに、霧雨がしんしんと不忍池の面をこめて降っていた。私はレインコオトの襟を立て、池の縁にあるからたちの垣根の前にぼんやり佇んだが、すぐに電車道に沿って色の褪せた博覧会の正門の方から、洋傘を阿弥陀に傾けながら、私の方へ向かって歩いて来る我がミハエルの姿が目に入った。先方では私に気がついたらしく、何時もするように優しく微笑してうなずいて見せた。
私共は一本の傘に入って山下の方へ出た。
――今夜おひまですか?」とミハエルはふとそんなことを訊いた。
――ええ、別に。」と私は答えた。
――それでは、今晩はお酒を飲みましょう。」
――いいですね。」
私は彼の唐突な言葉に些か驚いたが、彼と一晩酒をのんでいろいろ語り合うことはもとより願うところであった。
私共はそれから、程近い郊外にある私の心やすい小いさな酒場へ行った。雨が降っているし、学生は大方試験最中だし、酒場は静かであった。
私共は、可愛い男刈りの頭をした女の子に、我々がえくぼウイスキイと呼んでいる先ず上等の種類のウイスキイを誂えて飲んだ。
――あしたも雨でしょうか?」と私が云えば、
――怪しいもんですね。」とミハエルは答えた
――博覧会もあと一週間きりですが、運が悪いとこれっきり晴れずにしまうかも知れませんな。」
――ああ!」ミハエルは、何杯目かのグラスを一気に飲み干して、大きな溜息を吐いた。
――で、結局あなたの地上の宝とやらは見つからないのですか?」と私は切り出した。
するとミハエルの眼に、急に大きな泪が溢れて、それが白い滑かな頬を伝って、茫々たる髯の中へ流れ込んだ。
――酔っぱらいましたね。」と私は笑った。
――酔っぱらいました、そこで私は私の地上の宝について、いよいよあなたにお話して差し上げようと思うのです。」と彼は云った。
――有難う。もう一杯おあがりなさい。」
私は彼のグラスへ新しくウイスキイを注がせた。
――これは恋の話です。」と彼は云った。「地上の宝とは、それこそ天地に掛け更えもない、私のたった一人の恋人なのです。」
――恋物語だったのですか――なんとねえ!」と私は少からず面喰った。
――神様の啓示です。聞いて下さい。……もう殆ど三月も前のことですが、故国から訪ねて来た友達を案内して、瀬戸内海の方へ見物旅行に出かけるつもりだったので、M百貨店へ行って買物をして序に双眼鏡を一つ買いました。そして、その買いたての双眼鏡をもって、私はM百貨店の屋上から初覗きに東京中の景色を眺めまわしてみました。晴れた日の午さがりで、大きな貨物船の沢山浮かんだ碧い品川の海や、数え切れない程の煙突や、とたん屋根や、洗濯物が一っぱいかかっている物干しや、いろんなものが見えました。上野の山の青空に風船が浮かんで、その下に散りかけた桜の花が煤けた古綿のように汚ならしく見えました。それから、その次にレンズを動かしたはずみに、大ぜいの市井の人々の姿が映りました、その中に、ふと私は非常に綺麗な娘さんの顔を見つけました。純然たる日本の髪を結った少女で、東洋的美しさの典型とも云いたい、仏さまのような優しい清らかな顔でした。私は一眼見てはげしく心を打たれてしまいました。たとえようもない無二無三な恋慕の情がするどく胸をかきむしりました。私は幾度もピントを合せ直しました、併し、あまり焦立ったために、却って最初の正しい焦点をなくして一層うろたえている中に、情ないことにも、彼女の姿はやがて行き交う人々の蔭へかくれてしまいました。そして、どんなに追求しても無駄でした。私はあらゆる努力を払って彼女をもう一度探し出そうと固く決心しました。それで瀬戸内海行も中止してその日以来、縁あるものならば永い間には再び会えぬ筈はないと信じて、M百貨店の屋根で、その日と同じ刻限には必ず見張りに立つことにしたのです。が、考えて見れば、彼女の姿の見えたところが上野の方向に当っていたことだけは確なのだから、これは博覧会の風船の方がずっと有利であると覚って、早速計画を変更して軽気球へ乗りました。けれども一月経っても、二月経っても、私の果敢ない恋が何の報いられるところもなかったことは御存知の通りです。博覧会はいよいよおしまいになります。今更M百貨店の屋上へもどる勇気も失せてしまいました。私の恋としたことがたとえばシベリアの大森林の中へ落下してそのまま落葉の底深く永遠に埋もれてしまった隕石の運命の如くに、よくよく不仕合せなものかも知れません。」
西洋人はすすり泣きに泣いた。
――それは、それは……」とそう云って私もつい悲しくなった。
私はよろめきながら周章てて立ち上って女の子を呼んだ。
――おけいちゃん、おけいちゃん! えくぼウイスキイのお代りじや!」
6
博覧会の閉会の日は、珍しく日本晴のお天気であった。晴れさえすれば、もう真夏の紺青の空が目にしみて輝き渡るのである。
軽気球も千秋楽ではあるし、久し振りで、だんだら染の伊達な姿を景気よく天へ浮かべた。
私と西洋人とは軽気球の上で握手した。
――もうすっかり諦めてはいたのですが、一番最後の日になって、こんなに滅法すばらしく晴れ渡ったのを見ると、私はどうも今日こそはひどく奇蹟的な幸運に恵まれそうな気持を感じました。」
西洋人はサックから双眼鏡を取り出しながら、そう去った。
――若し、本当にそうだったら、私だってどんなにか嬉しいでしょう!」と私は答えた。
西洋人は平常の倍も亢奮して、双眼鏡を覗いた。
ところが! 到頭その奇蹟がはじまったのである。
――おお! いました、いました!」と西洋人は突如叫んだ。「あすこに見える。正しく彼女だ! 髪や着物迄何一つ異いはしない。今度こそ見逃すものか!」
私も遉にギクリとした。
――いましたか⁈ ほんとうですか? 何処にいました?」
ミハエルは感動のあまり、我を忘れて籠から半ば体を乗り出した。私はおどろいて、それを抱き止めた。
――おお、地上の宝よ! 私の生命よ!」ミハエルは叫ぶのである。
――どれどれ! 何処にいるのですか? 私にも見せて下さい。」と私は云った。
ミハエルは漸く私に双眼鏡を手渡しながら早口に説明した。
――すぐ下です。博覧会の真中です。大きな赤い旗と緑色の天幕との間にある象の形をした建物の前です。印袢天を着た男達の中にたった一人まじっている女がそうです。……わかりましたか?」
私は彼の云うが儘に焦点を定めた。すると果して一人の美しい女の顔を発見することが出来た。だが、よくよく見るならば、ああ! 私はそこで危く双眼鏡を取り落とすところであった。
何故と云って――私の見出したところのその美しいミハエルの恋人たるや、何と今しも印袢天を着た会場整理の人足共に依って擔ぎ出された、何処か呉服屋でも出品したらしい飾り付け人形であったではないか! | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002573",
"作品名": "風船美人",
"作品名読み": "ふうせんびじん",
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"分類番号": "NDC 913",
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"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-16T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名読み": "おん",
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"没年月日": "1930-02-10",
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オング君は戦争から帰って、久し振りで街を歩きました。軒並のハイカラな飾窓の硝子に、日やけして鳶色に光っている顔をうつしてみました。高価なネクタイだのチェッコスロバキヤの硝子細工だのを売る店の様子は戦争に行く前とちっとも変っていませんでした。
「ちょいと、ちょいとってば!」
顔に黄色い粉をはたきつけた派手な様子の娘が、オング君をうしろから呼びとめました。
「おや、ハルちゃんじゃないか。これはよいところで!」オング君は嬉しくなって、そう云いました。
「どうしたの?」と娘は訊きました。
「どうしたのって」――オング君はそこで娘の身なりをよく見ました。「君、いま、ホノルル・カフェにはいないのかい? 僕の手紙見てくれなかったのかい?」
「うん、見た。けれど、ホノルルは夙の昔に辞職しちゃった。知らないのかい?」と娘は云うのです。
「知るもんかさ」
「いやだなあ、ほら、そこのエハガキ屋をごらんなさい。あたしの写真が一っぱい飾ってあるぜ」
「なんだ。キネマの女優になったのか」
「うん。知らないなんて、じゃ、やっぱり戦争に行ってたのは本当だったのね」
娘は大袈裟に首をふって、感心したような溜息を吐きました。
「本当とも。だから、戦地で態々写真まで撮して送ってやったじゃないか。それに、こんなに真黒になっちゃった」オング君は、まともに娘の鼻さきへ顔をつきつけながら、そう云って笑いました。
オング君と娘とは、それから何とか云う喫茶店でコーヒーを飲んで腰を据えました。
「活動女優って面白いかい?」とオング君はききました。
「だめさ。お金がないんだもの」と娘は答えました。
「だって、なかなか豪勢なきもの着てるじゃないか」
「盗んだも同然だよ。毎日いろんな奴を欺してばかりいるんだからね。いいきものを着てない女優なんてありっこないの」
「なぜ、スターに月給どっさり出さないのかね。まさか、みんなそう云うわけでもないだろう?」
「お金なんか沢山出さなくたって、女優はめいめいで稼ぐからいいと、会社じゃそう思っているんだもの、お話にならない」
「馬鹿だなあ」
「役者が、馬鹿なのよ」
「じゃあ、なんだって、そんな馬鹿なものになったんだい?」
「それぁ、仕方がないわ。それじゃ、あんたは、また何だって戦になんか行ったの?」
「おとなりのマメリューク・スルタンの国でパルチザン共がストライキを起こして暴れるので鎮めに行ったのさ」
「よけいなことじゃなくって?」
「そんなこと云うと叱られるよ。パルチザンは山賊も同然だから、もしあんまり増長してそのストライキが蔓延でもしようものなら、あの近所にはセシル・ロードだの山上権左衛門なんて世界中の金満家の会社や山などがあるし、飛んだ迷惑を受けないとも限らぬと云うので、征伐する必要があったんだ」
「金満家が迷惑すれば、あんた方まで戦に行かなければならないの?」
「知らないよ。大将か提督かに聞いておくれ」
オング君が、そう鰾膠もなく云って、お菓子を喰べてコーヒーを飲むのを、娘は少しばかり慍ったような顔で眺めていましたが、やがて、ふと思いついたように、反りかえった鼻のさきに皺を寄せて薄笑いを浮かべました。
「あんたグレンブルク原作と称する『時は過ぎ行く』見た? カラコラム映画――そんなのあるかな」
「いや、兵隊は活動写真なぞ見ている暇はない。それが、どうかしたのかい?」
「ううん、ただその活動はね、お客へ向って戦争へ行け行けって、やたらに進軍ラッパを吹いたり太鼓鳴らしたりしているの。そしてね、戦場ってものは、みんなが考えてるような悲惨な苦しいものではなくて、案外平和で楽でしかも時々は小唄まじりのローマンスだってあると云うことを説明しているの」
「はてね?」
「それでね、その癖、何のために戦争をするんだか、正義のためにとは云うんだけど、何が正義なんだかちっとも判らないし、第一敵が何処の国やら皆目見当がつかないんだから嫌になっちゃうんだよ」
「そいつは、愉快だね。僕だって、今度の戦争ならば全くそうに違いないと思ったぜ」
「そう。そう云えば、あんたから送って来た戦地のスナップショット、どれもこれも、とてもお天気がいいね。それに塹壕の中には柔かそうな草が生えているし、原っぱはまるで芝生のように平かだし、砲煙弾雨だって全く芝焼位しかないし、あたい兵隊が敵に鉄砲向けているところ、ちょっと見たら、中学生の昼寝じゃないかと思ったわ」
「敵の軍勢がいないんだよ」
「敵がいない戦争なんてあって?」
「本当は、兵隊どもは自分たちの敵を見つけることが出来ないのだとも云える。もっとも、たった一度、我軍のタンクを草むらの中から覗っている野砲があったので、一人の勇士がタンクを乗り捨てて手擲弾でその野砲を退治してみたところが、それもやっぱり敵ではなくて我々と同じようなヘルメットをかぶった味方の兵士だった。それでね、大騒ぎになって、いろいろ調べてみると、莫迦げた話じゃないか、それは何でもトルキスタンあたりの或る活動会社が金儲けのために仕組んだ芝居だったのだ」
「カラコラム映画会社に違いないわ」
「そうかも知れない。つまり、そうすると我々神聖義勇軍たるものは最初から、他人のストライキつぶしと、そんな映画会社の金儲けのために、だしに使われていたのも同然なんだ。キャメラは始終草の茂った塹壕の中や、人の逃げてしまった民家の戸口の蔭なぞにかくれて、我々の行動を撮影していたらしい。そして、時々そんな思い切った出鱈目な芝居をしては『敵兵の暴虐』とか何とかタイトルをつけて、しこたま興行価値を上げようとたくらんだんだ」
「つまんねえなあ」と、そこで娘は口を尖らすと、紅棒を出してその唇を染めながら、ハンドバッグの鏡を横目で睨みました。
「戦争が世界の流行だから、そう云うことになるんだ」オング君も肩をすぼめて見せました。「みんなみんな金さえ儲ければいいんだよ。悪い世の中じゃないか。……その紅、何てんだい?」
「ブルジュワ・ルージュ。あら、洒落じゃないのよ。本当にそう書いてあるんだもの……それで可哀想に、あんたみたいな、お母さん子までが、そんなに真黒になって、戦に行くなんて、堪らないね」
「義勇軍だから、僕は自ら進んで行ったんだ。ひどい迷信さ」
「あたい、『ビッグ・パレード』だの『ウイングス』で随分教養のある青年達が、ただ兵士募集の触れ太鼓を聞いただけで、理由もわからず暗雲に感動して出征するのを見て、男って野蛮人だなあと思って呆れかえっちゃった」
「それで大入満員だから困る。世界中の一番兵隊に行きそうな何百何千万と云う見物を煽動したり、金を儲けたりするのは、その大勢の見物を陥穽にかけた上、膏血を絞りとるもので、最も不埒な悪徳と云うべきだ」
「活動写真は何よりも容易くて人気のある見せ物だから、活動を見る程の人の大部分は一等戦争やなんかに係りがあるわけだわね」
「うん、だから、そうなると最早や、芸術的価値なぞは問題ではなくて、その製作者こそ本当に見物の敵に他ならなくなるのだ」
「あたし、よく判らないけど、とにかく戦争だけを売物にする映画なんて、その根性が考えられないわ、それだのに、あとからあとから、幾つでも戦争映画ばかりが世の中に出て来るんだもの、そして、到頭、カラコラム映画なんかまでが、真似して『時勢は移る』とか何とかベカベカな偽物をこしらえるんだから助らねえな」
「『時世は移る』と云う自然の道理が解らないのだよ。地球がどんなに規則正しく、決してスピードなんかかけやしないけど、きつきつとして廻っているか、本当に気がついていないのだね」
(一九二八年七月号) | 底本:「「探偵趣味」傑作選 幻の探偵雑誌2」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
2000(平成12)年4月20日初版1刷発行
初出:「探偵趣味」
1928(昭和3)年7月号
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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たのしい春の日であった。
花ざかりなるその広い原っぱの真中にカアキ色の新しい軍服を着た一人の兵隊が、朱い毛布を敷いて大の字のように寝ていた。
兵隊は花の香にむせび乍ら口笛を吹いた。
何という素晴しい日曜日を兵隊は見つけたものであろう!――兵隊は街へ活動写真を見に行く小遣銭を持っていなかったので、為方がなく初めてこの原っぱへ来てみたのだった。
兵隊は人生の喜びのありかがやっと判ったような気がした。
兵隊はふと病気にかかっているのではないかと思った。
兵隊の額の上にはホリゾントの青空の如く青々と物静かな大空があった。
兵隊は何時しか口笛を忘れて、うつとりとあの青空に見惚れた。
兵隊は青空の水々しい横っ腹へ、いっぱつ鉄砲を射ち込んでやりたい情欲に似た欲望を感じたのだ。ああ一体それはどういうことなのだ?
兵隊は連隊きっての射撃の名手であった。
兵隊は鉄砲をとりあげると、あおむけに寝たまま額の真上の空にねらいをつけてズドンと射ち放した。
すると弾丸は高く高くはるかなる天の深みへ消えて行った。
兵隊はやはり寝たまま鉄砲をすてて、そして手近な花を摘んで胸に抱いた。それからさて兵隊はスヤスヤと眠った。
何分か経つと、果して兵隊のすぐれた射撃によって射ち上げられた弾丸は、少しの抛物線をも画く事なしに、天から落下して来て兵隊の額の真中をうち貫いた。それで花を抱いて眠っていた兵隊は死んでしまった。
シャアロック・ホルムズが眼鏡をかけて兵隊の死因をしらべに来たのだが、この十九世紀の古風な探偵のもつ観察と推理とは、兵隊の心に宿っていたところの最も近代的なる一つの要素を検出し得べくもなかったので、探偵は頭をかいて当惑したと云う。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「探偵趣味」
1927(昭和2)年1月号
入力:もりみつじゅんじ
校正:田尻幹二
1999年1月27日公開
2003年10月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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H――氏と云って、青年の間に評判の高いロマンティストと懇意を得たことがあった。
H――氏は、散歩に出る時の外は、何もしないで、下宿の好ましい調度で品よく飾った部屋に寝ころんでいることが多かった。少からぬ親の遺産が預金してあるという噂であった。
初対面の時、私は自分も予々優美なロマンティストの生活を望んでいた旨を告げた。
『これは生え抜きのものです――』とH――氏は、私のギャラントリイを咎めるように云った。『ダーインにしても、マルクスにしても、アインシュタインにしても、偉いロマンティスト程、択ばれた素質を具えていました。あなたの身体組織の中にロマンティストとしての生まれ付きが含まれていると思いますか?』
私は赧くなった。
『いいえ、僕の頭は、足と少しも変りがない程俗物です。僕は、それだから、ただ表面だけのことで、他人からロマンティストとして見て貰えるような、或る種の作法とでも云ったようなものを学びたいのですが……』
『ははあ! なる程。併し、何をお教えしたらいいのでしょう。名刺をこしらえて、名前の肩にロマンティストとゴジックで刷り込む案は如何です?』
『他に、お心づきのことはないでしょうか?』
『一向に! 思うに、ロマンティストは速成教師として最も不向きなのでしょう。』
僕は断念することが出来なかった。
『万事あなたの真似をすることを許して頂けないでしょうか?』
『やって御覧なさい。僕もそうしている中に、何か心づく点があるでしょうし、出来るだけ相談に乗って差し上げます。――兎に角、ロマンティストの精神から、信義と友愛とを失うわけには行きませんからね。』
それから、H――氏が私の生活の主人となった。
H――氏は、書架も書籍も持っていなかったが、私はロマンティストの思想について概念的な知識を得たいと考えたので、何か適当な参考書はないものかとH――氏に質ねると、H――氏は皮肉な調子で答えた。
『テイークの「蒼海万里の夢」だのユイスマンスの「さかさ物語」だのアイヒベルクの「学生ロマンティスト」だのゲーテの「ウェルテルの悲嘆」だのを読みたいのですか? お止しなさい。文学青年じみているのは、ロマンティストとしてこの上なく恥しいことです。……そんな風な本なら、僕は二万冊位名を挙げることが出来ますが、読書のために、読書するには、ポドレイアン図書館の蔵書の数程読まなければ甲斐がありません。併し、一冊も本を読まずにいることだって、可なりロマンティストらしいと云えるのです。』
そうして、H――氏は、私にハンス・アンデルセンの「王様の話」の類と、小学生用の自然科学の全集と、何処かの巫女が書いた「手相判断」の本などをすすめてくれた。
H――氏はボヘミヤの侯爵のような工合に鳥の羽根をさした青羅紗の帽子をかぶって、散歩に出た。
服装に依る方法は最も効果的である。カーキ色の軍服を着て、軍歌を高唱して歩けば、リイプクネヒトだって、忠勇な兵隊と見えたに違いない。私も早速青羅紗の帽子を買って来て、羽根を飾って、散歩をこころみた。すると、果して、行き交う人の殆んど全部が、私の帽子に目をひかれて、私を振り返って見てくれた。私はほくほく者で、幾度も同じ通りを胸をそらして闊歩した。
ところが、或る晩私は一人で散歩している時にその帽子のお蔭で不良少年につかまった。薄暗い煉瓦の建物のある街角に立っていた肩のいかつい蒼白い顔をした青年が、私の腕を素早くとらえた。そして『ちょっと顔を借してくれ』と云って、私を無理矢理に建物の蔭へ連れ込むと、そこの暗がりに待っていた二三人の仲間と共に私を囲んで、金銭を強請した。私は拒絶した。すると、『生意気な野郎だ。へんてこれんなシャッポなんか被りやがって、大きな面するねい!』と云うが早いか、メリケンサックを嵌めた手が、したたか私の顔面を殴った。私は忽ち、石道の上に昏倒し、青い帽子と共に彼等の土足に踏みにじられてしまったのである。
『君は、屹度お洒落の若い衆のように身綺麗にし過ぎていたので、青い帽子迄が、女を誑すための嗜みのように思われたのですね。』とH――氏が云った。そして、ロマンティストは、何時もすべっこく髭を剃り立ての頤を光らせていたり、伊達色の当世風に身についた新調の衣服を着たり、香水の匂いをさせたりしないことや、また道を歩きながら余り明けっぴろげに娘たちばかりを眺めたりしてはならないことを教えてくれた。
『爪垢を少しためて。――だが、汚穢しくなってはいけない。隔日位に、お湯に入って皮膚を清潔な健康色に磨くのがよろしいでしょう。』そんな注意もした。
私は段々ロマンティストの様子に慣れて来た。適度の無精髭を蓄えて、ゆったりとした厚地の服に、洗濯の行き届いた縞シャツを着て、始終ネクタイをゆるく横っちょに滑らかし加減にして、百姓持ちの様な大きな煙管を銜えることにした。そして、外出の時には、ステッキの代りに、どんなお天気の日でも木綿の雨傘を携帯する位の技巧を会得した。勿論、もう不良少年たちから付けねらわれる憂はなくなった。
さて、私はH――氏に誘われて、時々バンフィリヤ酒場へ行った。其処には、「星の花」とH――氏が讃えた美しい女給がいたが、彼女は次第にH――氏よりも新しい私の方に心を惹かれるらしい素振りを見せた。勿論、H――氏のロマンティスト的厚意から、私自身の真価に分をつけるために、私がその都度勘定を支払ったせいもあったのであろう。私が七度目にそこで酔っぱらった機会に、「星の花」は私を物蔭へ招いてこう云った。
『明日、お休みなの。遊びに連れてって下さらない?――』
『僕がですか? しめしめ!』
『え、あんた一人。夕方の六時に、表停車場でお待ちしているわ。その代り、その時、指輪を一つ買って来て下さらなくては厭。』
『それだけ、埋め合わせがあると云う寸法ですね、値段に応じて。』
『だけど、高くないので結構。』彼女は指輪の形や石について好みを述べた。
『僕、約束します。』
『約束のしるし!……』
ロマンティストに栄えあれ! 私は、この果報に感激した。そして、三鞭酒を矢鱈に抜かせた。
私の有頂天になりようが、あまり激しかったせいか、H――は少からず機嫌を害ねたらしかった。戻り途で、私が唄を歌いはじめると、H――氏は苦々しい顔をして、『どんなに楽しいことがあったにせよ、あまり泥酔して時花唄などを歌って歩くのは、我々に全く似合わしくないこととは考えませんか?――』とたしなめた。
それで私は、折角打ち明けて聞いて貰おうと思っていたところだったが、「星の花」について何も云い出せずにしまった。
翌日、私は早くからH――氏の部屋を訪れて、ロマンティストは、一体どんな指環を恋人のために択ぶべきかを質いた。
『君に恋人があるんですか?――』
『指環が万事物を云うのです。』
『せいぜい立派なのを買ってお上げなさい。』
『蛋白石と云うのですが、僕には宝石の鑑定などは少しも出来ないのでしてね。』
『造作もない話です。一緒に行こうではありませんか。そんな贈物はロマンティストとして是非とも細心を要することです。』
H――氏は非常に乗り気になって、直ぐ宝石屋迄一緒に行ってくれた。そうして、殆ど自分独り決めに、恰もH――氏の贈物ででもあるかの如き熱心さで、いろいろと吟味した末、一番値の張った奴を択び出した。
『これを買ってお上げなさい。値段は――持っていますか?』
H――氏は正札と見比べるように、私の財布の中味を覗き込んだ。
『恰度。すっかりハタかなければなりません――もう少し廉いのではいけないでしょうか?』
『困るなあ。――』H――氏は横を向いて眉をひそめた。
『金銭に淡白になれないロマンティストなんて、鼻もちになったものではない…』そこで、私は到頭この高価な買物を余儀なくさせられた。宝石屋の店を出ると、うなだれがちな私を引き立てるように、晴々とした調子で彼は云った。
『何にしても、これなら先方だって充分嬉しがるに違いない。幸福な婦人だ。ところで、その淑女は、僕などの無論知らない人でしょうな。』
『いや……』私は口ごもった。『いや、実はあの「星の花」と今晩一緒に遊びに行く約束をしたのです。』
するとH――氏は、ひどく吃驚した様子で立ち止まった。
『これはしたり! いやはや、そんなことと知っていたなら、僕は何もこんなお人好しの役目を仰せつかるのではなかった。あの女は実に怪しからぬ奴です……』
H――氏は激昂のあまり息を切らせながら云うのであった。『正直なことを白状すれば、あの女は僕と夙に夫婦約束がしてあるのです。そして、しかも、僕にも指輪を一つ買わせました。これとすっかり同じ指輪なのです。あの女は十月生まれですから、蛋白石を欲しがるのですよ。ああ、何と云う咀われたことでしょう。』
『大丈夫です。』と僕は云い切った。『僕にとって、女よりもロマンティストの信義と友愛の方が遙かに値打のあるものです……この指輪は、溝へたたき込んでしまいましょうか? それとも、店へ返して、その金で思い切り飲みましょうか?』
H――氏は煙管の煙にむせ返りながら泪ぐんて頷いた。
『有難う。――だが、ちょっと待って下さい。僕は、これから行って、その指輪を彼奴の顔へ敲きつけてやりたいのです。』
『併し、ロマンティストとして、それはあまり……』
『いやいや、僕は生え抜きのロマンティストですから。』
『ごもっとも、では、そう云うことになさるのもよろしいでしょう。』
H――氏は、私から指輪を受け取ると、「星の花」を詰問に出かけたが、どうしたものか、それっきり翌日迄戻らなかった。
次の日、私がH――氏の部屋を訪れた時、H――氏は机の上で手提金庫を開いて、幾十枚かの手の切れそうな紙幣を数えていたが、私の顔を見ると急いで蓋を閉めた。そして、非常に機嫌のいい声でこう云うのであった。
『――昨日は、どうも飛んだ思い違いだったのですよ。「星の花」に事情を質してみたところが、彼女は僕から先に買って貰った命よりも大切な指環を烏渡した不注意から失してしまって、可哀相に自殺しようとまで思いつめたんだそうです。併し、恰度、そこに君と云うロマンティストが近寄って来たので――彼女は女に似合わず、非常に良くロマンティストを理解しているのです――つまり、君の厭味のない親切を信じて、つい頼る気になったのですね。それで……』
『ロマンティストの友情にかけて――』と私は、おそるおそる切り出した。『私は、ロマンティストの生活を長く暮しすぎたために破産してしまいました。もう今日のお米がありません。夜逃げの旅費をほんの少し貸して下さい。』
『お金⁈――』H――氏は金庫の蓋に手を置いたまま愁しげに首を振った。『一文もないのですよ。この金庫に入っているのは、みんな贋造紙幣です。いいえ、全く偽せ物に違いないのです。ロマンティストは、金の工面に奔走したり、友情を強要したりすることよりも、自分一人で牢屋に入った方が、ずっとロマンティックだと思いますからね。そうではありませんか。……』
そこで、私は、身体組織に変化を生じない限り、ロマンティストとしてあらゆる努力が空しいことを知った。 | 底本:「アンドロギュノスの裔」薔薇十字社
1970(昭和45)年9月1日初版発行
初出:「新青年」博文館
1929(昭和4)年11月
※底本副題の「Iabor」を「labor」にあらためました。
入力:森下祐行
校正:もりみつじゅんじ、土屋隆
2008年10月22日作成
2012年3月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004487",
"作品名": "浪漫趣味者として",
"作品名読み": "ロマンしゅみしゃとして",
"ソート用読み": "ろまんしゆみしやとして",
"副題": "―― Ibi omnis effusus labor ! ――",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1929(昭和4)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-16T00:00:00",
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"姓": "渡辺",
"名": "温",
"姓読み": "わたなべ",
"名読み": "おん",
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"名読みソート用": "おん",
"姓ローマ字": "Watanabe",
"名ローマ字": "On",
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"生年月日": "1902-08-26",
"没年月日": "1930-02-10",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "アンドロギュノスの裔",
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"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年9月1日",
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目的
利根の水源を確定し、越後及ひ岩代と上野の国境を定むるを主たる目的となせども、傍ら地質の如何を調査し、将来開拓すべき原野なきや否、良山林ありや否、従来藤原村三十六万町歩即凡そ十三里四方ありと号する者果して真なりや否、動植物及び鉱物の新奇なるものありや否等を究るに在り、又藤原村民の言に曰く、従来此深山に分け入りて人命を失ひしもの既に十余名、到底深入することを得ず古より山中に恐ろしき鬼婆ありて人を殺して之を食ふ、然らざるも人一たひ歩を此深山に入るれは、山霊の祟にやあらん忽ち暴風雨を起して進むを得ざらしむ、唯口碑の伝ふる所に拠れは、百二十年以前に於て利根水源たる文珠菩薩の乳頭より混々として出で来り、其傍に光輝燦爛たるものあるを見しものありと、此等の迷霧を霽さしめんとの志は一行の胸中に勃然たり、此挙や数年前より県庁内に於て行はんとの議ありしも常に其機を得ず、然るに今や之を决行する事とはなりぬ。一行の姓名は左の如し
技師 小西文之進
県属第二課地理掛 森下鑛吉
同 深井仙八
△利根郡長 櫻井小太郎
利根郡書記 遠藤正太郎
沼田尋常高等小学校長
石田勝太郎
△沼田警察署長 吉田忠棟
△沼田巡査部長 坂本武雄
同 巡査 鹽原甚藏
沼田収税署長 榎本嘉助
沼田小林区署長 土屋榮太郎
同森林監守 長松榮之進
△同 高野峯之進
利根郡水上村長 木村政治郎
同 前村長 大塚直吉
△同大字藤原村区長
中島甚五左衞門
及余を合せて総計十七名、中途帰りし者を除けば十二名とす、右の三角印は中途帰りしものとす、此他人夫十九名同道者三人、合計三十九名とす、但し人夫中四人及道者三人は中途に帰りたるを以て、探検の目的を達せし人員は合計二十七名となす。
因に云ふ、右一行中小西技師は躰量二十三貫の大躯なれ共常に県下巡回の為め山野の跋渉に慣れ、余の如きは本と山間の産にして加ふるに博物採集の為め深山幽谷を跋渉するの経験に積み、森下深井両君の如きは地理掛として最も其道に専門の人と云ふべきなり、林区署の諸君亦然り、大塚君は前年名佐技師に従ふて利根山間を探りし経験あり、長髯口辺を被ひ背に熊皮を横たへ、意気の凛然たる一行中尤著るし、木村君は初め一行に向つて大言放語、利根の険難人力の及ぶ所に非ざるを談じ、一行の元気を沮喪せしめんとしたる人なれ共、本と水上村の産にして体脚強健、棒押しに於ては村内の人民敢て之に勝つものなしと云ふ、一夕小西君と棒押しを試みしも到底其対手に非ざるなり、此他の諸君も皆健脚の人のみ、人夫中にては中島善作なるものは猟の為め常に雪を踏んで深山に分け入るもの、主として一行の教導をなす、一行方向に迷ふことあれば直ちに巧みに高樹の頂に上りて遠望し、前途を見究めて後ち進行せしむ、善作一たび方向を定めて進む時は、其誤らざる事磁石に拠るよりも勝れりと云ふべし、真に一行中屈竟の好漢たり、中島鹿吉なるものは躯幹偉大、背に三斗の米を負ふて難路を歩むも、常に平然たること恰も空手坦途を歩むが如し、真に一行中の大力者なり、林喜作なるもの少しく病身なりしも魚を釣るに巧みなり、皆各其人を得たりと云つべし、殊に人夫は皆藤原村及小日向村中血気旺盛の者にして、予等一行と辛苦を共にし、古来未曾有の発見をなさんと欲するの念慮ある者のみを選びたるなり、実に一行が首尾克く探検の目的を達するを得たるは、忠実勇壮なる人夫の力大に与つて力ありとす。
九月十九日
此日一行は沼田より湯檜會に着し、夜大に会議を開きて進路を議す、議二派に分る、一は国境論にして一は水源論なり、国境論とは上越の国界なる清水越より山脈の頂上を常に進行せんとするものにして、遂に頂上より水源を認めなば水流を逐ふて漸次下らんとするなり、水源論とは初めより水流を溯りて水源に至り、山の頂上に出で其後国境とする所を踏みて帰らんとするを云ふなり、二派各其困難の度を比較して利害得失を述べ、甲論乙駁容易に决せず、数時間を経て遂に水源論多数を占め之れに一决す、其議論の激しき遂に小西技師をして、国境論者は別隊を率ゐて別に探検すべしとの語を発せしむるに至たる程なりき、若糧食の備へ充分にして廿日以上の日子を費すの覚悟なりせば、右両説の孰れを取るも同じと雖も、奈何せん十日間の食糧を以て探検の目的を果さんとの心算なれば、途中如何なる故障の起るありて一行餓死の憂あるやも計られず、為に早く人家ある所に出るの方針を執らざるべからざるを以て、斯く議論の沸騰したるなり。
食糧は米一石餅三斗、之れ十七人の分にして皆人夫をして負はしむ、人夫は此他に各自の食糧を各準備したり、其他草鞋二百足、馬桐油三枚、鰹節数十本及釜、鍋、味噌、醤油、食塩等を用意したり、又護身の用として余は三尺の秋水を横たへ、小西、森下、深井、石田の四君は各「ピストル」を携帯し、人夫は猟銃二挺を準備したり。
九月廿日
昨夜来頻りに降り来る雨は朝に至りて未だ霽れず、遥かに利根山奥を望むに雲烟濛々前途漠焉たり、藤原村民の言の如く山霊果して一行の探検を拒むかと想はしむ、或るものは雨霽れて後ち出立すべしと言ひしも、予等の予定は最初より風雨に暴露せらるる十日間に渉るも敢て厭はざるの决心なるを以て、断然雨を冒して進行することとはなれり、然るに図らざりき、藤原村に進むに従つて雨漸次に霽れ来り、全く晴朗となる、蓋し天我一行を歓迎するの意乎、探検一行無事の吉兆既に此の発程に臨みて現はれたり、衆皆踊躍して藤原村を過ぎ、須原峠を越え湯の小屋に至り泊す、温泉塲一ヶ所あり、其宿の主人は夫婦共に偶他業して在らず、唯浴客数人あるのみ、浴客一行の為めに米を炊ぎ汁を煮且つ寝衣をも貸与す、其質朴愛するに堪へたり、余炉辺に坐し一客に問ふて曰く、是より山奥に至らば栗樹ありや否、余等一行若し探検の中途にして飢餓に陥ることあらん乎、栗等の果実に拠りて餓死を免れんとすと、客答へて曰く、栗樹は人家近き所に在るのみ、是より深山に入らば一樹をも見る能はざるべしと、余又栗を食する能はざるを嘆じ、炉辺に栗を炙り石田君も共に大に之を食ふ宿は、利根の支流たる湯の小屋河に臨み、河を下る事二町にし玄道、大龍、小龍の三大瀑布ありて実に壮観を極む、衆相顧みて曰く、這回の探検たる此等の如き険所数多を経過せざるべからざるかと、一行皆な勇を皷して壮快と叫ぶ。
夜に入れば当宿の主人帰り来る、主人は当地の深山跋渉に経験ありとの故を以て、呼んで一行と共にせんことを談ず、主人答へて曰く、水源を溯源して利根岳に登り、之より国境を通過して清水越に至らんには、少くとも十数日の日子を要し、又利根岳より尾瀬沼即ち岩代と上野の国境に出でんにも亦十余日を要すべし、一行が準備せらるる十日間の食糧到底其目的を達せず、殊に五升許の米を負ふを命ぜられて此深山険崖を攀躋する如きは、拙者の堪へ能はざる所なりと、断じて随行を拒む、衆相顧みて愕然たり、余の如きは胸中大に其無礼を憤懣す、然れ共之れ例の放言大語、容易に信ずべからざるを知る、何となれば元と藤原地方の人民は皆常に這般の言語を吐き、深山に分け入るを禁物となす者なればなり、小西君一喝衆を励まして曰く、彼は一杯を傾け来りて酔狂せるものなりと。
九月二十一日
朝須原峠の嶮を登る、偶々行者三人の来るに逢ふ、身には幾日か風雨に晒されて汚れたる白衣を着し、肩には長き珠数を懸垂し、三個の鈴声歩に従ふて響き来る、之れ予等一行に従ふて利根水源たる世人未知の文珠菩薩を拝せんとする為めなり、各蕎麦粉三升を負ふ、之を問へば曰く即ち食糧にして、毎日三合宛之を湯に入れて呑み以て飢を凌ぐを得、敢て一行を煩はすことなけん、謹んで随行の許可を得んことを乞ふと、衆其熱心に感じ喜んで之を許す、内二人は上牧村の者にして他一人は藤原村字窪の者とす、信州御岳参り七回の経験あるを聞き衆皆之を壮とす、此峠を過ぐれば字上ヶ原の大平野あり、広袤凡一万町歩、水あり良草あり以て牧塲となすに適す、今之を不毛に附し去るは遺憾と云ふべし、若し此地に移住し来るものあらんか、湯の小屋の温泉も亦世に顕れて繁栄に趣くや必せり。
進んで大蘆村に至れば櫻井郡長之より帰途に就かる、村を過ぐれば愈いよ無人の境となり、利根河岸の絶壁に横はれる細逕に入る、進むこと凡二里にして道全く尽き、猟夫の通路又見るを得ず、途中大なる蝮蛇の路傍に蜿蜒たるあり、之を逐へば忽ち叢中に隠る、警察署の小使某独り叢中に分け入り、生擒して右手に提げ来る、衆其巧に服す、此に於て河岸に出でて火を焚き蝮の皮を剥ぎ、味噌を塗りて蒲焼を作る。衆争ふて之を食す、探検の勇気此に於て層一層を増し来る、相謂て曰く前途千百の蝮蛇応に皆此の如くなるべしと。
愈利根の水源に沿ふて遡る、顧れば両岸は懸崖絶壁、加ふるに樹木鬱蒼たり、たとひ辛ふじて之を過ぐるを得るも漫りに時日を費すの恐あり、故にたとひ寒冷足を凍らすとも、水流を渉るの勝れるに如かず、され共渉水亦困難にして水中石礫累々之を踏めば滑落せざること殆稀なり、衆皆石間に足を突き入れて歩む、河は山角を沿ふて甚しく蜿蜒屈曲し、所々に少許の磧礫を存するを以て、成るべく磧上を進むの方針を取る、忽ちにして水中忽ちにして磧上、其変化幾回なるを知らず、足水に入る毎に冷気肌を衝て悚然たり、進むこと一里半にして急に暖気を感ず、俯視すれば磧礫間温泉ありて数ヶ所に出づ、衆皆快と呼ぶ、此処は字を湯の花或は清水沢と称し、先年名佐技師が地質調査の為め探検して之より帰られし処とす、衆露宿を此に取る、人夫十数人拮据勉励、大石を除きて磧中を堀り温泉塲二ヶ所を作る、泉石幾年の苔を帯び汚穢甚しきを以て、先づ饅頭笠にて汚水を酌み出し、更に新鮮なる温泉を湛ゆ、温高き為め冷水を調合するに又笠を用ゆ、笠為に傷むもの多し、抑此日や探検の初日にして、長く水流中に在りし冷気と露営の寒気と合せ来るに逢ひ、此好温泉塲を得て初めて蘇生するの想あり、一行の内終夜温泉に浴して眠りし者多し、真に山中の楽園と謂ふべし、露営の塲所亦少しく平坦にして充分足を伸ばして睡眠するを得、且つ水に近く炊煎に便なり、六回の露営中実に此夜を以て上乗となす、前水上村長大塚直吉君口吟して曰く
里遠き利根の河原に宿しめて湯あみしてけり石かきわけて
夜半眼覚め、防寒の為炉中に薪を投ぜんとすれば、月光清輝幽谷中に冴へ渡り、両岸の森中には高調凄音群猿の叫ぶを聞く、俯して水源未知の利根を見れば、水流混々、河幅猶ほ広く水量甚多し、或は岩に触れて澎湃白沫を飛ばし、或は瀾となり沈静深緑を現はす、沼田を発して今日に至り河幅水量共に甚しく减縮せるを覚えず、果して尚幾多の長程と幾多の険所とを有する、况んや明日よりは全く人跡到らざるの地を探るに於てをや、嗚呼予等一行果して何れの時かよく此目的を達するを得べき、想ふて前途の事に到れば感慨胸に迫り、殆んど睡る能はざらしむ、され共東天漸く白く夜光全く去り、清冷の水は俗界の塵を去り黛緑の山は笑を含んて迎ふるを見れば、勇気勃然為めに過去の辛苦を一掃せしむ。
九月二十二日
早朝出立、又昨日の如く水中を溯る、進むこと一里余にして一小板屋荊棘中に立つあり、古くして半ば破壊に傾けり、衆皆不思議に堪へす、余忽ち刀を抜きて席にて作れる扉を切り落し、入り見れば蝉の脱け殻同様人を見ず、され共古びたる箱類許多あり、蓋を開き見れば皆空虚なり、人夫等曰く多分猟師小屋ならんと、図らず天井を仰ぎ見れば蜿蜒として数尺の大蛇横はり、将に我頭を睨む、一小蛇ありて之に負はる、依て直ちに杖を取りて打落し、一撃其脳を砕けば忽ち死す、其妙機恰も死せる蛇を落したるが如くなりし、小なる者は憐れにも之を生かし置けり、其の恩に感ぜしにや以後又蛇を見ざりき、蛇は「山かがし」となす猶進むこと凡そ一里にして三長沢と利根本流との落ち合ひに出づ、時猶十時なりしも餅を炙りて昼食し、議論大に衆中に湧く、一は曰く飽迄従前の如く水中を溯らん、一は曰く山に上り山脈を通過して水源の上に出でん、特に人夫中冬猟の経験ありて雪中此辺に来りしもの、皆曰く是より前途は嶮更に嶮にして幽更に幽、数日の食糧を携へて入るも中途に餓死せんのみ、請ふ今夜此地に露宿し、明朝出立二日間位の食糧を携へて水源探究に赴き、而して再び当地に帰らんのみと、人夫等異口同音堅く此説を取る、遠藤君大塚君等大に人夫等を説き諭せども議遂に長く决せず、吉田警察署長大喝怒りて曰く、余等県知事の命を奉じて水源探究に来れるなり、水流を溯り水源を究めざれば死すとも帰らず、唯冒進の一事あるのみと、独り身を挺んで水流を溯り衆を棄てて又顧みず、余等次で是に従ふ、人夫等之を見て皆曰く、豈坐視して以て徒らに吉田署長以下の死を待たんやと、一行始めて団結し猛然奮進に决す又足を水中に投ずれば水勢益急となり、両岸の岩壁愈嶮となり、之に従つて河幅は頗る縮り、困難の度は実に水量と反比例をなし来る進むこと一里にして両岸の岩壁屏風の如く、河は激して瀑布となり、其下凹みて深淵をなす、衆佇立相盻みて愕然一歩も進むを得ず、是より水上に到らば猶斯の如き所多きや必せり、此に於て往路を取りて帰り、三長沢口に泊し徐計をなすべしと云ひ、或は直ちに此嶮崖を攀ぢて山に上り、山脈を伝ふて水源に至らんと云ひ、相議するや久し、余奮つて曰く、水を逐ふて此嶮所を溯る何かあらん、未だ生命を抛つの危険あるを見ずと、衆敢て余を賛するものなし、余此に於て巳を得ず固く後説を執る、人夫等岩崖を仰で唯眉を顰むるあるのみ、心は即ち帰途に就くにあればなり、此に於て余等数人奮発一番、先づ嶮崖を攀登して其登るを得べき事を示す、人夫等猶肯んぜず、鹽原巡査人夫の荷物を分ち取り自ら之を負ふて登る、他の者亦之に同じくす、人夫等遂に巳を得ず之に従ふ、此に於て相互救護の策を取り、一行三十余名列を正して千仭の崖上匍匐して相登る、山勢殆んど直立、加ふるに突兀たる危岩路に横はるに非れば、佶倔たる石南樹の躰を遮るあり、若し一たび足を誤らんか、一転忽ち深谷に落つるを以て、一行の両眼は常に注ぎて頭上の山頂にあり、敢て往路を俯瞰するものなし、荊棘の中黄蜂の巣窟あり、先鋒誤て之を乱す、後に継ぐもの其襲撃を被ふるも敢て之を避くるの道なし、顔面為に腫れし者多し、相憐んで曰く泣面に蜂とは其れ之を云ふ乎と、午後五時井戸沢山脈中の一峯に上り露宿を取る、高四千五百尺、顧みれば前方の山脈其中腹の凹所に白雪を堆くし、皚々眼を射る、恐らくは万古不融の雪にして混々として利根水量を多からしむるの大原因たるべし、当夜の寒気想ふに堪へたり、宿所を取らんとするも長一丈余の熊笹繁密せるを以て、皆之を押臥し其上に木葉或は席を布きて臥床となす、炉を焚かんとするに枯木殆どなし、立木を伐倒して之を燻ふ、火容易に移らず、寒気と空腹を忍ぶの困難亦甚しと云ふべし、山巓一滴の水を得る能はざるを以て、餅を炙りて之を食ふ、餅は今回の旅行に就ては実に重宝なりき、此日や喜作なるもの遅れて到り、「いわな」魚二十三尾を釣り来る、皆尺余なり、され共喜作は食糧の不足を憂ふるにも拘らず、己が負ふ所の一斗五升の米を棄て来れり、心に其不埒を憤ると雖も、溌剌たる良魚の眼前に在るあるを以て衆唯其風流を笑ふのみ、既に此好下物あり、五罎の「ぶらんでー」は忽ち呼び出さる、二罎忽ち仆る人数多き為め毎人唯一小杯を傾けしのみ、一夜一罎を仆すとすれば残る所は三日分のみなるを以て、巳を得ず愛を割く、慰労の小宴爰に終れば、鹽原君大得意の能弁を以て落語二席を話す、其巧なる人の頤を解き、善く当日の疲労と寒気とを忘れしむ、其中にも常に山間に生活する人夫輩に至りては、都会に出でたるの感を起し、大に愉快の色を現はし、且つ未だ耳にだもせざる「ぶらんでー」の醇良を味ふを得、勇気頓に百倍したり、実に其愉快なる人をして雪点近き山上にありて露宿するなるかを忘れしむ。
興に乗じて横臥すれば、時々笹蝨の躰を刺して眼を覚ますあり、痛痒頗る甚し、之れ笹を臥床となすを以て、之に寄生せる蝨の這ひ来れるなり、夜中吉田署長急に病み、脉搏迅速にして発熱甚し、為めに頭を冷やさんとするも悲いかな水なきを如何せん、鹽原君帯ぶる所の劔を抜きて其顔面に当て、以て多少之を冷すを得たり、朝に至りて少しく快方に向ひ来る。
九月二十三日
朝又餅を炙りて食し、荊棘を開きて山背を登る、昨日来餅のみを喫し未だ一滴の水だも得ざるを以て、一行渇する事実に甚し、梅干を含むと雖も唾液遂に出で来らず、此に於て竹葉上に点々滴れる所の露を甞め、以て漸く渇を慰す、吉田署長病再発し歩むに堪へず、遂に他の三名と共に帰途に就かる、行者参り三人も亦心淋しくやなりけん、名を食糧の不足に託して又衆と分る、明日は天我一行をして文珠岩を発見せしむるあるを知らざるなり、其矇眛なる心中や憐むに堪へたり、残る所の二十七名は之より進むのみにして帰るを得ざるもの、実に血を啜りて决死の誓をなししと云ふて可なり、既にして日漸く高く露亦漸く消へ、渇益渇を加へ、加ふるに石南の蟠屈と黄楊の繁茂とを以てし、難愈難を増す、俯視して水を索めんとすれば、両側断崖絶壁、水流は遥に数百尺の麓に在るのみ、勇を鼓して早く山頂に到らんか、危岩突兀勢将に頭上に落ちんとす、進退維れ谷まり敢て良策を案するものなく、一行叢中に踞坐して又一語なし、余等口を開きて曰く、進むも難く退くも亦難し、難は一なり寧ろ進んで苦まんのみと、綱を卸して岩角を攀登し、千辛万苦遂に井戸沢山脈の頂上に到る、頂上に一小窪あり、涓滴の水集りて流をなす、衆初めて蘇生の想をなし、飯を炊ぐを得たり、且つ図らざりき雲霧漸次に霽れ来り、四面の峻岳皆頭を露はし、昨来渉り来れる利根の水流は蜿蜒として幽谷間に白練を布けり、白練の尽くる所は乃ち大利根岳となり突兀天に朝す、其壮絶殆ど言語に尽すべからず、水源探検の目的亦殆ど爰に終れり。
抑此日や秋季皇霊祭にして満天晴朗、世人は定めて大白を挙げて征清軍の大勝利を祝するならん、余等一行も亦此日水源を確定するを得、帝国万歳の声は深山に響き渡れり、水源の出処既に明なれば、従つて越後と上野の国界とすべき所も定まり、利根山奥の広袤も略ぼ概算するを得たり、此上は上越二国の間に横はれる利根の山脈に攀登し、国界を定めて之を通過し、尾瀬が原を経て戸倉に帰るべしと、議忽ち一决す、之に依て戸倉に至るを得べき日数も予め想像することを得、衆心初めて安んじ、犠牲に供したる生命は辛うじて保つを得べからしめたり、然りと雖も前途嶮益嶮にして、人跡猶未到の地、果して予定に違はざるなきや、之を思へば一喜一憂交々到る、万艱を排して前進し野猪の勇を之れ貴ぶのみと、一行又熊笹の叢中に頭を没して、嶮崖を降り渓流を素めて泊せんとす、日暮れて遂に渓流に至るを得ず、水声近く足下にあれども峻嶮一歩も進むを得ず、嵯乎日の暮るるを二十分計早かりし為め、遂に飯を炊ぐの水を得ず、又餅を炙りて食ふ、餅殆ど尽きて毎人唯二小片あるのみ、到底飢を医するに足らざるを以て、衆談話の勇気もなく、天を仰で直ちに眼を閉づ、其状恰も愁然天に訴ふるに似たり、剰さへ細雨を注ぎ来りしが、甚しきに至らずして己み、為めに少しく休暇することを得たり。
山の斜面に露宿を取りしことなれば少しも平坦の地を得す、為めに横臥する能はず、或は蹲踞するあり或は樹に凭るあり、或は樹株に足を支へて臥するあり、若し一歩を誤らんか深谷中に滑落せんのみ、其危険言ふべからず、恰も四足獣の住所に異らずと云ふべし。
九月廿四日
夜の明くるを待て人夫は鍋と米とを携へ、渓流に下り飯を炊煑して上り来る、一行初めて腹を充たし、勢に乗じて山を降り、三長沢支流を溯る、此河は利根の本源と殆ど長を等くし、同じく大刀根岳より発するものたり、数間毎に必ず瀑布あり、而して両岸を顧みれば一面の岩壁屏風の如くなるを以て如何なる危き瀑布と雖も之を過ぐるの外道なきなり、其危険云ふべからず、瀑布を上り俯視すれば毛髪悚然、脚為めに戦慄す、之を以て衆敢て来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の辛酸と幾多の労苦とを甞めたる為め、此険流を溯るも皆甚労とせず、進程亦従て速なり、恰も四肢を以て匍匐する所の四足獣に化し去りたるの想ひなし、悠然坦途を歩むが如く、行々山水の絶佳を賞し、或は耶馬渓も及ばざるの佳境を過ぎ、或は妙義山も三舎を避くるの険所を踏み、只管写真機械を携へ来らざりしを憾むのみ、愈溯れば愈奇にして山石皆凡ならず、右側の奇峰を超へて俯視すれば、豈図らんや渓間の一丘上文珠菩薩の危坐せるあり、百二十年以前に見たる所の人ありと伝ふ所の文珠岩は即ち之れなり、衆皆拍手喝釆して探検者一行の大発見を喜ぶ直ちに丘下に到りて仰ぎ見れば、丘の高さ百尺余、天然の奇岩兀として其頂上に立ち、一見人工を加へたる文珠菩薩に髣髴せり、傍に一大古松あり、欝として此文珠岩を被へり、丘を攀登して岩下に近づかんとするも嶮崖頗甚し、小西君及余の二人奮発一番衆に先つて上る、他の者次で到る、岩に近づけば菩薩の乳頭と覚しき所に、一穴あり、頭上にも亦穴を開けり、古人の所謂利根水源は文珠菩薩の乳より出づとは、即ち積雪上を踏み来りし際、雪融けて水となり此の乳頭より滴下せるを見たるを云ふなるべし、され共水源を以て此処に在りとなすは非なり、水上村長木村政治郎大に喜んで曰く、以後年々此日を以て発見の紀念となし、村民を集めて文珠菩薩の祭礼を行ひ、併せて此一行をも招待すべし、而して漸次道路を開通し爰に達し、世人をして参詣するを得せしめんと、人夫中の一人喜作なるもの両三日前より屡々病の為めに困み、一行も大に憂慮せしが、文珠岩を発見するや否直ちに再拝して飯一椀、鰹節一本とを捧呈し、祈祷に時を移し了りて忝く其飯を喫す、病漸次に癒へ来り以後常に強健なりき、人夫等皆之を奇とし恐喜措く所を知らざるが如し、昨朝帰途に就きし三人の行者参りをして若し在らしめば、其喜び果して如何なりしか、思へば愚の至りなり、且つ傍に直下数丈の瀑布ありて幅も頗る広し其地の幽にして其景の奇なる、真に好仙境と謂つべし、因に云ふ此文珠岩は皆花崗岩より成りて、雨水の為め斯くは水蝕したるなり、左に面白き二首を録す
万世のまどひ開けつ文珠岩木村君
ももとせも知れぬ仏を見出すは
文珠の智恵に勝る諸人鹽原君
是より一行又河を溯り、日暮れて河岸に露泊す、此日や白樺の樹皮を剥ぎ来りて之を数本の竹上に挿み、火を点ずれば其明宛ながら電気灯の如し、鹽原君其下に在りて、得意の弁を揮ひ落語二席を話す。衆皆労を忘れて臥す。
九月二十五日
未明食事を終りて出立し又水流を溯る、無数の瀑布を経過して五千五百呎の高に至れば水流全く尽き、源泉は岩罅より混々として出で来る、衆呼で曰く涓滴の水だも其四方より相集まるや遂に利根の大河をなすかと、従前の辛苦を追想して感懐已む能はず、各飲むで腹に充たす、之より山を上るを数十間にして又一小流あり、岩穴に入りて終る、衆初めて其伏流なるを知り之を奇とす、山霊果して尚一行を欺くの意乎、将又戯れに利根水源の深奥測るべからざるを装ふの意乎、此日の午後尾瀬が原に到るの途中、亦長凡一里の伏流を発見したり、其奇なる一は一行の疲労を慰するに足り、一は大に学術上の助を与へたり、遂に六千呎の高きに至りて水全く尽き、点々一掬の水となれり、此辺の嶮峻其極度に達し、百仭の崖上僅に一条の笹を恃みて攀ぢし所あり、或は左右両岸の大岩既に足を噛み、前面の危石将に頭上に落ち来らんとする所あり、一行概ね多少の負傷を被らざるはなし。
水源竭きて進行漸やく容易となる、六千四百呎の高に達すれば前日来経過し来れる所、歴々眼眸に入り、利根河の流域に属する藤原村の深山幽谷、丸で地図中の物となり、其山の広袤水の長程、初めて瞭乎たり、眼を転じて北方を俯視すれば、越後の大部岩代の一部脚下に集り、陸地の尽くる所青煙一抹、遠く日本海を眺む、唯憾むらくは佐渡の孤島雲煙を被ふて躰を現はさざりしを、岩代の燧岳、越後の駒が岳、八海山等皆巍然として天に朝し、利根水源たる大刀根岳は之と相拮抗して其高きを争ふ、越後岩代の地方に於ては决して雪を見ざるに、利根源泉の上部に至りては白雲皚々たり、之れ地勢上及気象上の然らしむる所なりと雖ども、利根の深奥なる亦想ひ見るべし、然れ共眼を北方越後に注ぐに一望山脈連亘し其深奥なる又利根に譲らざるなり、之を以て始めて知る、上越の国境不明に属せしは両国の山谷各深くして、人跡未だ何れよりも到る能はざりしに因れり、而るに今や利根水源を確定して、加ふるに上越の国界を明にするを得、衆皆絶叫快と呼ぶ、其勢上越の深山も崩るるが如し、深井君直ちに鋭刀を揮ふて白檜の大樹皮を彫り、探検一行二十七名上越国界を定むと書す、少らく休憩をなして或は測量し或は地図を描き、各幽微を闡明にす、且つ風光の壮絶なるに眩惑せられ、左右顧盻去るに忍びず、殊に燧山下尾瀬沼なるものありて、岩代上野の県道其沼辺を通じ、直ちに戸倉に出るを得るの概算予定するを得て、帰路に就く既に近きにあればなり、され共人智の謭劣先見の明なき、遂に将来大障碍を起さしめたり、障碍とは何ぞ、一行は巍然たる燧岳眼前にあるを以て、其麓の尾瀬沼に至らんには半日にして足れり、今夜其処に達するを得べしと考へしに、明晩辛ふじて目的の地に至るを得、其間の辛苦実に甚しかりしものあればなり。
之れより上越の国界なる山脈の頂上を経過す、脈尽くる所太平原あり、原尽きて一山脈あり、之れを過れば又大平野あり、之れ即ち真の尾瀬が原にして、笠科山と燧山の間に連り、東西一里南北二里余、一望些少の凹凸なく、低湿にして一面湿草を生じ、所々に凹所ありて水を湛ゆ、草ある所は草根によりて以て足を支持すれども、草なき所は湿泥足を没す、其危険云ふべからず、且つ茫漠たる原野のことなれば、如何に歩調を進むるも容易に之を横ぎるを得ず、日亦暮れしを以て遂に側の森林中に入りて露泊す、此夜途中探集せし「まひ茸」汁を作る、露宿をなして以来此汁を啜ること二回、其味甚佳なり、加ふるに鰹の煑出しを以てす、偶々汁を作ることあるも常に味噌を入るるのみなれば、当夜の如き良菌を得たるときは、之を喫する其何椀なるを知らざるなり、而して此を食ふを得るは全く人夫中の好漢喜作の力にして、能く害菌と食菌とを区別し、余等をして安全之を食ふを得せしむ、為めに一人も中毒に逢ひしものなし、此他飯の如き如何なる下等米と雖も如何なる塵芥を混ずると雖も、其味の佳なる山海の珍味も及ばざるなり、余の小食家も常に一回凡そ四合を食したり、大食の習慣今日に至りても未だ全く旧に復せざるなり、食事了れば例により鹽原巡査の落語あり、衆拍手して之を聞く、為めに労を慰めて横臥すれば一天墨の如く、雨滴点々木葉を乱打し来る、加ふるに寒風を以てし天地将に大に暴れんとす、嗟呼昨日迄は唯一回の細雨ありしのみにして、殆ど晴朗なりし為め終夜熟睡、以て一日の辛労を軽んずるを得たるに、天未だ我一行を憐まざるにや、将に大雨を下さんとす、明夜尚一回露宿をなさざれば人家ある所に至るを得ず、余す所の二日間尚如何なる艱楚を嘗めざるべからざるや、殆ど予測するを得ず、若し九仭の功を一簣に欠くあらば大遺憾の至りなり、希くは此一夜星辰を戴きて安眠するを得せしめよと、誰ありてか天に祈りしなるべし、天果して之を感ぜしか、靉靆たる怪雲漸次に消散し風雨暫らくにして已みぬ。
九月二十六日
早朝出立、尾瀬の大原野を経過し燧山麓に至る、目的とする所の尾瀬沼は眼眸に入り来らず、燧山麓一帯の山脈横はれるを以て、之を経過すれば沼に到るを得るならんと察し、又険山を攀登す、沼猶見えず、又次の高山に登る猶見えず、斯くして遂に最高の山に上る、欝樹猶眼界を遮る、衆大に困み魑魅の惑す所となりしかを疑ふ、喜作直ちに高樹の頂に攀ぢ上り驚て曰く、眼下に茫々たる大湖ありと、衆忽ち拍手して帰途の方針を定むるを得たるを喜び、帰郷の近きを祝す、日既に中して腹中頻りに飢を訴ふ、されども一滴の水を得る能はず、况んや飯を炊くに於てをや、此に於て熬米を噛み以て一時の飢を忍び、一気走駆して直ちに沿岸に至り飯を煑んと决す、此に於て山を降り方向を定めて沼辺に至らんとし、山を下れば前方の山又山、之を超ゆること数回に及ぶも沼猶見えず、已むを得ず渓流を汲んで昼飯を喫す、時に午後三時なり、腹充ちて勇を皷し、又山を超ゆる数回にして始めて尾瀬沼岸に達するを得たり、抑燧山は岩代国に属し巍峩として天に秀で、其麓凹陥して尾瀬沼をなし、沼の三方は低き山脈を以て囲繞せり、翻々たる鳧鴨は捕猟の至るなき為め悠々として水上に飛翔し、一面の琉球藺は伐採を受けざる為め茸々として沼岸に繁茂し、沼辺の森林は欝乎として水中に映じ、翠緑滴る如く、燧岳の中腹は一帯の雲烟に鎖され夕陽之に反照す、其景の絶佳なる、恰も彼七本槍を以て有名なる賤が岳山下余吾湖を見るに似たり、陶然として身は故山の旧盧にあるが如く、恍として他郷の深山麋熊の林中にあるを忘る、前日来の艱酸と辛労とは茫乎として転た夢の如し、一行皆沼岸に坐して徐ろに風光を賞嘆して已まず、遠く対岸を見渡せば無人の一小板屋忽ち双眼鏡裡に映じ来る、其距離凡そ二里、曾て聞く沼岸には岩代上野の県道即ち会津街道ありて、傍らに一小屋あり、会津檜枝岐村と利根の戸倉村との交易品を蔵する所にして、檜枝岐村より会津の名酒を此処に運び置けば、戸倉村よりは他の物品を此処に持ち来り以て之を交易し、其間敢て人の之を媒介するものなく、只正直と約束とを守りて貿易するのみと、此に於て前日来より「あるこーる」に渇したる一行は、勇を皷して皆曰く、たとひ日暮るるとも其小屋に到達し、酒樽若しあらば之を傾け尽し、戸倉村に帰りて其代価を払はんのみと、議忽ち一决して沼岸を渉る深さ腿を没し泥濘脛を埋む、加ふるに寒肌粟を生じ沼気沸々鼻を衝く、幸ひに前日来身躰を鍛錬せしが為め瘧疫に罹るものなかりき、沼岸の屈曲出入は実に犬牙の如く、之に沿うて渉ることなれば進退容易に捗取らず、日暮れて遂に一歩も進むを得ず、空しく遥かに彼小屋を望んで沼岸に露営を取りたり。
晩餐了りて眠に就く、少焉ありて眼覚むれば何ぞ図らん、全身雨に濡うて水中に溺れしが如し、衆既に早く覚む、皆笑つて曰く君の熟睡羨むに堪へたりと、之より雨益甚しく炉辺流れて河をなし、腰をだに掛くる所もなく、唯両脚を以て躰を支へて蹲踞するのみ、躰上に毛氈と油紙とを被れども何等の効もなし、人夫に至りては饅頭笠既に初日の温泉塲に於て破れ、其後荊棘の為めに悉く破壊せられ、躰を被ふべきもの更に無く、全身挙りて覆盆の雨に暴露せらる、其状誠に憐むに堪へたり、衆相対して眼を開くも閴として声なく、仰ぎて天の無情を歎す、而れども俯して熟考すれば之れ最終の露宿にして、前日来の露宿中は雨殆んどなく、熟睡以て白日の労を慰せし為め、探検の目的を遂ぐるを得せしめしは、実に天恩無量と云つべし、豈此最終の一夜に臨んで怨みを述ぶべけんや、若し此探検中雨に逢ふこと多かりせば尚二倍の日子を要すべく、病人も生ずべく、為めに半途帰路に就くか或は冒進して餓死に陥るか、孰れか此両策の一を取りしなるべし、而るに後に聞く処に拠れば、沼田近傍は雨常に多かりしに、利根山中日々晴朗の天気なりしは不可思議と云ふの外なし、窃かに人夫等の相談するを聞けば皆感歎し曰く、之れ文珠菩薩の恩恵にして、世人未知の菩薩が探検一行によりて、世に顕はれ出でんと欲するの志は、一行をして日々晴天に逢はしめ、以て無事目的を達して帰るを得せしむるなり云々と、朝来雨漸く霽れ来れば一行笑顔を開き、一駆して戸倉に至るを期す、此夜森下君の発案により、鍋伏せを行ふて魚を取るを得たり、即ち鍋上に穴を穿てる布片を覆ひ、内に餌を入れて之を沼中に投じたるなり、「どろくき」と称する魚十余尾を得たり、形鰌に非ず「くき」にも非ず、一種の奇魚なり、衆争うて之を炙り食すれど、不幸にも前述の如く大雨なりしを以て、唯一回の引上げをなししのみ。
九月二十七日
終夜雨に湿ひし為め、水中を歩むも別に意となさず、二十七名の一隊粛々として沼を渉り、蕭疎たる藺草の間を過ぎ、悠々たる鳧鴨の群を驚かす、時としては柳条に拠りて深処に没するを防ぎしことあれども、進むに従うて浅砂の岸となり、遂に沼岸一帯の白砂を現じ来る、砂土人馬の足跡は斑々として破鞋と馬糞は所々に散見す、一行驚喜して曰く之れ即ち会津街道なりと、人影を見ざるも既に村里に在るの想をなせり、歓呼して一行の無事を祝す、昨暮遠望したる一小板屋は尚之より岩代の方角に向て一里余の遠きに在り、屋内酒樽のあるあらば極めて妙なれども、若し之なくんば草臥れ損なりと、遂に帰路を取りて戸倉に至るに决す、一帯の白砂過ぎ了れば路は戸倉峠に連なる、峠の高さ凡そ六千呎、路幅僅かに一尺、漸く両足を容るるに堪ふ、之れこそ利根の戸倉と会津の檜枝岐との間に在る県道なれば、其嶮岨云ふべからずと雖も、跋渉に慣れたる余等の一行は、恰も坦たる大道を歩む如き心地をなし、五里の嶮坂瞬時に降り尽し、戸倉村に至りて区長松浦方に泊す、戸倉村と云へば世人は之を深山幽谷の人民として、殆んど別天地の如くに見做せども、凡そ十日間人影だも見ざる余等一行は、此処に着して初めて社会に出でたるの心地せられ、其愉快実に言ふべからず。
九月二十八日
戸倉を出立して七里の山路を過ぎ、花咲峠の険を越えて川塲湯原村に来り泊す、此地に於て生死を共にし寝食を同じくしたる人夫等十五名と相別るることとなり、衆皆其忠実冒険、能く一行を輔助せしことを謝し、年々新発見にかかる文珠菩薩の祭日には相会して旧を語らんことを約し、袂を分つこととはなりぬ。
九月二十九日
川塲を発して沼田に帰れば、郡役所、警察署、収税署等の諸員及有志者等、一行の安着を歓迎し、直ちに三好屋に於て盛んなる慰労会を催されたり。
翌日一行の諸氏と相分れ、余は小西君と共に車を駆りて前橋に帰りたり。
此探検に就て得たる利益の大要を記すれば左の如し。
(第一)地図の改正。県属地理掛森下、深井の二君は精密なる地図を製せられたり、利根河上流の模様は将来頗る改正を要するなり、上越国界に至りても同じく改正を要すれども、尚精確を得んには向後尚一国上越及岩代の三ヶ国より、各人を派して国界を定めし後にありとす。
(第二)殖産事業。従来藤原村三十六万町歩即ち凡そ十三里四方の山林ありと称せしも、凡そ其半なるを確めたり、利根山奥は嶮岨人の入る能はざりし為め、漫りに其大を想像せしも、一行の探検に拠れば存外にも其狭きを知りたればなり、楢沢の平野は良樹蓊欝として森林事業に望みあり、須原峠字上ヶ原の原野は牧畜に宜しく尾瀬の大高原は開墾するを得べし、此他漸次道路を開通せば無数の良材木を運び出す事を得べし。
(第三)植物。利根山奥の低き所は山毛欅帯に属し、高きは白檜帯に属す、最高なる所は偃松帯に属すれども甚だ狭しとす、之を以て山奥の入口は山の頂上に深緑色の五葉松繁茂し、其他は凡て淡緑色の山毛欅樹繁茂す、山奥の深き所に至れば黒緑色の白檜山半以上に茂り、其以下は猶山毛欅樹多し、故に山々常に劃然として二分せられ、上は深緑、下は淡緑、其景実に画くが如きなり、此他石南樹、「ななかまど」「さはふたぎ」、白樺、楢類等多しとす、草類に於ては「わうれん」、「ごぜんたちばな」、「いはべんけいさう」、「まひづるさう」、「まんねんすき」、「ひかげのかづら」、毛氈苔、苔桃、「いはかがみ」、「ぎんらんさう」、等多し、菌類に於ては「みの茸」、まひ茸、黒ほざ茸、す茸、「こぼりもだし茸」、等食すべきもの実に多し。
(第四)鉱物及動物。別に貴重の金石を発見せず、唯黄鉄鉱の厚層広く連亘せし所あり、岩石は花崗岩尤も多く輝石安山岩之に次げり、共に水蝕の著るしき岩石なるを以て、到る処に奇景を現出せり、文珠岩の如きは実に奇中の奇たるものなり、要するに人跡未到の地なるを以て、動植物及鉱物共に大に得る所あらんとするを期せしなれ共、右の如く別に珍奇なる者を発見せざりき、されども頗る種々の有益なる材料を得来りしは余の大に満足とする所なり、動物にては鹿、熊尤多くして山中に跋扈し、猿、兎亦多し、蜘蛛類、蝨類の珍らしき種類あり、鳥類にて耳目に触れしは「かけす」、四十雀、梟ありしのみ。
終りに臨み熊に就て一言すべし、熊の巣穴は山中に無数あるにも拘はらず、藤原村に於て年々得る所の熊は数頭のみ、之れ猟師の勇気と胆力と甚少きを以てなり、即ち陥穽を設けて熊を猟するあり、或は遠方より熊を銃殺する位なり、若し命中誤りて熊逃るれば之を追捕するの勇なきなり、而るに秋田若くは越後の猟人年々此山奥に入り来りて猟するを見れば、其冒険なること上州人の能く及ぶ所に非ずと云ふ、其方法に依れば熊を銃撃して命中誤り、熊逃走する時之を追駆すれば熊遂に怒りて直立し、将に一跳人を攫まんとす、此に於て短剱を以て之を貫き、直ちに熊を抱きて相角し遂に之を殺すなり、熊人を見て逃れんとする時も亦然すと云ふ、此回の探検中は熊に逢ひし事なし、之れ夏間は人家近き山に出でて食を取り、冬に至りて帰蟄する者なればなり、且つ一行二十七名の多勢なれば、如何なる動物と雖も皆遁逃して直ちに影を失し、敢て害を加ふるものなかりき、折角携帯せる三尺の秋水も空しく伐木刀と変じ、「ピストル」猟銃も亦雨に湿うて錆を生ぜる贅物となり、唯帰途の一行無事の祝砲に代はりしのみ。
利根水源探検紀行終 | 底本:「臺灣生蕃探檢記」博文館
1897(明治30)年2月25日発行
初出:「上野教育會雜誌」
1894(明治27)年10月~12月
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※変体仮名と仮名の繰り返し記号は、通常の仮名にあらためました。
※「予等」と「余等」、「険崖」と「嶮崖」、「愈《いよ》いよ」と「愈《いよ/\》」、「上る」と「登る」、「溯」と「遡」、「言ふ」と「云ふ」の混在は、底本通りです。
※「恰も」に対するルビの「あたか」と「あだか」、「攀登」に対するルビの「はんとう」と「ばんとう」と「はんと」と「ばんと」、「温泉」に対するルビの「をんせん」と「おんせん」、「花崗岩」に対するルビの「みがけいわ」と「みかげいし」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年9月4日作成
2022年4月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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フロベニウスの『アフリカ文化史』は、非常に優れた書であるとともにまた実におもしろい書である。そのおかげでニグロの生活は我々の追体験し得るものとなり、ニグロの文化は我々の理解し得るものとなる。我々はそれによっていわゆる未開人をいかに見るべきかを教えられる。フロベニウス自身が指摘しているように、人類の文化の統一は、ただこのような理解を通じてのみ望み得られるのである。
自分はこの書を読み始めた時に、巻頭においてまず強い激動を受けた。それは自分がアフリカのニグロについて何も知らなかったせいでもあるが、また同時に英米人の祖先たちがアフリカに対して何をなしたかを知らなかったせいでもある。自分はここにその個所を紹介することによって右の書に対する関心を幾分かでもそそりたいと思う。
中世の末にヨーロッパの航海者たちが初めてアフリカの西海岸や東海岸を訪れたときには、彼らはそこに驚くべく立派な文化を見いだしたのであった。当時のカピタンたちの語るところによると、初めてギネア湾にはいってワイダあたりで上陸した時には、彼らは全く驚かされた。注意深く設計された街道が、幾マイルも幾マイルも切れ目なく街路樹に包まれている。一日じゅう歩いて行っても、立派な畑に覆われた土地のみが続き、住民たちは土産の織物で作った華やかな衣服をまとっている。さらに南の方、コンゴー王国に行って見ると、「絹やびろうど」の着物を着た住民があふれるほど住んでいる。そうして大きい、よく組織された国家の、すみずみまで行き届いた秩序があり、権力の強い支配者があり、豊富な産業がある。骨までも文化が徹っている。東海岸の国土、たとえばモザンビクの海岸においても状態は同じであった。
十五世紀から十七世紀へかけての航海者の報告を総合すれば、サハラの沙漠から南へ広がっているニグロ・アフリカに、そのころなお、調和的に立派に形成された文化が満開の美しさを見せていたということは確実なのである。ではその文化の華はどうなったか。アメリカを征服したヨーロッパ人たちが、このアフリカの沿岸にも侵入し、侵入した限りは破壊し去ったのである。なぜか。アメリカの新しい土地が奴隷を必要としたからである。アフリカは奴隷を供給した。何百、何千の奴隷を、船荷のようにして。しかし人身売買はかなり気の咎める商売である。それには何か口実がなくてはならない。そこでニグロは半ば獣だということにされた。また Fetisch という概念がアフリカの宗教の象徴として発明された。呪物崇拝などということは全くのヨーロッパ製である。ニグロ・アフリカのどこを探したってニグロの間には呪物の観念などは存していない。
こういうわけで、「野蛮なニグロ」という考えはヨーロッパの作り事である。これがまた逆にヨーロッパに影響して、二十世紀の初めまで、相当に教養の高い人すらも、アフリカの土人は半獣的な野蛮人である、奴隷種族である、呪物崇拝のほか何も産出することのできなかった未開民族である、などと考えていたのであった。
が、この奴隷商人の宣伝が嘘であることを立証したのは十九世紀以来の探検家である。なるほどアフリカの沿岸には、奴隷商人が荒し回った限り、ニグロ固有の文化はなんにも残っていない。そこにあるのはヨーロッパの安物商品、ズボンをはいたみじめなニグロ、ヨーロッパ人に寄生するニグロの店員、などだけである。しかし前世紀の先駆者たちが、この「ヨーロッパ文明」の地帯やその背後の緩衝地帯を突き抜けて、「いまだ触れられざる地」に達したとき、そこに彼らは至る処、十六世紀のカピタンたちが沿岸で見たと同じ華麗なものを見いだしたのである。
フロベニウスは一九〇六年、その第一回の探検旅行の際には、なお、コンゴーのカッサイ・サンクㇽル地方で、カピタンが描いたと同じような村々を見た。そこの街道は何マイルも続いて両側に四重の棕櫚の並み木を持っていた。そこの小家はいずれも惚れ惚れするような編み細工や彫刻で構成せられた芸術品であった。男は象眼のある刃や蛇皮を巻いた欛の鉄の武器、銅の武器を持たぬはなかった。びろうどや絹のような布は至る処で見受けられた。杯、笛、匙などは、どこで見ても、ヨーロッパのロマネスクの作品と比し得べき芸術品であった。
しかもこれらすべては、美しく熟した果物の表面を飾っている柔らかい色づいた表皮のようなものである。その下に美味な果肉がある。すなわち民族全体は、最も小さい子供から最も年長の老人に至るまで、その身ぶり、動作、礼儀などに、自明のこととして明白な差別や品位や優美などを現わしていた。王侯や富者の家族においても、従者や奴隷の家族においても、その点は同じであった。
フロベニウスはそこに教養の均斉を見いだした。上下がこれほどそろって教養を持っているということは、北方の文明人の国にはどこにもない。
が、この最後の「幸福の島」もまもなくヨーロッパ文明の洪水に浸された。そうして平和な美しさは洗い去られてしまった。
このような体験を持った人々は決して少なくない。スピークやグラント、リヴィングストーン、カメロン、スタンリー、シュワインフルト、ユンケル、デ・ブラッザ、なども同じものを見たのである。が、前世紀には、アフリカの高い文化はすべてイスラムに帰因するという迷信が支配していた。スーダンの文化などもその視点から見られた。しかしその後の研究によれば、スーダンの民族の美しい衣服はアフリカ固有のものであってムハメッドの誕生よりも古い。またスーダンの国家の特有の組織はイスラムよりもはるか前からあり、ニグロ・アフリカの耕作や教育の技術、市民的な秩序や手工芸などは、中央ヨーロッパにおけるよりも千年も古いのである。
「アフリカ的なるもの」は、要約して言えば、合目的的、峻厳、構造的である。この特徴はニグロ・アフリカのあらゆる文化産物に現われている。アフリカの民族は快活で、多弁で、楽天的であるが、しかしその精神的な表現の様式は、今日も昔も同じくまじめで厳粛である。この様式もいつの時かに始まり、そうして後に固定したものに相違ない。が、その謎めいて古い起源が我々には魔力的に感ぜられるのである。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1937(昭和12)年11月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "049915",
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一
秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響きにも、心を捉えて放さないような無限に深いある力が感じられるのです。
私はガラス越しにじっと窓の外をながめていました。そうしていつまでも身動きをしませんでした。私の眼には涙がにじみ出て来ました。湯加減のいい湯に全身を浸しているような具合に、私の心はある大きい暖かい力にしみじみと浸っていました。私はただ無条件に、生きている事を感謝しました。すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん広がって行って、まだ見たことも聞いたこともない種々の人々の苦しみや涙や歓びやなどを想像し、その人々のために大きい愛を祈りました。ことに血なまぐさい戦場に倒れて死に面して苦しんでいる人の姿を思い浮かべると、私はじっとしていられない気がしました。
私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもない小さい出来事ですが、しかし私の心を打ち砕くには十分でした。
私は妻と子と三人で食卓を囲んでいました。私の心には前の続きでなおさまざまの姿や考えが流れていました。で、自分では気がつきませんでしたが、私はいつも考えにふける時のように人を寄せつけないムズかしい顔をしていたのです。私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはできないので、自然無口になって、いくらか私の気ムズかしい表情に感染します。親たちの顔に現われたこういう気持ちはすぐ子供に影響しました。初めおとなしく食事を取っていた子供は、何ゆえともわからない不満足のために、だんだん不機嫌になって、とうとうツマラない事を言い立ててぐずり出しました。こういう事になると子供は露骨に意地を張り通します。もちろん私は子供のわがままを何でも押えようとは思いませんが、しかし時々は自分の我のどうしても通らない障壁を経験させてやらなければ、子供の「意志」の成長のためによろしくないと考えています。で、この時にも私は子供を叱ってそのわがままを押しつぶそうとしました。――いつのまにか私は子供のわがままに対して自分の意地を通そうとしていました。私は涙ぐみながら子供の泣くのを叱っていました。おしまいには私も子供といっしょに大声をあげて泣きたくなりました。――何というばかな無慈悲な父親でしょう。子供の不機嫌は自分が原因をなしていたのです。子供の正直な心は無心に父親の態度を非難していたのです。大きい愛について考えていた父親は、この小さい透明な心をさえも暖めてやることができませんでした。
私は自分を呪いました。食事の時ぐらいはなぜ他の者といっしょの気持ちにならなかったのでしょう。なぜ子供に対してまで「自分の内に閉じこもること」を続けたのでしょう。私がすべての人を愛でもって抱きたいと思ったことはほんとうです。それに関係していろいろ「いい事」を考え続けていたこともほんとうです。しかしすぐその場で自分に最も近い者をさえも十分愛してやれないくせに、そんな事を考え続けたって何になるでしょう。しかもそれが、その運命に対しては無限の責任と恐ろしさとを感じている自分の子供なのです。不断に涙をもって接吻しつづけても愛したりない自分の子供なのです。極度に敬虔なるべき者に対して私は極度に軽率にふるまいました。羞ずかしいどころではありません。
私はこの事によって自分のもっと重大ないろいろな欠点を示唆されたように思いました。
二
私は自分のイゴイズムと戦っています。イゴイズムそのものは絶滅は望まれないまでも、イゴイズムをして絶対に私の愛を濁さしめないことは、私の日常の理想でありまた私の不断の鞭です。この志向だけについて言えば別に問題はありません。これが真の自己を生かせる道ですから。
しかし私は自己を育てようとする努力に際して、この努力そのものがイゴイズムと同じく愛を傷うことのあるのを知りました。私は仕事に力を集中する時愛する者たちを顧みない事があります。私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさない場合に、やはり私を不満足に思います。そうしてそれがその人たちのツマラないわがままから出ている場合でも、私を怨み憤ります。私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。
ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいられないほど弱くはありません。しかし人の前でそれを少しも顔に出さないでいられるほど強くもありません。私は暗い沈んだ顔をして黙り込んでいます。そうしてこの表情のために愛するものたちを不幸にします。こういう時に私は彼らをいたわってやることも、彼らを喜ばせる事も、彼らとともに喜ぶこともできないのです。私の心は石のように固まって、ただ温められ融かされる事を望むばかりです。私にとっては一つの憂愁を切り抜ける事はいくらかの成長になります。しかしそのために私はある時の間冷たい人間になっています。
実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあります。そういう時に人が、そんなにノラクラしているくらいなら、と思うのも無理はないと思います。自分でさえそう感じる事が時にはあるのですから。私は私たちの心持ちに同情のない要求にすぐ従おうとは思いませんが、しかしなお自分をどうにかしなければならない事を切に感じます。日常の生活は実に貴いのです。言い訳が立つからといって、なすべき事をしないのはやはりいい事ではありません。たとえ仕事に全精力を集中する時でも「人」としてふるまうことを忘れてはならない。それができないのは弱いからです。愛が足りないからです。
私は自分の仕事のために愛する者の生活をいくらかでも犠牲にすることを恥じます。この犠牲を甘んじて受けるのは、取りもなおさず、自分の弱さを是認するのです。私は弱さに安んじたくありません。自分の弱さのために他の運命を傷つけ犠牲にするなどは、あまりに恐ろしい。
三
また、私は人を責めることの恐ろしさをもしみじみと感じました。私はある思想に拠って行為を非難する事があります。そうして時には自分の行為もまた同じように非難せられなければならない事を忘れています。
ある時私は友人と話している内に、だんだん他の人の悪口を言い出した事がありました。対象になったのは道徳的の無知無反省と教養の欠乏とのために、自分のしている恐ろしい悪事に気づかない人でした。彼は自分の手である人間を腐敗させておきながら、自分の罪の結果をその人のせいにして、ただその人のみを責めました。彼は物的価値以外を知らないためにすべてをこの価値によって律しようとし、最も厳粛な生の問題をさえもそういう心情の方へ押しつけて行きました。そういう罪過はいろいろな形で彼に報いに来ました。がしかし、彼はその苦悩の真の原因を悟る事ができないのでした。私はその人の人格に同感すればするほど不愉快を感じます。そうしてその苦悩に同情するよりもその無知と卑劣が腹立たしくなります。――で、私は友人と二人でヒドイ言葉を使って彼を罵りました。私の妻は初めから黙って側で編物をしていました。やがて(いつも悪口をいう時にそうであるように)私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。
私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければならない。私はあの人を少しでもよくしなければならない立場にありながら、あの人に対する自分の悪感のみを表わしたのです。私の悪感は彼をますます悪くしようとも、善くするはずはありません。すでにこれまでにも彼を圧迫する事によって彼の自暴自棄を手伝ったのは、私であったかも知れません。私もまた彼の頽廃について責めを負うべき位置にあるのです。ことに私は(物的価値に重きをおかないと信じている私は)彼のためにどれだけ物的の犠牲を払ってやりましたか。物的価値に執する彼の態度への悪感から私はむしろそういう尽力を避けていました。そうしてこの私の冷淡は彼の態度をますます浅ましくしました。ここでもまた私は責めを脱れる事ができないのです。畢竟私の非難が私自身に返って来ます。
私は自分の思想感情がいかに浮ついているかを知りました。私が立派な言葉を口にするなどは実におおけない業です。罵っても罵っても罵り足りないのはやはり自分の事でした。
四
私は道徳をただ内面的の意義についてのみ見ようとしています。そうして他人の不道徳を罵る時にはその内面的の穢なさを指摘しようとします。
しかし自分の心はどれほど清らかになっているか。恥ずべき行為をしないと自信している私は、心の中ではなおあらゆる悪事を行なっているのです。最も狂暴なタイラントや最も放恣な遊蕩児のしそうなことまでも。もちろん私は気づくとともにそれを恥じ自分を責めます。しかし一度心に起こった事はいかに恥じようとも全然消え去るという事がありません。時には私は自分の心が穢ないものでいっぱいになっている事を感じます。私たちはこの穢ないものを恥じるゆえに、抑圧し征服し得るゆえに、安んじていていいものでしょうか。私は自分に親しい者たちの心の内に同じような穢ないものがある事を想像するのはとてもたまらない。それと同じく他の人も私の心の暗い影を想像するのは非常に不愉快だろうと思います。私はどうしても心を清浄にしたい。たとえそのために人間性質のある点に関する興味が涸渇しようとも。私が他人を罵るのは畢竟自分を罵ることでした。他人の内に穢ないもののある事を見いだすのは、要するに自分の内にも同じもののある証拠に過ぎませんでした。
五
あまりジメジメした事ばかりを書いてすみません。しかしあなたに訴えれば私の胸はいくらか軽くなるのです。
私たちが今矮小だという事実は、実際私たちを苦しくさせます。けれども苦しいからといってこの事実を認めないわけには行きません。私よりも聡明な人は私よりももっとよくこの事実を呑み込んでいると思います。自分の小ささを知らない青年はとても大きく成長する事はできますまい。
しかしこの事実の認識はただ「愚痴」という形にのみ現わるべきものでないと思います。愚痴をこぼすのは相手から力と愛を求めることです。相手にそれだけ力と愛とが横溢していない時には、勢い愚痴は相手を弱め陰気にします。我々から愛を求めている者に対して我々の愚痴を聞かせるのはあまりに心なき業だと思います。
私たちは未来を知らない。未来に希望をかける事が不都合なら未来に失望する事も同じように不都合です。しかし私たちはただ一つ、生が開展である事を知っています。私たちはただ未来を信じて、現在に努力すればいいのです。努力のための勇気と快活とを奮い起こせばいいのです。現在の小ささを悟れば悟るほど努力の熱は高まって来ます。自分の運命を信じて、今に見ろ今に見ろと言いながら努力する事は、自分に対していいのみならず、自分の愛する人々を力づけ幸福にする意味で、他人のためにもいい事です。どこまで行けるかなどという事はこの場合問題ではありません。
ただ私はこの運命の信仰が現在の無力の自覚から生まれている事を忘れたくないと思います。ここに誇大妄想と真実の自己運命の信仰との別があるのです。成長しないものと不断に力強く成長するものとの別があるのです。前者は自己を誇示して他人の前に優越を誇ります。後者は自己を鼓舞し激励するとともに、多くの悩み疲れた同胞を鼓舞し激励します。
あなたに愚痴をこぼしたあとでこんな事をいうのは少しおかしいかも知れません。しかし私はあなたに愚痴をこぼしている内に自然こういう事を言いたい気持ちになって来たのです。
六
私はどんなに自分に失望している時でも、やはり心の底の底で自分を信じているようです。眼が鈍い、頭が悪い、心臓が狭い、腕がカジカンでいる、どの性質にも才能にも優れたものはない、――しかも私は何事をか人類のためになし得る事を深く固く信じています。もう二十年! そう思うとぐッたりしていた体に力がみなぎって来る事もあります。
運命と自己。この問題は久しく私を悩ませました。今でもよくわかりません。しかしこれまで経て来た自分の道を振り返って見ると、重大な事はすべて予期を絶していました。これから起こる事も恐らく予期をはずれた事が多いでしょう。私はいろいろな事を考えたあとでいつも「明日の事を思い煩うな」という聖語を思い出し、すべてを委せてしまう気になります。そうしてどんな事が起ころうとも勇ましく堪えようと決心します。
しかし私はすでに与えられたものに対してはのんきである事ができません。運命が自分をいかに変化しようとも自分が他人になる事は決してありますまい。私の個性は性格は私の宿命です。どういう樹になるかは知らないが、芽はすでに出ているのです、伸びつつあるのです。芽の内に花や実の想像はつかないとしても、その花や実がすでに今準備されつつある事は確かです。今はただできるだけ根を張りできるだけ多く養分を吸い取る事のほかになすべき事はないのです。いよいよ果実が熟した時それがいい味を持っていなくても、私は精いっぱいいい実をならそうと努めたことで満足しようと思います。
とはいえ、自分の才能のことは繰り返し繰り返し問題になります。そうして才能を重大視するなといういろいろの人の言葉が、私の底冷えのしている心に温かい慰めを与えてくれます。天才は勉強だ、彼らの才能はさほど特殊なものではない(ニイチェのような人ですら三十四の年にこう言いました)、才能少なくして偉大な人間になった人はあらゆる方面にある、彼らはただごまかしをしない、堅実な、辛抱強い Handwerker-Ernst があったのだ。――こういう言葉が私に力をつけてくれます。まことに英雄的生活が試練と苦悩と精力と勤労とにおいておもに偉大であったことは、私たちの勇気を鼓舞し私たちをふるい立たせます。憐れなる悩める者も誠実な勇気と努力とをもってすればついには何者かになり得るのです。偉大な人々の悲劇的生活は私たちの慰藉でありまた鞭であります。彼らが小さい一冊の本を書くためにも、その心血を絞り永年の刻苦と奮闘とを通り抜けなければならなかった事を思えば、私たちが生ぬるい心で少しも早く何事かを仕上げようなどと考えるのは、あまりにのんきで薄ッぺらすぎます。
七
私は才能乏しくしてしかも善良なる人が、宿命として自分に押しつけられている自分の性質を、呪い苦しんでいるのに出逢うごとに、わけもなく涙ぐましい心持ちになります。ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じっとしていられないような、飛びついて抱いてやりたいような心持ちになります。一つには身にツマされるせいもあるでしょう。しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して、ともに泣き互いに励まし合うのは、私にとっては最も人間的な気のする事です。私はこういう人に対していかなる場合にも高慢である事はできません。特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は、恐ろしい冷酷として、むしろ憎むべき事に思います。才能の乏しいのは確かにいい事ではないでしょう。しかし才能が人間のすべてではありません。才能の乏しい者にも愛すべき者があり才能の豊かな者にも卑しむべき者があります。才能を重んずる現代の社会から、特に才能に富んだ人を集めた特殊の場所からは、あまり偉大な人が生まれて来ないという事実は、いかにも反語らしく私たちの心に響きます。私は才能を誇りながらついに何の仕事をも成し遂げない高慢な人よりも、才能の乏しい謙遜な人の方をはるかに愛しなつかしみます。
けれども私は、同じく自分の凡庸を意識していても、それをごまかそうとかかっている人に同情する事はできません。彼らは何らかの点で自分を是認し安心しようとするのです。私はこういう人の前に出ると、ひどい腐敗の臭気を感じます。そうして、悲しむべき事を悲しまず、偉大な者にひざまずかず、畢竟人類の努力に対して没交渉であろうとする彼らの態度に、抑え難き憤怒を感じます。しかもこのような人がいかに多いことでしょう。彼らの前には偉大な芸術も思想も味なき塩と異ならないのです。彼らは、全体、人生が偉大である必要を認めないのです。
私は正直に悩む人に対しては同胞らしい愛を感じます。現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人生の偉大と豊饒とは畢竟心貧しき者の上に恵まれるでしょう。悩める者、貧しき者は福なるかな。私は自分の貧しさに嘆く人々が一日も早く精神の王国の内に、偉大なる英雄たちの築いたあの王国の内に、限りなき命の泉を掬み、強い力と勇気とをもってふるい立つ日の来たらんことを祈っています。
八
もう夜がふけました。沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとりとめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五体に力の充ちたことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょう。あなたに読んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたという事だけで私にはもう効能があったのです。私はこの手紙に論理的連絡の欠けている事を知っています。しかしそれはかまいません。私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を達しました。
空が物すごく晴れて月が鋭く輝いています。虫の音は弱々しく寂れて来ました。私は今あなたと二人で話に夜をふかした時のような心持ちになっています。では安らかにおやすみなさい。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1916(大正5)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049877",
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一
私は近ごろ、「やっとわかった」という心持ちにしばしば襲われる。対象はたいていこれまで知り抜いたつもりでいた古なじみのことに過ぎない。しかしそれが突然新しい姿になって、活き活きと私に迫って来る。私は時にいくらかの誇張をもって、絶望的な眼を過去に投げ、一体これまでに自分は何を知っていたのだとさえ思う。
たとえば私は affectation のいやなことを昔から感じている。その点では自他の作物に対してかなり神経質であった。特に自分の行為や感情についてはその警戒を怠らないつもりであった。しかるにある日突然私は眼が開いた気持ちになる。そして自分の人間と作物との内に多分の醜い affectation を認める。私はこれまで何ゆえにそれに気がつかなかったかを自分ながら不思議に、また腹立たしく思う。affectation が何であるか、それがどういう悪い根から生いでて来るか、それはまるきりわかっていなかったのである。何というばかだ、と私は思わないではいられない。
そういう時には自分の悪いことばかりが眼につく。自分の理解を疑う心が激しく沸き立つ。「人生を見る眼が鈍く浅い。安価な自覚でよい心持ちになっている。自分で自分を甘やかすのだ。」こう自分で自分を罵る。そして自分の人格の惨めさに息の詰まるような痛みを感ずる。
しかしやがて理解の一歩深くなった喜びが痛みのなかから生まれて来る。私は希望に充ちた心持ちで、人生の前に――特に偉人の内生の前に――もっともっと謙遜でなくてはならないと思う。そして底力のある勇気の徐々によみがえって来ることを意識する。
二
ただ「知る」だけでは何にもならない、真に知ることが、体得することが、重大なのだ。――これは古い言葉である。しかし私は時々今さららしくその心持ちを経験する。
――誰でも自分自身のことは最もよく知っている。そして最も知らないのはやはり自己である。「汝自身を知れ」という古い語も、私には依然として新しい刺激を絶たない。
思索によってのみ自分を捕えようとする時には、自分は霧のようにつかみ所がない。しかし私は愛と創造と格闘と痛苦との内に――行為の内に自己を捕え得る。そして時には、思わず顔をそむけようとするほどひどく参らされる。私はそれを自己と認めたくない衝動にさえ駆られる。しかし私は絶望する心を鞭うって自己を正視する。悲しみのなかから勇ましい心持ちが湧いて出るまで。私の愛は恋人が醜いゆえにますます募るのである。
私は絶えずチクチク私の心を刺す執拗な腹の虫を断然押えつけてしまうつもりで、近ごろある製作に従事した。静かな歓喜がかなり永い間続いた。そのゆえに私は幸福であった。ある日私はかわいい私の作物を抱いてトルストイとストリンドベルヒの前に立った。見よ。その鏡には何が映ったか。それが果たして自分なのか。私はたちまち暗い谷へ突き落とされた。
私は自分の製作活動において自分の貧弱をまざまざと見たのである。製作そのものも、そこに現われた生活も、かの偉人たちの前に存在し得るだけの権威さえ持っていなかった。私は眩暈を感じた。しかし私は踏みとどまった。再び眼が見え出した時には、私は生きることと作ることとの意義が「やっとわかった」と思った。私は自分を愧じた。とともに新しい勇気が底力強く湧き上がって来た。
親しい友人から受けた忌憚なき非難は、かえって私の心を落ちつかせた。烈しい苦しみと心細さとのなかではあったが、自分にとっての恐ろしい真実をたじろがずに見得た経験は私を一歩高い所へ連れて行った。私は黒い鉄の扉に突き当たったが、自分の力で動かし難い事を悟るとともに、鍵穴を探し出す余裕を取り返したのである。
三
トルストイやストリンドベルヒの作物を読んでみる。語の端々までも峻厳な芸術的良心が行きわたっている。はち切れるような力が語の下からのぞいている。短い描写が驚くべき豊富な人生を示唆する。
ところで自分はどうであろう。強調すべき点は気が済むまでも詳しく書こうとする。そのために空虚な語のはいって来ることには気づかない。従って多くを示唆する少ない語の代わりに、少なくを説明しようとする多くの語がある。しかも熱に浮かされた自分にはその空虚が充溢に見えるのである。
大業にし過ぎるということは若い者にあり勝ちの欠点かも知れない。重大事を重大事として扱うのに不思議はないと思うから。しかし引きしめて控え目に、ただ核実のみを絞り出す事は、嘘を書かないための必須な条件であった。製作者自身は真実を書いているつもりでも、興奮に足をさらわれて手綱の取り方をゆるがせにすれば、書かれた物の内からは必ず虚偽が響き出る。大業にすることはすなわち致命傷であった。
私はこの点に自己を警戒すべき重大事を認めた。いかに苦しんでも苦しみ足りるという事のないこの人生を、私はともすれば調子づいて軽々しく通って行く、そしてその凝視の不足は直ちに表現の力弱さとして私に報いて来るのである。私はもっとしっかりと大地を踏みしめて、あくまで浮かされることを恐れなくてはいけない。生活態度の質実はやがて製作態度をも質実にするだろう。製作態度の質実はやがて表現の簡素と充実とをもたらすだろう。
私は芸術的良心が生活態度の誠実でない人の心に栄えるとは思わない。
四
フランスやイタリアの作家には饒舌が眼につく。私はダヌンチオやブウルジェエの冗漫に堪え切れない。トルストイに至ってはさすがに偉大である。たとえばあの大部なアンナ・カレニナのどのページを取ってみても、私は極度に緊縮と充実とを感じるのである。
ドストイェフスキイを冗漫だとする批評はかなり古くからあるが、私は冗漫を感じない。内容がはち切っているから。――もっとも技巧から言えばかなりに隙がある。夏目先生はカラマゾフ兄弟のある点をディクンスに比して非難された。その時私は承服し兼ねたが、しかし考えてみると私はディクンスの本体を知らない。それにドストイェフスキイには浪漫派らしい弱点がある。恐らく夏目先生の非難は当たっているのだろう。
けれどもドストイェフスキイの偉大な内生活は表現の上の欠点を消してしまう。カラマゾフ兄弟は我々の新しい聖書である。そこには「人間」の心がすみからすみまで書き現わされている。そして生の渦巻の内から一道の光明を我々に投げ掛ける。
ストリンドベルヒに至っては、その深さと鋭さにおいて――簡素と充実とにおいて近代に比肩し得るものがない。また心理と自然と社会との観察者としても、ロシアの巨人の塁を摩する。彼もまた「人間」の運命を描いた。そして我々に新しいファウストを与えた。
私は近ごろ彼の『赤い室』をゾラの『パリ』と比較してみた。彼がゾラの影響の下にその処女作を書いたことは疑いがない。しかし驚くべき事は三十歳の青年が自然主義の初期にすでにゾラを追い越しモウパッサンの先を歩いていたことである。題目とねらい所は両者ほとんど同じで、構図さえも似かよっているが、ゾラの百ページを費やす所は彼の筆によればわずかに二三十ページで済む。しかも描写が具体的で事実に迫っている点では、ゾラははるかにかなわない。ゾラには強く作為の匂いがする。そして心理が浅くかつ足りない。その上かなり冗漫である。ストリンドベルヒはこれに反して社会の断層を描くのに自伝的の匂いをもって貫ぬいている。心理は鋭く、描写はカリカチュアに近いほど鮮やかである。しかも彼の心理観察の周密は常に描写のカリカチュアに堕するのを救う。従って彼の描写は簡素の限度だと言う事もできる。
ストリンドベルヒの頭は恐ろしくよい。ゾラの頭はきわめて平凡である。
五
告白の欲望はともすれば直ちに製作衝動と間違えられる。もとより体験の告白を地盤としない製作は無意義であるが、しかし告白は直ちに製作ではない。告白として露骨であることが製作の高い価値を定めると思ってはいけない。けれどもまた告白が不純である所には芸術の真実は栄えない。私の苦しむのは真に嘘をまじえない告白の困難である。この困難に打ち克った時には人はかなり鋭い心理家になっているだろう。今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。
六
私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫のよいうぬぼれでない証拠はどこにあるのだ。
そこで私は考える。――私には物に食い入るかなりに鋭い眼がある。一つの人格、一つの世相、一つの戦い、その秘められた核を私は一本の針で突き刺して見せる。その証拠は私の製作が示すだろう。
そして私は製作する。できたものをたとえばストリンドベルヒの作に比べてみる。何という鈍さと貧弱さだろう。私は差恥と絶望とで首を垂れる。
微妙な線、こまやかな濃淡、魔力ある抑揚、秘めやかな諧調、そういう技巧においてもまた、私の生まれつきのうぬぼれは製作によって裏切られる。要するに私は要求と現実とを混同する夢想家に過ぎなかった。
こうして私は自分の才能に失望してかなりに苦しむ。しかし私は思う。私の問題は与えられた物が何であるかに――私の Was にあるのではなかった。私はただ与えられた物を愛し育てるために生きているのであった。私はただ自分の愛の力の弱らないように、また与えられた物の発育の止まらないように心配していればよい。私の苦しみと愛とで恐らく私の生活の価値は徐々に築かれて行くだろう。
運命を愛せよ。与えられた物を呪うな。生は開展の努力である。生の重点はこの努力にあって、与えられた物にあるのではない。呪詛は生を傷い、愛は生を高める。ただ愛せよ、そしてすべてを最もよく生かせよ。――こうして私は喜悦と勇気とに充たされる。天分の疑懼はしばらくの間私の心を苦しめなくなる。
天才はその悲痛な運命の愛によってのみ非凡であった。彼らは多くを与えられた事よりも、むしろ多くを最もよく生かした事において偉大であった。私はその驚嘆すべき誠実のゆえにのみ彼らの前にひざまずく。
そして私は自分に聞く。――お前は誠実か。お前の努力は最大限まで行っているか。それが自欺でない証拠はどこにあるのだ。
七
人生は戦いである。そして戦いの大小深浅がまた人間の価値を左右する。
戦いの態度の純一は、複雑な内生よりも、単純な迷いのない生活にはるかに起こりやすい。それゆえただ純一のゆえに意を安めてはいけない。純一の態度に固執する者はともすれば内容を空疎にする。
私はある冬の日、紺青鮮やかな海のほとりに立った。帆を張った二三十艘の小舟が群れをなして沖から帰って来る。そして鳩が地へ舞いおりるように、徐々に、一艘ずつ帆をおろして半町ほどの沖合いに屯した。岸との間には大きい白い磯波が巻き返している。いつのまにか薄穢ない老人と子供とが岸べに群がり立った。やがて、体のよい若者のそろった舟が最初に突き進んで来る。磯波は烈しく押し戻す。綱が投げられる。若者が波の間へ飛び込んで行く。舟は木の葉のようにもまれている。若者は舟の傍木へ肩を掛ける。陸からは綱を引くものが諸声に力のリズムを響かせる。かくて波を蹴散らし、足をそろえ、声を合わせて舟を砂の上に引きずり上げて行く。
一艘上がるとともに、舟にいた若者たちは直ちに綱を取って海に向かった。次の一艘が磯波に乗り掛かると、ちょうど綱を荒れ回る鹿の角に投げ掛けるように、若者は舟へ綱を投げる。そして他の若者たちは躍り掛かって、肩をあてて一気に舟を引き上げる。こうして次から次へと数十艘の舟が陸へ上げられるのである。陸上の人数はますます殖える。舟はますますおもしろそうに上がって来る。老人と子供と女房たちは綱に捕まって快活に跳ねている。誰が命令するというでもないのに、一団の人々は有機体のように完全に協力と分業とで仕事を実現して行く。
私は息を詰めてこの光景を見まもった。海の力と戦う人間の姿。……集中と純一とが最も具体的な形に現われている。……力の充実……隙間のない活動。――一人の少年が両手を高くあげて波のなかに躍り込んで行く。首だけ出して、波にさらわれた板切れに追いすがる。やがて板切れを抱いて水を跳ね飛ばしながら駛け上がって来る。――生が踊り跳ねている。生が自然と戦いそれを征服している。
私はそこに現われた集中と純一と全存在的な活動とのゆえにしばし恍惚とした。
この気持ちのよさは我々がすべての活動に追い求めている所の一種の法悦であった。我々の内にもまた、生の焔はかく燃え上がらなくてはいけない。まことにそれは生本来の姿であり、また生本来の歓喜である。
こうして漁師の群れの活動をながめている内に私はふと傍観者の手持ち無沙汰を感じ出した。私は漁師の群れに投じてともに働くか、でなければ傍観者としての自己の立場を是認するか、いずれかに道を極めなければならなくなった。そして私の頭には百姓とともに枯れ草を刈るトルストイの面影と、地獄の扉を見おろして坐すべきあの「考える人」の姿とが、相並んで浮かび出た。私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はもう二三艘になっていた。
私は思った。漁師の群れに貴い集中と純一とを認めたのは私の心に過ぎなかったではないか。彼らが浜から家へ帰る。そこにはもう貴さはない。彼らは波と戦って勇ましく打ち克つ。しかし敵手が人間になり、さらに自分の心になると、彼らはもう立派な戦士ではない。彼らの活動は真生の面影を暗示する。しかしそれは彼ら自身の生活ではなかった。彼らは低い力と戦っている時にのみ強いのであった。
私は複雑な、深さの知れぬ人生のいろいろな力を思った。そして集中と純一との欠けている惨めな醜さを心に浮かべた。そこにある苦しい戦いは、裸になって冬の海に飛び込むことによっては、解決されそうにもなかった。私はただ自分のやり方で、自分の内生に、あの集中と純一とを獲得するほかはない。そのためには私のすべての戦いを終局まで戦わなくてはならぬ。勝利を得るまでの分裂した生活の惨めさは、目下の自分の力ではいかんともし難い。
私は一つのことを悟り得た。迷いと屈托とに遅滞しているゆえをもって、直ちにその人の人格を卑しめてはいけない。態度の純一のゆえに、直ちにその人の人格を過大視してはいけない。態度の美しさのほかに、なお一つ、戦いの深さによって人を見る視点があるからである。
八
私は誤解を恐れる。そしてその恐れを愧じる。私はその恐れに打ち克たなくてはならない。
もとより誤解は不愉快である。できるならばそれを解きたいと思う。ただ言葉の間違いや事件の行き違いのほかに根のない誤解ならば、解くこともまたやすい。
しかし私は、人格の相違が誤解を必然ならしめる場合を少なからず経験する。それを解き得るものはただ大きい力と愛とである。私はそのためにはいまだあまりに弱い。私のなすべきことは、誤解を気にしないでただ力と愛とを強め育てる所にのみあるのだった。
相手の人格が頑固野卑である場合には、誤解を解くことはますますむずかしい。耶蘇でさえそれを解き得なかった。
私は群集の誤解を恐れてはならない。そして誤解を解くための焦燥などは絶対にしてはいけない。たやすく群集に理解されることは危険である。群集の喝采は必ずしも作者の勝利を示しはしない。虚偽と阿諛に充ちた作品をさえ喜ぶ人々の喝采は、恐らく不愉快なものだろうと思う。
万人の胸を潤す物を作ることは我々の理想である。我々は端的に「人間」の心に迫って行かなくてはならぬ。しかしいまだ力に乏しい私の眼には、それがほとんど不可能に見える。深いものを見得るのはただ少数の人々に過ぎない。大多数の人々を共通に動かし得る物は、今の所、センチメンタリズムのほかにないだろう。
誤解を恐れるな。ただ真実の道を歩め。
九
怒りをもって怒りを鎮める事はできない。主我心をもって主我心を砕く事もできない。それをなし得るのはただ愛のみである。
怒りは怒りをあおり、主我心は主我心を高める。もし他人の怒りと主我心を呪うならば、まず自己の内の怒りと主我心とを征服せよ。まことの愛はその時初めて湧き出るだろう。
一〇
私は彼を愛し、尊敬し、恐れ、憐れみ、そして侮蔑する。
私は愛する者、尊敬する者、恐れる者、憐れむ者、侮蔑する者を持っている。また愛し尊敬する者、愛し憐れむ者、憐れみ侮蔑する者を持っている。尊敬し恐れる者、恐れ侮蔑するものもないではない。私はこれら対人感情をただ一つの大きい愛に高めようと努力する。そのために絶えず自責の苦しみがある。複雑に結びついた感情ほど不安を起こす程度がはなはだしい。
しかしこれらの感情のすべてが一個人に集まるのは、ただ彼に対してのみである。それゆえに彼は何人よりも激しく私を不安ならしめる。私は一人でいて彼の名を思い浮かべただけでも、もういらいらし初める。そしてそのいらいらする事が自分ながら癪にさわる。
彼に対する私の態度は純一の正反である。それがあたかも、彼に打ち砕かれたような感じをさえ私の内に起こさせる。私は彼の前にひざまずくことはできない。そのくせひざまずこうとしている者のようにうろうろしている。
私は彼よりももっと愛し、もっと尊敬する人を持っている。私の生活に食い入っている点から言えば、彼と私との間にはさほど深い関係はない。しかし彼は最も辛辣に私の注意を刺激する。従って私の意識を占領する度数が非常に多い。彼の特質がこの刺激性にないとは言い切れまい。
彼の現在は未知数である。彼が私の注意を引くのは価値が高いゆえでなくて価値がいまだ現われないからである。彼は確実性の代わりに不安定をもって、力の代わりに予感をもって、形の代わりに影をもって、思想の代わりに情調をもって、何者かをほのめかす。彼は実をもって人に迫らずに虚をもって人を釣るのである。彼が偉いか偉くないか、私は知らない。
私は彼に悩まされることを愧じる。しかしその刺激のゆえに彼に感謝する。
一一
私はこういう事を夢みている。――私は自分の体験から、私のファウストを書かねばならぬ、と。この夢想の情熱は、わからないなりにファウストを読んだ少年の時から年とともに、経験とともに、高まって行く。
もとよりそこには、ファウストを書き得た偉大な人格のように、高く全く自己を築き上げようとする欲動がひそんでいる。そしてその欲動のゆえに自己を悲観し自己を鞭うつ。
私の考えでは、私の夢想するファウストは私の愛がゾシマのように深くならなくてはとても書けそうにない。今の私の愛は愛と呼ぶにはあまりに弱い。私はまだ愛するものの罪を完全には許し得ないのである。愛するものの運命をことごとく担ってやることもできないのである。それどころではない。迷う者を憐れみ、怒るものをいたわることすらもなし得ない。力の不足は愛の不足であった。我を張るのは自己を殺すことであった。自己を愛において完全に生かせるためには、私はまだまだ愛の悩み主我心の苦しみを――愛し得ざる悲しみを――感じていなくてはならない。
しかし私はこの愛の理想のゆえに一つの「人間」の姿を描きたいと思う。主我心の蛇に喉を噛まれながら、はるかなる蒼空を見上げている「人間」の姿を。
それは実に人類の運命であった。人は誠実に生きる限り――生を避けて、生きながら死んだものにならない限り――才なき者は才なきままに、弱き者は弱きままに、人類の運命を象徴するのである。
それゆえ私は、現在の自分もまた小さい一つのファウストを描く権利を持ちたい。私は体験の渦巻のなかにいる。そこに一つの Leitmotiv が現われる。そして磁石のように砂のなかからただ鉄のみを吸い上げる。それはほとんど本能的である。かくして作られたる体験の体系は、一つの新しい生として創造の名に価する。
ただしかし、その体験が浅薄なゆえに偽りを含んでいるとしたら―― | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1916(大正5)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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遠望であるから細かいところは見えないものと承知していただきたい。
ごく大ざっぱな観察ではあるが、美術院展覧会を両分している洋画と日本画とは、時を同じゅうして相並んでいるのが不思議に思えるほど、気分や態度を異にしている。もちろんそれは文展についても言えることであり、すでに十何年の歴史を負っている事実でもあるから、今さらことごとしく問題にするには及ばないかも知れぬ。しかし僕の遠望観は、ぐるぐると回っている内に、結局この問題に帰着するのである。
何人も気がつくごとく、ここに陳列せられた洋画は主として写生画である。どの流派を追い、どの筆法を利用するにしても、要するに洋画家の目ざすところは、目前に横たわる現実の一片を捕えて、それを如実に描き出すことである。彼らにとって美は目前に在るものの内にひそんでいる。机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物が、彼らに対して、「そこに在ることの不思議さ」を、「その測り知られぬ美しさ」を、描かれることを要求する。従って彼らは、いかなる描き方をする場合にも、写実的な態度を失わない。
しかし日本画はそうでない。そこに描かれるのは主として画家の想像である、幻想である。歴史的題材を取り扱う画において、特にこの傾向は著しい。人物を描けば、我々の目前に生きている人ではなくて、豊太閤である。あるいは狗子仏性を問答する禅僧である。あるいは釈迦の誕生を見まもる女の群れである。風景を描けば、そこには千の与四郎がたたずんでいる。あるいは維盛最後の悲劇的な心持ちが、山により川によって現わそうと努められている。さらに純然たる幻想の物語を、すなわち雨月物語を、画に翻訳しようとする努力もある。たまたま我々の目前にあるものを描くとすれば、それは模様のごとく美化された掃きだめである。あるいは全然装飾化された菜園である。そこに現われたのは写実によって美を生かそうとする意図ではなく、美しい色と線との諧和のために、自然の内からある色と線とを抽出しようとする注意深い選択の努力である。現実の風景を描いた画すらも、画家の直接の印象が現われているという気はしない。画家はそこにある情趣を現わそうともくろみ、そのために必要な自然の一面を雇って来るのである。時にはこの目的のために、すでに古い昔に様式化された山や樹の描き方を、巧妙に利用しようとさえもする。これらの選択や利用が、すべて画家のある想念に――主としていわゆる詩的な美しい場面を根拠とするある幻想に――支配せられていることは、何人も否み得ないであろう。日本画のこのような特質に注意を集めて、それを「浪漫的」と呼んでも、必ずしも不都合はないと思う。
そこでこの二つの態度の比較である。態度そのものの問題としては、どちらかが間違っているとは言い切れない。ミケランジェロは最後の審判において彼の幻想を描いた。平安朝の大和画家は当時の風俗の忠実な描写をやった。しかもミケランジェロは今の洋画の祖先として似つかわしく、大和画家もまた今の日本画の祖先として似つかわしい。今洋画家が想像画を描くことは必ずしも邪道でなく、日本画家が写生画を描くこともまた必ずしも邪道でない。しかしながら、目前の問題としては、洋画の内の想像画に見るに足るものなく、日本画の内の写生画もまた見るに堪えないのである。
それは何ゆえであるか。
素人の考えではあるが、洋画の行き方で豊太閤の顔を描き出すことは、容易ではあるまい。いかに単純化した手法を用うるにしても、顔面のあらゆる筋肉や影や色を閑却しようとしない洋画家は、歴史上の人物の肖像を描き得るために、モデルを前に置いたと同じ明らかさをもって、想像の人間の顔を幻視し得ねばならぬ。このことは画家にとって非常な難事である。そうしてたといその困難に克ち得たとしても、彼はその労力に酬いられないことを感ずるだろう。なぜなら彼にとって、豊太閤という人物を十分に描き得たことと、自分の顔を完全に描き得たこととの間に、何らの重大な区別もないからである。この点において洋画は明らかにデモクラティックであって、題材の大小に煩わされることがない。しかし日本画は題材によって興味を呼び起こそうとする。有名な人物を描き得れば描き得るほど、何らか重大なことをなし得たような印象を与える。そうしてまたそれを描くことが洋画におけるほど困難でない。彼らは幻視し得ない点を省略して、ただ明らかに幻想し得る点のみを描くという巧妙な手法を心得ているのである。これは恐らく二千年の歴史を持った東洋画の伝統がしからしめるところであって、この特長を活用するところに日本画家の誇りも存するのであろう。洋画家の理想画や歴史画が幻想の不足のために滑稽に堕している間に、日本画家がこの方面である程度の成功を見せているのは、右のごとき事情にもとづくとも考えられる。
このことは歴史画のみならず、一般に複雑な情緒や事件を現わす画についても言える。ある特殊な情緒に動いている人間の顔などは、モデルに頼ることができぬ。実生活のあるきわどい瞬間に画家の眼に烙きついた印象を生かすほかはないのである。そうしてそれは洋画家にとって困難であるわりに、日本画家にとっては困難でない。もとより洋画家の内にもこの事に成功した名人は少なくないが、――そうして洋画によって成功した方が結果は偉大であると思うが、――少なくとも日本画家の方がより多くこの種の画題を選むだけ、それだけこのことが困難でないという印象を日本画家に与えているのである。
しかしこれらのことは直ちにまたその半面の事実をも暴露している。すなわち洋画家は手に合うものをしか描いていない。日本画家は手に合わぬものを弄んで、生命のない色と線の遊戯に堕する傾向を示している。
洋画家の自然に対する態度はとにかく謙遜である。ある者は自然の前に跪拝し、ある者は自然を恋人のごとく愛慕する。そうして常に自然から教わるという心掛けを失わない。しかし日本画家は自然に対してあたかも雇主のごとき態度を持している。ある気分、ある想念を現わすために、自然を使役し、時にはそれを非難することさえも辞せないのである。
もとより右の傾向には、双方ともに例外がある。しかし大体の観察としては誤らないと思う。洋画家が日本画家のような大きな画題を捕えないのは、一つには目前に在るものの美しさに徹するということが、十分彼らの心情を充たすに足る大事業であるためであり、二つには目前の自然をさえ十分にコナし得ないものが、歴史的な、あるいは超自然的な形象を描き得るはずもないからである。また日本画家が目前の自然に対して忠実でないのは、その浪漫的な素質のゆえに、目前の卑俗な形象よりも、歴史的に偉大な、思想的に豊富な、あるいは詩的に精練せられた形象の方を、より重大に、より美しく感ずるからである。そうしてまたその手法が、この目的にとって便利であるからである。
しかし両者の区別は、絵の具や画布などの相違の内に、もっと根本的に横たわっているのではないのか。僕は自ら絵の具の性質と戦った経験を有していないが、ただ鑑賞者として画に対する場合にも、この事を強く感ぜずにはいられない。油絵の具は第一に不透明であって、厚みの感じや、実質が中に充ちている感じを、それ自身の内に伴なっている。日本絵の具は透明で、一種の清らかな感じと離し難くはあるが、同時にまたいかにも中の薄い、実質の乏しい感じから脱れる事ができない。次に油絵の具は、その粘着力のゆえに、現実と取り組んで行くような、執拗な熱のある筆触の感じを出すことができる。日本絵の具はそれに反して、あくまでもサラサラと、清水が流れ走るような淡白さを筆触の特徴とするように見える。また色彩の上から言っても、油絵の具は色調や濃淡の変化をきわめて複雑に自由に駆使し得るが、日本絵の具は混濁を脱れるためにある程度の単純化を強要せられているらしく思われる。――これらの性質は直ちにまた画布の性質に反映して、その特質を一層強めて行く。洋画のカンバスと、絹あるいは金箔。荒いザラザラした表面と、細かいスベスベした、あるいは滑らかに光沢ある表面。
これらの相違がすでに洋画を写実に向かわしめ、日本画を暗示的な想念描写に赴かしめるのではないのか。
たとえば、日本画においては、ある一つの色で広い画面をムラなく塗りつぶすということは、非常に技巧の要る事だそうである。しかも日本画家はこの困難な仕事に打ち克とうと努力している。洋画にとっては、ムラなく単色に塗られた広い画面のごときは、美しいものの相反である。むしろ微妙な数限りのないムラがあればこそ、実在性の豊かな美しさが現われて来るのである。しかし日本絵の具で絹の上に、あるいは金箔の上に、洋画の静物の背景のようなムラのある塗り方をしたらどうなるだろう。それが不可能であることを承知していればこそ、日本画家はそれを避けるのではないか。そうして実際の印象とは縁の遠い、ムラのない単色の水面や板壁を描くことになるのではないか。すなわち画布や絵の具が写実を不可能にするゆえに、写実の代わりに、真実を暗示する色や線によって、ある気分、ある情緒を現わそうと努めるに至るのではないか。
しかし以上はただ一方からの観察である。現在の状況を基礎として考えればこうも見られるであろうが、希望を基礎として考えれば事情は非常に異なって来る。日本絵の具といえども胡粉を多量に使用することによって厚みや執着力を印象することは不可能であるまい。写実も思うままにやれるだろう。古い仏画の内にはこの事を確信せしむる二三の例がある。これらの仏画を眼中に置いて現在の日本画を見れば、その弱さと薄さ、その現実を逃避する卑怯な態度などにおいて、明らかに絵の具の罪よりも画家の罪が認められるのである。色彩のみならず線の引き方においても、リズムの貧弱な、ノッペリとした現在の線は、絵の具や筆の性質によるのではなくて、明らかに画家の性質によるのである。僕は法隆寺の壁画や高野の赤不動、三井寺の黄不動の類を拉しきたって現在の日本画を責めるような残酷をあえてしようとは思わない。しかし大和絵以後の繊美な様式のみが伝統として現代に生かされ、平安期以前の雄大な様式がほとんど顧みられていないことは、日本画を真に偉大な未来へ導くゆえんではあるまいと思う。黄不動の線を凝視せよ。赤不動の色を凝視せよ。ここに日本画を現在の浪漫主義から救う唯一の道がありはしないか。
僕は暗示的な描き方を排しようとするのではない。ただその狭い領域に立てこもることの危険を感ずるのである。
さて右のごとき問題を抱いて諸家の作品を遠くからながめる。川端竜子氏の『慈悲光礼讃』は、この問題に一つの解案を与えるものであるが、我々はこれを日本画の新しい生面として喜ぶことができるだろうか。薄明かりの坂路から怪物のように現われて来る逞しい牛の姿、前景に群がれる小さき雑草、頂上を黄橙色に照らされた土坡、――それらの形象を描くために用いた荒々しい筆使いと暗紫の強い色調とは、果たして「力強い」と呼ばるべきものだろうか。また自然への肉薄、あるいは自然への跪拝を印象すると言わるべきものだろうか。僕の受けた印象はただ絵の具を駆使し画面を塗り上げて行く大胆な力のみである。そこには技巧がある。看者を釣り込んで行こうとする戯曲家らしい狡計もある。しかし芸術家らしい直観も感情もほとんど認められない。画面全体の効果から言えば、氏の幼稚な趣味が氏の技巧を全然裏切っていると言っていい。『慈悲光礼讃』という画題は、氏がこの画を描こうとした時の想念を現わすものかどうかは知らないが、もしこの種の企図を持ってこの画を描いたとすれば、そこにすでに破綻がある。もとより僕は画家が想念の表現に努めることを排するのではないが、その想念がかくのごとく幼稚で概念的で、何らの深い感動や直観に根ざしていない以上は、むしろ持たぬ方がいいと思う。椿貞雄氏の『石橋のある景色』や、片多徳郎氏の『郊外にて』や、山脇信徳氏の『浮木に空』などは、自然の前に拝跪する心持ちのほかに、何の想念をも現わそうとしたものであるまい。しかし『慈悲光礼讃』という言葉をあてはめるならば、これらの画の方にはるかに多くその心持ちが現われているのである。これらの画は美しい。しかしそれは工まれ企てられた美しさではない。自然を父とし、画家の心臓を胎として生まれた天真の美しさである。僕はこれらの画に心を引かれる。しかし『慈悲光礼讃』からは何の感興をも受けない。むしろ池の面に浮かんだ魚の姿を滑稽にさえも思う。
小林古径氏が『いでゆ』によって僕の問題に与える答案は、はるかに興味の多いものである。この画は場中最も色の薄いもので、この点では竜子氏の画と両極をなしているが、しかし日本画として新しい生面を開こうとしていることは、同一だと言ってよかろう。『いでゆ』のねらう所は恐らく温泉のとろけるように陶然とした心持ちであろう。清らかに澄んだ湯に脚をひたして湯槽の端に腰をかけている女の、肉付きのいい肌の白い後ろ姿が、ほの白い湯気の内にほんのりと浮き出ている。その融けても行きそうな体は、裸に釣り合うように古風に結ばれた髪の黒さで、急にハッキリとした形に結晶する。湯のなかにはもう一人の女が、肩まで浸って、両手を膝の方へ伸ばして、湯のなかをでもながめ入っているらしい横顔を見せている。湯槽の向こうには肌ざわりのよさそうな檜の流し場が淡い色で描いてあり、正面の壁も同じように湯気に白けた檜の色が塗られている。右上には窓があって、その端のわずかに開いたところから、庭の緑や花の濃い色が、画面全体を引きしめるようにのぞいている。いかにも清楚で柔らかな感じを持った画である。
『いでゆ』を作者と同じ立場に立って批評すれば、第一に、温泉浴室の柔艶な情趣を生かし得た事において成功である。湯気のためにほの白くなった檜の色も、湯気に包まれてほのかに輝く女の体も、この情趣を画面にあふれ出させるには十分だと言っていい。次にこの画は、女の裸体を描き得たことにおいて成功である。デッサンが狂っていない。肉づきにも無理がない。ことに女の体の清らかな美しさを遺憾なく発揮した所は嘆賞に価する。第三に、日本画で現代の浴室を、しかも全裸の女を描き得たということは、一種の革新である。現代に題材を取っても、できるだけ詩的な、現代離れのしたものを選みたがる日本画家の中にあっては、確かに注目に価することに相違ない。第四に構図と色彩とが成功である。左右から内側へ曲げられた女の姿勢と、窓や羽目板の垂直の線と、浴槽の水平線と、――それで画が小気味よく統一せられている。さらに湯槽や、女の髪や、手や、口や、目や、乳首や、窓外の景色などに用いられた濃い色が色彩の単調を破るとともに、全体を引きしめる用をつとめている。湯の青色と女の体、女の体と髪の黒色、あるいは処々に散らばる赤、窓外の緑と檜の色、などの対照も、きわめて快い調和を見せている。濃淡の具合も申しぶんがない。――しかし難を言えば、どうも湯の色が冷たい。透明を示すため横線を並べた湯の描き方も、滑らかに重い温泉の感じを消している。それに湯に浸った女の顔が全体の気分と調和しない。あの首を前へ垂れた格好も(画の統一のため仕方がないとは思うが)、少し無理である。
しかし立場を換えてこの画に対すると、非難はこれだけではすまない。なるほどこの画は清らかで美しい。けれどもそれはあまりに弱々しく、あまりに単純ではないか。我々はこういう甘い快さで、深い満足が得られるか。あのような題材からただあれだけの美しさを抽出して来るのでは、あまりにのんきすぎはしないか。湯は色の好みのために温かさを無視せられている。女の体には湯に温まったという感じがまるでない。白い柔らかさは抽出せられているが、中に血の通っている、しなやかな、生に張り切った実質の感じは、全然捨て去られている。全体を漠然と描いておいて、処々に細かい描写を散らしてあるのも、暗示的な描き方ではあるが、抽象的に過ぎる。思うに画家の目ざすところは、色と形の配合によって温泉の情趣を浮かび出させるにある。描かれるものの性質を確実につかむことによって、いや応なしにそこに在るものを再現しようというのではない。冷たい温泉を描きながら、しかも浴室の気分を彷彿せしむるなどは、その証拠である。
これらの非難は『いでゆ』の画家にとっては迷惑なことに相違ない。なぜなら、画家があえて描くことを欲しなかったところを、その「欲しなかった」のゆえに非難せられるのだからである。あるいは、画家が好んでなしたところを、その「好んでなした」のゆえに非難せられるのだからである。従って非難は特にこの画家に当たるのではなく、この画家の態度を認容する現代日本画の手法そのものに当たるのだと承知していただきたい。
『いでゆ』が我々の目前の題材を深く突き込んで捕えたことは、確かに喜ぶべきことである。またそれが目前の題材から浪漫的な気分を取り出したことも、直ちに非難すべきではない。『いでゆ』は『いでゆ』として存立の意義があるだろう。しかしこの画によって日本画に新しい領土が切り開かれなかったことは、悲しむべきではなかろうか。もしこの画が現在の描き方で行けるところまで行き切ったものとすれば(僕はそう感ずるのであるが)、ここに画家の態度を変更する必要が示されているのである。これまでの日本画が欲しなかった所を欲し、これまでの日本画が好んだ所を捨てるという人が、竜子氏のほかにももう少し現われて来てよかろうと思う。それがない限り日本画の絵の具や筆は今以上の事をなさしめないだろう。それがあるとともに絵の具や筆は新しい能力を発揮するだろう。またしても僕は赤不動を思う。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「東京日日新聞」
1918(大正7)年9月12日~16日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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