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歌舞伎芝居や日本音曲は、徳川時代に完成せられたものからほとんど一歩も出られない。もし現在の日本に劇や音楽の革新運動があるとすれば、それは西欧の伝統の輸入であって、在来の日本が生み出したものの革新ではない。それに比べると日本画には内からの革新衝動があるように見える。たといそれが、世界的潮流に乗っている洋画家の努力から見て、時代錯誤の印象を与えずにはいない程度のものであるにしても、とにかく現代人の要求を充たすに足りる新生面の開拓の努力は喜ぶべきことである。
しかしこの十年来の革新の努力がどういう結果を生んだかという事になると、我々は強い失望を感ぜずにはいられない。美術院の展覧する日本画が明らかに示しているように、この革新は外部の革新であって内部のそれではないのである。
美術院展覧会を一覧してまず感ずることは、そこに技巧があって画家の内部生命がないことである。東洋画の伝統は千年の古きより一年前の新しきに至るまでさまざまに利用せられ復活せられて、ひたすら看衆の眼を奪おうと努めている。ある者は大和絵と文人画と御舟と龍子との混合酒を造ってその味の新しきを誇り、ある者はインドとシナの混合酒に大和絵の香味をつけてその珍奇を目立たせようとする。昔の和歌に巧妙な古歌の引用をもって賞讃を博したものがあるが、この種の絵もそういう技巧上の洒落と択ぶ所がない。自己の内部生命の表現ではなく、頭で考えた工夫と手先でコナした技巧との、いわばトリックを弄した芸当である。そうしてそのトリックの斬新が「新しい試み」として通用するのである。
目先の変更を必要としないほどに落ちついた大家は、自己の様式の内で何らか「新しい試み」をやる。主として画題選択の斬新であるが、時には珍しい形象の取り合わせ、あるいは人の意表にいづるごとき新しい図取りを試みる。しかしこれらの画家を動かしているものは、岡倉覚三氏の時代の自然観、芸術観であって、その手腕の自由巧妙なるにかかわらず、我らの心に深く触れる力がない。
文展の日本画を目安にして言えば、確かに院展の日本画には生気溌剌たる所があるかも知れない。しかし我々の要求するのはこの種の技巧上の生気ではない。奥底から滲み出る生命の生気である。この要求を抱いて院展の諸画に対する時、我らはその人格的香気のあまりにも希薄なのに驚かされる。たまたま強い香気があるとすれば、それはコケおどしに腐心する山気の匂いであり、筆先の芸当に慢心する凝固の臭いであって、真に芸術家らしい独自な生命燃焼の匂いではない。もしこの種の外形的な努力が反省なしに続けて行かれるならば、日本画は低級芸術として時代の進展から落伍する時機が来るであろう。
この危険を救うものは画家の内部の革新である。芸人をやめて芸術家となることである。
院展日本画の大体としての印象は右のごときものであった。もし二、三の幸福な例外がなかったならば、我々はこの日本画革新の急先鋒たる美術院に失望し尽くしたかもしれない。
例外の一は小林古径氏の『麦』である。氏は示唆的な日本画の手法をもって、麦の収穫に忙がしい農村の光景を写した。その結果が何であるとしても、とにかく氏の描くところには感情がこもっている。画面の上に芸当として並べられた線や色彩ではなくして、氏の心に渦巻くものを画面にさらけ出そうとするための線や色彩である。そうしてそこには、確かに、我々の心の一角に触れる淡い情趣が生かされている。すなわち牧歌的とも名づくべき、子守歌を聞く小児の心のような、憧憬と哀愁とに充ちた、清らかな情趣である。氏はそれを半ばぼかした屋根や廂にも、麦をふるう人物の囲りの微妙な光線にも、前景のしおらしい草花にも、もしくは庭や垣根や重なった屋根などの全体の構図にも、くまなく行きわたらせた。柔らかで細かい、静かで淡い全体の調子も、この動機を力強く生かせている。
このような淡い繊弱な画が、強烈な刺激を好む近代人の心にどうして響くか、と人は問うであろう。しかしその答えはめんどうでない。極度に敏感になった心には、微かな濃淡も強すぎるほどに響くのである、一方でワグナアの音楽が栄えながら他方でメエテルリンクの劇が人心をひきつけた事実は、今なお人の記憶に新しいであろう。静かな、聞こえるか聞こえないほどの声で、たましいの言葉を直接に語り出させようとするような、あのメエテルリンクの芝居が、耳を聾するようなワグナアの音楽にも劣らず人心を動かしたのは何ゆえであるか。それを知るものはただ調子の弱さをもってこの画を責むべきでない。
この画で問題になるのは、それが写生でありながら実は写実でない事である。といって自分は、この画に塗り残されたところが多いことをさすのではない。塗り残された未完成の画の示唆的なおもしろさ、それを巧妙に生かすのは日本画の伝統の著しい特徴であった。そこには多くの想像の余地が残される。不幸にもそれは堕落してごまかしの伝統を造ったが、それ自身には堕落した手法とは言えない。もし「意味深い形」を造る事が画の目的であるならば、思い切った省略もまた一法である。自分の問題にするのはそれではなくて、むしろ画家の対象に対する態度にある。小林氏は農村の風物を写生したかもしれない。しかし氏の描くところは、農村の風物によって起こされた氏自身の情緒であって、農村の風光そのものの美しさではない。もとより画家が自らの心を通して描く以上は、いかなる対象の美しさも画家自身の内にある美であって、「対象そのものの美しさ」とは言えないであろう。小林氏の感受した美が氏の描いた情趣と同一物であるならば、自分の言うごとき区別は立てられないかもしれない。が、事実問題として、ああいう美しさが六月の太陽に照らされたほの暑い農村の美しさのすべてであるとは言えないであろう。小林氏にしてもあれ以外に多くの色や光や運動の美しさを認めたであろう。しかし氏はその内から一の情趣をつかんだ。そうしてそれを描き出すに必要でないものはすべて省いてしまった。氏はこの情趣に焦点を置いて、この焦点をはずれたものを顧みない。この態度が、右のごとき焦点をきめずに、ありのままに感得した美を描いて、おのずからに情趣を滲み出させる態度と異なっている事は言うまでもなかろう。
もっと具体的に言えば、氏はその幾分浪漫的な感情を満足させるような景色でなければ描く気にならないのではないか。
もとより自分は、対象の写実が正路であって自己情緒の表現が邪路であると言い切るのではない。いずれもともに正しい道であろう。しかし自己の道がいずれであるかを明瞭に意識しておくことは必要である。小林氏はもちろんそれを意識しておられるであろうが、この意識によって手法上の迷いはかなりに解決せられるはずである。
氏が『麦』によってなしたところは、この方向に進むものとしては、あのままでいいのかもしれない。しかし自己の情緒を中心とする場合には、勢いその情緒の範囲の内に画が局限せられる恐れもある。従って一方には自己の情緒を深め、強め、あるいは分化させる必要が起こって来る。画の上で新境地を開拓するためにはまず内に新境地を開拓しなくてはならないのである。が、また他方では自然について学ぶということも一法であろう。すなわち情緒表現の道と並行して、純粋に写実に努力し、これまで閑却していたさまざまの自然の美を捕えるのである。宋画のある者に見られるような根強い写実は、決して情趣表現の動機から出たものではない。氏を浪漫的な弱さから連れ出すものは、おそらくこれらの方法のほかにあるまい。
いずれにしても小林氏が自己の直接な感情を画面に投げ出そうとしているのは感情のない画の多い院展日本画にとっては心強い。氏が『竹取物語』のごとき邪路に入らずに、ますます自己に忠実な画の製作に努められんことを祈る。
例外の二は川端龍子氏の『土』である。日本絵の具をもって西洋画のごとき写実ができないはずはない――この事実を氏は実証しようとしているかに見える。小林氏が写生を試みて写実にならなかったのとは著しい対照である。また小林氏ができ得るだけ静かな淡い調子を出しているに反して、この画はでき得るだけ強い烈しい調子を出している。もし手法の剛健を喜ぶならば、この画は新しい日本画として相当の満足を与えるであろう。
執拗な熱のある筆触、変化の多い濃淡、重厚な正面からの写実、――そういうものが日本画に望めるかどうか、それをかつて自分は問題にした。川端氏は黄熟せる麦畑の写実によってそれの可能を実証してくれた。昨年の『慈悲光礼讃』に比べれば、その観照の着実と言い対象への愛と言い、とうてい同日に論ずべきでない。
が、この実証は自分に満足を与えたとは言えない。自分はこの種の写実の行なわれないのを絵の具の罪よりもむしろ画家の罪に帰していた。画家にして試みればそれはできるはずである。しかしそれが『土』のようにできたとして、自分は喜ぶべきであるか。
実をいうと自分は、この画に対した時、画面の印象よりもまずその油絵風の筆触に眼を奪われたのである。そうしてその三色版じみた模倣に呆れたのである。しかし近よって子細に検すると、麦のくきや穂や葉などの、乾いてポキポキとした感じが、日本絵の具でなければ現わせない一種の確かさをもって描かれていた。黄いろい乾いた光沢なども、カンバスの上に油をもってしては、こうは現わせない。この画家の注意深い対象選択は確かに成功であった。また日本絵の具の性質をいかに活用すべきかもここに暗示せられている。が、こう思いながらも、さらに遠のいて観察すると、画面全体には光も空気も現われていない。個々の麦を描く場合に成功したことも、画の全体にとってはほとんど効果がない。写実として失敗である。
たとい川端氏が日本絵の具をもって油絵以上のことをなし得たとしても、それが部分的であって画として効果がないとすれば、自分は半ば喜ぶとともに半ば悲しまなくてはならない。そうしてこの失敗の原因を探るとき、自分はさらに悲しむべき事実に逢着する。それは西洋画家が普通の事としてやっている対象全体への有機的な注意の欠如である。
おそらくこの画は全体の構図と個々の麦の忠実な写生とからできたものであろう。従ってあの数多い麦は、かなり機械的な繰り返しをもって、ただ画面上の注意のみによって描かれたものであろう。個々の麦のおのおのに画家の初発的な注意や感情がこもっているとは、どうしても感ぜられない。いわんやあの麦畑の全体を直観した時の画家の感じは、全然閑却せられているように見える。これは写実の画にとってはその生気を失う最大の原因となるであろう。
川端氏の画は日本画としては確かに一つの新生面である。しかし同じ道においてすでにはるかに高い所を油絵が歩いているとすれば、せっかくの新生面も安んずるに足りない。氏がこの道の上をさらに遠く高く進んで行かれる事は、我々の楽しい期待の一つである。
真道黎明氏の『春日山』は川端氏の画と同じく写実の試みであって、さらに多くの感情を現わし得たものである。柔らかい若葉の豊かな湧き上がるような感触は、――ただこの感触の一点だけは、――油絵の具をもって現わし難いところを現わし得ているように思われる。また川端氏の画と違って光や空気に対する注意も幾分か現わされているようである。しかし若葉を緑色の塊として現わそうとする一本調子なもくろみが、あまりにも単純な自然の観照を暴露している。そうしてここにも機械的な繰り返しが、画面の単調と希薄とを感じさせるのである。特に画の下方のうるさいほどな緑塊重畳においてそうである。
この画もまた川端氏の画と同じく遠のいて見る時に平板に感ぜられる。画面の前二尺か三尺のところに立つ時、初めて画家の努力が残りなく眼にはいって来るのである。これはおそらく絵の具の関係であろう。もしくはこの絵の具を写実に使う習練の不足によるのであろう。写実の歩を進めるとすれば、この点も考慮せられなくてはならぬ。
が、この画家には川端氏のごとき山気がない。素直にその感じを現わそうとする芸術家的ないい素質がある。先輩の手法を模倣して年々その画風を変えるごとき不見識に陥らず、謙虚な自然の弟子として着実に努力せられんことを望む。
――例外の一と二とに現われた二つの道が日本画を救い得るかどうか。それは未来にかかった興味ある問題である。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央美術」
1919(大正8)年10月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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この問題を考えるには、まず応仁の乱(一四六七―一四七七)あたりから始めるべきだと思うが、この乱の時のヨーロッパを考えると、レオナルド・ダ・ヴィンチは二十歳前後の青年であったし、エラスムス、マキアヴェリ、ミケランジェロなどはようやくこの乱の間に生まれたのであるし、ルターはまだ生まれていなかった。ポルトガルの航海者ヘンリーはすでに乱の始まる七年前に没していたが、しかしアフリカ回航はまだ発展していなかった。だからヨーロッパもまだそんなに先の方に進んで行っていたわけではない。むしろこれから後の一世紀の進歩が目ざましいのである。シャビエルが日本へ来たのも、乱後七、八十年であった。
応仁の乱以後日本では支配層の入れ替えが行なわれた。それに伴なう社会的変動が、思想の上にも大きく影響したはずである。しかしそういう変動を問題とするためには、その変動の前の室町時代の文化というものが、一体どういうものであったかを、はっきりと念頭に浮かべておかなくてはならぬ。
原勝郎氏はかつて室町時代は日本のルネッサンスの時代であると論じたことがある。日本の独自の文化であると考えられる平安朝の文化が、鎌倉時代の武家文化に覆われていた後に、ふたたびここで蘇生して来ているからである。この見方はなかなか当たっていると思われる。室町時代の文化を何となく貶しめるのは、江戸幕府の政策に起因した一種の偏見であって、公平な評価ではない。我々はよほどこの点を見なおさなくてはなるまいと思う。
室町時代の中心は、応永(一三九四―一四二八)永享(一四二九―一四四一)のころであるが、それについて、連歌師心敬は、『ひとり言』の中でおもしろいことを言っている。元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年(一四六八)に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世に万の道すたれ果て、名をえたる人ひとりも聞え侍らぬにて思ひ合はするに、応永の比、永享年中に、諸道の明匠出うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永享時代の讃美を聞いたことはかつてなかった。それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられない。心敬は猿楽の世阿弥(一三六三―一四四三)を無双不思議とほめているが、我々から見ても無双不思議である。能楽が今でも日本文化の一つの代表的な産物として世界に提供し得られるものであるとすれば、その内の少なからぬ部分の創作者である世阿弥は、世界的な作家として認められなくてはなるまい。のみならず世阿弥は、能楽に関する理論においても、実に優秀な数々の著作を残しているのである。また心敬は、絵かきの周文を、最第一、二、三百年の間に一人の人とほめている。周文は応永ごろの人であるが、彼の墨絵はこの時代の絵画の様式を決定したと言ってもよいであろう。そうしてこの墨絵もまた、日本文化の一つの代表的な産物として、世界に提供し得られるものである。もっとも、絵画の点では、雪舟(一四二〇―一五〇六)が応仁のころにもうシナから帰朝していたので、「絵かきの道すたれ果て」とは言えぬのであるが、しかし彼の名はまだ心敬には聞こえていなかったかもしれぬ。禅においては、一休和尚(一三九四―一四八一)がこの時にまだ生きていた。心敬はこの人を、行儀、心地ともに独得の人としてほめている。よほど個性の顕著な人であったのであろう。そうしてこの禅の体得ということも、日本文化の一つの特徴として、今でも世界に向かって披露せられている点である。そうしてみると、これらの三つの点だけでも、応永時代は延喜時代よりも重要だと言わなくてはなるまい。
もっとも、この三つの点以外であげられている名人は、我々にはちょっと歯の立たない連中である。詩人では南禅寺の惟肖和尚が、二、三百年このかた、比べるもののない最一の作者とされている。平家がたりでは、千都検校が、昔より第一のもの、二、三百年の間に一人の人である。碁うちでは、大山の衆徒大円。早歌では、清阿、口阿。尺八では、増阿。いずれもその後に及ぶもののない無双の上手とされている。我々には理解のできない問題であるが、諸道の明匠が雲のごとく顕われていた応永、永享の時代を飾るに足る花なのであろう。
ところで、そういう時代の思想界から誰を代表者として選ぶかということになると、やはり一条兼良(一四〇二―一四八一)のほかはないであろう。兼良は応永九年の生まれで、応永時代の代表者としては少しく遅いが、しかしそれでも応永の末には右大臣、永享四年には関白となっている。この時にはすぐにやめたが、十五年後四十五歳の時にふたたび関白太政大臣となり、さらに六十五歳の時三度関白となった。しかしそういう地位からばかりでなく、その学識の点において、応永、永享の時代を代表するに足りるであろう。彼の眼界は、日本、シナ、インドの全体にわたり、仏教哲学、程朱の学、日本の古典などにすべて通じている。著書も多く、当時の学問の集大成の観がある。したがって思想傾向も、一切を取り入れて統一しようという無傾向の傾向であって、好くいえば総合的、悪く言えば混淆的である。その主張を一語でいうと、神儒仏の三者は同一の真理を示している、一心すなわち神すなわち道、三にして一、一にして三である、ということになるであろう。
この兼良が晩年に将軍義尚のために書いた『文明一統記』や『樵談治要』などは、相当に広く流布して、一般に武士の間で読まれたもののように思われるが、その内容は北畠親房などと同じような正直・慈悲の政治理想を説いたものである。この思想は正義と仁愛との相即を中核とする点において特徴のあるものであるが、しかし日本では古くから成立していたものであって、この時代に限った現象ではない。この時代として特に注目せらるべき点は、武家の権力政治が数世紀にわたって行なわれた後に、なおこのような王朝時代の政治理想が依然として説かれている点である。これは最初に言及したルネッサンスとしての意義にも関係しているであろう。同じ兼良が将軍義尚の母、すなわち義政夫人の日野富子のために書いた『小夜のねざめ』には、このことが一層明白に現われている。この書もこの後の時代に広く読まれたようであるが、その内容は人としての教養の準則を説いたものである。自然美を十分に味わうべきこと、文芸を心の糧とすべきこと、その文芸も『万葉集』、『源氏物語』のごとき古典に親しむべきこと、連歌や歌の判のことなども心得べきこと、などを説いた後に、実践の問題に立ち入って、人を見る明が何よりも大切であることを教えている。全然王朝の理想によって教養を作ろうとしたものである。
こういう点においても明らかなように、兼良は応永、永享の精神を代表したものであって、応仁以後の時代の精神には全然他人であると言ってよい。彼は応仁乱後数年まで生きていたのであり、『樵談治要』なども乱後に書いたものであるが、しかし彼が新しい時代に対して抱いたのはただ恐怖のみであって、新しい建設への見通しでもなければ、新しい指導的精神の思索でもなかった。『樵談治要』のなかに彼は「足軽」の徹底的禁止を論じている。足軽は応仁の乱から生じたものであるが、これは暴徒にほかならない。下剋上の現象である。これを抑えなければ社会は崩壊してしまうであろう、というのである。彼は民衆の力の勃興を眼前に見ながら、そこに新しい時代の機運の動いていることを看取し得ないのであった。正長、永享の土一揆は彼の三十歳近いころの出来事であり、嘉吉の土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰は、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが、彼にとってはそれはただ悲しむべき秩序の破壊にすぎなかったであろう。今やその民衆の力が、軍隊の主要部を形成するに至った。それが足軽である。だから彼は社会の崩壊を怖れたのである。
以上のごとく、応永、永享の精神から見れば、応仁以後の時代は下剋上の時代、秩序なき時代、社会崩壊の時代であった。この新しい時代を代表するものは、(一)政治化した土一揆や宗教一揆に現われているような民衆の運動、(二)足軽の進出に媒介せられた新しい武士団の勃興、ひいては群雄の勃興である。ここではまず第一の民衆に視点を置いて、その中にどういう思想が動いていたかを問題としよう。
応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化して来た。文明十七年(一四八五)の山城の国一揆、長享二年(一四八八)の加賀の一向一揆などはその著明な例である。これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。
このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も直接に反映したものとして取り扱ってよいであろう。民俗学者が問題としているような民間の説話で、ただこの時代の物語にのみ姿を見せているもののあることを考えると、この時代の物語の民衆性は疑うことができない。ただしかし、それらの物語を特に応仁以後の時代の製作として確証し得るかどうかは疑問である。中にはもっと古い時代の写本が見いだされているものもある。しかしそれらの物語がさかんに書写され、したがってさかんに受用されたのが、室町末期であったことは、認めてよいであろう。その限り我々は、これらの物語において応仁以後の時代の民衆の心情に接し得るのである。
さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。
その一つは『熊野の本地』である。これは日本の神社のうちでも最も有名なものの一つである熊野権現の縁起物語であるから、その流布の範囲はかなり広汎であったと考えなくてはならない。ところでそこに語られているのは、熊野に今祀られている神々が、もとインドにおいてどういう経歴を経て来たかということなのである。したがってそこには、インドのマガダ国王の宮廷に起こった出来事が物語られている。しかもそこに描かれている世界は、衣裳、風俗から役人の名に至るまで、全然『源氏物語』ふうであって、インドを思わせるものは何もないのである。
女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直前にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。王子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経過を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴なって、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んで来た。これが熊野三所の権現だというのである。
この物語では、女主人公の苦難や、首なくしてなおその乳房で嬰児を養っている痛ましい姿が、物語の焦点となっているが、しかしこの女主人公自身が熊野の権現となったとせられるのではない。ただ首なき母親に哺育せられた憐れな太子と、その父と伯父とのみが熊野権現になるのである。しかるに同じ『熊野の本地』の異本のなかには、さらに女主人公自身を権現とするものがある。そのためには女主人公が首を切られただけに留めておくわけに行かない。首なき母親に哺育せられた新王は、この慈悲深い母妃への愛慕のあまりに、母妃の蘇りに努力し、ついにそれに成功するのである。そうして日本へ飛来する時には母妃をも伴なってくる。だから首なくしてなおその乳房で嬰児を養っていた妃が熊野の権現となるのである。ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。
ところでこの苦しむ神、蘇る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名な点において熊野に劣らない厳島神社の神もまた同じような物語を背負っている。『厳島の縁起』がそれである。ここでも物語の世界はインドであり、そうしてそれが同じように『源氏物語』ふうに描かれているのであるが、しかし話の筋はよほど違っている。宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪を寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。そこでこの妃のその後の運命を語る段になると、話は俄然『熊野の本地』に一致してくる。父王の千人の妃たちの憎悪と迫害がこの新王の美しい妃に集まり、妃を孤立させるために相人を利用して新王を遠い地方へ送り出してしまう。守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語られるのである。しかし新王が十二年の旅から帰って来て妃の運命を知った時には、話はまた違ってくる。新王はただ一人で妃の探索に出かけ、妃の夢の告げによって山中で妃の白骨と十二歳になった王子とを見いだすのである。そこで不老上人に乞うて妃を元の姿に行ないかえしてもらうということが、話の本筋にはいってくる。妃の蘇りにとって障げとなったのは、妃の首の骨がないことであった。王子はその首の骨を取り返すために宮廷に行き、祖父の王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討ったのち、母妃の首の骨を見つけ出して来た。それによって美しい妃の蘇りが成功する。この蘇った妃と、その首なきむくろに哺まれた王子と、父の王と、それが厳島の神々なのである。苦しむ神、死んで蘇る神は、ここでは一層顕著であるといわなくてはならぬ。
わたくしはこういう物語がどういう源泉から出て来たかは知らないのである。物語の世界がインドであるところから、仏典のどこかに材料があるかとも思われるが、しかしまださがしあてることができぬ。物語自体の与える印象では、どうも仏典から来たものではなさそうである。死んで蘇る妃は、「十二ひとへにしやうずき、紅のちしほのはかまの中をふみ、金泥の法華経の五の巻を、左に持たせ給ふ」などと描かれている。これは全然日本的な想像である。のみならず、苦しむ神の観念は、仏典と全然縁のないらしい、民間説話に基づいた物語のなかにも現われている。そうなるとこの観念は、日本の民衆の中から湧き出て来たと考えるほかないのである。
民間説話に題材を取ったらしい物語のなかで、最も目につくのは、伊予の三島明神の縁起物語『みしま』である。この明神はもと三島の郡の長者であった。四万の倉、五万人の侍、三千人の女房を持って、栄華をきわめていたが、不幸にして子がなかった。で、北の方のすすめにしたがって、長谷の観音に参籠し、子をさずけられるように祈った。三七日の夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らしを始める。ある朝女房は、玉王を背負うて磯の若布を拾いに出たが、赤児を岩の上にでも落としてはという心配から、砂の上に玉王をおろして、ひとりで若布拾いにかかった。そのすきに鷲が舞いおりて、玉王をさらって飛び去った。母親は「四万の倉の宝に代へて儲けたる子を、何処へ取り行くぞや」と言って追いかけたが、鷲は四か国の境の山岳の方へ姿を消してしまった。長者夫妻は非常な嘆きに沈んで、鷲が飛んで行ったその深山の中へ、子をさがしに分け入った。
玉王をさらった鷲は、阿波の国のらいとうの衛門の庭のびわの木に嬰児をおろして、虚空に飛び去った。衛門は子がなかったので、美しい子を授かったことを喜び、大切に育てた。すると玉王の五歳の時、国の目代がこのことを聞いて、自分も子がないために、無理に取り上げて自分の手もとに置いた。七歳の時にはさらに阿波の国司がこのことを聞いて、目代から玉王を取り上げ、傍を離さず愛育したが、十歳の時、みかどがこれを御覧じて、殿上に召され、ことのほか寵愛された。十七の時にはもう国司の宣旨が下った。ところが筑紫へ赴任する前に、ある日前栽で花を見ていると、内裏を拝みに来た四国の田舎人たちが築地の外で議論するのが聞こえた。その人たちは玉王を見て、あれはらいとうの衛門の子ではないかと言って騒いでいたのである。玉王はそれを聞いて、自分が鷲にさらわれた子であることを知った。で、みかどに乞うて四国の国司にしてもらい、ほんとうの親の探索にかかった。まず阿波の国に行って衛門に逢い、子を鷲にさらわれた者を探したが、一人もなかった。ついで伊予の国に行って、法会にこと寄せて二十歳以上の人々を集め、同じく子を鷲にとられた者を調べたが、ここでもわからなかった。そこで玉王はいら立って、老年のために出頭しない者があるならば、引き出物をしても連れて来いと命じた。そのとき、四か国の境の山中に、世を離れて住んでいる老人夫婦があることを言い出したものがあった。それが取り上げられて、ついに探索隊が派遣された。
探索隊は深い山の中をさがし回って、ようやく老夫婦を見いだしたが、その老夫婦は、この十七年来人に逢ったことわずかに二度であると語り、浮世に出て来ることを肯じなかった。探索隊の役人たちは、やむなく老夫婦を縛り上げ、笞うち、責めさいなんで、山から引きずりおろして来た。里に出て宿を取るときには、逃亡を怖れて老夫婦に磨り臼を背負わせた。老夫婦の受けた苦難はまことに惨憺たるものであったが、物語は特にその苦難を詳細に描いている。それは玉王の前に連れ出されたときの親子再会の喜びをできるだけ強烈ならしめるためであろう。しかも作者は、この再会の喜びをも、実に注意深く、徐々に展開して行くのである。まず玉王は、連れ込まれて来た老夫婦をながめて、それらを縛り上げている役人たちをしかりつけ、急いでその縄を解かせる。そうしてこの寛仁な国司が十七年前に鷲にさらわれた愛子であることを、一歩ずつ老夫婦に飲み込ませて行く。それに伴なって老夫婦は徐々に歓喜の絶頂に導かれて行くのであるが、それはまた読者にとっても歓喜の絶頂となるのである。
三島の明神とはこの苦難を味わった長者のことである。長者の妻もまた讃岐の国の一の宮として祀られている。我々はここにも苦しむ神の類型を見ることができるであろう。物語の作者は、長者夫婦が愛児を失った時の悲嘆や、山から無理やりに連れ出されてくるときの苦しみを、特に力を入れて描写している。それはこの神々を苦しむ神として示そうとする意図を作者が持っていることの明らかな証拠である。そういう意図が、日本の民間説話である長者伝説を材料として、非常に力強く表現せられているところを見ると、苦しむ神の観念が日本の民衆のなかから湧き出て来たと考えても、あまり行きすぎではないように思われる。
このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。
民衆のなかに右のような思想が動いていたとして、次に第二に、新興武士階級においてはどうであったであろうか。
新興武士階級も武力をもって権力を握ろうとする点において旧来の武士階級と異なったものではないが、しかし応仁以前の伝統的な武家とは一つの点においてはっきりと違うのである。それは旧来の武家が伝統の上に立っていたのに対して、新しい武家が実力の上に立っているという点である。鎌倉時代の幕府政治を作り出した武家は、「源氏」というごとき由緒の上に立っていた。武家の棟梁とその家人との関係が、全国的な武士階級の組織の脊梁であった。そうして初めは、彼らの武力による治安維持の努力が実際に目に見える功績であった。しかし後にはただ特権階級として、伝統の特権によって民衆の上に立っていたのである。しかし民衆運動が勃興して後には、由緒の代わりに実力が物をいうようになった。単なる家柄の代わりに実際の統率力や民衆を治める力が必要となったのである。だから政治的才能の優れた統率者が、いわゆる「群雄」として勃興して来た。彼らを英雄たらしめたのは、民衆の心をつかみ得る彼らの才能にもよるが、また民衆の側の英雄崇拝的気分にもよるのである。
群雄のうち最も早いものは、北条早雲である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方から一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌が起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山南麓の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲の関東制覇の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。
北条早雲の成功の原因は、戦争のうまかったことにもあるかもしれぬが、主として政治が良かったことにあるといわれている。特に政道に私なく、租税を軽減したということが、民衆の人気を得たゆえんであろう。その具体的な現われは、小田原の城下町の繁盛であった。それは京都の盛り場よりも繁華であったといわれているが、戦乱つづきの当時の状況を考えると、実際にそうであったかもしれない。
この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という掟書が残っているが、これはその内容の直截簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのであるが、しかしその正直を説く態度のなかに、前代に見られないような率直さ、おのれを赤裸々に投げ出し得る強さが見られると思う。「上たるをば敬ひ、下たるをばあはれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのまゝなる心持、仏意冥慮にもかなふと見えたり」とか、「上下万民に対し、一言半句もうそを云はず、かりそめにもありのまゝたるべし」とかという場合の、ありのままという言葉に現わされた気持ちがそれである。虚飾に流れていた前代の因襲的な気風に対して、ここには実力の上に立つあけすけの態度がある。戦国時代のことであるから、陰謀、術策、ためにする宣伝などもさかんに行なわれていたことであろうが、しかし彼は、そういうやり方に弱者の卑劣さを認め、ありのままの態度に強者の高貴性を認めているのである。そうしてまたそれが結局において成功の近道であったであろう。
なお早雲の掟には、禅宗の影響が強く現われている。彼のありのままを説く思想の根柢はたぶん禅宗であろう。部下の武士たちへの訓戒もそこから来ているのであって、武術の鍛錬よりも学問や芸術の方を熱心にすすめているのは、そのゆえであろう。力をもって事をなすは下の人であり、心を働かして事をなすのが上の人であるとの立場は、ここにもうはっきりと現われていると思う。
早雲と同じころに擡頭した越前の朝倉敏景も注目すべき英雄である。朝倉氏はもと斯波氏の部将にすぎなかったが、応仁の乱の際に自立して越前の守護になった。そうして後に織田信長にとっての最大の脅威となるだけの勢力を築き上げたのである。『朝倉敏景十七箇条』は、「入道一箇半身にて不思議に国をとりしより以来、昼夜目をつながず工夫致し、ある時は諸方の名人をあつめ、そのかたるを耳にはさみ、今かくの如くに候」といっているごとく、彼の体験より出たものであるが、その中で最も目につくのは、伝統や因襲からの解放である。人事については家柄に頼らず、一々の人の器用忠節を見きわめて任用すべきことを力説している。戦争については、吉日を選び、方角を考えて時日を移すというような、迷信からの脱却を重大な心掛けとして説いている。その他正直者の重用を説き、理非を絶対に曲げてはならないこと、断乎たる処分も結局は慈悲の殺生であることなどを力説しているのも、目につく点である。我々はそこに、精神の自由さと道義的背景の硬さとを感じ得るように思う。
やや時代の下るもののうち注目すべきは、『多胡辰敬家訓』である。これはたぶんシャビエルが日本へ渡来したころの前後に書かれたものであろう。多胡辰敬は尼子氏の部将で、石見の刺賀岩山城を守っていた人であるが、その祖先の多胡重俊は、将軍義満に仕え、日本一のばくち打ちという評判を取った人であった。後三代、ばくちの名人が続いたが、辰敬の祖父はばくちをやめ、応仁の乱の際に京都で武名をあげたという。辰敬の父も「近代の名人」と評判されたが、実際はばくちをきらっていた。『辰敬家訓』として述べるものも、実はこの父の教訓にほかならない。辰敬自身は、青年時代以来諸国を放浪して歩いたが、その間に、「力を以て事をなすは下の人、心を働かして心にて事をなすは上の人」と悟ったのである。悟ってみると父の教訓がしみじみと思い出されて来る。で、心を正直に持ち、ついに身を立てることができたのであった。
辰敬はこの体験にもとづいて、学問の必要を何よりも強く力説している。したがってこの家訓は、学問と道理とに対する関心のもとに、主として学問の心得を説いたものだといってよいのである。
まず初めに手習い学問の勧めを説き、「年の若き時、夜を日になしても手習学文をすべし。学文なき人は理非をもわきまへ難し」と言っているが、ここで勧められているのは、文芸を初め諸種の技芸である。しかもその勧めは、前にあげた兼良の『小夜のねざめ』と同じく、平安朝の文芸を模範とした教養の理想のもとに立っているのである。それを説いているのが戦国末期の勇猛な武士であるというところに、我々は非常な興味を覚える。
が、『辰敬家訓』の一層顕著な特徴は、「算用」という概念を用いて合理的な思惟を勧めている点である。彼はいう、「算用を知れば道理を知る。道理を知れば迷ひなし」。その道理というのは、自然現象の中にあるきまりを意味するとともに、また人間の行為を支配する当為の法則をも意味している。しかもその後者を考えるに際して、かなり綿密である。たとえば人間の道理の一例として、彼は、「身持が身の程を超えれば天罰を蒙る」という命題をかかげる。これはギリシア人などが極力驕慢を警戒したのと同じ考えで、ギリシアにおいても神々の罰が覿面に下ったのである。しかし彼はそのあとへ、「位よりも卑下すれば、我身の罰が当る」と付け加えている。自敬の念を失うことは、驕慢と同じく罰に価するのである。ここに我々は、実力格闘の体験のなかから自覚されて来た人格尊重の念を看取することができるであろう。彼はこういう道義的反省をも算用と呼んだのであった。家の中で非常に親しくしている仲であっても、公共の場所では慇懃な態度をとれとか、召使は客人の前では厳密に規律を守らせ、人目のない時にいたわってやれとか、というような公私の区別も、彼にとって算用であった。人を躾けるやり方についても、小さい不正の度重なる方が、まれに大きい不正を犯すよりは重大である、ということを見抜くのは、やはり算用である。大なるとがはまれであるが、小なるとがは日々に犯されるゆえに、ほっておけば習性になる。だから大きいとがは人によって許してよいが、小さいとがは決して許してはならないのである。こういう算用を戦国武士が丹念にやっていたということは、注目に価すると言ってよいであろう。
以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかもしれぬが、しかしここに指導的な思想があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうと肯ける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。
以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。
そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『甲陽軍鑑』に非常に興味を持つのである。
この書は、それ自身の標榜するところによると、武田信玄の老臣高坂弾正信昌が、勝頼の長篠敗戦のあとで、若い主人のために書き綴ったということになっている。内容は、武田信玄の家法、信玄一代記、家臣の言行録、山本勘助伝など雑多であるが、書名から連想せられやすい軍法のことは付録として取り扱われている程度で、大体は道徳訓である。この書がもしその標榜する通りに成立したものであるならば、『多胡辰敬家訓』などと同じ古さのものとして取り扱われなくてはならないが、しかしそれに対する批判はすでに十八世紀の初め、宝永のころから行なわれているのであって、それによると著者は、江戸時代初期の軍学者小幡勘兵衛景憲(一五七二―一六六三)であろうと推定されている。景憲の祖父小幡山城は、信玄の重臣で、『軍鑑』の著者に擬せられている高坂弾正とともに川中島海津城を守っていた。弾正の没した時には景憲はようやく七歳であったが、事によると弾正の面影をおぼろに記憶していたかもしれない。景憲が弾正に仮託してこの書を書いたことには何かそういう根拠があるであろう。武田氏は景憲十一歳の時に亡んだのであるが、景憲の父の世代に属する武田の遺臣のうちには家康の旗下についたものが多く、景憲はそれらの人たちからいろいろなことを聞いたであろう。書いた時期は慶長の末ごろ、十七世紀の初めと推定せられている。
この書を通読すれば、おそらく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。(一)は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。(二)は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘助の子の禅僧が書き残した記録を材料としたであろうと思われる。(三)は石清水物語と呼ばれている部分で、信玄や老臣たちの語録である。これは古老の言い伝えによったものらしいが、非常におもしろい。(四)は軍法の巻で、何か古い記録を用いているであろう。(五)は公事の巻で、裁判の話を集録しているが、文章は(一)に似ている。(六)は将来軍記で、これも(一)に似ている。(五)と(六)を(一)に合併すれば、大体は四つの部分になる。
『甲陽軍鑑』がこれらの部分において語っていることは、非常に多種多様であるが、しかしそれを貫いて一つの道徳的理想が動いているように思われる。軍法の巻においてさえも、その主要な関心は、戦術や戦略の末ではなくしてその「もと」を探ることにあった。よき軍法の「もと」はよき采配である。よき采配のもとはよき法度である。よき法度のもとは正直・慈悲・智慧である。これが軍法の原理なのである。そういう着眼であるから、信玄の一代記にしても、戦国武士の言行録にしても、道徳的訓戒としての色彩が非常に濃い。
ここにはその一例として、「命期の巻」(巻三―巻六)にある「我国をほろぼし我家をやぶる大将」の四類型をあげてみよう。
第一は、ばかなる大将、鈍過ぎたる大将である。ここでばかというのは智能が足りないということではない。才能すぐれ、意志強く、武芸も人にまさっている、というような人でも、ばかなのがある。それはうぬぼれのある人である。「我することをば何れをも能きこととばかり思ふ」人である。こういう人は下の者に智慧を盗まれる。というのは、おだてにのって、自分で善悪の判断をすることができなくなるのである。したがってますますばかになる。
もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはならない。賢明な大将は、事のよしあしは自分で判断する。したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、我への馳走、時の挨拶と心得る」。しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらいしかないであろう。大部分は軽薄をいうのが通例である。それを心得ていないで怒るというのは、ばかというほかはない。
大将がばかであるゆえに起こってくる結果は、同じようなばか者を重用するということである。そのばか者がまた同じようなばか者に諸役を言いつける。したがって家中で「馳り廻るほどの人」は、皆たわけがそろってしまう。そのたわけを家中の人が分別者利発人とほめる。ついに家中の十人の内九人までが軽薄なへつらい者になり、互いに利害相結んで、仲間ぼめと正直者の排除に努める。しかも大将は、うぬぼれのゆえに、この事態に気づかない。百人の中に四、五人の賢人があっても目にはつかない。いざという時には、この四、五人だけが役に立ち、平生忠義顔をしていた九十五人は影をかくしてしまう。家は滅亡のほかはないのである。
第二は、利根すぎたる大将である。利害打算にはきわめて鋭敏であるが、賢でも剛でもない。「大略がさつなるをもつて、をごりやすうして、めりやすし」。好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に立つ。自分の独創を見せたがり、人まねと思われまいという用心にひきずられる。他をまねる場合でも、「人見せ善根」になってしまう。
こういう大将は、地下の分限者、町人などにうまく付けこまれる。やがて、家風が町人化し、口前のうまい、利をもって人々を味方につける人が、はばを利かしてくる。百人の内九十五人は町人形儀になり、残り五人は、人々に悪く言われ、気違い扱いにされて、何事にも口が出せなくなる。五人のうち三人は、ついに町人形儀と妥協し、あと二人はその家を去る。こうしてこの家中は、家老より小者に至るまで、意地ぎたない、人を抜こうとするような気風になってしまう。
第三は、臆病なる大将である。「心愚痴にして女に似たる故、人を猜み、富める者を好み、諂へるを愛し、物ごと無穿鑿に、分別なく、無慈悲にして心至らねば、人を見しり給はず」というような、心の剛さを欠いた、道義的性格の弱い人物である。したがって彼は、義理にしたがって動くのではなく、外聞を本にして動く。たとえば、けちだと言われまいと思って知行を多く与える類である。強い大将ならば、必要あって物を蓄える時には、貪欲と言われようと、意地ぎたないと言われようと、頓着しない。知行は人物や忠功を見て与えるのであって、外聞とかかわりはない。
外聞によって動くような臆病な大将の下では、軽佻な、腹のすわらぬ人物が跋扈する。彼らは口先で人を言い負かそうとするような、性格の弱い、道義的背骨のない人物であって、おのれより優れたものを猜み、劣ったものを卑しめる。このそねみと卑しめとは、他に対する批判と厳密に区別されなくてはならない。法螺ふきをそしるとか、自慢話を言いけすとかというのは、正当な批判であって、そねみや卑しめではない。そねむのは優れた価値を引きおろすことであり、卑しめるのは人格に侮蔑を加えることであって、いずれも道義的には最も排斥さるべきことである。
第四は、強すぎたる大将である。心たけく、機はしり、大略は弁舌も明らかに物をいい、智慧人にすぐれ、短気なることなく、静かに奥深く見えるのであるが、しかし何事についてもよわ見なることをきらう。この一つの欠点のゆえに、いろいろな破綻が生じてくるのである。家老は大将のこの性格をはばかって、その主張しようとする穏健な意見を、十分に筋を通して述べることができぬ。したがって不徹底、因循に見える。大将はそれを不満足に感ずる。そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれを煽り立てて行く。その結果、大将は、智謀を軽んじ、武勇の士をことごとく失ってしまうことになる。なぜかと言えば、侍のうち、「剛強にして分別才覚ある男」は、上の部であるが二%にすぎず、「剛にして機のきいたる男」は、中の部であるが六%にすぎず、「武辺の手柄を望み、一道にすく男」は、下の部であっても一二%にすぎず、あと八〇%は「人並みの男」に過ぎないのであるが、強すぎた大将の下では、上中下の二〇%の武士を戦死させ、人並みの猿侍のみが残ることになるからである。こういう場合には、八〇%が残っていても、全滅と変わりはない。
以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔を尚ぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬の立場において、卑しさそのものを忌み貴さそのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。
この道徳の立場は、「敵を愛せよ」という代わりに「敵を敬せよ」という標語に現わし得られるかもしれない。「信玄家法」のなかに、敵の悪口いうべからずという一項がある。敵をののしることによって敵を憤激させれば、それだけ敵が強まることになって損である、という利害打算もあるいは含まれているのかもしれぬが、しかし根本にある考えは、尊敬し得ないようなものは敵とするに価しない、敵に取ったということは尊敬に価する証拠であるというにあるであろう。そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。
慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康の新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺戟であったと思われる。
秀吉がキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年(一五九三)に、当時五十二歳であった家康は、藤原惺窩を呼んで『貞観政要』の講義をきいた。五十八歳の秀吉が征明の計画で手を焼いているのを静かにながめながら、家康は、馬上をもって天下を治め得ざるゆえんを考えていたのである。だから五年後に家康が政権を握ったときには、彼は、秀吉が征明の役を起こした時と同じ年齢であったが、秀吉とは全然逆に、学問の奨励をもっておのれの時代を始めたのである。慶長四年(一五九九)の『孔子家語』、『六韜三略』の印行を初めとして、その後連年、『貞観政要』の刊行、古書の蒐集、駿府の文庫創設、江戸城内の文庫創設、金沢文庫の書籍の保存などに努めた。そうして慶長十二年(一六〇七)には、ついに林羅山を召し抱えるに至った。家康がキリシタン弾圧を始めたのは、それより五、六年後のことである。
家康に『貞観政要』を講義した藤原惺窩は、いかなる特殊の内にも普遍の理が存することを力説した学者であった。海外との交通の手助けなどもしている。そう眼界の狭い学者であったとは思えない。彼の著として伝わっている『仮名性理』あるいは『千代もと草』は、平易に儒教道徳を説いたものであるが、しかし実は、彼の著書であるかどうか不明のものである。同じ書は『心学五倫書』という題名のもとに無署名で刊行されていた。初めは熊沢蕃山が書いたと噂されていたが、蕃山自身はそれを否定し、古くからあったと言っている。惺窩の著と言われ始めたのは、その後である。しかるに他方には『本佐録』あるいは『天下国家の要録』と名づけられた書物があって、内容は右の『五倫書』と一致するところが多い。これは本多佐渡守の著と言われながら、早くより疑問視せられているものである。新井白石は本多家から頼まれてその考証を書いているが、結論はどうも言葉を濁しているように思われる。しかしそれがいずれであっても、同一書を媒介として惺窩、蕃山、本多佐渡守の三人の名が結びついているという事実は、非常に興味深いものである。
本多佐渡守は三河の徳川家の譜代の臣であるが、家康若年のころの野呂一揆に味方し、一揆が鎮圧したとき、徳川家を逐電して、一向一揆の本場の加賀へ行ってしまった。そうしてそこで十八年働いた後に、四十五歳の時、本能寺の変に際して家康のもとに帰参したのである。その閲歴から見て狂熱的な一向宗信者であったと推測せられるが、しかしキリシタンの宣教師の報告によると、家康の重臣中では彼が最もキリシタンに同情を持っていたという。慶長六年(一六〇一)には彼はオルガンチノに対してキリシタンをほめ、その解禁のために尽力した。同十二年にも、パエスのために斡旋している。宣教師に対して、禁教緩和の望みがあるような印象を与えたのは、彼とその子息の上野守なのである。一向宗の狂信が依然として続いていたとすれば、おそらくこういう態度を取ることはできなかったであろう。したがって帰参のころには一向宗の熱は醒めていたと推測するほかはない。しかし一向宗の信仰に没入して行くような性格は、依然として変わらなかったであろうし、そのゆえにキリシタンに対する理解や同情があったであろうことも、察するに難くない。それがおのずから宣教師によき印象を与えたのであろう。が、周囲の情況は彼をキリシタンに近づけるよりは、むしろ儒教の方へ押しやったのである。そこで同じ性格の佐渡守が、『本佐録』において、熱烈な儒教の尊崇者として現われることになる。対象は変わって行くが、態度は同じなのである。天道の理、尭舜の道、五倫の教えは、ほとんど宗教的な情熱をもって説かれている。天道というのも、ここでは「天地の間のあるじ」なのであって、抽象的な道理なのではない。その「あるじ」が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守に帰せられていることは、非常に興味深いことになるのである。惺窩や蕃山は冷静な学者であって、佐渡守のような狂信的なところはない。江戸幕府の文教政策を定め、儒教をもって当時の思想の動揺を押えようとした当時の政治家は、冷静な理論よりもむしろ狂信的な情熱を必要としたのであろう。
林羅山は慶長十二年(一六〇七)以後、幕府の文教政策に参画した。その時二十五歳であった。羅山はそれ以前から熱心な仏教排撃者であって、そういう論文をいくつか書いているが、それによると、解脱は一私事であって、人倫の道の実現ではない、というのである。同時にまた彼は熱心なキリシタン排撃者であって、仕官の前年に『排耶蘇』を書いている。松永貞徳とともに、『妙貞問答』の著者不干ハビアンを訪ねた時の記事である。その時、まず第一に問題となったのは、「大地は円いかどうか」ということであった。羅山はハビアンの説明を全然受けつけず、この問題を考えてみようとさえしていない。次に問題となったのは、プリズムやレンズなどであるが、羅山はキリシタンに対する憎悪をこういう道具の上にまであびせかけ、光線の現象などに注意を向けようとはしていない。最後に取り上げられたのは、『妙貞問答』やマテオ・リッチの著書などである。羅山は、『妙貞問答』における神儒仏の批判が、単なる罵倒であって、批判になっていない、という点を指摘する。しかし羅山自身の天主に関する批判も同様である。「聖人を侮るの罪のみは忍ぶべからず」という態度であるから、ほとんど議論にはならないのである。したがってこの書は、青年羅山の眼界が非常に狭く、考え方が自由でないことを思わせる。
羅山は非常に博学であって、多方面の著書を残している。その言説は権威あるものとして尚ばれていたであろう。しかし『排耶蘇』に現われているような偏頗な考え方は、決して克服されてはいないのである。またその点が、狂信的な情熱を必要とした幕府の政治家に、重んぜられたゆえんであろう。彼が幕府に仕えて後半世紀、承応三年(一六五四)に石川丈山に与えて異学を論じた書簡がある。耶蘇は表面姿を消しているが、しかし異学に姿を変じて活躍している、あたかも妖狐の化けた妲己のようである、というのである。その文章は実に陰惨なヒステリックな感じを与える。少しでも朱子学の埒の外に出て、自由に物を考える人は、耶蘇の姿を変じたものとして排撃を受けなくてはならないのである。彼の『草賊前後記』には、熊沢蕃山をかかる異学の徒としてあげている。蕃山は羅山よりもはるかに優れた学者であるが、羅山を重用する幕府の下においては、弾圧を受けざるを得なかったのである。
家康が儒教によって文教政策を立てようとしたことには、一つの見識が認められるでもあろう。しかしヨーロッパでシェークスピアやベーコンがその「近代的」な仕事を仕上げているちょうどその時期に、わざわざシナの古代の理想へ帰って行くという試みは、何と言っても時代錯誤のそしりをまぬかれないであろう。家康自身はかならずしも時代に逆行するつもりはなかったかもしれないが、彼の用いた羅山は明らかに保守的反動的な偏向によって日本人の自由な思索活動を妨げたのである。それが鎖国政策と時を同じくして起こったのであるから、日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。
鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕な精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる。思想的情況もまたそうである。
(昭和二十六年二月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央公論」
1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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ロシアの都へ行く旅人は、国境を通る時に旅行券と行李とを厳密に調べられる。作者ヘルマン・バアルも俳優の一行とともに、がらんとした大きな室で自分たちの順番の来るのを待っていた。
霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるような黄いろい塵埃。何とも言いようのない沈んだ心持ちが人々を襲って来る。女優の衣裳箱の調べが済むまでにはずいぶん永い時間が掛かった。バアルは美しい快活な少女を捕えてむだ話をしていたが、その娘は何の気なしにこういう話をした。「昨晩私のそばにいた貴婦人がひとり急に痙攣ちゃって、大騒ぎでしたの。そのかたも喜劇を演りにペテルスブルグへいらっしゃるんですって。デュウゼとかって名前でしたよ。ご存じでいらっしゃいますか。」そういってその娘の指さす方を見ると、うなだれた暗い婦人が、毛皮にくるまって、自分の荷物のそばに立っている。初めてこの時ヘルマン・バアルはエレオノラ・デュウゼの蒼白い、弱々しげな、力なげな姿を見たのである。
一週間の後にバアルは彼女を舞台の上に見た。いっしょに行ったのはヨゼフ・カインツとかわいらしい女優のロッテ・ウィットであった。この晩の印象はどうしても忘れる事ができないほど強烈である、三人とも夢中になって、熱病やみのように打ち震えた。カインツは馳け回って大声に歓呼しながら帽子を振り、ロッテはもう役者を廃めるといって苦しげに泣いた。劇場を出た時には三人とも歓びのあまり、酔いつぶれた人のように、気の狂った人のように、恥も外聞もなく、よろめいて歩いた。バアルはその夜徹夜して書きたいような心持ちになったが、筆をとってみると一語さえも書くことはできない。デュウゼについて初めて何か書けそうになったのはそれから四週間の後である。それまでは旅行から得る新しい刺激によって、わずかに頭の整理を続けていた。――これは一八九一年、バアルがロシアに遊んだ時の事だ。
Luigi Rasi のデュウゼ伝によると、デュウゼの血は劇場の内に流れていた。彼女は「劇場の子」である。
彼女の祖父はヴェネチアで評判の役者だった。そのころは幕がおりてから、役者が幕外へ明晩の芸題の披露に出る習慣であったが、祖父はこの披露をしたあとでしばしば自分の身の上話やおのろけや愚痴などを見物に聞かせた。見物はそれを喜んで聞くほどに彼を愛していたのだそうだ。この祖父を初めとして一族の内には役者になったものが二十六人あるという。彼女の父アレサンドロは役者としては大して成功しなかったが、絵画に対しては猛烈な愛情を持っていた。
エレオノラの初舞台は一八六一二年、彼女が四歳の時であった。十四になった誕生日には初めてジュリアをつとめたが、そのころは見すぼらしい、弱々しげな、見ていて気の毒になるような小娘であった。人を引きつける力などは少しもない。暇さえあると古い彫刻と対坐していつまでもいつまでもじっとしている。
一八七九年、ようやく二十を越したばかりのデュウゼは旅役者の仲間に加わってナポリへ行き、初めてテレエゼの役をつとめたが、二三日たつと彼女の名はすでに全イタリーに広まっていた。一か月の後にはツェザアレ・ロッシ一座の立て女優としてチュウリンへ乗り込む。この初陣に当たって偶然にも彼女はサラ・ベルナアルと落ち合ったのである。舞台監督はこの新しき女優を神のごときサラと相並べることの不利を思って一時彼女を陰に置こうとした。しかしデュウゼはきかない。なあに競争しよう、比較していただこう。私は恐れはしない、Ci Sono auch' io なあに私だって女優だ。――そこでサラのあてた「バグダッドの王女」をデュウゼも取った。世界の女優はここに競争を開始した。
今宵チュウリンの街を貫ぬく叫び声は C'è auche lei……ベルナアルのほかになお一人あり。
一年もたたぬ間にイタリーは小さいデュウゼに充ち充ちた。頭髪をかきむしり、指を噛み、よろめき泣く。彼らは彼女の芸術を見るばかりでなくその人をまねた。世間の人は毎日毎日彼女を夢に見てあくがれているように見えた。
ヘルマン・バアルは露都で得た芸術の酔いごこちをフランクフルト新聞に披瀝して、神のごときデュウゼをドイツに迎えようと叫んだ。これが導火線となって翌九二年デュウゼは初めてウィーンへはいった。彼女が空虚なるカアル劇場に歩み入った時には一人として彼女を知る者はなかったが、その夜、全市の声は彼女の名を讃えてヴァイオリンのごとく打ち震い、全市の感覚は激動の後渦巻のごとく混乱した。
やがて彼女はベルリンに現われたが冷静なるハルデン氏は自然に偏しておると言って頌讃の声を惜しんだ。ハウプトマン氏は衝動的の演技だと言った。パリの批評家にしてウィーンの青年文学者に愛慕せられたサルセエ氏もこの年初めて彼女を見て、芸術ではない恐ろしい自然の力だ、と言った。お世辞のよいサラ・ベルナアルでさえあのひとは天才ではないと批評した。イギリスにおける第一印象は、激烈なる感動にもかかわらず、大芸術をもって目せられなかった。九三年正月初めてニューヨークに現われた時には、ヒュネカアの語を藉れば She attracted a small band of admirable lunatics who saw her uncritically as a symbol rather than as an actress であった。
ウィーン市民のデュウゼに対する狂熱は、かくして多くの批評家から怪しまれたのである。
当時のデュウゼは強い情熱が芸の大部分であった。彼女は機械的に何の特長もない演技をもって芝居を初める。やがて時が迫って来て彼女の特有な心持ちにはいると、突如全身の情熱を一瞬に集めて恐ろしい破裂となり、熱し輝き煙りつつあるラヴァのごとくに観客の官能を焼きつくす。その感動の烈しさは劇場あって以来かつてない事である。この瞬間には彼女は自己というものを離れ去り、また外界の何物にも累わされずに、衝動が活くままの行動をする。この内部の力に対しては自分も非常な恐怖を抱いていながら、その魔力に抵抗することはできないのだ。これがデュウゼをして半狂のヒステリカルな女を得意とせしめたのである。
デュウゼを見た多くの人はその芸を芸術としては見なかった。苦痛のために烈しく悩んでいる女が、感覚を失って悲鳴をあげているとしか見えない。恐ろしい現実そのものなのである。彼女は舞台の上で全然裸になっているのだ。
ヘルマン・バアルは考え込んだ。デュウゼの芸は全く謎である。同じ椿姫をやってもベルナアルは終わりの二幕に成功する、デュウゼは初めの二幕で成功する。あらゆる芝居において彼女の成功する所は他の女優とはちがっている。ことに彼女の成功するのは文学的価値の最も少ない部分なのである。ベルナアルの椿姫、カインツのロミオ、ムネのハムレットなどは幾度見ても飽かない、見るたびごとに新鮮な感興が起こる。しかるにデュウゼのは四五度以上同じ物を見ると感興が薄らいでしまう。デュウゼの芸には解すべからざる秘密がある。
バアルはこの秘密を技巧に帰した。デュウゼは方法を誤った技巧を有しているのだ。
デュウゼは一般の女優の持っている技能を持っていない。他の女優と同じ方法をもって同じ事を現わす事ができないのだ。彼女の体には欠点がある。体の線、声の調子等が十分でない。頸、肩、腕なども尋常ではない。そこで彼女は在来のあらゆる演劇術を投げ捨てて、何事を現わすにも新しい方法を取った。
元来芸術家という者はその人に独特の色があるとともに一般的な性質がなければならない。そして一般的な所は伝統に従って表現し、独特な所には新しい表現法を用いる。ところがデュウゼは一般的な所をも自分の新しい方法で表現した。それゆえに彼女は徹頭徹尾独特の芸を有するがごとくに見え、また他人の成功しない所で成功するのである。これが彼女の秘密だ。
例をもって説明しよう。今諸君の前に一人の音楽の天才が現われたとする。彼は普通の人のごとくに歩み、語り、食い、眠る。この点においては彼は常人と区別がつかない。けれどもひとたび彼を楽器の前に据えれば彼はたちまち天才として諸君に迫って来る。しかし諸君の前に一人の黒人が現われたとする。一眼見れば直ちにその黒人である事がわかるだろう。デュウゼは黒人である。
また足をもって名画をかくラファエロが現われたとする。足を手と同じように使う点においては彼は古今独歩である。しかしその名声を慕ってその門に入る人があればそれはばかだ。この足の天才はただ一人寂しい道を歩ませておけばよい。デュウゼは足で画くラファエロである。
露都の一夜、なつかしきエレオノラのために狂舞したヘルマン・バアルはかくして世評に対する彼の論理的欲望を充たした。
やがてデュウゼの一身には恐ろしい変化が来た。彼女はもはや情熱の城に立てこもろうとはしない。彼女は若い時の客気にまかせて情熱を使いすぎたのである。並みはずれた感激に対する熱情もようやく醒めて来た。ここにニイチェのいわゆる Die Trene gegen die Vorzeit が萌す。
ついに彼女は偉大なる芸術の伝統に対する Heimweh を起こした。古来の芸術の手法を恋い初めた。かくて彼女は暗い恐ろしい時期に襲われたのである。悩乱、苦悶。香は失せ色は褪せてほとんど狂気になるばかりであった。彼女は己が踏む道の上にあって、十字架を負った人のように烈しくあえいだ。今にも倒れそうな危うい歩きようである。
風聞が伝わった。「彼女病めり。」
彼女はこの時より一層高いある者を慕い初めた。烈しい情熱の酔いごこちよりも、もっと高い芸術がほしい。ただ人を悩乱せしめるばかりでなく、大きい人生に包まれたる力というものの千種万様な現われを捕えて、形、釣り合い、あるいは美しい気分の平衡より来る喜悦、情熱を内心に押え貯うる時の幸福、そういうものを現わそう。もう破裂的な芸のみで満足する事はできない。かくて彼女は自らを彫刻し初めた。ゲエテがイタリー旅行によって得たような変化はデュウゼの身の上にも起こった。
Form の神秘。彼女はそれを悟った。彼女は Stil を貫徹した。元来スチルというものは学校の先生が言うように古えの芸術家から学ぶべきものではない。人間の奥底にひそんでいるのだ。自分の胸から掘り出すべきものだ。デュウゼはそれを知っていた。自分の芸によって観客の感激――有頂天、大歓喜、大酩酊――の起こっている時、彼女は静かに、その情熱を自己の平生の性格の内に編みこむため、非常なる努力をしていた。この「貴い時」の神聖と喜悦と自由とを自己の第二の天性にしようとしていた。そしてついにその目的を達した。
彼女はすでに機械的の演技と衝動的の発作から離れた。彼女は自己を支配する。自然を支配する。自己の霊魂を支配する。彼女はもう黒人でもなければ足をもって画くラファエロでもない。真の芸術家である。彼女がある役を勤める時には意志の力によって自己をその女に同化してしまう。彼女の感情はその女の感情と同一である。悲しむべき時には泣くまねをするというのではなく、真に感情が動き、真実なる表情となるのである。劇場的身ぶり、誇大したる表情は彼女に見いだすことはできない。彼女の顔には絶えまなく情熱が流れている、顔の外郭は静止しているけれども表情は刻々として変わって行く。しかもその刻々の表情が明瞭な完全な彫刻的表情なのである。言いかえれば彫刻の連続である。
たとえば在来は、苦痛の時には激しい悲鳴をあげていた。しかし今は、内部に狂おしき苦痛がひそむ時にも外形は「痛ましさ」の像となって現われる。昔の荒々しい調子、鋭き叫び声は消え失せて柔らかい静けさに変わっている。白い額に起こる影、口のあたりの痙攣、美しい優しい柔らかい声の中の、静かに流れて行くような屈曲。まことに静寂な清浄な、月の光のような芸である。
偉大なるエレオノラ・デュウゼ。
かの皮肉なバアナアド・ショオをして心からの讃美と狂喜とをなさしめたエレオノラ・デュウゼ。
僕はシモンズ氏によって今少しくこの慕わしい女優の芸術を讃美しようと思う。
デュウゼは世界のあらゆる女優よりも複雑な底のある性格をもっている。そして世界のあらゆる女優よりも単純な演じ方をする。ゆえに彼女の芸は深い底から湧いて出るようで、胸の奥にある深い秘密の一部分しか現わしていないように思われる。従って泣いたり怒ったりした後にその顔に残っている幽鬱な感じがたまらなくよい。
デュウゼは意識した美辞によって見物を刺激するのではない。舞台に出た時には吾人はデュウゼを見ずしてジョコンダを見、アンナを見る。自分を全然見物に忘れさすのは彼女の第二の天性である。舞台の上ではその役の性格に恐ろしく忠実であってその人の通りに生きている。この点において彼女はいわゆる演技(Acting)と正反対の道を歩いているのだ。例としてアアヴィングを引こう。彼にとっては演技は Sharp, detached, yet always delicate movement である。独特な所もなければ新しい所もない。全力を集中した技巧に過ぎない。すべてレトリック、すべて外形的。彼の情熱は緩き音楽の調子によって動き、角々のきまりとなり、永く引き伸ばしたことばに終わる。この劇的雄弁術を演技だと考えていた吾人は、デュウゼが新しい考え方と演じ方とをもって出現するに及び革命に逢着した。デュウゼにとっては動作は終局でない。真の演技の邪魔となるに過ぎない。彼女にとっては最も大なる瞬間は最も深い静寂の時である。情熱を表現するにはこれを抑制した所を見せる。内心の擾乱をじっと抑えて最後に痛苦を現わす眼のひらめき、えくぼの震えとなる。ベルナアルのように動作と叫び声とで見物の官能を掻き乱し、Shudder を送るというような事はしない。この暗示的な、多くを切り離して重要な一部分を示すという演り方、古い形式と束縛とを脱して美しい新形式を征服した、内より外に向かうという演り方、これがアアサア・シモンズを喜ばせた重大な点である。これが彼の象徴主義と合致した点なのである。古い演劇は外形的模倣的、ただ平凡な意味における幻影を目的とし、誇大によって勝利を得ていた。デュウゼは演劇を暗示と神秘と芸術的省略とに充ちた複雑な精神的な芸術となしたのだ。
エレオノラ・デュウゼのことば。
――演劇を今日の堕落から救うには、劇場を皆こわしてしまい、役者を皆殺してしまうよりほかに仕方がありますまい。
――詩人には、惑心しない時でも、やはり従わなければなりませんのね。詩人なのですもの。何かそうものをご覧なすったのでしょう。Vision である以上は従わなくちゃなりません。
――昔の人で逢ってみたいと思うのは沙翁とヴェラスケスです。
――私イブセンは大嫌い。私の望みは美と生の焔です。メエテルリンクは好きですけれど、少しぼんやりしているようですね。
――私の試みは失敗でした。何を言ってもサルドゥやピネロを演らなければならないのですもの。いつか若い美しい火のような焔のような女が来て私の夢みていたことをやってくれるでしょう。私はもう疲れました。
――私が舞台へ上らないで暮らせるかですって。そんな事を聞くものじゃありません。私は三年間芝居をしないでいた事がありました。芝居をするのはほかの事がしたいからです。思うようになるなら私は船の中に住んでいて人間の世界に近寄りたくないと思います。
デュウゼは薔薇の花を造りながら、田舎の別荘で肺病を養っている。僕はどうかして一度逢ってみたいと思う。でなくとも舞台の上の絶妙な演技を味わってみたいと思う。
シモンズの書いた所によると、デュウゼは自分の好きな人と話をする時には、椅子から立ち上がって、その人のそば近くに腰を掛け、ほとんど顔が相触るるまで接近して、眼は広く見開く。大きな鳶色の瞳を囲んでいる白い所がすっかりと見えるほどだ。時々身ぶりをするけれども決して相手に触れたり、腕に手を置いたりなどはしない。深刻な眼は相手の人の額の後ろに隠れている思想を見徹しているようだ。肉体と肉体とがいかに接近してもそれは彼女には気にならないので、ただ魂と魂との接近のみ感じるのである。官能は眠っている。彼女は常に「女」であるけれども、それは抽象的である。
彼女は芸術と美とを熱烈に愛している。音楽を聞く時には魂の滋養物を吸っているような態度である。花の匂いをかいだり、書物や画を見たりなどする時には、我れを忘れて非常な勢いで近寄って来る。彼女が美しい物の話をする時には内面的に顔が輝いて来る。暗い蒼白い額はセンシチヴな皺をつくる。ほとんど色のない小さい薄い唇は半ば優しく半ば皮肉に、自分があまり喜悦に心を奪われているのを笑うような表情をする。そして微かに震える。やがて自由に華やかに、にっと笑って、白い歯がきらきらと光る。話を初めると美しいことばが美しい動作に伴なわれて、急調に、次から次へと飛び出して来る。
舞台に上る三時間は彼女の生活の幕間なのである。彼女は生活の全力を集めて舞台に尽くしているのではない。意味のあるのは舞台外の生活だ。……美しい手で確乎と椅子の腕を握り、じっとして思索に耽っている時のまじめな眠りを催すような静寂。体は横の方へ垂れ、頭は他方の手でささえて、眼は鈍い焔のように見える。「全身が考えている。」Whole Body thinks. そして思索のために物悲しい影の浮かんでいるその顔は、人の世のあらゆる情熱が彼女の血と肉とによって幾度となく通り過ぎた戦場なのである。
ああ、エレオノラ・デュウゼ。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「スバル」
1911(明治44)年1月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
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今度岡倉一雄氏の編輯で『岡倉天心全集』が出始めた。第一巻は英文で発表せられた『東洋の理想』及び『日本の覚醒』の訳文を載せている。第二巻は『東洋に対する鑑識の性質と価値』その他の諸篇、第三巻は『茶の書』を含むはずであるという。岡倉先生の主要著作が英文であったため在来日本の読者に比較的縁遠かったことは、岡倉先生を知る者が皆遺憾としたところであった。今その障害を除いて先生の天才を同胞の間に広めることは誠に喜ばしい企てであると思う。
岡倉先生が晩年当大学文学部において「東洋巧芸史」を講ぜられた時、自分はその聴講生の一人であった。自分の学生時代に最も深い感銘を受けたものは、この講義と大塚先生の「最近文芸史」とである。大塚先生の講義はその熱烈な好学心をひしひしと我々の胸に感じさせ、我々の学問への熱情を知らず知らずに煽り立てるようなものであったが、それに対して岡倉先生の講義は、同じく熱烈ではあるがしかし好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むようなものであった。もちろん先生は芸術への愛を口にせられたのではない。ただ美術史的にさまざまの作品について語られたのみである。しかし先生がある作品を叙述しそれへの視点を我々に説いて聞かせる時、我々の胸にはおのずからにして強い芸術への愛が湧きのぼらずにはいなかった。一言に言えば、先生は我々の内なる芸術への愛を煽り立てたのである。これはあの講義の事実的内容よりもはるかに有意義なことであったと思う。
先生の講義が右のごとく我々を動かしたのは、先生が単に美術品についての事実的知識を伝えるにとどまらずして、さらにそれらの美術品を見る視点を我々に与え、美術品の味わい方を我々に伝えたがためであったと思う。この点において先生は実に非凡な才能を持っていた。今でも自分は昨日のことのように思い起こすことができる。シナの玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説こうとして、適当な言葉が見つからないかのように、ただ無言で右手をあげて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤いを帯び、ふてぶてしい頬に感に堪えぬような表情が浮かんだ。それを見て我々はなるほどと合点が行ったのである。
また奈良の薬師寺の三尊について語ったとき、先生はいきなり、「あの像をまだ見ない人があるなら私は心からその人をうらやむ」というようなことを言い出した。そうして呆然に取られている我々に、あの三尊を初めて見た時の感銘を語って聞かせた。特に先生が力説したのはあの像の肌の滑らかさであったように思う。あの像もまた単に色や形をのみ見るのではなくして、まさしく触感を見るというべきものである。それもただ銅のみが与え得るような、従って大理石や木や乾漆などにはとうてい見ることのできないような、特殊な触覚的の美しさである。しかもそれが黒青く淀んだ、そのくせ恐ろしく光沢のある、深い色合と、不思議にぴったり結びついている。そういう味わいに最初に接した時の驚嘆――「あの驚嘆を再びすることができるなら、私はどんなことでも犠牲にする」。この言葉は今でも自分の耳に烙きついている。先生は別にそれを強めて言ったわけでもなければまた特に注意をひくような身ぶりをもって言ったわけでもない。が、その言葉には真実がこもっていた。そうして我々はまざまざとその味わいを会得することができたのである。
こういうふうな仕方で我々はいろいろの味を教わった。自分はその時の印象によってのほか岡倉先生を知らない。ひそかに思うに、あれが岡倉先生の最も本質的な面であったのであろう。先生がインドにおいてどういうふうに独立を鼓吹したか、あるいは美術院の画家たちにどういうふうに霊感を与えたか、さらにまた五浦の漁師たちをどういうふうに煽動して新式の網を作らせたか。それらのことについては自分は何も知らない。しかし先生が最もよき意味において「煽動家」であったということは右の印象からも推測せられるであろう。
先生が明治初年の排仏毀釈の時代にいかに多くの傑作が焼かれあるいは二束三文に外国に売り払われたかを述べ立てた時などには、実際我々の若い血は沸き立ち、名状し難い公憤を感じたものである。が、あの煽動は決して策略的な煽動ではなかった。我々のうちの眠れるものを醒まし我々のうちのよきものを引き出すのが、煽動の本質であった。
これらの回想にふけるとき、岡倉先生の仕事が再び広く読まれることは、心から願わしいことに思われる。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「帝国大学新聞」
1936(昭和11)年1月27日
※編集部による補足は省略しました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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蓮の花は日本人に最も親しい花の一つで、その大きい花びらの美しい彎曲線や、ほのぼのとした清らかな色や、その葉のすがすがしい匂いや肌ざわりなどを、きわめて身近に感じなかった人は、われわれの間にはまずなかろうと思う。文化の上から言っても蓮華の占める位置は相当に大きい。日本人に深い精神的内容を与えた仏教は、蓮華によって象徴されているように見える。仏像は大抵蓮華の上にすわっているし、仏画にも蓮華は盛んに描かれている。仏教の祭儀の時に散らせる華は、蓮華の花びらであった。仏教の経典のうちの最もすぐれた作品は妙法蓮華経であり、その蓮華経は日本人の最も愛読したお経であった。仏教の日本化を最も力強く推し進めて行ったのは阿弥陀崇拝であるが、この崇拝の核心には、蓮華の咲きそろう浄土の幻想がある。そういう関係から蓮華は、日本人の生活のすみずみに行きわたるようになった。ただに食器に散り蓮華があるのみでない。蓮根は日本人の食う野菜のうちのかなりに多い部分を占めている。
というようなことは、私はかねがね承知していたのであるが、しかし巨椋池のまん中で、咲きそろっている蓮の花をながめたときには、私は心の底から驚いた。蓮の花というものがこれほどまでに不思議な美しさを持っていようとは、実際予期していなかったのである。
それはもう二十何年か前のことである。そのころ京都にいた谷川徹三君が、巨椋池の蓮の話をして、見に行かないかとさそってくれた。私はそれほどの期待もかけず、機会があったらと頼んでおいたのであったが、たしか八月の五、六日ごろのことだったと思う、夜の九時ごろに谷川君がひょっこりやって来て、これから蓮の花を見に行こうという。もう二、三日すれば、お盆のために蓮の花をどんどん切って大阪と京都とへ送り出すので、その前の今がちょうど見ごろだというわけであった。それでは落合太郎君もさそおうではないかと言って、そのころ真如堂の北にいた落合君のところを十時ごろに訪ねた。そうして三人で町へ出て、伏見に向かった。
谷川君が案内してくれたのは、伏見の橋のそばの宿屋であった。もう夜も遅いし、明朝は三時に起きるというのでその夜はあまり話もせずに寝た。
寝たと思うとすぐに起こされたような感じで、朝はひどく眠かったが、宿の前から小舟に乗って淀川を漕ぎ出すと、気持ちははっきりしてきた。朝と言ってもまだまっ暗で、淀川がひどく漫々としているように見える。それを少し漕ぎ下ってから、舟は家と家との間の狭い運河へはいって行った。運河の両岸の光景は暗くて何もわからない。そういうところを何十分か漕いで行くうちに、だんだん左右が開けてくる。巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない。そういうふうにしていつとはなしに周囲が池らしくなって来たのである。
舟はもう蓮の花や葉の間を進んでいる。その時に、誰いうともなく、蓮の花の開くときに音がする、ということが話題になった。一つ試してみようじゃないか、というわけで舟を蓮の花の側に止めさせて、今にも開きそうな蕾を三人で見つめた。その蕾はいっこう動かないが、近辺で何か音がする。蓮の花の開く時の音はポンという言葉で形容されているが、どうもそれとは似寄りのない、クイというふうな鋭い音である。何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと、驚いたことには、もう二ひら三ひら花弁が開いている。やがてはらはらと、解けるように花が開いてしまう。この時には何の音もしない。最初二ひら三ひら開いたときには、つい見ていなかったのではあるが、しかし側にいたのであるから、音がすれば聞こえたはずである。どうも音なんぞはしないらしい。
それでは、さっきの音は何であろうか。また舟を進めながら、しきりに近くの蕾に注意していると、偶然にも、最初の一ひらがはらりと開く場合にぶつかることがある。いかにもなだらかにほどけるのであって、ぱっと開くのではない。が、それとは別に、クイというふうな短い音は、遠く近くで時々聞こえてくる。何だかその頻度が増してくるように思われる。それを探すような気持ちであちこちをながめていると、水面の闇がいくらか薄れて来て、池の広さがだんだん目に入るようになって来た。
私たちのそういう騒ぎを黙って聞いていて口を出さない船頭に、一体音のすることがあるのかと聞いてみると、わしもそんな音は聞いたことがないという。蓮の花は朝開くとは限らない。前の晩にすでに開いているのもある。夜中に開くのもある。明け方に音がするというのは変な話だという。そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて人に見えずまた人の見ない時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷うような伝説が生じたのであるということが、やっとわかって来た。もちろん、日光のほかに気温も関係しているであろう。右のような時刻には、外気が冷たくなり、蕾の内部の気温との相対的な関係が、昼間と逆になるはずである。何かそういう類の微妙な空気の状態が、蓮の開花と連関しているのかもしれない。その点から考えると、気温の最も低くなる明け方が、最も開花に都合のいい時刻であるかもしれない。しかしそれにしても、あの妙な音は何だろう。それを船頭にただしてみると、船頭は事もなげに、あああれだっか、あれは鷭どす、鷭が目をさましよる、と言った。
そういうことに気をとられているうちに、いつか舟はひろびろとした池の中に出ていた。そうしてあたりの蓮の花がはっきりと見え出した。夜がほのぼのと明け初めたのである。その変化はわりに短い時の間に起こったように思われる。ふっと気がついて見ると、私たちは見渡す限り蓮の花ばかりの世界のただ中にいたのである。
蓮の花は葉よりも上へ出ている。その花が小舟の中にすわっているわれわれの胸のあたり、時には目の高さに見える。舟ばたにすれすれの花から、一尺先、二尺先、あるいは一間先、二間先、一面にあの形の整った、清らかな花が並んでいるのである。舟の周囲、船頭の棹の届く範囲だけでも何百あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き続いている。その時の印象でいうと、蓮の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。
これは全く予想外の光景であった。私たちは蓮の花の近接した個々の姿から、大量の集団的な姿や、遠景としての姿をまで、一挙にして与えられたのである。しかも蓮の花以外の形象をことごとく取り除いて、純粋にただ蓮の花のみの世界として見せられたのである。これは、それまでの経験からだけではとうてい想像のできない光景であった。私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。
が、この時の驚嘆の情は、ただ自然物としての蓮の花の形や感触によってのみ惹き起こされたのではなかった。蓮の花の担っている象徴的な意義が、この花の感覚的な美しさを通じて、猛然と襲いかかって来たのである。われわれの祖先が蓮花によって浄土の幻想を作り上げた気持ちは、私にはもうかなり縁遠いものになっていたが、しかしこの時に何か体験的なつながりができたように思う。蓮花の世界に入り浸る心持ちは、どうも仏教的な理想と切り離し難いようである。それはただに仏教の経典に蓮華が説かれ、仏教の美術に蓮華が作られているからのみではない。蓮の花そのものの形や感触に何かインド的なもの、日本の国土をはるかに超えたものが感ぜられたからであろう。日本人にとっては、そのことが特に現実を超えた理想を象徴するのに役立ったであろう。しかし同時にそれは顕著にインド的なものであって、インドを超えたものではなかった。日本の蓮の花はインドのそれと同じ種類のものであるが、しかしこの種類は現在アジアの温かい地方と北オーストラリアとに限られていて、他の地方にはないと言われている。エジプトには昔はあったらしいが、今はない。日本へはたぶん、直接ではないにしても、とにかくインドから来たのであろう。それもいつのことであったかはわからない。太古からすでに日本にあったとも言われているが、仏教に伴なって来たということもあり得ぬことではない。そうなると蓮の花は、われわれの祖先の精神生活を象徴するのみならず、広くアジアの文化を象徴することにもなるのである。
私はこの蓮華の世界に入り浸りながら、ここまでいくぶんか強制的に引っ張って来てくれた谷川君に心から感謝した。
そういう印象を受けたのは、ほのぼのと夜が明けて来て、広い蓮池が見渡せるようになった時であるが、それが何時ごろであったかははっきりしない。四時と五時の間であったことだけは確かである。どれほど長くこの光景に見とれていたかということも、はっきりとは覚えていない。が、やがてわれわれは、船頭のすすめるままに、また舟を進ませた。蓮の花の世界の中のいろいろな群落を訪ね回ったのである。そうしてそこでもまたわれわれは思いがけぬ光景に出逢った。
最初われわれの前に蓮の花の世界が開けたとき、われわれを取り巻いていたのは、爪紅の蓮の花であった。花びらのとがった先だけが紅色に薄くぼかされていて、あとの大部分は白色である。この手の花が最も普通であったように思う。しかし舟が、葉や花を水に押し沈めながら進んで行くうちに、何となく周囲の様子が変わってくる。いつの間にか底紅の花の群落へ突入していたのである。花びらの底の方が紅色にぼかされていて、尖端の方がかえって白いのであるが、花全体として淡紅色の加わっている度合が大きい。その相違はわずかであるとも言えるが、しかし花の数が多いのであるから、ひどく花やかになったような気持ちがする。
何分かかかってその群落を通りぬけると、今度は紅蓮の群落のなかへ突き進んで行った。紅色が花びらの六、七分通りにかかっていて、底の方は白いのである。これは見るからに花やかで明るい。そういう紅い花が無数に並んでいるのを見ると、いかにもにぎやかな気持ちになる。が、しばらくの間この群落のなかを進んで行って、そういう気分に慣れたあとであったにかかわらず、次いで突入して行った深紅の紅蓮の群落には、われわれはまたあっと驚いた。この紅蓮は花びらの全面が濃い紅色なのであって、白い部分は毛ほども残っていない。実に艶めかしい感じなのである。そういう紅蓮があたり一面に並んだとなると、一種異様な気分にならざるを得ない。それは爪紅の、大体において白い蓮の花とは、まるで質の違った印象を与える。もしこれが蓮の花の代表者であったとすれば、おそらく浄土は蓮の花によって飾られはしなかったであろう。
紅蓮の群落はちょっと息の詰まるような印象を与えたが、そこを出て、少し離れたところにある次の群落へはいったときには、われわれはまた新しい驚きを感じた。今度は白蓮の群落であったが、その白蓮は文字通り純白の蓮の花で、紅の色は全然かかっていない。そういう白蓮に取り巻かれてみると、これまで白蓮という言葉から受けていた感じとはまるで違った感じが迫って来た。それは清浄な感じを与えるのではなく、むしろ気味の悪い、物すごい、不浄に近い感じを与えたのである。死の世界と言っていいような、寒気を催す気分がそこにあった。これに比べてみると、爪紅の蓮の花の白い部分は、純白ではなくして、心持ち紅の色がかかっているのであろう。それは紅色としては感じられないが、しかし白色に適度の柔らかみ、暖かみを加えているのであろう。われわれが白い蓮の花を思い浮かべるとき、そこに出てくるのはこういう白色の花弁であって、真に純白の花弁なのではあるまい。そう私は感ぜざるを得なかった。真に純白な蓮の花は決して美しくはない。艶めかしい紅蓮の群落から出て行ってこの白蓮の群落へ入って行ったためにそう感じたのであるとは私は考えない。真紅の紅蓮が艶めかし過ぎて閉口であるように、純粋の白蓮もまた冷たすぎ堅すぎておもしろくない。やはり白色に淡紅色のかかっているような普通の蓮の花が最も蓮の花らしいのである。
こうして蓮の花の群落めぐりをやっているうちにどれほどの時間がたったかは忘れたが、やがてだんだん明るさが増し、東の空が赤るんでくると、ついに東の山、西の山が見えるようになって来た。それとともに、蓮の花のみの世界は、壊れざるを得なかった。蓮の花が無限に遠くまで打ち続いているという印象も消えた。そのころに舟は帰路についたのである。
帰路はさんざんであった。舟がまだ池を出はずれない前に、もう朝日が東の山を出たように思う。来る時に見えなかったいろいろな物が、朝日の光に照らし出された。池はだんだん狭くなり、水田と入り組み、いつともなしになくなってしまう。その水田の間の運河に入って、町裏のきたないところを通り、淀川に出る。その間に目に入るものは、すべて、さきほどまでの美しい蓮華の世界の印象を打ちこわすようなものばかりであった。この現実暴露といっていいような帰り道がなかったら、巨椋池の蓮見は完全にすばらしいのだが、と思わずにいられなかった。
宿に帰ったのは七時近くであったと思う。朝飯は、蓮の若葉を刻み込んだ蓮飯であった。
谷川君はこの時には何も言わなかったが、その後何かの機会にマラリヤの話が出て、巨椋池の周囲の地方には昔から「おこり医者」といってマラリヤの療法のうまい医者があることを聞かせてくれた。巨椋池にはそれほどマラリヤの蚊が多いのである。あの蓮見の時にはそんな心配は少しもしなかった。で、そのことを谷川君にいうと、「うっかりそんな話をすれば、引っ張り出しが成功しなかったかもしれませんからね」という答えであった。落合君はもうその前から東山のマラリヤの蚊にやられていたのである。この谷川君の英断にも私は心から感謝した。あのすばらしい蓮の花の光景のことを思うと、マラリヤの蚊などは何でもない。また夜明け前後のあの時刻には、蚊はあまりいなかったように思う。
ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じように見られるかどうかは、私は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によって水位を何尺か下げた。前に蓮の花の咲いていた場所のうちで水田に化したところも少なくないであろう。それに伴なって蓮の栽培がどういう影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられる方があったら、現状を問い合わせてからにしていただきたい。
あの蓮の花の光景がもう見られなくなっているとしたら、実に残念至極のことだと思うが、しかし巨椋池はかなり広いのであるからそんなことはあるまい。
(昭和二十五年七月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
1950(昭和25)年8月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
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わたくしは歌のことはよくわからず、広く読んでいるわけでもないが、岡麓先生のお作にはかねがね敬服している。誠に滋味の豊かな歌で、くり返して味わうほど味が出てくるように思う。中でも最も敬服する点は、先生が、目立って巧みな言い回しとか、人を驚かせるような奇抜な表現とか、刺激の強い言葉とかを、決して使われないことである。どんなに烈しい内容を取り扱われる場合でも、いかにも淡々として、透明な感じを与える。わたくしはこの透明さが表現の極致ではないかと考えている。ちょうど無色透明で歪みのない窓ガラスが外の景色を最も鮮やかに見せてくれるように、表現の透明さは作者の現わそうとするものを最も鮮明に見せてくれる。また透明であればあるほどそこにガラスのあることが気づかれないと同様に、透明な表現もその表現の苦心とか巧みさとかを意識させず、ただ端的に表現されたものに直面せしめる。それに反して警抜な表現とか巧みさを感じさせる言い回しとかは、ちょうど色のついたガラスのように、見えるものに色をつけてしまう。その色の好きな人は、あるいは好きな間は、その色が見えるというだけで喜びを感じるであろうが、その色のきらいな人、あるいは飽きてきた人は、その色がありのままの物の姿を見るのにひどく邪魔になることを痛感させられる。それを感じはじめると、どの色といわず、色のついていること自体がいやになってくる。そういう意味で、わたくしには、あの淡々とした透明な感じが実にありがたい。
しかしこれは先生の歌が無技巧だなどということではない。あれほど一字一句の使い方、置き方に気を配った歌、あれほど浮いたところのない、中味のびっしりとつまった歌、またあれほど濃かいニュアンスを出した歌が、技巧に熟達せずに作れるものではない。しかし先生の歌は、その巧みさを少しも感じさせないほど巧みな域に達していると思う。今度の歌集で先生は、
もののさびものの渋味はおのづからいたりつく時はじめて知らゆ
と歌っていられるが、そういう先生の境地が先生の歌を味わうものの心にもしみじみと伝わってくるように感ぜられる。それはまことに達人の域である。何事にもあせりが目立ち、どぎつい表現があふれている今の世の中で、こういう達人の歌に接し得ることは、不幸に充ちたわれわれの生活の中で、まことにありがたい幸福だと言ってよい。
歌集『涌井』は動乱のさなかに作られた歌の集である。戦争の最後の年、空襲がようやく激甚となってくるころに、先生は、病を押して災禍を信州に避けられた。その後東京の町は激しく破壊され、先生が大震災後住みついていられたお宅も、愛蔵された書籍や書画や骨董とともに焼けてしまった。それのみか、戦いの終わろうとする間ぎわになって、やはり空襲のために、学徒で召集されていた愛孫を失われた。そのあとには占領下の変転のはなはだしい時期がつづく。その一年あまりの間、都会育ちの先生が、立ち居も不自由なほどの神経痛になやみながら、生まれて初めての山村の生活の日々を、「ちょうど目がさめると起きるような気持ちで」送られた。その記録がここにある。それはいわば最近二十年の間の日本の動乱期がその絶頂に達した時期の記録なのであるが、しかしその静かな、淡々とした歌境は、少しも乱れていない。これこそ達人の境であるという印象は、この歌集において一層深まるのを覚えた。
ここには戦争の災禍に押しつめられた、苦しい、いたましい生活がある。が、その生活には、山村の四季のさまざまな物の姿がしみ通っている。時おりの心のゆらぎを示すものも花や鳥の姿である。それを読んで行くと、いかにも静かではあるが、しかし心の奥底から動かされるような気持ちがする。特に敬服に堪えないのは、先生のいかにも柔軟な、新鮮な感受性である。都会育ちの先生が、よくもこれほど細かに、濃淡の幽かな変化までも見のがさずに、山や野や田園の風物を捉えられたものだと思う。わたくしは農村に生まれて、この歌集に歌われているような風物のなかで育ったものであるが、幼いころに心に烙きついたまま忘れるともなしに忘れ去っていたさまざまの情景を、先生の歌によって数限りなく思い出した。たとえば、
蓮華草この辺にもとさがし来て犀川岸の下田に降りつ
げんげん田もとめて行けば幾筋も引く水ありて流に映る
おほどかに日のてりかげるげんげん田花をつむにもあらず女児ら
さきだつは姉か蓮華の田に降りてか行きかく行く十歳下三人
という一連の歌などは、ほとんど強い酒のように、わたくしを蓮華草の花の匂いや感触や、ふくふくと生い茂った葉の肌ざわりなどの中へ連れ戻して行った。流れに映るげんげの姿に目を留められたのも驚くべきことであるが、しかし蓮華草の田のなかにいる子供たちの幸福な気持ちを捉えられたのは、一層驚くべきことに思われる。そういう類のことがいくつでも出てくるのである。蓮華草の田がすき返され、塀の外田に蛙が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがて郭公の来鳴くころに、
弟と笹の葉とりに山に行き粽つくりし土産物ばなし
ここへ来る一里あまりの田のへりを近路といへばまた帰り行く
などと歌われている。農村の生活が実にしみじみと心に浮かんでくる。田植えの歌のなかにも、
苗代ののこりくづして苗束をつくり急げり日の暮れぬとに
などというのがある。田植えのころの活気立った農村の気持ちのみならず、稲の苗、田の水や泥、などの感触をまでまざまざと思い起こさせる。
こういう仕方でやがて夏になり、野萩の咲くころとなり、秋に入り、雪を迎え、新年になる。遅い山国の春にも紅梅が咲き、雪が解け、やがて猫やなぎがほほけ、つくしがのび、再び蓮華草の田がすきかえされ、初雷の聞こえるころになる。その間の数多い歌が、実に豊かに山村の風物を描き出している。しかもその歌がそれぞれに玉のように美しい。実に得難い歌集である。
老年の先生を信州の山の中に追いやった戦禍のことを思うと、まことに心ふさがる思いがするが、しかしそれが機縁になってこの歌集が生まれたことを思えば、悪いことばかりではなかったという気もする。
田舎住なま薪焚きてむせべども躑躅山吹花咲くさかり
(昭和二十三年十一月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「余情 第十集」
1949(昭和24)年6月25日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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(一) 芸術の検閲
(大正十一年十一月)
ロダンの「接吻」が公開を禁止されたとき、大分いろいろな議論が起こった。がその議論の多くは、検閲官を芸術の評価者ででもあるように考えている点で、根本に見当違いがあったと思う。
検閲官は芸術の解らない人であっても差支えない。彼の職務は或る作品がいかなる芸術的価値を持つかを定めることではなく、ただそれが公開される場合に公衆に対していかなる影響を及ぼすかを精確に判定し、その影響が社会の秩序を紊乱し善良な風俗を壊乱するようなものであった場合に、その公開を禁止することである。いかにすぐれた作品でも、もし実際に右のような影響を公衆に及ぼすとすれば、彼は当然その作品の公開を禁止してよい。彼に対してその作品の芸術的価値を説いて聞かせることはなんの意味をもなさない。たとい彼がその作品の芸術的価値を充分理解し得るようになったところで、公衆に対する作品の影響が依然として同一である限りは、彼はその禁止を解くことができない。
そこで中心の問題は、公衆に対する作品の影響が、果たして精確に判定せられているか否かの問題である。
芸術品は、もしそれが真に芸術品であり、また正当に芸術品として鑑賞されれば、いかなる場合にも社会の秩序を乱し風俗を壊乱するというような影響を与えるものでない。むしろ鑑賞者の生活を高め豊富にするということによって、間接に社会の秩序を高め風俗を善良にする。裸体の男女が相抱いている姿を描写した彫刻絵画も、それが芸術品でありまた芸術品として鑑賞される以上は、決して風俗を壊乱しない。しかし芸術品は必ずしもすべての人々から一様に芸術的な鑑賞を受けるものでない。例えば、優れた作品ほど正当な鑑賞を受けにくいということは、古来の偉大な作品が明らかに実証している。だから作品を公開する場合には、公衆の中の何割かが正当な芸術的鑑賞に堪えないものであることを許してかからねばならない。そこで、正当に鑑賞されない場合に、作品がいかなる影響を及ぼすかということが問題になる。作品の美しさ或いは意味が感じられず、そうしてそれが感じられない場合に他になんの魅力もないとすれば、公衆はその作品からなんの影響もうけず、またただちにそれを捨て去るであろう。がしかしその作品の本来の美しさを感じないでも、なおそこに或る魅力を感ずる場合、例えば題材に対して興味を覚える場合には、公衆はその作品から或る影響をうける。マダム・ボヴァリーを読んで姦通を煽動されるとか、ロダンの「接吻」を見て肉欲を刺戟されるとか、そういう場合はあるに相違ない。題材が恋愛、性欲等であり、その題材自身が不倫な恋や肉欲の興味をそそり得る場合には、確かに風俗壊乱という影響を公衆の或る者に及ぼし得る。だからこの種の影響をうける人間が多数に存在する以上、検閲官がその作品を禁止するのは当然である。がしかしそれは、題材が恋愛、性欲等であり、その描写が際どいということだけで、判定するわけに行かない。題材が何であっても、公衆がそれを芸術的に鑑賞し得る以上は、禁止の根拠は存在しない。検閲官に禁止の権利を与えるものは、その作品を芸術的に鑑賞し得ずただその作品から肉感的な煽動を受けるのみであるところの公衆が存在するという事実である。この事実を検閲官はいかにして捕えているか。
ロダンの「接吻」は裸体の男女が抱き合っている像である。しかし裸体の男女が抱き合っているということだけでは、禁止の理由にならない。この像の美しさを公衆が理解し得ず、ただ肉感的な刺戟のみを受けるという事実があって初めて禁止の理由が成立する。この事実はいかにして捕えられたか。検閲官が自らそういう刺戟のみを受けたという事実によって、公衆がすべてそうであると認定することはできない。もしそういう認定が許されるならば、美術家がそういう刺戟を決して受けないという自分の経験を基礎として、公衆もまたすべてこれを芸術的に鑑賞し得ると認定する場合に、それを斥ける権利がない。公衆の内にただ一人(すなわち検閲官)でも肉感的刺戟のみを受ける人があれば、その公開を禁止してよいとは言えないであろう。検閲官のごとき位置にある少数の人のみが、そういう影響をうけても、それは社会の善良な風俗を乱すことにはならないからである。しょせん検閲官の認定は、自己の経験からの類推に過ぎない。
(二) 一つの私事
(大正十三年二月)
歳暮余日も無之御多忙の程察上候。貴家御一同御無事に候哉御尋申候。却説去廿七日の出来事(註、難波大助事件のこと)は実に驚愕恐懼の至に不堪、就ては甚だ狂気浸みたる話に候へ共、年明候へば上京致し心許りの警衛仕度思ひ立ち候が、汝、困る様之事も無之候か、何れ上京致し候はば街頭にて宣伝等も可致候間、早速返報有之度候。
新年言志
みことのりあやにかしこみかしこみてただしき心おこせ世の人
廿七日の怪事件を聞きて
いざさらば都にのぼり九重の宮居守らん老が身なれど
野老
こういう手紙が大晦日の晩についた。野老は小生の老父で、安政三年すなわち一八五六年生まれ、取って六十九になる。小生は子供の時分この父を尊敬した。年頃になるとしばしば叱られた関係もあって小生の方で反抗心を抱いていたが二十五、六を過ぎてから再び尊敬することを覚えた。思想が古いとか古くないとかいうことはそもそも末であって、正しいか正しくないか、またその思想がどれほど人格的な力となっているか、その方が大切だ、とこう気づき始めると、儒教で育てられた父の思想が時勢の変遷といっこうに合っていないにかかわらず、根本において極めて正しい、またその思想に従って行為する上に頑固な固意地な確かさがある、ということがだんだん見えて来たのである。父は医者であるが、医者は病気というものをこの人生から駆逐する任務を持っているという確信で動いていた。父の日常の動作に「報酬のため」或いは「生活費のため」という影のさしたことをかつて見たことがない。報酬はもちろん受ける、しかし自分の任務を果たすことが第一であるから、もし患者が報酬を払わなくともそれを取り立てようとはせぬ。そうして報酬とまるで釣合わないような苦しい労働である場合でも、病気とあれば、黙々として自分の任務を果たした。父が患者に対して愛嬌をふりまくとか、患者を心服せしめるためにホラを吹くとか、そういう類の外交術をやっている場面はかつて見たことがないが、病気と聞いて即座に飛び出して行かない場合もかつてなかったと思う。田舎のことであるから、こういう生活はかなり烈しい肉体的労働をも意味した。父の一生はいわば任務を果たすための苦行の連続であった。かくのごとき苦行を続け得た父の性格を小生は尊敬せざるを得ない。そうしてこの尊敬する父から上記のごとき手紙を受け取ったのである。
父はその青春時代の情操を頼山陽などの文章によって養われた。すなわち維新の原動力となった尊皇の情熱を、維新の当時に吹き込まれた。言いかえれば、政治の実権を武士階級の手に奪われてただ名目上の主権者に過ぎなかった皇室、その皇室に対する情熱を吹き込まれた。かくて父は、ちょうど頼山陽がそうであったように、足利氏の圧迫に対してただひとり皇室を守る楠公の情熱を自分の情熱としたのであった。この心持ちが、憲法発布以後に生まれた我々に、そっくりそのまま伝わって来ないのは当然である。我々は物を覚え始める最初から皇室を日本の絶対的主権者として仰いでいる。この皇室を守るために、国内の他の勢力(例えば足利氏、徳川氏)に対して反抗するというような情熱は、切実に起こりようがない。それよりも我々が切実に感じたのは、外国の圧迫に対して日本帝国を守る情熱である。三国干渉は朧ろながらも子供心を刺戟した。露国の圧迫に対しては、おそらく楠公が足利氏に対して持ったであろうような、また父が徳川氏に対して持ったであろうような、そういう心持ちを持つことができた。(自分が日露戦争を経験したのと、父が維新を経験したのとは、ほぼ同年配である)すなわち我々にとっては皇室は日本帝国と同義であった。皇室に対して忠であることは、「一旦緩急あれば義勇公に奉ずる」ことであった。対内的でなくして対外的であった。徳川時代の主従関係のように個人的なものではなく、対国家の関係であった。これだけの相違が我々父子の間に存している。その事をまず小生は前記の手紙によって感じさせられたのである。
正直に言えば自分は、二十七日の事件を聞いたとき、自ら皇室を警衛しに行こうという心持ちは起こさなかった。皇室警衛のために東京には近衛師団がある。巡査や憲兵も沢山いる。警手もいる。我々の出る幕ではない。――しかし父が自ら警衛したいという心持ちにも当然の理由を認めざるを得なかった。父の皇室に対する情熱は、乃木大将のそれのように、個人的なものである。徳川時代の主従関係に基礎を置いた忠義の心持ちである。そうしてまた対内的である。だから自ら、身をもって、警衛したくなるのは当然である。がそう考えて来ると共に、現在の組織制度がもはや父のごとき志を実行不可能なものにしていることにも自ら気づかざるを得なくなった。
自ら直接に皇室に接することのできる人々は別である。一平民として今自ら皇室を警衛しようと欲するものは、一体どういう手段を取ればいいのか。それには、正規の手続きを経て、軍人、巡査、警手などになればよい。しかし父はもう老年でこの内のどれにもなれない。しからばあとに残されたのは、皇居離宮などのまわりをうろつくか、または行幸啓のときに路傍に立つことのみである。それは平時二重橋前に集まり、また行幸啓のとき路傍に立っている人々の行為と、なんら異なったものでない。それは我々の経験によれば、警衛であるよりもむしろ「取り締まられる」立場である。刑事のごとき特殊の技能を持ったものでなければ、警衛としてはなんの役にも立たぬ。こういう方法を取るために田舎から出て来て東京をうろつくのが臣民として忠であるか、それとも落ち着いて自分の任務をつくすのが忠であるか、――もちろん後者であるに相違ない。
父のごとき志は、今の社会ではもはやそれを有効に充たす方法がないのである。ただなんらかの方法でその心持ちを表現するに留めなくてはならぬのである。だから数万の人々はこの正月に明治神宮を参拝して、摂政宮殿下の万歳を叫び、或いは安泰を祈り、それでもって右のような心持ちを表現した。
警衛ということはそういうわけで実現ができない。それでは街頭の宣伝はどうであろうか。これまで人前で演説などをしたことのない父が、街頭で宣伝をやると言いだしたのはよほど気持ちが緊張していることを思わせる。ところで父が宣伝しようとするのは何であろうか。これは小生にはすぐに解った。父はただいわゆる過激思想だけを恐れているのではない。総じて人心の腐敗に対して公憤を抱いているのである。過激思想ももちろんその中に含まれているであろうが、過激思想を退治しようとしている為政者の言行といえどもまたその中に含まれていないのではない。利のために働かず、任務自身のための任務をつくして来た父から見ると、現在の政治家のように利のために動いて国家のための任務をその方便としている人間は、腐敗したものの骨頂である。例えば原敬のごときに対しては奸獰邪智の梟雄として心から憎悪を抱いていた。原敬の眼中にはただ自党の利益のみがあって国家がない。ところで彼の政党は私利をのみ目ざす人間の集団であって、自党の利益とは結局党員各自の私利である。彼らはこの集団の力によって政権を握り、その権力によって各自の私利をはかろうとする。しかし政治はかくのごときものであってはならない。明治大帝の詔にいう、「官武一途庶民に至るまで、各々そのこころざしを遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」と。私利を先にして、天下万民に各々そのこころざしを遂げしむる努力を閑却するごときものは、大詔に違背せる非国民である。しかもこの徒が政治を行なうとすれば、「君側に奸あり」と言わざるを得ぬ。こういうのが父の考えであった。だから原敬を暗殺した中岡良一が死刑に処せられないときまったとき、父は驚喜して当時の裁判長を名判官とたたえた。かくのごとく父は、私利をはかって超個人的道義的任務を忘れたものをすべて腐敗せるものとして憎悪する。自己の身命を超個人的道義的任務に捧げるもののみが、正しいと見られるのである。儒教は自己の身命を「人倫の道」に捧げよと命ずる。すべての詔勅もまたこの精神によって人々の範とすべき道を説いている。皇室はこの「道」の代表者である。父が宣伝しようとするのはこの事の他にない。
そこで小生は父が上京してこの宣伝を始めた場合のことを想像して見た。かりに父が日比谷公園の側に立つとする。目に映る民衆の大部分は、営々として、また黙々として、僅少の労銀のために汗を流している人々である。彼らはその労働を怠ることなくしてはこの老人の饒舌に耳を傾けることができない。そうして父が痛撃しようと欲する過激運動者のごときは一人も目に入らないのである。そういう人間がどこにいるかは、彼の同志になるか、または専門の刑事にでもならなければ解るものでない。反対に人間の数は少なくとも、著しく目につくものがある。自動車を飛ばせて行く官吏、政治家、富豪の類である。帝国ホテルが近いから夕方にでもなれば華やかに装った富豪の妻や娘もそれに混じるであろう。公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、自動車を駆るものに対しては、父は何を感ずるであろう。天下万民が「おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とは、明治大帝の聖勅である。おのれのみが志を遂げんために利を逐うて狂奔する虚業家、或いは政治家、おのれの心のみを倦まざらしめんためにホテルへ踊りに行く貴族富豪、それらを見て父の心には勃然として怒りの情が動きはしまいか。今や、皇室をねらう不埒漢さえも出た非常の時である。しかるになんぞや、私利私楽を追うて狂奔するとは! しかしこれらの徒に対して道を宣伝しようにも、自動車はこの老人などを寄せつけない。老人はどこかへこの怒りの情を表現せずにはいられぬ。偶々そばにふらふらと歩いている失業者、学生、或いはその他の通行人が来る。老人は彼らに向かって演説を始める。物見高い都会のことであるから、いそがしい用事を控えた人までが何事かと好奇心を起こしてのぞきにくる。老人は怒りの情にまかせて過激な言を発せぬとも限らぬ。例えば中岡良一を賞讃して、彼はまことに国士であった、志士であった、というようなことを言い出さぬとも限らぬ。それは暗殺の煽動である。巡査が来て彼を過激思想宣伝者、直接行動煽動者として警視庁へひっぱって行く。
どうもこれでは困る。それよりも、初めから落ち着いて宣伝のできるように、どこかに会場を借り聴衆を集めて演説するとする。父の情熱は純粋であり、考えも正しいが、しかし残念ながら極めて単純である。情熱、確信という点においては聴衆以上であるとしても、話すことの内容は反って聴衆の知識よりも貧しいであろう。それでも演説者のまわりに何か迷信の靄がかかっていれば、多くの宗教家や政治演説家がそうであるように、内容の貧弱な言葉をもってしても何かの印象を与え得るであろうが、父にはそういう迷信を刺戟すべきなんらの虚名もない。そこでただ新聞から得た知識で政治家を攻撃したり、勅語を捧読したりするだけのことになる。宣伝としては効果はあるまい。
そこで警衛、宣伝ともに有効な効果を挙げ得ぬことになる。それをやって見たところで、ただ父が主観的に満足するだけのことに過ぎぬ。いや、その満足も疑わしい。直接行動煽動者として拘引でもされようものなら、官憲に対する烈しい反抗心が起こるであろう。聴衆に冷笑されたりしようものなら、日本人が皆非国民になってしまったような心細い感じが起こるであろう。そうすれば今よりもいっそう不安な、不愉快な気持ちになるに相違ない。そういう結果を導き出すためにわざわざ警衛や宣伝に出てくる必要は果たしてあるだろうか。のみならず東京に慣れない目の悪い老人を今の東京の電車にひとりで乗せるわけには行かぬ。ただ道を歩くだけでも、ひとりでは危険である。勢い小生がついて歩かなくてはならぬ。それでは小生が自分の任務を怠らなくてはならぬ。
こういうことを考えて小生は一月一日に父の計画を阻止する手紙を書いた。志は結構であるが、それを有効に実現することができない。臣民として「なんの役にも立たぬ」ことを実行するよりは、「何か役に立つ」ことを実行する方が忠である。現下の険悪な世情は、政治家が聖勅に違背したことに基づく。というのは、天下万民をして「各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」との聖旨を奉戴しなかったことに基づく。国民の大部分がその志を遂げようとすることを、なんらか危険なことのように考えたのに基づく。だから「人心が倦んで」、その中から自暴自棄的な行動をとるものも出て来たのである。しかし聖勅に違背するような不忠な政治家を誰が作ったであろうか。たといそういう政治家が官僚の中から出たとしても、すでに議会が開けた以上は、代議士さえ聖旨にかなうような人であれば、そういう違勅の政治家を駆逐することができたはずである。しかるに同じく聖勅に違背するような不忠な代議士が選出された。明治大帝は「万民の志を遂げしむる」ために代議制を立てられたのであるが、選挙権を有する人々は、万民の志を阻止して党利をのみはかるような代議士を選出した。そうすると選挙権者もまた全体として聖勅に違背したことになる。皆不忠である。父はこれまで選挙について奔走したことがない。万民の志を遂げしむる政治のために身命を賭して努力するような志士を選挙しようと骨折ったこともない。そうすると父も不忠であった。役に立つことを実行しようとするならば、まず第一にこの点において忠義をつくそうとしなくてはならぬ。自ら忠良な臣民になるばかりでなく、また不忠な選挙権者を化して忠良な臣民にしなくてはならぬ。「万民の志を遂げしむる」という理想を阻んでいるものは、政治においても経済においても、自己の利益または特権に執着する心である。「万民の志を遂げしむる」ことによって自己の利益または特権を失わんことを恐るる心である。それが聖勅に違背する心である。またもし工業労働者のみの利益を主張して他の国民の志を阻止しようとするならば、もちろんそれも違勅である。万民志を遂ぐるという理想的な境地に達するためには、どの階級も多少ずつは犠牲を払わなくてならぬ。しかし公平に言って、特権階級が特に多くの犠牲を払わなくては、万民志を遂ぐる境に達しがたいことも事実である。そうしてその犠牲を払うことが聖旨を奉戴し忠良な臣民となるゆえんである。階級争闘が必然であるように見えるのは不忠な政治家や不忠な資本家などがいるからであって、すべての人が万民志を遂ぐることを理想とする忠良な臣民になりさえすれば、階級争闘などの必要はない。過激運動なども起こらなくなる。従って真に皇室を護衛することになる。この意味で忠義を鼓吹して頂きたい。
小生の手紙の大意は右のごときものであった。ところでこの手紙を書いているうちに、小生が少年時以来養成されて来たと思っていた皇室への情熱が、いつの間にか内容を異にしている――というよりも内容を深めているのに気づかざるを得なかった。小学中学で教え込まれた忠君愛国は、忠君即愛国、君即国であったが、なぜそれが同一になるかについて理解し得なかった。それは皇室や国家をただ現実的にのみ見ていたからである。しかし皇室の権威はただ現実的な根拠からのみ出るのではない。神話時代には天皇は、宇宙の主宰者たる天照大神の代表者であった。天照大神は信仰の対象であって現実的に経験のできるものでない。それは理論的に言えば一切のものの根源たる一つの理念である。この理念の代表者或いは象徴であるがゆえに神聖な権威があったのである。この重大な契機は、思想が急激に発達した飛鳥寧楽時代においても失われなかった。天皇は、宇宙を支配せる「道」の代表者或いは象徴である。天平時代の詔勅にしばしば現われているごとく、天皇の位を充たされる個人としては、謙遜して「薄徳」と称せられたが、天皇としては道そのものの代表者でなくてはならなかった。その道を論じまた教えうるには、大宝令に規定しているように、それぞれ人がある。政治はこの道を実現せんとする努力である。国家はこの道或いは理念の実現でなくてはならない。我々の国家が或る権力の代表者を主権者とせずして、道の代表者を主権者とすることは、確かに我々の国体の精華である。がもとよりこの道は、理念として人類を引き行くものであって、或る時代或る階級の特殊な思想を意味するのでない。いかなる思想も、それが根本の理念の展開として意義を有する限り、すべてこの道に属する。もし或る特殊な思想をもって皇室を独占せんとするものがあれば、それは皇室の神聖を汚すものである。ひいては皇室の安泰を脅かすものである。なぜなら道の代表者を特殊思想の代表者と混同するような馬鹿者が出てくるからである。
小生はこの考えが老父の了解を得ることを信じて右の手紙を発送した。
これが一つの私事の顛末である。
(思想) | 底本:「黄道」角川書店
1965(昭和40)年9月15日初版発行
入力:橋本泰平
校正:小林繁雄
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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松茸の出るころになるといつも思い出すことであるが、茸という物が自分に対して持っている価値は子供時代の生活と離し難いように思われる。トルストイの確か『戦争と平和』だったかにそういう意味で茸狩りの非常に鮮やかな描写があったと思う。
自分は山近い農村で育ったので、秋には茸狩りが最上の楽しみであった。何歳のころからそれを始めたかは全然記憶がないが、小学校へはいるよりも以前であることだけは確かである。村から二、三町で松や雑木の林が始まり、それが子供にとって非常に広いと思われるほど続いて、やがて山の斜面へ移るのであるが、幼いころの茸狩りの場所はこの平地の林であり、小学校の三、四年にもなれば山腹から頂上へ、さらにその裏山へと探し回った。今ではその平地の林が開墾され、山の斜面が豊富な松茸山となっているが、そのころにはまだ松茸はきわめてまれで、松茸山として縄を張られている部分はわずかしかなかった。そこで子供たちにとっては、松茸を見いだしたということは、科学者がラディウムを見いだしたというほどの大事件であった。通例は松茸以外の茸をしか望むことができなかった。まず芝生めいた気分のところには初茸しかない。が、初茸は芝草のない灌木の下でも見いだすことができる。そういうところでなるべく小さい灌木の根元を注意すると、枯れ葉の下から黄茸や白茸を見いだすこともできる。その黄色や白色は非常に鮮やかで輝いて見える。さらにまれには、しめじ茸の一群を探しあてることもある。その鈍色はいかにも高貴な色調を帯びて、子供の心に満悦の情をみなぎらしてくれる。そうしてさらに一層まれに、すなわち数年の間に一度くらい、あの王者の威厳と聖人の香りをもってむっくりと落ち葉を持ち上げている松茸に、出逢うこともできたのである。
こういう茸狩りにおいて出逢う茸は、それぞれ品位と価値とを異にするように感じられた。初茸はまことに愛らしい。ことに赤みの勝った、笠を開かない、若い初茸はそうである。しかし黄茸の前ではどうも品位が落ちる。黄茸は純粋ですっきりしている。が、白茸になると純粋な上にさらに豊かさがあって、ゆったりとした感じを与える。しめじ茸に至れば清純な上に一味の神秘感を湛えているように見える。子供心にもこういうふうな感じの区別が実際あったのである。特にこれらの茸と毒茸との区別は顕著に感ぜられた。赤茸のような鮮やかな赤色でもかつて美しさを印象したことはない。それは気味の悪い、嫌悪を催す色であった。スドウシやヌノビキなどは毒茸ではなかったが、何ら人を引きつけるところはなかった。
子供にとって茸の担っていた価値はもっと複雑な区別を持っているのであるが右にあげただけでもそう単純なものではない。このような区別は希少性の度合からも説明し得られるであろう。しかし、希少性だけがその規定者ではなかった。どんなに珍しい種類の毒茸が見いだされたとしても、それは毒茸であるがゆえに非価値的なものであった。では何が茸の価値とその区別とを子供に知らしめたのであろうか。子供の価値感がそれを直接に感得したのであろうか。もし色の美しさがその決定者であったならば、そうも言えるであろう。しかし赤茸の美しい色は非価値であった。色の美しさではなく味のよさに着目するとしても、子供には初茸の味と毒茸の味とを直接に弁別するような価値感は存せぬのである。茸の価値を子供に知らしめたのは子供自身の価値感ではなくして、彼がその中に生きている社会であった。すなわち村落の社会、特に彼を育てる家や彼の交わる仲間たちであった。さまざまの茸の中から特に初茸や黄茸や白茸やしめじ茸などを選び出して彼に示し、彼に味わわせ、またそれらを探し求める情熱と喜びとを彼に伝えたのは、彼の親や仲間たちであった。言いかえれば、社会的に成立している茸の価値を彼は教え込まれたのである。それと同時に彼はまたいずれの茸がより多く尊重せられるかをも仲間たちから学んだ。年長の仲間たちがそれを見いだした時の喜び方で、彼は説明を待つまでもなくそれを心得たのである。
しかしそれは茸の価値が彼の体験でないという意味ではない。教え込まれた茸の価値はいわば彼に探求の目標を与えたのであった。すなわち彼を茸狩りに発足せしめたのであった。それから先の茸との交渉は厳密に彼自身の体験である。茸狩りを始めた子供にとっては、彼の目ざす茸がどれほどの使用価値や交換価値を持つかは、全然問題でない。彼にはただ「探求に価する物」が与えられた。そうして子供は一切を忘れて、この探求に自己を没入するのである。松林の下草の具合、土の感じ、灌木の形などは、この探求の道においてきわめて鋭敏に子供によって観察される。茸の見いだされ得るような場所の感じが、はっきりと子供の心に浮かぶようになる。彼はもはや漫然と松林の中に茸を探すのではなく、松林の中のここかしこに散在する茸の国を訪ねて歩くのである。その茸の国で知人に逢う喜びに胸をときめかせつつ、彼は次から次へと急いで行く。ある国では寂として人影がない。他の国ではにぎやかに落ち葉の陰からほほえみ掛ける者がある。そのたびごとに子供は強い寂しさや喜びを感じつつ、松林の外の世界を全然忘れている。そういう境地においては実際に初茸は愛らしく、黄茸は品位があり、白茸は豊かであり、しめじは貴い。こういう価値の感じは仲間に教え込まれたのではなくして彼自身が体験したのである。彼は自らこの探求に没入することによって、教えられた価値を彼自身のなかから彼自身のものとして体験した。そうしてこの体験は彼の生涯を通じて消え失せることがない。
そこで振り返って見ると、茸の価値をこの子供に教えた年長の仲間たちも、同じようにそれぞれの仕方においてこの価値を体験していたのであった。そうしてその体験の表現が、たとえば茸狩りにおける熱中や喜びの表情が、彼に茸の価値を教えたのである。だからここに茸の価値と言われるものは、この自己没入的な探求の体験の相続と繰り返しにほかならぬのであって、価値感という作用に対応する本質というごときものではない。茸の価値は茸の有り方であり、その有り方は茸を見いだす我々人間の存在の仕方にもとづくのである。
ここに問題とした茸の価値は、茸の使用価値でもなければまた交換価値でもない。が、これらの価値の間に一定の連関の存することは否み難いであろう。いわゆる「価値ある物」は何ほどかこの茸と同じき構造をもつと言ってよい。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1936(昭和11)年11月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
2014年3月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一
松の樹に囲まれた家の中に住んでいても松の樹の根が地中でどうなっているかはあまり考えてみた事がなかった。美しい赤褐色の幹や、わりに色の浅い清らかな緑の葉が、永いなじみである松の樹の全体であるような気持ちがしていた。雨がふると幹の色はしっとりと落ちついた、潤いのある鮮やかさを見せる。緑の葉は涙にぬれたようなしおらしい色艶を増して来る。雨のあとで太陽が輝き出すと、早朝のような爽やかな気分が、樹の色や光の内に漂うて、いかにも朗らかな生の喜びがそこに躍っているように感ぜられる。おりふしかわいい小鳥の群れが活き活きした声でさえずり交わして、緑の葉の間を楽しそうに往き来する。――それが私の親しい松の樹であった。
しかるにある時、私は松の樹の生い育った小高い砂山を崩している所にたたずんで、砂の中に食い込んだ複雑な根を見まもることができた。地上と地下の姿が何とひどく相違していることだろう。一本の幹と、簡素に並んだ枝と、楽しそうに葉先をそろえた針葉と、――それに比べて地下の根は、戦い、もがき、苦しみ、精いっぱいの努力をつくしたように、枝から枝と分かれて、乱れた女の髪のごとく、地上の枝幹の総量よりも多いと思われる太い根細い根の無数をもって、一斉に大地に抱きついている。私はこのような根が地下にあることを知ってはいた。しかしそれを目の前にまざまざと見たときには、思わず驚異の情に打たれぬわけには行かなかった。私は永いなじみの間に、このような地下の苦しみが不断に彼らにあることを、一度も自分の心臓で感じたことがなかったのである。彼の苦しみの声を聞いたのは、時おりに吹く烈風の際であった。彼の苦しそうな顔を見たのは、湿りのない炎熱の日が一月以上も続いた後であった。しかしその叫び声やしおれた顔も、その機会さえ過ぎれば、すぐに元の快活に帰って苦しみの痕をめったにあとへ残さない。しかも彼らは、我々の眼に秘められた地下の営みを、一日も怠ったことがないのであった。あの美しい幹も葉も、五月の風に吹かれて飛ぶ緑の花粉も、実はこのような苦労の上にのみ可能なのであった。
この時以来私は松の樹のみならず、あらゆる植物に心から親しみを感ずるようになった。彼らは我々とともに生きているのである。それは誰でも知っている事だが、私には新しい事実としか思えなかった。
二
私は高野山へのぼった。そうして不動坂にさしかかった時に、数知れず立ち並んでいるあの太い檜の木から、何とも言えぬ荘厳な心持ちを押しつけられた。なるほどこれは霊山だと思わずにはいられなかった。この地をえらんだ弘法大師の見識にもつくづく敬服するような気持ちになった。
それは外郭に連なる山々によって平野から切り離された、急峻な山の斜面である。幾世紀を経て来たかわからない老樹たちは、金剛不壊という言葉に似つかわしいほどなどつしりとした、迷いのない、壮大な力強さをもって、天を目ざして直立している。そうして樹々の間に漂うている生々の気は、ひたひたと人間の肌にも迫って来る。私は底力のある興奮を心の奥底に感じ始めた。
私の眼はすぐに老樹の根に向かった。地下の烈しい営みはすでに地上一尺のところに明らかに現われている。土の層の深くないらしいこの山に育ってあの亭々たる巨幹をささえるために、太い強靱な根は力限り四方へひろがって、地下の岩にしっかりと抱きついているらしい。あの巨大な樹身にふさわしい根は一体どんなであろう。ことに相隣った樹の根と入りまじって薄い地の層の間に複雑にからみ合っているありさまは、想像するだけで我々に驚異の情を起こさせる。
確かに山は烈しい生の力の営みによって、残る所なく包まれているのである。我々はそれを肉眼によって見る事はできなかったが、しかし一種の霊気として感ずることはできた。隠れたる努力の威圧が、神秘の影をさえ帯びて、我々に敬度の情を起こさせずにはいなかったのである。
私は老樹の前に根の浅い自分を恥じた。そうして地下の営みに没頭することを自分に誓った。今気づいてもまだ遅くない。
三
成長を欲するものはまず根を確かにおろさなくてはならぬ。
上にのびる事をのみ欲するな。まず下に食い入ることを努めよ。
四
早年にして成長のとまる人がある。根をおろそかにしたからである。
四十に近づいて急に美しい花を開き豊かな果実を結ぶ人がある。下に食い入る事に没頭していたからである。
私の知人にも理解のいい頭と、感激の強い心臓と、よく立つ筆とを持ちながら、まるで労作を発表しようとしない人がある。彼は今生きることの苦しさに圧倒せられて自分のようなものは生きる値打ちもないとさえ思っている。しかしそれは彼の根が一つの地殻に突き当たってそれを突破する努力に悩んでいるからである。やがてその突破が実現せられた時に、どのような飛躍が彼の上に起こるか。――私は彼の前途を信じている。根の確かな人から貧弱な果実が生まれるはずはない。
五
古来の偉人には雄大な根の営みがあった。そのゆえに彼らの仕事は、味わえば味わうほど深い味を示してくる。
現代には、たとい根に対する注意が欠けていないにしても、ともすればそれが小さい植木鉢のなかの仕事に堕していはしないか。いかにすれば珍しい変種ができるだろうかとか、いかにすれば予定の時日の間に注文通りの果実を結ぶだろうかとか、すべてがあまりに人工的である。
天を突こうとするような大きな願望は、いじけた根からは生まれるはずがない。
偉大なものに対する崇敬は、また偉大なる根に対する崇敬であることを考えてみなければならぬ。
六
根のためには、できるならば、地の質をえらばなくてはならぬ。
果実のためには、できるならば、根を培う肥料をえらばなくてはならぬ。
根に対する情熱を鼓吹し、その根の本能的に好むところの土壌のありかを教え、そうして幾千年来堆積している滋養分をその根に供給してやるのが教育の任務である。特に大学教育の任務である。
大学が植木鉢に堕するか否かは、人の問題であって制度の問題ではない。大きい根を尊重することを知らない経営者の下にあっては、いかなる制度の改革も、ついに五十歩百歩に過ぎないだろう。
七
教養は培養である。それが有効であるためには、まず生活の大地に食い入ろうとする根がなくてはならぬ。
人々はあまりに根の本能を忘れていはしないか。いかに貴い肥料が加えられても、それを吸収する力のない所では何の役にも立たない。私は教養の機会と材料とが我々の前に乏しいとは思わない。ただそれに相当する根が小さいのを忘れる。
汝の根に注意を集めよ。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "049886",
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"底本初版発行年1": "2007(平成19)年4月10日",
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京都に足かけ十年住んだのち、また東京へ引っ越して来たのは、六月の末、樹の葉が盛んに茂っている時であったが、その東京の樹の葉の緑が実にきたなく感じられて、やり切れない気持ちがした。本郷の大学前の通りなどは、たとい片側だけであるにもしろ、大学の垣根内に大きい高い楠の樹が立ち並んでいて、なかなか立派な光景だといってよいのであるが、しかしそれさえも、緑の色調が陰欝で、あまりいい感じがしなかった。大学の池のまわりを歩きながら、自分の目が年のせいで何か生理的な変化を受けたのではないかと、まじめに心配したほどであった。
京都から時々上京して来たときにも、この緑の色調の相違を感じなかったわけではない。しかし三日とか五日とかの短い期間だと、それはあまり気にならず、いわんや苦痛とまではならなかった。それが、引っ越して来て居ついたとなると、毎日少しずつ積もって行って、だんだん強くなったものと見える。いわゆる acceleration の現象はこういうところにもあるのである。とうとうそれはやりきれないような気持ちにまで昂じて行った。自分ながら案外なことであった。京都に移り住む前には二十年ぐらいも東京で暮らしていたのであるが、かつてそういう気持ちになったことはない。
気になり始めると、いやなのは緑の色調ばかりではなかった。秋になって、樹々の葉が色づいてくる。その黄色や褐色や紅色が、いかにも冴えない、いやな色で、義理にも美しいとはいえない。何となく濁っている。爽やかさが少しもなく、むしろ不健康を印象する色である。秋らしい澄んだ気持ちは少しも味わうことができない。あとに取り残された常緑樹の緑色は、落葉樹のそれよりは一層陰欝で、何だか緑色という感じをさえ与えないように思われる。ことに驚いたことには、葉の落ちたあとの落葉樹の樹ぶりが、実におもしろくなかった。幹の肌がなんとなく黒ずんでいてきたない。枝ぶりがいやにぶっきら棒である。たまに雪が降ってその枝に積もっても、一向おもしろみがない。結局東京の樹木はだめじゃないか。「森の都」だなどと、嘘をつけ、と言いたくなるほどであった。
こんなふうにして不愉快な感じがいつまでも昂じて行くとすれば、閉口するのはほかならぬ私自身であって、東京ではない。これは困ったことになったと思っていると、幸いなことに東京の春がそれを救ってくれた。樹木に対して目をふさぐような気持ちで冬を過ごしてしまうと、やがて濠ばたの柳などが芽をふいてくる。いかにも美しい。やっぱり新緑は東京でも美しいんだなと思う。次々にほかの樹も芽を出して来て、それぞれに違った新緑の色調を見せる。並木に使ってある欅の新緑なども、煙ったようでなかなかいい。などと思っているうちに acceleration が止まったのである。東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。
が、こういう経験のおかげで、私は今さらに京都の樹木の美しさを追想するようになった。
大槻正男君の話によると、京都の風土は植物にとって非常に都合のよいものであるという。素人目にもそれはわかる。水の豊富なこと、花崗岩の風化でできた砂まじりの土壌のことなどは、すぐ目についてくる。ところでその湿気や土壌が植物とどういうふうに関係してくるかということになると、なかなか複雑で、素人には見とおしがつかない。ただほんの一端が見えるだけである。
京都の湿気のことを考えると、私にはすぐ杉苔の姿が浮かんでくる。京都で庭園を見て回った人々は必ず記憶していられることと思うが、京都では杉苔やびろうど苔が実によく育っている。ことに杉苔が目につく。あれが一面に生い育って、緑の敷物のように広がっているのは、実に美しいものである。桂離宮の玄関前とか、大徳寺真珠庵の方丈の庭とかは、その代表的なものと言ってよい。嵯峨の臨川寺の本堂前も、二十七、八年前からそういう苔庭になっている。こういう杉苔は、四季を通じて鮮やかな緑の色調を持ち続け、いつも柔らかそうにふくふくとしている。ことにその表面が、芝生のように刈りそろえて平面になっているのではなく、自然に生えそろって、おのずから微妙な起伏を持っているところに、何ともいえぬ美しさがある。従ってそういう庭は、杉苔の生えるにまかせておけば自然にできあがってくる道理である。臨川寺の庭などは、杉苔の生えている土地の土を運んで来て、それを種のようにして一面にふりまいておいただけなのである。しかしその結果として一面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうということは、その場所にちょうどよい条件がそろっていることを示している。杉苔は湿気地ではうまく成長しないが、乾いた土地でもだめである。その上、一定の風土的な条件がなくてはならぬ。京都はそういう条件を持っている。それが京都の湿度だと思う。
私は永い間東京には杉苔はないと思っていた。東京で名高い名園などでも杉苔を見なかったからである。しかし京都から移って来て数年後に東京の西北の郊外に住むようになってみると、杉苔は東京にもざらにあることがわかった。農家の防風林で日陰になっている畑の畔などにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつのまにか消滅してしまった。杉苔を育てるのはむずかしいと承知しているから、二度とは試みなかった。ところが五、六年前、非常に雨の多かった年に、中庭の一部に一面に杉苔が芽を出した。秋ごろには、京都の杉苔の庭と同じように、一坪くらいの地面にふくふくと生えそろった。これはしめたと思って大切に取り扱い庭一面に広がるのを楽しみにしていたのであるが、冬になって霜柱が立つようになると、消えてなくなった。翌年も少しは出たが、もう前の年のようには育たなかった。雨の少ない年には全然出て来ないこともある。昨年はいくらか出たが、今年は比較的多く、庭のところどころに半坪ぐらいずつ短いのが生えそろっている。竜の髯の間にもかなり萌え出ているところがある。しかし冬は必ず消えるのであるから、京都の杉苔のようになる望みは全然ない。それを見て私には、東京と京都との風土の相違がかなり具体的にわかったのである。
これは杉苔だけのことであるが、しかし杉苔にこれほど顕著に現われている相違は、他のあらゆる植物にもあるに相違ない。樹の葉の色の相違などは、たぶんそこに起因するものであろう。東山や嵐山などを包んでいる樹木の種類は非常に多いのであるが、そういう多種類の樹木の一々が、非常に具合のいい湿気に恵まれて、その樹木に特有な葉の色を、最も純粋に発揮しているのかもしれない。あるヨーロッパの画家が、新緑ごろの嵐山を見て、緑の色の種類のあまりに多いのに驚嘆した、という話を聞いたことがある。特に京都でそういう印象を得たということは、京都の樹木の種類が多いことを示すとともに、また一々の樹の特徴が他の地方でよりもくっきりと出ていることを示すのであろう。椎の樹は武蔵野の原始林を構成していたといわれるが、しかし五月ごろの東山に黄金色に輝いている椎の新芽の豪奢な感じを知っているものは、これこそ椎だと思わずにはいられない。
が、湿気と結びついて土壌が重要な役目をしていることも見のがすわけには行かぬ。樹木の姿の相違などはそこに起因しているように思われる。武蔵野の土は、岩石の風化でできた土とは、非常に違ったものである。いくら掘ってみても同じようにボコボコしているし、石などは一つも出て来ない。植物の根がのびて行くのを邪魔するものは何もない。たぶんその結果であろう、武蔵野の樹木はのびが非常に早い。それが樹の姿に野育ちの感じを与える。その代表的なものはつつじだと思う。一間も二間もの高さに育ったつつじなどは京都付近では見ることができない。それと同じに松の樹の枝ぶりがまるで違うし、桜に至っては別の種類ができあがっている。楓などでも成長の速度が恐ろしく違う。そういう相違はあらゆる樹木の種類について数え上げて行くことができるのである。京都の東山などは、少し掘って行けば下は岩石である。そういう、あまり厚くない土壌の上に、相当に大きい樹木が生い茂っている。ああいう樹木の根は、まるで異なった条件の下にあるといってよい。同じ丈をのばすのに、二倍三倍の年数がかかるかもしれない。しかしそれは無駄ではないのである。早くのびた樹の姿は、いかにも粗製の感じで、かっちりとした印象を与えない。また実際に早く衰える場合も多い。それに対して、同じ大きさになるのに二倍三倍の年数をかけた樹は、枝ぶりに念の入った感じがあるばかりでなく、かえって耐久的なのである。そういう樹々が無数に集まって景観を形成するとすれば、景観全体がすっかり違った感じになるのは当然であろう。
私は東山の麓に住んでいた関係もあって京都の樹木の美しさを満喫することができた。
新緑のころの京都は、実際あわただしい気分にさせられる。疎水端の柳が芽をふいたと思うと、やがて次から次へといろいろな樹が芽をふき始める。それが少しずつずれていて、また少しずつ色調を異にしている。樹の名は一々は知らないが、しかしとにかく種類が多い。楓が芽をふき始めるのは四月の中ごろであったと思うが、若王子の池畔にある数十本の楓だけでも、芽の出る時期は三、四段に分かれており、新芽の色もはっきり四、五種類に見分けることができた。若王子神社の伊藤快彦氏の話では、ここには十何種類かの楓が集めてあるということであった。その楓の新芽が、日々に少しずつ色を変えて葉をのばして行き、やがてほぼ同じ色調の薄緑の葉を展開し終わるのは、大体四月の末五月の初めであったが、その時の美しさはちょっと言い現わし難い。実に豊かな、あふれるような感じであった。ことにそのころがちょうど陰暦の十四、五日にでも当たっており、幸い晴れた晩があると、月光の下に楓の新緑の輝く光景を見ることができた。その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。
楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れば楓はほんの一部分である。新緑のころ、東山の常緑樹の間に点綴されていかにも孟春らしい感じを醸し出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものといろいろあったが、それらは皆同じように、新芽の色から若葉の色までの変遷と展開を五月の上句までに終えるのである。そうしてそのあとに常緑樹の新芽が目立ち始める。椎とか樫とかの新芽である。前に言ったように椎の新芽の黄金色が、むくむくと盛り上がったような形で東山の山腹のあちこちに目立ってくるのは、ちょうどこのころである。やがてその新芽がだんだん延びて、常磐樹らしく落ちついた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、落葉樹の若葉は深い緑色に落ちついて、もう色の動きを見せなくなる。そうなるともうすぐに五月雨の季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひくのはそのころである。
松のみどりがだんだん目につくようになってくるのも、そのころからであったと思う。新芽の先についた花から黄色の花粉のこぼれるのが見えたと思ううちに、やがて新芽の新しい針葉がのびて来て、古い葉と層々相重なった、いかにも松の新緑らしい形になる。なるほど土佐絵の画家はこれを捕えたのであったかと気づかざるを得ないような形である。東京で松の新緑を見ても、必ずしもそういう印象を受けるとは限らないのであるが、東山などでは、最も数の多い松の樹が、そろってそういう形になるのである。落葉樹の緑色も、常磐樹の緑色も、もうすっかり落ちついて、新緑らしい鮮やかさのなくなったころであるから、この松の新緑は、非常に鮮やかな美しい印象を与える。
松の新緑が出そろってしまうのは、もう土用も遠くない七月の初めであったと思う。やがて一、二週間もすると、この新緑も落ちついた色に変わってしまう。柳の芽が出始めて以来、三、四個月の間絶えず次から次へと動いていた東山の緑色が、ここで一時静止する。それはちょうど祇園祭りのころで、昔は京都の市民が祭りの一週間とその前後とで半月以上にわたって経済的活動を停止した時期である。
しかしこの静止状態が続くのは、せいぜい三週間であって、一個月にはならなかったと思う。土用の末ごろにはもう東山の中腹の落葉樹の塊りが、心持ち色調を変えてくる。ほんの少しではあるが、緑の色が薄くなるのである。ここで動きがまた始まる。八月から九月の中ごろ、秋の彼岸のころへかけては、非常に徐々としてではあるが、だんだん色が明るくなって行き、彼岸が過ぎたころには、緑の色調全体がいかにも秋らしい感じになる。
少しずつ黄色が目立ちはじめるのは、十月になってからであったと思う。新緑の時に樹の種類によって遅速があり、またその新芽の色を著しく異にしていたように、緑があせて黄色が勝ち始める時期も、またその黄色の色調も、樹によってそれぞれ違う。十月の中ごろにはそういう相違がはっきりと感じられるようになる。楢であったか、形のいい大きい葉で、実に純粋な美しい黄色を見せるのもあった。それから櫨のような真紅な色になる葉との間に、実にさまざまな段階、さまざまな種類がある。それが大きい樹にも見られれば、下草の小さい木にも見られる。
私が初めて東山の若王子神社の裏に住み込んだのは、九月の上旬であったが、一月あまりたってようやく落ちついて来たころに、右のような色の動きが周囲で始まった。書斎の窓をあけると、驚くような美しい黄葉が目に飛び込んで来る。一歩家の外に出ると、これまで注意しなかったいろいろな樹が、美しく紅葉しかけている。それが毎日のように変わって行く。十月の下旬になると、周囲がいかにも華やかな、刺戟の多い気分になって、書斎の中に静かに落ちついていることができなくなった。これは飛んだところへ引っ越して来た、と幾分あわてるような気持ちにさえなった。
そういう紅葉の代表的なのは楓の紅葉で、その楓の樹は家の前の池のまわりに数十本植えてあった。その楓の種類が多く、新芽の出る時期や新芽の色が一々違っていることは、前にちょっと述べたが、紅葉の時にまたその相違が現われてくる。真紅になるのもあれば、紅の要素が非常に少なく、ほとんど黄色に近いのもある。芽の色に赤味が勝っていた樹は、紅葉の時の赤みも濃い、というような関係も目立ったが、また芽の出の最も遅かった樹がまっ先に紅葉するというような、逆の関係も目についた。年によると、この相違が非常に強く現われ、早い樹はもう紅葉が済んで散りかけているのに、遅い樹はまだ半ば緑葉のままに残っている、というようなこともあった。そういう年は紅葉の色も何となく映えない。しかし気候の具合で、三年に一度ぐらいは、遅速があまりなく、一時に全部の樹の紅葉がそろうこともあった。それは大体十一月三日の前後で、四、五日の間、その盛観が続いた。特に、夕日が西に傾いて、その赤い光線が樹々の紅葉を照らす時の美しさは、豪華というか、華厳というか、実に大したものだと思った。しかしその年の紅葉がそういうふうに出来がよいということの見透しは、その間ぎわまではつかないのである。手紙で打ち合わせをして東京から客を呼ぶ、というだけの余裕はなかった。老人は、夏が旱魃であればその秋の紅葉は出来がよい、と言ったが、それは必ずしも当たらなかった。たぶん、気候の条件がそろっている上に、その年の霜の降り具合が仕上げをするのであろうと思う。いずれにしても、高山とか高原とかでなくては見られないような美しい紅葉が、大都会の中で見られるのである。
紅葉は大体十一月一杯には散ってしまう。楓の樹が数十本もあると、その下に一、二寸に積もっているもみじの落葉を掃除するのはなかなかの骨折りであった。もみじの落葉を焚いて酒を暖めるというのが昔からの風流であるが、この落葉で風呂を沸かしたらどんなものであろうと思って、大きい背負い籠に何杯も何杯も運んで行って燃したことがある。長州風呂でかまどは大きかったのであるが、しかしもみじの葉をつめ込んで火をつけると、大変な煙で、爆発するようにたき口へ出て来た。そのわりに火力は強くなかった。山のように積み上げたもみじの葉を根気よくたき口から突き込んで、長い時間をかけて、やっとはいれる程度に湯がわいた。湯はもちろん薪で焚いたのと一向変わりはなかったが、しかしこの努力でできた灰は大したものであった。さらさらとしていて、何となく清浄な感じで、灰としてはまず第一等のものである。
紅葉のなくなったあとの十二月から、新芽の出始める三月末までの間が、京都を取り巻く山々の静止する時期である。新緑から紅葉まで絶えず色の動きを見ていると、この静止が何とも言えず安らかで気持ちがよい。緑葉としては主として松の樹、あとは椎や樫のような常緑樹であるが、それらの落ちついた緑がなかなかいい。落葉樹の白っぽい、骨のような幹や枝が、この常緑と非常によく釣り合っている。色彩という点から言っても、この枯淡な色の釣り合いが最もよいかもしれない。
これは私には非常な驚きであった。東京では冬の間樹木の姿が目に入らなかったのである。まれに目に入ると、それはむしろいやな感じを与える。早く春になって新芽が出るとよいと思う。しかるに京都では、この落ちついた冬の樹木の姿が、一番味がある。われわれの祖先の持っていた趣味をいろいろと思い出させる。
中でも圧巻だと思ったのは、雪の景色であった。朝、戸をあけて見ると、ふわふわとした雪が一、二寸積もって、全山をおおうている。数多い松の樹は、ちょうど土佐派の絵にあるように、一々の枝の上に雪を載せ、雪の下から緑をのぞかせる。楓の葉のない枝には、細い小枝に至るまで、一寸ぐらいずつ雪が積もって、まるで雪の花が咲いているようである。その他、檜とか杉とか椎とか樫とか、一々雪の載せ方が違うし、また落葉樹も樹によって枝ぶりが違い、従って雪の花の咲かせ方も趣を異にしている。それを見て初めて私は、昔の画家が好んで雪を描いたゆえんを、なるほどと肯くことができたのである。四季の風景のうちで、最も美しいのはこの雪景色であるかもしれない。
しかしこの美しさは、せいぜい午前十時ごろまでしか持たない。小枝の上にたまった雪などは非常に崩れやすく、ちょっとした風や、少しの間の日光で、すぐだめになってしまう。枝の上の雪が崩れ始めれば、もう雪景色はおしまいである。だから市中に住んでいる人にこの景色を見せたいと思っても、見せるわけには行かなかった。
こういう雪景色と交錯して、二月の初め、立春の日の少し前あたりから、池の鯉が動きはじめ、小鳥がしきりに庭先へ来る。そういう季節が、紅葉と新緑とから最も距たっていて、そうして最も落ちついた、地味な美しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに年の始めを祝ったのであった。
(昭和二十五年九月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
1950(昭和25)年10月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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五、六年前のことと記憶する。ある夜自分は木下杢太郎と、東京停車場のそのころ開かれてまだ間のない待合室で、深い腰掛けに身を埋めて永い間論じ合った。何を論じたかは忘れたが、熱心に論じ合った。二人の意見がなかなか近寄って来なかった。そこを出て大手町から小川町の方へ歩いて行く間も、なお論じ続けた。日ごろになく木下が興奮しているように思えた。小川町の交叉点で――たしかそこで別れたように思うが――木下は腹立たしい心持ちを言葉に響かせてこう言った。
――結局僕が Genußmensch で、君がそうでない、ということに帰着するんだな。
この Genußmensch(それを試みに享楽人と訳した)という言葉を、木下は誇らしく発音した。そうでないと言われるのが自分には不満に感じられたほどに。でその時はこういう結論で物別れになったのが、気持ちよくなかった。しかしこの言葉が自分の頭に残って、幾度か反復せられている間に、だんだんそれが木下と離し難いものとなり、木下の特性を示すもののように思われて来た。今度彼の『地下一尺集』を読んで最初に頭に浮かんだのも、実はこの言葉である。
「享楽人」を単に「享楽する人」、「味わう人」の意に解するならば、人間は総じて何ほどかずつは享楽人である。が、特に一つの類型として認められる享楽人は、一定の特性を持ったものでなくてはならない。その特性は、第一に「享楽」すなわち「味わうこと」を他の何ものよりも重んじ、それによって彼の生活に統一を求めることである。第二に、味わう能力の特にすぐれていることである。
第一の特性は、美に浸る心持ちを善にいそしむ心持ちよりも重んずることを意味する。従って善への関心がないのではない。ただそれが美への関心の下位に立ちさえすればよいのである。むしろ善への関心の強く存在する方がこの特性を一層明らかにするだろう。なぜなら、善への関心が強まるほど美への関心は一層強まり、従って後者を「ヨリ重んずる」ことがきわ立って来るからである。
たとえば我々が人の苦しみに面した場合には、その苦しみを味わうのみでなくさらに実際的にその苦しみを取り除こうとする衝動を感ずる。この場合我々は味わう態度にとどまっていることができない。味わう態度にいることは、ふまじめな、たわけたことにさえも感ぜられる。しかし我々は、苦しみを取り除こうとする衝動がいかに強く起こったにしても、必ずしもそれを取り除き得るとは限らない。その際には我々はさらに一層の苦しみを感ずる。この衝動が強ければ強いほどこの苦しみもまたはなはだしい。その時我々はどこに落ちつき場所を求めるか。落ちつけないという断念に――すなわちこの世を苦渋の世界と観ずることに、落ちつきを求めるか。あるいは絶対の力にすがるか。あるいはなすべきことをなし切らない自己を鞭うつか。あるいは社会の改造に活路を認めるか。――それらはおのおの一つの道である。がこの場合、美の陶酔に自己の安んずる場所を認めるとすれば、それは右の諸種の道と異なった一つの特殊な道である。ここでは美への関心が善への関心の上に置かれる。そうしてあの苦しみが強ければ強いほど、この安心の方法もまたその意味を深めるのである。
木下杢太郎は傷つきやすい心を持っている。悲哀にも沈みやすい。こうもりが光を恐れるように倫理的な苦しみを恐れる。それゆえに、「一生を旅行で暮らすような」彼は、「生の流転をはかなむ心持ちに纏絡する煩わしい感情から脱したい、乃至時々それから避けて休みたい、ある土台を得たい」という心を起こすのである。そうしてそれが、たとい時に彼を宗教へ向かわせるにしても、結局宗教芸術に現われた、「永久味」の味到に落ちつかせる。彼においては美の享楽が救いである。彼の求める「土台」は美において、最も深い「美」において、得られるのである。彼からこの「享楽」を奪えば、彼は破滅するであろう。
『地下一尺集』に収められた警抜な諸篇は、生の重心をこの「享楽」に置いた作者の人格を、きわめてよく反映している。彼の描く人と自然とは、常に彼の「享楽」の光に照らされて、一種独特な釣合をもって現われてくる。非常に広濶な、偏執のない心が、あらゆる対象へ差別のない愛を注ぎながら、静かに、和やかに、それらを見まもっている、――そういう印象を与える。しかしそれは、木下杢太郎が実際生活においてそういう博大な心を持っている、という印象ではない。彼は享楽人であるために、その享楽の世界において無礙の愛を持っているのである。それだけにまたその愛には物足りないところもないではない。深く胸を刺すというような趣は少ない。無限の深い神秘へ人をいや応なしに引きずり込んで行こうとするような趣も乏しい。彼はかつて老いたる偏盲に嗟嘆させた、「いやしかし俺は自然の美しさに見とれていてはならぬ。いかな時といえども俺はただ俺の考察の対象としてよりほかに外象をながめてはならないのだ」。さよう、それが木下の享楽の一つの特徴である。彼は白墨で線を画して、その中で美を享楽する。その享楽は実によく行き届いている。が、その線の外に出ることを彼は不思議に恐ろしがるのである。
享楽人の第二の特性として、自分は味わう力の豊富なことをあげた。享楽人が、「味わうこと」を生活原理とする以上は、味わう能力の貧弱は畢竟人としての貧弱である。が、総じて一つの類型たり得るためには、彼は人として豊富でなくてはならぬ。すなわち享楽人はその享楽において広汎かつ強大な能力を持たなくてはならぬ。
享楽の対象は自然と人生の一切である。従って享楽はどの隅にもあり得る。しかし我々は金をためること、肉欲にふけることを無上の悦楽とする「高利貸的人間」が、広汎な享楽の力を持つとは思わない。むしろ彼らは貪欲と肉欲とのゆえに、自然と人生との限りなき価値に対して盲目なのである。彼らが一つの古雅な壺を見る。その形と色と触感との不思議な美しさは彼らには無関係である。彼らはただその壺の値段を見る。その壺で儲けたある骨董屋の事を考える。同様にまた彼らが一人の美女を見る場合にも、この女の容姿に盛られた生命の美しさは彼らには無関係である。彼らはただ肉欲の対象として、牛肉のいい悪いを評価すると同じ心持ちで、評価する。この種の享楽の能力は、嗅覚と味覚の鈍麻した人が美味を食う時と同じく、零に近いほどに貧弱である。
放蕩者は一般に享楽人と認められる。しかし放蕩者のうちに右のごとき貧弱な享楽人の多いことは疑えない。芸妓の芸が音曲舞踊の芸ではなくして枕席の技巧を意味せられる時代には、通人はもはや昔のように優れた享楽人であることを要しないのである。
享楽の能力が豊富であるとは、物象に現われた生命の価値を十分に味わい得るということである。そのためにはあらゆる種類の物象に対して常に生命の共鳴を感じ得るほどに自己の生命が広く豊かでなくてはならない。
木下杢太郎はその享楽の力の広汎豊富な点において確かに現代に傑出した男である。彼はその触れる物象に対して類まれなほど活発に反応する。そうしてその美を新鮮な味わいにおいてすくい取る。しかも彼は少数の物象にとどまることをしないで、彼を取り巻く無数の物象に、多情と思えるほどな愛情をふり撒く。『地下一尺集』の諸篇はこの多情な、自然及び芸術との「情事」の輝かしい記録である。伊豆の海岸。(そこで彼はゲエテの『イタリア紀行』の向こうを張って、「日本」の海岸を描き出す。)江戸。京、大阪。長崎。(この三地方が江戸時代の日本文化の三つの中心である。元禄の享楽人にとってこの三地方が重大であったように、彼もまた祖国日本をこの三基点の上で鑑賞する。)奈良。(ここで故国が世界的な背景の前に味わわれる。)北京。徐州。洛陽。(ここで彼は東洋人になる。東京の裏街で昔の江戸の匂いを嗅いでうっとりとしていた彼とは思えないほどに、「茫乎として暗澹たる」シナの風物をおもしろがっている。)これらの郷土の風景と住民と芸術との一切が、ここにはあたかも交響楽に取り入れられた数知れぬ音のようにおのおのその所を得、おのおのその微妙な響きを立てているのである。
木下はこれらの物象を描くに当たって、その物象の「美しさ」以外に何ものにも囚われない心を示している。彼は色道修行者のように女の享楽を焦点として国々を見て歩くのではない。また彼は美術史家のように、ただ古美術の遺品をのみ目ざして旅行するのでもない。彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えられたあらゆる物象に対して偏執なく愛を投げ掛ける。その愛が酪駝の隊商にも向かえば、梅蘭芳にも向かい、陶器にも向かえば、仏像にも向かう。特に色彩と輪郭と音響とは、彼から敏感な注意をうける。この心の自由さと享楽の力の豊かさとが、『地下一尺集』の諸篇をして、一種独特な、美しい製作たらしめるのである。
木下は青年のころゲエテの『イタリア紀行』を聖書のごとく尊んでいた。この書が彼にいかに強く影響しているかは、『地下一尺集』の諸篇を読む人の直ちに認めるところであろう。確かに『イタリア紀行』のゲエテは彼のよき師であった。しかし彼はこの師によって彼の内のよき芽を培われたのであって、単に師を模倣しているのではない。彼の自由な、余裕ある、落ちついた態度は、ゲエテを模するまでもなく、彼の享楽人としての素質から生まれ出るのである。がゲエテは、きわめて享楽人らしいにかかわらず、根本において享楽人でなかった。彼は『ファウスト』においてそのしからざる真面目を呈露している。従って彼の自由な、余裕ある、落ちついた鑑賞の態度は、彼の「人」としての大いさから出ているのである。ここに木下がこの師からさらに深く学ぶべきものがある。そうして自分の木下に対する友情は、木下に向かって「この師にさらに深く学ぶ」ことを忠告させようとする。彼はさまざまの近代芸術に心を魅せられたが、しかし結局彼の師は、彼がその早い青年時代に感じたごとく、ゲエテでなくてはならない。彼の内にさらにこの師に培わるべき、重大な芽がひそんでいることを、自分は明らかに感じている。自分はこのことを彼の外遊の発途に当たってあえていう。彼はおそらくイタリアにおいて、フランスにおいて、故郷に帰ったような心の落ちつきを感ずるであろう。そうしてそれは彼を再び十年前の夢に引き戻すであろう。そこで昔の師が再び彼の心を捕えなくてはならぬ。自分は彼のヨーロッパ紀行に楽しい望みをかける点において、人後に落つるものでない。しかしその「望み」のうちには右のごとき期待と祈りが強く混じているのである。
付記。この文章は十七年前に書かれたものであるが、その後の年月はこの文章の誤謬をはっきりと示している。木下は確乎としたフマニストであって享楽人ではない。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「人間」
1921(大正10)年5月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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一
偶像破壊が生活の進展に欠くべからざるものであることは今さら繰り返すまでもない。生命の流動はただこの道によってのみ保持せらる。我らが無意識の内に不断に築きつつある偶像は、注意深い努力によって、また不断に破壊せられねばならぬ。
しかし偶像は何の意味もなく造られるのではない。それは生命の流動に統一ある力強さを与えるべく、また生命の発育を健やかな豊満と美とに導くべく、生活にとって欠くべからざる任務を有する。これなくしては人は意識の混沌と欲求の分裂との間に萎縮しおわらなくてはならぬ。人が何らか積極的の生を営み得るためには「虚無」さえも偶像であり得る。
偶像が破壊せられなくてはならないのは、それが象徴的の効用を失って硬化するゆえである。硬化すればそれはもう生命のない石に過ぎぬ。あるいは固定観念に過ぎぬ。けれどもこの硬化は、偶像そのものにおいて起こる現象ではなく、偶像を持つ者の心に起こる現象である。彼らにとって偶像は破壊せられなくてはならぬ。しかし偶像そのものは依然としてその象徴的生命を失わない。彼らにとって有害なるものも、その真の効用を解する他のものにとっては有益で有り得る。偶像再興が生活にとって意義あるはそのためである。
二
文字通りの「偶像」について考えてみる。
使徒パウロは偶像を排するに火のごとき熱心をもってした。彼の見た偶像は真実の生の障礙たる迷信の対象に過ぎなかった。彼が名もなき一人のさすらい人としてアテネの町を歩く。彼の目にふれるのは偶像の光栄に浴し偶像の力に充たされたと迷信する愚昧な民衆の歓酔である。彼らは鐃鈸や手銅鼓や女夫笛の騒々しい響きに合わせて、淫らな乱暴な踊りを踊っている。そうしてその肉感的な陶酔を神への奉仕であると信じている。さらにはなはだしいのは神前にささげる閹人の踊りである。閹人たちは踊りが高潮に達した時に小刀をもって腕や腿を傷つける。そうして血みどろになって猛烈に踊り続ける。それを見まもる者はその血の歓びを神の恩寵として感じている。その彼らはまた処女の神聖を神にささげると称して神殿を婚姻の床に代用する。性欲の神秘を神に帰するがゆえに、また神殿は娼婦の家ともなる。パウロはそれを自分の眼で見た。そうして「いたく心を痛め」た。桂の愛らしい緑や微風にそよぐプラタアネの若葉に取り巻かれた肌の美しい女神の像も彼には敵意のほかの何の情緒をも起こさせなかった。台石の回りに咲き乱れている菫や薔薇、その上にキラキラと飛び回っている蜜蜂、――これらの小さい自然の内にも、人間の手で造った偶像よりははるかに貴い生が充ちわたっている。彼は興奮してアゴラへ行って人々に論じかけた。エピクリアンの哲学者が彼の相手になる。偶像の迷信を彼が攻撃すると、哲学者も迷信の弊を認めて同意する。彼はそれに力を得てイエスの復活を説き立てる。哲学者は急に熱心になって霊魂不滅の信仰が迷妄に過ぎないこと、この迷妄を打破しなければ人間の幸福は得られないことを説いて彼を反駁する。彼は全能の造物主を恐れないのかときく。哲学者はこの世界が元子の離合集散に過ぎないこと、現世の享楽の前には何の恐るべきものもないことなどを答える。パウロはますます熱して永生の存在を立証する彼自身の体験について語り始める。物見高いアテネ人は――「ただ新しきことを告げあるいは聞くことにのみその日を送れる」アテネ人は、また一つの新しい神が輸入せられそうになったことに非常な興味を起こして、アレオ山の裁判場へ彼を引っ張って行く。そこにはある事件の傍聴のために多数の市民が集まっている。事件の判決が済むと、余興をでもやらせるような調子で彼が呼び出される。君は珍しい話を知っているそうだが、一つその新しい宗教というのを説明してもらいたい。
パウロは山頂の石壇に上り、アクロポリスの諸殿堂と相対して立った。――アテネの市民諸君。諸君の市は神々の像と殿堂とに覆われている。諸君はその神々を祭るために眠りをも忘れて熱中する。けれども諸君はこの神々に真に満足しているか。予は散歩の途上、諸君の礼拝する所を見て歩いた時に、「知らざる神に」と刻りつけた一つの祭壇を見いだして非常に驚いたことがあった。諸君の中には確かにある未知の神への憧憬が動いているのである。予の神はこの、諸君が知らずして礼拝するところの神である。諸君はあの祭壇に、人間の手で作った神を据えなかった。それはまことに正しい。万物の造り主である活ける神は、人の工と巧とをもって石から造られる神とは違う。それは手で造った殿堂に住まない。また人の手で犠牲をささげられることを要せない。それは生命の根拠である。人間の造り主である。何で人間の手を借りる必要があるだろう。諸君はこの活ける神を信じないか。そのひとり子をこの世に送り、彼を死よりよみがえらせて明らかな証を我々に示したこの大いなる神を信じないか。云々。
――このパウロの熱心は、とにかく千数百年の後まで権威を持ち続けた。たとえ偶像礼拝の傾向が聖母崇拝や使徒崇拝などの形で生き残って行ったとしても、美しいギリシア諸神の像はついに中世の闇の内に隠れてしまった。八世紀の偶像破壊運動は、キリスト教の聖者像をさえも寛容しようとしないものであった。
やがて新しい時代が来た。地を掘る反キリストの徒は穴の底から歓喜にふるえる声で「偶像、偶像」と呼んだ。古代の赤煉瓦の壁の間に女神の白い裸身は死骸のごとく横たわっている。そうして千年の闇ののちに初めて光を、炬火の光を、ほのあかく全身に受ける。ヴイナスだ、プラキシテレスのヴイナスだ、と人々は有頂天になって叫ぶ。やがてヴイナスは徐々に、地の底から美しい体を現わして来る。
ある者は恐怖のために逃げ去ろうとする衝動を感じた。しかし奇妙な歓びが彼の全身を捕えて動かさせなかった。それが地獄の劫火に焚かるべき罪であろうとも、彼はその艶美な肌の魅力を斥けることができない。そこに新しい深い世界が展開せられている。魂を悪魔に売るともこの世界に住むことは望ましい。
それが新時代の大勢であった。地下の偶像は皆よみがえって、再び太陽の下に打ち立てられた。狂熱的な僧侶の反動もただ大勢に一つの色彩を加えたに過ぎなかった。しかし再興せられた偶像はもはや礼拝せらるべき神ではない。何人もその前に畜獣を屠って供えようとはしなかった。何人もその手に自己の運命を委ねようとはしなかった。人々に身震いをさせたのはそれが異端の神であったゆえではなくして、それが美しかったからである。偶像は礼拝せらるべき神であった限りにおいて、当然パウロの排斥を受くべきであった。しかし美のゆえに礼拝せらるべき芸術品としては、確かにパウロから不当な取り扱いを受けた。今やその不当な取り扱いは償われ、ただ芸術品としての威厳をもって人々の上に臨んだのである。
かくのごとき偶像の再興はまた千年にわたる教権の圧迫への反抗をも意味した。偶像再興者の眼より見れば、教権こそは破壊せらるべき偶像に過ぎないのであった。ついに古い偶像の再興は新しい偶像の破壊の陰に隠れた。古い偶像とともに力強く再興した唯物論も、新時代の自然科学的運動の動機となりながら、その花々しい新眼界展開の陰に隠されてしまった。
文芸復興の運動はいろいろの意味で偶像破壊の運動だったに相違ない。しかし根本においてはそれは字義通りに古代の復興である。古代の内の不滅なるものを復興する事によって、新しい運動はその熱と力とを得たのである。
偶像は再興せられた。パウロの神はある意味で死なねばならなかった。
三
キリスト教の「神」もまた一種の偶像である。パウロは「人間の手」によって造られた偶像を排斥した。近代の偶像破壊者は「人間の頭」によって造られた神を排斥する。しかしパウロが偶像を滅尽し得なかったように、近代の偶像破壊者もまた神を滅尽することはできない。「神は死んだ」という喧しい宣言のあとで、神を求むる心は忍びやかに人々の胸に育って行く。
キリストの復活を認容することのできなかった物質論は今や人類の常識である。神が七日にして世界を創造したという物語のごときは「物語」以上に何の権威をも持たない。処女懐胎は狂信者の幻想に過ぎぬ。神の子の信仰は象徴的の意味においてさえも形而上学的空想以上の何ものでもない。世界は確かに古昔の元子論者が見たごとくある基本要素の離合散集によって生じたのである。霊魂は肉体の作用であり肉体とともに滅びる。死とは活動の休止であり組織の解体であるがゆえに死後の生があるわけはない。この事実から眼をそむけて神と死後の生とを仮構するのは、現実をありのままに受容するに堪えない卑怯者の所作に過ぎぬ。――かくのごとき常識にとっては「神が死んだ」という宣告のごときはもはや何の刺激にもならない。神はもともと存在しなかったのである。そこで人間は現世の欲望の満足を唯一の目標として生活する。彼を束縛するものはただこの満足のための功利的節度のほかに何ものもない。
しかし人はこの物質的な世界に何の不足もなく安住することができるか。愛の歓喜にある時彼はその幸福の永遠性を望まないか。官能の悦楽のあとで彼はそのはかなさに苦しまないでいられるか。痛苦を堪え忍ぶ時彼はこの生が生理的偶然に過ぎないという考えを悦ぶことができるか。――この問いに「否」と答える人の多いことはわかっている。しかし「しかり」と答える人もまた多数であることは否み難い。そこで問いを新しくする。人はこの常識以上に深い神秘を自然に求めないでいられるか。愛の神秘、官能の秘密、生活の底知れぬ深み、それをつかもうとしないでいられるか。恐らく何人もかつて一度はこれらの要求をその胸に抱いたであろう。ある人々はついにこの要求に全心を占領させるのである。科学の道に入れば彼は自然と人生とに現われた微妙な法則に驚異してある知られざる力に衝き当たらずにはいられない。哲学者としては彼は生命の創造力の無限に驚いて人智のかなたに広い世界を認めることになる。――偶像は再び求められるのである。
神は再びよみがえらなくてはならぬ。それがキリスト再臨によって証せられるか否かは我らの知るところでない。我らは神を知らない。しかし我らの生が神と交通し得るものであることは疑うわけに行かぬ。神は教会の神として、教理の神として死んで行った。しかし我らの無限の要求は、この神の死によって煩わされはしない。我らは神の名を失った、しかし我らは彼に付すべき新しい名を求めずにはいられない。彼は「意志」と呼ばれるべきであるか。「絶対者」と言われるべきであるか。あるいはまた「電子」と呼ばれるべきであるか。恐らくそれらの名は新しいパウロによって鬼神として斥けらるべきものだろう。我らは「知らざる神に」祭壇を築いて、その神を説きあかすべきパウロの出現を待つ。そうして近代精神の造り出したあらゆる偶像の破壊を期待する。
右のごとき偶像の破壊と再興とは、十九世紀末の大いなる個人の生活によって例示せられた。トルストイは前半生において自然の勝利を、自然的欲望の勝利を歌った人である。しかし後半生においては忠実な神の僕であった。ストリンドベルヒは自然主義の精神を最も明らかに体現した人である。しかし晩年には神と神の正義との熱心な信者であった。デカダンの詩人が最後に神に帰らなければならなかったことも人の知るところである。彼らは偶像再興の先駆者であったのか。もしすでに彼らが先駆者であったとすれば、二十世紀初頭の兵乱と災厄との前で、人々はこの新しい道を凝視しなければならぬ。
四
破壊せらるべき偶像がまた再興せらるべき権利を持つという事実は、偶像破壊の瞬間においてはほとんど顧みられない。破壊者はただ対象の堅い殻にのみ目をつけて、その殼に包まれた漿液のうまさを忘れている。しかし生活を全的に展開せしめようとするものは、この種の偏狭に安んじてはならない。これ偶像破壊者の危機に対する最第一の警告である。
予は自ら知れる限りにおいて生まれながらの反逆者であった。小学の児童としては楠正成を非難する心を持ち、中学の少年としては教育者の僭越と無精神とを呪った。教育者の権威に煩わされなくなった時代には儕輩の愛校心を嘲り学問研究の熱心を軽蔑した。そうして道徳と名のつくものを蔑視することに異常な興味を覚えた。宗教は予を制圧する権威でなかったがゆえに好んで近づいたが、しかし何らかの権威を感じなければならない境地までは決してはいって行かなかった。むしろそれを他の権威に対する反逆の道具に使ったに過ぎなかった。ついには生活そのものの権威に対してまでも反逆の態度をとった。深い愛をかつて体験したこともないくせに愛を冷笑することを喜び、教権の圧力をかつて感じたこともないくせに神の死を喝采した。それは当時の予にとって人間生活の最高の階段であった。そうしてかくのごとき気分と思想とが漸次近代偶像破壊者の模倣に堕して行ったことには、ついに思い及ぶところがなかった。
予は当時を追想して烈しい羞恥を覚える。しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあっても、とにかく予としては必然の道であった。そうしてこの歯の浮くような偶像破壊が、結局、その誤謬をもって予を導いたのであった。――予は病理的に昂進した欲望をもって破壊に従事した。行き過ぎた破壊は予を虚無の淵にまで連れて行った。偶像破壊者の持つ昂揚した気分は、漸次予の心から消え去った。予はある不正のあることを予感した。反省が予の心に忍び込んだ。そこで打ち砕いた殻のなかに美味な漿液のあることを悟る機会が予の前に現われた。予はそれをつかむとともに豊富な人性の内によみがえった。――
そこに危機があった。そうして突破があった。この体験から予の警告は生まれたのである。
五
予は道義を説く。愛を説く。ある人はそれを陳腐と呼ぶだろう。しかし予は陳腐なるものの内に新しい生命を見いだした喜びを語るのである。陳腐なる殻のうちに秘められたる漿液のうまさを伝えようとするのである。陳腐なるものは生命を持たないとする固定観念に捉われたものは、まずその鈍麻した感覚をゆり起こして自らの殻を悟るがいい。そうしてその殻を破るために鉄槌を振るうがいい。その時に初めて偶像再興に対する新しい感覚が目ざめて来るだろう。
しかし予はただ「古きものの復活」を目ざしているのではない。古きものもよみがえらされた時には古い殻をぬいで新しい生命に輝いている。そこにはもはや時間の制約はない。それは永遠に若く永遠に新しい。予の目ざすのはかくのごとき永遠に現在なる生命の顕揚である。予はあらゆる偶像の胸を通ずる一つの大いなる道を予感する。そうして過去未来にわたる全人類の努力が畢竟この道に向かって集まっていることを感ずる。永遠に現在なる生命はこの道の上にあって勇躍するのである。予はその光景を描き得んことを願う。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「偶像再興」岩波書店
1918(大正7)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
2012年3月22日修正
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私がここに観察しようとするのは、「偶像破壊」の運動が破壊の目的物とした、「固定観念」の尊崇についてではない。文字通りに「偶像」を跪拝する心理についてである。しかしそれも、庶物崇拝の高い階段としての偶像崇拝全般にわたってではない。ただ、優れた芸術的作品を宗教的礼拝の対象とする狭い範囲にのみ限られている。
特に私は今、千数百年以前の我々の祖先の心境を心中に描きつつ、この問題を考察するのである。
まず私は、人間の心のあらゆる領域、すなわち科学、芸術、宗教、道徳その他医療や生活方法の便宜などへの関心等によって代表せられる人間の生のあらゆる活動が、なお明らかな分化を経験せずして緊密に結合融和せる一つの文化を思い浮かべる。そこでは理論は象徴と離れることができない。本質への追求は感覚的な美と独立して存在することができない。体得した真理は直ちに肉体の上に強い力と権威とをもって臨むごときものでなくてはならぬ。すべてが融然として一つである。
千数百年以前にわが国へ襲来した仏教の文化はまさにかくのごときものであった。それはただ一つの新しい宗教であるというだけではなく、我々の祖先のあらゆる心を動かし得る多方面な(恐らくはインドとシナの文化の総計とも言い得べき)、内容の豊かな大きい力であった。もしそれが、ローマを襲ったキリスト教のように、単にただ純然たる宗教であったならば、あれほど激烈にわが国の文化全体を動かし得たかどうかは疑わしい。我らの祖先は当時なお、一つの偉大な宗教をただ宗教として、あるいは一つの偉大な思想をただ思想として、受け容れるほどには熟していなかった(シナの思想と学者とが渡来して以来二百年の間に、我々の祖先はただ文字を使うことを覚えただけであった。しかも意義ある記録を残し得るほどにはそれを活用することができなかった)。仏教の背後にその芸術的要素やシナの文化やその他種々のものが活らいていたからこそ、我々の祖先はあのように大きく動き始めたのである。そうしてついに大きい時代を現出する事ができたのである。
このことはやがて我々の祖先の一つの素質を説明することになるだろう。特に眼につくのは彼らが宗教から芸術的な歓喜を求めたことである。さらに進んで、信仰を感覚的な歓喜と結びつけたことである。前者は奈良時代の生んだ偉大な芸術によって証明せられている。後者は、その時代の僧侶がいかに人間の肉体の上にも勢力を持っていたかを明示している二三の著しい社会的現象によって、いや応なしに証明せられている。この特徴は、多少形を変えてはいるが、後来日本に発生したあらゆる宗教に必ず現われている。たとえば、日蓮宗や念仏宗におけるディオニゾス的な(肉体的運動、一種の舞踏に伴なう所の)、宗教的歓喜のごとき、その著しい例である。しかし後に現われたものがかなり強く実践的であるに反して、上代のものは特に明瞭に芸術的であった。この密接な芸術と宗教との結合が、偶像崇拝に対してきわめて正当な根拠を与え得るのである。
私は、昔ながらの山野と矮屋とを見慣れた我々の祖先が、かつて夢みたこともない壮大な伽藍の前に立った時の、甚深な驚異の情を想像する。
伽藍はただ単に大きいというだけではない。久遠の焔のように蒼空を指さす高塔がある。それは人の心を高きに燃え上がらせながら、しかも永遠なる静寂と安定とに根をおろさせるのである。相重なった屋根の線はゆったりと緩く流れて、大地の力と蒼空の憧憬との間に、軽快奔放にしてしかも荘重高雅な力の諧調を示している。丹と白との清らかな対照は重々しい屋根の色の下で、その「力の諧調」にからみつく。その間にはなお斗拱や勾欄の細やかな力の錯綜と調和とが、交響の大きい波のうねりの間の濃淡の多いささやかなメロディーのように、人の心のすみずみまでも響きわたるのである。さらにまた真理の宝蔵のように大地を圧する殿堂がある。それは人の心を甚深なる実在の奥秘に引き寄せながら、しかも恐怖を追い払う強大な力を印象する。そこには線の太い力の執拗な格闘がある。しかしすべての争闘は結局雄大な調和の内に融け込んでいる。それは相戦う力が完全な権衡に達した時の崇高な静寂である。尽くることなき力を人の心に暗示する深い沈黙である。そうして、この簡素な太い力の間を縫う細やかな曲線と色との豊富微妙な伴奏は、荘厳に圧せられた人の心に優しいしめやかな手を触れる。――
もとより我々の祖先は、右のごとき感じかたをしたわけではあるまい。しかし彼らはとにかくその漠然たる無意識の内に、右のごとき建築の美を感じないではいられなかったであろう。そうして身震いの出るような烈しい感動の内に、ただただその素朴な頭を下げたことであろう。しかもこの際彼らの意識に上る唯一のものは、三宝を尊奉するという漠然たる敬虔の念であったに相違ない。彼らの知っているのは、ただ新しく彼らに襲来した「仏教」がかくのごとき信仰を彼らにもたらした、ということだけだからである。かくて彼らはその感動の烈しさのゆえに、初めて偉大なる生活に対する眼を開かれ、初めて真に尊崇すべきものに出逢ったような心持ちを味わったことであろう。
――私はさらに進んで、堂前に歩み寄った彼らの姿を想像する。
彼らの眼前に開いた大きい薄暗い空間は、これまでかつて彼らの経験しないものであった。そこには彼らが山野にさまよい蒼空をながめる時よりも、もっと大きい「大きさ」があった。彼らの眼には、天をささえるような重々しい太い柱が見える。それが荘厳な堂内の気分をますます荘重神秘的ならしめている。
しかし、彼らがそれを感ずるのは、一転の瞬間である。彼らの眼は直ちに正面の「偶像」に吸い寄せられる。そうしてその瞬間にまた、極度に緊張した彼らの全心を奪うような烈しい身震いが、走りまた走る。彼らはおのずから頭を垂れ、おのずから合掌して、帰依したる者の空しい、しかし歓喜に充ちた心持ちで、その「偶像」を礼拝する。
それは確かに彼らにとって「偶像」であった。彼らの知る所は、ただそれが、無限の力と最高の権威とを有する仏の姿だという事である。超人間的な神秘な力をもって人間を救い人間に慈悲を垂れる菩薩の姿だということである。そうして彼らは、自分を圧倒する激しい感激によって、その知識の偽りでないことを自分自身に実証した。彼らは自己の前にある物が右のごとき神秘な力の現われであることを信ずるほかはない。またそれを礼拝しないではいられない。
しかし真に彼らの感激を誘ったものはその偉大な美であった。もとより彼らは、当時の偶像の遺物を我々が芸術品として鑑賞するがごとく、ただ美的鑑賞の対象として偶像に対したのではないが、しかし無意識の内にも常に偶像の美的魅力から逃れる事はできなかったであろう。百済王が始めて釈迦銅像を献じた時、それを見た我々の祖先の著明なる一人は、その「いまだかつて見ざる端厳なる相貌」に歓喜した。そうしてそれが仏教襲来の機縁であった。その後仏教の興隆とともにますます芸術的精練を加えた「偶像」が、いかにわれらの祖先の心に美的魅力を投げ掛けたかは想像するに難くない。ほとんど芸術を持たなかった野蛮人が、たちまちにして生にあふれた芸術品の持ち主となったのだから。
試みに見よ。その円い滑らかな肩の美しさ。清楚なしかもふくよかなその胸の神々しさ。清らかな、のびのびした円い腕。肢体を包んで静かに垂直に垂れた衣。そうして柔らかな、無限の慈悲を湛えているようなその顔。――そこにはいのちの美しさが、波の立たない底知れぬ深淵のように、静かに凝止している。それは表に現われた優しさの底に隠れる無限の力強さである。人間のあらゆる尊さ美しさは、間髪をいれず人間の肉体によって現わされ、直ちに逆に、人間の肉体を人間以上の神々しい清らかさにまで高めている。それは自然に即してしかも自然の奥秘を掘り出したものである。肉体のはかなさは(たとえば、「この身泡のごとし、久しく立つを得ず、この身幻のごとし、顛倒より起こる、この身夢のごとし、虚妄の見より生ず、この身影のごとし、業縁より現わる、」というがごとき人身の無常は)、本来清浄なる人間の「心性」によって打ち克たれ、そこに永遠なるいのちの、「仏」の、象徴を実現しているのである。――
人間が幼稚であり素朴であったゆえにこの美を受容することが困難であったと考えてはいけない。素朴な心は解釈において単純であり、省察において粗雑である。しかしその本能的な直覚においては内生の雑駁な統一の力の弱い文明人よりはるかに鋭いのである。恐らく美に対するその全存在的な感激において、当時の我々の祖先はその後のどの時代の子孫よりも優っていただろう。彼らを新しい運動に引き入れたのは、確かに芸術的魅力であったに相違ない。そうしてこの感激が彼らの生活全体を更新しないではやまない力となったに相違ない。これは私の推測である。しかしこの推測なくしては私は古代の芸術をも文化をも解することができない。
もとより私は当時の人々のすべてがこうであったというのではない。私はただ代表的な場合について考察しているのである。しかしすでに当時の有力な人々がかくのごとき感動をうけた以上はそれが時代の風潮となるには、何の困難もない。暗示にかかりやすい、盲目的な民衆は直ちに彼らのあとについて来る。
私は偶像礼拝者の歓喜をさらに高調に達せしめる要素として、読経および儀式の内に含まれている音楽的および劇的影響をあげなければならぬ。
我々の祖先は今、適度の暗さを持った荘厳な殿堂の前に、神聖な偶像の美に打たれて頭を垂れている。やがて数十人の老若の僧侶が夢の中に歩く人のごとく静かに現われて、偶像の前に合掌礼拝しあるいはひざまずきあるいは佇立する。柔らかな衣の線の動き。華やかな衣の色の対照。群集の規律ある動作によって起こる劇的効果。堂内の空気はますます緊張を加えて行く。一瞬間深い沈黙と静止が起こる。突如として鋭い金属の響きが堂内を貫ぬき通るように響く。美しい高い女高音に近い声が、その響きにからみついて緩やかな独唱を始める。やがてそれを追いかけるように低い大きい合唱が始まる。屈折の少ない、しかし濃淡の細やかなそのメロディーは、最初の独唱によってまた身震いを感じないでいられなかった我々の祖先の心を、大きい融け合った響きの海の内に流し込む。苦しいほどの緊張は快い静かな歓喜に返って行き、心臓の鼓動はまたゆるやかに低い調子を取り返す。
けれどもこの穏やかさは、視覚に集中した心が聴覚の方へ中心を移す一つの中間状態に過ぎない。僧侶たちが、仏を礼讃する心持ちにあふれながら読誦するありがたいお経は、再び徐々に、しかし底力強く、彼らの血を湧き立たせないではおかないのである。彼らの心には、絶大微妙な仏力に対する帰依の念が、おいおい高まって来る。そうしてそれは音楽が与える有頂天な心持ちとぴったり相応じている。時々あの高い声の独唱が繰り返されるのも、そのたびごとにいくらか合唱が急調になって行くのも、皆彼らの歓喜をあおるとともに、彼らの信仰を刺激し強めないではいない。音楽の力はただ仏の力として彼らに受け取られるのである。
音楽に陶酔した彼らは、時々うっとりとした眼をあげて、あの神々しい偶像をながめる。彼らはもう自分自身のことなどを意識しない。彼らの心は偶像の内に融け入り、ただ無限の感謝と祝福との内に、強烈な光燿と全心の軽快とを経験するのである。――実際、興奮した彼らの心は、彫刻に対しても音楽に対しても、きわめて敏感になっている。その内のいのちの強さと濃淡とは、たとえ明確にではなくとも、きわめて強烈に感ぜられたに相違ない。ことに右の場合のごとく、すべての芸術的効果と宗教的感化とが、ただ一点に、すなわち偶像の礼拝に集中している際には、その有頂天がいかに深く強いか、ほとんど我々の想像以上であったらしい。かくして我々の祖先は、偶像崇拝において一種の美的宗教的な大歓喜を味わっていたのである。
さらにこのことは、「生きがいのある」、より高い生活を求めて「道場」にはいった多くの僧侶において、一層著しかったに相違ない。
当時の寺院は恐らくすべての点から見て文化の宝蔵であった。そこにはただ修道と鍛練との精進生活があったばかりではない。むしろあらゆる学問、美術、教養などがその主要な内容となっていた。あたかも大学と劇場と美術学校と美術館と音楽学校と音楽堂と図書館と修道院とを打って一丸としたような、あらゆる種類の精神的滋養を蔵した所であった。そこで彼らは象徴詩にして哲理の書なる仏典の講義を聞いた。その神話的な、象徴化の多い表現に親しむとともに、それを具体化した仏像仏画にも接した。私は彼らの心臓の鼓動を聞くように思う。――彼らが朝夕その偶像の前に合掌する時、あるいは偶像の前を回りながら讃頌の詩経を誦する時、彼らの感激は一般の参詣者よりもさらに一層深かったに相違ない。
私はこの種の僧侶のうち、特に天分の豊かであった少数のものが、単に「受くる者」「味わう者」である事に満足せずして、進んで「与うる者」「作る者」となったことを、少しの不自然もなく想像し得ると思う。
芸術鑑賞と宗教的帰依とが一つであった。それと同様にある少数者に取っては、芸術製作と宗教的救済とが一つにならなくてはならなかった。実際この特に象徴的な仏教においては、彼らが感じ得たある宗教的心境は、彼らの内に現われた時にすでに象徴的な形を取っているのである。彼らがそれを人に伝え人を救おうとする時には、彼らは必然にその象徴を実現しなくてはならないのである。
その方法は芸術のほかにない。かくて僧侶は芸術家にならなくてはならぬ。またたとえ、本来の芸術家であるにしても、その製作欲が熟するためには、必ず僧侶になるかあるいは熱烈な信者であらねばならなかった。ここに偶像礼拝と密接に相関する芸術製作の特異な例があるのである。芸術鑑賞がその根源を製作者の内生に発するごとく、偶像礼拝もまたその根源を偶像製作者の内生に発する。我々は祖先の内のこの製作者を、もっともっと尊敬しなければならない。
芸術家が独立していなかったというごときは、この際何ら問題にはならない。それを特に何事かの欠如に帰して考えようとするのは、偶像礼拝の心理をあまりにも軽視するからである。かの時代においては宗教家は何らかの程度において必ず芸術家でなければならなかった。それは当時の宗教の内奥から出た必然であった。そうしてそこに偶像礼拝の最後の契機があった。ある人は僧侶が製作する理由を、儀規に通ずるゆえと伝道の方便のゆえとに帰して説明したが、その種の理由は人をして芸術家たらしめるに何の効もあるまい。芸術家は、ただ知識と功利的目的とによってのみ製作欲を起こし得るほど、いい加減なものではないのである。
私は偶像崇拝の正当な根拠を説いた。この視点から見て、千年以前の我々の祖先の文化がいかに心理的な深さを獲得するかは、きわめて興味ある問題である。その成功を伴なった華やかな方面においても、また腐敗を伴なった暗黒な方面においても。――
これは確かに一つの視点である。それによって私は今、祖先の生活を見つめている。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新潮」
1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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序
自分には孔子について書くだけの研究も素養も準備もない。その自分を無理にしいてこの書を書くに至らしめたのは小林勇君である。が、書いてしまった以上は、この書の責任は自分が負うほかはない。自分は甘んじて俎上に横たわろうと思う。
右のような次第であるから、この書には自分の気づかぬいろいろな誤謬があるかも知れぬ。が、自分が志したのは、いまだ孔子に触れたことのない人に『論語』を熟読玩味してみようという気持ちを起こさせることであった。それが成功しなければ、『論語』をいまだ読まない人が依然としてそれを読まないというだけのことであり、幸いにして成功しても、あとには専門家の注釈や研究が数え切れないほどあるのであるから、自分の誤謬が人を誤ることもなかろうと思われる。と言って、すでに『論語』を知っている人にはこの書は全然用がないというわけでもない。そういう人にも他山の石としてはいくらか役立つであろう。
この書において用いた『論語』は、武内義雄氏校訂訳注の岩波文庫本である。この『論語』の本文と日本訳とは専門家の間に必ずしも賛同しない人があるようであるが、しかし自分はいろいろ比較研究の上、これを最もよい『論語』のテキストだと考えたのである。引用文もすべて武内氏の日本訳によった。武内氏が加えられた注釈もそのままにしてある。なお他に、藤原正氏纂訳『孔子全集』からもいろいろ益を得た。この『全集』は藤原氏苦心の労作だけあって非常に便利にできている。いっこう素養のない自分にとにかくこれだけのものが書けたのは両氏のおかげである。
昭和十三年八月
著者
再版序
今度岩波書店の諒解を得て、少しく増補の上、植村道治君の手により再版をおこすことになった。増補は巻末の付録のはじめに述べたように武内博士の『論語之研究』に関するものである。
昭和二十三年三月
著者
一 人類の教師
釈迦、孔子、ソクラテス、イエスの四人をあげて世界の四聖と呼ぶことは、だいぶ前から行なわれている。たぶん明治時代の我が国の学者が言い出したことであろうと思うが、その考証はここでは必要でない。とにかくこの四聖という考えには、西洋にのみ偏らずに世界の文化を広く見渡すという態度が含まれている。インド文化を釈迦で、シナ文化を孔子で、ギリシア文化をソクラテスで、またヨーロッパを征服したユダヤ文化をイエスで代表させ、そうしてこれらに等しく高い価値を認めようというのである。ではどうしてこれらの人物が、それぞれの大きい文化潮流を代表し得るのであろうか。どの文化潮流も非常に豊富な内容を持っているのであって、一人の人物が代表し得るような単純なものではないはずである。しかも人がこれらの人物をそれぞれの文化潮流の代表者として選び、そうしてまた他の人々がそれを適切として感ずるのは、何によるのであろうか。自分はそれを、これらの人物が「人類の教師」であったという点に見いだし得ると思う。
この答えは一見したところ矛盾に見えるかも知れない。なぜならこれらの人物はそれぞれ異なった文化潮流の代表者とせられるのであるから、それぞれその文化潮流の特異性を表現していなくてはならない、しかるにその代表者たるゆえんは人類の教師たるにあってその特異性の表現にあるとはせられないのだからである。しかしこれは決して矛盾ではない。それを矛盾と感ずるのは、いかなる特殊な文化にも彩られない普遍的な人類の教師とか、全然普遍的な意義を担わない特殊な文化とかというごとき抽象的な想定に囚われているからである。現実の歴史においては、いずれかの文化の伝統によって厳密に限定せられているのでない人類の教師などというものは、かつて現われたこともないし、また現われることもできないであろう。また普遍的な意義を現わすがゆえにまさに文化として存立するのだということの言えないような特殊の文化などというものも、かつて形成せられたことはないし、また形成せられ得ないであろう。最も特殊的なるものが最も普遍的な意義価値を有するということは、何も芸術の作品に限ったことではない。人類の教師においてもそうである。
我々はここに人類の教師という言葉を用いるが、それによって「人類」という一つの統一的な社会を容認しているのではない。現代のように世界交通の活発となった時代においてさえ、地上の人々がことごとく一つの統一に結びついているというごとき状態からははるかに遠い。いわんや如上の四聖が出現した時代にあっては、彼らの眼中にある人々は地上の人々全体のうちのほんの一部分であった。孔子が教化しようとしたのは黄河下流の、日本の半分ほどの地域の人々であり、釈迦が法を説いて聞かせたのもガンジス河中流の狭い地域の人々に過ぎぬ。ソクラテスに至ってはアテナイ市民のみが相手であり、イエスの活動範囲のごときは縦四十里横二十里の小地方である。が、それにもかかわらず我々は彼らを人類の教師と呼ぶ。その場合の人類は、地上に住む人々の全体を意味するのでもなければ、また人という生物の一類をさすのでもない。さらにまた「閉じた社会」としての人倫社会に対立させられた意味での「開いた社会」をさすのでもない。それぞれの小さい人倫的組織を内容とせずには人類の生活はあり得ないのである。実際においても人類の教師の説くところは主として人倫の道や法であって、人倫社会の外なる境地の消息ではなかった。彼らが人類の教師であるのは、いついかなる社会の人々であっても、彼らから教えを受けることができるからである。事実上彼らの教えた人々が狭く限局せられているにかかわらず、可能的にはあらゆる人に教え得るというところに、人類の教師としての資格が見いだされる。従ってこの場合の「人類」は事実上の何かをさすのではなくして、地方的歴史的に可能なるあらゆる人々をさすにほかならない。だから人類は事実ではなくして「理念」だと言われるのである。
人類の教師の持つ右のごとき普遍性は、その教師の人格や智慧にもとづく、と通例は考えられる。もしそうであるならば、これらの教師の活動を目前に見た人々の内には、直ちにそれを人類の教師として洞察し得る人もあってしかるべきである。だからこれらの教師の伝記を語る人々は、これらの教師が周囲から認められず、迫害や侮蔑を受けている最中にも、すでにこれらを人類の教師として承認している少数者を描くのである。しかし少数者のみがそれを真の教師として認め、大衆がそれを認めない時に、果たしてその教師は人類の教師であり得るであろうか。いついかなる社会にも、少数の狂信者に取り巻かれた教師というものは存在するのである。目前の我々の社会においてもその例は数多くあげることができるであろう。それらは世界の歴史においては幾千幾万となく現われ、そうして泡沫のごとく消えて行った。だから少数者の洞察などというものも、当てにならない方が多いのである。
では大衆が直ちに目前の教師の人格や智慧を礼讃し始めた時はどうであるか。その場合には生前からしてすでに人類の教師となるはずではないか。しかるに事実はそうではないのである。大衆は必ずしも優れたもののみを礼讃しはしない。天才と呼ばれている人々が生前に大衆の歓迎を受けたという例はむしろまれである。いわんや人類の教師とも言わるべき人々がその時代の大衆に認められたなどという例は、全然ない。人類の教師たり得るような智慧の深さや人格の偉大さは、大衆の眼につきやすいものではないのである。大衆の礼讃によって生前からその偉大さを確立した人々は、人類の教師ではなくして、むしろ「英雄」と呼ばるべきものであろう。もちろんこの場合にも大衆の礼讃した人々がことごとく英雄となるのではない。大衆はしばしば案山子をも礼讃する。しかし生前すでに大衆の礼讃を獲得し得なかったような英雄もまた存しないのである。この点において人類の教師と英雄とは明白に相違する。人類の教師であると否とは同時代の大衆の承認によって定まるのではない。
では人類の教師が人類の教師として認められるに至るのはいかなる経路によるのであろうか。言いかえれば、人類の教師はいかにしてその普遍性を獲得したのであろうか。
通例伝記者の語るところによれば、人類の教師は皆よき弟子を持った。その中には十哲とか、十大弟子とか、十二使徒とかと呼ばれるような優れた人物があった。そうしてそれらの弟子は、その師が真に道の体得者であり、仁者であり、覚者であることを信じ切っていた。同時代の大衆がいかにその師を迫害し侮蔑しようとも、この信頼は決して揺るがなかった。が、これだけならば前に言ったような狂信者に取り巻かれた教師と異なるところがない。大切なのはこれから先である。師が毒杯とか十字架とかによって死刑に処せられた後に、あるいは生涯用いられることなく親しい二、三の弟子の手に死ぬことに満足した(『論語』子罕一二)後に、弟子たちはその師の道や真理を宣伝することに努力した。この努力がたちまちに開花し結実したのはソクラテスの場合である。弟子プラトンと孫弟子アリストテレスとは、師の仕事を迅速に完成して西洋思想の源流を作った。これらの偉大な弟子の仕事が人々に承認せられれば、その弟子の仕事の中にその魂として生きているソクラテスが、一層偉大な教師として承認せられないはずはないのである。他の場合には弟子たちの努力は一世代や二世代では尽きなかった。現在残っている最古の資料は、いずれも孫弟子の手になったものと考えられる。釈迦については阿含経典の最も古い層がそうである。イエスについてはパウロの書簡も福音書もそうである。孔子に関しても同様のことが言えるであろう。『論語』は孫弟子の記録よりも古いものを含んではいない。そうして孫弟子たちは皆さらにその弟子たちを教えるためにこれらの記録を作ったのである。だから最古の記録によってこれらの教師に接しようとするものでも、曾孫弟子の立場より先に出ることはできない。このことは教師たちの人格と思想とが、時の試練に堪え、幾世代もを通じて働き続けたことを意味するのである。しかも彼らは働き続けるほどますます感化力を増大した。たといその生前にわずかの人々をしか感化することができなかったとしても、時のたつにつれてその感化を受ける人々の数はふえて行く。従って同時代の大衆を動かし得なかった教師たちも、歴史的にははるかに多く広汎な大衆を動かすこととなるのである。かくして彼らは偉大な教師としての動くことのない承認を得て来た。
が、これらの偉大な教師が人類の教師としての普遍性を得来たるためには、さらにもう一つの重大な契機を必要とする。それはこれらの偉大な教師を生んだ文化が、一つの全体としてあとから来る文化の模範となり教育者となるということである。それは逆に言えば、これらの古い文化が、その偉大な教師を生み出すとともにその絶頂に達してひとまず完結してしまったということを意味する。ソクラテスを生んだギリシアの文化は、彼の弟子と孫弟子とがこの師の偉大さをはっきりと築き上げたころに、すでにその終幕に達した。そのあとにはこのギリシア文化を世界に伝播する時代、すなわちヘレニスト的時代が続き、次いでこの文化の教育の下に新しいローマの文化が形成されてくる。それが東方の宗教に打ち克たれた後にも、キリストの教会内の哲学的な思索は、ソクラテスの弟子と孫弟子の指導の下にあった。さらにこの東方の宗教の専制を打ち破った近代のヨーロッパにおいては、哲学の模範がソクラテスの弟子と孫弟子とに認められたのみでなく、この新しい文化の魂がギリシア文化の再生にあるとさえも考えられた。このような事情の下に、アテナイの偉大な教師であったソクラテスが、人類の教師としての普遍性を得て来たのである。同様にまたイエスを生んだユダヤの文化も、パウロがその神学を築き上げたころには、ローマの世界帝国の中に影を没してしまった。それは影を没しつつも決してその存在を失わない不思議な文化ではあるが、しかし旧約のさまざまな文芸を作りつつあった時代、またとにもかくにも死海のほとりにその本拠を持っていた時代に比べると、パウロ以後のユダヤ文化はすでに完結して旧約の中に保存せられたものという趣を呈して来るのである。しかもこのユダヤの文化はイエスの福音と結びついてローマ帝国を征服した。さらに中世に至ればヨーロッパ全体を征服した。そうしてヨーロッパの諸民族にその背負っている伝統を捨てさせ、ただ旧約の所伝のみが唯一の正しい人類の歴史であると信じ込ませた。一つの民族の文化が他の民族を教育する場合にこれほど徹底的な感化を与えた例は他には存しないのである。この感化は近代に至ってギリシア文化が再生した後にも容易に衰えない。あるいはヨーロッパにおいて衰えただけを世界の他の諸地方において回復したとも言えるであろう。こういう事情の下にユダヤ人の救世主であったイエスが人類の救世主としての普遍性を獲得して来たのである。
では釈迦はどうであるか。釈迦を生んだインドの文化は、彼のあとにひとまずその終幕に達したであろうか。しかりと自分は答える。そのためには我々は「インド」が何であるかを反省してみなくてはならない。インドとはギリシアとかローマとかのような国の名あるいは文化圏の名ではなくして、ヨーロッパというごとき地域の名なのである。この地域の内に種々の民族が住み、さまざまの国が興亡し、さまざまの文化が形成せられた。釈迦が現われたのは、このインドの地域に西方から侵入したアリアン人が、ガンジスの流域に落ちつき、ヴェダからウパニシャドまでの文化を形成した後であった。そこには固い四姓制度が行なわれ、貴族政治による小さい国々が分立していた。釈迦はこの古い文化の伝統に対する革新者としてバラモンの権威に挑戦し、アートマンの形而上学を斥け、四姓制度の内面的な打破を試みたのである。ここに我々は釈迦を、永い古い文化の言わば否定的な結晶として見いださざるを得ない。果たして彼の死後五十年(あるいは百五十年か)のころには、アレキサンダー大王の影響の下に、インドの地域にかつて作られたことのない大帝国が建設せられた。これは古来武士階級を抑えていたバラモンの権威の顛覆である。インドの社会は釈迦以前と異なるものになったのである。次いで北西インドにはギリシア人が侵入し、ギリシア風の都市と国とを建設した。さらにそのあとにスキタイ人が北から入り込んで、ガンジスの上流にまで及ぶ強大な国を建てた。釈迦に至るまでの古い文化はこれらの時代に一応中断せられたと認めざるを得ない。しかも古い文化の結晶たる釈迦の教えは、この新しい国々を教育した。仏教興隆によって有名なアショカ王がいかに深く仏教に心酔したかは、彼の残した碑文が明らかに示している。それは四姓の別を打破し、慈悲を政治によって実現しようとしたものである。さらにギリシア人がインドに入るとともに仏教に化せられたことは、有名な『ミリンダ王経』(那先比丘経)がこれを証示する。次のスキタイ人が仏教に化せられたこともまたカニシカ王の事績を見れば明らかである。もっとも仏教は、かく新しい国や民族を教化することによって、自らもまた新しくなった。大帝国を教化するに当たっては、釈迦の時代に思いも及ばなかった「転輪聖王」の理想が作られている。ギリシア人やスキタイ人を教化した際には、かつてインド人の思いも及ばなかった仏像彫刻が作られ始めた。ヴェダやウパニシャドにおいて、思想を表現するにも抒情詩風の形式をしか用いなかったインド人が、この時以来戯曲的構成を持った雄大な仏教経典を作り始めた。かくして仏教の中から溌剌として大乗仏教が興り、華麗な芸術と深遠な哲理とを展開したのである。そうしてこの大乗仏教が、インドから北へ出て中央アジアに栄え、さらに東してシナに広がり日本に及んだのである。これらの事情の下に、四姓制度の社会における覚者であった釈迦が、人類の覚者としての普遍性を得て来たのである。
しからば最後に孔子はどうであるか。孔子を生んだシナの文化が孔子の後にその幕を閉じたなどとは何人も認め得ないであろう。インドは中世紀以後モハメダンの蹂躙に逢い、仏教は地を払った。仏教のインドは全然の過去である。しかしシナにおいては孔子の教えは漢に栄え、唐宋に栄え、明清に栄えたではないか、と人は言うかも知れない。しかし自分の見るところはそうではない。孔子を生んだ先秦の文化は戦国時代にひとまずその幕を閉じたのである。ここでも我々はインドと同じく「シナ」が単に地域の名であって国の名でもなければ民族の名でもないことを銘記しなくてはならない。この地域において種々の民族が混融し交代し、種々の国々が相次いで興亡したことは、ちょうどヨーロッパにおいてギリシア、ローマ相次ぎ、種々の民族が混融し、近代の諸国家が興ったのと、ほとんど変わるところがない。先秦の文化が伝説にいう周の文化として完成せられ、その末期の春秋時代に至って反省せられ、次いで戦国の時代の混乱と破壊とによって次の新しい文化に所を譲ったことは、ちょうどギリシアがローマに変わったことと同じ意味に解せられねばならない。戦国時代における夷狄との混淆は顕著な事実である。そうして終局において大きい統一に成功した秦はトルコ族や蒙古族との混淆の最も著しい国であった。この統一の事業をうけついだ漢もまた異民族との混淆の著しい山西より起こった。すなわちここで黄河流域の民族は一新したのである。そうしてその社会構造をも全然新しく作り変えたのである。もちろん漢代においても先秦の文化は引きつがれている。しかしローマはギリシアを征服することによって文化的には逆にギリシアに征服せられたと言われる。先進の文化が後来の民族を教化することは、いずこにおいても同じである。同様にローマの文化がギリシア文化の一つの発展段階と見られないように、秦漢の文化もまた先秦の文化の一つの発展段階なのではない。ギリシア文化に教育せられつつローマ文化がローマ文化として形成せられたように、先秦の文化に教育せられつつも秦漢の文化は秦漢の文化として形成せられたのである。この関係を正視すれば、孔子もまた一つの文化の結論として出現したということは、何ら疑いを容れないのである。
シナの民族はしばしば「漢人」と呼ばれる。しかし漢はシナの地域における一時代の国名であって、シナの地域の民族の名とすべきものではない。漢代の黄河流域の民族は、周の文化を作った民族の中へ周囲の異民族の混入したものであるが、しかしそれも四、五百年間続いただけであって、漢末より隋唐に至るまでの間には再び大仕掛けな民族混淆に逢っている。蒙古民族、トルコ民族、チベット民族などがはいって来たのである。この際には前と違って異民族が自ら黄河流域に国を建てた。五胡十六国と言われているようにその交代は頻繁であったが、蒙古民族たる鮮卑の建てた北魏のごときはかなり強大であった。こういう状態が二、三百年も続いて、それで民族が新しく作り変えられないはずはないのである。だからそのあとに来た隋唐の統一時代のシナが、文化の上から言っても漢文化と著しく異なっているのは当然である。美術や文芸の様式などは実に徹底的に違っている。この統一時代が三百年続いたあとで、唐末五代のころには再びトルコ民族が黄河流域にはいって国を建てた。次いで宋の時代になっても、北辺の蒙古民族契丹の国ははなはだ強大であって、西方からシナを呼ぶに Kitai→Cathay をもってせしめるほどであった。この情勢は満州民族を蹶起せしめ、ついに満州より黄河流域にわたる強力な金の建国となって、北方シナに満州民族の血を注ぎ入れた。宋は揚子江流域に圧迫せられつつ同時に南方の諸民族の同化につとめ、ここにも有力な民族混淆をひき起こした。こういう状勢のあとでジンギスカンの統率する蒙古人が北から圧迫を始め、ついに金を亡ぼし、南宋を亡ぼして、シナ全土に強力な元の支配を築いた。シナに侵入してシナの民族を統治する場合に、シナの文化に化せられないで、あくまでも己れの風習をシナの民族に押しつけようとしたのは、この時の蒙古人が初めである。元の支配は百年ほどに過ぎなかったが、しかしシナの在来の知識階級を徹底的に抑圧し、あるいは殲滅したと言われている。元末に起こった反抗運動はすべて土民の手によって起こされたものであって、処士のこれに加わったものは一人もなかった。こういう連続的な異民族の侵入が三百年ほども続いたあとで、再び明の統一が打ち立てられたとき、その文化がまた唐の文化と著しく異なったものとなったのは当然であろう。唐の制度は永い間模範として用いられていたが、明はこれを根本的に改めて、極端に君主独裁的な制度を作った。律令も兵制も改定された。社会組織も更新された。現代にも存続する郷党の制度はこの時の振興にもとづくと言われている。さらに唐宋の豊麗な詩文に対して、明は『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』のごときを特徴とする。唐宋の醇美な彫刻絵画に対して、明は宣徳・嘉靖・万暦の陶瓷、剔紅、填漆の類を特徴とする。ただ学術においては、唐宋における仏教哲学や儒学の隆盛に対して、明は創造力の空疎を特徴とすると言うべきであろう。この傾向は清朝を通じて現代に及んでいる。
以上のごとく見れば、同じシナの地域に起こった国であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国と近代ヨーロッパ諸国とが相違するほどには相違しているのである。ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行なわれていたからと言って、それがローマ文化の一貫した存続を意味するのでないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられていたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。にもかかわらず先秦と秦漢と唐宋と明清とが、一つの文化の異なった時代を示すかのごとくに考えられるのは、主として「漢字」という不思議な文字の様式に帰因すると考えられる。文字は元来「書かれた言葉」として「話された言葉」に対立するものであるが、かく言葉を視覚形象によって表現するには、直接にその意味を現わす形象を用いることもできれば、また意味を現わすに用いられている音声を表示する記号を用いることもできる。現代世界に最も広く用いられているのはフェニキアに始まった音表記号であって、一々の文字は単に音を示すに過ぎず、それが相寄って一定の音の連関を表示するとき初めてそこに話される言葉の表現が成り立つのである。だから一々の文字が共通であっても、それによって表現せられる言語は全然異なったものであり得る。のみならずそれは発音に忠実であるために同一の言語を分化せしめる傾向さえも持っている。たとえば同じラテン語が地方によって異なった訛りを帯びて来る。それを発音通りに書き記せば、ラテン語と異なったイタリー語やフランス語が成立して来るというがごときである。が、このような分化の傾向は古き文化の伝統を保持するに不便であるために、先行の文化語の文字的表現をそのまま持続しつつ、一々の文字の音表的作用を変化して行く場合もある。フランス語がラテン語からの由来を保持するためにラテン語の音綴をそのまま襲用しつつそれによって異なった音の連関を表示し始めたごときがそれである。近世の初めにラテン文からの解放を望んで自国語の文章を書き始めた時、フランス人はその音声に忠実な綴字を用いようとしたことがあった。が、それは己が文化の根源たるラテン文化からほとんど離別するがごとき観を呈した。だからその運動はまもなく逆転して、できるだけ忠実にラテン語の綴りを保持する運動に変わったのである。テンプス(tempus)とほぼ同じく temps と綴りながら、タンというフランス語を現わすというごときがそれである。だから音綴文字といえども、必ずしも音声の表示に徹底しているというわけではない。文化の伝統がこの徹底をさまたげる。そうしてちょうどここに文字の他の様式、すなわち直接に意味を現わす形象が、その独特の生命を保持し得るゆえんも存するのである。かかる文字の一つの様式としては、フェニキアに近いエジプトにすでに古くより象形文字が存していた。が、それはフェニキアの音綴文字に駆逐せられて死滅してしまった。実用的に言ってとうていフェニキア文字の敵ではなかったのであろう。しかるに漢字は、もと象形文字に端を発したかも知れないが、やがて象形文字の直観的煩雑性を克服し、半ばは音表文字の作用をも勤めつつ、直接に意味を現わす形象として、異常な発達を示して来たのである。これは一つにはシナの地域において文化を作った民族の言語が単綴語であったことにも関係するであろう。が、最も有力な原因は、文字の本質が視覚形象によって意味を表現するにあるという点に存すると思う。言語は必ずしも音声によって表現せられねばならぬのではない。従って音声を表示する記号のみが文字なのではない。音声の媒介を経ずに直接に意味を現わしても、それは文字としての資格に欠くるところはない。もしかかる形象が使用上においても大なる不便なく作り出されるならば、それは文字としてはむしろその本質に忠なるものと言わねばならぬ。漢字は直観性と抽象性との適度なる交錯によって、ちょうどかかる形象として成功したものなのである。そうしてひとたびかかる文字が成立するとともに、それは音綴文字とはなはだしく異なった効用を発揮し始める。すなわち同一の文字が音声的に異なった言語を表現し得るということである。言語が地方的にいかに異なった訛りを帯びて来ようとも、文字的表現においては常に同一であり得る。また時代的に発音が変遷して行っても、文字は毫も変わらないでいることができる。かかる漢字の機能のゆえに、シナの地域における方言の著しい相違や、また時代的な著しい言語の変遷が、かなりの程度まで隠されていると言ってよいのである。現代のシナにおいて、もし語られる通りに音表文字をもって現わしたならば、その言語の多様なることは現代のヨーロッパの比ではないであろう。またもしシナの古語が音表文字をもって記されていたならば、先秦や秦漢や唐宋などの言語が現代の言語と異なることは、ギリシア語やラテン語やゲルマン語が現代ヨーロッパ語と異なるに譲らないであろう。しかるに漢字はこれら一切の相違を貫ぬいて共通なのである。すなわち「書かれた言葉」が地方的時代的に同一なのである。言いかえればシナの地域においては二千数百年の間同一の言語が支配した。これは一つの文化圏の統一を示すものとしては、無視することのできない有力なものに見える。ここに我々は先秦の文化や漢文化が一つの文化の異なった時代と考えられる窮極の根拠を見いだし得ると思う。しかしこのような文字の同一は、漢字という文字の様式に帰因するのであって、必ずしも右のごとき緊密な文化圏の統一を示すものではない。フェニキアの音綴文字を襲用した諸文化国がフェニキア文化の圏内に統一せられていると言えないように、漢字を襲用した我が国の文化もシナの文化圏に統一せられているのではない。漢字はその性質上、言語として全然異なっている我が国語さえも表現することができる。ヤマを山の字によって、カワを河の字によって現わすという類である。が、かかる事態が直ちに我が国の文化とシナの文化との統一を示すのではない。それと同じく文字の同一は、直ちに先秦や、秦漢や、唐宋などの文化の異質性を消すことはできないのである。
我々は孔子が人類の教師として普遍性を得て来たことを理解するために、右の事態を正視することが必要であると考える。孔子は先秦の文化の結晶として現われながら、それと質を異にする漢の文化のなかに生きてこれを教化し、さらにまたそれと質を異にする唐宋の文化のなかに生きてこれを教化した。もちろん漢代に理解せられた孔子と、宋代に理解せられた孔子とは、同一ではない。また漢の儒学はその孔子理解を通じて漢の文化を作ったのであり、宋学もその独特な孔子理解を通じて宋の文化を作ったのである。が、これらの歴史的発展を通じて魯の一夫子孔子は人類の教師としての普遍性を獲得した。この点においては他の人類の教師と異なるところはないのである。
二 人類の教師の伝記
人類の教師が人類の教師と成るのは、一つの大きい文化的運動である、ということを我々は見て来た。それは他の言葉で言えば、一つの高い文化が一人の教師の姿において結晶して来るということなのである。この結晶の過程のうちには前に言ったように弟子たちの感激や孫弟子たちの尊崇や、さらにその後の時代の共鳴・理解・尊敬などが、数限りなく加わっている。これらは教師の感化が真正であったからこそ時の訓練に堪えて増大して来たのであるが、しかしまた感化を受けた弟子たちが常にその教師の優れた点、感ずべき点に注意を集中し、そうしてそれらの点をより深く理解しようと努力したことにももとづくのである。これは通例「理想化」と呼ばれている過程であるが、しかしそれをやっている当人たちは決して教師の正真の姿を現実以上に美化しようなどと意図しているのではない。彼らは自分たちがいかに理解の努力をしてもなおその教師の人格と智慧の深さを測り得ないと感じつつ、教師の真面目に迫る努力を続けて行ったのである。が、この努力のゆえに、あとから来る弟子たちに対する教師の感化力はさらに大きくなって来る。なぜなら、自ら直接に教師に接し得ない弟子たちは、先輩弟子の与えたこの教師の姿、すなわち優れた点や感ずべき点のみからできているこの教師の姿にのみ接するのだからである。この関係は、世代が移るに従ってますます激化される。そうしてそれぞれの世代が人間の智慧と人格とにおいて最も深きものと考えるさまざまの点をこの教師の内に見いだして行くことになる。これが偉大な教師の姿の結晶し来たる経路なのである。そうしてみれば人類の教師は、長期間にわたって、無数の人々の抱く理想によって作り上げられて来た「理想人」の姿にほかならぬとも言い得られよう。
人類の教師がこういうものであれば、その真の伝記は右の結晶の経路を把捉したものでなくてはならぬ。それは文化史的発展の理解であって、個人の生涯の理解ではないのである。しかも人類の教師の伝記は常に個人の生涯の記録として取り扱われて来た。従ってこの伝記がいかなる真実性を持つかを問題とする時、そこには常に強い疑惑が湧き上がって来ざるを得ないのである。
ソクラテスはクセノフォンの『メモラビリア』のみならず、プラトンの優れた諸対話篇のなかに鮮やかに描かれている。イエスの生涯は四福音書に詳らかである。釈迦の伝記に至っては、小乗の経律を初めとして大乗の諸経典に至るまでその多きに苦しまざるを得ぬ。孔子もまた『史記』の「孔子世家」を初めとして、『孔子家語』『孔叢子』などに詳らかに伝せられている。これらの伝記を読んでそのままに信じてしまえば何の問題も起こらない。古来多くの人々がそうして来た。しかしひとたびこれらの伝記に対して疑問を起こし始めると、どうにも納まりがつかないほどに問題は紛糾して来るのである。
ソクラテスは直弟子のクセノフォンとプラトン、孫弟子のアリストテレスが記録を残しているのであるから、伝記が曖昧だなどということはなさそうに見える。しかしできるだけ厳密にソクラテスの姿を捕えようと努力している学者に言わせると、やさしそうに見えるだけかえって他の場合よりも困難なのである。ソクラテスの姿はクセノフォンとプラトンとではいろいろな相違がある。プラトンだけによるとしてもその対話篇の異なるに従って描写が違ってくる。そのプラトンとアリストテレスでもまた相違がある。だからこれらの同じ材料を使いながらも、解釈する人の立場に従ってそれぞれソクラテスの姿が異なって来るのである。啓蒙主義の通俗哲学者メンデルスゾーンの手にかかればソクラテスもまた啓蒙主義的通俗哲学者になる。カント派の手にかかればソクラテスはカントを先駆した批判哲学者である。浪曼派のソクラテスはキリストを先駆する神秘家となっている。歴史家グロートは当時のアテナイの宗教的情勢から見て、ソクラテスをデルフォイの神託の宗教的伝道家として描いた。ソクラテスの仕事は、宗教的霊感のもとに、生ける弁証法となることであったと言われる。しかるにヘーゲルの見たソクラテスは、徹底的な合理主義者であって、その哲学により古い信仰や風習から訣別したことになっている。その流れを汲むツェラーによれば、ソクラテスは初めて哲学を概念の上に基礎づけ、理論的論理学の原理を発見した。さらにフイエーに至ればソクラテスは思弁哲学者であり精神的形而上学の創始者とせられる。この種の例は数えきれないほどあるのである。
これらの学者は皆原典に根拠を求めてその主張を出しているのであって、勝手な臆測をやっているのではない。しかもそれが右のように帰一するところを知らないのである。そうなると、真にソクラテスの姿を捕え得るためには、ソクラテスを伝える根本資料の公明な検討をやっておかなくてはならない。すなわち厳密な原典批評が何よりも必要なのである。もっともこういう研究がこれまでなされなかったというのではない。哲学者たるとともにまた傑れた古典文学者であったシュライエルマッヘルは、クセノフォンのソクラテス描写とプラトン、アリストテレスのそれとを比較検討して、クセノフォンはだめだという結果に達した。この意見はかなり広く用いられたものである。しかしクセノフォンがソクラテスの偉さを真に理解していなかったというようなことで、クセノフォンの記録が捨てらるべきものであろうか。クセノフォンはプラトンやアリストテレスのように己れの立場を持った哲学者ではない。彼はただ単純にその見聞を語っているのである。しからば彼はソクラテスの偉さを真に理解していなかったとともにまたきわめて素朴にソクラテスの面影を伝えているということもあり得はしないであろうか。そう考えると根本資料の検討はさらに厳密にやり直されねばならぬのである。ではそういう文学的な研究において何らかの一致点が見いだされたであろうか。必ずしもそうではないのである。たとえばハインリヒ・マイヤーの『ソクラテス』はなかなかすぐれたよい研究であるが、同じようにすぐれているテイラーのソクラテスとはまるで違った結論に達している。マイヤーは根本資料をそれぞれその製作の側からながめつつその史料としての価値を定めようとした。最も価値の高いのは結局プラトンの初期の著作である。『弁明』や『クリトン』においては、己れを空しうしてソクラテスに帰依する弟子が、敬虔な忠実さをもって師の姿を描こうとしている。しかも描写の腕はすばらしく冴えている。だからこの両篇におけるソクラテスの姿は、自己なきまで現実に忠実な天才芸術家の描写なのである。プラトンの対話篇中ソクラテス史料として価値あるものは、なお他に『ラケス』『小ピピアス』『カルミデス』およびおそらく『イオン』を数えることができる。これらはプラトンの感情が静まってから、ソクラテスの倫理的弁証法を文章によって継続したものである。だからここには、ソクラテスをして死後にも人格的に活躍せしめようとする意図の下に、ソクラテス的会話の模倣が試みられている。それは歴史的事件の描写ではない。しかもソクラテスの姿を伝えるという史料的価値を持つのである。以上の史料を通じて見られるソクラテスは、学者でも哲学者でもなくして、倫理的生活の覚醒に努める福音の宣伝者にほかならない。上掲の諸篇以後のプラトン対話篇は、徐々にソクラテスを離れる。『ゴルギアス』に現われる哲学はもはやソクラテスの倫理的弁証法ではない。『饗宴』に至っては明白にプラトンの思想的立場が独立してくる。この後の諸篇においてはいかにソクラテスが論じていても皆プラトンの思想を語っているのである。以上のごときがマイヤーの研究の結果であった。しかるにテイラーに言わせると、そういうふうにプラトン自身の著作のなかからソクラテスとプラトンとを見分けようなどとしても、今日ではもはや到底できるわけのものでない。プラトンの著作の中にソクラテスの言葉として現われてくるものは、皆ソクラテスの思想と見るほかはないのである。そうなるとソクラテスはイデアの哲学者になってしまう。どっちが真のソクラテスであるかは依然としてわからない。
イエスの伝記に関しては、処女懐胎による誕生といい、死人の復活その他さまざまの奇蹟といい、近代人の疑問をそそる点が多く、早くよりそれを合理的に説明しようとする試みが行なわれた。が、ひとたび福音書を疑ってよいとなれば、奇蹟を神話として説くくらいでは納まるものでない。さらに徹底的に福音書全体の史料的価値を疑う立場も起こってくるのである。
こういう見解の起こる第一の根拠は、イエスの十字架の死に関する記録が信頼すべき文書の内に全然現われて来ないということである。最も有力と考えられているのはタキツスの『年代記』であるが、しかしそれの書かれたのは紀元後百二十年ごろであって、そのころにはすでにキリストの神話ができあがっていた。タキツスはイエス処刑に関するローマの官文書などに拠ったのではなく、単にこの神話を採用したのである。次に問題になるのは紀元後一世紀のユダヤの史家ヨセフスであるが、その著書の中にはユダヤの諸宗派を記述しながらナザレのイエスの宗派のことを全然語っていない。もっともイエスという人物は出てくる。一人はイェルサレムの没落を預言するイエスである。骨が出るまで鞭打たれても叫び声さえあげず、挑まれても答えをせぬ。ついに石弾で殺された。もう一人はガリラヤのイエスである。サフィアスの子でユダの弟子、水夫や貧民を従えていた。もう一人はローマの支配に反抗した海賊イエスで、仲間の一人の裏切りにより捕えられた。従う者たちは彼を捨てて逃げた。これらはイェルサレム包囲(69-70 A. D.)のころの出来事であり、また十字架の死に関するところがない。福音のイエスとは別のイエスたちである。
福音書以外の源泉からイエスの歴史性を証明することができぬとすると、福音書の中に何か証拠がありはしないか。人はバラバの話をあげる。イエスが十字架につく前に死罪を赦される囚人である。ところで批判する者は、ちょうどこのバラバの話を捕えてイエスの非歴史性を立証する。Barabbas は Bar Abbas、すなわち「父の子」である。古くはイエス・バラバ、すなわち父の子イエスと書かれていた。父の子を犠牲とする祭りはユダヤにも古くから存した。父の子は世界の罪を贖うために殺される。その肉と血にあずかるのが「聖餐」である。かかる密儀に関連してイエス・バラバの名は古くより知られていたと考えてよい。この名が古くよりイエスの十字架の死と結びついているのは、一面においてイエスの崇拝者が自分たちのイエスを民間信仰のイエス・バラバから区別するためであったと考えられるとともに、他面においてイエス崇拝がバラバの犠牲の祭儀に酷似していたゆえであると考えざるを得ない。イエスが「ユダヤの王」として驢馬に乗って入城してから十字架につくまでの五日間は、サケーア祭で仮装の王が驢馬に乗って入城し最後に十字架につけられるまでの五日間と酷似している。イエス・バラバの祭儀もかかるものであったと考えられる。かかる祭儀がイエスの最後の物語の粉本なのである。十字架の死そのものもかかる祭儀の中心であった。ヘレニスト時代に西アジアやエジプトで行なわれたさまざまの救主神の密儀においては救い主は皆十字架につけられたのである。それが死んで蘇る神の定石であった。
福音書は右のほかにも同様の証拠を数多く提供する。さらにパウロの書簡に至れば、イエス崇拝がいかに深く密儀と連関していたかの証拠は無数に存する。イエス崇拝者は異教の密儀と同じく「主の食卓」においてキリストの血に与る酒杯を飲み、キリストの体に与るパンを食ったのである。すでにかかる聖餐があったとすれば、異教の密儀と同じく密儀劇の存したことも推測せられねばならぬ。かかる聖餐や密儀劇がイエス神話の根なのである。
しからばこの密儀において崇拝せられるイエスとは何であったか。イエスはギリシア名 Iēsous であって、それに当たるヘブライ名は、旧約に有名なヨシュア(Joshua)である。パレスチナにおけるヨシュア崇拝がイエス崇拝にほかならぬのである。その証拠としては新約のユダ書をあげることができる。イエス崇拝すなわちヨシュア崇拝はキリスト教以前にすでに存していたのである。
こういう見地から福音書を見れば、イエスの十字架の物語が密儀劇から出たという証拠はいくつでもあげることができる。福音書の物語るのは実在の人物たるイエスの伝記などではない。イエス崇拝に伴なう密儀劇の筋書きなのである。(以上のイエス神話説についてのやや詳細なる紹介を求められる方は、拙著『原始キリスト教の文化史的意義』四一―六三ページ、『和辻哲郎全集』第七巻三一―四三ページを参照されたい。)
我々はこういう批判を直ちに承認するのではない。福音書の伝記が疑わしいということや、そこに記された事件が宗教的想像力の所産として立証され得ることなどは、直ちにイエスという人物がいなかったという証拠にはならないからである。しかしまた右のごとき批判に対してイエスの歴史性を積極的に立証することがはなはだ困難であることも承認せざるを得ない。福音書の記録が種々の点においていかにも真実らしく感ぜられるというようなことだけでは、右の批判に対抗することはできない。傑れた文芸の作品に描かれた人物は、しばしば史上の人物よりも活き活きとしている。我々が史上の人物としてのイエスに接近し得る道は、ただ福音書を書かせた背後の力、すなわち福音書を創作した宗教的想像力の源泉となった人物を求めるほかはないのである。
福音書は最も新しいヨハネ伝でも紀元後百二十年ごろ(すなわちイエスの十字架の後、九十年くらい)の作と言われている。そうしてこのヨハネ伝がロゴスの思想によってキリストを解釈しようとしたものであり、従って史料としての価値が乏しい、ということは、福音書の物語の歴史性を信ずる学者といえども、つとに承認しているところである。しかるに釈迦の伝記に至ってはその最も古いものでも、滅後百年か二百年はたっているであろうと思われる。律の大品、小品、長部の『大般涅槃経』などにある物語は、アショカ王より古いとは思われない。もっとも釈迦に関してはその入滅の年代さえも確定していないのである。自分は仏滅百年アショカ出世の伝説を是認しようとする宇井伯寿氏の詳細な考証に敬服するものであるが、しかしこの説はいまだ定説となるに至らない。それほどであるから、人類の教師の伝記のうちで最も曖昧なのは釈迦の伝記であると言ってよいのである。
釈迦伝についてもこれを太陽神話として解釈しようとする説が提出せられたことはあるが、しかし釈迦伝はそんなことでびくともするものではない。なぜかというと、釈迦の伝記を語る際に、これを釈迦族の聖者ゴータマという史上の一人物の伝記とせずに、過去七仏や毘婆尸仏の生涯と一貫している諸仏の常法として語ることは、すでに長阿含等初期の経典に見られる傾向だからである。この傾向が発展して来ると、仏伝は過去世の事蹟でいっぱいに充たされてくる。しかもそれはこの地球上の世界に限ったことではない。そういう途方もなく大きい伝記にとっては、歴史的な事実であるか否かなどということはてんで問題になって来ない。釈迦を太陽に見立てるくらいはきわめて小さい方で、大乗経典になれば宇宙全体が、否さらにいくつもの宇宙が、釈迦の舞台になってくるのである。
が、そういうふうな釈迦伝は、学者がそれを批判しないでも、歴史的人物としての釈迦の伝記でないこと明らかである。だから歴史的人物としての釈迦を捕捉しようとする者は、こういう途方もない仏伝を捨てて初期の資料にだけ眼を向けようとする。パーリの経律蔵や、漢訳の阿含、小乗律などがそれである。が、これだけの資料でもその内容の雑多なこととうてい四福音書の比ではない。本文に著しい新古の層があり、そこに語られた物語や思想にも著しく変遷のあとが見える。それらの中から己れの好むところを取ってそれを史実として信じてしまう人は別であるが、厳密に史実を突き止めようとするものは、これらの諸異説を照らし合わせ、その発展の段階をたどり、徐々に最古の伝説へ迫って行くほかはない。そうやって考証を進めて行くと、釈迦が王子であったということも、出門遊観の際に生老病死を覚ったということも、父王が王子の出家を恐れて妓女を付して昼夜歓楽に耽らしめたということも、皆伝説発展の途中で出て来たことであって、最古の伝でないことがわかる。釈迦は釈迦族の豪族の子である。そうしてたぶん釈迦が生まれたろうと思われる時代の釈迦族は、まだ貴族政治をやっていて王などを持ってはいない。が、伝説の考証はさらに釈迦の成道以前の物語が最古の層でないことを示してくる。釈迦の伝記が成道に始まり、説法開始、弟子の教化、入滅などを物語っていた時代もあるのである。しかし成道の際に何を悟ったか、説法開始の時に何を説いたか、入滅の際にいかなる法を遺言したか、というごときことになると、また諸伝まちまちであって帰一するところを知らない。しかもそれらの際に説いたとせられる法自身の内に種々の発展段階が見いだされる。そうなるとこれらの法の新古の層をもたどってみなくてはならぬ。それを丹念に続けて行くと、一人の釈迦が説いた法として伝えられているものの中に明白に思想史的な発展段階が見いだされてくる。もちろんこういうことは一人の思想においてもあり得ることではあるが、しかし発展的に見て初めである段階と終わりである段階とが、ともに同一時の説法であるとして主張せられているのを見ると、これらの経典をどう信用して好いかに迷ってしまう。
我々がパーリの経律や漢訳の阿含などを捕えて大体間違いなく到達し得る結果は、これらの経典の最下層に存するものが、釈迦の孫弟子のころに固定し始めた説法の梗概・要領だということである。というのは孫弟子のころに固定したものよりも古いものを見いだすことはできないということである。それに反してその以後に形成せられたものは多量に存している。そうなると孫弟子の手になった説法の要領や釈迦の伝記などを厳密に拾い集めることができたとき、我々は初めて孫弟子の立場に立って釈迦を見ることができるようになるのである。これだけでもなかなか容易なことではない。(歴史的な釈迦をいかなる資料によりいかなる仕方で突き止めるかという問題に関しては、拙著『原始仏教の実践哲学』の序論、特に四七―一三一ページ、『和辻哲郎全集』第五巻三八―八九ページを参照せられたい。)
以上のごとく人類の教師の伝記は、いずれもはなはだ曖昧なものであって、どれだけが歴史的真実性を持つか、容易に言い難いものばかりである。その間に立って孔子の伝記だけは選を異にしているであろうか。試みに手近の孔子伝を開いてみると、いかにも確信をもって孔子の祖先、孔子の幼時、孔子の学業、仕官、周遊、学的労作などの事が記されている。このように孔子の伝記が確実であれば、孔子だけは他の例と異なると考えるほかはない。しかるに『史記』の「孔子世家」を取って右の孔子伝に比べてみると、この孔子伝が実は「孔子世家」の祖述にほかならなかった、ということがすぐにわかるのである。では「孔子世家」というものはそれほど信用に価するものであろうか。孔子の没年が西紀前四七九年であるとすると、『史記』のできるまでには三百五十年くらいは経っている。これだけ後にできた伝記をそのまま信じてかかるとすれば、前の三人の場合などにも全然問題は起こらないのである。しかしシナの場合には他と違ってこういう伝記が確実であるかも知れない。なにしろ『史記』はシナの正史の第一であるから、信者や弟子が私に書いたものとは違う。よくよく反証がなければ疑うべきでない。こう主張する人があるかも知れぬ。では少しく「孔子世家」を考察してみよう。
「孔子世家」は何を材料として孔子伝を書いたか。『史記』は正史であるから、漢の大帝国の威力を用いて古文書を捜索し、できるならば、古い国々の公文書をでも材料としたであろうか。否、「孔子世家」が最も多く用いているのは、ほかならぬ『論語』なのである。『論語』から取った個所は全体にわたって六十八個所を数えることができる。次は『孟子』で十四個所、その次は『左伝』で九個所、『礼記』は六個所である。これらのいずれにも関係のない個所を拾い上げると、
(一) 孔子は子供の時、俎豆を陳ね礼容を設けて遊んだ。
(二) 孔子十七歳の時、季氏が士を饗した。孔子が出席しようとすると、陽虎が斥けて言った、「季氏は士を饗するのである、子を饗するのでない」と。それで孔子は退いた。
(三) 孔子は魯の君の後援により南宮敬叔とともに周に行って老子に逢った。別れる時に老子は次の言を餞けした。「聴明深察なれども死に近づくは人を議することを好む者なり。博弁広大なれどもその身を危うくするは人の悪を発く者なり。人の子たる者は己れを有することなかれ。人の臣たる者は己れを有することなかれ。」孔子は魯に帰った。弟子がだんだんふえた。魯の国難のようやく高まってくるころで、孔子三十の年である。
(四) 孔子年四十二の時、季桓子が土中から羊のようなものを掘り出し、孔子がそれを説き明かした。また会稽を攻略して骨を得た呉が、使いをもって孔子に説明を求めた。孔子は禹の神話によって説明して使いを感服せしめた。ついで季桓子がその臣の陽虎に押えつけられ、魯は大夫より以下みな僭して正道より離るという情勢になった。で、孔子は仕えず、退いて詩・書・礼・楽を修めた。弟子はいよいよ多く、遠方より集まった。
(五) 諸国周遊の途中、孔子は鄭で弟子にはぐれ、独り郭の東門に立っていた。鄭人が子貢に告げて言った。「東門に人有り。その顙は堯に似、その項は皐陶に類し、その肩は子産に類す。しかれども腰より以下は禹に及ばざること三寸。纍々として喪家の狗の若し。」あとで子貢がそれを孔子に告げると、孔子は欣然として笑って言った、「形状はいまだし。しかれども喪家の狗に似たりというは、然るかな、然るかな」と。
(六) 孔子は琴を師襄子に学び、その人となりを得た。
(七) 孔子は衛において用いられず、西して晋に行こうとしたが、趙簡子がその功臣を殺したことを聞いて引き還した。
(八) 孔子が陳・蔡の間にあった時、楚は人をして孔子を聘せしめた。陳・蔡の大夫はこれを妨げんとした。楚の昭王は師を興して孔子を迎えた。そうしてまさに書社の地七百里をもって孔子を封ぜんとした。令尹子西は、孔子が優れたる弟子を有すること、および「三王の法」を述べ「周召の業」を明らかにせんとしていることを指摘して、周の権威を無視している楚の立国のために危険であると論じ、これを阻止した。
(九) 孔子年六十四の時、呉と魯との交渉に弟子子貢が使いして成功した。
(十) その翌年、弟子冉有が季康子のために師を将い斉と戦って勝った。季康子がそれについて尋ねると、冉有は軍旅のことを孔子に学んだと答えた。そこで季康子は孔子が誰であるかを問い、これを召さんとした。冉有は小人たちと同僚にするのでなければよかろうと答えた。ちょうどそのころ孔子は衛にあったが、衛の孔文子が太叔を攻める策を問うたに対して、知らずと答えて衛を去ろうとしていた。その時季康子が公華、公賓、公林等の小人らを逐い、幣をもって孔子を迎えた。孔子は十四年ぶりで魯に帰った。
(十一) 詩は昔三千余篇あったが、孔子はこれを整理して三百五篇とした。孔子はこれを弦歌して礼楽を起こした。
(十二) 孔子は死後、魯の城北の泗のほとりに葬られた。弟子皆喪に服すること三年、相訣れて去ろうとする時に非常に悲しんで、また留まる者もあった。子貢のみは冢のほとりに廬することおよそ六年にして去った。弟子および魯人で冢のあたりに家するもの百有余室、孔里と呼ばれた。魯では世々孔子の冢を祠った。諸儒もまた孔子の冢において礼を講じ、郷飲し、大射した。孔子の冢は大いさ一頃、もと孔子の住んだ堂は後に廟となって孔子の衣冠琴車書を蔵している。漢に至るまで二百余年絶えたことがない。漢の高祖が魯を通った時これを祠った。この地方を治める諸侯卿相も、赴任するとともにまずここに参詣する。
等である。この内最後の孔子廟の情況は著者司馬遷自身の見聞にもとづいているが、その他はいずれも『論語』や『孟子』以後の伝説たることを立証し得るもののみと言ってよい。
第一の、孔子が子供の遊びとしてすら礼儀を用いたということは、礼を力説する教師の幼時として想像されやすいことであるが、しかしこれは
吾少かりしとき賤しかりき、ゆえに鄙事に多能なり。(子罕、六)
という『論語』の句と合わない。子供の遊びとしてさえも礼容を設けるというような子供は、右のごとき言葉を平然として口にしている偉大な教師に成長することはできないであろう。俎豆の話を想像し出した人々は、右の句を味わうことのできなかった人々であろう。もししいてかかる想像の根拠を求めるならば、
衛霊公、陳(陣)を孔子に問う。孔子対えて曰く、俎豆の事は則ち嘗て聞けるも、軍旅の事は未だ学ばずと。明日遂に行(去)る。(衛霊公、一)
という『論語』の句であろう。もちろんこれを用いたのは単に言葉の連想であって、この問答の現わしている孔子の痛烈な皮肉とは何の関係もないことである。
第二の孔子十七歳の話もまた孔子が少時賤しかったこと、孤児であったことなどと連関しているであろうが、かかる伝説の核はむしろ陽虎が孔子を侮辱したという点にある。陽虎は(四)において上を僭する魯の陪臣として出てくる。正しい政道を乱すような逆臣が、同時に少年孔子をも侮辱したのである。陽虎のゆえに孔子は季氏の饗宴から退いた。それから二十五年たって、陽虎のゆえに孔子は季氏の政治から退いた。そういう敵役を一人ここに連れ込んだというほかにこれらの伝説の意味はない。それは孔子がなぜ自ら政治しなかったかという疑問に対する説明の要求にもとづいたものである。かかる説明は数多く試みられているが最後に至って孔子の少年時代にまで手がのびたのであろう。
第三の老子との会見はさすがに古くから疑問とする人が多かった。が、儒教に対立した大きい思想の流れである道家の思想が漢代以前にすでに有力となっており、『老子』という書もすでに戦国時代に成立していたとすれば、漢代の儒家がこの老子と孔子とを会見せしめたいと考えるのは無理もない。老子が孔子に餞けしたと言われる言は、自己を主張せず理智に拘泥せず、我を虚しくして世に順応せよと教えた点において、『老子』の思想を一句に表現していると見ることもできる。この伝説の核はそこにあるのである。すなわち、孔子の学徒が『老子』の思想をも知るようになったということがここに示されているのである。礼を問いに行った孔子が礼の事にまるで触れない老子の言を受けたのはおかしい、という論もあるが、元来礼を問いに周に行ったということ自身が事実であるか否か知る由もない。周の文化をあれほど讃美する孔子が実際周を訪ねたのであるならば、それに関する言葉が少しは『論語』にあってよいはずである。しかるに孔子は一語もそれを語っていない。この伝説の主眼はあくまでも孔子が老子に逢うことなのである。そうして『老子』という書は、必ずしも『論語』より古くはないのである。
第四、第五の話にはひどく濃厚に禹や堯の神話が現われてくる。禹が群神を会稽山に集めたとき、防風氏が後れて来たので、禹はこれを殺した、とか、孔子の額が堯に似、くびが堯の時の大理の皐陶に似、腰より下が禹より三寸短い、とかという類いである。『論語』にはこんな話は出て来ない。孔子はむしろ神々の話をきらった人として描かれている。その孔子が会稽山の神々の会議を説いたということになると、この伝説が『論語』と性質を異にするものであることは明らかであろう。いわんや『書経』における堯舜や三代の物語が、春秋末あるいは戦国初期以後に作られたものであるとすれば、孫弟子の伝えた孔子の言行にかかる神話の色彩少なく、後になるほどその色彩が濃厚となることは当然と言わねばならぬ。
第六、第七は大して意味のない話であるが、第八の楚の昭王の話はちょっと問題になる。この中には孔子もその弟子も全然あずかり知らない話がある。昭王が孔子に封地を与えようとし、その臣がそれを阻止した。しかもその理由は、孔子が先王の道を説いていること、その弟子たちがいずれも王の臣よりは優れていることであった。こういう話が、孔子の弟子も知らないのに、どうして後に伝わり得たであろうか。そもそもまた孔子が楚の王や令尹にそれほど認められたということは果たして可能であろうか。楚は揚子江両岸にまたがった南方の国で、孔子の活動した中心からはだいぶ遠い。孔子が淮河流域の蔡に行き、また楚の大夫葉公と問答した話は『論語』にある。しかし楚の王が師を興してはるばる淮河の畔から孔子を迎えたというような大事件が、『論語』の中に全然痕跡を残していないのは何ゆえであろうか。『論語』に残っている楚の痕跡は右の葉公と楚の狂人の話とであるが、葉公の話は楚王が師を興して孔子を迎えたという話をむしろ反証するものである。
葉公、孔子を子路に問う。子路、対えず。子曰く、女(汝)奚ぞ曰わざる、その人と為りや、発憤して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみと。(述而、一八)
この章の核心は子路が答えなかったという所にある。なぜ答えなかったか。率直で、一本気で、気の強い、そうしてきわめて良心的な子路は、相手をそらさずに婉曲に答えるなどということができなかったのである。ではなぜ婉曲に答える必要があったか。子路風に率直に答えたのでは葉公が孔子を理解し得ないということがあまりに明白だったからである。つまり葉公は賢者を尊敬することを知らない横柄な俗物であった。そこで孔子は、その事を聞いた時に、そういう人物に対する答え方を教えたのである。孔子が子路に物いう時には、半ばはなだめるような、半ばはからかうような態度を取るのであるが、この時の言葉にもその趣が感ぜられる。孔子が教えて言うには、お前はこう言えばよかった、あの人物は世の中のことで何か憤ることがあると食事さえ忘れてしまう。また愉快に感ずることがあるとケロリと憂いを忘れてしまう。そういう他愛のないことで年が寄るのさえも気づかないでいる。そういう人物に過ぎないのだ、と。これは道のために熱中する至純な心を裏から言ったものであるが、それによって横柄な俗物を高い所から見下したことにもなる。が同時に子路の率直で一本気な気質を、愛撫しつつからかっているのである。子路はもちろん孔子を心から尊敬しているから、孔子をこんなふうに言い貶すことには不服である。が、ちょうど自分の気質に当てつけたような言葉でこう言われると、笑って引っ込むほかはない。葉公に逢ったあとで「発憤して食を忘れ」るようになっていた子路は、ここで急に笑い出して「楽しみて以て憂いを忘れ」てしまう。まことに滋味津々たる師弟の描写である。が、それとともに葉公が描き貶されていることもまた著しい。葉公と孔子との問答でもそうである。
葉公、政を問う。子曰く、近き者説(悦)ぶときは遠き者来たらん。(子路、一六)
この孔子の答えは、せめて直接に逢っている者にでも愉快な感じを与えるようにしたらどうだ、というのである。葉公が横柄な俗物であったことはここにも出ている。さらに、
葉公、孔子に語って曰く、吾が党に直躬というものあり、その父、羊を攘みて、子之を証わせり。孔子曰く、吾が党の直きは是に異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠して、直きことその中にあり。(子路、一八)
ここでも孔子は、合法性を奨励するだけで道の実現ができるものか、とたしなめているのである。こういう人物が、孔子の逢った楚の大夫として『論語』に記されているのは、楚の政治家がいかに孔子を理解していなかったかを示すものではなかろうか。その楚の王が師を興してまで孔子を迎えるなどとは、『論語』に信頼する限り、考えられないことである。
なおこの話に連関して「孔子世家」がどんなふうに『論語』を使ったかを見ておくのも、この問題にとって意味がなくはないであろう。「世家」によると、孔子が蔡に遷って三年、呉が陳を伐ち、楚が陳を救った。その時楚は、孔子が陳・蔡の間にあるを聞いて、人をして孔子を聘せしめた。孔子はまさに往いて礼を拝せんとしたが、陳と蔡の大夫たちは、賢者孔子が楚に用いられたならば自分たちがあぶないと考えた。
ここに於て乃ち相与に徒役を発して孔子を野に囲む。(孔子)行くを得ず。糧(粮)を絶つ。従者病みて興(起)つ能わず。孔子、講誦弦歌して衰えず。子路慍り見えて曰く、君子も亦窮するあるか。孔子曰く、君子固より窮す。小人窮すればすなわち濫(窃)む。子貢、色を作す。孔子曰く、賜よ、爾、予を以て多く学びて識れる者となすか。曰く、然り、非ざるか。孔子曰く、非ず、予一以て貫(行)う。(『孔子全集』、一九五四)
右の文章においてゴチックの部分は『論語』衛霊公の初めから取ったものである。『論語』では初めが「陳に在って糧を絶つ」となっている。その「陳に在って」の一句の代わりに前述のような楚の招聘、陳蔡大夫の妨害などの記事が置かれているのである。が、問題になるのはその点ではない。「子貢、色を作す」から先である。『論語』では「陳に在って糧を絶つ」の一章と「子曰く、賜よ」の章とは相次いで並んでいる。しかしそれはそれぞれ独立した章である。しかるに「世家」は、『論語』で並んでいる二つの章をいっしょに右の君子窮する場面にはめ込んだ。従って、「子路慍り見えて曰く」に対応して「子貢、色を作す」という一句を挿入し、この場面とおよそ関係のない「予一以貫之」の問答をここに列ねることになったのである。この問答は孔子によって器とせられた(公冶長四)子貢、弁舌智慧の優れたるがために「仲尼より賢れり」(子張二三)とさえうわさせられた子貢が相手なのである。「予を以て多く学びて識れる者となすか」という孔子の問いは、子貢が相手であるからこそ意味が深い。学識に囚われるな、学識が最後のものではない、最後の統一、唯一の実践の原理が重大なのである、かく孔子は智慧の人子貢に警告したのであった。これは君子窮すという特異の場面と何のかかわりもない。むしろ静かな学究や問教の場面にこそふさわしい。いわんやこの問答の前に「子貢、色を作す」ということは全然不必要なのである。これによっても「世家」の『論語』利用がいかなる程度のものであるかはわかるであろう。
第九、第十の子貢や冉有の話もほぼ同様なものであろう。子貢の外交の話は子貢が弁舌に達せることから出たものと思われる。また冉有が季康子に向かって、孔子を召さんと欲するならば小人を退けよと言ったという話は、『論語』の、
哀公問いて曰く、何為ば則ち民服せん。孔子対えて曰く、直きを挙げて、これを枉れる(人の上)に錯けば、則ち民服せん。(為政、一九)
という章と関係がありはしないかと思われる。なぜなら、「世家」は季康子の孔子招聘の話にすぐ引きつづいて次のごとき一節を掲げているからである。
魯の哀公、政を問う。対えて曰く、政は臣を選ぶにあり。季康子政を問う。直きを挙げてこれを枉れる(人の上)に錯けば、すなわち枉れる者直からん。康子盗を患う。孔子曰く、苟に子にして欲するなくんば、これを賞すと雖も窃まじ。しかれども魯終に孔子を用うること能わず。孔子もまた仕うることを求めず。(『孔子全集』、一九六一)
ここで司馬遷は『論語』の哀公との問答を季康子との問答にすりかえているのである。『論語』を熟知していたはずの記者がなぜこういうことをしたか。季康子が小人を逐って孔子を迎えたという伝を活かすためである。ではなぜこの伝が記者にとって重要であったか。十四年間他国に流浪している孔子が、どういう事情で魯に帰ったかを説明したかったからである。この説明は『論語』にはない。しかし孔子伝を目ざしている記者にとっては、これは非常に必要であった。そこで記者は『論語』中の季康子および季氏と弟子との関係を語る個所から右のごとき孔子帰国の物語を作り出したのではないかと考えられる。「世家」におけるこの話の初めは、孔子の弟子冉有が季氏のために師を将いて戦いに勝ったという出来事である。ところで『論語』によれば、冉有と季路(仲由)とが季氏の臣として働いていたのは、季氏が顓臾を伐たんとしたときであった(季氏一)。この季氏は一体誰であったか。後にはそれを季康子とする解も提出せられているが、「世家」の記者はいずれとも決することができなかったらしい。で、孔子が諸国流浪をはじめる以前、魯の定公に仕えていた五十五、六歳のころの、季桓子と、孔子晩年の季康子と、この両者にかけて右の個所を利用したのである。前者にあっては孔子は仲由を季氏の宰たらしめ、費を伐つ事業に加わらせたとせられる。後者にあっては、冉有が季氏のために斉を伐ったとせられる。冉有、仲由の二人が季氏の臣として働いたと『論語』にある以上、右のように割りあてても全然でたらめにはならぬかも知れぬ。しかしいずれも正当とは言えない。こういうところに孔子帰国の物語の出発点があるとすれば、この話の真実性もほぼ見当がつくであろう。が、孔子を流浪の旅から迎え取って晩年の静かな学的生活に入らしめた功績を季康子に帰した「世家」の記者の見方には、相当に同感すべきものがある。なぜなら、『論語』が季康子について記している個所には、非常によい問答が多いからである。それを列挙すると、直きを挙げよという哀公問にすぐ続いて、
季康子問う、民をして敬忠ありて勧めしめんには如何にすべき。子曰く、之に臨むに荘を以てすれば則ち敬あらん、孝慈ならば則ち忠あらん、善きを挙げて不能を教うれば則ち勧めん。(為政、二〇)
というのがある。哀公の問答を季康子とすりかえたということには、この二つの問答が為政篇に相並んで存することが原因となっているかも知れぬ。さらにもう一つ、
季康子問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回という者ありて学を好みしが、不幸短命にして死し、今は則ち亡し。(先進、七)
という有名な問答は、雍也篇において哀公に帰せられているのである。すなわち、
哀公、問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回という者ありき、学を好み怒りを遷さず過ちを弐たびせざりしが、不幸短命にして死せり。今は則ち学を好むものを聞かざるなり。(雍也、三)
とある。後に論ずるごとく、雍也篇は先進篇よりも古い。従ってこの哀公問の方が古いであろう。しかし顔回についてのこの感情にあふれた問答が季康子にも関係づけられるということは、季康子が孔子から理解ある者として取り扱われたと弟子たちに考えられていた証拠である。なお右の雍也篇にも、
季康子問う、仲由は政に従わしむべきか。子曰く、由は果なり、政に従うに於て何かあらん。曰く、賜は政に従わしむべきか。子曰く、賜は達なり、政に従うに於て何かあらん。曰く、求は政に従わしむべきか。子曰く、求は芸あり、政に従うに於て何かあらん。(雍也、八)
という問答がある。子路、子貢、冉求(冉有)に対する孔子の批評として有名なものである。ここにも孔子が打ちあけて物を言ったということを印象するものがある。その他、
季康子政を孔子に問う。孔子対えて曰く、政とは正なり、子帥いて正しければ孰か敢えて正しからざらん。(顔淵、一七)
季康子政を孔子に問いて曰く、如し無道を殺して有道を就(成)さば何如。孔子対えて曰く、子、政を為すに焉んぞ殺すことを用いん、子、善を欲せば而ち民善からん、君子の徳は風なり、小人の徳は草なり、草はこれに風を上(加)うるとき必ず偃す。(同、一九)
など、すべて孔子は皮肉なしに親切に教えている。前にあげた盗を患うる問答もここに並んでいるのである。これら一切の問答を通じて、季康子が晩年の孔子に敬を致した政治家であったことは認めてよいであろう。従って、
康子薬を饋る。拝して之を受けしも、丘未だ達らずといいて、敢えて嘗めたまわず。(郷党、三)
という章も、孔子の挙止動作を伝える以外に、季康子との交友関係を伝えていると見てよいと思う。季康子は孔子の病を聞いて薬を饋るという心づかいをした人なのである。また孔子は率直にその誠意を感謝しつつ受けたのである。しかしなぜその薬を嘗めなかったか。いまだ達らずとは何を達らないのであるか。そこにはいろいろな解釈を容れる余地があるであろう。孔子のごとく天命を信ずることの厚い人が、命を惜しがる小人のように、熱心に薬を嘗めたかどうか疑わしいからである。が、それは季康子との交友関係にはかかわるところがない。
以上のごとく見れば「孔子世家」の季康子の話はあまりできのよくない伝説で、『論語』の材料をさえも十分使いこなしていないということになる。そこであとに残っているのは第十一の詩の編纂のことであるが、『詩経』が全体としてそれほど古いものであるかどうかははなはだ疑わしいのみならず、その編纂のことは『論語』にも『孟子』にも伝えていない。もし『孟子』にいうごとく「王者の迹熄みて詩亡び、詩亡びて然る後に春秋作れり」(『孟子』離婁下)であるならば、孔子の時には詩は亡んでいたのである。「孔子世家」もまた一方では「孔子の時、周室は微にして、礼楽は廃れ、詩書は欠く」(『孔子全集』一九六二)と記している。それが真実であるならば、「古えは詩三千余篇ありき。孔子に至るに及びて、その重なれるものを去て」云々というのは矛盾である。記者はただ現前の『詩経』を孔子の編纂なりとする漢代の伝説に、何の根拠もなく従ったに過ぎない。
以上のごとく見れば、「孔子世家」が『論語』、『孟子』、『礼記』、『左伝』などに拠らずして書いた部分は、いずれも真実性の乏しいものばかりである。そうなると「孔子世家」そのものの意義はまず消滅したと言ってよい。我々の手に残るのは、『論語』、『孟子』、『礼記』、『左伝』などにおける孔子についての記録にほかならぬからである。否、一歩を進めて言えば、「孔子世家」はこれらの記録をきわめて恣意的に利用したために、これらの記録の価値をさえも減殺したということができるであろう。
では『孟子』はどうであるか。孟子は孔子より百五十年ほどあとの人であるから、『史記』よりはだいぶ古い。が、『孟子』は必ずしも『論語』と一致するわけではないのである。『孟子』が孔子およびその弟子の語として伝えているものは、四十二、三個所に達するであろうが、その内『論語』と合致するもの及び『論語』に類似の句を見いだし得るものを数えれば、わずかに十四、五個所に過ぎぬのである。それを我々は何と解すべきであろうか。『論語』にもれたもので、しかも確実な孔子の言行が、孟子により保存されたと見るべきであろうか。しかし何によってその確実性が保証されるか。それについて我々は、孟子自身が孔子の語の真偽を批判しているという興味ある事実を『孟子』の内に見いだすのである。たとえば、
咸丘蒙問いて曰く、語に言う、盛徳の士は君得て臣とせず、父得て子とせず、舜は南面して立ち、堯は諸侯を帥いて北面してこれに朝せり、瞽瞍も亦北面してこれに朝す、舜瞽瞍を見てその容蹙めるあり、孔子曰く、この時に於てや、天下殆うかりしかな、岌岌乎たりきと。識らず、この語誠に然るや。孟子曰く、否、これ君子の言に非ず、斉東の野人の語なり。堯老いて舜摂せるなり。堯典に曰く、二十有八載、放勲乃ち徂落せり、百姓考妣を喪するが如くなりき、三年、四海、八音を遏密せりと。孔子曰く、天に二日無く民に二王無しと。舜すでに天子と為り、また天下の諸侯を帥いて以て堯の三年の喪を為さば、これ二の天子あるなり。(『孟子』、万章上)
という問答がそれである。問題は堯舜の伝説に関するものであるが、それに関する孔子の言なるものがここでは斉東野人の語として斥けられている。このことは逆に孟子の時代において斉東野人の語が孔子の言として行なわれていたこと、人はそれらに対して批判的な態度を取らなくてはならなかったことを示しているのである。孟子は右の批判において堯典および孔子の他の語(これも『論語』にはない)を引き、堯舜時代に天下の危機などはなかった、従って孔子が危機を語ったというのは嘘であると断じた。それによって見ると、孟子の時代にさえも、堯舜の時代が過去の黄金時代として徹頭徹尾理想的であった、ということは確定していなかったのである。それを黄金時代と見るためには何らかの論証を必要とした。この事態を堯舜伝説の起源の考察と対照するならば、孟子の右の個所がいかなる歴史的意義を有するかは一層明らかとなるであろう。津田左右吉氏によると、堯舜の説話は全然仮構のものであり、夏殷周三代に関する革命の物語よりも遅れて西紀前四世紀の前半ごろに現われたのであろう、と言われている(岩波全書『儒教の実践道徳』二〇四ページ)。もしそうであるならば、この説話は孔子よりも一世紀後のもの、孟子より半世紀ほど先んじて形成されて来たということになる。従って孟子の時代に、孔子が舜の政治の危機について語ったという伝説が存していても、何ら不思議がることはない。それは孔子が堯舜の政治を理想としていたという伝説と同等な権利を持っているのである。ただ孟子のごとき優れた学者が、前者を斉東野人の語として排斥し、後者を孔子の真意として力説したために、孔子の堯舜崇拝ということが確立して来たのにほかならない。すなわち孔子の語として伝えられるものを批判する標準は、孔子の思想がかくあるべきであったという孟子の信念なのである。同様な例は孔子の行ないについても見いだされる。
万章問いて曰く、或るひと謂う、孔子衛に於ては癰疽を主とし、斉に於ては侍人瘠環を主とせりと、これ有りしや。孟子曰く、否、然らざるなり、事を好む者これを為れるなり。衛に於ては顔讎由を主とせり。弥子の妻と子路の妻とは兄弟なり。弥子、子路に謂いて曰く、孔子我を主とせば、衛の卿得べきなりと。子路以て告ぐ。孔子曰く命ありと。孔子は進むにも礼を以てし、退くにも義を以てし、これを得たるときも、得ざりしときも、命ありと曰えり。しかるに癰疽と侍人瘠環とを主とせば、これ義を無みし命を無みせるなり。孔子、魯衛に悦ばれず、宋の桓司馬将に要してこれを殺さんとするに遭い、微服して宋を過ぐ、この時は孔子、阨に当たって、陳侯周の臣たる司城貞子を主とせり。吾聞く、近臣を観るにはその主す所のものを以てし、遠臣を観るにはその主る所のものを以てすと。若し孔子、癰疽と侍人瘠環とを主とせば、何を以て孔子たらんや。(『孟子』、万章上)
ここでも孔子の流浪の際の宿について、孟子は「事を好む者の作れる説」をあげ、これを斥けているのである。その理由は、出所進退に礼儀をもってした孔子がそういう家に泊まったはずはない。もし泊まったとすれば「何を以て孔子たらんや」というのである。批判の標準は孔子の行ないがかくあるべきであったという孟子の信念であって、証拠による論明ではない。『論語』は孔子が誰の家に宿ったかなどということをほとんど問題としてはおらない。しかるに孟子の時代にはそれが論議の的となり、孟子自身が熱心にその一を斥けて他を主張しているのである。直接の弟子や孫弟子が気に留めなかった宿を、なぜ百五十年の後に人々が詮議したのか。それはこのころに孔子の伝記が形成されつつあったからである。その結果として「孔子世家」のごときに至れば、孔子の行く先々の宿が丹念に記されているのを見るであろう。それによれば孔子が流浪の旅を始めてまず衛に行ったときには、子路の妻の兄顔濁鄒の家を主とした。『孟子』の前掲の文にはこれは顔讎由となっており、また子路の妻の兄とは記されていない。孟子がそこで力説しているのは、子路の妻の兄弟が衛の嬖臣弥子瑕の妻であったこと、そうして弥子がその縁で孔子の宿をしたがったことである。『孟子』によれば、孔子はこの申し出を斥けた。嬖臣を利用して卿大夫にあり着くごときことは断じてしなかったのである。そういう孔子が癰疽や瘠環を宿とするはずはないと孟子は論ずる。ところがちょうどこの個所に引きかけて、
孔子、王道を行なわんと欲して東西南北し、七十たび説したれども、偶う所なかりき。故に衛の夫人と弥子瑕とに因りて、その道を通ぜんと欲せり。(『淮南子』、泰族訓)
孔子、弥子瑕に道りて釐夫人を見たり。(『呂氏春秋』、慎大覧貴因)
などという伝説が発生している。孟子の力説がちょうど逆効果を現わしたことになる。ここからさかのぼって考えてみれば、孟子が何のために戦っていたかは、およそ見当がつくであろう。孟子は、彼の見地から見て孔子を引きおろすように見える伝説の発生と戦っていたのである。そうして陳の司城たる貞子の家に宿ったことさえも、権勢に阿付する意味ではなくして宋の司馬桓魋の迫害を免れるためであった、と弁解せざるを得なかったのである。だから孟子にとっては、孔子がその弟子や弟子の縁者の家に宿るのはふさわしい。しかし高位高官にあるもの、特に悪評ある政治家の家に宿るのはふさわしくない。孔子の流浪は政権と結びつくことを求めて歩いたのではなかった。腐敗した現実の政治に結びつかなかったことがむしろ孔子の偉大なゆえんなのである。
孟子がこのように自分の見地から孔子の偉大さを闡明しようとしたことは、公孫丑上の次の数章によく現われている。
以て仕う可くんば則ち仕え、以て止む可くんば則ち止み、以て久しくす可くんば則ち久しくし、以て速やかにす可くんば則ち速やかにせしは孔子なり。……生民有りてより以来、未だ孔子(の如きもの)有らざるなり。
宰我曰く、予を以て夫子を観るに、堯舜より賢れること遠し。
子貢曰く、その礼を見れば而ちその政を知り、その楽を聞けば而ちその徳を知る。百世の後より百世の王を等するに、これに能く違うこと莫し。生民(有りて)より以来、未だ夫子(の如きもの)有らざるなり。
有若曰く、豈惟に民のみならんや。麒麟の走獣に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、泰山の丘垤に於ける、河海の行潦に於けるは類なり。聖人の民に於けるも亦類なり。(然れども)その類より出でて、その萃を抜く。生民(ありて)より以来、未だ孔子より盛んなるもの有らざるなり。
右の内、最初の頌辞は孟子自身のものであるが、他は孔子の直弟子の語として記されている。もちろんこれらは『論語』にないものである。孔子は堯舜よりも優っている、人類発生以来これほどの賢者はない、というふうの考え方は、『論語』には現われていないと思う。もっとも堯舜の説話が孔子より百年も後のものであるとすれば、それが直弟子たる宰我の口に上るはずのないことはもちろんであるが、子貢が孔子を政治の批判者、百王の批判者として絶讃していることも、『論語』における子貢に合わない。百世の語、あるいは為政篇の子張の問いに答えた「百世といえども知るべきなり」という孔子の語に連関するかも知れぬが、子貢はかかることに興味を持つ人ではなかった。常に孔子に実践上の智慧を求め、また人格に対する批判を乞うのが子貢であった。しかるにここでは子貢が、『春秋』の著者としての孔子を、人類発生以来の最高の賢者として讃美しているのである。これは『孟子』に現われた子貢のことであって、『論語』における子貢のことではない。
孔子を『春秋』の著者とすることと、孔子を現実の政治から超越した最高政治批判者とすることとは、相連関している。『春秋』に関する孟子の語は次の通りである。
世は衰え、道は微となり、邪説暴行また起こり、臣にしてその君を弑する者これ有り、子にしてその父を弑する者これ有り、孔子懼れて春秋を作れり。春秋は天子の事なり。この故に孔子曰く、我を知る者はそれ惟だ春秋か、我を罪する者はそれ惟だ春秋か。
孔子、春秋を成して、乱臣賊子懼れたり。(『孟子』、滕文公下)
右の孔子の語が『論語』に存せぬことはもちろんである。もし真に孔子が『春秋』を作ったのであるならば、この大事件が直弟子の間に何かの形で伝わらないというはずはない。津田左右吉氏は『春秋』もまた堯舜の説話や『詩経』と同じく西紀前四世紀の前半ごろのものとせられているが、その当否はとにかくとして、孔子の唯一の著作とせられる『春秋』が、孔子の衣食住の些事をさえ記録している『論語』に、一語も言及せられておらぬという事実は、十分重大視せられてよいのである。津田氏が言われるように、もし『詩』や『春秋』が初めから孔子の学派の経典として編述せられたものであるならば、右の事実は容易に理解せられるが、もし孔子の著書であるならば、我々は右の事実をどうにも理解することができなくなる。しかるに『史記』「孔子世家」のごときはこの点に何らの疑いをも抱かないのみか、孟子の説を継承しつつもそれをさらに次のように発展させている。
子曰く、弗ざるかな、弗ざるかな。君子は世を没るも名の称せられざるを疾む。吾が道行なわれず。吾何を以てか自らを後世に見わさん、と。乃ち史記に因りて春秋を作る。……後に王者あり、挙げてこれを開き、春秋の義行なわるれば、則ち天下の乱臣賊子これを懼れん。孔子……春秋を為るに至りては、筆すべきは則ち筆し削るべきは則ち削り、子夏の徒も一辞を賛くること能わず。弟子、春秋を受く。孔子曰く、後世、丘を知らんとする者は、春秋を以てせん、而うして丘を罪せんとする者も亦春秋を以てせん。(『孔子全集』、一九七五)
「君子は世を没るも」云々は『論語』衛霊公篇に君子を規定する他の四章と相並んでいる独立の章であって、『春秋』の述作と関係があるというごとき痕跡は全然ない。しかるに『史記』の記者はこの章を取って『春秋』述作の動機とし、「吾何を以てか自らを後世に見わさん」とさえも孔子に言わしめている。そうして孟子の「乱臣賊子懼」を後世の事とし、「知我者其惟春秋乎」をもまた「後世知丘者以春秋」と書きかえたのである。これは孟子の言おうとする所とははなはだしく異なっている。孟子は『春秋』に孔子の真意が現われていると主張しはするが、後世に名を現わすなどということを全然念頭に置いてはいない。これは「世家」の記者の意見である。ところでもし孔子がこのような動機によって『春秋』を述作したとすれば、それを受けた弟子がこの事を力説して孔子の名を現わそうとしなかったことは、ますます理解し難いこととならざるを得ないであろう。『史記』のこの記事を事実として信ずるごときは我々の到底なし得ざるところである。
さて孟子の孔子に関する記述さえも以上のごとく顕著に孟子の見地からせられたものであるならば、それより後に(おそらく漢代に)成立したろうと思われる『礼記』や『左伝』の孔子に関する記録についてはもはや言うを要しないであろう。孔子の伝記について信憑すべき材料は『論語』のほかにはないのである。では『論語』は確実な史実を伝えていると考えてよいであろうか。我々は節を改めて『論語』を考察してみなくてはならぬ。
三 『論語』の原典批判
我々は孔子の伝記を追究して結局『論語』にまで到達した。これで問題が解決したと考えられる人もあるであろうが、実は正反対である。古来『論語』ほどはなはだしく読み方の違っている本もなければ、また現在『論語』ほど原典批判の振るわない聖典もない。一例をあげると、述而篇に、
子曰加我数年五十以学易可以無大過矣
という章がある。これは通例、
子曰く、我に数年を加え、五十にしてもって易を学ばしめば、もって大過なかるべし。
と読まれている。ところでこの「五十にして」の意義が解する人によって一様でない。五十歳になってから易を学ぶのだという人もあれば、年少の時から易を学んでいるが五十歳までも学ぶのであると主張する人もある。あるいは易を学ぶには五十歳のころに初めて物になるのだと解する人もあり、さらに五十は卒の誤りであって、孔子が晩年に易を学んだことを言ったのだと論ずる人もある。「孔子世家」の記者はそういう問題のある五十を省き去っている。
孔子、晩にして易を喜み、彖、繋、象、説卦、文言を序ず。易を読み、韋編三たび絶つ。曰く、我に数年を仮し、かくの若くせば、われ易に於て則ち彬彬たらん。(『孔子全集』、一九六五)
ところでこれらの諸解はすべて孔子が易を学んだことを承認しているのであり、従って易が孔子以前にすでに存していたことを認めるのである。しかるに津田左右吉氏によると、筮による占いが古いとしても、易の書は古いものではない。それが作られたのは戦国末期、すなわち前三世紀に入ってからで、それが漢初になって儒教に取り入れられたのである。このことが真であるならば、易を読み韋編三たび絶つ、などとは司馬遷の時代の儒家の事であって、孔子の事ではなくなる。では『論語』にある証拠をどうするか。冗談ではない、『論語』には易を学ぶなどという文句は存していない。それがあると思うのは読み違えである。前にあげた句は次のように読まねばならぬ。
子曰く、我に数年を加え五十にして学ぶも、易大過なかるべし。
易は「亦」なのである。釈文に「魯読易為亦、今従古」とある。すなわち「魯論」には易を学ぶなどという句はないのである。そうなれば「五十にして」という意味がはっきりわからぬなどということもなくなる。元来「五十にして」という言葉をそんなにいろいろに解するなどということが無理なのである。その無理は読み方の無理から来ている。易と亦とは韻が異なるなどという駁論は、古代の発音のはっきりわかっていないシナの言葉に関しては、うっかり言えないことであろう。ただ「易」に囚われることをやめて淡白に読みさえすれば、この一句は五十歳の年ごろの者にとっては実に津々たる滋味に富んだ句になってくる。現代においても人は五十のころになれば好学の心を失うものであるが、それは真に学の尊さを悟っていないからである。五十は決して遅くない。五十からでも学んで道を得ることはできるのである。かく見れば、五十にして学ぶもまた大過なかるべしという言葉は、今なお新鮮な活力を持った智慧の言葉であると言い得られるであろう。
右のごとくただ十五字の短章にも重大な問題が存しているとすれば、『論語』全体に実に多くの論議さるべきものが残されていることは、容易に想像がつくであろう。そこでこれらの問題を追究して行くためには、まずできるだけ古い『論語』の本文が確定されねばならぬ。この点については武内義雄氏の岩波文庫本『論語』が我々にとって非常にありがたいものである。この『論語』は、奈良平安二朝の遣唐使によって我が国に将来された古写本の系統に属する清家の証本にもとづき、これをシナの版本の源流たる唐の開成石経と対校して、異同を明らかにせられたものである。なお他に漢の石経の残字も対校せられているが、この漢の石経は唐の石経よりもはるかに古く、現存の最古の証跡として重要な意義を持つものである。で、これに関しては右の武内義雄氏が「漢石経論語残字攷」(『狩野教授還暦紀念支那学論叢』)という非常に優れた考証を書いておられる。これは石経の断片的な残字から丹念に碑面の文章を復元し、それによって漢石経の本文が魏の何晏の「集解」序にいうところの「魯論」のテキストであることを論定されたものである。また氏はこの本文を唐の石経や我が国に伝来した「古本論語」と対照して、後の二者における異なる点がいかにして発生して来たかをも考証しておられる。これらは皆傾聴すべき説であって、それにより我々は漢代の『論語』本文がほぼどのようであったかを見当づけることができるのである。
が、「魯論」が右のごとく立証されたとすると、同じく何晏のいう「斉論」や「古文論語」も軽視することができなくなる。「古論」には博士孔安国の訓説があったと言われる。「斉論」もこれを保持して教える人があった。それらは一体どんなものであったか。「斉論語は二十二篇、其の二十篇中の章句、頗魯論より多し」(何晏「論語集解」序)と言われているが、その「頗」が「やや」であって「すこぶる」「はなはだ」でないことは確かであろうか。「古論」は「篇の次、斉魯論と同じからず」(同上)と言われる。よほど体裁の異なったものであったことは認めねばならぬ。では漢代に「魯論」が優勢となる以前には、三つの異なった『論語』が並在していたと考えてよいのであろうか。
これについてかつて武内義雄氏の非常に示唆に富んだ講演を聞いたことがある。記憶が曖昧であるから、責任は自分が負うことにして、自分の考えでその説を祖述してみよう。
『論衡』正説篇に『論語』の起源について語っている個所がある。それによると、『論語』は弟子たちがともに孔子の言行を記したものであった。で、初めにこれを記した時には、非常に数が多く、数十百篇に及んだ。が、漢が興った時にはこれらは失われ亡んでいた。しかるに、
至武帝、発取孔子壁中古文、得二十一篇、斉魯二河間九篇、三十篇。至昭帝女読二十一篇。宣帝下太常博士時、尚称書難暁、名之曰伝、後更隷写、以伝誦。初孔子孫孔安国、以教魯人扶卿、官至荊州刺史、始曰論語。今時称論語二十篇。又失斉魯河間九篇本、三十篇分布亡失。或二十一篇。目或多或少、文讃或是或誤。説論者、但知以剥解之問、以繊微之難、不知存‐問本根篇数章目。温故知新、可以為師、今不知古称師如何。
この論者は、漢代において『論語』を論ずる者が、文を説き語を解することをのみ知って、『論語』がもと幾何篇であったかを知らない、ということを難じているのである。今の語で言えば『論語』の起源成立に関する高等批判を欠いているのを難ずるのである。してみれば剥解之問は訓解之問の誤写であろう。至昭帝女読二十一篇も始読に相違ない。が、問題は、斉魯二河間九篇である。孔子壁中から二十一篇を発掘して、それと合わせて三十篇になるのであるから、これは九篇に相違ない。が、斉魯二河間とは何を意味するのであろうか。黄河は古くは鄭州のあたりから二つに分かれ、本流は天津のあたりへ出ていた。しかしその二河の間にあるのは衛であって魯ではない。のみならずすぐあとには斉魯河間九篇本という句がある。河間は二河の間ではなくして漢代に書籍の蒐集家として有名な献王の出たあの河間でなくてはならない。そうすると斉魯河間本を九篇としつつ、しかも斉魯二河間の二を活かす道を考えねばならぬ。それはこの個所を斉魯二篇河間七篇の誤写と見ることである。漢初に孔子の言行を記したものは亡失していたが、しかし斉魯の二篇と河間の七篇とは亡失していなかったのである。しかるにこの記者は、秦代にさえも亡びなかったこの斉魯河間九篇本が、後に漢代において亡失し去り、壁中から出た二十一篇あるいは二十篇のみが生き残ったかのごとくに書いている。しかもその理由については何の語るところもない。これはどう解すべきであろうか。何晏によれば孔子の宅から出た「古論」は、漢代において「魯論」、「斉論」と並び存し、人々の取捨折衷に委せられていたのである。してみると、『論衡』の記者は、古文二十一篇、斉魯河間九篇、計三十篇に対して、現前の二十篇あるいは二十一篇を対比させ、その差の九篇を何の理由もなく斉魯河間九篇と同視したに過ぎない。九篇は亡失したかも知れぬが、それは秦の弾圧に対してさえ生き残った斉魯河間九篇ではなかったのである。
この結果をもって現存の『論語』に対してみる。『論語』二十篇の内、前十篇を上論とし、後十篇を下論とする事は、古くより行なわれている。上論と下論とは別々に世に出たという説さえもある。それほど前十篇にはある纏まりが感ぜられるのである。そうしてちょうどこの点に斉魯河間九篇本の問題が引っ掛かるのである。上論各篇の間に重複する文句のない篇を求めて行くと、一方に学而、郷党の二篇があり、他方に為政、八佾、里仁、公冶長、雍也、述而、一つ飛んで子罕のほぼ連続した七篇がある。この七篇相互の間には全然重複した文句はないが、しかしこれらと学而、郷党二篇との間には重複がある。これはもと前二篇と後七篇とが、それぞれ統一的に記録されたことを証するものではなかろうか。
証拠はそれだけではない。学而篇には「其諸……与」という語法がある。斉の方言らしく思われるものである。郷党篇にも方言らしいものがある。斉魯二篇がこれに当たるらしいことはそこからも察せられる。内容的に言っても、学而は孔子の言であり、郷党は孔子の行である。これでちゃんと一つに纏まっている。同様に後の七篇でも、為政は孝友を問題とし、八佾は礼を取り扱い、里仁は仁の問答を集めている。次の公冶長と雍也は弟子評人物評である。こういうまとめ方は各篇相互に連絡がなくてはできない。またこれらの諸篇には、『孟子』等と一致するものが非常に多くなっている。この七篇が河間七篇に当たると考えることは決して無理ではない。
大体右のような考え方を自分は武内氏から教わったのである。これは自分には非常にもっともに考えられる。たとい学而と郷党とが『論衡』に言う斉魯二篇に当たらないとしても、現存の『論語』においては確かにこの二篇が古く、また明白な統一を持っている。そういう視点から見れば『論語』の編纂の仕方は決して漫然と集めたというようなものではない。
第一の学而篇は、孔子の語を八章、孔子と子貢との問答を一章、有子の語を三章、曾子の語を二章、子夏の語を一章、子貢と子禽の問答を一章集めたものである。その内孔子の関せざる弟子の語七章は、孔子の語と全然同様に取り扱われている。すなわち孔子の言行を現わすために弟子を持ち出したのでなく、弟子の説いた智慧がその弟子自身の智慧として掲げられているのである。この取り扱い方は、学而篇が単に孔子の智慧を伝えるためばかりでなく、孔子およびその弟子の智慧を、すなわち孔子学派の智慧を伝えるために編輯せられた、ということを示している。この篇が成った時には、孔子とその弟子とはかなり近い権威を持っていたのであって、孔子のみが唯一の権威者なのではなかった。孔子だけが段違いの聖人とせられるようになったのは、後の発展なのである。
学而篇が孔子の学派の智慧を集めたということは、この篇が孔子の学徒に示されるために編輯されたということを意味する。すでに孔子の弟子の語を孔子の語とともに並べているのであるから、それが早くとも孔子の孫弟子の仕事であったことは言うまでもない。彼らは自分の弟子たちを教育するために、最も簡要な語を選んで掲げたのである。そのことは学而篇の内容が明白に語っている。
(一) 子曰く、学びて時に習う、亦説(悦)ばしからずや。有朋(友朋)遠方より来たる、亦楽しからずや。人(己れを)知らざるも慍みず、亦君子ならずや。
これは明らかに孔子学徒の学究生活のモットーである。孔子がこの三句をある時誰かに語ったというのではない。孔子の語の中から、学園生活のモットーたるべきものを選んで、それをここに並べたのである。すなわち第一は学問の喜び、第二は学問において結合する友愛的共同態の喜び、第三はこの共同態において得られる成果が自己の人格や生を高めるという自己目的的なものであって、名利には存しない、という学問生活の目標を掲げている。それは学者必ずしも世に用いられぬという時勢の反映である、というごときことを主張する人があるかも知れぬが、かかる人は全然右の学問の精神を理解し得ぬ人と言わねばならぬ。この精神はプラトンの学園にも、釈迦の僧伽にも、キリストの教会にも、すべて共通であるのみならず、現在においてもその通用性を失わない。右の三句に現わされた学問の精神が失われている所では、生きた学問は存しないのである。
(二) 有子曰く、その人と為り孝弟(悌)にして上を犯すことを好むものは鮮なし。上を犯すことを好まずして乱を作すことを好むものは、未だこれ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちて道生る。孝弟はそれ仁の本か。
これは弟子有若の語であって孔子の語ではない。その弟子の語が孔子学徒の根本的標語に次いでかく重大な個所に掲げられるのは何ゆえであろうか。しかも有若は、『論語』の他の諸篇に全然名前を現わしていないような、有名でない弟子なのである。有名でないのみならず後の伝説においてはむしろあらわに貶しめられている。『孟子』によれば、孔子の没後、子夏・子張・子遊は有若が孔子に似たるをもって、孔子に仕えたようにこれに仕えようとしたが、曾子の反対を受けた(滕文公上)。また「孔子世家」によれば、有若の状孔子に似たるをもって、弟子相与に立てて師となし、孔子に仕えたように仕えた。しかし孔子のごとく問いに答えることができなかったので、彼を師の座から追い退けた(『孔子全集』二〇〇九)。その有若が、学而篇において弟子中の最も大なるもののごとく取り扱われているのはなぜであろうか。思うに右のごとき伝説は、ここに掲げたと同じ疑問に起因するものであろう。有若の語は学而篇において非常に重んぜられている。しかるに河間七篇における弟子品隲に際しては全然無視されている。してみると有若は、初め弟子たちに重んぜられはしたが、実は無能な人だったのであろう。風貌が孔子に似ていただけなのであろう。これが右のごとき伝説を形成せしめた解釈なのである。しかしこれは有若の語が学而篇に存するという事実にもとづいた想像であって、なぜこの語がここに掲げられたかの説明にはならない。この説明は学而篇の内容自身から見いだすことができるのである。前に言ったごとくこの篇が孔子学徒に対して学徒の心得を示したものであって、孔子やその弟子たちの伝記を語ろうとするのでないならば、ここに有若の語が置かれたゆえんは、この編輯の目的からして理解せられる。学園の根本精神に続いて掲げらるべきは、学徒が学ぶべき道である。その道はどこから始めるか。学園に入り来たる者に青年が多かったことは、孔子の弟子たちが多くは孔子よりも三、四十歳の年少であったと伝えられることからも察せられる。そういう青年たちにまず勧むべき手近な道は、孝悌であるほかはない。青年たちが今まで体験して来た家族生活が、ちょうどこの道の場なのである。そこでこの孝悌が治国平天下の道の本であり従って仁の本であることを説いた有若の語は、ちょうどここに適当なものと考えられる。有若が誰であろうと、ここに右の語が置かれたことは当然であろう。そう見れば、
(三) 言を巧し色を令する(人)は、鮮なし、仁あること。
という孔子の語が次いで記されていることも理解しやすい。この語は、陽貨篇にも現われている。おそらく孔子の有名な語であったのであろう。が、ここではそれが学ぶべき道の第二段として掲げられるのである。孝悌は道(すなわち仁)の本であるが、その孝悌を実現するに当たって、単に外形的に言葉や表情でそれを現わしたのではだめである。父母兄弟に対し衷心からの愛がなければ孝悌ではない。相手を喜ばせる言葉を使い、相手を喜ばせる表情をする人は、かえって誠実な愛において乏しいのである。重大なのは誠の愛であって外形ではない。そこで道(すなわち仁)の実現を外形的でなく内的な問題とする心得が必要になる。それは、
(四) 曾子曰く、吾日に三たび吾が身を省みる、人のために謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信あらざるか、習わざるを伝うるかと。
である。曾子もまた『論語』に出場することの少ない弟子で、学而篇のほかには里仁篇に一章、泰伯篇に五章、憲問篇に一章を見るのみであるが、泰伯篇の分に死に臨んだ際の言葉が二章までも記されている所を見ると、孔子学派においては有力な学者であったに相違ない。『孝経』が曾子と孔子との問答として作られていることは、曾子の学者としての影響を語るものであろう。右に引いた句においても、「習わざるを伝うるか」という反省は教師としてのものである。が、ここにこの章が置かれたのは内省という問題のためであろう。人との交渉における忠、朋友との交わりにおける信――習わざるを伝えないのも弟子に対する忠であり信であるが――それらは巧言や令色によって実現せられるものではなく、ただ良心の審判によってのみ判定さるべき誠意の問題なのである。そのことをこの曾子の語は明白に示している。さてこのように道の実現の意義を明らかにした後に、いよいよ人倫の道の大綱が掲げられるのである。
(五) 子曰く、千乗の国を導(治)むるには、事を敬んで信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時をもってせよ。
(六) 子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟(悌)、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ない余力あれば則ち以て文を学べ。
(七) 子夏曰く、賢しきを賢(尊)び、色を易(軽易)り、父母に事えて能く其の力を竭し、君に事えて能く其の身を致げ、朋友と交わり言いて信あらば、未だ学ばずというと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂わん。
この人倫の道が家族生活における孝のみでなく治国を第一に掲げていることは特に注目されねばならぬ。孔子学派における道の実現は前述のごとくあくまでも衷心の誠意をもってすべきものであるが、しかしそれだからと言って人倫の道を単に主観的な道徳意識の問題と見るのではない。人倫の大いなるものは治国である、国としての人倫的組織の実現である。そうしてそれはただまじめで「信」があること、人を愛し衆を愛することによってのみ実現されるのである。もちろんこのような人倫的組織の実現には、その細部として孝や悌が含まれねばならぬ。家を捨てることによって道を実現するというのは孔子学派の道ではない。しかし孝を何よりも重大視するというのもまたこの初期の孔子学派の思想ではなかったのである。(五)と(六)とに分ける孔子の語は、明らかに信と愛とを人倫の道の中枢とするのであって単に家族道徳を説くのではない。(七)の子夏の語に至るとよほど五倫の思想に近づいて来る。賢を尊ぶのは長幼の序に当たるであろう。色をあなどるのは夫婦の別に近いであろう。あとは父母に仕え、君に仕え、朋友に信あることである。子夏によればこの五倫が学なのであった。が、また長であるがゆえに尊ぶのでなく長者が賢であるがゆえに尊ぶのであり、単に夫婦を差別するのでなく色をあなどるがゆえに夫婦間に礼儀を正しくするのであるならば、子夏の思想はいまだ形式化した五倫思想ではないとも言える。従って賢を尊ぶのも色をあなどるのも、家族道徳よりは広い一般的な意義を担うのである。家族道徳は五項の内のただ一項に過ぎない。以上が孔子学派の人倫の大綱と見られるならば、初期の孔子学派は家族道徳を特に重んじたというわけではないのである。
人倫の大綱を説くことによって学ぶべき道が示された。そこで次にはこの道を学ぶ学徒の心がけが示される。
(八) 子曰く、君子重からざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。忠信(の人)に主しみ、己れに如かざる者を友とすることなかれ、過てば則ち改むるに憚ることなかれ。
この心がけはもちろん学徒に限ったことではなかろう。が、もし一般の世間において、「己れに如かざる者を友とすること」がなければ、友人関係はきわめてまれにしか成り立ち得ぬであろう。我はたとい己れに優る者を友としようとしても、その優る者は己れに如かない我を友とすることはできないからである。従って人はただ己れに等しいもののみを友とし得る。その場合に人を導きまた導かれるということはあり得ない。しかるに学徒は導かれる立場にある。常に己れより高い者優れた者に接しなくては、有効に導かれることはできない。だからこの心がけは学徒の心がけとして最もふさわしいのである。過てばすなわち改むるという心がけも、学問における進歩のために必須である。そういうしなやかな、弾力ある心構えを養成することによって、人は頑固になるという危険を防ぐことができる。軽々しく意見を変えないというような態度も君子としては必要であるが、頑固に陥っては取り柄がなくなるのである。
以上によって学園の根本精神と、学ぶべき道と、道を学ぶ心がけとが説かれた。次に来るものはかくして修養し得た者の模範的な姿である。
(九) 曾子曰く、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰せん。
(十) 子禽、子貢に問いて曰く、夫子のこの邦に至るや必ずその政を聞けり。(夫子)之を求めたるか、抑(或)は(人君)之を与えたるか。子貢曰く、夫子は温良恭倹譲もて之を得たり。夫子の求むるは其諸人の求むるに異なるか。
(十一) 子曰く、父在すときは其の志を観、父没するときは其の行ないを観、三年父の道を改むるなき、孝というべし。
「終」は通例油断するものである。「遠」は通例忘れるものである。が、道を得たものはちょうど逆に終わりを慎み遠きを追うというようになる。そうなれば、かかる人の率いる民はおのずから徳化されてくる。孔子がその温良恭倹譲の徳のゆえに至るところ政治の相談を受けたのはよき例である。民衆や政治においてそうであるが、さらに孝についても同様なことが言える。父の生前にはその志を遂げるように努め、父の没後にはそのやり方を尊重して三年の間改めない、というごときは誠に孝の至れるものであるが、道を得た者はこういう行き届いた孝行をなし得るのである。もちろんこれらの解釈は学而篇編輯の目的から推測したのであって、これらの語が初めからそういう意味で言われたというのではない。もともと独立した三つの章がこの篇のこの個所に並んでいるゆえんは右のごとく解するほかはないというまでである。しかしこれらの章を独立したものとして解釈しても、意味の上に大差はないと思う。曾子の語を喪祭の意に解するのは、曾子を『孝経』の著者とする先入見に囚われるからである。この語は『孝経』より古いのであるから『孝経』と離して理解しなくてはならない。
以上は(一)に掲げた三つの綱領のうち第一の学問の喜びを、学の内容、方法、目的などに展開して並べたのであるが、次には第二の学問における共同態に関して三つの章が並べられている。
(十二) 有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道もこれ(和)を美となす。小大(の事)、之に由るも行なわれざる所あるは、和を知って和せんとするも、礼を以て之を節せざれば、亦行なうべからざればなり。
(十三) 有子曰く、信、義に近きときは、言、復むべきなり。恭、礼に近きときは、恥辱に遠ざかる。因むところ其の親を失わざるときは亦宗ぶべきなり。
(十四) 子曰く、君子は食飽かんことを求むるなく、居安からんことを求むるなく、事に敏くして言を慎み、有道に就いて正す。学を好むというべきなり。
ここに有子の語が二章まで掲げられていることは、有若が初期の孔子学園と何らか特殊の関係を持っていたことを思わせるものであるが、それはとにかくとして、有子の語が特に共同態の秩序に関することは明白である。和が何よりも重大であるがその実現は礼の共働をまたねばならぬ。信も盲目的な情愛としてでなくして義に近いもの、恭も人に媚びるようなものではなくして礼に近いもの、したしみもただ感情的なものではなくして「親」の道にはずれないものでなくてはならぬ。この注意は学問の共同態において青年たちが殉情的な結合に奔ることを警めたのである。孔子の食、居等についての注意をここに掲げたのは、青年学徒に対して寄宿舎のごとき設備があったろうことを思わせる。
最後は第三の学問修養の自己目的性についての二章である。
(十五) 子貢曰く、貧しくして諂うことなく、富みて驕ることなきは何如。子曰く、可なり、(然れども)未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好むものには若かざるなり。子貢曰く、詩に「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」と言えるは、それこの謂いか。子曰く、賜や始めて与に詩をいうべきなり、これに往ぎにしことをつぐれば来たらんことをも知るものなり。
(十六) 子曰く、人の己れを知らざるを患えず、人を知らざるを患えよ。
学而篇初章の第三句、「人知らざるも慍みず」と同じ意味の言葉が、この篇の末尾に置かれていることを軽視してはならない。それはこの第三のテーマがここに展開せられたことを示すのである。そうしてこの、知らるることに心を労せず、ただ知ることにのみ努めるという精神ほど、学問の自己目的性をあらわにするものはない。いわんや貧富のごときは、学を好む者の眼中にあってはならない。貧しき者が諂わないことに努め、富める者が驕らないように用心するのは、まだ貧富に囚われているのである。学者は貧富を超えて道を楽しみ礼を好むのでなくてはならない。この道は無限の修養である。切磋琢磨はこの停まるところのない無限の道の合い言葉にほかならぬ。すなわち孔子学徒においても道の追究の無限性は把捉せられていたのである。学の実益性などは彼らの全然説かないところであった。
以上のごとく学而篇は、一定の目的をもって纏められたものである。もちろんそれは元来独立していた言葉を集めたのであるから、また各章がそれぞれ独立の言葉として理解せられてよい。しかし独立の言葉として深い意味が汲み取られるということは、毫もこの一篇の全体的構図を否認する理由にはならない。孔子の語の最初の編纂の背後に、孔子の孫弟子(あるいは曾孫弟子)の経営する学園が存したということは、否定することができないのである。
学而篇が孔子学徒に学問の方針を示すものであり、従って孔子の思想を伝えることを主眼としていないのに反して、斉魯二篇の他の一篇たる郷党篇は全然孔子の面影を伝えようとしたものである。その点においてこれは最初の孔子伝とも言えるが、しかしそれはいかなる時に誰に向かっていかなる事をしたかを伝えるのではなく、ただ日常的な孔子の行為の仕方あるいは動作の仕方を、類型的に描いているに過ぎない。例外をなすのは、前にあげた康子薬を饋るの一節のみであろう。
郷党篇が最初にあげているのは孔子が公的生活においてどういうふうにふるまったかである。郷党の人々とつきあう時には恭順朴訥であった。宗廟朝廷では閑雅で言葉を謹んだ。下大夫と話す時には和楽の態度、上大夫と話す時には謹敬の態度、君います時には恭敬にして安舒たる態度であったというごとき。そのほか公の儀礼の場の挨拶の仕方とか、公門に入る時の歩き方とか、君前における挙止動作とかがこまごまと書かれている。
次は孔子の私的生活の状態である。衣服はどういう物をどういうふうに用いたか。食事はどういう物をどういうふうに食ったか。それが細かに記述されている。中に、「酒量なしといえども乱に及ばず」とか、「多く食わず」とか、「食するときは語らず」とかというごとく、衣食の様式を超えて理解しやすい句も交じっている。
そのあとには、孔子の人物を髣髴とせしめるような生活の断片が列挙せられている。
厩焚けたり。子、朝より退き、人を傷えるかとのみいいて、馬を問いたまわず。
というごときがそれである。これは孔子でなければできないことではない。しかしこの態度が人として当然あるべき態度であって、馬を問うごとき人物は小人に過ぎない、ということがほとんど常識として通用するに至っているのは、孔子の感化だと見ることもできる。つまり孔子は、最も平凡な日常的態度でもって、ヒュマニティーの急所を示しているのである。
ここに列挙せられる他の諸例も同様な孔子の心づかいを示すものが多い。郷党の人々に対する心づかいとしては、
郷人の飲酒するとき、杖者(老人)出づれば斯ち出づ。郷人の儺するときは、朝服して阼階に立つ。
などと記されている。孔子は郷人とともに酒を飲んだのであり、そうして郷党の老人を敬い労ったのである。また郷人の行なう祭儀にはまじめに共感を表明したのである。そこには村落共同態への従順な態度が見られる。知識人として己れを郷人から区別するような距離感はそこにはなかった。また朋友に対する心づかいとしては、
朋友死して帰る所なければ我がもとにおいて殯せよという。
とある。殯は、庶人であれば、死後三日目に行なう。本葬ではないが、しかし葬式には相違ない。朋友のためにはそれを引き受けるのである。すなわち朋友を己れの家の者と同様に取り扱うのである。また一般に不幸なるものに対する心づかいとしては、
子、斉衰者を見るときは、狎れたりと雖も必ず(容を)変ず。……凶服者は之を式す。
というごときをあげることができる。喪服をつけた者に逢えば、たとい親しい者でも、容を改めて対したというのである。喪服は悲しみの表現として社会的に作られた風習であるから、孔子の態度はこの風習の意義を最も率直に生かせたものにほかならない。これも非凡人をまって初めて行なわれ得るというわけではないが、ヒュマニティーの急所に当たっているという点では前と同様である。
郷党篇は以上のごとき孔子のふるまい方や心づかい方を叙したあとで、次のごとき興味ある句をもって結んでいる。
色斯きて挙がり、翔って後集る。曰く、山梁の雌雉、時かな時かなと。子路之に共えば三たび狊げて作つ。
これは孔子が子路とともに山に行いて雌雉を見た時の話である。孔子が近づくと、一度は驚いて飛び上がったが、少し翔ってからまた孔子のあたりへおりてくる。それを見て孔子が善いかな善いかなと言ったのである。ところで子路がその雉のそばへ寄ろうとすると、雉は飛ぼうとしてやめ、また飛ぼうとしてやめたが、結局三度目に飛び上がってしまった。この情景は、鳥さえも孔子だけにはなついたということを語っている。孔子の仁は鳥にさえも通じるくらいであったというのである。こういう描写を郷党篇の最後に置いたことは、編者に対して幾分の心憎さをさえも感ぜしめるであろう。
孔子の学徒は、孔子の面影を伝えようとする最初の試みにおいて、上述のごとき孔子の姿を描いた。そこには異常な事件や非凡な能力は描かれていない。このことは孔子を考えるについて特に留意せらるべき点である。
学而、郷党二篇を斉魯二篇として『論語』の最も古い層と見れば、河間七篇に当たる諸篇もまた同様に古い層に属すると見るべきであろうか。学而篇が孔子学徒へ示された学園の綱領であって、孔子の思想を叙述しようと目ざしたものでないことは、すでに見て来たところであるが、しかしこの学園そのものが孔子の人格と思想を核として生成したものである以上、その孔子について詳しく知ろうとする要求は、初めより学徒の間にあったと見なくてはならぬ。それに対して孔子の弟子も孫弟子もその知れる限りを答えたに違いない。だから学而や郷党が編纂された時に、それ以上詳しい孔子の言行が学徒の間に知られていたことも、もちろんであろう。しかし学而篇は、その編纂の主旨にもとづき、学問の精神や人倫の大綱に関する孔子の語を、きわめて簡略に採録したに過ぎず、孔子の人となりを伝えようとする郷党篇は、弟子との問答や孔子の思想などにほとんど触れることなく、ただ仁者としての孔子の面影を語ったに過ぎぬ。すでに孔子の言行が記録され始めた以上、かかる簡単なもので右の要求が充たされるはずはない。弟子や孫弟子によって語られて来たさまざまの孔子の言行は、記録されることを要求する。これがおそらく河間七篇の成立して来たゆえんではなかろうか。そう見ればここに記録された材料は決して斉魯二篇のそれより新しいものではないが、この七篇として記録され編纂せられたのは斉魯二篇よりも新しいであろう。すなわち個々の孔子の語としては斉魯二篇と同じき層に属し、河間七篇としてはそれより新しい層に属するのである。
右のごとく河間七篇は学而篇と異なって孔子の言行を伝えることを主眼とする。その点では郷党篇とほぼ動機を同じくするのであるが、しかし郷党篇が孔子の思想を伝えようとしないのに対して、ここではその点をも目ざしている。そこで河間七篇は、学而篇から弟子の語を排除して孔子の語をのみ残し、これを郷党篇の中に流し込んだような体裁となるのである。もちろん弟子の語も、孔子について語り孔子を伝えるに役立つ限りは取り入れられている。しかし学而篇においてのように弟子自身の思想を言い現わした弟子の語は、為政、八佾、里仁、公冶長、雍也、述而、子罕の七篇を通じて、ただ一つの例外を除くほか、全然現われて来ないのである。その例外は里仁篇末尾の、
子游曰く、君に事えて数(責)むれば斯(則)ち辱められ、朋友に(交わりて)数むれば斯ち疏んぜらる。
であるが、しかしこの語はすぐ前にある孔子の語、「徳孤ならず、必ず鄰あり」を反駁した形になっている。何か由ありげである。ただ一つの例外がこういう状態であるから、河間七篇がいかに孔子に集中しているかがわかるのである。
学而と郷党との両篇の間に挿まった八篇の内から、泰伯篇を排除して七篇を残し得るゆえんも、同じくここに存する。この篇には曾子の語が五章、誰の語かわからない議論が一章加わっているのである。また後に説くごとき河間七篇の構図の上から言っても、この一篇だけは独立している。さらにこの篇においては堯舜禹の物語を採用した孔子の語がひどく目立っている。これは他の七篇とともに論ずべきものではない。
さて為政、八佾、里仁、公冶長、雍也、述而、子罕の七篇を通観すると、八佾篇は礼を主題としてこれに関する問答を集め、里仁篇は仁と君子とに関する孔子の語を録し、公冶長、雍也の両篇は弟子およびその他の人物月旦となり、述而、子罕の両篇は孔子自身の述懐や孔子の人となりについての弟子の語やあるいは郷党と同様な孔子の生活描写など、孔子についての伝記的なものを集めている。すなわち孔子の思想、弟子との関係、および孔子の体験・行路の三つの主題が、それぞれ二篇ずつを占めているのである。それに対して最初の為政篇のみは、特にどの主題を持っているとも言えない。孝についての問答が四つほど並んでいて目立つところから、これを取り立てて言うこともできようが、しかし孝と関係のない多くの問題も取り上げられている。それを少しく注意深く観察すると、この篇が前掲の三つの主題をことごとく含んでいることがわかるのである。つまり為政篇はあとの六篇の総論となり、孔子の伝記、弟子との関係、孔子の思想の全面にわたって、孔子の語を録しているのである。かく見れば河間七篇の持つ全体的な構図が、一目にして見渡せるものとなるであろう。
為政篇は第一章に政治は徳をもってすべきであると言い、次に詩の本質が「思無邪」であると喝破し、第三に教化が徳と礼とによるべきであって政と刑とによるべきでないことを言っている。いずれも事の中核に当たった名言であり、今になお通用する智慧である。が、そのあとで突如として孔子の生涯が掲げられる。
子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
これはもし真に孔子の語であるならば、明らかに孔子の自伝にほかならぬ。孔子といえども幼年の時から学を好んだのではない。十五のころに初めて学に醒めたのである。また青年時代にすでに事を成そうとしたのではない。三十にして初めて立ったのである。世に立っても惑いがなかったのではない。四十にしてようやく確固とした己れの道を見いだしたのである。が、それを実現するのに焦らなかったのではない。五十にしてようやく天命を知り、落ちつきを得たのである。落ちついていても世人の言行に対する非難や否定的な気持ちがなくなったというのではない。六十に至ってようやく寛容な気持ちになれたのである。しかし他に対するこの寛容な是認の境地においても己れの言行をことごとく是認するまでには至らない。遣憾や後悔はなお存した。それがなくなったのは七十になってからである。孔子が没したのは七十二歳ないし七十四歳と言われているから、右の述懐は死に近いころのものであろう。孔子は一生を回顧して晩年の二、三年のみを自ら許したのであった。
この孔子の自伝は、時とともに一般的な人生の段階として広い共鳴を受けるに至った。人はそれぞれその一生に志学の年、而立の年、不惑の年、知命の年、耳順の年等を持つと考えられる。もちろん人によっては而立の年に至っても立ち得ず、不惑の年に至ってなお惑溺の底にあり、知命の年に焦燥して道を踏みはずし、耳順の年に我意をもって人と争うこともあるであろう。しかし立ち得ないでも彼は而立の年に達しているのであり、また惑溺の中にあっても彼は不惑の年に達しているのである。だからこそその立ち得ないことや惑溺を脱し得ないことが、当然為すべきことの欠如として非難せられる。青年の惑溺は寛容せられるが、不惑の齢に達したものの惑溺はその人の信用を覆してしまう。壮年の焦燥は同情せられるが、知命の齢に達したものの焦燥はその人への尊敬を消失せしめる。してみると、右の段階は常人の生涯の段階として当然踏まるべきものと見られているのである。ただ矩を踰えざる段階のみは常人の生涯に適用せられない。そうしてその適用せられないことにも深い味がある。が、その最後の段階のみを除いて、孔子自身の生活の歴史であったものがあらゆる人に通用する人生の段階とせられて来たところに、人類の教師としての孔子の意義が炳乎として現われていると言ってよかろう。
この章は孔子を聖人化する痕跡を含まない点において確かに孔子自身の語であったろうと推測せしめるものであるが、それにもかかわらずこの章において孔子を聖人化しようとする努力が試みられていることはもちろんである。いわく、孔子が天命を知ると言ったのは己れのなし得べき事の限度を知るというくらいの浅い意味ではない。先王の道を復興するという天よりの使命を覚ったのである。この時以来孔子は先王の道の使徒として活動を始めた。有名な弟子がついたのもこの時以後であり、諸国の為政者に説いて回ったのもこの時以後である。天命を知るの一語は孔子の生涯にとっては甚深の意義を蔵する。これがそれらの人々の主張である。が、これは他の材料から知られる孔子の伝記にもとづいた解釈であって、「五十而知天命」という語句そのものがかかる解を必然ならしめているのではない。とすると、知命の意義は五十のころの孔子の生活の変化に最もよく現われていなくてはならない。しかるに伝記によれば孔子は五十の時に公山不狃に仕えんと欲し、五十一から五十六まで魯の定公に仕えて官吏となった。孔子がその生涯において実際に政治に関与したのはこの五十代の前半だけなのである。このことが果たして右のごとき使命の自覚を立証するであろうか。論者のいうごとき諸点、すなわち諸国の為政者に説き、有能な弟子を養成したというのは、むしろ六十耳順に関係ある時代(五十七歳―七十歳)であって、五十知命に近いころではない。してみれば五十知命に右のごとき解を付するのは無理ではないか。孔子は四十代の理想主義的な焦燥を脱したからこそ、五十に至って妥協を必要とする現実の政治にたずさわったのである。そうしてその体験が耳順うの心境を準備したのである。文句通り素直に解するに何のさまたげがあろう。前掲のごとき解釈によって孔子を偉大化しようとするよりも、孔子の自伝が一般的に人生の段階として通用したという事実の意味を明らかにする方が、はるかに孔子の偉大さを発揮するゆえんではなかろうか。
さて為政篇は、政治と詩と教化との本質を説いたあとで右のごとき孔子の自伝を掲げ、そのあとに孝についての四つの問答を並べている。これらの問答は孝の意義を明らかにするよりも一層多く孔子の説き方を明らかにしたものである。同じく孝を説くにも、礼なき者には父母に礼をもって仕えよと答え、父母病弱なる者には父母の疾を憂えよと言い、敬なき者には父母を敬せよと説き、愛嬌なきものには色を和らげて仕えるのが第一だと教える。これらはむしろ自伝に続いて教師としての孔子の面影を描いたと見るべきであろう。
そのあとに孔子の最も愛した弟子顔回に対する批評の言葉がくる。顔回は一日話していても反問するということがない。ばかのようである。しかるに陰ではちゃんと道を実行している。ばかどころではない。この弟子評に続いて人格の問題や君子の問題が五章にわたって並べられる。人の行為・態度には否応なしにその人格が現われる、隠すことはできない。また人の師となり得る人物はただ古いことを尚ぶのみでも新しいことに走るのみでも不可である、両者を兼ねなくてはならぬ。また君子として尊敬せられるような人物は、ただ才能があるのみの者ではない。うわべはばかのように見える。が、言葉で現わすよりもまず行為において実現する人、人にしたしむがしかしおもねらない人、それが君子なのである。
人格の問題につぐのは学問の問題四章である。他から学ぶのみで自ら思索しなければほんとうには悟れない、が、自ら思索するのみで他から学ぶことをしなければ危険である。己れと正反対に異なった主張がある場合に、それをただ攻撃するだけでは学問の進歩にならない。それを機として自ら省みれば異説もまた益になる。真に知るということは、「知れるを知るとなし、知らざるを知らずとする」ことである。正しく認識する道は、「多く聞きて疑わしきを闕き……多く見て殆わしきを闕く」ことである。
次に政治に関する章が三つ並ぶ。これは政治の本質を徳とする考えを展開したものである。最後に「信」の重要性を説いた章と、三代の「礼」の恒久性を説いた章と、「其の鬼に非ずして祭るは諂うなり、義を見て為ざるは勇なきなり」という章とが置かれている。これは祭りさえも道をもってしなければ諂いとなること、また為ないということも道をもって為ないのでなければ非難に価することを言ったのであろう。この最後の個所だけには何の連絡もない。一々別個の問題が掲げられたと見なければならぬ。
以上によって見ると、一見したところいかにも雑然としているような為政篇が、案外に整然と並べられていることに気づかざるを得ない。このあとに続く六篇がこの総論に対する各論であるという見方は、必ずしも無理ではなかろうと思う。
八佾以下の六篇は前述のごとく主題が明白であるから、構図上の問題としてここに取り上げる必要はないと思うが、下論の諸篇との比較研究上注目すべき点を二、三あげておきたいと思う。
弟子たちの人物月旦を集めた公冶長・雍也の両篇および弟子との交渉を多く語っている述而・子罕の両篇は、孔子の生活が弟子と密接に連関しているという理由で、孔子伝の重大な要素となるものを含んでいるのであるが、しかし同様な資料を集録しているものは下論にも多い。そこで両者の間の異同が一つの注目すべき点となるのである。
『論語』全篇を通じておそらく揺るぎのない声価を保っている弟子は、前に為政篇について問題とした顔回であろう。そこでは孔子が、愚なるがごとき顔回の真価を声言した。今ここで問題となる公冶長篇では、
子、子貢に謂って曰く、汝回と孰れか愈れる。対えて曰く、賜は何を敢えて回を望まん、回は一を聞いて以て十を知る、賜は一を聞いて以て二を知るのみ。子曰く、如かざるなり、吾も汝とともに如かざるなり。
とある。この孔子の語は最大級の讃辞と見てよいであろう。さらに雍也篇では、
哀公、問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対えて曰く、顔回という者ありき、学を好み、怒りを遷さず、過ちを弐たびせざりしが、不幸短命にして死せり、今は則ち学を好むものを聞かざるなり。
という。孔子の回に対する愛情を表現して余蘊がない。また同じ篇に、
子曰く、賢なるかな回や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷にあり。人は其の憂いに堪えざらんも、回は其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。
とある。顔回の生活の状は躍如として描かれている。さらに孔子の体験を主題とする述而篇においても、
子、顔淵に謂って曰く、用いらるれば則ち行み、舎てらるれば則ち蔵るとは、唯我と爾とのみこれあるかな。
という深い共感を現わし、さらに子罕篇においては、
子、顔淵を謂って曰く、惜しいかな、吾その進むを見たるも、未だその止むを見ざりき。
と讃嘆している。(ちょうどこれに答えるように子罕篇では顔淵の孔子讃美の辞を録しているが、それを「子疾病し」の章と並べているのも変であるし、顔淵の語にも痛切に響くものがない。用心して読むべき個所と思われる。)
以上に掲げた孔子の諸語は一貫して顔淵への愛情を吐露している。そうしてこの傾向は下論に至って一層強度を増すのである。下論初頭の先進篇においては、顔回学を好みしが不幸短命にして死せりの句を重複して掲げた後に、「顔淵死す」という言葉に始まる四つの章を並べている。いずれも孔子が顔淵の死を痛惜し慟哭したという記録であって、内容上前になかったものは現われておらぬ。前掲の孔子の語において内に潜めて表現せられているものが、ここでは表面に露出せられたというだけである。が、それによって顔淵に対する孔子の愛情が一層強調せられて来たということはわかるのである。そのほか顔淵篇では顔淵をして孔子に仁を問わしめ、克己復礼を仁となすという有名な答えを引き出させている。衛霊公篇では邦を治める仕方についての顔淵の問いに対して、孔子が夏の暦、殷の車、周の冠、舜の楽などをもって答える。いずれも陋巷に住む顔回と似合わない問題であるが、礼を重視する孔子学派はこれらの問題を顔回に結びつけずにいられなかったのであろう。ここにも孔子学派における一致した顔回尊敬が見いだされる。
この顔回尊敬に対比して著しく目立つのは、子路の取り扱い方である。子路が顔淵とともに孔子に侍し孔子と問答したことは、公冶長、述而などに見える。孔子は子路を顔回のように讃めはしなかった。しかし子路を愛することは決して顔回を愛するに劣らなかった。子路は前にも言ったように(五三ページ参照)、率直で、一本気で、気の強い、そうして良心的な男であった。公冶長篇の、
子路聞けることありて、いまだ行なう能わざるときは、唯聞くあらんことを恐る。(一四)
という言葉は、彼がいかに一本気で良心的であったかを示すものである。が、単純に過ぎて理解の行き届かない所がある。同じく公冶長篇の、
子曰く、道行なわれずんば桴にのりて海に浮かばん、我に従わん者はそれ由か。子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、由は勇を好むこと我に過ぎたり、(然れども桴の)材を取るところなからん。(七)
という孔子の批評はその点を指摘しているのであろう。子路の献身的な忠実、死を恐れない勇気は明らかに認める。しかし彼は桴で海に出ようと欲してもその桴を作る材料を工面して来ることのできない男である。それでは事をともにすることができない。同様の意見は述而篇にも述べられている。
子路曰く、子三軍を行らんときは則ち誰と与にかせん。子曰く、虎を暴(徒搏)にし、河を憑(徒渉)りて、死すとも悔ゆるなきものは、吾与せざるなり、必ずや事に臨みて懼れ謀を好みて成す者に(与する)なり。(一〇)
が、この欠点は孔子にとっては本質的なものでなかった。子路の純粋な気持ちや道における勇敢は一層貴いものである。だから孔子は子路を愛する。
子曰く、弊れたる縕袍を衣て、狐貉を衣たる者と立ちて恥じざるものは、それ由か。(子罕、二七)
孔子はこの気概を愛するとともにまた尊重する。後の伝記者によってさまざまに増広せられた次の一章、
子、南子を見る。子路説ばず。夫子之に矢いて曰く、予否ところあらば、天之を厭てん、天之を厭てんと。(雍也、二八)
のごときは、それを明らかに示したものである。南子は衛の霊公の夫人でとかくの評判のあった人であるが、この章はそれよりも子路悦ばずという点に重点を置いている。孔子は子路のこの感情を尊重し、それをなだめているのである。ここに子路の忠実が孔子にとっていかに重要な意義を持っていたかが示される。かく見れば孔子の疾はなはだしということが子路と連関してのみ語られているゆえんも明らかとなるであろう。
子疾む。子路祷らんことを請う。子曰く、これ有りや。子路対えて曰く、あり、誄に爾を上下の神祇に祷るといえり。子曰く、丘の祷ること久し。(述而、三五)
子、疾病し。子路(葬るに大夫の礼を備えんと欲し)門人を臣たらしむ。病間あるとき、曰く、久しいかな、由の詐りを行なえる。臣なきに臣有る為して吾誰をか欺かん。天を欺かんか。且つ予は、その臣の手に死なんよりは、無寧二、三子の手に死なんか。且予縦い大葬を得ずとも、予道路に死なんや。(子罕、一二)
この二つの場合、子路の目ざしたことはいずれも孔子に対する理解の欠如を示している。が、いずれも孔子を思う情の切なることを現わしたものである。孔子の重病を語る際には、子路の忠実な看護を結びつけるのが最もふさわしかった。これが以上の諸篇の示している態度である。
なおこの孔子の重病については、後の議論にも関係があるから、一言付加しておきたい。我々がこの二章を読んで受ける印象は、これが孔子の死の床であるということである。孔子は己れの葬儀を問題とし、また己れの死に方について希望を述べている。これは『論語』全篇の中で特に目立つ点である。しかるに後の記録は皆これを孔子の死の床と認めていない。『左伝』は孔子没する前年に「孔子、衛の乱を聞きて曰く、柴やそれ来たらん、由や死せんと」という語を録し、『礼記』檀弓には「孔子、子路を中庭において哭せり」云々と記している。おそらくそれらによって、『史記』の孔子世家も仲尼弟子列伝も、子路が孔子より先に死んだことを明白に書いているのである。子路が孔子を死の床において看護したと認めるならばそういう伝説の起こるはずはない。だからこれほど目立つ記録さえも孔子の死に関するものとは見られなかったのである。
さて右のごとき子路の面影を念頭に置いて下論に臨むと、ここでは事情が顔回の場合とはなはだ異なって来る。もちろん一方では上述の子路の面影をさらに拡大して、「是れあるかな、子の迂なる」などと孔子に突っ掛かりながら、しかも孔子から愛撫包容せられる子路が描かれてはいる。しかし他方ではこれと正反対に孔子から罵倒せられる子路が描かれているのである。その著しい例として先進篇をあげることができる。この篇は前述のごとく顔淵の死に対して孔子が慟哭したという章を掲げているのであるが、あたかもそれと対照するかのごとくに、子路、冉求らに対する孔子の酷評を記した章をも掲げているのである。そのはなはだしいのを拾えば、
子曰く、由の瑟(雅頌に合せず)、奚為ぞ丘が門に於てせん。門人子路を敬わず。子曰く、由は堂に升れるも、未だ室に入らざるなり。(一五)
季子然問う、仲由と冉求とは大臣と謂うべきか。子曰く、吾子を以て異(他事)を問うならんと為いしが、曾で由と求とのことをしも問えるか。所謂大臣とは道を以て君に事え、不可なるときは則ち止む、(諫めて可かれずば則ち退く)。今由と求とは(諫むべくして諫めず)、具臣(いたずらに臣の数に備わるもの)というべし。(二四)
子路、子羔をして費の宰たらしむ。子曰く、夫人の子を賊わん。子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、然して後学びたりと為さん。子曰く、是の故に夫佞者を悪む。(二五)
のごときをあげ得るであろう。ここに現われた子路は、単純で怒りっぽく情愛の深いあの侍者子路ではない。もし子路がこういう人物であったならば、どうして孔子が「由よ、汝に知ることを誨えんか」と呼びかけて、不知の知の深義を語り、あるいは道の行なわれぬ憤りを打ちあけて「我に従わん者はそれ由か」などということができよう。民人あり、社稷ありと称えて書を読むことを斥ける具臣は、破れたる縕袍を着て平然たる由ではない。先進篇は顔回の讃美を雍也篇以上に誇張するとともに、子路の欠点を公冶長篇の何倍かに拡大したのである。子路に対するこの見方は、下論にあってはさらに季氏篇において引きつがれている。しかるに同じ下論の中でも、子路、衛霊公、陽貨の諸篇はこれと異なり、前に言った前者の例に属しているのである。こういう所から我々は河間七篇以後の新しい層を見いだして行くことができるであろう。
弟子の取り扱い方についてはなお他に多くの注意すべきものがあり、それによって我々は下論の性質を最も容易に知り得るのであるが、一々の弟子を取り上げるのは煩瑣でもあるから、ここには右の顔回と子路との場合をもって代表させることにしよう。なお右のごとき仕方で河間七篇の中から下論が発生し来たる経路を理解するために、ここにはただ一つ例を掲げておくことにしよう。左記の(一)(二)は公冶長篇、(三)は先進篇に存している章である。
(一) 孟武伯問う、子路仁なるか。子曰く、知らず。又問う。子曰く、由は千乗の国其の賦を治めしむべし、其の仁を知らざるなり。求は何如。子曰く、求は千室の邑、百乗の家、これが宰たらしむべし、其の仁を知らざるなり。赤は何如。子曰く、赤は束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべし、其の仁を知らざるなり。
(二) 顔淵、季路侍る。子曰く、なんぞ各爾の志を言わざる。子路曰く、願わくは(己れの)車馬衣裘を、朋友とともにして之を敝るも憾みなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐ることなく労を施すことなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者には安んぜられ、朋友には信ぜられ、少者には懐しまれん。
(三) 子路、曾皙、冉有(求)、公西華(赤)侍坐せり。子曰く、吾一日爾に長ぜるを以て(対えずして)已むことなかれ、(なんじたち)居に則ち(人皆)吾を知らずという、如し爾を知りて(用うる)あらば則ち何をか以さん。子路率爾として対えて曰く、千乗の国大国の間に摂まりて加うるに師旅を以てし因ぬるに饑饉を以てせんとき、由これを為めば、三年に及ばん比、勇あり且つ方を知らしめん。夫子之を哂う。求よ爾は何如。対えて曰く、方六、七十、如しくは五、六十(里の国)、求之を為めば三年に及ばん比、民を足らしむべし、その礼楽の如きは以て君子を俟たん。赤よ爾は何如。対えて曰く、これを能くすというにあらざれども、願わくは学びがてらにせん、宗廟の事、如しくは会同のとき、玄端(を衣)章甫(を冠り)願わくは小相とならん。点よ爾は何如。鼓瑟希とだえ鏗爾として瑟を舎きて作ち、対えて曰く、三子者の撰に異なり。子曰く、何ぞ傷まん、亦各その志をいうなり。曰く、暮春春服既に成り、冠者五、六人、童子六、七人を得て、沂(水の上)に沿(浴)い舞雩(の下)に風り詠じて帰らん。夫子喟然として嘆じて曰く、吾は点に与せん。三子者出でて曾皙後る。曾皙曰く、夫の三子者の言は何如。子曰く、亦各その志を言えるのみ。曰く、夫子何ぞ由を哂える。子曰く、国を為むるには礼を以てし、(礼は譲を貴ぶ、而うして)その言譲ならず、是の故に之を哂えり。求と唯も則ち邦に非ずや、安んぞ方六、七十如しくは五、六十にして邦にあらざるものを見ん。赤と唯も則ち邦に非ずや、宗廟と会同とは諸侯にあらずして如何せん。赤これが小相たらば孰か能くこれが大相と為らん。
右の(一)と(二)を(三)に対照してみると、(三)の問答の構図は(二)と同じく孔子を取り巻いて各自の志を言うにある。しかるに孔子に侍するものの顔ぶれは(一)と(三)とが類似し、ただ(三)において曾皙が加わっているだけである。そうして各自の志を言うに当たっては、(一)における子路、冉有、公西華の特性づけがそのまま各自の気焔となって現われている。ただ(一)において簡単に言われていることが、(三)においては注釈的に詳しくされているだけである。すなわち子路は(一)において千乗の国に賦を治めしめる力があると言われているが、(三)においては、その千乗の国が戦争と饑饉の艱難に逢っている時でさえも、なお三年の間に勇敢な且つ法に遵う国に仕上げて見せると、自ら高言することになっている。そうして子路であるから勇ありという一語を用いしめることを忘れず、また前段で説いたように孔子が子路を哂うということも注意深く付加されている。冉有についても同様である。百乗の国は広さで言いかえられ、その国の宰たることは民を足らしめるという言い方に変えられている。礼楽のごときは冉有の柄ではないのである。さらに公西華に至っては、束帯して朝に立つのがその柄であることを玄端章甫や宗廟の祭りで巧みに言い変えている。言葉は全部違うが、言おうとすることは全然同一なのである。してみるとここまでの所においては、先進篇のこの章は(一)以外の何らかの資料を基礎としたという証跡を全然示さない。すなわち(三)は(一)を踏んでいるのである。
では曾皙の答えは如何。それは全然(一)にはない。しかし(二)の孔子の答えこそ、ここに比較さるべきものなのである。初めに言ったようにこの問答の場の構図は(二)と似ている。ねらい所は最後に出る答えなのである。孔子はそこにきわめて平凡な、安らかな共同生活をあげた。それと同じ気分のものが、いくらか隠遁生活の色彩を加えて、曾皙によって言い出されるのである。孔子の答えは人間生活に密着している。曾皙の答えはむしろ自然を味わう方に重点を移している。が、それにもかかわらず、「朋友には信ぜられ、少者には懐しまれん」という孔子の語と、「冠者五、六人、童子六、七人」という曾皙の語との間には、何らかのつながりが感ぜられる。この個所といえども、決して(二)以外に特別の資料を持っていたわけではないであろう。元来曾皙なるものは、この個所以外には、斉魯二篇河間七篇はもとより、『論語』全篇を通じて現われて来ない弟子なのである。『孔子家語』にはこれを曾子の父としているが、『史記』の「孔子世家」はいまだそういう伝説を記していない。そういう無名の弟子がここに突然現われて、孔子の有名な弟子の三人までを蹴落としてしまう。そうして問答のあとで孔子がただ曾皙だけに子路を哂った理由を打ち明けることになっている。こういう記録が後出のものであることは、他の人類の教師の伝記と照合して考えても、ほぼ断定してよいことなのである。
もちろん(三)が新しい層に属するということは、この章の価値が減ずるということではない。「暮春者春服既成、冠者五、六人、童子六、七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰」の句は、古来多くの人に愛せられた。そうしてまた確かに愛せられるに価する句である。が、それは『論語』の内のどの部分が古いかという問題とは全然別のことである。おそらくこれは孔子学派の運動とは独立に生じた民謡の類で、先進篇の編者が孔子の伝記の中に取り入れたものであろう。
『論語』の原典批判に関してはなお多くの問題が残されているが、孔子の伝記を考えるについては、以上の見透しでほぼ用は足りるであろう。
四 孔子の伝記および語録の特徴
我々は二において孔子の伝記の信憑すべき材料が『論語』のほかにないことを見いだした。そうして次に三において『論語』の内の古い層として学而・郷党の二篇および為政・八佾・里仁・公冶長・雍也・述而・子罕の七篇を見いだした。これらは孔子の孫弟子あるいはそれよりも後のものである。ではここに見いだされた孔子の伝記は、他の人類の教師のそれに比して、どういう特徴を持っているであろうか。
この問いに対して即坐にあぐべきは孔子の死に関する記録だと思う。右の九篇中、ここに幾分関係があると思われるのは、ただ一一二ページにあげた二章のみである。孔子は病気の際にもそのために祷ろうとはしなかった。また疾篤きに当たって死後の備えをする弟子に対し自分は身分あるものとしてよりはただ一夫子として、門人たちの手に死ぬることを欲すると言った。ただそれだけである。これが孔子の死についての比較的確実な言い伝えのすべてなのである。この時に孔子が死んだのかどうかは全然わからない。我々にはどうもそうらしく感ぜられるが、『礼記』、『左伝』、『史記』などはそう認めておらない。つまり最古の記録たる『論語』には孔子の死についての明白な記録がないのである。こんなことは人類の教師としては実に珍しい。
自分がこの点を力説する意味は、前にあげた他の三人の人類の教師と比較すれば明瞭になる。これらの三人においては、確実な伝記を求めて伝説を溯源すれば、皆祖師の死に突き当たるのである。釈迦の涅槃経、イエスの福音書、ソクラテスのプラトン対話篇や『メモラビリア』、すべてそうでないものはない。もちろん弟子たちにとっては、師についての伝承は師の死後に始まるのであるから、師の死が最後にではなくして最初に語られるのは当然である。しかしこれらの場合には単なる師の終焉を語っているのではない。その死がちょうど師の教説の核心となるような独特な死を語っているのである。イエスにおいては十字架の死は人類の救済を意味した。釈迦においても、永遠に生き得る覚者が明らかなる覚悟をもって自ら死を決意するということは、まさしく涅槃を、すなわち解脱を、人類の前に証示することであった。ソクラテスもまた、逃亡によって生を永らえ得るにかかわらず、自ら甘んじて不正なる判決に従い、その倫理的覚醒の使命の証しとして毒杯を飲むのである。これらの死はいずれもその自由な覚悟によって弟子たちに強い霊感を与えた。そうしてその生前の教説がこの死を媒介としてかえって強く死後に効果を現わし始めた。だからこれらの教師の伝記がその死に重大な意義を付することは当然なのである。
もちろんこれらの教師の死は、その担っている文化が異なるように、おのおのその様式を異にしている。釈迦の死は弟子たちの情愛に取り巻かれた湿やかな雰囲気のなかで、静かな最後の説法の後に、きわめて静かに起こるのであるが、イエスの死は宗教的な憎悪に取り巻かれた狂おしい雰囲気のなかで、怪しい叫び声の後に、きわめて残酷に起こるのである。前者は牧歌的で平和であり、後者は悲劇的で陰惨である。ソクラテスの死は前者のごとく湿やかでないとともにまた後者のごとく陰惨でもない。が、弟子たちの情愛に取り巻かれて静かに死んで行く点では前者に似ており、政治家の憎みや民衆の反感によって死刑に決せられるところは後者に似ている。そうしてその最も顕著な特徴は、右のごとく憎悪に取り巻かれているにもかかわらず、この死がポリスの裁判において、明るく、公開的に、国法の活動として決せられるという点である。前二者においては祖師の死は国家と関するところはなかった。強いて求めれば前者において国家の釈迦に対する尊敬が語られ、後者において国家のイエスに対する冷淡が語られているとも言えよう。しかし祖師の死そのものの意義は全然超国家的であった。しかるにソクラテスの死は、それ自身において、国法の不正なる運用とそれにもかかわらぬ国法への尊敬とを示しているのである。
かくのごとく人類の教師たちにあっては、その死が重大な意義を担っており、従ってその死に方がそれぞれの教師の特性を示すのであるが、孔子のみはこの例にあてはまらないのである。弟子たちにとっては、その師の死は何ら特別の意義を持たなかった。だから郷党篇において最初の孔子伝が録せられたときにも、孔子の死については一言も記されていない。それは前にも言ったように(九四ページ以下)、日常生活の祖師伝、日常茶飯事の祖師伝であって、偉大な死や陰惨な死を中心とする祖師伝ではない。孔子ももちろん死んだのであり、その死に方は最も平凡な普通のものであったらしいから、そういう通常な死に方が孔子の特徴をなす、と言えないこともないが、ここで問題にするのは孔子伝が孔子の死を含んでいないという事実なのである。すなわち孔子伝を他の祖師の伝記と比較する時には、孔子の死に方は問題にしようがないのである。ちょうどこの点に孔子伝の著しい特徴が見られると思う。
孔子伝が死を中心とせざる唯一の祖師伝であるということは、孔子が死の問題を全然取り上げなかったということと連関するであろう。死の問題はまた魂の問題とも連関する。そうしてこれも孔子のあまり語らなかった問題である。少なくとも前に問題とした上論九篇においては、弟子たちはこれらの問題に関する孔子の語を伝えていない。ただ下論の先進篇に至って、
季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うる能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。
という問答を録しているのが目立つのである。もちろんこの問答は孔子が魂の問題と死の問題とに答えることを拒んだとしているのであって、それだけでも前の観察の証拠となるのであるが、しかしこの問答の示しているのはそれだけのことではない。前に詳論したように先進篇は故意に子路を貶していることの著しいものである。その先進篇が、子路を貶するいくつかの問答の初頭に右の問答を掲げたということは、この問答において子路がいかにばかばかしい問題を提起したかを示すものと見なくてはならぬ。そのことは死の問題についての子路の問いが「敢えて死を問う」と記されていることからも察せられる。死を問うことは孔子の弟子にふさわしくない。だから記者はおのずから敢えてという語をここに加えたのであろう。それに対する孔子の答えは、いずれも突っ放すようなものである。人倫の道をいまだ知らず行ない得ぬものにとって、魂や死の問題が何になると言わぬばかりである。かく右の問答を理解してくれば、孔子が死や魂の問題を取り上げなかったばかりではない、孔子の学徒においてはかかる問題を取り上げることが恥ずべきことであったのである。こういう気分から見れば、孔子が死の覚悟の問題や、生死を超越する問題や、死人の蘇りの問題や、魂の不死の問題などをすべて取り上げなかったということは、むしろ彼の特徴をなすものと見られねばならぬ。もっとも魂の不死の問題は釈迦においても拒否せられた問題ではあるが、しかし釈迦にあっては魂の不死を前提とする輪廻を絶ち切ることが大問題であり、従ってこの問題と全然離れることはできなかったのである。だからこの問題を全然取り上げないのは孔子のみだと言わねばならぬ。孔子の教説に神秘主義的な色彩が全然欠けていることは、ここに関係があると思われる。
しかし孔子には「天」の思想があるではないか、と人は言うかも知れない。学者によっては、この天を宇宙の主宰神と解釈し、孔子がこの主宰神から道を復興する使命を受けて活動したと説くものもある。が、孔子の言及している「天」にこのような人格神あるいは唯一神というような面影があるであろうか。もし孔子一生の活動がかかる唯一神からの使命にもとづくものであるならば、孔子の徒の学園においてかかる神への信仰が何らかの形で強調せらるべきだと思われるが、学園の綱領としての学而篇は一語も天に触れない。上論九篇中孔子が天を口にしたとせられるのは、孔子の体験経歴を主題とする述而・子罕の二篇のみである。しかもその個々の章は孔子が運命の窮迫に陥ったきわどい瞬間に関するものである。孔子は流浪の途中、宋において司馬の桓魋に殺されようとした。その際、
子曰く、天徳を予に生せり。桓魋それ予を如何せん。(述而、二二)
またそれより前のことと解せられているが、
子、匡に畏(拘)わる。曰く、文王既に没したれども、文は茲(吾が身)にあらずや。天の将に斯の文を喪さんとするときは、後死者(孔子自らいう)は斯の文に与るを得ざるべし。天の未だ斯の文を喪さざらんとするとき、匡人それ予を如何せん。(子罕、五)
これは明らかに孔子が己れの運命を天意に帰したのである。天意が孔子をして道を説かせようとしているならば、人為をもってこれを破ることはできぬと確信しているのである。ここに、孔子において徳を生し、孔子をして文王の文の担い手たらしめた、超越的なものが指示されていることは明白である。が、それは果たして宇宙の主宰神とか唯一神とかと言わるべきものであろうか。右の句だけではそれはどうにも立証のしようがない。その天が漠然と人力以上のものをさしていると解しても、あるいは人為のいかんともし難い運命をさしていると解しても、右の句の解釈には何らさしつかえがない。実際また人々はかかる「天」を毫も信仰の対象とすることなくしてしかも十分の敬虔の念をもってそれに対していた。それらの人々にとっては「天」は宇宙人生を支配する理法と考えられても、何ら不都合はなかったのである。彼らはこの「天」の命令や意志に従うことによって揺るぎなき確信を得ると感じた。が、かく命令や意志を云為するからと言って「天」を人格的なるものとして考えたというわけでもない。すなわち、モーゼがエホバの命令を受けたように、天が人と同じく言葉をもって命令を伝えると考えていたのではない。ただ己れを支配する深い理法を感じてそれを天の命令と言い現わしただけなのである。こういう意味で天を尊敬した人々は、我々が現実に触れた中にも存している。それが孔子の「天」の思想にちょうど当たっているかどうかは確言することはできぬが、しかしその人々は右のごとき立場において真に孔子を聖人として尊敬し得たのである。我々は孔子が「天」を言ったからといって直ちにそれを宇宙の主宰神と定めることはできぬと思う。しかのみならず、『論語』の八佾篇においては、孔子は宗廟の祭りや泰山の旅や禘の祭りや告朔の餼羊や社の樹などについて語っているにかかわらず、その主たる関心は礼の保持であって信仰の鼓吹ではない。天の祭儀禘についてはむしろ観るを欲せず語るを欲せないのである。一言にして言えば、『論語』の古い層においては天を宇宙の主宰神と考えしめるような証拠はほとんどない。
しかし同じ上論の中でも我々が古い層から除外した泰伯篇になると、いくらか調子の違った語が現われてくる。堯を讃美する言葉の中の、「唯天を大なりとなす、唯堯之に則とる」という句のごときがそれである。下論になってもそれは同様である。
顔淵死す。子曰く、噫天予を喪せり、天予を喪せり。(先進、九)
子曰く、我を知るなきかな。子貢曰く、何為ぞそれ子を知るなからん。子曰く、(我は)天をも怨みず、人をも尤めず。下(人事を)学びて上(天命に)達す。我を知るものはそれ天のみか。(憲問、三七)
子曰く、予言うなからんと欲す。子貢曰く、子如し言わずんば、小子何をか述べん。子曰く、天何をか言わん、(然れども)四時行なわれ百物生る。天何をか言わん。(陽貨、一九)
これらは天が人の生死を司どり、人を知り、また自然の運行を支配するものであることを前提として言われたように見える。もっともその天が何事をも言わないとせられる点では、人格神と全然異なるのであって、むしろ天が漠然とした無限に深い理法のごときものであるという解釈に好都合な資料となるのであるが、しかし前の場合よりも幾分強く主宰神らしい面影を見せているということは認められるかと思う。こういう天が『詩経』や『書経』における天とはなはだよく似ているということも認めねばなるまい。そうなると、『論語』の古い部分において孔子の言っている天よりも、新しい部分で彼の言ったとせられる天の方が、一層『詩経』や『書経』に近いことになる。これを前に引いた津田左右吉氏の意見、すなわち『詩経』や『書経』の製作が孔子より百年近くも新しいという説と連関させて考えてみていただきたい。人の生死や自然現象などを司どる宇宙の主宰神というごときものはむしろ孔子からは遠いのである。孔子は宗教的な神を説いてはいない。
以上のごとく見れば、孔子は釈迦やイエスと明白に異なっている。宗教的な意味で絶対者に触れることあるいは絶対境に悟入することは彼の問題ではない。彼が天をいうにしても、それはソクラテスのダイモンや神託ほどにも宗教的色彩を持たない。しかも彼は何らの不安もなく道に熱中しているのである。その態度は、
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。(里仁、八)
という言葉に現わされる。道が重大なのであって、夕べに死した時にその個人の魂が救われるか、救われぬか、あるいは永生を得るか否かが問題なのではない。道が理解され実現されさえすればそれでよいのである。しかもその道たるや、人倫の道であって、神の道でも悟りの道でもない。人倫の道を踏みさえすれば、すなわち仁を実現し忠恕を行ないさえすれば、彼にとっては何の恐れも不安もなかった。だから彼の教説には何らの神秘的色彩もなく、従って「不合理なるがゆえに信ずる」ことを要求する必要もない。すべてが道理なのである。かかる意味において人倫の道に絶対的な意義を認めたことが孔子の教説の最も著しい特徴であろう。
孔子の教説が死や魂や神の問題を重要視しないということは、孔子の思想史上の地位を特殊なものたらしめると思う。なぜなら、古い時代においてこれらの問題を無視するような思想家は、原始信仰以来の宗教的伝統に対する決然たる革新家として現われるはずであるが、孔子の言行にはいっこう革新家としての面影が見えず、むしろ孟子が言ったように周の文化を集大成した人として現われているからである。
人類の教師が他の場合には皆革新家であるということは何人も異論のないところであろう。釈迦は彼以前の永い間にインドの社会に固定した四姓制度を内面的に打破しようとしたのみならず、古いヴェダの信仰、ウパニシャドの哲学をも克服しようとした。彼の無我の主張はアートマン哲学への反駁なのである。イエスもまたユダヤ教として固定して来たイスラエルの文化に反抗して新しい人倫を説き始めた。福音書の物語においてイエスの正面の敵が祭司長、学者、パリサイの徒であることは、この事情を明示している。ソクラテスは彼の時代に流行したソフィストの運動に対抗して、真の哲学的精神を興した人である。ギリシア人の古い神々の信仰はすでに自然哲学者やソフィストによって揺るがされており、ソクラテスとしてはむしろこの植民地思想に対してギリシア本土の神託の信仰を復興しようとしたのだとさえ言われているのであるが、しかし彼の死刑の理由は神々の信仰を危うくするということであった。こういうふうに人類の教師たちは皆彼らに先行する思想や信仰を覆すものとして現われているのである。
孔子もまたそうであった、という解釈がないではない。それによれば、孔子以前の時代には宗教も道徳も政治もすべて敬天を中心として行なわれた。天は宇宙の主宰神として人間に禍福賞罰を下す。だから天を敬い天命に従うことがすべての行ないの中心なのである。しかるに孔子は人を中心とする立場を興した。孔子における道は人の道である、道徳である。天を敬うのもまた道徳の立場においてである。天を敬いさえすれば福を得る、というのではなく、道に協いさえすれば天に嘉される、というのである。ここに思想史上の革新がある。孔子もまた革新家である。
ところでこの説は、孔子以前の思想や信仰が『書経』や『詩経』によって知られるということを前提としている。この前提は確実であろうか。前に幾度か顧慮して来たように、もしこれらの書が春秋末期より戦国時代へかけての作であるとしたならばどうであろうか。その場合には思想史的な順序がちょうど逆になり、孔子が革新家であるという意義は消滅してしまう。そうしてこれは決して大胆すぎる見方ではないのである。『書経』、『詩経』が孔子より新しいという考えはしばらく控えておくとしても、『礼記』が漢代のものであるということには大した反対はなかろう。そうして論者が孔子以前の思想信仰とするものは、実に顕著に『礼記』に現われているのである。我々は『礼記』を材料として非常に原始的な信仰や祭儀を取り出すことができる。それのみではない。漢代における易の盛行や道教の勢力を顧みるならば、人倫を中心とし道理に徹底しようとする孔子に比して、漢代の思想の方がむしろ論者のいわゆる「孔子以前の思想」に近いのである。それやこれやを思い合わせると、右の論者の説は直ちには首肯し難いと思われる。
しかし我々は孔子が決して革新家でなかったと断言するのではない。あるいはそうであったのかも知れぬが、ただ孔子の最も古い伝記が孔子の革新家たることを描いておらぬという点に注目するのである。弟子たちは孔子が新しいものを持ち出したということを力説せず、むしろ孔子が古いものを復興し、蘇生させ、確立しようとしたという点を強調している。これはあるいは孔子の傾向ではなくして弟子たちの傾向であったかも知れぬ。が、とにかく過去に黄金時代を見、それを理想として現在と未来に作用させようとする努力は、『論語』の新しい部分に至るほど顕著になる。そういう運動の起点をなす孔子が革新家であったとは、どうも考えにくい。
もっとも孔子の復古主義については、厳密な限定を必要とする。『論語』の最も古い部分たる学而、郷党の二篇には夏殷周の文化のことも堯舜の説話も全然出て来ない。しかるにそれに次ぐ七篇の総論たる為政篇には夏殷周の礼が言及されている。さらに礼を主題とした八佾篇になるとそれがいくらか異なった形で言い現わされる。それらを並べてみると左の通りである。
(一) 子張問う、十世知るべきか。子曰く、殷は夏の礼に因る、損益するところ知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益するところ知るべきなり。其或周に継がんものは、百世といえども知るべきなり。(為政、二三)
(二) 子曰く、夏礼は吾能く之を言かんとせるも、杞徴するに足らざるなり。殷礼も吾能く之を言かんとせるも、宋徴するに足らざるなり。文と献(賢)と足らざるが故なり。足らば則ち吾能く之を徴せん。(八佾、九)
(三) 子曰く、周は二代に監み郁郁乎として文なるかな。吾は周に従わん。(同上、一四)
これらはいずれも周の文化や風習を讃美することにおいては一致しているのであるが、しかし夏殷の礼について、損益するところ知るべきなりというのと、明らかにするだけの証拠がないというのとは違う。おそらく(一)において言おうとするのは、周の文化が夏殷のよきところを保存しており、時代によって動かされぬ恒久の価値を持つということであろう。そうすれば(三)と同じ意味である。では夏と殷との文化を知り得るかと言えば、文献が足りないのである。この(二)の説くところは十分に注意せねばならぬ。孔子は周の文化を明らかに知り、「吾は周に従わん」と言ったが、しかし夏と殷とは明らかにし得なかったのである。また明らかにし得ないことについては、説かんと欲しても説かなかったのである。その孔子が夏殷よりもさらにさかのぼって堯舜を説いたということは、容認せられ得るであろうか。我々は否と答えるほかはない。果たして河間七篇においては、雍也篇の末尾にただ一個所堯舜の名が現われるだけである。しかもその章にあっては、堯舜の名を含む一句を削り去っても章全体の意義を損じないのみか、むしろかえって明白ならしめるのである。が、この傾向は河間七篇に限ったことではない。下論十篇においても堯舜の説話に触れざるものは八篇に及んでいる。『論語』全篇中堯舜に触れたものは、右の雍也篇のほかには、泰伯、顔淵、堯曰の三篇のみであろう。そのうち顔淵篇におけるものは子夏の語の中にあり、堯曰篇のと泰伯篇の一章とは誰の語かわからない曖昧なものである。孔子の語として堯舜を語っているのは、ただ泰伯篇の中の二章のみに過ぎない。そうしてこの泰伯篇と堯曰篇とは、『論語』中の最も新しい層であることの一目して明らかなものである。『論語』自身におけるこのような事実と、堯舜の説話が後の孔子伝に至るほど濃厚に現われて来る事実とを照合して考えれば、孔子自身が堯舜の説話とかかわる所のなかったことは、ほぼ確実だと見なくてはならない。
以上の結果から考えれば、孔子が代表していたのは彼の眼の届いた周の文化である。堯舜や三代の初めの説話は孔子以後戦国時代の産物に過ぎない。もちろん周の文化は先行の文化を摂取し保存しているには違いないが、しかしそれは孔子にとってさえ文献の足りないものであった。だからそれが後に作られた堯舜や三代の説話が示すようなものでなかったことだけは確かである。また孔子が尊重し強調する周の文化も、文献的には『論語』以上に古い資料を残していないことになる。そうなれば我々後代のものにとっては、孔子はシナ思想史の劈頭に立っているのである。孔子のような大思想家が現われるためには、それに先行しもしくは時を同じくする多くの思想家があったはずだ、という推測も行なわれているが、しかしそれは単なる推測であって、何らの証拠をも持たないものである。もちろんそういう思想家が孔子のほかに一人もなかったという証拠もないが、『論語』のなかで孔子の師が幾度か問題とせられながら常に否定的に答えられている事実は、幾分かかる証拠として役立つであろうと思われる。
周の文化を代表し、復古主義的な傾向を持っている孔子が、それにもかかわらず原初的思想家である。これが思想史上の孔子の地位を独特なものたらしめる。他のいずれの人類の教師にもかかることはないのである。しかも彼のあとには、彼の学派のみならず、諸子百家が撩乱として現われてくる。人生についてのあらゆる可能な考え方がここで尽くされたと言っても過言ではなかろう。かかる思想史的爛熟期を後に控えた原初的思想家、しかもその思想葛藤を通じて最後の勝利者として残った永遠の思想家、それが孔子なのである。
ではこのような偉大な思想家の「思想」はどんなものであったか。――それを「叙述」するということは自分の全然興味を持たないところである。この思想に接したい人は、『論語』を繰り返して読むがよい。その『論語』はこの書物よりも分量が少ない。またその読み方に関しては自分は幾分参考となることを述べたつもりである。『論語』は他の言葉で叙述することのできない無数の宝玉を蔵している。またこれらの孔子の語がかくもみごとに結晶していればこそ、原初的思想家孔子が永遠の思想家となったのである。で、自分はここに孔子の語録のこの特殊な様式を力説してこの小著を結ぼうと思う。
『論語』における孔子の語は孔子の思想を伝えているには相違ないが、しかしそれを単に客観的な意味内容として論理的に叙述しているのではない。孔子といえども、弟子に説くに当たってはある考えを詳細に秩序立って述べたかも知れないが、しかし『論語』に記録されているのは皆短い格言めいた命題である。それらは弟子との問答として録されているものと、単に独立の命題として記されているものと、二つの種類に分かつことができる。問答の方は孔子の説き方と密接に結合したものである。それは言葉によって一義的にある思想を表現するのではなく、孔子と弟子との人格的な交渉を背景として生きた対話関係を現わしているのである。従ってそこには弟子たちの人物や性格、その問答の行なわれた境遇などが、ともに把捉せられている。それが言葉の意味の裏打ちとなり、命題に深い含蓄を与えることになる。が、この対話は、ソクラテスの対話におけるがごとく、問題を理論的に発展させるというやり方ではない。弟子が問い師が答えるということで完結する対話、すなわち一合にして勝負のきまってしまう立ち合いである。従って問答はただ急所だけをねらって行なわれる。孔子の答えはいつも簡潔で、鋭く、また警抜な形にくっきりと刻み出されている。そのいくつかの例はすでに折りにふれて解説したところであるが、こういう問答を読み味わう時には、単にただ論理的な思想の動きだけではなく、その思想を生きている人々の、生きた接触が、感ぜられるのである。
かかる問答としてでなく独立の命題として掲げられている孔子の語も、不思議にその背景を感ぜしめる力を持っている。たとえば、
子曰く、其の位に在らざれば其の政を謀らず。(憲問、二七)
という句のごときは、責任なき位置にあって政治を批判しあるいは動かそうとする人々が、ともすれば反感とか名利とかのごとき主観的な動機から無責任な言動に陥るという情勢を、はっきりと踏んでいる。そうしてこういう情勢は、どの時代においても人々が常に身近に見いだすことのできるものである。あるいはまた、
子曰く、衆之を悪むも必ず察し、衆之を好するも必ず察せよ。(衛霊公、二八)
というごときも、大衆の付和雷同という苦々しい現実を踏んでいる。そうしてこの現実はどの時代の人々にとっても現実である。この種の例は数限りなくあげることができるであろう。ところでもし大衆の付和雷同性とか、無責任の位置にある者の空疎な政論とかを、正面の問題として詳細に論ずるとなれば、それだけでも非常に長い議論をしなくてはならぬのである。ソクラテスならばその議論に入り込んで行くであろう。しかるに孔子の語は常にそれらを背景に蔵い込んでおく。そうして詳細な考察の結果を暗々裏に前提としつつ、かかる問題に対して処すべき最も簡要な一点をすぱりと取り出して見せるのである。
が、考えてみると、いわゆる格言なるものは、長期にわたって無数の人々によって同様なことがなされた結果できあがったものである。かつて寺田寅彦氏が、一つの国土における家の建て方村落の位置の選び方などには、地震とか暴風とか湿気とかに関する非常に深い智慧が蔵されている、それは長期にわたってその国民が種々の経験により自らに得たものであって、個々の学者の理論的意識よりも優っている、という意味のことを言われた。格言というものは人生の事に関する右のごとき智慧なのである。それはこの結論に達した経路を語らない、またその考察の原理をも示さない。しかし智慧たることを失わないのである。
孔子の語の中の独立の命題はちょうどこの格言のようなものである。異なるところはこの格言が一定の思想的立場、倫理的原理の上に立っていることであろう。格言が民衆の間で長期の淘汰を経て来たものであるに対し、孔子の語は代々の学者の間で試練を経て来た。そうしてそれが深い人生の智慧を語るものとして生き残って来たのである。
孔子の語録のこのような特徴は、他の人類の教師たちの語録と比較すれば一層顕著となるであろう。前にあげたようにソクラテスの対話は問題自身が発展するものであって、一問一答により完結するものではない。だから孔子の問答がきわめて簡潔な形を持つに対して、ソクラテスの対話はプラトンの対話篇の示すごとく、戯曲にも比せらるべき大きい文芸的様式となった。またイエスの語録は、非常に優れた譬喩によって象嵌せられた美しい説教であって、今は福音書の戯曲的な物語の中にはめ込まれている。それもまた断片的には格言としての効用を持たぬではないが、語録の様式としてはむしろ物語的である。釈迦の語録は早くより釈迦の説法の梗概要領を示した法の綱要として成立した。それは釈迦の哲学の根本命題という形を持っている。後にかかる法要を象嵌した物語が作られ、さらにそれが発展して大きい戯曲的構図を持った経典となった。このようなプラトン対話篇、四福音書、仏教経典などは、すべて語録という形式を超えて大きい統一的作品となっているのである。しかるに『論語』はあくまでも語録である。短い一句、短い一問答が作品としての統一を持つのであって、各篇の編纂、あるいは『論語』全体の編纂は、決して外的な編纂以上の意味を持つのではない。すなわち孔子の語録は、語録たるところに様式上の特徴を持つのである。
かかる語録の伝統はシナにおいては根強く生き続けた。シナの思想史上最も注目すべき一齣たる禅宗は、かかる語録の様式を生かせて用いている。傑出した禅僧中、その思想を秩序立って叙述するという仕事をしたのは、我が国の道元くらいのものである。孔子の語録を読む場合に禅宗の語録を念頭に浮かべておくことは、いろいろな意味で有益だろうと思われる。
付録
武内博士の『論語之研究』
わたくしは本文七八ページ以下に、武内博士の講演の要旨を自分の責任をもって引用しているが、その後同博士が『論語之研究』を公刊せられたのを読むと、いろいろわたくしの理解に不足のあったことがわかった。で、この再版では当然この個所を書きなおすべきであるが、しかし『論語之研究』の序文で見ると、わたくしのはなはだ不備な紹介や議論が博士のこの公刊を促進することに幾分役立ったように思われ、その点において思いがけぬ効果を収めたことになる。それを思うと、右の個所はもとのままにしておいて、訂正は巻末に別につける方がよいとも考えられる。そこで、『論語之研究』の公刊当時、同書を世間に対して推薦した一文を取り出し、それをここに付加して訂正の役目をつとめさせることにした。
(昭和二十三年一月)
昭和三年の暮れに京都で開かれたシナ学会大会において武内博士は『論語』の原典批判に関し非常に卓抜な講演をせられた。わたくしはその時受けた感動がいつまでも新鮮な衝撃として『論語』への関心をそそり続けるのを感じていた。余暇があったらぜひ博士の研究を追跡してみたいという念願はその後絶えたことがなかった。しかし情けないことに自分の専攻の仕事が精一杯で博士の研究の跡をたどる余力はなかったのである。で、わたくしは漠然と右の講演の内容が専門の雑誌に発表されたことと思い込んでいた。そうして幾年か後にある若い倫理学者の問いに応じてこの論文を読むようにすすめたことがある。この男は早速それを探し出して読んだと報告したが、実に精密な考証で敬服しましたと言うのみで、わたくしの予期した反応はいっこう現われなかった。わたくしは不思議に思いながらわたくし自身の錯誤には気づかず、心ひそかに嗟嘆して已んだのであった。この同じ経験はその後にも二、三度繰り返したように思う。それが自分の錯誤と気づいたのは最近のことである。武内博士はあの講演をどこにも発表されなかったのであった。そうしてわたくしにすすめられてそれを読んだと考えた人は、おそらく博士の「漢石経論語残字攷」などを読んでいたのであった。そこでその当時自分と若い学者との間の問答がちぐはぐになったゆえんも、やっとわたくしにわかったのである。
今度刊行せられた『論語之研究』は右の講演において示された考えをさらに周到精密に詳論せられたものであって、読後ただ感謝と満足とを感ずるほかはなかった。わたくしはこの書が形をなす以前にすでに人々にそれを読むことを勧めていたくらいであるから、今この書を前にして広く世間の人々にこの書の功徳を宣揚したいとの念を禁ずることができない。しかしこの書は純粋に学問の書である。学問を愛する人でなければこの書に近づく必要はない。とともに、『論語』に対して学的関心を抱く人は、必ずこの書を見のがしてはならない。この書は『論語』の研究において一つの時期を画するものであり、将来の研究はここから発足するほかはないのである。
この書は序論において『論語』の原典に関する研究の歴史を大観している。著者はまず四、五百種に上る現存『論語』文献のなかから、代表的なものとして何晏の「集解」と朱子の「集註」とをあげ、これに丹念な検討を加える。特に何晏の「集解」の序は『論語』本文について示唆するところの多いものとして、注目せられる。そこにあげられた「魯論語」、「斉論語」、「古文論語」、およびそれに連関した張禹、包咸、孔安国、馬融、鄭玄、王粛などの学者は、周到な考察を受けている。さらに著者は何晏「集解」の疏釈をも追究して、皇侃、邢昺をはじめ、清朝の考証学者劉宝楠、潘維城に及んでいる。朱子の「集註」は右の流れとは別に理論的な解釈を重んじたものであって、清朝では考証学の影響を受けながらも別派をなしていたのであるが、著者はそこにあまり注目すべきものを見いだしていない。著者が『論語』本文の研究史において右の二つの流れに劣らず注目すべきものとしたのは、伊藤仁斎や山井崑崙などの、「シナにおいてはかつて考えられなかったような日本特有の論語に対する見解」である。ここでは厳密に学問的な本文の校勘のみならず、さらに進んで『論語』原典の高等批判にまで及んでいる。校勘学は清朝の考証学者にも取り容れられたが、原典の自由な批判はシナにおいてはいまだ充分に行なわれなかった。で、この日本の学者の始めた道を武内博士は進んで行こうとせられるのであるが、ちょうどその道こそ原典批判の正道としてわれわれの眼に映じるのである。ギリシアの古典や、新旧約聖書や、インドの古典などに関して、前世紀以来著しく進歩して来た原典批判の仕事は、右にあげたわが国の先儒の仕事と、大体において同一の方法によったものであった。
右の序論のあとで著者は第一章として『論語』本文の校勘を論ずる。この仕事は実は著者が他の論文(この書の付録として収められた二篇の論文もそれに属している)において一層詳細に叙述しているところであるが、われわれ局外者にとってはこの章の要領を得た叙述がはなはだありがたい。ここで著者は、シナにおける標準テキストとして開成石経を、日本における標準テキストとして教隆本を明らかにし、さらに正平板『論語』を追究して、教隆本が関東に下った清原家の証本であるに対し正平板『論語』は京都の清家の家本を写して上梓したものであろうとの結論に達している。また右にあげた二つの標準テキストが河北本と江南本との別であるらしいことにも言及している。
本文の校勘のあとで第二章は『論語』原典の高等批判である。まず初めに何晏「集解」序にいう「魯論」、「斉論」、「古論」の問題を取り挙げ、この区別は文字の変遷によって生じた異本に過ぎぬことを綿密に論証している。そこで漢武帝の時孔子旧宅の壁中から出たと言われる「古文論語」がこれらの異本の源流だということになる。これに連関して武帝以前の文献に引かれた孔子の語を調べると、今の『論語』に見えぬものが多い。そこから、この時代の人が見た孔子の語録は今の『論語』ではなかったであろう、もちろん『論語』などという名はなく、ただ「伝」と呼ばれた孔子語録が幾種か存したであろう、という想像が生まれてくる。著者はこの想像に証拠を与えるものとして王充の『論衡』の文を引き、それにもとづいて少なくとも斉魯二篇本と河間七篇本とが前漢中期以前に存したことを認め、さらにこの両者を現存の『論語』の中にもとめて、学而、郷党二篇を斉魯二篇本に、為政より泰伯に至る七篇を河間七篇本に比定した。同様の方法をもって論語の後半を分析すると、季氏、陽貨、微子の三篇が非常に新しく、残余の七篇が斉人所伝の『論語』として独立した孔子語録であったらしく考えられる。かくて著者は、河間七篇本が曾子・孟子の学派の所伝で最も古く、次に斉人所伝の七篇本は子貢を中心とする学派の所伝で孟子以後の編纂になり、斉魯二篇本は斉魯の学派の所伝を折衷した編纂物でこれも孟子以後であるらしい、と結論している。
著者は右のごとく現存『論語』を四つの群に解きほごしたあとで、その一々の群を一つの作品として考察し、そこに含まれた篇章の順序や、この順序において説かれた各篇の内容を詳細に論じている。すなわち第三章は河間七篇本の思想を、第四章は下論中の斉人所伝の『論語』を、第五章は最も新しい層たる季氏、陽貨、微子の三篇を、第六章は斉魯二篇本を取り扱ったものである。この取り扱いによって、『論語』各篇が漫然たる語録ではなくして一定の組織を有すること、また曾子学派の編纂、子貢学派の編纂というごとくそれぞれ異なった立場をかなり露骨に表現していること、またこの相違が他面において時間的推移をも示していること、などが理解される。語をかえて言えば、『論語』の中には原始儒教の成立、発展、変化など数世紀にわたる歴史が含まれているのである。
われわれはここに『論語』に関して充分な意義における原典批判が遂行せられたことを祝せずにいられない。それは上述のごとく一時代を画する出来事である。しかもこの仕事は仁斎、徂徠、崑崙などわが国の先儒の仕事を継承し完成するという意識をもってなされた。これはわたくしにはかなり重大なことに思われる。(昭和十五年四月) | 底本:「孔子」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年12月16日第1刷発行
2007(平成19)年5月15日第22刷発行
底本の親本:「和辻哲郎全集 第六巻」岩波書店
1962(昭和37)年
※編集部による補足は省略しました。
※縦中横の括弧付き漢数字のうち、二桁となるものは、底本では縦にならんでいます。
※本文中、「五三ページ参照」とあるのは、「二 人類の教師の伝記」内の、「葉公、孔子を子路に問う。」の辺りを指します。
※本文中、「ただ一一二ページにあげた二章のみである。」とあるのは、「三 『論語』の原典批判」内の、「子、南子《なんし》を見る。」を含む段落と、「子|疾《や》む。」を含む段落を指します。
※本文中、「九四ページ以下」とあるのは、「三 『論語』の原典批判」内の、「学而篇が孔子学徒に学問の方針を示すものであり、」の辺りを指します。
※本文中、「七八ページ以下」とあるのは、「三 『論語』の原典批判」内の、「これについてかつて武内義雄氏の非常に示唆《しさ》に富んだ講演を聞いたことがある。」の辺りを指します。
入力:門田裕志
校正:米田
2012年6月30日作成
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改版序
この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを標榜して手を加えなかった。その後著者は京都に移り住み、曾遊の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。そのうち閑を得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。しかし仕事はそう簡単ではなかった。幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。部分的の補修はいかにも困難である。従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。
この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。
このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。
こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。
昭和二十一年七月
著者
一
アジャンター壁画の模写――ギリシアとの関係――宗教画としての意味――ペルシア使臣の画
昨夜出発の前のわずかな時間に、Z君の所でアジャンター壁画の模写*を見せてもらった。予想外に大きな画面で、色彩も写真で想像していたよりははるかにきれいだった。急いで見たのだから詳しい印象は残っていないが、それでも汽車に乗ってから絶えずこの画に心を捕われていることを感じた。今朝京都の停車場で、T君やF氏と別れて、ひとりポツネンと食堂車にすわっていると、あの画のことがまた強く意識の表面に浮かび上がって来た。
* 荒井寛方氏の労作、この後五六年を経て、大正十二年の関東大震災の際、東京帝国大学文学部の美術史研究室において烏有に帰した。
アジャンター壁画の模写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。気温が高くて、しかも極度に乾燥した透明な空気、湿いのない鮮明な色、――それがあの色調を造り出したに相違ない。あれは濡れた感じのまるでない色調である。中でも不思議に感じたのは、山の中にキンナラの夫婦がいて雲の中で天人が楽を奏しているという構図の、五六世紀ごろの画であった。人物も植物も非常に濃い色で描かれているにかかわらず、妙に冷たい、沈んだ感じを持っている。たとえば木の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られていながら、どんな深い森の幽暗な樹陰でもこんなではあるまいと思われるほどに、光や空気の感じを欠いている。熱国の強烈な色彩というものを、華やかに輝く光と結びつけて考えている我々には、これらの画の色調はかなり予想外であった。しかし考えてみると、雪山を理想郷とするインド人が冷たい色に対する特殊な好尚を持っているということには、少しも不自然なところはない。インドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのまるでない色が、どれほど写実になっているのか判断することはできないが、少なくともあの色調によって、五六世紀ごろのインド人に普通であった情調を推測することはできると思う。当時のインド人はギリシア人のごとく快活ではなかったのであろう。肉体の美しさを心の底から讃美する人たちの気分にも、光を避けて陰を好む傾向が――真昼を恐れて夜を喜ぶ傾向があったのであろう。このことは色調からばかりでなく、壁画に描かれた多くの顔の表情からも、推測することができる。男も女も、大抵は憂欝な表情をその顔に浮かべているのである。ことに女の顔の病的な美しさは、その有力な証拠になる。キレの長い、瞳を上へつるしあげた大きい眼には、何となく物すごい、ヒステリカルな暗さが現われている。脂肪が少ないために異常に鋭くなっている顔の輪郭の線や、眼、鼻、唇などを刻み出す細かい微妙な線などには、豊かという感じがまるで欠けていると共に、妖艶な、すご味のある、奇妙な美しさがあふれている。これを健やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べて見ると両者の相違はきわめて明瞭にわかると思う。
次に目に残っているのはインド独特の写実である。どの壁の画であったか、一丈ぐらいの、乳の大きい女の裸体像があった。顔、肩、腕、胸、腰、――どこに目をつけても、立派に写実的に描かれていない所はない。確かにそこには、肉体を鋭く凝視し、その中から強い魅力の秘密をつかみ出そうとする眼が働いている。ところでこの写実は、一つの人体において試みられているほどには、画面全体に行きわたっていないのである。構図は恐ろしく非現実的で、突飛な物の形が雑然と並んでいる。もちろん部分的には、まとまりのいい、無理のない構図もあるが、(また仏伝図や本生図には統一のある立派な構図を持ったものもあるらしいが、)大体としては、きわめて象徴的な、気ままな、お伽噺めいたやり方で満足しているように見える。これをポムペイなどで発見されたローマのギリシア風の画と比べて見るのは、非常に興味の深いことであるが、今は十分の準備がない。ただ気づかないでいられないのは、写実ということについて、両者の気分が非常に違っていることである。目で見たものをそのまま写生したくなるのは、画家の本能にあることと思われるが、その本能がここでは働き方を異にしている。ギリシア風の画家はどんなに想像の材料を描く場合でも、自然らしく見せることを忘れず、写実の地盤を離れることがない。しかしインドの画家は、一々の人体を非常に精妙に描きながら、その人体の位置についてはほとんど自然を無視したやり方をする。たとえば空中を飛んでいる天人の体が、いかにも巧妙に、浮動しているごとく描いてあるかと思うと、それが地の上を歩いている人のすぐ頭の上に、まるで両者の関係を顧慮することなしに置いてある。これは画家が画面全体の幻影を自然のごとく心中に思い浮かべていなかった証拠であろう。構図は芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語の約束から出ている。この種のことは大乗神話を描いた仏教の経典にも認められると思う。
ギリシア風の画とアジャンター壁画との関係は、美術史の問題として研究の価値があるばかりでなく、当時の世界文化の交錯を知るためにも、明らかにしなくてはならない。手法や絵の具や、その他の細部については専門家の研究があるであろうが、ただ漠然たる推測から言うと、時代の関係から見ても、ローマ文化の侵入の具合から見ても、インド化したギリシア――特にインド人との混血児であり、幼時からインドの空想の間に育ったギリシア人――の手がここに加わっているということは、あり得ないことでもない。またたといこの画の作者が純インド人であったとしても、こういう画の流派がインドを父としギリシアを母として生まれたものであることは、ある点まで認めなくてはなるまい。ギリシアの芸術的精神を摂取しなくては、この種のインド芸術は生まれなかったであろう。ただその咀嚼の程度がガンダーラ芸術よりもはるかに強かったために著しく独自な芸術となり得たのであろう。
アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。ことに問題となるのは天人や菩薩として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた蠱惑的な女の描き方である。文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の権化としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。また女体に現われた若々しい生の緊張や豊かな生の充溢に注目して、それを――アフロディテの彫刻におけるごとく――理想の姿に描き上げようとする心持ちも認められない。むしろ男性に対して存在する女性を、誘惑の原理としての女性を、――ただそれだけを女体に認める人が、自分の美しいと感ずる部分を強調して描き出したように思われる。このことは特に天人や、恋愛する女や、物語の図に現われる女などに著しい。あの高くもり上がった乳房や、太い腰部の描き方を見た人は、恐らく何人もこの見解に反対しまいと思う。そこに現わされたのは、調和の極致であるような、美しい線と面との交響でもなく、また生の歓びを神的にまで高めたような、神秘な恍惚でもない。直ちに触覚に迫って来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。――このような画がどうして仏徒の礼拝堂や住居などの壁に画かれなくてはならなかったのか。官能の享楽を捨離して、山中の僧院に真理と解脱とを追究する出家者が、何ゆえに日夜この種の画に親しまなくてはならなかったのか。
人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。仏徒の生活も、この区別から脱れることはできない。仏教の礼拝儀式や殿堂や装飾芸術は、決して宗教的生活の本質に属するものではない。宗教的生活はこれらのすべてを欠いてもかまわない。荒野のなかにあって、色彩と音楽とのあらゆる人工的な試みを離れ、ただ絶対者に対する帰依と信頼、そうしてこの絶対者に指導せられる克己、忍辱、慈愛の実行、――それだけでも十分なのである。また他方では、官能を悦ばせる芸術はいうまでもなく、精神を高め心を浄化する芸術であっても、それをただ享楽するだけであるならば、かかる人を宗教的生活にひきいれることはできない。だから仏徒の教団においても、キリスト者の教会においても、原始的な素朴な活力を持っていた間は、決して芸術と結びつかなかった。むしろ芸術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立場にあった。これは烈しい情熱をもって宗教的生活の内に突入しようとするものにとって、きわめて自然なことである。
しかし芸術が人の精神を高め心を浄化する力を持つことは、無視さるべきでない。たといこの美的感情移入が、享受者の実生活ではなくて、ただ空想の世界の出来事に過ぎぬとしても、それはまだ実現せられないより高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を産み出すことがある。たとえば宗教の儀式に音楽を用いれば、それはショペンハウエルのいわゆる一時的解脱に人を導き、法悦と解脱とへの人々の要求を強く刺戟することになるであろう。阿弥陀経に描かれた浄土が、あらゆる芸術によって飾られていることは、この間の消息を語るものである。かく芸術は、衆生にそのより高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性を実現したのである。しかし芸術は、たとい方便として利用せられたとしても、それ自身で歩む力を持っている。だから芸術が僧院内でそれ自身の活動を始めるということは、何も不思議なことではない。芸術に恍惚とするものの心には、その神秘的な美の力が、いかにも浄福のように感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり得たのである。
アジャンターの壁画はそれを実証している。この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒律に束縛せられていなかったであろう。この僧堂に住みこの礼拝堂で仏を礼讃した人々も、恐らく官能断離の要求を強く感じてはいなかったであろう。そうしてほのかな燈火の光に照らし出される男女さまざまの姿態や、装飾的に並んだ無数の仏像などの奇異な、強烈な刺戟によって、陶然とした酔い心地を経験していたのであろう。それが何らか宗教的な心持ちとして受け取られたとすれば、それはこの陶酔が芸術の享楽によって与えられたのであって、在家の生活におけるがごとく、たちまち厭倦と苦痛とに変ずる直接の享楽によって起こされたのでなかったことに基づくのであろう。
これは彼らが仏を信じていなかったことを意味するのではない。しかし彼らの信ずるのはすべてを許し何人をも成仏せしめる寛容な仏であって、戒律と精進とを命令する厳しい教主ではなかったであろう。従ってあのような画と彫刻に飾られた石窟の内部が、極楽浄土の縮図として、人々に究極の浄福を予感せしめる機縁ともなり得たのであろう。
もう一つ問題となるのは、ペルシアの使臣を描いたらしい三尺ぐらいの比較的小さい画である。この画だけは色の調子がまるで違っている。画面全体が快く調和のとれた、温かい、ニュアンスの多い色で塗られている。一人のペルシア人とそれを取り巻く四五人の女とを描いた構図もまた非常に巧みである。人物の輪郭の線も他の画とはよほど違っている。没線画と線画との間をさまよっている他の画に比べると、この画だけはよほど線の画になっているといってよい。Z君はこの画だけが特に優れているのを不思議がって、アジャンターの中でも特殊の伝統を引いたものではなかろうか、ガンダーラや西域の絵画と関係のあるものではないであろうか、などといっていた。確かに、この画だけは特殊な気分と美しさを持っている。この画にペルシアの影響が認められるというのも、こういう点に注目してのことであろう。スタインの『古于闐』の中の写真に、裸の女が蓮池の中に立っている画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非常に清らかな感じのもので、インドの画とは随分気分を異にしていながら、しかもこの画とはどこか描き方に似たところがあるように思う*。
* 壁画保存の方法として画面にニスを塗ったとき、天井にあるこの画は塗り残されて新鮮な色を保っているのだそうである。従ってこの画の色調はアジャンター壁画の本来の色調を示しているといってよい。
ペルシア使臣の画で特に目についたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な表情であった。これはギリシア風の美術に認められないインド独特の女の美しさで、インド人が女をいかに恐れ、いかに愛していたかを、最も代表的に示していると思う。これは中世のウェヌスベルグの伝説に現われて来るのと同じ心持ちで、ギリシア人は全然それを知らなかった。この心持ちを最初アレキサンドリアあたりへ輸入したのは、あるいはインドからであったかも知れない。肉に酔うか、魂を救うか、この選択の前に立って身を慄わせている男の目にうつる女の美しさは、まさにあれである。この画はそういう美しさを写実的に、しかし最も典型的に描き出している。
けれどもこれは宗教画ではない。もし禁欲僧が日夜この画に親しまなくてはならなかったとしたら、この画は苦行の座の針にもひとしいものであったろう。それは美しいが、しかし恐ろしい、それほど蠱惑的である。(五月十六日)
二
哀愁のこころ――南禅寺の夜
久しぶりに帰省して親兄弟の中で一夜を過ごしたが、今朝別れて汽車の中にいるとなんとなく哀愁に胸を閉ざされ、窓外のしめやかな五月雨がしみじみと心にしみ込んで来た。大慈大悲という言葉の妙味が思わず胸に浮かんでくる。
昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった。五六年前ならイキナリ反撥したかも知れない。しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。父は道を守ることに強い情熱を持った人である。医は仁術なりという標語を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人である。その不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている時であるだけに、父の言葉はひどくこたえた。
実をいうと古美術の研究は自分にはわき道だと思われる。今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない。もとより鑑賞のためにはいくらかの研究も必要である。また古美術の優れた美しさを同胞に伝えるために印象記を書くということも意味のないことではない。しかしそれは自分の中心の要求を満足させる仕事ではないのである。自分の興味は確かに燃えているが、しかしそれを自分の唯一の仕事とするほどに、――もしくは第一の仕事とするほどに、腹がすわっているわけではない。
雨は終日しとしとと降っていた。煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京都へ近づいてくる自分に、古い京のしっとりとした雰囲気をいきなり感じさせた。(五月十七日)
今夕はT君から芝居にさそわれたのをことわって、庭の樹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食った。しんみりとしたよい晩であった。がここにも、享楽の生活をさしおいてまずなすべきことが横たわっているように思う。しかし自分の心は、放蕩者のように、美術の享楽に向かって急いでいる。僕はあたふたとこの家を去ろうとする自分を省みて、心に底冷えを感じないではいられなかった。
夜床にはいってから、『甲子夜話』をあけて見た。「楊貴妃はじんぜうなるやせ容の人の如く想はるれど、天宝遺事に貴妃素有肉体、至夏苦熱、常有肺渇、毎日含一玉魚児於口中、蓋藉其凉津沃肺也と。されば楊貴妃はふとりたる女なりけり」とある。また能は宋代の芝居から、雅楽は唐代の伎楽から来たものだという林氏の説ものっている。いかにも随筆らしくておもしろい。
水の音がしきりに聞こえている。南禅寺の境内からここの庭へはいって、つつじの間を流れて池になり、それから水車を回して邸外へ出るのである。蘭学者新宮凉庭が、長崎から帰って、ここに順正書院という塾を開いたとき、自分が先に立って弟子たちといっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだという。家もその時のままである。頼山陽が死ぬ前一二年の間はしょっちゅうここへ遊びに来ていた。この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。水車はそのころから自分の家で食う米をついていたらしい。――建築は普通の書院づくりではあるが、屋根の勾配や縁側の工合などは、近頃の建築に見られない大様ないい味を見せている。天保時代ですらこの方面では今よりも偉かったと思わずにはいられない。(五月十七日夜)
三
若王子の家――博物館、西域の壁画――西域の仏頭――ガンダーラ仏頭と広隆寺の弥勒
朝南禅寺の境内を抜けて、若王子のF氏の所に行った。空が美しく晴れて楓の若葉が鮮やかに輝いているなかに、まるで緑に浸ったようになって、F氏の茶がかった家が隠れていた。二階からわずかに都ホテルのあたりが見えるだけで、あとはすっかり若葉の山に取り囲まれている。樹の種類の異なるに従って、少しずつ色の違うさまざまの若葉が、地からむくむくと湧きあがって来たように見え、まるで烈しい交響楽のように我々の感覚を圧倒してしまう。だから五分間もそれを眺めていると、人間の世界から遠く遠く離れて来たという心持ちになる。電車の通りから十町と離れていない所に、こういう閑静な隠れ場所があるという事は、昔からの京都の特長で、文芸などにもその影響が著しく認められると思う。
ここの建築は、もと五条坂の裏通りにあって、清水焼の職工の下宿屋となっていたのを、F氏が偶然散歩の途上に見つけて、ついにここに移したのだという。ひどく荒れていた柱や板を洗ったり磨いたりして見ると、実にしゃれた茶室や座敷が出て来た。屋根の鬼瓦に初代道八の作があったと言われているから、たぶん文化ごろの建築であろう。非常に繊巧なもので、すみずみまで気が配ってある。茶室のほかに座敷が二間、二階一室で、坪数はわずかであるが、廊下や一畳二畳の小間を巧みにあしらって、心理的には非常に広く感じさせるようにできている。簡素な味がないから、永くなれば飽きるかも知れぬが、しかし江戸時代の文化が最も繊細になったころの建築として、非常に興味深いものである。
ひる少し前から、F氏とT君と三人で博物館に行った。大谷光瑞氏将来の庫車・和闐等の発掘品が今日は非常におもしろかった。
あの西域の壁画の破片で見ると、西域の画はアジャンターのよりもはるかに技巧が幼稚なように見える。無造作に直線を二本引いた鼻や、乱暴に線を長く引いた眉などは、ふざけて描いたものとしか思えない。しかし仏画をふざけて描くということはあり得ないであろう。とすると、画家としては素人の僧侶が描いたのであろう。鼻や眉の描き方はいかにも幼稚らしいが、画全体はかなり精神に富んだ、清らかな美しさを持ったものである。
線は乱暴にひいてあるが、しかしいかにも生き生きとした力を持っている。たどたどしいくま取りも、写実的な、新鮮な印象を与える。色はたくまずしてさわやかな諧調を保っている。肉づけは後期印象派の画に見受けられるような、無技巧のおもしろさを現わしているともいえる。こういう特徴は、アジャンターの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえって出にくいであろう。とすると、技巧の修練は十分でなくとも自己の幻影を描き出すには十分な熱心を持っている素人の手がそこに感ぜられるのである。
インドから中央アジアへの伝道を企てたような、信仰に熱していた僧侶たちにとってはアジャンターあたりの極度に耽美的な儀礼は、頽廃の徴候としか感ぜられなかったであろう。そうしてガンダーラ地方の簡素な芸術の方が、むしろ心からの同感を呼び起こしたであろう。ガンダーラの画がどういうものであったかはわからないが、彫刻と同じように、写実的な、清らかな、かなり精練されない所もある芸術だったとすると、画才のある素人にはわりにまねやすかったであろうと思われる。専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい髯のはえた男の手を、ああは画かないであろう。あの手は指のつけねのところに、さも面倒臭くなったというふうに、横に直線が引いてある。専門の画家が画くとすればあの直線を引く手間で普通に写実的な手を描いてしまうであろう。前に言った鼻の画き方でもそうである。人の顔を描き慣れているものが、すなわちどう線を引けば鼻の形が出るかという事を知りぬいているものが、ふざけてででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。といって落書きでもなさそうである。やはり、ガンダーラの美術に好愛を持っていた僧侶のうちの画才のあるものが、この西域の画の作者だろうと考えるほかはない。
確かにあの画は、インドの画よりも深い精神的内容を感じさせる。それは官能の美以上の深い美しさである。たとえばあの菩薩(?)の顔は、技巧から言えばアジャンターの画などと比べものにならないほど拙いかも知れない。しかしこの菩薩の顔の方がはるかに強く人を感動させる。じっと見まもっていると、奇妙な、幻想的な恍惚に引き入れられて行くほど神秘めいた深さを持っている。無造作にくま取ったあのまぶたの感じや、微笑みかけているあの唇の感じなどは、実に何とも言えない。
同じ発掘品で、唐の影響を著しく受けていると思われる仏頭が四つある。それを見ながら考えたことであるが、仏教美術の東漸を研究するには、眉や眼や鼻や耳などの描き方の変遷を注意深く調べて見なくてはなるまい。なぜなら、インドアアルヤ族、ギリシア人と東方人との混血児、特にアジア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙古族など、異なった種族の中を伝わって来る間に、モデルの変遷によって画き方もまた変わって来たろうと思われるからである。たとえば眉と眼との間に引く細い線がだんだんその位置を移しているのは、まぶたの厚ぼったい蒙古人やシナ人がモデルとなり始めたことを語るのではないか。長い細い弓なりの眉もまた同じことを語っていはしないか。ガンダーラの彫刻には明らかに蒙古人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が中央アジアでうまく利用されたことは疑いがない。それがシナにはいってさらに強く変化させられていることは、右に言ったようなモデルの推移によって、説明がつくのではないであろうか。
種族が異なるに従って、理想の顔や体格がどういうふうに変わって来るかという問題は、文化の伝播と連関して、興味のある問題である。たとえば仏画は、東へ来れば来るほど清らかに気高くなって行くが、このことは仏教の教義の変遷とどう関係するか。あるいはまた当時の諸民族の内心の要求や問題とどう関係するか。これらは考究に価する問題であろう。
シナへ来て西域の美術が一層端厳な、「仏」にふさわしいものになったということは、同じ発掘品のなかのガンダーラの仏頭と、推古天平室の中央にすわっている広隆寺の弥勒*(釈迦?)塑像とを比べて見ればわかる。あの仏頭はその写実の確かさにおいて強く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの弥勒の超自然的な偉大さにはかなわない。一体あの弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現わしているものである。その肉づけの写実的なことと言い、その重々しい、大きい衣のひだの、小気味のいい大胆さ自由さと言い、シナ風の装飾化の動機にわずらわされずに、端的に人体を作り出している。特に塑像としての可能性は、極度に生かし切ってあると思う。我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である。その威厳のある力強い顔は、理想化された人ではなくして、人の形をかりた超自然者という印象を与える。ガンダーラの仏頭が企ててなし得なかったところを、この弥勒がなしとげているのである。ギリシア・仏教式美術がシナに来て初めて完成したということは、この弥勒の前では確かに言えると思う。
(五月十八日)
* この広隆寺の塑像は、広隆寺に宝物殿ができてからはそこへ帰っている。
四
東西風呂のこと――京都より奈良へ――ホテルの食堂
湯から上がってこれから寝ようとするところだが、どうもこの西洋風呂なるものが、日本の風呂のようなゆったりした心持ちにさせてくれない。書翰紙ののせてある卓子の側の柔らかい椅子に体をもたせかけると、いかにも自然にペンを取り上げたくなって来るという具合が、日本の風呂にはいったあととはひどく違う。
西洋の風呂は事務的で、日本の風呂は享楽的だ。西洋風呂はただ体のあかを洗い落とす設備に過ぎないので、言わば便所と同様の意味のものであるが、日本の風呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあとのさわやかな心持ちや、あるいは陶然とした気分などを味わう場所である。だから西洋の風呂場と便所とはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに清潔にしてあっても、やはり清潔だけではおさまらない美感の要求から、それを妥当と感じない。この区別が興味をそそって、とりとめもなく文化史的な考察に入り込ませる。
湯を享楽するのは東洋の風だと言われている。東洋でも熱い国では水に浴するがこれは同じ意味のものと認めてさしつかえない。西洋にももちろんこの風がないわけではないが、それはトルコ風呂の類で、東洋の風を輸入したものであろう。温泉なども、西洋のはおもに温泉を呑むのであって、日本のように浴して楽しむのではないらしい。シナの古い文芸では、浴泉の享楽が酒や女の享楽と結びつき、すこぶる感覚的に歌われているが、西洋にこんな文芸はあるかどうか。もっともローマでは入浴が盛んだった。私宅の浴室も公衆の浴場も、純粋に享楽のために造られたもので、特に公衆浴場はぜいたくの限りがつくしてあったらしい。大きい円天井の建物の中に、大理石を盛んに使って、冷水の池もあれば温湯の浴槽もある。脱衣室もあれば化粧室もある。すべてが美しい柱や彫刻や壁画で飾られている。そのなかで人々は泳いだり、温浴したり、蒸し風呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの娯楽をやる。――しかしローマ人は出藍のほまれがあったというだけで、もともとこの風俗をギリシア人から学んだのである。ところがそのギリシア人も、家の中で風呂にはいるなどということは、東洋人から教わったのであった。しかも初めは戦争や運動のあとで、体の疲れを回復するために使ったに過ぎなかった。それを享楽のためにやっているのは、『オデュッセイア』のなかに奢侈の国として描かれているあの神話的なプァイエーケスの国である。小アジアや南イタリアあたりの植民地が盛んにぜいたくをやるようになると、この風は一般にひろまってしまった。やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの市民が蒸し風呂などというものをはやらせた。共同浴の風習も東洋から来たもので、温浴と共にだんだん盛んになった。こんな惰弱な風はよろしくないといって、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかましく言ったが、だめだった。――アレキサンドロス大王のすぐ後には、アテーナイに国立浴場ができている。男女混浴の風もはやった。――というようなわけで、やはり東洋がもとなのである。アレキサンドロス大王がダリオス王の風呂場を見て驚いているのなども、この方面から考えるとおもしろい。
しかしこの温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない。もちろん体を洗うのは人間として必要なことであるから、家には浴室があり、浴室の持てないものには公衆浴場があったに相違ないが、それは「必要なもの」として以上に「楽しむもの」にはならなかったらしい。デュウラアの描いた公衆浴場の画を見ると、女どもがいかにもせわしそうな、早く用をすませてしまいたいという風をしている。スザンナ入浴の画はずいぶんいろいろな人が描いているが、どれにもわれわれの知っている入浴の心持ちは現わされていない。で、たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。
東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。
温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。湯のしみ込んだ檜の肌の美しさなどもそうであろう。
西洋の風呂は、流し場を造って、あの湯槽に湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。この改良にはさほどの手間はかからない。それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。
京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、沿線の景色はそれを償うて余りがある。桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っている。茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、麦畑のなかに大きく枝をひろげて並び立っている具合はなかなか他では見られない。文人画の趣味がこういう景色に培われて育ったことはいかにももっともなことである。
この沿線でもう一つおもしろく感ずるのは、時々天平の彫刻を思わせるような女の顔に出逢うことである。これは気のせいかも知れぬが、彫刻とモデルとの関係はきわめて密接なはずだから、この地方の女の骨相と関連させて研究してみたならば、天平の彫刻がどの程度にこの土地から生い出ているかを明らかにし得るかも知れぬ。
奈良へついた時はもう薄暗かった。この室に落ちついて、浅茅が原の向こうに見える若草山一帯の新緑(と言ってももう少し遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫って来る。奈良の方がパアッとして、大っぴらである。T君はあの若王子の奥のひそひそとした隠れ家に二夜を過ごして来たためか、何となく奈良の景色は落ちつかないと言っていた。確かに『万葉集』と『古今集』との相違は、景色からも感ぜられるように思う。
食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしですわっていた。黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。目はスペイン人らしく大きく、頬は赤かった。襟の低い薄い白衣をつけて、丸い腕はほとんどムキ出しだった。またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとった。その男のビッコのひき方が、どうやら戦争で負傷したものらしく思えた。四つに七つぐらいの子供にはシナ人の乳母がはだしでついていた。妻君はまだ若くてきれいだったが、もう一人のきゃしゃな体をしたおとなしそうな娘の、いかにも清らかなきれいさにはかなわなかった。この娘の頸は目につくほど長かった。この格好は画でよく見たが、実物を見るのは初めてである。――奈良の古都へ古寺巡礼に来てこういう国際的な風景をおもしろがるのは、少しおかしく感じられるかも知れぬが、自分の気持ちには少しも矛盾はなかった。われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。だから食堂では、目を楽しませると共に舌をも楽しませていいこころもちになったのである。
食後T君と共にヴェランダへ出て、外をながめた。池の向こうの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交えてさわいでいる。興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、おもしろくなくはなかった。われわれはそれを見おろすような気持ちになって、静かに雑談にふけった。(五月十八日夜)
五
廃都の道――新薬師寺――鹿野苑の幻想
今朝Z君夫妻がついた。顔を見るなりすぐに言い出したのは、昨夜東京で催されたシコラの演奏会のことであった。Z君はそれをきくために出発をおくらせていたのである。
Z君は少し落ちつくと、早速気早な調子で巡礼の予定をきめにかかった。十日ほどの間に目ぼしい所を大体回ってしまうような、欲張った計画ができあがった。
ひるから新薬師寺へ行った。道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする。幼いころこういう築泥を見なれていた自分には、さらにその上に追懐から来る淡い哀愁が加わっているように思われる。壁を多く使った切妻風の建て方も、同じ情趣を呼び起こす。この辺の切妻は、平の勾配が微妙で、よほど古風ないい味を持っているように思われる。三月堂の屋根の感じが、おぼろげながら、なおこの辺の民家の屋根に残っているのである。古代のいい建築は、そのまわりに、何かしら雰囲気といったようなものを持ちつづけて行くとみえる。
廃都らしい気分のますます濃くなって来る狭い道を、近くに麦畑の見えるあたりまで行ってわれわれはとある門の前に留まった。しかしその門の前に立っただけでは、まだ、今までながめて来たもの以上に非常に変わった光景がわれわれを待っているだろうという気はしない。門をはいってすぐ鼻の先に修繕のあとのツギハギに見える堂の側面が突き立っているのを見ると、初めておやというような軽い驚きを感ずる。この感情は堂の正面へ回って少し離れた所から堂全体をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうというような驚きの情に高まって行く。そうしてそれは、美しさから受ける恍惚の心持ちに、何とも言えぬ新鮮さを添えてくれる。
この堂は光明皇后の建立にかかるもので、幾度かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優美な調和を保っている。天平建築の根強い健やかさも持っていないわけではない。この堂の前に立ってまず否応なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい確かさだと思う。あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。しかしこの堂の特徴はいかにも軽快な感じである。そこからくる優しさがこの堂に全面的に現われている。それは恐らく天井を省いて化粧屋根裏とし、全体の立ち居を低くしたためであろうと思われる。がこの新薬師寺では、堂の美しさよりも本尊の薬師像や別の堂にある香薬師像の方がもっと注目すべきものなのである。
本堂のなかには円い仏壇があって、本尊薬師を中央に十二神将が並んでいる。薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。この薬師像の面相は、正面から見ると香のくすぶり方のせいでちょっと変に見えるが、よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと外にはないと思う。全体が一本の木で刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる。この像の人を圧するような力はそういう大手腕に基づくのであろう。
かつて講義の時関野博士はこの像を天平仏と見ていられたように記憶するが、われわれは弘仁仏ではなかろうかと話し合った。衣文の刻み方の強靱な、溌剌とした気持ちが、どうもそのように思わせる。
香薬師は今日は見ることができなかった*。
* 香薬師は白鳳期の傑作である。かつて盗難に逢い、足首を切断せられたが、全体の印象を損うほどではない。最初訪れた時はそういう騒ぎのあとで、倉の中に大事に蔵ってあるとのことであった。その後この薬師像を本尊とする御堂もでき、御廚子を開扉してもらって静かに拝むことができるようになった。御燈明の光に斜め下から照らされた香薬師像は実際何とも言えぬほど結構なものである。ほのかに微笑の浮かんでいるお顔、胴体に密着している衣文の柔らかなうねり。どこにもわざとらしい技巧がなく、素朴なおのずからにして生まれたような感じがある。がそれでいてどこにも隙間がない。実に恐ろしい単純化である。顔の肉づけなどでも、幼稚と見えるほど簡単であるが、そのくせ非常に細かな、深い感じを現わしている。試みに顔に当たる光を動かしてさまざまの方向から照らして見るがよい。あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ複雑な濃淡が現われてくるであろう。こういう仕事のできるのは、よほどの巨腕である。そのことはまた銅の使いこなし方にも現われている。いかにもたどたどしい鋳造の仕方のように見えていながら、どこにも硬さや不自由さの痕がない。実に驚くべき技術である。この香薬師像は近年二度目の盗難に逢った。
帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。この古い森林はいつ見てもすばらしい。今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで、高い木の梢にまで紫の色が見られた。鹿野苑の幻想をここに実現しようとした人のこころもちが、今でもまだこの森の中にただよっているという気がする。しかし一歩大通りへ出ると、まるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楽の光景に出逢う。そこにまた奈良でなければ見られない気分がある。それもわるくはないが、この気分と、三月堂などの古典的な印象とが、まるで関係なしに別々になっているのは、いかにも不思議である。
興福寺の金堂や南円堂にはいって見たが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。しかし南円堂では壁の画が注意をひいた。
晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。
(五月十九日夜)
六
浄瑠璃寺への道――浄瑠璃寺――戒壇院――戒壇院四天王――三月堂本尊――三月堂諸像
今日は浄瑠璃寺*へ行った。ひるすぎに帰れるつもりで、昼飯の用意を言いつけて出かけたのであったが、案外に手間取って、また案外におもしろかった。
* 京都府相楽郡当尾村にある。奈良から東北一里半ほどである。
奈良の北の郊外はすぐ山城の国になる。それは名義だけの区別ではなく、実際に大和とは気分が違っているように思われた。奈良坂を越えるともう光景が一変する。道は小山の中腹を通るのだが、その山が薄赤い砂土のきわめて痩せた感じのもので、幹の色の美しいヒョロヒョロした赤松のほかにはほとんど木らしいものはない。それも道より下の麓の方にところどころ群がっているきりで、あとは三尺に足りない雑木や小松が、山の肌を覆い切れない程度で、ところ斑に山にしがみついているのである。そうしてその斑の間には今一面につつじの花が咲き乱れている。この景色は、三笠山やその南の大和の山々とはよほど感じが違う。しかしその乾いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには親しいものであった。こういう所では子供でも峰伝いに自由に遊び回れる。ちょうど今ごろは柏餅に使う柏の若葉を、それが足りない時には焼餅薔薇のすべすべした円い葉を、集めて歩く季節である。つつじの花の桃色や薄紫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子供の心を浮き立たせるであろう。谷川へ下りて水いたずらをしてももう寒くはない。ジイジイ蝉の声が何となき心細さをさそうまで、子供たちは山に融け入ったようになって遊ぶ。二十年前には自分もそうであった。それを思い出しながらわたくしは、故郷に帰ったような心持ちで、飽きずにこの景色をながめた。この途中の感じが浄瑠璃寺へついてからもわたくしの心に妙にはたらいていた。
しかし浄瑠璃寺へすぐついたわけではない。道はまだ大変だった。山を出て里へ出たり、それらしいと思う山をいつか通り過ぎてまた山の間にはいったり、やがてまた旧家らしい家のあるきれいな村へ出たり、しかも雨あがりの道はひどいでこぼこで、俥に乗っているのもらくではなかった。畑と山との美しい色の取り合わせを俥の上で賞めていたわたくしたちも、とうとう我慢がしきれなくなって、Z夫人のほかは皆その狭い田舎道に下り立った。そうして若葉の美しい櫟林のなかや穂を出しかけた麦畑の間を、汗をふきふき歩いて行った。寺の麓の村まで来ると、Z夫人も例外ではいられなくなって、小石のゴロゴロしたあぶなっかしい急な坂を、――それもどうかすると百姓家の勝手口へ迷い込んで行きそうな怪しい小道だったが、――歩かねばならなかった。本道の方は崖が崩れてとても通れまいということだったのである。しかし意気込んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの坦々たる道へ出た。それで安心して歩いていると、この道がまたなかなか尽きそうもなくなった。赤松の矮林の間には相変わらずつつじが咲いている。道傍に石地蔵の並んだ所もあった。大きい竹藪の間に人家の見える所へも来た。水の音がしきりに聞こえて、いかにも幽邃な趣がある。あれこそ寺だろうと思っていると、それは水車屋だった。山の下からながめた時はるか絶頂の近くに見えた家がどうもこれらしい。もうそんなに高くのぼったかと思う。と同時に、一体どこまで昇ればいいのだろうと思う。やがてべら棒に大きな岩が道傍の崖からハミ出ている所をダラダラとのぼって行くと、急に前が開けて、水田にもなるらしい麦畑のある平地へ出た。村がある、森がある、小山がある。こんな山の上にあるだろうとは思いがけない、いかにも長閑な農村の光景である。浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。これも予想外だった。しかし何とも言えぬ平和ないい心持ちだった。こんなふうで、もう奈良坂まで帰っていていい時刻に、やっと浄瑠璃寺へついたのである。
さてこの山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、――また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。
この心持ちは一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想――それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、――それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。それはわたくしには驚きであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。
こんな心持ちに気をとられて、本堂のなかに横に一列に並んでいる九体の仏には十分注意が集まらなかった。Z君に言われて、横に長い須弥壇の前の金具をなるほどおもしろいと思った。仏前に一つずつ置いてある手燭のような格好の木塊に画かれた画もおもしろかった。色の白い地蔵様もいい作だと思った。しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。開いた扉の間から金色の仏の見えるのもよかった。あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。
――もうよほど昼を過ぎていたので、庫裏にいた妻君の好意で、わたくしたちは、欠け茶碗に色の黒い飯を盛った昼飯を食った。それが、Z夫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。
こんなわけで、帰りは近道をしたけれども、奈良へ帰ったのはもう四時過ぎであった。そうしてすぐその足で、浄瑠璃寺とはまるきり気分の違った東大寺のなかへ、しかも戒壇院へ馳けつけた時には、あの大きい松の立ち並んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲まれた堂脇の空地には黄昏を予告する寂しい陰影が漂うていた。
わたくしたちは、小さい花をつけた雑草の上に立って、大きい鍵の響きを聞いた。それがもう気分を緊張させる。戒壇院はそういうところである。堂のなかに歩み入ると、まずそのガランとした陰欝な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。そこには今までながめて来た自然とは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れることのないような厳粛な戒を受けたであろうに。そう思うとこの積もった埃は実に寂しい。しかしその寂しさはあの潤いのある九体寺のさびしさではない。
このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて四天王が立っているのである。しかも空前絶後と称せられる貴い四天王が。それを見ると全く妙なアイロニイを感ずる。わたくしはこの種の彫刻をそのあるべき所に置いて見るのが好きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるまじき状態になっているとすると、どうしたらいいであろう。戒壇の権威はもう地に堕ちている。だからこそわれわれは、布をかぶせてはあるが土足のままで、この壇上を踏みあらすこともできるのである。しかし戒壇の権威は地におちても、この四天王の偉大性は地におちはしない。今となればそれは戒壇よりも重い。このように埃のなかに放置すべきものではない。
四天王はその写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。たとえばあの西北隅に立っている広目天の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現わしたものである。その力強い雄大な感じは、力をありたけ表出しようとする力んだ努力からではなく、自然を見つめる静かな目の鋭さと、燻しをかけることを知っている控え目な腕の冴えとから、生まれたものであろう。だからそこには後代の護王神彫刻に見られるような誇張のあとがまるでない。しかし筋肉を怒張させ表情のありたけを外面に現わしたそれらの相好よりも、かすかなニュアンスによって抑揚をつけた静かなこの顔の方が、はるかに力強く意力を現わし、またはるかに明白に類型を造り出している。
この天王の骨相は、明らかに蒙古人のものである。特に日本人として限定することもできるかも知れぬ。わたくしはこの顔を見てすぐに知人の顔を思い出した。目、鼻、頬、特に顴骨の上と耳の下などには、われわれの日常見なれている特殊の肉づきがある。皮膚の感じもそうである。しかしこれがシナ人でないとは断言はできぬ。ただインド人でないことは明らかである。発掘品から推測し得る限りでは、西域人でもないであろう。とすると、この種の写実と類型とは、少なくとも玉関以東で発達したものといわなくてはならない。
四天王の着ている鎧も興味を引いた。皮らしい性質がいかにも巧妙に現わされている。両腕の肩の下のところには豹だか獅子だかの頭がついていて、その開いた口から腕を吐き出した格好になっている。その口には牙や歯が刻んである。それがまたいかにも堅そうな印象を与える。肩から胸当てを釣っている鉸具は、現今使っているものと少しも違わない。胸から腹へかけては、体とピッタリ密着して、体が動くと共にギュウギュウと鳴りそうな感じである。わたくしはこの像が塑像であることをつい忘れてしまいそうであった。
一体この武具はどこの国のものであろうか。下着が筒袖股引の類であるところを見るとインドのものでないことは確かである。またギリシアやローマの鎧も、似寄ったところはあるが、よほど違っている。ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくともギリシアと交渉のあった古い時代には、こんな鎧はなかった。とすると、中央アジアかシナかの風に相違ないということになる。中央アジアは革細工の発達しそうなところであるが、しかしそこで用いられた鎧の格好はもっと単純なものであったらしい。そうすればこの武具の様式は結局シナで発達したということにならざるを得ない。
そこで問題が起こる。仏菩薩はインド風あるいはギリシア・ローマ風の装いをしているのに、何ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。それに対してわたくしはこう答えたい。ガンダーラの浮き彫り彫刻などで見ると、一つの構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲学者らしい髯の多い老人がいたりする。于闐の発掘品などにも、于闐の衣服らしいのを着た人物を描き込んだのがある。大乗経典の描いている劇的な説教の場面などを視覚的に表象しようとする場合には、仏菩薩などの姿はハッキリきまっているが、あとの大衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有な幻影が生み出された、というわけであろう。従ってシナ風の装いをした四天王や十二神将の類は、特にシナ美術の独創を現わしているかもしれない。
四天王を堂の四隅に安置するやり方も、シナの寺院建築と密接な関係があるであろう。仏教美術がシナで屈折した度はよほど強いものらしい。そうしてその土台となった西域の美術が、すでにインドよりもガンダーラの方をより強く生かしていたと考えられる。日本へ来た仏教美術はもう幾度かの屈折を経たものである。
戒壇院から、三月堂へまわった。
三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の不空羂索観音をさほどいいものとは思っていなかった。しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。全くそこには後光がさしているようであった。以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は薄明のうちに揺曳する神秘の光のように感ぜられ、言い現わし難い微妙な調和をもって本尊を生かしていた。この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている金色なくしては、ととのって来ないのである。つまり両者は、全体として一つの芸術を形造っている。それは色と光と空気と、そうしてその内に馳せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである。
本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。しかしあの数の多い腕と、火焔をはさんだ背光の放射的な線と、静かに迂曲する天衣と、そうして宝石の塊りのような宝冠と、――それらのすべては堂全体の調和のうちに、奇妙によく生きている。前にこの美しさがわからなかったのは豊かなものの全体を見ないで、ただ局部にのみ目をとめたためかと思われる。推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な玉石混淆を恐れないのである。
わたくしは心から不空羂索観音と三月堂とに頭を下げた。そうして不空羂索観音の渇仰者であるZ君に冑をぬいだ。しかし美しいのはただ本尊のみではない。周囲の諸像も皆それぞれに美しい。脇立ちの梵天・帝釈の小さい塑像(日光、月光ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。その他の諸像には相当に異見があり、特に四天王に至ってはZ君はほとんど一顧の価値をも認めまいとしたが、しかしわたくしはこの比較的に簡素な四天王にも推服する。特に向かって左後ろのがよい。もちろん戒壇院の四天王ほどにすぐれた作でなく、やや硬い感じを与えるが、しかしいかにも明快率直で、この堂内に置かれてもはずかしくないと思う。
これらのことについてはホテルへ帰ってからだいぶ論じ合った。今日はいろいろ予想外のことがあったためか皆元気が好かった。食堂で隣りの卓子に商人らしい四人づれの西洋人がいて、三分間に一度ぐらいのわりで無慮数十回の乾杯をやっていたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮していた。Z君は、三月堂の他の諸像をほとんど眼中に置かず*、ただ不空羂索観音と梵天(月光)とを、特に不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ聖林寺の十一面観音を取るのである。
* 三月堂の壇上に置かれた諸像のうちでは、塑像の日光・月光菩薩像、吉祥天像などが彫刻として特にすぐれている。しかしこれらは本来この堂に属したものではあるまい。壇の背後の廚子中に秘蔵された執金剛神も同じく塑像で、なかなかすぐれた作である。本文では彫刻と建築との釣り合いを主として問題としたため、これらの彫刻にあまり注意を向けていないが、単に彫刻として堂から引きはなして考えるならば、これらの彫刻が最も重んぜらるべきであろう。
室へ帰ってから興奮のあとのわびしさが来た。何かの話のついでに、生涯の仕事についてT君と話したが、自分の仕事をいよいよ大っぴらに始めるまで、根を深くおろして行くことにのみ気をくばっているT君の落ちついた心持ちがうらやましかった。根なし草のようにフラフラしている自分は、何とか考えなおさなくてはならない。ゲエテのように天分の豊かな人でさえ、イタリアの旅へ出た時に、自分がある一つの仕事に必要なだけ十分の時間をかけなかったことを、またその仕事に必要な手業を十分稽古しなかったことを、悔い嘆いている。落ちついて地道にコツコツとヤリ直しをするほかはない。(五月二十日)
七
疲労――奈良博物館――聖林寺十一面観音
一日の間に数知れぬ芸術品を見て回って、夕方には口をきくのが億劫なような心持ちで帰ってくる。しばらくは柔らかい椅子に身を埋めてぼんやりしている。やがて少し体が休まると、手を洗って、カラアをつけ変えて、柔らかい絨氈の上を伝って、食堂に出て行く。Z夫人はいつのまにかきれいに身仕度をして、活き活きと輝いた顔を見せる。できるだけ腹を空かせている上に、かなりうまい料理なので、いいこころもちになってたらふく食う。元気よくおしゃべりを始める。今日見た芸術品について論じ合い、受けて来たばかりの印象を消化して行くのは、この時である。が、食堂を出る時分には、腹が張った上に、工合よく疲れも出て、ひどくだるい気持ちになる。喫煙室などへ行っても、西洋の女のはしゃいでいるのをぼんやりながめているくらいなものである。
さてそれから室へ帰って風呂にはいると、その日の印象を書きとめておくというような仕事が、全く億劫になってしまう。印象は新鮮なうちに捕えておくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。手帖の覚え書きはだんだん簡単になって行く。
博物館を午前中に見てしまおうなどというのは無理な話である。一度にはせいぜい二体か三体ぐらい、それも静かに落ちついた心持ちで、胸の奥に沁み込むまでながめたい。
N君はそれをやっているらしい。入り口でパッタリ逢った時に、N君はもう見おえて帰るところだった。「このごろは大抵毎朝ここへ来ますよ、気分さえよければ」と彼は言った。朝の早いN君のことだから、まだ露の乾かない公園のなかを歩きまわった揚句、戸が開くと同時に博物館のなかへはいって、少し汗ばんだ体にあの天井の高い室の冷やりとした空気を感じながら、幾時間でもじいっと仏像の前にたたずんでいるのであろう。そういう気ままな生活をもう一月もつづけているN君に対して、あわただしい旅にあるわたくしは何となき一種の面憎さを感ぜずにはいられなかった。
N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。やがてその男は得意そうに体をゆすぶりながら、ヒラリと床へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。
しかしわたくしたちはガラス戸のあいている機会を逃さないために、やはりこのそばを立ち去ることができなかった。それほどガラスの凹凸や面の反射が邪魔になるのである。
それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。経費などの都合もあることで当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。N君のような落ちついた見方をしていれば、ある程度までその困難に打ち克つこともできるであろうが、しかし誰もがそういう余裕を持つわけには行かない。せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法とを考えれば、短時間に見て行こうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。理想的に言えば、美術館のような公共の享楽を目ざすものは、うんと贅沢にしていいのである。私人の贅沢とはわけが違う。あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と列べられている*。そのためにどれほど見物が損をしているかわからない。当事者にわかりいい言葉でいうと、「こういうことは日本の恥である。こういうことがあるから西洋人が日本人を尊敬しないのである。」
国宝という言葉をもっと生かしてもらいたい。日本の古美術に対しては、われわれは日本民族の一員として、当然鑑賞の権利を持つ。この鑑賞のために相当の設備をしないのは、国宝の意義を没すると言っていい。
* これは大正八年ごろのことで、そのころには入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。聖林寺の観音はその後数年を経て寺へ帰った。桜井から多武の峯への路を十数町行ってちょっと右へはいったところである。百済観音もまた近年は法隆寺へ帰って、宝物殿の王様になっている。
だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。
仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これはまず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。それはまず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。観無量寿経のごときは、特に詳細にこれらの幻像を描いている。仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。観仏はかれらの内生の重大な要素であった。「仏像」がいかに刺戟の多い、生きた役目をつとめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。そういう心的背景のなかからわれわれの観音は生まれ出たのである。何人が作者であるかはわからないが、しかし何人にもあれ、とにかく彼は、明らかな幻像をみずからの眼によって見た人であろう。
観世音菩薩は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。そうして衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。――かくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本においては人でない。しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。儀規は左手に澡瓶を把ることや頭上の諸面が菩薩面・瞋面・大笑面等であることなどを定めているが、しかしそれは幻像の重大な部分ではない。頭上の面はただ宝冠のごとく見えさえすればいい。左手の瓶もただ姿勢の変化のために役立てば結構である。重大なのはやはり超人らしさと人間らしさとの結合であって、そこに作者の幻想の飛翔し得る余地があるのである。
かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。憧憬を単に憧憬に終わらしめない。人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。
このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を惹起しないであろうか。そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。その幻視は作者の気禀と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。
きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、――すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、――その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現わされている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。
肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。
横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。
しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。
八
数多き観音像、観音崇拝――写実――百済観音
推古天平室に佇立したわたくしは、今さら、観音像の多いのに驚いた。
聖林寺観音の左右には大安寺の不空羂索観音や楊柳観音が立っている。それと背中合わせにわが百済観音が、縹渺たる雰囲気を漂わしてたたずむ。これは虚空蔵と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右の肱を曲げ、掌を上に向けて開いている。これも観音の範疇に入りそうである。さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが稀有に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの艶美にも似た印象をわれわれに与える。その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。
目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、錫杖を持った女らしい観音や一輪の蓮花を携えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも唐招提寺などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。室の中央には法隆寺の小さい金銅観音が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。岡寺の観音は半跏の膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。それが弥勒であるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。
十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天、維摩、などを除いて、目ぼしいものはみな観音である。これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に集まってきたというわけかも知れない。しかし考えてみると、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺東院堂の聖観音、中宮寺観音、夢殿観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じくみな観音である。他に薬師如来の傑作もあるが、観音の隆盛にはかなわない。だから推古天平室に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢力を暗示するとみてよいであろう。
観音崇拝の流行は上代人心の動向を知るに最も都合のいいものである。聖母崇拝と似たところがないでもない。また阿弥陀崇拝や浄土の信仰に転向してゆく契機がすでにこの内に含まれているとも見られる。能動的な自己表現の道が和歌や漢詩のほかになかった時代のことだから、偶像礼拝に現われた自己表現は――すなわち受用の形において示された制作活動は――十分重視して観察しなくてはならない。推古、白鳳、天平と観音の様式や気分が著しく変化して行ったことも、ただ外来の影響とのみ見ず、新しいものの魅力に引きずられて行く礼拝者の新しい満足という方面からも解釈してみなくてはならない。
観音の様式の変化でまず著しいのは、聖林寺観音と百済観音との間に示されているものである。
わたくしは聖林寺観音の写実的根拠のことを言った。写実はあらゆる造形美術の地盤として動かし難いと思う。しかしこの写実は、写真によって代表せられるような平板なものではない。それは作者の性格を透過し来たることによってあらゆる種類の変化を示現し得るような、自由な、「芸術家の眼の作用」を指すのである。
芸術家は本能的に物を写したがる。がまた本能的にその好むところを強調する自由を持っている。この抑揚のつけ方によって、個性的な作品も生まれれば、また類型的な作品も生まれる。時代の趨勢によっていずれか一方の作家が栄えるということはあるが、いずれの道によるも要するに芸術は個によって全を現わそうとする努力である。
われわれの観音の時代は、製作家がただ類型を造り出すのに骨を折る時代であった。しかしその仕事においても、抑揚のつけ方は自由であった。このことを拡大して見せているのが聖林寺観音と百済観音との対照である。
百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現われている。しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。
百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である。源は六朝時代のシナであって、さらにさかのぼれば西域よりガンダーラに達する。上体がほとんど裸体のように見えるところから推すと、あるいは中インドまで達するかも知れない。しかるにこのガンダーラもしくはインド直系であるはずの百済観音は、ガンダーラ仏あるいはインド仏に似るよりも、むしろはるかに多く漢代の石刻画を思わせる。全体の気分も西域的ではない。すなわちガンダーラやインドの美術はシナにはいってまず漢化せられたのである。もっとも漢化せられずに西域そのままの様式を持続していたもののあることは大同の石仏などの示している通りであるが、しかし百済観音が代表しているのは漢化せられた様式だけである。そうしてこの様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう。シナの美術が全面的にギリシア美術の精神を生かしてきたのは、ガンダーラが廃滅に帰した後、恐らく二世紀以上もたってから、玄弉が中インドのグプタ朝の文化を大仕掛けに輸入した後のことらしい。かく漢化の時代が先に立ち、諸文化融合の時代があとに来たために、様式の変化は歴史の進程と逆になっているが、そこにはまた六朝から唐へかけてのシナ文化の推移が語られているように思う。
百済観音をこの推移の標本とするのは、少し無理である。竜門の浮き彫りなどに現われた直線的な衣の手法は、夢殿観音には似ているが百済観音には似ていない。しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。そこには簡素と明晰とがある。同時に縹渺とした含蓄がある。大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。垂れ下がる衣のひだの、永遠を思わせる静けさのために、下肢の肉づけを度外しているごときは、その一例と見ることができよう。従ってこの作家は、肉体の感覚的な性質の内へ食い入って、そこから神秘的な美しさを取り出すというよりも、表面に漂う意味ありげな形を捕えて、その形をあくまでも追究して行こうとするのである。そこに漢の様式の特質も現われている。
しかしこの像の美しさは、それだけでは明らかにならない。右のような漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に咀嚼せられ始めたのである。異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。
抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、――それを嬰児のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、――しかもそれを目でもって見得るということは、――彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。
わたくしは百済観音がシナ人の作だというのではない。百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。
百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。面長な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。
――六朝時代の技巧を考慮せず、ただ製作家の心理を忖度してこの観音の印象を裏づけようとするごときは、無謀な試みに相違ない。しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。あの深淵のように凝止している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。
九
天平の彫刻家――良弁――問答師――大安寺の作家――唐招提寺の作家、法隆寺の作家――日本霊異記――法隆寺天蓋の鳳凰と天人――維摩像、銅板押出仏
天平彫刻の作家は大抵不明であるが、しかし大きい寺には必ず優れた彫刻家、あるいは彫刻家の群れがいたらしい。それは僧侶であったかも知れぬ。三月堂の良弁が彫刻家としても優れていたという伝説などは、一概に斥けてしまうわけには行かないであろう。良弁堂の良弁像が良弁の自作であるという伝えは、この像が貞観時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。三月堂の建築と言い、堂内の彫刻と言い、良弁に関係のあるものがすべて第一流の傑作であることは、少なくとも良弁が非常によく芸術を解する人であり、また非常に優れた芸術家を配下に持っていた、ということの証拠である。もしあの良弁像が自作であるならば、良弁は第一流の彫刻家であるが、もし彼の配下の彫刻家もしくはその弟子があれを刻んだとすれば、彼は天下随一の彫刻家を養成したわけである。実際良弁像に現われたような優れた写実の腕前は、天平時代にも貞観時代にも珍しい。あれの造れる人なら確かに三月堂や聖林寺の観音も造れたろうという気がする。東大寺の一派が天平芸術の中核をなしているのは、確かに天才が良弁の近くにいたために相違ない。大仏鋳造のごときもこれと離して見ることはできない。聖武帝をこの決意に導いたのが良弁だという『元亨釈書』等の説も、恐らく真実であろう。ただあの巨大な堂塔と巨大な金銅仏とを最初に幻想したのが良弁であったかあるいは他の天才であったかは知ることができぬ。
薬師寺の銅像や法隆寺の壁画ができてから三月堂の建造に至るまでには、少なくとも二十年余りの歳月がたっている。それから大仏の鋳造が計画せられるまでには、また十年の間がある。開眼供養はなおその十年後である。もしある天才芸術家の在世を考えるならば、この歳月によって年齢の関係をも顧みなくてはならぬ。一人の天才の存否は時代の趨勢よりも重い。天平後期の芸術に著しい変化が認められるのは、外来の影響のみならず、この種の芸術家が死んだということにもよるであろう。
作家の名や生活がわからないにしても、作品に個性が認められることは事実である。三月堂の諸作や聖林寺観音などを一群として、これを興福寺の十大弟子や天竜八部衆に比べて見る。あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。あるいはもっと詳しく、たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。そこにあるのは単に技巧上の区別ではない。明らかに作家の個性の相違である。
興福寺の諸作は健陀羅国人問答師の作と伝えられている。その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。
この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。釈迦の弟子とか竜王とかということを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。ことに面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、――それは確かに人を驚嘆せしめる。竜王の顔において特にこの感が深い。
ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気禀である。それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。またあの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる。従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。
大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。あの楊柳観音の横の姿などは、いかにもよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏しい。その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。四天王にしても、これという欠点はなく、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。
道慈が大安寺を建てたのは三月堂よりも前であった。しかしこれらの木彫がそのときにできたかどうかはわからない。感じから言えばもっと新しい。材料を木に取って、乾漆では出すことのできないキッパリした感じを出そうとしているのが、その新しい証拠である。写実の技巧が一歩進んでいることも認めなくてはなるまい。それらの点から考えると、三月堂派の傑作に対抗してそれ以上に出ようとする心持ちが、これらの作家になかったとは言い切れない。しかし不幸にもその熱心は外面にとどまった。彼らの見た幻像は三月堂派の作家のそれよりははるかに朧ろであった。従って、形がますます整って行くと反対に、彫像の印象はますます新鮮さを失った。
大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し進めた作家の作であろう。頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実的な女の体にできている。胸部と腰部とにおいてことに著しい。そこには肉体に対する注意がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。観音らしい威厳はないが、ヴィナス風の美しさは認められる。この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。
唐招提寺の破損した木彫は、右の十一面観音と非常によく似た手法のものであるが、しかし感じはもっと大まかなように思う。唐から来た鑑真が唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく玄宗時代の流風を伝えたにしても、三四十年前の道慈の時とは、かなり違って現われるのが当然である。不幸にして新来の彫刻家は、気宇の大なるわりに技巧が拙かった。大自在王といい釈迦といい、豊かではあっても力が足りない。ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも弛緩した感じを伴っているように思われる。しかしそういう点にまた作家の個性が現われているのかも知れない。
このほかに法隆寺なども、有力な一派をなしていたに相違ない。この室には塑像の四天王や梵天帝釈や、五重塔内の塑像などが出ているが、少なくともこの塑像と四天王とには共通の気分が認められる。おっとりとした、山気のない、自ら楽しんで作るといったふうの、非常に気持ちのいい芸風である。女と童女との塑像で見ても明らかなように、写実としては確かな腕が現われていながら、強い幻想の空気に全体を包まれている。多聞天や広目天もこの意味でかなり優れた作だと思う。わたくし一己の好悪によっていうと、興福寺の竜王よりはこの天王の方がすぐれている。
奇妙なことかも知れぬが、腕のとれた彫刻などでも、あまりに近くへよると、不思議な生気を感じて、思わずたじたじとすることがある。ただ記憶に残っている像でも、生きている人と同様に妙な親しみやなつかしみを感じさせる。それから考えると、昔の人が仏像を幻視したということは少しも不思議ではない。また観音像に恋した比丘や比丘尼の心持ちも理解できるように思う。『日本霊異記』は書き方の幼稚な書であるが、天平の人のそういう心持ちを表現している点でおもしろい。
法隆寺のものでは、金堂の天蓋から取りおろしてこの室に列べられた鳳凰や天人が特に興味の深いものである。鳳凰は大きい三枚の尾羽をうしろに高くあげて、今飛びおりたばかりの姿勢を保っているが、その尾羽のはがねのように堅そうな、それでいて鳥の羽らしく柔らかそうな感じは、全く独特である。荒っぽくけずられた、体のわりに大きい足は、頭部の半ばを占めている偉大なくちばしと共に、奇妙にのんきな、それでいて力強い、かなり緊張した印象を与える。簡素で、雄勁で、警抜である。百済観音について言ったような直線と直線に近い曲線とが全体を形造っているのではあるが、同時にまた簡単な水墨画に見るような自由なリズムの感じもある。
天人は琵琶を持って静かに蓮台の上にすわっている。素朴な点は鳳凰にゆずらない。また鳳凰と同じく顔と手が特に大きい。その著しく目につく下ぶくれの顔には、無造作に鼻から続けた長い眉、ばかばかしく広い上瞼、それに釣り合うような異常に長い眼、そうして顔全体の印象をそこに集めても行きそうな大きい口、――すべてが部分的に拡大せられている。しかも誇張の感じはほとんどない。いかにも単純で素直で、何のこだわりもなく一種の情緒を――愛らしいしめやかななつかしみを、あふれ出させている。そればかりでない、あの眼と口とは、その大きさのゆえに、一種奇妙な、蠱惑と威厳との相混じたような印象を与える。わたくしはかつてこの像こそ日本人固有の情緒を現わしたものであろうと感じたことがあった。しかし竜門浮き彫りの拓本などを見ると、これに似た感じがそこにもある。従ってこの像は、漢人にも共通であるこの種の情緒を、特に好く生かせたものと見るべきであろう。その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。
これらのものを見ると、法隆寺の天蓋の作られた時代や、その時代の法隆寺の作者たちは、実に恐るべきものである。
法隆寺の作品はこのほかになお注意すべきものが少なくない。維摩の塑像のごときは我々を瞠目せしむるに足る小気味のいい傑作で、三月堂の梵天・帝釈(寺伝日光・月光)や広隆寺の釈迦(弥勒?)などと共に、ガンダーラ式手法の発展したものではないかと思う。もっともその発展はシナ人の手によって成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれと同じ感じのものを知らない。従ってわれわれはこれらの像の与える感じをシナ風であるとは思わない。むしろ日本人の方が、この写実的精神を受けついだのではないかと考えざるを得ない。思えばこの種の大芸術は民族と文化との混融から来た一時的な花火であった。もしこれを順当に成長させて行く力が、われわれの祖先に宿ってさえいたならば、われわれは自信をもって日本文化の権利を主張し得ただろうにと思う。
法隆寺の銅板押出仏は小さいものではあるが、非常に美しい。特に本尊阿弥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿弥陀を思わせる。これは唐からの輸入品で、壁画となにか関係を持っているかもしれない。
十
伎楽面――仮面の効果――伎楽の演奏――大仏開眼供養の伎楽――舞台――大仏殿前の観衆――舞台上の所作――伎楽の扮装――林邑楽の所作――伎楽の新作、日本化――林邑楽の変遷――秘伝相承の弊――伎楽面とバラモン神話――呉楽、西域楽、仮面の伝統――猿楽、田楽――能狂言と伎楽――伎楽とギリシア劇、ペルシア、インドのギリシア劇――バラモン文化とギリシア風文化――インド劇とギリシア劇――シナ、日本との交渉
天平時代の伎楽面として陳列せられている大きい怪奇な仮面の内には、われわれの不注意を突然驚異の情に転換せしめるような、非常に美しいものがある。
もともとこの仮面は、高揚した芸術創作の欲望から生まれたものではなく、幾分戯画的気分に支配せられた、第二義的な製作欲の所産であろう。しかし人間の感情をある表情の型によって表現する手際には、実に驚くべきものがある。それは第一に、厳密な写実的根拠を持っている。第二に、ある表情の急所を鋭く捕えて、一挙にそれを類型化している。従ってそのねらい所が、深い内部的な、感情にある場合には、恐るべく立派な芸術品になるが、それに反して外面的な滑稽味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある場合には、あまり高い芸術的価値を感ぜしめない。たとえば人の表情の内には猿との類似を思わせるものがある。それを鋭く捕えて一つの型にしたところで、われわれはその巧妙な捕え方に驚くばかりで、芸術的印象をうけはしない。しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の表情がある濃淡をもって一つの明白な型に仕上げてあるのを見ると、われわれは汲めどもつきぬ生の泉に出逢ったような強い喜びを感ずるのである。
仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。このことは天平の伎楽面を鎌倉時代の地久面、納曾利面の類と比較して見れば明らかである。鎌倉時代の面は創造力の弱さを暴露した作品であって、そこにはただ生命の実感と縁の少ない誇張のみがある。それは重心が末梢神経へ移ったような病的な生活の反映であるといってよい。そこに作者の現わそうとするのは、現実の深い生に触れて得られた Vision ではなく、疲れた心を襲う荒唐な悪夢の影である。そこには人間的なものは現われていない。女の顔を刻んだ面すらも、天平の天狗の面よりはもっと非人間的である。従って芸術としての力ははるかに弱い。
かつてわたくしはH氏のところで、天平伎楽面の傑作の一つを親しく手にとって賞玩したことがある。その頬の肉付けの、おおらかにゆったりとした、しかもこまかい濃淡を逸していない、落ちつきのある快さ。目や鼻や口などの思い切って大胆な、しかし自然の美しさを傷つけない巧妙な刻みかた。皺として彫られた線のゆるやかなうねりと、顔面凹凸の滑らかな曲面の感じとの、快く調和的なリズム。そうしてその弾力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。それをながめていると、顔面に漂うている表情から、陶酔にやや心を緩うしているらしい曇りのない快活な情緒が、しみじみ胸にしみ込んで来る。生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生命の放出して来るような感じが、ここにも確かに存しているように思える。しかも相手が人間ではなくて彫刻であるために、そこに一味の気味わるさが付きまとっている。
そのときH氏が、その仮面をとって自分の顔の上につけた。この所作によって仮面は突然に異様な生気を帯びはじめた。ことに仮面をかぶったH氏が少しくその首を動かしてみたとき、顔面の表情が自由に動き出したかと思われるような、強い効果があった。わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられて、思わず驚異の眼をみはった。
仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのでなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。ここではじめてわたくしは、仮面を何ゆえに大きくしたかを了解した。そうして、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな大きさであったことを思い出し、この種の仮面の効用と大きさとの間に必然の関係のあることに思い到ったのである。
後代の仮面が天平の伎楽面に比して著しく小さくなっているのは、その用いらるる舞踏や劇に著しい変化のあったことを語るものであろう。
わたくしはこの時の強い印象によって、天平時代に伎楽面を用いた伎楽が、音楽と舞踏とから成る所作事であったに相違ないという考えを抱きはじめた。いま数の多い伎楽面を一々ながめ味わってみると、このさまざまな表情のうしろにそれぞれ所作事における役割を感じ出せるように思う。
伎楽演奏の記事は『続紀』にもところどころに現われている。それによると、諸大寺供養の際のみならず、また宮中の儀式や饗宴の際にも演奏され、時にはその演奏自身を目的とする催しもあったらしい。孝謙女帝が幸山階寺奏林邑及呉楽などはこの類であろう。しかし『続紀』は単に名を挙げるのみで、内容の記述に及んでいない。伎楽がいかなるものでありいかにして演奏されたかは、他の書によって知るほかはない。そこで問題となるのは、あの仮面を保存していた東大寺の『要録』である。ここではそれに基づいて、できる限りの想像を試みてみよう。
まず舞台である。大仏開眼供養の記事には舞台の記述がまるでないが、貞観三年の「開眼供養記」はかなり具体的にその構造をしるしている。この開眼供養は大仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のことで、最初の開眼供養からすでに百年以上の年月を経たのちである。その間に文化一般の非常な変遷があり、それに伴って音楽の大改革もあった。従ってこの際の記述をもって直ちに天平時代の光景を推測することはできない。しかし幾分の参考にはなるであろう。第一に舞台は戸外に設けられた。すなわち大仏殿前の広場である。これは天平時代にも同様であったらしい。楽人たちが左右に分かれて堂前に立ったという記述からそう推測しても間違いはあるまい。次に舞台は木造の高壇であった。方八丈、周囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。舞台上東西には宝樹八株ずつを植え、その側に礼盤一基ずつを据える。他に玉幡をかける高座二基、高さ三丈三尺の標一基などが、恐らく舞台の近くに設けられたらしい。また別に広さ二丈長さ四丈の小舞台が、大殿中層南面に造られた。これらの構造が天平時代にもあったかどうかは疑わしい。少なくとも開眼供養の時には、踏歌の類はじかに庭の上で演ぜられたのである。東西発声、分庭而奏(続紀)とある。伎楽などのために別に舞台が設けられていたかとも思われるが、どうも明らかでない。
舞台の他にはなお幄(天幕)が設けられた。貞観の時は東西三宇ずつで、それが楽人・勅使・諸大夫等の席になっている。天平の時には開眼師・菩提僧正以下、講師・読師が輿に乗り白蓋をさして入り来たり、「堂幄」に着すとある。また衆僧・沙弥南門より参入して「東西北幄」に着すとある。貞観の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を設けたが、天平の時にはまだ歩廊ができていなかったので、それだけ多くの幄舎を設ける必要があったのかも知れない。
これらの設備を含む大仏殿前の広場は、濃い単色の衣を着飾った天平の群集によって取り巻かれた。僧尼の数は一万数百人としるされているが、他に数千の官人も参集したであろうし、また一般の民衆も、たとい式場にはいることはできなかったにしても、この大供養の見物に集まって来なかったはずはない。そこで華やかな衣の色が一面に地を埋め、東大寺の伽藍はこの色の海の上に浮いていたことになる。もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。現在は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった。またこの堂に対して、中門の外側の左右には三百二十尺の高塔ができかかっていた。これらの堂塔の大きさは、ただ想像するだけにも骨が折れる。この雄大な建築と、数知れぬ人の波との上に、うららかな初夏の太陽が、その恵み深い光と熱とを注いでいたのである。
開眼の式がすむ。講読がおわる。種々の楽が南門柱東を過ぎて参入し、堂前を二度回って左右に分かれて立つ。そこでいよいよ舞台が衆人注意の焦点に来る。まず現われたのは日本固有の舞踏である。最初のは『続紀』に五節儛とあり、『要録』に大歌女、大御儛三十人とある。天の岩戸の物語と結びつけられているあの「踏みとどろかす」ところの踊りであろう。次は久米舞、大伴二十人佐伯二十人、――武人が武具をたずさえての古風な踊りである。次は楯伏舞四十人、これも武人の踊りで、手に楯をもって節度を刻んだものらしい。次が踏歌(あるいは女漢躍歌)百二十人、これは女が二組に分かれて歌いながら踊るのであろうが、『釈日本紀』の引用した説によると歌曲の終わりに「万年阿良礼」という「繰り返し」がつくので、たぶん藤原時代以前から俗にこの踊りを阿良礼走りと言った。走るというのだからほぼ踊りかたの想像はつく。これらの歌舞が一わたりすむと、その次が唐及び高麗の舞楽である。演奏の順序は唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽、――かくしてついに日が暮れる。
さてこれらの楽と舞とがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焦点である。われわれの前にある伎楽の面がこれらの舞楽のあるものに、(少なくとも三つの林邑楽に)用いられたことは疑いがないであろう。正倉院にはこの時の面が保存せられているそうであるが、もとより同じ感じのものであろう。衣裳もこの時のものが残っているといわれるが、詳しくはわからない。天保四年の目録によると、長持のなかに「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる。その中からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。貞観供養の記録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの言葉が見え、またその材料らしく調布三百二十反、絹八疋、唐錦九尺、紗一疋、青摺衣二領、鞋十足などもあげられているが、弘法滅後の風俗変遷を経た後の貞観時代にどれほど天平の面影を残していたかはわからない。唐衣という言葉はその衣の起源を示すのみで、必ずしも唐風の忠実な保存を意味してはいないのである。いわんや藤原後期の舞楽装束が、天平のそれを推測する根拠となり得ないのは言うまでもあるまい。従って最もたしかなのは、天平の画によって想像することである。そこに描かれている衣裳は、肉体の輪郭やふくらみをはっきりと浮かび出させ、筋肉の表情を自由に外に現われしめるような、柔らかく垂れ下がったものであるが、伎楽の衣裳もそういう類ではなかったかと思われる。特にインドの風を現わしたものはそうでなくてはならなかったであろう。貞観の供養にさえも菩薩などは仏像彫刻と同じような扮装をしたらしい。まして、唐風流行の天平時代に、西域風、インド風やペルシア風などの衣裳を大胆に用いたとしても、少しも不思議はない。
舞台上の所作については、貞観の「供養記」がその幾分を伝えている。午二剋に、人鳥の扮装をした東大寺林邑楽が、供物をささげ、東西二列に分かれて舞台から堂上へと静かに歩いて行く。舞台には一疋の大きい白象が立っている。その背に造られた玉台の上には、白い肌のあらわな普賢菩薩が、彫刻や画にある通りの姿をして、瞑想に沈んでいる。やがて伽陵頻伽の人鳥が供物を仏前にささげて帰って来ると、誦讃の声につれて菩薩が舞い出す。伽陵頻伽も二行に対立して、楽を奏しつつ舞う。――その次は胡楽(あるいは古楽)である。多門天王が従鬼十四人をひきいて(あるいは王卒と十二薬叉とをひきいて)現われる。二人は大桃を、二人は大柘榴を、二人は藕実を、二人は大扆をささげている。弓を持つもの鉾を持つもの、斧を持つもの、棒を持つものが一人ずつある。また同時に吉祥天女が天女二十人をひきいて現われる。内十六人は各造花一茎をささげ、他に如意、白払、厲扇等を持つものがある。天王薬叉も天女も皆彫刻や画にある通りの扮装をしていたと考えていい。彼らも東西二列となって舞台から仏前に至り供物をささげて再び舞台に帰ってくる。そこで王卒・薬叉の類は舞台辰巳角に立つ。天女十六人は左右に分かれて舞を舞う。――次は天人楽である。大自在天王が天人六十人をひきいて現われる。二十人は天衣綵花を盛り、四十人は音楽を調べる。東西に別れて舞台に列び、仏を讃歌していうには、
仏身安座一国土 一切世界悉現身
身相端厳無量億 法界広大悉充満
讃歌がおわると天人らは綵花を散らし始める。繽紛として花が浮動する。次いで天人が舞う。退場。
舞はまだ午四剋から酉四剋まで続くのであるがあとは略して右の三例を考えてみよう。前の二つは記録にも明らかに新作だとことわってあり、後の一つも華厳経の句を讃歌に使ったところから推して大仏供養のための特殊なものであったことが察せられる。作者は唐舞師、笛師などとあるから、雅楽寮の役人であったかも知れない。舞の振りや楽の旋律を無視して論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えると、恐らく活人画を去ること遠くないものであったろう。それは経典と仏像とから得た幻想のきわめて素朴な表現であって、特に芸術家の創造力を示したものではない。貞観の初めは恵心院源信の晩年であって、来迎図に現われたような特殊な幻想がすでに力強く育っていた。右の諸作にもこの傾向は著しく認められる。もしこれを日本化というならば、これらの舞楽はすでに日本化せられたものである。従ってそれらはあの大きい伎楽面に似合うよりは、むしろ後代の平凡な小さい仮面に似合うものと言ってよい。とすれば、われわれは貞観の『供養記』からしては天平の伎楽面にふさわしい伎楽を見いだし得ないのである。
天平の伎楽と貞観の舞楽との間に右のごとき区別が生じたのは、貞観供養より先だつ二三十年、弘法滅後の仁明帝前後の時代に行なわれた音楽の大改革のゆえであろう。この時代には高麗楽のみが栄え、伎楽も林邑楽もその独立を失った。そうして新しく唐新楽(羯鼓楽)が起こり、高麗楽と共に左右楽部として雅楽なるものを形成した。そこで新作改作が盛んに行なわれ、新しい日本的外国楽が成立するに至ったのである。この機運が神楽や催馬楽などにも著しく外国楽を注ぎ入れたところから見ると、当時の日本化は、外来の音楽・舞踏のうちから特に日本人(すなわち帰化人が帰化人として目立たなくなったほど混血の完了した平安中期の日本人)の趣味に合う点のみを抜き出して育てることであった。だから偉大なものも、彼らの趣味に合わない限り、捨て去られる。伎楽のごときはこの意味で骨抜きにされたのである。
林邑楽はインドの舞曲で、特にバラモン教の畑に育ったものらしい。しかし仁明時代の変革でそのバラモン的香気を失ったことは、貞観供養の林邑楽を見てもわかる。だから貞観以後百年二百年を経た時代に盛んに行なわれた舞楽は、たとい林邑の名を存していても、全く別物であったと考えなくてはならない。『舞楽要録』によると、舞楽の最盛期であった藤原時代後半の数多い舞楽演奏は、二三の例外を除いてほとんど皆林邑楽の陵王(左)納蘇利(右)をプログラムの最後に置いている。また胡飲酒、抜頭などの林邑楽をその中間に加えることもまれでない。しかしこれらの林邑楽は、どの記録から推しても、あまりに繊細な規矩に束縛されている。貞観時代には素朴ながらも自由な幻想のはたらきが許されていた。今やその自由さえも地を払っているのである。鎌倉時代はあの別種な仮面を製作した時代であるから、古の舞曲に対する正しい理解があったとは思えないが、少なくとも藤原末の伝統は保たれていたであろう。この時代に音楽生藤原孝道によって書かれた『雑秘別録』なるものを読むと、当時の音楽界の雰囲気がうかがわれる。孝道をしてこの書を書かしめたのは、音楽を覆いかくす「秘伝相承」への反抗である。「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひても覚えず」というのが彼の主張であった。しかし彼自身の関心も要するにこの種の秘伝の範囲をいでなかった。胡飲酒について彼はいっている、「まことに舞にとりて異なる秘蔵大事の物とかや。これを舞ひつれば勧賞をかぶる。見たるにたゞ同じ体にていづくに秘事あるべしとも見えねども、折々振舞ひて出入りにつけて秘蔵の事どもありとかや。」そうして彼が熱心に物語るのは、藤原末における相伝の歴史である。雅実の日記に「忠時こいんず舞ふ。相伝なき事どもあり。自由らうぜきのおのこなり」とあることなども引用せられている。相伝が結局芸術の生命を萎微させたのであるにかかわらず人々の注意はこの相伝を得ることに集まって、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。だから「すぢなきことは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」といわれる。菩薩舞のごときは、「白河院の頃までは、天王寺の舞人まひけれども、させることはなくて、大法会にかりいだされけるを、むつかしがりて、のち伝はらずなりて、今はなしとかや。」これは技巧の末に拘泥する芸術の末路である。舞楽として残存していたものは、もはや天平の活き活きとした大きい芸術ではない。
天平の伎楽面と鎌倉の伎楽面との間に、芸術的気禀の根本的相違を認め、また生の根をつかむ能力の比較にならぬほどな径庭を許すならば、以上のことは何らの考証なくしても是認せられるだろう。
では何によってあの天平伎楽面の用いられた舞曲を想像し得るのであるか。それはあの伎楽面自身によってである。天平時代にはあの伎楽面を用いて伎楽が演ぜられた。伝説によると菩薩あるいは仏哲がインドの舞曲、菩薩舞・菩薩・部侶・抜頭楽の類を伝え、開眼大会の時に演ぜられて来集貴賤を感嘆せしめた(東大寺要録二)。岡部氏の研究によると、抜頭舞はベーダの神話にあるペドュ(Pedu)王蛇退治の物語を材料としたもので、抜頭はペドュの音訳であるか、あるいは王がアスヴィンの神からもらった名高い殺蛇の白馬(馬はパイドュ Paidu)の音訳であろうとのことである。足利末にできた『舞曲口伝』には、「この曲は天竺の楽なり。婆羅門伝来なり。一説。沙門仏哲これを伝ふ。唐招提寺にありと云ふ。また后嫉妬の貌といふ」とある。また按摩舞の按摩は Amma すなわち母の義で、シヴァ神の配ドゥルガを意味し、按摩舞はシヴァとドゥルガとが宴飲して酔歓をつくすさまを現わすのだそうであるが、『舞曲口伝』には「古楽。面あり。深重の口伝あり。この曲は承和御門御時(孝謙女帝崩より六七十年後)、勅を奉じて大戸清上これを作る。但し新製にあらず。その詞を改直せしなり。陰陽地鎮曲といふ」とある。詞をなおしたという以上はもとから詞があったに相違ないが、舞曲に詞があったとすると、そこに何らか所作事の要素があったことを認めなくてはならない。そこであの伎楽面の印象が有力な緒になる。あの伎楽面のどれかがペドュ王である、どれかが竜王である。またどれかが偉大なる陽神シヴァであり、偉大なる母ドゥルガである。そうしてこれらの仮面をかぶった役者が、あるいは竜馬格闘の状を、あるいは男女酔歓の状を演出したのである。
林邑楽には右のほかに迦陵頻、陪臚破陣楽、羅陵王入陣楽、胡飲酒(酔胡楽)などがある。これらもバラモンの神話から説明のできるものであるかも知れない。
しかしあの数多い伎楽面は、林邑楽だけでは解決がつかない。そこで前に引用した奏林邑及呉楽の呉楽を問題にしてみよう。呉楽は、すでに推古時代に、百済人味麻之が輸入したと伝えられているが、天平の呉楽と同一であるか否かはわからない。しかしとにかくここに林邑楽とならべられている呉楽は西域楽だろうといわれている。『大唐西域記』屈支(亀茲)国の条に「管絃伎楽特善諸国」とある、この伎楽が我が国に渡来した呉楽だというのである。腰鼓仮面の類は六朝以前のシナには全く伝統がなかった。そうしてそれは西域楽の特徴である。シナから伎楽が伝わったとすればこの西域楽のほかにないであろう。林邑楽は南から海を伝って来たインド楽であるから、それとならべられている呉楽は西から陸を伝って来た西域楽でなくてはならない。西域の伎楽は、西域の芸術がすべてそうであるように、インドやギリシアの影響からできたもので、仮面のごときもインドを通じてギリシアの伝統をうけたものと見られぬことはなかろう。仮面とさえいえばギリシアへ持って行くのを笑う人もあるが、ギリシア劇が北インドや中央アジアにはいったことは、後説に説くように、きわめてありそうなことなのである。伎楽の楽器として立琴や笛や銅鈸子のあることもこの点から見て軽視はできない。
呉楽がいかなるものであったかということは、猿楽・田楽より能にまで至った仮面の伝統と結びついて興味ある問題である。なぜなら最初呉楽を家業とした大和城下郡杜戸村の楽戸から後に新猿楽が起こったからである。楽戸はその家業を左右の楽部に譲った後にも、なお鼓笛を用いて散楽をやった。この散楽は一説によると、日本古来の道化戯である散更と唐の道化戯である散楽との混和したもので、それが音便の上からも連想の上からも猿楽となったらしい。しかし杜戸村の楽人たちがそこに彼らの家業であった伎楽を加えなかったとは言えまい。少なくとも仮面は散更や散楽から出たものではない。散楽の図なるものには仮面を用いた姿は見えていない。だから能の面は伎楽が猿楽のうちに保存せられていたことの証拠になるのである。
猿楽の芸は滑稽を主とし、踊りや軽業の他に筋のある喜劇をもやった。狂言はその系統を引いたものであろう。『源氏物語』のできた時代に生きていた藤原明衡の『新猿楽記』によると、当時の曲目の一部は、「京童の虚左礼」、「東人の初京上り」、「福広聖の袈裟求」、「妙高尼の襁褓乞」、などのごとく、明らかに「伎」であり、また「喜劇」であった。明衡はこれらの喜劇の役者を一々品評して、誰は舞台に上るともうその姿だけで見物を笑わせるとか、誰は初めに沈んでいるが劇の進行とともに熱を帯びてくるとかと言っている。この喜劇が散更・散楽等の道化戯・軽業などよりもむしろ伎楽の伝統を引いているだろうということも考えられぬではない。猿楽の本座が杜戸村で、近江・丹波の猿楽も畢竟ここから出たものに過ぎぬ以上、この想像は避け難い。
また雅楽が宮廷の保護のもとに立っていたに反して、猿楽が仏寺や神社にたよって生きつづけたということも見のがしてはならない。前者は貴族の趣味に従って変遷する。後者は中流以下の一般人の要求に応じて変遷する。平安藤原の民衆にとって仏寺や神社の祭典がいかに意味の深いものであったかを思えば、その祭典に重大な役目をつとめた猿楽は、文化の徴証として、雅楽に劣らず価値のあるものである。
猿楽のほかになお田楽があった。その起源については学者の間にも異説があるが、往古の田儛と直接の関係を持つにしても持たないにしても、とにかく農人の間から起こった快活な舞踏であることは確からしい。その楽芸としての発達が猿楽よりもはるかに後のことであるところを見ると、それが猿楽から分かれたものだという見解は必ずしも斥けるべきでない。先に引いた『新猿楽記』には、猿楽の伎のうちに「田楽」を数えている。ただ猿楽が専門家の伎として行なわれた間に、田楽が農人の楽しみとして、すなわちみずから踊るべきものとして、別の方向に進んだという差異はある。『栄華物語(御裳着の巻)』には『新猿楽記』と同じ時代の田楽を描いているが、それは田植えの日の行列や田植えの労働などに対して楽隊の役目をつとめたものである。まず五六十人の若い女が白い「裳ころも」、白い笠、顔には薄紅の白粉を厚く塗り歯はおはぐろで黒く染めて、田植えの場所へと並んで行く。続いて田あるじの翁が怪しげな着物に紐も結ばず、破れた大笠をさし足駄をはいて悠然として練って行く。そのあとにはまた変な体つきをした女どもが、古びて黒ずんだ総紅の練絹の着物をきて、白粉を真白にぬり、かずらをつけ、足駄をはき笠をさして続いている。その次が田楽である。十人ばかりの「あやしの男」が、「田楽」という妙な鼓を腰につけ、それを笛や佐々良に合わせて鳴らしながら、さまざまに踊り歌い、「心地よげにほこつて」いる。最後には食物がはいっているらしい桶・折櫃や、いろいろ珍しいものを持った男が並ぶ。――やがて田について田植えが始まると、途中は幾分つつましげにしていた田楽の連中が、思うままに楽器を鳴らして、踊ったり歌ったり、大騒ぎになる。これが農人の労働を愉快なものにしようとする企てであったことは明らかで、田を植えつつ歌う農人の歌も、恐らくこの田楽の音頭に従ったものであろう。この種の文字通りな民衆芸術は、漸次その勢力をひろめないではいなかった。右の出来事の後七十年余で起こった田楽の大流行は、『洛陽田楽記』によると、不知其所起、初自閭里及公卿。京都の諸坊、諸司、諸衛が、おのおの一団となって、田楽を踊りながら、寺へ詣り、街衢をうろつくのである。高足一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子、編木、殖女養女の類、日夜絶ゆることなしとある。高足一足は散更だと言われているが、しかしギリシア劇の cothurnus の伝統を引いたものでないとも言えまい。腰鼓は前に言ったごとく西域の楽器である。振鼓は tambourine 銅鈸子は cymbal であろう。さてこの田楽に繰り出す連中は、富者は産を傾けて錦繍を衣とし金銀を飾りとし、朝臣武人らはあるいは礼服をつけあるいは甲冑を被り、隊をくんで鼓舞跳梁した。検非違使さえも、法令の禁ずる摺衣を着けて、白昼の大道を踊り歩いた。蓬壺の客もまた一団となって繰り出した。僧侶、仏師、経師なども、群をなして、帽子繍裲襠という装束で、陵王・抜頭などの林邑楽を舞った。当時の高官にも、九尺高扇、平藺笠、藁尻切などで押し出す人があった。その家来に至っては、裸で紅い腰巻とか、髻を解いて田笠をかぶるとか、ほとんど正気の沙汰と思えなかった。一城の人皆狂せるがごとし。蓋霊狐之所為也。と記されている。――このような狂熱は一時のことであろうが、しかしこれによっても田楽の勢力は察せられる。もっともこれはまだ一種の仮装舞踏以上にいでていない。猿楽に比べればなおはるかに単純である。しかし僧侶が林邑楽を田楽に持ち込んだとあるごとく、すでに田楽法師の出現は準備されている。次の時代に至って猿楽の能と共に田楽の能が始まったのは、田楽の専門化、すなわち猿楽への接近を示すのである。ただ専門家が法師であったということが、題材や想念の上に特殊な伝統をつくって、比較的に仏教と縁の遠い猿楽に対立したのではないかと思う。
わたくしはかつて謡曲や狂言を読んでインド劇との関係を空想したことがある。確かにそれは空想である。しかし能に伝わった仮面の伝統を右の経路によってさかのぼって行くと、少なくともそれが天平の伎楽まで到達することは疑えない。たとい能狂言の発達を純日本的のものとして考えるにしても、すでにその想念や題材がシナ・インドの文化の上に立っている以上、その劇的構造もまた同様だと見られぬわけはない。だからまた逆に、能狂言を参考として、天平の伎楽を空想することもできるであろう。
能の面は伎楽面に比べれば全然別種の原理に基づいたものである。それと同じく能楽もまた伎楽とは全然別種のものであろう。だから伎楽の優れた点が能楽の時代に消滅し去ったということは考えられる。総じて天平の偉大な芸術は、順当な開展を伴った伝統とはなっていないのである。能狂言が長い進歩の結果として現われたとしても、それが必ずしも天平の伎楽より優れたものだとは言えない。彫刻や絵画や詩歌などにおいてしかるがごとく、伎楽もまた劇として能狂言以上のものであったかも知れない。
伎楽をギリシア劇と結びつける空想は伎楽面自身から得たものであるが、右に述べたごとく伎楽がインド楽であり西域楽であるとなれば、単に根のない空想ではなくなってくる。
伎楽として受け容れられたインド楽西域楽は、音楽と舞踏とであって、劇的構造を持ったものではなかった、という観察もできるであろう。しかし音楽に伴ってシヴァとドゥルガが踊る、しかもそこに「詞」がある。それが一種の劇であり得ないはずはない。
ではこのインド西域の劇がギリシア劇の伝統を引いたものだということはどうして言えるか。ここでは彫刻の場合のように目に見える証拠を挙げることはできないが、しかしその関係はほぼ同じだと思う。ギリシア劇はアレキサンドロスの東征のころから紀元後へかけて北インドや大夏やペルシアで盛んに行なわれた。大夏はギリシア人の建てたバクトリア国で、中央アジアから西へ山脈を超えたところにある。ペルシアはローマ帝国との交渉が多かっただけに、劇の影響も著しい。ペルシア王がギリシア風の悲劇を作ったとか、ローマの将と共にディオニュソスを祭ってギリシア悲劇を演ぜしめたとかいうのは、二二六年にササン朝が起こった後のことである。北インドではギリシア人が王国を建てたのが紀元前一世紀で、仏教なども非常な影響をうけた。紀元前後の時代以後に作られた仏教経典、特に大乗経典はギリシア芸術の感化によっていちじるしく形式を変えて来た。仏礼拝の儀式も同じくこの感化によって新しく芸術的に組成されたと見てよいであろう。バラモンの文化も著しい影響をうけた。この文化はもともとギリシア文化と同じ根から出たものであるからその影響もうけやすかったと言ってよい。紀元前五六世紀ごろ、ウパニシャド製作の時代に極度の形而上学的思弁に化しおわったバラモン教は、生の実感に充ちた仏教によって一時押されたが、しかしギリシアの神々に似た人間的な神を崇拝する古昔の伝統は、なお一般に勢力を持ちつづけ、ヴィシュヌ、シヴァ等の崇拝となって紀元後に及んだ。仏教興隆で有名なカニシカ王の前に初めて北インドを征服した月氏の王はインドに入ると共に狂熱的なシヴァ崇拝者となった。カニシカ及びその後嗣の代を過ぎて、次の王は再びシヴァ崇拝に帰った。このようにシヴァ神が勢力を持っている北インドで新しく造られた宗教であるがゆえに、大乗仏教は著しく古昔のバラモン神話を取り入れたのであるとも言える。と共に当時のシヴァ崇拝もギリシア風宗教の影響を受けたものとなっていたであろう。その証拠に月氏についで北インドを統治したグプタ朝のバラモン的インド教は、古昔のバラモン教と全然面目を異にして、むしろディオニュソス礼拝やアフロディテ礼拝に近い。西方の密儀を思わせる点もある。もっともこれらは、かつてインドから西方に輸出したものが、西方でやや変形せられて、再びもとへ帰って来たのだとも見られる。いずれにしてもギリシア人月氏族などの混融している北インドで、五百年ぶりに主権を取り返したインド人が、いかにバラモン文化の復興を企てたところでもう純粋にバラモン的であり得るわけはない。グプタ朝の芸術がインド芸術の絶頂であるのは、永い間の文化混融がそこに結晶したからである。この雰囲気を眼中に置いて考えれば、悲劇とディオニュソス崇拝とを直ちにインド劇とシヴァ崇拝とに結びつけて考えても、さほど唐突ではない。インド劇の舞台構造にはギリシア劇の痕跡が残っている。そうしてこのインド劇のあるものはシヴァ神への祈祷をもって始まるのである。もとよりディオニュソスとシヴァは、共に生の力の表現者として破壊と生殖とに関係あるものではあるが、時と所を異にするだけの相違は持っている。それと同じくインド劇もギリシア悲劇と同一ではない。インドに影響したのはギリシアの悲劇的精神ではなかった。むしろあの鮮やかな幻想の具体性や、官能の美に対する鋭い感覚や、その他自然的、人間的なギリシアの特徴全部をもってしたのであった。特に劇については、インドに入ったギリシア劇が、主としてヘレニズム時代の新劇であったことを考えねばならぬ。インド文化の特質が超自然的・超人間的な点にあるとすれば、それは劇の産出に最も不向きなものであるが、たといそうでないとしても、あの空想の過冗なインド人の性質は、依然として劇に向かない。たまたまギリシアの新劇が、近代劇にも劣らないほど写実的であったために、その力強い影響によってインドの題材をも戯曲化し得るに至ったのであろう。紀元後五世紀ごろグプタ朝の最盛期に出たカリダアサの戯曲は、ヘレニズムよりルネッサンスに至るまでの欧州に全然その匹儔を見ないほどの傑作だと言われているが、自然と人間とを超越しようと企てるインド風の生活を題材としているにかかわらず、描写の仕方は決して超自然的超人間的ではない。人間の自然性を如実に写す点においてはシェクスピイアにさえも比肩し得るといわれる。この狭い意味のインド的でない戯曲がギリシア劇の伝統をうけていることは明白である。ヨーロッパにおいて千年後になされたことを、インドではすでにこの時になし遂げているのである。
この種のインド劇の隆盛が、陸からは西域に、海からはインドシナに、勢いよく響きわたったのは当然である。しかしカリダアサなどの傑作が海外へ伝えられたというのではない。他に多くの凡作もあったであろうし、また専門の俳優を必要としない程度のものが伝えられたとも考えられる。ことにこれらの劇は仏教の伝道に伴ったものであるから、伝道に都合のいいようなものだけが選ばれたということも考えなくてはならない。
シナとの交渉は恐らく唐太宗以前にもあったであろう。グプタ朝の最盛期は北魏の時代に当たっているが、その時代には西域人の来朝が少なくない。しかし東西交通の繁栄は、太宗の領土拡張後に特に著しい。この時代になると、仏教のみならず、西方の文化全体が勢いよく流れ込んで来た。インド劇も恐らくこの例に洩れないであろう。
中唐玄宗の時代に至っては、外国文化の流入はさらに盛んであった。貴人の食膳にはインド料理、ペルシア料理、ローマ料理の類までも珍重せられる。士女はみな競うて西方の(恐らく準ギリシア風の)衣服をつけた。天宝の初め、すなわち天平十二三年以後には、一般民衆までが西方の風を好み、女の服装などは、当時の俑(土人形)に見ても明らかであるごとく、ほとんどギリシア風に近かった。そうしてこの時代に西方伝来の新音楽が尚ばれたことは、明らかに記録に残っているのである。
それがわが天平時代の唐の情勢であった。そうしてその唐が当時の日本人の憧憬の的であった。有為な青年が群をなして留学する。唐人も頻々としてやってくる。インド人ペルシア人までもくる。インド劇が伝わるぐらいは何でもない。
しかしインド劇が劇として伝えられたかどうかは疑問である。人々の関心の対象は仏教であった。仏教はインドではもう下り坂でより熱心な仏教国へ流れて行こうとしていた。それをちょうどシナが迎え取った。有為な僧や美術家はそれに伴って東漸したのである。しかしバラモン文化は伝道の傾向を持たないのみならず、また国外に出る必要もなかった。だから本格的なインド劇が国外に押し出してきたとは考えられないのである。恐らくそれは仏教の儀式に摂取せられた限りのインド劇の要素に過ぎなかったであろう。伎楽はだから十分な意味で劇とは言えないであろう。しかしたといページェント式のものであったとしても、その背後には十分に発達したインド劇が控えていたことを忘れてはならない。
十一
カラ風呂――光明后施浴の伝説――蒸し風呂の伝統
法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。わたくしはこれまでこの「カラ風呂」なるものの存在をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途中で車夫から初めて教わったのである。谷を距てて大仏殿が大きく見えている坂の中腹に歩廊のような細長い建物のあるのがそれだった。大仏鋳造や大仏殿建立の大工事の時に、病を得た工匠・人夫の類がそこで湯治をしたと言われている。その「カラ風呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。
浴室は本堂の東方に当たる庭園のなかにあって、三間四方(?)ぐらいの小さなものであるが、内部の構造は全然わたくしの予期しないものであった。床は瓦を敷きつめ、中央にはさらに三尺ほどの高さの板の床を作り、その上に屋根もあり板壁もある小さい家形が構えられている。言わば入れこにした箱のように、浴室のなかにさらに浴室があるわけである。その側面は西洋建築の窓扉と同じやり方のもので、全体の格好が測候所などの寒暖計を入れる箱に似ている。だから中は暗い。それへはいるには、三四段の梯子をのぼり、身をかがめて、狭い入り口から這い込んで行くのである。中には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でもなくしゃがんでいられるらしい。これがつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになっている。純然たる蒸し風呂である。
この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西洋竈風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用するコンクリート造りの長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これによって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したということは確かではなかろうか。
この浴室の楣間に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏体疥癩の病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立している図である。光明皇后の十二ひとえも時代錯誤でおかしいが、この蒸し風呂の設備と相面して銭湯風の浴室が画いてあるのは、愛嬌を通り越してむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のところわれわれは光明皇后施浴の伝説を、漠然とこの図のように想像していたのである。施浴が蒸し風呂であるとすると、われわれも考えなおさなくてはならない。
蒸し風呂が医療に役立つことは古くから知られていた。今でも一種の物理的療法として存在の意義を持っている。天平時代に著しいヒステリイ風の病気や、その他全身の衰弱を起こすさまざまの病気が、蒸し風呂によって幾分治療せられたろうことは想像するに難くない。とすると、蒸し風呂を民衆に施すことは、慈善病院を経営するのと同じ意味の仕事になる。慈悲を理想とした皇后がこのような蒸し風呂の「施浴」を行なわれたということは、きわめてありそうなことである。その際皇后が周囲の人々に諫止せられる程度の熱意を示して、自らこの浴場に臨んで何事かをされたということもあり得ぬことではない。しかし伝説は単にそういう「施浴」を語るだけにとどまってはいないのである。『元亨釈書』などの伝える所によると、――東大寺が完成してようやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜閤裏空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、恠喜して温室を建てられた。しかしそればかりでなく同時に「我親ら千人の垢を去らん」という誓いを立てられた。もちろん周囲からはそれを諫止したが、后の志をはばむことはできなかった。かくて九百九十九人の垢を流して、ついに最後の一人となった。それが体のくずれかかった疥癩で、臭気充室というありさまであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ということにひかされてついに辛抱して玉手をのべて背をこすりにかかられた。すると病人が言うに、わたくしは悪病を患って永い間この瘡に苦しんでおります。ある良い医者の話では、誰か人に膿を吸わせさえすればきっと癒るのだそうでございます。が、世間にはそんな慈悲深い人もございませんので、だんだんひどくなってこのようになりました。お后様は慈悲の心で人間を平等にお救いなされます。このわたくしもお救い下されませぬか。――后は天平の美的精神を代表する。その官能は馥郁たる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れている。いかに慈悲のためとはいっても癩病人の肌に唇をつけることは堪えられない。しかしそれができなければ、今までの行はごまかしに過ぎなくなる。きたないから救ってやれないというほどなら、最初からこんな企てはしないがいい。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に押しつけられた后は、不得已、癩病の体の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた。そうして膿を吸って、それを美しい歯の間から吐き出した。かくて瘡のあるところは、肩から胸、胸から腰、ついに踵にまでも及んだ。偏体の賤人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみな吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。――病人の体は、突然、端厳な形に変わって、明るく輝き出した。あなたは阿閦仏の垢を流してくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。
これは誠にありがたい話で、嘘にもこういう伝説を負うた皇后のあることはわれわれの誇りである。『元亨釈書』の著者虎関和尚はこの話を批評して、温室を造るのはいいが、垢を流したり膿を吸ったりするのはよけいなことだ、そんな些細なことをしなくても、堅誠あるものは造次顛沛みな阿閦を見るといっているが、これはどうも承服し難い。去垢吸膿の類は後世の仏家の仮構であろうというのならばわかるが、この話を真実としておいて、その上で、そんなことはよけいなことだ、女のくせに千人の垢を流すなどは女の道にはずれている、というのは、この話に現われた宗教的興奮を無視するものといわなくてはなるまい。生温い心持ちで癩病人の膿などが吸えるものではない。
が、もとよりこれは伝説である。しかも宗教的伝説として型にはまったといっていいほどのものである。しかしそういう伝説が蒸し風呂の知識の上に立って語られたとすると、逆に伝説の方から蒸し風呂のやり方を推測することもできるであろう。あの狭い暗い浴槽へはいって蒸気に蒸されながら民衆の垢を流してやるなどということは、とてもできるはずのものでない。従って垢を流すのは、浴槽の外の流し場においてであろう。十分に蒸気にむされて、体じゅうの垢がことごとく外に流れ出たような気持ちになって、浴者が浴槽から出てくる。しかし浴者はむされたためにぐったりとなっている。その体をたとえばギリシアの Strigil のような、木か銅かで造った道具でもって、ぬぐってやるというようなやり方であったかもしれない。そういうやり方でならば、皇后が浴室に入って民衆の垢を取ってやるという場面を想像したとしても、さほど驚くに当たらない。
しかし重大なのはこの時の浴者の心持ちである。自ら蒸気浴を試みてみたら、その見当がつくかも知れないが、もしそこに奇妙な陶酔が含まれているとすると、事情ははなはだ複雑になる。人の話によると、現在大阪に残っている蒸し風呂はアヘン吸入と同じような官能的享楽を与えるもので、その常用者はそれを欠くことができなくなるそうである。もし蒸気浴がこのような生理的現象を造り出すならば、浴槽から出たときの浴者は、特別の感覚的状態に陥っているといわなくてはならない。ちょうどそこへ慈悲の行に熱心な皇后が女官たちをつれて入場し、浴者たちを型通りに処置されたとすると、そこに蒸気浴から来る一種の陶酔と慈悲の行が与える喜びとの結合、従って宗教的な法悦と官能的な陶酔との融合が成り立つということも、きわめてありそうなことである。天平時代はこの種の現象と親しみの多い時代であるから、必ずしもこれは荒唐な想像ではない。こういう想像を許せば「施浴」の伝説は民衆の側からも起こり得たことになるであろう。
施浴が行なわれるためには、もっと規模の大きい、室の広い、堂々たる温室が天平時代にあったのでなくてはならない。当時の技術からいえばそういう物を造るのはわけのないことである。この大温室の想像の根拠となるものはさしずめ東大寺の湯屋であろう。わたくしは後に筒井英俊君の好意によって大仏殿の北東にある湯屋を見ることができた。これはさほど古いものではないが、しかしかなり大きい、堂々たる建物である。前室と後方の浴槽とに別れていて、その前室は数十人の人を容れることができる。そこは脱衣場にでも、あるいは蒸浴者の処理場にでも、使われ得るであろう。浴槽はやはり蒸し風呂で、これも建物に相応して大きかった。これは恐らく古い湯屋の伝統を伝えたものであろう。これから推測すると、天平時代にはかなりの大温室があり得たのである。
法華寺の蒸し風呂が現代までも蒸し風呂として存続したということは、この寺の本尊が現代までそこなわれずに残存したということほど重大ではないが、しかし些細なことながらも何となく興味が深い。風呂の方が肉体に近く、肉体の方が昔と今とを結びつけるに生々しい効果をもっているというせいでもあろうか。自分でこの蒸し風呂を試みて、その温まり工合や、肌の心持ちや、体のグッタリとする様子や、またありたけの汗を絞り出したあとのいい心持ちなどを経験してみたら、一層その感じがあるだろうと思う。こういう官能的な現象で昔を想像するのはあまり気のきいたことではないが、しかし最も容易な道である。
――あとでZ君に西洋の蒸し風呂の話をきいた。快く暖まっている大理石の腰掛けのすべすべとした肌ざわり、蒸気にむされてグッタリとしたからだ、流るる汗、汗を拭き落とす道具、そうして爽快なシャワア、いかにも気持ちが好さそうで、法華寺の浴室とは大変な違いである。しかしこのトルコ風呂も、もとはアジアから出たもので、あるいは天平の温室と同一の源泉を持っているのかも知れない。ただそれが一つの民族の生活の内に不断に生かされて来たか否かで、これほど著しい相違を造り出したのかも知れない。
十二
法華寺より古京を望む――法華寺十一面観音――光明后と彫刻家問答師――彫刻家の地位――光明后の面影
湯殿の前の庭に立って東の方をながめると、若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳けてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる。またしても幼い時の心持ちがよみがえって来たのである。庭の砂の、かすかに代赭をまじえた灰白の色も、それを踏む足の心持ちも、すべてなつかしい。滑らかな言葉で愛想よく語る尼僧の優しい姿にも、今日初めて逢ったとは思えぬ親しさがある。
何とはなくしめった心持ちになって、麦の間から大仏殿をながめていると、相変わらずまた天平の面影が、想像の額縁のなかにもりあがってきた。
法華寺、詳しくは法華滅罪之寺は大倭の国分尼寺で、光明皇后の熱信から生まれたものらしい。天平十三年に詔が出ているから当時すぐ造営がはじまったとしても皇后はもう四十を超えていられた。それから二十年の間、皇后の特別な愛着がこの寺に集まった。従って尼寺と後宮との交渉が多く、後には孝謙上皇が住まれて仙洞御所のようになったこともあった。そのころは上皇ももう御年が四十六七であった。再び帝位に即かれた後にもなおしばらくこの寺は御所となって、盛んに造営が行なわれた。造法華寺司は光仁帝の時代にもまだ残っていたそうである。
われわれの立っている所に立っていれば、天平時代後半の大事件は大抵手に取るように見ることができたであろう。遷都騒ぎがあって大宮人がぞろぞろと北の方へ行ってしまう。近江では大銅像の鋳造などがはじめられている。古き都は「道の芝草長く生い」世の中の無常を思わせるほどに荒れて行く。そうかと思うとまた大宮人がぞろぞろ奈良へ帰ってくる。そうして大仏の原型などを造るので大騒ぎがはじまる。何千という大工や金工や人足がいそがしそうに働きはじめる。毎日毎日奈良坂の方に材木や銅塊などを運ぶ人の影が見える。足場には土がもられ、その上には鋳銅のすさまじい焔がひらめいている。それが幾年か続く。やがて供養の日になると一万五千の灯で東大寺一円の森の上が赤くなる。歌唄讃頌する数千の沙門の声が遠雷のように大きくうねって聞こえてくる。――東の方が少し静かになって来たかと思うと、今度はまた西の方で唐招提寺や西大寺や西隆寺などの造営がはじまる。奈良遷都の際すでに四十八箇寺あったという奈良の寺々は、このころはもう倍にはなっていたであろう。いかにも仏教の都らしい寺の多さである。
都を取り巻く諸寺の梵鐘が一時にとどろき出た情景を想像してみる。我々は正午に工場の汽笛が斉鳴する感じを知っているが、あれを音波の長い鐘の音に置き換えるとどんな心持ちのものになるだろう。長閑な響きではあっても、やはり生き生きとした華やかな心持ちではなかろうか。奈良の昔の鐘は諸行無常の響きを持っていたとは考えにくい。
伎楽の類は非常な勢いで流行した。皇宮の近いこの土地ではその物音を耳にする機会も多かったであろう。踏歌の類も朝堂の饗宴に盛んに行なわれた。すべてこれらの歓楽の響きを尼寺にあって聞いていた人々の心には、実際はどんな情緒があったのか。歓楽の過冗な時代には、歓楽から目をそむけて真に清浄な生を要求する女が出てくるものである。わが滅罪の寺にもこれらの心からな尼たちが住んでいたのか。あるいは伎楽や読経や観仏やなどによる美的法悦と真に解脱によって得られる宗教的法悦とを合一して考えている当時の「新しい女」が住んでいたのか。それはわれわれには興味の多い問題である。が、しかしそれを知る手がかりがない。
法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。幽かな燈明に照らされた暗い廚子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光った眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最初の印象のためか、この観音は何となく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。胸にもり上がった女らしい乳房。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移って行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠微な蠱惑力を印象するのである。
観心寺の如意輪観音に密教風の神秘性が遺憾なく現われているとすれば、あの観音に似た感じのあるこの像も密教芸術の優秀なものに数えていいであろう。密教芸術には特に著しく肉感性があらわれてくるように思われるが、あらゆるものに唯一真理の表現を見ようとする密教の立場から言えば、女の体の官能的な美しさにも仏性を認めてしかるべきである。しかしこの種の美しさの底に無限の深さを認めることは、女体の彫刻に神秘的な「暗さ」を添えるという結果を導き出した。この観音像がそのすぐれた証拠である。そこには肉感性を敵とする意識と共に、肉感性に底知れぬ威力を認める意識がある。天平芸術の豊満な調和のなかには、かかる分裂は見られなかった。
わたくしは右のような印象のためにこの像を貞観時代の作とする近来の説に同ずるものであるが、Z君はこの像に天平の気分の著しいのを指摘して、天平末より後のものではないという主張をまげなかった。なるほどそう見れば見られぬでもないのである。この像の豊満味が密教芸術のそれよりも朗らかであるということは、いってよいであろう。確かにこの像は正倉院の樹下美人図や薬師寺の吉祥天女画像などの方に近い。右腕の異様に長いのがいかにも密教臭いが、しかし大安寺の女らしい十一面観音なども同じ程度に長い。天平の観音のように直立の姿勢を取らないで、こころもち前かがみになり、右足をまげ、右手で軽く天衣をつまんでいる柔らかい態度も、天平のものでないという証拠にはなり兼ねる。天平末にできた吉祥天女の画像も同じような柔らかい姿勢で立っている。衣紋の刻み方などには確かに関野氏の説のごとく天平風の円さがある。瓔冠や腕環や髪飾などがどうであるにしても、また貞観の刀法がところどころに現われているにしても、それだけで決定的に時代をきめるわけには行くまい。樗牛のごとくこの像の円満特殊な相好が天平時代の特性を現わしていると言い切るのは考えものであるが、この像を天平から全然切り離してしまうのも同様に考えものである。
この像が貞観時代の作であることには疑いの余地はないと思うが、しかし多くの専門家がかつてこの像を天平時代のものとしたことには、相当に同情すべき根拠があるのではなかろうか。
それについてはこの像に関する伝説がわれわれの興味をひく。『興福寺濫觴記』という本は信用のできるものではあるまいが、その中に次のようなことを伝えている。――北天竺乾陀羅国の見生王は生身の観世音を拝みたくて発願入定三七日に及んだ。その時に、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝めという告げがあった。大王夢さめて思うに、万里蒼波を渡って遠国に行くということは到底実現しがたい。そこで再び一七日入定して祈った。今度は、巧匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいいとあった。王は歓喜して、工巧師を派遣した。それが天竺国毗首羯磨二十五世末孫文答師であった。文答師は難波津に着いてこの由を官を経て奏上した。皇后が仰せられるに、妾は大臣の少女、皇帝の后宮である。どうして異国大王の賢使などに逢えよう。しかしわたくしの願いをかなえてくれるならば逢ってもいい。文答師は答えて何でもいたしましょうといった。ちょうどそのころ皇后は亡き母橘夫人のために興福寺西金堂を建てておられたので、文答師にその本尊阿弥陀如来の製作を依頼せられた。文答師は、母公御報恩のためならば釈迦像がよろしゅうございましょう、昔忉利天で摩耶夫人に恩を報ぜられた例がございます、と奏上した。そこで釈迦像にきまった。本朝小仏師三十人が助手になった。脇士も彼によって造られた。皇后は彼の製作場へ行かれたこともある。文答師が見ると、后のからだは女体の肉身ではなくして十一面観音の像に現われている。でそれをモデルにして三躯の観音をつくり、一つは本国へ持ち帰った。あとの一つは内裡に安置したが今は法華滅罪寺にある。もう一つは施眼寺に安置せられている。
この伝説が事実を伝えるものでないことはいうまでもなかろうが、われわれにとって問題となるのは、なぜ光明后をモデルとしたというごとき伝説が生じたか、またその作家がなぜ文答師とされたか、というごとき点である。
問答師は興福寺の現存八部衆十大弟子の作者として伝えられている人である。「問答師」という名であったか否かはとにかくとして、あの諸作がある特異な才能を持った人の作であることは疑いがない。特にその作家が肖像彫刻を得意としたろうことも、あの諸作を一見した人は許すであろう。ところでこの作家が、西金堂の諸像の製作にあずかったということは、確かであろうか。現存の諸像が問答師の作と称せられ、西金堂の諸像も同じく問答師が作ったと伝えられるにしても、後者は残存していないのであるから、果たして同一人の手になったかどうかはわからない。西金堂に十大弟子や神王の像が安置せられたことは『扶桑略記』『元亨釈書』等のひとしく伝えるところであるが、しかし後代に存していた十大弟子八部衆が額安寺の古像を移したものであって、建立当時よりこの金堂に安置せられていたものでないことも、『濫觴記』等に伝えられている。『七大寺巡礼記』には、この八部衆はもと額田部寺の像であって西金堂に移した後毎年寺中に闕乱のことがあるため長承(崇徳)年中に本寺へ帰したはずだが、今ここにあるのは不思議だとある。いずれにしても現存の諸像と同一の手になったものが当初西金堂の内部を飾っていたかどうかは知る由がない。しかし伝説は興福寺の最も重大な仏像が問答師の作であることを要求するのである。それは興福寺の残存仏像中の最もすぐれたものが問答師の作でなくてはならないのと同様である。つまり問答師というのは、天平時代の興福寺の最もすぐれた彫刻家のことなのである。とすればこの彫刻家は当然西金堂の本尊を造った人である。光明后は亡き母に対する情熱のために西金堂の建立について特に熱心な注意を払われたに相違ない。だから伝説にあるように、みずから製作場に臨まれたというようなこともないとは限らない。そこでまたこの芸術家が光明后を見て創作欲を刺戟せられたという仮定も可能になる。当時三十二三歳ぐらいであった光明后は、観音像のモデルとしてもふさわしい。――かく考えれば、興福寺の伝説は一縷の生命を得て来るであろう。それらのことは少なくとも、「あり得た」ことである。「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。
しかし光明后を彫像のモデルに使うようなことが果して当時の社会において許されたであろうか。仏工は造仏司に使役せられる一種の労働者で、われわれの考える芸術家とは全然異なった地位にあるものではなかったろうか。わたくしはそうは思わない。なるほど古記録には仏工の功程も他の労働者の功程と同じように数えられている。しかし止利仏師におけるごとく、有名な芸術家が特に帝王の眷顧をうけた例もないではない。ちょうど天平の初めは大唐文化に対する憧憬が絶頂に達したころで、この文化を深く体現した者ほど時代の英雄であることができた。阿倍仲麿が玄宗の眷顧を得、王維・李白等と親しかったのに見ても唐の文化を咀嚼する能力は、少なくとも優秀な少数者においては、さほど幼稚であったとは思えない。仲麿と同道した吉備真備や僧玄昉が、十九年の留学の後、多量の芸術品や学問芸術宗教の書籍を携えて帰って来たときには、彼らに対する宮廷の歓迎はすさまじかった。宮廷の人々の心的生活はたちまち彼らの影響に服した。帝の生母宮子大夫人の幽欝症さえも彼らの手によって癒された。未来に帝位をつぐべき阿閉皇女の教育は真備の手に委ねられた。かくのごとき現象はただ外形的な唐風模倣欲のみから説明することはできない。恐らく宮廷の人々はこれらの新人物と接することによって心情の要求を満足させたのであろう。それほど人々の心は広い活き活きとした世界に対する憧憬に充たされていたのである。そういう敏感な心が、彼らの帰朝の一二年前に、あの巧妙な彫刻を造ったガンダーラ人(もしくは伝説的にガンダーラ人とされてしまった無名の日本人)に対して少しも動かなかったとは考えられない。恐らく宮廷の人々はこの彫刻家をいく度か引見したであろう。それは「あり得る」ことである。とすると、この彫刻家は幾度か女の中の女なる人を見た。彼の製作欲がそこに動いた。そうして手ごろの大きさの十一面観音が、製作それ自身を目的とする歓喜の内に造られた。これも「あり得る」ことである。それを誰に献じたかは知らない。しかしこうして造った三躯の観音像のうちの一つを、彼が故国へ持ち帰ったという伝説は、彼の製作動機について一つの暗示を投げている。その製作動機もまた「あり得る」ことである。
が、以上にのべたのは光明后をモデルにしたということに対する興味であって、法華寺の観音に光明后の面影を認めるというのではない。われわれは光明后の顔に精練せられた感情のひらめきを期待する。その目には怜悧な光を、その口には敏感な心の微かな慄動を、その頬には消ゆることなき情熱のこまやかな陰影を。しかしこの十一面観音の面相はそういう期待に応ずるものではない。それは豊かではあるが、洗練せられた感じがない。情熱的ではあるが、柔らかみがなく、あらっぽい。問答師作の竜王像がわれわれに期待させる光明后の面影は、もっと醇美なものでなくてはならない。だからこの十一面観音が貞観時代の作であって光明后をモデルとしたものではないという説の方がわたくしには望ましいのである。
ではこの像が天平時代とある関係を持っているということはどこから言えるか。光明后をモデルとした観音はあり得た、しかしこの像はそれではない、――とすれば、両者の関係は絶えているではないか。
その間をつなごうとするのは、単に空想にすぎない。すでに光明后をモデルとした観音があり得た以上は、それが内裡に安置せられたということもまたあり得たであろう。内裡に安置せられたことが可能であるならば、宮廷と特殊の関係を持っていた法華寺が、この観音と関係するに至ったこともまた可能であろう。『続紀』の記する所によれば、光明后崩御の時には全国の諸寺が供養を営んで阿弥陀浄土の画像などを造ったが、特に一周忌の営みのためには、全国の国分尼寺に阿弥陀丈六像一躯・脇侍菩薩二躯を造ると共に、法華寺に阿弥陀浄土院を新築して忌斎の場所にあてた。この際光明后の面影を伝える観音が何らか重大な役目をつとめたことはあり得ぬことではない。そうなるとこの観音は当然法華寺に移らなくてはならないのである。
すでにこの観音が法華寺にあり得た以上は、光明后に対する特殊の尊敬のゆえに、特に顕著に衆尼の尊崇をうけたこともまたあり得たであろう。そうして何かの理由で同じような観音像が造られなくてはならなかった時に、衆尼がこの像に似ることを望んだとしても不思議はない。貞観時代は模作などの行なわれた時代ではないのであるから、作家自身は原作以上に優れた観音を作る覚悟で仕事をしたであろうが、周囲のものにとってはこれもまた光明后の面影を伝えた観音として通用したであろう。
そこで現在の十一面観音は光明后をモデルとした原作を頭に置いて後代の人が新しく造ったものだという想像説が成り立つ。あの伝説は火のないところに起こった煙ではなく、この十一面観音に天平の痕跡を認めるのも根拠のないことではないということになる。
十三
天平の女――天平の僧尼――尼君
天平の時代の代表的婦人の肖像を持たないことはわれわれの不幸である。そのためにわれわれは天平の女に対して極端に同情のない観察と著しく理想化の加わった観察との間を彷徨しなければならぬ。
しかし婦人の地位や質の問題は男の状態から推察せられる。良弁のようにキビキビした表情を持った男が生存した時代には、われわれの想像するような敏感な女がいなかったはずはない。『続紀』に記されている婦人の活動は、単に外面的で、われわれの推測を裏づける役には立たないが、『万葉集』を詳しく観察すれば、よほど有力な証拠が出て来るかも知れぬ。しかしこの時代の特殊な文化状態を考えると、当時の文芸は必ずしも人心の十分な表現とはいえないであろう。新しい文化によって人々の心は急激に成長した。しかしそれを現わすべき固有の言語はまだ貧弱であった。といって自己表現に役立てるほど外国語に習熟することも容易ではない。両者を混融して新しい様式をつくることは、われわれの時代において困難であるごとく天平時代においても困難であった。そこで複雑な情緒の持ち主の間からも単純な文芸しか生まれ得ないということは可能であった。のみならず万葉の恋歌には恋人の間の贈答が多い。それは直接に相手を動かすことを目ざすのであって、客観的な描写を意図するのではない。だから万葉の歌が当時の女の心を残る所なく現わしていると見るわけにはゆかぬ。もし万葉の歌のみをもって当時の人心を説明するとすれば、仏教や仏教芸術はその意義の大半を失うであろう。
しかし万葉の恋歌は、一々の歌の内容は単純であっても、それの詠まれた境位が必ずしも単純でなかったことを思わせるものがある。婦人たちはただその情熱を訴えることに急であって、その情緒の複雑さを分析し描写する余裕を持たなかったが、しかしそれは複雑な心の葛藤を経験しなかったということではない。新来の文化の圧倒的な影響のもとにあっても、彼らの生活の中心は恋愛であった。身と心とを同時に燃焼せしめるような純粋な恋愛であった。しかし恋愛がすなわち結婚であり、情人がすなわち妻であって、両者を区別する意識の稀薄であった当時には、愛の衰うるところに別離があり、愛あるところにのみ運命の安定があったと考えられる。従って当時の婦人には、親和力の向かうままに夫を変える自由があると共に、また身を委ねた男からいつ捨てられるかわからない危険もあった。制度の束縛のために親和力を無視せしめられる悲劇は起こらなかったが、引力と拒力との交錯によるさまざまの悲劇は起こらなくてはならなかった。従って女はその恋愛の幸福を持ち続けるために、ただその官能の魅力のみに頼っていることはできなかった。万葉の女の歌が男の歌に劣らず優れているのは、そのためでないとは言えない。
天平時代は(他の時代もそうであるが)多妻を怪しまなかった。光明后を配とする聖武帝にすら他に夫人があった。女はそれに慣らされていたかも知れぬ。東国の女が都にある夫を恋うる歌に、大和女の膝を枕にする時にも私を忘れてくれるななどというのもある。しかし恋愛が独占を要求するのは昔も今も変わるまい。男がそれを要求したごとく女もまたそれを望んだであろう。ことに夫妻が別居して時々逢うに過ぎなかった当時の事情では、この感情は特に強まりやすかったに相違ない。夫恋しさに死を思うほど熱して行く妻の情緒は、それでなくては解し難い。わたしばかりがあなたを恋している、あなたがわたしを恋するというのは口先の気休めに過ぎぬという大伴坂上郎女の恨みも、そこから解せられなくてはなるまい。男の恋が女よりも自由であったとすれば、この苦しみが女の方にはるかに強かったということも想像せられる。
また親和力の向かうがままに行動することのできた時代であったとは言っても、そこに何らの拘束もないわけでなかった。「ひとごと」に対する恐れのごときがそれである。人言の繁きをいとうて逢うのを避けてはいたが、それを深い意味にとってくれるなとか、あなたがこの恋を遂げようという強い意志を持つなら、人言がいかに繁くとも逢いに出ようとか(高田女王)、あるいは、あの夜でなくても逢えたものを、なぜまたあの晩に逢って人に評判せられることだろうとか(大伴坂上大嬢)、明らかに恋は拘束せられている。しかしこの「人言」の内容は何であったか。兄妹の恋や人妻の恋が非難せられるのはわかっているが恋を卑しいとしない時代に単なる恋が世間の非難をうけるというのは解し難い。恐らくそこには娘の運命を見まもる親の愛が意外に強い権威を持っていたのであろう。母にさえ秘めている心をあなたに委せるという歌がある。この場合「人言」が恐れられるとすれば、その奥底には母の権威が控えているに相違ない。また、事があらば小泊瀬山の墓へも共に埋められよう、それほどにしても離れまい、心配するなという歌がある。もしこれが伝にいう通り、親に隠して恋をする女から、女が親に呵責せられるのを恐れてためらっている男へ贈ったものであるとすれば、親の権威はかなり強かったと見なくてはならぬ。(もとよりこの歌にそういう背景をつける必要はないのであるが。)――しかしそれだけではまだ足りない。恋を重んずる時代には、他人の恋に対する嫉妬が強かったろうということも考える必要がある。美しい女を独占する者の上には、その女に対してある感情を持ったあらゆる男の敵意が集まってくるに相違ない。恋愛の幸福に酔う美しい女の上にも、その幸福に薄いあらゆる女の敵意が集まるであろう。それはやがて悪意に変じ呪詛に変ずる。人々はその恋人たちの不幸を願う。自然人であった天平の人の間にこのことのあるのは不思議でない。かくて恋愛は恋を重んずる心のゆえに迫害をうけるのである。――人言の恐れられる理由はこれだけではまだ尽きないであろう。が、とにかく人言は過度に恐れられた。恋はきわめて秘密でなくてはならなかった。そうしてこの秘密が女の心の最も深き教育者であった。
また天平の女は恋において受身であったばかりではない。笠女郎のごとく男に恋を迫る歌も万葉には多い。確かに天平の女は男にまけてはいなかった。詩歌においても政治においても宗教においても、天平時代ほど女の活躍した時代はほかにない。そのごとく恋においても勇敢であった。そうして男が多妻であるごとく、女も、つぎつぎにではあるが、多夫に見ゆることを辞せなかった。万葉の女詩人鏡女王は、もし額田姫と同人であるならば、白鳳期の代表的人物を三人とも自分の夫とした。大仏鋳造時代の執政者橘諸兄の母である橘夫人は、後に藤原不比等の妻として光明后を生んだ。
このような天平の女がただ単純な抒情詩的な心持ちばかりでその日を送っていたとは思えない。人生と文化との広濶な海面を見わたす能力が当時の男にあったとすれば、女にもまたあったであろう。インドとシナとの爛熟した文化生活が当時の男に感染していたとすれば、女にもまた感染していたであろう。
この方面のことについては『万葉集』は証拠を見せてくれない。光明后宮の維摩講に唱われた仏前唱歌「しぐれの雨間無くな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも」のごときは、仏に対する感情が全然表現せられていない点でわれわれを驚かすのである。しかし『万葉集』の世界と仏教芸術の世界とは全然食い違っている。それは単に抒情詩と造形美術との差違ではない。趣味や要求や願望や、要するに心情の根本をなすものの差違である。一つの時代にかくのごとき二つの世界があるということは、現在目前に多くの世界の分立を見ることのできるわれわれには、少しも驚くに当たらない。外来文化の咀嚼がほとんど『万葉集』のうちに認められないからと言って、天平時代の人々が外来文化を咀嚼しなかったと断ずるのは早計である。たとい少数の専門家のことに過ぎなかったとしても、仏教哲学の理解はすでにはじまっている。いわんやあの巨大な堂塔・仏像の造立は、一般の人心を刺戟せずにはいない社会的な出来事である。この大きい出来事が人心の奥底にまで沁み込まなかったとは考えられぬ。なるほど仏教芸術の製作や受用はシナの模倣であって日本人固有のやり方ではなかった。それに比べれば『万葉集』には日本人固有の感じ方が出ている。しかし西洋の様式を学んだ日本人の油絵が日本人の芸術であり、しかもある者は固有の日本画よりもよき芸術品たり得たごとく、唐風を模した日本人の仏像・寺塔もまた日本人の芸術であって『万葉集』の歌以上の価値を持っているということは言えないだろうか。固有の日本人の「創意」などにこだわる必要はない。天平の文化が外国人の共働によってできたとしても、その外国人がまたわれわれの祖先となった以上は、祖先の文化である点において変わりはない。『万葉集』の歌は貴い芸術であるが、しかし天平文化の一部を示すものであって、全部を示すものではない。われわれは仏教芸術においてもまた天平時代の人の心を読み得るのである。
そこで考えられるのは天平の尼僧の生活である。彼らの内生もまた相当の深味を持っていたのではなかろうか。
当時の仏教が国民の内生と深いかかわりを持たなかったことを『万葉集』の証拠によって主張するのは、右に説いたごとく一面的な見方にすぎない。また日本人は楽天的であるゆえに厭世観を根柢とする仏教を咀嚼し得るはずはなかったという主張も、奈良の六宗に対しては通用するとは思えない。あの芸術的・哲学的な宗教へ近づく道は、厭世観のみではないからである。また宗教として人間苦の体験が必須の条件であるというならば、饑饉と疫病との頻発する当時の生活には、人生の惨苦は欠けていないと答えることができる。
行基の起こした宗教運動に対しては当時の官権は同情を持たなかった。「小僧行基及びその徒弟等、街衢にて妄りに罪禍を説き、朋党を構えて指臂を焚剥せしめ、諸家を歴訪仮説して強いて余物を乞い、聖道を詐称し百姓を妖惑する。ために道俗擾乱し四民は業を棄てる。進んでは釈教に違い退いては法令を犯す。」これが後に菩薩とまで言われた行基の五十近いころ(養老元年)に受けた非難である。この運動は官権の禁戒にもかかわらず存続した。「近ごろ右京の僧尼が戒律を練らずただ浅薄な知識をもって因果を説き民衆を誘惑する。人の妻子にして、仏教と称して親や夫を捨て家を出るものがある。経を負い鉢を捧げて道途に食を乞うものがある。邪説を偽称して法を村邑の間に広めるものもある。この種の群衆は初めは修道に似るもついには奸乱をなすに至るだろう。」これが五年後(養老六年)の官奏である。さらにその後九年を経て、行基の事業はようやく官権に認められ、彼の追随者は、男は六十一、女は五十五以上ならば、正式に僧尼となることを許された。しかしなお自余の持鉢行路者は捕縛せられなくてはならなかった(天平三年詔)。寺に寂居して教えを受け道を伝うるのが僧尼の常道であるとする当時の官権には、これらの宗教運動は過激に見えたのであろう。しかし官権が認容しなかったからといって、この運動を直ちに低級な迷信と見てしまうのは考えものである。行基の徒が因果を説いた。これは仏徒として正しい。乞食に生きた。それもまた同様に正しい。それだけでは聖道を詐称することにはならない。行基の伝道に興奮して四民が業をすて家を出た。それは行基がその教説を実感によって説いた証拠である。百姓を妖惑したのではない。また出家者が愛欲を断つのは、その出家が内的必然から出た証拠である。しかし官権はこのような宗教的徹底を喜ばなかったのである。
思うに当時の民衆の一部には、上流社会におけるよりもはるかに強い宗教的要求があったのであろう。しかし出家の教えが大衆の間に文字通りに実行されれば、社会の組織は崩壊するほかないであろう。なぜならそこには食物を生産する者はなく、ただ食物を乞うもののみとなるからである。この矛盾のために出家の制限が必要となった。そこで僧尼の資格として浄行三年、法華経諳誦というごときことが課せられるに至った。これはいわば各人の宗教的要求を制限することである。
しかしこの矛盾を解決しようとする試みはやがて企てられなくてはならなかった。行基が当代の英雄として認識せられると共に、仏寺の興隆が社会問題の解決策として現われて来たのである。社会の不安を激成する天変地異は仏法によって打ち克たれねばならぬ。そこで数知れぬ寺々、特に国分寺の造営が始まる。僧尼の需要も多くなる。行基の追随者のごとき持鉢行路者の多数は、この時に手ぎわよく処理せられた。天皇が不予だといっては三千八百人の僧尼がつくられる。太上天皇の陵を祭るといっては僧尼各一千が度せられる。大仏ができたといっては宮中で千人の僧尼の得度式をやる。もとよりそこには上流階級の人もあったに相違ないが、多数は中流及びそれ以下の社会の求道者であった。
浮浪人はかくして尊むべき三宝の一に化し、行基が民衆の間に根強く育てておいたものはついに天平文化の有力な支持者となった。
これらの僧尼数の少なくとも三分の一は尼であった。そのうちにはもはや現世に望みをかけない老婆もあったであろう。しかし人の妻や娘が少なくなかったことも、前掲の官奏の言に明らかである。そこでこれらの尼が真実に現世を捨離して清浄な生活を営んでいたかどうかが問題になる。
確かに彼らのうちには、人生の惨苦に刺戟せられて真に出離の人となったものもあったに相違ない。しかしよりよき生活への絶えざる憧憬のために現在の状態に満足し得ない多くの女がその現世への強い執着に追われてかえって尼となったこともないとはいえまい。彼らは生きがいのある生活を求めたのであって、必ずしも出離を志したのではない。また親の意志によって、あるいは流行の威力に圧せられて、うかうかと尼になったものもあったであろう。そこには真実の宗教的決意があったわけではない。この種の尼は最初の狂熱が醒めた時何を感じなくてはならなかったか。彼らは国家の権力によって物質的生活を保証せられた。仏教芸術によって心の糧を与えられた。しかし彼らの愛欲がそれで充足させられたろうとは考え難い。あるものはついに不犯の誓いを破ったであろう。あるものは数年の後に還俗したであろう。それは自然のなりゆきである。そうならなければ天平の女が愛において勇敢であったとはいえない。
けれどもこのことは、彼らの内の現世捨離の要求が強力でなかったという証拠にはなっても、彼らが仏教文化に対して無感動であったという証拠にはならない。愛欲から解脱し切ることは宗教的に選ばれたものにのみ可能である。しかし絶対者である仏の慈悲を感ずること、美しい偶像と音楽とのもたらす法悦に浸ることは、愛欲に駛る多くのものにも不可能ではない。彼らは尼寺の束縛を破ったにしても、仏の前には涙を流したのである。
しかし天平の尼の品行が尼らしくなかったという確証はない。僧尼に対する訓令の多くは学業の弛廃を警むるにあった。たとえば「転経唱礼は規矩に従うべきであるに近ごろの僧尼は我流の調子を出す。これが習慣となってはよろしくない。以後は唐僧道栄・学問僧勝暁の式に則れ」(養老四年)というごときである。しかし大仏鋳造のころ、僧尼の激増した時期を境として、漸次、新しい気風が生まれ、一種のデカダンが発生するに至ったことも推測せられる。僧尼の淫犯を警むる訓令は延暦ごろから現われ始めた。弘仁九年の戒告のごときはきわめて猛烈なものである(日本逸史)。これは密教の山ごもりの意義とも関係があるであろう。とにかく天平中ごろの僧尼の気風と弘仁期のそれとの間には著しい相違があるのである。
弘仁期の僧尼の気風を知るには『日本霊異記』に越すものはない。その物語るところは多く天平の異聞であるが、文芸としては弘仁の特性を現わしている。そのなかから天平を透見するのはかなり困難である。しかし岡本寺の尼が観音を愛慕する情や、行基に追随した鯛女(富の尼寺上座の尼の娘)が蝦を助けるためにその童貞を犠牲にしようとした慈悲心などには、天平の尼の一面が現われているかも知れない。弘仁期の気分には素朴ながらにも強いデカダンの香気がある。天平のそれはもっと朗らかに、もっと純粋である。
尼君の血色はまれに見るほど美しかった。お付きの尼僧の話では、朝は四時に起きて、本堂へ出て看経する。「若いお子さんたちは身仕度をして本堂へ歩いて来るまでがまるで夢中で」ある。冬などはすっかりお勤めが済んだころにやっと表が明るくなる。その代わり夜は早い。――あの血色はその賜であろう。
尼君は手箱をあけて、小さい犬ころのおもちゃを取り出し、それを紙にのせて皆の方に押しやった。犬ころは紙の上であと足をはね上げたような格好をして立っていた。指先でつまんだあとが土に残ってそれがそのまま胸になり足になりしている愉快なものだった。
「これをなあお子供衆のお腰に下げておおきやすと奇体に虫除けになりますそうでなあ方々からくれくれ言やはりますので皆あげてしまいましてなあもうこれだけより残っとりませんけれど――どうぞお持ちやして」
これは尼君がつれづれの手細工であった。尼君はこのおまもりの来歴やら造り方やらを話し続けた。その右手の床の間にはガラスの箱に入ったお人形が飾ってあった。
尼君の頬のみずみずしさはまるで赤ん坊のようであった。しかし顔の感じにはどこか興福寺十大弟子の目犍蓮に似たところがあった。
十四
西の京――唐招提寺金堂――金堂内部――千手観音――講堂
法華寺で思わず長座をしたので、われわれはまたあわてて車を西に駛せた。法華寺村を離れると道は昔の宮城のなかにはいる。奈良と郡山の間の佐保川の流域(昔の都)を幾分下に見渡せる小高い畑地である。遠く南の方には三輪山、多武の峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである。
道は宮城の西辺へ折れ、古の右京一坊大路を南に向かって行く。尼辻、横領などという古めかしい名の村を過ぎると、もうそこに唐招提寺の森がある。
道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい橋の手前で俥を下りた。樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなくさわやかな気分を誘い出す。道の右手には破れかかった築泥があった。なかをのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っている。
もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し込んで来る。その明るい所に唐招提寺があった。
唐招提寺へは横の門からはいった。初めてあの金堂を見るT君のためにはぜひ正面の南門へ回るべきであったが、みんなはもう幾分か疲れていたので、わざわざ遠回りをする勇気も出ず、ずるずると金堂の横へ出たのであった。しかし堂のうしろ側の太い柱の列やその上にゆったりとかかっている屋根の線が眼に飛び込んで来ると、やはりハッとせずにはいられないものがあった。大海を思わせるような大きい軒端の線のうねり方、――特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、――そこにはこの堂をはじめて見るのでないわたくしにとっても全然新しい美が感ぜられたのである。
この堂の横の姿の美しさをわたくしは知らないではなかった。かつて堂の西側の松林のなかに立って、やはり斜めうしろから、この堂の古典的な、堂々とした落ちつきに見とれた時にも、あの屋根の力強さや軽さ、あの柱の重さや朗らかさは、強い印象をわたくしに与えた。しかしあの渾然とした調和や、底力のある優しみや、朗らかな厳粛などが、屋根や柱の線の微妙な釣り合いにかくばかり深くもとづいているとは気づかなかったのである。軒端の線が両端に至ってかすかに上へ彎曲しているあの曲がり工合一つにも、屋根の重さと柱の力との間の安定した釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直観であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。
そういう感じを抱きながら堂の正面へ出て、堂全体をながめると、今さらながらこの堂の優れた美しさに打たれざるを得なかった。この堂全体は右のような鋭い、細かい芸術家の直観から生まれている。寄せ棟になった屋根の四方へ流れ下るあらゆる面と線との微妙な曲がり方、その広さや長さの的確な釣り合い、――それがいかに微妙な力の格闘(といっても、現実的な力の関係ではなく、表現された力の関係である)によって成っているかは、大棟の両端にある鴟尾のはね返った形や、屋根の四隅降り棟の末端にある鬼瓦の巻き反ったようにとがった形が、言い現わし難いほど強い力をもって全体を引きしめているのに見てもわかる。ことに鴟尾の一つが後醍醐時代の模作として幾分拙いために、両端から中央へ力を集めようとする企画がかなりの破綻を見せているなどは、この堂の調和の有機的なことを思わせるに十分である。さらにこの屋根とそれを下から受ける柱や軒回りの組み物との関係には、数えきれないほど多くの繊細な注意が払われている。柱の太さと堂の大きさとの釣り合い、軒の長さと柱の力との調和、それらはもうこれ以上に寸分も動かせない。大きい屋根が、四隅へ降るに従って、面積と重量とを増して行く感じを、下からうけとめ、ささえ上げるためには、立ち並んだ八本の柱を、中央において最も広く、左右に至るに従って漸次相近接して立てている。その間隔の次第に狭まって行く割合が、きわめて的確に屋根の重量の増加の感じと相応じているのである。もとよりここには屋根の面や線のまがり方も重大な関係を持つのであって、降り棟の端へ集まった屋根の重さは、軒端の線の彎曲によって、そこから最も遠い中央の柱へも掛かって行くようになっている。かくして上と下との力が何らの無理もなく相倚り相掛かって、美しい調和を造り出すに至るのである。
これらのことは精密な計算によって明らかにされるのであるかも知れない。たとえば柱の間隔が左右に至るに従って狭まる率や、その結果柱の支力が左右に至るに従って高まる率などは、数学的に計算し得られるであろう。それに対応して軒端の線も屋根の面も左右に至るに従って上へ彎曲している。その彎曲線や彎曲面の曲率と支力の高まる率との間にも何らかの関係があるであろう。もちろんこれは現実的な力の関係ではない。屋根が上へそり反ろうと、あるいは下へ垂れ下がろうと、それによって屋根の重さに変わりがあるわけではない。しかし上へそり反った屋根の下に強力な柱があれば、その屋根の彎曲が柱の支力の表現になるのである。ここで問題にするのはそういう表現の背後に案外に精確な力の関係が隠されているのではないか、という点である。
堂の正面をぶらぶらと歩きながら、わたくしは幸福な少時を過ごした。大きい松の林がこの堂を取り巻いていて、何とも言えず親しい情緒を起こさせる。松林とこの建築との間には確かにピッタリと合うものがあるようである。西洋建築には、たとえどの様式を持って来ても、かほどまで松の情趣に似つかわしいものがあるとは思えない。パルテノンを松林の間に置くことは不可能である。ゴシックの寺院があの優しい松の枝に似合わないことも同様であろう。これらの建築はただその国土の都市と原野と森林とに結びつけて考えるべきである。われわれの仏寺にも、わが国土の風物と離し難いものがある。もしゴシック建築に北国の森林のあとがあるとすれば、われわれの仏寺にも松や檜の森林のあとがあるとは言えないだろうか。あの屋根には松や檜の垂れ下がった枝の感じはないか。堂全体には枝の繁った松や檜の老樹を思わせるものはないか。東洋の木造建築がそういう根源を持っていることは、文化の相違を風土の相違にまで還元する上にも興味の多いことである。
正面から見るとこの堂の端正な美しさが著しく目に立つ。それは堂の前面の柱が、ギリシア建築の前廊の柱のように、柱として独立して立っているからかも知れない。しかし屋根の曲線の大きい静けさもこの点にあずかって力があるであろう。もちろんこの種の曲線はギリシアの古代建築に認められるものではない。ローマ建築の曲線にはこれほど静かな落ちつきは感ぜられない。尖角に化して行こうとするゴシック建築の曲線は全く別種の美を現わしている。従ってこの曲線の端正な美しさは東洋建築に特殊なものと認めてよい。その意味でこの金堂は東洋に現存する建築のうちの最高のものである。
しかしこの堂の美しさから色彩を除いて鑑賞することはできない。土に近づくほどぼんやりと消えて行く古い朱の灰ばんだ色は、柱となり扉となり虹梁となりあるいは軒回りの細部となって、白い壁との柔らかな調和のうちに、優しく温かく屋根の古色によって抱かれている。その鈍いほのかな色の調子には、確かにしめやかな情緒をさそい出さずにはいない秘めやかな力がある。それは永い年月の間に大気と日光との営みによって造り出された「さび」の力であるかも知れない。しかしさびを帯びた殿堂の色彩がすべてこれと同じ印象を与えるとは限らない。恐らく色彩の並列の地盤となっているこの堂の形が、色彩の力を一層高めているのであろう。と同時にまたあの古雅な色調が堂の形に幽遠な生の香気を付与しているのであろう。
金堂の大きい乾漆像を修繕しつつあるS氏に案内されて、わたくしたちは堂内に歩み入った。内部の印象にも外部に劣らずどっしりしたものがある。簡素で、そうして力強い。須弥壇の左右に立っている二本ずつの太い円柱は、中央の高い天井をささえながら、堂内の空気の一切の動揺を押えている。横やうしろの壁の白と赤との単純な調和と、装飾の多い内陣の複雑な印象とを、巧みに統一しているのもまたこの柱である。わたくしたちはその間を通って丈六の本尊の前へ出た。修繕材料の異臭が強く鼻をうつ。所々に傷口のできている本尊は蓮台からおろされて、須弥壇の上に敷いた藁のむしろにすわらされている。わたくしはその膝に近づいて、大きく波うっている衣文をなでてみた。S氏が側で、昔の漆の優良であったことなどを話している。あたりには古い乾漆の破片や漆の入れ物などが秩序もなく散らばっていて、その間に薄ぎたなく汚れた仕事着の人がつくばったまま黙々として仕事をしている。古の仏師の心持ちがふとわたくしの想像を刺戟し始める。とにかく彼らは、仏像をつくるということそれ自身に強い幸福を感じていたのではなかろうか。
この盧舎那仏に対しては、実をいうと、わたくしはこれまで感動したことがなかった。いかにも印象の鈍い、平凡な作で、この雄大な殿堂に安置されるにはふさわしくない、と感じていた。しかし今度は、近々と寄って細部に現われた細かいリズムにふれることができたせいか、全体の印象にかなりの快さを感ずるようになった。なるほど鈍い感じはあるが、しかし特に拙さを感じさせるところもないのではないか。堂の美しさに圧倒されて目立たなくなってはいるが、天平末期の普通作としては優れた方である。少なくともこの殿堂の渾然とした美しさの一つの要素となっているだけでも、この像に底力がある証拠ではなかろうか。
わたくしはこのような新しい印象のもとに、この像をながめなおした。それとともにこの堂内の仏像全体に対しても以前よりは強い愛を感ずるようになった。ことに右の脇士千手観音は、自分ながら案外に思うほどの強い魅力を感じさせた。確かにここには「手」というものの奇妙な美しさが、十分の効果をもって生かされている。実物大よりも少し大きいかと思われるくらいな人の腕が、指を前へのばして無数にならんでいるうちに、金色のほのかな丈六の観音が、その豊満な体を浸しているのである。「手」の交響楽――そのなかからは時々高い笛の音やラッパの声が突然の啓示ででもあるかのように響き出す――それは潮のように押し寄せてくる五千の指の間から特に抽んでて現われている少数の大きい腕である。この交響楽が、人の心を刺戟し得る各個の音とその諧和をもって――すなわち何らかの情緒を暗示せずにはいない一々の手とその集団から起こる奇妙な印象とをもって――観音なるものの美を浮かび出させているのである。この像だけはその印象の鋭さが本尊盧舎那像や左脇士薬師如来の比ではない。
わたくしはこの印象をなぜ予期しないでいたかを自ら怪しんだ。というのは、わたくしはこの「手」の奇妙な感じをすでに一年前に経験したのだからである。その時には観音のまわりに足場が築いてあって、観音自身は白い繃帯に包まれていた。そうしてこれらの千の手は、一々番号の紙ふだをつけて、講堂の西半の仕事場一面にならべてあった。わたくしは近よってその二三の手をつらつらながめて見たが、かなり写実的にできた立派な作であった。しかし写実的であるだけに、肩から切り取ったような腕がいくつもごろごろころがっている光景は、一種不気味な刺戟を与えずにはいなかった。立像にまとめてあるのを見ればさほどの数とも思われないが、百畳ではきかない広い室に一面にならべてあるのを見ると、実際に大変な数であった。天平の古美術を鑑賞するという意識に十分めざめていても、妙に陰惨な感じを受けないではいられなかった。――そのときにわたくしは、この生気のある数多い手を一つの全体にまとめあげた姿が、いかに奇異な力を印象するだろうかに気づくべきであった。しかし今その姿を自分の目で見て、やっと気づくに至ったのである。あの不気味な感じを与えた腕は、芸術的にいかにも有力に生かされている。それを見ると、この種の幻想を持ち、この種の構図を造り出した古人に対して、今さら尊敬の念を起こさずにはいられなかった。
わたくしはかつてラインハルトの試みた「奇蹟」の舞台面を写真で見たことがある。数百の――あるいは千以上の手が、中央の高い壇上に立つ女主人公に向かって、高くささげられている光景である。わたくしはこの手の効果にうたれた。しかし今思えば、純粋の手の効果をねらった芸術として、すでに千手観音というものがあったのである。
S氏はこの手の修繕をおえてそれをもとへ返したときの苦心を話した。いかに番号をうっておいたところで、あの数多い手をことごとくもとの位置に返すということはできるものでない。従ってうまくおさまらない手がいくつも出てくる。それを拙くなくおさめなければならぬその苦心談である。
金堂を出て講堂に移る。この講堂はもと奈良の京の朝集殿であった。すなわち和銅年間奈良京造営の際の建築である。しかし現在の建築には天平の気分はほとんど認められない。鎌倉時代の修繕の際に構造をまで変えたといわれているから、全体の感じは恐らく原物と異なっているのであろう。もっとも内部の柱や天井は天平のままだそうである。堂の外観が与える印象はむしろ藤原時代のデリケートな美しさに近い。
しかし金堂と対照して講堂が全然様式を異にしていることは意味のあることである。礼拝堂と研究所との建築にこれほど著しく気分の相違を現わさないではいられなかった古人の芸術的関心は、十分我々の尊敬をうけるに足りる。
講堂のなかに並べてある諸像のうちでは特に唐軍法力作の仏頭と菩薩頭とが美しかった。もとはかなり大きい像であったらしいが、今は胴体全部が失われて、ただ頭部のみ残っているのである。仏頭の方は鼻も欠けているけれども、その眼や口や頬などのゆったりとした刻み方をながめていると、何とも言えずいい心持ちになる。菩薩の顔は表面に塗ったものが剥落しているきりで、形は完全に残っているから、その夢みるような瞼の重い眼や、端正な鼻や、美しい唇などが、妨げられることなしにわれわれに魅力を投げかける。確かにこれらの頭は金堂の諸像よりも優れている。寺伝の通りこれが法力の作であるならば、講堂の本尊であった法力作丈六釈迦像もさだめて立派なものであったろう。
十五
唐僧鑑真――鑑真将来品目録――奈良時代と平安時代初期
鑑真とその徒が困難な航海の後に九州に着いたのは、大仏開眼供養の翌年の末であったといわれている。彼らが京師に入る時の歓迎はすばらしいもので、当時の高官高僧は皆その接待に力をつくした。聖武上皇からは鑑真に対して、自今戒授伝律の職は一に和尚に委すというような勅が下る。やがて東大寺大仏殿前に戒壇を築いて、上皇以下光明后・孝謙女帝などが真先に戒をうけられる。
こういう歓迎は鑑真の名声とその渡来の困難を思えば無理もないのである。『鑑真東征伝』はどれほど信用のできる書物か知らないが、とにかくそれによると彼は当時のシナにあっても名僧として民衆官人の尊崇をうけていた。天平五年、和尚四十六歳のころには、淮南江左に和尚より秀でた戒師なく、道俗これに帰依して授戒大師と呼んだ。前後大律並びに疏を講ずること四十遍、律抄を講ずること七十遍、軽重義を講ずること十遍、羯磨疏を講ずること十遍、三学三乗に通じて、しかも真理を求めてやまなかった。講授の間にはまた寺舎を建て十方僧を供養し仏菩薩の像を造った。あるいは貴卑平等の大会を催し貧富の差別の逓減を計り貧病に苦しむものを救った。これらのことはその数計り難い。その写した経は一切経三部三万三千巻にのぼり、その授戒した人は四万人以上に及んでいる。その弟子には名の現われたものが三十五人ある。このような有名な人であったために、時人に惜しまれて、日本にくるにはほとんど脱走のごとき手段をとらなくてはならなかった。たまたま準備がととのうて海に出ると、暴風がすべてを破壊した。こうして十余年の間、五度失敗をくり返してさまざまの災厄に苦しめられたが、なお彼は日本渡来の願望を捨てなかった。
天平勝宝五年秋に至って、入唐大使藤原清河、副使大伴胡麿、吉備真備などが、揚子江口なる揚州府の延光寺に和尚を尋ねて使節の船に便乗せむことを乞うた。和尚は喜んで承諾した。しかし和尚日本に去らむとすという噂がひろまると共に、寺では防護を固うして和尚を寺外へ出さなかった。そこで和尚は一禅師の助けをかりてひそかに江頭に舟を浮かべて脱れ出た。そうして弟子たちと共に蘇州黄泗津の日本船に入った。大使は郡の官権の捜索を恐れて一度彼らを下船せしめたが、大伴副使は夜陰に乗じてひそかに彼らを自分の船にかくまった。かくてようやく目的が達せられたのである。
『東征伝』によれば、随行の弟子は、揚州白塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇静、台州開元寺僧思託、揚州興雲寺僧義静、衢州霊耀寺僧法載、竇州開元寺僧法成、その他八人の僧と、藤州通善寺尼智首、その他二人の尼と、揚州優婆塞潘仙童、胡国人安如宝、崑崙国人軍法力、瞻波国人善聴、その他を合わせてすべて二十四人であった。泉州は福建省に、台州・衢州は浙江省に、竇州・藤州は広西省にある。胡国は西域の汎称に用いられ、崑崙国はコーチンチャイナ(仏領インドシナ)のある国を意味し、瞻波国はコーチンチャイナの一部であった。大体に南シナ人である。
右のうち胡国人如宝は招提寺金堂の建築家と伝えられている。渡来のころようやく二十歳ぐらいの青年であった彼が、どうしてあの偉大な殿堂の建築家となり得たかは、知る由がない。金堂建立の時代も未詳であるが、『招提千載伝記』を信ずるとすれば如宝二十五六歳のころである。またある学者の説くごとく鑑真遷化後の建立とすれば、如宝はすでに三十歳を超え、日本に十年以上の年月を送っている。その間に東大寺の戒壇で大和尚から具足戒をうけて一人前の僧侶となり、下野の薬師寺に戒壇が設けらるるや戒師として赴任した。もし如宝に建築の天才があったとすれば、それはどの時代に哺育せられたのであろうか。『招提千歳記』には彼は朝鮮人であって幼時より鑑真の門に入っていたとあるが、もし二十歳前の師事の間に建築についてのさまざまの技能を獲得したとすれば、なるほど「天性異気万員に秀で」ていたことになる。しかしそれほどの天才あるものが、二十歳すぎの有力な五年あるいは十年をむだに過ごすはずはないであろう。そうしてその五年あるいは十年は、主として今できあがりつつある、あるいはできあがったばかりの、雄大な東大寺伽藍のうちに過ごされたと見なくてはならない。なぜなら、大仏殿は大仏開眼の前に建てられたらしいが、伽藍全体はそのときまだ完成していなかったからである。かく見れば東大寺造営の騒ぎが天才如宝を哺育したと考えられなくもないのである。
鑑真遷化の時如宝はわずか三十歳ぐらいであったが、先輩法載・義静の二人と共に大和尚から後事を託せられた。天平時代末より弘仁時代にかけての四五十年間、彼は招提寺の座主としてかなり活躍したらしい。弘法大師と親しかったことも伝えられている。
崑崙国人軍法力はあの美しい仏頭の作者である。招提寺の彫刻家のうちにインドと関係の深い崑崙国人がいたということは、招提寺の木彫に、あの大腿の太いそうして衣がその大腿に密着している南インド様式の著しく現われている事実を、おもしろく説明しているように思う。彼がどういう素性の人であったかは記してないが、天平十五年鑑真第二回の出帆計画の条に、僧十七人、玉作人、画師、彫仏、刻鏤、鋳、写繍師、修文、鐫碑等工手、都合八十五人とあるによって判ずれば、鑑真が美術家を連れて来たがったことは明らかであって、法力がこの種の人であったろうことも容易に想像される。招提寺の数多い建築にはおのおの数個の仏菩薩像が安置せられなくてはならなかった。彼は日本人の徒弟を指揮してその製作に努めたに相違ない。招提寺の古い木彫の多くは恐らく彼及び彼の弟子の製作であろう。
金堂本尊の製作者は思託・曇静の両人とせられている。あるいは義静の作ともいう。共に鑑真に従って渡来した唐僧である。ことに思託は仏像を造る妙技を得て、本尊のほかに左脇士薬師の像や開山堂の鑑真像や数多くの仏菩薩などを造った。また現存『東征伝』の源泉たる『東征伝』三巻や『延暦僧録』一巻などを書いた。鑑真弟子中の優秀な人であったに相違ない。しかし美術家として優れた法力をさしおいて、この人が本尊を造ったということには、何か理由がなくてはならぬ。思うに法力は乾漆像に慣れていなかったのであろう。丈六坐像を木で彫むのは困難であり、また乾漆は当時の流行であったために、本尊は乾漆ときまった。そうして乾漆像の工手は我が国にも少なくなかった。そこで思託の指揮のもとに製作が始められる。法力はそれを学んで、後に講堂の丈六釈迦像を造り得るに至った。かく想像することもできる。法力をインドと結びつけて考えるにもこの想像は都合がいい。
千手観音の作者についてはおもしろい伝説がある。『招提千歳記』によればそれは天人である。寺の西北二町、森樹欝々たる小丘に、七昼夜の間深い霧がかかって中が見えなかった。その間に天人がこの像を造り上げた。――『七大寺巡礼記』は化人の説をあげている。竹田佐古女が造ったというが、その佐古女は化人だ、というのである。いずれにしても時人を驚かせる出来事があったらしく思われる。あの数多い手を一つずつ作って行く仕事場の光景を想像すると、いろいろな伝説が発生しても無理はないと思う。
鑑真の連れて来た外国人はわりに少数であったが、その将来した品物はかなり多い。現在の丸善の仕事が昔はどういうふうに行なわれたかを見るために、ここに『東征伝』を抄録する。――
肉舎利三千粒。 功徳繍普集変一鋪。
阿弥陀如来像一鋪。 彫白旃檀千手像一躯。
繍千手像一鋪。 救世観音像一鋪。
薬師弥陀弥勒菩薩瑞像各一躯。 同障子。
大方広仏花厳経八十巻。 大仏名経十六巻。
金字大品経一部。 金字大集経一部。
南本涅槃経一部四十巻。 四分律一部六十巻。
法励師四分疏五本各十巻。 光統律師四分疏百二十紙。
鏡中記二本。 智周師菩薩戒疏五巻。
霊渓釈子菩薩戒疏二巻。 天台止観法門玄義文句各十巻。
四教義十二巻。 次第禅門十一巻。
行法花懺法一巻。 小止観一巻。
六紗門一巻。 明了論一巻。
定賓律師飾宗義記九巻。 補釈飾宗記一巻。
戒疏二本各一巻。 観音寺高律師義記二本十巻。
南山宣律師含注戒本一巻及疏。 行事抄五本。
羯磨疏等二本。 懐素律師戒本疏四巻。
大覚律師批記十四巻。 音訓二本。
比丘尼伝二本四巻。 玄弉法師西域記一本十二巻。
終南山宣律師関中創開戒壇図一巻。 法銑律師尼戒本一巻及疏二巻。
玉環水精手幡三口。 ………菩提子三斗。
青蓮花葉廿茎。 玳瑁畳子八面。
天竺革履二※(糸+裲のつくり)。 王右軍真跡行書一帖。
小王真跡三帖。 天竺朱和等雑体書五十帖。
このうち水精手幡以下の品物は内裡に献じたとある。最初の舎利三千粒も、初めて聖武上皇に謁する時に捧呈せられている。美術品は刺繍二つ、画像二つ、障子にかいた画が三つ、彫刻四つである。障子も彫刻も小さいものだったに相違ない。経典には疏の類が多い。これらの経疏が日本にないものを選んで持って来たのかどうかは調べてみないとわからないが、そうでなくとも、これらの経疏の輸入は当時の仏教の思想界に相当の影響を与えたであろう。
奈良時代と平安時代とを截然区別する心持ちがわれわれにある。それは便宜上造った時代の区分にまどわされたのである。もとより天平と弘仁の気分には著しい相違があるが、しかし天平時代末期から弘仁初期へかけての変遷は、漸を追うたものであって、どこにも境界線はない。弘仁期には天平時代末期のデカダンスへの反動がある。同時にその継続もある。この間の変遷よりはむしろ弘法滅後百年間の変遷の方がはるかに著しい。風俗の上ではいつの間にか平安時代風衣冠束帯ができている。女は長い髪をひきずって歩く。今の洋装のように体の輪郭を自由に現わしていた女の衣裳も、立ち居に不自由そうな十二ひとえに変わっている。住宅としては寝殿造りが確定した。文芸では『万葉集』の歌が『古今集』の歌に変わる。仮名がきが行なわれて、散文が造り始められる。日本人が初めて日本語の文章を作るに至ったのである。美術では繊美な様式が生まれ、それが後代の人から純日本式として受け容れられている。宗教には空也念仏のごときが現われる。すべて光景の一変したことを思わせるものである。
普通にはこの時代が外来文化の日本化せられた時代と見られている。もしこの特徴をもって時代を区別するならば、弘仁期は外来文化輸入の時代に入れられなくてはならぬ。しかしここに注意せらるべきことは、問題が単に輸入と咀嚼とのみにかかわっていないということである。衣冠束帯や十二ひとえや長い髪というごとき趣味の変遷は、ただ模倣から独創に移ったというだけのものではない。寝殿造りや仮名文字の類は、咀嚼や独創について最も有力な証拠を与えるものとせられているが、しかし仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教わった建築術による日本式住宅の形成である。すなわちこれらの変遷は外来文化を土台としての我が国人独特の発達経路と見らるべきである。固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。この見方は外来文化を生育の素地とする点において、外来文化を単に插話的のものと見る見方と異なっている。この立場では、日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものなのである。
自国の言葉で文章の作れなかった時代と、作れるようになった時代と、――その間には確かに大きい進歩が認められる。しかしこの進歩は自国文化の独立のための努力によって得られたというわけではない。大唐文化が潮のように押し寄せて来た時代の人々は漢語漢文の使用を熱心に企てていたのである。自国の言葉の使用は宣命や和歌に限られていた。ということは、それが新しい思想や制度に対して役立たぬものと認められていた証拠である。すでに国文が精練された様式を獲得した後にも、漢文は何か偉いものとして通用した。女のみが和文をつくる時代は問わないにしても、近松や西鶴の出た後でさえなお漢文は流行し、また漢文を作ることが学者に必須な資格であった。現今でさえ外国文でその労作を発表する人は、外国文を綴り得るということだけですでに一種の尊敬をうけている。このような日本人が、かつて自国の文章を持たなかった時代に、漢文を自国の文章として怪しまなかったとしても、特に不思議がることはない。日本文はむしろ教養の不足のためにやむを得ず生まれてきたのである。すなわち平安朝の和文は漢学の素養の少ない女の世界から生まれ、漢字まじりの文は漢文を作る力のない武士の階級から生まれ、口語体は文章体をさえ解し得ない民衆の間から生まれた。このように、自国文化の独立というごとき意識によってではなく、やむを得ぬ必要から押し出されてきたというところに、日本人の創造としての意味があるのではなかろうか。
しかし漢語漢文で書いたとしても『日本書紀』が日本人の作品であることに変わりはない。われわれは奈良時代の漢文をも徳川時代の漢文のごとくに日本人の製作として評価して見なくてはならぬ。ある専門家の説によると、この時代の漢文は和臭が少なく、立派なものだとのことであった。これはいわゆる日本的なものの現われていないのをかえってよしとする見方である。造形美術も同じ意味のものと見られてよい。いかに外国の様式そのままであってもそれは日本人の美術であり得る。外来の様式を襲用することは、それ自身恥ずべきことではない。その道において偉大なものを作り出せさえすればよいのである。
確かに天平時代はその偉大なものを造った。この地盤がなければ、藤原時代の文化も起こり得なかったであろう。
十六
薬師寺、講堂薬師三尊――金堂薬師如来――金堂脇侍――薬師製作年代、天武帝――天武時代飛鳥の文化――薬師の作者――薬師寺東塔――東院堂聖観音
日暮れ近くについた薬師寺には、東洋美術の最高峰が控えている。
もう時間過ぎで見物ができないはずのところを、Y氏の熱心な斡旋で、われわれの前に大きい鍵をさげた小僧が立ってくれた。小さい裏門をはいると、そこに講堂がある。埃まみれの扉が壊れかかっている。古びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を見せている。まわりの広場は雑草の繁るにまかせてあって、いかにも荒廃した古寺らしい気分を味わわせる。
講堂の横の扉のところで案内の僧が立ち留まると、どうだ見るかとZ君がいう。さよう、ここまで来たものだから。まあ話の種にね。こんな問答のあとで大きい鍵が荒々しく響いて、埃だらけの扉が開く。中には黒白だんだらの幔幕が一面に張りまわしてあった。それをくぐると、丈六の薬師三尊がガランとした堂の幽暗のうちに、寂然としてわれわれを見おろしている。わたくしは無造作にそれを見上げて、おやと思った。そこにある銅像は見ても見なくてもいいような拙いものではなくて、とにかく古典的な重味を持ったかなりの大作であった。この像をほめる人があるが、なるほど本当かな、と思いながら、わたくしは横へまわった。本尊の横顔はなかなかばかにはできないほど美しかった。脇侍の体もそれほど拙くはない。ここにも確かに「芸術家」が認められる。
わたくしはこの像に美しさを見いだしたことが何となくうれしかった。この像の美しさをおおうているのは、あの艶のないゴミゴミした銅の色である。もしこれが金堂の銅像のようにみずみずしい滑らかな色艶を持っていたならば、もっと容易に人の心を捕えることができたであろう。この像を見て起こす安っぽいという感じには、確かにあの色沢の影響があると思う。初めてこの像を見たときには、これを千年前の作品と信ずることができなかったが、しかしあとで聞くと、この像はどこか遠くないところの土中に何百年かの間埋まっていたのを、徳川時代に発掘してこの寺に移したのだそうで、あのゴミゴミした色は「埋もれた芸術」の痕跡なのであった。しかしそうなるとこの三尊はわれわれにとって大きい謎になってくる。これほどの大作がまるで忘れられて土中に埋まっていたのはどういうわけであろうか。これだけの三尊を安置した寺は相当に立派な寺といわなくてはならないが、その寺がまるで堙滅してわからなくなっているというのもどういうわけであろうか。この三尊はこの謎の解決をわれわれに要求しているのである。
金堂へは裏口からはいった。再会のよろこびに幾分心をときめかせながら堂の横へ回ると、まずあの脇立ちのつやつやとして美しい半裸の体がわれわれの目に飛び入ってくる。そうしてその巨大なからだを、上から下へとながめおろしている瞬間に、柔らかくまげた右手と豊かな大腿との間から、向こうにすわっている本尊薬師如来の、「とろけるような美しさ」を持った横顔が、また電光の素早さでわれわれの目を奪ってしまう。われわれは急いで本尊の前へ回る。そうしてしばらくはそこに釘づけになっている。ちょうどそこに床几がある。われわれは腰をおろして、またぼんやりと見とれる。今日は夕方の光線の工合が実によかった。あの滑らかな肌は光線に対して実に鋭敏で、ちょうどよい明るさがなかなかむずかしいのである。
この本尊の雄大で豊麗な、柔らかさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、何とも言いあらわしようのないものである。胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線とから滾々としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。それはわれわれがギリシア彫刻を見て感ずるあの人体の美しさではない。ギリシア彫刻は人間の願望の最高の反映としての理想的な美しさを現わしているが、ここには彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿をかりて現われているのである。現世を仮幻とし真実の生をその奥に認める宗教的な心情から、絶対境の具体的な象徴が生まれなくてはならなかったとすれば、このように超人間的な香気を強くするのは避け難いことであったろう。その心持ちはさらに頭部の美において著しい。その顔は瞼の重い、鼻のひろい、輪郭の比較的に不鮮明な、蒙古種独特の骨相を持ってはいるが、しかしその気品と威厳とにおいてはどんな人種の顔にも劣らない。ギリシア人が東方のある民族の顔を評して肉団のごとしと言ったのは、ある点では確かに当たっているかも知れぬが、その肉団からこのような美しさを輝き出させることが可能であるとは彼らも知らなかったであろう。あの頬の奇妙な円さ、豊満な肉の言い難いしまり方、――肉団であるべきはずの顔には、無限の慈悲と聡明と威厳とが浮かび出ているのである。あのわずかに見開いたきれの長い眼には、大悲の涙がたたえられているように感じられる。あの頬と唇と顎とに光るとろりとした光のうちにも、無量の慧智と意力とが感じられる。確かにこれは人間の顔でない。その美しさも人間以上の美しさである。
しかしこの美を生み出したものは、依然として、写実を乗り越すほどに写実に秀でた芸術家の精神であった。彼らは下から人体を形造ることに練達した後に、初めて上から超絶者の姿を造る過程を会得したのであろう。自然の美を深くつかみ得るものでなければ、――またそのつかんだ美を鋭敏に表現し得るものでなければ、内に渦巻いている想念を結晶させてそれに適当な形を与えることはできまい。もとよりこの作は模範のないところに突如として造られたのではない。その想念の結晶も初発的のものとは言えない。しかし模範さえあれば容易にこの種の傑作が造り出されるわけではないのである。これほどの製作をなし得る芸術家は、たとい目の前に千百の模範を控えているにしても、なお自分の目をもって美をつかみ、自らの情熱によって想念を結晶させたであろう。ローマ時代のギリシア彫刻の模作は、いかに巧妙であってもなお中心の生気を欠き表面の新鮮さを失っている。そのような鈍さはこの薬師如来のどこにも現われていない。これは今生まれたばかりのように新鮮なのである。
わたくしはこの像を凝視し続けた。あの真黒なみずみずした色沢だけでも人を引きつけて離さないのである。しかもその色沢がそれだけとして働いているのではない。その色沢を持つ面の驚くべく巧妙な造り方が、実は色沢を生かせているのである。そうしてその造り方は、銅という金属の性質を十分に心得たやり方である。特殊な伸張力を持った銅の、言わば柔らかい硬さが、芸術家の霊活な駆使に逢って、あの美しい肌や衣の何とも言えず力強いなめらかさに――実質が張り切っていながらとろけそうに柔らかい、永遠に不滅なものの硬さと冷たさとを持ちながらしかも触るれば暖かで握りしめれば弾力のありそうな、あの奇妙な肌のこころもちに――結晶しているのである。が、このような銅の活用も、人体の美に対するこの作者の驚くべき理解がなくては可能でない。あの開いた右手を見よ。あの肩から肱へと左の腕を包んだ衣の流れ工合を見よ。それは単に一端であるが、しかしそれだけでもこの作者の目が何を見ていたかはわかるであろう。が、この作者の見た人体の美の深さは、まだこの作の奥底ではない。重大なのはこの作者の行なった選択と理想化とである。作者はその想念に奉仕するために、ある種類の美を表にし、他の種類の美を陰にした。そうしてその想念の結晶を完全な調和に導くために、あるものを強調しあるものを抑えた。かくして部分の形の美しさは全体の美の力によって生かされ、そこから無限の生気と魅力とを得てくるのである。つまり奥底には芸術家の精神が控えているのである。
その芸術家が何人であったかは知る由がない。日本人であったか唐人であったかさえもわからない。が、とにかくわれわれの祖先であった。そうして稀に見る天才であった。もし天才が一つの民族の代表者であるならば、千二百年前の我々の祖先はこの天才によって代表せられるのである。様式の伝統をたどってこの作を初唐に結びつけるのは正しい。遺品の乏しい初唐の銅像を逆にこの作によって推測するのも悪くはない。が、この作に現われた精神を初唐のそれと比較して、そこにいかなる異同があるかを探究することができれば、われわれの祖先を知る上には、はるかに意味の多い仕事である。この作に現われた偉大性と柔婉性との内には、唐の石仏やインドの銅像に見られないなにか微妙な特質が存しているように思われるが、それをはっきりと捉える方法はないものであろうか。この問題の解決は、日本という国が明確に成立した時代――すなわち美術史上にいわゆる白鳳時代――を理解する鍵となるであろう。
本尊に比べると、脇立ちの日光・月光はやや劣っているように思われる。面相や肢体の作り方は非常によく似ており、三尊仏としての調和もよく取れているが、しかし本尊の作者は恐らくこの両脇士の作者ではあるまい。本尊の下肢にまとう衣をあのように巧妙に造った芸術家が、脇立ちの下肢を覆う衣のあの鈍さに満足したろうとは思えない。同じことはその面相についても手についても肩についてもいえると思う。両脇士のうちでは右の脇士の方が優れている。右と左もあるいは異なった人の作であるかも知れない。あの本尊を造った芸術家に、これくらいの弟子の二人や三人があったとしても少しも不思議はない。
この三尊の製作年代は天武帝の晩年より持統女帝の退位にわたる十七年間である。最初天武帝がその皇后の眼病平癒を祈願するために計画せられたものを、帝の崩後、皇后(持統女帝)が、十年余の歳月を費やして完成せられたのである。本尊の開眼会は持統女帝の晩年、薬師寺伽藍の完成は文武帝の初年である。しかしこの本尊の鋳造の仕事は、『薬師寺縁起』にある通り、天武帝崩御前に畢っていたらしい。東塔露盤の銘文に鋪金未遂、竜駕騰仙、とあるのがその証拠である。さすればこの像の主要な製作年代は、天武帝の晩年と限ることができる。そうなるとこの偉大な五六年間の飛鳥の京は非常に注目すべきものとなるであろう。
天武帝は壬申の乱を通じて即位せられたために、古来史家の間にさまざまの論議をひき起こしてはいるが、われわれにとっては他の意味で興味の深い代表的人物である。第一に、帝は万葉の歌人として名高い。額田王に送って千載の後に物議の種を残した有名な恋歌「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋めやも、」の一首は、帝の情熱的な性質を語って余蘊がない。その情熱はまた仏教を信ずる上にも現われた。殺生戒を守って肉食を禁じたのは帝である。この以後日本には獣肉を食う伝統が栄えなかった。従って日本人はその体質の上にも文化の上にも、天武帝の影響を著しく受けている。また帝は晩年に諸国に令して家ごとに仏壇を設け仏像と経典とを備えしめた。これも現代まで一般の風習として存続するほどの有力な伝統となったが、特に当初においては仏教を国教として国民に強制するという過激な意味を持っていた。この帝のもとに仏教が急速の繁栄を遂げたろうことは何人にも否み難い。天子が頻々として諸大寺に幸し、あるいは多くの僧尼を宮中に安居せしむる等のことは、この帝の晩年に始まったのである。帝の病のために諸寺僧尼や上下の諸臣が一斉に活動して読経・造像・得度・祈願等につとめたのも、この時以前にはないことであった。天智帝崩御の前にも内裏に百仏を開眼し、法興寺の仏に珍宝を奉供したが、仏にすがる情熱においてはほとんど比べものにならない。天武帝が礼仏の雰囲気のうちで崩じたに反して、天智帝は皇位継承のゴタゴタのうちに崩じたのである。天平文化に直接の基礎を置いたものは、天智帝でなくてむしろ天武帝であった。
このころの文化の動力は、言うまでもなく唐から帰った新人たちであったろう。一方にはシナ語及びシナの古典に通ずる学者がある。それがこのころに創設せられた大学及び国学の博士助教となったらしい。帝崩御後十数年にして制定せられた大宝令によると、大学の学生は定員四百三十人で、博士は七人、助教は二人、その他に大学頭以下五人の役人がある。国学は各国別にあって、博士が一人、学生が二十人ないし五十人。他に医師・医生等もあった。科目はシナの古典の学習を主とし、並びに書道と音学とを教える。音学はシナ語の発音の学で、これを学べばシナ語の会話は自由になる。他に算数学の専修科もあった。すべてこれらの教育は官吏養成を目的とするものであったが、しかし結果は一般教養の促進となり、中流以上の社会を精神的事物に引き寄せる力強い機運ともなったであろう。このことは仏教隆盛の素地としても見のがし難い。たとえば仏教経典の詩的妙味を解するためには、シナ語に通ずるものの方が、漢文を知ってシナ語を知らないものよりははるかに有利である。従って僧尼の読経を聞く時の印象は、当時の大学出の人たちにとっては相当に明瞭でもありまた強烈でもあったと考えられる。そういう理解が仏教の流行の背後にあったのである。
がまた他方には、博士助教よりももっと外形的に著しい仕事を仕遂げた連中があった。すなわち唐にあって法制や経済を学び、これをわが新国家に応用した新人たちである。当時の情勢はあたかも明治維新後憲法発布前の啓蒙時代のごとくあらゆる事物に新しい形式を必要とした。従って有力な為政者には必ず新知識を持った学者が付きそうていた。藤原不比等が唐に留学した田辺史の教育を受けたごとき、その一例である。律令の改定はすでにこのころから準備せられていた。国家組織のこの新光景は人心に若々しい緊張をもたらさずにはいなかった。憲法発布が鹿鳴館の文化と結びついているごとく、この時代にも結髪や衣服の唐風化が急速に行われた。それは外形のことに過ぎない。しかし外形の変革はやがて内部の変革を呼び出さずにはいなかったのである。
さらに新人の尤なるものは、道昭、智通、定慧などの僧侶である。道昭は古い帰化人の裔であり、定慧は鎌足の子であるが、共に唐に入って玄弉三蔵に学び、当時の世界文化の絶頂をきわめて来た。彼らのもたらしたものが単に法相宗の教義のみでなかったことはいうまでもない。
これが天武帝晩年の情勢である。それは文化的に言って巨大な発酵の時代といってよい。しかしその情勢を同時代人の眼で見、それを体験的に記録したものは残っていない。残っているのは『日本書紀』の記事のほかには『万葉』の歌と無言の造形美術のみである。しかもその中には講堂の薬師三尊のように、まるで素性のわからないものさえある。あの偉大な金堂薬師如来の作者がわからないのも無理はないであろう。
ただにこの作者ばかりではない。薬師寺大伽藍の建築家、あるいは大官大寺九重の塔の建築家、――その他あらゆる彫刻家画家は、すべて名をさえ留めていない。鮮少な遺品から判ずると当時の造形美術は驚くべき高さに達していたはずであるが、それらの偉大な芸術家の名は、天武帝の侍医であった百済人の名ほどにも顧みられなかったのである。しかし『書紀』が閑却しているからと言って、当時の社会が同様に冷淡であったと見るのは当たらない。『書紀』は官府の文書の集録に過ぎぬ。民族の意志や感情を表現することは、もともとこの書の企てたところでない。当時の文化はむしろ『書紀』に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見らるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令の下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこに盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の廚子や橘夫人の廚子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そうしてその数も、少なくてはすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を作ったようなすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな『書紀』と関わるところがない。
右のような実際の文化の担任者のうちに、おびただしい外国人が混じていたことは否定できまい。当時は朝鮮経由でシナ人の大挙移住があってからさほどの年数がたっていない上に、唐人の渡来もようやく多きを加えて来た。唐使とともに二千人の唐人が筑紫に着いた記事もある。大唐人、百済人、高麗人、百四十七人に爵位を賜うた記事もある。古くからの帰化人や混血人は、家業として学問芸術にたずさわっていた。特に飛鳥の地はこれらの文化人の根拠地で、壬申の乱のとき天武帝のために働いたものも少なくなかった。唐に留学して新文化を吸収して来る僧俗の徒も少なからずこの帰化人の社会から出た。これらの知識階級の生み出す新文化が、いかなる意味で「日本的」であったかは、説明するまでもないであろう。が、いずれにしてもこれは我々の祖先である。精神的にもまた肉体的にも。
あの薬師如来からは、右のごとき混血民族の所生らしい合金の感じが強く迫って来る。単なる移植芸術としては、この作はあまりに偉大過ぎる。種は外国のものに相違ないが、しかし土壌と肥料とは新しい。もし強いて「模倣」を問題にするならば、われわれの時代のあらゆる文物もまた模倣であることを顧みなければならぬ。模倣はタルドの学説を引くまでもなく人間社会の当然の現象である。重大なのはかくのごとき傑作が生まれたということであって、模倣であるか否かではない。
が、傑作は金堂本尊のほかにもう一つある。東院堂の聖観音がそれである。われわれは黄昏の深くならないうちにと東院堂へ急いだ。
しかし金堂から東院堂への途中には、白鳳時代大建築の唯一の遺品である東塔が聳えている。これがどんなに急ぐ足をもとどめずにはいないすぐれた建築なのである。三重の屋根の一々に短い裳層をつけて、あたかも大小伸縮した六層の屋根が重なっているように、輪郭の線の変化を異様に複雑にしている。何となく異国的な感じがあるのはそのためであろう。大胆に破調を加えたあの力強い統一は、確かに我が国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な美しさを印象する。もしこの裳層が、専門家のいうごとく、養老年間移建の際に付加せられたものであるならば、われわれを驚嘆せしめるこの建築家は、奈良京造営の際の工匠のうちに混在していたわけである。この寺の縁起によると裳層のついていたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もまたそうであったらしい。大小伸縮した四層の大金堂は、東塔の印象から推しても、かなり特殊な美しさのものであったろう。後に上重閣のみが大風に吹き落とされたと伝えられているのから考えると、その構造も大胆な思い切ったものであったに相違ない。このような建築が薬師寺にのみあったのかどうかは知らないが、とにかく奈良遷都時代の薬師寺に一種風変わりな建築家のいたことは確かである。しかもそのころにこの寺は熱狂的伝道者行基を出している。もしそこに必然の関係があるならば、この寺の持つ特殊な意義は非常に大きい。
わたくしたちは金堂と東院堂との間の草原に立って、双眼鏡でこの塔の相輪を見上げた。塔の高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、美しい水煙が、塔全体の調和をここに集めたかのように、かろやかに、しかも千鈞の重味をもって掛かっている。その水煙に透かし彫られている天人がまた言語に絶して美しい。真逆様に身を翻した半裸の女体の、微妙なふくよかな肉づけ、美しい柔らかなうねり方。その円々とした、しかも細やかな腰や大腿にまとう薄い衣の、柔艶をきわめたなびき方。――しかしそれは双眼鏡をもってしても幽かにしかわからない高いところに掛かっている。だから詳しい観察を求めるものはどうしても塔の一階に置かれた石膏の模作に引きつけられざるを得ない。模作でながめても、天人の体が水煙と融け合った微妙な装飾文様は、これほどのことまでわれわれの祖先にはできたのかと思うほど美しい。
しかしそれもゆるゆると味わっている暇はなかった。わたくしたちは東院堂の北側の高い縁側で靴をぬいで、ガランとした薄暗い堂の埃だらけの床の上を、足つま立てて歩きながら、いよいよあの大きい廚子の前に立った。小僧が静かに扉をあけてくれる。――そこには「観音」が、恐らく世界に比類のない偉大な観音が立っている。
こういう作品に接した瞬間の印象は語ることのできないものである。それは肉体的にも一種のショックを与える。しかもわたくしはこの銅像を初めて見るわけではなかった。幾度見てもこの像は新しい。
わたくしたちは無言のあいだあいだに咏嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経するらしい台の上に坐して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何ともいえない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくりと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない。わたくしはきのう聖林寺の観音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像の前にあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生と同じではない。一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。この像のどの点をとってみても、そこに人体を見る眼の不足を思わせるものはない。すべてが透徹した眼で見られ、その見られたものが自由な手腕によって表現せられている。がその写実も、あらゆる偉大な古典的芸術におけるごとく、さらに深いある者を表現するための手段にほかならない。もし近代の傑作が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。だからあの肩から胸への力強いうねりや、腕と手の美しい円さや、すべて最も人らしい形のうちに、無限の力の神秘を現わしているのである。
わたくしは小僧君の許しを得て廚子のなかに入り細部を観察したが、あの偉大な銅像に自分の体をすりつけるほど近よせた時には、奇妙なよろこびが感じられた。美しく古びた銅のからだから一種の生気が放射して来るかのようであった。ことにあの静かに垂れた右手に近よって、象牙のように滑らかな銅の肌をなでながら、横から見上げたときには、この像の新しい生面が開けるかのようであった。単純な光線に照らされた正面の姿のみを見たのでは、まだ真にこの像を見たとはいえないと思う。あの横顔の美しさ、背部の力強さ、――背と胸とを共に見るときのあの胴体の完全さ――あの腕も腰も下肢もすべて横から見られたときにその全幅の美を露出する。特に肩から二の腕へ、肩から胸へのあの露わな肌の肉づけには、実に驚くべきものがある。この傑作の全身が横からでもうしろからでも自由にながめられないということは、まことに遺憾に堪えない。
赤い、弱々しい夕日の光が、堂の正面の格子を洩れて、廚子のなかまで忍び込んだ。その光の反射で聖観音はほのかな赤味を全身にみなぎらした。西方浄土の空想を刺戟する夕の太陽が、いかにも似つかわしい場所でわれわれに働きかけてくれたのである。われわれはこの偶然に驚きながら息をつめて聖観音を見まもった。しかしやがてその光も、薄く、薄く消えてしまう。急に堂内が暗くなる。
廚子の扉はついに閉じられた。入り口で振り返って見ると、堂のなかは物悲しいほどにガランとしていた。
十七
奈良京の現状、聖観音の作者――玄弉三蔵――グプタ朝の芸術、西域人の共働――聖観音の作者――薬師寺について――神を人の姿に――S氏の話
薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。しかしまた都のうちに水田もあったらしい奈良京の大半は、当初からこの種の湿地であったとも考えられる。もしこの想像に相当の根拠が与えられるならば、このことは奈良京が短命であった理由として看過し難い。史家は政治上の理由や古来の遷都思想のみからこの点を説こうとしているが、この湿地の不健康性はもっと根本的な理由となり得たはずである。天平の中ごろに猖獗をきわめた疫瘡の流行は、特に猛烈にこの湿地を襲ったであろう。次いで起こった光明后の大患も、同じくこの湿地の間接の影響に基づいたのでないとはいえまい。この時に恭仁遷都の議が起こったのは、単に藤原氏の勢力を駆逐しようとする一派の貴族の策略とのみは考えられぬ。
が、泥田の道でわたくしの心を占領していたのはこの問題ではなかった。わたくしはあの偉大な聖観音の作者が誰であるかを空想して楽しんでいたのである。その作者はとにかく僧侶であった。ローマのトガに似た衣のよほどシナ風になったのを、無造作に裸形の上にはおって、半ばできかかった観音の原型の前に立っている。大きな澄んだ眼はアリアン種と蒙古種との混血児らしい美しさを持っているが、観音を見まもっているうちにはそれが隼のように鋭くなる。鼻は高いが、純粋なギリシア風ではない。表情の多い口は引きつったように閉じられている。やがて大きく息をついて、静かに腕組みを解き、腕に垂れた衣をまくり上げる。その腕はたくましいけれども白い。――
この製作は、『古流記』に従えば、孝徳帝の皇后間人の皇女が帝の追善のために企てられたものである。もしそれを信ずるとすれば、薬師三尊よりは三十年近く早いが、しかし最初の遣唐使より二十四五年ものちである。その四五年前には、法隆寺四天王の作者なる山口直大口が、――恐らく推古式の作者が、――詔を奉じて千仏像を刻んでいる。当時は止利が法隆寺の釈迦三尊を刻んだ時とわずかに二十年余を距つるのみで、その様式はなお盛んに行なわれていたと思われる。しかしまた当時は初唐文物のすさまじい襲来によってすでに大化の改新をさえ実現した後であるから、文化の先駆である仏教界には思い切った新傾向が現われたかも知れない。シナで玄弉三蔵が十八年にわたるインド西域の大旅行をおえて目ざましい新文化と共に長安に帰ったのは、ちょうど我が国の大化元年に当たる。この新文化に我が国人が触れたのは、それより八年後の盛大な遣唐使派遣のときであろう。その遣唐使たちは、孝徳帝崩御の年に帰って来た。それらを考え合わせると、孝徳崩後に至って突如としてかくのごとき新様式の傑作が現われたことは、きわめて解しやすくなる。聖観音を作った偉大な天才は、恐らく玄弉三蔵と関係のあるものであろう。あるいは玄弉に従って西域から来た人であるかも知れない。あるいは遣唐使に従って入唐し、玄奘のもたらした新しい文化や新しい様式に魂を奪われた日本人であるかも知れない。いずれであるにしろ彼は孝徳帝崩御の年唐から帰った吉士長丹の船に乗っていたのであろう。
西域の画家尉遅跋質那がすでに隋朝に来ていたとすれば、玄弉をもって初唐様式の代表者とするのは少し危険かとも思うが、しかしたとい玄弉以前にこの新様式が始まっていたとしても、それが高い程度に完成せられ、あるいは社会的に有勢となって、日本留学生の注意をさえ引くに至ったのは、一に玄弉の力であったと見なければなるまい。玄弉の仕事の特徴は、インド、ペルシア、西域等の文化を力強く唐の文化のうちに流し込んだところにある。そうしてこのことは唐太宗が西域諸国を征服して、シナと西域やインドとの交通を容易ならしめたことの、最初の大いなる果実であった。しかしこの機運を待って初めて新様式の美術が栄えたのは、どういうわけであろうか。それ以前にシナにはいったのは、中インドの美術も混じてはいるが、主としてはガンダーラ美術であった。シナ人を新しい造形美術に導いたものは確かにギリシアの芸術的精神の伝統であった。しかし北魏式美術にはギリシア風の感じはない。著しく漢式化したもののほかは、西域式かインド式かで、ガンダーラ美術の痕跡をとどめない。しかるに玄弉がグプタ朝美術の様式を輸入した後には、美術は突如としてガンダーラの気分を生かし始めた。しかもグプタ朝の美術よりは明らかに宗教的な、端正な、またガンダーラ美術よりははるかに古典的で精練された初唐の美術を形造るに至った。それはなぜであろうか。五胡十六国の混血時代を経て、ちょうどこのころに渾融的な気運が熟して来たためであろうか。あるいは西域やインドの美術に対する真実の理解が、このころに初めて起こって来たためであろうか。恐らくこれらも理由の一部をなすものであろう。しかし特に重大なのは、グプタ朝の円熟した芸術が、そのインド化の力を通じてかえってよくギリシアの芸術的精神を伝えたためであると思われる。前に来たガンダーラの美術は、ギリシアの手法と共にその芸術的精神をも伝えたのではあるが、その造形力の弱さのゆえに、偶像礼拝の伝統、すなわち「芸術と宗教とを合一せしむる」伝統を伝える以上には出ることができなかった。シナ人とシナを支配する蒙古族とは、それによって偶像を造り偶像を拝むことを学んだに過ぎなかった。しかるにグプタ朝の芸術は、特にその「美しさ」をもってシナ人を刺戟した。それは宗教の方便であるよりも、むしろ宗教を方便とするものであった。ガンダーラ彫刻を中世のキリスト教美術に比較するならば、グプタ朝美術は文芸復興期のそれに比較せらるべきである。かくて外来美術の美しさに目ざめたシナ人は、振りかえって北魏の美術をも見なおした。北魏の時代に子供らしい無垢な心の驚異をもってなされた人体の美の闡明が、今や成熟した人の複雑な意識をもってなされるに至った。この心機一転がすべてを説明しているのである。
私見によればグプタ朝の芸術はインドに植えられたギリシアの芸術的精神がその最大の花を開いたものである。その意味でインドはヨーロッパよりも千年前に文芸復興期を現出していると言える。しかしその開展は順当であったために、「復興」という契機はここにはない。アレキサンドロス大王の時代に植えられたギリシアの芽はサンチ、バルハトに開いた。北インドに侵入したギリシア人が永い間ギリシア的に保存したあとで、ローマの影響に刺戟せられてガンダーラ美術として育って行ったもう一つの芽は、サンチ、バルハトの芸術と結びついて、ついにグプタ朝に花を開いた。もとよりこの芸術は、文芸復興期の芸術がイタリアの芸術であるごとく、明らかにインドの芸術である。その様式も美しさもインド独特であってギリシア的ではない。しかしその精神には根深くギリシア的なものがひそんでいる。そうしてそのギリシア的なものによってグプタ朝の芸術はシナに激動を与えたのである。だから初唐のシナ人は、グプタ朝芸術の一側面たるインド風のデカダンの香気に対して、わりに冷淡であった。そうしてただギリシア的な偉大性と艶美とのみを取りいれた。そこに漢人特有の簡素化の気分が加わって、清爽と雄勁とを兼ねた古典的な芸術ができあがる。それが初唐の様式であった。
この連関には西域人の共働をも認めなくてはならぬ。ちょうど玄弉の時代は西域の最盛期であった。そこにはインド、ペルシア、ギリシア等の文化が渾融して、一種特別の趣を呈していたらしい。その文化はインドほど発達していないだけに、またインドほどただれてもいなかった。スタイン発掘品などの写真を見ると、同じく女の裸体を画いても、インドほど淫靡な感じを与えない。仏像彫刻もはるかに清純の度を増している。恐らくそれは西域が特に仏教的であって、シヴァやインドラの快楽を憧憬するインド教に侵されていなかったからであろう。玄奘の『西域記』によると、当時のインドは仏教よりも外道の方が盛んであった。しかし西域の諸国にはほとんど外道が伝わっていなかった。またその仏教も後の密教のようにひどくインド教をとり入れたものではなかった。だから仏教を中心としていえばインドよりは西域の方が清新だったのである。そうしてこの西域がインドと唐とを結びつけていたのである。玄弉が連れ帰った外国人のことを考えても、インドから多数の人を連れてくるのは困難であったが、西域からは容易であった。玄弉は十七年の旅をおえてヒマラヤ山北の于闐に帰り、そこに留まって経論を講じたが、その間唐の太宗に対し禁令を犯して外遊した罪の赦免を乞うた。その上奏文が太宗を動かして、赦免の勅使と共に彼を迎える人夫及び軍馬を送るに至らしめた。もとより玄弉の旅行は一人でできる性質のものでない。多量の経論をもたらして沙漠を渡り高山を越えるときに、少なからざる人馬を必要としたことは言うまでもなかろう。しかしそれは行く先々の王侯や仏徒の好意によって続け得た旅行なのである。しかるに今や彼は、当時東洋第一の強大国の帝王に支持せられて西域からシナへと凱旋する。従って于闐から東帰する彼の旅行には、恐らく彼が欲するだけの人と物とを携えることができたであろう。従って多くの于闐の美術家が彼と共に東漸したということも、きわめて考えやすい。
――わたくしの空想した聖観音の作者は、この種の西域人である。(たまたま「孝徳紀」の終わりに吐火羅男二人、女二人、舎衛女一人の漂着を報じているのが、空想を刺戟する。)彼はガンダーラ美術の間に育った。グプタ朝の芸術に激動をうけた。そうして十年近いシナ滞在が、漢人の美術の素朴と勁直とに愛着を持たしめた。彼の身には今や東洋のあらゆるよきものが宿っている。そのよきものを結晶させる地としては、大和の安らかな山河はまことに都合がよかった。そこにはさらに彷徨を続けしめる刺戟はない。しかし彼を迷わせ頽廃せしめる誘惑もない。彼は落ちついて仕事をした。彼の製作がどれほどあったかはわからないが、とにかく我々の前には聖観音が残っている。
孝徳帝追善のためという伝説が信じがたいとすれば、この空想も立てなおさなくてはならぬ。しかしこの像が薬師三尊よりも前のものであることは異論がなかろう。そうすればいくら時代を下げても三十年以上はさげることができない。時代的背景に大差はないのである。
薬師寺についてはかつて木下杢太郎にあててこう書いたことがある。
「彫刻では、夢殿の秘仏が見られなかったのは止むを得ないとして、薬師寺東院堂の聖観音が、名前さえ挙げてないのはどうしたものでしょう。もちろんあの金堂の薬師如来から大した芸術的印象を受けなかったというその日の気分では、聖観音にもあまり圧倒せられなかったかも知れません。しかしそれは貴兄の側に責があるのです。あの日の君の気分は妙に抒情的に柔らかくなって、ちょうど君の眼に映じた唐招提寺の景致が色調において matt であったように、君の心の調子も matt であったらしく思われます。ただひとりで、雨に濡れながらとぼとぼと、蓴菜や菱の浮かんだ池の傍を通る時には、廃都にしめやかな雨の降るごとく君の心にもしめやかな雨が降ったことでしょう。その寂しい抒情的な気分には、聖観音の古典的な力は、あまりに縁が遠過ぎたかもしれません。だから奈良は、そう駛けて通ってはだめです。わたくしはこの聖観音と薬師如来とのためにも、君の再遊を望まずにはいられません。
「聖観音には、流動体にもなり得る銅の性質を、まだ十分活かし切らない点があります。下半身の衣文の手法などがそれです。その点では、薬師如来は、行けるところまで行っていると思います。しかし聖観音には、昇り切ろうとする力の極度の緊活があります。写実的に十分確かに造られたあの体には、超人間的な力と威厳とがあふれるように盛られてあるのです。あの胸から腹へかけての、海のような力強さを御覧なさい。あの美しい左手の力の神秘を御覧なさい。またあの東洋に特有な美しい顔を御覧なさい。わたくしが見た限りでは、ガンダーラ美術などには、この像の力強さに及ぶものは一つもありません。西域やシナの発掘品を見ても、これより巧妙だとかこれより美しいとかと思えるものはあるけれども、これほど宗教芸術としての威厳と偉大性とを印象するものは、今まで見たところでは、ありませんでした。西洋と比較しても、中世の彫刻はとてもこの足元へはよりつけますまい。文芸復興期の宗教彫刻やギリシアの神像彫刻などは、これほど厳密に宗教的ではないから、比較は少し困りますが、しかしやや境遇の似たギリシアの神像を取って考えてみると、われわれはその芸術的価値を比較するよりも、まず二つの異なった性質の芸術があることに驚かされるのです。すなわち人の姿から神を造り出した芸術と、神を人の姿の内に現われしめた芸術とです。前者においては芸術家が宗教家を兼ねる。後者においては宗教家が芸術家を兼ねる。前者は人体の美しさの端々に神秘を見る。後者は宇宙人生の間に体得した神秘を、人の体に具体化しようとする。一は写実から出発して理想に達し、他は理想から出発して写実を利用するのです。かく二つの異なった立場を認容するとき、わが聖観音は、その下半身の手法の硬さにかかわらず、たちまち世界的に意義の深い、高い地位を要求してくるのです。
「神を人の姿に現われしめるという傾向は、文化的には、『インド』を『ギリシア』の形に現われしめるということにもなると思います。聖観音はこの傾向の、かなり絶頂に近いところにあるのです。あるいは絶頂なのかも知れません。従ってそれはギリシアと対峙するものではなく、父インド母ギリシアの間から生まれた新しい子供なのです。キリスト教芸術はその父親違いの兄弟なのです。この考えはわたくしに異常に強い興味を起こさせます。
「薬師如来について、貴兄が冷淡なのも案外でした。少なくともあの柔らかい、とろっとした、表面の心持ちだけでも貴兄の注意を惹くには十分だと思えるのですが。――あるいは少なくともあの右手の指の滑らかな光だけでも、と思えるのですが。――これはぜひ貴兄の再度の巡礼を待ちます。
「法隆寺の壁画と薬師寺の三尊及び聖観音との間に密接な関係がありはしないか、という説は、非常に傾聴に価すると思います。そこに同一の作者を推測するのも決して大胆すぎる説ではありますまい。わたくしはここに、東洋文化の絶頂に対する秘密の鍵の存在することを認めております。」
永い一日を結ぶ夕食の卓には、唐招提寺で逢ったS氏が加わった。あの古い堂のなかで、古い仏像を文字通りにいじくって、臭い漆の香のうちに毎日を送っているS氏は、いかにも現代ばなれのした人のように感じられていた。が、きいてみると、奈良の町から毎日自転車で通うのだそうである。それをきいて夢のなかの人が急に現実の人になったような気持ちがした。
S氏はこわれかかった仏像を媒として昔の仏工とつき合っているだけに、いろいろ珍しい話を聞かせてくれた。特におもしろかったのは天平の仏工が台座の内側に残した落書きのことである。これは写しも見せてもらった。人物や動物や風景がいかにも落書きらしく粗雑に書いてある。なかでは樹下美人風の太り肉の女の画が優れていた。あの堂のなかで、あの仏像を据えつける時に、工事にあずかっていた一人の男がこういう美人の画を台座に書いている、――その光景がまざまざと心に浮かんで、当時の仏工の生きた姿を見るように感じさせた。
十八
博物館特別展覧――法華寺弥陀三尊――中尊と左右の相違――光明后枕仏説
次の日はまた博物館から始めた。
博物館の玄関脇に狭い応接室がある。緑布をかけた長方形の卓子や数個の古めかしい椅子などで室が一杯になっている。そこの壁に古画をかけて見せてもらうのである。
九時ごろT君と二人で博物館の入り口へ着くと、Y氏が弱り切ったような顔をして立っている。八時半と話しておいたのにこう遅刻されては困るという。それからZ君夫妻がいっしょでないのに気づいて、どうなすったと心配そうにきく。昨日の疲れで今日は来ないかも知れぬと答えると、急にあわてて、それは困る、博物館の方では非常に好意を持ってどれでも好いだけ御覧に入れようと言っているのに、そんなことをされては困る、電話をかけましょうと騒ぎ出す。それまでのんきに構えていたわたくしたちは、Y氏のあわて方を見て、この特別展覧がどんなに繊細な感情に基づいているかをやっと悟った。そうして困ったまま立ちすくんでいるとおりよくZ君たちが俥で馳けつけて来た。一同ほっとして、何食わぬ顔をして玄関をはいって行く。
掛かりの館員は愛想よく迎えて挨拶がすむと、さて何を出しましょう、まず法華寺三尊、さよう、どうしてもあれですな。館丁は命をうけて鞠躬如として出て行く。それから何にしましょう、西大寺の十二天、さよう、一幅でいいとなるとまず水天ですかな、まあそうでしょうな、それから、薬師寺の吉祥天、さよう、あれも代表的のものですからな、それから信貴山縁起、ようがす、それから、それだけですか、なにおよろしければいくらでも出しますよ。
好意はありがたかったが、しかし心苦しかった。前の年、大学の修学旅行に同伴させてもらって、いろいろ特別の取り扱いを受けた時にも、こういう古美術が一般の国民に開放せられていない現状を不満に思ったが、今日はあの時よりももっと特別な好意を持たれただけに人類の宝を私するという感じは一層強く起こらないわけに行かなかった。いい芸術はまず第一にそれを求むる者の自由な享受を目ざして処置せらるべきである。それでこそ初めてその芸術の人類的な性質が妨げられることなく現われて来るのである。そのためにはこの種の画は常に陳列せられていなくてはならぬ。そこで保存上の問題も、もっとまじめに、熱心に研究せられる必要が出て来る。国家はそのために十分の金を使っていい。湿度の加減や酸化の防止についてまったく欠陥のない完全な方法が見いだされなくては、国宝の画を掛けっ放しておくなどということはできないからである。今のところでは巻いて蔵っておくのが一番よい保存法であるが、それは絵が見らるべきものであるということと正面から衝突する。そこで年に一二回陳列するほかに、巻いたりひろげたりするたびごとに痛むのを承知の上で、特に見る必要のある人々にひろげて見せるのである。このやり方は一日も早く是正されなくてはならない。
館丁は長短三幅の掛け物を重そうにかかえて現われた。重心をうまくそろえてつかんでいないので、短い幅などはズリ落ちそうになっている。そのためもあって床に置くときにドサリと乱暴な音を立てる。それから紐をほどいて壁に掛ける段になると、大きくて自由にならないもので、知らず知らず取り扱いが手荒らになる。見ていてハラハラせずにはいられない。幾分腹も立って来る。どうもこれは毀損しやすい名画の取り扱い方ではない、大事にしようとする気が足りなさ過ぎるなどと思う。
こういうふうにしてまずわれわれは法華寺弥陀三尊に対したのである。
中尊阿弥陀は画面一杯の坐像である。微妙な色調を持った暗色の地の上に、おぼろに残った黄色の肌や余韻の多い暗紅の衣が浮き出ている。下には紅蓮の台があって、ゆったりと仏の体をうけ、上からは暗緑の頭髪が軽やかに全体を押える。そうして明らかな仏眼は、黒味を帯びた朱の瞳をもって、あたかも画面全体の中心であるかのように、暗緑の頭髪の下に優しく輝いている。紅の濃淡で柔らかにひだをとられた衣によってゆるやかに包まれている胸の下には、両の掌を半ば開いて前向きにそろえた説法の印が、下ひろがりになった体勢を巧みに緊縮する。その体をめぐってヒラヒラと散り落ちる蓮の花びらは、音なく動揺なく、静かに大気のうちに掛かっている。ここにすべてを抱擁する「静寂」が具体化せられているように見える。
単純な配合でありながら微妙な深味を印象せずにはいないその色彩の感じ、単純な構図でありながら無限の内容を暗示するかのようなその形の感じ、――そこにはなにか永遠なものの相がきらめいている。とにかくそれは清浄な世界である。仏教の精神に特有なあの彼岸生活への(すなわち観念を具象化して永生の信仰を色づけたあの永遠の世界への)憧憬がこの浄土を作り出したのであろう。もしわれわれの心に「阿弥陀浄土」への願望が生きていたら、この画の色と形がわれわれに印象するところは、もっと強く烈しいに相違ない。偉大な芸術はいかなる国のいかなる人の心をも捕うべきはずであるが、しかし小児が名画に対して強い感動を持たなかったからと言ってそれを怪しむ人はない。そのごとく仏徒の心情についていまだ小児であるものが、仏徒の心情と離すことのできないこの画に対して、十分の感動を持ち得ないとしても不思議はない。わたくしはこの画に対する親しみのうちに、漠然とではあるが、なおこれ以上の感動の余地のあることを感ずる。
わたくしが初めてこの画を見た時には幡を持った童子の画と共にガラス戸の中に掛けてあった。その朝奈良停車場に着いてすぐに博物館を訪れ、推古から鎌倉までのさまざまな彫刻をながめ暮らしたのであるが、閉館の時刻の迫った時に急いで画の陳列してある方へ行ってこの画にぶつかったのである。そこは窓のない室で幾分薄暗かった。しかし幡を持った童子の美しさはわたくしの目を引かないではいなかった。胡粉のはげかかった白い顔の愛らしさ、優しい姿をつつむ衣の白緑や緑青の古雅なにおい、暗緑の地に浮き出ている蓮の花びらの大気に漂う静かな心持ち、吹き流されている赤い幡に感ぜられる運動の微妙さ。わたくしはしばらくその前を動かなかった。やがて迫って来る時間に気づいて、中尊の阿弥陀像に一瞥をくれたまま、急いでその室を立ち去った。阿弥陀像の印象として残ったのは体がいやに扁平なことと眼が特に目立っていながら顔がおもしろくないことぐらいなものであった。もちろんこの画が中尊で童子の画がそれに属していることなどはその時は知らなかった。
その晩友人からこれが名高い仏画の傑作だと聞かされて、わたくしは自分の眼の鈍いのを嘆じた。そうしてその翌々日博物館へ行った時に、有名な法華寺弥陀三尊の中尊としてこの画を見なおしにかかった。落ちついて見ると、なるほどいい画だと思った。顔が変に見えたのはちょうど鼻の左右に黒い画面の傷があったからで、よく見れば鼻の線はちゃんと別にある。胸には左右の手がかなり巧妙な線で描かれている。衣の赤い色は何とも言えずいい感じのもので、ひだをくま取った幾分写実的なやり方も美しい効果を見せている。散る花びらの配置もなかなかいい。画面には驚くべき簡素がある。大きい調和もある。わたくしは静かな陶酔のこころもちでこの画の前に立ちつくした。
わたくしはあの時の経験を忘れない。今はこの画の毀損し剥落した個所によって妨げられることなしにこの画を鑑賞している。しかしこの毀損し剥落した個所が眼にうつらないのではない。それを見ながらも、芸術的統一の面に属しないものとして捨象しているのである。またそれと共に芸術的統一の面に属するものを追跡し見いだそうと努力している。輪郭の線は生にあふれた鉄線ではあるが、しかし画面の古色の内に没し去って、われわれの眼にはっきりとはうつらない。われわれは線に注意を集めて古色に抵抗する。体はしっかりと描かれた雄大なものであるが、色彩が十分残っていないために、ともすれば稀薄な、空虚な感じを与える。われわれは衣に包まれた体から推測してそこに厚味のある色を補おうとする。これは芸術的統一の面がそれ自身に復元力を持つことを意味する。しかしそれは画面の毀損が回復されたということではない。この画の本来の統一に注意を集め、その復元力にまで迫って行く努力をしなければ、毀損の個所の方がかえって強く目につくであろう。従ってこの画を見る人が、画面の毀損のために十分この画に没入し得ないということはあり得るのである。
法華寺三尊は藤原初期の作とせられている。しかし第一に、中尊と左右とは著しく時代を異にしていはしまいか。第二に、これが光明皇后の枕仏であったという寺伝には、なにか意味がありはしないか。
中尊と左右とが時代を異にするという感じはわたくしには前からあったが、今度三幅を同じ室に並べて見ると、それがはっきりとわかった。第一、線の感じが非常に違っている。たとえば雲を描いた線がそうである。中尊の乗っている雲は、その柔らかい、ふうわりとした感じを潤いのある鉄線でいきいきと現わしている。しかし童子や観音・勢至などの乗っている雲は、型に堕しかけた線でかなり固く描かれている。二十五菩薩来迎図の雲のようにひどくはないが、しかしその方向に進みかけているという感じがする。衣の線などでも中尊のは含蓄の多い、描こうとするものの性質に忠実な線であるが、両脇のは筆端の遊戯がかなり目に立つ線である。第二に色の感じが違っている。中尊における簡素な調和は左右には認められない。色彩の好みもかなり違うように思う。それは製作者の精神の相違を感ぜしめるほどである。第三は構図の相違である。左右は動いている。中央は静止している。そうしてその静止した弥陀を雲に乗せたまま動かして行こうとする注意はどこにもない。このような統一を欠いた構図が、中尊を描き得た画家の心から生まれようとは思えない。
この三幅に対して右のような感じを抱かない人もあるではあろうが、しかし同感の人も少なくはなかろう。T君は線の感じについて同意見であった。館員のT氏も構図の不統一について同意見であった。ある画家ははっきりとこう言った。左右は浄土教が流行し始めてから付けたものです。一尊仏だった弥陀を来迎の弥陀に変化させたのです。御覧なさい、あの印相は来迎の印相ではない。――なるほど来迎の印相ではない。ところが山越えの弥陀もこの弥陀と同じく、来迎の印を結ばずに説法の印を結んでいる。印相は確証にはできない。しかしこの画家の断定は当たっているのではなかろうか。
そこで中尊の時代が問題になる。左右が藤原初期に付けられたものだということは、童子を見ても明らかであるが、中尊は果して同時代のものであろうか。あるいは少しくさかのぼって貞観時代のものであろうか。光明后枕仏の伝説は全然生かせる余地のないものであろうか。もし天平時代の画であるならば、法隆寺壁画の弥陀三尊とどこか通ずるところがありそうなものであるが、法隆寺壁画とこの画との間にはあまりに大きな距たりがある。あの壁画の阿弥陀を見た目でこの画に対すると、その体の描き方などは、ほとんど比べものにならない。説法の印を結ぶ手だけをとって見ても、壁画の手の力強い確かな描写に対して、水掻きのついているこの画像の手は、弱々しい、曖昧な描写だと言ってよい。あの壁画にあまり遠くない天平時代の、しかも光明后の枕仏が、このようなものであったはずはない。もちろん天平時代にも壁画式でない画はあったであろうが、しかしあの数多い彫刻の傑作を作った時代には、絵画ももっと彫刻的でなくてはならぬ。また時代の推移を考えれば、薬師寺の聖観音が天平時代に至って聖林寺の十一面観音となったように、絵画においても法隆寺の壁画は聖林寺の観音に比肩し得るほどの後継者を持たなくてはならぬ。しかしこの弥陀画像はそれほどのものではない。がまたそれは二十五菩薩来迎図ほど固くなったものでもない。あの画に比べればこの弥陀画像にはずっと大きい気分があり、また新鮮な生気も見える。これらの点から判断してこの弥陀画像は平安朝の柔婉な趣味が頭をもたげ始めた時代の最も古い時期の製作かとも思われる。しからばそれは恐らく百済河成・巨勢金岡などの時代、もしくはそれよりあまり古からぬ時代であろう。
この画像と広隆寺講堂の阿弥陀像との間には相通ずるところがある。両者は姿勢が全然同一であって、光背までも違わない。面相もただその感じを除いては、頬の豊かさから幽かに下方に彎曲した細長い目に至るまで、ほとんど相違するところがない。もとより細部になれば、同じ印相を結ぶ手の無名指の曲がり方や、衣紋の線の流れ方や、特に膝の大きさとその衣のまとい方などが異なっている。が全体としては、画像が彫像の写生であると言ってもいいほどに似ていると思う。でこの画像はあの弥陀像と同じ時代に作られたろうとも考えられる。弥陀像は仁明妃の御願であるから入唐僧がまだ盛んに帰ってくる時代の作と思われるが、密教美術の影響よりはむしろ天平乾漆仏の遺風の方を著しく示しているものである。そうして形相の上では後に盛んに作られた弥陀像の模範となっている。この画像も恐らく同じように、天平の遺風を伝えて、しかも新しい趣味を指導しようとしているものであろう。
そこで法華寺十一面観音についていったようなことが、またこの弥陀画像についてもいえることになる。この画像は何らか天平時代と関係のあるものであろう。法華寺には阿弥陀院があった。天平時代の阿弥陀崇拝の中心は法華寺と光明后とであった。不幸にも天平時代の弥陀坐像は湮滅してしまったが、もしその面影を広隆寺講堂の弥陀像が伝えているとすれば、そうしてそのような弥陀像が法華寺にもあったとすれば、同時にまたこの画像のような弥陀画像があったということも考えられる。当時盛んに造られたのは弥陀浄土画像であるが、しかし弥陀の単像のあったことも、鑑真将来品目録に「阿弥陀如来像一鋪」とあるに見て明らかである。だから光明后の晩年には、この画像に似てもっと彫刻的なもっと優れた弥陀画像があり得た。そうして当時の弥陀浄土への願望を代表していた光明后がその臨終の床に右のような画像を掛けさせたということもあり得た。従ってこの画は藤原時代の弥陀崇拝を反映すると共に、また光明后枕仏の面影を伝えているかもしれない。
が、これらすべてのことは、この画の芸術的価値にかかわるものではない。逆にこの画の芸術的価値にもとづいて古代への愛と空想とを刺戟され、この画を通じてこの画よりもさらに偉大な多くの画のあった時代を髣髴し得るのである。
阿弥陀浄土への強い願望が盛んに来迎の画を描かせていた時代には、西洋でも天上の楽園や天使の来迎の幻想が盛んに行なわれた。この二種の幻想を比較して見ることも興味のある問題である。実をいうとわれわれの内には、西洋の幻想の方がより強いいのちをもって生かされている。ダンテの描いた幻想はわれわれの心をやすやすと彼岸の生活へ引き入れて行くが、われわれの祖先の描いた弥陀の浄土は、まずわれわれに好奇の心を起こさせるばかりである。わたくしの少年の心はロセッチの描いた Blessed Damozel によって悲哀と歓喜との情緒を揺り動かされた。あるいは地上楽園の凱旋行列やベアトリッチェとの邂逅の場面を、夢にまで見ないではいられなかった。しかし弥陀の浄土を描いた阿弥陀経からも、蓮台にのった仏菩薩の姿からも、かつて感激をうけたことはなかった。その少年の心は今もなおわたくしのうちに生き残っている。この差別は二種の幻想の異なった性質から説明し得られるであろう。そうしてそこに東西文化の異同を見ることもできるであろう。
十九
西大寺の十二天――薬師寺吉祥天女――インドの吉祥天女――天平の吉祥天女――信貴山縁起
西大寺十二天のうちの水天は、初めて見たときの印象がよかったので、この日もかなり楽しみにしていたが、いよいよ壁にかけられてみると、剥落や補筆が目について静かに引き入れられて行く気持ちになれなかった。初めてのときには両界曼陀羅や醍醐の五大尊などと比べて見たが、この日は弥陀三尊と比べて見たというようなことも、その原因になっているかも知れない。しかしもとはいい画であったろうと思われる。今見てもその体の彫刻的なことなどは弥陀三尊の比ではない。また部分的にひどく美しいと思わせる個所もある。何となくにこやかに見えるその顔や、丸々として柔らかいその腕や、特に下隅に描かれている小さい人物などがそれである。画風は西域式、あるいは法隆寺壁画式で、陰影も盛んに使われている。この画が平安朝初期のものだということは疑いのないところであるが、もし当時の仏画にこの様式のものが多かったとすれば、それが漸次変化して鳳凰堂壁画のようになったということには、見のがし難い大問題が含まれているように思う。この画の線は形象の客観的描写に専念して筆端の遊戯を斥けたものであり、この画の色彩も面の描写にこまかい注意を払ったものである。この注意がますます鋭くなり、面の微妙な凹凸と色彩の微妙な濃淡とを関係させるようになれば、恐らく日本画は別種の道をたどったであろう。しかし日本人が試みたのは線についての感覚の分化であって、面の研究ではなかった。線の現わす気分が微に入り細に入って現わさざる所なきまでに発達して行く間に、面の描写は閑却され、従って人体の全体としての観照は地を払った。これが藤原時代の絵画の長所でありまた欠点であるとともに、日本画の長所となりまた欠点となって来たものである。平安朝初期の名画家百済河成や巨勢金岡は、写実的傾向をもって有名であるが、その写実は恐らく線をもってしたものであろう。もしこの推測が許されるならば、河成・金岡をもって平安朝前半期における日本画の大成者とする観察の裏面には、また彼らをもって日本画の運命を局限した者とする観察も可能である。
水天は壁に掛けられている。卓上にはガラス張りの額にはいった薬師寺の吉祥天女が置かれた。一尺五分に一尺七寸五分という小さい画ではあるが、独立に画としてかかれた天平画のうちの唯一の遺品として、見のがし難いものである。絹よりもずっと目の荒い麻布の上に、濃い絵の具で、少し斜めに向いた豊頬の美人が画かれている。体を包む絢爛な衣は、細い緻密な線と、陰影を現わす巧みなくま取りとで描かれているが、その衣の薄さや柔らかさに至るまで遺憾なく表現し得たといってよい。特に柔らかい肩のあたりの薄い纏衣などはその紗でもあるらしい布地の感じとともに中につつんだ女の肉体の感じをも現わしている。束髪のようにきれいに上げた髪の下の丸々としたその顔もまた精神の美を現わすよりは肉体の美を現わしているというべきであろう。その頬の円さ、口の小ささ、唇の厚さ、相接近した眉の濃さ、そうして媚のある眼、――誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するにこれは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。
わたくしは前に天平の女の肖像画がないことを遺憾としたが、この画などは肖像画でないまでも当時の風俗を忍ばせるには足りると思う。あるいは薬師寺の画家が、当時の貴婦人を思い浮かべつつこの画をかいたというようなこともないとは限らない。しかしここに描かれているのは、『霊異記』に現われたような、素朴ながらも病的な、誇張して感ぜられた女の美しさである。従ってこの画が天平の女の全面を現わしているとはいえない。『万葉集』の恋歌に表現された天平の女には、もっとインテリジェントな一面がある。この画によって知りうるのは、天平の貴婦人が髪を束髪のように結い、模様の美しい衣をなだらかに着こなしていたその外面的な姿である。
もし天平末のデカダンスがこの画によって代表せられるとすれば、それは繊細と耽美とにおいて藤原盛期に劣らない。しかもその力強さと自由と清朗の気とにおいてははるかに優っている。藤原時代の絵巻に現われた女の服装と、この吉祥天の服装とを比較して見ても、単に趣味の相違のみならず、心情全体の相違が感ぜられる。そうしてその相違は、同じように、和歌にも、造形美術にも、政治にも、宗教にも、認められるといってよい。その意味でこの画像は、ながめていると興がつきない。
この画の色彩は水彩だと言われているが、ただ水だけでといたとは思われぬところがある。それを館員のT氏にただすと、氏も同意見であった。誰もいわないことですが、わたくしはどうもこれは油絵だと思います。油でなければとてもこうは行かない、といって氏は衣の陰影のところなどを指した。麻布に油でかくというようなことは次の時代へはほとんど伝わらなかったらしい。それだけを考えても天平画の堙滅は惜しまれる。
この画の主題の取り扱い方もまた問題になる。吉祥天はバラモン教の美福の女神シュリイで毘沙門天(多聞天)すなわち富神クヴェラを夫としている。仏教に摂取せられてすでに金光明経などに現われているから日本でも古くより崇拝せられていた。特に天平時代は金光明経が国民全体の福祉のために盛んに用いられた時代で、吉祥天の崇拝もまた盛んであった。天平末に政府が吉祥天女画像を国分寺に頒ったごときはその一端であろう。画像が行なわれたのは同経に「応に我が像を画き種々の瓔珞もて周帀荘厳すべし」とあるによったものと思われる。さてこの吉祥天女が、――仏前に演説して、金光明経の受持者に飲食・衣服・臥具・医薬及び余の一切の物質的要求の充足を約してくれた吉祥天女が、――また主としては五穀豊穣を祈るためにまつられた吉祥天女が、――どうしてあのような女の姿に現わされたか。あの風俗が唐風であるに見ても、インド伝来の規矩に従ったのでないことは明らかである。もし東方の画家が金光明経を読んでそこからあのような天女像を空想し出したとすれば、「無量の衆生をして諸の快楽を受けしむる」幸福の女神は、この画家にとって、神であるよりも、まず豊麗な女であった。この想念を度外してはあの美人像が吉祥天像であるということは理解し難い。インドにおいて「女神」であるものが、ここでは単に美人の姿によって現わされる。これは非常な「ずれ」である。
密教の儀規が勢力を得た後の吉祥天女は、このように純然たる美人像ではない。直立して、定規の印を結び、頭や胸にインド伝来の複雑な飾りをつけている。その密儀の香気のゆえに、何となく人らしくない感じもする。しかし太り肉の女であって唐風の衣裳をつけている点は変わらない。だからインドの女神としての印象を与えるとはいえない。この種の吉祥天女像では浄瑠璃寺のが特に優れていると思うが、その優れているのはやはり美人像としてであって神像としてではない。一体密教はインド教と仏教の混血児であるからこの女神シュリイのごときもインド風に半裸体の像を採用しそうに思えるが、それがかく唐風の衣裳をつけているのは、密教隆盛以前にすでにこの種の伝統が確立していたことを示すのであろう。それに比べると水天などは、密教とともに流行し始めたものであるだけに、インド教の香気を強く保存している。水天はバラモンの水神ヴァルナであって、密教の諸仏諸天大集会に西方の守護神をつとめているが、天平時代の守護神のように純然たる仏の「守護神」となっておらず、なお本来の水の神としてその地位を得ているのである。
――さて右のような特殊な伝統の源流となっている薬師寺吉祥天女は、天平時代の吉祥天女を代表し得るものなのであろうか。遺品によって証明することはできないが、天平の吉祥天女は恐らくこの画像に似たものであったろう。「身白色にして十五歳の女のごとく、種々の天衣をもって微妙荘厳す」というような儀規が当時伝わっていたとは見えない。左手に赤い珠を持っているのから考えると金光明経のみが典拠でなかったことも明らかである。あのように自由な像が描かれたということは、面倒な儀規の束縛がなかったことを示しているのではなかろうか。もし他に超人間らしい吉祥天女の像式があって、それが主として行なわれていたとすれば、いかに当時の画家が自由な心持ちであったとしても、いきなりそれを当時の美人風俗に画き変えることはできなかったであろう*。
* この後三月堂内の閉ざされた廚子のなかに塑像の非常にすぐれた吉祥天女像があるのを見た。破損はひどいが頭部と胴体と下肢とはまだしっかりしていた。それは同じ堂内の梵天(寺伝日天)にも劣らない堂々たる作で、女人の形姿を女神の姿にまで高めている。が「天女」として「女」の感じを強調した痕は著しい。そこから薬師寺画像のごとき美人像が出たのであろう。
『霊異記』の伝えている聖武時代の逸話なども、幾分この点について暗示を与えるかと思われる。それは和泉国の血渟山寺に安置せられていた吉祥天女の摂像についての出来事である。信濃から来てこの山寺に住んでいた一人の求道者が、天女像に恋して、六時ごとに、あなたのような美しい姿の女をわたくしに妻あわせて下さいと祈っていたが、ある夜ついにこの天女像と婚する夢を見た。翌朝行って見ると、それがただ夢のみではなかったことがわかった。その男は慚愧して、わたくしはただあなたに似た女をお願いしたのです、といってあやまった、というのである。『霊異記』のなかでこの種の逸話が伝えられているのはただ吉祥天女像のみであろう。それだけに当時の天女像がどういう印象を与えやすかったかも想像される。美術品に対してこの種の実感を抱くことは、その美術品が信仰の対象として人格的な力を持っていた時代には、単に美意識の不純というだけにとどまらない。だからそういう危険を誘発するような像画があえて作られたということには、何らか暗い背景がなくてはなるまい。
もっとも右のような逸話はあまり信用すべきものではあるまい。金光明経の印象によって僧侶の間にこのような仮構談が作り出されたということもないとは限らない。吉祥天女が仏の前に演説したところによると、天女はおのれを求むる者の夢に現われることを誓っているのである。「一室を浄治し、あるいは空閑の阿蘭若処にありて瞿摩を壇とし、栴檀香を焼きて供養をなし、一勝座を置きて、旛蓋もて荘厳し、諸の名華を以て壇内に布列せよ。当に前の呪を誦持して、我が至るを希望すべし。我その時に於て即ち是人を護念し、観察し、来りてその室に入り、座につきて坐し、その供養をうけん。是より後当にかの人をして睡夢の中に我を見るを得しめん。」――しかしまたこのような誓言が信者をして実際に天女を夢みさせる機縁となったこともないとは限らない。そこに夢遊病を付加して考えるならば、逸話通りのことが起こってもさほど驚くにはあたらないのである。
なおこの画と正倉院の樹下美人図との異同も考えてみねばならない。あの屏風が輸入品であるかどうかは知らないが、とにかく当時の美人の標準はこれによって察することができよう。吉祥天女は明らかにこの標準による美人である。しかし樹下美人には少なからず精神的陰影が現われているように思われる。万葉の烈しい恋歌などにもふさわしいと思える気宇が、眉の間に漂っているのもある。その点では吉祥天女の顔の方が肉感的である。そこにまた吉祥天女の特殊な意味があったのであろう。
信貴山縁起は平安朝絵巻物のうちの有数な名画である。線画の伝統の一つの頂上である。簡単な線でこれほど確かに人物や運動をかきこなしていることは、やはり一つの驚異といってよい。写実的気分も濃厚であるが、特にその捕え所が巧みである。たとえば大仏殿を描くのに、ただ正面の柱や扉のみで、遺憾なきまでに大きさと美しさを現わしているごときがそれである。もちろんそこには幅のせまい横巻に大仏殿を画き込むという条件が否応なしに導いて行った省略ということも考えてみなくてはならない。しかし大仏を拝みに行く人の心持ちを中心として考えると、かく急所をのみ捕えて、人物の心持ちと殿堂の美を一つにして現わし得た手腕は、容易なものではない。
この種の巧妙な技巧は日本人に著しい特質の一つである。絵画においては、平安朝の絵巻やその後の宋画・文人画・浮世絵、あるいは琳派の装飾画に至るまで、種々の方面にこの巧さを生かせている。文芸においても、和歌と俳句にその代表的な例があるのみならず、小説・戯曲などの描写にも少なからぬ証跡を残している。さらに一歩を進めていうと、落語、道話の類もこの特質の現われである。現代の日本芸術が特に技巧を重んずる傾向を持っているのは、この特質から出た伝統でないとは言えない。しかし技巧の妙味を重んずるのあまり内容の開展をおろそかにしたという欠点をも見のがしてはならない。これは実は真の意味での技巧の発展をさまたげているのである。なぜなら内容の開展に伴って必然に要求せられてくる力強い技巧の開展がここでは不可能であったからである。ここに日本文芸史の一面観がある。
二十
当麻の山――中将姫伝説――当麻曼陀羅――浄土の幻想――久米寺、岡寺――藤原京跡――三輪山、丹波市
Y氏の督促に従って大急ぎで停車場へかけつけたが、汽車はなかなか来なかった。Y氏は予定の時間をはずさないために信貴山縁起をきわめて迅速に巻いたのであるが、その巻き方が少し早すぎたのである。
王子で和歌山行きの小さい汽車に乗り換えるころには、空が一面に薄曇りになって、何となく気持ちも晴れ晴れしなかった。そのせいか汽車から見える当麻の山の濃く茂った嵂※(山/卒)とした姿が、ひどく陰欝に、少しは恐ろしくさえ見えた。その感じは、高田*で汽車を降りて平坦な田畑の間を当麻寺の方へと進んで行く間も、絶えず続いていた。山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役の行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。
* 今では大阪鉄道当麻駅でおりるのが最も便利である。駅からは六七町。本文に当麻の山と書いたのは二上山である。寺は二上山の東南麻呂古山の東麓にある。
麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。――
山の裳裾の広い原に
麦は青々とのび
菜の花は香る、
その原なかの一すじ道
塔の見える当麻の寺へ。
れんげたんぽぽ柔らかげに
踏むは白玉の足
なよやかに軽く、
裳をふく風もうるさそうに
塔の見える当麻の寺へ。
汗ばむらしい姫の顔は
艶やかな処女のにおい
ふくよかな円み、
散るおくれ毛もうるさそうに
塔の見える当麻の寺へ。
姫は目をあげ塔を望む
あわれその目の深さ
なやましい暗さ、
眉をひそめて物憂そうに
塔の見える当麻の寺へ。
乳母と侍女とは言葉もなく
あとにうなだれて行く
忍びめく歩み、
嘆息の音も悲しそうに
塔の見える当麻の寺へ。
それが中将姫である。奇蹟伝説の主人公である。「その性いさぎよくして、ひとへに人間の栄耀をかろしめて、たゞ山林幽閑をしのび、つひに当寺の蘭若をしめて弥陀の浄刹をのぞむ。天平宝字七年六月十五日蒼美をおとしていよ〳〵往生浄土のつとめ念ごろなり」と『古今著聞集』は伝えている。伝説の起こったのもこの書の著作よりあまり古いことではないかも知れぬ。
寺へついてからもわたくしの気分を支配していたのはこの美しい尼の伝説である。生身の弥陀をこの肉眼で見たい、――それが信仰に燃ゆるこの若い心の赤熱した祈願であった。その前には生身の弥陀もついに現われずにいなかった。一人の見知らぬ比丘尼が彼女の側に立って、百駄の蓮茎を注文し、自ら蓮糸をとった。天女のような一人の美女が、その蓮糸から美しい曼陀羅を織り出した。晩の八時から明け方の四時まで、灯火は油にひたした藁束であった。織り上がると美女は立ち去った。比丘尼は画像の深義を説いてきかせた。一体あなたはどこのどなたでいらせられますかと不思議そうに姫が聞く。その答えに、わたしがこの極楽世界の教主、これを織ったのが弟子観世音、お身の心のふびんさに慰めに来ました。
それは夢みる心の幻想である。大切にしまってある原本曼陀羅を調べて見ると、麻糸と絹糸との綴れ織りであったという。すなわち蓮糸で織ったということは嘘なのである。しかし蓮糸で布が織れるものでないということは、昔の人にも明らかなことであったろう。蓮糸でなくてはならないのは幻想の要求である。蓮糸で織ったことが嘘であってもこの幻想の力は失せない。
金堂の気味悪い薄暗がりのなかで、わたくしは金網越しにつくづくと曼陀羅をながめた。それは東山時代の模写であって、画としては優れていない。しかしその図様は非常に興味深いものであった。他の人たちが須弥壇の金具などに鎌倉時代の巧妙な工芸を味わっていた間も、わたくしは金網に双眼鏡を押しつけていた。天平時代の阿弥陀浄土変というものがこういう構図からできていたとは信ぜられないが、中将姫の伝説を生み出したのがこういう浄土の図であったとすると、中将姫に代表せられる彼岸生活の憧憬は、きわめて素朴な形に現われた、完全な享楽生活への憧憬だということになる。それが人間の栄耀をかろしめた中将姫の心理の全幅を語っているといえるであろうか。
まず近くに見えるところには、蓮花の咲き乱れた池がある。蓮花の上には心地よさそうに小さな仏がすわっている。その間に裸の人(童子?)の棹さしている宝船が、精巧な台と小さな仏をのせて静かに浮かんでいる。水のなかにはまた蓮花に乗ったり下りたりして手をあげて戯れている童子がある。この池中に突き出した美しい台の中央は、遠近法によって描かれた舞台で、その上に演奏中の舞楽が二重に描かれている。大きい方は二行に並んですわった八人の楽女が横笛、立笛、箏、笙、銅鈸、琵琶などをもって、二人の踊り女の舞踊に伴奏する。衣裳はすべて観音などと同じく半裸の上体に首飾りと天衣とをまといつけるインド風である。小さい方は二行に別れて銅鈸や琵琶らしいものを持った楽人(童子?)が立ったままで二人の踊り手に伴奏している。その風俗は一筋の天衣を肩に引っ掛けているほか全裸体である。踊り方も大きい方はいわゆる舞楽らしいが、小さい方はよほど「舞踏」めいている。仮面はいずれも用いていない。この舞台を正面に見る池の中央には欄干のついた華やかな壇があって、大きい弥陀を中央に三十七尊が控えている。この弥陀が画面全体の中心で、この中心に関係する限り、すべての床の線は半ば遠近法的に中央に縮まって行く。しかし個々の形象が遠近法的に描かれているわけではない。だからこの画の筆者に遠近法の自覚があったとは言えまいと思う。本尊のうしろの左右にはシナ風の楼閣がある。そのなかを侍女めいた天女が往き来している。食卓に美味の並んでいるところもあれば、天女が美味をささげて回廊を伝って行くところもある。二階の露台には弥陀がすわっている。なお本尊の上の空中にも楼閣が浮かんでいて、いかにもふうわりと気持ちがよさそうに見える。多くの楼閣のうちには円頂の塔もあるが、これはビザンチンの影響の現われたものといわれている。これらの楼閣の屋根のあたりを、さも軽そうに飛んでいる天人は、この画のうちでも最も愉快なものの一つである。天衣のなびき方と体の自由な形とで、いかにもその飛行が自然に見え、また虚空の感じをも強く印象する。
この極楽の風致は、徹頭徹尾人工的である。シナの暴王がその享楽のために造った楼閣や庭園は、まずこんなものだったろうという気もする。そこに釈尊の解脱を思わせる特殊なものは一つもない。すべての装飾がデカダンスを思わせるほどあくどく、すべての悦楽が感性の範囲をいでない。この画のうちのあらゆる弥陀像を暴王の像に画き換え、あらゆる菩薩を美女の像に画き換えても、何ら矛盾は起こらないであろう。このような幻想を彼岸生活として持つものの永生の願望は、必竟現世を完全にして無限に延長しようとするに異ならない。しかもその現世の完成が、暴王の企てたところと方向を同じくする。物質的であって精神的でない。
この種の幻想がインドに始まったことは、それが観無量寿経に拠っているに見ても明らかであろう。しかしインド人が心に画いたのはこういう形においてではあるまい。インドで浄土変が画かれたかどうかは知らないが、少なくとも観経に現われた幻想は、宇宙の大をその内に包容するごときものであって、到底画に現わすことはできない。ただ音楽のみがその印象を語り得るであろう。極楽国土にある八つの池の一々には、六十億の七宝の蓮華があり、一々の蓮華は真円で四百八十里の大きさを持っている。衆宝国土の一々の界の上には五百億の宝楼閣があって、その一々の楼閣の中には無数の天人が伎楽をやっている。無量寿仏の坐をのせる蓮華の台は、八万四千の花片からなり、その花片の小なるものも縦横一万里である。これらの形象はすべて人の表象能力を超える。だからこの種の幻想がシナに渡って浄土変となる時には、恐らくシナ固有の仙宮の幻想に変化せざるを得なかったであろう。少なくとも宝楼閣がシナ風に描かれる程度に遊仙窟の気分もまた付加せられずにはいなかったであろう。この画のごときも仙宮に弥陀仏を移したもののように見える。
が、それが日本に渡ってくると、そこに異国情調という雰囲気がつけ加わってくる。この画における詩の欠乏はそれによって補われたであろう。従ってこの画は清浄な気分を印象し得たかもしれぬ。しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。
不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るであろう。しかし人間の栄耀をかろしめるほどに深く思い入ったものが、――大臣の娘としての便宜と、美しい女としての特権とを捨離して顧みなかったものが、――それほど単純な心持ちでいたというのはおかしい。彼女の法悦を刺戟する手段としては、委曲をつくした浄土変よりは、一つの弥陀像、一つの観音像の方が有力であったろう。芸術として優れていることは法悦の誘導者としてもまた有力であったことを意味する。天平の彫刻が浄土変の類よりも重んぜられたのは理由のないことでない。
中将姫は確かに弥陀と観音とを幻視したかも知れぬ。しかしそれは伝説の示すとおり、曼陀羅の織り出される前であった。この曼陀羅のおかげではない。
天平時代後期に盛んに画かれた弥陀浄土変は恐らくこのようにごたごたしたものではなかったであろう。法隆寺壁画の阿弥陀浄土が、図様においてもほとんど比べものにならないほど簡素であることを考えると、当時の人がこの点に盲目であったとは思えない。壁画の浄土図は、経典に描写する浄土とはほとんど関係なく、ただ弥陀三尊を主として描いたもので、画としてはこの方が経典以上に浄土の気分を表現すると考えられる。それに比べて池を画き楼閣を画くごとき浄土図は、絵画が何をなし得るかについての理解を持たない僧侶の類の考案に過ぎまい。大仏殿の壁を飾る繍帳は、さすがにそんなものではなかった。五丈四尺に三丈九尺という大きい図面に、ただ一つの大きい観音立像が、すらりと立っていたのである。わたくしは法華寺の弥陀画像に似た簡素な弥陀像が光明后の枕仏であったに相違ないと考えたが、確かに当時はそういう画の方が尊ばれたであろう。
当麻寺にも彫刻は多かった。大抵は見た。建築も見洩らしたわけではなかった。しかしここにはすべて省く*。
* 本文には省いたが、ここでの第一のみものは天平時代の塔である。東塔の方が古く、西塔は弘仁期にかかるかもしれぬといわれている。いずれも美しい。彫刻では、補修のあとが著しいが、金堂の本尊弥勒や四天王が天平時代のものである。ほかに貞観時代・藤原時代のものも多い。また中の坊の書院と茶室が有名である。
絵葉書を買って見ると「練り供養来迎の実況」というのがあった。恵心僧都の始めた来迎劇はまだ生き残っているのである。
――高田の停車場へ帰ったころには、細い雨がハラハラと落ち始めた。といってひどく降る様子でもなかった。予定どおり久米寺や岡寺、飛鳥の古京のあたりの古い寺を訪れるのも、さほど困難ではなかったのだが、汽車にのって落ちつくと、連日の疲れも出て、もう畝傍で下りる勇気はなくなった。せめて畝傍神社だけでもといってY氏はしきりにすすめたが、誰も立ちあがろうとはしなかった。
右に畝傍山・香久山、左に耳無山、その愛らしい小丘の間を汽車は駛せて行く。古の藤原の京、飛鳥の京の旧跡は指呼の間に横たわっていた。奈良とはまた異なった穏やかな景色で、そこにこの土地を熱愛した祖先の心も読まれると思う。香久山の向こうのあの丘の間に多くの堂塔の聳えていた時代もあった。そこで推古・白鳳の新鮮な文化は醸し出された。さらにさかのぼれば、伝説の時代のわれわれの祖先の、さまざまな愛と憎みとが、この山と川とに刻み込まれている。この地が特にやまとであったということと、日本民族の著しい特質とは、密接な関係を持つらしい。
多武の峯の陰欝な姿を右にながめながら、やがて汽車は方向を変えて、三輪山の麓へ近づいて行く。古代神話に重大な役目をつとめているこの三輪山はまた特に大和の山らしい。なだらかで、長く尾をひいて、古代の墳墓に見られると同様なあの柔らかな円味を遺憾なく現わしている。山を神として拝むのは原始時代に通有のことであるが、しかしこういうなだらかな線や円味を持ったやさしい山を崇拝するのは、比較的にまれなことではないであろうか。あの山の姿から超自然的な威力を感ずるという気持ちは、どうも理解し難い。むしろそれは完全なるもの調和あるものへの漠然たる憧憬を投射しているのではなかろうか。もしそうであるとすれば、この山もまた神話の書である。
三輪から北への沿線には小さい古墳が数知れず横たわっていた。小さいとは言っても形式は大型古式の墳壟である。この種の古墳がかくも多数に群をなしていることはほかに例がない。それを説明しているうちにY氏の話はおいおい古墳発掘や古美術探索の方に落ちて行った。この多数の古墳の大部分はすでに発掘されているらしいのであるが、特におもしろかったのはある有名な古墳の盗掘の話であった。そこは神聖な場所として平生は何人も足を踏み入れなかったので、盗掘者たちは毎日昼間そこに入り込んで発掘に従事した。ある日大きい石棺を掘り当てて、豊富な宝物を予想しながら蓋をあけると、中には色の白い美しい女が、まるで生きたままの姿で横たわっていた。その男は仰天して尻餅をついた。しかしその仰天してから尻餅をつくまでの間に女の姿は変色してハラハラと灰のように砕けてしまった。だから他には見たものはなかった。見た男は熱病にとりつかれて間もなく死んだ。
がまた発掘はいつも成功するとは限らなかった。今横浜の三渓園に移されている賀茂の塔なども、礎の下に非常な宝物が埋めてあると伝えられていた。で、移すときに大勢の人夫を雇ってその発掘を始めた。人々はみなその宝物の期待で緊張していた。特に監督の役をひきうけていた人は、人夫が不正なことをしはしまいかという心配で、熱し切っていた。一日目は石塊ばかり出た。二日目も石塊ばかり出た。三日目も同様であった。何間掘り下げても何も出なかった。
こんな話をきいているうちに汽車は丹波市を通った。天理教の本場で、大きい会堂らしい建物が、変に陰欝な感じを与えるほど、立ちならんでいる。天理教徒の布設した鉄道もここから王子へ通じているのである。汽車で駈け通ってさえ濃い天理教の雰囲気が感ぜられる、あの町のなかへ入り込んだらどんなだろう、と思わずにはいられなかった。あの狂熱的なおみき婆さんが三輪山に近いこの地から出たことは、古代の伝説に著しい女の狂信者の伝統を思わせて少なからず興味を刺戟する。確かにおみき婆さんの宗教は、日本人の宗教的素質を考える上に、見のがしてはならないものである。しかし局部的にはこれほど勢力のある天理教が、現在の日本文化の主潮とほとんど没交渉なのはどういうものであろう。わたくしの天理教に関する知識はわずかに二三の小冊子から得たに過ぎないが、それによると教祖の信仰は恐らく本物であったろうと思われる。それが現在の文化の内に力強く生育して行かないのは、一つには堕落しやすい日本人の性情にもよるであろうが、もう一つにはそれが世界的宗教に根をおろしていないからではなかろうか。親鸞の宗教はキリスト教的心情と結びつくときに、新しい光輝を発輝する。そのごとく天理教も、日本文化の変形に従って変形して行かなくてはなるまい。わたくしの漠然たる推測から言うと、もしおみき婆さんがキリスト教の地盤から生い出たのであったならば、あの狂熱はもっと大きい潮流を作り得たであろう。日本もまた一人の聖者を持ち、日本のキリスト教を確立し得たであろう。
二十一
月夜の東大寺南大門――当初の東大寺伽藍――月明の三月堂――N君の話
夕方から空が晴れ上がって、夜は月が明るかった。N君を訪ねるつもりでひとりブラブラと公園のなかを歩いて行ったが、あの広い芝生の上には、人も見えず鹿も見えず、ただ白々と月の光のみが輝いていた。
南大門の大きい姿に驚異の目を見張ったのもこの宵であった。ほの黒い二層の屋根が明るい空に食い入ったように聳えている下には、高い門柱の間から、月明に輝く朧ろな空間が、仕切られているだけにまた特殊な大いさをもって見えている。それがいかにも門という感じにふさわしかった。わたくしはあの高い屋根を見上げながら、今さらのように「偉大な門」だと思った。そこに自分がただひとりで小さい影を地上に印していることも強く意識に上ってきた。石段をのぼって門柱に近づいて行く時には、たとえば舞台へでも出ているような、一種あらたまった、緊張した気分になった。
門の壇上に立って大仏殿を望んだときには、また新しい驚きに襲われた。大仏殿の屋根は空と同じ蒼い色で、ただこころもち錆がある。それが朧ろに、空に融け入るように、ふうわりと浮かんでいる。幸いにもあの醜い正面の明かり取りは中門の陰になって見えなかった。見えるのはただ異常に高く感ぜられる屋根の上部のみであった。ひどく寸のつまっている大棟も、この夜は気にならず、むしろその両端の鴟尾の、ほのかに、実にほのかに、淡い金色を放っているのが、拝みたいほどありがたく感じられた。その蒼と金との、互いに融け去っても行きそうな淡い諧調は、月の光が作り出したものである。しかし月光の力をかりるにもせよ、とにかくこれほどの印象を与え得る大仏殿は、やはり偉大なところがあるのだと思わずにいられなかった。その偉大性の根本は、空間的な大きさであるかも知れない。が、空間的な大きさもまた芸術品にとって有力な契機となり得るであろう。少なくともそこに現われた多量の人力は、一種の強さを印象せずにはいないであろう。
わたくしはそこにたたずんで当初の東大寺伽藍を空想した。まず南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のように狭隘なところに立っていては、その大きさはほとんど殺されていると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門を望んだ人は、ある距離をおいて見たときに初めて現われてくる異様な生気に気づいているだろう。
この門と中門との間は、一望坦々たる広場であって、左と右とにおよそ三百二十尺の七重高塔が聳えている。その大きさはちょっと想像しにくいが、高さはまず興福寺五重塔の二倍、法隆寺五重塔の三倍。面積もそれに従って広く、少なくとも法隆寺塔の十倍はなくてはならない。塔の周囲には四門のついた歩廊がめぐらされており、その歩廊内の面積は今の大仏殿よりも広かったらしい。これらの高塔やそれを生かせるに十分な広場などを眼中におくと、今はただ一の建物として孤立して聳えている大仏殿が、もとは伽藍全体の一小部分に過ぎなかったことも解ってくる。しかしこの大仏殿も、今のは高さと奥行きとが元のままであって、間口が約三分の二に減じているのである。従ってその美しさが当初のものと比較にならないばかりでなく、大きさもまたほとんど比較にならない。試みに当初の大仏殿の略図を画いて今のと比べて見ると、今の大仏殿の感じは半分よりも小さい。当初のものは屋根が横に長いので、全体の感じが実に堂々としているのである。その屋根の縦横の釣り合いは唐招提寺金堂の屋根のようだと思えばよい。周囲の歩廊がまた今日のように単廊ではなくて複廊である。なお大仏殿のうしろには、大講堂を初め、三面僧房、経蔵、鐘楼、食堂の類が立ち並んでいる。講堂、食堂などは、十一間六面の大建築である。
そこには恐らく幾千かの僧侶が住んでいたであろう。そのなかには講師があり、学生があり、導師があり求道者があった。彫刻、絵画、音楽、舞踏、劇、詩歌――そうして宗教、すべて欠くるところがなかった。
わたくしは中門前の池の傍を通って、二月堂への細い樹間の道を伝いながら、古昔の精神的事業を思った。そうしてそれがどう開展したかを考えた。後世に現われた東大寺の勢力は「僧兵」によって表現せられている。この偉大な伽藍が焼き払われたのも、そういう地上的な勢力が自ら招いた結果である。何ゆえこの大学が大学として開展を続けなかったのであろうか。何ゆえこの精神的事業の伝統が力強く生きつづけなかったのであろうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そぞろに心に浮かんで来る、――「日本人は堕落しやすい。」
三月堂前の石段を上りきると、樹間の幽暗に慣れていた目が、また月光に驚かされた。三月堂は今あかるく月明に輝いている。何という鮮やかさだろう。清朗で軽妙なあの屋根はほのかな銀色に光っていた。その銀色の面を区ぎる軒の線の美しさ。左半分が天平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが、その相違も今は調和のある変化に感じられる。その線をうける軒端には古色のなつかしい灰ばんだ朱が、ほの白くかすれて、夢のように淡かった。その間に壁の白色が、澄み切った明らかさで、寂然と、沈黙の響きを響かせていた。これこそ芸術である。魂を清める芸術である。
N君の泊まっている家はこの芸術に浸り込んだような形勝の地にあった。門を一歩出れば三月堂は自分のものである。三日月の光で、あるいは闇夜の星の光で、あるいは暁の空の輝きで、朝霧のうちに、夕靄のうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞することができる。雨にうたれ風に吹かれるこの堂の姿さえも、見洩らさずにいられるであろう。
家の人が活動写真を見に行った留守を頼まれて、N君は茶の間らしいところにいた。ペンと手帳と案内記とが座右にあった。当麻寺へ行って来たことを話すと、君はあの塔の風鐸をどう思います、ときく。わたくしは風鐸にまで注意していなかったので、逆にそのわけを尋ねた。――いや、あの形がお好きかどうか、ききたかったのです。僕はどうしても法隆寺の方がすきですね。中にぶら下がっているかねも格好が違っていますよ。下から見ると十文字になっています。――わたくしは頓首して、出かかっていた気焔を引っ込めるほかなかった。
N君は大和の古い寺々をほとんど見つくしていた。残っているのはただ室生寺だけであった。だからわたくしが名前さえ知らない寺々のことも詳しく知っていた。――その代わり大和からは一歩も踏み出さないことにきめているんです。範囲を広めてゆくときりがありませんからね。――そんなに詳しく見ていて、印象記でも書く気はないかときくと、手帳には書きとめているが、とても惜しくって印象記などにはできないという。その話の模様では、古美術の印象から得た幻想が作品として結晶しかかっているらしかった。――法隆寺にいらっしゃるのなら、夢殿のなかをよく見て来てくれませんか。僕はあんまりわがままをやったもので、お坊さんの感情を害したらしいんです。それでどうも具合がわるくて、もう一度見たいのを辛抱しているんです。ええ、夢殿の天井だの柱だのの具合を。――
帰るときにN君は南大門まで送ってくれた。みちみち現在の僧侶の内生活の話をきいた。叡山にながくいたことのあるN君は、そういう方面にも明るかった。のみならず君自身にも出家めいた単純生活に落ちついてすましていられる一種の悟りが開けていた。だから出家の心持ちにはかなり同情があるらしく、妻子をすてて寺にはいった人の話などをするにも、どこか力がこもっていた。叡山で発狂した修道者の話などはすご味さえあった。
ここの寺にも一人いますよ。時々草むらのなかからヌッと出てくることがある。――こう言ってN君はわたくしの顔を見た。――だが夜は大丈夫です。鹿のように時刻が来れば家へ帰って行くそうです。
やがて二人は南大門の石段の上で別れた。石段をおりてから振り返って見上げながら、暇があったらまたお訪ねしましょうというと、N君はこの「門」のただ中に立って、月の光を浴びながら、――ええ、御縁があったら、また。
二十二
法隆寺――中門内の印象――エンタシス――ギリシアの影響――五重塔の運動
次の日はF氏も加わって朝から法隆寺へ出かけた。いい天気なので気持ちも晴れ晴れとしていた。法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。
南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。
法隆寺の印象についてはかつて木下杢太郎へあててこう書いたことがある。
わたくし一己の経験としては、あの中門の内側へ歩み入って、金堂と塔と歩廊とを一目にながめた瞬間に、サアァッというような、非常に透明な一種の音響のようなものを感じます。二度目からは、最初ほど強くは感じませんでしたが、しかしやはり同じ感触があって、同じようなショックが全身を走りました。痺れに似た感じです。次の瞬間にわたくしの心は「魂の森のなかにいる」といったような、妙な静けさを感じます。最初の時にはわたくしは何かの錯覚かと思いました。そうしてあの古い建物の、半ばははげてしまった古い朱の色が、そういう響きのようなものに感じられるのかとも考えてみました。しかしあとで熟考してみると、そのサアァッという透明な響きのようなものの記憶表象には、必ずあの建物の古びた朱の色と無数の櫺子との記憶表象が、非常に鮮明な姿で固く結びついているのです。金堂のまわりにも塔のまわりにもまた歩廊全体にも、古び黒ずんだ菱角の櫺子は、整然とした平行直線の姿で、無数に並列しています。歩廊の櫺子窓からは、外の光や樹木の緑が、透かして見えています。この櫺子の並列した線と、全体の古びた朱の色とが、特に、そのサアァッという響きのようなものに関係しているのです。二度目に行った時には、この神々しい直線の並列をながめまわして、自分にショックを与えた美の真相を、十分味わおうとすることができました。
しかしその美しさは、櫺子だけが独立して持っているわけではありません。実をいうと櫺子はただ付属物に過ぎぬのです。あの金堂の屋根の美しい勾配、上層と下層との巧妙な釣り合い、軒まわりの大胆な力の調和。五重塔の各層を勾配と釣り合いとでただ一本の線にまとめ上げた微妙な諧調。そこに主としてわれわれに迫る力があるに相違ないでしょう。ところがその粛然とした全体の感じが奇妙にあの櫺子窓によって強調せられることになるのです。そうして緑青と朱との古びた調和が、櫺子窓のはげた灰色によって特に活かされて来るように見えるのです。
わたくしはあの堂塔が、あれほど古びていなかったら、あれほど美しいかどうか疑問だと思います。しかしこの詮議は無意味ですね。われわれの前にはただ一つの場合しかないのだから。
わたくしは貴兄からこの建築の印象を聞くことのできなかったのを残念に思います。この建築が朝鮮から伝わった様式で、六朝時代のシナ建築をわれわれに示すものであるとすれば、この建築の上に実にさまざまの空想が建てられなくてはならないのです。さらに鳩摩羅什時代の于闐の建築、カニシカ王時代の北西インドの木造建築、……それを心裡に描き出すについて、われわれはほかにあまり材料を持っていないのです。ギリシアの住宅建築の屋根とシナ建築の屋根との比較。それも考えてみました。スタインの発掘した于闐のお堂とシナの木造建築との類似。それも考えてみました。日本風の壁は、もと中央アジアで発明せられたのではないでしょうか。それとも漢人の発明でしょうか。――この種の数限りない疑問について、わたくしは貴兄の大陸見聞に多くを期待しています。
この手紙は法隆寺の建築の全体印象を何とかはっきりいい現わそうとして苦心したものであるが、あの印象を成り立たせている契機はもっと複雑だと思われる。それが見る度の重なるにつれて少しずつほぐれてくるのである。卍くずしの勾欄はこの建築の特異な印象の原因であるが、なぜそのように特異に感ぜられるかというと、並みはずれて高いからである。また屋根の勾配が天平建築に比べて特に異国的ともいうべき感じを伴っているのは、その曲線の曲度が大きくまた鋭いからであろう。講堂は藤原時代の作であるから、曲がり方がはるかに柔らかくなっているが、それを金堂に比べると、尺度の上の相違はわずかでありながら感じは全然違っている。推古仏と藤原仏の間にあるような距たりが、ここにも確かに感ぜられる。この金堂を唐招提寺の金堂に比べても同じように建築の上に現われた天平仏と推古仏の相違は感ぜられるだろう。招提寺の金堂が「渾然としている」と言えるならば、この金堂は偏執の美しさを、――情熱的で鋭い美しさを、持っているとも言える。そうしてその原因はあの曲度の鋭さにあるらしい。
法隆寺の建築に入母屋造りの多いこともここに関係がある。寄棟造りの単純明快なのに比べて、この金堂の屋根に複雑異様な感じがあるのは、入母屋造りのせいであるともいえよう。この建築が特にシナ建築らしい印象を与えるのもそのせいであろう。しかし入母屋造りがみな同じ印象を与えるというのではない。あの度の強い曲線に結びついてあの感じが出るのである。
この建築の柱が著しいエンタシスを持っていることは、ギリシア建築との関係を思わせてわれわれの興味を刺戟する。シナ人がこういう柱のふくらみを案出し得なかったかどうかは断言のできることでないが、しかしこれが漢式の感じを現わしているのでないことは確かなように思う。仏教と共にギリシア建築の様式が伝来したとすれば、それが最も容易な柱にのみ応用せられたというのも理解しやすいことで、これをギリシア美術東漸の一証と見なす人の考えには十分同感ができる。もしシナに漢代から唐代へかけてのさまざまの建築が残っていたならば、仏教渡来によって西方の様式がいかなる影響を与えたかを明白にたどることができたであろう。しかるにその証拠となる建築は、ただ日本に残存するのみなのである。そうなると法隆寺の建築は、極東建築史の得難い縮図だということになる。その縮図のなかにあの柱のふくらみが、著しく目立つ現象として、宝石のように光っているのである。しかし一歩を進めていうと、この建築は、単に柱のエンタシスのみならず、その全体の構造や気分において、西方の影響を語っている。シナには六朝以前にこれほど著しい宗教的建築物がなかった。高楼は造られても人間の歓楽のためのものであった。天をまつるために礼拝堂が建てられたということをわれわれはきかない。従って大建築は宮殿や官衙のほかになかったであろう。その建築の様式を利用して純粋の礼拝堂を造り、また礼拝の対象たる塔婆を造るに至ったことは、たといその様式に大変化がなかったとしても、なお建築史上の大変革といわなくてはならぬ。このときにインドの stupa がシナ式の重層塔婆となったのであるが、それは逆にいえばシナ式の層楼がインドの風たる浮図としての意義を獲得したのである。しかし礼拝の気分を刺戟するような建築物を持たなかったシナ人が、果して自発的な創作欲によってこの種の荘厳な塔婆を造り得たであろうか。そこには閉じられていた眼が新しい精神によって開かれるという契機はなかったであろうか。もしそれがあったとすれば、古い様式を用いつつ新しい統一を作り出したものは、西方の芸術的精神である。従ってわれわれの有する仏教の殿堂は、六朝時代及びその後における東西文化融合の産物だということになる。それは彫刻が西方の芸術的精神の所産であるのと変わりはない。六朝から唐へかけてこの精神は漸次著しく現われてきた。建築においても唐招提寺金堂は、エンタシスこそ消えているが、精神において実にギリシア的である。もし当麻曼陀羅の楼閣をシナ的というならば、この金堂はほとんどシナ的でない。そうしてこの非シナ的傾向のかなり早い現われが、恐らく法隆寺の建築に示されているのである。
もう一つこの日の新発見は、五重塔の動的な美しさであった。天平大塔がことごとく堙滅し去った今日、高塔の美しいものを求めればこの塔の右にいづるものはない。塔の好きなわたくしはこの五重塔の美しさをあらゆる方角から味わおうと試みた。中門の壇上、金堂の壇上、講堂前の石燈籠の傍、講堂の壇上、それからまた石燈籠の傍へ帰り、右へ回って、回廊との間を中門の方へ出る。さらにまた塔の軒下を、頸が痛くなるほど仰向いたまま、ぐるぐる回って歩く。この漫歩の間にこの塔がいかに美しく動くかを知ったのである。
塔は高い。従ってわたくしの目と五層の軒との距離は、五通りに違っている。各層の勾欄や斗拱もおのおの五通りに違う。その軒や勾欄や斗拱がまた相互間に距離を異にしている。その他塔の形をつくりあげている無数の細かい形象は、ことごとく同じようにわたくしの眼からの距離を異にしているのである。しかしわたくしが静止している時には、これは必ずしも重大なことではない。静止の姿においてはむしろ塔の各層の釣り合いが――たとえば軒の出の多い割合に軸部が低く屋根の勾配が緩慢で、塔身の高さがその広さに対し最低限の権衡を示していること、あるいは上に行くほど縮まって行く軒のうちで第二と第四がこころもち多く引っ込み、従って上部にとがって行く塔勢が、かすかな変化のために一層美しく見えることなどが、重大な問題である。しかるにわたくしが一歩動きはじめると、この権衡や塔勢を形づくっている無数の形象が一斉に位置を換え、わたくしの眼との距離を更新しはじめるのである。しかもその更新の度が一つとして同一でない。眼との距離の近いものは動きが多く、距離の遠い上層のものはきわめてかすかにしか動かない。だからわたくしが連続して歩くときには、非常に早く動く軒と緩慢に動く軒とがある。軒ばかりでなく勾欄も斗拱もことごとく速度が違う。塔全体としては非常に複雑な動き方で、しかもその複雑さが不動の権衡と塔勢とに統一せられている。またこの複雑な塔の運動も、わたくしが塔身と同じき距離を保って塔の周囲を歩く場合と、塔に近づいてゆく場合と、また斜めに少しずつ遠ざかりあるいは近づく場合とで、ことごとく趣を異にする。斜めに歩く角度は伸縮自在であるから、塔の運動の趣も変幻自在である。わたくしの歩き方はもちろん不規則であった。塔の運動も従って変幻きわまりなかった。しかもその変幻を貫いている諧調は、――というよりも絶えず変転し流動する諧調は、崩れて行く危険の微塵もないものであった。
この運動にはもとより色彩がからみついている。五層の屋根の瓦は蒼然として緑青に近く、その屋根の上下両端には点々として濃い緑青がある、――すなわち一列に軒端に並ぶ棰の先と、勾欄のところどころについている古い金具とである。屋根と屋根との間には、勾欄の灰色や壁の白色や柱・斗拱の類の丹色や雲形肘木の黄色などがはさまっている。そのなかでも特に丹色は、突き出た軒の陰になるほど濃く、軒から離れるほど薄くなる。すなわち斗拱の組み方が複雑になっているところは丹色が濃く残り、柱の下部に至るほど薄く鈍くはげて行くのである。そうしてこれらの色彩の最下層には、裳階の板屋根の灰色と、その下に微妙な濃淡を示す櫺子の薄褐灰色と、それを極度に明快に仕切っている白壁の色とがある。――これらすべての色彩が、おのおの速度を異にして、入り乱れ、走せちがい、流動するがごとくに動くのである。
ことにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒下を歩いた時であった。各層の速度が実に著しく違う。あたかも塔が舞踏しつつ回転するように見える。その時にわたくしは思わずつぶやいた、このような動的な美しさは軒の出の少ない西洋建築には見られないであろう。
二十三
金堂壁画――金堂壁画とアジャンター壁画――インド風の減退――日本人の痕跡――大壁小壁――金堂壇上――橘夫人の廚子――綱封蔵
金堂へは東の入り口からはいることになっている。わたくしたちはそこへ歩みいるとまず本尊の前へ出ようとして左へ折れた。
薬師三尊の横へ来たときわたくしは何気なしに西の方を見やった。そうして愕然として佇立した。一列に並んでいる古い銅像と黒い柱との間に、西壁の阿弥陀が明るく浮き出して、手までもハッキリと見えている。堂の東端からあの遠い距離にある阿弥陀が、このようにハッキリ見えようとは、かつて予期していなかった。またこれだけの距離を置いて見たときにあの画の彫刻的な美しさが鮮やかに浮きあがって来ようとは、一層予期しないところであった。
本尊の釈迦やその左右の彫刻には目もくれずにわたくしたちは阿弥陀浄土へ急いだ。この画こそは東洋絵画の絶頂である。剥落はずいぶんひどいが、その白い剥落面さえもこの画の新鮮な生き生きとした味を助けている。この画の前にあってはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必要はない。ただながめて酔うのみである。
中央には美しい円蓋の下に、珍しい形をした屏障の華やかな装飾をうしろにして阿弥陀如来が膝を組んでいる。暗紅の衣は大らかに波うちつつ両肩から腕に流れ、また柔らかに膝を包んで蓮弁の座に漂う。光線と色彩との戯れを現わすらしいそのひだのくま取りは同様に肢体のふくらみを描いて遺憾がない。大きい肩を覆うときにはやや堅く、二の腕にまとうときには細やかに、膝においては特に柔らかい緊張を見せて、その包む肉体の感触を生かしている。がまたその布地の、柔らかではありながらなお弾力と重味とを欠かない性質も、袖口のなびき方や肩のひだなどに、十分明らかに現わされている。説法の印を結ぶ両手の美しさに至っては、さらに驚くべきものがある。現在の状態では、ここにもくま取りがあったかどうかはわからないが、とにかく輪郭の線は完全に残っていて、それが心憎いばかり巧妙に「手」を現わしている。もとよりそれは近代人の眼から見れば大まか過ぎる写実であるかも知れない。しかしこの放胆な大まかさのうちには古典的な力強さがあふれている。かすかに彎曲する素直な線のうしろにも人の手の不思議な美しさに対する無限の驚異と愛着とがひそんでいるように思われる。かつてはこの線を無表情として、「線は殆んど無意味にして形状をつくり彩色の罫界たらしむるに過ぎず」と批評した人もあった。この種の見解のゆえに線画は遊戯に堕したのではないであろうか。今はこの古典的な力強い芸術がわれわれの芸術の正当な祖先とならなくてはならない。この「手」の精神によって線画のうちにも新しい道が切り開かれなくてはならない。あの手に、ことにあの左手に、深い愛着を感ずる心は、同時に現代の日本画を非難する心である。もっともこの手の美しさは単に線の画としての美しさではないかも知れない。あの半ば剥げた色彩と、その間に点々として存する白い剥落面とは、あたかもそこに重厚な絵の具をぬりつけたような、すばらしい効果を持っている。この厚みの感じは、一つはあの線の力強い引き方にもよるであろうが、またこの剥落の効果に負うところも少なくはあるまい。そうなるとこれは天与の色彩である。日本画家に対する天啓である。
顔は手ほどは剥げていない。またその色も変色したらしく黒ずんでいる。剥落の効果はここにもあるらしく見えるが、しかし最初からこのようなくま取りがあったのかも知れない。鼻筋が通って鼻の高さが美しく現われているところなどは、自然の剥落としてはあまりに都合よく行き過ぎている。がいずれにしても、この顔がまた偉大である。薄く見開いた眼は無限を凝視するように深く、固く結んだ唇は絶大の意力を現わすように力強い。瞑想によって達せられる解脱境は恐らくここに具体的な姿を現わしているのである。人の美しい顔を描いてこれほど非人情的な、超脱した清浄さを現わしたものは、まず比類がないといってよいであろう。西洋の画に現われた気高さはもっと人情的なものである。仏教を産んだインドの壁画には、これほど清浄を印象するものはない。
この弥陀の光背も実にすばらしい。体から放射して体の周囲に浮動している光の感じが実によく出ていると思う。しかもそれが霊光であって、感覚を刺戟する光でないことが描き出されている。だからこの光はきわめて透明に、静かに、背後の物象を覆うことなく、仏の体を取り巻いている。これこそ光背の最初の意味を生かせているのである。光背に対する心からな感動はこの画によって初めて得られた。
本尊の左右には観音と勢至とが立っている。本尊に引かれつつしかも自分の独立を保つというふうに、腰部を本尊の方にまげ、肩を強く後方に引き、そうしてまた顔を、こころもち本尊の方にかしげて、斜め下に本尊直前の空間を見つめるごとく、半ば本尊の方へ向けているのである。もしこの画面の前方二尺ほどの所に対角線を引けば、両脇侍の視線はその交叉点に集まり、本尊の上体はこの視線の交叉の上にささえられることになるであろう。また両脇侍の上体は、対角線にほとんど平行する内側の腕と、その腕の斜向に相応ずる体勢とによって、あたかも左右から本尊を捧持するごとき感じを造り出している。こういう両脇侍の姿勢は、また「脇侍」としての意味を完全に現わすとも見られる。これほど緊密な三尊仏の構図は恐らくほかにはあるまい。
脇侍を個々に観察すると、その魅力はまた本尊以上に強い。本尊が男性的な印象を与えるに反してこれは女性的であるが、しかしその女らしさを通じて現われている清浄さは本尊に劣らない。「これほど人間らしくて同時に人間離れのしている姿を見たことがない」という言葉は、この画の印象をよくいい当てている。その顔は端正な美女の顔ではあっても、その威厳と気高さと――そうして三昧に没入した凝然たる表情とは、地上の女のそれではない。そのあらわな腕の円い美しさも、首飾りの垂れたなだらかな胸の清らかさも、あるいはまた華やかな布に包まれた腰や薄衣の下からすいて見える大腿のあたりの濃艶さも、すべて同じき三昧に浸っているかのように見える。確かにこれは不思議な美しさである。軽くまげた勢至の右腕や、蓮茎をささえて腰にあてている観音の右手などは、ただそれだけを見まもっていても一種の法悦を感じさせられる。恐らくこの画家は人体の美しさのうちに永遠なるいのちの微妙な踊躍を感じていたのであろう。そうしてその感じが肉体の霊光としてここに表現せられているのであろう。
まことにこの画こそは真実の浄土図である。そこには宝池もなく宝楼もなく宝樹もない。また軽やかに空を飛翔する天人もない。ただ大きい弥陀の三尊と、上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。しかもそこに、美しい人間の姿をかりて現わされたものは、「弥陀の浄土」と呼ばれるにふさわしいものである。芸術が人を一時的解脱に導くことはかつて力強く説かれたが、この画のごときは芸術のこの特性を生かしてそれを永遠の解脱に結びつけようとするものである。そうしてこのもくろみを成就させるものがただ霊光の美の完全な表現にあることを、――画面において浄土の光景を物語ることではなくしてただ永遠なるいのちを暗示する意味深い形を創作するにあることを、この画の作者は心得ていたらしい。宗教画としてこの画の偉大なゆえんも恐らくそこにあるであろう。
この画とアジャンター壁画との相似はすでにしばしば説かれた。その例証としてアジャンターの菩薩像とこの観音像とが比較せられたこともある。なるほどあの腰を捩った姿勢や腰にまとう衣や、下肢が薄衣の下から透いて見えるところや、すべて「酷似」するといわれても仕方がない。ガンダーラの直立した、衣の厚い菩薩像よりは、確かにアジャンターの画の方がこの観音に近い。だからこの壁画がグプタ朝絵画の流れをくんだものであることは確かであろう。このことはなお首かざりや衣の模様などからも証明せられる。しかしグプタ式であるということは、直ちにギリシア芸術の流れをくんだものでないということにはならない。グプタ朝芸術は恐らくガンダーラ美術の醇化であろう。あるいはまた、ギリシア精神のインドにおける復興とも見られるであろう。もともとインドの偶像礼讃の風はギリシアの伝統をうけついだものである。グプタ式の芸術はそれをインド風に育てたものといえるであろう。だからこの壁画がはるかにギリシア芸術の流れをくんでいると見ても間違いはないのである。
その見解はさらにこの画とアジャンター壁画との相違点によって強められる。たとえばあの腰の捩り方は、詳しく見ればインドのものと同一でない。インドのはもっとひどく、ほとんど病的に感ぜられるほどに捩れている。この画のはギリシア彫刻の体のまげ方に一歩近づいて、よほど安定の感じが多い。もしこの変化が西域において起こったとすれば、そこにインド風の減退、従ってギリシア風のより純粋なる現われも想像し得られるのである。
が、重大な相違はまだほかにある。第一は構図の上に現われた著しい統一である。インドの画には恐らくこのように鮮やかな統一は見られないであろう。この変化はギリシア的精神の影響に帰することもできるが、またシナ人の功績と考えることも不可能でない。シナ人は単純化の秘訣を知っていた。あるいはギリシア的な調和の気分がシナ人のこの特質を刺戟してこのような統一を画面に実現させたのかも知れない。次には画面にあふれる気分の清浄化透明化である。インドの画には息づまるような病的な興奮が感ぜられる。そこではいかに端厳に描かれた仏菩薩の像もこれほど人間ばなれのした感じを与えない。脇侍の菩薩においてはこの差別は明白であるが、比較的感じの似よった小さい菩薩(?)像においても同じ差別はあると思う。弥陀の両肩の上に描かれた小さい半裸像などは、その姿勢もアジャンターの画によくあるものであるが、はるかに無邪気で清朗な気分を持っている。乳房と腰部とに対する病的な趣味は、もはやこの画には存しない。この変化がどこで起こったかということも興味のある問題である。ギリシア人はいかに女体の彫刻を愛しても、いのちの美しさ以外には出なかった。それに比べてインド人の趣味は明らかに淫靡であった。この二つの気分の相混じた芸術が東方に遷移したときに、後者をふり落として前者を生かしたということは、それが偶像礼讃の伝統に付随するものである限り、ギリシア精神の復興だとも見られる。それを西域人がやったか、シナ人がやったか、あるいは日本人がやったか、――恐らく三者共にであろう。そうして東方に来るほどそれが力強く行なわれたのであろう。その意味でこの画は日本人の趣味を、――特に推古仏の清浄を愛していた日本人の趣味を、現わしているのであろう。
法隆寺壁画に日本人の痕跡を認める! 人はその無謀にあきれるかも知れない。しかし現在においてはそのあきれる人の意見を支持するような遺物の方が、一層見つからないのである。唐にいた西域人尉遅乙僧がこの壁画のような画を描いていたとしても、それは記録によって知られるにすぎない。西域の発掘品のうちには一としてこの画と同じ気分を印象するものはない。スタイン、ルコックなどの発掘品はみなそうである。この画の気韻には西域画と全然異なるものがある。そうなれば、この画はやはりその画かれた土地と結びつけて考えるほかないのではなかろうか。日本においてこれをかいた人は外国人であったかも知れない。しかし外国人であるならば、それは唐において容れられず、日本にその適応する地を見いだした人であろう。日本人はこの天才によって目を開かれ、そうして自己の心を表現してもらったように感じたのであろう。この画の作者もまた推古仏を愛する人々の素朴な心を尚び、その心に投ずることを心がけたのであろう。中宮寺観音とシナ六朝の石仏との間に著しい相違を認める人は、この画が初唐様式の画でありながらしかも気韻においてそれと相違することをも認めなくてはなるまい。
インドの壁画が日本に来てこのように気韻を変化させたということは、ギリシアから東の方にあって、ペルシアもインドも西域もシナも、日本ほどギリシアに似ていないという事実と関係するであろう。気候や風土や人情において、あの広漠たる大陸と地中海の半島はまるで異なっているが、日本とギリシアとはかなり近接している。大陸を移遷する間にどこでも理解せられなかった心持ちが、日本に来たって初めて心からな同感を見いだしたというようなことも、ないとは限らない。シナやインドの独創力に比べて、日本のそれは貧弱であった。しかし己れを空しゅうして模倣につとめている間にも、その独自な性格は現われぬわけに行かなかった。もし日本の土地が、甘美な、哀愁に充ちた抒情詩的気分を特徴とするならば、同時にまたそれを日本人の気禀の特質と見ることもできよう。『古事記』の伝える神話の優しさも、中宮寺観音に現われた慈愛や悲哀も、恐らくこの特質の表現であろう。そこには常にしめやかさがあり涙がある。その涙があらゆる歓楽にたましいの陰影を与えずにはいない。だからインドの肉感的な画も、この涙に濾過せられる時には、透明な美しさに変化する。そうしてそこにギリシア人の美意識がはるかなる兄弟を見いだすのである。
この画が薬師寺聖観音と相応ずるものであることは何人も否まないであろう。製作の年代も恐らく相去ること遠くあるまい。現存の遺品こそ少ないが、これらの白鳳時代の芸術は、まことに世界の驚異である。もしこれがある人の言うごとく弥陀三尊押出仏(奈良博物館)や観修寺繍曼陀羅(京都博物館)のごとき舶来藍本に基づいて我が国人の製作したものであるとすれば、当時の日本人の芸術的活力もまた驚くべきものである。
わたくしは西壁の浄土図にのみ執着したが、壁画はなお他に三つの大壁と八つの小壁とに描かれている。しかもそれが相互にかなり著しく気分を異にしたものである。これらの壁画の作者は少なくとも四人だと断定した人があるが、確かに四人以上の画家の手が感ぜられる。時代を異にするものもあるようである。
小壁のうちで特に美しいのは、入り口から左へ突き当たった隅の、東壁及び南壁である。よほど人間らしい、またよほどギリシア的な感じのもので、その点では前にあげた観音・勢至よりも生々しい味があるともいえる。南壁の花を持って立っている姿などは、アマゾンの像といってもいいほどに強靱でそうして艶めかしい。次は西大壁の側の小壁で特に左方の坐像は、その陰欝な、輪郭の正しい、いかにもアリアン種らしい顔によって興味を刺戟する。一目見たときには何ゆえともなくミケランジェロのヴィットリア・コロンナを連想した。大して似ているというでもないのにどうしてこう結びついたのか自分でもわからない。
大壁のうちでは北大壁(北側左)がほとんど磨滅し、南大壁(東側右)が著しく拙劣で、ただ東大壁(北側右)のみ浄土図に次ぐことができる。この画は構図がなかなかよく、画面の保存も最もいいのであるが、変色が著しいために全体の印象をさまたげられている。部分的に見ると左端の菩薩や天蓋の右の天人などは非常に美しい。いろいろな像の布置もなかなか巧みである。
金堂の壇上には多数の仏像がならび、天井からは有名な天蓋がさがっている。しかしその天蓋と本尊その他の仏像との関係が切れているのはおかしい。四隅に立っている四天王は簡素な刻み方で、清楚な趣があって、非常にいいものである。これらの四天王を四隅に配し、この壇上の諸仏を統一ある一つの群像に仕上げていた当初の金堂内の光景は、さぞよかったろうと思われる。
壇上にならべてあるもののうち最も注意すべきものは橘夫人の廚子である。わたくしはながい間その前に立っていたが、ついにY氏の後援のもとに壇上にのぼり、台座に描かれている壁画式の画をつまびらかにながめた。この廚子の大体の構造は推古式であって、その屋根である天蓋のごときは、金堂の大天蓋と酷似し、漢式直線模様を盛んに用いている。しかるに台座の画は、壁画に比べれば段違いのものではあるが、しかしその西域風の気分において一歩を進めたものである。この二つの様式の混用はわれわれには非常に奇妙に感ぜられる。なぜならそこに現わされた二種の心情は実に著しい対照をなしているからである。しかしこの廚子のなかの阿弥陀三尊の像やその背後の光屏などにおいては推古式の感じと西域式の感じとがきわめて巧妙に融合させられている。このできばえには実際驚異を覚えずにはいられない。中尊の顔は正面から来る光線のために妙にはにかんだような、泣き出しそうな表情に見えるが、光線を少し柔らげて陰影をほどよくすると、その奇妙な微笑もはれぼったい瞼も、きわめて美しい優しみ、ういういしい愛らしさを印象する。その顔のつくり方が、扉に描かれたインド風の足細く乳房の大きい菩薩と同じく、新しい様式によっているにもかかわらず、その感じはむしろ中宮寺の観音の方に近い。衣のひだの柔らかさも推古仏と壁画とのちょうど中間である。脇侍の菩薩はかなり推古仏に似ているが、乳の柔らかいふくらみや少しく腰をまげたところは幾分扉絵の気分にも似通っている。その顔の感じは本尊と同じくわが国独特のものである。後方の屏障に刻まれた菩薩も、その肉づけの柔らかさといい衣の自由ななびき方といい、実に息のつけないほど美しいものであるが、そこにも新来の様式の日本化が見える。西域式美術を吸収することによってこの種の甘美な、哀愁と慈愛に充ちた美術が造られたことは、日本人の特性を考える上に重大な暗示を投げるだろう。
この廚子が橘夫人の遺愛の品であるかどうかは、確証のないことであるが、製作の時代から言って必ずしもあり得ぬことではないらしい。橘夫人は天智時代に生まれ、天武時代にその若き恋の日を送り、持統時代の文武帝の養育者となり、文武時代に光明后を産んだ人である。この廚子が天武・持統のころの作であるならば、それは夫人が後宮にはいった前後の時代で、あるいは当時の後宮の趣味を現わしているかも知れない。あの装飾のしみじみした柔らかさ、細やかさ、あの三尊の涙ぐましい愛らしさなどは、恐らく当時の貴婦人を恍惚とさせたものであろう。天平時代の一面を光明后に代表させるごとく白鳳時代の一面をもまたその母夫人に代表させていいならば、この廚子に残された夫人の愛情は、藤原京生活の半面を暗示するのである。
金堂を出て綱封蔵に移ると、そこにはまたお蔵らしくさまざまの像画工芸品の類が並べてある*。有名なのは木彫九面観音や銅像夢違観音などである。夢違観音は新薬師寺の香薬師などと比べてよいほどの美しい作である。がそのほかにもなおそれに近いと思われるほどに美しい仏像が少なくない。また絹や錦や毛布や、その他さまざまの器具類など、往昔の文化をしのばせる品々も多い。落ちついて観察すればそこに尽きざる興味が湧き出てくるであろう。われわれにとって空白のごとくに見えている古い祖先の生活の一面も、これらの品々の観察によって、幾分充たされるに相違ない。
しかしその落ちつきのなかったわたくしは、眼にうつるものの多さに圧倒せられて、感受力が鈍りきるほど疲れた。昼飯のために夢殿の南の宿屋に引き上げたときには、縁側に腰をおろすと靴をぬぐ努力もものういほどであった。
* 法隆寺の宝物は今は新築の宝物殿に秩序立って陳列されている。
二十四
夢殿――夢殿秘仏――フェノロサの見方――伝法堂――中宮寺――中宮寺観音――日本的特質――中宮寺以後
ひるから夢殿に行った。天平時代に建てられたこの美しい八角の殿堂は、西の入り口から見ると、惜しいことに周囲が狭すぎて、十分の美しさを発揮しないように思われる。聖徳太子の斑鳩宮は今の堂の配置とは異なっていたらしい。しかし講堂たる伝法堂は橘夫人の邸宅より移した住宅建築である。廊下の奥にその伝法堂の見えている絵殿のぬれ縁に立って夢殿をながめると、かろうじて堂の全貌を見ることができる。それほど建築が近接しているのである。それは伽藍の感じではなくて、住み心地のよい静かな住宅の感じだともいえる。
夢殿の印象は粛然としたものであった。北側の扉をあけてもらって堂内に歩み入り、さらに二重の壇をのぼって中央の廚子に近づいて行くと、その感じはますます高まって行った。
わたくしたちは廚子の左側に立った。高い扉は静かに左右に開かれた。長い垂れ幕もまた静かに引き分けられた。香木の強い匂いがわれわれの感覚を襲うと同時に、秘仏のあの奇妙な、神秘的な、何ともいえぬ横顔がわれわれの眼に飛びついて来た。
わたくしたちは引きよせられるように近々と廚子の垂れ幕に近づいてその顔を見上げた。われわれ自身の体に光線がさえぎられて、薄暗くなっている廚子のなかに、悠然として異様な生気を帯びた顔が浮かんでいる。その眉にも眼にも、また特に頬にも唇にも、幽かな、しかし刺すように印象の鋭い、変な美しさを持った微笑が漂うている。それは謎めいてはいるが、しかし暗さがない。愛に充ちてはいるが、しかしインド的な蠱惑はない。
その肌の感じがまた奇妙である。幽かながら一面に残った塗金が、暗褐の地から柔らかく光り、いかにも弾力ある生きた肌のような、そのくせ人体の温かさや匂いを捨て去った清浄な肌のような、特殊な生気を持っている。それは顔面ばかりでなく、その美しい手や胸などにも感ぜられる。
腹部の突き出た姿勢は少し気にならぬでもない。元来この像は横からながめるようにはできていないのであろう。しかし肩から下へゆるく流れる直線的な衣文は非常に美しい。
この奇妙に美しい仏像を突然見いだしたフェノロサの驚異は、日本の古美術にとって忘れ難い記念である。彼は一八八四年の夏、政府の嘱託を受けて古美術を研究するためにここに来た。そうして法隆寺の僧にこの廚子を開くことを交渉した。が寺僧は、そういう冒漬をあえてすれば仏罰立ちどころに至って大地震い寺塔崩壊するだろうと言って、なかなかきかなかった。この時に寺僧の知っていたところは、秘仏が百済伝来の推古仏であることと、廚子が二百年以上開かれなかったこととのみであった。従ってこの仏像はその芸術的価値が無視せられていたというどころではなく、数世紀間ただ一人の日本人の眼にさえ触れたことがないのであった。フェノロサは同行の九鬼氏とともに、稀有の宝を見いだすかも知れぬという期待に胸をおどらせながら、執念深く寺僧を説き伏せにかかった。そうして長い論判の末にとうとう寺僧は鍵を持って中央の壇に昇ることになった。数世紀間使用せられなかった鍵が、さびた錠前に触れる物音は、二人の全身に身震いを起こさせた。廚子のなかには木綿の布を一面に巻きつけた丈の高いものが立っていた。布の上には数世紀の塵が積もっていた。塵にむせびながらその布をほどくのがなかなかの大仕事であった。布は百五十丈ぐらいも使ってあった。
「しかしついに最後の覆いがとれた」とフェノロサは書いている。「そうしてこの驚嘆すべき、世界に唯一なる彫像は、数世紀の間にはじめて人の眼に触れた。それは等身より少し高いが、しかし背はうつろで、なにか堅い木に注意深く刻まれ、全身塗金であったのが今は銅のごとき黄褐色になっている。頭には朝鮮風の金銅彫りの妙異な冠が飾られ、それから宝石をちりばめた透かし彫り金物の長い飾り紐が垂れている。
「しかしわれわれを最もひきつけたのは、この製作の美的不可思議であった。正面から見るとこの像はそう気高くないが、横から見るとこれはギリシアの初期の美術と同じ高さだという気がする。肩から足へ両側面に流れ落ちる長い衣の線は、直線に近い、静かな一本の曲線となって、この像に偉大な高さと威厳とを与えている。胸は押しつけられ、腹は幽かにつき出し、宝石あるいは薬筥をささえた両の手は力強く肉付けられている。しかし最も美しい形は頭部を横から見た所である。漢式の鋭い鼻、まっすぐな曇りなき顔、幾分大きい――ほとんど黒人めいた――唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている。ダ・ヴィンチのモナリザの微笑に似なくもない。原始的な固さを持ったエジプト美術の最も美しいものと比べても、この像の方が刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて一層美しいと思われる。スラリとしたところは、アミアンのゴシック像に似ているが、しかし線の単純な組織において、このほうがはるかに静平で統一せられている。衣文の布置は呉の銅像式(六朝式)に基づいているように見えるが、しかしこのようにスラリとした釣り合いを加えたために、突然予期せられなかった美しさに展開して行った。われわれは一見して、この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家特に聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した。」
このフェノロサの発見はわれわれ日本人の感謝すべきものである。しかしその見解には必ずしもことごとく同意することができない。たとえばこの微笑をモナリザの微笑に比するのは正当でない。なるほど二者はともに内部から肉の上に造られた美しさである。そうして深い微笑である。しかしモナリザの微笑には、人類のあらゆる光明とともに人類のあらゆる暗黒が宿っている。この観音の微笑は瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現である。モナリザの内にひそむヴィナスは、聖者の情熱によって修道院に追い込まれ、騎士の情熱によって霊的憧憬の対象となり、奔放な人間性の自覚によって反抗的に罪悪の国の女王となった。この観音の内にひそむヴィナスは、単に従順な慈悲の婢に過ぎぬ。この観音の像が感覚的な肉の美しさを閑却して、ただ瞑想の美しさにのみ人を引き入れるのはそのためである。
モナリザの生まれたのは、恐怖に慄える霊的動揺の雰囲気からであった。人は土中から掘り出された白い女悪魔の裸体を見て、地獄の火に焚かるべき罪の怖れに戦慄しながらも、その輝ける美しさから眼を離すことができないという時代であった。しかし夢殿観音の生まれたのは、素朴な霊的要求が深く自然児の胸に萌しはじめたという雰囲気からであった。そのなかでは人はまだ霊と肉との苦しい争いを知らなかった。彼らを導く仏教も、その生まれ出て来た深い内生の分裂からは遠ざかって、むしろ霊肉の調和のうちに、――芸術的な法悦や理想化せられた慈愛のうちに、――その最高の契機を認めるものであった。だからそこに結晶したこの観音にも暗い背景は感ぜられない。まして人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない。ただ素朴で、しかも言い難く神秘的なのである。そういう相違がモナリザの微笑と夢殿観音の微笑との間に認められると思う。
エジプトの古彫刻との比較もきわめて興味あるものであるが、しかしその刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて異なるのみならず、またその神秘的な気分においても異なっている。エジプト彫刻の神秘的な気分は、たましいの不滅と肉体の復活とを信ずる人間的な情緒と深く結びついている。しかしこの観音の神秘的な気分は、もっと瞑想的で、また非人間的である。
アミアンあるいはランスのゴシック像との比較は非常に興味深い。実際両者はその気分のういういしい清らかさにおいて実に奇妙なほど類似しているのである。この類似が何によるかの研究は、かなり重要な意義を持つかと思われる。それは結局、世界宗教をとり入れた若い民族の宗教的心情の問題となるであろう。
この作を朝鮮作と断ずるのも早計をまぬがれない。もとより当時の芸術家のなかには朝鮮人もいたであろう。しかし朝鮮にのみ著しい独創を認めて日本に認めないのは何によるのであろうか。遺品から言えば朝鮮には日本ほど残っていないのである。従って詳しい比較はなし得られない。その朝鮮へ日本で不明なものを押しつけるのは、問題を回避するに過ぎないのではなかろうか。シナとの関係から言えば朝鮮も日本と変わりはない。朝鮮に来て著しい変化があり得たなら日本に来てもまたあり得たであろう。この作を百済観音と鳥式仏像との中間に置いて考え、あるいは竜門の浮き彫りと比較して考えるのは、その様式上の考察としては見当をあやまっていないかもしれぬ。面長な顔のつくり方や高い鼻の格好も、シナにその模範があったかもしれない。しかしそれはこの観音が日本作でないという証拠にはならない。朝鮮人が日本に来てそこばくの変化を経験しなかったはずはなかろうし、朝鮮人に学んだ日本人がさらに変化を加えるということもないとは言えない。六朝仏の朝鮮化と考えられて来たことも、実は日本化であるかも知れない。朝鮮の古仏をいくら見ても、夢殿の秘仏を朝鮮作と断ぜしめるような明白な特徴は見つからないのである。
屋根のひくい絵殿の廊下を通りぬけて、その後方の伝法堂に行った。そこにも多くの仏像が並んでいるが、しかし秘仏を見たあとではほとんど目にはいって来ない。挨の多い床板の上を歩きながら、フェノロサの本の插絵にある壊れた仏像の堆積を思い出して、本尊の裏手の廊下のようなところをのぞいて見た。壊れた仏像はまだ随分多く残っていた。ことに頭部や手などが埃のうちにゴロゴロ転がっているのは、一種異様な感じであった。
そこを出て中宮寺へ行く。寺というよりは庵室と言った方が似つかわしいような小ぢんまりとした建物で、また尼寺らしい優しい心持ちもどことなく感ぜられる。ちょうど本堂(と言っても離れ座敷のような感じのものであるが)の修繕中で、観音さまは廚子から出して庫裏の奥座敷に移坐させてあった。わたくしたちは次の室に、お客さまらしく座ぶとんの上にすわって、へだての襖をあけてもらった。いかにも「お目にかかる」という心地であった。
なつかしいわが聖女は、六畳間の中央に腰掛けを置いて静かにそこに腰かけている。うしろには床の間があり、前には小さい経机、花台、綿のふくれた座ぶとんなどが並べてある。右手の障子で柔らげられた光線を軽く半面にうけながら、彼女は神々しいほどに優しい「たましいのほほえみ」を浮かべていた。それはもう「彫刻」でも「推古仏」でもなかった。ただわれわれの心からな跪拝に価する――そうしてまたその跪拝に生き生きと答えてくれる――一つの生きた、貴い、力強い、慈愛そのものの姿であった。われわれはしみじみとした個人的な親しみを感じながら、透明な愛着のこころでその顔を見まもった。
どうぞおそば近くへ、と婉曲に尼君は、「古美術研究者」の「研究」を許した。われわれはそれを機会に奥の六畳へはいって、「おそば近く」いざり寄ったが、しかしその心持ちは、尼君が親切に推測してくれたような研究のこころもちではなくて、全く文字通りに「おそば」に近づくよろこびであった。
あの肌の黒いつやは実に不思議である。この像が木でありながら銅と同じような強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。またこのつやが、微妙な肉づけ、微細な面の凹凸を実に鋭敏に生かしている。そのために顔の表情なども細やかに柔らかに現われてくる。あのうっとりと閉じた眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際に光っているように見え、あのかすかにほほえんだ唇のあたりに、この瞬間にひらめいて出た愛の表情が実際に動いて感ぜられるのは、確かにあのつやのおかげであろう。あの頬の優しい美しさも、その頬に指先をつけた手のふるいつきたいような形のよさも、腕から肩の清らかな柔らかみも、あのつやを除いては考えられない。だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇大する写真には、この像の面影は伝えられないのである。
しかしつやがそれほど霊活な作用をなし得るのは、この像の肉づけが実際微妙になされているからである。その点でこの像は百済観音とはまるで違っている。むしろ白鳳時代のもののように、精妙な写実を行なっているのである。顔や腕や膝などの肉づけにもその感じは深いが、特に体と台座との連関において著しい。体の重味をうけた台座の感じ、それを被うている衣文の感じなど、実に精妙をきわめている。
わたくしたちはただうっとりとしてながめた。心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされている。まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである。
この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。それに従って聖母像は救い主の母たる威厳を現わすこともあれば、また浄化されたヴィナスの美を現わすこともある。しかしこの聖女は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は、人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。
わたくしの乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特なものではないかと思われる。これより力強いもの、威厳のあるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現わすもの、情熱を現わすもの、――それは世界にまれではあるまい。しかしこの純粋な愛と悲しみとの象徴は、その曇りのない純一性のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、恐らく唯一のものといってよいのではなかろうか。その甘美な、牧歌的な、哀愁の沁みとおった心持ちが、もし当時の日本人の心情を反映するならば、この像はまた日本的特質の表現である。古くは『古事記』の歌から新しくは情死の浄瑠璃に至るまで、物の哀れとしめやかな愛情とを核心とする日本人の芸術は、すでにここにその最もすぐれた最も明らかな代表者を持っているといえよう。浮世絵の人を陶酔させる柔らかさ、日本音曲の心をとろかす悲哀、そこに一味のデカダンの気分があるにしても、その根強い中心の動向は、あの観音に現わされた願望にほかならぬであろう。法然・親鸞の宗教も、淫靡と言われる平安朝の小説も、あの願望と、それから流れ出るやさしい心情とを基調としないものはない。しかしここにわれわれが反省すべきことは、この特質がどれほど大きくのびて行ったかという点である。時々ひらめいて出た偉大なものがあったにしても、それが一つの大きい潮流となることはなかったのではないか。従ってわれわれの文化には開展の代わりに変化が、いわば開展のない Variation が、あったに過ぎないのではないか。深化の努力の欠乏は目前の日本人にも著しい。それはまた歴史的な事実であるともいえよう。そこにあの特質が必然に伴っている弱点も認められるのである。
この像を日本的特質の証左と見るためには、朝鮮人の気質も明らかにされなくてはならない。この考察のためにはちょうど都合のよい二つの傑作が京城の博物館にある。一つは京都太秦の広隆寺の、胴体の細い弥勒像に似たものであり、もう一つはこの如意輪観音に似たものである。いずれも朝鮮現存の遺品のうちの最も優れたものである。われわれはここに様式上の近似を認めざるを得ない。しかし芸術品としての感じには、はっきりとした区別があると思う。そうしてこの感じは天平時代にも生かされているのである。唐の芸術の影響はすでにこの像にも認められると思うが、さらにわたくしはあの特質の深化、偉大化の最大の例を天平芸術に認めたいのである。法隆寺壁画にもすでに日本化を認めた。あれは西域式の画を中宮寺観音の気分によって変化したものといえよう。この種の変化の証跡が天平盛期の芸術にはもっと著しいとはいえないであろうか。建築では三月堂や唐招提寺に確かにあの気分のヴェエルがかかっていると思うが、これは比較すべき唐の遺物がないのであるから断言はできない。彫刻では聖林寺の十一面も三月堂の梵天も、天平特有の雄大な感じのうちに、唐の遺物に見られないこまやかさと柔らかさとを持っている。あの特質が形を変えて内から働き出し、唐の様式の上に別種の趣を加えたのではないであろうか。
あの悲しく貴い半跏の観音像は、かく見れば、われわれの文化の出発点である。『古事記』の歌もこの像よりさほど古くはない。現在の形に書きつけられたのは百年近く後である。上宮太子の文化が凝ってこの像となったとすれば、上宮太子はまた我が国最初の偉人でなくてはならない。その太子の情生活が、ほとんど情死にも近い美しい死によって、――夫人は王と共に死んだのである、王の死は自然に夫人の死を伴ったのであった、――その死によって推察せられるならば、そこにはたましいの融合を信じまた実現したしめやかな愛の生活がある。そうしてそれは、やがて結論として中宮寺観音をつくり出すような生活なのであった。上宮太子の作と称せられる憲法が極度に人道的であるのもまた偶然ではない。
がこれらの最初の文化現象を生み出すに至った母胎は、我が国のやさしい自然であろう。愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ神秘を持ったわが島国の自然は、人体の姿に現わせばあの観音となるほかはない。自然に酔う甘美なこころもちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、その根はあの観音と共通に、この国土の自然自身から出ているのである。葉末の露の美しさをも鋭く感受する繊細な自然の愛や、一笠一杖に身を託して自然に融け入って行くしめやかな自然との抱擁や、その分化した官能の陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見この観音とはなはだしく異なるように思える。しかしその異なるのはただ注意の向かう方向の相違である。捕えられる対象こそ差別があれ、捕えにかかる心情にはきわめて近く相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た子孫に同じき美しさを賦与した。わが国の文化の考察は結局わが国の自然の考察に帰って行かなくてはならぬ。
わたくしはかつてこの寺で、いかにもこの観音の侍者にふさわしい感じの尼僧を見たことがあった。それは十八九の色の白い、感じのこまやかな、物腰の柔らかい人であった。わたくしのつれていた子供が物珍しそうに熱心に廚子のなかをのぞき込んでいたので、それをさもかわいいらしくほほえみながらながめていたが、やがてきれいな声で、お嬢ちゃま観音さまはほんとうにまっ黒々でいらっしゃいますねえ、と言った。わたくしたちもほほえみ交わした。こんなに感じのいい尼さんは見たことがないと思った。――この日もあの尼僧に逢えるかと思っていたが、とうとう帰るまでその姿を見なかったので何となく物足りない気がした。
中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機が出してあった。 | 底本:「古寺巡礼」岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
2006(平成18)年10月5日第52刷発行
底本の親本:「和辻哲郎全集 第二巻」岩波書店
1961(昭和36)年12月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年12月4日作成
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序
この書は近世初頭における世界の情勢のなかで日本の状況・境位を考察したものである。著者はその境位の特徴を最も端的に現わすものとして「鎖国」という言葉を選んだが、それはここでは「国を鎖ざす行動」を意味するのであって、「鎖ざされた国の状態」を指すのではない。後者は前者の結果として現われたものであり、また目下のわが国の情勢を考察するに際して参考となるべき多くの問題を含んでいるが、しかしそれはまた別の取扱いを必要とするであろう。
この書の内容をなす個々の事項は、それぞれの専門家によって既に明らかにされていることのみであって、何一つ著者が新しく発見したことはない。しかし、それらの数多くの事項をこの書のような聯関において統一し概観するということは、恐らく初めての試みであると思う。著者は日本倫理思想史を考究するに当ってその種の概観の必要を痛感し、頻りにそういう著述を求めたのであったが、得られなかった。偶々戦時中、東京大学文学部の著者の研究室において、「近世」というものを初めから考えなおして見る研究会を組織し、西洋と東洋とに手を分けて、十人ほどの仲間といろいろとやって見たとき、著者にほぼ見とおしがついて来たのである。その際西洋の側では山中謙二教授、金子武蔵教授、矢嶋羊吉教授、日本の側では古川哲史教授、筧泰彦教授、日本キリシタンについては勝部真長教授から多くの益を得た。爆撃下の東京において、或は家を焼かれ、或は饑に苦しみながら、この探究の灯を細々ととぼし続けたことに対し、右の同僚諸氏に深く感謝の意を表したい。
本書の前篇の資料として著者が使ったのはたかだか Hakluyr Society の叢書位のものであるが、しかし方面違いの著者がこの叢書に親しんだということには、妙な因縁がある。多分昭和十一、二年の頃と思うが、丸善からアコスタの The Natural and Moral History of the Indies を売り込みに来た。Edward Grimston の英訳で一六〇四年の刊本である。当時の相場でたしか百円位であったと思う。しかし一年の図書費が三百円ほどに過ぎない研究室としては、この購入は相当に慎重を要するものであった。またアコスタについて当時何も知らなかった著者は、この書の価値をも判じ兼ねた。そこで著者は一応この書を読んで見たのである。そうして、何の期待も持っていなかっただけに殆んど驚愕に近い感じを受けた。ところで購入のために重複調べをさせて見ると、アコスタの英訳本は既に図書館に備えつけてあった。それがハクルート叢書の復刻本である。ここで著者は初めてハクルート叢書の存在を知り、第一期刊行の百冊のうちだけでも実に多くの興味深いものが揃っているのを見出した。図書館にあるのは大正大震災後英国から寄贈されたもので、百冊のうち四十四、五冊に過ぎなかったが、しかしそれらは皆近世初頭の航海者・探検家の記録であった。アコスタの書で味を覚えた著者は、時折それらをのぞき見るようになったのである。
後篇の資料として使ったのは、主として村上直次郎博士の飜訳にかかるヤソ会士の書簡である。『耶蘇会年報』第一冊(長崎叢書第二巻大正十五年)『耶蘇会士日本通信』上下二巻(異国叢書昭和二・三年)『耶蘇会士日本通信豊後篇』上下二巻(続異国叢書昭和十一年)『耶蘇会の日本年報』第一輯(昭和十八年)第二輯(昭和十九年)など、既刊のものが既に七巻に達している。前のハクルート叢書の英訳本に当るものが、ここでは村上博士の和訳本であった。ポルトガル語もスペイン語も読めない著者にとっては、原資料に接近する道はそのほかになかったのである。右のほかにはなお友人故太田正雄君がイタリア語訳本から重訳したフロイスの年報(『日本吉利支丹史鈔』所輯)をも用いた。がこのように原資料に直接触れることの出来ない欠を幾分かでも補うために、日本吉利支丹史に関する諸家の研究をも、右の宣教師の書簡と対照しつつ読んで見た。それによって吉利支丹史研究家のやり方につきいろいろなことを知ることを出来た。それらの研究書のなかで、海老沢有道氏の『切支丹史の研究』(昭和十七年)及び『切支丹典籍叢考』(昭和十八年)からは特に多くの益を得た。
著者は前篇及び後篇で扱ったいずれの事項についても「研究」の名に価するほどのことをやったのではない。しかしこれらの事項を互に密接に結びつけ、その統一的な意味を概観する、という仕事は、著者にとっても相当骨が折れたのである。それによって日本のキリシタン史の諸事象や戦国時代乃至安土桃山時代の日本人の精神的状況につき方位づけを与えることが出来れば、日本人及び日本文化の運命に関する反省の上に、幾分役立つことが出来るであろう
昭和二十五年二月一日
著者
序説
太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情ない姿をさらけ出した。この情勢に応じて日本民族の劣等性を力説するというようなことはわたくしの欲するところではない。有限な人間存在にあっては、どれほど優れたものにも欠点や弱所はある。その欠点の指摘は、人々が日本民族の優秀性を空虚な言葉で誇示していた時にこそ最も必要であった。今はむしろ日本民族の優秀な面に対する落ちついた認識を誘い出し、悲境にあるこの民族を少しでも力づけるべき時ではないかと思われる。
しかし人々が否応なしにおのれの欠点や弱所を自覚せしめられている時に、ただその上に罵倒の言葉を投げかけるだけでなく、その欠点や弱所の深刻な反省を試み、何がわれわれに足りないのであるかを精確に把握して置くことは、この欠点を克服するためにも必須の仕事である。その欠点は一口にいえば科学的精神の欠如であろう。合理的な思索を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた。がそういうことの起り得た背後には、直観的な事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという民族の性向が控えている。推理力によって確実に認識せられ得ることに対してさえも、やって見なくては解らないと感ずるのがこの民族の癖である。それが浅ましい狂信のはびこる温床であった。またそこから千種万様の欠点が導き出されて来たのである。
ところでこの欠点は、一朝一夕にして成り立ったものではない。近世の初めに新しい科学が発展し始めて以来、欧米人は三百年の歳月を費してこの科学の精神を生活の隅々にまで浸透させて行った。しかるに日本民族は、この発展が始まった途端に国を鎖じ、その後二百五十年の間、国家の権力を以てこの近世の精神の影響を遮断した。これは非常な相違である。この二百五十年の間の科学の発展が世界史の上で未曽有のものであっただけに、この相違もまた深刻だといわなくてはならぬ。それは、この発展の成果を急激に輸入することによって、何とか補いをつけ得るというようなものではなかった。だから最新の科学の成果を利用している人が同時に最も浅ましい狂信者であるというような奇妙な現象さえも起って来たのである。
して見るとこの欠点の把捉には、鎖国が何を意味していたかを十分に理解することが必要である。それは歴史の問題であるが、しかし歴史家はその点を明かに理解させてはくれなかった。歴史家が力を注いだのは、この鎖国の間に日本において創造せられた世にも珍らしい閉鎖的文化を明かにすることである。それはさまざまの美しいものや優れたもの、再びすることの出来ない個性的なものをわれわれに伝えた。それを明かにすることは確かに意義ある仕事である。しかしそれらのものの代償としてわれわれがいかに多くを失ったかということもまたわれわれは承知していなくてはならない。その問題をわれわれはここで取り上げようとするのである。
がその問題に入り込む前に、近世が始まるまでの、従って鎖国というようなことが総じて問題になるまでの、世界の歴史的情勢を概観して置きたいと思う。鎖国が問題になるのは世界的な交通が始まったからであって、一つの世界への動きは既にそこに見られる。鎖国とは一つの世界への動きを拒む態度である。従ってそれが問題になる以前の時代には、世界は多くの世界に分れていた。そうしてそのなかでヨーロッパ的世界が特に進歩しているというわけでもなかった。しかし近世の運動はヨーロッパから、始まったのであるから、先ずそこから始めよう。
ローマ帝国が地中海を環る諸地方を統一して当時のヨーロッパ人にとっての世界帝国となったとき、それはまたこれらの諸地方の一切の古代史の集注するところでもあった。それは地理的にも歴史的にも東と西との総合を意味している。この普遍的な世界において、普遍的な政治や法律や文芸や宗教が形成せられたのである。その普遍性がインド的世界やシナ的世界を含まず、従って真に普遍的となっていなかったとしても、彼らにとっての東方と西方との世界、そこに存するさまざまの民族、に対して普遍であったことは、疑いがない。またそれを通じて把捉せられた普遍性の理念は、その後の分裂的な民族国家や対立的世界に対して、常により高き人倫的段階を指し示すものとして作用することが出来た。
この普遍的な世界の崩壊は二つの方面から起った。一はゲルマン人の侵入であり、他はアラビア人の来征である。
ゲルマン人のローマ帝国への侵透は極めて長期に亘って行われた。初めは傭兵として部分的に入り込み、或は北方の国境地方に於て徐々に侵透しつつあったのであるが、四世紀末の民族大移動につれて旺然とローマ帝国内になだれ込むようになった。その或者は女子供や生活資材を携えた民族の集団がそのまま軍隊として行動したのであって、帝国を征服したというよりもむしろ帝国の版図内に入り込んで宿営したと云う方が当っている。彼らは土地の住民と妥協し、ローマ末期の宿営権に基いて、その土地の三分の一乃至三分の二を所有したのであった。従ってローマ人の権利や制度はその儘に残され、行政もゲルマン人が参加するのみでもとの儘であった。これは同じ土地に二つの生活が並存することを意味する。ゲルマン人は軍人であり、アリウス派であり、おのれの部族法に従っているが、ローマ人は非戦闘員であり、カトリックであり、ローマ法に従っている。かくてゲルマン人は、世界帝国の内部に新しい郷土を獲得したのであって、新しい国家を形成したとは考えていなかった。イタリアからスペインにまで拡がったゴート族やブルゴーニュの地名を残したブルグンド族などがそのよき例である。が他方には原住地を根拠地としてそこから帝国の版図内に植民して行く種族もあった。このやり方では、ローマ人と並存するのではなくして、むしろそれを征服したのである。後のフランスの基礎を置いたフランク族がそうであった。後のイギリスの基礎を置いたアングロ・サクソン族に至っては、ローマの習俗全部を壊滅せしめたと云われている。
こういう二つのやり方でゲルマン人は五世紀から六世紀へかけてローマ帝国の中へ無秩序に入り込んで行った。その間にフン族の王アッチラの来襲とか、ゲルマン傭兵の指揮者オドアケルによる西ローマ帝国の滅亡(476)とか、東ゴート族のテオドリックによるオドアケル討伐とか、ロムバード族のイタリア占領とかの如き事件が起り、ローマ帝国の西欧側は完全に壊滅に帰した。
がゲルマン諸族の侵入はその後もなお数世紀に亘って続いて居り、ローマ帝国の廃墟から西欧の文化世界が明白に形成されるまでには、なお三百年の年月と、そうして他のもう一つの有力な契機、即ちアラビア人の侵入が必要であった。
ローマ帝国の版図を東方・南方・西方に亘ってゲルマン人以上に広く侵蝕したのはアラビア人であるが、この東方からの侵入の起点はモハメッド(570―632)である。彼はセム族に普遍なアラー(Allah, hebr. Elohim)の信仰に新鮮な活気を与え、ユデア教やキリスト教の要素を取り入れて新しい民族宗教を作り上げた。それは一神への絶対服従の態度の故にイスラム(Islam)と呼ばれ、その信者(Moslem)は予言者及びその後継者(Kalif)を首長(Imam)として頂く固い宗教的共同体を形成している。その信仰の情熱は戦闘的な拡大を目ざす態度となって現われ、極めて迅速に西に向ってはローマ帝国、東に向ってはペルシアと戦端を開いた。そうして教祖の死後十年には既に西アジア全体とエジプトとをトリポリタニアまで征服した。アレキサンダー大王の作った『一つの世界』はここに崩壊し、東方と西方とを統一したローマ帝国もその東方を失い去ったのである。
かく急激に成立した宗教的戦闘的な世界帝国は、それが世界的となったまさにその理由によって、種々の変質や反動を閲せざるを得なかった。オマイヤ朝(661―750)はカリフの権威を倒して純粋に世俗的な支配を樹立したもので、国都をもメヂナからダマスクスへ移した。その頃からイスラムの内に持続的な分裂が引き起されたのである。が征服事業は依然として続けられている。東方は中央アジアや北インドまで、西方はアフリカ北岸を海峡まで七世紀の末に進出した。ヨーロッパへの侵入はまず初めにコンスタンチノープルを襲ったのであるが、八世紀の初めには西方スペインに侵入し、西ゴート族を打ち破って(711)半島全部を征服した。更にピレネー山脈を越えて(720)、フランスの中部にまで進出したが、これはフランク人によって撃退された(732)。しかしスペインに於けるイスラムの支配はこの後永い間続くのである。なおこれと並行して地中海の海上権力もまたアラビア人の掌握するところとなった。沿岸の諸地方や島々は彼らに侵略され、占領された。中でも目ぼしいのはシチリアの征服(827)である。こうして『東方』の力は『西方』の世界の心臓部に近く迫って来たのである。
西欧の文化世界の形成のためにアラビア人の侵入が必要であったというのは、この『東方』と『西方』との対立を指すのである。西欧の世界の形成のためにはまさにこの『東方』の圧力が必要であった。ローマ帝国に侵入したゲルマン諸族の間に初めて統一の萌しが見え、初めて国家を強力に形成したのは、前述のアラビア人の侵入を中部フランスに於てカール・マルテルが打ち破った頃からである。が重要なのはただこのような武力的圧迫のみではない。我々は当時のゲルマン諸族が文化的にはなお野蛮と呼ぶべき段階にあったのに対して、スペインに尖端を置くイスラムの文化が遙かに高い段階に達していたことを見のがしてはならぬ。
ゲルマン諸族は十一世紀に至るまでもなお野蛮であったと云われる。彼らはローマ時代の制度文物を荒廃せしめたのみで、おのれ自身は何ら新しいものを作り出し得なかった。従って彼らの侵入以来数世紀間の世界史的な出来事は、実はその侵入に悩みつつあったローマ人の力によるのである。その内特に注目すべきはローマの統一教会の強化発展であろう。元来キリスト教がローマ帝国に於て公認され、次で国教とせられるに至ったのは、ゲルマンの侵入よりあまり古いことではない。帝国の首都を東に移したコンスタンチヌス大帝がその統一の事業のためにキリスト教徒の勢力を利用し、その挙句この教を公の宗教として認許したのは三一三年であって、民族大移動の開始に先だつこと僅か六十年である。この皇帝は自らも信者となったために、在来迫害されて来たキリスト教は反ってローマ旧来の諸教よりも優勢となったが、しかし四世紀はなお異教との対立抗争に充たされている。テオドーシウス大帝がキリスト教以外の宗教を厳禁したのは三九五年であって民族移動開始後既に二十年を経ている。カトリック教会の最大の天才とも云うべきアウグスチヌスは実にこのゲルマン侵入の時期に仕事をしたのであった。彼の有名な回心は三八六年のことであり、彼の名著『神国論』は、四一〇年のアラリックのローマ劫略によって全帝国が狼狽し湧き返っているさ中に、この帝国と教会との危機を救うべく、四一三年から書き始められたのである。その直接の意図は帝国の危機をキリスト教の責に帰しようとする保守的なローマ人異教徒に対して駁撃を加えるにあったが、しかし彼の預言者的眼光は、ローマ帝国の崩壊と、かかる現世的流転を超越せる永遠なる神の国の姿とを洞見し、来るべき時代を予示している。即ち彼に於て帝国内の異教徒との戦が外より侵入し来るゲルマンの異教徒との戦と接続しているのである。『神の国』の著述は十五年の年月を要し四二七年に完成したのであるが、その後三年を経ずしてヴァンダル族は北アフリカの彼の町ヒッポへも押し寄せて来た。彼は敵軍重囲の内に四三〇年に死んだのである。がかく異教徒と戦うことは教会をますます強靱ならしめ、西ローマ帝国が亡んだ(476)後に反って精神的な世界帝国の理念を育成している。特にフランク族の王クローヴィスの改宗はこの傾向に拍車をかけた。元来ローマの司教は諸地方の司教と同じく papa と呼ばれ、それが帝国の首府に位置するという以外に特別の優位を持たなかったのであるが、その papa の尊称や使徒の座の資格を独占して『法王』或は『教皇』と訳さるる如き意義を帯びしむるに至ったのは、むしろこの時代以後のことなのである。それはローマ文明の荒廃と反比例して高まって行った。六世紀に於て学芸の伝統を保持していたのは、現世的に無力となり終った知識人の隠遁所としてその頃始められた修道院のみであったが、そこから出た教皇グレゴリウス一世(590―604)は、アングロ・サクソンの教化に成功したのを初めとして多くのゲルマン諸族をカトリック教会の中に取り入れ、ローマの司教を最高の司教として仰ぐに至らしめたと云われる。キリスト教が真に深くゲルマン諸族の中に根を下したのはなお三百年も後のことであるが、しかしゲルマン人の武力が現実を支配している西欧の世界に於て、文化的に着々とその発展を見せたものは、ローマの教会の他にないのである。
ところでこの教会の異教徒教化事業の最中に、西は北アフリカからスペインにまでも及ぶもとの帝国領が悉くモスレムによって征服され、そこに西欧に先んじて文化の華が開き始めた。ダマスクスのオマイヤ朝からバグダードのアッバス朝に代った頃がその始まりである。元来イスラムは東方のローマ属州を占領すると共にそこに残存したギリシア文化を熱心に吸収した。キリスト教によって殆んど窒息せしめられていたシリア地方のギリシア精神の如きも、イスラムによって解放され、力強く生き始めた。またイランやインドの文化圏も四方と密接に結びついて来た。九世紀に至ってイスラムの帝国が分裂したことも文化の華のためには好都合であった。というのは多くの主要都市が学芸や学校や図書館や天文台を守り育てる場所となったからである。先ずバグダードとバスラには最初の大学が出来た。東部イランでもニシャプール、メルヴ、バルク、ボハラ、サマルカンド、ガスナ、などが栄えた。その他イスパハン、ダマスクス、ハレブ、カイロなど。こういう広汎な文化交流を背景として、十世紀から十二世紀の頃にスペインではコルドバ、セビリャ、グラナダが、シチリアではパレルモが、文化の絶頂に達した。スペインには十七の大学があったと云われる。
こういう情勢の下に西欧より一歩先んじて発展したアラビアの哲学は、主としてアリストテレースに基き、また新プラトーン派を通じてプラトーンの影響をも受けていた。アラビア哲学の創始者として端的に『哲学者』と呼ばれていたアル・キンディは、数学者、医学者、天文学者でもあったが、八世紀の末にバスラで生れ、八七三年頃バグダードで死んだ。合理主義者であり自由思想家であったが故に多くの迫害を受けたと云われているが、アリストテレースの『オルガノン』の註釈を初め三十四種に上る哲学上の著述はあまり残って居らない。次で現われたファラビは九世紀の後半にトルキスタンのファラブで生れ、早くよりバグダードに来てアラビア語とギリシア哲学を学び、やがて自ら講義するに至った。歿したのは九五〇年ダマスクスに於てである。彼の著書は百種以上に上り大部分は失われたが、幸に『オルガノン』の註釈は残っている。彼の功績は、ギリシア哲学、特に論理学の理解に初めて深く突き入ったことであると云われる。がその解釈には新プラトーン派の影響がある。あらゆる後代の学者は、キリスト教のアリストテレース主義者さえも彼に基いている。この師のあとを歩いたのがイスパハンで医学と哲学とを教えたアヴィチェンナ(980―1037)である。彼はファラビの立場から出発しつつアリストテレースの教説に還って行った。個性化の原理である質料は、神からの流出でなく、それ自身永遠でありあらゆる可能性を包蔵する。この考を彼は貫徹しようと努めた。論理学・形而上学等の彼の著書は大部分既に十二世紀にラテン語に飜訳されている。こういう飜訳がなされるのはスペインに於ても既に哲学が盛行していたことを示すものであるが、この地で最初に現われたアラビア哲学者はアヴェンパチェ(1138歿)で、医学・数学・天文学等にも通じアリストテレースの註釈を書いた。その自由思想の故に迫害を受けたと云われるが、彼の立場は本能から神の理性的認識に至るまでの精神の発展を説くにあった。やや遅れて現われたイブン・トファイル(1185歿)も同じく医学者・数学者を兼ねた哲学者であって、同様に人間精神が、超自然的啓示によらず全然自然的に発展して自然及び神の認識に達する段階を説いた。その同時代の後輩としてかの有名なコルドバのアヴェロエス(1126―1198)が現われたのである。彼はアリストテレースを尊信すること厚く、人間に於ける完成の絶頂、我々が一般に知り得ることを我々に知らしむべく神の与えた人、と讃めたたえた。だから彼の仕事の中心もまたアリストテレースの註釈であって、その大部分はラテン訳によってのみ知られている。彼はアヴィチェンナの質料重視の立場を更に押し進め、形相は萌芽的に質料の中にあってより高き形相の影響の下に展開せしめられるのであると説く。また彼は理性の受動的側面を認めるアリストテレースの説に対して普遍的理性の両面即ち能動的理性と質料的理性とを説き、質料的理性といえども受動的ならざることを力説した。彼が汎神論的であると云われるのは、この普遍的能動的な理性が個々人に分れてその生存中の精神となり、死後はその本来の普遍性に帰るが故に、個人的霊魂の不滅は問題とならないと説いたためである。
これらのアラビア哲学は西欧中世の哲学に甚大なる影響を与え、スコラ哲学の隆盛を将来した。それはアヴィチェンナ及びアヴェロエスの著書とトマス・アクィナスとの密接な聯関によっても察せられるであろう。がこの点は後に問題とする。
哲学のみならず、数学・物理学・化学・医学・地理学・天文学の如き諸科学、及び歴史学・言語学等も、九世紀以来熱心に追究せられている。数学はギリシアの伝統に従って哲学の一部分として取扱われたが、現在のアラビア数字や代数学などはアラビア人が西欧に伝えたものである。地理学はイスラムの版図の広さや交易の隆盛に伴って中世の如何なる民族よりも進んでいた。歴史学に於ても十世紀以来すでに普遍史が書かれている。
その他なお我々は文芸美術の方面に於ても、また農工商の方面に於ても、多くの優秀な特徴を考えることが出来る。それらのすべてに於てアラビア人は、ギリシア人には及ばなかったとしても、同時代の西欧諸民族よりは遙かに優れていたのである。特に商業はその得意とするところであった。彼らは航海の力によってインド洋と地中海とを独占的に支配し、東西を結ぶ陸海の貿易路を悉くその手中におさめていたが故に、リスボンよりインドやシナに至る広汎な領域に於て諸民族の間の貿易を独占し、巨大な富を集めていたのである。
この絢爛たる『東方』の文化に対してゲルマン諸族の『西方』の文化はどうであったろうか。ローマの教会が世界帝国の理念を宗教的に継承し、西欧を精神的に統一し始めたことは既に説いたが、それはアラビア人が哲学を作り始めた八・九世紀の頃に於てもなおゲルマン人の心を十分に支配してはいなかった。八世紀初めのアングロ・サクソンの叙事伝『ベオヴルフ』や、サクソンの『ヘリアント』の如き九世紀の古ドイツ文芸などは、未だ全然異教的精神に充たされている。教会のドグマにはゲルマン人の歯が立たなかったのである。この間、イギリスのスコトゥス・エリゲナ(877歿)の如き西欧最初の独立的な思想家を出すには出したが、そういう学者はその時代には理解されず、教会から排斥された。
しかし十世紀の初めになると、ゲルマン人も漸くキリスト教を理解し始めたらしい。それは修道院の改革運動や神秘説の勃興となって現われた。がそれはファラビがバグダードで論理学の講義をしていた頃なのである。やがて十一世紀になるとパリに最初の大学が出来た。これが模範となって十二世紀以後には西欧の所々に大学が作られ始める。初めはギルド的な教師の団体として、やがては公の権力による設備として。それはアヴィチェンナが東方に現われ、スペインに於てアリストテレースが講義せられている頃なのである。西欧に於てはカンターベリーのアンセルムス(1033―1109)がスコラ哲学を始めるに至った。がかくキリスト教が理解せられ始めると共に世界史上の最も注目すべき事件の一つである十字軍(1095以後)が惹き起された。西欧の文化世界の形成とこの十字軍とはひき離して考えることが出来ない。そうしてこの十字軍こそ『東方』と『西方』との対立を露骨に具体化したものなのである。
この現象の理解のためには、ゲルマン諸族の本来の生活要素たる『戦闘的なるもの』が、ローマの教会の教化のもとにどうなって行ったかを見ることが必要である。ゲルマン人にはもと一つの平等な身分、即ち自由な、防衛的な、農民があった。(十二世紀に至っても北方の国々はそうであった。)然るにローマ帝国への侵入の時代に王や有力な首領やその従臣(vassal)などが出現し、やがて非戦闘的になった農民大衆と、王侯に奉仕する戦士とが分離するに至った。それに加えて十世紀頃から主君が手下の戦士と共に城(Burg)の中に住むようになる。また小さい領地が世襲になって小さい従臣たちが経済的にも社会的にも浮び上ってくる。更に数多くの自由なき家人の俸禄としての領地も真の領地の如く取扱われるようになる。これらの事情から素姓の別は稀薄となり、騎馬の武術という共通の生活が表へ出て来た。かくて自由を持たなかった従卒や家人は自由なる農民の上に出で、公侯や騎士の貴族階級に近づき、反対に、騎馬の勤めをせず代りに税を払っていた自由なる農民は隷属の地位に落ちた。この身分の対立は氏族の対立を押しのけてしまう。騎士は農民を軽蔑し憎んでいる。軍隊はただ騎馬の軍隊である。かくして封建制度は、暴力的な、また冒険的な、職業戦士階級を産み出したのであった。
このような封建制度が形成せられて行く丁度その時期に、右の如き戦士たちはローマの教会に指導されつつ、スペインに侵入したアラビア人と対抗したのであった。スペインは絢爛たる東方文化の西方への尖端である。この地に於けるアラビア人は最初土地の住民に対して極めて寛大で、財産にも言語にも宗教にも手を触れなかった。下層階級はアラビア人の支配によって反って安楽となった。上層のものも多くイスラムに帰依したが、改宗しないキリスト信者と雖、ただ税を払うだけで、信仰や法律上の権利はもとのままであった。そういう状態であるから、東方で倒されたオマイヤ朝の苗裔が逃げて来た時、民衆は歓呼を以てこれを迎えた。この王のもとにコルドバを首都として建てられた(755)国は、学芸を奨励し、農工商の平和な発展を保護したが故に、着々として文化がすすみ、十世紀にはその絶頂に達した。今や数々の繁華な都市がこの国土を飾り、モハメダン支配下のスペイン全体で人口は二千五百万に達したろうと云われる。中でもコルドバは人口五十万、戸数十一万三千、三千のモスクや華麗な宮殿があった。がグラナダ、セビリャ、トレドなどもそれに比肩し得る町々である。それらを初め地方の諸都市に大学・図書館・アカデミーなどが営まれたのであった。この文化燦然たるサラセン王国に対して西欧を護るゲルマン族は、最初のサラセン侵入をスペインの北岸地帯で漸く喰いとめた西ゴート族のアストゥリアスのほかは、主としてピレネー山脈の麓に小さいキリスト教国を建てた。ナバルレ、アラゴン、カタロニアなどがそれである。アラビア人の寛容な政策に化せられて、最初の間は宗教的対立はさほど強烈でなく、キリスト信者たる王がサラセン女を母とし、キリスト信者たる公侯の娘がサラセン人の妻となっている如き例も少くない。カリフの部下にキリスト信者があった如く、キリスト教の王の下にモハメダンが仕えていた。民衆も十字架と半月との戦には冷淡であった。むしろ征服された領土の回復のための戦、その戦を通じての封建制度の発展の方が主要事に見える。ゲルマン族の戦士たちは、その力と勇気とを奮って、おのれよりも文化の優れたる民族の手からおのれの祖先の地を取り返そうとしたのである。かくして十世紀から十一世紀へかけてアストゥリアスはスペインの中部にまで進出し、カスティレと呼ばれるに至った。十一世紀の中頃には既にカスティレ王がスペイン皇帝と称するに至っている。
ローマの教会はこの戦を常に信仰の戦として把捉せしめようと努めている。その努力が効を奏し、『東方』との戦を十字軍として実現するに至ったのは十一世紀末であるが、それと共に十二世紀に於てはサラセン人の側にも狂信的な信仰防禦の傾向が加わり、スペインはその烈しい戦場となった。西欧中世の騎士道はこの十字軍の精神に於て満開するに至るのであるが、その最初の形成はアラビア人との接触によると見られる。騎士道の発祥の地は南フランスであるが、その本源はペルシアであると云われている。騎士的な風習、騎士的な闘い方、封建的な騎士制度、それらはペルシアに起りアラビア人によって西欧に伝えられたのである。ゲルマン人の主従関係に本来伴っているのは、男の間の信義、武功手柄、という如き理想であったが、騎士道としてはそれ以外に信仰の防衛、弱者の保護、婦女尊崇などの義務が加わって来た。スペインの騎士は今やその尖端に立っている。国民的矜持・狂信・騎士的感覚、それがカスティレ風の特質である。これは数世紀の後にスペイン人とポルトガル人(これは十二世紀にカスティレから独立した)とが西欧人の世界進出の尖端に立つことと密接に関係のあることなのである。
以上によって明かなように、ゲルマン諸族に於ける戦闘的性格が騎士の姿を取って現われたことは、教会の教化によるのではない。がかくして現われた騎士は信仰の守護者として教会のための戦士となっていた。それを示すのが十字軍である。スペインの騎士が長期に亘って体験したことを、十字軍は西欧全体に押しひろめた。がそれは、スペインの騎士がイスラムに征服された国土を奪還しようとして戦った如く、イスラムに征服せられたローマ帝国の版図を奪回しようとして企てられたのではない。スペインの騎士が後に自らをキリスト教の守護者として感じ始めた如く西欧の諸王が『キリスト教を奉ぜる王』として、教皇の指導のもとに、聖墓奪還を目ざして軍を起した、それが十字軍なのである。それは全く不思議な現象であった。サラセン人やビザンツ人の眼から見ればなお野蛮人に過ぎないヨーロッパ人が、単純に宗教的な情熱から、一切の街道を充ち塞ぐほどに群をなして遙々と東方の世界へ押し寄せて行く。中には婦人子供をさえも伴っている。この狂信と献身との不思議な結合によって、一時はエルサレムが征服され、そこに王国が建設せられた。しかしやがてイスラムの国に於てトルコのセルヂュック族が国内の統一を強化し始めると共に、十字軍士の建てた国も危くなり、第二第三と起された十字軍も効を奏せず、パレスチナは再び失われた。その回復のために更に二度三度と遠征が企てられる。かくて十字軍の騒ぎは前後百六十年に亘ったが、結局その目的を達し得なかった。
しかし十字軍が西欧の形成に対して担っている意義は甚大である。それは西欧が一つの統一的な世界であるという自覚をはっきりとヨーロッパ人に植えつけた。この自覚はまた『東方』がおのれに対立する世界、おのれの外なる世界であるとの自覚であり、そこから東方に対する永続的な衝動が生れてくる。この自覚と共にまた教皇の権威は皇帝の上に出で、西欧キリスト教的世界に君臨するに至った。ここにローマ帝国と異った独自の西欧帝国が明白に仕上げられたのである。
西欧中世文化の絶頂は十二・三世紀の頃であるが、それは丁度十字軍の時期にほかならぬのである。騎士道が完成されたのもこの時期であり、しかも特徴的現象として、パレスチナやスペインの如き東方との闘争の前線に於て、騎士団が形成された。これは騎士を僧団的に組織したものであって、戦闘的ゲルマン的なるものと宗教的謙抑的なるものとの結合だと云ってよい。かかる騎士団は、やがて西欧全体に拡がり、夥しい財産の寄附を受けた。それによっても知られるように、騎士道は西欧全体に通用する国際的なものである。この騎士道の文芸的表現もまたこの時期に起った。アラビアの吟唱詩人の影響の下にまず南フランスから『トゥルーバドゥル』が起ってくる。同じくプロヴァンスの抒情詩も、迅速にスペインやイタリアにひろまり、北フランスやドイツの抒情詩の模範となった。北フランスでは、聖盃伝説と結びついたアーサ王の円卓騎士の物語や、サラセンとの戦を背景とするローランの物語などの英雄叙事詩が作られた。これらには十字軍的な観念が強く現われていると云ってよい。
学問に於てもそうである。教会の哲学を完成し、カトリックの模範的哲学者として尊崇せられているトマス・アクィナス(1227―1274)に於て、我々は烈しい十字軍的態度を見出すことが出来る。元来トマスはアリストテレースの開展の思想を取って教会の哲学を組織したのであるが、そのアリストテレースの大きい著作は十二世紀に至るまで西欧に知られていなかったのである。それがスペインに於てアラビア語からラテン語に重訳せられ、アヴェロエスの註釈のラテン訳と共に西欧に紹介せられたのは、十二世紀の末の頃である。十三世紀にはこれに基いてアリストテレースを解釈する一つの学派が成立した。その特徴は個人的な霊魂の不死を認めず、普遍的理性に於て不滅であるとした点にある。教会は最初アリストテレースの研究を喜ばず、それを禁止すること三度以上に及んだのであるが、やがてアリストテレースの体系が教会の信条と結合され得ることを見出し、その摂取を企てるに至った。この大勢の下にトマスはアリストテレースの研究に入ったのであるから、アラビア学者からの影響は避けるわけには行かなかった。彼の師アルベルトゥス・マグヌス(1193 or 1208―1280)はアヴィチェンナのアリストテレース解釈の方法を学び、アリストテレースの著述を解り易く云い換えようと努めたが、しかしトマスはアヴェロエスの方法を学び、アリストテレースの言葉の意味を出来るだけ忠実に再現してその思想内容を把捉しようと努めたと云われる。これには異論もあり、トマスの方法は聖書解釈の方から来たと論ぜられているが、併しトマスのアリストテレース研究も最初アラビア哲学者の労作に基いたこと疑いないのである。然るにトマスのアリストテレース註釈の仕事の特徴はアヴェロエスに対する攻撃にある。彼はアヴェロエスを以てアリストテレースの真意に反し真意を誤るものとした。従ってアリストテレース哲学からアヴェロエス的解釈の殻を取り去ることが彼のアリストテレース註釈の主要任務とさえなった。アヴェロエスに対する烈しい攻撃が最初に現われてくるのは、Summa contra Gentiles であるが、これはスペインのアラビア人やユデア人の間に伝道するドミニカンのために論難攻撃の教科書として書かれたものである。丁度この書の著述の頃にトマスはギリシア原典からのラテン訳にもとづいて独立にアリストテレース研究を始めていた。アヴェロエスのアリストテレース解釈が誤謬であることを彼は右の根拠から指摘したのである。更に晩年トマスが再度パリの教職に就いたとき、大学のアヴェロエス派と対立することによって一層アヴェロエス攻撃の熱が高まった。当時の著 De unitate intellectus contra Averroistas(1270)は、アヴェロイズムに対して教会の教理を守ろうとすると共に、またアヴェロエス派的解釈によって危険思想家にされ兼ねないアリストテレースの真実の姿を守ろうとしている。このように最大のスコラ哲学者のアリストテレース解釈はアヴェロエスに対する戦という旗の下になされた。そうしてアヴェロイズムに対する学問的征服が聖トマスの功業の一つであった。ここに我々は、異教徒アリストテレースを教会の哲学者とイスラムの哲学者とが奪い合っている、という事実に面接するのである。それは古代の世界帝国の遺産を『東方』の手から『西方』が奪い返そうとする運動にほかならない。即ち十字軍と同じ動機が精神的世界にも現われているのである。
かくの如く十字軍的観念によって教会の指導の下に西欧が一つの統一的世界として自覚されたということの最も巨大な記念碑はダンテ(1265―1321)の神曲であると云ってよい。元来この種の世界的古典は、ホメーロスやシェークスピアやゲーテなどの作品に於ても同様であるが、それの作られた時代と社会とが相続して持っている世界の文化の綜合を表現したものである。神曲もまたギリシア・ローマの古代の文化、及び『東方』の文化を、中世の西欧、特にイタリアの文化の中に渾融し、それを教会の精神に於て極めて独特な仕方で統一している。この作品の輪郭をなす地獄界、浄罪界、天堂界の幻想の中にペルシアあたりの幻想が力強く流れ込んでいること、従って仏教に流れ込んだ地獄極楽の幻想と源泉を同じくするらしいことは、それ自身極めて興味ある研究問題であるが、この輪郭の中にはめ込まれた豊富な世界史的内容が教会の立場から価値づけられて地獄の底から九天の高所に至るまでの実に顕著な高下の差別の中に配列せられているのを見る時、我々はこの詩の幽幻な美しさにも拘らずなお十字軍的な烈しい精神を感ぜざるを得ない。神曲の神学的構成の基礎にトマス・アクィナスの体系、特に Summa contra Gentiles が用いられているのも故なきことでない。もとよりトマスは中世最大の哲学者に相違ないが、しかし彼がその師アルベルトゥス・マグヌスなどと共に高く天堂の第五天(火星天)に栄光に充たされて位しているのに対し、ソークラテースやプラトーンやアヴィチェンナやアヴェロエスが低く地獄に落されていることは、何としても偏狭の見と云わざるを得ない。同様にイェルサレムの大虐殺や南フランス全体の大劫掠を伴った十字軍の戦士たちが、トマスよりも更に高く第七天に於て燦然たる光となって輝いているに対し、東方を一つの統一的世界に形成する力の源となったモハメッドが、地獄の奥底たる第九圏に間近いところで、人類の間に分裂や殺し合いをひろめた罰として、頬から口まで切り裂かれ、腸や心臓を露出して苦しんでいることも、あまりに党派的な見方と評せざるを得ない。このような評価の体系は、少くとも西洋の古代に関しては、ルネサンスに至って全然覆えされたのである。
十字軍の影響としてはなお他に都市の勃興、市民階級の形成をあげて置かなくてはならぬ。既に十世紀頃より純粋の農民的自然経済は崩れ始め、手工業と商業とが再び栄えようとしている。経済的意味に於ける都市生活は、ローマ時代の都市が僅かに名残りを留めていた南方に於て、十世紀の頃に始まり、次で十一世紀には北方にもひろまった。そこでは都市の住民――商人、手工業者、召使、家来などが結合して市民共同体をつくり、自治権を獲得した。それは司法、警察などの組織から防衛隊の結成にまで及んでいる。こういう自治的な都市が教会や封建君主の権力と戦って漸次自由都市としての存立を獲得して行ったのが丁度十字軍の時期なのである。十字軍による輸送や交通や貿易の活溌化は必然に都市の活動を刺戟し、急激にそれらを発達させた。特にイタリアの諸都市が顕著であった。ヴェネチア、アマルフィ、ナポリなどは既に九世紀の頃から海に進出してアラビア人に対抗していたが、十一世紀にはそれをイタリアの島々から駆逐した。これは東方への反撃の先駆と云ってよい。十二世紀にはピサやジェノヴァが進出して東方との貿易に加わった。こういう海上の勢力が十字軍と結びついて急激な海運都市の勃興となったのである。フィレンツェ、ミラノなどは海に沿っていないが、しかしその興隆は貿易に基いている。イタリア以外ではマルセーユ、バルセロナなどが海運都市として興ったが、十三世紀に至るとブルージュ、ガンなどを初めとしてライン河畔やダニューブ上流、北海・バルト海沿岸などに多数の都市が出現する。そういう都市の隆盛と同時に市民共同体の内部には種々の職業団体(ギルドやツンフト)が発達し、外部には都市同盟が盛んになる。やがて十四・五世紀に於ては、かかる都市の内部に於ける民主主義運動や外部に於ける国際関係からして近代国家に関するさまざまの思索が現われてくるのである。かく見れば十字軍の刺戟によって起った都市こそ、西欧を近代化する母胎であったということが出来る。その母胎の近代初頭十五世紀に於ける情勢は、パリ、ナポリ、パレルモ、ヴェネチアのみが人口十万以上、ローマ、フィレンツェ、ジェノヴァ、ブルージュ、ガン、アントワープなどが五万乃至十万、リュベック、ケルンが五万、ロンドンが三万五千、ニュルンベルクが三万であった。
以上の如く『東方』との対立に於て出来上った西欧の統一的世界は、この対立によって形成を促進されたというまさにその理由によって、また崩壊に面しなくてはならなかった。十字軍は前にもいった如くゲルマン諸族の戦闘的性格が教会の理念を通じて表現せられたものであるが、それによって教会の統治が強化されると共にまた戦闘的性格そのものも醇化した形に展開せざるを得なかった。それは世俗的な国家生活の発展や自由な人間生活の形成に於ける無限追求の精神である。教会的統一の形成のために必要であった精神的閉鎖性は、今やこの無限追求の精神にとっての束縛となり、それを破る努力を呼び醒してくる。一切の自由な思索を禁圧し、理性を牢屋に閉じ込めていた教義の支配は、今や揺り動かされねばならぬ。この支配の下に固定させられていた社会組織や、情意の自然的な活動を抑圧されていた個人の生活は、今や解き放されなくてはならぬ。かくて西欧の統一的世界を打ち破り、人間性を解放しようとする運動が、ルネサンスとして爆発し、近代ヨーロッパを産み出してくるのである。
この運動は十四世紀の初頭に先ず教皇権の王権に対する敗北となって現われた。十字軍の経験から最初に中央集権策によって国家を強化しようとし始めたフランスの国王が、教皇を制御するに成功し、更にそれをアヴィニヨンに移したのである。教皇が西欧に君臨するという権威はここで倒れた。西欧が一つの統一体であることはここに終りを告げ、それに代って民族的統一が現われ出ようとする。しかしそれは一朝一夕に近代国家にまで発展したのではない。対外的には国と国との間の戦争が頻々として起り、内部に於ては僧侶と貴族と都市との間の激しい闘争がくり返され、それを通じて漸く近代国家が形成されるのである。
この道程に於てイギリスの憲法マグナ・カルタの制定は劃期的なものであるが、しかしこの制定によって直ちに国内の混乱が止んだのではない。議会制度は未だ国内の秩序を維持する力を持たなかった。教皇権と共に中世を標徴する騎士の階級は、今や崩壊の時期に瀕して、その最も悪い面を示し始めた。それはヨーロッパ全体に亘っての現象である。騎士は恣にその城壁から出て通りすがりの旅人を掠奪する。城郭にたてこもる貴族は何人の統制にも服しようとしない。こういう混乱のなかでわずかに秩序を保ち得たのが、新興の勢力としての都市であった。それは団結によって市民の生活を護り、秩序によって暴力に対抗し、そこから近代ヨーロッパを産み出して行ったのである。
この形勢に於て先駆的役割をつとめたのがイタリアであった。十字軍の影響の下に急激に勃興した諸都市は、それぞれ独立の自治組織を形成したが、今や皇帝権も教皇権も崩壊し去るに及んで、国家としての態度を整えて来たのである。中でも強力なのは、ヴェネチア、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ナポリの五国であった。中世の標徴たる騎士はここでは早くより消滅し、それに代るものとして傭兵とその首領(Condottiere)があるのみであった。それは社会に於ける一定の身分ではなく、報酬に応じてどの国家のためにも戦争に従事する一種の企業家である。国家はここでは身分の差別の殆どない市民によって構成され、多くは共和制を取った。勿論そこには市民共同体全体を包む純政治的な組合組織を形成したフィレンツェの如きもあれば、確乎たる貴族政治を樹立したヴェネチア共和国の如きもある。がいずれも近代国家の風貌を供えていることは否定出来ない。この中にあって国家の問題を深く考えたフィレンツェのマキアヴェリが、その後のヨーロッパ近代国家に対してさまざまの示唆を与え得たのは故なきことでない。
しかし狭いイタリアの中に数多くの小国家が並立して相争い、また絶え間なくスペインやフランスからの侵入を受ける情勢にあっては、国民的国家としての近代国家はここに見出すことが出来ない。それはイタリアの民族全体にとっては分裂・争闘・残虐・不安に充ちた生活であった。しかもその中からイタリア人は、ギリシア盛時にも比肩すべき華々しいルネサンスの文化を作り出したのである。この視点から見れば、争闘と残虐に充ちたその生活は、人間性解放の一つの現われと解せられるでもあろう。チェーザレ・ボルヂアに於て最も強健な超人的性格を見出そうとする如き見方は、まさにその代表的なものである。十字軍を背景として産み出されたイタリア諸都市の文化は、文弱なものではあり得なかった。地獄の苛責を以て人を嚇かそうとする教会の権威を大胆にはねのけ、ただ異教的な古代の文化にのみ親縁を感じつつ、しかもその古代人以上に人間的な美を結晶させようとしたルネサンスの芸術家は、すべて強剛な豪胆な個性の持主であった。イタリアのルネサンスの偉大さはこの『強さ』に基くところ少くないのである。
イタリアのルネサンスの本質的な特徴は、個人の発展、古代の復活及び世界と人間の発見において認められている。中世人が外界をただ教会の教に従って空想的にのみ理解し、自己をただ何らか全体的なものの一分子としてのみ感じたのに反し、ルネサンスのイタリア人は外界を客観的に直視し、自己を独立の個人として自覚し始めた。十三世紀が終ると共に突如としてイタリアには個性的人物が簇出し始める。既にダンテがそうであるが、都市国家の政権を握るデスポットや軍隊を率いるコンドチェーレの如き著名な人物のみならず、一介の市民にさえもこの傾向が見られる。これは云わば中世人に対する『神』の代りに『自然』を置きかえた態度なのであるが、ここにこそ近代ヨーロッパ文化の出発点があるのである。しかし、外界を客観的に眺めたからと云って直ちに自然的精神的世界の認識に徹し得るものではない。ここに指導者として入り込んでくるのが古代である。そこには神話伝説の代りに厳密な学問があり、教の代りに無限追求の精神がある。叙事詩や歴史は朗らかで自然的な人間の生活を鮮やかに示してくれる。それによって育成されたイタリアの精神は、やがて外的世界の発見に向い、中世の閉鎖的な眼界を打ち破ろうとするのである。既に十字軍の遠征はヨーロッパ人に遠い国々への衝動を植えつけたのであるが、その衝動が最初に知識欲と結びついて冒険的な旅行に出で立たせたのは、イタリアに於てであった。それはイタリア人が地中海の航海と貿易とに早くより乗り出し、東方の国々に馴染んでいたせいでもあるであろう。既に十三世紀の末にマルコ・ポーロ(1254―1324)はシナまで旅行した。その後発見のために海外へ乗り出して行ったイタリア人は枚挙に遑がないと云われる。彼らは皆先駆者の思想や意志を継承し、それに基いておのれの計画を立てたのである。そういう中から遂にコロンブスを出すに至ったのは決して偶然でない。
この発見の精神はまた近代の自然科学を出発させた。既に北方に於ても十三世紀にアルベルトゥス・マグヌスは物理学・化学・植物学等についてのかなりの知識を示して居り、またイギリスのローヂァ・ベーコン(ca. 1214―ca. 1294)はアラビアの自然科学の影響の下に現象の真の聯関についての驚くべき洞察を見せ、自然観察に帰るべきことを説いてスコラ的体系に容赦のない攻撃を加えている。これらは近代自然科学の先駆者に相違ないが、その時代その社会からは理解されず、後者の如きは迫害をさえ受けた。しかるにイタリアでは自然の観察探究が国民全体によって歓迎された。ダンテの神曲のなかに含まれている詳しい天文学的な知識は、その時代の読者には常識に過ぎなかったのである。そういう背景のもとに経験的自然科学はイタリアに於て最も早く進んだ。教会の干渉も北方に於けるほど甚しくはなかった。かくて十五世紀の末にはパオロ・トスカネリ(1397―1482)、リオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1519)などを出し、数学・自然科学に於てヨーロッパに並ぶものなき先進国となったのである。そうしてそのトスカネリこそコロンブスに西廻りインド航路の考を与えた人であった。
この発見の運動は、近代ヨーロッパが中世の閉鎖性を破って外に進出するという傾向を最も直観的に示しているものであるが、それを力強く実行に移したのは、イタリア人ではなくしてスペイン人及びポルトガル人であった。即ち『東方』との争闘の中に成り立った国々、『東方』との戦の最前線にいた民族が、今や新しく『海外十字軍』を始めたのである。そうしてこの事業こそ近代ヨーロッパを形成する最後の重要契機にほかならない。我々は近代ヨーロッパの考察をそこから始めたいと思う。
以上概観した歴史的経過は、東方と西方の合一と対立とを含むとは云え、我々の住む東亜文化圏とはかかわりがない。東方は漸くインドに触れるのみで、マルコ・ポーロの頃に初めてシナと日本をその眼界に含ませてくるのである。しかしインド及びシナの文化圏は、実質上西方の文化とさまざまの交渉を持っているのみならず、ヨーロッパの文化圏に対して決して劣らない世界史的意義を担っている。にも拘らずそれが対等の取扱いを受けないのは、近代ヨーロッパとの接触以後に、相拮抗するだけの文化的発展をなし得なかったからである。我々はその点をも簡単に通観して置かなくてはならない。
インドはローマ帝国の世界統一の時代には、同じくギリシア風要素を摂取した高度の文化を以て、それ自身の視圏内に於て統一的世界を形成していた。大乗仏教の結構壮大な哲学や文芸や美術はこの時代の創造にかかるものである。のみならずその活動はローマの世界統一よりも永く続いている。中観哲学と瑜伽行哲学との創成は既に四世紀までに終っているが、しかし西ローマ帝国の滅亡の頃にはなお中観派と瑜伽行派との哲学者たちの活動は活溌に続いているのである。両者が学派として明白に対立するに至ったのは、むしろ六世紀の事に属する。真諦や玄奘がシナに伝えた仏教哲学はこの時代の学者の解釈を通じたものである。七世紀からは漸く衰頽時代に入っているが、それでも真言系統の象徴的哲学が起っている。そうしてそれらはヒマーラヤの彼方に移って新鮮な活力を発揮するに至った。しかし西欧が漸くその独自の文化を作り始める頃にはインドはその頽廃の底に達し、やがて十世紀の終り頃にはマームードの征服に遇うに至った。その後は『東方』の世界の一契機に過ぎなくなる。
シナに於てローマ帝国に比肩するものは両漢の帝国である。それは古い周の文化を継承しつつも戦国時代以来外来的要素を取り入れ、当時の東亜全体に及ぶ統一的世界を形成した。それは黄河流域の狭い区域に限られた周代の世界に対して全然新しい世界である。この広汎な統一的世界の形成がシナ文化にとって如何に決定的な意義を有するかは、シナの民族を漢民族と呼び、シナ文字を漢字、シナ語を漢語と云い慣わしていることによっても知られるであろう。シナの民族はその後数々の新しい要素を加え、漢代のそれと決して同じものではない。シナの言語もそうである。しかもそれを我々は漢の名に於て統一的に把捉するように習慣づけられているのである。
この統一的な世界はローマ帝国よりも一歩早く三世紀に崩壊した。あとに三国時代が続き、やがて盛んに異民族の侵入をうけることになる。民族運動による混乱も西方よりは一歩早く、既に四世紀の初めには外蛮が中原を制している。混乱の時期は西方と同じく三百年以上に及んでいるが、その収拾の仕方は西方と同じではない。西方に於てはローマの文化は殆んど破壊され、ローマ人の征服民族に対する文化的逆征服は本来ローマ的ならざるキリスト教を以てなされた。然るに東亜に於ては漢文化はそれほど破壊はされなかった。次々に入り込んで来た外蛮は大体に於て漢文化に化せられる。言語さえ漢語を使うようになる。従って民族渾融による新しい文化の創成は、漢文化を土台としてなされたのである。勿論それによって漢文化自身も顕著な変化を受けなくてはならなかった。かくて西方より一歩早く、七世紀の初めに華々しく開き始めたのが隋唐の文化である。
我々はこの隋唐の文化が民族の渾融によって新しく創成されたものであるという点を忘れてはならぬ。隋室の祖先は北狄の間に育ち、少くとも母系には北族の血を混えている。唐朝の李氏も蕃姓と見られ得る。そうしてその部下の有力者中には異民族のものが多かった。隋唐の文化はそういう異民族の協働の下に外来の要素を盛んに取り入れつつ形成せられたのである。インドの哲学・宗教、ペルシアの思想・芸術、林邑の音楽・物資等は旺然として隋唐の文化に流れ込んだ。かくして唐代の詩や絵画や美術に見られるような豊醇な様式が作り出され、或は唐代の仏教哲学に見られるような壮大な体系が建立せられたのである。それは漢文化とは顕著に異ったものであるが、しかしシナに於て創られた文化としては最高のものであり、また当時の世界全体に於てどこにも比類を見出し難いほど醇美なものである。七世紀より九世紀に至る西方の文化が遙かにこれに劣ったものであることはいうまでもなく、アラビアの文化も到底是に及ばない。従ってこの文化の影響は東亜全体はいうまでもなく、遠くアジアの西の方に及んでいるのである。
この文化は西欧がその固有の文化を展開し始める前に既に終末に達した。それには契丹などの外蛮の国の勃興や、トルコ族の国内に於ける跳梁なども有力な契機となっているが、今度は混乱僅かに半世紀余にして宋の統一(960―1279)を実現した。しかしこの統一は唐代に於ける如く東亜の世界全体に亘る広汎なものではなく、外囲に契丹等の異民族の国を控えて、シナ固有の版図(後にはその半ば)に集約的な文化を形成したものである。従ってそこには再びシナの土地に固有な色彩が蘇って来たように見える。仏教が著しくシナ化されて禅学となり、儒教が再び活溌となって仏教の影響の下に形而上学を発展させた如きは、そのよき例である。これらはいずれもシナ独自の創造として重視さるべきものであろう。が特に注意すべきことは、この宋の文化が西欧の中世文化とほぼ時を同じくするに拘らず、西欧の中世を特徴づける封建制度がここには存しないことである。宋の政治は意識的に武力の支配を排除し、民衆の活力を開放した。そのために商工業は栄え、農民の地位は向上し、都市生活は頗る繁華となった。かかる点に着目してここに既に近代的傾向を見ようとする学者もある。それにはなお他に都合のよい事実を数えることも出来るであろう。火薬や羅針盤の発明、印刷術の大成などは、西欧よりも遙かに早く、宋代に於て実現された。しかもその印刷術の如き、一切経の出版という如き大事業をさえもなし遂げている。地理的な知識も、遠く地中海の沿岸、エヂプト、シシリー、スペインにまで及んでいた。そういう傾向の総括として儒教の大成者朱熹(1130―1200)は格物致知を力説している。それも近代の黎明を示していはしないか。なるほどそうも云えるであろう。しかしその格物致知の精神にも拘らず、東亜の世界には西欧の近代科学の如きものは起らなかった。火薬や羅針盤や印刷術に先鞭をつけながら、それによって近代の技術や思想の解放などが促進されず、逆にそれらを伝えた西欧人のためにそれらの力を以て圧迫されてしまった。ここに大きい問題があると云わねばならぬ。朱熹はトマス・アクィナスよりも二世代ほど早く現われ、トマスと同じくその時代の哲学の大成者となった人であるが、格物窮理によって近代を先駆するというよりも、むしろ中世的な経典解釈の態度に於てトマスに酷似する。朱熹に対する経典や聖人の権威はトマスに対する聖書やキリストの権威と毫も異るところがない。従って宋の文化は全体として西欧の中世よりも進んでいるに拘らず、最も重要な点に於て依然として中世的であり、西欧近代を特徴づける思想の自由・無限追求の精神を欠いているのである。
しかしそれはシナ民族の性格によるのであろうか。或は時代がまだそれほどに熟していなかったことに基くのであろうか。この点は重大な問題として慎重な考察を要すると思うが、とにかく運命は丁度このあとへ右の如き発展を不可能ならしめるような情勢を与えた。それは蒙古人によるシナ征服である。チンギスカンに始まる蒙古の勃興、世界征服の事業は、ヨーロッパに対しては一時的な挿話に終った(1236―1243)が、西南アジアよりシナにかけては重大な影響を与えた。クビライがシナ征服を完成した頃(1260―94)には、西欧、インド、エヂプト、日本を除いて、当時知られていた限りの世界全体を統一し、世界史上空前絶後の大帝国を建設したといわれる。しかし蒙古人自身は見るべき文化を持たなかったのであるから、その征服は破壊的な効果をしか与えなかった。シナに於ても宋代の文化を担っていた人々は社会の最下層に落され、シナの外蛮金及び高麗人の方がその上に位する。更にその上にアラビア人その他西域から来た異民族(色目)が立ち、それら全体の上に支配階級として蒙古人が位する。かかる情勢に於ては宋の文化は萎縮するほかはなかったのである。
しかし右の統一はイスラムの文化圏とシナの文化圏との統一にほかならず、従ってアラビアの文化、特に天文学・数学・地理学・暦・砲術等の知識が、シナに流入したことは顕著な事実である。郭守敬の授時暦はこの事実を記念するものとしていつも指摘されている。この点に注目すれば、西欧がスペインに於てアラビア人から受けたと同じような刺戟を、シナ人もまた蒙古人のお蔭で西欧とほぼ同じき十三・四世紀の頃に、アラビア人から受けることが出来たと云える。しかるにその刺戟の効果は西欧とシナとでは著しく異っている。西欧ではそれが教義の支配という牢獄を破るのに役立った。シナでは逆に朱子学が官学とされ、中世的な閉鎖性を強めることとなっている。ここにも我々は重大な性格の相違を看取せざるを得ない。
しかし蒙古帝国の統一は、更にもう一つ重要な結果をもたらした。それは西欧人にインド、シナ、日本等、彼らの『東方』の概念の内に含まれていなかった東方の文化圏を知らしめたことである。ここに於て東方への衝動はインド、シナ、日本等未知の国々への衝動となって力強く働き出した。そこに我々の当面の問題が現われてくるのである。
最後に我々は以上の推移に対して日本の諸時代を位置づけて置きたい。
我国が国家としての統一を形成したのは漢が東亜に統一的な世界を作り出した頃であろう。鏡玉剣の権威による統一は漢鏡と引き離して考えることが出来ない。その国家が朝鮮半島に於て長期に亘り軍事行動を展開したのは四世紀の末頃である。丁度西欧の民族移動と時を同じくしている。その結果我国は漢字漢文の摂取を初めシナ文化の具体的な理解を開始した。やがて仏教を受け容れ、隋唐の新文化に接し、極めて迅速に法制の整備した国家組織を作り上げた。それは隋の統一(589)から半世紀後、唐の統一からは二十数年後のことである。そうして七世紀より九世紀へかけての唐の文化の時代は、我国に於ても大化より延喜へかけての燦然たる文化の時代であった。唐の文化が当時の世界全体に於ける最高峰であったように、我国のこの時代の文化も当時の西欧よりは遙かに進んだものである。のみならず我国に於ては、シナの五代の如き混乱もなく、宋の文化に対応する如き我国独特の藤原時代の文化を形成した。これは骨の髄まで平和の浸み込んだような文化であって、同じ十一世紀頃の西欧の殺伐な風と比較すれば、そこにはまるで別世界があると云わねばならぬ。かく見れば、ローマ帝国崩壊後、中世文化の最盛期に至るまでの西欧の暗黒時代は、我国に於ては最も晴朗な真昼の時代であったのである。
しかしその晴れやかな時代の絶頂に於て、既に「武士」の団体は形成されつつあった。それは西欧に於てやがて十字軍が催されようという時代であるから、騎士の出現よりは遅い。しかしその発展は西欧よりも迅速で、一世紀の後には源平の戦、武士の幕府の形成(1185)となり、その事蹟を唱う『平家物語』の創作は、西欧中世の騎士を歌う叙事詩と殆んど時を同じくするに至っている。しかも文芸の作品としては平家物語の方が遙かに進歩したものと云わなくてはならぬ。のみならずこの十二・三世紀の武士の時代は、南都北嶺の教権に反抗して浄土(真)宗、禅宗、日蓮宗などが興起した点に於て、西欧中世と著しく事情を異にしている。それはキリスト教と仏教との相違にもよるが、しかし自己の宗教的体験に忠実となり、信仰によって義とせられるという立場を貫徹した態度には、既に後のルターの宗教改革に通ずるものがある。それらの点に於て我々は鎌倉時代の文化を相当に高く評価してよいと考える。
それにも拘らず我々は西欧中世に存し我々の鎌倉時代に存せざる一つの点を重視しなくてはならぬ。それは我国の武士がただ内乱を背景としてのみ発生し西欧に於けるが如く異民族や異れる文化圏との対立に於て発生したのではないという点である。ここには東亜の統一的世界への外からの侵入もなければ、また西方の世界との持続的な対立もなかった。従って眼界はいつも国内に限られ、遙かな彼方の未知の世界への衝動を持たなかった。否、むしろそれは西方浄土への憧憬として、十字軍とは凡そ正反対の、柔和にして観念的なものとなった。これがいかに重大な意義を持つかは、十三世紀末の蒙古襲来(1274, 1281)が我国に如何なる影響を与えたかを見れば解るであろう。それは西欧から日本までの橋が目前に現われたことに外ならぬが、しかし我々の祖先はこの衝撃によって外なる広大な世界への眼を開きはしなかった。ただ外なる世界の圧迫によって我国の統一的な国家としての存在に目ざめ、武士階級興隆以前の天皇親政を復興しようとして、再び内乱をひき起したに留まった。この受動的閉鎖的な態度はまさに我国の位置と歴史との産物なのである。
西欧にルネサンスの華を開いた十四・五世紀は、我国の室町時代に当る。この時代は我国自身に即して云えば同じくルネサンスなのである。藤原時代の文芸、特に源氏物語は、この時代の教養の準縄となり、その地盤の上で新しい創造がなされた。謡曲にせよ、連歌にせよ、すべてそうである。しかもこの時代に作り出された能狂言や、茶の湯や、連歌などが、現代に至ってさえもなお日本文化を特徴づけるものとして重視されているのである。そうしてそれは決して空言ではない。演芸の一様式としての能は、人間の動作の否定的な表現として実に独特なものであり、そうしてそれを理論づけている世阿弥の芸論にはかなり深邃なものがある。文芸の一様式としての連歌も世界に比類のない共同制作であって、その理論にも欠けていない。茶の湯に至っては芸術の新分野の開拓と云えるであろう。これらを創造した時代は、イタリアのルネサンスと同じく、十分に尊敬されねばならぬ。のみならずこの時代には海外遠征熱が勃興し、冒険的な武士や商人がシナ沿岸のみならずもっと南方まで進出している。またそれに伴って堺や山口のような都市が勃興し、その市民の勢力が武士に対抗し得るに至っている。更に民衆の勢力の発展に至ってはこの時代の一つの特徴とさえも見られる。一揆の盛行、民衆による自治の開始、それらが次の時代の支配勢力の母胎となっている。
すべてこれらの点に於て我国の十四・五世紀もまた近代を準備していると云えるのである。しかも同時代に於けるイタリアと同じく、国内に数多の勢力が対峙し、国家的統一が失われ去った十六世紀に至って、いよいよ西欧の文化との接触に入った。そこに我々の問題の焦点が存するのである。
前篇 世界的視圏の成立過程
第一章 東方への視界拡大の運動
一 東方への衝動・マルコ・ポーロとその後継者
東方イスラムの世界との対峙を通じて形成せられて来たヨーロッパの世界が、その東方をさらに遠く東へ超えた東アジアに向って動きはじめたのは、いかなる事情によるであろうか。
最初に機縁を与えたのは、十三世紀末における蒙古帝国の形成である。ヨーロッパの十字軍の戦士たちにとっては、正面の敵であるイスラムの世界を遙かに東方の背後から圧迫してくれる蒙古人の勢力は、云わば援軍の如くに感ぜられた。のみならずその蒙古人は、アラビア人やトルコ人のように宗教的狂信を持つ民族でなく、キリストの信仰に対してもむしろ同情を抱くかの如くに見えた。もっともこの宗教的寛容の態度は、彼らがモハメッド教に対しても示したところであって、キリスト教を特別扱いにしたというわけではないのであるが、しかしそのために多くのキリスト教徒が蒙古の君主に仕えて居り、特にクビライ兄弟の母たちがキリスト教徒であったというような事情が、ローマの教会その他の人々をして蒙古帝国との連絡に努力せしめるようになったのである。
なおもう一つ、ヨーロッパの関心を遠く東へひきつけるものがあった。それはプレスビテル・ヨハンネスの伝説である。このヨハネは祭司たると共に王として東方のキリスト教国に君臨していたと信ぜられている。このキリスト教国を探し出してイスラム帝国を挾み撃ちにするのもまた西欧人の強い希望であった。
こういう事情の下に十三世紀の中頃、先ず教皇インノセント四世が使節団を派遣し、次でアルメニア王室の一族が次々と出掛け、それに続いてルブルクが教皇とフランス王との依嘱の下に旅途に上った。いずれもカラコルムを訪れたのであってシナまでは来て居らないが、しかしシナについての報道はアルメニアの王子ヘートンが『人民と富とに充ちた世界の最大国』として与えて居り、ルブルクもまた東に大洋を控えた国として言及している。彼らがいずれも興味を以て語っているのは漢字のことである。
こういう先蹤に続いて、シナで二十年を送ったマルコ・ポーロ(1254―1324)が現われてくる。彼の父と叔父はビザンツの商品を蒙古人の間に持ち込む貿易の仕事でヴォルガを遠く遡って行ったのであるが、蒙古の内乱に帰路を遮られ、東南へステップを超えてポカラへ出た。ここに商用で三年ほど留まり、蒙古人の習俗や言語を学び、シナへ行くペルシアの使節の誘うままに、クビライ汗を訪ねることとなった。クビライは彼らを款待し、帰国に際して教皇に七芸の師たる学者を送られたいと懇請する使者を托したと云われる。使者は病気であとに留まったが、ポーロ兄弟は帰国後教皇庁にその旨を伝え、第二回旅行には教皇の書翰の他に二人のドミニコ会士を伴っている。尤もこれらも戦争のためアルメニアから引き返したのではあるが。
マルコ・ポーロは十八歳にしてこの第二回旅行に伴われた(1271)。旅程は小アジアのラヤッツォから上陸し、アルメニアの方へ迂曲してバグダード、バスラを経由、ペルシア湾をオルムヅまで航海し、そこからイラン高原を突切ってバルクに出で、峻嶮な山越しにカシュガル、ヤルカンド、コータンと昔のシナ・インド交通路を伝って行く。しかし甘州の近くから北に曲り、今の内蒙古を経て北京に入ったらしい。一行はクビライに再び款待せられたが、特に若いマルコは非常な愛顧を受け、特別の使命を以てシナ南方諸省の端まで派遣せられた。そこで彼は山西、陜西、四川、雲南等の諸省を経てビルマにまで旅行した。その後三年ほど南京東北の揚州の知事をつとめ、ついで叔父と共に甘州に永く滞留した。この頃にクビライは島国ジパング(Zipangu 日本国)の征服を企て失敗したのである。かくしてマルコ・ポーロはシナにあること二十年を超えた頃に、ペルシアに婚する王女の一行に加わり、海路帰途につくことが出来た。この度は大運河を通って揚州に出で、蘇州を経て杭州に来た。これを彼はキンザイ(Quinsai, Kinsay, Khinzai 行在、宋朝の行都)と呼び、非常な驚きを以て、世界最美の都市として描いている。戸数百六十万、石橋一万二千。十二の職業組合は一万二千の工場を処理し、街道には車の往来が絶えない。人口の多さは日に胡椒の消費が一万磅に上ることによっても知られる。そこから彼は更に南方福州を経て Zayton(刺洞、泉州)に達した。これはインド航路の出発点で、世界最大の商港の一つに数えられている。その港は厦門をまで含んでいたかも知れぬ。ここで一行は一二九二年の初め四本マストの十三艘の船に乗り、マンジ(Manzi 南シナ)の海を渡って、チャンパに着き、更にシャムを経てピンタン島に達した。またそこから南スマトラのパレンバンを訪れた後、海峡を西北上してインド洋に出で、ニコバル、アンダマン諸島を経て南西に向い、セイロン島に寄港した。あとはインドの西海岸沿いにペルシアのオルムヅまで航海するのであるが、ここでマルコ・ポーロはインド洋の西方沿岸についてソコトラやザンジバルやマダガスカルの島々のことを伝聞している。かくして一行は二年の航海を終えてペルシアに着いた(1294)。そこから王の手厚い保護を受けつつヴェネチアに帰りついたのは、その翌年である。
しかしその同じ年にマルコ・ポーロはヴェネチアのために戦争に参加し捕虜となった。彼の旅行記はヂェノヴァの牢獄に於て僚囚に口述筆記させたものである。のみならず彼の学的教養も叙述の能力もあまり十分とは云えない。従ってこの旅行記はさまざまの点に於て不精確である。しかしアジアを端から端まで踏査し、そこにある個々の国々について叙述した旅行家は、彼を以て嚆矢とする。イラン高原の景観、東トルキスタンの町々、蒙古のステッペの生活、北京の朝廷の威容、シナの民衆の群、それらを彼は見て来たのである。彼は黄金で葺いた宮殿のある日本や、黄金の塔のあるビルマのことを、或は香料の豊かなスンダ諸島の楽園のような野原や、多くの美しい王国と産業との栄えているジャバ、スマトラのことを、西欧で初めて物語った。また西欧に於て伝説に包まれているインドの、現実の偉大さと富とを、自分の眼で見て来た。アビシニアのキリスト教国のこと、マダガスカルのこと、北極地方のことなどを語ったのも彼が最初である。これは西欧にとって実に劃期的のことと云わなくてはならない。
尤もこの旅行記の影響は急激には現われなかった。同時代のダンテなどもマルコ・ポーロには言及していない。しかしその後一・二世紀の間に漸次西欧の世界に浸透し、東南アジアに関する知識の基礎となったことは疑がない。Quinsay, Zayton, Zipangu, Manzi などの名は永い間西欧の貿易人に対して強い魅力を持っていた。だから後にはコロンブスのアメリカ発見をマルコ・ポーロに結びつける見方が現われてくる。コロンブスはポーロの旅行記に刺戟され、ジパングに達することをその生涯の任務とするに至ったというのである。ユール(H. Yule, The book of ser Marco Polo. 1875.)はこれを反駁して、コロンブスはポーロの名を挙げていない、彼がポーロのことを知ったのはトスカネリの手紙によってである、という。しかしそのトスカネリの知識はポーロにも基いているのであるから、間接ではあるが、ポーロの仕事が新大陸発見の仕事の一つの動力となっていることは認めざるを得まい。
マルコ・ポーロに踵を接してインド及びシナに旅行した伝道師は、モンテコルヴィノのジョン(ca. 1247―1328)、ポルデノーネのオデリコ(1286―1331)、マリニョリのジョヴァンニ(ca. 1290―1353)などで、いずれもフランシスコ会士である。前二者はインド経由でシナに来り、北京で教会を建設・経営しているが、中でもオデリコは、スマトラ、ジャバ、ボルネオ、チャンパを経て広東に達し、マルコ・ポーロの描いた Zayton, Quinsay や南京などを通って北京に来たのである。それらの町々の大いさや繁華なことについては、オデリコの方が一層誇張的に報道している。マリニョリは陸路北京に来て、帰りにインドを通ったのであるが、南シナについては、三万の大都会があり、中でも Quinsay は最大最美であるという。すべてマルコ・ポーロの報道を実証するような報告のみであった。
がこの種の交通は元の崩壊(1368)によって中断され、あとにはただインドとの交通のみが残された。十五世紀にはこの方面に旅行したニコロ・デ・コンティが有名である。彼はインドの内陸を横断した最初のヨーロッパ人で、デカン高原を東岸マドラスに出で、南してセイロンを訪れた。次でスマトラ、ビルマ、バンコック、スンダ諸島と廻り歩き、ボルネオとジャバにはやや永く滞留した。帰路にはアデンやアビシニアを経て紅海を航し、最後にカイロに出ている。彼の旅行談が保存されたのは、帰途紅海に於て海賊の手に陥り止むを得ずイスラムに帰したことを、懺悔して免罪を求めるために、当時(1439―42)フィレンツェに滞留していた教皇の許に来て物語ったからである。ところでその頃のフィレンツェには丁度トスカネリが四十代半ばの活気旺んな学者として生きていた。彼がその有名な手紙の中で、シナのことについてゆっくり話し合ったと云っているのは、多分このコンティのことであろうとされている。
トスカネリの手紙というのは、香料や宝石の豊かな東方の国、特に学芸や政治の術も又非常に進歩している筈の強大なシナの国への近道を、西の方向に求め得ると教えたもので、ポルトガル王の諮問に応じこの考を直観的に示した地図の添状なのである(1474)。ここに我々はマルコ・ポーロ以来の旅行の知識の集積と、大地が球であるという物理学的な考との結合を見ることが出来る。そうしてそれがこの時代の知識の尖端だったのである。
この手紙はやがてコロンブスを刺戟して西方への航海に出立せしめるのであるが、しかし我々はそれに先立って何故にこの手紙がポルトガル王と関係するかを問題としなくてはならぬ。新しい知識の尖端がポルトガルと結びついているのは、ポルトガルが新しい認識の活動の先頭に立っていたが故なのである。
二 航海者ヘンリ王子の理念
この事態をあらわに示している人物としてここには航海者ヘンリ(Dom Enrique el Navegador)を取り上げよう。
ポルトガルはスペインと共にサラセンとの戦に於て形成せられた国である。その建国はサラセンに対する戦勝(1139)の機に行われ、首府となったリスボンは十字軍によって征服せられた(1147)。南端のアルガルヴェ州をモール人(本来は北アフリカの一種族の名であるが、漸次アラビア人の総称として用いられた)から奪取したのは更に百年余の後である。十四世紀中頃のスルタン・アブル・ハッサンの圧迫に際してはスペインと同盟し、サラド河の『キリスト教の大勝利』(1340)に参加した。その後スペインとの紛争に陥り、リスボン焼払いなどを食ったが、遂に勝利を得てジョアン一世(在位 1385―1433)の即位となった。ここにポルトガル民族の英雄時代が始まるのである。この王も依然としてモール人との戦を継続し、北アフリカ突端のセウタを征服したりなどしたが、しかしその対立がこの時代に全然質を変えて来たことを我々は重視しなくてはならぬ。それを示しているのがジョアン一世の王子、航海者ヘンリ(1349―1460)なのである。
ヘンリは二世紀前にモール人から奪回したアルガルヴェ州のサン・ヴィセンテ岬サグレスの城に住み、そこに最初の天文台、海軍兵器廠、天文現象世界地理などを観察叙述するコスモグラフィーの学校などを創設して、ポルトガルの科学力を悉くここに集結しようと努力した。かかる企ての動機となったものは、第一に、アラビア人の刺戟によって惹き起された未知の世界への関心である。ヘンリは青年時にセウタ戦に従って自らアラビア文化との対峙を体験した。そこで南の方アフリカの地に対する注意が高まり、ギネアの国に到達しようとする強い欲望を抱くに至った。ギネア(Guanaja, Ganaja, Ginia)に就ては恐らくヨーロッパ人はアラビア人から聞いたのであろう。カタロニア版世界地図(1375)はアフリカの内地に王冠を頂いた黒人を描き、『このニグロの王はムッセメルリと呼ばる。ギネアのニグロの主なり。その国にて集められし黄金の豊かさにより、この王はこの地方を通じて最も富み最も貴き王なり』と記している。しかしこの国を訪れたヨーロッパ人は未だないのである。アフリカの西岸は海峡より千五百キロのボハドル岬より南は知られていなかった。従ってこの未知の領域へ進出しギネアの諸民族との貿易関係を独占することは、ポルトガルにとって非常に有利に見えた。がこの関心はアラビア人の刺戟によるのであるから、第二に、アラビア人への敵対意識が強く働いている。数世紀来の相伝の敵モール人の背後には一体どういう勢力が拡っているのであろうか。そこにはキリスト教国家はないものであろうか。カタロニアの地図はエチオピアの皇帝を記している。このような勢力とキリストの名に於て結合し、モール人を挾撃することは出来ないものであろうか。この敵対意識は積極的にはキリスト教の光を、未だ福音に接せざる暗い国土に拡めようとする伝道意欲となって現われる。動機としてはなおこの他に当時流行した占星術による予言なども結びついて居り、主観的には強い力を持っていたであろうが、しかし王子の後半世紀にして大仕掛けに世界的規模に於て展開せしめられたのは、まさに右の如き二つの動機であった。
ところで我々にとって意義深いのは、アラビア人との対抗や未知の世界への進出の努力が、学問と技術との研究という形に現わされていることである。ここに我々は前に云った質の変化を見出さざるを得ない。ヘンリは航海者と呼ばれているが、しかし自ら航海したのではなく、ヨーロッパ西南端のサグレスの城から、西と南に涯なく拡がる大洋を望みつつ、数多くの部下の航海と探検とを指揮したのであった。従って個々の航海は彼にとっては『実験』にほかならない。またこの実験によって未知の世界への眼界が開けたのであるから、彼の業績は認識の仕事にあると云ってよい。しかしこの実験は、研究室内の実験とは異なり、多くの経費や人員や組織や統率を必要とした。そうしてこれらは単なる学者のなし得るところではなく、強い政治力と優れた政治的手腕とによってのみ遂行され得るのである。ここにヘンリの出現の意義がある。彼に於て認識の仕事が政治力と結合し、政治力が理智の眼を持ったのである。
ヘンリの性格として伝えられるところも、この事実にふさわしい。彼の態度は物静かであったが、言葉はきっぱりとしていて、厳格な感じを与えた。生活は簡素で、酒や女を近づけず、感情に流れることをしなかった。人の過ちに対しては寛容であったが、しかし決断に富み、粘り強く持ち耐える力があった。
さてこのヘンリが冷静に辛抱強く突破しようと試みた困難は、先ず第一に、当時の航海術の幼稚さであった。ヴェネチア人が初めて英国への航路を開き、リスボンをその中休みの港として以来、まだ百年を経ていない。航海は岸伝いにしか出来なかったのである。尤も磁針の効能は既に知られていたのであったが、航海者はまだそれに頼るに至らなかった。そういう状態の下にヘンリはしばしば探検船を送ったのである。それらはいずれも既に知られているボハドル岬まで行くことが出来た。しかしこの岬が岸伝い航海の関なのであった。それは四十海里ほど西へ突き出て居り、更にその突端から六七里ほどの海中に暗礁があって、物凄い波をあげている。それを避けるためには岸伝いの常法を破ってよほど遠く海の中へ出て行かなくてはならぬ。その勇気の出せない航海者はそこから引き返すほかはなかったのである。
が更に第二にこの航海を困難ならしめたのはアフリカ西海岸の地理的風土的条件であった。この海岸は北から四百哩ほどの間殆んど河がなく、従って港になる河口がない。ただ平らな、砂丘の多い海岸で、半ばはサハラの沙漠である。そうして海上四五十海里まで、浅い潮の上にどんよりした空気が淀んでいる。その原因は沙漠の埃や、温度を異にした気層の接触による濛気や、或はここで海面に表われてくる寒流などに帰せられているが、いずれにしても空には雲なきに拘らず大気曇り日光が弱い。そのため岸伝いの航海者は陸を見失う危険に苦しめられたのである。従ってここは中世以来『暗い海』として航海者に恐れられていた。
これらの障害は実際克服し難いものであった。ヘンリは二十年間苦心したが、どうしてもボハドルから先へ進めなかった。人民の間には不平の声が聞える。海員は疑惑を抱いてくる。やがて王子は海員を得るに難渋するほどになった。かかる情勢の下に王子が直面した最大の困難は、在来の地理的知識の重圧であった。アリストテレースによれば、熱帯地方には人は住めないのである。この考は、プトレマイオス、アラビアの学者、アルベルトゥス・マグヌスなどを経て、この時代になお通用している。もしそうであるならば熱帯地方に人を送るのは無益の犠牲である。しかし王子はこの知識のかせを破ろうと努力した。マルコ・ポーロの旅行記を初め、アフリカの内地についてのさまざまの報告を集めて、熱帯地方についての知識を革新しようとする。この立場にとっても、暗い海やボハドル岬はまさしく新しい視界を遮っている関門であった。王子は在来の知識の立場よりする非難に対抗しつつ、辛抱強くこの関門の突破に努力したのである。
遂に一四三四年に至ってこの第一の関門は突破された。或る失錯で王子の寵を失ったギル・カンネスという家臣が、その寵を回復するために、命がけで、ボハドル岬を廻って見たのである。決行して見ると在来の恐怖が根拠のないものであることが解った。彼は帰れない筈のところからちゃんと帰って来た。これに力を得て後継者がリオ・デ・オーロまで行った。ここは北回帰線、熱帯地方の入口である。が岸辺に見える魚の網は人跡を示している。熱帯地方に人が住めぬという理論は、まだ破れるまでには至らないが、ここで動揺し始めたのである。
ボハドル岬が突破され、熱帯の門が開かれる共に、探検の船は続々と前進し始めた。一四四一年には白い岬、一四四三年にはアルキム湾。それと共に土人と友交を結ぶ新しい方法が採用され、アルキム島に根拠地を作って貿易を始めた。数年後にはサグレス附近のラゴスの商社が六艘の貿易船を送るに至っている。この貿易の成功は王子に対する反対者を沈黙させた。人々は漸く貿易に乗り出して来た。
が更に重要な突破は、一四四五年の緑の岬の発見である。この時はディニズ・ディアスが王子の計画に従って更に南方のニグロの国土に達しようとしたのである。モール人とニグロとの境界線はセネガル河であったが、ディアスは大胆にこの河口を越えて、アフリカの西への突端まで来た。土地の黒人はこの巨大な船を見て非常に驚いた。がそれより一層驚いたのは、この岬の美しい緑を見た白人なのである。北緯十五度のこの熱帯地方に於て、植物は旺盛に茂り、鳥獣は豊かに栄え、溢るるほどの食糧を人間に提供していようとは! ここに於て熱帯に人が住めぬという理論は完全に崩壊したのである。
これは王子ヘンリの仕事の中核をなすものと云ってよい。ギリシアの権威者の書物よりも自分の眼の方が信用出来るということを人々ははっきりと悟った。ここに地球に対する認識の新しい展望が開けてくる。王子はこのことを期待して永年の努力を続けて来た。今やそれが報いられたのである。そこに漕ぎつけるまでは、彼と確信を共にする人は非常に少かったであろうが、今や彼は全面的に航海者たちを感化し、その眼をひらくことが出来た。
かくして発見の努力は一層高められた。翌一四四六年にはガムビア河からシェラ・レオネの近くまで。しかしニグロの抵抗もまた一層熾烈となった。前に白い岬を発見し、今度ガムビア河に達したトゥリスタンは、ヌネズ河をボートで溯江していた時、突然武装したニグロの小舟に取囲まれ、全員毒矢で殺された。ところで船に残っていた書記と四人の水夫とが、そこから大洋に出て北に航し、二カ月の後に安全に帰着している。その間陸を見なかったと云っているのを見ると、岸伝いの航海法から脱却して広い大洋に出る自信が出来ているのである。しかもそれを書記と水夫とで敢行し得たことは、航海の技術の急速な進歩を物語るものと云ってよい。眼界の拡大は技術の拡大を伴っていたのである。
この形勢の下に王子はインドへの航路の発見を意図し始めたらしい。特にインド洋に臨むアフリカの東岸、エチオピアの高原は、プレスター・ジョンの国として依然として強い引力を持っていたらしい。併し彼の送った最後の探検隊は未だなおニヂェル河上流地方を目ざしたものに過ぎなかった。即ち一四五七年にディオゴ・ゴメスがセネガルの内地に大河東に走れりとの報を齎したのを取上げ、ゴメスほか二人の下に三艘の探検船を派してガムビア河を遡上せしめたのである。この探検隊はカントルの町に至り、チュニスやカイロの隊商がそこまで来ること、シェラ・レオネの山々の彼方に大河東流せることなどを聞いて来たが、実地を踏査するまでには至らなかった。
王子はこれらの永年の探検に財産を蕩尽し、多大の借金を残して、一四六〇年六十七歳にして没した。アフリカの海岸は未だギネアにも到らなかったのであるが、しかしポルトガルの海国としての大きい仕事は既に彼によって基礎を置かれたのである。関門は既に突破された。あとはただ王子の個人的な仕事が国民的・全体的な仕事として成育し来るのを待つのみであった。そうしてその成育は極めて着実に歩一歩と進められた。
アフリカ周航地図
三 バスコ・ダ・ガマによる実現
ヘンリ王子の没後、その甥に当るアフォンソ五世は、初めの内熱心で、モンロヴィアあたりまでの探検に関係したが、その後国内関係に没頭して海の企業から手をひいた。しかし貿易は益々盛んとなり、その儲けも巨額に上るようになった。一四六九年にはフェルナン・ゴメスがギネア海岸の貿易独占を年五百デュカットで五年間許されたが、それには自費で年百レガ(約550km)ずつ前進することが義務として附いている。即ち探検が儲け仕事として引き合うようになったのである。ギネア海岸はかくして迅速に獲得された。一四七一年には更に他の二人が黄金海岸からニヂェル河口を経て赤道の南まで出た。トスカネリが西航を勧めた(1474)のに対し、ポルトガル人が冷淡であったのは、この好況の故であると云われている。
こういう情勢の下に、一四八一年、アフォンソ五世の子ジョアン二世が立った。ヘンリ王子の精神はこの王に伝わり、再びアフリカ回航の企てが促進され始めた。既に即位前七八年の間、彼はギネア貿易の収益からその収入を得ていたのであり、また前述のゴメスが五年間に如何に儲けたかをも見知っている。それに加えて即位の年には教皇シキストゥス四世の教書がポルトガルに対してアフリカの発見地の所有を保証した。それらのことがこの王の熱心をそそったのである。ここに於てアフリカ回航の仕事は漸くポルトガルの国家的事業としての性格を現わし始めた。一四八二年には黄金海岸に城砦が築かれる。王はギネアの領主と称する。発見地に石の標柱を建てることが定められる。
この石柱を最初に船に積み込んだ人はディオゴ・カンである。一四八四年に二艘で出発した。この探検はドイツのコスモグラーフのマルチン・ベハイム(1459―1507)が同行したことによって有名である。彼等はコンゴー河口に最初の石柱を立て、河を遡って、この繁華なコンゴー王国の最初の訪問者となった。コンゴーの王はキリスト教を求めて使者カッスタを送り、カッスタはポルトガルで洗礼を受けさえしたのであるが、ポルトガル人はその踏査した沿岸全体をポルトガル王の名に於て占有し、通弁養成のために所々で土人を捕獲した。
コンゴーから南へは更に二百レガ進出、ネグロ岬(南緯15°40′)に第三柱を建て、十九カ月にして帰還した。ベハイムの功績は非常に高く評価され、王よりキリスト教騎士団の騎士に叙せられた。
その翌年一四八六年にはバルトロメウ・ディアスが五十噸の船二隻で出発している。一人の指揮官にあまり多くの責任を負わせたくないという格率に従って、ポルトガルの政府は一回毎に司令官を変えたのである。王子ジョアンが第二船の船長として同行した。この航海ではコンゴー海岸より喜望峰の東に至るまで、土人への贈物を持った黒人の女に上陸させて、土地の景況を窺うと共に土人にポルトガル人の強さや素晴らしさを宣伝せしめた。そうしてそのポルトガル人はプレスター・ジョンの国を探しているのだと云わせた。そういう噂をひろめれば司祭王の方から迎いを寄越すかも知れぬと考えたのであるから、プレスター・ジョンの伝説はまだ相当に強い力を持っていたと云わなくてはならぬ。
今度の第一の石柱は鯨湾の北方に建てられた。そこから南下してセント・ヘレナ湾のあたりへ来ると、ひどい暴風に襲われ、十三日間南東へ流された。人々は寒流と寒さとに驚かされている。凪いでから数日東航したが陸が見えない。そこで舵を北に向け、アフリカ大陸の南端に達したのである。そこから更に東航してモッセル湾からアルゴア湾まで行き、そこの小島に最前線の石柱を立てたが、この時船員たちは疲労困憊の極に達し、船長に帰航を要求した。食料も既に尽きかけているという。しかしディアスにとってはそれは遺憾の限りであった。アフリカの南端を廻ったことは確実である。目的はもう大きい困難なしに達せられるであろう。で彼は、もう二三日航海して海岸線が北に向かなければ帰ろうと答えた。そうしてなお二日航海し、最前線の石柱よりも二十五海里前進して大魚河まで出たが、遂に止むなく帰航を決意した。彼は残念の余り石柱を抱いて泣いたという。実際ここで海岸線は既に北に向きかけていたのである。
ディアスは帰路喜望峰に寄った。ここは往路にはあらしのために知らぬ間に通り過ぎたところである。で彼はあらしの岬と命名したのであったが、ジョアン王はそれを喜望峰(Cabo da boa esperanza)と改名した。インド洋への門は開かれた、香料の国への水路は見出された、という確信がここに現われている。ディアスの帰着は、一四八七年の末であった。
ジョアン王はなお他に数人の者をシリア、エヂプト、インドへと送っている。中でもペロ・デ・コヴィリャムはインド西岸よりアフリカ東岸を遍歴し、同じく王の派遣したユデア人に本国への通信を托した。ギネア海岸のポルトガル船は南航してアフリカの端に達し、インド洋に出てソファラとマダガスカルに向うべしと云うのである。インドへの水路はこの方面からも確証された。
しかしその水路が打通される前にコロンブスが西インドから帰ってくるという事件が起った。ジョアン王はコロンブスを引見してその Zipangu 訪問談を聞いたのである。その連れ帰ったインディアンを見るとどうもアジアの近くまで行ったらしい。彼が第二回の航海に出れば、或はポルトガルより先に香料国に着くかも知れない。そうなればヘンリ王子以来の努力は水泡に帰する。でジョアン王は急いで新しい航海の準備に取りかかったが、果さずして一四九五年に歿した。
次で即位したのが当時二十六歳の胆力あるマノエル王(1469―1521)である。早速準備の仕事を再開させようとしたが、一四九七年までのびた。前の航海の司令官ディアスが三艘のインド行艦隊(百トン乃至百二十トン。サン・ラファエル、サン・ガブリエル、サン・ミカエルの三隻。船員の数は一七〇人、二四〇人、一四八人等諸説がある。)の艤装を指揮した。新しい司令官はバスコ・ダ・ガマであった。一四九七年初夏、出発に際して、司令官はプレスター・ジョン、インドのカリカットの王、その他の諸君主宛のポルトガル王の推薦状を貰った。この航海がポルトガル国の行動であるということは、形式の上にもはっきりと示されて来た。
緑の岬あたりまでディアスが同伴し、そこで分れてガマは喜望峰に直航した。海は相当に荒れた。一カ月航海の後、陸に近寄り、喜望峰に達しようとしたが駄目であった。実際この後になお数カ月を要しているのである。また大洋に出て南へ下って行く。乗員はもう帰航を思うようになる。ガマはそれと労苦を共にして夜もろくろく眠らない。やがて南の冬になって日が短くなる。一日中がほとんど夜である。乗員は恐怖と労苦とに病み疲れて食事の用意さえ出来なくなる。不平がひろまり帰航の意が高まる。しかしガマは烈しくそれを斥けた。乗員が寒さに慄えても頑として引き返さなかった。
この司令官の確信、決意、統率力がこの劃期的な企ての核心である。が未知の世界への突進、ただ科学的な認識の力にのみ頼る大洋航海、その中で揺がぬ確信と決意とを持ち続けることは、ただ科学的な推理力のみのなし得ることである。ここに強い意志と強い思索力との密接な結合が見られる。迷信に捕われ易いような性格の人は、どれほど強い意志を持っていようとも、探検家にはなれないのである。
ガマは陸上で緯度の高さを計るためにセント・ヘレナ湾に入った。当時まだ観測器の使用に習熟していなかった船員たちは動く船の上で正確な観測をなし得なかったからである。そのあとで数日続きのあらしの中を遂に喜望峰に達したが、その後もあらしは止まず、難航が続いた。日夜身心の休まる暇がない。しかしガマは、インドに着くまで一歩も退かぬという。船員は再び動揺し始めた。彼らにとってはインドに着くという見込ははっきりしないのである。我々は盲目的に破滅の中へ追い込まれたくない。彼は一人、我々は多数ではないか。これが謀叛の理由であった。一水夫の内通によってこれを知ったガマは、策を以て謀叛者たちを捕え、鎖につないだが、しかしこの無智な連中がガマやその味方であるパイロットや舵手などを片附けたあとで、船をどこへ持って行こうとしているかを考えると、彼は絶望的な憤りを感ぜざるを得なかった。航海書を海中へ投げ捨てて、さあ舵手もパイロットもなしで帰れるかどうか、やって見るがいいと啖呵を切ろうとさえもした。
一四九八年正月に再び陸に近づいて船を修繕し水を積込んだが、更に航海を続けてコリエンテス岬まで来ると、烈しいモザンビク潮流に流されて沿岸を離れ、ソファラに寄ることが出来なかった。しかし辛うじてザンベジ河口に入ると、アラビア語を解する明色の混血児に逢うことが出来た。もう少し北へ行くと航海が盛んであるという。いよいよアラビア人の貿易圏へはいったのである。先ず一息というわけで、船の修繕や船員の休養のために一カ月留まった。
再び海を航してモザンビクの港につく。ここには既に明白にアラビア人の勢力が現われている。土人はアラビア風の服装をつけ、その首長は北キロアのアラビア人の支配下にある。アラビア商人はモザンビク島に倉庫を持ち、ニグロと活溌な貿易をやっている。ガマは通弁によって来意を告げた。我々はキリスト教国の有力な王から派遣され、既に二年、荒海を航海し廻った。今や仲間と別れて香料の国を目ざすのであるが、道不案内であるから信用の出来るパイロットを寄こして貰いたいと。この申入れには何ら反対すべきものはなかったから、ガマは生鮮食料品やモール人ダヴァネや水先案内を入手することが出来たのであるが、アラビア人はこの商売敵を恐れて策動を始めたらしく、水先案内は不信であり、さまざまの小競合いが起った。結局は不快な印象を以てこの港を去った。
四月下旬モンバサに着いたが、ここでも同様であった。土人の首長は初め親切でやがて態度を変えた。アラビア人の陰謀があったらしいことも同様であった。でガマは月夜にこの港を脱出し、途中土人の船を捕えて北方マリンディに案内させた。
マリンディの態度は非常に好意的であった。ガマは盛装して祝砲の轟く中にマリンディの首長と会見すべき土人船へ乗り込んで行ったが、岸辺や人家は見物人に溢れていた。そこでガマは剣、槍、楯などを贈った。土人の首長も補給と休養を承諾した。後にガマは首長をその城に訪問したが、その時には、インドへのパイロットを貸そう、しかし香料をあまり高く買ってくれるな、相場を乱すから、と云ったという。出帆前に首長は船へ来訪した。
かくして一四九八年四月二十四日出帆、南西モンスーンにのって、二十二日にしてインドの岸に着いた。その頃インド西岸の最も繁華な貿易港であったカリカットに着いたのは五月二十日である。
この頃のインドは既に数世紀来イスラムの支配下にあって無数の王国に分裂していた。カリカットを首府とするマラバルは、インド尖端の西海岸を細長く三四百粁に亘って領し、貿易の隆盛の故に海の君主(Samudrin, Samorin)の国と呼ばれていた。十四世紀以来このカリカットは香料の貿易港として西岸第一となったが、その繁栄は主としてアラビアの商人と船とに負うている。西欧への輸出はアラビア商人の独占で、エヂプト経由、地中海諸港に運んだのである。でこのインドの港にもアラビア人の居留地が出来て居り、来住者は四千家族以上に達していたという。
このアラビア人のインド貿易の中心地へガマの艦隊が乗り込んで来たのであった。既に数世紀来イスラムは西方に於て絶えず反撃をうけ、最近には遂にヨーロッパに於ける最後の根拠地をさえ失ったのであるが、今やその反撃が在来平和であった東方の貿易圏にさえも及んで来たのである。アラビア人は非常な衝撃を受けざるを得なかった。従ってこの後のインド貿易の展開は、西欧に於ける古い対立を新しくインドの舞台に於て展開するという意義を持っているのである。
しかしガマが表面に於て求めたのは、海の君主、カリカット王との平和な通商関係であった。尤もその際ガマが幾分の恫喝を混えていたことは否定出来ぬ。彼が最初使者をして告げしめた来意にいう、我々は西洋最強のキリスト教国王が胡椒薬品等を買うために派遣した五十隻の大艦隊の一部である、暴風のために四散して我々のみがここに着いた、と。次で第三船長のクエリョを王に送り、自由な貿易と平和な交際とを提議して、その保証あらば提督は贈物とポルトガル王の書翰とを捧呈するであろうと申入れしめたのであるが、この際にもクエリョはかなり強引に王に謁見し王の返事を強要しているのである。王の周囲がこの新しい関係を喜ばなかったことは確かであるらしい。が王は承諾し、その結果ガマの正式謁見となり、マノエル王の書翰が捧呈された。その内容は友交と平和な通商とである。次で王の正式の返事がもたらされた。ここに於て商館が設立され、西欧人のインドに於ける最初の貿易が開始された。ポルトガル人は値の安いことを喜び、カリカット人はキリスト教徒が倍の値で買ってくれること、品質もアラビア人ほど詮議しないことを喜んだ。が喜ばなかったのはアラビア人である。彼らによれば、まともな商人は悪質の品を倍の値で買うことはしない。恐らくこの貿易は口実に過ぎないであろう。こういう見解のもとに、商人らの陰謀が始まったとせられている。
陰謀はまずガマの取引を遷延させ、アラビア商船隊の到着するまで引き留めて置こうとする手段によって行われた。これを察したガマは積荷を終る前に引き上げることを決意した。そこへ王からの申込みでガマは再び王と会見したが、その機会に事件が起ったのである。王はポルトガル人が海賊であるという噂に対して弁明を求めた。ガマは、ポルトガル王が海の君主の盛名に動かされて友交と香料貿易関係を結ぶために、また特にキリスト教の伝播を重んずるが故に、遙々と船を送ったのであること、アラビア人はヨーロッパに於てポルトガル人の生得の敵であって、ここでもポルトガル人を害しようとしていることなどを述べ、戦争などの起らない様アラビア人の陰謀から彼を護って貰いたいこと、アラビア人によって葛藤に巻き込まれない様用心してほしいことなどを請うた。王は諒解したように見えたが、しかしガマは帰路モハメダンの知事によって捕えられ、保護の名の下に軟禁された。ポルトガル人がこの侮辱を怒って手出しをすれば、彼らを全滅させることが出来るのである。しかしガマは冷静に構えていた。アラビア人はガマを殺すことを要求したが、しかし知事の方では、きっかけなしに彼を殺すわけにも行かなかった。結局ガマは商館長を人質に残して船に帰ることが出来た。そうして後からこの人質を盗み出そうと企てたが、それはうまく行かず、騒ぎの内に商館の倉庫を掠奪された。もっとも人質の方は、海上に出ている土地の漁夫を捕えて来て、それと交換に取りかえすことが出来たが、喧嘩はいずれとも勝負がつかず、ガマは復讐を誓ってこの地を去ったのであった。
この小競合が後の大仕掛けな争闘の種子なのである。未知の世界への突入によってインドへの水路が開かれた途端に、そのインドの地においてモール人との戦が開始された。航海者ヘンリ王子を動かしていた一つの動機が、ここで現実になって来たのである。
ガマはその後北方カナノル港で十分の商品を積込み、ゴアの南方の島で船を修繕し、一四九八年の末に近い頃、北東モンスーンに乗ってインド洋を越え、翌一四九九年一月八日にマリンディに着いた。リスボンまで帰ったのはその年九月であった。故国での歓迎は実にすばらしいものであった。ガマは伯爵の位とインド洋提督という肩書のほかに、多くの利権や賞与をうけた。部下もそれぞれ十分に報いられた。歓迎のためには盛大な行列やミサが催され、その度毎に王が臨席した。
これはポルトガルの国民がインド航路の発見をいかに高く評価していたかを示すものである。ヘンリ王子以来の企業は、粘り強い持続の後に、遂に貫徹された。それを国民ははっきりと感じたのであった。
インド洋制覇地図
四 インド洋制海権の争奪
がこの貫徹は同時に新しい海の企業の出発であった。インド貿易を続ける気ならば、久しく香料を独占していたモール人との真面目な争闘を覚悟しなくてはならぬ。信仰上の敵対関係はこの争闘を極めて深刻ならしめるであろう。そこには平和的解決の見込はない。しからばここで、武装し戦闘準備を整えた商業に出で立たなくてはならない。それには威圧的な艦隊が必要である。
ここにおいて政府は、十隻の大船と三隻の小船よりなる新しい艦隊を建造した。ガマはその企画や監督に当りはしたが、司令官とはならず、親友ペドラルヴァレス・カブラルがその位置についた。乗員は千二百。前回の五倍乃至八倍である。その中に宣教師や商人もまじっていた。
このカブラルの航海は、一五〇〇年三月九日発、途中ブラジルの海岸に接触し、その報告に一隻を帰した。(既に緑の岬で一隻を帰しこれで二隻目である。)その後喜望峰に向う頃二十日の間あらしに逢い、遂に四隻の難破船を出した。他にマダガスカルの東に迷い出たのもあり、カブラルの手に残ったのは六隻となったが、インド洋は八月に十六日間で横断した。そうしてゴアの南方の島で修繕し休養した後に、右の六隻を以てカリカットに現われた。王は再び平和的な態度に出で、再び取引が開始されたのであるが、いかにも不活溌であった。モール人の引のばし策であろうと考えられた。三カ月間に二隻だけが積込済となったに過ぎない。カブラルは遂に癇癪を起してモハメダンの商船の強行捜索を行った。そこにも荷物はなかったのであるが、しかしそれが騒動のきっかけとなった。モール人に煽動された民衆は、暴動を起し、商館を掠奪、商館長を殺した。ここに於てカブラルは碇泊中の船十五隻を焼き、カリカットの町を一日中砲撃した。遂に火蓋は切られたのである。
やがてカブラルはコチン、クランガノル等他の港で荷を積み一五〇一年一月十六日出帆、帰路一隻を失い五隻を以てリスボンに帰った。それでも積荷の利益は損失を十分に補ったという。従ってインド航路を継続すべきか否かの問題は、種々論議の末、結局継続せられることに決した。インドに於ける盟邦と、ヨーロッパの船や武器の優秀さとを以てすれば、モハメダンを圧迫して香料国に根拠地を作ることは不可能でない。これは異教徒教化のためにも必要である。がそのためには一層強力な艦隊がなくてはならぬ。それが結論であった。
既にカブラルの帰着以前に王は四隻の艦隊をインドに派したのであるが、ここで更に二十隻の艦隊を建造し、それに八百名の兵士をも乗せて、再びガマを司令官とし、一五〇二年の二月及び四月に出発せしめた。ガマは今度は極めて明白に戦闘的態度に出で、到るところで高飛車に出ている。八月インド洋を渡ってゴア附近に投錨したのであるが、その間、見かけた船はすべて捕えて掠奪する。インド船をも焼打している。そこから南下しカナノルへ行く途中では、商品と巡礼者とを満載してインドへ帰る大船を捕え、掠奪・放火・撃沈・殺戮など残虐を恣にしたと云われる。この船はエヂプトのスルタン或はその部下の所有らしく、直ぐ後に教皇への抗議となった。カナノルでは款待を受けたが、しかしガマはこの町に対しても紅海からの貿易やカリカットとの通商を禁じてしまった。そこからカリカットへの途上、海の君主は恐れて平和の申入れをしたが、ガマはそれに対し二カ条の要求を提出した。前に商館長を殺した際に掠奪した財産の返還、及び紅海から来るモール人の入港禁止がそれである。海の君主は答えた、前の問題はメッカ船掠奪と相殺して貰いたい、後の問題については、四千家族以上のアラビア人の追放は不可能である。ガマは怒って返事は自分で持って行くと答えて艦隊を町の前へ進めた。海の君主は恐れて更に弁償金を申出たが、ガマは受けた恥は金では償えないとはねつけた。そうしてポルトガル人の間にさえ尻込みする人の出るほど残虐の限りをつくしたと云われている。カリカットの町は二回砲撃した。平和を求めているのではない、降服を欲するのだ、これがガマの態度であった。
海の君主の国では全国復讐戦の用意を始めた。あらゆる川では大小の軍艦が作られた。そうして策略を以てガマの船一隻だけを釣り寄せ、夜襲をかけたが、ガマは巧みに難を脱れた。その後ガマがコチンで積荷を終えカナノルへ行く途中を要して襲撃したが、これも大砲で撃退された。船の数がいかに多くても武器の上ではどうにもならないのである。
こういう情勢の下にガマは、大船五隻小船二隻の艦隊を残してインド沿岸を巡航せしめ、自分は帰途について一五〇三年九月リスボンに帰着した。
あとに残った艦隊はアラビア人の貿易封鎖のために紅海の入口の方へ巡航に出かけたが、その留守に海の君主はコチンを攻撃して占領した。しかし艦隊は七、八月頃あらしに撃破されて戦闘力を失い、コチンを救うことが出来なかった。ところがガマの帰着以前、一五〇三年四月六日に有名なアフォンソ・ダルブケルケとフランシスコ・ダルブケルケとが各三隻を以て出発し、八月には既にマラバルの岸に着いている。アフォンソはコチンを奪回し、そこに最初のポルトガルの要塞を築いた。翌年一月末帰航の際にはモザンビクへ直航し、九月初めリスボンに帰着している。フランシスコは帰途難破して帰らなかった。
更にアルブケルケに踵を接して三隻の艦隊が紅海巡航の途に上ったが、途中海賊などを働いてあまり功績がなかった。しかし翌一五〇四年に出発した十三隻の艦隊は、軍需品と千二百の乗組員とを満載して八月に到着した。アフォンソの帰航後それまでの間に、カリカットの王は再び六万の兵をくり出してコチンに迫ったのであったが、僅か百六十名のポルトガル兵によって守られたコチンを奪取することが出来なかった。大砲の威力の故でもあるが、また土人の戦術の幼稚であった故でもある。新来の艦隊はカリカットに二日間砲撃を加え、カナノル附近でアラビア人の艦隊を打ち破り、十分の荷を積んで一五〇五年七月にはリスボンに帰着した。インドの海には五隻の艦隊が三百人の乗員を以て残った。他に二百五十名の兵がコチン、カナノル、コラム等を守った。
以上の如くにしてガマのインド航路打通後僅かに四五年の間にインド洋は戦雲に覆われるに至った。この形勢によって痛切な打撃をうけたエヂプトのスルタンは、一方使を派して教皇に抗議を申込むと共に他方決戦に備えて艦隊の建造にとりかかったのである。教皇への抗議には、アラゴンのフェルディナンド王がスペインのモール人に加えた残虐、及びポルトガルのマノエル王がインドのイスラム教徒やアラビア人に加えた傷害を非難し、もしこれらの諸王がイスラムに対する怒りを捨てなければ、スルタンもまた自国領内に於けるキリスト信者を同様に扱わざるを得なくなるであろうとあった。また教皇がマノエル王に対しインドへの航海を禁じないならば、スルタンもまたその艦隊を以て地中海の沿岸を荒しキリスト教徒に復讐するであろうと云った。教皇はそれを両王に伝えたが、マノエル王の返事は極めて強硬であった。我々が艦隊を以てインドへの道を開き祖先の知らなかった国々を探求しようと決意したとき、目標となったのは、悪魔の助けによって地上に多くの悩みをもたらしたモハメッド教を絶滅することであった。スルタンの威嚇に対する最善の答は新しい十字軍を召集することである。威嚇によって信仰の戦をやめる如きことは決してせぬ。かくして平和な協調の望は全然不可能となった。スルタンは二十五隻の艦隊を小亜細亜の海岸に送って船材を取り寄せようとしたが、ロードス島でヨハネ騎士団の襲撃をうけ、更にあらしで難破し、僅かに十隻が目的を果したのみであった。その結果建造された船は大六隻小四隻に過ぎなかった。
ポルトガルはこれに備えて、種々の対抗策を講じた。司令官の地位に持続性を与えるため『副王』の制度をつくり、最初の副王としてフランシスコ・ダルメイダを任命したのがその一つである。艦隊はインドに常駐せしめ、ただ貨物船のみを帰航せしめることにしたのが他の一つである。この新方針の下にアルメイダの率いた艦隊船団は二十隻以上で、軍艦には三年以上の服役義務を有する千五百の兵員が乗り込んだ。最大の軍艦は四百トンであった。
この艦隊は一五〇五年三月末に出発、七月半ばにモザンビクに着いたが、それからはもう軍事行動に移っている。先ずアラビア人の根拠地キロアを征服して城を築き、守備隊と大砲を残して行く。次でモンバサは少しく抵抗したために掠奪の上焼き払われた。インド沿岸では先ずゴア南方のアンヂェディヴの島に城を築き、次で南方オノル港では在泊中の船と町とを焼き払ってしまった。かくしてアルメイダは十月末カナノルに到って副王の位についたのである。この町にも城を築き百五十人の兵をして守らしめた。丁度その頃南方コラムに於て二十隻のアラビア船の入港を機としてポルトガル商館員殺戮の事件が起ったため、副王の子ロレンソは八隻の艦隊をひきいて急行し、アラビア艦隊を全滅せしめた。副王自身はコチンに到ってマノエル王の名の下にコチン王に戴冠せしめ、この地に石の城を築くことを承諾させた。
この年の末から一五〇六年の初めへかけて八隻の貨物船が香料を満載して帰国の途についた。これらは半年或は十カ月の後に無事リスボンに着き、大成功として迎えられたのであるが、他方インドに残った副王は、アラビア艦隊の攻撃にとりかかった。かくてロレンソはこの年三月、カナノル港外に於てカリカット王の二百隻の艦隊を見事にやっつけたのである。丁度その頃に、ベンガル湾沿岸からマラッカ、ジャバまで遍歴して来たヴェネチア人ルドヴィコ・ディ・ヴァルテマが来訪し、諸方の状況を物語った。アラビアの商船が従来の航路を変え、マルディヴ諸島経由セイロンに来り、東方の産物を入手することも明かとなった。で副王は再びロレンソを派遣してこの航路を遮らしめようとしたが、目標を誤ってセイロンに達し、なすところなく帰って来た。しかしアルメイダの方針はインド西岸の要地にポルトガルの勢力を確立することであって、そのために彼は無暗に事を起したり手をひろげたりするのを好まなかったのである。
然るに本国の考はそうでなかった。信仰の敵アラビア人が出没する限り、インド洋のどの沿岸も、攻撃し征服すべきである。そう人々は考えた。そうしてそれを形に現わしたのが、前に一度インドに来たアフォンソ・ダルブケルケである。彼の艦隊の出発はアルメイダの出発後二回目で、初めのは八隻の艦隊を以てアフリカ東海岸の経営に向ったのであるが、うまく行かなかった。次に一五〇六年の初めにアルブケルケが五隻の軍艦、千三百の兵をひきい、十隻の貨物船団と共に出発したのである。船団はインドに直航し、艦隊は紅海の入口やペルシア湾に向う筈であったが、マダガスカル島の探検でその年を終り、ソコトラ島の経略で翌年の夏を迎うるに至っている。このように海の勢力を分散させることは丁度アルメイダの怖れたところなのであるが、果してインド沿岸の根拠地は種々の危機に見舞われたのである。
その一つはカナノルの謀叛である。ポルトガルに友交的であった王が歿して後嗣が立った後に、ポルトガルのカピタンがカナノルの舟を沈めた事件が起り、遂に王は怒ってカリカットと結びポルトガル人の城を包囲するに至ったのである。守兵が敢闘して四カ月まで持ちこたえた時に、一年も遅れた船団が到着して、城を救った。一五〇七年八月末のことである。
もう一つはロレンソ・ダルメイダのチャウル(ボムベイ南方)に於ける戦死である。ロレンソは香料取引にチャウルまで行ったのであるが、丁度その頃に、前述のエヂプトの艦隊が押し寄せて来たのである。北方グヂェラートの王の提督(Melek Aias もしくは Ass. 恐らくロシア人であったろうという。ヂウ港の知事。)は、四十隻の快速船を以てエヂプト側に附いた。この聯合艦隊をアルブケルケの艦隊と誤認したロレンソは、川口に碇泊したまま敵を迎えることになったのである。そこで彼は圧倒的に優勢な敵に敢然として立ち向い遂に戦死した。漸く逃げ帰った他の船がこれを副王に報告すると、副王は全艦隊を集結してモハメダンに復讐することを企てた。がすぐには捗らず、エヂプトの艦隊はヂウで冬越しをした。
こういう事件の間にアルブケルケはペルシア湾の入口を荒し廻っていたのである。一五〇七年八月下旬に七隻四百人の兵員を以てソコトラを出発し、オマーン湾沿いのアラビアの岸にある商港を片端から攻撃し破壊した。これらの町々は数世紀来インド貿易に参加して相当に栄えていたのであるが、キリスト教世界に対して敵対したということは全然ない。しかしそれがアラビア人の町々であるということは、アルブケルケにとっては、信仰の敵であるということと同義であった。従ってそれらの町々はヨーロッパの武器の優秀性を容赦なく思い知らされたのであった。その破壊・焼打・掠奪・捕虜殺戮などの残虐なやり方を、当時の本国のポルトガル人は誰も非難していない。彼らは神聖な信仰のために戦っているのであり、神を味方としているのであるから、それに刃向う敵に対してはどんな残虐も当然のことと思われたのである。
かくして九月末にポルトガル艦隊はオルムヅに現われた。ここには三万の守備兵があり、その中に四千のペルシア弓射兵も加わっていたのであるが、アルブケルケは大砲の斉射を行いつついきなり港の中に突入した。そうして降服とポルトガルの主権の承認とを要求し、聴かずば町を壊滅せしめると威嚇した。要求は拒絶された。アルブケルケは港内の商船を撃沈した。弓射兵をのせた二百艘の小舟が攻撃して来たが、大砲の前には脆く壊えた。そこで町は降服し、ポルトガルの主権や年々の貢金や城塞の築造などを承認した。十月には既に築城が始まった。しかし部下たちは商船の拿捕やインドの香料貿易などを望み、追々にアルブケルケの統率を離れかけた。そうしてこの不和につけこんだ町の謀叛に際して、三隻の軍艦は勝手にインドに向け出帆してしまった。止むを得ずアルブケルケはソコトラに引き帰し越冬せざるを得なかった。
丁度この頃に副王アルメイダはインド沿岸に於けるエヂプト艦隊との決戦を企てつつあった。ポルトガル艦隊の勢力分散を喜ばなかった彼には、アルブケルケのペルシア湾遠征そのものが不愉快であったので、そこを脱して来た三隻の船長たちの訴えを取り上げ、一五〇八年五月にこの事件の調査を命じた。その結果彼は、アルブケルケがその暴行によってポルトガル王の利益を害するという確信を一層強めた。で彼はオルムヅの摂政に書を送り、アルブケルケの有害な戦争遂行を不愉快に思うこと、オルムヅの貿易船の安全を保障することなどを伝えた。
他方アルブケルケは、ソコトラが根拠地として役立たず、むしろその救済につとめなくてはならなかったために、一五〇八年の盛夏までそこにぐずぐずしていた。そこへリスボンから援軍が来たので、前の残兵と併せて三百名の兵を掌握し、再びオルムヅ攻撃に向って九月に港の前に着いた。オルムヅは前年の城塞を完成し、脱走兵に鋳造せしめた大砲をも備えていた。だからアルブケルケは港を封鎖するに留めざるを得なかったが、なおその上に彼はアルメイダの書翰をつきつけられたのである。その結果あまり効果を上げることも出来ず、インドに向って引き上げた。副王に逢ったのは十二月であった。
副王の任期はこの十二月を以て終り、次にはアルブケルケが総司令官となる筈であった。しかしアルメイダはエヂプト艦隊との決戦、子のための復讐戦を終るまでは、任を離れることを欲しなかった。それには彼を迎えて帰る筈であった船(ホルヘ・ダギアルのひきいる十三隻の船団の旗艦サン・ジョアン)がアフリカ東岸で沈没し、予定の通りに着かなかったという事情も手伝っている。がとにかく任期の切迫に追われてアルメイダは十二月十二日に北上した。艦隊は総勢二十三隻千六百名であった。先ず年内にダブールの町を襲撃したが、この町の破壊の物凄さは未曽有のものとして永く語り伝えられたという。やがて一五〇九年二月二日にヂウについた。港内にはエヂプト艦隊の他にグヂェラート王の提督の艦隊やカリカットからの来援艦隊もいたが、翌日アルメイダは港内に突入してエヂプト艦隊のみを攻撃した。片端から乗り込んで行って沈めるのである。エヂプトの司令官は辛うじて脱出し馬に乗って逃げた。インド人の艦隊は形勢を観望して手を引き、アルメイダもまた、ロレンソの讐であるに拘らず、それらを攻撃しなかった。グヂェラートの王との紛争に陥ることを恐れたのであろう。アルメイダの目ざしたのはモハメダンたるエヂプト人をインドの海から追い払うことであった。インドの諸王とはなるべく友交を回復したいと望んでいた。その態度を見てとってインド側からも手をさしのべた。アルメイダはロレンソ戦死の際捕虜となった味方のものを受取って、そのままコチンへ帰った。
アルブケルケは再び指揮権の譲り渡しを要求したが、アルメイダは迎えの船がまだ着かないという理由でなお躊躇を続けた。それほど彼はアルブケルケを危ながったのである。が一五〇九年秋に至って本国からフェルナン・クティニョが十四隻の船団をひきいて到着し、司令官更迭に対する確定的な命令を伝えたので、遂に彼は仕事を退いた。そうしてインド経綸についての彼の方針が直ちに崩されるだろうことを深く悲しみつつ、十二月帰国の途につき、途中アフリカ西岸で不慮の出来事により土人の手に斃れたのである。
五 インド征服
アルブケルケの総司令官就任と共に果して方針は変った。モハメダンの勢力を駆逐するという在来の方針は、今やインドの諸港を征服しようとする侵略的な方針に変った。インド航路の打通が国家的事業として取り上げられたということの必然の結果がここに出て来たのである。
先ず即座に始められたのは、カリカット攻撃の準備である。それはマノエル王の命令でもあった。新来のマーシャル・クティニョは、貿易の仕事に対して何らの愛着をも持って居らない単純な武人で、この戦争に加わることを非常に喜んだ。そこで、一五一〇年の正月に、聯合艦隊は二千の兵をのせてカリカットの前に現われ、敵前上陸を決行した。まず海辺の城を取り、次で町に侵入して王宮をも占領したのであったが、そこでクティニョが勝利を得たと考え、兵卒らに散らばって掠奪することを許したとき、インド軍は反撃に転じて王宮を包囲し、散らばったポルトガル兵を襲撃した。クティニョは部下と共に倒れた。後に続いていたアルブケルケは重傷を負い辛うじて退却した。かくてカリカット攻撃は完全に敗北に終った。
アルブケルケはクティニョの艦隊をも併せてコチンに退いたが、負傷の癒えると共に再び戦争の準備にとりかかった。一月の末には二十一隻の船が装備を終った。今度は王の命令に従って新しいエヂプト艦隊の邀撃のために紅海に向うらしく見えていたが、アルブケルケはひそかにゴア攻撃をもくろんでいたのである。この十年来の経験で、アフリカからインドへの渡海のためにも、またインド洋の制圧のためにも、ゴアが丁度最適の港であることが解って来た。従ってその理由のために、即ちモハメダンと戦うためではなくインドを攻略するために、ゴアが攻撃目標として選ばれたのであった。
アルブケルケは艦隊をひきいて港の入口に達するや、武装したボートを偵察に派した。丁度その頃ビヂャプール王アディル・シャーはこの町にあまり多くの軍隊を置いていなかったので、偵察隊はいきなり城を奇襲して占領してしまった。アディル・シャーの軍隊は市民に抵抗するなと云い置いて町から引き上げた。翌日市民はアルブケルケに降服を申出で、アルブケルケは町を占領した。艦隊も入港し、長期碇泊の気構えで索具の一部を片附けたほどであった。しかしその間にビヂャプール王は大軍を集めて町の救援にやって来た。ポルトガル人は町を捨てて船に帰らざるを得なかった。そこで三月の末にはインド軍は艦隊の退路を絶つ工作を始め、海へ出る運河に船を沈めて閉塞した。そうしてポルトガルの船を焼き払うために筏に火をつけて河上から流した。アルブケルケは退却を決意せざるを得なかったが、その退却がまた実に困難であった。一隻ずつ沈没船の間を縫って出るのであるが、その間両岸の堡塁から間断なく火を投げてくる。それを防ぐには堡塁を襲撃奪取しなくてはならない。それが成功しても今度は浅瀬が船を阻む。陸からの援助は全然ないから食料と水はだんだん欠乏してくる。鼠を捕えて食う程になる。最初城の奇襲に成功した勇士は戦死する。士気は沮喪して脱走兵が出る。その中でアルブケルケはその気魄を失わず部下を力づけた。そうして遂に八月に至って浅瀬を超え海に出ることに成功はしたが、しかしここでも戦争は完全に敗北であったと云う他はない。
アルブケルケはカナノルに引き上げて休養したのであるが、その頃に二つの船団が本国から着いた。一つはマラッカの市場(そこへは既に前の年にディオゴ・ロペス・デ・セケイラがアルメイダの支援の下に行った。)を巡狩すべき命を受けて来たヴァスコゴンセㇽロスの四隻の船隊、もう一つはゴンサロ・デ・セケイラの率いる七隻の商船隊であった。アルブケルケはこの援軍に力づけられて新しくゴア攻撃を考えた。ヴァスコゴンセㇽロスは参加の意を表明したが、セケイラは部下の船の多くが貿易のみを目ざした船主の船であることと海の君主に圧迫せらるるコチン救援の方が緊急であることを理由として参加を拒んだ。そこでアルブケルケはコチンに赴いて簡単に事を鎮め、一五一〇年十月十二日にこの地で隊長たち全体の戦争相談会を開いた。議題は商船がコチンで積荷をやっている間に、使える人手を悉くゴア攻撃軍に加えてもらえぬかどうかということであった。ここで、前年のマラッカ探検に加わっていたフェルナン・デ・マガリャンスは、きっぱりとセケイラの意見に賛成であると述べた。その理由は、目下の逆風では十一月八日以前にゴアに着くことは困難である、とすれば戦争に参加した人々が帰航の出帆に間に合わないか、或はそれらの人々を待つために丁度よいモンスーンを逸するか、いずれかである、というにあった。アルブケルケはそれに対して明日直ちに出発し帰航の間に合わせると断言した(実際には、ゴア到着は十一月二十日以後であった。)。しかし意見は遂に一致せず、アルブケルケは一部の賛同を得たのみであった。この事件の故にアルブケルケはマガリャンスを憎み、マガリャンスも間もなくインドを去ったらしい。これがマガリャンスをスペインに走らせ、スペイン船を以て世界一周に成功せしめた遠因であると云われている。この優れた『探検家』と肌の合わなかったところに、アルブケルケの特性があると云ってよい。
アルブケルケは二十三隻千六百の兵を以て十一月の二十日過にゴアに現われ、二十五日には城を襲撃奪取して島を占領した。そうして慎重に町を攻撃し、モハメダン的なるものは、男・女・子供、その他何であるかを問わず殲滅した。捕虜の充満したモスクをそのまま焼き払って、イスラムの神が全然救う力のないことを実証した如きその一つである。
そこでアルブケルケは、頑丈な石の城を築き、その囲みのなかにポルトガル人の居留地を作った。これがインドに於けるポルトガル勢力の中心地となるのである。この形勢を見て近隣のインド諸王は頻りに友交の手をのべて来た。カンバヤ、グヂェラート、ビスナガなどがそうである。カリカットさえも使を寄越した。エヂプトの司令官はインドに於て勝利を得る望みを失いカイロに引き上げた。スルタンも一時は引続いて艦隊を建造することをやめた。ゴア攻略の効果は実に大きかったのである。語をかえて云えば、モハメダンとの戦争は、インド攻略に変質することによって、反ってその目的を果し得たのであった。
ゴアは四百の守備兵が常駐しているというのみでなく、ポルトガル王の所領たるポルトガルの町となった。インド諸王もそれを承認せざるを得なかった。やがてポルトガルが通貨を鋳造し始めたのみでなくインドの貨幣もポルトガルの印を押されることによって貿易通貨となり得るに至った。がアルブケルケはこの権力を平和的に拡大して行こうとは考えなかった。彼がついで目ざしたのはマラッカの征服である。これを果さずしては香料貿易を独占することは出来ない。
六 マラッカ征服
マラッカとの関係はゴア攻略以前に一五〇九年の秋からついた。ディオゴ・ロペス・デ・セケイラがアルメイダの後援の下に五隻の艦隊を以てここに遠征したのである。この町ではまずシナ人が友交的に迎えてくれた。彼らは何らの偏見もなく新来のヨーロッパ人と附き合い、その習慣もヨーロッパに近い。がマレー人のスルタン・マームウドも自由な貿易を許しはした。それを陰謀に導いて行ったのは、ここでもアラビア人だろうと云われている。遂にポルトガル人襲撃が行われ、艦隊は二三の敵船を撃沈しただけで引き上げた。
このマラッカをアルブケルケはその大艦隊を以て圧倒しようと欲したのである。マノエル王は依然として紅海航路の閉鎖を命じたのであったが、これは逆モンスーンのためにうまく行かなかったので、その艦隊をそのまま、モンスーンに乗れるマラッカの方へ向けたのである。それは一五一一年の春で、十九隻八百名の兵、それにインド人の補助隊六百名を加えた。マラッカについたのは七月一日であった。まず捕虜の返還を要求し、それが拒絶せらるるや岸辺の家と港の船を焼いた。そこでスルタンは捕虜を返し、町の人も平和な協定を望んだのであったが、アルブケルケはセケイラに対する損害賠償のみならず、三十万クルサド(一クルサド約二志四片)の戦費と城塞築造の承認とを要求したのである。この過大な要求に対してスルタン側の意見は二つに分れた。商業を傷いたくないと思う人々は平和と賠償とをすすめ、この要求の承認によってスルタンの権威が地に墜ちることを恐れた人々は開戦を主張した。三万の兵、八千の砲、その他にヨーロッパ人の知らない戦象がある。どうしてこの敵を追い払えないことがあろう。遂に開戦論が勝って、七月二十五日市街戦が始まった。ポルトガル軍は相当マレー軍を圧迫したが、結局船に退却せざるを得なかった。八月十日に再び攻撃が始まった。九日間市街戦が続き、市街は漸次ポルトガル軍の手に落ちた。モール人に対しては特に仮借するところがなかった。アルブケルケは部下の労をねぎらって三日間掠奪を許した。大砲の鹵獲は三千門に及んだ。
アルブケルケはここに石の城を築いた。石材はモスクや王宮の石を使った。また貿易を回復するために土人の港務長を任命し、金銀の貨幣を作った。そうして東アジアの諸国と交友関係を結ぶ努力を始めた。シャムへは使者を送った。ペグへも送った。スマトラやジャバの諸王から手をさしのべて来た。シナへも使を送ろうとしたが、これはあとにのびた。(しかし商船は既に一五一五年にシナに来ている。)
一五一一年の末には更に香料の島モルッカ諸島探検のために小艦隊が派遣された。アルブケルケ自身は、マラッカに守備兵三百及び十隻の艦隊を残し、一五一二年の正月に三隻を以てインドに向け出発したが、途中スマトラ沿岸で坐洲して船を失い、辛うじて二月一日にコチンに着いた。
七 植民地攻略
ところで彼の留守中にゴアは再びインド軍に包囲され、絶え間なき小競合いによってひどく疲弊していた。幸に一五一二年の夏には続々と本国の船がつき、八月には十三隻で千八百の兵をのせた艦隊さえも到着した。これに力を得てポルトガル人は再び攻撃に転ずることが出来た。アルブケルケは商船隊の始末などをしたあとで、ゆっくりと九月半ばに十六隻を以てゴアに来り、一挙にして形勢を変えてしまった。かく容易に勝利が得られたのは、インド諸王の仲が悪く、外敵に対して団結しないのみか、互に抜けがけでポルトガル人と友交を結ぼうとしていたためである。その事情を示す一つの例は馬である。インド諸王の軍隊は騎兵を主力としていたが、その馬の輸入をゴアが独占してしまった。そういう点からもゴアは商港として栄え始めたのである。
アルブケルケのマラッカ征服がヨーロッパに与えた印象は非常なものであった。殊にそれは一五一三年にマノエル王がローマに送った盛大な使節の行列によって高められた。インドからの象や豹などもつれて行った。一五一四年三月にいよいよローマに入った時には、祝砲が町中に轟き、教皇が宮殿の窓に現われて行列を迎える。象は三度跪いて敬礼する。黒山のようにたかっている群集があっけに取られる。翌日の謁見式に於てはポルトガルの使節がインド征服に関する華かな演説を行い、アルブケルケの武功をほめたたえた。インドに於ける勝利は信仰の勝利なのである。今や十字軍は遙かなる東方に進出し、ポルトガルの武力によってキリスト教をかかる遠い地方にまで拡め得るに至った。これがアルブケルケの功績として承認せられたところなのである。この時が彼の名声の絶頂であったと云ってよいであろう。
しかし本国では何故にインドの総司令官がゴアを保持するために多くの血と金とを費しているかを理解しなかった。それにはアルブケルケの反対者の流布した噂もあずかって力があった。ゴアは不健康地である。それを維持するには無駄な金がかかるのみならずインド諸王との絶えざる紛争をひき起す。この声に耳を傾けた王は総司令官に反省を促した。がアルブケルケはゴアの奪回を非常に重大視していた。この勝利は過去十五年間インドに送られた艦隊全部がなした仕事よりももっと有効である。陸に堅固な足場がなくてはポルトガルのインドに於ける勢力は永続きがしない。コチン、カナノルその他のどの城も、意義価値に於てはゴアと比較にならないのである。ゴアを放棄すればインドにおけるポルトガルの支配は終るであろう。自分は本国に敵を持つことを知らないではないが、どうかそれらに耳を傾けないでほしい。これがアルブケルケの意見であった。今や彼はインド洋の制海権を得るために陸地の支配が必要であることを確信するに至ったのである。これはアルメイダの見解に比すれば明白に植民地略取の方へ歩を進めているのであるが、しかし本国の見解と対立するに至ったという点では、アルブケルケも結局アルメイダと同じ境遇に追い込まれたと云ってよい。
しかし最後の破局が来るまでには彼はなお二つの遠征を遂行している。その一つは王の命令によって止むを得ずにやった紅海遠征である。一五一三年二月に艦隊二十隻、ポルトガル兵千七百、インド兵八百を以て出発した。ソコトラから西の海は古代以後ヨーロッパ人の乗り込まなかったところで、水路は知られていなかった。そこへ彼は進出して先ずアデンを攻撃したが、これは全然失敗に了った。そこで紅海へ入って北方カマラン諸島まで行き、八月にインドへ帰った。第二はやはり王の命令によるのであるがアルブケルケ自身も気乗りがして行ったオルムヅ遠征である。一五一五年二月、二十七隻の艦隊、千五百のポルトガル兵、七百のインド兵を以て出発した。七年前の彼の第二回のオルムヅ攻撃は云わば副王アルメイダの妨害によって挫折したのであったが、今度は簡単にオルムヅを占領し、そこで政治の実権を握っていたペルシア人たちを追い払ってもとの老君主に政権を戻した。そうして数カ月の間占領後の処理に努めていたが、八月頃より痢病にかかり、経過が思わしくないためにインドに帰ることとして、十一月に出発した。その途中アラビア船に逢い、ロポ・ソアレスが総司令官の後継者に任命されたことを知ったのである。
これはアルブケルケにとって非常な打撃であった。王が遂に彼の敵たちの言葉に耳を傾けたことは明かであった。彼らの云いふらしたところによると、アルブケルケは全インドの独立の君主となろうとしている。そのために要職には親族の者のみを坐らせる。事実彼はマラッカにもオルムヅにも自分の甥を司令官に任命したのである。本国では彼の敵の方が多く、彼を弁護する人はいなかった。しかし王もこれらの非難をそのまま採用したのではなく、中を取って彼を召還することに決したのである。しかし後任の司令官その他の幹部には曽てアルブケルケに不従順であったもの或は犯行の故に囚人として送還されたものなどが選ばれていた。この人選がアルブケルケを深く傷けたのである。彼はもう生きる力を失った。そうしてゴアの港が見えるところまで来て息を引き取った。
アルブケルケは失脚して死んだが、しかし彼が航海者ヘンリの始めた仕事をポルトガル国のインド攻略の形にまで展開したという意義は失われはしない。このあとで彼の敵がインドの総司令官となったにしても、結局大勢はアルブケルケの開始した植民地経営を押し進めることに帰着するのである。
アルブケルケを憤死せしめたロポ・ソアレス・ダルベルガリアは一五一八年まで総司令官の職にあったが、前任者のあとを追って一五一六年に三十七隻の大艦隊を以て試みた紅海遠征は散々の失敗であった。彼は紅海中ほどのヂッダまで進出したのであるが、港の攻撃がうまく行かない間に、エヂプトのスルタンがトルコ人に亡ぼされるという事件が起り、もはやアラビア人のインドへの脅威は除かれたとして軍を引いたのである。そうして帰途暴風・饑餓・疫病などのために惨憺たる損害をうけたのであった。彼の任期中に於ける僅かな成功はセイロン島のコロンボの占領のみである。彼に次いで総督となったのは、前にマラッカを探検したディオゴ・ロペス・デ・セケイラで、一五二一年まで在任した。この総督もまた王の命に従って紅海に遠征した。エヂプトのトルコ人がインド遠征を企てていると聞えて来たからである。が今度もまた失敗であった。バブ・エル・マンデブの海峡の近くでセケイラ自身の船が難破し、他の船に救われた。艦隊はヂッダまでも行けなかった。なおその他にも彼は四十隻を以てするヂウの攻略に失敗し、エヂプト遠征の企は準備が整わなかった。この頃マノエル王歿し、ジョアン三世が立ったが、インドの総指揮官にはドゥアルテ・デ・メネゼスが任ぜられ、一五二二年に赴任した。がこの総指揮官も香しいことはなかった。再び叛いたオルムヅを制圧するのがやっとのことであったのである。
かくだれて来たインド経営に活を入れるために、一五二四年に再びバスコ・ダ・ガマが副王として登場した。彼はエンリケ・デ・メネゼスやロポ・ヴァス・デ・サムパヨを従えて同年九月にインドに到着し、インド経営に思い切った粛正を開始したのであるが、その十二月にはもうコチンに於て歿してしまった。十字軍の精神を以てインド航路を打通したこの探検家も、インドに於ける植民地経営には寄与するところはなかったのである。
後任には同伴して来たエンリケ・デ・メネゼスが任ぜられたが、これも一年余にして一五二六年二月に歿し、その後任の手続きがもつれて、右のロポ・ヴァスとマラッカの知事ペロ・マスカレニャスとの間の党争となった。これを鎮めるために新しく総督に任命されたのがヌンニョ・ダ・クーニャで、これが一五二九年より一五三八年までの十年間に、アルブケルケの事業を力強く押し進める事になるのである。
クーニャはインドに着く前にオルムヅに寄ってここに経綸を施し、インドに着いてからも海の君主を手なずけることに成功している。が彼がインドで企てた最大の事業はグヂェラートの征服である。彼が一五三一年にボムベイからヂウ攻撃に向った時には、大小四百隻、ポルトガル兵三千六百を率いていた。これはポルトガルとしては未曾有の大軍である。がこの大軍を以てしてもヂウは直ちには陥落しなかった。何故ならグヂェラートのスルタン・バハドゥルはトルコの将軍ムスタファの援軍を得ていたからである。ムスタファはヨーロッパ風の戦術を心得、砲兵士官として有名であったが、ヂウの危機の知らせによって、紅海から二隻八百名を率いてかけつけたのであった。そこで彼は全守備軍の指揮を委ねられ、正確な砲撃を以て防いだ。クーニャはこの形勢を見て要塞強襲を躊躇せざるを得なかったが、王の命であるが故に止むなくこれを強行して撃退された。であとは港の封鎖に留めて南方チャウルに退いた。
その間にスルタン・バハドゥルはデリーのスルタンと戦争を始め、海岸地方の守りを緩くせざるを得なくなった。そこでヂウの代りにバッセインの町をサルセット島ボムベイ島と共に譲ろうと申出て来た。クーニャは喜んでこの講和に応じ、一五三五年にバッセインに要塞を築いた。然るにバハドゥルは戦に敗れて海の方へ圧迫され、ヂウに逃げて来た。そこで彼はポルトガル人を味方にすべく、ヂウの側に要塞を作る土地を提供しようと申出た。クーニャはそれに対して紅海方面への自由な貿易の保証を約したが、ただトルコの船のみは除外した。この原則の上に攻守同盟が出来上ったのである。
がデリー軍の圧迫が薄らぐと共にバハドゥルはポルトガルの要塞を邪魔にし出した。そうしてデカンの他の諸王と結び始めた。クーニャはそれを察して一五三七年正月ヂウに赴き、自分の船でスルタンと会見したが、その会見からの帰途スルタンの船はポルトガル船と衝突し、遂にスルタンは殺された。その混乱に乗じてポルトガル人は容易に町を占領することが出来たのである。しかしやがてグヂェラートの大軍が押し寄せてくると、ポルトガル人はまた要塞の中へ引き上げざるを得なかった。その上翌一五三八年には、七千の兵をひきいた強力なトルコ艦隊がヂウの前に現われ、二十五日間重砲を以て要塞を砲撃した。しかし城兵は要塞を死守して、破壊口から突撃を辛くも撃退した。その内トルコ艦隊は、クーニャの送った数隻の救援艦を大艦隊の一部と誤判して、囲を解いて引き上げて行った。その時要塞では砲弾も既に尽き、戦い得る兵僅かに四十人に過ぎなかったという。あとは戦死し、傷き、また壊血病で寝込んでいたのである。
かくしてヂウは辛くも保持された。それは一五三八年の十一月であった。最後の危機に際して彼がヂウに十分の救援軍を送り得なかったのは、この九月に既に後任の副王ガルチア・デ・ノローニャが到着し、慎重に構えて容易に動かなかったからなのである。この後任の選定もまたクーニャの地位が本国に於て危うくなったことを示していた。十年間の苦しい努力は冷淡な取扱いを以て報いられた。それはクーニャのみならず部下の多くの士官たちの感じたところであった。かくてクーニャは極度の不愉快の内に一五三九年正月自分の借りた船でインドを出発し、七週間後に海上で死んだ。
このような結果が招来されたのは、一つは本国が遠い出先の事情を審かにしないことによるが、もう一つにはインドで服役によって成金になろうと考えていた貴族たちが厳格な総督のためにその意を果さず本国に送還されなどして頻りに悪声を放ったことにもよるのである。がジョアン三世の立場としては、クーニャが政治的関心からスルタン・バハドゥルにあまりに譲歩し過ぎ、キリスト教の伝播に熱心でない、という点を嫌ったのであろう。ジョアン三世は宗教審判をポルトガルに導入したほどの人であるから、このことは相当重要な意義を持つと思われる。更にそれと聯関して考えらるべきことは、クーニャがインド洋で展開した兵力が、ポルトガルの国力の最大限に達していたのではないかということである。ガルチア・デ・ノローニャは訓練された兵士の代りに解放された囚人を連れて来て、インドに於けるポルトガル士官たちにむしろ土人兵の方がよいと思わせたほどであった。本国に於ける壮丁がそれほど不足して来たのである。これらの点を考えれば、航海者ヘンリ以来一世紀の間に極めて強靱な力を以て発展して来たポルトガルの東への進出は、インド沿岸に於てゴア、ヂウ、及びサルセットを含むバッセイン、の三地点、インドの外に於てマラッカ、オルムヅの二地点、の攻略を以て、その発展を終ったということが出来るのである。
八 未知の世界への触手・キリスト教伝道
植民地攻略としての発展の勢は止まった。あとは既に手に入れた植民地の維持が主要事になる。マラッカの如きは辛うじて維持が続けられ得たのである。がこの運動の本来の動力としての未知の世界への探検の要求、キリスト教のための戦、及び貿易の関心は、ここで止まったわけではない。ポルトガルの艦隊はマラッカから先へは大挙進出をなし得なかったにしても、探検や貿易の努力は更に太平洋のなかへのびて行ったのである。が特に重要なのは、それらよりも一層熱心にキリスト教伝播の運動が先へ先へと押し進められ、その形に於てポルトガルの勢力が日本にまで到達したことである。
探検と貿易との仕事としては、アルブケルケがマラッカを攻略した一五一一年の末にモルッカ探検に派遣された三隻の船が、アンボイナまで到達した。内一隻は難破し、船長フランシスコ・セランは部下と共にあとに残って、本来の香料の島テルナーテに来た。この報が一五一三年春マラッカに着くと、セランを迎える船隊が派遣され、これが香料の島テルナーテとティドールとの間の引っばり凧になったのである。セラン一人はなおテルナーテに留まったが、この時彼のマガリャンスに宛てた手紙が、世界一周航海を刺戟したといわれている。というのはセランがマラッカからモルッカへの距離を非常に誇張して報告し、バスコ・ダ・ガマ以上の大仕事をなしたかの如く吹聴したからである。マガリャンスはこれに基いて計算し、香料の島がポルトガルに許された半球よりも東へ出ていること、従って西廻りの方が近いことを推論したのであった。
この計算は誤りであったが、しかしマガリャンスの西廻り航海は、一五二一年の秋には遂に実現したのである。それまでの間にポルトガルの商船は一五一八年に一度来ただけであった。次にアントニオ・デ・ブリトーがやや大なる船隊をひきいて来たときには、既にスペインの船がこの海域に現われていた。かくして香料の島をめぐるポルトガルとスペインとの争が起るのであるがそれは東へ向けての探検と西へ向けての探検とが落ち合ったということ、従って未知の領域への熱烈な視界拡大の運動がここで一応のまとまりに達したのであるということ、を意味している。われわれはここまででその半分を、即ち東へ向けての探検のみを、辿って来たのであるが、ヨーロッパ人が日本へ現われたときには、他の半分の知識をもすでに十分に持っていたのである。即ち世界一周によって得られた視界の拡大が、ヨーロッパ人の真実の優越性を形成していたのであった。それを十分に理解するためにはわれわれはなお西方への視界拡大の運動を辿り、スペイン人の偉業を観察して見なくてはならぬ。
がそれは次章の問題として、ここではマラッカまで来たポルトガル人が、いかにして日本まで探検の歩をのばして来たかを見て置かなくてはならぬ。それは探検家の仕事ではなくしてキリスト教の宣教師の仕事であった。そうして宣教師がこのような仕事を成し遂げたについては、近い過去にヨーロッパに起った大事件が、即ち宗教改革が、響いているのである。
宗教改革の運動は大分前からヨーロッパで燻っていたが、それが焔となって燃え上ったのは一五一七年であった。それはインド洋においてアルメイダやアルブケルケの事業がすでに終った後である。ヨーロッパがこの改革によって混乱に陥ると共に、ポルトガルの植民地攻略の仕事も一時その活力を失ったように見える。しかし新教の攻勢によって深刻な反省を促されたカトリックの世界においては、さまざまな腐敗の粛清、宣教師の生活の浄化などによって、反撃に出る傾向が激成されて来た。中でも著しいのは、一五三四年にイグナチウス・ロヨラによって創設せられたヤソ会である。それが法皇に承認せられたのは一五四○年であった。即ちポルトガルの植民地政略の勢の止まった時とほぼ同時なのである。
ところでこのヤソ会は、清貧・貞潔・服従などの中世的戒律を厳格に守り、自己及び同胞の魂を救うために身命を捧げて戦う軍隊であった。従ってそれは内面化された十字軍であるということも出来る。ローマの教会が宗教改革によって失った権威を、何とかして回復しようということも、この十字軍の目ざすところであった。だからこの運動はポルトガル人の視界拡大の運動と直ちに結びつくことが出来たのである。この視界拡大の運動において主観的な筋金の役目をつとめていたのは十字軍的な精神であったが、それは視界が拡大されるにつれて、単にイスラムに対する反撃運動という狭い立場から、一般的な異教徒教化の運動に転じて行った。丁度その傾向が、軍隊的な組織を持ったこの教団にぴったりと嵌ったのである。
ローマの教皇がヤソ会を公認した一五四〇年の頃に、丁度ポルトガル王ジョアン三世は、インド総督クーニャがキリスト教伝道に不熱心である故を以て更迭させ、ローマ駐剳の公使に命じて力ある宣教師を探させていた。そこで当然着目せられたのがこの新しい活気ある教団であって、その幹部の二人が選に入った。その内の一人がフランシスコ・デ・シャビエルである。彼はポルトガル王の招聘を受諾し、翌一五四一年、新しく赴任するインド総督スーザの艦隊と共にインドに向ったのであった。ヤソ会士としてはまことに出来たてのほやほやである。
シャビエルがインドに着いたのは、一五四二年であった。ところでこの一五四二年という年は、ポルトガル人が初めて種子島に漂着し、日本人に鉄砲を伝えた年、ポルトガル人の側から言えば、日本を発見した年である。この漂着の事件は種々異なって伝えられているが、その船がシナのジャンクであり、乗っていたポルトガル人が二人乃至三人に過ぎなかったことは、動かぬところであるらしい。即ちポルトガルの「船」が日本を目ざして来たのではなく、船から遊離した冒険的なポルトガル人が、偶然、日本に接触したのであった。
しかしこの偶然の事件の背後には、日本人にとって一世紀以来馴染の多いシナ沿岸へ、ポルトガル人が進出して来たという事実がある。それはマラッカ征服後一五一四年に、シナへの使者をシナ人のジャンクに乗せて送ったことに始まる。ついで一五一六年には、ポルトガル船四隻、マレー船四隻の船団を以て、初めて広東附近タマオまで進出した。広東の知事が皇帝へ伺いを立てている間に、船団の中の一隻はレキア(琉球)探検に派遣されたが、しかしこの船は台湾対岸の漳州まで来ただけであった。その中に南京からポルトガル人の宮廷訪問の許可が到着した。そこで一五二〇年の初めに、司令官は、福建南端から陸路南京に向った。謁見は一五二一年に至って漸く行われた。しかるに右の船団に続いて一五一九年にやって来た第二の船団の司令官は、タマオに要塞を築いたり、子供を誘拐したりなどして問題を起した。それに加えてシナへの救援を求めに来たビントヮンの王の使者が、ポルトガル人に征服の野心があることを説いて聞かせた。そのため皇帝は、南京に来ているポルトガルの使者を拘禁し、同国人の入国を禁じた。で、一五二一年に第三の船団二隻がタマオに来たときには、シナ人はこれを撃ち払った。翌一五二二年に第四の船団五隻が着いたときにも、シナ人は一隻を捕獲し一隻を破砕して追い払った。こうして公許の貿易は遂に成功しなかったのである。しかし私貿易はそうではなかった。特にシナのジャンク船を利用したポルトガル人の貿易は、漸次北にのびて寧波に及んだ。種子島に漂着したポルトガル人も、シャムでポルトガル船に別れ、ジャンクを使ってシナ沿岸の貿易をやっていた人たちなのである。
そういう情勢であったがために、たとい偶然にもしろ、日本が見つかったということの影響は非常に大きかったらしい。ピントーの旅行記によると、日本は銀が豊富でシナ商品を輸入すれば大儲けが出来ると聞いた人々は、争って商品の買入れに着手し、一ピコル四十両の生糸を近々八日の間に百六十両までせり上げた。そうして九隻のジャンクが十五日の間に準備を整え、日本に向って出発した。この記事はあまり信用の出来ないものではあるが、しかし種子島漂着の報をきいたポルトガル商人が直ぐにシナ沿岸からジャンクで日本に向ったということは、他の報告にも現われている。ポルトガル人の日本への渡米はこの後迅速に始まったらしいのである。
つまりシャビエルがインドへ着いたとたんに、ポルトガル人が日本へ来始めたのである。そうしてその後五六年の間に、ポルトガル人は九州沿岸の諸所の港に出入するようになり、シャビエルはマラッカや南洋諸島を見て歩いた。一五四七年には、マラッカで、鹿児島人ヤジローとシャビエルとが会った。シャビエルはヤジローにおいて日本人を見、日本人に対して非常に好感を抱いた。日本布教の決意はこの時に固められたといわれている。
この因縁によってシャビエルは、一五四九年に日本へ渡来した。これは一隻や二隻の貿易船が日本へ来たというような小さい事件ではなかった。航海者ヘンリ王子以来の「東方への視界拡大の運動」が、ここではポルトガル艦隊の姿においてではなく、三人のヤソ会士の姿において、日本にまで届いたのである。
第二章 西方への視界拡大の運動
一 コロンブスの西への航海の努力
コロンブスの西方への航海は、結果としては新大陸の発見となり、近代のヨーロッパに甚大な影響を与えたのであるが、しかし未知の世界への視界拡大の運動としては、航海者ヘンリの活動から派生して来た一つの枝に過ぎない。この運動の最も困難であった点は既にコロンブスの幼時に打ち越えられていた。アリストテレース以来の知識の限界は突破され、アフリカ沿岸の探検は急速に歩度をのばしつつあった。この地盤の上で西廻り航海という考を実行に移して見るか否かがここでの問題だったのである。
しかし結果として新大陸が発見されたということは非常な大事件であった。コロンブス自身はまだその意義を理解するに至らなかったが、彼のあと二、三十年の間にこれが全然新しい『発見』であることが明かにされ、一挙にして視界は倍に拡大されたのである。しかもそれは単に地理的の発見たるに留まらず、新しい人間社会の発見、新しい文化圏の発見でもあった。この点に於てインドやシナへの航路の打通とはよほど趣を異にしていると云ってよい。インドやシナはどれほど珍らしかったにしてもとにかくその存在の知られている国であった。然るにアメリカの存在は全然知られていなかったのである。未知の領域の開明ということがこれほど顕著に実現された例はない。従って未知の世界の開拓に対してこれほど強い刺戟となったものも他にはないのである。
この相違と聯関して植民地攻略の仕方が著しく異って来たことも忘られてはならぬ。インド洋では、ポルトガル人は積年の仇敵アラビア人と制海権を争ったのであって、初めからインド征服を目ざしたのではない。インドでの植民地攻略はアラビア人との戦争に必要な根拠地を獲得するためであった。然るにアメリカにはそういう仇敵はいなかったのである。しかも十字軍的精神はここでも同様に旺盛であった。そこでスペイン人は単純に土人の国々を征服したのである。
この征服事業の発端をなしたのはコロンブスの西への航海である。
コロンブスはこの航海が惹き起した結果の故に非常に有名となったが、そのくせ伝記には不明な点が多い。生地や生年についてさえ多くの異説がある。しかし多分一四四六年にヂェノヴァで生れたイタリア人だということは確かなのであろう。十四歳の時から船乗りとなり、外国に出たらしい。一四七七年に、多分英国のブリストルから出帆して、アイスランドとの中途にあるファロエ諸島を超えて百哩位北まで航海したのが、大洋を知った初めであると云われている。その後ポルトガルに移り、一四八二年以後に、ギネア海岸へ航海したこともある。その内リスボンで結婚したが、その妻の父が遺して置いた海図や書類から彼は色々なことを学んだらしい。
当時は航海者ヘンリの歿後二十年も経って居り、ポルトガルの海員たちの間の発見熱は大変なものであった。だから西方の海の秘密についての色々な噂もかなり行われていたのである。例えばポルトガルの船長マルチン・ヴィセンテは、サン・ヴィセンテ岬の西方四百五十レガのところで彫刻のある材木を拾った。これは幾日も幾日も吹き続いた西風に流されて来たのであるから、西方のあまり遠くないところに陸があるに相違ないということが云える。またアゾレス諸島にはその地に存しない樅の幹や、インドに於てのみ育ち得るような太い蘆が漂着した。或はまたマデイラのアントニオ・レーメは百哩ほど西方に三つの島を見たと語った。等々の類である。
コロンブスはこれらの話を自ら聞いたほかになお当時の海図からも同じような示唆を受けている。当時の海図は航海者の錯覚に基くようなものを書き入れているのであって、アンティリア島の如きがそれである。この名は後に彼の発見した西インドの群島の名として生き残っている。
がこれらよりも一層強い影響をコロンブスに与えたのは、一四一〇年にピエール・ダイーの書いた Imago mundi(世界像)という地理書である。コロンブスはこの書をポルトガルにいた時分に熱心に読んだのみならず、後に航海の時にも携えて行った。ところでこの書は学問的にあまり価値のあるものではなく、古代及び中世の多くの学者からの寄せ集めで、新しい探求の結果などあまり重んじていない。マルコ・ポーロの名なども出ては来ない。しかもコロンブスのコスモグラフィーの知識は悉くこの書から出ているのである、特に地球の大きさや大洋の狭さについての考がそうである。アイーは、アリストテレース、セネカ、プリニウスなどを引用して、スペイン西岸とインド東岸との間の海が、順風数日間に渡り得る狭い海であることを説いた。或はアリストテレースやアヴェロエスに基いて、アフリカにもインドにも象がいる、だからアフリカ西岸とインド東岸とはあまり距っている筈がないと論じた。その距離はまだ解らないが、しかしスペインから東に向ってインドに達するまでの人の住んでいる世界は、地球の半周よりは大きいのである。従って西への海路の方が近道であるということは動かない。この近道という考がコロンブスに対して非常に有力に働いたのである。
航海者ヘンリの仕事が既にその実を結びかけている時代に、右の如き典拠に基いた知識が有力に働いたということは、全く不思議であるが、しかしそれは、楽園の位置と性質や切迫せる世界の没落などに関するアイーの考がそのままコロンブスを支配していたことを思えば、まだ何でもないのである。地上楽園は遙かなる東方の高いところにあって、そこから川が恐ろしい勢で流れ下っている筈であった。後にコロンブスはオリノコ河口に達したとき、これが楽園から流れ出る川だと真面目に考えたのである。
が、コロンブスの西航の企てに決定的な影響を与えたものは、やはりトスカネリの手紙であろう。コロンブス自身の書いたコピーによると、
「リスボンのフェルナン・マルティンス僧会員に物理学者パオロより挨拶を送る。香料の国へ行くにギネアを通る道よりももっと近い海の道があることを曽て貴下と話し合ったことがある。それを思うと、王陛下と貴下との親密な御交際の御知らせは一しお愉快に感ぜられる。王は今やあの方面のことにあまり通じないものでも理解し得るような、むしろ眼見に訴えて人を承服せしめる底の説明を求められる。余は大地を現わす球によってこのことを示し得ると思うが、しかし一層容易な理解のために、また手数を省くために、この道を海図の上で説明しようと決心した。で余は自分の手で引いた海図を陛下に捧呈する。その海図に描かれているのは、西への道の出発点たる貴国の海岸や島々、その道の到着点たるべき場所、その途上北極及び赤道からどれほど離れなくてはならぬかということ、及びどれほどの距離によって、即ち何マイル航海した後に、あらゆる香料や宝石の充溢したかの場所に到達する筈であるかということなどである。香料のあるところは通例東方と呼ばれているのに余がそれを西方の地域と呼ぶことを怪しまないで頂きたい。何故ならあの地方は、陸路を取り上の道を通って行けば、東へ東へと行って到達するのであるが、海路を取り地下の道を通って行けば、西へ西へと行って見出せるのだからである。従って地図に縦に引かれた直線は東から西への距離を、横の線は南から北への距離を示す。なお余は地図にさまざまの場所を書き込んだ。航海の詳細な報告によると、そういう所へ諸君はつくかも知れぬのである。逆風とか、何かその他の事情で、目ざすところと異ったところへ着くこともあろうし、又その際航海者がその国土の知識を持っていれば一層工合がいいに相違ないのであるからそれを予め持つようにそこの住民を示すためである。しかしその島々には商人のみが住んでいる。即ちそこでは、世界中他の何処にも見られぬほど多くの商船の群が、ザイトンと呼ばれる一つの有名な港に集まっていると云われる。その港では毎年胡椒を積んだ百隻の大船が出発する。他の香料を積んだ他の船は別である。その国土は非常に人口が多く、州や国や都市も数え切れぬほどあるが、王の王を意味する大汗という一人の君主に支配されている。彼の居所・宮殿は大抵カタイ州にある。彼の父祖はキリスト教徒との交際を望んだ。既に二百年前に彼らは教皇に使を送り、教を伝えるべき多くの学者の派遣を求めた。が派遣された人々は途中障害に逢ってひき返した。エウゲニウス教皇の時にも、一人の男が教皇の所へ来て、キリスト教徒に対する彼地の好意を保証した。余自身もその男とはさまざまのことを長い間話し合った。王宮の偉大なこと、江河の流れが、その幅に於ても、恐ろしい長さに於ても、実に巨大であること、江河の岸に無数の町々があること、或河の沿岸には約二百の町があり、広い長い大理石の橋が無数の柱に飾られて掛っていることなどを。それはラテン人が訪ねる価値のある国土である。ただに金銀宝石或は珍らしい香料などの巨大な宝がそこから得られるが故のみならず、学者や哲学者や熟練した天文学者の故に、またいかなる巧みさと精神とを以てかくも強大な国土が統治され、或は戦争が遂行されるのかを知るために。フィレンツェ、一四七四年六月二十五日」
「リスボンから西へ真直に豪華都市キンサイまで、地図には二十六劃書かれている。一劃は二百五十哩である(milliarium ローマの千歩。一マイルより少し短い。)。キンサイは広さ百哩で十の橋を持つ。この町の名は天の都市を意味する。この町については、技術家の数や収益の高など、多くの不思議なことが云われている。ここまでの距離は大地全体のほぼ三分の一になる。この町はマンヂ州にあるが、君主の首府のあるカタイ州はその隣州である。しかし同じく人の知っているアンティリアの島からあのひどく有名なチッパングまでは十劃である。この島は金・真珠・宝石が非常に多く、純金を以て寺院や宮殿の屋根を葺いている。だから我々は、未知ではあるが遠くはない道を辿って海の空間を切り開かなくてはならぬ。」((Ruge; Geschichte des Zeitalters der Entbeckungen. S. 228-229.))
以上がトスカネリの手紙なのである。これはポルトガル王を動かすに至らなかった。一四七一年に黄金海岸まで到達し、急速にアフリカ回航の歩度がのびようとしていた時だからである。ところが数年の後、一四八〇年から一四八二年の間に、コロンブスはトスカネリと文通して、右の手紙と地図との写しを見せられたのである。「この時までは彼は単純に一人の船員であった。この時から彼は発見者となった」(do. S. 225.)とさえ云われている。彼は遅疑するところなくトスカネリの考に賛成し、その実行の決意を云い送ったらしい。トスカネリは激励の手紙を寄せた。
「余は西に向って航せんとする貴下の意図を賞讃する。貴下が余の地図に於て既に見た如く、貴下の取ろうとする道が世人の思うほど困難でない、ということは余の確信である。反対に余の描いたあの地方への道は全く確実なのである。もし貴下が、余の如く、あの国土に行って来た多くの人々と交際したのであったならば、何の疑懼をも持たなかったであろう。そうして有力な王たちに逢い、あらゆる宝石の充ち溢れた繁華な町や州の多くを見出すことを、確信するであろう。またあの遠い国々を支配する王侯たちも、キリスト教徒と交わりを結び、そこからカトリック教や我々の持つあらゆる学問を学び得るような道が開けたことを、限りなく喜ぶであろう。その故に、またその他の多くの理由によって、余は貴下が、あらゆる企てに於ていつも優秀な人を出しているポルトガル国民全体の如く、実に勇敢であることを当然と思う。」(do. S. 231.)
これによって見ればコロンブスを衝き動かしていたものがマルコ・ポーロ以来の東方への衝動にほかならぬことはまことに明白である。その東方への「近道」の考には確かにコスモグラフィーの上の新しい知識も含まれているではあろうが、しかしアリストテレースやアヴェロエスの典拠によってもそれだけの見当は立ち得たのであった。従ってここには新大陸の発見を予想せしめるような何らのイデーも含まれてはいない。もしここに何らか新しい契機が含まれているとすれば、それはトスカネリの所謂地下(subterraneas)の道の実証という点のみである。大地を球と考えることは既に古くから行われていたが、それを実証する業績は未だ何人にも挙げられていなかったのである。今や東方への衝動がこの実証の試みとなって現われて来た。しかもそれは、トスカネリの説明が示す如く、明かに間違った認識に基いてであった。西廻りの道が「近道」であるのでなくてはコロンブスの勇気は出なかったであろう。とすれば新大陸の発見は間違った認識によって誘導されたと云わなくてはならぬ。それはこの発見が偶然に過ぎなかったということなのである。しかしこの偶然を押し出したのが東方への衝動であったとすれば、前に云った如く、この西廻り航海が航海者ヘンリの事業から派生した一つの枝に過ぎぬということは、いよいよ確かであろう。
コロンブスの功績は以上の如き西廻り航海の試みを実行に移したという点にある。ここには航海者ヘンリの如き明敏な組織者はいなかった。勢い彼はその個人的な熱情と意志とによって押して行かなくてはならなかった。ここに彼の長所も欠点もある。彼が多分に山師的な色彩を帯びて見えるのもここに起因するであろう。
コロンブスは一四八三年に右の計画をポルトガル政府に申出た。ヘンリ王子の精神を受けついだジョアン二世が勢込んで黄金海岸から先へ歩度をのばそうとしている時であった。王はこの申出でを委員会に附託したが、委員たちはコロンブスを夢想家として斥け、王も彼を熱狂的なお喋舌と見たらしい。香料の国への近道という点のみから云えば、この判断は誤まっていなかったのである。
翌一四八四年にコロンブスは妻を失った。それを機会に彼はポルトガルを去ってスペインに移り、そこで有力な保護者を見出すことが出来た。遂に一四八六年、大司教メンドーサの紹介によって女王イサベラに謁見し、廷臣として迎えられた。彼の抱懐している計画はサラマンカ大学に於て審査を受けたが、香しくなかった。彼はコスモグラフィーの典拠によって主張するに留まらず、聖書の句などを引いてかなり狂信的なことを述べ、神学者たちをさえ驚かせたのである。結局一四九一年に至って審査が決定し、彼は婉曲に拒否された。これもサラマンカ大学としては当然の処置であったであろう。天文学的、コスモグラフィー的な計算や推論と、古典や聖書の中にある予言或はその索強附会の解釈との、不思議な混合に対しては、学問の立場から是認することは出来なかった筈である。彼の後の成功は彼の計画が学問的に正しかったからではなかった。
ここで彼の生涯の劇的な瞬間が現われてくる。彼はスペインを去ることに決意し、息子ディエゴの手をひいて、とぼとぼとティントー河沿いにウェルバの港の方へ歩いて行った。その途中、海に近い不毛な丘の上にあるラ・ラビダの僧院に来たとき、彼は饑と疲れとで動けなくなり、僧たちにパンと水とを哀願した。その不思議な乞食のありさまが慈悲深い僧侶の、特に僧院長ファン・ペレス・デ・マルケナの注意を引いたのであったが、偶然にもそのファン・ペレスが女王イサベラの告解師だったのである。コロンブスは僧院の住居へ連れて行かれ、色々手当を受けた後に、広々と海の見晴らせる広間で、その西廻り航海の計画のことやその望の失われたことなどを話した。僧院長はコロンブスのことを曽て聞及んだことはなかったのであるが、その熱狂的な情熱にはすっかり魅せられたので、近くのパロスから天文学やコスモグラフィーに通じている物理学者ガルチア・エルナンデスを呼んで相談した。三十歳そこそこのこの若い物理学者も、コロンブスの話をきいているうちに、だんだん興味を覚えて来た。結局二人は、この珍しい人物をつなぎとめるのが女王のためになるという結論に達した。で僧院長は女王イサベラに手紙を書き、グラナダの宮廷へ使をやった。二週間経つと女王の礼状がつき、僧院長にすぐ来てくれとの事であった。彼は即夜出発して女王からコロンブスの企のために三隻の船を給するという同意を得て来た。コロンブスの運命はかくして開けたのである。
丁度一四九二年の正月にモール人との戦争が終ったこともコロンブスにとっては好都合であった。しかしなおもう一つ最後の困難があった。それはコロンブス自身の提出した条件なのである。つい近頃ラ・ラビダで饑と疲れとのために死にかけていた男が、スペインの王位に近いほどの高位を要求したということ、ここにも我々はコロンブスを理解する一つの鍵を見出すと云ってよい。即ち彼の条件は、提督の官位、貴族の身分、新発見地に於ける副王の地位、王の収入の十分の一という割での収穫の配分、外地関係の最高裁判官の地位、船の艤装の八分の一を引受けた場合には収穫の八分の一を保有すること、などである。さすがの女王もこれにはあきれて断った。コロンブスもその要求を一として引きこめようとはしなかった。で一月の内に既に相談は破れ、コロンブスは再び宮廷を去ってコルドバ経由フランスに行こうとした。その時に調停に立ったのが、最初からの彼の愛護者メンドーサと会計を司るルイース・デ・サントアンヂェルであった。彼らは植民地の増大やキリスト教の伝播がいかに望ましいかを説いて、遂に女王にコロンブス呼戻しを同意せしめた。急使は女王がコロンブスの要求を承諾するとの報をもたらして彼のあとを追いかけ、途中から連れ戻して来た。かくして一四九二年四月十七日に契約が成立した。コロンブスの熱狂的な自信が遂にスペイン国を圧倒したのである。しかしまた、まさにこの点が、コロンブスの後の失脚の原因でもあるのである。
かくてコロンブスは準備に着手し、同じ一四九二年の八月三日に出発したが、大西洋の横断も決心して見ればまことに簡単なものであった。まずカナリー群島へ直航、船の修繕のために四週間を費し、そこから九月六日に出帆、西に向った。十六日には既に気候の変化が認められ、陸地の近いしるしが見えるように思われ出した。しかしまだ中々陸は見えず、船員の不安が高まって相当不穏な気勢も現われたらしい。十月の十日にも船員は不平を訴えた。然るにその十二日の朝の二時に陸地が見えたのである。夜が明けると緑の美しい島が眼の前にあった。コロンブスは眼に喜びの涙をたたえながら讃美歌 Te deum laudamus を口ずさんだ。船員も皆それに和した。
この島はコロンブスによってサン・サルバドルと命名された。その所在については異論が多く、未だ解決されたとは云えないが、現在のワトリング島と見る説が有力であるらしい。次で附近の諸島を探検中、土人から南方にコルバ(キュバ)という大島のあることを聞いて、コロンブスはそれをチパングであろうと判断した。そこで十月二十四日に出発、二十八日にその北岸に達した。着いてからはこの地をアジア大陸と考えるようになったらしい。十一月一日の日記には、「キュバはアジア大陸である。我々はキンサイ及びザイトンへ百哩の地点にある」と記している。そうして実際大汗との連絡を得ようと努力しているのである。
キュバ沿岸の探検に一カ月を費した後、十二月五日コロンブスはハイチに来た。ここは山も野も美しく、農耕牧畜に適する。岸には良港が多く、河川には「砂金」がある。八日の後にコロンブスは、大地が最大の富を蔵する地に近づいたと信じた。西への航海の目標が、香料でなくして黄金とされた所以は、ここに淵源する。その興奮や荒天航海の配慮などの結果、彼は二日間眠らなかった。そうしてへとへとになって船室に引き込んでいた十二月二十四日の夜に、船は砂洲に乗り上げた。
コロンブスはこの地に植民地を設定し、三十九人のポルトガル人を残し、あとの二隻の船で一四九三年一月四日に帰航の途についた。ハイチの島を最後に離れたのが一月十六日、アゾレス群島に来たのが二月十五日である。三月初めにリスボンに入ってジョアン二世に謁した。スペイン帰着は三月十五日であった。彼は民衆の歓呼の中にパロスに入り、そこからセビリャへ行った。急使によってこの遠征の成功を知った王や女王は、三月三十日附でコロンブスをバルセロナに招待した。そこでコロンブスは、インドからもたらしたと称する珍宝や土人を携え、スペイン南西端のセビリャから東北端のバルセロナに至る全スペインを、凱旋行列のように練って行った。国中の人々が大洋の征服者を見に集まった。かくて四月中旬にバルセロナに入り、宮廷の最高の歓迎を受けた。
当時コロンブスがいかなる報告をなしたかは、二三の手紙(1493年二月十五日、Luis de Sant-Angel 宛。同三月十四日、Rafael Sanchez 宛)によって知ることが出来る。彼はインド洋まで行って来たと確信していたのである。「私のプランを夢想とし私の企図を妄想とした有力な人々の意見に対抗して私が主張したことを、神は驚くべき仕方で確証し給うた。」「併しこの偉大な企てがかく成功したことは、私の功績ではない。神聖なカトリックの信仰と、我々の主君の敬虔との功績である。何故なら人の精神が理解し得ぬことを神の精神が人々に与えるのだからである。神はその命に従うしもべの祈りをきき給う、今度の場合の如く不可能を願うように見える時でさえも。その故に私は、在来人力を超えていた企てに成功したのである。……王も女王も諸侯も、その福なる国家も、またあらゆるキリスト教国も、即ち我々すべては、救主エス・キリストにかかる勝利を与え給うたことを感謝すべきであろう。行列が行われ祝祭が祝われ、神殿は緑の枝で飾られるべきであろう。キリストは、かくも多くの民族の今まで失われていた魂が救われるのを見るならば、地上に於ても天上に於ても歓喜せられるであろう。我々もまた我々の信仰の向上や財宝の増加を喜ぼうと思う。……」
この熱狂的な感激は、コロンブスの主観的な歓喜を表現してはいるが、客観的にその主張の正しさを立証したものではない。彼はキュバをシナ大陸、ハイチを日本と即断したらしく、これらの島の大きさをも誇大に報告している。しかしそれらの島の位置をはっきりと地図に示すことは出来なかった。それらに対する疑念はその当時にも既に存したのである。そうしてまたこの疑念の故に、コロンブス自身がおのれの新発見の意義を理解し得たよりも先に、他の探検家が、即ち他ならぬアメリゴ・ヴェスプッチが、それを明かにするに至ったのである。
アメリカ発見・征服地図
二 コロンブスの第二回及び第三回航海
が当時としては、コロンブスの見当が当っているにしろいないにしろ、とにかく西へ航海して大陸らしいものに突き当ったというだけで十分であった。スペイン王は大乗気で一四九三年五月末にコロンブスの提督及び副王としての特権を再確認し、第二回航海の準備に取りかからせた。そうしてコロンブスの要求するままに、十四隻の快速船、三隻の大貨物船、千二百の歩騎兵、その他ヨーロッパの家畜・穀物・野菜・葡萄などの移植の準備までがなされた。これはもはや探検船隊の準備ではなくして、新しい土地を占有し経営するための植民船隊の準備である。コロンブスは既に予め副王としての活動を開始したのであると云ってよい。このプランの実現には多数の官吏や軍人が必要であった。ベネディクト派の僧が一人、新しい国土の司祭代理としてローマから任命された。スペイン貴族を代表するものとしては、アロンゾ・デ・オヘダ、フアン・ポンスェ・デ・レオン、ディエゴ・ベラスケス、フアン・デ・エスキベルなどが加わった。これらは背後にこの方面で活躍した人々である。コロンブスはこれらの同勢を以て先ず適当な場所に植民地を建設した後、更に探検航海を続け、ただにチパングやカタイに到るのみならず、西航して世界一周を試みようとしたのであった。第一回航海は彼をして、大地は天文学者やコスモグラーフェンの云うほど大きくはないという確信をますます固めさせたのである。
我々はこの計画の内にポルトガルのインド航路打通の運動と明白に異った性格を見出すと思う。この時はヘンリ王子の歿後既に三十三年を経て居り、ポルトガルがアフリカの新発見地に石の標柱を建て出してからでももう十年目である。バルトロメウ・ディアスが喜望峰の東まで進出してインド洋への門が既に開かれたのは五年前のことであった。しかしポルトガルはまだ植民船隊を送るという如き気勢は見せていないのである。インドに副王が任命され、植民地攻略が必至となって来るまでには、なお十数年の年月が必要であった。然るにスペインは、探検航海の仕事に手を出した翌年、既にもう植民船隊を建造したのである。これはこの事業に於てポルトガルに遅れているのを取返そうとする焦慮にもよるであろうが、ポルトガルの努力によって眼を開かれたとき、主としてこの探検の物質的成果に眩惑したということにもよるであろう。コロンブスは丁度このスペインの焦慮や欲望と結びついたのである。そうしてまた彼の性格もこのスペインの傾向に打ってつけであったと云ってよい。
スペインのこの傾向はまたあの有名な境界線の問題にも現われている。既に古くからポルトガルはその発見地の領有や独占について教皇の認可を得ていたのであるが、コロンブスの帰国後スペインは急いで教皇の許に今後の発見の計画やそれと聯関するキリスト教の伝道に就て諒解を求めたのである。そこで一四九三年の五月に、アゾレス諸島及び緑の岬諸島の西百レガの子午線を境として、それより西方で見出された、また見出されるであろう島や陸をスペイン王及びその後嗣に「与える」という指令が発せられた。この線はコロンブスが天にも海にも気温にも変化の現われる線として主張したものであるが、事実上そんな境界線はないにしても、教皇がそれを認めたことによって政治的境界線として現実化したのである。尤もこの境界線はポルトガルとスペインとの間に問題となり、種々交渉の結果、翌年七月に更に二百七十レガ西方へ移すことになった。がいずれにしてもそれは二つの国家の間の境界線の問題である。コロンブスの第二回航海は既にかかる問題とからみ合っていたのである。
コロンブスは前記の植民船団をひきいて一四九三年九月末出発、カナリー群島を出たのは十月十三日で、十一月三日には小アンティル諸島についた。大西洋横断は二十日間である。次でハイチに至り、前年残して置いたスペイン人を探したが、これは絶滅されていた。で適当な根拠地を探すのに手間取り、三カ月を経て漸くモンテ・クリスチの東十レガのところにイサベラ城を築いた。そこから頻りに黄金の捜索に人を出し、また自らも出掛けた。相当な発見があった。それは金鉱で、金掘りたちを護るためにコロンブスは堅固な家を建て五十六人の守備兵を置いた。ソロモンが黄金を取りに人を派遣したと云われるオフィルの地はここに相違ないとコロンブスは信じた。驚くべく多量な黄金が続々と発見せられるであろうと人々も信じた。しかもこの最初の築城や黄金の発見は、コロンブスが初めにチパングではないかと見当をつけた土地に於てのことなのである。そうしてそのチパングは黄金で屋根を葺いている国なのであった。黄金が目標とされるという特徴はこれらのことの内にも顕著に現われている。
一四九四年四月末、コロンブスは弟のディエゴを代官として植民地に残し、自分は再び探検航海の続行に移った。先ず西航してキュバ南岸に出で、土人に黄金の産地をたずねると、土人はいつも南方を指して教える。そこで五月の初めにキュバの岸を離れて南西に向い、ジャマイカの北岸についた。しかし黄金はありそうにない。再び北に向ってキュバ西岸の女王の園に入り、次でピノス島に達した。ここでコロンブスはマラッカより三十度の所まで来たと考えた。もう二日航海してキュバの西端に達したならば、キュバがアジア大陸であるという彼の迷いは醒めたであろうが、船の状態はもはや前進を許さなかった。これが六月の中頃である。そこで帰航の途につき、ジャマイカの南を廻って八月半ば過ぎその東端に出たが、その後荒天のため三十二夜眠らず、遂に九月二十四日過労で倒れた。九月末イサベラに帰着するまで生死も覚束なかった。かくして第二回の探検旅行も彼の執われていたコスモグラフィー的な迷信を破ることは出来なかったのである。
植民地には思いがけず弟のバルトロメーが三隻の船を以て来援していた。この弟は中々有能な男で、コロンブスの頼みにより英国王を説得に出かけ、ほぼその後援の約束を得たのであったが、かけ違ってうまく兄に逢えず、反ってスペイン宮廷で好遇をうけていたのであった。この弟からコロンブスはスペイン王や宮廷の気受けのよいことを知ることが出来た。しかし他方、部下のスペイン人中には、不満や反抗のきざしが見えて来た。土人もスペイン軍人の悪政に刺戟されて、団結して反抗を始めた。この反抗を少数の騎士たちの手で巧みに抑圧することに成功したのは、アロンゾ・オヘダである。オヘダは胆力と智慧と、そうして土人の知らない『馬』とで以て、土人を手玉にとったのであった。しかし植民地経営は必ずしも快調とは云えなかった。副王の独占権も十分には実現されなかった。荷厄介に過ぎぬ植民も二百人を超えていた。これらの事情からコロンブスは帰国を決意し、一四九六年三月、二隻の船を以てハイチを発し、六月カディスに帰着した。
今度も第一回の時と同じくスペインの南端から北端まで国中を凱旋行列が練って歩いた。連れて来られたインディアン人が黄金の飾りをつけて行列に加わった。ソロモンのオフィルを発見したという主張を実証するためである。当時の政治的事情はコロンブスの事業にとって甚だ不利であったが、それでも王は彼を引見し再びその保護を保証した。また、新しい船隊を即時準備する運びには至らなかったが、コロンブスの特権を再確認し提督の権利を再保証する運びはついた。バルトロメーの代理任命も事後承諾が与えられた。
第三回航海の準備は中々捗らなかった。漸く一四九八年正月に至って、物資補給船二隻を先発せしめることが出来たという程度であった。国内の有力者の間に相当に強い反対の気勢がある。船員もうまく集まらない。遂にコロンブスは罪人を植民しようと考え出した。法廷も追放刑のものをインドに送ることに同意した。この罪人植民は後にスペイン植民地経営の癌となったものである。
がそういう窮策のあとで、一四九八年五月末日、コロンブスは六隻を以て出発した。カナリー群島からは三隻をハイチに直航せしめ、自分は三隻をひきいて南西に向って航路を取った。熱帯地方には黒人のほかに高貴な産物があるという当時の俗信に従ったのである。この俗信を丁度この頃に相当有名な航海者が王のすすめに従ってコロンブスへ吹き込んだ。その手紙はコロンブスを神の使者として絶讃しつつ、宝石・黄金・香料・薬品の類は大抵熱帯地方から出ることを説いたものである。コロンブスは神の使者としての確信をますます高めると同時に、針路を南西に向けたのであった。
この神がかりの状態からして地上楽園の解釈が出てくる。十七日の航海の後にコロンブスはトゥリニダッド島につき、次で翌日オリノコ河口に達したのであるが、このアメリカ大陸の最初の発見が、彼にとっては地上楽園の位置の推定に終ったのであった。この推定の前提として彼は、「地球は球形ではない、梨形である」という考を持ち出している。アゾレス群島の西百レガから急に天象地象が変るのは、そこから大地が高まり始めている証拠である。いまオリノコ河口に来て恐ろしい水量が海へ流れ込んでいるのを見ると、この河の水源地こそまさにその高まりの極まった所に相違ない。地上楽園はまさしくこの極東の高所にあるのである。もしこの強大な河が地上楽園から流れ出るのでなかったならば、それは南方の大陸から流れ出るのでなくてはならないが、そういう大陸のことはこれまで聞いたことがない。だからこの河は地上楽園から来るのでなくてはならない。これが彼の真面目に考えたところであった。そこでこの新発見の大陸はただ触れられた程度に止まり、コロンブスは半月の後にカリブ海に出てハイチの南岸サント・ドミンゴに向った。そこに彼の弟バルトロメーが新しく植民地を建設していたのである。
コロンブスの留守中ハイチの経営は相当進捗してはいたが、しかし他国人たるコロンブス一家への反抗も相当激しくなっていた。イサベラでは上席判事のフランシスコ・ロルダンが謀叛を起し、コロンブス一家の金鉱独占を攻撃した。また土人を味方につけるために、副王代理の圧制から彼らを護るのだと宣言した。この争はコロンブスの到着後も鎮まらず、双方から政府に訴えるに至った。かくてそれは翌一四九九年の九月まで続いたが、遂にコロンブスの方が譲歩してロルダンを上席判事に復職せしめた。しかし本国ではこの植民地での争が非常に不評判で、フランシスコ・デ・ボバディリャを新しく判事に任命した時には、副王の特権などを無視して、行政権も兵権もすべて判事の手に移した。更に植民地の福祉に害ありと認められる者は強制的に島から追放し得る権利をさえも与えた。でボバディリャは一五〇〇年八月末サント・ドミンゴに着くや、直ちにここを占領してコロンブス一家の者を捕縛し、本国へ送還したのである。
コロンブスは船長の同情ある取扱いを受け、王子の乳母へ宛てた手紙を取りついで貰ったりなどした。王の側に於てもコロンブスに対する処置を不当とし、縛を解いて礼遇する様に命じた。王に謁見の際にはコロンブスは感極まって言葉が出なかったという。こういう事件のためにボバディリャも不評判となり、ドン・ニコラス・デ・オバンドに代えられた。オバンドに対する信用によって新世界に行こうとする人が急に殖えて来た。かくてこの新総督は一五〇二年二月に、三十隻二千五百人を以て出発、四月半ばにハイチについた。植民地の経営はもうコロンブスとは縁が切れてしまったのである。
三 アメリゴ・ヴェスプッチの新大陸発見
以上の如く、コロンブスが地上楽園の推定から捕縛に至るまでの数奇な運命に飜弄されていた一四九八年から一五〇〇年までの間は、ヨーロッパ人の視界拡大の運動にとっては特に活溌な展開の見られた時期である。バスコ・ダ・ガマは、一四九八年の夏インドに達し、一四九九年九月帰着した。コロンブスの第二回航海に参加してハイチで武功を立てたアロンゾ・デ・オヘダは、一四九八年の末に、コロンブスの第三回航海の報告にもとづいて、パリアの探検を人からすすめられ、翌一四九九年五月に出発して南アメリカの東北岸(北緯六度あたり)に達し、そこから北上して北岸に出でベネズエラ湾あたりまで探検した。更に同じ一四九九年の十一月に出発したビセンテ・ヤンネス・ピンソンは、コロンブスの第一回航海の際の船長であるが、南ブラジルの岸から北へハイチまで探検した。それに踵を接して一四九九年十二月に出発したディエゴ・デ・レーペは南緯八度まで行ったといわれる。これらはいずれも一五〇〇年の内に帰着しているのであるが、アメリゴ・ヴェスプッチは右のオヘダの航海に参加し、後途中から移ったのか、ピンゾンもしくはレーペの航海にも加わったと云われている。コロンブスがハイチで党争に悩んでいた一五〇〇年の四月には、ポルトガルのカブラルがインドへの途上ブラジルに接触し、早速本国へ報告した。ポルトガルのマノエル王はこの新発見の島を探検するため、丁度探検航海から帰って来たアメリゴを招いた。そこでコロンブスが捕縛送還されて帰国してから第四回の航海に出発するまでの間に、アメリゴの有名な第三回航海が行われたのである。
アメリゴ・ヴェスプッチは一五〇一年五月リスボン発、南アメリカの東岸を南緯五度より二十五度まで行った。更にその指導の下に五十度或は五十二度まで行ったと云われるが、これは確実でない。一五〇二年九月帰着するや、彼はこの探検の科学的指導者として報告書を書いた。これが非常なセンセーションを起したのである。彼が友人ロレンソに宛てた手紙は、一五〇三年ラテン語訳で、次でドイツ語訳で出版されたが、その初めに、彼は新大陸の発見を唱道したのである。彼がポルトガル王の命によって発見した大きい陸地は、「新しい世界」と呼ばれてよい、と彼はいう。何故なら、これまでは何人もその存在を知らず、西方の赤道の南は海のみであると考えていたからである。今やアジア、アフリカ、ヨーロッパに対立する新しい世界が見出された。これをアメリゴははっきりと把捉したのである。
コロンブスは事実上新大陸の発見者であったかも知れない。しかし彼はかかる大陸のあることを拒んで地上楽園の存在を主張したのである。また彼がキュバやハイチの発見によって主張したのは、シナ大陸や日本に到着したということであって、未知の新しい世界の発見ではなかった。一五〇三年は彼が依然として右の如き信念の下に地峡の沿岸でインドへ出る海峡を探していた時なのである。従って新大陸の発見者として、コロンブスではなく、アメリゴが登場したということは、理の当然であると云ってよい。
コロンブスの第四回航海はアメリゴの南アメリカ探検よりも一年遅れて一五〇二年五月の出発であった。四隻の快速船、百五十の乗員である。既にバスコ・ダ・ガマのインド航路打通の後であるから、コロンブスはキュバとパリアとの間を西航してそのインドへ達しようとしたのである。サント・ドミンゴでは上陸を許されなかった。彼は真西に航して七月三十日にホンデュラス湾端のグヮナハ島に着き、ユカタンの商人に逢って、在来この地方で接することの出来なかった高度文化の国のあることを知った。でもしその商人の故郷へ行けば、ユカタンの町々を見、メキシコを見出して、否応なしに新大陸を把捉する筈だったのである。しかしインドへの通路発見に凝り固まっているコロンブスは、西に向わずして東に向い、ホンデュラスの岸を廻って地峡を南下した。そうしてこの有名な瘴癘の地に一五〇三年の四月末までまごついていた。しかし西への出口はどうしても見つからず、遂に北航して暴風に逢い、六月二十五日にジャマイカの岸にのりあげた。ここで助けを待っている間に、一五〇四年二月二十九日、月蝕の予言で土人の害を免れたのである。その後なお救出される迄に半年かかり、散々の態で十一月初めに帰国したのであったが、運悪く彼の庇護者イサベラ女王もその数週間後に歿し、王はもはや彼に取り合わなくなった。かくしてコロンブスは極度の失意の内に、一五〇六年五月、バリャドリードに於て歿したのである。
他方アメリゴも一五〇三―四年の第四回航海は失敗であった。でポルトガルを去ってスペインに帰った。一五〇五年二月にコロンブスに会った時には、コロンブスは大変いい印象を受けたらしい。ヴェスプッチもまたその功績を正当に報いられない人であると彼は書き残している。しかしヴェスプッチは間もなくスペインに職を奉じ、一五〇八年より年俸二百デュカットの帝国パイロットに任命された。そうしてパイロットの資格試験をやったり、地図を書いたりなどした。歿したのは一五一二年であるが、コロンブスと異なり、生前既に過分の名誉に恵まれた。というのは、新大陸の発見を報ずる彼の一五〇三年の手紙がヨーロッパ中に広く読まれたのみならず、一五〇七年には、フィレンツェの友人ソデリニに与えた手紙が『四度の航海』の名の下にラテン語訳として盛行し、遂に同じ一五〇七年に出版されたマルチン・ワルドゼーミューラーの『コスモグラフィー序論』に於て新大陸をアメリカと呼ぼうという提議が出されるに至ったのである。
四 征服者たちの活動
西航して発見されたのはシナでもインドでもなくして、これまでヨーロッパ人もアジア人もアフリカ人も曽て知らなかった全然新しい大陸なのである。これは視界拡大の点から云えば未曽有の大発見であった。しかもこの発見が発見として自覚されるためには、ポルトガル王が一役買って出なくてはならなかったのである。ここに我々はヘンリ王子の精神がいかに発見にとって重要であったかを反芻して見なくてはならない。
しかし新しく見出された大陸がどんなものであるかはまだ殆んど未知であった。そうしてその未知の世界を切り拓く仕事は、着実なヘンリ王子の精神を以てではなく、華やかなカスティレの騎士的精神を以て、極めて冒険的・猟奇的に遂行されたのであった。しかもそれはインド洋に於てアルブケルケが領土攻略の事業を遂行したのと時を同じくしているのである。
この冒険に乗り出した先駆者たちの中で特に目ぼしいのは、前にコロンブス第二回航海の参加者中に名をあげたアロンゾ・デ・オヘダであろう。彼は名門出の騎士で、その当時まだ二十三歳位の青年であったが、その胆力を以て土人との戦争に武功を立てた。次で二十九歳位の時にアメリゴ・ヴェスプッチを伴って南アメリカの探検に赴いたのであるが、その後この探検の事業を続行し、一五〇八年三十八歳位の時には、南アメリカの北岸ダリエン湾以東の地をおのれの縄張りとした。同じ頃にディエゴ・デ・ニクエサがホンデュラス地峡よりダリエンまでのベラグワ地方を縄張りとしたのに対したのである。翌一五〇九年には四隻三百人の乗員をもって右の地方へ出発したが、その中に後のペルー征服者フランシスコ・ピサロが加わっていたのである。オヘダは土人の抵抗によって危うく命を落そうとしてニクエサに救われたりなどしたが、一五一〇年ウラバ湾に植民地サン・セバスチアンを建設した。しかし土人の抵抗と食糧の不足とで経営は依然困難であった。そこでハイチに船を送り救援を求めたが、その結果、スペインの食糧船を乗取った食詰め者の一群が来援するというようなことになった。オヘダは植民地の管理をピサロに託し、右の分捕船で再び来援を求めにハイチへ帰ったが、この船の強奪事件に坐して捕われ、解放された後にも意気振わず、貧窮の内に一五一五年頃歿した。
ピサロは一五一〇年の夏、残った六十人と共にサン・セバスチアンを見限って二隻の船でハイチに向ったが、一隻は難破し、他の一隻は法学者マルチン・フェルナンデス・デ・エンシソの船に出逢った。その船にバスコ・ヌニェズ・バルボアという、これも後に太平洋の発見者となった男が乗っていたのである。ピサロはエンシソと行動を共にし始めたが、そのエンシソの船もまたダリエン湾の東端で難破してしまった。で止むを得ず陸路をサン・セバスチアンまで辿って行ったが、つい近頃去ったばかりのスペイン人の家は既に焼き払われていた。で思い切ってニクエサの領分であるダリエン湾西岸に行くことになった。
この提議をしたのがバルボアなのである。彼は貧乏貴族で、当時既に三十八歳になっていたが、アメリカに来たのは十年前の青年の時であった。即ち一五〇〇年にロドリゴ・デ・バスティダスの遠征に従い、ベネズエラ湾からダリエン湾(ウラバ)を経てパナマ地峡に到った。だからこの地方については経験者だったのである。その後サント・ドミンゴに於て農耕の仕事を始めたが、それがうまく行かず、追々に借財がかさんで窮境に陥った。で遂に脱走を企て、食糧の荷箱にかくれて潜入したのがエンシソの船であった。エンシソはこの冒険的な男を戦士として使うつもりで保留して置いたのである。
ダリエン湾西岸のニクエサの領分に於ける新しい植民地はサンタ・マリア・デル・アンティガと呼ばれた。エンシソは法律概念に従ってこの地の経営にとりかかった。しかし部下の乱暴者たちは、軍令に従う習性は持っているが、紙上の法規による規制を喜ばない。追々に不平が高まって来た。遂にバルボアは謀叛の主謀者となってエンシソを追い払ってしまった。
この時代の南アメリカ植民地の通有のなやみは食糧難であった。土人は白人に抵抗して、食糧を供給しなかったのである。バルボアの植民地も食糧難になやんだ。丁度そこへ一五一〇年十一月、ニクエサのために食糧を運んで来た二隻の船がついて、バルボアのためにも食糧を分けてくれたが、この船の連絡によってバルボアのことがニクエサにも知れた。ニクエサは前年一五〇九年にパナマ地峡に於て難破し、現在のパナマ運河附近のノンブレ・デ・ディオスに辛くも生き残っていたのであったが、おのれの領分にバルボアが植民地を建設したことを聞き、六十人の生存者と共にその船で翌一五一一年三月にバルボアの植民地へやって来た。しかしバルボアはこの名目上のベラガ領主を認めず、上陸を拒んだ。翌日漸くその上陸を許した時には、謀略を以てニクエサを部下から引き離し、直接スペインへ帰るという誓言を強要した。そうして十七名の部下と共に最も危なっかしいブリガンティンに乗せて突き放した。ニクエサはそのまま行方不明になってしまった。つまりバルボアたちはニクエサの領分を強奪したのである。かくしてニクエサとエンシソとオヘダとの三つの探検隊の残存部隊三百人がバルボアの手に残った。ピサロもこの下についていたのである。
このバルボアを有名ならしめた仕事は南海の発見、即ち太平洋の発見である。パナマ地峡が僅かに四、五十哩で太平洋に面しているに拘らず、当時の探検家たちはかかる事態を夢にも知らなかった。既に一五〇〇年にバルボアはバスティダスに従ってこの地峡に来て居り、一五〇二年にはコロンブスが丹念にこの沿岸を辿ったのであるから、ニクエサがパナマ地峡に植民地を作って苦労した時まで十年を閲しているのであるが、この地峡の狭いことを突きとめようとした人は一人もなかった。然るにそれを今バルボアが思いつくに至ったのである。その機縁となったのは、一つはバルボアがその植民地から内地の方へ探検に入り込んだ時ある酋長から『南の海』のことを聞いたことであるが、他の一つはバルボアがスペインの当局から認められそうになるに従い、エンシソ及びニクエサに対する罪の償いとなり得るような大功名を立てたいと考えたことである。時は丁度ポルトガルがマラッカ攻略に成功した直後であった。
かくしてバルボアは一五一三年九月一日、百九十のスペイン人、六百の土人をひきいてその植民地サンタ・マリア・デル・アンティガを出発、六七十哩北方のカレタから地峡横断を試みた。ここは西側にサン・ミゲル湾が入り込んでいて、地峡の最も狭くなっているところであり、山梁も標高七百米に過ぎない。しかし恐ろしい密林に覆われ、日光が地に届かないほどのところであった。その原始林の中の小径をカレタ酋長のつけてくれた案内者に導かれて隊は難行軍を続けた。漸く九月二十五日に至って、案内者は、目前の山の背を指して、あそこへ出れば海が見えるという。バルボアは全部隊を停止させた。彼はまず最初の一人として南の海の眺めを味いたかったのである。で自分だけ前進して峠の上に出た。そこに跪いて、両手を天に挙げ、南方の海を歓び迎えた。自分のような優れた才能もなく貴い生れでもない者に、このような大きい名誉を与えられたことを、彼は心から神に感謝した。次で彼は部下を招き寄せて新しい海を指し示した。人々は皆跪いた。バルボアはこの探検が幸福に終ります様にと神に、特に処女マリアに祈った。そこで衆は声を合せて讃美歌を唱った。ピサロはバルボアにつぐ有力者としてこの衆の中にいたのである。
そこから下り道にかかって九月二十九日にはサン・ミゲルの内湾に注ぐサバナス河口に到着した。丁度上げ潮の時であったが、バルボアは剣と旗とを以て膝の浸るまで海水の中に歩み入り、この海にある陸と海岸と島とを北極より南極に至るまで王の名に於て占領すると宣した。
バルボアはこの海岸に数週間留まって附近の酋長たちを征服し、またこの地方のことについて出来るだけ知識を得ようと努めたが、酋長トゥマコは南方の強国のことを語った。そこには量り知れぬ富があり、船や家畜も用いられている。家畜は駱駝に似た珍らしい形のものである。こういうことはダリエンの方では知られていなかった。でこの新しい報道によって異常に深い感銘を受けたのがほかならぬピサロだったのである。
十一月三日に探検隊は帰路についた。道々土人の諸酋を掠奪して、遂には運べなくなるほどの黄金を集めた。スペイン人の戦死者は一人もなかった。こうして一五一四年一月十九日にバルボアはサンタ・マリア・デル・アンティガに凱旋したのである。彼は早速この成功を本国に報ずるために、王に献ずべき多量の黄金と真珠とを乗せて三月に船をスペインへ送った。新しい大洋の発見は実際非常なセンセーションを惹き起し、将来に重大な結果を作り出すのであるが、しかしバルボア個人の運命は、僅か数週間のことでふさがれてしまった。というのは、バルボアの発見の報道が本国に到着する以前に、彼のニクエサに対する謀叛が問題となって、彼に代り地峡方面の総督となるべきペドラリアス・デ・アビラが任命され、一五一四年の四月十一日に二十隻千五百人を以て出発したのである。もしその出発前にバルボアの新発見の報が到着していたならば、恐らくこの後の事態は別の途を辿ったであろうと云われている。
新総督ペドラリアスは六月三十日にサンタ・マリア・デル・アンティガに到着したが、この一行には新世界未曽有の学者連騎士連が加っていた。後に『メキシコ征服史』を書いたベルナール・ディアス・デル・カスティロ、『インディアの一般史』の著者ゴンザロ・フェルナンデス・デ・オビエド、司法官として来任し後に『地理学集成』を著した法学者エンシソ、ペドラリアス支配下のスペイン人の業績を記述したパスクヮル・デ・アンダゴーヤ、後にチリーの征服者となったディエゴ・アルマグロ、後にピサロと共にペルー征服に従事し更に中部ミシシッピー河谷の発見者となったフェルナンド・デ・ソト、キトー及びボゴタの征服者ベナルカザル、キボラ及びクィピラの征服者フランシスコ・バスケス・コロナド、後にマガリャンスと共に世界一周をやった主席船長フアン・セラノなどである。ペドラリアス自身は既に六十歳で活気なく、植民地経営も甚だ拙劣であったが、しかしその率いた一行からは大きい結果が生れ出ることとなったのである。
バルボアはペドラリアスの部下と共に植民地から南の方の内陸へ探検に出て土人と戦争をしたりなどしていたが、翌一五一五年七月に至り、本国政府から南海発見の業績を認められて南海の総督代理に任命された。総督ペドラリアスはこれを喜ばなかった。総督の管理下にある地方では南海の沿岸こそ最も価値ありまた健康地だったからである。で彼はこの地を競争者バルボアに委託するを欲せず、甥のガスペル・モラーレス及びピサロに六十人の兵をつけて、真珠諸島攻略のため、ミゲル湾に派遣した。二人は三十名の兵と共に小舟で真珠諸島中の最大島イスラ・リカを襲撃し、激戦の後、この地方で最も強大であった島の酋長を降服せしめた。酋長は籠一杯の真珠を差出し、おのが家の塔の上から配下の島々を指し示した。その時彼はまた遙か南方にある強大な国のことをも話したのである。それを聞いていたピサロは再び強い刺戟を受けたが、傍のモラーレスは眼前の真珠の島々をいかにして搾取するかをのみ考えていた。結局酋長は毎年真珠百マルクの貢を収めることに定められ、探検隊は帰途についたのであったが、その帰路に於て、前代未聞の大虐殺大掠奪が行われたのである。さすがのバルボアさえこの残虐を嫌悪の念を以て報道しているが、しかし総督の甥は何の罰も受けなかった。
その内総督ペドラリアスと総督代理バルボアとの間を和解せしめようとして、ダリエンの司教が両者の間に縁談を持ち出した。それは表面上うまく運ぶ様に見えたが、しかしペドラリアスはこの厄介な競争相手を除こうとたくんでいたのである。間もなくその機会が到来した。それはバルボアが太平洋岸での支配力を拡大しようとして焦ったことによるのである。というのは、カレタのやや北方に設けられたアクラの港から、地峡を横ぎって造船材料を太平洋岸に運ぼうとしたのであるが、それが実に難事業であった。先ず第一に、バルボアがアクラまで行って見ると、土人の襲撃によって小舎は破壊され守備兵は全滅していた。従って土人を屈服させ小舎を再建することから始めなくてはならなかった。次に船材や鉄を土人に担わせて地峡を横ぎって運ぶのに非常に手間取った。更に第三に、太平洋まで運んで見ると、船材はあまりに永くアクラの海岸に放置してあったために、虫に穴をあけられて、船材として用いられなくなっていた。しかもこの運搬のために五百人(二千人ともいう)の土人の命が犠牲となっているのである。そこで再び初めからやり直さなくてはならなかったが、丁度その頃に本国でフェルナンド王が歿し、総督ペドラリアスも転任を噂された。そこでバルボアは邪魔の入らぬ内にと考えて非常に仕事を急いだ。それが謀叛の嫌疑を惹き起したのである。総督はバルボアを招致した。バルボアは総督に会い自分の企業の促進や説明をするつもりでアタラの港まで来たが、総督はピサロをしてバルボアを捕縛せしめた。そうしてエスピノーザによる簡単な裁判の後に、四人の部下と共に斬首の刑に処した。一五一七年の頃、バルボアは四十二歳位であったらしい。
バルボアの処刑はこの地方の開発にとって非常に不幸な出来事であったと云われている。がとにかく彼の始めた仕事はエスピノーザが引きつぎ、彼の造った四隻のブリガンティンよりなる艦隊を以て、一五一九年にパナマの植民地を建設した。この町は一五二一年にカルロス一世(ドイツ皇帝カール五世)から都市権を与えられた。その年からサンタ・マリア・デル・アンティガは荒廃し始め、一五二四年には全然放棄されるに至っている。地峡地方の中心がパナマに移ったのである。
ペドラリアスの派遣した探検船隊は、バルボアのプランとは正反対に、太平洋岸を北西に上った。一五二一年にはニカラグヮに達し、上陸して酋長以下九千の土人に洗礼を施した。黄金の収穫は十万ペソに上った。この探検隊は一五二三年六月にパナマに帰った。次でニカラグヮ征服に送られたエルナンデス・デ・コルドバは、グラナダ、レオン等の町を建設したが、後に独立を計ったために、急遽出動したペドラリアスに捕えられ、レオンに於て一五二六年に斬首された。がそのペドラリアスが一五二七年二月パナマに帰着した時には、後任者ペドロ・デ・ロス・リオスが既に地峡に上陸していた。でペドラリアスはレオンに退き一五三〇年に歿した。十三年に亘る彼の悪政が、中部アメリカの美しい土地の、荒廃の原因を作ったと云われている。
五 メキシコ征服
バルボアの歿後十年の間にペドラリアスが探検を進めた地方は僅かにニカラグヮに過ぎなかったが、丁度その間に北ではメキシコ、南ではペルーに於て前代未聞の新事件が起りつつあったのである。それらは眼界拡大の運動がおのずから領土拡大の運動に転化することを露骨に示している。勿論それは探検として、即ち未知の領域への眼界拡大の運動として始まったのであるが、その未知の領域の開明が単に地理学的な発見に止まらず、新しい民族、新しい国家生活の発見となるに伴って、眼界の拡大それ自身が如何に優越な力を人間に与えるか、従って、眼界拡大の運動を特徴とする民族が眼界の狭い閉鎖的な民族よりも如何に優越な力を持つかを直接に体験させ、それによって新しい国家生活の発見を直ちにその征服へと転化させたのである。この傾向は既に前からスペイン人の探検に現われていたのであるが、しかしその相手が大きい組織を持たない断片的な部族であった間は、まだ人を瞠目せしめるほどの事件は起さなかった。然るにメキシコとペルーとで起ったことは、新しい世界に於て最も発達していた二つの国家に関することなのである。従ってこれらの事件は、「発明や発見のお蔭で、文明人と野蛮人との区別が、神と人との間の相違の如く著明になった」と云われる所以を示しているのである。
両者の内では、北の方が一歩先であった。元来キュバとユカタン半島とは百哩あまりしか離れて居らず、しかもユカタンの附近まではコロンブスが二度も行っているのであるが、いつももう一息のところで反転したのであった。だから南の方ダリエン湾を中心とした探検活動が、北の方キュバを中心として動くようにさえなれば、ユカタンに触れることは易々たるものであったのである。そうしてその機運を作ったのは、恐らくバルボアたちの新発見の刺戟であろう。
バルボアがエンシソの船で地峡方面へ入り込んだのは一五一〇年であるが、その翌一五一一年に、ディエゴ・ベラスケスがキュバ総督として赴任して来た。彼は早速キュバ島の征服を行い、土地を征服者たちに分配した。この島は相当に広く、そこへ本国から流れ込んで来る冒険者たちの数も相当に多かったのであるが、それらの人々は落ちついて土地を開拓するよりも何か冒険的なことをやりたがる連中であった。そこへ頻々として伝わって来たのが黄金に豊かな土地の発見の噂である。若い連中は自分たちも発見と征服の仕事をやろうとして集まってくる。そういう連中が二隻の船を準備し、エルナンデス・デ・コルドバを隊長に選び、アントニオ・デ・アラミノスを船長に雇った。総督はもう一隻艤装する金を出して後援した。この探検隊の出発したのがバルボアの処刑された一五一七年の二月なのである。出発して見ればユカタン半島は極めて簡単に発見された。つまりこの発見の急所は、キュバに於て西方への探検が企てられ始めたという点にあったのである。
しかしこの発見の意義は予想外に重大であった。コロンブス以来既に二十五年、スペイン人がこの地方に於て見出したのはすべて文化の低い未開民族であったが、一歩ユカタン半島に触れると共に、まるで程度の異った文化民族の存在が明かとなったのである。そこには華麗な石造の家があり、木綿の衣服が用いられ、彫刻に飾られた殿堂に立派な神像が祭られている。極めて独特な象形文字も用いられていた。このマヤ文化は未だに素姓のはっきりしないものであるが、当時突如としてこれに接したスペイン人の驚きは察するに余りがある。その驚きが一種の恐怖をまじえたものであったことは、後にスペイン人がこの地方を占領したとき、マヤ文化の産物を徹底的に破壊したことによっても知られるであろう。
コルドバの探検隊は沿岸の諸所で上陸を試みたが、土人に撃退された。ユカタン西岸の中程まで行った時、コルドバは重傷を負ったので、探検を切り上げてキュバに帰り、上陸後十日にして歿した。がこの発見は総督の功名心をかり立て、新しい船隊の準備に向わしめた。で翌一五一八年の四五月頃に、総督は甥フアン・デ・グリハルバに四隻をつけてユカタンへ派した。パイロットは前年と同じくアラミノスであった。この探検隊はユカタン半島の根元のタバスコに到って土人との友交を結ぶことに成功し、更に西してベラ・クルス港附近の小島に上陸した。ここの文化は一層高い程度に達していたが、しかしここでスペイン人は、人身犠牲の習俗を見出したのである。がグリハルバはそれにかまわず、酋長らと平和に贈物を交換することが出来た。ガラス玉・針・鋏などに対して、一万五千乃至二万ペソの価の金や宝石が手に入った。いよいよ黄金の国が見つかったのである。グリハルバは更に北上してタンピコまで行き、十一月にサンチャゴへ帰着した。
総督はこの成功に驚喜し、一方本国に報告して新発見地の管理を懇請すると共に、他方この黄金の国を探検すべき大艦隊を建造し、その司令官にコルテスを任命したのである。
ここにフェルナンド・コルテスが登場する。当時のスペインの『征服者』のうちで最も優れた英傑なのである。彼は一四八五年に西スペインのエストゥレマドゥラ州に生れ、サラマンカ大学に二年在学した。当時の植民地の隊長としては稀な教養を身につけていたのである。一五〇四年、数え年で二十歳の時、当時の青年を風靡した冒険熱に駆られて、サント・ドミンゴの総督オバンドの許に来たが、七年の後、ベラスケスのキュバ征服に参加し、この地において領地を得た。そうしてその学問の故にベラスケスの秘書として用いられ、後にはサンチャゴの判官に任ぜられた。即ち若くして島の最高官吏の一人となったのである。それは彼の傑出した人物の故であった。騎士としての訓練には何事によらず熟達している。決意した際には勇敢で毅然としているが、プランを立てるに当っては熟考し明細に考える。理解は早く頭脳は明晰である。その上巧みな熱のある弁舌によって周囲を統率する。このような性格によって彼は新しい世界に稀れな指導者となったのである。
コルテスは司令官となった時にはまだ三十三歳であった。彼自身も艦隊建造の一部を負担して総督を喜ばせた。出来上った艦隊は十一隻より成り、主席パイロットは依然アラミノスであった。兵隊はスペイン兵四百、土人兵二百であるが、スペイン兵のうちで小銃狙撃兵は僅かに十三人、弩狙撃兵さえも三十二人に過ぎなかった。ほかに騎兵十六人、重青銅砲十門、軽蛇砲(長砲)四門。これが一つの強大な国家を襲撃しようとする軍隊の全武力なのである。
出発前に、ベラスケスは気が変ってコルテスの司令官任命を取消そうとしたが、コルテスは先手を打ってキュバ島西端の集合地から出発してしまった。一五一九年二月十八日であった。彼はユカタン半島を廻ってタバスコ河まで行ったが、河口が浅いため大きい船を乗り入れることが出来ず、小さいブリガンティンと武装したボートのみを以てコルテス自らタバスコの町へ遡江を試みた。そうして土人に平和の意図を宣明したのであるが、土人はただ鬨の声をもってこれに答えた。そこでコルテスは敵前上陸を強行し、大砲と騎兵隊という土人の思いもかけぬ武力を以て、四万(とコルテスは称する)の土人兵を潰乱せしめたのである。土人の戦死者は二百二十名であった。翌日酋長らは降服し、種々の贈物と共に二十人の女を献じたが、その内の一人、後にドンナ・マリナと呼ばれたメキシコ生れの女は、この後の征服事業に重大な役目をつとめた。
次で四月にコルテスはベラ・クルスに到って全軍を上陸せしめた。二日ほどするとアステークの知事が彼を訪ねて来た。コルテスは自分が海の彼方の強力な君主からこの国の君主へ送られた使者であること、贈物を奉呈し使命を伝達するため国内の行軍を許されたきことを申入れた。知事は、それを王に報告するため、この海から出て来た白人らを絵にかかせた。コルテスはこの報告絵を効果あらしめるために大砲と騎兵とで演習をして見せたという。その後彼は砂丘のうしろに陣地を築き、王からの返事を待った。
コルテスが初めてメシコ(メキシコ)の名を聞いたのは、三月末タバスコ征服の際であるが、四月末には右の如く既に国都への進軍を申込んでいる。これはメキシコ王国の事情を研究した上でのこととは思えない。タバスコでの戦闘は彼に自信を与えたではあろうが、しかしそれにしても彼の軍隊は微々たるものである。ここに我々は当時の『征服者』の冒険的な性格をはっきりと看取し得るであろう。彼の成功は、偶然にも彼がうまい時機に乗り込んで来たことに起因する。と共に彼の偉さは、この偶然の事情を直ちに看破し、それを巧みに利用したところにある。
では当時のメキシコの国情はどういう風であったか。
メキシコ王国の中心地はアナワクの高原で、海抜二千米位、首府メキシコのある谷は二千二百米に達する。メキシコ湾沿いの低地との間には山脈が連なり、その中には五千米を超える高山もある。従って海岸との交通は峻険な山道によるほかはない。この山脈は西に起って高原の南を限り、メキシコ市の附近では五千四百米のポポカテペトル、五千二百米のイシュタッチワトルとなって、メキシコの湖と共に美しい景観を作り出していた。
このメキシコの谷の北方百キロほどの所にトゥラという町がある。ここへ何処からかトルテーク族が移り住み、ここを首府として、七世紀の頃に、強大な王国を築いたと云われる。実は神話的な民族に過ぎぬのかも知れず、或はまた小さい部族であったかも知れぬ。がとにかく、とうもろこし・木綿・とうがらしなどの栽培や、貴金属の細工や、壮大な石造建築など、メキシコ特有の文化はこの民族に帰せられている。スペイン人侵入当時のメキシコ土人にとっては、トルテーク族の統治の時代が過去の黄金時代として記憶せられていたのである。恐らくこの族は南方に移ってユカタンやホンデュラスの地方にその文化を伝えたのであろう。
トルテーク族を征服或は追放したのは、十一二世紀の頃に北西の方より侵入したチチメーク族であった。この族はメキシコの湖の東側にテツクコの町を築いてアナワク高原を支配した。この頃からメキシコの平和な統治が失われて武力による強圧的な統治が始まったらしい。その統治は間もなく好戦的なテパネーク族の攻撃によって覆えされたが、チチメーク族はアステーク族の援助によってそれを回復することが出来た。そのアステーク族も外から入り込んで来た部族であるが、湖の中の小島にテノチティトラン(メキシコ)の町を築いて頭角を現わし始めたのは、十四世紀の初頃であろうと云われている。
やがてアステーク族は右のチチメーク族を征服して王国を建てるに至った。それはスペイン人の到来より一世紀とは距っていない一四三一年のことである。その後アステーク族は急激に勢力を増大し、附近の諸部族を武力によって征服しつつ、東は大西洋に、西は太平洋にまでその領土を拡張したのであった。元来は貴族政治の行われていたこの国土に、殆んど絶対的な王権を確立したのは、このアステーク族の仕事だと云われている。即ち十一二世紀にチチメーク族によって開始された武力統治の運動がここにその絶頂に達したのである。数多くの封建貴族は宮廷に於て直接にこの君主に奉仕した。しかしアステーク族の専制君主制は成立後まだ日が浅いのであるから、それを支えるためには依然として武力による強圧が必要であった。そうしてこの強圧の下に統一にもたらされている諸部族は、未だ緊密な団結を形成するに至っていなかった。ここにこの国家の脆弱点があったのである。スペイン人を極度に憤激せしめた血腥い人身犠牲の風習も、右の如きアステーク族の恐怖政治より出たものと見られている。アステーク族はその偶像の祭壇に捧げるために、メキシコ湾より太平洋に至る間の被征服諸部族から無数の人命を徴発した。それは毎年二万に上ったとさえ云われる。犠牲者の頭蓋骨はピラミッドのように積み上げてあるが、コルテスの従者の一人はただ一つの箇所で十三万六千の頭蓋骨を数えたそうである。被征服諸部族がこの恐怖政治からの解放を熱望していたのも当然のことと云わなくてはならぬ。
この解放の熱望を反映していたのが、武力政治以前のトルテーク族を記念するケツァルコアトゥルの神の崇拝である。元来メキシコには二千に上る地方神が祀られているが、アステーク族の民族神として最も多く人身犠牲を要求しているのは、ウィツィロポチトリの神であった。これはアステーク族をアナワク高原へ導いて来た祖先が神化されたものだと云われている。然るにケツァルコアトゥルは、もとトルテーク族の祭司でありまた宗教改革家であったと云われる。彼は人身犠牲を廃止しようとしたために、この国土から追われ、東の海岸から姿を隠したと信ぜられているのである。後に彼は空の神として、この民族に農耕及び金細工の技術を教えた恵みの神として崇敬された。この神は丈高く、色白く、波うつ髯のある姿に於て表象されている。東の海岸から姿を隠す時には、蛇の皮で作った魔法の舟に乗り、やがて何時かは帰って来てこの国を取り返すであろうと声明した。で全民衆は、この神が今に帰って来るだろうと信じていた。そこへ色の白いスペイン人が東の海のあなたから現われて来たのである。抑圧されている人々は、ケツァルコアトゥルの予言が実現されたと信じた。否、王さえもそう信じたのであった。
こういう国情のところへコルテスが乗り込んだのであって見れば、彼の一撃がこの王国の紐帯をほごして了ったのは、極めて当然のことと云わねばならぬ。メキシコの文化自体は、数百人のスペイン兵と十数門の大砲とに一つの王国の蹂躙を許すほど無力なものでも幼稚なものでもなかったのである。
トルテークの文化を継承し発展せしめた当時のメキシコに於ては、農耕は高度に栄えていた。とうもろこし、木綿、とうがらしのほかに、蘆薈、カカオ、ヴァニラなども取れる。蘆薈の葉の繊維は紙に、汁は酒にするのである。カカオの豆は小貨幣として通用し、チョコラトゥルにする。果物で最も愛用されるのはバナナである。煙草はパイプ又は葉巻で用いている。採鉱も盛んであるが、鉄はまだ知られていない。刃物には黒曜石の鋭い破片を使う。陶器は広く用いられているが、杯は木製である。木綿の織物は非常に巧みで、刺繍も行われている。市場は定期的に町で開かれ、極めて活溌である。道路網は駅亭と共に全国に行き亘っている。政府の命令は飛脚が送達する。軍隊の組織は、八千人を以て師団、三四百人を以て戦闘隊とする。軍服は飛道具を防ぐように厚い木綿の布で出来て居り、指揮官は金や銀の甲胄をつける。武器は、剣・槍・路棒・弓矢・投石器などである。学問は祭司の手中にあるが、中で珍らしいのは、二十日を以て一カ月、十八カ月と年末無名日五日とを以て一年とする太陽暦である。それによって祭日や犠牲日が規制せられている。象形文字は竜舌蘭の繊維から成る紙、木綿の布、精製された皮などの上に彩色を以て描かれる。同じやり方で王国全体や各州や海岸などの地図も出来ていた。
これは一つの纏まった、独自の文化である。が同時に極めて閉鎖的な文化である。メキシコ人の眼は同じアメリカの地の他の文化圏へは届かず、況んや大洋のあなたの国土を探求する欲求の如きは毛程もなかった、この閉鎖性もまた一つの弱点として、前掲の弱点に油をそそぐ役目をつとめたのである。
スペイン人到来当時の王はモンテスーマと呼ばれ、一五〇二年に即位した。アステーク族の王の常として、領土及び祀りの拡大に執心し、グヮテマラやホンデュラス、恐らくはニカラグヮへさえも、遠征を試みた。しかもメキシコの直ぐ東に山を距てて隣合っているトゥラスカラは、未だ王には服属していなかったのである。こういうことも国家の統一を不完全にする有力な原因となっていたであろう。そういう不完全さの現われとして、王は常に周囲に対する猜疑心になやまされていた。臣下が彼の眼を盗んで悪政を行っていはしないかと、夜毎に変装して巷に出で民の声を聞いたという如きがその一例である。王位の覬覦を怖れて血縁者を除いたという如きも他の一例である。それに加えて一五一六年にはチチメーク族の首府であったテツクコの君主が死に、その継承の争に王が一方に味方して他方を敵にした。かくの如く王は、大仕掛な遠征の事業にもかかわらず、身近に多くの敵を持っていたのである。
この情勢の中へスペイン人上陸の報が届いた。人々の頭に先ず浮んだのはケツァルコアトゥル再来の伝説である。海から出て来たこの色の白い人々は、追われた神の後裔に相違ない。本山たる神殿の塔が焼けた。東に不思議な光が現われた。三つの彗星が空に見える。これらは皆あの予言が充たされる前兆である。そう人々は考えた。王は評議会を開いたが、そこでは開戦論と平和論とが対立したので、王はおのが独立の意見を示そうとして、その中道を選んだ。即ち、コルテスに豊富な贈物をして、首府へ来ることはどうか思い止まってくれと頼んだのである。その贈物は、車の輪ほどの金と銀の円盤(これは日月を表徴する)、鉱山から出たままの純金の粒を盛った兜、その他多数の金細工の鳥獣、装飾品などであった。これらを土産として郷里へ帰ってくれというわけである。
しかしこの豊富な贈物はスペイン人を一層刺戟した。コルテスは、王に面談するよう命令を受けて来ている、と答えた。すると二度目の使が新しい贈物を持って現われ、前と同じ頼みをくり返した。コルテスは聴かなかった。宮廷との関係は悪化した。土人はスペイン人の陣営を遠ざかり、食糧をも寄越さなくなった。コルテスは当然窮境に陥ったわけであるが、その時彼の眼の前に現われて来たのがこの王国の脆弱点なのである。
コルテスの上陸したベラ・クルスの北方海岸にトトマーク族が住んでいた。これは肉体的にも言語的にもアステーク族と異った部族であるが、最近にモンテスーマに征服されたのであった。そのトトマーク族がコルテスをその町に招待したのである。この事件によってコルテスはメキシコ王国の中に味方につけ得る分子のあることを悟った。そうしてそれによって彼のメキシコ王国征服の方策が立てられ得たのである。
そこで彼は先ずその上陸地点にスペイン式の町を形式上建設した。ベラ・クルスの名はこの時につけられたのである。即ちそれはスペイン人の目標である黄金とキリスト教とを結びつけて Villa rica de la vera cruz(まことの十字架の富める町)と呼ばれたのであった。コルテスの腹心のものたちがこの新しい町の市会を構成する。その市会に於てコルテスはベラスケスから任命された職を辞する。市会は直ちにスペイン王の名に於て彼を最高司令官・裁判官に任命する。このお芝居によってベラ・クルスの町は国王直轄となり、キュバ総督から独立したのである。それを不愉快とした総督派は反抗を企てたが、直ちに弾圧された。
次でコルテスはトトマーク族の町に行き、盛大な歓迎を受けてこの町をスペイン領とする。神殿の代りにキリストの祭壇が築かれ、住民は洗礼を受ける。住民は僅か二、三万であったが、しかしこの事件の意義は非常に大きいのである。コルテスはこの町で、トトマーク族と同じようにアステーク族に対抗して未だなお征服されていないトゥラスカラ国のことを、詳しく聞いたのであった。そうしてトトマーク族に於て起ったことはトゥラスカラ国に於ても起り得るとの確信を得たのであった。
コルテスはアナワク高原へ侵入する前に、所謂背水の陣をしいた。先ず彼は兵士たちの同意を得て、それまでに獲得された黄金や装飾品を悉くスペイン王に送ることにする。次で市会は兵士たちに対してコルテスを最高司令官として確認するように懇請する。そこで総督派の軍人たちは秘かにキュバに帰ることを企てたが、発覚して首謀者は死刑に処せられた。コルテスはこの種の憂を根絶するために、一隻の小さい船を残してあとの全艦隊を海岸に乗り上げしめた。これは隊員全部の同意の下に公然なされたことであるという。もはや退路はない。前進あるのみである。
ベラ・クルスには兵百五十名騎士二名が守備隊として残った。遠征隊はスペイン兵三百、トトマーク兵千三百、人夫千、騎士十五名、砲七門を以て組織された。出発したのはこの地に到着後四カ月の八月十六日である。熱帯の低地から急に涼しくなる山脈を超えて五日間でアナワク高原へ出た。住民は穏かであったが、コルテスは戦闘隊形を以てトゥラスカラの方へ進んだ。この部族は十二世紀にこの土地に入り込み、幾度かの戦を経てここに定住したのであるが、王を頂かず四人の君主が共同に治める一種の聯邦を形成していた。アステーク族には烈しく抵抗して、未だ屈服していないのである。新来のスペイン軍に対しても烈しく抵抗した。その兵は十万であったと云われている。がコルテスは遂に大砲を以て決戦に勝った。九月五日である。コルテスは友交を申入れ、トゥラスカラ国はそれを受諾した。この外人たちはモンテスーマの敵なのである、というトトマーク人の説明が、非常によく利いた。モンテスーマを敵とするが故に、トゥラスカラ国はコルテスと結んだのである。この時コルテスのメキシコ征服は既に成ったと云ってよい。
モンテスーマは、その大兵力を以てしても容易に屈服せしめることの出来なかったトゥラスカラが、極めて脆く白人に敗れたと聞いて、この白人こそ久しく待望されていたケツァルコアトゥルの裔であろうという信仰を一層強めた。でまた彼は贈物を持った使者を寄越して、メキシコ国の首府に進軍することは危い冒険であるということを説かせた。のみならずスペイン王への貢を申出で金銀宝石彩布などの分量をコルテスの思い通りにきめてくれと頼んだという。しかしコルテスは頑として最初の声明を飜えさなかった。
コルテスの軍隊がトゥラスカラの町に入ったのは九月二十三日であった。グラナダよりも大きいこの町の大勢の見物の前で日々にミサが行われた。君主の娘をはじめ多くの貴族の娘が洗礼を受けてスペインの将校と婚姻を結んだ。かくてこの町で三週間の休養を取っている間に、コルテスはメキシコの国情や戦力を詳しく研究した。モンテスーマに掠奪され圧制せられている諸部族のメキシコ人に対する憎悪、権力を以て徴募せられた軍隊の奮わざる士気、などが一層明かとなった。僅か三百のスペイン兵を以てこの強大な武力統治国の首府へ乗り込んで行こうとするコルテスの大胆極まる離れ業の背後には、十分に冷静な観察や考量が存したのであった。
コルテスは六千のトゥラスカラ兵を加えてメキシコへの進軍を開始した。その途上チョルラの町が先ず占領せられた。この町はケツァルコアトゥルが海岸へ移る途上二十年間留まったところで、この神のために、全高一七七呎の段々の上に壮大な神殿が建てられ、その中に巨大な神像が祀られていた。これは人身犠牲を欲せざる神であるが、しかしこの町に人身犠牲の風習がなかったというのではない。神殿の他に四百の犠牲塔があった。犠牲となるべき男子や子供は檻の中に充満していた。スペイン人は先ずこれらの囚人を解放し、ついで陰謀の計画を見出したためにトゥラスカラの軍隊に掠奪・殺戮を行わしめた。大神殿も破壊焼却された。この先例を見て近隣の町々は急いで降服するに至ったのであった。
この町からメキシコへの道は二つの高山の間を通ずるのであるが、その峠の上から見晴らしたメキシコの谷の風景は非常に美しかった。永久に雪を頂いている山々の裾に、長さは十四五里、幅は七八里に達する湖水が横わり、それに沿うて数々の町や村がある。首府メキシコは湖中の島にあって、三方から堤道が通じている。当時は戸数六万、人口三十万以上の大都市で、サラマンカの町位の広さの大市場がいくつもあった。一一四段の階段で昇って行く高い壇の上に建てられた犠牲神殿は、家々の上に高く聳え立ち、四十の石造の塔に囲まれていた。やがて山を降りて湖水の側に出ると、水上に浮んで見えるこれらの塔や神殿や家々が、まるで夢幻境の風物のようにスペイン人らの心を蕩かした。湖水の側で宿営した宮殿は、美しく削った四角な石や、杉や、その他の香木で建てられ、どの室にも木綿の壁掛がかかっていて、この国土の富と力とが如何に大きいかを示すように見えた。
かくしてコルテスの軍隊が遂にメキシコの町に乗り込んだのは、一五一九年の十一月八日である。堤道は八歩の広さであったが、見物人の往来で通行困難を感じた。塔や神殿も悉く見物人に覆われ、湖にも一面に見物人の舟が群った。それも道理で、彼らは白人や馬を曽て見たことがないのであった。ところでこの無数の人の群の中を通って行くスペイン人はと言えば、僅か三百の小部隊なのである。「これほど大胆な冒険を企てた人々が曽てあったろうか」とベルナール・ディアスが記しているのも無理はない。
町の大通りではメキシコ王が、貴族たちのかつぐ玉座に坐し二百人の華やかな従者を従えて迎えに出た。スペイン人が近づくと王は玉座を降り、拡げられた敷物の上を歩いて来た。豊かな彩衣をつけ、緑色の羽飾りの冠を頂き、足には宝石を鏤めた黄金の履をはいていた。看衆は王を直視することは許されない。すべての人は恭しく眼を伏せた。コルテスは馬を降りて王に近づき、贈物としてガラス玉の鎖を王の頸にかけた。彼は更に王を抱擁しようとさえしたのであるが、それは神聖を涜すものとして側近の貴族に遮られた。王はコルテスへの豊かな贈物を残して従者と共に引上げて行った。
スペインの軍隊は楽を奏し旗を飜しつつ入城した。六千のトゥラスカラ兵もそれに続いた。町の中央の広い市場に面して戦神の高い殿堂と広大な旧王宮があったが、この後者を王は新来の客の宿舎に宛てたのである。ここでも好い室には彩布の壁掛があり床の敷物があった。コルテスはこの頑丈な建物の要所要所を固め、入口に大砲を据えた。夜になると王が訪ねて来て、ケツァルコアトゥルの伝説を詳しく物語り、これまでスペイン国やその王について聞いたところから判断すると、この王こそメキシコの正当な君主であると確信すると述べた。従ってコルテスはメキシコ王及びメキシコ国を自由に処理してよいのである。メキシコ国の降服は一日にして片附いたのであった。
しかしコルテスにとっては王の降服のみでは十分でなかった。翌日彼は四人の隊長を従えて王をその石造の宮殿に訪ね、顔が映るほどに好く磨いた大理石や碧玉や斑岩の壁の室、或は花鳥を繍した高価な織物のかかっている室で、王と会談したのであるが、その時コルテスは、モンテスーマをキリスト教に改宗せしめよとの王命を受けていると宣明し、教義の議論を始めたのである。しかし曽て最高の司祭の職にあったメキシコ王はこの議論を避けた。そうしてただスペイン王に臣事し貢を上る用意があることをのみ繰返した。即ち遠征の真の目的として標榜せられている点は未だ達せられていないのである。
一週間後にコルテスは王を捕虜としようと決心した。口実はベラ・クルスの守備隊が附近の酋長に襲撃された事であった。コルテスは王宮に赴いて王がこの襲撃を使嗾したのであろうと抗議し、酋長の処罰を要求した。王は同意して酋長の召喚を命じた。しかしコルテスはそれだけに満足せず、事件解決まで王が旧王宮に住むべきことをも要求した。王は息子と娘とを人質に出そうと提議したが、コルテスは王自身のみがスペイン人の安全を保証し得ると主張して譲らなかった。遂に部下は辛抱し切れず、同意せねば殺そうという恐嚇の言を吐いた。王はこの気勢に驚いて同意し旧王宮に移った。民衆には王の発意であると発表した。スペイン人も王を鄭重に取扱い、王としての日常のやり方は元のままに続けさせた。従って表面上何の変化もない如く見えたが、しかし王自身は深い苦痛を感じていたのである。
やがて問題の酋長は息子と十五人の部下をつれて首府に現われ、コルテスに引渡された。彼らはモンテスーマに使嗾されたことを自白し王宮前の広場で火炙りの刑に処せられた。王は使嗾者としてこの処刑の行われる間鎖につながれたが、そこから解放されても、もうおのれの王宮に帰ろうとはしなかった。彼の人民の痛憤、外敵に対する蜂起を、制止し得る自信はもう彼にはなかった。彼はスペイン人の保護の下に留まることを選んだ。幾人かの王族貴族はこの屈辱に堪え兼ねて兵を起そうとしたが、すべて失敗に帰した。王は酋長たち貴族たちの集会に於てスペイン王への忠誠を誓い、ケツァルコアトゥルの予言が今や実現されたのであると語った。「これからはお前たちの本来の主君としてカルロス大王に、またその代理者たる将軍に、服従せよ。お前たちが余に払った租税はこの主君に払い、余に仕えた如くこの主君に仕えよ。」かく王は涙と嘆息の内に語を結んだ。コルテスは公証人に降服文書を起草させ、双方それに署名した。
スペイン人は土人の官吏を従えて国中をめぐり、租税の徴集、スペイン王への貢物の受納を行った。モンテスーマも私財の中から数知れぬ金銀細工を提供した。かくして多量の「黄金」がコルテスの手に帰した。ただ一度の強圧手段で全国が平和の内にスペイン人の支配に移り行くかのように見えた。然るにそれを中断したのは、スペイン人の側に起った内訌と、それに刺戟されて起ったメキシコ人の反抗とである。
内訌は、キュバ総督ベラスケスが己れに叛いたコルテスを制圧しようとしたことによって起った。総督はコルテスの不埒を本国に訴え、コルテスを捕縛すべき遠征隊を送った。八十の銃兵、百二十の弩兵、八十の騎兵、十七八門の大砲等を含んだ八百名の軍隊、十八隻の船隊であるから、コルテスの遠征よりは遙かに有力である。ハイチの副王はキュバ総督のこの挙を阻止しようとしたが、駄目であった。で副王はコルテスに味方して、総督及び遠征隊長の罪を本国に訴えるに至ったのである。
遠征隊は一五二〇年四月二十三日にベラ・クルスに着き、上陸して、コルテスの守備隊に降服を要求した。守備隊長はこの使者たちを直接コルテスの許へ送ったが、コルテスは彼らを優遇しメキシコの事情を説明して自分の味方につけてしまった。新来の遠征隊全体を味方につける望みもないではなかった。ただ問題は隊長だけであった。でコルテスは隊長に和解を申込み、将校たちに多量の金を贈ると共に、七十名の部下と二千名の土人兵を率いて急遽山を下って行った。途中探検から引上げて来た部下や海岸の守備隊を合してスペイン兵二百六十名となった。その手勢を以て聖霊降臨節の前夜に新来遠征隊の宿舎を奇襲し、隊長を捕えたのである。その部下はコルテスに忠誠を誓った。従って結果としてはコルテスは増援軍を得たと同じことになったのである。
がその留守の間にメキシコに於て事が起ったのであった。残された守備隊は百四十名であったが、大きい犠牲祭の日に、王を奪還する企てを恐れて、群集を攻撃し、血を流したのである。その結果全市は蜂起して旧王宮の守備隊を猛烈に攻撃した。コルテスは全兵力をあげて救援に赴き、夏至の日に帰着した。その勢力は騎士九十、銃兵八十、弩兵八十を含めて千三百であった。しかしそれ位では防ぎ切れなかった。大砲で次々と打ち払っても、メキシコ兵は反って増大してくる。コルテスは遂に退却を決意し、王を利用して退路を作ろうと試みた。王は盛装して塔の段に現われた。民衆は鎮まった。王は声高く、「自分は捕虜ではない、スペイン人は退去を欲している」と云った。しかし民衆はこの言葉を怯懦のしるしとして受取り、王に呼びかけた、「王のいとこ、イスタッラパンの君公を王位に即けよ、スペイン人を鏖殺するまで武器を措かぬと誓え。」この言葉と共に霰のように石と箭が飛んで来た。楯で覆う前に王は多くの傷を受け、頭に当った投石のために気絶した。この屈辱はモンテスーマの心魂にこたえ、覚醒後にも一切の手当を拒んで、一五二〇年六月三十日に歿した。
王の死と共に攻撃は狂暴を増した。堤道の橋も悉く取り除かれた。食糧もつきた。翌七月一日の夜コルテスは、運搬の出来る橋を使って退却に取りかかった。陸からも湖上の無数の小舟からも石と箭が飛んで来た。恐ろしい苦戦であった。コルテスと共に町に入った千三百の兵のうち、逃れ得たのは四百四十名で、それも悉く負傷していた。大砲弾薬は悉く失われ、馬も四十六頭斃れた。それでもコルテスは敗残の兵を率いて退却を続け、湖水の西側を北に廻って七月七日には古都テオティワカン(神々の住居)に着いた。が最大の危機はなおその後に控えていた。古都東方のオトゥンバ平野で、この敗残の部隊は二十万と号するメキシコ軍に包囲されたのである。そこには絶望的な混戦があった。コルテス自身も投石によって頭部に負傷した。が彼はこの乱軍のなかで数騎と共に敵将に向って殺到し、これを倒して旗を奪った。それによってメキシコの大軍は崩れたのである。かくてコルテスは辛うじてトゥラスカラまで引上げ、傷の療養に努めたが、部下の士気は沮喪し、トゥラスカラ人の間にも動揺が起らぬではなかった。それを持ちこたえたコルテスの気塊は相当のものと云わなくてはならない。
一度降服したメキシコ国は、更に改めて武力を以て征服せられなくてはならなくなった。敗残のコルテスがかかる攻撃力を回復した道は、メキシコ人よりも優れた智力と技術なのである。傷病が癒えると共にコルテスの踏み出した第一歩は、トゥラスカラ人の助けを借りてその東南方の地方を征服することであった。それによって彼はこの際不可欠なトゥラスカラ人の信望をつないだのである。第二歩はキュバ総督が何も知らずに送って来た援軍を味方につけることであった。それによって彼の勢力は最初アナワク高原へ乗り込んだ時よりは強くなって来た。そこでメキシコに対する攻撃の方法として彼の考え出したのが、船による湖上の支配である。ヨーロッパの造船や操縦の技術によってアステークの戦舟を圧倒すれば、湖中のメキシコを孤立させることが出来る。かく考えて彼は幾隻かのブリガンティンを造らしめた。索具や鉄はベラ・クルスから持ってくる。船体はトゥラスカラで工作して湖へ持って行って組み立てる。これは太平洋を発見したバルボアがその征服のために最初に着手したと同じやり方なのである。
一五二〇年十二月中旬、コルテスは歩兵五百五十、騎兵四十、大砲八九門を以てテペアカを出発し、北方の山路を経てテツクコに進出した。そうして新造の十三隻の船が湖水へ進水出来るように、町から湖までの半レガの堀を十二呎の深さに掘り下げ始めた。他方では湖岸偵察のために遠征を試み、沿岸の町々を征服した。その内ハイチから歩兵二百、騎兵七八十の援軍がくる。コルテスは大胆にも湖水南端のホチミルコの町を襲い、危うく捕虜となりかけるような冒険をやった。こういう強気のやり方は、反対なしに行われたのではない。総督派はまた謀叛をたくらんだ。しかしコルテスは首謀者一人を死刑に処したのみで、一味の者を追窮しなかった。
一五二一年四月二十八日遂に堀は完成し、船が進水した。一隻に砲一門・兵二十五名である。このヨーロッパ風の軍艦十三隻の出現はメキシコの町の死命を制した。何故なら、これによって、数千の戦舟に取巻かれた堤道を進出するという困難が取除かれたからである。戦舟隊との最初の戦闘は予期以上にうまく行った。五百艘の戦舟が偵察にやって来た時、コルテスは初め引き寄せて置いて大砲を打ちかけ、船の操縦の巧みさで一挙に勝を占めるつもりであったが、突然陸の方から追風が起ったので、早速ブリガンティンをして満帆を張って敵舟隊に突進せしめ、メキシコの町へまでも追撃せよと命じたのである。無数の戦舟は突き沈められ、乗員は溺れた。追撃三哩に及び敵の舟隊は覆滅した。この一挙を以てコルテスは湖上の支配権を握ったのである。あとはこの軍艦に掩護されつつメキシコの町への堤道を徐々に追い詰めて行けばよかった。水道を絶ち糧道を絶たれた湖中の町が、いつまでも包囲に堪える筈はないからである。
この理詰めの攻撃に対してアステーク族はいかに抵抗したか。先王モンテスーマは運命を諦観して抵抗しなかったが、しかしそれはアステーク族の戦闘的性格を現わしたものではなかった。モンテスーマの歿後そのあとを嗣いだ弟は四カ月にして歿し、この当時は甥に当る二十五歳のカウーテモ(或はガテモ)が王位に即いていたが、この王の下にアステーク族は実にがむしゃらに死闘を続けたのである。彼らは湖中の堤道を絶ち切ってスペイン軍の進出を防いだ。一つの箇所が埋めつくされると背後に新しく堀を掘って関を作り頑強に抵抗した。陸にも水面にも荒々しい雄叫びが響きつづけた。従って死を辞せざる勇気という一点に於てはメキシコ人は決してスペイン人に劣ってはいなかったのである。しかし智力と技術とが優劣を分った。スペイン人は遂に町に達した。通りに造られた堡塁を大砲で打ち破り、それを越えて大神殿にまで進出し、再建された偶像を破壊した。この形勢を見てテツクコの君公は五万の兵を率いて降服し、他の町々もこれに倣ったが、しかしメキシコ人は屈しなかった。毎日毎日攻撃は繰返され、家は焼かれ、饑餓は迫ったが、しかし彼らはあらゆる平和条件を斥けた。このような頑強な抵抗が三週間続いた後、コルテスは遂に総攻撃を決行したが、混戦の最中コルテス自身は危うく捕虜にされそうになり、若い士官の身代りによって漸く助かった。スペイン兵の戦死四十、捕虜にされたもの六十二、ほかに同盟軍の損害多数であった。夜になると戦の神の殿堂の大太鼓が轟き、長い戦士の列が階段を昇って行った。そうして捕虜となったスペイン兵たちに羽飾りをつけ、偶像の前で舞踏をさせ、彼らを犠牲台に横えて胸を剖き生きた心臓を取り出して神に捧げた。それがコルテスの陣から見えたのである。この凶暴な敵に対して包囲軍も凶暴となった。八日間休養した後に再び総攻撃が開始された時には、町の家々は片端から破壊され焼かれた。王宮も炎上した。饑餓は激化した。住民は草の根や雑草や、また木材さえも喰った。それでもアステーク族は降服しようとしなかった。彼らは王国の没落のあとに生き残ろうと思わず、首府の廃墟の下に埋められることを欲したのである。
この包囲は一五二一年五月三十日より八月十三日まで七十五日間続いたのであった。それを終結せしめたのは、王が舟で脱走しようとしてブリガンティンに捕まったからである。饑餓で弱ってかつがつ動ける程度の男・女・子供の大群が、三日三晩堤道を埋めて引上げて行った。最後まで王が守っていた町の部分の家々は悉く死人に充たされ、生き残っている者も立ち上る力はなかった。死者の総計は十二万乃至二十四万と云われている。これが平時の人口三十万の町での事なのである。
メキシコ陥落によって近隣の諸部族も降服した。黄金の収穫は多大であった。コルテスは巧みに町の再建を計り、神殿のあとに教会を建てた。堅固な要塞にはブリガンティンを掩護する設備も設けられた。町に暴動が起っても湖上の支配を失わないためである。かくしてこの新しい町には一二年の内に二千のスペイン家族が定住し、一五二四年には人口三万を数えた。他方土人たちは、在来の国家組織・社会秩序を破壊されると共に、悲しむべき道義頽廃に陥り、征服者たちの下に奴隷化された。人身犠牲の風習が根絶されると共に、また在来の文化や産業も破壊されつくしたのである。
コルテスのメキシコ征服が本国より承認され、彼が新スペインの総督・総司令官に任命されたのは、メキシコ陥落の翌年一五二二年十月である。その後のコルテスの経綸は、メキシコに於けるスペイン権力の確立と附近の諸地方の探検征服とであった。特に太平洋への通路は彼の熱心な目標であった。初めにはテワンテペク地峡に於て、次にはホンデュラス湾の奥に於て、探し求められたが、見つかる筈もなかった。しかし彼は断念せず更に、北方へ、或は南方へ、探検の計画を立てた。それに比べて眼に見える効果が上ったのはグヮテマラ征服である。ここにはマヤ族がトルテーク文化を受けて美しい建築を造っていたが、一五二四年コルテス部下の遠征隊によって破壊され征服された。次でホンデュラスの征服も企てられたが、その遠征隊の司令官がキュバ総督に内応したため、コルテスは自ら一部隊を率い陸路ユカタン半島の根元を横断してホンデュラスの北岸へ赴いた。原始林と沼沢とを突破するこの行軍は実に困難を極めたものであったが、コルテスは遂にそれを強行した。しかし着いて見ると謀叛事件は夙くに片附いていた。のみならずコルテスの遠征隊全滅の噂の為メキシコに動揺が起った。コルテスが漸くメキシコに帰着したのは一五二六年の五月末である。がコルテスの全盛期はもう終った。四週間後に到着したスペイン政府の全権使節は、コルテスに対するさまざまの告訴について取調べを始めたのである。
コルテスが自ら直接に弁明すべく、多量の金銀や土産物を携え、勇敢な部下やトゥラスカラの公子や多くのメキシコ芸人などを伴れて本国へ着いたのは、一五二七年十二月であった。その本国で彼は、ペルー征服の計画に対し政府の支持を求めに帰って来たピサロと落ち合ったのである。それは云わばメキシコ征服の日が西に傾いて、ペルーの征服の月が東の地平線上に上って来た瞬間であるとも云えよう。コルテスの弁明は聴かれ、オアシャカの地に広い領地も給せられたのであるが、しかしメキシコの支配権はもはや彼の手に残らなかった。彼はただ軍司令官に過ぎなかった。一五三〇年春メキシコに帰り、暫く領地の整理に努めた後、一五三二年、一五三三年と引き続いて太平洋岸に探検隊を派したが、皆思うように行かなかった。一五三五年から一五三七年にかけては自ら乗り出して見たが、カリフォルニア湾を北上しただけで、得るところはなかった。新スペイン副王は遂に爾後の探検を禁じた。それを憤ったコルテスは王の裁決を請うべく一五四〇年に再び本国に帰ったが、王は冷淡で埒があかず、愚図愚図しているうちに、一五四七年十二月、六十三歳にして歿した。彼の歴史的な意義は二十五年前のメキシコ征服を以て終っていたのである。
六 ペルーの発見
華々しいメキシコ征服が刺戟となってその後間もなく惹き起されたのがペルー征服の事業である。そうしてその主役は前にオヘダ及びバルボアの探検に際して登場したフランシスコ・ピサロなのである。
ピサロはコルテスの母方の一家の出で同じエストゥレマドゥラ州に生まれ、コルテスよりは数年或は十数年の年長であったらしい。庶子であった為にひどい取扱いを受け、読み書きさえも教えられなかった。豚の番人か何かをしているうちに新世界への冒険熱にかぶれて故国を後にしたのであるが、その際彼ほど残り惜しさを感じなかったものはなかろうと言われている。同じ代表的な征服者でも、サラマンカ大学に学んだコルテスと文字さえ読めぬピサロとの相違は、やがて事業の上にはっきり現われてくるのである。
オヘダの探検隊に於て彼が頭角を現わしたのは、セルバンテスの作中にでもなければ比類を見出し難いような騎士的性格と武功との故であった。次でバルボアと共に太平洋に進出する冒険旅行を遂行し、その翌々年にはモラーレスと共に真珠諸島を攻略して、遙か南方にある強国のことを再び聞き、その冒険欲をそそられたのであったが、総督ペドラリアスが首府をパナマに移した後には、総督の試みる北方への探検に従事し、相当に名を現わしはしたが、僅かにパナマ近隣の不健康地の領主となったに過ぎなかった。年はもう五十に近づいたか、或はそれを超えたかなのである。
丁度その頃一五二二年にアンダゴーヤが南方ビルーまで探検して帰った。(このビルーが訛ってペルーとなったとも云われている。)他方にはコルテスの華々しい事業が人心を刺戟している。パナマの人心は期せずして南方への探検に向った。が南方の黄金国の秘密は未だ何人にも開かれていない。そこへの道のりも見当がつかぬ。ただ南方への航海の困難さだけが少し解っている程度である。従って最も大胆なものも手が出せなかった。その時ピサロはこの探検に熱中する二人の相棒を見つけ出したのである。一人はディエゴ・デ・アルマグロで、ピサロより少し年長であったらしい。素姓はよく解らぬが、勇敢な軍人として知られていた。もう一人はパナマの司教代理エルナンド・デ・ルケで、相当知識も広く、土地の信望を集めていた人らしい。それによってルケは金策につとめ、アルマグロは船の艤装や食糧の調達に奔走し、ピサロは遠征を指揮するということに相談がきまった。総督もすぐに同意を与えた。アルマグロは機敏に活動を始め、二隻の小さい船を手に入れた。一隻は前にバルボアが南海探検のために造ったものである。乗員の募集はそれよりも困難であったが、それでも彼は百人ほどの人を集めた。かくしてピサロは遂に一五二四年十一月にパナマ港を出発することが出来たのである。アルマグロは二隻目の準備が出来上り次第あとに続く筈であった。
ピサロのこの第一回航海はパナマ地峡に近いコロンビアの海岸をうろついただけであったが、しかしその苦労は大変なものであった。先ずビルーの河を二三レガ遡江して上陸して見たが、沼沢と原始林と暑熱とでどうにもならない。諦めて船に帰り少し沖に出ると、ひどい暴風が十日間も続いて揉み抜かれる。食糧や水が欠乏して皆がへたばってくる。陸に船をつけて見ても全然望みのない密林のみである。士気は崩れ、帰航を望むものが多くなった。しかしピサロは退こうとしない。発見者の苦難を説き、成功の華やかさを述べて士気を鼓舞しようと努める。遂に船と半分の隊員を真珠諸島へ送り、食糧の補給を企てたが、自分は密林の中に残って元気に部下を労わりつつ、貝や椰子の芽や木の実で命をつないだ。数日で帰る筈の船は幾週間か経っても帰らなかった。数少い隊員の中から二十人以上の死者が出た。もう餓死するほか道はないという危機に立った時に、燈が見えると報告したものがあった。人々は密林を突破して小さい土人の村に出で、とうもろこしやココアを見て驚喜したのである。
白人の突然の出現に驚いて姿を隠した土人たちは、危害を加えられる恐れのないのを見て帰って来た。この時の土人の質問がいかにも類型的である。「他所へ出て他人のものを盗む代りに、何故に自家にいておのれの土地を耕さないのか。」その答は、土人たち自身が身につけている金の飾りであった。ピサロは熱心に南方の黄金国のことを聞いた。土人は、山越しで十日行くと力強い君主が住んでいる。その国はもっと力強い日の御子に侵略された、と語った。
七週間経って船が帰って来た。食糧にありつくと冒険者たちは前の苦難を忘れてまた前進に移った。相変らず岸伝いに、所々上陸しつつ進んだ。土人の家や土人の町を見つけては丹念に金の痕跡を追究した。その町では土人の勇敢な抵抗に逢いピサロは遂に負傷するに至ったが、丁度船も破損がひどくなっていたので、探検を切上げて帰ることにしたのであった。この間アルマグロの第二船はピサロのあとを追いつつ追い越して、北緯四度あたりサン・フアン河まで行ったが、めぐり逢うことが出来ずに引上げて来た。
第一回探検の不成績は総督ペドラリアスの機嫌を悪くした。それを極力取りなしたのがルケ師であった。結局総督は成功の際千ペソを受けることにして再挙を承認した。これはこの不評判な総督の在職最後の年のことである。そこでピサロ、ルケ、アルマグロの三人は改めて契約書を作った。ルケは二万ペソを出資する。征服された国土は悉く三人で均分する。金銀宝石等の宝物のみならず、スペイン王が征服者に授けると思われる特権から発生すべき報酬・地代・奴僕等の悉くをも、三分するのである。が失敗の際には、二人のキャプテンはその全財産を以てルケの出資を賠償しなくてはならぬ。この誓約は極めて厳かな儀式を以て行われ、その狂熱的な態度の故に傍観者は涙を催さしめられたという。それは一五二六年三月十日のことであった。「平和の王の名に於て彼らは掠奪と流血とを目ざす契約を承認した」(Robertson; America. Vol. Ⅲ p. 5.)と云われている。が彼らはその掠奪と殺戮とを行うべきペルー帝国の実情については、未だ何も知っていなかったのである。そういう未知の富強な帝国を、三人のあまり有力でもない男が、自分たちの間に分配したという事実は、この発見の時代と、新しい世界に於ける社会との、性格を、明かに示していると云ってよい。
準備は迅速に進められた。第一回航海の失敗やパナマの町での不評判にも拘らず、前の隊員は殆んど全部加わって、百六十九名になった。数匹の馬も手に入った。弾薬や武器も前よりは豊富であった。二隻の船も前よりは上等であった。のみならずバルトロメー・ルイスという優れた船長が乗組んだ。それにしても一つの帝国を征服しようという軍勢ではない。ここにも当時の冒険家の性格が現われているのである。
二隻はパナマを出発して真直にサン・フアン河まで南下した。ここは前回にアルマグロの到達した最南端であるが、今度は数日にしてそこに着いた。ピサロは上陸して土人の村を襲い金の飾りを手に入れた。この収穫に気をよくした彼らは、この獲物を餌にもう少し増援隊を募集すべくアルマグロを帰還させた。他方ルイスをして南方沿岸の偵察に出発せしめたが、ルイスは陸に上らず、土人との衝突を避けつつ、南下して行った。南へ行くほど文化も人口の密度も高まった。サン・マテオ湾(北緯一度半)では岸に見物人が群って、恐怖も敵意も見せずに、白人の船が水上を辷って行くのを眺めていた。そこから沖へ出て間もなくルイスは海上に帆影を認めて驚いたのである。この地方へ彼よりも先にヨーロッパの船が来ている筈はない。またアメリカ土人は最も開けたメキシコ人でさえ帆の使用を知らなかった。一体あの船は何であるか。ルイスは強い関心を持って近づいて行ったが、それは土人がバルサと呼んでいる大きな筏風の船であった。船上には男女数人の土人があり、中には豊かな装身具をつけている者もあった。また積荷の内には相当に巧妙な金銀細工もあった。が最も驚くべきは彼らの衣裳の中に用いられている毛織物であった。繊巧な織り方で、花鳥の繍があり、華やかな色に染められている。それに驚いたルイスは土人の話によって一層驚かせられた。土人の内の二人はペルーの港トゥンベスの者であったが、その町の近傍では、この毛織物の毛を取る家畜の群が野原を覆うているという。しかも王宮に行けば金銀はこの毛ほどに沢山あるという。ルイスはこういう報道の証人として二三の土人を船に留め、あとを解放したが、その後は赤道を越えて半度ほど南へ出ただけで引返して来た。
ルイスがこのような新発見をしている間に、ピサロは相変らず原始林と取組んで饑餓になやんでいた。隊員の或者は鰐に食われ、或者は土人の奇襲に斃れた。ピサロと数人の部下を除いては隊員は悉く帰還を切望するようになった。丁度そこへルイスが吉報をもたらして帰って来たのである。その後間もなくアルマグロもまた食糧と八十名余の増援隊と新任の総督が肩を入れてくれるという吉報とをもたらしてパナマから到着した。士気は俄かに回復し、隊員は前進を切望するようになった。
が南進を始めて見ると、都合のよい季節はもう過ぎ去っていた。逆風と逆潮とで困難なばかりでなく、あらしがしばしば起った。そういう難航を続けてピサロはルイスの足跡を辿ったが、南へ行けば行くほど土地や人民の開けてくることは実に顕著であった。海から望むと、原始林の代りに広々としたとうもろこしや馬鈴薯の畑が見える。部落の数も多くなる。タカメスの港まで来ると二千戸以上の町が眼の前に横わった。男も女も金や宝石の飾りをつけていた。いよいよ南方の黄金国へ来た、と人々は感じた。がそれと共に土人の勇敢な態度も目立って来た。軍人の乗った小舟がスペイン船のまわりを警戒する。岸には一万もあろうかと思われる軍隊が勢揃えをしている。土人と会商するつもりで部下と共に上陸したピサロは、優勢な敵軍に取囲まれて危地に陥ったが、その時偶然にも一人の騎士が落馬したために助かった。というのは、一つのものと思っていた騎馬武者が突然馬と人とに分れたので、土人たちは喫驚して退いたからである。
ピサロの探検隊を以て土人の軍隊と戦うことは不可能である。いかにすべきであるか。弱気の者は探検の中止を主張したが、アルマグロは聴かなかった。隊員中パナマに債鬼を控えていないものは一人もなかろう。このまま帰れば彼らの手中に陥って牢屋へ放り込まれる。どんなにひどい未開地であろうと、自由人として歩き廻る方がよいではないか。もう一度ピサロにどこか工合のいい所で頑張っていてもらおう。自分はパナマへ帰って増援隊をつれてくる。これがアルマグロの提案であった。それを聞いてピサロは怒り出した。船の上で愉快に日を送る君はそれで好かろう。しかしひどい未開地に残って食う物がなくて弱って死んで行くものにとってはそうは行かない。アルマグロも赫となって答えた。君がいやなら僕が残ろう。かくて双方は激昂し危うく剣を抜こうとする所まで行った。それをなだめたのはルイスと会計方とであった。結局アルマグロの計画を実行することになり、数日の間沿岸を探したが、土地の開けている限りは土人の警戒が厳重であった。しかしずっと北へ帰れば、原始林が土人よりも一層怖ろしい。そこで選ばれたのが北緯二度のトゥマコ湾にあるガロという小島である。ここでピサロは隊員と共に頑張ることになったが、この決定を聞いて隊員中には甚だしい不平が起った。
アルマグロはこの不平の声がパナマに聞えないように、残留隊員の託した手紙を押えたのであったが、木綿の球の中に隠した手紙には気附かなかった。その木綿は産物の標本として総督夫人の許に届けられ、中の手紙もその手に渡った。それは自分たちの惨めな境遇を訴えて総督に救済を求めたものであった。総督はルケやアルマグロの弁解を聴かず、二隻の船を救出に送った。ガロの島へ行って見ると、果してピサロの探検隊は惨憺たる状態にあった。それは前の原始林の場合よりもっと酷かったと云ってよい。人々は半裸体で、餓え疲れて、へとへとになっていた。救いの船で一刻も早くこの島を離れたがった。
この時がピサロの事業の最大の危機であったかも知れぬ。が同じ船でルケとアルマグロの手紙が届き、現前の窮境に絶望せず本来の目的を固守すべきこと、その場合には間もなく前進に必要な手段を講ずることを云って来ていたのであった。ピサロは一歩も退こうとしなかった。しかしまた隊員を説得しようともしなかった。彼は剣をぬき、砂の上に東西に線を引いて、南を指しつつ、「あちらの側には、労苦、饑餓、真っ裸、びしょぬれになる暴風、置き去り、そうして死がある。」また北を指しつつ、「こちらの側には安楽と快楽とがある。――あちらには富めるペルーがある。こちらには貧しいパナマがある。勇敢なカスティレ人にふさわしい方を、めいめいに選んでくれ。自分は南へ行く。」こう云ってピサロは線をまたいだ。彼に従ったものは船長ルイスを始め、十三人であった。救援隊の隊長は彼らの不従順を怒ったが、彼らは頑として退こうとしなかった。食なく、衣なく、武器なく、船もないのに、この僅かな人数で彼らは、強力な帝国に対する十字軍を遂行しようとして、この孤島に留まったのである。こんなことは騎士の物語のうちにもその例がない。
ルイスだけは後図を計るために救援船でパナマへひき返したが、あとの十三人はガロ島から二十五レガほど北方のゴルゴナの島へ筏で移った。ガロの土人が引返してくる危険を恐れて無人島を選んだのである。ここには森があって鳥や獣を狩することが出来た。清水もあった。そこに小舎を建てて、毒虫に悩まされながらも、ピサロは朝の祈りや夕のマリアへの讃歌やさまざまの祭りを勤めつつ、この冒険事業の十字軍的な色彩を強化することに努めた。信仰が士気を鼓舞するからである。かくして彼らは日々水平線を見張りながら、何カ月かを過した。その日その日が失望に暮れて、また追々に絶望が近づき始めた。それが、水平線の彼方から現われてくる白い帆によって救われたのは、七カ月経ってからであった。
パナマの総督はピサロの頑固な態度に腹を立て、かかる自殺的行為をなす者には一切援助を与えてはならぬという態度を取った。しかしルケとアルマグロとは熱心に総督を口説いた。遂に総督も渋々一隻の船の派遣に同意した。しかし航海のために必要である以上の船員の乗組を禁じ、ピサロには六カ月以内に帰還せよとの命令を下した。そこでアルマグロは小さな船に食糧と武器弾薬とを積んでやって来たのである。ピサロはこの事情をきいて失望したが、しかし南方の黄金帝国の存在を突き止めることは出来ると考えた。そこで前から捕えて置いたトゥンベスの土人の案内で、とにかくトゥンベスを目ざして南下したのである。
今回は前に上陸したあたりでも陸にふれず、前にルイスの到達した南端をも通り越して、ヨーロッパ人の曽て踏み入らなかった海域へ入った。沿岸の地勢も前と変ってなだらかな斜面になり、所々に非常に豊かな農耕地を見せるようになった。海岸に建ち続いている白い家や、遠くの丘から立ち上る烟なども、これらの国土の人口稠密を思わせた。そういう景観を眺めつつ、二十日ほどして、船は静かに美しいガヤキル湾に辷り込んだ。コルディレラの山脈はここでは海に迫っているが、しかし海岸には町や村があちこちにあり、美しい緑の地帯が土地の豊沃を示している。スペイン人たちは歓喜しつつトゥンベス湾口の小島のそばに投錨した。
翌朝船は湾を横切ってトゥンベスの町に近づいた。これはかなりの広さの町で、石と漆喰で出来たらしい建物が多い。背後には灌漑の行き届いているらしい豊かな牧場がある。その景色を眺めていると、軍人を満載した数隻の大きいバルサスが遠征に出掛けて行くのが見えた。ピサロはそれに添うて航行しつつ酋長たちを招いた。彼らはスペイン人の船に上って珍らしそうに眺めていたが、特にそこに同国人を見出して驚いたのであった。その同国人は彼らに身の上を話し、この不思議な外来人は害を与えに来たのでなくただこの国とその住民とに近づきになるために来たのであることを説明した。ピサロもそれを保証し、早く帰って町の人にこのことを知らせて貰いたいこと、友交が望みなのであるから船に生鮮食糧を供給して貰いたいことなどを要求した。
トゥンベスの町の人は海岸に集ってこの浮べる城を不思議そうに眺めていたが、右の報道を聞いて急いでこの地方の支配者(クラカ)に訴えた。クラカは外来人が何か一段上の生物であるに相違ないと考え、即刻右の要求に応じた。間もなく数隻のバルサスが、バナナ、ユカ、とうもろこし、甘藷、パインアップル、ココナッツ、その他鳥・魚、数頭のラマなどを積んでやって来た。ピサロはこの時ラマの実物を初めて見たのである。のみならず丁度この時トゥンベスに来合わせていたインカ貴族が、珍らしがってこの不思議な外来人を見物しに来た。ピサロは恭しくこれを迎えて船の中を案内し、さまざまの機械の用法を説明した。インカの貴族は特にピサロたちが何処から、何故に来たのであるかを知りたがった。ピサロは、このインカ帝国との最初の接触に於て、明かに次の如く答えたと云われている。
自分は、世界中で最も偉大な、最も力強い王の家臣である。自分はこの主君がこの国の合法的な最高権を持つことを主張するためにやって来た。更にもう一つ、ここの住民を現在の不信仰の闇から救い出すためにやって来た。彼らはその魂を永劫地獄に陥れる悪魔を礼拝しているのである。自分は彼らに真実の唯一の神、エス・キリストの知識を与えたい。キリストを信ずるのが永久の救いであるから。
(Prescott; History of the Conquest of Peru. p. 271.)
これは明白に征服の宣言である。それをインカ貴族は注意深く、不思議そうに聞いていたが、返事はしなかったという。一体通弁が右のピサロの宣言を理解し、また飜訳し得たのかどうか。元来これらの概念を簡単に伝え得る言葉が、インカ帝国にあったのかどうか。それらは明かでない。がとにかくインカ貴族は晩餐の時まで船に留まり、ヨーロッパ料理を賞美した。特に葡萄酒はこの国の酒より遙かに優秀であると云った。別れに臨んで彼はスペイン人をトゥンベスの町へ招待したが、ピサロも彼に鉄の斧を贈った。鉄はメキシコにもペルーにも知られていなかったので、彼は非常に喜んだ。
翌日上陸したのは十三人の内の一人であるアロンソ・デ・モリナであった。彼はクラカへの贈物として、アメリカの地に産しない豚と鶏を携えて行き、夕方果物や野菜の補給を受けて帰って来たが、その報告によると、土人たちは彼の着物や皮膚の色や長い髯などを珍らしがり、特に婦人連が非常に款待したという。また伴につれたニグロの皮膚の色をも珍らしがり、擦ってその色をはがそうとした。鶏が鳴いた時には手を打って喜び、今何を云ったのだとたずねた。やがてクラカの住居へ案内されたが、そこでは金銀の器を多量に使っていた。また堅固な要塞の隣りにある神殿は金や銀で眩しく輝いていた。そういう報告があまりに誇大に感ぜられたので、ピサロはもっと思慮深い、信用の出来る偵察者を送ろうと考えた。
翌日、十三人の先頭であったペドロ・デ・カンディアが、甲胄に身を堅め、剣をつるし、銃を肩にして上陸した。それが日光にきらきらと輝くのを土人たちは驚嘆して眺めた。鉄砲の評判は既に土人の間に広まっていたので、彼らはそれが「語る」のを聞きたがった。カンディアは板を的にして、ねらいを定めて発射した。火薬の閃めき、爆発音、的の壊れる音。土人たちは恐怖に打たれた。カンディアがにこにこ笑っているので、やっと落ちついたようであった。ところでカンディアの視察は、ただモリナの報告を確めただけであった。のみならず彼は神殿の隣りにある尼院の庭に入って、純金や純銀で作った果物や野菜の装飾を見て来た。そこでは数人の職人がなお熱心に新しい細工を作りつつあったのである。
スペイン人たちはこの報道を受けて喜びの余り殆んど狂気せんばかりであった。永年夢みて来た黄金の国に彼らは遂に到着したのである。ピサロは神に感謝した。がその宝を手に入れようにも、彼の手には軍隊がなかった。遠征に着手して以来、この時ほど彼が武力を持たなかった時はないのである。彼はこの当時にはひどくそれを口惜しがったが、しかし後にはこのことを神の恩寵として感謝した。何故ならこの時にはまだインカ帝国の内乱は起って居らず、乗ずる隙はなかったのだからである。
征服の仕事に着手出来ないピサロは更に南下して沿岸の探検に従事した。到るところの港で土人は、果物・野菜・魚などをもたらして新来の客を款待した。顔色の明るい、輝く甲胄を着て雷火を手にした「太陽の子」らは、行儀正しく優雅であるという評判が、既に国中にひろまっていた。それと共にピサロは、いくら南下してもこの強大なインカ帝国が続いているのを見出した。そこには水道や運河で巧みに灌漑された豊沃な耕地があった。石と漆喰の建築があった。手入れの届いた街道があった。かくしてピサロは南緯九度あたりまで探検して引返したのである。
土人の款待と征服者たちのおとなしい態度とに就て、極めて示唆するところの多い挿話が一つある。それはサンタ・クルスと名づけられた土地での貴婦人の款待である。ピサロは帰り途にも寄ると約束したが、帰路その村の沖に投錨すると、すぐに貴婦人は伴をつれて船を訪ねて来た。そうしてピサロたちをその邸に招待した。翌日ピサロが訪ねて行くと、匂の高い花で飾った緑の枝の四阿が出来ていて、その中にペルー料理がどっさり並んで居り、名も知らぬ果物や野菜もうまそうに盛ってあった。食事の後には若い男女の音楽と踊りが催され、しなやかな肢体の優美さ敏活さを見せてくれた。最後にピサロはこの親切な女主人に自分がこの国へ来た動機を述べ、携えて来たスペインの国旗をひろげて、スペイン王への臣事の記念にこれを掲げてくれ、と云った。女主人たちはこの国旗掲揚の意味が十分に解らなかったと見え、至極上機嫌で、笑いながら旗を掲げた。ピサロはこの形式的な征服に満足して船に引き上げた、というのである。
ピサロはこの南方の黄金帝国の確証をもたらして、十八カ月目にパナマに帰った。その与えたセンセーションは実に大きかった。彼らはもはや夢想家でも狂人でもないのである。しかし総督はこの期に及んでもなおこの発見の意義を理解せず、今後の保護を拒んだ。もはや王に訴えるほか道はなかった。その使にはピサロが立つことになり、一五二八年の春パナマを出発したのである。本国でメキシコ征服者コルテスと落ち合ったのはこの時であった。
七 インカ帝国
ピサロの発見したインカ帝国とは如何なる国であったか。
インカの建国はスペイン人の渡来より四百年前、即ち十二世紀初めのことと推定せられているが、しかしこれは確実でない。人によると更に古く五百年と云い、また新しく二百年位に引き下げる。チチカカ湖畔の広大な廃墟の示すところによると、インカの時代以前に既に文明の進んだ国があった。しかしそれが如何なる種族で何処から来たかはよく解らない。インカの起源についても同様である。恐らくこの帝国は徐々に成立し拡大して行ったものであろう。幾分確実な史実の捉えられ得るのはスペイン人渡来前一世紀間のことだと云われている。
ペルー人自身の語る建国神話によると、初代のインカは天より降臨した日の子なのである。日の神は人類の堕落状態を憐れんで、これに共同態の結成や文化的な生活の術を教えしめるため、その子マンコ・カパクとママ・オェロ・ワコとの兄妹を地上に送った。この妹と兄は高原をつたってチチカカ湖畔に出で、更に進んでクスコの谷まで来たが、ここで携えている金の楔がおのずから地中に没して見えなくなった。この奇蹟の起る場所に停まれというのが日の神の命令だったのである。そこで日の子どもはこの地に住居を定め、日の神の意志通りに慈悲の仕事を始めた。マンコ・カパクは農業を教え、ママ・オェロは紡織の術を教えた。人民はこの日の子らの教に従い、集まってクスコの町を築いた。このマンコ・カパクが初代のインカで、その後代々慈悲の伝統を守り、温和な支配を続けて、インカ帝国の大をなした。
この種の神話が歴史でないことは云うまでもないが、しかしスペイン人の見たインカ帝国には、この神話が生きて働いていたのである。
先ず第一にクスコの町がそれを示していた。この町は、アルプスでならば年中雪が消えることのない高さの高原にあって、北方にはコルディレラの一支脈が続き、市中には清い川が流れている。家は皆一階で、貧しい家は土と蘆で作られているが、しかし王宮や貴族の邸宅は重々しい石造である。街路は狭いが、所々に大きい広場がある。この町に日の神の大神殿があって、全国より順礼が集まってくるのである。その神殿の結構の壮大さは新しい世界に於ける第一のものであり、装飾の高価な点に於ては旧世界のどの建築もこれに及ばないだろうと云われている。この大神殿がインカの神聖性を表現していたのである。
それと共にこの町には神聖なインカの権力を表現する大要塞があった。それは町の北方の丘の上にあって、厚い壁に取り巻かれ、地下道で町と王宮につながっている。構築には巨石を用い、つなぎ目は密着してナイフの刃も入らぬ。巨石の或るものは長さ三十八呎、広さ十八呎、厚さ六呎に達している。大阪城の巨石とほぼ同じ大きさである。それをペルー人は鉄の道具なしで山から切り出し、牛馬なしで四里乃至十五里の距離を運び、川や峡谷を越えてこの丘の上まで持ち上げた。そうして石と石の間をぴっちりと接合した。その技術も驚くべきであるが、土工二万人を使用し五十年間を費したと云われるその専制的な権力の大いさにも驚くべきであろう。
このような権力を有するインカの位は、マンコ・カパク以来王統一系を以て伝えられたと云われている。インカの妃嬪は多数であるが、位を嗣いだのは正式の王妃の長子であったらしい。そうしてその王妃はインカの姉妹から選ばれた。ペルー人から見るとこれが日の神の血統を最も純粋に保つ所以だったのである。
しかしインカという名は王位に即いたもののみに適用されたのではない。マンコ・カパク以来の男系の子孫は悉くインカと呼ばれた。つまり王族も亦インカなのである。ペルー君主制の実際の力はこの王族によって支えられていた。彼らも日の神の子孫であることは王と同様であり、従ってその貴族たる所以を神から受けている。従ってその感情も利害も共同であった。彼らは支配階級として、血統のみならず言語・服装をも一般社会のそれと異にしていた。その王族が王室の藩屏として王位を護っていたのである。国内の重要な地位は王族によって占められて居り、それらと中央政府との通信連絡も極めて緊密であった。のみならず彼らの智力的優越は人民に対する彼らの権威の主要な源泉であった。ペルーの特殊な文化や社会組織を作ったものはこの王族の智力であると云ってよい。従ってそれらはインカの文化でありインカの社会組織なのである。尤も地方にはインカ族以外の貴族クラカが重要な地位を保っていた。しかしクラカの行うところはすべてインカを模したものであった。
インカの王子は幼時より「賢者」の手によって神事と軍事とを仕込まれるのであるが、特に軍事はインカ貴族の子弟らと共に軍事学校に於て教育された。十六歳になると、成年式の準備としての公の試験をうける。試験官はインカ中の最も有名な長老たちである。その前で受験生たちはあらゆる種類の武芸を演じ、断食を行い、戦闘演習をやる。これが三十日位続くのであるが、その間王子も同じように土の上で寝、裸足で歩き、粗衣をまとって苦労する。それが終ると及第者たちは王の前へ出て成年式に与るのである。王はこの若者たちの及第を祝し、王族としての責任を説いて聞かせる。日の神の子らよ、我々の偉大なる祖先が人類に対して行ったあの栄ある慈悲の業をまねよ、という。そうして一人一人に黄金の耳飾りを着けてやる。そのあとにインカの地位を示す履とか、成年を示す帯とか、花の冠とかが続く。インカ貴族たちが集まって王子に祝をのべる。全集団は広場に出て祝賀の祭を行う。これらのことを見聞したスペイン人は、中世のキリスト教騎士の成年式との酷似に驚いたと云われている。
以上の如くインカ貴族の子弟と同じ様にして成年に達した王子は、今や父王の政治や軍事に与る資格があると認められる。遠征などの際には、長年父王に仕えて来た名ある司令官の下につくのであるが、やがて経験が積んでくると、彼自身軍司令官に任命せられる。そういう仕方でインカの王子は王にまで仕立て上げられるのである。
インカの王の統治は、性格に於ては温和であったが、形式に於ては純粋な専制政治であった。元首は臣下よりも計り難いほど高く位している。王と同じく日の神の子孫たるインカ貴族の中の最も有力なものでも、裸足になって、肩に尊敬の印の荷を担わないと、王の前へは出られなかった。王は日の神の代表者として祭司全体の頭首であり、最も重要な祭儀は自らこれを司った。王は軍隊を召集し自らこれの司令官となった。王は租税を課し、法律を作り、任意に司法官を任命した。彼はあらゆる威厳・権力・俸禄などの源泉であった。つまり「王自身が国家であった」のであった。
プレスコットはインカの専制政治が東洋の専制政治と似ていることを指摘したあとで、その相違を次の如く云っている。東洋のそれは物質的な力に基いているが、インカの権威は最盛期の教皇のそれと比較さるべきである。しかし教皇の権威は信仰に基くのであって現世の権力に基くのではない。然るにインカ帝国は両方に基いている。それはユダヤの神政よりももっと力強い神政であった。インカは神の代表者或は代理者たるに留まらず、神そのものなのである。彼の命令を犯すことは冒涜なのであった。このような、臣下の内心をまで支配しようとするような強圧的な政治は、他に類例がない、と。
インカの王はその尊さを現わすために物々しい生活の仕方を執った。その醇美な衣裳、豪奢な装飾、珍奇な鳥の羽に飾られた王冠、すべて臣下のまねし得られぬものであった。しかしまた彼は時々臣下や民衆の中に降りて来た。大きい祭儀を自ら司った際には、貴族たちを食卓に招いて彼らの健康のために杯をあげた。数年に一度ずつは、国内を巡行して、民衆の声を聞いた。街道には人民が立ち並んで小石や切株を掃除し、匂の高い花をまき散らしたり、荷物を村から村へ運ぶのに競い合ったりした。王は時々停まって民の訴えをきいた。行列が山道をうねうねと曲るところなどでは、元首を一目見ようとする見物人が一杯であった。王が輦の帳をかかげて姿を現わすと、王の万歳を唱える声が轟き渡った。駐輦の場所は聖化された場所として何時までも記念されるのであった。
王宮もまた豪奢なものであって、国中到るところにあった。低い石造で外観の美はないが、内部の装飾や設備が大変なものなのである。室の壁には金や銀の装飾が厚く嵌め込んであった。壁の凹みには金銀製の動植物の像が一杯になっていた。台所道具から下僕の使う道具に至るまで金銀製であった。それに加えて美しい彩の毛織物がふんだんに使ってあった。これらはヨーロッパやアジアの奢侈に馴れたスペイン王さえ喜んで使ったほど繊巧な織物であった。
中でもインカたちの好んだ宮殿は首都から四レガほどのところにあるユカイ宮であった。山に囲まれた美しい谷にあって清冽な水が庭を流れている。その水を銀の水道で引いて金の湯槽へ入れるという贅沢な浴場もある。広い庭にはさまざまの木や草花が育っているが、その中に金銀細工のさまざまな植物を植えた花壇があるのである。特にとうもろこしは、金の実、銀の葉で美しく輝いている。
このように金銀が豊富なのは、この国に金鉱銀鉱が多いのみならず、それを貨幣として用いないで全部インカ王の手に集めるからである。しかもインカ王の用いる金銀は、先代から相続したものではなくして、悉くおのれ一代に集めたものである。一人のインカ王が歿すれば、その所有した金銀は、共に葬るもののほかは、宮殿と共にそのまま死者のために保存される。何時死者が帰って来ても元通りの住居に住めるためである。それを以て見ても金銀の豊富さは解るであろう。
王が歿した時、即ち「父たる日の神の家に呼び帰された時」の葬儀もまた実に盛大である。臓腑は体から出して首府から五レガほどのタンプの神殿に埋められる。その際には金銀の器や宝石の類が共に葬られるのみならず、多くの臣下や妃たちが、時には千人に達する人々が殉葬されるのである。しかも人々はこの殉死を忠誠のしるしとして進んでその選に入ろうとしたらしい。葬儀に続いて国中が喪に服した。一年の間人民は悲しみの表現をくり返した。故王の旗を掲げた行列、故王の業績を唱う歌の制作とその披露の祭など。しかし王の体は埋められるのではない。それは巧妙に香詰にして、日の神の大神殿に祖先のミイラと共に保存されるのである。かくして、常の王服に包まれ、首をうなだれ、両手を胸で組み、黄金の椅子に坐した代々のインカの王と正妃とが、煌々たる黄金の大日輪の前に、左右に並んでいたのである。そうして一定の祭儀の日になると、故王の「留守宮」の番人頭が貴族たちを招待し、王のミイラを鄭重に広場までかつぎ出し、王の財宝をその前に陳列して、故王の名において饗宴を開くのであった。「世界のどの町もこれほど多量な金銀器や宝石の陳列を見たことはなかろう」と古い記録者(前には Sarmiento と考えられていたが、今は Cieza de Leon と考えられている。この記録はペルー年記第二部である。)は云っている。
以上の如きがインカの名の意味するところである。ではその統治する国はいかなる組織を持っていたであろうか。
ペルーという国名はスペイン人がつけたのであって、インカの国家自身は名を持たなかった。国人が自分の国を一つの統一として云い現わす時には「世界四方」と呼んだという。四方は東西南北の意味である。この観念に従って王国は四つの地方に区分され、都よりそこへ向けて四つの道が通じていた。その都自身も四つの区劃に分けられ、地方から上京した者はそれぞれその方角の区域に住んだ。四つの地方には総督が置かれ、その下に参議会があった。総督も一定期間都に住んでインカの枢密院を構成した。
国民一般は十人組に分たれる。組長は組員の権利を護り、侵害者を訴えねばならぬ。怠れば侵害と同罪になる。十人組の上に更に五十人組・百人組・五百人組・千人組があって、それぞれに長が置かれる。その上に更に一万の人口の県があってインカ貴族の知事が治める。裁判は町や村の保安官が軽罪を扱い、重罪は知事の許へ持って行く。裁判官はどんな事件でも五日以内に片附けなくてはならぬ。上告の制度はないが、巡視が国内を廻って裁判を監督している。裁判事件はすべて上級法廷へ報告されるから、王は中央にあって国の隅々まで司法の状態を監視することが出来た。
法律は数少く峻厳であった。それも殆んど刑法である。貨幣なく、商業というほどのものもなく、財産もないのであるから、それらに関する法律の必要はなかった。竊盗・姦淫・殺人は死刑に処する。尤も情状は酌量する。日の神に対する冒涜、インカへの誹謗も死刑である。日の神の子に対する謀叛は最大の罪であるから、謀叛した町や地方は設備を破壊し住民を根絶する。交通に障礙を与える橋の破壊も死刑である。その他の重罪は、土地の境界標を動かすこと、隣人の土地への水をおのれの土地へ向け変えること、放火、などであった。この種の行為が重罪とせられる点に於て畔放ち・溝埋めの国津罪を聯想せしめるものがある。
税制は土地制度と共にインカの国の一つの特徴をなすものである。土地は日の神のためのもの、インカのためのもの、人民のためのものに分たれた。どれが最も広かったかは明かでない。割合は地方毎に異っている。日の神のための土地はその収入によって神殿や祭司階級や祭儀を支える。インカのための土地は王室の費用及び政府の経費を供給する。その余の土地が人民に均分されるのである。その割当ては家族を単位とするのであるから、人の結婚の時にはじまる。人民は一夫一婦で、男は二十四歳以上、女は十八歳乃至二十歳になると、全国一様に同じ日に町や村の広場に召集され、それぞれの地方の長によって一対ずつに婚わされる。そうしてその日に全国一斉に新夫婦のための祝宴を開くのであるが、そのあとでその地の団体が新夫婦の住居を造ってやり、夫婦の生活に十分なだけの土地を割当てるのである。子供が出来ると一人毎にその割当てが増加する。男の子は女の子の倍である。従って割当ては毎年家族の人数に応じて更新される。即ちここにも班田制が行われ、しかもそれが極めて活溌に運用せられている。世界の他の地方で行われた均分的班田制は、大抵自然的な不平等配分に逆戻りしたのであるが、ここではこの制度が確乎たる社会秩序として、崩れることなく、持続していたのである。
土地は、以上の如く、三種類に分たれているが、それを耕作するのは同一の人民である。人民は先ず第一に日の神の土地を耕作する。次で老・病・寡・孤及び徴兵に出たものの留守宅の土地を耕す。そのあとで初めておのれの土地に取りかかるのであるが、その際にも隣保相助けなくてはならぬ。それを終って最後に人民は、盛大な祭儀を行いつつ、団体的にインカの土地を耕す。朝、合図が響き渡ると、男も女も子供も一張羅を着飾って楽しげに集まってくる。そうして昔のインカの英雄的な事績を歌い、唱和しつつ、一日中嬉しそうに労働するのである。
衣の生産に関する制度もほぼ同様で、数え切れぬほど多数なペルー羊の群は、悉く日の神とインカとに属していた。そのうちラマとアルパカとは、熟練した飼い手に管理されて方々の牧場を廻って歩く。その飼い方は非常に綿密なものであった。他の二種、ワナカとビキュニヤとは、高地の野生で、毛はむしろこの方から多量に得られる。四年に一回位の割で、一つの地方に五六万の勢子を集め、大狩猟をやる。捕えた羊の一部は屠殺するが大部分(三四万位)は毛を刈り取って放すのである。以上の両方から出る毛は、一応公倉に貯え、人民の各家庭には必要な分量を粗毛で配分する。女たちはその荒い毛を紡ぎ織って家族の衣の需要を充たすのである。それが終ると、インカのための繊毛の紡織が要求される。この紡織は非常に技術の発達したもので、絹のような光沢を持った柔かい薄い織物から、絨氈のような厚いものに至るまで、いろいろなものが出来る。首府においてその年度の必要量や種類を決定し、それを各地方に割当てると、専門の官吏が原料の毛を配分し、生産さるべき織物を指定する。そうしてその仕事の進行情況をも監督する。もっともこの監督は、人民がおのれの衣類を作る仕事に対しても行われるのである。その監督の趣旨は、人民の奢侈とか、過剰生産とかを取締るというのではなく、「何人も必要な衣類を欠いてはならない」というのであった。が同時にまた、「何人も働かずして衣食してはならない」という思想も、そこに含まれていたと云われる。
衣食以外の労働で目ぼしいのは採鉱冶金・金銀細工・建築・土木などであるが、これらの労働を計画的に管理する方法もまた綿密に定められていた。その基礎となったのは人口調査・土地資源調査などによる統計的知識である。それによって政府は需要量を定め、仕事を適当な地方に配分する。鉱山の多い地方に採鉱冶金熟練工が養成されるという如きである。その技術は通例世襲で、幼少の時から注意深く仕込まれ、思いがけぬ巧妙さに達している。種々の金銀細工などはその目ぼしいものであるが、驚くべきことには、エメラルドその他の宝石のような非常に硬いものをも刻んでいるのである。道具は石か銅であるが、銅に僅かの錫を混えることによって鋼鉄に近い硬さを与えることに成功している。しかしそれらの熟練工はそれによって衣食するのではない。衣食の道はあくまでも前述の如き農耕紡織の仕事によって得られるのであるが、その基調の上に特殊の技術を習得し、それによって公共の仕事に奉仕するのである。だから一定の期間勤めれば他の者がそれを嗣ぐ。そうしてその期間内は公費を以て養われる。どの職工も負担の過重に悩むことなく、また衣食の途に窮することもない。鉱山労働の如き健康に好からぬものでさえ、坑夫に何の害も与えていない。この労働の制度は「完備せるもの」としてスペイン人を驚かせたのであった。
以上の如き農工労働による成果は、一部分首府に運ばれ、インカとその朝廷の用に供せられるが、大部分は各地方の倉庫に貯蔵される。倉庫は石造の広い建物で、日の神とインカとに分たれるが、インカの方が多かったらしい。通例インカの倉庫は多量の余剰を残し、それが第三の備荒倉庫に移された。これは病気や災害に苦しむ個人の救済にも用いられる。かくしてインカの収入の大きい部分が再び人民の手へ還る仕掛になっていた。倉庫の中身はとうもろこし・コカ・キヌア・繊毛・木綿・金銀銅の器具などである。特に穀倉はその地方を数年間(時には十年間位)支え得るほど貯蔵していた。これらは初期のスペイン人が実見した事実なのである。
このような財産の制度の下に於ては、人民の何人も富むことは出来ないが、また貧しくなることも出来ぬ。すべての人は平等に安楽を享受し得たのである。と共に、野心・貪欲・好奇心・不平などが人心を衝き動かすということもない。人々は父祖が歩んだと同じ道を同じ場所で歩き、子孫にもそうさせねばならぬ。このような受動的従順の精神、既存の秩序に黙って同意する態度、それをインカは人民の内に浸み込ませた。スペイン人の証言によると、人民は他の何処にも見られないほどインカの統治に満足していたということである。丁度この点にまたこの国家組織の最大の欠点が認められる。即ちペルーに於ては労働は他人のためであって、自分のためではない。自分の生活を少しでも好くしよう、自分を一歩でも進歩せしめよう、という態度はここでは許されない。かく個性の発展を閉め出した社会には、人間性の発展もまたないであろう。
しかしこれはペルー人がその独特の文化産物を作らなかったということではない。個人はその衣食住のための労働に費す以外の余力をすべて公共の設備のために捧げた。だから神殿・宮殿・要塞・段畑・道路・水道などの構築は実に豊富且つ壮大であった。
先ず第一に驚くべきものとして挙げられているのは道路である。中でも首府から北キトー、南チリーへ通じている大街道である。一本は大高原の中を、他の一本は海岸沿いの平地を走っているが、高地の街道の如きは実に素晴らしい大工事と云わなくてはならぬ。雪に埋れた峻険な山々や、切り立った岩や、深い谷川など、今日の土木技術を以てしても容易に処置し得ないような地帯を丹念に切り開き、築き、釣橋をかけ、幅二十尺ほどの頑丈な敷石道を通じているのである。しかも必要なところには石よりも堅い瀝青セメントが用いてある。流れが土台を洗い去ったところでは、この舗装面だけが崩れずに弓なりに張って谷の上に掛っているという。その延長は千五百哩から二千哩に達していた。平地の街道で目につくのは、湿地を横ぎる高い堤道と道の両側の並木である。並木は熱帯の日光を遮り、また花の匂で旅人を喜ばせる。さてこれらの街道には、十哩乃至十二哩毎に旅舎の設備がある、その或るものは軍隊を宿泊せしめ得るほど広大である。これらの種々の点から、インカの街道は人類の構築した最も有用にして巨大な仕事の一つであると云われている。
交通の設備たる道路にこれほど力を用いているのであるから、通信連絡の設備も同様に進歩していたことは云うまでもない。あらゆる交通路には五哩以下の距離毎に小さい駅逓を設け、そこに何人かの飛脚を駐在せしめる。それが速達便を逓送するのである。速度は一日百五十哩と云われている。この制度はメキシコにもあったが、ヨーロッパよりは遙かに早い。だからヨーロッパの首府と首府との間が非常に距ったものと感ぜられていた丁度その時代に、長大なペルーの諸都市は緊密に結びつけられていたのである。
道路についで驚くべきは水道である。沿岸地方には殆んど雨がなく、川は少くて急流であるから、広い地面を湿おすことが出来ない。従って土地は乾いて不毛であるが、灌漑さえすれば豊沃の地となるところも多い。そういうところへ運河と地下水道とによって水が引かれているのである。それらは大きい石の板をセメントなしでぴったり接合したもので、所々の水門により必要なだけの水量を供給して行く。時には非常に長く、四五百哩に達するものもある。水源は高地の湖とか山中の水で、それを導き下すに際し、岩に穴をあけ、山に隧道を掘り、或は山を廻り、河や沼を越えている。即ち工事は道路の場合と同じに困難なのである。この大工事はスペインの征服以後荒廃に帰したが、しかし所々になお灌漑を続けているものもある。しかしその水が何処の水源からどういう径路を経て来ているかは、大抵不明である。従って水道構築に於けるインカ人の天才と努力とは未だその全貌を示しているとは云えないのである。
水道による灌漑は乾燥地の農耕をも可能にしたが、更にペルー人は段畑の構築によって山や丘をも耕地に化した。勾配の急な山を段々に刻んで山頂までも畑にするのである。或る場合には岩を切って段々を作ったところへ厚い土壌を運び上げて畑にしている。その労力は実に驚くべきものである。それと逆な構築は水の乏しい山地の穴畑である。十五尺か二十尺掘ると適当な湿度の土壌が出てくる。それを利用するのである。広さはしばしば一エーカーを越えている。こういう段畑や穴畑にペルー人は鰯の肥料や鳥糞などを用いて穀類野菜類を栽培した。これらの肥料はペルーの海岸で多量にとれるのであるが、その肥料としての効用をヨーロッパ人よりも遙かに早く理解していたのであった。農耕の技術はペルーの文明のうち最も進んでいたものと云ってよい。
神殿は建築として非常に優れたものとは云えぬが、その巨大な構築と豪華な装飾とによって、ペルーに於ける宗教の意義を十分に表現していると云ってもよいであろう。ペルー人もまた宇宙の創造主・主宰者としての神を知らぬではない。しかしインカ以前からの一神殿を除いては、この神に捧げられた神殿はない。その他月・星・雷電・地・風・空気・山川の神々も尊崇され、それらに捧げられた神殿もあるが、日の神の崇敬とその神殿の多さ壮大さは全く特別である。最古の日の神の神殿はチチカカの島にある。そこの神田の穀物が国中の公倉へ少量ずつ配分され、それによってその倉の穀物が聖化されると云われるほど、特殊の意義を担っている。が最も有名なのは首府にある神殿である。代々のインカの布施によって、『黄金の場所』と呼ばれるほどそれは豪華なのである。首府の中央に石の壁に囲まれた広い神域があって、その中に本殿、いくつかの礼拝堂、附属の建物がある。本殿の西壁には非常な大きさの厚い金の板の上に日の神が表現せられている。中央に顔があってそこから四方八方へ光が射しているのである。エメラルドその他の宝石が一面に鏤めてある。朝、太陽が上ってくると、東の入口からこの金壁の上へ真直に光線が当って、燦然と輝き、殿堂内を幽玄な光で充たすことになる。西壁のほかにもあらゆる部分に金の板や間柱が嵌められている。蛇腹も金である。外壁にも広い金のフリーズが廻らされている。礼拝堂の一つは月の神の殿堂で、同じ構想が全部銀で表現され、蒼白い月の光を反映することになる。その他星・雷電・虹などの殿堂がある。これらすべての殿堂内に用いられている装飾や道具類も皆金銀製である。とうもろこしを盛る大きい瓶、香炉、水差し、水道の水を引く水管、それを受ける水盤、その他庭園で用いる農具の類までもすべてそうである。更にその庭園には金銀で造った植物や動物が光り輝いている。全くお伽噺のような光景であった。これは最も有名な神殿の場合であるが、首府及びその郊外にはなお他に三四百の神殿があって、それぞれに豪華を競っている。のみならず全国の諸地方にもそれぞれ神殿が建てられて居り、その或るものは首府の神殿に比肩し得たと云われている。その盛大なことはまことに驚くべきである。
ところでその多数の神殿を運営しているのは、祭司や役人である。首府の日の神殿だけでも四千人と云われているから、全国では大変なものであろう。祭司の長はインカに次ぐ威厳を担い、通例インカの兄弟などから任命される。その下に整然たる祭司の組織が出来ている。祭司の職分は神殿の事に限られ、その知識も祭儀に関することに限られているが、その祭儀が中々多数で、込み入っていたのである。最も重要なのは夏至・冬至・春分・秋分の四大祭であったが、中でも最大の祭は夏至祭であった。この時には国中の貴族が首府に集まってくる。祭の三日前から全国民は火を落して断食にはいる。当日にはインカを初め全民衆が未明から広場に集まって日の出を迎える。最初の光が差した瞬間に群集は感謝の叫びを挙げ、歓喜の歌を唱う。その合唱の間に太陽は静々と昇ってくる。讃美の儀式、灌酒の儀式が続く。大きい黄金の瓶から神に捧げた酒は、先ずインカが飲み、次で王族の間に分ける。そこで群集は行列を整えて日の神殿へ進んで行く。ここで犠牲の式が行われるのであるが、人身犠牲は極めて稀で、通例ラマが用いられる。祭司はその体を剖き、内臓の状態によって卜うのである。次で凹面鏡により日光を集めて木綿に点火し、「新しい火」を造る。この聖火を日の神の処女が一年間護り通すのである。犠牲のラマはこの火に焼かれて祭壇に供えられるが、それを序曲として無数のラマが屠られ、インカや貴族のみならず人民たちのために饗宴が開かれる。日の神の処女が作ったとうもろこしの粉のパン、この国の特殊な酒なども出る。そうして音楽や舞踏を楽しみつつ夜になって閉会する。なお舞踏や酒宴は数日間続くのである。この種の祭りは人民の大きい楽しみであった。
右の如き祭儀のなかで、パンと酒とを分配する儀式は、聖餐礼との類似によってスペイン人を驚かせた。また日の神の処女の存在も、聖火を護るという役目に於てローマの風習を思い起させ、厳粛な童貞の要求に於てキリスト教や古代の風習との一致を示していた。更にこれらの処女の主要なつとめが神衣を織ることにあったという点に於て我々の神話をも思い起させるであろう。がこの処女たちは他の場合と異って「インカの花嫁」だったのである。首府の尼院はインカ族の娘のみで千五百人以上の日の神の処女を擁していたし、地方の尼院もクラカの娘や人民中の美女を多数収容していたが、その中で最も美しい処女たちは選ばれて王の妃となるのである。かかる妃の数は数千に達したと云われている。一度妃となった者は、出された時には尼院に帰らずして元の家に帰り、「インカの花嫁」として世間から尊敬されるのである。して見れば日の神の処女の制度はインカの多妻主義と密接に関係し、日の神への献身をインカの花嫁たることによって実現しているのである。
以上の如きがインカの国の組織と文化との大要なのである。鉄と文字との使用を未だ知らない民族がこれほどの国家を作り得たということは十分注目せられなくてはならない。もしこの国が安全に存続して徐々に記録の時代に入ったとするならば、右の如き国家の具体的な姿は、インカの事績を伝える口承伝説の蔭に隠れて了ったであろう。そういう「伝説の時代」に属すべき国へ、突如スペイン人が闖入して、その実情を記録して置いてくれたのである。その点に於てインカ帝国は歴史の研究の内に大きい光を投げるというべきであろう。ギリシアやわが国の伝説の時代に対しても、その伝説の子供らしさの故にその社会の構造の複雑さやその生活の豊かさを見のがしてはならないのである。文字を知らず色糸を結んで数を現わしたというインカの国でも、人口その他さまざまの統計を作り、それに基いて巧妙な生産と配分の統制を行い得たという。政治や生活の技術は文字の技術よりも遙かに先立っている。
初期のスペイン人は、インカの仁政の下に美しい国家が建設せられていたことを認めた。「広い国土を通じて衣食に窮する者は一人もない。整然たる秩序は国の隅々まで行き亘っている。人民は節制と勤勉とに於て著しく優れて居り、従って盗みや姦淫はこの国には存しない。その従順柔和な性格は、もし初期の征服者が乱暴をしなかったならば、非常によくキリストの教を受け容れたであろう。」そういう意味の賞讃の辞が幾人もによって記録されているのである。十六世紀の後半に永くこの国に滞在したアコスタも、「古代人がもしこの国を知っていたならば、必ずや激賞したことであろう」(Acosta; The Natural and Moral History of the Indies. Hakluyt Society. Vol. Ⅱ, p. 391.)と云っている。現代に於ても、「もしインカ帝国が存続したならばどうなったであろうか。その統治の形式や社会状態は非常に興味深いもので、その構造の或点は直ちに現代ロシアの共産制との類似を思わせるのである。」(Pittard; Race and History, 1927. p. 447.)と云われている。
勿論この種の賞讃に対しては異論がある。プレスコットもその一人である。彼によれば、なるほどインカの国には救貧設備も整って居り公共事業も盛んであった。しかしそこには人権は認められていない。私有財産もなければ、職業の自由、居住の自由、妻を選ぶ自由さえもない。総じて自由な人格はないのである。自由のないところには道徳も存しない。従ってイタリアのカールリが「ペルーの道徳人はヨーロッパ人よりも遙かに優れている」(Carli; Lettres Americaines, tom. i. p. 215.)と云ったのは、明かに云い過ぎである。ペルーには北アメリカの自由な共和国と丁度正反対のものが存していた。そこでは「政府が人のために作られる」のではなく、「人がただ政府のためにのみ作られている」如き外観を呈していた。新しき世界はこの二つの政治体制の舞台となったのである。その一つ、インカ帝国は、痕もなく影を没した。他の一つ、人の自治能力の問題を解決すべき偉大な実験は、現に進行しつつある。インカ帝国の功績は封建時代のヨーロッパに比すれば認めてよいであろうが、その大帝国がスペイン人の侵入によって迅速に亡んだのは故なきことでない。自由なき人民は、自由を生命よりも重んずるあの愛国心を持っていないからである。(W. H. Prescott; History of the Conquest of Peru. 1847. p. 170-177.)
このプレスコットの批評はいかにも尤もであるが、しかし「伝説の時代」に相応する文化段階の国と、十九世紀のアメリカ合衆国とを、同一の水準に置いて比較しているのは、当を得た態度とは云えない。アメリカ合衆国を形成せる民族が、その伝説の時代に於て如何なる人倫的組織を形成していたかを考え、それをインカ帝国と比較してこそ、公正な態度と云えるのではなかろうか。否、それでさえもなお一方には大きいハンディキャップがある。何故ならアングロ・サクソン民族はすぐそばにギリシア・ローマの高度に発達した文化や人倫的組織を見ていたのであるが、インカ帝国はこのような模範なしに自らのみの力によって成長したのだからである。しかしたとい同じ文化段階に於てインカ帝国の方がより優れた人倫的組織を形成していたとしても、それはインカ帝国の迅速な滅亡を防ぐ力とはならなかったであろう。文化段階の相違は実に致命的なものである。特にスペイン人の持っているコスモグラフィー上の広大な眼界と、インカの国に於ける閉鎖的な狭い眼界との相違は、実に重大な力の相違となって現われたのである。
この力の相違がどういう風に現われたか。強大な筈のインカ帝国が僅か数百人のスペイン人によって如何に迅速に征服されたか。それを観察するためには、先ずインカ帝国の戦力と、征服当時の政情とを見て置く必要があるであろう。
インカ帝国は仁政を以て統治する平和な国家であったが、しかしこの平和を維持するためには絶えず対外戦争を行っていたのである。それは日の神の崇拝を拡めるためであった。勿論日の神は仁愛の神であるから、初めより武力侵略を以て外蛮に臨んだのではない。まず最初には謙遜と親切の態度を以て融合につとめる。それが成功しない場合には、外交交渉や宥和政策によって懐柔しようとする。それらすべてが無効に了った時、戦争に訴えるのである。その動かし得る兵力は二十万であった。兵士は徴兵制度によって得られる。その兵士の服役は輪番制によって絶えず交代するものであり、在郷兵は月二三回の訓練を受ける。従って軍隊は秩序整然として居り、戦技にも熟達していた。武器は弓矢・槍・短剣・斧・石弓など。防禦には楯、木綿の厚い刺子の服を用いる。軍隊の集中や移動は前に説いた道路の発達によって迅速に行われた。軍需品は道路に沿って一定の間隔に設備せられた倉庫に充満している。人民のものを掠奪すれば死刑に処せられる。だから軍隊が国の端から端へ移動しても、人民は何の不便をも蒙らなかった。戦争のやり方も残酷ではない。敵を極端にまで圧迫せず、また不必要な殺戮や破壊をも行わない。「敵の人も財産もやがては此方のものになるのであるから、大切にしなくては損である」というのが彼らの格率であった。この態度は味方に対しても同様であって、戦が永びくと、度々兵士を入れ換え休養させる。尤も敵が手剛い場合に思い切ってやっつけた例がないわけではない。敵が降ればまず日の神の崇拝を導入する。在来の信仰を蔑ろにするのではないが、日の神を最高の神として崇めさせるのである。次で人口や土地の調査を行い、そこにインカの土地制度を実施する。在来の支配者クラカは都に移されて言語風習を仕込まれるが、人民に対してもまた都言葉が共通語として教え込まれるのである。
以上の如きがインカ帝国の戦争と征服とのやり方であった。それは云わば日の神の崇拝を拡めるための十字軍なのであり、日の神の子たるインカのミッションなのであった。かくして徐々に近隣の多くの部族が征服され融合されて、共通の宗教、共通の言語、共通の統治の下に、精神的に一つの国民に仕上げられて来たのであった。この点はアステークの武力による強圧的な統治と極端に異っているのである。
がスペイン人渡来当時のインカ帝国の、北はキトーより南はチリーに至る長大な領土は、漸く十五世紀の中頃に至って出来上ったのである。三代前のトゥパク・インカ・ユパンキは、「日の子ども」の内でも最も有名な一人で、南はアタカマの沙漠を越えてチリーに遠征し、北はキトーの南部地方を攻略したのであった。このキトー遠征は太子ワイナ・カパクが指揮したのであったが、十五世紀後半に父王歿するや次で王位を継承し、その在位中にキトー全土を征服したのであった。キトーは富裕な国土で、その領域も広く、従ってその征服は建国以来最も重要な領土拡張であったと云われている。ワイナ・カパクはこの新附の領土のインカ化に全力をつくした。キトーと首府とを結ぶ新道路の完成、郵逓の建設、都言葉の伝播、農業の改善、工芸の奨励など。かくしてインカ帝国は、十五世紀末十六世紀初頭に於てその最盛期に達したのである。もしこの速度を以て発達を続けたならば、それは間もなくアジア諸国の水準に達したかも知れない、とも云われている。丁度そこへスペイン人が到来したのである。ワイナ・カパクが歿したのは一五二五年の末のことであるが、その十二年前にバルボアが太平洋岸にまで進出し、その前年の一五二四年の末にピサロが第一回のペルー探検に出発したのであった。この時にはアルマグロのみが北緯四度あたりのサン・フアン河に達したのであるが、その報道はインカに届いたらしい。侵略者の恐るべき勇敢さと武器とは、自分たちよりも遙かに優れた文明の証左として、強い衝撃をインカに与えた。ワイナ・カパクは、この不思議な力を持った外来人が、やがてインカの王位を危うくするだろう、という憂慮を洩らしたと伝えられている。その他さまざまの天変地異が前兆として現われたとも云われる。いずれにしてもスペイン人の出現は心理的にペルー人を萎縮せしめたらしい。
がワイナ・カパクはこの異常な出来事が進展する前に歿し、あとに不幸な紛擾の種を残したのである。というのは、彼が正妃との間に生んだ太子ワスカルは当時三十歳位であったが、この他に彼は新しく征服したキトーの最後の王の娘との間にアタワルパを生み、この王子を非常に愛した。そのため彼はインカ帝国の慣例を破って領土をこの二人の子に分けることを強行し、もとのキトー王国をアタワルパに与えたのである。父王は死の床に於てワスカルとアタワルパとの親和や協力を命じた。でその後五年位の間は事なく過ぎた。だからピサロが第二回探検に於てインカ帝国を発見した頃には内乱はまだ起っていなかったのである。しかし純粋なインカであるワスカルが、いかにも温和な、寛容な性格であったのに対して、辺境のキトー人との混血児たるアタワルパは、四五歳の年少であるのみならず、非常に争闘的な、野心に富んだ人物であった。でその絶え間なき領土拡張の事業が兄王を刺戟すると共に、宮廷の阿諛迎合が漸次両者を離間して、遂に悲惨な内乱を勃発せしめるに至ったのである。
この戦争の経過は、スペイン人侵入の直前のことであるに拘らず、諸説甚だしく一致を欠いているそうであるが、とにかくアタワルパはキトーの南方六十哩ほどの所で大血戦を行い、正統インカの軍隊に殲滅的打撃を与えたらしい。次で同じくもとのキトー王国の領内で、父王ワイナ・カパクが好んで住んでいたトメバンバの町に迫り、この町が敵の味方をしたという理由で、徹底的な破壊と殺戮を行った。この町を含む地方全体も同様に殲滅的な打撃を受けた。この残虐な処置を聞いた町々は恐怖して相次いでアタワルパに降り、その進軍を容易にした。アタワルパは迅速にカハマルカまで進出してそこに止まり、麾下の二将軍を首府に向けて進軍せしめた。首府ではワスカルは祭司の意見を聞いて敵を迎え討つ態度を取っていた。決戦は首府から数レガの平野に於て終日粘り強く行われたが、「主君のためにおのが生命を軽んずる」臣下たちの献身的な防戦も、勝に乗った歴戦のアタワルパ軍にはかなわなかった。大地は屍に埋められ、ワスカルは捕虜とされた。
これは一五三二年の春、スペイン人侵略の数カ月前の出来事なのである。インカ帝国としては未曽有の大事変であった。純粋のインカの血統でない者が、しかも近頃まで敵国であったキトーの王室との混血児が、インカの上に立ったのである。その激動のためか、この当時の出来事に就ては異常な残虐行為が伝えられている。即ち戦勝の報を得たアタワルパは、ワスカルを優遇せよと命ずると共に、全国のインカ貴族に対して、帝国分配の問題を適当に解決するために首府に集まれと命じた。そうして彼らが首府に集まった時、これを包囲して容赦なく屠殺した。純粋のインカ族のみならず、幾分かでもインカの血を受けたものは、女たちさえもその例に洩れなかった。しかもこの処刑はワスカルの面前に於て行われたのである。従って彼はその妻たちや姉妹たちの屠殺されるのをも見ていなくてはならなかった。これほど残虐な復讐はローマ帝国の年代記にもフランス革命の記録にもないと云わねばならぬ。しかしこの伝説は疑わしいとされている。何故ならこの時より七十年後に純粋なインカ族が六百人近く存在したと認められているからである。のみならずアタワルパは、当の相手のワスカルを、またその弟のマンコ・カパクをも、殺しはしなかった。従って右の如き残虐行為の物語は、むしろスペイン人自身の残虐行為に対する弁護の意図から、誇大されたものであろうと云われている。
八 インカ帝国の征服
インカ帝国が右の如き未曽有の大事変に遭遇していた時、ピサロは既にその第三回の遠征に於てペルーの海岸へ来ていたのである。
一五二八年ピサロが本国へ帰った時には、前にダリエン湾で彼が追い払ったエンシソに告訴されて、一時拘留されたりなどしたが、政府の命令で釈放されてトレドに赴き、カール五世に謁見した。王はドイツ皇帝として戴冠するためイタリアに出発しようとしている矢先であったが、ピサロのもたらしたペルーの産物やその探検談に動かされ、後援の意を示した。女王がその意をうけて、一五二九年七月、ピサロ、アルマグロ、ルケの三人に対し協約を結んだ。ピサロは新しい領土の総督として種々の特権を認められ、アルマグロはトゥンベス要塞の司令官、ルケはトゥンベスの司祭に任命された。ピサロと共にゴルゴナの島に蹈み留まった十三人もそれぞれ貴族に列せられた。この時ピサロが三人均分の盟約を無視しておのれ一人に多くの権力を集中したことは、後の仲違いの種となるのである。これらの特権の承認に対してピサロの負うた義務は、六カ月以内に募兵を完了し、パナマ帰着後六カ月以内に遠征の途に上ることであった。ピサロは早速故郷に帰って資金と兵員との募集に着手したが、うまく行かなかった。丁度その時帰国していた同郷のコルテスが声援してくれなかったならば、資金なども集まらなかったろうと云われている。約束の六カ月間には予定にほぼ近い程度まで漕ぎつけ、政府の目をごまかしながら、一五三〇年一月、三隻の小艦隊を以て出発したのである。
パナマではアルマグロが王との協約に不満であった。一時は独立して遠征を企てようとしたほどであった。がルケが奔走し、再び三人均分の盟約を確認して、遠征の準備に取りかかった。ここでも募兵は思わしくなかった。本国以来合計して百八十名を出でず、馬は二十七頭であった。でアルマグロはあとに残って援軍の組織に努力することとし、一五三一年一月、ピサロは三隻の船を以て第三回の遠征の途に上ったのである。
ピサロは前回に見定めて来たトゥンベスへ直航しようとしたのであったが、逆風に妨げられてうまく行かず、北緯一度あまりのサン・マテオ湾から上陸して岸沿いに南下を企てた。ここはもとのキトー王国の最北端であるから、町には相当の金銀宝玉が見出された。スペイン人は存分に掠奪して仲間で配分したが、ピサロは早速それをパナマに送り、援軍の募集に役立てた。しかしその後行軍は暑熱と疫病とで困難を極めた。住民は騎馬兵と銃火の威力に恐れて影をかくし、掠奪すべきものを残さなかった。がパナマに送った財宝の効果はやがて現われ始めた。先ずピサロに追いついたのは本国から派遣された官吏たちであったが、ついで南緯一度半のプェルト・ビエホに辿りついた時、三十名の援軍が到着した。更に南下してトゥンベス北方のプナ島に至り、土人との間に争闘をくり返していた時、二隻の船が百名の援軍を運んで来た。ピサロはそれによってインカ帝国の入口トゥンベスに殺到し得る態勢を整えたのである。
然るにトゥンベスに着いて見ると、前回のような款待の代りに土人の敵対を受けたのみならず、町そのものが恐るべき廃墟と化していた。あの豪奢な金銀の飾りに充ちていた神殿や宮殿はただ残骸を留めるのみであった。この幻滅に困惑したピサロは、偶然この地方のクラカを捕えて事情を聞くことが出来た。正統のインカに忠誠を守っているブナの勇敢な部族が、アタワルパに味方したトゥンベスの町と戦って、遂にこの町を攻略し住民を追い払ったのであった。アタワルパはおのれの戦争に熱中してこの町を助けなかったのである。この内乱の事実に直面してピサロは初めて土民を手なずける政策の必要を痛感したと云われている。また侵略の一歩を蹈み出す為に、インカ帝国の国情を詳細に調査すること、安全な根拠地を探すことの必要をも痛感したらしい。
でピサロは軍隊の一部をトゥンベスに留め、残余の軍隊を率いて一五三二年五月の初めに国内偵察の途に上った。自分は海岸寄りの低地を南進し、エルナンド・デ・ソトの分遣隊は山麓地方を探検した。この行軍に当って彼は軍規を厳にし兵士の掠奪を禁じた為に、間もなく土人の信望を集め、到る処の村々で款待を受けるに至った。それに対して彼は、教皇とスペイン王への服従を要求する、と宣言した。土民はその意味が解らず、抗議を申立てなかった。そこで土民はスペイン王の順良な人民として受け入れられた。こういう仕方で三四週間偵察した後、ピサロはトゥンベス南方三十余里の所に地を選んで植民地建設にとりかかった。トゥンベスに残った人と船は直ぐに呼び寄せられ、材木や石は附近の森や石切場から運ばれた。やがて教会・倉庫・裁判所・要塞、その他の建築が出来上った。市役所も構成された。附近の土地や土民は、市民の間に配分された。これがインカ帝国に於ける最初の植民地サン・ミゲルなのである。
インカの国情もピサロに明かになった。最近の内乱に於て勝利者となった新しいインカが南方十日乃至十二日程のカハマルカに陣していることも確められた。ピサロは少しでも援軍がくればと心待ちにして数週間延ばしていたが、遅延は士気を沮喪せしめる怖れがあるので、遂に二百に足らぬ軍勢を率いて、一五三二年九月二十四日、サン・ミゲルの門を出で、インカ王の陣営に向って行動を起した。この時のピサロの心境は好くは解らないが、恐らくスペイン王の平和な使節としてインカに謁見を申込み、その敵意や警戒の念を取り除こうとしたのであろう。あとは臨機応変で行けるからである。
ピサロの隊は美しいペルーの山河の中を行軍した。到る処で土民は款待してくれた。それがスペイン人側の温良な態度に起因すること、またかくの如く土民の好感を得るか否かが冒険の成否を決するのであることを、彼らは十分に心得ていたのである。かくして五日目になるとピサロは隊を停めて精密な査閲にとりかかった。隊員は百七十七名、その内六十七名が騎兵、三名が銃兵であったが、中にこの冒険を喜ばぬ者もあった。ピサロは全員に向って演説した。今やわれわれの仕事の岐路である。心の底から遠征を欲するもの、その成功を確信するものでなければ、これから先へ行くべきでない。引返すには今でも遅くはないのである。サン・ミゲルにはもっと守備兵が必要なのであるから、引返せば残存した者と同じに取扱われる。かくの如く彼は引返す者に恥を与えないように提言した。が希望者は九名に過ぎなかった。かくしてピサロは不平の種を選り棄てて前進を続けたのである。
その内インカの使者が贈物を持ってピサロを招待にやって来た。ピサロはこの使者が偵察の目的を以て訪ねて来たことを承知しつつ、鄭重に応待し、珍らしい武器の用法や白人の来意などを説明して聞かせた。その来意は自分たちが海の彼方の強い君主から派遣されてアタワルパの勝利を祝いその戦いを助けるために来たのだということであった。そこでピサロは返礼の品を持たせて使者を帰し、再び進軍を続けた。そうしてかなりの日数を費してカハマルカへの山径とクスコへの大街道との分れ目へ来た。ここから山脈を越えると直ぐカハマルカへ出るが、その道は羊腸たる山路で、もし敵に防禦の意志があれば、到る処が屈強の要塞となり得るものであった。既に前に、インカは小人数の白人を自分の掌中へ誘き寄せようとしているのだ、という土人の陳述をきいて、不安のあまり通弁の一人を偵察旁々使者に派遣したピサロにとっては、この山路への突入は、かなり思い切った決意を必要とするものであった。が踏み込んで見るとインカは何の防禦もしていなかった。数日の緊張した行軍の後にコルディレラの頂まで達したとき、インカの使者がラマの贈物を持って現われインカの歓迎の辞を伝えた。二日の後下り坂にかかった時、再び使者が贈物を持って現われた。そこへピサロの派遣した使者も帰って来て、インカの敵意を報告した。インカの使者は一々それを反駁したが、ピサロの心中にはアタワルパの奸策を確信するものがあったらしい。しかし彼はそれを色に現わさず、インカの使者を心から信ずるが如く装った。
遂に七日目にピサロの軍隊はカハマルカの谷を見おろす所まで来た。それは五里に三里の美しい平地で、丹念に耕されてあった。住民も海岸地方よりは優秀であるらしい。白い家々が日光に輝いているカハマルカの町の一里ほど向うに、今インカの滞在している温泉場があって、そこの丘陵の斜面沿いに数知れぬ白い幕舎が数哩に亘って並んでいた。これほどの幕舎がかくも整然と布置されていることは、これまで新世界に於て曽て見られなかったことである。この光景はスペイン人の度胆を抜いた。しかしもう退くわけには行かない。彼らは平気を装って戦闘隊形を以てカハマルカの町へ進んで行った。そこは人口一万位の町で、日の神殿も、日の処女の尼院も、兵営も、要塞も揃っていたが、この時には全然人影なく空虚となっていた。そこへピサロが乗り込んだのは、一五三二年十一月十五日の夕刻であった。
当時インカがスペインの小部隊をその有力な勢力圏内へおびき寄せようとしていたのか、或は彼らの平和の意図を信じて単に好奇心から迎え入れたのか、それは明白には解らない。彼がこの不思議な外来人に対して疑懼や恐怖を感じなかったとも思えぬが、しかし表面に現われた限りでは、実に平然としてピサロのなすがままに委せていたのである。カハマルカに入城したピサロは反って焦躁を感じて、エルナンド・デ・ソトを十五騎と共にインカの陣営へ使者に送った。しかもすぐあとで小勢に過ぎたことを憂え、弟のエルナンド・ピサロに二十騎を率いて増援させた。この慓悍なスペイン騎士の一隊がインカの陣営でつとめた役割は、当時の「征服者」たちの性格を最もよく現わしたものの一つであろう。彼らは牧場を貫く堤道を疾駆して、一里ほど先の陣営に達し、あっけに取られて眺めているインカの兵士たちの間を、トランペットの声高く響かせつつ、風に乗った魔物のようにさッと動いて行って、陣営の奥深くインカの座所に迫った。そこにはアタワルパがインカ貴族に取り巻かれてクッションに坐していたが、その慓悍や残虐の名が高いに拘らず、落ちついた、静かな態度で、顔には無感動のみが現われていた。エルナンド・ピサロとソトとは二三の騎士と共に静かに馬を歩ませてインカの前へ出た。そうして騎馬のままでピサロは使者の口上を述べた。自分らは海の彼方の強い君主の家来である。今度インカの大勝利の報をきき、お役に立つために、また真の教えを伝えるためにやって来た。今夕カハマルカに到着したについては、アタワルパ陛下の御光来を待つ、というのであった。これを通弁が飜訳したときインカは一言も発せず、また解ったという顔もしなかった。側の貴族が「よろしい」と答えたが、エルナンド・ピサロは鄭重にインカの直答を促した。インカは止むを得ず自ら答えた。余は目下断食中である。それは明朝終るから、その後部下と共に訪問するであろう。それまでは広場の公共建物を使ってよい。その他のことは行ってから命令しよう。この答が得られたあとで、ソトは、インカが馬に興味を抱いているのを見て取って、馬に拍車を入れて猛烈に駆けさせ、縦横にその優秀な馬術を披瀝した。全速力で疾駆して来てインカの直ぐ傍でぴたッと停止して馬を棒立ちにならせたりした。がインカはその平然たる態度を崩さなかった。
この劇的な会見を了えて帰って来た騎兵たちは、反ってインカの軍隊の優勢に怖れを抱いた。それが仲間に伝染してその夜は隊内に意気銷沈の兆候が見えた。この時、内心に願望成就を喜びつつ部下を力づけて廻ったのがピサロなのである。騎士的な冒険心と宗教的熱情とを鼓舞するのが、即ち十字軍的精神の挙揚が、そのコツであった。更に彼は幹部を集めて彼の離れ業式の企図を打ち開けた。それは、伏兵の策によってインカをその全軍の面前で捕虜とすることなのである。それは捨身の戦法であった。が他に策はないと彼は考えた。退却すれば全滅である。平和に滞在すればやがて白人の与えた異様な超自然的な印象が薄らいで了う。インカがスペイン人らを掌中におびき寄せたのだということは必ずしもあり得ぬことではない。この罠をぬける唯一の道は、罠を逆用することである。これは一刻も早い方がよい。南方からインカの軍隊が集まってくれば事は一層面倒である。従ってインカが承諾した招待の席こそ最上の機会でなくてはならない。奇襲によってインカを掌中に握れば、あとは全帝国に命令することが出来る。以上がピサロの考であった。幹部は皆これに賛成し翌日実行に移すことにきまった。
一五三二年十一月十六日の夜明、部下の軍隊が武装を整えると共に、ピサロは奇襲の企図を簡単に発表してそれぞれの部署を定めた。彼らの宿営した低い建物は三方から広場を包み、その広場の一端に田舎を向いて要塞が立っていたのであるが、ピサロは騎兵を二隊に分けて二つの建物にひそませ、歩兵をもう一つの建物に隠して置くことにした。要塞には二門の小さい鷹砲を据えた。インカを迎える時ピサロの手許にいる兵士はただ二十名だけとした。機会が来れば鷹砲を合図に三方から突撃してインカを捕えようというのである。かく部署を定めてから厳粛なミサが行われた。彼らにとっては、いよいよ十字架のための戦が始まるのである。
ピサロの準備がかく早朝から整っていたのに対して、インカの方はゆっくりしていた。インカの行列が軍隊を率いて動き出したのはやっと午頃であった。予めピサロへ使を寄越して、昨日のスペイン人と同じくこちらも武装した兵士を連れて行くが好いかと念を押した上でのことである。インカは輿に乗って街道を来たが、軍隊の大部分は街道沿い、野原を覆うて押し寄せて来た。ところで王の行列は町から半哩ほどの所で停止し、テントを張りにかかった。今夜はここに宿営して明朝町に入るというのである。この報道はピサロを困惑させた。早朝から緊張して待ちかまえているスペイン人たちにとっては、ここで永びかせられるほど危険なことはない。彼はアタワルパに対して、予定の変更の不可を説き、歓迎の準備は悉く整っている、今夜は食事を共にするつもりであったと云わせた。これを聞いてインカはまた気を変えて進行を続けた。しかもピサロに通知していうには、カハマルカで夜を過す方がよいと思うから、自分は兵士の大部分をあとに残し、ごく少数のものをつれて武器なしで町に入るであろう。――ピサロは神の助けだと思った。インカは罠の中へ飛び込んでくるのである。
アタワルパは大胆な果断な性格の人と云われているが、この時の動揺は何とも理解し難い。しかし彼が白人を信頼してその招待に応じたということは疑がないであろう。でなければ彼が軍隊をつれず武器なしで訪問するなどと提議する筈はないからである。彼は疑念などを抱くにはあまりに絶対的な君主であった。また何万の大軍のただ中で、僅か百六十余名の小勢を以て有力な君主に襲いかかるというような、そういう大胆さは、彼にとっては思いもかけぬことであったであろう。一言にして云えば、スペイン人がインカを研究し知っていたほどには、インカはスペイン人を知らなかったし、また知り得なかった。それは畢竟、世界大に拡がった眼界と、自国にのみ閉鎖された眼界との相違なのである。
日没に近くインカの行列の先頭が町の門を入った。それは数百人の僕たちで、道を清めながら、また気の滅入るような調子の凱旋歌を歌いながら進んでくる。広場へ来ると右と左へ開いて後続の隊に道をあける。あとにはさまざまの等級の隊が、さまざまの制服で続いてくる。白と赤の派手な市松模様の制服を着たもの。銀・銅などの鎚や棒をかついで純白の制服をつけたもの。美しい空色の制服の護衛兵たち。それらもまた整然と右と左に開いて道をあける。扈従の貴族たちも美しい空色の服で、華やかな装飾を豊富に体につけている。インカは金銀や鳥の羽で飾った輿の上のどっしりした黄金の玉座に坐し、大きいエメラルドの首飾りや金の髪飾りなどをつけて、悠然と群集を見下しつつ、広場に進み入った。全部で五六千人が広場に入ったかと思われる頃、アタワルパは停止して周囲を見まわし、外人はどこにいるのだときいた。
その時ドミニコ会修道僧のバルベルデが、聖書を片手に、十字架を他の手に携えてインカに近づき、司令官の命によってスペイン人渡来の目的たる真実の信仰の宣伝を始める旨を述べた。彼の説明は、三位一体の教義、人間の創造、堕罪、イエス・キリストによる救い、使徒ペテロの法統、教皇の権威などに亘り、最後に現前の遠征の意義にふれた。曰く、教皇は世界最強の君主スペイン皇帝にこの西方世界の土人を征服し改宗せしめよとの任務を託した。フランシスコ・ピサロ将軍はこの重大な任務を実行するために来たのである。願わくは将軍を親切に迎え容れ、在来の信仰の誤りを棄ててキリストに帰依せよ。更にまた皇帝カール五世の朝貢者となることを承認せよ。その場合には皇帝は彼を臣下として援助し保護するであろう。
この説明の意義がインカに理解せられたかどうかは疑わしいが、しかしそれがインカに降服を迫るものであることだけは十分に理解せられた。インカは眼を瞋らせ眉を顰めて答えた。「余は何人の朝貢者ともなろうとは思わぬ。余は地上のいかなる君主よりも偉大である。汝の皇帝は偉大な君主であるかも知れぬ。その臣下をかくまで遠く海を超えて送って来たのを見ると、確かにそうであろう。余は喜んで彼を兄弟と看做すであろう。が汝のいう教皇は、おのれのものでない国土を他に与えるなどと云うところから見ると、気違いに相違ない。余の信仰は、変えようとは思わぬ。汝のいう所によると、汝らの神はおのが作った人間によって死刑に処せられた。しかし余の神は、見よ、今なお天に生きてその子らを見おろしているではないか。」そう云ってインカは丁度その時西の山に沈みつつあった太陽を指した。そうしてバルベルデに、何を典拠としてあの様なことを説くかと聞いた。修道僧は手中の聖書を指した。アタワルパはそれを取ってペーヂをめくって見たが、恐らく侮辱を受けた感じが突然湧き上ったのであろう、乱暴にそれを投げつけて云った、「汝の仲間に云え、彼らは余の国中に於てなしたことの詳細な報告をなすべきである。彼らがその悪行に対して十分の弁明をなすまでは余はここを動かぬ。」
修道僧は聖書に対して加えられた侮辱を怒り、それを拾い上げてピサロのもとに急いで来た。「あの傲慢な犬とお喋舌りをしている間にだんだん土人の数が殖えてくるではありませんか。すぐ合図をなさい。もう何をやってもよろしい。」ピサロは白いスカーフを振った。要塞から鷹砲が発射された。ピサロと部下とは広場へ飛び出して閧の声をあげた。三方の建物から騎兵と歩兵の集団が群集の中に突入してそれに応じた。鷹砲と小銃の音が轟き渡った。広場の群集は極度の混乱と恐怖とに陥り、ただ逃げまどうのみであったが、広場への入口は死人の山で塞がれて通ぜず、揉み合う群集の圧力で石と土の厚い壁が破られたほどであった。その混乱の中をスペインの馬と人とが縦横になぎ倒して廻ったのである。
インカのまわりには忠義な貴族たちが集まって身を以て楯とした。武器なしで、騎士たちを撃退しようとして馬に縋りついたり、鞍から引きおろそうとしたりした。そうしてそれらの人々が切り倒されると、あとからあとから新手が身を捨てて同じことを繰り返した。だからインカは依然として輿に乗ったまま、人波の上に漂っていた。夕闇が深まると共にスペイン人はインカの脱出を恐れて思い切ってその命を絶とうとさえ試みたが、彼に最も近づいているピサロは、「命の惜しいものはインカを打つな」と大声に呼んだ。そうしてインカをかばおうとして腕を延ばし、味方のために手に傷を受けた。この傷が、この騒ぎの間にスペイン人の受けた唯一の傷であった。やがて輿をかついでいた貴族のうちの数人が斃されて輿は覆えされた。インカは危うく大地へ打ちつけられるところであったが、ピサロと二三の騎士が受けとめた。そうして側の建物へ連れ込んで厚く保護した。
インカが捕虜となると共にあらゆる抵抗は止み、すべての人が脱出に狂奔した。郊外に幕営中の軍隊も闇に紛れて逃亡してしまった。この騒ぎは僅か半時間あまりで片附いたのであるが、その間の死者の数は二千とも云い一万とも云われている。
ピサロはその夜約束を守ってインカと晩餐を共にした。彼はいろいろとインカを慰め、白人に抵抗する者は彼のみならず他の君主も同じ運命に逢うこと、白人はイエス・キリストの福音を伝えに来たのであって、キリストの楯が彼らを護る限り勝つのが当然であること、アタワルパは聖書に対する侮辱の故に屈服せしめられたのであること、スペイン人は寛大な民族であるから信頼してよいことなどを述べた。
翌日から町の清掃とか、インカの財宝の処分とかが始まった。以前のインカの幕営地に派遣された三十騎の一隊は、インカの后妃たち、附人たちなど多数の男女を率いて帰って来た。ピサロはその或る者を家に帰し、或る者をスペイン人たちの召使として残した。また同じ地のインカの別荘からは豊富な金銀器や宝石がもたらされた。死んだ貴族たちの体からも多くの装飾品が得られた。町の倉庫には木綿や羊毛の織物が堆積していた。
間もなくアタワルパは、スペイン人たちが好んで語っている宗教的熱心の裏に、もっと強い欲望の動いていることを看破した。それは黄金に対する欲望であった。彼はここに血路を見出そうとした。ぐずぐずしていると、監禁中の兄ワスカルが出て来てインカの位を回復するであろう。だから一刻も早く自由を得なくてはならぬ。で彼はピサロに、もし釈放してくれるならばこの室の床を黄金で埋めようと提案した。人々はそれをきいて信用し兼ねる笑を洩らした。インカは焦って、床を埋めるだけでない、手の届く限りの高さまで金で一杯にしようと云って、背伸びして壁に手をのばした。ピサロは熟慮の末この提案を承諾し、インカの示した高さに赤い線をひいた。室は幅十七呎、長さ二十二呎、赤線の高さは九呎であった。なお次の小さい室は銀で二度充たすことになった。期限は二カ月であった。この契約が出来上ると共にインカは使をクスコその他の地に急派して、王宮・神殿、その他公共建築物の黄金の装飾や調度を出来るだけ早くカハマルカに送るよう命令したのであった。
その間インカは、スペイン人の監視の下に、その旧来の生活を続けた。后妃たちは彼に仕え、臣下は自由に彼に謁見した。囚われたインカであるに拘らず、臣下の彼に対する尊崇は変らなかった。ピサロは機会を捉えては宗論を戦わしたが、インカを敵に囚われしめるような神は真の神ではあるまいという議論には屈服したようであった。がこういう恐るべき新事態に面していながらも、兄ワスカルとの関係は依然として彼の最大関心事であった。ワスカルは弟の囚われと身代金との事を聞いて、それよりも一層多い身代金をピサロに申出でようと企てたのであるが、そのことはアタワルパに密告された。それに加えてピサロはこの兄弟の対立を利用しようと考え、ワスカルをカハマルカに呼んでいずれが正統のインカであるかを調べようと宣言した。これらのことに嫉妬心を煽り立てられたアタワルパは、遂に兄を殺さしめた。ワスカルは最後に、白人が復讐してくれるだろうと云ったと伝えられている。事実この事が後にアタワルパ処刑の有力な口実となったのである。
金は諸方から集まり始めたが、それを見るとスペイン人の貪欲心は一層高まって来た。集まりの遅さに焦躁を感じて、アタワルパの陰謀をさえ疑うに至った。そこへペルー人蜂起の噂が伝わった。ピサロがそれをインカに告げると、アタワルパは驚いて噂を否定した。「余の臣下は余の命令なしには決して動かぬ。貴下は余を捕えていられるから、これ以上の保証はない。」そうして彼は遠方から重い金を運ぶのに如何に日子を要するかを説明した。「が念のために貴下は部下の人々をクスコに送られてもよい。余はその人々に旅券を与えよう。向うへ行けば、約束の金が運ばれつつあることも、また何ら敵対運動が企てられていないことも、自分の眼で確めることが出来よう。」(Prescott. op. cit. p. 430.)これはいかにも尤もな提案であった。ピサロはそれに応じてクスコへ使者を送ると共に一部隊を国内偵察に派遣したのであるが、その結果はアタワルパの云った通りであった。アタワルパ部下の最も有力な二人の将軍の内の一人であるチャルクチマは、三万五千の兵を率いてハウハの附近にいたが、インカの囚われの後にはなすところを知らず、ピサロの弟に説き落されてカハマルカに来た。またクスコの日の神殿からは七百枚の金板が剥ぎ取られたのであった。
他方に於てスペイン人側の態勢は好転した。歩兵百五十、騎兵五十の援軍を率いたアルマグロが、カハマルカの事件の一カ月あまり後、一五三二年十二月末にサン・ミゲルに着き、翌一五三三年二月中頃カハマルカに入った。
金はまだ赤線に達しなかったが、スペイン人たちは待ち切れなかった。ここでぐずぐずしている間に土人たちは財宝を隠匿してしまうであろう。早く分配をすませて首府へ進出しなくてはならぬ。そう人々は考えた。で金銀細工の内の優れたものをスペイン王のために取りのけて置いて、あとは鎔かして金塊にした。金の総量は一、三二六、五三九ペソ(十九世紀中頃の換算では三五〇万磅、一五五〇万弗)であった。その分配は「神への恐れを以て、神の眼の前で」行われた。そこで残った問題は、捕虜のアタワルパをどうするかということである。釈放するのは危険であるが、しかし監禁を続けるのも、クスコへの進軍を開始するとすれば、非常に困難である。インカは頻りに釈放を要求したが、ピサロは身代金の残余を免除しただけで、拘禁の方は更に援軍が到着するまで継続することを宣言した。その内に土人蜂起の噂がまた燃え上って来た。その火元がどこであるかは解らないが、アタワルパを極度に憎んでいた通弁が余程怪しいと云われている。とにかくインカはその首謀者として疑をかけられ、再びピサロの訊問をうけた。インカは前と同じようにそういう企てのあり得べからざることを弁明したが、疑は解けなかった。新来のアルマグロやその部下たちはインカの死刑を主張し始めた。ピサロはそれに同意しないように見えた。エルナンド・デ・ソトその他少数のものもそうであった。ソトは噂の真否を確めるために小部隊を率いて偵察に派遣された。が隊内の輿論はますます高まり、遂にピサロをしてインカを裁判に附することに同意せしむるに至った。
インカの罪として告発されたのは十二カ条であったが、その内重大な箇条は、彼が王位を簒奪し兄を殺したこと、彼がスペイン人の征服以後に国家の収入を浪費し一族や寵愛のものに与えたこと、偶像を礼拝し多妻によって姦淫を犯したこと、及びスペイン人に対し謀叛を企てたことであった。最後の一カ条を除けばすべてスペイン人の裁判に附せらるべきものではないが、その唯一の箇条が証拠不十分のため、あとの諸箇条を以て色をつけたのである。裁判は直ちに開始された。証人も呼ばれた。が悪意のある通弁は証言を勝手に歪曲した。しかもそのあとでアタワルパの死刑の利と不利が討議されたという。その結果アタワルパは有罪と認められ、火刑が宣言された。そうしてその夜直ちに執行されることとなった。ソトの偵察の報告を待ち、謀叛の事実の真偽を確めようとは、彼らはしなかったのである。尤もこの専横なやり方に反対する人もないではなかった。証拠は不十分である。また一国の君主を裁く権限はこの法廷にはない。裁判すべくばスペインに送り皇帝の前で行わるべきである。これが反対意見であった。しかしそれは十対一の少数で敗れた。
宣告を聞いた時のインカの悲しみはさすがのピサロをも感動させたほどであった。倍の身代金でも払うと哀願するインカに面していることが出来なくなって、彼は背を向けた。インカはもう駄目と悟ると、平生の落ち着きを取戻し、その後は平然としていた。かくしてインカの死刑は、一五三三年八月廿九日の日没後二時間にして行われることとなった。インカが柱に縛りつけられ薪が積み上げられた時、ドミニコ会の修道僧は、十字架を差し上げて、これを抱け、洗礼を受けよ、そうすればこの苦しい火刑を軽減して絞首刑にしよう、と提言した。インカは本当かとピサロに確めた後、おのれの宗教を捨てて受洗することに同意した。洗礼は行われた。インカはフアン・デ・アタワルパとなり、死骸をキトーに送るべきことを遺言し、遺孤をピサロに託して、静かに刑についた。
一両日後にエルナンド・ソトは偵察より帰ってこのことを聞き、驚くと共に激怒した。彼は直ちにピサロに会って、ずけずけと云った。「あなたは早まり過ぎた。アタワルパは卑劣な中傷を受けたのです。ワマチュコには敵なんぞいなかった。土人の蜂起などもありはしなかった。途中で逢ったのは歓迎ばかりで、何もかも平静だ。もしインカを裁判する必要があったのなら、カスティレへ連れて行って、皇帝に裁いて貰うべきだった。僕はインカが無事に船に乗っているのを見るために自分自身を賭けてもよかったと思う。」(Prescott. op. cit. p. 476.)この抗議は尤もだった。ピサロもおのれの軽率を認め、修道僧と会計主任とに欺されたのだと云った。がそれを伝え聞いた両人は納まらず、ピサロを面責した。そうして互に嘘つき呼ばわりをした。これを以て見てもインカの裁判の不正は解ると云われている。これは恐らくスペイン植民史上の最大なる罪悪であろう。
絶大な権威を持っていた「日の神の子孫」の支配は、かくして終った。美しく整っていた国内の秩序はそれと共に崩壊した。が新しい秩序はまだ樹立されない。それは一種の革命状態であった。ピサロは古い権威を利用することの賢明なるを考えて、アタワルパの弟トパルカを王位継承者と定め、彼の手から王冠をさずけた。そうして五百名の軍隊を率い、新しいインカと老将軍チャルクチマをつれて、一五三三年九月初め、首府クスコに向け進軍を開始した。土人の抵抗がないでもなかったが、荒っぽい騎士たちはそれを乗り切って行った。途中ハウハで若いインカは急に歿し、老将軍はその暗殺や土人蜂起の指嗾などの嫌疑を受けるに至った。クスコに近い別荘地で数日軍隊を停め休養させた時、ピサロは老将軍を裁判にかけ、またもや火刑が宣告された。が将軍は最後まで改宗せず、剛毅な態度を以てその苦痛に堪えた。ところがその直後に、正統の王位継承者たるワスカルの弟マンコが現われ、王位を要求すると共にスペイン人の保護を求めた。ピサロは喜んでこれを迎え、自分は王位に対するワスカルの要求を擁護し、アタワルパの簒奪を罰するため、スペイン王よりこの国に派遣されたのである、とさえ言明した。かくて彼は、正当のインカたるべきマンコ・カパクを携えて、一五三三年十一月十五日、首府クスコに入城したのであった。
クスコは当時人口二十万、郊外にも二十万の住民があったと云われている。それは誇張であったかも知れぬが、しかしとにかく帝国の首府として、全国より集まる貴族の邸宅があり、また代々のインカによって豊富にせられた神殿宮殿の豪華であったことは前に述べた通りである。ピサロは住民の家宅の掠奪を禁じたが、数多い宮殿や神殿の掠奪は兵士のなすがままにしたのである。彼らは墓場をさえもあばいた。財宝の隠匿所をも探して歩いた。それらは前と同じく鎔かして金塊銀塊とされたが、総額はアタワルパの身代金よりも多かったと云い或は少かったと云う。
マンコはピサロの手によって戴冠されインカの位に即いた。神殿や宮殿は壊されてキリストの教会・僧院、その他ヨーロッパ風の建築が建てられた。ピサロの仲間でここに落ちついたものは少くない。かくてクスコに於けるスペイン人の支配が始まったのであるが、しかしこれがスペインの植民地として確立されるまでには、征服者たち自身の間の内乱がなお十五年位も続くのである。
最初の事件はグヮテマラの征服者ペドロ・デ・アルバラドが一五三四年三月キトー征服に来たことであったが、これは戦を交えるまでに至らず、ピサロが十万ペソを以てアルバラドの艦隊や軍隊(五百名)を買い取り局を結んだ。
次の事件はピサロとアルマグロの衝突である。両人の間の不和は前に述べた如く第三回遠征に出発する前に萌していたのであるが、ペルー征服に際しておのずから両者は和合したのであった。征服後にも一五三五年一月にピサロが今のリマに新しい首府を築き、同年七月初めアルマグロが南方遠征に出発する頃には、二人は契約と誓言を以て和合につとめている。然るにアルマグロが一年半に亘る大遠征によってアンデス山脈をチリーまで突破し、帰途アタカマ沙漠を越えて一五三七年春クスコ高原に帰着した時には、事情はすっかり変っていた。その原因の一つは、遠征隊の留守中にインカ・マンコが独立を計ったことである。彼はクスコを脱出して人民を集め、武器を執って首府を包囲した。町の半ばは焼かれ、要塞も一時占領された。防禦につとめたピサロの三人の弟の内、一人は戦死した。ピサロは救援に赴こうにも途中の山路を扼されて如何ともなし得なかった。やがて謀叛が全国に拡まれば征服の成果は危うくされるであろう。ピサロはかく考えてパナマ、ニカラグヮ、グヮテマラ、メキシコなどの総督に救援を求めた。コルテスが二隻の援軍を送って来たのはこの時のことである。これがアルマグロの帰着の時の情勢であった。第二の原因は、遠征の留守中にアルマグロがスペイン王からペルー南部の総督に任命されていたことである。その地域はサンチャゴ河の南二七〇レガより始まり南方に拡がるあらゆる国土ということであった。アルマグロはクスコが自分の領分に属すると考えた。でマンコの軍を撃退しつつクスコに迫って、ピサロの弟ゴンサロ及びエルナンドに町の明渡しを要求した。両人はそれを躊躇したが、彼は一五三七年四月八日の夜、突然町に侵入して両人を捕縛してしまった。これがピサロ派とアルマグロ派との衝突の始まりなのである。
丁度その頃、ピサロに救援を頼まれたアルバラドは、五百名の隊を率いてクスコへ進軍中であった。アルマグロは早速首府占領の旨を報じたが、アルバラドは使者を捕縛させて進軍を続けた。アルマグロは怒ってその隊を急襲し、七月十二日に勝利を得た。インカの軍隊も山の中へ追い込められてしまった。そこでアルマグロに必要なことは、南ペルーに海港を見出して本国と直結することであった。彼はピサロの弟をつれて海岸へ下りて来た。ゴンサロは逃げたが、エルナンドは手に残っていた。それをピサロは取り戻そうとして、至極穏かな態度を取り、交渉を始めたのである。十一月十三日、双方はリマ南方で会見した。ピサロはアルマグロのクスコ領有を認め、その代りにエルナンドを釈放せしめた。がその釈放の実現せられた途端にピサロは契約の無効を宣言し、再び戦争を開始したのである。怨み骨髄に徹したエルナンドは翌一五三八年春クスコに攻め上り、四月末首府附近に於て、双方各〻七八百名の兵力を以て、決戦を行った。アルマグロは病中で陣頭に立てず、敗れて捕えられ、裁判にかけられた。エルナンドはこの戦友に何の同情も示さず、七月八日死刑に処して了ったのである。
アルマグロの息ディエゴはリマにあったが、総督の地位を嗣ぐことも出来ず、味方と共にチリー派として排斥せられた。で彼らは本国へ訴えた。その運動に対抗するため、エルナンド・ピサロも一五三九年に本国に帰ったが、しかし総督を死刑に処した行為は弁解の余地がなく、捕えられて一五六〇年まで獄中にあった。他方ペルーではチリー党が結束して、一五四一年六月、ピサロを奇襲して殺した。ピサロはこの時六十三歳であった。彼は当然受くべきような罰を受けた、というのが多くの史家の一致した意見である。
以上の党争に続いて起った事件は、両派の残党と本国政府の任命した総督との争闘であった。初めに登場したのはピサロを殺したチリー党で、それに対抗したのは、本来ピサロと共同して正しい政治を行う様にと本国政府から任命された王の裁判官法学者バカ・デ・カストロであった。カストロはピサロ死去の場合総督となるべき命を受けていたが、果して彼がペルーの北方に到着した時、ピサロの暗殺の報を受けたのである。で彼は総督としてキトー地方に入り、スペイン人軍隊の間に本国政府への忠誠を説きつつ徐々に南下して行った。リマではアルマグロの息ディエゴがチリー党と共に味方を獲得して相当に勢力を拡大しつつあったが、新総督の集めた勢力の方がやや強く、一五四二年九月十六日にクスコとリマの中間で決戦が行われた時には、総督方騎兵三二八名、歩兵四二〇名、アルマグロ方騎兵二二〇名、歩兵二八〇名であった。この決戦でチリー党は壊滅し、ディエゴも処刑された。かくて法学者カストロは極めて賢明にスペインの軍人たちを本国政府の権威の下に服従せしめたのである。
次で登場したのはピサロの末弟ゴンサロで、その相手はカストロに代って任命された副王ブラスコ・ヌンニェス・ベラである。ゴンサロは既に一五四〇年にキトー総督に任ぜられていたのであるが、カストロがキトーに来た時分にはアマゾン河谷への苦しい遠征から未だ帰っていなかった。彼が生き残ったスペイン人八十名をつれて漸くキトー高原に帰って来た時には総督は既に南下していた。兄の暗殺を聞いた彼は憤然としてアルマグロ討伐軍への参加を申入れたのであるが、総督はピサロ派の参加を喜ばず、この申入れを拒絶した。これが先ずゴンサロを深く傷つけたのである。しかし彼はカストロには反抗せず、その勧めに従って南方ボリビアのポトシ銀鉱開発などに従った。然るに副王ブラスコ・ヌンニェスが来任して、土人の人権擁護を強行し始めると共に、事件が勃発したのである。この人権擁護の要求は云わばペルー征服者たちの十年来の行為を否定するものであった。征服者たちがペルーに於て行った暴虐行為は実に人類の歴史を通じて稀有なものであるが、それが本国に於ても問題を起し、遂に一五四二年ラス・カサスの土人の人権保護の提議となったのである。この提議は採用され、奴隷解放に関する詳しい勅令が一五四三年十一月マドリッドに於て発布された。それがペルーに伝わると、領地を分配されて土人を奴隷的に駆使しつつあった征服者たちは、おのれたちの生活の破滅として騒ぎ始めた。ペルーの征服はわれらの力を以て成し遂げたのである。政府は殆んど力を貸してくれなかった。然るにその征服の成果を今や政府は取上げようとする。この暴虐に対して誰かわれわれを護ってくれるものはないか。そこで衆望はゴンサロ・ピサロに集まった。銀鉱の経営に没頭していたゴンサロの許へ国中から手紙や使者が集まった。それに動かされて彼は遂に立ち上り、クスコに入って特権擁護運動の先頭に立ったのである。やがて彼は軍隊を集めてリマに向け進軍を始めた。副王配下の隊も頻々としてピサロ側に寝返った。副王は漸次周囲の者の信望をさえも失い、部下の裁判官や市民の手によって船でパナマへ追放されて了った。かくてゴンサロ・ピサロは血を流すことなくして一五四四年十月末リマに入り、ペルー総督となった。副王は途中トゥンベスで脱出し、キトーに入って再挙を計ったが、ゴンサロはこれを追及し、一五四六年一月に至って、遂に副王を戦死せしめた。
この情勢に驚愕した本国政府は、王命を無視せる謀叛人に対して王位の名誉を守るために政府の全力を用いようとする意向がなかったわけではないが、しかしその仕事の困難なことを反省して、穏かに彼らを説得するために、ペドロ・デ・ガスカを送ることになった。ガスカは僧侶でありサラマンカ大学の有力な学者であったが、当時世間に示した政治的才幹の故にこの任に選ばれたのであった。彼は任務の説明を聞いたとき、自分は報酬は要らない、しかし皇帝の全権を委任して貰いたいと要求した。このような広汎な権限は曽て如何なる総督や副王にも与えられたことがないので、政府は途方にくれたが、皇帝カール五世は一五四六年二月に淡白にそれをガスカに与えた。そこで彼は任地に於ける宣戦権・募兵権・任免権のみならず、大赦を行う権利、問題の人権擁護の勅命を取消す権利をまで握って、五月末本国を出発した。従者は極めて少数であったが、その中に曽てのピサロの部下アロンソ・デ・アルバラドがガスカの請によって混っていた。
本国の圧迫に備えたゴンサロ・ピサロは二十隻の強力な艦隊をパナマに派し、地峡の対岸のノンブレ・デ・ディオスをも占領していたが、軍隊もつれず質素な僧衣を身にまとったガスカは、そこへ乗り込んで行って平和工作を開始した。艦隊の司令官イノホサは、熱心なピサロ派であったが、ガスカに説得されて王の委任した全権を認め、その命令に服従した。ピサロが、本国に派遣しようとした腹心のものも同様の態度を取った。でガスカは一五四七年二月にこの男と四隻の船を先発させ、スペイン国民としての義務に帰った者は赦免される、その財産は安全である、と宣伝させた。ピサロに従ったスペイン人の多くが動揺し脱走し始めた。ピサロはリマを去り、あとを先発隊が難なく占領した。ガスカ自身は募兵によって軍隊を組織し、艦隊を率いて、四月パナマ発、六月中頃にトゥンベスに着いた。国中のスペイン人がガスカに呼応した。
ガスカが南方リマを経てハウハに進軍していた間に、ピサロは減少した隊を率いてチリーへの脱出を企てていた。がその途中を曽ての部下センテノに阻まれた。これはピサロ担ぎ出しに奔走した男なのである。ピサロは示談を試みたが駄目であった。両軍は一五四七年十月末チチカカ湖畔に於て戦った。ピサロはこの戦に勝ってもう一度クスコに入り、ガスカの軍隊との決戦を準備した。ガスカは一五四八年の春に至って二千名の軍を率いてクスコ近郊に迫り、四月九日敵軍と対峙して最後に降服を勧告したが、ピサロはきかなかった。が戦の始まる前に歩兵隊の指揮官は離叛の合図をしてガスカ方に走り去った。騎兵もそれに従った。取り残されたピサロと少数の部下は捕えられて裁判に附せられ、死刑に処せられた。
ガスカはペルー国の秩序を確立して、一五五〇年スペインに帰った。丁度その頃にシャビエルが日本にいたのである。
九 太平洋航路の打開とフィリッピン攻略
ペルーの征服はヨーロッパ人の植民史上に於ても最も暗黒な頁として認められている。征服者たちにとってはそれは十字軍であったが、しかしキリスト教界に於ても最早何人も征服者の暴虐な所行を弁護するものはあるまい。前述の如く既にその当時に於てさえもラス・カサスはこの所行を否定し、そうしてそれが一時はスペイン国の政策とさえもされたのである。しかしこの非人道的な征服事業の内にも極めて強健な探検の精神が動いていたことを我々は見落してはならない。ピサロの相棒であったアルマグロは、ピサロと同じく無学な男であったが、ペルー征服後直ちに南下して、アンデス山脈の中を、今のボリビアやアルゼンチンの西境地方からチリーに至るまで、実に困難な探検旅行を遂行している。またピサロの弟ゴンサロ・ピサロは、キトーの東境からアマゾン河の上流地方に入り込み、さまざまの艱難を嘗めた。その部下のオレリャナの如きは、隊の食糧の工面をするため下江したのであったが、引返すことが出来ずそのままあの長いアマゾン河を河口まで下って行くという大旅行をやった。このような活溌な冒険的行為は、たといそこに黄金追求欲が入り混っているとしても、なお近代の世界の動きの尖端としての意義を失わないのである。
このような特徴はメキシコ征服者コルテスにも明白に現われていた。彼の征服の完成を以てその活動を閉じたのではなく、大西洋から太平洋への通路の発見や、太平洋岸の探検などにその余生を集中したのであった。かかる点から見れば、メキシコ及びペルーの征服は、ヨーロッパから西方に進んでインドやシナに達しようとした本来の運動にとっては、一つのエピソードに過ぎないとも云える。新大陸の発見はその担える意義に於ては印度航路の発見よりも遙かに大であるが、しかし西方への視界拡大の運動はそれによって喰いとめられはしなかった。今やアメリカ大陸の西に横わる大洋が未知の世界として解決を要求する。西への衝動はこの大洋を突破しなくてはならない。
征服されたメキシコとペルーとは、今やこの西への運動の基地としての意義を担い始めるのである。しかもこの太平洋への動きは既にメキシコ征服と時を同じくして始まったのであった。それはマガリャンス(マゼラン)の世界周航である。
太平洋航路発見地図
ヨーロッパより南西航路によって香料の島に達しようとする考は、既に一五〇三年にアメリゴ・ヴェスプッチの抱いたものであった。一五〇八年には、ビセンテ・ヤンネス・ピンソンとフアン・ディアス・デ・ソリスとがその実行にかかったが、南緯四十度で挫折した。その後間もなく一五一三年のバルボアによる太平洋の発見が強い刺戟となり、この新しい海へ大西洋から連絡をつけようという希望が湧き上って来た。一五一五年右のソリスは南アメリカに太平洋への海峡を発見し、パナマまで出ようと企てたが、ラプラタ河のあたりで土人に殺された。南西航路の打開にはピンソンやソリス以上の巨腕が必要だったのである。そこへ現われたのがマガリャンスであった。
マガリャンスのことは、既にアルブケルケのゴア攻略を語る際に言及した(「前篇 世界的視圏の成立過程」の「第一章 東方への視界拡大の運動」の「五 インド征服」)。彼はポルトガルの北東端の州に生れ、一五〇五年、二十四五歳でダルメイダに従ってインドに行き、一度帰国、一五〇九年にマラッカ遠征に従った。一五一〇年にはアルブケルケのゴア攻略の計画に反対してその機嫌を損い、インド洋での立身の望を絶つに至ったのである。帰国後はアフリカに地位を得ようとしてモロッコに出征したりなどしたが、思うように行かず、王の恩顧をも受けることが出来なかった。で失意のうちに隠退してコスモグラフィーと航海術との研究に専念していたが、そこへ親友セランからモルッカ諸島への航海を報ずる手紙が届いた。それによるとモルッカ諸島はマラッカから非常に遠いことになっている。そうなると、モルッカ諸島は西の半球に、即ちスペインの領分に、入っていはしないか、という疑が起る。そういう疑を天文学者ルイ・ファレイロなどと語り合ううちに、南アメリカを廻ってモルッカ諸島へ行く航路の考に到達したのであった。
この考はしかしポルトガルでは実現出来ない。スペインの領分を通るのだからである。それに加えてポルトガルの王はマガリャンスの業績も才能も認めなかった。それらの理由で彼は遂にスペインへの移住を決意し、ルイ・ファレイロやクリストヴァル・デ・ハロなどと共に、一五一七年にセビリャに来た。そうしてディオゴ・バルボサに款待され、後にその娘ベアトリスと婚するに至った。また有力な商館長フアン・デ・アランダをも同志に引き入れた。
一五一八年の初め、マガリャンスはファレイロ、アランダなどと共に、バリャドリードの宮廷を訪ね、彼らの計画を申し出た。幾分の懸念もないではなかったが、遂に三月廿二日に至って契約が成立した。それによると、マガリャンスはスペインの半球内に行動しなくてはならない。航路を見出せば、十年間の独占を允許する。その航路はアメリカ南方の海峡を通って太平洋に出る道である。新発見の島については、収入の二十分の一を受け総督の称号や地位を貰う。また新発見の地方への遠征に対しては千デュカットの商品を以て参加することが出来る。六つ以上の島が発見せられた場合には、その内の二つを選んで収益の十五分の一を受ける。第一回航海の純益からも五分の一を受ける。等々。かかる契約の下に政府は五隻の船(一三〇噸二隻、九〇噸二隻、六〇噸一隻)及び乗員二三四名に対する二年間の食糧を提供した。マガリャンスはこの探検隊の最高権力を握ることを要求し、王より各船長以下乗員に対して総指揮官への絶対服従を命じて貰った。尤も艤装費の五分の一(四千デュカット)は、マガリャンスと共にスペインへ移住したハロが受持った。
この計画を聞いて驚いたのはポルトガル政府で、早速邪魔を入れ始めた。一方では正式にカール王へ使者を送って抗議し、他方ではセビリャのポルトガル商館長をしてマガリャンスを説得せしめたが、いずれも効を奏せず、そこで盛んに中傷宣伝をこころみた。そのため準備はいくらか遅れ、同志のファレイロも脱退するに至ったが、代りにバルボサの甥ドゥアルテ・バルボサやフィレンツェ人のアントニオ・ピガフェッタが加入した。特に後者はこの航海の記録者として著名である。
マガリャンスは一五一九年九月廿日、五隻の艦隊を率いて出発した。彼は初めより各船長に艦隊行動を取ることを厳命し、絶えず信号燈によって連絡することにつとめたが、この厳格な統率に対して最初に反抗し始めたのは旗艦(トゥリニダッド)と同じく大型のサン・アントニオの船長であった。マガリャンスはこれを拘禁して船長を代えたが、この争があとまで根を張っていたように見える。艦隊は年内にリオ・デ・ヂャネイロまで行き、翌一五二〇年一月十日にはモンテビデオに着いた。ここは前にソリスの来た南端である。二月一日から未知の南方にふみ入り、湾を一々注意深く調べながら、三月卅一日にプェルト・サン・フリアーン(49°15′)まで来たが、ここでマガリャンスは冬籠りの決意をした。それが船員の間に不平を呼び起し、それに乗じて前述の争が遂に勃発したのである。
謀叛の起ったのは四月一日の夜であった。中型船コンセプションの船長が先ず拘禁中の前述の船長を解放し、この拘禁船長が頭となって、もとの自分の船サン・アントニオの新船長を襲い、この船を奪回したのである。中型のヴィクトリアもこれに味方した。で翌朝にはマガリャンス方二隻、謀叛船三隻の形勢となった。マガリャンスは船長たちを召集したが、逆に向うからサン・アントニオへ来て貰いたいという返事を受けた。そこへ謀叛者たちが集まっていたのである。マガリャンスは隙を見て腹心のものをヴィクトリアに派し、船長を殺して船を奪回せしめた。次でその夜、サン・アントニオが錨綱を離れて流されて来た機会を捕え、いきなり大砲を打ちかけてこの大型船の中へ兵隊を突撃せしめた。謀叛船長たちは皆捕縛された。特にコンセプションの船長は斬罪に処せられた。こういう騒ぎが、目ざす海峡に僅か二百海里のところで演ぜられたのである。
マガリャンスはその後、この海峡に近いところで五カ月の間冬籠りした。南緯七五度まで行ってなお海峡が見つからなければ引返そうというのが彼の主張であったから、まだまだ高緯度の寒い地方へ深く突入する覚悟で、じっくり腰を落ちつかせていたのである。やがてその腰を上げようとする前に、小型のサン・チャゴを先発させたが、この船はサンタ・クルス(50°)で難破し、乗員たちは辛うじて帰って来た。でそれらを残りの四隻に分乗させ、一五二〇年の八月末に出発、サンタ・クルスに至って船の修繕にかかり、十月十八日にいよいよ南航の途に上った。そうして海峡の入口、処女の岬についたのが、三日後の二十一日なのである。
この海峡はフィヨルド風の断崖で、長さは六百粁、東部、中部、西部などで様子が変っている。東部は狭い海峡を通ると中が開けて湖のようになり、また狭い海峡に来てその奥が開ける。岸にはあまり湾入がなく、地質は新生代で、ほぼ等高の山脊が連り、樹木はない。中部から西は花崗岩と緑岩で、山は千米以上、時には二千米を超え、岸に湾入が多くなる。西部は狭い海峡になっている。いずれも樹木は多い。
マガリャンスはこの入口で、サン・アントニオとコンセプションとを偵察に出した。一隻は湾に過ぎないと報告し、他の一隻は、狭まりの奥に広い湾があり、更に次の狭まりの奥にも広い湾があって、いずれも投錨出来ぬほど深い、恐らく海峡であろうと報じた。これは三日目のことであった。マガリャンスは事の重大性を察して、船長やパイロットたちを召集し会議を開いた。食糧はあと三カ月しかない。この時サン・アントニオのパイロットのエステバン・ゴメスは帰航を主張した。もう海峡は発見されたのだから、一度スペインへ帰り、一層完全な準備を整えて、世界周航の企てを遂行するがよい、と云うのである。マガリャンスは、峠を越したところで引返すという法はない、王との約束は守らなくてはならない、と強硬に主張し、翌日出発の用意を命じた。
海峡の途中、大陸の南端近くで、彼は再び二隻を偵察に出し、あとの二隻は魚を漁って食糧の補給に努めることとした。ゴメスの操縦するサン・アントニオは、満帆を張って南東へ入り込んだ水路を突進して行った。そこの探検に行ったものと考えたコンセプションは、同じ水路を巡航してサン・アントニオの帰るのを待っていたが、遂に現われて来なかった。ゴメスは、マガリャンスの忠実な部下である船長を押しこめて、そのままスペインを目指し、途中置いてきぼりの謀叛船長を拾い上げて、帰国して了ったのである。コンセプションは北西への海峡を探検して、三日後に、西の出口まで到達したという報をもたらした。マガリャンスはこの吉報を喜ぶと共にサン・アントニオの失踪を憂え、その捜索にヴィクトリアを派遣したりなどしたが、見つかるわけもなかった。
十一月廿一日、マガリャンスは、残りの船に回状をまわして帰航か前進かの意見を求めた。天文学者マルティンの意見はやや悲観的であったが、前進に反対はしなかった。翌日マガリャンスは前進の命令を発した。そうして昼間だけ航海し、夜は碇泊した。一隻だけ先駆させたが、この船は五日目に出口到達を知らせた。かくて十一月廿八日、マガリャンスの船隊は、海峡に進入してから三週間で太平洋に出た。待ち合せの日を除くと、正味十二日間である。
マガリャンスは海峡を出てから針路を北にとった。南緯四七度まで北上してもなおパタゴニアの山々が見えた。更に三七度まで北上して、いよいよ太平洋をのりきるために、針路を北西に向けた。そうしてパウモツ諸島とマルキーズ諸島との間を通って、四十日間島影を見なかったが、その間毎日順風が続いた。太平洋(mar pacifico)という名はこの時に与えられたのである。一五二一年一月廿四日に至り南緯一六度一五分のところで初めて無人島に接した。更に十一日を経て二月四日に一〇度四〇分のところで再び無人島を見出し、二日間碇泊して漁獲に努めた。食糧の欠乏が甚しかったからである。ピガフェッタの語るところによると、三カ月と二十日間、新鮮な食糧なく、遂には皮革や鼠などを食った。「神とその聖母とが好天気を恵み給わなかったならば、我々はすべて餓死したであろう。」
一五二一年二月十三日、マガリャンスは赤道を超えた。西経一七五度のあたりである。それから十一日間北西に針路を取って北緯一二度まで達したという。ギルバート諸島とマーシャル諸島との間を通りぬけたわけである。そこで航路を西に転じて、三月六日、マリアナ(ラドロナ)諸島に達した。目標たるモルッカ諸島が赤道下にあることを知っていながらかく北へ迂回したのは、ポルトガル船を避けて休養と修繕の地を見出そうとしたのである。ここではグァム島とサン・ローザ島をまず見出した。これらの島には極めて軽快に走る帆舟が群っていて、前へも後へも矢のように走っていた。そういう舟が頻りにスペイン船へ近づいて来て船のものを盗んだりなどしたために、ラドロナ(盗み)という名がつけられたのである。ここに三日ほど碇泊したが、土人の盗みを憤って村を焼き七人ほど殺した。かくマガリャンスが日本に最も接近して来た丁度その時期に、メキシコではコルテスが最後の攻撃の準備をほぼ整えていたのであった。
ここから西航してサン・ラザロ島(即ちフィリッピン諸島)に着いたのであるが、最初上陸したのは、サマル島の南の小島スルアン島であった。水を積み込み病人を休養させるためである。土人との間は友交的であった。酋長は絹の鉢巻き、金糸繍のサロンというマライ風俗でやって来た。そこから南西に航してミンダナオ島とレイテ島の間の小島のリマサガ(マサゴア)に立ち寄りミサを行ったが、この島のラヂャはスペイン人を北西セブ島に案内して行った。セブの商人は既にポルトガル人と貿易を行っていたからである。セブの君公はスペイン人たちを非常に優遇し、八日の後には数百の島人と共に洗礼を受けたという。この地に来ていたアラビア商人は、カリカットやマラッカの征服を説いて彼に警告したが、マガリャンスはそれを圧倒した。そのセブの君公は近隣諸島の征服を志していたが、東岸のマタン(マクタン)島は未だ服していなかった。この事情を聞いたマガリャンスは、自分たちの武器の優秀さを見せて土人たちを心服せしめようと考え、マタン島の討伐を企てた。セブの君公が兵隊を出そうとするのを断り、彼はただ五六十人のスペイン兵を率いて、三隻のボートで島に行ったのである。然るに上陸して見ると敵は案外に優勢であった。スペイン兵の銃撃を楯で防ぎながら、攻撃に転じて肉迫してくる。矢と石が雨のように降りかかる。マガリャンスは遂に毒矢に中った。そこで彼は退却の命令を出したのであったが、味方は崩れて逃走におちてしまった。ただ七八人の勇敢な部下だけが彼を守った。敵の攻撃はこの司令官に集中した。彼は最後まで敢闘したが、遂に斬倒された。彼と共にスペイン人八名受洗土人四名も戦死した。彼の屍は遂に取り返すことが出来なかった。これは一五二一年四月末、マガリャンス四十一歳の時のことであった。丁度この同じ日にメキシコではコルテスの湖上艦隊が進水したのであった。
ヨーロッパより西に向って遂にアジアに到達することの出来たこの偉大な業績に比べて、彼の最後はいかにも気の毒な失策であった。これを見てセブの土人の気持は急に変ってしまったのである。外来人の優越はもはや認められなかった。そこで計画されたのが宴会の席上で目ぼしいスペイン人を鏖殺することであった。被害者は二十四人であったが、その中に最初からのマガリャンスの片腕ドゥアルテ・バルボサ、同じく腹心のフアン・セラノ、天文学者サン・マルティンなどがあった。助かったのは、負傷のため招待に応じなかったピガフェッタや、疑懼のため行かなかったロペス・デ・カルバリョなどであった。カルバリョは凶報を受けると共に即座に抜錨して陸からの攻撃に備えた。生捕られたセラノの身代金の交渉にさえも応じなかった。
こうしてセブ島を逃げ出したものの、乗員はもはや不足である。で三隻のうち最も破損のひどいコンセプションをボホル島で焼き、トゥリニダッドはカルバリョが、ヴィクトリアはゴンサロ・バス・デスピノーザが、指揮を取って、南ミンダナオ島のカガヤン、更に北西パラワン島などを廻り、アラビア人の手引きによって南方ボルネオのブルネイを訪れたりなどした。そうしてそこから引返してモルッカ諸島のティドールについたのが、一五二一年の十一月八日、セビリャ出発後二年三カ月であった。
ティドールのラヂャはスペイン人を款待し、都合のよい通商条約を結んでくれた。スペイン人がポルトガル人よりも高く香料を買ったからである。ポルトガル人はテルナーテに根拠地を作っていたが、スペイン人はそこへ友交的な会見を申込んだ。ポルトガル人は初めそれを断ろうとしたが、遂に承諾して会いに来た。十年前最初の船で来た商館長アフォンソ・デ・ロウロサである。彼はポルトガル王がマガリャンスの遠征隊を妨害すべき命令を発したこと、インド総督セケイラがマガリャンスの艦隊を撃退するため六隻の軍艦をモルッカ諸島に派遣しようと企て、対トルコ戦のため中止したことなどを語った。ロウロサ自身はスペイン船に便乗して故国へ帰りたがったほどであるが、国家的には烈しい敵対関係が醸されつつあったのである。
スペイン船は十二月中ばまで積荷にかかった。十六日には出発の予定であったが、突然旗艦トゥリニダッドが洩水を始め、容易に修繕することが出来なかった。そこで二十一日にヴィクトリアのみが帰国の途に上ることになった。船長はセバスチアン・デル・カノ、乗組は白人四七名、インド人一三名であった。かくてブル島、チモル島を経て直ちにインド洋に出で、一五二二年三月中旬にはインド洋の真中のアムステルダム島、五月上旬にはアフリカ南岸のフィッシュ河、同月中にひどい嵐の中で喜望峰を廻り、食糧の欠乏に苦しみながら、七月九日、やっとカボヴェルデ諸島に着いたが、この間に二十一人死んだ。窮迫のあまり、ポルトガル官憲に押えられる危険を冒してサン・チャゴ島に上陸したが、この際最も驚いたことは、船内の日附が一日遅れていることであった。ピガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂う筈はない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になって解った。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短かくなったのであった。
この島ではやがて彼らの素姓が見あらわされた。三度目にランチが陸についたとき、乗組十三名はいきなり捕まって了ったのである。デル・カノは即座に抜錨して逃げた。そうして九月六日に本国についた。生存者は十八名に過ぎなかった。しかしこの世界周航が世間に与えた影響は非常なものである。ピガフェッタは全航海の自筆日誌を王に捧げた。これがマガリャンスの偉大な業績を世界に対してあらわにすることとなった。かくして最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたということになる。これは近世初頭のヨーロッパの尖端を綜合した仕事といってよい。
マガリャンスの仕事は太平洋をスペイン人の活動の舞台たらしめた。その第一歩は既に右の最初の世界周航の中からふみ出されている。マガリャンスの乗船であったトゥリニダッドがその役者である。
香料の島ティドールに残ったトゥリニダッドは、漸く修繕を了えて、一五二二年四月六日に出発し得るに至ったのであるが、船長デスピノーザは、ヴィクトリアのあとを追わず、太平洋を横断して帰航することを企てたのである。乗組はヨーロッパ人五〇名、土人の水先案内二名であった。ティドールから先ず北へ向い、やがて北東へ針路を転じたが、風向きが悪く、航路を外れて北緯四二度まで上った。こうして数カ月の間あちこちと吹き廻わされ、寒さと食糧の欠乏と病死とに悩まされ続けたが、遂に五日つづきの暴風で船首上甲板と主檣とをとられ、止むを得ずモルッカ諸島へ引返して来た。来て見るとテルナテ島にはポルトガル人が要塞を築いている。ティドールではそれに近過ぎるので、ハルマヘラの岸へ避難し、そこからポルトガルの司令官に救援を哀願した。かくて十月頃、残存十七名のスペイン人はテルナーテに運ばれ四カ月拘禁、更にバンダで四カ月、マラッカで五カ月、コチンで一年留められた。その間に次から次へと死歿し、リスボンに着いた時には三人のみとなった。ここでも七カ月の拘禁後に釈放されたのである。かくしてマガリャンスの隊員二三九名中、帰国し得たものは合計二十一名に過ぎなかった。
右の如く太平洋での活動の第一歩は挫折したが、しかしマガリャンスの仕事は、本国に於ても太平洋への関心を急激に高めたのである。政治家はその眼界を拡大した。香料の島への道は今や東向きと西向きとの二本になったのであるが、かくいずれの方向からも到達し得るとすれば、その香料の島はスペインとポルトガルとのいずれの領分に属するのであろうか。もし西廻りの近道が見出されたならば、この方が東廻りよりも短距離なのではなかろうか。かかる考慮から、カール五世はデル・カノの帰着後一年経たぬ内に、コスモグラフィーの学者たちの忠告に従って、メキシコの征服者に、中部アメリカで太平洋への通路発見の努力を熱心に続けよと命令した。また国内でも商人や企業家に制限なくモルッカ行を許し始めた。それと共に香料の島の帰属を定めようとするポルトガルとの協議も開催された。委員は両国とも法律家三人、天文学者三人、パイロット三人で、一五二四年の四月から五月末まで、国境のバダホスとエルヴァスの町で討議したが、境界線の位置も確定して居らず、半球の長さも未定であった当時に於て、明白な結果が出るわけもなかった。そうなればあとは実力で香料の島を確保するほかはない。そこでスペイン政府は有力な艦隊を太平洋に派遣することに決したのである。
この艦隊は七隻からなり乗組は四五〇名であった。司令官はガルチア・ホフレ・デ・ロアイサで、前述のデル・カノがパイロットの頭をつとめた。出発したのは一五二五年七月末、ピサロが既にペルーの第一回探検に出ていた頃である。しかしこの遠征は非常に不運であった。マゼラン海峡に達するまでに既に散々な目に逢っている。一五二六年の一月にまずデル・カノの船が難破した。二月には暴風で艦隊が離散し、内一隻は喜望峰廻りを志して行方不明、他の一隻はブラジル木材を積んで帰国してしまった。なおデ・オセスの船は南緯五五度まで流され、おのずから南アメリカの南端を発見したのであったが、この時はその発見を利用せず、北上してロアイサの本隊に復帰したのであった。
ロアイサが四隻を以て海峡に入ったのは一五二六年四月六日、太平洋に出たのは五月二十五日であったが、六月一日に再び暴風に襲われ、四隻は四散してしまった。その内の最も小さい船は五十噸で、単独に太平洋を横断するほどの食糧を積んでいないため、最寄のスペイン植民地に達しようとして北上し、一五二六年七月末にテワンテペクに着いた。それによって南アメリカ大陸の西の限界が明白となったのである。前にアメリカの南端を発見したデ・オセスの船はパウモツ諸島で難破したらしく、もう一隻の船も目的地近くに到達しながらミンダナオとモルッカ諸島との間のサンヂル島で難破してしまった。かくて七隻の内、とにかくモルッカ諸島に着いたのは、旗艦一隻のみであった。しかもそれは無事にではなかった。司令官ロアイサは部下の船を失った打撃で一五二六年七月末に太平洋上で歿し、次で後継者デル・カノも八月四日にあとを追い、その後に選挙された船長はマリアナ諸島まで無事に船を導いてここで十一日間ほど休養したが、そこを出発して後間もなく九月十三日に歿した。四人目の指揮官となったバスク人マルチン・イリギエス・デ・カルキサノが、船をフィリッピン諸島、タラウト島、ハルマヘラ島と導いて行ったのである。この島のサマフォ港についた時乗組百五名中四十名が死歿していた。かくて漸く、一五二七年の元旦に、船はティドに着いた。ここではポルトガル人の圧制に対する反感から非常な款待を受け、要塞の構築なども始めたのであったが、船にはもう帰航するだけの力がなかった。その内イリギエスも歿し、あとに選ばれたフェルナンド・デ・ラ・トッレが、残存の部下を指揮しつつ後援の来るまで頑張っていたのであった。
以上の如く本国から派遣された艦隊は、最初のマガリャンスの遠征よりも反って不成績な位であった。大西洋と太平洋とを共にのり切ることがいかに困難であったかは、これによって解るのである。そこで当然人々の思いつくのは、アメリカを基地として太平洋を横断することであった。この企てに最初に手をつけたのは、ほかならぬメキシコ征服者コルテスであった。
コルテスはアルバロ・デ・サーベドラを司令官として、三隻百十名を率いて、一五二七年の末に出発せしめた。目的は香料の島とメキシコとの連絡である。サーベドラは途中で二隻を失いはしたが、しかし二カ月でマリアナ諸島まで来た。ロアイサの船が本国からここまで十三カ月かかっているのに比べると非常な相違である。その後サーベドラはフィリッピン諸島でマガリャンスやロアイサの遠征隊の落武者を拾い、一五二八年三月末日にティドールに着いた。そこで前述のデ・ラ・トッレが既に一年以上頑張っていたのである。しかしサーベドラの隊員も三十名に減じていて、あまり援軍の用をなさなかった。そこで彼はメキシコに帰って来援を求めようと決心したのである。
西から東へ太平洋を横断しようとする企ては、前にマガリャンスの旗艦トゥリニダッドが試みて失敗したところであった。今やサーベドラがそれを繰り返すのである。彼は一五二八年六月初めに出発してニューギニアの北岸を経、カロリン諸島を航したが、逆風でマリアナ諸島より先へは出られなかった。で一先ず十月にティドールへ引き返した。翌一五二九年三月、彼は再挙を計ってマーシャル諸島に達し、そこから北東へ北緯二七度まで行ったが、そこでサーベドラは歿した。船はなお行進をつづけたが三〇度に至って逆風に押し返され、遂にその年の秋の末にハルマヘラに帰着した。そうしてポルトガル人に捕えられマラッカへ連行されたのである。
本国ではこの年の四月にカール五世が三十五万デュカットを受けて香料の島への要求権を放棄した。ポルトガル側も太平洋の方からポルトガルの領分へ迷い込んだ船は敵視しないと誓った。そういう解決の結果、ティドールに頑張っていたデ・ラ・トッレ以下十六人は、一五三四年本国へ送還されることになり、途中半分に減じて一五三六年に帰着した。その中にデ・ラ・トッレ及び香料の島の報告を書いて有名なパイロット、アンドレアス・ウルダネタが混っていたのである。
が太平洋をアメリカとアジアの間の通路としようとする活動はこの妥協によっても止まりはしなかった。むしろそれはコルテスによって始められたばかりの新しい運動だったのである。コルテスが二度目に派遣したのは、エルナンド・グリハルバを隊長とする二隻の探検隊であった。これは一五三六年にピサロの救援の需めに応じてペルーに送ったものであるが、ペルーで用事をすませた上は、南アメリカの西岸からアジアへ向って航海せよとの命令を与えて置いたのである。グリハルバは赤道附近の海を西に向った。いくら行っても島影は見えなかった。もうメキシコに帰航しようと考えたが、逆風でどうしても引返せない。でそのまま風にのってニューギニア近くまで行き、メラネシア人の島で難破してしまった。後に数名の生存者がポルトガル人に救われてこの航海の消息が解ったのである。
コルテスの如上の試みはやがて数年後に大規模の探検隊にまで成長した。一五四二年十一月、メキシコ副王アントニオ・デ・メンドーサは、六隻の艦隊を西に向って出発させたのである。隊長はルイ・ロペス・デ・ビリャロボスであった。彼はほぼ真西に進んでマーシャル諸島を通り中部カロリン諸島に突き当った。一五四三年一月末には、パラオ諸島を通ってフィリッピンに着いた。この場合にも太平洋横断は二カ月余で成功している。
ビリャロボスは二月二日にミンダナオに上陸し、一カ月ほど滞留して植民地建設を企てたが、気候は悪く土人は抵抗し、思うように行かなかった。で食糧を得るためにミンダナオとセレベスとの間の小島を経巡って見たが、そこでも土人の抵抗は絶えなかった。遂に数カ月の後には食糧を得るために小さい船をカロリン諸島へ派遣したほどである。
がそれと共に彼はベルナルド・デ・ラ・トッレの指揮するサン・フアンを報告のためメキシコに向けて出発せしめた。その報告書の中で彼は、当時のスペイン皇太子の名を取ってこの諸島をフェリピナスと名づけた。これがフィリッピン諸島の名の始まりである。がこの時デ・ラ・トッレの太平洋帰航が成功したのではない。彼は八月末サマル島を出発して北東へ向い、北緯二五度のところで硫黄島を発見、更に三〇度まで行ったが、水の欠乏のため止むなくフィリッピンに引き返したのである。
その間にビリャロボスは、フィリッピン占領に対してポルトガル側からの抗議を受け、それを弁明するためにモルッカ諸島へ行った。食糧の欠乏や乗員の死亡のためポルトガル人と争うだけの元気はなかったのである。彼はただメキシコよりの救援に望をかけていた。そこへサン・フアンが引返して来たのであるが、しかし彼はその望を絶たず、一五四五年五月に、今度はデ・レーテスを船長として、再びサン・フアンを出発せしめた。レーテスはハルマヘラを廻って南東へ針路をとった。でニューギニアの北岸に触れつつ、六月から八月へかけて二カ月間悪天気と戦った。その間薪水のためにしばしば上陸し、黒人の小舟に襲撃されたりなどした。ニューギニアの名はレーテスがつけたのである。かくてレーテスはもう少しでニューブリテン諸島へつくところまで来たが、ここで針路を北に転じた。その内乗員の間に不平が起り、止むなく引返して十月初めティドールに帰着した。
ビリャロボスは二度の失敗によって太平洋からの救援に絶望した。もはや全艦隊を以てポルトガル人に降服するほかはない。丁度新任のポルトガル知事が強硬な態度を取り始めた機会に、彼はそれを実行した。そうして送還の途中、一五四六年四月、アンボイナで歿した。一四四名の乗員は一五四八年にヨーロッパに帰った。
以上の如き失敗にも拘らず、フィリッピン植民の計画は放棄されなかった。カール五世についでフェリペ二世が立つと共に、その名を負う諸島の経綸も力強く押し進められた。ポルトガルの抗議は顧慮するに当らない。ポルトガルは、モルッカ諸島までの勢力維持が精一杯で、それから先への拡張の余力などはもうないのである。その上フィリッピンの植民は、貿易上の巨利などを約束せず、土人への福音伝道を目ざしている。従ってそこへ手をのばしてもポルトガルの利益を損うことにはならない。そうスペイン人たちは考えたのであった。
そこで一五五九年に、メキシコ副王ルイス・デ・ベラスコは本国から艦隊建造の命を受けた。この時政府が大きい望をかけていたのはウルダネタの協力である。ウルダネタは本国から派遣したロアイサの艦隊で最後まで生き残った一人、南洋のことには詳しい。その上優れたパイロットである。一五五二年アウグスチノ会の僧団に入り、メキシコの僧院に隠居していた。そこへ新らしい遠征隊への招聘がもたらされると、ウルダネタは喜んで承諾した。というのは、未だ知られていない南洋の大陸を発見したいとの念が、この隠遁僧の心の中になお生きていたのである。伝道のためには同じ僧団の仲間を四人連れて行くことにした。かくて準備に数年を費し、一五六四年十一月四隻の艦隊を以てメキシコ西岸から太平洋にのり出した。司令官はミゲル・ロペス・デ・レガスピであった。
レガスピの受けた命令は、ビリャロボスの航路を蹈襲し、出来るだけ早くフィリッピンに着けということであった。そうしてそれは命令通りに実行されたのであるが、途中で艦隊にはぐれた小さい船の一隻は、そのために反って思いがけぬ偉功を立てることになった。それはフィリッピン諸島にふれた後に、暴風に流されて遠く北方に出で、北緯四〇度よりも北で太平洋を東へ横断し、メキシコへ帰って来たことである。それは偶然ではあったが、最初にトゥリニダッドが失敗して以来、コルテスの派遣したサーベドラや、ビリャロボス配下のデ・ラ・トッレ、レーテスなど、悉く失敗しつづけていた東への横断航路が、ここに見出されたのであった。
レガスピは一五六五年二月三日にフィリッピンへついた。土人の敵意のため補給が困難であったが、ボホル島に到って漸く食糧を得ることが出来た。次で四月末にはセブ島を占領した。セブの王は既にマガリャンスの前でスペイン王への忠誠を誓ったからである。レガスピの経綸はセブ人たちを帰服せしめた。
その後に起った大事件は、ウルダネタの帰航である。前に偶然に行われた東への太平洋横断を、ウルダネタは計画的に遂行した。彼の考によると、熱帯圏には不断の貿易風が東から西へ吹いているが、高緯度のところへ出れば、大西洋と同じく西から東への風を期待し得るであろう。で彼はフィリッピンから北東へ四三度までのぼり、四カ月の航海を以て一五六五年十月三十日、無事にアカプルコに着いた。この科学的に考えられた航路が、この後太平洋の大道となったのである。ここでフィリッピンとメキシコとの交通が確実となり、アメリカとアジアとの間の通路は打開されたのである。ウルダネタはこの航海の報告を本国へもたらした後、再びメキシコの僧院に帰任し、一五六八年に歿した。
フィリッピンに於けるレガスピは、右の如き航路打開の結果、メキシコとの連絡容易となり、一五六七年八月に二隻の来援を受けた。これだけの勢力があればポルトガルの圧迫に対抗することが出来る。モルッカ諸島にあるポルトガルの知事は、軍隊の力を以てスペインの植民地を覆滅しようと試みたが、成功はしなかった。しかしセブの植民地はモルッカ諸島に近すぎ、奇襲の危険に曝されている。フィリッピン植民の根拠地はもっと遠隔の地に移さなくてはならぬ、とレガスピは考えた。そこへ再びメキシコから来援軍が到着し、レガスピは総督に任命された。でレガスピは一五七〇年にルソン島を攻撃してマニラ村を征服し、そこに要塞を築いた。こうしてフィリッピン植民地の基礎を築いた後、レガスピはこの地に於て一五七二年八月に歿した。
ヨーロッパから西への衝動はアメリカを超え、太平洋を超えて、遂にアジアの岸にまで到達したのである。
メキシコが右の如く太平洋通路打開の根拠地とされていたのに対して、ペルーは南太平洋に於ける発見の根拠地となった。
未だ知られざる南洋の大陸はウルダネタの心を衝き動かしていたのみではない。西からの太平洋横断に失敗したレーテスが、ニューギニアの北岸を発見して以来、この未知の大陸への関心は一般に高まって来た。人々はこの陸地がマゼラン海峡の南側のフェゴ島とつながっていはせぬかとさえ考えた。この南洋の大陸を見出す仕事がペルー総督に課せられていたのである。
この仕事の先駆者であるフアン・フェルナンデスは、チリーのサンチャゴの西方に島を見つけた。その島は発見者の名を負うているが、そこへ十八世紀の頃にイギリスの水夫アレキサンダー・セルカークが漂着し、その体験譚がダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』となったのである。
一五六七年にペドロ・サルミエントは南洋の大陸の探検を申し出た。ペルー総督はアルバロ・デ・メンダニャ将軍に二隻の遠征隊の指揮を命じた。サルミエントは旗艦の船長として同行した。上席パイロットはエルナン・ガリェゴであった。同年十一月廿日リマの港カリャオを出発、南西に針路を取った。しかし一七〇レガほど進んだところで将軍は自信をなくしたと見え、北に転針した。サルミエントがいくら抗議してもきかなかった。八日後に南緯一四度まで北上した時、サルミエントは再び南西に向うことを要求したが、これもきかれなかった。南緯五度まで行ったとき、漸く将軍はサルミエントの主張に従って西南西に転針した。かくて翌一五六八年一月十五日にイェス島に着き、更に南緯六度を西へ航して、二月七日ソロモン諸島に突き当った。最初の島はイサベル島と命名された。そこには豚や鶏が飼われて居り、好い木材もあった。金の痕跡もないではなかった。それを誇大して考えたスペイン人たちは、遂にソロモン王のオフィルに到達したと信じて、ここの諸島をソロモン諸島と命名するに至ったのである。人々は初めこの地を南洋の大陸の一部と考えたが、五月八日まで滞留する内に島であることを踏査した。次でサン・クリストバル島を発見した。ここでサルミエントは南方へ航することを熱心に要求したが、将軍はそれを斥け、九月四日北方航路によって帰路についた。南カリフォルニアのサンチャゴに着いたのが翌一五六九年の一月末、ペルーへ帰着したのは三月であった。
ソロモン諸島まで来ても南洋の大陸の謎は解かれなかった。第二回探検はずっと遅れて三十年後であった。この時には南太平洋の多くの島々を発見しはしたが、しかしサンタ・クルス諸島まで来てソロモン諸島には達しなかった。第三回探検は更に十年の後であったが、この時にはニューヘブライヅ諸島を発見すると共に、隊にはぐれたルイス・バエス・デ・トルレスの船が、ニューギニアの南を通ってモルッカ諸島へ出たのである。この時トルレスは初めてオーストラリアの北端にも触れたわけであるが、彼はその意味を解しなかった。トルレス海峡を発見したこと自体も十八世紀の中頃までマニラの文書館に埋もれていた。従ってトルレス海峡の名はずっと後につけられたのである。
以上の如きが十六世紀中頃の太平洋の情勢であった。南洋の大陸はまだ見出されないが、しかし南はソロモン諸島より北はマーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島に至るまで、西太平洋の島々はスペイン船の勇敢な探検の舞台となっていたのである。視界拡大の運動は遂に地球を一周した。この点から見れば、東へ向う運動がモルッカ諸島に至り、西へ向う運動がフィリッピン諸島に至って、ここに接触点を形成したことは、十五世紀以来一世紀に亘る世界史の大きい動きが、ここで一先ず結論に到達したことを意味する。
これは新しい時代の開始である。世界はここで初めて一つの視界の中にはいって来た。それはまだ単に輪郭的に過ぎず、その内部に多くの未知の部分を残してはいたが、しかし円環は出来上ったのである。これは人倫的な意味に於て一つの世界が出来上るための第一歩と云わなくてはならぬ。そこに見出されたのはさまざまの異った民族、さまざまの異った国家であって、それらの間には何らの統一もなく、むしろ敵対関係の方が多かった。しかしこれらが一つの組織にまとまってくるためには、まず第一にそれらが一つの視界に入り込まなくてはならぬ。四百年後の今日に人類の最大の問題として取り上げられている国際的組織の問題は、まずこの時に、世界史上初めて、その芽を出したのである。勿論その当時に於てはこの芽が、即ち一つの視界が、何に成長して行くかは解らなかった。征服者たちの態度はむしろ合一と反対のものを示していた。しかし人倫的合一はどの段階に於ても常に「私」を媒介とする。一つの視界の中にはいって来た世界が、一つの人倫的な組織にまで成長するためには、数多くの否定を重ねなくてはならなかったし、またならないであろう。その艱難な道の出発点としての視界がここに初めて開けたのである。
丁度その時代に、ニコラス・コペルニクスが現われて、ここに始まった時代を力強く性格づけた。彼の生れたのは、ヘンリ航海者の歿後十三年、一四七三年で、歿したのは前述のメキシコ艦隊がまっすぐ西に太平洋を横断した年、即ち一五四三年であった。クラカウ大学で学んだ後、イタリアに行き、ボロニャやパドゥアの大学で三十二歳の頃まで研究につとめたが、地動説を考え始めたのはドイツに帰ってハイルスベルクの司教になってからである。彼はその説をただ親しい学者にのみ打ちあけたらしい。その原理を書いた論文もただ手写によって拡まっていた。が学界に於ては追々に注意を引き、一五三九年にはレティクスの弟子入り、翌年にはコペルニクスの労作についての発表などがあった。コペルニクスも遂に友人や弟子たちの懇請に負けて著書の発表を決意し、レティクスがその原稿をニュルンベルクに持って来て印刷に附した。しかし書物が出来るまでに彼は歿したのである。それはむしろ彼にとって幸福であったろうと云われる。何故ならレティクスは、彼の信頼を裏切り、周囲の非難を怖れて、地動説は単なる仮説に過ぎぬという序言を勝手に附加したのだからである。ルターやメランヒトンなどもこの説を嫌った。ローマの教会でも追々に反対の気勢が現われ、一六一六年にはガリレイの騒ぎをきっかけとしてコペルニクスの書は禁書の中に入れられた。それが一般の承認を得るまでにはまだまだ年月の経過を必要としたのである。しかしコペルニクス自身にとっては地動説は単なる仮説ではなくして証明された事実なのであり、そうしてそこに世界に対する全然新しい視界が開けていた。それが容易に一般の承認を得難かったのは、この新しい視界があくまでも精神的な視界――即ち数学的な合法性に従って把捉された視界――であって、単なる感覚的な視界でなかったことに基くであろう。勿論その基礎には実験があり、従って多くの艱難忍苦の経験が堆積しているのであるが、しかしそのような感覚的経験を活かして自然の真相に迫り得たのは、ただただ合理的な思索の力なのである。航海者たちに地球を巡ることを可能ならしめたと同じ力が、ここでは太陽系の把捉に成功せしめたのであった。それは新大陸の発見に比して決して劣ることのない重大な発見なのである。
かかる発見と時を同じゅうしてヨーロッパの精神界には更にもう一つ極めて重大な革命が、即ち宗教改革が、行われつつあった。その波は反動改革の形で、ヤソ会のシャビエルの姿において、メキシコ艦隊の太平洋横断よりも先に、すでにゴアにまで達していた。そうしてそのシャビエルは、フィリッピンの植民が成功するよりも前に、すでに日本に来ていたのである。
後篇 世界的視圏における近世初頭の日本
第一章 十五・六世紀の日本の情勢
一 倭寇
航海者ヘンリ王子が、ヨーロッパ西南端のサグレスの城から大西洋を望みつつ、アフリカ回航にねばり強い努力を続けていた時代、またその伝統に育てられた航海者たちが、あとからあとから探検航海を続け、遂にインドへの航路とアメリカ大陸とを発見して、その遠い土地に植民地を作りはじめた時代、即ちヨーロッパの近世が華やかにその幕をあけた時代に、われわれの国はいかなる状態にあったであろうか。
この問題は簡単には答えられない。何故ならこの時代、即ちわが国での室町時代乃至戦国時代は、わが国の歴史のうちで最も理解の困難な時代だからである。われわれは幼時以来この時代を闇黒な時代、秩序のない時代として教わって来た。この見方は、江戸時代の初めに、新たに樹立された封建制度を護持する立場から、力強く主張され始めたものであるが、その後反幕府的な思潮が現われた後にも、覆えされるどころか、一層強固にされたのである。その理由は、反幕府的な思想家が、江戸幕府に対する反感を率直に表現し得ず、足利幕府を攻撃するという形を借りたところにある。彼らは足利幕府を極力貶しめようとする江戸幕府の政策的な立場を逆用して、それを一層強調しつつ、楠公崇拝の立場を宣揚した。そうしてそこに江戸幕府を倒そうとする勤王運動の顕著な標識を作り出した。その結果右の見方は明治時代以後にも生きのび、政治的な力を保持し続けたのである。この見方に反するような研究が、政治的な弾圧を受けたことは、明治末期の著しい現象であった。
室町時代乃至戦国時代が国家の統一の失われた時代、秩序の乱れた時代であるということは、誤りのない事実である。江戸幕府がその統一と秩序とを回復した後に、その功績を誇示し、前代の無秩序と対比して宣伝したことも、決して嘘の宣伝ではなかった。しかし視点を変えて見れば、その秩序の乱れの裏には、ちょうどイタリアの十四・五世紀におけるような、個性のある強剛な人物の輩出を指摘することができるであろう。数々の専制君主や、傭兵をひきいて何時でも戦争の需要に応じたコンドチェーレなどが、イタリアのルネッサンスの時代の特徴となっている。それと同じタイプの人物が室町時代や戦国時代を作ったのである。伝統的身分ではなくして実力が物をいう。主従関係の道徳ではなくして利害打算が事を決する。伝統を保持する人々は口を揃えて世道の頽廃を嘆じていたが、しかしこれらの伝統破壊の現象も、当時としては人間性解放の一つの仕方であったことは認めなくてはならぬ。その解放の結果、社会の秩序は失われ、争闘や残虐の現象が横溢したのではあるが、しかしあのイタリアの華々しいルネッサンスの文化を作り出したのは、ちょうどそのような争闘と残虐とに充ちた生活であった。積極的な創造の功績の前には、社会の分裂や不安の如き他の半面の欠点は忍ばなくてはならぬ。わが国の十四・五世紀もまたそのような創造に乏しくないのである。能楽・茶の湯・連歌の如き、日本文化の独自の特徴を示すものは、みなこの時代に作り出された。歌舞伎や浄瑠璃の如き次代の創造の基礎を築いて置いたのもまたこの時代である。そういう点から見ればこの時代は創造的な時代、積極的な時代であって、決して闇黒な時代などではない。
が、われわれの問題にとって一層関係の深いのは、この時代の特徴を示す「倭寇」と「土一揆」との現象である。倭寇と呼ばれている海外進出の運動は、海外貿易と結びつき、この時代の重要な契機となっている。貿易はわが国の経済事情に著しい変化を与えた。貨幣経済が急激に発達し、利子を目ざす資本の蓄積がはじまり、都市が出現するに至ったことなど、すべてそこに聯関している。かくして資本の力は既に武力を掣肘し始めているのである。土一揆は主として農民の運動であって、貿易とは方面が異なっているが、しかし同様に民衆の力の解放として、この時代の重要な契機となっている。この民衆運動によって、日本の社会は一度作りなおされたのである。これらはヨーロッパの十四・五世紀にも著しく現われた現象であって、わが国に限ったことではないが、しかし直接に連絡のないヨーロッパと日本とにおいて、ほぼ時を同じゅうして同様な現象が見られることは、われわれの強い関心を刺戟せざるを得ないのである。
先ず初めに倭寇や海外貿易の現象を取り上げて見よう。
倭寇は、高麗史によると、一三五〇年庚寅の年から急激に盛んになっているそうである。これは蒙古襲来から七十年ほど後のことであって、蒙古人の刺戟が直ちにひき起した現象とは見えない。しかし間接にはその間に聯関があるであろう。蒙古軍に対する防衛戦争は武士階級に著しい貧困をもたらし、遂に半世紀の後に鎌倉幕府を崩壊せしめた。そのあとには伝統的な武士の秩序が回復されず、実力の競争としての内乱が打ち続いた。そのための産業の破壊や生活の困難が、倭寇を押し出したらしいのである。特に倭寇として進出したのが北九州や瀬戸内海沿岸の「あぶれ者」どもであって、蒙古人の襲来の直接の印象をうけた地方に多いことは、倭寇と蒙古襲来との聯関を示唆するものといってよかろう。しかし何故に一三五〇年という特定の年から急激な進出がはじまったかは、今のところ知る由がない。それはシナにおいて蒙古人の支配が崩壊した一三六八年よりは少しく前であるが、しかし初めは主として高麗朝末期の朝鮮に向い、崩壊に瀕した元王朝の勢力とはあまり接触しなかった。従って蒙古人への復讐という如き考のなかったことは確かである。のみならず、初期の倭寇が目ざしたところは、主として米であった。数十艘或は数百艘の船をもって南鮮の沿岸を襲い、高麗政府の租米運漕船の捕獲、陸上の粗米倉庫の掠奪などをやるのが、彼らの仕事であった。その他には沿岸農民を捕虜として連れてくることをもやったが、それ以外はただ食糧の獲得がねらいであって、征服とか植民地獲得とかの如きことは全然考えていない。して見ると、一三五〇年の頃には、何か特別に食糧が不足する事情があって、彼らをこの食糧獲得の運動に追い立てたのではないかと考えられる。
これがきっかけとなって、一度掠奪の味を覚え、その方法が見出されると、あとは同じような特別の事情がなくとも、倭寇は継続されたであろう。内乱の継続によって一般的に食糧の不足を来たしていた当時の日本にとっては、米は貴重品であったに相違ないからである。だから倭寇がその後連年続き、年と共に猛烈になって行ったことは当然といわなくてはならぬ。一三七五年――一三八八年の十四年間には、南鮮の四百カ所が倭寇に襲撃されたといわれている。これは高麗王朝にとっては深刻な外患であった。倭寇を防ぎ得なかった高麗王朝はやがて崩壊し、倭寇防禦に功のあった李成桂が、李王朝を創始するに至るのである。
倭寇は元王朝の崩壊する以前に山東半島に現われているが、盛んにシナ沿岸を荒らすようになったのは明王朝が起った後、一三六九年からである。その以後は揚子江の河口、杭州湾あたりから、南シナの沿岸に亘り、連年掠奪を行った。「倭寇の到る処、人民一空す」とか、「其の来るや奔狼の如く、其の去るや驚鳥の如し、来るも或は知るなく、去るも捕ふるに易からず」などといわれたのは、その頃のことである。新興の明王朝もその防衛のためには相当に苦心せざるを得なかった。しかし倭寇が、遠く広東省あたりまでも出かけて、掠奪したものは、依然として米と農民とであった。その侵略は颱風のように過ぎ去るだけで、ヨーロッパにおけるノルマン人のように、その土地に喰い入りそこに根をおろすものではなかった。
倭寇のこの特徴は、倭寇の歴史的意義を決定するものであろう。彼らもノルマン人に劣らず冒険的であり慓悍であったが、しかしいつまでも「あぶれ者」であって、政治的な意義を獲得するに至らなかった。それに反してノルマン人は、冒険的進出が盛んになるに従い、本国の政治的組織と結びついて、国家的な行動としての侵略を行うに至ったのである。この傾向は十五世紀以後におけるヨーロッパ人の植民地経営にも見られるであろう。初めは海賊に過ぎなかった冒険的航海者も、その仕事が大きくなるに従って公共的な意義を獲得し、国家の支持を得てくる。それに応じて海賊たち自身も、探検的航海者としての心構えを失わず、その経験を記録し或は云い伝えて、背後にある国民の視圏の拡大に寄与した。この特徴は倭寇には全然見られないのである。倭寇は、その名の示す通り、侵略を受けた国々の記録によって知られるのであって、彼らがその冒険によって得た知識を母国の国民に刻みつけたが故に記憶せられているのではない。彼らの冒険的な労苦は公共的な意義を獲得することなく闇から闇へと流れてしまった。即ち歴史的意義を獲得し得なかったということが倭寇の歴史的意義でもあるのである。
倭寇のこの性格を明かに反映しているのは、十五世紀に入って盛んになった海外貿易が、倭寇の禁圧によって可能になったということである。この禁圧は高麗や明の側からの数十年に亘る熱心な外交交渉によって漸次実現されるに至ったのであった。初め高麗からの海賊禁圧の要求が日本の政府に届いたとき、日本の政府の執った熊度は、倭寇が九州の乱臣の所為であって、政府の責を負うべきものではないということであった。これは倭寇が日本にとって公のものでないということの承認であると共に、日本の国家の統一が十分でないことの告白でもあった。その後間もなく新興の明の太祖が、倭寇に対する威圧的な抗議を送って来たときには、それを受けたのは、九州にあってなお南朝の勢力を保持していた征西将軍懐良親王であって、日本の統一的な政府ではなかった。その事情を漸く理解し始めた明は、頻々たる倭寇の侵掠の続く間にも日本との貿易関係を絶たず、機会ある毎に倭寇の禁圧と公式の貿易関係の設定とを申入れているのである。
この公式の貿易関係は、明の太祖にとっては、明の正朔を奉じ入貢の形を取ることであった。貢の物資に対しては、それ以上の物資が明の皇帝の賜与として償われるのであるが、その貿易としての実質よりも入貢の名目が重んぜられたのである。勿論この贈答に附随して、船に満載した物資の貿易が行われる。そのための貿易商人も同乗している。また使節船以外に公認の貿易船が出かけて行くことも出来る。貿易としてはこの方が主要事なのであるが、しかしその貿易を公式のものたらしめるためには、右の如き名目が必要だったのである。この事情を双方の側でのみ込み、一方では倭寇の掠奪行為によって甚大な社会不安をひき起されるよりも、貿易によって利を与える方が遙かに損害が少ないこと、他方では掠奪行為よりも平和的な貿易の方が結局において遙かに利益が多いことを、互に理解し合うに至るために、ほぼ二三十年の年月が費された。そうしてこの了解を形に現わすに至ったのが、明の建文・永楽の皇帝と足利義満なのである。
一四〇一年に足利義満は僧祖阿と商人肥富とを使者として明の皇帝に書を送った。その中で義満は日本の統一を特記している。それに対して明の二代目の建文帝は、翌年答礼の使者を日本に寄越したが、義満はそれを兵庫に迎え、京都で款待した。そうして丁度その頃に、明の側の熱望する海賊船禁圧令を発布したのである。当時は足利幕府の最盛期であったから、この禁令も実際に威力を持つものであった。
一四〇三年に明は永楽年代に入るのであるが、その年、明の使節は多量の銭貨を以て日本を訪れ、それに対して日本からも硫黄、瑪瑙などのほかに多量の武器類や工芸品を携えた使節が、三百余人をつれて答訪した。明の皇帝はこの使者たちに織物類や銅銭を与えたほか、義満に対して国王の冠服・金印、その他織物を贈った。この時に永楽条約、即ち勘合貿易の協定が行われたと伝えられている。公認の貿易であることを証明する勘合百道、即ち貿易船百艘分の証明書を交付し、正式の使節は十年に一回、船二隻、人数二百人と定めたというのである。そこでその後は連年貿易船が派遣され、明からも倭寇の鎮圧を感謝する使者が送られた。かくして両国の間の貿易は急激に盛大となったのである。
当時の貿易品は、表面の贈答品が示しているように、日本からは硫黄などの原料と工芸品とが輸出され、シナからは主として織物類と銅銭とが来たのであろう。この銭貨の輸入は特に注意すべきものだといわれている。当時急速に貨幣経済の進展しつつあった日本においては、銅銭の需要は極めて熾烈であった。だから武器等の金工品その他工芸品の類を、銅銭の安いシナへ売って、その銅銭を日本まで持ってくれば、それだけでも何倍かの利益が得られた。そのように貿易の利は大であったから、当時の幕府の財政はこの貿易によって支えられたといわれる。そこで幕府のみならず民間にもこの貿易を企てるものが輩出したのである。勘合を得て公認の貿易に従事すれば、掠奪行為を行わなくとも巨利が得られる。だから倭寇がそういう貿易商に転ずることはいかにも自然なのである。勘合が得られぬものは恐らく密貿易にも従事したであろう。そういう事情を考えると、倭寇の禁圧は海外への冒険的航海者に掠奪行為を禁じたというだけであって、彼らに海外への出航を禁じたというわけではない。貿易が盛大となるに従って航海者に対する需要はふえたであろうし、数十年来の海上の経験もまた高く評価されるようになったであろう。だから十四世紀における倭寇の現象は、十五世紀に至って、貿易の現象に転化した、といってよいのである。
もっともこれは大体の傾向についてのことであって、海賊が全然跡を絶ったなどというのではない。一四二〇年に日本に来た朝鮮の使節朴端生が、朝鮮海峡や瀬戸内海の印象に基いて書いた報告によると、赤間関から西では対馬、一岐、内外大島、志賀、平戸など、東では四国の北の島々や竈戸社島などが海賊の根拠地であって、その兵は数万、船は千隻を下らないが、しかしそれらの根拠地の領主、宗氏、大内氏、宗像氏、大友氏、松浦党などは、それらの海賊に対して強い支配権を握っていたという。そういう事情から察すると、倭寇と諸大名との間には、何かの連絡があったかも知れないのである。九州の諸大名は、倭寇の掠取してきた捕虜を朝鮮やシナに送還して米や布の礼物を受け、或はその機会に貿易を行っていた。捕虜の送還は倭寇の逆を行くものとして勘合と同じく平和の保障を意味したかも知れない。そういう意味のある捕虜を他方では倭寇が供給したとすれば、貿易と倭寇とは表裏相結んでいたとも考えられる。一歩を進めていえば、この両面の活動を同一の連中がやっていたかも知れない。このことは当時の貿易商が、刺戟の如何によっては倭寇の本性を現わすかもしれないような、慓悍な連中であったことを意味する。
このような事情のために、十五世紀の初めに急激に進展しつつあった海外貿易が、間もなく逆転するかのような形勢を示した時がある。義満の歿後、あとをついで将軍となった足利義持が、明との公認貿易に背を向けたときである。入貢という形式に拘泥すればそうならざるを得なかった。しかしそれによって公認貿易の道が塞がれたとなると、倭寇は直ちに跳梁をはじめたのである。一四一八年に倭寇百艘賊七千余人が杭州湾北岸を劫掠した如きはその著しい例であるが、その活躍は山東から広東にまで及んでいた。
しかしこの頃には、東亜の海上には、広汎な貿易の機運が活溌に動きつつあった。琉球はすでにシャムとの貿易を開始し、蘇木や胡椒のような南方の特産を手に入れていた。そうしてそういう産物を盛んに朝鮮へ輸入していたのは、琉球人自身ではなくして、九州の諸大名であったのである。従って琉球の南洋貿易商と九州の諸大名との間の密接な聯関は疑うべくもない。やがて一四三〇年からはジャバへも琉球船が行くようになった。十五世紀の後半になると、シャムよりはむしろマラッカの方が琉球船をひきつけた。そういう点で琉球船は九州の貿易商の先駆の役をつとめていたのである。
再び倭寇に苦しみ始めた明は、この琉球を介して日本との公認貿易の再興を企てた。足利義持の歿後四年目、一四三二年に、明の宣徳帝は、琉球中山王尚巴志の手を経て新らしい将軍義教に呼びかけて来たのである。これは或は日本と密接な関係のある琉球人の入智慧であったかも知れない。効果は覿面であった。同年直ちに遣明船五隻が出発し、翌年五月使者たち二百二十人は宣宗の盛大な歓迎を受けた。そうしてさらにその翌年の帰航の際には、明の使者の五艘の船を伴ってきた。将軍への贈り物として、多量の豪華な織物類や道具類がもたらされた。この使節交換の時、宣徳の勘合百道が交付され、正式の使節を十年一回、船三隻、乗員三百人に改め、商品としての刀剣を三千把以下に制限したといわれている。これが所謂宣徳条約である。
この宣徳の勘合貿易船は、一四三六年に第一回六隻を出発させているが、その後大名船や社寺船の貿易が顕著となり、一四六八年、応仁の乱の時にさえも、公方船・大内船・細川船の三隻が出ている。丁度この頃が航海者ヘンリ王子の活躍の時期であった。そうしてその後、アフリカ沿岸の探検が進み、インド航路が発見され、インドに植民地が形成されるまでの時期は、博多の貿易商を配下に置く大内氏と、堺の貿易商を配下に置く細川氏との間の、シナ貿易の争奪競争の時期であった。この抗争の幕を切って落したのは、前記の公方船・大内船・細川船の出航の時で、細川船は帰路大内氏の勢力圏である瀬戸内海を通ることができず、公方船と共に土佐沖を廻って堺に帰った。この頃から堺が擡頭しはじめ、薩摩から琉球への密接な連絡を作り上げた。十五世紀の後半にはこの航路によって幾度か貿易船隊がシナに行っている。それに対して在来の航路による大内氏や博多の商人も決して負けてはいなかった。勘合を入手することにおいてはむしろ大内氏の方が優勢であった。
こうして十五世紀の後半のシナ貿易は、日本人同士の激烈な抗争のうちに過ぎて行ったのであるが、その形勢は十六世紀に入ってからも続き、すでにアルメイダやアルブケルケがインドで活躍した後、ポルトガルの船が広東附近に現われた後の一五二三年に、遂に大内船と細川船とが寧波に於て衝突し、大内方の掠奪行動や寧波港の閉鎖を結果するに至った。この時細川船には正使瑞佐のほかに明人宋素卿が乗っていたのであるが、この宋素卿は十六世紀の初めに日本の使者湯四五郎が連れて来たもので、すでに一五〇六年にも細川船の綱司として活躍し、明側の注目をひいたといわれている。その宋素卿がこの時にも再び活躍し、市舶司の官吏を買収して、先着の大内船よりも先に細川船の荷役をすませるとか、有効な勘合を持って来た大内船の正使宗設よりも既に無効となった勘合を携えた細川船の正使瑞佐の方を上席に据えて優待させるとか、というような芸当を演じた。これが大内方を憤激させ、武器をとるに至らしめたのである。外来の貿易関係者を接待する嘉賓堂の焼討、商品倉庫の劫掠、細川方への攻撃に始まって、あとは旧来の倭寇のように寧波附近一帯を荒らし廻ったのであった。寧波の市舶司閉鎖はその結果なのである。
もっともこの後にも明は琉球を仲介として大内船の正使宗設の引渡しを要求し、日本も琉球を経て大内方の責任を認め、抑留中の素卿などの釈放を求めたらしい。しかし何しろ日本の国家の統一が失われかけている時代のことで、事情ははっきりとは解らない。大内氏はなおこの後も一五三九年、一五四七年などに勘合貿易をやっている。勘合貿易が中絶したのは、その三四年後に大内義隆が陶晴賢に殺されてからである。
その頃から倭寇は再び猖獗になった。初期の倭寇と同じような颱風的な襲撃が、主として揚子江の下流地方に、連年加えられた。やがてそれは直隷山東より福建広東に亘るシナ沿岸全体に及んだ。シャビエルが日本に来たのはこの倭寇盛行の時代の初期であった。
この猛烈な倭寇の爆発は、勘合貿易の裏にいかに盛んに私貿易が行われていたかを示すものである。貨幣経済の進展に従い銭貨を必要とした日本人は、この貿易を控えるわけには行かなかった。そうしてそれに対応して日本人と取引するシナ側の貿易商人も決して少くはなかった。シナ船もまた出動して来たし、琉球船の活動もまた盛んであった。当時の貿易の主潮はむしろこの私貿易にあったといわれている。そうしてそれらの貿易商人たちは、当時すでに認められていたように、貿易を許せば商人となり、貿易を禁ずれば寇となる連中であったのである。そういう冒険的な商人たちが、日本から南洋に至るまでの各地の特産を、互に交換し合い、互に数倍の利潤を得ていた。日本の硫黄や銅、或は輸出向に製作される刀剣その他の工芸品をシナへ持って行くと、少くとも五六倍の値段には売れる。ところでそれを買うに用いたシナの銅銭は、当時既に銀貨に駆逐されて通用の廃れかかっていたものであるから、シナ商人の得るところも決して少くはなかった。また琉球人のもたらした南洋の蘇木や胡椒の類は、日本の貿易商人の手によって朝鮮に盛んに輸入されていたし、シナの精巧な織物類は日本では非常に珍重されていた。そういう利益の共同によって、東アジアの海上の貿易商たちが、一つの仲間として結びついていたことは、察するに難くない。だから貿易の禁圧と共に倭寇が爆発したとき、その倭寇と称せられるもののうちには、シナ沿岸の諸地方のシナ人が非常に多く混じていたのである。これはシナの記録に明かに認められているところであって、単に推測に止まるのではない。それらによると、今沿岸を荒らす海賊は、主として外国人と貿易する奸民であって、真の倭夷はその中の十分の一に過ぎないという。或は、倭は十の三であって、十の七は中国の叛民であるという。或は、今の海寇、ややもすれば数万を計えるが、その中日本人は数千に過ぎず、他は浙江、福建の諸地方の民であるという。しかもそれらのシナの海賊は、日本人を首長とし、日本風の髷を結ってそれに従っていたという。その中には獠と呼ばれる西南系の異民族なども加わっていた。琉球の貿易船に古くからアラビア人が乗り込んでいたことを考え合わせると、東アジアの海上の冒険的な貿易商人たちの世界は、著しく国際的な色彩を帯びていたと見られなくてはならぬ。シナの記録に名を留めている王直の如きは、九州の五島に移り住んで、そこから私貿易や海寇に出動していた。また徐海なども日本人をひきつれてシナ沿岸を荒らし廻っていたのである。
こういう貿易商人の世界のなかへポルトガル人が乗り込んで来たのであった。最初アルブケルケがマラッカに接触したのは一五〇九年であり、そこを攻撃し占領したのは一五一一年である。その頃琉球の船は連年マラッカに行っていたが、右の占領後はシャムとパタニのみで、マラッカへは行っていない。しかしポルトガル人は直ちに東アジアの海上の貿易商人の世界の探検にとりかかった。船団を広東の沿岸に派遣したのは一五一六年で、その内の一隻は琉球探検に向ったが、これは成功しなかった。その後五六年の間に三度に亘って後継の船団が広東附近に来たが、シナとの公式の貿易の開始には成功しなかった。しかしポルトガルの貿易商人が、シナ船や日本船に乗って東アジアの海上の貿易の世界に入り込んで来ることは、さほどの困難なく出来たらしい。一五四〇年には、許一松許二楠許三棟許四梓などの日本人がポルトガル人をつれて広東に来り貿易したといわれている。一五四二年にポルトガル人がシナ船で種子島に漂着したということも、右のような情勢の下にあっては、当然起り得ることだったのである。一五四五年の頃、大分に来たシナ船の中には、六七人のポルトガル商人が乗っていた、と大友義鎮が語っている。一五四八年にシャビエルがインドから本国に送った手紙には「長らく日本にいた一ポルトガル商人」の記したものとして、アルバレズの日本に関する記事を封入している。これらは僅かな証拠ではあるが、その背後に東アジアの海上の国際的な世界の存在を示しているのである。
こういう情勢を眼中に置いて考えると、シャビエルに帰依して有名となったヤジロー(或はアンジロー)のような人物が出たことは、少しも奇異な現象ではないのである。彼はポルトガル人の貿易に関係した富商なのであろうが、人を殺して国外に逃げようとしたときに、アルバレズに頼ってマラッカへ行った。そういう特殊な境遇のためにもしろとにかく日本人がマラッカとシナの間を漂浪して歩くことが出来たということ、またそういう漂浪の意図を持ち得たということは、当時の九州人の世界がマラッカまで拡がっていたということの証拠である。これはポルトガル人の刺戟によって起ったことではなく、それに先立ち、自発的に日本人自身の中から起ったことであった。シャビエルの日本布教の決意は、ヤジローに逢ったことによって固められたといわれている。その点からいえば、日本人の刺戟がシャビエルをマラッカから日本まで誘い寄せたのである。即ちポルトガルの東へ向う運動がマラッカへまで届く間に、日本の外に向う運動もマラッカへまでは届いていたのである。
しかしそれらの運動の著しい性格の相違は認めざるを得ない。両者がいずれも貿易の関心によって動いていた点には変りはないが、しかしポルトガル人の運動の筋がねとなっていたのは航海者ヘンリ王子の精神であった。そこには無限探求の精神と公共的な企業の精神とが結びついていた。しかるに日本人の運動は「あぶれ者」の精神によって貫かれ、無限探求と公共性とのいずれをも欠いていた。従ってシャビエルを誘引したヤジローが文字通りに「あぶれ者」であったことは、まことに象徴的であるといわなくてはならない。西からマラッカまで来た勢力は、ヨーロッパ近世の視圏拡大運動の尖端としての性格を持っていた。しかるに東からマラッカまで行った勢力は、日本人の公共的な記憶に残らず、また日本人の探究心に寄与することのないものであった。この相違はかなり重大である。当時の日本人の知的素質は、インドのゴアでヤジローが教師トルレスを驚かせたほどに優秀であったが、しかしそれが幸福な発展をなし得なかった所以は、すでにこの相違のうちに予示せられていたといわなくてはならない。
二 土一揆
土一揆と呼ばれている民衆運動が、大きい社会的現象としてはっきり現われて来たのは、正長永享の頃、即ち一四二八年頃からである。これはヨーロッパでは、航海者ヘンリ王子がアフリカ西海岸のボハドル岬をまだどうしても突破することができないでいた時分で、ヨーロッパ人の視圏も中世的な限界を超えてはいなかった。しかるにそのヨーロッパでも、同じ頃に同じように民衆運動が起っていたのである。ドイツで農民の暴動や農民戦争などが起ったのは、十六世紀の初めであって、一世紀近く後のことであるが、しかしフランスでジャッケリの乱と呼ばれる農民一揆が起り、イギリスでウィクリフの仲間の運動に引きつづきワット・タイラーのひきいる一揆がロンドンを占領したりなどしたのは、十四世紀の末で、半世紀ほど先立っている。一三五〇年頃のペストの大流行の後には、一般に社会的動揺があり、中世の社会組織の崩壊の気運と相俟って、このような農民一揆を頻発せしめたのであるが、その同じ現象が、相互の間に何の連絡もない日本においても、起って来たのである。
しかしこの一揆運動は、正長永享の頃に民衆の間から突然起って来た、というわけではなかった。倭寇は、記録の示すところでは、一三五〇年から突如として始まっているが、しかしその前の十数年は建武中興の失敗に引きつづいた国内混乱の時期であり、そうしてその混乱は一三五〇年以後にも続いている。そういう混乱を制御しようとする努力のなかから、大きく浮び上って来たのが、本来の意味における「一揆」の現象なのである。後には土一揆の盛行のために、民衆の一揆が一揆の名を独占するに至ったが、もとは字義通り軌を一つにすること、即ち多くの人々が団結して心を一つにすることであって、相争う武士団体の間の団結の必要から自覚されて来たのであった。これは或る意味では室町時代の国内統一の原理を示すものといえる。鎌倉時代の国内の統一は、武士の主従関係を全国的に拡大し、数多くの武士団体を将軍と家人との主従関係の框に入れることによって実現されていたのであるが、鎌倉幕府の打倒によってこの紐帯が解き放されると、あとには個々の武士団体のみが残り、それを統一すべき原理が一時なくなったのである。建武中興は武士団体の存しなかった昔の国家統一を再興しようとしたのであるが、しかし鎌倉幕府を倒しても個々の武士団体は消滅せず、またそれを解体せしめる力はどこにもなかったのであるから、この試みは短期間にして失敗に終った。そこでこれらの武士団体を統制して国内の統一を回復する力は、実力のほかにはないことになる。しかしそういう大きい実力を持った武士団体はどこにもなかった。現実的な主従関係を以て固く団結し得る武士団体の大きさは、通例五百騎位のものであったらしい。だから右のような実力は、多くの武士団体を聯合団結せしめるところにのみ現われ得たのである。それは政治的手腕の問題であった。そうしてそういう手腕を持ったものが将軍になり、また有力な大名になった。結局、室町幕府の統制力は、有力な大名たちの聯合団結の上に、即ち大名の一揆の上に、立つことになったのである。これが一揆の必要を自覚せしめるに至った時代の大勢であるといってよい。しかしこのような統一の原理は、同時にまた争闘の原理ともなり得るのであって、真に統一を実現することは出来なかった。一揆のみが強い実力を発揮し得るということになれば、対抗する勢力は互に一揆を企てることになる。分裂が一揆によって促進される。応仁の乱は大名の一揆衆の対立によって惹起されたために、遂に収拾すべからざる混乱を現出したのである。
が右のように団結の力が自覚されてくると、それはただに武士団体の間の関係においてのみならず、一つの団体の内部においても働らくようになる。幕府にあっては、将軍の権力は大名の一揆の前に無力となった。室町幕府が最も有力であった足利義満の時代にさえも、義満は諸大名の一揆になやんでいる。義政に至っては殆んど無力も同様である。ところでその大名の権力も、家臣の一揆の前には同じように無力である。義政の時代には、斯波、畠山、細川の三管領の如き、皆老臣の権力に圧せられ、それに基く内訌になやんでいるが、他の大名たちも大同小異であった。ところでまた、その家臣たちの権力も、民衆の一揆の前には無力たらざるを得ない。少数である武士たちは、いかに武術に長けていても、多数の民衆の団結の力を圧倒することは出来なかったのである。
このことを民衆が自覚するに至ったのは、いろいろの機縁によるでもあろうが、蒙古人来襲によってひき起された戦術の変化は、その中の有力なものであったらしい。鎌倉時代の権力の基礎となった武士団体の武力は、関東平野に淵源する騎馬戦術の上に立つものであるが、蒙古軍は九州に上陸したとき、歩兵の密集部隊を巧みに使って騎馬戦術を無効ならしめた。そこでこの後足軽による密集部隊が編制せられるようになったのである。この足軽、即ち軽装の歩兵は、騎馬の術や弓矢の術に熟達していなくともよい。楯と槍と、あとはその密集隊形が物をいうのである。従ってそれは容易に農民のなかから組織することができた。そうなると、一つの軍隊の主力は、専門の騎士から農民の方へ移ることになる。民衆は団結しさえすれば武士を恐れるには及ばないのである。
そういう民衆の気勢が、遂に正長永享の土一揆として爆発したのであった。その火をつけたのは、一四二八年の八月に近江で起った馬借(運送業者)の一揆である。それは忽ち山城、大和、河内の各地に蔓延し、翌年には、播磨の土民蜂起を初めとして、丹波、摂津、伊勢、伊賀などの諸国にも起った。さらに一四三二年には、薩日隅の三国に「土一揆の国一揆」が起り、島津の兵と戦った。大和では土一揆が奈良に乱入し、寺社諸院の年貢の免除に成功した。その翌年あたりでも、近江の馬借土一揆は、上京の途にあった信濃の守護の兵と戦ってこれを撃退している。
これらの土一揆は、必ずしも支配階級を倒そうとする運動ではなかった。多くは徳政を標榜して、酒屋・土倉・寺院等当時の金融業者を襲撃し、借銭の破棄、売買の取消し、質物の掠奪などを行ったのである。これは、シナの銅銭の輸入による貨幣経済の発展に伴い、金持の出現、高利貸の盛行を見るに至った結果、経済的な不平等への反抗運動として起ったのであった。しかし武士たちが金融業者を保護して鎮圧に乗り出してくると、民衆はおのずから武士たちと戦うことになる。そこで土一揆は政治的な色彩を帯び、明かに反支配階級的な性格を持ちはじめた。播磨の土一揆の如きは、守護赤松満祐の兵と戦ってこれに克ち、武士の国外放逐を宣言したと伝えられている。伊勢山田の土一揆の如きも、神人と戦って民家数百戸を焼き、神人が外宮に逃げ込むにつれて神宮の境内に侵入することをも憚らなかった。その他土一揆が武士と戦って屈服しなかった例は決して少くない。民衆はその団結の力によって支配階級に対抗し得ることを自覚したのである。
しかしこの時の土一揆は、数年に亘って諸国に蔓延しはしたが、なお私徳政であって、政治的な成功を達成するまでには至らなかった。しかるに一四四一年に起った嘉吉の土一揆は、京都を占領し、室町幕府をして徳政令を発布せしめるに至っている。この土一揆も初めはまず近江に起った。そこでは半国守護たる六角満綱を強要してその領内に徳政令を発布せしめたのであるが、それだけでは治まらず、忽ちに京都周辺の諸地方に伝播し、東は坂本三井寺あたり、南は鳥羽、竹田、伏見、西は嵯峨、御室、北は賀茂などの民衆が、一斉に蜂起した。そうしてそれぞれの地方から、千人或は二三千人の集団が京都に攻め入り、町の外郭にある壮麗な仏寺や神社を占領した。その陣営は十六カ所に及んだといわれる。東寺もその一つであったが、そこから代表が出て来て、幕府との交渉をはじめた。徳政令を発布せよ、もしこの要求が容れられなければ、伽藍に放火する、というのであった。幕府の侍所京極持清は、その武力を以てしては、如何ともすることが出来なかった。管領畠山持之は、洛外にある土倉、即ち金融業者の資産を洛中に移させようと試みたが、そのため反って民衆の憤激を煽った。京都を包囲した一揆の連中は、京都へ物資を運び込む七つの口を塞いで、市民の糧道を絶っている。幕府も遂に屈して、土民の徳政令を発布すると云い出したが、一揆の民衆はそれに同意しなかった。目下債務に苦しんでいるのは、土民よりもむしろ公家や武家である。土民の徳政令ではこの社会悪を除くことはできない。土民以外にも公家武家等一切の人々に適用せられる徳政令を発布して貰いたい。これが彼らの要求であった。幕府はこの要求にも従わざるを得なかった。かくて幕府は、土民の京都進撃以来二週間にして、「一国平均の沙汰」を触れ出すに至ったのである。
この土民の京都包囲は明かに統制せられた民衆運動である。民衆の団結は遂に幕府を屈服せしめ、民衆の意志を法令の形に表現することに成功した。当時の民衆が何を目ざしていたかは右の「平均」という言葉によっても明瞭に示されているが、ほぼ一カ月の後に徳政条々として発布された徳政の細目を見ると、売買・貸借・質入等の契約は、広汎な範囲に亘って無効を宣せられている。これは貨幣経済による富の蓄積が漸く著しくなって来た当時の経済界にとっては、容易ならぬ大事件であった。こうなると土一揆はもはや単なる暴動ではない。民衆は集団の力によって大きい政治力を発揮し始めたのである。
徳政の伝統は、鎌倉時代以来、債務破棄を中核的な内容としていた。だから土一揆の運動は、その初期においては、主として土倉酒屋の如き「金持」を攻撃の目標とし、必ずしも武士の支配を覆えそうとしたのではなかった。しかし一度集団の力によって政治力を発揮し始めると、民衆は武士階級の支配に反抗することをも辞せなくなった。既に初期においても、前掲の如く、播磨の土民一揆は武士の国外放逐を標榜して居り、薩日隅の土一揆は国一揆として島津と戦っているが、その後、応仁の乱によって武士階級の分裂が暴露されてくると共に、土一揆は著しく政治的団体としての性格を帯び、武士階級に対して己れを主張するようになった。「国一揆」という言葉はこの政治的な性格を云い現わしているのである。そういう一揆の代表的な例は、一四八五年の末に起った山城の国一揆であろう。この運動の動機となったのは、畠山氏の継嗣問題に絡んだ被官人の間の戦争が山城で行われ、そのために民衆の生活にさまざまの不法を加えたことであった。民衆は武士の私闘のために社会の秩序の乱されることを怒り、秩序の防衛のために立ち上ったのである。そこで、山城の国中の民衆、十五六歳から六十歳までの者の会議を催おし、(一)両畠山氏の軍隊の撤退、(二)寺社本所領の還附、(三)新関の一切撤廃、の三カ条の要求を決議した。この要求は明かに武士の権力に対する制限であって、民衆の債務破棄のような利益の主張ではない。民衆はこれらの要求を武士たちに提示し、もし肯かれなければ攻撃を加えると宣言した。当時の記録はこの結束した民衆のことを「国衆」或は「国人」などと呼んでいる。「武家衆」はこの国衆の反抗に敵し兼ねて要求に同意し山城の国から撤退した。そこで民衆は民兵を以て国内を警備し、行政機関を悉く自分たちの手に収めた。そうして二三カ月後に再び宇治の平等院に会議を開き、国中の法制(掟法)を議定した。その結果、総国月行事二名が選出され、その名において寺社本所領などが処理されるに至っている。これは明かに山城一国の民衆の自治である。室町幕府の管領たる畠山政長も、幕府の侍所所司で山城国守護を兼ねていた赤松政則も、面目を失してその職を去らざるを得なかった。幕府は一四八七年十一月に至って漸く政所執事の伊勢貞宗を山城国の守護に任じたが、国人がそれを承認したのは更に五六年の後である。もし国人の間に分裂が起らなかったならば、自治政府はもっと永続したであろう。
このほかにも、「守護はなく百姓持に仕りたる国」といわれている紀伊の国や、河内、大和などにも、同じような現象があった。がこれらの国一揆に比べると、宗教一揆の方が一層持続的であった。中でも加賀の一向宗一揆の如きは、守護を倒して加賀一国の自治をはじめて以来、半世紀に亘って分裂を起すことなく続いた。そうしてその後にも、本願寺の領国となったのであって、武士の手に奪い還されたのではなかった。同じく民衆の団結でありながらこのように宗教一揆の方が強固であったのは、同じ頃にヨーロッパにおいて宗教改革に聯関する民衆の運動が極めて強靱な力を持っていたことと対比して、非常に興味深く感ぜられる。特に一向一揆に関しては、ちょうどこの時代に蓮如上人が地方の信者の間に「組織」を植えつけて歩いたことを考え合わせなくてはならぬ。彼の布教の著しい特徴は、信心談合のための講の組織や寄合などを奨励し、農民の間に緊密な精神共同体を育成したことであった。それによって人々は、活溌に話し合うということ、従って会議によって全体的な意志を結成することなどを学んだ。その蓮如が越前吉崎に布教の根拠地を作ったのは、応仁の乱中の一四七一年であるが、教団は急激に加越地方に蔓延して行って、十数年の後には右にいったような一揆を起し得るに至ったのである。それは前述の山城の国一揆よりも三年後の一四八八年であった。一揆の指導者は民衆の中の有力者と一向宗の僧侶とであった。民衆の組織は教団の組織と平行して作られ、郡や組村がそれぞれ寄合を持った。この自治的統制は都合よく運び、やがて越中や能登をも合同せしめて、強力な自治団体を形成したのである。民兵による戦闘力も十分武士に対抗し得たのであって、越後の長尾の軍にはしばしば勝ち、越前の朝倉に対しても絶えず圧迫を加えていた。
以上は民衆の一揆の代表的な例であるが、それほどに成功しなかった地方においても、一揆運動は民衆の間に「組織」をもたらした。もっともそれは一揆運動のみによったのではないであろう。戦国時代の領主たちが、領内の治安維持のために地縁団体を利用したという事情もあるであろう。しかしその主導的な力が一揆団結の動きの中にあったことは疑いがない。かくしてわが国の十五・六世紀の一般民衆は、相当に確乎とした自治組織を持ったものになっていたのである。
この組織の例を中央の京都にとって見よう。そこでは「組町」の組織が発達していた。個々の町も勿論一つの団体であるが、かかる町が十数カ町相寄って一つの「組」を形成し、更にかかる組と組との間に親町枝町という如き統制関係を作るのである。組に属する町は各〻その代表者として「年寄行事」を選挙する。そうしてそれらの町が月毎に交替して「行事町」となり、行事町の年寄行事が組全体の行政を行うのである。この執政者が組町の「月行事」と呼ばれた。しかし大事を決する場合には「寄合」の決議によらなくてはならない。「評定」「惣談合」などと呼ばれたのがそれである。
このような「組」の組織は、多少の差違があるにしても、「組郷」「組村」の組織として地方にも現われた。ここでも単位となる村はそれ自身一つの団体である。村の事件は寄合の談合において「多分」に付いて決せられる。即ち多数決である。その寄合に出席するのは村民の義務であった。「寄合ふれ(触)二度に不出者、五十文可為咎者也」などという罰則もあった。このような村のいくつかが集まって「組」を形成し、その組と組との間に親村枝村の関係を作ることは、京都の組町の場合と同様である。従って組郷組村の勢力は、加賀の国の場合ほど大きくはなかったにしても、江戸時代の町村のそれのように小さいものではなかった。
以上の如き組織が十五・六世紀の日本に一般に形成されていたのである。それらの自治団結は、各〻の成員が連帯責任を負う緊密な団体として行動し、時には他との戦闘をも辞せなかった。かかる組織の最も好く発達していた例としては、堺の町を挙げることができるであろう。ここには殆んどヨーロッパの自由市に近いような自治的な独立都市が形成せられていた。ただ異なるところは、ヨーロッパの都市がギリシアのポリスの伝統や模範を背負っていたのに対し、ここではそういう歴史的背景がなく、従ってこの新らしい形成の意義が十分に自覚せられなかったことである。
この相違は、しかし、近世の開始にとって極めて重大な意義を担っている。それは展開するに従ってますます大きい相違に成育して行くものであった。
土民の一揆、及びそこから生み出されて来た民衆の組織や民衆の力の自覚は、鎌倉幕府以来の封建的遺制を一応覆滅させることができたのである。既に応仁の乱の初めに、尋尊大僧正は、土民と侍との間の階級の差別が失われたことを嘆いているが、その大勢はますます押し進められ、その後一世紀足らずの間に、鎌倉時代の名ある武家は殆んど悉く没落してしまった。源氏の流れを汲む名家だけを拾って見ても、足利氏及びその一族たる畠山、細川、斯波、吉良、仁木、今川、一色、渋川の諸氏、新田氏の一族たる山名、里見の両氏、佐々木氏の後裔たる六角、京極、尼子の諸氏、皆そうである。名家としての伝統、主家としての権威が人々を服従させた時代は、もう過ぎ去ってしまった。武士の主従関係を原理とする組織が崩壊したのである。民衆の力は解放された。貧しい農夫の子でも、組織の力、統率の力さえあれば、最高の支配者になることができる。物をいうのはただ実力である。ここにもし「民衆の支配」の伝統や理想が存していたならば、そういう実力を持ったものは、先ず何よりも民衆の名において、即ち農民の統率者とか商人の指導者とかとして、仕事をしたであろう。しかしここにはそういう歴史的伝統はなかった。だから実力の競争において民衆の中から出て来た力は、土一揆や海外貿易の方面に現われるとともに、また武力を以て他を圧倒しようとする新興の武士団としても現われたのである。戦国時代の群雄と呼ばれているものには、このような新らしい武士団の統率者が多い。それらはイタリアのルネッサンスを特徴づけているコンドチェーレや僭主などと極めてよく性格の似たものであるといえるであろう。
右の如き実力の競争は、結局、新興武士団の勝利、新らしい武士階級の形成を以て終るのであるが、しかしその新らしい支配階級が下から、民衆の中から、出てきたものであることを忘れてはならぬ。この時代は群雄割拠時代と呼ばれ、新興の武士団と武士団との間の戦争のみが行われていたかのように語られているが、しかし武士団と土一揆との間の抗争も決して少くはなく、そうしてその土一揆もまた次の時代の支配者を生み出す地盤となっているのである。少しく大胆に云い切るならば、この時代の群雄をそれぞれ英雄たらしめたものは、まさに土一揆にほかならなかった。民衆の団結を力によって圧倒するか、或は政治的な才能によって懐柔するか、いずれにしても民衆に嘆美の情を起させるほどの卓抜な業績をあげることによって、初めて人は「英雄」になることができた。このような英雄は在来の大名と同じものではない。大名はその家柄の権威によって家臣を統率してはいたが、領国の民衆をまで把握してはいなかった。今や家柄の権威が消滅し、ただ民衆の把握のみが物をいう時代となったのである。
このことを代表的に示しているのは、十六世紀の中頃、シャビエルの渡来の前後に活躍していた武田信玄と上杉謙信とであろう。この二人が英雄として人口に膾炙したのは、もっと後の時代のことでもあろうが、しかし初めから非常な人気を得ていたからこそそうなったのである。信玄は何よりも先ず卓越した政治家であって、領内の民衆の心を巧みに掴んでいた。のみならず当時の宗教一揆の動向に注目し、外交的にこれと連絡することを怠らなかった。謙信もまたその道義心の強い人格によって民心を得ていたのみならず、加越能の一向一揆との迫り合いによって鍛えられた人である。彼の父は一揆の軍との戦いにおいて敗死した。彼自身も初めは同じように敗北した。そうしてそれに打ち勝ち、一揆の軍の東進の力を阻止し得たとき、彼の卓越した力が認められたのである。甲陽軍鑑の記すところによると、彼は最初一揆の集団を型通りの軍隊の如く取扱って本格的に取組んだ。しかるに一揆の軍隊の行動は奇想天外であって、どうにも防ぐことが出来なかった。この敗因に気づいた彼は、次の年の戦に、味方の部隊に対しててんでに気儘勝手の行動を許した。この策が当って大勝を博したのであるという。これは史実であるかどうか解らないが、しかし彼が一揆の集団に対して研究的な態度を取り、その上に出ようと努力していたことは認めてよいであろう。
群雄割拠時代を終結せしめた織田信長にとっても、最も手剛い敵は一向一揆であった。彼がどうしても打ち克つことのできなかった敵は、ただ摂津石山の本願寺だけである。彼は宗教一揆の力の恐るべきことを知り、いろいろな手を打った。古来のいかなる武将もなし得なかった叡山の焼打ち、全山僧徒の鏖殺を敢行したのも彼である。伊勢長島の一向一揆を討伐したときには、二万人の門徒を鏖殺した。この過激な手段は、他の多くの一揆衆を慄え上らせるために、即ち恐怖によって将来の抵抗を断つために、取られたのであるかも知れぬ。しかしこのような、日本では珍らしい残虐な態度にまで武士を押しつめるほど、一向一揆は強かったのである。それを十分に経験した信長は、解放された民衆の力を決して軽視しはしなかった。一向一揆は彼に敵対するが故に克服しようと努めたが、他面において民衆と結びつく努力は怠っていない。皇居の修理や伊勢神宮の外護なども、全国の民衆の感情に訴えようとしたものと見られるが、特に安土の城下町の経営には、この態度がはっきりと現われている。彼はこの町を座の特権から解放して「楽市楽座」とし、徳政の廃棄を保証した。これは民衆の自由競争を許し、それによって得た私有財産を保護する、ということの宣言である。解放された民衆の力はここに制度的な表現を得た。中世の崩壊、近世の開始と極めてよく似た現象がここに見られるのである。
信長はこの仕事を成し遂げずに死んだが、それを受けついで完成したのは秀吉である。大都市大坂の急激な繁栄や、豪華な桃山時代の文化を見ると、鬱積していた民衆の力が一時に爆発したというような印象をうける。しかもこの華々しい文化創造を宰領した秀吉は、一介の農夫の子から出発して関白にまで成り上った人として、民衆の力の解放を一身に具現している。このことが当時の民衆にどれほど喜ばしい印象を与えたかは、京阪地方における豊太閤崇拝の根強さを見れば解るであろう。
がこのように民衆の力の解放が頂点に達したときに、突如として解放の運動はせき止められたのである。なるほど秀吉は新興の武士団の勝利を完全に仕上げた。彼のみならず、多くの農村出の青年が、今や大名となり国主となっている。しかしそれらの武士たちによって回復せられた社会の秩序を、持続的な秩序たらしめるためには、もう下から湧き上る力に攪乱されては困るのである。民衆の力の解放は、少くとも政治的に影響のある範囲においては、打ち切らなくてはならぬ。そこで秀吉が考えたのは、武士以外の民衆や宗徒の武装解除であった。手初めとしては、一五八五年に高野山の武装解除をやったが、遂に一五八八年に有名な「刀狩」を断行し、百姓町人から一切の武器を取り上げた。そうして武装解除せられた民衆に対しては、その職分に釘づけにするという政策が打ち立てられた。武士が百姓町人となることも、百姓が商人に転ずることも、禁止せられた。これは封建的な身分制度の基礎工事である。
この武装解除や身分釘づけの処置は、勿論武力の威圧の下に強制的に行われたのであるが、その手段として用いられたのは他ならぬ民衆の自治組織そのものであった。長期に亘り民衆は団結によってその力を発揮して来たのであるが、今やその団結が民衆を弱める武器として用いられはじめた。というのは、秀吉は、刀狩、検地、転業の禁などを励行するに当って、違犯者に対する刑罰の連帯性を以て臨んだのである。一人でも違犯者を出せば、「一郷も二郷も悉くなで切り」が行われる。団結の範囲が広ければ広いほど、「なで切り」に逢う危険が多い。人々は出来るだけ団結を小さくして、相互の警戒の眼を届かせることにより、この危険を防がなくてはならぬ。かくて曽ては武士階級への反抗の手段であった民衆の団結が、武士階級への隷属の手段、武士の支配を強化する警察力に転化した。やがて一五九七年には、辻斬・掏摸・盗賊等の取締という純粋に警察的な目的を以て、侍は五人組、下人は十人組の組合を作り、組中の犯人は組合から告発せしめるという制度を作るに至った。これが江戸時代における五人組制度の起りで、土一揆以来の民衆の団結運動は、その最小限の規模にまで押し戻されたのである。農民の一揆、商人の海外貿易、新興の武士団という三つの勢力の競争は、ここで武士団の完全な勝利に終った。
家康は右のような秀吉の政策を継承して封建的な身分制度を確立した人であるが、この人の一生を通観すると、最も重大な運命の岐れ目は、一五六三年、二十二歳の時に起った参河の一向宗の土呂一揆であったと思われる。この時には家臣の半ばが一揆方についた。代々松平郷で田を作りながら微力な主君を守りつづけてきたこの小さい武士団の団結も、いよいよここで一揆の力の前に崩壊するかに見えた。後に江戸幕府初期の有力な政治家として活躍した本多佐渡守なども、この時は一揆方に加わっていたのである。それに対して若い家康は、久しく今川の質となっていて、近年やっと岡崎に帰ったばかりで、家臣たちとの馴染も薄かった。大勢の一揆衆に加えて家臣の半ばが敵方であって見れば、勝敗の数は既に定まっているといってよい。しかるにいよいよその決算をやる段になると、不思議な現象が起って来た。崩れかけた軍のなかから若い主君の家康が危険を物ともせずに突進してくると、一揆方の武士たちは、その主君にそむいた連中でありながら、どうも身がすくむようで手出しが出来ないのである。だからその主君を討取るのはやさしいが、誰も向って行こうとしないで避けてしまう。結局その日の勝負はきまらないことになる。幾度会戦して見ても、あの若い主君の姿が現われてくると、同じように駄目にされて結着がつかない。そういう状態が半年位も続いて、だんだん一揆方の気持が腐って来た。そこを見て仲裁に入るものがあり、結局、責任者を処罰しないというような条件で一揆は降服した。その際本多佐渡守などは一向一揆の本場の加賀へ逐電してしまった。家康の許へ帰参したのは、十八年後、光秀のクーデターのどさくさの際である。がこの土呂一揆の試煉によって、松平郷の主従関係の伝統が、当時流行の一揆の力よりも強いことが証明された。これが家康の運の開け初めである。当時の群雄のなかでこの古風な主従関係の伝統を家康ほど確実に握っているものはなかった。そうして、実力の競争において結局武士団が勝利を占めたとなると、その武士団のなかでは主従関係の筋金を持ったものが最も底力のあるものとして光ってくる。江戸時代の全国的な大名の組織は、松平郷の主従関係を要石としたものである。この前後の聯関を考えると、家康という人物が十四世紀以来二世紀に亘る民衆運動に止めを刺す役割を以て現われて来たのであるということ、その創めた江戸幕府の政策が民衆抑圧において極めて徹底したものであったということは、非常に理解し易くなると思う。土一揆が日本の歴史において出来るだけ軽視されて来たのも、この政策の反映であろう。
第二章 シャビエルの渡来
一 ヤジローとの邂逅
シャビエルが日本に来たのは一五四九年、三好長慶が京都を占領し、その家臣松永久秀に庶政を委せた年である。足利の将軍や古い管領の家はもう消滅するばかりになっていた。それに反して東の方ではすでに小田原の北条氏が関東平野の経略を完成しようとして居り、武田信玄と上杉謙信との対峙の形勢もほぼ出来上っている。西の方では毛利元就が小さい地頭の家から起って中国地方最大の領主となるという経歴の最後の段階に達していた。時に信長は十六歳、秀吉は十四歳、家康は八歳であって、いずれもまだ舞台にのぼってはいないが、これらの人々の一生の間に、日本民族の運命についての大きい岐れ路が踏み越されて行くのである。鹿児島に現われたシャビエルの姿にはすでにこの大きい運命的意義が具現している。それは当時の日本人の眼には映らなかったし、シャビエル自身にも理解されてはいなかった。しかし今のわれわれにとっては、見まいと思っても見ないわけに行かない明かな事実なのである。
江戸時代以来、日本の十六世紀の歴史として記されているところだけを読んでいると、キリシタンの運動はいかにも一時的な、挿話的なものに見える。その歴史のなかにキリシタンの運動が根をおろしていた土壌についての把握がほとんどないからである。その土壌の主なるものは、日本人の参与していた東アジアの海上交通、従って博多、山口、堺、兵庫などのような繁華な町々を出現せしめた貿易商人の活動、及び土一揆や宗教一揆として表現せられた民衆の活動である。これらの歴史的現象は、江戸幕府の政策によって、歴史的意義なきもの、或は一歩を進めて歴史的に有害なものとして取扱われたように見える。その結果としてこれらの現象をわざと無視した歴史が出来上ったのである。それらの史料はキリシタン史料のように故意に湮滅させられたのではないであろうが、しかし右のような取扱いはおのずからにして湮滅に近い効果をあげたのであろう。従って現在においては、外国に残存したキリシタン史料の方が、民衆運動についての国内の史料よりも反って豊富な位である。この事情もまた日本人自身のキリシタンの運動を後代の日本人が著しく「異国的」なものとして感じた理由になっていると思われる。
われわれはその土壌に眼をつけて、十六世紀の日本のキリシタンの運動が日本人自身の体験に属することを理解しなくてはならぬ。それによって禁教や鎖国の事実がいかに深くわれわれの運命に関与しているかも十分に会得されるに至るであろう。
シャビエルに日本伝道の意図を起させたのは鹿児島人ヤジロー(或はアンジロー)である。彼はマラッカでシャビエルに逢ったのであるが、どうにかポルトガル語で話し合うことも出来、彼の側からシャビエルに傾倒するとともに、シャビエルもまた彼から非常によい印象を受けた。そこでシャビエルはこの一人の日本人を通じて日本民族に対する強い信頼と希望とを抱くに至った。その意味でヤジローは十六世紀の日本人の代表者、日本民族の尖端の役目をつとめたのである。しかし日本の歴史はこの重大な役目をつとめたヤジローについて何一つ記録していない。われわれはこの興味深い遭遇の話をただシャビエルの書簡(一五四八年一月二十日附コチン発)やヤジローの書簡(一五四八年十一月二十九日附ローマ・ヤソ会宛)などによって知るのみである。ところでそういう遭遇の起り得た背景としては、当時の東アジア海上における活溌な交通、貿易商人の頻繁な往来があげられなくてはならぬ。右にあげたヤジローの書簡によると、彼は日本で何かの理由によって人を殺し、遁れて寺にかくれていた。その時貿易のために同地に来たポルトガル人の船があった。その中に前からの馴染のアルバロ・バスという人がいて、彼の事情をきき、外国へ逃げる気はないかときいたので、彼はそうしたいと答えた。するとバスは、自分はまだ貿易の仕事がすまずここに留まるが、同じ海岸の他の港にドン・フェルナンドという武士がいるから、それに紹介しようと云った。そこで彼はその紹介状を携え、夜中に出奔してその港へ行った。そうしてポルトガル人に逢ってドン・フェルナンドだろうと思って紹介状を渡したのが、別の船の船長ジョルジ・アルバレズであった。アルバレズは彼を親切にもてなし船にのせてくれた。航海中いろいろキリシタンのことを教え、またシャビエルの生活や行いについても話して聞かせたので、彼は非常にシャビエルに逢いたくなり、また洗礼を受けたいという気持をも起した。しかしマラッカに着いて見ると、シャビエルは同地に居らず、同地にいた司祭は彼に洗礼を授けることを拒んだ。彼がすでに結婚していたこと、やがてまた日本に帰りその妻と同棲する意志のあることなどが、妨げとなったのである。そのうち日本に向って航海のできる風の季節になったので、彼はシナ行の船に乗り込み、シナからは他の船で日本に帰ることにした。ところが、シナで日本行の船に乗りかえて日本の海岸へ二十里ほどの処へ達したとき、ひどい暴風に逢って押し戻され、シナの港へ帰らざるを得なかった。そうなって見るとまたキリシタンとなり信仰を得たいという希望が働き出してくる。日本へ帰るか、再びマラッカへ行くか、と迷っていたときに、ちょうど日本から帰って来ていたアルバロ・バスに逢った。バスはこの奇遇に驚き、ローレンソ・ボテリヨという人と共に、その船でマラッカへ引き返すことをすすめた。今度行けばシャビエルはもうマラッカへ帰って来ているであろうし、またやがて神父の一人がヤジローと共に日本へ行くことになるであろうと言った。これをきいてヤジローは喜んでマラッカへ引き返した。マラッカではまたアルバレズに逢い、遂にシャビエルの許へ連れて行ってもらった。ちょうど聖母の会堂で結婚式が行われているところであった。アルバレズは彼のことをシャビエルに詳しく紹介した。シャビエルはヤジローを抱いて非常に喜んだ。ヤジローもシャビエルに逢って心から感激し、この人に仕えて生涯離れまいと思った。ヤジローは少しくポルトガル語が出来たので、シャビエルは彼をゴアに送って教育することにした。ヤジローがゴアに着いたのは一五四八年三月の初めで、洗礼を受けサンタ・フェのパウロという教名を得たのは五月の初め、ポルトガル語でこの長い書簡を認めたのは十一月の末である。僅か六カ月ほどの間に彼はポルトガル語の読み書きを覚え、マタイ伝を全部暗記してしまった。またマタイ伝の要点を日本文で書いた。ヤジローはこれら一切のことを神の恩寵として感謝しつつ、ロヨラたちのヤソ会にあてて報告したのである。
このヤジローの報告によって見ると、彼は殺人後の逐電の場面を日本の国内にではなくマラッカまでの東アジアの海上に求めたのである。われわれはこのことが当時の九州沿岸の人々にとってさほど珍らしいことでもなかった、という点を理解して置かなくてはならぬ。ポルトガル商人を乗せた船が九州沿岸へ盛んに来始めたのは、一五四二年のポルトガル人種子島漂着以後のことではあろうが、ヤジローをシャビエルに紹介したアルバレズの日本に関する報告書によると、一五四六年頃には、ポルトガル船は鹿児島、山川、坊の津など十五カ所位の港に出入していた。そういう港にはポルトガル商人の相手になって貿易を営む商人たちがいた筈であり、またその商人たちは多少ポルトガル語を解し得るようになっていた筈である。それらの商人は堺や博多あたりで大きい社会的存在となっていた貿易商と同じ意味で貿易商であったわけではない。また自ら船に乗って冒険的に海外へ押し出して行ったわけでもない。むしろ九州沿岸の諸港に普通に見られる富商であったのであろう。ヤジローも恐らく鹿児島の町のそういう富商の一人であったと思われる。彼が鹿児島へ入港したアルバロ・バスを前から知っていたということ、ポルトガル語を少しく解したということ、逐電の際に一人の弟と一人の僕を連れていたということ、などがその証拠である。そういうヤジローにとっては、京大坂の方面へ逐電するよりも、むしろマラッカへ行く方が気安かったかも知れない。しかし彼は殺人の結果鹿児島にいられなくなって外へさすらい出たのであって、探求心に煽られ、外への衝動によって出て行ったのではない。だからマラッカへ行ってもすぐにまた日本へ帰りたくなったのである。その彼をシャビエルに近づけたのは全くの偶然であった。日本近海で四日四晩吹き荒れた暴風であった。ところで、探求心に煽られ外への衝動によって動いていたポルトガル人は、この偶然を単なる偶然に終らしめなかった。彼らはこの鹿児島の一富商を捉えると共に、この一人の日本人を隅から隅まで探索し、そこに日本民族を、日本の文化を、見出そうとしたのである。シャビエルは日本を目ざす前にすでにそういう仕方で日本に関する予備知識や日本人に接近する方法などを獲得していたのであった。
シャビエルはヤジローを通じて日本人が道理に支配せられる民族であること、宗教や学問に対して強い関心を抱く民族であることを知った。ヤジローがそう語ったのみならず、ヤジローやその弟、その僕などがそのことを実証した。特にヤジローの知的能力はシャビエルたちを驚嘆せしめた。マタイ伝を短期間に覚えてしまったということは、直接彼を指導したトルレスの証言しているところである。そういう点から日本人を非常に高く評価したシャビエルは、日本こそキリスト教の弘布すべき土地であると確信し、どんな危険を冒してでも日本に行こうと決心した。日本行の妨げになるのは、シナの諸港が皆ポルトガル人に叛いたということ、またシナ海日本海の風波が世界中で最も激烈であるということ、更にこの方面に海賊が非常に多いということである。しかしこのヤソ会の闘士にとっては、死の危険こそ最も大きい休息であった。風波や海賊などは、神の力の前には何でもない。信仰あるものにとっては、そういう危険は恐れるに足りない。だから彼はヤジローに逢って以来着々として日本行の準備を整えたのである。特に彼が熱心に知ろうとしたのは日本の宗教事情であるが、ヤジローは天竺の教がシナ及び日本に弘まっていることを知っているだけで、その経典の言語を理解する力なく、従ってその教義にも通じていないことを告白した。だからシャビエルは日本に弘まっている宗教を知るということを日本に着いてからの第一の課題として初めからねらっていたのである。次にシャビエルが努力したのは、キリスト教の綱要を日本語で書くことであった。シャビエルの日本渡来までにヤジローが、シャビエルの定めた教理問答の抜書や、簡単な教義綱要や、マタイ伝の概要などを、日本文で認めていたことは確かである。だからシャビエルは鹿児島について即座に伝道を始めることが出来たのであった。この研究的な態度や用意周到な準備こそ、西から迫って来たヨーロッパの尖端が、マラッカまで出迎えた日本民族の尖端よりも、遙かに優越な力を持っていた主要な理由である。
シャビエルが日本に渡来した当時の状況は、彼が鹿児島で書いた有名な書簡に詳かであるが、彼がこの鹿児島に一年近くも留まっていたのは、右にあげた第一の課題を解き、伝道の準備を更に一層完成するためでもあったであろう。このことを眼中に置いて彼の鹿児島書簡を読むと、彼の烈しい伝道の情熱の裏に如何に着実な研究的精神が動いていたかをまざまざと感ずることができるのである。
二 鹿児島におけるシャビエル
シャビエルの日本渡来の一行は全部で八人であった。ヤソ会士ではコスメ・デ・トルレスとジョアン・フェルナンデス、これはいずれもスペイン人である。それに日本人ヤジロー、その弟、その僕。ほかは従僕のインド人とシナ人とであった。当時バスコ・ダ・ガマの子ペドロ・ダ・シルバがマラッカの長官をやっていたが、いろいろシャビエルのために配慮し、日本へ直航しようというシナ船を見つけてくれた。乗船したのは一五四九年六月二十四日であった。出航後天気も風も好かったのであるが、船頭は卜いによって航海のやり方をきめるので、途中で考が変って、シナの港で越冬しようと考え出した。広東についた時、いよいよその港に留まろうとし始めたが、これはシャビエルの一行の反対や威嚇でやめさせた。次で順風に乗って数日航海した後に、チンチェウの港へ着き、そこで越冬しようと企らんだが、丁度出港して来た船から港内に海賊がいることを聞いて急いで外洋へ出た。風は日本へ向って吹いていた。そこで船頭らはやむなく日本に向い、八月十五日鹿児島へ安着したのである。
シャビエルたちはヤジローの身内のものその他から非常な愛情を以て迎えられた。やがてその歓迎は一般的になり、鹿児島の町の長官、その地方の領主、一般民衆なども彼らに好意と親切を示した。ポルトガルの神父が彼らにはひどく珍らしかったのである。しかしヤジローがキリシタンになったことには彼らは一向驚かず、むしろそれに敬意を払った。親戚のものなどはヤジローがインドのような珍らしい所を見て来たことを非常に喜んでいた。やがてこの国の領主の島津氏も彼を款待するに至った。当時島津氏は鹿児島から五里の伊集院にいたが、彼を呼び寄せてポルトガル人の習俗や国情、インドの所領などについていろいろ質問し、彼の説明に満足したようであった。その時ヤジローは聖母マリアの画像を持って行って見せた。領主はこれを見て非常に喜び、その前に跪いて礼拝した。領主の母堂もこれを見て非常に心をひかれたと見え、ヤジローが鹿児島のシャビエルの許へ帰って来てから数日後に、使者を寄越して同じ画像の製作を依頼し、またキリスト教の教義を書面に認めて送って貰いたいと云って来た。画像は材料がなくて作れなかったが、教義の方はヤジローが数日かかって書いた。これは九月中頃のことであったらしい。やがて九月二十九日には、領主がシャビエルたちに会った。領主は彼らを款待し、キリシタンの教を記した書籍を大切にせよと云ったという。その数日後に領主は、臣下一同に対して、自由にキリシタンとなって好いという許可を与えた。
こうして伝道の滑り出しは非常に順調に行った。しかし言葉の関係から、当時の伝道の主役はヤジローであった。彼は親戚や友人を集めて昼夜説教し、おのれの母・妻・娘、親戚の男女、友人たちなど多数の人をキリシタンにした。町の人はキリシタンとなることを一向怪しまなかった。人々は読み書きが出来るので、祈りの言葉を直ちに覚えてしまう。そういう情勢のなかにシャビエルはまるで彫像のようにしていた。人々がシャビエルたちのことをいろいろと云いはやしているのに、シャビエルたちは何も解らず黙っていたのである。しかしシャビエルの心の中には、日本語さえ出来ればどんどん信者が得られるという強い希望が動いていた。だから彼は小児のようになって日本語を学び取ろうとした。このことは鹿児島滞在中に相当の程度に実現されたらしい。特にイルマンのフェルナンデスは、よほど語学の才のあった人と見え、非常に迅速に日本語を覚えたといわれている。それと共にまたシャビエルは、日本で読み書きの出来る人が多いという点に着目して、熱心に教義書の作製を企てた。日本語を学び始めてから四十日の間に、先ず十誡の解説を作った。次でその年の冬の間に日本語で信仰箇条の詳しい解釈を作り、それを印刷しようと考えた。シャビエルがポルトガル語で書き、ヤジローがそれに忠実に飜訳するのである。この企ても彼が鹿児島にいるうちに実現されたらしい。これは相当に大きい著述で、天地創造からキリストの出現、苦難、最後の審判までを説き、更に仏教排撃に説き及んでいたといわれる。この訳は、ヤジローの無学のために失敗の作に終ったが、しかしそれでも後の教義書の基礎にはなったのである。
このように伝道は最初のうちヤジローの力を必要としたのであるが、しかしその頃にもすでに日本に関する研究は熱心にすすめられていた。日本語は出来なくても直接の観察によっていろいろなことが解ったし、またヤジローを介してヤジローの知らないいろいろなことを聞き出すことも出来た。シャビエルが日本から出した最初の書簡は、鹿児島到着から八十余日後の十一月五日の日附を持ったものであるが、それには次のような日本観察が記されている。
まず第一は日本の一般的な印象である。シャビエルが鹿児島で得た第一印象は非常に好かった。彼はいう、自分が今まで交際した人たちは、新らしく発見された諸地方における最良のものである。異教徒の中には日本人よりも優れたものを見出すことは出来ないであろう、と。彼が特に注目したのは、日本人が名誉を重んずること、及び一般に善良であることであった。名誉は富よりも大切にされている」。これはヨーロッパでは見ることのできない点である。日本の国民は一般に貧しいのであるから、貧しいことを恥とは思わないのであるが、しかしそれにしても、巨富を擁する商人が赤貧の武士に対して富貴なる者に対すると同じように尊敬の態度を取るということは全く珍らしい。赤貧の武士はたとい巨額の財産を贈られても商人の娘と結婚しようとはしない。武士は名誉ある身分であり、その名誉を失いたくないからである。武士たちが領主に忠実に仕えるのも、刑罰に対する怖れからではなく、名誉を維持するがためであった。がこのように名誉を重んずるのは武士に限ったことではない。だから一般に日本人は、侮辱や軽蔑の言葉を決して忍ぼうとはしない。日本人が賭博を行わないのも、名誉を傷つけたくないからである。次に日本人は、一般に善良であって、人づき合いが好く、道理に適ったことを喜ぶ。盗みの罪を憎むことは、キリスト教国と否とを問わず、日本ほど甚だしい所はない。従って盗賊は少ない。罪悪を犯しても、その非なる所以を説いて聞かせると、道理を認めてやめる。だから一般民衆の間には、罪悪が少なく、道理が支配している。キリスト教の神のことを聞いてそれを理解し得た時には、彼らは非常に喜ぶのである。
第二は仏教の問題である。シャビエルは渡来前から日本に流通している天竺伝来の宗教を問題としていたのであるが、鹿児島到着後には直ちに研究をはじめたらしい。彼は数人の仏僧に接近したが、特に当時鹿児島で名声の高かったニンジツ(忍室か)という八十歳の高僧と仲よくした。仏僧たちが彼を款待したことは、彼自身「ニンジツは驚くほど自分に親しんだ」と云っているのによっても明かである。彼は、ポルトガルから六千里も距っているこの遠い日本へ、ただイエス・キリストの福音を説くためにのみやって来た、とその使命を語り、また霊魂の不滅の問題などをも論じて見たらしい。しかしニンジツたちは、この遠来の客の珍らしい話に驚くのみで、宗論にはあまり深入りしなかったらしい。だからここではまだ宗教としての衝突は起っていないのである。しかしシャビエルの方では、この接近によって、「坊主」たちが俗人よりもひどい罪悪に陥っていることを見出した。道理に従うという点でも、彼らは俗人ほど素直でないと解った。そこで先ずシャビエルに起った問題は、これほど堕落している「坊主」たちが、何故に彼らよりも善良な俗人たちから大きい尊敬を得ているか、ということであった。その答として彼の頭に浮んだのは、仏僧の禁欲生活であった。物資の乏しい日本では一般に甚だしい粗食が行われているが、特に僧侶は、肉類も魚類も食せず、酒も飲まず、野菜と果物と米との食事を日に一回取るだけである。そのほか女との交わりも厳格に禁ぜられている。そういう制欲の生活を営みつつ、信仰に関する物語を説いて聞かせる。それが尊敬を得る所以なのである。そういう「坊主」の数は日本には非常に多い。シャビエルはここに強敵を認め、宗論をはじめる前にすでに彼らからの迫害を覚悟した。もっともその迫害は言葉による攻撃の形をとるであろう。俗人が自発的に迫害を加えてくるとは考えられないが、しかし坊主の論難によって煽動されれば、どうなるか解らない。だからそういう迫害によって命をおとす危険がないわけでもない。がどんな危険があろうとも、われわれはキリストの救いを説くことをやめない、かくシャビエルは、「驚くほど親しく」してくれるニンジツを前にして、すでに腹をきめていたのであった。
第三は日本の国情である。鹿児島へ来たシャビエルが目ざしていたのは、日本の首府ミヤコに行くことであった。しかし彼が到着した時には風が逆で、五カ月後でなければ順風が吹かないといわれ、鹿児島に待機したのである。そこで彼は、恐らく彼が関心を以て仏僧たちから聞いたであろうと思われる日本の国情を記している。ミヤコは鹿児島から三百里で、戸数は九万以上ある。そこに一つの大きい大学があって、五つの学部に分れている。(これは五山のことであろう。)外に坊主の住む寺が二百余、禅宗の僧坊や尼院などもある。このミヤコの大学の外に、主要な大学は五つである。高野、根来、比叡山、多武峯などの大学は、ミヤコの周囲にあって、おのおの三千五百以上の学生を有っているが、遠く離れた坂東にある大学は、日本の最も大きい大学であって、学生も最も多い。坂東は広い地方で、領主は六人であるが、その内の一人が統括している。しかしその一人もミヤコの日本国王に服従しているのである。なお以上の諸大学のほかに、日本国中に多数の小さい大学があるという。一五五一年中にはこれらの諸大学にイエス・キリストの教を弘めるつもりである。なお日本国王はシナへの安全通行証(勘合)を与えることが出来るので、それを得て、シナへ安心して行けるように努力しよう。日本からシナへ渡る船は非常に多い。この航海は十日乃至十二日である。
シャビエルは以上の諸点を報道し、日本伝道についての明るい見透しを披瀝している。日本はキリスト教を弘めるに最も適した地である。もし神が十年の齢を与えられるならば、この地において非常に大きなことが出来るであろう。かくて彼は最初の書簡においてすでに後続宣教師の派遣準備を促しているのである。
シャビエルはこの書簡と同時にマラッカの長官、バスコ・ダ・ガマの子、ドン・ペドロ・ダ・シルバにも書簡を送っているが、その中で堺に商館を設置すべきことを勧誘している。堺は日本の最も富裕な港で、ミヤコにも近い。そこに商館を設置してインドと日本との貿易を開けば、長官や国王の得る利益は大したものであろう。自分は日本国王に説いてインド総督との交渉をはじめるよう努力するつもりである、と。このシャビエルの言葉は、前述の勘合貿易のことと共に、堺の貿易船と関係の深かった鹿児島の港の空気を反映している。同じことはまたシャビエルの渡来に刺戟されて多数の日本人がマラッカに渡ったことにも見られる。ヤジローが鹿児島でポルトガル人のことを頻りに賞讃したので、それらの人たちの気が動いたのである。その中には坂東及びミヤコの大学で学んだ坊主二人もまじっていた。これらの人たちの乗った船は、シャビエルたちを鹿児島に届けたその同じ船であったかも知れぬ。
以上によってわれわれは鹿児島滞在の初期におけるシャビエルたちの行動や心境をほぼ察知することが出来る。彼らは前途の見透しについて非常に楽観的であった。二年の後には日本全国の諸大学においてキリスト教が説かれている筈であった。しかしそれは彼らが当時の日本の政治的情勢について殆んど無知であったことをも示すものであろう。三好長慶を中心とした京都地方の戦乱の様子は、鹿児島でははっきり解らなかったかも知れない。従って仏僧たちもその点についての説明は出来なかったかも知れない。しかしとにかく全国的な秩序が失われていて、日本国王との直接談判などが思いもよらぬことであったという事情は、鹿児島人には解っていたであろう。シャビエルたちは少しく日本語が解るようになると共に、最初の予想を裏切るいろいろなことに気づきはじめたらしい。五カ月後にミヤコへの船を与えようと約束していた島津氏は、ミヤコが戦乱の巷である故にその静まるのを待てと云い出した。鹿児島での伝道も最初の予想ほどには伸びなかった。これは鹿児島が、鎌倉時代以来の武家の伝統的な権威を、この下剋上の時代においても遂に覆滅させることのなかった稀有な地方であることと、何らかつながりがあるであろう。ヤジローに飜訳させた教義書には仏教排撃の議論をも書き込んだが、キリスト教の「神」を「大日」と訳するようなヤジローの無学の故に、反って仏僧の嘲笑を買ったらしい。
そういう周囲の事情から、遂に一年後の一五五〇年九月に、シャビエルたちは鹿児島を去って平戸へ移った。平戸を選んだのは、その二カ月ほど前にポルトガル船が一隻そこへ入港し、その機会にその地を訪ねて有利なことを見て来たからである。鹿児島にはシャビエルの信頼するヤジローを残したが、しかしこの伝統の力の強い土地にヤジローをひとりで残すことは無理であった。数年後に彼は他の道に入り込んでしまったのである。
三 山口におけるシャビエル
平戸へ移ったシャビエルは、一カ月あまりの後、一五五〇年十月の末に、トルレスをその地に残し、フェルナンデスと日本人一人をつれて、日本の国情の視察や伝道の好適地の探検を目ざした旅にのぼった。当時の日本の物騒な情勢から見て、そういう旅行がいかに危険であり困難であるかを彼ら自身も好く知っていたのであるが、そういう危険のなかへまっしぐらに飛び込んで行くところに、当時のスペイン人の気質がよく現われているといってよい。フェルナンデスはもうよほど日本語に熟達していたし、日本語で書かれた教義書ももう出来上っていたのであるから、伝道はしようと思えば出来るし、行く先々に伝手を求めることも不可能ではなかったであろうが、しかしまだ保護者もなく信者もなく、従ってまだ全然連絡のない地方へ、「探検」の歩を進めて行くという態度は、明かに近世ヨーロッパの精神の尖端たることを示している。
しかし、それほどの覚悟にもかかわらず、この旅行の最大の印象は、旅の艱難であった。第一にあげられるのは寒気と降雪とであって、スペイン人にはよほどこたえたらしい。雪と寒さのために脚が腫れ、その上道が悪くて滑る。荷物を負ったまま道に倒れたことも度々ある。また多くの河を徒渉しなくてはならなかったし、履物のない時も少くなかった。寒さと飢とのために殆んど死ぬほどに疲れ、雨に濡れそぼたれて宿に着いても、それを和らげるような何の設備もなかったこともある。第二は人の与える不安である。海賊の多い海の上では、しばしば人に見つからぬように船の中に隠れていなくてはならなかった。また盗賊の難を脱れるために身分ある人の馬丁となって、はぐれぬように駆けたこともある。村や町について、往来で子供らから石を投げつけられたこともある。これらの艱難は全くシャビエルの予想した以上のものであったらしい。
この時のシャビエルの旅行は、博多、山口を経て、瀬戸内海を船で堺に渡り、そこから京都へ行って十一日間留まり、また西へ平戸まで帰って来たのであるが、その間に四カ月かかった。博多、山口、堺はいずれも海外貿易によって栄えたところで、当時の日本の都市発生の先駆となったものである。それらの町々が日本の重要な地点であることは、当時の世間では一般に認められていたであろう。だからシャビエルもまたこれらの町々に眼をつけたのであろうが、実地を踏査してそういう新興の町こそ伝道の好適地であることを見出したらしい。山口の町では伝手を求めて領主の大内義隆に謁することが出来、領主の好奇心に答えていろいろの話をしたが、結局フェルナンデスに教義書を読ませ、日本の宗教や道徳の腐敗に対して攻撃を加えるに至った。領主は悦ばなかった。シャビエルたちは覚悟をきめ、翌日から街頭説教をはじめた。日本人が真の神を知らず偶像を礼拝すること、男色や間引きの如き不道徳に陥っていることなどを指摘し、悔改めを迫ったのである。これはフェルナンデスが日本語で述べ、シャビエルはそばで祈っていたのであった。そういう説教を彼らは山口の町のあちこちでやった。収穫はあまりなかったようであるが、しかしシャビエルにそういう行動を取らせるような何物かが山口の町にはあったのであろう。やがて彼らは海路を取って堺に向ったが、海賊の用心や相客の侮辱などでいろいろ不愉快な思いをしているうちに、彼らに同情した一人の船客が、親切にいたわって堺の知人への紹介状を書いてくれた。堺についてその人を訪ねると、この人もまた彼らを親切にもてなしてその家に泊めてくれ、京都への旅路のことをも心配して、或る身分の高い武士の一行に加えて貰うように骨を折ってくれた。そういう人のいる堺の町が伝道の好適地の一つに加えられたことも、当然といってよいであろう。しかし遙々と目ざして来たミヤコは、三好長慶が将軍を近江へ追い払ったあとであり、日本全国の王である内裏は、いかにもみすぼらしい有様であった。またそれらに近づくすべもなかった。そこで早々に引上げて帰路についたのである。
しかしこの旅行の結果、日本の有力者に近づくには「進物」が必要であること、伝道を開始するにはミヤコよりも山口の町の方が好適であること、などが解った。博多の貿易商を配下に置いて、シナとの勘合貿易を独占しようと長い間努力して来た大内氏の城下町は、恐らく当時の京都よりも繁華であったろう。競争相手の細川氏が三好長慶に滅茶滅茶にせられ、上方が連年戦乱に曝らされていた当時にあっては、大内氏の隆盛はその絶頂に達し、京都の公卿その他の文化人にして山口に移っていたものも少くないのである。その大内氏が一朝にして覆滅せられ、山口の町が戦乱の巷になるであろうなどとは、シャビエルには勿論思いも寄らぬことであった。で平戸に引き返したシャビエルは、ポルトガルのインド総督や司教の公の書簡と、進物として丁子・時計、その他マラッカの長官から贈られた種々の品物などを携え、フェルナンデス及び日本人二人をつれて、海路山口に向った。それは一五五一年の春であった。
山口ではシャビエルは、公式の書簡と多くの進物とを領主に呈するため、法服をつけて公式に謁見した。領主は珍らしい品々を見て非常に喜び、布教の許可を与えた。この町及び全領土においてデウスの教を説いてよい、それを信ずることは自由である、という意味を書き記した立札を街に立てさせたのである。また宣教師たちに害を加えないよう人民に命令し、宣教師たちの住居として一つの僧院を与えた。これは最初の山口訪問の際とはまるで異なった情勢であるが、それを導き出したのはシャビエルの日本国情視察の結果なのである。
こうして山口の町では、鹿児島の時とは異なり、迅速に活溌な伝道が開始された。町の人たちは新らしい教を聞くために、或はさまざまの珍らしい話を聞くために、朝から晩まで詰めかけて来た。その質問はしばしば彼らが「難問」と云い現わしているように答え難いものであった。シャビエル自身はこの質問攻めを、予期しなかった「迫害」だと云っている。日本人は時刻を問わず訪ねて来て、夜中までも質問を続ける。身分のある人はおのれの家に招いていろいろなことを聞こうとする。従って祈祷・黙想・思索などに没頭の出来る暇がなくなってしまう。精神上の休養をとる時さえもない。最初の間はミサを行うことさえも出来ず、立てつづけに質問に答えていなくてはならなかった。こうして、祈祷や食事睡眠などの時間さえも不足するというような状態が、シャビエルの山口滞在四五カ月の間続いた。この経験によって、シャビエルは、日本人の質問に答えるためには学問があって弁論に巧みでなくてはならぬ、詭弁に対しては即座にその矛盾を指摘し得なくてはならぬ、とロヨラに報告している(一五五二年一月二十九日コチン発)。九月に山口へ呼び寄せられたトルレスはシャビエルからこの情勢をきいたのであろう。同じようにこの質問攻めのことを述べて、この地に来るべき宣教師は、高尚な難かしい質問に答え得るだけの学問がなくてはならぬ、とインドへ書き送っている(一五五一年九月二十九日)。これらの質問者のうちには勿論僧侶もまじっていたのであるが、しかし鋭い質問をするのは僧侶のみではなかった。僧侶に対しては一般の人々は表面に尊敬を現わすが実は憎んでいる、とトルレスは記している。
右のような質問攻めの記述は、山口の民衆の探究心がこの熱烈なヤソ会の闘士たちを一時受身にならせたことを示しているのである。それは一つには日本語で説明するのがフェルナンデスのみであり、その拠り所がヤジローの飜訳した教義書であるということにもよるであろう。だからこの山口伝道の初期にシャビエルが一人の若い琵琶法師の心を捉えたことは、後の伝道にとって非常に意義が大きいのである。この琵琶法師は当時二十五六歳で、肥前生れの男であったが、片眼が少し見えるだけの小さい跛足の体をひきずって、この新興の都会で、平家物語を弾奏しつつ暮らしを立てていた。強い記憶力と巧みな物語りの技術とはすでに出来上っていたのである。この知能優れた青年が、シャビエルの伝道の情熱から霊感をうけ、まっしぐらに彼のふところに飛び込んで来た。洗礼名はロレンソと呼ばれる。ヤジローがこれまでつとめていた役目はやがてこのロレンソによって担われるようになった。この後四十年の間に彼のあげた功績は非常に大きいのである。その間のキリシタン伝道の目ぼしい事件のなかに、彼の力の加わらないものは殆んどないと云ってよい。
このロレンソを含んだ山口の町の人々もまたシャビエルたちに非常に好い印象を与えた。トルレスの前記の書簡によると、彼らは、日本人が世界中の何国人よりもキリスト教の植えつけに適したものであることを、この地においても認めたのである。日本人はスペイン人と同様に、或はそれ以上に、道理に服することを知っている。またどの国民よりも強く知識を求める。魂の救いや神への奉仕をいかにすべきかについて語り合うことは、彼らにとって非常な喜びであった。新発見の諸地方において彼らほど烈しくこの喜びを示したものはない。そうしてその知慧は鋭敏で、理性に支配されている。だからキリスト教の神や救いのことを教えると、初めは強い反感を持っていたものでも、やがて飜然と悟って彼らの偶像や父母を忘れるようになる。しかも一度キリスト教に帰したものは、その堅実なること実に比類がない。すでに改宗したものはかなり多数であるが、その大部分はどんな艱難にでも堪える覚悟が出来ているようである。これがシャビエルの山口を去る頃に出来ていた日本人についての観察であった。
がこれはロレンソをはじめ町人や武士たちのことである。そういう俗人たちは、礼儀正しく、慈愛に富み、隣人を誹謗せず、何人をも嫉まない。しかし仏僧たちはそうではなかった。ヤジローの不十分な仏教の知識によって仏教排撃の議論を組み立てていたシャビエルたちは、ここで手痛い反撃を受けざるを得なかった。それを彼らは仏僧たちの党派心や憎悪として受取ったのである。この時彼らは、ロレンソその他の改宗者から、やや詳しい仏教の教義を教わったらしい。釈迦のこと、法華宗・一向宗・禅宗などの区別のことも、彼らは漸く知り始めた。しかしそれはすべて彼らを論破するためであった。シャビエルの山口滞在数カ月の間には、この方面に長足の進歩があり、仏教に対するキリスト教の相違点が漸く鮮明に表明されるに至った。
こうして山口には五百人ほどの信者が出来た。その中には武士階級に属するものが多く、相当の身分の人もいた。山口の町が当時の日本で最も進んだ都会であったということは、そういうところにも現われていると思われる。
シャビエルは一五五一年の九月までこの町にいたのである。
ところでこの年の八月に、バスコ・ダ・ガマの子ヅアルテ・ダ・ガマを船長とするポルトガル船が、大分の傍の日出の港に入った。長途の航海の後にはポルトガル人は神父を必要とするのであるが、それのみならずガマはシャビエルの崇拝者であり、またいろいろな計画をも持っていたらしい。彼は豊後の領主大友義鎮にすすめて、シャビエルを府内(大分)へ迎えさせた。シャビエルは平戸からトルレスを呼んで、フェルナンデスと二人に山口の信者を守らせることにし、自分は日本人の信者三人と共に九月中旬府内に向った。その三人の一人はヤジローの弟で、通弁の役をつとめる。他の一人は鹿児島人で、前に京都旅行に従った男、あとの一人は山口での新らしい改宗者である。
シャビエルがダ・ガマの船でインドまで行ってくるということを、すでに山口で考えていたのかどうかは明らかでない。トルレスを平戸から呼び寄せたところを見ると、相当長い留守を考えていたとも見える。が十月に大分からの使が来て、このシャビエルのインド行きをはっきりと知ったトルレスも、やがて直ぐにシャビエルが日本へ引返してくるのを当然のこととして語っている。恐らくシャビエルは、東洋のこの方面において日本国民のみがキリスト教に向いていること、従って日本のみがキリスト教の好適の地であることを、直接にインドのヤソ会士たちに説き、多くの優秀な宣教師たちを日本へ連れて来ようと考えたのであろう。そのシャビエルがインドへ帰ってからシナ伝道の計画を立てたのは、何かこの後の事情の変化があったものと考えられる。しかしそれにしても、山口での経験がシナ伝道の決意の有力な機縁となったことは、彼自身がロヨラに宛てた書簡(一五五二年一月二十九日コチン発)によっても察せられる。山口では彼を質問攻めにした日本人の知識は、結局シナ文字で書かれたシナの書籍に基いている。日本人はシナ語を理解することは出来ないが、しかしシナ文を読むことは出来るのである。シナ文化は日本文化の母胎にほかならない。従ってシナ人がキリスト教を奉じたとなると、日本人はシナから伝えた諸宗派の謬見を直ちに捨てるようになるであろう。これが彼のシナに眼をつけた理由であった。して見れば、あの若い琵琶法師などを通じて得られた日本についての知見は、非常に影響するところの大きいものであったといわなくてはならない。
がそれらは後のことである。シャビエルが去ったあとの山口は、さしずめどうなったであろうか。
山口に残ったトルレスやフェルナンデスの報告によると、シャビエルが出発したその日のうちに、山口の町の僧侶たちが、非常な勢でトルレスたちの住居の門から闖入し、トルレスたちやその言説に嘲笑をあびせて時を過したという。この出来事によってトルレスたちは、彼らがいかにシャビエルを怖れていたかを知ったのであった。がそれだけにシャビエルの出発はあとに残ったものには心配であった。僧侶のうちでも禅宗のものは甚だ苦手で、その質問には答え難い。聖トマスやスコトゥスといえども、それに満足に答えることは難しかろう。神の特別な恩寵なくしては彼らを説破することは出来ない。そうトルレスは感じた。しかし幸にも彼は、その特別の恩寵によって、シャビエル出発後の八日か十日の間に、身分あるものや学者などを混えて五十余人のキリシタンを作った。トルレスがフェルナンデスの通訳によっていろいろと質問に答えたとき、日本人たちは、この新らしい宣教師もまた信頼しうることを知って、大変穏やかになって来たのである。
ところが丁度その頃に戦争の噂がはじまった。大内氏の家臣陶隆房(晴賢)が大内氏に叛いたのであった。そうなると僧侶や身分ある人たちはほとんど来なくなった。商人や婦人たちが少しは来たが、それらもキリシタンとなるには至らなかった。やがて叛軍は山口に迫って来た。遂にトルレスらは、九月二十八日(太陰暦八月二十八日)に至って、所持品を隠し、逃支度をした。そうしてキリシタンの同情者である有力者カトンドノ(加藤殿か。奉行内藤隆治だとする人もある。)の邸に、もとヤジローの従僕であった男を使にやって、どうすればよいかを聞かせた。やがてその男は馳せ帰って、取りあえず大急ぎでその邸まで来いという先方の答を伝えた。トルレスは直ちにその邸に向ったが、途中で甲胄をつけた兵士の部隊にいくつか行き逢った。兵士たちは、あの天竺人が仏を罵ったからこんな戦争が起きたのだ、あいつらを殺してしまえ、追払ってしまえ、などと口々に言って、トルレスらを慄え上らせた。邸につくとカトンドノは、一人の坊主をつけて、トルレスらを彼の檀那寺に案内させた。その寺の僧も、彼らを悪魔視し、彼らのためにこの不幸が起ったと考えている人で、寺に迎え入れることは喜ばなかったのであるが、檀那を怖れてか、或は案内の僧の頼み方が好かったためか、結局彼らを寺の一室にかくまった。ここで彼らは慄えながら二昼夜を過したのであるが、その二昼夜の間に武士たちの家が多く焼失した。陶隆房の軍隊が山口を占領し、大内義隆は自殺したのである。トルレスらはカトンドノの夫人と共にその邸に帰り、そこの三畳の茶室に五日間潜伏していた。町は火災・掠奪・殺戮によって混乱し、トルレスらの生命も相当危険であったが、しかしどうにかしのぐことが出来た。キリシタンとなったものには大内氏の家臣が多かったのであるが、その内には一人も死んだものはなく、最初に信者となったトメ・内田という武士も無事で、その後彼らを守りかくまった。
こうして山口の伝道は、シャビエルが山口を去ってから一カ月経たない内に、一頓挫を来たしたのである。しかし幸に陶隆房は、自ら山口の領主となろうとはせず、自殺した大内義隆の甥、大友義長を迎えて大内氏を嗣がせようとした。大友義長は豊後の領主の弟で、当時府内にいた。そうしてその府内には丁度その頃シャビエルが行っていたのである。
四 豊後におけるシャビエルと大友義鎮との接触
シャビエルの府内入城は非常に華々しい儀容を以てなされた。すでに山口で領主に物々しい公式の謁見をやり、それによって大きい効果をあげたシャビエルは今度は日出の港のポルトガル船と連合して、前とは比較にならないほど大げさな儀容を張ることが出来たのである。それには船長ダ・ガマの側にも大いに力を入れる理由があったであろう。ヨーロッパの技術や儀容を展示して新らしい土地の民衆に強い印象を与えるということは、インド以来ポルトガル人の常套手段であった。だからシャビエルが日出に着いた時には、船には旗を掲げ、祝砲を連発して日本人を驚かせた。ついで府内入城の日には、ダ・ガマ船長をはじめ多くのポルトガル人たちが、華やかな盛装をつけ、従僕を伴い、法服に威容を整えたシャビエルを擁して、静々と行進を起したのである。一人は花鳥を描いた日傘をシャビエルの上にかざしている。他の一人は被をかけた聖母の画像を捧げている。それについで精巧な上靴を一足捧げているものもある。行列の指揮者は金棒を曳いている。前の年に領主になったばかりの若い大友義鎮(宗麟)も士卒を羅列し威容を張ってこれを迎えた。城下の民衆は見物に押し寄せて来た。そういう華々しい姿で伝道者シャビエルは府内に入って来たのである。城に入っていよいよ席につくとき、ポルトガル人の一人は非常に高価な上衣をぬいで、その上にシャビエルを請じ、列席の武士を驚かせたという。こういう行進や儀式の際のヨーロッパ風の動き方が、眼に見えるようである。
領主は伝道の許可を与えた。シャビエルは直ぐに翌日から街頭に立って伝道をはじめた。ヤジローの弟が通弁であったが、シャビエル自身も日本語で説教したかも知れぬ。最初の行列の印象で民衆の注意を集めたあとであるから、効果は大きく、間もなく五百人の信者が出来たといわれている。この形勢に対してここでも仏僧の反抗がはじまった。シャビエルの攻撃的態度がそれを触発したのであろう。仏僧たちはフカタジ(石仏で有名な深田寺か)を先頭に立てて宗論を挑んだ。それは対立を深めるばかりであった。遂に領主に正式の宗論を催おさせ、五日に亘って対論させたといわれる。ここでも日本人は、知識欲に富み、限りなく難問を提出する、という同じ性格を示したわけである。それをシャビエルはヤソ会の闘士らしい気塊で圧倒して行ったらしい。豊後滞在は僅かに二カ月余であったが、その間に彼は山口に劣らぬ有力な根拠地を築き上げたのである。
当時二十二歳であった領主の大友義鎮は、初め信者にはならなかったが、しかしポルトガル人との貿易には非常に熱心であった。だからシャビエルを擁して華々しい府内入城をやった船長ダ・ガマと、その府内の領主との間には共通の関心があったのである。シャビエルもまたそれを利用することを忘れなかった。彼はダ・ガマの船で一度インドへ引き返し、日本布教の計画を強化しようと決意したのであるが、それと呼応するかのように、大友義鎮はポルトガル王やインド総督に書簡を送り、教師派遣を懇請しようとした。その書簡や贈物を携えた使者を同じ船でインドまで連れて行って貰いたいと申出たのである。そこでシャビエルは、この使者のほかに、山口から連れて来た三人の日本人及び山口から使いに来たもとのヤジローの従僕、合せて五人の日本人を同行することにした。京都への旅に同行した鹿児島人と山口での改宗者とはポルトガルへ留学に送り、ヤジローの弟と従僕とはインドから日本へ来る新らしい宣教師を案内するためであった。日本人にインドやヨーロッパを見せよう、或はヨーロッパ人に日本人を見せよう、という気持は、彼らの間にすでに流れていたのである。
ダ・ガマの船はこの一行を乗せて一五五一年十一月に日出の港を出帆した。途中広東でサンタ・クルスという船に乗りかえたが、その船長ディエゴ・ペレイラがシャビエルにいろいろシナのことを話したので、シャビエルのシナ伝道の気持が起ったといわれている。マラッカでまた船をかえて、一行は翌年の一月末にインドに着いた。
日本人のポルトガル留学もその後実現されたが、帰国後伝道事業に大いに役立つであろうというシャビエルの期待に反して、惜しいことに彼地で死んでしまった。
豊後の大友氏は古い家柄で、義鎮は頼朝時代以来十八代目と称せられる。従ってここでは古い伝統が相当に有力であった。その豊後へ新らしい空気をもたらしたのは、当時九州の諸大名を動かしていた海外貿易であった。朝鮮の貿易にも古くから参加していたし、シナとの勘合貿易に大友船を出したこともある。倭寇に出るものも少くなかった。従って豊後の港へシナ船の出入することなども珍らしくはなかった。後年に大友義鎮がフロイスに語ったところによると(一五七八年十月十六日附、臼杵発書簡)、彼が十六歳の時、即ち一五四五年には、すでにポルトガルの商人もやって来ていた。これはポルトガル人の種子島漂着よりも二三年の後、シャビエルの豊後滞留よりは六年ほど前のことである。その時には、日出の港へシナ人の小さいジャンクが入港し、その中に六七人のポルトガル商人が乗っていた。その重立ったのはジョルジ・デ・ファリヤという富人であった。ジャンクのパイロットはシナ人であったが、義鎮の父である領主義鑑に、あのポルトガル人を殺せば手間なしで大きい財産が手にはいる、と言ってそそのかした。領主は欲に動かされてシナ人の献策を実行しようとした。それを聞いた十六歳の義鎮は、父の所へ行って、あの外国人は領主の保護の下に領内で貿易をしようとして遠くから来たものである、それを罪もなく理由もないのにただ欲から出て殺すということは甚だよろしくない、自分は絶対に不同意である、自分は彼らを保護するであろう、と説いて、その実行を喰いとめた。このことを義鎮はキリシタンとなる最初の因縁として語っているのであるが、確かにこの父子の間にはすでに視圏の相違が出来ていたのである。なおその後にもヂヨゴ・バズというポルトガル人が府内に来て五年間滞在し、日本語を話すほどになった。その男がどういう風にして義鎮と接触したのかは解らぬが、とにかく朝夕に聖書を読み、数珠を持って祈祷するその敬虔な態度は、非常に強い印象を義鎮に与えた。僧侶でもない単なる商人がこれほど熱心に勤行するということは、よほど霊顕のあらたかな神だからであろうと思えたのである。
こういう青年時代を送った義鎮が領主となる時には、いかにも戦国時代らしい血腥いお家騒動があった。父の義鑑が惣領の義鎮をさし措き、後添の妻の子を世継にしようとしたからである。それに迎合する家老の権力が強く、それを不可とする正義派の家臣のうちには誅戮をうける者もあった。そこで正義派の家臣二人が奥へ切り込んで、義鑑夫人、その子のみならず、義鑑をも殺害した。義鎮は当時湯治のために別府へやられていたが、急ぎ迎えられて跡を継いだのである。
シャビエルが豊後を訪れ、山口では大内義隆が家老の陶隆房に殺される、という事件が起ったのは、その翌年であった。義鎮の同母弟義長を大内氏の後継として迎える話がはじまったのは、シャビエルがまだ豊後にいた間のことらしい。義鎮義長兄弟の母親は大内義隆の姉であるから、義長は叔父のあとの相続に呼ばれたわけである。この交渉は公開的のものであって、勿論シャビエルの耳にも達したに相違ない。当時、山口の教会を日本唯一の教会として残して行こうとしていたシャビエルにとっては、これは非常に重大な報道として響いたであろう。兄の義鎮は宣教師派遣の懇請状を公式にインド総督に向けて送ろうとしている。その弟が、山口の領主となって、今危機に陥っている教会を保護し得るかも知れないのである。その人物についてもシャビエルは恐らく直接に知っていたであろう。そうとなればこの際シャビエルがその全力をつくしたであろうことは察するに難くない。義長が山口の領主となったならば、極力キリシタンを保護するであろう、という了解が、この時彼らの間に成立したということも、あり得ぬことではなかろう。
義長の大内氏相続については、大友記に義鎮の反対意見と義長の承諾の理由とが記されている。反対意見はこうである。陶隆房は毛利元就を敵にしているが、隆房にはこの強敵を防ぐ才覚はない。その隆房に擁せられて大内氏を継いでも、元就がそれを承認せず、主家として取扱わないならば、やがて毛利氏と戦わなくてはならない。その際に勝つ見込はない。やがて亡びる大内氏を継ぐのは無分別である。この反対に対して義長は答えた。元就を恐れてこの跡目相続を断わったと世人から嘲られるのは、堪え難く口惜しい。しかし元就と一戦して討死することは、むしろ名誉である、と。この云い分は当時の武士の間には立派なものとして通った。そこで相続の約束が出来、シャビエルの去った翌年の晩春に、義長は大内氏を嗣いだのである。
この相続の議論は、後の経過を知っている者の考え方を反映しているようにも見えるが、しかし当時の下剋上の大勢から見て、義鎮がこのような懸念を抱いたということは、あり得ぬことではあるまい。毛利元就は下から成り上るという大勢を最もよく具現した人の一人である。毛利氏が大きい勢力を持つに至った後に書かれた毛利記にも「毛利の家、昔年代々有之と云えども、元就以来の義に候」と書かれている。その元就が、三十歳の時、安芸吉田「三千貫の所」を領して以来、「談合」と「結束」とによって三十年の努力を続け、遂に大内氏に属する諸将のうちの最も大きい存在にまで成長してきたのである。特に大内氏と尼子氏との間の長期に亘る争覇は、元就の才幹を現わすに恰好の舞台であった。大内氏の運命が元就によって支えられた場合も少くない。世間はもうこの元就の実力を知っていたのである。その際に、元就が主家とする大内氏の実権は家臣の陶隆房に握られ、しかもその隆房が主君義隆に叛いて、義隆父子を自殺せしめるに至った。たとい隆房自身が領主とならず、傀儡領主大内義長を擁立するとしても、元就がその領主の権威を認めず、主殺しの故を以て陶隆房を討伐するであろうことは、容易に見通され得たのである。義長が毛利氏に圧倒せられることを予感しつつ大内氏を継いだということも、あり得ぬことではなかろうと思われる。
シャビエルが日本に残して行った教会はこのような政治的情勢の上にかかっていた。そのような情勢はシャビエルの眼には十分明かではなかったであろう。彼は日本を去った後にも、山口の教会がますます隆盛となるであろうことを確信を以て語っている。山口の教会の最大の危険はすでに過ぎた。多数のキリシタンのうちには大身のものもあり、トルレスやフェルナンデスを昼夜保護している。そのフェルナンデスは日本語に上達して、トルレスの説教の通訳をやることが出来る。日本はキリスト教を植えつけるに非常に適した土地である。この方面で新たに発見された諸国のうちでは、日本国民のみがキリスト教を伝えるのに適している。かく彼は力強く主張しているのである。それから僅か九カ月後に彼は広東附近の上川島で死んだのであるから、この確信は死ぬまで変らなかったであろうと思われる。
山口の教会に関する限り、彼の予想は裏切られた。四五年の後に大内氏に代って山口を支配し始めた毛利氏は、海外の広い世界への関心も薄く、キリシタンへの同情も持たなかった。従って山口の教会の隆昌は、僅か五六年続いたに過ぎなかった。伝道の流れは、この毛利氏の攻勢を防ぎ切ることの出来た大友義鎮の領内へと移って行った。その頃若い義鎮は、戦争と政治と歓楽との荒々しい生活のなかに沈湎していたのであるが、それでも海外の広い世界への関心やキリシタンへの同情を持ちつづけたのである。
第三章 シャビエル渡来以後の十年間
一 トルレスと山口の教会
シャビエルが日本を去ってインドへ帰り着いたのは一五五二年の一月の末であるが、間もなく四月の中頃には、日本に向うイルマン、ペドロ・ダルカセヴァとドワルテ・ダ・シルヴァとを率い、インドを出発した。船はシナ行の船で、船長はインド総督のシナ派遣大使の資格を兼ね、シャビエル自身も神父バルテザル・ガゴと共にシナに行って伝道に従事する決意を固めていた。ところがマラッカに着いてから故障が起り、船長の大使は翌年までこの地に留まることになった。そこでシャビエルは予定を変更して、神父のガゴを日本行の一行に長老として加わらせ、別の船を工面して六月六日にシナに向って出発させた。ガゴの一行はシナでまた日本行の船にのりかえ、八月二日出発、同十四日には曽てシャビエルの滞在していたタヌシュマ(鹿児島か)という島についた。そこで領主の款待を受け、留まること八日、小船に乗って豊後に向った。中々難航であったが、九月七日無事に豊後の府内に着いた。シャビエルが日本を去ってから十カ月目である。
ガゴたちは到着の翌日領主大友義鎮を訪ねてインド総督からの贈物を捧げ、領主の款待を受けた。が何よりも必要なのは、これからの伝道計画の樹立である。彼らは山口の教会と連絡を取ったが、山口からは日本語の上手なフェルナンデスを派遣して寄越した。そこでガゴは先ず領主を訪ねてインド総督からの伝言を伝え、ついで宣教のために度々訪ねて行って、領主の前にこの伝道計画の問題を持ち出した。殿はインド総督に書簡を送ってキリシタン宣教師の渡来を促されたそうである。また殿御自身にもキリシタンの教を奉ずる意志があると聞き及んでいる。従ってわれらはこの教を説きたいのである。もしわれらが領内に留まることを欲せられるならば、キリシタンの伝道を許可する旨布告せられたい。もし今その決心がつき兼ねるならば、われらは山口に行って日本語を勉強し、殿が招かれる時を待とう。取りあえず一応は山口へ行って来たいが、もしわれらがこの国へ帰ってくるよう望まれるならば、山口の神父にその旨を告げて、ここへ帰ってくることにしよう。かくガゴは申出た。それに対して義鎮は答えた。山口には神父が居り、すでにキリシタンも出来ているそうであるが、自分の領内にはキリシタンはいない。これは甚だ遺憾である。山口には神父トルレスがいるのだから、貴下たちはこの領内に留まって伝道してほしい。その上自分はインド総督と度々通信したいのであるが、神父が領内にいないとそれが出来ない。だから領内に留まってくれれば、伝道の方は手助けをしよう。ガゴはこれを聞いて領主の好意を謝し、さらに押し返して言った。当地に留まるにしても、古参の神父トルレスからその命令を受ける必要がある。また山口では領主の公式の許可を得て伝道しているのであるから、当地でもそういう公許を得て、キリシタンとなろうとしている者の疑懼を除きたい。この領内にもすでにキリシタンとなったものがある。希望者は更に多数である。領主はこれに答えて、では望み通り即刻許可を与え、高札を立てさせよう、説教は自由にやってよい、旅行は急ぐにも及ぶまいと言った。ガゴは先ずトルレスに逢いたいという切望をくり返して述べ、伝道許可の高札は山口から帰って後に立てて貰いたい、山口のと同じ形式にしたいから、と申出た。
このように領主の義鎮はガゴたちをひきとめようとし、ガゴたちは山口行を急いだのであるが、結局十月になって先ずダルカセヴァが山口に行き、数日遅れてシルヴァもそのあとを追った。最後にガゴとフェルナンデスとが山口に着いたのは、十二月の末、クリスマスの近づいた頃であった。
山口では前年の内乱以後も、烈しい迫害と艱難とのなかで、トルレスとフェルナンデスとが信者を守っていた。やがて大友義長の大内氏相続の話もまとまり、晩春の頃には義長が山口の領主となった。そうしてガゴの一行が豊後に到着したとほぼ同じ頃に、山口の教会に対して、有名な大道寺建立の裁許状を与えた。この裁許状は一五五七年にビレラがインド及びヨーロッパのヤソ会に向けて送り、一五七〇年にはすでに復刻せられて広くヨーロッパ人の眼にふれたものである。
この一年の間に山口でトルレスのした仕事は決して少くはなかった。シャビエルが教化した若い琵琶法師もこの間に著しく育った。平家物語を暗記し、それを感情に訴えるように吟誦し得たその才能を以て、今やキリシタンの教を暗記し物語りをはじめたのである。その話術は甚だ巧みで、非常にトルレスの助けになった。のみならず彼は思考の力においても優れていた。だからトルレスは、日本人と立ち入った議論をしようと思うときには、もとの琵琶法師ロレンソを呼んで代弁せしめた。そのほかにトルレスは一人の少年(ベルシヨール)を育て上げた。この少年はポルトガル語を読むことが出来、しばしばキリストの一代記を日本人に読み聞かせるという役をつとめた。こうして一年程の間にトルレスは千五百人ほどの熱心なキリシタンを作っていたのである。大道寺建立の企てはこの盛り上る力の現われであった。
そこへ新らしく渡来したダルカセヴァやシルヴァが乗り込んで来たのであるが、この新来者の眼を驚かせたのは、山口のキリシタンの熱心さであった。ヨーロッパでは一般人がすべてキリシタンであるから、キリシタンであることと宗教的な熱情を持つこととは必ずしも一つではない。しかるにこの地のキリシタンは、特に宗教に身を捧げようとする修道者のように熱心であった。新来の教師たちに対して親切であることはヤソ会の兄弟(イルマン)以上である。人種の違うポルトガル人をもキリシタンたるが故に本当の兄弟のように思うとともに、同じ日本人でもキリシタンでないもののことを念頭に置かない。否、むしろそれらを憎んでいる。そうしてキリシタン同士は不自然と思われるほどの強い愛を以て交わっている。少しでも信仰が弱まると宣教師のところへ来て治療を求める。誰の前でも昂然としてキリスト教の神のことを語り、キリスト教に帰依しないものを攻撃し、その眼の前で仏像を壊したりなどする。そういう風であるから、この地の信者が日曜日毎に宣教師のもとに集まって、ミサに列し、説教を聞く様子は、ほかの異教国に於ける場合とは甚だしく感じが違う。これが新来の教師たちの受けた印象であった。
やがて神父のガゴが、フェルナンデスと共に、クリスマスに間に合うように豊後からやって来た。そこで日本にいるヤソ会士は全部揃った。そうして恐らく日本における最初の華やかなクリスマスの祭が行われた。宣教師らはミサを歌い、また終夜キリストの一代記を語った。トルレスとガゴとは前後六回ミサを行った。信者らは非常に喜んで、夜を徹して会堂に留まった。フェルナンデスがキリスト教の神のことを読んで聞かせる。疲れると、ポルトガル語の読める例の少年が代って読む。それがすむと信者たちは、もっと話をしてくれという。鶏鳴のミサの時には、トルレスがミサを歌い、ガゴが福音書と書簡とを読んだ。ほかのイルマンたちも応唱した。それがすんで信者たちは一度家に帰ったが、翌朝のミサの時にはまた集まって来た。ミサのあとで世界の創造やキリストの一生に関する説教が読まれた。つづいてガゴも説教をした。そのあとで信者たちの骨折りにより来会者一同が食事を共にしたが、その際信者のなかの年長者や会堂の近くに住む信者たちがいかにも嬉しそうに他の人々の給仕をしていたことは、信者となった日本人にのみ見られる現象であった。
クリスマスの祭儀は日本の信者たちに非常な印象を与えた。それを見た宣教師たちは、こういう営みに必要な品々の不足を痛感したと見え、それらを調達するためにダルカセヴァをインドへ帰すことに決定した。伝道のために有効な手段に対して彼らが如何に敏感であったか、またそれを如何に重大視したかは、これを見ても解るのである。
儀式に対する喜びと聯関して、日本人の厚葬の風もまた彼らの注意に上った。信者たちは神父と相談して、宣教師に与えられた広い地所の一部にキリシタン墓地をつくり、死者のために非常に美しい墓を立てたのである。そうして葬儀の際には最も身分の高いものも熱心に参列した。トルレスはこれを見て葬儀にも力を入れ始めたのであろう。二年後の一五五四年十月に彼が豊後に送った書簡(一五五五年九月二十日豊後発シルヴァの書簡に収録)によると、山口の領主の重臣ファイスメの義兄弟であるアンブロシヨの葬儀には、トルレスが男女の信者二百余人をひきいて参加した。トルレスは白法衣と袈裟をつけ、ポルトガル語の出来る青年ベルシヨールは白法衣をつけて十字架上のキリストの像を捧げた。墓地は宣教師館から遠いので、高い棺や明るい提灯を列ねた荘厳な行列は、山口の町中を練って行った。死者の親族も山口の町の大衆もこれを見て非常に感激した。未亡人は四日間貧民に食物を施与し、会堂にも多額の寄附をした。
がこのような儀式に対する喜びのほかに、もう一つ目立ったのは、日本の信者たちが貧民救済のような愛の行に非常に熱心なことであった。当時仏教の僧侶たちは、キリシタン攻撃の一つの論点として、彼らは寺への布施が惜しいからキリシタンとなったのであろうと言った。それを聞いた信者たちは、トルレスの許へ来て、あなた方が喜捨を受けないからこういうことを言われるのである、だからこの非難を避ける方法として、会堂の門に箱を備え、信者らの自由な喜捨を受けて、それをこの町の貧民に施与することにしてはどうか、と提議した。これには勿論トルレスは同意したであろう。やがて信者たちは、月に一回貧民に給食することに定め、米の喜捨を受ける箱を会堂に備えつけた。給食の日になると、いつもその箱は溢れるほどに充たされた。給食をはじめる前にトルレスは十誡の話をした。ダルカセヴァも数回その場に列席して、給食をやる信者たちの強い愛のこころに驚いたのであった。「私は彼らと交わって、自分が恥かしくなった」とダルカセヴァはいっている(一五五四年ゴア発)。この信者たちの活動は山口の教会に多数の貧民をひきつけた。その中には信者となるものも少くなかった。二年後のトルレスの書簡によると、信者たちは毎月三、四回の給食をやって居り、貧民の家を建てる計画も出来たという。
こういう信者たちの熱心は、早くから山口に治病の奇蹟を産み出していた。洗礼の水を飲むことによっていろいろな病気が癒るのである。これはトルレスが飲ませたのではなく、熱心な信者が自分の信仰から出て飲ませたのである。こういう治病の事績はこの時代のヨーロッパにも少くないであろうが、特に日本の地においては起り易かったであろうと思われる。これもまたキリシタンの信仰の伝播には役立ったのである。
このように、トルレスの下にある山口の教会では、信者たちが活溌に動いていた。そこに新来のガゴは一月余り滞在し、再びフェルナンデスをつれて豊後にひき返した。この時シルヴァは山口に留まり、インドへ帰る筈のダルカセヴァはガゴに従った。彼らは一五五三年の二月四日に山口を出発し、十日に府内へ着いたのである。
二 豊後における教会の建設
豊後では領主の大友義鎮が、ダルカセヴァに託するために、インド総督への書簡を作らせた。その書簡には、総督の贈物に対する謝意や神父たちの好遇と保護との約束などに次いで、神父ガゴの在留によりインド総督との通信の道が開けたことの喜びを述べた。自分はこの通信を前から望んでいたが、それを媒介する人がなく、これまでは実行出来なかった。今はその人を得たから、ポルトガル王のために尽そうとする自分の意志を形に現わすことができる。自分の領内の人々をキリシタンにするために、もっと多くの神父を派遣して貰いたい、というのである。この書簡が出来上ると、ダルカセヴァは直ぐにそれを携えて平戸へ向った。多分二月の十四日であろう。通訳の人をつれないので、手真似で意を通じながら、平戸まで十八日かかったという。平戸ではもうシナ行の便船はなかったらしく、彼がダ・ガマの船で出発したのはその年の十月十九日である。
ところで丁度右の書簡が作られていた頃に、三人の重臣が領主を殺そうとするという事件が起った。それがこの書簡と関係のある事件であるかどうかは解らない。四年前に父の義鑑がやはり家臣に殺されたのであるから、そういう家中のもつれの続きであったかも知れない。とにかくダルカセヴァが出発してから二日の後、二月十六日に、その騒擾は激化し、府内の町は焼かれるであろう、掠奪が行われるであろう、神父は所有品を匿さなくてはならぬと信者が告げに来た。ガゴは領主の身の上を心配してフェルナンデスを見舞にやった。フェルナンデスが館に行って見ると、武士が溢れるほど詰めかけていて、どれが敵、どれが味方とも解らなかった。ただ謀叛人を討伐する軍隊の統率者数人だけが識別された。領主と話すことなどは到底出来ない、自分の首さえも危ない、と彼は心配していたが、偶然領主が彼の側の戸を開けたので、彼は領主に会ってガゴの祝福と祈りの言葉を伝えた。領主の義鎮は非常に喜んで、謙遜な態度で、彼のための祈りを頼むと言った。
ガゴとフェルナンデスとの運命もまた領主の運命にかかっていた。領主が倒れれば彼らもまた倒れなくてはならぬ。で彼らは一切を神の手に委ねて待った。町には驚くべく多数の武装した人が動いて行った。ガゴたちは戸を閉じ家の中に籠って、剣を喉に当てられたような気持で、ただ祈っていた。
領主を殺そうと企てた重臣たちは、その家族や親族と共に、短時間の間に亡ぼされた。しかしその家に火を放ったので、町の被害は大きく、商家や武士の家が三百戸ほども焼けた。ガゴたちの持ち物の置いてあった家も、周囲を火に包まれたのであるが、不思議に助かった。夜になって領主の使が来た。今日は大分心配したが、戦争は幸いに止んだから安心して貰いたい。貴下らの持ち物は焼けたことと思うが、その損失は償うから、これも放念を願う、という伝言であった。
この騒ぎの後、ガゴたちは暫く或る寺院に住んでいたが、その内山口のと同様な伝道許可状を貰い、会堂のための敷地をも給せられた。ガゴたちの住む宣教師館の建築も早速開始され、同一五五三年七月二十二日マグダレナの祭日の頃にはすでに出来上っていた。その建築のためには信者たちが車を以て石を運ぶというような労働に服し、労働をなし得ない身分のある信者たちは、風炉を携えて来て湯を沸し茶を立てて労働者たちをねぎらった。また熱心な信者である一人の鍛冶屋は、他の人々が仕事を休んでいる祭の日に、ふいごや炭を携えて来て宣教師館のために釘を作った。そういう風にしてこの会堂は、信者たちの熱心の上に建てられたのである。
領主がキリシタンを保護しているのであるから、宣教師たちに公然害を加えるものはなかったが、しかし仏教の僧侶たちの迫害は執拗に行われた。ガゴたちが寺院にいた時には、度々議論を吹きかけ、嘲笑や罵詈を浴びせた。宣教師館に移ってからも、夜宣教師館に石を投げ込むとか、路上で石を投げつけるとか、という風なことをやった。領主は投石のことを聞いて、その附近に住んでいる武士たちに護衛を命じ、或は夜中使を出してガゴたちを見舞わせたので、それきり投石は止まったが、仏僧たちの敵意は止まなかった。しかしそういう敵意にもかかわらず、日本人の信者たちは、自分はキリシタンであるということを街頭に立って公言し、熱心にキリスト教の神のことを説いた。或る信者は、その住んでいる町に信者のない家は一軒もない、というような情勢をつくり出した。また或る身分の高い信者は、町から一里のところにあるおのれの家にガゴを招き、家族たち三十人を信者にして貰った。盲目の少年の目が開き、重病の娘が忽ちに全快するというような現象も起った。こうしてこの一五五三年の秋までには府内とその附近に六七百人の信者が出来たのである。
三 シャビエルの死と日本への関心の高揚
以上のような日本の情勢をインドに報告しようとするダルカセヴァは、帰途広東附近の上川島において、一年前の一五五二年十二月二日にシャビエルが死んだことを聞いた。遺骸はすでにマラッカに移され、そこでダルカセヴァの到着を待っていた。マラッカからはダルカセヴァが遺骸と共にインドに向い、一五五四年の復活祭の頃にゴアに着いたのである。ゴアでの感激は大変なものであった。シャビエルが讃美せられると共に、日本への関心も高まった。ヤソ会のインド管区長ベルシヨール・ヌネスは復活祭の後にはもう日本行を決意していた。その許可を得るために総督を訪ねると、総督はちょうどダルカセヴァのもたらした大友義鎮の書簡を読んでいたが、ヌネスの来意を聞く前に、何をしているのだ、何故早く日本へ行かないのか、と切り出した。そこで早速事はきまり、ヌネスは神父ガスパル・ビレラと、イルマン五人、少年生徒五人を同伴することにした。そのイルマンのなかには後に日本史を書き残したルイス・フロイスもまじっていたのである。これらの人々はこの後日本伝道を力強く推進した傑物であるが、五月にはもう日本に向けてゴアを出発した。その航海が予定通りに運んだならば、一五五四年の八月には日本に着き、山口の教会を見ることも出来たであろう。しかるにインド洋では風が逆になり、暴風が起ったため、マラッカに着くのが非常に遅れた。マラッカでの彼らの非常な努力にもかかわらず、結局日本に向う季節風の時期を逸することになってしまった。マラッカの長官はこれに同情して、翌一五五五年の四月には、ポルトガル国王のカラベラ船を以て彼らを豊後まで届けようと云ってくれた。がこの航海も途中でうまくは行かなくなり、ヌネスやビレラが豊後についたのは一五五六年七月である。フロイスはさらに八年ほど遅れて日本へ来た。
四 山口の教会の活動とその受難
こうしてマラッカやシナ沿岸に日本へ向う新らしい伝道の情熱が停滞していた間にも、日本における教会は着々として進展しつつあった。
山口の教会では、トルレスの許にあって新来のシルヴァが熱心に日本語を学び、もとの琵琶法師のロレンソは服従・貧困・清浄のヤソ会士の生活を身につけ、青年のベルシヨールはポルトガル語の理解をすすめた。ここではミサも説教も日本語の本によって行われた。トルレスは日本の風俗に適応することを心掛け、生れて以来の肉食の習慣を廃して日本人と同じ食物におのれを慣らしたほどの人であって、日本人の気持を好く理解し、それをどういう風に扱えばよいかをも心得ていた。従って信者たちの信頼を得ることも非常であった。
山口の教会の伝道の仕事は山口の町のみには限らなかった。多分シルヴァが山口に来てから最初の冬のことであろうと思われるが、山口から一里ほど距たった村で五六十人の農夫が信者になった。皆読み書きの出来ない人たちであったが、その語るところを聞くと、学問あるものも口を出す余地がないほどであった。この信者らは絶えず集会を催おしていたので、トルレスは厳寒の頃にもとの琵琶法師のロレンソを説教にやった。ロレンソは洗礼を受けようとする人十二人を連れて帰って来た。その中に歯のない老婆が数人いたが、そういう人たちでもラテン語の主の祈りを暗記していて、まるで子供の時から知っているかのようであった。そういう調子で、その村の信者には主の祈りを知らない者はなく、その発音もポルトガル人に劣らなかった。二年後の一五五五年にはこの村の信者は三百人になったといわれている。
シルヴァが来た次の年一五五三年のクリスマス前夜には、前年と同じように、気高い男女の信者たちが会堂に詰めかけて来た。夜の一時からシルヴァと日本の青年ベルシヨールとが、代る代るに日本語で、アダムより世の終りに至るまでの六つの時期の歴史を読んだ。初めの五期は旧約の物語の摘要のようなものである。(一)は人間の創造、エデンの園の生活、アダムの堕罪など、(二)はノアの洪水、言語の分裂、偶像崇拝の始、ソドムの滅亡、ニネベのこと、ヤコブの子ヨセフのことなど、(三)はイスラエルの子らのエヂプトにおける奴隷化、モーゼによる解放、律法の確立など、(四)はエリシヤやユヂスのこと、ネブカドネザルのことなど、(五)はダニエルのことなど。そこまで読んだあとでトルレスが暁のミサを行い、いろいろと歌った。そうして昼のミサのあとで、シルヴァは、第六期の初め、即ちイエス・キリストが、この世に来たことを読んだ。こうしてミサや説教が終った後に、信者一同は宣教師館でトルレスたちと食事を共にした。この日と翌日とには信者たちは貧民への食物施与を盛大に行った。
キリストの誕生を祝う祭に対応して重要なのはキリストの受難と復活とを記念する復活祭であるが、この祭はそれに先立つ四十日間の断食期を以てすでに二月の中頃に先触されるのである。その開始期は灰の水曜日であるが、シルヴァが山口に来てからの最初の灰の日は、一五五三年の二月十五日で、ガゴはフェルナンデスと共にすでに豊後に去って居らず、トルレスが灰を祝福してその意味を説明した。信者たちは、この四旬節の間に絶えず断食を行った。毎朝食事をする習慣のある日本人には、このことは非常に苦痛であった。いよいよ復活祭の週に入り、キリストが十字架についた金曜日になると、トルレスは十字架の祈祷を行い、信者らに十字架を拝せしめた。そのあとでシルヴァが受難の説教をした。これは恐らくロレンソか誰かが通訳したのであろう。その翌々日四月二日の復活祭の日にはミサの後に信者たちが盛大な食物施与をやった。そのため会堂に青い布を張って墓所のようにしつらえ、祭壇の前には二本の蝋燭を立てた。トルレスは祈祷をし信者らはそれに応唱した。それと同じように翌一五五四年の四旬節にも信者たちは熱心に告解を行い、またしばしば断食した。特に復活祭の週に多数の信者が断食を行い、宣教師館に来て泊った。夜は信者たちの間で互に体験を語り合い、信仰を鼓舞した。金曜日には多数の信者が会堂に集まって、十字架の儀式に列し、キリスト受難の説教を聞いた。この時にはシルヴァはもう日本語で説教したらしい。
信者たちが貧民施食の仕事を熱心に進めるに従って、貧民の中から信者となるものが多数に現われた。一五五四年の夏の頃には毎日十人、二十人の貧民が信者となったといわれる。そういう貧民の信者たちは、いろいろの祈祷の文句を覚え、毎日会堂の門に来て祈祷を捧げた上、満足して立ち去った。多分そういう現象や信者たちの熱心な慈悲の行を見た結果であろう。都から来ていた二人の学僧がキリスト教に関心を持ちはじめ、トルレスの許へ教えを受けに来て、遂に信者となった。キョーゼン(パウロ)とその友センニョ(バルナベ)がそれである。二人はトルレスの助けを得て宣教師館の側に一軒の家を作り、何処からも何物をも受けずに、ただおのれの手を以て獲たもののみによって生きるという生活をはじめた。彼らの求めるのはただ徳のみであった。二人は新らしい植物の如く日々に伸びて行き、その謙遜な態度によってトルレスを感服せしめた。キョーゼンは宗学に精通した学者であったから、やがて仏教の誤りとキリスト教の優れた点とを非常に明晰に把握し、それを人々に説くようになった。ロレンソがすでにそういう仕事を始めていたのであるが、仏教学者としてキョーゼンは一層突き込んだ説教を始めたのであろう。
ほかにもう一人パウロと名づけられた信者が、この頃新らしく出来た。五十を越えた相当に有名な人で、文章を書くのが上手であった。この人も、その妻が信者となって以来非常に善くなったのを見てキリスト教に関心を持ちはじめ、遂に信者となったのである。そうして日本語の教義書をすべて書写し、熱心に読み、トルレスにいろいろと聞きに来た。自分でも数種の書物を書いた。徳の高い謙遜な人であったから、親戚・友人その他多くの人が彼に導かれて信者となった。
こういう情勢の下に山口の信者たちは、一五五四年の末には、貧民施食を毎月三四回行い、貧民の家の建築を企てて募金をはじめた。信者の数はほぼ二千に達していた。トルレスの宣教師館も著しく腐朽して来たので、新らしい建築が企てられた。半年余りの後、一五五五年七月半ばには、幅九間余、長さ六間半の新会堂が完成し、ミサが行われた。その秋にはシルヴァが豊後に移り、フェルナンデスが山口に帰って来たらしい。
これらの経過を通じて、山口の教会における信者たちの活動は非常に顕著である。トルレス自身も、「神の言葉は弘まり、キリスト信者は増加し、告解・説教、その他精神的な修練が盛んに行われた。」と言っているが(一五五七年十一月七日府内発)、恐らくこの時が山口の教会の最盛期で、それを作り出したのは、信者たちの盛り上る力であった。後年トルレスはヌネスに向って、「自分の全生涯中、山口の六七年間のように大きい歓喜と満足とを以て生きたことはなかった」と述懐している(一五五八年一月十日コチン発ヌネス書簡)。その歓喜と満足とは、結局において信者たちの活動にもとづいているのである。
しかし新会堂のミサが行われて後、僅か三カ月にして、陶晴賢が厳島において毛利元就に惨敗した。山口の領主の権威は地に墜ち、町の平和は失われた。翌一五五六年に入ると、毛利氏の圧力が追々加わって来て、毛利勢がなお尼子氏と戦っている間に、すでに山口の町は内訌の兵乱によって焼かれた。「日本の戦争は火を以てする。家屋は木造で壁がないから、火は風に煽られて猛烈となり、リスボンと同じ大きさだといわれる山口の町全部が、一軒ものこらずに焼けた。国王の宮殿も、神父が非常に骨折って一年前に建築を完成した会堂も、火を免れることは出来なかった。」(同上ヌネス書簡)トルレスやフェルナンデスが多年の艱難を忍びつつ築き上げたものは、三四時間の間に悉く失われた。領主や大身などの家臣であった信者たちも、諸方へ散り散りになってしまった。
やがて敵兵が来襲するだろうとの知らせに、信者が数人集まって、トルレスやフェルナンデスの身の上を相談したが、その結果は騒ぎが静まるまで山口にはいない方がよい、ということであった。火災後二三十日を経て、敵はいよいよ山口の町へ一里ほどの所まで迫って来た。信者たちは頻りにトルレスたちの退去をすすめた。トルレスも遂に、乱後には帰ってくるというつもりで、退去を決意した。信者たちは集まって別れを悲しみ、出発の日にも町から二三里のところまで送って来たが、まるで死別れででもあるかのように、男も女も少年も皆泣いた。トルレスも涙を抑えることが出来ず、激しい悲痛と愛情とを表わして別れた。こうして豊後へついたのは五月であったが、悲しみと愛情とのために遂に病気になり、七月のヌネスたちが到着した時にはまだ癒っていなかった。
トルレスはこの時フェルナンデス、元琵琶法師のロレンソ、青年ベルシヨールなど、山口の教会の幹部をすべて同伴した。信者を守る人はあとに残らなかった。トルレスは間もなく山口へ引き返すつもりでいたのである。半年の後、十二月には、大内義長やその他の大身から山口に帰るようにとの書簡が来た。トルレスは早速領主大友義鎮の許可を求めたが、義鎮はまだその時期でないと言って許さなかった。翌一五五七年にはいよいよ毛利元就が山口を占領し、大内義長は自殺した。あとには毛利大友両氏の直接の対抗がはじまり、大友義鎮自身が幾度かの戦争の試煉を経なくてはならなかった。山口の教会を回復すべき機運は中々廻って来なかったのである。
五 豊後の教会の成長、慈善病院の経営
豊後の教会では、一五五三年以来、日本語の巧みなフェルナンデスがガゴを助けて、仏僧に対抗しつつ伝道をすすめた。ところでここでは、領主の保護があるといっても、身分ある人、事理を解する人の帰依は少なく、僧侶・富者・武士などは、頑固に旧信を守り、現在に執着していた。信者となる善良な人たちは多く貧民であった。そこでガゴは知識ある人々、身分ある人々の教化に力を入れようとしたのであろう。自ら教義書を編纂して日本語に訳させ、領主大友義鎮に献じた。義鎮はそれを重臣たちの臨席している前で読ませ、大いに満足してその書に署名した。別に写本を作って置き署名本は重臣たちに読ませるというのである。
こういう教義書を作る際に、ガゴは、シャビエルの教義書飜訳以来その仕事にたずさわって来たフェルナンデスのほかに、パウロという日本人の信者の助けを藉りた。このパウロは、山口で改宗したパウロ・キョーゼンと同じように、仏教の教理に精通した人であった。改宗して以来は、仏教とキリスト教との相違点を明かに指摘し、仏の教えが偽りでありキリスト教の神の教えが真であることを主張して止まなかった。その説教は非常に巧みで、仏教を非難しても聴衆は怒らず、福音を説けば聴衆はその真理なることを納得した。惜しいことに三年後の一五五七年に病死してしまったが、ガゴはこの人を非常に高く評価し、ヤソ会士たらしめようとしていたようである。多分このパウロとの接触の結果であろう。彼は早くからキリスト教の用語の問題に注意を向けた。シャビエルの残して行った教義書は仏教の用語を使い過ぎている。それは虚偽の言葉を以て真理を説くにほかならない。従って誤解を生ずる。そういう有害な言葉は捨て去り、新らしい事物は新らしい言葉を以て現わさなくてはならぬ。こういう見地の下に彼は有害な言葉五十以上を見つけ出したのである。
身分あるものを教化しようというガゴの希望は、一五五四年には幾分かずつ充たされたように見える。府内に近い或る村を治めていた人が信者となり、ガゴをその村に招いて、妻子その他村人を受洗せしめた如き、その一例である。中でも目ぼしいのは、内府から九里か十里ほど離れた朽網郷の「大家族を有する一老人」の帰依であった。府内の一信者アントニオが朽網に行って、信仰の力で病気を癒したのが機縁となり、この「身分ある老人」を改宗せしめるに至ったのである。老人はルカスという洗礼名を受け、その地方の多数の人々を教化したが、翌一五五五年の初めには、ガゴを朽網へ招いた。ガゴは、その頃豊後にいたフェルナンデス、説教のうまい日本人パウロ、及び右のアントニオを伴って、四旬節の頃に朽網に赴いた。ルカスの妻、二人の息子、その他家族のみで六十人、家族の外のものを入れると二百六十人の人々が洗礼を受けた。この地方一帯の領主はケイミドノで、豊後の最も有力な大身二人の内の一人であったが、この人も説教を聞いて非常に喜び、豊後の国王の許しを得たらば信者になろうと言った。彼は信者の保護を約し、出来るだけ多くの人の改宗を希望したので、彼自身の家来で洗礼を受けたものも少なくなかった。こうして朽網には、ガゴの希望するような、身分あるもの事理を解するものの帰依が実現されたのである。
しかし府内で信者となるものは依然として貧民や病人であった。薬は洗礼の水だけであったが、それが好く利き、十里二十里の遠方からさえも求めに来た。そういう信者の間に「外形の行事」がいかに強い印象を与えるかを知っていたガゴは、いろいろの儀式を盛大に行うと共に、信者の葬儀に特に力を入れた。先ず一般的に来世のことを理解させるために、毎年十一月の一カ月間は、毎日ミサを行い、死者の連祷を歌いながら、棺を運び出す。その棺は会堂の中央に常置し、四隅に四本の大蝋燭を立てて置くのである。この行事には勿論、死についての説教が伴っている。そうして実際に誰か信者が死ねば、多数の信者が集まって厳粛な儀式を行う。棺を造ることも出来ないような貧しい信者の場合でも、人々の寄附によって棺を造り、それを絹糸で覆い、富める人を葬る場合と全然同じような鄭重な儀式を以て葬るのである。会堂を出る前に主の祈りを三唱し、信者らも合唱する。棺は四人で運び、十字架のキリスト像を携えた白い法衣のイルマンと、聖水や聖書を携えた青年とが、ラダイニヤの音頭をとり、信者たちがこれに伴唱する。両側には高い燈籠に火を点じたものを多数立てて行く。こういう葬儀の行進は日本人に非常な感激を与え、最初の時には三千人の見物が集まった。特に貧しい人をもこの様に厳粛に葬るということが、人々を感動せしめたのであった。
が貧民と病人とを相手にする府内の教会は、遂にそれに適応した特殊な活動を始めるに至った。それは病院の経営である。その機縁を作ったのは、一五五五年にガゴの許へ告解のため、またそれ以上に魂を救う道の修業のため、やって来たルイス・ダルメイダであった。彼はリスボンの富裕な貴族の子で、その頃三十歳であったが、マラッカ、シナ、日本を往来する航海者貿易商人たちの間ではすでに知名の人となっていた。このダルメイダが、この年にはダ・ガマの船で平戸へ来たのであったが、ガゴの許に滞在している間に、豊後の信者の状態を見、特に日本における産児制限(間引き)の風習のことを聞いて非常に心を動かし、その救済のために病院設立の費用として千クルサドを提供しようと言い出したのである。その病院には、貧しい信者の乳母や二頭の牝牛などを用意し、貧民の嬰児をどしどし引き取って哺育する。その嬰児は入院と同時にキリシタンにして了う。そのため領主に請願して、嬰児を殺さずに病院へ連れて行くようにという命令を発布して貰わなくてはならぬ。そういう計画であった。この計画は早速領主の前に持ち出されたが、領主の大友義鎮も非常に賛成してそれを許可した。これは多分この一五五五年の九月頃のことであったろうと思われる。間もなくダルメイダは、ガゴやフェルナンデスに伴って一度平戸まで行ったが、その秋に出帆するダ・ガマの船には乗らず、そのまま日本に留まって病院の仕事を始めたのである。
ダルメイダはこの時すべての所有をヤソ会に捧げようと決心したらしく、まだ日本へ到着しない管区長ヌネスの一行のために、船を買う資金二千クルサドを贈るとか、日本伝道に必要な画像数種をリスボンへ注文するために、麝香に投資して百クルサドを贈るとか、いろいろヤソ会のために肩を入れはじめている。
ダルメイダの最初の計画は、恐らく一五五五年の末か翌年の初めには、緒についたのであろう。しかしそれが本式の病院として大仕掛けに建設されるに至ったのは、まる一年後のことである。その間にトルレス以下山口の教会の連中が豊後へ逃げて来た。管区長ヌネスの一行も豊後についた。府内の教会の形勢は急激に変って来た。これまで府内の教会に貧民の信者の多いのを嘆いていたガゴは、平戸に移ってそこで新らしく伝道の仕事をはじめることになり、府内の教会は山口で信者たちの愛の行を指導していたトルレスが引き受けることになった。新来の神父ビレラ――こののち日本で非常に多くの仕事をするビレラは、老いたるトルレスを助けつつ日本の習慣や信者の取扱い方についてのトルレスの貴重な体験を学び取るために、府内に留まった。こうして府内の教会がトルレスのもとに一五五六年のクリスマスを盛大に祝い、この地方の多数の信者がこの愛の行の導者のまわりに集まったとき、そこに新らしい機運の生じて来たことは察するに難くない。多くの財産をなげうって愛の行に没頭しようとしていたダルメイダがそこにいる。過去の学識をなげうってキリスト教的な愛の実践に浸り込んだパウロ・キョーゼンも山口から来ている。そうして貧民や病人は会堂にあふれている。だからこの時、何かが急に燃え上って来たのである。その証拠に、トルレスは、クリスマスの後にビレラにつけて朽網に派遣したフェルナンデスを、数日後に急に呼び返して、領主義鎮と病院についての交渉をはじめている。義鎮は病院の仕事の善いことを知って居り、前にその建設の決心をしたのであったが、貧民と接することを賤しむ気持から、その時まで躊躇していたのであった。そこでトルレスは早速実行に着手し、会堂の隣りの地所に大きい病院を建てた。その病院は二つの部に分れ、一は普通の外科と内科、他は癩病院であった。治療にはダルメイダとパウロ・キョーゼンとが当った。ダルメイダは特に外科の手術がうまく、そのやり方を他の人にも教えた。イルマンのシルヴァなどもその一人である。パウロは漢方医で、内科をひきうけ、遠く数里の山の中まで往診した。漢方薬の効能はトルレスたちにも認められた。
こうして豊後の慈善病院は、豊後の教会の著しい特徴になった。
六 トルレスとビレラ、平戸の教会
シャビエルの死に刺戟され強い感激を以て一五五四年の五月に日本に向けインドを出発した管区長ヌネスの一行は、運悪く途中で二年余の年月を空費し、一五五六年七月の初めに漸く豊後に到着した。この遅延はヌネスには好い影響を与えなかったであろうが、さらにその到着の当時、豊後は内乱で騒いでいた。ヌネスらは日出の港に着く前に豊後の国主が殺されたという噂をさえ聞いたのである。着いてから確かめて見ると、十五日前は国主は謀叛の嫌疑のある大身十三人の家を焼きその一族を滅したとのことであった。その謀叛人らは三年前ガゴが府内に落ちついた時の謀叛の残党であったらしい。一夜のうちに双方で七千人の人が死に、国主は府内から七里の島か山かに遁れていた。国内にはまだ戦争の懼れが充ちていた。その不安のなかで宣教師たちが少しも死を怖れず伝道に熱中している姿を見て、ヌネスは「自分を恥じた」と云っている。がこのような現前の不安状態のみでなく、彼はまたトルレスから山口の戦乱やそこの教会の没落の話を聞かねばならなかった。この「善き老人」トルレス、日本人に適応するために肉食を捨てて乏しい菜食に甘んじているトルレス、迫害と戦乱とに堪え忍んで漸く築き上げた教会を今や悉く失い去ったトルレス、この徳と克己とに於て完全な、模範的なトルレスを見て、インド管区長ヌネスは、その堪えぬいた試煉の大いさに驚嘆したのであった。そのほかに彼は、シャビエルの通弁をして歩いたフェルナンデスから、シャビエルが日本において如何に多くの苦難に堪え忍んだかをも聞いた。しかしそういう苦難や戦乱の不安などは、この管区長には不向きであった。フェルナンデスに案内されて豊後の内地を旅行したとき、木を枕にして蓆の上に寝ね、何の調味もなしに米の飯を食うという日本の生活が、すでに彼を病気にしたのである。漸く動けるようになると馬に乗って府内へ帰っては来たが、三カ月の間日々に悪寒と発熱とに苦しみ、死ぬかと思うほどであった。そこで彼は、目下の日本が戦乱のために伝道に適しないこと、インド管区長としての職責が他にあることなどを考慮し、日本に来たと同じ年の秋に、豊後にいたポルトガル船へ病中の身を託して日本を去ったのである。
しかしそれでもインド管区長が日本を視察したということは無駄ではなかったであろう。その上神父ビレラとイルマン二人とが加勢に来たことは、教勢の拡張に非常に役立った。まず第一は平戸に日本で三番目の教会が出来たことである。平戸にはすでにトルレスが一年ほど滞在して、かなりの数の信者を作って置いたのであるが、その後は手が足りなくて、ポルトガル船の入港した折にガゴが出張するという程度に止まっていた。そこへヌネスの着後間もなくガゴが派遣されたのである。平戸の領主松浦隆信は、日本への渡来の途中シナで停滞していたヌネスに宛てて招請の書簡を発した。ヌネスは平戸へは向わず真直に豊後へ来たのであるが、右の領主の招請を無視する気はなかったのであろう。ガゴは通訳のイルマン一人、信者一人をつれて平戸に移り、領主の許可を得て、地所を買い聖母の会堂を建てた。やがてこの後にはこの地の教会の重要性がだんだん増して行くのである。
第二はトルレスがビレラに日本伝道の特殊のやり方、特殊の喜びを教え込んだことである。一五五六年の降誕祭後に、トルレスはビレラにフェルナンデスをつけて朽網に送った。ビレラは山奥の農村の人々の純真な信仰や愛情にふれて、初代の教会における新鮮な信者を見るような思いをした。ついで一五五七年には貧民病院の建設があり、愛の行にいそしむ信者たちと共に働らいた。この年の四旬節の頃には、領主が五里ほど離れた城にあって彼らを直接保護することが出来ず、キリシタンの宣教師らは殺され宣教師館は焼かれるであろうとの噂が頻りであった。宣教師らは死を覚悟し、夜も服装を解かずに寝た。信者が数人、警護のために宣教師館に泊ったが、宣教師たちも順番に徹夜して警備に加わった。しかしそういう不安のなかでも毎日の説教は欠かさず、金曜日と日曜日との鞭打の苦行を続けた。そういう胆の据った態度をもトルレスはビレラに仕込んだのであった。やがて復活祭の週が来ると、戦乱の不安にもかかわらず、極めて盛大にさまざまの行事が行われた。教会の人々のほかにこの冬を豊後で過ごした数人のポルトガル人もそれに参加した。そのお蔭で二つの合唱隊には五人ずつのポルトガル人が加わることが出来た。オルガンの演奏や、この合唱隊の歌は多くの信者を熱狂せしめた。木曜日にはポルトガル人たちとともに日本人の男女約三十人が聖餐を受けた。これは初めての聖餐であって、日本人の信者に与えた印象は非常に深かった。希望者はもっと多数にあったのであるが、トルレスは時機の熟したものだけを選び出したのである。聖餐の時には、それを受ける者も受けない者も涙を流して泣いた。そういう強い感激は宣教師たちにとっても「生れて以来初めての」経験であった。その他いろいろの行進や鞭打の苦行や儀式などが一々信者を感動せしめた。復活祭の前夜には、トルレスは非常に舞台効果の大きい方法を用いた。絵布その他のものを以て荘厳に飾り立てた祭壇、復活したキリストの像、火を点じた多数の蝋燭などを、初めは黒布で隠して置く。そうして会堂の中央の小祭壇で、合唱隊の一部に唱わせながらミサを行う。それが終るとトルレスは引き込んでそっと服を変える。合唱隊がミサを唱いはじめる。「主よ、憐れみ給え」の章が終ると、トルレスが高らかに「高きにある神に栄光あれ」を唱い出し、合唱隊がそれに和する。その途端に黒布が切って落され、荘厳な祭壇が会衆の前に現出するのである。信者たちはまるで失神したように打たれた。翌日の朝には、日本で作った立派な天蓋の下に聖体を奉じて、美しい広い庭園の中を行進して廻った。天蓋は四人のポルトガル人が持ち、トルレスは晴れの服装に薔薇を飾った緑の冠をつけてあとに従った。次には香炉を持ち花冠を戴いたイルマン一人、その次にはいろいろな色の薔薇の花環を戴いたイルマン四人がオルガンにつれて歌いながら続いた。天蓋のそばには、ポルトガル人二人が松明を持ち、最古参の日本人二人が燭台に蝋燭を立てて持ち、さらに二人の白法衣を着たものが蝋燭を持ってついていた。この行列は庭を三度廻ったが、銃を持ったポルトガル人が十三四人いて、その度毎に聖体に対して祝砲を放った。この行進もまた信者たちには非常な感動を与えたが、しかしそれによって強い印象をうけたのは信者たちのみではない。一般の見物人も会堂の敷地内に充満し、その騒ぎのために説教が出来ないほどであった。ビレラはこういう祭儀の日本人に対する影響力をもはっきりと認識することが出来たのである。
こうしてビレラが日本での最初の一年を送った頃、一五五七年の夏に、大友義鎮は毛利氏に通じた秋月文種を破って、博多の町を手に入れた。この戦勝に気をよくした義鎮は、九月に宣教師館を訪ねて晩餐を共にした。その時彼は宣教師たちに俸禄を与えようと言い出したが、トルレスはそれを病院の費用にまわしてくれと頼み、その通りにしてもらった。義鎮はまた博多に宣教師館と会堂とのための地所を与えようと言った。これはトルレスが喜んで受け、早速その準備に取りかかった点である。それだけ宣教師の手がふえていたことは、ヌネス来朝の結果の第三の点として挙げてよい。トルレスは平戸にいるガゴに博多の教会建設の仕事をやらせ、平戸には日本のことに慣れて来たビレラを置こうと考えた。ちょうどその九月にポルトガル船が二隻平戸に入港したので、トルレスは早速ビレラを手伝いにやった。この時から平戸におけるビレラの一年間の活動がはじまるのである。初めには船のポルトガル人たちを激励して、日本人の信者に好き模範を示すために、いろいろの儀式を行った。特にミサを歌いながら小山の上の十字架に向って行進する聖行列が人々の注意をひいた。行列の先頭には四十人のポルトガル人の銃手が加わって、時々斉射をやる。船は旗を飾り、祝砲を打つ。笛とチャラメラとの楽隊、蝋燭や炬火、高く捧げられた十字架、美しい法服をつけた神父たち。そういう行列が日本の諸地方から貿易のために集まって来ていた人々に強い印象を与えたのである。
そういう行事のあとでガゴは博多の地所を受取るために出発したが、あとに残ったビレラは、大友義鎮の軍が平戸を襲撃するであろうとの噂に嚇かされた。戦争が起れば日本人の信者の女子供たちは多数死ぬであろうし、貧しいものさえも掠奪を受けて安静を失うであろう。信者のある者は夜ビレラを訪ねてそういう不安を語り、もしビレラが平戸に留まるならば、そういう際には会堂に来てビレラと共に死ぬであろうと言った。そういう状況のなかにビレラは敢て留まり、平戸及びその附近の島々に伝道をはじめたのである。
戦争は幸いにして起らなかった。一五五八年の初めにはビレラの伝道も非常に調子よく進んで、二カ月間に千三百人の信者を作り仏寺三カ所を会堂に改造した位であった。それには領主松浦氏の一族たる籠手田左衛門(ドン・アントニオ)の協力があった。籠手田氏は生月島、度島その他の小島の領主であって、前から信者となっていたが、ビレラの勧めに従い、ビレラと共に村々を説教して廻ったのである。しかし仏寺から仏像を運び出して焼き払い、あとをキリスト教の会堂とするというような過激なやり方は、仏僧や仏教信者の反動を呼び起さずにはいなかった。その先頭には一人の仏僧が立った。彼はキリスト教を攻撃し宣教師と討論などをもやった。こうしてキリスト教徒と仏教徒との対抗がはじまり、右の仏僧は宣教師の国外追放を叫び出したのである。身分のある武士で、小山の上の十字架を切り倒したものもあった。それに対抗して島のキリスト教徒は、更に多くの仏像を焼いたり海に投げ捨てたりした。遂に仏教徒の武士たちは領主に宣教師の追放を請願するに至った。それがきかれなければ内乱が起りそうであった。領主は遂に屈して、インド管区長ヌネスに対する約束にもかかわらず、ビレラを平戸から追放したのである。
こうして平戸の教会は挫折したが、しかし信者がなくなったのではなかった。籠手田氏の度島、生月島、その他平戸島の村々には依然として信者が多く、美しい会堂もあり、改宗した僧侶や熱心な信者による説教礼拝も続けられた。平戸の町では公然たる説教は禁ぜられていたが、信者のあることは右の村々と同様であった。二三年後にルイス・ダルメイダが出張して来たときには、度島は「天使の島」のようであったし、生月島も住民の三分の一は信者となり、六百人を容れる会堂を持っていた。ダルメイダは最大級の感激の言葉を以てこれらの信者の状況を報道している。この地方は倭寇の活動以来海外交通の尖端に立っていたのであるから、そういう現象が起るのも不思議はないのである。
がそういう民衆の気分と、武力によって決せられる当時の政情とは、全然別のものであった。新興の毛利氏の武力は、丁度この頃に北九州を不安と動揺に陥れた。ビレラが平戸を追われて間もなく、ガゴもまた博多を逃げ出さざるを得なかったのである。
ガゴが大友義鎮から博多の地所を実際に受取ることが出来たのは、一五五八年の復活祭の後であった。彼はフェルナンデスと共に博多に赴いて宣教師館と会堂とを建築し、布教活動をはじめた。博多には山口から来ている信者もあったが、中でも山口から移住して来たアンドレーという武士は、非常に熱心で、遂にエルサレムのエステバンのように殉教するに至った。その子がヤソ会に入ってイルマンとなったジョアン・デ・トルレスである。土地の人は厳選して信者としたので、数は少なかったが、富裕な貿易商も数人信者となった。ところが一五五九年の復活祭の後に、大友氏に背いた筑紫氏の二千人ほどの兵が博多に来襲した。市民はその日防禦するにはしたが、夜のうちに敵と折衝して町を引き渡した。大友氏の代官は殺された。フェルナンデスは信者の子供数人をつれ、会堂の所有品を携えて、平戸の船に乗って逃げた。ガゴはイルマンのギリエルメ、一人の日本人信者、一人のポルトガル人と共に、海上二里ほどの所にいた日本船に乗せてもらったが、その船の船頭は、翌朝博多の町が筑紫氏に占領せられたのを見て、急に態度を変えた。宣教師たちの所持品は掠奪され、その生命も危険に瀕した。しかし四日ほどの後に船頭は彼らのことを占領軍に告げ、三艘の舟に乗って来た武装兵に彼らを引渡した。兵士たちは船頭から掠奪品を取り上げ、更にその上に彼らの衣服をも剥ぎ取った。が一里ほどの沖合まで帰ってくると、ガゴと識り合いの有力者が来て、下着などを呉れた。博多の海岸へ上るとまた多くの兵士に取巻かれ、再び殺されそうになった。その間に、一緒にいた日本人の信者が、博多の町のジョアンという裕福な信者にこの事を知らせたので、ジョアンは占領軍の当局と連絡をとりつつガゴたちの救出に努めた。大抵のことは贈物や金で埒があいた。かくてガゴたちは、十日間ジョアンの家に隠れ、ついで他の信者の家に五十日間隠れていた。そうして数人の信者の奔走によって、乱後三カ月、一五五九年の夏に博多を逃げ出すことが出来たのである。
豊後の信者たちはガゴの生還を見て非常に喜んだ。ガゴはこの強い愛と喜びとに接して、恰も「楽園にあるかのような」喜悦を感じたという。この時にはガゴは、博多の会堂や宣教師館は焼き払われ、井戸までも埋めつくされたと信じていた。しかし会堂はただ壊されただけであった。やがて博多の信者たちは自発的にこれを修繕して立派な会堂に仕上げた。信者たちが富裕なので、こういう点は目立って行き届いていた。二年後には教師の派遣を懇請して来たが、先ずダルメイダが行き、ついでダミヤン、フェルナンデスなども行くようになった。
が一五五九年の夏には、平戸の教会も博多の教会も壊滅し、宣教師たちは全部豊後に集まっていたのである。この時トルレスは、布教の活動を萎縮させるどころか、逆に劃期的な飛躍を試みようとした。それは十年前のシャビエルの計画に従って日本の精神的中枢を突くことであった。彼はビレラを起用して京都に派遣することにした。目標はさしずめ叡山であった。元琵琶法師のロレンソが通訳として附き添うほかに、府内の教会で養成せられた日本人青年ダミヤン、近江坂本の出身である信者ヂヨゴなどが同行した。インド管区長ヌネスが起草し、ロレンソ自身が日本語に訳した教義書を、彼らは携えて行った。
この一行が盛大なミサに送られて豊後を出発したのは、一五五九年の八月末か或は九月初めであった。
第四章 ビレラの畿内開拓
一 ビレラ京都に来る
ビレラの一行の瀬戸内航海は、同船者からかなり苛められたようであるが、しかし四十余日を費して無事に一五五九年の十月十八日に堺についた。「堺の町は甚だ広大であって、大きい商人が多数にある。この町はヴェニス市のように執政官によって治められている」とビレラは報告している。が彼らは数日間ここで疲れを休めただけで、真直に叡山をさして進んで行った。先ず坂本のヂヨゴの家に行き、前に豊後に連絡のあったダイゼンボー(大泉坊か)を訪ねたが、その僧は既に死し、後継者は無力であった。叡山の座主に会おうと努めて見たが、これも成功しなかった。そこで彼らは叡山をあきらめて京都へ入ったのである。
その頃の京都は、既に無力となった将軍足利義輝や細川晴元と、下からのし上って来た三好長慶やその家臣松永久秀との間に、争奪を繰り返している場所であったが、一五五九年は両者の間に講和が成り立ち、将軍義輝や細川晴元が在京している時であった。春の初めには織田信長が入京して将軍に謁し、初夏には長尾景虎が入京して、将軍に謁するのみならず参内して天盃と御剣を賜わった。これは信長の桶狭間の奇襲の前年、景虎の川中島の合戦の前々年のことである。秀吉や家康も既に舞台に上っていた。戦国時代の群雄の角逐は、これから数年の間が絶頂であったと言ってよい。
こういう年の末にビレラの一行は京都に来た。度々の戦災のために町は著しく破壊され、薪炭も少なく食料も欠乏していた。泊める家がないので小さい家を借りたが、初めの内は説教を聞きにくるものもなかった。で京都に入ってから一月半近く経った後に、相当身分の高い仏僧の仲介によって、ビレラは将軍義輝に謁した。将軍は彼を見て喜び、友誼を示すために自分の飲んだ盃を以てビレラに飲ませた。将軍を味方としたビレラは、十字架を取って街頭に立ち、説教をはじめた。来集者は驚くべく多数であった。噂は忽ち市内にひろがり、このことを話し合わない家はないほどになった。ビレラの借家へ教を聞き或は議論をしようとして押しかけてくるものも多数であった。しかし教に従おうとするものは殆んどなかった。
ビレラの報告によると、当時仏僧たちは狂人の如く市街を奔走して、キリスト教を罵り人民を煽動したという。それがどの程度に真実であるかは解らぬが、とにかく京都の町の民衆が、この異様な新来者の教を容易に受けつけなかったことは事実であろう。ビレラの住んでいた町の住民は、煽動されたか否かはとにかくとして、ビレラがそこに住むことを好まなかった。人々は家主に対してビレラを追い出すように迫り、家主もビレラに即刻立ち退きを乞うた。しかしビレラたちは行く先がなく、ぐずぐずしていた。すると家主は抜身の剣を携えて迫って来た。人を殺せばおのれも死ななくてはならないという日本の習慣の下においては、この家主はおのれの死の危険を冒してまでもビレラの立退きを欲したのである。ビレラは白刃の下において少しく恐怖を感じた、と言っている。
かくてビレラは一五六〇年一月二十五日、太陰暦正月の二日前に、「壁なくまた何ら寒気を防ぐべきものもない」家に移った。時は極寒で雪が多く、このあばら家での生活はかなり苦しかったが、しかし信者となるものは追々ふえて来た。彼らはキリスト教を嫌っている両親や友人や隣人などに隠れてやって来た。附近の村々や山の中からも来るものが多かった。この間にも迫害は続き、多数の子供が石や土を投げつけるとか、嘲罵の言葉を言いはやすとか、ということは絶えなかった。家主は酒屋であったが、ビレラたちのために町の人々からボイコットを食い、止むなく再三ビレラの立退きを要求したが、ビレラたちは懇請して猶予を乞い、やっと三カ月間そこに留まることが出来たのである。
この苦しい三カ月の間に信者となったものはほぼ百人であった。その中にはケンシウという禅宗の師家などもあった。この人は初めは傲慢な態度で、自分は悟りを開いている、救いを求めに来たのではない、ただ暇つぶしに珍らしいことを聞きに来た、と言っていたが、改宗して非常によい信者になった。この人によって信者となったものも少くない。なおほかに改宗した仏僧は十五人ほどあった。公家の家来で信者となるものもあった。しかし改宗しないまでもキリスト教の真理であることを承認した仏僧もかなり多かった。真言宗の人は、キリスト教の神も結局大日如来と同じだという。禅宗の人は本分と同じだという。浄土宗の人は阿弥陀と同じだという。神道の人はコキャウ(古教か)と同じだという。皆もう一歩の所まで来ているのである。こういう伝道の仕事には元琵琶法師ロレンソの力が相当強く働らいているように見える(一五六〇年六月二日京都発ロレンソ書簡)。
丁度その頃、一五六○年の二月の末(永禄三年正月二十七日)に、正親町天皇即位の大典が行われた。摂津芥川城にいた三好長慶はその月の半ばに淀の城に移り、翌日軍隊をひきいて京都に入った。即位式の日には管領代として御門警固の役をつとめた。これは実権を握っているということの表示であろう。家臣の松永久秀は京都の市政を掌握していた。多分この大典のあとのことであろうと思われるが、ビレラは三好長慶の庇護を求めるために、その家臣に伴われて長慶を訪ねた。それを見たものは、三好殿がビレラを捕縛させたと噂したが、そのあとで松永久秀からビレラたちに害を加えてはならないという布告が出た。異人追放の声が高かったにかかわらず、ビレラたちに害を加えるものがなかったのは、右の庇護があったからである。
織田信長の桶狭間の戦の行われた一五六〇年の夏、ビレラは再び将軍を訪ねて京都居住の許可を請うた。許可は口上のみならず書面を以て与えられた。そうして、宣教師に対し危害や妨害を加える者は死刑に処する、ということが公布された。その後は迫害も止み、信者の数が追々にふえて、会堂が必要となって来た。そこで一軒の大きい家を買い、京都で最初の会堂を作ったのである。
この会堂には信者のみならず一般の日本人も説教を聞きに来た。改宗する勇気がなくてもキリスト教を善しと認める日本人は少くなかった。京都における最初のクリスマスも、信者たちの歓喜の下に行われた。こういう状態で一年ほど布教を続けていた間に、ビレラは京都における祭礼や仏教諸宗の状況を静かに観察してヤソ会の同僚たちに報告している。祭礼では祇園祭・盂蘭盆会・端午の節句、仏教では時宗・真言宗・一向宗・日蓮宗など。その状況は明治時代以後に残存していたものとほとんど同じである。そういう雑多な信仰や習俗、千年の間に堆積し並在していた多種多様なものが、今や一律に「異教的なもの」として敵視せられる。そこで一年の後には再び激しい迫害が盛り返して来た。京都を支配する松永久秀やその家臣らは、仏僧その他キリスト教を排斥する人々に買収され、将軍の知らない間に、宣教師たちの追放を決定したのである。しかるにそれを知った一人の大名が、将軍と謀って、追放の実行に先立ち、一夜使を寄越して、宣教師たちは京都を立ち退き自分の城に入って仏僧たちの怒の鎮まるのを待つがよい、と言ってくれた。その夜は信者たちが宣教師のもとに集まっていたが、相談の結果この提案に従うこととし、多数の信者たちが同伴して同夜直ちに宣教師たちを四里離れた城に送り込んだ。ビレラたちはそこに三四日の間潜伏した。しかしビレラはそのままそこに留まることを不可とし、京都に引き返して、信者たちと密かに協議の上、京都に留まるか去るかを決定するために四カ月の猶予を請い、許された。そこでビレラたちは公然会堂に帰った。それと共に迫害の形勢は緩和された。
丁度その頃に豊後のトルレスからビレラに対して堺の町に行くようにとの指令が来た。堺の町からトルレスに対して教師の派遣を求めた結果である。ビレラはこの指令に従い、一五六一年の八月に、ロレンソたちを連れて堺に移った。初めビレラは、クリスマスには京都へ帰って信者と共に祝うつもりであったが、僅か一カ月後の九月に六角氏と三好氏との戦争が再燃し、京都はまた戦乱の巷となってしまったので、時々ロレンソを派遣することはしたが、自分はそのまま一年間堺の町に留まってしまった。
キリシタン畿内伝道地図
二 堺における一年間
堺は非常に富裕な町で、「ヴェニスのような政治」を行っていた。西は海、他の三方は深い堀で囲み、外との通路には門を設けて厳重に監視していた。防衛力も十分であって、どの大名にも対抗することが出来た。従って当時の日本においては堺ほど安全な所はなく、他の国々が戦乱に悩んでいる時にも、この町は平和であった。敵対している武士たちも、この町に入ってくれば、敵対をやめて仲よく礼儀正しく附き合わなくてはならない。もし紛擾を起して町の秩序を破ると、当局は直ちに町の周囲の門を閉じて犯人を検挙し、厳重に処罰する。だから彼らはこの町の中では紛擾を起さないのである。しかし町の中で穏かに附き合っている敵同士は、町の外に半町も出たところで出会えば、直ぐに剣を抜いて立ち合うのである。
堺の町での布教は、ビレラが期待したほどうまくは行かなかった。キリスト教信者は賤しい貧民に多いという先入見がこの町にひろまっていて、富裕な市民たちはその体面のために容易に改宗しないのである。最初説教をきいてキリスト教の真理を認めた数人の学者もそうであった。しかしそれでも半年の間に洗礼を受けたものは四十人位あった。貿易のために堺の町に集まってくる異郷人のうちで洗礼を受けたものはそれよりも多かった。ビレラはそういう信者たちと共に一五六一年のクリスマスを祝ったが、祭具がないためにミサは行わなかった。その祭具が豊後から着いたのは翌一五六二年の四旬節の始まる頃であった。ビレラはミサの秘義を説き、聖餐のことを話して信者を感動させた。信者たちの多くは金曜日毎に鞭打を行い、告解をする。資格のあるものは非常に熱心に、涙を流して聖餐を受けた。やがて復活祭になると、出来るだけ盛大にこれを祝い、京都からも数人の信者が参加した。
こうして堺にも教会が出来た。それは他の地方においてのように急激に盛んにはならなかったが、しかしまた浮沈の激しい運命にも逢わず、畿内における安全な根拠地となった。京都が危なくなると、宣教師たちは堺に退き、ここから畿内の諸地方に働らきかける。そういう点から見れば堺の教会の意義は決して軽くないのである。
ビレラは堺にいる間に、根来の僧兵や高野山の勢力を認識した。根来の僧兵は河内高屋城に拠っていた畠山高政と共に近江の六角氏に呼応して三好長慶と戦ったのである。阿波から来た三好の援軍は堺に上陸して南方の敵に対抗したが、大小の戦争において常に勝利を得たのは僧兵であった。一五六二年の四月には、遂に僧兵たちが三好の援軍の将である長慶の叔父を打ち取り、援軍を崩壊せしめた。長慶は河内飯盛城で包囲せられた。それを救ったのは山城の方から来た三好の軍勢、特に松永久秀なのである。結局戦争は六月の末に三好、松永の側の勝利に帰したが、しかしその間に根来の僧兵の示した実力はビレラの関心を刺戟したらしい。彼はその背後にある高野山や弘法大師のことに注意を向けた。ここにも悪魔の権化が見出された。
日本の強力な宗派が戦争に従事しているのに対して、ビレラの指導する微力な教会は、その戦災に苦しむものの救助に努力した。京都の会堂は幸にして掠奪や火災を脱れたが、そこに集まる信者らは、毎月三人の当番を選出して寄附金の募集や貧民の救助を続けたのである。ビレラの代りに京都へ出張したロレンソは、すでに山口でこういう経験を積んで来た人であるから、実地の指導は恐らく彼によったのであろう。身分の高い富んだ婦人で、その財産をこの仕事のために投げ出した人もあった。これは京都中の評判になった。
三 結城山城守の招請
その京都へビレラは一五六二年の九月にひき返したのである。
聖母マリアに捧げられた京都の会堂で、九月八日の聖母誕生の祭日に、彼は京都で最初のミサを行った。これはビレラが三年来望んでいたところであった。そのために彼は信者たちにミサの意義を説明してその熱心を湧き立たせた。ついで彼はクリスマスの準備にとりかかった。告解や断食が熱心に行われた。クリスマスには告解を行った人々が非常な歓喜を以て参加した。聖餐を受ける資格のある数人の信者は、聖餐の秘義を説き聞かされて、感動のあまり涙を流しながらこれを受けた。ミサも盛大に行われ、信者たちを恍惚たらしめた。そういう信者たちの態度には実際に素朴な誠実さがあった。ビレラはここでも、新鮮な信仰に充たされていた教会の初期を、人々が皆愛と信仰とにおいて一つになっていたあの幸福な時代を、想い起したのである。
クリスマスの後、一五六三年になってからは、ビレラは福音書のことを説教して、信者たちの信仰を進めて行った。それはイエス・キリストの生涯を説いて復活祭の準備をすることでもあった。こうして信者たちの信仰はますます固められて行ったが、新らしい改宗者はあまりなかった。外から説教を聞きにくるものも初めのように多くなかった。京都で最初の四旬節が営まれる頃には、それが全然なくなった。ビレラは近郊の村々を説教して廻り、漸く数人の改宗者を得たという程度であった。しかし信者たちは熱心に聖餐を受けることを望み、復活祭の週の木曜日即ち主の晩餐の日には三十余人の信者が聖餐を受けた。復活祭の当日には九人の受洗者があった。その中には一人の高僧も混っていた。
京都の教会はこうして地味に育って行ったが、復活祭のあとでまた戦争が起り、僧兵の動きが激しくなったので、ビレラは信者たちと協議の上、また堺の町に移った。丁度そこへ奈良から結城山城守の招請が来たのである。ビレラはこの「キリスト教の敵」の招請に幾分の疑を抱いたが、しかし死を賭してもそこに行こうと決心した。それは一五六三年の四月の末であった。ここに幾内伝道の一つの大きい転機がある。
結城山城守は清原外記と共に当時の京都で著名な人物であったが、それは武力を握ったものとしてでなく、不思議に深い智慧を持ったものとしてであった。彼は仏教の諸宗に通じていたのみならず、文芸・武略・占星などのことにも明るく、将軍、三好長慶、松永久秀などの「頭脳」として活躍していた。従ってビレラの教会の取扱いなども主として彼の判断によって定まったのである。丁度この頃には叡山の衆徒が京都の治安を司る松永久秀に対して三カ条の要求を提出していたが、その内の二カ条はキリスト教宣教師の追放に関するものであった。インドから来た神父は日本の神仏を攻撃する。それによって民衆が信仰を失い秩序の破壊に向う怖れがある。また彼らの滞在した地は、山口でも博多でも、戦争によって破壊された。京都を同じ運命から救うためには、この神父を追放しなくてはならぬ。これがその要求の趣旨であった。松永久秀はこれに対して、神父は外国人であり、将軍、三好、松永などの庇護を求めたものである。十分調査した上でなくては追放するわけには行かない、と答えた。そうしてその調査を結城山城守と清原外記とに委任した。京都の教会の信者たちはこの調査が彼らに不利であるべきことを覚悟していたのである。従って堺に移ったビレラも、結城山城守をキリスト教の敵と見ていたのであった。
しかるに事情は逆であった。京都の信者の一人ヂヨゴという人が、訴訟の用務で、当時松永久秀に従い奈良に来ていた結城山城守に会ったとき、山城守はいろいろとキリスト教のことを聞き、それに同情の態度を示した。そうして更に詳しく神父からその教を聞きたいと言い出した。自分はキリスト教の弘布を支持する。事によれば自分も信者になるかも知れない。清原外記も同意見である。そういう意味のことをも彼は言った。事の意外なのに驚喜したヂヨゴは、他の一人の信者と共に使者の役をひき受け、山城守の招請状を携えて堺へ来たのである。
堺の信者たちにとってもこの招請は意外であった。彼らはヂヨゴよりも用心深く、謀殺のたくらみではないかとさえも疑った。だから彼らはビレラの奈良行を止めた。ビレラはロレンソを偵察に送ることにした。ロレンソは死の危険などを問題とせず喜んで出掛けて行った。ここにこの元琵琶法師の目ざましい活躍がはじまるのである。堺の信者たちが彼の生命の安否を気づかっていた間に、彼は当時の最高の知能といわれていた山城守と外記とを説き伏せ、遂に回心せしめるに至った。二人に導かれて松永久秀にも会い、説教を試みた。山城守の招請は嘘ではなかったのである。今はビレラが奈良に来て彼らに洗礼を授けなくてはならぬ。神父が松永久秀と近づきになり、その保護を得る望みもある。そのためにビレラを奈良へ招く再度の書簡を携えて、ロレンソは堺へ帰って来た。
ビレラはロレンソと共に奈良へ行って、彼を招いた結城山城守や清原外記に洗礼を授けたが、その際山城守の子左衛門尉、沢の城主高山図書(右近の父)など数人の武士にも洗礼を授けた。そうして堺へ引返さずに京都へ帰り、そこで聖霊降臨節を迎えた。
四 河内飯盛地方の開拓
この事件は畿内における急激な教勢拡張の皮切りであって、この後矢つぎ早にいろいろな事件が起ったせいか、当時の最も近い報告書にも記憶の曖昧さを示すものがある。第一ビレラの奈良へ行った時期が精確に記されていない。一五六三年四月二十七日附堺発のビレラの書簡の末尾には、すでに奈良からの招請と死の危険を冒してそこへ行こうとする決意とが記されているから、この招請がほぼその頃であることは疑いがない。しかしその後幾日にして奈良に向ったのであろうか。この事件を比較的詳しく書いたフェルナンデスの書簡(一五六四年十月九日平戸発)によると、初めに派遣されたロレンソは、四日以内に帰らなければ殺されたものと思って貰いたいと言って出掛けたが、四日過ぎても帰らなかった。人々が心配して一人の信者を偵察に出すと、途中で、ビレラを奈良へ迎えるための馬と人とを伴ったロレンソに出逢った。ビレラはその人々と共に京都に帰って、山城守、外記、及び三好長慶の親戚で教学に通じたシカイという武士に洗礼を授けた、ということになっている。これは奈良をさえ眼中に置いていないのである。フロイスの日本史では、ロレンソが堺に帰ってから四十日を経て迎えの人馬が来たという。復活祭後一週間を経て京都を去り、聖霊降臨節には京都にいたとなると、ビレラが京都を留守にしたのは全部で四十日位である。フロイスの記述の通りでは復活祭後五十日の降臨節に京都にいることは出来ないであろう。
がビレラ自身の書簡から考えると、この奈良行は一五六三年の五月中のことと言ってよい。それから三好長慶が歿するまでは一年と二カ月ほどであるが、その間に長慶の根拠地、河内の飯盛城を中心とした地方が急激に開拓されたのである。当時の日本には既に信長、秀吉、家康たちも舞台に登場して居り、西方では毛利元就が尼子氏に止めを刺しかけていたが、しかしそれらはまだ地方的現象で、中央の畿内を掌握する力は、今の大阪の東方、四条畷に近い飯盛城にあった。従ってビレラは、いわば当時の日本の中枢に跳りかかったのであった。
その過程がどうであったかも精確にいうことは出来ない。ビレラに伴って奈良に行ったロレンソが、その足で飯盛の地に赴き、三箇の伯耆殿、池田丹後殿、三木半太夫など七十三人の武士を教化したのであったか、或は前記のシカイ殿が飯盛城に帰ってキリスト教を宣伝し、同僚や友人の間に帰教の気運を醸した上でビレラ或はロレンソを招いたのであったか、はっきりしたことは解らない。がビレラ自身の報告するところによると、暑熱の頃になって彼はロレンソを飯盛城に派遣した。そこでは多数の身分ある武士が洗礼を受け、会堂を建設した。ビレラもそこへ行った。その後もしばしば訪れた(一五六四年七月十七日都発)。この暑熱の頃は一五六三年の夏を指すと見るほかはない。しかるにその同じビレラは同じ頃に書いた他の書簡(一五六四年七月十五日都発)で、一五六四年に京都の異教徒たちのキリスト教に対する関心が薄らいだので、一人のイルマンを飯盛に派遣したと語っている。このイルマンはロレンソに相違ないが、ロレンソは第一回の時に七十余人、第二回の時にもまた同数の武士を信者たらしめた。ビレラはこの形勢を見て飯盛の地に赴き、多数の人に洗礼を授け、相当な会堂をそこに建設した。これを書いているのは一五六四年の七月で、また新らしく飯盛附近の岡山から招かれ、そこへ行って会堂の如きものを設けようと心づもりしていた時である。従って前の暑熱の頃がこの年の夏でないことは明かだといわねばならぬ。して見るとビレラは、ロレンソの第一回の飯盛布教をも一五六四年のこととして記述するほどに、記憶が曖昧なのである。しかしこれはこの一年間に起ったことがあまりに多かったということの証拠であろう。飯盛附近の砂や三箇はこの間に信者の大きい群を持つようになった。砂は結城山城守の子の左衛門尉がいたところ、三箇は伯耆守の居城で、当時は河に囲まれた中島であった。右にあげた岡山は結城山城守の甥の弥平次がいたところで、ここもやがて信者の村になった。これらの場所は、京都と堺との間の有力な根拠地として、この後大きい役目をつとめるようになる。
この新らしい形勢を作り出したおもな役者は、片眼の僅かに見えるびっこのロレンソであった。がロレンソが如何にその琵琶法師としての話術を巧みに使ったとしても、こうして急激に武士たちの間に改宗の機運が起ったことには、何か別のわけがあったであろう。三好長慶の部下のこの武士たちは、前年根来の僧兵と戦って手を焼いたのである。キリスト教の正面の敵である仏僧たちが、今や彼らにとっても敵となった。この形勢の持つ意義は決して軽くはないであろう。しかし、それだからと言って、武士たちが悉くそういう気分を持ったというのではない。フェルナンデスの報告によると、飯盛城の仏僧や仏教徒たちは、ロレンソの大きい収穫を見て、或は議論により、或は侮辱や迫害によって、改宗者たちを引き戻そうと努力した。その点はこれまでの京都の情勢と同じなのである。ただ新らしい機運が在来と異なっているのは、改宗したのが武士たちだということであった。彼らは一日、迫害者たちに対して武器を取って立ち上った。そうなると信仰が新鮮である者の側に力が出るのである。この形勢を聞いた結城山城守は、ビレラに勧めて、城の彼方一日程のところに居住していた三好長慶を訪ね、キリスト教の真理を説かしめた。長慶はビレラを厚遇し、キリスト教にも同情を示した。そうして会堂や信者の保護を約した。それによって飯盛の信者たちは安全になった。ビレラはそこへ行って新らしく十三人の武士に洗礼を授けた。これは多分飯盛布教の初期のことであろうと思われるが、それによって見ると、覇権を握っていた三好長慶自身が、新らしい機運のなかに立っていたと言えるのである。彼の「頭脳」の役をつとめていた結城山城守や清原外記の真先の改宗は、三好長慶の態度と無関係ではないであろう。
山城守や外記は、改宗後、イエス・キリストの光栄のために大著述をやった。日本の各宗派の起原・根柢・基礎、及び内容を説明してその虚偽を明かにし、終りにキリスト教を説いて、これこそ真実の救いの教であることを示したものであった。これは武士たちの間に相当に影響があったといわれる。一五六四年の夏には、京都の附近十六里以内のところで、五カ所の城内に会堂が建設されていた。或は、京都の周囲十二乃至十四里の間に会堂七カ所を建てていた。
この結果は九州のトルレスを動かして、一五六四年の初秋に、神父ルイス・フロイスや、イルマンのルイス・ダルメイダの京都派遣を、決意せしめるに至った。ところで、この新来のフロイスも、豊後で病院をはじめたダルメイダも、同じ期間に九州で新らしい形勢を作り出していたのである。
第五章 九州諸地方の開拓
一 基地――豊後の教会
一五五九年の初秋に、ビレラやロレンソが京都に向って出発したあと、残余のヤソ会士たちは全部豊後に集まっていた。二年後の一五六一年六月にルイス・ダルメイダが博多や平戸に派遣せられるまでは、豊後以外の地の信者は宣教師に接することが出来なかった。それほど筑紫地方は不穏だったのである。他方、京都や堺においても、ビレラはこの期間に一度もミサを行うことが出来なかった。従ってこの期間に教会が活溌に活動していたのは、ただ豊後だけであった。
豊後の教会を最初に創設したガゴは、一五六〇年十月に、日本で病気勝ちだったイルマンのペレイラを連れて、マヌエル・デ・メンドサのジャンクに乗って豊後を去った。日本へ出来るだけ多くの宣教師を招かんがためであった。
老齢のトルレスは、身体的にもすっかり日本の風土に適応し、落ちついて日本布教の方針を考量しつつ、日々のミサや日曜日の告解などに精励していた。日曜日の午後を告解の時間に宛てたのは、信者たちの労働を妨げず、また日曜日を守る習慣を養うためであった。こういう努力の間にも彼の日本人に対する信頼はますます高まって行った。自分はこれまで信者の国や不信者の国を多く見て来たが、しかしかほどまで道理に従順な国民、かほどまで強く信心や苦行を好む国民を見たことはない。日本には大いなるキリスト教会の起りそうな徴候がある。ただ足りないのは宣教師の数である。こう彼はインド管区長に訴えている。
豊後の教会の状況も前とは少しずつ変って来た。まず第一は、一五六〇年のクリスマスに、トルレスが信者たちに勧めて演劇をやらせたことである。信者たちの選んだ劇は、「アダムの堕罪と、贖罪の希望」「ソロモンの裁判」「天使羊飼に救主の誕生を告ぐ」「最後の審判」などであった。これらの劇は非常に巧妙に演ぜられ、看衆が喜んだという。翌一五六一年の復活祭の時にも、いろいろな儀式が盛大に行われたほかに、復活の日の朝マリヤ・マグダレナが墓所において天使に逢い、主の復活を使徒ペテロに報告する場面が演ぜられた。そういう演劇を演ずる側にも、またそれを見て感激する看衆の側にも、旧約や新約の物語が相当詳しく浸み込んでいたことは、推測するに難くないであろう。
第二は豊後の教会における児童教育の仕事である。児童の教育に主として当っていたのは、ビレラと共に渡来したイルマンのギリエルメであった。彼はラテン語で主の祈り、アベ・マリア、使徒信経、サルヴェ・レギーナ(処女マリアへの祈祷歌)などを教え、日本語で神の十誡、教会の制令、重大な罪、これに対する徳、慈善の事業などを教えた。集まる児童は四五十人で、ミサを聴いた後、その日の当番の子が右のいずれかを唱えると、他の一同がそれに応唱する。正午には一同会堂に集まって、毎日右の内の三分の一を唱え、その内の一カ条の説明をきく。それが終って、丁度トルレスの手があいている時には、二人ずつ側へ行って手に接吻する。そのあとで焼米か何かを少しずつ貰って帰って行くのである。夕方にもアベ・マリアの時刻に三十四五人集まって来て、十字架の前に跪いて、一時間位かかって教わったものを皆歌う。日本人は記憶がよく、スペイン人よりも理解力がすぐれている、とフェルナンデスが報告している(一五六一年十月八日豊後発)。これらのことのほかに、日本の文字についての教育は、京都から帰って来た青年ダミヤンが当った。児童らは十カ月の間に、寺小屋で二三年かかって教えるよりも多くを覚えた。
第三はキリスト教信者の葬式が制度的に確立されて来たことである。その係りはイルマンのシルヴァであった。信者の間にミセリコルヂア(慈善の組)をつくり、貧しい信者の葬式の場合には、この組から助けを出す。信者たちはこの慈善の組の仕事を非常に喜び、死者の家が町から一里も一里半もある場合にさえ、男女ともに熱心に会葬する。こうして貧しい者をも富める者と同じように立派に葬ることが、日本人には強い印象を与えた。
第四は慈善病院の仕事がすっかり整い、日々の外来患者のほか、百人以上の入院患者を収容し得るようになったこと、従って病院の建設者ダルメイダが伝道の仕事に専心し得るようになったことである。ダルメイダは日本で発心してヤソ会に入った人であるが、その積極的な仕事の才能を認めたトルレスは、博多や平戸の教会再建の仕事にダルメイダを抜擢するに至ったのである。
キリシタン九州伝道地図
二 平戸附近諸島の開拓
平戸の教会の更建のことは絶えずトルレスの心の中にあったのであるが、いよいよ誰かを派遣しようと考えていた矢先、一五六一年の五月下旬に、博多から信者である三人の富める商人が訪ねて来た。その中の一人は妻子その他家族をつれて来てトルレスに洗礼を乞うた。彼らの主な用事は宣教師の派遣を求めることであった。そこでトルレスは、平戸訪問を兼ねて博多へダルメイダを派遣することに決したのである。
ダルメイダは六月初に日本人青年ベルシヨールをつれて府内を出発した。博多では信者の熱心な歓迎を受け、十八日の間に七十人ほどの信者を作った。その中には山口の領主の説教師であった老僧も加わっていた。ダルメイダに病気の治療を受けた者も少くなかったが、奇蹟的に癒った重病人が二人あった。博多の信者のうち重立った者二人は、ダルメイダの旅行に同伴すると云って、止めてもきかなかったので、一緒に博多を立って度島に向った。
度島は籠手田氏の領であって、約三百五十人の信者があった。ダルメイダはここで八人の人に洗礼を授けたが、それによって全島に信者でないものは一人もなくなった。信者たちは会堂に行くことを非常に楽しみにしている。会堂は美しい建物で、綺麗に掃除してある。そこには曽て仏僧であった好き信者がいて、神父の代りにキリスト教の教義を島の信者たちに教え込んでいる。従って信者の大多数は、十分教義に通じている。会堂には、もと仏寺であった時と同じ収入があり、また貧民救助の同情金も集まるので、会堂の経営、貧民への施与、順拝者の接待などには欠くるところがない。ダルメイダは同伴者四五人と共に約半月の間そこに留まったが、王者をも饗し得るような食物を供せられた。その間に、平戸から数人のポルトガル人がこの島を見に来た。彼らは信者たちの敬虔な態度やダルメイダに対する服従と愛、その他いろいろなことを見て非常に感心し、この島の信者は自分たちよりも遙かにすぐれた信者である、もしヤソ会の神父たちがこれらのことの五分の一をでも知ったならば、皆ここに来ることを望むであろうと云った。ダルメイダもこれに同感したが、特に彼を動かしたのはこの島の児童であった。約百人の児童が教を受けるために会堂に集まってくる。会堂に入って聖水をとり、跪いて祈る様子は、まるで宣教師のようであるが、唯一回教えただけでそうなったのである。中でも二人の児童は、教義を高唱する度毎に、初めから終りまで身じろぎもせず、全く入神恍惚の境に浸っているようであった。のみならず彼らは教義と共にその解説をも共に覚え込んでいる。児童たちさえそうであるから、その親たち、多くの男女の信仰の厚いことはいうまでもない。ダルメイダはこの信者たちに非常に同情し、神の前で涙を流して、もっと多くの宣教師の来ることを祈った。そうして毎日二回ずつ説教し、二回ずつ教義を授けた。
その内に度島西方四里ほどの生月島から迎いの船が来た。ダルメイダの一行が島につくと、大勢の人々が岸に待ち受けていた。生月島の人口は二千五百ほどであったが、その内の八百人が信者であった。美しい樹木に取り巻かれた会堂は非常に大きく立派で、六百人以上を容れることができた。ここでダルメイダは、人々の昼間の仕事の邪魔をしないように、早朝と夜との二回説教をし、子供たちには午餐後に教えることにした。説教には多数の人が集まり、婦人だけで会堂が殆んど一杯になったので、男子は庭に蓆をしいて坐った。到着の翌日ダルメイダは島内数カ所の小堂を見て廻ったが、いずれも元は仏寺で、景勝の地を占めていた。それらには度島の場合と同じく元の住僧がキリスト教徒となって住んでいた。ところでこの島には、信者の多い土地で会堂から遠く子供らが教義を学びにくることの出来ないところがあった。ダルメイダはそこに会堂を建てることを計画したが、人々は非常に喜んで工事に加わり、数日の間に作り上げた。丁度平戸には五隻のポルトガル船が来ていたので、そこから額に入った画像とか帷帳とかその他教会用品を取り寄せた。ダルメイダはここで数日間説教し、教義を教えた。
生月島の次にダルメイダは平戸島西側の獅子、飯良、春日などの諸村を訪れた。獅子村では新築の会堂に祭壇を造った。この工事のために生月から大工七人をつれ、他の信者たちと共に大きい船に乗って行ったが、村では王を迎えるように道路を掃除して迎えた。ここでも日中は労働し夜と朝説教をするという仕方で、ミサを行い得るような祭壇を造り上げ、この会堂を管理している元仏僧に信者や児童を導く方法を教えた。飯良村は全村こぞって信者となっていたが、まだ会堂がなかったので、信者たちにすすめて会堂を建てさせることにした。春日村でも同様で、海陸の眺望のよい清浄な場所を選んで直ちに会堂建築に着手した。これらの会堂の装飾用品は皆ダルメイダが平戸から送ったのである。
これらの村々を巡回した後に、ダルメイダは一度生月島に帰った。そこへ籠手田氏から平戸の様子を知らせてくる筈であった。籠手田氏の意見では、領主松浦隆信に謁することなく、全然秘密に平戸で用を果すがよいとのことであった。でダルメイダは、船で平戸に着くと、先ずポルトガル船の船長を訪問し、ついでひそかに籠手田氏の邸に行って、全家の款待を受け、夜半まで神のことを語り合った。その夜はポルトガル船へ帰って寝たが、翌朝船長と相談して船の甲板を飾りつけ、聖像の額を掲げて臨時の会堂を設けた。これらの画像はやがて他の地方へ持って行かれるのであるが、その前に平戸の信者たちに見せて置こうと思ったのである。この知らせによって、籠手田左衛門、その弟、その家臣を初めとし、多くの信者が画像を拝みに来た。ダルメイダはまた島々の信者にも日曜日に画像を見に来るようにと伝えた。その日には島々その他から多数の人が船でやって来た。船長は帆布を張り、旗を吊し、数発の祝砲を発した。ダルメイダは船に充満した信者たちに向って説教をした。そのあとで船長は遠くから来た人々を親切に饗応した。その日の後にも、聖像が掲げてあった間は、信者を満載した船が諸方からやって来て、ポルトガル船の中は復活祭の週の金曜日のようであった。平戸の町ですることの出来ない活動を、ポルトガル船の上でやったのである。
しかしダルメイダは平戸の町に手をのばさないのではなかった。着いて二日目の夜は町の信者の家に泊り、集まって来た信者たちに秘密に説教をした。また信者の戸別訪問をやって神のことを説き聞かせた。従って信者たちの近親で改宗するものもあり、約二十日の間に五十人が洗礼を受けた。その間にダルメイダは会堂再建の方法として、ポルトガル船の船長から、ポルトガル人の会堂の建設を願い出させた。領主はそれに対して、相談して見ようと答えた。この答が拒絶に等しいことを知っていたダルメイダは、直ちに教会の所有地にある一信者の家に祭壇を設けることを決意した。この信者は親切に隣り合った二軒の家を提供して、その内の美しい方を会堂として、自分は会堂の番人になろうと云った。そこでその家を改造し、必要なものを備えつけ、そこで毎夜祈祷文を唱え説教をやったが、集まるのはポルトガル人が多かったので、領主の禁を破ったとの印象は与えなかった。こうしてダルメイダは平戸の会堂を再建し、信者たちを喜ばせたのである。
八月下旬平戸を去るに際して、ダルメイダは生月島と度島とへ別れを告げに行った。そのためには、土曜日午後訪ねて行って日曜日午後帰ってくるという予定を知らせただけで、島の船は土曜日昼食の時刻にちゃんと迎えに来て居り、島々では歓迎の手筈がちゃんと整っていた。島の信者の様子を見ようとするポルトガル人たちも同行した。夕方生月島につくと、大きい炬火を持った出迎えが出て居り、直ちに会堂へ案内した。そこには多数の信者が待ち受けていた。ダルメイダは暫らく説教した後、児童たちに教義を唱えさせて見学のポルトガル人を驚かせた。翌日曜日には早朝の説教や授洗のあとで九時頃から新築の会堂を見舞いに行き、正午にそこから船に乗った。その時信者たちが別れを惜しむ有様は、石の心を持っている者をも感動させるほどであった。信者を牧する者の手が足りない、ということの最も具体的な姿がそこにある。度島には二時間で着いた。児童たちは晴着をつけて浜辺に出迎え、ダルメイダやポルトガル人たちを十字架の方へ案内しながら高らかに教義を歌い唱えた。十字架の前で祈りをした後、また教義の高唱につれて会堂に行くと、そこには信者が充満していた。ダルメイダは説教をして、暫らく経ってから別れの挨拶をしたが、信者らは是非一晩位泊ってくれと言い、それを断わるとここでも非常に別れを惜しんだ。いよいよ船に乗る時になると島中の者が殆んど皆浜辺に出て来て、船着場までのかなりに長い途を見送りながら、悲しみと涙の中に別れを述べた。この有様を見てポルトガル人たちは非常に感動し、世界を廻っていろいろ珍らしいことを見たが、今日見たことほど話し甲斐のあるものはない、と云った。ダルメイダはそれに続けて、もしヤソ会の神父がこれを見たならば、このような良い信者と共にこの島で死にたいと祈るであろう、と書いている。二年後に日本に来たルイス・フロイスが、一年間をこの島に送り、フェルナンデスが側で日本文法書を編纂するのを眺めながら、日本についての基礎的なことを学び取ったのは、決して偶然ではないのである。
博多へは風の都合が悪く、陸路を取って非常に難渋した。そのためダルメイダは途中で病気になり、博多へやっと辿りついた後にも癒らなかった。博多の富める信者は馬二頭と附添いの人や必要な物資を出して彼を豊後へ送り届けた。そこで彼は一カ月以上寝ついてしまった。
三 ダルメイダの薩摩訪問
しかし一五六一年におけるダルメイダの活動はそれに終らなかった。十月に病気がなおると、トルレスは彼を府内附近の村々に派遣して会堂五カ所を建てさせた。十一月には薩摩の坊の津で冬越しをするマヌエル・デ・メンドサの一行が告解のためにやって来て、ダルメイダの薩摩派遣をトルレスにすすめた。島津氏からもトルレスにそれを求めた。トルレスは薩摩に帰るメンドサたちにダルメイダを同行させることにした。日本人青年ベルシヨールも同伴したのであろう。出発は十二月であった。
ダルメイダの鹿児島訪問は、シャビエル以来十三年目のことである。そこには到るところシャビエルの息のかかったものが残っていた。彼がメンドサたちと共に訪ねて行った市来の鶴丸城がそうであった。そこには城主の夫人・子・老臣ミゲルその他シャビエルが洗礼を授けた信者が十五人ほどいて、豊後や京都における布教事業のことを熱心に聞いた。翌朝出発の前に城主の二子を初め九人の少年に洗礼を授けた。鹿児島でもポルトガル人たちと共に領主を訪ね、トルレスの書簡を渡した後、日本人ベルシヨールと共に説教した。それから更にメンドサたちを薩摩西南端の坊の津まで見送り、船の乗組員たちの病気の治療に努めた。そうしてその船の出帆の頃鹿児島にひき返し、ここに約四カ月滞在したのである。
ダルメイダの受けた印象では、鹿児島は決してキリスト教にとって不毛の地ではなかった。なるほどここは仏教の勢力が強く、説教を聞きにくるものは少い。しかしその仏僧のなかでシャビエルと親しくした人に接近していろいろ話して見ると、話はよく解った。シャビエルのときは通訳がなくて詳しいことが聞けなかったが、今度はどんな問題でも解答を得ることができたのである。彼は領主に対してもキリスト教のことを説明したが、そのとき領主は、殊勝な(Xuxona)ことだと云った。領主のこの言葉と、ダルメイダの仏僧との親しい交際とは、人々を動かしてキリスト教にひきつけた。領主の側近である二人の身分の高い武士が帰依したのをきっかけとして、その夫人・家臣など、約三十六人が信者となった。続いて他にも改宗する人が出て来た。ダルメイダはこれらの信者の助けによって、遂に鹿児島に会堂を建設するに至った。
鹿児島滞在中に市来の城へも行った。十日ほどの間毎日二回説教し、そのほかに教義を教えた。信者でないもののためには仕事のない夜を選んで説教した。城中の重立った武士四五人が改宗した。その中の一人はキリスト教の要旨を巧みに記述した。ダルメイダはその才能と熱心とを認めて、自分の持っていた日本語の教義書を写させ、日曜日の集会の時にその書の一章を読んで、それについて一時間ほど話させた。城主の長子も非常に俊敏で、短期間に教義・祈祷・信仰問答などを覚えてしまったので、これにも同じように他の信者たちに教えさせた。これは宣教師のいないところで信仰生活を持続するための準備である。こうしてダルメイダは城内に新らしく七十人の信者を作った。信者らは城内に立派な会堂を建て、聖母の肖像を祀った。城主自身は改宗しなかったが、キリスト教に対して極めて同情的であった。
こういう仕事をした後に、ダルメイダはトルレスに呼ばれて豊後に帰った。薩摩の信者たちは心から別れを惜しみ、親切をつくした。ダルメイダが痛感したのは宣教師の手の足りないことである。この地に駐在する宣教師さえあればもっともっと信者がふえる。それが彼の確信であった。
四 横瀬浦の建設
豊後に帰って一月ばかり経つと、トルレスはダルメイダにダミヤンをつれて平戸や横瀬浦へ行くことを命じた。
ダミヤンは日本人の青年で、ビレラに附いて京都へ行っていたが、一五六一年に豊後に帰り、一五六二年に一人の老人と共に博多に派遣されて非常な働きをした。年は二十一歳であるが、非常に謙遜で、諸人に愛せられ、強い感化を周囲に及ぼしたのである。博多では二カ月の間に約百人の身分ある人たちが信者になった。ダルメイダはこのダミヤンとベルシヨールと一老人信者とをつれ、博多駐在を命ぜられたフェルナンデスと共に、一五六二年七月五日に豊後を出発した。
一行は博多の四里手前でダミヤンの改宗させた貴人の家に泊った。この人はこの地方でこれまで信者となった者のうちの最も有力な、最も身分の高い者で、博多の町でも非常に尊敬されていた。家族は皆信者となって居り、玄関前の庭には美しい十字架が立ててあった。ここで一行は申分のない款待を受けたが、ダミヤンの人気は大変なもので、博多に駐在する筈のフェルナンデスを遙かに凌駕していた。翌日着いた博多においても事情は同じであった。ここの信者は皆商人で裕福であったから、破壊された会堂や倉庫はすでに彼らによって再建修理されて居り、また一行を待遇することも非常に厚かったが、しかしダミヤンが平戸に行くことを聞くと、熱心にひき止めにかかった。ダミヤンは新しく信者となった人々の個性を見て、各人に向くように導いてくれた、皆が彼を愛している、これから新しく信者を作って行く上にも彼は是非必要である、などがその理由であった。フェルナンデスはトルレスの命令に背くことの出来ない所以を説いて漸くそれをなだめることが出来た。
ダルメイダの一行は七月十二日博多を船で出発した。途中平戸でダミヤンとその伴の老人とをおろし、ダルメイダたちはそのまま南方十里、大村湾口の横瀬浦に向った。
ここで急に横瀬浦が布教活動の舞台になって来るが、それにはトルレスのいろいろな苦心があったらしい。平戸はトルレスが最初一年ほどいて開拓したところである。しかるに平戸の領主は一五五八年に至って宣教師を追放してしまった。平戸に入港するポルトガル船と豊後の宣教師たちとの間の連絡も不自由になった。そこでトルレスは平戸に代るべき港やキリスト教を保護すべき領主などを物色して、大村領に着目した。京都で信者となった近衛家関係のバルトロメオや、山口で信者となったトメ内田などは、その意を受けて大村氏に働きかけたらしい。他方トルレスはポルトガルの船長たちと連絡をとり、平戸附近に良港を探させて、大村湾を西から抱いている西彼岸半島の突端、佐世保へ入る入口のところの横瀬浦に見当をつけた。一五六一年の夏、ダルメイダが平戸やその附近の信者を訪ねた頃には、トルレスのそういう計画は相当に進んでいたのであろう。ダルメイダが平戸の領主の禁教政策にもかかわらず、ポルトガル人の会堂を作るという形式で平戸の会堂の再建を強行したことは、この形勢と照し合せて見ると、よく理解することが出来る。果してその後に平戸では、ポルトガル人に反感を起させるような事件が起った。その機会にポルトガルの商船は一斉に碇をあげて平戸を去り、横瀬浦に移った。領主の大村純忠は、豊後のトルレスのところへ、布教のために非常に有利な申込をして来た。それは一人のイルマンを横瀬浦に派遣してキリスト教を説かしめること、数カ所に会堂を建て横瀬浦港をその周囲約二里の地の農民と共に教会に附すること、神父もしそれを欲するならばその地に非キリスト教徒を居住せしめざること、貿易のために来る商人には十年間一切の税を免ずることなどであった。
この重大な申込が来たのはダルメイダの薩摩旅行の留守中であったが、これを実現するには一五六二年度に日本へ来るポルトガル船を平戸へ入れず横瀬浦へ集中しなくてはならぬ。トルレスはダルメイダを呼び返してこの時期に間に会うように、横瀬浦に派遣したのである。しかしダルメイダが平戸を通った時には、すでにそこに一隻のポルトガル船が碇泊していた。
ダルメイダは横瀬浦に着いた翌日、すぐに数人のポルトガル人と共に大村湾の奥に領主大村純忠を訪ね、トルレスの名において右の申込に就ての協議をはじめようとした。純忠はダルメイダの一行を非常に款待した後、家老たちをして協議の衝に当らせた。その結果、前の申込の通りに種々の特権を与えることを承諾したが、しかし横瀬浦の所領関係は、領主と教会とが半分ずつを領するのであると云った。ダルメイダはこの点についてトルレスに回訓を求める必要があると云って、二日滞在の後横瀬浦に帰った。しかし回訓が来るまでにも宣教師館は建てはじめて貰うことにしてあったので、早速一軒の家が出来、そこに祭壇を造って、ダルメイダは宣教師としての活動を開始した。そこへ不意に、豊後からトルレスがやって来たのである。
トルレスはひどく老衰しているので、誰もこの困難な旅行が出来るとは思っていなかった。そのトルレスをここまで引き出して来たのは、豊後に行っていたポルトガル人たちである。平戸の領主はポルトガル船を平戸へひきつけようとして、この年にはキリスト教信者を苦しめず、会堂の建立を許可した。その数日後にポルトガル人のジャンクと帆船とが入港した。これでは平戸をボイコットしようとする計画は破れる怖れがある。その時豊後にいたポルトガル人のうちに、二年前まで船長をしていた一人の貴族がいて、その帆船は自分の叔父のものである、トルレスが一緒に行ってくれるならば、それを平戸港から外へ出すことが出来ると申出た。トルレスも、他のポルトガル人や信者たちも、この考に賛成した。大友義鎮は少し躊躇したが、結局許可を与えた。かくしてトルレスは困難な旅途に上ったのである。彼が横瀬浦開港をいかに重大視していたかはこれによっても察することが出来る。
トルレスが近くまで来たとの意外の報に接したダルメイダは、十数人のポルトガル人と共に出迎え、港外一里ほどの海上でその乗船に逢った。トルレスの船が横瀬浦に入ると、ポルトガル船は旗をかかげ祝砲を放って歓迎した。陸上でも、早速儀式を行い得るような家の建築にとりかかった。ダルメイダは大村侯との交渉の結果をトルレスに報告したが、トルレスは、大村側の条件を認めて交渉の妥結を命じた。ダルメイダは直ちに大村に行き、五日間滞在して、領主からの書類を受取って帰って来た。領主はまた会堂建築のために材木を取る森を寄進し、多数の人を送って寄越した。
トルレスが横瀬浦に来たことを知ると、平戸の信者たちは、二十人位ずつ次から次へと告解のためにやって来た。だからこの新しい港には平戸の信者の船がいつも三四隻ずつ滞在していた。それと共に平戸に碇泊していた帆船とジャンク船とのポルトガル人たちも告解にやって来たので、トルレスは容易に、また穏やかに、ポルトガル船の平戸退去を要求することが出来たのであった。
トルレスは豊後を出発する時にも、また横瀬浦へ来てからも、この新しい港に留まるつもりではなかった。九月に豊後で恒例の通り領主の宣教師館訪問を受けるため代理にダルメイダを派遣したりなどしたが、しかし十月の末頃ポルトガル船が出帆してしまえば、あとは平戸諸島を巡回し、博多に寄って豊後へ帰るつもりであった。だから九月中にダルメイダが豊後へ往復した機会に平戸のダミヤンを博多に移し、博多のフェルナンデスを横瀬浦へ連れ帰らせて、横瀬浦の教会の基礎固めに力を集中している。がトルレスの仕事は横瀬浦に限るわけには行かなかった。神父がいないため告解や聖餐の機会を恵まれていなかった平戸の島々の信者は、今やその機会を得るために二三十人ずつの群になってあとからあとから波状的にトルレスの許に集まってくる。横瀬浦は一時この地方の信者の中心地になった。この熱心はやがてトルレスを引きつけた。先ずフェルナンデスやダルメイダを派遣して準備させて置いて、一五六二年の十二月の初めに彼は平戸に移った。ここでクリスマスを祝い、島々を廻ってから、博多へ出るつもりであった。平戸は十三年前にトルレスが種を蒔いた土地であるから、彼にとっても特別の親しみがあったであろう。ここでは籠手田氏やその家族が心から款待してくれたが、領主もまたポルトガル人との交際の回復を考えてトルレスを厚遇した。クリスマスは非常に盛大であった。そこから生月島へ廻ったのは一五六三年の初めで、ここでも愛と信仰とに浸りながら一カ月滞在し、度島を廻って平戸へ引上げたが、さて博多へ向って出発しようとすると、その道は塞がっていた。博多地方に領していた大友配下の武士がまた大友氏に叛いたのである。そこでトルレスは止むを得ず二月二十日に横瀬浦へ引返した。しかしその時にも、まだ、他の路によって豊後へ帰るつもりだったのである。それを不可能にしたのは、先ず第一には彼が庭で足を挫き、歩けなくなったことであった。がそれに加えて彼をこの地に釘づけにするような事件が、この四旬節の間に、次から次へと起って来たのである。
横瀬浦は、帰って来ない筈のトルレスが帰って来たのを見て、「主の愛を以て燃えはじめた」とダルメイダは書いている。一五六三年の四旬節は、ここでの最初の(後になって見れば唯一度の)四旬節であったが、そのために豊後で人々を感動させた少年アゴスチニョや、博多にいたダミヤンもやって来た。説教のうまいパウロはもう前の年からダルメイダを助けてここで働いていた。信者の側でも、平戸諸島はいうに及ばず、遠く博多や豊後からさえ集まって来た。そうして熱心な説教や告解や鞭打苦行が続いていた。
その間に事件は外から起って来たのである。まず第一は、四旬節の初めに、島原の領主から宣教師の派遣を求める使者が来たことであった。これが島原半島への布教の端緒である。前の年にトルレスはダルメイダをして有馬の領主有馬義直(義貞)を訪問せしめた。この領主は横瀬浦を領している大村純忠の実家の兄で、純忠もその下に附いていたし、また教を聴こうとする意志のあることも聞えて来たからである。その時有馬侯は戦陣にあったので、ダルメイダはただ逢っただけであったが、その家臣の一人で、また姻戚でもある島原の領主が、領地に帰ってから宣教師の派遣を求めるであろうと云った。ダルメイダはそれをただ挨拶の言葉として聞いたのであったが、それが本当になって来たのである。トルレスは、直ぐには出せないが、七八日中には派遣しようと答えた。そうして四旬節の中頃に、ダルメイダと日本人ベルシヨールとを、復活祭までの予定で島原に派遣した。領主はダルメイダを非常に厚遇し、有馬侯の夫人の姉妹であるその妻と共に、熱心に説教を聞いた。家臣たちで洗礼を受けるものは五十人位あった。その間に有馬義直が出陣の途中島原に寄ったので、ダルメイダが訪ねて行くと、有馬侯は、有馬から二里余の口の津に会堂を建てるため、トルレスの許にイルマンの派遣を求めるつもりだと語った。有馬侯のこの態度は島原の信者たちを一層活気づけた。島原の領主も、ダルメイダが復活祭に間に合うように帰ろうとする前日、その一人娘である四五歳の少女に洗礼を授けて貰った。「この女は今日まで日本で信者となったもののうち、最も高貴な血統の最初の人である」とダルメイダは誇らしげに報告している。
有馬義直の使者は実際に復活祭前にトルレスの許に来た。前年のダルメイダの訪問を謝し、おのれの領内に横瀬浦以上の大きい会堂を建てて布教をやって貰いたい、自分もそれを助けようと申入れたのである。使者の一人は口の津の領主で、その港に宣教師館を建てることを頻りにすすめた。そうすれば自分や領民は直ぐに信者になる。それを見て有馬でも会堂を建てるようになるであろう。そう彼は云った。
第二に、島原の使者よりも少し遅れて、領主大村純忠が、筆頭家老の弟ですでに信者となっているドン・ルイス新助その他多くの重臣を連れて、トルレスを訪ねた来た。酒樽六つ・鮮魚・猪一頭・銭三千などが手土産であった。トルレスは領主を午餐に招き、七八人の武士と共に洋食を饗応した。身分あるポルトガル人五人が鄭重に給仕の役をつとめた。午餐後トルレスは別席で純忠に教をすすめ、聖母の像を飾った祭壇を見せたりなどした。純忠は直ぐに説教を聞くことを望んだので、フェルナンデスがそれを始めたが、しかし深く理解するためには長い説教を聞く必要があると云われて、翌日は晩餐後から夜半の二時まで熱心に聞いた。そうして気持の上ではもう信者になっていた。翌日ドン・ルイスを使に寄越して、十字架を携えることやキリストに祈ることの許可を求めて来たほどである。
こういう二つの出来事のあとで、横瀬浦での最初の復活祭の週が来た。各地の日本人信者のみならず船のポルトガル人たちも加わって、これまで日本で見られなかったほど盛大に復活祭が行われた。ところでその復活祭の週に、大村純忠は、再びドン・ルイスなどを連れて横瀬浦を訪ねて来たのである。その目的はトルレスの同意を得て会堂附近におのれの住宅を建てることであった。ポルトガル人と親しく交わり、またこの港を発展させるためには、なるべく多くの日をこの地で送らなくてはならないからである。この時彼はトルレスの請いにまかせて、この新開の港の秩序と平和とのための掟七八カ条を立札に書いて与えた。その第一条は、この港に住もうとする者は皆天主の教を聞かなくてはならぬ、聴くことを欲しないならばこの地を去るがよい、という意味の規定であった。しかし彼には改宗の覚悟はまだ出来ていなかった。
五 島原半島の開拓
丁度復活祭の頃に大村では高い地位にある二人の武士の間に争が起り、領内が沸き立った。それに対する見舞を兼ねて、復活祭後間もなくダルメイダは大村に行き、そこに数日留まった後、三人の「イルマンの如き」日本人(ダミヤン、パウロ、ジョアン)をつれて、当時有馬義直が出陣のため部下の集合を待ち受けていた所へ行った。それは島原から二三里のところであった。有馬侯はダルメイダを厚遇し、晩餐を共にした後説教を聞いたが、翌日口の津港宛の説教聴聞を命ずる書簡や、トルレス宛の領内布教許可の書簡などを与えた。ダルメイダは島原に数日留まり、海路口の津へ行ったが、ここは日本全国から人々の集まってくる港で、人口も非常に多く、住民の物解りも好かった。ダルメイダはこの地の領主の家に迎えられ、その主君たる有馬侯の書簡を渡して、早速布教活動にとりかかった。十五日間教えた後洗礼を授けたものは二百五十人であった。その中にはこの地の領主、その妻、子女などもはいっていた。これらの様子を見てダルメイダはこの地を重視しようと考え、島原の信者を見舞った後またこの地に帰る予定で、留守を日本人パウロにあずけて、再び島原に行った。
しかるに島原では、丁度この時仏僧たちの指揮する反抗運動が起っていた。島原の旧城址を会堂用地として宣教師に与えたのはよろしくない、ポルトガル人が来てそこに城を造り、この国を奪うおそれがある、というのがその主要な主張であった。仏僧たちは諸地方の領主と親縁があり、相当の政治的勢力があったので、島原の領主の態度は微温的であった。ダルメイダは他の諸地方において宣教師を求めているにかかわらず、特にこの地の領主の招きに応じて来ているのである、仏僧の妨害で布教が出来なければこの地を去るほかはない、と抗議したが領主は暫らく隠忍することを請うた。そうして領主の支配権内にある家臣や民衆に対しては、説教を聴くようにとの命令を発した。それで聴衆は非常に多く集まり、受洗希望者は三百人に達した。この形勢を見た仏僧たちは、ダルメイダが着いてから十六日後に、説教の場に侵入して机上の十字架を破壊するというような示威運動をやった。次の日にも信者たちの戸口の十字架を画いた貼り紙をはぎ取って廻るというようなことをやった。それらに対しては信者たちは、領主の指示に従い、無抵抗の態度を取った。しかし更にその次の日、即ち聖霊降臨節の前々日に至って、遂に事が起った。島原から一里の他領に属する二人の青年武士が説教を聞きに来たのであったが、その一人が酒に酔っていて不穏当な質問をするので、他の一人がこれを制し連れ去ろうとした。それに侮辱を感じた武士は、百人ほどの信者の集まっている中で剣を抜こうとした。信者たちはこの酔どれから剣を奪った。これがもとになって、その武士の親戚友人が集まり島原に来て復讐しようとしたのである。目標はダルメイダが滞在し説教していた信者の家であった。しかしこの争の理非曲直は明白である。島原側ではただに信者のみならず信者でないものも武器を取ってダルメイダのいる家を護った。聖霊降臨節の前夜はその襲撃を待ち受けて物々しい有様であった。もし襲撃があれば少くとも五百人は死ぬであろう。キリシタンの到るところ必ず戦争があるという仏僧の宣伝は、それによって実証されることになる。ダルメイダはそれを非常に悲しんだが、幸にして襲撃はなかった。そうしてこの事件が逆に翌日の聖霊降臨節を盛大ならしめた。すでに受洗の準備の出来たものが、この日約二百人洗礼を受けた。
ダルメイダは次の日に領主が会堂用地として与えた旧城趾に移る許可を求めた。そこは海へ突き出た突角の上にあって村より離れて居り、仏寺からも遠いからである。領主はこれに賛成し、右の地所のそばの信者の持家へ移転させた。ダルメイダはそこにダミヤンを残し、再びここに帰り来ることを約して口の津に向った。こうして彼の口の津に重点を移そうとする計画は破れ、島原と口の津とをかけ持ちするほかはなくなったのである。
口の津に帰って見ると、日本人パウロは説教を聴きにくる者が非常に少数になったと報告した。ダルメイダがその原因を探究して見ると、領主の家へ出入するのが窮屈であるからだと解った。そこで彼は領主に交渉して、人々が気楽に出入し得る家を求めた。領主はダルメイダに選択をまかせた。ダルメイダの選んだのは、有馬侯が会堂用地として与えた地所にある大きい廃寺であった。これを掃除し、縁を造り、蓆をしくと会堂になる。翌日早朝百人ほどの人夫が集まり、仏像を運び出して、一日中に立派な会堂に造りかえた。この会堂でダルメイダはパウロと共に再び活溌な活動をはじめ、二十日ほどの間に百七十人の信者を作った。
六月の初めにダルメイダはまた島原に行った。ここでも旧城趾に会堂を造る活動がはじめられた。領主は地所附近の七十戸を住民と共に教会に寄進し、会堂建築用の材木を寄附した。また敷地の地均らしのために二十日間毎日二百人の人夫を寄越してくれた。ダルメイダは地所内の大石を運び出して会堂の門前に埠頭を造らせ、相当の船がそこへ直接に着けるようにした。
六 大村純忠の受洗
こうしてダルメイダが島原半島で活溌に開拓をやっていた間に、横瀬浦でも著しい事件が起った。
トルレスは復活祭の後四十余日、昇天祭の過ぎた頃に、大村に領主純忠を訪ねて、その地に会堂を造るようにすすめた。純忠は、自分もその希望を持っている、会堂を造れば領内のものは皆信者になると確信する、しかしそのためには仏寺を破壊する必要があるが、仏僧の勢力は中々侮り難いから、未だその時期ではない、と答えた。その時には受洗の話は出なかった。しかるにその後一週間ほど経って、純忠は、洗礼を受けようという決意を以て二三十人の武士と共に横瀬浦にやって来たのである。先ず彼はおのれの心事をトルレスに打ちあけ、その意見をきくために、日本語のよく解る人を寄越してくれと云って来た。トルレスは一人の日本人を送ったが、純忠はそれと夜半まで語った。彼のこだわっていたのは仏教排撃の問題なのである。彼はその兄である有馬の領主の配下についている。その兄はまだ仏教徒である。従って彼は仏像を焼き仏寺を破壊することが出来ない。しかし彼は、仏僧と関係せず補助をも与えない、ということを約束する。そうすれば仏教はおのずから崩壊する筈である。その程度でも洗礼は授けて貰えるであろうか。これが彼の知りたいところであった。トルレスはそれに対して、彼が時機の熟した時その権力内の異教を破壊するという約束をするならば、またそういう決意を持つならば、洗礼を授けようと答えさせた。純忠は喜んで、同夜直ちに家臣一同と共に説教を聞きはじめ、夜明に及んだ。トルレスは洗礼の準備が十分であることを認め、領主の身分にふさわしく盛大に式を挙げようとしたが、純忠は非常に謙遜な態度で、簡素に洗礼を受け、ドン・ベルトラメウとなった。伴の家臣たちも洗礼を受けた。
これは一五六三年五月下旬、ダルメイダが口の津に会堂を造った頃のことである。丁度同じ頃に東の方では奈良で結城山城守と清原外記とが洗礼を受け、新らしい機運を醸成していた。どうしてこのように大村や島原のみならず畿内地方までが時を同じゅうして動き出したのかは、よくは解らない。しかし恐らくこの頃に、日本全国を通じて、戦乱時代の心理的な峠があったのであろう。同じ年に少し遅れて三河の国に一向宗一揆が起り、それが徳川家康の一生の運の岐れ目となっていることも、決して偶然ではないであろう。
七 横瀬浦の没落
大村純忠が受洗に際して仏寺破壊の問題にこだわったのは、決して軽い意味のことではない。一国の政治的権力を握るものの改宗には、この問題がつきまとうのである。ここに布教事業と政治的な争いとの絡まって来る機縁がある。純忠はこの点に用心したように見えるが、しかし「妬みの神」はその不徹底を許さなかった。
純忠が洗礼を受けたのは、その実家の有馬氏と竜造寺隆信との戦争の前夜であった。竜造寺隆信は肥前の少弐氏の部下であったが、今やその主家に代って肥筑地方に勃興し、有馬氏に圧迫を加えたのである。純忠もその兄の下について出陣したのであるが、その途中で、恐らく戦争気分の結果であろう、摩利支天像やその堂を焼き払い、そのあとに十字架を建ててこれを礼拝するというような思い切ったことを敢行したのである。これを口火として領内の多くの仏寺仏像が焼かれた。この急進的な態度は、彼の心配した通り、領内に不穏な空気をまき起した。謀叛が企てられたのはその頃からであった。
横瀬浦では領主が受洗の時の約束以上に果敢に振舞うのを見て非常に喜んだ。丁度そこへ、六月の末に、シナからドン・ペドロ・ダルメイダの船が数人の神父やイルマンを運んで来た。神父ルイス・フロイスもその一人である。トルレスは歓喜の余り涙を流し、「もう死んでもよい」と云ったという。フロイスが早速着手した仕事は、純忠が送って寄越すその家臣たちに日々洗礼を授けることであった。
丁度そこへ、七月の初めに、島原半島の大きい収獲の報を携えて、ダルメイダが新来の宣教師に会いに来た。トルレスは早速この有能な働き手を、自分と船長ドン・ペドロ・ダルメイダとの代理として、陣中の大村純忠の所へ使にやった。純忠は陣羽織にエズスと十字架の紋所をつけ、頸に十字架や数珠をかけて、熱心に教のことをきいた。その情景は陣中というよりもむしろ宗教家の会合のようであった。そこから彼が七月半ばに帰ってくると、トルレスは新来の神父ジョアン・バウティスタを豊後に派遣することとして、ダルメイダに同伴を命じた。一行は翌日すぐに出発し、途中からダルメイダだけは島原と口の津とを廻って、豊後に赴いた。
七月の末になって、大村純忠は神父たちやポルトガル人に会うために横瀬浦を訪ねて来た。ルイス・フロイスや船長ドン・ペドロ・ダルメイダは非常にこれを款待し、鍍金の寝台、絹の敷布団、掛布団、天鵞絨の枕、ボルネオの精巧な蓆、その他織物類を贈った。純忠は熱心にミサを聴き、聖餐のことを学び、数日にして大村へ帰ったが、夫人に対して改宗を迫り、また次の出陣の前に壮麗な会堂を建てようとして、場所の選定のためにトルレスを大村へ招いた。また丁度その頃に盂蘭盆会の廃棄を考えていた彼は、大村の先代の像(位牌か)の前に香をたく代りに、その像を焼却するということをやったらしい。それらのことが謀叛の陰謀を熟せしめたのである。
大村の先代は庶子後藤貴明を残していたが、先代の夫人はそれをさし措いて養子純忠を夫人の実家の有馬家から迎えた。その養子が、先祖の祀りをしないばかりか、先代の位牌を焼いたのであるから、大村の家臣たちにとっては、庶子を擁して養子を誅すべき十分な理由があると考えられたのである。そこで謀叛人たちは、逆手を使って、会堂の建設、夫人の受洗、トルレスの招請などを家臣らの希望として進言した。トルレスが大村に来たときに、クーデターによって一挙に害悪の根源を絶とうという計画であった。そういう計画に全然気づかないドン・ルイス新助は、横瀬浦へトルレスを迎いに来た。その儘トルレスが大村に赴き得たならば、計画は成功したかも知れない。しかしトルレスは、側にヤソ会の神父がいないため五年間行うことの出来なかった宣誓を、八月五日の聖母の祭日に、新来の神父フロイスの前で行う筈であった。そのためにわざわざ豊後から、日本でヤソ会に入ったイルマンのアイレス・サンチェズが、ヴィオーラを弾く少年たちをつれてやって来たほどであった。従って大村行はその後にするほかはなかった。祭の当日ドン・ルイスは二度目の迎いに来たが、生憎フロイスもトルレスも病気で、式を辛うじて挙げた程度なので、大村行はまた二三日延ばした。この間に有馬の領主が改宗の意志を表明したとの報があり、三度目に迎いに来たドン・ルイスも大村純忠が兄の改宗のことを相談したいと云っていると伝えたので、トルレスは「日本全国の門戸が開かれるであろう」というような大きな希望を抱いて、いよいよ翌八日早朝出発しようと約束した。ドン・ルイスはその約束を携えて勇んで帰って行った。ところが翌日早朝、トルレスがミサを行いポルトガル人に別れを告げて、さていよいよ出発しようとしていた七八時頃に、様子が変になって来たのである。トルレスは一日本人を偵察に出した。ドン・ルイスは前日帰途を横瀬浦対岸の針尾の武士たちに襲撃せられ、殺害されたのであった。大村でも前夜暴動が起り、大村純忠はドン・ルイスの兄の家老たちと共に近くの城に逃げ込んだのであった。
この時の事情はよくは解らない。トルレスが大村行を幾度も延ばしたので、陰謀が洩れたと感じて急に事を起したのか、或はドン・ルイスの船にトルレスも同船していると見て襲撃したのか、当時の人にもよくはわからなかった。がいずれにしても暴動の手際は悪く、トルレスも純忠も暗殺をまぬがれた。同日夕方、トルレスは碇泊中のゴンサロ・バスのジャンクに移り、フロイスはフェルナンデスと共にドン・ペドロの帆船に乗った。他の人々も、信者らも、それぞれ財物を携えてこれらの船に遁れた。純忠も約四十日の後にはともかくも領主権を回復し大村に帰った。そうして彼に叛いた地方の領主たちと対峙し得るに至った。
しかしトルレスが大きい望をかけていた横瀬浦――アジュダの聖母の港――の運命は、この内乱を以て終った。横瀬浦は騒ぎの当座直ちに焼かれたのではない。そこは抵抗せずに謀叛人に服従したし、また謀叛人たちもポルトガル船に留まることを求めた。純忠が大村を回復したとの報に接したときには、ポルトガル船は旗をあげ大砲を発射してこれを祝したし、横瀬浦を占領していた謀叛人も逃げ去っていた。フロイスも陸上で働いていた。しかし商船がシナに向って出帆しようとしていた頃に、横瀬浦に最も近い所にいた謀叛人の一味が、横瀬浦を奇襲して町や会堂や宣教師館を悉く焼き払ったのである。丁度その時には有馬の武士(島原の信者であろう)が二艘の船を率いて救援に来ていた。トルレスは敵が近づいたのを見てその船に乗り、大きい望をかけていた会堂や純真な信者の家が焼かれるのを見ていたのである。これは宣教師たちにとって非常な打撃であった。急激に拡大しそうに見えていた布教事業はここで一時頓挫したのである。
大村の内乱が世間に与えた印象もそうであった。ダルメイダが八月下旬に豊後で報告に接した時には、大村純忠は殺され、有馬の領主は逃げ、ポルトガル船は横瀬浦を去り、会堂も町も焼失し、信者らは皆殺しにされた、ということであった。そうしてそれらは純忠が仏像を焼いた結果であり、有馬の領主もキリスト教の同情者として同様の運命に瀕している、と噂された。これはほとんど皆事実に合わない誇大な噂であるが、しかしそれがキリスト教に対する反感を煽るように見えた。急いで横瀬浦にかけつけようとしたダルメイダは、途中でこれまでにない侮辱を受けた。また人々は満足そうに、「何処へ行かれるか、会堂は焼けたし神父は横瀬浦にいない」と挨拶した。島原の対岸の高瀬まで来て、彼はやっと、純忠の死も、横瀬浦の焼失も、商船の退去も、すべて嘘であることを知ったのである。島原でも信者たちの態度は少しも変っていなかったが、しかし口の津まで来ると、政治的情勢が変っていた。有馬の領主の父仙岩(晴純)は、この様な内乱の原因となったキリスト教を、断然禁止したのであった。信者たちの信仰は崩れていなかったが、しかしダルメイダは上陸することが出来なかった。それのみか、仙岩の領内を通る間中、死の危険を感じなくてはならなかった。緒についたばかりのダルメイダの島原半島布教も、一頓挫を来たしたように見えた。
ここに政治的意義を帯びた大仕掛けなキリスト教排撃の最初の現われがある。それは一国の領主が改宗して仏教排撃をはじめるや否や、即座に起った。この現象は非常に示唆するところが多い。ポルトガル人と貿易を営みヨーロッパの文明を取り入れようとする関心は、必ずしもキリスト教への関心ではなかった。前者は当時の日本人にほとんど共通のものであり、従って政争を捲き起すことなく実現し得られるが、後者は忽ち政争に火をつけるのである。この事情が平戸の領主に曖昧な態度をとらせ、豊後や有馬の領主に長い間改宗を躊躇させた。しかるに宣教師たちは、前者を後者のために利用し、前者のみの独立な実現を阻もうとしたのである。この態度はいわば開国と改宗とを結びつけるものであって、鎖国の情勢を呼び起す上に関係するところが多い。日本民族が国際的な交際の場面に入り込み、世界的な視圏の下におのれの民族的文化の形成に努めることと、在来の仏教を捨ててキリスト教に転ずることとは、別の問題である。前者は倫理的、後者は宗教的な課題であった。ヤソ会士がただ宗教の問題をしか見ず、異教徒をキリスト教に化することをのみその関心事としたことは、ヤソ会士としては当然であったかも知れぬ。しかしそのために倫理的な課題が遮断されたことは、実に大きい弊害であったといわなくてはならない。その一半の罪は、ヤソ会士を介してでなくては視圏拡大の動きが出来なかった日本の政治家や知識人の方にある。無限探求の精神や公共的な企業の精神の欠如が、ここにもうその重大な結果を現わしはじめているのである。
八 口の津と平戸
横瀬浦を焼かれたトルレスはダルメイダや新来のイルマン、ジャコメ・ゴンサルベスを伴って、有馬の武士の船で、島原の対岸高瀬に向った。そこは豊後の大友の領地で、豊後への往復の要衝とされていたところである。ルイス・フロイスは籠手田氏が迎いに寄越した船で、既に一月前からフェルナンデスの行っている「天使の島」度島に向った。こうしてこの後の一年間、トルレスは島原半島の回復をねらい、フロイスは日本布教者としての能力の獲得に努めたのである。
トルレスは一五六四年の夏まで高瀬に留まっていた。先ず初めにダルメイダを豊後に派遣して大友義鎮(この頃に宗麟と名を変えたらしい)に高瀬滞在の許可を乞い、地所、家屋、布教の許可などを与えられた。更に三カ月後には、領内のあらゆる人への改宗の許可、宣教師の保護、全領内の布教許可の三カ条を記した立札二枚を送られた。一枚は高瀬に立てるため、他の一枚は熊本の南の川尻に立てるためである。川尻へは豊後にいたドワルテ・ダ・シルバが派遣された。ダルメイダはクリスマスから復活祭まで豊後に留まって、自分のはじめた病院の仕事や思い出の深いこの地の教会の仕事に久しぶりで没頭することが出来た。しかし復活祭の後には川尻で病んでいるシルバを見舞わなくてはならなかった。シルバは熱心に布教につとめる傍、日本語の文法や辞書を編纂していたが、過労に倒れたのである。ダルメイダはもう手のつくしようのないこの重病人を、その希望に委せて高瀬のトルレスの許に運んだ。病人は十日ほどの後に満足して死んで行った。
有馬の領主がその領内へ来るようにトルレスを招いたのはその頃である。トルレスはそういう機運の熟してくることを島原の対岸で待っていたのであった。しかし彼は直ぐには動かなかった。二度目の招請の手紙が来たとき、彼は、その保護者である豊後の領主の許可を得るまでの代理として、ダルメイダを有馬の領主のもとに派遣した。ダルメイダは島原で非常な歓迎を受けた後、有馬へ行って領主義貞に会った。義貞は前年の騒ぎの時よりはよほど権力を回復していた。彼はトルレスが口の津へ来てよいこと、敵に対して勝利を得るまでそこに留まっていて貰いたいこと、地所家屋はトルレスが来るまでもなく直ちにダルメイダに与えることなどを云った。こうして口の津が回復されたので、トルレスは大友宗麟の諒解を得て口の津に移り、地所家屋の処理をはじめた。この地の信者たちは、十カ月に亘る禁教の間にも、少しも退転していなかった。トルレスはそれを見て非常に喜んだ。そういう状態になったところへ、一五六四年八月半ばに、ポルトガル船サンタ・クルス号が三人の新らしい神父、ベルシヨール・デ・フィゲイレド、バルタサル・ダ・コスタ、ジョアン・カブラルを運んで来たのである。
この年のポルトガル船は、トルレスの意に反して平戸へ入港した。その時の折衝をやったのは、度島にいたフロイスである。フロイスは度島に移って以来、島の外へは出ず、過失によって会堂を焼失するという不幸に逢ったほかは、純真な信者に取り巻かれて平和な生活を送り、説教や祭式を営む傍、六七カ月を費してフェルナンデスが日本文法書や語彙を編纂するのを眺めつつ、静かに日本語や日本人の気質を学び取っていた。こうして一五六四年の四旬節も過ぎ、復活祭も終ったのであるが、その頃から平戸の情勢が少しずつ変って来たのである。前にビレラが平戸から追放せられた時、背後の主動力であった仏僧は、籠手田氏との争に負けて平戸から追放された。平戸の信者らも漸く動き出した。丁度その頃、七月の半ばに、帆船サンタ・カタリナと、ベルトラメウ・デ・ゴベヤのジャンク船とが、平戸附近へ来た。松浦侯はこれを平戸へ迎い入れようとしたが、船長らは神父の許可なしには入港しないと答えたので、松浦侯は止むなくフロイスの許に使者を寄越して入港の許可を求めた。その時の条件は、神父の平戸来住を船長らと協議しようということであった。フロイスは必要を認めて許可を与えた。そこで平戸に入港した船長たちは、神父の平戸来住と新会堂の建築との許可を松浦侯に求めたが、松浦侯はいい加減なことを云って許可をひきのばしていた。そこへ、二十七日遅れて、神父三人を乗せた司令官(カピタン・モール)の乗船サンタ・クルス号が着いたのである。フロイスは度島でこの報を聞くと、その平戸入港を阻止するため、直ぐに小船に乗って出掛けた。トルレスが前からこのことをフロイスに命じていたのである。サンタ・クルスはもう帆をあげて平戸に向いつつあったが、司令官・船長ドン・ペドロ・ダルメイダはフロイスの申入れをきいて直ぐに引還そうとした。しかるに同船の商人たちはそれに反対した。サンタ・クルスはサンタ・カタリナよりも僅か二日後にシナを出帆したのであるが、途中暴風のために非常に難航して、一カ月近くも遅れてしまったのである。だから一刻も早く馴染の港に着きたかった。彼らの平戸入港が、キリスト教徒となった大村純忠の敵に力を与えることになるという説得も、商人たちを動かすことが出来なかった。でフロイスは、ともかくも船を平戸から二里ほどの所に停めさせ、三人の神父たちを伴って島へ帰った。そうして再び司令官を船に訪ね、神父を平戸に入れるのでなければ、平戸へは入港しない、という旨を松浦侯に伝えて貰った。その結果、松浦侯は遂にフロイスに平戸の会堂再建を許可したのである。
これはビレラの追放以来失われていた平戸の教会を回復することであった。だからフロイスの平戸入りは出来る限り壮大になされた。サンタ・カタリナやジャンク船は大小の国旗を掲げ砲を並べている。船長以下ポルトガル人たちは盛装して舷側に並ぶ。陸上に出迎えた人々も着飾っている。フロイスとフェルナンデスとが船で着いて上陸すると、サンタ・カタリナは祝砲を発し、信者たちは歓呼の声をあげる。それから人々は行進を起し、松浦侯の邸に向った。フロイスは船長たちやその他の人々と共に松浦侯に会って、入国許可に対する挨拶をした。そうしてその足で籠手田氏を訪ね、会堂の敷地に廻って、早速再建の計画にとりかかったのである。こうして横瀬浦壊滅の一年後に平戸が回復されたのであった。
新来の神父の一人フィゲイレドは到着後七八日で口の津にトルレスを訪ねて行った。カブラルはフロイスと入れ代って度島に赴いた。コスタは乗って来たサンタ・クルスに留まり、ゴベヤのジャンクに泊ったフロイスと共に、ポルトガル人の告解を聞き、ミサを行った。フェルナンデスは信者の家に泊って会堂建築のことに当った。こうして急に手がふえたので、トルレスは、ポルトガル船が日本を去った後フロイスやダルメイダを京都地方へ派遣しようと考えたのである。
第六章 京都におけるフロイスの活動
一 フロイスとダルメイダの上京
ルイス・フロイスがトルレスの命令によって京都のビレラに協力するため平戸を出発したのは、一五六四年の十一月十日であった。
フロイスは日本へ来てから一年余の間に、横瀬浦の没落や、度島での日本人の信仰生活や、ポルトガル船の貿易と布教事業との微妙な関係などを経験し、日本における宣教師の仕事のおおよその見当はつけ得たのであったが、しかし日本の諸地方への旅行はまだ少しもしていなかった。そのためか、度島のフロイスの許へはダルメイダが迎いに行った。ダルメイダもフロイスと共に京都地方へ行き、その地方の事情を調査してトルレスに報告する筈になっていた。しかしトルレスがそういう計画を立てた後の僅かな時日の間にも、ダルメイダの活動はめざましいものであった。彼はまず口の津のトルレスの許から豊後に派遣された。毎年の例になっている領主饗応のためである。だから十月の半ばにはまだ豊後にいた。その彼が、高瀬まで引き返して、そこから平戸へ陸路四五十里を旅行している。この道筋は多分初めてだと思われるが、途中、博多から十一二里の所にある信者の町を訪ねたり、また海岸へ出て姪の浜とか名護屋とか信者のいる町に足を止めたりしつつ平戸へ行ったのである。そこには神父コスタがいた。度島にはフロイスと共に神父カブラルがいた。そこで平戸に半月余り滞在した後、フロイスと共に出発したのであった。
風の都合がよく、船は翌日の夜口の津についた。トルレスとフロイスとは横瀬浦の没落の時別れたきりであったから、再会の喜びは非常なものであった。しかし口の津にもただ四日留まっただけで、フロイスとダルメイダとは旅程に上った。この時にも風の都合がよくその日の内に島原についた。この島原、ダルメイダの開拓した島原が、度島で一年を送って来たフロイスを実に喜ばせたのである。港へ突き出ている旧城址――会堂の地所が、比類なく優れた場所であったばかりでなく、更に島原の街はこれまで見た最も美しい街であったし、そこに住んでいる信者たちは殆んど皆身分の高い人たち、富める商人たちであって、一般に教養も高く、教義に対する理解能力も優れていたからである。フロイスはそれを見て、信者たちがこれまでミサを聞いたこともなく、ただ日本人のベルシヨールやダミヤンに二三カ月説教を聞いただけであるのを残念に思い、「もし自分に委せられるならば、日本での最も良い仕事に代えて、この地に留まるであろう」と早速トルレスに書き送っている。そうして熱心にトルレスの島原訪問をすすめ、「もし貴下が八日間この地に留まられるならば、この町がこれまで滞在せられたどの地方よりも優っていることを認められるであろう」とさえも云った。それほど島原での二日間はフロイスにとって印象が深かったのである。
それから二人は高瀬を経て豊後に行き、臼杵丹生島に大友宗麟を訪ねた。その後府内に帰り、船の談判をして出発しようとしたが、風の都合で一カ月待たされ、遂にクリスマスを府内で祝うことになった。いよいよ豊後を出発し得たのは一五六五年の一月一日で、堺に着いたのは一月二十七日であった。途中の航海は相当苦しく、特に寒さが烈しかったので、ダルメイダは病気になり、堺の富豪日比屋の邸宅で寝ついてしまった。
フロイスは五人の信者と共に翌日直ちに京都に向って出発した。(五人の内の一人は多分ダミヤンであろう。)その夜は本願寺の門前町大坂に泊ったのであるが、当時大坂はすでにコチンの町よりは大きかったといわれている。フロイスはまだこの地の領主「妻帯せる坊主」が宣教師にとっての最大の敵であることを知らなかったので、この夜はのんきにして、同船した異教徒の泊った家に行き、款待を受けていたのであるが、夜半過ぎに火事が起って、本願寺を初め九百戸を焼き払うという大火になった。フロイスの取った宿は焼けはしなかったが、避難者を収容するためにフロイスたちの退去を求めた。信者たちは警備の厳しくなった町でフロイスたちをかくまうのに骨折った。本願寺の町であるということがこの時ひしひしと身にこたえたのである。が一日日の目を見ない暗い二階にひそんでいただけで、翌々日の早朝、気づかれずに町の門から出ることが出来た。「私はこの時ほど道を遠いと思ったこともなく、またこの時ほど早く歩いたこともない。人の本性が自己保存を欲することはこの通りである」と彼は書いている。この日は稀有の大雪で三四尺も積っていた。で歩くことが出来ず、漸く淀の川船を捕えて、一月の末日に京都に入ることが出来た。ビレラに逢うと、まだ四十歳でありながら苦労して七十の老人のように白髪になっているこの日本布教者は、フロイスが遙々インドから日本布教に来てくれたことよりも、大坂の危険を脱したことの方を一層悦んだのであった。
フロイスの京都入りを何故このように重視するかというと、一つにはフロイスが熱心な宣教師であると共にまた比類なく優れた記者であったこと、もう一つにはフロイスが到着してからの半年の間の京都が戦国時代の混乱の絶頂を具象的に展示して見せた舞台であったことによるのである。フロイスは日本に着いて間もなく横瀬浦の没落を自分の眼で見た。この事件は日本におけるキリスト教布教事業の運命をすでに象徴的に示しているということも出来る。その同じフロイスが、京都に入って半年後に、最初の公然たる禁教政策に出会ったのである。いずれもキリスト教が権力と結びつくや否や間もなく起ったことであった。
フロイスは京都に入って、半年後には転覆される運命にあった古い伝統的なものを、相当詳しく見ることが出来た。彼が京都に着いた翌日は陰暦の元旦であったが、ビレラは将軍への年賀を必要と認めていたので、彼もビレラに伴われて正月の十二日に将軍に謁した。そのために出来るだけの盛装をも工夫した。十年前にヌネスの連れて来た少年の持っていた金襴の飾りのある古い長袍、船室で使い古した毛氈、そういうものをフロイスは豊後から携えて来たが、ビレラはその毛氈で広袖の衣を作り、金襴の長袍と共にこれを着て、その上に更に美しい他の衣をつけた。フロイスはキモノの上にポルトガルの羅紗のマントを羽織った。進物はガラスの大鏡・琥珀・麝香などであった。こうして二人は輿に乗り、二十人ほどの信者に伴われて、多分今の二条城のあたりにあったと思われる足利将軍の宮殿に赴いた。将軍義輝は神父を一人ずつ接見したが、フロイスはその際の義輝の印象については何も語らず、ただその室の美しかったことを言葉を極めて讃めている。自分はこれまで木造の家であれほど美しいのを見たことがない。室は金地に花鳥の美しい絵で取巻かれ、畳は実に精巧なもので、書院の窓の障子も非常に好かった、と彼は云っている。次の間に下ったとき、神父の着ているカパは珍らしい、見せて貰いたい、ということであった。次で将軍の夫人に謁する時には、間の襖を開いて、次の間から礼をした。義輝の母慶寿院尼も同じ構えのなかにいたので、二人はそこへ行って、大勢の婦人の侍坐している前で盃を頂戴した。フロイスはここでも、その静かで、簡素で、きちんとしている有様を、僧院のような感じだとほめている。この人たちが半年後に悲惨な目に逢ったのである。
この年賀の翌日にビレラは、当時の実権を握っていた「三好殿」を河内の飯盛に訪ねて行った。三好長慶は実は前年の夏、四十二歳で病死したのであるが、まだ喪を発してはいなかったのである。ビレラはそこから堺のダルメイダを呼んだ。
ダルメイダはフロイスと共に堺に着いた時直ぐ日比屋で寝込んだのであるが、その病中二十五日ほどの間は、父母の家にあってもこれほど親切にされることはなかろうと思われるほどの愛情を以て看護された。日比屋の主人のみならず夫人も子女も昼夜心をつくした。やや快方に向ってから少しずつ説教なども始めたが、日比屋の娘のモニカの結婚問題について相談相手になり、父のサンチョを説いて正しい結婚の実現に努力したりなどもした。ビレラに呼ばれていよいよ飯盛に向って出発しようとする前日には、日比屋の主人の茶の湯の饗応を受け、その珍蔵する道具類を見せて貰ったのであるが、当時すでに高価なものとなっていた茶道具類はとにかくとして、茶の湯の作法そのものは相当に深い感銘をダルメイダに与えたように見える。客はダルメイダと日本人イルマン(これはダミヤンではないらしい)と事務一切の世話をしている信者とであった。朝の九時に日比屋の家の横の小さい戸口から入り、狭い廊下を通って檜の階段を上ったが、その階段はこれまで何人も踏んだことがないほど清らかで、実に精巧を極めていた。そこから二間半四方位の庭に出、縁を通って室に入った。室の広さは庭より少し広く、「人の手で作ったというよりもむしろ天使の手によって作られた」と思うほど美しかった。室の一方には黒光りのする炉があって、白い灰の中に火を入れ、面白い形の釜がかかっていた。この釜は高価なものだということであったが、その炉や灰の清潔でキチンとしていることがダルメイダを驚かせた。やがて席につくと食物が運ばれ始める。美味は驚くに足りないが、その給仕の仕方の秩序整然として清潔を極めていることは、実に世界に比類がない、と彼は讃嘆している。食後主人サンチョの立てた濃茶の味も、出して見せた名物の蓋置きも、大した印象は与えなかったらしいが、会席の気分そのものは彼を敬服せしめたのである。
そういう仕方で日本の生活を瞥見したダルメイダは、信者たちに送られて堺を出発し、堺から三里余のところで飯盛からの迎いの船に乗った。当時は寝屋川が淀川の支流ででもあったらしく飯盛山下まで船で行けたのである。日没頃船を上り、約半里の山道を輿に担がれて、夜半近くやっと城に着いた。ビレラや信者の武士たち、その家族たちが、非常な喜びを以て彼を迎えた。
この飯盛山上の堅固な城は、今や畿内を押えている実力の所在地であった。その城の内の身分ある武士たちが、ビレラやダルメイダに対して、恰かもその主君に対する如き尊敬の態度を示しているのである。ここでビレラは一週間の間、武士たちの告解を受けた。その間にビレラやダルメイダは三好の殿を訪問し盃を受けたというのであるが、長慶は既に半年前に歿しているのであるから、誰に会ったのか解らない。嗣子の重存(義重、義継)は未だ非常に若く、それに会えば何か気づく筈である。或は三好三人衆の内の誰かが会ったのかも知れない。その時三好の殿はビレラやダルメイダと同じく跪坐し、二人が辞去する時にも礼を尽した、とダルメイダは記している。ビレラが飯盛山下の三箇を訪れた後、奈良へ出て松永久秀を訪ねているのは、或は形勢の変化に対する幾分の理解を示しているのかも知れない。
三箇は当時は大河に囲まれた半里位の島で、領主の伯耆守はダルメイダが日本で見た最も信仰の厚い信者の一人であった。彼は日本全国のキリスト教化を希望していたし、また堺の町の会堂建築費として銭五万を寄附しようと申し出た。この領主の熱心が半年後には非常に役立つことになるのであるが、この時にもダルメイダの体の痛みを心配して、治療のために、輿を用意し十里の道を京都へ送りつけた。そこでダルメイダはまた二カ月ほど寝ついたのである。
二 日本文化の観察
フロイスが京都に入ってから、日本文化に対するヤソ会士の考察が非常に精密になったように思われる。フロイス自身の報告のみならず、ダルメイダの報告などにもその傾向が顕著に現われて来ている。ヤジロー、ロレンソ、その他九州の信者を通じて見ていた日本を、自分たちの眼ではっきりと見直そうという要求が、強く働き出したのであろう。
フロイスが京都に着いてから二カ月足らずで書いた最初の書簡は、この地の風俗について報告するという書き出しではあるが、実際は日本文化の概観というようなものになっている。先ず日本の風土から説き起し、衣食住の細かい特徴を述べた後に、この日本文化の中枢地方においては男女が通例読み書きを知っていること、身分あるものは皆礼儀正しく、教養があり、外国人に会うのを喜ぶこと、外国のことは些細な点まで知ろうとすること、生来道理に明かであること、などを力説し、次で日本の政治組織に及んでいる。日本は、首府京都に「公方様」と呼ばれる主権者がいて全国を支配していたが、地方の諸侯の独立のために今は六十六カ国に分れ、公方様はただ名目上尊ばれているだけである。実力を持った諸侯は互に他を征服しようとし、戦争の絶える時がない。京都にはもう一人、日本人が日本の首長として殆んど神の如く尊崇している神聖な君主がある。神聖であるから足を地に附けることが出来ない。しかし非常に貧しく、ただ進物によって己れを支えている。それに仕えているのが公家で、頗る貪欲である。諸侯の間の争議の調停などをやると、多額の金を受ける。そういう政治的支配者の衰微した状態に比べると、宗教的支配者の力は非常に強い。悪魔がいかに力をつくしてこの国民を欺いているかがそれによって察せられる。仏教は十三の宗派に分れているが、その寺院は実に壮麗であって巨額の収入を有している。僧尼の数も非常に多い。殊に高野山の勢力、奈良の寺院の壮観など、実に驚くべきものである。しかし悪魔の働きはそれだけに尽きない。山伏というものがかなりの勢を持っている。エンキ(善鬼)とか鳩の飼とかというものもある。悪魔は実に綿密に網を張っているのである。そういう網のなかで日本人は、死者を葬るために実に壮麗な行列や儀式をやっている。山口や豊後でキリシタンのはじめた葬儀の比ではない。更に悪魔は日本人に、生きながら葬る方法をさえも教え込んでいる。葬られるものはそれによって法悦を感じ、送るものはそれを羨望するのである。フロイスは京都への途次伊予でそれを見聞した。それ位であるから、生けるものに対する説教も非常に発達して居り、説教師は通例極めて雄弁である。その上坊主は一般民に対する態度が真面目で優しい。パリサイ人の偽善を悉く備えている。だから一般人はそれらの宗旨を信じ、そこに救いの望みをかけるのである。
このようにフロイスは日本に行われていた宗教をすべて悪魔の仕業として説いているが、これは当時のキリスト教宣教師に通有の傾向であってフロイスに限ったことではない。ただフロイスがその「悪魔の仕業」を綿密に考察し始めたこと、それが著しく目立つのである。半月後に書いた二度目の書簡にも、京都の寺院見物について報告している。三十三間堂と東福寺とを見たのである。三十三間堂は今と大差はなかったであろうが、フロイスは千体の観音像の金箔の光が堂内に横溢している光景に感服したらしく、もしこれが異教のものでなかったならば、「天使の集団を想い浮べたであろう」と思われるほどに、仏像の姿が美しかった、と言っている。東福寺は今と異なり堂塔の揃っていた頃のことで、規模は非常に大きかった。フロイスはここでも、坊主の家や庭の清潔で整頓していることは、注目すべきだと言っている。
更に五十日ほど後に書いた三度目の書簡にも、ビレラやダルメイダと共に案内された見物の記事がある。この時には先ず将軍の宮殿を見た。その中で、休養のために設けられた家というのが、精巧なこと、清浄なこと、優雅なこと、立派なことにおいて、ポルトガルにもインドにも比類のないものであった。この家の外の庭も非常に美しく、杉・柏・蜜柑・その他の珍らしい樹木、百合・石竹・薔薇・野菊・その他さまざまの色や匂の草花が植えてあった。そこを出て広い街路を通り、内裏へ行った。「日本全国の最も名誉ある君主、元は皇帝であったが今は服従せられない君主」の宮殿である。この宮殿は入ることが出来ず、ただ外から眺めただけであるが、庭は見物することが出来た。そこを出て西陣の繁華な街を通り、大徳寺へ行ったが、そこには大きい森のなかに、ゴアのコレジヨの敷地ほどの広さ、或はその二三倍もある僧院が、五十もあった。フロイスたちはそのうち三つの僧院をざっと見物しただけであったが、どの一つを取っても数日間見るに値するほどのものを持っていた。建築は美しく、精巧で、清潔である。庭も非常に凝っている。室内の装飾は実に華麗であった。フロイスたちもそれには驚嘆せざるを得なかったのである。
その翌日は東山見物で、祇園から知恩院に廻り、そこで日本の説教師の説教の模様を視察した。その説教師は高貴な生れの四十五歳位の人で、容貌が非常に美しく、声の質や、優雅な態度・動作など、確かに注目すべきものであった。その説教の技倆も嘆賞に値した。これを見てビレラもフロイスも、日本の信者に対する説教の方法を改善しようと考えたほどである。
こういう印象を記したあとでフロイスは力説する。シャビエルが云ったように、日本人は、文化や風俗習慣に関しては、多くの点において、スペイン人よりも遙かに勝っている。日本に来るポルトガル人があまり日本を尊重しないのは、九州の僻地の商人や民衆にのみ接しているからである。そういう民衆と都の人々とは実に甚だしく異なる。シャビエルが日本に眼をつけたのは確かに聖霊のうながしによるのである、と。
そう云う考のフロイスであるから、日本人が洗礼を受ける前にさまざまの難問を提出する所以をも理解することが出来た。ヨーロッパ人は物の道理などを考える前にすでにキリスト教徒となっているのであるが、日本人は異教のなかで育って来た後にキリスト教の真なることを認めて改宗するものであるから、予め教義についての理解に徹しなくては、洗礼を受けることが出来ない。従って宣教師は、日本の八宗を学習研究し、その立場に立ってこれを反駁し得なくてはならない。またそういう異教の影響から脱し得た人々に対しても、キリスト教の教義がひき起す疑問に対して十分に答え得なくてはならない。フロイスはそういう疑問として、次のような問題を列記している。(一)悪魔は神の恩寵を失ったものである。しかるにその悪魔が、人よりも大きい自由を持ち、人を欺くことも出来れば、正しい者を滅亡の危険に導くことも出来る。それは何故であるか。(二)神がもし愛の神であるならば、人が罪を犯さないように作って置く筈である。そうでないのは何故であるか。(三)神が人間に自由を与えたのであるならば、最初に悪魔が蛇の形をして誘惑を試みた時、何故に天使をしてそれが悪魔であることを知らせなかったのであるか。(四)人の精神的本質が清浄であるならば、何故に肉体にある原罪によって汚されるのであるか。(五)善行をなすものが現世において報いられず、悪人の繁栄が許されているのは何故であるか。等々である。ビレラはそれに対して、問者の満足するような答を与えた、というのであるが、その答は記されていない。それはそう容易ではなかった筈である。なおその他にも、もしキリスト教の説く如き全能の神があるならば、何故今日までその愛を日本人に隠して知らしめなかったのであるか、という問が掲げられている。これも簡単には答えられなかったであろう。フロイスもその困難ははっきりと認めている。しかし日本にある多数の宗派が互に相反した意見を持って対立していることは、キリスト教を説くに非常に都合がよかった。もしこれらが悉く一致して唯一の宗教となっていたならば、右の困難は切り抜けられなかったかも知れない。
フロイスが日本の文化に丹念な注意の眼を向けた態度は、ダルメイダにも影響を与えたらしい。堺の日比屋の茶会記を書いたことなどもその結果と思われるが、奈良地方の見物記などにもその趣が現われている。
京都で寝込んだダルメイダは、復活祭の頃には回復して教会の行事に参加し、そのあとでビレラやフロイスと共に京都見物をもやった。そうして、多分ロレンソをつれて、大和地方をも巡回したのである。奈良につくとすぐ翌日には松永久秀の信貴山城を訪れた。少し前二月の末頃にはビレラが奈良に松永を訪ねているが、この時にも先ず松永の居城に行ったということは、恐らく当時の政情とかかわりがあるであろう。ダルメイダはその記事のなかに、三好殿や将軍の臣下である松永弾正が、逆に将軍や三好殿を己れの意志に従わせていると、はっきり書いているのである。がこの訪問の時には、松永の家臣の信者たちに款待され、松永の城内を見物しただけで、久秀自身には会っていない。城は着手以来もう五年になるので、城内には重臣たちの二階建や三階建の白壁の邸宅が美しく建ち揃っていた。それは「世界にもあまり比類のないような美しい別荘地」に見えた。松永の館は総檜造りで、一間廊下は一枚板で張られて居り、障壁は悉く金地に絵をかいたものであった。京都で立派な建築を見て来たばかりのダルメイダの眼にも、これは一層立ちまさって見えた。「世界中でこの城のように善美なものはなかろうと思う」とダルメイダは極言しているのである。
翌日ダルメイダは、日本人が遠国から苦心して見物に来る奈良の寺々を見て廻った。先ず行ったのは興福寺であるが、これは応永修築の、七堂伽藍の完備したものであって、その結構の壮大なことが彼の眼を驚かせた。柱が太くて高いことだけでも、そういう大きい樹木をあまり見たことのないダルメイダには驚異であった。そこから、杉並木の壮麗なのに感嘆しながら春日神社に行き、手向山八幡宮を通って大仏殿へ出たのであるが、これも寿永修築の大仏殿で、今のとは形も大きさも違うものである。ダルメイダは日本の建築が一目して寸法の解るものであることを説いたあとで、大仏殿を間口四十ブラサ(約二九〇尺)、奥行三十ブラサ(約二一八尺)と記している。しかしこの堂は天平尺で間口二九〇尺奥行一七〇尺であったのであるから、間口の方はかなり精確であるが、奥行の方が合わない。恐らく十一間七面の柱間を各四ブラサと見つもり、正面の柱間を十としたのに対し、側面の柱間を七と数え誤まったのでもあろうか。いずれにしてもこの堂は、唐招提寺の金堂を重層にして拡大したような、壮大なものであった筈である。ダルメイダはこの堂を取り巻く廻廊と、それに取り巻かれた庭との美しさを特筆しているが、この美しさの印象に大仏殿の印象が籠っていない筈はないであろう。大仏の大きさはさほど彼を驚かさなかったが、立ち並ぶ九十八本の太い柱は彼に強い刺戟を与えた。日本のように開けた、思慮のある国民が、こんな壮大な殿堂を築くほどまでに悪魔に欺かれているとは、実に驚くのほかはない、と彼は感じたのである。
ダルメイダは奈良見物のあとで、ロレンソの教化した十市城の信者たちや沢城の領主ドン・フランシスコなどを訪ねた。これらは、当時松永久秀の手についていた武士たちである。特にドン・フランシスコは、ダルメイダが見た日本人のうちで最も偉大な人物であった。体格が大きい上にあらゆる美質を備え、優雅快活で愛と謙遜に富み、勇敢であると共に深慮のある人であった。ダルメイダの滞在中にこのドン・フランシスコは、四五里離れた他の城主を訪ね、松永久秀から叛こうとする意図を喰い止めたという。
ダルメイダはドン・フランシスコの手の者に送られて堺に出、五月中旬に船に乗った。ロレンソのほかに、堺の高名な医者で、「この世を捨ててヤソ会に入った」学者が、一緒であった。
三 将軍暗殺と宣教師追放
京都で将軍暗殺という変事が起ったのはそれから間もなくである。
前年三好長慶が死んだにもかかわらずその喪を秘していたことは、いろいろな不安を反映したものであろう。先ず第一に三好や松永はその把握した権力を敵から守る必要があった。第二に三好の権力は家臣の松永の手に移りつつあった。この情勢を察したビレラは、二月から三月へかけて、河内の飯盛城や奈良の松永の城を訪ねて行ったのである。しかし、松永久秀への働きかけはうまく行かなかったであろう。ビレラの留守の間に書いたフロイスの書簡によると、畿内において武士たちの改宗の先駆けとなった結城山城守は、その主君たる松永久秀の京都統治が専横残虐であるのを見て、郷里の尾張へ帰りたい意志を洩らしたという。その頃からもう何かが萌していたのである。しかし事が起ったのは、三好と松永の軍隊一万二千が五月末(永禄八年五月一日)に京都に来てからであった。
フロイスはこの時のことを記して、三好殿が将軍から栄誉を与えられた機会に、その謝意を表するため、己れの子、松永弾正、及びもう一人の大身をつれて京都に来たと云っている。当時京都の町の人もそう思っていたかも知れぬ。しかしこの時来たのは三好長慶の子重存(義重)、松永弾正の子久通(義久)である。重存はまだ十五歳、久通も若かった。初めての任官で、両人とも将軍義輝の「義」の字をもらった。両人はその御礼に将軍を饗応したいと申し出たが、将軍は彼らの軍隊の物々しさに怖れて、その受諾を躊躇し、或は京都からの脱走を計ったとさえ云われている。結局、饗宴の予定の日の二日前、一五六五年六月十七日(永禄八年五月十九日)早朝、清水詣を装った七十騎ほどの三好の隊が突如方向を変えて将軍の宮殿に赴き、訴状を出した。それは将軍の夫人、侍女、その他の侍臣が彼らを讒したという理由を以て、その引渡しを要求したものであった。この訴状に関して将軍ととやかく折衝している間に、三好、松永の軍隊は宮殿を囲み、銃隊はすでに庭にいた。やがて射撃が始まり、宮殿には火が放たれた。将軍義輝も母堂慶寿院も殺された。(夫人のみは幸いに脱れたが、二三日後、見出されて頸を切られた。)これがこの年の正月の参賀にフロイスの見た貴人たちの最後であった。
こういう思い切ったやり方が、十五歳の義重や義久の頭から出たのでなく、奈良の多聞城で采配を振っていた松永久秀の計画であったことはいうまでもあるまい。下剋上の大勢を代表する久秀は、伝統的なものの権威に終止符を打ちたかったのであろう。久秀の重臣であった結城山城守は、その日の夜、キリシタンの老人を使に寄越して、自分は主人の心を知っている筈のものであるが、しかし今度のことは全然知らなかった、将軍を殺すほどであるから何をするか解らない、宣教師たちは信者らと談合して自ら救う方法を講じなくてはならぬ、といわせた。老人の説明によると、松永久秀は法華宗徒である。法華宗の僧侶はキリスト教を憎むこと甚しいのであるから、久秀を説いて宣教師殺戮をやらせるかも知れない、というのであった。翌日ビレラは数人の信者と談合して次のように決心を語った。松永弾正、或はその子が、宣教師たちを殺そうと決心したならば、宣教師たちには脱れる道はないのである。だから逃げても仕方がない。京都の会堂は異教徒に占領されればもはや回復は出来ないであろう。だからあくまでも会堂を守り、祭壇の前に跪いて喜んで死のう、と。信者たちは同意見であった。三好の部下のキリシタン武士たちも、百人位しか来ていなかったが、皆同意見であった。彼らは松永弾正を呪い、その宣教師に対する計画を探知して知らせると約したが、しかし将軍の場合と同じく奇襲をやられては自分たちは間に合わないだろう、と言った。で祭具などはこっそり堺や飯盛に移すことにした。そうしてじっと形勢を観望していた。
将軍家の次にはキリスト教の宣教師である、とフロイスたちは感じていたが、しかし将軍の家臣や親近者が続々として捕えられ殺されて行く間に、キリスト教会堂に対する襲撃は全然なかった。それは三好の部下のキリシタン武士たちのお蔭であったのか、或は松永弾正自身が宣教師問題に重きを置かなかったのか、よくは解らない。が丁度この頃に、右に言及した結城山城守の長子で三好の部下となっていたアンタン左衛門が、毒殺されるという事件も起った。法華宗の僧侶がこの機会を捉えてキリスト教排撃運動を強化したということも事実であろう。松永弾正は結局宣教師の追放、布教の禁止の策を取った。しかし最初布教を許可したのは将軍や三好長慶のみではない。京都の統治の責任者としての彼自身の名において、宣教師たちは京都居住を許されていたのである。だから彼は、おのれの名においてではなく、将軍よりも一層無力でありながら将軍よりも一層尊貴である「日本全国の君主」の名において、追放令を出した。即ち禁裏に申し出でて女房奉書をもらい受け、「大うす逐ひ払ひ」をやったのである。それは一五六五年七月三十一日(永禄八年七月五日)三好、松永の軍隊が京都を引き払った日の日附で、その翌日市内に布告された。布告の出た時には宣教師たちはもう京都に居なかった。
このように、宣教師の京都脱出がうまく行ったのは、三好の部下のキリシタン武士たちの働きのためであった。宣教師たちが殺されるであろうという噂を聞いたキリシタン武士たちは、所々の城から神父のもとに使を寄越したが、特に飯盛の城からは、信者のうちの主立った武士がビレラを連れに来た。ビレラを自分たちが擁していれば、万一危険が迫った際に緩和策を講ずることができると考えたからである。ビレラは、フロイスがまだ日本語を十分に話し得ないので、自ら留まって事を処する必要があると云って、中々承知しなかったが、武士たちの熱心なすすめにより、遂に出発することにした。フロイスに対しては、「日本全国の君主」或は松永弾正の命令を受けるまでは、会堂及び住館を捨ててはならないと命じた。ビレラの出発は七月二十七日金曜日であった。それから三日目、二十九日の午後になると、いよいよ追放令が出たらしい情報を信者たちが持って来た。松永弾正のすすめによって日本全国の王が追放の書附を出したことは事実である。弾正の子の義久も同じ命令を出した、即刻会堂を捨てて退去するがよい、というのであった。フロイスは三人の少年に祭具の類を託して出発させたが、自分は動かなかった。追放の命令を自分が受けるまでは、会堂を捨てることは出来ない。ビレラの命令の方が自分の命よりも重い。これがフロイスの態度であった。しかし翌三十日の朝になると、三好三人衆の一人である三好日向守が、その家臣のキリシタンを使に寄越して、実情を伝えた。日向守は宣教師の追放という如きことを極力阻止しようと努めたのであったが、松永弾正が背後から指図しているために、遂に成功しなかった。三好、松永の軍隊は翌日朝京都を引き払うことになっている。神父たちがその後まで京都に滞在することは危険である。出来るだけ早く堺もしくはビレラの滞在地に向って出発して貰いたい。途中は兵士を以て護衛する、というのであった。船二艘がすでに準備してあり、所持品の保護や関税の免除の手筈も整えてあった。なお日向守のほかにもう一人、三好義重の後見の如き職にある人も、同じような手配をしてくれた。それでもフロイスはその日に出発はしなかった。翌三十一日には命令の伝達があるであろうと待ちかまえていたのである。その命令の伝達は「われらの大敵なる二人の異教の武士」によって行われる筈であった。その予定の通りに行けば、フロイスやダミヤンは侮辱と苦痛とを受けて文字通りに追放せられたであろう。しかし三十一日の朝には、三好義重の秘書官役をつとめていたキリシタン武士が、主君と共に出発せず、部下を率いてあとに残った。そうして部下をして会堂を護らせたのみならず、追放命令を実施しようとしていた武士たちと懇談し、同日中に宣教師を連れ出すから追放令は翌日まで市内に布告しないで置いて貰うこと、彼らが追放令を持って会堂に赴かずとも彼がそれを宣教師に取次ぐべきこと、などの諒解を遂げた。そこでフロイスはゆっくりと信者たちに別れを告げた。信者たちも会堂を異教徒によって破壊せられる前に、自分たちの手で戸障子畳などを外して運び出してしまった。フロイスたちは午後三時頃、キリシタンの武士たちに護られ、大勢の信者たちに取り巻かれて、京都の地を離れた。町から一里半ほど来た野の中で、ダミヤンが見送りの信者たちに信仰の堅持を説き、教会回復の期待を語り合って別れた。熱心な信者三人は別れずに飯盛までついて来た。その一人は小西行長の父、小西隆佐であった。
こうして京都の教会は、建設以来六年、漸く盛大になりかけた途端に覆滅させられたのである。その隆盛の機運を作ったのは、三好氏に属する武士たちであったが、今や同じ三好氏の配下にいた松永久秀が、はっきりと反対の態度を見せはじめた。松永方と三好三人衆との対峙は、この頃から激成されて来たのである。キリスト教が武士の政治的権力と結びつくと共に、同じ武士階級のなかから反キリスト教的な運動が抬頭してくるという現象は、九州の大村の場合と同じように、ここにも見られる。尤もここでは、キリシタンの武士が仏像仏寺の破壊を敢行するというところまで行ったわけではないが、松永久秀はその独裁的権力の掌握のために、キリスト教排撃を有利としたのである。奈良を根拠地とする久秀にとっては、仏寺の勢力は無視し難いものであったに相違ない。この関係を考えると、仏寺及び宗教一揆に対して思い切った弾圧の態度をとった織田信長の出現が、日本におけるキリシタン全盛時代を作り出した所以は、理解せられ易くなるであろう。
四 京都回復の努力
京都を立ったフロイスたちは、鳥羽から船に乗り、夕方枚方で飯盛の武士たちに迎えられ、夜半に飯盛山下砂の結城左衛門の建てた小庵に着いた。そこにはビレラや信者たちが集まっていた。キリシタンの武士たちは宣教師の京都追放を憤り、おのれの所領や妻子を捨てて死の覚悟を以てそれに抗議しようといきり立っていたので、ビレラはそれを鎮めるのに苦心していた。フロイスは更に一里ほど先の三箇島に行って泊った。
一週間ほど後に、ビレラとフロイスとは送られて堺の町に移った。ここは当時としては最も安全な場所であった。二人は日本人のイルマン二人と共に布教に従事し、訪ねてくる飯盛の武士たちを力づけると共に、この富裕な町の教養ある人たちの間に教をひろめた。その間にも京都の教会の復興の努力は絶えず続けていた。一方では飯盛の武士たちが、他方では京都の信者たちが、それに呼応した。追放令は松永弾正の名においてではなく、「日本全国の王で絶対君主でありながら何人も服従せず、偶像のように宮殿の中にいて外に出ることのない内裏」の名において発せられたのであるから、京都へ帰る免許状もこの内裏から得なくてはならない。京都の信者たちは、将軍、三好長慶、松永久秀等から得た免許状を提出して、諒解を求めた。一年後の一五六六年六月頃には内裏の意向が解った。免許状は与えてもよい、しかし「神父たちは、人肉を食いはしない」ということを、信者一同が仏前に誓わなくてはならぬ、というのであった。偶像による宣誓という条件は問題の解決を困難にした。もう一つの望みは、阿波公方足利義栄を擁している三好長治の家の実権者篠原長房であった。この人は人物も立派であり、キリスト教に同情を持っている。その勢力が京都に及び、義栄を将軍とすることが出来れば、そこにも教会回復の道は開けるであろう、とフロイスたちは考えていた。しかしこの道も容易に開けなかった。
一五六六年四月の末に、ビレラはトルレスの命によって豊後に移った。平戸を追放された直後、京都布教を命ぜられて初めて堺に着いてから、もう八年目であった。その間のさまざまな艱難が、この四十代の神父を白髪の老人にしてしまった。今また京都を追放され、彼の建てた聖母の会堂を再興する見込も立たないままで、堺を立って行ったのであった。
あとに残ったフロイスは、日本に着くと間もなく横瀬浦の没落を見、京都に入ると間もなく京都の教会の没落を経験した人であった。ということは彼が最初の開拓者たちのあとを受け、その仕事の再興という立場に立っていたことを意味する。そのためには何よりも先ず、ビレラやロレンソが数年間の苦心で作り上げた信者たちを、保持して行かなくてはならなかった。堺には信者の数が少なく、会堂らしいものもなかったが、一五六六年のクリスマスには堺の町の会議所を借り、町の外で対峙していた軍隊のなかのキリシタンの武士たち七十人ほどをも参加せしめて、告解・聖餐・ミサなどにつとめた。戦場では敵対している武士たちが、ここでは一人の主君の家来ででもあるかのように睦まじかった。飯盛からはサンチョが部下をひきいて参加した。一五六七年の一月にはサンチョに招かれて三箇に行き、八日ほどの間毎日二回のミサを行った。四旬節には三箇から灰をもらいに来たが、復活祭の週は堺と京都との信者たちが三箇に集まって一緒に祝うことになった。そのためのサンチョの尽力は非常なものであった。交通のための船や馬の用意、宿の割りあて、会堂の応急拡張など、費用を惜しまずに努めた。三年来告解の機会を持たなかった京都の信者たちは、泣いて喜んだ。がこうして信者たちが集まって来た丁度その時期に、三好義重が兵を起したとの知らせが堺から来た。一同は騒ぎ立って復活祭の行事も滅茶滅茶になるかと見えたが、サンチョは平然として、この地は安全である、十五日や二十日の間に戦争の起ることはない、帰途の安全も引きうける、神の光栄のために集まったものは神が守って下さると言った。それで一同は安心して予定通り復活祭を終った。
この時信者たちを脅かした戦争の噂は、三好義重が三好三人衆の手を離れて松永久秀と合し、久秀がその党を集め始めたことにかかるであろう。サンチョの予言の如く半月や一月で戦争にはならなかったが、半年後には、奈良の大仏殿を焼いたあの戦争になったのである。
このように三好の当主義重が三好三人衆と離れたのは、阿波より迎えられた足利義栄が三好三人衆を重んじて義重を省みなかったからである。足利義栄は前年の夏篠原長房に擁せられて兵庫に上陸し、摂津越水城に拠っていた。三好三人衆は篠原長房と力をあわせ、義栄を足利将軍たらしめようと企てていたのであるが、その長房の寵臣に一人のキリシタンがあり、その縁でフロイスも二三度長房に会い款待を受けた。長房はフロイスの請に委せ、公家の一人に書簡を送って宣教師の追放解除を説いたこともある。飯盛のキリシタン武士たちもこの点において長房に結びついた。二十五人ほどの主立った武士が尼ヶ崎で会合し、篠原長房と三好三人衆との前へ出て、代表者三箇のサンチョをしてその主張を述べしめた。自分が三好の居城飯盛を預かった時には、神父を京都へ帰らしめるということのほかに希望はなかった。しかるに三好三人衆はそのことを実現しないのみか寧ろそれを妨害して来た。しかし神父を京都に帰還せしめることは我々の面目の問題である。今や三好の当主は松永と合体し、三好の家臣たる我々はそれに従わなくてはならないのであるが、しかしもし篠原長房及び三好三人衆が神父の京都復帰を決定せられるならば、我々は篠原殿の手について力限り働くであろう。我々の求めるのは禄でもなく名誉でもなく、ただ神父の京都帰還である、というのであった。長房はこれに同意し、三好三人衆をもほぼ同意せしめた。しかるに丁度その頃、三人衆の親戚の青年で、三箇でキリシタンとなった武士が、越水城の青年武士と共に遊山に行った際、些細な言葉争いから仏像に不敬を加えるという事件が起った。三好三人衆はまた硬化しそうに見えた。篠原長房もこの事件を喜ばなかった。しかしそれは神父の責任ではないというので、半月ほど後に、長房は公家宛の書簡を書き、三好三人衆にも渋々と同様の書簡を書かせた。こうして篠原長房の圧力が漸く内裏に加わり始めた途端に、堺附近にいた三好義重が松永久秀に擁せられて信貴山城に入ったのである。それは一五六七年の五月の初めであった。公家は形勢を観望して容易に返答を与えなかった。松永久秀と篠原長房とのいずれが勝つかは、――況んやこの二人のいずれもが制覇に成功しないであろうなどとは、当時何人にも解らなかったのである。
一五六七年の夏、奈良まで攻め寄った三好三人衆の軍隊は、大仏殿に陣して多聞城の松永の軍に対したが、攻囲半年の後、夜襲によって大仏殿を焼かれ、敗退した。しかし京都制圧の勢力を失ったわけではなかった。篠原長房らは足利義栄の将軍宣下に努力し、年内には成功しなかったが、翌年の三月の初めには遂に成功している。堺のフロイスの状況はあまり変らなかった。一五六八年の復活祭は前年のように三箇で行われた。サンチョの計画した会堂はすでに出来上りつつあった。前年に異なるところは、フロイスが尼ヶ崎その他摂津の地において身分ある武士たちを教化したことである。京都の会堂は篠原長房の尽力によって信者たちの手に返り、聖霊降臨祭の後には日本人のイルマンが行って四十日ほど働いた。神父の京都帰還については、長房は遂に、最後通牒を発した。神父を追放しなくてはならないという理由は、何にもない。だから神父の京都帰還を許可せられないならば、自分は権力を以て彼らを復帰せしめるであろう、というのであった。
しかるに、それがどうなるか解らないうちに、織田信長が、将軍たるべき足利義昭を擁して上京して来たのである。
第七章 九州北西沿岸地方における布教の成功
一 福田の開港
一五六五年、京都で将軍暗殺の変事が起った時よりも一カ月ほど前に堺を出発したダルメイダは、豊後を経て島原でトルレスと落ちあい、おのれの開拓した葡萄園の果実を静かに味うことが出来た。そこから信者たちの二艘の大船に送られてトルレスと共に口の津に帰ったが、ここも彼の開拓した土地であった。しかし彼は、席の温まる暇もなく、半月の後にロレンソを伴って福田の港に派遣されたのである。
長崎の直ぐ西の、外向きの海岸にある福田が、横瀬浦に代って大村領の開港地に選ばれたのは、この年からである。やがて一五七〇年に長崎が開かれるに至るまでの四五年の間、(口の津が用いられた唯一年のほかは、)福田がポルトガル船の寄港地になった。しかし平戸の地位を福田が奪うについては、相当に面倒なことが起らなかったのではない。前の年には、トルレスの平戸忌避の方針にもかかわらず、ポルトガル船が平戸へ入った。ポルトガル王から任命された司令官の乗船サンタ・クルスさえもそうであった。司令官ドン・ペドロ・ダルメイダがトルレスの方針に従おうとしても、商人たちはそれをきかなかったのである。そこで当時度島にいたフロイスは司令官と相談して、平戸の領主松浦侯に交渉し、宣教師追放の取消しや会堂再建の許可を取りつけることに成功した。平戸の領主にとっては、そういう犠牲を払ってでもポルトガル人との貿易を続けたかったのである。こうして前の年の十一月には、日本で最も大きく美しいといわれた会堂が出来上り、日本に馴れたフェルナンデスのほかに新来の神父ダ・コスタ・カブラル、少し前に来たイルマンのゴンサルベスなどが滞在して、盛んに布教を始めた。松浦侯に対しても、会堂へ招待したりなどして、いろいろと働きかけた。附近の島々では、著しく教勢を拡めることが出来た。そういう形勢から考えて、平戸の領主は、一五六五年度のポルトガル船も勿論平戸へ入港すると考えていたに相違ない。しかるにその一五六五年の七月ごろ、司令官ドン・ジョアン・ペレイラの乗った商船が横瀬浦について平戸へ連絡したとき、平戸にいた神父コスタは、ペレイラの平戸入港を止め、新しい港福田に廻航させたのである。その理由は、松浦侯の嗣子がキリシタンの少年の持っていた錫のキリスト像を涜したことに対し、松浦侯が謝罪の約束をしながら、それを履行しなかった、ということである。キリシタンが仏像の破壊を大仕掛けにやっていることに比べれば、この少年の仕業は、松浦侯の眼には一小些事に映ったであろう。従ってこの事を口実としてポルトガル船が平戸入港をやめるとは予期していなかったであろう。しかし神父たちは既にキリシタンとなった大村純忠を支持するために、ただ貿易のための方便として渋々布教を許しているような平戸の領主から、貿易の利を取上げるという方針を確定していたのである。司令官ペレイラはこの方針を是認し大村領の福田港で貿易を開始した。これを知った平戸の領主は、ポルトガル船の「生意気」な振舞いを憤り、遂に五十余艘の軍船を派してこれを襲撃せしめたのである。ドン・アントニオ籠手田は勿論この企てには反対であった。だから松浦侯は彼に知られないように、ただ反キリシタンの武士たちだけを集めてこの企てに参加せしめた。倭寇と関係がないでもない彼らは、ポルトガルの「商人」に何程のことが出来ようと見くびっていたのでもあろうが、しかし襲撃は全然失敗であった。大砲の威力は大きかった。軍船隊は分散破壊せられ、死者六十余、負傷者二百余を乗せて帰って来た。目ぼしいキリスト教の敵が大勢死んだ。これでポルトガルの商船と平戸港との関係はきっぱりと絶えたのである。
福田の港へ来たポルトガル人の告解を聴きミサを行うためには、豊後から神父フィゲイレドが呼ばれ、ダルメイダに一足おくれて来た。丁度その頃に領主の大村純忠が、七歳位の長女の病気をなおしに来てくれと頼んで寄越したので、ダルメイダは、畿内で多数の武士を教化したロレンソをつれて大村に赴いた。純忠は内乱勃発の一寸前にトルレスに会って以来、二年の間、宣教師の誰にも会う機会がなかった。その間彼は、キリスト教信者なるが故に、多くの攻撃を受け、それに堪えなくてはならなかったのである。従って彼の周囲において最も必要であったのは、仏教との対決においてキリスト教の信仰を確立することであった。この仕事はロレンソの最も得意とするところであった。ダルメイダが純忠の女を治療している間に、ロレンソは数回説教を行い、武士たちを感動せしめた。
ダルメイダは福田の港に引き返すと直ぐトルレスの命によって口の津に帰り、そこから、豊後へ派遣された。途中島原に寄って「日本中での最も熱心なキリシタンたち」の面倒を見、豊後では府内のバウティスタを助けて働き、臼杵の町に宣教師館を建てる世話をしたが、十月にはまた福田の港へ来た。
その間に純忠は福田の港へ神父フィゲイレドや船長ドン・ジョアン・ペレイラなどに会いに来た。会堂で祈祷した後、船に行って盛大な饗応を受けたが、ポルトガル人たちは非常に喜んで、この領主のためにはどんな事でもしようと申し出た。キリスト教のために戦う領主ということで、彼は、ポルトガル人の同情と、そうして貿易とを、一手に集めたのである。
二 キリシタン武士たちの努力
一五六五年の十月にドン・ジョアン・ペレイラの船は福田港を去った。そのあとでトルレスは、病気療養のため平戸から福田へ呼び寄せていたカブラルをイルマンのバスと共に豊後に移し、クリスマス後にはフィゲイレドを島原に派遣した。フィゲイレドはまだ日本語が話せないので、堺の人パウロが彼を助けて、一五六六年の四旬節、復活祭などを営むことになった。告解をきくためには、口の津からトルレスが出向いて行った。ダルメイダが基礎をつくり、フロイスが口を極めて賞讃した島原の教会は、こうして一時非常に隆盛になりかけたのである。(そのため翌一五六七年には烈しい反動を呼び起したのではあるが。)
有馬領の口の津や島原がこうしてキリスト教化して行くのを見た大村純忠は、頻りに宣教師の大村派遣を懇請して来たが、トルレスはそれに応じなかった。今はもう「手が足りない」からではない。敵地の平戸や、大村よりも新しい島原にさえ、神父を駐在せしめている。しかも日本で最初のキリシタン大名たる大村純忠の許へ宣教師を送らないのは、純忠の敵に謀叛の機会を与えないためだ、と説明された。従ってトルレスは、純忠が針尾地方を占領するまでは宣教師を送らない、と明白に答えた。針尾は横瀬浦の対岸の島で、平戸領に接し、トルレス暗殺の計画を立てた勢力の根拠地であった。トルレスのこの態度を見た純忠は、さしずめの必要として家臣を三四人ずつ次々に口の津へ洗礼を受けに寄越したが、問題の根本的解決をはかるためには、一五六六年の五月頃に、いよいよ針尾地方、従って平戸の勢力に対して、戦端を開く決心をしたらしい。温厚なトルレスにも十字軍的な気持はあったのである。
平戸の領主や、その配下の反キリスト教的な武士たちが、この形勢を察知していなかった筈はない。しかし彼らの教会に対する態度は、上べに愛情を現わしつつ、行う所において敵たることであった。福田の港から教会に送られる食糧や器具の類はしばしば掠奪をうけ、掠奪された聖母像が涜されるというような事件も起った。それにつれて、キリシタンの武士と反キリスト教的な武士との間の軋轢も起った。もし宣教師が抑止しなかったならば、ドン・アントニオ籠手田やその兄弟ドン・ジョアン一部などは、聖母への侮辱に報復するために、武器を取って立ったであろう。しかし宣教師は、異教徒が数においてキリスト教徒に三倍すること、報復の行為は異教徒に教会破壊の口実を与えることを説いて、堅く手出しを止めた。反キリスト教側の武士たちも会堂破壊、ドン・アントニオ襲撃などの計画を立てたことがあったが、キリシタンたちの決死の防衛態勢を見た領主たちは、同じように手出しを禁じた。そういう仕方で漸く平戸の教会は、「平和のうちに」存立することが出来たのである。
一五六四年の秋、平戸の教会が回復される機会に渡来した神父のコスタは、日本語を学ぶ上に驚くべき進歩を示し、翌一五六五年のクリスマスの一月ほど前には、自分で告解をききうるほどになった。告解の際の勤めは、トルレスよりもよく解るほどだとさえも云われた。これは平戸や附近の島々の信者たちにとっては、大きい出来事であった。この地方で告解をきいたのはトルレスだけで、そのトルレスが口の津にいるために、もう四年来告解が出来なかった。あとの神父たちは、フロイスもカブラルも、告解をきくほどに日本語が出来なかったのである。だからコスタが告解をきき始めると共に、島々の信者は沸き立った。一五六六年の一月からは、生月島、度島、平戸西岸の村々を廻って、告解をうけた。この地方の古馴染のフェルナンデスも一緒であった。この巡回は島々の信仰を新しく活気づけたが、その後四旬節から復活祭までの営みを平戸の会堂で行う際にも、これまでに見られなかったような活気が現われた。教会回復以来、毎年の復活祭は、敵のいない度島へ行って営んだのであるが、この年には異教徒の妨害に備えた武装警戒のもとに、平戸で盛大に行ったのである。こうして平戸諸島には、この後のどんな迫害も根絶せしめなかったような根強い信仰が育てられたのであった。
三 ダルメイダの五島、天草及び長崎の開拓
この同じ年にトルレスは、ダルメイダをして二つの新しい土地を開拓せしめた。五島と天草とである。
一五六六年の初め、フィゲイレドが島原へ派遣されたと同じ時に、ダルメイダは五島へ派遣された。元琵琶法師のロレンソが同行した。この五島の開拓についてはダルメイダが詳細な報告(一五六六年十月二十日附岐志発)を書いている。一人も信者のいなかったこの島で、彼は半年余の間に、多くの信者と数カ所の会堂とを造り出したのである。
最初、彼が島に着いたのは太陰暦の正月の前であったが、やがて新年になり、島の主立った武士たちが領主の許へ集まって来た。(ダルメイダは領主の居所をオチカとしている。しかし小値賀島ではなさそうである。普通には今の福江港だとされている。)それらは皆相当の教養を持っていた。そこで正月の十五日過ぎに、これらの武士たちに対して、七日間説教をしたいということを申し出た。領主は、今空いている旧邸を提供し、自分や夫人も聴聞する旨を告げた。翌日夕方その邸に行くと、大広間に燈火を多く掲げ、四百の男子が列んでいた。婦人たちは接続した他の室に控えていた。領主は上段の間にいたが、そこへダルメイダやロレンソを請じた。座が静まったときダルメイダは、自分は日本語が十分でないから、ロレンソをして自分の考を述べさせる、と挨拶し、ロレンソに説教を始めさせた。その内容は宣教師が日本の各地で説いていることと変りはなかったが、しかしその説き方が実に放胆・軽妙・明快で、聴衆を承服させずにはいない力を持っていた。特に異教の立場との討論を一人でやって見せたのが鮮やかであった。こうしてロレンソは三時間の間聴衆を魅了した。その手際はダルメイダをも驚嘆させるほどのものであった。領主も武士たちも非常な感銘を受け、続いて説教を聴こうという気持で帰って行った。
このようにすべり出しは好かったのであるが、突然その翌日、領主は烈しい熱病にかかった。命も危いように見えた。仏僧たちはそれを仏罰だと云った。武士たちの心に萌えた芽は直ぐ枯れそうになった。しかし、仏僧たちが病気平癒のために大わらわになってやった大般若経の転読も効果はなかった。三日目には病気は一層重くなった。この時ダルメイダは、領主は恢復する、このままほって置けば大般若がきいたことになる、と考えた。そこで宿の主人である武士を介して、自分は薬を持っているし医療の経験もある。領主が脈をとり尿を験することを許されるならば、病気は癒せるであろう、と申し入れた。領主は喜んでダルメイダを招いた。翌日ダルメイダは領主を鄭重に診察し、解熱剤を与えた。薬はその日からきき始め、次の日にはよほど熱が下りた。ダルメイダはその心理的な効果に一層力を入れた。あとにはひどい頭痛が残り、夜間の往診を必要とするほどであったが、この時には鎮痛剤催眠剤を与えた。領主は久しぶりで熟睡した。その心理的な効果もまた大きかった。次の日往診したダルメイダは、領主の病の快癒したことを告げ、彼を救ったのが天地の造主であって、大般若経でないことを説いた。ダルメイダの宿には、領主から贈った猪一頭、雉二羽、家鴨二羽、大きい鮮魚五尾、酒二樽、米一俵、その他領主夫人、庶子などの贈物が充満した。ダルメイダはそれで以て領主の家臣数人を招き、領主の病気平癒の祝宴を開いた。ダルメイダは勝ったのである。
しかし半月ほどの後、四旬節の初めに再び説教をはじめると、その二日目にまた突然火災が起り、同時に領主の指が腫れて痛み出した。指はダルメイダの薬で癒ったが、説教をききにくるものは殆んどなくなった。ただこの島に来ていた博多の商人が二人、教をきいてキリシタンになったことが、この地の人々の注意を引いた位のものであった。
他方、医者としてのダルメイダの信用は大したものであった。領主は、その伯母の病気の治療をダルメイダに頼んだ。領主の娘・庶子・甥・弟なども彼の治療を受けた。これらの病人が簡単な薬で癒ったことは、ダルメイダ自身にも不思議に思われるほどであったが、そのお蔭で彼は領主やその家族親戚と非常に親しくなった。領主は説教場に使った邸宅を彼に与えると云い出した。
この現象は貿易のために熱心な平戸の領主がキリスト教を喜ばなかったのと似たものである。だからダルメイダもまた、布教がうまく行かないならばこの地を去るほかはない、という態度を取ることになった。島に来てから三カ月以上を経たとき、彼はトルレスからの使者が携えて来た大友宗麟の招きの書簡を見せて、領主たちに島を去る旨を告げた。領主は涙を流して引きとめたが、ダルメイダは、長老の命令であるからと云ってきかなかった。止むを得ず領主は家臣一同を招いて盛大な別宴を催した。が、出発の前夜になって領主は、二十歳になる一子と共にダルメイダを訪ねて来て、再び熱心に引きとめた。領主がダルメイダを招いて以来もう百日を超えている。しかるに領内にはまだ一人のキリシタンも出来ていない。かく無収穫でダルメイダが去ることになると、家臣たちは何と批評するであろう、と領主は言った。これはダルメイダが云いたかったことなのである。それを領主から云わせて、ダルメイダは留まることに同意した。トルレスからの使者にその旨を復命して貰い、再度の指令の来るまで取り敢えず留まろうというのであった。
領主は非常に喜んで、ダルメイダの望む布教活動の支持に乗り出した。会堂の敷地を与え、その建築を補助する。キリシタンとなろうとする者には許可を与える。異教の祭は強制しない。会堂に領地を附け、その収入を慈善事業に使わせる、などである。またトルレスに多くの贈物を届け、ダルメイダの五島滞在を懇請する手紙を書いた。領主の家族や、町の人の喜びも非常なものであった。やがて領主は五十人ほどの武士と共に説教をききはじめた。ロレンソがまたその雄弁をふるった。十四日の間説教は続いた。重臣など二十五人の武士が改宗を決意した。そこで更に二十日間の準備教育をして洗礼を授けることになった。その途中で仏僧の妨害や平戸人との紛争が起ったが、それは二十五人の武士の決意を揺がしはしなかった。そこでダルメイダは、最後に一夫一婦の条件を持ち出した。武士たちは大抵三四人の妻妾を有していたからである。武士たちはその条件をも容れて、妻一人を定めた。この事は領主の夫人を初め婦人連に非常に好評であった。キリシタンとなった者の妻は幸福である、と領主の夫人は言った。こういう準備のあとで、二十五人の武士は、出来る限り荘厳な仕方で洗礼を授けられたのである。
これを皮切りとして急激に布教の仕事は進んだ。領主の居所から一里半ほどの所(大津)では、寺を会堂に改造した。その近くの奥浦では、景色の好い岬の上に会堂の敷地を作り、ダルメイダの二十日間の滞在の間に百二十三人の受洗者を出した。やがてこの敷地には、領主が美しい会堂を建ててくれたのである。それほどであるから、領主の居所オチカの町では、受洗希望者は続々として現われて来た。領主は、ロレンソが最初説教した大きい邸をダルメイダに与えたが、ダルメイダがそれを利用しないのを見て、ダルメイダに希望の設計図を引かせて会堂の建築にとりかかった。婦人や子供の教化はこの会堂の落成後に延ばさざるを得なかった。
こうして五島の布教が順調に進み出したのは六七月の頃であったが、間もなく、平戸の領主の姻戚である武士が、五島の領主に叛いて兵を挙げた。キリシタン武士たちは勇敢に戦って謀叛人たちを敗走させたが、平戸の領主はその姻戚を助けるために二百隻の軍船を派遣することになった。沿岸の住民は食糧を携えて山城に籠った。奥浦で病気になっていたダルメイダも、命からがら峻険な山にのぼらざるを得なかった。しかし幸にもドン・アントニオ籠手田の率いた平戸の大艦隊は、五島の端の島の海岸数カ村を焼いただけで、約一カ月の後にひき上げてしまった。五島の領主は百隻の艦隊を派して平戸領の島に復讐した。
口の津のトルレスは、ダルメイダの病気のことを聞き、恢復期を大事にするために帰還を命じた。あとにはロレンソが残ることになった。領主は、非常に悲しんだが、やがてダルメイダが引き返してくるか、或は他の神父が来るという約束で承知し、色々の物資を携えてキリシタン一同と共に奥浦の港まで見送りに来た。
ダルメイダが、暴風雨になやみながら福田の港につくと、そこにはポルトガル船が一隻着いて居り、近畿地方から久しぶりにひき上げて来たビレラが滞在していた。豊後から来たジョアン・カブラル――血を吐く病気のために遂に、この秋日本を去らざるを得なかったカブラル――も一緒であった。
ダルメイダはトルレスの許に二十日ほど留まっただけで、盆過ぎにはまた天草島北端の志岐に派遣された。志岐の領主志岐鎮経は、有馬の領主と親しく、有馬義貞や大村純忠の弟に当る諸経を養子にしていたのである。諸経は上品なよい青年で、すでにダルメイダたちの注意をひいていた。ダルメイダは日本人イルマン・ベルシヨールをつれて志岐に行き、領主や諸経から非常に款待を受けた。直ぐ説教を所望されたが、大広間は身分ある武士たちで一杯であった。領主の前に出ることの出来ない人々のためには、旅宿で説教を始めた。こうして説教を続けているうちに、やがて領主はキリシタンになろうと考え始めたが、大村領におけるような内乱を慮って、秘密に洗礼を授けてくれないかと云った。これはダルメイダが断わった。しかし、この懸念は家臣たちが続々キリシタンになって行けばおのずから取り除かれるのであるから、家臣たちの改宗を促進することが双方の関心事になった。十月の中頃には洗礼を受けようと決心したものが五百人以上に達した。すべては順調であった。十月の末には、遂に領主が、多くの身分ある武士たちと共に、洗礼を受けるに至った。会堂の工事も、ほとんど出来上った。
ダルメイダは福田の港に行く必要があったので、代りにイルマンのサンチェズがやって来た。やがて福田の港のポルトガル船がジョアン・カブラルを乗せて去って了うと、神父ビレラもまたダルメイダの開拓したこの土地へ収穫にやって来た。彼の手で洗礼を受けた武士たちは非常に多かった。やがてビレラは去ったが、サンチェズは一五六七年を通じてこの地に残り、附近のフクロや梅島に布教すると共に、志岐の会堂の増築や信者の固めに尽力した。
こうして天草の志岐は、初めのうち非常に調子が好かった。で、一五六八年の初めに、老年のトルレスが口の津から志岐に赴いた。イルマン・バスを先発させて準備した上、志岐の有力な武士たちの迎えの船で、盛大な歓迎のうちに志岐に乗り込んだのである。そうしてここで四旬節や復活祭を営んで夏になると、シナからの船が神父アレッサンドロ・バラレッジョを福田の港へ運んで来た。トルレスはこの新来の神父を志岐で迎えた。その時にはダルメイダも来ていたが、トルレスがイルマンたちや童男童女の合唱隊を率い、ラテン語の讃美歌を唱いながら出迎えたときには、バラレッジョは歓喜のあまり茫然としてしまったという。会堂について信者たち一同と祈祷した時にも、このような遠隔の地で、イタリアにおいてさえ見られないものを見るという気持がした。志岐の教会が、短時日の間に急速に発達したことは、このバラレッジョの印象によっても察することが出来るであろう。
そこでトルレスは、この機会に、諸地方の神父やイルマンたちを志岐に招集し、日本におけるヤソ会の方針を協議することにした。口の津にはトルレスの去ったあとへビレラが来ていた。五島にはダルメイダの去ったあとへバウティスタが行っていた。豊後にはフィゲイレドがいた。平戸には、引きつづきコスタが滞在していたが、シャビエルに同伴して来た老年のフェルナンデスは、前の年に静かにこの地で世を去った。それらの神父たちは一五六八年の八月に志岐に集合して会議を開いた。この時一時的にもしろ、天草の志岐は日本布教の中心地となったのである。日本の他の地方には、領主がキリシタンであって、しかも、それを理由とする内乱が起っていない、という所は、どこにもなかった。トルレスがこの事態をいかに重要視していたかが、この志岐会議に示されているといってよいであろう。
ダルメイダはいつも開拓者であった。一五六七年には長崎を開拓した。長崎の領主は大村純忠の臣下で、既にキリシタンとなっていたが、ダルメイダはその領地に行って多数の信者を作ったのである。勿論日本人のイルマンを伴って行ったであろうし、その訪問も幾度か回を重ねた。一五六八年秋の報告によると、身分あるものは悉く信者になり、平民の間にも五百人の信者が出来た。附近の村々からも信者が長崎の会堂に集まって来た。志岐会議の後、福田の港に行っていたビレラは、船が去ってから長崎に移ってその冬を過し、その間に三百人の信者を作った。恐らくその頃にもう長崎の地が福田よりも良い港であることは知られていたであろう。ポルトガルの船はこの後もなお二年ほど福田の港に来ているが、しかしビレラはこの冬、即ち一五六八年の末以来ずっと長崎に住み込み、トドス・サントスを建てて、長崎繁栄の基礎を築いたのである。
四 トルレスの最後の活動――大村の会堂と北九州の政治的情勢
ビレラが長崎に住み込んだと同じ頃に、大村純忠の多年の望みが達せられ、大村にも会堂が出来た。日本最初のキリシタン大名は、改宗後五年半にして漸く自分の城下でミサを聴きクリスマスを祝うことができるようになったのである。
純忠が二年前に熱心に宣教師の派遣を懇請したときには、トルレスは内乱の危険を口実として宣教師を送らなかった。純忠はその領内の福田の港にポルトガル船が着き神父が来住する機会を捉えて、そこを訪れ、僅かにその渇望を癒すほかはなかった。しかし純忠は絶えずトルレスと連絡をとり、その懇請をも続けている。志岐会議に先だつこと三カ月の頃にも、彼はその子に洗礼を授けるためにトルレスに大村へ来ることを懇請した。トルレスは大村の領内が平和に帰したことを認め、迎いの船を送って貰いたいと答えたのである。しかしこの時には、志岐の領主が熱心に引きとめ、トルレスの提出した要求を承諾したりしたために、出発することができなかった。やがて志岐会議が催されたが、それの済んだあとの九月に、口の津で腫物を病んでいたダルメイダを見舞うという口実のもとに、トルレスは志岐を出発した。口の津で半月余を送った後に、更にポルトガル人の間の不和の調停のためという口実をもって、彼は福田の港に赴いた。ここでは帆船その他の船が祝砲を打って迎えた。十日経たない内に純忠が福田へトルレスを訪ねて来た。着くと先ず会堂へ行ってミサを聴き、そのあとでトルレスに挨拶し、それからやっと宿へ入った。その日の午後トルレスは七十人ほどのポルトガル人を連れて純忠を訪ねた。それから二日の間協議を重ね、トルレスは巡察のために大村へ行くということになった。出発の準備をしている間に近隣の領主たちや純忠の家臣らが盛んにトルレスを訪ねて来た。やがて十月五日にトルレスは五人のポルトガル人と日本人イルマンのダミヤン及びパウロを連れて大村に行った。翌日一行は純忠の館で晩餐の饗応をうけ、そのあとでダミヤンが夫人たちに説教をした。やがて純忠は評議会を招集し、トルレスにこのまま大村滞在を懇請すること、会堂の敷地をトルレスに与えることなどを附議した。キリシタンであるものもないものも皆これに賛成し、彼らの意志としてトルレスに懇請して来た。トルレスが多年切望していたことは、今や向うから転げこんで来たのである。
純忠はかなり広い地所を与えた。会堂の建築は早速始められた。それが出来上るまでトルレスは、その滞在していた家でミサや説教を行った。受洗者は続々と出で、三回で二百四十人ほどになった。純忠もその子の洗礼を希望したが、トルレスは純忠夫人の帰教を重視していたので、母親と共に授洗しようと云って先へのばした。
会堂は一五六八年十二月の初めに出来上った。そこで大村での最初のクリスマスが盛大に祝われた。純忠はこの祭を盛大にするために、会堂の隣りの地に大きい舞台を造り、周囲に多数の桟敷を設けて、二千人の公衆の前に宗教劇を演ぜしめた。純忠夫人も侍女たちを連れて大きい桟敷に来て居り、トルレスも二人の日本人イルマンやポルトガル人と共に他の桟敷にいた。この時のトルレスの満足はほぼ推測することができる。彼が純忠をめがけて豊後から移って来て以来、六年を経て、漸くキリシタンを領主とする国の首府に、領主を信者の筆頭とする教会を作り上げたのである。
トルレスは、一五六九年から一五七〇年の復活祭の後まで大村に留まり、ここで日本諸地方の布教の指揮をした。彼が二十年来目ざしていたことは漸く緒についたと云ってよい。政治的権力を教会の下に置くという彼の企ては、大村では非常に成績がよかった。武士たちが神父の命令を尚び服従したことは、一ポルトガル人をして世界中にその比がないと云わせたほどであるが(一五六九年八月十五日発無名ポルトガル人書簡)、トルレスはその服従を異教との対立の克服に利用した。大村でポルトガル人の従僕が数人の仏僧に殺されたことがある。それを見た純忠の家臣たちは、猛然として殺されたキリシタンのために復讐しようとした。トルレスは純忠に復讐をとめた。純忠は、自分の家臣たちが最早自分の命令を聞き得ない段階に達していることを述べ、トルレスに直接の命令を乞うた。トルレスは、寺院の焼き討ち、僧侶殺戮に乗り出して行った武士たちに、途中から引き返しを命じた。領主の命令に従わなかった武士たちも、トルレスの命令には躊躇することなく従った。世界中で最も復讐を重んずる武士たち、復讐をしないのは最大の恥辱であると考えている武士たちに対して、トルレスは、復讐を抑止することが出来たのである。そのために大村では、新しい紛争を防止することが出来た。このことは未だ改宗していない有力な武士たちを非常に感動せしめた。争いを挑発しているのは仏僧たちであって、神父たちではない。神父は信頼するに足りる。こういう印象の下に、キリスト教は反って地歩を占めることが出来たのである。
トルレスは一五七〇年六月、新しく着いた神父フランシスコ・カブラルに長老の職を譲り、間もなく十月二日に志岐で歿した。七十一歳位であった。だから大村での一年半はその最後の活動期なのであるが、丁度その時日本は政治的に新しい時期に入りつつあったのである。東の方では信長が京都に現われた。九州では大友宗麟の勢力が非常にのび、北九州から毛利の勢力を追い払ったのみならず肥前の竜造寺を圧迫して来た。それに応じてトルレスも、ダルメイダを使って、いろいろな手を打っているのである。
天草島東側の本渡城の主天草氏は、志岐氏の三倍ほどの領地を支配していた。前から宣教師に関心を持ち、トルレスが初めて志岐に赴いた頃にはダルメイダを名指してその派遣を懇請して来たほどであったが、大村に落ちついたトルレスは、一五六九年の初めにダルメイダをこの天草氏の許へ派遣した。ダルメイダはそこで開拓者としての辣腕をふるった。領主の方でキリスト教への熱心を示して来なければ、彼は直ぐ立ち去ろうとする態度を示すのである。領主はそれに釣られてあわてて布教の許可を与えたが、政治の実権が家臣の手に移っていることを見て取ったダルメイダは、先ず五カ条の条件を提出した。一、領内の布教を喜ぶ旨の城主等署名の文書、二、領主も家臣と共に八日間説教をきくこと、三、キリスト教をよしと認めた場合には子の一人をキリシタンとし、キリシタン武士の首領たらしめること、四、会堂の敷地を与えること、五、志岐との間の沿岸七里の住民にキリシタンとなる許可を与えること、などである。領主はこれを承認した。そこで、それまで静かに形勢を観望していたダルメイダは、二人の日本人イルマンと共に目ざましい活動をはじめた。先ず、全領の行政を握っていた家老のドン・レアンが、家人ら約五十人と共に洗礼を受ける。次でその外舅が同じく五十人ほどと共に洗礼をうける。他にも重臣数人がそれに続く。更にダルメイダはドン・レアンの援助をうけて村々を巡り、そこにも四百人ほどの信者を作った。こうして僅か二カ月ほどの間に全領内が動き出したように見えた。
その形勢は、直ぐに政治的な分裂をひき起した。仏僧たちの働きかけで、領主の兄弟が先頭に立ち、有力な武士たちを集めて、ドン・レアンの排斥運動を企てたのである。一夜、一味の武士たち七百人が寺院に集合し、ドン・レアンの家を襲撃しようとした。出発に先立ち領主にこの挙の承認を求めたが、領主は承認を拒んだ。レアンを殺すのは領主を殺すも同様であると答えた。そうしてレアンの許に急を伝えた。キリシタンの武士たちは続々レアンの家に集まり、その手につくものは六百人に達した。一人の主立った仏僧が、領主やレアンに説いて廻った。レアンに対しては、キリスト教を捨てよ、然らずばこの地を立ち去れと要求した。レアンは、ただ領主の命令にのみ従う旨を答えた。領主はついに口説き落されて、平和のため暫くこの地を去れ、とレアンに命じた。レアンは止むを得ず、妻子及び家臣約五十人と共に船に乗って口の津に赴いた。
この出来事は五月に起ったが、ダルメイダは八月まで天草に留まって攻勢の回復に努めた。先ず第一に彼は大友宗麟に依頼して、キリスト教の弘布を希望する書簡を天草の領主に送って貰った。当時肥前の竜造寺を圧迫していた宗麟の睨みは、天草へは十分に利いたのである。領主はこの書簡を家臣たちに示し、ダルメイダの布教活動を継続させた。すると反動側は三人の有力な領主を動かし、天草の領主に対してキリスト教排撃を申し入れさせた。領主は、一時それに屈せざるを得ない所以をダルメイダに説明し、暫く隠忍することを求めた。そこでダルメイダは、領主と協約を結び、大村のトルレスの許へ帰って行った。その協約は、ダルメイダが再び天草領へ来た時、領主の長子と二人の重臣とをキリシタンにすること、ダルメイダの選んだ十六カ村をキリシタン村としてダルメイダに託することなどであった。
ダルメイダの去った後、天草領内の内乱は激化した。領主は一時一つの城に籠って僅かに生命を全うし得たほどであったが、やがてもり返し、謀叛した兄弟を他の城で包囲するに至った。その間にダルメイダの斡旋によって得た大友宗麟の助力が相当に利いたらしい。翌一五七〇年の二月には、ダルメイダはトルレスの命によって宗麟を筑紫国境の日田に訪ね、九通の書簡を認めて貰ったのであるが、その内の三通は天草の領主に関するものであった。一は島津氏宛の書簡で、天草の叛乱軍を後援しないように頼んだもの、二は宗麟配下の一領主に宛てた書簡で、天草の領主を助け内乱鎮定に努めるよう依頼したもの、三は天草の領主宛の書簡で、領地を悉く回復するまで援助を約したものである。こういう助力によって遂にキリスト教排斥派を鎮定し得た天草の領主は、やがて新来のカブラルの手によって受洗するに至った。こうして有名なキリシタン地方天草領は、トルレスの最後の仕事として、ダルメイダによって開拓されたのである。
しかしトルレスが大友宗麟の勢力を利用したのは、天草領についてのみではなかった。宗麟の北九州制覇が都合よく進み、毛利の軍勢を北九州から追い払ったのは、一五六九年の夏から秋へかけて半年に亘る大仕事であったが、この際逸早く山口の教会の回復を思ったのは、トルレスであった。彼は一五六九年の十一月にダルメイダをして日田の陣営に大友宗麟を訪ねしめ、天草布教に対する援助を謝すると共に、また「山口の正統の領主たるチロヒロ」との連絡のことを相談せしめている。ダルメイダはその足でチロヒロの陣営を訪ねた。チロヒロは毛利勢が筑紫に進撃している隙をねらって山口を襲撃しようと企てていたし、その部下には、山口のキリシタン武士がいたのである。彼はダルメイダの要求に応じ、山口を回復したならば領民をキリスト教徒たらしめるであろう、というトルレス宛の返書を認めた。このチロヒロの山口領襲撃は、大友宗麟が大内四郎左衛門輝弘をして軍勢空虚の長府あたりを奇襲せしめた事件を指すのであろう。博多東方の立花山に陣していた毛利の大軍は、この奇襲に驚いて北九州を引き上げたのである。
毛利勢が立ち去ったあと、大友宗麟の圧力が西方へ加わってくるのを見て、大村純忠は幾分の危険を感じ、トルレスに頼んで大友氏との親交を斡旋して貰った。宗麟はトルレスの申し出に対しては何事によらず拒絶したことがないので、この時にも、大村氏や有馬氏が毛利氏に好意を寄せていた過去のことを不問に附し、トルレスの意に従った。今やトルレスは大名の運命を左右する地位に立つこととなったのである。
しかし一五七〇年五月頃、宗麟の軍隊が肥前の竜造寺の領地に迫ったときには、大村純忠は落ちついてはいられなかった。大村は飛ばっちりを受けるかも知れないというので、純忠はトルレスに長崎の会堂へ移ることを請うた。大村にはダルメイダが残った。が半月の後にはトルレスはダルメイダを呼んで、宗麟及びその部将の陣営へ派遣した。戦争の際に会堂や信者を保護するよう頼むためであった。
ダルメイダは、多分久留米附近にいたと思われる宗麟を訪ねて来意をのべたが、宗麟は心配するに及ばぬという親切な返書をトルレス宛に書いた。そうして彼の部将たちを訪ねるというダルメイダにいろいろの保護を与えた。ダルメイダは陣営で主将に会って款待をうけ、大村純忠のために大いに弁じた。会堂の保護はどの部将もひきうけてくれた。
そういう形勢のただ中へ、フランシスコ・カブラルが、日本のヤソ会士たちの長老として赴任して来たのである。カブラルは六月に志岐で、第二回の会議を召集した。京都のフロイスを除いてすべての神父が集まった。日本における布教活動の指揮はこの時からカブラルの手に移ったのである。
第八章 ルイス・フロイス――和田惟政――織田信長
一 フロイス信長に会う
天草の島でトルレスが、志岐会議を催してから間もなく、一五六八年の秋に、織田信長は足利義輝の弟義昭を擁して上京して来た。松永久秀は立ちどころに彼に降った。三好党や篠原長房の擁立した将軍足利義栄は、阿波に逃れて死んだ。京都をめぐる覇権競争は、ここで急激に面目を改めたのである。
足利義昭は、三好松永のクーデターの当時、奈良興福寺の一乗院主であった。三好党は早速彼を幽閉した。それを秘かに救い出し、還俗せしめ、結局信長と結ぶに至らしめたのは、長岡藤孝(細川幽斎)、和田秀盛、明智光秀などの働きである。これらの人々は室町時代の高貴な伝統を守ろうとしたのであって、成り上り者である信長に奉仕しようとしたのではなかったが、結果においては、彼らの利用した新興の勢力に逆に利用せられることとなったのである。
フロイスが信長に渡りをつけたのは、この義昭側近の勢力を通じてである。その中で長岡藤孝や明智光秀が当時どういう態度を取っていたかは明かでないが、後に有名となった細川ガラシヤ夫人が明智光秀の娘、長岡藤孝の嫁であることを考えると、満更無関心であったとも思えない。特に関係の深いのは和田秀盛の一族和田惟政である。惟政は藤孝などと共に義昭に従って将軍守り立ての努力をした一人であるが、その親しくしていた(或は兄弟であったともいわれている)高山図書頭ダリヨが畿内キリシタン武士の先駆者であった関係から、かねてキリシタンに深い同情を持っていた。信長の上京後は摂津大和の平定に功を立て、京都の南の押えとして高槻の側の芥川城、ついで高槻城の城主となった。フロイスはこの惟政に働きかけたのであるが、キリシタンでない領主のうちでこの惟政ほど衷心の愛情を以てキリスト教の保護に尽してくれた人はほかにはないと彼は云っている。
この惟政の尽力で、信長の二度目の上京の時に、フロイスの帰京が許された。一五六九年三月末、惟政の命により、高山ダリヨが堺まで迎えの人馬を寄越したのである。フロイスの一行は途中高槻近くで高山ダリヨに迎えられ、高山の守っている芥川城にも一泊して、三月二十八日に、信者たちの盛大な出迎えを受けつつ、五年ぶりで京都に入った。この期間に九州へ行って活躍して来た元琵琶法師のロレンソも、ベルシヨール、アントニオ、コスモなどの日本人イルマンと共にフロイスに従っていた。
京都では、このフロイスの入京の二週間前(永禄十二年二月廿七日)に、信長が二条城築造の鍬初めをやり、その後恐ろしい勢でその大土木工事が進行しつつあった。何故信長が急激にこの工事を始めたかというと、前年の末に信長が岐阜に引き上げて行ったその留守をねらって、正月早々三好三人衆が京都を奇襲し、一時新将軍を危地に陥れたからである。この時には、将軍側近の長岡藤孝らの守備や和田惟政らの来援で、辛うじて三好党を潰走させることが出来たが、しかし京都の防備の弱いことは露骨に曝露された。信長は即座に上京して来て、これまで永い間どの武将も企てなかった京都築城のことを考え出したのである。しかもその城は、当時盛んに行われていた山城とは異なり、平地の京都市中に、深い壕や堅固な城壁を以て、山城以上に防備厳重に築いたものであった。フロイスの言葉でいうと、それは「日本において曽て見たことのない石造」であった。信長はこの大土木工事のために近畿十四カ国の諸将を動員し、彼らをして、部下の武士たちや人足を率いて労役せしめた。総指揮者は信長自身で、日々工事場に臨んだ。通例は二万五千人、少ない日でも一万五千人の人々が彼の指揮の下に動いた。鐘の合図で、諸方の領主や武士たちが、各〻その部下を率い、鍬を携え手車を押して集まってくる。そうして、堀を掘り土を運ぶ。石垣の工事のためには多量な石が必要であるから、或は近郊の山から運び、或は市中から集めてくる。或る領主は部下を率いて寺々を廻り、毎日一定数の石をそこから運び出した。石の仏像や台座の石などもばらばらにして車に積まれた。時には、石像の頸に縄をつけて工事場に引いて行くというようなことも行われた。そういう石で積み上げられたのが、高さ七八間、厚さもまた七八間、時には十間に及ぶような、巨大な城壁である。フロイスはこの光景を見て、ソロモン王の「エルサレムの殿堂」の建築や、「ディドのカルタゴ都市建築工事」などを聯想している。
普通ならば四五年はかかるであろうと思われるこの大工事を、信長は七十日間に仕上げた。それはフロイスにとっては非常な驚きであった。彼がここに何か新しい時期の開始を予感したことは、彼の信長に対する熱心な働きかけによっても察することができる。この予感はやがて信長の猛烈な仏教破壊によって充たされるのである。
しかし信長への接近は初めは容易ではなかった。フロイスの入京を聞くと、松永久秀はフロイスに先んじて信長を訪ね、キリシタンの神父のいる所には、必ず擾乱や破壊が起るということを理由にして、その追放を懇願した。それに対して信長は、こういう大きな町でただ一人の人が擾乱の原因になるなどとは、お前の胆は小さい、と答えた、といわれる。しかし、入京の翌々日、フロイスが城へ信長を訪ねて行った時には、信長は会わなかった。その理由は、数千里の遠方から来た外国人にどういう礼儀で接してよいか解らぬということと、密かに面会すれば神父が信長に洗礼を授けに来たなどと心配するものがあるだろうということとであった。つまり彼はキリスト教排斥運動を顧慮していたのである。内裏から出た宣教師追放令はまだ取り消されてはいなかった。排斥派はそれを拠り所にした。フロイスが信長を訪問すると、すぐその夜には、内裏から将軍に対して宣教師追放を信長に命令せよという交渉があった、という噂がひろまった。翌々日の早朝には、内裏の使がフロイスのいる信者の家を壊しにくると注進する人があった。フロイスは早速ロレンソを和田、佐久間、高山などの許に使にやり、自分は他の信者の家に逃れて一日中潜伏していた。信長が宣教師に会わなかったということだけで、これだけの不安があったのである。
この不安は和田や佐久間の保証で取り除かれ、フロイスは初めの信者の家へ帰って復活祭の週のさまざまな祭儀を行った。そうして復活祭の一週間後、入京してから二十日目に、初めて足利将軍を六条の本国寺に訪ねた。この訪問は和田惟政の斡旋で信長の指図により行われたものであったが、将軍は面会しなかった。このように信長も義昭も神父を引見しないということはキリシタンにとっては相当の打撃であったので、惟政はその面目にかけて信長を動かそうと努めた。その結果、将軍訪問の数日後に、惟政は信長の承諾を取りつけ、突然騎馬の士二三十人を率いてフロイスを迎いに来た。信長は平生通り工事の指揮をしていたのであって、遠来の客を迎える態勢を取ってはいなかった。フロイスが乗物で工事場に着いた時には、信長は堀の橋の上に立ち、附近で六七千の人が働いていた。工事はすでに半ばは出来ていたのである。フロイスたちが遠くから敬礼すると、信長は自分の側へ招き寄せた。こうして信長とフロイスとの最初の会見は、この未曽有の大工事の見渡せる橋の上で、衆人環視の中に行われたのである。
信長が最初に知ろうとしたのは、この珍らしい外国人の身の上であった。それはフロイスにとっては重要でない前置に過ぎなかったが、信長にとってはそうでなかったらしい。非常に遠い国から親を離れ、艱難を冒して、布教のためにこの国に来ている心境、――そこにいわばヨーロッパ文化の尖端があったのであるが、それを彼は捉えようとした、フロイスにとって本論である布教の問題も、信長はこの視点から見ていた。キリスト教が拡がらなければインドへ帰る気か、という問もそこから出たのである。フロイスはそれに対して、信者がただ一人になっても、神父一人は生涯この地に留まるであろうと答えた。次で信長は、キリスト教が京都で栄えないのは何故であるか、ときいた。それに対してロレンソは、稲を育てるには田の草取りをしなくてはなりませぬ、という風に答え、仏僧たちの迫害を示唆した。信長はそれに和して僧侶の堕落を長々と語り、坊主らは欲と色に目がくれていると云った。その機会に、フロイスは、ロレンソをして次のような意見を述べさせた。宣教師たちの目ざすところは、名・富・好評、その他いかなる世俗的なものでもなく、ただキリスト教を拡めることだけである。就てはこの教と日本の宗旨とを比較するために、仏教各派の最も優れた学僧を集め、信長の面前でキリスト教との討論をやらせて頂きたい、もし負けたらば追放されてよい。もし勝ったならば仏僧たちにもキリスト教を聴かせることにしてほしい。そうでないと何時までも陰謀が絶えないであろう、というのであった。信長はこれを聞いて愉快そうに笑い、なるほど大国には大胆な学者が出ると云った。そうしてフロイスに向い、日本の学者が承知するかどうか解らぬが、或はそういう催しをするかも知れぬ、と答えた。フロイスの最大の用件、信長の布教免許状については、明答は得られなかったらしい。フロイスはこの免許状が宣教師に対する最大の恩恵であること、この恩恵によって彼の美名がキリスト教国民の間に知れ渡って行くであろうことを説いた。それに対して信長は愉快そうな顔をしたが、何も云わなかった。
この会談は一時間半乃至二時間位かかった。そのあとで信長は和田惟政に工事場の案内を命じた。この工事が彼の心を占領していたことはこの時の彼のそぶりにありありと現われていた。
信長がフロイスに会ったので、将軍も二日後に彼を引見した。しかし布教免許状の方はそうすらすらとは運ばなかった。それを心配した信者たちは、信長への献金の必要があるのではないかと考えた。何故なら堺の町、大坂の町をはじめ、諸方の寺院などは、信長の簡単な免許状を得るために巨額の金を献じていたからである。そこで信者たちは銀三本を和田惟政の所へ持って行った。惟政はそれに銀七本を加え、信長の機嫌の好い折をねらって、貧しい神父からの贈物として献じた。信長は笑ってそれを斥けた。神父から金銀などを受ける必要はない。神父は外国人だから、免許状のためにそんなものを受けたとあっては聞えが悪い。そんなことをしなくとも免許状は与える。汝が文案を作り、神父にこれでよいかと念を押した上、持って来るがよい。署名してやろう。そう信長は云った。工事に気を取られていた信長は、文案が面倒なのでついほって置いたのである。
そう解ると、和田惟政は迅速に事を処理した。信長の朱印状は、神父の京都居住許可、会堂に対する徴発や公課の免除、領内における保護などを表明したものであった。日附は永禄十二年四月八日(一五六九年四月二十四日)である。惟政はこの免許状を高山ダリヨに持たせて寄越し、翌日御礼言上のためにフロイスを同伴して信長の許に行った。信長は相変らず工事場にいて上機嫌であった。そうしてまた惟政に命じて工事を見物させた。惟政は城内を案内して歩きながら、フロイスに信長の扱い方を教えた。この建築の壮麗なことをお讃めなさい、また免許状の訳文をインドやポルトガルへ送って信長の恩寵を知らせるとお云いなさい、というのであった。フロイスは惟政の親切を感謝し、キリシタンになることを勧めた。惟政は笑いながら、心中はキリシタンである、信長が岐阜へ帰ったら教を聴く暇が出来るであろうと云った。
将軍義昭の免許状は一週間遅れて手に入った。それも惟政の尽力であった。惟政はまた目覚時計を信長に見せるためにフロイスを連れて行った。この三回目の会見は室内においてであった。信長は時計を見て驚いたが、構造が複雑で、自分が持っていても使えない、と云って受けなかった。そうしてフロイスに茶を振舞い、美濃の干柿を与えた。この時も二時間ほど話したが、信長は頻りにヨーロッパやインドのことを知ろうとした。そうして別れ際に、近々尾張へ帰るから出発前にもう一度来るがよい、その時は将軍訪問の時に着ていたポルトガル風の衣服を着けて来て貰いたいと云った。それはオルムズの緞子で作った短い大型の雨外套に金襴の装飾を附けたもの及び黒頭巾なのであった。
二 フロイスと朝山日乗との衝突
その出発の前日、一五六九年五月六日(永禄十二年四月二十日)フロイスは、ロレンソたちを伴い、シナの大型紅紙一束、蝋燭一包を携えて、別れの挨拶に信長を訪ねた。時は夕方で、面会を求める人々が大勢待っていたが、彼の来たことをきくと信長は直ちに引見し、彼の差出した蝋燭に自ら火を点じて手に持ちながら、例のポルトガル服はどうしたとたずねた。フロイスはこういう待遇を予期せず、その服を着てはいなかったが、念のために持参してはいた。信長は自分の面前でそれをフロイスに着させ、頻りに眺め入ってその形を讃めた。そうして、出発前の多用なのを顧慮して辞去しようとするフロイスを、強いて引き留めた。
この席でフロイスは、朝山日乗と衝突したのである。この日乗という人物は、法華宗の日乗上人というふうに伝えられているが、法華宗の僧であったかどうかは明かでない。しかし非常な山師で、珍らしい雄弁家であったことは確からしい。もと出雲の豪族で備後に領地を持っていたが、戦乱の間に領地を失い諸国を流浪して歩いた。フロイスによると、尼子に叛いて山口の毛利に頼った時には、彼は、釈迦の示現により仏教改革・皇室復興の使徒と称していた。八九年前京都で買った金襴の布を内裏から拝領の衣と称し、小片に切って、多額の寄附をなしたものに与える、などということもやっていた。それによって彼は山口の寺院を建築し得たほどである。その後毛利氏と松永弾正との間の連絡を計ろうとして東上したが、三好三人衆の手に捕えられ、篠原長房の裁断で西の宮の獄に投ぜられた。しかるに彼は巧みに内裏との連絡をとり、内裏から彼の赦免を求めるということになった。日乗上人の号は後奈良天皇の勅によると伝えられているし、彼が皇室復興を標榜したことなどを考え合わせると、朝廷との関係は相当深かったらしい。丁度そこへ信長が上京して、最初に企てたのが内裏の修造や供御の復興であった。日乗のためには機が熟して来たのである。彼は信長と朝廷との間の仲介者として立った。この地位と、そうしてそのしたたかな才能とが、信長をして彼を重んぜしめたのであった。
その日乗は、前の日に信長を訪ね、出発前に宣教師を追放せよと頻りに口説いた。宣教師追放令は五年前に朝廷から出たのであるから、日乗がかく主張する根拠はあったのである。しかし日乗はそういう法律論を持ち出したわけではなく、ただ当時の極まり文句として、宣教師の到る処擾乱と破壊ありということを理由とした。信長はその心の狭さを笑い、既に免許状を与えたのだから追放は出来ない、ときっぱり答えた。これは実質的には五年前の女房奉書の効果などは認めないという態度の表明でもあったのである。このいきさつは和田惟政からロレンソを通じてフロイスに知らせてあった。そこで、信長に引き留められたフロイスは、日乗が直ぐそばにいるとも知らずに、信長に向って、坊主らの反対意見をそのまま信じないで貰いたいこと、信長出発後は和田惟政に神父保護を託してほしいことなどを頼んだ。信長は、坊主らは何故キリスト教を嫌うのかときいた。それに対してはロレンソが、両者は熱と寒、徳と不徳とのように相違すると答えた。信長は再び、汝らは神仏を尊ぶかときいた。その答は、神とか仏とかと云われているのは皆我々と同じ人である、人類を救い得るものではない、従って尊崇することはできぬ、というのであった。この時に信長は、日乗上人の名を呼んで、この答には何か意見があるだろう、何か質問するがよいと云った。それで初めてフロイスやロレンソは日乗がそばにいることを知ったのである。日乗は気取った態度で、それでは汝らの崇拝するのは何であるかときいた。答は、三位一体のデウス、天地の造り主、であった。「ではそれを見せて貰おう。」「見ることは出来ない。」「釈迦や阿弥陀よりも前にあったのか。」「勿論前である。始めなく終りなく永遠のものである。」そういう問答のあとで、ロレンソがその意味を詳しく述べ始めたが、日乗は一向に理解が出来ないらしく、これは乱暴だ、民衆を瞞すものだ、早速彼らを追放すべきであると云った。信長は笑って、気が弱いではないか、解らない所をもっと質問するがよい、と云ったが、日乗はもう言葉が出せなかった。で、ロレンソが逆に、生命を作ったのは誰であるか、御存じか、とたずねた。日乗は知らないと答えた。次々にロレンソが色々な問をかけたが答はいつも知らない、であった。そんな問題はそっちで説明して見ろ、と言って威圧するような態度を取った。ロレンソは平然として詳しい説明を展開した。日乗は、そのデウスは禅宗の本分と同じだな、と云った。その言葉を捉えてロレンソはまた両者の相違を明かに論じ立てた。そういう風にして議論はもう二時間位に亘っていた。日乗はよほどむかむかして来たらしく、もう遅い、追放すべきである、彼らが京都にいたために前の将軍は殺されたのだが、その彼らがまた京都に来ているのだ、と云った。しかし、「信長は元来神も仏も尊敬しないのであるから、そういうことは気にかけず、日乗に対して厳しい顔を向けた。」フロイスがこの報告を書いたのは一五六九年六月一日(永禄十二年五月十七日)であるから、信長はまだ仏教に対する強硬政策を始めてはいなかったのであるが、しかしフロイスの眼にはもうはっきりとその態度が映っていたのである。
が、日乗はそれだけで凹んではいなかった。一層大きい衝突は、霊魂不滅の問題に関して起った。そのきっかけとなったのは、デウスは善を賞し悪を罰するか、という信長の問である。それに対してロレンソが、勿論である。しかし賞罰には、現世におけるものと来世における永遠のものとがある、と答えると、日乗は、来世において賞罰を受ける当体、即ち不滅なるものの存在という考を、大声をあげて笑った。そこで、病中のために疲れて来たロレンソに代って、フロイス自身が日乗との間に霊魂不滅の議論を始めたのである。来世の信仰や霊魂不滅の思想が当時の仏教徒の間になかったということは甚だ理解し難いことであるが、しかし仏教哲学の空の原理から云えばそれらを否定する方が正しいであろう。その否定の主張に対してフロイスは、肉体と独立な霊魂の存在をいろいろな点から証明しようとした。この落ちついた議論をきいているうちに、日乗は、色を変じ、歯を鳴らし、不思議な狂暴さを現わして、よし、それでは汝の弟子(ロレンソ)の首を斬るから、霊魂の存在することを示せ、と云いながら、室の一隅に立ててあった信長の長刀に走り寄って、それを抜こうとした。信長は急ぎ起ってうしろから抑え、和田、佐久間その他の大身たちが他方から抑えて、長刀をもぎ取った。信長は笑いながら、予の面前において甚だ無礼ではないか、もとへ坐れ、と云った。他の大身たちも彼の無礼を責めた。和田惟政の如きは、信長の前でなければ斬り捨てる所だと云った。やがて座が鎮まったとき、フロイスは信長に向って、日乗上人の乱暴は予の挑発したものではない、予はただ真理を説いただけである、と云った。日乗はまたかっとしてフロイスを突き飛ばした。信長はまた厳しく彼をたしなめたが、彼はひるまず、キリスト教を罵って、宣教師追放を主張し続けた。
以上はフロイスの記述によったものであるから、朝山日乗の態度には同情すべき余地がない。がそれにもかかわらず、信長は日乗の乱暴を大目に見ているのである。当時フロイスの聞いたところでは、信長のこの態度は、「内裏のため」であった。彼は前日内裏の工事のための献金を日乗に託した。が何のためであるにしろ、彼はキリスト教排斥の主張を禁圧しようとはしなかった。即ちキリスト教にも反キリスト教にも同じように自由を与えようとしたのである。だから彼は日乗の乱暴を寛恕すると共に、フロイスには親切な態度で別辞を述べ、またゆっくり聞かせて貰おうと云った。そうして翌日、途中まで見送った和田惟政に、安心しているがよい、というフロイスへの伝言を託したのであった。
三 追放綸旨の効力問題――日乗と惟政との対立
しかし信長が京都にいなくなると、日乗のキリスト教排撃は急激に力を得て来た。フロイスの報告によると、信長出発後五日目の五月十二日に、古いキリシタンの結城山城守がロレンソを通じて最初の情報を伝えたといわれる。日乗が宣教師追放の新しい綸旨を得て将軍にその実行を迫ろうとしている、神父は急いでその備えをしなくてはならない、というのである。この情報と殆んど同時に、ベルシヨールもまた別口の噂をもたらして外から帰って来た。それによると、日乗は内裏の庇護の下に武装兵を率いて神父を襲い、キリシタンを皆殺しにしようとしている、というのであった。この五月十二日(永禄十二年四月二十五日)に、何か綸旨が出たことは事実であるらしい。御湯殿上記に「四月二十五日はてれん、けふりんしいたされて、むろまちとのへ申され侯」とあるのがその証拠である。しかしこれだけでは布教許可の沙汰であったと解する人もある。信長の布教許可の十七日後、将軍のそれの十日後に、それと全然反対の追放の綸旨が出たとは考えにくいのである。しかしフロイスに伝わって来たところはまさに右の通りであった。
フロイスは和田惟政の所へロレンソを急派して、この情報を伝えた。惟政の答は、実否を質しては見るが、自分の保護を信頼していてよい、というのであった。そこで惟政が聞き合わせて見ると、その日日乗は一人の公家と共に将軍を訪ね、「内裏が京都より追放した神父は、京都へ帰って来ている。彼は日本の諸々の教の敵であるから、その追放を命ずべきである」と申入れた。それに対して将軍は、「朝廷は人の入市とか追放とかに関与せらるべきでない。それは自分の行うべきことである。自分はすでに宣教師に免許状を与えた。信長もそれを与えた。今更追放すべき理由はない」という旨を答えた、ということであった。して見ると日乗が奉じたという綸旨は、五年前の追放綸旨が守られないことに対する抗議であったのかも知れない。
翌日、城の工事を巡視していた惟政の所へ、ロレンソが様子をききに行くと、惟政は将軍の態度を伝えた後、午後フロイスが将軍と信長の免許状を持って城へ来るようにと頼んだ。その午後に日乗はまた、公家と共に将軍を訪ね、信長に対して免許取消しを求める急使を出して貰いたいと交渉したが、将軍は応じなかった。その公家が、フロイスの着いたときにまだ残っていた。惟政はフロイスの面前で、その公家に対し、次のようなことを云い切った。自分は今日まで内裏のためにいろいろ尽して来た。将軍や信長と交渉して御為を計ったことも少なくない。その報償として自分は神父への免許状のほか何事も望まなかった。しかるにその免許状を与えないのみか神父の追放を命ずるというのは、自分の名誉を奪い、不正を行うものである。もしそういうことを決定せられるならば、自分は内裏に仕えることをやめる。公家を庇護することもやめる。神父に対する将軍や信長の態度はこの免許状の通りである。こう云って惟政は、フロイスの持って行った免許状を、眼の前で写させて公家に渡した。このいきさつもまた、決定的な追放命令が新しく朝廷から出たのでないことを示すものであろう。
この日将軍はフロイスを引見しようとせず、ただ人をして、自分が庇護しているから、内裏とのことは心配しなくてよいと云わせた。しかし惟政は、この際将軍が会わないのは拙いと考え、目覚時計を種に使って、フロイスを将軍の前へひき出した。将軍は時計を見て非常に喜び、ヨーロッパ人の工夫と才智とを讃めた。
以上によって察すると、日乗がふりかざしていたのは五年前の追放の綸旨であり、また綸旨の方が武将たちの免許状よりも重いという主張であったらしい。だからこの後も、日乗が綸旨を奉じて宣教師を追放或は誅殺するという噂は世間に絶えなかった。で惟政は多数の兵士を会堂に派遣し、日乗の策動を武力で押えるという態勢を示して、噂を消そうとした。半月位は平静になり教会もその平常の活動を始めた。
日乗の方では、皇居修復の仕事や京都の経済復興などに辣腕をふるい、信長の信用を深めたのに乗じて、執拗に宣教師問題を信長に交渉し、遂に宣教師の追放に関しては内裏に一任するという返書を書かしめるに至った。これは日乗の方からいえば五年前の追放綸旨を有効に実施させるという意味になるであろうが、信長の方ではこれから決定する問題だと考えていたのであろう。この交渉の顛末を知った惟政は、公家たちの書類を受理しないという態度で対抗した。そうして三日の間公家たちと折衝した結果、彼は云った、「日乗の所行は公家たちの所為であると認められる。もし内裏が宣教師追放を決定するならば、山城摂津の守護の地位を捨ててでも神父の保護を続けるであろう」と。
こうして、日乗と惟政との対立が尖鋭化して来た五月の末に、惟政は摂津の諸城の巡視に出かけた。日乗はこの惟政の不在に乗じて事を起すであろう、という噂が立ち、キリシタンたちは危険の身に迫るのを感じた。フロイスはロレンソをして惟政のあとを追わせた。ロレンソは高槻の城で惟政に会って、二通の書簡を書いてもらった。一は将軍側近の三人の重臣にあてて神父の保護を依頼したもの、他は日乗にあてて妄動を封じたもの、である。後者には、「神父は将軍と信長との免許状を得て京都に居住している。その神父を追放しようとする動きがあると聞き、公家をして内裏の意向を伺わせたところ、内裏の方では何事もないとの返事であった。内裏以外の方面の動きであるならば、これは意に介するに及ばないことである。もし神父について何か云い分を持たれるならば自分に通知せられたい。その弁明は自分がする」という意味のことが認めてあった。
この書簡は六月一日に日乗に届けられたが、日乗は激怒して、即夜惟政宛に次のような趣旨の返書を送った。「内裏の宣教師追放令が出たのは五年程も前のことである。綸言汗の如し。追放令は撤回され得ない。しかるに貴下はこの追放令に反して行動している。これは未曽有の不正事といわなくてはならぬ。この道理を悟った信長や将軍は、今や追放に関しては内裏の意向に一切を委ねた。貴下は内裏・将軍・信長などに背反してもキリスト教を庇護せんとするのであるか。元来キリスト教は悪魔の教であるが故に、内裏及び公家たちは、宣教師の誅殺、会堂の破壊を令したのであった。この内裏の命に反対するものは天下になかろうと思われる。山城摂津の守護たる貴下がそれを守らず、支持庇護の態度に出るならば、信長はこれを心外とするであろう。貴下は静かに反省して庇護をやめるべきである。」
この返書によって見ても、日乗が新しい追放綸旨を受けたとは考えられぬ。彼は五年前の綸旨の有効を主張しているのであって、フロイスたちが怖れていたように、新しく宣教師追放誅殺の綸旨を受けたのではない。しかしフロイスたちがそう感じたとすれば、日乗の威嚇は成功していたのである。フロイスはこの返書を惟政に届ける前に読み、直ちに主立った信者を集めて対応策を協議した。信者らの意見は、岐阜の信長に頼ることに一致した。そこでフロイスは翌日未明に京都を立ち、坂本でロレンソを待ち受ける、ロレンソは日乗の返書を携えて和田惟政を訪ね、信長側近の大身への紹介状を得てくる、ということになった。
翌日未明には小西隆佐とその一子がフロイスに伴って出発し、坂本で知人の家を宿に世話した。その子はロレンソの来るまで附添っていた。ロレンソは越水城で惟政に会い、日乗の返書を見せた。惟政は微笑しながら、この法螺吹きの首を斬ってやる、と云った。フロイスの岐阜行きについては、自分が案内したいのであるが急には間に合わない、と残念がりながら、二通の紹介状を与えた。一は秀吉にあてて神父のとりなしを依頼したもの、他は岐阜の宿屋の主人に宛ててフロイス一行の世話を頼み、費用万端は自分が引受けると云い送ったものであった。他に丁度美濃へ行こうとしていた柴田勝家にも庇護を依頼した。ロレンソは右の紹介状を携えて小西隆佐と共に六月三日に坂本についた。そこでフロイスの一行は夜の三時に船で坂本を出発した。
四 フロイス岐阜に信長を訪う
岐阜は当時人口一万位に過ぎなかったが、新興の城下町として、「バビロンの雑沓」を思わせるほどに、商人や商品で混雑していた。フロイスの着いた時には、秀吉は尾張に行って居らず、佐久間信盛、柴田勝家もまだ着いていなかったので、二日ほど空しく待っていた。その内に先ず着いたのは佐久間、柴田の両人で、フロイスはそれらの人たちに会った。二人が信長にフロイスの来たことを告げると、信長は、「内裏の宣教師追放誅殺の綸旨は困ったものだ。神父のある所、破壊が起るなどとは迷信に過ぎない。神父は外国人だから、自分は同情し庇護する。京都から追放させてはいけない」と云ったという。そのあとで、新築の宮殿の方へ出掛けて行く時に、フロイスは途上で信長に出逢った。信長は機嫌よくフロイスを迎え、こんなに遠くまで来る必要もなかったのにと云った。そうして柴田、佐久間、その他七八人の人と共にフロイスを新築の宮殿に案内した。この宮殿は岐阜城のある稲葉山の麓の斜面に四段に亘って建てられていた宏壮なものであったらしいが、信長はフロイスに向って、「ヨーロッパやインドのものに比べると小さいではあろうが、しかし、貴下は遠来の客であるから、自分で案内してお見せする」と云ったという。その宮殿を叙述するに当って、フロイスは、「ポルトガル、インド、日本に亘って自分がこれまで見た宮殿建築中、これほど精巧で美しく清らかなものは一つもなかった」と云っている。
その後二三日経って秀吉が尾張からやって来た。フロイスはロレンソと共に惟政の紹介状を持って訪ねて行った。秀吉は彼らを款待し、午餐を供した上、フロイスの宿の主人宛にフロイスを優遇するようにとの書簡を作らせ、依頼の件は満足の行くように計らうから、ゆっくり休んでいるがよいと云った。この時フロイスはロレンソと相談して作った四五行の覚書を秀吉に渡したのであるが、秀吉はそれを信長の所へ持って行って、指令を仰いだ。すると信長は、それは簡単すぎると云って、内裏及び将軍に宣教師の庇護を請う一層長い書簡を書かせ、それに署名して、秀吉に渡した。秀吉は、この信長の書簡に、惟政及び日乗に宛てた自分の書簡二通を加えて、フロイスに渡し、さっさと戦場へ帰って行った。フロイスが信長に礼を言いに行くためには、また柴田勝家の手引きを頼まなくてはならないような始末であった。
フロイスが勝家に伴われて信長の前へ出たとき、信長は多数の京都の武士の面前でフロイスに云った。内裏や将軍を意に介するには及ばぬ。すべては信長の権内にあるのであるから、信長の言に従って行動し、居たい所に居てよい、と。そうしてフロイスが翌朝出発しようとするのを更に二日延期させ、翌日は京都の武士七八人と共にフロイスを饗応し、食後城を見せるという手筈をした。この信長の優遇は、前例のないものとして、人々に強い印象を与えた。
翌日、饗宴の後に、柴田勝家がフロイスとロレンソを案内して城の山に登った。信長は城の中に住んでいたので、表の方には大身たちの子息である少年武士が百人ほど詰めて居り、奥の方は侍女のみが用を弁じて何人も入ることが出来なかった。フロイスたちが信長の室に招き入れられると、信長の子息、十三歳の信忠や十一歳の信雄(実際は十二歳であった)も接待に出た。信長が信雄に茶を命ずると、信雄は最初にフロイスの前へ、次に信長の前へ、第三にロレンソの前へ、茶碗を運んで来た。そこで茶を飲みながら、美濃尾張の平野を遠くまで見晴らした。信長は、インドにもこういう城のある山があるか、と尋ねた。それから二時間半か三時間ほどの間、次々に日月星辰のこと、寒地と暖地との相違、諸国の風俗などのことを質問した。その間に信雄を呼んで夕食の支度を云いつけさせたりなどもした。このことは、信長としてはよほど異例であったらしい。やがて立って行ったが、自分でフロイスの膳を捧げ、信雄にロレンソの膳を持たせて出て来た。そうして、急のことで何もありませぬが、という挨拶をした。食事のあとで信長はフロイスとロレンソに美しい衣服を与え、直ぐに着させて、よく似合う、また訪ねてくるがよい、と云って彼らを帰らせた。
このように信長訪問は非常な成功であった。それを記述しているフロイスは、現世のことを蔑視すべきヤソ会士が何故にかくも異教の権力者の款待を重視するかについて、長々と弁解している。この国においては、権力者の意志を捉えなくては布教は出来ないのである。がこの時にはまだ信長は、新しい時代の形成者としての姿をはっきりと現わしてはいなかった。競争者は東にも北にも西にもなお健在であった。信長がこれらの競争者に打ち克つという時代、即ち元亀天正の時代は、まさにこれから始まろうとしている時であった。この時に逸早く信長に眼をつけ、その意志を捉えることに全力を傾注したフロイスの炯眼は、感服のほかはないのである。
五 日乗の惟政排斥運動、日乗の失脚
しかしフロイスの見当がすぐに実現したわけではなかった。日乗が失脚してキリスト教排斥運動をやめるまでにでも、一年余は経っている。
フロイスが信長や秀吉の書簡を得て京都に帰り、惟政と協議して日乗のキリスト教排斥運動を封じようとした後にも、日乗はその態度を改めなかった。惟政が日乗に送った書簡には、信長が宣教師庇護の態度を取っていること、内裏にも将軍にも宣教師排斥の意志はないことを力説し、おのれの宣教師庇護の理由は遠来の外国人であるが故であって他意はないという風に穏やかに出たのであったが、日乗は前の主張を引込めないのみか、一層露骨に狂信者的な信仰闘争の態度を示して来た。信長や秀吉の書簡はほとんど眼中に置かないかのようであった。のみならずこの折衝の五六日後には、みずから信長に会うために岐阜に向って出発した。その用件は主として内裏の修復、公家の所領の処置に関するものであったと思われるが、フロイスたちは宣教師追放問題のためであろうと推測し、惟政に頼んでそれに対抗する措置をとったのであった。日乗は勿論岐阜においても信長の宣教師に対する態度を変更させることは出来なかったが、惟政に対する敵対心はそれによって一層高まり、キリスト教排斥の運動を惟政排斥の運動に転じたように見える。
異教徒である惟政は、フロイス庇護の運動を続けるうちに、漸次その信仰にも親しんで行った。フロイスが岐阜から帰って来た頃には、高槻に会堂を建築し、宣教師を自由に宿泊せしめようと考えていた。万一、内裏が宣教師追放を決定したならば、その宣教師を高槻にひき取り、自分が京都に出る度毎に同伴して行って一月でも二月でも滞在させる、そういうことを考えていた。しかしそういう風に惟政が宣教師庇護に力を入れることに対しては、山城摂津の武士のなかに不平を抱くものも決して少くはなかった。日乗が眼をつけたのはその点である。彼は信長の信用しそうな有力な武士で惟政を快く思わないものを煽動し、惟政の行政を非難させた。またそういう証言を集めて、巧みに信長に吹き込んだ。そうして遂に惟政に対する信長の信頼の念を突き崩すことに成功したのである。
こうして一五六九年の秋惟政が岐阜に信長を訪ねて行ったとき、信長は惟政を岐阜に入れず、追い返した。そうして高槻のそばの要害芥川城を破壊させた。領地の一部も没収された。惟政は部下二百人と共に剃髪して謹慎の意を表した。日乗たちはこの惟政の失脚を宣教師庇護の罰としてはやし立てたが、惟政の宣教師に対する態度は少しも変らなかった。自分の不幸な運命などは意に介するに足らぬ。宣教師が無事に京都にいることの出来るのが何よりである。もし宣教師が追放されれば、自分はインドまでもついて行く。そう彼は云った。
一五七〇年は信長を中心とする争覇戦がいよいよ始まった年である。この年の三四月頃には信長と家康とが揃って入京し、夏には北方の勢力朝倉浅井との衝突が始まった。その信長の入京の際に、和田惟政は高槻の城から信長に会いに来た。日乗らの仲間は、信長が惟政の首を斬らせるであろうと待ち構えていた。しかるに信長は、突然惟政を招き、多数の諸侯の面前で非常に情ある言葉をかけた。そうして美しい衣服を与え、領地を増してやった。これは日乗らにとっては案外のことであったが、その五六日後に、日乗は、他の人々から重罪の訴えを受け、信長の激怒に触れた。信長は多数の大身たちの面前で日乗を罵り、彼奴を足蹴にして追い出せと云った。その後も日乗は内裏修復の仕事にかじりついてはいたが、もはや信長の愛顧を得ることは出来なかった。日乗を中心とするキリスト教排斥運動はこれでほぼ終りを告げたらしい。
六 戦乱に対するフロイスの方針と惟政に対する讃美
日乗のキリスト教排斥運動は以上のようにして片づいたが、しかしすぐ引き続いて慌しい戦争騒ぎが起った。浅井朝倉に対する夏の戦争は、姉川で信長方が綺麗に勝ったのではあるが、それがきっかけとなって秋には一層大きい戦争が巻き起って来たのである。三好三党は再び摂津に盛り返して、信長に反抗した。石山の本願寺がこれに応じて立った。信長はその討伐のために西下して来た。惟政も信長の部下の有力な将として摂津に転戦したが、信長方は相当の苦戦であった。北方の浅井朝倉は三好三党に呼応して再び立ち、近江の坂本城を攻陥して京都の郊外に侵入し、信長を背後から脅かした。この時信長は、柴田勝家と和田惟政とを殿軍として三好の軍に当らせながら、実に急速に京都に引き返し、咄嗟に坂本に出て浅井朝倉の軍の退路を絶ったのである。浅井朝倉の軍は叡山へ逃げ上るほかはなかった。信長は叡山の衆徒を味方につけて浅井朝倉の軍を降らせようとしたが、衆徒はこれに応じなかった。そこで彼は東と西とから叡山を包囲し、山上の軍隊を自滅せしめようと計ったのであった。包囲の開始は、寒さの近づき始めた十月の末であった。
フロイスが包囲開始後一カ月の頃に書いた書簡(一五七〇年十二月一日京都発)によると、この時の市内の混乱と不安とは実に甚しく、最後の審判の光景を見るようであったという。何故なら、勝利はまだいずれに帰するとも解らず、信長が負ければ京都の町は焼かれ蹂躙されるからである。そこで市民は山上に穴を掘り、街路に逆茂木を設け、家財を隠し、妻子を市外に避難させた。しかもその市外には強盗や殺人が横行していた。市内でも、夜警・叫喚・警鐘・突撃などとみじめなことばかりであった。フロイスも、大切な祭具は愛宕山に送り、他の家財は数人の信者の家に預けて、会堂には古い祭具だけを残して置いたのであるが、しかしそれを使ってミサを行い、説教を続けていた。包囲のために食糧は著しく欠乏していたが、それでも信者の好意で米と乾大根乾蕪などの貯蔵があり、包囲の継続中持ちこたえ得る見込みがついていた。こうして混乱のなかで会堂を維持し布教を続け得たところを見ると、市民大衆のなかに積極的なキリスト教排撃運動などのなかったことは明かだといわねばならぬ。
ところで、この年、一五七〇年の夏には、布教長フランシスコ・カブラルが志岐に着き、日本のヤソ会士の指揮をとった。信長が三好党の討伐をはじめた十月はじめには、トルレスがその志岐で死んだ。その同じころに、カブラルに従って来たオルガンチノが堺に着き、出迎えたロレンソとともにそのまま堺に留まっていた。戦争で京都へ来ることはできなかったのである。そのロレンソからフロイスの許へ、三好三党の反キリスト教的な傾向を知らせて来た。宣教師を庇護する領主や大身は必ず没落するから、今度勝利を得たならば、直ちに宣教師を京都から追放しようというのである。この報を受けて、万一信長や惟政が敗れた場合には篠原長房に頼ろうと考えていたフロイスは、すっかり腹を据えて、信長にのみ頼ろうという覚悟をきめた。信長が敗れても、彼が生きている限りは、その領内へ行って布教をしよう。やがてまた彼が勝利を得た時には、京都へ帰ってくることも出来る。こうフロイスは、勝負のまだきまらぬ内に考えていたのである。
その後包囲はなお一カ月半ぐらい続いた。山上の軍隊も疲労困憊して来たが、一層参ったのは物資の供給を絶たれた京都の市民であった。そこで将軍が調停にのり出し、正親町天皇も、勅使を派遣されるということになって、遂に妥協が成立し、包囲は解かれた。この間に三好三党の南からの圧迫をはね返したのは、和田惟政と木下秀吉との働きであった。
フロイスがオルガンチノを京都へ迎え入れたのは一五七一年の一月一日(元亀元年十二月六日)で、信長が包囲を解いた日よりも八日前であった。このオルガンチノはフロイスの到達した決意と方針とをそのまま受け入れた人で、信長時代のキリスト教の隆盛と深く関係しているのである。
フロイスの功績は、新しい信者を数多く獲得するということではなかった。信者の数はむしろ死亡によって減少して行った。彼の努力はむしろ信仰を深め、その退転を防ぐことであった。殊にこの戦乱の期節においてはそうであった。長期に亘って布植せられた仏教の勢力は中々抜き難く、また京都には諸宗派の精鋭が集まっているのであるから、京都で一人の日本人を改宗せしめることは他の国々で二百人を改宗せしめるよりも難しいことであった。しかしフロイスは、その中で教会を維持しつづけ、親族の強硬な反対にもかかわらず信仰を貫き通した少年コスモや、清浄の理想を追うて結婚することなく死んで行った愛らしい少女パウラのような、感嘆すべき信者をも出したのである。がそれよりも著しいフロイスの功績は、京都における教会の存在の権利のために戦いつづけ、和田惟政や織田信長の意志を捉えることによって、政治的に、或は公共的に教会の地位を確立したことであった。
この仕事のために異教徒和田惟政がフロイスを助けた態度には、実際驚くべき一貫性や強靱さがあった。彼は高山ダリヨと親しく、キリスト教徒に同情を持っていたには相違ないが、しかし狂信者らしいところは少しもなく、従って右の態度も信仰の情熱から出たのではない。フロイスによると、惟政は非常に愛情深く、一度人の保護をひき受ければ、そのため領地を失うようなことがあっても決して保護をやめなかった。心変りということを非常に憎んだという。また家臣との間も非常に親密で、外から見ると、君臣の差別がつかなかったという。これは、生命を賭して信頼に答えるという、鎌倉武士の献身的な態度にほかならない。惟政はこの古風な武士気質の人であったと思われる。しかしフロイスを保護し通した態度には、因襲に縛られた保守主義的な傾向と正反対なものがある。外国人を受け容れ、愛情をもってこれを庇い、その説くところには虚心坦懐に耳を傾ける。従ってもし戦争が彼を妨げなかったならば彼はキリスト教に帰依したかも知れない。高槻城にフロイスとロレンソを迎えた時、彼は妻子と共にロレンソの二時間に亘る説教を聞き、非常に興味を覚えた。でロレンソをひきとめて四日間続けて説教を聞き、霊魂不滅の教に深く感動した。しかしこの時は戦争騒ぎで聴聞を中断され、その後再びそれを続ける機会が来なかった。惟政としては、教義を根本的に理解した上で、また自分がキリシタンとなっても差支えのないように一切を処理した上で、受洗するつもりであったが、その暇を得ないうちに戦死してしまったのである。この惟政の新旧いずれにも囚われない自由な態度は、当時の武士の一つの類型を示すものとして、十分重視せらるべきであろう。
一五七一年九月、惟政の戦死後間もなく、フロイスはインド地方区長に宛てて惟政に関する愛情のこもった長い書簡を送っている。それによってフロイスは、この異教の領主の、護教の功績を永遠に記念したのである。惟政の戦死は、惟政に似合わない油断の結果であった。この時の敵は、曽て惟政の味方であった摂津池田の城主の家臣たちであった。彼らは遠くを達観することの出来ない勇猛一途の連中で、城主を逐い出し池田の実権を握って新興の信長の勢力に反抗しようとしたのであるが、惟政はこの下剋上の現象の故に彼らを蔑視し、警戒を怠って奇襲にひっかかったのであった。
フロイスはこの日、河内の三箇にあって、悲報を聞いた。京都へ帰るために、護衛兵を惟政に頼んでやった使が、この悲報を持って帰って来たのである。京都の会堂ではオルガンチノとロレンソとが、この庇護者の戦死のあとに起るべき迫害について協議を始め、急いでフロイスを京都へ迎え取る方法を講じた。教会の人々の感じた不安と悲痛とは非常なものであった。ロレンソは、近江の国まで来ている信長にすがるために、一五七一年九月二十八日に京都を出発した。
ところがその翌日、実に意外な事件が突発し、教会の人々の不安などはどこかへ吹き飛んでしまった。
それは信長の叡山焼討である。こんな思い切った伝統破壊は、戦国時代の乱暴極まる武士たちでも、否、仏教打倒を心から望んでいた宣教師たちさえも、全く思いがけぬことであった。
第九章 信長の伝統破壊
一 本願寺との敵対、叡山焼討
織田信長が仏教に対してはっきりと弾圧の態度を取り出したのは、一五七一年からである。その直接の機縁となったのは、前年の秋の畿内における苦戦であった。摂津では大坂石山の本願寺が三好三党にくみして立ち、彼の摂津制圧を妨げたのみならず、伊勢尾張の門徒をして木曽川下流右岸の長島に拠って、信長を背後から脅かさしめた。京都では叡山の衆徒が浅井朝倉の軍を助けて信長の京都把握を危殆に陥れた。結局彼は、本願寺に痛棒を与えることも出来ず、浅井朝倉を制圧することも出来ず、浅井朝倉と一時和を講じて岐阜にひき上げたが、本願寺や叡山を打倒しなくてはならないという考は、この時に萌したのであろう。
彼が先ず手をつけたのは、本願寺の勢力の打倒であった。一五七一年の初夏には、信長はみずから諸将をひきいて伊勢の長島に迫って行った。しかし一向一揆の力は彼の予想を裏切るほどに強力であった。だからこの時には信長は、兵を損することを恐れて、いい加減にしてひき上げたのである。長島征伐はこの後三年の間懸案として残り、一五七四年の夏に至って、三カ月間の強攻の後に、遂に二万人皆殺しという脅威的手段に出たが、しかし石山の本願寺はひるまなかった。次の年には越前の本願寺一揆を討伐したが、本願寺の反抗は一層高まった。いよいよ石山の攻囲にかかって見ても、五年間に亘って遂にこれをくだすことは出来なかった。結局一五八〇年に至って、信長は皇室の仲介を請うて和を講じ、本願寺を石山から紀州の雑賀に斥けることが出来たのである。この経過によって見れば、信長の覇権時代の大部分は本願寺との敵対のうちに過されたと云ってよい。信長の反仏教的な態度が根強かったのは、その故であるとも見られよう。
本願寺との長期に亘る関係に比べると、叡山との関係は極めて単純であった。叡山が信長に反抗して浅井朝倉の軍を立て籠らしめた年の翌年の、正月の賀に、細川藤孝が信長を岐阜に訪ねたとき、信長は叡山焼討の意図を洩らしたが、藤孝は、聞かぬ振りをして帰って来たという。王朝文芸に通達した、学者でもあった藤孝にとっては、たとい衆徒の堕落が眼にあまるほどであったとしても、この伝統の聖地を破壊するなどとは思いも及ばぬことであったに相違ない。従ってこの言葉を聞いても、まさか実行するつもりだとは思わなかったのであろう。しかし信長は、「日本で不可能なことと考えられていた」ことを敢て実行するような偶像破壊者であった。一五七一年夏に、浅井の兵が近江に進出したのをきっかけとして、その秋、信長はまた近江に大軍を入れ、浅井の軍を北に圧迫しつつ、三井寺から東坂本まで達したが、その時、信長は突如として、叡山攻撃の命令を発したのである。部下のものも驚愕して諫止しようとしたが、信長の決意は動かなかった。叡山の衆徒だけでは到底信長の軍を防ぎ得るものではない。叡山の力は八百年の伝統を背負った教権や、それを象徴する山王の神輿などにあったのであって、それを恐れないものにとっては物の数ではなかった。信長は平気で山王二十一社やその神輿を焼き払った。また根本中堂をはじめ山上の堂塔四百余をも余すところなく焼き払った。僧侶千五百、それに附随するほぼ同数の俗人(その中には多数の美しい稚児や、稚児に仕立てた美女があったとはいわれるが)、それらをも一人残らず殺戮させた。
このような未曽有の伝統破壊を決行しながら、信長は平然として即日京都に入り、将軍に会って政務を見た。京都市民に米を貸し、その利子で公家の生活を救うという風な手を打ったのもこの時である。内裏の修復をも促進して、その秋に工事を完成させるようにした。フロイスやオルガンチノも、叡山全滅をキリスト教弘布のよい機会として喜びつつ、信長を訪ねて款待を受け、長い間話し合った。その後この二人を一層喜ばせたのは、キリスト教排撃の原動力となっていた竹内三位が、将軍の前で信長の没落を予言したというようなことから信長の忌避にふれ、信長退京の途中で斬首されたことであった。
こういう情勢になっては、宣教師たちを脅かしていた追放の問題などは、何時の間にか消えてしまったのである。
叡山焼討で永い伝統を背負った仏教の教権が崩れ、キリスト教弘布の道が開かれたかのように感ぜられて間もなく、布教長フランシスコ・カブラルの巡視が行われた。
カブラルは一五七〇年の夏天草島の志岐に着いてトルレスに代り日本におけるヤソ会の指揮をとり始めたのであるが、志岐で第二回の宣教師会議を開いた後、先ず九州諸地方にとりかかり、それを終えて堺まで来たのは一五七一年の末であったらしい。一五七二年の初めには、フロイスやロレンソを連れて、岐阜に信長を訪ねた。その時の饗応の席で、信長が宣教師の肉食のことを尋ね、カブラルが大っぴらに肉食する旨を答えると、信長はその態度をほめ、「坊主は内証でやっている」と云ったという。仏僧に対する信長の反感は事毎に現われたのであろう。京都では、オルガンチノも一緒に将軍に謁し、非常に厚遇せられた。その後カブラルはフロイスと共に河内や摂津の信者群を訪ねた。これらはビレラの開拓した地方で、そこのキリシタン武士たちの信仰を堅固に維持させて行くことが、当時の京都の最大の仕事であった。でカブラルは復活祭を三箇で営んだ。そうして一五七二年の夏の間に九州に帰ったのであるが、この巡視旅行の全期間を通じて、人々の怖れていたような危険は少しもなく、将軍、信長、その他大身たちから、周囲の人々の驚くほどの優遇を受けた、とカブラルは特筆している。反キリスト教的な気運はとにかく鎮まったのである。
二 信長の危機、京都の攻囲戦
しかし時勢は平和な伝道などには不向きであった。元亀天正の兵乱は漸く白熱点に達して来たのである。信長を東と北と西とから圧迫してくる諸勢力は、丁度この頃に、相結んで信長を打倒しようと試みた。一五七二・三年の頃は、信長にとって最も大きい危機ではなかったかと思われる。その中心的な勢力は東から迫ってくる武田信玄であった。彼は将軍義昭が信長の権力に対して不平を抱くのを利用し、これを味方につけた。そうして西の方は石山の本願寺をはじめ、松永久秀、叡山の残党等とも連絡をとり、北の方は浅井朝倉と協力を約した。この形勢に気づいた信長は、一五七二年晩秋、義昭に対して十七カ条の問責書を発したが、同じ頃にもう信玄は数万の兵を率いて甲府を出発したのである。信長と義昭との間の交渉は、もうこれまでのように簡単に解決しなかった。幾度も使者が往復し、義昭が信長の急襲に備えて二条城の防備を堅くするというような態度を取っても、信長は宥和政策を続けて動こうとしなかった。一五七三年の初めには信玄の軍が三方ヶ原で家康の軍を破ったが、信長はなお信玄に対して和親の努力を続け、義昭に対しても温和な使者を送っておのれの娘を人質に出そうとさえもした。この際強硬であったのはむしろ、信玄と義昭とである。信玄は義昭にあてて信長の罪五カ条を数えた意見書を送ったが、叡山撲滅はその罪の大きいものであり、従って叡山復興が信玄の主たる目的とされていた。フロイスによると、信玄は信長に宛てた書簡に「天台の座主沙門信玄」と署名し、信長はその返書に「第六天の魔王信長」と署名したといわれる。これは二人の英雄の間に取り交わされた諧謔の応答に過ぎぬが、しかしその背後には両者の仏教に対する態度が示されている。フロイスはその点を敏感に感じて、信長が容易に上京し得ないような窮境に陥っていることを憂慮し、信玄が上京して叡山を復興した場合の迫害についてさえも心構えをしようとしていた。
が、そういう不安はフロイスに限ったことではない。京都の市民全体が非常な不安に陥り、避難の準備で騒いでいた。家財の荷造り、市外への運搬、それに対する兵士たちの掠奪、そういう騒ぎが毎日続いた。フロイスも祭具や書籍を醍醐、八幡などに送った。やがて女子供たちの避難も始められた。当時オルガンチノとロレンソは三箇に滞在していたが、その三箇の領主はフロイスに避難をすすめて来た。摂津の高山ダリヨも丹波の内藤ジョアンも、度々その居城へ来るようにとすすめて来た。京都の信者たちも同意見であった。いよいよ京都の町が兵火に焼かれる時には、フロイスを救うことが困難になるからである。
しかしフロイスは動かなかった。自分の任務はキリスト教の信仰を日本人にすすめることである。信長は自分たちの親友であり、キリスト教を庇護しているのであるから、その軍隊が京都へ侵入しても、信者や会堂に対して害を加えることはあるまい。信長の軍隊が近づいてくれば、自分は市外に出迎えて、カブラルからの贈物の楯や書簡を渡すつもりである。こう彼は云い切った。市内の騒擾が主として心理的な不安に基くことを、彼は見抜いていたらしい。或る日一群の盗賊たちが、掠奪の機会を作るために、信長来襲、二条城炎上という虚伝を飛ばした。すると京都の市内は、俄然、「最後の審判の日」のような混乱に陥った。そういう市民の心理状態を彼は観察していたのである。
義昭は春の彼岸の頃に遂に兵をあげた。それに対して即座に信長が打った手は、柴田明智等の部将を派遣して石山や今堅田の城を陥し、京都への通路を確保することだけであった。信長が大軍を率いて京都に来たのは、それよりも一カ月ほど後のことであるが、その当時京都では、信長の上京は、到底不可能であろうと信ぜられていた。東からの信玄の圧迫、北からの浅井朝倉の攻撃が、信長を危地に陥れているからである。京都の義昭は、摂津の三好党や本願寺の勢力を味方として、今や確乎たる地歩を占めているかのように見えた。
この頃に、フロイスの前に大きく現われて来たキリシタン武士は、丹波の八木の城主内藤ジョアンであった。ジョアンは前年京都でカブラルに会った時には、「憐れむべき窮乏の状態」にあったといわれるが、僅か一年後のこの時には、二千の兵を率い、十字架の旗印を掲げ、兜にゼズスの金文字を輝やかせながら、将軍義昭の味方に馳せ参じて来たのである。義昭は非常に喜んでこれを迎えた。ジョアンはその日の午後、キリシタンの兵士たちをつれて会堂にフロイスを訪ね、告解のための準備を熱心にはじめた。その熱心、謙遜、従順な態度は、フロイスに非常によい印象を与えた。このジョアンがこの時以来会堂や信者に手厚い保護を加えたのである。その後彼は、高山右近などと共に、最後までキリシタン武士としての操守を貫いた。
その高山右近も丁度この頃に表へ浮び上って来た。彼は父の高山ダリヨと共に和田惟政の部下として高槻城を守っていたのであるが、惟政の戦死後、後を継いで城主となった惟長の統率力の不足から、遂に悲劇的な異変をひき起すことになったのである。事の起りは、惟長の家臣のうちに、高山父子の声望と勢力とを妬んでこれを除こうとする連中があったことである。惟長はそれに同じたわけでもなさそうであるが、またそれを抑えることも出来なかった。で、惟長が高山父子を誅しようとしている、ということが、高山父子に伝わった。高山父子は、和田惟政に代って権力を握っている荒木村重の諒解のもとに、遂に惟長の不意を襲った。当時十九歳の青年であった右近が、同じように若い惟長と渡り合って共に傷ついた。この争を調停したのは、桂川の西の地方を領していた細川藤孝である。その結果、惟長は高槻城を出て伊賀に帰り、高山ダリヨは高槻城主として留まることになった。が間もなく惟長は、右の負傷のため伏見の城で死んだ。キリスト教を外護した和田惟政のあとはこうして絶えたが、その代りキリシタン武士高山右近の活躍がこれから始まるのである。
ところが、その惟長の歿後十日ほどを経て、上京不可能であろうと思われていた信長が、突如近江の国に姿を現わした。一五七三年の四月末であった。その報が達すると共に、義昭は急いで味方の兵を二条城に籠らせ、濠の橋を引いた。内藤ジョアンも部下の兵と共に城に入った。市民はまた大混乱に陥った。フロイスもまた家財の荷造りや発送をはじめた。内藤ジョアンは護衛兵、馬、人夫などを出して、その荷物を丹波へ送らせた。そうして熱心にフロイスに丹波へ避難することをすすめた。しかしフロイスはなお会堂と信者とを見捨てなかった。丁度その頃に細川藤孝と荒木村重とは、信長の軍を逢坂まで出迎えたのである。もし内藤ジョアンが信長方であったならば、フロイスも信長を出迎えることが出来たかも知れない。
信長は四月三十日(天正元年三月二十九日)午前、京都の東の郊外に入り、智恩院から祇園へかけて陣を取った。フロイスはその午後、カブラルの信長への書簡や贈物の楯などを携えて小西隆佐の家を訪ねた。多分信長への接近の手だてを隆佐に相談しに行ったのであろう。隆佐の家では家族は皆避難し、隆佐と子の行長だけが武器を持って残っていた。隆佐の智慧を以てしてもフロイスの計画は実行し難かったのであろう。フロイスは書簡と楯とを隆佐に託し、機会を見て信長に届けるように頼んだ。そうしてフロイス自身は、十人ほどの信者のいる九条村に避難することになった。十数人の信者が同伴した。丁度麦が穂を出しかけた時分で、掠奪者が麦畑にひそんでいたが、またこちらも麦畑に隠れることが出来た。九条村では信者の親戚や知己の家を転々して隠れていたが、掠奪に来た荒木の兵士やそれに内応した村人たちに対し、危険を顧みず敢然としてフロイスを庇ったのは、その父がキリシタンであったという一人の異教徒であった。その騒ぎのあとで信者たちはフロイスの避難先を相談し、夜の闇にまぎれて東寺の村へ連れ込んだが、迫害者の内通で、東寺の坊主らはすでにフロイスの隠匿を禁ずる触れを出していた。この時にも死を賭してフロイスを隠まってくれたのは、老信者メオサンの親戚の異教徒であった。その家にフロイスは八日間隠れていたのである。
その八日間に信長は一応京都のことを処理して、急速に京都をひき上げてしまった。だから、フロイスは信長には会えなかった。しかし最初東山に陣取った信長は、部下の兵士に京都市内へ入ることを禁じ、義昭に対して依然宥和政策を続けたので、フロイスが九条村へ逃げさえしなければ、翌日あたりには、会うことも出来たのである。カブラルの書簡と楯とを託された小西隆佐は、翌日即ち五月一日には信長を訪ねてその託されたものを手渡すことが出来た。信長は非常に喜んでフロイスやオルガンチノの消息をたずね、ポルトガルの楯をほめた。このことはすぐフロイスの方へ連絡されたと見え、二三日後には隆佐に金米糖入りの瓶を持たせて、再び信長を訪ねさせている。
このように信長は、最初四日間、軍隊を動かさずに義昭に和睦をすすめた。将軍は将軍として立てる。ただ戦争と政治のことは譲歩して貰いたいというのであった。義昭が承知しなければ実力を以て強行することも出来るが、しかしそのためには京都の市民や郊外の農民が非常な災厄を受ける。それは何とかして避けたい。そう信長は考えた。しかし、義昭を取り巻く「若衆」の鼻息は頗る荒く、信長の足許を見透かしたような気持になっていた。だから義昭は和睦に応じなかった。そこで信長は止むを得ず五月三日に京都の周囲二里から四里位の間の町村九十余を焼き払わせたのである。それは京都の市民がその家財や妻子を避難させた場所であった。従ってそこで行なわれた掠奪や暴行は実質上京都の町に加えられたのと同じであった。フロイスが最初避難した九条村もこの日焼かれた。
この大破壊のあとで信長は再び義昭に働きかけたが、義昭は依然として応じなかった。上京や下京の市民は、市内へ手をつけないようにと熱心に信長に請願し、信長も下京に対しては焼かないという書付を与えたが、上京に対しては、答えなかった。しかし、五月三日夜に上京に起った火は、信長がつけさせたのではない。三十人ほどの掠奪隊が勝手にやったことである。信長は部下の兵士が京都の町に火を放ったのでないことを示すために、その夜軍隊を全然動かさなかった。こうして五月四日の朝には上京の三分の一以上は焼けていた。そこへ信長は軍隊を入れて、二条城包囲に都合のよいように、残存の部分をも焼き払ったのである。この上京の焼き払いでは多数の寺院の焼失が目立った。信長が上京を容赦しなかったのは、寺院が多い故であろうとも云われている。
信長は自分の築城したこの堅固な二条城、三つの堀と数カ所の稜堡を以て取巻かれたこの要害を、攻撃によって陥そうなどとはしなかった。周囲に四つの城を設け、通路を塞ぎ、糧道を絶って、包囲の態勢を整えたのである。地元の細川藤孝などがその押えを命ぜられた。この形勢を見て義昭は和睦に応ずる態度をとるに至った。五月八日(天正元年四月七日)勅使が義昭と信長とを訪れ、信長は即日京都を去ってその日は近江守山に陣取った。
この時の和睦が一時的なものに過ぎなかったことは、事件の二十日後に書かれたフロイスの書簡にも明記せられている。義昭は浅井朝倉や三好三党の救援をあてにして一時免れの策を取ったのである。信長もそれを知っていた。だから彼は義昭の再挙を予想して、琵琶湖に百挺櫓の大船十数艘を急造させ、京都急襲の用に備えた。
ところでこれらの信長の進退を東から牽制していた武田信玄は、三河野田の陣中で病み、信濃まで引き返して五月十三日に歿した。それは直ぐには発表されなかったが、しかし東からの強い圧迫はここで止んだ。この信玄の死が恐らく信長にとっては実質上の運命の転回点であったであろう。従って形の上では、信長のこの時の九日間の在京が、彼の地位を決定したのである。この時信長は、「その心が寛大であって思慮があり、時に臨んでよくおのれの情を撓めることが出来る」という印象を京都市民に与えたという(フロイス、一五七三年五月二十七日都発書簡)。将軍の存在はもう宙に浮いてしまった。
三 将軍の没落、浅井朝倉の滅亡、伝統破壊者の勝利
高山ダリヨはこの戦乱に際し、フロイスの身の上を心配して数人の家臣に村々を捜索させたが、八日の後にやっと東寺にいるのを見つけた。それは信長の退京の日であった。その日京都からも信者が迎いに来て、フロイスは会堂へ帰った。翌日、在京の信者たちが集まって来たが、フロイスを見ると皆涙を流して泣いた。
内藤ジョアンは城を出てほとんど毎日会堂を訪ねて来た。兄の玄蕃も、家老の内藤土佐も、他の家臣らと共に説教を聞きに来た。やがて間もなくこの両人は洗礼を受け、玄蕃はドン・ジュリアン、土佐はドン・トマスとなった。丹波に会堂を設けること、ロレンソがそこへ説教に行くことなども追々に運んだ。
フロイスによると、この内藤ジョアンは義昭とかなり親しかったように見える。信長の退京後六日の頃、義昭は二条城にいることを不安に感じ、ジョアンに対してその城の借用を申込んだ。義昭が八木城に入り、ジョアンが二条城を守るという計画を立てたのである。ジョアンはそれに対して、将軍の意志には喜んで従いたいが、しかし将軍ともあるものがこの堅固な二条城を逃げ出して信長を再び敵とすることは、甚だふさわしくないという意見を述べた。すると将軍は初めの計画を変更して宇治の槇の島に移ることにきめ、婦女子や家財の運び出しをはじめた。京都の市民はそれを見て再び恐慌に陥り、同じように女子供や家財の搬出に狂奔した。当時病中であったジョアンは、それを聞いて急いで城に馳せつけ、出発のために将に馬に乗ろうとしていた義昭をとどめて、その場に居合わせた大身たち一同の面前で、この移転を諫止した。京都市民は将軍を愛するが故にこの絶大な災禍に逢ったのである。その将軍が今京都を見捨てるならば、将軍の名誉と尊敬とは、全然失われてしまうであろう。自分は死を賭してもこの城を守る。是非留まってもらいたい。この意見には、将軍に随行しようとしていた大身たちも、賛成した。そうして義昭は移転を思い止まった。市内の動揺も静まった。このジョアンの諫止は市民の間にも非常に好評判であった。
同じ頃に三好三党や本願寺などの聯合軍は、大坂と京都との中間まで進出していた。高山ダリヨは危険を慮ってフロイスを高槻の城に避難させるため人馬を京都に寄越した。丁度その時に三好の軍中からもキリシタン武士たちの書簡を携えて使が来た。それによると、三好の軍隊が京都に入るかどうかはまだきまっていないが、もし入ることになれば、会堂のある町はキリシタン武士たちが責任を以て保護するから、避難するに及ばない、というのであった。フロイスはこの申出に満足して、高山の兵士を帰らせた。
そういう状態でフロイスは三月ほど京都で活動をつづけた。内藤ジョアンの一族のほかに摂津の池田の兵士たちも内藤玄蕃のすすめに従って説教をききにくるようになった。六七月頃には、池田の人々に対して、毎日午から夕方まで説教をつづけた。池田領にキリスト教をひろめようということは、フロイスの年来の望みだったのである。
義昭は六七月頃に再び京都を去ろうとして思い止まったが、八月のはじめには遂に意を決して宇治の槇の島にたてこもった。二条城は部下の武士や公家が大将となって守った。三好三党や本願寺の軍は、京都の南方まで来ている。浅井朝倉は信長の京都への通路を遮ぎるであろう。今度こそは後顧の憂のある信長を苦しめることが出来る。そう彼は考えたであろう。しかしすべては無駄であった。信長は義昭挙兵の報知を得ると、岐阜から大軍を一日一夜で京都へ入れた。京都の市民はあきれて、まるで天狗のようだ、将軍がかなう筈はない、とつぶやき合った。琵琶湖に準備した百挺櫓の船隊が物を言ったのである。二条城は包囲せられると間もなく降った。十日目にはもう槇の島の攻撃がはじまったが、これも一日で陥ちそうになった。義昭は和を請うた。信長はさすがに殺そうとはせず、どちらへでも送ってあげろと云って秀吉たちに処置をまかせた。そこで秀吉らは、将軍方についた三好義継の居城、河内の若江へ義昭を送り届けた。義昭はこの後も本願寺や毛利の勢力に頼って信長に反抗し続けるのであるが、しかし信長の眼中にはもう彼はなかった。足利将軍の伝統的意義はここで壊滅してしまったのである。
このことは京都では形の上に示された。上京を兵火によって破壊したのは、信長ではなくして足利将軍の責任である。信長はただ、市民の不幸に同情して復興を助ける。そのために彼は、地子銭及び諸役の免除、鰥寡孤独の扶持、そのほか種々の技術において名人と呼ばれるものの保護、儒学の奨励などを布告した。市民は古い伝統を担う将軍よりも、実力を持ったこの新しい英雄の方を喜び迎えたのである。
この新しい形勢を完成するかのように、信長は、すぐその翌月に、浅井朝倉を討滅してしまった。それは僅か二十日ほどの間の出来事であった。信長は江北の浅井の城を押えて置いて、朝倉の援軍に強圧を加え、近江から越前へ続く峻嶮な山地のなかを追撃して行った。そうして朝倉の軍をその本拠一乗ヶ谷から追い出し、遂に徹底的に崩壊せしめた。それから直ぐひき返して、江北の虎姫山の城を強襲し、浅井父子を自殺せしめた。これで、長年の間信長を北から圧迫していた力は取除かれたのである。
このように一五七三年は、五月に東方の信玄が歿し、八月に京都の将軍義昭が追われ、九月に北方の浅井朝倉が討滅されて、信長の運命がはっきりときまった年であった。フロイスは冷々しながらこの信長の運命を見まもっていたのであったが、それは彼の希望する通りに開けて行った。彼はこの騒ぎの最中、五月の末に、こう書いている。日本の異教徒たちは、坊主も俗人も、神仏が信長に厳罰を加えるだろうと期待していた。しかるに寺院や神社を破壊しその領地を武士たちに分配するような乱暴を働いた信長は、その後ますます栄え、ますます大きい勝利を得、何事をも意の儘になし得るようになった。それを見て異教徒たちは、神も仏も頼りにならないと嘆いた。中には、信長がひそかにキリシタンになっていると信ずるものもあった。そうでなければ、あのように思い切って神仏を涜すことは出来ないからである、と。この言葉には、フロイスの信長にかけていた希望が鳴り響いているように思われる。
第十章 京都の新会堂『昇天の聖母』の建立
一 新会堂の計画とその主動者たち
一五七三年を境として信長の地位は非常に強固なものになったが、しかし彼を包囲する敵の勢力はなお残っていた。東からは信玄の歿後嗣子の勝頼が信長を襲おうとしている。西の方では本願寺が反信長の勢力を糾合し、北方の越前の一向一揆を活気づけている。一五七四・五年の頃はこれらの敵対勢力の処理に忙がしかった。が一五七四年には伊勢長島の一向一揆を全滅させ、一五七五年には長篠の合戦で巧みな鉄砲戦術により武田の精鋭を壊滅させたのみならず、北の方越前へ攻め込んで本願寺一揆を平定した。こうして一五七六年以後は、石山の本願寺とその与党とを討滅することが、唯一の問題として残ったのである。
その一五七六年の初めに、信長は近江の安土に城を築いてそこへ移った。それは同時に、中世的な種々の特権組織から解放された近世的な都市の建設の開始でもあった。信長の政治家としての才能はここで顕著に現われてくる。後に秀吉が大坂を、家康が江戸を作ったのは、いずれも信長の安土経営に学んだものである。
この機運はそのまま、京都のキリスト教会にも反映した。一五七五年にはじめられた新会堂の建築がそれである。
京都の信者は永年の戦乱つづきのために数の上でふえたわけではなかったが、しかしビレラの教化以来堅実に信仰を守って来た人が多かった。困難の時期にいつもフロイスを援助した小西隆佐父子のほかに、フロイスが特に名をあげているのは、老アンタン、コスモ、アンタンの兄弟ベント、ジュスチノ・メオサン、その子アレシャンドレ、レアン清水などである。メオサンはその妻子と共に京都で最初に信者となった老人で、教会のことに非常に熱心であった。妻のモニカも徳行のすぐれた人であった。フロイスが九条村に逃げた時にはメオサンもその子と共について行き、東寺の自分の甥の家に八日間フロイスを匿まったのである。レアンは五十歳位の相当富裕な人で、才智があり思慮深く、言葉少なで実行力に富んでいた。その父は熱心な法華信者で、レアンのキリシタンとなることを非常に嫌い、不幸の死を遂げた。その妻と子も中々改宗しなかったが、レアンはその熱心によって遂に信者とすることが出来た。このレアンが実に真面目な信者で、その富を教会と慈善とのために惜しみなく使ったのである。京都の信者のうち、新しい会堂建築の主動者となり、その建築のために最も熱心に働いたのはこのレアンとメオサンとであった。レアンはこの建築のために多額の寄附をしたのみならず、この計画のために、いろいろ智慧を絞った。フロイスは、事毎に、殆んど皆レアンの意見に従ったと云っている。メオサンも分以上の寄附をし、木材買入れに寒中四十里余の山中へ出掛けたりなどした。この好き老人は、夜眠れない時に、キリシタン都市としての京都の都市計画を考案して楽しんだという。京都に数多い仏寺を改造して、キリスト教の大寺院、貧民病院、受洗志願者の家、学校などを建設するのである。
しかし新会堂の建築に力をつくしたのは、京都の信者のみではなかった。摂津河内のキリシタン武士たちも熱心にこれに加わった。
先ずあげられるのは高槻城の高山ダリヨ、ジュストの父子である。一五七三年の春、和田惟長を追い払って高槻城主となった高山ダリヨは、もう五十歳を越えて居り古い戦傷が時々痛みもするので、城の支配をジュスト右近に委せて、自分はキリスト教のことに専心し始めた。先ず第一に着手したのは会堂の建築である。元神社のあった、大樹のある広い場所にそれを建て、周囲に大きい庭を造った。会堂の傍には、宣教師の宿泊用に美しい住宅を建て添え、その前には石を多く使ったしゃれた庭を造った。この新しい会堂で最初のミサを聞いたとき、ダリヨは床の上に伏して歓びの涙を流し、地上の望みはもう達せられた、御意のままに、何時にても御許に召し給え、と云ったという。この会堂へ、信者らは毎朝鐘の音と共に集まって、祷りをした。夕方アベ・マリアの時もそうであった。ダリヨとその子はいつも真先に来た。日曜や祭日にはダリヨが説教をしたり、或は書籍を読んで聞かせたりした。そうして時々京都から宣教師に来て貰って、ミサや説教をきいた。こうしてその後二年ほどの間に、城内の武士や兵卒たちをその妻子と共にキリシタンに化して行ったのである。
ダリヨはこの信者らを組織して教化の仕事や慈善の仕事につとめた。キリシタンの客人は、全然未知の人であっても、親戚のように款待した。貧者には、衣食を給した。戦死者の遺族は、親身になって世話をした。貧しい者の葬儀も、信者一同の参加によって、盛大に営んでやった。
そういう風にしてダリヨの仕事が実って来た頃に、京都で会堂新築の議が起ったのである。ダリヨも京都に来て宣教師や大工と共に製図をやり、主要な材木の供給をひき受けた。そのために彼は自ら騎馬の士二三人と共に大工木挽を引率して六七里の山奥に入り、材木を伐り出した。それを先ず高槻まで運び、船で京都近くまで持って来て、更に荷車で一里ほどの途を工事場に届ける、ということをすべて自費でやった。工事が始まってからも人夫の供給その他いろいろなことを引受けた。かなり困難だと思われることでも、頼まれると、お易い御用だと云って気持よく引受けるのが彼の常であった。
この工事の進行中、一五七六年の復活祭に、ダリヨは懇請してオルガンチノを高槻に迎えた。ダリヨはいろいろと祭の準備を整え、非常な熱心と献身的な態度とを以て聖週の行事を手伝った。聖餐の後には、会衆六百余を饗応して、人々にその慈愛を感嘆させた。オルガンチノは、これほど荘厳な復活祭を日本で見たことがない、と云ったという。その後数カ月を経てオルガンチノは京都の会堂で献堂式を行ったのであるが、その時にはダリヨは、夫人を伴い、子ジュストと共に二百余人の士卒をひきいて参会した。附近の市民はかくも多数の輿や騎馬が会堂に入るのを見て驚いた。式後にダリヨは、運ばせて来た多量の食料品を以て、諸方からの参会者のために盛大な饗宴を設けたのであった。
高山父子についで挙げられるのは、河内飯盛山下の岡山城の家老、ジョルジ結城弥平治である。ジョルジはこの時三十三歳位であったが、洗礼を受けたのは十四五年も前で、ビレラが最初に作ったキリシタン武士結城山城守の甥だといわれている。ジョルジの母親は熱心な法華信者であり、兄弟二人も僧侶にされていたのであるが、ジョルジは非常に骨折って、これらをすべて好いキリシタンにした。岡山城に来る前には、三箇のキリシタン武士の一人として活躍し、キリシタンなるが故に戦死を脱がれたこともあった。岡山城主は彼の甥であったが、彼は見込まれてその後見となり、その家を治めることになった。城主は彼のすすめにより家族と共に洗礼を受けてジョアンとなった。城主のみならず、岡山の住民千余人も、彼の熱心に化せられて、一人残らずキリシタンとなった。そこには会堂や宣教師の宿舎も建てられた。フロイスやロレンソは度々ここを訪れている。
京都で会堂の新築がはじまった時には、ジョルジは早速会堂の附近に一軒の家を借り、そこに四五十人の士卒を宿泊せしめて、毎日工事を手伝わせた。会堂の大きい礎石を運び込み、据えつける時などには、ジョルジがこの仕事を引きうけ、自ら士卒の先頭に立って、両肩を腫れ上らせるほどに働いた。家老であるから、いつも京都に来ているというわけには行かなかったが、祭日などには、一両人の伴をつれて夜のうちに十里の道を馬で飛ばせ、午前中に告解や聖餐をすませて、午後直ちに帰って行く。まるで一二里の所から来るような何気のないふりをして、骨折りを人に知らせないようにする。建築費の寄附なども率先して人より多く出したのであるが、それを秘して人に知られないようにしていた。或時、上京の節に工事場に大工の数の少ないのを見て建築費の窮乏を察し、宣教師館の一隅でこっそりおのれの帯刀の金の飾りを外して紙に包み、日本人のイルマンに託して行ったこともあった。そういう慎ましいやり方が宣教師たちを非常に感動させたのである。
岡山の近くの三箇の信者たちも勿論会堂の新築に協力したのであるが、その中で特に著しかったのは、三箇の城主の姉妹で、キタという武士に嫁していたフェリパである。この五十歳を越えた老夫人は、キリシタンの女子の模範であったといわれている。さほど富裕ではなかったが、会堂や貧者のためには物惜しみせずに愛の行をつとめた。病人を訪ねて慰め、心弱きものの信仰を堅めてやり、うかうかとしていたものは呼び醒し、争いがあれば調停する。異教徒に対する教化にも熱心であった。またクリスマスや復活祭に他の地方から三箇に集まってくるキリシタンの貧しい女たちで、フェリパの世話にならぬものはなかった。その他の時でも、岡山にくるキリシタンはいつも夫人の世話になる。冬になるとフェリパは侍女たちと共にせっせと機を織り、衣服に仕立て、京都の宣教師のもとへ持ってくる。新会堂の工事の始まったときには、工事に役立てるために多量の織物の荷を携えて京都へやって来た。その所行は全く初期の教会の婦人のようであったとフロイスはいっている。
河内若江城の部将、シメアン池田丹後も京都の会堂の新築に力をつくした人である。若江の城は信長が将軍義昭を逐うた頃には三好義継の居城となって居り、義昭もさしずめ宇治の槇の島からこの若江の城に送りつけられたのであったが、その冬信長の軍に攻囲せられた時、池田丹後は他の部将たちと共に信長方に内応し、義継を自殺せしめたのである。その後はその部将たちが共同して若江の城を守っていた。そのうちキリシタンであったのはただ池田丹後のみであったが、しかしその部下の武士たちは、ビレラが飯盛山下に布教した頃からのキリシタンであった。だから若江の城内に立派な会堂を建てたのみならず、京都の会堂の工事についても非常に援助を与えた。その後一五七七年に信長が紀伊の雑賀を攻めたとき、シメアンも従軍して寺々を焼いたが、その戦争の最中に、彼は分捕った大釣鐘を京都まで運ばせ、聖母の会堂に献じたりなどした。
が以上に挙げたのは特に目立った数人なのであって、ほかに無数の信者たちがそれに類した熱心さを以て働いたことはいうまでもない。河内の山から材木を淀川に出し、それを伏見までひいてくる時などは、若江、三箇、甲賀などのキリシタン武士たちが集まり、その家臣・親戚・友人など、千五百人が出動した。高槻の傍を通る時には高山ダリヨが士卒を出して手伝わせた。その他富者は富者相応に、貧者は貧者の分以上に、金銀米、その他雑多なものを寄進した。或者は縄を持ってくる。他の者は手一杯の釘を持ってくる。或は大工らのための魚類、或は手織の木綿の布を届ける者もある。或は自家の鉄鍋を携えて来て料理を手伝うものもある。戦死した子の武具や衣類を寄進する母親、畳百枚を寄進して人々を驚かせた老寡婦などもあった。こういう無数の人々の心からの協力が新会堂の建築を仕上げたのである。従ってそれは単なる建築の仕事というわけではなく、京都地方の信者たちの、集合的な感情や意志の表現だったのである。
二 建築工事と村井貞勝の外護
ではその建築の仕事はどういう風に運んだか。
一五七五年までの小さい貧弱な会堂は、風の烈しい日には中にいられないほど頽廃していた。
それを何とかしたいということは前から宣教師も信者も考えていたのであるが、いよいよ新築の議が起ったのは、一五七五年の前半であったらしい。その時は売物に出ている仏寺を買い取り、その材木を使う計画であったが、値段が折合わず、その計画は放棄された。しかしそれが却って刺戟となり、信者たちの熱心が高まって、夏の頃に新会堂建築の相談がきまった。宣教師は豊後のカブラルに報告して、ヤソ会の経常費を、いくらか割いて貰うことにした。有力な信者たちは集まって、製図したり、工事の分担をきめたりした。人々は手を分けて、材木の買入れ、工事用の米の買入れ、大工や人夫の工面などをひき受けた。こうして、多分、一五七五年の末頃に工事に着手したのである。
工事は、前に述べたような熱心な信者の協力のもとに押し進められて行ったのであったが、工事のために特に都合がよかったのは、村井長門守貞勝が、一五七三年の足利将軍失脚以来、京都所司代となっていたことであった。貞勝はそれ以前にもすでに朝山日乗と共に内裏の造営に従い、京都の行政を見ていたのであるが、日乗とは異なり、宗教的な偏向を全然持たず、信長のキリシタンに対する態度をそのまま施政の上に反映し得る人であった。フロイスも彼のことを「尊敬すべき老年の異教徒」「生来の善人」などと呼んでいる。その貞勝が、前の和田惟政と同じように、異教徒でありながら、熱心にキリシタンの保護をはじめたのである。所司代は「京都の総督」と呼んでもよいような地位で、権勢の上でも惟政に匹敵していた。
最初教会から新会堂建築のことを所司代へ届け出たとき、貞勝はそれに対して特別の恩典を与えた。当時京都では、内裏修復用の建築資材のほかは、材木その他一切搬入が禁ぜられていたのであるが、貞勝は会堂用の材木その他建築資材の自由搬入を許し、その上税を免じたのである。ついで棟上げの時には、七百人以上の人手が必要だと考えられていたが、貞勝はそれに対して、要るだけ申出るがよい、千人でも送って上げよう、と申入れたという。そうして、棟上げの当日には、代理の武士二人が、多数の人を率い、祝いの品を携えてやって来た。この人々は夜に入るまで工事場に留まり、所司代が会堂に好意をもつことを市民の間に周知せしめようとしたのである。その日はほかにも諸方からキリシタンの大身が集まったが、それらと併せてこの所司代の処置は非常にききめがあった。これまで会堂に好意を持たなかった町内の人々も、急に態度を変え、工事に助力するようになった。なお、棟上げの数日後には、貞勝自身が工事場に来て、小銭二万を贈って好意を表したのみならず、当時安土造営のために行われていた大工の徴発を、会堂の大工にのみは適用しないことにしてくれた。
が貞勝の与えた最も大きい庇護は、会堂新築に対する京都市民の反対を抑えてくれたことであろう。反対の理由は、会堂の上に二階のある高い建築(日本風にいえば三階建であろう)が、寺院や住宅を越えて聳え立ち、京都の市民を見下すということ、或は礼拝堂の上に住屋を重ねるのは日本の風でないということ、などであった。貞勝はそれに対して、至極合理的な意見をのべ、反駁した。外国人が京都へ来て家を建てるということは、京都に名物がふえるようなものではないか。市民はむしろそれを尊重すべきである。会堂の上に住屋を重ねるのは、地所が狭く余地がないためであって、止むを得ない。また高い二階を造るのがよくないというのならば、外国人と日本人とを問わず禁止すべきである。京都に現存する二階を悉く壊させるというのであるならば、キリシタンの会堂に対しても二階を壊せと命じよう、というのであった。
所司代が会堂新築反対に同じないのを知ると、京都の町の自治組織を代表する年寄たちは、自分たちの権限を以て、会堂の上の二階を壊せということだけを命令して来た。これは会堂の構造に難癖をつけたのであって、会堂の新築に反対したのではないように見えるが、しかし工事の途中にこの変更を命ずることは、工事を不可能ならしめるに近かったのである。それを察した宣教師たちは次のように抗弁した。二階の住屋がいけないならば、工事を始める前にそのことを通達すべきである。建築の構造上、上と下とは密接に聯関している。下の構造を害うか、或は非常に多額の費用をかけなくては、上部を取除くことは出来ない。この建築は開始前に信長及び所司代に届け出てある。それらの人々の保護の下に宣教師は京都に居住しているのであるから、この事についてもそれらの人々の命令に従うであろう。
こうして京都の町の自治当局と教会とははっきりと対立した。何故、町の年寄連がこの筋の通らない難癖にやっきとなったかは、よくは解らないが、フロイスは坊主らの使嗾によると解釈している。町の方では意地になって、四十人ほどの主立った人々に、多量の進物を持たせ安土の信長に陳情させることにした。京都市民の希望とあれば、民衆の動向を重視する信長は動くに相違ないと考えたのであろう。これは、京都の町としては相当の大事件である。この形勢を見て教会の方では一足先に、日本人イルマンのコスメを安土に派遣し、有力な武士数人に事情を報告させた。その人たちは、気にせずに工事を続けるがよい、陳情者が来ても工合よく計らってやる、といってくれた。所司代の村井貞勝もこの陳情団が出発したと聞いて、信長及び彼自身の庇護している外国人を京都の町が苛めるということは、彼の面目にかかわると考えた。で、老体にかかわらず寒いなかを急遽安土に馳せつけた。陳情団が安土について見ると、そこには意外にも彼らに反対した京都所司代が居り、しかも信長側近の武士たちは誰も彼らを信長に取り做そうとはしてくれなかった。結局彼らは何も出来ずコソコソと京都へ引き返して来たのである。
以上のような所司代の外護に加えて、キリシタン武士たちも、意外なほど熱心であった。一五七六年の五月には、石山本願寺に対する信長の大仕掛な攻撃が始まったので、高槻、若江、三箇、岡山の四城のキリシタン武士たちはそれに参加しなくてはならなかったのであるが、そういう慌しい際にも彼らは一定の人数を京都の工事場に派遣することを決して中止しなかった。それぞれの部署を互に代り合い、交替して京都に出て来たのである。
この工事の有様はフロイスやオルガンチノを非常に喜ばせた。所は神社仏閣に充ち溢れた偶像の都である。そこにたった二人の外国人がいて、多数の敵の意志に反して美しい会堂を建築している。この素晴らしい状況をヨーロッパ人に想像せしめるために、フロイスは次のような表現を使った。この状況は、ローマかリスボンへたった二人のアラビア人が来て、キリスト教の会堂の側に、モハメッド教のモスクを建てているのと同じである、と。この気持は恐らく当時の日本人には解らなかったであろう。しかしモハメッド教徒との対抗に刺戟されてインドに進出し日本まで来ることになったヨーロッパ人にとっては、この表現は実に多くのことを語っているのである。
一五七六年の夏には、会堂はまだ落成してはいなかったが、オルガンチノはシャビエルの日本に着いた八月十五日、聖母昇天祭の日を選んで、この会堂での最初のミサを献じた。会堂の名も『昇天の聖母』と呼ばれた。この時フロイスはロレンソと共に河内に行っていて留守であったが、諸地方の信者は多数に集まり、盛大な祭が行われた。
その年の末、クリスマスの頃には、会堂は大部分落成していた。着工以来ほぼ一年である。その会堂へ諸方から信者が集まって、クリスマスを賑やかに祝おうとしているところへ、前々年に長崎へ着いた新しい神父ジョアン・フランシスコが到着した。その喜びをも加えて、新会堂最初のクリスマスは非常に盛大であった。
会堂は部分的にはなお未完成であったのであろう。半年後にフランシスコの書いた書簡にも、新会堂は殆んど落成したとあって、未だ完成を云ってはいない。更にその一年後にオルガンチノの書いた書簡に至って初めて新会堂は落成したという言葉に出会う。しかしこの時にもなお壁画は出来ていなかったのである。
三 新会堂の効果
会堂は宏大とはいえないが、しかし壮麗なものであった。京都の石工や木工は非常に技術が優れていたし、建築工事を監督するオルガンチノがイタリア人で、建築のことを心得て居り、いろいろ工夫を加えたので、その点からも日本人の眼を驚かせるに十分であったらしい。信長をはじめ日本人たちは、この会堂に関して西洋人の知識を讃めた、といわれているところを見ると、かなりヨーロッパ風が加味されていたと思われる。信長たちが満足したのみならず、この建築を妨害しようとしていた人々さえも、出来上りを見て賞讃したほどであった。
問題となった二階は、会堂の上部にあって、美しい室を六つ含んでいた。そこからは市内が見渡せるだけでなく、郊外の諸寺院や田園をも遠望することが出来たのである。この高い構造もまた日本人には珍らしかったのであろう。
かくて新築の会堂は、京都におけるキリシタンの存在を非常に顕著に示すことになった。京見物のために諸国から出てくる人々の眼にもつき易くなった。これは宣教師たちにとっても信者たちにとっても非常に大きい意義を担ったことだったのである。キリシタンらは日本の中央の都に壮麗な会堂を持ち、屋根に勝利の旗・光栄ある徽章としての十字架を輝かせ、そこで公然と福音を説いている、――このことが日本全国の異教徒や領主たちに知れ渡るのである。それはあたかも主キリストの勝利を示すかのように感ぜられた。この気持は、日本の各地に勃興した英雄たちがいずれも京都をめざして動いていた時代、京都占領が覇権の成就として受取られていた時代にあっては、実際に現実的な裏づけを持っていたのである。
その証拠は、会堂新築の仕事と共に、また新築の結果として、急激に教勢が高まって来たことである。オルガンチノが新会堂の献堂式を挙げた頃までの二年間の教化の収穫は、その前の二十五年間のそれよりも多かったといわれている。さらにこの堂が大部分落成したといわれる一五七六年のクリスマス以後になると、僅か三四カ月の間に摂津河内で四千人のキリシタンが出来た。一五七七年の七月頃には六千三百人と数えられている。高槻、三箇、岡山などがそのおもな場所である。一向宗徒二百人が一時に改宗するというようなこともあった。
一五七七年九月にオルガンチノが当時インドにいた巡察使ワリニャーニに宛てて書いた報告によると、この年の四旬節の初日以来彼は七千人以上に洗礼を授けた。そうしてなお続々と改宗者が出て来そうであった。彼はこの形勢を京都の会堂の新築と結びつけて記述している。この『昇天の聖母』の会堂は、新築のために非常に骨が折れたが、しかしキリストの御名を挙げる基となるであろう。今既に大いなる効果が現われて来ている。京都の町全体は教会に対して態度を改めた。建築の初めの頃に教会を忌み嫌っていた人たちが、今は教会を尊敬し、悪言を放たなくなった。がこの変化は京都だけのことではない。京都の会堂の噂は全国の津々浦々に伝わり、何処へ行ってもキリストの教を説くことが出来るようになった。のみならず京都の会堂の新築はキリシタンの領主たちを動かし、それぞれの領内に宏壮な会堂を造ろうとする機運を呼び起している。一五七七年の秋までに着工したのは三箇と岡山とである。これらの会堂の装飾用として大毛氈二枚、金襴或はびろうどの法衣数着、美しい画像数面を用意せられれば幸である、と。
かくして一五七七年中の京都地方の受洗者は一万一千に達したのである。
四 信長一門の同情
その同じ年に信長は、大坂の本願寺に更に一層の強圧を加えたのみならず、その背後の勢力を絶とうとするもくろみで、春には紀伊の雑賀一揆を自ら討ち、秋には秀吉をして播磨征伐を開始させた。
が信長が動き出す前、多分陰暦の正月の礼に、オルガンチノはロレンソその他の日本人を伴って、安土の信長を訪ねた。安土の城は京都の会堂より少し遅れて起工されたのであるが、信長の権力を以て畿内地方の材木を集め、大工その他の職人を徴発して、工事を急いだのであるから、この時にはよほど出来ていたのであろう。「キリスト教国にあるとも思えないほど宏壮なもの」と、オルガンチノはいっている。中央の塔は、二十間四方で、高さ十五間、五層の屋根を持っていた。(信長記によると、安土の殿守は、二重の石垣に、高さ十二間、上の広さ南北二十間、東西十七間、石垣の内を蔵に用い、それより上、七重である。)信長は宣教師たちを喜んで迎え、厚くもてなした。キリスト教のことも長時間に亘って聞き、飽くことなく質問を続けた。またこの時にも同席した諸国の領主たちの前で、キリスト教及び宣教師の生活の清浄なことをほめ、日本の仏僧たちの堕落を罵った。そうして、自分は坊主らを悉く亡ぼしてしまいたいのであるが、方々に騒ぎが起るので遠慮している、という意味のことをさえ云った。今や大坂の本願寺を正面の敵としている彼にとっては、これは単なる放言ではなかったであろう。
オルガンチノたちはその足で岐阜に信長の長子信忠を訪ねた。この青年が曽てキリシタンとなる意志を示したと伝え聞いたオルガンチノは、熱心にそれに働きかけようとしたのである。信忠も彼を款待し、長時間語り合った。
オルガンチノたちが帰京してから十日の後、一五七七年の三月に、信長は三人の子を同伴して、雑賀遠征の途次、京都に寄った。この時にもオルガンチノは、新来のフランシスコや日本人ロレンソ、コスモなどを伴って、妙覚寺に宿っていた信長を訪ねた。当時、大勢の有力な武士や公家が面会に来ていたが、信長は誰にも会おうとせず、ただ「貧しい二人の外国人」と、ロレンソやコスモだけを居間に呼び入れ、一時間ほど雑談した。当時フロイスは病気がちで、この日も同伴しなかったのであるが、信長は早速彼のことを尋ねた。フロイスが豊後に行くと聞いたが、ロレンソも一緒に行くのか、という問であった。ついで新来のフランシスコの名や、生国を聞いた。話はそういう些末なことであったが、しかし信長の宣教師に対するこの特別扱いは、集まっている人々を驚愕させずにはいなかった。宣教師たちが帰ったあとで、彼はまたいつものように仏教を罵り、キリスト教を讃めたという。そういうところから、信長にはキリシタンになろうとする意志がある、という臆測も生じて来たのである。そうしてまたそれは、宣教師たちが実際希望していたところであった。
この臆測は、信長の大坂本願寺に対する猛烈な敵意と無関係ではあるまい。信長が紀州の一向一揆を目ざして京都を出発したとき、宣教師たちも教会の附近で彼の通過を見物したらしいのであるが、その時の信長の顔つきは非常に暗く、人に恐怖を抱かせるようなところがあった。京都の市民たちは、信長がよほど思い切ったことをやるだろうと噂し合った。叡山焼討ちの記憶はまだ新しかったのである。その上、信長の本願寺に対する大仕掛な戦略は、市民の間にもう知れ亘っていた。フランシスコが右の信長の京都出発のあと二週間ほどで書いた書簡には、信長がいま従事中の雑賀征伐を終ったならば、次には毛利氏の二国(播磨淡路か)を攻撃し、堺に築城して大坂本願寺の後援を絶つであろう、と明記している。信長の本願寺打倒の努力は、今や世間の関心の焦点だったのである。
紀伊の一向一揆は一カ月余で片づき、信長はその子と共に京都に凱旋して来た。その時オルガンチノは、この三子、信忠、信雄、信孝に熱心に働きかけている。八年前フロイスが初めて岐阜を訪問した時には、彼らはまだ愛らしい少年で、フロイスをいろいろと接待してくれたのであったが、この時はもう二十歳二十一歳などの青年で、それぞれ軍隊を指揮していた。そのうち先ず会堂を訪ねて来たのは信雄である。彼は二時間ほど宣教師たちと語り合い、ヨーロッパ人は日本人よりも勝れていると云った。また、遠い国の外国人が、敵の充満している国の都の真中にこのような壮麗な会堂を建てるということは、実に勇気のある仕業だ、と感嘆した。辞去した後、贈物につけて自筆の礼状を寄越したが、その中には、キリスト教のことをもっと詳しく聞いてキリシタンになろうと思うが、今は戦争中で、それが出来ない、機会を待つ、というようなことが記してあった。オルガンチノたちはこの信雄に非常に望をかけたのである。彼は信長の三子のうちで最も信長に似ている。意志が強く果断である。彼は部下の兵に給与するために、余裕ある大身の米六千俵を奪い取ったことがある。信長が彼を呼んで叱りつけると、自分はあなたの子供のうち最も貧しく、部下に与えるものがない、だから余っている所から少し取った、と答えた。信長は、あいつは叱っても聴かない、腕ずくで取返せ、とその大身に云った。そこでその武士の一万人の部下と信雄の七百人の部下とが対峙した。信雄は、誰も動くな、と云って、自分一人で相手の軍中に乗り入れ、敵将を探し廻った。信長の子だというので誰も手を出さず、相手の武士も姿を隠したので、喧嘩はそれだけで済んでしまった。そういう信雄の行跡を承知の上で、オルガンチノやフランシスコは信雄をひいきにしたのである。
信雄の来た翌日に長子の信忠が会堂を訪ねた。彼もまた人々が驚くほど、宣教師たちに親切にした。彼の希望で、会堂に入り切れぬほどの部下の武士たちと共に、説教を聞いた。岐阜に来て会堂を建て説教するがよい、自分は部下が皆キリシタンになることを望んでいる、と彼は云った。
さらにその翌日に、第三子の信孝が訪ねて来た。彼は長い間宣教師の許に留まり、いろいろとキリスト教のことをきいた。ロレンソが満足の行くように答えた。九州にいる宣教師の数を聞くと、京都は日本の文化の中心だのに何故こんなに少ないかと云った。彼もその領国の伊勢へ神父を一人つれて行きたいという希望を述べた。
広い門が開けた。オルガンチノの心は燃え上ったのである。
五 部将たちの同情、佐久間信盛と荒木村重
が、信長一門のみではない。彼の部将の間にもキリスト教への同情が流れた。中でも著しいのは佐久間信盛である。
信盛は一五七四年以来、大坂本願寺への押えとして、天王寺城にいた。前からキリシタンの同情者ではあったが、丁度この頃に、河内の古いキリシタンの中心地三箇の城主及びその子を、反キリストの徒の迫害から救うために、非常に骨折ってくれたのである。この父子を冤罪に陥れ、キリシタンの中心を破壊しようとしたのは、若江城をシメアン池田丹後と共に守っていた多羅尾右近であった。多羅尾はそれによって河内のキリシタンを亡ぼし、京都のキリシタンの根を絶つことも出来ると考え、三箇城主が信長に対して叛逆を計ったという噂をいろいろな方面に拡めた。信盛は三箇の城主を信じていたので多羅尾の奸策を察し、城主を近江の佐久間自身の城へ行かせた。そこには、三箇の城主の孫が人質として預かってあった。しかし信盛の配慮にかかわらず右近の讒言は効を奏した。信長は信盛に、三箇城主の嗣子マンショを捕えることを命じた。信盛は止むを得ず、若江城の池田シメアンと共にマンショをつれて京都へ行き、信長の前でマンショ父子の功績を述べ冤罪である所以を弁じた。その熱心によって一応信長の誤解を解くことが出来たのである。
しかし事件はそれだけでは済まなかった、多羅尾右近は右の結果を見て黙過することが出来ず、六人の武士を説きつけて味方にならせ、それらを証人として信長の許へ抗議を持ち出したのである。その際多羅尾は、三箇の城主の叛逆を立証するために、当人の署名した書類を提出することが出来るとさえ述べた。六人の証人もそれを保証した。そこで信長は前の決定を飜えし、帰国の途中にある信盛やマンショを呼び返してマンショの処刑を命じた。ひき返して来た信盛が、激怒しながら信長の宿へ入って行くと、多羅尾は既に出発して居らず、右の六人の共謀者だけが控室にいた。信盛は一人ずつ呼んで、おれが三箇の城主父子の庇護者だということを知っているか、ときいた。また謀叛の書類というのがあるなら見せろと迫った。誰一人まともに答え得るものはなかった。多羅尾に聞かせられたことのほかは何も知らない、というのが彼らの答えであった。で信盛は信長に謁して、処刑に先立ち側近の重臣二人にマンショを訊問せしめるようにと懇願した。信長はそれを容れ、父子に対する嫌疑の諸条を問わせた。信盛もその場に同席した。マンショはすでに死を覚悟して祈りを捧げていたが、訊問に対して非常にしっかりと明晰に答弁し、人々を驚嘆させた。終りに彼は、叛逆がキリシタンの教に背くことであり、かかる汚名を受けてキリシタンの名を恥かしめるのが死よりもつらい、という旨をのべた。信長はマンショの弁明に満足し、即座に無罪を認めたのである。しかし目前の戦争の継続中は、マンショを父と共に信盛の城に居らせることにした。
城主父子の冤罪は解けたが、三箇へは帰って来なかったので、三箇の城はしばしば危険に陥った。この年は洪水が多かったので、三箇から大坂へ通ずる川の増水を利用すれば、大坂の本願寺の船隊が三箇を攻撃し占領することも出来たのである。キリシタンの根拠地として特に三箇にはこの危険があった。それに対して三箇を守ってくれたのは、勇猛の名の聞えたシメアン丹後であった。しかるにこの危険が去ると、次には信長方についているキリシタンの敵たちが、陰謀によってシメアンを三箇から引き離し、自分たちで三箇を占領しようとした。この計画は九分通り成功したのであったが、最後の段階で急遽シメアンを三箇に帰し、奇蹟的にキリシタンらを救ってくれたのは、遠く播磨の戦争に赴いていた佐久間信盛であった。
三箇の城主父子は、一五七八年の初めには三箇に帰ることが出来、三箇の城も安全になった。父は一切をマンショに譲って、自分はただ会堂のことに専念した。会堂は非常に大きく、構造も好かったのであるが、彼はなおその上に壁画を計画した。教化のことにも熱心で、日曜と祭日には自分で説教をした。さらに説教しつつ諸所を巡歴しようという志もあったと云われる。三箇を守ってくれた若江城のシメアン丹後は、功績を認められて信長から加増を受けたが、それを貧民救済に使った。これらのことは皆信盛の庇護の下に行われたのであろう。
佐久間信盛のほかにもう一人注目すべきは荒木村重である。村重は摂津武庫郡の郷士であったが、その臣事していた池田の城主の不才なのにつけ込み、同僚と共に党を組んで池田城の実権を掌握した。和田惟政を奇襲して斃したのはこの連中である。当時は反信長の陣営にいたが、村重は漸次信長方に傾き、高山ダリヨを後援して高槻城主たらしめた頃には、はっきりと、信長の手についた。それは一五七三年四月、信長が足利将軍との対決のために急遽上京して来た時であった。信長は村重を重んじ、和田惟政にやらせたと同じように、摂津の統治をやらせた。京都の教会は池田の兵士と幾分の関係を持ってはいたが、池田地方が深くキリスト教と関係し始めたのは、村重の下に高山父子がいたからである。
村重は、高山父子との接触の初期に、おのれの領民に対して、権力を以て一向宗への帰依を強制したことがある。聴従しないものは罰するというのである。これは村重が一向宗の狂信者であったからではなく、一向宗の僧侶が巧みに村重を籠絡したが故に起ったことであった。一向宗徒は、宗派の命令として、領主に特別の年貢を納めることになって居り、それが村重をひきつけたのである。
村重のこの措置は高山ダリヨを強く刺戟したが、ダリヨはそれに反対する代りに、自分の領内で全然反対な自由なやり方をやって見せた。それは、キリシタンの妻子のまだ洗礼を受けないものや、農民・職工などの未信者に対して、自由選択を標榜して説教の聴聞をすすめたことであった。とにかく、会堂へ来て説教を聞いて貰いたい。聞いた上で、気に入らなければ信者になる必要はない。信者になった場合に特別の年貢などの義務がないと同じく、ならない場合にも罰などは加えない。がとにかく説教を聞いて見なければ、善いも悪いもきめられないではないか、というのであった。丁度その時、フロイスが高槻に来ていて説教した。最初集まった二百人は、皆キリシタンとなる決心をした。彼らはさらに親戚友人を勧誘したので、説教の聴聞を希望するものはますます殖え、会堂が狭くて困るようになった。強制なくして強制以上に教勢は盛んになって行ったのである。
村重はこのようなキリシタンのやり方を、一向宗の僧侶の政略的な活動と対照しつつ経験することが出来た。それに加えて、彼の上に立つ信長のキリシタンに対する態度や一向宗に対する態度が、いろいろな形で彼に響いたのであろう。一五七七年に村重が高槻城を訪ねた際には、キリスト教の弘布を助けるように動き出している。高山右近には、一向宗徒に対してキリシタンとなることを命ずる一札を与えた。この命令下に立つ宗徒の数は五万以上であった。一向宗以外の宗派のものもキリスト教の説教を聞くように命ぜられた。この措置に対してオルガンチノは謝意を表するため村重をその城に訪ねたが、そのとき村重は、領民が悉くキリシタンとなることを欲すると語った。一向宗への帰依を領民に強制した村重とは、まるで別人のようになったのである。
村重が信長を訪ねて来ていた時に、法華宗の信者である大身数人が、キリシタン宣教師の追放を主張したことがあった。このとき信長は、村重の意見を聞いた、村重は、自分はキリスト教のことはあまり知らないが、部下のキリシタンたちは非常に忠実で、道義を重んずる、と答えた。他にもそれに賛成する人々が多かった。信長も同意見であると云った。
ルイス・フロイスは一五七七年の最後の日に京都を出発して豊後に向ったのであるが、船まで見送るロレンソとともに、まず高槻の城で方々から集まった信者たちと別れを惜しみ、翌日高山ダリヨも一行に加わって伊丹の城に荒木村重を訪ねた。村重は彼らを非常に款待し、もし京都で何事か事が起って信長の庇護を必要とするような場合には、彼も極力援助するであろうと云った。翌日は、村重の支配下にある兵庫まで村重の兵士たちに送られ、村重の指図によって法華寺に宿った。ここへも方々から信者が送りに来た。堺の信者たちは船で来た。こうして兵庫の港が利用し得られるようになったのは、村重のキリスト教庇護の結果であろうと思われる。
しかし一向宗への帰依強制から一向宗徒のキリシタンへの改宗強制に転じた荒木村重は、一五七八年の末に、また一向宗徒と結んで信長に反するに至った。そのため高山父子は非常に苦労しなくてはならなかった。だから村重が教勢拡張に寄与したのは、比較的短かい間のことであった。
がとにかく、京都の会堂が壁画以外は全部落成し、いろいろ世話になった京都所司代村井貞勝を会堂に招待して、ロレンソの説教を聞かせたりなどした一五七八年には、信者の数は急激に殖え、信長一家の庇護は十分であり、異教徒の大名たちさえも、キリスト教に好意を示して、日本におけるヤソ会の仕事の最高潮期に入りつつあったのである。
第十一章 キリシタン運動の最高潮
一 信長の鉄砲隊と艦隊
信長がキリシタンの宣教師たちを庇護したのは、新しい宗教を求めたが故ではなくして、ヨーロッパの文明を求めたが故であった。その態度は、最初にフロイスに逢って以来一貫している。彼はフロイスにおいてヨーロッパ文明の尖端に接触すると共に、この人物の担っている象徴的な意義に非常に引かれたのである。従って彼はこの人物を好み、それを理解しようと努め、その事業を保護した。その態度を彼自身は、外国人であるが故に庇護する、という風に云い現わしている。彼は仏僧の堕落を事毎に罵っていたし、またその後思い切った仏教弾圧を始めたのであるから、それと対照して彼がキリシタンの宣教師の真面目な態度を賞讃したり、また彼らを特別に優遇したりしたことは、ともすれば彼の信仰の要求と結びつけて解釈されることもあったようであるが、しかし彼は信仰などを求めていたのではない。仏僧の堕落や宣教師の真面目な活動は、当時にあっては明白な客観的事実であって、それを認めたことは、何ら主観的要求の証拠とはならない。信長は宣教師と会談する毎に、世界についての新しい知識を得ようとはしていたが、救いを求めるような態度を示したことはない。仏教に代ってキリスト教が全日本に弘布しても、そのキリスト教が彼の庇護の下に栄えるのであり、従ってキリスト教徒は決して彼に反抗などはしない、という見とおしのある限り、彼はむしろそれを喜んだであろう。しかしその際にも彼自身が信仰を必要とするに至ったかどうかは疑問である。
信長が強い関心を抱いたのはヨーロッパの新しい知識である。そうしてそれは、この戦乱の時代にあっては、先ず武器に関する知識として現われてくる。ヨーロッパ人との接触を記念するものは、種子島、即ち鉄砲の知識であった。それは迅速にひろまり、九州西北沿岸では早くから戦争に影響を与えている。がそれを戦術に取り入れて、一つの決定的な勝利の形にまで具体化することが出来たのは、ほかならぬ信長なのである。一五七五年の長篠の戦勝がそれであった。これは全国的に強い刺戟を与えたであろう。一五七八年に書いたフランシスコの書簡によると、大坂の本願寺の城内には八千の銃があったという。長篠における信長の戦術は、もう信長の敵が使っているのである。
それに加えて、本願寺を後援する毛利氏は、すでに信長に先んじて、有力な海軍を創設していた。一五七六年の夏、毛利氏の送った兵粮船が数百艘大坂へ近づいたとき、信長方の軍船はそれを迎撃したが、毛利方の「ほうろく火矢」で散々な目に逢った。兵粮船隊は悠々大坂に入港し、兵粮を大坂城へ入れて、悠々として帰って行った。淡路の岩屋城は毛利の海軍の根拠地であった。多分この形勢に刺戟されたのであろう、信長は志摩の国鳥羽の城主九鬼嘉隆に命じて、大きい軍艦を造らせた。嘉隆は六隻、滝川一益が一隻造ったが、それらは鉄張りの船で、長さ十二三間、幅七間であった。一五七八年夏には九鬼嘉隆がこの七隻の艦隊を率いて伊勢湾から大坂湾へやって来た。乗員は五千人であったという。途中雑賀などの一揆が数百艘の兵船で襲撃して来たが、九鬼の艦隊はそれを近くへひきつけ、やにわに「ほうろく火矢」即ち大砲を放って撃破したのである。その時敵船三十余艘を捕獲したらしい。艦隊は盂蘭盆の日に堺に着き、翌日大坂港の封鎖を開始した。この鮮やかな成績に気をよくした信長は、二カ月ほど後に、わざわざ艦隊を見るために大坂にやって来て、住吉の沖で演習をやらせたりなどした。
この艦隊が堺に着いた時には、丁度オルガンチノが居合わせて、その報告を書いている。それによると、これらの船は日本で最も大きく、また最も立派なもので、ポルトガルの船に似ている。日本でこんなものを造るとは驚くのほかはない。信長がこれを造らせたのは、大坂港封鎖のためであるから、大坂の市はもう滅亡するであろう。船には大砲を三門ずつ載せているが、何処から持って来たものか解らない。豊後の大友が数門の小砲を鋳造せしめたほか、日本には大砲はない筈なのである。自分は船へ行って大砲やその装置を見た。ほかに無数の精巧な大きい長銃も備えてあった。
オルガンチノに解らなかったように、日本の歴史家にも、この大砲の出所は解らないのであるが、『国友鉄砲記』によると、信長は元亀二年(一五七一年)に秀吉を通じて二百目玉の大筒を、国友鍛冶に造らせたというのであるから、一五七七・八年の頃に日本の鍛冶工が大砲を作り得たということは、さほど不思議ではあるまい。オルガンチノは当時の貿易関係を熟知していたであろうし、従ってポルトガル人が大砲を輸入したのでないことは確実であろう。宣教師たちが日本に大砲はないと信じていた間に、いつの間にか宣教師たちの眼の届かない毛利の領国や信長の領国において、大砲の製造がはじまっていたのである。これが恐らく築城の上にも大きい変化をもたらしたのであろう。大砲を備えた軍艦の使用においては毛利の方が一歩先であるが、信長は鉄張りの大きい軍艦の製造によって毛利の艦隊を圧倒したのである。
この信長の艦隊は、当時の日本においてヨーロッパの知識を摂取する努力の尖端の姿であった。信長の「外国人」に対する関心や庇護は決して単なる好奇心ではなかったのである。がそういう実用の範囲に止まらず、さらに広汎な世界への視圏を開こうとする衝動も彼のうちには動いていた。それを示すものは宣教師たちとの会談の時の話題である。それは宣教師たちが、二次的な重要でない事柄として、あまり詳細には記述していない点であるが、しかし信長には信仰よりも重大な事柄であったであろう。不幸にして信長の周囲の知識人は、信長ほどに視圏拡大の要求を持たず、従って、政治家であり軍人である信長がそういう知識欲の先頭に立たざるを得なかった。しかもその信長に対してヨーロッパの知識を媒介する地位にあったヤソ会士たちは、あまりにも信仰と伝道のこととに偏より過ぎた人々であった。比較的関心の範囲の広かったフロイスといえども、ヤソ会士としての狂熱は今から見れば不思議なほどである。それらのことを思うと、先駆者としての信長という人物には、よほど見なおさなくてはならない面があると思われる。
二 荒木村重の背叛と高山右近の去就
信長の艦隊が大坂港を封鎖し、信長の陸軍が播磨における毛利の勢力を、着々と圧迫し始めた一五七八年の暮に、摂津の領主荒木村重は再び逆転して一向宗徒と結ぶに至った。これは本願寺や毛利の勢力に再び活を入れる重要な出来事であった。何故村重がこの挙に出たかは信長自身も理解に苦しんだらしく秘書の松井友閑や明智光秀などを派遣して村重と懇談させ、一時は納まるかに見えたが、村重部下の諸将が沸き立って遂に引きずって行ったのである。恐らく本願寺側の必死の働きかけが利いたのであらう。信長は早速京都に来て討伐をはじめたが、村重は中々頑強で、翌一五七九年の秋に至るまで十カ月の間伊丹有岡城に拠って反抗を続けたのであった。
この戦争の最初に先ず問題となったのは、キリシタンの城高槻城であった。城主の高山父子は、村重の後援によってその地位を得た関係上、村重に背くわけには行かなかった。のみならずダリヨの娘即ち右近の妹と、ダリヨの孫即ち右近のひとり児とが、人質として村重の手許に置いてあった。だから信長が摂津へ攻め入ろうとした時、高山父子は高槻城に拠って信長の軍を防いだのである。城は広い堀に囲まれ、堅固な城壁を持っていて、中々落ちそうにもなかった。そこで信長はオルガンチノに命じて高山右近を説得させようと思いついたのである。オルガンチノは高槻城に行って説いて見たが、全然効果がなかった。すると信長は、宣教師たちや信者たちを山崎の陣営に呼びつけた。その様子でキリシタンたちは事によると殺されるかも知れないという予感を抱いた。そういう連中に対して信長の秘書の松井友閑は、信長の意を次のように伝えた。汝らキリシタンたちは、高槻城主高山右近に説いて、直ちに信長の味方にならせるべきである。右近はそれによって自分の子と妹とを失うであろうが、その代り信長の領内の神父及び信者を助けることができる。もしそうしないならば、信長は直ちに右近の眼前においてキリシタンたち一同を十字架にかけるであろう。――この宣言はキリシタンらを泣かせた。彼らは信長が村重の謀叛による形勢の逆転を非常に重大視していることを知っていると共に、ジュスト右近の降服の困難な事情をも知っていた。だからその間に挿まった宣教師たちが、先ず殺されることになるだろうと考えざるを得なかったのである。
この時右近との談判には、オルガンチノたちに佐久間信盛や羽柴秀吉や松井友閑なども附き添って行ったらしい。ジュスト右近は信長の決心を聞いて、あっさりと城を投げ出すことにした。彼は部下のキリシタン武士一同を集めて次のように降服の理由を述べた。自分が城を開け渡すのは、それによって利益を得ようと思うからではない。自分の子と妹との命を以て多数の神父やキリシタンたちの命を購うのは、われらの主に仕える所以だと考えるからである。神父やキリシタンたちへの愛のためには、自分は一切のものを捨てるのみならず、おのれの命を投げ出すことをも辞せない、と。こうして右近は、城を捨てると共に世を捨て、神父のもとにイルマンとして働こうと決心したのであった。
この右近の措置は、信長の陣営でもキリシタンの間でも、非常な喜びを以て迎えられた。それは信長の戦略的地位を有利に導くものであったと共に、またキリスト教のための「生きた説教」ともなったのである。前には知らなかった外国人を救うために、自分の肉親の愛を捨てる、そういう慈悲の行をキリスト教はさせたのだ、ということが、広く世間に知れわたった。信長も非常に喜んで、キリスト教保護の朱印状を改めて交付し、二つの町を選んでキリシタンに免税の特権を与えた。信忠初め他の大身のうちにも、キリシタンとなることを約束するものが少なくなかった。
この事件は信長のキリスト教に対する腹を割って見せたように見える。降服しなければお前の重んじている神父らを殺すぞ、と云って右近を脅した態度は、キリスト教を戦争の道具に使ったものにほかならない。『信長公記』によると、信長はこの時神父に対して、右近口説落しを引き受けろ、もし引き受けなければ、デウスの宗門を断絶する、と云って迫ったことになっている。この方が一層露骨である。神父フランシスコがその書簡のなかで、信長の取った策は「われわれにとって非常に苦痛であった」と認めている所を見ると、何かそのようなことがあったのであろう。しかしそれにもかかわらず、フランシスコの報告のなかには、信長を非難する調子が現われていない。信長は右近の心情を諒としたのであるが、しかし、おのれの領土全体の安危にかかわる大問題であったために、敢て道理に対して眼を閉じたのだ、という彼の記述は、幾分信長を弁護しているようにさえも取れる。「小鳥を殺し大鳥を助ける」という右近の決断が、信長と宣教師との間に醸し出されたかも知れぬ暗雲を、未然のうちに防いだのである。
このように、肉親を犠牲にするという右近の決意は、キリスト教のために大きい貢献をしたのであるが、しかしその犠牲そのものは、遂に捧げられずにすんだ。というのは、父のダリヨが、その娘と孫を救ったのである。彼は娘や孫を見捨てる気持になれず、高槻の城を出て、伊丹の村重の城へ奔った。娘や孫が死すべきであるならば、おのれも運命を共にしようと彼は考えていた。伊丹の城内にいた多数の親戚も、部下をつれて彼のもとに集まった。そうなると、子の右近は村重に叛いたが、父のダリヨは叛かなかったということになる。人質を処分すべき理由は半ば消失したのである。だから村重も、事を荒立てようとはせず、知らぬ振りをして放任してしまったのであった。
がそうなると高山ダリヨは、荒木村重の味方について信長に叛いたということになる。その報いは信長の方から受けなくてはならない。一年の後、伊丹の有岡城が陥落したとき、信長はかなり残酷な大量処刑を行わせた。ダリヨも勿論その中に含まれるであろうと考えられ、彼を敬愛するキリシタンたちは熱心に彼のために祷っていた。しかし幸いにも信長の報いるところは非常に寛大であった。彼はダリヨのために命乞いするものの言葉に耳を傾け、彼のために肉親の犠牲を辞せなかった右近のためを思うて、ダリヨの死刑を取りとめ、幽閉するに止めたのである。やがて彼は右近の許に使者を送って、ダリヨの放免を伝えた。ダリヨは死刑に処すべきものであるが、右近に対する愛のためにその刑を免ずる。目下幽閉中の牢を出て妻と共に暮らしてよい。両人には生活の資を与える。宥免状は夫の許に赴く妻に持たせてやろう、というのであった。こうして高山ダリヨは越前の柴田勝家に預けられ、同地で直ぐに福音伝道の仕事を始めた。
高山右近も高槻城主に復せられたのみならず、前の二倍の領地を与えられた。その子や妹も無事であった。一五八〇年には、その領内のキリシタンは一万四千に達した。高山家には反って繁栄が来たのである。
三 安土宗論
荒木村重に対する長期の攻囲が行われた一五七九年には、もう一つ世間の耳目を聳動する事件が起った。それは安土宗論として知られているものである。初めは法華宗と浄土宗との間の喧嘩に過ぎなかったのであるが、信長はその機会を巧みに利用して、手ひどく法華宗の迫害を断行したのであった。
この宗論の行われたのは一五七九年六月二十一日(天正七年五月二十七日)であるが、その月の終らぬ内にオルガンチノはフロイスに宛ててこの事件を詳細に報じている。従ってこの書簡は安土宗論に関する現存の最も古い記録と云ってよい。その内容は信長記を通じて普通に知られていることとほぼ一致している。問答の箇条書までもそうである。
事の起りは、坂東の浄土宗の僧が安土で数日間説教をやっていた席へ、安土の町の一人の法華宗徒が行って、説教の途中で質問を始めたことであった。説教師はそれに対して、俗人と法論しても結着はつかない、誰か法華宗の学僧を連れて来れば答弁しよう、と答えた。法華宗徒はこの答を憤り、自分の質問に答え得ないのならばその座を下りるがよい、と云って、説教師を高座からひき下ろし、衆人の前で侮辱を加えた。浄土宗徒はこの乱暴を信長に訴えた。そこでこの喧嘩が両宗派の間の公の争いとなったのである。法華宗徒は両宗の間の討論を要求し、浄土宗徒もそれを拒みはしなかったが、信長は遠方から学者を集めることの困難を理由としてそれを止めさせようとした。しかし法華宗徒は強硬に討論を主張し、学僧は遠方から呼ぶ必要なく、京都の人だちで沢山であると云った。そうして、もし負ければ頸を切られてもよい、という一札を差出した。
そこで信長は日を定め、四人の奉行や、判者を任命した。京都からは法華宗の主立った僧侶が呼ばれ、多数の檀徒と共にやって来た。浄土宗側では、智恩院の僧が一人来ただけであった。問答の衝には、安土の浄土宗の僧が当った。
問答は法華経の権威と念仏の権利とをめぐって行われたのであるが、最後に浄土宗側が、「もし法華経以前の経を悉く未顕真実とするならば、方座第四の妙をも捨てるか」と問うたとき、法華宗側は答弁に詰った。それを見て、浄土宗の僧は、第四の妙の意味を説明した。そのとたんに、判者も聴衆もどっと笑い出した。法華宗の僧たちは袈裟衣をはぎ取られ、鞭うたれ、捕縛された。富裕な檀徒も数人捕えられた。群集は非常な混乱に陥ったが、やがてその場へ信長が出て来て、討論には加わっていなかった法華宗の僧普伝と、最初争いをひき起した法華宗徒との二人の首を斬らせた。その場にいたマヅと小西隆佐の一子とは、この日の法華宗徒の敗北が曽てない甚だしいものであったことをオルガンチノに向って証言したのである。
この報道が安土の町にひろまると共に、早速法華宗の寺院や檀徒の家の破壊が始まった。京都から勝利を確信して見物に出掛けた法華宗徒たちは、捕えられることを恐れて物をも食わずに逃げ歩いた。隆佐の子もその一人であった。その日のうちに京都へも騒ぎが伝わった。伊勢、尾張、美濃、近江の四カ国の法華寺院は悉く掠奪された。前後を通じて掠奪により法華宗徒が失ったところは、黄金一万を超えるだろうと云われている。
数日後に信長は人を派して、京都の法華宗諸寺院に巨額の罰金を課した。捕えられた三人の僧と五人の檀徒とは、なお十数日の間釈放されなかったが、法華宗側から差出した起請文は所司代村井貞勝の手によって公表された。それは宗論において法華宗の負けたことを承認し、今後他宗に対して論難攻撃を加えないことを誓ったものである。
十数年来キリスト教に対して最も積極的に迫害の努力を続けて来た法華宗は、こうして殆んど倒れるばかりの所まで押しつめられた。オルガンチノは大喜びで早速この報道を書いたのである。
信長記では、普伝たちの首を斬らせる場で信長の述べた言葉を詳しく伝えている。彼は先ず争をひき起した男の不届を責め、ついで普伝の法螺吹き・インチキ師としての性格や所行を数え上げ、両人を処分したあとで、宗論をやった法華僧たちに向って次のように云っている。お前たちは働かずに食わせて貰っていながら、学問もよくしないで、討論に負けたのは、甚だ不都合である。しかし法華宗の僧侶は法螺を吹く癖があるから、宗論には負けなかったのだなどと云い出すに相違ない。だから今度の宗論で負けたことを承認し、今後他宗を論難攻撃しないと誓った書附を差出して貰いたい、と。
信長のこれらの言葉をどうしてオルガンチノが伝えなかったかは解らぬ。隆佐の子たちは落ちついてそれを聞く余裕がなく、従ってオルガンチノにも話さなかったのかも知れない。しかしこの信長の言葉に対応する起請文は、村井貞勝に見せて貰ったらしく、その写しをフロイスに送っている。
ところで、この安土宗論については、裏面の事情が問題とされている。宗論は信長の術策だというのである。京都の法華宗の僧侶たちは、何も知らないでいるところへ、突然、浄土宗との宗論だと言って安土へ呼び出された。そうして奉行から次のような二者択一の返答を強要された。宗論をやるならば、もし負けた場合には京都及び信長領国中の寺々を破却せらるべしという一札を差出した上で、やるがよい。それが迷惑であるならば、問答をせずにこのまま帰ってもよい。宗論をやるか、やらぬか、一つを答えよ、というのである。法華僧たちはそれに答えることを拒んだ。自分たちは命令によって出向いて来たのであって、宗論をするとかしないとかは自分たちの方からは云えぬ。するもしないもただ命令に従う、というのである。して見ると、法華宗徒があくまでも宗論を主張したというのは嘘である。負けた場合に寺を破却されてもよいという書附も差出さなかったのである。宗論は信長の命令によって行われた。
当日の討論においても、法華宗が負けたというのは信長の細工である。因果居士の批判によると、討論の成績では浄土宗の方が悪かった。それを浄土宗の勝にしたのは、信長の意を受けた因果居士の仕業である。それを因果居士自身が告白している。
して見ると安土宗論は、法華宗に打撃を与えようという信長の意図の下に仕組まれた狂言であって、公平な宗論ではなかった、ということになる。或はそうであったかも知れない。しかし京都の学僧たちが宗論を発起したのでないということは、法華宗がこの争いをひき起したのでないということの証明にはならないのである。安土の法華宗徒が、先ず浄土宗徒に対して攻勢に出た。これが事件の起りであり、そうして、信長の関知しない偶発の事件である。浄土宗側は、学僧をつれて来れば返答する、と答えただけであって、あくまでも受身だといってよい。それに対して法華宗徒が侮辱を加えたとすれば、その侮辱は罰せらるべきであるか、或は当然の所為として是認せらるべきであるか、それが争点になる。訴えられた法華宗徒は、おのれの所為が正当であったことを立証するために、学僧をして討論せしめなくてはならなかったのである。従って宗論をあくまでも主張したのは安土の法華宗徒であろう。宗論に負けた場合、首を斬られてもよいという一札を差出したのも、安土の法華宗徒であろう。京都の法華僧たちは、これらのことが定まった後に呼ばれたのである。この関係はオルガンチノの報告によって明かに知り得られると思う。そうであるとすれば、京都の学僧たちに対して、宗論をするかしないかの選択を迫ったということも、極めて理解し易くなる。彼らは争いをひき起した法華宗徒の不謹慎を詫び、宗論をしないで引上げることも出来たのである。しかし、それは法華宗の敗北を意味するが故に、彼らはなし得なかった。それならば、争いをひき起した法華宗徒の責任をひき受けて宗論をすると主張すべきであるが、その場合には、首を斬られてもよいと誓った法華宗徒の責任をもひき受け、法華宗の寺院を破却せられてもよいと誓わなくてはならぬ。これもまた彼らのなし得ないところであった。信長は法華宗徒の始めた争いを巧みに利用して法華宗をこの窮地に追い込んだのである。必ずしも暗い術策を弄したわけではない。
さていよいよ宗論をやらせるについて、信長が初めから法華宗を敗北させるようにもくろんでいたということは、恐らく本当であろう。種々雑多な説を包含する大乗経典の文句を、論証の有力な根拠とする仏教の論議にあっては、そういうことは比較的容易である。だから因果居士もそれをひき受けたのであろう。結局浄土宗側は、「方座第四の妙」という如き、どの経にあるか解らない文句を持ち出して法華宗側を閉口させ、因果居士がそれを認めて法華の負けを宣したのである。それは舞台効果の十分な場面であった。オルガンチノはそれをマヅとか隆佐の子とかの如きその場にいた人々から聞いたのであるから、信用してよいであろう。最後の瞬間に、判者を初め聴衆一同が大笑した、という叙述は、オルガンチノの書簡と信長記とが奇妙なほどによく一致している点である。
以上のように考えると、安土宗論について普通に知られているところは、ほぼ事実に近い。それは信長の仏教弾圧の一つの現われとしての法華宗弾圧であった。法華宗のキリスト教に加えた圧力が大であっただけに、この事件がキリシタンに与えた喜びも大であった。彼らにとっては信長は、この種の所行のみによっても讃美せらるべきものとなった。
四 巡察使ワリニャーニの渡来
荒木村重の謀叛と安土宗論とのほかに、もう一つ一五七九年における大事件は、巡察使アレッサンドロ・ワリニャーニの渡来であった。
一五七〇年トルレスのあとを受けて日本ヤソ会の指揮を取ったカブラルは、トルレスとはかなり性格の異なる人であった。トルレスはシャビエルと同じく日本人に信頼し、日本人の生活のなかに融け入ることを念とした。だから苦痛を忍んで日本の衣食住の様式におのれを適応させようと努めた。風習の相違の如きは魂の救済の前には末梢的なことに過ぎなかったのである。日本人を宣教師として養成することも彼の熱心に努めたところであって、ロレンソ、ダミヤン、ベルシヨール、アントニオ、コスモ等々、二十六人の優れた日本人が、活溌に日本人教化の実際の成績をあげていた。しかるにカブラルは、トルレスのような柔軟な心の持主でなく、偏狭で、主観的な判断を固持する人であった。彼は日本人教師がこのまま伸びて行けばやがてヨーロッパ人教師を見下すに至るであろうことを怖れ、その成長を阻止する態度に出たのである。その布教の態度もまた、トルレスのように広く政治的な見透しを持ったものでなく、むしろ狂熱的に殉教を煽るというような猪突的なものであった。そういう点から云って、カブラルの指揮はトルレスよりもよほど見劣りのするものであった。彼の在任の末期には、もと十八人であったヤソ会士が五十五人に殖えているが、しかし特に彼の名に結びついた事績は、大友宗麟の洗礼のほかには、殆んどないと云ってよい。
しかるにワリニャーニは、一五七九年七月末日本に着いて口の津で宣教師会議を招集した時に、直ちに「シャビエルの方針に帰れ」と唱道し始めた。日本人は信頼に値する。伝道の主なる目的は、殉教に走ることではなくして、少しでも多くの魂をキリストに近づけることである。それには日本人を教育し日本人の教師を出来るだけ多く作らなくてはならぬ。かかる考のもとにワリニャーニは少年のための学校セミナリヨや専門の学林コレジヨなどの計画を樹て、有馬には早速セミナリヨを造った。これはカブラルの方針とはまるで逆であった。ワリニャーニはこの長老の頑固な心が、恐らく不幸な結果を生ずるであろうとさえ考えていた。従って、新しく日本に設置した副管区長(ビセプロビンシアル)に彼が選んだのは、一五七二年以来カブラルの指導の下に九州で働いていたガスパル・クエリヨであった。
五 石山本願寺の開城、安土城の完成、安土のセミナリヨの開設
以上のような情勢のもとに、一五八〇年にはいろいろなことが一緒に起った。七年の間も信長が攻囲を続けていた大坂石山の本願寺の開城、――安土城造営の完成、――安土における宣教師館の建築、――少年のための学校セミナリヨの開設、などがそれである。これは信長の勝利が、ヨーロッパの知識への接近と時を同じゅうして起ったことを意味している。
石山本願寺は、信長の艦隊に海上を封鎖され、荒木村重の没落、秀吉の播磨地方制圧などによって、毛利氏との陸上の連絡も絶たれてしまったために、一五八〇年の春、朝廷の調停によって、遂に、信長と和を講ずるに至った。その条約は、大坂城を守った人々を処罰しないこと、諸国の末寺を破壊しないこと、本願寺の領地として加賀二郡を残すこと、その代りこの年の夏に大坂及び附近の二城を明け渡し、人質を差出すことなどを含んでいた。本願寺光佐は間もなく石山を出て紀伊の雑賀に退いたが、子の光寿は信長を信頼せず、父に背いて信長への反抗を続けるかに見えた。いよいよ開城すべき夏の頃には、信長は軍隊をひきいて京都まで出て来た。石山の城は依然として水の充満した広い堀に三重に囲まれ、城中にはなお一万の戦士が立てこもっていた。が結局光寿も反抗を断念し、条約通りに開城が実現された。これによって信長の毛利氏に対する戦争は非常に有利になった。と共に、宣教師たちは、キリスト教の伝道が容易になったと感じた。一向宗は今やキリスト教の「最大の敵」となっていたからである。
信長やその子たちのヤソ会に対して示した好意は、一向宗に対する敵意と比例して高まった。オルガンチノたちが訪ねて行くと何時も非常に機嫌が好かった。しかし信仰の方へ近づいて行ったとは見えない。この年に信長は多数の大身たちの列席している前でオルガンチノとロレンソを相手にしていろいろの質問を試みたことがあるが、その時彼は神(デウス)や霊魂の存在についての疑惑をはっきりと表白したらしい。彼岸の世界や地獄極楽のことは仏僧たちも説いているところであるが、しかしそれは民衆を善導するための方便に過ぎまい。それが彼の考であった。それに反して、地球儀を持ち出させ、それに関してオルガンチノの与えた説明には、非常に感服したらしい。ヨーロッパから日本に来る旅程の説明などは特に彼を喜ばせた。それほどの旅行をするにはよほどの勇気と意志が必要である。神父たちがそのような冒険をしてここまでやってくるのは、よほどの大望があるからであろう、などとも云った。この疑問を解くためには世界の大勢を理解しなくてはならない。そうしてその衝動が彼のうちには動いていたのである。
安土城の造営はこの年の初夏に完成した。その機会に信長は一般民衆の参観を許した。無数の人々が見物に集まった。オルガンチノたちもまた安土に赴いた。信長が安土に会堂や宣教師館の建築用地を与えるであろうかどうかをためすためである。もし信長がこれらのものの建築を宣教師に命じたと日本国中に知れ亘ったならば、キリスト教の日本における地位は非常に確乎としたものになるであろう、そう彼らは考えた。
信長はオルガンチノたちの参観を喜び、非常に款待した。オルガンチノはすかさず、信長の開いたこの著名な町に会堂や宣教師館を建築したいと申出た。それは信長の方でも望むところであった。そこでいろいろと配慮した末、五月の末にキリシタン側の希望に従い、山下の新しい埋立地に広い地所を与えた。そこに壮麗な宣教師館や会堂が出来れば、この都市の装飾になる、と彼は云った。
信長は早速この建築を始めるようにと注文した。そうなるとこの建築は教会の名誉や信用にかかわる問題となった。キリシタンの大身はオルガンチノに早く始めるようにと迫った。高山右近なども、一切をひき受けるからと云って熱心にすすめた。幸いこの頃オルガンチノは、ワリニャーニの命によりセミナリヨを開設するために、京都に二階建の大きい家を数軒建てる予定で、材木の切り込みをすでに終ったところであった。で彼はこの材木を安土に運び、早速壮麗な宣教師館を建てることにきめた。大身らはその人夫を出した。高山右近だけでも千五百人であった。こうして材木と瓦とを運び、直ちに組み立てて行ったので、一カ月ほどで出来上ってしまった。しかもその家は安土の町では信長の城を除いては最も立派な建築で、第二階には三十四の座敷があったという。信長はそれを見て非常に満足し、オルガンチノに感謝の意を伝えさせた。しかし会堂の方はそう迅速に建てることは出来なかった。
この宣教師館の建築は、オルガンチノが予想したように、非常に宣伝効果の多いものであった。仏僧や仏教徒たちは、神父らに敬意を表するようになり、武士たちの中にも、神に関心を抱くものが殖えた。そういう情勢の下に、この秋にはすでに、安土において少年の学校セミナリヨが開かれ、貴族の少年約二十二人が集まった。その大部分は、新築の宣教師館に住んでいた。巡察使ワリニャーニが来れば、セミナリヨの建築をも始める筈であった。
六 ワリニャーニの京畿地方巡察
巡察使ワリニャーニは、一五八一年三月八日に、ルイス・フロイス、ロレンソなど、神父四人、イルマン三人を伴って臼杵を発し、三月十七日、復活祭の週の始まる前に堺に着いた。同行のフロイスは三年前から豊後にいたのであるが、ロレンソは前年の秋、巡察使の上京を促すために、京都から迎えに行ったのであろう。それほど京都地方ではワリニャーニの上京を待ちこがれていた。堺ではフラガタに似た船五艘を準備して、豊後まで迎えに行こうとした位である。
この時のワリニャーニの旅行を、これまでの宣教師たちの旅行に比べれば、実に雲泥の相違があるといってよい。ワリニャーニの一行を乗せたのは大友宗麟の提供した大きい船である。それには二十五歳以下の青年漕手三十人が乗り組んでいて、必要とあれば飛ぶように早く漕ぐことも出来たし、また兵士たちも乗り込んでいた。海賊の危険に対しては武装することも出来た。そういう船で送られてくるということは、宣教師の社会的地位が如何に高まって来たかを示すものである。その代り宣教師たちの財宝をねらう海賊の活動や、毛利の海軍の危険も大きかった。丸亀沖の塩飽諸島では危く難を免れることが出来たが、兵庫附近では、遂に海賊船の追跡を受け、堺までまるで競漕のような形で力漕して来た。堺に入港してからも、それらの海賊船に取巻かれて容易に荷役が出来なかった。堺の富商日比屋良慶は、部下三百人に鉄砲を持たせ、海岸からワリニャーニの船を守った。結局良慶らの調停で多額の償金を出すことになった。それほどこの航海は大げさだったのである。
上陸後の歓迎もワリニャーニの驚くほどであった。質素を重んずるヤソ会士として、ワリニャーニは、自分に対しこのように華々しい名誉と好意とを表わす必要はない、と云って断わろうとしたが、日本のキリシタンたちは押し返して云った。神父たちはおのれの利益には少しもならないのに、多額の経費を使い、多大の艱難と危険とを冒して、遠い所から救いの道を説きに来られた。われわれは曽て、いつわりの教を説いている坊主たちに対してすら大きい敬意を払っていたほどであるから、まことの教を説く神父たちのこの献身的な努力に対しては、出来るだけの敬意を払い、奉仕につとめなくてはならぬと。この道理ある言葉にはワリニャーニも従わざるを得なかった。で彼は、日本の習慣に従う、という口実のもとに、盛んな歓迎を甘受することにした。
このように社会的に顕著な現象となったワリニャーニの畿内巡察は、日本におけるキリシタン伝道史の上では一つの頂上をなすものと見てよいであろうが、日本とヨーロッパとの文化的接触という点から見ても、恐らく最高潮の時期を示すと云ってよいであろう。この時には、ヨーロッパ文化の摂取に対する肯定的な機運が最も高まっていた。従って日本民族に世界的視圏を与え、近代の急激な精神的発展の仲間入りをさせるという望みが、まだ十分にあった。セミナリヨの開設は、萌芽的な状態ではあったが、その望みを象徴的に現わしたものである。事によればそれは国民的事業として発展し、全然別趣の近代日本を作り出していたかも知れないのである。
ワリニャーニが堺に上陸したのは、多分三月十七日の夕方であろう。待ちかまえていたキリシタンは直ちに八方へ使を派したので、同夜直ちに結城、池田丹後、その他のキリシタン武士がやって来た。烏帽子形城のパウロ文太夫が教会に寄附した家は、日比屋の向い側にあったが、ワリニャーニはそこで翌々日ミサを行った。翌々日三月十九日は枝の日曜日であったが、ワリニャーニは枝を祝福した後、河内の岡山に向けて出発した。ワリニャーニが非常に背が高いのと、一行の中に一人の黒ん坊がいたのとで、それを見るために狭い街路に無数の人々が集まり、店屋を壊したほどであった。堺を出てからの行列は、駄馬三十五頭、荷持人足三四十人、一行の乗馬もほぼ同数であったが、ほかに、出迎えの武士が騎馬で八十人位、多数の兵士を率いていた。この行列は進むに従って出迎えの人や騎馬の武士が殖えて行った。
池田丹後はこの頃八尾の城にいたが、一行が八尾に近づくと、待ち受けた多数のキリシタンが手に手に持っていた枝と薔薇とを道に投げ、ワリニャーニたちはその上を通っていった。少し行くと野原に蓆をしき屏風を立て廻して、池田丹後夫人が子供や貴婦人たちと共に待ち受け、一行に食事を饗した。
三箇に近づいて、飯盛山麓まで来ると、三箇の領主や夫人ルシアなどが、多数のキリシタンと共に街道に蓆を敷いて待ち受けていた。すでに夕暮も近づいたので、ゆっくり挨拶する暇もなく三箇に行ったが、そこには食事が準備してあり、オルガンチノがセミナリヨの少年数人と共に迎えに来ていた。
その日は岡山まで行って、方々から集まった多数のキリシタンに迎えられ、先ず十字架の所に、ついで会堂に入った。人々の喜びは非常なものであった。
翌日はワリニャーニが単独でミサを行った後に、高槻に向けて出発した。多数の大身や夫人たちなどが行列に従った。高槻の近くの渡し場までくると、数人の武士が船を準備して待ち受けて居り、対岸は出迎えの人たちで一杯であった。高槻にいた神父グレゴリヨ、イルマンのヂヨゴ・ピレイラ、右近の家族たちもその中にあった。
ワリニャーニは初め京都で聖週を迎えたいと考えていたらしいが、高槻に着いたのがもう月曜日の夕方で、復活祭の準備は急がなくてはならなかったし、それに信長が二三日中に上洛して京都で派手な祝祭を行うことになっていたので、かたがた神父たちは暗黒の諸儀式や復活祭を高槻で行って貰うようにと望んだ。そこで復活祭は俄かに高槻で行われることになり、早速その準備に取りかかった。高山右近は十分な準備をする暇のないことを残念がったが、しかしワリニャーニの一行は装飾品一切を携えていたので、会堂は立派に飾りつけられた。集まった人の数も未曽有であったし、儀式の荘厳なことも曽てないほどであった。信者のうちには遠く美濃尾張から来た人もあった。ワリニャーニの一行が運んで来たオルガンも今度初めて据えつけ、土曜日の儀式の時から使って見たのであるが、これは会衆の間に非常な驚嘆を巻き起した。ワリニャーニは信者たちの熱心な態度を見て、身が高槻にあるのではなく、ローマにある思いをしたという。
復活の日曜日には、天明の二時間前に、荘厳な行進が行われた。これはフロイスが日本で見た中で最も盛んな整ったものであったと共に、ヨーロッパで行われるそれに比肩し得るものであった。この行進には身分のある武士たちを初めキリシタンだけで一万五千、異教徒も加えて二万の人が参加した。主立った武士たちや、二十五人の白衣を着けたセミナリヨの少年たちは、今度ワリニャーニの携えて来た絵を一人一人捧げていた。大きな絵は数人で高く捧げた。その他信者たちは手に手にさまざまな形や色の提灯をかざしていた。ワリニャーニは十字架の木の聖匣を持って天蓋の下に立ち、それに従う神父たちはカッパやアルマチカを着ていた。
この日右近は、宣教師たちや方々から集まった信者たちのために、盛大な宴を開いた。そのうち京都から使が来て、信長を訪問するために直ちに出発するようにと云って来たので、復活祭の日の午後ワリニャーニは高槻を立って京都に入った。
翌日、京都の会堂は、恐ろしい群集に取り巻かれた。ワリニャーニの連れて来た黒ん坊を見ようとして人が集まったのである。その混雑のため怪我人が出、門が壊された。信長からも黒ん坊を見たいと云って来たので、オルガンチノが連れて行った。信長は皮膚の黒さが自然の色であることを信ぜず、上半身を裸にして調べて見たりなどした。
一日おいて、三月二十九日にワリニャーニは、オルガンチノ、フロイス、ロレンソなどをつれて、信長を訪問した。進物は鍍金の燭台、緋天鵞絨一反、切籠硝子、金の装飾のある天鵞絨の椅子などであった。信長は彼を款待して長時間いろいろなことを語り合った。帰り際に、丁度坂東から届いた鴨十羽を彼に贈った。この厚遇の噂はすぐに全市にひろまり、キリシタンたちは皆祝辞をのべにやって来た。
信長の計画した祝祭はその三日後、四月一日(天正九年二月二十八日)に行われた。それは部下の諸将を集めてその威容を展観させる馬揃えであった。諸将は、部下の衣裳や馬匹の装飾に工夫を凝らし、巨額の金をつかった。緋の服を着、馬も緋で覆うとか、五十人の家来に金襴の揃いの服を着せるとかいう類である。高山右近でさえも、己れと馬とのために七通りの服装を作った。祝祭の場所は東の野で、砂を撒いた競技場のまわりに多数の桟敷が造ってある。競技に参加した武士たちは、十三万と云われた。諸将はおのおの揃いの服の家臣たちをつれて定めの位置につく。信長は、多数の良馬を右側に曳かせ、うしろにワリニャーニの贈った天鵞絨の椅子を四人の武士に担わせ、その後方に歩兵を随えて臨場した。
祝祭として行われるのは、騎馬の武士たちが、或は三人ずつ、或は十二人ずつ、或は四五百人も一時に、競技しながら、場内の一端から他端へ走るだけのことであった。しかしその武士たちが多年来近畿地方の戦争の舞台に立っている役者である、ということは、市民の関心をそそらずにはいなかった。それらの役者が、今や数寄を凝らした華美な服装と装飾に包まれて、市民に顔見せをするのである。だから内裏・公家衆・高僧たちを初め、観衆は二十万に達した。フロイスをはじめ、他の神父たちも、このように豪華な光景は曽て見たことがないと云った。つまりこの祝祭は、京都の平和が回復されて来たという歓びを表現するものでもあったのである。
この祝祭に信長はワリニャーニを招待して、非常によい見物席を与えた。ワリニャーニは迷惑がりながら他の神父たちと共に臨席したのであるが、そこから見ていると、信長が天鵞絨の椅子を持って来させたことは非常に目立ち、彼を他の武士たちから区別する目じるしになった。忽ちの間に、あれはキリスト教の宣教師の長が信長に贈ったものだという評判が場内にひろまった。ここには諸国の人が集まっていたのであるから、この評判はやがて迅速に日本全国にひろまることになった。信長の祝祭場は巧まずしてヤソ会の宣伝場に化したのである。
祝祭の後、四月十四日に信長は安土へ帰ったが、ワリニャーニは直ぐその翌日、あとを追って安土に行った。
ワリニャーニが安土に着いた翌日、信長は城を見せると云って神父たちを招待した。この城の工事は、神父たちの報告によると、ヨーロッパの最も壮大なものと比することができると云われている。周囲の石垣の大きくて堅固なこと、内部の宮殿の広大壮麗なことは、このヨーロッパ人たちにとっても驚くべきものであった。中でも中央の塔は七層の楼閣で、内外共に驚くべき構造を持っていた。木造であるにかかわらず石と石灰で造ったもののように見える。信長は見るべき箇所を一々指図して案内させたが、自身も三度出て来て、ワリニャーニと語った。ワリニャーニがヨーロッパの最も壮麗な建築に劣らないと云って讃めると、信長は非常に喜んだ。そうして料理場から厩まで見せた。その日は見物だけで、翌日饗応に呼ばれることになって辞去したが、しかしこの信長の厚遇がすでに城下では評判になっていて、城から出てくる宣教師たちを見るために多数の見物が集まり、その間を通ることが出来ないほどであった。
前年オルガンチノが建てた安土の宣教師館はワリニャーニをも非常に満足させた。釣合のよい三階建で、信長の特別の許可により城のと同じ瓦で葺いてあって著しく人目をひく建築であったが、それが安土の城下に聳えているということの大きい意義を、ワリニャーニはすぐに見て取った。オルガンチノはすでにここで相当の事をしていたのである。各地から安土に集まってくる身分の高い武士たちは、この珍らしい建築を見物に来ては説教を聞き、キリスト教に親しむようになった。そういう人の中からも、土地の人の中からも、洗礼を受ける人たちが続出した。もと近江の守護であった京極高吉夫妻や、信長の金工刀工などもその中にまじっていた。信長の子たち、信忠や信孝も、ますます宣教師に親しんだ。特に信孝は、週に一二回は宣教師館にやって来た。ワリニャーニの滞在中は一層熱心で、特にロレンソと非常に親しくした。ワリニャーニに対してはまるで子が父に対するように振舞った。これは日本では珍らしいことであった。
こういう情勢を見たワリニャーニは、オルガンチノの判断通り、セミナリヨをここに置くのが適当と考え、宣教師館の最上層に立派な広間を造った。オルガンチノはすでに二十五六人の少年武士を集め、教育をはじめていたのであるから、ワリニャーニはそれに対して、有馬のセミナリヨの場合と同じ注意・規則・時間割などを与えた。日本語の読み書きと共に、ラテン語の読み書きを教え、ほかにオルガンで歌うこと、クラボを弾くことなどを仕込むのである。有馬ではすでに、日本の少年がヨーロッパの少年よりも優っていることが実証されたが、安土では少年たちが有馬地方よりも洗煉されているので、一層よき成績が期待された。
ワリニャーニはなお安土に会堂を建築することを計画し、材料を集めにかかった。信長はこの会堂を非常に壮麗宏大なものとすることを希望し、しばしばそのことについてワリニャーニと語り合った。
五月十四日、聖霊降臨節の日の午後に、フロイスは高槻の信者らをつれて高山ダリヨを訪ねるために、越前に向けて出発した。近江から越前の方へかけて宣教師が動いたのは、この時が初めてである。ダリヨは信仰を堅持していたし、領主の柴田勝家も非常にフロイスを款待した。勝家は信教の自由を認め、布教は手柄次第であると云った。ダリヨの熱心と伴って、この地方にもキリスト教は栄えるかのように見えた。
五月廿五日の聖体の祝日には、ワリニャーニは高槻城に行った。復活祭のとき、十分な準備をなし得なかったのを遺憾に感じた高山右近が、聖体の祝日の祭儀を是非高槻で営んでほしいと懇請したからである。今度は十分に準備されたので、高槻の町全体が祭のために装を凝らした。祭儀も行進も復活祭の時よりは遙かに荘厳に行われ、祭の後の饗宴も前よりは盛大であった。それらの経費はすべて右近が負担したのである。ワリニャーニはこの祭の機会に二千余の人々に洗礼を授け、また数日かかって右近の領内の二十余カ所の会堂を巡視したのであるが、それの与えた喜びが右近にとっては十分の報酬であった。ワリニャーニはこの右近の仕事を賞讃せざるを得なかった。しかし右近はこの時の経験によって高槻の会堂が狭過ぎることを感じた。で彼は早速他の武士たちと相談して、広大な会堂を建築する準備に取りかかったのである。
右近はまた、ワリニャーニの新しい方針にも共鳴していた。すでに前年末以来、彼はオルガンチノのセミナリヨ開設の努力に協力して来たのであった。というのは、日本の身分ある武士たちはその子のセミナリヨへの入学を在来の出家と同視して躊躇していたために、先ずそれを打破する必要があったのである。オルガンチノは先ず手初めに高槻城内の少年をひき入れようと考え、八名を選んで安土の祭に招待した。祭のあとでいろいろ勧めて見ると、少年たちはすぐに入学の決心をした。しかし問題は親たちを納得させることであった。そこでオルガンチノは、問題の解決を右近に託したのである。右近は少年の父親たちを初め臣下一同の集まっている前で、この少年たちの決心を讃め上げ、彼らがセミナリヨの生活を選んだことに対して、毎年米百俵の扶持を与えると宣言した。これでセミナリヨの生徒募集に緒がついたのである。ワリニャーニが来てセミナリヨの規則を定めた頃には、親も子も熱心にセミナリヨへの入学を希望するようになっていた。
高槻で高山右近の款待を受けたワリニャーニは、ついで河内の諸城の信者たちを訪ねた。京都の会堂の新築に際して力をつくしてくれた人々である。岡山の領主結城ジョアン、その伯父ジョルジ弥平治、その下には三千五百の信者があり、宏壮な会堂もある。次には三箇の領主と千五百の信者、ここにも立派な会堂や宣教師の家がある。次にはシマン池田丹後、前に若江の城にいたが、今は八尾の城にいる。シマンの努力で附近の他の城主たちもキリスト教に近づきつつある。烏帽子形城の領主は既に帰依し、会堂の建築にとりかかっていた。烏帽子形の大身パウロ文太夫は堺の町の数軒の家を神父に寄附してくれたので、ワリニャーニは堺に出て、そこに小会堂を設けた。ついで、市の中央に地所を買うことが出来たので、この富裕な自由市に立派な会堂と宣教師館を建て、行く行くはコレジヨをも設立しよう、と彼は考えたのであった。
ワリニャーニが巡察を終って安土へ帰ったのは、多分七月の頃であろう。信長はますますワリニャーニに好意を示した。その第一に、ワリニャーニの帰国の際のみやげとして、愛蔵の屏風を贈ったことである。それは信長が、「日本の最も著名な画家」に命じて安土の城と町とを描かせたものであって、非常に出来が好く、しかも信長が滅多に人に見せないので、大評判になっていた。それを信長はワリニャーニの許に届け、次のように云わせた。貴師の帰国に際し何か記念品を差上げたいが、立派なものは皆ヨーロッパから来たものであるから適当な品がない。しかし貴師は安土におけるキリスト教の建築を絵にかかせたいと思っていられるかも知れぬ。それを考えてこの屏風をお届けする。見た上で気に入れば受納されたく、気に入らなければ送り返して貰いたい、と。やがてワリニャーニが、非常に気に入った旨を答えさせると、信長は満足して次のように云った。これで神父に対する自分の愛がいかに大きいかが解るであろう。あの屏風は内裏の懇望をさえ断わったほど大切にしていたのであるが、それを神父に与えて、自分が神父を尊敬するということを日本全国に知らせるのが嬉しいのだ、と。このことは直ぐに全市に伝わり、さらに周囲の諸国に広まった。屏風を観るために宣教師館に集まる人が非常に多く、三七信孝などもその一人であった。それと共に神父たちに対する尊敬も非常に高まって行った。
第二に信長の示した好意は、建築費などで困った場合には申出るがよい、補助を与えるであろうと伝えさせたことである。ワリニャーニは協議の上、会堂建築の遷延する事情を報告し、漠然と信長の外護を求めるだけに止めて、具体的な補助の要求はしなかった。
第三の好意は、ワリニャーニに豪華な夜の祭を見せたことである。ワリニャーニが暇乞に行ったときに、信長は、この祝祭を見ることを勧めた。でワリニャーニは止むを得ず祝祭の日まで十日ほど滞在を延ばした。この祭は通例町の住民が各戸で火を焚き、提灯を窓や門に吊すのみであって、城では何もしなかったのであるが、この時には信長の命によって各戸の火や提灯をやめ、城の天守閣にいろいろの色の提灯を飾らせた。これは立派な観物であった。そのほかに、キリシタンの宣教師館の角から始まって、山の裾を通り、城にまで続いている街路の両側に葦のたいまつを持った人を整列させ、一時にその多数のたいまつに点火させた。たいまつは盛んに火花を出し、町中が昼のように明るくなった。その火花の散る間を多数の青年武士や兵士たちが走った。そのあとで信長が宣教師館の門の前を通ったので、ワリニャーニは他の神父たちと共に出迎えた。信長は、祭はどうだったなどと愉快そうに声をかけた。この日の祝祭は、どうやら信長がワリニャーニに見せるために行ったらしいのである。
ワリニャーニが堺まで見送るオルガンチノと共に安土を出発したあと、暫く宣教師館を預かっていたのはフロイスであったが、フロイスは古くからの信長の馴染でもあったので、信長は彼を招いて長い間語り合った。ロレンソも一緒であったらしい。やがてオルガンチノが帰ってくると、信長は或る日突然、宣教師館へ遊びに来た。家来たちを下に留めて、ただ一人宣教師館の最上層に登り、宣教師たちと親しく語りあった。また少年たちにクラボやビオラを弾奏させて喜んだ。クラボを弾いた少年は日向から来ていた伊東祐勝であった。
こういう信長の態度が宣教師たちに対する厚意を示していたことはいうまでもないが、しかしそれでも宣教師たちは信長がキリスト教に帰依するであろうとは考えていなかった。信長が信仰を求める人でないことは、彼らの眼にも明かだったのである。それを彼らは信長の「慢心」として云い現わしている。がこの時まではまだどの宣教師も信長の傲慢を非難するような報告を書いてはいない。たとい信長自身の改宗が望み少ないものであったとしても、その子信忠や信孝は決して望みのないものではなかった。信忠が、もし姦淫戒をさえ緩めるならばキリシタンになるであろうと云ったことは有名であるが、ワリニャーニの巡察当時には既に岐阜の城下に神父セスペデスと日本人イルマンのパウロとを迎え、盛んに布教させていた。その収穫も決して少なくはなかった。信孝はまだ領地を与えられて居らず、従ってその領内での布教という事はなかったが、しかし京都や安土で親しくワリニャーニと交わり、ワリニャーニからも非常に愛せられていた。「佐久間信盛のほかには、畿内でこのように善い教育を受けた人を見たことがない」とは側にいたフロイスの言葉である。こういう信長の子らへの信頼が、信長の傲慢の埋め合わせになっていたのかも知れない。
とにかくワリニャーニにとっては、日本布教の前途は洋々たるものに見えた。「日本のキリスト教会は、ヤソ会の有する最も善きものの一つである。それはインド全体よりももっと価値がある。」これが彼の考であった。その彼が、堺から土佐を経由して九州に帰り、大友、有馬、大村など諸大名の使節を伴って長崎を出発したのは、翌一五八二年の二月二十日であった。その使節はセミナリヨの果実たる少年たちであったが、それによってワリニャーニは、日本人がいかなるものであるかをヨーロッパ人に見せようとしたのである。それは同時にヨーロッパがいかなるものであるかを日本人が知る緒ともなる筈であった。
七 大友宗麟の受洗
九州地方ではカブラルが渡来しトルレスが死んで以来の十年間に、大友、有馬、大村の諸領、及び平戸附近諸島、五島天草島などの既開拓地において、着実にキリスト教の地歩が堅められて行った。初めの間はさほど目ぼしい現象も起らなかったが、京都地方で急激な政情の変化があり、やがて信長の勝利とその宣教師庇護の態度とが明かとなってくるに従い、人目を聳たしめるような事件が続出するに至ったのである。大友宗麟の受洗と社寺焼き払い、有馬義直の受洗などがその例である。
豊後の教会は大友宗麟の庇護のもとにもう二十何年かの活動を続けて居り、府内の慈善病院などは一つの名物となっていたが、しかし宗麟は大村純忠のように教に入ろうとはせず、部下の武士たちも改宗するものは少なかった。府内の教会では武士でキリシタンとなったものは二十年間にただ一人であったといわれている。しかるに臼杵の会堂では、青年武士のキリスト教に近づくものが追々に現われて来た。一五七五年頃には、宗麟の長女とその妹たち、世子とその弟たちなどが頻りに説教を聞き改宗の意志を示すようになった。当時土佐から逃げて来ていた親戚の一条兼定夫妻などもそうであった。そういう機運がやがて、大友家の内部に激烈な紛擾を巻き起すに至ったのである。
紛擾のきっかけを作ったのは、一五七五年のクリスマスの前に宗麟の次男親家が洗礼を受け、ドン・セバスチャンとなったことである。この十四歳の少年は、次男である故を以て出家させられることになっていたが、幼少の頃から父に伴われて宣教師館に出入していた関係もあって、仏教を嫌い、キリシタンとなることを熱望した。宗麟はこの子の意志の動かし難いのを見て、遂にカブラルを大村領から呼んで、数人の武士と供に洗礼を受けさせたのである。その三日後にカブラルは、府内でクリスマスを祝うために出発したが、その時宗麟はセバスチャンにも同行を命じた。ところで、府内の教会のクリスマスに参列したセバスチャンは、府内の仏教寺院を破壊するというような過激なことをはじめた。それによって領主の子や多数の武士がキリシタンとなったことを世間に周知せしめようとしたのである。これは身分あるものにキリシタンの少なかった府内においては一つの劃期的な出来事であった。
この後臼杵では青年武士の受洗者が多くなり、修養会などを作って活溌に動き出した。当時政務を執っていた宗麟の長子義統も、それに同情の態度を見せた。この形勢を見て、義統や親家の実母である宗麟夫人は、猛然として反対運動を始めた。娘たちは母の味方に附いた。彼らはあらゆる手段をつくして宗麟や義統にキリシタンを憎ましめようと計った。生憎新たに改宗した武士のうちに殿中で刃傷したり、義統の機嫌を損じたりするものが出て来た。遂に義統は母親の意に従うようになって行った。家臣は改宗を禁ぜられ、既にキリシタンとなったものも転向を要求せられた。それにつれてキリシタン迫害の噂が立った。カブラルはキリシタンたちと共に会堂にたて籠って殉教する準備にとりかかった。ドン・セバスチャンは母夫人から義絶を以て脅かされたが、少しも心を動かさず、殉教の覚悟をきめて会堂に入った。殉教の噂を聞いた府内の信者たちも、殉教者になろうとして急いでやって来た。会堂内の感激は非常なものであった。が結局何事も起らなかった。カブラルの訴をきいた宗麟は、キリシタンの保護を再確認し、長子義統を宥めて穏便に事を治めたのである。
が宗麟夫人の反対運動は鎮まりはしなかった。次で起ったのは夫人の実家の嗣子の改宗問題に関してである。夫人の兄弟田原親堅は大友家で第二位或は三位の重臣であったが、子がないため京都の公家から親虎を迎えて養子とした。これは非常に才能のある優れた少年で、一五七七年には十六歳であったが、この年の内に宗麟の娘と結婚する筈になっていた。その少年がキリシタンになろうとしたのである。宗麟夫人はそれを聞いて「牝獅子の如く」怒った。早速親堅を呼んで、その子のキリシタンとなることを決して許してはならない、もしなるようなら婚約はやめる、また彼に会うこともやめると云った。親堅は前にこの少年をつれて会堂を訪れ、カブラルの説教を聞かせたこともある位で、キリスト教嫌いというわけでもなかったが、宗麟夫人に押されて、親虎を監禁した。しかし親虎にとっては領主の娘との結婚も、大身の家督相続も問題でなかった。廃嫡や離縁は覚悟の上であった。やむなく親堅は時の力に頼ることとして親虎を豊前の僻地に送りキリシタンとの連絡を絶った。しかしそれは秘かに届けられたカブラルの激励の手紙を一層有効ならしめたに過ぎなかった。数カ月後、もう熱は冷めたであろうと親堅が呼び返したとき、親虎が真先にやったことは、急いで受洗したいという希望をひそかにカブラルに申送ったことであった。ついで彼は父の取り扱いの不当な点を領主の前に訴えて領主を驚かせた。遂に親堅は教会に人を派して説諭を依頼するに至ったので、教会の方からは教に背かぬ限り父の命に従えという勧告を送ったのであるが、親虎は急に従順になり、周囲の人々が驚くほどであった。しかしその隙に親虎は、父には秘密で、三人の少年武士と共に、カブラルの手から洗礼を受け、ドン・シマンとなったのである。
その秘密はやがて洩れた。そうしてそれはドン・シマンの希うところであった。父は怒って、追放を以て脅かし、子はそれを甘受する旨を答えた。カブラルは監禁されたドン・シマンの所へひそかに、殉教者サン・セバスチャン伝の訳書を届けた。宗麟夫人は親堅と計って、ドン・シマンの側近のものや、共に洗礼を受けた友人たちを迫害し、彼に惨めな気持を味わせようとした。またいろいろな人に頼んで利害得失を説かせた。しかしドン・シマンは少しも動揺しなかった。結局この時にもまた親堅は神父カブラルに説諭を乞うことになった。しかしカブラルは今度は親堅のあげる理由を悉く反駁し、自分たちの生命を失うともドン・シマンに信仰を捨てよと勧めることは出来ないとはねつけた。宗麟夫人の圧迫をますます強く受けている親堅は、遂にカブラルに対して会堂の破壊、宣教師の殺戮を以て威嚇するに至った。カブラルはひるまなかった。道理に逆らって、武力により、会堂の破壊や「二人の憐れなる外国人」の殺戮を欲するならば、われわれはここに無防備で待っているのであるから、何時でもやられるがよい。それが彼の答であった。が同時に彼はこの事を宗麟に報告せしめた。
その前にカブラルは、迫害に苦しむドン・シマンの懇請によって、日本人イルマンのジョアンを宗麟の許に派し、親堅の所為の不当なことを訴えしめた。宗麟はこの事件に関するカブラルの処置を是認し、また信仰の自由の原則を確認したが、しかしこの事件に容喙することはいま暫く避けると答えた。で今度、親堅の会堂破壊の威嚇について報道を受けても、田原一家の紛擾に対しては依然として容喙を好まず、ただ「会堂と宣教師とは領主の保護の下にあるのであるから、親堅に一指もふれさせない」とのみ答えた。つまり会堂破壊や宣教師殺戮などは単なる威嚇の言葉に過ぎない旨を示唆したのである。
カブラルが威嚇に屈しないのを見た親堅は、その威嚇をドン・シマンに向けた。汝の父親堅は今明日中に会堂を焼き宣教師を殺すであろう。汝の決意一つでこの災禍を避けることができる。この威嚇は少年には十分に利いた。彼は父の意に従うことを誓った。親堅も宗麟夫人も非常に喜んだ。しかしドン・シマンが一切の経過をカブラルに報告すると、カブラルは、神父たちの生命などを顧慮すべきでない、神父はインドからいくらでも来る、キリシタンとしての操守の方が大切であると教えた。そこでドン・シマンは、再び強硬な態度に返り、死すともキリシタンたることを止めないという書簡を父にあてて書いた。
この書簡を読んだ父がどういう態度に出るかまだ解らないうちに、ドン・シマン親虎は宗麟の次男ドン・セバスチャン親家とひそかに路上で会合した。苦労で痩せ衰えた親虎の姿はひどく親家を動かしたので、その同情すべき従兄弟が殺されるか追放されるかの切迫した身の上について援助を求めたとき、親家は、もしキリシタンたるが故に追放されるならば、自分はどこまでも一緒に行こう、とはっきり答えたのであった。
子親虎の再びもとへ返った告白を受取った父親堅は、その威嚇の言葉を、実行に移さざるを得ない羽目に陥った。その日のうちに親堅が多数の兵士を派遣したという噂が伝わった。後にフロイスが親家から聞いた所によると、親堅は実際に神父殺害のために武士二人、日本人イルマンのジョアンを殺すために十二三人、その他の人々を殺し会堂を焼くために多数の兵士を派遣したのだという。しかし血なまぐさい事件は起らなかったのである。というのは、噂が伝わると共に、城内のキリシタン武士たちは皆殉教の情熱に燃えながら会堂に集まって来た。カブラルは武器を持たない宣教師だけを会堂に残してくれと頼んだのであるが、武士たちは聞かなかった。却って神父たちに隠して多数の銃・槍・弓矢などを会堂に運び込んだ。こうして殉教の情熱が高まって行くと共に、その武士たちの母親とか夫人とか侍女とかが皆動き出した。平生は手軽に外出の出来ないような身分の高い婦人たちさえも、夜中会堂へ押しかけて来た。こうなるともう簡単に会堂の焼討などは出来なかったのである。
そこで宗麟夫人や親堅の側と、会堂の側とが対峙して睨み合った。その状態は二十日以上も続いた。そのうち最も危険の多かったのは二昼夜ほどであったが、その最初の夜、宗麟はカブラルに次のように申入れて来た。今度の騒ぎはすべて宗麟夫人の起したものだといわれている。自分は当然離婚すべきだと思うが、そのために起る国内の不安を思うと中々実行は出来ない。ついては、カブラルの旅行の予定を少しく繰り上げ、ジョアンと共に肥前の方へ出発せられるわけには行かないか。そうすれば事件は無事に納まるであろう。会堂の保護は自分が受け合う、というのであった。その同じ夜に宗麟夫人もまたカブラルに使者を送り、悪人ジョアンの策動を非難して、もし神父が態度を改めないならば、会堂破壊、キリシタン殺戮を実行するであろう、と威嚇をくり返して来た。これによって見ると、宗麟夫人はあくまでも強硬であり、宗麟は幾分の譲歩を希望していたのである。カブラルは夫人の申出は単純に拒絶したが、宗麟の申出に対しては自己の立場を詳細に説明した覚書を送った。こうして対峙の形勢は一層緊張したのであった。
がキリシタン武士の殉教の情熱は、会堂を容易に攻撃すべからざるものにしたと共に、宗麟夫人の側に有力な口実を与えることになった。それは、キリシタン武士たちの所行が一向一揆に類似するというのである。宗麟夫人にとっては、おのれの次男親家がキリシタンとして会堂側についていることが、口惜しくて堪らなかった。だから親家と親虎とがこの宗教一揆の領袖であると主張することをさえ辞せなかった。丁度信長が石山本願寺の反抗に手を焼いていた頃のことであるから、これは一国の政治にとってまことに「重大な問題」に相違なかった。フロイスが、キリシタン武士たちはカブラルの意志に反して会堂に集まり、またカブラルに隠して武器を持ち込んだ、と特筆しているのに見ても、この非難がいかに有効であったかが解るであろう。
領主の宗麟も世子の義統も、宗麟夫人側の主張を無視することは出来なかった。で義統はカブラルに対して、(一)ドン・シマン親虎は保護するが、(二)キリシタン等が領主に対する義務を捨てても団結しようとしているというのは真実であるか、と質問を発した。カブラルは(一)の点を感謝し、(二)の点は虚伝であると答えた。そうして領主への義務に背けば完全なキリシタンではないということを詳しく説明した。それによってキリシタン武士の団結が一向一揆と同じ種類のものでないと立証せられたとき、妥協の緒もついたらしい。カブラルの出発の予定日が来る前に、宗麟は事件の解決を知らせて来た。親虎はキリシタンのままで父と和解し、依然として嗣子の地位を保つ。しかし父の感情を刺戟しないように、当分はあまり教会へは行かないことにする。キリシタンたちも喜びをあらわに表に現わすような態度は取らないでほしい、というのであった。親堅の感情を傷けないようにいろいろと配慮したのである。
この最初の解決は、一五七七年の六月の初めであったが、その一週間ほど前、五月二十五日の夜、宗麟夫人は猛烈な発作を起した。五六人でも押え切れなかったというのであるから、多分癪の差し込みであろう。丁度その頃に宗麟が一応夫人を押えつけ得たのであろうと考えられる。
事件はこれで解決したように見えたが、しかし宗麟夫人はその怒りを鎮めたわけではなかった。秋の頃には、殉教騒ぎの反動として、却って夫人側の勢力の方が強まったように見える。田原親堅は、ドン・シマン親虎が頑強に転向を拒んだために、遂にこれを追い出してしまった。親虎は府内の宣教師館に入った。そこで親堅は夏前の騒ぎの時と同じように教会攻撃を始めた。キリシタンの宣教師たちは、日本で相当数の信者を作れば、インドから艦隊を呼んでこの国を占領するであろう。これがその主要な主張であった。この声に押されて信仰を捨てる武士が出て来た。会堂にくる武士の数も減った。
こうして宗麟夫人がその勢を盛り返して来たときに、宗麟は遂に夫人を離別するという最後の手段を取った。それは一五七七年の秋の末であったと思われるが、そのために彼は臼杵の城外に新居を建て、隠居して国政を義統に譲る、というような準備工作をやっている。新居へは、次男ドン・セバスチャン親家の夫人の母で、これまで宗麟夫人に仕えていた女を、妻として迎え入れた。宗麟夫人は興奮して自殺を計ったが、それは未遂におわった。
新夫人を迎えた宗麟は、この夫人をキリシタンにしたいから、日本人イルマンのジョアンを説教に寄越して貰いたい、とカブラルの許に云って来た。これはカブラルにとっても不意打ちであったが、しかし彼は領主が説教を聞き始めるかも知れないことを直覚した。これまであれほど熱心に宣教師を庇護し、またあれほど熱心にヨーロッパのことを知ろうとしていた宗麟も、説教だけは決して聞こうとはしなかったのであるが、この時突然調子が変って来たのである。
ジョアンは十八年前博多で殉教した山口人アンドレーの子で、元琵琶法師のロレンソと並び称せられている優れた説教師であった。九州の諸大名に対するカブラルの影響の背後には、このジョアンの活躍があると云ってよい。彼を招いた宗麟は、新夫人たちに説教を聞かせるだけでなく、自らもその席に出て熱心にキリスト教の教義を聞き始めたのである。それは毎夜続いた。説教のあとでは夜遅くまでジョアンと語り合った。こうして彼のキリスト教に対する興味はだんだん高まって行ったのである。
一通り教義の説教が終ったときに、宗麟は、その邸において新夫人と親家夫人とに洗礼を授けることをカブラルに請うた。カブラルはこの機会を捉えて宗麟に一夫一婦の婚姻を誓わせ、新夫人にはジュリア、娘にはキンタという洗礼名を与えた。これは元の宗麟夫人にとっては堪え難い侮辱であった。彼女の宣教師に対する憎悪は無限となり、毒殺・放火などをも辞せない剣幕を示したといわれる。
その後ジョアンは日曜日毎に宗麟の邸へ行って説教を続けた。それは五六カ月にも及んだ。その間に宗麟の改宗の準備が出来たのである。これまでの宗麟は、一方に宣教師を庇護しながらも、信仰のことに関しては禅宗の徒であった。京都の大徳寺の大檀那であり、臼杵にも大きい禅寺を建てて大徳寺の怡雲を招いたのみならず、自らも坐禅に努めていた。その宗麟がすっかり禅宗を離れてキリスト教の信仰に近づいて来たのである。
そういう情勢が宗麟の周囲で動き始めた後、一五七八年の一月に、日向の伊東義祐が島津義久の侵入を受け、孫たちをつれて豊後へ逃げて来た。義祐は宗麟の妹婿であったが、嗣子義益はその方の出ではなく、自ら宗麟の姪を娶っていた。従って嫡孫たちは宗麟の姪の子であった。その一人が、後に安土のセミナリヨにいた祐勝(義勝)である。宗麟の妹の方から出た孫は、後にローマに行ったマンショ祐益である。大友義統は日向を回復するために六万の兵を率いて四月頃出征した。そうして比較的容易に島津の兵を追い払うことが出来た。
この新しい形勢を見て宗麟は、一つの思い切った計画を立てた。それは、この新領土にポルトガルの法律や制度を模した新しい都市をつくり、住民を悉くキリシタンにして、征服者被征服者の区別なく、すべての人が兄弟の如く愛し合うようにしよう、ということである。因襲の妨げの少ない新しい土地でならそれが出来る、と彼は考えたのであった。で彼は新夫人と共に日向に移り、この新しい経営によって、豊後の当主義統の後顧の憂を除くつもりであった。その実行に着手するのは三四カ月先の予定であったが、しかしこの新しい都市の建設のためには宣教師の協力がなくてはならないのであるから、予めカブラルに交渉してその同意を得た。城より先に会堂を建て、ヤソ会士十人乃至十二人を扶持する。彼自身の洗礼もこの新しい町で受ける、というのであった。それは一五七八年の六七月頃のことである。
しかし宗麟は、ラテン語の祈祷や信仰箇条を熱心に暗誦したり、日曜日毎にジョアンの説教を聞いたりしているうちに、洗礼を新都市の建設まで待つのはよくないと感じ始めた。丁度七月下旬にはカブラルが長崎の方へ行くことになっていたので、その旅行を一カ月ほどで切上げ、帰って来て洗礼を授けてくれるようにと頼んだ。洗礼名も、シャビエルを記念してフランシスコとしてほしいと言った。そういう風にだんだん信仰の熱が高まって行ったのである。
カブラルが旅行に出たあとへ、フロイスが府内から留守番にやって来た。翌日宗麟は宣教師館を訪ねて二時間ほどフロイスと語り合った。フロイスも宗麟を訪ねていろいろな話の間に巧みに機会を捉え、宗麟の受洗の希望が、神の恩寵によって起ったものであることを説き聞かせた。これは宗麟の心に沁みたと見え、十六歳で初めてポルトガル人を見、二十二歳でシャビエルに接して以来の、永い年月の間の心の経歴を、ふり返って見る気持にならせた。その述懐を聞いたのは日本人イルマンのダミヤンであった。がそういう気持の中ででも、宗麟は頻りにローマ教会の制度のことをフロイスに質問しているのである。
カブラルが一カ月で旅行から帰ってくると、宗麟は待ち兼ねたように催促して洗礼を受けた。一五七八年八月二十八日であった。この洗礼は豊後の国内でも、近隣の諸国でも、かなり人々を驚かせた。宗麟ほど学問あり、禅宗にも通じた人が、キリシタンになる筈はない、という人もあり、またあれほどの人がキリシタンになる所を見ると、キリスト教はよいものであろう、という人もあった。
日向への出発の時の近づいた九月二十一日に、宗麟の希望によって、府内のイルマンたちも参加して荘厳ミサが行われた。その数日後に夫人ジュリアや嫁のキンタも宗麟に伴われて会堂に来た。そうして、いよいよ十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟は、相当な艦隊を率いて、船で日向の延岡附近の土持領に向けて出発した。白緞子に赤い十字架をつけ金繍で飾った旗を初め、多数の十字架の軍旗がその船に飜っていた。夫人ジュリア、神父カブラル、イルマンのジョアン及びルイス・ダルメイダ、前年来府内の宣教師館に預かっていたドン・シマン親虎などが随行した。これは宗麟の最も得意の時であったかも知れぬ。
宗麟がこのようにキリスト教に入って行くのを側で見ていた嗣子義統も、それに応じて宣教師たちに親しみを見せた。その態度は彼自身もまた彼らの仲間の一人ででもあるかのようであった。丁度信長の仏教弾圧が世間の耳目を聳動していた頃のことであるから、この若い領主も信長を模放して、社寺の所領を没収し家臣に与えるということをやり始めた。実母の元宗麟夫人の抗議に対しては全然耳を借さず、むしろ彼女の神仏崇敬を弾圧するような態度に出た。宗麟受洗の前後にはこの態度はますます顕著になり、盂蘭盆会の禁止、八幡宮祭礼の無視などを敢行するに至ったのである。
宗麟受洗後間もなく、九月の初めに、義統は深夜イルマンのジョアンを呼んで、密室で夫人と共に説教を聞き始めた。やがてフロイスもこの説教に加わり、ヨーロッパの宗教界や俗界のこと、シャビエルの生涯のことなどを、夜明頃まで話した。後にはカブラルもそれに加わった。また母夫人に知られることなく夫人に会堂を見せるために、城の裏から小舟に乗って真夜中に会堂を訪れたこともある。こうして宗麟の日向行の直前には、夫人と共にキリシタンとなる決心をして、カブラルに次のことの指図を仰いだ。即ち、本年実行したように、少しずつ社寺を破壊して徐々に国内の有力者たちに偶像崇拝の無益なことを悟らせる、という方法がよいか。或は有力者たちの背反を恐れず一挙に異教の撲滅を敢行すべきであるか。もし後者がよいならば国を失う危険を冒してもその道を択ぶであろう、というのであった。カブラルはそれに答えて漸進的な道をすすめ、準備が整えば翌年の初めには彼も洗礼を受け得るであろうと云った。
カブラルが宗麟に従って日向へ行った後には、義統はフロイスを度々招いていろいろなことを相談した。中でも夫人に洗礼を授けて貰いたいことを熱心に希望した。夫人自身も直接フロイスに頼んだ。しかしフロイスは、信仰がまだ十分でないと見て、中々承知しなかった。結局義統はフロイスの勧めに従って城内に小さい礼拝堂を建て、その落成の時に夫人が洗礼を受けるということになった。
当時の義統の陣営は、臼杵の西南の野津の町にあったが、そこでも急激にキリシタンが出来始めた。野津の領主レアンとその妻のマリアは、このとき日本人イルマンの説教を聞いて改宗した人たちであるが、日本で最もよいキリシタンとなった。その一族郎党二百人も、共に改宗した。
日向では宗麟が会堂や宣教師館の建築を始めさせた。建築場には仮会堂が出来ていたが、そこへ宗麟は、十一月の朝寒の中を、毎日遠くからやって来た。日向にキリスト教を植えつけその香りがローマにまで達するということ、この新しい国をキリシタンやポルトガル人の法律によって治めるということ、それが彼には今にも出来そうに思えていた。
それにひきかえて臼杵では、精悍な元宗麟夫人がまた勢力をもり返して来た。彼女は義統夫人の母親を抱き込み、若い夫人の改宗を極力妨げようとした。義統は夫人の動揺を防ぐため、フロイスに頼んでその洗礼を急ぐこととし、十一月二十五日にいよいよ式をあげることにきめたが、二人の母親たちは、自殺を以て若い夫人を威嚇し、彼女を途方に暮れさせた。義統が帰って来て母親と喧嘩して見たが、肝腎の夫人の決心がつかず、フロイスは洗礼を中止せざるを得なかった。
その五日の後、十一月三十日(天文六年十一月十二日)大友の軍は島津の軍に大敗したのである。それは総指揮官田原親堅の油断と無識によったものと云われている。この敗戦は収拾の拙さによって全軍の潰走となり、大友の勢威は忽ちにして地に堕ちた。
宗麟も義統もこの敗北によって信仰を失いはしなかった。しかし一カ月の後に田原親堅が臼杵に現われたときには、その姉の元宗麟夫人や戦死者の遺族たちが挙ってキリスト教を呪う声をあげた。それに次いでこれまで大友氏の押えていた筑前、筑後、豊前、肥後などの諸領主が、大友氏に叛いた。叛かないものも義統に対してキリスト教庇護の態度を捨てよと要求した。この大勢に対して若い領主義統は遂に抵抗することが出来なくなった。彼は漸次宣教師に対して冷淡となり、神仏に宣誓して異教徒としての態度を明かにした。キリスト教への反感は潮の如く高まった。カブラルはまた死の覚悟を固め、或る夜の如きは宣教師館の一同を励まして死を迎える準備をしたほどであった。そういう切迫した苦難は数日間であったが、しかしこの後会堂では、二カ月半の間、昼夜祈祷を絶たなかったといわれる。
宣教師に対する直接の危害は遂に加えられなかった。領主義統は異教に屈伏しはしたが、しかし宣教師たちを迫害しようとしたのではない。領主の父宗麟は信仰を堅持して力の限り迫害を抑えた。もし宣教師を害しようとするのならば、先ず余を殺せと彼は重臣たちに云い送った。その重臣たちは田原親堅の指導の下に宣教師追放を決議しようとしていたのである。この決議を成立せしめなかったのは、田原親堅を敵視している田原親宏であった。彼は曽てその領地の大部分を取り上げられ、それが今親堅の領地となっているのである。彼は親堅が敗戦の責を宣教師に転嫁しようとするのに反対し、宣教師を庇って親堅を責めた。この有力な反対が宣教師追放の議を覆えしたのであった。これは一五七九年一月末、日本の正月の少し前のことであった。
こうして宣教師追放の危機は過ぎたが、しかし直ぐ続いて内乱の危険が迫った。右の田原親宏は、突如臼杵を去っておのれの領地に帰り、現在親堅の所領となっている彼の旧領地の返還を要求したのである。世間では親宏叛起の噂が専らであった。また実際、その要求が容れられなければ彼は叛起したであろう。当時の形勢では、臼杵も府内も彼を防ぐだけの力を持たなかった。両市は掠奪され、焼かれるであろう。キリスト教排撃でなくとも結果は同じである。両市の市民は避難の準備を始めた。キリシタンたちも騒ぎ立った。宗麟は、自分が国を治め始めて以来の未曽有の難境であると云った。元宗麟夫人の周囲のものは、義統が出陣したあと直ちに兵士を以て会堂を襲撃しようなどと語り合った。宗麟は会堂に入って防ぐであろうから、彼をも片附けよう、というのであった。カブラルはまた死の覚悟をきめて、会堂で祈祷を続けた。
がこの緊張は、領主が親宏の要求を容れることで解決した。宗麟は親宏に叛意なきことを認めて、当主義統にその指図をしたのである。それは、二月一日のことであった。ところでこの解決は、教会にとって予想外の好い結果をもたらした。ドン・シマンの問題以来、教会迫害の中心勢力であった田原親堅は、その領地の大部分を失い、それと共にその名声をも失ったのである。人々は日向敗戦の責を彼に帰した。彼は臼杵を去って、貧弱となった領地に引き籠った。その後、親宏に苦しめられた彼は、宗麟とジュリア夫人の許に曽てのキリシタン迫害を詫びて来た。このような親堅の失脚につれて元の宗麟夫人もまたその収入や勢力を失った。
こうして教会は落ちついた。義統もまた異教徒としてのキリスト教外護の態度を回復した。しかし容易に回復の出来なかったのは、筑肥地方に対する大友氏の勢力であった。
その夏、巡察使ワリニャーニが、日本に着いたのである。彼が口の津で催した宣教師会議には、カブラル以下イルマンたちも豊後から出かけて行った。宗麟は彼らに護衛をつけたが、しかしそれでも交通は可能になっていたのである。
義統はワリニャーニに書簡を送り、心中は従前と変らないが、政治的必要上それを隠しているのだ、と弁明した。ワリニャーニがカブラルと共に豊後に来なかったのは、豊後の政情の不安のためであろう。やがてこの年の秋には田原親宏の叛起の形勢がだんだん熟して来た。領主の押えがもう利かなくなっていたのである。親宏は十二月の初めに急死したが、後嗣親貫は直ちに府内進撃の態勢を示した。田北紹鉄がひそかにそれに応じていた。
この時宗麟と義統とは、少数の兵を率いて府内にあったが、形勢は非常に非であった。もし親貫の艦隊が暴風に妨げられず、予定通り行動することが出来たならば、府内は簡単に攻略せられたであろう。重臣たちで親貫に対して戦おうとするものは少なかった。さすがの宗麟もこの時には国の滅亡を覚悟し、宣教師たちに国外へ避難することを勧めたほどであった。彼はこの時の心情をワリニャーニやカブラルに書き送り、自分たち父子が命を失うことよりも、豊後のキリスト教会の破滅の方がつらいと云った。それほどであるから、教会の人たちも今度はもう駄目だと思っていた。しかしワリニャーニもカブラルも、豊後から動いてはならないという考であった。どこへ行ったとて危険はある。神の摂理に一切を委せるほかはない、というのである。
この時重臣たちの間に団結を取り戻したのは宗麟の力であった。彼らはこの隠居が再び出馬して政権を執ることを希望するようになった。当主の義統もこの必要を認め、自ら父を訪ねてこのことを懇請した。しかし宗麟はおのれの子の面目を傷けることを欲しなかった。義統はあくまでも領主として留めるが、実質上すべてのことを宗麟の意志によって決定する、これが宗麟の解決策であった。それでも彼の智慧と権威とは再び有効に働き出したのである。重臣たちは結束して親貫を打倒することになった。それは一五七九年の十二月であった。
それでもこの内乱の鎮圧は急には運ばなかった。一五八〇年の復活祭の頃には、宗麟自身はもうワリニャーニを迎えてよいと考えたのであったが、その時にさえも田北紹鉄は、途中で巡察使一行を誅殺しようと計画していたのである。幸にしてワリニャーニは出発せず、この危険を免れたが、その機会に紹鉄の叛逆が曝露し、間もなく討伐せられた。それによって親貫の勢力は著しくそがれ、宗麟の信用と権威とは著しく回復した。
一五八〇年の秋には、親貫はその居城に追いつめられた。宗麟は筑後の国境へ出て肥前の竜造寺と勝負を決しようと考えるまで勢力を回復した。丁度その頃、九月中旬に彼は巡察使ワリニャーニを豊後へ迎え入れたのである。ワリニャーニは府内に数日留まった後、親貫の城を攻囲中の義統を訪ね、次で臼杵に来て宗麟に会った。二年前の十月四日、サン・フランシスコの祭日に、宗麟はカブラルたちをつれて日向に出発したのであったが、今戦争遂行の協議のために義統のもとへ行こうとしていた彼は、その出発前、同じ祭日に、祝祭を行う計画を立てていた。ワリニャーニは、オルガンの伴奏の下に荘厳ミサを行って宗麟を喜ばせた。宗麟は神父たち一同をその邸に呼んで大に饗応した。
ワリニャーニは府内と臼杵の宣教師たちを集めて協議会を開いた。カブラルの反対にもかかわらず彼はあくまでも日本人の教育に重点を置こうとした。臼杵には、ヤソ会への入会希望者のための練習所ノビシヤドを設立する。府内の宣教師館はイルマンたちが学問を継続し得るような専門の学林コレジヨにする。練習所の卒業生は、年齢と時間の許すかぎり、コレジヨに在学させるのである。外来の宣教師たちはここで日本語を学ぶ。文法書も出来、二年かかれば日本語は間に合うようになる。なお右のほかに、野津と由布とに宣教師館を設けなくてはならぬ。
この計画は早速実行に移され、臼杵のノビシヤドはクリスマスの前日に開かれた。最初ワリニャーニが入学を許したのは日本人六人ポルトガル人六人であった。教師は前にローマで新入会員を教えていた神父ペロ・ロマンである。新しい建築にも取りかかり、翌年出来上った。学生も日本人をさらに四人入れた。日本人学生の成績は予期したよりも遙かに好かった。その中には七十四歳の老人と、四十歳になるその子なども混っていた。
府内のコレジヨにはヤソ会士が十三人いた。内三人は神父で、その中の一人がラテン語を教える。日本語の教師はイルマンのパウロで、もう七十歳を越えた徳の高い人であった。このパウロなどの尽力で文法書のほかに辞典や飜訳書が出来た。カテキスモ(聖教要理)の訳が出来たのもこの時である。
ワリニャーニは一五八一年の三月初めに豊後を出発して京畿地方に行き、帰りは土佐薩摩経由で秋になって豊後へ帰って来た。この間に宗麟は著しくその威望を回復していた。国内の謀叛人田原親貫は、徹底的に片づけられ、竜造寺や秋月との戦争は有利に進展した。その際に有名な彦山霊山寺の焼討をやったのである。これは信長の叡山焼討と同じような意味のものであるが、恐らく信長の影響でもあったであろう。それに伴って国内では身分ある武士たちの改宗が頻りに行われた。一五八一年だけで五千人を超えたといわれる。中でも、宗麟が力を入れ世間をも驚かせたのは、元宗麟夫人たちの師として声望の高かった高僧フインの改宗であった。宗麟はこの人物を見込み、「領内の半分が帰依するより以上に大切なこと」として、その改宗に骨折ったのである。これにはさすがの元宗麟夫人も兜をぬいだといわれている。
一五八一年の九月には、宗麟は臼杵に大きい会堂の建築をはじめた。丁度その頃にワリニャーニが京都の方から帰って来たのである。そこでワリニャーニは会堂のために荘厳な定礎式をあげた。豊後にいる宣教師たちが皆集まって来た。その数は四十人に達した。数年前には僅かに一二人に過ぎなかったのである。そこで人々は改めて日向敗戦以来の艱難な年月を回顧した。宗麟はあの敗戦によって数多くのキリスト教排斥派が戦死したことを感謝しさえした。実際この二年間に宗麟の努力によって得た教会の収穫は、その前の三十年間の収穫よりも多かった。三十年間に出来た信者の数は僅かに二千で、しかも身分の低いものが多かったが、今は、信者数一万を超え、その中に身分の高い武士が多く含まれている。宗麟改宗後にもしあの蹉跌がなかったならば、豊後全国はすでにキリスト教化していたであろう、と人々は感じた。日向へ進出したときの宗麟の空想は、必ずしも根のないものではなかったのである。
臼杵の会堂は、日本にある会堂のなかで最も金のかかった立派なものであった。宗麟はそのために工人を京都から招いた。四カ月かかって大体の建築が出来、屋根も葺き終り、内部の工事にかかった。その頃にワリニャーニは、ローマへの日本の使節をつれて長崎を出帆しようとしていたのである。それは、一五八二年の二月であった。
八 ローマへの少年使節
ワリニャーニがローマへ連れて行こうとしたのは、宗麟の姪の子であるドン・マンショ伊東祐益、大村純忠の甥で同時に有馬晴信のいとこに当るドン・ミカエル千々石清左衛門、この二人の親戚に当るドン・ジュリアン中浦、ドン・マルチノ原、及びこれらの少年の家庭教師の格で日本人イルマンのジョルジ・ロヨラ、の五人であった。これらは皆有馬のセミナリヨの果実なのである。
有馬のセミナリヨはワリニャーニが日本に来て先ず手をつけた仕事であった。何故に有馬が先ず彼によって取り上げられたかというと、彼は渡来早々有馬晴信の改宗に関与したからである。
大村純忠がキリシタンとなり、その領内の長崎がポルトガル船の寄港地として栄え始めた後にも、兄の有馬義貞は中々改宗しなかったが、しかしキリシタン大名としての純忠の不思議な強さを知るに従い、追々と気持が動いて行った。そうして遂に一五七六年四月、その家族と共に洗礼を受けた。京都で新会堂の建築が行われ、豊後で宗麟の次男が洗礼を受けて問題をひき起していた頃である。有馬領内のキリスト教は領主の改宗によって活気を呈して来た。領主はその権力を以て仏寺をキリスト教の会堂に改造する。人々はそれに追随し、半年の間に信者数二万に達した。全領キリシタンの理想もやがて実現されるかに見えた。
しかるにこの形勢はこの年の末に突然逆転した。義貞は腫物で急死し、反動派は後嗣晴信を擁してキリスト教排撃を始めたのである。葬儀は仏式で営まれた。宣教師は皆口の津に引き上げざるを得なかった。会堂は再び仏寺となり、異教に逆転する信者も相当にあった。有馬晴信の治世は、このような反動弾圧を以て始まったのである。
しかし新興の竜造寺の圧迫は、晴信のこの反動的な態度を持続せしめなかった。彼はキリシタン大名たる叔父純忠の援助を受けなくてはならなかったし、またポルトガル船の火薬の供給をも必要としたのである。そういう政治的理由が彼の態度を緩和させた。一五七九年七月、ワリニャーニが渡来した頃には、晴信はもうかなりに動きかけていた。
口の津会議で日本のいろいろな情勢を聞いたワリニャーニは、先ず豊後を訪れようとしていた初めの予定を変更して、この手近かな有馬に着目した。彼が有馬に晴信を訪ねて行くと、晴信は非常に彼を款待してキリシタンとなる意志を示した。そこで問題は、出来るだけ国内の紛争を避けつつこの領主を受洗せしめることであった。その内竜造寺の圧迫がひどく加わり、領内の諸城が攻略された。この形勢を見て仏僧さえもキリスト教との提携を説くほどになった。しかし他方にはキリスト教にかこつけて背反を計るものさえあった。ワリニャーニは洗礼を躊躇したが、しかし窮境に立った晴信は遂に心からキリスト教の神に縋る気持になった。こうして一五八〇年の復活祭の頃に、晴信はワリニャーニから洗礼を受け、プロタシヨとなった。親類や家臣大勢が一緒であった。
ワリニャーニは、既に危殆に瀕していた有馬の城に入り、糧食弾薬等を供給して晴信の難を救った。これにはポルトガル船の協力を得たのである。この効果は覿面であった。何人ももう反キリスト教的態度を執り得なかった。晴信は領民にキリシタンとなることを勧め、領内の仏寺、全部で四十余を悉く毀って、キリスト教会堂建築の材料に当てた。こうしてこの後数年の間に全領キリシタンということが実現されて行くのである。
こういう背景のもとにワリニャーニは有馬のセミナリヨを建設したのである。
もっとも、一五八〇年以来ワリニャーニが着手したのはセミナリヨばかりではない。有馬と有家とには、西北九州地方で最良のものといわれる大きい会堂が建てられた。いずれも非常に大きな工事で、仏寺の木材を潤沢に使い、信者にも異教徒にも強い印象を与えるような立派なものであった。有馬のセミナリヨも会堂と共に建築し始め、翌年大広間が竣工したといわれている。がセミナリヨは、その建物が出来る前に、多分晴信の改宗後間もなく、開設されたのである。身分の高い少年で才能の優れたもの二十六人を、有馬の地に集め、それを教育するために神父二人、イルマン四人をつける。それをワリニャーニは何よりも先にやった。だから彼が日本を去ろうとするまでの二年足らずの間に、見事な果実がみのったのである。
ワリニャーニがセミナリヨに定めた学課課程は、のちに安土のセミナリヨに与えたと同じく、日本語の読み書き、ラテン語の読み書き及び音楽であった。彼はこの教育が始まってから間もなく豊後に移り、次で京畿地方を巡察したのであるが、一五八一年の秋の末に有馬に帰って、ほぼ一年半の教育を受けた少年たちを見たとき、これで巡歴の間の辛苦は十分に報いられたと云った。少年たちは自分たちの工夫で色紙を色々に切抜いてセミナリヨの広間を飾り、礼拝所や祭壇にも木彫の像を飾付けて盛大な歓迎会を開いたのであるが、何よりも彼を喜ばせたのは、この少年たちの著しい進歩であった。彼らはもともと行儀がよく、入学してからの二年近い間、曽て不行迹を示したことがない。極めて仲がよく、謙遜で信心深いことは練習生以上である。だから進歩は主として知力の上に見られた。これらの少年らが学問に熱心なことは全く期待以上で、ヨーロッパの少年よりも才智と記憶力とにおいて勝っている。というのは、これまで見たこともない文字を、僅か数カ月で読み書きし得るようになるからである。ラテン語を覚える速力で比較すると、ヨーロッパの少年と同程度、或は一層早い。
この優秀な成績を見てワリニャーニの心は躍った。ヨーロッパ人にこのセミナリヨの成果を見せたい。そうして日本の救済をなし得るものは実にこのセミナリヨであるということを納得させたい。日本ではこういう少年がこの一二年の間にすでに五十人養成されている。セミナリヨの定員をさらに百人ずつに殖して教育して行けば、短期間に大した効果が上るであろう。こう考えて彼はセミナリヨの少年を何人かヨーロッパへ連れて行く計画を立てた。それを彼はキリシタン大名のローマ教皇及びポルトガル王に対する使節ということに結びつけたのである。そこで彼は大友、大村、有馬の三領主に説いて、彼らの使節たり得べきものをセミナリヨの少年のなかから選み出した。大友宗麟の使節は初め宗麟の姪の子伊東祐勝とする筈であったが、祐勝は安土のセミナリヨにあって間に合わないために、そのいとこの伊東祐益を以て代えたといわれている。して見るとこの選択はかなり押し迫ってから行われたと見なくてはならぬ。が、もともと「使節」ということよりも「セミナリヨの少年」ということの方が根本なのであるから、その選択の範囲はきまっていたのである。ワリニャーニたちが主として心配したのは、十四歳をまだ越えていないような少年たちを親たちが手離すかどうか、或は少年たちの方で母親の手許を離れ得るかどうか、ということであった。しかるにそれは案外容易に運んだ。それだけにワリニャーニも少年たちに対して親のように心を配っている。日本人イルマンのジョルジ・ロヨラを同行させたのは、この若い日本人が特別に成績がよく、セミナリヨに数カ月いただけでヤソ会に入会を許され、その後一年の練習を経て来たという優秀な人であって、「日本人イルマン」の標本として適当であったためでもあるが、同時に少年たちが永い外国旅行の間に日本語を忘れてはならないという配慮からも来ていたのである。
このワリニャーニの計画は、やがて数年後に、彼の考えた以上の成功を収めた。少年たちはヨーロッパで異常な歓迎を受け、ヤソ会は日本布教の独占権と多額の補助金を獲得した。日本人がヨーロッパの文化に直接に触れる道も開かれたかの如くに見えた。が、往路にゴアで病歿したジョルジ・ロヨラを除き、四人の少年が皆無事で八年の世界旅行を終えて日本に帰って来たときには、事情はすっかり変っていた。彼らのあとに汪然として続くべきであった流れは、もはや涸れていたのである。
が一五八二年の二月に彼らがこの世界旅行に出で立とうとしていたときには、彼らは新しい潮流の尖端に立っていた。彼らはただに大友、大村、有馬などのキリシタン大名を代表していたばかりではない。これらの諸大名を圧迫していた薩摩の島津、肥前の竜造寺といえども、ヨーロッパへの触手は同じように出したがっていたのである。
ワリニャーニは、有馬晴信を竜造寺の圧迫から救ったが、しかし竜造寺隆信は宣教師たちを攻撃するようなことはしなかった。有馬や大村の領主が彼に対して恭順の態度を示すならば、それ以上に領地を攻略する必要もなかったのである。一五八一年に宣教師たちを心配させた事件は、竜造寺隆信が大村純忠とその嗣子とを佐賀に招いたことであった。この招待に応ずることは、純忠一族の運命を一時隆信の手中に委せることを意味した。人々は疑懼し、神父クエリヨもそれを危んだが、純忠は決然としてその招待に応じた。隆信は彼を款待し、おのれの娘を彼の嗣子に嫁せしめようと約した。それでもクエリヨたちは隆信に対して懸念を抱き続けている。ワリニャーニは竜造寺と親しむことがキリスト教会の安全にとって必要であると考え、しばしば人を遣わして隆信の機嫌を伺わせた。そうしてその懇望に従いクエリヨをして彼を訪ねさせた。隆信はクエリヨを款待して、ポルトガル船が竜造寺領の港に来るよう斡旋して貰いたいこと、竜造寺領内に会堂を建て布教することを許すこと、などを話した。クエリヨはこの隆信の友情にもあまり信頼を置かなかったが、しかし貿易の希望、従ってヨーロッパ文明との接触の希望を竜造寺が持っていたことは、否定の出来ないことであろう。
島津の方も同様で、ワリニャーニが旅行の途中船で寄った時などには非常に款待したのみならず、ポルトガル船をその領内の港に招致するために、会堂の建設や布教の許可に関して、ワリニャーニやクエリヨと交渉を始めた。ワリニャーニが日本を出発するためにすでに船に乗った後にも、それに関して具体的な申入れをする使者が薩摩からやって来た位である。
キリシタンの敵とさえ見られる異教徒の領主たちがこのように熱心にワリニャーニの方へ手を出した位であるから、キリシタン大名の大村純忠や有馬晴信がワリニャーニに対していろいろ積極的につくそうとしたことはいうまでもない。晴信は一五八〇年にワリニャーニに助けられた御礼として、浦上を教会に寄附した。それを聞いた純忠は、長崎を教会に寄附しようと申出た。ワリニャーニは、これを受け容れるかどうかについて、西北九州、豊後、京都などの神父たちとも相談し、純忠とも幾度か会見した。純忠が、長崎を教会領としたいという理由はこうであった。第一、竜造寺が長崎をねらっている。竜造寺に渡せばポルトガル貿易も彼に奪われてしまう。拒絶すれば圧迫を加えてくるであろう。教会領として置けば安全である。第二、教会領となれば大村は依然としてポルトガル貿易を続けることが出来る。第三、大村氏にとっての安全な避難場所になる。これらの理由は、大体神父たちを承服せしめることが出来た。竜造寺に貿易の利益を与えれば、正面の敵たる大友氏に大打撃となるであろう。それは結局キリスト教徒にとっての大損害である。長崎はキリシタンの避難所として確保しなくてはならぬ。いずれ日本には司教を置く必要があるが、長崎は司教の座としても安全でなくてはならぬ。こう考えて、ワリニャーニは長崎を教会領とすることに賛成した。純忠は長崎のほかに一里先の茂木をも教会に渡した。もっとも司法権だけは領主の手に残したのである。
ワリニャーニは長崎の市民に対して会堂を何よりも尊敬すべきことを教え込んだ。ここの宣教師館には神父三人、イルマン一人、日本人イルマン三人を置いた。大村の宣教師館は、神父二人、イルマン二人であった。ワリニャーニが京都から帰って来たとき、純忠は大村で盛大な祝宴を開き、長崎へも二度訪ねて来た。そうしてその年のクリスマスには、ワリニャーニを大村へ連れて行って荘厳な祭を行った。例の通り演劇の催しもあった。
有馬のセミナリヨの少年たちは、そういう社会的雰囲気のなかから出発して行ったのである。
第十二章 鎖国への過程
一 信長殺さる
一五八二年二月、ワリニャーニが少年使節たちをつれて長崎を出発したあとの日本は、九州でも京畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え上っていた。副管区長クエリヨは有馬で盛大な復活祭を祝う。晴信の母・祖母・姉妹、多数の家臣などが洗礼を受ける。相当に力のある仏僧たちさえも、転向してくる。有馬のセミナリヨは周囲の日本人が目を聳てたほど、顕著な存在になって来た。フロイスも、日本でキリスト教を発展させるには、人間的にはこのセミナリヨのほかに頼るべきものがないといっている。そのほか附近の有家、島原、高来、少し離れて天草、大村、長崎、平戸、筑前の秋月、何処でも教勢の進まないところはない。特に宣教師たちを喜ばせたのは、最初シャビエルが足跡を印した鹿児島と山口とが回復されそうになったことである。鹿児島からはワリニャーニの出発間際に有利な申込みがあり、クエリヨがそれを取り上げようとしている。山口の毛利もワリニャーニに宣教師派遣を求めて来たが、その後さらにクエリヨに交渉して来た。豊後では宗麟が益〻熱心で、府内の万宝寺を焼き、豊前の宇佐八幡宮を焼いた。永い間キリシタンの大敵であった元の宗麟夫人までが、今はキリシタンになろうとしている。府内のコレジヨ、臼杵のノビシヤドはいずれも予期以上にうまく行っている。臼杵の新会堂は復活祭に間に合うように工事を急ぎ、府内のヤソ会士たちをも招いて盛大に祭を行った。集まるものが多く、日本一の大会堂さえも小さく見えるほどであった。行列の行進の時には三千の燈籠が動き、種々の仕掛花火が空に輝やいた。安土でも宣教師館とセミナリヨとは続々増築され、建築工事はなお続いていた。会堂の建築はまだ着手していなかったが、材木はすでに買集めてあった。セミナリヨは予定通り育っていた。オルガンチノなど五人の外国宣教師のほかに日本人イルマンのビセンテがいて少年たちを教えていたのである。総勢は三十五六人であった。神父セスペデスが日本人イルマンのパウロと共に開拓に行っていた岐阜地方でも、信忠の庇護の下にかなりの収穫があった。京都では神父カリヤンやもう一人のイルマンと共に、例のロレンソが活動していた。オルガンチノを父のように愛していた三七信孝は、いよいよ父から起用されて四国征伐の指揮官に任ぜられた。四国を平定すればそこへキリスト教を導入するであろうと彼は約した。ロレンソに向っては、あなたに来てもらいたいと云った。
そういう好況のさなかに、突然信長が京都の本能寺で殺されたのである。それは一五八二年六月二十日(天正十年六月一日)の早朝であった。明智光秀は信長の油断を見て咄嗟に奇襲し、信長と信忠とを、一二時間で片附けてしまった。光秀が何故この挙に出たかは、よく解らない。猜疑か、嫉妬か、或は単なる権力欲か。いずれにしても光秀が、信長に対する衆人の怨嗟ということを宛にしていたのは確かであろう。この暴王を倒せば、衆人はそれを徳とする、と彼は考えたのである。その証拠に彼は、奇襲成功後、直ちに近江に出で、安土城を掠奪占領することを主たる仕事としたのであって、他の部将たちに対する戦略をほとんど考えていない。それは宣教師たちさえも気づいた所であった。安土を命からがら逃げ出したオルガンチノが最も怖れたところは、光秀が彼を捕えて人質とし、曽て信長のやったように高山右近などを味方につける道具に使いはしないかということであった。だから彼は光秀の部下の手中にあったとき、右近に書簡を送り、「たとい我らが皆十字架にかけられても、この暴君の味方になってはならない」と勧告した。しかし光秀は宣教師たちを捕えようとはしなかった。が、それをほかにしても、光秀は、摂津へ進出して諸所の城から人質を取り、その城におのれの兵を入れることが出来た筈である。それらの諸城の兵はみな毛利との戦争に出征して居り、ほとんど空であった。高山の高槻の城などもそうである。そこには夫人ジュスタや二人の小児が僅かの家臣と共に留守をしているだけであった。しかるに光秀は安土の占領を急いで、摂津の方へは眼を向けなかったのである。彼は右近を初め諸将たちが当然自分の味方になるものと考えていた。これが彼の失敗のおもなる原因だといってよい。
光秀には遠くを見る眼力がなかった。信長の偶像破壊がどれほど多くの反感を呼んでいたとしても、それはその時代の創造力の尖端であった。信長を倒したことを徳とする人は極めて少なかった。摂津河内のキリシタン武士のなかで光秀の味方になったのは、ただ三箇の領主だけである。信長の部将たちは急速に中国から引き返して来た。高山右近も光秀が近江から出てくる前に高槻城に帰って光秀進出に備えた。やがて秀吉が音頭を取り、三七信孝を擁して、光秀の軍を山崎で粉砕した。信長の死後二週間と経たない七月二日のことである。
安土の城も町もその後に焼き払われた。二条の宮殿は信忠と共に焼け失せた。岐阜の会堂や宣教師館も破壊された。信長の建てたもの、持っていた財宝などは、皆焼かれるか、或は掠奪された。京都では人々が「日本の富は失われた」と云って悲しんだという。
フロイスはこの事件を報告するに際して、信長が稀なる才能を有し賢明に政治を行ったことを賞讃しつつも、その「傲慢」の故に身を亡ぼしたことを力説している。その傲慢は死の年に極点に達し、ネブカドネザルのように自ら神として尊崇せられることを欲した。その現われは安土山上に建てた総見寺である。そこには諸国から有名な仏像を集めたが、本尊は信長自身であった、とフロイスは云っている。信長記などには見えないことであるが、当時の宣教師たちの感じ方をよく現わしていると思う。
二 キリシタン大名の繁栄
信長のあとについては、光秀討伐の当時、世人は秀吉が三七信孝を立てるであろうと噂した。それは宣教師たちにとっては都合の好いことであったが、しかしフロイスは、あれほど勢力のある秀吉がそんなに謙遜な態度を取るとは思わないと云っている。事はフロイスの予感の通りに動いた。一年の内には、政敵柴田勝家、滝川一益を掃蕩し、信孝を自殺せしめ、大坂の築城に取りかかった。信長を六年間苦しめた石山本願寺のあとが、安土に代って新しい大都市として発展し始めることになったのである。そこで工事に従事するものは、初めは二三万であったが、後には五万になった。規模の大きいことは安土の比ではない。
この新しい形勢に際して、キリシタンたちは、信長の死の意義を十分見とおすことは出来なかった。なるほど安土のセミナリヨは覆滅したが、全員無事に京都へ逃げて来て、やがて高槻の城にセミナリヨを移した。高山右近は光秀討伐に大功があったため秀吉から厚遇をうけているが、相変らず教のことに熱心で、セミナリヨの神父二人、イルマン数人、生徒三十二人の面倒をも親身になって見ている。日本人イルマンのビセンテが、ここでカトリック教義の講義をしたがそれは非常に効果があった。生徒も非常に優れて居り、六七人は臼杵のノビシヤドに行きたいと云い出した。即ちセミナリヨは安土よりも却ってよいほどである。そのほか、キリシタンの中から秀吉が非常に重く用い始めたものが数人ある。その一人は小西隆佐である。秀吉は彼の知識や才能を見込み、自分の財宝の管理や堺の町の支配などを委ねた。次はその子のアゴスチニョ行長である。行長は幼少の時から京都の会堂で教育を受けたものであるが、秀吉は彼を海の司令官とし、播磨の室の津をその所領として与えた。その他秘書官の安威志門、留守居役の休庵老人などもキリシタンであった。これらの人々のお蔭で教会は秀吉から非常に好意を受けることが出来た。というのは、秀吉が大坂の経営をはじめ諸方から人々を引き寄せようとしていたとき、高山右近の勧誘に従って、オルガンチノが、大坂に会堂を設けることを敢行したからである。当時京都の教会は安土焼失の打撃で会堂建築などの資力を持たなかったのであるが、右近はそれが緊急の必要であることを説き、河内岡山の会堂を大坂に移す計画を立てて、その移築を自分の費用でやろうとさえ申出たのであった。でオルガンチノはロレンソをつれて秀吉の許へ土地を請い受けに行った。秀吉は二人を居間の方へ導き入れ、小西隆佐、安威志門をも加えて、五人だけで永い間語り合った。そうして川添いの非常によい地所を三千数百坪ほど教会に与えたのであった。それは一五八三年の九月のことである。この滑り出しはキリシタンたちに非常によい印象を与えた。曽て安土のセミナリヨがキリスト教の有力な宣伝となったように、大坂の会堂もまた身分ある武士たちのための網となるであろう。大坂の建設が、安土よりも大規模であるように、キリスト教の繁栄もまた、安土時代よりは大規模となるであろう。そう人々は考えた。
そうしてまた実際、数年の間は、その方向に動いて行くように見えた。会堂の移築は一五八三年のクリスマスの頃にほぼ出来上り、そこで最初のミサを挙行した。ついで一五八四年から八五年へかけて、続々として身分ある武士たちや大名たちの改宗が行われた。初めは秀吉の小姓衆・馬廻衆という風であったが、高山右近や小西行長の勧誘が利いて、馬廻衆の頭の牧村政治、伊勢松島の城主蒲生氏郷、秀吉の有力な顧問たる黒田孝高、播磨三木の城主中川秀政、美濃で二万俵をとる市橋兵吉、近江で一万二千俵をとる瀬田左馬丞などが洗礼を受けるに至った。秀吉夫人の側に勤めている婦人たちの内にも固いキリシタンが出来て来た。
この情勢には当時の政情も大いに関係しているであろう。一五八四年の春、秀吉は、家康と信雄との叛起に備えて出陣の準備を部下に命じた。事情を知らない世人は秀吉が根来征伐をやるのではないかと噂し合ったが、戦争は濃尾の平野で行われた。その方面でも高山右近や池田丹後などキリシタン武士の武功が相当に目立った。しかし一層目立ったのは、将兵の留守中に小西行長のやった海軍の活動であった。大坂の武備が空になっている隙に、根来の僧兵は大坂を占領し本願寺を元に帰そうとして、動き出したのである。建設中の大坂の町は非常な混乱に陥り、オルガンチノさえも会堂を棄てて船に避難した。この時、僧兵の進撃を喰いとめて危く大坂を救ったのは、岸和田城を守っていた中村一氏と、七十艘の艦隊を率いて急遽堺の前に現われた小西行長とであった。行長の船には、多数の大きいモスケット銃・大砲一門・小砲数門を載せていた。彼は兵を海岸に上げて敵兵を撃退した。この海軍の活動に着目した秀吉は、その夏には、尾張で水攻めにしている敵城を攻撃する為に、行長の艦隊の出動を命じたのであるが、更に翌一五八五年の春、右の根来の僧兵や紀伊雑賀の本願寺の討伐に向ったときには、行長の艦隊を初めから共同作戦に使ったのであった。勿論主力は陸軍で兵数は十万を超えたといわれる。この全軍の指揮官は二人であったが、その一人は高山右近であった。この優勢な軍隊が、損害をかまわず敵の出城三つ四つを強襲して全滅させたので、根来、粉河等の僧兵は、敵を待たずして雑賀に逃げ込んだ。雑賀は今の和歌山附近で、海と紀の川と山とに囲まれた要害の地である。雑賀の前面に二つの重要な城があったが、その一つは海の司令官小西行長が引き受けて攻略し、それが刺戟となって他の一つも片附いたが、行長の目ざましい功名はこのあとの雑賀の本城の攻撃であった。そこは非常な要害で、根来と雑賀の主力が立て籠って居り、軍需品も米二十万俵を初めとして、極めて豊富であった。強襲は不可能であるから秀吉は水攻めの策を取り、高さ六七間、厚さ二十数間の土壁を城の囲り二里に亘って築き上げ、そこへ紀の川の水を引いたのであるが、それだけではまだきめ手がなかった。そこで秀吉は、行長の艦隊に命じて湖水に入り船から城を攻撃させたのである。攻囲軍の将士は安全なところからこの攻撃を見物していた。行長は十字の旗を掲げた船を率いて城壁に近づき大砲・小砲・大モスケット銃などを用いて攻撃を開始した。それは二三時間続いた。行長は多数の船を巧みに指揮して城の大部分を占領した。周囲から眺めていた全軍は、この光景に非常な感銘を受けた。この攻撃で行長の船は一艘も焼けず、戦死者も非常に少数なのであったが、甚だしい煙と火に驚いた秀吉は、行長の艦隊が大損害を受けたものと思い、退却の信号をさせた。が、この攻撃の結果として雑賀の城は降服したのである。この功労によって行長は秀吉の全領土の艦隊司令長官の地位を与えられ、これまで管轄していた小豆島をその領土にして貰ったのであった。
高山右近もこの戦争の際に、根来の寺を秀吉から貰って、大坂の会堂建築の用材に当てた。神父セスペデスはロレンソをつれて雑賀へ礼を云いに行ったが、その時はまだ攻囲中で、秀吉は全軍環視の中に土壁の上で彼らを引見した。この高山右近の仕事といい、小西行長の功名といい、キリシタン大名はかなり派手に、人目につく活動をしていたのである。だからそれが多くの武士たちを引きつける刺戟となったことは争われない。もっとも蒲生氏郷が洗礼を受けたのは雑賀征伐の直前であったが、彼をここまでひきつけたのは、高山右近の熱心な勧誘であった。傑物黒田孝高を先ず動かしたのは、小西行長である。それを洗礼にまで導いたのは、右近と氏郷とであった。
これらの大名はこの後二三年の間、キリスト教を非常に盛大なものにした。小西行長はその領地の室の津や小豆島をキリスト教化したのみならず、海の司令官としての権力を広く諸方に及ぼし、布教を助けた。既に一五八五年の夏に、神父パシヨは、豊後から京都へ行く途中児島半島突端の日比の港で、秀吉の十万の遠征軍を四国へ渡らせている小西行長に逢い、その勢力の強大なこととその指揮の巧みなこととに驚嘆している。やがて一五八七年に秀吉の九州征伐が行われる頃には、彼の艦隊は九州の西海岸へ進出するのである。島津の兵が臼杵を占領して宗麟の建てた壮麗な会堂やノビシヤドの建物を焼き払ったとき、豊後の教会の人々を救出して下の関へ運んだのも、彼の力であった。陸では黒田孝高の活躍が目ざましい。彼は小寺官兵衛として秀吉の播磨平定の頃から頭角を現わして来たのであるが、やがて、毛利氏と秀吉との間の妥協に腕をふるい、秀吉の九州征伐以前に、中国から北九州に亘って、準備工作を仕上げたのであった。その際副管区長クエリヨを助けて山口の教会の回復を成功させるとか、小早川隆景に説いて伊予の開拓を始めるとか、島津の兵に蹂躙された大友領内のキリシタンを支えるとか、その機会に大友義統を説いて洗礼を受けさせるとか、中々積極的にキリシタンとして動いているのである。小早川隆景は筑前筑後の領主になったが、その養子秀秋は洗礼を受け、秀吉の命によって宗麟の娘マセンシヤと結婚した。孝高の嗣子黒田長政も、秀吉から豊前の父のもとへ派遣されたとき、父にすすめられて洗礼を受け、熱心な信者となった。
そのような情勢のところへ、高山右近もまた秀吉に従って西下して来たのであるから、九州征伐に際して陸からも海からも十字の旗が押し進んで行ったといわれるのは、必ずしも誇張ではない。
三 秀吉の宣教師追放令
秀吉は尾張の農民の子から日本の絶対権力者にまでのし上って来た男である。因襲の力をはねのけて赤裸々の実力に物を云わせるという当時の社会的情勢を、彼ほどはっきりと具現している人はない。従って彼はまた、何人でも、才能さえあれば、身分が何であろうと、その奉ずる宗教が何であろうと、かまうことなく抜擢し起用した。小西行長、黒田孝高なども、その顕著な例なのである。従って彼は、宗教的偏見などは持たず、人に対して極めて自由な態度を取った筈である。しかるに彼が宣教師たちに与えた印象は、信長ほどに好くなかった。信長の死の当時、その後継者として急に注意され始めた秀吉について宣教師たちの記しているところは、すべて同情のない調子である。秀吉が「勇猛」で、「戦争が巧い」ということ、「身分や家柄が高くない」ということ、「富と権勢と地位」とにおいて信長以上であることなどを彼らは報告するだけである。そのほかには――むしろこの方が重大なことであるが、――秀吉は信長ほどに他人の意見を容れる力がない、自分の意見を他の誰のよりも優れたものと考えている、などといわれる。或は、その傲慢と権力欲とが信長以上であるといわれる。そういう意見を書いているフロイスは、信長の死んだあとで信長の傲慢を手ひどく非難してもいるが、しかしそれまで信長と接触した永い間の報告には、かなり濃厚に信長の人柄に対する同情を見せていたのである。信長は信仰の要求を持たず、従って宣教師の要求する第一の資格を欠いてはいたが、しかし未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。それは権力欲の充足によって静まり得るようなものではなかった。それをフロイスは感じていたのである。ところで秀吉には、そういう点がまるでなかった。これは甚大な相違だと云ってよいのである。
こういう相違をはっきり見せているのが、副管区長クエリヨの謁見の際の秀吉の態度だと云ってよい。クエリヨは一五八六年三月六日に神父四人イルマン三人を同伴して長崎を出発し、平戸、下の関を経由して東上した。丸亀沖の塩飽島で小西行長の船の出迎えを受け、室津、明石、兵庫に寄って、四月二十四日に堺に着いたが、その時にはキリシタンたちは、秀吉が果して副管区長を引見し款待するかどうかを疑っていたのである。しかるに案外にも秀吉は、これまで曽てヤソ会士に対して示したことのない款待の態度を見せた。それは五月四日のことで、クエリヨは神父四人、イルマン四人、同宿十五人、セミナリヨの少年数人、合せて三十余人をつれて大坂城を訪ねた。案内者は安威シマンと施薬院とであった。一行は公の儀式に用いる建物に通され、その日登城していた前田利家、細川忠興その他の諸大名も席に列なった。高山右近も勿論その中にいた。やがて秀吉が現われて、奥正面に着座し、安威志門が一人一人名を呼んで紹介した。そのあとでクエリヨたちを座敷内に近く進ませ、秀吉自身も座所から出て神父の側に坐り、親しく話を始めた。通訳として附いていたフロイスは秀吉と古い馴染であったので、まずフロイスを相手にいろいろと昔話をしたが、それにひっかけて次のような述懐をもらした。日本にいる宣教師たちがただ一途に教を拡めることだけに専心しているのは大変によい。自分も権勢と富を得ることに専心してそれを成就したのであるから、ほかに何も得ようとは思わない。ただ己れの「名」と、権勢の評判とを、死後に残そうと思うだけである。日本のことが片附けば、これは弟に譲って、自分は朝鮮とシナを征服するために海を渡ろうと思う。そのためには二千艘の船をつくる。そこで神父たちに頼みたいのは、十分に艤装した大きい帆船二隻を調えて貰いたいことである。勿論代価を払う。乗組員には給料を与える。もしこの計画が成功してシナ人が帰服すれば、シナの各地に会堂を建て、キリスト教に帰依することを命じて日本へ帰ってくる。日本もまた半分位、或は大部分をキリシタンとなすべきである、というのであった。
これはまことに矛盾した云い分である。キリシタンの宣教師が一向一揆のように政治的意図を持たないことを賞讃しながら、同時におのれのシナ侵略の計画に協力することを要求する。しかしそれは秀吉の意図においては矛盾はなかった。彼は、キリシタンの宣教師が国内の政治の邪魔をせず、自分の役に立つことを要求したのである。布教の代償として造船の技術を提供させることは、彼にとっては無理な取引とは思えなかった。しかしそれは純然たる取引であって、未知の領域への探求などではない。根本にある知的能力は彼にとって問題ではなく、ただかかる能力の産み出した果実だけが彼に必要だったのである。これは在来キリスト教を排撃しつつただポルトガル貿易の利益だけを得ようとしていた諸大名の態度を、一層巧妙な仕方で現わしたものに過ぎない。その肝腎の点をクエリヨは看取しなかったように見える。
フロイスとロレンソとは、永い間信長に接していた関係上、この点に気づかなかった筈はない。この時の謁見のあとで秀吉はクエリヨの一行を天守閣に案内し、そこに貯蔵された巨大な富や物資を自慢して聞かせたり、最上階まで連れて行って四方を展望しながら九州征伐の計画について気焔を吐いたりしたのであるが、その際フロイスは、秀吉の自慢する黄金の組立茶室を、是非拝見したいと云い出しているし、雄弁なロレンソは口を緘して何事も喋舌らなかった。これはいずれもこの人たちの平生の態度ではない。秀吉は、曽て信長の面前でフロイスと日乗とが激論し、日乗がロレンソを切ろうとした時のことを云い出し、老いたるロレンソの頭に手を載せて、「お前は何故黙っていて話をしないのだ」とさえ云っている。しかしこの二人と雖も、まだはっきりとした意見を立てるまでには至らなかったのであろう。
クエリヨはこの謁見の後、秀吉の夫人北の政所を通じて、キリスト教布教の特許状を得ようと努めた。秀吉の全領内における布教の許可、宣教師館及び会堂に対する諸種の課役徴用等の免除がその内容であった。秀吉はおのれの領内という云い現わしを日本全国という言葉に改めて、その特許状を与えた。当時の情勢としては非常に有力なもので、山口の教会の回復のためにも非常に役立ったのである。
クエリヨがこういう在来のやり方をそのまま続けて行こうとしていた時に、秀吉の手中において一世紀来の下剋上の趨勢が突然打切られようとしていたことをわれわれは見のがしてはならない。シャビエル渡来後の三十五六年の間、即ち秀吉が農村の一少年から関白にまでのし上ってくる間は、特にこの趨勢の激甚な時で、民衆の中にあった力がどしどし表面に浮び上り、伝統的なものの権威が次から次へと壊されて行った。しかるにそれが行くところまで行き、農夫の子の秀吉が関白になったとたんに、彼はその絶大な権力を以て現状の固定、従って下からの力の禁圧を計ったのである。その最も端的な現われは、一五八六年の秋、京都の大仏造営に着手するに当って行われた刀狩りであった。これは全国の僧侶及び民衆の武器没収、武装解除である。それによって一揆はすべて不可能になり、民衆に対する武士団の威力が非常に増大する。社会の組織はすべて武士階級に都合のよいように、思うままに定めることができる。そういう思い切ったクーデターを秀吉はクエリヨ謁見の数カ月後に断行したのである。
これは実に大きい情勢の変化で、この時に、近世ヨーロッパにおけるような町人の発達の可能性が押しつぶされ、武士階級の支配が確立してくるのであるが、しかしその変革は諸所の農村で地味に目立たず行われたのであって、その翌年の九州征伐のような花々しい出来事ではなかった。だから九州征伐が一通り終った一五八七年七月廿四日に秀吉が博多で宣教師追放令を出した時、それはいかにも突然で、その夜の気まぐれに基くかのように感ぜられた。しかしそうではなかったのである。民衆を武装解除する秀吉の気持のなかには独裁権力者の自信や自尊は顕著であったであろうが、未知の世界への探求心や視圏拡大の要求はもはや存しなかった。宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、――それは前の年にクエリヨに特許状を与えたときの秀吉の腹であった。
秀吉が九州に入って八代まで進んだとき、クエリヨは会いに行って捕虜の助命などをした。その時秀吉は、いずれ博多に行くから、その時また会いに来てくれと云った。で島津が降って戦争が片づき、秀吉が博多に引き返してこの町の復興につとめていたとき、クエリヨは再び訪ねて行った。そうして宣教師館や会堂の地所を貰ったのであるが、その際にも秀吉はシナ遠征の計画をはっきりと語った。また或る日海上でクエリヨの乗っていたフスタ船を見て、それに乗り移り、熱心に船の構造を観察した。その頃に秀吉は、ポルトガル船を見たいから、平戸に碇泊している船に博多へ回航するよう交渉してくれと頼んだのである。これは前の年のクエリヨへの申入れに対する回答を促したものと見ることができる。
クエリヨがこの一年の間にポルトガル船の入手について何の努力もしていなかったことは明かである。彼はそれが自分たちの運命に関する重大な問題であるとは思わず、全然閑却していたのであろう。たといポルトガル船の入手が不可能であるとしても、その不可能な所以を秀吉にのみ込ませるような手段が講じてあれば、――或は少なくとも造船の技術だけでも教えるような方法を考えていたならば事はもう少し円満に行ったかも知れない。しかるにクエリヨは、この回航が危険で実行し難いことを説明しつつ、極めて消極的な態度でこの申入れを船長に取りついだだけであった。船長も小さい船で平戸からやって来て、秀吉に大帆船の回航がいかに危険であるかを説明した。秀吉はこの弁解を納得したかのように、船長一行を款待して船に帰らせた。それが七月二十四日のことであった。
その夜、突然、秀吉は心を変えてキリスト教迫害を始めた、とフロイスは報告している。秀吉自身はずっと前から考えていたと主張しているが、それはこのような大事を軽々しく気分一つできめたと思われないためであって、実際は突然の怒りによるのである。かく解釈してフロイスは、元比叡山の坊主であった徳運の高山右近に対する憎悪や、有馬領で秀吉のために美女を求めてキリシタン女子のために恥をかいた話などを挙げている。しかしヨーロッパ風の大帆船のことは一年来の懸案である。それに対するクエリヨの解決がいかにも拙かったことは認めなくてはならない。だから秀吉の、ずっと前から考えていたという主張は、或る意味では正しいであろう。それが船長に会った日の夜起ったということも、いかにももっともである。すでに事件の二日前に、布教の前途について楽観的な期待を述べたクエリヨに対し、高山右近は、「激しい迫害が突然起りはしないかと心配している」と云った。少なくとも右近は何かを予感していたのである。
その夜秀吉は右近の許に使者を送り、キリシタンをやめるか、或は直ちに領地を捨てよ、と伝えさせた。右近は平然として領地を捨てる旨を答えた。使者も友人も、表面だけは命令に従うように勧めたが、彼はきかなかった。もしこの通り復命しないならば、自分で秀吉の前へ出て答えると云った。
秀吉はまた使をクエリヨの船に送り、眠っていた神父を起して次の質問に答えさせた。神父たちは何故にかくまで熱心に布教し、改宗を強制するか。何故に社寺を破壊し坊主を迫害するか。何故に人間に有用な牛馬を食うか。何故に日本人を買って奴隷にするか。クエリヨの答はこうである。救いは主エス・キリストによってのみ得られるが故に、われわれは、それを日本人に説きに来たが、しかし曽て強制したことはない、また権力なきわれわれには強制などをすることも出来ない。社寺を破壊したのは信者の自発的な行動であって、われわれがさせたのではない。牛肉は自国の習慣に従って食うが、馬肉は食ったことがない。その牛肉も食うなとあれば止めてもよい。奴隷売買があるのは、日本人が売るからである。われわれはそれを悲しんで防止に努めたが力及ばなかった。奴隷売買を欲しないならば、先ず売ることを禁止すべきである、と。これらの答はいかにも戦闘的である。クエリヨはかく答えると共に死に就く覚悟をしたのであった。が同夜は右近追放の通告を受けただけであった。
翌七月廿五日に秀吉は諸侯を集めて宣教師追放を公表した。宣教師たちは救いを説くことを口実として人を集め、やがて日本に大きい変革を起そうとしている。彼らは博識の人であって、巧妙な議論により多数の大身たちをたぶらかした。その欺瞞を見破ったのは自分である。今にして彼らの企図を押えなければ、一向一揆と同じになるであろう。否、彼らは、本願寺の坊主と異なり、日本の主立った領主たちを引きつけるが故に、一層危険である。神父がキリシタン大名たちを率いて叛起したならば、容易に抑えることが出来ぬであろう。かく説いて彼は追放令を示した。
一、日本は神国である。キリシタン国から邪法を伝えたのは怪しからぬ。
二、彼らが諸国の人民を帰依させ、神社仏閣を破壊させたのは、前代未聞のことである。領主たちは一時その土地を預かっているのであって、何事でも勝手にふるまう権利を持つのではない。天下の法律には従わなくてはならぬ。
三、神父はその智慧の法を以て自由に信者を持ってよいと考えていると、右の通り日本の仏法を破壊する。だから神父らを日本の地に置かないことにする。神父らは今日より二十日以内に用意して帰国すべきである。この期間に神父らに害を加えれば処罰されるであろう。
四、黒船は商売のために来るのであるから、別である。貿易はやってよい。
五、今後、仏法のさまたげをしないものは、商人でも何でも、キリシタン国から自由にやって来てよい。
この追放令は直ちにクエリヨ及び船長の所へ伝達された。クエリヨは、船が今後六カ月間は出帆しないから、二十日以内には出発出来ないと答えた。そこで秀吉は神父らに平戸へ集まれと命じた。日本人イルマンも同様である。
それについで十字の旗の徹去命令、大坂、堺、京都等の宣教師館の没収、長崎、茂木、浦上の教会領の没収、長崎のキリシタンへの罰金負課、大村、有馬領内の諸城及び会堂の破壊などが行われた。大村純忠が二月前に、大友宗麟が一月半前に死んだばかりであるから、ヤソ会の受けた打撃はまことに大きかった。
追放令は急に諸方へ伝達された。高山右近の新領地明石をはじめ、大坂、京都などのキリシタンは大騒ぎであった。宣教師たちは急いで平戸へ行かなくてはならぬ。が、信者らの信仰の情熱はこの迫害に面して反って燃え上った。宣教師に対する同情は、異教徒の間にさえも起った。
当時日本にいるヤソ会士は百十三人で、ほかにセミナリヨの生徒七十余人、その他多数の同宿、宣教師館の使用人などがあったが、この時の追放に際して害を受けたものはほとんどなかった。新しく開かれた山口の教会や下の関の宣教師館においてもそうであった。この追放は不当である、道理に反している、日本の恥である、そう日本の武士たちは感じたのである。
京都にいたオルガンチノは、平戸へは行かず、小西行長の領地に隠れた。彼が八月十七日に室から出した書簡によると、八月初めに追放の知らせを受けて、いろいろ教会のことを処理したときの状況は、「原始教会の迫害以来、曽て見たことのないもの」であった。キリシタンたちは皆殉教者となることを望んだ。彼らの内に、これほど大きい力があろうと考えていなかったオルガンチノは、反って非常な驚きを感じたという。
この迫害の間に起ったことで有名なのは細川ガラシヤ夫人の受洗である。夫人は明智光秀の娘であるが、よほど才能のあった人と見え、禅宗についての理解などはイルマンのコスメを驚かせるほどであった。キリスト教に興味を持ったのは、夫の忠興が高山右近の親友で、しばしばこの宗教の噂をしたからである。丁度九州征伐で夫の留守中、彼岸の寺まいりにかこつけて侍女たちの群に混って宣教師館を訪れた。偶然その日は復活祭日で、会堂が美しく飾ってあった。その時、名を明かさずに説教を乞い、イルマンのコスメの説教を長時間に亘って聞いたのである。コスメと激しい討論を戦わせたのはこの時であった。コスメはこれほど物の解る婦人を日本で見たことがないと云った。それが始まりで、その後侍女を介して説教を聞き質問を続けていたが、その侍女が先ず洗礼を受けてマリアとなった。続いて邸内の主立った婦人十七人が洗礼を受け、残るのは夫人のみになった。その頃に秀吉の宣教師追放令が出たのである。それは夫人を一層熱心にさせた。神父の出発前に洗礼を受けるため、駕籠に乗って会堂へ忍んで行こう、そう彼女は決心した。神父セスペデスは、時期が時期だけに、それを危んで止めた。そうして、マリアに教えて夫人に洗礼を授けさせた。それがガラシヤ夫人である。だから夫人の信仰は初めから殉教の覚悟と結びついていた。
そのように追放令は却って信仰の情熱を高めた。そこで平戸に集まった宣教師たちは、殉教の覚悟を以て全部日本に留まることを決議した。そうしてポルトガル船長をして秀吉の許に次のように報告させた。日本にいる宣教師は数が多く、到底全部を運ぶことが出来ない。従って本年は船に収容し得るだけを運び、あとは明年に延ばすことにする、と。その収容し得たのは、シナへ叙品を受けに行くイルマン三人のみであった。
こうしてヤソ会士は潜伏戦術に出た。その潜伏をひき受けたのはキリシタンの領主である。有馬晴信は全部引き受けようと申出たが、しかしほかの領主へも分けざるを得なかった。オルガンチノとイルマン二人が小西行長の領内に留まったほか、あとは西北九州である。度島に四人。大村領内に十二人。豊後に五人。天草島に六人。大矢野に三人。五島に二人。筑後に二人。有馬は最も多く、七十余人の宣教師と七十三人のセミナリヨの少年をひき受けた。
この潜伏戦術は殉教の覚悟に裏打ちされているのではあるが、しかし秀吉の追放令はやがて緩和されるであろうという見とおしをも伴っていたのである。そうしてそれは見当違いでもなかった。秀吉は宣教師たちが社会の表面から影をひそめ、彼の威光に恐れて萎縮している態度を示している限り、強いて追放令の厳格な実施を迫りはしなかった。従って潜伏戦術はキリシタン信仰の維持という見地から見れば成功だったとも云える。それはただに信者たちの信仰を維持し得たのみならず、更にそれを内面化し深化することによって著しい信仰の発展をさえもたらし得たのである。しかしその代償としてキリスト教が公共的性格を失ったことは十分重視して置かなくてはならぬ。公的な意味においてはヤソ会の宣教師は日本から追放されて一人も残っていないのである。このことは間もなく重大な結果を現わしてくる。
四 キリシタン迫害史
秀吉の宣教師追放令によって日本のキリシタンの信仰は揺ぎはしなかった。平然として領地を捨てた高山右近の態度は、数多くのキリシタン武士に通有の態度であった。黒田孝高に勧められて洗礼を受けた大友義統が、追放令の出たあとで早速迫害を始めたのは、むしろ異例に属するのである。しかしそれにしてもこの追放令がはっきりと一つの時期を劃することは認めざるを得ない。追放令の出るすぐ前に大村純忠、大友宗麟が相次いで死んだ。その年の末には、日本人イルマン中の傑物ダミヤンが四十四歳で死に、三年の後には、クエリヨも死んだ。シャビエルに見出されて以来、実質的には日本伝道史の上に巨大な仕事を残した琵琶法師のロレンソも、やや遅れて五年後に六十六歳で死んでいる。九州諸地方の開拓に大きい働きをしたルイス・ダルメイダは、追放令に先立つこと四年、六十歳で、その三十年に近い活動を終った。それやこれやを思うと、ここに世代の変り目があったともいえるのである。
追放令が出てから三年後、一五九〇年七月にワリニャーニは、ローマへの少年使節を伴って帰って来た。少年使節たちはヨーロッパの服装がすっかり身についた青年になっていた。がそれを迎える日本の情勢もすっかり変っていたのである。ワリニャーニはヤソ会の巡察使としてではなく、ポルトガルのインド副王の使節として、翌年秀吉に謁した。ヨーロッパを見て来た青年たちは、多くの大名や武士たちに取り巻かれて、その見聞を物語った。宣教師は追放しても、ヨーロッパ文明の摂取に対する一般の関心はまだ衰えていなかった。ワリニャーニは布教のことを全然表に出さず、外交家として活動した。それは信仰の情熱に燃えた人々にとってはまことに歯がゆい態度であったが、しかしワリニャーニは今こそ忍耐の時であると見ていたのである。
かくてワリニャーニは潜伏の戦術に積極的な内容を与えた。信者たちは公然たる会堂や儀式を持たずともその信仰を維持し得るように「組織」されなくてはならぬ。セミナリヨやコレジヨは人目に立たない山中や島に隠されなくてはならぬ。教えをひそかに人の心に植えつけるためには教義書がどしどし印刷されなくてはならぬ。ローマから帰って来た四人の青年は天草のコレジヨで教え始めた。ワリニャーニの携えて来た印刷機は長崎で、後には天草で、盛んに動き始めた。こうして実質的にヨーロッパの文化が沁み込んで来れば、やがて教会が公共的な性格を取り戻したときに、大きい飛躍が可能となるであろう。これが一五九一年の末にワリニャーニの日本に残して行った方針であった。
しかしこの忍耐強い、地味なやり方は、スペイン人のフランシスコ会の進出によってかき乱されたのである。
スペイン人がフィリッピン諸島を確保し、太平洋航路を打開したのは、ポルトガル人のゴアやマラッカの確保よりも三四十年ずつ遅れていた。従ってスペイン人の日本への進出も、丁度それ位は遅れている。ルソンの商船が平戸に入り、スペイン人が初めて日本の地を蹈んだのは、信長の死後二年を経た一五八四年である。その後漸次接触が出来、一五九一年には原田孫七郎がルソンへ秀吉の勧降状を持って行った。翌年ドミニコ会の宣教師がその真偽を正すために日本に来て、肥前の名護屋で秀吉に謁し、再び朝貢を促す秀吉の書状を持って帰った。しかるに、その船が帰途難破したために、更にその翌年にフランシスコ会の宣教師ペドロ・バプチスタが使節となり、一人の副使と三人のフランシスコ会士をつれて名護屋に来た。そうして副使が三度目の秀吉の書状を携えて帰ると共に、使節ほか三人は人質として残った。しかし宣教師たちはそれを在留許可と解し、京大坂方面に行くことを希望したのである。秀吉は布教しないという条件で許したが、宣教師たちはかまわずに布教を始めた。次の年一五九四年にまたフランシスコ会の宣教師三人が長官の返事をもたらして京都へ来た。返書は秀吉の注文にまるで嵌らないものであったが、しかしこれで宣教師は七人になった。
これらの宣教師が盛んに布教活動を始めたのである。一五九四年の秋には京都に会堂が出来た。翌年には病院が出来た。大坂にも会堂が出来た。長崎にもフランシスコ会士を常駐せしめた。これは四十年来日本の開拓に努力して来たヤソ会士にとっては、まことに不快な出来事と云わなくてはならない。ヤソ会は教皇から日本布教の独占権を与えられているのである。しかもその日本の布教は、目下忍耐を必要とする微妙な境遇に追い込まれている。拙く動くと根本的な失敗を招くであろう。しかるにフランシスコ会士は、ヤソ会と打合せるでもなく、ヤソ会士が潜伏している機会に、大っぴらに日本の布教事業を奪い取ろうとしたのである。ヤソ会士は憤らざるを得なかった。併しフランシスコ会士から見れば、日本のヤソ会士は秀吉の追放令によって悉く国外に逐われた筈である。即ち教皇の許した布教独占権は事実上消滅しているのである。フランシスコ会士はヤソ会士のいない日本へ来て布教を始めたのであるから、抗議を受ける筈はない、この主張は庇理窟というほかないであろうが、しかしまた潜伏戦術の急所を射ぬいたものともいえるであろう。ヤソ会士は、抗議を持ち出すためには、おのれの追放令違反を白日の下に曝露しなくてはならない。この窮境に立って、彼らのフランシスコ会に対する憤懣は一層深まって行ったのである。
フランシスコ会士の無思慮な活動によって、日本布教は実に危険な瀬戸際に立たされていた。そこへ丁度二つの事件が一緒に起った。一つは一五九六年八月に最初の日本司教マルチネスが来着したこと、他は同年十月にスペイン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸港に入ったことである。
日本に司教を置くことは、大分前から計画されていたが、フランシスコ会の攻勢を憤ったヤソ会は、それに対抗するため急いで実現したのであった。司教はローマ教会の制度であるから、会派の別なく指揮権を持つことができる。その司教にヤソ会士が任命せられれば、フランシスコ会士の活動をもヤソ会の方針に従って統制し得るのである。マルチネスはゴアで日本司教に就職し、七人の宣教師をつれてやって来た。そうして小西行長の斡旋により、インド副王の使節として、十一月に伏見で秀吉に謁した。
スペイン船サン・フェリペはマニラを発してメキシコへ向う途中、颱風で船を破損し、修繕のため浦戸へ入港したのであったが、船員の保護や修繕の許可を得るため使者を大坂に送った。その交渉が手間取っている間に秀吉は増田長盛を浦戸に急派して、積荷や船員の所持金を没収せしめた。その際サン・フェリペ号のパイロットは長盛に世界地図を見せ、スペイン領土の広大なことを誇った。長盛が、どうしてそんなに領土を拡張することが出来たかときくと、彼はそれに答えて、スペインでは先ず宣教師を送って土人にキリスト教を教える、ついで信者が相当数に達したとき、軍隊を送って、信者たちと呼応してその地を占領する、と答えた。このことを長盛が秀吉に報告した、とヤソ会側では主張している。しかしサン・フェリペ号の司令官の報告では、当時京都にいたポルトガル人たちが、秀吉に向ってスペイン人の侵略を説いたことになっている。スペイン人は海賊である。メキシコ、ペルー、フィリッピン諸島において残虐な侵略を行った。日本にも先ずフランシスコ会士を派して布教させ、ついでその国を測量する。そのために多額の資金をつぎ込んでいる。終局の目的は征服である。そう云ってスペイン人を讒したというのである。丁度その時にインド副王の使節、実は日本司教のマルチネスが来ていたのであるから、スペイン人のメキシコやペルーの征服のことを語らなかったとは保証出来ないであろう。そういう事実をただ客観的に述べただけならば、讒言したとは云えないのであるが、しかしまだ世界的視圏を十分に獲得していない日本人にとっては、この事実を聞いただけで、在来の漠然とした杞憂が裏づけられるに十分であったであろう。キリシタン宣教師たちの企図は、性格において一向一揆に変りなく、その危険性においては一向一揆以上である。そう秀吉は確信したであろう。
一五九六年十二月九日(文禄五年十月廿日)弾圧がはじまった。フランシスコ会士六人、日本人ヤソ会士三人、その他日本人信者十七人が京都で捕縛され、京都、伏見、大坂、堺などで市中引き廻しに逢い、陸路を九州まで見せ物にして連れて行かれ、一五九七年二月五日、長崎の海岸の小山で死刑に処せられたのである。
これが日本における最初の大殉教であった。殉教者たちの不屈の態度といい、為政者側の「見せしめ」としての故意の残酷さといい、日本国中に与えた印象は実に激甚であった。信者の信仰は狂熱的になり、諸方の領主の圧迫もヒステリックな性格を持ちはじめた。
この年の夏、ルイス・フロイスは、六十五歳で日本における三十四年の活動を閉じたのである。その最後の報告は右の二十六殉教者のことであった。
翌一五九八年夏、新司教セルケイラが巡察使ワリニャーニと共に数人の宣教師をつれてやって来た。その一月あまり後に、教会の弾圧者秀吉も死んだ。
レオン・パジェスがその大部な『日本切支丹宗門史』(吉田小五郎訳岩波文庫)を丁度この年で以て始めているのは、彼の計画した日本史の第三巻がここから始まるからであって、日本におけるキリスト教の歴史をここから始めてよいと考えたわけではないであろうが、しかしまた「迫害」がキリスト教徒の完成に欠くべからざる条件であるという見地から見れば、日本のキリスト教史は、このあたりから真にキリスト教史になってくるともいえるであろう。しかし、ここで問題としているのは、キリスト教史ではなくして、日本民族が何故に世界的視圏を獲得し得ず、従って、近世の世界の仲間入りをなし得なかったかということである。この見地から見れば、この後の日本キリスト教史は、鎖国の形勢を激成して行く過程にほかならない。
勿論このことはキリシタンの運動が日本人の視圏を拡げるような要素を持たなかったということではない。秀吉死後の十数年間、即ち慶長年間には、舶来の印刷術のお蔭で、ローマ字綴りのキリシタン書が多数出版されたし、またキリシタン書以外にも語学書や文芸の書が出版されている。『日葡辞典』やロドリゲスの『日本文典』が出たのはこの頃であるし、『妙貞問答』や『舞の本』が出たのもそうである。日本側の舞の本などがほとんど仮名ばかりで書かれていた時代であるから、それを口語の対話にひきなおしローマ字で綴っても、その移り行きは極めてなだらかで、大した困難もなくローマ字の採用が行われ得たのであった。これらの点から見れば、慶長年間はまだまだ広い世界への接近の傾向を持っていたと云えなくはないであろう。
しかしこれらはすべて「余勢」であって、隆盛期に張った根がいかに深くまた広く諸方に及んでいたかを示すに過ぎないのである。キリシタン側の文化的活動も著しかったに相違ないが、それに対抗する保守的な文化活動はさらに一層強力に押し進められていた。秀吉が下から盛り上ってくる力を抑えて、現状を固定させようとする方向に転じたとき、この大勢は定まったのである。家康はこの大勢に添い、それを完成して行ったのであって、その点で決して迷ってはいない。
しかし秀吉が貿易だけは保存しようとしたように、家康もまた西洋人との貿易には熱心であった。そうしてこの貿易を宣教師の布教運動から引き離すのが困難であることも知っていた。だから彼はキリスト教に対しては、初めから、公認はしないが大目に見る、という態度で一貫している。秀吉の死後、諸方で会堂や宣教師館が回復され、殊に小西行長の領地肥後では数多くの新設を見たのであったが、それらは問題にされなかった。だから秀吉死後の数年間には、信者が七万殖えたといわれる程である。
この形勢に最初の変化をもたらしたのは、一六〇〇年(慶長五年)の関ヶ原の戦である。それによって徳川の覇権が確立するとともに、小西行長、小早川秀秋などのキリシタン大名が亡んだ。特に小西行長の喪失はキリスト教にとって大きい打撃であった。しかしそれだけならばまだ大したことではない。キリシタン大名でも大村、有馬、黒田などは徳川方に附いていたし、徳川方の有力な諸大名、細川、前田、福島、浅野、蜂須賀などはキリシタンの同情者であった。重要なのはむしろキリシタン迫害が大名の間の主要な潮流となり、諸大名が漸次態度を変えるに至ったことである。迫害の先駆者は、小西行長の個人的な敵で、小西の領地を引きついだ法華信者加藤清正であった。彼の迫害によって肥後の八万の信者は二三年の間に二万に減ったといわれている。それについで迫害をはじめたのは、小西領であった天草島、長門の毛利などである。筑前の黒田孝高はその大勢に反抗してキリスト教を盛んにしていたが、一六〇四年に歿して長政が後を嗣いでからは、漸次形勢が変り、遂に長政の棄教を見るに至った。豊前の細川忠興も関ヶ原戦の際に犠牲になったガラシヤ夫人の思い出のためにキリシタンを保護していたが、それは十年以上は続かなかった。大村領は長崎が幕府の直轄地となった関係から直接に幕府の圧迫を受け、大村喜前は逸早く棄教した。ただ有馬晴信のみは夫人と共に熱心に信仰のために尽し、教勢の拡張を計っていたが、その彼も一六一二年には遂に流罪に処せられたのである。
しかし政治の表面に現われたこの大勢は必ずしもそのままキリスト教信者の間の大勢ではなかった。武装を解除された民衆が何を信じようと、それは初めの内はさほど問題ではなかった。だから宣教師たちも、公然たる宣教を控えつつ、内実において信者の組織に努力し、教育をすすめ、信仰書の出版を盛んにして、教勢の維持や拡張を計ったのである。その間、特に著しいのは日本司教セルケイラの活躍であった。彼は一方において布教事業の公認を再び獲得することに努めると共に、他方においてスペインの勢力との対抗、即ちフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会などの進出を抑えることに苦心した。このスペイン側の宣教師たちは、一五九六年の大殉教にもひるまず、依然として日本進出に努力し、一六〇二年の如きは、マニラから渡来するもの十五人に達したのである。セルケイラはその年の秋マニラに書簡を送って、このような行動がいかに危険であるかを警告している。第一、家康はキリスト教を好まず、仏教に熱心である。貿易の必要から宣教師の滞在を大目に見ているが、公認しているのではない。第二、家康初め諸大名はスペイン人が侵略者であり、布教は侵略の手段に過ぎぬと信じている。これらの理由によって、スペイン宣教師の大挙来日は、教会に対する迫害を激発する怖れがある。その徴候はすでに顕著だといってよい。家康は宣教師の到着に関して、「あいつらはまたはりつけになりたくて来たのか」と云ったという。側近の高僧(相国寺の承兌)の策動で、毛利の山口、細川の小倉、黒田の博多などには、すでに迫害が起り、或はまさに起ろうとしている。この調子で行くと大殉教のようなことがまた起らないとも限らない。だからスペイン宣教師の無思慮な行動は実に危険である、というのであった。
セルケイラの態度は、出来るだけ控え目にしていて家康以下諸大名の疑念を解き、布教公認を取り戻そうというのであって、巡察使ワリニャーニと相談して立てた方針を守っているのである。ワリニャーニがセルケイラたちと共に三度目に日本を訪れたのは一五九八年の夏であって、着くと間もなく秀吉が死んだのであるが、その死に先立って先ず着手したのは奴隷売買問題の解決であった。この問題は秀吉の追放令の中で最も手ひどく教会にこたえたものである。追放令発布の当時クエリヨは、日本人が売るから悪い、そちらで禁止したら好かろうと秀吉に答えたのであったが、ワリニャーニとセルケイラとは、ポルトガル商人に奴隷売買を禁ずる態度を明かにしたのである。この禁令は最初の日本司教マルチネスが既に着手していたが、まだ実現されずにあったのである。これはキリスト教徒としては当然の態度であるが、しかしポルトガル商人の利益を制限する意味において、相当困難な仕事であった。それだけに追放令緩和に役立つ筈でもあった。ついで秀吉の死後には、ワリニャーニは、以前大坂にいたロドリゲスを連れて、禁圧緩和の運動に大坂へ出たりなどした。諸大名には同情者もあり、うまく行くように見えていたが、そのうち関ヶ原の戦争が起り、小西行長の滅亡その他事情の変化で、問題は非常にデリケートになっていた。丁度そこをスペインの宣教師たちが掻き廻し始めたのである。ワリニャーニはその頃に日本を去ったらしいが、セルケイラはこのワリニャーニの忍耐強い宥和政策を受けついだのであった。
一六〇六年にセルケイラは伏見に来て家康に謁した。ポルトガルの使節という資格であるから、旅行は公式であったし、謁見式も公式であった。しかし実質的にはセルケイラは、司教の正装で家康に会い、司教として信者たちに接した。また近侍の本多正純や京都所司代の板倉勝重には、布教の自由についていろいろと懇請したらしい。翌年にも管区長パエスを駿府に送って同じように運動を続けている。パエスは江戸にも行って将軍秀忠に謁した。本多正信正純父子が親切に世話をした。布教の公認についても何となく希望があるように見えていた。
このセルケイラの方針をいつも脅かしていたのはスペインの宣教師たちであったが、しかしそのほかにもう一つ手ごわい敵が現われて来たことを見のがしてはならない。それは新教国民たるオランダ人とイギリス人とである。
ヨーロッパを真二つに分裂させた宗教改革は、十七世紀の初めにはますます深刻な影響を現わしていた。信仰の自由を守るために北アメリカに移って行くピューリタンたちがもうそろそろ動き出しそうになっていた頃である。新教と旧教との対立が織り混って、あの執拗な抗争を続けた三十年戦争も、もう萌し始めていた。新大陸の発見以来急激に興隆した旧教国スペインは、一五八八年の無敵艦隊敗滅以来、ヨーロッパの覇権への望を捨てて降り坂になった。それとともに、ローマ教会と絶って新教に妥協したイギリスが、海上の雄者になって来た。新教を容れたオランダは、その前からスペイン王に離反して独立のために戦っていたが、今やその独立を殆んど完成しようとし、イギリスに対抗し得る海国となった。このヨーロッパの形成は、間もなく東洋の海上へ響いて来たのである。
その最初の現われは、一六〇〇年四月、豊後に漂着したオランダ船リーフデ号であった。初めは五隻の艦隊の内の一隻であり、百十人の乗組員を持っていたのであるが、途中散々な目に逢って、生存船員僅か二十四人で、ただ一隻豊後に着いたのである。しかも歩けるのはパイロットのイギリス人ウィリアム・アダムス以下六人だけで、三人は上陸の翌日死んだ。オランダが遠征艦隊を出し始めてからやっと五年目、東インド会社が出来る二年前のことであるから、まだ東洋への航海は不慣れだったのである。
アダムスが大坂城で家康に会ったのはヨーロッパの旧暦五月十二日(慶長五年四月十日)で、関ヶ原役の五カ月前であった。家康はアダムスからオランダの独立戦争の事や、マゼラン海峡を通過し太平洋を横ぎる世界航路の事を聞いたのであるが、これまで旧教の宣教師ばかりを見ていた家康の眼には、この俗人の航海者がよほど違って見えたであろう。彼はリーフデ号を浦賀に回航させ、アダムスに俸給を与えて好遇した。その結果五六年後にはオランダの東インド会社と連絡を取ることが出来、一六〇九年七月、二艘のオランダ船が平戸に入港するに至ったのである。そこで両船の商人頭が使節として駿府に行き、オランダのオレンヂ公の書簡を家康に呈した。家康は通航免許状を与え、また商館の設置を許した。商館設立のこともまた、家康には在来の宣教師のやり方と異なって見えた点であろう。その秋には平戸にオランダの商館が出来、ジャックス・スペックスが商館長として数人の館員と共に駐在することになった。
こうしていよいよ、オランダ貿易が始まったのであるが、半世紀以上に亘るポルトガル人の貿易や、最近にマニラから日本に進出して最も地の利を得ているスペイン人の貿易などと競争するのは容易でなかった。スペックスは非常に努力して、二年後の一六一一年七月に自分の手で第二船を入れ、アダムスと打合せて駿府に行った。スペインやポルトガルの使節もその少し前に駿府を訪れたのであるから、云わば三国は鎬を削るという状態になっていた。しかるにオランダ商館長スペックスのみは、アダムスの斡旋で、まるで別格の取扱いを受け、家康と親しく貿易の話をすることが出来たのである。スペックスはそのあとで江戸に出で、浦賀に廻ったが、そこでスペインの使節と落ち合ったにかかわらず、いずれも会おうとはしなかった。本国の敵対関係がここまで響いていたのである。
こういう競争に際して、スペイン人やポルトガル人は、オランダ人が叛逆者であり海賊であることを攻撃した。オランダがスペインからの独立のために戦っていたこと、海上で敵船の捕獲や掠奪をやっていたことは、いずれも事実である。それに対してオランダ人や家康側近のイギリス人アダムスが、過去一世紀に亘るポルトガル人やスペイン人のインド及びアメリカにおける残虐な征服行為を挙げて対抗したことも、推測するに難くない。ポルトガル人及びスペイン人は世界的視圏を開くという非常な功績を挙げたのではあるが、その点を抑えてただただ暗い半面のみを物語れば、そういう事実の報告のみを以てしても、ポルトガル人とスペイン人とを日本から遠ざけることは出来たのである。
このやり方はやがて公的な表現にまで達している。一六一二年八月にオランダから来た船の商人頭ヘンドリック・ブルーワーは、国主モーリッツの書簡を携えて駿府に行ったのであるが、その書簡には、ヤソ会の宣教師が表に布教を装いつつ、内実においては改宗による国民の分裂、党争、内乱をねらっている、と明白に認めているのである。これはもう個人的な蔭口ではない。反動改革者に対する新教徒の公然たる攻撃なのである。
この趨勢を心から憂えていたのは、セルケイラであった。彼はスペイン国王に対してオランダ人の危険を頻りに訴えている。またオランダ人の策動を有効ならしめるようなスペイン宣教師の無思慮な行動をも訴えている。しかしもう遅かった。迫害はすでに一六一二年の春、家康の膝下駿府において始められたのである。
一六一二年四月(慶長十七年三月)家康は京都所司代板倉勝重にキリスト教会堂の破却を命ずると共に、駿府の旗下武士のうちの信者十数人を検挙した。検挙はなお夏まで続き、大奥の女中にまで及んだ。この禁教令は有馬晴信の処刑と連絡があるらしく、発布の直前に晴信の喧嘩相手岡本大八が火刑に処せられたし、また駿府での検挙と同時に有馬領での禁教が励行された。
一六一三年、江戸で、キリシタンの検挙が行われた。スペイン宣教師の経営していた浅草の癩病院も閉ざされた。七月に至って、検挙せられたものの内二十七人が死刑に処せられた。四五年来メキシコ通商のことで幕府の役人との間に山師的に活動していたフランシスコ会士ルイス・ソテロも、この時には信者と共に捕えられていたのであるが、巧みに出獄して伊達政宗に取り入り、この年の十月には支倉常長たちをつれて日本を出発した。がこれもソテロの山師的な計画によるものであって、日本における大きい社会的情勢の現われではなかった。
一六一四年一月二十八日〈(慶長十八年十二月十九日))家康はキリスト教厳禁、宣教師追放の政策を決定し、大久保忠隣をその追放使に任じた。家康のこの決定には南禅寺金地院崇伝の進言が有力に働いているといわれる。しかし、数日後に発表された崇伝の禁教趣意書は、厳めしい漢文で長々と書かれてはいるが、「キリシタンは神敵仏敵である。急いで禁圧しなければ国家に害があるだろう」ということを主張しているだけである。何故特にこの際追放令を出す必要があるか、キリスト教のどの点が国家を害するか、などについては、何事も語っていない。その与える印象は、宗派的な偏執と陰惨な憎悪とのみである。即ち家康の頭脳としての崇伝自身が、すでにキリシタンを説得しようとする理性的な態度を持っていないのである。従って禁教がただ武力による圧迫となったのは当然といわなくてはならぬ。
大久保忠隣は二月二十五日(慶長十九年一月十七日)に京都に着き、翌日から会堂の焼却・破壊、信者の捕縛、転宗の強要などを始めた。棄教転宗を肯んじないものは、俵に入れてころべころべと囃しながら転がして歩いた。女の信者に対しては裸体で晒らすこと、遊女にすることなどで脅かした。さらに頑固なものは火刑にするといって、四条河原に十字架を建て列ねた。京都の町は陰惨な空気に包まれてしまったのである。
しかしこの狂気じみた迫害は長くは続かなかった。二月二十七日には大久保忠隣自身が領地没収の宣告を受け、その命令が三月十日に京都に着いたのである。そこで跡始末は賢明な京都所司代板倉勝重によってなされたのであるが、勝重はその前からすでに追放や流罪の穏やかな策を立て、外国人宣教師に対しては大久保が京都に着くよりも二週間前に退京を命じ、伏見、大坂にいた人々と併せて、船で長崎の方へ送り出したのであった。従って残る問題は、日本人信者で改宗を肯んじないものの追放である。加賀の前田家に預けられていた高山右近の一群、内藤ジョアンの一群などは、四月十五日に加賀を立って、京都でジョアンの妹のジュリヤたちの群と合して長崎に向った。日本にいなければよいので、殺す必要はないではないか、というのが勝重の方針であった。
長崎へは諸方の追放者が集まり、だんだん感情が激して受難覚悟の行列なども繰り返されたが、幕府の官吏は諸大名の兵を集めて厳戒しつつ、会堂の破壊焼打ちを断行し、十一月に至って四百余人のキリシタンを海外に送り出した。高山右近はマニラで翌年死んだが、内藤兄妹はなお十二三年生きていた。
この大追放は、しかし、キリシタン宣教師の三分の二を国外に送り出し得たに過ぎなかった。潜伏し残った宣教師は、諸会派併せて四十数人に達している。しかも翌年からしてすでに潜入帰来が始まっているのである。
右の大追放の際に、九州の諸大名は特に厳重に禁教を実行する様命ぜられた。中でも、大村、細川、黒田などは、よほど熱心に努力しなくてはならなかった。しかし残虐な処刑はまだ行われていない。ただ一つの例外は有馬領である。幕府は、棄教した領主直純を日向に移したが、家臣の殆んど全部はキリシタンで、棄教した領主に附いて行こうとせず、浪人してもとの土地に留まった。このキリシタンの態度が新領主を恐れさせたのみならずまた幕府をも驚かせた。そこで大追放断行のために長崎に集まっていた陣容と兵力とを用いて、徹底的なキリシタン探策、残忍な拷問や処刑を行ったのであった。つまり有馬の家臣らの固い信仰、強い操守が、迫害の残虐化を誘発したのである。
この関係はこの後の迫害史に一層拡大されて現われてくる。大追放でキリシタンを断絶し得たと見えたのはただ表面だけのことで、殉教を恐れない宣教師はなお多数潜伏している。それに加えて毎年勇敢な潜入者が続々とやってくる。幕府を最も強く刺戟したのはこの潜入であった。それも初めの内はおもにヤソ会士で、単独に、隙をねらって潜入したのであったが、一六一八年頃から、ヤソ会以外の宣教師たちが、団体的、計画的に潜入するようになったのである。それは前の年に大村で殉教した二人の宣教師の話が、マニラのスペイン人たちの間に殉教熱を煽ったからであった。第一回は七人、翌年の第二回は五人。ついで一六二〇年の第三回は、人数はただ二人であったが、その引き起した事件によって当局の注目をひいた。アゴスチノ会のズニガとドミニコ会のフロレスとで、堺のキリシタン平山常陳の船に隠れて日本へ潜入する途中イギリス船に捕獲され、オランダ船に引渡されて平戸へ連れて来られたのである。オランダ人はこの捕獲が海賊行為でないことを立証するために、乗員中に宣教師がいることを主張した。しかし、ズニガとフロレスとは宣教師でないと云い張った。そこで面倒な係争問題が起ったのである。オランダ人はその立場を守るために、二人に残忍な拷問をも加えたらしい。この争は長崎奉行の前でスペイン人とオランダ人が互に非難し合うという場面をも展開した。スペイン人はオランダ人の叛逆と海賊行為とを指摘し、オランダ人はスペイン人のペルーやメキシコの征服を指摘した。が結局先ずズニガが自白し、それを潜入させた罪で船長平山常陳以下船員十数名が投獄され、最後にフロレスも自白した。彼らが長崎で処刑されたのは一六二二年の八月である。
マニラからの潜入はまだこの後にも続々として行われたのであるが、しかし右の処刑の頃までに既に十分にキリシタン迫害への拍車の効用を発揮していた。宣教師の潜入は、直接にはそれを助ける外国航路船やその船員の取締りを厳格ならしめたが、同時に日本に潜入している宣教師との連絡や、彼らをかくまい潜伏せしめる国内信者の存在をも曝露したのである。そこで、この刺戟がなければ穏やかに秘やかに存在し続けることの出来たかも知れない信者たちを、洗い立て、検挙し、処刑するという気運が生じて来たのである。
その最初の現われは、マニラからの第一回潜入のあった翌年、一六一九年(元和五年)の京都における大殉教であった。家康死後三年であるが、金地院崇伝の勢力は依然として盛んであった。出来るだけ温和な取扱いをしようとしていた板倉勝重も、遂にその力に押されて、富豪桔梗屋ジョアンの一家を初め、信者六十三人を逮捕したのである。そうして刑の軽減の努力も効なく、この年の十月初めに、将軍の命によって、獄死を脱れた男女小児五十二人を七条河原で火刑に処した。
次に著しいのは、一六二二年の長崎立山の大殉教である。一六一八年の秋以来、マニラからの潜入者及びその連累が続々と捕えられ、宣教師格のものは壱岐や大村の牢獄に、宿主や五人組の連坐者は長崎の牢獄に繋がれた。獄死したものも多かったが、後者の内には次々に殺されたものもあった。しかしそれでも入牢者はだんだん殖えて行ったのである。その処分が一六二二年の夏頃から行われたのであった。前述のズニガ、フロレス、平山船長の三人が火刑、船員十名乗客二名が斬罪に処せられたのは、八月十九日であったが、ついで九月十日(元和八年八月五日)に、数年来たまっていた宣教師及び信者五十五人が、長崎の立山で、火刑と斬罪に処せられた。これが「大殉教」と呼ばれるものである。しかし処刑はそれで終らず、二日後に、宣教師など十八人が大村の山中の人里離れた所で刑の執行を受け、つづいて長崎附近の諸処で、同様の処刑が続行された。全体では百数十人に達するであろう。
ついで一六二三年、家光が将軍となった年には、江戸で、原主水、ヤソ会のアンゼリス、フランシスコ会のガルベス以下五十人のキリシタンが、悉く火刑に処せられた。少しあとでそれらの人の妻子など二十六人(或は四十三人)が同じく火あぶりになった。なおこの年には仙台でも三十六人処刑されたらしい。
翌一六二四年には東北地方の迫害が続き、仙台と秋田とで多数のキリシタンが処刑された。
一六二六年は、家光の政策が長崎へ響いて来た年である。ヤソ会の宣教師九人の火刑を初めとして、有馬における残忍を極めた拷問苛責が開始された。温泉岳の火口がそのために用いられた。熱湯に浸して苦しめるのである。が殉教者たちは、その苦しみを見せつけられても、退転しようとはしなかった。最も猛烈であったのは二年位であるが、しかしこの残忍な方法は一六三一年までは続けられたのである。それは思想や信仰の力に対する、武力のヒステリーだといってよい。
一六二九年頃から東北の方でまた迫害が烈しくなっているが、長崎の方でも一六三三年には、多数の宣教師や信者が「穴つるし」にされた。連年の多量な火あぶりがまだ手ぬるく感ぜられて来たのであろう。
五 鎖国
宣教師追放令を出した秀吉も、禁教令を発布した家康も、鎖国を考えていたわけではなかった。秀吉の追放令には貿易の自由をわざわざ掲げているし、家康は禁教令に先立ってオランダ貿易を始めている。しかし十六世紀末十七世紀初頭のヨーロッパの文明を摂取したいと考えつつ、そこからキリスト教だけを捨てて取らないというようなことは、到底出来るわけのものではない。そこには教会の覊絆を脱した近世の精神が力強く動いていたとしても、ヨーロッパ人自身すら、それを純粋に取り出すことは出来なかった時代である。その近世の精神に参与し得るためには、それと絡み合ったものをも一緒に取り入れなくてはならなかった。そうしてそのためには当時の日本人は極めて都合のよい状況を作り出していたのである。古い伝統の殻は打ち砕かれた。因襲にとらわれない新鮮な活力は民衆のなかから湧き上って来た。室町時代末期の民衆の間に行われた文芸の作品――ほとんど仮名文字ばかりで書かれ、漢学や漢字の束縛を最少量にしか示していないあの物語や舞の本の類――は、今見ると実に驚かされるような想像力の働きを見せている。死んで甦る神の物語もあれば、美しいものの脆さを具象化したような英雄の物語もある。ああいう書物を読み、ああいう想像力を働かせていた人々の間に、ローマ字書きが拡まり、旧約や新約の物語が受け入れられるということは、いかにも自然なことであったと考えられる。のみならず、当時の日本人の強い知識欲に応えるために、反動改革の急先鋒であったヤソ会士さえも、日本では、近世初頭に急激に発展した自然科学の知識を振り廻したのである。関ヶ原戦後の京都においてさえも、神父の天文や地理に関する話をきき、天体図や地球儀を見せて貰いに来るものが非常に多かったという。地球儀は内裏からも所望され、秀頼も興味を持ったと伝えられている。一六〇五年から京都にいたスピノラは、数学や天文学に通じていて、京都の学者たちを集め、アカデミー風のものを作ったりなどした。つまりキリスト教の伝道は当時のヨーロッパ文明を全面的に伝える意味をも持っていたのである。そうしてまた、その故に宣教師たちに引きつけられた人々も決して少なくはなかったのである。だからこの際宣教師を追放しキリスト教を禁ずるということは、民衆の中から湧き上って来た新しい力、新しい傾向を押えつけ、故意にそれを古い軌道へ帰すということにほかならなかった。
これは純然たる保守的運動である。それは秀吉が民衆の武装解除をやったときに、はっきりと開始された。農民の子から関白にまでのし上った秀吉自身は、伝統の破壊、従って保守の正反対を具現していたにかかわらず、自分がその運動を完成したときに突如として反対のものに転化し、保守的運動を強力に開始したのである。それは一世紀以来の赤裸々な実力競争において、新興の武士団が勝利を得ると共に、その勝利を確保し、武力の支配を固定させる努力にほかならなかった。この努力において主として眼中に置かれたのは、国外の敵を制圧することであって、日本民族の運命でもなければ、未知の世界の開明や世界的視圏の獲得でもなかった。秀吉は気宇が雄大であったといわれるが、その視圏は極めて狭く、知力の優越を理解していない。彼ほどの権力を以てして、良き頭脳を周囲に集め得なかったことが、その証拠である。彼のシナ遠征の計画の如きも、必要なだけの認識を伴わない、盲目的衝動的なものである。彼はポルトガル人の航海術の優秀なことも、大砲の威力も、十分に承知していた。しかも、その技術を獲得する努力をしなかった。国内の敵しか彼の眼には映らなかったからである。結局彼もまた国内の支配権を獲得するために国際関係を手段として用いるような軍人の一人に過ぎなかった。
家康はこの保守的運動を着実に遂行した人である。彼はそのために一度破壊された伝統を復興し、仏教と儒教とをこの保守的運動の基礎づけとして用いた。特に儒教の興隆は、彼が武士の支配の制度化の支えとして意を用いたところであった。かくして近世の精神が既にフランシス・ベーコンとして現われている時代に、二千年前の古代シナの社会に即した思想が、政治や制度の指導精神として用いられるに至ったのである。それは国内の秩序を確立する上に最も賢明な方法であったかも知れない。しかし、世界における日本民族の地位を確立するためには、最も不幸な方法であった。彼もまた国内の支配権を確保するために国際関係を犠牲にして顧みなかった軍人の一人である。
これらはすべて世界的視圏をおのれのものとなし得なかったことの結果である。そうしてそれが、世界的視圏を初めて開いたポルトガル人とスペイン人との刺戟の結果であることは、まことに皮肉な現象だといわなくてはならない。宣教師たちの報告によると、日本の武士たちは、スペイン人の侵略の意図を云い立てはしたが、自分たちの武力には自信を持ち、決してスペイン人には負けないと思っていたという。秀吉がマニラ総督に朝貢を要求したほどであるから、これは本当であろう。それほどの自信があるなら、侵略の意図などには恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである。近世を開始した大きい発明、羅針盤・火薬・印刷術などは、すべて日本人に知られている。それを活用してヨーロッパ人に追いつく努力をすれば、まださほどひどく後れていなかった当時としては、近世の世界の仲間入りは困難ではなかったのである。それをなし得なかったのは、スペイン人ほどの冒険的精神がなかった故であろう。そうしてその欠如は視界の狭小に基くであろう。
その視界の狭小は、宣教師やキリシタンの迫害が進むに従って、ますますその度を加えた。単純に武力を以て思想や信仰に対抗する場合には、武力はそれ自身の無力を見せつけられてだんだんヒステリックになる。おのれの無力を承認しようとせず、一層その力を証示しようと努めるからである。スペイン人の冒険的精神が宣教師の殉教熱となって日本の岸にうち寄せ、日本人のなかの背骨の固い信者たちが同じ殉教熱を以て武力に対抗したとき、武力は実際何の効果もなかった。武力はただ彼らの生命を奪い得るだけであった。しかし武力の威光を示そうとする人々は、あらゆる残虐な殺し方を工夫することによって、それに対抗した。そういう陰惨な気持は、理非もなくキリスト教への憎悪を高めて行く。その結果、貿易を安全に続けるための手段であった禁教が、逆に貿易をもさまざまの形で制限する目的の地位を占めるに至ったのである。
丁度この頃は新しく極東に進出したオランダとイギリスとの勢力が、在来のポルトガルとスペインの勢力に対して激しい競争を敢行している時であった。その間に日本の勢力も絡まり、三つ巴、四つ巴となって極東の海上には連年さまざまの事件を引き起した。その中にオランダ人とイギリス人との衝突、日本人とオランダ人との衝突なども入り混り、決して単純な関係ではないが、しかし大体においてポルトガルとスペインの勢力が後退して行ったのである。ポルトガル人に対する居住の制限、婚姻の制限、碇泊期間の制限などはその現われであった。やがて一六二八年には、マニラ艦隊がシャムで日本商船を捕獲した事件が起り、その報復として、同一君主の支配下にあるという理由で、ポルトガル船三隻を長崎で抑留するというようなこともあった。
そういう情勢の下に、一六三三年には長崎奉行に対してかなり厳しい外国貿易取締令が通達された。御朱印船以外の船の外国渡航の厳禁、五年以上外国居住の日本人の帰朝の禁止、外国船の輸入品の統制、外国船碇泊期間の短縮などを規定したものである。この法令は、翌年にも繰り返して発布され、翌々年には改正して発布されたが、さらに一六三六年(寛永十三年)に一層厳格にした形で発布された。これが通例、鎖国令と呼ばれているものである。ここでは、御朱印船をも含めて、一切の日本船の外国渡航の禁止、一切の日本人の外国渡航の禁止、一切の外国居住日本人の帰朝禁止、混血児の追放、追放された混血児の帰来及び文通の厳禁、その他前とほぼ同様の外国船及びその輸入品の統制を規定している。貿易を認めている以上、厳密な意味で鎖国令とは云えないのであるが、然し日本人に対して外国との交通を遮断したという点においては、鎖国令に相違ないのである。海外へ連れて行かれた混血児が、日本にいる親類へ文通した場合には、本人は死罪、受取った親類も処刑される。それほどにまで外国との交通を恐れたのである。
この法令は着々実行に移されたが、しかし長崎奉行が実現したのはここに規定された範囲に止まらなかった。前に記したポルトガル船抑留事件に聯関して渡来したマカオの使節ドン・ゴンサロ・ダ・シルベイラは、執拗に努力を続けて一六三四年に将軍に謁見することが出来、その翌年には三隻、翌々年には四隻を率いて渡来したのであるが、この一六三六年の来航の際には、長崎に着くと共に、乗組員八百名も積荷も厳重な検査を受け、船の帆や舵は取り上げられ、船員一同は新築の出島に隔離された。この出島は、ポルトガル人と日本人との交通を遮断するために、長崎の海岸に作った埋立地である。貿易のため外国船が日本に来ても、日本人と外国との交通は絶つことが出来る。そういう考をこの狭い埋立地が具体化しているのである。
ドン・ゴンサロの四隻の船が長崎を出発する時には、混血児二百八十七人を乗せて去った。
この鎖国令を一層強固ならしめたのは、翌一六三七年末に起った島原の乱であった。
島原の乱の爆発した直接の動機は、信仰の迫害ではなくして苛政であった。しかし爆発する力を蓄積して行ったのはやはりキリシタン迫害である。島原半島の地はこの二十年来、想像に余るような残酷な迫害の血の浸み込んだところであった。殉教者は無抵抗の方針を堅持して来たが、それが心理的に与えた効果はむしろ逆である。それに加えて迫害者たちは、明白なキリシタンに対してのみ残虐であって一般領民には仁慈である、という如き区別の出来る人たちではなかった。迫害の心理はやがて彼らを暴虐な為政者たらしめる。そういう為政者の下にある下級官吏は、一般領民に対して一層苛酷な態度を取ることになる。従って、秘かに信仰を維持している民衆も、そうでない人たちも、その内心の反抗においては一つであった。その気運のなかで、小西の遺臣の子、天草四郎時貞という十六歳の少年に、特別の天命が下ったという風の信仰が燃え上って来たのである。
丁度その頃、一六三七年の十二月の中頃に、或る村で下級官吏の横暴から村民が憤って代官を殺すという事件が起った。それは忽ち伝染し、他の村々でも代官が殺された。一揆が蜂起したのである。一揆は領主の城島原を囲んだ。そうして城主の米倉を占領し、領内の米を集めて、原城に拠り、四万に近い人数を以て三カ月間討伐軍に抵抗した。天草島でも十日ほど遅れて蜂起し、領主の兵を破って富岡に迫ったが、城を抜くことが出来ず、原城の一揆に合流した。
叛乱軍は信仰の情熱に燃え、恐ろしく強かった。最初幕府から向けられた討伐軍の指揮官板倉内膳正は、原城攻略に失敗して、一六三八年二月十四日に戦死した。二度目の指揮官松平伊豆守は、攻囲軍を十数万に増し、オランダ船に頼んで、十六日間砲撃して貰ったりなどしたが、大して効果はなかった。結局糧食の欠乏によって、四月十一、十二日の総攻撃に陥落したのである。女子供を合せて三万七千といわれた籠城のキリシタンは、全部殺戮された。
このキリシタンの抵抗力は、武士たちを驚かせたと共に、また彼らのキリシタン憎悪を強め、禁教政策に対する信念を固くした。外国との交通は徹底的に禁圧しなくてはならぬ。そこでこの後数年の間、禁教と鎖国との法令制度が続々として制定されたのである。
ポルトガル人の貿易も、島原の乱の平定の年、一六三八年が最後であった。乱後の処置に、江戸から派遣された太田備中守は、一六三九年九月二日、ポルトガル人追放、ポルトガル船来航禁止を云い渡した。理由は宣教師に対する援助である。その年来航したポルトガル船は即時追い返され、翌年通商再開の嘆願に来たマカオの使節一行は、大部分死刑に処せられた。
あとに残ったオランダ商人は、いよいよ日本貿易の独占を祝ったのであったが、一六四〇年十一月七日、大目附井上筑後守から商館破壊の命令を受けた。その理由はオランダ人もまたキリスト教徒であること、商館の建物にヤソ紀元の年号が記されていることである。それと同時に日曜日を守ることの禁止、商館長の年々交代などが命ぜられた。右の商館の建物は、オランダ人が長崎移転を不利なりと考えた程、多額の費用のかかったものであったが、商館長は当局の断乎たる態度を見て、その夜から徹夜で破壊工作に取りかかった。この従順な態度がオランダ貿易を救ったといわれている。
翌年オランダ商館は長崎への移転を命ぜられた。前年の商館破壊命令は、この移転を容易ならしめるためであったのである。かくしてオランダ人は、この後二百年の間、長崎の出島に閉じ込められた。そうしてその出島が日本人と外国との交通の象徴となった。
このように鎖国の形成が完成するまでには、秀吉の宣教師追放令以来四十五年、家康の禁教令からでも二十七八年を要している。その間に為政者の側でのキリスト教に対する憎悪が漸次高まり、遂に海外との交通そのものを恐れるに至ったのであるが、しかしそれは国内での支配権獲得の欲望が他の文化的欲求や近世的動きに優越していたことを示すのみであって、国民の間に外に向う衝動がなかったことを証示するものではない。一六〇四年から一六一六年までの十三年間に幕府の出した海外渡航の許可状は百七十九通に達しているし、その後一六三五年の海外渡航禁止に至るまでの海外渡航船は百四十八隻以上であったといわれている。その行先は、台湾からマラッカに至るまでの諸地方、ブルネイやモルッカの諸島などである。船は、大きい場合には三百名以上を乗せ、その大部分は商人であった。船主も、島津家久、松浦鎮信、有馬晴信、加藤清正、細川忠興などの大名や、末次平蔵、長谷川権六などの幕府官吏を混えてはいるが、大部分は商人であった。角倉了以、同興一、末吉孫左衛門、荒木宗太郎、西宗真、船本弥七郎、などが有名である。そうしてこれらの人たちは、外に向って相当に活溌な働きを見せていたのである。
右の内で一六〇八年にチャムパ(占城)へ行った有馬晴信の船は、帰途マカオに滞留して事件を起した。船員が乱暴してポルトガル兵に銃殺されたのである。翌年マカオの司令官ペッソアは、マードレ・デ・デウスという大船に多量の荷を積んで長崎に来た。この船は縦四十八間、横十八間、吃水線上の高さ九間、檣四十八間であった。ペッソアは有馬晴信の船の事件を云い立てて、日本人のマカオ渡航禁止を家康に乞い、その許可を得た。他方有馬晴信も船員が侮辱を受けたことを云い立てて、その雪辱の許可を家康に請願した。家康は、事実を調査して適当に処分せよと晴信に命じた。そこで晴信は、長崎奉行と相談してペッソアを召喚したが、ペッソアはそれに応ぜず、大急ぎで出帆の準備に取り掛った。止むを得ず晴信は実力に訴えることにして、一六一〇年一月六日にマードレ・デ・デウス号を攻撃し始めた。ペッソアは錨索を切って逃げ出そうとしたのであったが、風がなくて動けず、三日間攻撃を受け続けた。そうして四日目に漸く微風が出たので福田のあたりまで逃げた。このまま逃げられれば晴信の面目は丸潰れである。長崎奉行は晴信の攻撃が手ぬるいと非難し、晴信はそれを口惜しがって、「奉行を斬り長崎を焼いて自殺する」と云ったほどであった。幸いまた風が落ちて、船が動かなくなった。有馬の船隊は船にやぐらを作りその前面に生皮を張って銃撃のなかを突進して行った。この肉迫戦の間に防禦側の投げた焼弾で火が帆布に移り盛んに燃え出した。ペッソアは火薬庫に火をつけろと命じて海へ飛び込んだ。火薬の爆発と共に船はひっくり返って沈み、ペッソア以下は死んだ。これでようやく晴信はその面目を保ったのである。
この事件は勿論面倒な外交問題を引き起したが、またキリシタン大名有馬晴信の没落の因ともなった。長崎奉行の配下であった岡本大八が、右の焼打事件の恩賞を周旋すると称して、晴信から再三賄賂を取ったのである。それが露見して捕えられると、今度は大八が晴信の逆心を訴えた。長崎奉行を斬り長崎を焼くといった晴信の興奮した言葉を云い立てたのである。結局大八は火刑、晴信は流罪次いで切腹となったが、その処刑は一六一三年の禁教令の直前で、大八、晴信、いずれもキリシタンであった。外に向う衝動が巧みに鎖国的傾向に利用せられた一例といってよい。
同じ有馬晴信は、一六〇九年に家康の内命を受けて台湾に探検隊を送っている。これは成功しなかったので、一六一六年に長崎の代官村山等安が幕府の許可状を得て十三隻の遠征艦隊を台湾に送ったが、これもまた暴風に逢って失敗した。日本の貿易船が、新しく台湾へ進出したオランダ人と衝突しはじめたのは、一六二五年頃からである。長崎代官末次平蔵の船の船長浜田弥兵衛が台湾で活躍したのはこの時であった。生糸貿易上のいざこざがだんだんこじれて、一六二八年に弥兵衛が二隻を率いて台湾に行ったときには、船に小銃など相当の武器が積込んであったし、乗組員も四百七十人であった。万一の場合には武力行使を覚悟していたのである。それに対してオランダの台湾長官ノイツは初めから高圧的に出て、武器を取り上げたりなどした。だから弥兵衛は、ノイツの不意を衝いて捕虜にし、それを枷に使って生糸貿易の懸案を解決する、というような離れ業をやった。しかもそれは出先での挿話的な出来事ではなく、やがて平戸でのオランダ船の抑留、オランダ商館の閉鎖にまで発展して行った。オランダのバタビヤ総督は翌一六二九年に特派使節を寄越して事件の解決に努力したが、幕府は台湾におけるオランダの根拠地ゼーランヂヤ城の引き渡し或は破壊を要求し、それを拒絶すればオランダ貿易を禁止するような気勢を見せた。オランダ人は勿論この要求には応じなかったが、しかし、日本貿易を失うことをも怖れ、遂に浜田弥兵衛と事を起した前台湾長官ノイツを犠牲にすることにして、一六三二年にノイツを日本に連れて来て日本側に引き渡した。その頃には弥兵衛の船の船主であった初代末次平蔵も既に死んでいたし、鎖国の形勢が急激に熟しつつあったために、幕府は事件責任者の引き渡しを以て満足し、船の抑留や商館の閉鎖を解いてオランダ貿易を旧に復したのである。
その後オランダ人はいろいろと幕府の御機嫌を取ったので、ノイツは一六三六年に釈放された。また翌一六三七年には、オランダ人側から、日本とオランダとが同盟してポルトガルの根拠地マカオ、スペインの根拠地マニラ及び基隆を攻略しようという案を持ち出した。やがて長崎代官の二代目末次平蔵は、商館長コークバッカーに宛てて、幕府はキリスト教宣教師の根拠地フィリッピンを征服するに決した、ついては軍隊の渡航や上陸を掩護し、スペイン艦隊を撃退する、という任務に必要なオランダ艦隊を派遣して貰いたい、と申込んで来たという。オランダ商館は大艦四隻、ヨット二隻の派遣を決議し、バタビヤ総督もこのことを本国の十七人会に報告したというのであるから、架空のことではないであろう。
このフィリッピン遠征は島原の乱のために何処かへふっ飛んでしまったが、一六三七年になお気運が動いていたのであるから、外に向う衝動はなおかなり強かったといわなくてはならない。だからこの頃に南洋の日本町が相当に栄えていたということは、不思議ではないのである。
シャムの日本人町は、首府アユチヤの南郊にあった。メーナム河を挾んでポルトガル人町やシナ人町と対し、オランダ商館とも近かった。この町は、一六一〇年代には既に出来ていたらしい。町の最初の頭領は純広、二代目が城井久右衛門、三代目が山田長政である。長政は沼津の城主大久保忠佐の駕籠舁であったが、何時の間にかシャムに渡り、一六二一年にはシャム四等官、一六二八年には一等官に昇進している。シャムの内乱に関与し、かなり大きい勢力を持っていたが、一六三〇年に毒殺された。そのあと日本人町は焼き払われたが、やがて復興して二人の頭領を置くことになった。
カンボヂヤの日本人町は、今のプノンペンに近い当時の首府ウドンにあった。やはりポルトガル人町やシナ人町と相隣って居り、オランダ商館とも近かったが、一六三七年の見聞記によると、日本人は七八十家族で、皆追放人であった。オランダ人たちを支配している港務長官の一人も日本人であった。この日本人たちは一六二三年にシャム軍が侵入したとき国王を援けて敵を撃退し、一六三二年にシャムの圧迫が加わったときには七隻のジャンクでメーナム河口へ封鎖に行った。一六三六年の内乱に際しても国王を助け、王から非常に尊敬されていた。ここへ日本船が来たのは一六三六年が最後である。
交趾の日本人町は、広南の外港ツーランと、その南方八九里のフェーホとにあった。フェーホでは一六一八年に船本弥七郎が初代の頭領になった。
マニラの日本人町は、すでに十六世紀の末に千人の人口を有して居り、一六二〇年頃には三千人に達した。一六一四年の大追放で高山右近、内藤如安、その妹ジュリヤなど大勢来たが、右近は間もなく死に、如安たちはヤソ会の関係で日本人町にはいなかった。一六二四年頃からは日本とスペインとの関係が悪化し、一六三七年には八百人に減じていたという。
右のような日本人町のないところにも日本人は進出していた。香港の西のマカオはポルトガル人の根拠地であった関係から、一六一四年の追放者百余人、一六三六年の追放者二百八十七人などが行っているが、日本から奴隷として連れて行かれたものも少なくなかったらしい。そこからずっと西へ行ってトンキンにもかなりの日本人がいたらしい。一六三六年にはオランダのカピタンが日本人の家に泊めて貰ったり、長崎人和田理左衛門や日本婦人ウルサンの斡旋によって、国王に謁見したりしている。更にマレー半島南端のマラッカでは、一六〇六年のオランダ艦隊の攻撃のときに、日本人が守備隊に加わって勇敢に防禦に努めたといわれている。ジャバのバタビヤへは、一六一三年にオランダ人が大工・鍛冶・左官・水夫・兵士など六十八人を雇って行った。その後も日本の移民を幾度か連れて行ったらしい。一六二一年には幕府がそれを禁じたほどである。東インド会社の使用人としてはその頃七十人とか五十人とかの日本人がいたし、自由市民としても百幾十人の男女がいた。モルッカ諸島にも、一六二〇年には二十人、一六二三年にはアムボイナ島に六十三人の日本人がいたといわれる。なおその他南洋諸島やインドにも少しずつは行っていた。
しかし以上のように外に出て行った日本人に対して、日本の国家はほとんど後援をしなかったのみならず、逆にその抑圧に努めて、遂に一六三六年に、全然本国との交通を絶ってしまった。従って、この後の日本人町や海外在留者は、ただ衰退し消滅して行くばかりであった。だから、当時の日本人に外に向う衝動がなかったのではない、為政者が、国内的な理由によってこの衝動を押し殺したのである、とはっきり断言することが出来るのである。
つまり日本に欠けていたのは航海者ヘンリ王子であった。或はヘンリ王子の精神であった。
恐らくただそれだけである。そのほかにさほど多くのものが欠けていたのではない。
慶長より元禄にいたる一世紀、即ちわが国の十七世紀は、文化のあらゆる方面において創造的な活力を示している。その活力は決して弱いものではなく、もし当時のヨーロッパ文化を視圏内に持って仕事をしたのであったならば、今なおわれわれを圧倒するような文化を残したであろうと思われるほどである。学者として中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、文芸家として西鶴、芭蕉、近松、画家として光琳、師宣、舞台芸術家として竹本義太夫、初代団十郎、数学者として関孝和などの名を挙げただけでも、その壮観は察することが出来る。
文化的活力は欠けていたのではない。ただ無限探求の精神、視界拡大の精神だけが、まだ目ざめなかったのである。或はそれが目ざめかかった途端に暗殺されたのである。精神的な意味における冒険心がここで萎縮した。キリスト教を恐れて遂に国を閉じるに至ったのはこの冒険心の欠如、精神的な怯懦の故である。当時の日本人がどれほどキリスト教化しようと、日本がメキシコやペルーと同じように征服されるなどということは決してあり得なかった。キリスト教化を征服の手段にするというのは、それによって国内を分裂させ、その隙に乗ずるという意味であるが、日本国内の分裂はキリスト教を待つまでもなくすでに極端に達していたのであって、隙間はポルトガル人の前に開けひろげであったのである。征服が可能であれば、それを手控えるようなポルトガル人ではなかったであろう。勿論、キリスト教化が進めば、秀吉や家康のような考を以て国内を統一することは不可能になったかも知れない。しかしどこかのキリシタン大名が国内統一に成功した場合でも、キリシタンであるが故に日本の主権を放棄してスペイン国王に服属したであろうなどとは到底考えられないのである。スペイン国王への書簡にそれに類する文句があったからと云って、それを証拠にするわけには行かない。書簡の作法では、君主として仰いでいるわけでもない相手に対して誰もが平気で「君」と呼び、おのれを忠実な僕という。それと政治的な関係とは別である。日本人はヨーロッパ文明にひかれてキリスト教を摂取したのであって、そこに当時の日本人の示したただ一つの視界拡大の動きがあった。その後のキリシタン迫害は、キリシタンとなった日本人の狂熱的な側面をのみ露出せしめることになったが、しかしそれがすべてではなかった。狂熱的傾向は当時のヨーロッパにおいても顕著であったし、わが国の一向一揆などもそれを明瞭に示しているが、しかしこの時代的特性のなかに根強く芽をふき出した合理的思考の要求こそ、近世の大きい運動を指導した根本の力である。わが国における伝統破壊の気魄は、ヨーロッパの自由思想家のそれに匹敵するものであった。だからたとい日本人の大半がキリスト教化するという如き情勢が実現されたとしても、教会によって焚殺されたブルーノの思想や、宗教裁判にかけられたガリレイの学説を、喜んで迎え入れる日本人の数は、ヨーロッパにおいてよりも多かったであろう。そうなれば、林羅山のような固陋な学者の思想が時代の指導精神として用いられる代りに、少なくともフランシス・ベーコンやグローティウスのような人々の思想を眼中に置いた学者の思想が、日本人の新しい創造を導いて行ったであろう。日本人はそれに堪え得る能力を持っていたのである。
ヤソ会の宣教師は、日本における仏教諸派の間の対立抗争が、キリスト教に対する仏教の防禦力を弱めていることを指摘した。が、そのことはやがて日本におけるキリスト教の伝道そのものの運命ともなったのであって、秀吉の宣教師追放の頃からの旧教諸派の間の対立抗争は著しいものであった。そこへ間もなく新教を奉ずるオランダ人や、ローマ教会を離脱したイギリス人たちが現われてくる。キリスト教を無制限に摂取しても、それがただ一つの運動に統一され、日本侵略の手段に用いられるなどということは、到底起り得なかったのである。この事情は少しく冷静に観察しさえすれば直ぐに解ることであった。それを為し得なかったのもまた為政者の精神的怯懦の故である。
ただこの一つの欠点の故に、ベーコンやデカルト以後の二百五十年の間、或はイギリスのピューリタンが新大陸へ渡って小さい植民地を経営し始めてからあの広い大陸を西へ西へと開拓して行って遂に太平洋岸に到達するまでの間、日本人は近世の動きから遮断されていたのである。このことの影響は国民の性格や文化の隅々にまで及んでいる。それにはよい面もあり悪い面もあって単純に片附けることは出来ないのであるが、しかし悪い面は開国後の八十年を以てしては容易に超克することは出来なかったし、よい面といえども長期の孤立に基く著しい特殊性の故に、新しい時代における創造的な活力を失い去ったかのように見える。現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである。
人名地名索引
《原語との対照表を兼ねカナ書き人名地名をのみ掲ぐ》
ア
アイスランド Iceland
アウグスチヌス Augustinus
アヴィチェンナ Avicenna,Ibu Sîna
アヴィニヨン Avignon
アヴェロエス Averrhoes
アヴェンパチェ Avempace,Abu Bekr,Ibu Bâdja
アカプルコ Acapulco
アコスタ José de Acosta
アゴスチニョ Agostinho (日本人少年),(小西行長)
アーサ王 King Arthur
アステーク Aztek
アストゥリアス Asturias
アゾレス諸島 The Azores
アタカマ Atacama
アタワルパ Atahuallpa
アダムス,ウイリアム・ William Adams
アディル・シャー Adil Schah
アデン Aden
アナワク Anahuac
アッバス Abbas
アビシニア Abyssinia
アビラ Avila ペドラリアスを見よ
アフォンソ五世 Affonso Ⅴ.
アブル・ハッサン Abul Hassan
アマゾン Amazon
アマルフィ Amalfi
アムステルダム島 Amsterdam I.
アメリゴ Amerigo,Americus ヴェスプッチを見よ
アユチヤ Ayuthia
アラゴン Aragon
アラミノス,アントニオ・デ・ Antonio de Alaminos
アラリック Alaric
アランダ,フアン・デ・ Juan de Aranda
アリウス Arius
アリストテレース Aristoteles
アルガルヴェ Algarve
アルキム Arquim
アル・キンディ Al Kindi,Alcindus,Alchindi
アルゴア湾 Algoa B.
アルゼンチン Argentine
アルバラド,アロンソ・デ・ Alonso de Alvarado
アルバラド,ペドロ・デ・ Pedro de Alvarado
アルバレズ,ジョルジ・ Jorge Alvarrez
アルブケルケ,アフォンソ・デ・ Affonso d'Albuquerque
アルブケルケ,フランシスコ・デ・ Francisco d'Albuquerque
アルベルガリア,ロポ・ソアレス・デ・ Lopo Soarez d'Albergaria
アルベルトゥス・マグヌス Albertus Magnus
アルマグロ,ディエゴ・ Diego Almagro (父)(子)
アルメイダ,ドン・ペドロ・デ・ Dom Pedro d'Almeida
アルメイダ,フラスシスコ・デ・ Francisco d'Almeida
アルメイダ,ルイス・デ・ Luis d'Almeida
アレシャンドレ Alexandre (京都の信者)
アンセルムス Anselmus
アンゼリス Girolamo de Angelis
アンタン Antão (結城左衛門)(京都の信者)
アンダゴーヤ,パスクヮル・デ・ Pascual de Andagoya
アンダマン Andaman
アンヂェディヴ Andjedive
アンティリア Antilia
アンティル諸島 The Antilles
アントニオ Antonio (日本人イルマン)
アントニオ,ドン・ Dom Antonio (籠手田)
アントワープ Antwerp
アンドレー Andre (山口人)
アンボイナ Amboina
イサベラ Isabela
イサベル Ysabel
イシュタッチワトル Jxtaccihuatl,Jztaccihuatl
イスタッラパン Istallapan
イスパハン Ispahan
イスラ・リカ Isla rica
イノホサ Hinojosa
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カブラル,フランシスコ・ Francisco Cabral
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カボ・ヴェルデ Cabo Verde
カボ・トルメントソ Cabo Tormentoso
カボ・ブランコ Cabo Blanco
カラコルム Karakorum,Karahorum 和林
カリカット Calicut
カリフォルニア湾 California,G.
カリブ海 Caribbean S.
カリャオ Callao
カリヤン Francisco Carrião
カルキサノ,マルチン・イリギエス・デ・ Martin Irriguiez de Carquisano
カルバリョ,ロペス・デ・ Lopes de Carvalho
カール・マルテル Karl Martell
カールリ Carli
カルロス一世(カール五世) CarlosⅠ. KarlⅤ.
カレタ Careta
カロリン諸島 Caroline Is.
カン,ディオゴ・ Diogo Cão
カンディア,ペドロ・デ・ Pedro de Candia
カンネス,ギル・ Gil Cannes
カンバヤ Kambaya,Cambay
カンボヂヤ Cambodia
ガゴ,バルテザル・ Baltesar Gago
ガスカ,ペドロ・デ・ Pedro de Gasca
ガスナ Ghasna
ガマ Gama バスコ・ダ・ガマ,ヅアルテ・ダ・ガマを見よ
ガムビア Gambia
ガヤキル Guayaquil
ガラシヤ Gracia (細川忠興夫人)
ガリェゴ,エルナン・ Hernan Gallego
ガリレイ Galilei
ガルベス Francisco Galves
ガロ(ガリヨ) Gallo
ガン Ghent
キトー Quito
キボラ Cibola(ニューメキシコ地名)
キュバ Cuba
キロア(キルワ) Kiloa,Kilwa
キンザイ(キンサイ) Quinsai,Kinsay,Khinzai (行在)
キンタ Quinta (大友親家夫人)
ギネア Guanaja,Ganaja,Ginia,Guinea
ギリエルメ Guilherme Pereira
ギルバート諸島 Gilbert Is.
クィビラ Quivira (ネブラスカ地名)
クエリヨ Nicolo Coelho
クエリヨ,ガスパル・ Gaspar Coelho
クスコ Cuzco
クティニョ,フェルナン・ Fernão Coutinho
クーニャ,ヌンニョ・ダ・ Nuño da Cunha
クビライ Khubilai,Keblai 勿必烈
クラカ Curaca
クラカウ Cracow
クローヴィス Clovis,Chlodovech,Chlodwig
グヂェラート Gudjerat,Guzerat,Gudscharat
グラナダ Granada (ニカラグヮの)
グリハルバ,エルナンド・ Ernand Grijalva
グリハルバ,フアン・デ・ Juan de Grijalva
グレゴリウス Gregorius
グレゴリヨ Gregorio
グレート・フィッシュ河 Great Fish,R.
グローティウス Hugo Grotius
グヮテマラ Guatemala
グヮナハ Guanaja
ケツァルコアトゥル Quetzalcoatl
ケルン Köln
コークバッカー Nicolaes Couckebacker
コスタ,バルタサル・ダ・ Baltasar da Costa
コスモ,コスメ Cosmo,Cosme (日本人イルマン)(少年)(京都の信者)
コータン Khotan
コチン Cochin
コペルニクス,ニコラス・ Nicolas Copernicus
コリエンテス岬 Cabo das Corrientes
コルテス,フェルナンド・ Fernando Cortes
コルディレラ Cordillera
コルドバ Cordova
コロナド,フランシスコ・バスケス・ Francisco Vasques Coronado
コロンブス,クリストフォルス・ Christophorus Columbus
コロンブス,ディエゴ・ Diego Columbus
コロンブス,バルトロメー・ Bartolome Columbus
コロンボ Colombo
コンゴー Congo
コンスタンチヌス Constantinus
コンスタンチノープル Constantinopolis
ゴア Goa
ゴート族 Gote,Goths
ゴベヤ,ベルトラメウ・デ・ Bertlameu de Gouvea
ゴメス,エステバン・ Esteban Gomez
ゴメス,ディオゴ・ Diogo Gomez
ゴメス,フェルナン・ Fernão Gomez
ゴルゴナ Gorgona
ゴンサルベス Jacome Gonsalvez
サ
サグレス Sagres
サバナス Sabanas
サーベドラ,アルバロ・デ・ Alvaro de Saavedra
サマル Samar
サマルカンド Samarkand
サムパヨ,ロポ・ヴァス・デ・ Lopo Vas de Sampayo
サラド Salado
サラマンカ Salamanca
サルセット Salsette
サルミエント,ペドロ・ Pedro Sarmiento
サン・ヴィセンテ São Vicente
サン・クリストバル San Cristoval
サン・サルバドル San Salvador
サン・セバスチアン San Sebastian
サンタ・カタリナ Santa Catalina
サンタ・クルス Santa Cruz (所)(諸島)(船)
サンタ・フェのパウロ Paulo de Santa Fé(ヤジロー)
サンタ・マリア・デル・アンティガ Santa Maria del Antigua
サンチェズ,アイレス・ Ayres Sanchez
サンチャゴ Santiago (キュバの)(河)(チリーの)(カリフォルニアの)
サン・チャゴ島 São Thiago
サンチョ Sancho (三箇城主)
サンヂル島 Sangir I.
サントアンヂェル,ルイース・デ・ Luis de Sant-Angel
サント・ドミンゴ・ Santo Domingo
サン・フアン河 San Juan,R.
サン・フェリペ San Felipe (船)
サン・マテオ湾 San Mateo,G.
サン・ミゲル San Miguel (ペルー最初の植民地)
サン・ミゲル湾 San Miguel,G.
サン・ラザロ諸島 San Lazaro Is.
ザイトン Zayton 刺洞 泉州
ザンジバル Zanzibar
ザンベジ Zambezi
シェラ・レオネ Sierra Leone
シマン,ドン・ Dom Simão (田原親虎)
シメアン(シマン) Simeão(Simão)(池田丹後)
シャビエル,フランシスコ・デ・ Francisco de Xavier
シャム Siam
シルヴァ(シルバ),ドワルテ・ダ・ Duarte de Sylva
シルバ,ペドロ・ダ・ Pedro da Silva
シルベイラ,ドン・ゴンサロ・ダ・ Dom Gonçalo da Silveira
ジパング(チパング,チッパング) Zipangu,Cippangu 日本国
ジャッケリ Jacquerie
ジャバ Java
ジャマイカ Jamaica
ジュスト・ウコン Dom Justo Ucon (高山右近友祥)
ジュリア(ヤ) Julia(大友宗麟新夫人)(内藤如安妹)
ジュリアン,ドン・ Dom Julian(内藤玄蕃)(中浦)
ジョアン João(日本人イルマン)(岡山城主)(内藤如安)
ジョアン一世 João Ⅰ.
ジョアン二世 João Ⅱ.
ジョアン三世 João Ⅲ.
ジョアン,ドン・ Dom João
ジョヴァンニ,マリニヨリの Giovanni Marignolli
ジョルジ Jorge (結城弥平治)
ジョン(ジョヴァンニ),モンテコルヴイノの John of Monte Corvino
スコトウス・エリゲナ Scotus Erigena
スーザ,マルチン・アフォンソ・デ・ Martin Affonso de Sousa
スピノラ Carl Spinola
スペックス,ジャックス・ Jacques Specx
スマトラ Sumatra
スルアン Suluan
スンダ Sunda
ズニガ(スニガ) Pedro de Zuniga
セイロン Ceylon
セウタ Ceuta
セケイラ,ゴンサロ・デ・ Gonzalo de Sequeira
セケイラ,ディォゴ・ロペス・デ・ Diogo Lopez de Sequeira
セスペデス Gregorio de Cespedes
セネカ Seneca
セネガル Senegal
セバスチアン,ドン・ Dom Sebastian (大友親家)
セビリャ(セビーヤ) Sevilla
セブ Zebu,Cebu
セラノ,フアン・ Juan Serrano
セラン,フランシスコ・ Francisco Serrão
セルカーク,アレキサンダー・ Alexander Selkirk
セルケイラ Luis de Cerqueira
セルヂュック Seljuk,Seldschuk
セレベス Celebes
センテノ Centeno
セント・ヘレナ湾 St. Helena B.
ゼーランヂャ Zeelandia
ソコトラ Sokotra
ソテロ,ルイス・ Luis Sotelo
ソデリニ Soderini
ソト,フェルナンド(エルナンド)・デ・ Fernando(Hernando) de Soto
ソファラ Sofala
ソリス,フアン・ディアス・デ・ Juan Dias de Solis
ソロモン諸島 Solomon Is.
タ
タイラー,ワット・ Wat Tyler
タカメス Tacamez
タバスコ Tabasco
タラウト Talaut
タンピコ Tampico
ダイー(アイー),ピエール・ Pierre d'Ailly (Petrus de Alliaco)
ダヴァネ Davané
ダギアル,ホルヘ・ Jorge d'Aguiar
ダブール Dabul
ダマスクス Damascus
ダミヤン Damião (日本人イルマン)
ダリエン Darien
ダリヨ Dario (高山図書頭 飛騨守)
ダルカセヴァ,ペドロ・ Pedro d'Alcaceva
ダルブケルケ d'Albuquerque アルブケルケを見よ
ダルメイダ d'Almeida アルメイダを見よ
ダンテ Dante
チェーザレ・ボルヂア Cesare Borgia
チチカカ Titicaca
チチメーク Chichimek
チパング Cippangu ジパングを見よ
チモル Timor
チャウル Tschaul
チャルクチマ Challcuchima
チャンパ Champa 占城 占婆
チリー Chile
チンギスカン Chingis Khan 成青息汗
ヂウ Diu
ヂェノヴァ,ヂェノア Genova,Genoa
ヂッダ Jidda,Dschidda
ヂヨゴ Diogo (日本人)
ツーラン Tourane 茶麟
ヅアルテ・ダ・ガマ Duarte da Gama
ティドール Tidor
ティントー河 R. Tinto
テオティワカン Teotihuacan
テオドーシウス Theodocius
テオドリック Theodoric
テツクコ Tezcuco,Tetzcoco
テノチティトラン Tenochtitlan
テペアカ Tepeaca
テュニス Tunis
テルナーテ Ternate
テワンテペク Tehuantepec
ディアス,ディニズ・ Diniz Dias
ディアス,デル・カスティヨ,ベルナール・ Bernal Diaz del Castillo
ディアス,バルトロメウ・ Bartolomeu Dias
デカルト Descartes
デカン Deccan
デスピノーザ,ゴンサロ・バス・ Gonzaio Vas d'Espinoza
デフォー,ダニエル・ Daniel Defoe
デリー Delhi
トゥパク・インカ・ユパンキ Tupac Inca Yupanqui
トゥマコ Tumaco (酋長)(湾)
トゥラ Tula
トゥラスカラ Tlazcala
トゥリスタン Nuño Tristão
トゥリニダッド Trinidad
トゥルーバドゥル Troubadour
トゥンベス Tumbez
トスカネリ,パオロ・ Paolo Toscanelli
トッレ,フェルナンド・デ・ラ・ Fernando de la Torre.
トッレ,ベルナルド・デ・ラ・ Bernardo do la Torre
トトマーク Totomac
トパルカ Toparca
トマス・アクィナス Thomas Aquinas
トマス,ドン・ Dom Thomas(内藤土佐)
トメバンバ Tomebamba
トルキスタン Turkistan, Turkestan
トルテーク Toltek
トルレス,コスメ・デ・ Cosme de Torres
トルレス,ジョアン・デ・ João de Torres(日本人)
トルレス・ルイス・バエス・デ・ Luis Vaes de Torres
トレド Toledo
トンキン Tongking
ナ
ナバルレ Navarre
ナポリ Napoli
ニカラグヮ Nicaragua
ニクエサ,ディエゴ・デ・ Diego de Nicuesa
ニコバル Nicobar
ニコロ・デ・コンティ Nicolo de,Conti
ニシャプール Nischapur
ニヂェル Niger
ニューギニア New Guinea
ニューブリテン New Britain
ニューヘブライヅ New Hebrides
ニュールンベルク Nürnberg
ヌネス(ヌニェス),ベルシヨール・ Belchior Nuñes
ヌネズ Nunez
ノイツ Pieter Nuijts
ノローニャ,ガルチア・デ・ Garcia de Noronha
ノンブレ・デ・ディオス Nombre de Dios
ハ
ハイチ Haiti
ハイルスベルク Heilsberg
ハウハ Xauxa, Jauja
ハルマヘラ Halmahera
ハレブ Haleb
ハロ,クリストヴァル・デ・ Christoval de Haro
バウティスタ,ジョアン・ João Bautista
バクダード Bagdad,Baghdad
バス,アルバロ・ Albaro Vaz
バス,ゴンサロ・ Gonçalo Vaz
バス,ヂヨゴ・ Diego Vaz
バスコ・ダ・ガマ Vasco da Gama
バスティダス,ロドリゴ・デ・ Rodrigo de Bastidas
バスラ Basra
バタビヤ Batavia
バダホス Badajoz
バッセイン Bassein
バハドゥル Bahadur
バブ・エル・マンデブ Bab el Mandeb
バプチスタ,ペドロ・ Pedro Baptista
バラレッジョ,アレッサンドロ・ Alessandro vallareggio
バリャドリード Valladolid
バルク Balkh
バルセロナ Barcelona
バルベルデ Vicente de Valverde
バルボア,バスコ・ヌニェズ・ Vasco Nuñez Balboa
バルボサ,ディオゴ・ Diogo Barbosa
バルボサ,ドゥアルテ・ Duarte Barbosa
バンコック Bangkok
パウモツ諸島 Paumotu Is.
パウラ Paula (日本少女)
パウロ Paulo (日本人信者)(日本イルマン)(文太夫)
パエス Raez
パシヨ Francisco Passio
パジェス,レオン・ Léon Pagés
パタゴニア Patagonia
パタニ Patani
パドゥア Padua
パナマ Panama
パラワン Palawan
パリア Paria
パレルモ Palermo
パレンバン Palembang
パロス Palos
ヒッポ Hippo
ビセンテ Vicente (日本人イルマン)
ビスナガ Bisnaga
ビヂャプール Bidjapur,Bidschapur
ビリャロボス,ルイ・ロペス・デ・ Ruy Lopes de Villalobos
ビルー Biru
ビルマ Burma
ビレラ,ガスバル・ Gaspar Vilela
ビントヮン Binh Thuan
ピガフェッタ,アントニオ・ Antonio Pigafetta
ピサ Pisa
ピサロ,エルナンド・ Hernando Pizarro
ピサロ,ゴンサロ・ Gonzalo Pizarro
ピサロ,フランシスコ・ Francisco Pizarro
ピノス Pinos
ピレイラ Pireira ペレイラを見よ
ピンソン,ビセンテ・ヤンネス・ Vicente Yañez Pinzon
ピントー Fernão Mendes Pinto
ファラビ Farabi,Alfarabi
ファリヤ,ジョルジ・デ・ Jorge de Faria
ファレイロ,ルイ・ Ruy Faleiro
ファロエ諸島 Faroe Is.
フィゲイレド,ベルシヨール・デ・ Belchior de Figueiredo
フィリッピン Philippine
フィレンツェ Firenze
フェゴ Fuego
フェーホ Faifo 坡舗
フェリパ Felipa (キタ夫人)
フェリピナス(フィリッピン) Felipinas (Philippine)
フェリペ二世 Felipe Ⅱ.
フェルディナンド王(フェルナンド五世) Ferdinand,Fernando Ⅴ.
フェルナンデス,ジョアン・ João Fernandes
フェルナンデス,フアン・ Juan Fernandez
フェルナンド,ドン・ Dom Fernando Cavallero
フランク族 Franke
フランシスコ,ジョアン・ João Francisco
フランシスコ,ドン・ Dom Francisco (沢城主)(大友宗麟)
フロイス,ルイス・ Luis Frais
フロレス Luis Flores
ブリストル Bristol
ブリトー,アントニオ・デ・ Antonio de Brito
ブル Buru
ブルグンド族 Burgunder
ブルゴーニュ Bourgogne
ブルージュ Bruges
ブルネイ Brunei
ブルーノ Giordano Bruno
ブルーワー,ヘンドリック・ Hendrik Brouwer
プェルト・サン・フリアーン(ポート・セント・ジュリアン)Puerto San Julian (Port S. Julian)
プェルト・ビエホ Puerto Viejo
プトレマイオス Ptolemaios Klaudios
プナ Puna
プノンペン Pnom-Penh
プラトーン Platon
プリニウス Plinius
プレスコット William Hickling Prescott
プレスビテル・ヨハンネス(プレスター・ジョン) Presbyter Johannes (Prester John)
プロヴァンス Provence
プロタショ Protasio (有馬晴信)
ヘートン Hayton
ヘリアント Heliand,Heiland
ヘンリ(エンリケ)航海者 Henry the Navigator (Dom Enrique el Navegador)
ベオヴルフ Beowulf
ベーコン,フランシス・ Francis Bacon
ベーコン,ローヂァ・ Roger Bacon
ベナルカザル Benalcazar
ベネズェラ Venezuela
ベハイム,マルチン・ Martin Beheim
ベラ,ブラスコ・ヌンニェス・ Blasco Nuñez Vela
ベラ・クルス Vera Cruz
ベラグワ Veragua (パナマ地峡)
ベラスケス,ディエゴ・ Diego Velasquez
ベルシヨール Belchior
ベント Bento (京都の信者)
ペグ Pegu
ペッソア Andrea Pessoa
ペドラリアス・デ・アビラ Pedrarias de Avila
ペルー Peru
ペレイラ Pereira
ペレイラ,ディエゴ・ Diego Pereira
ペレイラ,ドン・ジョアン・ Dom João Pereira
ペロ・デ・コヴィリャム Pero de Covilham
ホチミルコ Xochimilco
ホンデュラス Honduras
ボゴタ Bogota
ボテリヨ,ローレンソ・ Lourenço Botelho
ボハドル Bojador
ボハラ(ボカラ) Bochara,Bokhara
ボバディリャ,フランシスコ・デ・ Francisco de Bobadilla
ボホル Bohol
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ボリビア Bolivia
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ポポカテペトル Popocatepetl
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マ
マカオ Macao
マガリャンス(マジェラン),フェルナン・デ・ Fernão de Magalhães(Magallanes,Magellan)
マキアヴェリ Machiavelli
マーシャル諸島 Marshall Is.
マスカレニャス,ペロ・ Pero Mascarenhas
マセンシヤ Maxenxia (小早川秀秋夫人)
マダガスカル Madagascar
マドラス Madras
マードレ・デ・デウス Madre de Deus
マニラ Manila
マノエル一世 Manoel Ⅰ.
ママ・オェロ・ワコ Mama Oello Huaco
マームード Mahmud
マヤ Maya
マラバル Malabar
マラッカ Malacca
マリア Maria (野津領主夫人)(ガラシヤ夫人侍女)
マリアナ諸島 Mariana (Ladrona) Is.
マリンディ Malindi,Melinde
マルキーズ諸島 Marquesas Is.
マルケナ,フアン・ペレス・デ・ Juan Perez de Marchena
マルチネス Pedro Martinez
マルチノ Martino (原)
マルティン Martin
マルティンス Fernão Martins
マルディヴ(マルヂバ) Maldive
マンコ・カパク Manco Capac (インカ始祖)(ワスカルの弟)
マンショ Mancio (三箇城主の子)(伊東祐益)
マンジ Manzi
ミカエル(ミゲル) Michael (Miguel) (千々石清左衛門)
ミシシッピー Mississippi
ミラノ Milano
ミンダナオ Mindanao
ムスタファ Mustafa
ムツセメルリ Mussemelly
メオサン,ジュスチノ・ Justino Meosão(京都の信者)
メキシコ(メシコ) Mexico
メヂナ Medina
メーナム河 R. Menam
メネゼス,エンリケ・デ・ Enrique de Menezes
メネゼス,ドゥアルテ・デ・ Duarte de Menezes
メランヒトン Melanchthon
メルヴ Merv
メンダニャ,アルバロ・デ・ Alvaro de Mendaña
メンドーサ Mendoça
メンドーサ,アントニオ・デ・ Antonio de Mendoça
メンドサ・マヌエル・デ・ Manuel de Mendoça
モザンビク Mozambique
モッセル湾 Mossel B.
モニカ Monica (日本娘)
モハメッド Mohammed,Muhammad,Mahomet
モラーレス,ガスペル・ Gasper Morales
モーリッツ(オレンヂ公) Maurits,Graf van Nassau,Prins van Oranje
モリナ,アロンソ・デ・ Alonso de Molina
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ヤジロー(アンジロー) Yajiro (Anjiro)
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リーフデ(船名) Liefde (前名 Erasmus)
リマ Lima
リマサガ(マサゴア) Limasagua (Macagua)
リユベック Lübeck
ルイス,ドン・ Dom Luis (新助)
ルイス,バルトロメー・ Bartolome Ruis
ルケ,エルナンド・デ・ Hernando de Luque
ルシア Lucia (三箇領主夫人)
ルソン Luzon
ルター Luther
ルブルク Rubruk
レアン Leão(清水)(野津領主)
レアン,ドン・ Dom Leão (日本人)
レイテ Leyte
レオン Leon (ニカラグヮの町)
レオン,キエサ・デ・ Cieza de Leon
レオン,フアン・ポンスェ・デ・ Juan Ponce de Leon
レガスピ,ミゲル・ロペス・デ・ Miguel Lopez de Legaspi
レティクス Rheticus
レーテス Jñigo Ortiz de Retes
レーペ,ディエゴ・デ・ Diego de Lepe
ロアイサ,ガルチア・ホフレ・デ・ Garcia Jofre de Loaysa
ロドリゲス Francisco Rodriguez
ロビンソン・クルーソー Robinson Crusoe
ロマン,ペロ・ Pero Romão
ロヨラ,イグナチウス・ Ignatius Loyola
ロヨラ,ジョルジ・ Jorge Loyola (日本人イルマン)
ローラン Roland
ロルダン,フランシスコ・ Francisco Roldan
ロレンソ Lorenzo (フランシスコ・ダルメイダの子)
ロレンソ Lourenço (日本人イルマン)
ワ
ワイナ・カパク Huayna Capac
ワスカル Huasacr
ワトリング島 Watling I.
ワマチュコ Huamachuco
ワリニャーニ,アレッサンドロ・ Alessandro Valignani
ワルドゼーミューラー,マルチン・ Martin Waldseemüller
ワルフィシ湾 Walfisch,Walvis B. | 底本:「鎖国」筑摩叢書、筑摩書房
1964(昭和39)年5月25日初版第1刷発行
1990(平成2)年1月30日初版第22刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「異って」と「異なって」、「蹈」と「踏」、「閧」と「鬨」、「幸いに」と「幸に」、「城趾」と「城址」、「プナ」と「ブナ」の混在は、底本通りです。
※「人名地名索引」では、項目の参照先として頁数を示していますが、本テキストでは省略しました。
入力:冬木立
校正:小澤晃
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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自分にとっては、強く内から湧いて来る自己否定の要求は、自己肯定の傾向が隈なく自分を支配していた後に現われて来た。そうしてそれは自分を自己肯定の本道に導いてくれそうに思われる。
自我の尊重、個人の解放、――これらの思想はただ思想として自分の内にはいって来たのではなかった。小供の時から自分の内に芽生えていた反抗の傾向――すべての権威に対する反抗の気風はこれらの思想によって強い支柱を得、その結果として自尊の本能が他の多くの本能を支配するようになった。外から与えられたように感ぜられる命令、――この事をしろとかあの事をしてはならぬとかいう命令はすべて力のないものに見え、ただ自分の意欲することのみが貴いと思った。自分の内から出てやる自己否定という如きものも、実は内に喰い入っている外来の権威への屈服であると思っていた。それとともに自分の傾向や自分と偉大なる者との間の距離などは全然見えなくなってしまった。自分にだってそれは出来る、ただそれを実現していないだけだ、――すべての事に対してそういう気持ちがあった。
無批評に自分の尊貴を許すということは、自分の内に蟠っている多くの性質の間の関係をことごとく変化せしめた。これまでは調和がとれていた故に現われなかった性質が調和の破れるとともに偏狭に現われて来た。自分の内には、自分の運命に対する強い信頼が小供の時から絶えず活らいていたけれども、またその側には常に自分の矮小と無力とを恥じる念があって、この両者の相交錯する脈搏の内にのみ自分の成長が行われていたのであるが、この時からその脈搏は止まってしまった。自己の価値はもはや問題にならなくて、どんなものでも、またどんなにそれが偏狭であっても、とにかく自己として現われてくる者は皆一様に絶対の価値を担っていると信じていた。
そうして自分はどうなったか。自分は独我主義の思想を体現したのである。外容はとにかく、すべての人および物に対して自分の心持ちは頑固に自尊の圏内を出でなかった。人および物に対する同情と理解との欠乏は、自分の心の全面に嘲笑と憤怒とを漲らしめた。人に頼ることを恥じるとともに、人に活らき掛けることをも好まなかった。孤立が誇りであった。友情は愛ではなくてただ退屈しのぎの交際であった。関係はただ自分の興味を刺戟し得る範囲に留まっていた。愛の眼を以て見れば弱点に気づいてもそれを刺そうという気は起らないが、嘲りの眼を以て見れば弱点をピンで刺し留めるのが唯一の興味である。それ故人に対する時自分の心の面には常に弱所を突こうとする欲望があった。またすべての愛は自愛に帰納せられた。人を愛する心持ちがどんなに強く自分の内に起って来ようとも、それを自愛まで持って行かなければ満足が出来なかった。
この時自分の解していた「自己肯定」より見れば自分のこの傾向は至極徹底的であった。すべての人が自分を捨ててもいい。人が自分を捨てる前に自分は既にその人を捨てているのである。自分は孤立の淋しさを恐れない。それを恐れるのは自分の独立と自由とが完全でない証拠に過ぎないから。自分が人を欲する時には人を征服して自分に隷属せしめる。自分の愛は、常に、自分を完成する要素としての人間に向う。自分は淋しさや頼りなさを追い払うために友情を求めたりなんぞはしない。友人の群を心持ちの上の後援として人と争ったりなんぞはしない。自分はただ独りだ。ただ独りでいいのだ。
しかしながらこれは自分の全部であったろうか。自分は自分の内の愛を殺戮するために、忍びやかに苦痛を感じてはいなかったろうか。自分は自分の嘲笑や皮肉が人を傷つけ人を怒らせた時、常に「それは自分の欲した所ではなかった」という案外な感に打たれはしなかったか、自分の嘲笑や皮肉をそう深い意味に取られては困ると思いはしなかったか。そうして、そういう冷やかな態度を取らなければ満足の出来ない自分を密かに悲しみはしなかったか。
自分の内には、永い間、押えつけているものと押えつけられている者との間の争闘があった。苦痛が絶えず心を噛んでいた。この苦痛は主我の思想によって転機に逢会するまで常に心を刺していたのであるが、転機とともに一時姿を隠した。自分はそれによって大いなる統一を得たつもりであった。しかしやがてまた苦痛は始まった。そうしてそれが追々強まって行くとともに、ちょうど夜明けのように、また新らしい転機が迫って来た。
最初の光は、自己の価値が問題になったことである。偉大なる人が何故に偉大であるかという事も追々に解って来た。いかに自分が矮小であるかということもそれに従って明らかになって来た。それによって自分の運命に対する信頼の念はいささかも減じないが、本当の自分というものがこれまで考えていた自分のようなものでないことは確かになった。これまでの自分は真実の自己の殻であり表面である。真実の自己は全然顧みられていなかった。真実の自己を深く強く伸びさせるためには、これまでの孤立しようとする自己を捨てなければならない。この意味で自己否定という事が自分には切実な問題になって来た。真実に自己肯定をやるためには、まず自己否定がなければならぬ。
即ち自己にとっては自己の肯定と否定とはアルタナチヴではない。ただ肯定と否定との場合に「自己」の意味が違うだけである。絶対に「自己」を絶滅させようという要求は自分にはまだ縁がない。ショーペンハウエルの意志否定はかなり根元的の否定であるが、しかし彼の解脱――意志なき認識や涅槃などにおいては、なお真実に自己を活かすことが出来ると思う。
真実の自己は、意識的に分析する事の出来ないものである。それは様々な本能から成り立っているが、しかし確然とその本能の数をいうことは出来ぬ。これらの多様なる本能が統一せられた所に個性がある。従って個性もまた明確に認識せられ得るはずのものではない。
個性は、たとえていえば人相のようなものである。一、二の特徴を捕えることは出来るが、微妙な線や表情になると到底詳しく説明することは出来ない。しかも詳しく見れば見るほど他とは異なっている。最も特徴のない平凡な顔でも決して他と同一ではない。われわれは知力の傾向に従って、特異な点を常に看過しようとするけれども、実際はすべてが全然特異なのである。
またわれわれは漠然と「顔」ということをいうが実際にわれわれが経験するのは個々別々な、特殊な人相であって一般的な「顔」ではない。人相のない顔を思い浮かべる事は出来ない。けれどもいかに特殊な人相の顔でもそれは「顔」である。「顔」の一部ではなくて全部である。そうして「顔」であるという点においてはすべてが同一である。またわれわれに対して意味価値を持つのは必ず人相であるが、しかしそれは顔として意味価値を担うのである。――ちょうどこれと同じようなことが個性と人間とについてもいわれ得る。個性なくして人間はない。しかしいかに特異な個性も全体としての人間である。意味価値のあるのは常に個性であるが、人間としてでなければそれは意義がない。
個性を完成することはわれわれの生活の内にひそむ目的である。個性が完成せらるる度の強ければ強いほどそれは特殊の色彩を強めるのであるけれども、同時にまた人性の進化に参与する所も深くなる。特殊の極限はやがて普通となるのである。
個性の完成、自己の実現はいたずらに我に執する所に行われるものではない。偉人の自己は強く人性的の色を帯びている。我の殻を堅くする所には真の征服も創造も行われない。大いなる愛は我を斥ける。そうしてすべて偉大なるものは大いなる愛から生まれる。偉人は凹んでいるように見える時に完全な征服を行っている。彼は愛を以て勝つのである。真に人格を以て克つのである。我を以て争う時にはどんなに弱いものでも刃向って来る。嘲笑や皮肉によっては何者も征服せられない。偉人は卑しい者の内にも人間を見る。手におえないようなあばずれ者にも真に人間らしい本音を吐かせる。
しかし我をなくすることによって個性の色はいささかも薄くならない。かえって強烈に深刻に現われて行く。
――こういう事を考えるようになってから自分はどういう風に変化したか。自分の内にあって自分を軽蔑する者がますます強くなって来たばかりである。
しかし我を斥けようとする要求は、今自分の内に最も切実に活らいている。このために自分の心持ちは――自分に対する自分の心持ちは著しく変わって来た。
たとえ自分の内に、この要求のなお生温くまた深刻でないことを罵る声が絶えないにしても、自分は前よりは一歩深く生活にはいって行ったように感ずる。かつて自分が我を斥けようと努力した時代に比べれば、他動が自動に変わったという意味で全く違った心持ちである。
けれども自分はなお依然として我によって動いている。二、三の特殊の場合のほかは、人に対してまず我が出る。これは主我の傾向が根本的のものであり、我を否定しようとする要求があとより附け加えられたものであるからだとは思わない。自分にはまだすべての人の内の「人間」を愛するだけの力がない。人から我を以て迫られた時に、自分もまた我を以て迎えなければ腹の虫が承知しないほど自分にはまだ愛が足りない。自分の愛は二、三の特殊の場合をようやく支えるに足りるほどである。
それ故に自分は醜くまた弱い自分を絶えず眼の前に見ている。自分の我を以て常に人の弱所を突こうとしている卑しい自分を絶えず見まもっている。後悔が鋭く胸を刺すことも稀ではない。自分の醜さに堪えられぬほどの恥ずかしさを感ずることも稀ではない。悔いなきことを誇りとしたのは、もう過ぎ去った事である。やがてまた悔ゆることなき生活に入りたいという要求はあるが、それにはまず我を滅して大いなる愛の力に動く所の自分になっていなくてはならぬ。真に自分の個性の建立に努むる途上においてならば、いかなる事が起ろうとも自分は悔いない。
自分は自分の力に許されている以上のことを望んでいる。しかし自分は自分以外のものになろうとしているのではない。また自分を改良し訂正しようとしているのでもない。今の自分の能力に不満であるとともに、伸びようとしている自分の力をいかにもして生い育てようというのである。そのためには、我を破壊することが何よりもまず必要なのである。特に自分のようなものにとっては実際にそれが必要なのである。
自分は我を斥けようとする時に自己を危険ならしめるのではないかという気がする。ことに相手が我を通そうとする時自分の我を引っ込めるのは、屈服ではないだろうかとよく思う。自分が我を斥けたために相手が勝ち誇ったような顔をすれば、自分はいつも屈辱を感ずる。自分が可哀そうになる。けれどもここで恥じ悲しみ苦しむものは、また自分の我である。我を通して見た所で自分がどうにもならないとともに、我を通さなくとも個性には何の影響もない。自分が我を以て打ち勝とうとしまた打ち克ったつもりでいた事は、皆嘘であった。表面では自分が勝ったようになっていても、相手の我はむしろ自分を憎悪し嫌厭していた。明らかに自分の方が強く優れている場合でも決して尊敬はされていなかった。特に相手が、嘘をつくことの平気な、媚を以て男に対しようとするような女である場合に、その事実は明らかであった。これに反して自分が最も我の少ない虚心な態度で交わっている人には、本当の自分が最も明らかに活らき掛けていた。
自分はすべての人と妥協した平和な状態を望んでいるのではない。個性は最高の権威を持ち、争闘は人性の根本に横たわっている。しかし人々が皆我を滅して、しみじみした涙を流し、お互いに「人間」として心と心とを触れ合わせるというような状態になると、個性はその特殊を厳密に保持しながら相互に融け合い、争闘は我の偏狭を脱して人性進化のために愛の光の内に行われる。偉大なる者への屈従は歓喜を以て迎えられ、弱小を征服することは大いなる愛の力を以てせられる。ここに偉大なる者の偉大なるゆえんは最も明らかにせられる。そうして弱小なる者の生活が人性の上に持っている意義もまた明瞭になる。
自分はなお日々に悔いを遺している。また日々に自分の力の極限を経験している。しかしかくの如き状態に自分が住んでいるという事についてはいささかも悔いない。自分の力の極限を経験することは、やがてその極限を乗り超える事の前提である。我を滅し得ず、愛の力の足りないという悔いは、我を滅して大いなる愛の力に動くことの準備である。
自己否定は今の自分にとっては要求である。しかしこの要求が達せられた時には、自分は既に自分の頂上に昇っている。
この要求は自分の個性の建立、自己の完成の道途の上に、正しい方向を与えてくれる。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「反響」
1914(大正3)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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このごろは大和の国も電車やバスの交通が大変便利になって来たので、昔に比べると、古寺めぐりはよほど楽になったようである。欲張って回れば一日の内にかなり方々の古い寺々を見ることができるであろう。しかし人間が古い芸術品などに接してその美しさを十分に感受し得る能力は、そう無限にあるものではない。明るいうちに体をその場所へ持って行きさえすれば、どこでも同様に、同じ新鮮な気持ちで味わえるというわけではない。その点は食物の場合も同じであろう。いくらうまいもの屋が並んでいるからといって、それを片端から味わって歩くことはできない。一軒の料理を味わえば、あとはまた空腹になる時まで待たなくては、次の料理を同じように味よく味わうわけには行かない。もちろんそういう能力は人によって差異のあるものではあるが、しかしどれほど人並みはずれた食欲を持つ人でも、その食欲に限度がないわけではない。そうして限度まで味わえば、あとは食ってもうまくはないのである。それと同じで、感受能力の限度を超えてしまえば、たとい体が無比の傑作の前に立ち、眼がその傑作を眺めているにしても、その美しさはいっこうに受用されず、いわゆる「見て見ず」という状態になる。そういう見物は全然むだである。
その点を考えると、一日のうちにあまり方々へ回ることは考えものである。なるべく徒歩を混じえて、ゆっくり時間をかけて、それで見て回れる程度に限る方が、自分の感受能力を活発に働かせるゆえんとなるであろう。
そういうことを考えていると、わたくしは四十何年か前のエキスカージョンをなつかしく思い出してくる。それは東京大学の文学部の美術史学科の学生や卒業生たちの修学旅行なのであるが、その当時から修学旅行とは呼ばず、エキスカージョンと呼んでいた。三月の末から四月の初めへかけて、四五日の間に京都と奈良とを見学するのである。これは大正になってから始まったので、わたくしの在学中にはなかった。わたくしが学生として聞いた美術史の講義は、関野貞先生の日本建築史、岡倉覚三先生の泰東巧芸史、滝精一先生の日本絵画史などであったが、その時は滝先生は講師であって教授ではなかった。わたくしが大学を卒業した後、大正元年か二年かに教授になられたのである。エキスカージョンが始まったのはその後であろう。それがいかにも楽しそうであったし、またわたくしにはまだ見ないものが多かったので、たぶん大正の五年か六年のころに、滝先生に頼んで参加させてもらったのであった。
そのうち一日は奈良の寺々を回った。東大寺と春日神社と新薬師寺と興福寺とで一日が暮れたように思う。が、どういうわけか、興福寺の南円堂を見た時のことだけをはっきりと覚えていて、あとはぼんやりとしている。戒壇院や三月堂の内部を見物したのはこの時が初めてであるのに、その時の印象がはっきりと残っていない。南円堂はその後見ないが、戒壇院や三月堂はたびたび見たからであるかも知れない。がそれならば、次の日に見物した法隆寺、薬師寺、唐招提寺などは、その後たびたび見ているのであるから、最初の印象も薄れて行きそうなものであるが、実はそれとは逆で、非常に鮮かに覚えているのである。それがどうもわたくしには、一日の見物の分量と関係のある問題のように思われるのである。
この日は朝、奈良の停車場に集合して、汽車で法隆寺駅まで行った。法隆寺駅から法隆寺村のはずれまでは十町ぐらいであるが、法隆寺の門まではさらに五六町あるであろう。その道は麦畑の中をまっすぐに走っていて、初めから向こうの方に法隆寺の塔が見える。その道をぶらぶらと歩いて行くと、塔がだんだん近づいてくるに従い、なんとなく胸のときめきを覚える。そういう気持ちでゆっくりと法隆寺へ近づいて行ったのであるから、南大門をはいって遙かに中門を望み見たとき、また中門に立って五重の塔と金堂と、それを取り巻く回廊とを眺めたとき、実際に魂がふるえるような感銘を受けたのであった。これは一つには美術史を専門とする仲間と一緒であったということにもよるであろうが、主として徒歩によるゆっくりとした近づき方によると考えられる。
そのころ健在であったあの壮麗な金堂の壁画や、金堂の壇上北側に据えてあった橘夫人の厨子、東側北寄りの隅に据えてあった玉虫の厨子なども、わたくしの心に強い驚嘆の念を呼び起こした。それらの前でどれほどの時間を費やしたかは覚えないが、いろいろ説明も聞き、解らないところを探索し、堪能するまでそれらを眺めた。しかし昼食をとるまでにはなお五重の塔の塑像や、講堂の仏像や、聖霊院の太子像や、綱封蔵のいろいろな作品を見て回った。夢違の観音や、木彫の九面観音などは、そのころ綱封蔵に置いてあった。なおそのほかに、講堂の西側背後の小高いところをのぼって、西円堂を見た覚えがあるが、その時にはだいぶ疲れを覚えて、ほとんど印象が残っていない。たぶん昼食前であったのであろう。
昼食は夢殿の近くの宿屋でとった。高浜虚子の小説に出てくる家であったかと思う。
午後は夢殿から見物を始めた。御堂がいい形であるのみならず、幽かに横から拝んだ秘仏の顔が、ひどく神秘的に感じられて、午前に劣らず深い感銘をうけた。ところがそのあとで中宮寺の如意輪観音が、一層深い感銘を与えたので、この日のわたくしの感受能力は、ほとんどもう飽和点に達したかに思われた。
幸いにそのあとわたくしたちは、法隆寺の裏山の麓を北へ歩き出したのである。いかにも古そうな池や、古墳らしい丘などの間を北へ七八町行くと、法輪寺がある。法輪寺の観音は奈良の博物館に古くから出ているが、それとよく似た本尊のある寺である。その法輪寺から東へ七八町、細い道をたどって行くと、法起寺がある。古い三重の塔がある。そういうものを見てから、たぶん郡山へ通ずる街道へ出たのではないかと思うが、わたくしたちはさっさと歩き出して、一里半以上、二里近い道を薬師寺まで歩いた。郡山の町を出て、遠くに薬師寺の塔の望まれる所まで来たときには、もう幾分夕暮れの感じが出ていたかと思う。
そういう状態で薬師寺へついた時には、わたくしはまた新しい活気のある気持ちになっていた。東塔のあの変化の多い姿、東院堂の聖観音のあの堂々とした姿、特に金堂の薬師如来のあの渾然とした、なんとも形容のしようのない姿に対しては、わたくしは実際に驚嘆の念を抱くことができたのである。それには、折柄の西日が、あの薬師如来の黒い銅の肌に、きわめて適当な照明を与えていたということも、あずかって力があったであろう。それは法隆寺から歩いて来たという偶然が作り出した効果なのであった。
もう夕暮れになったので急いで唐招提寺に回り、急いで金堂や講堂の中を見せてもらったが、なんといってもここの見ものは建築であるから、夕方の光でも不自由なく、心行くばかりあの堂々とした姿を味わうことができた。
がそれだけでわたくしたちは引き上げたわけではない。唐招提寺を西の方へぬけると、今電車線路のあるあたりを通って、すぐ垂仁陵のそばに出る。その垂仁陵が実に美しい姿をしていることに、わたくしは虚を突かれたような驚きを感じた。それは予定の内にはいっていなかったのである。それに反して、そこから北へまた十町ほど歩いて、西大寺の中へはいって見た時には、案外に何もないのに失望した。
(昭和三十年頃) | 底本:「和辻哲郎全集 補遺」岩波書店
1978(昭和53)年6月16日第1刷発行
入力:岩澤秀紀
校正:火蛾
2015年11月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "055762",
"作品名": "四十年前のエキスカージョン",
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一
我々の生活や作物が「不自然」であってはならないことは、今さらここに繰り返すまでもない。我々は絶対に「自然」に即かなくてはならぬ。しかしそれで「自然」についての問題がすべて解決されたとは言えない。むしろ、問題はそれから先にある。
一体どれが我々の生活のドン底の真実なのか。どれをつかんだ時に我々は「自然」に即したと豪語する事ができるのか。
自然主義は殻の固くなった理想を打ち砕くことに成功した。しかし代わりに与えられたものは、きわめて常識的な平俗な、家常茶飯の「真実」に過ぎなかった(たとえば、人間の神を求める心とか人道的な良心とかいうものはあとからつけた白粉に過ぎない。人間を赤裸々にすればそこには食欲、性欲、貪欲、名誉欲などがあるきりだ、と言うごとき)。こういうことはいかなる意味でも新発見ではない。昔から数知れぬ人々が腹のなかで心得ていた。それを心得ていないのは千人に一人か百人に一人の理想家や敬虔家だけであった。現在でももちろん同様である。ただ多くの人は露骨にそれを発表するのを好まない(それだけ理想家、敬虔家の情熱が根深い習俗として社会を支配しているのである)。――そこを自然主義は露骨でもって刺激した。そうしてこの主義がいかにも重大な意義を持っているらしい感じを世人に与えた。実際それは、偽善家の面皮を正直という小刀で剥いでやった、という意味で、重大な意義を持つに違いない。あるいはまた幻影に囚われた理想家を現実に引きもどした、という意味で。――しかしそれは決して以前よりも深い真実を捕えてくれたわけでなかった。それのもたらした新事実をあげれば、まず自然科学の進歩、社会主義の勃興、一般人民の物質的享楽への権利の主張、徹底的な虚無主義の出現――芸術上においては様式の単純化、日常生活の外形的な細部の描写の成功などであるが、そこに著しい進歩があったとは言っても、何もより深いものは実現されていない。
ここに恐らく自然主義の薄弱な反動に過ぎない理由があるのである。十九世紀後半が生んだ偉大なものは、たとえ自然主義のいい影響をうけていたにしても、決して自然主義的な本質を持ってはいなかった。そこには常に自然主義以上のものがあった。この事実は世界の精神潮流から非常に遅れていた最近のわが国の文化についても、厳密に検察せられなくてはならない。――
そこで生活の「真実」、人間の「自然」の問題である。我々はこの「真実」、「自然」を描くと自称する多くの作家を持っている。しかし彼らもまた常識的な粗雑な眼をもって見た「自然」以上に何ものも知らないではないか。彼らはただ「多くの場合」「多くの出来事」「多くの人間」を知っている。あるいは外景、室内、容貌、表情などに関する詳細な注意や記憶を持っている。これらも確かに一種の才能である。誰でもが彼らのような観察と記憶とを持つことはできない。けれども多くを詳らかに見ることは直ちに「自然」を深く見ることにはならない。彼らの眼が鋭さを増さない限り、彼らの経験がいかに積み重ねられようとも、質は依然として変わらないのである。ここに私は「書き方」の上でますます精練と簡潔と円熟とを加えて来た四五の作家を眼中に置いて考えてみよう。彼らは皆人生を底まで見きわめたようにふるまっている。彼らはさまざまな社会現象を詳らかに巧妙に描写する腕を持っている。しかし彼らが社会の裏に住む無恥な女を描き、性慾の衝動に動く浮薄な男を描き、あるいは山国海辺、あるいは大都会小都会の風物情緒を描く時には、それがあらゆる階級の男女や東西南北の諸地方を材料とするにかかわらず、またそれぞれの境遇や土地をおのおのその特性によって描いているにかかわらず、結局その作品の核をなすものは千篇一律に同じ観察だという感じを与えるのである。彼らの眼は外形の特性をのみ見て、内部の特性を見得ない。彼らは活きた人生と自然からいつも同じ「自然」を見いだす。かくのごときことは生の豊富な活動を見得るものには全然あるわけがない。――しかも彼らはこの「自然」に満足して、それを解し得たことを誇っている。その「自然」がいかに浅薄であるかについてはほとんど省慮することなしに。
彼らは概念的であることを非常にきらう。そうして彼ら自身の感じ方がすでに概念的であることには気づかない。
二
私はここで「自然」の語義を限定しておく必要を感ずる。ここに用いる「自然」は「人生」と対立せしめた意味の、あるいは「精神」「文化」などに対立せしめた意味の、哲学的用語ではない。むしろ「生」と同義にさえ解せられる所の(ロダンが好んで用うる所の)、人生自然全体を包括した、我々の「対象の世界」の名である(我々の省察の対象となる限り我々自身をも含んでいる)。それは我々の感覚に訴えるすべての要素を含むとともに、またその奥に活躍している「生」そのものをも含んでいる。
たとえば私がカサカサした枯れ芝生の上に仰臥して光明遍照の蒼空を見上げる。その蒼い、極度に新鮮な光と色との内に無限と永遠が現われている。そうしてあたかもその永遠の内から湧きいでたように、あたかも光がそれを生んだように、私の頭の上には咲きほころびた梅の花が点々と輝いている。ほんとうに「笑っている」という言葉がふさわしいように……これが自然である。色と光と形、そうして私の心を充たす豊かな「生」。――またたとえば一人の青年が二人の老人を前に置いて、眼を光らせ、口のあたりの筋肉を痙攣させながら怒号する。老人はおどおどしている。青年は自分の声のききめを測量しながら、怒りの表情の抑揚のつけ方をちょっと思案してみる。――これも自然である。声、表情、そうしてある目的のために老人の人格を圧迫している青年の意志、感情、打算。我々は外形に現われたものを感覚し、知覚するとともに、この外形を象徴として現われて来る内部の生命を感得する。我々が自然を認識するのはこの両様の意味を含んでいる。すなわち外形はそれと全然似よりのない、性質の違ったものを我々に認識させるのである。
三
ところでこの外形と全然異なった内部生命を認識することは、いかにして可能であるか。たとえば我々はある人の顔の筋肉が動くのを見て、その人の喜怒哀楽やまたそれ以上に複雑なさまざまの心持ち・思想などを感知する。我々の眼に映じたその微かな筋肉の動きと我々の感じたその内生とは、実際全く似よりのないものである。この二つは何ゆえに直接に結びつくのか。
これは恐らく我々の「生」に相通ずるものがあるからである。我々はそれ以上に原因を知らない。ただ事実として直接にこの「生」の融合交通のあることを経験する。――しかし我々は、この際我々の感ずるものが厳密に我々自身の感じであることを忘れてはならない。もとより我々は、それを自分の感情として経験するのではなく、あくまでも対手の感情として、自意識を離れて感ずるのである。その焦点にはただ対手の感情のみがあって、自分はない。むしろ自己が、その焦点において、対手の内に没入しているのである。けれどもいかに自分を離れた気持ちになっていても、「自分」が「対手」になることはできない。対手の感情を感じながら、実はやはり自分自身の感情を感じているに過ぎない。いわば自己を客観化して感じているのであって、対手はただ、その自己客観化を触発するにとどまるのである。――すなわち我々はある外形を見た時に、その外形の意味として我々自身の感情を感じている。そうしてそれをその対象の認識と呼んでいる。
そこで問題は、その対象の生命にピタリと相応ずるような生命を自己の内に経験し得るかどうかに帰着して来る。
感受性が鋭く、内生が豊富で、象徴を解する強い直覚力を豊かに獲得しているものはさまざまな対象の生命の動きを自己の内に深く感じ得るだろう。彼らは外に現われたさまざまな現象を見るのみならず、その内部の生命に力強く没入し行く。彼らの感ずるのは、ある外形に現われなければならなかった内部の力の必然性である。内部の活動の複雑をきわめた屈折濃淡である。――このことを高い程度に(たとえばロダンほどの程度に)、実現し得るのは、なかなか容易ではない。しかし我々はそれを目ざして進まなくてはならない。この程度を高めることは、とりもなおさず「自然」を捕える程度が深くなることである。我々はこの程度を高め得た時にのみ、「自然を見ること」を誇り得るだろう。
四
ところで内部に突き入ろうとする衝動を感じない人たちは(たとえば前に言った作家連のごとき)、きわめて常識的な、普通一般の見方をもって人間の内部を片付けてしまう。そうしてただ外部のさまざまな変化や状態にのみ注意を集中する。彼らの「自然に即け」という意味は、右の常識的な見方の埒外に出るなということに過ぎないのである。
で、彼らの強みは、一般の常識が認容するところをふりかざすにある。たとえば「こういう人が実際あるのだ、」「こういう事を現に自分も感じている、多くの人も感じている、」「それがある理想から見て好ましくないことであろうとも、とにかく人間の自然なのだ、私はその自然を捕えた、」云々。
しかし自分の経験をほんとうに理解しようとする人が知っているように、経験の真相をつかむということはきわめてむずかしい深い問題である。それはただ意識の表面に現われるものをたどって行っただけではわからない。ことに「性慾の強い力」とか「生への執着」とかいう概念をあたかも生活の本質であるかのごとくに考え、すべての現象をそれへ引きつけて理解しようとするような場合には、恐らく生活がきわめて狭い貧弱なものになってしまうだろう。それでもその人には、「生活が実際そうである」ように、「それが人間の自然である」ように、思われるに相違ない。そうしてそこに生活の小化醜化が行なわれる。生活の豊富な真相は、空想として、あるいはこしらえものとして、彼らの前に価値を失ってしまう。彼らはこの小さい生活に満足して、生活の真相を実感しようとは努めない。
従って彼らの眼には、常識以上に深く自然に食い入ったものと、実感なくただ空想によって造り上げられたものとの区別がつかない。そこには嘘と真実との両極端が現われているのに、彼らはそれを嗅ぎわける力を持たない。そうして自分たちよりもはるかに深く自然をつかんでいるものに対して、自然に即けと忠告するのである。
すべてこれらのことは彼らの内生の浅薄貧弱から生まれている。彼らの「自己」が浅薄である以上それを「客観化」した彼らの経験が浅薄であるのは当然だからである。彼らの根本的な欠点を救うものは、ただ自己の深化のほかにあり得ない。それによって彼らはその「眼」を鋭くし、その経験の「質」を変化することができるだろう。そうして初めてほんとうに自然に面することもできるだろう。
五
自然をただ醜悪に観察して喜んでいた作家たちが、近ごろ何となく認識論的な、あるいは倫理学的な思想を、その作品中に混ずるに至ったことは、新しい時代が彼らに及ぼした影響としてかなり我々の興味をひく。しかし彼らは、彼ら自身の思索が彼らの最も忌みきらう概念的なものであることに気づかない。従って彼らの観察と思想とは、まるで木に竹をついだように、彼らの作品中に混在している。このようなことは彼らの内生の幼稚をほかにして解釈のしようがない。彼らは「自己」を改革する代わりに、二三の新しいことを自己にくっつけようとする。生まれ変わる代わりに、竹べらで自分の顔の造作を造り変えようとする。あまりにたわいがない。
彼らはまず、自分たちのとは違った自然の見方をほんとうに心底から理解してみなくてはいけない。私は彼らが性慾を重んじるからいけないというのではない。彼らが娼婦を描くからいけないというのではない。ただそういうものに対してもっと深い見方のあることを理解しろというのである。我々の生活は穢ないものをもきれいなものをも包容している。迷いもすればまた火のように強烈に燃え上がることもある。耽溺の欲望とともに努力の欲望もある。この内面の豊富な光景を深く理解した人の見方が、彼らの見方よりもいかに多くの高い価値を持っているか、それを血によって感じてもらいたいのである。彼らは多くの心境を理解し得ないがゆえに、排斥する(我々は彼らの心境を理解しつくした上で、浅薄として排斥する)。しかし理解すればとても頭があがらなくなるようなものを、不理解のゆえに排斥するのは、彼ら自身にとってもむしろ悲惨ではないか。私は思いついたままにドストイェフスキイの例を引こう。この作家が人間の「自然」を最も深く見きわめた人の一人であることは、恐らく彼らの認容しない所であろう。彼らはただドストイェフスキイに変態心理の作家を見るにとどまるだろう。彼が著しく「神」のことに執着する所などはほとんど無意味に感ぜられるに相違ない。しかし実際はこの作家ほど深く確実に人間のあらゆる性情をつかんでいる者は、たぐいまれなのである。私はここに彼のつかんだ無数の真実を数え上げることはできない。ただ一つ、(特にそれが人間の自然でないと考えられているらしく思われるから)、彼の洞察した「神を求むる心」あるいは「信じようとする意志」について少しく観察してみよう。
「ある者」を信じようとする意志は、人間の自然として、少なくとも性愛と同じ程度の根強さをもって我々の内にわだかまっている。それは恐らく自己の人格を圧倒する力に対して畏服しないではいられない衝動にもとづくものであろう。同時にまたそれは我々の内のかくのごとき力を求める心に(それがなくては空虚を感じる我々の弱い心に)、もとづくものであろう。神はこの力の象徴であった。神が滅ぼされた時には悪魔が代わって象徴となった。象徴をきらうものは自己の奥底に「世界の根本実在」としてこの力を認めた。そうして全然この力を(いかなる形においても)認める事のできない者は、同じく自己を圧倒する力として虚無を信じた。――ドストイェフスキイの見破ったのは、この、人格の上に働く力の、深秘な活動である。同時にこの力を感じないではいられない人間の微妙な心理である。彼はこの感受性に強いロシア人の性情を、きわめて明確につかんだ。彼の「魅かれたる者」を読む人は、ロシア人の心があたかも獲物をねらう鷲のごとくこの力をねらっているように感じるだろう。そうしてロシアにならば百のラスプウチンが現われても不思議はないと思うだろう。かくのごとく信じようとする傾向の強い人民の内に、全然信ずべきものを見失った者が出るとすれば、それがいかに猛烈な虚無の信者となるかは、ロシア虚無党の記録を読む者が知っているごとく、きわめて理解しやすいことである。これもまた「魅かれたる者」の内に鮮やかに描かれている(さらにまたかくのごとき人民の内から、神を信ずる者、悪魔を信ずる者、自己を信ずる者が出るとすれば、それがいかに驚異すべき聖者となり、陰険な悪党となり、超人の夢想者となるかは、特に「カラマゾフ兄弟」の内に鮮やかに描かれている)。我々は「魅かれたる者」を読んで、信じようとする心の暴威が決して性愛のそれに劣らないことを、ほんとうに合点し得るのである。ニコライ・スタフロオギンが自ら企てずして得た奇妙な天真の力は、あたかも「無」の内に「すべて」を見る禅の悟りのように、たくまず努めず自ら意識することもなくして、しかも彼に触れるすべての人に異様な圧力を与える。まるで人々の間に「狂気」をふりまいて歩くように見える。幾人かの女が殺されそうにその心を捕えられている。ロシアの神を信じようとする一人の青年は彼の内にその神の使徒を見る。狡猾と虚偽とを享楽するらしい一人の虚無主義者は、自らを彼の奴隷のごとくに感じている。彼を殺そうとした者は死の前に平然たる彼の態度によって、心の底から覆えされた心持ちになる。これらすべては何によって起こるか。人格の上に働きかける力と、その力を感じる微妙な心理のほかにはなんにもない。そうしてそこに信じようとする心の秘密がある。
――私はドストイェフスキイのつかんだ右のような真実に対して、神を求める心が人間の自然でないと考えているような人々の眼の開くことを心から希望する。この真実はロシアにばかりあるのではない。我々の眼前に万をもって数うべき人々がそれでもって狂喜し狂奔し狂苦している。さらにまた新しい「神の子」が五指を屈するほどに出現している。それは少なくとも現実である。そうして眼を開いて見るものには、人間の自然である。
これはドストイェフスキイの真実の内のただ一つに過ぎない。他の多くの真実についても私は同じように警告を付けたいと思う。それほどに自然を説く人々の眼は自然に対してふさがっているのである。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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大地震以後東京に高層建築の殖えて行った速度は、かなり早かったと言ってよい。毎日その進行を傍で見ていた人たちはそれほどにも感じなかったであろうが、地方からまれに上京する者にはそれが顕著に感ぜられた。六、七年前銀座裏で食事をして外へ出たとき、痛切にシンガポールの場末を思い出したことがある。往来から夜の空の見える具合がそういう連想を呼び起こしたのかと思われるが、その時には新しく建設せられる東京がいかにも植民地的であるのを情けなく思った。しかしその後二年もたつとシンガポールの場末という感じはなくなった。おいおい高層建築が立ち並ぶに従って、部分的には堂々とした通りもできあがって来た。全体としては恐ろしく乱雑な、半出来の町でありながら、しかもどこかに力を感じさせる不思議な都会が出現したのである。
この復興の経過の間に自分を非常に驚かせたものが一つある。二、三年前の初夏、久しぶりに上京して東京駅から丸の内の高層建築街を抜けて濠側へ出たときであった。濠に面して新しい高層建築が建てそろっている。ここがあの荒れ果てた三菱が原であった時分から思うと、全く隔世の感がある。しかし自分を驚かせたのはこの建て並んだ西洋建築ではない。これらはまことに平凡をきわめたものである。そうではなくしてこれらの建築に対し静かに眠っているようなお濠の石垣と和田倉門とが、実に鮮やかな印象をもって自分を驚かせたのである。柔らかに枝を垂れている濠側の柳、淀んだ濠の水、さびた石垣の色、そうして古風な門の建築、――それらは一つのまとまった芸術品として、対岸の高層建築を威圧し切るほどの品位を見せている。自分は以前に幾度となくこの門の前を通ったのであるが、しかしここにこれほどまで鮮やかな芸術を見いだしたことはなかった。その後この門が修築せられたにもしろ、以前とさほど形を変えたわけではない。何がこのように事情を変ぜしめたのであろうか。ほかでもない、濠側に並んだ高層建築なのである。それが明白に異なった様式をもって石垣と門とに対立したとき、石垣や門はいわば額縁の中に入れられた。すなわちそれらは für sich になった。そこで石垣や門の持っている固有の様式がまた明白に己れ自身を見せ始めたのである。石垣や門の屋根などの持っている彎曲線は、対岸の西洋建築には全然見いだされないものである。石垣の石の積み方も、規格の統一とはおよそ縁のない、また機械的という形容の全然通用しない、従ってそれぞれの大きさ、それぞれの形の石に、それぞれその場所を与えたあの悠長なやり方である。それらはもはや現代には用いられ得ぬものであるかもしれない。しかしそれによって形成せられた一つの様式がその特殊の美を持つことは、消し去るわけには行かないのである。
復興された東京を見て回って感じさせられたことも、結局はこれと同じであった。巨大な欧米風建築に取り囲まれた宮城前の広場に立ってしみじみと感ぜさせられることは、江戸時代の遺構が実に強い底力を持っているということである。それは周囲に対立者のない時にはさほど目立たなかった。それほど何げのない、なだらかな、当たり前の形をしているからである。しかるにその、「なんにもない」と思われていた形の中から、対立者に応じて溌剌としたものが湧き出て来る。たとえば桜田門がそれである。あの門外でながめられるお濠の土手はかなりに高い。しかしそれは穏やかな、またなだらかな形の土手であって、必ずしも偉大さ力強さを印象するものではなかった。しかるに今この門外に立って見ると、大正昭和の日本を記念する巨大な議事堂が丘の上から見おろしている。そうして間近には警視庁の大建築がそそり立っている。そうなるとあのなだらかな土手が不思議にも偉大さを印象し始めるのである。あの濠と土手とによる大きい空間の区切り方には、異様に力強い壮大なものがある。しばらく議事堂や警視庁の建築をながめたあとで、眼を返してお濠と土手とをながめるならば、刺激的な芸のあとに無言の腹芸を見るような、もしくは巧言令色の人に接したあとで無為に化する人に逢ったような、深い喜びを感ずるであろう。そうしてさらに門内に歩み入って、古風な二つの門と、さびた石垣と、お濠と土手とだけでできている静寂な世界の中に立つと、我々の離れて行こうとする世界にもどれほど真実なもの偉大なものがあったかを感ぜずにはいられないであろう。
少し感じは異なるが、大阪城もまた古い時代を記念する大きい遺跡である。中の嶋あたりに高層建築が殖えれば殖えるほど、大阪城の偉大さは増して来る。そうしてそれは、江戸城の場合とは異なって、まず何よりもあの石垣の巨石にかかっている。あの巨石は決して「何げのない」「当たり前」のものとは言えぬ。のしかかるように人を威圧する意志があそこには表現せられている。ただ石垣に並べただけの石にそんな表現があるものかと言う人があるかもしれない。しかし大阪城を見る人は誰だってあの石には驚くのである。何ゆえに驚くか。山の上の巨岩を見ても同じ驚きは起こらない。そういう巨岩を大阪まで持って来て石垣の石として使いこなしているその力に驚くのである。自分はああいう巨石運搬についての詳しい事情は知らないが、専門家の研究を瞥見したところによると、結局は多衆の力によるらしい。しかしその多衆の力というものが個々の力を累計したものでなく一つの全体的な力に統一されなくては巨石は動かないのである。煉瓦を積んで大伽藍を造る場合にも多衆の力は働いているが、その力は煉瓦を運ぶ個々の力の集積であってよい。巨石運搬の場合には大綱に取りついた無数の群衆と、その群衆の力を一つにまとめる指導者とが必要である。絵で見ると巨石の上には扇をかざした人が踊っている。というのは、全身を指揮棒に代えて群衆の呼吸を合わせているのである。京都の祇園祭りの鋒の山車の引き方はその幽かな遺習であるかもしれない。大阪城の巨石のごときは何百人何千人の力を一つの気合いに合わせなくては一尺を動かすこともできなかったであろう。それでもまだどうして動かせたか見当のつかないほどの巨石がある。そういう巨石を数多くあの丘の上まで運んで来るためには、どれほどの人力を要したかわからない。その巨大な人力が凝ってあの城壁となっているのである。その点においてはエジプトのピラミッドもローマのコロセウムも大阪城に及ばない。しかもそういう巨大な人力をあの城壁に結晶させた豊太閤は、現代に至るまで三百余年間、京都大阪の市民から「偉い奴」であるとして讃美され続けて来たのである。そうしてこの「偉い奴」を記念する酔舞の行列は、欧米風の高層建築の並んだ通りをもなお練って行くのである。
お城を讃えると人はすぐに封建時代の讃美として非難するかもしれない。しかしお城が偉大さを印象すると主張することは、封建時代を呼び返そうとすることでもなければ、また、封建時代的な営造物を新しく作るように要求することでもない。それぞれの時代はその弊害や弱点を持つとともにまたその時代固有の偉大さを持っている。江戸時代の文化の偉大な側面に対して色盲となりつつ、ただその矮小を嘆くということは、この文化に対する正しい態度とは言えない。お城はただその一例であるが、他になおいくらでも例をあげることができよう。たとえば街路樹である。日本の古い都会には街路樹がなかった。だから西洋の都会をまねて街路樹を植え、しかもその樹にプラタヌスを選ぶなどということも、確かによいことではあったろう。しかしそれとともにあたかも日本に街路樹がなかったかのごとくに考えてしまうということは、前に言った色盲である。東海道の松並み木や日光の杉並み木などは、世界に類例のないほど豪壮な街路樹ではないか。松の幹が大きくうねって整列していないということは街路樹たる資格を毫も遮げるものではない。もし街路樹の必要を感ずるならば、すでにかくのごとき壮大な街路樹の存することを認識し、またそれを尊重しなくてはならない。そうすれば電線の下にすくんでいる矮小な樹が街路樹であると考えるような大きな見当違いをしなくても済んだであろう。欧州の都市においてはこのように小さな街路樹はただ新開の街にしか見ることができない。少しく立派な街ならば街路樹は風土相応の大木となっている。また大木とならなければ美しい街になることはできぬのである。街路から電線を取り除くことが不可能であるならば、電線は街路樹の枝の下に来べきものであって、梢を抑えるべきものではない。従って街路樹が電線の高さを乗り超え得るように工夫してやるべきである。そうでない限りいわゆる街路樹なるものは、松並み木、杉並み木などと呼ばれる古来の街路樹に対して、比較にさえもならないお茶番に過ぎぬ。そうして松並み木や杉並み木の街路樹としての壮大さを讃美することは、封建時代を呼び返そうとすることなどでは決してないのである。
これらのことを思うとき、それぞれの文化産物が、それに固有な様式の理解のもとに鑑賞されねばならぬことを痛感する。街路樹もそれぞれに様式を持っている。城のごときモニュメンタルな営造物は一層そうである。人はそれぞれの時代的、風土的な特殊の様式に対して、眼鏡の度を合わせることを学ばねばならない。そうすることによってそれぞれの物が鮮明に見え、その物の持つ意義が読み取られ得るのである。自分にとって鮮明でないからといってその物を無意義とするのは単なる主観主義に過ぎない。それはまた幼稚の異名である。我々は日本の文化の現状がまだこの幼稚の段階にとどまっているのではないかを恐れる。欧州文化の咀嚼においても、また自国文化の自覚においても。
(注)浜田耕作氏によると、大阪城大手門入り口の大石の一は横三十五尺七寸高さ十七尺五寸に達し、その他これに伯仲するものが少なくない(『京大考古学研究報告』第十四冊、六〇ページ)。かりにこの石の厚さを八尺とし、一立方尺の石の重さを十九貫四百匁とすれば、この石の重さは約十万貫、三七五トンとなる。なお梅原末治氏によれば、大阪城には四間に八間の大石もあるそうである。またエジプトの大ピラミッドの石は三フィート角、重さ二英トン半、石の数約二百三十万個だそうである。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1935(昭和10)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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埴輪というのは、元来はその言葉の示している通り、埴土で作った素焼き円筒のことである。それはたぶん八百度ぐらいの火熱を加えたものらしく、赤褐色を呈している。用途は大きい前方後円墳の周囲の垣根であった。が、この素焼きの円筒の中には、上部をいろいろな形象に変化させたものがある。その形象は人間生活において重要な意味を持っているもの、また人々が日ごろ馴れ親しんでいるものを現わしている。家とか道具とか家畜とか家禽とか、特に男女の人物とかがそれである。伝説では、殉死の習慣を廃するために埴輪人形を立て始めたということになっているが、その真偽はわからないにしても、とにかく殉死と同じように、葬られる死者を慰めようとする意図に基づいたものであることは、間違いのないところであろう。そういう埴輪の形象の中では、人物、動物、鳥などになかなかおもしろいのがある。それをわれわれは、わが国の古墳時代の造形美術として取り扱うことができるのである。
わが国の古墳時代というと、西暦紀元の三世紀ごろから七世紀ごろまでで、応神、仁徳朝の朝鮮関係を中心とした時代である。あれほど大きい組織的な軍事行動をやっているくせに、その事件が愛らしい息長帯姫の物語として語り残されたほどに、この民族の想像力はなお稚拙であった。が、たとい稚拙であるにもしろ、その想像力が、一方でわが国の古い神話や建国伝説などを形成しつつあった時に、他方ではこの埴輪の人物や動物や鳥などを作っていたのである。言葉による物語と、形象による表現とは、かなり異なってもいるが、しかしそれが同じ想像力の働きであることを考えれば、いろいろ気づかされる点があることと思う。
神々の物語にしても、この埴輪の人物にしても、前に言ったようにいかにも稚拙である。しかし稚拙ながらにも、あふれるように感情に訴えるものを持っていることは、否むわけに行かない。それについてまず第一にはっきりさせておきたいことは、この稚拙さが、原始芸術に特有なあの怪奇性と全く別なものだということである。わが国でそういう原始芸術に当たるものは、縄文土器やその時代の土偶などであって、そこには原始芸術としての不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められ、怪奇ではあっても決して稚拙ではない。それは非常に永い期間に成熟して来た一つの様式を示しているのである。しかるにわが国では、そういう古い伝統が、定住農耕生活の始まった弥生式文化の時代に、一度すっかりと振り捨てられたように見える。土器の形も、模様も、怪奇性を脱して非常に簡素になった。人物や動物の造形は、銅鐸や土器の表面に描かれた線描において現われているが、これは縄文土器の土偶に比べてほとんど足もとへもよりつけないほど幼稚なものである。こういう弥生式文化の時代が少なくとも三世紀ぐらい続いたのちに、初めて古墳時代が現われてくるのであるから、埴輪が縄文土器の伝統と全く独立に作り始められたものであることはいうまでもない。しかもその出発よりよほど後に、たぶん五世紀の初めごろに、人物の埴輪が現われ出たとなると、この埴輪の稚拙さが日本の原始芸術の怪奇性と全く縁のないものであることは、一層明らかであろう。
埴輪人形の稚拙さについて第二に注目すべき点は、この造形が必ずしも人体を写実的に現わそうなどと目ざしていないという点である。それは埴輪の円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無雑作な取り扱い方によく現われている。両足は無視されるのが通例であり、両腕も、この人物が何かを持っているとか、あるいは踊っているのだとか、ということを示すためだけに付けられるのであって、肩や腕を写実的に表現しようなどという意図は全然見られない。しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとは全く段違いの細かな注意をもって表現されている。甲冑の材料である鉄板の堅い感じ、その鉄板をつぎ合わせている鋲の、いかにもかっちりとして並んでいる感じ、そういう感じまでがかなりはっきりと出ているのである。それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。甲冑のほかには首飾りの曲玉や、頭の飾りなどのような装飾品も、「意味ある形」として重んぜられていたらしい。しかし何と言っても「意味ある形」のなかには、「顔面」の担っている意味よりも重い意味を担っているものはない。その点から考えると、埴輪人形の顔面が体の他の部分と著しく異なった印象を与えるのは、いかにも当然のことなのである。
顔面は、眼、鼻、口、頬、顎、眉、額、耳など、一通り道具がそろっているが、中でも眼、鼻、口、特に眼が非常に重大な意味を担っている。原始的な造形において眼がそういう役目を持っていることは、フロベニウスに言わせると、南フランスの洞窟の動物画以来のことであって、なにも埴輪人形に限ったことではないのであるが、しかし埴輪人形において特にこのことを痛感せしめられるということも、軽く見るわけには行かない。埴輪人形の一番の特色は眼である。あの眼が、あの稚拙な人物像を、異様に活かせているのである。
と言ってもあの眼は、無雑作に埴土をくりぬいて穴をあけただけのものである。通例はその穴が椎の実形の、横に長い楕円形になっていて、幾分眼の形を写そうとした努力のあることを思わせるが、しかしそれ以外には眼を写実的に現わそうとした点は少しもない。時にはその穴がまん丸であることさえもある。しかしそういう無雑作な穴が二つ並んであいていることによって、埴輪の上部に作られた顔面に生き生きとした表情が現われてくることを、古墳時代の人々はよく心得ていたようにみえる。二つの穴は、魂の窓としての眼の役目を十分に果たしているのである。
古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、時には二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼は実に異様な生気を現わしてくるのである。もしこの眼が写実的に形作られていたならば、少し遠のけばはっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きが現われれば、顔面は生気を帯び、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、またそういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
こう考えてくると埴輪の人形の持っているあの不思議な生気のなぞが解けるかと思う。埴輪人形の製作者は人体を写実的に作ろうとしたのではない。ただ意味ある形を作ろうとしただけである。しかし意味ある形のうちの最も重要なものが人の顔面であったがゆえに、ああいう埴輪の人形ができあがったのである。その造形の技術はいかにも稚拙であるが、しかし「人」を顔面によって捕えようとする態度は、技術と同じに稚拙とはいえない。技術を学び取れば、それに乗って急にあふれ出ることのできるようなものが、その背後にある、と私は感ぜざるを得ない。従って、これらの稚拙な埴輪人形を作っていた民族が、わずかに一、二世紀の後に、彫刻として全く段違いの推古仏を作り得るに至ったことは、私にはさほど不思議とは思えないのである。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「世界」
1956(昭和31)年1月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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青春を通り越したというのでしきりに残り惜しく感じている人があるようですが、私はまだその残り惜しさをしみじみ感ずるほどな余裕をもっていません。それよりも、やっと自分がハッキリしかかって来たということで全心が沸き立っているのです。時々自分の青春を振り返ってみる時にはそこに自分の歩かなければならなかった道と、いかにも「うかうかしていた」自分の姿とを認めるきりで、とても過ぎ去った歓楽を追慕するような心持ちなどにはなれません。もう少し年を取ったらどうなるかわかりませんが、今のところでは回顧するたびごとにただ後悔に心臓を噛まれるばかりです。
しかし私は青春と名のつく時期を低く評価してはおりません。恐らくそれは、人生の最も大きい危機の一つであるだけに、また人生の最も貴い時期の一つでしょう。その貴さは溌剌たる感受性の新鮮さの内にあります。その包容力の漠然たる広さの内にあります。またその弾性のこだわりのないしなやかさの内にあります。それは青春期の肉体のみずみずしさとちょうど相応ずるものです。そうして年とともに自然に失われて、特殊の激変に逢わない限り、再び手に入れることのむずかしいものです。
この時期には内にあるいろいろな種子が力強く芽をふき始めます。ちょうど肉体の成長がその絶頂に達するころで、余裕のできた精力は潮のように精神的成長の方へ押し寄せて来るのです。で、この時期に萌えいでた芽はたとえそれが生活の中心へ来なくても、一生その意義を失わないものだと聞きました。たとえば芸術家の晩年の傑作などには、よく青春期の幻影が蘇生し完成されたのがあるそうです。また中年以後に起こる精神的革命なども、多くはこの時期に萌え出て、そうして閑却されていた芽の、突然な急激な成長によるということです。それほどこの時期の精神生活は、漠然とはしていても、内容が豊富なのです。
しかし危険はこれらの一切が雑然としている所にあります。そこには全体を支配し統一するテエマがありません。従ってすべてがバラバラです。つまらない芽を大きくするためにいい芽がたくさん閑却されても、それを不当だとして罰する力はないのです。
実を言えばそのテエマは、おのおの独特な形で、あらゆる人間の内にひそんでいるのであります。そうしてそれがハッキリと現われて来れば、雑然としていたものはおのおのその所を得て、一つの独特な交響楽を造り出すのであります。しかしそれは何人といえども予見し得るものではありません。特に青春の時期にある当人にとっては、それは全然見当のつかない、また特別の意義がありそうにも思えない、未知数に過ぎないのです。それが初めから飲み込めているほどなら、青春は危機ではありません。その代わり新緑のような溌剌としたいのちもないでしょう。
そこでこの青春を、心の動くままに味わいつくすのがいいか、あるいは厳粛な予想によって絶えず鍛練して行くのがいいか、という問題になります。
青春は再び帰って来ない。その新鮮な感受性によって受ける全身を震駭するような歓楽。その弾性に充ちた生の力から湧き出て来る強烈な酣酔。それはやがて永遠に我々の手から失われるだろう。一生の仕事は先へ行ってもできる。青春は今きりだ。これを逸すれば悔いを永久に残すに相違ない。味わえるだけの歓楽を味わいつくそうではないか。こういう心持ちになる時期のあることは、誰でもまぬかれ難い所だろうと思います。恋、女、酒あるいは芸術、そういうものは猛烈に我々を誘惑にかかるのです。時にはそのためにすべての顧慮を捨てて、底まで溺れ切ろうという気も起こります。それが何となく英雄的にさえも感ぜられるのです。
これは一方から言えばいい事に相違ありません。生の享楽を知らないものは死んでいるのも同然です。底まで味わおうとしないのは生に対する卑怯です。もとより享楽に走るものはいろいろな過失に陥りはしますが、ゲエテも言ったように、
Wer nicht mehr liebt und nicht mehr irrt,
Der lasse sich begraben.
です。頭がぐらぐらしたり心が沸き立ったりするような目に逢うのも、生きがいがあるというものです。
しかしここには見のがすことのできない危険があります。それは歓楽に身をまかせることによって、他のさまざまな欲望を鈍らせることです。理想が何だ、道徳が何だ、人生が何だ、といったようなのんきな心持ちになることです。ゲエテのように、「全的」に、「充満」の内に生きることを心がけていた人なら、「過去を悔いず未来を楽しまずただ常に現前を味わえ」、という法則を自己の生活の上に掲げても、別に危険はなかったでしょう。しかし青春の時期にあるものは、この全的に生きるということを最も解していないのです。どこか一方へ偏すればそれきり他の方面を無価値に見てしまうほど、彼らの内のすべてのことの根が浅いのです。現前を味わっている内に、成長すべきものが成長せず、いつか人格が歪になって行きます。そうして、ほんとうの生の頽廃まで行かないにしても、とにかく道義的脊骨を欠いた、生に対して不誠実な、なまこのような人間になってしまいます。これは確かに大きい危険です。
それでは青春を厳格に束縛し鍛錬して行くのがいいか。――もちろんそれはいい事です。青春期に道義的情熱をあおり立てるのは、どの他の時期よりも有効です。しかしこの事は多くの場合に方法を誤られていると思います。なぜなら、道義的情熱は内から必然に湧いて出なければ何の意味もない。型にはめるように外から押しつけるのでは、ただ内にある生命を窒息させるばかりです。恋をしてはいけない、女に近づいてはいけない、小説を読んではいけない、芝居を見てはいけない、――要するに生を味わってはいけない! それでどんな人間ができますか。乾干びた、人間知のない、かかしのような人間です。鼻先から出る道徳に塗り固められて何事も心臓でもって理解することができず、また何事も心臓から出て行為することのできない、死人のような人間です。ゲエテも言ったように、迷うということは生きる証拠です。道義の力は迷った後にほんとうに理解せられる。まず生かしてみないでほんとうの生を獲得させようというのは、もともと無理なのです。そんな型にはめるような鍛練は、害こそあれ益はありません。今の青年教育は大概この弊に陥っています。ただ、性格のしっかりした青年は、反抗心によってこの教育の害悪から救われているのです。
私は右の二つの態度のいずれをも肯定し、いずれをも否定しました。ではどうしろというのか。私はこのことについて一つのモットオを持っています。それは「すべてを生かせよ、一切の芽を培え」というのです。いわば自然に成長するままに、歪にならないようにして、放任しておこうというのです。そうしてただ、その芽の成長を助ける滋養分だけを、与えようというのです。その成長が自分の希望するような人格を造り上げて行かなくても、それは仕方がありません。それは宿命ですから。人力のいかんともしがたいものですから。しかし私は、その成長が歪になることだけを、非常に恐れています。一切の芽がその当然成長すべきだけ成長しないのは、確かに罪悪です。それは当人の罪であるばかりでなく、また傍にいて救いの手を貸してやらない者も、責めを負わねばなりません。
ここに私は困難な、そうして興味ある問題を見いだします。なぜなら、青春期に我々の内に萌えいでた芽は、その滋養を要する点で一々異なっているからです。またその滋養が機械的に与えられるものではないからです。
たとえば青春期に著しい恋愛の憧憬や性慾の発動には、それを刺激し強める種類の滋養は必要でありません。なぜなら、そういう種類の滋養はわざわざ与えるまでもなく、日常の生活にありあまるほどあるからです。街を歩く。そこに美しい女がいます。その流動する眼や、ふっくりと持ち上がった頬や、しなやかな頸や、――それはいや応なしに眼にはいって来ます。友人に逢う。恋の悩みを聞かされます。その甘い苦しみが人を刺激しないではいません。この種類の刺激はとても数えきれないのです。ことに餓えたるものにとっては、些細な見聞も実に鋭敏な暗示として働きます。しかも恋愛や性慾が人間の性質の内で特にこのように刺激されなければならないわけはないのです。それは刺激されなくとも必要なだけには成長するのです。で、この方面にはむしろ鎮静剤が必要なくらいです。特に恋愛の深いまじめな意味に対する感受性を鈍らせないために、性慾の暴威を打ちひしぐ必要があります。そのためには人格内の他の芽を力強く成長させなくてはならないのです。ワレンス夫人がルッソオに与えたような親切な救助も、あるいは一法かも知れませんが、しかしあれはすべての人に望むわけには行きません。やはり人は自ら救わなくてはなりません。
私は恋愛や性慾に身を委せるのがいきなり悪いと言うのではありません。ただそういう方面の芽は自分で生かせようと努めないでもどんどんのびて行くものだというのです。そうしてそののびて行くことはいいことなのです。しかし「すべてを生かせよ、一切の芽を培え」という以上、それだけがのびればいいと言うわけには行きません。もっと他の美的な、道義的な宗教的な、さまざまな芽に対しても、十分のびるだけの滋養を与えなくてはなりません。時には残忍とか狡猾とか盗心とかいうものに対してまでも滋養を与えなくてはならないかも知れません(しかしこれらは性慾などと同じく直接的な人間の欲望で、培養するまでもなく人間の内に生きているのでしょう。そうしてそれ以上に強められる必要もないでしょう。なぜなら他の欲望がそれを押えつけようとしていますから)。で、青春の時期に最も努むべきことは、日常生活に自然に存在しているのでないいろいろな刺激を自分に与えて、内に萌えいでた精神的な芽を培養しなくてはならない、という所に集まって来るのです。
これがいわゆる「一般教養」の意味です。数千年来人類が築いて来た多くの精神的な宝――芸術、哲学、宗教、歴史――によって、自らを教養する、そこに一切の芽の培養があります。「貴い心情」はかくして得られるのです。全的に生きる生活の力強さはそこから生まれるのです。それは自分をある道徳、ある思想によって縛ることではありません。むしろ自分の内のすべてを流動させ、燃え上がらせ、大きい生の交響楽を響き出させる素地をつくるのです。
この「教養」は青春期においては、その感覚的刺激の烈しくない理由によって、きわめて軽視されやすいものです。しかしその重大な意義は中年になり老年になるに従ってますます明らかに現われて来ます。青春の弾性を老年まで持ち続ける奇蹟は、ただこの教養の真の深さによってのみ実現されるのです。
元来肉体の老衰は、皮膚や筋肉がだんだん弾性を失って行くという著しい特徴によって、わりに人の目につきやすいようですが、精神の力の老衰は一般に繊細な注意を脱れているように見えます。しかしわが国では、文芸家や思想家の多くは、四十を越すか越さないころからもう老衰し始めています。これはおもに青春期の「教養」を欠いたからです。彼らは青春期の不養生によって、人間としての素質を鞏固ならしめることができませんでした。頭と心臓がすぐに硬くなりました。人間の成長がすぐ止まりました。彼らの内に萌え出た多くの芽は芽の内に枯れてしまいました。そこへ行くと夏目先生はやはり偉かったと思います。先生の教養の光は五十を越してだんだん輝き出しそうになっていました。若々しい弾性はいつまでも消えないでいました。
私は誤解をふせぐために繰り返して言います。この「教養」とはさまざまの精神的の芽を培養することです。ただ学問の意味ではありません。いかに多く知識を取り入れても、それが心の問題とぴったり合っているのでなくては、自己を培うことにはなりません。私はただ血肉に食い入る体験をさしているのです。これはやがて人格の教養になります。そうして、その人が「真にあるはずの所へ」その人を連れて行きます。その人の生活のテエマをハッキリと現われさせ、その生活全体を一つの交響楽に仕上げて行きます。すべての開展や向上が、それから可能になって来るのです。
この「教養」は青春の歓楽を味わいつくす態度や、厳粛に自己を鞭うって行こうとする態度と必ずしも相容れないものではありません。人それぞれにその素質に従って、いずれの態度をとる事もできるでしょう。しかしいずれの態度をとるにしても、「教養」は人を堕落から救います。そうして人をその真の自己へ導いてゆきます。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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『青丘雑記』は安倍能成氏が最近六年間に書いた随筆の集である。朝鮮、満州、シナの風物記と、数人の故人の追憶記及び友人への消息とから成っている。今これをまとめて読んでみると、まず第一に著者の文章の円熟に打たれる。文章の極致は、透明無色なガラスのように、その有を感ぜしめないことである。我々はそれに媒介せられながらその媒介を忘れて直接に表現せられたものを見ることができる。著者の文章は、なお時々夾雑物を感じさせるとはいえ、著しくこの理想に近づいて来たように思う。これは著者の人格的生活における近来の進境を物語るものにほかならぬ。そうしてそのことを我々はこの書の内容において具体的に見いだすことができるのである。
著者はこの書の序文において、「悠々たる観の世界」を持つことの喜びを語っている。この書はこのような心持ちに貫かれているのである。そうしてまさにその点にこの書の優れたる特色が見いだされると思う。
観照もまた一つの態度としては実践に属する。それは時にあるいは有閑階級にのみ可能な非実践の実践として、すなわち搾取者の奢侈として特性づけられ得るであろう。あるいはまた怯懦な知識階級の特色としての現実逃避であるとも見られるであろう。しかしこれらの観照は「悠々たる」観の世界を持つものとは言えない。人が悠々として観る態度を取り得るのは、人間の争いに驚かない不死身な強さを持つからである。著者はシナの乞食の図太さの内にさえそれに類したものを認めている。寒山拾得はその象徴である。しからば人はいかにして不死身となり得るか。我を没して自然の中に融け入ることができるからである。著者はこの境地の内に無限に深いもの、無限に強いものを認める。「悠々たる」観の世界はかかる否定の上に立つものにほかならぬ。
ところでこの「否定」は単なる否定ではない。それは著者によれば「本来の境地」の把捉である。いいかえれば「そこよりいで来たるその本源の境地に帰る」ことである。しからばその否定は否定の否定であり、従ってこの否定において没せられる我そのものがすでに一つの否定態でなくてはならぬ。著者はこのことを明白に論じてはいないが、自然と人事とを観る態度の「悠々たること」は実はここにもとづくのであり、また否定の陰に肯定のあることを関説するのもここに起因するのではないかと思う。
悠々として観る態度が否定の否定を意味すると見るとき、我々はこの書の優れたる力を充分に理解し得るかと思う。著者は朝鮮、シナの風物を語るに当たって、我を没して風物自身のしみじみとした味を露出させる。しかもこれらの風物は徹頭徹尾著者の人格に滲透せられているのである。「観る」とはただ受容的に即自の対象を受け取ることではない。観ること自身がすでに対象に働き込むことである、という仕方においてのみ対象はあるのである。我は没せられつつ、しかも対象として己れを露出して来る。ここに著者の風物記の滋味が存すると思う。
もちろん著者が顕著に個人主義的傾向を持つことは覆い難い。日本の文化や日本人の特性が批判せられるに当たって最も目につくことは個人の自覚の不足が指摘せられている点である。この不足のゆえに公共生活の訓練が不充分であり、従ってあらゆる都市の経営が根柢を欠いている。日本人はまだ都市の公共性を理解しない、これが著者の嗟嘆の一つである。しかしこのことは否定の否定が実現せられ得るためにまず第一の否定が明白に行なわれねばならぬことをさしているにほかならぬ。著者が一人旅の心を説くのも、我執に徹することによって我から脱却し、自然に遊ぶ境地に至らんがためであった。ただ我執の立場にとどまる旅行記からは、我々は何の感銘も受けることができない。脱我の立場において異境の風物が語られるとき、我々はしばしば驚異すべき観察に接する。人間を取り巻く植物、家、道具、衣服等々の細かな形態が、深い人生の表現としての巨大な意義を、突如として我々に示してくれる。風物記はそのままに人間性の表現の解釈となっている。特に人間の風土性に関心を持つ自分にとっては、これらの風物記は汲み尽くせぬ興味の泉であった。
著者が故人を語るに当たって示した比類なき友情の表現もまた同様に脱我の立場によって可能にせられている。特に人を動かすのは浅川巧氏を惜しむ一文であるが著者はここに驚嘆すべき一人の偉人の姿をおのずからにして描き出している。描かれたのはあくまでもこの敬服すべき山林技師であって著者自身ではない。しかも我々はこの一文において直接に著者自身と語り合う思いがある。悠々たる観の世界は否定の否定の立場として自他不二の境に我々を誘い込むのである。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「帝国大学新聞」
1933(昭和8)年1月16日
※編集部による補足は省略しました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049875",
"作品名": "『青丘雑記』を読む",
"作品名読み": "『せいきゅうざっき』をよむ",
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"初出": "「帝国大学新聞」1933(昭和8)年1月16日",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-12-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"人物ID": "001395",
"姓": "和辻",
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"姓ローマ字": "Watsuji",
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"生年月日": "1889-03-01 ",
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キェルケゴオルのドイツ訳全集は一九〇九年から一九一四年へかけて出版せられた。その以前にも前世紀の末八〇年代から九〇年代へかけて彼の著書はかなり翻訳せられたが、宗教的著作のほかは、かなり厳密を欠いたものであった。
彼に関する研究は、一八七九年に出たブランデスの論文が最も早いものの一つで、その後漸次多くなり、今世紀に入ってからは著しく盛んになっている。一九〇九年までには単行本が六冊、その後一九一三年までには単行本が十冊、雑誌の論文が十篇に達している。戦争が始まってから後にも『キルケゴオルとニイチェ』という本が出たそうである。
キェルケゴオルはその誠実な人格的生活、真生活築造の情熱、及びプラグマチズム風の認識論、特に主意的な人生観、著しい宗教的傾向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人主義、――などにおいて十分注意せられる価値がある。
私がキェルケゴオルを読み初めたのはきわめて偶然に菅原教造氏の勧めに従ったのであった。そして最初はあまり引きつけられなかった。ところが昨年の六月の初めに、突然彼の内部へはいったような心持ちを経験した。その後私はほとんど彼のみを読んだ。私は自分の問題と彼の問題とがきわめて近似していることを感じた。ついには彼の内に自分の問題のみを見た。
その問題は概括すれば「いかに生くべきか」に関している。自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を全然捨離し得ない苦悶。(金、地位、名声などに因する種々の心持ち。)愛の心と個性を重んずる心との争い。(女、肉欲、愛、結婚生活、親子の関係、自分の仕事などについての種々の心持ち。)個性と愛とを大きくするための主我欲との苦闘。主我欲を征服し得ないために日々に起こる醜い煩い。主我欲の根強い力と、それに身を委せようとする衝動と。愛と憎しみと。自己をありのままに肯定する心と、要求の前に自己の欠陥を恥ずる心と。誠実と自欺と。努力と無力と。生活を高めようとする心と、ほしいままに身を投げ出して楽欲を求むる心と。――これらのものが絶えず雑多な問題を呼び醒ます。
私の努力はそれと徹底的に戦って自己の生活を深く築くにある。私の心は日夜休むことがない。私は自分の内に醜く弱くまた悪いものを多量に認める。私は自己鍛錬によってこれらのものを焼き尽くさねばならぬ。しかし同時に私は自分の内に好いものをも認める。私はそれが成長することを祈り、また自己鞭撻によってその成長を助けることに努力する。これらのことのほかに、私は自己を最も好く活かす方法を知らない。――私は自己の内のある者を滅ぼすのが直ちに自己を逃避することになるとは思わない。私は自分の上に降りかかってくるように感じられる運命に対しては、それがいかに苦しいことであっても、勇ましく堪え忍び、それによって自己を培う。しかし事が自分の自由の内にあって自分の決意を待つものである限りは、私は自己の意志によってある者を殺し他の者を活かせる。もしくは一つの者を、殺した後に活かせる。これはもとより、私には容易なわざでない。それゆえ、私は精進する。
このような努力においてもキェルケゴオルは私のきわめて近い友であり、また師であった。
私はこの書において、できるだけキェルケゴオルを活かそうと努めたが、それがどのくらいに成功しているかは自分にはわからない。私は彼についての解釈があまり自分勝手になっていはしないかを恐れている。ことに私は、今振り返ってみると、日本人らしい accent で彼の思想感情を発音したように感じる。それにはギリシア及びキリスト教文明の教養の乏しいことも原因となっているに相違ない。しかしなお他に動かし難い必然がありはしないか。
私は近ごろほど自分が日本人であることを痛切に意識したことはない。そしてすべて世界的になっている永遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も好く活かしている事実に、私は一種の驚異の情をもって思い至った。最も特殊なものが真に普遍的になる。そうでない世界人は抽象である。混合人は腐敗である。――しかも私は真に日本的なものを予感するのみで、それが何であるかを知らない。私は我々の眼前にそれが現われていると信じたくない。なぜなら私は悪しき西洋文明と貧弱な日本文明との混血児が最も栄えつつあるのを見ているのだから。――しかし私は西洋文明を拒絶することによって真に日本的なものが現われるとは信じない。偉大な西洋文明を真髄まで吸収しつくした後に、初めて真に高貴な日本的がその内に現われるのではないだろうか。
この際このことを言うのはやや自己弁解に類する。しかし私はそう信じている。
今度の世界戦争は恐らく Menschheit の向上に何ら貢献するところがないだろう。物質主義はますます勢力を得るに相違ない。しかし断然たる反動は必ず起こらねばならぬ。我々は第二の Renaissance を期待する。新しい価値、自由にして剛健な内よりの道徳、個性の尊重、真の意味の実行、享楽の卑下、より高い者を実現するための誠実なる悩苦の生活。世紀末から世紀始めへかけて五六の偉人がその礎石を置いた。キェルケゴオルもまたその内に伍するのである。
この書の成るに当たって、永い間本を借してくだすった井上先生、大塚先生、小山内薫氏、本を送ってくだすった原太三郎氏、及び本の捜索に力を借してくだすった阿部次郎氏、岩波茂雄氏に厚くお礼を申し上げる。
大正四年八月
鵠沼にて
和辻哲郎 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「時事新報」
1915(大正4)年9月7、8日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050681",
"作品名": "「ゼエレン・キェルケゴオル」序",
"作品名読み": "「ゼエレン・キェルケゴオル」じょ",
"ソート用読み": "せえれんきえるけこおるしよ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「時事新報」1915(大正4)年9月7、8日",
"分類番号": "NDC 121 139",
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"人物ID": "001395",
"姓": "和辻",
"名": "哲郎",
"姓読み": "わつじ",
"名読み": "てつろう",
"姓読みソート用": "わつし",
"名読みソート用": "てつろう",
"姓ローマ字": "Watsuji",
"名ローマ字": "Tetsuro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1889-03-01 ",
"没年月日": "1960-12-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "2007(平成19)年4月10日",
"入力に使用した版1": "2007(平成19)年4月10日第1刷",
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一
講和近づけりという噂がある。しかし戦争はまだやむまい。ばかばかしい話だが、英独両国で面目をつぶすのをイヤがっている間は、とうてい仲なおりはできぬ。
戦争はまだ幾年も続くだろう。そうして結局、各国ともに、社会的不安と政治的革命とを経験する事になるだろう。つまり現在露国で露国風に起こっている状態が、英国では英国風に、仏国では仏国風に、ドイツではドイツ風に、必ず起こるに相違ない。そうして一般民衆は現戦争の罪が敵味方共通のある種の資本家やユンケル連にあることを正直に認め、人類の光栄のためにこの種の階級に対して神聖な戦いを宣するだろう。そうなると今対峙している敵味方の間の勝敗などは、どうでもよくなってしまう。今までの軍国主義者や愛国狂は顔を蒼くしてすみの方へ引き込んで行く。その代わり、英、独、仏、露、敵味方各国の人民はお互いに暖かい情をもって手を握り合い、お互いの民族の優れた性質や高貴な文化を賞讃し合う。そうしてこの恐ろしい悲惨な戦争を起こした少数の怪物たちを、共通の敵として憎むことに同意する。
ここでばかばかしく無意義に見えた現戦争が、文化史的に非常に重大な意義を獲得する事になる。すなわち文芸復興期以後二十世紀まで続いて来た自然科学と国家組織との発達が、その極点に達して破裂してしまうのである。そうして旧来の自然科学的文化の代わりに理想主義的文化が、利己主義的国家の代わりに世界主義的国家が、力強く育ち始めるのである。
低級な戦争目的が世界的問題となるようなことは、その時にはもう起こらない。新しい世界人の関心事は人生の目的である。人間の生活そのものが、すべての問題の焦点に来る。国家は、人生目的の実現に対して有利であるという事をほかにして、もはや存在の理由をもたないのである。
かくて人間の生活は、永い間の抽象化を脱して、久しぶりに具体的になる。
人類の運命はやっと常軌に返る。
その先駆としての露国革命はきわめて拙く行った。しかし、露国の革命には五十年の歳月が必要だと言われているくらいだから、今の無知無恥な混乱も露国としてはやむを得ないかもしれぬ。同じ革命がドイツや英国に起こる時には、決してあんな醜態は見せまい。民衆の教養は共同と秩序とを可能にする。現在民衆の人間らしい本能を押えつけている力の組織は、やがてまたそれを倒す民衆の力の内にも現われて来るだろう。
もし近い内に真実の講和が来るとすれば、それは右の機運が内部に熟している証拠である。
そうでなくただ妥協的に、戦前の状態に復するような講和は成立するわけがない。これほどの大事件が深い痕跡を残さずにすむものか。
二
われわれの経験は時間と空間との相違によって著しく強さを異にするものである。
ある事件を一か月の間に経験するのと、一か年に引きのばして経験するのとでは、その印象の深さがまるで違う。すぐそばで経験するのと遠く離れて経験するのとの相違も同様である。
この心理的事実のゆえに我々は現在世界に起こりつつある大事件をさほど強く感じてはいない。最近一か年の露国の急激な変化すらも、毎日の新聞電報に注意を払っているものにはともすれば緩徐に過ぎるごとく感ぜられるのである。戦争のもたらした残酷な不具癈疾、神経及び精神の錯乱、女子及び青年の道徳的頽廃、――これらの恐ろしかるべき現象も、ただ空間の距たりのゆえに我々にはほとんど響いて来ない。
しかしこの直接印象の希薄は、想像力の集中と、省察の緊張とによって、ある程度まで救うことができる。そうしてそれは我々日本人が世界的潮流に遅れないために不断に努力すべき所である。
ヨーロッパ人は今異常に苦しんでいる。日本人はその苦しみを自分の身に分かつ代わりにむしろ嬉しそうにおもしろそうにながめている。他人の不幸を喜ぶのである。しかし苦しむものは育つ。この一、二年間のヨーロッパには、日本人の容易に窺知し難い進歩があった。ヨーロッパが苦しみ疲れるのをあたかも自分の幸福であるがごとく感じている日本人は、やがて世界の大道のはるか後方に取り残された自分を発見するだろう。それはのんきな日本人が当然に受くべき罰である。
我々はこの際他人の不幸を喜ぶような卑しい快活に住していてはならない。我々は今人間生活の大きい厳粛な転向点に立っているのである。
三
現戦争がこのように大きい変革を世界史の上にもたらすとすれば、戦後の芸術はどうなるであろうか。
第一に考えられるのは、一般民衆が勢力を得るとともに、在来の貴族的芸術を虐待するだろうという事である。露国の農民や労働者がレムブラントを虐待する。婦人運動に加わっている英国の女がレムブラントを破壊しようとする。ドイツの砲兵が美しい寺院建築を平気で目標にする。彼らの眼にはこの種の芸術は貴族や金持ちの道楽品に過ぎぬので、それを破壊するのが何ゆえ大きい罪であるかという事はほとんど理解せられないのである。この種の民衆は、たとえばトルストイの芸術論を基礎として、多くの優秀な芸術品の破壊を命令しないとも限らない。
もしこうなるとすれば、ロマン・ロオランのごとき人が、殉教的な熱情をもって高貴な芸術と民衆との間に通弁すべき時が来るのである。ここで真に芸術の使徒となろうとする人は生命を賭してロマン・ロオランのごとき人を支持するのである。
人間は神の前において平等である。しかしある人は他の人よりも多くの稟賦を恵まれ、そのより多くの力をもって指導者の位置につくことができる。あるいは、つかねばならぬ。生来の芸術家はこの種の人である。いかに平民主義が栄えても、天与の才に対する尊敬の念は失わるべきでない。――この点を明らかにするのが第一の任務である。
一般民衆が圧抑に対する反動をもって動くときには、ともすれば群集心理的の浮ついた気分になって、芸術を受用し得るような心の落ちつきを失うものである。しかし民衆の教養は、西ヨーロッパにおいては、必ずしも上流社会の教養よりも劣っているとは限らない。むしろ中流以下の民衆の方により多く精神的教養への欲望が認められるくらいである。彼らを理解に導いて行く機会と設備とをさえ整えれば、――そうして国家が精神的才能の活用法に十分心を用うれば、――平民主義の下にもより美しい芸術の時代が現出し得るだろう。――この民衆教化が第二の任務である。
しかし現在露国の一部労働者が芸術を虐待したからといって、それで戦後の芸術を推しはかるのは少し無理だと思う。一般的に言って教養ある民衆の方が官僚政治家や金持ちなどよりもよりよく芸術を解するのである。
四
次に考えられるのは、戦争のもたらした生活の変化が著しく芸術の上に現われるだろうという事である。
まず急激な物質的進歩がある。この点についてはすでに最近十年の変遷が実に目まぐろしい。古い歴史を読む場合には十年という年月はさほど注意するに当たらないきわめて短いもののように思える。しかし我々の前の十年は、汽車、汽船、電信、電話、特に自動車の発達によって、我々の生活をほとんど一変した。飛行機、潜航艇等が戦術の上に著しい変化をもたらしたのもわずかこの十年以来のことである。その他百千の新発明、新機運。それが未曾有の素早さで、あとからあとから人間に押し寄せて来た。その目まぐろしさが戦争突発以後ますます物狂おしく高まって来る。あらゆる発明と発達とはその成果を戦場に並べ立て、あらゆる個々の進歩はその戦争への貢献によって一時に我々の注意を刺激する。戦前の十年もついに戦争中の一年に如かない。
このことはおそらく狂気じみたいら立たしさ――持続の意力をほとんど完全に欠いた神経の慄動――をもって芸術に影響するだろう。十九世紀末のデカダンスを普仏戦争の影響と結びつけて考え得るものは、現戦争の後にさらに強度のデカダンスを予期しなくてはならぬ。
しかしもっと重大なのは、急激な精神的変化である。現戦争によって自然科学はそのあらゆる威力を発揮した。人間は自然力の上に未曾有の強大な支配者となった。しかしそれで人間はどれほどよくなったか。お互いに殺人器をますます精鋭にし、殺人法をますます残酷にしたというほかに、どれほど人間を進歩させたか。――我々は現戦争のあらゆる著しい特質を見まわしたあとで、結局、最近の自然力支配は人間の罪悪と不幸とを一層深めた、という結論に到達する。すなわち解放せられた自然的欲望はその自由の悪用のゆえに貪婪の極をつくしてついに自分を地獄に投じた。人智の誇りであるべき自然力征服は、それ自身においては「文化」を意味し得るようなものでないということを遺憾なく立証した。ここで自然科学崇拝の傾向を破産しなければならぬ。この気分の変化は少なくとも人生をまじめに考える人々の間では、十分強く経験せられたように見える。文芸復興期以来しきりに重ねられて来た人間の妄想が再びまた「人道主義」の情熱によって打ち砕かれるのである。世界史の大きい振り子は行き詰まるごとに運動の方向を逆に変えるが、しかしその運動の動因は変わらない。
それとともにもう一つ見落としてはならぬ変化は、社会組織の基礎として民衆の共同や協力を力説する思想が著しく栄えて来たことである。服従の代わりに協力。命令の代わりに協議。従ってまた個人は、社会に安全に生息するために、ある型に自分をはめ込まねばならぬ、というような必要から全然解放せられた。何人も、何らの束縛なしに、彼自身であってよい。何者にも盲従するには当たらない。しかし人間が超個人的な永遠な事業を完成するためには、できるだけ有機的に個々の力を共同させねばならぬ。その組織が完全になればなるほど人生の目的は力強くつかまれる。――この事情は勢い民衆の間の心と心との交通を力づけるだろう。
そこでキリスト教的心情の強く現われた芸術が、この時代の心から生まれて来るだろうと考えられる。十九世紀にはやった物質的な社会主義の代わりに、キリスト教的平民主義が力を得、トルストイやドストイェフスキイの蒔いて行った種が勢いよく育って行くであろう。
涙を冷笑した時代の後に、また涙を尊ぶ時代が現われるのである。
五
次には芸術家の問題である。
現戦争は人に人生の意義と目的とを反省させないではおかない。従ってまた人類の有史以来数千年の業績をも、しみじみと自己の問題として回顧せしめる。この事がもしある芸術的天才の心裡に起こったならば、そこに何らか雄大な結晶物が生まれないではいないだろう。
考えてみると、古来の芸術的傑作には戦争に刺激せられてできたものが非常に多い。造形美術ではペルシア戦争後のアテナイの諸傑作などがその最も著しい例である。文学でも『イリアス』が戦争の詩である事は言うまでもなく、ダンテの『神曲』は十字軍から百年戦争までの間の暗い時代にダンテ自身の戦争経験をも含めて造られ、ゲエテの『ファウスト』は仏国大革命の時代をその製作期として持っている。これらは戦争の刺激によって芸術家が人生全体を通観する機会を与えられた、という事実を語るものではなかろうか。『イリアス』が古代世界を代表し、『神曲』が古代と中世とを包括し、『ファウスト』が古代中世近代の全体を一つの世界にまとめ上げた、というように、大仕掛けな、時代全体のみならず、人類の運命全体を表現しようとする芸術品は、我々の時代においても、現戦争のすさまじい刺激の下から、生まれて来はしないだろうか。
私はその出生を予期するのが根のない空想だとは思わない。
現戦争はヨーロッパの人民全体を、戦場にあると否とにかかわらず、魂の底から震駭させた。この深刻な経験が結晶せずに終わるだろうと信ずるのは、世界のすみにあって戦争の苦しさをのんきに傍観している浅薄な国民だけだろう。
しかし世界はそう単純には行かない。世界が何かの単色に塗られるだろうなどと考えるのは、正気の沙汰ではない。
近代文化の総勘定。それが現に行なわれつつあるのである。そうしてこの二、三年の間にその大体の計算ができあがるのである。近代文化が多種多様な内容を持っていただけに、その計算の結果も定めて複雑なものだろう。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新小説」
1918(大正7)年2月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049896",
"作品名": "世界の変革と芸術",
"作品名読み": "せかいのへんかくとげいじゅつ",
"ソート用読み": "せかいのへんかくとけいしゆつ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新小説」1918(大正7)年2月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-01-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001395",
"姓": "和辻",
"名": "哲郎",
"姓読み": "わつじ",
"名読み": "てつろう",
"姓読みソート用": "わつし",
"名読みソート用": "てつろう",
"姓ローマ字": "Watsuji",
"名ローマ字": "Tetsuro",
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"生年月日": "1889-03-01 ",
"没年月日": "1960-12-26",
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"底本名1": "和辻哲郎随筆集",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年9月18日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年11月22日第6刷",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年9月18日第1刷",
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一
我々は創作者として活らく時、その創作の心理を観察するだけの余裕を持たない。我々はただ創作衝動を感ずる。内心に萌え出たある形象が漸次醗酵し成長して行くことを感ずる。そうして我々はハッキリつかみ、明確に表現しようと努力する。そこにさまざまの困難があり、困難との戦いがある。しかし創作の心理的経路については、何らの詳しい観察もない。創作の心理は要するに一つの秘密である。
しかし我々は「生きている。」そうしてすべての謎とその解決とは「生きている」ことの内にひそんでいる。我々は生を凝視することによって恐らく知り難い秘密の啓示を恵まれる事もあるだろう。
昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳けながら通った。冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座が、讃歌を唱う天使の群れのようににぎやかに快活にまたたいている。人間を思わせる燈火、物音、その他のものはどこにも見えない。しかしすべてが生きている。静寂の内に充ちわたった愛と力。私は動悸の高まるのを覚えた。私は嬉しさに思わず両手を高くささげた。讃嘆の語が私の口からほとばしり出た。坂の途中までのぼった時には、私はこの喜びを愛する者に分かちたい欲望に強くつかまれていた。――
私は思う、要するにこれが創作の心理ではないのか。生きる事がすなわち表現する事に終わるのではないのか。
二
生きるとは活動することである。生を高めるとは活動を高める事である。従って活動が高まるとともに生の価値も高まる。人格価値というのも畢竟この活動にほかならない。活動の高昇はすなわち人格価値の高昇である。(もとよりここにいう活動は外的活動の意味ではない。全存在的活動、あらゆる精神力、肉体力の統一的活動である。)
ところでこの活動は同時にまた自己表現の活動である。私の心がある人の不幸に同情して興奮する、私は急いでその不幸を取り除くために駈け出す。私の心が自然の美に打たれて興奮する、私は喜びを現わさないではいられない。すなわち我々の生命活動は何らかの形で自己を表現することにほかならない。
我々が意志を持つ、そうして努力する。これすなわち自己表現の努力である。
我々が感情を持つ、そうして喜怒哀楽に動く。これもまた白己の表現である。
芸術の創作は要するにこの自己表現の特殊の場合に過ぎない。
三
生命全体の活動が旺盛となり、人格価値が著しく高まって来ると、そこにこの沸騰せる生命を永遠の形において表現しようとする衝動が伴なう。あらゆる形象と心霊、官能と情緒、運動と思想、――すべてが象徴としてこの表現のためには使役される。そこに芸術家特有の創作が始まるのである。
第一に高められたる生命がなくてはならぬ。生の充実、完全、強烈、――従って人格価値の優秀……生の意義が実現せられ、人類の生活がそのあるべき方に、その目標の方に導かれて行く所の、白熱せる本然生活がなくてはならぬ。ここに何ものを犠牲にしても自己を表現しないではいられない切迫した内的必然が伴なって来る。次にはこの深い精神内容をイキナリ象徴によって表現し得る素質がなければならぬ。象徴を捕える異様な敏感、自己を内より押し出そうとする(戦慄を伴なうほどの)内的緊張、あらゆる物と心の奥に没入し得る強度の同情心、見たものを手の先からほとばしらせる魔術のような能力。――これが芸術創作における最も特殊な点である。(ここに恐らく天分の意義がある。人がこの方法によって自己を表現しなければならないのは、その性格にひそむ宿命に強いられるのである。)
しかし、いわゆる創作が必ず右のようなものであるかという事になると、私はつまずく。我々の眼の前には、そうでないらしく思われる創作の方が多いのである。第一、ほんとうに生きようとしていないノンキな似而非芸術家が創作をやっている。それを「ほんとうに生き」たくない読者が喜んで読む。そこに彼らの仕事が何らか社会的の意義を持つような外観を呈してくるのである。で、彼らは乗り気になって、自分がある事を言いたいからではなく読者がある事を聞きたがっているゆえに、その事をおもしろおかしくしゃべり散らす。純然たる幇間である。またある人はただ創作のためにのみ創作する。彼らの内には、生を高めようとする熱欲も、高まった生の沸騰も、力の横溢もなんにもなく、ただ創作しようとする欲望と熱心だけがある、内部の充溢を投与しようとするのでなく、ただ投与という行為だけに執着しているのである。従って彼らの表現欲は内生が沈滞し、平凡をきわめているに比べて、滑稽なほど不釣合に烈しい。
表現を迫る内生とその表現の方法との間にかくのごとき虚偽や不釣合があり得るとすれば、私が芸術創作について言った事は一般には通じない事になる。すなわち我々はいわゆる創作と呼ばれるものの内に、真の創作と偽りの創作とを区別しなければならない。そうしてただ正直な高貴な創作をのみ真の創作として取り扱わなければならない。この貴族主義的な考え方は近代の心理学的方法とは背馳するが、しかし創作の事については実際やむを得ないのである。
しからば何によって創作の真偽、貴賤、正直、不正直を分かつか。生きる事が自己を表現することであり、その表現が創作であるならば、いかなる創作も虚偽であり卑賤であるとは言えないはずではないか。
それはただ表現を迫る生命とその表現方法との関係において(その関係の正不正において)、見るほかはない。人間には感心しない物を感心したらしく詠嘆する能力がある。少しく感心したものをひどく感心したらしく言い現わす能力もある。人によれば自分の感じたことをわざと抹殺しようとする習慣をさえ持っている。あるいはほとんど無意識に自分の感じた事の真相から眼をそむける人もある。これらの事実は表現の虚偽をひき起こさないではやまない。
表現を迫る内生はそれにピッタリと合う表現方法を持っている。この関係を最も適切に言い現わすため、私はかつて創作の心理を姙娠と産出とに喩えたことがある。実際生命によって姙まれたもののみが生きて産まれるのである。我々は創作に際して手細工に土人形をこさえるような自由を持っていない。我々はむしろ姙まれたものに駆使されその要求する所に無条件に服従するほかないのである。
特に芸術のごとき複雑困難な表現手段を必然的に必要とする内生は、非常に高められたものであるとともにまたきわめて繊細なものである。その表現に際して虚偽を絶対に避けるためには、姙まれたものに対する極度の誠実と愛と配慮とがなくてはならぬ。――もともと姙まない者が、すなわち高い深い内生を、生命の沸騰を、持っていない者がそれを持っている者のごとくふるまい表現しようとするごときは、頭から問題にならない。しかし何事かを姙んだ者が、ただその産出の手ぎわと反響とのみに気をとられて、姙まれた物に対する正直と愛とをゆるがせにする事は、きわめて陥りやすい邪路として厳密に警戒されなければならぬ。ただ正直に、必然に従って、愛の力で産む、――そこにのみ真の創作があるのである。
さらにまた芸術の創作については、大いなる者を姙むことが重大である。すなわち自己の生命をより高くより深く築いて行くことが、創作の価値をより高からしめるためには必須の条件である。人は偉大な作品を創りたいという気をきわめて起こしやすい。しかし偉大な表現はただ偉大な内生あって初めて可能になるのである。何を創作したいという事よりも、まずいかに生きたいという欲望が起こらなくてはならない。人は第一に生きている。表現はその外形である。我々のなすべき第一の事は、決然として生の充実、完全、美の内に生きて行こうとする努力である。
四
我々はもういくらかの人生を見て来た、意欲して来た、戦って来た。その体験は今我々の現在の人格の内に渦巻きあるいは交響している。我々の眼や我々の意欲は、このオーケストラを伴奏としてさらに燃え、さらに躍動しようとする。そうしてこの心は自らを表現しないではやまない。たとえ我々の生命の沸騰が力弱く憐れなものであるにしても、我々はなお投与すべき力の横溢を感ずる。我々は不断に流れ行く自己の生命を結晶せしめ、我々のもろい生命に永遠の根をおろさなくてはならぬ。しかし我々はさらに昇るべき衝動を感ずる。我々はさらに見、さらに意欲し、さらに戦わねばならぬ。我々の表現すべき内生は真理の底に、生命の底に、まっしぐらに突進して行く奔流のごとき情熱である。岩壁に突き当たって跳ね返えされる痛苦を、歯を食いしばって忍耐する勇気である。我々の血は小さい心臓の内に沸き返っている。我々の筋肉は痛苦の刺激によって緊張を増す。この昇騰の努力を表現しようとする情熱こそは、我々が人類に対する愛の最も大きい仕事である。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「文章世界」
1917(大正6)年1月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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私が漱石と直接に接触したのは、漱石晩年の満三個年の間だけである。しかしそのおかげで私は今でも生きた漱石を身近に感じることができる。漱石はその遺した全著作よりも大きい人物であった。その人物にいくらかでも触れ得たことを私は今でも幸福に感じている。
初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に庭の植え込みが見え、突き当たりが玄関であったが、玄関からは右へも左へも廊下が通じていて、左の廊下は茶の間の前へ出、右の廊下は書斎と客間の前へ出るようになっていた。ところで、この書斎と客間の部分は、和洋折衷と言ってもよほど風変わりの建て方で、私はほかに似寄った例を知らない。まず廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄がついていて、すぐ庭へ下りることができないようになっていた。そうしてこういう廊下に南と東と北とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向かって西洋風の扉や窓がついており、あとは壁に囲まれていた。だからガラス戸が引き込めてあると、廊下は露台のような感じになっていた。しかしそのガラス戸は、全然日本風の引き戸で、勾欄の外側へちょうど雨戸のように繰り出すことになっていたから、冬はこの廊下がサン・ルームのようになったであろう。漱石の作品にある『硝子戸の中』はそういう仕掛けのものであった。そこで廊下から西洋風の戸口を通って書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあったのかもしれぬが、漱石は椅子とか卓子とか書き物机とかのような西洋家具を置かず、中央よりやや西寄りのところに絨毯を敷いて、そこに小さい紫檀の机を据え、すわって仕事をしていたらしい。室の周囲には書棚が並んでおり、室の中にもいろいろなものが積み重ねてあって、紫檀の机から向こうへははいる余地がないほどであった。客間はこの書斎の西側に続いているので、仕切りは引き戸になっていたと思うが、それは大抵あけ放してあって、一間のように続いていた。客間の方は畳敷で、書斎の板の間との間には一寸ぐらいの段がついていたはずである。この客間にも、壁のところには書棚が置いてあった。
私が女中に案内されて客間に通った時には、漱石はもうちゃんとそこにすわっていた。書斎と反対の側の中央に入り口があって、その前が主人の座であった。私はそれと向き合った席に書斎をうしろにしてすわった。ほかには客はなかった。
この最初の訪問のときに漱石とどういう話をしたかはほとんど覚えていないが、しかし書斎へはいって最初に目についた漱石の姿だけは、はっきり心に残っている。漱石は座ぶとんの上にきちんとすわっていた。和服を着てすわっている漱石の姿を見たのはこれが最初である。客がはいって行ってもあまり体を動かさなかった。その体つきはきりっと締まって見えた。三年前の大患以後、病気つづきで、この年にも『行人』の執筆を一時中絶したほどであったが、一向病人らしくなく、むしろ精悍な体つきに見えた。どこにもすきのない感じであった。漱石の旧友が訪ねて行って、同じようにして迎えられたとき、「いやに威張っているじゃないか」と言ったという話を、その後聞いたことがあるが、人によるとこの態度を気取りと受け取ったかもしれない。しかし私はどこにもポーズのあとを感じなかった。因襲的な礼儀をぬきにして、いきなり漱石に会えたような気持ちがした。たぶんこの時の印象が強かったせいであろう。漱石の姿を思い浮かべるときには、いつもこのきちんとすわった姿が出てくる。実際またこの後にも、大抵はすわった漱石に接していた。だから一年近くたってから、歩いている漱石を見ていかにもよぼよぼしているように感じられて、ひどく驚いたことがある。確かザルコリの音楽会が帝国ホテルで催されたときで、玄関をはいって行くと、十歩ほど先をコツコツと歩いて行く漱石のうしろ姿が見えたのであった。それを見て私はすぐに漱石の大患を思い出した。それは決して精悍な体つきではなかった。
初めて漱石と対坐しても、私はそう窮屈には感じなかったように思う。応対は非常に柔らかで、気おきなく話せるように仕向けられた。秋の日は暮れが早いので、やがて辞し去ろうとすると、「まあ飯を食ってゆっくりしていたまえ、その内いつもの連中がやってくるだろう」と言ってひきとめられた。膳が出ると、夫人が漱石と私との間にすわって給仕をしてくれられた。夫人は当時三十六歳で、私の母親よりは十歳年下であったが、その時には何となく母親に似ているように感じた。体や顔の太り具合が似ていたのかもしれない。かすかにほほえみを浮かべながら、無口で、静かに控えておられた。当時はまだ『道草』も書かれておらず、いわんや夫人の『漱石の思い出』などは想像もできなかったころであるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかった。『吾輩は猫である』のなかに描かれている苦沙弥先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与えはしない。作者はむしろ苦沙弥夫人をいつくしみながら描いている。だから私は漱石夫妻の仲が悪いなどということを思ってもみなかったのである。実際またこの日の夫人は貞淑な夫人に見えた。
食事をしながら、漱石は志賀直哉君の噂をした。確かそのころ、漱石は志賀君に『朝日新聞』へ続きものを書くことを頼んだのであったが、志賀君は、気が進まなかったのだったか、あるいは取りかかってみて思うように行かなかったのだったか、とにかくそれをことわるために漱石を訪ねた。それが二、三日前の出来事であった。その時のことを漱石は話したのである。その話のなかに、「志賀君もなかなか神経質だね」という言葉のあったことを、私はぼんやり覚えている。
食事がすんでしばらくすると、ぼつぼつ若い連中が集まり始めた。木曜日の晩の集まりは、そのころにはもう六、七年も続いて来ているので、初めとはよほど顔ぶれが違って来ていたであろうが、その晩集まったのは、古顔では森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎、松根東洋城など、若い方では赤木桁平、内田百間、林原耕三、松浦嘉一などの諸君であったように思う。客間はたぶん十畳であったろうが、書斎の側だけには並び切れず、窓のある左右の壁の方へも折れまがって、半円形に漱石を取り巻いてすわった。客が大勢になっても漱石の態度は少しも変わらなかった。若い連中に好きなようにしゃべらせておいて、時々受け答えをするくらいのものであった。特によくしゃべったのは赤木桁平で、当時の政界の内幕話などを甲高い調子で弁じ立てた。どこから仕入れて来たのか、私たちの知らないことが多かった。が、ほかの人たちが話題にするのは、当時の文芸の作品とか美術とか学問上の著作とかの評判であった。漱石はそういう作品の理解や批判の力においても非常にすぐれていたと思う。若い連中にはどうしても時勢に流され、流行に感染する傾向があったが、漱石は決してそれに迎合しようとはせず、また流行するものに対して常に反感を持つというわけでもなく、自分の体験に即して、よいものはよいもの、よくないものはよくないものとはっきり自分の意見を言った。森田、鈴木、小宮など古顔の連中は、ともすれば先生は頭が古いとか、時勢おくれだとか言って食ってかかったが、漱石は別に勢い込んで反駁するでもなく、言いたいままに言わせておくという態度であった。だからこの集まりはむしろ若い連中が気炎をあげる会のようになっていたのである。しかし後になっておいおいにわかって来たことであるが、漱石に楯をついていた先輩の連中でも、皆それぞれに漱石に甘える気持ちを持っていた。それを漱石は心得ており、気炎をあげる連中は自分で気づかずにいたのだと思う。
この木曜会の気分は私には非常に快く感じられた。それでこの後には時々、たぶん月に一度か二度ぐらいは出席するようになった。
漱石を核とするこの若い連中の集まりは、フランスでいうサロンのようなものになっていた。木曜日の晩には、そこへ行きさえすれば、楽しい知的饗宴にあずかることができたのである。が、そこにはなおサロン以上のものがあったかもしれない。人々は漱石に対する敬愛によって集まっているのではあるが、しかしこの敬愛の共同はやがて友愛的な結合を媒介することになる。人々は他の場合にはそこまで達し得なかったような親しみを、漱石のおかげで互いに感じ合うようになる。従ってこの集まりは友情の交響楽のようなふうにもなっていたのである。漱石とおのれとの直接の人格的交渉を欲した人は、この集まりでは不満足であったかもしれない。寺田寅彦などは、別の日に一人だけで漱石に逢っていたようである。少なくとも私が顔を出すようになってから、木曜会で寅彦に逢ったことはなかった。また漱石の古い友人たちも、木曜日にはあまり顔を見せなかった。私の記憶に残っているのは、ただ一つ、畔柳芥舟が何かの用談に来ていたくらいのものである。
大正三年ごろの木曜会は、初期とはだいぶ様子が違って来ていたのであろうと思うが、私にはっきりと目についたのは、集まる連中のなかの断層であった。古顔の連中は一高や大学で漱石に教わった人たちであるが、その中で大学の卒業年度の最もあとなのは安倍能成君であって、そのあとはずっと途絶えていた。安倍君と同じ組には魚住影雄、小山鞆絵、宮本和吉、伊藤吉之助、宇井伯寿、高橋穣、市河三喜、亀井高孝などの諸君がいたが、安倍君のほかには漱石に近づいた人はなく、そのあと、私の前後の三、四年の間の知友たちの間にも、一人もなかった。木曜会で初めて近づきになった赤木桁平、内田百間、林原耕三、松浦嘉一などの諸君は、皆まだ大学生であった。また古顔の連中は、鈴木三重吉のほかは皆一高出であったが、若い大学生では赤木、内田両君が六高、松浦君が八高出であった。だから私はちょうどこの断層のまん中にいたことになる。芥川龍之介の連中が木曜会をにぎわすようになったのは、さらに二年の後、大正五年のことである。
古い連中と新しい連中との間には、年齢から言っても六、七年、あるいは十年に近い間隙があったし、また漱石との交わりの歴史も違っていた。古い連中は相当露骨に反抗的態度を見せたが、新しい連中にはそういうことはできなかったし、またしようとする気持ちもなかった。しかし大正三年のころには、そういう断層のために何か不愉快な感情が起こるということは、全然なかったように思う。これは私が鈍感であったせいかもしれぬが、とにかく私自身は、古い連中が圧制的だと感じたこともなかったし、また漱石に楯を突く態度をけしからぬと思ったこともない。初めのうちは、弟子たちが漱石に対して無遠慮であることから、非常に自由な雰囲気を感じたし、やがてそのうちに、前に言ったような弟子たちの甘えに気づいて、それを諧謔の調子で軽くいなしている漱石の態度に感服したのである。楯を突いていた連中でも、たまに漱石からまじめなことを一言言われると、ひどく骨身に徹して感じたようであった。断層のために幾分弟子たちの間に感情のこだわりができたのは、芥川の連中が加わるようになってからではないかと思う。そのころ私は鵠沼に住んでいた関係で、あまりたびたび木曜会には顔を出さなかったし、またたまに訪れて行った時にはその連中が来ていないというわけで、漱石生前には一度も同座しなかった。従ってそういうことに気づいたのは漱石の死後である。
木曜会で接した漱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であった。癇癪を起こしたり、気ちがいじみたことをするようなところは、全然見えなかった。諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣なところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であった。だから私たちは非常に暖かい感じを受けた。しかし漱石は、そういう心持ちや心づかいを言葉に現わしてくどくどと述べ合うというようなことは、非常にきらいであったように思われる。手紙ではそういうこともどしどし書くし、また人からもそういう手紙を盛んに受け取ったであろうが、面と向かって話し合うときには、できるだけ淡泊に、感情をあらわに現わさずに、互いに相手の心持ちを察し合って黙々のうちに理解し合うことを望んでいたように見えた。これはあるいは漱石に限らず私たちの前の世代の人々に通有な傾向であったかもしれない。私の父親などもそういうふうであった。私は父親から愛情を現わす言葉などを一度も聞いたことはない。言葉だけを証拠とすれば、父親には愛がなかったということになるが、そうでないことを私はよく理解していた。しかりつける言葉の中にだって愛は感じられるのである。しかしそういう態度は、親子の愛情などを何のこだわりもなしにあけすけに露出させる態度と、はっきり違っている。昔の日本の風習には、感情の表現にブレーキをかけるという特徴があったと思う。その点で漱石は前の世代の人であった。それだけに漱石は、言葉に現わさずとも心が通じ合うということ、すなわち昔の人のいう「気働き」を求めていたと思う。
そういう漱石が、毎週自分のところに集まってくる十人ぐらいの若い連中――それは毎週少しずつ顔ぶれが変わるのであるから、全体としては数十人あったであろうが――そういう連中の敬愛にこたえ、それぞれに暖かい感じを与えていたということは、並み並みならぬ精力の消費であったはずである。もちろん漱石は客を好む性であって、いやいやそうしていたのではないであろうが、しかしそれは客との応対によって精力を使い減らすということを防ぎ得るものではない。客が十人も来れば台所の方では相当に手がかかる。しかし客と応対する主人の精神的な働きもそれに劣るものではない。木曜会に時々顔を出したころの私は、そんなことをまるで考えてもみなかったが、後に漱石の家庭の事情をいろいろと知るに及んで、その点に思い及ばざるを得なかったのである。日本で珍しいサロンを十年以上開き続けていたということは、決して犠牲なしに行なわれ得たことではなかった。漱石は多くの若い連中に対してほとんど父親のような役目をつとめ尽くしたが、その代わり自分の子供たちからはほとんど父親としては迎えられなかった。これは家庭の悲劇である。漱石のサロンにはこの悲劇の裏打ちがあったのである。
このことにはっきりと気づいたのは、漱石の死後十年のころに、ベルリンで夏目純一君に逢ったときである。純一君は漱石が朝日新聞に入社したころ生まれた子で、漱石の没したときにはまだ満十歳にはなっていなかった。木曜会で集まっている席へ、パジャマに着かえた愛らしい姿で、お休みなさいを言いに来たこともある。私は直接なじみになっていたわけではなく、漱石の没後にも、一時家を出ていたころに、九日会の日に玄関先で見かけたぐらいのものであった。だからベルリンの日本人クラブで、二十歳の青年になっている純一君から声をかけられたときには、初めは誰かわからなかった。名乗られて顔をながめると、一高の廊下で時々見かけたころの漱石の面ざしが、非常にはっきりと出ているように思えた。それから時々往来するようになり、さそわれていっしょにテニスをやりに行ったりなどしたが、似ているのは面ざしだけでなく、性格や気質の上にもかなり濃厚に父親似が感ぜられた。当時ベルリンで逢う日本人のうちでは、一番傑出した人物であったかもしれない。しかしまだ若い上に、釣り合いのとれないチグハグなところがあった。それは当人も気づいていて、「おれは日本語の丁寧な言葉ってものを一つも知らないんだよ。だから日本から来たヘル・ドクトルの連中に初めて逢って口をきくと、みんな変な顔をするんだ」と言っていたことがある。この純一君と話しているうちに、漱石の話がたびたび出たが、純一君は漱石を癇癪持ちの気ちがいじみた男としてしか記憶していなかった。いくら私が、そうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であったと説明しても、純一君は承知しなかった。子供のころ、まるで理由なしになぐられたり、どなられたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであった。そこにはむしろ父親に対する憎悪さえも感じられた。それで私ははっと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起こるわけがわかるはずはない。創作家でなくとも父親は、しばしば子供に折檻を加える。子供のしつけの上で折檻は必要だと考えている人さえある。それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植えつけるはずのものではない。創作家の場合には、精神的疲労のために、そういう折檻が癇癪の爆発の形で現われやすいであろう。しかしその欠点は母親が適当に補うことができる。純一君の場合は、母親がこの緩和につとめないで、むしろ父親の癇癪に対する反感を煽ったのではなかろうか。そのために、年とともに消えて行くはずの折檻の記憶が、逆に固まって、憎悪の形をとるに至ったのではなかろうか。そうだとすれば、漱石夫妻の間のいざこざが、こういう形に残ったとも言えるのである。
このことに気づいたとき私は、『道草』に描いてある夫婦生活の破綻を再び意味深く反省してみる気持ちになった。あの小説の主人公も細君も、決して悪い人ではない。しかしいずれも我が強く、素直に理解し合い、いたわり合おうとはしない。二人の間にやさしい愛情がないわけでもないのに、細君は夫を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げ、夫は細君を従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。漱石はこの作を書いた時より十年ほど前、『吾輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活をこの作で書いたと言われているが、しかし作者としての漱石は作の主人公やその細君を一歩上から憐れみながら、客観的に批判して書いている。漱石の心境はもはや同じところに留まっていたのではない。しかし漱石の家庭生活がその心境と同じように一歩高いところへ開けて行っていたかどうかは疑わしい。夫人が素直に漱石について歩いていれば、あるいは漱石がその精力を家庭の方へ傾けていれば、たぶんそうなっていたであろう。しかしこの期間の生活の痕跡を一身に受けている純一君は、明らかにその反証を見せてくれたのである。『道草』に書かれた時代よりも後に生まれた純一君は、父親を「気違いじみた癇癪持ち」として心に烙きつけていた。それは容易に消すことができないほど強い印象であった。私はそこに十歳以前の子供に対する母親の影響を見たのである。
これは私が漱石に接しはじめてから後にもわたっている出来事である。だから私は、漱石の明るいサロンが、家庭の悲劇の犠牲において作り出されていた、と感ぜざるを得ないのである。ああいうサロンの空気は、すでに『吾輩は猫である』のなかにも見いだすことができる。漱石はそこでは妻子に見せるとは異なった面を見せていた。何十人もの若い人たちに父親のような愛を注ぎかけた。そのための精力の消費が、夫として、あるいは父親としての漱石の態度に、マイナスとして現われるということはあり得たのである。漱石を気違いじみた癇癪持ちと感じることは、夫人や子供たちの側からは、それ相応に理由のあることであろう。漱石に対する理解や同情がありさえすれば、問題をそこまでこじらさなくてもすんだであろうとはいえる。しかしこれは夫人や子供たちに漱石と同程度の理解力や識見を要求することにほかならない。そういう要求はもともと無理である。漱石の方からおりて行って手を取ってやるほかに道はなかった。そのためには漱石は、家庭の外に向かって注いでいる精力を、家庭の内に向けるほかはなかった。もしそうしていれば漱石は、実際の漱石とはかなり別のものになっていたであろう。そういう漱石が、よりよい漱石であったかどうかは別問題である。が、少なくとも自分の子供の内に憎悪を烙きつける父親ではなかったろうと思われる。
純一君にベルリンで逢ってから二年後に、漱石夫人の『漱石の思い出』が出版された。その中に漱石を一種の精神病者として取り扱っている個所がある。特に烈しいのは『道草』に書かれた時期のことである。そこに並べられているいろいろな事実から判断すると、夫人の観察は正しいと考えざるを得ないであろう。しかし実際に病気にかかったのであったならば、『吾輩は猫である』や『道草』などは書かれるはずがないと思う。当時漱石は、世間全体が癪にさわってたまらず、そのためにからだを滅茶苦茶に破壊してしまった、とみずから言っている。猛烈に癇癪を起こしていたことは事実である。しかしその時のことを客観的に描写し、それを分析したり批判したりすることができたということは、漱石が決して意識の常態を失っていなかった証拠である。それを精神病と見てしまうのは、いくらか責任回避のきらいがある。一体にこの『漱石の思い出』は、漱石を「気違いじみた癇癪持ち」に仕上げて行く最後のタッチであったような気がする。
漱石と接触していた三年の間に、漱石と二人きりで出歩いたことは、ただ一度しかない。たしか大正四年の紅葉のころで、横浜の三渓園へ文人画を見に行ったのである。
私は大正四年の夏の初めに、大森から鵠沼へ居を移した。そのころにちょうど東京横浜間は電化されたが、鵠沼から東京へ出るには汽車のほかはなく、それも二時間近くかかったと思う。木曜日の晩に漱石山房で話にふけっていれば、終列車に乗り遅れるおそれがあった。それで木曜会に出る度数は減ったが、訪ねて行くときは、午後早く行って夕方に辞去するようにした。そのころ、門の前まで行くと、必ず人力車が一台待っていた。客間には滝田樗陰がどっかとすわって、右手で墨をすりながら、大きい字とか小さい字とか、しきりに注文を出していた。漱石はいかにも愉快そうに、言われるままに筆をふるっていた。
たぶんその関係であろうと思うが、そのころにはしきりに文人画の話が出た。いい文人画を見た記憶などを漱石はいかにも楽しそうに話した。それを聞いていて私は原三渓の蒐集品を見せたくなったのである。三渓の蒐集品は文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派の作品など、尤物ぞろいであったが、文人画にも大雅、蕪村、竹田、玉堂、木米などの傑れたものがたくさんあった。あれを見たら先生はさぞ喜ぶだろうと思ったのである。
私はその話を漱石にしたように思う。そうして「それは見たいね」というふうな返事を聞いたようにも思う。しかしその点ははっきりとは覚えていない。覚えているのは漱石を横浜までつれ出すにはどうしたらよかろうと苦心したことである。あらかじめ三渓園の都合をきいて、日をきめて訪ねて行く、という方法を取るのでは、漱石はなかなか腰を上げないであろうというふうに感じた。それで、今から考えるとまことに非常識な話であるが、十一月の中ごろのあるうららかに晴れた日に、いきなり漱石をさそい出しに行ったのである。こんな日ならば気軽に出かける気持ちになるであろう、出かけさえすればあとは何とかなるであろう、と思ったのである。鵠沼から牛込までさそいに行ったのであるから、漱石山房へついた時にはもう十時ごろになっていた。玄関へ出て来た漱石は、私の突飛さにちょっとあきれたような顔をしたが、気軽に同意して着替えのために引っ込んで行った。
今の桜木町駅のところにあった横浜駅に着いたのは、もう十二時過ぎであった。そのころ私はナンキン町のシナ料理をわりによく知っていたので、そこへ案内しようかと思ったが、しかし文人画を見せてもらう交渉をまだしていないことがさすがに気にかかり、馬車道の近くの日盛楼という西洋料理屋へはいって、昼食をあつらえるとすぐ三渓園へ電話をかけた。ちょうどその日に何か差支えでもあれば、変な結果になるわけであったが、その時には私はその点を少しも心配していなかったように思う。電話では、喜んでお待ちするとの返事であった。で私は、自分の突飛さをほとんど意識することなしに、自分の計画の成功を喜びながら、昼食をともにしたのである。
私はその日、のりものの中や昼食の時などに、漱石とどんな話をしたかをほとんど覚えていない。ただ一つ覚えているのは、市電で本牧へ行く途中、トンネルをぬけてしばらく行ったあたりで、高台の中腹にきれいな紅葉に取り巻かれた住宅が点在するのをながめて、漱石が「ああ、ああいうところに住んでみたいな」と言ったことである。
三渓園の原邸では、招待して待ち受けてでもいたかのように、款待をうけた。漱石としては初めて逢う人ばかりであったが、まことに穏やかな、何のきしみをも感じさせない応対ぶりで、そばで見ていても気持ちがよかった。世慣れた人のようによけいなお世辞などは一つも言わなかったが、しかし好意は素直に受け容れて感謝し、感嘆すべきものは素直に感嘆し、いかにも自然な態度であった。で、文人画をいくつも見せてもらっているうちに日が暮れ、晩餐を御馳走になって帰って来たのである。
漱石は『吾輩は猫である』のなかで、金持ちの実業家やそれに近づいて行くものを痛烈にやっつけている。また西園寺首相の招待を断わって新聞をにぎわせた。そういうことから私たちは漱石が権門富貴に近づくことをいさぎよしとしない人であるように思い込んでいた。またそれが私たちにとって漱石の魅力の一つであった。しかし漱石は、いつだったかそういうことが話題になったときに、次のような意味のことを言った。相手が金持ちであるとか権力家であるとかということだけでそれに近づくのを回避するのは、まだこちらに邪心のある証拠である。ためにする気持ちが全然なければ、相手が金持ちであろうと貧乏人であろうと、大臣であろうと小使であろうと、少しも変わりはない。――ちょうどこの言葉に現わされているような態度を、私は実際に目の前に見るように感じた。
滝田樗陰のことで思い出したが、たぶん大正五年の春であったと思う。木曜日の午後に、樗陰は墨をすりながら、きょうは先生に大きい字を書かせるといって意気込んでいた。漱石は半切に、「人静月同照」という五字を、一行に書いた。二、三枚書きつぶしてから、今度はうまく行ったと言って漱石が自ら満足する字ができた。樗陰も、これはいいと言ってしばらくながめていたが、やがて首をかしげて、先生、この文句は変ですね、と言い出した。漱石は、変なことはないよ、いい文句じゃないか、と答えたが、樗陰は、いや、おかしい、と頑強に主張した。漱石は立って書斎から李白の詩集を取って来て、しきりに繰っていたが、なるほど君のいう通りだ、人静月同眠だね、と言った。樗陰は、そうでしょう、そうでなくちゃならない、月同照は変ですよ、と得意だったが、漱石は、しかしそうなるとまことに平凡だね、といかにも不服そうだった。樗陰は、文句が違っていちゃしようがない、さあ書きなおしてください、と新しい紙を伸べた。漱石は、君がいやなら、これは和辻君にやろう、なかなかいいじゃないか、と言って、「人静月同照」の半切を私にくれた。私が直接漱石からもらった書は、これ一枚だけである。
私は、「人静月同照」という掛け軸を、今でも愛蔵している。これは漱石の晩年の心境を現わしたものだと思う。人静かにして月同じく眠るのは、単なる叙景である。人静かにして月同じく照らすというところに、当時の漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想などが、響き込んでいるように思われる。
(昭和二十五年十一月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
1950(昭和25)年12月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
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(大正十二年九月)
一
大正十二年ごろ関東地方に大地震がある、ということをある権威ある地震学者が予言したと仮定する。その場合今度のような大災害は避けられたであろうか。大本教は二、三年前大地震を予言して幾分我々を不安に陥れたが、地震に対する防備に着手させるだけの力はなかった。しかしそれは大本教が我々を承服せしめるだけの根拠を示さなかったからである。もし学者が在来の大地震の統計や地震帯の研究によって大地震の近いことを説いたならば、人々はあらかじめあの震害と火災とに備えはしなかったであろうか。
自分は思う、人々は恐らくこの予言にも動かされなかったろうと。なぜなら人間は自分の欲せぬことを信じたがらぬものだからである。死は人間の避くべからざる運命だと承知しながらも我々の多くは死が自分に縁遠いものであるかのような気持ちで日々の生を送り、ある日死に面して愕然と驚くまでは死に備えるということをしない。それと同じように、百年に一度というふうな異変に対しては、人々はできるだけそれを考えまいとする態度をとる。在来の地震から帰納せられた学説は、この種の信じたがらぬものを信じさせるほどの力は持たない。結局学者の予言も大本教の予言と同様に取り扱われたであろう。
もし人間が学者の予言をきいてただちに耐震耐火建築への改築や防火帯の設置に、――あるいは少なくとも火急の際即座に動員し得る義勇消防隊の組織に、取りかかるほど先見の明のあるものならば、そもそもすでに初めからこの種の予言や応急的な設備を必要としなかったはずである。安政の大地震は今なお古老の口から、あるいは当時の錦絵から、あるいはその他の記録から、我々の耳に新しい。東京が地震地帯にある危険な土地だということはすでに古くより知られたことである。水道を建設するとき、すでにこの水道が地震による大火に対して効力なきものであることは反省されていなければならなかった。日清戦争後、特に日露戦争後、急激に東京が膨脹し始めたとき、この木造建築の無制限な増加が大火に対していかに危険であるかはすでに顧慮さるべきはずであった。一言にして言えば、地震の予言に耳を傾けるほど人間が聡明であったならば、大火に対してなんの防備もない厖大な都市を恬然として築造して行くほどの愚は、決してしなかったであろう。
いよいよ事が起こった後に顧みてみれば、要するに人間は愚かなものである。そうしてその愚かさは単に防火設備をしなかったという一事に留まるのでない。いっさいの合理的設備が間に合わないほど迅速に、また合理的設備を忘れるほど性急に、大都会が膨脹して行ったことそれ自身が、愚なのである。我々は大都会が文明社会の腫物だという言葉を想起せざるを得ない。最近の東京は確かに日本人の弱所欠点が凝って一団となったものであった。そこからいっさいの悪臭ある流風が素朴質実なる地方に伝染した。大火の惨害の原因を辿れば、結局はかくのごとく一か所に蝟集してかくのごとき都会を築造した人間の愚に突き当たるであろう。
が自分はその愚を嗤う権利を持たない。自分自身もまたその愚人の一人である。愚を知りつつそれを改め得なかったもの、危険を知りつつそれに備えることをしなかったものの一人なのである。
関東の地震はほぼ周期的に起こるものであって、追々その時期が近づきつつあるとの学説を伝え聞いたのは、もう十年ほども前であった。その後自分は近き将来に起こるべき関東大地震の可能性については疑いを抱かなかった。大本教が大地震を予言したときにも、その予言の根拠に対しては信頼を置かなかったが、しかし近き将来に大地震が起こり得るという点だけには同ずることができた。ことにこの二、三年来、頻々として強震があったことは、自分に不安の念を抱かせるに充分であった。自分の一家についていえば、自分はまず住む家の地盤を気にした。そこは千駄が谷の丘と丘との間の小さい川に沿うた細長い低地で、この低地の大部分が水田であったころには、自分の家のあたりは大きい池のある低湿な庭園であった。埋立地が地震にいけないと聞いていた自分は、この家が大地震に一たまりもなく倒壊するだろうことを思った。それにつけても自分は二階の書斎に蔵書の全部をあげていることが不安になった。二階が重ければ倒壊がいっそう容易になると思えたからである。で自分は建築の専門家に逢うごとに二階の重量がどれほどまでは危険でないかということをただした。しかし自分は、これほど不安に思いつつも、引越しをしようとはしなかった。また蔵書を階下におろすこともしなかった。近き将来に大地震のあり得ることを信じてはいたが、なんとなくそういう異変が自分に縁遠いものとして感ぜられたからである。そうしてそういう漠とした杞憂のために、面倒な引越しや書物の置き換えなどをすることが、なんとなく滑稽に思えたからである。
幸いにして自分の杞憂は当たらなかった。丘と丘との間の低地も比較的に倒壊家屋は少なかった。がもしこの杞憂が当たった場合には、自分は大地震を予想しつつもそれに対してなんの手段も取らず、倒れた家の下になって死んだかも知れぬのである。
自分一己としては地震を怖れても火事を怖れてはいなかった。それは自分が家のまばらな郊外に住んでいるからであった。がもし自分が家の立て込んだ下町に住んでいたならば、地震以上に地震による火事を怖れたであろう。そうして怖れつつも引越しをあえてせずに、今度の火事で焼かれたであろう。自分が繁華な下町に住み得ずできるだけ自然に近い所に住家を求めたということは、結局自分の性格に起因するとは思うが、ただ地震や火災に対する態度のみについて言えば、自分は焼かれた人と同様に愚かである。自分は地震や火災に対して先見の明があったゆえに今度の天災を免れ得たのでは決してない。
自分の意志によって容易に始末することのできる自分一家について、自分はまさに右のとおりであった。だから自分は、度を知らず蝟集し来り、大火に対してなんの防備もないあの厖大な都市を築いていった人々の愚をわらうことはできぬ。しかし今はその愚を嗤う嗤わぬが重大なのではない。あれほど悲惨な姿によって見せつけられた我々自身の愚を充分にかみしめるか否かが重大なのである。
思えば昨春の強震は、我々に対する暗示多き警告であった。当時の被害は水道貯水池への導水路の破壊のみであったが、ただその一つの被害が二百万の市民から飲料水を奪うのを見て我々は驚いたのである。このとき我々はより強い地震の場合の惨害を想像しないわけにいかなかった。地震によって一時に数十か所から発火した場合、水なき消防は果たしてこれを食いとめることができるであろうか。またたとい大火が起こらないとしても、ガスを絶たれ、鉄道を破壊された場合に、市民は水と火と食とをいかにして得ることができるであろうか。急を救うべき相互扶助的な組織が市民自身の間に作られていればとにかく、現在のごとき利己主義的な状態にあっては市民は混乱に陥る外ないであろう。――そういうことを自分も多くの人々と共に感じた。今にして思えばあのときに政治家が断然として防火帯の設置や、大火に対する消防計画や、地震の際の火の用心の訓練や、また急に応ずるための小さい自治的団体の組織などに着手すればよかったのである。我々のごとき専門的知識のないものも、これらのことの必要を痛切に感じた。まして都市の経営に責任を有する人々は、もっと力強くそれを感じまた考えたはずである。しかもこのときそれを口にしたのは、実際の経営と関係なき少数の学者であって、政治家のうちには誰一人これを真面目な問題とするものがなかった。おそらく彼らはこの種の防備を力説することがあまりに神経過敏にしてまた非実際的である、すなわち理想論あるいは書生論であると考えたのであろう。けれども事実はそれが非実際的でなかったことを証した。ここに我々の受くべき――特に政治家の受くべき――大きい教訓がある。もし社会の欠陥が意識されたならば、たとえ目前の社会が安全に見えていても、できるだけ早くその欠陥を取り除くことに努力せねばならぬ。たとい非実際的に見える理想的設備であろうとも、それが必要であると解った以上はその実現に取り掛かるべきである。理想論あるいは書生論を斥ける政治家気質は捨てなくてはならない。昨春の地震の警告をきかなかった愚かさは我々の前にあまりにも悲惨に示された。社会的地震に対するさまざまの警告に対しては、もはやこの愚を繰り返してはならぬ。
二
我々に先見の明がなかったのは、ただに地震以前においてのみではなかった。すでに地震があった後にも我々は、あのような大異変が起こり始めたのだということを理解することができなかった。大地震には大火が伴うということを我々は知っていたが、しかしそれがこの場合のことであるとは考えなかった。ちょうど不治の病にかかった人が、それを死ぬる病だとは気づかないように、我々もこれがあの恐れていた事変なのだとは気づかなかった。
最初揺り始めたとき、自分は家族と共に昼食を終わろうとしていた。ちょうど二科会と美術院の招待日で、自分は長女をつれてそれに出かけるために、少しく早めに昼食をとっていたのであった。揺り始めると自分は立って縁側に出た。そのとき自分は昨春の強震を思い出して、またあれくらいのが来たなと思った。そうしてあのときは嬰児を抱いて庭に飛び出したが、今日は飛び出すのをよそうなどと考えた。その瞬間に家が予想外に猛烈な震動を始めた。自分は「外へ出ろ」と怒鳴って反射的に庭へ飛び下りた。この最初の瞬間の心理状態が自分には今度の事変の経験を図式的に示しているように思われる。最初にはある近い経験にあてはめて考え、その見当が外れたとき度を失ってある反射的な行動に出るのである。
自分は庭に降り立つと、すぐ下の子がどこにいるかを後から降りてくる家族にきいた。子供は女中と共に二階にいるとのことであった。二階を見上げたが姿が見えない。その二階は見たところ三尺も動くかと思われるほどに横に振れている。自分はすぐさま二階へかけのぼらなかったことを何か大きい失敗のように感じて、あわてて秋草の植込みを廻り始めた。というのは、階段の方へ通ずる縁側と自分の立っている所との間に、縁側に沿うて細長い秋草の植込みがあり、それを突っ切ればすぐ縁側に達するのであるが、自分は秋草をふみにじることをしないでその植込みの外を迂回して縁側に達しようとしたのである。これは自分が裸足であったために無意識に植込みへ踏み込むのを恐れたためかも知れぬが、いずれにしても狼狽の結果であった。がそのときはもう普通に歩くことができなかった。よろよろとよろけながらやっと二間ほど歩いて植込みの角まで行くと、朝の雨でぬらついている地面に足をすべらせて危うく転げそうになり、夢中で紫苑の茎に捕まった。ところでその茎がヘナヘナしているのと、足がすべるのと、体がゆられるのとで、体を立て直すことがすぐにはできなかった。(あとで気がついたのであるが、自分の足元から一尺と離れないところに幅二寸ほどの亀裂ができて、その口から代赭色の泥水を吐き出していた)こうして立ち直ろうとしていた瞬間に縁側のガラス戸が一枚残らずバタバタと外へ倒れた。この間が何秒ぐらいであったかは覚えない。体がきかないのと気がせくのとで心理的にはずいぶん長く感じたが、実際はさほどでなく、もし植込みを突っ切って行けばちょうどガラス戸と鉢合わせをするわけだったと思う。そのときにはこれが家の倒壊するほどの地震とは思わなかった。しかしもし自分の家が倒壊したとすればあの瞬間であったかも知れない。その間妻は庭にすわりながら二階に向かって、降りて来るなとしきりに叫んでいたが、あとで考えるとそのすわっている場所は、瓦が落ちてくればちょうどそれに打たれる場所、家が庭の方に歪んで倒れればちょうどその軒に打たれる場所であった。
ガラス戸の倒れた瞬間、台所にいたはずのもう一人の女中が二階の段梯子の下にいるのに気づいた。ああ危いと思って、外へ出ろと声をかけたが、そのときには自分の体が立ち直っていた。自分は座敷へ飛び上がり、階段をかけのぼった。女中は階段の上の柱につかまって子供を抱いていた。あとで聞くとそれまで女中は声限り自分たちを呼んでいたのだそうであるが、自分たちにはその声が少しも聞こえなかった。自分は子供を受け取って女中を大急ぎで下へ降りさせた。そのとき自分は子供を抱いて階段の上の窓から屋根へ出るつもりであったが、窓につかまりながら見ていると震動がおいおい弱くなるらしいので、やはり階段を下りて表へ飛び出した。そうして皆を庭の向こうの空地へ連れ出した。
家が倒れなかったからよかったようなものの、もし倒れたとしたら、その時家の中にいたのは二人の女中と下の子とで、自分たち夫婦と上の子とは外に逃げ出していたのである。もっともその際誰が圧し潰されたかは解らない。あるいは外にいたものの方がひどい怪我をしたかも知れぬ。けれどもとにかく自分たちが外に出て女中たちが内にいたということは、最初の震動の最中に自分の心を苦しめた。その時自分の体が震動のため思うように動かせなかったことが、いっそうその苦しみをひどくした。最初判断力が働かず反射的に外に飛び出したことがいわばフェータルなので、次の瞬間にそれを取り返そうとしてももう間に合わぬのである。自分はすぐあとで藤田東湖の圧死を思い出した。東湖は母を救うために飛び込んで行って梁に打たれたのだという。おそらく彼もまた最初は反射的に外へ飛び出し、母のことに気づいて再び家の中へ飛び込んで行ったのであろう。もし揺れ始めの時ただちに母の居室にかけつけて行ったならば、救い出すひまがあったのであろう。が自分はこの「間に合わなかった」ことに、この際、強い同情を持つことができた。ただほんの一瞬間、本能的な恐怖のために判断が麻痺する。次の瞬間には命を賭する気持ちになれるにしても、最初は思わず我を忘れて逃げる。そうしてその「我を忘れたこと」のためただちにその我が罰せられる。自分は今度の天災においてこの種の経験をした人が決して少なくないと思う。人間の本性が利己的であると見る人は、本能的な恐怖に囚われる最初の瞬間を指示して、自説の証左とするであろう。しかし判断の麻痺した瞬間は、人間がその本性を失った瞬間である。次の瞬間にその本性を取り返したときには、もはや初めに恐れたものをも恐れなくなる。そうして利己的な欲望の代わりに、相互扶助の本能が猛然として働き始める。それは今度の天災で個人個人の間にも、あるいは一般に民衆的にも、また大阪神戸をはじめ全国の諸都市諸地方の団体的な救護活動にも、人を涙させるような同情の行為として一時に現われた現象だったと思う。ここで問題になるのはむしろたとい一瞬間でも本性を失うような狼狽に陥るという弱点である。そのような弱点のない、本当の意味で胆の据った人も、もちろんあったと思うが、しかし多数の人間にはこの弱点が共通であった。そのため災禍を甚しくした場合も決して少なくないと思う。
空地へ出たとき、注意されて見ると、空地の向こうの家が二軒倒壊していた。救いを呼ぶ声が聞こえるかと思ったが、シーンとしてなんの物音もしなかった。それを見て自分は初めて大地震なのだなと気づいたのである。間もなく気味悪い地鳴りがしてひどく揺れ出した。女たちは立っていることができないで、草の上へすわった。見ると側の茄子畑が著しく波打って横に揺れている。自分の体も船にのっているように揺れる。このとき揉まれるように揺れている家を見て、これは本当に倒れるかも知れないぞと初めて思った。火は大丈夫かときくと台所に火はないと言う。がこのときにはまだ大火が起こるだろうということは頭になかった。まず思い出したのは桜島の爆発当時宮崎県にいた人からきいた話である。あのときは一月ほども野宿したという、今度もこの工合では一月ぐらいは野宿しなくてはなるまい、大変なことになった、と思った。
大砲のような大きい爆音が三度ほど最初に南の方で聞こえたのは、たしかこの時分であったと思う。自分にはそれが何かの合図のように思えた。あとで考え合わせるとそれはどこかの薬品の爆発であったらしいが、そのときには薬品の爆発というようなことは我々の頭になかった。
二度目の揺れがやや鎮まってから、自分はこわごわ家に近づいて、下駄や傘を取り出した。この日は朝の内は風雨であったが、ひる前から雨があがって、このころには空が晴れわたり日光が激しく照りつけた。その焼けつくような暑さが、最初の驚きの鎮まると共にようやく感ぜられて来たのである。三度目にひどく揺れたときには、動いている茄子畑の波動のしかたを興味深く観察するほどの心の余裕が出て来た。家はもう倒れそうにない。当分の野宿も覚悟がついた。あとは子供を病気させぬように注意しなくてはならぬ。そういう落ち着いた気持ちになっていった。
その内北の方に火事の烟が上がった。それを見たとき、なるほど地震には火事が伴うはずだったというふうな、当然のことを見ている気持ちになった。がそのとき自分の考えていた火事なるものは、これまで自分の経験した火事――すなわち数十分あるいは数時間燃えてやがて消される火事であった。近そうに思えたので通りまで見に出てきいて見ると新宿だという。通りの人々も火事が千駄が谷まで来るというような心配はしていない。自分ももちろんやがて消えることと安心していた。(また実際この火事は二時間ぐらいで消えた。だから自分は遅くまで消せない火事を考え得なかったのである)
自分を驚かせたのは火事よりも大島爆発の噂であった。自分はそれを印絆纏の職人ふうの男から聞いた。その男に注意されて見ると、南の方に真っ白な入道雲がひときわ高くムクムクと持ち上がり、それが北東の方へ流れて、もう真東の方までちょうど山脈のように続いている。真蒼な空に対照してこの白く輝く雲の峰はいかにも美しかった。なるほど南の端の大きい入道雲はだいたい大島の方角のように思われる。がそれにしてもこの短い時間(自分はそのとき最初の震動からせいぜい十分か十五分経ったばかりだと思っていた)の間に大島の噴煙が東京まで飛んでくるのは不思議だと思った。というのは、南方のは大島の上の煙であるとしても、東方まで流れて来ているのは確かに東京の上にあるに相違ないからである。しかしそのときには他にこの雲に対する説明の仕方が思いつけなかった。そうしてあの爆音はなるほど大島の爆発の音だったのだと考えた。こういう噂がひろまり又それを受け容れる心持ちには、我々に最も近い桜島の爆発の知識が働いていたように思う。
南に高く現われた入道雲がなんであったかは、その後いろいろ聞き合わせてみたが、まだはっきり解らない。あれは横浜の煙だったと言う人があるが、あるいはそうであったかも知れぬ。横浜の建物は最初の震動でほとんど悉く倒壊した。同時に無数の火の手が上がった。だから大火になったのは東京よりも早かったらしい。その煙が最初に最も高い入道雲となって七、八里離れたところから見えたということは、あり得ぬことではない。そうすれば南東より東方にかけて現われた入道雲は、南から流れて来たのでなく、おのおのその下から、すなわち東京の町から起こった煙であったのである。
がその当時白い入道雲を噴煙だときめた自分は、その雲の根方に薄黒く立ちのぼっている煙だけを火事の煙だと考えた。見ると南方に一つ、東方に一つ立ちのぼっている。自分は少しでも遠く眺め渡すために、そこいらでは一番高い鉄道の線路へのぼった。電車がとまったので線路にはもう人が絡繹として歩いている。自分はその内の一人を捕えて火事の見当を相談した。南の方のは青山だろうということであった。(これは実際はどこの烟であったか知らない。青山は焼けなかったはずである。方角からいえば高輪御殿の烟だったとも思われる)東の方のはそのとき解らなかったが、たぶん溜池の火の烟でそれが日比谷の烟と一つになって見えたのであろう。が自分は相変わらず火事は消えるものときめて、別に驚かなかった。驚いたのは自分の話しかけた相手が、激震の当時穴八幡にいたと話したことであった。彼は穴八幡のガッシリしたお堂が今にも倒れるかと思うほど揺れたことを話して、「ここいらはあんなに瓦が残っていますがね、高田の方はひどうがしたよ」と言った。それでは、と自分は驚いたのである、あの激震のときからもうそんなに時間が経ったのか、穴八幡からここまで歩いて来られるほどの時間が。そうしてみると自分の感じよりも三、四倍の時間が経っている。そんなに自分は心の常態を失っていたわけかな、と初めて気づいた。がそれに気づくほど地震からうけた激動は鎮まって来たのである。自分は家々の棟を見渡して、ほとんど倒壊家屋のないことや、その向こうに高く聳えている四連隊の煉瓦建てが崩れていないことなどから、なに、大した地震ではなかったのだ、と少しく拍子ぬけのしたような気持ちにさえもなった。
帰って家族に大島の爆発のことを話し、太陽の直射の激しいことをこぼしながら、しばらく漫然として、あてもなく、しかも呑気な気持ちで、次に起こることを待っていた。二時と五時にまた強震があるというおふれが廻って来たが、危険のない空地にいることとて、家が潰れはしないかという心配のほかには、なんの不安もなかった。
三
ところで郊外の我々がこんな呑気な時間を送っていた間に、東京市中ではもう凄じい火災が始まっていた。が、自分の聞いたところによると、この火災の渦中にあった人々さえもが、最初は、異常な大火の起こり始めたことを理解しなかったらしいのである。
神田は地盤が弱くて倒壊家屋が非常に多かった。従って火の手は諸々方々から起こった。が、岩波の店のT君にきくと、最初地震で表へ避難してから間もなく一、二町南に煙のあがるのを見はしたが、しかし店との間に倒壊家屋が多いので、とてもここまでは来まいと思ったそうである。女中は激震の合い間に勇敢にも路地をはいってその奥の家のまたその最も奥にある台所へ行ってガスを消して来た。それを皆が危ながって留めたほどに人々の頭は地震でいっぱいであった。岩波は小石川の家が古いために必ず倒壊したろうことを思って、子供の身の上を心配しつつ自転車を飛ばした。倉庫番の人々は、崩れた倉庫を飛び出した出会いがしらに、倒れて来た向こう側の家の屋根へ偶然にもうまく飛びのって、危うく助かって来た。出版部にいた人々は最初金庫の側へ避難したが、その金庫が前へ倒れかかって、偶然にも左右へ開いた扉に支えられたために、危うく圧し潰されるのを免れたのであった。人々はその興奮で火事のことを冷静に批判する余裕はなかったであろう。が、やがて、電車通りの向こう側からも煙があがった。店の側を裏通りへぬける路地からも火が出た。その火は迅速に大きくなって行く。急いで原稿や帳簿の取り出しにかかって、まだその全部を出し切らないうちに、もう明かり窓の上の日覆いに火がついていた。なおそれ以上に物を取り出そうとすれば出せないでもなかったが、その代わり誰かが怪我をしたかも知れない。小石川から駛け戻った岩波がそれをとめたので、原稿と帳簿の他は丸焼けになった。このときが幾時ごろであったかは解らないが、焼け跡から出た時計は一時十五分でとまっていたそうである。
深川の森下町にいたN女の話によると、地震で逃げ出したときには附近のものが互いに火を警戒し合ったので、近所から火事は出さなかった。しかし去年の経験で、また水道がとまるだろうと考えて、震動の隙間に台所へ飛び込み、できるだけ多く水を汲み取って置いた。出入りの職人がかけつけて来たときには、N女の母親は、明日にも屋根屋をよこして貰いたいなどと言っていた。が、その内に電車通りの向こうから火が出た。火足が早いので、何一つ取り出すひまもなく、逃げるための舟を探さねばならなかった。初め話のできた舟が駄目になって、ずっと小さい舟が手に入ったので、それに七十幾つかの祖父と母親と自分と(それがN女の家族全体であった)が乗りこんで、船頭に大川を漕ぎ下らせた。避難の舟が多いので、もし初めの大きい舟に乗ったならば、相生橋でつかえて動けなくなるところであったが、舟が小さいお蔭で波の荒い沖へ出ることができた。そうして養魚場のあたりへ逃げて、数日の間食わず飲まずで暮らした。
日本橋、京橋の方は地盤がいいとみえて倒壊家屋が少なく、従って出火も少なかった。だから地震後数時間は火事の心配をしなかった。白木屋向こう側の鹿島ビルディングにいたK氏の話によると、四階の自分の室で地震に逢って、窓際の本箱を押えつつ窓から見ていると、隣の野沢組のビルディングの四階の窓越しにあわてて駛けて行く女の姿が見えた、と思う瞬間に突然その建物が低くなってパッと立ちのぼる埃の中に見えなくなった。しばらくして埃が薄らぐと、もう以前の建物は見えなかった。そうして見渡す限り瓦の落ちた屋根が続いていた。やや震動が弱まったとき、K氏はその同僚と共に七階建ての屋上へ逃げのぼったが、そのときにはもう火の手が三か所に上っていた。日比谷の方角に一か所、日本橋の本町付近に一か所、浅草の方角に一か所。が、やがて、十分も経ったかと思ううちに火の手は十二か所にふえた。それがしばらくするうちに二十四か所ぐらいにふえた。蔵前の高工からは物凄い火の柱が立ち、十二階はてっぺんから火を吹いた。(そのあと火元がどれほどふえたかはK氏も数えなかったのであろう、あるいは煙のために数えることができなかったのであろう)しかしこれほどの火事を眺望したK氏も、三時半ごろその建物を去るときに、そこが焼けるだろうとは少しも考えなかった。五時ごろ郊外へ帰ったとき、頭にあるものは大火ではなくてただ地震の被害であった。
いったいに日本橋あたりのあの大建築物が焼けるだろうということは、無数の火の手を見ていたその土地の人々さえもが考えなかった様子である。三越では四時ごろに焼けないと確信して店員を帰したという。日本橋詰めの店々では、その夜三越に火がついたときくまでは逃げようともしていなかった。丸善の店員は六時ごろに同じく焼けないと確信して店を出たが、十時ごろには焼けた。店を出て郊外へ帰った人々はいいが、その土地に住む人たちは、焼けないと信じつつ火の手の来るのを待って、いよいよ逃げ出すときには荷物を積んだ車の雑踏のために、あるいは煙に巻かれて死に、あるいは持ち出した荷物を捨てて命からがら逃げるというふうな目にさえ逢ったのである。幸い丸の内まで逃げのびたS氏の話をきくと、荷物の車をひいて魚河岸の三、四町の間を通るのに、一時間以上もかかったという。自分の親戚のMが語るところによれば、銀座附近も同様であったらしい。最も近い火事は日比谷で、火事場との間には掘り割がある。そこを火が越えて来ようとは誰も思わない。だから夕方になって掘り割を越えて来た火に追われて慌てて逃げ出すときには、やっと荷物を出すともう家に火がついているという始末であった。がそのときでも、堀二つを距てた築地の水交社までは火が来るとは思わず、銀座の多くの商店と共に持ち出した商品をそこへ運んだ。そうしてそこで焼かれてしまった。
誰もが大火の火熱によって数町先のものが焦げることや、大火の呼び起こす烈風がその方向を気ままに変えることや、又それが嵩じて貨車をも持ち上げるほどの大旋風となることなどを理解しなかった。本所で多数の人々が死んだのもその結果であろう。被服廠跡へ逃げろということは巡査が自転車でふれ歩いたと伝えられている。おそらくそれは事前においては何人も承認する適切な勧告であったに相違ない。しかし無数の木造家屋の燃え盛るあの大火熱にとっては、方三町ぐらいの空地や幅二町ぐらいの川はなんにもならなかった。たまたま本所に住んでいた人々は、この人間の無知の犠牲となったのであるが、焼けなかった山の手の人々もその無知においては変わりなかったのである。
このように人々は大異変の起こったことを最初に理解しなかったために、漸次大きい災害に巻き込まれていった。が、さらにもう一つ、それを手伝った不幸がある。それは地震におびやかされた人心が、最初に抵抗力を失ったことである。地震後諸方に発火した、その火は時機が早ければある程度まで消せたのである。しかし人々は団結して消火に当たる代わりにただ逃げることを考えた。すでに地震が人心を「逃げる」方に押しつけていた。この抵抗力の喪失が、大火への無理解と相俟って、火事をますます大きくしていったように思われる。すなわち最初の逃げる気持ちの故に、遂には逃げられないような大火にしてしまったのだとも言える。
もし東京の地震が横浜や湘南地方のように激烈であって、家屋の大多数が倒壊したとしたらどうであろう。ちょうど昼食時で、多くの家には火がある。火事は一区内に数十の個所から起こったに相違ない。ちょうど今回の地震で横浜に起こったような迅速な火事が、日本橋にも京橋にもまた神田、浅草、下谷にも起こる。それを取り巻いて山の手の芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷などの低地が同様に燃え始める。その際には、ちょうど本所で起こったようなことが下町全体を通して起こりはしなかったろうか。数十万の人々が被服廠跡におけるように火の旋風に巻かれて死にはしなかったろうか。この大きい惨事をまぬがれ得たのは、人間の力ではない。ただ地震があれほどの強さに留まったというほんの偶然からである。しかしあれ以上の地震は、数十年の後には、また起こりうるであろう。我々は今大火についての知識を恵まれている。このときを除いて右のごとき大惨事の予防に着手する時機はないと思う。
四
郊外における我々がこの大火を悟ったのはよほど後であった。
南に見える入道雲を大島の爆烟ときめた我々は、それが当然南から北へ流れてくるものと考えていた。しかるに、たぶん二時過ぎであったかと思う、千駄が谷から東北方に当たって更にいっそう大きい入道雲が現われた。我々はそれをも爆烟と考えることはできないので、たぶんそれは普通の夕立雲であろうと噂し合った。やがてその雲の中から雷鳴かとも思われる轟音が聞こえてくる。地震を恐れて家にはいることができないのに、ここで夕立に見舞われては堪らないと思う。で我々は不安な気持ちでこの雲を眺めていた。雲の動く方向を観測して見ると、どうも自分の方へ迫って来るようには見えない。が、右へ動くのでも左へ動くのでもない。頭部はほぼ静止していて、胸部あたりの雲が左から右へ動くように思われる。かと思うと右から左へ動いている雲もあるようである。しばらく経つ内にどうも入道雲としては変だと思え出した。そう思って見ると、ときどき聞こえる轟音が、雷鳴としてはうねりが小さすぎる、またこの雲が夕立雲で初めのが大島の噴煙であるという区別も立たない。両者は同じ性質のもののように見える。
自分はまた様子を探りに通りの方へ出た。そこで誰に聞いたか忘れたが、南の方のは目黒の火薬庫の爆発の煙であり、東北の方のは砲兵工廠の爆発の煙であるという説明をきいた。後日になってこの両者の爆発はいずれも嘘であると解ったが、このときには目黒の火薬庫の爆発をいきなり信じた。それは大島の爆発よりもよほど合理的に思えた。なるほど大島の煙があんなに早く来るはずはない、自分の無知のために一里先の煙を三十里先の煙と間違えたのだと思った。砲兵工廠の方はあの新しい入道雲に気づいた後に爆音を聞いたように思ったので、少し腑に落ちないところもあったが、結局それも信じた。こうして一時間ぐらいはこの説明に満足していたのである。
しかしこの爆煙の根方に見える薄黒い火事の煙が、いつまで経ってもやまない。むしろおいおいに盛んになってくるように思われる。で、たぶん三時半か四時ごろであったと思うが、自分は鉄道の踏切へ出掛けて行って、東京の方からぞろぞろ帰って来る人に火事の様子を聞こうとした。するとそこの踏切番の爺が通る人から聞いたことを伝えてくれた。神田が大火である。日比谷も盛んに燃えている。日本橋、浅草、本郷、麹町なども燃えている。あの雲は火事の煙であると。
自分が大火に愕然としたのはこのときである。なるほどあの入道雲は火事の煙かも知れない。これは容易ならざる大火である。水道には水がない。消すことはできぬ。どこまで燃えひろがるか解らない。――が、こう思いながらも、まだ自分は、大火があれほど猛烈なものとは考え得なかった。堀があるところでは留まるであろう、不燃性の建物は焼けないであろう、というふうな気持ちであった。
このころからおいおい火事の噂が伝わって来た。須田町を中心に四方八方に燃えひろがっている、警視庁や帝劇が燃えつつある、本郷の大学が焼けた、などと、我々は半信半疑でその噂をきいた。が一方では地震に脅かされているために、歩いて火事場まで確かめに行ってみようという気も起こらなかった。ただ入道雲のような火事の烟を仰ぎ見てなんともいえない不安な気持ちに閉ざされていた。空は美しく晴れて太陽が明るく輝いている。風はかすかに肌に感じるほどの微風である。あたりにはこれといって異常な現象も見えない。がこの平生のとおりな静かな自然がなんとなく気味悪く見える。あとで妖怪の本性を現わす美しい女郎のような気味悪さである。正午以来時間の感じをかき乱されていたので、ちょうど時間がある点で停止して淀んでいるような、いわば魔術使いの呪文で時間が魔縛されているような、不思議な気持ちだった。
夕方には南方の大きい入道雲がいつの間にか消えて、北東の高い入道雲がやや東方に移りつつますます大きくなった。そうして日が傾くと共に雲の根が赤くなり始めた。日没後には南方から東北方へかけて打ち続いた煙雲の下半部が一面に真っ赤に見え、その根元には燃え上がる炎が凄じい勢いで動いていた。特に東方より北東にかけての方面が物凄かった。あとで考えるとこの方面に日本橋、神田、浅草、本所などが重なっていたのである。この有様におびえた人々は、ときどき火事が近づいたというような噂を伝え合って、自分の家族なども、自分が火の模様を見に行っている留守に、持ち出すものの荷造りをしたほどであった。
我々は空地の樹の傍に蚊帳を釣って子供たちを寝せてから、茄子畑のそばで茫然としてこの火を眺めながら夜を明かした。ちょうど十六夜で、煙の向こうから真っ赤な姿を現わした月が、煙を離れてからはその白い光で煙の上部の団々とした雲塊を照らしていた。森蔭のこのあたりにも月光と火事の火の明るさとがまじった。我々はいじけた心でこの火の小さくなることをのみ念じていたが、火はむしろだんだん盛んになり、ひろがって行くように思えた。我々は大火というものの物凄さを初めて理解することができた。この調子では何物も残さずに焼くであろう。人力ではもう如何ともすることができない。地震時の大火とはなるほどこれなのだ。それは我々の考えていた火事とは別物である――こう我々が悟り始めたのは、大火が始まってから十時間も後なのである。
五
翌朝になると夜の内に本郷まで行って来た隣のF氏が帰って来て、小石川や麹町の焼けていることを話した。日本橋の親類を探しに丸の内へ出掛けた近所の新城は、呉服橋に焼死体が累々として横たわっている惨状を話した。そうして麹町の火が四谷の方向に延びつつあることを言った。見ると火事の煙は依然として盛んにのぼっている。我々は本郷、小石川、牛込、四谷というふうに山の手全体に燃えひろがってくることを想像した。通りに出ると疲れ切った避難者が、あるいはそのか弱い背に子供を背負い、あるいは包みを背負って幼い子供の手をひき、トボトボと歩いて行く。ある者は手車に荷物を積んでその上に老人をのせている。そのすべてが、煙をくぐりぬけたためか、着物も皮膚も薄黒く汚れている。それを見ると、涙ぐましい心持ちになると共に、やがて自分たちもああして逃げなくてはなるまいという恐れを感ずる。いよいよ大火の惨状が現実として迫って来たのである。
あとになって行ってみると、外濠に沿って歩けば四谷見附から飯田橋までは焼跡を見ないですむ。また青山の通りから六本木を経て芝公園までもそうである。しかし我々はそうとは知らなかった。江戸川べりが焼け切ったと聞いた我々は、その両岸の高台、小石川と牛込とが燃えつつあると信じた。麹町の通りからは四谷へぬけ、南は芝と麻布へ燃えひろがりつつあると信じた。幾度か踏切へ行って通行人にただしたが、どの報告もそう信じさせるに充分であった。もう戒厳令もしかれ、軍隊が消防に努めつつあると伝え聞いても、大火に慄え上がった我々には、とてもこの火が消しとめられそうに思えなかった。で我々は、一方は四谷の方から他方は赤坂を経て、千駄が谷まで延焼してくることを恐れた。まさかと思いつつも、その恐れは二日の夕刻までだんだん高まっていった。
他方でこの日はすでに食糧難について注意を喚起された。米はもう手に入らない。メリケン粉も駄目である。僅かに少量の干うどんとさつま芋とが手に入ったきりであった。たとい焼けないにしても、当分は芋粥にして食いのばさねばならぬ。がそれも長くは続かない。そのあとには飢餓が来る。その当時は関西からあれほど迅速に食糧を回送して来ようとは思わなかったので、我々は食うもののない時期を予想してその対策を考えた。がそこにはなんの手段もなかった。我々は飢餓の危険に対しても覚悟をきめる必要に迫られたのである。
そういう不安な日の夕ぐれ近く、鮮人放火の流言が伝わって来た。我々はその真偽を確かめようとするよりも、いきなりそれに対する抵抗の衝動を感じた。これまでは抵抗しがたい天災の力に慄え戦いていたのであったが、このときに突如としてその心の態度が消極的から積極的へ移ったのである。自分は洋服に着換え靴をはいて身を堅めた。米と芋と子供のための菓子とを持ち出して、火事のときにはこれだけを持って明治神宮へ逃げろと言いつけた。日がくれると急製の天幕のなかへ女子供を入れて、その外に木刀を持って張り番をした。
月がまだのぼらず、火事の火であたりがほのかに見えるころであった。家の側を空地の方へバタバタとかけ込んで来るものがある。見ると青山に住んでいる妻の妹である。今月が臨月であるというのに三つになる女児を背負ってハアハア息を切らせている。それを見て自分はぎょっとした。燃えて来たのかと聞くと、そうではないが放火で物騒だし今にも燃えて来そうなのだという。車や自動車はとうてい手にはいらない、子供はおびえて他の人におぶさろうとせぬ、仕方なしに自分でおぶって来たのである。送って来た若い者は通りまで荷物を取りに引っ返した。自分たちは危険がいよいよ近寄って来たことを感じて急に興奮した。そこへ二人の若者が、棒で一つの行李を担って、慌しく空地へかけ込みながら「火を消して、火を消して」とただならぬ声で叫んだ。それを先ほどの若者と気づかなかった我々は、何かしら変事の起こったことを感じた。もうすぐそこにつけ火や人殺しが迫って来たのだと思った。この瞬間が自分にとってはあの流言から受けたさまざまの印象の内の最も恐ろしいものであった。もとより火を消す必要もなく、また放火者が近づいて来たわけでもなかったのであるが、こうして我々は全市を揺り動かしている恐慌にたちまちにして感染したのである。
夜じゅう何者かを追いかける叫び声が諸々方々で聞こえた。思うにそれは天災で萎縮していた心が反撥し抵抗する叫び声であった。ちょうどその抵抗心が高潮している初夜のころから、東方の火焔は漸次鎮静し始め、十二時ごろには空の赤さがよほどあせていった。ようやくそのころに、延焼の怖れはもうなかろうと思い出したのである。しかし煙はまだ依然として立ちのぼっている。全然安心したのは、火の色がどこにも見えなくなった暁方の四時ごろである。
三日の朝は、やっと天災が止んだという快活な印象を与えた。自分のように引っ込み思案なものも、この日は親類や友人の安否をたずねようという気持ちになった。まず焼けたらしく思われる方角から始めた。通りを歩くと汚れたゆかたでなりふりもかまわず足を引きずって行く避難者がまだなかなか多い。東京の方へ出掛ける人も人探しらしいのが頻々として目につく。すべてがいっさいの修飾を離れて純粋な人間の苦しみを現わしている。自分はその苦しみを共に分かたずにいられない切迫した心持ちになった。がそれは自分だけではない。目に入る限りの人間がすべてその心持ちを共にしているように思われたのである。天災に縛られていた人間の心が今や町全体の上に湧然と涌きのぼっているような心持ちである。が四谷の塩町に行くまでは自分はまだ幾分の平静を保つことができた。塩町で初めて見知らぬ人と口をきいたとき、なぜとも知らず涙がこみ上げて来たのである。自分は市が谷見附へ辿りつくまでそれをとめることができなかった。それは一方では罹災者の苦しみへの同情である、が他方では町全体に渦巻いている純粋な人間の情緒への感動である。今やいっさいの営利のシンボルは町から消え去った。人々はただ苦しみと苦しみを救おうとする心との他に何物をも持っていない。その人生の姿が自分を動かしたのである。だから四谷見附で中学生らしい二人の子供をつれた紳士が、水筒と写真機とを肩にかけて、のんきな声で、「さあどっちから廻ろうかな」と言っているのをきいたときには、思わず撲りつけてやりたい衝動を感じた。が一方では通りすがりにちょっと小耳にはさむ或るやさしい一語でもが、すぐに新しい涙をさそう。いな生物でなくても、人間の苦しみを軽くするものでありさえすれば同じ印象を与えた。本村町の変圧所の前で崩壊した外壁の間から内部の機械の案外に損じていないのを見たとき、ただそれが破壊の手をまぬがれたということだけで、嬉し涙がこみ上げて来た。また辻々のはり札で軍艦四十隻が大阪から五十万石の米を積んで急航する、というふうな報知をよむと全身に嬉しさの身ぶるいが走った。しかしこういう気持ちの間にも自分の胸を最も激しく、また執拗に煮え返らせたのは同胞の不幸を目ざす放火者の噂であった。
自分は放火の流言に対してそれがあり得ないこととは思わなかった。ただ破壊だけを目ざす頽廃的な過激主義者が、木造の都市に対してその種の陰謀を企てるということは、きわめて想像しやすいからである。が今にして思うと、この流言の勢力は震災前の心理と全然反対の心理に基づいていた。震災前には、大地震と大火の可能を知りながら、ただ可能であるだけでは信じさせる力がなかった。震災後にはそれがいかに突飛なことでも、ただ可能でありさえすれば人を信じさせた。例えば地震の予言は事前には人を信じさせる力を持たなかったが、事後には容易に人を信じさせた。(三日の夜には午後十一時半に大震があるとの流言で、ようやく家にはいっていた人々が皆屋外に出たのである)そのように放火の流言も、人々はその真相を突きとめないで、ただ可能であるがゆえに、またそれによって残存せる東京を焼き払うことが可能であるゆえに、信じたのである。(自分は放火爆弾や石油、揮発油等の所持者が捕えられた話をいくつかきいた。そうして最初はそれを信じた。しかしそれについてまだ責任ある証言を聞かない。放火の例については例えば松坂屋の爆弾放火が伝えられているが、しかし他方からはまた松坂屋の重役の話としてあの出火が酸素の爆発であったという噂も聞いている。自分は今度の事件を明らかにするために、責任ある立場から現行犯の事実を公表してほしいと思う)
いずれにしても我々は、大震、大火に引き続いて放火の流言を信じた。それを信じさせたものは溯って行けば「大火に対してなんの防備もない厖大な都市」を作った市民自身の油断に帰着すると思う。事前には油断し切って危険の上に眠っていた。その危険が現前すると共に、人々はその危険に対して必要以上に神経過敏になり、その恐怖心を枯尾花に投射してそこに幽霊を見た例も少なくなかった。これは人間の心理として当然のこととも言えるであろう。しかしそれが油断から出た狼狽であること、そこに健全な判断が欠けていたことはなんといっても否定できない。人々は都会の与える営利と享楽とを追うのに急であって、その都会生活の基礎を確実ならしめる努力におろそかであった。その油断を一挙にして突かれた。そうして頭脳が昏迷した。我々はこの過ちを承認しなければならぬ。必要なのは正しい認識とそれに従う正しい実行である。我々は在来の東京市の「不完全」を都市計画の上からもまた社会組織の上からも、更に進んでは都会人の心の持ち方の上からも、過敏なほどに感じさせられた。これを我々は正しい認識にひき戻し、そうして断乎たる決心をもってその改善に着手せねばならぬ。過敏な神経が静まると共に、この正しい認識をさえも再び、震災前におけるごとく神経過敏と呼びあるいは書生論と卑しめるような愚かさを繰り返してはならぬ。大火の直後には醜名高き市会議員すらもが土地市有を高唱した。それが利権を私しようとする動機から出た説か否かは自分には解らない。とにかく土地市有あるいは土地公有をこの種の人々さえもが主張するほどな好時機に際会したのである。即ち公共の利益のために断乎として利己主義的な社会組織、経済組織を改善する機会を、天が日本人に与えたのである。ただ復旧するのみではなんにもならない。東京市に広濶な防火公園を設け、下町一帯に耐震耐火の建築物を建てるということも、この際なすべきことの内の最も表面的なものに過ぎない。大震大火に襲われたがゆえにただ将来の大震大火に対する設備のみをなすのは再び短見を繰り返すことになろう。次回の関東の大震は早くも数十年後でなくては起こるまい。それ以前に起こるかも知れぬところの日本全体の社会的大地震の惨害に対してこそ、我々は相互扶助の精神に基づく最善の予防法を講ずべきである。それが今回の天災の与えた教訓である。地震、大火、流言において我々が今経験したごときことを、再び社会的大地震において経験するならば、その災禍はとうてい今回のごとき局部的なものには留まらないであろう。
(思想) | 底本:「黄道」角川書店
1965(昭和40)年9月15日初版発行
入力:橋本泰平
校正:小林繁雄
2013年4月9日作成
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夕方から空が晴れ上つて、夜は月が明るかつた。N君を訪ねるつもりでひとりブラ〳〵と公園のなかを歩いて行つたが、あの広い芝生の上には、人も見えず鹿も見えず、たゞ白白と月の光のみが輝いてゐた。
南大門の大きい姿に驚異の目を見張つたのもこの宵であつた。ほの黒い二層の屋根が明るい空に喰ひ入つたやうに聳えてゐる下には、高い門柱の間から、月明に輝く朧ろな空間が、仕切られてゐるだけにまた特殊な大いさをもつて見えてゐる。それがいかにも門といふ感じにふさはしかつた。わたくしはあの高い屋根を見上げながら、今更のやうに「偉大な門」だと思つた。そこに自分がたゞひとりで小さい影を地上に印してゐることも強く意識に上つてきた。石段をのぼつて門柱に近づいて行く時には、例へば舞台へでも出てゐるやうな、一種あらたまつた、緊張した気分になつた。
門の壇上に立つて大仏殿を望んだときには、また新しい驚きに襲はれた。大仏殿の屋根は空と同じ蒼い色で、たゞこゝろもち錆がある。それが朧ろに、空に融け入るやうに、ふうはりと浮んでゐる。幸にもあの醜い正面の明り取りは中門の蔭になつて見えなかつた。見えるのはたゞ異常に高く感ぜられる屋根の上部のみであつた。ひどく寸のつまつてゐる大棟も、この夜は気にならず、むしろその両端の鴟尾の、ほのかに、実にほのかに、淡い金色を放つてゐるのが、拝みたいほど有難く感じられた。その蒼と金との、互に融け去つても行きさうな淡い諧調は、月の光が作り出したものである。しかし月光の力をかりるにもせよ、とにかくこれほどの印象を与へ得る大仏殿は、やはり偉大なところがあるのだと思はずにゐられなかつた。その偉大性の根本は、空間的な大きさであるかも知れない。が空間的な大きさもまた芸術品にとつて有力な契機となり得るであらう。少くともそこに現はれた多量の人力は、一種の強さを印象せずにはゐないであらう。
わたくしはそこに佇んで当初の東大寺伽藍を空想した。まづ南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のやうに狭隘なところに立つてゐては、その大きさはほとんど殺されてゐると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門を望んだ人は、或る距離を置いて見たときに現はれてくる異様な生気に気づいてゐるだらう。
この門と中門との間は、一望坦々たる広場であつて、左と右とにおよそ三百二十尺の七重高塔が聳えてゐる。その大きさは一寸想像しにくいが、高さはまづ興福寺五重塔の二倍、法隆寺五重塔の三倍。面積もそれに従つて広く、少くとも法隆寺塔の十倍はなくてはならない。塔の周囲には四門のついた歩廊がめぐらされて居り、その歩廊内の面積は今の大仏殿よりも広かつたらしい。これらの高塔やそれを生かせるに十分な広場などを眼中に置くと、今はたゞ一の建物として孤立して聳えてゐる大仏殿が、もとは伽藍全体の一小部分に過ぎなかつたことも解つてくる。しかしこの大仏殿も、今のは高さと奥行とが元のまゝであつて、間口が約三分の二に減じてゐるのである。従つてその美しさが当初のものと比較にならないばかりでなく、大きさもまたほとんど比較にならない。試みに当初の大仏殿の略図を画いて今のと比べて見ると、今の大仏殿の感じは半分よりも小さい。当初のものは屋根が横に長いので、全体の感じが実に堂々としてゐるのである。その屋根の縦横の釣合は唐招提寺金堂の屋根のやうだと思へばよい。周囲の歩廊がまた今日のやうに単廊ではなくて複廊である。なほ大仏殿のうしろには、大講堂を初め、三面僧房、経蔵、鐘楼、食堂の類が立ち並んでゐる。講堂、食堂などは、十一間六面の大建築である。
そこには恐らく幾千かの僧侶が住んでゐたであらう。そのなかには講師があり、学生があり、導師があり求道者があつた。彫刻、絵画、音楽、舞踏、劇、詩歌――さうして宗教、すべて欠くるところがなかつた。
わたくしは中門前の池の傍を通つて、二月堂への細い樹間の道を伝ひながら、古昔の精神的事業を思つた。さうしてそれがどう開展したかを考へた。後世に現はれた東大寺の勢力は「僧兵」によつて表現せられてゐる。この偉大な伽藍が焼き払はれたのも、さういふ地上的な勢力が自ら招いた結果である。何故この大学が大学として開展を続けなかつたのであらうか。何故この精神的事業の伝統が力強く生きつゞけなかつたのであらうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そゞろに心に浮んで来る、――「日本人は堕落し易い。」
三月堂前の石段を上りきると、樹間の幽暗に慣れてゐた目が、また月光に驚かされた。三月堂は今あかるく月明に輝いてゐる。何といふ鮮かさだらう。清朗で軽妙なあの屋根はほのかな銀色に光つてゐた。その銀色の面を区ぎる軒の線の美しさ。左半分が天平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが、その相違も今は調和のある変化に感じられる。その線をうける軒端には古色のなつかしい灰ばむだ朱が、ほのかに白くかすれて、夢のやうに淡かつた。その間に壁の白色が、澄み切つた明らかさで、寂然と、沈黙の響を響かせてゐた。これこそ芸術である。魂を清める芸術である。
N君の泊つてゐる家はこの芸術に浸り込んだやうな形勝の地にあつた。門を一歩出れば三月堂は自分のものである。三日月の光で、或は闇夜の星の光で、或は暁の空の輝きで、朝霧のうちに、夕靄のうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞することが出来る。雨にうたれ風に吹かれるこの堂の姿さへも、見洩さずにゐられるであらう。
家の人が活動写真を見に行つた留守を頼まれて、N君は茶の間らしいところにゐた。ペンと手帳と案内記とが座右にあつた。当麻寺へ行つて来たことを話すと、君はあの塔の風鐸をどう思ひます、ときく。わたくしは風鐸にまで注意してゐなかつたので、逆にそのわけを尋ねた。――いや、あの形がお好きかどうか、きゝたかつたのです。僕はどうしても法隆寺の方がすきですね。中にぶら下つてゐるかねも恰好が違つてゐますよ。下から見ると十文字になつてゐます。――わたくしは頓首して、出かゝつてゐた気焔を引込めるほかなかつた。
N君は大和の古い寺々をほとんど見つくしてゐた。残つてゐるのはたゞ室生寺だけであつた。だからわたくしが名前さへ知らない寺々のことも詳しく知つてゐた。――その代り大和からは一歩も踏み出さないことにきめてゐるんです。範囲を広めてゆくときりがありませんからね。――そんなに詳しく見てゐて、印象記でも書く気はないかときくと、手帳には書きとめてゐるが、とても惜しくつて印象記などには出来ないといふ。その話の模様では、古美術の印象から得た幻想が作品として結晶しかゝつてゐるらしかつた。――法隆寺にいらつしやるのなら、夢殿のなかをよく見て来てくれませんか。僕はあんまり我儘をやつたもので、お坊さんの感情を害したらしいんです。それでどうも具合がわるくて、もう一度見たいのを辛抱してゐるんです。夢殿の天井だの柱だのの具合を。――
帰るときにN君は南大門まで送つてくれた。途々現在の僧侶の内生活の話をきいた。叡山にながくゐたことのあるN君は、さういふ方面にも明るかつた。のみならず君自身にも出家めいた単純生活に落ちついてすましてゐられる一種の悟りが開けてゐた。だから出家の心持にはかなり同情があるらしく、妻子をすてて寺に入つた人の話などをするにも、どこか力がこもつてゐた。叡山で発狂した修道者の話などは凄味さへあつた。
こゝの寺にも一人ゐますよ。時々草むらのなかからヌッと出てくることがある。――かう云つてN君はわたくしの顔を見た。――だが夜は大丈夫です。鹿のやうに時刻が来れば家へ帰つて行くさうです。
やがて二人は南大門の石段の上で別れた。石段を下りてから振り返つて見上げながら、暇があつたらまたお訪ねしませうといふと、N君はこの「門」の唯中に立つて、月の光を浴びながら、――えゝ、御縁があつたら、また。 | 底本:「日本の名随筆58 月」作品社
1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「古寺巡礼(第一七刷改版)」岩波書店
1947(昭和22)年3月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一
ある雨の降る日、私は友人を郊外の家に訪ねて昼前から夜まで話し込んだ。遅くなったのでもう帰ろうと思いながら、新しく出た話に引っ張られてつい立つことを忘れていた。ふと気づいて時計を見ると、自分が乗ることにきめていた新橋発の汽車の時間がだいぶ迫っている。で、いよいよ別れることにして立ち上がろうとした。その時またちょっとした話の行きがかりでなお十分ほど尻を落ち付けて話し込むような事になった。それでも玄関へ降りた時には、さほど急がずに汽車に間に合うつもりであった。で、玄関に立ったまま、それまで忘れていた用事の話を思い出して、しばらく話し合った。
電車の停車場の近くへ来ると、ちょうど自分の乗るはずの上り電車が出て行くのが見えた。「運が悪いな、もう二三分早く出て来たら。」と思った。待合へはいってから何げなしに正面の大時計を見ると、いつのまにかたいへん時間がたっている。変だなと思って自分の時計を出して見る。自分のは十分ほど遅れている。午前には確かに合っていたのだが二時ごろ止まっていたのを友人の家のと合わせた時に、遅れた時間と合わせたわけなのだろう。これでは汽車の時間にカツカツだ、まずくすると乗り遅れるかも知れない、あの時時計が止まってくれなければよかった、などと思う。しかし電車はすぐ来た。それがまた思ったよりも調子よく走る。人の乗り降りがあまりないので停車場などは止まったかと思うとすぐ出る。時計を出して見ると三分くらいで一丁場走っている。このぶんならたいてい大丈夫だと安心した気持ちになる。
しかし時間はいっぱいだった。市街電車へ乗り換える所へ来て、改札口で乗越賃を払おうとすると、釣銭がないと言って駅夫が向こうへ取りに行く。釣銭などでグズグズしてはいられないのでそのまますぐ駈け出したくなる。しかしあとから駅夫が大声を出して追い駈けて来たりすると気の毒だと思ってちょっと躊躇する。その間に駅夫が釣銭を持って来る。わずか一分ほどの間だったが、そのためイライラさせられたので、急いで泥道を駈け出した。見ると停留場に電車がとまっている。よい具合だと思って速力を増して駈ける。五六間手前まで行くと電車は動き初めた。しまッたと思いながらなお懸命に追い駈けて行く。電車はだんだん早くなる。それを見てとても乗れまいという気がしたので、私はふと立ち留まった。その瞬間にあれに乗らなければ遅れるかも知れないと思った。それですぐまた全速力で飛び出せば無理にのれない事もなかった。しかしその時ほんの一秒か二秒の間躊躇した。そうしてアアア電車が遠ざかって行くと思いながら、その後ろ姿をながめた。そのわずかな間に電車がまた四五間も走ったので、追いつける望みはすっかり消えてしまった。
振り向いて見ると、あとの電車は影も見えない。また時計を出して見る。やはりあれに乗らなければだめだったと思う。電車はまだついそこに見えているので、もう一度飛び出したくなる。くやしくなって足を踏みならす。歯ガミをする。拳に力がはいって来るが、それのやり場がない。後ろを見るとまだ次の電車は見えない。また先の電車を見る。見まもっている内に次の停留場で止まってまた動き出す。やがて坂をおりてだんだん見えなくなる。あれに乗っていればもうあんなに遠く行っているのだ。これだけ距離の差があれば汽車に二つくらい乗り遅れるには充分だなどと思う。
次の電車がはるか向こうに見えた。時計を見ると三分たっている。早く来ればいいと思うがなかなかやって来ない。やっと前まで来る。乗る。時計を見る。もう五分たっている。時計とにらめくらしていると電車が走るわりに時のたつのが遅いのでいくらか気丈夫にもなるが、しかし窓から外を見るごとにまだこんな所かと思う。それでもまだ全然間に合わないとは思えないので、熱心に時計に注意している。平生は十分も二十分もかかると思っている所を、電車は五分ぐらいで走ってしまう。
とてもそう早くは行くまいと思っていた時間で、感心にも電車は土橋の停留場まで来た。時計を見ると汽車がちょうど出る時刻である。しかしプラットフォームには汽車の影が見えない。汽車だって一分ぐらい遅れる事はあるし、自分の時計だって一分ぐらい進んでいないとは限らないなどと思いながら停車場へはいって行くと、そこの大時計はちょうど汽車よりも二分先へ出ていて、駅夫が次の汽車の時間を改札口の上に掲示している所であった。
「あああと一時間と四十分だ。電車に乗る時のわずか一二秒のために、何というヘマだろう。否、その前に停車場を出る時釣銭を取らなければよかったのだ。否もう一つ前に友人の家から出た時もっと早く歩けばよかった。そういえば友人の所をもう五分早く出れば問題はなかった。しかしこんな事を言ってもキリがない。とにかくすべてがまずかった。『何か』が俺にいたずらをしやがったのだ。」――こんなふうに腹のなかでつぶやきながら私はヤケに土間を靴で踏みつけた。
やがて私は未練らしく頭の上の時刻表を見上げた。そうして「おや」と思った。そこには次の汽車との間に今までなかったはずの汽車の時間が掲げてあるのである。私はいくらか救われたような感じであたりを見回した。なるほど大きな掲示が出ている。その臨時汽車はすぐ前日から運転し始めたのだった。「こいつは運がいい。」と私は思った。しかし時間を勘定してみてやはり一時間ばかり待たなければならない事がわかると、私の心はまた元へ戻り始めた。「何だ、こんな事で埋め合わせをするのか、畜生め。」私は仕方なく三等待合室へはいって行った。見ると質朴な田舎者らしい老人夫婦や乳飲み児をかかえた母親や四つぐらいの女の子などが、しょんぼり並んで腰を掛けている。朝からそのままの姿でじっとしていたのではないかと思わせるくらい静かに。その眼には確かに大都会の烈しさに対する恐怖がチラついている。私は引きつけられてじっとその一群を見まもった。そうして、遠くへ行く鈍い三等の夜汽車のなかの光景を思い浮かべた。それは老人や母親にとって全く一種の拷問である。しかし彼らには貧乏であるという事のほかになんにも白状すべきことがない。彼らは黙って静かにその苦しみに堪える。むしろある遠隔な土地へ行くためにはその苦しみが当然であることを感じている。たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。
私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自分により掛かってくる女の子を何か小声で言いなだめているらしい、老婆の姿をながめ、見るともなく正面を見つめている老爺の悲しむ力をさえ失ったような顔をながめた。私の心は急にしみじみとして和らいで来た。何という謙虚な人間の姿だろう。それに比べて私の心持ちは、何という空虚な反撥心にイラ立っているのだ。あたかも自分の上に降りかかった小さな出来事が何か大きい不正ででもあるかのように。――あの人たちを見ろ。静かに運命の前に首を垂れているあの人たちを見ろ。あれが人間だ。
ある暗示が私の胸に沁み入った。私は何かを呪うような気持ちになった先ほどの自分を恥じた。もしその何かが神だったら! 恐らく神といえども、もっともっと比べものにならないほどの苦しみを私の上に置く事もあるだろう。しかも恐らく私を愛するゆえに。不遜なる者よ。きわめて小さい不運をさえも、首を垂れて受けることのできない心傲れる者よ。そんな浅い心にどうして運命の深いこころが感じ得られよう。
私は固い腰掛けに身を沈めて、先ほどまでの小さい出来事を思い返した。一々の瞬間にそうならなければならないある者がひそんでいるようにも思えた。すべての条件が最後の瞬間を導き出すように整然たる秩序の内に継起したようにも感じられた。そうして私は自分を鞭打った。私は自分の運命を愛しているつもりでいたが、しかし私はまだほんとうにヨブの心を解していないのだ。運命に対するあの絶対の信仰と感謝の心を。あわせてまた「運命を愛せよ」というあの金言の真の深さと重さをも。
二
私はこの出来事が小さい家常茶飯の事であるゆえをもって、その時の自分の心の態度を軽視する事はできなかった。むしろそれがきわめて単純にまた明白に、自分の運命に対する愛と反撥とを示してくれたゆえをもって、いくらかの感謝の内にこの経験を迎える事ができた。そうしてこの単純な鏡に自分の生活のさまざまの相をうつしてみた。たとえば時間の代わりに自分の努力を。汽車の代わりに自分の仕事を。あるいはまた、時間の代わりに自分の生活全体を。汽車の代わりに自分の永遠のいのちを。
そうして私はここにも自分の上に鍛錬の鉄槌を下すべき必要を感じたのであった。
三
私は思った。私は自分の努力の不足を責める代わりに、仕事がうまく行かなかったことでイライラする。自分の生活の弛緩を責める代わりに自分がより高くならないことでイライラする。そうしてある悪魔の手を、――あるいは不運と不幸を呪おうとする。何という軽率だろう。もしそれが自分から出た事ならば、私はただ首を垂れるほか仕方がないではないか。私は自分の不足を憎んでも自分の運命を憎むべきでない。むしろ自分の不足のゆえに自分を罰した運命に対して心から感謝すべきである。
私は未来を空想する。しかし自分の現在が自分の未来をどう規定するかについては、実際は無知である。それはただ自分の智慧が臆測の光を投げ込むに過ぎない底知れぬ深淵である。しかしその深淵のすみからすみまで行きわたっているある大いなる力と智慧との存在する事を、そうしてその力と智慧とが敏感な心に一瞬の光を投げることを否むわけに行かない。我々は不断に我々の生活の上にかかっている運命に対してこの一瞬間のために、敬虔な疲れない眼を見はっていなくてはならぬ。一つの不幸も必ず何事かを暗示するに相違ない。それは呪わるべきものではなくて、愛せらるべきものである。
で、私は思った。いかなる運命もこれを正面から受けなくてはならない。そうしてそれが自分に必然であったことを愛によって充分根本的に理解しなくてはならない。「こうなるはずではなかった」などと現在のある境遇に反撥心を抱くことは、現実の生に対するふまじめであり、また現実からの逃避である。そこにはもはや自己の改造や成長の望みはない。我々はただ現在の運命を如実に見きわめることによって(すでに起こった事に対する謙虚な忍従によって)、多産なる未来の道をきり開く事ができる。時には過去の改造さえ不可能ではない。
四
また私は「あの時ああすれば間に合ったのに」と感じた自分の心理について考えた。「あの時」はもう過ぎ去っている。そうして「あの時」には「ああしなかった。」それはもう変更のできない事実である。たとえ「あの時」私が、いずれの行為をも自由に選び得たとしても、私の実行したのはただ一つであった。この一つのほかに事実はない。「あの時ああすれば」という感じは、この事実が必然でなかったと主張するにほかならない。しかし果たしてこの唯一の事実が必然でなかったのか。ほかにも歩まるべき道があったのか。私にはそう思えない。「事件の起こる前には道はない、起こった時にはただ一つの道があるのみだ、」という言葉は、私には動かし難い真実として響く。
しからばこの必然性はどこから来るか。私は思う、我々の意志の関する限りにおいては恐らくそれは我々の性格から来るだろう。「性格は運命だ。」我々はこの運命を脱れることができない。
「あの時ああすればこうはならなかった」という運命への反撥心は、要するに事実において(無意識的にではあるが)自己の性格に対する抗議である。しかもそれは無意識的なるゆえに、自己そのものを責めることをせずしてむしろ漠然とある「不運」というごときものを呪う気持ちになる。ここに迷妄と怯懦とのひそむことを忘れてはならない。一つの不幸を真に意義深く生かす所の力は、あくまでも自己自身についての微妙な、鋭敏な、厳格な認識と批評とである。事実の責任を他に嫁せずして自己に帰することである。我々は自己の運命を最もよく伸びさせるために、いたずらに過去をくやしがるような愚に陥らないで、執拗な眼光を自己の内に投げなければならぬ。
五
私の思索はまた「外から迫って来るように感ぜられる運命」の上に移った。そうしてイキナリ私の胸にこだわっている「死」の問題と結びついた。
もし突然私の身の上に「死」が迫って来た時、私はただ恐怖に慄えるばかりだろうか、あるいはこれを悪魔の業として呪うだろうか、もしくはまた神の摂理として感謝をもって受けるだろうか。
もし先刻の事件をもって推論することが許されるなら、私は恐らく恐怖と呪詛とで狂い立つばかりだろう。しようと思う仕事はまだ何一つできていない。昇ろうと思う道はまだやっと昇り始めたばかりだ。今死んでは今まで生きたことがまるきり無意味になる。これはとてもたまらない。――こう思って私は「死」の来ようの早かったことを呪うだろう。さらにまた自分の愛する者が自分の死によって受ける烈しい打撃を思えば、彼らの生くる限り彼らにつきまとう重い悲哀を思えば、死んでも死に切れないようなイライラしさを感じるだろう。
しかし私は自分がもがき死にすることに堪えられるか。――とても、とても。私は心から静かな大きい死を望む。殉教者のように自信のある落ちついた死を。もし「死」という厳粛な問題の前にさえも、今夜の出来事のようにふるまうとすれば、私は自分を何と言って軽蔑していいかわからない。――けれども果たして私はその軽蔑に価するふるまいをしないだろうか。それほど私の腹は死に対しても据わっているだろうか。私にはそれほどの自信があるのか。
今夜これから汽車にのる。その汽車に何か椿事が起こって私が重傷を負わないものでもない。もし私が担ぎ込まれた病院で医者に絶望されながら床の上に横たわるとしたら、そうして夜明けまで持つかどうか危ないとしたら、私はどうするだろう。逢いたい人々にも恐らく逢えまい。整理しておきたい事も今さらいかんともしようがない。自分の生涯や仕事について心残りの多いのは言うまでもない事だ。それでも私は静かに死ねるだろうか。黙って運命に頭を下げる事ができるだろうか。――
私はこうして自分を押しつめてみた。そうして自分にまるで死ぬつもりのないことを発見した。「今死んではたまらない。しかしたぶん自分は永生きするだろう。」こういう思いが私から死に対する痛切な感じを奪っている。あたかも「死」という運命が自分の上にはかかっていないかのように。結局私は「死」に対して何の準備も覚悟もできていない。「死」をほんとうにまじめに考えることさえもしないらしい。
しかし私がもう五十年生きることは確実なのか。私が明日にも肺病にかかるかも知れない事は何ゆえに確実でないのか。――私は未来を知らない、死の迫って来る時期をも知らない。「きっと永生きする、」というのはただ私の希望に過ぎないのだ。虫のいい予感に過ぎないのだ。それに何ゆえ私は「死」を自分に近いものとして感じないか――そもそも感じたくないのか。
「人はすべて死刑を宣告せられている、ただ死刑執行の日がきまらないだけだ」という言葉がある。これは Man is mortal を言い換えたに過ぎないが、しかし特に私の胸を突く。そうだ、ただ日がきまらないだけだ。死の宣告はもう下っている。私たちはのんきにしていられるわけのものではない。私たちは生きている一日一日を感謝しなければならない。そうして充実した気持ちで生を感受し生を築かなくてはならない。生きている内に immortal な生をつかむために、そうしてできるならば「死」を凱旋であらしめるために。
――私の心は何ゆえともなく奮い立った。運命の前に静かに頭を下げ得るためには、今ボンヤリしてはいられない。たとえ死が(自分に尾行して来る死が)予期よりも早く自分の前に現われようとも、せめて現在に力の限りをつくしたという理由で、落ちついて運命に従うことができるだろう。そうしてなすべき事をなした人間の権利として永遠に人類の生命の内に生きる事もできるだろう。
これが私の覚悟であった。あきらめの心持ちで運命に従い得るためには、一日もボンヤリしていられないという事が。
「明日の苦労」は私がしなくてもいい。私はただ「今日の苦労」を力いっぱいに仕上げよう。それが最も謙遜に運命に従う道だ。
六
時間が迫ったので私は堅い腰掛けから立ち上がった。そうして幾度も躊躇しながら、老人と母親の一群に近づいた。私は心ひそかな感謝と同情のために一つの小さい親切をしようと思ったのである。
先ほど私が考え込んでいた時に、雑役夫が掃除にはいって来た。母親は彦根へ行く汽車はまだかときいた。雑役夫は突然の問いにいくらかあわてながら、十一時九分、まだ一時間半ありますと答えた。しかし私の乗って行く臨時汽車は神戸の先まで行く。ことに運転し始めたばかりの臨時汽車は人が知らないのでほとんど数えるほどの人数しか乗らない。恐らく皆が一晩(ゆっくりではなくとも)とにかく寝通して行けるだろう。特に子供は助かる。それに反して普通の直行は臨時汽車の運転を必要とするくらいだからひどくコムに相違ない――で、私は臨時汽車のある事を教えたくてたまらなかったのだ。
私は母親の前に立った。そうして汽車のことを説明した。母親は知らない人から突然口をきかれて、ほとんど敵意に近い驚愕の色を浮かべた。私が「もうすぐ来ます」と言った時には、あわてて立ち上がって、私に礼を言うどころでなくむしろ当惑したような顔つきで、早口に老人や子供をせき立てた。もう彼女の心には私の方などに眼をくれる余裕がないらしく見えた。私は間が悪くなってそんなにあわてなくともまだ時間はゆっくりありますと注意することができなくなった。で仕方なく、側にいる事を恐れる人のように、急いでそうッと待合室を出てしまった。
汽車が来た。乗客は果たして少なかった。あの子供たちは楽をするだろうと思って、私はひとりでほほえんだ。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1917(大正6)年1月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
2022年5月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049899",
"作品名": "停車場で感じたこと",
"作品名読み": "ていしゃばでかんじたこと",
"ソート用読み": "ていしやはてかんしたこと",
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"初出": "「新小説」1917(大正6)年1月",
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去年の八月の末、谷川君に引っ張り出されて北軽井沢を訪れた。ちょうどその日は雨になって、軽井沢駅に降りた時などは土砂降りであった。その中を電車の終点まで歩き、さらに玩具のように小さい電車の中で窓を閉め切って発車を待っていた時の気持ちは、はなはだわびしいものであった。少し癇癪が起きそうになるまで待たされたあとで、やっと動き出したかと思うと、やがてまたすぐに止まった。旧軽井沢であったらしい。ここでもなかなか発車しそうにない。うんざりしながら鄙びた小さな停車場をながめていると、突然陽気な人声が聞こえて四、五人の男女が電車へ飛び込んで来た。よほど馳けて来たらしく息を切らしている人もある。ふと見るとその一人が寺田先生であった。
自分にはこの時一種の驚きが感じられた。この雨の中のわびしい電車に乗るなどということは、よほど特殊な事情によるのである。自分は谷川君との約束を幾度か延ばし延ばししていた罰でこんな羽目になった。しかし軽井沢に避暑している人たちがまさかこんな日に出歩くとは思わなかった。まして寺田さんの一行が自分と同じく北軽井沢までも行かれるとは全然思いがけなかった。ところが聞いてみると寺田さんの方でも松根氏との約束を延ばし延ばししている内についこんな日に出掛けることになったのだそうである。しかもその朝東京から出掛けて来た自分たちと軽井沢に逗留していられる寺田さんたちとが、こうして同じ電車に落ち合ったのである。
が、寺田さんと話しているうちにこのような偶然よりも一層強く自分を驚かせるものがあった。何か植物のことをたずねた時に、寺田さんは袖珍の植物図鑑をポケットから取り出したのである。山を歩くといろんな植物が眼につく、それでこういうものを持って歩いている、というのである。この成熟した物理学者は、ちょうど初めて自然界の現象に眼が開けて来た少年のように新鮮な興味で自然をながめている。植物にいろんな種類、いろんな形のあることが、実に不思議でたまらないといった調子である。その話を聞いていると自分の方へもひしひしとその興味が伝わってくる。人間の作る機械よりもはるかに精巧な機構を持った植物が、しかも実に豊富な変様をもって眼の前に展開されている。自分たちが今いるのはわびしい小さな電車の中ではなくして、実ににぎやかな、驚くべき見世物の充満した、アリスの鏡の国よりももっと不思議な世界である。我々は驚異の海のただ中に浮かんでいる。山川草木はことごとく浄光を発して光り輝く。そういったような気持ちを寺田さんは我々に伝えてくれるのである。こうしてあの小さい電車のなかの一時間は自分には実に楽しいものになった。
あの日は寺田さんは非常に元気であった。電車へ飛び込んで来られる時などはまるで青年のようであった。自分などよりもよほど若々しさがあると思った。その後一月たたない内に死の床に就かれる人だなどとはどうしても見えなかった。これから後にも時々ああいう楽しい時を持つことができると思うと、寺田さんの存在そのものが自分には非常に楽しいものに思われた。それが最後になったのである。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「渋柿」
1936(昭和11)年2月号
※編集部による補足は省略しました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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(昭和十一年)
寺田さんは有名な物理学者であるが、その研究の特徴は、日常身辺にありふれた事柄、具体的現実として我々の周囲に手近に見られるような事実の中に、本当に研究すべき問題を見出した点にあるという。ところで日常身辺の事実が示しているのは単に物理学的現象のみではなく、化学的・生理学的・動植物学的等の諸現象の複雑な絡み合いである。
寺田さんはそういう現象のうちにも常に閑却された重大な問題を見出していった。が更にいっそう具体的な日常の現実は人間の現象である。ここでも寺田さんは人々があたり前として看過している現象の中に数々の不思議を見出し熱心にそれを探究している。
寺田さんの探究心にとってはそのいずれが特に重大だという訳ではなかった。つまり寺田さんは自然現象、文化現象のいっさいにわたる探究者であって、ただに物理学者であったのみではない。寺田さんの健筆はこの探究の記録なのである。
周知の通り、林檎が樹から落ちるのを不思議に感じて問題としたことが、近代物理学への重大貢献となった。あたり前の現象として人々が不思議がらない事柄のうちに不思議を見出すのが、法則発見の第一歩なのである。寺田さんは最も日常的な事柄のうちに無限に多くの不思議を見出した。我々は寺田さんの随筆を読むことにより寺田さんの目をもって身辺を見廻すことができる。そのとき我々の世界は実に不思議に充ちた世界になる。
夏の夕暮れ、ややほの暗くなるころに、月見草や烏瓜の花がはらはらと花びらを開くのは、我々の見なれていることである。しかしそれがいかに不思議な現象であるかは気づかないでいる。寺田さんはそれをはっきりと教えてくれる。あるいは鳶が空を舞いながら餌を探している。我々はその鳶がどうして餌を探し得るかを疑問としたことがない。寺田さんはそこにも問題の在り場所を教え、その解き方を暗示してくれる。そういう仕方で目の錯覚、物忌み、嗜虐性、喫煙欲というような事柄へも連れて行かれれば、また地図や映画や文芸などの深い意味をも教えられる。我々はそれほどの不思議、それほどの意味を持ったものに日常触れていながら、それを全然感得しないでいたのである。寺田さんはこの色盲、この不感症を療治してくれる。この療治を受けたものにとっては、日常身辺の世界が全然新しい光をもって輝き出すであろう。
この寺田さんから次のような言葉を聞くと、まことにもっともに思われるのである。
「西洋の学者の掘り散らした跡へ遙々遅ればせに鉱石のかけらを捜しに行くのもいいが、我々の脚元に埋もれてゐる宝を忘れてはならないと思ふ。」
寺田さんはその「我々の脚元に埋もれてゐる宝」を幾つか掘り出してくれた人である。 | 底本:「黄道」角川書店
1965(昭和40)年9月15日初版発行
入力:橋本泰平
校正:小林繁雄
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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一
過去の生活が突然新しい意義を帯びて力強く現在の生活を動かし初めることがある。その時には生のリズムや転向が著しく過去の生活に刺激され導かれている。そうしてすべての過去が「過ぎ去って」はいないことを思わせる。機縁の成熟は「過去」が現在を姙まし、「過去」が現在の内に成長することにほかならなかった。今にして私は「過去を改造する意欲」の意味がようやくわかりかけたように思う。
「過去」の重荷に押しつぶされるような人間は、畢竟滅ぶべき運命を担っているのであった。忘却の甘みに救われるような人間は、「生きた死骸」になるはずの頽廃者に過ぎなかった。潰滅よりもさらに烈しい苦痛を忍び、忘却が到底企て及ばざる突破の歓喜を追い求むる者こそ、真に生き真に成長する者と呼ばるべきであった。心が永遠の現在であり、意識の流れに永遠が刻みつけられていることを、ただこの種の人のみがその生活によって証明するだろう。
二
かつて親しくIやJやKなどに友情を注いだという記憶が私を苦しめる。彼らを「愛した」ゆえに悔やむのではない。「彼らの内に」自分を見いだしたことがたまらなくいやなのである。しかし私は自分の内に彼らと共鳴するもののあったことを――今なおあることを拒むことができない。それゆえになおさらその記憶が私を苦しめる。かつて私はあの傾向に全然打ち敗けていたに相違なかった。
けれどもまた彼らから断然冷ややかに遠のいた記憶が同じように私を苦しめる。(もちろんその苦しみはこの転向の二三年後に初まった。そうして恐らく新しい転向を準備してくれるのだろう。私はそれを望む。)――とにかく私は自分の愛があまりに狭く、あまりに主我的ではなかったかを疑い始めた。私は彼らの「傾向」を憎んでも人間を憎むべきではなかった。彼らの傾向を捨てても人間を捨てるべきではなかった。私は道を求めつつ道に迷ったように思う。
私は徹底を欲して断然身を処した。そうして今はその徹底のなかから不徹底の生まれ出たのを見まもっている。私は二つの苦しみのいずれからも脱れることができない。
三
何ゆえに私は彼らを愛したか。
第一の理由は直接的である。私は彼らが好きであった。彼らの顔を見、彼らと語ることが限りなく嬉しかった。そうして私は彼らの内に勇ましい生活の戦士を見、生の意義を追い求める青年の焦燥をともにし得ると思った。彼らの雰囲気が青春に充ち、極度に自由であることをも感じた。彼らの粗暴な無道徳な行為も、因襲の圧迫を恐れない真実の生の冒険心――大胆に生の渦巻に飛び込み、死を賭して生の核実に迫って行く男らしい勇気の発現として私の眼に映った。かくて私は彼らの人格と行為とのすべてに愛着を持ち続けた。
私は私の心を常に彼らの心に触れ合わせようと欲した。しかし時のたつとともに、私は彼らがシンミリした愛情を求めていないのに気づいた。彼らが尚ぶのは酔歓であった、狂気であった、機智であった、露骨であった。すべて陽気と名の付かないものは、彼らの心を喜ばせるに足りなかった。彼らは胸に沁み入る静かな愛の代わりに、感覚を揺り動かす騒々しい情調を欲した。こうして私はただひとり取り残された。私の愛は心の奥に秘められて、ついに出ることができなかった。
この隙に第二の理由が匐い込んだ。私の内の Aesthet はそこにきわめて好都合な成長の地盤を見いだしたのである。私の Aesthet は Sollen を肩からはずして、地に投げつけて、朗らかに哄笑した。私は手先が自由になったことを感じた。一夜の内に世界は形を変えた。新しい曙光は擅な美と享楽とに充ちた世界を照らし初めた。かくて私は彼らの生活に Aesthet らしい共鳴を感じ得るようになった。
そこで私は彼らを彼らの世界の内で愛した。それは共犯者の愛着に過ぎなかったが、しかし私はそれを秘められた人間的な愛の代償として快く迎えた。その世界では彼らは皆私の先達であった。彼らは私の眼に、世界と人間とが尽くることなき享楽の対象であることの、具体的な証左であった。そのころの私には Sollen の重荷に苦しむ人が笑うべく怯懦に見えた。享楽に飽満しない人が恐ろしく貧弱に見えた。IやJやKが真に愛着に価する人間に見えたのも不思議ではない。
四
何ゆえに私は彼らを憎んだか。
それは私が彼らのごとき Aesthet ではなかったからである。私が Sollen を地に投げたと思ったのは錯覚に過ぎなかった。Sollen は私の内にあった。Sollen を投げ捨てるためには、私は私自身を投げ捨てなければならないのであった。私は自分の内に Aesthet のいるのを拒むことはできないけれども、私自身は Aesthet でなかった。かくて私は一年後に、Aesthet のごとくふるまったゆえをもって烈しく自己を苛責する人となった。
私は彼らを愛した自分から腐敗の臭気を嗅ぐように思った。そこには生の真面目は枯れかかり、核心に迫る情熱は冷えかかっていた。生の冒険のごとく見えたのは、遊蕩者の気ままな無責任な移り気に過ぎなかった。生の意義への焦燥と見えたのは、虚名と喝采とへの焦燥に過ぎなかった。勇ましい戦士と見えたのは、強剛な意志を欠く所に生ずるだだッ児らしいわがままのゆえに過ぎなかった。私はその時までその臭気に気づかないでいた自分を呪った。道徳的には潔癖であるとさえ思い習わしていた自分が、汚穢に充ちた泥溝の内に晏如としてあった、という事実は、自分の人格に対する信頼を根本から揺り動かした。
腐敗はそれのみにとどまらなかった。私はいつのまにか愛の心を軽んじ侮るようになっていたのである。私は人間を見ないで享楽の対象を見た。心の濃淡を感覚の上に移し、情の深さを味わいのこまやかさで量り、生の豊麗を肉感の豊麗に求めた。そうしてすべてを変化のゆえに、新味のゆえに尚んだ。こうして私は生の深秘をつかむと信じながら、常に核実を遠のいていたのであった。それゆえに私は真の勇気を怯懦と感じ、真の充溢を貧弱と感じた。それゆえに私は腐臭を帯びた人間を価値高きものとして尊敬した。ああ。何という自分だろう。私は何ものをも愛しないで、ただ冷ややかに(たとえ感傷的であったとしても)ただ無責任に(たとえ金と約束とにおいて責任を負ったとしても)すべてを味わって通ろうとした。そうして彼らが私の腐敗の具体的証左となった。
私は自分を呪った。彼らをも憎んだ。彼らを愛することは、私には腐敗を愛することと同義になった。彼らを愛したという記憶は自分が腐敗したという記憶にほかならなくなった。この記憶ある限り私は、時々自分の人格を疑わないではいられない。腐敗を憎む限り私は、彼らをも憎まないではいられない。
こうして私に一つの転向が起こった。
五
しからば何ゆえに私は彼らを捨てたことを苦しむのか。
私は自己の生を高める情熱に圧倒せられて、かつて嬉しかったものがいやでたまらなくなった。私はこの転向をどうすることもできなかった。親しく交わった彼らに対しても手加減をする余裕などはなかった。好きであった時に逢うことを好んだように、いやになった時には逢うことをいやがった。表面上には交誼を続けて薄情のそしりを避けるなどは、私には到底できないことであった。私は徹底を要求するために、態度の不純に堪え得ないがために、ついに彼らを捨てた。――それを何ゆえに苦しむのか。
われわれのように小さい峠を乗り超えて来たものも、また自己を高める道の残酷であることを感じないではいられない。神の道は嶮しい、神は残酷だ、と言った哲人の言葉がしみじみと胸にこたえる。――もとよりこの場合に私は自分の行為が「大きい不幸」をかもしたとは思っていない。なぜなら、彼らの心はこの事によって痛みを感じるにはあまり不死身だからである。しかし私は彼らが不死身であるか否かを考量した後に彼らを捨てたのではなかった。私にとっては、彼らが痛みを感ずる程度よりも、「かつて親しかった者を捨てた」という行為そのものが問題になるのである。従って人を傷つけたか否かよりも、人を傷つける行為をしたか否かが問題になる。私はまさしく彼らの信頼を裏切った。私の心には裏切られた人の寂しさがしきりに思い浮かべられる。それだけで私には苦しむに十分である。
私は近ごろT氏がすべての訪客を拒絶するという記事にたびたび出逢う。私はあれほど親切で優しかったT氏がそのような残酷をあえてし得るのかと不思議に思っている。なぜなら、私はT氏を訪ねて行く若い人たちのまじめに道を求める心持ちに、今なおある種の同感を持ち得るからである。しかしまた私は、愛することを欲しているT氏が好んで残酷を選んだ苦しさをも理解し得るように思う。そうしてT氏をその心持ちに押しつけて行った責任を自分もまた別たなければならないと感ずる。T氏に訪客と逢うことのはかなさを経験させたのは訪客自身であった。私たちは病人が医薬を求めるようにT氏から愛と智とを求めながら、やがて路傍の人のように冷淡になった。時おりなつかしい心でT氏のことを思い出しても、それを伝えるだけの熱心がない。それがいかにT氏の心を傷つけたかについては、私たちはあまりに無知であった。T氏もまた弱い所の多い求道者であることを、与うるとともに受けなければならない乏しい愛の蔵であることを、私たちはあまりに知らなさ過ぎた。私はT氏に対して済まないという思いを禁ずることができない。
わずかに三四度逢ったT氏に対してさえそうである。まして彼らの場合は。――何といってもIやKは寂しいだろう。私を失ったためよりも、私の別離が凶兆として響いたために。――こう私は考える。私は薄情であった。そうしてただ一つの薄情でも、人生のはかなさを思わせるには十分であった。彼らの鼻っぱしの強い誇り心は恐らくこの事実を認めまいとするだろうが、彼らの認めると否とにかかわらず、私は彼らを傷つけたことを信じ、そうして絶えず済まないと思う。
私は自己を高めるために薄情を避けなかった。しかしどんな背景があろうとも、薄情であったことは苦しい。私はどうにかして彼らを愛し続けたかったと思う。彼らの内にも愛らしい所がひそんでいたろうにと思う。私にそれが不可能であったことは私の愛の弱小を証明するに過ぎないだろう。私は彼らをも同胞として抱擁し得るような大きい愛をはぐくみたい。私はそういう愛の芽ばえが力強く三月の土を撞げかかっているように感ずる。
春が来た。春が来た。真実の生の春が来た。すべてはこれからだ。
六
私は彼らを再び愛し得るようになっても、彼らを動かしている傾向を再び愛することは、決してあるまい。
この傾向を焦点として見れば、彼らは享楽のほかに生活を持っていない。彼らはともに全身をもって、全生活をもって享楽しようとする。彼らは内面外面のあらゆる道徳を振り捨てて人の恐れる「底」に沈淪する事を喜ぶ。聖人が悪とする所は彼らには善である。しかもそれは悪と呼ばれるゆえに一層味わいが深い。真情、誠実、生の貴さ、緊張した意志、運命の愛、――これらは彼らが唾棄して惜しまない所である。個性が何だ、自己が何だ、永遠の生が何だ、それらはふくよかな女の乳房一つにも価しない。乾物のような思想と言葉とを振り捨てて、汝の心奥の声を聞け。汝の核実は、汝の本能は、生の美しさをのみ求めているだろう。肉の delicacy 感覚と感情の酔歓、そこにのみ最高の美があるのだ。気ままな興奮と浮気な好奇心となげやりな勇気とがそれを汝に持ち来たすだろう。それをほかにしてどこに最もよく生きる道があるのだ。こう彼らは言う。
これも一つの人生観である。一つの態度である。しかし私はそれを征服すべく努力するように運命づけられている。私にとっては生は精神的に無限に深い。生の美しさは個性と持続とのなかからのみ閃めき出るように思える。断片的な享楽の美は私には迷わしにほかならない。
またたとえそれを一つの態度として許しても、そこには内在的な批評の余地があろうと思う。すなわち彼らは果たしてその態度を徹底させているか。もしくは徹底させようという要求に燃えているか。――私は思うに、彼ら日本 Aesthet の危険は、Aesthet としてさえも徹底し得ない所にある。もしくは徹底しようと欲しない所にある。彼らはついにいかなる意味の生活をも築き得ない危険に瀕している。――たとえば彼らは嘘をつく。嘘は Aesthet にとって捨て難い味のある方法に相違ない。しかし彼らはともすれば嘘をもって社会と妥協しようとする。しかも驚くべきことには、彼らはその嘘を意識しないのである。彼らは時に情の厚い誠実な男としてふるまう。そうして自らそうだと信じている。そこへある事件が起こる。彼らは極度の不誠実を現わす。しかもなお自ら誠実な男だと信じている。最も徹底したように見えるJにおいてさえもそうである。彼はその全興味を注いで、享楽を尊重するために、人間の尊貴と美とを蹂躙するようなものを書く。そこでは彼は悪と醜の讃美者である。しかも彼を悪人と呼び醜怪と呼ぶ者に対して彼は怒る。製作の上では価値を倒換しても、日常生活においてはその倒換を欲しない。
視点を製作にのみ限る時には、事情はやや異なって来る。この範囲でJは態度の純一を欠かない。彼は官能享楽にのみ価値を認めて、誠実にそれを徹底させる。製作においては決して嘘をつかない。彼の製作の趣味が低劣だという批評は倫理的立場からくるのであって彼の態度の不純によるのではない。それに比べると趣味が上品できれいだとせられるIの製作は態度の不純のためにたまらなく愚劣に感じられる。彼は内心に喜んでいながら恥じたらしく装う。歓喜を苦痛として表現する。すべてが嘘である。――Kはその軟弱な意志のゆえに Aesthet として生きている。彼は他の世界にはいろうとしてつまずく。そうして常に官能の世界に帰って来る。しかしそこでも彼は落ちつくことができない。彼は絶えず自分を嘲っている。彼は Aesthet として徹底するには、あまりに精神的であり、またあまりに精神的でなさ過ぎる。もし彼に強い意志があったならば、そうして Aesthet となるべく運命づけられているならば、彼はまず精神的傾向を彼がなしたよりももっと深い所まで押し詰めるだろう、そうしてそれを地に打ち砕くだろう。それは Aesthet として徹底する道であるとともに、またさらにより高い世界へ転向する可能性を激成する道である。けれども彼にはそれがない。彼の製作はいかにも突き入って行く趣を欠いている。すべてが核心に触れていない。
このような三人の相違は、ふと私に三つの連想を起こさせた。Jには Faun の面影がある。彼は自分の醜い姿を水鏡に映して見て、抑え難い歓喜を感じるらしい。彼はその歓喜を衆人の前に誇示して、Faun らしく無恥に有頂天に踊り回るのである。私たちに嘔吐を催させるものも、彼には Extase を起こす。私たちが赤面する場合に彼は哄笑する。彼は無恥を焦点とする現実主義者である。(私も一度はそれであった。しばらくの間はその中で快活に踊ることもできた。しかしその間に心の眼は根元の醜さを見た。私は一度ふりほどいた縄目の貴さをようやく悟って、再び自ら縛についた。私の羞ずかしさは無垢の羞ずかしさではなくて、懺悔の羞ずかしさである。)――Iには売女を思わせるものがある。おしろいの塗り方も髪の結いぶりも着物の着こなしもすべて隙がない。delicate な印象を与え清い美しさで人を魅しようとする注意も行きわたっている。しかもそこにすべてを裏切るある物の閃きがある。人は密室で本性を現わす無恥な女豚を感じないではいられない。――Kは生ぬるいメフィストを連想させた。彼は自己の醜さを嘲笑する。しかし醜さを焼き滅ぼそうとする熱欲があるからではない。彼は他人の弱所を突いて喜ぶ。しかし悪を憎む道徳的疳癪からではない。
――ここまで考えて来ると、ふと私は一つの危険を感じ出した。彼らの現わす傾向については、たとえ全然捨離し得たと言えないまでも、もはや自分に危険はあるまい。しかしこの敵と戦っている間に、他の敵が背後へ回っていた。私はそれを味方と信じていたが、しかしその味方のために足をさらわれることがないとは言えない。
それは私の内のメフィストである。私は自分に浄化の熱欲と道徳的疳癪とがあるゆえをもって、自分のメフィストを跳躍させてよいものだろうか。それは自己と同胞とに対する愛の理想を傷つけはしないだろうか。私は彼らの弱所を気の済むまで解剖したところで、どれだけ自分の愛を進め得たろうか。怒りは怒りをあおる。嘲罵は嘲罵を誘う。メフィストもまたメフィストを誘い出すだろう。
私はまた事を誤ったのだろうか。
七
私は人の長所を見たいと思っている。そうしてなるべく多くの人に愛を感じたいと思っている。しかし私には思うほどにそれができない。
私が愛を感じている人の短所は、同情をもって見ることができる。時にはその短所のゆえに成長が早められているとさえも思う。しかし愛を感じない人の短所は、多くの場合致命的に見える。私はともすればそういう人の長所や苦しみや努力を見脱してしまう。そうしてその際、自欺の衣を剥ぎ偽善の面をもぐような、思い切った皮肉の矢を痛がる所へ射込む、ということに、知らず知らず興味を感じていないとは言えない。
私はかつてこのような興味に強く支配されていたこともあった。そのころはすべての事物に醜い裏が見えて仕方がなかった。多くの人の言動には卑しい動機が見えすいて感じられた。風習と道徳には虚偽が匂った。私はそれを嘲笑せずにはいられない気持ちであった。そうして自分の態度の軽薄には気づかなかった。
これに気づいたのは私には一つの契機であった。私は自分の過去を恥じ、呪い、そうして捨てた。できるならば私はそれまでに書いたものをすべて人の記憶から消し去りたいとねがった。もう筆を取る勇気もなかった。私はその時に自己表現の情熱を中断されたように思う。そのころは知人と口をきくことさえも私を不安にした。私はできるだけ知人を避け、沈黙を守った。愛と誠実とに動かされない場合は何事も言わず何事も書くまいと誓った。
こうして一年以上私は狭い自分の周囲以外に眼と口を向けなかった。その間に私は自分を鋳直すことができたつもりであった。
しかしメフィストはなお自分の内に活きている。彼の根柢は意外に深い。事ごとに彼はピョイピョイ飛び出して来る。そうしてその瞬間に私は彼を喝采する心持ちになっている。たとえすぐそのあとでそれを後悔するとしても。
私は二三日前に一人の女の不誠実と虚偽と浅薄と脆弱と浮誇とが露骨に現わされているのを見た。しかし私は、興奮して鼻の先を赤くしている彼女の前に立った時、憐愍と歯がゆさのみを感じていた。性格の弱さと浮誇の心とが彼女を無恥にし無道徳にしている。彼女の意志を強め、彼女に自信を獲得させることが、やがて彼女を救うことになるだろう。より強い力を内より湧き出させるのが、自欺を破ってやる最良の方法であるのだから。こうして私は彼女を優しくいたわることができた。――一時間たった。私はいつのまにかメフィストであった。女の心のすみずみから虚偽と悪徳とを掘り出し、それを容赦のない解剖刀で切り開いて見せる。私は熱して、力を集注して、それをやっていた。傷ついた女の誇り心の反撥が私をますます刺激した。女が最後の武器として無感動を装うのを、さらに摘発し覆さなければやまないほど私は残酷であった。――そうして結果はどうなるのか。女はますます無恥であるように努力するだろう。私にはただ後悔が残った。
他人の製作に対する私の心持ちにも同じようなものがないとは言えない。たとえば私は四五日前に大家と称せらるるある人の感想を読んでその人の製作を考えてみた。彼は「事実」に即するつもりでいる。また実際「事実」を持っている。しかしそれは浅い生ぬるい事実に過ぎなかった。けれども彼はもっと深い事実を示す多くの思想や言葉を知っている。彼はそれを自分の浅い事実に引きつけて考える事によって、外形的に自分をそれらの思想の高さまで高めて行った。その結果として彼は自分の知らない事を描きまた論じている。彼は深い語を軽々しく使う。浅い事実を深そうに表現する。問題の入り口に停まっていながら問題を解決したつもりになっている。彼は身のほどを知らないのである。彼は虚偽を排する主義を奉じているが、それを徹底させるためにも浅い体験はただ浅いままに表現すべきであった。一切の借り物を捨て、自分の直視にのみ即して考えてみるべきであった。――こう考えている内に、彼の感想の内から二つの語が自分の批評の証明として心に浮かんだ。彼は「徹底」について語りながら言う、徹底を言う人が案外に徹底していない、言わぬ人にかえって徹底したのがある。これは事実である。問題にならないほどわかり切った事実である。しかも彼はこの語で徹底を説くものを論破したつもりになっている。これによっても彼がかつて「徹底」を問題としなかった事は明らかである。なぜなら彼の態度には、徹底を要求する者の苦しみと努力とに対するいささかの同情も同感も現われていないからである。徹底し切れない所に徹底を要求する者の種々な心持ちがある。それを見得ない人にどうして「徹底」を論ずる権利があろう。彼は自らを「徹底した人」に擬しているかも知れないが、そのような徹底は恐らく矛盾を意識しない無知な妥協の安逸か、あるいは物の見方や扱い方の凝固に過ぎないだろう。――彼はまた所有の欲望を嘲って、自分の家庭の経験より見ても所有は不可能だと言う。これがまた彼に所有の要求のないことを、従って所有の要求を解し得ないことを示している。真に所有の要求に燃えている者に(あるいは燃えていた所に)、どうしてそれが不可能だと言い切れるだろう。自分にそれほどの力がない(あるいはなかった)、とつぶやく心持ちにはなることもあるが、しかしそれは自己を嘲る根拠にはなっても、他人を嘲る根拠にはなり得ない。まさしく彼は自分の浅い生ぬるい経験から押して、自分の知らない世界のことを横柄に批評したのである。……
こういう論証は私をよい気持ちにした。私は彼と彼の一味との浅薄な醜さを快げに見おろした。そうして彼の永い間の努力と苦心と功績とを一切看過した。私はそこに自分の愛の狭さを感じる。この種の心持ちがしばしば他人の製作に対して起こっているのではないかと、自分を憂えないではいられない。愛なき批評を呪うようになった私には、もはや気軽に他人を非難する度胸がなくなった。
八
ショオとドストイェフスキイとに一種の類似がある。それは知的と心理的とに特色を有する表現法が因をなしているかも知れない。しかし私は特に彼らの内からメフィストが首を出している所にそれを認めたい。そうしてまたそこに彼らの大きい相違をも認めたい。
ショオが社会に対して浴びせかける辛辣な皮肉の裏には、彼の理想の情熱と公憤とが燃え上がっている。しかし彼の製作にはしんみりした所がまるでない。彼は愛のあふれた人間をも、道に苦しむ人間をも、描くことができない。畢竟、彼は人類の姿を描き出すことができない。彼には悪を憎む心のみあって憐慰がない。この関係を彼のメフィストが示している。彼のメフィストは否定の矢をただ偽善者の上に――臭いものを覆うた蓋の上に――のみ向けるのである。彼は破壊を喜ぶが、しかし真に善きもの美しきものを破壊しようとはしない。いわば正義の騎士に商売換えをしたメフィストである。従ってこのメフィストはファウストを持っていないのである。そうしてまた、ショオ自身の内にも、ファウストは全然いないらしい。彼は善の塊のように、自己を築きおわった人のように、安固として動かない。彼は自己鍛錬の苦しい道を経ないで、社会救済の自信と力とを得た人のように見える。彼はその理想の情熱と公憤との権利をもって、何の遅疑する所もなく、大胆に満腹の嘲罵を社会の偽善と不徹底との上に注ぐのである。
しかしドストイェフスキイのメフィストは常にファウストに添って現われて来る。真の生を求めて泣き、苦しみ、恐れ、絶望する「人間」の傍にのみ、メフィストはその意義を持つ。彼は社会の悪と人間の愚とを罵るが、しかしそれは社会を救済するためではなくて、ファウストを誘惑しファウストから「人間」に対する愛と信頼とを奪うためである。道を求むる人は必ず一度はこの試みに逢わねばならない。ファウストはこの誘惑を切り抜けて、社会と人間とを愛し続ける。そうしてドストイェフスキイは、この愛をもって人間を救済しようとするのである。彼の描くのは「個人」とその歩んで行く「道」とである。彼の努力の焦点は自己の永遠の生を築くことである。それはただ愛によってのみなされる。そうしてそこに人類の救済がある。彼は悪を罵っているのみには堪えられない。悪のゆえに人間を憐れみ、自ら苦しむ。大きい愛、宗教的な愛……
――ここにこそ自分の行くべき道があった。私は自分の内にメフィストが住むのもまた無意義でなかったと思う。メフィストがいなければ私の世界も寂しいだろう。メフィストは私の世界を押し広め、多くの心理や見方を教えてくれる。それを機縁として私のファウストが真の叡智を得て行くのである。……メフィストを跳梁させてはいけない。しかしメフィストのゆえに苦しむのはよいことだ。メフィストがあまりに早く離れ去らなかったことは、喜ばなくてはいけないだろう。メフィストのいることも私にはよい刺激になる。ショオのメフィストのようにならない限りは。
ショオを離れることのできたのも私には一つの転向であった。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「新小説」
1916(大正5)年5月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
2012年3月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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藤村は非常に個性の強い人で、自分の好みによる独自の世界というふうなものを、おのずから自分の周囲に作り上げていた。衣食住のすみずみまでもその独特な好みが行きわたっていたであろう。酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそれぞれに細かい好みがあった。そうしてまたそういう好みを実に丹念に守り通していた。
住居についてもそうであった。新片町や飯倉片町の家は、借家であって、藤村の好みによった建築ではないが、しかしああいう場所の借家を選ぶということのなかに、十分に藤村の好みが現われているのである。随筆集の一つを『市井にありて』と名づけている藤村の気持ちのうちには、その好みが動いているように思われる。市井にある庶民の一人としての住居にふさわしい、ささやかな、目だたない、質素な家に住むことを、藤村は欲したのであろう。しかしそういう住居のなかには、市井庶民の好みに合うような、さまざまな凝った道具が並んでいなくてはならなかったであろう。あるとき藤村は、置き物を一つか二つに限った清楚な座敷をながめて、こうきれいに片づいていると、寒々とした感じがしますね、と言ったことがある。
その藤村が自分の家を建てたいと考え始めたのは、たぶん長男の楠雄さんのために郷里で家を買ったころからであろう。「そういう自分は未だに飯倉の借家住居で、四畳半の書斎でも事はたりると思いながら自分の子のために永住の家を建てようとすることは、我ながら矛盾した行為だ」という言葉のうちに、それが察せられる。が、その時に藤村が考えたのは、たぶん、ささやかな質素な家であったであろう。というのは、その家のために藤村が麻布のどこかに買い求めた土地は、六十坪だということであった。この計画は後に変更され、麹町の屋敷はたしか百坪ぐらいだったと思うが、しかしその後にも、大きい住宅に対する嫌悪の感情は続いていた。あるとき藤村は、相当の富豪の息子で、文筆の仕事に携わろうとしている人の住宅の噂をしたことがある。藤村はその住宅の大きく立派であることを話したあとで、あの程度の仕事をしていながら、あんな立派な家に住んでいて、よく恥ずかしくないものだと思いますね、と言った。それは藤村としては珍しくはっきりした言い方であった。私はそれを聞いて、藤村の質素な住宅に対する執着が、なかなか根深いものであることを感じたのである。
藤村は着物でも食物でも独特な凝り方をしていて、その意味で相当ぜいたくであったと思う。飯倉片町の借家をただ外から見ただけの人には、その中でこういう凝った生活が営まれていることをちょっと想像しにくかったであろう。しかしその質素な住宅が、また一つの凝り方であったことを考えないと、藤村の個性は十分に理解されない。
これは衣食住の末に現われたことであるが、しかし同じような態度は、その仕事の全面を支配していたと言ってよい。おのれの好みに忠実であること、おのれの個性を大事にすること、これが藤村の仕事の筋金になっている。『春』『家』『新生』『夜明け前』と続いた藤村の主要作品を押し出して来た力は、そこにあると思う。
ところで右にあげたような藤村の好みのなかにはっきりと現われている独自な性格は、それが無遠慮に発揮されないで、何となく人の気を兼ねるという色合いを持っていることである。
昔の日本人は、他人に見える着物の表面を質素なものにし、見えない裏に贅をつくす、というようなやり方を好んだ。これはもと幕府の奢侈禁止令に対して起こったことであるかもしれぬが、やがてそれが一つの好みになってくると、奢侈をなし得る能力のあるものでも、それを遠慮した形で、他人に見せびらかさない形でやることが、奥ゆかしいように感ぜられて来た。これは欧米人が、その奢侈をありのままに露呈してはばからないのに比べると、非常に異なった好みである。世間をはばかり、控え目にするという態度そのものが、その好みの核心になっているのである。こういう好みは日本でももう古風であるかもしれないが、藤村にはそれが強く働いていたと思う。金持ちの息子が立派な住居に住んでいるのを批評して、あれでよく恥ずかしくないものだと言った藤村の気持ちには、それがあったであろう。彼はそういう住居を建てる資力を持っているかもしれない、しかしそれは彼自身が自分の仕事から得た資力ではないであろう、それならば彼は世間の手前そういう家に住むのを恥ずべきである。そう藤村は考えたのであろう。美しい住居そのものが無意義なのではない。彼自身も、「あのウイリアム・モリスのように、自分の心の世界と言ってもいいような家を作って、そして、そういうところに住んでみることは、決してぜいたくとは思いません。そこには生活というものと芸術とのおもしろい一致もあると思いますが、けれども私などの境涯では、そんなことは及びもつきませんね」と言っている。問題は「境涯」なのであるが、大正の末、五十幾つかになっていた藤村は、その数々の名篇をもってしても、なお自分の境涯がそれにふさわしいとは認めなかったのである。そうすればどんな人が、生活と芸術との一致した家に住んでよいと認められたのであろうか。
が、他の人の気を兼ねるという傾向は、右のような好みにのみ基づくのではあるまい。物心がついて以後の藤村の生い立ちの苦労が、この傾向と深く結びついているであろう。『桜の実の熟する時』や『春』などで見ると、藤村はその少年時代や青年時代を他人の庇護のもとに送り、その年ごろに普通のわがままをほとんど発揮することができなかったのである。それに加えておのれの生家のいろいろな不幸をも早くから経験しなくてはならなかった。無邪気な少年の心に、わがままを抑えるとか、他人の気を兼ねるとかの必要が、冷厳な現実としてのしかかってくる。これは一人の人の生涯にとっては非常に大きい事件だと言わなくてはなるまい。こうして、ありのままのおのれを卒直に露呈するという道は、早くから藤村の前にふさがれたのである。内からもり上がってくる青春の情熱は、それにもかかわらず、ありのままのおのれを露呈するように迫ってくるが、しかしそういう激発があっても、普通の場合ならば傷痕を残さずにすむような出来事が、ここでは冷厳な現実のために、生涯癒えることのない大きい傷あとを残すことになる。従って青春の情熱そのものがここでは非常な不幸の原因になるのである。『春』は私が一高にいたころに発表されたものであるが、最初それを読んだ時には、この作の主人公を苦しめている根本の原因が、よくのみ込めなかった。私ばかりでなく、私の仲間も大抵そうであった。私たちには、「少年の時分から他人の中で育った」ということの意味が、一向にわかっていなかった。私たちはありのままを露呈するということを少しもはばからなかったし、またそれを妨げようとする力をも骨身に徹するほどには経験していなかった。地方の農村で育った私でさえそうであったから、東京の山の手で育った連中は、一層そうであったであろう。ちょうどそのころに、文芸ではありのままの現実を描写すると称する自然主義がはやり始めたし、思想の上では個人主義が私たちを捕えた。他人の気を兼ねるという気持ちは、そういう所へ押しつけられる体験を持たないわれわれには、単に因襲的なものとして、あるいは無性格のしるしとして、排斥されてしまったのである。
しかし少年時代からこの苦労をなめて来た藤村にとっては、それは、思想的遊戯の問題などではなかった。おそらく藤村自身それをはっきりと反省の材料となし得ないほどに、それは藤村のなかに深くしみ込んでいたであろう。藤村は、無性格などということとはおよそ縁遠い、個性の強い人であった。その強い個性によっておのれの独自の世界をきり開いて行こうとする努力と、遠慮深い、他人の気を兼ねる習癖とが、藤村においてはいや応なしに結びついてしまったのである。
芥川龍之介が自殺したときに、藤村は一文を書いた。それを書かせる機縁となったのは、芥川の『或阿呆の一生』のなかにある次の一句である。「彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出逢ったことはなかった」。藤村はそれを取り上げて、「私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろう」と嘆いている。
ところで私もまた、『新生』が出始めた時分に、主人公が女主人公の妊娠を知って急に苦しみ始める個所を読んで、それから先を読み続けるのをやめた一人である。世間に知れるという怖れが主人公の苦しみの原因であって、初めに女主人公と関係したことは何の苦しみをもひき起こしていないように見えたからである。この点はその後ゆっくりこの作を読み返してみても、やはりそうだと思った。最初関係するところは非常に注意深く伏せてあった。従ってこの作の主人公は、世間の思わくの前に苦しんでいるのであって、おのれの良心の前に苦しんでいるのではない。もし『菊と刀』の著者がこの作を読んだのであったならば、この個所を有名な証拠として引用したであろう。
が、そこにこそ問題があるのであることを、私は久しい間気づかなかった。世間の思わくの前に苦しむのであって、自分の良心の前に苦しむのでない、と言われ得るほど、他人の気を兼ねる習癖が、作者藤村の個性にこびりついていればこそ、藤村は『新生』のために悪戦苦闘したのである。少年時代以来の藤村の苦労を、作品を通じて通観し得たときに、私にはやっとこのことがわかった。この苦労が次の苦労を生んだのである。ありのままのおのれを卒直に投げ出すような気持ちになれるために、作者も主人公もあのような苦労を積み重ねなくてはならなかったのである。
しかし『新生』を書いたことによって藤村があの習癖を完全に脱却したというのではない。『新生』は藤村があの習癖を自覚したということの証拠なのであって、脱却の運動はそこに始まったばかりなのである。少年のころから深く植えつけられた習癖が、そう簡単に抜き去られるものではない。
藤村の文体の特徴も、おそらくここに関係があるであろう。ありのままを卒直に言ってしまうということは、実際にありのままを表現し得るかどうかは別問題として、一つの性格的な態度である。その態度のもとに、素直な卒直な表現の仕方を作り出して行くためには、いろいろな苦心をしなくてはなるまいが、しかしその態度そのものは、割合に早く固定するもののように思われる。しかるに幼少のころから、他人の感情を害すまい、他人の誤解を受けまいというふうな用心によって、卒直な感情の表出を統制するように訓練されて来たとなると、右のような態度そのものが、何となく浅はかなような、奥ゆかしさを欠いたものとして感ぜられるようになるであろう。そこには卒直な物言いの人の知らないような、細かいセンスが働くであろう。私はそういうセンスが藤村の文体と密接に関係しているように感じる。一例をあげると、藤村のしばしば使っている「……と言って見せた」という言い回しである。前後の連関から見て、他の作者なら単純に「……と言った」としてしまうところに、藤村はわざわざこの言い方を使っているのである。ところで、「言ってみせる」という言葉は、「言う」というのと同じ意味ではない。してみせるとか、着てみせるとかと同じように、言ってみせるのもまた「試みに言う」のであって、取りかえしのつかない実践的な人格の発動としての「言う」行為なのではない。人が笑いながら「殺すぞ、と言ってみせた」としても、相手は殺意などを感じはしない。しかるに藤村は、作中の人物がまじめに相手に対して言葉によって働きかけている場合にも、「と言って見せた」という描写をやっているのである。同情なしに見る人は、ここに思わせぶりな態度とか、特殊な癖とかを認めるであろう。しかし藤村がわざわざこういう言い回しをするには、何かそう言わずにいられないものがあるのだと考えなくてはならぬ。それは、この人物がこの場合、言葉に現わしきれない、どういっていいかわからない気持ちを抱きながら、何とかいわずにいられなくて、試みにこうでも言い現わしたらどうであろうかという態度で、そう言った、ということなのであろう。そういう気持ちが、「……と言って見せた」という言い回しで十分現わされているかどうかは、別問題である。が、とにかくそういうセンスが働いてあの文体ができているということは、認めなくてはなるまい。
藤村自身も『言葉の術』のなかで言っている。「言葉というものに重きを置けば置くほど、私は言葉の力なさ、不自由さを感ずる。自分等の思うことがいくらも言葉で書きあらわせるものでないと感ずる。そこで私には、物が言い切れない」。岩野泡鳴のように、あけ放しに物の言える人から見ると、藤村の書いたものは思わせぶりに感じられたかもしれぬが、物の言い切れない藤村から見ると、泡鳴のように物を言い切ってしまう人は、話せないように感じられる、というのである。つまり藤村は、自分の文体が物の言い切れない文体、「……と言って見せる」文体であることを認めているのである。
幼少のころから他人の気を兼ねて育ったということは、それほどまでに深く藤村のなかに食い入っていると思う。
が、この幼少以来の苦労のおかげで、藤村の描いた世界のなかには、一つの非常にはっきりとした特徴が結晶している。
私は『夜明け前』を読んだ時にそれを痛切に感じたのである。この作にはかなりいろいろな人物が現われてくるが、作者はどの人物をも同情をもって描き、それぞれにその所を得させるように努めている。従っていろいろないやな事件が起こるにかかわらず、いやな人物は一人も出て来ない。作の世界全体に叙情詩的な気分が行きわたり、不幸や苦しみのなかにもほのぼのとした暖かみが感ぜられる。これは全く独特な光景だと私は思ったのである。
しかし考えてみると、この特徴はすでに『春』や『家』や『新生』などにも現われている。作者はどの人物をも責める態度で描くということがない。ちょうど「物が言い切れない」と言われていると同様に、人物をも一つの性格に片づけ切れないという趣が見える。苦労した人の目から見れば、人生はそういうふうに見えるかもしれない。遠くから見て、不埒な、怪しからぬ人物に見えていても、その人の立場に立てば、そうでないいろいろな点がある、ということになるのであろう。それを思いやり、そういう人の気をも兼ねるということになれば、作中の人物をくっきりと浮き彫りにし、それぞれにあらわな特徴を与えるということは、ちょっとやりにくくなる。どの人物の言行にも、はっきりと片づいた動機づけをすることができない。それが作の世界全体に叙情的な色調を与えるゆえんなのであろう。
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しかし藤村の個性はそうでない態度の上に立っているのである。だから藤村の作品からその個性にないようなものを求めるのは、見当違いだと思う。藤村の作品からは我々は苦労人の目から見たしみじみとした人生の味を味わい取ることができる。特に藤村が全力を集注して書いた数篇の長篇は、くり返して読むに価する滋味に富んだものである。またくり返して読ませるだけの力を持った作品である。
(昭和二十六年二月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新潮」
1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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ある男が祖父の葬式に行ったときの話です。
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式が終わりに近づいた時、この男は父親と二人で墓地の入り口へ出ました。会葬者に挨拶するためです。入り口のところには道側の芝の中に小さい石の地蔵様が並んでいました。それと向かい合った道側の雑草の上に、荒蓆が一枚敷いてあります。その上に彼は父親と二人でしゃがみました。そこへ来るまで彼は、道側に立って会葬者にお辞儀するのだろうと考えていましたが、父親がしゃがんだので同じくまねをしてしゃがんだのです。
やがて式がすんで、会葬者がぞろぞろと帰って行きます。狭い田舎道ですから会葬者の足がすぐ眼の前を通って行くのです。靴をはいた足や長い裾と足袋で隠された足などはきわめて少数で、多くは銅色にやけた農業労働者の足でした。彼はうなだれたままその足に会釈しました。せいぜい見るのは腰から下ですが、それだけ見ていてもその足の持ち主がどんな顔をしてどんなお辞儀をして彼の前を通って行くかがわかるのです。ある人はいかにも恐縮したようなそぶりをしました。ある人は涙ぐむように見えました。彼はこの瞬間にじじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と思いがけぬ密接な交通をしているのを感じました。実際彼も涙する心持ちで、じじいを葬ってくれた人々に、――というよりはその人々の足に、心から感謝の意を表わしていました。そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思われました。
これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。彼はこの時、銅色の足と自分との関係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距てているかということにも気づきました。心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。
彼と父親とがそうして土下座しているところへ、七十余りになる老人が、仏前に供えた造花の花を二枝手に持って、泣きながらやって来ました。「おじいさんの永生きにあやかりとうてな、こ、こ、これを、もろうて来ました。なあ、おじいさんは永生きじゃった――永生きじゃった――」涙で声を詰まらせながら、酒に酔うたもののようにふらふらしながらこの老人は幾度も同じことを繰り返して造花を振り回しました。祖父は九十二歳まで生きたのです。そうしてこの祖父が生きていたことは、この界隈の老人連に対して、生命の保証のように感じられていたに相違ないのです。その祖父が死んだ、それがこの老人連にどんな印象を与えたか、――彼はやっとそこに気づきました。彼が物心がついた時には祖父はもう七十以上で、その後二十年の間、この界隈の老人が死ぬごとに、幾度となく祖父の感慨を聞いたものでした。昔の同じ時代を知っているものが、もうたった三人になった、二人になった、一人になった、自分ひとり取り残された! あるいはまた、自分の次の時代のものさえも、もうほとんど残っていない! 祖父はそれを寂しそうに話しました。しかしこの祖父の心の寂しさを、彼は今まで気づかないでいたのです。彼はただ孫の立場で、この善良な、しかし頑固な祖父のために、いかに孫たちがよけいな苦労をしなければならないかをのみ感じていました。今祖父を葬ったその場で、永い間の祖父の心の寂しさを、この造花を振りまわす老人から教わりました。彼の知らなかった老人の心の世界が、漠然とながら彼にも開けて来ました。彼は土下座したために老人に対して抱くべき人間らしい心を教わることができたのです。
彼は翌日また父親とともに、自分の村だけは家ごとに礼に回りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見いだすことのできる曖昧宿で、夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一、二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。
彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、彼は新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいはいつか孵る時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「光」
1921(大正10)年10月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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一
夏目先生の大きい死にあってから今日は八日目である。私の心は先生の追懐に充ちている。しかし私の乱れた頭はただ一つの糸をも確かに手繰り出すことができない。私は夜ふくるまでここに茫然と火鉢の火を見まもっていた。
昨日私は先生について筆を執る事を約した。その時の気持ちでは、先生を思い出すごとに涙ぐんでいるこのごろの自分にとって、先生の人格や芸術を論ずるのがせめてもの心やりであるように思えたのであった。しかし今日になってみると、私は自分の心があまりに落ちついていないのに驚く。何を論ずるのだ。今ここで追懐の涙なしに先生の人格を思うことができるのか。ことに先生の芸術については、今新しく読みかえしている暇がない。数多い製作のあるものはおぼろな記憶の霞のかなたにほとんど影を失いかかっている。あるものはただ少年時の感激によってのみ記憶され、あるものは幾年かの時日によって印象を鈍らされている。それでなお先生の芸術を云為することができるのか。――私はあえて筆を執ろうとする自分の無謀にも驚かざるを得ない。しかも今私は二、三の事を書きたい衝動に駆られ初めた。私は断片的になる危険を冒して一気に書き続けようと思う。(もうすぐに先生の死後九日目が初まる。田舎の事とてあたりは地の底に沈んで行くように静かである。あ、はるかに法鼓の音が聞こえて来る。あの海べの大きな寺でも信心深い人々がこの夜を徹しようとしているのだ。)
先生の追懐に胸を充たされながらなお静かに考えをまとめる事のできないのは、ただ先生の死を悲しむためばかりでない。よけいな事ではあるがここにもう一つの理由を付け加える事を許していただきたい。私は心からの涙に浸された先生の死のあとにそれとは相反な惨ましい死を迎えるはずであった。しかし先生の死の光景は私を興奮させた。私は過激な言葉をもって反対者を責め家族の苦しみを冒して、とうとう今日の正午に瀕死の病人を包みくるんだ幾重かの嘘を切って落とす事に成功した。肉体の苦しみよりもむしろ虚偽と不誠実との刺激に苦しみもがいていた病人が、その瞬間に宿命を覚悟し、心の平静と清朗とを取り返すのを見た時、私の心はいかに異様な感情に慄えたろう。……私は感謝し喜び、そうして初めてまじり気のない感情でしみじみと病人を悲しみ傷んだ。生と死の厳粛さが今日から病室を支配し初めた。夜が明ければ私は何をおいても死んで行く者を慰めるために出かけなければならない。――私は落ちついて先生を論ずるよりも、かえってこの方が先生に対する感謝を現わすに適している事を感ずる。
――私は頭が乱れている。書き出しからしてもう主題にふさわしくない。
二
偶然であるか必然であるかは私は知らない、とにかく私は先生の死について奇妙な現象を見た。この秋、私は幾度か先生を訪ねようとして果たさず、ほとんど三月ぶりで十一月二十三日に先生を訪ねた。その日はいい天気だったので、Aとともに戸山が原を散歩して早稲田まで行った。Aは仕事がいそがしいため先生の所へは寄らないはずであった。私はいっしょに行きたいと言っていろいろ押し問答しながら歩いた。突然Aはいっしょに行こうと言い出した。それから十分ほどで先生の所に着いた。するとちょうど十分ほど前に先生が最初に血を吐かれた所であった。
私たちは何かの手伝いでもできれば結構と思って上がる事にした。座敷に通ってからふと床の間を見ると、床柱にかかった鼻まがりの天狗の面が掛け物の上に横面黒像を映している。珍しい面だと思って床柱を見たが、そこにはそんなに大きな面は掛かっていない。では小さい面が光のぐあいで大きく映ったのかしらと床柱の側まで行って見ると、そこに掛かっているのはただ羽団扇と円い団扇だけであった。しかし影は格好から、釣合から、どうしてもほんとうの面としか見えなかった。あまりうまくできているのでその面が奇妙に気に掛かり、あとで悪かったと感じたほど執拗にその面を問題にした。――この出来事がひどく気になっていただけに、臨終の日「死面」という言葉を聞いた時、私は異様な感じに胸を打たれた。ほんとうに悪い辻占であった。鼻の曲がっていたことも。
私が先生に初めて紹介された日にも奇妙な事があった。十八の正月に『倫敦塔』を読んで以来書きたかった手紙を、私は二十五の秋にやっと先生にあてて書いて、それを郵便箱に投げ入れてから芝居に行った。私の胸にはまだその手紙を書いた時の興奮が残っていた。その時に廊下で先生に紹介された。それまでかつて芝居や音楽会で先生を見かけた事のなかった私が、その日特に芝居で先生と落ち合わなければならなかったのは私にひどく不思議に思えた。少なくとも私だけにはその日がただの日ではないように見えた。
三
先生を高等学校の廊下で毎日のように見たころは、ただ峻厳な近寄り難い感じがした。友人たちと夕方の散歩によく先生の千駄木の家に行ったが、中へはいって行く勇気はどうしても出なかった。しかし先生に紹介された時の印象はまるで反対であった。先生は優しくて人を吸いつけるようであった。そうしてこの印象は最後まで続いた。私はいかに峻厳な先生の表情に接する時にも、先生の温情を感じないではいられなかった。
私が先生を近寄り難く感じた心理は今でも無理とは思わない。私は現在同じ心理を、自分の敬愛する××先生に対して経験している。それはおそらく自分の怯懦から出るのであろう。しかしこの怯懦は相手があたかも良心のごとく、自分に働きかけて来るから起こるのである。その前に出た時自分の弱点と卑しさとを恥じないではいられないゆえに起こるのである。私は夏目先生が気むずかしい癇癪持ちであることを知っていた。もとよりそれは単なる「わがまま」ではない。すべて自己の道義的気質に抵触するものに対する本能的な気短い怒りである。従って、自己の確かでない感傷的な青年であった私は、自分が道義的にフラフラしているゆえをもって無意識に先生を恐れた。そうして先生の方へ積極的に進んで行く代わりに、先生の冷たさを感じていた。こういう感じを抱いた者はおそらく私一人ではなかったろうと思う。
この事実を先生の方から見ればどうなるか。私はそれを明らかにするために先生の手紙の一節を引く。――
「……私は進んで人になついたりまた人をなつけたりする性の人間ではないようです。若い時はそんな挙動もあえてしたかも知れませんが、今はほとんどありません。好きな人があってもこちらから求めて出るような事は全くありません。……しかし今の私だって冷淡な人間ではありません。……
「私が高等学校にいた時分は世間全体が癪にさわってたまりませんでした。そのためにからだをめちゃくちゃに破壊してしまいました。だれからも好かれてもらいたく思いませんでした。私は高等学校で教えている間ただの一時間も学生から敬愛を受けてしかるべき教師の態度をもっていたという自覚はありませんでした。……けれども冷淡な人間では決してなかったのです。冷淡な人間ならああ癇癪は起こしません。
「私は今道に入ろうと心がけています。たとい漠然たる言葉にせよ、道に入ろうと心がけるものは冷淡ではありません。冷淡で道に入れるものはありません。」
それは先生の前に怯懦を去った時直ちにわかったことであった。先生はむしろ情熱と感情の過剰に苦しむ人である。相手の心の動きを感じ過ぎるために苦しむ人である。愛において絶対の融合を欲しながら、それを不可能にする種々な心の影に対してあまりに眼の届き過ぎる人である。そのため先生の平生にはなるべく感動を超越しようとする努力があった。先生は相手の心の純不純をかなり鋭く直覚する。そうして相手の心を細かい隅々にわたって感得する。先生の心臓は活発にそれに反応するが、しかし先生はそれだけを露骨に発表することを好まなかった。先生は親切を陰でする、そうして顔を合わせた時にその親切について言及せられることを欲しない。先生にとっては、最も重大なことはただ黙々の内に、瞳と瞳との一瞬の交叉の内に通ぜらるべきであった。従って先生は対話の場合かなり無遠慮に露骨に突っ込んで来るにかかわらず、問題が自分なり相手なりの深みに触れて来ると、すぐに言葉を転じてしまう。そうして手ざわりのいい諧謔をもって柔らかくその問題を包む(もちろん心の問題でもそれが個人的関係に即してではなく一つの人生観、思想問題としてならば、先生は底までも突っ込んで行くことを辞せなかった)。これらの所に先生の温情と厭世観との結合した現われがあったようである。
右のような先生の傾向のために、諧謔は先生の感情表現の方法として欠くべからざるものであった。先生の諧謔には常に意味深いものが隠されている。熱情、愛、痛苦、憤怒など先生の露骨に現わすことを好まないものが。そうして人々は談笑の間に黙々としてこの中心の重大な意味を受け取るのである。先生がその愛する者に対する愛の発表はおもにこれであった。(私の考えではこれが「諧謔」の真の意味である。従って真に貴い諧謔は「痛苦」から、「悩み過ぎる人」から、「厭世的な心持ち」から、人生に「快活」をもたらそうとする愛の徴証として産まれるのである。そうでないものは単に浮薄なる心の徴候に過ぎぬ。)
四
――先生は「人間」を愛した。しかし不正なるもの不純なるものに対しては毫も仮借する所がなかった。その意味で先生の愛には「私」がなかった。私はここに先生の人格の重心があるのではないかと思う。
正義に対する情熱、愛より「私」を去ろうとする努力、――これをほかにして先生の人格は考えられない。愛のうち自然的に最も強く存在する自愛に対しても、先生は「私」を許さなかった。そのために自己に対する不断の注意と警戒とを怠らなかった先生は、人間性の重大な暗黒面――利己主義――の鋭利な心理観察者として我々の前に現われた。
先生にとっては「正しくあること」は「愛すること」よりも重いのである。私はかつて先生に向かって、愛する者の悪を心から憐れみ愛をもってその悪を救い得るほど愛を強くしたい、愛する者には欺かれてもいいというほどの大きい気持ちになりたいと言った事があった。その時先生は、そういう愛はひいきだ、私はどんな場合でも不正は罰しなくてはいられないと言われた。すなわち先生の考えでは、いかなる愛をもってしても不正を許すことは「私」なのである。たとえ自分の愛子であろうとも、不正を行なった点については、最も憎んでいる人間と何の択ぶ所もない。自分の最も愛するものであるがゆえに不正を許すのは、畢竟イゴイズムである。
先生は自分の子供に対しても偏愛を非常に恐れた。親の愛は平等であるべきだ。もしそれを二、三にするくらいならむしろ平等に愛しない方がいい。この事は不断に厳密な自己省察を必要とするのであるが、先生はこの点について非常に注意を払っていた。そうしてこの心がけがやがて人生全体に対して公平無私であろうとする先生の努力となって現われた。
五
先生が偏屈な奇行家として世間から認められているのは、右のような努力の結果である。ひいき眼なしに正直に言って、先生ほど常識に富んだ人間通はめったにない。また先生ほど人間のなすべき当然の行ないを尋常に行なっていた人もまれである。ただ先生はその正義の情熱のために、信ずる所をまげる事ができなかった。徳義的脊骨があまりにも固かった。それが卑屈と妥協と中途半端とに慣れた世間の眼に珍しく見えたまでである。
しかし常識的という事が道義的鈍感を意味するならば、先生は常識的ではなかった。先生はいかなる場合にも第一義のものをごまかして通る事ができなかった。たとえ世間が普通の事と認めていようとも、とにかく虚偽や虚礼である以上は、先生はひどくそれをきらった。先生の重んずるのはただ道徳的心情である。形式習慣にむやみと反抗するのではなく、ただ道徳的心情よりいでてのみ動こうとしたのである。これを奇行と呼び偏屈と嘲るのは、世間の道義的水準の低さを思わせるばかりで、世間の名誉にはならない。
先生の博士問題のごときも、これを「奇を衒う」として非難するのは、あまりに自己の卑しい心事をもって他を忖度し過ぎると思う。先生は博士制度が世間的にもまた学界のためにも非常に多くの弊害を伴なう事実に対して怒りを感じた。その内にひそむ虚偽、不公平、私情などに対して正義の情熱の燃え上がるのを禁じ得なかった。これは先生として当然な事である。「博士」は多くの場合に対世間的な根の浅い名声の案山子である。博士であると否とにかかわらず学者の価値はその仕事の価値によってのみ定まる。しかも世間は「博士」が大きい仕事の標徴であるかのごとくに考えている。そこに不正と虚偽がある。この点についてはおそらく真に真理のために努力する学者たちは先生の態度を是認しないでいられないだろう。
六
徳義的脊骨のあるものには四周からうるさい事、苦しい事が集まって来る。先生はそのために絶えず癇癪を起こさなければならなかった。しかも先生はその敏感と情熱とのために、さらに内からその苦しみを強くしなければならなかった。先生の禅情はこの痛苦の対策として現われた傾向である。
先生の超脱の要求は(非人情への努力は)、痛苦の過多に苦しむ者のみが解し得る心持ちである。我々は非人情を呼ぶ声の裏にあふれ過ぎる人情のある事を忘れてはならない。娘がめっかちになって自分の前に出て来ても、ウンそうかと言って平気でいられるようになりたい、という言葉の奥には、熱し過ぎた親の愛が渦巻いているのである。
超脱の要求は現実よりの逃避ではなくて現実の征服を目ざしている。現実の外に夢を築こうとするのではなくて現実の底に徹する力強いたじろがない態度を獲得しようとするのである。先生の人格が昇って行く道はここにあった。公正の情熱によって「私」を去ろうとする努力の傍には、超脱の要求によって「天」に即こうとする熱望があるのであった。
七
先生の諧謔はこの超脱の要求と結びつけて考えねばならぬ。もともと先生の気質には諧謔的な傾向が(江戸ッ児らしく)存在していたかもしれない。しかし先生は諧謔をもってすべてを片づけようとする人ではなかった。諧謔の裏には絶えず厭世的な暗い中心の厳粛がひそんでいた。先生が単に好謔家として世間に通用しているのは、たまたま世間の不理解を現わすに過ぎないのである。我々は先生の人格が諧謔を通じて柔らかく現われるのを見る時、むしろ一種の貴さを感じないではいられなかった。そこには好謔家という観念にあてはまる何ものをも認める事ができない。
先生の芸術はかくのごとき人格の表現である。
先生は自己の人格の内からさまざまな人物や世界を造り出した。この造り出し方において私は先生の芸術の一特長を注意したいと思う。
先生は眼の作家であるよりも心の作家であった。画家であるよりも心理家であった。見る人であるよりも考える人であった。小説家であるよりもむしろ哲人に近かった。そのためか、先生の作物に写実味の乏しいことは、さほど気にならない。(しかしドストイェフスキイが自分を写実主義と呼んだ意味でならば、先生もまた写実主義者である。)
私は先生の芸術に著しいイデエを認める。一の作物の結構はすべてそのイデエから出ているように思う。この意味で先生の作物はかなり「作られた」という感じの強いものである。しかしその感じはイデエの力強さの下にすぐ消えて行く。そうして我々は赤裸々な先生の心と向き合って立つことになる。
我々は先生の作物から単なる人生の報告を聞くのではない。一人の求道者の人間知と内的経路との告白を聞くのである。
九
利己主義と正義、及びこの両者の争いは先生が最も力を入れて取り扱った問題であった。
『猫』は先生の全創作中最も露骨に情熱を現わしたものである。それだけにまた濃厚な諧謔をもって全体を包まなければならなかった。この作はおそらく先生の全生涯中最も道徳的癇癪の猛烈であった時代に書かれたものであろう。念入りに重ねられた諧謔の衣の下からは、世間の利己主義の不正に対する火のような憤怒と、徳義的脊骨を持った人間に対するあふれるような同情とがのぞいている。しかしこの時にはなお問題が先生自身の内生に食い入ってはいなかった。その後の諸作は漸次問題が内に深まって行く経路を示している。そうして最後の『明暗』に至って憤怒はほとんど憐愍に近づき、同情はほとんど全人間に平等に行きわたろうとしている。顧みてこの十三年の開展を思うとき、先生もはるかな道を歩いて来たものだと思う。
その経路を概観してみると、『猫』の次に『野分』において正義の情熱の露骨な表現があった。『虞美人草』に至っては鮮やかな類型的描写によって、卑屈な利己主義や、征服欲の盛んな我欲や、正義の情熱や、厭世的なあきらめなどの心理を剔抉した。その後の諸作においては絶えずこの問題に触れてはいたが、それを著しく深めて描いたのは『心』である。この作においては利己主義はついに純然たる自己内生の問題として取り扱われている。私は利己主義の悪と醜さとをかくまで力強く鮮明に描いた作を他に知らない。また執拗な利己主義を窒息させなければやまない正義の重圧の気味悪い底力も、前者ほど突っ込んではないが(特に重大な所にギャップはあるが)、力を入れて描いてある。次の『道草』においても利己主義は自己の問題として愛との対決を迫られている。この作で特に目につくのは、主人公の我がいかに頑固に骨に食い入っているかをその生い立ちによって明らかにしたこと、夫や妻やその他の人々の利己主義を平等に憎んでいること、その利己主義を打ち砕くべき場合方法などを繰り返し繰り返し暗示していること、結局それがだんだん実現されそうになって行くという幾分光明のある結末が先生の作としてきわめて珍しいことなどである。この作は明らかに次いで現われた『明暗』の前提をなしている。『明暗』においては利己主義の描写が辛辣をきわめているにかかわらず、作者は各人物を平等に憐れみいたわっている。そうして天真な心による利己主義の征服を暗示するのみならず、一歩一歩その征服の実現に近寄って行った。(先生はそれを解決しなかった。しかしあるいは――自らの全存在をもって解決したのではないのか。)
一〇
恋愛と正義の葛藤、利己主義による恋愛の悲劇なども、先生が熱心に押しつめて行った問題であった。ここに先生の人生に対する厭世的な気分が現われている。恋愛は人生の中核をなすものであるが、しかしそれは正しく生きることと抵触しはしないか。また恋愛のある所に必ず幸福な心の融合があるという事は可能であろうか。人と人との間には掛ける橋がないという言葉は真実ではなかろうか。
『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などが右の題目の開展であることは明らかである。『三四郎』に芽ざして『それから』に極度まで高まった恋愛の不可抗の力は、ついに正義を押し倒した。作者はこの事を可能ならしめるために享楽主義者を主人公とした。しかし不可抗の力の強さをきわ立たしめるためには、あらゆる同情を不義の恋に落ちて行く男女の上に注ぐ事をも辞しなかった。『門』はその解決である。男女の相愛はこれほど深まることができる。しかし押し倒された正義は執拗に愛する者の胸を噛んでいる。完全に相愛する男女の生活にも惨ましい寂しさがある。そうしてついに正義は蛇のように謀反者の喉に巻きつく。
『彼岸過迄』においては愛を双方で認めながら心も体も近づく事のできない宿命的な悲劇が描かれている。さらに『行人』は夫婦の間でどうしても心を触れ合わせることのできない愛の悲劇を描いている。愛はついに絶望である。
この問題についても『道草』は一つの活路を暗示する。砕かれた心のみが愛を生かせ得るのである。『明暗』に至ってそれは正面から取り扱われた。「私」を去れ。裸になれ。そこに愛が生きる。そのほかに愛の窒息を救う道はない。
一一
先生の厭世的な気分は恋愛を取り扱う態度に十分現われている。しかしそれがさらに明らかに現われているのは生死の問題についてである。ここに先生自身の超脱への道があったように思う。
元来先生は軽々しく解決や徹底や統一を説く者に対して反感を持っていた。人生の事はそう容易に片づくものでない。頭では片づくだろうが、事実は片づかない。――しかしこれは片づける事自身に対する反感ではなくて、人生の矛盾や撞着をあまりに手軽に考える事に対する反感である。先生は望ましくない種々の事実のどうにもできない根強さを見た。そうしてそのために苦しみもがいた後、厭世的な「あきらめ」に達した。顧みて口先ばかり景気のいい徹底家の言葉に注意を向けると、思わずその内容の空虚を感じないではいられないのである。
けれども「あきらめ」に達したゆえをもって先生は人生の矛盾不調和から眼をそむけたわけではなかった。先生はますます執拗にその矛盾不調和を凝視しなければならなかった。寂しく悲しく苦しかったに相違ない。(たとえ種々の点でいわゆる徹底家よりも「あきらめ」に沈んだ先生の方がはるかに徹底していたとはいえ。)
それゆえ先生は「生」を謳歌しなかった。生きている事はいたし方のない事実である。望ましいことでも望むべき事でもない。ただしかし生きている以上は本能的な生への執着がある、しなければならない事、則らなければならない法則もある。それは苦しいかもしれない、苦しくてもやむを得ない。――そもそも生きる事が苦しむ事なのである。生きている以上は種々の日常の不快事を(他人の不正や自分自身の不完全や好ましくない運命やを)避ける事ができぬ。むしろそれらの不快事が生きている事の証拠である。人生とはもともとかくのごときものにほかならなかった。
しかし先生は「死」を「生」より尊しとしながらも、「死」を謳歌しなかった。死もまたいたし方のない「事実」として存在する。それは瞑想する自分には望ましい事実であるが、本能的には恐ろしい。強いて死を求めるのは不自然である。けれども死が人間の運命だという事は人間の不幸ではない。従って死んでもいいし死ななくてもいい、生きていてもいいし、生きていなくてもいい。
このような生死に対する無頓着が先生のはいって行こうとした世界であった。先生はそこに到着するまでの種々の心持ちを製作の内に現わしている。『門』『彼岸過迄』『行人』『心』などはその著しいものである。ここにも開展のあとは認められる。『心』において極度まで押しつめられた生死の問題は、右の無頓着が著しくなるにつれて、一種透徹な趣を帯びながら、静かに心の底に沈んだ。『硝子戸の中』がその消息を語っている。
一二
しかし人生観のいかんにかかわらず、先生の内の「創作家」は先生を駆使して常人以上に「生かせ」働かせた。ことに生死に対する無頓着はかえってこの創作家を強健ならしめたように見える。『明暗』を書いていた先生はある時「毎日すべったのころんだのとクダラない事を書いているのは、実際やり切れないね」と言った。実際こう感じる事もあったに相違ないだろう。しかも先生は渾身の力を注いで製作しないではいられなかった。そうして芸術的労力そのものが先生の心を満足させた。炎熱の烈しかったこの暑中も、毎日『明暗』を書きつづけながら、製作の活動それ自身を非常に愉快に感じていた。そのため生理的にも今までになく快適を感じていたらしかった。(その実は製作の興奮のため徐々に身体を疲労させたのであったろうけれど。)
先生が製作によって生の煩わしさを超脱する心持ちは、私の記憶では、『草枕』や『道草』などに描かれていたと思う。
一三
私はきわめて概括的な、そのくせバラバラになった観察を書いた。もともと先生の芸術について適切な評論をなし得ようとは思っていなかったから、これくらいで筆を擱きたい。
先生の芸術についてはなお論ずべき事が多い。私は先生が「何を描こうとしたか」について粗雑な手をちょっと触れたのみで、「いかに描いたか」の問題には全然触れなかった。そこへはいればとても容易に出られないと思ったからである。それに、私の今の心持ちはただひたすら先生の人格に引きつけられている。先生の技能が提供するさまざまの興味ある問題は、たとえその興味が非常に深かろうとも、今直ちに私の心の中心へ来る事ができない。しかしそのために読者諸君の注意をこの方向へ向けて悪いというわけは少しもない。私は先生の死に際して諸君が先生の全著書を一まとめにしてあらためて鑑賞されんことを希望する。そうしてここに説いたような先生の人格と生活との表現がいかなる姿とリズムによって行なわれているかを子細に検せられんことを勧告する。先生の芸術はその結構から言えば建築である。すべての細部は全体を統一する力に服属せしめられている。さらにまた先生の全著書は先生の歩いた道の標柱である。すべての作は中心を流れるいのちに従って並べられている。これらの物に親しむのはいかなる意味においても我々を益し我々を幸福にするだろう。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新小説」
1917(大正6)年1月臨時号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2012年1月5日作成
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老人の思ひ出話など、今の若い人にはあまり興味はあるまいと思はれるが、老人にとつては、思ひ出に耽ることは楽しいのである。さういふ楽しみに耽る機会を与へられた北島葭江先輩自身が、すでにいろ〳〵な思ひ出の種になる。
この春安倍能成君から電話がかゝつて来て、北島が訪ねて行くから、逢つて頼みを聞いてやつてくれといふことであつた。その時わたくしは北島さんの昔の顔を思ひ起すことが出来た。安倍君と同じ級であつたとすれば大学はちやうど入れ替りになるわけであるが、どこかでちよい〳〵顔を見たことがあつたのであらう。ところで来訪された北島さんは、八十近い老人であつた。昔の面影が残つてゐないわけではないけれども、昔の大学生とは大分感じが違つてゐた。聞いて見ると、大学は安倍君と一緒であつたが、年は安倍君よりも五つ六つ上だといふ。若い頃にはそれほどに思はなかつたが、今見るとわたくしよりもよほど長老に見える。さういふ長老のいはれることであるから、書く材料があらうとなからうと、とにかくいはれるまゝに原稿を引き受けざるを得なかつたのである。
ところで、いよ〳〵その原稿を書かなくてはならない時期になると、さて何を書いてよいか解らない。題目は「西の京の思ひ出」といふのであるが、わたくしは奈良の西の京について特別な思ひ出を持つてゐるわけでもない。どうしてわたくしにかういふ題目が割りあてられたのであるかと考へてゐるうちに、ふと思ひ出したのは、若い頃に書いた『古寺巡礼』のなかに、唐招提寺や薬師寺を見物した日の夕方、奈良の町へ帰る田畝道の上で、薬師寺の仏像とガンダラ美術との聯関についていろ〳〵と空想にふける箇所があることである。あれは「西の京での空想」であつて、「西の京の思ひ出」ではないが、しかし今から思ふと、わたくしにとつては曽て西の京からの帰り途の原中であゝいふ空想に耽つたといふこと自体が、西の京の思ひ出となるであらう。わたくしにこの題目が割り当てられたといふことの背後には、さういふ聯想が働いてゐるかも知れない。
しかしさうなるとわたくしは、若い者があゝいふ空想に魂の飛ぶ思ひをしたあの時代の特殊な雰囲気を、興味深く思ひ出さざるを得ない。それは北島さんが東大に在学してゐた時期とあまり距つてゐない頃の出来事である。勿論、仏教美術に関してギリシア彫刻の影響の顕著なガンダラ彫刻が問題とされ始めたのは、前世紀からのことである。日本でも高山樗牛は、死ぬ前に「日本美術史稿」のなかで、グリュンヱーデルなどを引用して、奈良の仏像とガンダラ美術との関聯を説いてゐる。それは樗牛全集の第一巻に収録されて、明治三十七年(一九〇四)にすでに刊行されてゐる。しかしわたくしたちが奈良の彫刻に注意を向けるやうになつたのも、またその彫刻の印象に関聯してあゝいふ空想を刺戟されるやうになつたのも、樗牛の「日本美術史」とは全然関係がない。それは全く別途に、一つは東大での日本美術史の講義から、他はサー・オーレル・スタインの新疆省探険の報告から刺戟されたためであつた。
日本美術史の講義は、わたくしどもの在学の頃に岡倉覚三先生や滝精一先生が始められたのであるが、北島さんの在学の頃にはまだその講義がなく、工科大学の関野貞先生の日本建築史の講義でそれを埋めてゐた筈である。その頃関野先生はやつと四十歳位であつたと思ふが、日本の古い建築や彫刻に対する強烈な関心で小柄な体がはち切れるやうになつてゐた。明治三十九年(一九〇六)の九月に入学した魚住影雄君は、この講義がよほど面白かつたと見えて、下宿へ遊びに行くと好くその話をした。魚住君は、自分が興味を起してゐれば共にゐる相手もまたその興味を共に持つことを要求する人であつたので、自然さういふ態度になつたのだと思ふが、さういふ風に当人が興味を以て話すと、その興味は非常に伝染し易い。恐らく魚住君自身が関野先生の心に渦巻いてゐる興味に感染してゐたのであらう。さういふ関係で、わたくしも関野先生の講義に非常に興味を抱き、その学年の終りに魚住君のノートを借りて読んだばかりでなく、そのノートのレジュメを作つて、その年の夏休みに奈良へ行つた時に、それを持つて歩いた。これがそも〳〵奈良の古い建築や彫刻に接した最初の機会だつたのである。
尤もこの時の旅行は、中学時代の級友奥村輝光君の勧誘に従つたのであつて、主要な目標は、吉野から大峯山に登り、十津川を下つて、瀞八丁へ寄り、新宮、那智、潮岬などを見物するといふにあつた。奈良へ寄つたのはほんの附けたりで、さう詳しく見物したわけではなかつた。奈良へ入るには京都から南下するのろい汽車にのるか、或は大阪から奈良経由名古屋へ通ずる関西鉄道によるか、いづれかにするほかなかつた時代で、交通はずゐぶん不便であつた。今奈良盆地を縦横に走つてゐる近鉄の電車を自由に利用してゐる人たちは、殆んど想像することも出来ないであらう。しかしその近鉄が来年で創立五十周年だとのことであるから、無理もないといへる。わたくしが初めて奈良を見たのはそれよりもまだ数年前の話で、生駒山の下をトンネルで抜くなどといふ考がまだ岩下清周といふ人の頭に浮んでゐない頃であつた。その頃の奈良見物の学生にとつては、東大寺や春日神社など一通り見て廻つたあとでは、もう西の京まで歩いて行く元気などはなかつた。だからその時は薬師寺も唐招提寺も法隆寺もすべて割愛して、その日の夕方の汽車で吉野口の方へ行つたのであつたと思ふ。
さういふわけで最初の機会には西の京を素通りしたのであるが、それではその翌年にでも改めて見物に行つたかといふと、さうではないのである。魚住君は古美術への関心を持ち続け、大学を出てからも「日本美術」といふ雑誌の編輯を引き受けたりなどしてゐたが、わたくしの方は次から次へと興味を刺戟するものが現はれて来て、その方へ気を取られ、日本の古美術への関心は初めの頃ほど強くはならなかつた。だから大学で岡倉覚三先生の「泰東巧芸史」の講義を聞いた頃には、まだ奈良の西の京を見物してはゐなかつたのである。
この講義を聞いたのは大学の二年の時であつたと思ふ。従つて魚住君から関野先生の講義のノートを借りて読んだりなどした時から、三年以上後のことである。大学へ入つた年には関野先生の講義を聞きに工科大学の階段教室へ通つて、木村といふ助手に頼んでいろ〳〵な写真の焼き増しを頌布して貰つたものであつたが、翌年には文科大学で岡倉先生を引張り出して日本美術史の講義を開くことになつた。その時の講義室は、元良先生の心理学の教室であつた。この教室のあつた場所は、ちやうど今安田講堂になつてゐるところである。あの講堂は関東大震災の頃に建築中であつたが、それ以前、特にわたくしの在学した頃には、あの場所は相当に高い崖になつてゐた。その崖の上、今安田講堂の入口のあるあたりに、文科大学の事務室と学長室とを含んだバラック建があつた。その建物の東側が草の生ひ茂つた二三間の高さの崖で、その崖の下の低いところに、元良先生の心理学教室のバラック建があつたのである。建物は東向きで、真中に玄関があり、それを入ると右手、即ち建物の北半分が講義室になつてゐた。南半分には教授室や実験室があつたのだと思ふ。わたくしは卒業の時の口頭試問をこの心理学教室で受けた。多分あの頃には文科大学の中であの元良教授の室などが最も落ちついた、気持の好い室であつたのかも知れぬ。その心理学教室の講義室が日本美術史の講義のために使はれたのは、一つはこの室で幻燈が使へるやうになつてゐたせいだと思ふが、しかし今記憶を辿つて見ると、幻燈を講義に活用したのは滝精一先生であつて、岡倉先生ではなかつた。岡倉先生は多分幻燈を一度も使はなかつたであらう。写真さへもあまり使はなかつた。何か実物を持つて来て見せられたことはあるやうに思ふが、それもはつきりとは覚えない。最も印象の強く残つてゐるのは、大乗仏教の興起やシナにおけるその教理の変遷などをかなり詳しく講義されたことである。それはむしろ仏教哲学史の講義のやうであつたが、先生はさういふ哲学的理念の感覚的具体化といふやうな意味で、仏像彫刻の理解を試みられたのであつたやうに記憶する。
さういふ講義の或る日、話が薬師寺の三尊に及ばうとする時に、岡倉先生は教場を見廻はして、「諸君のうちにまだ薬師寺に行つて見たことのない人がありますか」と聞かれた。突然のことで、皆が一瞬の間戸惑つてゐると、先生は重ねて、「まだ行つたことのない人は手をあげてごらんなさい、」と言はれた。わたくしは手を挙げた。その瞬間に先年奈良を見物した時以来のことを考へて、西の京をまだ訪れずにゐる自分を幾分恥かしく感じたことは事実である。またさういふ気持であたりを見廻はすと、手をあげてゐる人の方が遙かに多かつたので、何となく安心するやうな気持になつたことも事実である。すると先生は、あの大きな眼でぎよろりとわれ〳〵を見廻はしながら、「よろしい、わたくしは諸君を心の底から羡ましいと思ふ、」と言はれた。この言葉がまたわれ〳〵には案外であつたので、先生は何を言ひ出すのかと、非常に緊張した気持で教壇の先生を見上げた。
その時に先生の言はれたことは、大体次のやうであつたと思ふ。「わたくしは若い頃初めてあの像の前に立つた時、実に何とも言へない強い驚きを感じた。あの大きい、まつ黒に光つてゐる本尊の、あの渾然とした美しさが、雷電のやうにわたくしを打つたのであつた。この最初の印象がわたくしには非常に強い感銘を残してゐる。あの本尊はその後別に美しさを減じたわけではないが、しかしあの印象は一度だけのものである。もしあの時のやうな気持をもう一度経験することが出来るならば、そのためにわたくしは何を失つても惜しいとは思はない。然るに諸君は、これからあの気持を経験することが出来るのである。それを羡まずにゐられようか。」
さう言つて岡倉先生は実際に感慨無量といふやうな表情を浮べた。それは先生が歿せられる二三年前のことであつたから、事実上岡倉先生の晩年の感懐であつたと言つてよいわけであるが、わたくしたちは右の言葉から異常に強い刺戟を受けたのであつた。
今考へて見ると、当時先生は数へ年でやつと五十歳になつたかならないか位の時であつた。しかしその頃わたくしどもの眼には、五十歳の人はかなり老人に見えたものである。大学の先生たちにも五十歳以上の人はあまりゐなかつたし、社会的に目立つてゐる人たちでもさうであつた。例へば文壇では岡倉先生と同年の森鴎外が最古参で、幸田露伴はそれより数年の年少であつた。その頃盛んに小説を書き始めてゐた夏目漱石も五六歳の年少であつたが、わたくしたちの眼には老大家に見えた。大学の講義でわれ〳〵の間の人気を集めてゐた大塚保治先生も同様であつた。つまり四十代前半の人たちが十分に老熟した人に見えたのであるから、五十歳の岡倉先生の言葉のうちに非常な年輪を感じ、敬意を以てそれを迎へたといふことは、少しも不自然ではなかつたのである。
それではその岡倉先生の言葉に刺戟されて、大急ぎで奈良の西の京へ見物に行つたかといふと、さうでもないのである。それほどにその頃には次々と気を取られるものが多く、特に「新しい」といふことが異常な刺戟をわたくしたちに与へてゐた。文芸の上ではロシアや北欧の近代文芸がさういふ「新しいもの」としてわれ〳〵の関心を煽つてゐたし、美術の上ではフランスの印象派の絵やロダンの彫刻などが「新しい美術」としてわれ〳〵の心を捕へたし、音楽ではその頃急に発達して来た蓄音機のレコードがそれまで聞いたこともなかつたいろ〳〵なシンフォニーやオペラなどを紹介して、われ〳〵の心を西欧の方へ引きつけた。演劇の方で自由劇場が「新しい芝居」を始めてわれ〳〵の心を魅了したのもちやうどその頃である。だから岡倉先生の言葉がどれほど強く響いたとしても、われ〳〵は西の京まで出掛けて行く余裕はなかつたのである。
では初めて西の京へ行つて、薬師寺や唐招提寺の堂塔仏像に魂を打たれたのは何時であつたか。
それは岡倉先生の右の言葉を聞いてから更に数年の後、第一次大戦争の最中の大正五六年の頃であつたと思ふ。わたくしは東大の美術史研究室でやつてゐる見学旅行に加はつて、初めて奈良あたりの諸寺を秩序立つて見物したのであつた。
東大に美術史の講座が出来たのは大正三年(一九一四)で、わたくしの卒業後二年目である。最初の教授は滝精一先生であつた。滝先生が講師として講義を始めたのは岡倉先生と同じくわたくしの在学中であつたから、最初の講義「日本絵画史」は二年位続けて聞いた。その後滝先生は一年ほどヨーロッパへ行つて来て、帰朝後、大正三年の初めに教授になつたのである。美術史の専攻学生が出来たのもこの年以後だと思ふ。その滝先生の研究室で春休みに奈良や京都への見学旅行を始めたのが何年であつたかは、はつきりとは思ひ出せないが、わたくしがそれに参加したのは、どうも二回目の見学旅行であつたやうな気がする。勿論滝先生が引率されたわけであるが、その下でいろ〳〵と事務をやつたり、若い連中を宰領したりしてゐたのは、研究室の副手の藤懸静也君であつた。同行の連中の中には、児島喜久雄、春山武松、矢代幸雄、丸尾彰三郎などの諸君がゐたやうに思ふ。大変賑やかだつたといふ印象が残つてゐるが、ほかにどういふ連中がゐたかはどうも思ひ出せない。
西の京へ廻つたのは見学の二日目であつた。朝八時頃の汽車で奈良をたつて先づ法隆寺へ行つたのであるが、法隆寺駅から法隆寺までの十数町の間は、人力車のほかには交通機関のない頃で、勿論われ〳〵は歩くのが当然のやうな気持で、麦畑の間の道を、遙かに法隆寺の塔を眺めながら歩いて行つた。あの長閑な心のテンポが、今はなか〳〵取り返せないであらうと思ふ。さういふ接近の仕方であるから、法隆寺の見学もゆつくりとしてゐた。昼の弁当は中門の廻廊外の茶店で食つたやうに思ふ。それから宝蔵を見たり、夢殿や絵殿や中宮寺などへ廻つて、さて夢殿の前の道を北の方へ、法輪寺に向つて歩き出したのは、もう三時を過ぎてゐたであらう。法輪寺からは更に畑の中の小径を伝つて法起寺へ廻つたのであるが、そのあとは郡山へ通ずる街道へ出て、一路西の京を目ざして歩いたものである。夢殿のあたりから薬師寺まで、まづ四キロメートルはあるであらうと思ふが、それも歩くのが当然のことのやうに思つて、わたくしたちはせつせと歩いた。郡山の町を北へ抜けて、十町ほど先に薬師寺の塔を望んだときに、もう夕ぐれの迫つて来たのを感じた覚えがある。
かうしてわたくしは初めて薬師寺のあの珍らしい形の塔の前に立ち、また初めて薬師寺金堂のあの三尊の前に立つたのであつた。ところで、この日の第一印象のことを簡単にいふと、岡倉先生のあの言葉で非常な期待を持たされてゐた金堂の薬師三尊には、それほどの強い感銘を受けず、むしろあの塔の思ひ切つた形のつけ方の方が遙かに強く心を打つたのであつたが、それよりも一層強くわたくしを驚かせたのは、東院堂の聖観音像であつた。この像からは、わたくしは、岡倉先生の言葉をそのまゝ移して使つてもよいほどの、強い感激を受けたのである。
その日は時刻が遅れた関係で、日が西に傾いてゐたので、照明の工合はわりに好かつたやうに思ふ。金堂の本尊の黒い色と艶とは、話には聞いてゐたが、全く想像を絶するものだと思つた。形が非常によく整つてゐるばかりでなく、あの形づけ方の流れるやうな柔かさが、特に強い印象を与へた。だからこの仏像があのやうに称讃されてゐることに対して、わたくしは少しも異見を抱いたわけではない。しかしそれにもかゝはらずわたくしには、この仏像の美しさに焦点を合はすことが出来ないやうなもどかしさが残つてゐた。それがすつかり取れたのは、何回かこの本尊の前に立つた後であつたやうに思ふ。だから最初の時には、本尊自身の印象よりも、むしろあの台座の浮彫りの方に一層強い興味を感じたほどである。
それに比べるとあの塔の美しさはよほど理解し易かつた。法隆寺の五重の塔を見て来たばかりの眼で見ると、この塔の変化の多い形がいかにも思ひ切つたやり方に見えた。その上、この時には、塔の上の水煙の天人の姿が、石膏で形を取つて陳列してあつたやうに思ふ。あれは実に優れた作品で、この時代の一つの代表作と言つてよいが、その印象がわたくしの頭の中では塔の印象と妙に密接に結びついてゐる。それは金堂の本尊よりもむしろ強い感銘をわたくしに与へた。
がそれらの一切に優つてわたくしを驚かせたのは聖観音の銅像であつた。それは東院堂の中央の大きい厨子の中に立つてゐるのであるが、東院堂は西向きであるから、開いた扉の間から堂内へさし込んだ夕日の光が、開いた厨子の中を工合よく照らしてゐたやうに思ふ。あの銅像は、金堂の三尊のやうにまつ黒な色にはなつて居らず、古びた色ではあるが銅らしい色を見せてゐるのであるから、その銅の色が際立つやうに見えてゐた。肩、胸、両側へ垂れた腕などのしつかりとした肉づけ、腹から下肢の方へ流れ下つてゐる薄い衣のひだにぴつたりと包まれてゐる下半身の力強い形づけ、さうしてさういふ堂々とした体躯の上の、いかにも端厳な観音の顔、さういふものが厨子の闇の中からくつきりと浮び上つて見えた。このやうにまで優れた彫刻が日本にあらうとは、わたくしは実際に予期してゐなかつたのである。
この聖観音像がわたくしに古代日本への眼を開かせてくれた。これだけのものの作れた日本人は大したものである。こんな日本人が何時の間にどうして出来上つたのであらうか。それまでにわたくしの教はつてゐた日本の歴史ではどうもこの疑問は解けなかつた。
この日かういふ気持を一層そゝつたのは、講堂の三尊像であつた。それは金堂の薬師三尊と同じ位の大きさの大きい銅像であるが、元来何処の何寺のものであつたのか、素性のはつきりしないものだといふことであつた。修補のあとが著しく、作として金堂の薬師三尊よりも遙かに劣るので、おのづから黙殺されるやうになつてはゐるが、しかしこれほどの大きい銅像がさういふ状態で残つてゐること自体がわたくしにはひどく興味深い現象のやうに思へた。それは一つには、薬師三尊が作られた頃には、この種の大銅像の製作はさほど珍らしいことではなく、従つて大和の人々からはありふれたものとして取扱はれたのであつたかも知れない。さうなるとその頃の銅像製作は大したものである。どうも偉い時代があつたものだと感ぜざるを得なかつた。
夕暮が迫つて来たので、大急ぎで薬師寺から唐招提寺へ行つた時に、わたくしはまた新しい驚きに出逢つた。南門から入つてやゝ進んで行つた時に、正面にどつしりと据つてゐるあの金堂の姿が、実に調和そのものであるやうな、古典的な美しさの絶頂を示すやうに思へたのである。木造建築であるから天平の昔の姿をそのまゝ伝へてゐるかどうかは疑問であらうが、しかしそんなことを考へて見る暇もなく、わたくしはいきなり天平建築の代表をこゝに見るやうに感じた。こゝには暗い影の些さかもない、明朗そのものゝやうな木造建築がある。屋根はなるほどどつしりとしてはゐるが、しかし下から受ける柱の列が実に強い力を現はしてゐて、いかにも軽々と持ち上げてゐるやうに見える。屋根のそりはちやうどその持ち上げる力のはね返しを現はしてゐるやうに見える。その屋根のそりをはつきりと現はしてゐるのは、大棟の鴟尾のところから四隅の軒先へ流れ下る降り棟の線であるが、その線の緩やかにはね上つてゐる先端へ、正面の軒の左右にのびた線の端の方もまた緩やかにはね上つて一緒になる。正面から見れば、左右の軒の先端へ屋根のはね上りが集中してゐるやうに見える。その他の部分、例へば最も上にある大棟の線とか、下方でそれと並行して左右に走つてゐる軒端の線とかも、幾分か彎曲してゐるのかも知れないが、しかし眼立つほどではない。はね返りの彎曲は左右の軒の先端に至るに従つて顕著になつてゐるのである。しかしそのことは、下から軒を受けて立つてゐる八本の円柱の並べ方と無関係なのではない。無関係どころか、非常に密接な聯関を以て八本の柱が並んでゐるやうに見える。といふのは、正面に遊離して並んでゐる八本の柱の間の隔りが、微妙な割合を以て両端に至るほど狭まつてゐるのである。これは両端に至るほど柱の並び方が密になつて、その支へ上げる力が強まつて行くことを意味してゐる。屋根のはね上りは、ちやうどこの支へる力の増加と対応してゐるのである。これは実にわたくしにとつて驚異の種であつた。
金堂を正面から眺めた場合、柱の間の間隔は、中央において広く、左右に至つて狭くなつてゐるのが普通である。唐招提寺の金堂の前に立つた時より数時間前にゆつくりと眺めて来た法隆寺の金堂だつてさうである。然るに法隆寺ではその点に少しも気づかなかつたのに、唐招提寺の金堂の前では、それが恰もこの堂の美しさの秘密を開示してゐるかの如くに、わたくしの心を打つたのであつた。それは何故だつたのであらうか。
実をいふとわたくしは、その時にも、またその後の四十年余の間にも、あの柱の間隔を測つて見たこともなければ、またその逓減の割合を考察して見たこともない。況んや法隆寺の金堂の場合と比較して見たこともない。たとひ細かな数字を出して見たところで、その意味を理解する能力はわたくしにはないからである。が、かりにその逓減率と屋根のそりの曲率との間に、何かの関係が見出せたとしても、この金堂の建築家がさういふ数学的関係に基いて設計したのでないことは確実であらう。この金堂の建築家が使つたのは、芸術的な釣合の感覚である。さうしてその感覚は、法隆寺の金堂の建築家の場合とは、明かに違つてゐたのである。
しかしわたくしは、唐招提寺の金堂が示してゐるあの釣合に驚歎すると共に、この釣合を作り出した感覚が、あのアテナイのパルテノンを作り出した感覚と、極めてよく似たものではないかと感じたのであつた。しかもそれが、天平時代の金堂らしい金堂としては唯一の遺物なのである。われ〳〵は、たゞこの窓口を通してのみ、天平時代の数多い荘大な金堂を想像して見ることが出来る。さうして、この窓口から見た天平の大建築は、実に予想外に素晴らしいものとならざるを得なかつた。たゞ一つ東大寺の金堂を問題としてもよい。この堂の規模は記録によつておほよそ解つてゐる。今の大仏殿が七間七面であるに対して、最初のそれは十一間七面であつた。釣合がまるで違ふ。殊に現在のやうに、正面に唐破風などをつけた形は、天平の感覚からは遠ざかり得る限り遠ざかつたものだと言つてよい。十一間七面は左右に長い形で、唐招提寺の金堂に似てゐる。唐招提寺の方はずつと小さく七間四面に過ぎないが、間口と奥行の割合は極めて近い。柱間の寸法によつては同じ割合にも出来たであらう。だからわれ〳〵は、唐招提寺金堂のあの比類のない美しい調和を持つた姿を、そのまゝ拡大して、倍以上の大きさの重層建築として想像することが出来る。これは実に大変な建築である。わたくしは全く魂の天外に駛け廻るやうな思ひをしたのであつた。
唐招提寺の金堂は天平建築だといふことでわたくしにさういふ刺戟を与へたのであつたが、薬師寺の金堂の本尊は、同じ金銅仏でありながら、少し時代が早いと言はれてゐるせいか、東大寺の大仏への想像を刺戟するやうなことはなかつた。唐招提寺の金堂には初めからの乾漆の盧舍那仏がいかにも堂とよく調和して安坐してゐるので、この点からも金銅盧舎那仏への想像を阻止されたのであつたかも知れぬ。が考へて見ると、薬師寺本尊の鋳造の時代と大仏鋳造の時代とは、僅か三十年位しか距つてゐない。鋳造の技術がさほど衰へたとは思へない。造像の技術に関しては、むしろ円熟の度を進めてゐると言つてよいであらう。さうすればわれ〳〵は、薬師寺の本尊の上にもつと天平的な円熟の趣を加へた大きい金銅盧舍那仏を想像することが出来る筈である。さういふ本尊があつてこそ初めて唐招提寺金堂を拡大し重層化したやうな大仏殿が天平時代の結晶としての意義を発揮して来るであらう。
かういふことを考へざるを得ないやうな刺戟を唐招提寺の金堂はわたくしに与へたのであつたが、しかし最初の見学の日にわたくしはさう長くそこに留まつてゐたわけではない。その頃講堂は普請中であつて、内部を参観したのは金堂と開山堂とだけで、さほど長い時間を要しなかつた。だから夕暮れで幾分薄暗くなる頃にはわたくしたちは唐招提寺の構内を北西の方へ抜けて、垂仁天皇陵の方へ歩いてゐた。今はこの御陵と唐招提寺との間に電車線路が通じてゐるが、あの頃にはまだ線路はなく、いかにも物静かな景色であつた。夕暮の光の中で垂仁陵の茂つた樹立がいかにも幽邃に見えた。まはりの池との調和も非常に好かつた。なるほど前方後円墳といふのはかういふ落ちついた感じのものかとしみ〴〵感じた。
垂仁陵のそばから田舍道伝ひに西大寺の停車場までは一キロ半位はあつたであらう。わたくしたちはおのづから足を早めて元気よく歩いて行つた。大阪奈良間の電車が開通してからはもう数年経つてゐた。それでも、この見学旅行の時にこの電車を利用したのは、この西大寺奈良間だけであつたと思ふ。
初めに問題とした「西の京での空想」が浮び上つてくるためには、もう一つの重大な契機としてスタインの西域旅行記を読んだことが残つてゐる。スタインが最初に新疆省のタリム盆地を探険したのは、明治三十三四年頃、わたくしが中学へ入つた頃であるが、その時の探険は非常に世界を驚かした。それまで殆んど世界から忘れられてゐたタリム盆地が、急に強い照明を帯びて眼の前に現はれて来たからである。西本願寺の大谷光瑞が西域の探険にのり出したのはこの刺戟のせいであつたと思ふ。が第一回の探険の報告が旅行記として一九〇三年(明治三十六年)に出版され、更に詳しい研究の報告 Ancient Khotan 二巻として一九〇七年(明治四十年)に世に出た頃には、スタインはすでに第二回の探険旅行(一九〇六年―八年)に入り込み、燉煌の千仏洞などを発見して、一層世界を驚かしてゐた。日本の東洋学者たちもひどく湧き立ち、北京へ燉煌出土の古文書を見に行つたりなどした。わたくしたち、直接に関係のなかつたものでも、その騒ぎは少しは知つてゐる。特にわたくしの記憶に残つてゐるのは、これまで孫悟空の活躍する西域記の種本として名前だけ知つてゐた玄奘三蔵の大唐西域記が、この探険旅行に非常に役立つたと聞いて、非常に驚いたことである。驚いたのはわたくしだけではなかつたと見えて、京都の文科大学では、新しく西域記を校訂して出版した。これは千何百年来日本で大蔵経の中に存在してゐた本なのであるが、こゝで全く新しい眼で見られる必要を生じたのである。堀謙徳氏の詳しい『解説西域記』が出たのもそれから間もなく、大正元年(一九一二)のことであつた。
そのスタインの引き起したシヨックが何であつたかといふことを、わたくしは西の京で、薬師寺の東院堂の聖観音や、唐招提寺の金堂などを見たときに、初めて理解することが出来たのであつた。これらはシナから伝はり、シナの仏教美術を手本として作られたものではあるが、しかしそのシナの仏教美術なるものは、タリム盆地あたりを通ずる西域との交渉を勘定に入れなくては、理解されない筈である。それはもと〳〵シナ的なものではなくしてインド的なものなのである。仏教に伴つた一つの特殊な文化の流れなのである。それがシナへどうやつて入つて来たかを、スタインはタリム盆地の砂漠の中から掘り出して見せてくれた。そこへわたくしの興味は強くひきつけられたのであつた。
その頃には第二回の探険の報告は、Ruins of Desert Cathay といふ二巻の旅行記が出てゐただけで、詳しい研究の報告 Serindia 五巻はまだ出てゐなかつた。しかしわたくしには第一回の探険の報告である古代于闐の発掘記だけでも、実に興味深いものであつた。わたくしは魂が天外に駛けるやうな思ひをしてあの遺跡の報告を読んだものである。
今では、次の世代の元気のいゝ人たちが、自分であのアジア大陸の真中の、砂漠の多い地方へ乗り込んで行つて、自分でじかにあの地方を体験するといふやうなことを、さほど珍らしくもなくやつてゐる。それを思ふと半世紀前はまるで事情が違つてゐた。まことに今昔の感に堪えない。
ところで、スタインの探険した西域は過渡の地である。それは当然西域の本場へ、即ちインドの地へ、人を導いて行く。わたくしは北西インドやアフガニスタンの仏教美術のことに親しまざるを得なかつた。がさうなると興味は、仏教美術の起源そのものに向つて行く。さうしてそこにインドの文化とギリシアの文化との、接触の問題が横たはつてゐる。それが不思議に強い力を以てわたくしの心を捕へたのであつた。
これが最初に挙げた「西の京での空想」の湧き上つて来た所以なのである。
(一九五九年九月) | 底本:「大和の古文化」近畿日本叢書、近畿日本鉄道
1960(昭和35)年9月16日発行
※「盧舍那仏」と「盧舎那仏」の混在は、底本通りです。
入力:岩澤秀紀
校正:杉浦鳥見
2020年2月21日作成
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改訂版序
今度版を新たにするに当たり、全体にわたって語句の修正を施し、二、三の個所にはやや詳しく修補を加えた。が、根本的に変更したものはない。もともと習作的な論文を集めたものであるから、根本的な改修は不可能である。自分が念としたのはできるだけ誤謬を少なくすることであった。
昭和十五年二月
著者
序言
自分は『日本古代文化』の発表以後、それにつづく種々の時代の文化を理解せんと志し、芸術、思想、宗教、政治の各方面にわたって、おぼつかない足どりながらも、少しずつ考察の歩をすすめた。そのころ東洋大学における日本倫理史、後には法政大学における日本思想史の講義の草案として、在来この種の題目の著書にほとんど取り扱われていない飛鳥寧楽時代乃至鎌倉時代に特に力を注ぎ、雑駁ながらも幾分の考えをまとめてみたのであるが、その講案の副産物として、やがては日本精神史のまとまった叙述に役立つであろうとの考えから、ほとんど未定稿のごとき状態で発表したのが本書に集録せる諸論文である。だからそれらはさらに綿密な研究によって書きかえられ、日本精神史の叙述のうちにそれぞれその位置を持つはずであった。ところが考察をすすめるに従って仏教思想がいかに根深くこれらの時代の日本人の精神生活の根柢となっているかを見いだし、仏教思想の大体の理解なくしては考察を進め得ざるに至った。そこで自分はシナ仏教の理解によって、それがいかに日本人に受容され、いかなる意味で鎌倉時代の新運動となったかを理解せんと志したのであったが、シナ仏教の理解はインド仏教の理解なくしては不可能であり、結局原始仏教以来の史的開展を理解することによってのみシナ日本における仏教思想の特殊性が理解せられ得るものであることを悟るに至った。自分はかかる理解を、権威ありとせらるる先輩の著書によって得ようと試みた。が、不幸にも自分は自ら根本資料について研究すべき必要に押しつけられた。それは最初の目的にとってははなはだまわり道であるが、しかしこれを理解せずには考察を進め得ないと悟った以上、まわり道であっても仕方がない。のみならず学問としては日本精神史を明らかにするのも仏教思想を明らかにするのもその間に軽重の差があるとは思えない。かくして自分は日本精神史の叙述からは横道にそれ、右の諸論文は手を触れらるることなく数年間捨て置かれた。さらに幾年捨て置かれるか知れない。しかし自分のうちには、一つの時期を記念するものとして、これらの小篇を愛惜するこころがある。またこの種の問題を追究する人々にとっては、これらの未熟な研究も幾分の参考となるであろう。さらにもしこの書によって識者の叱正を得ることができたならば、自分の将来の研究にとって幸福である。かく考えて自分は、ほとんど未定稿のごとき状態のままで、これらの論文をここに輯録し世に問うのである。
本書の論文は、「推古天平美術の様式」及び「『枕草紙』の原典批評についての提案」の二篇を除いて、すべて関東大地震以前の数年間に主として雑誌『思想』に発表したものであるが、右の二篇も他と同じ覚え書きに基づいたものに過ぎぬ。なお「沙門道元」の初め三分の二は『思想』創刊以前に『新小説』に連載したものである。
本書のさし絵については源豊宗君及び奈良飛鳥園主の好意を受けた。記して感謝の意を表する。
大正十五年九月
於洛東若王子
著者
飛鳥寧楽時代の政治的理想
「まつりごと」が初め「祭事」を意味したということは、古き伝説や高塚式古墳の遺物によって十分確かめ得られると思う。君主は自ら神的なものであるとともにまた祭司であった。天照大神がそうである。崇神天皇がそうである。邪馬台の卑弥呼もそうである。かくて国家の統一は「祭事の総攬」において遂げられた。種々の地方的な崇拝が、異なれる神々の同化やあるいは神々の血統的な関係づけによって、一つの体系に編み込まれたのは、この「祭事の総攬」の反映であろう。
かくのごとき祭事は支配階級の利益のために起こったというごときものではない。そこにはいまだ「支配」という関係はなかった。祭事に伴なっているのは「統率」という事実である。原始的集団においてはその生活の安全のために祭事が要求せられた。力強い祭司の出現は集団の生活を安全にしたのみならず、さらにその集団の生活を内より力づけ活発ならしめた。祭司の権威の高まるとともに集団は大となり、その大集団の威力が神秘的な権威として感ぜられる。ここに「祭事の総攬」という機運が起こってくる。集団の側から祭事や祭司を要求することが、祭司の側からは統率となるのである。だから統率は君主が民衆を外から支配し隷従せしめるというのではなく、民衆がその生活の内的必然として要求したものであった。このことは卑弥呼が衆によって共立せられたというシナ人の記述や、衆人が天皇の即位を懇願するというさまざまの伝説によっても確かめられるであろう。
祭事が支配階級の利益というごときことのためでなく民衆の要求に基づいて起こったとすれば、この祭事の目ざすところが民衆の精神的及び物質的福祉にあったことは疑う余地がない。祭司の権威の高まることはさまざまの「まがつみ」を排除して民衆の福祉を増進することである。ここに我々は原始的な政治が決して少数者の権力欲によって起こったものでなく、民衆の福祉への欲望が(それ自身としては自覚せられずに)権威や統率関係の設定として自覚せられたものであることを見いだし得ると思う。ここでは祭事という言葉自身が示しているように、宗教と政治とは別のものでない。また統率さるることが民衆自身の要求であったがゆえに、統率者と被統率者との対抗もない。君民一致は字義通りの事実だったのである。自然の脅威に対する戦いが唯一の関心事である自然人にとっては、隣国の古き政治史が示すような権力欲の争いや民衆を圧制する政治のごときは、いまだ思いも寄らぬことであった。シナ文化を摂取して人々が歴史的記録を残そうと努め始めたころには、彼らはシナの史書から学んだ視点をもってこの国の古き伝説を解釈しようとしたが、しかし彼らの文飾をもってしても自然人的な素朴な祭事の実情は覆い隠すことができなかった。我々はこれらの記録の伝える天皇尊崇の実情を右のごとき祭事の意義において的確につかみ取らなくてはならぬ。
かくのごとき祭事がいかにして政治に変わって来たか。ここに我々はいわゆる「大臣大連」の意義が見いだされはしないかと思う。応神仁徳朝をもって絶頂とする祭事の時代は、伝統としては推古時代の近くまで続いている。それは高塚式古墳の遺物が明らかに証示するところである。しかしながら「祭事の総攬」は、その黄金時代においては幾万の軍隊を朝鮮半島に出動させるほど有力であったとはいえ、それ自身は本質上神聖な権威による統一であって、最大の兵力による威圧でもなければ経済的な実力による支配でもなかった。神聖な権威の下に統一され、その権威の分身として自らも権威を持った地方的君主の中には、兵力や経済的実力において祭事の総攬者と大差なきものもあったらしい。もしここに神聖な権威の結紐が破られたならば、国家的な統一もまたともに破れ去らなくてはならぬ。朝鮮半島との軍事的接触はやがて西方の文化との密接な関係を喚び起こし、この方面からも素朴な原始的統一は脅かされ始めた。この時、かつて祭事の総攬として立てられた統一をさらに経済的兵力的な権力によって確保しようと努力したものが、大臣大連の政治である。古き物語や書紀の記録などはともすればこれらの大臣大連の事蹟をただ家庭的私事の方面のみから観察しようとするが、事は朝鮮半島の南端より関東地方にまでわたる一つの国家の統一に関する問題であって、大和における私闘私事の問題ではない。当時の歴史家が大きい事蹟を私人的にしか把握し得なかったという歴史記述上の能力と、当時の政治家が右のごとき国家の全範域にわたって中央政府の権力を確立しようと努力したという実際生活上の能力とは混同してはならない。
我々はこの時代における大臣大連らの事業を書紀における短い断片的な記録から再建することができるであろう。雄略朝以後、特に継体朝以後推古時代までの間には、これらの大臣大連は西方文化との接触と中央集権の努力とをその活動の枢軸としている。中央集権は主として屯倉(直轄地)の設置によって行なわれた。大伴の金村にしても、蘇我の稲目や馬子にしても、この屯倉の設置には熱心に努力しているのである。そうしてこの努力のために西方より輸入せられた「知識」が最も有力な武器であったことは否み難い。かくして中央政府は、経済的の実力を蓄積し、統一的な兵力を養い、国家としての組織を徐々に発育せしめて行ったのである。
かくのごとき政治的統一の努力に対して、天皇の神聖な権威は欠くべからざるものであった。屯倉の設置は地方の豪族の地位と権力とに大きい変化をもたらすものであるが、しかしそれは兵権をもってなされたものでなく天皇の神聖な権威によってなされたのである。言いかえれば祭事としての権威によって政治が行なわれたのである。しかしながら実際に行なわれるのはもはや祭事ではなくして西方の知識による政治であった。ここに形式と内容との分離がある。かくして政治に権威を与えるものとしての天皇の意義に対する反省が起こり、前代にあっては反省せられざる直接の事実であった神聖な権威が今や組織されたる神話の形において自覚せられるに至った。一つのまとまった叙事詩としての『古事記』の物語はかくして発生したのである。かくのごとき自覚において、単に権力ではなくして権威が要求せられたということは、皇統の絶えんとするに当たって大伴の金村らのなした努力にも明らかに現われていると思う。
この変化は西方文化の刺激によって原始的な信仰の直接さがようやく破れ始めたことにも起因するであろう。祭事が政治となり、宗教と政治との区別がやや自覚されるに至ったのは、西方の知識の輸入と平行した出来事である。この点において帰化漢人が「まつりごと」の意義の変化に有力な刺激を与えたことは認めざるを得ないであろう。しかもこの時期の末には、宗教として高度に発達した仏教が旺然として流れ込んで来る。それが自然人の心情に適合した仕方でのみ受け容れられたとしても、それによって古来の祭事がその宗教としての位置をはなはだしく狭められたということは必然の勢いであろう。原始的な祭事において直接に明らかであった「まつりごと」の目的は、その祭事と引き離された「政治」において、今や新しくその意義を獲得し、その内容を深めなくてはならない。
中央集権がほぼ完成し、西方の文化の摂取がきわめて活発となった推古時代において、我々はこの新しき意味における政治の理想が「憲法」として設定されたのを見る。天皇が政治に神聖な権威を与えるものであることはここでも明らかに認められるが、かく権威づけられた政治が目的とするところは国家の富強というごときことではなくしてまさに道徳的理想の実現である。民衆の物質的福祉ももちろんここには顧慮せられるが、何よりもまず重大なのは徳の支配の樹立である。儒教の理想と仏教の理想とがここでは政治の目的になる。かくして主権者の権威は道徳的理想の権威と合致した。後に聖武天皇が自ら三宝の奴と宣言せられたような、主権者の権威を永遠の真理によって基礎づけるところの決然たる言葉はここには用いられていないが、しかしそれを呼び起こす思想はすでにここに現われていると思う。
我々は現代においてもそのままに通用するごとき「十七条憲法」の光輝ある道徳的訓誡を、単にシナの模倣とする歴史家の解釈に同ずることができない。そこに現われた思想は普遍妥当的なものであって、それを理解したものの何人もが心から共鳴し、その実現に努力せざるを得ないものである。かかる思想をシナから教わり、それを理解し、強き道徳的情熱をもってその実現に努力することは、「シナの模倣」と呼ばるべきものであろうか。「キリストの模倣」というごとき用語例に従えばそれは「孔子の模倣」「ブッダの模倣」などとは呼ばれてもよい。しかし内より必然性をもって出たものでないという意味の模倣ではあり得ないであろう。ことに国家の目的を道徳的理想の実現に認めるということは、単に「憲法」において思想として現われたに留まらず、推古時代の政治の著しい特徴であったらしい。たとえば四天王寺経営の伝説はかかる理想実現の努力を語っている。元来この寺は、書紀によると、仏教の流布に反対して亡ぼされた物部一族の領地領民をその経済的基礎としたものであるが、その当時の寺の組織として後代の縁起の語るところによると、それは明らかに仏教の慈悲を社会的に具体化せんとする努力を示したものである。敬田院には、救世観音を本尊とする金堂を中心に伽藍がある。ここに精神的な救いの手が民衆に向かってひろげられている。その北方には薬草の栽培、製薬、施薬等を事業とする施薬院、一切の男女の無縁の病者を寄宿せしめて「師長父母」のごとくに愛撫し療病することを事業とする療病院、貧窮の孤独、単己頼るなきものを寄宿せしめ日々眷顧して飢餲を救うを業とした悲田院などが付属する。これらはまことに嘆賞すべき慈悲の実行である。我々はこの伝説がどの程度に事実を伝えているかを知らないが、しかし四天王寺にこの種の施設のあったことが確実であり、そうして他にその創設の伝承がないとすれば、我々は暫くそれを信じてよいであろう。かかる努力にこそまさに当時の政治の意義が見いだされるのである。
しかしながら推古時代における政治的理想はなお十分に実現の力を伴なわなかった。それは大化の改新においてきわめて現実的な実現の努力となって現われ、天武朝より天平時代へかけて現実的と理想的との渾融せる実現の努力となって現われたのである。すなわち大化の改新においては主として社会的経済的制度の革新として、天武朝より天平時代へかけては精神的文化の力強い創造として。
曇らされざる眼をもって大化の改新の記録を読むものは、きわめて短日月の間に矢継ぎ早に行なわれた種々の革新の、あまりに多くまたあまりに意義の大きいのに驚くであろう。ことに土地人民の私有禁止、班田収授の法の実施のごときは、屯倉による中央集権によって準備せられていたとはいえ、また他方では豪族らの五分六割の形勢によって地方的勢力が減殺されていたとはいえ、高塚式古墳の示しているような地方的分権の時代から見れば非常な大革新である。この種の革新が、貴族らの幾分の不平を引き起こしたのみで、大いなる故障もなく行なわれたということは、推古時代の政治的理想が土地人民の所有者の階級にかなりよく理解せられていたと見なくては解し得られぬと思う。もちろんこの改新は反動なしにはすまなかった。北方の蝦夷の征服や唐の勢力の脅威によって新政府が著しく軍国主義的に傾いたとき、かつて行なわれた改新は徐々として逆転せざるを得なかった。しかしながらこの逆転は、たとい保守派を喜ばせたとしても、より多く進歩派の反対を買った。蘇我の馬子の孫である赤兄が、斉明天皇の失政として水城石城等の築造や軍需の積聚を攻撃しているごとき、明らかにこれを証示するものである。が、さらに著しいのは天智天皇崩御後における壬申の乱において、身分の低い舎人や地方官をのみ味方とする天武天皇の軍が、大将軍大貴族の集団たる朝廷方を粉砕したことである。保守派たる大貴族は破れた。天武天皇は逆転せる大化改新を再び復興し、新しく爵位を制定することによって古来の臣連を貴族の最下位に落とした。この時以後、昔臣連の大貴族として勢力を持ったものの末裔が、おのおの数町の田をうけてわずかに家名を存続し、ついに部民と同等の資格で戸籍につくに至ったのも少なくない(正倉院文書、大宝養老の戸籍)。その反対に庶人に対しても人才簡抜によって官吏となる道を開いた。その他種々の点において天武朝の施政は大化の改新を徹底せしめたものである。そうしてさらに推古時代の理想を実現するために、仏教の理想の具体化が種々の施政となって現われ始めた。仏教の精神によってこの時に規定せられた殺生の制限は、ついに長い後代まで菜食主義の伝統となって残った。「諸国の毎家、仏舎を作り、仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよ」という詔は、仏壇を一家に欠き難いものとする伝統の始まりである。かくのごとき形勢の下に白鳳天平の力強い文化創造の運動が始まるのである。
我々は右のごとき概観を一つの事例によって証拠立ててみたいと思う。それは『大宝令』における富の分配の制度である。
大化の改新は経済組織の上に行なわれた一つの断乎たる革命であった。皇族を初め一般の貴族富豪は、その私有するところの土地と人民を、すなわちその私有財産のほとんど全部を、国家に交付しなくてはならなかった。そうしてこれらの貴族富豪の私有民として「ほしいままに駆使」されていた百姓は、すなわちその労働の果実を特権階級によって搾取せられていた民衆は、その奴隷状態より解放され、国家の公民として一定の土地の自主的な耕作権を賦与されることになった。もとよりこの際、特権階級の「特権」は全部剥奪されたわけでない。彼らはその地位と官職とに応じて国家より俸禄を受くるのである。が、この種の特権がなお依然として存するにもせよ、彼らはもはや数万頃の田を兼併し、あるいは民衆をおのが私用のために駆使するというごとき利己主義的な特権を、公然と許されているわけではない。民衆は国家に僅少の租税を払うほか、何人の搾取をも束縛をも受くることなく、すなわち特権階級の特権に何ら彼らの生活を傷つけらるることなく、自由にその生を享くるの権利を保証されたのである。
この改新がいかにして行なわれたか。またそれが単に官府の記録に現われた改新であって、実際には行なわれなかったものでないかどうか。あるいはまたそれが唐の法令からいかなる程度の影響を受けたものであるか。それらの問題はここに触れようとするものでない。ここにはただ右の国家社会主義的とも呼び得べき施設を、その明らかに法令の形をとって現われているところの『大宝令(1)』について、観察してみようとするのである。この法令がいかなる程度に実行されたものであるにもせよ、そこには確かに当時の政治家の理想を見ることができる。その理想の実現において種々のつまずきがあったということは、この種の理想をもって政治家が事を行なおうとしたという偉大な事実の価値を没するものではない。
(1)現存『令義解』による。その条文は恐らく養老年間に改修せられたものであって、『大宝令』そのままではあるまいという説がある。そうも思えるし、またそうでなく思える点もある。たとえば田令第一条の租の高がそうである。が、いずれであるにしろここにはただ耳なれた名であるゆえをもって便宜上『大宝令』と呼んでおこうと思う。
奈良朝初期の産業の大部分は、言うまでもなく農業である。従って土地の国有は総じて資本の国有を意味する。この国有の資本は、すなわち天下の公田は、いかなる方法によって一般に分配せられたか。
法令によれば民衆は戸籍についたものである限り、五歳以下のものを除いて男子に一人あて二段、女子にその三分の二の「口分田」を給せられる。彼らはこの田を耕作して、収穫の百分の三(京畿は百分の四・四との説あり)の租税を払うほか、全部おのれの収入としていい。すなわち彼らは、国家の提供する資本とおのれの労働との協同によって生ずる果実を、その九割七分まで享受し得るのである。なおこの制度において特に注目に価する事は、全然労働能力なき小児や一般の女子にも土地を均分している点である。シナにおいてはかかる前例はない。そうしてこの相違には甚大な精神的意義がある。なぜならば一般の女子や労働能力なき小児にも土地を均分するという事によって、租税の徴収が第一義でなく生活の保証が第一義である事を明示しているからである。シナの法制においては労働能力ある男子への配分は非常に大きいが、主義として人民に土地を均分するのではない。
これを実際の例についていうと、たとえば筑前国島郡川辺里卜部乃母曾の一家は(正倉院文書、大宝二、戸籍、による)、
戸主乃母曾、四十九歳。(正丁、一人前の権利義務全部を担うもの)
その母、七十四歳。(耆女、口分田をうけ田租を納めるも他に義務なし)
その妻、四十七歳。(丁妻、右に同じ)
長男、十九歳。(少丁、口分田をうけ田租を納めるほかに、四分の一人前の庸調を負担す)
長女、十六歳。(小女、丁妻に同じ)
次女、十三歳。(小女、右に同じ)
次男、六歳。(小子、右に同じ)
戸主の弟、四十六歳。(正丁、戸主に同じ)
その妻、三十七歳。(丁妻、戸主妻に同じ)
長女、十八歳。(小女、右に同じ)
長男、十七歳。(少丁、戸主長男に同じ)
次男、十六歳。(小子、小女と同じく庸調の負担なし)
次女、十三歳。(小女、右に同じ)
三女、九歳。(小女、右に同じ)
三男、二歳。(緑児、口分田なし)
四女、一歳。(緑女、口分田なし)
すなわち口分田をうくる権利あるものは、男二段ずつ六人女三分の四段ずつ八人である。従ってこの一家はこの後六年間、田地二町二・六段を当然占有し得る。当時の平均によれば、一段の収穫米は五十束、すなわち二石五斗であって、二町二段は五十六石余の収穫を意味する。これに対して租税は総計一石七斗(五百束に対して十五束の割(1))を払えばよい。しからば年収五十四石余、すなわち約百三十五俵(2)は、この卜部一家の生計を支うる基本収入である。今日の農家の状態から推測すれば、たとい十六人の家族を擁するにもせよ、百三十俵の収入を持つ百姓は決して裕福でないとは言えぬ。従ってもしこの制度が予期通りに実現されるとすれば、一般民衆の生活は確実に保証されるのである。
(1)田令には「町租稲二十二束」とある。そうしてその個所に『義解』は町地穫稲五百束と注している。これはここに認めた割合と同一でない。しかし久米邦武氏(奈良朝史、四六ページ)によれば、京畿は二十二束、諸道は十五束である。氏はこの諸道十五束を『続紀』慶雲三年九月の「遣使七道、始定田租法、町十五束」から判定せられたらしい。吉田東伍氏(倒叙日本史、巻九、二七一ページ以下)の解はそうでない。氏によれば、田租二十二束の場合は町穫稲七百二十束、田租十五束の場合は穫稲五百束、すなわち度量衡の法の相違であって、税率はほとんど等しい。前者は『大宝令』の制であり、後者は古制であって、この古制が『大宝令』制定後五、六年にしてまた復活されたと見るのである。が、今の場合にとってはいずれの解を取るもさしつかえはない。
(2)吉田氏(倒叙日本史、二七三ページ以下)によれば、段別穫稲五十束、一束米五升という場合の量升は和銅大量であって、その一石は今の六斗六升余に当たる。従って年収五十四石余は今の三十六石九十俵に当たる。が、それでも今の百姓としては富裕の方である。
班田収授の法をかく社会主義的な施設と見るについては、もとより異論がある。たとえば、これらの百姓は有姓の士族であって、今の農夫と同視すべきでないというごとき(久米氏、奈良朝史、四四ページ)。しかしこの説は一顧の価値もないものである。大化改新の詔の第一条は、皇族及び貴族の私有民を解放せよと命じている。この私有民は農夫でなくて何であろう。またその前年の詔には「方今百姓なほ乏し。而して勢ある者、水陸を分割して私地となし、百姓に売与して年々にその価を索む。今より後、地を売ることを得じ。妄りに主となつて劣弱を兼併すること勿れ」とあり、そのあとに「百姓大いに喜ぶ」と付け加えられている。ここにいう「売与」とは貸与である、「その価」とは小作料である。これを地主と小作農の関係と見ずしてどうしてこの詔を解することができるか。一歩を譲って百姓を有姓の士族と見ても、それは貧乏であり、また勢いある者の私地を小作して苦しめられつつあった点において当時の農民と変わりがない。のみならずまた実際の問題として、『大宝令』の時代に、戸籍について口分田を給せらるる階級よりも下に、なおどんな階級が認められるであろうか。たとえば御野国三井田の里は(正倉院文書、大宝二、戸籍)戸令にあるごとく五十戸(五十軒の意味ではない、戸籍数五十である。軒数は何倍かに上るであろう)である。そうしてこの戸籍数五十の村落は総人口八百九十九人の内、ただわずかに奴婢十四人をのぞいて全部公民であり、またこの奴婢さえも、田令によれば公民の三分の一(官戸奴婢の場合には公民と同額)の口分田を給せられる。この公民及び奴婢よりも下に、なお低き労働者の階級が認め得られるであろうか。我々は『続紀』及び法令のいずれの点にもその種の階級の痕跡を認めることができぬ。またこの三井田の里が九百の公民のほかになお数百あるいは数千の賤民を包容し得たと考えることもできぬ。
かく見れば、班田収授の法によって生活を保証されたものは、確かに一般の民衆であって特権階級ではない。いかなる人も、五歳を越えれば国家より土地の占有権を与えられる。一戸の内に普通の労働能力がある限り、そうして不可抗な天災が襲って来ない限り、何人も餓えに迫られるはずはないのである。
が、一般の民衆の享受する富は、単に右のごとく「田」に関するもののみではない。農人としての労働はこのほかなお「畑」において、「山林」において、自由に行なわれ得る。法令にいわゆる「園地」はこの種の副業を考えずには解釈し得られない。田令によればこの園地もまた、地の多少に従って、人口に応じて、均しく分かたれるのである。そうして園地を配分せられたものは、義務として一定数の桑漆を植えなくてはならぬ。その内特に桑は、当然養蚕を予想するものであり、従ってそこに絹布をつくるための一切の労働領域が開ける。それは人口の半ばを占める女の仕事である。下戸(すなわち口数の少ない一家)において桑一百根を植うることを規定されているのを見ると、この養蚕及びそれにつづく製糸製絹の仕事は、かなり大きいものでなくてはならぬ。賦役令によると、絹、絁、糸、綿、布などが物産のまっ先に掲げられている。この糸が絹糸、綿が真綿であるとすれば、それも養蚕の仕事に属するのである。
桑漆のごとく政府より特に奨励せられないものでも、民衆はその生活の必需のゆえに多くの副業を営む。賦役令の物産の名から判ずると、副業は非常に多種類である。そこに言う布が麻布であったとすれば、麻も盛んに作られ、麻布も多量に紡織せられたことになる。そのほかになお胡麻油、麻子油の類さえもある。山地は狩猟によって得られる猪油、鹿角、鳥羽の類を産出し、海岸地方は塩の製造、魚貝の漁撈、海藻の採集などに非常に有力な副業を持った。これらはすべて農業の合い間に労働を楽しむ程度で働いても、かなりの分量を産出し得るものである。
これらの副業の収穫は、「調」と呼ばれる僅少の租税をのぞいて、全部自己の有になる。調は二十一歳以上六十歳以下のいわゆる正丁一人について絹絁八尺五寸、六十一歳以上及び残疾者――その半額、十六歳以上二十歳以下のいわゆる中男――その四分の一である。前に例示した卜部一家十六人の内には、正丁二人、中男二人であるから、この一家が一年に収むべき調は、絹絁約二丈一尺である。が、もしこの一家が百本の桑を植え、十三歳以上の女七人の手によって養蚕し糸を紡ぎ織を織ったならば、年の絹布産額は恐らくこの数倍に達するであろう。のみならず調はこの絹布に限らない。まゆから当然取れる真綿は、二斤半(一斤今の百八十目)をもって絹に代えることができる。なおまた海岸地方においては、塩三斗、鰒十八斤、かつお三十五斤、烏賊三十斤、紫のり四十八斤、あらめ二百六十斤等をもって調とすることができる。これもまた副業の年産額に比して高率とは言えぬであろう。
なお租調のほかに「庸」と呼ばれる租税がある。正丁一人につき年十日の労働を課するのである。農閑の時に課せられるとすれば、これもさほど重大な負担とは言えない。もし十日の労働を避けようと欲すれば、彼は調と同額の物資を納めればよい。(これによって見ると、一日の労働は塩三升に、あるいはあらめ二十六斤に、あるいは絹八寸五分に当たるのである。)
これらの観察よりすれば、法令によって保証せられた一般民衆の生活は、普通に勤勉でありさえすれば、かなり豊かなものである。そうして恐らく彼らの労働能力の全部を費やさなくてもすむものである。(なおより以上に働くことを欲するものは、口分田以外に公田あるいは貴族の私田を小作することができ、また実際小作した。)この一般民衆の生活程度は、恐らく現在の中流階級に匹敵するであろう。ただしかし、天災に対する抵抗力の弱い当時の農耕は、民衆の生活にしばしば不時の変調を起こさせた。気候激変、長雨、洪水、暴風、旱魃、虫害、それらのあるたびごとに饑饉が起こる。それがこの時代の民衆の生活に暗い影を投げた最大の原因である。しかしこれは、制度の罪ではない。制度によって醸される害悪をでき得る限り取り除いたあとにも、なお右のごとき害悪は頻々として起こり得る。そうしてそれは土地分配の割り前を高めることによって救われるものではない。政治家の取るべき救済の方法としては、租税の免除、食糧の賑給、物資の廉売、平時の貯蓄、及び宗教的に絶対者にすがること等があるが、当時の政治家はこれらのすべてを行なったのである。ことに免租及び平時の公共的貯蓄(義倉)は、賦役令のうちに明らかに規定されており、宗教的な方法としては後に巨大な大仏さえも築造された。当時の知識程度においては、これら一切の富の分配の施設は、恐らく人為に望み得る最高のものであったろう。
が、ここになお一つの疑問がある。当時の社会においては、一般の身体労働者の階級に対して、官吏という頭脳労働者、及び位階あるゆえに徒食し得る貴族等の特権階級が認められていた。彼らはその頭脳労働が価する以上に、またその伝統的地位に対して許さるべき以上に、奢侈の生活をしてはいなかったか。そうしてそれが畢竟労働の成果の奪掠ではなかったか。もしこれらの奢侈を禁ずれば、一般民衆の生活はさらに安楽となるのではなかったか。
この疑問を解くために我々は官吏及び貴族の特権が何を意味するかを観察してみなくてはならぬ。
法令によれば特権階級の収入は次のごとくである。――(一)位あるものは位田を給せられる。一品(親王)八十町より四品四十町、正一位八十町より従五位八町まで。女はその三分の二。(二)官職にあるものは職分田を給せられる。大政大臣四十町、左右大臣三十町、大納言二十町、大宰帥十町、国守は国の大小に応じて二町六段より一町六段、郡司は六町より二町、大判事二町、博士一町六段、史生六段の類である。
ところでこの位田職田の一町は、収入として幾何の額を意味するか。田令によれば「田を給う場合、もしその人がその土地の人でないならば、すべて、口分田さえ足らぬほどの耕地の少ない郷で受けてはならない」。この規定は、位田職田が実際に田を給うのであって、単に抽象的に町穫稲あるいは町租を単位とする俸給を意味するのでないことを示している。が、田を給うのみであってその耕作者がなければ、それは全然意味をなさない。しからばこれらの田の所有者は、その田を公田と同じく収穫五分の一の小作料をもって農人に賃貸するのであるか。あるいはまた公力をもって耕作し、収穫全体を収受するのであるか。田令のうちには、地方官新任の際は秋の収穫のころまでに「式によつて粮を給へ」という一条がある。『義解』はそれに注釈して、「例へば中国守、職田二町、稲に准じて一千束(五十石)に当たる。新任守六月任に至らば、残余六ヶ月のために稲五百束を給ふ」と言っている。この解によれば職田一町とは直ちに町穫稲の全部、米二十五石を意味するのである。しかもこの地方官の職田は「交代の以前にすでに苗を種えつけた場合はその収穫が前の人の収入となり、また前の人が自ら耕して苗を植えるばかりにしてまだうえていない場合には、後の人がその耕料を担う。官吏欠員の場合には公力をもって営種する」(田令)とあるによって見れば、地方官が自己の家人をもって自ら耕作する場合にのみ収穫の全部を得るのであって、公力すなわち百姓の賦役によって耕作させるのではない。新任守が式によって粮をうくる規定は、前任守が職田の収穫について権利を持っているからに過ぎぬ。すなわち位田職田の収入はその持ち主の経営法にかかる問題であって、一律に定めることはできないであろう。ここにおいて我々は位田職田の収入が小作料の五石と全収穫高の二十五石との間に種々変化するものであることを考えなくてはならぬ。特権階級は果たしてそれをいかに処置したであろうか。
ここでまずこの問題についての学者の説を一瞥しよう。吉田東伍氏は「位田はその賜ふところの田地の穫稲を収め、一町につき二十二束の田租を官に輸す」(前引書、三六七ページ)と言っている。すなわち全収穫をとってその内から一般人と同じき田租を納めることを認めているのである。しかし位田は最も少ないものといえども八町を下らぬ。その田を誰が作るか、彼らは無報酬で働く奴隷を持っていたか、もしそうであれば初めて田を給わったものはその奴隷をどうして手に入れたか、――それらの問題について氏は何ら考うるところがない。私有民の禁ぜられたこの時代に、数十町の田を耕す多数の奴隷がなお官位あるものによって私有せられていたことを証明した後でなければ、またこの種の奴隷が賜田に付随して給与されたのであることを証明した後でなければ、氏の解は成り立たない。久米邦武氏はこの点についてやや詳密に考えている。氏は賜田と封戸との間に密接の関係を認め「田と戸とは土地と人民との別なるを以て大相違なれども、戸口の副はぬ田と田地のつかぬ戸口とは利益甚だ乏しきものなり。故に領地は版籍と称して、田地四至の版図と住民の戸籍を併せて領するものなるに因つて、或は田を表はし、或は戸を表はす。実際は同物といふも不可なかるべし」(古代史、四九―五二ページ)と言っている。すなわち氏はこの点においては奴隷を認めず、賜田が封戸と同性質のものと見るのである。そうしてなお位田と位禄の対比から、「一町を封八戸許に較したる(1)」ことを認めている。が、位田職田がいかなる方法により幾何の収入を得るものであるかについては、明白な解を示していない。
(1)田令には位田正一位八十町より従五位八町までを規定し、別に禄令において正一位三百戸より従三位百戸までの食封を規定している。しかるに慶雲二年に至って、「冠位已に高うして食封何ぞ薄き」という理由の下に、正一位六百戸より従四位八十戸に増額された。久米氏はこの六百戸を八十町に対比して、一町を封八戸許に較したりと言われるのである。しかしこの食封は厳密に賜田と対応させられているとは言えない。正一位位田八十町に対して食封は六百戸であるが、しかし従四位は位田二十町に対して食封八十戸である。また令によれば、太政大臣の職田は四十町であるが食封は三千戸である。すなわち正一位においては一町すなわち七戸半、従四位においては一町すなわち四戸、太政大臣においては一町すなわち七十五戸である。
自分は位田功田職田の類が、自ら耕作するを許さざるほどの広大な面積にわたるものである限り、必ず収穫五分の一の小作料をもってその収入としたに相違ないと考える。かの「代耕の禄」(続記、慶雲三年三月、詔)とは恐らく小作料を指すものであろう。封戸は、賦役令によれば、その領するところの戸の田租を二分し、一半を官に収め一半を領主の有とするのであって、収入の高きわめて明白である。またその徴収も、官に委任して官収の半ばを受ければよいのである。しかし位田功田の場合には、その領主は自ら経営し、小作人をして作らしめ、その小作料を自ら徴収しなくてはならぬ。この際民衆は、もし貴族にして驕慢ならば、その小作を回避することもできるであろう。なぜなら彼らは口分田によって生活を保証されているからである。従って位田功田職田等の経営がしばしば貴族を不利の地位に陥れたことも容易に察せられる。「王公諸臣多く山沢を占めて耕種を事とせず、競つて貪婪を懐き空しく地利を妨ぐ。もし百姓柴草を採る者あれば、仍つてその器を奪つて大に辛苦せしむ。しかのみならず、地を賜はること、実にたゞ一、二畝あるも、これにより峰をこえ谷に跨りて浪りに境界となす、自今以後更に然ることを得ざれ」(前引、慶雲三年詔)というごとき言葉は、明らかに貴族と農民と軋轢を語るものである。すなわち貴族は、百姓が彼らの従順なる小作人たらざるゆえに、きわめて子供らしき方法をもって百姓に復讐し、その鬱憤を晴らしているのである。これらの事情によって察すれば、貴族は賜田よりも食封を好み、従って食封の増額という形勢を引き起こしたのであろう。かく解すれば位田と食封とは、久米氏の説くごとく全然同性質のものとは見られない。
賜田が百分の二十の小作料を意味するとすれば、それは田租の七倍弱であり、従ってその半額を収入とする封戸の田地に対して約十四倍の効力を有する。一戸平均二町を耕作するとすれば、十四町すなわち七戸が賜田一町に匹敵するのである。すなわち最高八十町の位田は、約五百六十戸の食封に当たる。位田の始まったのが『養老令』であり、それまではすべて位封であって特殊の場合を除けば一品親王もほぼ一千戸の位封をうけたに過ぎぬとすれば(久米氏、古代史、四九、五三ページ)、『大宝令』の位田八十町食封八百戸、すなわち封戸に換算して約千三百六十戸は、はなはだそれに近い。この点から考えても自ら耕作する能わざる位田職田の収入が、小作料に基づくことは確実である。
しからば全収穫高を収めるとする『義解』の解釈は、ただ家人の手によって自ら耕作することを事とする低い地方官にのみ通用するものであろう。この見方によって自分は、自分の解釈と矛盾することなく、『義解』の解釈をも容認し得ると思う。すなわち位田は総じて小作料に基づき、職田は従五位以上においては多く小作料に、正六位以下において多く自耕に基づいた収入を意味すると見るのである。たとえば大宰帥の職田は十町であるが(田令)、彼はまた従三位であるゆえに(官位令)、位田三十四町をうける。同じく大宰大弐は職田六町とともに正五位の位田十二町、同じく大宰少弐は職田四町とともに従五位の位田八町。すなわち大宰官吏は長官より序を追うて四十四町、十八町、十二町である。しかるに第四位にある大宰大監は、ただ正六位であるという理由のみで、職田二町をうくるに過ぎぬ。官位上ただ一段の相違によってたちまち俸給が六分の一に減ずるのは、一見はなはだ不合理のように見えるが、もし彼らがすべて家人をして二町を耕作せしめ、それ以上の田を小作人によって耕作せしめたとすれば、少弐の年俸百石に対して大監は五十石ということになる。さらに上に位するものも、大弐百三十石、大宰帥は二百六十石であって、その釣り合いが不自然でない。またもし高位にのぼったものの家人が、小作料のみによっても生活し得るゆえをもって身体労働をいとったとすれば、帥は二百二十石、大弐は九十石、少弐は六十石である。
右の解釈によれば、正六位以下の下級地方官吏は、二町乃至六段の職田を口分田以外にもらうということを除いて、農民と異なった何らの特典もない。(ただし大宰、壱岐、対馬の地方官は例外として在京官吏に等しき禄をももらう。)ここではむしろ職田二町というごときことが、官の倉庫より米五十石を給せられることであると解したく思う。たとえば上国守が職田二町二段と従五位位田八町、合計十町二段を給せられるのは、その小作料五十一石を意味し、下国守が単に職田二町をのみ給せられるのは、官米五十石を意味すると見るのである。しかしこの解釈を支持するためには、先に引いた田令の職田営種に関する条を別の意味に解し得なくてはならぬ。そうしてそれは我々に不可能である。あの条は職田の小作に関するにもしろまた自作に関するにもしろ、とにかく具体的な職田をうんぬんするのであって、職田一町すなわち官米二十五石と見ることを許さない。だから我々はいたし方なく、下級の地方官吏が決して頭脳労働者としての特典を持っていなかったことを承認しなくてはならぬ。
しからば在京の諸官吏はどうであるか。大納言、左右大臣、太政大臣等の最高官を除くほかは、すべて職田を給せられるということがない。その代わり彼らは禄令によって封禄をもらう。半年ごとに、その期間の出勤日数百二十日以上のものは、一位の絁三十疋、綿三十屯、布百端、鍫百六十口より従八位の絁一疋、綿一屯、布三端、鍫十口まで、官位に応じて禄をうける。また従三位以上には食封があり、従五位以上には正四位の絁十疋、綿十屯、布五十端、庸布三百六十常より従五位の絁四疋、綿四屯、布二十九端、庸布百八十常までの特別給与がある。ここでも正六位以下の下級官吏はきわめて薄給であって、従五位との間の相違のあまりにも著しいのに驚かざるを得ない。正六位は年二期を合わせて絁六疋、綿六屯、布十端、鍫三十口、これら全部を賦役令の比例によって布にひきなおすと、布三十九端に当たる。一端米六斗(1)として換算すれば米二十三石四斗にしか当たらない。従八位に至っては実に年七石五斗である。口分田によって家族を働かせることなしには、彼らは一家をささえることができないであろう。また口分田による収穫を合して考えた時にのみ、従五位と正六位との間のあまりにもはなはだしい収入の相違が緩和されるのである(2)。
(1)布価と米価との釣り合いは時代とともに非常に変わっている。天平中期(『続紀』神護元年六月)の饑饉年のごとき、米二百石(異本三百石)に対して絁六百疋、綿六千屯、布千二百端を引きあてている。米一石=絁三疋=綿三十屯=布六端である。布三十九端は米六石五斗にしか当たらない。が、かくのごときは饑饉年の異例であろう。和銅五年紀に穀六升(米三升)=銭一文、銭五文=布一常(一丈三尺)とあるのを令制定の時に最も近しとすれば、布一端米六斗と見ていいであろう。
(2)従五位は禄三十四石余、特別給与四十石余、位田四十石、合計百十五石ほどである。これに対してもし正六位の家人が口分田において五十石を収穫するとすれば、合計七十三石余である。
では五位以上はどうであるか。正五位の年禄は右のごとく換算して四十二石であり、その特別給与は同じく五十四石である。(位田をもらえばこの上になお六十石を増加する。)従四位はその五割増、正四位はその倍に近い。これらは王と称せらるるごとき相当に地位の高い貴族であり、また官職はすべて一寮の長官(局長格)以上であって、いわゆる貴族階級の中堅をなすものであるが、その年収は実に普通農家の基本収入の三倍乃至六倍に過ぎぬのである。三位以上のきわめて少数な皇族貴族及び高官に至って、初めて数百石より数千石に至る高禄がある。が、主権者をのぞいて、いかなる人も三千石乃至五千石(すなわち一石三十五円として約十万円乃至十七万円、もし一石が今の六斗六升に当たるとすれば、約六万五千円乃至十一万円)以上の年収を持ち得ないこと、そうしてこれらの高禄者は決して二、三人以上に上らないことを思えば、これらの特権階級がその私の奢侈のゆえに民衆に与える損害は、現在の資本家階級のそれに比して実に言うに足りない微弱なものである。
しからば皇室はいかん。禄令によれば中宮の湯沐は二千戸(すなわち二千石あるいは七万円)である。東宮一年の雑用は従七位の年俸の約百倍、普通農家の基本収入の約三、四十倍、換算して同じく六、七万円である。皇室はその欲せられるがままに浪費し得べき国庫の莫大な収入を、主として民衆のための賑給と文化のための諸施設とに費やし、そうしてその私用は右のごとき少額に限られた。従ってその消費せられるところはほとんど無意義に終わることなく、日本文化をして世界的に光輝あらしむる一つの黄金時代の出現を可能ならしめたのである。
以上の観察によって我々は結論することができる。『大宝令』を制定した政治家はある意味で社会主義的と呼ばれ得るような理想を抱いていたのである。それは民衆が富の分配の公平を要求したためにしかるのではなかった。また経済学的な理論によってそこに到達したのでもなかった。彼ら政治家を動かしていたのは純粋に道徳的な理想である。「和」を説き「仏教」を説き聖賢の政治を説く十七条憲法の精神に動かされ、断乎として民衆の間の不和や困苦を根絶せんと欲したのである。前にも言ったごとく、この制度がいかなる程度に実現されたか、また何ゆえにこの後に私有地が拡大し、何ゆえに平安朝末期の変革を呼び起こさなくてはならなかったかについては、別に考察すべき多くの重大な問題がある。しかし実行の点で何があったとしても、この種の制度を確立した政治家の理想そのものには十分の意義を認めざるを得ぬ。「一種の空想に過ぎないこの極端な共産的制度が長く継続せらるべきものでないことは云ふまであるまい」(津田左右吉氏、貴族文学の時代、四二ページ)というごとき見方は、この偉大な歴史的事実を理解したものと言えない。そこには「空想」ではなくして理想がある。それは「長く継続せらるべき」ものとして立てられ、しかも事実上継続せられ能わなかったものである。徹底的に実行せられない法令が「空想」と呼ばるべきであるならば、多くの私人法人が脱税に苦心せる現在の税法も、また「空想」であろう。が、我々は、現代においてすらも「空想」と呼ばるるごとき津田氏のいわゆる「共産的制度」を、理想的情熱と確信とをもって千余年前に我々の祖先が樹立したという事実の前に目をふさいではならぬ。
(大正十一年、五月)
推古時代における仏教受容の仕方について
仏教が日本に迎えられた最初の時代には、それはどういうふうに理解せられ信仰せられたのであるか。この問題に対して普通に行なわれている見解はこうである。「仏教思想に対する日本人の理解ははなはだ浅薄であった。仏はただ現世利益のために礼拝せられたに過ぎぬ。言わば仏教は祈祷教として以上の意味を持たなかった。」この見解は、聖徳太子の『三経疏』が推古時代の作に相違ないとすれば、明らかに誤謬である。これらの経疏は大乗仏教の深い哲理に対するきわめて明快な理解を示している。そうしてかかる著述を作り出した時代は、仏教に対して無理解であったとは言えぬのである。が、このような優れた人々あるいは専門家たちを度外して、当時の一般人をのみ問題とするならば、右のごとき見方も一応は許されるであろう。当時の日本人の大多数が原始仏教の根本動機に心からな共鳴を感じ得なかったことは、言うまでもなく明らかなことである。現世を止揚して解脱を得ようという要求を持つには、『古事記』の物語の作者である日本人はあまりにも無邪気であり朗らかであった。また彼らの大多数が大乗仏教のあの大建築のごとき哲学を理解し得なかったことも、論証を要しない事実である。簡単な恋愛説話を物語るにさえも合理的な統一をもってすることのできなかった彼らが、特に鋭い論理の力を必要とする「仏」の理念にどうして近づくことができたろう。確かに彼らは、ただ単純に、神秘なる力の根源としての仏像を礼拝し、彼らの無邪気なる要求――現世の幸福――の充たされんことを祈ったに相違ない。
しかしこの見解によっては、右の問題は何ら解決されるところがない。なるほど彼らは仏教を本来の仏教としては理解し得なかった。彼らは単に現世の幸福を祈ったに過ぎなかった。しかしそれにもかかわらず彼らの側においては、この新来の宗教によって新しい心的興奮が経験され、新しい力新しい生活内容が与えられたのである。しかもそれは、彼らが仏教を理解し得たと否とにかかわらず、とにかく仏教によって与えられたのである。従って彼らは、仏教をその固有の意味において理解し得ないとともに、また彼ら独特の意味において理解することができた。そうしてこの独特の理解の仕方は、ただ「現世利益のため」あるいは「祈祷教」というごとき言葉によって解決され得るものでない。現世利益のためには、木も石も、山も川も、あるいは犬も狐も、祈祷の対象となり得る。彼らが木や石を捨てて仏像を取ったのは、ただそれが外来のものであるがゆえのみであるか、あるいはまた仏教の特殊な力によるのであるか。仏教の力によるとすれば、それは木や石の崇拝といかにその内容を異にするか。異にするのみならずまたそれがいかに精神内容の開展を意味するか。これらの問題はすべてまだ解かれていない。そうしてこれらの問題が解かれることによってのみ彼らが「いかに仏教を理解し信仰したか」の問題もまた解かれるのである。
この問題の考察のためにまず注意深く観察されねばならぬのは、自然児たる上代日本人にとって「現世の不幸災厄」が何を意味したかである。『古事記』によって知られるように、彼らは天真に現世を楽しんだ。恋愛は彼らにとって生の頂上であった。しかしこのことはまた逆に彼らが天真に現世を悲しんだことをも意味する。恋愛に生の頂上を認めるこころは、やがてまた情死に生の完成を求めるこころである。『古事記』の最も美しい個所がすべて情死に関していることを思えば、このことは決して過言でない。まことに彼らは、享楽に対して新鮮な感受性を持ったがゆえに、またその享楽の失われる悲哀に対しても鋭い感受性を持ったのである。また『古事記』の疫病の伝説が示すように、肉体の健康を条件としてのみ享楽し得られる彼らの生活にとっては、病気は多くの悲哀の原因であった。彼らは病気というごとき現象を何らか外なる力に帰して考えざるを得なかったゆえに、そこには直ちに人の無力が痛感せられたのである。また同じく死に関する多くの物語が示すように、すべての幸福が現世的である彼らにとっては、人間の避け難い「死」は、死者の枕辺足辺を這い廻って慟哭すべきほどに、またその慟哭の声が天上にまでも響き行くべきほどに、悲しいものであった。彼らの幸福のことごとくを一挙にして打破し去るこの「死」なるものは、いつ彼らのもとに忍び来るかも知れない。人間の運命は不安である。頼りない。これらの不安や頼りなさや無力の感じを、恐らく彼らは現代の人々よりもはるかに強く感じた。そうしてその現世の不幸の根拠を、恐らくまた現代の人々よりもはるかに純粋に、「現実の人生の不完全」において見いだした。(現代の人々の多くはそれを制度の不完全あるいは特権階級の罪として感ずる。それは一部分真実である。しかし不幸の根拠がここにあると感ずるのは誇張である。フランス革命の時にはこれらの原因を王より初めてさまざまの制度や階級から取り除いてみた。しかし結局根拠はそれらのどこにもなかった。)上代人はその単純な思想をもってしても、畢竟不幸の根拠を予覚したのである。
とは言え彼らには、現世を悪として感ずる傾向はない。現世は不完全であるが、この現世のほかに何があるだろう。暗黒と醜怪とのよみの国。従って彼らが完全なるものとして憧憬するのは、この現世よりこの不完全を取りのぞいた常世の国である。死なき国である。それを彼らは、「地上のここでないところ」に空想した。すなわち彼らの憧憬は地上の或る異国への憧憬であって、天上への、彼岸への憧憬ではなかった。かくのごとく、「現世を否定せずして、しかもより高き完全な世界への憧憬を持つ」というところに、上代の自然児の理想主義がある。彼らはいかに現世的であるにもしろ、現実をそのままに是認するのではなかった。若きものが老い、熱烈な恋が冷め、かくて身も心も移り行いて、畢竟生まれたものは死ぬ、というこの現実の状態は、彼らにとって、現実であるがゆえに当然なのではなかった。現実なるものは何物も永遠でない、しかし彼らは永遠を欲する。彼らは永遠がいかなるものであるかを知らない、しかし彼らは永遠を基準として過ぎ行くものを評価する。
もとより彼らのこの理想主義は何ら思想的な形をとらなかった。我々はそれをあの幽かな常世の国の伝説や、また悲しい恋を歌う情死の物語のうちに見いださねばならぬ。しかし彼らがそれを明白な形に現わし得なかったということは、それが彼らにおいて強く感ぜられなかったことを意味しはしない。我々は彼らが烈しい悲嘆を表現したことを知っている。そうしてこの「自然児の悲しみ」のうちに我々は、右に言うごとき憧憬の力強く動いていたことを推測し得るのである。試みに我々が幼いころ天真な自然児として感じた悲哀を追想してみるがよい。たといそれが親しい者の死というごとき重大な瞬間でない場合でも、たとえば夕暮れ、遊び疲れてとぼとぼと家路をたどる時などに、心の底まで滲み入ってくるあの透明な悲哀。そこには超地上的世界の観念が存しないにかかわらず、なお無限なるもの、永遠なるもの、完全なるものへの憧憬がある。この強い予感としての悲哀こそは、自然児の心に開かれたる大いなる可能性である。
この自然人の心にとっては、宗教はまことに欠くべからざるものであった。彼らはその頼りなさのささえを要する。あたかも幼いものがすべてを委せて母に頼るように、そうしてその悲しみをも苦しみをもまた心細さをも心の限りに泣き訴えることによって慰めを得るように。自然人はこの頼るべき力を木や石に、あるいは正確に言えば彼らがこの崇拝の対象に対して行なうところの彼ら自身の儀礼のうちに、見いだした。かくてたとえば「祓い」というごとき儀礼が彼らを守る魔力を持つと信ぜられた。しかしこれは彼らの知力の開展とともにその魔力を減じて行く。シナ文化との接触は徐々にこの傾向を高めた。たとえば「探湯」の魔力は、朝鮮において破られたのである。
仏教は、というよりも「仏像」は、ちょうどこの機運に乗じて日本に渡来したのである。それはさまざまの反対を受けつつも結局日本人の心を捕えた。国家の事業として大きい法興寺が起こされる。仏教反対者なる物部氏の財産の上には慈悲に名高い四天王寺が築かれる。――そこで日本人の心には何が起こったか。
木や石の代わりに今や人の姿をした、美しい、神々しい、意味深い「仏」がもたらされる。魔力的な儀礼の代わりに今やこの「仏」に対する人間の帰依が求められる。この「仏」が哲学的にいかなる意義を現わすかは、彼らの多くにとっては問題でない。彼らはただこの仏が、彼らより見てはるかに優れたる文化人であるところのシナ人によって礼拝せられることを知っている。それは礼拝に価するものである。そうして彼らの頼りない心の「願い」をきくところのものである。この眼をもって見るとき、仏像はいかに不思議な、深い力を印象するだろう。一切の美的な魅力が、ここでは宗教的な力に変形するのである。ここにおいて彼らは、その憧憬するところの完全な世界を、これらの「仏」のなかに、あるいはそれを通じて、予感した。彼らはその抱かれようと欲する母を、仏において見いだした。
明らかに彼らは、彼ら自身の自然人らしい憧憬の心を、仏像に投射して経験したのである。彼らの持たざるものを新しく仏教から得たのではない。が、この経験は、彼らのすでに持てるものを、力強く開展させた。漠然たる予感として存した完全の世界への憧憬は、この経験のゆえに、より高い内容を獲得した。たとえば彼らが祓いの儀礼の内に頼るべき力を感じている間は、その力によって示唆される永遠者は非人間的なある者である。しかるに彼らが、ほのかに微笑める弥勒あるいは観音の像に頼るべき力を感ずる際には、そこに人間的な愛の表情が永遠なるものの担い手として感ぜられているのである。幼児を愛する母の表情、あるいは無垢なる少女の天真なほほえみ、それらは彼らにとっても美しい嘆賞すべきものであったに相違ない、しかしそれは単なる現実であって憧憬の対象ではなかった。しかるに今や彼らは、これらの現実の姿を象徴として憧憬の対象に接することを学んだ。語をかえて言えば、これらの人間的な美しさが完全なる世界の片影であることを学んだ。これは非常な進展である。この契機によって彼らは、理念としての「法」の世界への第一歩を踏み出すのである。
日本へ来た最初の仏教が、哲理でもなく修行でもなくして、むしろ釈迦崇拝、薬師崇拝、観音崇拝というごとき名をもって呼ばるべきものであったことは、日本人にとって幸福であった。もしそれが造寺造塔を第二義とする道元の仏教のごときものであったならば、かく順当に受容せられたかどうかは疑わしい。あるいはまた、一切を抱擁する大乗教のうちから、ただかくのごとき仏像崇拝のみが摂取せられたと見ることもできよう。いずれにしても、仏教の最初の受容が単に外来のものの盲目的な受容ではなくして、日本人の側における順当な精神開展の一段階であったことは認めなくてはならぬ。
かくして受容せられた仏教が、現世利益のための願いを主としたことは、自然でありまた必然である。彼らは現世を否定して彼岸の世界を恋うる心を持たなかった。彼らには現世は悲しいものではあっても悪ではなかった。現世的福祉と精神的福祉とは一つであった。従って彼らは、痛みを覚えた幼児が泣き叫んで母を求めるように、病めば必ず熱心に願をかける。わが国の確実なる記録の最も古いものは法隆寺薬師像及び釈迦像の光背銘文であるが、両者はいずれも労疾による誓願を語るのである。がこれを、ある人々のように、「功利的」と呼ぶのは正当ではないであろう。彼らの信仰の動機は、物質的福祉のために宗教を利用するにあるのではなくして、ただその生の悲哀のゆえにひたすらに母なる「仏」にすがり寄るのである。この純粋の動機を理解せずには、彼らの信仰は解し得られないと思う。
しかしながら、彼らがいかに現世的であるにもしろ、彼らは現世を限定する大いなる事実からのがれることができぬ。その事実とは、死である。そうしてそこに彼らの悲哀が頂上に達する。この悲哀のうちにすがり寄られるところの「仏」は、彼らの持ち得る最高の憧憬に答えるものとして、また彼らのうちに最深の意義を開顕した。ここに彼らの「彼岸」に対する理解が始まる。「彼岸」とは彼らにとって解脱の世界ではなくして死後の世界である。死後にこそ真実の生活がある。そうしてそれをこの人の姿をした仏が保証する。この信仰によってこそ彼らは死の悲哀を慰められることができたのである。これは上代の自然人が烈しく求めて、しかも得ることのできない慰めであった。今や彼らはそれを、「仏像において高められた人間的なもの」のおかげで、得ることができる。天寿国繍帳にいうところの、「世間虚仮、唯仏是真」や、あるいは天寿国における聖徳太子往生の状の空想のごとき、明らかにこの種の慰めを投影したものである。
推古時代の一般人はかくのごとくに仏教を理解し信仰した。それは仏教の理解としては浅薄である。しかし彼ら自身の精神開展の側から見れば、きわめて意味が深い。これを眼中に置いて考えるとき、法隆寺の建築や、夢殿観音、百済観音、中宮寺観音などの仏像は、彼らの創作として最もふさわしいものになる。これらの芸術こそ実にあの悲哀と憧憬との結晶ではないか。
これらの芸術が単なる模倣芸術でないということは、オリジナルな創作を模倣品から区別するあのまごう方なき生気を知っているものにとって、論を要しないことである。が、それは右のごとき観察によって裏づけられることを必要としないでもない。なぜならこれらの芸術を模倣芸術と見る論者は、当時の日本人がこれらの芸術によって表現すべき何らの内生をも持っていなかったと盲信しているからである。これらの盲信が根もない独断であることは、右の観察によって立証せられたことと思う。我々は、あのような偉大な芸術を創り出した人々を、もっと尊敬すべきではなかろうか。
視点を変える必要は単に芸術に関してのみではない。仏教の理解がかく日本人自身の内生活に即して始められたとすれば、総じて日本人のこの後の思想の開展、政治の発達等も、異なった眼で見られることを必要とする。単にシナの「模倣」だという言葉で一切を片付けようとする人々は、我々自身の時代の西欧文化との関係を参考として、模倣なる語がいかに多くの意味の濃淡を粗雑化し去るかを省みるべきである。
(大正十一年、六月)
仏像の相好についての一考察
仏像の相好はただ単純な人体の写実ではなく、非常な程度の理想化を経たものである。そうしてその理想化は、ギリシアの神像においては人体の聖化を意味しているが、仏像においては「仏」という理念の人体化を意味している。が、もとよりそれが造形美術である限り、芸術家は、この理念の人体化に際しても、必ずや彼自身の人体の美の観照を基礎としているに違いない。儀規によって明確に規定され、また絶えず伝来の様式を踏襲しているにかかわらず、東洋各国の各時代の仏像がおのおのその特殊な美を持つことは、単に造像の技巧の変遷のみならず、またこの芸術家の独自なる創作力を考えずには、理解し得られないであろう。自分はここに厳密な様式伝統の束縛にかかわらず、なお芸術家が自由に働き得た「余地」を、発見し得ると思う。そうしてこの「余地」こそは、実はおのおのの国と時代の仏像を、その芸術的価値において根本的に規定するものである。
このことをここには主として仏像や菩薩像の相好について考えてみたいと思う。
自分の考察は、白鳳天平の仏菩薩像を眼中に置いて、これらの像の作者がいかなる人体の美を生かせて彼らの「仏」と「菩薩」とを創作したかについての、一つの落想から出発する。
ギリシアの流れを汲んだ西洋美術の写実的な美しさに親しんだ者には、仏像や菩薩像は多くの不自然と空虚の感じを与える。自分も十八歳の時、関野貞氏の日本美術史の講義に間接に刺激されて、初めて奈良の博物館を訪れ、痛切にそれを経験した。仏像のあの眉と目との異様な長さ、頬の空虚な豊かさ、二重顋、頸のくくれ、胴体の不自然な釣り合い、――それらは自分に多いか少ないか反撥を感じさせずにいなかった。ただ秋篠寺の伎芸天や興福寺の十大弟子のごとく不自然さの認められないものにおいてのみ、自分はこだわりなく没入し得たのであった。が、これらの不自然や空虚の感じは、通例、仏像や菩薩像に親しむにつれて薄らいで行き、その代わりに、そこに西洋美術の美しさとは質を異にした美しさが、見いだされてくる。そうしてこれらの特殊な、以前には不自然に見えた相好が、いかに仏像や菩薩像に必要であるかが理解される。が、それは何ゆえであるか。何ゆえにこの相好が仏菩薩として美しいのであるか。この疑問については、それがインド及びシナ伝来の様式であるという以外には、久しい間何の答えをも自分は見いだすことができなかった。しかるにこの疑問は、ついに嬰児によって自分に解かれたのである。
最初自分は、生まれて間のない嬰児の寝顔を見まもっていた時に、思わず「ああ仏様のようだ」と言おうとした。が、その瞬間にまた愕然として口をつぐんだ。我々の日常語においては、「仏」という言葉はその本来の深い意義を失って、ただ平俗に「死人」を意味する。(初めは弥陀の信仰を背景とした慰めの心づかいから起こった用法であろうが、やがては、深い観念を現わす言葉を浅薄化するという日本に著明な傾向の有力な一例となったのである。)すでに死人を意味する以上、自分は内に残存する原始的な信仰――不祥な言葉が不祥な出来事を引き起こすという言葉の魔力の信仰によって、この「縁起の悪い」言葉を避けざるを得ない。が、こうして内に閉じ込められた自分の感想は、その魔縛のゆえに、一層特殊な力をもって自分の内に固執した。この後自分は嬰児のにおやかな顔を見るごとに、また湯に浸って楽しげに手足をおどらせるその柔らかな肢体を見るごとに、特にその神々しい、「仏」のように清浄な肉の感じを嘆美せずにはいられなかった。かくて幾月かを経る内に自分は、仏像や菩薩像の作家がこの最も清浄な人体の美しさを捕えたのに相違ないことを、――すなわちこの美しさを成長せる人体に生かせることによって彼らの「仏」や「菩薩」を創作し得たのに相違ないことを、確信するに至ったのである。
嬰児と仏菩薩像とはどういうふうに似ているか。まず著しいのは、目である。が、この類似はどの時代の仏菩薩像においても認められるというわけではない。推古式彫像の目は比較的単純な弧を描いている(夢殿観音、百済観音、法隆寺金堂釈迦及び薬師)。やや複雑な曲線を描くものでも、顔全体に対するその釣り合いが普通の人体におけるそれに近いために、その曲線をきわ立って感じさせないか(中宮寺観音)、あるいは感じさせてもそこには柔らかい感じを欠くか(広隆寺弥勒)である。これらには嬰児のそれと比較すべき何物もない。しかるに白鳳以後の彫像(薬師寺三尊、同聖観音、三月堂本尊、同両脇侍、聖林寺十一面観音等)になると、上瞼の線はあの、初めに隆起して中ほどに沈み、再びゆるやかに昇って目尻に至ってまたゆるやかに降るという複雑な曲線になり、それをうける下瞼の線も、長い流動を印象する微妙な彎曲をもって、鋭い目尻のはね方まで一気に流れて行く。そうして目の「長さ」を特に強く人に印象する。それは、やや伏せ目になった、あるいは閉じた、通常人の目において、一般に認められる曲線ではあるが、しかし一見したところ非常に様式化せられたという感じを与えるものである。しかもこの様式化せられた感じこそ、自分をして嬰児の顔に仏像との類似を感ぜしめた第一の原因であった。眠れる嬰児の目の、あの生々しく微妙な、長い、新鮮な明白さを持った曲線は、やや成長した子供、少年、あるいは大人の目に見られると同じき曲線でありながらも、ただその、後には失われ去るところの、柔らかい、新鮮な明白さのゆえに、他に見られない清浄と端正との印象を与える。それは確かに仏像そのままである。ここにおいて自分は、逆に、仏菩薩像の目の清浄と端正とが実は嬰児のそれを借りたものではないかと思いついたのである。
この目の上に大きい曲線を描く眉もまた同様である。毛の明らかに生いそろった眉からはもはやあの端正な曲線の感じは得られない。しかるに嬰児の、あるかなきかのごときうぶ毛によって作られた眉は、まさに仏菩薩像のそれのごとくに、柔らかく大きい、そうして端正な感じを持っている。眉と目との間のあのふくらみのある広さもまた同様である。それはただ半ば閉じられた目であるがゆえではなく、視神経の疲れをかつて感じたことのない新鮮な瞼であるがゆえに得られる感じなのである。
この目と眉との顔全体に対する釣り合いも、推古式彫像(百済観音、夢殿観音、中宮寺観音等)においては大人のそれが用いられているに反して、白鳳天平の代表作においては、大人のそれとは非常に異なった、明らかに嬰児のそれを思わせるものが用いられている。すなわち目の長さは、目より下の鼻の長さと同じであるかあるいはそれよりも長く、従って目と眉とが顔全体のうちに特殊な大きさをもって秀でているのである。もとよりこの事は右の諸作に限った特徴ではない。推古式彫像の中でも法輪寺虚空蔵や広隆寺弥勒やその他小さい金銅像においては目は非常に大きい。が、その大きさはある表情を現わすための誇大、あるいは技術が幼稚であり作者が原始的であるための無意識的な誇大である場合が多い。ここに問題とするのは、顔全体において微妙な調和を持つところの、特殊な大きさである。そうしてその特殊な大きさを、我々は嬰児の顔においてさながらに見いだすのである。このような微妙な調和は、偶然に、あるいは漠然と、何のモデルもなしに作り出せるものではなかろう。我々はそこに嬰児の顔の美しさが利用せられていると見るのを至当と思う。
鼻及び唇は比較的に特徴が少ない。しかし鼻について言えば、推古時代の三傑作が、その単純な鼻のつくり方にかかわらず、なお成長した人間の鼻の美しさをきわめて鋭く捕え、そのために実に柔らかい感情に充ちたプロフィイルを持っているに反して、白鳳天平の諸作は、その十分に巧妙な技巧にかかわらず、決して成長した人の持つような「美しい鼻」を現わしてはいない。それは比較的に低く、小鼻が左右にひろがり、そうして肉の厚みが多すぎる。しかもその印象する所は大人において見られるこの種の鼻の感じではない。これこそまさにあの肉の軟らかい、鼻軟骨の固まらない、嬰児の鼻なのである。また唇について言えば、微妙な表情を含んだ夢殿や中宮寺の観音の唇が、無心の嬰児のそれでないことは言うまでもなく、また表情を含まない唇でも、推古式彫像においては多く輪郭の端正さを欠いている。しかるに白鳳天平の仏菩薩像の唇は、無心にして何の表情をも含まないとともに、実に明らかな、端正な輪郭を印象するのである。そうしてそれは目の曲線におけると同じく、一般人に通有な輪郭でありながら、ただその新鮮な明白さのゆえに嬰児において特に強く、特に清浄端正に感ぜられるところのものなのである。
頬の肉づけにおいては我々は目におけると同じき著しい特徴を見る。推古の三傑作の頬は、明らかに意味ある表情をふくんた、そうして肉のしまった、成長した人の頬である。が、白鳳天平の諸像においては、この種の表情は全然現われておらず、またそのふくらみも、成長した人の頬としては実に空虚であるが嬰児の柔らかい頬としては十分に我々を承服せしめるところの円さである。そうしてこの円い頬と目鼻口などとの美しい釣り合いも、――すなわちたとえば法隆寺壁画の西方阿弥陀仏の面相におけるごとく、顔面の周囲に比較的多く余地のあるあの寛やかな朗らかな調和の感じも、――面長な推古仏には見られず、また円く肥え太った大人の顔(それはむしろ過冗を印象して端正な感じを与えない)にも見られず、ただあの神々しい嬰児の顔の特殊な釣り合いにおいてのみ見られるものである。
顋と頸のくくれもまた同じく推古時代の彫像においては用いられず(たとい用いられたとしてもただ線条をもって暗示するに過ぎず)白鳳天平の諸像に至って初めて熱心に写実的に現わされるものであるが、ここにもまた我々は肥満せる大人のそれに全然見られない、そうしてただ健やかに太れる嬰児の肉体においてのみ見られるあの清浄な豊満さを認め得るのである。肥満せる肉体に特有なこのくくれが、何ら肉感的な印象を与えることなく、ただ端正に聖なる豊かさをのみ現わすというようなことは、その作家が嬰児の肉の美しさから得た霊感を根拠とするのでなくてはあり得ないと思う。
さらに我々は体全体についても同じ観察を繰り返すことができる。推古式彫像の体躯が一見したところ人体の釣り合いを無視しているように感ぜられるに反して、白鳳天平の彫像はかなり確かな写実を基礎としているように見える。がそれにもかかわらず我々は、たとえば薬師寺の薬師三尊のあの柔らかく緩んだ胸や腹の肉づけなどを見れば、そこに大人の体としては許し難いうそを見いだすであろう。ただそこに嬰児の肉体のあの柔らかい円さが生かされているゆえに、その大人の体としてのうそが仏菩薩の体としてのまこととなるのである。同じことは手足の細部の実に端正なつくり方や、あるいは胴の不自然な長さや、腰のつがいの非写実的な形などについても言えると思う。発達した筋肉を内に蔵しているとは思えない手足、正常な骨骼を内に蔵しているとも思えない胴腰、それらは大人としては不可能であっても、嬰児としては実に必然で、また実に仏菩薩にふさわしいのである。
ところで我々は、仏像や菩薩像において嬰児の再現を見るのではない。作家が捕えたのは嬰児そのものの美しさではなくして、嬰児に現われた人体の美しさである。それによって彼は、「嬰児」ではなくして「仏」や「菩薩」を表現する。従って仏菩薩像は、いかに嬰児の美しさを生かせているとはいえ、決して嬰児を印象しはしない。宇宙の根元的原理であるところの法の姿、その神聖さ、清浄さ、威厳、威力、――総じて嬰児の持たざる深き内容こそ、ここに現わされようとしているものなのである。すなわち仏菩薩像の作家は嬰児を通じて仏菩薩を現わそうとした。これはあのキリストの嬰児讃美の心持ちを、芸術において生かせたものではないであろうか。
仏菩薩像の作家が表現せんと欲する仏菩薩は、経典の説く所によれば、ギリシアの神々のような具体的な幻相を伴なったものではなくして、むしろ理念である。もとより経典はこれらの仏菩薩にもおのおのその形姿や浄土を与えてそれを感覚的なる事物によって描いてはいる。しかしそれは理念の象徴的表現であって、「身長八十万億那由他由旬、……その円光の中に五百の化仏あり、一々の化仏に五百の化菩薩あり、無量の諸天を侍者とす、……また八万四千種の光明を流出し、一々光明に無量無数の化仏あり、一々の化仏に無数の化菩薩あり」(観無量寿経、観音)というごとく、ほとんど視覚の能力を絶するものである。ただ釈迦仏の三十二相(仏本行集経、相師占看品)のみは最も具体的な描写であるが、しかし「皮膚、一孔に一毛旋り生ず、身毛、上に靡く」というごとき、彫刻に表現し難き多くの相を除いて、表現し得る相はすでにインド伝来の様式の内につくされている。かくて仏像作家にその創作の根本的な動力を与えるものは、仏菩薩の理念が彼の内に呼び起こした霊感でなくてはならぬ。彼らは伝来の様式が与えた輪郭の内にこの霊感を充たせることによって、模倣芸術に見られない原本的な美しさを創り出し得たのであろう。この際彼らが、その霊感を託するものをあらゆる人体の美のうちの最も超人間的な最も清浄な美に求めることは、そうしてその美を現世の汚れと苦しみとに染まること最も少なき嬰児の肉体において認めるということは、彼らに芸術家的本能を許す限り、承認していいことである。嬰児の肉体のあの無心な、天真な美を抽出し統合して、これをあらゆる悪と悩みとの克服者の姿に高める、――これはキリストのあの嬰児讃美にもかかわらず、ギリシアの流れをくむ美術家の何人もかつて試みなかったことである。そうしてまた「仏」や「菩薩」の理念を現わすに最も適した方法の一つである。我々はこの事の理解によって、あの寂然と坐しあるいはたたずむ仏菩薩が、何ゆえにあのユニクな深き美を示すかの理由に到達し得ようと思う。
が、ここで当然起こってくる疑問は、日本の彫刻家にこれほど意味深い創作力を認めていいかどうかである。彼らは伝来の様式を踏襲した。もし右に観察したごとき諸点がすでにインドあるいはシナの仏菩薩像においても認められるとすれば、白鳳天平の作家が自ら嬰児の美を生かせたということは直ちには許されぬであろう。そこで我々は右の視点から仏教芸術の全体を回顧してみなければならぬ。
仏菩薩像が初めて仏教芸術に現われたのは、ガンダアラにおいてである。そうしてそれは、ギリシア末期の写実的手法によって、三十二相を具備していたと伝えられる人間釈迦、あるいはその侍者としての菩薩を表現している。が、そこに理念を現わすために嬰児の美を利用したという痕跡は全然ない。横に長いあの目の線はすでに現われてはいる。しかしそれは瞑想に沈んで半ば閉じた目であって、そこに多くの知的なひらめきが見られる。くびのくくれのごときも明らかに認められはするが、それは肥満せる大人の頸である。我々はここにギリシア彫刻の末流を認め得るのみであって、東洋固有のあの寂然たる美を見いだすことはできない。
中インド式仏菩薩像に至っては、多くの点においてすでに白鳳天平の仏菩薩像を先駆している。その伏せた目、長い眉、くびのくくれ、時には眉と目との特殊な大きさ。しかしたとえば目の大きさについて言えば、中インドの最も古き仏像とせられるマトラ博物館の仏坐像におけるごとく、アッシリアの彫刻に通有なあの「威力を現わすための目の誇大」の認められるものがあり、あるいはまた細長き型にあっては、女の大きい目に見られるようなあの複雑な感情を表現したものがある。そうしてこの目の大きいことは必ずしも全体に通じた特徴ではない。一般的に言ってこれらの仏像はきわめて人間的であり、その厚い下唇や円くしまった頬や意味ありげな目のふせ方などにおいては、むしろひそやかにして強い肉感的な表情がある。様式の酷似にかかわらず我々は白鳳天平の仏像との間に顕著な質の相違を認めざるを得ない。
しからばシナの仏菩薩像はいかん。雲崗石窟の遺品によって見れば、我々が推古彫刻の先蹤として考えている北魏式彫像は、実は北魏美術の一半に過ぎぬ。それはガンダアラの流風が漢式に変質されたものであって、他の一半すなわち中インド式の彫像とは著しく質を異にしている。そうしてこの後者は、その姿勢や体格の現わし方や衣文の刻み方などにおいて、ほとんど全然中インド式であるにかかわらず、その与える印象において実に著しくインドのそれと距たっているのである。その原因の一つは、技巧がインドほど精練せられていないことであろう。が、それに関連してさらに有力な原因を自分は、これらの仏菩薩像が写実を遠ざかって超地上的な印象を与える点に認め得ると思う。これは一方からは嬰児の肉体の美への接近とも見られる。第三洞の大きい仏と菩薩のごとき、嬰児の美に直ちに基づいているとは言えぬが、しかし種々の点において少なからず嬰児を思わせるものがある。小児の裸体像を無数に按配した天井装飾などの試みられている点から考えても、雲崗の彫刻家のうちに嬰児の美を生かせることに目ざめた人がなかったとは言えぬ。しかし何人も直ちに気づくだろうごとく、この嬰児に似た肉づけのうちには、なお清浄の感じは十分に生かされていない。そこには多分にエキゾティックな肉感的な感じを混入し、そのゆえに特殊な魅力を作り出しているのである。
この様式の流れをくみ、さらに著しく中インド式の影響をうけ、中央アジアで特殊な発達を見せたガンダアラ式をも取り入れつつ、力強い創作力によって新しい洗練の極致に達した初唐の彫像においては、我々は白鳳天平の彫像の直接なる模範を見る。日本人はただこの偉大なる芸術に追随せんことを欲したのであって、こまかき細部に至るまであえて異を立てようとはしなかった。が、なお我々は、この豊満な芸術においても、白鳳天平の仏菩薩像ほどに典型的な嬰児の美の様式化を認めることができぬ。我々があの嬰児に似た相好のうちになお感ぜざるを得ないのは、正倉院樹下美人図に見られるような、豊かな肉づきの女体の美である。それは柔らかい、新鮮な、時には清らかな美を感じさせる。しかし嬰児の美におけるごとき無心、天真の趣は乏しく、なおひそやかに肉感的であると言わざるを得ぬ。
かく見れば白鳳天平の仏菩薩像は、嬰児の美を生かせる点において決して原本的であるとは言えぬが、しかもそれを純粋に生かせ、それを強調し、そこから特殊な美を造り出した点において実に唯一だと見られてよい。これらの彫刻家は、嬰児の美から仏菩薩を造り出すという全過程を自分でやったのではないかも知れぬ。彼らはすでにこの方向に高い程度において完成せられた彫像をうけ入れ、それに追随し、それによって準備を整えたであろう。が、最後の一着手は、――すなわちこの完成せる様式を踏襲しつつその中の一つの特殊点を、嬰児の美を、強調することは、――彼の原本的な創作心においてなし遂げられたのである。それは一方から見れば、唐の彫像の有する豊かな美を狭め、従って芸術を小さくすることにもなるであろう。しかし他方から見れば、それは仏菩薩の表現としての芸術を最も純粋に、最も目的に近く、押し進めたのである。この仕事は造像の全技巧から見れば、ただわずかの部分的な変更に過ぎぬかも知れぬが、しかし作品に実現された統一は、このわずかの変更のゆえに、著しくその質を変ずるのである。これによって我々は、様式の上からは全然区別することのできない、そうして実際上には印象を異にする唐の彫像と白鳳天平の彫像との間の、真実の差違を理解し得ようかと思う。
白鳳天平の仏菩薩像をかく特性づけることによって、我々はまた時代による仏菩薩像の変遷をもよりよく理解し得る。推古彫刻と白鳳天平彫刻との相違は様式の差違から見てもすでに明白であるが、しかし後者が嬰児の美を生かせたに反して前者が清らかな少女の美を観音にまで高めたことを思うとき、これらの彫刻の持つ内容がいかに根本的に相違するかは一層明白となる。また密教美術が輸入されるとともに新しく起こった様式も、あらゆる肉感的なものにおいてさえ法の姿をながめる密教の思想が、成熟せる蠱惑的な女体をその蠱惑的なままに観音に高めるというごとき(たとえば観心寺の如意輪観音)あの著しい傾向を生んだことの理解によって、一層明らかに特性づけられるであろう。藤原時代に至っては、この密教の傾向が柔らかく感動的に変質され、恋の眼に映ずる男女の美しさが仏や菩薩に高められた(鳳凰堂本尊、中尊寺一字金輪)。かくて芸術家が、その生かすべき美の霊感に動いていた間は、おのおのの時代に特殊な美しさを持った仏菩薩の像が作られたのである。様式の変遷は全極東的な推移において理解せられるとともに、またこの芸術家の心における変遷を顧慮することによっても理解せられなくてはならぬ。
(大正十一年、四月)
推古天平美術の様式
仏教美術の様式展開を考察するについては、二つの事を念頭から離してはならない。一は、同じく仏教美術と呼ばれて同じき題材を取り扱いながらも、様式としては全然別種類のものの存することである。たとえば推古様式と天平様式との間には、ゴシック様式と古典様式との間に存するとほぼ同様の相違が認められなくてはならない。次には、インドにおける仏教美術の展開とシナ日本におけるそれとが、それぞれ異なれる径路を取れること、及び日本はシナにおいて発生せる潮流の中に動きつつそれ自身の展開を遂行せることである。インドにおけるガンダアラ様式や中インド様式と、その影響の下になれる六朝様式とは同じものでない。また推古様式は六朝様式に属するものではあるが、しかし単なる模倣と見らるべきではなくして、むしろ六朝様式の純粋化あるいは完成と考えられねばならない。
天平美術の様式は通例初唐及び盛唐様式の輸入ということによって説明せられている。確かにこの輸入が天平様式を発生せしめる機縁となったことは疑いがない。しかしそれによって天平様式が唐の美術の模倣に過ぎないと考えるのは、当時の日本文化をシナ文化と対峙せるもののごとく取り扱い、日本をシナから引き離して考うるゆえである。当時の東アジアにはただ一つの文化潮流があり、日本人もまたその内部において働いたに過ぎぬ。シナにおける種々の変動はまた日本における変動でもあった。隋唐の政治的統一や西方との盛んな交通は、天智天武時代の政治的社会的大変革やシナとの盛んな交通と相応ずる。それは外形的な模倣ではなくして、内部に同じき時代精神の踴躍せるを証示しているのである。当時の日本の特殊性はただこの同じき文化潮流内における地方的、民族的特殊性として理解されねばならない。かく見るとき、天平様式がまた唐の様式の内部において芸術的に最も純粋化せるものとして、日本人の独自性を示すゆえんも理解せられるであろう。推古様式より天平様式への展開は、六朝様式より初唐様式への展開の特殊化にほかならぬとともに、またその展開を最も鋭く、最も純粋に遂行したものと考えてよい。
推古様式と天平様式との間には本質上の相違が存しているが、白鳳より天平に至る諸美術は様式上同一の本質を持っている。この意味から我々は天平様式の名によって白鳳より天平に至る諸美術の様式を言い現わし、いわゆる白鳳時代を前期、奈良朝特に聖武孝謙時代を後期として、この間に同一様式内の開展があると考える。まずこの開展の考察から始めよう。
白鳳美術においてはすでに顕著に推古様式との原理的な分離が見られる。形に現われた点について言えば、推古様式の本質的特徴をなしているところの「抽象的にして鋼鉄のごとく鋭き線」や「抽象的な肉づけ」などを離脱することである。しかしこの分離は二つの方向に向かって行なわれている。一は薬師寺聖観音、法隆寺壁画などにおけるごとく、直観の喜びの表現を著しい合理化の傾向と結合して遂行せるものである。ここにはいわゆるギリシア仏教式特徴が芸術的に醇化されて現わされているのを見る。北インドあるいは中央アジアのギリシア仏教式遺品は、ルコックの呼ぶごとく、古代末期の様式に属するとも言えるであろうが、白鳳の美術は決して末流的なものではなくして新鮮な溌剌とした新様式である。第二は橘夫人念持仏、新薬師寺香薬師などにおけるごとく、この新様式と推古様式との巧妙な融合に成功せるものである。精神の直接的な表現を目ざす様式がいかに直観の喜びや合理的な造形を慕い求めるに至ったか、――この内面的な開展の歩みを我々はこの派の作品に見いだし得ると思う。
次の時期に至れば、右の二傾向、すなわちギリシア仏教的様式の醇化と認めらるるものと推古様式のギリシア化と認めらるるものとのいずれもが止揚せられて、両者の特徴を外において滅するとともに本質的に内に生かせたる天平様式が出現する。その最も代表的な例を我々は三月堂本尊に侍立せる白く剥落せる二つの塑像(日光月光)や、戒壇院の四天王や、聖林寺十一面観音などに見いだすことができる。不幸にして我々はこれらの作品の製作年代を明らかにしないが、天平五年に僧良弁のために建立せられたと伝えられる三月堂中の乾漆諸像が、すでに明らかに天平様式を示しつついまだなお十分に自由の感じを与えないこと、及び大仏殿前大燈籠の浮き彫りや唐招提寺金堂の諸像が言わば成熟の極度における沈滞を思わせることを考え合わせれば、完成に迫り行く力を保持しつつ完成を示せる右の諸作は、東大寺造営以前、三月堂建立以後の製作と見るべく、ここにも我々は内面的な開展の歩みをたどり得ると思う。
右のごとき前後期の開展や後期の内部における開展が、唐におけるそれとちょうど平行しているか否かは、自分のいまだ明らかにせざるところである。薬師寺聖観音や法隆寺壁画のごとき作品が唐の遺品中に存せざるゆえをもって、この種の様式が西域より唐を素通りして日本に渡来したと説く学者もある。しかし我々の乏しい知見によれば、中央アジアのギリシア仏教式美術にも、またはアジャンター等のインド美術にも、右の諸作と全然様式を同じゅうするものは存しない。右の諸作は西方のものに比して明らかに芸術上の純粋化を示している。そこでこの純粋化が唐人の仕事であるかあるいは日本人の仕事であるかがここでは問題なのである。それが遺品によって決定し得られぬとすれば、我々は一歩を退いて少なくともこの仕事が当時のシナ日本を含む東亜文化圏内での仕事であることを認めればよい。そうして右の諸作の製作地が日本であることに基づき、日本人の内にもこの仕事の有力な選手が存したことを認めればよい。次いで我々は天平の諸作をそれと近似せる唐の作品と比較し、天平の諸作が芸術としてより多く純粋であることを看取する。そこでたとい唐において日本と同じき様式開展が日本よりも早く日本に対する模範として行なわれたとしても、それをより純粋な形に高めたのが日本であると言い得るであろう。しからば新しき様式が唐より輸入せらるるごとに日本において新しき様式が始まるのは当然であり、また唐において存した様式展開の必然性がそのまま日本におけるそれとなっているのも当然であって、もしそれがなければ日本人の独自の仕事はできなかったことになるであろう。
右のごとき考察によって我々は、唐よりの影響を顧慮することなく、天平様式を推古様式より展開しいでたものとして、またそれ自身の内に展開の段階を含むものとして理解することができる。
まず彫刻についての考察から始める。
推古彫刻においては、人体を形作る線及び面が、人体の形を作ることを唯一の目標とせず、それ自身に独立の生命を持っている。しかるに天平彫刻においては、人体を形作れる線や面は、人体の輪郭、ふくらみ、筋肉や皮膚の性質、さらに衣の材料的性質やそれに基づく流れ方皺の寄り方、衣と体との関係などを、忠実に表現することを目ざし、この目標と独立にその生命を主張することはない。線や面はその現わさんとする客観(見られたもの)に隷従し、主観はただこの客観を通じてのみ表現せられるのである。戒壇院四天王や三月堂の月光と百済観音との対比はこの差別を明瞭に示すであろう。百済観音においては、その衣文は意味の上で衣を示しているが、しかし衣の直観的性質は全然表現せられていない。あの下半身の鋭き垂直線は、ただ木において刻み出される以外には、いかなる衣においても認め得られるものでない。しかるに月光天が身にまとうのは、内に包む肉体の微かな凹凸からも影響を受けずにいられぬような柔らかい織物である。四天王が身にまとうのは恐らく獣皮によって作られたらしい武具であって、干せる皮の堅さ、体に合わせて作るための力強い撓げ方、その皮を固く緊着せる帯の織物としての柔らかさなどが、実に細かく表現せられている。特にその肩の扣金のごとき、皮と細き金属とで作られたことが塑土によって遺憾なく現わされている。この相違はその肉体について同様に認められる。百済観音の手は実に美しい手である。しかしそれが美しいのはその輪郭が我々の胸を打つように美しく走るからであって人の肉の手の美しさを表現しているがゆえではない。あの輪郭の鋭さや堅さは人の肉に属するものとは言えない。もとよりそれは人の手を意味する形である。しかし人の手の直観的な性質は捨て去られている。それに反して月光天の左手はいかに肉の手として美しいであろう。輪郭の美しさは同時に指や指先や手首などの肉の柔らかさ、皮膚の細やかさなどの美しさである。
しかし、右のごとき写実が天平様式の唯一の特徴なのではない。元来この写実は、西洋古典美術におけるごとく、現実の人の姿から現実的に存しない理想の姿を睨み出し、それを表現しようとしたものでもなければ、また一般に自然において美の規範を見るというごとき写実主義の態度から出たものでもないのである。天平彫刻は人体の直観的性質を鋭く把捉しているとはいえ、この直観的な姿それ自身を永遠に価値あるものとして取り扱ってはいない。すなわち直観的な人体の美が出発点なのではなく、人体を手段として内より表現を迫る精神的内容が最奥の製作動機なのである。この点においては前述のごとき著しい差違を持つ推古彫刻と軌を一にしていると見なくてはならぬ。しかし推古彫刻がその直接の精神的表現のために特殊の抽象的な線や面を択び出すに対して、天平彫刻は特殊の写実的形象を択び出し、それを手段として用いる。ここに天平様式における写実の特殊性が見いだされるのである。そうしてこれが天平様式の第二の特徴と見らるべきものであろう。
内より表現を迫る精神的内容が特に力強くそれ自身を主張するとき、視覚作用は絶えずその根元によって掣肘せられる。見られた物象のある物は内心の律動に共鳴し、他の者は共鳴せぬ。この共鳴する物象のみを択び出し、それによって特殊な形を作り出すのが天平様式における製作過程である。これは一見西洋古典様式における理想化と似ているようであるが、ここにはかつて「人体を神の姿に高める」過程と「神を人の姿に表現する」過程との相違として漠然言い現わした区別が存すると思う。ギリシアの彫刻家がある美しい女の体からアフロディーテーの像を作り出す場合には、彼はそのモデルから多くを捨て多くを付加するが、しかし彼をしてこの取捨を行なわしむる標準はその現実的な女体において彼が直視した理想の姿である。もとよりこの理想の姿は彼が経験によって作り出した寄せ集めの姿ではない。彼の経験の根柢にあり、彼の経験を導くところのイデアである。しかも彼はこの理想の姿を現実の女における直視により初めて一つの全体としてつかむのである。イデアが自覚さるる時、それはすでに一つのまとまれる「理想の姿」として、言いかえれば具体的な人の姿に対する取捨の標準として作者の内に生きているのである。しかるに天平の彫刻家は、現実の人の姿の内に「理想の姿」を直視するのではない。彼らにとっては理想は決して姿となり得ないものである。姿は総じて象徴にほかならない。従ってこの象徴としての姿は、具体的な一つの現実の姿からではなく多くの現実的の姿から、理想の標準のもとに択び出され構成されたものにほかならぬ。この事実を証示する著しい例は、天平の仏菩薩像の体が嬰児の肉体から作り出されていることである(「仏像の相好についての一考察」参照)。嬰児の肉体をモデルとしてしかも堂々たる偉大性を作り出すということは、全然他に類例を見ない。作者は一つの嬰児の姿において仏の姿を直視したのではない。嬰児の体の細部はただ手段として用いられ、本質的には嬰児と縁なき象徴的な姿が構成しいだされたのである。もとより天平の作者がすでに象徴として構成された姿を幻視するということはあったであろう。しかしこの幻視された像が製作の動機となる場合には、前述のごとき写実の特殊性は一層よく理解せられると思う。
以上のごとく考えれば、天平様式の根柢には、その視覚形式を支配する仏の理念が存している、ということが明らかになる。そうして推古様式から天平様式への展開も結局仏の理念についての理解の推移と平行的に考え得られると思う。これはやがて日本における仏教思想史の題目であるが、自分の乏しい知見をもってすれば、美術の様式と思想的あるいは宗教的理解とは確かに相関の関係にあり、両者の根柢に時代精神を想定することも決して困難ではない。(「推古時代における仏教受容の仕方について」参照。白鳳天平時代の仏教思想については南都六宗における熱烈なる学問的研究を理解するを要する。)なおまた右の考えは、天平様式より弘仁貞観様式への推移において、より著しく看取されると思う。
絵画についてもほぼ同様なことが言える。法隆寺金堂壁画や薬師寺吉祥天像などにおいては、特殊な律動を持った、抽象的な鋭い線の支配はもはや見られない。輪郭の線はなだらかに走り、形象の直観的な性質を現わすに専らである。玉虫廚子の密陀画における人物や樹木を金堂壁画と比較すればこの事は論議の余地なく明白である。前者は人物を意味する形に過ぎぬが後者は人物をその十分なる直観的な性質において描写する。しかもそれが一定の視点から択び出された形象によって構成された像であることは彫刻と異ならない。壁画西大壁の脇立ち勢至が、きわめて人間的な同時にきわめて人間を離れた印象を与えるのはこのゆえでなくてはならない。作者はあれほどに女性的な肉体を描きつつ決して女性としての印象を作り出さないのである。また玉虫廚子の密陀画が、その線の奇しき律動によって、一種神秘的な、同時に鋭い哀感を起こさせるに対し、右の勢至やその相脇立ちたる観音などの像が、そのなだらかにして朗らかな線の律動により幾分冷ややかに、超然とした、清浄な印象を与えるのは、その根柢にたどって行けば結局は二つの時代精神の相違に帰着し得ると思う。
建築はその本質上自然の姿を捕えるものではない。しかし上からの重みと下からささえる力との間の構造上の必然性と、それに与えられる形との関係から、主観的客観的の度差が現われる。推古建築においては、たとえば法隆寺金堂におけるごとく、屋根の彎曲や組物の輪郭は、構造の必然性に従うというよりもむしろその線の律動によって精神の直接的な表現を目ざしているように見える。あの金堂が調和や釣り合いの美しさを感じさせるよりもまず一種神秘的な印象を与えるのはそのゆえではないであろうか。あの鋭い屋根の彎曲は、百済観音の線と同じく胸を打つような美しい走り方をしているとともにまたきわめて抽象的である。しかるに天平建築に至ると、たとえば唐招提寺金堂のように、屋根のあらゆる彎曲が厳密に構造の必然性に服従するごとく感ぜられる。柱の多いことはささえる力の増大を意味するゆえに、中央の柱間が広く、左右に至るに従って漸減する柱の配置は、支力が左右の端に向かって漸増することを意味するが、この支力の疎密と屋根の重圧力をささえて下からはね返す軒の曲線とは、きわめて微妙に釣り合って感ぜられる。自分は厳密な計算によって屋根の曲率と柱の配置との間に或る数学的関係が見いだせるか否かを知らないが、もしギリシア建築に幾何学的な関係が見いだせるとすれば、ここに見いだせるものは恐らく微積分によって現わし得らるる関係であろう。もしこの感じがあやまっていないとすれば、天平建築には彫刻の写実的特徴と相応じて構造の必然性に従う合理的な傾向があり、推古建築には彫刻の抽象的特徴に応じて構造の必然性を無視する非合理的傾向があると言えるであろう。そうしてこの根拠から推古建築の神秘的な印象と、天平建築の朗らかにして調和的な従って直観の喜びに豊かな印象とを、説明し得るであろう。
しかしながら彫刻における写実的傾向が結局姿を超越せる理想によって支配せらるるごとく、建築における合理性もまた非合理的なる根元によって支配せられているのを拒むことはできない。最奥の根柢には依然として精神の直接的表現の要求があり、それに導かれて偶然にもこの合理的な傾向が択び出されたにほかならぬであろう。それは右のごとき構造の必然性が恐らく自覚せられてはいなかったこと、従って日本の建築家がこの点を重んぜず随意にこの伝統を離れて再び推古建築と同じき立場に帰ったこと、などによって察せられる。従ってこれらの建築の様式の最奥の根柢は、そこに直接に現われんとする精神内容に求めなくてはならないであろう。
右のごとき考察によって、天平美術の様式の最奥の根柢はこれを天平時代の精神に求めなくてはならぬと思う。そうしてこれは思想史、文芸史、政治史等の研究と相俟ち、究極の総合的研究によって明らかにさるべきものと思う。
白鳳天平の彫刻と『万葉』の短歌
一
推古時代から弘仁時代へかけての仏教美術、特にその最盛期としての天平時代の造形美術が、「外来のもの」であって日本人固有の心生活の表現ではない、ということは、一般に説かれているところである。その極端な例としては津田左右吉氏の『我国民思想の研究』貴族文学の時代(四九―五六ページ)をあげることができる。一体に津田氏は上代の外来文化一般が「国民の実生活から遊離していた」という事実を熱心に証明しようとする人であるが、仏教美術に関しては特に力強くその断定を繰り返している。仏教美術は「国民の信仰の象徴でもなければ趣味の表現でもない。」「知識の上から理解することは出来ても内生活とは何の因縁もない。」「要するに外から持って来た型によって作られた工芸品であり複製品であって、真の意味の芸術品ではない。実はその手本となったものが、仏教芸術の歴史から云えば、既に因襲化し、便宜化し、退化したもので、芸術品として価値高くないものである。従ってその作者は職工ではあるが芸術家ではない。或はその製作者に信仰的情熱があったかも知れないが、それは芸術的精神とは何の関係もないものである。」また宗教的信仰の表現としても、「信者の信仰を内から現わしたものではない。」「法隆寺の建築、三月堂の仏像によって昔の日本人の情調をしのぶことは出来ない。それに対して我々の目につくものはただ冷な技巧である。でなければ考古学の材料である。だから少くとも奈良朝頃までの芸術は六朝から唐代にかけて行われた支那芸術の標本であり、その模造であって、我々の民族の芸術ではない。」「どんなに様式が変化しても、民族の趣味の変遷したためではなかった。」
この見方にはもとより一理がある。奈良朝までの仏教美術が、根源的に我々の民族の所産でないことは言うまでもない。またシナ人が西域伝来の美術をシナ化したほどに、日本人がシナ伝来の美術を日本化しなかったことも、疑いのないところである。しかしそれがために、右にあげたような断定を下すことは、果たして正当であろうか。シナ伝来の美術の様式をそのままに踏襲しながらも、なおそこに当時の心生活を表現するということは、果たして絶対に不可能であろうか。
すでにできあがった文化の所持者であったシナ人と、なお原始素朴であった日本人とが、同じ文化の流れを受け入れるについて、著しい結果の相違を示すのは当然である。シナには発達した文芸や哲学があった。だから経典を翻訳することができた。造形美術においても漢式と名づくべき明確な趣味があった。だから仏教美術をも漢式化することができた。日本にはそれに比すべき何者もない。従って形式上の日本化が起こる道理はない。しかしこの相違が直ちに仏教文化と心生活との関係の有無を示すとは言われないであろう。シナ人は固有の趣味の束縛のゆえに、ある程度の変更を経なければ、仏教美術に自己の感情を移入し得なかった。伝統において自由な日本人は、この種の変更を経ることなく、容易に自己を外来のものに没入し得た。そう見れば、少なくとも仏教美術の鑑賞者の側においては、日本化の有無は心生活の関係の有無を示すことにならない。津田氏は仏教美術が知識的に理解はされても心情によって理解はせられなかったという。そうしてその理由を「仏教美術が異国の信仰や趣味の表現である」という点に置く。しかし人は「自国に固有な信仰や趣味の表現」でなければ、鑑賞し得ないであろうか。異国のものであるがゆえに一層強い情熱をもって自己を投入し行くということはあり得ないであろうか。およそ芸術が普遍人間的な内奥の生命を有する限り、国民性に起因する趣味のごときは、一種の薬味たるに過ぎないであろう。それはむしろ異国情調として浪漫的な熱望を刺激するのである。のみならず仏教美術が上代人の心を捉えた記録は、『続紀』の内にも随処に見いだされる。『日本霊異記』は史料としての価値の乏しいものではあろうが、仮構談として見ても、当時の民衆に仏像の美に対する感受力のあったことを証するに足るものである。
上代人は仏教美術において「自己の表現せられたこと」を感じた。それだけで仏教美術が当時の国民の実生活から遊離したものでなかったことは明らかである。しかしなお一歩を進めて、創作の側からも、当時の仏教美術が時代の心生活と関係あることを証したい。「推古時代より天平時代に至る仏教美術の様式の変化は、日本人の心生活の変遷と平行する。仏像の多くは国民の信仰や趣味の表現である。型は外から持って来られたが、それに盛られたものは国民の願望であり心情であった。それはシナ芸術の標本ではなくて我々の祖先の芸術である。」
自分はこの証明のために、比較的多く固有の日本人を示すとせられる『万葉』の短歌を、古代の仏像に対照してみようと思う。
二
論を進める前に、自分は右に言った「日本人」あるいは「国民」の意義を反省しておかなくてはならぬ。上代の高い文化は貴族社会のものであって、国民一般のものではなかった、ということが、同じく津田氏によって極端に力説せられている。氏によれば仏教美術も万葉の歌も少数知識階級の玩弄物であって、「一般民衆の心と関係あるものではない。」果たしてそうであろうか。それは徳川時代のような平民芸術でないにしても、また平安朝の宮廷文芸ほど特殊なものではなかろう。『万葉』の歌には確かに貴族社会の産物が多い。しかし十一巻より十四巻にわたる作者不詳の短歌の内には、何ら教養なき民衆にも理解せられ得べき、あるいはまた創作せられ得べき、単純な詠嘆が少なくないではないか。これらの無数の短歌は『万葉集』の精髄である。そうして文芸史家の呼ぶように、「国民詩」でないとは言えない。たといそれが官吏や都人士と交渉のある人々であったにもせよ、農人から出た兵卒が歌をよみ、諸方の地方人もまた地方訛りをもって歌を作ったとすれば、――さらに一歩を譲ってこれらの歌の作者がすべて貴族階級に属するとしても、これらの歌において詠嘆せらるる感情が一般民衆的のものであるとすれば、――一般民衆がこの種の歌と関係したことは当然認められてよい。仏教の殿堂や彫刻にしてもそうである。諸方の国分寺がただ国司や少数貴族のためにのみあったとはどうして考えられよう。ことに薬師崇拝、観音崇拝のごとき単純な帰依は、特殊の教養なき民衆の心にも、きわめて入りやすいものである。従って造形美術の美が、その美的法悦によって帰依の心を刺激したろうことも、当然と認めてよい。津田氏は「仏像を礼拝するのは、単に信者の信仰からいうと、木や石を崇拝するのと何等の差異のないもので、それがいかなる形であろうとも無関係である」と言っているが、もしそうであるとすれば、『霊異記』などに現われている「仏像への愛着」はどう解していいか。いかに素朴な心的状態にあるものも、人の姿を具え親しみやすい感情を現わした仏像と、単なる象徴に過ぎない木や石とを同視するわけはない。美の感受は知識的な理解と無関係にも存在し得るのである。仏教の教理を理解したものでなければ仏像の美を感じ得ないと考えるごときは、美的受用の何たるかを解しない見方である。
もとより一般民衆が芸術と関係したということは、国民のことごとくが芸術を理解したという意味ではない。そんなことはどの時代にもあり得ない。ただ芸術を解し得る気稟を持つものは、たとい農夫といえども、それを受用する機会を持った、というまでである。従って芸術創作の天分を持つものは、たとい農夫といえども、その天分を発揮する機会を持ち得た。いかに多くの農人が僧侶となり、いかに多くの芸術的天才が僧侶から出たかを思えば、この想像は不当でない。
こういう意味で自分は、一般民衆が当時の文化に参与したことを認める。当時の文化は国民の文化である。
三
なおまた「シナ文化の影響」という言葉についても、一つの反省が必要である。当時のシナ文化は固定したものではない。六朝、初唐、盛唐は一つの新しい文化の迅速な成生を意味する。同時に、目まぐるしい変遷と興廃を意味する。風俗は混乱し推移した。漢式の鋭い鉄線は豊かに柔らかい唐式の線に変わった。概念的に明確な漢詩は叙情的に潤うた律動の細かい唐詩に変わった。そうしてこの偉大な変遷の時代が、推古より天平に至る我々の時代と、ちょうど相応じているのである。シナの文化の影響はまたこの文化変遷の影響でなくてはならぬ。
しかし一歩を進めて言うと、この「影響」という語は、当時のシナと日本との関係を現わすに適切な語ではない。当時の日本は隋唐文化の圏内に飛び込んだのであって、言わば日本人が受け持ち日本人が形成した限りにおいての隋唐文化が、当時の日本文化なのである。その意味においてそれは内から形成されたものであって、外からの影響とは言えぬ。外から影響を受けるというほどにシナに対して独立した文化は当時の日本には存しなかった。
四
さて『万葉』の短歌は、いかなる意味で仏教美術の変遷と相応ずるか。
仏教美術はシナ文化の変移に伴のうて変移した。六朝、初唐、盛唐の様式はすなわち推古、白鳳、天平の様式である。しかしこれは、前節に言える所によっても明らかなごとく、ただ様式上の模倣をのみ意味するのではない。シナにおいてそれが国民文化の脈搏であったと同じく、日本においてもまたそれは国民文化の脈搏であった。六朝芸術に現われた憧憬の心持ちは、胡人の侵入によって混乱せる国民生活の反映と見られるが、それはまた新来文化に驚異の眼を見張った推古時代の日本人の動揺する心と相通ずるであろう。中宮寺観音、夢殿観音、百済観音等の神秘は、当時の人心の驚異と憧憬とを語りつくして余さない。初唐の大いなる国民的統一と活力の勃興とは、ある意味で六朝の憧憬の実現である。そうしてそれは大化改新後における国家の新形成、――推古時代の理想の実現と相応ずる。唐において新シナが形成せられたごとく、大和においても新日本が築造せられた。唐が世界文化の融合地であったごとく、日本もシナを超えた西方の文化によって自己を高くした。薬師寺の聖観音や法隆寺の壁画は、西域文化の渡来を語るとともに、また統一と創造とに緊張した国民の心の、力強い律動と大きい感情のうねりとを現わしている。盛唐の文化は成熟と完成である。天平の文化もまた成熟と完成である。緊張した力強さは豊満な調和に変わる。聖林寺の十一面や三月堂の梵天の豊かな威容は、その著しい表現と見られよう。これらの美術はシナの美術の直模なのではなくして、シナと同じき文化圏内にあった日本人の創作なのである。その変遷はシナにおける様式の変遷と同じき必然性をもって内から起こったものにほかならぬ。日本人の心生活は隋唐文化圏内にあってただ民族的地方的の第二次的な特長を保持したに過ぎない。だからこれらの美術はその共通な様式に基づきつつただ気品や表情において民族的地方的な特徴を示すのである。様式は同一でありながらなおおのおのの時代の日本人自身の心の律動を表現しているということは、右のごとき第一次的と第二次的との二つの層において見いだされ得ると思う。しかしこの問題は美術鑑賞の微妙な範囲にはいって行く。従って論証するにはむずかしい。だからここでは想像力活動の他の領域から、すなわち『万葉』の叙情詩から、有力な証拠を見いだそうとするのである。政治上の現象において同じき心生活の推移が認められるということは、なお形式的模倣という言葉で斥けることもできよう。しかし当時の人心の直接の流露である叙情詩に同じき律動が認められるとすれば、そこにはもう形式的模倣や知識的模倣として斥け難い確固たる心生活の事実が許されるであろう。
推古時代の心生活については、『万葉集』にはほとんど材料がない。上宮太子の「家ならば妹が手まかむ、草枕旅に臥せる、この旅人あはれ」という歌も、『紀』に録するところの、「しなてる片岡山に、飯に飢て臥せる、その旅人あはれ。親なしになれなりけめや、さすたけの君はやなき、飯に飢て臥せる、その旅人あはれ」という歌に比して、表現法が著しく新しい。推古時代にふさわしいのは、道に飢臥する現状と愛妻に抱かるる家居との対照ではなくて、目前に見るところの飢人への単純直接な愛憐の情の表出である。その意味で『紀』の歌は、孤独と飢饑の苦しみに対する同情が、驚くべく単純な露骨さで、同時に緊張した偏執の律動をもって、力強く現わされている。その心持ちはあの簡素な推古仏の、思い切った単純や偏執の美に通じはしないか。
もしこの片岡山の歌が推古時代の心生活を示しているとすれば、『記』『紀』の上代の叙情詩にも同様の意義を担うものが少なくないであろう。これらの叙情詩は、最も直接な具体的な表出によって、自然人としては実に珍しいしめやかさ、潤える心、涙する愛情、愛らしい悲しみを言葉の端々にまで響かしている。いかなる不幸も悲劇的な苦痛の緊張によってではなく、叙情的な情緒の流露によって表現する。これは古代人の特性の著しい一面である。そうすれば推古時代は、この心によって仏菩薩の慈悲に味到した、と推測され得るのである。すなわちその潤える心は超人間的な「観念」に自らの影を投げた。そこに在来の原始的な、幼稚な、漠然たる神秘感が、温かい人間的情緒の内容をもって、新しい輝きをもって共働する。この心持ちを具体化して中宮寺観音が創造せられるのに何の不思議があろう。中宮寺観音は様式の上においてもそこばくの日本化が認められる作品であるが、そこに現わされた心に至っては、隋唐文化圏内における民族的地方的特徴としての、純然たる日本的のものと認められなくてはならぬ。我々は上代の叙情詩との比較によって、この世界的傑作が日本人の創作なることを推測し得るのである。
白鳳時代については『万葉』の古い歌が多くの証拠を提供する。この時代の後半には和歌の完成者と称せられる柿本人麿があり、その雄渾荘重な調子をもってこの時代の心の大きいうねりを現わしている。彼の歌集に出づと注せられている歌にも実に優れた作が多い。それらをも含めて、十三巻、十一巻、十二巻などの無名の人々の作には、真に驚異すべき作が多い。
一体にこの時代の作は、上代の歌謡よりもはるかに心持ちが複雑で、表現も豊かである。言葉には幾分原始的な新鮮な味が失われ、技巧の上にも型として固定する傾向が見え初めないではないが、しかし次の時代のように技巧そのものに対する関心や、言語の遊戯や、強いて複雑化した表現や、機智に富んだ諧謔などは、なおいまだ著しくはない。表現を迫る緊張した心とその律動を的確に現わす手法との調和において、恐らくこの時代の作は最高の価値を保有するだろう。そこにはもはや偏執の心持ちはなく、すべてを正面から受け容れる堂々たる心境がある。昔と同じく純粋、単純ではあるが、しかしその新鮮な活気、熱烈な情緒においてははるかに優れており、また潤える心、愛らしい悲しみは依然として認められるが、しかし感情のうねりははるかに大きい。恋歌においてさえも時には荘重を印象するものがある。たとえば、
しきしまのやまとの国に人ふたりありとし念はば何か嘆かむ (巻十三)
いにしへの神の時より逢ひけらし今の心も常念ほえず(常不所念。常わすられず) (巻十三)
のごとき歌がそれである。これらは恋の心の表白としてはまことに簡素であるが、しかしその強さにおいても深さにおいても実に申し分のない堂々たる作である。ことにこの種の感想は、後代においてはともすれば警句として、余裕のある軽い調子で歌われるのであるが、しかし右の歌にはきまじめな緊張がある。この緊張が失われると失われないとは、技巧をもてあそぼうとする心がわずかに動くと動かないとによって定まるであろう。心理的複雑を重んずる近代人にとって実に平板に感ぜらるべきこの種の歌が、なお荘重な印象をもって力強く我々の心を捕えるのは、そこに現われた律動の純粋と緊張とによるとほか考えられない。歌の内容のなお一層単純なものにあっても同様である。たとえば、
吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり (巻二)
のごときにあっては、采女安見子を得た喜びが、叫ばるるごとき強さをもってあふれ出ている。が、このような単純な歌はむしろ例外であって、普通の歌の内容は、直視の鋭さと豊かさとにおいて決して後代の歌に劣るものでない。当時の歌人らは自然の種々相を活発に鋭敏に感受した。心裡に去来する情緒のさまざまの濃淡をもきわめて確実に把握した。そうして情緒の表現に外的事物の感じをば本能的な巧みさをもって利用している。たとえば、
早人の名に負ふ夜ごゑいちじろく君が名のらせ孋とたのまむ (巻十一)
夕ごりの霜おきにけり朝とでにいと践つけて人に知らゆな (巻十一)
のごときがそれである。夜ごえを借り来たったことによって、恋に臆する恋人への歯がゆさは、非常に強い表現を得た。夕ごりの霜を歌う歌には、忍び逢うた時の喜びとその恋の背景全体とが、冬の夕、冬の朝の光景のうちに、驚くべく鮮やかに現わされる。
吾背子をやまとへやると小夜ふけて鶏鳴露にわれ立ち霑れし (巻二)
のごときにあっては、露にぬるる肉体の感覚と別れに涙する心の動きとが、実に率直な律動のうちに渾然として響き合うのである。情緒の濃淡の細やかな描写に至っては、
朝寝髪われはけづらじうつくしき君が手枕ふれてしものを (巻十一)
ますらをは友のさわぎになぐさもる心もあらむ我ぞ苦しき (巻十一)
のごとき、写実の妙をきわめたものもある。
これらは目にふるるままに不用意に引用した例であるが、その純粋、熱烈な音調と言い、緊張した心持ちと言い、直視の鋭さと言い、写実の妙と言い、これをギリシア盛時の叙情詩に比するも決して遜色はあるまいと思う。そうしてこれらの叙情詩の特性は、白鳳時代の偉大なる造形美術の特性と、実によく相覆うのである。薬師寺聖観音、法隆寺壁画のごとく、西域伝来の様式を示す以外にほとんど日本人の痕跡の認められないとせられている傑作にも、自分は当時の叙情詩の示すと同じき気品や緊張や感情のうねりを感じ得ると思う。
天平時代に至っては、昇り切ろうとする心のあの強烈な緊張はもう見られない。しかしその前半においては、いかにも絶頂らしい感情の満潮、豊満な落ちつきと欠くるところのない調和とが見られる。そうしてこのことを当時の短歌がまた証拠立てるのである。その満潮がようやく引き始める時期をここに正確に指定することはできないが、弛緩の傾向はすでに天平の前半から始まり、後半に至っていよいよ著しくなったと見てよかろう。
この時代の作家としては山上憶良、山部赤人、大伴家持、大伴坂上郎女、笠女郎のごときがあり、歌の内容はますます複雑に、技巧はますます精練せられた。たとえば、
こと清くいともな言ひそ一日だに君いしなくば痛ききずぞも (高田女王)
来むといふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じといふものを (大伴郎女)
相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくがごと (笠女郎)
さよなかに友よぶ千鳥物念ふとわび居るときに鳴きつつもとな (大神女郎)
あひ念はぬ人をやもとなしろたへの袖ひづまでにねのみし泣かも (山口女王)
のごとき歌は、白鳳時代にはなかった。歌おうとする情緒の捕え方がもはや万葉初期のごとく率直ではない。裏から捕える。押えて捕える。あるいはやり過ごして捕える。そうしてその表現がまた刹那のひらめきの鋭い利用や、間投詞の巧妙な投げ込み方によって、一分のすきもないものである。一語一語のこのように力強い生かせ方は、前後を通じてこの時代のほかにない。また句の転置の自由さ、転置による律動の微妙化なども、万葉初期から見ると著しい相違である。
こういう豊満と完成とは、天平時代前半の彫刻と実によく相通うてはいないであろうか。この種の叙情詩を持つ日本人が、三月堂の月光を造ったとして何の不思議があるだろう。仏教思想を歌ったか歌わぬか、あるいは仏像仏寺に対する讃嘆の心を歌ったか歌わぬか、それはこの両者を結び付ける根本のものではない。あの叙情詩に現われた芸術的敏感、情緒の豊富、直視の鋭敏、――それがあの彫刻に現われた心にふさわしければ、両者は直ちに結びつくのである。
が、技巧の練達はやがて技巧をもてあそぶ心を生ぜしめる。表現を迫る内生と表現に奉仕する技巧との緊密な協和は、ようやく破れ始めた。人は余裕ある心持ちで技巧そのものの妙味に没頭し得ることを知った。鼻の赤い池田朝臣と痩せて骨立った大神朝臣との贈答のごときがそれである。
寺寺の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子生まはむ (池田)
仏つくる真朱たらずば水たまる池田のあそが鼻の上を掘れ (大神)
「水たまる」が池にかぶせた枕詞であるとはいえ、そのあとに「鼻」が来るに及んで妙味のつきないものがある。女餓鬼に子を生ませ、赤鼻から朱を掘るなども機智の優れたるものであろう。しかしこの種の滑稽は芸術として価値高きものではない。そこには美を生むべき芸術家の心が君臨していない。技巧は単なる玩弄物として終わろうとする。この傾向のさらにはなはだしいものは、一定の言葉を詠み込む歌である。たとえば、
香塗れる塔になよりそ川隅の屎鮒はめるいたき女奴 (巻十六)
のごとく「香、塔、厠、屎、鮒、奴」等結びつき難き六語を巧みに結びつけて意味ある一つの歌を作ったことが、当時のある人々には喜びであった。
この傾向もまた天平後期の彫刻に見られるところである。技巧が堅実であるにかかわらず生命の空虚の感ぜられる多くの作品は、右のごとく芸術家的な心持ちの弛緩した人の所産であろう。天平後期の歌は戯れ歌でないまでも一体にこの種の弛緩があった。
なでしこが花見る如に乙女等がゑまひのにほひ思ほゆるかも (家持)
のごときはその適例である。なおまた、
この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ (旅人)
というごとき心持ちが天平後期の一つの特徴であって、仏教界にもこの種の頽廃気分が起こり、彫刻において単に肉感的であることを目ざすらしい傾向の現われ始めたことなども、注意する必要はあると思う。
五
はなはだ大ざっぱではあるが、右のごとく見れば仏教美術と『万葉』の歌とがともに同一の精神生活の表現であり、従って当時の仏教美術が単なる模造品複製品のごときものでないという事は幾分明らかになると思う。
最後に一言断わっておきたいのは、仏教美術なるものが当時の人々にとっては礼拝の対象だったことである。彼らは事実上には仏像に対して美的受用の態度にあった。しかし彼ら自らはそれを美的受用とは解しなかった。それに反して花鳥風月のごとき自然の美に対しては彼らのとる態度が美的受用である事を自ら意識していた。従って歌は彼らにとっても芸術であった。この区別を閑却してはならない。寺塔や仏像の芸術的な美しさを彼らが歌わなかったのは、この区別が彼らの心を縛っていたからであろう。宗教的情緒の領域と叙情詩の領域とが截然区別されるということは別に不思議なことではない。
(大正九年、一月)
『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について
『万葉集』と『古今集』との歌風の相違についてはすでに十分に説かれていることと思う。ここにはその相違を通じて現われた心の相違を問題にする。それを追究して行けば、何ゆえに『万葉』の時代が純粋に叙情詩の時代であり、何ゆえに古今の時代が物語文芸への過渡の時代であるかという問題も解き得られるであろう。
まず初めに歌に現わされた感情の相違について観察する。
範囲を狭く「春」に限って考えてみると、相違はきわめて明白である。『古今集』の巻頭に置かれたあの有名な、
年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ
の歌は、集中の最も愚劣な歌の一つであるが、しかし『古今集』の歌の一つの特性を拡大して見せていると言える。それは、ここに歌われている「春」が、直観的な自然の姿ではなくして暦の上の春であり、歌の動機が暦の知識の上の遊戯に過ぎぬという点に看取される。もとより叙情詩に歌われる春は必ずしも直観的な自然の姿でなくともよい。暦の上の春でもそれが詠嘆さるべき感情を伴なっていさえすればよい。たとえば少年の心が、一夜明けて新しい年になるというあの急激な変化に対して抱く強い驚異の念、あるいは暦の上の春が単なる人為的の区分でなくして何らか実体を持ったもののように感ぜられ、あたかも自然が暦の魔力に支配されているかのようなあの不思議な季節循環の感じ。それらは確かに強い詠嘆に価する。総じて暦なるものが、季節の循環と天体の運行との不思議な関係から生まれたものである以上、暦の知識の上に宇宙の深い理法への測るべからざる驚異の感情が隠されていることは否定し難い。しかし右の歌はこの驚異の情と何の関するところもない。季節循環の不思議さに対してはもはや何らの感情をも抱くことのできなくなった心が、ただ立春の日と新年との食い違いを捕えて洒落を言ったに過ぎぬ。それは詠嘆ではない。「人の心を種として」言の葉になったものではない。従って歌ではない。
これは特にはなはだしい例である。しかし『古今集』の春の歌にはすべて多少ともにこの傾向が見られると思う。ここに『万葉集』の春の歌との第一の著しい相違がある。『万葉集』の歌は常に直観的な自然の姿を詠嘆し、そうしてその詠嘆に終始するが、しかし『古今集』の歌はその詠嘆を何らか知識的な遊戯の框にはめ込まなければ承知しない。春の初を詠じた二、三の歌を比較してみると、『古今集』では、
袖ひぢてむすびし水の氷れるを春立つ今日の風やとくらむ (貫之、春上)
春がすみ立てるやいづこみよしののよしのの山に雪はふりつつ (読人知らず、春上)
雪のうちに春はきにけりうぐひすの氷れる涙いまやとくらむ (読人知らず、春上)
のごときがある。これらはすべて「春立てり」という暦の知識を軸として回転する歌である。今日は立春の日だから、あの思い出のある水の氷っているのを、春の風がとかしてくれるかも知れぬ。もう春になったから春霞が立っているはずだ、が、どこに立っているか、山にはまだ雪が降っている。まだ雪は降っているが、もう春になったのだから鶯は喜ぶだろう。明らかにこれらの歌は、直観的に春の到来を認めたものでない。水は氷っているが、しかし陽気はぬるんでいるとか、雪は降っているがしかしもう春めいて来たとか、というごとき詠嘆ではない。光景は冬である、が、暦の上では春が立った、その直観的ならぬ春を彼らは歌うのである。『万葉』の歌はこのような場合に全然反対に出る。
わがせこに見せむと念ひし梅の花それとも見えず雪のふれれば
あすよりは若菜つまむとしめし野に昨日も今日も雪はふりつつ (以上二首、赤人、巻八)
ここにはすでに到来した春が冬によって引きとめられている光景の詠嘆がある。すでに梅の花は咲きほころびた、若菜は萌え出た、が、その春の歓びが雪によって妨げられる。いかに明らかに春が始まっているにもしろ、雪は依然として冬のものである。そうしてその、春を覆う雪を冬としてそのままに受け取ることのために、歌人の春に対する愛が一層強く響き出るのである。すなわちこの歌人は、ただ実感にのみ即するがゆえに、『古今』の歌人と反対の感じ方をしたと言える。なおまたこのことは、
時はいまは春になりぬとみ雪ふる遠き山べに霞たなびく (中臣武良自、巻八)
うちきらし雪はふりつつしかすがに吾宅の園に鶯なくも (家持、巻八)
のごときについても明白に言える。光景は冬である。しかしそこにはすでに春が到来している。「春になったからもう霞が立つはずだのに、雪が降っている」ではなくして、「山には雪があるのにもうそこには霞がたなびいている、春になったのだ」である。「雪は降っていても春が立ったのだから鶯は喜ぶだろう」ではなくして、「雪は降っていてももう鶯が鳴いている、春が来たのだ」である。春の実感と暦の知識とが全然位置を替えるのである。
もとより『古今集』の歌は、右の引例のごとき単純なもののみではない。しかしその複雑性は、直観をはめこむ知識の框が一層複雑になるというに過ぎぬ。たとえば、
春やとき花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな (藤原言直、春上)
木伝へばおのが羽風に散る花を誰におほせてこゝら鳴くらむ (素性、春下)
のごとき歌である。ここには鳥の音、散る花などの印象が、単に暦の知識という以上に複雑な連想によって、屈曲されつつ現わされている。まず第一の歌は、「春が来てもまだ花が咲かぬ、春が早く来過ぎたのか、花が遅れたのか、鶯が鳴けばそれをきめることができるであろうが、鶯さえも鳴かない」という詠嘆であって、「春が来たとはいうが、鶯が鳴かぬ限りそういう気持ちにはなれぬ」とか、「谷から鳴き出てくる鶯の声がなくば誰も春には気づくまい」とかいう意味の歌とともに、鶯の鳴く音の歓ばしい感じを根本の動機としていることは疑いがない。しかしこれらの歌人は、その感じに深く浸り入ろうとはしないで、むしろそれを内容の確定した概念のごとくに取り扱い、「春」という概念との結合関係のうちに主たる関心を持っているように見える。従って鶯の声の内に春を感ずるというよりも、鶯において春を考えるのである。この傾向が第二の歌に至ってさらに明白になる。「木々を伝う鶯が己が羽風によって花を散らしている、その花の散るのを誰か他の者の所為でもあるかのように、しきりに鳴く!」鶯は花の散るのを悲しんで鳴くのである。この動機は『万葉』の歌にも見られぬではない、たとえば、「梅の花散らまく惜しみ我園の竹の林に鶯なくも」(巻五、梅花三十二首中)のごとき。しかしそれは特に『古今』の歌人の愛好した動機であり、また『古今』の歌人が複雑な表現に発達させたものである。この歌のほかにも、「鶯の鳴く野べごとに来て見ると、なくのも道理、風が花を散らしている」、「風を恨め、鶯よ、おれが手をふれて花を散らしたのではない」、というふうな意味の歌は、なおかなりに多い。ここに至ると「鶯鳴く」ということはもはやその直接の印象から切り離されている。それはただ「泣く」という意味に限局されて散る花を悲しむ心に結びつくに過ぎない。木々の間を伝うて花を散らしている鶯自身の、歓ばしそうな、軽やかな姿、その朗らかな、美しい音色、それらはあたかも感ぜられないかのようである。もし鶯の声が実際に悲しそうな響きを持っているならば、右のごとき詠嘆もまた我らの同感をひくであろうが、しかしあの声を悲しく聞くということは恐らく何人にも不可能に違いない。『古今』の歌人といえどもその例に洩れまい。従ってここには、鶯の声が詠嘆されているとは言えぬ。とともに鶯を使ったことによって、散る花を悲しむ心さえも概念的な空虚なものになっている。詠嘆が複雑であるように見えるのはただそこにさまざまの概念が結合されているからであって、感情の内容が複雑になっているからではない。『万葉』の歌人は、少数の例外を除いて、決してこのような空虚な詠嘆はしなかった。彼らにとっては鶯の声は、概念でもなければ「泣く」でもない。言いつくせない、無限の感じの源泉である。
冬ごもり春さり来らし足引の山にも野にも鶯なくも (巻十、春雑)
霞立つ野上の方に行きしかば鶯なきつ春になるらし (巻八、春雑、丹比乙麿)
打なびく春さり来ればさゝのうれに尾羽打ふりて鶯鳴くも (巻十、春雑)
いかに直観的に豊富で、また新鮮であろう。『万葉』の歌人は鶯の声の内に、磅礴として天地にひろがる春を感ずるのである。そうしてその声に融け入って、その声とともに、歓びに心を踊らせるのである。その詠嘆は単純であるが、しかしそこには、言いつくせない感じを把捉しようとする心の、強い律動が現われている。両者の相違は実に根本的である。
この相違は歌が真に叙情詩であるか否かを決定する。『古今集』の歌は叙情詩としての本質を遠ざかっている。にもかかわらず、これらの歌が物の感じ方の新しい境地を開いているかのごとくに見えるのは、彼らの概念の遊戯の裏に、実際に新しい感じ方や感覚が、しいたげられつつも、ひそんでいるからである。たとえば『万葉』の歌人が、
きぎしなく高円のへに桜花散り流らふる見む人もがも (巻十、春雑)
春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも (同)
のごとくまともに落花を讃美しあるいは愛惜するに対して、『古今』の歌人は、
久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ (春下、紀友則)
と詠嘆する。「春光怡々たるこの閑かな日に、何ゆえに花は心ぜわしく散るか!」落花を惜しむ心を花に投げかけて心ぜわしくと感ずることは『万葉』の歌人のなし得ないところであった。ただ『古今』の歌人は、その花の心になり切ることをしないで、それをまた外から、春日の閑かさに融け入った心から、ながめる。そこに本来相即したものである春日と落花とを、不自然に対立させるというわざとらしさが現われるのである。この新しい感じ方と概念の遊戯との結合は、左の歌において代表的に現わされている。
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるゝ (春上、躬恒)
梅花の香は『万葉』の歌人のほとんど知らないところであった。ことにその香が闇の中で特に強く感じられる現象を捕えているごときは、全然『古今』の歌人の新境地である。ただ彼らのマニールが「闇はあやなし」――花の色を隠すことはできても、その高い香のゆえに梅花の有を隠すことができぬ、そのような春の夜の闇は闇として矛盾したものである――という結論へ導かなければ承知しないところに、また彼らの歌の堕落を代表的に示すのである。
がしかし、『古今』の歌のこの傾向は、実際に一つの新しい境地を開拓する。すなわち自然の印象の上に概念の遊戯をやるのでなく、「自然」の印象に触発されて「人生」を詠嘆するのである。たとえば、
人はいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の香に匂ひける (春上、貫之)
世のなかにたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし (春上、業平)
花の色はうつりにけりな徒に我が身世にふるながめせしまに (春下、小野小町)
のごとき、明らかに春の歌ではなくして人生の歌である。人の心はどうか知らぬが梅花は変わらない、――これは梅花の詠嘆でなくして懐旧の詠嘆である。桜がなければ春はかえってのどかであろう、――このパラドックスも桜の詠嘆とは言えない。桜はただ人の心に喜びや悲しみを与えるものの象徴に過ぎぬ。また、自分が恋の苦労に没頭していた間に、一度も見ぬうちに、花の色はあんなにうつった、という感慨は、恋に気をとられていた心の詠嘆ではあっても、花を歌ったものとは言えぬ。すべてこれらは眼を己が心にのみ向けたものである。『万葉』においては、己が心を自然の物象に投げかけて、その物象において己が心を詠嘆するのであって、春の自然をただそのままに歌ううちにも、無限に深い感情が現われている。たとえば、
世のつねに聞くは苦しき喚子鳥声なつかしき時にはなりぬ (巻八、春雑、坂上郎女)
のごとき、喚子鳥の詠嘆のうちに作者の心が躍如として感ぜられる。しかるに『古今』においては、物象を己が心に取り込んで、ある感情の符徴として、その符徴によって己が心を詠嘆するのである。従ってそれは、直観的にはきわめて貧しく、ただ心理描写として、濃淡のこまかな、自然の物象のみによっては現わせない心の隅々を、把捉し得るようになるのである。
この種の歌が『古今』の春の歌の中のやや見るべきものである。『古今』の歌の優れたものが主として恋の歌に多いのも、この心理描写的に歌う傾向がそこにおいて最もよく生かされるからである。がしかし、この傾向のために歌の具象性が著しく減じて行くことはやむを得ない。そうしてここに『万葉』の歌との最も著しい相違が現われて来る。
『万葉』においては、恋を歌うものといえども、『古今』の叙景の歌よりははるかに具象的である。たとえば、
さよなかに友よぶ千鳥物念ふとわびをるときに鳴きつゝもとな (巻四、相聞、大神女郎)
皆人を寝よとの鐘はうつなれど君をし念へば寝ねがてにかも (巻四、相聞、笠女郎)
吾妹子が赤裳のすそのひづちなむ今日のこさめに吾共ぬれな (巻七、雑)
吾背子をなこせの山の喚子鳥君喚びかへせ夜の更けぬとに (巻十、雑)
ここに我々は恋の心に浸された鐘や春雨や喚子鳥がきわめて直観的に現わされているのを感ずる。しかし恋の心が物象の姿をからずに直接に詠嘆されている場合でも、依然として『万葉』の歌は直観的である。我らはそこに心理的な濃淡陰影を見るのでなく、恋の情熱を直接に感ずる。
夕されば物念まさる見し人の言問はすさま面景にして (巻四、相聞、笠女郎)
わがせこは相念はずともしきたへの君が枕は夢に見えこそ (同、山口女王)
吾のみぞ君には恋ふる吾背子が恋ふとふことは言のなぐさぞ (同、坂上郎女)
こひこひてあへる時だに愛しきことつくしてよ長くと念はば (同)
これらはまことに恋の感情の繊鋭な表現である。その感情は決して単純とは言えぬ。ただ彼らは複雑な恋の感情の急所を捕えた。そうして直ちにその悲しみ、追慕、恨み、甘えなどの情を、面前に投げつくるがごとくに詠嘆した。我らはそこにその恋の心と人とを切実に感じさせられる。しかるに『古今』の歌人は、恋の情を直接に詠嘆せずして、観察し解剖し、そうして人の言い古さないある隅を見つけ出すのである。
うたゝねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみ初めてき (恋二、小野小町)
現にはさもこそあらめ夢にさへ人目をもると見るが侘しき (恋三、同)
これは恋の歌であるには相違ない。しかし直接に恋しさをではなく、ただ恋における夢を詠嘆するに過ぎぬ。夢を頼む恋人の心理、夢にさえも人目をはばかるのを見る不自由な恋の心理、それらが主たる関心事であって、恋そのものはただ「はかない恋がある」という以上に現わされていない。「夢にでも見たい!」という哀求と、「夢を頼みにしている」という叙述とでは、力がまるで違う。
かくて『古今』の恋の歌は、恋の感情を鋭く捕えて歌うよりも、恋の周囲のさまざまの情調を重んずることになる。たとえば、
秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば事ぞともなく明けぬるものを (恋三、小町)
ねぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなり増るかな (同、業平)
秋の夜は長いと言われるが、恋人と逢う夜は何をしたという気もしないうちに明けてしまう、長いというのはうそだ。後朝に昨夜の共寝の「夢のごとき」味わい足りなさをはかなみつつまどろむと、ますますはかなさがつのってくる。――これらは明らかに恋愛に付随した情調ではあるが、恋愛の感情そのものではない。恋しさ、嬉しさはただ背景として、恋の心に起こる一つのこまかい情調の影を浮き出させるために役立っているに過ぎぬ。もとよりこの歌人たちは右のごとき詠嘆によってその恋愛の感情を伝えようとしたには相違ない。しかしそこに伝えられる感情はかえって漠然と「恋しい」「嬉しかった」というような粗大な表出をしか得ていない。『万葉』の歌人の、「あなたが愛するというのは気やすめだ」という恨みや、「せめて逢った時だけでも優しいことのありたけを言ってほしい」という訴えなどは、これに比べればはるかに細かく鋭い。
しかし直接な詠嘆より離れて、幾何かの余裕を保ちつつ、恋の心理を解剖しあるいは恋の情調を描くというこの『古今』の傾向は、必然に歌人の注意を「瞬間の情緒」よりもその「情緒の過程」の方に移させる。すなわち瞬間の情緒の告白である歌よりも、その情緒の歴史を描くところの物語を欲する。
人しれぬわが通ひ路の関守はよひ〳〵ごとにうちも寝ななむ (恋三、業平)
冬枯の野べと我が身を思ひせば燃えても春を待たましものを (恋五、伊勢)
のごとき歌は、もはや明らかに物語の要求を内に蔵した歌である。従ってかくのごとき歴史を歌わむとする心が、歌の形式の不便を漸次強く感ずるとともに、ついに物語を生み出すに至ったと考えることもできる。物語中の最古のものに属する『伊勢物語』が、『古今集』中の恋歌の前書きを拡張しまた数々の歌を連絡することによって生まれたという事実は、この見解を雄弁に立証するものである。
以上、歌われた感情についての観察は、この感情の表出法についても繰り返すことができるであろう。
ここにもまず、問題を簡単にするために、ほぼ同様の感情を歌ったと認められるものを比較する。
浅緑糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か (古今、春上、遍昭)
浅緑染めかけたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも (万葉、巻十、春雑)
これらはともに芽の萌え出た柳の美しさを詠嘆したものである。が、前者は、糸と玉との比喩によって柳を詠嘆することを主眼としている。浅緑の糸を縒って、掛けて、白露を玉にしてつないでいる春の柳、いかにも美しい、というのである。それに対して後者は、糸を染めて掛けた光景を暗々裏に示唆しないでもないが、しかし必ずしもその比喩によって表現しているのではない。細く長く柔らかく垂れた柳の枝が、浅緑に染めて掛けられたように見える、それほど柳が萌えた、美しい、というのである。浅緑に染めて垂らしたという現わし方は、急速に今萌え出たばかりの柳の枝の、あの新鮮な感じにふさわしい。この「浅緑に染める」という言葉の代わりに、「浅緑の糸を縒る」という言葉を置けば、もはやそこにはあの新鮮な潤いのある色の感じは出て来ない。いわんやこの糸に玉を通すに至っては、それはもはやあの柔らかな、生々たる力に燃えた柳の垂枝ではあり得ない。たといこの枝に白露が美しく輝いているとしても、その美しさは糸に通した玉と感ぜらるべきではなかろう。ここには「萌えにけるかも」という新緑への単純な詠嘆が、動かし難い中心的な力を持つ。かく見れば前者の表現法は柳をば玉を貫ぬいた糸と見立てるところに主たる関心を持つものであり、後者の表現法は実感を直ちに放出する以外に何事をも目ざさないものである。
感情の切実な表白よりも、その感情にいかなる衣を着せて現わすべきかの方が、『古今』の歌人には重大事であった。『古今集』の序において和歌のため気を吐いた貫之自身が、すでにこのことを歌の本領と心得ていたらしい。
青柳の糸縒りかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける (春上、貫之)
の歌がそれを証する。糸を縒ってほころびを縫うのが普通のことであるのに、青柳の糸を縒ってかける春のころには、かえって花が咲き乱れてほころびる――柳の糸と花のほころびとのしゃれである。萌え出る柳の美しさはこの厚い衣の下に窒息している。これを『万葉』の、
春がすみ流るるなへに青柳の枝くひもちて鶯なくも (巻十、春雑)
青柳の糸の細さを春風に乱れぬ今に見せむ子もがも (同)
のごとき歌に比するとき、我々はその相違のあまりにも著しいのに驚かざるを得ぬ。ここには春の風によって静かに揺らるる柳の枝のために、「春がすみ流るる」というごとき巧妙な表出が用いられる。それによって潤いある春の大気の感触と春の風の柔らかい吹き方とが、実に鮮やかに現わされるのである。さらにまたその揺らるる枝にとまって体を逆しまにして鳴いている鶯のためには、「枝くひもちて」というごとき感嘆すべき表出が用いられる。鶯の愛らしい嘴、そのくび、その足、それらが我々には感覚的な親しさをもって感ぜられるではないか。またここには、「柳の糸」という言葉は現われてはいる。しかし青柳の糸の細さと続けられたとき、それは萌え出たばかりの柳の枝の実に適切な表現になる。そうしてこの糸の細さの今の瞬間の美しさを詠嘆するために、「春風に乱れぬ今」という言葉を使うのは、柳の芽の迅速な成長を顧慮して考えるとき、確かに鋭いつかみ方として許せる。その喜びを現わす言葉が「見せむ子もがも」であることも我らには興味深い。ひとりで喜ぶには堪えぬ、喜びを別ちたい、ともにしたい、――これは叙情詩を産み出す根本の動力ではないか。かくのごとき巧みな表出法は一般に『万葉』の歌の特色であり、そうして『古今』の歌に見られないものである。
しかし『古今』の歌人は、前に指摘したごとく、『万葉』の歌人と異なった感情を歌おうとする。たとえばこまかい情調の陰影のごとき。そうしてそのためには『万葉』の率直な表現法は間に合わぬのである。「現にはさもこそあらめ」という表出のごとき、『万葉』の歌人には到底見られない。彼らは人目をはばかる恋を一つの鋭い瞬間において表現することはできるが、その恋全体を背景としてそこににじみ出る心の影を軽く現わすというごとき技巧は知らぬのである。また彼らは「夢」をいうことはできても、「夢てふものは」と言うことはできぬ。名残り惜しい夜明けを詠嘆することはできても、「事ぞともなく明けぬるものを」と嘆くことはできぬ。すべてこれらの、瞬間でなくして歴史的な、また個々ではなくして類型的な、情緒の表出には、『古今』の歌人はその独特な技巧を発達させたのである。
ここに言葉の使用法における新しい境地が開ける。『万葉』の歌人において単に具象的な、限定された意味をのみ持っていた言葉が、ここでは連想によって、広い、さまざまの意味と情緒とを指示する言葉に押しひろげられる。たとえば露、雨、というごとき言葉を取って見ると、『万葉』においては、
わがやどの尾花押し靡べ置く露に手触れ吾妹子ちらまくも見む (巻十、秋雑)
わが背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわきしらにいでてこしかも (巻十、春相聞)
というふうに、単純に露であり雨である。たまたま涙に関連させられた場合にも、
ひさかたの雨には着ぬを怪しくもわが袖は干るときなきか (巻七、譬喩歌)
のごとく、雨を直ちに涙の意味に使うのではない。雨の日に着ぬのに濡れているのである。しかるに『古今』においては、もとより単純に露であり雨である場合も多いが、しかし「袖の露」、「露の命」、「涙の雨」というふうな使い方はすでにもう始まっている。
秋ならでおく白露はねざめする我が手枕のしづくなりけり (恋五、読人不知)
夢路にも露や置くらむ夜もすがら通へる袖のひぢて乾かぬ (恋二、貫之)
わが袖にまだき時雨の降りぬるは君が心に秋や来ぬらむ (恋五、読人不知)
この傾向は連想の許す限りあらゆる言葉に現われてくる。「濡るる」と言えば雨露に濡れるとともに涙に濡れることを意味し、「まどふ」と言えば、道に迷う、恋に迷う、「せく」と言えば、水をせく、感情をせく、「燃ゆる」と言えば、火が燃える、思いが燃える、――それはさらに『古今』以後に複雑化され、徳川時代に至って極点に達する傾向ではあるが、しかし本来感覚的、具象的である言葉を初めて情緒の表現に転用したのは『古今』の歌人である。もとより『万葉』の歌人も言葉の多義性について全然無関心であったのではない。しかしそれは多くの場合言葉の多義性そのものに対する興味であって転用ではない。
わが背子をこちこせ山と人は言へど君も来まさず山の名ならし (巻七、雑)
わたつみのおきつ玉藻の名のりその花妹と吾とここにしありと名のりその花 (巻七、雑、旋頭歌)
明らかにこれはこちこせ(此方に来らせ)、名のりそなどの名に対する興味である。「子らが手を巻向山」という類の枕詞と同じく、直観的な連想に過ぎぬ。
『古今』の歌人が開いた用語法の新しい境地は一方に叙情詩の堕落を激成した。多義なる言葉を巧みに配して表裏相響かしめることが彼らの主たる関心となり、詠嘆の率直鋭利な表現は顧みられなくなった。が、また他方にはこれによって細やかなる心理の濃淡の描写が可能にされる。長い物語の技巧が漸次成育して行ったのは、情緒を表現する言葉の自由なる駆使が『古今』の歌人によって始められたことに負うところ少なくない。この意味でも『古今集』は物語の準備である。
歌われた感情においても、その表出法においても、我々は同じき相違と同じき進展の傾向とを見いだした。これによって我々は、『万葉』の歌が嘆美すべき叙情詩であるに対して、『古今』の歌が何ゆえに叙情詩として価値少なきかを理解し得る。また『古今』の歌がかつて高く値ぶみされたのは、そのあとに偉れたる物語文芸を控えているゆえに過ぎぬこと、従ってそれは後の優れたる文芸の源流としてのみ意義を持つのであることを理解し得る。両者の持つ特殊の意義は明白である。
(なお『万葉』と『古今』との相違については、格調律動の相違も重大である。しかしそれはこの小篇には故意に省いた。いずれ別の機会に論じてみたいと思う。)
(大正十一年、八月)
お伽噺としての『竹取物語』
『竹取物語』は、すでに古く紫式部が命名したように、小説の祖として有名な作品である。しかし有名なわりには適切な評価を受けていないと思う。通例の見解によれば、それは平安朝貴族の生活を写した「世態小説」である。それが後の物語と異なるところは、ただ道教風の空想の影響が全篇の構想に著しく現われていることと、その構想にもまた細部の描写にも、軽い滑稽が主導的に働いていることとに過ぎぬ。しかもそれらは読者に珍しさとおかしみとを印象するための副動機に基づくものであって、中心の動機はあくまでも一人の美人を競争する多くの求婚者の姿を描くにある。――しかし自分の見るところはそうでない。『竹取物語』の美しさは、それを世態小説と見る者の眼には、恐らく真実には映じないであろう。この物語にとってあの神仙譚的な要素は本質的なものである。恋の苦しみと失敗とを描くあのユーモアの調子も、この作に必然なものであって偶然の副動機に基づくものではない。いかにこの作が平安朝貴族の恋愛生活を戯画化しているにもせよ、この作の描くのは現実界ではなくしてただ想像の中にのみ存する世界である。この世界を組成する要素が現実界から借りて来られた写実的な形象であることと、この世界自身が全然写実的でないこととは、厳密に区別して考えられねばならぬ。『竹取物語』は、「写実的」ということを特長とする世態小説ではない。その相反である。それはただお伽噺としてのみ正当に評価せられる。
古い日本人にはお伽噺への傾向は顕著に存していた。『古事記』のうちに我々はその好個の例証を発見する。いなばの兎の話、鯛の喉から釣り針を取る海神の宮の話、藤葛の衣褌や弓矢に花の咲く春山霞男の話、玉が女に化する天の日矛の話、――これらを我々はお伽噺と呼び得ぬであろうか。奈良朝に至っては、浦島の伝説を歌った有名な長歌(万葉、巻九、雑歌)がある。これは、「春の日の霞める時に、住吉の岸に出で居て、釣舟のとをらふ見れば、古の事ぞ念はる」と歌い出し、浦島の子が海神の妙なる殿に神のおとめと二人いて、老いもせず死にもせずに、永遠の幸福な日を享受し得たものを、「愚かにもこの世に帰って来た」と詠嘆した叙情詩である。しかしここにもお伽噺の世界への強い興味が存することは認めてよいであろう。日本古来の神話的・お伽噺的形象の上にシナの神仙譚の影響を受けたらしい「仙女」(常世の天少女)への憧憬は、歌人が好んで歌った題目であって、彼らの空想にはこの超自然的な永遠の美女とその世界とが欠き難いものになっていた。ここに我々は、お伽噺が神話の沈渣であるという言葉の真実を省みさせられる。当時実際に人心を支配していた仏教は、いかに多く神話的要素を含んでいても、空想の所産としてのお伽噺を産み出しはしなかった。『日本霊異記』の超自然的な物語は、むしろ厳粛な幻視に充たされた宗教的伝説と見るべきものである。しかるに日本古来の、及びシナ伝来の神話的形象は、宗教的観念としての生気を伴なわざるがゆえに、直ちに詩人の空想を刺激してお伽噺の世界を造り出した。この後この空想には仏教芸術の影響が豊富に加わって行くが、しかしいかに仏教的に彩られてもそれは決して神仙譚的な輪郭を失うことがない。『竹取物語』の理解にとっては、この事は看過されてはならぬ。
天平時代における右の興味は、中断さるることなく開展したらしい。一世紀の後、空海の時代もすでに去って藤原氏専権時代がまさに始まろうとしたころに(嘉祥二年、続日本後紀、巻十九)、興福寺の法師が仁明天皇の宝算四十を賀した種々の催しをやった。そのうちで、仏教的ならぬものは、ただ「浦島子暫昇雲漢、而得長生、吉野女眇通上天而来且去等像」[浦島の子が暫く雲漢に昇り、而して長生を得しこと、吉野の女が眇かに上天に通り、而して来りて且つ去ること等の像]を作ったことのみであった。その時これに添えた長歌は、倭歌衰微の時代に「頗存古語」[頗る古語を存]して感嘆すべきものであるとの理由で、正史に採録されているが、その中に次のごとき一節がある。――
大海の白浪さきて、常世島国なし建てて、到り住み聞き見る人は、万世の寿を延べつ、故事に言ひつぎ来る、澄江の淵に釣せし、皇の民浦島の子が、天つ女に釣られ来りて、紫の雲たなびきて、時のまにゐて飛び行きて、これぞこの常世の国と、語らひて七日経しから、限りなく命ありしは、この島にこそありけらし。
み吉野にありし美稲、天つ女に来り通ひて、その後は譴蒙ふりて、ひれ衣着て飛びにきといふ、これもまたこれの島根の、人にこそありきといふなれ。
この二つの神仙的な伝説が、ここに「この島根」の代表的な出来事として選ばれていることは、我々をしてこの神仙の興味を十分重大視せしめるに足りる。が、さらに一層我々の注意をひくのは、浦島の常世の国が海中から天上へ移され、柘の枝の化してなった柘媛も吉野の山の仙女から羽衣で飛ぶ天女に変化させられたことである。この空想の変質を考えるとき、我々はここにすでに『竹取物語』が予告せられているのを見る。年代の関係から言っても、興福寺の法師が右の歌を作ってから『古今集』編纂まではわずか半世紀である。『竹取物語』は通例『古今集』よりも古いとせられているが、たといそれが『古今集』以後に作られたとしても、仁明朝からの距離は、天平時代から仁明朝までの距離よりは近い。
かく見れば、神話の沈渣としてのあの永遠の美女への憧憬が、一世紀半の間にいかに開展したかは明白となる。仙女は天女、地上的な神仙界は天上的な浄光の国土に、変質させられた。ここに仏教の影響による超自然界の深化があることは疑うことができぬ。かくてついに、肉欲的恋愛から独立した、精神的に透明な、かぐや姫の空想が生まれ出るのである。ヴェヌス山にも等しい仙女の世界と、一切の地上の肉の汚れを遮断する天女の世界とは、一見はなはだしい対照をなすように見えるが、しかしこの世界を創り出す動機においては一つである。
竹取の翁の名はすでに『万葉集』(巻十六)に長歌及び短歌の作者として現われている。前書きによると、翁は春の山で煮羹之九個女子に逢った。非常に美しい。呼ばれてそばへ行く。しばらくすると乙女らは皆ともに笑みを含みつつ相譲っていう、誰がこの翁を呼ばうのかと。そこで翁は迷惑して歌を作った。その歌は翁が若いころいかに美しくいかに女らを迷わせたかを歌ったものである。そうして反歌では、「今に汝らも白髪になるであろう」、「白髪になれば自分のようにまた若い子らにののしられかねまい」と歌っている。それに対して九人の乙女が、九首の歌で答える。すべて翁に挑みかかる歌である。これらの歌をよむと、そこには恋する力のない老翁と恋ざかりの若い乙女との間の唱和はあるが、神仙に逢ったという特殊な境位を思わせるものはなんにもない。また「竹取」の翁と竹との関係もこれらの歌からは知ることができない。しかしもしこの前書きが歌とともに古いものであるとすれば、竹取の翁が神仙の女に逢ったという伝説が、古くより存したことは疑いを容れない。そうしてまた、これらの歌がその伝説と矛盾しないものであるならば、我々はこれらの歌の作者が、神仙の女に逢ってしかもいかんともすることのできなかった老翁の心に興味を持って、それを題材にとったものだと見なくてはならない。そう見ればこれらの歌は、竹取の翁の伝説を踏んではいるがその伝説を詠んだものではない、とともにその伝説は、『竹取物語』とはよほど違ったものと認められなくてはならぬ。ただ唯一の共通点は、竹取の翁が超自然的な女子にある関係を持ったという最も外部の輪郭である。
竹取の翁が竹の中から美しい女子を得たという考えは、右の考察によって、『万葉』以後のものと推定することができる。契冲は竹から童子の生まれる話が『大宝広博楼閣経』と『後漢書西南夷伝』とに存するのを指摘して、その影響を推測しているが、たといその影響があったとしても、それは古来の竹取の翁の物語に結びつき、そうして平安朝の詩人の空想のるつぼに鎔かされたものであったろう。『楼閣経』や『後漢書』の描く世界は、竹取のそれとは恐ろしく異なったものである。
かぐや姫の出現はいかにも超自然的である。翁が「本光る竹」の中から見いだした時には、「三寸ばかりなる人」であった。翁は手のうちに入れて家に帰り、籠に入れて養った。あたかも小鳥を取り扱うようである。この「三寸の人」は三月ほどの間にすくすくと成長して、「よきほどなる人」になり、髪上げや裳着せなどをする。形清らかなること世にたぐいなく、この女のために家の内は光が満ちている。やがてかぐや姫と命名し、男女きらわず呼び集めて盛んな祝賀会をやる。「世界の男、貴なるも賤しきも」、かぐや姫を手に入れようとして騒ぎ始める。
この不可思議な出現に対して、作中の何人も怪しみいぶかるということがない。三寸ほどの人間を見いだした翁も、三月の間に大人にまで成長するのを見まもっている嫗も、皆それを当然のことのように迎えている。そうして読者もこの作の世界にこの事の起こるのを不思議とは思わない。これが『竹取物語』の、最初の一段において作り出すところの世界である。
次いで五人の貴公子の求婚とかぐや姫の条件提出の段がある。ここで描写は写実的になるが、しかし作の世界は依然として超自然的である。第一には、皇子あるいは大臣というごとき人々が、まだ見もせぬかぐや姫に対して、「物も食はず思ふ」というほどに恋着する。祈祷をし願を立ててこの思いを止めようとするが、止まらない。第二には、最近まで貧しい平民であった翁の前に、皇子や大臣が「娘を我にたべと伏し拝み手を摩り」て頼む。平安朝の社会を知るものにとっては、これらのことがいかに非現実的であるかは明らかであろう。しかもそれはこの作の世界において当然である。いかなる高貴の人もかぐや姫には死ぬほど恋着しなくてはならぬ。かぐや姫はそういう女として、すなわち男の究極の目標、完全なる女として出現したのである。この熱心な求婚に対して、翁も姫を説く。「この世の人は男女相合ふ」、お前もそうしなくてはならぬと。姫はそれを拒絶する。が、しいて説き立てられてついに承諾の条件を提出する。姫に言わせれば、「いささかのこと」、「むずかしくないこと」であるが、しかしすべてただ観念としてのみ存し、現実には存しないものを手に入れよと命ずるのである。ここにおいてかぐや姫は、現実の人間界において現実の人を動かしながらしかも現実の人の手には贏ち得られないものとして、すなわち理想として立てられたことになる。
このあとに五段にわたって、五人の貴公子がいかに失敗したかが物語られる。この際彼らのことごとくが失敗することはすでに予定されている。読者もそれを承知している。作者がここに描こうとするのは、成功するかもしれない可能性をもって読者の心を緊張させる事ではなく、人の手に獲られない物を獲たらしく見せかける努力、あるいはそれをまじめに獲ようとする無駄な努力が、いかにさまざまな異なった姿をもって現われるかである。第一の皇子の詐欺は直ちに見現わされる。第二の皇子の詐欺は翁をはじめかぐや姫をも欺き得たが、最後に至って自分の使った工匠のために破られ、皇子は世を恥じて深き山に姿を隠す。第三の大臣はまじめに求めはするが、彼自身が唐の貿易商によって欺かれる。第四の大納言は竜を殺してその首の玉を得ようと自ら海に出る。そうして暴風に逢って、竜にあやまりながら、半死半生のていで帰ってくる。「かぐや姫てふ大盗人のやつが、人を殺さんとするなりけり」と悟って女を思い切る。第五の中納言は燕の巣を熱心にさがしていたが、綱が切れて、墜落して腰を折り、ついに死ぬ。これらの描写はユーモアに充ちた調子ではあるが、しかし滑稽とは言えない。たとえば第二の皇子が玉の枝を持って来たときに、「物もいはず頬杖ついて」嘆いている姫の姿や、工匠らの出現によって肝を消す皇子、喜び勇む姫、あるいは工匠らを血の流るるまで打擲して山に隠るる皇子などの姿は、決して涙なき滑稽でない。大臣が唐人に欺かれたと知って顔を草の葉の色にし、姫があなうれしと喜んでいる光景。大納言が船のなかであおへどを吐き、中納言が腰をうって気絶したあとでようやく息をふき返しながら手に握った燕の糞を喜んでいるありさま。それらは真にあわれを伴なうユーモアである。またそれらはユーモラスでなければならなかった。なぜならそれらは、三寸の小人が三月にして大人に成長する世界にはめ込まれた現実の面影なのだから。
五人の貴公子が失敗した後に、いよいよ現世の権力の代表者帝が現われる。しかしかぐや姫は帝の使いに対しても、「帝の召しての給はむことかしこしとも思はず」と放言し、面会を謝絶する。使いの内侍が、民人として国王の命にそむくことはできぬと言葉をはげましていうと、「国王の仰せ事を背かば、はや殺し給ひてよかし」と答える。帝は手をかえて、官位をもって翁を買収する。姫は死をもっても拒もうとする。最後に帝は自ら翁の家に行幸して、腕力をもって姫を率い行こうとするが、いよいよとなると姫の姿が影となってしまう。帝は「げにたゞ人にあらざりけり」と思って、連れ行くことを断念し、姫ももとの形に帰る。
作者はここにかぐや姫に対して、後の物語には決して見られない強い性格を与えている。姫は国王をも一蹴する。そうしてその強さは超自然的なものに起因するのである。人間界に生まれたものならばあなたに従いもしよう、しかし私は人間界のものでない、あなたは連れて行くことはできない、――これが帝の権力に対して姫の豪語するところであった。帝もまた姫の「たゞ人」でないことを認める。しかも帝は一度姫を見て後には、後宮の女たちに対して全然興味を失う。多くの女に優った美人と思っていた人も、姫のことを思うと、人でないように感ぜられる。かくて帝は、女を遠ざけて「たゞ一人」で暮らすことになる。すなわち現実の世界の代表者は、超自然者に完全に征服せられる。
そのあとに最後の段が来る。そこでは現実の世界が全体として超自然界に対照させられている。春ごろから月を見ては泣いていた姫が、いよいよ八月の月のころになって、翁に自分の素性を打ちあけこの世を去ることを告げる。自分は月の都の人である、宿命でこの世へ降りて来たが、今は帰るべき時になったと。そこで翁をはじめ帝その他の人々の嘆きが始まる。姫をこの世に留めようとして現世のあらゆるてだてをめぐらす。昇天の当日には二千人の兵を派して翁の家を衛らせる。築地の上に千人、屋の上に千人、(これは物理的自然においては不可能であるが、心理的には可能である、)母屋のうちは女どもに守らせ、かぐや姫は塗籠に入れて嫗が抱いている。翁は塗籠の戸口に番をする。しかしいよいよ大空から迎いの群れが来ると、人の守りは何の力もない。姫はやすやすと外に出る。そうして静かに、「あわてぬさま」で、せき立てる天人を制しつつ、翁と帝とに遺書をかき、昇天の支度をして、飛ぶ車に乗って立ち去る。――この段の描写は特に巧妙である。翁の悲しみも、年老いたる翁を見捨てる姫の悲しみも、また昇天を禦ごうとする夜、興奮してののしり騒ぐ人々のありさまも、きわめて躍如として描かれている。ことに天よりの迎えが到着して、天上界と地上界とが全然重なり合った場面の描写はきわ立って巧みである。天よりの人々は地より五尺離れて立ち並んでいる、地上の兵士は力なえて呆然としている。飛ぶ車を屋の上によせる。塗籠の戸がおのずから開く、格子もおのずから開く。姫は立ちいでて泣き伏した翁にいう、「私も心ならず帰るのです、見送ってください。」翁は、「何しに悲しき見送り奉らん、我をばいかにせよとて棄てゝは昇り給ふぞ、具して率ておはせね」と泣く。天人が羽衣の箱や薬の壺を持ってくる。一人の天人が、地上の食を取って心地悪いであろう、壺の中の不死の薬を召せ、とすすめる。姫はちょっと嘗めて、少しをかたみに地上の衣に包んで置こうとする。一人の天人がそれをとめて羽衣を着せようとすると、姫は、「ちょっと待って。それを着ると気持ちが変わる、まだ一言言い残したい」と言いながら帝への手紙を書き初める。天人は「遅くなる」と心もとながるが、姫は、「物知らぬことなの給ひそ」とひどく落ちついている。――我々はこれらの描写を見て、それが平安朝貴族の生活からあらゆる形象を借りていることを否むわけには行かぬ。しかしこれはいかなる方面から見てもこの時代の「世態」の描写ではなくして、全然空想の世界の描写である。そうしてこの段に『竹取物語』全体の重心がある。そこには浄土の幻想が、すなわち彼岸の世界の幻想が、力強く浸透しているけれども、生きた信仰として働く仏教の色彩は注意深く避けられている。羽衣を身に着けるとともに地上的な物思いが、現世の煩悩が、立ちどころに消え失せるというような考えは、奈良朝の神仙譚にはなかった。しかし仏菩薩もなくてただ天人のみなる月の都、老いもせず、思うこともなく、しかも「父母」というもののある常世の国、それは仏教的な空想ではない。恋があり夫婦があり親子があった海神の国が、地上的な不完全さを漸次払い落とし、煩悩なき浄光の土の観念を漸次取りいれつつ、ついに海底の国より天上の世界に発展して来たのである。この世界の空想を基調と見ずしては、『竹取物語』は正当に鑑賞されることがあるまい。
右の観察によって『竹取物語』がお伽噺と見るべきものであることは明らかだと思う。それとともに我々は、平安朝の日本人の空想が、――ひいては日本人の空想が、――いかに飛翺力の弱いものであるかをも省みさせられる。たとえば『千一夜の物語』を『竹取』と比較して見れば、そこに働く空想には、熱帯に咲く色彩強烈な花と、しおらしく愛らしくまた淡々たる秋草の花との相違がある。しかしまたこの淡々しさのゆえに、お伽噺としてのこの作の美しさが一つの特殊なものとなっている。はなはだ唐突な連想ではあるが、自分はこの作にメーテルリンクの『タンタジールの死』や『聖者』と相通う或るものを感ずる。世界はお伽噺の世界でありながら、そこにより多く象徴的な美しさが感ぜられるのである。人の手の及び難い世界と、人力のはかなさ。天上の永遠の美しさと、人間の醜さ。この対照は確かにこの作の根本の動機と言える。もとよりここにはあの近代的な戯曲にあらわれたような神秘的な緊張もなければ、痛烈な諷刺もない。姫を奪い行く不可抗の力とタンタジールを奪い行く不可抗の力とは、描写の上でも意味の上でも全然別物である。しかしあの神秘感に代うるに、永遠への思慕としての物のあわれをもってすれば、右の唐突な連想が必ずしも所を得ないものでないことを知り得ると思う。この作者がいたずらに放恣な空想に身を委せず、厳密に根本の動機に従ったことは、末尾に現われた不死の薬の取り扱い方によっても明らかである。帝は姫の贈った不死の薬を駿河の山の嶺で焼く。その理由として帝は歌う、「逢ふこともなみだに浮ぶ我身には死なぬ薬も何にかはせむ」。欲するものは現世の永続ではなくして、現世のかなたの永遠の美である。失われた永遠の美を慕うて嘆くものには、不死の薬は何の意味もない。ここに不死の薬というお伽噺的な物が、シナにおいて永生への思慕の象徴として案出せられた時に比べれば、はるかに高い立場から取り扱われていることを認めなくてはならぬ。この注意によってこの作は荒唐を脱する。芸術品としての美を獲得する。
なおまた我々は、この作が物語の最古のものであるゆえをもって、同時に幼稚であると考えてはならない。それは文章の簡勁、描写の的確、構図の緊密において、平安朝盛期の物語に優るものを持っている。その眼界においても、後のものよりは広く大きいと言える。ただしかし、お伽噺としてのこの作の様式は、この後によき後継者を持たなかったらしい。むしろそれは、天平時代以来展開したお伽噺文芸の流れの絶頂であって、この時に突如として現われたものではなかろう。これが物語の源流と見られるのは、お伽噺としてのこの作のうちに世態小説の芽を含んでいたというに過ぎぬ。この作が「世態小説の道」を開いたと見らるべきでない。
この小論を草する際に津田左右吉氏の意見を駁する気持ちが幾分か自分にあったことは、ここに告白しておいた方がよかろうと思う。この作を世態小説と見るのは、氏のみならず藤岡作太郎氏などもそうである。描写が滑稽的であるという意見も一般に行なわれているらしい。自分が特に注目したのは、その見方の根拠を説く津田氏の著書の次の数節である。「その女主人公は多くの求婚者の心を迷わせ、最後に尽くそれを失望させる要件が具っている女であればよいので、必ずしもそれを天上の仙女にしなければならぬ必要は無いのであるが、最初の作だけに昔からある話の筋を仮りたのである。」(貴族文学の時代、二六二ページ)。「小説の初期に於ては、まだ多少読者におかしみと珍らしさとを与えねばならなかった。『竹取物語』が神仙譚や、竜の顋の玉や、火鼠の皮やをかりて来たことは、この珍らしさの為で、磯の上の中納言が燕の子安貝をとろうとした失敗譚や、帝が武士に命じて竹取の家を囲ませた咄などは、おかしみのためである。……全篇の着想も結構も軽い滑稽であって、多くの求婚者が一生懸命になって行った冒険や、愚な欺瞞や、権力やが、悉く可笑しい失敗に終って、最後にすべてのものが呆然と天を仰いでいるのが落ちになっている。」(同、二六九―二七〇ページ)
(大正十一年、十一月)
『枕草紙』について
一 『枕草紙』の原典批評についての提案
清少納言『枕草紙』は、日本文芸史上屈指の傑作であり、またこの種の文芸作品としては世界においてもユニックなものと思われるが、こういう貴重な作品に対する本文批評の現状ははなはだ自分にあきたらない。武藤元信氏や金子元臣氏の詳密な研究を前にしてかくのごとき生意気なことをあえていうのは、語句の意義や異同の穿鑿からさらに進んで作品としての取り扱いに立ち入ってもらいたいからである。語句の端々を穿鑿するのは作品としての取り扱いの準備であってそれ自身が目的なのではない。『春曙抄』以来幾人もの国学者が試みたと同じようなことをいつまでも試みていたところで、要するに準備に終わって研究の本来の目的は達せられない。
『枕草紙』が正当に評価されるためには、『春曙抄』以来、あるいは徳川初期の活字本以来『枕草紙』として公認せられた作品の形に対して、徹底的な批評を試み、できるならば作者が形成したろうと思われる原形に還元して見なくてはならない。たとい随筆にもせよ、文芸の作品である以上、その「形態」は第一義の意味を持つべきであるが、『枕草紙』の現形は、その個々の個所が示しているような優れた作者にふさわしいものでない。自分はかねがねこの点について疑問を抱き、『枕草紙』の現形の中から原形に近いものを見いだし得べき予感を抱いている。そうしてもし暇があれば、諸異本の精細な対照によりその原形を追究してみたいとも考えている。しかし自分にはその研究に着手する機会がなさそうに思われる。で、ここに自分の試みたいと思う研究のプログラムを提出し、若い国文学者のうちにもし一人でも同様の興味を抱く人があったならばその人にこの研究をやり遂げていただきたいと思う。研究者が何人であっても、もしこの優れた作品がその正当な形態を回復し得さえすれば、自分の望みは足りるのである。
右のごとき研究は、まず、何人も異論がないであろうと思われる『枕草紙』の錯簡から出発する。それは左の個所である。(引用文は武藤元信氏の研究に敬意を表してその校定文を用いる。)
物のあはれしらせがほなるもの。はなひまもなくかみて物いふ声。眉ぬくをりのまみ。さてその左衛門の陣などにいきて後、里にいでて云々、
この個所において「さてその左衛門の陣」なる語が、その前に左衛門の陣を描写してそれを受けたものであることは何人も疑わない。そうしてその左衛門の陣は、この個所よりはるか前に、すなわちその間に「あぢきなきもの」、「いとほしげなきもの」、「心地よげなるもの」、「とりもてるもの」、「御仏名の又の日の描写」、「頭中将に関する自伝的描写」、「則光に関する自伝的描写」を挿んで、物語られているのである。ここに錯簡を認め、そうして著しく離れて記されている二つの個所が本来は連続したものであったことを認めた点において、自分は在来の学者に敬服する。しかしながらかくのごとき明らかな錯簡を認めながらそれを解決しようとしなかった点において、自分は『春曙抄』の作者以来のあらゆる『枕草紙』注釈者に抗議する。右の二つの個所を連続させる事によって、その間に挿まれた種々の描写をどう処分しようというのか。一つの文芸の作品においてこのように大きい位置の異動が認められるということは、個々の百千の語句の意義が不明であるよりも大きい事件である。しかも人々はこの問題をさしおいて語句の穿鑿に没頭した。これは文芸の作品に対する正当な態度ではない。自分は『枕草紙』の研究がこの問題の解決をまず第一の任務とすべきであることを主張する。
この問題を解決する手掛かりとしては、後光厳院宸翰本(群書類従、第十七輯)、堺本、別本(前田家所蔵古写本)などのごとき異本を取り上げて見ることができる。これらの異本は語句の校定のためにすでに武藤氏によって用いられたものであるが、しかしそれらはさらに右の問題の解決のためにも用いられ得るであろう。自分はただ刊本「群書類従」において伝宸翰本を見たに過ぎぬが、武藤氏によると、堺本もまた「宸翰本に比ぶるに文字の異同こそあれ順序は全く同じく」、ただそのあとに宸翰本に存せざる景物人物、人の行為の批評などを加えたものであり、前田家本はかなり順序を異にするがしかし天然の現象、四季の風物、事と人の情趣、自伝的事件など同種の描写をまとめて記した点に着目すれば大体に傾向を同じくするものであるらしい。詳しい比較研究は専門家の研究に譲り、自分はここに三種の有力な異本が「同種の描写をまとめて記し、春曙抄本のごとく雑然としたものでない」という点を問題にしてみたいと思う(1)。
そこで問題は、これらの異本が春曙抄本のごとく雑然たる体裁のものから後の人の抄録あるいは改作によってできたものであるか、あるいは春曙抄本のごとき形と系統を異にして古くより伝わったものであるか、という点に集まる。伝宸翰本のごときは自伝的描写を全然含んでいないのであるから、学者によっては直ちにこれを抜萃本として片付ける人もあるが、しかしある同種類の描写のみがことごとく存せぬということは、むしろその部分が欠本となっていることを証示するものであって、武藤氏が「これ其下は欠けて伝はらぬなり」と言ったのは確かに当たっていると思う。さてこれが抜萃本でないとすれば、――しかもこれが春曙抄本のごとき体裁のものから出て来たのであるとすれば、この種の異本は一種の改作である、すなわち雑然たる順列のなかから同種類の描写を選り集めて一つの個所にまとめ、草紙全体を改造したのであると見なくてはならない。この見方のためには伝宸翰本の文章の相違が一つの証拠として用いられ得るであろう。たとえば、
春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、ほそくたなびきたる。 (春曙抄本)
春はあけぼの、そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆく山ぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲の、ほそくたな引たるなどいとをかし。 (伝宸翰本)
のごとき相違は、あまり優れた才能を持たない後代の人の拙い改造として説明され得るでもあろう。しかしかく見るには一つの困難がある。このように才能の劣った人が、むしろ改悪ともいうべき手を加えつつ機械的に個々の個所の位置を置きかえる事によって、どうしてあのように緊密な連絡を、すなわち我々をして随筆の作者の心の動きをその必然の姿において感ぜしめるような緊密な移り行きのある形を作り出すことができたろうか。
この問題が出てくれば当然この随筆の製作手続きについての古来の見解が批評されねばならない。「ものかゝぬさうしをつくりてつねにかたへにうちおきてみきゝすること、おもひえたることどもを、わすれぬうちにそこはかとなくかきつくるれうのさうし」、「ことさらにかきあらはせりといふばかりのものならねば云々」という『松の落葉』の説は武藤氏によって引用され賛成されている。しかしながら、「枕草紙」という語が右のような「手控え」を意味して用いられたとしても、作品としての『枕草紙』そのものが、果たして右のごとき「覚え書き」らしい体裁を持っているだろうか。自伝的な描写はすべて書くために長い時間を要するような複雑な過去の回想である。自然人生の種々の姿の描写は、見事な結晶を持てる芸術的な形成である。それらは「ことさらにかく」態度をもってのみ初めて描かれ得る性質のものであって、「みきゝすることをそこはかとなく」かきつけたものでは決してあり得ない。我々は右のごとき覚え書きとしてはたかだか短い断片的な、物の名を書きつらねたような個所をしか許すことができない。のみならず、もし『草紙』の末尾の記述が作者に帰せられ得るものであるならば、作者は「目にみえ、心におもふことを、人やはみんとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに、かきあつめ」たのである。公表するつもりでなかったということはそれが製作的な態度をもって書かれたのでないということを意味しはしない。つれづれなる里居のほどに書いたという語によっても、それが心の落ちつきと集中とをもって初めて書かれ得たのである事は明らかである。だから、そこはかとなくかきつけたという理由で直ちに春曙抄本の雑然たる体裁を是認しようとするごときは、文芸の作品の製作がいかなるものであるかを解しない人の態度と言わねばならぬ。
そこで我々は、随筆的な作品を製作しつつある一人の優れた作者を眼中に置いて、その随筆がいかに書かれるのが自然であろうかを考えてみる。『枕草紙』中に比較的まとまった長い話として存する部分、たとえば藤原行成との関係や中宮定子の描写を取ってみれば、この作者は鋭い眼と頭とによって事物を統一的に捕捉する強い力を持っている。連絡のない断片的なことをとりとめもなく感じ考えるような作者ではない。もしこの作者にして自伝的な描写に興味を持ったならば、その描写はとにかくある程度にまとまった種々の回想の系列として現われてくるであろう。またもし自然描写に興味が動くならば、そこにも四時のさまざまな情景が一つの系列として現われてくるであろう。いかに随筆であるとはいえ、連絡のない断片がつぎつぎに並べられるとは考えにくい。よし一つの興味が、それに相応する題材のことごとくを描写しない内に、他の興味に移ったとしても、この種の透徹した描写をなし得るほどの作者が、何らの縁もない他の描写のあとへ直ちに全然異なった題目を書きつづけるとは考えられぬ。自伝的興味が中途で絶えて自然描写の興味が新しく起これば、作者はそれを新しい紙に書いたに相違ない。そうして次の機会に再び自伝的興味が起こってくれば、彼女は前に書いた自伝のあとへそれを書きつづけたであろう。これは作者の文芸の才能を認めれば認めるほど当然の事として許されねばならない。
もし春曙抄本のごとき体裁の『枕草紙』以外に『枕草紙』が存しないのであるならば、右のごとき推測は少しく大胆に過ぎるかも知れぬ。しかし伝宸翰本などのごとくちょうどこの推測にあてはまる異本が存し、しかもこの異本に加工したろうと思える後代の人からあの緊密な連絡を予期し難いとすれば、我々はこの異本に基づいて右のごとき推測が必ずしも架空のものでないことを主張し得るのである。しからばこの異本は、春曙抄本のごとき本に基づいて改造せられたものでなく、本来この種の本と系統を異にせるものであるかも知れぬ、しかもあるいはこれが『枕草紙』の本来の輪郭を伝えているのであるかも知れぬ、といい得るのである。たといこの異本が後代の補筆を多分に含んでいるとしても、それが本来の輪郭を伝えているという事の妨げにはならないのである。
自分はただ「本来の輪郭」という。決して、『枕草紙』の原形が、ここに保存せられていると言うのではない。ここにはなお諸異本の精細な対照が必要であり、特に個々の部分についての比較研究を欠くことができない。しかし「同種の描写をまとめて記す」のが本来の形であるかも知れぬという見当をつけて右のごとき精細な異本対照をやれば、そこに『枕草紙』の原形を見いだす道が開けはしまいかと思うのである。
右のごとき見当をつけた場合に直ちに重大な問題として起こってくるのは、春曙抄本のような形がなぜ起こったか、どうしてそれが最も一般的な承認を得ることができたか、という疑問である。
活字本や慶安版本が何によったかは知らぬが、『春曙抄』は耄及愚翁の本によって校訂したといわれている(2)。この耄及愚翁本は奥書きに安貞二(一二二八)年の年号があるものであって、足利尊氏に擁立せられた後光厳院よりは少なくとも二、三十年は古い。学問の比較的盛んであった南北朝の宮中にもし宸翰本のごとき『枕草紙』が伝わっていたとすれば、他方にこれと全然構造を異にする耄及愚翁本が存したということは、はなはだ理解し難いことである。自分は古写本についての知識はないが、たとい耄及愚翁本が安貞二年のものに相違ないとしても、それを転写した古写本が耄及愚翁本の原形を正確に伝えているということは断言し得られぬと思う。なぜなら奥書きの保存は必ずしもその本が原形のままであるということの証明にはならないからである。たとえば応仁の乱の際には無数の典籍が焼かれたが、幸いに耄及愚翁本は助かったとする。しかし草紙の綴じ目が切れて紙がバラバラになり、それが秩序もなくつかねてあったとする。天正、慶長のころに少しく学問のあるものがこれを見いだして、その紙を自分の考えによって整理し、それを写したと仮定すれば、転写の原本は耄及愚翁の自筆に相違なくその奥書きも真正なものに相違ないとしても、なおその原本写本ともに本来の秩序を伝えていないということは十分あり得るのである。これは単に想像に過ぎないけれども、奥書きのゆえをもって安貞二年にも『枕草紙』は春曙抄本のごとき構造を持っていたと断定することの危険は、これによって明らかになると思う。しかしこの種の想像はさらにさかのぼって耄及愚翁が転写したその原本にも及ぼせるかも知れぬ。すなわち平安朝の写本が源平時代あるいは保元平治のころに右に言ったような「綴じ目の切れた」という状態で次の時代へ伝えられる。それがもし諸本を対校し得るような学問的な世界でのことでなければ、その紙のそろえ方がそろえるものの随意に行なわれるということはあり勝ちであろう。かく見れば耄及愚翁本が当初よりすでに秩序の混乱した『枕草紙』を『枕草紙』として取り扱った、ということもあり得るのである。
こういう想像のいずれが当たるかは、耄及愚翁自筆の原本を見なければわからない。転写本である古写本からは決定せられ得ない問題である。しかしもし我々が忍耐強く現存諸本の本文自身を研究すれば、これに対する解決の鍵が見いだせぬとも限らないであろう。本文中の動きやすい部分、あるいは本によって位置の異なる部分が、単に機械的に、紙のかさね方一つで、移動させられ得るかどうかを検査してみることも、その方法の一つとして、無意義ではないであろう。
これには平安朝あるいは鎌倉時代において『枕草紙』の写本がどういう体裁であったかを研究し、それを出発点としなくてはならぬ。今自分はそれをやっている暇がないから、座右にある絵巻物の複製を例として用いるが、『源氏物語絵巻』、『紫式部日記絵巻』、『病草紙絵巻』、などで見ると、一行の字数は十四字最も多く、十三字、十五字、十六字なども混じっている。『寝覚物語絵巻』では十六、七、八、九、などが普通である。草紙ということを頭に置き、紙の大きさや書き方が草紙にふさわしい方をとれば、源氏や紫式部のがちょうど適当なように見える。行数は明らかにするを得ないが、この字の大きさから判断すると一面に四行あるいは五行であろう。もし字をすきまなく書いたとすれば、一面四行ならば一枚ほぼ百十二字乃至百二十字、五行ならば一枚ほぼ百四十字乃至百五十字ぐらいを含むことになる。仮りにこのいずれかが古い『草紙』の一枚の字数であったとすれば、紙の重ね方で移動する部分の字数は右の字数によって割り切れなくてはならない。
試みに二、三の個所を取ってみる。流布本においては、「にくきもの」の描写の途中に何の連絡もなくいみじうをかしき「今内裏の御笛」の話の描写が挿まれている。武藤氏は耄及愚翁本の古写本に基づいてこれをこの個所より引き離し、巻末に近い「社は」の次へ移した。この新しい位置が本来の位置であるかどうかは別問題として、とにかく春曙抄本における位置がいかにも挿入らしく思われるということには異論がなかろう。ところでこの個所は、武藤氏校定本によって数えると、約四七二字である。これは一一二字の四倍四四八字と一二〇字の四倍四八〇字とのちょうど中間にある。すなわち本来は草紙四枚に書いてあったと認める事ができる。
またこの草紙の発端、春はあけぼの云々は、語句の末に相違があっても、この草紙の発端としては諸異本ことごとく一致するところである。しかるに伝宸翰本においては、四季の総叙を終わって「ころは」の一節を叙するとともに、直ちに、「せちは」、「ふる物は」、「風は」、「霧は」、「木の花は」というふうに連想の糸をたどって「何々は」のことごとくを列記する。春曙抄本に比べると発端の一致するのは「ころは」の終わりまでに過ぎない。もし紙の重ね方によって他の個所がここに続けられたのであるならば、この「ころは」の一節はちょうど一枚の終わりにあったと見られなくてはならぬ。すなわちこの場合にも「ころは」までの部分の字数は上記の字数によって割り切れるはずである。武藤氏校定本によるとここは三三六字である。一枚一一二字で割り切れてちょうど三枚になる。
次に春曙抄本は、「ころは」に続けて、正月一日、七日、八日、十五日、除目、三月三日、四月の祭りなどの年中行事や自然を描写している。この一連はそのまま伝宸翰本の巻末に現われるのであるが、しかし伝宸翰本では八日と十五日の間に「十日のほど」の描写を挿む。これが四七五字でちょうど四枚に当たる。春曙抄本においてこの四枚をそっくり含まぬとすれば、ここでもまた春曙抄本が八日の描写の終わりにおいてちょうど紙の終わりになっていたと考えねばならぬ。一日より八日までの描写は校定本では四五八字である。これもちょうど四枚に当たる。そこで紙の終わりになっていてさしつかえない。しからば同様に切れ目のあと、すなわち十五日から四月の祭りまでの描写もちょうど割り切れる字数でなくてはならない。校定本ではこの個所は一一七一字である。ちょうど十枚になる。(十四字詰めが全体の半分、残りの四分の三が十五字詰め、あとが十六字詰めとすれば勘定が合う。)
以上の諸例は一枚を十四、五字八行と見ての事であって、この根拠が確かでない以上何の証明にもならぬかも知れぬ。しかし問題の個所が四百六、七十字前後、あるいは三百二、三十字前後というふうに近い字数を持っているという事実は覆うわけに行かない。試みに計算の基礎を変えて十五、六字詰め十行が一枚であったと仮定すれば、前者は三枚後者は二枚と見られ得る。最後の例はやや十四字詰めを混じえたと見ればちょうど八枚として計算が合う。四枚とも見られ三枚とも見られるというような事はこの試みのでたらめなるゆえんを証拠立てると言われるかも知れぬが、しかしこれは古い写本の字数を精細に研究すれば直ちにわかることであり、また自分のしいて主張しようとする点でもない。ただ問題の個所の字数が何らか枚数との関係を示しているらしいこと、従って春曙抄本のような順序が単に紙の重ね方の相違からもいで得ることを提言してみたいと思うだけである。
もっとも右の観察に対しては、「山は」、「みねは」というごとき、また「心ゆるいなきもの」、「つれづれなるもの」というごとき短い文章が、種々の反証を示している。伝宸翰本は「みねは」のあとに「野は」、「はらは」、「をかは」、「森は」というふうに続けるが、春曙抄本では野を省いて「原は」、「市は」、「淵は」、「海は」というふうに続ける。この際省かれる「をかは」のごときは、「をかは、ふなをか、しのびのをか」の十数字に過ぎぬ。また最初に問題にした「物のあはれ知らせがほなるもの」のごときも、「則光との関係」や「中宮の御召し」を物語る自伝的な描写の間に、ただ三十数字だけが、挿まっているのである。これらの短い個所が、紙の重ね方によって今の個所に持って来られたとはどうしても考えられない。だからこれらの短い、文章とも言えないような個所だけを取って言えば、作者が思いついたまま何の順序もなく並べておいたものを、後の人が選び集めて同じ個所へ持って来たというふうにも考えられぬではない。しかしながらこの種の、物名を並べたような個所が、最初作者によってどういうふうに書かれたかは容易に決し得られぬと思う。たとえば、
原は、たかはら、甕原、あしたの原、その原、萩原、粟津のはら、なし原、うなゐこが原、安倍のはら、篠原。 (春曙抄本)
はらは、なしはら、みかのはら、あたのはら、そのはら、うなひこが原、しのはら、はぎはら、こひはら。 (伝宸翰本)
というごときは、順序も違えば異なった名もあがっている。いずれが本来の形とも言えぬ。こういう個所はすでに古くから、すなわち耄及愚翁本や伝宸翰本が別れる時すでに、異本として異なったものとなっていたと見るほかはない。従って「野は」、「をかは」というごときは紙の重ね方の狂って来る以前から今のような順序に並んでいたと考え得るのである。春曙抄本の「山は」より「家は」に至る一連は校定本によれば五百七、八十字であって前述の計算法によればちょうど五枚に当たる。かく見れば困難は取り除かれるであろう。だから我々はこの種の短文を問題とするときにはひとまず春曙抄本の順序を錯簡以前のものと考え、各所に散在する一群をそのまま取って、その「一群」が紙の重ね方で移動し得たかどうかを観察することにしなくてはならぬ。
しかしこの方法を取ってもなお反証として残るものがある。一体「何々は」という項目の内で一つの群として存しないのは、「虫は」、「湯は」、「修法は」、「法華経は」、「風は」の五項目に過ぎぬが、この内「虫は」は三枚ぐらい、「風は」は(野分の翌日の描写も入れて)ちょうど七枚と見られ得るから、ここで問題になるのはきわめて短い三項目、「湯は」、「修法は」、「法華経は」のみである。これらは、伝宸翰本ではいかにも自然な場所に所を得ているのであるが、春曙抄本ではかなり唐突な場所に孤立して存する。作者の製作心理から考えても、また錯簡の可能性から考えても、この三者ばかりは説明のしようがない。
「何々のもの」という項目のうちにも、異種の描写の間に挿まっていながらそれだけでは一枚と認め難い字数のものがある。「ことごとなるもの」(六十字)、「あてなるもの」(約百字)、「物のあはれ知らせがほなるもの」(三十六字)、「はるかなるもの」(約百字)、「たゞすぎにすぐるもの及びこと人にしられぬもの」(約五十字)、「たふときもの」(二十字)の六個所である。このうち第二と第四とは書きようによっては一枚とならぬでもないが、第一と第五とは写本がすり切れて半枚ずつに離れた紙があったと見なければ説明がつかず、第三と第七とはいかにしても紙の置きかえから来たと考えられぬ。
これらの反証に対してしいて説明を求むれば、一つには、順序の錯乱した耄及愚翁本を転写した人が、転写の際の誤脱を転写の進行中に気づいて彼自身の適当と思う個所へ挿入したと考えることができる。たとえば右の第七の「たふときもの、九条錫杖、念仏の回向」という一行は本来「たのもしきもの」と並んでいたのを転写の際すでに積善寺供養の長い描写を写し初めた後に気づき、書きなおしをいとうて供養のあとに付加したと見るのである。同様に「湯は」は「森は」に続いていたのを、淀のわたりの描写にかかった後に気づいて後に回したもの、「修法は」、「経は」の二項は誤脱に気づいた時ちょうど紙に余裕のある所へでも書き足しておいたものと見ることができよう。第二にはこの転写本が刊行に至るまでの間に錯乱したと考えることもできる。たとえば前にあげた第三の「物のあはれ知らせがほ」が自伝的描写の間に孤立して挿まっているのは、右の転写本において「さてその左衛門の陣」より「めでたきもの」に至るまでの個所が、本来は「あぢきなきもの」の前にあったのを、何かの間違いにより(恐らくここでも綴じ目の切れた際の重ね損いとして、)現在の場所に移したためと見るのである。「物のあはれ知らせがほ」がちょうど紙の終わりに書かれてあり、それとすぐに続いた「めでたきもの」が紙の初めに書かれてあったと考えれば、この二項の間の現在のような長い個所が誤って挿入されるということはそんなに不思議なことではないであろう。こういうふうに転写以後の錯乱を考えれば、右にあげた反証は避け得られるかと思う。『枕草紙』のあの多数な項目のうちわずか数個所の問題に過ぎぬとすれば、こういう説明も許されぬことはない。
以上のごとく考えれば、春曙抄本の形がなぜ起こったかは一応理解し得られるではなかろうか。しかしそれではそういう錯簡のあるものがなぜあのように一般的に承認されたか。この問題は簡単である。徳川初期に『枕草紙』が刊行せられた時、この系統の本が用いられた。そうしてこれがこの古い文芸の作品を再び世に出したのであった。その時これを手にした人々にとっては、この古典に接するだけがすでに喜びであって、異本のことまで気にしていられなかったのである。
字数による観察は根拠が正確とは言えないしまた単に一つの方法に過ぎぬ。本文批評はなおあらゆる方面からあらゆる方法をつくして試みられなくてはならぬ。が、とにかく春曙抄本の中に非常に多くの錯簡のあることを認め、それを解決する一つの道として、一応は伝宸翰本のごとき「同種の描写をまとめて記す」という構造に引きなおしてみることも必要だと思う。自伝的の部分は最初にあげた「左衛門の陣」の個所が直ちに結合し得られるのみならず、事件そのものに脈絡を見いだすことのできる最も取り扱いやすい部分である。これを一人の作者の自伝的叙述としてふさわしいような、内的に連絡のある、そうしてまた外的にも物語の進行の認められる形に引きなおせば、それが文芸の作品として与える印象ははるかに強いものとなるであろう。次に容易なのは四季の風物の描写である。春曙抄本においてたとえば自伝的なる「小白河の八講」の描写と「木の花は」との間に何の連絡もなく挿まっている「朝寝」の描写は、伝宸翰本のごとく四季の風物の描写の中に取り入れられると、前後の描写の印象と相俟って非常に効果の多いものになる。所々に散乱せる四季の人事風物はすべて同様に取り扱い得ると思う。その他「何々なるもの」、「何々は」の類にあっては、その位置の前後は必ずしも重大ではないが、しかし順序は別として、伝宸翰本のごとく一個所にまとめられることは、自然でありまた必要と思われる。
我々は古写本の綿密な比較や本文の詳細な分析研究により、『枕草紙』がその本来の、芸術的作品として優れた形を回復し得んことを希望せずにおられぬ。(大正十五年、二月)
(1)『枕草子』の異本のうち、堺本と宸翰本とは同系統の本と認められるが、前田家本は右の両者と著しく異なり、同系統の本とは認められない由である。で、ここにはこれらの異本を同系統であるかのごとくに言い現わしたのを改め、単に編輯の仕方における同一傾向をだけ認めることにする。また群書類従本が後光厳院の宸翰であるということも確実ではないそうであるから、単に宸翰本と呼ぶことをやめて伝宸翰本と直した。なおまた「『春曙抄』を流布本と称するがごとき簡単な頭脳」をもって『枕草子』の形態を論ずるのは学問的でないと言われているが、この論文は全くそういう頭脳をもって書かれているのであるから、読者がこの論文をあまり学問的に取られないように望む。しかし我々が最も手に入りやすいゆえに流布本と考えているものは実は春曙抄本に基づいたものにほかならないのであるから、流布本と呼ぶ代わりに春曙抄本を土台とした本、あるいは簡便に春曙抄本と呼ぶ方が精確であることはもちろんである。だからここには前に流布本と記した所を春曙抄本となおした。これらはすべて池田亀鑑氏「枕草子の形態に関する一考察」に従ったのである。
(2)『春曙抄』が安貞二年の奥書きある耄及愚翁本を校訂に用いたということによって、自分はこの本を『春曙抄』の源流と速断したのであるが、池田氏によれば、「安貞二年奥書本と春曙抄とを同系統の本と見なし、これを混同して単純にも流布本と概称するような論者があるとするなら、それは全く『枕草子』諸本を知らない人であり、少くとも安貞二年奥書本を読んだことのない人と解釈しなければならない。」もっとも自分は初めからこの論文で『枕草子』の諸本を知らず、また安貞二年奥書本をも見ていないことを標榜しているのであるから、氏の解釈を待つまでもなく、そういう論者にほかならなかったのである。で、ここには流布本の源流云々という一行を抹殺した。池田氏によれば、『盤斎抄』、『春曙抄』などの系統は、
となるそうである。が、ここでの議論は一つの仮定論に過ぎぬのであるから、耄及愚翁本について言っても、伝能因本について言っても、どちらでもよいのである。
追記 なお『枕草子』諸本の研究が著しく進歩している今日においては、かかる幼稚な原典批評の提案はもはや全然無意義に化しているのであるが、しかし欧州における原典批評的研究の発達に比較して考えると、我々はなお多くを国文学者の努力に期待せざるを得ない。学問の進歩は疑いに促されるのである。疑いの余地ある限りはあくまでも疑いつつ進んで行かねばならぬ。かかる態度にとっては、『枕草子』のごときはなお疑いの余地があり過ぎるくらいであろう。
元来自分がこの論文のような考えを抱いたのは、大正十一年ごろ、日本思想史の講案のために平安朝の文芸に親しんだ時であった。従って自分は根本的に原典批判のごとき研究に立ち入る気はなかった。国文学者がすでに整理し解釈して与えてくれる作品に接して、その中に平安朝の人々の人生観を見いだそうとしたに過ぎぬのである。『枕草子』についても、自分はただ容易に手に入る刊本と松平静氏の注釈書とを手にして、それを読み味わっただけであった。しかるにその内容は、自分をいや応なしに原典批判的な問題に連れて行ったのである。自分の読んだ刊本は、『春曙抄』を本とし『盤斎抄』によって校訂したものであった。その校訂者は専門の国文学者であったが、しかしこの本文が多くの異本の内のただ一種に過ぎず、疑いの余地のきわめて多いものであることは一言も教えてくれなかった。注釈者松平静氏の本文に対する態度も同様であった。自分はそれに対して疑いを抱き、「群書類従」によっていわゆる宸翰本を読んだときに、突然眼を開かれたように感じたのである。
その後大正十四年の末ごろ、藤村作博士から『国語と国文学』に一文を徴せられた。その時右の考えを思い出してこの論文を草したのであるが、これを書くに際しては念のため専門の国文学者の教えを乞い、当時『枕草子』に関する最も進んだ研究と考えられるものを推薦してもらった。それが金子元臣氏及び武藤元信氏の研究であった。自分はそれらを一覧して専門外の者の陥る誤謬を避けようと努めたのである。のみならず自分はこの論文を専門の学者への門外からの要求の形で書いた。自分はただ『枕草子』の原典批判が学問的に推し進められることを希望したのであって、自らこの批判の仕事を学問的に試みたのではなかった。
その後昭和三年に至って『国語と国文学』は、池田亀鑑氏の「枕草子の異本に関する研究」を発表した。自分はこの優れた力作を一覧して『枕草子』の異本の複雑多種類なるに驚き、清少納言に帰せらるべき『枕草子』の原形のごときが容易に見いだし得べからざること、否、その発見がほとんど不可能に近いことを教えられたのであった。しかしそれとともに我々は国文学の研究に対して一種異様な感じをも抱かせられたのである。というのは、これほどにまで差異の著しい諸本が存しているにもかかわらず、その諸異本の刊行や比較研究が行なわれていなかったのみか、その内のただ一種があたかも疑いなき清少納言の作品であるかのごとくに我々素人に教え込まれていた、という事情が、我々をはなはだしく驚かせたのである。
その後また四、五年たって、昭和七年に村岡典嗣氏は「枕草子と徒然草」(続日本思想史研究、所輯)において自分のこの論文に言及し、その考えの誤りを指摘された。氏は自分が原典批判の一つの方法として例示的に持ち出した字数計算の方法を捕え、あたかも自分がこれのみによって錯簡の可能を証明せんとしたかのごとく取り扱われたが、自分の意図はそうではなかった。字数による方法が唯一のものでないことはそこに明らかに断わっておいたところである。自分としては『枕草子』の一層整った形態が何とかして見いだせないものかという点に関心を持ったのであって、それを見いだす一定の方法を提出したのではない。いわんや伝宸翰本を原形に近いものとして立証しようとしたのではない。もっとも自分は伝宸翰本において個々の項目の間に内的連絡のある並べ方を見いだし、それが春曙抄本におけるごとき無連絡の並べ方よりも文芸作品としての意義において優ることを主張した。しかし同様に内的連絡のある個所が春曙抄本に見いだせるとすれば、自分はその個所を『枕草紙』の原形に近いものとして認めるにやぶさかでない。村岡氏は春曙抄本の第七十段より第七十四段に至るまでの五段をあげ、これらの各段の間に存する内的連絡が前田本、宸翰本等におけるそれよりもはるかに興趣に富むことを指摘せられたが、これは自分にとって非常に教ゆる所の多い議論であった。が、この観察は、氏自身の主張に対してはむしろ反証となっているのである。なぜなら、氏は春曙抄本の一つの個所に意味深い内的連絡を見いだし、そうしてそれを尊重せられたのであって、そのために春曙抄本の他の個所が示しているような内的連絡を欠く並べ方を尊重すべからざるものとして立証されたにほかならぬからである。自分の意図したところは、氏の指摘されたような内的連絡が至るところに感受し得られるごとき『枕草紙』の形態を、学者の努力からして待望し期待することであった。
右と同じ昭和七年に、池田亀鑑氏は岩波講座「日本文学」で「清少納言とその作品」及び「枕草紙の形態に関する一考察」を発表された。後者は前掲の村岡氏の論文が発表されたよりも後に書かれたものである。この論文は恐ろしくポレミックなもので、自分のように初めから『枕草紙』諸異本を見たことがないと告白している素人でさえ、鋒先を胸先に感じさせられた。だから実際に異本を研究して説を立てていた専門の学者には、さぞ手ひどくこたえたことであろう。が、この論文の優れた点はそういうポレミックにあるのではない。該博な異本の知識を持ちつつ全体を博く見渡し得る氏の優れた力量を考えると、こういうポレミックなどは無くもがなの印象を与える。我々門外の者から見れば、これほど異本の多い『枕草紙』の本文を十分批判的に検討せず、また昭和三年の氏の力作をも十分生かすことができず、昭和七年に至ってなお氏のかかる攻撃を受けなくてはならないような状態を持続していた国文学界の学問的責任は、ほかならぬ池田氏自身の頭上にもまっすぐにかかっているのである。
さて氏の論文によると、『枕草紙』現存諸本の系統は、
(イ)伝能因所持本の系統(前掲注2の表を参照)
(ロ)安貞二年奥書き本の系統
(ハ)前田家本(鎌倉中期以前のもの)の系統
(ニ)堺本(元亀元年の奥書きあり。伝宸翰本はこれと同系統のもの)の系統
の四つに別たれる。これらは相互に同一系統と認めることのできないものである。が、また相互に本文の混入錯乱が認められるから、伝能因所持本の生じた時代、少なくとも平安朝末期にはこれらの本文はいずれも存在したものと想像せられる。もっともこれらの諸本には後人の異本校合による修正や私意による増補などがあるであろう。従って『枕草紙』の現存諸本はいずれも後人の改修本であって、一として原形を示すものはない。さらにさかのぼって言えば、四種の異本の成立していた平安朝末期においてすでに『枕草紙』の原形は失われていたのである。
ではこのような異本がなぜ発生したであろうか。池田氏はそれについて種々可能な場合を推測しているが、最後にこの問題を「散乱したる原本の各葉は、いかなる方法によって整理されたであろうか」という形で提出する。その答えは、
一、散乱せる形に手をふれず、そのまま綴じ合わせる場合。
二、明らかな部分だけを整理し、不明の部分は散乱の形のままに残す場合。
三、原本の形はかくあるべしと推定し、自己の識見によって新しく組織立てる場合。
の三つである。(一)(二)の方法からして伝能因所持本及び安貞二年奥書き本などが生まれ、(三)の方法からして前田家本、堺本などが生まれたと推定される。
かかる推定が当たっているとすると、この整理の仕方を媒介として『枕草子』の原形に迫ることは必ずしも不可能でない。そこで池田氏は、(一)(二)のごとく散乱したまま保存した場合にもその中に原本の姿の一部分が残存しているはずだという点に着眼する。それは原本の一葉の中に書かれた記事である。すなわち、冊子または巻子の紙一葉の表または裏各一面におさめられる範囲の長さ、胡蝶装の綴じ方において表から裏につづく場合は二面におさめられる長さの記事である。池田氏は安貞二年奥書き本によってこの長さの記事を探し、ほぼ五十個所を見いだした。これらの章段は多く孤立せず類似した章段と一群をなしている。すなわち原本の姿の残存と考えられる個所は、明らかに内的連絡を持って個々の項を列ねているのである。それに反して右のごとき長さより長い文章の場合には多く孤立的であり、また文中に錯簡が多い。そうしてみると、個々の章段の間に内的連絡のある形が『枕草紙』の原形であるという推定は、避けることができないであろう。
以上のごとき池田氏の意見を読んで自分は非常に幸福を感じた。『枕草紙』の原典批評がいよいよ本格的に始まったと思えたからである。もとより自分はこの困難な問題が早急に片付くとは思わない。しかし問題が困難であればあるほどその追求の努力は絶えず続けて行かねばならぬ。そういう倦むことのない追求の努力が国文学界の一つの運動として動き始めたと自分には感じられたのである。
超えて昭和九年には、光明道隆氏が『国語国文』に「枕草紙異本研究」を発表し、さらにその続きを翌十年同誌に「枕草紙三巻本両類本考」として発表した。光明氏によると、前掲の四つの異本系統中、前田家本はやや権威を失し、安貞二年奥書き本(三巻本)は二種に類別せられる。氏の表示を掲げると、
そこでこのABCの三系統が問題となる。氏が将来の追求の方向とせられるのは、ABCの三異本を最も純粋な形において捕えること、及びこの三異本と清少納言の原作との関係を考えることである。この論文もなかなか綿密なもので教えられるところが多い。
同じ昭和十年には、他に鈴木知太郎氏が『文学』に「枕草紙諸板本の本文の成立」を発表し、翌十一年には、『国語と国文学』に、小沢正夫氏の「枕草紙の成立時期についての考察」、大津有一氏の「枕草紙研究への示唆」が現われた。いずれも『枕草紙』の原典批評が着実に進展しつつあることを示すものであって、前途に矚目せしめるところ少なくない。これを大正末年の事情に比すれば、著しい進歩を認めざるを得ないであろう。
二 『枕草紙』について
『枕草紙』は同時代の文芸作品のうちで最も感傷的でない作品である。その理由の一つは作者清少納言の性格にあると思う。彼女の性格はその文章の律動を見ても明らかであるが、しかし彼女自身の描いた二、三の自伝的事件ほど明快にそれを我々に示すものはない。
彼女が一条天皇の中宮定子の侍女として、この若き中宮の寵愛を一身に集めていたころ、宮内の私事を司どる蔵人所の長官としては、藤原行成(頭弁)、藤原斉信(頭中将)などがあった。彼女はこの両人と親しく交わり、特に行成との間は「見苦しき事ども」を露骨に言いはやされる仲であったが、彼女自身の弁解によれば、「をかしき筋など立てたる事」はなく、ただ親友として永久に変わらじと契り合ったに過ぎない(枕草紙、にげなきもの。「頭弁」)。こういう交情において斉信との間には次のごとき出来事(同、とりもてるもの。「頭中将」)があった。
斉信がある時「そぞろなる虚言」を聞いて彼女をひどくののしったことがある。「どうしてあんなやつを人と思ったろう」とさえ人前で言ったというのである。が、それを伝聞した彼女は、「実ならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてん」と言って、弁解しようともせず、ただ笑っていた。斉信はこの後、黒戸(主上の御室)の方へ行く時など、彼女の声がすれば袖で顔をかくして反感を見せる。しかし彼女は、「とかくも言はず、見いれで」過した。ある春雨の日、斉信は「御物忌」にこもってアンニュイに苦しめられながら、こんな日には彼女と話がしたいという気持ちになる。「何か言ってやろうか」などという。それを彼女に伝えるものがある。彼女は「まさか」と言って取り合わない。その日彼女は、一日じゅう自分の私室(下局)にこもっていて、夜になって御殿へ行く。長押の下に火を寄せて「篇つぎ」の遊びをやっていた女房たちは、彼女を見ると、「ああ嬉しい、早くいらっしゃい」などと言って歓迎するが、しかし中宮がもう寝室にはいっていられるので、彼女は「すさまじき心地」がして「来なければよかった」と悔いながら火鉢の側を離れない。すると女房たちが、遊びをやめて彼女の側に集まり、いろいろの話を持ちかける。そこへ斉信からの使いが来て、直接に申し上げたいことがあるといって彼女を呼び出し、斉信の手紙を出して、返事を早くとせき立てるのである。彼女は、あんなに憎んでいながら何の手紙かと思いつつも、急いで見る気にはならず、「いね、今きこえん」と言って手紙を懐へ入れて引っ込んでしまう。しばらくして使いが引っ返して来て、すぐ返事ができなければ手紙を返してほしいという。相手が熱心なので、『伊勢物語』風の歌ででもあるのかと、心をときめかせながらあけて見ると、案外にも青き薄様に「蘭省花時錦帳下」[蘭省の花時、錦帳の下]という白楽天の句を書いて、「末はいかに」とある。彼女は当惑しつつも、火鉢の消えた炭をとって、その手紙の奥へ、次の句「盧山夜雨草庵中」[盧山の夜雨、草庵の中]を「草の庵を誰かたづねん」と変えて書きつけて返す。翌朝私室へ帰っていると、昨夜の手紙についての報告がくる。斉信が、「彼女と絶交しているのは辛抱しきれない。何か言い出すかと待っているが向こうは平気である。面憎い。今夜は絶交するともしないともきっぱりきめたい」と言って、雨で淋しい、同情してくれとの謎をかけた手紙をよこしたのである。しかるに使いが、「今は見まいと言ってはいられた」と報告する。斉信はいら立って、「袖を捕えて有無を言わせず返事を取って来い、でなければ手紙を取り返して来い」と雨の盛んに降る中に使いを追いやった。返事を取って見ると斉信が自分の心を知らせようとして暗に使った句を、逆に利用して「私のような醜いものを誰がかまってくれよう」と、斉信のこれまでの態度を責めている。そうして上の句をつけよと挑むのである。斉信は降服して、どうしても絶交はできぬと嗟嘆しつつ、一座のものとともに夜ふくるまで上の句をつけ煩った。
この話によって我々は彼女の勝ち気で強情な、強い性格を知ることができる。彼女はただに女房たちの間の大姐御であるのみならず、斉信のごとき公卿たちに対してもはるかに上手である。あたかも男と女が所を異にしているようにさえも見える。彼女が晩年零落していたころ、多くの若い貴族が車に同乗して彼女の家の前を通り、家の壊れたのを見て「少納言無下ニコソ成ニケレ」と言うと、桟敷に立っていた彼女が簾を掻き上げ、「如鬼形之女法師顔」[鬼形の如き女法師顔]をさし出して、「駿馬之骨ヲバ不買ヤ。アリシ」と言った(古事談、第二、臣節)という伝説は、いつごろからできたかはわからないけれども、恐らくこの彼女の強い性格の直接の印象、あるいは『草紙』を通じての印象から生まれたものに相違ない。弱々しい、ほとんど無性格と言っていい当時の貴族には、彼女の強さは恐ろしいものにさえも感ぜられたのであろう。しかし我々にとっては、それは女らしい勝ち気以上の何物でもない。親友の誤解に対して弁解せずに笑っているのは、反撥を感ずる時の女らしい感情の硬さである。そこには、それほどの虚言にまどわされた男の心に対する不満と、それを許すことのできぬ女らしい狭量と、不釣り合いに大きい犠牲を払っても目前の一事を貫ぬこうとする、女らしい盲目的な意地とがある。この種の勝ち気の例は、このほかにもなお少なくない。庭に造った雪山がいつまで消えずに残るだろうという賭けの話(物のあはれ知らせ顔なるもの、の条に混入せり)などでは、ただその時の軽い興味で起こった、そうして誰もそれを重大と考えない些細な賭けのために、彼女のみがほとんど全生活を集中して喜び悲しんでいる。たといそのような執拗さが当時の女(否総じて当時の貴族)に珍しいものであったにしても、それは女らしいという特徴を失うものでない。
彼女のこのような性格は、男女の関係においても特異性を発揮する。彼女は『草紙』のうちに自己の恋愛生活を明らさまには書いていない。しかし彼女の「親しい友」は彼女にとっていかなる関係にあったであろうか。右にあげた斉信は、右の事件の一年後に、夜中彼女をたずねている(とりもてるもの。「頭中将」)。中宮定子が中宮職の御曹子に移られたあと、彼女が梅壺に残っていた時のことである。その夜は、「いたくたたかせで待て」という手紙があらかじめ来ていたにかかわらず、定子の妹御匣殿から「局に一人はなどてあるぞ、ここに寝よ」と召されたために、局に寝なかった。従って斉信がたたき起こした時には侍女が起きただけであった。しかし、どんな用事があったにもせよ、独身の(しかも性的生活に明るい)女の局に男が夜中自由に出入し得るとすれば、その親しさはいかなる意味の親しさにでもなり得るものである。ことに彼女は、この際には、斉信に対して特殊の愛を感じている。というのは、その翌朝斉信が訪ねて来たとき、「局はひきもやあけ給はむと、心ときめきして、わづらはしければ」、梅壺の東おもての半蔀をあげて斉信に逢い、凝花舎の前の西の白梅、東の紅梅を背景にして立っている美しい衣の男の姿を、「まことに絵に書き、物語にめでたきことにいひたる、これにこそは」と感嘆するのである。そうして「簾のうちに若やかな女房が、髪美しく長くこぼれかからせて、添いいるのならば、さぞ釣り合ってよかろうに、年とった女の自分が髪なども散り乱れて、薄鈍の喪服をつけて、中宮の留守のために裳もつけず袿姿で立っているのは、いかにも不調和で口惜しい」と反省するのである。こういう感情を抱きつつ、またこれほど親しく交わって、しかもその間に友人として以上の関係がなかったとすれば、それは確かにこの時代の男女の関係としては異例であるに相違ない。いかにして彼女がそういう関係に立ち得たかは、ただ彼女がいかに愛を感ずる男に対してでも、支配される地位に立つことをきらった、と考えることによってのみ解し得られる。もしこの想像が当たっているならば、彼女は、多くの男の興味の対象となりつつ、いかなる放縦な男女関係も社会的あるいは倫理的制裁を受くるおそれのない境遇にあって、しかも、かなり厳密に、恋愛関係を遠ざけていたと見られなくてはならない。この見方によってのみ我々は、『中関白記』に清少納言は「肥後守秘蔵娘也、皇后愛憐之間、予密召之、雖然大酒不女所為、申宮方与暇」[肥後の守秘蔵の娘なり、皇后愛憐の間、予密かに之を召す。然りと雖も大酒は女の為す所ならず、宮方に申して暇を与う]と記されているのを首肯することができる。単なるすき物の心をもって彼女を籠絡しようとしても、彼女は大酒不女所為のごときをもって巧みに身をかわしたのである。従って彼女の自由な男との交際は、男の側から言えば、才能あり教養ある女に特有な、通常の女に見られない、言わば精神的な味を提供したのである。中宮定子の勢力が衰え、貴族の多くがこの宮を顧みなくなったときにも、清少納言の、「少々の若き人などにもまさりて、をかしうほこりかなるけはひを、捨てがたくおぼえて、二三人づゝ連れてぞ常に来る」(栄花物語、鳥辺野の巻、初め)と伝えられているのは、反対党の立場から右の消息を語るものと見られよう。
しかしながら、左衛門尉則光との間柄は、やや色を異にしているように見える(とりもてるもの。「左衛門尉則光」。春曙抄は情人と解し、黒川真頼は義兄妹と解する。)。二人がいもうと、せうとと呼び合ったことは、少なくとも則光の言葉には明らかである。しかし則光は彼女をほとんど崇拝し、彼女の名誉を「己が立身出世よりも嬉しく」感ずるのである。また彼女との応対に現われた彼の態度は、弟のそれであって兄のではない。そうして彼のみは、他の友人たちよりも一層親しい。彼女が里に出ていた時、「夜も昼も」訪ねくる殿上人をうるさがって、住所を隠したことがあった。その時も則光のみは自由に訪ねて来る。そうして斉信に彼女の住所を責め問われて、ついには彼女のいない所をやたらに連れて歩くというようなことさえもする。それほどに苦心して彼女のわがままを立てるのである。しかし彼女の側では、則光をほとんど子供のように取り扱い、時には意地悪く翻弄さえもする。こういう仲で「かたみに後見、語らふ」とはどんなことであったか。「契り」とは何であったか。則光が常々言うには、「私を思ってくれる人は歌などを詠んでよこしてはいけない。そんなことをすれば仇敵だと思う。絶交しようと思う時にそうするがよい」。これは彼女の才能を崇拝する人の言葉としては己れの才なきを自任した「甘え」の言葉としか考えられない。則光が最後の手紙に、「不都合なことがあっても、契ったことは捨ててくださるな、よそながらもさぞなどと思い出してください」と言っているごときは、むしろ哀願と見られよう。思うに彼女は、支配さるる地位ではなく支配する地位にあって彼を情人としていたのである。これは彼女のごとき性格、恋に対する彼女のごとき態度にとっては、当然の恋愛関係ではなかろうか。我々はここに女としての彼女の性格の最も明らかな表出を見得ると思う。
このような性格が「ものの哀れ」に対する彼女の態度を時人と異ならしめたのである。元来「ものの哀れ」なるものは、永遠なるイデアへの思慕であって、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性の感情となって内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈潜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軽易な涙によって、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生まれて生活を浅薄化するのである。清少納言は時人とともに軽易な涙に沈溺することを欲しなかった。それをするには彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった。彼女もまた官能的享楽人として時代の子である。ただ彼女は、過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立ったのである。この点で彼女は、紫式部が情熱的であるに対して、むしろ確固たる冷徹を持する。そうして彼女の全注意を、感覚的なるものに現われた永遠の美の捕捉の方に向ける。彼女の周到にして静かな観察には、右の意味で主観的情熱からの超越がある。
しかし我々は彼女が「ものの哀れ」を感じなかったと考えてはならない。彼女の性格はそれを感傷的に詠嘆させなかった。が、彼女の客観的な描写には、明らかにその裏づけがある。たとえば中宮定子の描写がそれである。草紙の描いている時代の末期はちょうど中宮の運の傾いて行く時であり、彼女はこの悲しい運命の最も直接な目撃者として、最後まで中宮に忠実であった。しかし彼女はこの悲しさを泣き訴えようとはしない。ただ彼女が哀れな中宮の運命によせた満腔の同情を、中宮の描写それ自身の内に生かせて行くのである。我々はこの草紙のうちに、人の心の隅々をまで見渡しつつ、微笑みながらそれを見まもっていられるような、心広い、賢い、敏感な、そうして心やさしい中宮の姿を見いだす。それは、優れた人物と自任する彼女がなお仰ぎ見るに価する人格である。従って中宮の前には彼女の強い性格も愛すべきものとして是認される。たとえば、彼女が平生、「すべて人には第一の最も親しい者と思われなければつまらない。でなければむしろ憎まれていよう。第二第三に思われるのは死んでもいやだ」と主張するのを聞いて、中宮はある時人々の多くいる前で、「お前を思おうか思うまいか、私がお前を最も親しい者と思わなければどうする」という問いをひそかに紙に書いて彼女へ投げられる。彼女は「九品蓮台の中には、下品といふとも」と同じく紙に書いて答える。中宮の情を仏の慈悲にたとえ、中宮に対してのみは日ごろの主張を撤回したのである。そこで中宮は、あからさまに言葉に出して言われる。中宮、「無下に思ひ屈じにけり。いとわろし。言ひ初めつることは、さてこそあらめ」。彼女、「人に随ひてこそ」。中宮、「それがわろきぞかし。第一の人に、又一に思はれんとこそ思はめ」(くちをしきもの。「一乗の法」)。この問答においては明らかに中宮の方が姉として強情な彼女をいつくしまれるのである。しかも我々はこの中宮が、十六歳にして中宮となり、二十五歳にして皇后として産褥に薨ぜられたことを知っている。そうしてこの年若さにふさわしい描写もこの草子の内に欠けてはない。たとえば、中宮の妹原子が東宮の女御として淑景舎に入られたのは、中宮二十歳の時であるが、清少納言は、衣裳のことを気にせられる女らしい中宮の面影などを点出しつつこの時の儀式を詳細に描いた後に、次のごとき場面を書き加えている(くちをしきもの。「淑景舎」)。その日の午後二時ごろに主上が中宮のもとへ来られて、ともに御帳(寝所)に入られる。夕方主上は起きいでられて、髪を調えられて帰って行かれる。やがてまもなくまた中宮に御殿に上れという御使いが来る。中宮は、「今宵はえ、など渋らせ給ふ」。父関白がそれをきいて、「いとあるまじきこと、はやのぼらせ給へ」としかる。そこへ東宮から妹原子への御使いも来る。中宮は「まづさば、かの君わたしきこえ給ひて」(ではまずあの方を送り出してから)と答えられる。妹「さりともいかでか」(だってそんなわけには)。「猶みおくりきこえん」(いいえ、まあ見送ってあげましょう)。――かく寸刻をのばしつつ参殿を渋られる中宮の心理は、決して功利的打算的な女の心理ではなく、また恋愛に心を充たされた女の心理とも思われない。しかも清少納言がこれを「いとをかしうめでたし」と見るとき、彼女は当時の男性よりも一段高き精神的要求を持った中宮の人格を、この恋愛生活におけるういういしさの内に見いだしているのである。これらの描写において我々は、彼女がいかに愛をもって中宮を描いたかを感ずる。彼女は中宮の悲しい運命を悲しめば悲しむほど、なお一層明るくめでたく中宮の姿を書き出すのである。「ものの哀れ」の裏づけなくして、単に享楽人の立場からはかくのごとき「人」を描出することはできまい。
彼女が自然及び人生における感覚的なるものを描く際には、右の中宮の場合におけると同じく「ものの哀れ」の裏づけがある。もとより彼女の眼界は、当時の貴族がそうであったように、きわめて狭い。人生は京都の貴族の生活をいでず、自然は秋草のごとき優しさの一面をしか見せない。しかしこの狭き眼界において彼女の見るところは、単なる享楽の対象ではなくして、美そのものである。過ぎ行く姿に宿れる「過ぎ行かざるもの」である。いかに多くそこに時代特殊の趣味が現われているにもせよ、我々はなお彼女の繊鋭細緻なる感受を嘆美せざるを得ない。
彼女は「わびしげに見ゆるもの」として、真夏の日の日盛りに下等な牛をつけてのろのろと行く穢い車や、年老いた乞食や、身なりの悪い下種女の子を負える姿や、黒くきたない小さい板屋の雨に濡れた光景などをあげた。これらの姿を「わびしく」見る心は、人生の不調和に痛み傷つかない心ではない。しかし彼女は、倫理的なものと美的なものとに対して、異なった標準を持っているのではなかった。「にくきもの」として彼女は、「急ぐ事あるをりに長言する客人」、「ことなる事なき男の、ひき入れ声して艶だちたる」というごときをあげるとともに、その場に「墨の中に石こもりて、きしきしときしみたる」、「墨つかぬ硯」などを並べている。思う壺にはまって来ない、不調和なものは、彼女にとって一様に醜である。倫理的なものもまた美的規準によって評価されるのである。従って彼女は、「才ある人の前にて、才なき人の、物おぼえ顔に人の名などを言ひたる」を「かたはらいたきもの」と感ずるとともに、「にくげなる児を、おのれが心地にかなしと思ふままに、うつくしみ遊ばし、これが声の真似にて、言ひけることなど語りたる」にも同情する余裕を持たない。醜い子供を美しいと強弁する母親に対しては、かたはら痛い感じを抱くにも道理があるが、しかし醜い子供をも嬉しげに愛する母親の姿は、倫理的に見て、美しくはあっても醜くはない。彼女が「醜いものを愛する」というところに不調和を感ずるとすれば、それは唯美主義者の偏狭でなくてはならぬ。この偏狭が彼女の作品から、幾分、人間的な、温かい情緒を取り去ったように見えるのである。従って彼女の描写は、特に温かい同情を必要としない「物」「光景」などの写生や評価において、特に目ざましくさえてくると言っていい。
彼女の静かで細緻な観察は、ある情景、ある人物の描写において、力強い特性描写を可能にしている。硬化に陥ることなしに特性を拡大して示す力は、この時代の文芸においてただ彼女にのみ見られる特長である。デッサンの確かさは紫式部も到底彼女に及ばない。前にあげた中宮、その父の関白、行成、斉信などはその明らかな証拠である。特に特性拡大の例としては、大進生昌(ことごとなるもの)や蔵人おりたる人(心ゆくもの)などをあげることができる。
情調を具体的な姿において描く事も彼女の特長である。臨時の祭りの雅楽の稽古(調楽)の夜の情調を、忍びやかに短く立てる警蹕の声や、若い男の口ずさむ流行唄や、この浮き浮きした夜の情調をあとに家路に急ぐ「まめ人」などによって描いているごとき(ありがたきもの)。あるいは七月の、「よろづの所あけながら夜をあかす」ころの、有り明けの情調を、後朝の女と男とによって描いているごとき、――女は情人の去ったあと、「いとつややかなる板の端近う、鮮やかなる畳一枚、かりそめにうち敷」いたところに、「三尺の几帳、奥のかたに押し遣」って、うす紫の裏の濃い着物を「かしらこめて、ひき着て」寝ている。「香染の単衣、紅の濃かなる生絹の袴の、腰いと長く、衣の下よりひかれたるも、まだ解けながらなめり。」側には長い髪がうねうねと波うつ。男は他の女のもとより帰るさ、濃い霧のなかを、霧に湿った衣を肌ぬぎにしつつ鬢の毛を乱して、しどけない姿で、歌を口ずさみながら通りかかるのである。見ると格子があけてある。立ちよって簾を少しあけてのぞく。女は人のけはいに衣の間から見ると、男が微笑みながら長押に押しかかっている。恥ずかしい人ではないが、打ちとける仲でもないのに、見られて悔しいと思う。男は、「こよなき名残りの御朝寝かな」と簾のうちに半ば体を入れる。女は、「露より先に起きける人の、(手紙の来ぬ)もどかしさに」と答える(春曙抄本、こころゆくものの末尾。「朝寝」)。これらの描写は確かに明徹と言える。情調の主観的な漠然たる描写ではない。
しかし彼女は、これらの個々の形象を、一つの心の歴史に編み込むことはしなかった。草紙中の最も長くまとめられている話でも、小さい短篇以上にはいでない。恐らく彼女にとっては、これらの短い写生に示されたと同じ程度の具象性をもって長い心の推移を描くことは、不可能だったのであろう。彼女自身が巻末に記すところによると、これほど鮮やかに印象を描くことのできた彼女も、「いと物おぼえぬことぞ多かる」と嘆いている。具象的に描かねば気の済まなかった彼女の心持ちが、ここに明らかに察せられるように思われる。その心持ちで、感情の葛藤や運命の推移を、感覚的に鮮やかに描き出すには、非常な力強い意志の力がなくてはならぬ。そうしてそれはこの時代に、ことに女の身にとって、望み難いものの随一であった。
かくて彼女がその豊富な印象を統一するために用いた主導動機は、連続的な人生の縦断面を見せることではなく、その横断面を造って見せることである。彼女は「いと色ふかく、枝たをやかに咲き、朝露にぬれて、なよなよと広ごり臥したる」萩(草の花は)も、「冬のいみじく寒きに、思ふ人と埋づもり臥して聞くに、ただ物の底なるやうに聞ゆる」鐘の音(たとしへなきもの)も、同じように離れた立場から取り扱った。「蓮のうき葉のらふたげにて、のどかに澄める池の面に、大きなると小さきと、広ごり漂ひてありく」景色(草は)の人情にたずさわることなき美しさも、「すずろなる事腹立ちて同じ所にも寝ず、身じくり出づるを、忍びて引き寄すれど、理なく心異なれば、あまりになりて、人もさはよか※(小書き片仮名ン)なりと怨じて、掻いくくみて臥しぬる後、いと寒き折などに、唯単衣ばかりにて、生憎がりて……思ひ臥したるに、奥にも外にも、物うち鳴りなどして恐しければ、やをらまろび寄りて衣引きあぐるに、虚寝したるこそいとねたけれ。猶こそこはがり給はめなどうち言ひたるよ」(ねたきもの)というごとき閨中の痴情も、彼女にとってはともにそのまま独立せる一つの姿である。彼女は何の展開もなくこれらの類型的な姿を点々として並べて行く。そうしてそこに、彼女の時代と彼女の心とによって屈曲せられた、人生そのものの姿を浮かび上がらせる。これも確かに一つの芸術的形式である。
我々は『枕の草紙』の持っている特殊の美しさから、特にこの草紙の世界に君臨している作者の心から、この時代の精神、特に唯美主義の精神について多くのことを学び得る。またこの唯美主義の心が、この時代の特殊な風俗や宮廷の私事の間に、いかに動いていたかということを、まざまざと見ることができる。その意味でこの書は、時代の姿を見るに最もよき材料を提供する。しかし我々はまずこの書において、一つの溌剌として活きた心に触れなくてはならぬ。そうしてこの心の君臨するこの作の世界の、特殊の美しさを味得し得なくてはならぬ。この美しさは一つの美の類型を示している。が、それは再び創造し得られぬ美の類型である。
(大正十一年、八月)
『源氏物語』について
『源氏物語』の初巻桐壺は、主人公光源氏の母桐壺の更衣の寵愛の話より始めて、源氏の出生、周囲の嫉視による桐壺の苦難、桐壺の死、桐壺の母の嘆き、帝の悲嘆、源氏の幼年時代、桐壺に酷似せる藤壺の更衣の入内、藤壺と源氏との関係、源氏十二歳の元服、同時に源氏と葵上との結婚、などを物語っている。しかるにそれを受けた第二巻帚木の初めはこうである。
光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎おほか※(小書き片仮名ン)なるに、いとどかかる好色事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍び給ひける隠へ事をさへ、語り伝へけむ人の物言ひさがなさよ。さるはいといたく世を憚かり、まめだち給ひけるほどに、なよひかにをかしき事はなくて、交野の少将には笑はれ給ひけむかし。
この個所はどう解すべきであるか。「光る源氏、光る源氏と評判のみはことごとしいが、たださえ欠点が多いのに内証事までも言い伝えた世間はまことに口が悪い」と解すべきであろうか。もしそうであれば口の悪い世間の言い伝えはその「評判」のうちにははいらず、従って世間の評判のほかに別にことごとしい評判がなくてはならぬ。「評判のみはことごとしいが、世間には口の悪い評判がある」とはまことに解しにくい解釈である。それでは「名のみ」を文字通りに光源氏という名の意味に解して、「光源氏という名は光るなどという言葉のためにいかにもことごとしいが、それは名のみで、実は言い消されるようなことが多いのに、なおその上内証事まで伝えた世間は口が悪い」と解すべきであるか。そうすれば前の解のような不可解な点はなくなるが、その代わり「さるは」とうけた次の文章との連絡が取れなくなる。なぜなら右のように口の悪い世間の評判を是認したとすれば、次の文章で源氏をたわれた好色人でないとする弁護と矛盾するからである。で、自分は次のごとく解する。「光源氏、光源氏と、(好色の人として)評判のみはことごとしく、世人に非難される罪が多い。のみならずこのような好色事を世間の噂にされたくないときわめて隠密に行なった情事をさえ人は語り伝えている。世間はまことに口が悪い。しかしそれは名のみである、濡れ衣である。というのは、源氏は世人の非難を恐れて恋をまじめに考えたために、仇めいた遊蕩的なことはなく、交野の少将のような好色の達人には笑われたろうと思われる人だからである。」――自分はかく解する。が、この解釈のいかんにかかわらず、この書き出しは、果たして第一巻を受けるものとしてふさわしいであろうか。
我々は第一巻の物語によって、桐壺の更衣より生まれた皇子が親王とせられずして臣下の列に入れられたことを、すなわち「源氏」とせられたことを、知っている。またこの皇子がその「美しさ」のゆえに「光君」と呼ばれたことも知っている。しかし物言いさがなき世間の口に好色の人として名高い「光源氏」については、まだ何事も聞かぬ。幼うして母を失った源氏は、母に酷似せる継母藤壺を慕った、しかしまだ恋の関係にははいらない。十六歳の葵の上に対してはむしろ嫌悪を感じている。そうしてこの十二歳以後のことはまだ語られていない。我々の知るところでは、光君はいかなる意味でも好色の人ではない。しかも突如として有名な好色人光源氏の名が掲げられるのは何ゆえであろうか。
この問いについて本居宣長は次のごとく答えている。この語は『源氏物語』の序のごときものである。源氏壮年の情事を総括して評した語である。従って人に非難される罪、隠密の情事とは、後の巻々に描けることであり、「語り伝へけむ」とはこの物語、この後の巻々のことである(玉の小櫛。全集五の一二六三)。かく宣長がこの発端の語に特に注意すべきものを見いだし、これを全篇の「序」とさえも認めた事は、彼が古典学者としてよき洞察力を持っていたことを明証するものであるが、しかし彼はこの洞察を果実多きものとするだけの追求の欲を欠いていた。右の発端の語は、どの解釈をとっても、世の口さがなき噂に対する抗議を含んでいる。世人は彼を好色人というが、しかし実は「なよひかにをかしき事はなく」、好色人として類型的な交野の少将には冷笑されるだろうと思える人なのである。彼の密事も「軽びたる名を流さむ」ことを恐れて忍び隠したのであって、実はまじめな事件なのである。この密事をさえ誤解しつつ語り伝えた人は「物いひさがなし」という非難に価する。この抗議は第一巻の物語からは全然出てくるわけはない。従ってそれは、読者がすでに「好色人としての光源氏」を他の物語あるいは伝説によって知っているか、あるいは作者がその主人公を、「好色人として有名でありながら実はまじめであった人」にしたいと考えたか、いずれかでなくてはならぬ。しかしそれがいずれであるにしても、とにかく作者はここで光源氏を恋の英雄として全体的に提示した。これは宣長も指摘したごとく、一つの物語の発端としての書き方である。そうしてここに我々は、何ゆえに突如として有名な好色人光源氏の名が掲げられたかの疑問を解くべき緒を見いだす。宣長はそれを追求しなかったが、この発端の語は、もともと桐壺の巻を受くるものとして書かれたのではなかろう。桐壺の最後には、「光君といふ名は、高麗人の感で聞えて、つけ奉りけるとぞ、言ひ伝へたるとなむ」という一句がある。それを受けて帚木は、いきなり、光源氏、と書き出している。言葉の上ではつながりがあるように見える。しかし高麗人の名づけたのは幼児光君である。それに反して光源氏は有名な好色人である。のみならず右の一句は、唐突に桐壺の巻末に付加せられたものであって、前文と何の脈絡もない。また、少し前に書かれた「……譬へむ方なく、美しげなるを、世の人光君と聞ゆ」という言葉にも矛盾する。確かにこの一句は最も浮動的なものとして厳密な批評を受くべきものである。が、この一句を削り去ってみても、なお桐壺の巻と帚木の巻との間には、必然の脈絡が認められない。桐壺の巻末に描かれるのは、妻と定められた葵の上をきらって一途に継母を恋い慕う十二歳の源氏である。彼は葵の上のために建てられた新邸をながめて、「かかる所に思ふやうならむ人をすゑて住まばや」と嘆く。この描写に呼び起こされて帚木の発端の語が出て来たとは何人も信じ得ないであろう。帚木の発端は、後に来る物語を呼び起こすべき強い力を持っているが、それに先行する何の描写をも必要とするものでない。かくて我々は、帚木が書かれた時に桐壺の巻がまだ存在しなかったことを推定しなければならぬ。
そこで我々は、この発端の第一語として現われる「光源氏」が、果たして全然作者創出の人物であるか否かの考察に移る。読者の何人も知っていない人名を、あたかも有名な人であるかのように取り扱って突然読者の前に投げ出すことは、巧みな作者の時おり使う手法である。他の物語中の仮構の人物である交野の少将を拉し来たって源氏と対照させた作者の腕から見れば、この事はあり得ぬこととも思えぬ。しかしもし光源氏なる好色人の伝説あるいは物語がすでに存在していたのを利用して、この光源氏に関する一般の解釈にいきなり抗議を提出することによって物語を書き始めたとすれば、その方が一層巧妙であり、また一層端的に読者の心に具体的な幻影を呼び起こす方法ではないであろうか。この作者の描く光源氏はこの作者の独創の人物であるにしても、この人物を創造するためにすでに存した光源氏を材料として使用するということは、描写を簡便にし容易にするゆえんである。すでに多くの物語や好色伝説が産み出された後に、その絶頂として出現する『源氏物語』が、何ら過去の伝説を利用することなくして現われたとは信じ難い。我々はこの発端を、「読者がすでに光源氏を知れることを前提として書かれたもの」と認むべきではなかろうか。
読者が光源氏を知っていることを前提とするには、二つの場合がある。一つは紫式部がすでに光源氏について多くのことを書き、その後に帚木の巻を書く場合である。宣長は右の発端が後の巻々を暗示することを説いているが、それは全篇の構図をすでに知っている者の心に浮かぶことであって、後の物語を全然知らない者が初めて帚木の巻を読む時にはこの暗示には何の内容もない。従って彼の観察は帚木が後に書かれたという所にまで持って行かなければ徹底しない。この場合には、作者が自分のかつて描いた光源氏に対して自ら抗議を提出するということになりはしないかという疑問が起こるが、しかしそうは見られない。後の巻々においては、作者は光源氏をまじめな、人情に富んだ人として描き、たわれた人としては描かなかった。だから作者は自分の描いた光源氏に対して何ら抗議の必要を見ない。むしろ作者は、自分の描いた光源氏が多くの読者によって誤解され非難されたのに対して抗議を提出したのである。かく見れば『源氏物語』の成立について何ほどかの事情を察することもできるであろう。もしこの仮定を許せば、最初に書かれたのは恐らく継母藤壺との姦通や、六条の御息所と葵の上との争いや、御息所の生霊が葵の上を殺す話や、初々しい紫の上との関係や、朧月夜との恋などであったに相違ない。
が、我々はもう一つの場合を考えることができる。光源氏についての(あるいは少なくとも「源氏」についての)物語が、すでに盛んに行なわれていて、紫式部はただこの有名な題材を使ったに過ぎぬと見るのである。臣下の列に下る皇子がすべて源氏であったとすれば、源氏は常に恋の英雄たるべき地位にいる人であって、このころにはすでに二百年の伝統を負っていた。かの恋の英雄として有名な業平のごときも二世の源氏(皇孫にして臣下の列に下った人)である。ここに「源氏」の重ね写真がいくつかの伝説的な姿として結晶することはきわめて自然だと言われなくてはならぬ。『河海抄』に、「いにしへ源氏といふ物語数多ある中に光源氏物語は紫式部が作といふ」という説を引用しているが、これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う。もししかりとすれば紫式部は周知の題材の上に彼女自身の芸術を刻み出したのである。
この二つの場合は同時に許されるかも知れない。すなわち周知の題材の上にまず短い『源氏物語』が作られ、それに後からさまざまの部分が付加せられたと見るのである。が、いずれであるにしても、とにかく現存の『源氏物語』が桐壺より初めて現在の順序のままに序を追うて書かれたものでないことだけは明らかだと思う。
右の観察を支持すべきよき証拠は、『源氏物語』の初めの十篇における構図の中にも認められる。『源氏物語』全篇の中でかなり重大な地位を占むべき葵上、藤壺、特に六条御息所の取り扱い方がそうである。夕顔の巻の初めの「六条あたりの御忍び歩きのころ」は六条御息所との関係を初めて暗示したものと言われている。またそうでなくてはこの句はほとんど冗句である。しかし読者は、この「六条あたりの御忍び歩き」という一語で、それが「前坊の北の方」(なくなられた前の春宮の北の方、今は寡婦)であり、美しい娘の母君であり、また八歳年上であるところの、六条の御息所との情事を暗示すると悟り得るであろうか。現在の『源氏物語』を現在の順序のままで読んで来た読者は、ここでそういうことを悟り得るわけは絶対にない。しかし作者の書きぶりは読者の知識を予想している。しからばこの情事は、主人公の生涯の有名な事件として作者がすでに書いたか、あるいは伝説として周知のことであるか、いずれかでなくてはならない。夕顔の巻は主として夕顔の女との恋を描いたものであるにかかわらず、右の書き出しによれば、この恋が「六条あたりの御忍び歩きの頃」の一挿話に過ぎぬとの印象を与える。そうして夕顔との恋から目を放して主人公の生活全体に目をやる時には、そこに藤壺への恋と六条御息所との関係とが主人公の生活の基調として暗示されるのである。夕顔の巻の初めの方に、
六条わたりにも、解け難かりし御気色をおもむけ聞え給ひて後、ひきかへしなのめならむはいとほしかし。されどよそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなる事にかと見えたり。女はいと物をあまりなるまで思ししめたる御心ざまにて、齢の程も似げなく、人の洩り聞かむに、いとどかくつらき御よがれのねざめねざめ、思ししをるる事いとさまざまなり。
として、御息所のもとにおける朝の別れの一情景を描いている。一方空蝉や夕顔との恋は、源氏がいかに言い寄り女がいかに答えたかをきわめて詳細に描いているにかかわらず、この重大な御息所との恋は、右のごとくただ、「源氏が言い寄ってしいて関係した、だから冷淡になるのは気の毒であるのに冷淡になった、女は自分の年上を気にして苦しんでいる」と簡単に報告するのみである。そうしてそれが「御息所」であることを思わせる何の描写も説明もない。もし『源氏物語』が今のままの順序で書かれたとすれば、この事は最も理解し難いものとなるであろう。源氏の最初のアヴァンテュールとして描かれるのは一地方官の若き後妻空蝉との姦通であり、第二は親友がかつて関係し今は陋巷に身を隠している夕顔との恋であるが、この二つの恋の間に挿まる御息所との恋は、その重大さにおいて、かくのごとき軽き取り扱いに価するものでない。従って我々は、この軽き取り扱いもまた十分な暗示の力を持っていたことを推測しなくてはならぬ。読者はすでに御息所の車争いや生霊の話を知ってこの個所を読むのである。
藤壺との情事についても同様のことが言える。帚木の雨夜の品定めのあとには、「君は人ひとりの御有様を心の中に思ひ続け給ふ」とあり、空蝉に言い寄る夜には、女房たちが自分の情事の噂をするのを聞いて、「おぼす事のみ心にかかり給へれば、まづ胸潰れて」とある。夕顔との挿話を描く途中には、「人やりならず心づくしに思ほし乱るる事どもありて、」葵の上のもとへ熱心に通わなかったことが断わってある。幼い紫の上に対して愛着を感ずるのも、「限なう心を尽し聞ゆる人に、いと好う似奉れる」ためである。これらはすべて藤壺との恋を暗示するものと解せられる。しかし桐壺の巻の末尾に描かれた十二歳の源氏の恋心のみでは、これらの暗示は利かない。若紫の巻に至っては、「我御罪のほど怖ろしう、あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひなやむべき」を思うて、出家の要求をさえも感ずるのである。果たしてこの巻においては、藤壺と源氏との恋が直写される。しかもそれは、二人の関係の最初でない。すでに「あさましかりし」ことがあって、藤壺はそれを苦しんでいる。そうして、「さてだに止みなむ」と決意しつつも、なお引きずられて行くのである。ついに藤壺は罪の種を宿して「あさましき御宿世の程」に苦しみ悩む。この道ならぬ恋もまた読者はすでにあらかじめ知っているのである。でなければ若紫の巻以前に現われるさまざまの暗示は力を持つはずがない。
もし我々が、六条御息所や藤壺や葵の上などを中心とする源氏の物語を、伝説としてあるいは作者が前に書いたものとして、すでに存したものと認め得るならば、帚木の書き出しはきわめて自然であり、そのあとに地方官の妻や陋巷にひそむ女との情事が挿入されるのも不思議はないと肯くことができよう。我々は右の物語の既存を認めなければ理解し難い点があることを指摘した。そうしてそれを認めれば『源氏物語』の構造が明らかになる。我々はそれを認めてよいではなかろうか。
右のごとき観察は『源氏物語』全篇に及ぼすことができるであろう。それによって我々は、本文自身の中から、『源氏物語』成立の事情を見いだし得るであろう。その時に初めて『源氏物語』本文批評の仕事は体をなすのである。古来の注釈家はこの点でほとんど仕事をしていない。ただ『源氏物語』に関する鎌倉時代以後の伝承に従って、この問題を不問に付し去ろうとするに過ぎぬ。
『源氏物語』についての最古の記録は、作者紫式部の日記の数節である。
うちのうへの源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、この人は日本紀をこそよみ給へけれ、まこと才有べしとのたまはせけるを……
源氏の物語おまへにあるを、殿の御覧じて、れいのすずろことどもいで来たる序に、梅の枝にしかれたる紙に書かせ給へる。
すき者と名にし立れば見人の折らで過るはあらじとぞ思ふ
左衛門督。あなかしこ、このわたりに若紫やさふらふとうかがひ給ふ。源氏に似るべき人見え給はぬに、かのうへは、まいていかでものし給はむと聞ゐたり。
宣長はこれによって『源氏物語』は紫式部の作なりと断定する。しかし右の日記は、現存の『源氏物語』が『源氏の物語』と同一のものであるか否かについて何事をも語らない。この『源氏の物語』が恐らく現存の蛍の巻と若紫の巻とを(何ほどかの程度に)含んだものであったろうことは推測するに難くないが、単純に『源氏の物語』と呼んだところから見ると、非常に大部なものであったと思えない。
『源氏物語』についての次に古い伝承は、道長の奥書きである。『河海抄』(四辻善成著足利初期)によると、
法成寺入道関白の奥書に云、此物語世に紫式部が作とのみ思へり。老比丘筆を加る所也云々
しかしこの奥書きは信じ難い。この種の奥書きの必要が生じたのは、『源氏物語』が古典として尊重せられるに至った後のことであって、同時代たる道長の時代に問題が起こるはずはないからである。それよりも注意すべきは、やや時代が下って、『花鳥余情』(一条兼良著足利中期)に引くところの、『宇治大納言物語』の一節である。
今は昔越前守為時とて才有て世にめでたくやさしかりける人は、紫式部が親なり。此為時源氏はつくりたる也。こまかなる事どもを娘にかかせたりけるとぞ。后の宮此事をきこしめして、むすめを召出しける。此源氏作たる事様々に申伝へたり。参りて後つくりたるなりとも申、いづれかまことならん。
これによると紫式部を作者とする伝説は存していたが、しかし作者についての確説は立っていなかったことがわかる。『紫式部日記』に見ても、彼女が才を包もうとしたのはただ「漢文学の知識」についてのみであって、和文の物語の作者であることはさほどの誇りでもなくまた名誉でもなかったらしい。従って物語の作者については、世人はさほど厳密に記憶しようとはしなかったと考えられる。またこの物語が純然たる彼女の独創であるか、あるいは以前の物語によったか、あるいは後人が加筆したか、というようなことも詳しくは注意せられなかったのであろう。かく見れば紫式部はいかなる意味の作者であるかは疑わしくなる。ことに院政の初期まで一世紀の間に、いかに本文が変化し増大したろうかを考えれば、鎌倉時代の伝承の直ちに信ずべからざるは明らかである。
『源氏物語』の芸術的価値については、自分は久しく焦点を定め惑うていた。しかしこの物語の成立を右のごとき方針によって明らかにすることができれば、焦点の定め方もまた従って指示されることと思う。もし現在のままの『源氏物語』を一つの全体として鑑賞せよと言われるならば、自分はこれを傑作と呼ぶに躊躇する。それは単調である、繰り返しが多い。従って部分的に美しい場面も、全体の鈍い単調さの内に溺らされてしまう。古来この作が人々の心を捕えたのは、ここに取り扱われる「題材」が深い人性に関与するものなるがゆえであり、また所々にきわめて美しい場面があるからであって、必ずしもその描写全体が傑れているゆえではなかろう。我々はこの物語を読み行く際に、絶えず転換して現われてくる場面の多くが、描写において不十分であることを感ずる。どれか一つをでも、もう一歩突き込んで書いてほしいと思う。たとえば桐壺の更衣の愛と苦しみと死とが、もっと深く、十分に、描かれるならば、この一人の女の姿によって象徴されるところは、同じような境遇の女が同じような不十分さでもって十人二十人と描かれた場合よりも、さらに一層豊富であろう。その時に形式は一層簡素となり、意味は一層深まるであろう。しかるにこの作は、芸術の象徴的な機能を解せずしてすべてを語ろうとしいたずらに面を塗りつぶすのである。題材が大きいということは、この題材の取り扱い方が拙いということを、救う力は持っていない。しかしもしこの物語からある部分を抽き出して鑑賞するならば、すなわちこの物語のうちに或る短篇を読むならば、事情は変化する。描写の不十分も、繰り返しから切り放たれた時には、著しくその罪を減ずる。が、この場合に我々は、『源氏物語』全篇のうちに、描写の比較的巧妙な巻とまた著しく拙劣な巻とが混在することを注意しなくてはならぬ。
森鴎外氏は、『源氏物語』の文章がある抵抗に打ち勝たずしては理解せられないものであることを説き、「源氏物語は悪文だ」と言った松波資之氏の語をあげている(鴎外全集、一九、四三八ページ)。鴎外氏はこの語が必ずしも『源氏物語』を謗ったのではないことを言っているが、とにかく古来の学者の内にこの物語を悪文だと言った人があることを知るのは自分にとって心強い。確かに『源氏』の文章の晦渋は、作者の責任であって、我々が語学の力の不足のゆえにのみ感ずるのではない。このことは『枕草紙』との比較によっても明らかである。自分はこの晦渋の原因の重大な一つを描写の視点の混乱に認め得ると思う。たとえば「橋姫」のごときは、この混乱のために、不快な抵抗を感ぜずには読むことができない。作者は主格を省いて書きながら、作者の感想と、薫中将の心をもって見た情景と、姫君の心をもって見た情景とを、相接して並べるのである。早朝の庭に忍んで薫中将が姫君たちの様子に感嘆している。我々は薫の心持ちになってこの情景を感ずる。しかるに突如として作者がこの心持ちを批評する。我々は一度浸った心持ちからまた連れ出されねばならぬ。次いで薫に見られるとも知らないでいる姫君たちの恥ずかしがる気持ちが姫君の側から描かれる。我々は姫君の心持ちに引き入れられる。と、また作者が第三者としての言葉を入れる。再び我々は引き戻される。この段取りを頻々として繰り返しつつ描写は進むのである。我々はこの三つの立場のいずれかに自分の位置をとることなくしては、統一ある一つの世界を持つことができぬ。この点においては、『枕草紙』の中の写生文は、一つの視点によって見られた明快な世界の描写であるがゆえに、我々をして直ちにその美を感ぜしめるのである。
しかしこの物語の全体がすべて右のごとき調子で書かれているというのではない。巻ごとに、ある時はすべてを超越する客観的な立場が優越し、ある時は一つの場景全体が主人公の眼をもって見られることもある。そうしてその立場のとり方によって描写の技巧にも巧拙があると思う。客観的な立場から描かれるときは、ともすれば説明に堕ちて具体的な姿が浮かばない。桐壺などはそのよき例である。更衣がいかに人々に苦しめられたか、いかに悲しく死んで行ったかは、説明はされるが描かれてはいない。また紅葉賀の試楽なども、「上達部、皇子だちも皆泣きぬ」と書かれてはいるけれども、何ゆえ泣いたかを肯かせるような描写は何もない。『枕草紙』の試楽の夜の描写などで補って見なくては、この場の情景は明らかに浮かんで来ないのである。しかしこういう説明の間にはめ込まれた短い場景で、ある人物の視点から描写されるときには、かなり活き活きとした姿が浮かび上がってくると思う。若紫、花の宴、葵、賢木などの巻のうちには、そういういくつかの場面がある。もとよりこれらの描写にも視点の混乱がないとは言えぬが、それは比較的に軽微だと言ってよかろう。『源氏物語』の最も美しい部分は、筋を運ぶ説明によって連絡せられたこれらの個々の情景である。
もし我々が綿密に『源氏物語』を検するならば、右のごとき巧拙の種々の層を発見し、ここに「一人の作者」ではなくして、一人の偉れた作者に導かれた「一つの流派」を見いだし得るかも知れない。もしそのことが成功すれば、『源氏物語』の構図の弱さが何に基づくかも明らかとなり、紫式部を作者とする「原源氏物語」を捕えることもできるであろう。何人も認めるごとく、この物語に現われる主要な女の多くは、愛人の独占を欲するものである。そこから彼らの苦しみも生ずる。いかに多妻が公認せられる時代でも、恋に内在するこの独占の要求はいかんともし難い。従って主人公源氏は、その恋人のおのおのに対して、この独占の要求に応ずる態度を取らなくてはならぬ。しかも作者はこの主人公を、口先だけ優しい女たらしとしてではなく、真心から恋する男として描こうとする。従って恋人の数をふやすとともに、主人公の描写はますます困難の度を加える。現在の『源氏物語』は、この困難に押しつぶされている。源氏は一つの人格として描かれていない。その心理の動き方は何の連絡も必然性もない荒唐無稽なものである。しかし我々は「原源氏物語」に想到するとき、そこに幾人かの恋人に心を引き裂かれながらもなお一つの人格として具体的な存在を持った主人公を見いだすことができそうに思われる。それは自己を統御することのできぬ弱い性格の持ち主である。しかしその感情は多くの恋にまじめに深入りのできるだけ豊富である。従ってここに人生の歓びとその不調和とが廓大して現わされる。この種の主人公が検出せられたとき、『源氏物語』の構図は初めて芸術品として可能なものとなるであろう。
以上は『源氏物語』を研究するについての一つの方針であって、研究された結果ではない。綿密な研究の後にもあるいは、『源氏物語』が、古来言われている通り、紫式部一人の作であると結論されるかも知れない。しかし少なくともそれが、一時の作ではなくして徐々に増大されたものだ、という事だけは、証明されそうに思う。が、いずれにしても、現存の『源氏物語』をそのままに一つの芸術品として見るべきであるならば、それは傑作ではない。作者はここに取り扱われた種々の大きい題材を、正当に取り扱う力を持たない人である。これだけは明らかに断言していいと思う。
(大正十一年、十一月)
「もののあはれ」について
「もののあはれ」を文芸の本意として力説したのは、本居宣長の功績の一つである。彼は平安朝の文芸、特に『源氏物語』の理解によって、この思想に到達した。文芸は道徳的教誡を目的とするものでない、また深遠なる哲理を説くものでもない、功利的な手段としてはそれは何の役にも立たぬ、ただ「もののあはれ」をうつせばその能事は終わるのである、しかしそこに文芸の独立があり価値がある。このことを儒教全盛の時代に、すなわち文芸を道徳と政治の手段として以上に価値づけなかった時代に、力強く彼が主張したことは、日本思想史上の画期的な出来事と言わなくてはならぬ。
しからばその「もののあはれ」は何を意味しているのか。彼はいう(源氏物語玉の小櫛、二の巻、宣長全集五。一一六〇下)、「あはれ」とは、「見るもの、聞くもの、ふるゝ事に、心の感じて出る、嘆息の声」であり、「もの」とは、「物いふ、物語、物まうで、物見、物いみなどいふたぐひの物にてひろくいふ時に添ふる語」(同上一一六二上)である。従って、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」を「物のあはれ」を知るという(同上一一六二上)。感ずるとは、「よき事にまれ、あしき事にまれ、心の動きて、あゝはれと思はるゝこと」である、『古今集』の漢文序に「感鬼神」と書いたところを、仮名序に「おに神をもあはれと思はせ」としたのは、この事を証明する(同一一六一―六二)。後世、「あはれ」という言葉に哀の字をあて、ただ悲哀の意にのみとるのは、正確な用法とは言えない。「あはれ」は悲哀に限らず、嬉しきこと、おもしろきこと、楽しきこと、おかしきこと、すべて嗚呼と感嘆されるものを皆意味している。「あはれに嬉しく、」「あはれにをかしく、」というごとき用法は常に見るところである。ただしかし、「人の情のさま〴〵に感ずる中に、うれしきこと、をかしきことなどには、感ずること深からず、たゞ悲しきこと憂きこと恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずることこよなく深きわざなるが故に、しか深き方をとりわきて」、特に「あはれ」という場合がある。そこから「あはれ」すなわち「哀」の用語法が生まれたのである(同一一六一下)。
宣長の用語法における「物のあはれ」がかくのごとき意味であるならば、それは我々の用語法における「感情」を対象に即して言い現わしたものと見ることができよう。従って彼が、これを本意とする文芸に対して、哲理の世界及び道徳の世界のほかに、独立せる一つの世界を賦与したことは、時代を抽んずる非常な卓見と言わなくてはならぬ。
しかし彼は、文芸の本意としての「物のあはれ」が、よってもって立つところの根拠を、どこに見いだしたであろうか。それは何ゆえに哲理及び道徳に対してその独立を主張し得るのであるか。彼は文芸の典型としての『源氏物語』が、「特に人の感ずべきことのかぎりを、さま〴〵に書き現はして、あはれを見せたるもの」であると言った(同一一六二下)。そうしてこの物語をよむ人の心持ちは、物語に描かれた事を「今のわが身にひきあて、なずらへて」物語中の人物の「物のあはれをも思ひやり、おのが身のうへをもそれに比べ見て、物のあはれを知り、憂きをも思ひ慰むる」にあると言った(同一一四七上)。すなわち表現されたる「物のあはれ」に同感し、憂きを慰め、あるいは「心のはるゝ」(同一一五二上)体験のうちに、美意識は成立するわけである。が、表現された「物のあはれ」は、いかなる根拠によって「心をはれ」させ、「うきを慰める」のであるか。また晴れた心の清朗さ、慰められた心の和やかさは、憂きに閉じた心よりもはるかに高められ浄められていると見てよいのであろうか。よいとすれば、表現された「物のあはれ」は、何ゆえに読者の心を和らげ、高め、浄化する力を持つのであるか。これらの疑問を解くことなくしては、「物のあはれ」によって文芸の独立性を確立しようとする彼の試みは、無根拠に終わると言われなくてはならぬ。
彼がここに根拠づけとして持ち出すものは、「物のあはれ」が「心のまこと」「心の奥」であるという思想である。彼は、「道々しくうるはしきは皆いつはれる上面のことにて、人のまことの情を吟味したるは、かならず物はかなかるべき」ゆえん(石上私淑言下。全集五。五九〇―九一)を説いて、人性の根本を「物はかなくめゝしき実の情」に置いた。すなわち彼にとっては、「理知」でも「意志」でもなくてただ「感情」が人生の根柢なのである。従って、表現された「物のあはれ」に没入することは、囚われたる上面を離れて人性の奥底の方向に帰ることを意味する。特に彼が典型と認める中古の物語は、「俗の人の情とははるかにまさりて」、「こよなくあはれ深き」、「みやびやかなる情」のかぎりを写している(玉の小櫛、全集五。一一九八―九九)。ゆえに、これを読む人の心には、その日常の情よりもはるかに高い、浄められた、「物のあはれ」がうつってくるのである。
かくして前の疑問は、彼の「人情主義」の立場から解かれている。が、かく「物のあはれ」を根拠づけるとともに、「物のあはれ」をば単に感情を対象に即して言い現わしたものとのみ見ることは許されなくなる。もとより「物のあはれ」はその領域としては「人の感ずべき限り」を、すなわち広さにおいては、単に官能的のみならず道徳的宗教的その他一切の感情を、――たとえば人の品位に感じ仏心の貴さにうたれるというごときことをも、――また深さにおいては、およそ人間の感受力の能う限りを、包括しなくてはならない。しかし最初に定義したごとくいかなる感情も直ちにそのままに「物のあはれ」と見らるべきであるとすれば、右のごとき「物のあはれ」の浄化作用は解き難いものとなるであろう。そこで彼は、(ここに説くごとき論理的必要によってではないが、)「物のあはれ」に性質上の制限を加える。
(一) 人としては感情なきものはない。しかし彼は「物のあはれ知らぬもの」を認める。その一例は法師である。出家の道は「物のあはれを知りては行ひがたきすぢなれば、強ひて心強く、あはれ知らぬものになりて、行ふ道」(全集五。一一六五)であるゆえに、法師が真に法師である限り、彼は「あはれ」知らぬものである。この意味では、「物のあはれ」は世間の人情に即するものと解せられなくてはならぬ。また他の一例は夫たる帝が悲嘆に沈まれているにかかわらず、お側にも侍らで、月おもしろき夜に夜ふくるまで音楽をして遊ぶ弘徽殿のごとき人である(同一一六四)。もとより彼女は喜びあるいは苦しむ心を持たぬ人ではない。彼女が帝の悲嘆に同情せぬのは、その悲嘆が彼女の競争者たる他の女の死に基づくゆえである。しかしたとい、その悲嘆さえもが彼女の嫉妬を煽るにしろ、その嫉妬のゆえに心を硬くして、夫の苦しみに心を湿らさぬ女は、「物のあはれ」を知るとは言えない。この例によって見れば、「物のあはれ」は単に自然的な感情ではない。(たとえば嫉妬のごとき。)むしろある程度に自然的な感情を克服した、心のひろい、大きい、同情のこころである。
(二) 「物のあはれ知り顔をつくりて、なさけを見せむ」とするのは、まことに「あはれ」を知るのではない(同一一六六上)。すなわちここでは感情の誇張を斥ける。感情が純でなくては「物のあはれ」と言えぬ。
(三) 「物のあはれを知り過す」のも「物のあはれ」を知るのでない(同一一六六下)。この「知り過す」というのは、深く知る意ではなく、さほどに感ずべきでないことにもさも感じたようにふるまって、そのために、深い体験を伴なうべきことも軽易に、浮か浮かと経験して通ることである。従ってその経験は多岐であっても、内容は浅い。たとえば移り気に多くの女を愛するものは、「なさけあるに似たれども然らず。まことには物のあはれ知らざるなり。……これをもかれをもまことにあはれと思はざるからにこそはあはれ」(同一一七〇下)。一人を愛する心の深さを知らぬものが、すなわちまことに「物のあはれ」を知らぬものが、多くの人に心を移すのである。これは感傷や享楽的態度を斥けた言葉と見られるであろう。従って「物のあはれ」は、感傷的でない、真率な深い感情でなくてはならぬ。
これらの制限によって、「物のあはれ」は、世間的人情であり、寛い humane な感情であり、誇張感傷を脱した純な深い感情であることがわかる。従って「物のあはれ」を表現することは、それ自身すでに浄められた感情を表現することであり、それに自己を没入することは自己の浄められるゆえんであることもわかる。かくて彼が古典に認める「みやび心」、「こよなくあはれ深き心」は、我らの仰望すべき理想となる。
しかし彼は果たして理想主義を説いているであろうか。「物はかなきまことの情」が人生の奥底であり、そうして「物のあはれ」が純化された感情であるとすれば、その純化の力は人性の奥底たるまことの情に内在するのであるか。すなわち人性の奥底に帰ることが、浄化であり純化であるのか。言い換えれば、彼のいわゆる人性の奥底は真実の Sein であるとともに Sollen であるのか。彼はこの問題に答えておらぬ。彼が「物のあはれ」を純化された感情として説く典拠は、『源氏物語』に散見する用語例である、従って結局は紫式部の人生観である。しかし彼は紫式部の人生観がいかなる根拠に立つかを観察しようとはしない。紫式部は彼にとって究竟の権威であった。彼はただ紫式部に従って、『源氏物語』自身の中から『源氏物語』の本意を導き出し、それをあらゆる物語や詩歌の本意として立てた。我々はここに彼の究竟の、彼の内に内在して彼の理解を導くところの、さらに進んでは紫式部を初め多くの文人に内在してその創作を導いたところの、一つの「理念」が反省せられているのを、見いだすことはできぬ。
かくのごとく彼自身はこのことを説いていないのであるが、しかし彼の言葉から我々は次のごとく解釈し得る。彼のいわゆる「まごころ」は、「ある」ものでありまた「あった」ものではあるが、しかし目前には完全に現われていないものである。そうして現われることを要請するものである。従ってそれは十分な意味において理想と見られてよい。彼が人性の奥底を説くとき、それは真実在であるとともにまた当為である。そのゆえに、あの「みやび心」は、――「まごころ」の芸術的表現は、――現わされたる理想としての意義を持つのである。
我々はこの宣長の美学説に相当の敬意を払うべきである。ある意味では、推古仏のあの素朴な神秘主義を裏づけるものは、宣長の意味での「物のあはれ」だと言えなくはない。白鳳天平のあの古典的な仏像やあの刹那の叫びたる叙情詩についても同様である。鎌倉時代のあの緊張した宗教文芸、哀感に充ちた戦記物、室町時代の謡曲、徳川時代の俳諧や浄瑠璃、これらもまた「物のあはれ」の上に立つと言えよう。しかし我々は、これらの芸術の根拠となれる「物のあはれ」が、それぞれに重大な特異性を持っていること、そうして平安朝のそれも他のおのおのに対して著しい特質を持つことを見のがすことができない。これらの特異性を眼中に置くとき、特に平安朝文芸の特質に親縁を持つ「物のあはれ」という言葉を、文芸一般の本意として立てることは、あるいは誤解を招きやすくはないかと疑われる。
我々は宣長が反省すべくしてしなかった最後の根拠を考えてみなければならぬ。宣長は「もの」という言葉を単に「ひろく言ふ時に添ふる語」とのみ解したが、しかしこの語は「ひろく言ふ」ものではあっても「添ふる語」ではない。「物いう」とは何らかの意味を言葉に現わすことである。「物見」とは何物かを見ることである。さらにまた「美しきもの」、「悲しきもの」などの用法においては、「もの」は物象であると心的状態であるとを問わず、常に「或るもの」である。美しきものとはこの一般的な「もの」が美しきという限定を受けているにほかならない。かくのごとく「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。限定せられた何ものでもないとともに、また限定せられたもののすべてである。究竟の Es であるとともに Alles である。「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」――「もの」が限定された個々のものに現わるるとともにその本来の限定せられざる「もの」に帰り行かんとする休むところなき動き――にほかならぬであろう。我々はここでは理知及び意志に対して感情が特に根本的であると主張する必要を見ない。この三者のいずれを根源に置くとしても、とにかくここでは「もの」という語に現わされた一つの根源がある。そうしてその根源は、個々のもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に引く。我々がその根源を知らぬということと、その根源が我々を引くということとは別事である。「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。歓びも悲しみも、すべての感情は、この思慕を内に含む事によって、初めてそれ自身になる。意識せられると否とにかかわらず、すべての「詠嘆」を根拠づけるものは、この思慕である。あらゆる歓楽は永遠を思う。あらゆる愛は永遠を慕う。かるがゆえに愛は悲である。愛の理想を大慈大悲と呼ぶことの深い意味はここにあるであろう。歓びにも涙、悲しみにも涙、その涙に湿おされた愛しき子はすなわち悲しき子である。かくて我々は、過ぎ行く人生の内に過ぎ行かざるものの理念の存する限り、――永遠を慕う無限の感情が内に蔵せられてある限り、悲哀をば畢竟は永遠への思慕の現われとして認め得るのである。それは必ずしも哲学的思索として現われるのみでない。恋するものはその恋人において魂の故郷を求める、現実の人を通じて永遠のイデアを恋する。恋に浸れるものがその恋の永遠を思わぬであろうか。現実の生において完全に充たされることのない感情が、悲しみ、あえぎ、恋しつつ、絶えず迫り行こうとする前途は、きわまることなき永遠の道である。人生における一切の愛、一切の歓び、一切の努力は、すべてここにその最深の根拠を有する。「もののあはれ」が人生全般にひろまるのは、畢竟このゆえである。
かく見ることによって我々は、「物のあはれ」が何ゆえに純化された感情として理解されねばならなかったかのゆえんを明らかに知ることができる。「物のあはれ」とは、それ自身に、限りなく純化され浄化されようとする傾向を持った、無限性の感情である。すなわち我々のうちにあって我々を根源に帰らせようとする根源自身の働きの一つである。文芸はこれを具体的な姿において、高められた程度に表現する。それによって我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざる永遠のものの光に接する。
が、また右の理解とともに我々は、「物のあはれ」という言葉が、何ゆえに特殊のひびきを持つかのゆえんをも理解することができる。永遠への思慕は、ある時代の精神生活全体に規定され、その時代の特殊の形に現われるものであって、必ずしも「物のあはれ」という言葉にふさわしい形にのみ現われるとは限らぬ。愛の自覚、思慕の自覚の程度により、あるいは、愛の対象、思慕の対象の深さいかんにより、ある時は「物のあはれ」という言葉が、率直で情熱的な思慕の情の直接さを覆うおそれがあり、またある時は、強烈に身をもって追い求めようとする思慕のこころの実行的な能動性を看過せしめるおそれがある。「物のあはれ」という言葉が、その伴なえる倍音のことごとくをもって、最も適切に表現するところは、畢竟平安朝文芸に見らるる永遠の思慕であろう。
平安朝は何人も知るごとく、意力の不足の著しい時代である。その原因は恐らく数世紀にわたる平和な貴族生活の、眼界の狭小、精神的弛緩、享楽の過度、よき刺激の欠乏等に存するであろう。当時の文芸美術によって見れば、意力の緊張、剛強、壮烈等を讃美するこころや、意力の弱さに起因する一切の醜さを正当に評価する力は、全然欠けている。意志の強きことは彼らにはむしろ醜悪に感ぜられたらしい。それほど人々は意志が弱く、しかもその弱さを自覚していなかったのである。従ってそれは、一切の体験において、反省の不足、沈潜の不足となって現われる。彼らは地上生活のはかなさを知ってはいる、しかしそこから充たされざる感情によって追い立てられ、哲学的に深く思索して行こうとするのではない。また彼らは地上生活の愉悦を知ってもいる、しかし飽くことなき楽欲に追われて、飽くまでも愉悦の杯をのみ干そうとする大胆さはない。彼らは進むに力なく、ただこの両端にひかれて、低徊するのみである。かく徹底の傾向を欠いた、衝動追迫の力なき、しかも感受性においては鋭敏な、思慕の情の強い詠嘆の心、それこそ「物のあはれ」なる言葉に最もふさわしい心である。我々はこの言葉に、実行力の欠乏、停滞せる者の詠嘆、というごとき倍音の伴なうことを、正当な理由によって肯くことができる。
かくて我々は「物のあはれ」が、平安朝特有のあの永遠の思慕を現わしているのを見る。我々はそれを特性づけて、「永遠への思慕に色づけられたる官能享楽主義」、「涙にひたれる唯美主義」、「世界苦を絶えず顧慮する快楽主義」、あるいは言い現わしを逆にして、「官能享楽主義に囚われた心の永遠への思慕」、「唯美主義を曇らせる涙」、「快楽主義の生を彩る世界苦」等と呼ぶことができよう。
本居宣長は「物のあはれ」を文芸一般の本質とするに当たって、右のごとき特性を十分に洗い去ることをしなかった。従って彼は人性の奥底に「女々しきはかなさ」をさえも見いだすに至った。これはある意味では「絶対者への依属の感情」とも解せられるものであるが、しかし我々はこの表出にもっと弱々しい倍音の響いているのを感ずる。永遠の思慕は常に「女々しくはかなき」という言葉で適切に現わされるとは考えられない。『万葉』におけるごとき朗らかにして快活な愛情の叫び、悲哀の叫び。あるいは殺人の血にまみれた武士たちの、あの心の苦闘の叫び。あるいはまた、禅の深い影響の後に生まれたあの「寂び」のこころ。それらを我々は「女々しくはかない」と呼ぶことはできぬ。もとよりここにも「物のあはれ」と通ずるもののあることは明らかである。なぜならそれらはともどもに永遠の思慕の現われであるから。しかし力強い苦闘のあとを見せぬ、鋭さの欠けた、内気な、率直さのない、優柔なものとして特性づけられる「物のあはれ」は、――すなわちこの意味での本来の「物のあはれ」は、厳密に平安朝の精神に限られなくてはならぬ。
「物のあはれ」をかく理解することによって、我々は、よき意味にもあしき意味にも、平安朝の特殊な心に対して、正当な評価をなし得ようかと思う。それは全体として見れば、精神的の中途半端である。求むべきものと求むる道との混乱に苦しみつつ、しかも混乱に気づかぬ痴愚である。徹底し打開することを知らぬ意志弱きものの、煮え切らぬ感情の横溢である。我々はいかにしてもここに宣長のいうごとき理想的な「みやび心」を見いだすことができぬ。しかしまた我々は、この中途半端の現実を通して、熱烈に完全を恋うる心のまじめさをも疑うことができぬ。彼らの眼界の狭小、実行力の弱さは、言わば彼らにとっては宿命であって、必ずしも彼らに責任を負わすべきものでない。この宿命の範囲内においては彼らは、その細やかな感受性をもって、感ずべき限りを感じ、恋うべき限りを恋うた。このまじめさが彼らの享楽主義をして、叛逆的な気分や皮肉な調子に染まざらしめたのである。我々はこの点に彼らの功績を認めてよい。
なおこの点を考察するについては、平安朝文芸における婦人の功績を見落としてはならぬ。平安朝盛期の傑作と目すべきものは、すべて皆婦人の作である。すなわち婦人がこの時代の精神を代表するのである。従って我々はかの「物のあはれ」と女の心との密接な関係に想到せざるを得ない。
数多く描かれた恋愛の物語を通じて、我々は次のごとく言うことができる、この時代の男は女よりもはるかに肉的である、しかもそこに万葉人に見るごとき新鮮な、率直な緊張はなく、弛んだ倦怠の情に心を蝕まれている、と。彼らの生活の内容をなすものは、官能的な恋かしからずば権勢である。しかも彼らは恋においても権勢においても、その精神的向上に意を用いることがない。しかるに女は、恋を生命としつつ、しかも意志弱き男の移り気に絶えず心を掻き乱される。彼らが恋において体験するところは、はるかに切実であり、はるかに深い。彼らはここに総じて人生の意味価値を思量し、永遠への思慕に根ざす烈しい魂の不安を経験する。かくて彼らの精神は、緊張し、高まり、妊み、そうして生産するのである。明らかに女らは、精神的に言って、男よりも上に出ている。しかし女らには、このより高い立場から男を批評する眼は開けなかった。彼らにとっては、現前の男が畢竟男であった。従って彼らは、この与えられた男において、すなわち彼らの求むるものの存しないところに、彼らの求むるものを捜した。ここに彼らの哀感の特殊な魅力がある。彼らは官能的なる一切のものを無限の感情によって凝視し、そうしてそこに充たさるることなき渇望を感ずるのである。
我々は彼らの製作に横溢するあのはかなさ、「あはれさ」の裏に、右のごとき背景の存することを忘れてはならぬ。「物のあはれ」は女の心に咲いた花である。女らしい一切の感受性、女らしい一切の気弱さが、そこに顕著に現われているのは当然であろう。しかも女が当時の最も高き精神を代表するとすれば、この女らしい「物のあはれ」によってこの時代の精神が特性づけられるのもまたやむを得ない。
かく見ることによってまた我々は、平安朝の「物のあはれ」及びその上に立つ平安朝文芸に対しての、我々の不満をも解くことができる。言い古されたとおり、それは男性的なるものの欠乏に起因する。しかもこれらの感情や文芸を生み出した境位は、まさにその男性的なるものの欠乏なのである。我々は魅力の湧き出るちょうどその源泉に不満の根源を見いださねばならぬ。
(大正十一年、九月)
沙門道元
一 序言
自分は沙門道元の人格と思想とを語るに当たって、最初にまず自分が「禅について門外漢であること」と、ただ単に「道元に対する驚嘆を語るに過ぎないこと」とを断わっておきたい。自分はただ自分が彼の真面目と感ずるところを書き現わすのみである。それによってある人々の内に我々の祖国が生んだ一人の偉大な宗教家への関心を喚び起こし、我々の文化の本質がこの種の宗教家を顧慮せずしては正しく理解せられるものでないことを明らかにし得れば、自分は満足する。
が、ここに問題がある。(一)禅について門外漢であるお前が、特に坐禅を力説した道元を理解するということは可能であるか。自ら揣らずして高きもの深きものを捕えようとするお前は、畢竟その高きもの深きものを低くし浅くするのではないか。(二)また、たといある程度に理解し得たとしても、偉大な宗教家の人格とその顕現した真理とを、文化史的理解に奉仕せしめようとするとは何の謂いであるか。一切のものの「根柢」としてある宗教の真理が受け容れられた時に、文化史的理解が何であるか。総じてお前の「世の智慧」をもってする一切の理解が何であるか。お前がもし宗教の真理を得たとすれば、お前は究竟に達したのである。人類のさまざまの迷いや願望や、歓びや苦しみ、それを通じて過去の人類の道を見いだそうとする文化史的理解のごときは、もはや何の用もない。しかるになおそこに執する心を保っているとすれば、お前は畢竟宗教の真理に触れていないのである。
この二つの抗議は確かに正しい。しかしそれが正しいことは直ちに自分の労作を無意義にするものでない。自分はこれらの抗議に対しておのおの答えるところを持っている。
もし道元の真理が純粋に直伝さるべきものであるならば、何ゆえに彼はその多量な説教の書を書き残したか。
言うまでもなく彼はそれによって彼の真理を伝え得ると信じたからである。彼自身は修行の際に語録を読むことをやめて専心に打坐した。しかし打坐を重んずることは言葉による表現と背馳するものではない。「邪師にまどはされ」ているもののために「仏家の正法を知らしめん」として、彼は『正法眼蔵』を書き始めた。また「頌につくらずとも心に思はんことを書き出し、文筆ととのはずとも法門を書くべき」ことを説いて、「理だにも聞えたらば、道のためには大切なり」と言い切った。しからば与うるものの側においては、一切の論理的表現もまた可能とせられているのである。
しからば我々は彼の説教書を読む場合に、いかにして彼の真理をうくべきであるか。
彼の指示するところによれば、直下承当の道は、参師問法と工夫坐禅とである。今我々は彼の著書あるいは語録を読んでいる。そこに、行と行との間に、彼の強い人格が躍如として現われている。すなわち我々は彼に参ずることができるのである。そうして我々が彼に法を問えば、彼はその残した言葉の範囲において我々に答える。が、我々はこの言葉を理解し得るために工夫し坐禅しなくてはならない。よろしい、我々は坐禅し冥想する。草庵樹下を択ばない彼の精神より言えば、それが禅堂であると我々の書斎であるとは問う要はない。かくして我々は現在の禅寺と禅僧とに、――不浄なる寄付によって建てられた寺院と、堂塔の建立に腐心しあるいは政治家、資本家の「都合よき」師となりあるいは仏教学に秀でんと努力するごとき僧侶とに、――近づくことなくして参師問法し工夫坐禅することができる。現時の禅宗の門に入ることが必ずしも道元の真理をうくる唯一の道ではない。あるいは、語を強めて言えば、現時の禅宗の門に入ることはかえって道元から遠ざかるゆえんである。なぜなら道元を宗祖とするある宗派においては、今はもはや真理王国の樹立を唯一の関心事とせず、巨大なる堂塔の建立と管長なるものの選挙とに力をつくしているのだからである。聞くところによればかつてその管長であったある僧侶は近代まれに見る高僧であったそうである。恐らく彼はその坐禅工夫によって大悟徹底した人であろう。従って彼が、宗教家にとってきわめて多事であるべき現代にあって、堂塔建立というごとき閑事業にその精力を注ぐことは、――あるいは彼が五分をも要しない簡単な揮毫のために少なからぬ報酬を要求することは、(この種のことは彼の意志ではないかも知れない、しかし彼の近侍の者がこの種の商人的態度をもって一種の「喜捨」を強要するとすれば、彼はその責めを負わなくてはならぬ、)すべてこれらのことは彼の体得した真理の流露であろう。しかしここに体得せられた真理が、堂塔の建立に腐心することを唾棄し、一切の財欲を排斥した道元の真理と同一であるはずはない。いかに彼が高僧であったにもせよ、我々は彼に近づくことによって道元の真理を遠ざからなくてはならぬ。道元の真理をうくることを関心事とする以上は、この種の僧侶が「高僧」であるところの現時の寺院には、近づいてはならない。
しかしながら、参師問法と工夫坐禅とが門外にあって可能であるとしても、それは直ちに我々が道元の真理をうけ得るということにはならない。我々は道元の説くほどの強烈な覚悟をもって真理に身を投げかけているか。彼の説くほどの強烈な決意をもって工夫し坐禅しているか。これのみが我々の体得の真偽を決定するのである。道元の言葉を論理的に理解することはさほど困難でない。しかしそれを体得することは、道元の深さに比例してむずかしい。自分は正直に白状する、自分はまだ「それ」を得たという確信に達していない。しかしこのことは門外にあって彼の道を得ることが可能でないという証拠ではない。自分がそれを得ないのは自分の覚悟が足りないからである。それを足りさせる方法は、ただ自分の内にのみあって、門内に入ることにはない。
しからば門外にあって彼の道を得ることは覚悟一つで可能である。しかしこの可能性は何ら自分の助けにはならない。自分は、彼の真理を得ていないのである。その自分が彼について説くことは越権の譏りを免れぬではなかろうか。
自分はそうは思わない。彼の言葉のうちにも自分が自信をもって「解し得たり」と感ずるものがある。門内の人の注釈を読んで、自分の意見との一致を認めることもあれば、あるいはその注釈の浅薄に気づく場合もある。自分はこれらの点について「説いてはならない」とは考えることができぬ。もとより自分は「解し得た」だけを自分の生活に実現し得たとは言わない。たとえば、自分は彼が「衣糧に煩ふな」と言い、「須く貧なるべし、財おほければ必ずその志を失ふ」と言った心持ちを解し得たと信ずる。これらは「一日の苦労は一日にて足れり」「往きて汝の有てる物をことごとく売りて、貧しき者に施せ。さらば財宝を天に得む」「富めるものの神の国に入るはいかに難いかな」というごとき言葉とともに、唯一なる真理を体得した人の自由にして清朗なる心境、その心境に映った哀れな人間の物欲を、叱責しつつ憐れみ嘆く心、の表現である。自分はその心を理解し、その心境に憧憬する。しかし自分は人並みの暮らしをするために明日を煩い、わずかながらも財を貯え、また財を得るための努力をする。もし我々が自己の生活に実現し得たものでなければ説いてはならないのであるならば、自分は道元のあの言葉を説くべきでない。が、自分はこの憧憬のゆえに、この理想のゆえに、これらの言葉を讃嘆してよいと考える。またこの言葉を讃嘆する権利において、大悟徹底した現時の禅僧に劣るとも思わない。彼らもまた我々以上に財を貯え、あるいは「生活の保証」を求めている。彼らは恐らく「貧なるべし」という言葉に「捕われてはいけない」と悟っているのであろう。が、この悟りそれ自身の価値は別として、この悟りのゆえに「貧」を説く心が我々においてよりも一層よく理解せられているとは思えない。
自分は、理解の自信を持ち得ない道元の真理そのものについて、自分の解釈が唯一の解釈であると主張するわけではない。しかし少なくともここに新しい解釈の道を開いたという事は言ってもよいであろう。それによって道元は、一宗の道元ではなくして人類の道元になる。宗祖道元ではなくして我々の道元になる。自分があえてかかる高慢な言葉をいうのは、宗派内においてこれまで道元が殺されていたことを知るからである。在来の道元の伝記のうち、『元亨釈書』及び『本朝高僧伝』に載するところは、明治大正の歴史書に載するところの簡単にして無意義なる叙述とともに、単に彼の生活の重大ならざる輪郭を伝えたに過ぎぬ。ただ一つ詳細なる伝記として彼の宗派の伝える『道元和尚行録』も、ほとんど道元の人格を理解せざる者の手に成ったように見える。それに拠ったらしい道元伝が永平寺蔵版の道元全集巻頭に付せられているところを見ると、この宗派の高僧たちも宗祖に対するかくのごとき侮辱を寛容するほどに悟りを開いているらしい。しかし自分は、道元の言葉に驚嘆すればするほど、このばかばかしい伝記に対して憤りを感ぜずにはいられない。ここには道元の高貴なる人格的生活は看過され、その代わりにあらゆる世間的価値と荒唐なる奇蹟とが彼を高貴にするために積み重ねられている。もとよりこれらの伝記は、真実に道元の著書に親しむものにとっては、何の害にもならないであろう。しかしこの偉大な宗教家の伝記がこのような形でのみ製作せられていたという事実は、道元に対する理解がその宗派内においてさえもいかに乏しかったかを最も雄弁に語るものである。
禅門に入る人々は彼ら自身の悟りを目的とする。道元に対する歴史的理解のごときは第一義の問題でない。かく抗弁する人があるかも知れない。が、しからば彼らは何ゆえに「彼」を宗祖とするのであるか。何ゆえに彼の人格を核として集団を作るのであるか。彼の人格を核として集まり、しかも彼の人格に対する正しい理解を持とうとしないということは、正直な人間のすべきことでない。
――これらのさまざまな理由から、自分は門外漢として道元を説くことの、必ずしも無意義でないことを主張する。これが第一の抗議に対する自分の答弁である。
第二の抗議に対しては自分はまず二つの問いを提起する。人類の持った宗教が単一の形に現われずしてさまざまの「特殊な形」に現われるのは何ゆえであるか。またその特殊の形に現われた宗教が「歴史」を持つのは何ゆえであるか。
宗教の真理はあらゆる特殊、あらゆる差別、あらゆる価値をしてあらしむるところの根源である。それは分別を事とする「世の智慧」によってはつかまれない。ただ一切分別の念を撥無した最も直接なる体験においてのみ感得せられる。人はその一切の智慧を放擲して嬰児のこころに帰ったときに、この栄光に充ちた無限の世界に摂取せられるのである。――自分はこのことを自証したとは言わない。しかし自分はそれを予感する。そうしてしばしば「知られざるある者」への祈りの瞬間に、最も近くこの世界に近づいたことを感ずる。しかもそれは、世の智慧を離脱し得ない自分にとっては、確固たる確信の根とはならないのである。自分がそれをつかもうとするとき、確かにそこには一切の「根源」がある。それは自分の生命でありまた宇宙の生命である。あらゆる自然と人生とを可能にするところの「一つ」の大いなる命である。それは永遠なる現在であり、この瞬間に直感せられ得るものである。が、かく理解せられたものは、祈りの瞬間に感ぜられるあの暖かい、言うべからざる権威と親しみとを持った「あのもの」ではない。自分の「あのもの」は、「アバ父よ、父には能はぬことなし」というごとき言葉に、「御意のままをなし給へ」という言葉に、はるかに似つかわしい表現を得る。しかしこれらの言葉の投げかけられたあの神は、自分の神ではない。「あのもの」は畢竟知られざるある者である。
自分はロゴスの思想に共鳴を感ずる。不断に創造する宇宙の生命の思想にも共鳴を感ずる。時にはかくのごとき全一の生がたとえば限りなく美しい木の芽となって力強く萌えいでてくる不思議さに我れを忘れて見とれることもある。しかしこの種の体験は自分の内に真理を植えてはくれない。自分の求めるのは「御意のままに」という言葉を全心の確信によって発言し得る心境である。「知られざるある者」が「知られたる者」に化することである。イエスが神を信じたごとくに自分のある者を信じ得ることである。自分は永い間それを求めた。しかし現代の「世の智慧」に煩わされた自分にとって、このことはきわめて困難なのである。
この種のこころにとって唯一絶対なる宗教の真理が、苦しみつつ追い求める最高の価値として感ぜられるのに何の不思議があろう。その真理の内に生きる人にとっては、それは相対的に位置づけられた「価値」なるものではないかも知れない。しかしそれを得ようとするものにとっては、たとい価値のなかの価値であるにしても、とにかく価値であることを失わない。
我々は在来の宗教をかくのごとき求める者の立場から観察するとき、そこに宗教的真理の特殊な表現のみあって、宗教的真理そのものの存しないことを、涙する心によってうなずくことができる。人々は追い求めた。人々は直感した。そうしてその心の感動をその心に即して現わした。彼の直感したものは絶対のものであろう。しかし彼の心の感動は彼の心が特殊である限り特殊であらざるを得ない。かくして絶対者は常に特殊の形に現わされる。その特殊の形が永遠にして神的なる価値を担うのは、それが絶対者を現わすゆえである。しかしそれが絶対者を現わすにかかわらず常に特殊の形であるところに我々は、追求し苦しみ喜んだ人々の、価値を求めてあえいだ心を感ずることができる。
もとより我々がある一つの宗教を「特殊な形」と認めることは、その宗教の信者にとっては許されないことであろう。たとえばキリストを信ずる者にとっては、キリスト教は「特殊な形」ではなくして絶対的宗教である。彼らはナザレのイエスが、旧約聖書の内に神の約したキリストであり、神の子であり、そうして人間救済のために多くの苦難を受け、十字架につけられ、三日目に甦ったことを信ずる。(この歴史的事実を信ぜざるものは、キリストを信ずるのではない。キリストを単に偉人あるいは宗教的天才と見て、神の子であることをただ象徴的にのみ解するのは、全然別の立場である。)パウロはキリストを信じた。キリストの十字架は彼にとって絶対的真理であった。彼が「世の智慧」を斥けて「神の智慧」を説くのは、この真理を受けしめんがためであって、究竟の一、あるいは無念の真如を受けしめんがためではない。人格的なる神、エリヤとモーセをイエスに遣わした神、雲より声を出して「これはわが愛しむ子なり、汝らこれに聴け」と命じた神、その神が「死人の復活により大能をもて神の子と定め」たイエス・キリスト、「神に立てられて汝らの智慧と義と聖と救贖とになれる」イエス・キリスト、――これこそ彼の宗教の根本直観、根本事実である。彼にとってはこの事のほかに何らの真理も奥義もない。
が、我々はパウロにとって直観的なこれらの事象を純粋に象徴的に解する場合にも、なおそこに限りなき深さを感ずる。自分は雲よりいづる神自身の物理的な声を信ずることができない。しかし祈りの対象たる「知られざるある者」が人格的なるある者であること、すなわちそれが絶対者でありながらしかも個性的なものであることは――自分を包摂しつつしかも自分と対するものであるということは、理解し得るように思う。従ってこのある者が聖霊によってある人を神的に高め、その高められた人がわれらの智慧と義と聖と救贖とになったことも、信ずることができる。しかしここには明らかにキリストを唯一の救いとする信仰は失われている。キリストは人に貶される。キリストのほかにもキリストと意味を同じくする多くの聖者が認容せられる。たとえば我々は親鸞においても聖霊によって高められた一人の仲保者を認め得よう。雲より声を出す神と浄土に坐する阿弥陀仏とがその直観的な姿においてはなはだしい相違を示すにかかわらず、神を愛なりとする直観においては両者はきわめて近い。我々はキリストを信ずることによって親鸞を斥けることはできぬ。従ってキリスト教を絶対的宗教と見ることもできぬ。
ここにおいて我々はいくつかの真実の宗教を認めざるを得ない。それらは根をひとしくするゆえに、すなわちともに絶対者を現わすゆえに、すべて永遠にして神的である。しかし我々はこれらをともに認めることによって、これらの信仰のいずれにも属することができない。我らは新しく神を求めるのである。キリストの神、親鸞の仏をすべて象徴的表現と見、それらのおのおのに現わされてしかも現わしつくされない神を求めるのである。(それは自分にとって知られざるある者である。)が、キリストにとっても親鸞にとっても、彼らの神と仏とは我々の意味する「象徴」ではなかった。彼らはその直観せる姿において神と仏との実在を信じた。我々はここに「特殊な形」を感ぜずにはいられない。
かくのごとき観察によって自分は、宗教的真理がただ特殊な形にのみよって現わされるという。一切の宗教は、この絶対の真理を直感したある特殊な人格のまわりに、この真理を願望する無数の心を吸い寄せ、そこにその時代特殊の色をつけつつ結晶したものである。そこに直感され願望された真理が絶対のものであるにしても、人の心が十全のものではなく時代の特性と個人の性格とによって特殊である限りは、この結晶は特殊であることを脱れない。
かく見れば個々の宗教が「歴史」を持つこともまた理解しやすい。宗教の真理が本来永遠にして不変なる「一切の根源」であることと、特殊な形にしか現われない現実の宗教が必ず歴史的に変遷することとは、何ら矛盾するものでない。いかなる宗教においても宗祖、あるいは新しい運動の創始者は、その説くところの真理を究竟のものとして与える。従って彼の立場からはこの真理の歴史的開展というごときことは許されない。しかし歴史は、これらの真理がただ特殊な形にのみ現われていること、従って時代とともに他の特殊に移り行くことを実証する。古きキリスト教がすでに第四福音書に至っていかに重大な変化を受けたか。同じき釈迦の教えが時代とともにいかに雑多な経典を産み出したか。これらのことは既成の宗教を宗教的真理そのものと混同することによっては決して理解されないであろう。
自分の提出した問いをかく答えることによって、第二の抗議への答弁は容易にされる。既成の宗教をすべて特殊な形と見、その宗教の内に歴史的開展を認めることは、畢竟宗教を歴史的に取り扱うことである。我々はこの態度のゆえにいずれかの一つの宗教に帰依することはできぬ。しかしいずれの宗教に対してもその永遠にして神的なる価値を看過しようとはしない。いわんや一切のものの根源たる究竟の真理を文化体系に服属せしむるのではない。もし我々が既成の宗教のいずれかにおいて一切のものの根柢たる絶対の真理を受けることができれば、その時我々にとってこの宗教は「特殊な形」ではなくなり、一切の歴史的開展は無意義となるであろう。しかし我々が既成の宗教のいずれにも特殊な形に現われた真理を認め、しかもそのいずれにも現わしつくされていない「ある者」を求めるならば、我々は宗教の歴史的理解によってこの「ある者」を慕い行くことになる。
我々はこの種の果てしのない思慕と追求を人類の歴史の巨大なる意義として感ずる。いかに彼らが迷い苦しみ願望しつつ生きて行くか。いかに彼らがその有限の心に無限を宿そうとして努力するか。人は永遠を欲する! 深い永遠を欲する! しかも欲する心は過ぎ行く心である。ある者はその心に無限なるものの光を湛えた。人々は歓喜してその光を浴びた。しかし――その光もまた有限の心に反射された光であった。人々はさらに新しい輝きを求めて薪を漁る。これら一切の光景が無限なるものの徐々たる展開でなければ、――神の国の徐々たる築造でなければ、総じて人類の生活に何の意義があるだろう。
自分はこの心持ちをもって第二の抗議に答える。自分が絶対の真理を体得していないのは事実である。体得していないからこそ探求しているのである。そうして探求者がその探求の記録を書くことは、彼自身にとって最も自然なことである。自分は自ら持たざる真理を人に与えようとはしない。自分は自分の受けた感動をただ自分の感動として書く。この意味で自分は越権なことはしていないはずである。また自分が文化史的理解のために道元を使おうとすることも、人類の歴史のうちに真理への道を探ろうとするものにとっては、当然のことでなくてはならぬ。あらゆる既成の宗教を特殊な形と認めるものには、宗教もまた人類の歴史の一部分である。
二 道元の修行時代
ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。いつかは水難に逢うでありましょう。」栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる――そんなことを考える必要はない。インドの祇園精舎は礎をとどめているに過ぎぬ。重大なのは寺院によって行なう真理体現の努力である。」
ある時一人の貧人が建仁寺に来て言うには、「私ども夫婦と子供は、もはや数日の間絶食しております。餓死するほかはありませぬ。慈悲をもってお救いくだされたい」。栄西は物を与えようとしたが、おりあしく房中に衣食財物がなかった。で彼は、薬師の像の光の料に使うべき銅棒を取って、打ち折り束ねまるめて貧人に与えた。「これで食物を買うがよい。」貧人は喜んで去った。しかし弟子たちは承知しなかった。「あれは仏像の光だ。仏の物を私するのは怪しからぬ。」栄西は答えて言った。「まことにその通りである。が、仏は自分の身肉手足を割いて衆生に施した。この仏の心を思えば、現に餓死すべき衆生には仏の全体を与えてもよかろう。自分はこの罪によって地獄に落ちようとも、この事をあえてするのだ。」
またある時、貧乏な建仁寺では、寺中絶食したことがあった。その時一人の檀那が栄西を請じて絹一疋を施した。栄西は歓喜のあまり人にも持たしめず、自ら懐中して寺に帰り、知事に与えて言った、「さあこれが明日の朝の粥だ」。ところへある俗人の所から、困る事があるについて絹を少し頂きたいと頼んで来た。栄西は先刻の絹を取り返してその俗人に与え、あとで不思議がっている弟子たちに言った、「おのおのは変な事をすると思うだろうが、我々僧侶は仏道を志して集まっているのだ。一日絶食して餓死したところで苦しいはずはない。世間的に生きている人の苦しみを助けてやる方が、意味は深い」(正法眼蔵随聞記)。
以上はわが国に禅宗を伝えた栄西の言行の一端である。
この時代には鎌倉初期の社会革命はすでに完成されつつあった。かつて上層階級であった公家の階級は、昔ながらの官位と儀式と習俗とを保持しながらも、もはや力なき形骸に過ぎなかった。かつて中層あるいは下層にあって永い間の侮蔑と屈辱に甘んじていた武士の階級は、公家の奴僕すなわち「侍」という名を保存しつつも、今や上層としての実権を握り、自己の要求に従って社会の新組織を樹立しかかっていた。が、数世紀の間人心を支配した南都北嶺の教権は、古い政治的権力の統制を脱するとともに、なお新しい政治的権力の支配には服しないで、自らの経済力と武力とをもって独立の勢威をふるった。それはもはや宗教ではなくして現世的権力である。僧徒は法悦をも真理をも捨てて、ただ世俗的なる福利を追った。社会革命が生んだ人心の動揺、その動揺のなかから聞こえる信仰への叫び、それらは彼らの関するところでなかった。栄西が建仁寺にあって貧者のために自己の饑死を賭しようとしたころには、南都の衆徒はしばしば蜂起して寺領のために血を流し、山門の衆徒は近江へ下って長者の家を焼き人を殺し、あるいは京都に下って公家の階級を脅かした。
かくのごとき運動と関係なく京都の諸寺にあって仏事につとめた僧侶たちも、実力を失った公家階級の一部として、ただ因襲的に儀式を行ない、公家の生活の古いプログラムを充たすに過ぎなかった。一切経会、御八講、祈雨御読経、御逆修、塔供養、放生会、――それらは賀茂祭、五竜祭、大嘗会などと異なるところがない。
この時民衆の苦悩を救うべく現われた宗教家には、栄西の徒のほかにも源空の一派があった。その道が著しく相違するにかかわらず、両者はともに真実の宗教であるゆえをもって民心にある力を与えた。が、この現象は、すでに宗教としての活力を失った古い教権にとっては、最も大なる脅威でなくてはならぬ。かくて山門の衆徒は栄西を訴え、公家階級もそれに同じて達磨宗停止の令を発した。南都の衆徒は源空を法敵として立ち、公家階級もまた「念仏宗の法師原」を狂僧と認めて、源空の上足を斬り、その徒を獄に投じ、源空らを流罪に処した。が、衰微し行く教権や公家階級の力は、真に動きつつある新興の力をいかんともすることができなかった。僧衆の食物にさえも事欠いた建仁寺にはすでに年少の道元がおり、源空の墓を山門の衆徒にあばかれた念仏宗にはすでに親鸞が熟しつつあった。
栄西が死んだのは道元十六歳の時である。道元は真実の道心のゆえに山門を辞して諸方を訪い、ついに栄西によって法器とされた。が、右にあげた栄西言行の二、三は、道元の実見であるかあるいは伝聞であるか、明らかでない。ただこれらの栄西の言行が道元の心に深い印象を残し、後年の彼によって意味深く語られるところに、我々は栄西の道元に与えた真の感化を看取することができる。官位権力というごとき外面的な福利を追うのが僧侶の常道である時代に、あらゆる迫害と逆遇に堪えて真理の探求と慈悲の実行に没頭した一人の僧侶、――そうしてこの僧侶の言行に真実の道を認めた年少の弟子。そこに著しいのは一つの「宗派」の勃興ではなくして、永遠に現在なる価値の世界の力強い顕揚である。後年の道元が仏法に関する師との問答を語らずして、ただ単純に師の言行を語り、そうして「先達の心中のたけ、今の学人も思ふべし」と言ったことは、自分が在来不用意に作っていた禅宗の概念を崩れさせるに十分であった。
栄西の死後道元は、建仁寺の明全に就いた。道元の言葉によれば、「全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝し」た人である。
後年の道元はこの明全についてもただその人格をのみ語っている。彼はいう、――先師全和尚入宋を企てた時に、その師叡山の明融阿闍梨が重病で死に瀕した。その時明融が言うには、「自分は老病で死ぬのも遠くない。しばらく入宋をのばして自分の老病を扶け、冥福を弔ってほしい。入宋は自分の死後でも遅くはあるまい」。明全は弟子法類等を集めて評議した。「自分は幼少の時両親の家を出てから、この師の養育をうけて、このように成長した。その養育の恩は実に重い。のみならず、仏法の道理を知って、幾分の名誉を得、今入宋求法の志を起こしたのも、皆この師の恩でないものはない。しかるに今師は老病の床について、余命いくばくもない。再会期し難きを思えば、入宋を留め給う師の命もそむき難い。しかし今身命を顧みず入宋求法するのは、慈悲によって衆生を救い得んためである。このために師の命にそむいて宋土に行くことは、道理あることではなかろうか。おのおのの考えを聞きたい。」人々は皆答えた。「今年の入宋はお留まりなさるがよい。師の死期はもうきまっている。今一年や半年入宋が遅れたとて何の妨げがあろう。来年入宋なされば師の命にもそむかず入宋の本意も遂げられる。」この時道元も末臘にあって言った。「仏法の悟りが今はこれでよいと思われるならば、お留まりになる方がよい。」明全は答えた。「さよう、仏法の修行はこれほどでよかろう。始終このようであれば、出離得道するだろうと思う。」道元は言った。「それならばお留まりなさるがよい。」そこで評議がおわって、明全は言った。「おのおのの評議、いずれも皆留まるべき道理のみである。が、自分の所存はそうでない。今度留まったところで、死ぬにきまった人ならば死んで行くであろう。また自分が看病したところで、苦痛が止むはずはない。また自分が臨終の際にすすめたからといって、師が生死を離れられるわけでもない。ただ師の心を慰めるだけである。これは出離得道のためには一切無用だと思う。むしろ自分の求法の志を妨げたために罪業の因縁となるかも知れない。しかしもし自分が入宋求法の志を遂げて、一分の悟りでも開いたならば、たとい一人の人の迷情に背いても、多くの人の得道の因縁となるであろう。この功徳がもしすぐれているならば、師への報恩にもなるわけである。たとい渡海の間に死して目的が達せられなくとも、求法の志をもって死ねば本望と言ってよい。玄奘三蔵の事蹟を考えてみよ。一人のために貴い時を空しく過ごすのは仏意にはかなうまい。だから今度の入宋の決意は翻すことができぬ。」かくて明全はついに宋に向かった。
道元はこの真実の道心に打たれた。後年彼がこの話をした時、弟子懐奘は問うていう、「自らの修行のみを思うて老病に苦しむ師を扶けないのは、菩薩の行に背きはしないか」。道元は答えた、「利他の行も自利の行も、ただ劣なる方を捨てて勝なる方を取るならば、大士の善行になるであろう。今生の暫時の妄愛は道のためには捨ててよい」(随聞記五)。
これが明全の道元に与えた真実の影響である。ここに真理の探求と体現との純粋な情熱がある。ここから彼の真理の世界に対する異常な信仰が生まれた。後年の彼はいう、――仏法修行は、すなわち真理の探求と体現とは、ある目的のための手段ではない。真理のために真理を求め、真理のために真理を体現するのである。真理の世界の確立が畢竟の目的である。行者自身のために真理を求めてはならない。名利のために、幸福のために、霊験を得んがために、真理を求めてはならない。衆生に対する慈悲は、自身のためでも他人のためでもなくして、真理それ自身の顕現なのである。従って慈悲の実行は、「身を仏制に任じ」、「仏法のためにつかはれて」なさしめらるる所、すなわちただそれ自身を目的とする真理の発動にほかならぬ(随聞記一、五、学道用心集四)。――この覚悟にとっては自らの修行は自らのためではない。自他を絶した大いなる価値の世界への奉仕である。このことを道元は明全の人格から学んだ。それは道元の生活にとって、一つの力強い進転であったと思われる。
が、何ゆえに「入宋求法」がそれほどに重大であったか。宋土に入れば直ちに真理をつかみ得るごとく考えるのは、あまりにはなはだしい外国崇拝ではないか。この問いに対しては我々は再び彼の時代を顧みなくてはならぬ。彼の時代は南都北嶺の衆徒が放火殺人を事とする時代である。あるいは官僧が過去的な階級とともに娯楽を事とする時代である。真実に道を求むる者は当然新しい活力ある方向に向かわなくてはならぬ。彼はいう、「悲しむべし辺鄙の小邦、仏法未だ弘通せず、正師未だ出世せず、たゞ文言を伝へ名字を誦せしむ。もし無上の仏道を学ばんと欲せば遥かに宋土の知識を訪ふべし。正師を得ざれば学ばざるに如かず」(学道用心集五)。これ彼が禅宗をもって正法とするがゆえのみの言ではない。堕落せる当時の精神生活に対する彼の正しい反撥である。しからば当時の入宋求法は、真実の道の探求を意味していたと言ってよい。
価値の世界においては国土の別は末である。より高き価値に対して盲目であることは、いかなる場合にも偏狭の誹りを免れない。道元はすでに年少のころよりこの偏狭を脱していた。彼はいう、――自分は最初無常によって少しく求道の心を起こし、ついに山門を辞してあまねく諸方を訪い道を修した。が、そのころには、建仁寺の正師にも逢わず、また善き友もなかったゆえに、迷って邪念を起こした。それにはそのころの教道の師の言葉も責めを負わねばならぬ。彼らは、先輩のごとく学問して天下に名高い人となれ、と教訓したのである。で、自分は弘法大師のように偉くなろうなどと考えていた。ところがその後『高僧伝』などを読んでみると、そういう心はいとうべきものとせられている。自分は考えた。名聞を思うにしても、当代の下劣の人によしと思われるよりは、上古の賢者、未来の善人を愧じる方がよい。偉くなろうと思うにしても、わが国の誰のようにと思うよりは、シナ、インドの高僧のようにと思うがよい。あるいは仏菩薩のように偉くなろうとこそ思うべきである。こう気づいてからは大師などは土瓦のように思われ、心持ちが全然変わった(随聞記第四)。こういう言葉によっても明らかなように、彼の世界は国土の限界を超越した意味価値の世界であって、そこには最高の権威として仏菩薩が君臨する。向上の一路はただここに向かうのみである。
道元は二十四歳の時宋に入った。途次船中の出来事について彼は語る、――自分は船の中で痢病にかかった。その時悪風が吹きいでて、船中は大騒ぎになった。するとその騒ぎで自分の痢病は止まってしまった。彼はこのことからも一つの真理を見いだしている。「心的の緊張は肉体の病に打ち克つものである」(同上第五)。
彼は宋に入って天童如浄に就いた。如浄は「名を愛すること」を「禁を犯すこと」よりも悪しとする人であった。(なぜなら犯禁は一時の非である。愛名は一生の累である。)彼は一生の間帝者と官員を遠ざかり、まだらなる袈裟をつけず、常に黒き袈裟裰子を用いた。そうして十九歳より六十五年の間、時に臀肉の爛壊することがあっても、緊張した坐禅の生活は絶やさなかった。道元はいう、「まのあたり先師を見る、これ人に逢ふなり」(正法眼蔵行持)。
道元の天童禅院追懐は、如浄の鍛錬の仕方をつぶさに語っている。――如浄は、夜は二更の三点まで坐禅し、暁には四更の二点より起きて坐禅する。弟子たちもこの長老とともに僧堂の内に坐するのである。彼は一夜もこれをゆるがせにしたことがない。その間に衆僧は多く眠りに陥る。長老は巡り行いて、睡眠する僧をばあるいは拳をもって打ちあるいは履をぬいで打つ。なお眠る時には照堂に行いて鐘を打ち、行者を呼び、蝋燭をともしなどする。そうして卒時に普説していう、「僧堂の内で眠って何になる。眠るくらいならなぜ出家して禅堂に入ったのだ。世間の民衆は労働に苦しんでいる。何人も安楽に世を過ごしているのではない。その世間を逃れて禅堂に入り、居眠りをして何になる。生死事大、無常迅速と言われている。片時も油断はならない。それを居眠りするとは何たるたわけだ。だから真理の世界が衰えるのだ」。ある時近仕の侍者たちが長老に言った、「僧堂裡の衆僧、眠り疲れて、あるいは病にかかり退心も起こるかも知れぬ。これは坐禅の時間が長いからであろう。時間を短くしてはどうか」。長老はひどく怒って言った、「それはいけない。道心のないものは、片時の間僧堂に居ても眠るだろう。道心あり修行の志あるものは、長ければ長いほど一層喜んで修行するはずだ。自分が若かった時ある長老が言った、以前は眠る僧をば拳が欠けるかと思うほどに打ったが、今は年とって力がなくなり、強くも打てぬ。だからいい僧が出て来ない、と。その通りだ」(随聞記第二)。
が、如浄の鍛錬は、坐禅が真理への道であることの確信に基づくのである。従って彼の呵嘖は彼の慈悲であった。道元はこのことについて言っている、――浄和尚は僧堂において眠る僧を峻烈に呵嘖したが、しかし衆僧は打たれることを喜び、讃嘆したものである。ある時上堂のついでに浄和尚のいうには、「自分はもう年老いた。今は衆を辞し、菴に住して、老いを養っていたい。が、自分は衆の知識として、おのおのの迷いを破り、道を授けんがために、住持人となっている。そのために呵嘖し打擲する。自分はこの行を恐ろしく思う。しかしこれは仏に代わって衆を化する方式である。諸兄弟、慈悲をもってこの行を許してもらいたい」。これを聞いて衆僧は皆涙を流した(同上第一)。
この慈悲心とあの厳しい鍛錬と、それが道元の心に深く記された如浄の面目である。我々はここにも真理の世界を確立しようとする火のごとき情熱の具現者を見ることができる。この如浄の道が唯一の道であるか否かは別問題として、その力強い人格は嘆美に価する。道元はこの人格に打たれて、恐らく衆僧とともに泣いたのであろう。「これ人に逢ふなり」の詠嘆は、まさしくこの人格に対する嘆美の声なのである。
が、道元に力を与えたものは、右のごとき浄和尚の人格のみではない。如浄を中心とする天童禅院の雰囲気もまた彼に力強い影響を及ぼした。彼はいう、――大宋国の叢林には、末代といえども、学道の人千人万人を数える。その中には遠国の者も郷土の者もあるが、大抵は貧人である。しかし決して貧を憂えない。ただ悟道のいまだしきことをのみ憂え、あるいは楼上にあるいは閣下に、父母の喪中ででもあるかのごとくにして、坐禅をしている。自分が目のあたり見た事であるが、ある西川の僧は遠方よりの旅のために所持の物をことごとく使い果たして、ただ墨二、三丁のみを持っていた。彼はそれをもって下等な弱い唐紙を買い、それを衣服に作って着た。起居のたびごとに紙の破れる音がする。しかし彼は意としなかった。ある人が見かねて、郷里に帰り道具装束を整えてくるがいい、とすすめると、彼は答えていう、「郷里は遠方だ。途中に暇をかけて学道の時を失うのが惜しい」。こうして彼は寒さにも恐れず道を学んだ。こういう緊張した気分のゆえに、大国にはよき人が出るのである(同上第六)。同様にまた彼はいう、――大宋国によき僧として知られた人は皆貧窮人である。衣服もやぶれ、諸縁も乏しい。天童山の書記道如上座は官人宰相の子であったが、親類を離れ、世利を捨てたために、衣服のごときは目もあてられなかった。自分はある時如上座に問うて言った、「和尚は官人の子息、富貴の種族だ。どうして身まわりの物が皆下品で貧窮なのか」。如上座は答えて言った、「僧となったからだ」(同上第五)。
この種の雰囲気が道元を取り巻いた。そこで彼は精進して道に向かった。ある時彼が古人の語録を読んでいると、ある西川の僧が彼に問いをかけた、「語録を見て何になる」。彼は答えた、「古人の行履がわかるだろう。」「それが何になる。」「郷里に帰って人を教化するのだ。」「それが何になる。」「衆生を救うのだ。」「要するにそれが何になる」。ここで彼は考えた。なるほどすべては無用である。専心に打坐して真理をつかめば、そのあとは語録公案の知識がなく、また一字も知らない場合にも、説き尽くせない泉が内から湧いて出よう。「何になる」とは真実の道理である。ここにおいて彼は語録を読むことをやめて、専心に坐禅に向かった(同上第二)。
坐禅は如浄の最も重んずるところであった。彼は如浄のもとに昼夜定坐して、極熱極寒をもいとわなかった。他の僧たちが病気を恐れてしばらく打坐をゆるがせにするのを見ると、彼は思った、「たとい発病して死ぬにしても、自分はこれを修しよう。修行しないでいて体を全うしたところで、それが何になる。また病を避けたつもりでも、死はいつ自分に迫るかわからない。ここで病んで死せば本意である。大宋国の善知識のもとで、修し死に死んで、よき僧に弔われるのは、結構なことだ。日本で死ねばこれほどの人には弔われまい」。かくして彼は昼夜端坐を続けた(同上第一)。
如浄もまた彼を認めて言った、「お前は外国人ではあるが器量人だ」(同上第六)。
この如浄のもとに道元は「一生参学の大事」を終わったのである。しかしその終わりがいかにして来たかは、我らの説き得べき事でない。もしそれが言葉によって現わし得られるものならば、行によって証入すべき禅の道は無意義に化するのである。確かにそれはただ一瞬の出来事であったかも知れない。しかしこの一瞬によって彼は一つの世界から他の世界へ飛躍した。そうしてこの一瞬の光耀を作り出すためには、彼の大力量をもってしても、なお永い難行苦行を必要とした。ここに最も個性的な、また最も神秘的な、不可説の瞬間がある。
もとより人は、この瞬間に導ききたる難行工夫について、詳しく語ることができる。またこの瞬間を経た後の、自己と宇宙とを一にする光明の世界についても、豊かな象徴的表現を与えることはできる。ただこの両者を結びつける身心脱落の瞬間のみは、自らの身心をもって直下に承当するほかはないのである。
が、我々は知っている、人を動かし人を悟らせるものは真理を具現した人格の力である。動かされて悟りにたどりつくものも同様に人格である。道元はいう、「仏祖は身心如一なるが故に、一句両句、皆仏祖の暖かなる身心なり。かの身心来りてわが身心を道得す」(正法眼蔵行持)。その最奥の内容は説くべからずとするも、その内容を担える人格は、我々の前に明らかに提示せられている。我々はいかなる人格が道元を鍛錬したかを見た。また道元の人格がいかにしてこれらの人格に鍛錬せられたかを見た。ここに道元の修行時代は終わるのである。
三 説法開始
一生参学の大事を終えた道元は、二十八歳の時日本に帰った。頼朝の妻政子が年老いて死んだ翌々年である。
このころには、武士の新しい政治に対する叛逆的暴動が、京都鎌倉等においてなおしばしば企てられはしたが、もはや武士の支配を揺るがすほどではなかった。公家の階級は、承久の乱後、反抗の力を失って、好んで武士に媚びた。粗暴な活気を保持していた大寺の僧兵も、武士階級の威圧によってようやくその鋒先を鈍らせた。
が、道元の帰って来た京都は、決して平和な都ではなかった。公家の階級においては男も女も生活の不安のゆえにただ放縦にのみ走る。子弟の或る者は博奕にふけり群盗に伍している。摂政関白の子さえもそうである。市中は盗賊横行のために無警察の状態に陥った。捕うるに従って斬るという高圧的な武士の警備手段もほとんどその効がない。夜ごとに放火、殺人、掠奪が行なわれる。皇室の宝物さえもしばしば掠奪を受けた。皇居もついに焼かれた。「朝廷之滅亡、挙趾可待」[朝廷の滅亡、趾を挙げて待つべし]である。
かくのごとき京都に帰った道元は、まず先師の寺建仁寺に入った。そうして法門を問う多くの人に、「非義も過患も」とがめずして、「ただありのままに法の徳を」語った。が、当時の建仁寺は彼を安住させなかった。彼は後に財宝と淫語とに関する言説において、悪しき例として建仁寺を引いている。
彼はいう、――学道の人は最も貧でなくてはならぬ。世人を見るに、財ある人は必ず嗔恚恥辱の二つの難に逢っている。財宝あれば人がこれを奪い取ろうとする、取られまいとすれば嗔恚がたちまちに起こる。所有の権利を説き奪掠の不義を論じて、ついには闘争合戦に及ぶのである。しかも結局は掠奪せられ恥辱を受けることに終わっている。その証拠は眼前の京都に歴然として現われているではないか。古聖先賢も財宝を謗り、諸天仏祖皆財宝を恥ずかしめた。貧しゅうして貪らざれば、右のごとき難を免れるのみならず、また諸仏諸祖も喜ぶのである。しかるに痴愚なる人は財宝を貯え嗔恚を抱く。僧侶にさえもそれがある。眼前に仏法は衰微し行くのである。自分が初めて建仁寺に入った時に見たのと後七、八年を経て見たのとの間の著しい相違もまたそれにほかならない。寺の寮々に塗籠を置いて、おのおの器物を持ち、美服を好み、財物を貯え、放逸の言語にふける、そうして問訊礼拝等は衰微している。恐らくは余所もそうであろう。本来仏法者は衣盂のほかに何ら財宝を持ってはならないのである。何を置くために塗籠を備えるのか、人に隠すほどの物ならば持たぬがいい。盗賊を怖れるからこそ隠すのでもあろうが、その物を捨ててしまえばその怖れは起こらないのだ。財物のみではない、身命もまたそうである。たとい人を殺すとも「自分は殺されまい」と思えばこそ、苦しい用心も必要になる。たとい人我れを殺すとも、我れは報いを加えじと思い定めていれば、盗賊などは問題にならないのである(随聞記第三)。
道元のこの語は無警察なる当時の京都を背景とする。財宝の欲から起こされたあらゆる惨禍は彼の眼前にあった。そうしてその欲からの離脱は彼の真理の王国の必須の条件であった。しかも建仁寺はこの欲の渦中に巻き込まれていたのである。
また彼はいう、――世間の男女老少、多く交会婬色等の事を談じ、これをもって慰安とすることがある。一旦は意をも遊戯し徒然をも慰めるようであるが、僧には最も禁断すべきことである。俗人といえどもよき人は、まじめな時にはそういう話をしない。ただ乱酔放逸の時にするのみである。いわんや僧はただ仏道をのみ思わなくてはならぬ。宋土の寺院などではそういう話は一切行なわれない。わが国でも建仁寺の僧正の在世の時はそうであった。僧正の滅後にも直接に薫陶を受けた門弟子らが幾分残っていた間は、そうであった。しかるにこの七、八年以来、「今出の若き人たち」は時々それを談じている。存外の次第である(同上第一)。
この話もまた淫逸なる当時の京都を背景とする。煩悩即菩提を文字通りに体現して官能の悦楽に極楽を感受する数世紀来の風潮は、社会生活の烈しい動揺に刺激せられて病的な形を取った。糜爛せる官能受用のために、至るところに「心」は荒らされ傷つけられている。この欲からの離脱もまた彼の真理の王国の必須な条件であった。しかも建仁寺は官能の香気を喜んでいたのである。
もし彼にして断然たる改革をなし得たならば、彼はこの寺に留まったであろう。しかし彼は留まらなかった。三十歳に充たない彼の言動は、恐らくこの世俗化しつつある栄西の寺院をいかんともすることができなかったのであろう。のみならず栄西は、天台真言と妥協して、純粋な禅の伝統を立てていなかった。坐禅すらも建仁寺においては正式に行なわれなかった。坐禅を無上の修行法とする道元は、勢い自らの道を独立に拓かなくてはならなかったのである。
三十歳のとき道元は、洛南深草の安養院という廃院に移った。この廃院において彼の真理王国建設の努力は始まるのである。
が、この努力の開始は、異常なる社会的不安と同時であった。彼の帰朝の年に諸国に現われた農作凶荒の兆は、彼が廃院に移った翌年に至って、ついに恐るべき現実となったのである。盛夏のころに寒気が迫って人は皆綿衣を重ねた。美濃と武蔵のある個所には雪さえも降った。盂蘭盆のころには冬のように霜が降り、稲の実るころには大風と霖雨が続いた。自給自足のわが国においてはたちまち飢饉が全国を襲い、米価の暴騰に続いて最高価格の制定が行なわれた。幕府の将軍さえも夜は灯なく、昼食は廃し、酒宴の類は行なわなかった。この種の飢饉は早急に止むものではない。翌年に至って民衆の困窮はますますはなはだしくなった。気候の不順と饑餓による抵抗力減退とのために疫病の流行が加わって来たのである。生活の不安は良民をさえも盗賊に化せしめた。盗賊となり得ない者の中には餓死を免れんがために妻子を人に売る者さえもあった。単なる肉体保存の欲が細やかな心情の要求を蹂躙したのである。ことに食糧を地方の供給に待つ京都においては、惨状は一層はなはだしかった。餓えた民衆は至るところに彷徨し、餓死者の屍は大道に横たわって臭気を放った。この状態において民衆の暴動の起こるのは当然である。彼らは徒党をくんで富家に闖入し、手当たり次第に飲み食った。あるいは銭米を強請してそれを徒党の間に分配した。ここに小規模ながらも社会共産主義が実現せられたと言われている。
この種の生活不安に際しては、いかなる迷信もその所を得べきほどに、人心は破れ痛んだ。この苦しめる民衆のただ中にあって民衆の心に直ちに救いをもたらそうとしたものに念仏宗がある。彼らは説いていう――人は無力である。この肉体において生きている以上は、肉体に起因するあらゆる欲望を離脱することができぬ。欲望あれば他の人を害し自らも苦しむであろう。しかしそのために、絶対者なる弥陀は人を救おうとするのである。無力なる者が自ら己れを救おうとしても効はない。ただ絶大の愛に頼れ。ただ絶大の力に呼びかけよ。すべては許される。すべては救われる、と。この絶大の愛の信仰は、あさましい食糧争奪に破れ傷ついた心にとって、最も大なる救いであった。それは本来無力である人の罪悪に対する是認である。が、同時にこの罪悪の根拠を滅尽する大いなる世界の樹立である。人は絶対者に呼びかけることによって、人間の相対の境界をそのままに、人間以上の絶対の境界に触れ得る。あるいは、そのままに、絶対の境界に救い入られる。
が、道元にとってはこの種の救いは「凡夫迷妄の甚だしき」ものであった。絶対の境界――永遠なる最高の価値の顕現が究竟の目的であるならば、何ゆえに直ちに自余の価値を放擲しないか。罪悪の根拠が畢竟滅尽せらるべきものであるならば、何ゆえに直ちに罪悪を離れようとしないか。たとい人は弱いものであるにしても、ある人々はそれをなし遂げたのである。我々のみがその道を踏み得ないわけはない。もとよりこの道は困難である。が、本来仏法そのものが釈迦の難行苦行によって得られたものではないか。本源すでにしかりとすれば流末において難行難解であることは当然であろう。古人大力量を有するものさえも、なお行じ難しと言った。その古人に比すれば今人は九牛の一毛にだも及ばない。今人がその小根薄識をもってたとい力を励まして難行するとも、なお古人の易行には及ばないのである。その今人が易行をもってどうして深大な仏の真理を解し得るか。困難であるゆえをもって避け得られる道ならば、それは仏の真理ではない(学道用心集第六)。
道元は、餓えたる者苦しめる者に対して、社会的に働きかけようとはしなかった。彼は深草の廃院にあってあるいは打坐しあるいは法を説くのみであった。現前の飢饉惨苦については彼はただいう、「無常を観ぜよ」。無常を観じて真実の生を求むるものの前に真理の王国への道は開かれるのである。
彼の主著『正法眼蔵』の第一章は、この廃院において、右のごとき社会的環境の下に、書かれたのであった。彼は序していう、――自分は宋より帰って真理を弘め衆生を救うのを念とした。肩に重荷を置いているようである。しかしながら自分は今、伝道のこころを放下しようとする「激揚の時」を待っている。だからしばらく「雲遊萍寄」して、ここに先哲の風をまねようと思う。が、真実の求道者が邪師にまどわされているのは見るに堪えない。それをあわれむゆえに自分は大宋国の禅林の風を記しておこうとするのである(正法眼蔵弁道話)。かくて彼は、坐禅による仏法の正門、身心脱落によって得らるる天真の仏の真理を説いた。これが彼の真理王国建設の努力の第一歩であって、彼三十二歳のときである。
廃院の生活がいかに推移したかは知る由がない。しかし少数ながらも有為なる弟子が彼のもとに集まり始めたことは事実であろう。三十四歳のときには、同じ深草の極楽寺の旧趾に一寺を建立して喜捨しようと企てた尼僧があった。で、そこへ移った。『正法眼蔵』の第二はこの年の夏安居に「衆に示した」ものと記されている。また第三はこの年の秋に「鎮西の俗弟子楊光秀」に書き与えたものと記されている。三十五歳の時には『学道用心集』の著がある。後に永平二祖となった懐奘もこのころに彼についた。その後二年を経て、企てられた伽藍は落成し、その年の暮れには懐奘が師として学人を接化することを許されている。このころより彼の語録も弟子たちによって筆録せられた。ことに重んずべきは、懐奘が師事の後三、四年の間に筆録したと言われる『正法眼蔵随聞記』である。
これらの年の間に飢鍾の惨苦はすでに去ったが、人心の不安は依然として鎮まらなかった。政権を擁する武士の階級にさえも現世的欲求を捨てて仏法に帰しようとするものが少なくはなかった。しかし古い教権は、なおその武力的示威を止めない衆徒の手中にあった。新興の念仏宗は、この教権の抗議のゆえに禁止せられなくてはならなかった。従って武士の階級が最も容易に近づき得るのは、ただこの清新なる禅宗のみであった。この形勢を道元が看取しないはずはない。しかし彼は、生涯「帝者に親近せず、丞相と親厚ならざりし」天童如浄の弟子であった。彼の目ざすのは真理王国の建設であって、この世に勢力を得ることではなかった。彼は「仏法興隆のために」関東への下向を勧めたものに答えて言っている――否、自分は行かない。もし仏の真理を得ようとする志があるならば、山川江海を渡っても、来たって学ぶがよい。資力を得、世間的に名をなすために人を説くごときは、自分の最も苦痛とする所である(随聞記第二)。
すなわち彼は世間的に仏法を広めることをもって仏法興隆とは解しなかった。造像起塔を盛んにするごときはもとより仏法興隆ではない。たとい草菴樹下であっても、法門の一句を思量し、ひと時の坐禅を行ずる方が、真実の仏法興隆である。また帰依者の数の多数であることも、仏法興隆を意味しはしない。たとい六、七人といえども、真実に仏祖の道を行ずるものがあれば、それこそ仏法の興隆である。
かくのごとき道元の態度が多数の帰依者を集むるに不便であったことは言うまでもない。懐奘を首座に請じたのは道元三十七歳の暮れであるが、その時に彼は「衆の少きを憂ふること勿れ」と言っている。
追随するものは少なかった。しかし彼のいわゆる「激揚の時」は、すでに来ているのである。『学道用心集』を読み『随聞記』を読むとき、真理王国建設の情熱は火のごとくに我々に迫って来る。そうして我々はここに確固たる一人の「師」を認める。
四 修行の方法と目的
この師の言説は永遠なる価値の顕現を中心とする。従って世間的価値の破壊はその出発点でなくてはならぬ。
この価値の破壊を彼は仏教の伝統に従って「無常を観ずる」という表語に現わした。彼はいう――世間の無常は思索の問題ではない、現前の事実である。朝に生まれたものが夕に死ぬ。昨日見た人が今日はない。我々自身も今夜重病にかかりあるいは盗賊に殺されるかもわからない。もしこの生命が我々の有する唯一の価値であるならば、我々の存在は価値なきに等しい(随聞記第二)。この言葉は当時の生活不安を背景として見れば、最も直接な実感であることが肯かれる。が、それが人生観の根拠として置かれたとなると、それはもはや単なる感傷ではありえない。それは人間の肉体的欲望及びその上に築かれたあらゆる思想、制度、努力等に対する弾劾である。すなわち欲望の指標なる財貨、世間的名声、これらのものを得んとする一切の生活活動、それらを無意義であり愚かであると断ずるのである。これは現前の社会組織を可能にする価値を断然として拒否することを意味する。従ってここからは、民衆の物質的福利を増進する一切の努力は生まれない。反対に人は「遁世」しあるいは「世を捨てる」。
が、これは現実生活全般の否定、死後の生活の欣求を意味するのではない。否定せられるのはただ矮小なる物質的福利あるいは名利の念を内容とする生活であって、偉大なる人類的価値を目ざすところの超個人的な生活そのものではない。この意味で此岸と彼岸との別は現世と死後との別ではないであろう。死後と生前とを問わず、真理に入れる生活が彼岸の生活なのである。生前と死後とを問わず、迷執に囚われた生活は此岸の生活である。従って理想の生を此の世から彼の世に移すことは無意義である。理想の生はここに直ちに実現さるべきものとして存在するのである。
現世的価値の破壊は直下にこの生を実現し得んがための価値倒換にほかならぬ。
この価値倒換によって永遠なる価値への真実の「要求」が生まれる。そうしてこの要求によってのみ真理への証入は可能である。
道元はいう、――仏の真理は何人の前にも開かれている。天分の貧富、才能の利鈍というごときことはここには問題でない。しかも人がそれを得ないのは何ゆえであるか。得ようとしないからである。要求が切実でないからである。要求さえ切実であるならば、下智劣根を問わず、痴愚悪人を論ぜず、必ず仏の真理は獲得し得られる。だから道に志すものは第一にこの要求を切実にしなくてはならない。世人の重き宝を盗もうと思い、強い敵を打たんと思い、絶世の美人を得ようと思うものは、行住坐臥、その事の実現のために心を砕いている。いわんや生死の輪廻を切る一大事が、生温い心で獲られるわけはない(同上)。
すでに要求がある。精進の意志がある。ここにおいて問題となるのは学修の方法でなくてはならぬ。
その方法は第一に「行」である。「行」とはあらゆる旧見、吾我の判別、吾我の意欲を放擲して、仏祖の言語行履に随うことである。すなわち世間的価値の一切を放擲して、虚心なる仏祖の模倣者となることである。たといあらゆる経典を読破し理解しても、学者としての名誉を得ようとするごとき名利の念に動いている時には、その理解は真実の体得ではない。かかる人の説く一念三千の妙理には、ただ貪名愛利の妄念のみあって、さらに真理の影はない。またたとい専心打坐の生活に入っても、世人の批評になお幾分の力を認める間は、仏弟子とは言えない。道元はいう、――もし行者が、この事は悪事であるから人が悪く思うだろうと考えてその事をしない、あるいは自分がこの事をすれば人が仏法者と思うだろうと考えてある善行をする、というような場合には、それは世情である。しかしまた世人を顧慮しないことを見せるために、ほしいままに心に任せて悪事をすれば、それは単純に我執であり悪心である。行者はこの種の世情悪心を忘れて、ただ専心に仏法のために行ずべきである(同上第二)。遁世とは世人の情を心にかけないことにほかならぬ。世間の人がいかに思おうとも、狂人と呼ぼうとも、ただ仏祖の行履に従って行ずれば、そこに仏弟子の道がある(同上第三)。仏道に入るには、わが心に善悪を分けて善しと思い悪しと思うことを捨て、己れが都合好悪を忘れ、善くとも悪くとも仏祖の言語行履に従うべきである。苦しくとも仏祖の行履であれば行なわなくてはならない。行ないたくても仏祖の行履になければ行なってはならない。かくして初めて新しい真理の世界が開けてくるのである(同上第二)。
この「仏祖への盲従」が道元の言葉には最も著しい。もとより彼はこの行の中核として専心打坐を唱道する。が、それは、打坐が仏祖自身の修行法であり、またその直伝の道だからである。かくて「仏祖の模倣」は彼の修行法の根柢に横たわっている。戒律を守るのも仏祖の家風だからである。難行工夫も仏祖の行履だからである。もし戒律を守らず難行を避くるならば、それは「仏の真理」への修行法とは言えない。
この修行の態度は自力証入の意味を厳密に規定する。確かにここには「たまたま生を人身に受けた」現実の生活に対する力強い信頼がある。この生のゆえに我々は永遠の価値をつかむこともできるのである。が、この信頼は吾我、我執に対する信頼ではない。吾我、我執を払い去った時にのみ明らかにされる「仏への可能性」に対する信頼である。すなわち自己の内にあってしかも「自己のものでない力」に対する信頼である。従って我々は、自己を空しゅうして仏祖に乗り移られることを欲する。乗り移られた時に燦然として輝き出すものが本来自己の内にあった永遠の生であるとしても、とにかく我々は自力をもってそこに達するのではない。我々がなし得、またなさざるべからざることは、ただ自己を空しゅうして真理を要求することに過ぎない。すなわち修行の態度としては「自らの力」の信仰ではない。
自力他力の考え方の相違はむしろ「自己を空しゅうする」ことの意味にかかっている。他力の信仰においては、自己を空しゅうするとは吾我我執をさえも自ら脱離し得ない自己の無力を悟ることである。この無力の自覚のゆえに煩悩具足の我々にも絶対の力が乗り移る。従って我々の行なう行も善も、自ら行なうのではなくして絶対の力が我々の内に動くのである。それに反して道元の道は、自ら我執を脱離し得べきを信じ、またそれを要求する。すなわち世間的価値の無意義を観じて永遠の価値の追求に身を投ずることを、自らの責任においてなすべしと命ずる。ここに著しい相違が見られるのである。前者においては、たとえば死に対する恐怖を離脱せよとは言わない。死後に浄土の永遠の安楽があるにかかわらず人が死を恐れるのは、「煩悩」の所為である。もしこの恐怖がなく死を急ぐ心持ちがあるならば、それは「煩悩」がないのであって、人としてはかえって不自然であろう。弥陀の慈悲は人が愚かにもこの煩悩に悩まされているゆえに一層強く人を抱くのである。この考え方からすれば、病苦に悩む人が「肉体の健康」を求めて弥陀にすがるのは、きわめて自然の事と認めざるを得ぬ。しかし後者にあっては身命への執着は最も許すべからざることである。肉体的価値を得んがために永遠の価値に呼び掛けるごときは、軽重の顛倒もまたはなはだしい。死の恐怖に打ち勝ったものでなくては、すなわち十丈の竿のさきにのぼって手足を放って身心を放下するごとき覚悟がなくては、仏の真理へ身を投げかけたとは言えなかろう。かくのごとく前者は肉体のために弥陀にすがることを是認し、後者は真理のために肉体を放擲することを要求する。しかも前者は解脱をただ死後の生に置き、後者はこの生においてそれを実現しようとする。一は自己の救済に重心を置き、他は仏の真理の顕現に重心を置く。自己放擲という点ではむしろ後者の方が徹底的であると言えよう。
身命に執する一切の価値を放擲し、永遠の価値への要求をもって「行」に身を投ずる。そうして虚心なる仏祖の模倣者となる。これ仏の真理への真実の修行である。が、この仏祖の模倣は、正しい導師なくしてなし得ることでない。何が仏祖の行履であるかは、自らの判別によって知られるのではなく、すでに仏祖の道に入ったものによって教えられなくてはならぬ。
ここに人格から人格への直接の薫育がある。道元自身の修行が主として人格の力に導かれたものであったごとく、彼の説く修行法もまたこの人格の力に依頼する。仏祖の行履の最奥の意味は、固定せる概念によって伝えられずに、生きた人格の力として伝えられている。人は知識として受け得ないものを、直接に人格をもって承当して来たのである。だから修行者は師の人格に具現せられた伝統を直接に学び取らなくてはならぬ。師は文字通りに「導師」である。師の正邪は修行の功不功を規定する。道元は言った、――修行者の天分は素材であり、導師は彫刻家である。良き素材も良き彫刻家に逢わなければその良質を発揮することができない。悪しき素材もよき彫刻家に逢えばたちまち美しい製作となる。そのごとく師の正邪は修行者の悟りの真偽を定めるのである。わが国にも古来さまざまの師があってさまざまの思想を教えた。しかしそれは単に言葉であった。あるいは単に名字を誦するに過ぎなかった。その言葉その名字に含まれた生きた真理はつかまれていない。そのためについに浄土の往生を願うごとき邪路さえもはびこるのである。経典の言葉は良薬に等しい。たとい良薬を与えても処方を教えなければ毒になる。我々にとって重要なのはすでに与えられている良薬ではなくしてその飲み方である。しかるに在来の師は、自らもこの飲み方を会得していなかった。だから我々はこれを会得した人を、すなわち自らの人格に真理の理解を具現した人を、師としなくてはならない(学道用心集第五)。彼によればこの正師は仏祖直伝の真理を人格的に把握した宋土の諸禅師である。ひいては彼自身である。
導師がかくのごとき重大な意義を持つとすれば、師についた修行者は自己を空しゅうして師に随わなくてはならぬ。これについても道元はいう、――世間には「師の言葉が自分の心に合わない」というものがある。これは誤った考えである。師の言葉に現われた聖教の道理が自分の心に合わないのならば、彼は一向の凡愚に過ぎぬ。師自身の言葉が自分の心に合わないのならば、何ゆえ初めからこの人を師としたか。また日ごろの自分の意見をもって批評するのならば、それは無始以来の妄念に執するのである。師についた以上は、心に合う合わぬを問わず、一切の我見を捨てて、師に服しなくてはならぬ。かつて自分の友人に我見を執して知識者を訪うものがあった。我見に違うものはすべて拒け、ただ我見に合うもののみを取ったが、結局仏の真理を理解することはできなかった。自分はこれを見て師に服すべき事を知り、ついに道理を得たのである。その後看経のついでにある経に「仏法を学せんと思はゞ三世の心を相続することなかれ」とあるのを見て、これだと思ったことがある。諸念旧見を捨てて師に随従するのが学道第一の用心である(随聞記第五)。
明らかにここには個性への顧慮は存しない。模倣にしろ追随にしろ、永遠の真理をつかむことがただ一つの重大事である。が、この事は個性の没却ではなくしてかえって個性の顕揚を意味する。模倣追随が可能であるのはただ修行の道においてであって、真理の体得そのものに関してではない。体得するのはその独自なる人格である。その時にこそその個性は、天上天下に唯一なるものとして、最奥の根拠から輝き出るであろう。
仏祖の模倣は、かくのごとき人格的道取を中核とするに至って、初めてその意義を明らかにする。ここに一切の仏語はその概念的固定から救われるのである。そうして仏弟子は、仏語の概念的繋縛から離れて、融通無礙なる生きた真理に面接するのである。
なおこの修行にとっては、「求道者の団体」すなわち「僧」もまた欠くことができない。仏祖の模倣に志す者は、この和合団体の内にあって互いに刺激し励まし助け合う時に、自己の人格の鍛錬と真理の人格的道取とを容易にすることができるのである。
懐奘を初めて首座に請じた夜、道元は衆に向かって言った、――当寺初めて首座を請じて今日秉払を行なわせる。衆の少なきを憂うるなかれ。身の初心なるを顧みるなかれ。汾陽はわずかに六、七人、薬山は十衆に充たなかった。しかし彼らは皆仏祖の道を行じたゆえに、叢林盛んであると言った。見よ、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむるものがある。竹に利鈍あり花に浅深があるのではない。またこの竹の響きを聞きこの花の色を見る者がすべて得悟するわけでもない。修行の功によって得悟の機に迫ったものが、これらを縁として悟るのである。学道の縁もそれに変わらない。真理はすべての人の内にある。しかしそれをつかむには衆を縁としなくてはならない。ゆえに衆人は心をひとつにして参究すべきである。練磨によって何人も器となる。非器なりと自ら卑下することなく、時を惜しんで切に学道に努めよ。云々(随聞記第四)。
以上が道元の説く修行の方法である。ここに彼の師としての態度は明らかに示されている。が、特に注目すべきは、この修行の目的に関する彼の覚悟である。彼は「自己の救済」を目的とせずして、「真理王国の建設」を目的とした。もとより自己は真理の王国において救われる。しかし救われんがために真理を獲ようとするのではない。真理の前には自己は無である。真理を体現した自己が尊いのではなく、自己に体現せられた真理が尊いのである。真理への修行はあくまでも真理それ自身のためでなくてはならぬ。
「仏法のための仏法修行。」この覚悟が日本人たる道元において顕揚せられたことは、我々の驚嘆に価する。真理それ自身のために真理を求めることは、必ずしもギリシア文化のみの特性ではなかった。真理において最高の価値を認めるものは、――すなわちここに究竟の目的を認めるものは、必ずこの境地に達しなくてはならない。そうして道元はそこに達したのである。彼にとって仏法の修行は他のある物を得んがための手段ではなかった。「仏道に入り仏法のために諸事を行じて、代りに所得あらんと思ふべからず。」皆無所得! 皆無所得! これ彼の言説を貫通して響く力強い主導音である。仏法は人生のためのものでない。人生が仏法のためのものである。仏法は国家のためのものでない。国家は仏法のためにあるのである。
この覚悟は、世上的価値を倒換して永遠の真理に唯一最高の価値を認めるとき、単純明白に現われてくる。しかも世上に行なわれている仏法の修行は、放擲せらるべき世上の価値の奴隷となっている。道元はこの点について幾度か激語を放った。――仏法は他人のために修行するものではない。しかも今世の仏法修行者は、世人の賞翫する所であれば非道と知る時にもなお修行する。世人の讃嘆しないものは、正道と知る時にも棄てて修しない。これまさに世人の価値とする所を仏法の上に置くのである。「恥づべし恥づべし、聖眼の照らすところなり」(学道用心集第四)。――あるいはまたいう、初めは道心を起こして求道者の群れに入ったものが、やがては真理探求の心を忘れ、ただ自分の貴い由を施主檀那に説き聞かせて彼らの尊敬供養を得ようとする。はなはだしい時には他の衆僧をののしって我れひとり道心ありと宣伝する。そうして世人はそれを信じている。「これらは言ふに足らざるもの、五闡提等の悪比丘の如し。決定地獄に落つる心ばへなり」(随聞記第五)。
この種の邪道を別にしても、真実信心と言われるものの多くは、福利を得んことを目ざしている。「わが身のために。」「己が悩みを救われんがために。」「己が魂を救われんがために。」「永遠の安楽を得んがために。」これらはすべてなお我欲名利の心に根ざしたものである。有所得のこころである。魂の救い、永遠の幸福が究竟の目的であるならば、仏法は手段であって最高の価値ではない。真実の仏法修行はこの種のこころをも放擲しなくてはならぬ。「ただ身心を仏法に投げすてて、さらに悟道得法までをも望むことなく」、修行しなければならぬ。
かくのごとき「仏法のための仏法修行」の信念が、「ただ専心に念仏して弥陀の慈悲に救われようとする」浄土の信仰と、時を同じゅうして相対した。確かにこれは偉大な対照である。が、この真理の王国と慈悲の王国とは、その修行法を異にするほどに内部の光景をも異にするであろうか。
五 親鸞の慈悲と道元の慈悲
親鸞の教えは無限の「慈悲」を説くことにおいて特に著しい。親鸞にとっては慈悲は絶対者の姿である。最高の理想である。従ってこの慈悲が人間生活に現わされることは、最も望ましいことでなくてはならぬ。しかも彼は、汝の隣人を愛せよ、人類を愛せよ、人と人との間の愛こそは人生最高の意義である、と説いてはいない。なぜなら彼は人間の愛の力がいかに微弱であり、没我の愛が人間においていかに困難であるかを知っていたからである。彼は慈悲を人間のものと仏のものとに明らかに分けた。そうして人間の慈悲心については言う――聖道の慈悲とは、物を哀れみ、悲しみ、はぐくむことである。しかしながら、人がこの世に生きてある限りは、いかにいとおし、ふびんと思う場合にも、心のままに他を助け切ることができない。――これこそ彼の強い人間愛のためいきであって、我々の心を深く動かさずにはいない。まことに我々は、いかに多くの苦しめる心を我々の周囲に感ずるだろう。そうしてその苦しみを救い得んがために――否、むしろ、救い得ざるがために、いかに自ら苦しむだろう。我々はこの苦しみをぬぐい去るべき方法を知らぬのではない。しかしその方法は、我々の愛の力の乏しさのゆえに、あるいは人の能力がある限度を超え得ないゆえに、我々のものとなることができない。この無力のゆえに我々の同情は、高まるに従ってより多くの苦しみを伴なうのである。しかしもし我々にして心に欲することを直ちに実現し得る無限の力を持ち得るとしたら、我々はいたずらに同情に苦しむよりも、この力量への道を急ぐべきではないか。ここにおいて親鸞は仏のものである慈悲を説いていう――浄土の慈悲はただ仏を念じ、急いで仏となって、その大慈悲心をもって心のままに衆生を救うのである。始終なき慈悲のこころに苦しむよりも、仏を念ずることによって無礙の慈悲に達しようとする方が、「すゑとほりたる」慈悲心であると言わなくてはならない。――すなわち自己の救われることが、同時に他を救うゆえんである。他を救い得るためにはまず自己が救われなくてはならぬ。「汝の隣人を愛する」ことを完全に実現しようと思うならば、まず弥陀に呼びかけるほかはない。弥陀において我々は完全に愛せられるとともに、また完全に愛することができるのである。
親鸞の説く慈悲はかくのごとく「人間のものならぬ」大いなる愛である。彼が力説したのはこの愛と人との関係であって、人と人との間の関係ではない。そうしてこの愛と人との関係において、「一切は許される」という彼の信仰の特質が現わされるのである。彼はいう――善人さえも浄土に(天国に)入ることができる。いわんや悪人をや。――救いを必要とするものは善人ではなくして悪人である。悪が深まれば深まるほど、救いの必要も強まらなくてはならぬ。従って弥陀の慈悲は、より多く救いを必要とする悪人に、より多く注がれるのである。この思想よりすれば、人間の行為の善と悪とは、弥陀の慈悲の前には何の差別をも持たない。否、むしろ善よりも悪が積極的な意義を持つように見える。
しからば親鸞の慈悲の世界においては、悪は責むべきものではないのか。あるいは救いのために必要なものであるのか。親鸞がかの「本願ほこり」をさえも弁護している態度から見て、人はあるいはこれを肯定するかも知れない。「本願ほこり」とは、弥陀の慈悲が悪人に注がれるゆえをもって悪を恐れない態度である、この態度は弥陀の救済の願につけ上がるものとして斥けられた。しかるに親鸞はこの排斥をさらに斥けているのである。しかし、自分はそれによって悪が肯定せられたとは考えることができない。弥陀はいかなる悪人をも捨てずして救うが、しかし悪を是認するのではない。悪はあくまでも悪である。ただこの悪から脱することのできない哀れな「人」を救うのである。親鸞が「本願ほこり」をさえも斥けない理由は、願にほこりて造る罪もまた宿業に起因するという点にある。親鸞はこの事を明らかにするために「善悪の宿業」を熱心に説いた――よきこころの起こるも、あしき心の起こるも、すべて宿業のゆえである。「人」はこの「業」によって善へも悪へも導かれる。だから善行も悪行もすべて業報に打ちまかせて、ただ専心に弥陀の救済のこころにすがるべきである。――ここに人を支配する「業」と、業に支配せられる「人」との明らかな区別がある。業は人間をさまざまの行為に導くが、人は業に動かされながらも心を業の彼岸に置くことができる。すなわち念仏することができる。そうして彼の心が業の彼岸にある限り、言い換えれば彼が仏を念ずる限り、いかに彼が業によって悪行を造らせられるにしても、彼はこの行為の真実の責任者ではない。だからこそ彼は、この悪行のために罰せられずして救われるのである。しかしもし人が一切を仏にまかせないならば、すなわち彼を支配する業と心を一にして、行為の責任をみずからに取るならば、彼はその運命を業とともにしなくてはならない。すなわち救われることはできない。救われると否とはただ「人」が「業」に対して取る態度にかかるのである。
しかし人が「よきこともあしきことも、業報にさしまかせて」ただ専心に弥陀にすがった場合に、その行為の責任を解かれるということは何を意味するか。彼の行為は彼の人格の発現ではなくして、他より付加せられたものである、と考えるのであるか。否、そうではあるまい。宿業とは目前のこの人生を可能にする原理である。「卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりも、つくる罪の宿業にあらずといふことなし。」現世のある悪行はかつて行なわれたある悪行の結果として現われる。現在の自分の生はかつてあったある生の再来である。が「かつて行なわれ」、「かつてあった」ものはどこにあるか。総じて過去とはどこにあるか。空間的比喩を遮断して時間を考えるとき、この瞬間が過去未来を包含する永遠の相を示現してはいないか。一切の過去とは畢竟現前の生に内存するものではないか。しからば宿業もまたこの生に内存するものである。我々が生物として生きる限り、生物としての一切の衝動、本能を脱することができない。そうしてこの衝動、本能こそは、我々をこの世に生み、数知れぬ祖先をこの世に生んだその業縁である。しかもその数知れぬ祖先の衝動や本能は、現前の我々の衝動や本能を除いてどこに存在するか。すなわち数知れぬ年月の間つながって来た業縁は、我々の内なる業縁を除いてどこに存在するか。まことに我々はこの業縁のゆえにこの世に生存するのである。またこの世に生くる限りこの業縁を脱することもできない。だから業縁による行為は彼自身の行為であって他から付加されたものではない。しかしながら、我々はこの業縁を超えた世界を有する。かつてどこにも存在しなかった特殊のたましいを有する。業縁そのものを否認しようとする精神をも有する。そうしてこの業縁以上の存在が我々の人格の最も主要な本質なのである。従って業縁による行為は我々の人格のこの本質の発現ではない。業縁に包まれた人格がかく現われるにしても、その人格の本質はこの行為を否認し、許しを求める。後者に人の重要な意味を認める以上は、業縁による行為は軽視せられていいものである。が、なお一歩を進めてこの軽視が無視に移るためには、業縁を離脱し得ない人間の無力が反省せられなくてはならぬ。彼が「この世」に生きるとは、業縁に縛られることである。否、「人」であること自体が業縁によるのである。従って彼が超人となりこの世以上に生息し得る力を持たない限り、彼は業縁を離脱し得ない。業縁を離脱せざる者はさまざまの悪行に導かれる。が、これは人としてやむを得ないことである。ただそこにこの行為を是認しない心があるならば、すなわち業縁の中にあって自ら安んぜず仏を念ずるの心があるならば、この悪行は直ちに許されていい。罪業になやまされる自己を「かかるあさましき身」と観じ、その罪をにくみ、恥じ、苦しむ「心」のあるところには、もはや救いを阻む何らの障礙もないのである。かくのごとく一切が許されるのは念仏という条件の下においてである。もししからずして何らの条件なしに一切が許されるのであるならば、念仏を説くことは不必要である。弥陀の本願を説くことも不必要である。総じて弥陀の本願なるものは、救いを必要とする人がなくては意味のないものである。そうして救いを必要とするということは、そのままでは安んずることのできない悪の状態が認められるということである。
このような解釈が親鸞の真意に適うか否かは知らない。しかし悪人成仏の思想が一切をそのままに是認する思想でないことは明らかであろう。弱い人にとって罪は避け難い。しかし罪を犯す人の内にもより高き心は存在する。そうしてこれを条件としてのみ、彼は許され救われるのである。
以上によって自分は二つの事を明らかにした。親鸞の説くのは弥陀の人に対する慈悲であって、人の人に対する愛ではないこと。一切は許されるとする彼の思想の根柢には、悪を恐れ恥ずる心が必須とせられていること。この親鸞の特徴に対して自分は「真理のための真理探求」を叫ぶ道元を検してみる。彼はいかなる意味において慈悲を説くか。彼はいかなる意味において悪を許し、あるいは恐れるか。
道元は仏法のために身心を放擲せよという。そうしてこの身心の放擲は、「汝の隣人に対する愛」にとってきわめて重大なる意味を持つものである。愛を阻む最大の力は道元のいわゆる「身心」に根ざした一切の利己心、我執にほかならない。自己の身心を守ろうとするすべての欲望を捨て、己れを空しゅうして他と触れ合う喜びに身をまかせるとき、愛は自由に全人格の力をもって流れる。親鸞の絶望した人間の慈悲も、身心を放擲した人には可能となるであろう。なぜなら前者において自ら否認する以外にいかんともすべからざるものであった宿業は、後者においては捨て得られるものだからである。他の苦しみを完全に救い得る力が自分にあるかどうかは、ここでは問題でない。ただ自分の内にあって隣人への愛を阻む一切の動機を捨て得るかどうか。ただ一つ愛の動機にのみなり得るかどうか。それによってのみ自己の問題としての慈悲心は解決せられるのである。
道元はこの問題についてきわめて力強い例をもって語っている。――昔、智覚禅師という人は、初めは官吏であったが、国司となっていた時に、公金を盗んで衆に施した。それを傍人が皇帝に奏したので、帝は驚き諸臣も皆怪しんだが、罪過すでに軽からざるゆえに、死罪に定まった。その時帝が言うには、この男は才人である。賢者である。今ことさらにこの罪を犯すのはあるいは深き心によるかも知れない。首を切ろうとする時、悲しむ気色あらば、速やかに切れ。もしなければ、切るな。勅使はその旨をうけて死罪の場に臨んだ。罪人は平然として、むしろ喜びの色を見せている。そうして「今生の命は一切衆生に施す」という。勅使は驚いて帝に奏した。帝はいう、そうだ、定めて深い心があるだろう。そこで罪人を呼んでその志をきいた。その答え、「官を辞して、命を捨て、施を行じて、衆生に縁を結び、生を仏家に受けて、一向に仏道を行ぜんと思う」。道元はこの物語を結んで言った、「今の衲子もこれほどの心を一度発すべきなり。これほどの心一度起さずして仏法悟ることはあるべからざるなり」(随聞記第一)。
これほどの心とは、「命を軽んじ、衆生を憐れむ心深くして、身を仏制に任せんと思ふ心」である。それは仏祖の模倣であり、仏法のためであって、人を救うことを目的とするのでない。しかし仏法のためにもせよ、身命を衆生に施す瞬間には、慈悲心がこの世の彼の生を残るくまなく領略しているのである。すなわち彼は慈悲そのものになり切っているのである。そうしてこの慈悲を、――自己を空しゅうして汝の隣人を愛することを、道元は仏徒に欠くべからざる行と見た。
もとよりこれは親鸞のいわゆる「聖道の慈悲」であろう。いかにこの慈悲が高まるにしても、衆生を「助け遂ぐる」ことはできない。智覚禅師は今世の命を衆生に施した。しかし衆生は彼の施した公金によって助けられたに過ぎぬ。この慈悲の効果を問うとすれば、それはきわめてはかないものである。が、道元はこの効果のゆえに慈悲を説くのではない。慈悲が仏祖の行履だから説くのである。彼はしばしば繰り返して言った、「仏は身肉手足を割きて衆生に施せり」。仏の身肉を貪り食った餓虎は、わずかにその餓えを充たしたに過ぎぬ。一猛獣の一時の餓えを救うために身肉を施すのは効果より言えば微弱である。しかし身命を放擲して野獣の餓えを充たした仏の心情は、無限に深く貴い。仏徒はこの心情を学ばなくてはならぬ。彼にとっては、衆生の悩みをいかなる程度に「助け遂ぐる」かよりも、衆生救済の仏意をいかなる程度に「自己の内に」体現し得るかが問題なのである。
ここにおいて親鸞の慈悲と道元の慈悲との対照が明らかになる。慈悲を目的とする親鸞の教えは、その目的を達するために、一時人間の愛から目をそむけて、ただ専心に仏を念ずることを力説し、真理を目的とする道元の教えは、その目的を達するために、人間の没我の愛を力説するのである。前者は仏の慈悲を説き、後者は人間の慈悲を説く。前者は慈悲の力に重きを置き、後者は慈悲の心情に重きを置く。前者は無限に高められた慈母の愛であり、後者は鍛錬によって得られる求道者の愛である。
しからばこの道元の慈悲の前に悪はいかに取り扱われるか。親鸞の慈悲の前には、悪を恐れる心ある以上は、いかなる悪も許された。しかし人間のものである道元の慈悲は一切を許すことができるか。
第一に悪人成仏の問題について言えば、道元の説く慈悲は人のたましいを救い取る性質のものでない。人が自分の身命を賭して餓えたる人に食を与えることは、道元によれば完全な慈悲である。しかしこの場合、食を与えられた悪人が仏法の悟りに達するか否かは、問題でなかろう。慈悲は仏法のためであり、また行者自身の行であって、救済を目ざしたものではない。次に「悪人」に対する態度について言えば、この慈悲は相手が悪人であると善人であるとを問わないものである。「如来の家風を受けて、一切衆生を一子のごとくに憐れむべき」仏子にとっては、悪人もまた「憐れむべき」衆生に過ぎない。
ここにおいて親鸞におけると同じ問題が現われてくる。「悪は責むべきものではないのか。」――その答えは、それが弥陀の態度に関せずして我々の態度に関する以上、親鸞におけるほど重大な意味を持つものでない。道元によれば、人の「本心」は悪ではなく、ただ縁によって善とも悪ともなるのである。従って人はよき縁を求めなくてはならない。そうして仏子は最勝の縁を求めたものである。彼は善悪をわきまえ是非を分かつところの「小乗根性」を捨てて、善くもあれ悪しくもあれ、仏祖の言語行履に随えばよい。従って彼が忠実なる仏祖の模倣者である限り、彼は仏祖の斥けた「悪」をおのずから斥けるのである。しかし他人の行為に対しては、彼が慈悲をもって対する限り、善悪を問う要がない。なぜなら彼は仏祖に倣って慈悲を行なうのであって悪を審くのではないから。さらに言えば、彼にとって慈悲を行なうことは重大であるが悪を審くことは重大でないから。
かく道元の説く慈悲の前には、「悪は必ずしも呵嘖すべきものでない」。このことを証するものとして道元の次の言葉をあげることができる。あるとき故持明院の中納言入道が秘蔵の太刀を盗まれた。犯人は侍者であった。が、他の侍者がそれを摘発したときに、入道は「これはわが太刀にあらず」とて突っ返した。盗んだ侍者の恥辱を思うて返したのである。このために侍者は身を誤らず子孫も繁昌したという。俗人さえもこの心がある。出家人はもちろんでなくてはならない(随聞記第四)。これによって見ると、彼は窃盗を罪するより盗者の心を労わることを重しとするのである。
もとよりこれは「悪は是認すべきものである」という意味ではない。悪は仏祖の斥けたごとく斥くべきものである。しかし悪縁によって一時の悪に落ちたことのために、いかなる善にも向くべきその「本心」を斥けることは、慎むべきだとするのである。この「本心」のゆえに罪を責めようとしない道元の態度は、悪を恐れることを条件として一切の罪を「許される」とする親鸞の態度と、多分に相通ずるものを持つように見える。が、親鸞においては「許す」ものは弥陀であった。道元においては人である。絶対者の慈悲はすべてを許してしかも自ら傷つかないであろう。しかし人間の慈悲は悪を許すことによって正義を蹂みにじる過ちに落ち入りはしないか。たとえば慈母の偏愛におけるごとく、かえって悪を助長する結果になりはしないか。
慈悲が単に人間の自然的な愛を意味するならば、恐らくこの危険を脱れることはできまい。しかし道元の説く慈悲は身心を放擲したものの慈悲である。我執名聞を捨てたものの慈悲である。それは仏の真理のために、――正義や善に充たされた世界のために、行なわれるのであって、現世的な効果のために行なわれるのではない。従ってそれは、いかなる悪を許す場合にも、悪そのものを許すのではなくして人を憐れむのであることを忘れない。この覚悟ある以上は、いかなる手が助力を求めて差し出されようとも、何の躊躇もなくそれを充たすことができるのである。道元はこのことについて日常の些事を例に引いている、――たとえば人が来て、他の人に物を乞うとか、あるいは訴訟するとかのために、手紙を書いてくれと頼むとする。この場合に、自分は世捨て人である。現世的な利を追うことに関与するのは柄でない、と言って断わるとする。それは世捨て人の法にかなっているように見えるが、しかしもし世人の非難を思うて断わるのであるならば、それは我執名聞に動いているのである。頼む人に一分の利益をも与える事ならば、自己の名聞を捨てて頼まれてやるがいい。仏菩薩は人に請われれば身肉手足さえも截った。この道元の言葉に対して、懐奘は問うていう、――まことにそうである。しかし人の所帯を奪おうとする悪意のある場合とか、あるいは人を傷つける場合などにも、助力していいかどうか。道元は答える、――双方のいずれが正しいかは、自分の知ったことではない、ただ一通の状を乞われて与えるだけの話である。その際言うまでもなく正しい解決を望むと書くべきであって、自分が審くべきではないであろう。またたとい頼み手の方が正しくないと知っている場合でも、一往その望みをきいて、手紙には正しい解決への望みを披瀝しておけばよい。「一切に是なれば、かれもこれも遺恨あるべからざるなり。かくの如くのこと、人に対面をもし、出来ることにつきて、よく〳〵思量すべきなり、所詮は事にふれて、名聞我執を捨つべきなり」(随聞記第一)。
以上のごとく道元は、名聞我執を捨てた透明な世界において、一切に是なる広い愛の可能を説くのである。この愛の救済の「力」を度外に置けば、それは人間に実現せられた弥陀の慈悲とも見られるであろう。
親鸞は「信」において仏祖先達に盲従する。「親鸞にをきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかうふりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るゝたねにや侍るらん。また地獄におつる業にてや侍るらん。総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべからずさふらふ。」――これに対して道元は「行」において仏祖先達を模倣する。善くとも悪しくとも、彼はただ従うのである。我見を放擲して「従う」ところに両者の一致があり、「信」と「行」とに焦点の別れるところに両者の著しい相違がある。(もとよりここに信と行とを別つのは、ただ強調の相違を認めるのであって、根本的な相違を意味するのではない。親鸞はその弥陀への信を自己の生活に具現する意味において、徹底的な行者であった。そうしてその信の強い力はこの行の中から輝き出た。また道元はその仏模倣の行を純粋に仏への信の上に築いた意味において、徹底的な信者であった。そうしてその行の深い意味はこの信の中から流れ出た。かく見れば両者は根本において一である。が、それにもかかわらず両者はおのおの異なった特殊性をもって現われる。我々はその特殊性に注目するのである。)
この一致と相違とは両者の内容に常に繰り返して現われるように見える。一致するものは常に色彩を異にしつつ一致し、相違するものは常に根を一にしつつ相違する。釈迦の説いた「慈悲」が両者に生かされる方法もまたそれである。「慈悲」の前に善悪の軽んぜられることもまたそれである。親鸞においては慈悲は弥陀のものであった。従って人間の道徳はその前に意義を失う。道元においては慈悲は人間のものであった。従って人間の道徳は慈悲によって一層その意義を深められる。親鸞は人の善悪と弥陀の慈悲との関係を説くのみであるが、道元は人と人との間の関係に深く立ち入っている。しかもたまたま両者が同じき徳の問題に説き及ぶと、両者の説くところはその中核において常に一致するのである。たとえば親鸞は「孝」についていう――自分は「父母の孝養」のためにかつて仏を念じたことはない。なぜなら、第一に自分は自分の力で父母を助けることができない。第二に、一切の有情はすべて皆世々生々の父母兄弟である。――すなわち彼は、現世において、人として、父母の永遠の幸福を祈るのを無意義とするのである。道元もまた同じく「孝」についていう――在家の人は『孝経』等の説を守るがよい。しかし出家は恩をすてて無為に入ったものである。出家の作法としては、恩を報ずるに一人に限らず一切衆生をひとしく父母のごとくしなくてはならない。今生一世の父母を特別に扱い特別に廻向するのは仏意であるまい。父母の恩の深きことは真実に知らなくてはならないが、しかしまた余の一切も同様であることを知らなくてはならない(随聞記第二)。――すなわち慈悲の前には、特に「孝」と名づけられる徳の存在は許されないのである。
が、この種の一致は多く数えることができない。なぜなら親鸞の徳に関する言説はきわめて少ないからである。従って我々は弥陀の慈悲に裏づけられた道徳を知ることができない。それに反して我々は、人間の慈悲を説く道元において、熱烈なる道徳の言説を見いだすことができる。民衆に直ちに触れ、その生活を直接に動かした親鸞が、その「信」のゆえに人間の道を説くこと少なく、山林に隠れてただ真理のために努力した道元が、その「行」のゆえに人間の道に情熱を持つ。この対照は興味深いものである。
六 道徳への関心
もとより道徳への関心は、絶対者との合一を目ざす宗教にとって、第一義のものではない。親鸞に道徳の言説が少ないのはむしろその絶対者への情熱の熾烈を語るものであろう。が、またここには、弥陀の浄土を現世のかなたに置く教えと、この生をもって直下に絶対の真理を体現しようとする教えとの、必然の相違も認められる。親鸞においては人はその煩悩のままに「浄土」に救い取られるのである。絶対界の光明の前には矮小なる人の煩悩は何らの陰をも投げない。しかし道元においては煩悩の克服が真理体現の必須の条件である。矮小なる人の内界も一度煩悩が征服せらるる時無限なる自由の境地を現じ得るのである。ここにおいて前者は僧に肉食妻帯を許して僧俗の区別を緩やかにし、後者はこの間に最も厳格な区別を立てる。前者はただ悪の許されることを説き、後者は戒律による力強い自己鍛錬を力説する。この意味で道元は、「煩悩即菩提」の思想のうちに生活と理想との或る調和を造り出していた日本の仏教へ、再びあの原本的な「あれかこれか」を力強く引き戻したのである。
が、道元は戒律をそのままに一切の人に課しようとするのではない。仏の模倣者となったものは、すなわち僧は、仏家の風として戒律を守らなくてはならぬ。しかし俗人にとっては、それは必ずしも必要でない。仏は「一切有命の者故らに殺すことを得ざれ」という。「汝等沙門当に愛欲を捨つべし」という。しかし俗人が魚鳥を殺し愛欲に生くることは何の罪とも認められない。このことは戒律から「万人の踏むべき道」としての普遍的な意味を奪う。とすれば、それは道徳としての権威を失いはせぬか。この疑問は僧尼の心にも起こった。ある時一人の比丘尼が道元に問うて言う――世間の女房などにも仏法を学んでいるものがある。比丘尼に「少々の不可」があっても、仏法にかなわぬはずはない。いかん。道元は答えた――在家の女人は愛欲に生きつつ仏法を学んで、なお得ることがあるかも知れない(「たゞこれ志のありなしによるべし。身の在家出家にはかゝはらじ」)。しかし出家の女人に出家の心がなければ、彼女は絶対に得ることができまい。在家の女人に仏法の志がある場合は、その生活がいかに戒律に合わないものであろうとも、なおプラスである。出家の女人に在家の心があれば、たといその仏法の志が在家の女人よりも優れているとしても、なおマイナスである、「二重のひがこと」である(随聞記第三)。言い換えれば、在家の女人は愛欲肯定の立場にあるゆえに、愛欲によって煩わされない。しかし比丘尼は愛欲否定の立場にあるゆえに、愛欲によって甚大の害をうける。立場の相違が同一のものの意義を異ならしめるのである。しからばこの相違は何を意味するか。一は仏を慕いつつも仏祖の模倣をあえてし得ない立場である。何がゆえに愛欲が断ぜらるべきであるかは、ここでは十分に理解せられていない。他は身をもって仏祖の模倣を志した立場である。愛欲を断たなくてはならなかった仏祖の心境は、ここでは十分に理解せられていなくてはならぬ。仏の真理を標準として考えれば後者ははるかに前者よりも高い。が、この「より高い」ことのために、後者は「より厳格な」徳を要求せられるのである。
道元はこの意味で僧の徳と俗の徳とを明白に区別する。「孝順に在家出家の別あり。在家は孝経等の説を守つて、生につかへ死につかふること、世人皆知れり、出家は恩をすてゝ無為に入る故に、恩を報ずること一人に限らず」というごときそれである。在家はただその「親」に孝順であればよい。しかし出家は万人に対してその親に対すると同じくふるまわなくてはならない。すなわち「孝」というごとき特殊の人に対する徳に拘泥してはならない。在家にとっては親のために自己を犠牲にすることは徳の中の徳である。しかし出家にとっては、親のためにその道心を捨てるというごときは、私情に迷ってその本分を傷うことである。在家は利己心のために親を捨ててはならない。しかし出家は道心のために親を餓死せしめてもよい(同上第二)。
道元は求法のために瀕死の師を捨てた明全和尚を讃美している。その心持ちが彼をして「孝」をも斥けしめた。「孝」とは本来親子の間の深い愛である。それは人間的情愛の純なるものとして、何人も承知しているところである。ただ自然の傾向が親の子に対する愛を子の親に対する愛よりもはるかに強からしめる。従って親の子に対する愛は徳として力説せられずに、ただ子の親に対する愛のみが徳として力説せられたのである。しかしもし孝が捨離し難い特殊の力を持つとすれば、それは孝が徳であるゆえではなくして愛情であるゆえでなくてはならない。この愛情は在家にとっては美しい。しかし出家にとっては障礙である。
ある僧が道元に問うて言った――自分には老母があって、ひとり子である自分に扶持せられている。母子の間の情愛もきわめて深い。だから自分は己れを枉げて母の衣糧をかせいでいる。もし自分が遁世籠居すれば母は一日も活きて行けないであろう。が、そのために自分は仏道に専心することができない。自分はどうすればいいのか。母を捨てて道に入るべきであるのか。道元は答えていう――それは難事である。他人のはからうべき事でない。自らよくよく思惟して、まことに仏道の志があるならば、どんな方法でもめぐらして母儀を安堵させ、仏道に入るがよい。要求強きところには必ず方法が見いだされる。母儀の死ぬのを待って仏道に入ればすべてが円く行くように思えるが、しかしもし自分が先に死ねばどうなるか。老母は真理への努力を妨げたことになる。これに反して「もし今生を捨てて仏道に入りたらば、老母はたとひ餓死すとも、一子をゆるして道に入らしめたる功徳、豈得道の良縁にあらざらんや」(同上第三)。
真理の前には母子の愛は私情である。もし母がその愛を犠牲としてもその子の真理への努力を助けることができれば、それは母として以上の大いなる愛であろう。これ真理王国の使徒としての道元にふさわしい言葉である。が、それは彼の説く慈悲と矛盾しはしないか。仏は請わるればその身肉をさえも与えた。この僧は餓えたる母に彼の全生活を与うべきでないのか。しかり。彼は請わるれば与うべきである。が、それは「母」なるがゆえではない。彼は何人に対しても同じき徹底をもってその全所有を与えねばならぬ。しかるにここに問題とせられるのは、「母なるがゆえ」の苦心である。従ってここに答えられるのもまた「母なるがゆえ」の特殊の情を捨てることである。すなわち「孝」は「慈悲」に高まらなくてはならない。「子」は「仏弟子」に高まらなくてはならない。かくして実現せられる愛の行は、「母のため」ではなくして「真理のため」である。
僧の徳と俗の徳との右のごとき区別は、畢竟彼が現世的価値と仏法との間に置いた「あれかこれか」に起因する。彼の言葉で言えば、「仏法は事と事とみな世俗に違背」するのである。彼はその仏法を選んだ。そうしてその仏法は彼にとって唯一無上の価値であった。それならば、何ゆえに彼は世俗の徳を認めるのであろうか。仏法と違背する世俗の立場は、それ自身すでに斥けらるべきものではないのであろうか。
この点については道元は明らかに徹底を欠いている。彼は仏徒の世界に対して俗人の世界の存立することを是認する。そうしてこの俗人の世界にもまた貴ぶべき真人のあることを、僧徒への訓誡のために、しばしば指摘している。この二元的な態度は恐らく彼が仏法に対して儒教を認めていたことに起因するのであろう。彼は絶対の真理の体得に関しては、仏法以外の何物にも権威を認めない。しかし人間の道や、道に対する情熱などに関しては、彼は外典の言葉にも強く共鳴するのである。「朝に道を聞けば夕に死すとも可なり」というごとき言葉は、彼がその真理への全情熱を託して引用するところである。
この儒教への信頼(恐らくは道に対する孔子の情熱との共鳴)が、彼をして暗々裏に俗人の世界の道徳原理を認めしめ、ついに右のごとき不徹底な立場に立たしめたのであろう。が、この不徹底のゆえに彼はまた仏儒両教を通じて存する一つの倫理を、――僧俗を通じてあらゆる人間に通用すべき倫理を、把捉するに至ったとも考えられる。彼が「俗なほかくのごとし」として僧侶に訓える美徳は、すべて儒教の徳なのであるが、彼はそれを仏徒にもふさわしいと見るのである。そうしてこれら一切の美徳に共通な点は、それが我執や私欲を去るということである。「俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ。」「身を忘れて道を存する。」畢竟これが――絶対者の意志に合うように「私」を去って行為することが、――あらゆる人間に共通な道徳の原理として道元の暗示するところである。
道元の道徳の言説には、もう一つ著しい特徴が認められる。内面的意義の強調がそれである。彼は説く――人がある徳を行なうのは自ら貴くあらんがためであって、人に賞讃せられんがためではない。悪を恥ずるのもまた自らの卑しさを自ら恥ずるのであって、人に謗られるゆえではない。行為はそれ自身に貴く、あるいは卑しい。人は密室であると衆人の前であるとによって行為を二三にしてはならない。世人の賞讃すると謗るとは、行為それ自身の価値には何の関係もない。従って人は、「仁ありて人に謗せられば愁ひとすべからず。仁無うして人に讃せられば、是れを愁ふべし。」「真実内徳なうして人に貴びらるべからず」。道元はこのことを特に「この国の人」に対していう。この国の人は「真実の内徳」を知らず、外相をもって人を貴ぶ。従って無道心の学人が魔道に引き落とされやすい。たとえば「身を捨てる」という事を顕著にするために、雨にぬれても平気で歩くというごとき奇異な行ないをすると、世人は直ちに「貴い人だ、世間に執着しない」と認めてしまう。学人自らも貴い人のごとくに構える。この種の「貴い人」がこの国には多いのである。しかしこれは魔道というほかない。外相は世人と変わらず、ただ内心を調え行く人こそ、真の道心者と呼ばるべきであろう(随聞記第二)。
道元はこれらのことを「学人」に対する言葉として残している。しかし彼のこの精神は、学人を通じ学人を超えて、広く武士時代の精神に影響を与えたであろう。後年彼を越前に招いたのは京都警護の任にあった武士波多野義重である。鎌倉に禅寺を興した北条時頼が最初に招聘しようとしたのもまた彼であった。もし彼の内面的道徳の強調が、何らかの形において武士の思想に影響を与えたとすれば、武士の道徳の一面たる尊貴の道徳は、彼の精神と結びつけて考うべきものとなるであろう。
七 社会問題との関係
道元は俗人の世界を認め俗人の徳を認めた。しかし彼は、この俗人の徳もまた徹底する時僧の徳に一致すべきものであることを、――「私欲」を去って「天意」に即くことが畢竟「煩悩」を断じて「仏意」に従うことに帰着すべきであることを、説こうとはしない。なぜなら「私欲」を去ることは、必ずしも肉欲や食欲を克服することではないからである。俗人が私欲を去って道を存する、それによって実現せられようとする理想の世界は、一切の民衆がその欲するままに肉欲を充たし食欲を充たして、しかも争いなく不公平なき世界である。しかし彼にとってはこの種の欲望の充足は何らの価値をも意味するものでない。欲望そのものがすでに苦悩の因であり、欲望の充足はさらに新しき苦悩の因である。それらは単に克服せらるべきものに過ぎない。人が真実に目ざすところは、これらのものを越えた大いなる価値である。
このために道元は俗世界における生活不安を俗世界の徳によって救おうとはしない。生活不安の根源は畢竟人の欲望にある。この不安を救うものはこの根源を断ずる仏祖の道のほかにはない。ここにおいて彼はただ仏祖の道の顕現にのみ努力する。そうしてその顕現は、たとい少数であっても、その弟子に最もよく仏法を体現させることである。
このような立場に立った彼は、その時代に著しい荘園のための争いや、新しく権力を得た地頭の百姓に対する苛斂などを、批評しようとはしない。数次の戦争によっておのが力を自覚した多数の武士が、その恩賜を(すなわち所領を、財産を)要求するのは当然である。限られた土地に対する制限なき欲望が争いを起こすのもまた当然である。これはこの時代の人々には嘆かわしい現実であったかも知れない。しかし道元にとっては人間とともに古い現象である。彼の言うべきことはただ「財欲を捨てよ、衣食に心を煩わすなかれ」の一語につきる。しかも彼はこれを俗人に向かって言うのではない。「学道の人」、「衲子」にのみ言うのである。生活の不安を除却するためではなくして、ただ「真理」の建設のために。
しかし道元の時代にとっては僧は実に人生の本道を代表するものであった。公家も武士も百姓も、男も女も、痛苦のどん底に沈めば僧と寺院に頼って来たのである。そうして彼を苦しめたさまざまの欲望、情熱、憎悪などは、「十悪五逆」として仏の前に懺悔せられたのである。道元の時代に作られた『平家物語』によれば、大仏殿を焼いた平重衡は、囚われた後に「生身の如来」と言わるる法然房に懺悔して言う、――平家が権力を持ったころには自分はただ「世の望み」にほだされて驕慢の心のみ深かった。いわんや運尽き世乱れてからは、「是に争ひ彼に争ふ、人を滅ぼし身を助けんと営み、悪心のみさへぎりて、善心はかつて起らざりき」。これこそこの時代の争闘の心が畢竟帰着するところの嘆息であろう。彼らが「命を捨て軍をする」のも、熊谷の言葉をかりて言えば、おのが子の「末の世を思ふ故」である、すなわち家族の生活を保証するためである。これだけの動機で人の命を絶とうとする際に、生命の貴さに打たれて「俄に怨敵の思ひを忘れ、忽ち武意の気を抛つ」たものは、単に熊谷のみには限るまい。これらの苦しめる心が結局傾いて行くところは、仏門のほかにはなかったのである。従ってここに真実の僧伽(和合団体)を築き上げることは、最も本質的な意味で人生を指導することにほかならない。たとい一人といえども真実仏徒の名に価するものを造れば、やがてそれは人生問題解決の標式を樹立することになる。
この意味で道元は財欲の放棄と乞食の生活とを「僧侶」に向かって力説した。それは土地を所有し裕福に暮らすに慣れた在来の僧侶にとっては、確かに新しい道であった。僧侶の生活がもし仏の真理の体得にあるならば、檀那外護の扶持をうけて「衣糧に煩ふことなく」仏道を行ずるのが、畢竟目的にふさわしいではないか、と人はいう。しかし道元にとっては、極少の財といえども、貯えることによって道心を害する。檀那の信施を明日の食のために取っておくのは、財を貯えることである。「衣糧に煩ふことなく」とは明日の準備をあらかじめしておくことではなくして、明日の食を全然念頭に置かないことでなくてはならぬ。もとよりこのことは、寺院に常住物なく、乞食の儀もまた絶えて伝わらないわが国においては、特に困難であるかも知れない。しかしそれにもかかわらず仏徒はあらかじめ食を思うべきでない。絶食するに至って初めて方便をめぐらすべきである。「三国伝来の仏祖、一人も飢ゑ死にし寒え死にしたる人ありときかず。」世間衣糧の資は「生得の命分」があって、求めても必ずしも得られない。求めずとも必ずしも得られぬのではない。道元自身は「一切一物を持たず、思ひあてがふこともなうして」十余年を過ぎた。わずかの命を生くるほどのことは、いかにと思い貯えずとも、天然としてあるのである。「天地これを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。」ただ任運にして心を煩わすなかれ。たとい餓え死に寒え死にするにしても仏教に随って死ぬのはこれ永劫の歓びである(随聞記第一、第三)。
かくて道元はその徒に対して絶対に「貧」を説く。「学道の人は先づ須く貧なるべし。財おほければ必ずその志を失ふ。在家学道のものなほ財宝にまとはり、居処をむさぼり、眷属に交はれば、たとひその志ありと云へども、障道の因縁多し。」龐公は俗人であるが僧侶に劣らなかった。それは彼が財宝を捨てる勇気を持ったからである。彼がその財宝を海に沈めようとしたとき、人は諫めて言った、貧人にも与え仏事にも用いられよ。彼は答えて言った、自分は有害のものと認めて捨てるのである、すでに有害と知ってどうして人に与えられよう。かくて彼は貧人となり、笊を作って活計を立てた。この覚悟が彼の内生を深めたのである。「俗すらなほ一道を専らに嗜むものは、田苑荘園等を持することを要せず。」「我身も田園等を持たる時もありき。亦財宝を領せし時もありき。彼の時の身心とこのころ貧うして衣盂にともしき時とを比するに、当時の心すぐれたりと覚ゆる、これ現証なり」(同上第三)。
かく道元は衣食住の欲からの脱離を真理への道の必須の条件とする。従って日本在来の仏教、――王侯貴族がその奢侈の生活のままに仏道に入ることを認めた日本在来の仏教を、彼は力強く否認する。釈迦は何ゆえに太子の位置を捨てて乞食となったか。財宝を分かち与え所領を均分することによって一切の問題が解かれるならば、彼は王となってそれを実行したはずである。王侯が仏に帰する第一歩は乞食となることでなくてはならない。これが道元の道であった。
八 芸術への非難
この道元の考え方はやがて仏教の芸術的労作を否認することになる。
聖徳太子と法隆寺とによって推測せられる推古時代の仏教、光明后と大仏殿とによって想像せられる天平時代の仏教、降っては貴族の美的生活に調和した藤原時代の仏教、これらを通じて著しいのは、彼らの法悦がいかに強く芸術的恍惚に彩られているかの一点である。そうして我々もまたこれらの時代の宗教芸術を、その深い、清浄な、神秘的な美しさのゆえに、宗教それ自身よりも重んじようとする。仏祖の教えに合わないにもせよ、これらの芸術は人類の偉大な宝である。仏祖の行道に違うにもせよ、この芸術を宗教的に礼拝した心には、豊かにして寛やかな美しい信仰が認められる。
しかし原始仏教の原本的な「あれかこれか」を蘇らせた道元にとっては、仏像堂塔の類は真理への道に何の益するところもない。「当世の人、多く造像起塔等のことを仏法興隆と思へり。是れ非なり。たとひ高堂大観玉をみがき金をのべたりとも、これによつて得道のものあるべからず。ただ在家人の財宝を仏界に入れて善事をなす福分なり。また小因大果を感ずることあれども、僧徒のこのことをいとなむは仏法興隆にあらざるなり。たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一と時の坐禅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ。」仏像舎利を恭敬して得悟すると思うのは邪見である。「天魔毒蛇の所領となる」因縁である。もとより仏像舎利は如来の遺像遺骨であるゆえに軽んじてはならない。特にその美醜のゆえに恭敬の念を二三にしてはならない。「たとひ泥木塑像の麁悪なりとも仏像を敬ふべし。」しかしそれは「法の悟り」と関するものではない(随聞記一、二)。これは明らかに「美」の力を無視するものである。そうしてこの無視は、官能的なる一切のものに対する不信の表白である。宗教心の緊張に際してはこの傾向はいずれの国いずれの時にも現われる。パウロはギリシアの彫刻家と戦った。サヴォナロラはメディチの勢力と戦った。芸術の歓びが官能の歓びを伴なうとすれば、芸術がこの種の信仰に対して「あれかこれか」の秤にかかるのは当然であろう。
道元が斥けるのは単に仏教美術のみではない。「文筆詩歌」等もまた「詮なき事なれば捨つべき」ものである。法の悟りを得んとするものに美言佳句が何の役に立とう。美言佳句に興ずるごときものは「ただ言語ばかりを翫んで理を得べからず」。自らの内生を表現する場合にも、重大なのはその内生であって、言語文章ではない。「近代の禅僧、頌を作り法語を書かんがために文筆等をこのむ。是れ便ち非なり。頌につくらずとも心に思はんことを書出し、文筆とゝのはずとも法門をかくべきなり。」「思ふまゝの理を顆々と書きたらんは、後来も文はわろしと思ふとも、理だにも聞えたらば、道のためには大切なり」(同上第二)。
ここにも道元は、「法門」「理」などの表現として以外に、文芸の意義を認めていない。この道元が経典の芸術的結構に無関心であったのは当然である。彼は断片的に経典の句を引用する以外、主として唐宋の禅僧、あるいは王侯官人の言行を引いた。それはすべてある「理」を現わせば足るのである。これに比べれば、念仏宗の潮流には幾分文芸に対する寛容があった。もとよりそれも勧善懲悪であるがゆえに「法門の意」にかなうとせられるのではあるが、「諸法実相の理を按ずるに、かの狂言綺語の戯、かへりて讃仏乗の縁なり」とする思想は、単に『十訓抄』の著者(「蓮の台を西土の雲に望む翁」)のみならず、一般に戦記文芸の記者を動かしていた思想であろう。この対立はやがて美術文芸の潮流の内に王朝の流風を追う表現法と極度に官能的要素を没却する表現法との対峙となって現われるのである。
九 道元の「真理」
以上説くところの道元の思想は、すべて彼の根本の情熱――身心を放下して真理を体得すべき道への情熱に基づいている。自分はこれらの思想を明らかにしつつもなお絶えず彼の「真理」の外郭に留まった。そもそも彼のいわゆる「仏の真理」とは何であるか。
ここに我々は最も重要な、しかも最も困難な問題に逢着する。
我々が取り扱った道元説法の初期、すなわち彼が三十七、八歳に至るまでの数年間においては、彼はわずかに『正法眼蔵弁道話』、『正法眼蔵摩訶般若波羅蜜』、『正法眼蔵現成公案』の三篇によってこの問題に触れているのみである。『永平広録』に載するところの彼の語録も、この時代に属するものはきわめて少ない。しかるにこの後四十四、五歳に至るまでの数年間においては、彼は実に七十篇以上の『正法眼蔵』を草して彼の真理を説いている。彼の思想はまさにこの時期に至って昂揚の極に達するのである。この間に彼は六波羅に招かれて武士の前に法を説いた。六波羅の評定衆波多野義重が請うままに、四十四の歳の夏越前吉峰の古精舎に移り、翌年の七月に大仏寺(すなわち永平寺)を開いた。吉峰精舎に移った七月より翌年の三月初めに至る八か月間のごときは、三十篇の『正法眼蔵』を矢継ぎ早に草しているのである。著作の量をもって彼の心生活の緊張の度を推察し得るとすれば、四十二歳より四十四歳に至るまでの三年間は、彼の生涯に特殊の意味を持つらしい。
が、『正法眼蔵』の全体にわたって彼の思想を組織的に叙述することは、到底今の自分の力の及ぶところではない。ここにはただ例示的に二、三の問題について彼の思想を考察し、その片鱗を伺うに留めよう。
(イ) 礼拝得髄
道元の『正法眼蔵』のうちに「礼拝得髄」と題せられる一篇がある。そのなかに含まれている興味深い問題をまずここに取り出して見ようと思う。
道元によれば、真理を修行体得しようとするものにとって、第一に重大なのは導師である。正しい師に面接し、「人を見る」のでなければ、求道者は永遠の理想を把捉することができない。第二に重大なのはこの師に従い、一切の縁を投げ捨て、寸陰を惜しんで精進弁道することである。師を疑い精進を欠くものは同じく真理を体得することができない。しかしかくのごとく迷蒙を断じて仏の真髄を体得した場合に、彼をして体得せしめた畢竟のものは、他の何人でもなくして彼の自己である。彼の人格の底よりいづる至誠信心である。「髄を得ること法を伝ふること、必定して至誠により信心による。」しからばこの至誠信心とは何であるか。それは外より与えられるものではない。が、また自分の心よりいづるものでもない。自ら欲し、自ら努めて至誠信心をつくり出すことはできぬ。「たゞまさに法を重くし身を軽くするなり。世をのがれ道をすみかとするなり。いさゝかも身を顧みること法よりも重きには法伝はれず、道得ることなし。」すなわち真理体得の究極の契機は、法を重くし身を軽くすることである。
「身心はうることやすし。世界に稲麻竹葦の如し。」ただこの身心をもって法の容器とするときにのみ、我らの身心は稲麻竹葦よりも価値あるものとなる。我らにして自己の生活に価値あらしめんと欲するならば、この価値なき身心を「あふことまれなる法」の担い手として、全然、法に奉仕せしめねばならぬ。
この信念から、ものの価値に対する一つの確固たる標準が生まれてくる。大法を保任し真髄を得たものは、それが露柱、灯籠、諸仏、野干、鬼神、男、女、貴族、賤民、の何であろうとも、礼拝すべき貴さを担っている。その物その人が貴いのではなくして、そこに具現せられた法が貴いのである。その物その人を敬うのではなくしてその得法を敬うのである。だから人間にあっても人は、その保任するところの法に応じて価値を獲得する。この価値の標準の前には、世上の一切の尊卑の差別は権威を持たない。「われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず。われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず。われは師号に署せり、師号なきを拝すべからず。われは法務司なり、得法の余僧を拝すべからず。われは僧正司なり、得法の俗男俗女を拝すべからず。われは三賢十聖なり、得法せりとも比丘尼等を拝すべからず。われは帝胤なり、得法なりとも臣家相門を拝すべからず」というごときは、「不聞仏法の愚痴のたぐひ」である。世間的な階級秩序は、法の権威によってことごとく覆されねばならぬ。
この見地から道元は世上に行なわれる一切の差別に対して痛撃を加えた。特に彼が熱心に攻撃するのは、仏教界に著しい女の差別待遇である。彼は暖かい同情をもって、宋の末山尼了然がいかに志閑禅師を教化したか、また仰山の弟子妙信尼がいかに十七僧に痛棒を喰らわせたかを語った。そうして女流もまた男子と同じく得道することを説いた後に、淫欲の誘惑として女を斥けるものを痛罵している。女が染汚の因縁であるならば男もまた女にとって染汚の因縁であろう。それを嫌わば男女は永久に敵である。のみならず染汚の因縁となるのは女人のみでない。夢も天日も神鬼も、あるいは仏像さえも、その因縁となることがある。「女人なにのとがかある。男子なにの徳かある。悪人は男子も悪人なるあり。善人は女人も善人なるあり。聞法をねがひ出離をもとむること、かならず男子女人によらず。もし未断惑のときは男子女人おなじく未断惑なり。断惑証理のときは男子女人、簡別さらにあらず。」女人の済度を拒むのは人類の半ばを捨てるのである。それは慈悲とは言えぬ。――かくて道元は「日本国にひとつのわらひごとあり」として、女人禁制の道場あることをあげている。釈迦仏在世の時の集会には多数の女人が混じていた。「如来在世の仏会よりもすぐれて清浄ならん結界をば、われらねがふべきにあらず。」仏弟子の位は第一比丘、第二比丘尼、第三優婆塞、第四優婆夷である。仏弟子第二の位は転輪聖王よりも貴い。「いはんや小国辺土の国王大臣の位にならぶべきにあらず。」かくのごとく貴い比丘尼をさえも入るべからずという道場を見ると、田夫野人、国王大臣が自由に出入するのみならず、そこに住む僧侶は十悪十重を犯して恥じない。まことにこの小国に初めて見る堕落である。
この道元の攻撃はただ僧侶にのみ向けられたものであるが、しかし我々はここから人間全体に対する彼の態度を透見することができる。道を得た比丘尼の存することは女人全体の「道への可能性」を立証する。かつて悪人であったものが道を得たことは、一切の悪人の「道への可能性」を立証する。単に淫婦であり悪人であるゆえをもって、道場に入る権利を奪わるべきでない。一切の人は、その稲麻竹葦のごとき身心を法の容器となし得るがゆえに、平等に待遇さるべきである。人としてこの世に生を享けたということは「あひがたき法」に逢ってそれを得るという幸福な機会が与えられたことを意味するのであって、何人もこの機会を遮げる権利は持たない。
我々はここに二つのことが説かれているのを見る。一つは世上の価値の差別を撥無することである。種姓も美醜も、階級の貴賤も、官位も長幼も、すべて人の貴さには関するところがない。人は平等である。稲麻竹葦のごとき価値なき身心において平等であるとともに、この身心が法の容器であり得る点においても平等である。が、第二は、法を重んずることによって人間に真実の価値の階段を与えることである。人は得髄を礼拝せねばならぬ。人としては平等であっても、法を担うものとしては平等でない。法の貴さを認めるものは、やがてこの不平等を認め、価値高きものを尊ぶことを知らねばならぬ。ここに明らかな貴族主義がある。礼拝得髄はこの万人平等の上に立つ精神的貴族主義の標語である。
歴史的背景から見れば、道元の時代はこの平等の思想が強く主張さるべき時であった。平安朝の貴族主義は今やその根柢において覆えされていながら、なお伝統として力を保っている。武士階級も表面においてはこの伝統に逆らわない。しかし新しい社会の意識はこの伝統に昔ながらの権威を認めることを拒む。道元の言葉にもこの伝統に対する反抗の痕は明らかに認められる。「小国辺土の国王大臣」を比丘尼よりも賤しとし、あるいは「わが国には帝者のむすめ、或は大臣のむすめの后宮に準ずるあり、また皇后の院号せるあり、これら髪を剃れるあり髪を剃らざるあり。しかあるに貪名愛利の比丘僧に似たる僧侶、この家門にはしるに、頭をはきものにうたずといふことなし。なほ主従よりも劣るなり」という。当時の戦記文芸が公家階級を描く場合のうやうやしい言葉使いに比べれば、非常な相違である。ここではもはや公家階級のみが人間なのではない。公家たちが「野蛮人」のごとく取り扱って全然その眼中に置かなかった下層の武士や農民は、今や人としての全権利を主張する。公家階級の繊細な趣味や煩瑣な学問に通じないことは、もはや恥としては感じられない。(道元によれば、それらはむしろ法に努むるものにとっての邪道である。)かくて数世紀来の豊かな遺産を担った文化、及びその文化によって築き上げられた巨大な社会的差別は、新しい精神的創造の前に何の権威をも持たないものとなる。
しかしこの階級破壊の努力は、道元において、ただ公家階級への反抗にのみ留まらなかった。総じて世上の価値の差別は、それが武士階級に関するにせよ、また仏教界に関するにせよ、すべて否定されねばならなかった。新しい支配階級の頭領たる鎌倉幕府の将軍も、彼の眼にはいっこう貴くない。美しい法衣に官位を誇る僧侶に至ってはむしろ唾棄すべきものである。人の価値はこれらの一切の外衣をはぎ去った赤裸々の姿において認められなくてはならぬ。その価値の標準は、人生の深い根柢よりいで、人格の内奥の核を貫ぬき、その意志の方向を全体として、統一として規定するそのものである。人は、その人類性を失わぬ限り、無常迅速なる現世を超えて、永遠の法を慕う。従って彼は、世上の差別に煩わされることなく、それ自身の貴い魂を持つと言える。学問なきことも、戒律を守らざることも、この魂の貴さを消し去る力は持たない。戒律は仏祖の家風として当然僧侶の守るべきものであって、それを守ることは何の誇りにもならぬ。かくて道元においては、一切の世上の階級の打破のあとに、明らかに人間の平等が提示されるのである。
この点において我々は、彼が釈迦の平等の思想を生かせ、キリスト教の「神の前での万人の平等」の思想と多分に相通ずるものを持つことを、否むわけに行かない。しかし彼はただこの平等の思想にのみ停まらなかった。そこに停まりそれを徹底せしめたのは、むしろ同時代の念仏宗である。それもまた古き階級の打破の運動に伴なって起こった新宗教であって、階級闘争の血なまぐさい苦悶のなかから、総じて世上の階級を無意義とする自覚を呼び醒ました。公家階級を押し倒すために生命を賭して働いた武士たちの或る者は、この自覚のために、新しく得られた彼らの階級の優越なる地位を惜しげもなく捨てたのである。そうして矮小な人の間に存するあらゆる差別が、大いなる弥陀の前に、人類救済を本願とする仏の前に、跡形もなく消失することを喜んだのである。この念仏宗の立場に立てば、弥陀仏の前での人の平等の上に、さらに価値の段階を持ち来たすごときことは、思いも寄らない。弥陀の大いなる慈悲を思うとき、人間に保持する微少な価値が何の権威を持ち得よう。救われるために仏を念ずるか、否か、それのみが問題である。価値を作り出すための一切の努力は何の意味も持たない。高き価値を体現した人が自分の前にあるということも顧みるに足らず、得髄を礼拝するというごときことも不必要である。人はただ大いなる弥陀仏を念ずればよい。
しかし道元は別の道を歩いた。彼にとって「法と人との関係」は「弥陀と人との関係」のごときものではない。法は弥陀のごとき人格的存在者ではなくして、人間に保任せられるものである。人に憑くことによって、現われ働くものである。釈迦仏はその模範であるが、しかし唯一の仏ではない。あらゆる人は、釈迦仏に従って、自己において法を現われしめねばならぬ。すなわち人の真正の任務は自己の活働によって法を実現することである。救いとは赤児が母のふところに抱き取らるるがごとく何物かに抱きとらるることではなくして、自己を仏にすることである。法を我々において具現することである。
この立場に立てば、法と人との間には、人々相互の間の価値の距たり以上に大きい差違は存しない。礼拝せらるべきは超越的な仏ではなくして、仏となれる人である。法を得たる人である。もとよりこの礼拝の対象は「人」でなくして、人に担われた「法」である。しかしその「法」は、人から人へと直接に伝えられるものであって、人を離れた独立の形而上的なるものとはならない。法を礼拝することは必然に法を得たる人を、その得法のゆえに、礼拝することになる。ここにおいて法を標準とする人格的価値の段階が、再び平等なる人の上に打ち建てられなくてはならない。すでに価値の段階がある。そうして人生の意義は「あひ難き法」に逢ってそれを得ることに認められる。しからば法を目標として価値の段階を昇らんとする我々の努力が我々の生活の最大の意義とならざるを得ない。
ここに道元の思想の優れたる特徴がある。彼の「脱落身心」が何を意味するにもせよ、とにかく彼は、永遠の理想(法)を自己の全人格によって把捉せんとする人間の努力に、十分な意義を与えた。それによって此岸の生活が再び肯定せられる。絶えざる「精進」が人生の意義になる。精進を斥け文化の展開を無意義とした弥陀崇拝に対して、これは明らかに人類の文化への信頼の回復である。「礼拝得髄」は文化の上昇を可能にする重大な契機と見ることができる。
「法を重くし身を軽くすべし」という道元の標語は、かくして、「努めてやまざるものはついに救われる」という思想に接近する。それは生活を永遠の理想に奉仕させることである。人類の健やかな生活は、この精神に導かれることを措いてほかにないであろう。
道元のいわゆる「法」が、人類の文化の根源でありまた目標であるところの一つのものを、余蘊なく意味しているか否かは別問題である。しかしその究極の意義に対する止み難い根本的要求――現世のいかなるものをもってしても結局満たし切られることのない心は、ここに欠くことができない。それは社会の組織に対して働けば、一切の特権の打破や人間の権利の平等への要求となって現われるであろう。人間生活に対して働けば、愛と調和との要求として現われるであろう。しかしこれらのものを通じて働く際にも、それは人類の生活を意義づける最後の目標を忘れてはならない。道元の道はこの目標を端的につかむにある。我れらは彼の道を歩む力を持たないにしても、得髄としての彼を礼拝し、彼の言葉に鼓舞されて「精進」の道にいで立つことはできる。礼拝すべきものを持ち得ることは我れらの幸いである、――平等の後にさらに非平等を、価値の段階を、認め得ることは。かくて我々は、高き意味における貴族主義が、経済的政治的及び宗教的の平等主義よりもさらに根本的であることを認めざるを得ない。
(ロ) 仏性
教祖の権威に対して敬虔であった道元は、仏教思想史上重大な論議を生んだ「仏性」の問題に論及するに当たっても、主として歴史的な顧慮の上に彼の論をきずいた。すなわち彼は十四段にわたって歴史的に有名な仏性の言説を注解し評論するのである。しかし彼の目ざすのは、それらの言説がその説者によって実際にどう意味せられたかではなく、彼の立場より見てそれがいかなる意味を持つべきかである。従って歴史上の諸言説は彼自身の思想の組織に化せられた。彼にとっては論理的の真以外に歴史的の真はあり得ない。
彼が『正法眼蔵仏性』においてまず考察するのは、「一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易」という涅槃経(巻二十五、師子吼菩薩品の一)の言葉である。「一切衆生、悉有仏性」は、通例、「一切衆生、悉く仏性有り」と読まれる。そうして涅槃経の文(巻二十五)から察すると、この仏性は「仏となる可能性」である。「一切衆生、未来の世にまさに菩提を得べし、これを仏性と名づく。」心ある者はすべて菩提を成じ得る。一闡提(極悪人)も成仏し得る。そのゆえに彼らに仏性があるのである。しからば「一切衆生悉有仏性」は、「現在煩悩に捕われている一切の衆生にも、悉く、解脱して仏となる可能性がある」という意味でなくてはならない。しかし道元にとっては、この語が涅槃経においていかに解せらるべきかは問題でなかった。彼はこの仏語を経から独立させ、直ちにその中を掘り下げて行く。彼はいう、「悉有は仏性なり。悉有の一分を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外、すなはち仏性の悉有なり」。ここに道元は「一切衆生悉有仏性」を全然異なった意味に読んでいるのである。悉有は、「衆生に悉く仏性が有る」、あるいは「衆生が悉く仏性を有する」というごとく、衆生と仏性との関係を示す言葉としてではなく、独立に、「悉く有ること」、すなわち「普遍的実在」を意味すると解せられている。悉有すなわち All-sein である。従ってそれは一切を包括する。衆生も仏もともに「悉有」の一部分に過ぎない。そうしてこの「悉有」が仏性なのである。だから悉有仏性はまた仏性の悉有(仏性の遍在)でなくてはならぬ。かくのごとく道元は悉有の語義を涅槃経の知らざる方向に深めた。もはやここでは衆生の内に可能性として仏性が存するというごとき考え方は成り立つことができぬ。逆に仏性の内に衆生が存するのである。衆生の内(心)も外(肉体)もともに同じく悉有であり仏性であって、この仏性に対立する何物もない。
ここにおいて道元は、「悉有」の「有」を絶対的な有として、あらゆる相対的な有の上に置く。有無の有、始有、本有、妙有などは、限定せられた有として皆相対的である。しかし悉有は、「心境性相にかゝはらず」、ただ有である。因果性に縛られない。時間を超越し、差別を離れる。「尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず。」すなわち、我に対する客体も、我に対する彼、汝もない。従って我が悉有を認識する、というごときことは全然不可能である。仏性を波羅門の「我」のごとくに解するものは、仏性の覚知を説く点において、右の消息を知らない。彼らは「風火の動著する心意識」を仏性の覚知と誤認しているのである。仏性は悉有であって覚知を絶する。「まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくの如くなれば、悉有それ透体脱落なり。」
道元がかく仏性をアートマンとする解釈を排し、「仏性の言をきゝて学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ人にあはず、自己にあはず、師を見ざるゆゑなり」というとき、我々はここに仏教の根本的思想に対する道元の深い洞察を認めざるを得ぬ。そもそも仏教はアートマン思想の否定に始まり、大乗仏教の根柢もまたその立場において築かれた。しかるに外道の哲学におけるアートマン思想の優勢はついに仏教の内に(特にこの涅槃経において)我の思想の浸入を引き起こした。シナに来たってはこの傾向が特に強く現われる。おおくの学者が仏性を我のごとく邪計するとはまさにシナにおけるこの傾向を指摘した語であろう。道元が涅槃経を捕えながらこの解釈を排することは、彼の経の解釈がわがままなるにもかかわらず、彼がいかによく大乗哲学を理解していたかを語るものである。
道元は悉有仏性の一語を右のごとく解釈するがゆえに、この語を中心思想とする涅槃経は、全体にわたって彼独特の意義づけを得たと言ってよい。しかし涅槃経の新解釈は彼の目ざすところではなかった。彼はただ彼の悉有仏性の意義を確立しようとするのみである。そこで彼はあの大巻の中から、「欲知仏性義、当観時節因縁」[仏性の義を知らんと欲わば、まさに時節因縁を観ずべし]の一句を選んだ(涅槃経師子吼品の二のこの句は時節形色であって、時節因縁ではない。しかしこの品においては因縁についての長い説明がある。時節因縁がこの品の論題である)。そうしてそのあとに「時節若至、仏性現前」の一句を添加して第二段の論題とした。涅槃経は衆生の内の成仏可能性を説く立場に立って時節因縁をいう。そこに用いられた比喩をとって言えば、乳が乳である時にはそれは酪でない、酪が酪である時にはそれは乳でない、しかし酪を作ろうとする人は水を用いずして乳を用いる。乳は乳でありながらすでに酪と離し難き因縁を有する、すなわち乳の内には酪となる可能性(酪性)が存するのである。「乳の中に酪あり、衆生の仏性も亦かくの如し、仏性を見んと欲せば、まさに時節形色を観察すべし。」この経文の意義は動かし難く明白である。しかし道元にとっては乳の中に酪性が、すなわち衆生の中に仏性が、あるのではない。そこで彼は「当観時節因縁」を新しく読み変えた。当観は、当に時節因縁を観ずべしではなくして、独立した「当に観ずべし」(Schauensollen)である。すなわち、能観、所観、正観、邪観のごとき経験的な「観」ではなくして、規範としての、当為としての「観」である。従って「当観」には自他の差別はない(「不自観なり、不他観なり」)。また特殊態にも縛られない。何々を観ずる観ではない。かく見れば当観の内容は、ある特殊な時節因縁ではなくして、「時節因縁聻」(時節因縁そのもの)である。「超越因縁」(因縁一般)である。仏性そのものである。時節因縁すなわち仏性、それが当観である。他の言葉をもって言えば、「いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし時節因縁これなり」である。かくして涅槃経が特殊の契機を指した時節因縁は、一切の特殊性を超えた悉有の義に転ぜられる。従って「時節若至仏性現前」もまた、「時節若し至らば仏性現前せむ」の意に解せられてはならない。仏性の現前する時節を未来に期待する者は、「かくの如く修行しゆく所に、自然に仏性現前の時節にあふ、時節至らざれば、参師問法するにも弁道工夫するにも現前せず」と考えるが、これは非常な謬見である。「時節」は悉有であって、時を超越している。およそ時節でない時処はどこにも存しない。「時節若至といふは、すでに時節至れり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。」「およそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。」
かくて道元は諸法実相の思想を徹底させる。「この山河大地みな仏性海なり。」山河大地はそのままに「仏性海のかたち」なのである。山河を見るはすなわち仏性を見るのであり、仏性を見るとは驢馬の顋、馬の口を見ることである。ここに現象と本体との区別は全然撥無される。世俗諦(シナにおいてはこの語は自然的態度における真理の義に解された)と、勝義諦あるいは第一義諦との区別もない。有るものはただ仏性のみである。否、「有るものは」と言うこともできない。ただ「仏性」である。ただ「悉有」である。
しかしながら、我々はこれを一つの認識の論と目すべきではない。悉有仏性は、道元によれば、仏教の中心の真理である。釈迦の説いた真理であるばかりでなく、「一切諸仏、一切祖師の、頂𩕳眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年、正嫡わづかに五十代。西天二十八代、代々住持しきたり、東地二十三世、世々住持しきたる。十方の仏祖ともに住持せり」。すなわちそれは大力量の士たる「仏祖の児孫」のみが、嫡々相伝して住持するところの、什麼物(Was)である。理論的にいかに精細に思惟されようとも、それはこの真理の把捉でない。「諸阿笈摩教(阿含)及び経論師のしるべきにあらず。」かくて悉有仏性の真理は、ただ少数の大悟者に限られた奥秘となる。「仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず。成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理よくよく参究功夫すべし。二三十年も功夫参学すべし」(仏性、第五段)。ここに恐らく禅宗としての特殊の立場があり、そうして道元の解する「悉有」が単なる諸法実相の思想でなくなる契機も存するのであろう。驢馬の顋を見て仏性を見るのは、驢馬の顋を驢馬の顋とする世俗諦を超脱して第一義諦に立つゆえでない。また世俗諦すなわち第一義諦という実在論的な立場を取るがゆえでもない。認識をより高き立場の「行」において活かせ、行の権利によって認識するがゆえである。「悉有仏性と道取する力量ある」がゆえである。すなわち、悉有仏性と知って解脱(成仏)するのでなく、解脱して悉有仏性と知るのである。道元はこの点に仏法参学の正的を置き、「かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし」という。我々は道元の説く悉有仏性をかくのごとき真理体得の指標として解せねばならぬ。
悉有仏性がかくのごときものであれば、「無仏性」の語も自ら解かれるであろう。無仏性を道破したのは四祖大医であって、やがてこの無仏性の道は「黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に挙揚」した。道元はこれらの諸祖について一々その語を評釈する。彼に言わせれば、「見仏聞法の最初に難得難聞なるは、衆生無仏性なり」。しかしながら、それが難得難聞であるのは、一切衆生悉有仏性を「一切衆生悉く仏性有り」と解して、それに「一切衆生仏性無し」を対せしめるからである。乳に酪性あり、乳に酪性なし、というと同じき意味において、仏性の有無を問題とするからである。これは仏性の意義を体得せざるに起因する。もし悉有仏性を道元の説くがごとくに体得すれば、そこに有無の論は起こらない。悉有、すなわち仏性は、有無を超絶した絶対の有である。その仏性の意義は、無仏性というときにも失われるのではない。従って無仏性の語は、「衆生の内に仏性なし」というごとき意に解されてはならない。悉有仏性の仏性は、無仏性の仏性である。無仏性は無悉有である。無は悉有である。「悉有の有、なんぞ無無(四祖の無と五祖の無と)の無に嗣法せざらん。」悉有が絶対的であるごとく、この無もまた絶対的であって、両者別物ではない。
もとより道元の引く諸祖の問答が、道元の解する意味において行なわれたかどうかは別問題である。六祖が黄梅山に参したとき、
五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。六祖いはく、嶺南人なり。
五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。六祖いはく、作仏をもとむ。
五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん。六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。
という問答があった。これを、
「どこから来た。」「嶺南人だ。」「何がほしい。」「解脱したい。」「嶺南人には仏性(解脱の素質)がない、どうして解脱するか。」「人間には南北の差別があっても、仏性には南北の差別はない。」
のごとき意味に解してならないわけはない。また実際にはこういう意味で行なわれた問答であるかも知れない。なぜなら、こう解しなければ六祖の答えは生きて来ないからである。しかし道元の立場からはそういう解は許されない。彼の祖師が口にした無仏性の語は、必ず、彼の解するごとき意味でなくてはならぬ。従ってこの問答の嶺南人無仏性も、彼によれば、「嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人無仏性となり」である。すなわち、仏性の有無を問題とした言葉でなく、仏性が成仏の後に具足するという立場に立って、いまだ成仏せざるもののために仏性の真義を解いて無仏性と道破したのである。六祖は今専心に作仏を求めている、五祖は六祖を作仏せしむるに他の言葉を知らない、だからただ無仏性と言う。「しるべし無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。」道元はかく解した。従って六祖の答えは十分でない。道元は批評していう、「このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし。……いまの人も仏性ときゝぬれば、さらにいかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり」。――恐らくこれは、道元が、彼自身の解釈に基づいて五祖六祖の問答に与えた批評である。しかしそれによって無仏性の語に対する彼の見解は明らかに現わされていると思う。
狗子還有仏性也無[狗子にまた仏性有りや無や]の問答についても同様の事が言える。「犬は仏性があるかないか」、趙州曰く「無」、「一切衆生は皆仏性があるのに犬はなぜ無いか」、趙州曰く「為佗有業識在」[佗に業識の在ること有るが為なり]。――これも表面の意味通りに取るのが必ずしも間違いとは言えない。しかし道元は次のごとく解している。この僧はもともと犬に仏性が有るか無いかを問うているのではない、仏性は犬の内に有無を論ぜらるべきものではないのである。彼はただ「鉄漢また学道するか」と問うている。すなわち犬に事よせて、仏性は所在を有つかどうかの問題を考えているかときくのである。ところで仏性は悉有である、従って所在を有たない、そこから趙州の「無」という答えが出る。僧はさらにこの「無」に引っかけて、一切衆生が無であるならば仏性も狗子も無であるだろう、その意義いかんと問う。「犬や仏性は、もし無であるならば、お前が無と言わなくとも存在し無いはずだ」という意である。趙州は答えていう、為佗有業識在。為佗有(相対的有)は業識である、業識有、為佗有であっても、狗子無、仏性無である。――ここには無明業識の「有無」を超えた絶対的な「無」が含意される。かくて道元は、この問答をも「仏性の有無」の問題ではなくした。悉有の別名が無である。無が仏性である。
かく見ればこの無仏性もまた、成仏と同参する仏性の道理にほかならないであろう。「無仏性の正当恁麼時、すなはち作仏なり。」無仏性と道取する力量あればこそ、無仏性の意義は把捉される。そうしてそれが把捉されたときには、把捉者はすでに解脱している。これもまたただ行によって、自らの生活全体に実現さるべき真理なのである。
もとより道元は、有仏性無仏性の意義をただ右のごとくにのみ説いたのではない。塩官斉安の「一切衆生有仏性」や、大潙大円の「一切衆生無仏性」などを解釈する場合には、「衆生なるが故に有仏性なり」と言い、また「仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず、たとひ具せんともとむとも仏性はじめてきたるべきにあらず。……もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず、すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず」ともいう。これらの場合には衆生と仏性とは相対せしめられ、その間の関係が問題となる。仏性あり、仏性なし、の有無であって、絶対的な悉有あるいは無ではない。従って道元自身も、百丈の語をひいて、有仏性と言い無仏性というもともに仏法僧を謗るのであることを認めている。しかもなお彼は、「謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず」と主張する。有仏性も無仏性も、ともに仏性を現わす言葉だからである。有無の差別に執すればそれは仏性を毒するであろう。しかしその毒はまた抽象知を破する良薬ともなる。有無を言うはやがて有無を超越せんがためである。現象と本体との区別を焼尽せんがためである。
仏性の意義はかくのごとく悉有あるいは無において現わされる。しかしそれは単に思惟さるべきものではなくして、大力量によって体得され、住持さるべきものである。従って、いまだ成仏せざる立場にあって仏性を知ろうと思うならば、それを思索するのではなくして、それを住持せる「人」において見なくてはならぬ。この消息を道元は竜樹の伝説によって語っている。竜樹が南天竺に行って妙法を説いた時、福業を信ぜる聴衆がいうには、「人には福業があればそれに越した事はない、いたずらに仏性などと言っても誰がそれを見得るのか」。竜樹がいうには、「仏性を見ようと思うならば、先須除我慢」[先ず須らく我慢を除くべし]。問者、「仏性は大か小か」。竜樹、「大でもなく小でもない、広でもなく狭でもない、福もなく報いもない、不死不生である」。問者はこの語に動かされて帰依した。竜樹は座上において満月輪のごとき自在身を現わす。聴衆はただ法音のみを聞いて師の相を見なかった。衆中に迦那提婆があって言った、「尊者は仏性の相を現じて我らに見せてくれるのだ」。「どうしてわかるのか。」「無相三昧、形満月の如くなるを以て、仏性の義廓然として虚明なり。」言いおわると輪相が消えて竜樹は元の座に坐している。偈を説いていうには、「身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用弁非声色」[身に円月相を現じ、以て諸仏の体を表す、説法其の形無し、用弁は声色に非ず]。――道元はこの伝説を解いていう。竜樹がかりに化身を現わしたのを円月相というと思うのは、仏道の何たるかを知らない愚者である。人である竜樹が円い月に化けたなどというばかな話はない。竜樹はじっと坐していただけである。今の人が坐せるごとく坐していたのである。しかもそのままに諸仏の体を表現した。円月相とは感覚的の相ではなくて精神的の相である。竜樹はそこにいない、なぜなら我慢を除いて仏となっているから。すなわち竜樹は、その肉体をもって、肉体にあらざる仏を表現しているのである。その身現相を見て、提婆は、「仏性なり」と道取した。仏法は今広く流布しているが、しかしここに着眼したのはただ提婆のみである。余の者は皆、「仏性は眼見耳聞心識等にあらず」と考えている。身現は仏性なりとは知らない。だから、竜樹の法嗣と自称するものがいかにあっても、提婆の所伝でなければ竜樹の道と考えてはいけない。
道元のこの解釈は、伝説を全然象徴的に解したと言うべきである。しかしそれによって、道元が、人における仏性の具現をいかに考えたかは、明白に現わされている。彼が石頭草庵歌の欲識菴中不死人、豈離只今這皮袋[菴中不死の人を識らんと欲わば、豈只今のこの皮袋を離れんや]を引いて、肉体の主人たる不生不滅者は、たとい誰の(釈迦や弥勒の)それであっても、決してこの皮袋(肉体)を離れることはない、と説いているのを見ても、仏性を最も具体的に、人格において現わるるものと見たことは確かである。そうしてここに我々は、彼の悉有と、差別界に住する我々の生活との、直接な接触点を見いだすのである。
悉有仏性あるいは無仏性の真理は、ただ解脱者にのみ開示せられる。逆に言えば、この真理の体得者はすなわち解脱者である。そうしてそこに達する道は、道元に従えば、ただ専心打坐のほかにない。単に思惟によっては、人はこの生きた真理を把捉する事ができぬ。もし我々が道元を信ずるならば、彼の宗教的真理は哲学的思索の埒外にあるものとして、思索によるその追求を断念せねばならぬ。しかし一切の哲学的思索が結局根柢的な直接認識を明らかにするにあるならば、我々はかかる直接認識が何であるかをこの場合においても思索することができよう。彼によれば仏性は人格に具現する。仏性を具現せる人は仏性と我々との間の仲介者である。我々は「人」を見ることによってその真理に触れ得る、また触れねばならぬ。彼の場合について言えば、悉有仏性あるいは無仏性の真理は、彼の人格を通じて我々に接触する。この真理を体得した彼は、真理を真理のために追求する熱烈な学徒、生活の様式において教祖への盲目的服従を唱道する熱烈な信者、無私の愛を実行する透明な人格者、真理の王国を建設するために一切の自然的欲望を克服し得た力強い行者、として我々の前に現われる。我々はこの人格を通して彼の「悉有」の認識を思索せねばならぬ。その時にこの悉有の内的光景が幾分かは彷彿せられるであろう。思うにそれは、最も深き意味における「自由」である。彼の「身心脱落」の語も、恐らくこれを指示するのではなかろうか。
仏性が悉有であり無の無であるとせられるとき、「即心是仏」の思想もまたその特殊な解釈を受けるのは当然である。
即心是仏について彼が力強く斥けている思想はこうである。――われわれの心は宇宙の本体たる霊知のあらわれであって、そこに凡と聖との区別はない。差別の世界の万象は去来し生滅するにかかわらず、霊知本性は永遠にして不変である。それは万物に周遍して存し、迷と悟とにかかわらず我々の生命の根源である。たとい我々の肉体は亡びても、我々に宿った霊知は亡びない。この我々の本性をさとることがすなわち常住に帰ることであり、またほとけとなることである。そのとき我々は真理に帰り、不生不滅の永遠の生に証入する。
道元はこの種の汎神論的思弁を斥けていう。仏祖の保任する即心是仏は、外道の哲学のゆめにもみるところでない。ただ仏祖と仏祖とのみ即心是仏しきたり、究尽しきたった聞著、行取、証著がある。ここにいう「心」とは一心一切法、一切法一心である。宇宙の一切を一にしたる心である。かくのごとき心を識得するとき、人は天が墜落し地が破裂するごとくに感ずるであろう。あるいは大地さらにあつさ三寸をますごとくに感ずるであろう。かくのごとき打開によって人格的に享取せられた心は、もはや昔の心ではない。山河大地が心である。日月星辰が心である。しかもその山河大地心はただ山河大地であって、波浪もなく風煙もない。日月星辰心はただ日月星辰であって、霧もなく霞もない。この極度に自由にして透明なる心、――自ら生くるほかには説明の方法のない心、――その心こそすなわち仏である。だから即心是仏は発心、修行、菩提、涅槃と離して考えることができない。一瞬間、発心修証するのも、また永劫にわたって発心修証するのも、ともに即心是仏である。長年の修行によって仏となるのを即心是仏でないと考えるごときは、いまだ即心是仏を見ないのである、正師にあわないのである。「釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。」
かくのごとく悉有あるいは無の無がすなわち心であり、この絶対的な意識において山河大地がそのまま心でありまた山河大地であるという思想には、我々は一つの深い哲学的立場を見いだし得ると思う。
(ハ) 道得
道元の著作には絶えず二つの思惟動機が働いている。一つは彼の説かんとする真理を概念的に把定しようとする動機であり、他はその真理がただ仏と仏との間の面授面受であることを明らかにしようとする動機である。この両者の相互作用によって、彼はその言説が抽象的固定的に堕することをでき得るだけ防ごうとする。と同時に彼の真理の概念的表現をもでき得るだけ可能ならしめようとするのである。もとより彼はかくのごとき言語による表現のみをもって能事おわれりとしたのではなかった。しかし彼が言語による表現を重んじたことは、「頌につくらずとも心に思はんことを書出し、文筆とゝのはずとも法門をかくべきなり」(正法眼蔵随聞記二)という言葉によって明らかである。これは近代の禅僧が頌を作り法語を書かんがために文筆を練るのを斥けて、美言秀句に心を捕えられることなく直接端的に自己の精神を表現すべきことを奨めた言葉である。もし彼が書くことによる真理表現の可能を信じなかったとすれば、彼が日本文をもってあの大部な『正法眼蔵』を書いた情熱は理解し難いものとなるであろう。
禅宗は不立文字教外別伝を標榜し、坐禅と公案とを特に重んずる。道元もまた坐禅を力説した。しかしながら彼は、禅宗のこの種の特徴を認めない人なのである。禅宗という名称をさえも彼は力強く斥ける。諸仏諸祖は必ずしも禅那をもって証道したのではない、禅那は諸行の一つに過ぎぬ、禅那は仏法の総要ではない、仏々正伝の大道をことさら禅宗と称するともがらは仏道を知らないのである。諸仏祖師の何人も禅宗とは称しなかった。「しるべし禅宗の称は魔波旬の称するなり、魔波旬の称を称しきたらんは魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず」(正法眼蔵仏道)。彼によればこの事は当時大宋国においても理解する人が乏しかった。禅宗と称し、またその内に五宗を別つごときは、仏法が澆薄となり、「人の参学おろかにして弁道を親切にせざる」がためである。従ってまた彼は教外別伝の標榜をも斥ける。教外別伝を説くものの主張はこうである、釈迦は一代の教法を宣説するほかに、さらに拈華瞬目のとき破顔微笑した摩訶迦葉に正法眼蔵涅槃妙心を正伝した、それを嫡々相承したのが禅宗である。教は機に臨んでの戯論に過ぎぬ、その教以外に正伝した妙心こそ「理性の真実」であって三乗十二分教の所談と同日に論ずべきものでない、この一心が最高の真理であるゆえに直指人心見性成仏なのである。道元はこの主張を謬説と呼ぶのみならず、また「仏法仏道に通ぜざるもの」、「仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるもの」(正法眼蔵仏教)と呼んだ。何となればそれは、仏の教と仏の心とを別のものと考えているからである。教の外に妙心があるというならばその教はまだ仏教ではない。妙心の外に教があるというならばその妙心は釈迦の正伝した涅槃妙心ではない。もし涅槃妙心が教外別伝であるならば、教は心外別伝でなくてはならないであろう。しかし釈迦が心なき教を説いたと考えられようか。心と教とは一である。釈迦は仏法でない教を説いたのではなかった。涅槃妙心とは三乗十二分教である、大蔵小蔵である(正法眼蔵仏教)。かくのごとく道元は、一方に仏と仏との単伝を主張するにもかかわらず、言語による表現を決して拒否しなかった。言語文字によって妙心が説かれ得ないとするのは、固定的に堕した禅宗においてのことであって、道元の生ける仏法の関知するところでない。
しかしながらまた道元にあっては、言語による表現がただそれだけのものとして独立に通用することも許されなかった。真理は言語によって表現せられてはいる、しかし仏と仏との面授面受によらずしてはその真理を受けることができぬ。それはここに用いられた表現が文芸的であって思惟するよりも直観することを必要とするゆえのみではない。道元の文章は自在に文芸的表現を活用するとはいえ、大体として概念による論理的表現である。が、論理的に現わされた真理といえども、ただ抽象的に概念の推理によるのみでは捕捉され得ない。そこにはこの真理の生きた力を捕捉すべき知的直観が必要である。この契機を力説するために道元は仏と仏との面授面受を説く(正法眼蔵面授)。真理を体得し実現せる人を目のあたりに見、また見られることによってのみ、真の捕捉理会が可能になるというのである。もとよりここにいうところの「見る」は、心眼をもって見るのであって、単にただ感覚的に見るのではない。霊山会上に釈迦が優曇華を拈じて目を瞬くのを見たのはまさに百万衆であった、が、この時真に見たのはただ摩訶迦葉一人である。他の百万衆は見て見なかった。けれどもまた、心眼をもって見た迦葉尊者といえども、感覚的に見なかったのではない。感覚的に見ることによって心眼で見ることが可能になるのである。かくのごとく知的直観が「感覚的に見ること」と結合させられる点に、恐らく「人格に具現せられた智慧」の真義が示されているのであろう。知識は人格において実現されなければ真に体認された智慧とはならない。そうして知識が智慧となる活機は、ただその活機を経た人格からのみ直接に伝受せられる。師を見るとは自己を見るなりという彼の言葉は、この消息を指示するものであろう。ここに「師」ということの最も正しい意義が存するのである。
このことはただに禅宗において説かれるのみではない。が、道元が一方に論理的表現を許しつつ、他方に師を見ることによって得られる知的直観を力説して、概念の固定を防ぐとともに直観に豊富な概念的内容を賦与するのは、禅宗において特に重んずる以心伝心あるいは正師の印可というごとき主観的事実を哲学的に活かせたというべきであろう。それは抽象的思弁に陥らず、また漠然たる神秘主義を避ける。仏の真理は面授面受によらずしては把捉されないが、しかも面受された真理はすでに仏々祖々の言葉に表現されているものであって、それ以外の不思議な何ものでもない。もとより道元は、諸仏諸祖の言説を説くとき、常に彼自身の解釈によって新しくその内容を開展させる。しかもその開展には気づかない。従っていかに新しく開展させられても、それは常に仏祖の言説である。が、まさにこのところに、彼が概念の固定を破した趣を看取すべきであろう。古き概念は絶えず新しく改造され、そうして常に仏法を開示する。ただ彼は仏法よりいづる「開展」に着目せずして、すべての開展がいでくるところの「仏法」に着目するのである。かくて彼においては、一々の新しい開展である面授面受が、常に一つの仏法の具現として解せられている。もちろんこれは彼のみに見られる傾向ではない。一般には宗教の閾内における思索、特に東洋の思想において、開展の自覚の乏しいのは著しい事実である。このために歴史的理解は遮断され、思想の順当な開展は阻害された。が、それにもかかわらず、彼の思想が生々として力を持つのは、無意識的な開展によって絶えず概念の固定を破したからである。従って彼が「すでに仏々祖々の言説に表現された」真理をいうとき、実は彼自身の新しく開展した思想を意味している。面授面受によって彼は仏祖の言説の内に自己を見いだす。というよりも仏祖の言説を自己の組織に化する。面受は重大な契機であるが、それは思想的表現を斥けるものではなくかえって可能にするものである。面受によって得られた仏法は、彼の語を用いれば、「道得」の真理であって、無言、沈黙、超論理の真理ではない。
右のごとき道元の見地は、彼の「道得」の論(正法眼蔵道得)に十分示されていると思う。
道得の語義については彼は何の説明も与えていない。が、彼の用語法から見ると、この語の意義はかなり大きい振幅を持っている。道とはまず「言う」である、従ってまた言葉である、さらに真理を現わす言葉であり、真理そのものである。菩提すなわち悟りの訳語としてもこの語が用いられた。道元はこれらのすべての意味を含めてこの語を使っているらしい。その点でこの語はかなり近く Logos に対等する。道得とは「道い得る」ことである。進んでは菩提の道を道い得ることである。従って真理の表現、真理の獲得の意味にもなる。ここでも道元は、これらのすべての意味を含めてこの語を使った。
さて道元はいう、「諸仏諸祖は道得なり」。この場合彼が仏祖を「道得する者」と呼ばずして単に道得と呼んだところに我々は深き興味を感ずる。諸仏諸祖は菩提を表現せる人格である、しかるに彼は、人格なくしてあり得べからざるこの表現の中からその人格を抜き取って、ただ菩提の表現のみを独立せしめる。そうしてそれを道得と呼ぶ。そこに彼がこの道得の語によって現わそうとした特殊の意義が看取されると思う。それは単に菩提あるいは仏の真理のみを意味するのではない。そのさし示すのは、菩提あるいは真理の表現である、それを道い得ることである。しかもそれは特殊の人格から引き離されて、いわば「道い得ること一般」として立てられている。従って諸仏諸祖をその大用現前の側より見れば道得にほかならない。もとより仏祖の大用現前は単に言語によるのみでなく、瞬目、微笑、弾指、棒喝等、人間の表現手段の一切によって行なわれる。それらもまた意味を伝える限り道得である。しかしことさらに「道う」という語を選んだところに、我々は言語による表現の重んぜられていることを看取しなくてはならぬ。道元が趙州の「儞若一生不離叢林、兀坐不道、十年五載、無人喚作儞唖漢」[儞若し一生不離叢林なれば、兀坐不道ならんこと十年五載すとも、人の儞を唖漢と喚作すること無からん]を論じたなかに、「唖漢は道得なかるべしと学することなかれ。……唖漢また道得あるなり。唖声きこゆべし。唖語きくべし」(正法眼蔵道得)と言っているのを見ても、道得はまず第一に言語をもって道い得ることである。この道得に右のごとき所を与えたことを、まず我々は注意しなくてはならぬ。
さらに一歩進んでこの道得は、それ自身独立の活動として規定される。修行者が他人に従って、あるいは「わがちからの能」によって、道得を得るのではない。「かの道得のなかに、むかしも修行し証究す、いまも功夫し弁道す。仏祖の仏祖を功夫して仏祖の道得を弁肯するとき、この道得おのづから三年八年三十年四十年の功夫となりて尽力道得するなり」(同上道得)。すなわち一切の修行は道得のなかに動くのである。道得が功夫として活動し、努力して道得するのである。道得自身の自己道得である。修行者(その修行が道得のなかにある意味においてすでに仏祖である)が数十年の修行は、道得がそれ自身を実現する過程にほかならない。ここに道得は、何人かが道い得る道得ではなくして、主格を抜き去れる道い得ること、すなわち道の能動的な活動として立てられる。ロゴスの自己展開である。
道得をかく規定することによって、道得が功夫となり道得となる活動は、きわめて論理的な姿を得てくる。数十年の修行功夫によって道得した場合、その数十年の功夫はその道得にとって必須のものであり、従ってその道得は数十年来間隙なく持続していたと言える。修行の中途に得た見解はまだ道得ではないが、道得した時その中に生きている。今の道得が右の未道得の見解を内に具えているとすれば、その見解なくしては今の道得は起こり得ない。しからばその未道得の見解は、すでに今の道得を内にそなえていたのである。いわばこの到着点たる道得が、すでに出発点に存し、一切の修行、一切の見解を導きつつ、結局それ自身に還ったのである。「道得おのづから功夫となり尽力道得す」と言い、「いまの道得とかのときの見得と一条なり、万里なり」というのは、確かに右のごとき意味を示す言葉に相違ない。かく道得がイデーのごとき働きをするものとすれば、この道得の働きとして現われる功夫は、道得が内より産み出す開展の過程であるほかはない。「いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり」という言葉は、恐らくそう解すべきものであろう。達せらるべき道得を内に具えた一つの見解が、その道得に呼び出されて現われてくる。しかしそれはまだ道得でない。従ってそこに疑団が生ずる。この見解と疑団との対立のために功夫が必要となるのである。ところでこの疑団もまた右の見解に内具する道得が呼び出したものであるゆえに、この功夫は道得と見得とに功夫せられると見られなくてはならぬ。かくて一切の功夫は、人が任意に取り上げるものではなく、道得自身の内より必然に開展しいづるものと解し得られるのである。そうしてそれは、一つの疑団が解けて新しい見解に達しても、その見解が道得でない限り決して止むことがない。新しい見解はさらに新しい疑団を産む。「道得と見得とに功夫せられゆく」という言葉がこの事を含意すると見られるであろう。やがてついに、「この功夫の把定の月ふかく年おほくかさなりて、さらに従来の年月の功夫を脱落するなり。」脱落とは恐らく aufheben に当たる言葉であろう。いまの道得はかの時の見得をそなえたるものであり、一切の功夫は今の道得の内に生かされる。脱落は滅却ではなくして、より高き立場に生かせることである。ここに道得は、一切の見解一切の功夫をそれぞれその立場において殺し、より高き一つの立場において全体的に生かせたものとして現われてくる。
かくてついに道い得るということが実現せられるのである。しかしそれは、前に説いたごとく、一切の功夫の原動力であって、努力と独立に自存する目標なのではない。一切の功夫の脱落を「究竟の宝所」として到達しようと努力する、その努力自身が究竟の宝所の現出である。道得への努力の一歩一歩が道得の現出である。従って道得は、目ざした目標に到達する時のごとき心持ちで到達されるのではない。が、また不思議な新世界に突如として入り込むというふうにして達せられるのでもない。「正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり、心のちからにあらず身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらるゝに、めづらしくあやしくおぼえざるなり。」
道得の一語、意味するところは以上のごとくである。面授面受によって正法の伝受せられるとき、「道い得る」こともまた成就する。もとより道得の語に捕われるのは仏祖の面目ではない。不道(もの言わず)してしかも正法伝受の実を表現することはできる。しかしそれは言語以外の表現の手段をも是認するというまでであって、言語による表現を斥けるのではない。いわんや概念的把捉を斥けるのではない。無言、沈黙にして表現し得る人も、その体験の内容には概念的把捉の過程が存するであろう。道得が自ら開展して修行功夫となるというとき、不離叢林兀坐不道もまた道得の開展である。イデーが自らを実現するために不離叢林兀坐不道となって現われるのである。兀坐不道者は何ら思惟を働かせることなく、漠然として神秘的直感を待ち受けているのではない。究竟の道得に導かれつつ、その道得を内に蔵するところの差別的な見解を、その全身心によって、間隙なく思惟しつつあるのである。我々はこの道得の活動においてロゴスの開展を見、道元の思想における論理的傾向を理解しなくてはならぬ。が、またこの開展のあらゆる段階に知的直観の契機を織り込んでいることにおいて、彼の思惟法は純論理的でもない。しかもその知的直観は、全身心による思惟を、すなわち修行証究を、前提とするものである。道元にとっては、絶対精神の創造的な自己活動は、単に弁証法的必然性として現われるのではなく、不純な要素の一切を包括する生活全体をもっての弁証法的開展として――しかもその開展の一歩一歩が非合理的な契機によって押し進められるものとして、現われるのである。そうしてこの開展を導くものはこの開展の根源でありまた目的であるところの道得であるがゆえに、右の非合理的契機はまたこの道得に内具するものと考えられなくてはならない。道元はその道得を純論理的なものに仕上げる要求は持たなかった。彼においては修行功夫によって実現せられる証悟は、動かし難い事実であった。しかしもし彼の思想を哲学的に追究して行くならば、一条万里なる道得の開展に欠き難い契機として入り来たるこの非合理的なるものは、さまざまに発展させらるべき問題として残るであろう。それが修行者と師との間の面授面受というごとき個人的問題である限り、我々はそこに心理的説明を挿んで困難を除去することもできる。が、修行者と師とを抜き去って道得をそれ自身に開展する活動として考えるとき、それはもはや心理的説明を許さない。この点が道元の思想において残されたる暗点である。そうして道元の説くところが哲学にあらずして宗教であることの唯一の契機である。
(ニ) 葛藤
我々は道元の「道得」がロゴスの自己開展を説くものであることを見た。「かの道得のなかに、むかしも修行し証究す。いまも功夫し弁道す。仏祖の仏祖を功夫して仏祖の道得を弁肯するとき、この道得おのづから三年八年三十年四十年の功夫となりて尽力道得するなり」という彼の言葉は、「道」が常に修行功夫において現われ仏々祖々の真理相伝が道得自身の開展であることを意味している。しかしながらこの場合には、いかなる修行功夫も、また仏と仏との相伝も、すべて一なる道得の活動である、という点にのみ強調を置き、その道得がいかにさまざまの異なった形に現われるかには言及していない。この点を明らかにするものは『正法眼蔵』「葛藤」である。
達磨がある時門人たちに向かって、「時将に至らむとす、何ぞ所得を言はざるや」と言った。門人道副は、「文字に執せず文字を離れずして道用を為す」と答える。達磨いう、「汝得吾皮。尼総持は「慶喜の阿閦仏国を見、一見更に再見せざるが如し」と答える。達磨いう、「汝得吾肉」。道育は、「四大本空、五陰有に非ず、我見る処、一法得べきなし」と答える。達磨言う、「汝得吾骨」。最後に慧可は礼三拝後、依位而立。達磨云、「汝得吾髄」。果たして達磨は慧可を二祖となし伝法伝衣した。この伝説を捕えて道元は次のごとく言っている、――正伝なきともがらは、この四人の弟子の解するところに親疎あるによって達磨の評言もまた皮、肉、骨、髄と深浅を区別するのだと考える。すなわち最も表面的な解を皮、やや深きを肉、さらに深きを骨、中心に徹したのを髄と評したのであって、慧可の不言の答えは見解すぐれたるがゆえに得髄の印を得たのだと解するのである。しかしながら、門人が祖師を得た際に、皮肉骨髄の差異あるゆえをもって、祖師を得ることそれ自身に深浅の別があると言えるであろうか。「祖師の身心は皮肉骨髄ともに祖師なり。髄はしたしく皮はうときにあらず。」達磨の皮を得るのは達磨の全体を得るのである。それは達磨の髄を得ることによって達磨の全体を得るのと何ら異なるところはない。もとより皮を得ることによって全体を得ると髄を得ることによって全体を得るとは、その形を異にするであろう。しかし、「たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり」。達磨の道の真意は汝吾を得たりというにある。従って四人の弟子のために言った言葉は、初めより同等であり一である。けれどもまた、達磨の評言が四人に対して同等であることは、直ちに四人の見解が同等であることを意味しはしない。四人はおのおの異なった、また優劣のある解を提出している。その異なった解が、優劣のあるままに、それぞれ達磨によって是認せられたのである。これは単に四つの解と限られたわけではない。たまたま弟子が四人であったゆえにそこに四解があった。「もし二祖よりのち百千人の門人あらんにも、百千道の説著あるべきなり、窮尽あるべからず。」すなわち同じく面授面受によって達磨を得るにも、そこに無限の道著が可能なのである。個性の異なるごとく道を異にすることができるのである。
この道元の説明によって我々は、道得が千差万別の形に現われるものであることを、確かめ得ると思う。しかしもし道得がかく多様な形に現われるとすれば、矛盾し撞着する道に出逢った場合我々はどこに究極の仏法を認むべきであるか。道元は答えていう、さまざまの異なれる見解が相錯綜することそれ自身の上に仏法が現われるのであると。この思想を表示するものが彼の「葛藤」の語である。
葛藤とはかずらやふじである。蔓がうねうねとからまりついて解き難い纏繞の相を見せる。そこからもつれもめることの形容となり、ひいては争論の意に用いられる。ところで人間の見解は人ごとに相違し、もし一つの見解に達せんとすれば必ずそこに争論を生ずる。すなわち思惟は必ず葛藤を生む。従って神秘的認識に執する禅宗にあっては、思惟は葛藤であるとして斥けられる。しかるに道元は、この葛藤こそまさに仏法を真に伝えるものだと主張するのである。彼はいう、――釈迦の拈華瞬目がすでに葛藤の始まりである。迦葉の破顔微笑が葛藤の相続である。師と弟子とが相続面授嗣法し行くその一切が葛藤である。地上に有限の生をうくる限り、何人も仏法究極の道理を葛藤なきまでに会得し尽くすということはあり得ない。しかし葛藤は葛藤のままに、葛藤が葛藤を纏繞しつつ、それぞれに仏法の道理を会得して行く。「葛藤種子すなはち脱体の力量あるによりて、葛藤を纏繞する枝葉華果ありて回互不回互なるがゆゑに、仏祖現成し公案現成するなり。」葛藤はただ葛藤を種子とする、葛藤そのものが無限の葛藤を生ぜしむべき種子である。その葛藤種子が解脱の力量を持っている。その力のゆえに葛藤を纏繞する枝や葉や花や果があって、葛藤に即し、葛藤より産出されつつ、葛藤を超脱せる境地を現ずる。そこに仏祖が現成するのである。
ここに展開せられた葛藤の意義は、我々の言葉に訳すれば、イデーの弁証法的展開というに最も近いであろう。それは矛盾の纏繞を通じて伸びて行く。だから不断に抗立否定の動きを呼び起こしている。かかる論争は無限に論争を生ぜしむべき種子である。そうしてその論争種子は解脱の力量を持っている。その力のゆえに否定の纏繞たる論争においてイデーの自己還帰が見られるのである。
葛藤をかく解すれば、仏々祖々がおのおの彼自身において解脱せるにかかわらず、仏法が絶えざる葛藤として存するゆえんは明らかとなるであろう。そうして千差万別に現われる道得が、そのままに仏法を示現するゆえんも明らかとなるであろう。従って、この葛藤を回避することは、道に達するゆえんでない。道元はこの点についても明快に論じている。曰く、――一般の参学者は、「葛藤の根源を截断する」という参学には向かっているが、「葛藤をもて葛藤をきるを截断といふと参学せず。葛藤をもて葛藤をまつふとしらず。いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり。きけるものなし。道著せるいまだあらず」。ここに道元は実に明白に弁証法的展開の意義を把捉していると見られる。仏法とはまさに矛盾対立を通じて展開する思想の流れなのである。無限なる葛藤の連続なのである。従って理論的に綿密な反駁、討論、主張などに入り込むことなしには嗣法することはできないのである。
道元のこの思想は、禅宗を一概に神秘説とのみ考えることに対して我々を警戒する。道元自身はすでにこの警戒を彼の時代の禅僧に与えた。また彼の法孫のうちにもその時代の禅僧に向かって同じき警戒を繰り返したものが少なくない。今一例として『弁註』の著者天桂(慶安元―享保二〇、一六四八―一七三五)が「葛藤」の注中に記した言葉を引こう。「葛藤纏繞の上に於て無礙なる道著現成す、荊棘林中に自在を得るの義なり。今時の師学倶に生死岸頭に於て遊戯し、荊棘林中に大自在を得る等と、当土なしの虚言を吐て、又傍には不立文字不在言句上、無義無味無文無句、公案は参ずるのみ、義解して講ずべからず、と云ふ。これを尻口不合虚言と云ふ。古仏の葛藤纏繞葛藤の句夢にも見ざる故なり。」「今時の師学倶に文字を葛藤と云ふて、甚嫌択する、実に怪笑に堪たり。」これらの語は道元を祖師とするものの当然口にせざるを得ないものである。「参禅して知るべし、義解して講ずべからず」という標語の下に、あたかも秘密結社のごとき排他的団体を作るのは、道元の哲学的思索の深さを知っている所行とは言えない。
道元自身の語によって察すれば、禅宗の神秘主義的な非論理的傾向に対する彼のこの反抗の思想は、その師天童如浄に受けたものであるらしい。彼は言っている、――「先師古仏云、胡蘆藤種纏胡蘆。この示衆かつて古今の諸方に見聞せざるところなり。先師ひとり道示せり」(葛藤)。また直指人心見性成仏、教外別伝不立文字等の標榜によって禅宗を立てんとするものを排する論議中にも、「近代の庸流、おろかにして古風をしらず、先仏の伝受なきやから、あやまりていはく、仏法のなかに五宗の門風ありといふ。これ自然の衰微なり、これを拯済する一個半個いまだあらず。先師天童古仏はじめてこれをあはれまんとす」(仏道)という。なおこのほかにも天童如浄のこの独立の地位は繰り返して説かれている。もしこの先師ひとり、先師はじめてという事が事実であるならば、天童如浄は禅宗における革命児であったと言わなくてはならない。またたといこれが歴史的事実に相違するとしても、少なくとも道元にとっては先師ひとりが始めてこの正しい主張をなしたのである。しからば道元が如浄のこの主張に影響せられたことは、彼が意識してシナの禅宗全体に対する抗議に同じたことでなくてはならない。このことは我々にとってはなはだしく興味ある事実である。道元は日本においてまだ禅宗の伝統の確立されない時にシナに渡った。真に禅宗の思潮に没入し得た日本人は、彼が最初であったと言ってよい。しかるに彼は、すでに六、七百年の伝統を有する末期のシナ禅宗の中に飛び込むとともに、敢然として、このただひとりなる如浄を正しとしたのである。すなわち彼は、禅宗の伝統よりも、如浄一人を択んだのである。彼の後にいかなる禅宗がシナ人によって日本へ導き入れられたにもせよ、とにかく最初に力強くそれをなしたこの日本人は、その禅宗に対する抗議者として「禅宗」なるものを否定しつつそれをなしたのであった。この点から見ても、禅宗の非論理的傾向に対する彼の反抗の思想が、当時のシナの流行思想をそのまま輸入したものでなかったことは明らかであろう。ここに我々は、彼の道得や葛藤の思想の特に重大視せらるべきゆえんを見るのである。
(大正九年―十二年)
追記 この一篇は、道元の哲学の叙述を企てつつ途中で挫折したものであって、その事情はすでに序文に述べておいた通りである。自分はこの未熟な叙述が学界を益し得るとは期待しかねていたのであるが、近ごろ田辺元氏の『正法眼蔵の哲学私観』に接して、この一文が同氏の道元への接近の機縁となったことを知り、非常に歓びを感じた。道元の哲学がこのように生きた問題として蘇生して来たことは、道元のためのみならず、また日本の精神史にとって意義の多いことと思われる。
歌舞伎劇についての一考察
我々の時代の芸術のうち、時代特有の様式をもって過去に打ち克ち得ない状態にあるものは、音楽と演劇である。西洋音楽と徳川時代の音楽、西洋劇と徳川時代の演劇。そのほかに我々の時代の生んだ音楽や演劇で我々が新しい様式としての価値を認め得るものは一も存しない。美術及び文芸においてはすでに我々の時代が始まっているにかかわらず、音楽と演劇とのみが何ゆえに「我々の」と言い得る様式を産出し得ないのであろうか。
この問いに答えるためには、まずこれらの表現手段の特殊性が考えられなくてはならぬ。次いでこの特殊なる手段を用いる芸術家の環境、思想、生活等が考えられなくてはならぬ。自分の考えによれば、音楽及び演劇においては作家と演技者との二重の関係がこれらの芸術の新しい創造を困難にする。演技者が「古き芸術」あるいは「異国の芸術」を演出しつつ、芸術家としての存在を主張し得るからである。この関係は文芸及び美術には存しない。この困難に打ち克ち得るためには、才能ある演技者が新しき作家と同じき精神的雰囲気に住むか、あるいは同一人にして作家と演技者とを兼ねなくてはならぬ。歌舞伎劇の様式が初めて創造せられた時代には、確かにこの両者の一致が見られた。しかるに明治以後の演技者は、新しき作家と全然異なった精神的雰囲気に住み、また単に「過去」「異国」等の芸術を演出することに満足している。そうして鑑賞者もまたそれに満足するか、あるいはそれを余儀なき事として看過している。かくのごとき環境から新しき様式が生まれるはずはないのである。現在においては西洋の様式の咀嚼がやがて我々の様式を生むだろうと考えられている。風習の束縛少なき音楽は恐らくそうなるであろう。しかし演劇は、そうは行かぬ。西洋の戯曲が演ぜられるにしても、なお我々は日本人の風俗による新しいしぐさと日本語による新しいせりふ回しを発明せねばならぬ。
自分はここに、演劇の新しい様式に対して歌舞伎劇が何を意味するかを見るために、歌舞伎劇の様式及び価値について考えてみようと思う。
自分もかつては無条件に歌舞伎劇に陶酔することができた。しかし今はそうでない。歌舞伎劇中の絵画的舞踊的要素に対しては、自分はあたかも浮世絵に対するごとき気持ちをもって――すなわち徳川時代が造り出した一つの特殊な(そうして同時に永遠な)美を味わう気持ちをもって、十分快く没頭することができる。が、その戯曲的な要素に対してはある反撥を感ぜずにはいられぬ。そうしてしばしば醜悪をさえも感ずる――役者がそれを好んで演じ、見物がそれに満足するらしく見える劇に対しても。
何ゆえに歌舞伎劇のある者は醜悪であるか。この問題に答えるために自分はまず歌舞伎劇をその醜悪な方面のみから照らして見る。同じ劇が他の方面から見てある美しさを持つゆえに、全体としてさほど醜悪に感じられないということは、この場合問題外にする。
劇そのものの醜悪はまず第一に戯曲の醜悪に起因する。一例として近松半二作『伊賀越道中双六』をあげよう。この戯曲は全体として統一のない、不自然な、「こしらえもの」に過ぎない。従って上演の際にはその一部分、特に「沼津」と「岡崎」とが、独立せる一幕物のごとくにして選ばれる。そうして実際それらは、おのおの一人の主人公を持った一つのまとまった作品である。が、これらの作品といえども、果たして美しいと言えるであろうか。ここに我々は唐木政右衛門を主人公とする岡崎の段を取ってみる。この段は、上演の際に初めの四分の一を削り取られることによって、かえって統一を高め緊張を強めるのであるが、なお我々はその内にあらゆる不自然を感ぜざるを得ない。まず初めに剣道の達人政右衛門が、大小を雪に埋めて、「丸腰の某を、関所を破りし浪人とは、身に取って覚えぬ難題」というふうに捕人に抗弁する。が、先を急ぐ政右衛門が何ゆえにこの場所で丸腰の策略を使わねばならぬかは、全然理解することができぬ。真影流の柔道の極意をふるって捕人を投げとばす彼が、ただ丸腰であるゆえに町人たることを証し得るであろうか。しかし彼がここで、幸兵衛の家の前で、この策略を用いたのは、幸兵衛に「危うき場所」(これがすでに剣道の達人に矛盾する)を救われるためである。丸腰は幸兵衛に仲裁の口実を与えるためであり、柔道は幸兵衛をして政右衛門の技量に目をつけしむるためである。すなわち主人公政右衛門は彼自身の内的必然によって動くのではなく、ただ作者の企画によって動かされるに過ぎぬ。
この「作者の企画の専制」は全篇を通じて著しい。政右衛門の「危うき場所」を救った幸兵衛は、実は政右衛門の師匠であり、そうしてこの師匠の娘お袖は実は政右衛門の敵河合股五郎の許嫁である。作者はこの珍しき因縁の錯綜をもって看者の心を捕えんとし、まず十余年ぶりの師弟の再会をきわめて「柔らかく感動的」な場面で描いたのちに、この満足の感情を破るものとして、敵持つ政右衛門の自己韜晦や、師匠が実は敵の内縁者であることの現わしを、立てつづけに描いて行く。かくして政右衛門は、昔の幸兵衛の弟子庄太郎として、河合股五郎の敵のうちの最も恐るべき唐木政右衛門に、すなわち自分自身に、対抗すべく懇願されるのである。この師恩と敵討ちとの二つの義理の対立は、政右衛門の性格には何の関するところもなく、ただ単に運命――しかもきわめてまれなる偶然によって、導き出された。しかも驚くべきことには、この不思議な因縁の錯綜を見いだした主人公が、その心に何の驚異をも感じない。十年ぶりの再会をあれほど強く感じ得る心をもって、どうしてこの「師匠を敵たらしめた」運命の悪戯に感動せずにいられたろう。このような奇異なる偶然があたかも家常茶飯事のごとく取り扱われるこの戯曲の世界は、我々にとって実に不可解である。
さて右の二つの義理の対立は、政右衛門には何の苦悩をももたらさない。即座に彼は師を欺いて敵を討つことを決心する。が、ここにはさらにまれなる偶然が付加されている。師匠が関破りの詮議に出て行ったあとで、弟子は師の妻と語りつつ煙草を刻む、――その場に政右衛門の妻が、嬰児を抱きつつ雪の夜道に悩んで宿を求めて来るのである。この唐突な偶然は、作者の企画による以外に何らの必然性をも持たない。作者のいうところによれば、妻はこの嬰児を夫に見せたいがためにこの苦しい旅をするのである。そうして夫や弟が敵を尋ねる艱難を思えば、雪は愚か剣の上にも寝るのが女房の役というふうに考えているのである。しかし我々はこのような動機づけを是認することはできぬ。妻は「嬰児を夫に見せたい」という願望のために、産後約十日の身に期待さるべき一切の冬の旅の苦しさと夫の足手まといになる危険とを冒して夫のあとを追うのであるか、あるいは夫の艱難を思い敵討ちの成就を祈るために、足手まといとなる危険を恐れて、右の願望を犠牲にするか、――すなわち夫への愛を生命とする激情的な女であるか、あるいは情を抑えることを徳操とする賢い武士の妻であるか、いずれかであるはずであろう。もし純粋に前者であるならば、我々は「つひに一夜さも家の下で寝たことのない」、そうして産後幾日も経ずして「雪の蒲団に添乳する」この旅の女に、拘りなく同感することができるであろう。しかしその場合には何よりもまずこの激情的な夫への愛が、彼女の一切の苦悩の原因として、強く前景に押し出されねばならぬ。そうしてそれはこの作者のほとんど顧みないところである。彼はただこの場合政右衛門の足手まといとして妻と子とを必要とした。足手まといの意味を強めるために彼は、その妻を、雪の夜道に倒れて癪に苦しむ女として描いた。総じて一人の母親が、このような境位において、その嬰児のために苦しむだろうと思える最も根源的な苦悩を描いた。作者にとっては、この苦悩の正当な動機づけは問題でなく、ただその苦悩によって政右衛門の犠牲のこころを深めれば足りるのである。従って政右衛門は、ここでもまたこの不思議な偶然に対して、何らの驚異をも感じない。妻がどうしてこんな夜道に旅しているかの原因をさえも聞こうとしない。あたかも敵討ち以外には全然重大なことが起こり得ないかのごとくに、――すなわちこの不思議な妻の出現が、何らか非常に重大なことを告げ知らせんためであるかも知れぬという可能性が全然ないかのごとくに、ただ敵のありかを知ることのみに焦心し、包むわが名の顕われるのを恐れて、強情に妻の苦悩を傍観する。妻の苦悩が強く描かれれば描かれるほど、義理のために堪える彼の苦悩も深い。かくてここに作者の企画によって、妻子の生命の貴さと義理の貴さとが対立させられるのである。が、我々は敵を討たねばならぬということが何ゆえに妻子を見殺しにさせるほどの力を持つかを理解することができぬ。もし彼の復讐心が非常に力強い力として描かれているならば、その復讐心のために妻子を見殺しにする心持ちはあるいは理解し得られるかも知れぬ。しかし作者は全篇を通じて復讐心の根源的な力を描いてはいない。彼が敵を討つのはあくまでも義理である。しかもこの義理は正義の意味ではない。幸兵衛は股五郎を「悪人」と認めるが、しかし一度娘と縁組みした不運のゆえに、この悪人をも助けねばならぬのである。そうしてそれも同じく義理なのである。すなわちこの義理は敵討ちという風習、及び双方の縁者はおのおのその当事者を助けねばならぬという風習に基づいたものに過ぎない。もっとも作者はこの風習に道徳的意義を付加するため股五郎をできるだけ悪人として描き、風習に従って動く政右衛門に「悪人を罰しようとするもの」という外観を与えようと努めているが、しかしこの悪人を罰する仕事が今ここで二人の生命を犠牲としてもなお実現せらるべきほど急を要するものであるとの証明は全然していない。風習である以上政右衛門が敵を討とうとするのは当然である。しかし今ここに妻子が死に瀕するという重大事件が起こった。この母子二人の生命を救うことは、悪人を罰することよりも、いわんや風習を守ることよりも、はるかに急を要することである。政右衛門がここで二人の生命を救うために敵のありかを知ろうとする意志を一時放棄したとしても、すなわち敵討ちを後日に延ばしたとしても、彼は何ら非難さるべきでない。否、人としてはむしろそうすべきである。かくて我々は煙草を刻みつつ苦しむ政右衛門の苦悩に、何らの妥当性をも見いだすことができぬ。我々の感ずるのはただ醜悪である。
妻が気絶した後に嬰児が救われる。ついで政右衛門はひそかに戸外へ忍び出て、雪の上に倒れた妻を呼び生ける。前段の苦悩によって不当に緊張させられた心が、ここにおいてややくつろぐ。しかしこの場面の夫妻の昂揚した情緒は、前段の不自然な苦悩によって鋭くされているがゆえに、断片的には根源的な力をもって人に迫るにかかわらず、なお依然として我々の心に反撥を感ぜしめる。
次に描かれる嬰児殺しの場面に至っては、醜悪はその頂点に達する。肌につけた守りの中の書付によって、嬰児は政右衛門の子と知られた。幸兵衛は人質が手に入ったと喜ぶ。政右衛門はその苦悩の絶頂において己が子を刺し殺す。が、この子殺しの苦悩は何のために忍ばれるのか。かくのごとき大いなる犠牲が払われねばならぬものを、我々は全然ここに見いだすことができぬ。作者のいうところによればそれは「手ほどきの師匠への言い訳」である。が、政右衛門は偶然にその妻子が現われくる以前に、すでに師匠を欺こうと決心し得たのであって、この決心のためにかほどの犠牲を要する人ではなかった。妻子の苦悩を傍観した前の場面と同じく、ここにも我々を納得させるような重大な動機は存しない。我々の心は彼の苦悩に同感することを拒絶する。
これらの一切の苦悩の後に、幸兵衛の見現わしと告白とによって因縁の錯綜が解かれ、幸兵衛の変心と娘のお袖の尼姿とによって幾分の和解が成立する。が、我々は前の苦悩が空虚であっただけにこの結末にもまた不愉快な空虚を感ぜざるを得ぬ。これらの人々は、わかり切った小さい和解に達するために、実に不相当な大きい苦しみを苦しむのである。ここに我々は人間性の不当な虐待を見る。そうしてさらに驚くべきことには、作者はこの人間性の虐待をもって看者の心を釣ろうと企画しているのである。彼は虐殺された嬰児を抱いて嘆く母親に言わせた、「前生にどんな罪をして、侍の子には生まれしぞ」。すなわち侍の社会を支配する風習は非人間的であって、人間的な母子は、否総じて人間性は、その下に苦しまねばならぬ。この特殊な社会の事情は全然我々の同感を呼び得べきものでない。そうして作者がこの特殊な風習の底に普遍人間的な根拠を示唆するか、あるいはそれを非人間的な風習として力強く拒否するか、いずれかの態度を取らざる限り、この作はその特殊な風習とともに滅ぶべきものである。
この種の醜悪な戯曲を歌舞伎劇は喜んで採用する。しかもその醜悪さをさらに強調しつつ演ずる。いかにその演技が精練されてあるにもせよ、我々はそこに美を感ずることはできぬ。右に説いた戯曲について言えば、最初の捕人の場では、役者が「真影の極意をきわめた達人」を表現すること巧みであればあるほど、彼が大小を雪に隠す動作はますます不自然である。また師弟再会の場では、役者がこの喜びを巧みに現わせば現わすほど、(実際吉右衛門はこの場の演技によって自分に涙を催させた、)それほどますますこの後の率直でない、小さい卑しい詭計が、この無邪気で善良らしい剣道の達人に矛盾するように見える。さらに煙草切りの場に至っては、役者が巧妙な芸を演ずれば演ずるほど我々はますます醜悪の感を深くするのである。
自分はこの種の苦悩の表現が、その誇張のゆえに排斥せらるべきものだとは思わぬ。煙草を刻みつつ胸を噛む人間性の苦悶を渾身の力によって抑圧し忍び耐えようとするあのしぐさは、苦悩の表現の一つの様式としてかなり高く評価されていいものである。また門外に雪になやみつつ、寒気と病苦の脅威に対して嬰児を守ろうとする母親のしぐさも、母性の苦悩の表現として一つの完成された様式と見ることができる。しかし我々はただ苦悩の表現のみを喜び得るものではない。この苦悩が避くべからざるものであり、この苦悩に堪えることが生の肯定を意味するとき、初めて我々はこの苦悩に同感して自らの高められたことを感ずるのである。しかるに役者は、苦悩の表現にのみ苦心して、この苦悩の普遍人間的な根拠を示すことを知らない。苦悩において高められた人格を表現せずして、苦しむ要なき苦悩を単にそれ自身として表現する。従って役者が舞台上に示すものは、風習の奴隷たる小さい卑しい人物の、内容においては空虚な、しかも外面においては大きい烈しい苦悩である。役者の芸の巧妙さは内容の空虚をますますきわ立たせるに過ぎない。
実際自分は吉右衛門がこの劇を演じた時に、その芸の巧妙を認めつつも、嘔吐感を禁ずることができなかった。ことに彼が嬰児を殺してその死骸を床に投げた時、――ある重さを感じさせる鈍い響きが自分の耳に達したとき、――自分は猛烈な不愉快を感じた。このような醜悪な感じは、現実の生活においてほとんど感ずることのできないものである。
以上のことは単に「岡崎」について言えるのみでない。「沼津」の平作の犠牲も同様に人間性の虐待である。が、同じことはさらに歌舞伎劇全体について言えるであろうか。歌舞伎劇の演ずる戯曲は必ずしも『伊賀越道中双六』のようにあくどいものばかりではない。もし右の観察が多くの他の戯曲にあてはまらないとすれば、これをもって歌舞伎劇全体の醜悪を論ずるのは不当ではないか。
確かにそうである、もし「あてはまらない」とすれば。しかし自分は「岡崎」において拡大して見せられた醜悪が、何ほどかの程度に必ず他の戯曲にも存することを主張し得る。同じ近松半二の作のうち今なお愛好せられているお染久松の「野崎村」は、なるほど「岡崎」や「沼津」ほど醜悪ではない。が、我々は「野崎村」において情死を決心するお染と久松の苦悩に、我々の納得の行くほどな重大な動機を認め得るであろうか。またこの二人の情死を慮り、自分の恋を断念して尼になるおみつの犠牲の苦しみにも、我々の承服し得べき内的必然性を認め得るであろうか。もとよりこの作の主題は二人の女と一人の男との恋愛関係であって、そこに存する苦悩の核は最も容易に普遍人間的たり得るものである。しかし作者はこの比較的容易な題材においてすらも、恋愛そのものの含む根源的な不調和に突き入らずして、あまりにも多く「義理」に、「習俗的偏見」に、その所を与えている。しかもこの義理によって道義の威力を現わし、あるいはこの偏見によって固定せる風習の非人間的な害悪を示し、それを苦悩の原因とするのでもない。まず初めにお染と久松とを情死の覚悟にまで押しつけるものは、久松の主人への「義理」である。しかも作者は、この義理がいかなる力をもって、いかなる苦しみを通して、久松に恋愛を断念させるか、またその断念し切れない恋愛のゆえに義理に対して戦うべきその戦いが、いかなる意味で不可能であり絶望的であるかを描こうとはしない。あたかも約束であるかのごとくに、義理が出れば直ちに彼は屈服する。明らかに彼は義理の盲目的な奴隷である。従って彼の「船車にも積まれぬ御恩、仇で返す身のいたずら」というごとき言葉もきわめて空虚にしか響かない。お染の一途な恋情の前に「死ぬ気」になるという厳粛な事実は、実はこのような空虚な動機づけしか持っていないのである。我々は久松が弱い無性格な人として描かれていることには必ずしも反対するものでないが、それを死の覚悟にまで導く動機が根源的な威力を持つ恋愛の苦しみでもなければ個人を押しつぶす社会の道義的要求でもなく、ただ単に彼の無性格、彼のでたらめな気分に過ぎぬことを不愉快に感ずるのである。さらにこの二人の死の覚悟を見て己が恋を犠牲にするおみつも、最初はただ初々しい無邪気な田舎娘として描かれ、その恋もまたきわめて率直な、あからさまな嫉妬によって現わされる。しかるに次の場面では彼女は、お染と久松の「底の心」を見破り、母親の心を労わるために己が悲しみに耐え、二人を「殺しとむないばっかりに」尼になるという複雑な心の主に変化している。そうしてこの変化を引き起こした彼女の心の苦闘については何の描かれるところもない。自分を犠牲にした女の姿は、なるほどよく描かれている。が、この犠牲を導き出す必然性は、ほとんど認める事ができぬ。最後にお染が幾度か自害しようとする興奮した動作も、適当な動機づけを欠くゆえに、ただ上ずった神経的な騒ぎとしてしか印象を与えない。彼女は己が母親の悲しみには顧慮せず、ただ一途に久松に逢いに来た無邪気な娘である。また自分と久松との恋が許嫁のおみつにいかなる苦痛を与えるかということにさえもかつて気づかなかった単純な心の持ち主である。それがおみつの母親の悲しみを見て自分の責任を感じ、「言い訳」のために死のうとする。それほど急激に他の心に同情し得る女に変化したのならば、おみつの犠牲の心にもどうして同情しなかったか。我々は死を中心にして動くこれらの心持ちの変遷に、深いたましいの動きを予想せずにはいられぬ。しかし作者はただ外面の興奮のみを描いて、それが意味すべき魂の動きを描かない。我々にはお染の行動もまたでたらめに見える。
近松の世話浄瑠璃のごときはここにはしばらく別問題として、普通歌舞伎劇場が好んで上演する多くの劇には、「劇」として右のごとき醜悪が見いだせると思う。「野崎村」をもって代表せしめ得べき一列の心中物、「岡崎」をもって代表せしめ得べき一列の敵討ち物、その他武士階級に対する平民階級の反抗心を主題とする喧嘩物、風習の圧抑への反抗心を主題とする白浪物、――すべてそれらにおいて劇の葛藤を生み出す根拠は、常に社会の一時的なる風習である。復讐心、反抗心のごとき自然的原始的な動機すらも、その自然的原始的な力においてはつかまれずに、外面的一時的な関心に帰して考えられる。従って義侠的にふるまう人物といえども、自敬の念に動く人としては現わされずに、ただ当時の世間の物笑いとなるを恥じる人としてのみ現わされるのである。まれには一身を犠牲にして民衆の福祉のために苦しむ人物や、あるいは自己の罪悪のために死よりも烈しい苦悶に陥る人物が描かれぬでもないが、そういう作においても、苦痛に堪える力の貴さや罪悪の意義や人類的な理念やなどに対する作者の無理解と、外面的にのみ熱心な苦悶の表現とのゆえに、我々は素直に美を感ずることができない。もし我々にしてこれらの歌舞伎劇のうちにただその戯曲的要素をのみ見るならば、我々はそれを芸術として鑑賞するに堪えない。
が、我々はまた歌舞伎劇のあるものにおいて、その「戯曲」としての醜悪を感じながらも、なおわずかの自己制御によって、その世界に入りその美を感ずることができる。同じく近松半二の作に例を引けば、『二十四孝』の「十種香」の段は、総じて「人格の葛藤」を描いたものとは言えない。その世界のうちに動くものはただある一つの感情を持った人形に過ぎぬ。そうしてこの世界の輪郭は荒唐無稽な作者の企画によってできあがっている。しかし我々はこの劇において、その戯曲的要素への注意を遮断し去った時に、一つの美しい夢幻境へ誘い入れられるのである。我々はもはや劇中の人物の「人格的行為」を見るを要しない。永い伝統を負った舞台装置や役者の衣裳の装飾的絵画的効果、同じく永い伝統によって訓練された役者の体の彫刻的及び舞踊的効果、及びその微妙なせりふ回しの音楽的効果。それらによって我々はここに純粋の劇と区別すべき別種の劇を見いだすのである。この劇においては戯曲はただ絵画的彫刻的舞踊的及び音楽的効果に都合よき輪郭でありさえすればよい。ここに作り出される美はただ形と線と色との交錯、その動きの微妙なリズム、それに伴なう旋律的な声音などに直接に基づくのであって、これらの動作に現わされる倫理的意味に基づくのではない。
ここに役者の「芸」が主位を占めるところの歌舞伎劇の他の方面がある。そうして歌舞伎劇の美はまさにこの方面に存するのである。従ってこの美は戯曲的要素の少ないものにおいてほど一層純粋に現われる。『暫』とか『狐忠信』とか『車引』とかのごとく、絵画的舞踊的効果のために写実的な要求や戯曲の制約を全然放擲して顧みないもの、あるいはさらに『関兵衛』、『田舎源氏』、『鷺娘』などのごとく、純粋に舞踊であるもの、――それらにこの芸術の最もよき代表者がある(注一)。我々はここに徳川時代の特殊な情調より生まれた特殊な美を、――その意味で世界に比類がなく、また絶対に「再びすべからざるもの」であるところの独特な美を、見いだすのである。もとよりそれは我々の現在の心を余蘊なく充たし得るものではなかろう。我々の心は自由にして奔放なロシア舞踊により深く満足するに相違ない(注二)。しかしたとえばあの鷺娘が、真白き装いをして、薄い傘をさして、「しょんぼりとかあいらしく」たたずんだあの不思議に艶な姿は、いかなるロシア舞踊の傑作にも見られない特殊な美しさを印象しはしないか。そうしてあの頸の、静かな、柔らかな、そうしてきわめてわずかなうねり方は、ロシア舞踊に満足すると全然異なった方向において、我々の心に鋭い顫動を呼び起こしはしないか。自分はアンナ・パヴローヴァの踊りを見たのちにも、粂八の鷺娘の印象が決して自分の心に薄らがないのを感ずる。
この種の美を持った歌舞伎劇は、徳川時代の音楽やあるいはまた浮世絵などと同じく、その著しい時代色を超えて普遍人間的に通用するものである。それは雄大な、あるいは力強い芸術ではない。ただ小さく、哀れに愛らしいものに過ぎぬ。しかしその比類なき濃淡のこまやかさは、雄大な芸術の前にもなお自らを主張し得べき価値をこの芸術に与える。
歌舞伎劇の多くのものにおいては、この種の美が、戯曲的の醜悪を包んでいるのである。役者は「岡崎」のごとき醜悪な劇を演ずる際にも、おどりの訓練によるしぐさの美しさや音楽的訓練によるせりふ回しのうまさを使う。従って部分的な表現においてのみこれらの「芸」を味わう人には、劇全体の醜悪は看過し得られるものになる。たとえば雪の夜道に苦しむお谷のしぐさは、前後と切り放して、ただ母の苦しみを現わす一種の舞踊として味わうこともできる。そうして舞踊としての苦しみの表現には、苦しみの動機として寒気の威力や死の恐怖以上に何物をも要しない。この「人物」が何ゆえに「この」苦しみを苦しむかはこの場合問題とはならない。かくのごとき立場に立てば、この本原的な感情の類型的表現にはかなりの美しさが見いだせるであろう。
これが戯曲として弱い歌舞伎劇に強い魅力を持たしめるゆえんである。すなわち歌舞伎劇の長所はあくまでも「歌舞伎」であって「劇」にあるのではない。歌舞伎劇において役者が優位を占め脚本作家がその奴隷の地位におとされているのはもとより当然のことである。
歌舞伎劇が右のごときものであるとすれば、それはすでに徳川時代に完成したものであって、内より開展し得べきものではない。それがおのずからなる開展の歩みを止めてからすでにもう半世紀の年月がたった。そうしてその間の時代の変遷はあまりに烈しい。今や歌舞伎劇は能楽と同じき地位に陥った。役者はただ過去の様式の忠実な保存者であればよい。そうしてこの過去の様式のうちの何が永遠の価値を持つかを理解していればよい。
しかし能楽が忠実に保存されたと平行して、その伝統を巧みに利用し開展しつつ歌舞伎劇を作り出したあの径路は、我々の時代においても繰り返されぬであろうか。すなわち歌舞伎劇の忠実な保存と平行して、その伝統を利用した新しい様式は生まれ得ぬであろうか。
それに対して我々は三つの場合を考え得る。一は旧来のしぐさやせりふ回しの原理を我々の時代の風俗や言葉に活用して、新しくしぐさやせりふ回しを創造することである。二は旧来のしぐさやせりふ回しをそのまま利用して、真に戯曲らしき戯曲の演出法を創造することである。ギリシアの悲劇の巧みな翻案とその演出法の工夫とはこの創造によき暗示を与えるであろう。三は在来の舞踊が日本人の体格と動作とにおいて見いだした美しさを我々の時代の趣味と情調との内に変質させ再生させることである。これらの三つはいずれも天才の出現によってのみ可能なことであろう。が、新しい様式の創造が天才を待つのは当然である。我々はこの天才を渇望することによってこの天才を呼び出さねばならぬ。
(大正十一年、三月)
注一 舞踊劇の問題に関連あるものとしてかつて「唄と踊り」と題して書いた短文をここに付加する。(三七二ページ参照)
さる名人の長唄をきいたあとで、ふと心に浮かんだこと。
自分は長唄を十分理解し得るとは思っていない。しかし柔らかな、円い、艶っぽい唄であれば、自分はいきなりその濃い雰囲気のなかへ引き入れられて行くように感ずる。そこにみなぎっている情緒が、自分の日常生活とかなり縁の遠いものであることは、いささかもこの没入を妨げない。だから自分はこの種の旋律にある強い力を認めることを躊躇しない。
が、ここに唄われる歌は、詩としてどういう価値を持っているか。たとえば、『座頭』とか、『傾城』とか、『汐くみ』とか、『鷺娘』とかというふうのものは、読む詩としてもある情調を印象するには相違ないが、「叙情詩」として優れたものと言えるであろうか。自分はそうは思わない。惻々たる感情の流露を問題とするならば、徳川初期の小唄類の方がはるかに優れている。長唄の歌詞は一つの感情を歌うというよりも、むしろ「一つの情調」を印象派の手法によって描いたものである。そこには、さまざまの表象が点々として並べられる。たとえば『傾城』においては、傾城なるものを連想させる種々の表象――「鐘は上野か浅草か」、「初桜」、「素足の八文字」、「間夫」、「結び文」、「床へさし込む朧ろ月」、「櫺子」、「胸づくし」、「鶏の啼くまで」、「手管」、「口舌」、「宵の客」、「傾城の誠」、「抓る」、「廊下をすべる上草履」、「櫛簪も何処へやら」、「夏衣」、「初音待たるる時鳥」、「閨の戸叩く水鶏」、「蚊屋の中」、「晴れて逢う夜」、「見返り柳」、などの刺激の強い表象が、春夏秋冬にはめて並べられている。そうしてこれらの表象を結びつける手段は、「解けて思いの種となる鐘は上野か浅草か」というふうの、単なる言語遊戯に過ぎない。従ってここに歌われるのは、ある一つの心に起こった特殊な感情の動きではない。遊蕩児に共通なさまざまの情調を、断片的に点綴して、そこに非個人的な一つの生活情調を描き出しているのである。だからこの種の歌には、ある心の深い悲しみ、苦しみ、喜び、あるいは湿やかな愛の情緒、などは現われて来ない。ただ群集のざわめきの中にあるような、感情の表面の交響のみがある。「叙情詩」を唄うということから離れていないこの音曲が、叙情詩として優れたものよりも、むしろこの種の情調詩を択ぶに至ったことは、何を意味するだろうか。
音楽はそれ自身の性質として純粋になろうとする傾向を持つ。言葉の必要はそれに伴なって減少するものである。が、長唄においては、言葉はなおその力を失っていない。言葉を無視してただ旋律のみを聞いている時よりも、言葉を知ってそれを聞いている時の方が、旋律は強く響く。それほどに言葉の力が働いているとすれば、点描的な歌詞を使用することにも、何らかの根拠がなくてはならない。
自分はこの原因を探ってふと踊りとの関係に思い至った。点描的な歌詞は音楽のためよりもむしろ踊りのためではないだろうか。
たとえば『鷺娘』の、「せめて哀れと夕暮れにちらちら雪に濡れ鷺のしょんぼりとかあいらし」というような文句を、ただ唄で聞く場合と、唄につれて「しょんぼり」とたたずむ白い美女の姿を見ながら聞く場合とでは、その印象が著しく異なって来る。踊り手の姿や、その踊りの律動に結合すれば、断片的な文句は直ちに具象的な中心を得て、単なる情調詩以上のある深さを感じさせる。
この視点をもって長唄の歌詞に向かったとき、自分には右にあげた疑問が解けるように思えた。一つの情緒を筋立てて歌った叙情詩は、踊りにとっては不利であろう。なぜなら特殊な心の感情の動きを表現するためには、演劇的な表情がはいりやすいからである。そうして演劇的になることは、踊りの特殊な表現能力を減殺することになるからである。音楽に近い踊りにはその自身の象徴的な表現法がある。踊りがその特有の美を発揮するためには、歌詞の束縛はできるだけ弱まらなくてはならない。
ここに踊りの発達と、踊りが音楽から離れることのできない性質とが交叉する。もし日本に器楽が発達したならば、踊りはそれと結びついたであろう。しかし器楽のない日本では踊りは唄から離れることができない。そこで歌詞の束縛の最も少ない唄――歌詞がむしろ踊りに奉仕する唄が求められる。意味の連関の弱い、点描的な情調詩は、ちょうどこの要求にあてはまる。かくして詩と音楽と踊りとの渾融した芸術ができあがってくる。こう見れば、長唄だけを離して唄うのは、この芸術の美点をそぐものである。
が、我々はこの渾融した芸術が音楽と踊りとの二方面に純化して行くことをもまた望まなくてはならない。ただその場合には、単なる分離でなくして進化が必要である。長唄はリイドとして、より純粋になることを要する。すなわち音調の美と狭斜の情調とを中心にする歌から、――踊りのための歌から、――より深い感情を現わした歌に移り、そうしてそれにふさわしい旋律の深化と解放とを要する。また踊りは、言葉との密接な関係を離れて――すなわち言葉を身ぶりに翻訳する在来の方法から離れて、純音楽を伴奏とするより象徴的なものに進まなくてはならない。自分はこの進化が可能であることを信ずる。また在来の様式が驚嘆すべき新芸術の素地となり得ることをも信ずる。ただ欠けているのは革命の天才である。
注二 ロシア舞踊の問題に関連せるものとしてアンナ・パヴローヴァの舞踊の印象記を左に付加する。(三七二ページ参照)
アンナ・パヴローヴァの踊りを日本で見ることができるとは、不思議なまわりあわせである。七、八年前にはそんなことは思いも寄らなかった。パヴローヴァは遠いあこがれの一つであった。何が起こるかわからぬという気がしみじみとする。ところでこのパヴローヴァの踊りを見て、また思いがけぬ気持ちに出逢った。自分はあの踊りに、予期していたほどの驚異の情を感ずることができなかったのである。
この前来たスミルノーヴァは確かにパヴローヴァよりも拙かった。座員も今度のよりは悪かった。しかしパヴローヴァを見た後にもスミルノーヴァの印象は依然として薄らがない。というのは、最初の時自分は舞踊のあの様式に驚異したのであって、そのためにはスミルノーヴァほどの巧さでも十分だったのである。従ってスミルノーヴァの印象にはあの種の舞踊に対する最初の驚異の情が混じている。しかるに今度は、スミルノーヴァよりもはるかに優れた、別種の芸術を見るつもりでパヴローヴァに対し、そうして案外にも同種の芸術を見いだしたのであった。両者の相違は技術の相違であって様式の相違ではない。それに気づかずに予期すべからざるものを予期したのは、自分の見当違いであった。
我々はパヴローヴァ個人の芸と、彼女の踊る舞踊の様式とを、別々に考えなくてはならない。パヴローヴァは巧妙である。その踊りは、というよりもその姿は、美しい。しかしあの「舞踊劇」なるものは、全体として、美しいと思えない。自分の見た『アマリラ』が特にそうなのかも知れぬが、あの劇的な動作は舞踊の純粋性をそこなう。舞踊はあのように劇的動作の代用物であってはならない。それは独立にその特殊の表現法をもって、すなわち運動のリズムをもって、直ちに魂の言葉を語らなくてはならない。
ショパンの曲を舞踊に移した『ショピニアナ』は、右の要求を充たすものとして予期していた。しかしその予期もはずれた。そこには一つの作曲としての統一ある感じがない。群集の各個の踊りがまだ交響楽にまで仕上げられていない。手と足が単調である。
舞踊小品と呼ばれる短い踊りになると、自分は初めて心の充たされるのを感じた。素朴にして快活な『オーベルタス』、奔放に動く『ピエㇽロー』、静かに美しき『春の声』、群集の踊りとして巧みな統一のある、そうしてギリシアの彫刻と絵の姿を巧みにとり入れたギリシア舞踊。パヴローヴァの『白鳥』は直線的な下半身と柔軟に曲がる上半身との不思議に美しい舞踊であった。荒々しい『バッカナール』においてパヴローヴァは、我々東洋人の渇望する自然力の全解放を踊った。自分としてはこの最後の踊りに最も深い恍惚を感じた、パヴローヴァとしては特に得意とするところではないであろうが。
もしパヴローヴァが、あの休止せる美しい型から次の美しい型へと飛ぶような踊りを得意とするならば、自分は彼女のために取らない。あの素早い曲線の動きには、ほとんど細やかな濃淡が見られない。乾燥である、神経的である。ああいう踊りを見ると、日本の古い(徳川時代の)踊りが、たといあの『バッカナール』のごとき方面の美しさを全然欠いているにもせよ、なお曲線の動きの複雑な、濃淡の細やかな美しさにおいて、かなり高く評価されていいものであることがわかる。
パヴローヴァの芸は見るたびごとに味の深まって行くのを感じさせたが、しかし結局最初の印象の通りに、舞踊小品と呼ばれるものがこの芸術の本質を示したものであることを知った。ここにその二、三の踊りについて、やや詳しい印象を記してみたいと思う。
自分は最初パヴローヴァの『バッカナール』を見て、深い恍惚を感じた。しかしその形式を特性づけてみろと言われれば、ただディオニュソス的であるというほかに答えを知らなかった。そこで自分は、どうにかしてこのディオニュソス的なものの、流動し奔湧する形を捕捉したいと思った。二度目に見た時には前よりもさらに強い印象をうけて、日常の生活の静かな心の落ちつきが全然覆されるのを感じた。心があえぎながら、あの、留まることなく流れ行く形を追った。その夜は遅くまで眠れなかった。が、依然としてその形は自分にとって漠然たるものであった。三度目に四階の壁側から見おろした時、ややその形を捕えた気持ちになれた。しかしそれはまだ有機的な全体として、自分のうけた感動を隅々まで充たすことはできない。
半裸の男と女とが、並んで、肩をそろえて、手をうしろで組み合わせて、前かがみになって、そろえた足を高く踏み上げつつ、急速に躍進して来る。そうして舞台を斜めに、巴形の進路をとりつつ、渦巻のように中心まで一瞬間に迫って行く。これは非常な力を印象する動きであるが、しかしその荒々しい動きのうちに偶然的な気ままな影は全然なく、奔放そのものでありながら同時にそのままに必然である。自分は数えてはみなかったけれども、ここに踏む足の数は厳密に確定しているのであろう。そうしてこの厳密な形式に服しつつ何らの拘束をも感じさせない自由な動きが、すなわち規矩に完全に合致して透明となったところから生ずる自由が、この動きにあの溌剌とした美しさを与えるのであろう。
この最初の動きが渦巻の中心に至って烈しく旋回した後に、踊りは次の運動へ移ったように思う。男女はパッと離れた。それが胸を打つほど印象の強い新生面であった。そのあとに離れては合い、旋回しては離れる、飛躍的な、狂おしい踊りがつづいた。向き合って、両手をつないで、二人とも外へ上身をそらせて、くるくるとまわる渦巻があった。互いに向きを反対にして片腕を組み、※(「卍」を左右反転したもの)字形に旋回する運動もあった。これらの手は、(順序をよく覚えていないが、)とにかく最初の巴形の行進に引きつづいて、次の瞬間に猛烈に踊られたものである。ここにも一見渾沌のごとく思われる動きのうちに、厳密な必然のあることが感ぜられる。あの力の流れかたは、ただ一点において格を離れても、直ちに運動全体の有機的関係を解体するようなものであった。そうしてそれは、最初の比較的単純な、うねりの大きい線に対して、その必然の開展として現われてくる。
この緊張した、黄金点をのみ通って行くような動きのあとに、息を吐く間もなく、バッカントがバッカンティンを追うような動きが始まる。二人の離合によって造られていた力の渦巻が、今やまた一つの方向へ流れる。狂おしく踊りながらバッカンティンは逃げる。が、そこへ時々小さな休止がはいり始める。女は舞台の左の角に立ち留まって、上体をうしろにそらせ、頸をできる限りうしろにのばして、一瞬間、形を凝固させる。ついでまた烈しく逃げながら、赤い花をまき散らす。が、また左右に離れて、二つの力の平衡を感じさせながら、「ちぎり捨てる」という言葉にふさわしいような、あるいは「身心を放擲する」とでも形容すべきような、心ゆくばかり美しい、烈しい動きがある。そうして女はついに花の撒かれた地上に倒れる。やや大きい休止がはいる。
この三段の開展によって最初の一節が終わったように自分は感じた。(運動の旋律の記憶が自分には確かでないから、自信をもって確言することはできぬが。)そこで第二節が同じテーマを、旋律の上ではやや高次的に、動きの上では前よりも小仕掛けでまた集中されて、新しく展開される。初めの出と同じ行進が、前よりも小さい巴形の進路の上を、前よりも短く踏まれた。※(「卍」を左右反転したもの)字形の猛烈な旋回もあった。バッカンティンの逃げる形もあった。やがて捕まったかと思うと、舞台の中央で、くるくると回るうちに、バッカンティンはバッカントの腕の中でパタと倒れた。胴の中ほどを背部でささえられて。女の体は能うかぎり、弓なりに伸張する。斜め下へそらせた肩から、両腕が、同じ彎曲線に添うて、地に届かんばかりに垂れる。反対の側では腿から足への彎曲がこれに対応する。それで体はほとんど半円を描く。こうして凝固した形は、第一節の終わりの休止よりもはるかに大きい休止として、力強い効果を持った。あの激烈な律動の間にはいる休止が、突如として、この結晶せるごとき美しい姿態として現われることは、その律動の美しさと休止せる形の美しさとを、ともどもに高めるのである。
この休止から第三節へのうつり方もきわめて効果の多いものである。徐々に、静かに、婉曲に、凝固せる形が動き出す。女の裸形の腕が男の頸へまきつく。また静かに女の上身がもたげられて、弓形の線はことごとく解体する。と、突然に、弾かれたように、二人はパッと離れる。このあとにまた同じテーマが、もっと急調にもっと集中されて展開する。二人が肩をそろえて手をうしろで組み合わせたあの烈しい行進。旋回。追い追われる運動。そうしてその動きが舞台の中央で渦巻いたかと思うと、バッカントは手をふる、バッカンティンはその手に投げつけられたかのように、パタと倒れる。実にパタッと。ここでも烈しい律動の切り上げ方は、前の休止の際と同工ではあるが、しかしさらに一層力強い。第一次の休止よりも第二次の休止が、第二次の休止よりもこの終末が、それぞれ明らかに強められきわ立たされている。それがちょうど三つの節における、漸次高まって行く展開に相応ずるのである。
ああいう緊張した、一ぶの隙もない踊りが、あれほど渾然と踊れるということは、パヴローヴァの技がいかに驚嘆すべきものであるかの明白な証拠だと思う。肉体の隅々までも精神に充たされているようなあのパヴローヴァの肉体をもってでなければ、ああいう芸術は造れない。あれはディオニュソス的なる芸術の一つの極致である。我々は彼女によって一つのことを力強く反省させられた。ディオニュソス的なるものもまた規矩に完全に合致せる所の自由によって実現されるのであるという事を。放恣と奔放もまた、規矩を捨離した境地においてではなく、規矩を拘束として感じないほどに規矩を己れのうちに生かせた境地において、初めて美しく生かされるのであるということを。
『瀕死の白鳥』も三度見た。これは静かな、直線と曲線とのからみついた、美しい踊りである。パヴローヴァの姿態の特徴を十分活用させた意味で、やはり最も優れたものの一つに数えてよかろうと思う。
この踊りもやはり三段に分かれている。まず初めに舞台の左奥の隅から、軽く、きわめて軽く、ふうわりと浮き出てくる。爪先で立った下肢が、直線的に上体をささえつつ爪先の力とは思えぬほどに優雅に滑って行く。しかし爪先で立っているということが、この下肢の直線にきわめて動的な、デリケートな、他に類例のない感じを賦与しているのである。(この点から見れば爪先で立つような踊り方を直ちに不自然として斥けることはできぬ。しかしまた爪先の利用はこの踊りにおいて極点に達する。これ以上に出る余地はない。)この直線にささえられた上身が、最初は左右へ伸べ開いた両腕の繊美なうねりと頸のかすかな傾け方とで曲線を描いている。やがて静かに上体が婉曲して、倒れそうな形になる。胸は反り、頸は斜めうしろへ曲げられて、片頬が上面になる。(これを白鳥の苦痛の表情として見れば、踊りとしては不純なものになるが、我々はただこれを曲線的な運動において現わされる旋律とのみ見ることができる。)倒れそうな形はまたもとへ帰るが、再びまた曲がり方が高まって行って、倒れそうになる。三度目にはついに倒れる。右の足を前に出し、上身と両腕とをその上に伏せて。その場所は、舞台の左奥の隅から右前の隅へ引いた対角線の、出口から見てちょうど三分の一ぐらいのところである。ここで第一段が終わる。
起き上がってまた初めのように両腕を繊美にうねらせながら泳ぐ。動いて行く輪が前よりも広い。上身も初めよりは多く曲がりくねる。また幾度か倒れそうになる。ついに倒れる。一度目よりはやや長く。その場所は右の対角線の三分の二ぐらいのところである。ここで第二段が終わる。
再び起き上がって泳ぎ始める。今度は動き方もさらにひろくさらに急調である。上身のくねらせ方もさらに烈しい。ついに二度目と同じ場所で倒れる。右足をできるだけ前へのばし、左足をつき、上身を前へ折りまげ、両腕をさらにその先へのばす。ここまでは前に倒れたときとほぼ同様であるが、さらに体を左へ捩って、顔を右斜め向こうに頭を地につけ、初め前へ出していた右手をうしろへのばして、初めは宙宇にやがてパタと腰の上に、やがてぐなりと体に添うて下へ落ちる。――これも白鳥の死の表現として見るよりは、あの柔らかな曲線のうねりの旋律にどういう結末を与えるかの方面より見るべきである。からみついていた直線と曲線とは、最後までからみついたまま、否一層強くからみつきつつ、あたかも墨色をかすめて静かにはねた線のように、なだらかに終わるのである。
我々はこの踊りにおいて、肩や頸や二の腕や手首などの、何とも言えず美しい形と、その美しい動きとを見る。ここにはアポローン的な要素がよほどはいっている。が、特に目立つのは肩、なかんずく背中、及び肩から腕への移行部などによって現わされた、胴体の美しい、くねり方である。すなわちこれらの「動く形」である。
が、『蜻蛉』及び『カリフォルニアの罌粟』もまたそれに劣らず美しいものであった。題目が踊りの振りや踊り手の心持ちとどう関係するかは知らない。しかしとにかくそれぞれの運動の旋律が、それぞれの物象の美しさと何らかの関係を持つことは、認めてよいであろう。たとえば白鳥が頸をうねらせつつ静かに水上を動くあの運動の美しさは、『白鳥』の踊りの旋律の基調となってはいないだろうか。罌粟の花の薄い花びらが微風に吹かれてひらひらと動くあの繊細な美しさが、『罌粟』の踊りの情調を基礎づけてはいないだろうか。蜻蛉が蒼空のもとにつういつういと飛んで行くあの運動の自由さが『蜻蛉』の踊りのあの快活な清爽さを産み出したのではなかろうか。そうしてそれがそうであるにしても、踊りとしての独立が害せられるとは言えないと思う。白鳥や罌粟や蜻蛉を現わすことは、踊りの目的でない。しかし踊りは、白鳥や罌粟や蜻蛉から、ある美しい運動の旋律をかりて来ることができる。それを動機として踊り自身の世界において特殊な開展を試みることは、踊りを自然の物象に服従せしめるということにはならない。
自分は『蜻蛉』の踊りにおいて、あの空色の着つけと白い肌との清楚な調和を忘れることができない。右足の爪先で立って、左足を高くうしろにあげ、両手をのびのびと空の方へ伸ばした、あの大気のうちに浮いているような、美しい自由な姿をも忘れることができぬ。また体をかがめて蜻蛉の羽を両手にかいこむ愛らしいしぐさや、その羽を左右に伸ばした両腕で押えつつ、流るるように踊って行くあの姿も忘れ難い。『罌粟』の踊りでは、花片のつぼんで行く最後のあの可憐な姿が、ことに強く目に残っている。これらのさまざまな踊りを詳しく観察すれば、それらのすべてに共通な構造と、その上に築かれた一々の踊りの個性とが、十分に捕捉されるかとも思うが、それを試み得るほど詳しくは覚えていない。
以上は舞踊について全然素人である自分の印象である。いろいろ間違った個所もあるかと思うが、とにかく印象の薄らがない内に書きつけておく。これらの舞踊に比して日本の舞踊は決して価値の劣るものとは言えないであろうが、しかしそのことのゆえにこれほど種類の異なった美しさを軽視するのは間違いである。種類の異なる美に対しては我々は一々別種の標準をもって臨まなくてはならぬ。 | 底本:「日本精神史研究」岩波文庫、岩波書店
1992(平成4)年11月16日第1刷発行
2007(平成19)年1月25日第16刷発行
底本の親本:「和辻哲郎全集 第四巻」岩波書店
1989(平成元)年
初出:推古時代における仏教受容の仕方について「思想」
1922(大正11)年7月
仏像の相好についての一考察「思想」
1922(大正11)年5月
『万葉集』の歌と『古今集』の歌との相違について「思想」
1922(大正11)年8月
お伽噺としての『竹取物語』「思想」
1922(大正11)年11月
『枕草紙』について「思想」
1922(大正11)年9月
『枕草紙』の原典批評についての提案「思想」
1922(大正11)年9月
『源氏物語』について「思想」
1922(大正11)年12月
「もののあはれ」について「思想」
1922(大正11)年10月
歌舞伎劇についての一考察「思想」
1922(大正11)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※引用文の旧仮名は、底本通りです。
※「沙門道元」中に引用された漢文の[]内の訓読は、水野弥穂子校注「正法眼蔵」岩波文庫、岩波書店によります。その他の引用漢文の[]内の訓読は、立間祥介の教示で岩波文庫編集部によります。
入力:門田裕志
校正:荒木恵一
2017年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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野上豊一郎君の『能面』がいよいよ出版されることになった。昨年『面とペルソナ』を書いた時にはすぐにも刊行されそうな話だったので、「近刊」として付記しておいたが、それからもう一年以上になる。網目版の校正にそれほど念を入れていたのである。それだけに出来ばえはすばらしくよいように思われる。ここに集められた能面は実物を自由に見ることのできないものであるが、写真版として我々の前に置かれて見ると、我々はともどもにその美しさや様式について語り合うことができるであろう。この機会に自分も一つの感想を述べたい。
今からもう十八年の昔になるが、自分は『古寺巡礼』のなかで伎楽面の印象を語るに際して、「能の面は伎楽面に比べれば比較にならぬほど浅ましい」と書いた。能面に対してこれほど盲目であったことはまことに慚愧に堪えない次第であるが、しかしそういう感じ方にも意味はあるのである。自分はあの時、伎楽面の美しさがはっきり見えるように眼鏡の度を合わせておいて、そのままの眼鏡で能面を見たのであった。従って自分は能面のうちに伎楽面的なものを求めていた。そうして単にそれが無いというのみでなく、さらに反伎楽面的なものを見いだして落胆したのであった。その時「浅ましい」という言葉で言い現わしたのは、病的、変態的、頽廃的な印象である。伎楽面的な美を標準にして見れば、能面はまさにこのような印象を与えるのである。この点については自分は今でも異存がない。
しかし能面は伎楽面と様式を異にする。能面の美を明白に見得るためには、ちょうど能面に適したように眼鏡の度を合わせ変えなくてはならぬ。それによって前に病的、変態的、頽廃的と見えたものは、能面特有の深い美しさとして己れを現わして来る。それは伎楽面よりも精練された美しさであるとも言えるであろうし、また伎楽面に比してひねくれた美しさであるとも言えるであろう。だからこの美しさに味到した人は、しばしば逆に伎楽面を浅ましいと呼ぶこともある。能面に度を合わせた眼鏡をもって伎楽面を見るからである。
もし初めからこの両者のいずれをも正しく味わい得る人があるとすれば、その人の眼は生来自由に度を変更し得る天才的な活眼である。誰でもがそういう活眼を持つというわけには行かない。通例は何らかの仕方で度の合わせ方を先人から習う。それを自覚的にしたのが様式の理解なのである。
では能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのまま現わしたような翁や姥の面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さを湛えているのはかかる否定性にもとづくのである。一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼を隠してながめると、その肉づけは著しく死相に接近する。
といって、自分は顔面の筋肉の生動した能面がないというのではない。ないどころか、能面としてはその方が多いのである。しかし自分はかかる筋肉の生動が、自然的な顔面の表情を類型化して作られたものとは見ることができない。むしろそれは作者の生の動きの直接的な表現である。生の外現としての表情を媒介とすることなく、直接に作者の生が現われるのである。そのためには表情が殺されなくてはならない。ちょうど水墨画の溌剌とした筆触が描かれる形象の要求する線ではなくして、むしろ形象の自然性を否定するところに生じて来るごとく、能面の生動もまた自然的な生の表情を否定するところに生じてくるのである。
そこで我々は能面のこの作り方が、色彩と形似とを捨て去った水墨画や、自然的な肉体の動きを消し去った能の所作と同一の様式に属することを見いだすのである。能についてほとんど知るところのない自分が能の様式に言及するのははなはだ恐縮であるが、素人にもはっきりと見えるあの歩き方だけを取って考えても右のことは明らかである。能の役者は足を水平にしたまま擦って前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたものと見ることができる。この表現の仕方は明白に自然的な生の否定の上に立っている。そうしてそれが一切の動作の最も基礎的なものなのである。が、このように自然的な動きを殺すことが、かえって人間の自然を鋭く表現するゆえんであることは、能の演技がきわめて明白に実証しているところである。それは色彩と形似を殺した水墨画がかえって深く大自然の生を表現するのと等しい。芸術におけるこのような表現の仕方が最もよく理解せられていた時代に、ちょうど能面の傑作もまた創り出されたのであった。その間に密接な連関の存することは察するに難くないであろう。
のみならず顔面のこのような作り方は無自覚的になされ得るものではない。顔面は人の表情の焦点であり、自然的な顔面の把捉は必ずこの表情に即しているのである。ことに能面の時代に先立つ鎌倉時代は、彫刻においても絵画においても、個性の表現の著しく発達した時代であった。その伝統を前にながめつつ、ちょうどその点を殺してかかるということは、何らかの自覚なくしては起こり得ぬことであろう。もちろん能面は能の演技に使用されるものであり、謡と動作とによる表情を自らの内に吸収しなくてはならなかった。この条件が能面の制作家に種々の洞察を与えたでもあろう。しかしいかなる条件に恵まれていたにもせよ、人面を彫刻的に表現するに際して、自然的な表情の否定によって仕事をすることに思い至ったのは、驚くべき天才のしわざであると言わねばならぬ。能面の様式はかかる天才のしわざに始まってそれがその時代の芸術的意識となったものにほかならない。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1936(昭和11)年7月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"名ローマ字": "Tetsuro",
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麦積山の調査が行なわれたのは四年ほど前で、その報告も、すぐその翌年に出たのだそうであるが、わたくしはついに気づかずにいた。だから名取洋之助君が撮影して来た写真の一部を見せられた時には、突然のことで、どうもひどく驚かされたのであった。それは麦積山そのものが思いがけぬすばらしさを持っていたせいでもあるが、またそのすばらしさを突然われわれの目の前に持って来てくれた名取君の手腕、というのは、あまり前触れもなしにたった一人で出かけて行って、たった三日の間にあの巨大な岩山の遺蹟を、これほどまでにはっきりと、捕えてくることのできた名取君の手腕のせいであると思う。
それについて思い起こされるのは、この麦積山の遺蹟と好い対照をなしている雲岡石窟の写真を初めて見た時のことである。それは東京大学の工学部の赤煉瓦の建物があったころで、もう四十年ぐらい前になるかと思うが、木下杢太郎君にさそわれて、佐野利器博士を研究室に訪ね、伊藤忠太博士が撮影して来られた雲岡石窟の写真を見せてもらったのである。当時佐野博士はまだ若々しい颯爽とした新進建築学者であったし、木下杢太郎君はもっと若い青年であった。また伊東博士の雲岡の報告も、フランスのシャヴァンヌのそれとともに、雲岡についての知識の権威であった。ところで、その時に見せてもらった雲岡の写真は、朦朧とした出来の悪いもので、あそこの石仏の価値を推測する手づるにはまるでならなかったのである。
木下杢太郎君が自ら雲岡を訪ねて行ったのは、その後まもなくのことであったように思う。同君と木村荘八君との共著『大同石仏寺』が出たのは関東震災よりも前である。これでよほどはっきりして来たが、しかしまだ雲岡の全貌を伝えるには足りなかった。その後二十年くらいたって、奈良の飛鳥園が撮影しに行き、『雲岡石窟大観』という写真集を出した。水野精一君たちの精密な実地踏査が始まったのもそのころで、その成果『雲岡石窟』十五巻の刊行が終わったのは、つい数年前のことである。これで雲岡遣蹟の紹介の仕事は完成したといってよいが、しかしそれは伊東博士が撮影して来られてから、半世紀たってのことである。
麦積山はその雲岡に劣らない価値を持った遺蹟だと思われるが、それをわれわれに紹介する仕事は、名取君によって一挙にしてなされたように思う。もとよりその詳細な測定や記述の仕事は、今後に残されているでもあろうが、しかしわれわれのような素人が、推古仏の源流を求めていろいろと考えてみるというような場合には、これで十分である。寸法が精確に測定されていながら、写像がぼんやりしているよりも、像の印象が精確に捕えられていて、寸法のぼんやりしている方が、われわれにはずっとありがたい。
さてそのような観点から麦積山の写真をながめていて、まず痛切に感ずるところは、ここにある魏の時代の仏像がいかにも推古仏の源流らしい印象を与えること、そうしてそれが塑像であることと何らか密接な関連を持っているらしく見えることである。
雲岡の数多い石仏は、その手法の上から推古仏の源流であること疑いがないといえるであろうが、しかしその与える印象においては推古仏とだいぶ違うものである。その豊満な肢体や、西方人を連想させる面相や、それらを取り扱う場合の感覚的な興味などは、推古仏にはほとんどないものと言ってよい。推古仏の特徴は肢体がほっそりした印象を与えること、顔も細面であること、それらを取り扱う場合に意味ある形を作り出すことが主要なねらいであって、感覚的な興味は二の次であることなどであるが、そういう特徴を持つものが雲岡の石仏の中に全然ないとは言いきれないにしても、例外的にしかないとは言えるであろう。だからわたくしには推古仏の源流は謎であった。で、わたくしは、雲岡の石像が示しているような、西方から来た様式と、漢代の画像石などの示しているような、流麗な線、細い肢体を主にするあの様式とが、相混じて一つの特殊な様式を作り、それが推古仏の源流となったのではなかろうかと空想したりなどしていたのである。
しかるに麦積山の塑像のうちの最も古い時代のものは、実によく推古仏に似ている。写真ページ七からページ三五まで、ページ五四からページ六一までは皆そうであるが、中でもページ七、九、一六のごとき、あるいはページ五五、五六、六一のごとき、実に感じがよく似かよっている。そのほかになおページ七一、七四、七六、七九、八〇、ページ八二からページ八五などについても同様にいうことができるであろう。これらの塑像における面相や肢体の取り扱い方は、雲岡の石像の場合とはまるで違う。ここでは意味ある形を作ることが主要関心事であって、感覚的な興味は二の次である。従って面相に現われた表情がまるで違っているように、肢体の姿、衣文の強調の仕方などもまるで違う。この塑像の様式がどういう道筋を通って推古仏の様式として現われて来たかについては、わたくしは何をいう権利も持たないのであるが、しかし証拠はなくとも、ここに推古仏の源流を認めてよいのではなかろうか。
ところで、そうなると、どうしてこういう様式が麦積山に現われて来たかということが、新しく問題になってくる。それについてわたくしは、麦積山の仏像が塑像であることに今さらながら気づいたのである。漢代の様式感が西方の仏像の様式に結びつくとしても、石像においてよりは塑像においての方が容易であろう。ここにこそ推古仏の源流が出現して来たことの秘密が隠されているのではなかろうか。一体この塑像のやり方はどこで始まったか。またその塑像の製作はどこで栄えたのであるか。
元来仏像はギリシア彫刻の影響の下にガンダーラで始まったのであるが、初期には主として石彫であって、漆喰や粘土を使う塑像は少なかった。がこの初期のガンダーラの美術は、三世紀の中ごろクシャーナ王朝の滅亡とともにいったん中絶し、一世紀余を経て、四世紀の末葉にキダーラの率いるクシャーナ族がガンダーラ地方に勢力を得るに及んで、今度は塑像を主とする美術として再興し、初期よりずっと優れた作品を作り出したといわれている。しかもこの製作上の発展は、漆喰や粘土のような扱いやすい材料を使ったことに帰せられているようである。この時期にはガンダーラ地方からアフガニスタンにかけての全域に塑像が栄えたので、特にアフガニスタンのハッダなどからすばらしい遺品を出している。シナへのガンダーラ美術の影響を考えるとすれば、芸術的にあまり優れていると言えない初期の石像彫刻によってよりも、むしろ芸術的に優れたこの期の塑像によってであることは、ほぼ間違いのないところであろう。
四世紀の末葉から五世紀の初めへかけての時期といえば、雲岡や麦積山の石窟ができるころよりも、半世紀ないし一世紀前である。そのころは中インドの方でもグプタ朝の最盛期で、カリダーサなどが出ており、シナから法顕を引き寄せたほどであった。だからそのインド文化を背景に持つインド・アフガニスタンの塑像美術が、カラコルムを超えてカシュガル(疏勒)ヤルカンド(莎車)ホタン(和闐)あたりへ盛んに入り込んでいたことは、察するに難くない。敦煌までの間にそういう都市は、ずいぶん多く栄えていたであろう。そうしてそういう都市は、仏教を受け入れ、それをその独自の立場で発展させることをさえも企てていたのである。仏教美術がそこで作られたことももちろんであるが、木材や石材に乏しいこの地方において、漆喰と泥土とを使う塑像のやり方が特に歓迎せられたであろうことも、察するに難くない。とすれば、タリム盆地は、アフガニスタンに次いで塑像を発達させた場所であったかもしれない。
麦積山は敦煌からはだいぶ遠い。ホタンから敦煌まで来れば、大体タリム盆地を西から東へ突っ切ったことになるが、その距離と敦煌から麦積山までの距離とは、あまり違わないであろう。それを思うと、麦積山が、タリム盆地の文化圏に非常に近かったとも言えないのであるが、しかしタリム盆地で発達した芸術や宗教がシナの本部の方へ入り込んで来る際に、敦煌から蘭州を経て長安や洛陽の古い文化圏に来たことは確かであろうし、蘭州と長安との中ほどにある麦積山がこの文化流入の通路にあって、いち早くその感化を受けたであろうことも、疑う余地がない。そう考えると、麦積山の塑像の示しているところは、渭水流域の彫塑の技術とか、住民の体格面相とかであるよりも、むしろはるか西方、タリム川流域に栄えていた諸都市における彫塑の技術、住民の体格面相などであるであろう。
四十何年か前に、スタインの『古代ホタン』を見て、中央アジアの砂漠のほとりに残っている古い都市の残骸から、いろいろな場面を空想したことがある。砂の中に埋もれてわずかに下半身だけを残していた塑像なども、それの好い材料であった。今名取君の撮影して来た写真を見ていると、あの時の空想がすっかり実現されて来たような気持ちになる。麦積山の創始の時代、すなわち五世紀から六世紀へかけての時代には、中央アジアはまだあまり荒廃せず、盛んな文化創造をやっていたはずである。従ってあの地方の諸都市に、ちょうどそのころガンダーラからアフガニスタンへかけて栄えていた塑像の技術が伝わっていたろうことも、疑う余地がない。ところでこのインド・ギリシア的な彫刻の様式が、初期のガンダーラ仏像のように、主として石彫として伝わってくるのと、この場合のように塑像として伝わってくるのとでは、これらの諸都市における反応はよほど違ったであろう。タクラマカンの砂漠のあたりには、よい石材などはありそうに見えない。石彫の技術を木彫に移そうにも、よい木材などは一層ありそうにない。ただ漆喰と泥土とだけは、お手のものである。そうなると、塑像の技術が伝わって来たということは、ちょうどこの地方に栄え得る技術が伝わって来たことを意味する。それはまた塑像の技術が自由な創造の働きと結びつくことをも意味するであろう。かくしてこれらの諸都市に、ガンダーラ・アフガニスタンの塑像とは著しく異なった、中央アジア独特の塑像の様式が出現したとしても、少しも不思議なことはないのである。
麦積山の塑像は、この中央アジアの塑像の様式を反映しているらしい。それは、ここで主として問題としたような、推古仏の源流を思わせるあの仏像の様式について言えるのみならず、また戒壇院の四天王などのような天部像についても言えるであろう。表情を恐ろしく誇張して現わしながら、しかも嘘に陥らず現実性を失わない面相や肢体の独特な作り方は、やはり中央アジアの創始したものではないかと思われる。
わたくしはこういう点が専門家の着実な研究によって明らかにされる日を待ち望んでいる。もしこの問題が、連鎖反応式に中央アジアのいくつかの遺蹟の発掘をひき起こしたとしたら、やがて千四百年前の中央アジアの偉観がわれわれの前に展開してくるであろう。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:名取洋之助「麦積山石窟」岩波書店
1957(昭和32)年4月20日発行
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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わたくしが初めて西田幾多郎という名を聞いたのは、明治四十二年の九月ごろのことであった。ちょうどその八月に西田先生は、学習院に転任して東京へ引っ越して来られたのであるが、わたくしが西田先生のことを聞いたのはその方面からではない。第四高等学校を卒業してその九月から東京の大学へ来た中学時代の同窓の友人からである。
その友人は岡本保三と言って、後に内務省の役人になり、樺太庁の長官のすぐ下の役などをやった。明治三十九年の三月に中学を卒業して、初めて東京に出てくる時にも一緒の汽車であった。中央大学の予備科に一、二か月席を置いたのも一緒であった。それが九月からは四高と一高とに分かれて三年を送り、久しぶりにまた逢うようになったときに、最初に話して聞かせたのが、四高の名物西田幾多郎先生のことであった。日本には今西田先生ほど深い思想を持った哲学者はいない。先生はすでに独特な体系を築き上げている。形而上学でも倫理学でも宗教学でもすべて先生の独特な原理で一貫している。僕たちはその講義を聞いて来たのだ。よく解ったとはいえないけれども、よほど素晴らしいもののように思う。しかし自分たちが敬服したのは、その哲学よりも一層その人物に対してである。哲学者などといえばとかく人生のことに迂遠な、小難かしい理屈ばかり言っている人のように思われるが、先生は決してそんな干からびた学者ではない。それは先生が藤岡東圃の子供をなくしたのに同情して、自分が子供をなくした経験を書いていられる文章を見ても解る。哲学者で宇宙の真理を考えているのだから、子供をなくした悲しみぐらいはなんでもなく超越できるというのではないのだ。実に人間的に率直に悲しんでいられる。亡きわが児が可愛いのは何の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。また女の子でよかったとか、ほかに子供もあるからとかと言って慰めてくれる人もあるが、そんなことで慰まるような気持ちでもない。ただ亡くしたその子が惜しく、ほかの何を持って来ても償うことのできない悲しみなのだ。亡き子の面影が浮かんでくると、無限になつかしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思う。死は人生の常で、わが子ばかりが死ぬのではないが、しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい。悲しんだとて還っては来ないのだから、あきらめよ、忘れよといわれるが、しかし忘れ去るような不人情なことはしたくないというのが親の真情である。悲しみは苦痛であるに相違ないが、しかし親はこの苦痛を去ることを欲しない。折にふれて思い出しては悲しむのが、せめてもの慰めであり、死者への心づくしである。そういう点からいえば、親の愛はまことに愚痴にほかならないが、しかし自分は子を亡くして見て、人間の愚痴というもののなかに、人情の味のあることを悟った。人格は目的そのものである。人には絶対的価値があるということが、子を亡くした場合に最も痛切に感じられた。人間の仕事は人情ということを離れてほかに目的があるのではない。学問も事業も究竟の目的は人情のためにするのだ。そういう意味のことが実に達意の文章で書いてある。あれを読んでわれわれは実に打たれた。ああいうふうに人生のことのよく解っている人ならば、あの哲学もよほど深いところのあるものに相違ない。そういう意味のことを岡本保三がわたくしに説いて聞かせたのである。
それは明治四十二年の九月ごろであった。その時までに西田先生の論文は二度ぐらい哲学雑誌に出たかと思うが、一高の生徒であったわたくしたちの眼には触れなかった。だからわたくしは非常に驚いて岡本の話を聞いたのである。しかし四高では、すでに前々から先生の存在が大きく生徒たちの眼に映っていたようであるし、岡本が入学した三十九年ごろには先生の講義案も印刷になったといわれているから、岡本の話したことは岡本個人の意見ではなく、四高で一般に行なわれていた意見ではないかと思われる。一高の方ではちょうどそれに当たるような教授として岩元禎先生がいられたが、しかしそのころの岩元先生はただドイツ語を教えるだけで、講義はされなかった。論理学、心理学、倫理学など、哲学関係の講義は、速水滉さんの受持であった。従って岩元先生の哲学には全然ふれる機会がなかったのであるが、それでも先生は哲学者として評判であった。それくらいであるから、後に『善の研究』としてまとめられたような思想を、いろいろ苦心して育てていられた時代の西田先生は、その講義によって相当に深い感銘を生徒に与えられたことと思われる。それを考えると、右にあげたような意見が四高の生徒の間に行なわれていたとしても、少しも不思議はないのである。
そういうふうにして初めて名を知った西田幾多郎は、わたくしにとっては初めから偉い哲学者であった。四高で行なわれていた意見はそのままわたくしにも移って来たのである。そういう事情は明治の末期の一つの特徴であるかも知れない。というのは、そのころ有名な学者や文人には、あまり高齢の人はなく、四十歳といえばもう老大家のような印象を与えたからである。夏目漱石は西田先生の戸籍面の生年である明治元年の生まれであるが、明治四十年に朝日新聞にはいって、続き物の小説を書き始めた時には、わたくしたちは実際老大家だと思っていた。だから明治四十二年に正味の年が四十歳であった西田先生も、同じく老大家に見えたのである。先生の処女作が『善の研究』であり、その刊行がこの年よりもなお二年の後であるというようなことは、あとになって考えることであって、その当時はすでに四高における長い教歴を持った哲学者、すでにおのれの体系を築き上げた哲学者としてわたくしどもの眼に映ったのである。
これは決してわたくしの主観的な印象に過ぎないのではあるまい。当時まだ二十歳で、初めて大学生になったわたくしなどには、全然事情は解らなかったが、専門の哲学者の間では、あるいは少なくとも一部の哲学者の間では、先生の力量はすでに認められていたのであろう。哲学者の先生に対する態度にしても、少し後のことではあるが『善の研究』に対する高橋里美君の批評にしても、当時のそういう雰囲気を反映しているように思われる。先生が四高から学習院に移り、わずか一年でさらに京都大学に移られたことも、そういう雰囲気と無関係ではあるまい。東京転任に先立つ数か月、四十二年四月に上京せられた際には、井上(哲)、元良などの「先生」たちを訪ねていられるし、また井上、元良両先生の方でも、田中喜一、得能、紀平などの諸氏とともに、学士会で西田先生のために会合を催していられる。田中、得能、紀平などの諸氏は、当時東京大学の哲学の講師の候補者であったらしい。西田先生はその八月の末に東京に移られたが、九月には井上、元良、上田などの諸氏としきりに接触していられる。そうして十月十日の日記には「午前井上先生を訪う。先生の日本哲学をかける小冊子を送らる。……元良先生を訪う。小生の事は今年は望みなしとの事なり」と記されている。多分東京大学での講義のことであろう。この学期から初めて講師になって哲学の講義を受け持ったのは紀平氏であった。わたくしたちは新入生としてこれを聞いた。事によると紀平氏の講義の代わりに西田先生の講義が聞けたかも知れないというような事情が当時あったということは、この日記を読むまでわたくしは知らなかったのである。なお日記には、右のことから一か月も経たない十一月六日に、山本良吉氏からの手紙で、京都大学についての話があったと記されている。この話の内容はよくは解らないが、京都大学への転任の話が京都の教授会で確定したのは、翌年四月のことである。だからこの話が前年の十一月ごろに始まったと考えても差し支えはあるまい。いずれにしても先生は、この当時大学での講義を予期していられたのである。京都へ移る前、七月に、学士会で送別会が催された。来会者は井上、元良、中島、狩野、姉崎、常盤、中島(徳)、戸川、茨木、八田、大島(正)、宮森、得能、紀平の諸氏であったという。これらの中の一番若い人でも大学生から見ると先生だったのであるから、こういう出来事はすべて別世界のことであって、わたくしたちには知る由もなく、また関心もなかった。
多分先生が日記に、「小生の事は今年は望みなしとの事なり」と書かれたころであろう。わたくしは友人の岡本の言葉に刺激されて、藤岡作太郎著『国文学史講話』の序文を読んだ。そうして非常に動かされた。しかしそのなかに「とにかく余は今度我が子のあえなき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持ちがして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋の日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」という個所のあるのに対して、特別の注意をひかれることはなかった。名利を思うて煩悶するというようなことに特別の内容が感じられなかったのである。しかし現在のように、『善の研究』を処女作としてその後に大きい思想的展開を見せた哲学者として西田先生を考える場合、従って明治四十三年の先生がかつてその名を聞いたことのない哲学者と呼ばれている場合、右のような言葉はかえって率直に理解せられ得るかも知れない。右の文章を書いた、先生は戸籍面四十歳、実年齢三十八歳であった。その年齢の先生に、名利を思うて煩悶絶え間なき心があったとしても、少しも、不思議ではない。実際そのころの先生は、力量相応の待遇を受けてはいなかったのである。 | 底本:「日本の名随筆 別巻92 哲学」作品社
1998(平成10)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「和辻哲郎全集 第二三巻」岩波書店
1991(平成3)年5月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年12月4日作成
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わたくしは東京大学の名誉教授ではない。というよりも、わたくしには東京大学の名誉教授となる資格はないのである。しかるに近ごろわたくしは時々東京大学の名誉教授と間違えられる。間違えられたところで、それによってわたくしが何か利益を得るわけでもなければ、また間違えた人がそれによって何か損をするわけでもないのであるから、そんなことはどうでもよいことなのであるが、しかし事実と相違していることはちょっと気持ちの悪いものであるし、また人によると和辻はおのれの価しない「名誉」を不当に享受していると考えないものでもない。そういう誤解を受ければ、わたくしは名誉教授と間違えられることによって「名誉」を不当に享受するどころか、逆に不当な「不名誉」をうけることになる。暑さで仕事のできないのを幸いに、名誉教授にあらざるの弁を弄するゆえんである。
まず初めに、なぜわたくしが名誉教授と間違えられるに至ったかを考えてみると、一般の世間のみでなく、大学と密接な関係を有する方面でも、大学の名誉教授がどういうものであるかをいっこう知らないように思われる。わたくしが最初名誉教授と間違えられたのは、昭和二十四年の三月に東京大学を定年で退職してから二月目か三月目のころである。そのころ吉田首相が文教審議会というものを発案し、それにわたくしも引き出されることになって、初めての会合に出席した。席上配られた謄写版刷りの名簿を見ると、わたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついている。たといわたくしに名誉教授として推薦される資格があったとしても、その手続きには教授会とか評議会とかの審議がいるのであって、通例は退職してから半年以上も後に発令されるのである。退職してから二三か月で名誉教授になっているなどということは、通例はないことである。いわんやわたくしはその資格のないことを知りぬいているのであるから、この名簿が間違いであることは一目してわかった。しかしこの名簿を作成したのは、内閣審議室か文部省か、どちらかである。文部省なら大学のことをよく知っているはずであるから、こんな間違いはしないであろう。しかし内閣の方は、名誉教授の任命などを司どっている場所であるから、そういう辞令が出たかどうかを一層よく知っているはずである。どうもおかしい。この名簿はたぶんあまり名誉教授のことなどを知らない下僚が作ったのであろう。それにしても、内閣で作った文書にこういう間違いがあるのは困る。そう思っている時にちょうど隣の席へ、当時の増田官房長官がすわった。これは具合がいい。官房長官はこういう文書の責任者に相違ないから、早速訂正を申し込んでおこう。そう思いついてわたくしは、名簿のわたくしの名のところを官房長官の前で指さして、これは間違っています、わたくしは名誉教授ではないのです、と言った。ところがちょうどその時、官房長官は何かに気をとられて会議の席を見まわしていた。そのせいかわたくしの誤謬の指摘がいっこうに心に響かない様子であった。事は小であっても、誤謬を指摘されて緊張しないのは、政治家として頼もしくない、とわたくしは思った。もっともわたくし自身も、その場限りでこの問題を忘れてしまって、会議のあとで事務の人に同じ訂正を申し込むことをしなかった。
そういう類のことはこの後にも起こった。平和問題懇談会が結成されたのは同じ年の暮れであったと思うが、その時の名簿にもわたくしの名に東京大学名誉教授という肩書きがついていたのである。わたくしはこの会の世話をしていた吉野源三郎君にこれは間違いだということを申し入れた。その席には他の人もいたように思う。だからこの名簿はたしか訂正されたはずである。しかし吉野君が重役をしている岩波書店の編集部の人々にはこのことは徹底しなかったと見えて、昨年の初めに改版を出した『人間の学としての倫理学』の表紙の包み紙の裏側に印刷されたわたくしの略伝には、東大名誉教授と記されている。実はわたくしは本ができたときにはそういう個所に注意せず、それに気づいたのはごく最近のことなのである。たとい包み紙であるにしても、とにかくわたくしの著書のなかにそういうことが印刷されているとなると、それを見た人がわたくしを東大名誉教授と思い込んでも、これは無理のない次第である。わたくし自身にそういう意図が全然ないにかかわらず、間違って思い込んでいる人がわたくしにそういう肩書きをつけ、それが印刷されて多くの人の眼にふれるとなると、この間違いはますます拡まるばかりである。
以上の例によって見ると、誤解のもとは案外に少数の人々の勘違いであるかも知れない。しかしそれが内閣とか文部省とか、あるいはわたくしの著書を少なからず出版している岩波書店とかにあるとすれば、名誉教授が何であるかを当然知っていそうな場所で、案外それが知られていないということになる。実際に事務を取っている若い人々は、教授が定年で退職すれば当然名誉教授になるとでも思っているのかも知れない。しかしそうではないのである。
名誉教授というものは、学術上の功績があったとか、当該大学において功績があったとか、とにかく功績を表彰する意味を含んだものである。ところでその功績を何によって量るかという段になると、なかなか容易なことではない。大学は学問の府であるから、学術上の功績などは精確に量れるであろうと思う人があるかも知れないが、しかし教授たちも人間であって、さまざまの感情に支配されている。客観的に公平な批判をする人もあれば、主観的な傾向の強い人もある。そういう人々が集まって功績を評価することになると、機械でものを量るようなわけには行かない。今はもうないかも知れないが、昔親分子分の関係が濃厚であった学部などでは、勢力のある教授に対する阿付の傾向もなくはなかった。そういう関係が功績の評価のなかに入り込んでくると、公正な評価は到底望めない。そこで、そういう弊害を阻止しようと考えた先輩たちが、機械でものを量るような客観的標準を立てた。それが当該大学における勤続年数によって名誉教授の資格をきめるというやり方である。東京大学などではそれが二十年以上ということにきまっている。助教授の時代の年数は半分に数える。講師や助手の年数も何分の一かに加算されるはずである。このやり方はほかの古い大学でも採用していると思う。
このやり方だと、一部の教授の我執や感情が入り込む余地はない。その代わり、研究をそっちのけにして内職ばかりやっている教授でも、勤続年数が二十年以上でさえあれば、名誉教授に推薦され得る。これは学術上の功績や大学に対する功績を本来の理由としている名誉教授の制度からいうと、少し困ることになるかも知れないが、それでも前に言ったような弊害に比べれば、害がはるかに少ないのだそうである。こういう事情をわたくしに説明してくれたのは、なくなった今井登志喜君であるが、同君はその意味で固く年数制を支持していた。名誉を表彰するものであったはずの位階勲等が官吏の勤続年数によって自動的に与えられていた時代にあっては、これは当然のことであったかも知れない。
大学教授の大部分は、このことをちゃんと承知していたのである。位階勲等が勤続年数の表示であるように、名誉教授もまたそうであった。もちろん人によっては、このことを承知しながらも位階勲等の高いことを喜び、それと同じように名誉教授となることを熱望したでもあろう。しかしわたくしの知っている範囲では、そういう人は少数であった。そうしてまたそういう点がその少数の人々の性格的特徴であるように思われていた。
わたくしは三十歳を超えたころから、東京の私立大学で五年、京都大学で九年、東京大学で十五年、講義生活を送った。このうち国立大学に勤務したのは、教授として十八年、助教授として六年であるから、勤続年数二十年以上という条件にはちょっと合うように見えるが、しかし名誉教授はそれぞれの大学に即したものであって、勤続年数もまたそれぞれの大学だけで勘定するのである。従ってわたくしの場合には、東京大学に転任した時から、名誉教授の資格のないことが確定していた。こういう例はわたくしばかりではない。東北大学から転任して来た宇井伯寿君でも、太田正雄君でも、みな同じである。しかしわたくしたちは一度もそれを問題としたことはなかった。名誉教授が勤続年数を表示する制度である以上、事実は事実なのであって、問題とする余地は全然なかったのである。
それを今になって問題とせざるを得ないのは、わたくしを不当にも名誉教授と呼ぶ人があるからである。わたくしは決して東京大学の名誉教授ではない。すなわち東京大学に二十年以上勤務したことはない。わたくしの勤続年数は、満十五年に三か月ほど足りない。わたくしの知っている限りでも、勤続年数が十九年何か月とか十八年何か月とかで、もうあとわずかのところだからと言って、特別の取り扱いを学部から要求し、それが通った例はある。しかし十五年未満では全然問題にならないのである。
名誉教授をそういうものと知らなかったから、間違えるのも無理はないだろう、という人があるかも知れない。それではそういう人は名誉教授をどういうものと考えているのであろうか。名誉教授はおおやけに任命され、指定された大学の一人の成員となるのであるから、社会的な身分を現わすことにはなるかも知れぬ。宿帳などには、無職と書く代わりに何々大学名誉教授と書くことができるかも知れない。しかしこれが一つの職業であるというのは嘘である。名誉教授はその大学において公的なことは何もしない、あるいはしてはならないからこそ名誉教授なのである。大学に定年制のできたおもな理由は、老教授の発言権を封じ、新進に道を開くためであった。名誉教授も入学式とか卒業式とかのような式典にはたぶん招かれるのであろうと思う。しかしそれだけで一つの職業が成り立つというわけには行かない。学部によると、名誉教授室を設けて研究の便宜を計っているところもあるらしい。しかしそういうところでも、名誉教授には便宜を計るが、名誉教授に任ぜられなかった前教授に対してはそれを拒むというのではないであろう。余裕さえあれば、名誉教授にも非名誉教授にも等しく便宜を計っているであろう。そういう意図を明示するために、名誉教授室を前教授室と改称した学部もある。大学がかつての教授の研究に対して便宜を計ってくれるのは、学者としての個人に対する情誼であって、名誉教授に対する義務なのではない。室が足りなくなれば、名誉教授室などはどしどし撤回してしまうであろう。そのように名誉教授は、大学において何の権利も義務もないのである。
と思っていたところが、敗戦後教職追放の問題が起こり、各学部に審査委員会が設けられたとき、驚いたことには、名誉教授もまたその審査対象となったのであった。名誉教授は、その地位から追放すべきか否かを慎重審議すべきであるような、れっきとした「教職」なのであった。それなら宿帳に、無職とかく代わりに名誉教授と書き込んでよいはずである。わたくしはこの時になるほどと思った。欧米の社会のように社交の盛んなところ、従って教授などが学問の世界とはまるで違った方面の人々に接する機会の多いところでは、名誉教授という肩書きがなるほど物をいうであろう。人を呼ぶのにプロフェッサー何々と肩書きをつけて呼ぶ習慣のあるところで、大学を退職して急にプロフェッサーでなくなれば、ちょっと困るであろう。ゆえあるかなとわたくしは思ったのである。
しかしそうなると、社交界というもののあまりはっきり存在していない日本でも、肩書きの効用は相当にあるではないかということになる。その証拠には、肩書き付きの名刺を持っている人が日本には非常に多い。ということは、自分の名を自分の地位や身分と不可分なものとして相手に印象しようという意図が、一般的に存しているということの証拠である。これは一般に日本人が、未知の人を一個の人格として取り扱うとか、その人品骨柄に目をつけるとかいうことをしないで、ただその肩書きに応じて取り扱うという習性を持っているせいであろう。そうなると何々大学名誉教授などという肩書きも、毎日その効用を発揮し得るかも知れない。
こういう肩書きの効用を眼中に置いて、わたくしに東大名誉教授という肩書きをつけてくれたのであるとすると、その好意に対してはわたくしは感謝すべきであるかも知れぬ。しかしわたくしの動いている社会では、名誉教授も相当にいるにはいるが、それを名刺の肩書きにしている人はどうもいないように思う。わたくしどもは肩書きの効用などにあずかりたくないのである。そのため時には横柄な態度で迎えられることもあるであろうが、しかし肩書きを見て急に横柄な態度を改めるような人たちから、どれほど強い敬意を表せられたところで、それを喜ばしく受け容れるわけには行かない。未知の人に対しても、一個の人格として、相当の敬意や親切をもって接するような人が、おのずからに表明する敬意こそ、われわれもまた等しい敬意をもって、喜ばしく受け容れることができるのである。横柄な態度はいわゆるインフェリオリティー・コンプレックスの現われで、むしろ憐れむべきものである。それに対抗するために肩書きを用いるなどは、同じくインフェリオリティー・コンプレックスの現われであるかも知れない。
(昭和二十七年十月『心』) | 底本:「和辻哲郎全集 第二十巻」岩波書店
1963(昭和38)年6月14日発行
初出:「心」
1952(昭和27)年10月
入力:岩澤秀紀
校正:植松健伍
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本文化協会の催しで文楽座の人形使いの名人吉田文五郎、桐竹紋十郎諸氏を招いて人形芝居についての講演、実演などがあった。竹本小春太夫、三味線鶴沢重造諸氏も参加した。人形芝居のことをあまり知らない我々にとってはたいへんありがたい催しであった。舞台で見ているだけではちょっと気づかないいろいろな点をはっきり教えられたように思う。
あの人形芝居の人形の構造はきわめて簡単である。人形として彫刻的に形成せられているのはただ首と手と足に過ぎない。女の人形ではその足さえもないのが通例である。首は棒でささえて紐で仰向かせたりうつ向かせたりする。物によると眼や眉を動かす紐もついている。それ以上の運動は皆首の棒を握っている人形使いの手首の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっている。女の手は指をそろえたままで開いたり屈めたりする。三味線を弾く時などは個々の指の動く特別の手を使う。男の手は五本の指のパッと開く手、親指だけが離れて開く手など幾分種類が多い。しかし手そのものの構造や動きかたはきわめて単純である。それを生かせて使う力は人形使いの腕にある。足になると一層簡単で、ただ膝から下の足の形が作られているというに過ぎない。
これらの三つの部分、首と手と足とを結びつける仕方がまた簡単である。首をさし込むために洋服掛けの扁平な肩のようなざっとした框が作ってあって、その端に糸瓜が張ってある。首の棒を握る人形使いの左手がそれをささえるのである。その框から紐が四本出ていて、その二本が腕に結びつけられ、他の二本が脚に結びつけられている。すなわち人形の肢体を形成しているのは実はこの四本の紐なのであって、手や足はこの紐の端に過ぎない。従って足を見せる必要のない女の人形にあっては肢体の下半には何もない。あるのは衣裳だけである。
人形の肢体が紐であるということは、実は人形の肢体を形成するのが人形使いの働きだということなのである。すなわちそれは全然彫刻的な形成ではなくして人形使い的形成なのである。この形成が人形の衣裳によって現わされる。あの衣裳は胴体を包む衣裳ではなくしてただ衣裳のみなのであるが、それが人形使い的形成によって実に活き活きとした肢体となって活動する。女の人形には足はないが、ただ着物の裾の動かし方一つで坐りもすれば歩きもする。このように人形使いは、ただ着物だけで、優艶な肉体でも剛強な肉体でも現わし得るのである。ここまでくると我々は「人形」という概念をすっかり変えなくてはならなくなる。ここに作り出された「人の形」はただ人形使いの運動においてのみ形成される形なのであって、静止し凝固した形象なのではない。従って彫刻とは最も縁遠いものである。
たぶんこの事を指摘するためであったろうと思われるが、桐竹紋十郎氏は「狐」を持ち出して、それが使い方一つで犬にも狐にもなることを見せてくれた。そうしてこういう話をした。ある時西洋人が文楽の舞台で狐を見て非常に感心し、それを見せてもらいに楽屋へ来た。人形使いはあそこに掛かっていますと言って柱にぶら下げた狐をさした。それは胴体が中のうつろな袋なので、柱にかかっている所を見れば子供の玩具にしか見えない。西洋人はどうしても承知しなかった。舞台で見たあの活き活きとした狐がどんなに精妙な製作であろうかを問題として彼は見に来たのであった。そこで人形使いはやむなく立って柱から狐を取りそれを使って見せた。西洋人は驚喜して、それだそれだと叫び出したというのである。西洋人は彫刻的に完成せられた驚くべき狐の像を想像していたのであった。しかるにその狐は人形使いの動きの中に生きていたのである。
人形がこういうものであるとすると、我々の第一に気づくことは、人形芝居がそれを使う人の働きを具象化しているものであり、従って音楽と同様に刻々の創造であるということである。しかるに人形は一人では使えない。人形使いは左手に首を持ち右手に人形の右手を持っている。人形の左手は他の使い手に委せなくてはならぬ。さらに人形の足は第三の人の共働を待たねばならぬ。そうすると使う人の働きを具象化するということは少なくともこの三人の働きの統一を具象化することでなくてはならない。ところでここに表現せられるのは一人の人の動作である。三人の働きが合一してあたかも一人の人であるかのごとく動くのではまだ足りない。実際に一人の人として動かなければ人形の動きは生きて来ないのである。そこでこの三人の間の気合いの合致が何よりも重大な契機になる。人形が生きて動いている時には、同時にこの三人の使い手の働きが有機的な一つの働きとして進展している。見る目には三人の使い手の体の運動があたかも巧妙な踊りのごとくに隙間なく統一されてなだらかに流れて行くように見える。ただ一つの躊躇、ただ一つのつまずきがこの調和せる運動を破るのである。しかしこの一つの運動を形成する三人はあくまでも三人であって一人ではない。足を動かす人の苦心は彼自身の苦心であって首を持つ師匠の苦心ではない。それぞれの人はそれぞれの立場においてその精根をつくさねばならぬ。そうして彼が最もよくその自己であり得た時に、彼らは最もよく一つになり得るのである。
吉田文五郎氏の話した若いころの苦心談はこの事を指示していたように思われる。足を使っていた少年の彼を師匠は仮借するところなく叱責した。種々に苦心してもなかなか師匠は叱責の手をゆるめない。ある日彼はついに苦心の結果一つのやり方を考案し、それでもなお師匠が彼を叱責するようであれば、思い切り師匠を撲り飛ばして逃亡しようと決心した。そうしてそのきわどい瞬間に達したときに、師匠は初めてうまいとほめた。自分の運命をその瞬間にかけるというほどに己れが緊張したとき、初めて師匠との息が合ったのである。それまでの叱責は自分の非力に起因していた。そこで文五郎氏も初めて師匠の偉さ、ありがたさを覚ったというのである。
このような気合いの統一はしかしただ三人の間に限ることではない。他の人形との間に、さらに語り手や三味線との間に、存しなくてはならない。それでなくては舞台上の統一は取れないのである。オペラや能と違って人形浄瑠璃においては音楽は純粋に音楽家が、動作は純粋に人形使いが引き受ける。そこで動作の心使いに煩わされることのない音楽家の音楽的表現が、直ちに動作する人形の言葉になる。人形は自ら口をきかないがゆえにかえって自ら言うよりも何倍か効果のある言葉を使い得るのである。そこで人形の動作において具象化せられる人形使いの働きと、その人形の魂の言葉を語っている音楽家の働きとが、ぴったりと合って来なくてはならない。オペラにおいて唱い手が唱いつつ動作しているあの働きと同じ事をやるために、人形使いたちと語り手の間に非常に緊密な気合いの合致が実現されねばならぬのである。そうしてそれだけの苦労は決して酬われないのではない。オペラにおける動作は一般に芸術的とは言い難い愚かなものであるが、人形の動作はまさに人間の表情活動の強度な芸術化純粋化と言ってよいのである。
ところでオペラの統一はオーケストラの指揮者が握っているが、人形芝居にはこのような指揮者がいない。しかも人形の使い手、語り手、弾き手は、直接に統一を作り出すのである。それは古くから言われているように「息を合わせる」のであって、悟性の判断に待つのではない。この点について三味線の鶴沢重造氏はきわめて興味の深いことを話してくれた。最初三味線を弾き出す時に、左右を顧み、ころあいをはかってやるのではない。もちろん合図などをするのではない。自分がパッと飛び出す時に同時に語り手も使い手も出てくれるのである。左右に気を兼ねるようであればこの気合いが出ない。思い切ってパッと出てしまうのである。ところでこの気合いは弾き出しの時に限らない。あらゆる瞬間がそれである。刻々として気合いを合わせて行かなければ舞台は生きるものではない。この話は我々に「指揮者なきオーケストラ」の話を思い出させる。それはロシアでは革命的な現象であったかも知れない。しかし日本の芸術家にはきわめて当たり前のことであった。否、そのほかに統一をつくる仕方はなかったのである。
第二に我々の気づいたことは、人形の動作がいかに鋭い選択によって成っているかということであった。この選択は必ずしも今の名人がやったのではない。最初、人形芝居が一つの芸術様式として成立したのは、この選択が成功したということにほかならぬのである。人形に動作を与え、そうして生ける人よりも一層よく生きた感じを作り出すためには、人間の動作の中からきわめて特徴的なものを選び取らなくてはならなかった。いかに人形使いの手先が器用であるからといって、人形に無限に多様な動きを与えることはできない。手先の働きには限度がある。そこでこの限度内において人形を動かすためには、不必要な動作、意味の少ない動作は切り捨てるほかはない。そうすれば人の動作にとって本質的な(と人形使いが直観する)契機のみが残されてくることになる。ここに能の動作との著しい対照が起こって来るゆえんがあり、また人形振りが歌舞伎芝居に深い影響を与えたゆえんもある。これらの演劇形態について詳しい知識を有する人が、一々の動作の仕方を細かく分析し比較したならば、そこにこれらの芸術の最も深い秘密が開示せられはしまいかと思われる。
一、二の例をあげれば、人形使いが人形の構造そのものによって最も強く把握しているのは、首の動作である。特に首を左右に動かす動作である。これは人形使いの左手の手首によって最も繊細に実現せられる。それによってうつ向いた顔も仰向いた顔も霊妙な変化を受けることができる。ところでこの種の運動は「能」の動作において最も厳密に切り捨てられたものであった。とともに、歌舞伎芝居がその様式の一つの特徴として取り入れたものであった。歌舞伎芝居において特に顕著に首を動かす一、二の型を頭に浮かべつつ、それが自然な人間の動作のどこに起源を持つかを考えてみるがよい。そこにおのずから、人形の首の運動が演技様式発展の媒介者として存することを見いだし得るであろう。
あるいはまた人形の肩の動作である。これもまた首の動作に連関して人形の構造そのものの中に重大な地位を占めている。人形使いはたとえば右肩をわずかに下げる運動によって肢体全体に女らしい柔軟さを与えることができる。逆に言えば肢体全体の動きが肩に集中しているのである。ところでこのように肩の動きによって表情するということも「能」の動作が全然切り捨て去ったところである。とともに歌舞伎芝居が誇大化しつつ一つの様式に作り上げたものである。ここでも我々は人間の自然的な肩の動作が、人形の動作の媒介によって歌舞伎の型にまで様式化せられて行ったことを見いだし得るであろう。
この種の例はなおいくらでもあげることができるであろう。人形使いは人間の動作を選択し簡単化することによって逆に芸術的な人間の動作を創造したのである。そうしてかく創造せられた動作は、それが芸術的であり従って現実よりも美しいというまさにその理由によって、人間に模倣衝動を起こさせる。自然的な人の動作の内に知らず知らずに人形振りが浸み込んで来る。この際にはまた逆に、歌舞伎芝居が媒介の役をつとめていると言えるかもしれない。徳川時代にできあがった風俗作法のうちには、右のごとき視点からして初めて理解され得るものが少なからず存すると思う。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1935(昭和10)年8月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月14日作成
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一
人生が苦患の谷であることを私もまたしみじみと感じる。しかし私はそれによって生きる勇気を消されはしない。苦患のなかからのみ、真の幸福と歓喜は生まれ出る。
ある人は言うだろう。歓喜を産む苦患は真の苦患でない。苦患の形をした歓喜は真の歓喜でない。お前は苦患をも歓喜をも知らないのだ。お前の体験はそれほどに希薄だ。
しかし私は答える。歓喜を産む可能性のない苦患は「生きている人」にはあり得ない。苦患の色を帯びない歓喜は「生に触れない人」にのみあり得る。そのような苦患と歓喜とは、息をしている死人や腐った頽廃者などの特権だ。
苦患は戦いの徴候である。歓喜は勝利の凱歌である。生は不断の戦いであるゆえに苦患と離れることができない。勝利は戦って獲られるべき貴い瞬間であるゆえに必ず苦患を予想する。我らは生きるために苦患を当然の運命として愛しなければならぬ。そして電光のように時おり苦患を中断する歓喜の瞬間をば、成長の一里塚として全力をもってつかまねばならぬ。
苦患のゆえに生を呪うものは滅べ。生きるために苦患を呪うものは腐れ。
二
ショペンハウェルの哲学は苦患の生より生い出る絶妙な歓喜への讃歌であった。
生を謳歌するニイチェの哲学は苦患を愛する事を教うるゆえに尊貴である。
苦患を乗り超えて行こうとする勇気。苦患に焔を煽られる理想の炬火。それのない所に生は栄えないだろう。
三
私は痛苦と忍従とを思うごとに、年少のころより眼の底に烙きついているストゥックのベエトォフェンの面を思い出す。暗く閉じた二つの眼の間の深い皺。食いしばった唇を取り巻く荘厳な筋肉の波。それは人類の悩みを一身に担いおおせた悲痛な顔である。そして額の上には永遠にしぼむことのない月桂樹の冠が誇らしくこびりついている。
この顔こそは我らの生の理想である。
四
苦患を堪え忍べ。
苦患に堪える態度は一つしかない。そしてそれをベエトォフェンの面が暗示する。苦患に打ち向こうて、苦患と取り組んで、沈黙、静寂、悲痛の内に、苦患の最後の一滴まで嘗め尽くす。この態度のみが耐忍の名に価するだろう。
苦患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告白する。かくしてもまた苦患の終わりを経験することはできる。しかしそれを真に苦しみに堪えたと呼ぶことはできない。
卑近の例を病気に取ってみよう。病苦は病の癒えるまで、あるいは病が生命を滅ぼすまで続く。言を換えて言えば、病苦は続く間だけ続く。病気に罹った以上は誰でも最後まで苦しみ通すのである。耐忍するもしないもない。しかも我々は病苦に堪え得る人と堪え得ぬ人とを区別する。同じ病苦を受けるにもそれほど異なった二つの態度があるからである。
「しかり」と「否」と。受ける態度と逃げる態度と。生きる人と死ぬ人と。これがまず人間の尊卑をきめるだろう。
五
生の苦患に対する態度については、それが道徳的に大きい意義を持てば持つほど、より大きい危険がある。
病苦は号泣や哀訴によってごまかすことはできても、全然逃避し得る性質のものでない。しかし精神的な生の悩みは、露出させる事によってごまかし得るほかに、また全然逃避することもできるのである。
ある内的必然によって意志を緊張させた場合を想像する。喩えて言えば、ある理想のために重い石を両手でささげるのである。腕が疲れる。苦しくなる。理想の焔に焼かれている者は、腕がしびれても、眼が眩んでも、歯を食いしばってその石をささげ続ける。彼の心は、神の手がその石を受け取ってくれる瞬間のためにあえいでいる。しかしこれと異なった態度の人は、腕が疲れて来るに従って、石を大地に投げ捨てた時の安楽と愉快とを思う。そして自分にささやく。「こんな石をささげているのはばかばかしいではないか。これを投げ捨てれば俺の生は自由に軽快になるだろう。そこに真の生活があるのだ。」こういう自己是認ができるとともに、石が地に落ちる。彼は苦患を脱する。
こうしてある種の人々は生から逃げ出して行く。そして漸次に息をしながら死んで行く。何ものも人格に痕を残さない。人格は一歩も成長しない。腐敗がいつのまにか核実にまで及んでいる。
六
製作の苦しみは直ちに生の苦しみであるとは言えない。製作の苦しみが人格の苦しみに根を持つ時、初めて貴むべき苦しみになるのである。
生活と製作とは一つでなければならぬ。これは自明のことである。しかしそれは恋をしながら同時に恋物語を書いて行くという意味ではない。製作は花、生活は根である。一つの生に貫ぬかれてはいるが、産む者と産まるる者との相違はある。偉大な花は深く張った根からでなくては産まれない。
真に価値ある苦しみはただ根にのみ関する。大きい根から美しい花の咲かないことはあっても枯れかかった根から美しい花の咲くことは決してあり得ない。根の枯れるのを閑却して、ただ花のみ咲かせようとあせる人ほど、ばかげた哀れなものはないだろう。
しかしその哀れな人々が、大きい顔をして、さも生きがいありそうに働いている。
七
お前の生を最もよく生きるために、
お前の苦しみを底まで深く苦しめ。
生が愛であることを、
愛が苦しみであることを、
苦しみが愛を煽ることを、
愛が生を高めることを、
お前のその顔に刻みつけろ。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「科学と文芸」
1916(大正5)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049918",
"作品名": "ベエトォフェンの面",
"作品名読み": "ベエトォフェンのめん",
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"初出": "「科学と文芸」1916(大正5)年4月",
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"姓読み": "わつじ",
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東京の郊外で夏を送っていると、時々松風の音をなつかしく思い起こすことがある。近所にも松の木がないわけではないが、しかし皆小さい庭木で、松籟の爽やかな響きを伝えるような亭々たる大樹は、まずないと言ってよい。それに代わるものは欅の大樹で、戦争以来大分伐り倒されたが、それでもまだ半分ぐらいは残っている。この欅が、少し風のある日には、高い梢の方で一種独特の響きを立てる。しかしそれは松風の音とは大分違う。それをどう言い現わしたらいいか、ちょっと困るが、実際に響きそのものが相当に違っているばかりでなく、それを聞いたときに湧然と起こってくる気分、それに伴う連想などが、全部違っているのである。
響きそのものが違うのは、その響きを立てる松の姿と欅の姿とを比べて見れば解る。直接音に関係のあるのは葉だろうと思うが、松の葉は緑の針のような形で、実際落葉樹の軟らかい葉には針のように突き刺すことができる。葉脈が縦に並んでいて、葉の裏には松の脂が出るらしい白い小さい点が細い白線のように見えている。実際強靭で、また虫に食われることのない強健な葉である。それに比べると、欅の葉は、欅が大木であるに似合わず小さい優しい形で、春芽をふくにも他の落葉樹よりあとから烟るような緑の色で現われて来、秋は他の落葉樹よりも先にあっさりと黄ばんだ葉を落としてしまう。この対照は、常緑樹と落葉樹というにとどまらず、剛と柔との極端な対照のように見える。が一層重要なのは枝のつき工合である。松の枝は幹から横に出ていて、強い弾力をもって上下左右に揺れるのであるが、欅の枝は幹に添うて上向きに出ているので、梢の方へ行くと、どれが幹、どれが枝とは言えないようなふうに、つまり箒のような形に枝が分かれていることになる。欅であるから弾力はやはり強いであろうが、しかしこの枝は、前後左右に揺れることはあっても、上下に揺れることは絶対にない。松の風の音は、右のような松の葉が右のような松の枝に何千何万と並んでいて、風によって上下左右に動かされて立てる響きなのであるが、欅の風の音は、右のような欅の葉が右のような欅の枝に同じく何千何万と並んでいて、風によってただ前後にだけ動かされて立てる響きなのである。それが非常に違うのは当然のことだと言ってよい。
松風の音に伴って起こってくる連想は、パチッパチッという碁石の音である。小高いところにあるお寺の方丈か何かで、回りに高い松の樹があり、その梢の方から松籟の爽やかな響きが伝わってくる。碁盤を挟んで対坐しているのは、この寺の住持と、麓の村の地主とであって、いずれもまだ還暦にはならない。時は真夏の午後、三、四時ごろである。二人は何も言わない。ただ時々、パチッパチッと石を置く音がする。
わたくしにはこの寺がどこであるか解らない。また碁を打っている住持と地主が誰であるかも解らない。しかしいつのころからか、松風の音を思うと、そういう光景が頭に浮かんでくる。碁石の音が、何か世間に超然としている存在を指しているように思える。松風の音はそういう存在の伴奏なのである。
わたくしの子供の時分には、こういう住持や地主が農村の知識階級を代表していた。その後半世紀を経たのであるから、そういう人たちはもう一人も残っていないであろう。たといそういう種族のうちで生き残っている人があるとしても、そういう生活の仕方は、もう許されなくなっているであろう。しかしああいう存在はあっていいと思う。あれもギリシア人のいわゆるスコレー(ひま)を楽しむ一つの仕方であろう。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「心」
1961(昭和36)年5月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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問題にしない時にはわかり切ったことと思われているものが、さて問題にしてみると実にわからなくなる。そういうものが我々の身辺には無数に存している。「顔面」もその一つである。顔面が何であるかを知らない人は目明きには一人もないはずであるが、しかも顔面ほど不思議なものはないのである。
我々は顔を知らずに他の人とつき合うことができる。手紙、伝言等の言語的表現がその媒介をしてくれる。しかしその場合にはただ相手の顔を知らないだけであって、相手に顔がないと思っているのではない。多くの場合には言語に表現せられた相手の態度から、あるいは文字における表情から、無意識的に相手の顔が想像せられている。それは通例きわめて漠然としたものであるが、それでも直接逢った時に予期との合不合をはっきり感じさせるほどの力強いものである。いわんや顔を知り合っている相手の場合には、顔なしにその人を思い浮かべることは決してできるものでない。絵をながめながらふとその作者のことを思うと、その瞬間に浮かび出るのは顔である。友人のことが意識に上る場合にも、その名とともに顔が出てくる。もちろん顔のほかにも肩つきであるとか後ろ姿であるとかあるいは歩きぶりとかというようなものが人の記憶と結びついてはいる。しかし我々はこれらの一切を排除してもなお人を思い浮かべ得るが、ただ顔だけは取りのけることができない。後ろ姿で人を思う時にも、顔は向こうを向いているのである。
このことを端的に示しているのは肖像彫刻、肖像画の類である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」だけに切り詰めることができる。我々は四肢胴体が欠けているなどということを全然感じないで、そこにその人全体を見るのである。しかるに顔を切り離したトルソーになると、我々はそこに美しい自然の表現を見いだすのであって、決して「人」の表現を見はしない。もっとも芸術家が初めからこのようなトルソーとして肉体を取り扱うということは、肉体において自然を見る近代の立場であって、もともと「人」の表現をねらっているのではない。それでは、「人」を表現して、しかも破損によってトルソーとなったものはどうであろうか。そこには明白に首や手足が欠けているのである。すなわちそれは「断片」となっているのである。そうしてみると、胴体から引き離した首はそれ自身「人」の表現として立ち得るにかかわらず、首から離した胴体は断片に化するということになる。顔が人の存在にとっていかに中心的地位を持つかはここに露骨に示されている。
この点をさらに一層突き詰めたのが「面」である。それは首から頭や耳を取り去ってただ顔面だけを残している。どうしてそういうものが作り出されたか。舞台の上で一定の人物を表現するためにである。最初は宗教的な儀式としての所作事にとって必要であった。その所作事が劇に転化するに従って登場する人物は複雑となり面もまた分化する。かかる面を最初に芸術的に仕上げたのはギリシア人であるが、しかしその面の伝統を持続し、それに優れた発展を与えたものは、ほかならぬ日本人なのである。
昨秋表慶館における伎楽面、舞楽面、能面等の展観を見られた方は、日本の面にいかに多くの傑作があるかを知っていられるであろう。自分の乏しい所見によれば、ギリシアの仮面はこれほど優れたものではない。それは単に王とか王妃とかの「役」を示すのみであって、伎楽面に見られるような一定の表情の思い切った類型化などは企てられていない。かと言って、能面のある者のように積極的な表情を注意深く拭い去ったものでもない。面におけるこのような芸術的苦心はおそらく他に比類のないものであろう。このことは日本の彫刻家の眼が肉体の美しさよりもむしろ肉体における「人」に、従って「顔面の不思議」に集中していたことを示すのではなかろうか。
が、これらの面の真の優秀さは、それを棚に並べて、彫刻を見ると同じようにただながめたのではわからない。面が面として胴体から、さらに首から、引き離されたのは、ちょうどそれが彫刻と同じに取り扱われるのではないがためである。すなわち生きて動く人がそれを顔につけて一定の動作をするがためなのである。しからば彫刻が本来静止するものであるに対して、面は本来動くものである。面がその優秀さを真に発揮するのは動く地位に置かれた時でなくてはならない。
伎楽面が喜び怒り等の表情をいかに鋭く類型化しているか、あるいは一定の性格、人物の型などをいかにきわどく形づけているか、それは人がこの面をつけて一定の所作をする時にほんとうに露出して来るのである。その時にこそ、この顔面において、不必要なものがすべて抜き去られていること、ただ強調せらるべきもののみが生かし残されていることが、はっきり見えて来る。またそのゆえにこの顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面の側に自然のままの人の顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。
伎楽面が顔面における「人」を積極的に強調し純粋化しているとすれば、能面はそれを消極的に徹底せしめたと言えるであろう。伎楽面がいかに神話的空想的な顔面を作っても、そこに現わされているものはいつも「人」である。たとい口が喙になっていても、我々はそこに人らしい表情を強く感ずる。しかるに能面の鬼は顔面から一切の人らしさを消し去ったものである。これもまた凄さを具象化したものとは言えるであろうが、しかし人の凄さの表情を類型化したものとは言えない。総じてそれは人の顔の類型ではない。能面のこの特徴は男女を現わす通例の面においても見られる。それは男であるか女であるか、あるいは老年であるか若年であるか、とにかく人の顔面を現わしてはいる。しかし喜びとか怒りとかというごとき表情はそこには全然現わされていない。人の顔面において通例に見られる筋肉の生動がここでは注意深く洗い去られているのである。だからその肉づけの感じは急死した人の顔面にきわめてよく似ている。特に尉や姥の面は強く死相を思わせるものである。このように徹底的に人らしい表情を抜き去った面は、おそらく能面以外にどこにも存しないであろう。能面の与える不思議な感じはこの否定性にもとづいているのである。
ところでこの能面が舞台に現われて動く肢体を得たとなると、そこに驚くべきことが起こってくる。というのは、表情を抜き去ってあるはずの能面が実に豊富きわまりのない表情を示し始めるのである。面をつけた役者が手足の動作によって何事かを表現すれば、そこに表現せられたことはすでに面の表情となっている。たとえば手が涙を拭うように動けば、面はすでに泣いているのである。さらにその上に「謡」の旋律による表現が加わり、それがことごとく面の表情になる。これほど自由自在に、また微妙に、心の陰影を現わし得る顔面は、自然の顔面には存しない。そうしてこの表情の自由さは、能面が何らの人らしい表情をも固定的に現わしていないということに基づくのである。笑っている伎楽面は泣くことはできない。しかし死相を示す尉や姥は泣くことも笑うこともできる。
このような面の働きにおいて特に我々の注意を引くのは、面がそれを被って動く役者の肢体や動作を己れの内に吸収してしまうという点である。実際には役者が面をつけて動いているのではあるが、しかしその効果から言えば面が肢体を獲得したのである。もしある能役者が、女の面をつけて舞台に立っているにかかわらず、その姿を女として感じさせないとすれば、それはもう役者の名には価しないのである。否、どんな拙い役者でも、あるいは素人でも、女の面をつければ女になると言ってよい。それほど面の力は強いのである。従ってまた逆に面はその獲得した肢体に支配される。というのは、その肢体は面の肢体となっているのであるから、肢体の動きはすべてその面の動きとして理解され、肢体による表現が面の表情となるからである。この関係を示すものとして、たとえば神代神楽を能と比較しつつ考察してみるがよい。同じ様式の女の面が能の動作と神楽の動作との相違によっていかにはなはだしく異なったものになるか。能の動作の中に全然見られないような、柔らかな、女らしい体のうねりが現われてくれば、同じ女の面でも能の舞台で決して見ることのできない艶めかしいものになってしまう。その変化は実際人を驚かせるに足るほどである。同じ面がもし長唄で踊る肢体を獲得したならば、さらにまた全然別の面になってしまうであろう。
以上の考察から我々は次のように言うことができる。面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
ここまで考えて来ると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
ところでこのような意味の転換が行なわれるための最も重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。面をただ顔面彫刻としてながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人を己れの肢体として獲得する力を持てばこそ、それは役割でありまた人物であることができる。従ってこの力が活き活きと感ぜられている仲間において、「お前はこの前には王の面をつとめたが、今度は王妃の面をつとめろ」というふうなことを言い得るのである。そうなると、ペルソナが人格の意味を獲得したという歴史の背後にも、前に言った顔面の不思議が働いていた、と認めてよいはずである。
面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々の訛であろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。
付記。能面についての具体的なことは近刊野上豊一郎氏編の『能面』を見られたい。氏は能面の理解と研究において現代の第一人者である。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
1935(昭和10)年6月号
※ファイル末の「付記」の『能面』には、底本では、〔全10回、一九三六年八月~一九三七年七月、岩波書店刊〕との補足がありました。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049911",
"作品名": "面とペルソナ",
"作品名読み": "めんとペルソナ",
"ソート用読み": "めんとへるそな",
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"初出": "「思想」1935(昭和10)年6月号",
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"底本名1": "和辻哲郎随筆集",
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夢の話をするのはあまり気のきいたことではない。確か痴人夢を説くという言葉があったはずだ。そう思って念のために辞書をひいて見ると、痴人が夢を説くというのではなくして、痴人に対して夢を説くというのがシナのことわざであった。夢の話をすること自体が馬鹿げたことだというのではない。痴人に対して夢の話をするのが馬鹿げているというのである。そうなると大分むつかしくなる。どうしてそれが馬鹿げているのであろうか。反対に、賢人に対して夢の話をしても馬鹿げたことにならないのはなぜであろうか。それに対するシナ人の答えは、痴人ノ前ニ夢ヲ説クベカラズ、達人ノ前ニ命ヲ説クベカラズという句に示されているように見える。これは陶淵明の句だと言われているが、典拠は明らかでない。とにかく、すでに命を十分に体得している達人に対して、今さら命を説くのが馬鹿げているように、到底現実となり得ないような夢にあこがれている痴人に対して、さらに夢を説いて聞かせるのは、馬鹿げたことだという意味であろう。夢にあこがれている痴人に対してなすべきことは、人力のいかんともなし難い命運を説いて聞かせることである。そのように、命を悟ってあきらめに達している賢人に対しても、夢を説いて聞かせるのは無意味ではあるまい。夢へのあこがれがどれほど現実に動いているかを痛感させてやれば、命運で割り切ってあきらめの底に沈んでいる達人も、なんとかしなくてはという気持ちで、動き出してくるかも知れない。あるいはまたそういう達人は、夢の話を聞いて、その底に動いている命を達観し、それを解りやすく教えてくれるかも知れない。従って達人に対して夢を説くということは、少しも馬鹿げたことではない。これが陶淵明の句から当然帰結されてよい考えだと言ってよかろう。
右のシナ人の句では、夢というのが文字通りの夢であるのか、あるいは理想のことを比喩的に言っているのか、はっきりしないのであるが、理想のことを言っているのだとすると、空想的なユートピアの論や歴史的転回の必然性の論に関係がなくもなさそうである。しかし文字通りの夢を問題としているのだとしても、学者が夢の中から無意識の底の深い真実を掴み出してくれる現代にあっては、なかなか馬鹿にできぬ考えだといわなくてはならない。痴人に対して夢を説いても何にもならないが、精神分析学者の前で夢を説けば、自分にも解らない自分の真相を実に明白に開示してもらえるからである。もっともそういう精神分析学者の解釈を信用しないことはその人の自由である。昔は夢は神のお告げということになっていたので、占卜者の解釈を信用しないと、恐ろしい神罰を受ける怖れがあった。精神分析学者は神のお告げを神様の方から生理心理的な個体の方へ移してしまって、リビドの表現ということにしてしまったのであるから、そういう学説をエセ学説として排斥しても、リビドが復讐するなどということはなかろう。そういう態度を取る方がかえってその人のリビドを健康ならしめるかも知れない。もっともこのリビドがエラン・ヴィタールのようなものであるとすると、また大分神様の方へ近づいてくるが、それにしても神罰などの怖れはない。そういうエセ形而上学は困ると考えるのはその人の自由である。しかしそれにもかかわらず、夢を説くことは、痴人に対してこそなすべきでないが、達人に対してはやってよいという事態は、依然として変わらないのである。昔のシナ人の言葉にはなかなか味があると思われる。
フロイドが夢の解釈を書いた時よりも後に出た本だと思うが、ヒルティの『眠られぬ夜々のために』というのを高等学校の時に岩元さんに読まされたことがある。その中に、夢はその時々の人格の成長のインデックスだという意味の言葉があった。この言葉はその後長くわたくしの心にこびりついていたが、夢を見たあとで、自分の人格の成長を知って喜ぶなどということは一度もなかった。何か食い過ぎた夜の夢などはろくなことはなかった。ヒルティの言葉が本当なら、わたくしは人格的に一向成長しなかったことになる。あるいはそうであるのかも知れない。そういう点についても、少し夢を語って見なければ、達人から教えを受けるわけに行かないであろう。
もう十何年か前の話である。日米関係が大分険悪になっていたころであるから、昭和十五年の末か十六年の初めごろであったかと思う。国際文化振興会の黒田清氏に招かれて、谷川徹三氏などとともに星ヶ岡茶寮で会食したことがある。その席で少し食い過ぎたためであったかも知れない。その夜の夢にわたくしは日米開戦を見たのである。
星ヶ岡茶寮のあった日枝神社の台は、少し小高くなっていて、溜池の方向から下町が少し見える。しかし東京湾まで見晴らせるというわけではない。しかるに夢では、どうやら星ヶ岡らしい高台から見晴らしているのであるが、海がわりに近くに見え、その海に面して十層くらいの高層建築が数多く立ち並んでいた。初め岡の麓から崖ぞいの道をのぼりかかった時、どういう仕方であったか、とにかく空襲だということが解って、急いで見晴らしのきくところまでのぼって行ったのであるが、その時にはちょうど右の高層建築群の上へ編隊がさしかかっていた。盛んに爆弾が落ちてくる。急降下爆撃をやる飛行機もある。あっと思った瞬間に、わたくしにはこれがアメリカの飛行機であり、この爆撃によって日本が致命的な打撃をうけるということが解っていた。やっぱりやられることになったのかと思って、わたくしは、なんともいえず重苦しい気持ちになった。
東京で海添いに高層建築の立ち並んだ場所などはない。どうしてそういう風景が心に浮かんで来たかは、まるで見当がつかない。しかしその風景は、夢のさめた後まで、実にはっきりと心に残っていた。それはどこかシンガポールのようでもあったし、またヴェニスのようでもあったが、それらよりはよほど壮大であった。むしろ、飛行機から撮ったニューヨーク港の景色に似ていたといってよいかも知れない。高層建築はニューヨークほど高くはなかったが、それらの建築が日光に輝いている光景は、なかなか立派であった。ここをやられると日本は致命的な打撃をうけるというのが、この夢の前提であった。
右の第一場から第二場へどういうふうに転換したかは、まるで覚えがない。第二場は今住んでいる練馬あたりの田舎と同じような、畑つづきの野原であった。その畑の間の野道を家内や孫とともにぶらぶら歩いていると、突然空にガーッと飛行機の音が聞こえて来た。驚いて見上げると、数十機の編隊がわりに低空を飛んで来る。それを見た瞬間に、どういうわけかわたくしには、それがアメリカの飛行機であることが解った。のみならずわたくしは、あゝ、やっぱりあれを発明していたのだ、これではどうにも仕方がない、と感じて、ひどいショックをうけた。その「あれ」が何であったかは一向明らかでない。蒼空にくっきりと刻まれた飛行機の姿は、妙に鮮やかに記憶に残っているが、それには新しい発明を思わせるものは何もなかった。それでもわたくしは、かねがね恐れていた発明をアメリカ人がすでに成就していること、その恐ろしい武器をもって今日本を攻撃して来たのであることなどを、この瞬間に理解して縮み上がったのである。でとにかく家内や孫をどこかへ避難させなくてはならぬと思って、あたりを見回すと、そこは一面の茄子畑で、茄子の紫色が葉陰から点々と見えているだけで、身を隠す草むらさえなかった。飛行機の編隊はもう真上へ迫ってくる。それは晴れ上がったよい天気の日で、野一面の緑が実に明るく美しかったが、もういよいよこれで最期だ……という時に目がさめたのである。
この茄子畑の印象は、関東大地震の時の記憶が蘇ったものらしい。わたくしはあの地震に千駄ヶ谷の徳大寺山の下で会ったが、最初の大きい地震で家の南側の畑の中に避難していると、そこの茄子畑が余震の時にちょうど池の面のさざなみのように波うつのが見えた。茄子畑と危険とが結びついたのはそういう因縁であろうと思われる。飛行機の編隊なども平生見慣れていた低空飛行の時の姿であって、後に実際に B29 の攻撃を受けたときの光景とはまるで似寄りがなかった。夢の個々の要素を捕えて洗い上げて行けば、大抵は見当がつくかと思う。しかし東京がアメリカの航空隊の奇襲をうけるということ、そのアメリカの航空隊が何か重大な恐ろしい発明を運んでくるということは、昭和十五六年ごろのわたくしの意識には、はっきりとはのぼっていなかったように思う。わたくしのみではない。世界の軍事専門家の間でも、真珠湾の奇襲やプリンス・オブ・ウェールズの撃沈が起こるまでは、まだ航空機をそれほど重要視してはいなかったであろう。従ってこの夢の主題そのものは、覚めた意識のなかから生まれて来たと考えることができない。それを産んだのは潜在意識である。昔の人のように、これを神の告げと解し、それを心の底から信じて人々に説いていたならば、わたくしは予言者になることができたわけである。航空隊の奇襲で戦争が始まるという予言は、アメリカ側の奇襲でなく日本側の奇襲であったという点において、ちょっと外れた格好にはなるが、しかし数か月待っていれば、アメリカ航空隊の東京奇襲は事実になってくる。この奇襲は大した効果もなかったように見えるが、しかしそれがミッドウェー海戦を誘発したとすれば、非常に大きい意義を持つものになってくる。それが日本に致命的な打撃を与えたと言えなくもない。やがて間もなく南洋でボーイング B17 が活躍を始め、レーダーが日本海軍の特技を封じてしまう。新しい発明が物を言い始めたのである。そうして最後には、文字通りに、飛行機が「あれ」を、原子爆弾を、運んでくる。ここで予言は完全に適中したことになる。
わたくしは、覚めた意識においても、その種の可能性を考えなかったわけではない。しかし多くの可能性が考えられる場合に、その一つを選んで、これが必ず未来に起こると決定することは、なかなか容易でない。従って右に類することを考えたとしても、それはただ一つの可能性としてであって、未来の見透しというようなはっきりした形を持ってはいなかった。しかるに夢では、その一つの可能性だけが、実現された形で現われてくる。自分が選択したのではないのに、それはすでに選択されている。そういうふうに、覚めた意識では決定のできないことを、夢ではすでに決定しているというところに、夢の持つ示唆性があるのであろう。もちろん、夢で決定されている通りに未来の事件が運ばないこともある。恐らくその方が多いであろう。しかし夢の通りに未来の事件が運んで行った場合には、夢にいろいろと意味をつけることになる。右の夢の場合はその一つである。
わたくしはこの二三年あまり夢を見なくなった。停年で大学をやめて講義をする義務から解放されたせいであるかも知れない。あるいは夕食の際に飯を一碗以上は決して食わないという習慣がついたせいかも知れない。あるいはまた、実際に夢を見ていても、醒めた後に意識に残らないのであるかも知れない。しかるに最近、珍しく変てこな夢を見て、それがはっきりと意識に残っているのである。
それはシカゴで共和党の大統領候補者指名大会が開かれ、新聞にデカデカとその記事がのるようになってからであった。アイゼンハワーの指名はまだきまっておらず、マッカーサーの基調演説の内容もまだ報道されていなかった時だと思う。その新聞の記事が刺激になっていることは明らかである。しかしわたくしは大統領選挙にそれほど肩を入れているわけではないし、あの記事から近ごろの夢を見ない習性を破るほどの強い刺激を受けたとも思わない。多分その晩に食った鳥鍋がおもな原因であろう。鳥鍋と言っても鳥の肉をそんなに食ったわけではない。おもに野菜や豆腐を食ったのである。しかしその分量が普段の日よりは多かったように思う。
その夢の初めの方は少しぼんやりしているが、なんでも山の上の温泉場か何かで重大な大会が数日来催されていた。その様子は毎日テレヴィジョンで全世界に報道されている。今日はその最終日で、プログラムの最後に、重要な宣言が行なわれる。その宣言を演説する役目を、どういうわけかわたくしが引き受けているのである。それでその会場に行くために、わたくしは麓の電車の終点から、ぽつぽつと山あいの道を歩いている。時間は余分に見込んであるので、ゆっくりぶらついて行って大丈夫なのである。
この山あいの道は箱根のような山道ではなく、鎌倉の町から十二所の方へはいって行く道のように、平坦な道であった。そのくせ山の上の温泉場は、太平洋側と日本海側との分水嶺になっていて、日本海がよく見晴らせるはずであった。数日来のテレヴィジョンで、わたくしはその会場の広闊な眺めを知っていることになっていた。なんだかそこは山陽道と山陰道との脊椎に当たる場所であったような気もする。そういう場所へ平坦な山あいの道を歩いて簡単に行けるということは、いかにもおかしいが、そこはいかにも夢らしいところである。
わたくしは非常に憂欝な気持ちでその道を歩いて行った。なんだってこんな役目を引きうけたろうとムシャクシャするのである。大会の宣言演説はテレヴィジョンで全世界に報道される。それはまことに花やかな役目であるかも知れないが、しかし今の世界に対してこういう理想を説くことは、いかにもそらぞらしいではないか。舞台で見栄を切ることはわたくしの性には合わない。わたくしはそういう世界からは文字通りに隠居することを堅く決意していたはずである。それになんだって気弱く譲歩してしまったのであろう。それでも大会のお祭り騒ぎに列することは避けて、自分の役目を果たすだけのぎりぎりの時間に出席しようとはしている。そのため人目を避けてこっそり電車でやって来て、こうしてぽくぽく歩いているのである。しかしそうするくらいなら、なんだって初めに固くことわってしまわなかったのであろう。実にだらしがない。そういうことをくよくよ考えながら歩いて行った。
やがてこの谷の奥にある最後の村へついた。その村はだらだら坂をのぼった丘の上にある。この村の左下を回って裏へ抜けると、向こうに目ざす温泉場の山が見えることになっている。約束の時間にはゆっくり間に合うと思いながら、村のうしろへ回る道を崖の上から見おろすと、驚いたことには、その道の上に一メートルほどの深さで澄んだ水が溜まっている。その水の底に白っぽい道の表面がはっきりと見えた。その道はどういうわけかわたくしには見慣れた馴染みの道なのである。この道がこれほど水をかぶるくらいならば、この谷の奥はよほどひどい洪水だなとわたくしは思う。これでは予定通りに向こうへつくことはできないかも知れない。これは大変なことになった。なんとかならないだろうかとわたくしはやきもきし始める。ここへ来るまでは大会へ出席することがいやでたまらなかったのに、ここで約束通り目的地へ着けないかも知れぬということが大問題になってくる。
わたくしは大急ぎで馴染みの爺さんの家の方へ歩いて行った。いつの間にかこの村がわたくしの馴れ親しんだ土地だということになっていて、ここに親切な爺さんの家があるのである。爺さんの家の前の庭にはいっぱいに刈り取った麦が積んであって、人々が忙しそうに脱穀の作業をやっていた。はいって行くと皆が笑顔で迎えてくれる。この庭を取り囲んで納屋や鶏小屋があり、おも屋の軒には小鳥の籠が吊してあった。その小鳥の籠の下で爺さんにわけを話し、なんとか方法はなかろうかと相談すると、爺さんは、そんなら舟で行ったらよかろう、あいにくわたしンとこには舟はないが、あの崖ぶちの○○が舟を持っている。頼めば舟で向こうまで渡してくれるだろうと教えてくれた。わたくしはその○○という名を聞いて、あああの家かとすぐに了解したのであるが、今その名を思い出そうとしても、どうしても出て来ない。
わたくしはほっとした気持ちで崖ぶちへ引き返し、その○○の家の前に立った。その家は戦災後の東京でよく見かけるような、こけら葺きの板小屋であった。往来に向いた方は羽目板ばかりで窓もなかった。その家の扉の前で音ずれると、扉を中から押し開いて顔を出したのが、洋装した若い女であった。わたくしが来意をつげると、それを落ちついて聞いていた女が、いやにハキハキした言葉で答えた。よろしゅうございます。舟はお出しいたしましょう。しかしこちらにも条件がございます。こういう際に好意でお出しいたすのでございますから、まずわたくしどもの××協会の活動に同情していただいて、寄付金千円頂戴いたしとうございます。それから渡し舟料は三千円にしていただきます。この××協会というのもその時ははっきりと名を聞いたのであるが、今は思い出せない。とにかくその協会の名を聞いて、わたくしは、ああこの女は左翼の運動に参加しているのかと思った。こんなわずかな渡し舟のために、足許を見て三千円と吹きかけるのも、資金かせぎのためであろう。ところでわたくしは、千五百円しか持っていない。紙入れを調べて見なくてもわたくしにはそれが解ったのである。普通の相場から言えば千五百円でも高すぎるくらいであるが、しかしこの相手では値切ってもだめであろう。そう思ってわたくしは退却した。その女にどういう挨拶をし、その女がどう言ったかは、はっきりしない。
わたくしは爺さんの所へひき返して○○の言い分を話した。爺さんはいかにも気の毒そうな表情をしたが、そうかねと言ったきり、何も説明してくれなかった。しかしその表情でわたくしは、爺さんが○○のやっていることに対して強い非難の気持ちを抱いていること、しかし口に出して非難するのを用心深く差し控えていること、爺さんが仲にはいって口をきいても○○の気持ちを変えさせる望みがないことを了解した。でわたくしは、爺さんの顔から気の毒そうな表情が消えないうちに、目的地の温泉場へ行くことを断念した。そうしてできるだけ早く大会へ欠席の旨を通知したいと思った。わたくしは爺さんに、電話のある家はなかろうかと聞いた。爺さんは、電話ならあのうちにあるがね、と浮かない顔をしながら、近所の大きい木に囲まれた家を指さした。
わたくしはなるべく早く電話をかけて、大会の人たちに事情を知らせたいと考え、急いでその家の方へ行った。そこはその家の横手で、草花などを植えた庭のよく見えるところであった。門はどこにあるか解らなかった。気がせくのでその庭の垣根のそばだか土手のそばだかへ近づいて行った。どんな垣根があったかははっきりしないが、そこから家へ近づいて行って電話の借用を申し込むつもりであったらしい。一歩庭へ足を踏み入れたときに、突然庭の方から、和服を着流した四十格好の役者のような美男子が出て来て、なんだって人の邸へ侵入するのだと詰問した。わたくしは足を引きこめて、へどもどしながら、急ぎの用のために電話を拝借したいのだと弁明した。しかしその男は承知しなかった。そういう用事なら門からはいってくるがよい。庭へ侵入してくるとはけしからん、と言った。わたくしはこの際電話を借りることができなくては大会の人たちに迷惑をかける、なんとかしてこの相手の気持ちを和らげなくては、と思って、しきりに言いわけを言ったが、相手は頑としてきかなかった。元来わたしはノラクラ遊んで生活しているやつは大嫌いなんだと言った。
わたくしは気がせいたために人の家の庭先からはいり込もうとした手落ちを認め、改めて表門から訪ねて行って頼み込もうと考えた。そうしてその庭の外側を回って表門の方へ出ようとした。初めはさほど広い庭でもなかったはずであるが、土手の上に生垣を作った外側は数町も続いていた。相変わらず、早く電話をかけなくてはと思いながら、やっと表門へ出て、玄関から声をかけると、すぐに前の人が出て来た。改めて急ぎの用のあることを言い始めると、今度は前と変わって非常に和らかな調子になって、わたしは根本方針を変えることはできない、従ってわたしの家の電話をお貸しすることはできないが、しかしこの村にはもう一軒電話を持った家がある、そこへ案内して差し上げようと言った。そうしてわたくしと連れ立って、この村の中心ででもあるらしい場所を歩いた。火の見櫓の下を左へ折れると、突き当たりに寺の山門が見えた。その寺がもう一軒の電話のある家であった。
案内の人に連れられてその寺に上がると、そこは本堂だか庫裏だかハッキリしないが、とにかく天井の高い広い部屋に、ところどころ椅子やテーブルが置いてあって、そこでいろいろな人が事務を取っていた。その間を通りぬけて奥まったところ、どうやらもと内陣であったらしいところに、これもやはり四十格好の、せいの低い、太った、逞しい男が控えていた。その顔は、下品ではあるが精悍であった。わたくしは一眼見て、あゝこれが和尚さんだなと思った。案内の人はわたくしを紹介して、電話を貸して上げてくれと言った。和尚さんは無愛想なムッツリとした顔をして、あゝよろしいと答えた。
わたくしはこれでやっと解決したと思いながら、和尚さんの左うしろの壁にかかっている電話器のそばへ行った。がさてかけようとしても向こうの番号が解らなかった。で振りかえってそこいらにいた人に大会場の番号をきいた。すると和尚さんの顔が急に緊張した。それとともに数人の人がばらばらとわたくしの囲りに集まって来た。ただならぬ空気がそこに醸し出された。
わたくしはおおぜいに取り巻かれて、いろいろ和尚さんから詰問をうけた。大会場へ何の用で電話をかけるのか、いったい君は誰だというようなことであった。結局わたくしは、自分の名を名のり、なぜ電話をかけなくてはならなくなったかを白状せざるを得なくなった。しかし白状しても和尚さんはそれを信用しなかった。今世界的なニュースになっている大会の、しかも最も重要な宣言演説者が、今ごろこんなところでまごまごしているはずはない。そういう地位の人は自動車でも飛行機でも自由に使えるはずではないか。人を馬鹿にするな、というのである。致し方なくわたくしは胸のポケットから書類を出した。それを和尚さんに渡す前にパラパラとめくって見ると、初めの二三枚は和文のタイプライターで打った宣言演説の原稿であり、そのあとにこの地方の知事とか警務部長とか国鉄の当局とか町長とかに当てた通牒が続いていた。一々名宛てを書いて、別々の文句が記されていた。それは大会場へ赴くためにあらゆる便宜を供与してもらいたいという意味のものである。わたくしは、おやこんなものを持っていたのかと思いながら、それを和尚さんに渡した。和尚さんはそれを見ると急に態度をかえて、部下に早く電話をかけろと命令した。
その時にわたくしは時計を見た。十一時三十分であった。わたくしは、あゝとうとう間に合わなかったかと思った。そこで目がさめた。
この夢にシカゴの大統領指名大会とかマッカーサーの基調演説とかが反映していることは明らかであろう。またその基調演説が行なわれる前であったということも重要な関係を持っているであろう。その演説を阻止する契機として洪水が出てくるのは、多分その晩に雨が降ったせいであろうと思われる。しかしその洪水が、濁水の奔流としてでなく、透きとおった水の停滞した姿で現われて来たのは、実に案外である。わたくしは洪水で見渡す限り一面に泥海になるという光景を見たことがある。また逆巻く濁流のなかに田舎家の流されて行くのを見たこともある。しかし澄んだ水の洪水というのは、ただ一度、明治四十年の秋に、河口湖で見ただけである。その時は春山武松君などと一緒に富士五湖めぐりをやったのであるが、船津で泊まって翌日舟で河口湖を渡るときに、湖水の水の下に立ったままの唐もろこしの畑などが見えた。船頭の説明によると、その夏の豪雨の時に湖水の水位が一丈何尺とか上がり、周囲の畑に水をかぶったまま、まだ減水しないのだということであった。つまりその時には、平生の畑の上を舟でとおっていたのである。その時の経験以外には、どう考えて見ても、水の底に往来が見えるなどという光景の思い浮かべられる機縁がない。して見るとこの夢には、前の晩に読んだ夕刊の記事と一緒に、四十何年か前の印象が蘇って来ているとしなくてはならない。まことにでたらめなものである。
わたくしはこの久しぶりの夢を回想してあんまりいい気持ちがしない。ヒルティの言葉が本当なら、全くやり切れないなと思う。いくらなんでもあんまりケチ臭すぎる。その上、前の夢と違ってその後年月が経っていないのであるから、この夢の中の予言的な要素などを見つけ出してくることもできない。だからこの夢を書いて見ようと思ったときに、いきなり、痴人夢を説くという言葉が頭に浮かんだのである。しかし古人が戒めているのは、痴人に対して夢を説くことであって、痴人が夢を説くことではないと気づいて、ケチ臭い夢をケチ臭いままに書いて見たのであるが、そうやって反芻しているうちに二つのことに気づいた。それはいずれも覚めている時のわたくしにとって、おやと思うようなことである。
夢のなかでわたくしを押えつけていた力の一つは、渡し舟料を高く吹きかけた○○の娘である。それは左翼運動を代表して現われて来たはずであるが、わたくしは渡し舟料を払い得ない貧乏のためにその前に屈した。もう一つは電話を貸してくれなかった男であるが、最初垣根越しに相対した時の人相が妙にハッキリと記憶に残っている。若いころの寿美蔵と現在の清水幾太郎氏とを一緒にしたような顔であった。何かしゃれた和服を着流していたし、その邸はなかなか広大であったのであるが、その男が実にはっきりと、ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだと言った。この言葉はわたくし自身に向けられていたのである。つまり資本家階級を代表して現われて来たらしい男が、わたくしを遊民として非難したのであった。左翼からは貧乏のためにやっつけられ、右翼からは徒食のためにやっつけられるというのは、どうも理屈に合わない。
もっともこの、ノラクラ遊んで暮らしているという非難は、戦前から戦争中へかけて、われわれ頭脳労働者が時々あびせかけられたものである。そのころは肉体労働をしないとノラクラ遊んでいることにされた。だから文学報国会などというものができて、文芸家たちが宮城前広場で肉体労働をやったりなどした。わたくしはそういうものに一度も関係したことはないし、学生の勤労奉仕について行ってもただ眺めているだけであった。そのため陰では非難する人もあったらしい。わたくしはそんなことは意に介しなかったが、最も困ったのは、近所の畑道を散歩することであった。書斎で頭脳労働をやっているものは、時々散歩でもしないと体がもたない。ところでその散歩する時刻は、ちょうど農業労働者の労働の真っ最中にぶつかる。散歩はノラクラ遊んでいることを露骨に形に現わしたものであるから、それを農人たちの労働の真中へ持ち出せば、否応なしに極端なコントラストが起こる。おれはノラクラ遊んでいるのではない、書斎で苦しい労働をしているのだ、と弁解して見たところで、散歩がノラクラ遊んでいる姿であることを変えるわけには行かない。またノラクラ遊ぶのでなくては、散歩は休養の役には立たない。だから右のコントラストはどうにもできなかったのである。そこへ文芸家が人前で肉体労働をやって見せるなどという形勢が現われて来たのであるから、右のコントラストはおいおい心理的に重荷として感ぜられるようになって来た。とうとう最後には、一年くらいの間、散歩ができなくなってしまった。ノラクラ遊んで暮らしているやつは大嫌いだという言葉の裏には、そういう重荷の経験がひそんでいるのである。
しかしその言葉が、麦の脱穀に忙しい爺さんの家の庭ででも聞かれたのなら不思議はないが、大きい邸に住んでいて和服をぞろりと着流している男、おのれ自身がノラクラ遊んで暮らしているらしい男の口から出たのだから、不思議である。爺さんの家の庭で働いていた人たちは皆笑顔でわたくしを迎えてくれた。しかるにこの和服を着流した男は、いかにも憎悪をこめた調子であの言葉を言った。どうも話が逆である。
もう一つ気づいたことは、和尚さんや寺の様子が、覚めているわたくしにとって案外に感ぜられることである。和尚さんもまた夢の中でわたくしを押えつけていた力の一つであり、しかも前の二つと違ってわたくしを吊し上げのような目に合わせるのであるが、その面構えは、徳田球一と広川弘禅とを一つにしたようであった。もっともこの二人の顔は写真で見ただけである。肉づきの工合やふてぶてしい感じは徳田に似ていたが、鼻の下の髯や無愛想な表情は広川そっくりであった。ところで寺を改造した事務所の空気は、どうも十年前の大政翼賛会と同じであったように思う。和尚さんの下にそういう若者たちが集まっていて、それがこの村の政治を握っている。そうしてみんながいやに威張っている。そういうことを覚めているわたくしはかつて想像して見たこともない。仏教や寺や僧侶たちが新しい活気を帯び、指導的な役目にのり出してくるであろうということは、今の情勢ではちょっと考えにくい。しかるに夢の中の和尚さんは、十年前の軍人のように威圧力を持っていて、若者たちを手足のように動かしていた。これがどうも不思議である。
この和尚さんも若者たちも、大会の権威の前には恭順の意を表したのであるから、大会そのものも大政翼賛会のようなものであったかというと、それはそうでなかったようである。大会はもっと進歩的で、国際的で、思い切った革新的なプログラムを発表するはずであった。ところがそのプログラムの内容が一向明らかでない。最後の場で演説の草稿を一瞥したとき、わたくしは、あゝあれかと思った。その内容は先刻御承知という気持ちであった。しかるにわたくしは一語も覚えていない。ただそれが近い将来には到底実現の見込みのない理想的なものだということだけが、この夢の前提になっている。
十数年後にふり返って何かこの夢の中に意義が見いだされるとすれば、それは今理屈に合わない、不思議だと思われる点の中にあるかも知れない。
(昭和二十七年九月『新潮』) | 底本:「和辻哲郎全集 補遺」岩波書店
1978(昭和53)年6月16日第1刷発行
初出:「新潮」
1952(昭和27)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岩澤秀紀
校正:火蛾
2016年9月9日作成
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自分は現代の画家中に岸田君ほど明らかな「成長」を示している人を知らない。誇張でなく岸田君は一作ごとにその美を深めて行く。ことにこの四、五年は我々を瞠目せしめるような突破を年ごとに見せている。そうしてこの成長、突破が年ごとに迫り行くところは、ただ偉大な古典的作品にのみ見られる無限の深さ、底知れぬ神秘感、崇高な気品、清朗な自由、荘重な落ちつきである。自分は正直に白状するが去年美術院の展覧会で初めてルノアルの原画を見たときにも、岸田君の不思議に美しい「毛糸肩掛せる麗子像」を見た時ほどは動かされなかった。
が、自分はここで岸田君の画を批評しようとするのではない。ただ、君の近著の『芸術観』について一、二の感想を語ろうとするのである。この論文集において岸田君は、優れたる画家であるとともにまた優れたる「思索家」であることを示した。その思索は君の画と同じく深い洞察に充たされ、君の画と同じく不思議な生を捕えている。もとより自分はここに説かれた「思想」が岸田君の画の根柢であるというのではない。岸田君の画の根柢は、君の語をかりて言えば、君自身の「内なる美」である。「精神」である。その「内なる美」、「精神」が、線と色とをもってする表現手段によって現わされずに、――あるいはこの表現手段によって現わされ得ないものを持つゆえに、――概念と論理とをもってする他の表現手段によって現わされたとき、そこにこれらの思想が生まれたのである。だから我々はこれを、君の画と並んで存在する精神の表現と見なければならぬ。その意味でここには一人の画家の、画によって直接には現わされ得ないさまざまの優れた感情、信念、洞察などが伺われる。それは人としての岸田君の切実な内生を示すものである。が、同時にまた我々はこれを、製作家の書いた美学上の論文として、すなわち「製作の心理」を明らかにし得る可能の最も多い論文として、取り扱うこともできる。この意味でも自分はこれらの論文が深い暗示に富んだ価値の高いものであることを感ずる。それは美学者にとってよき反省の機会を与えるとともに、美術家にとっても力強い教示となるであろう。
岸田君の暗示に富んだ無数の観察を一々紹介することは容易でない。が、美術家としての岸田君の理想・信念は、君の生活の根本の力であり、また美術家にとって最も重要な問題であるゆえに、まずそれを取り上げてみようと思う。
画家としての岸田君の理想・信念には、「人として」の岸田君の本質的要求が投げ込まれている。我々はここに享楽的浮浪人としての画家、道義的価値に無関心な官能の使徒としての画家を見ずして、人類への奉仕・真善美の樹立を人間最高の目的とする人類の使徒としての画家を見る。もとより画家である限り、その奉仕は「美」への奉仕に限られている。しかしこの画家は「美」への奉仕が、「真」への奉仕、「善」への奉仕とともに、真実の人類への奉仕であることを、そうしてそれが自己の任務づけられた、自己の分担し得る人類への奉仕であることを、明白に自覚している。この自覚を岸田君は切実なる内生の告白として表現しているのである。
美への奉仕はすなわち人類への奉仕である。言い換えれば、芸術のための芸術と人類のための芸術とは別物でない。この考えを深く裏づけるものは「人類」の理念であるが、しかし岸田君はこの理念について詳しく語ってはいない。時には人類を地球上の人間の総体と考える。すると、「少数の人にしか深い美は見えないのなら、美が何で人類の喜びかと思いたくなる」という懐疑が起こって来る。しかしこの懐疑は「人類」の意義が量から質に、物質から意味価値に移されるとき、たちまちに脱却せられる。で君は、一般の人にわかってもらえない淋しさが「美への奉仕」を理解することによって追い払われることを説く。「美術家は個人に奉仕するよりも、美に奉仕すればいいのだ。一般の人に通じると否とにかかわらず、ただ人類の美の事業に役に立つのか否かという事が大切なのだ」という。ここに「人類」は明らかに一つの理念として意味せられている。それはなお岸田君の「自然」の考え方によっても裏づけられる。自然はそれ自身には「心なき物質」である。価値なき存在である。ただ人間の「心」のみが「世界じゅうで盲目からさめた唯一の存在」であって、あらゆる価値はそこから生み出される。自然において人間が美を感ずるのは人間が自らの内にある美を自然物に投げかけるからである。すなわち自然の美とは、「無常無情の自然物と人間の心とが合致して生まれた暖かき子供」である。人は自然において美を感ずる瞬間に、すでに自ら「製作」しているのである。この考えを押し進めて行けば、同じ事が人間自身の肉体についても言えるであろう。肉体それ自身は自然物であって価値がない。その形、質量、などにおいて感ぜられる美しさは、人間の心の「製作」であって、肉体のものではない。さらに進んで美的価値以外の価値を問題とする時にも、同じ事は言えるであろう。しからば人間において感ぜられる一切の価値は、喜びも苦しみも悲しみも、すべて心の所産であって自然のものではない。この考えをもって「人類」を意味づける時、それは初めて明白な内容を得るのである。動物学的に類別せられた「人類」は自然物であって、価値とは関係がない。が、我々が奉仕すべき対象としての「人類」は、「心なき物質」ではなくして、真善美の樹立をその事業とする大いなる「心」でなくてはならぬ。
自分は岸田君がこの事を感じて人類への奉仕を説いているように思う。理解なき徒輩からしばしば空虚な言葉として受け取られている「人類」なるものは、理解ある人にとって切実なる現前の実在である。ただ人はこの実在を理解し得るために、空間的、物質的、数量的の考え方を捨てて、純粋な意味価値の世界を直視し得なくてはならぬ。そこには過去現在を通じて数限りのない人間がその生命を投入し、その精神をささげて実現に努力した大いなる「価値の体系」がある。それは我々の現前に輝き、我々が心をもって動く限り、我々を指導する。この価値の体系の創造者こそは「人類」である。それは真善美に分別せられ得るあらゆる価値を、欲し造り支持する。この人類の前にあっては、生物学的に意味せられた民族の別のごときは根本の問題ではない。我々がエジプトの彫刻に接して、その不思議な生きた感じに打たれるとき、我々は真実にエジプト人の血を受けるのである。我々が『イリアス』を読んでその雄渾清朗な美に打たれるとき、我々は真実にギリシア人の血を受けるのである。かくしてこそ我々は人類の内に生き人類の意志を意志とすることができるであろう。
「人類」がかくのごとき永遠にして現前せる創造者であるとすれば、我々が心をもってする一切の製作は、この人類の意志を現われしむることに帰しなくてはならない。人類への奉仕とは畢竟この意志の実現を我々の生の最高の目的とすることである。しからば真善美の創造を欲する人類の使徒として、美の王国を、美のための美を、芸術のための芸術を、創造しようとする努力は、直ちに人類への奉仕でなくてはならない。
「芸術のための芸術」はかく解せられるときその最奥の意味を発揮する。もしこの言葉が芸術家の楽屋落ちを弁護するために、すなわち「芸術家のための芸術」の意味において用いられるとすれば、それはこの言葉を真実に生かしているとは言えない。
自分は美の王国への情熱が岸田君の生活の中核となり、その製作に人類的事業としての覚悟がこめられていることを、愉快に思う。「人類」を口にすることは近ごろの流行である。しかし真実に「人類」を感じているものが、我々の前にどれほどあるだろう。人類を自己の内に切実に感ずるとき、価値の階級は初めて如実に感得せられる。低劣なる価値に没頭して一切の高き価値に無関心なる雰囲気においては、価値は明らかに逆倒せられ人類の意志は歪にせられている。岸田君のいわゆる「世界の美術の病気」とはこれであろう。ここに人類の意志を明らかにし、真実の価値の階級を樹立することは、大いなる価値の実現のために、従って人類のために、目下緊急の大事である。
なお岸田君の著書に著しい「内なる美」、「装飾」、「写実」等の考え方についても、一言付加しておく必要を感ずる。岸田君が内なる美の直接に現わされたものを装飾とし、自然に触発せられて現わされたものを写実とする見方は、きわめて興味の深いものである。ことに写実の「実」について、自然の「事実」と「真実」とを区別したことは、君の作画の態度と照合して注目に価する。一般に意味せられている写実とは、「事実」を写すのである。しかし芸術の名に価する写実は「真実」を写したものでなくてはならない。そうしてこの「真実」は写す人の心の内にある。同じ自然を写してもこの真実の現われたものと現われないものとがあるのは、写す人の心の内に真実があるとないとに起因するのである。
が、かく見るときには、君の区別した装飾と写実とは、さらに根本的な区別を受けなくてはならない。装飾は内なる美の直接の表現である。写実も畢竟内なる美の表現である。ここにおいて内なる美の真実と虚偽とが、深と浅とが、一切の美術の価値を規定する。建築は君によれば装飾美術である。が、この装飾美術にもまた真実と虚偽は存在している。その関係は自然を写した美術に実と偽の存在すると異ならない。君は自然主義の作家の製作には「内なる美がない」という。もしこの考え方によって、内なる美の「真実」と「虚偽」との区別を、内なる美の「ある」と「ない」の区別に代えるとすれば、この「ある」と「ない」の区別は美術にとって最も根本的なものでなくてはならない。
この「真実」と「虚偽」、あるいは「ある」と「ない」の区別が、我々に芸術の real と unreal の区別を感じさせるのである。我々があらゆる偉大な芸術は realism であるという時、この realism(これを写実主義と訳するのは十分でない。しかし我々は慣例に従ってしばしばこの言葉に realism の意味を含ませる)は、内なる美の真実であることを、あるいは内なる美が存在することを、意味するのである。しからざればドストイェフスキイが自己を realist と呼んだ意味は通じないであろう。内なる美が真実である時にのみ画家は自然において真実を見る。内なる美が真実である時にのみ、建築家は真実の構造を、真実の装飾を、作り得る。すなわち重大なのは内なる真実であって、写すと写さないの別ではない。写実が「内なる真実の表現」であると言い得られるならば、装飾と写実とを問わず、一切の真芸術は写実でなくてはならない。
ここにおいて自分は「写実」なる語の多義に注意せざるを得ない。内なる真実の表現を意味する写実と、自然物に触発せられて内なる真実を表現することを意味する写実と、ただ単に自然の外形をのみ写すことを意味する写実とは、同語にしてはなはだしく意味を異にするのである。岸田君が第二の意味を取ってこれを装飾と対せしめたことは、装飾の意義を明らかにする点において暗示するところが多い。しかし右のごとく「写実」の意義の多様を弁別しおくこともまた必要であろう。
岸田君の論文集が自分に与えた感銘はこれだけにとどまらない。が、自分はただこの書を読者諸君に推薦し得たことに満足して筆を擱く。 | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央美術」
1921(大正10)年4月号
※編集部による補足は省略しました。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年10月21日作成
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一
荒漠たる秋の野に立つ。星は月の御座を囲み月は清らかに地の花を輝らす。花は紅と咲き黄と匂い紫と輝いて秋の野を飾る。花の上月の下、潺湲の流れに和して秋の楽匠が技を尽くし巧みを極めたる神秘の声はひびく。遊子茫然としてこの境にたたずむ時胸には無量の悲哀がある。この堪え難き悲哀は何をか悲しみ何をか哀れむ。虫の音は、花の色は、すべての宇宙の美は、虚無でない、虚無でない「美」の底に悲哀が包まれたるは何の意味であるか。銀座の通りを行く。数十百の電車は石火の一刹那に駛せ違う。数百千の男女はエジプトの野を覆うという蝗の群れのように動いている。貴公は何ゆえに歩いてるかと問うと用事があるからだと言う、何ゆえに用事があるかと問うと、おれは商売をしている、遊んでるのじゃないと答える。商売は金のためで金は欲のためである。生きるだけで満足する者はない。すべての欲を充たさねばならぬ、欲は変現限りなし。限りなき本能の欲の前には限りある「人の命」は無益である。銀座の人は無益に歩いているのか。
人生は複雑である、むずかしい問題である。スフィンクスが眼をむいて出現して以来、人間が羽なき二足獣であって以来の問題である。高橋氏の「人生観」が人生を解き、黒岩氏の天人論が天と人との神秘を開いたる今日にも依然としてむずかしい。むずかしければこそ藤村君は巌頭に立ち、幾万の人は神経衰弱になる、新渡戸先生でさえ神経衰弱である、鮪のさし身に舌鼓を打ったところで解ける問題でない。魚河岸の兄いは向こう鉢巻をもって、勉強家は字書をもってこの問題を超越している。ある人は「粋」の小盾に隠れてこの悶を野暮と呼び、ある人は「理想」の塹壕に身を沈めてこの煩を病的と呼ぶ。
人生問題はすべての歴史の根底に横たわる。星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。神農もソクラテスもカントもランスロットもエレーンも乃至はお染久松もこの問題に触れた。釈尊やイエスはこれを解いて、多くの精霊を救う。この救われたる衆生が真の人生を現わしたか。救われずして地獄の九圏の中に阿鼻叫喚しているはずの、たとえば歴山大王や奈翁一世のごとき人間がかえって人生究竟の地を示したか。これは未決問題である。宗教の信仰に救われて全能者の存在を霊妙の間に意識し断乎たる歩武を進めて Im schönen, Im guten, Im ganzen, に生くべく猛進するわが理想であると言ったら、ある人は嘲笑した。我れに取っては最も明白合理なる信念である。その人は笑うべき思想だと言う。公平に見れば水掛け論に過ぎぬ。社会主義が奮然として赤旗を翻す時、帝国主義は冷然として進水式をやっている。電車のただ乗りを発明する人と半農主義者とは同じ米を食っている。身のとろけるような艶な境地にすべての肉の欲を充たす人がうらやまれている時、道学先生はいやな眼つきで人を睨め回す。
いずれが善、いずれが悪、人の世は不可解である。この人の世に生まれて「人」として第一義に活動せんとするものは、一度は人生問題の関門に到達せねばならぬ。
二
眼を人生の百般に放つ。光明なる表面は暗黒なる罪悪を包む。闇の中には爆裂弾をくれてやりたい金持ちや馬糞を食わしてやりたい学者が住んでいる。万事はただ物質に執着する現象である。執着の反面には超越がある。酒に執着するものは饅頭を超越し、肉体に執着するものは心霊を超越す。この二つが長となり短となり千種万種の波紋を画く、人事はこの波紋を織り出した刺繍に過ぎぬ。
社会には美しい方面がある。しかしこれを汚さんとする悪の勢力ははなはだ強い。一人の遊冶郎の美的生活は家庭の荒寥となり母の涙となり妻の絶望となる。冷たき家庭に生い立つ子供は未来に希望の輝きがない。また安逸に執着する欲情を見よ。勉強するはいやである。勉強を強うる教師は学生の自負と悦楽を奪略するものである。寄席にあるべき時間に字書をさし付けらるるは「自己」を侮辱されたと認めてよい。かくして朝寝に耽り学校を牢獄と見る。「自己」を救うために学校を飛び出す。友は騒ぎ母は泣く。保証人はまっかになって怒鳴る。
生命の執着はまた人生に大変調を来たす。恋の怨みに世を去り、悲痛なる反抗心に死する人が世に遺す凄き呪い。一念の凝った生き霊。藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へと三を数え七十を数え九百を数え千万に至るまで伝わって行く。この波紋が伝説となり神話となり口碑となっていつまでも残る。生命の執着はさらに形を変じ姿を化して日常生活に刻々現われている。勇気といい剛毅というもすべてこの執着を離れたる現象である。肉体! 肉体の存在が何である。物質の執着は霊の権威を無視し肉の欲の前に卑しき屈従をなす。米と肉と野菜とで養う肉体はこの尊ぶべき心霊を欠く時一疋の豕に過ぎない、野を行く牛の兄弟である。塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠玉は依然として輝く、この光が尊いのである。珠を九仞の深きに投げ棄ててもただ皮相の袋の安き地にあらん事を願う衆人の心は無智のきわみである。さはあれわが保つ宝石の尊さを知らぬ人は気の毒を通り越して悲惨である、ただ己が命を保たんため、己が肉欲を充たさんために内的生命を失い内的欲求を枯らし果つるは不幸である。この哀れむべき人の中にさらに歩を進めたる労働者を見よ。尊き内的生命を放棄してただ懸命にすがる命の綱が一筋切れ二筋絶ち、まさに絶望に瀕している。社会主義の叫喚はたちまち響きわたる。「わが細き生命の綱を哀れめ、安全を保する太き綱を与えよ」と叫ぶ。冷ややけき世人は前世の因と説き運命と解き平然として哀れなる労働者を見下す。惨酷である。咫尺を解かぬ暗夜にこれこそとすがりしこの綱のかく弱き者とは知らなかった。危うしと悟る瞬間救いを叫ぶは自然である。彼らを危うしと見ながら悠々とエジプトの葉巻咽草を吹かすは逆自然である、悪逆である、さらに無道の極みである。
「絶望」に面して立つ雄々しき労働者は無情なる世人を見て憤怒の念を起こす。綱の切れるはかまわない。ただかの冷ややけき笑いを唇辺に漂わす人の頭に猛烈なる爆烈弾を投げたい。かの嘲笑に報いんためにはあえて数千の兄弟の血を賭する、吾人の憤怒は血に喝く。「人生は虚無、ただこの怒りあるのみ、来たれ兄弟、虚無なる人生に何の執着ぞ。」虚栄と獣性に充ちたる貴族のため霊を地に委し、さらに生命の危険を覚ゆる時、仏国の革命は声を一つにして起こった。憤怒は血を見て快哉を叫ぶ。ここに人生は華麗なる波紋を画き出した、執着の反動は恐ろしきものである。
憤怒があり哀願があるのは「自己」の存在を認識して後に起こる現象である。己が不遇を知らずして天を楽しみ地を喜び平然として生きるものはさらに憐れむに足る。深山に人跡を探れ、太古の民は木の実を食って躍っている。ロビンフッドは熊の皮を着て落ち葉を焚いている、彼らの胸には執着なく善なく悪なし、ただ鈍き情がある。情が動くままに体が動く、花が散ると眠り鳥がさえずると飛び上がる。詩人ジョン・キーツはこの生活を憧憬して歌う、
No, the bugle sounds no more,
And twanging bow no more ;
Silent is the irony shrill
Past the heath and up the hill ;
There is no mid-forest laugh,
Where lone echo gives the half
To some wight amazed to hear
Jesting deep in forest drear.
春の一夜、日光の下に七つの星を頂いて森をさすらう時、キーツの胸には悪に満ちたる現世に対して激烈なる憎悪の念が起こる。やがて古えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああなつかしきその代の人となりたい。しかし、今、此宵の月に角笛は響かず。キーツは憧憬の眼を月に向けた。
キーツが何と言おうともこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊活の詩人が山の奥に山の人の衣を着る時、山の人は「人」として第一義に活動する。すべてを超越した山の人はついに心霊をも超越し去った。最も鹿と猪とに近くなって第十義に堕落したのである。キーツが山の人の衣を着くる時ウィルヘルム・テルは弓矢を持って出現する。テルは詩人の理想に生まれた第一義の人である。
霊の権威を知り、多少内的生命を有する人にしてなお虚栄に沈湎して哀れむべき境地に身を置く人がある。虚栄は果てなき砂の文字である。「自己」を誤解されまじとするは恕す、「自己」を真価以上に広告し、すべての他人を凌駕し得たりと自負するに至ッては最も醜怪、最も卑怯なる人格の発露である。虚栄の権化は時に人を威圧して崇敬の念を起こさしむ。神にも近しと尊ぶ人格は時に空虚である。真の偉人は飾らずして偉である。付け焼き刃に白眼をくるる者は虚栄の仮面を脱がねばならぬ、高き地にあってすべてを洞察する時、虚栄は実に笑うに堪えぬ悪戯である。美を装い艶を競うを命とする女、カラーの高さに経営惨憺たる男、吾人は面に唾したい、食を粗にしてフェザーショールを買う人がある。家庭を破壊してズボンの細きを追う人がある。雪隠に烟草を吹かし帽子の型に執着する子供を「人」たらしむべき教育は実に難中の難である、ああ、かくして虚栄は人を魔境にさそい堕落の暗礁に誘うローレライである。
人生は混沌。肉の執着といい生命虚栄の執着という、すべて人生を乱す魔道である。数億の人類が数億の眼を白うして睨み合う。睨み合う果てに噛み合いを初める。この地獄に似る混沌海の波を縫うて走る一道の光明は「道徳」である。吾人はここにおいて現代の道徳に眼を向ける。
三
現代の因襲的道徳と機械的教育は吾人の人格に型を強いるものである。「人」として何らの霊的自覚なく、命ぜらるるがままに右に向かい左に動く。かくて忠も孝も無意味なる身体の活動となる。徳の根底に横たわるべき源泉なくして善といい悪と呼ぶがゆえに反哺の孝と三枝の礼は人生の第一義だと言われる。烏と鳩とに比べらるるのは吾人の耻である。吾人は自覚ある「人」として孝たるを欲す。愛なき孝は冷たき虚礼に過ぎぬ。人格の共鳴なき信は水の面の字である。犠牲心なき忠は偽善である。
現代の道徳は霊的根底を超越して偽善を奨励す。冷ややけき顔に自ら「理性の権化」と銘する人はこの偽善を社会に強い、この虚礼をもって人生を清くせんとす。人生は厳格である。人間の向上はまじめなる努力を要する。仮面に精髄を抜き去ったる肉骸を覆うてごまかさんとするは醜の極みである。血なき大理石の像にも崇高と艶美はある。冷たきながらも血ある「理性権化」先生は蝦蟇と不景気を争う。この道徳の上に立つ教育主義は無垢なる天人を偽善の牢獄に閉じこむ。人格の光にあらず、霊のひらめきにあらず、人生の暁を彩どる東天の色は病毒の汚濁である。
日本民族が頭高くささぐる信条は命を毫毛の軽きに比して君の馬前に討ち死にする「忠君」である。武士道の第一条件、二千五百年の青史はあらゆるページにこの華麗なる波紋の跡を残す。君は絶対の権威を持ってその前には人間の平等なく思想の自由がない。肉体に黄金に狂的執着なす者も「君のため」にはこれを超越した。そこに義の人ができる。しかしながら因襲的道徳に鋳られし者が習慣性によって壕の埋め草となり蹄の塵となるのは豕が丸焼きにされて食卓に上るのと択ぶところがない。吾人はこの意味なき「忠君」に敬意を表したくない。同じく人としてこの世に実在するならば吾人の霊的出発点は一つである、神の前に同じ権威を有する精霊である。君主と高ぶり奴隷と卑しめらるるは習慣の覊絆に縛されて一つは薔薇の前に据えられ他は荊棘の中に棄てられたにほかならぬ、吾人相互の尊卑はただ内的生命の美醜に定まる。心霊の大なるものが英傑である。幾千万の心霊を清きに救いその霊の住み家たる肉体を汚れより導き出すために誠心の興奮は吾人の肉骸を犠牲に供す。「愛国心」はこの見地に立つ。「愛国心」は変体して忠君となった。
忠君の血を灑ぎ愛国の血を流したる旅順には凶変を象どる烏の群れが骸骨の山をめぐって飛ぶ。田吾作も八公も肉体の執着を離れて愛国の士になった。烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永しえに烏には知らさないでいたい。
孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心して躍り上がったという。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいとて狂的に奮闘せる一青年は一念のために江知勝を超越しカフェーを超越す。菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮である。吾人は「愛」に重きを置く、公爵家の若君は母堂を自動車に載せて上野に散策し、山奥の炭焼きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の社会にはわからぬ。親の酒代のために節操を棄て霊を離るる女が孝子であるならば吾人はむしろ「孝」を呪う。
八犬伝は「浜路が信乃のもとへ忍ぶ」個所などを除く時、トルストイの芸術観に適合する作物となるそうである。現代徳育の理想もまた八犬士の境地である。この理想はよい。よいには相違ないがこの理想によって「虚栄を根本より覆せ」と叫ぶものは過激だとお叱りを蒙る。「不徳の人間を社会より放逐せよ」と言うと僭越だとてお目玉を頂戴する。「すべての不正を打破して社会を原始の純粋に返せ」と叫ぶ者は狂人をもって目せらる。姑息なる思想! 安逸に耽る教育者! 見よ汝が造れる人の世は執着を虚栄の皮に包んだる偽善の塊に過ぎぬじゃないか。要するに現代の道徳は本義として「物質的超越と霊的執着とをもって自ら処決せよ」と求む。言い変うれば「利己」を脱して精神的自覚の上に立ち汝の義務をなし果たせというにある。しかるに外面に表われたる道徳は形式と因襲に伝えられてその精神を忘れ去った。
現代にもたとえば「家庭」のごとく比較的清きものがある。あの大きなストーブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれて昔話に興をやる。夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識してさらに真善美に突進するの勇を振るい起こす。この境地は現世の理想郷である。ディッキンスのクリスマスカロルはおもしろい小説である。愛なく情なく血なく肉なくしてただ黄金にのみ執着する獰猛なスクルジは過去現在未来の幽霊に引っ張り回されて一夜の間に昔の夢のようなホームの楽しさと冷酷なる今と身近く迫れる暗き死の領とを痛切に見せられた。翌朝はクリスマスである。スクルジはなんとなく愉快でたまらぬ。犬がころげてもおかしい、子供が通っても嬉しい。スクルジは黄金の執着を脱して perfect life of love and peacefulness(Dante)に一歩踏み入った。現代に清きはただ家庭である。暖かき円満なる家庭を有するものは人生に幾分の同情を有し悲哀の興趣を味わい自己を自覚せる人である。多くの富豪や華族は真に「家庭」と呼び得べき者を有せぬ。彼らは経済学の見地に立てば社会の宝玉である。精神的観察よりすれば社会の悪毒である。皮相なる形式的道徳は「金持ち」にとって最も破りやすい。金持ちはついに人道を踏みはずす。吾人は自覚ある平和な農夫の家庭のむしろ尊きを思う。
かくのごとく一二の例外を除いて現代の道徳はすべて混沌、すべて闇濁、最も悲観すべき半面を有す。文明の発達に従いて肉の欲望はますます大となり、虚栄の渇仰はいよいよ強となる。吾人は浅薄なる皮相の下に真精神を発見したい。時代思潮に革命を起こし新時代の光明を彼岸に認めねばならぬ。「吾人は絶対に物質を超越し絶対に心霊に執着せざるべからず」。これを名づけて霊的本能主義と言う。
四
浮世は住みにくい。ウルサイ人間とばかな人間との群れに悪党が出没して、真面目に生きようとすると神経衰弱になる。樗牛は「吾人はすべからく現代を超越せざるべからず」とて神経衰弱に縄を張った。あに計らんやからめ手は肺病に破られて、樗牛はどうしても真面目に生きねばならなくなった。晩年の煩悶はこれがためである。宗教の要求はこれがためである。若い時から「どこまでも世人をばかにして暮らすべきものに候」と言いながら樗牛全集五巻を世人に遺したのはこれがためである。たとえ有能なる影響を吾人の心霊に与えずとも少なくとも彼の霊的努力は彼がばかにしていた「小児輩」にかなりの勢力がある。この霊的執着の半面には物質を超越せんがために強烈なる煩悶があった。
「草枕」の画かきさんはこの世を「住みにくい国」と言う。画かきさんは芸術をもってこの世を住みよくし浮世の有象無象を神経衰弱より救うつもりである。春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人道のために、はた宇宙の美のために断々乎として歩むならば吾人は霊的本能主義の一戦士として喜んで彼を迎えたい。も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら吾人は双手に彼を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に操縦せねばならぬ。
西行法師はこの点に一種の解決を与えた男である。一朝浮世のはかなさを悟っては直ちに現世の覊絆を絶ち物質界を超越して山を行き河を渉る。飄然として岫をいずる白雲のごとく東に漂い西に泊す。自然の美に酔いては宇宙に磅礴たる悲哀を感得し、自然の寂寥に泣いては人の世の虚無を想い来世の華麗に憧憬す。胸に残るただ一つは花の下にて春死なんの願いである。西行はかく超越を極めた。しかれども霊的執着は薄弱である。彼の蹈む人道は誠に責任を無視している。彼の信仰は問わず、彼に空海の才腕と日蓮の熱烈なきはかれの霊的価値を無に近からしむ。わずかに和歌に隠れて詩人を気取るとも「自己」をのみ目的とする彼に何の価値があろう。
かつてはなはだ奇体な旅の僧に逢った事がある。ハンモックと毛布を負うて無人の山奥へ平然として分け入る。阿蘇ではハンモックにぶら下がったまま凍死しようとした、妙義では頂に近き岩窟に一夜を明かした。肉体と社会を超越してのこのこと日本じゅう歩きめぐっている。旅は人を自然に近づかしめて、峨々たる日本アルプスの連峰が蜿々として横たわるを見れば胸には宇宙の荘厳が湧然として現われる。この美この壮はもっとも強烈に霊を震※(雨かんむり/湯)してそぞろに人生の真面目に想いを駛す。ただ惜しむらくは西行と同じ誤りに陥っている。隠者仙人は人生と没交渉なると同時に社会の人として価値がない。一己の心霊の満足は目的でない。霊水に凡俗を浴せしめ凡界を洗うの信念が無ければ仙人は鶴と類を同じゅうせる生物に過ぎない。
真と義と愛と荘とに対する絶対の執着即神の憧憬と悪の憎悪は「人」たるべき最大要件である。この自覚に立ってすべての人が奮闘したならば人生は理想化せられ人類は向上す。獣性と虚栄と悪習慣とを超越して「全き人格」に憧るる時はクリアハートとクリンヘッドとをもって「人格」を形づくる刹那である。吾人が真正の社会主義の理想に歩を進め、ダンテの楽園に到達すべき出発点である。世人がすべてこれに傾向する時 To thee be all man Hero の境地はますます明らかになるであろう。ソシアリティの本義も恐らくはここである。深山に俗塵を離れて燎乱と咲く桜花が一片散り二片散り清けき谷の流れに浮かびて山をめぐり野を越え茫々たる平野に拡がる。深山桜は初めてありがたい。人の世を超越して宇宙の神秘を直覚したる心霊は衆を化し群を悟らす時初めて完全である。吾人の心は安逸を貪るべきでない。真と義と愛と荘とのためにあらゆる必死の奮闘を要す。精神が「義」に猛烈なる執着をなせば犠牲の念は忽然として翼をのぶ。ニュウトンといいワシントンといいルーテルという、彼らが大建設の時代は満身犠牲の念に充つ。心霊は神の摂理の真と人道の義と美の愛と宇宙の荘厳とに烈しく動かされて物質的世界を全く超越する。生活が何である! 苦痛が何である! わが心霊は肉の痛苦に感触しない。ただ霊の本能に従って思うがままに動く。かの熱烈なる殉教者に見よ。バイロンは「シーヨンの囚人」に七人の雄大なる兄弟を画いた。物暗き牢獄に鉄鎖の鏽となりつつ十数年の長きを「道義」のために平然として忍ぶ。荘厳なる心霊の発現である。兄弟は一人と死に二人と斃る。愛する同胞の可憐なる瞳より「生命」の光が今消え去らんとする一瞬にも彼らは互いに二間の距離を越えて見かわすのみである。ただ一度かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今一度彼の膝に……と狂人のように猛り立つ。鏽びたる鉄鎖はただ重げに音するのみである。かくて兄弟の膝に怨みの涙、憤怒の涙は流るるとも「道義」のために彼らは断乎として嘆かぬ。吾人はレマン湖畔シーヨンの城にこの七人の猛き霊的本能主義者の足跡の残れるを知る。
さらにルーテルを見よ、クリストを見よ、霊の高翔する時物質の苦を忍ぶはやすい事である。一生を衆人救済と贖罪とに送って十字架に血を流したる主エスはわが主義の証明者である。要するに吾人は肉体を超越して宇宙の悲哀に恍惚たる心霊が雄壮に触れ真を憧憬し義に熱し愛に酔いて無我の境に入る時高潮に達する。Im Schönen, Im Guten, Im Ganzen resolbt zu leben の境地、神にあくがれて全きものたらんとする渇望、人を全能なる人格に Converge し、厳粛なる宇宙の真趣に歩一歩迫るが理想である。肉体の満足に尊き心霊を没するものは豕の一種である。吾人は豕と伍するを恥ず。同時に耻を忍んで豕を洗い清めてやらねばならぬ。吾人が昂々然として向上する前に「愛」が活きて哀憐となり「雄壮」が動いて犠牲となってこの事業に執着せしめる。かくのごとくして吾人は心霊の命ずるがままに現世に行動したい、これが吾人の主義である。
五
「絶対に物質を超越し絶対に霊に執着せよ」との主義はあまりに漠然たるものである。絶対の物質超越は死に至る。吾人は死を辞せない、死を恐れない。ただ霊的執着のために此世に活き此界に動く。ゆえに吾人の生活は心霊の光彩を帯びなければならぬ。生活の困難に嘆かず黄金に屈服せざるは死を恐るる人にできる事でない。しかしながら吾人は生きるために食物を要する、食物のためには働く義務がある。世人がすべて仙人となり隠者となってははなはだ迷惑だ。トルストイ伯はかるがゆえに半農主義を唱えた、すでに半農主義ある以上半商主義も可なり、半教師主義もよし。否、余裕があるなら全農も全商もよい。要は「人間の本領」を失わない事である。この決心のもとに虚栄と獣性と罪悪との渦巻く淵を彼岸に泳ぎ切る。若きダンテはビアトリースの弔いの鐘に胸を砕かれてこの淵に躍り入った。フロレンスの門の永久に彼に向かって閉じられてよりはさらに荒き浮世の波に乗る。彼の魂は世の汚れたる群れより離れて天堂と地獄に行く。この不覊の魂を宿したる骸は憂き現し世の鬼の手に落ちた。
Yea, thou shalt learn how salt his food who bdres
Upon another's bread, ― how steep his path
Who treads up and down another's stairs.
とは烈しき迫害に逢うて霊が思わずもあげたる悲痛の叫びである。されどダンテはいかなる迫害にも堪えた。この「不覊なる想いと繋がれたる意志」との二様生活こそダンテの真髄である。ヴェロナにありて、森の奥深くさまよいては栄ある天堂を思い、街を歩みては「あれこそ地獄より帰りし人よ」と指さされる。この悲境にあって詩人は深厳なる人世の批評をなしつつ断乎として悪を斥けた、黄金と虚栄とを怒罵の下に葬った。吾人はこの自信と信念とを渇仰する。
吾人の生活にかくのごとき信念を与うる者は芸術である。芸術は吾人を瑣細なる世事より救いて無我の境に達せしめる。枝葉よりさらに枝葉に、末節よりさらに末節に移りたる顕し世の煩いを離れたる時、人は初めてその本体に帰る。本体に帰りたる人は自己の心霊を見神を見、向上の奮闘に思い至る。かの芸術が真義愛荘の高き理想を対象として「人生」を表現するはこれがためである。吾人はこの真義愛荘を通じて「全き者」を見たい。「全能」なるある者に接したい。荘厳なる華厳の滝万仞の絶壁に立つ時、堂々たる大蓮華が空を突いて聳だつ絶頂に白雲の皚々たるを望む時、吾人の胸はただ大なる手に圧せらるるを覚ゆ。これ吾人の心胸にひそむ「全き人格」の片影がその本体と共鳴するのである。しかしながら内心にひそむ芸術心なきもの、審美の情なき者は自然の大景よりこの啓示を得ない。彼らには滝は珍であり山は奇たるにとどまる。その境地に誘うためには霊を開拓せねばならぬ。開拓の鍵となるものは芸術である。芸術はかくして吾人の渇仰を充たすべきものである。
宇宙の森羅万象の根底にひそむ悲哀を悟得し芸術にその糧を得て現世の渦中に身を置く。信念の下に働けば事業は尊い。かくして二十世紀の今日に確乎たる二様生活を行なわんがため、霊的本能主義は神により感得したる信念とその実行とをまっこうに振りかざし堂々として歩むものである。実行は霊的興奮により自然に表わるる肉体の活動である。吾人の渇仰する天才力ーライルは三階の屋根裏からはるかに樽の中の蛇を眺めながら星とともに超越していた。しかも彼には星とともに下界を輝らす信念がある。「身に近き義務と信ぜらるるものをまずなし果たせ。第二義務は直ちに明らかならん。霊的解脱はここにあり。かくてすべての人が漠然として欲求し、茫然として不可達に苦しむ理想の境はたちまちにして汝の前に開かれん。汝のアメリカはここにあるのみ、他にあらざるなり。実に汝が今立てる地はすなわち理想の郷たるべき地なり。」という。このアメリカはワシントンが豚の焼き肉をうまそうに食った時代、リップ・ヴァン・ウィンクルが妻君に牛耳られて山に逃げ込んだ時代のアメリカである。この美しい理想郷を得るは「自覚」の下に立てばやすい事だと狂気のように力ーライルは説く。一生懸命のけんか腰で説く。霊的本能主義はここに出発点を得たのである。
吾人は自らの人格を想い、自らの行為を省み慨嘆に堪えないものである。されどこの主義の下に奮闘するは辞するところでない。吾人の胸には親愛義荘の権化たる「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなし果たさん事を思う。かくて吾人は厳々乎として現実の社会を歩みたい。
吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒い正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。
吾人はこの例を一高校風に適用し得べしと思う。吾人の四綱領は武士道の真髄でありソシアリティの変態であろう。しかれどもこの美名の下に隠れたる「美ならざる」者ははたして存在せざるか。向陵の歴史は栄あるものであろう。しかれどもこの影に潜める悪習慣を見よ! 吾人はあえて一二の例を取る。そもそもかのストームは何であるか。かつて初めて向陵の人となり今村先生に醇々として飲酒の戒を聞いたその夜、紛々たる酒気と囂々たる騒擾とをもって眠りを驚かす一群を見て嫌悪の念に堪えなかった。ああ暴飲と狂跳! 人はこれを充実せる元気の発露と言う。吾人は最も下劣なる肉的執着の表現と呼ぶをはばからぬ。さらにまたかの卑猥なる言語を弄して横行する一群を見る時、吾人は一高校風の前途を危ぶまざるを得ない。校風の暗黒面にみなぎる悪思潮は門鑑制度、上草履制度の無視ではない、尊き心霊に対する肉的侮辱である。吾人は口に豪壮を語る輩が女々しく肉に降服せるを見て憐れまざるを得ない。吾人は社会に罪悪の絶えぬ以上校友の思想に欠点あるを怪しまぬ。ただ願わくばこの悪潮流が光栄ある四綱領を汚さざらん事を望むのである。 | 底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「交友会雑誌」
1907(明治40)年11、12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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関東大震災の前数年の間、先輩たちにまじって露伴先生から俳諧の指導をうけたことがある。その時の印象では、先生は実によく物の味のわかる人であり、またその味を人に伝えることの上手な人であった。俳句の味ばかりでなく、釣りでも、将棋でも、その他人生のいろいろな面についてそうであった。そういう味は説明したところで他の人にわかるものではない。味わうのはそれぞれの当人なのであるから、当人が味わうはたらきをしない限り、ほかからはなんともいたし方がない。先生は自分で味わってみせて、その味わい方をほかの人にも伝染させるのであった。たとえばわかりにくい俳句などを「舌の上でころがしている」やり方などがそれである。わかろうとあせったり、意味を考えめぐらしたりなどしても、味は出てくるものではない。だから早く飲み込もうとせずに、ゆっくりと舌の上でころがしていればよいのである。そのうちに、おのずから湧然として味がわかってくる。そういうやり方が、先生と一座していると、自然にうつってくるのであった。そのくせ今残っている感じからいうと、「手を取って教えられた」というような気がする。
先生の味解の力は非常に豊富で、広い範囲にわたっていたが、しかし無差別になんでも味わうというのではなく、かなり厳格な秩序を含んでいたと思う。人生の奥底にある厳粛なものについての感覚が、太い根のようにすべての味解をささえていた。従って味の高下や品格などについては決して妥協を許さない明確な標準があったように思われる。外見の柔らかさにかかわらず首っ骨の硬い人であったのはそのゆえであろう。
何かのおりに、どうして京都大学を早くやめられたか、と先生に質問したことがある。その時先生は次のようなことを答えられた。自分は江戸時代の文芸史の講義をやるはずになっていたが、いよいよ腰を据えてやるとなると、自分の好きな作品や作家だけを取り上げて問題にしているわけには行かない。御承知の通り江戸時代の戯作者の作品には実にくだらないものが多いが、ああいうものを一々まじめに読んで、学問的にちゃんと整理しなくてはならないとなると、どうにもやりきれないという気がする。それよりも自分の好きなものを、時代のいかんを問わず、また日本と外国とを問わず、自由に読んでいたい。そういうわけでまあ一年きりで御免をこうむったわけです。
先生のあげられたこの理由が、先生の大学に留まらなかった理由の全部であるかどうかは、わたくしは知らない。しかしもしそれだけであったならば、まことに惜しいことをしたとわたくしはその時に感じた。先生が好きなものを自由に読んでいられても、江戸時代の文芸史の講義ができなかったはずはない。いわんや先生の目から見てくだらない作家や作品は、ただ名前をあげる程度に留めておき、先生が価値を認められる作家や作品だけを大きく取り扱ったような文芸史ができたならば、かえって非常に学界を益したであろう。日本の文芸の作品は世界的な広い視野のなかでもっと厳重に淘汰されてよいのである。先生が思い切ってそれをやろうとせられなかったことは、今考えても惜しい気がする。
先生が京都で講義せられていたときのことを後に成瀬無極氏から聞いたことがある。成瀬氏は大学卒業後まだ間のないころであったが、すでにドイツ文学の講師となっており、同僚の立場から先生を見ることができたのである。氏によると、先生は非常にきちょうめんで、大学の規定は大小となく精確に守られた。同僚の教師たちがなまけて顔を出していないような席にも、規定とあれば先生は必ず出席せられた。何かの式であるとか、学友会の遠足であるとか、すべてそうであった。そばから見ていると、あれでは窮屈でとても永続きはしまいと思われた、というのである。この話をきいた時わたくしは前述の先生の言葉を思い出した。先生は学問の上においても同じようにきちょうめんな態度を取ろうとして、それが窮屈なためにやめられたのである。わたくしはそのころの京都大学の空気を知らないから、このきちょうめんさが外からの要求なのか、あるいは先生自身の内から出たのか、それを判断することはできないが、晩年まで衰えることのなかった先生の旺盛な探求心のことを思うと、あのとき先生が大学の方へ調子を合わせようとせずに、自分の方へ大学をひき寄せるようにせられたならば、日本の学界のためには非常によかったろうと思われる。
もっともあの時代には、大学などを尻目にかけるということが非常にいさぎよいことのように感ぜられた。少なくともわれわれ青年にとってはそうであった。それほど学界のボスの現象が顕著であり、そういうボスに接近する青年たちは、当時の流行語でいえば、シュトレーバーだと見られた。その後三、四十年の歴史が実証したところによると、そういう青年の感じ方は必ずしも間違ってはいなかったといえる。だから先生がいち早く身をひかれたのはいかにももっともなのであるが、しかしまたそれだけに先生の廓清的な仕事の余地もあったのである。
先生の探求心が晩年まで衰えなかったことの一つの証拠は『音幻論』であるが、伝え聞くところによると、先生はあれを病床で口授せられたのだという。先生は丹念にカードを作る人であったから、調べた材料は相当に整理せられていたのでもあろうが、しかしああいう引例の多い議論を病床で口授するということは、どうも驚くのほかはない。おそらくあの問題を絶えず追いかけているうちに、頭のなかで議論のすじ道ができあがってしまったのだろうと思う。これはよほど粘り強い、頑強な探求心のしわざである。もちろんそこにはわれわれの思いも及ばない旺盛な記憶力が伴なっているのではあろうが、しかし記憶力だけではかえって雑然としてまとまりがつかないであろう。雑多な記憶材料に一定の方向を与え、それを整然とした形に結晶させた力は、あくまでも探求心である。
言語の問題に関しては先生はいつも活発な関心を持っていられた。わたくしのわずかな接触の間にも、この問題についておりにふれて教えられたことは、かなり多く記憶に残っている。漢字をいきなり象形文字と考えるのは非常な間違いで、音を写した文字の方が多いこと、同じ音で偏だけ異なっているのは偏によって意味の違いを表示したもので、発音的には同一語にほかならないこと、従って一つの音を表示する基準的な文字があれば、象形的に全然つながりのない語に対しても、同音である限りその文字が襲用せられていること、などは、わたくしは先生から教わったのである。子供の時以来漢字や漢文を教わって来ていても、右のような単純明白なことを誰も教えてくれなかった。英語の字引きをひいて must(1)must(2)などとあるのをおもしろがっていた年ごろに、もし漢語を同じように写音文字にすれば、(1)(2)どころではなく(1)から(20)、否(30)…(50)と並べなくてはならないのだと知ったならば、よほど漢字に対する考え方が違っていたろうと思う。そこには漢語のような単音節語特有の困難な事情がある。日本語は単音節語ではないのであるから、右のような困難を背負い込む必要はなかったのである。
そういう類のことは日本語についてもいくつか聞いたと思うが、それらは大抵『音幻論』のなかに出ているらしい。そこに出ていないと思われることでさしずめ思い出すのは、「なければならない」という言い回しについて先生のいわれたことである。この言い回しがひどく目立って来たのは、ちょうど関東震災前後の時代からであった。先生は「この不思議な」言葉がどこから出て来たかをいろいろと考えてみたが、どうもこれは「なけらにゃならん」という地方なまりをひき直したものらしい、といわれた。この着眼にはわたくしは少なからず驚かされたのである。わたくし自身もこの言い回しが著しく目立って来たことには気づいていたが、しかしこれが格はずれの用法であるとは全然思い及ばなかった。先生の説明によると、「なければ」は「なくあれば」のつまったものであるから、「ならない」で受けることはできない。「あってはならない」「なくてはならない」ということはいえる。しかし「あればならない」という人はなかろう。「もしそうでなければ、かくかくであろう」というのが「なければ」の普通の用法である。それは、「もしそうであれば、かくかくでなかろう」という用法と対になる。もっとも後半の受ける方の文章はどう変わってもよいのであるが、とにかく「なければ」「あれば」は一つの条件を示す言葉であるから、それを「ならない」で受けることはできないはずである。これが先生の主張であった。わたくしはいかにももっともだと思った。その後わたくしは自分の書いたものを調べてみたが、やはりところどころに使っていることを見いだした。そうして「どこまでも追究して見なければならない」というふうな言い回しが、「どこまでも追究して見なくてはならない」というのと幾分違った語感を伴なうに至っていることをも認めざるを得なかった。先生が「なければならない」という言葉に出会うごとに感じられたような不快な感じを、わたくしたちは感じないばかりか、そこに新しい表現が作り出されているようにさえ感じていたのである。しかしわたくしは、一度先生に注意されてからは、この言い回しを平気で使うことができなくなった。それでも不用意に使うことはあるが、気がつけば直さずにはいられないのである。そういうことをわたくしはほかの人にも要求しようとは思わない。どんな破格な用法を取ろうと、それはその人の自由である。日本語の進歩もたぶんそういう破格な用法からひき起こされるのであろう。そうあってほしい。しかしわたくしは破格を好まない。そういう点で露伴先生の鋭い語感は実際敬服に堪えないのである。
晩年の露伴先生に対しては、小林勇君が実によく面倒を見ていた。先生もおそらく後顧の憂いのない気持ちがしていられたことと思う。
小林君の話によると、先生は最後に呵々大笑せられたという。わたくしはそれが先生の一面をよく現わしていると思う。
(昭和二十二年十月) | 底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「文学」
1947(昭和22)年10月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "049914",
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"初出": "「文学」1947(昭和22)年10月号",
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"名": "哲郎",
"姓読み": "わつじ",
"名読み": "てつろう",
"姓読みソート用": "わつし",
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"名ローマ字": "Tetsuro",
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"生年月日": "1889-03-01 ",
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"底本名1": "和辻哲郎随筆集",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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訳者序
一九〇九年、レオン・ワルラスの七十五歳の齢を記念して、ローザンヌ大学は médaillon を作った。それには、次の銘が刻んである。
"A Léon Walras, né à Evreux en 1834, professeur à l'Académie et à l'Université de Lausanne, qui le premier a établi les conditions générales de l'équilibre économique, fondant ainsi l'école de Lausanne. Pour honorer cinquante ans de travail désintéressé."
(一八三四年に Evreux に生れローザンヌ Acdémie 並びにローザンヌ大学の教授であり、経済均衡の一般的条件を論証した最初の人であり、ローザンヌ学派の開祖であるレオン・ワルラスに。利慾を離れた五十年の研究生活に敬意を表するために。)
この銘こそはワルラスの学問的業績を最も明確に表明しているものである。多くの経済学説史家は、メンガー、ジェヴォンスと共に限界利用説を作りあげたこと、または数学を経済学に応用したことをもって、ワルラスの学問的功績となそうとしている。まことにこの点に関するワルラスの業績は、時間的に見ればジェヴォンスとメンガーとに後れてはいるが、立論の精緻なことにおいて、これらの学者の及ぶ所ではない。けれどもワルラスの業績の第一次的意義をここに求めようとするほど、彼に対する理解の浅薄を示すものはないであろう。だがワルラス自身さえも第一次的意義のあるものを意識しなかったのである。ローザンヌ学派に属する有力な一人である G. Sensini の一句、「ワルラスは、一八七三年から一八七六年の間に、有名な四箇の論文を書いた。――彼の学問的仕事はほとんどすべてこれらの中に含まれている。――しかし彼は、これらの論文に述べられた先人未発の思想の稀有の重要さを解しなかった。彼の頭脳と性質と、そして一部には偶然とが、彼をして、経済学にとりすこぶる豊沃な方途に向わしめたのである。しかるに不幸にも、彼は、社会改良家としての性質に支配されて、まもなくこの研究領域を捨てて、空想的応用方面に進んでいった(一)。」は、この事情を明快に指摘して、余蘊がない。ワルラスが意識せると否とにかかわらず、彼の業績の客観的独自性は、経済現象の相互依存の関係(mutuelle dépendance)を認識した点にある。一切の経済現象は各々独立なものではなく、相互に密接に作用し合っている。これら経済現象中のいずれの一つに起る変化も他のすべてに影響を及ぼし、これらの影響はまた逆にこの一つの現象に影響を及ぼす。従って経済現象は互に原因結果の関係によって結び付いているのではなく、相互依存の関係に織り込まれているのである。ワルラス以前にも経済現象が互にこの依存の関係をもっていることを認識した者がないではない。だがこれらの現象が同時にかつ相互に(ensemble et réciproquement)決定し合うことを証明した最初の人がワルラスであったことは、争う余地がない(二)。ところで、この相互依存の関係を明らかにするには、パレートがいっているように、通常の論理は無力であり、数学の力に拠らねばならぬ(三)。ワルラスが、経済学に数学を用いた理由の一つには、経済学が量に関する研究であることもあるが、その主たる理由は、数学のみがこれら経済現象の相互依存の関係を明らかにし得ることにあった。ワルラスの業績の独自性と偉大さとは、一に、この点にのみ存する。もちろん、あらゆる事の先駆者においてそうであるように、経済現象の相互依存の関係を発見したワルラスにも、これら現象の間に因果関係を認めているが如き見解が残っている。けれども、これは、いずれの先駆者にも除き尽すことの出来ない古い物の残滓である。
この残滓はパレートによって除き去られて、ワルラスの一般均衡理論は、後期ローザンヌ学派の純粋なる一般均衡理論となった。今日 désintéressé の経済科学者にとっては、主観的価値説もなければ、労働価値説もない。ひとり一般均衡理論あるのみである。経済現象の désintéressé な研究をなそうと志す人々は、ワルラスとパレートとの研究から始めねばならない。誤訳なども多くあるかもしれないこの「純粋経済学要論」が、これらの人々にとっていくらかの役に立ち得るならば、訳者のこの仕事は無駄にはならぬであろう。この場合にも、R. Gibrat が Les Inégalités économiques, Paris. 1931. の表紙に引用した Carver の一句は、記憶のうちに止めらるべきであろう。
"The author hopes that the reader who takes up this volume may do so with the understanding that economics is a science rather than a branch of polite literature, and with the expectation of putting as much mental effort into the reading of it as he would into the reading of a treatise on physics, chemistry, or biology.(四)"
この飜訳に際しても、「国際貿易政策思想史研究」の場合と同様に、高垣寅次郎先生の御指導と御尽力を忝くした。けれども出来上がったものは、かくも拙劣である。この点、切に先生の御容赦を乞わねばならぬ。
一九三三年三月
手塚壽郎
註一 Sensini: La teoria della "rendita," 1912, pp. 407-8.
註二 〔Antonelli: Le'on Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines e'conomiques et sociales, 1910, p. 187.
註三 〔V. Pareto: Manuel d'e'conomie politique trad. de l'italien par Al. Bonnet, 1909. pp. 160, 247.
註四 T. N. Carver: The Distribution of Wealth, 1899, Preface.
凡例
一 この書物は、Léon Walras: Eléments d'économie politique pure ou Théorie de la richesse sociale. Paris et Lausanne. を、一九二六年版に拠って、訳出したものである。厳密に訳せば、書名は「純粋経済学要論――社会的富の理論」とせられねばならぬのではあるが、称呼上の簡便を期するため、単に「純粋経済学要論」としておいた。一九二六年版は、三箇所に加えられた僅少の修正を除けば、決定版として知られている第四版すなわち一九〇〇年版と異る所が無い。これらのうち、二箇所はワルラスが一九〇二年付の註をもって一九二六年版に断っているが(本訳書下巻、第三二六、三六二節)、他の一箇所は断ってない。しかしこの一箇所は旧版の当該部分をより容易に理解せしめようとしてなされた修正であって、重要な修正ではない。第八二節がこの部分である。
二 原著の叙述は、ほとんど全部条件法を用い、原著者がその主張にいかに謙譲であったかをよく示している。だが訳文には、必要な場合のほか、大部分直接法を用いることとした。
レオン・ワルラスの略伝
レオン・ワルラス(Marie-Esprit-Léon Walras)は、一八三四年十二月十六日、パリを西北に百粁ほど隔てるエヴルー(Evreux)の町に、オーギュスト・ワルラス(Antoine-Auguste Walras)を父として生れた。父オーギュスト(一八〇一―一八六六)は南仏のモンペリエ(Montpellier)市の人であったが、一八三〇年にエヴルーの中学校の修辞学の教師となり、一八三三年には同校の校長となった。一八三四年に、この町で Louise-Aline de Sainte-Beuve と結婚した(一)。この同じ年にレオンが生れたわけである。オーギュストは一八三五年十一月までこの職にあったが、辞職の後、大学教授を目指してパリに移り、一八三九年までここで教授資格試験の受験準備をした。この年、リーユ(Lille)の中学校の哲学教授となり、一八四〇年には、カーン(Caen)の中学校に転じ、一八四六年に、カーン大学の文学部のフランス修辞学(éloquence française)の講師となった。一八四七年、学位論文 Le Cid, esquisse littéraire によって、文学博士(Docteur-ès-lettres)を授けられた。その後は視学官として、Nancy, Caen, Douai, Pau 等に転任している。これらの生活を通じてオーギュストが専門とした学問はフランス語学・文学・哲学であったのであるが、エヴルーの教師時代から経済学の研究が常に彼の大なる興味をひきつけていた。その間、かなり多数の経済学上の論文を公にしているのみならず、一八三一年には、「富の性質及び価値の源泉について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. Paris.)を公刊し、一八四九年には「社会的富の理論、経済学の基本原理の要約」(Théorie de la richesse sociale, ou Résumé des principes fondamentaux de l'économie politique. Paris.)を公刊している。これらの二書は、レオンの思想に重大な影響を及ぼしたものとして、重要視すべきものである。レオン自身もこのことを認めている(二)。単に価値の心理的観方をなした点においてのみならず、また経済学を数理的科学でなければならぬと考えた点においても、父の思想はそのままレオンの思想となっているのである(三)(四)。
レオンは、一八五一年、文科大学入学資格者(Bachelier ès lettres)となり、一八五三年、理科大学入学資格者(Bachelier ès sciences)となり、砲工学校(Ecole Polytechnique)の入学試験を受けたが、失敗した。この頃彼は微積分学や理論力学を勉強していたが、それのみでなく、クールノーの「富の理論の数学的原理に関する研究」(Recherches sur les principes mathématiques de la théorie des richesses. 1838.)をも初めて読んだという(五)。一八五四年、鉱山学校(Ecole des Mines)に入学したが、まもなく退学して、文学などに熱中した。
一八五八年、レオンは小さな小説 Francis Sauveur を公にしている。しかし父は彼に経済学の勉強を熱心にすすめた。レオンが経済学者として立つに至るべき動機はここに発すると、彼自らいっている。「私の全生涯の最も決定的な時は、一八五八年の夏のある美しい夜であった。その夜 Gave de Pau 河の河辺を散歩していたとき、父は、一九世紀中になさるべき二つの大なる仕事――歴史を書き上げることと、社会科学を建設すべきこと――が残っていることを力説した。これらの二つの仕事のうちの第一については、ルナン(Renan)が充分に父を満足せしめるであろうことを、父は知らなかった。第二の仕事は、父が終生念願していた所であり、この仕事に特に父は感激をもっていた。父は、私がこの仕事を継ぐべきであると、力強くいっていた。Les Roseaux という農場の入口まで来たとき、私は、文学や文芸批評を放擲して、父の仕事を承け継ぐことに専心しようと、父に堅く誓った(六)。」
一八五九年に、レオンは Journal des Economistes の記者となり、一八六〇年に、Presse の記者となった。まもなくこれをもやめた。この年「経済学と正義、プルードンの経済学説の吟味と駁論」(L'Economie politique et la justice. Examen critique et réfutation des doctrines économiques de M. P.-J. Proudhon. Paris.)を公にした。また同年七月、ローザンヌに開かれた国債租税会議に列席した。また同年ヴォー(Vaud)州が募集した租税に関する懸賞論文に応じた。一八六一年に出版された「租税理論批判」(Théorie critique de l'impôt. Paris.)がそれである。プルードンの「租税理論」(Théorie de l'impôt. Paris.)が第一等賞となり、レオンは第四等となった。
レオンは一八六五年に至るもなお一定の職業を得なかったが、この頃盛になりつつあった協同組合運動に加わり、同年「庶民組合割引銀行」(Caisse d'escompte des associations populaires)の理事となり、これが一八六八年に破産するに至るまで、それに従事した。その間、あるいは協同組合運動に関する公開講演をなし、あるいは Léon Say と共にこの運動の週刊雑誌「労働」(Le Travail)を発刊した。ひとたびこの雑誌に公にされた一八六七年と八年の公開講演「社会理想の研究」(Recherche de l'idéal social)は一八六八年、単行書として出版された。その後銀行員となったりしているうちに、一八七〇年六月、レオンはルイ・リュショネー(Louis Ruchonnet)の来訪を受けたが、氏は近くローザンヌ大学に経済学講座が開設せられるべきことを報じ、かつその教授候補者となることをレオンにすすめた。レオンはこのすすめに応じ、この受験準備のため、八月七日ノルマンディーに赴き、静かな環境のうちに勉強した。試験官は州の名士三名と経済学者四名から成っていた。これら三人の名士はワルラスの採用に賛成したが、四人の経済学者のうち三人はこれに反対した。残る一人であるジュネーヴ大学教授であった経済学者ダメト(Dameth)は、ワルラスの数理経済学を正しいとは思わないが、しかしかような思想を発展せしめ講義せしめてみるのは、学問の進歩のために有益であろうといって、ワルラスの採用に賛成した。その結果、ワルラスはローザンヌ大学の教授に任命せられ、同年十二月十六日開講した。この時から、一八九二年にパレートが彼の講座を継ぐまで、ワルラスは数理経済学の建設に全努力を傾倒した。その間、一八七三年にまず「交換の数学的理論の原理」(Principes d'une théorie mathématique de l'échange)が公にせられ、一八七五年に「交換の方程式」(Equations de l'échange)が、一八九六年に「生産の方程式」(Equations de la production)及び「資本化の方程式」(Equations de la capitalisation)が公にせられ、それらが綜合せられて「純粋経済学要論」(Eléments d'économie politique pure)の第一版第一分冊が一八七四年に、第二分冊が一八七七年に出版せられ、第二版が一八八九年に、第三版が一八九六年に出版せられた。これら出版の事情と各版の相異とは原著第四版の序文に明らかにせられている。これらの相異のうち、貨幣の価値に関する第一版と第二版とのそれは、我々の注意に値するものであろう。マージェット(A. W. Marget)が指摘しているように、第一版に見られるフィッシャー流の貨幣数量説は、第二版においてケンブリッジ学派の数量説に変化しているのである(七)。
ローザンヌ大学を退いて後も、ワルラスの学問的活動は停止していない。一八九六年には論文集「応用経済学研究」(Etudes d'économie appliquée)を、一八九八年には論文集「社会経済学研究」(Etudes d'économie sociale)を出版したほか、大小の論文を公にしている。
翌年にはノーベル賞を目指して、著作を志している。一九〇七年の Questions pratiques de législation ouvrière et d'économie politique に公にされた論文「社会的正義と自由交換による平和」(La Paix par la justice sociale et le libre échange)はその一端であるという。
一九一〇年一月五日クララン(Clarens)に逝った。
註一 L. Walras: Un initiateur en économie politiquë A. A. Walras, dans la Revue du mois, août 1908, p. 173.
註二 本書原著第四版の序、二一頁参照。
註三 E. Antonellï Un économiste de 1830: Auguste Walras, dans la Revue d'histoire économique et sociale, 1923, p. 529.
註四 オーギュストとクールノーとの関係については、L. Hecht: A Cournot und L. Walras, Heidelberg, 1930, p. 23 以下を参照。
註五 Antonellï Léon Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines économiques, 1910, p. 170. Cf. Bompairë Du Principe de liberté économique dans l'œuvre de Cournot et dans celle de l'Ecole de Lausanne, p. 238.
註六 Antonellï Principes d'économie pure, pp. 24-5.
註七 A. W. Marget: Léon Walras and the "Cash-Balance Approach" to Problem of the Value of Money, in the Journal of Political Economy, October 1931, pp. 569-600.
原著第四版の序
「純粋経済学要論」のこの第四版は最終版である(一)。一八七四年の六月、初版の巻頭に、私は今ここに転載しようとする次の文を書いた。
「一八七〇年、ヴォー州(Vaud)の参事院はローザンヌ大学の法学部に経済学の一講座の開設を計画し、かつその開設の準備として教授候補者を募った。私が今日あるのはこの見識ある発案の賜である。ことに、教育宗教局長で同時にスイス国聯邦参事院の一員であるルイ・リュショネー氏(Louis Ruchonnet)に負うところが大である。氏は、私にこの講座の教授候補者となることをすすめ、また私がこの講座を占めてからは、絶えず私を激励して、経済学及び社会経済学の基礎的概論の公刊を始めることを得せしめた。この概論は独創的方法によって仕上げられた新しいプランに基いて組み立てられ、その結論もまた――あえていっておかねばならぬが――ある点において現在の経済学の結論と同一ではない。
「この概論は三部に分たれ、各部は一巻二分冊として出版せられるであろうが、それぞれの内容は次の如くであろう。
第一部 純粋経済学要論すなわち社会的富の理論。
第一編 経済学及び社会経済学の目的と分け方。第二編 交換の数学的理論。第三編 価値尺度財並びに貨幣について。第四編 富の生産及び消費の自然的理論。第五編 経済的進歩の条件と結果。第六編 社会の経済組織の諸形態の自然的必然的結果。
第二部 応用経済学要論すなわち農工商業による富の生産の理論。
第三部 社会経済学要論すなわち所有権と租税とによる富の分配の理論(二)。
「今ここに現われようとしているのは、第一巻の第一分冊である。これには、任意数の商品相互の交換の場合における市場価格決定の問題の数学的解法と需要供給法則の科学的方式とが含まれている。私がそこで用いた記号法は、当初には、やや複雑に見えるかもしれない。だが読者はこの複雑さに辟易してはならない。なぜなら、この複雑さは問題に内在して止むを得ないものであると同時に、このほかに難解な数学は少しも用いられていないから。ひとたびこれらの記号のシステムが理解せられれば、このことだけで、経済現象のシステムは自ら理解せられる。
「今から一ヵ月ほど前私は、マンチェスター大学の経済学教授ジェヴォンス氏が私の問題と同じ問題について書いた「経済学の理論」(The Theory of Political Economy)と題せられる著作が、一八七一年に、ロンドンマクミラン会社から出版せられているのを知った。だがそのときには私の第一分冊は全く稿を了え、かつ大方印刷をもおえていたし、またその理論の概要はパリの精神学及び政治学学士院に報告せられ、解説せられていたのである(三)。ジェヴォンス氏は私と同じく、数学的解析法を純粋経済学、特に交換の理論に応用している。そして氏のこの応用の一切は、氏が交換方程式と名付ける基本方程式の上に立っているが、この交換方程式は、私の出発点となっていて私が最大満足の条件と呼ぶ所のものに全く相等しい。これはまことに注目すべき事実である。
「またジェヴォンス氏は特にこの新方法の一般的哲学的解説をなそうと努力し、かつこれを交換理論、労働理論、地代理論、資本理論へ応用すべき基礎を作ろうと努力している。私はこの分冊では特に交換の数学的理論を深奥な方法に拠って解説しようと努めた。だからジェヴォンス氏の方式の先駆性を認めねばならぬが、若干の重要な演繹については、私は私の権利を主張することが出来る。ここにはこれらの点をいちいち挙げない。有能な読者はこれらの点をよく認め得るであろう。私としては、ジェヴォンス氏の著書と私の著書とは互に他を妨げないで、かえって互に補充し合い、不思議にも互に他の価値を増加し合うものであるといえば足りるのである。これは動かすべからざる私の確信である。私は、これを証明するために、イギリスの勝れた経済学者のこの好著をまだ読まないすべての人々に熱心にすすめる。」
第一版の第二分冊は一八七七年に出版せられた。私はこの中で生産的用役の価格(賃銀、地代、利子)の決定の理論と純収入の率の決定の理論とを説いたが、これらはジェヴォンスのそれとは著しく異っている(四)。
一八七九年に、当時ロンドン大学教授であったジェヴォンスは「経済学の理論」の第二版を公にし、この第二版の序文中で(Pp. XXXV-XLII)、数理経済学の建設の先駆性を一部分ドイツ人ゴッセンに認めている。私がこの先駆性をジェヴォンスに認めたことは、既に読者が知る如くである。ゴッセンについて私は、一八八五年四月及び五月の Journal des économistes に、「忘れられた経済学者ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセン」と題する一文を公にした。その中で私は、ゴッセンの生涯と著書についての解説を与え、併せて、二人の先駆者の著作があるにもかかわらず、新理論のうち結局私自身のものとして残されるべき部分を定めようと努力した(五)。この点を、本書の第十六章の末尾の一節で、再び明らかにするであろう。その所で読者は知られるであろうように、交換において稀少性を考えることのいかに重要であるかは、一八七二年に私共三人とは独立に、ウィーン大学の経済学教授カール・メンガーによってもまた認められ、立証せられているのである。
私は、ゴッセンが利用曲線についての先駆者であるのを認め、またジェヴォンスが交換における最大利用の方程式についての先駆者であるのを認める。だが私はこれらの思想を借用したのではない。私は私の経済学説の根本原理を父オーギュスト・ワルラス(Auguste Walras)から借用し、この学説の解説のために函数計算を用いる根本原理をクールノーから借用したのである。これらのことを私は最初の論文で明言し、またそれ以後のあらゆる機会に明言している。今ここでは、この学説が本書の各版で順次にいかに正確さを加えられ、展開せられ、補充せられたかを説明しようと思う。
私は交換方程式、生産方程式、資本化及び信用方程式の解法に、その全体についてはほぼ元のままとしながら、いくつかの細かい部分について修正を加えた。
交換に関しては諸商品の最大利用の定理(六)の基礎的証明のほかに、次の二つの証明を加えた。
(一)利用曲線が連続な場合につき、微分学の通常の記号法による証明――この証明は後に新資本の最大利用の定理を証明するに必要である。(二)利用曲線が不連続な場合の証明。
生産に関しては、均衡の成立のための予備的摸索を仮定し、かつこの運動は有効になされるのではなく、取引証書によって(sur bons)なされると仮定した。そして私はこの仮定をそれ以後においても維持した。
資本化については、交換方程式と最大満足の方程式とから、貯蓄の函数を理論的に演繹し、これを経験的に導き出すことを避けた。そして、純収入率の均等もまた新資本から得られる利用の最大の条件であることを、新定理として証明した。第一版を公にときには、私は新資本用役の最大利用に関する二つの問題のただ一つしか認めることが出来なかった。詳言すれば、ある個人がその収入を種々の欲望の間に配分するに当り資本の量をその当然の性質によって与えられていると考えまたは偶然に決定せられていると想像するときに起る問題、すなわち私が諸商品の最大利用の問題と呼び、数学的には資本用役の稀少性がその価格に比例せねばならぬことによって解かれる問題しか、第一版では私は考えていなかった。しかるに第二版を準備していたとき、なお一つの問題があるのを認めた。それは、社会がその収入の消費に対する超過部分を種々に配分して種々に資本化するに当り、新資本用役の有効利用の最大を目的として、この資本の量を決定しようとするときに現われる問題、すなわち、私が新資本の最大利用の問題と呼び、数学的には資本の稀少性がこの資本の価格に比例せねばならぬことによって解かれる問題である。だから用役の価格と資本の価格とが比例することにより二つの最大が生ずるのであるが、この用役の価格と資本の価格とが比例することは、一の留保の下に、まさしく自由競争によって生ずる結果なのである。
しかしながら、一八七六年以後一八九九年に至る私の研究によって著しく変化せられたのは特に貨幣理論である(七)。第一並びに第二版においては、貨幣編は純理論と応用論との二部から成っていたが、第三、第四版においては、応用論が除かれ、従って純理論、特に貨幣理論の根本である貨幣価値の問題の解法しか研究しなかった。第一版ではこの解法は、私が一般の経済学者から借りてきた「流通に役立った現金」(circulation à desservir)の思想を基礎としている。第二版においてはこの解法は、拙著(Théorie de la monnaie)に用いられた「所望の現金」(encaisse désirée)(訳者註)の思想を基礎としている。だがこの第二版においても第三版においても、第一版におけるように、別に私は貨幣の需要供給の均等方程式を経験的に立てた。この第四版ではそれは、流動資本の需要供給の均等方程式と共に、交換方程式及び最大満足の方程式から理論的に演繹せられている。このようにして流通及び貨幣の理論は、交換の理論、生産の理論、資本化の理論、信用の理論のように、それに相応するシステムの方程式の定立と解法とを含むのである。そしてこの流通論を組成する六章は、純粋経済学の大きな問題の第四である所の流通の問題の解法を示したものである。
私は、これら四つの問題の関連を明らかにするため、章編の数、順序、表題に少しく変更を加えた。ことに流通理論を資本化の理論の直後に置き、その次に一編を設け、経済的進歩の研究及び純粋経済学のシステムの研究をこの中に入れた。また限界生産力説すなわち問題の所与としてではなく未知数と考えられた製造係数の決定理論をも、この編の中に加えた。
これらの変化の結果として、本書の概要は次の如くなった。
純粋経済学要論すなわち社会的富の理論
第一編 経済学及び社会経済学の対象と分け方――第二編 二商品相互の間の交換の理論――第三編 多数の商品相互の間の交換の理論――第四編 生産の理論――第五編 資本化及び信用の理論――第六編 流通及び貨幣の理論――第七編 経済的進歩の条件と結果、純粋経済学のシステムの批評――第八編 公定価格・独占・租税について
附録第一 価格決定の幾何学的理論
附録第二 アウスピッツ氏とリーベン氏の価格理論の原理についての考察
この版はかく変化せられてはいるけれども、先にいったように一八七四年―一八七七年のものの最終版に過ぎない。かくいう意味は、私の今の学説が、数学者にして同時に経済学者であった少数の人々が解してくれたような私の原の学説と全く同一であるということにある。私の学説は次のように要約し得られる。
純粋経済学は、本質的には、絶対的自由競争を仮定した制度の下における価格決定の理論である(八)。稀少であるために、すなわち利用があると共に限られた量しかないために、価格をもつことの出来る有形無形の一切の物の総体は、社会的富を構成する。純粋経済学がまた社会的富の理論であるゆえんはここにある。
社会的富を組成する物のうちに、一回以上役立つ物すなわち資本または持続財と、一回しか役立たない物すなわち収入または消耗財(biens fongibles)とを区別せねばならぬ。資本は土地、人的能力及び狭義の資本を含む。収入は第一に消費の目的物及び原料を含む。これらは多くの場合有形の物である。次に収入はいわゆる用役(services)すなわち資本の継続的使用を含む。これらの用役は多くの場合無形のものである。資本の用役で直接的利用を有するものは、消費的用役(services consommables)と称せられ、消費目的物に結合する。間接的利用しかもたない資本の用役は、生産的用役(services producteurs)と称せられ、原料と結合する。私は、ここにこそ純粋経済学全体の鍵があると思う。もし資本と収入との区別を看過し、あるいはことに、社会的富のうちに有形の収入と併んで無形の資本用役が存在することを認めないとすれば、科学的な価格決定理論を建設することは出来ない。反対にもし、右の区別と分類とを承認すれば、交換の理論によって消費目的物及び消費的用役の価格決定を、次に資本化の理論によって固定資本の価格の決定を、流通の理論によって流動資本の価格の決定を、することが出来る。その理由は次の如くである。
まず消費目的物と消費的用役とのみが売買せられる市場、換言すればそれらのもののみが交換せられる市場を想像し、かつそこでは用役の販売が資本の賃貸によって行われると想像する。これらのもののうちから価値尺度財として採択せられた物で表わしたこれらの物または用役の価格すなわち交換比率が偶然に叫ばれると、各交換者は、自らある一定期間の消費に比較的に過剰に所有していると信ずる物または用役を、これらの価格で供給し、自ら不充分であると信ずる物または用役を需要する。かくの如くにして各商品の有効に需要せられる量と供給せられる量は決定されるのであるが、需要が供給を超える物の価格は騰貴せしめられ、供給が需要を超える物の価格は下落せしめられる。このようにして叫ばれた新しい価格に対して、各交換者は新な量を需要し、供給する。そして人々はなおも価格の騰貴または下落を生ぜしめ、それぞれの物または用役の需要と供給とが相等しくなったとき、これを停止する。そのとき価格は均衡市場価格となり、交換が現実に行われる。
次に交換の問題の中に、消費の目的物が生産的用役の相互の結合によって生ずる所のまたは生産的用役を原料に適用することによって生ずる所の生産物であるという事情を導き入れて、我々は生産の問題を提出する。この事情を考慮に入れるには、用役の売手であると同時に消費的用役及び消費の目的物の買手である地主、労働者、資本家の面前に、生産物の売手としてのまた生産的用役及び原料の買手としての企業者を置かねばならぬ。この企業者の目的は、生産的用役を生産物に変化して利益を得るにある。生産物は、彼ら企業者が相互に売買し合う原料であることもあれば、彼ら企業者に生産的用役を売った地主、労働者、資本家に販売せられる消費の目的物であることもある。だがこれらの現象をよく了解するためには、一つの市場の代りに、用役の市場(marché des services)と生産物の市場(marché des produits)とを想像するがよい。用役の市場ではこれらの用役は地主、労働者、資本家のみによって供給せられ、消費的用役は地主、労働者、資本家によって需要せられ、生産的用役は企業者によって需要せられる。生産物の市場では生産物は企業者のみによって供給せられ、原料はこの同じ企業者によって需要せられ、消費の目的物は地主、労働者、資本家によって需要せられる。これら二つの市場においては、偶然に叫ばれた価格で、地主、労働者、資本家であって同時に消費者である者が用役を供給し、消費的用役と消費の目的物とを需要し、それにより、考えられた期間中に出来るだけ多くの利用を得ようとし、生産者である企業者は生産物を供給し、また生産的用役で表わした製造係数の割合に従って同じ期間中に処分すべき生産的用役または原料を需要する。そしてこれらの生産者である企業者は、生産物の販売価格が生産的用役から成る生産費に超過する場合には生産を拡張し、反対に生産的用役から成る生産費が生産物の販売価格を超えるときは生産を縮小する。各市場では人々は、需要が供給を超えるときは、価格を騰貴せしめ、供給が需要を超過するときは、これを下落せしめる。均衡市場価格は、各用役または生産物の需要と供給とを等しからしめる価格であり、また各生産物の販売価格を生産的用役から成る生産費に等しからしめる価格である。
資本化の問題を解くには、貯蓄をする地主、労働者、資本家すなわち自ら供給する用役の価値の全部をあげて消費的用役及び消費目的物を需要することなく、この価値の一部をもって新資本を需要する換言すれば貯蓄する地主、労働者、資本家の存在を仮定せねばならない。そしてこれら貯蓄創造者に相対して、原料または消費の目的物を製造することなく新資本を製造する企業者の存在を仮定せねばならぬ。一方においてはある額の貯蓄と他方においてはある額の新資本とを与えられたとすれば、これらの貯蓄と新資本とは新資本の市場において、せり上げせり下げの機構に従い、交換理論と生産理論とによって決定せられた、新資本の消費的用役または生産的用役の価格に応じて互に交換せられる。そこで収入のある一定の率が成立し、各新資本の販売価格はその用役の価格と収入の率の比に等しくなる。新資本の企業者は、生産物の企業者と同じく、販売価格が生産費を超えるかまたは生産費が販売価格を超えるかに従い、その生産をあるいは拡張し、あるいは縮小する。
一度収入の率が得られると、ただに新固定資本の価格のみでなく、また旧固定資本すなわち既に存在する土地、人的能力、狭義の資本の価格が得られる。これは旧資本の用役の価格である地代、賃銀、利子をこの率で除すことによって得られる。残るのは流動資本の価格を見出すことと、価値尺度財が貨幣である場合にこれらすべての価格がいかなるものとなるかを知ることとだけである。これらは流通及び貨幣の問題である。
読者はこの第四版において私が「所望の現金」の考察により、いかにして静学的観点を離れることなく、先の問題を取扱ったと同じ条件と方法とをもって、右の問題を提出し、解決することが出来たかを見ることが出来よう。この問題の提出と解決のためには、流動資本を物または貨幣の形態をとる所の予備(approvisionnement)の用役を果すものと考え、かつこれらの用役を、資本家によってのみ供給せられ、地主、労働者、資本家によっては消費的用役として需要せられ、企業者によっては、予備の用役で表わした製造係数の割合に従って、生産的用役として需要せられると考えれば足る。かくてこれら予備の用役の市場価格は狭義の用役の市場価格の如くにして決定せられる。そして流動資本及び貨幣の価格もまた予備の用役の価格の純収入率に対する比として生ずるのであって、貨幣の価格は、貨幣が貨幣である限り、その量の反比例函数として成立する。
ところでこの全理論は数学的理論である。語を換えていえばその説明が通常の語でなされ得るとしても、その証明は数学的になされねばならぬ。それは全く交換理論の基礎の上に立つのであり、交換理論はすべて市場の均衡状態における二つの事実に約言される。まず交換者が利用の最大を得る事実、次にすべての交換者が需要する各商品の量と供給する量とは相等しいとの事実に要約される。ところでひとり数学によってのみ我々は利用の最大の条件を知ることが出来るのである。我々は数学によって、各交換者につき、各消費の目的物または消費的用役に対し、それらの充された最後の欲望の強度または稀少性をそれらの消費量の減少函数として表わす方程式または曲線を作ることが出来、また数学によって各交換者がその欲望の最大満足を得られるのは、ある叫ばれた価格において、交換後における各商品の稀少性がそれらの価格に比例するように、これらの商品の量を需要し供給するときであることを知ることが出来る。ただに交換においてのみでなくまた生産、資本化、流通においても、何故にかついかにして我々は需要が供給に超過する用役、生産物、新資本の価格を騰貴せしめ、供給が需要に超過するそれらの価格を下落せしめて、均衡の市場価格を得るのであるか。ひとり数学のみがこれを教え得るのである。これを教えるに数学は、まず稀少性の函数、欲望の最大満足を目的とする用役の供給を表わす函数、用役、生産物、新資本の需要と供給との均等を表わす方程式を導き出す。次にこれらの方程式を、生産費及び新資本の販売価格と生産費との均等を表わし、またすべての新資本の収入率の均等を表わす所の他の方程式に結び付ける。最後に数学は、(一)かようにして提出された交換、生産、資本化、流通の問題は不能の問題でないことすなわち未知数にまさに等しい数の方程式を与える問題であること、(二)市場における価格の騰貴下落の機構は、企業者が損失のある企業から利益のある企業へ転向するという事実と相結合して、これらの問題の方程式を摸索によって解く方法に他ならないことを教える。
右のようなシステムについて、本書において出来る限り入念で詳細な説明を与えようと思う。しかし私はこれを既に一八七三年から一八七六年に亙って「社会的富の数学的理論」(Théorie mathématique de la richesse sociale)の初めの四章に解説し、また一八七四年と一八七七年とに純粋経済学理論の第一版に解説し、証明した。私はこの全理論の原理を得るや否や、これをパリーの精神科学及び政治学学士院に報告するのを私の義務と感じた。そこで右に挙げた四論文の第一を草し、二商品相互の交換の場合につき、各交換者の欲望の最大満足の問題の解法を、充された最後の欲望の強度が交換価値に比例せねばならぬことによって示し、かつまた二商品のそれぞれの市場価格の決定の問題の解法を、需要が供給に超過する場合には騰貴により、供給が需要に超過する場合には下落によって与えた。だが学士院がこの報告を受けるに当って示した態度は私に快いものでもなければ、私の勇気を増すようなものでもなかった。むしろ私はこの学者の団体に対しては憤慨を禁じ得ないのである。あえていうが、学士院は既にカナール(Canard)に賞を与えながら、クールノー(Cournot)の価値を認めないで、二重の誤をなしているのであるが、この学士院は自らの名誉のために、機会を捕えて経済学上のその力量をもう少し華々しく確立しておくがよかろうと思う。しかし私の場合には学士院の冷遇はむしろ幸となった。なぜなら私が二十七年前に主張した学説は、それ以来、その内容の点でもその形式の点でも、著しい進歩をなしたから。
事情に通暁したすべての人々がよく知るように、価格は充された最後の欲望の強度すなわち Final Degree of Utility あるいは Grenznutzen に比例するとの学説、ジェヴォンスとメンガー氏と私とがほとんど時を同じゅうして考え出した理論、全経済学の基礎を作ったこの理論は、イギリス、オーストリア、アメリカ、そのほか純粋経済学が研究せられ教授せられる諸国において、経済学上の定説となった。
ところで交換理論の原理が経済学に入ってから、生産理論の原理もまたまもなく経済学に入ってこざるを得なかったが、事実において入ってきた。ジェヴォンスは「経済学の理論」の第二版において、第一版に認めなかったものを認めた。それは、利用の最終度が生産物の価格を決定する瞬間から、これがまた生産的用役の価格すなわち地代、賃銀、利子を決定するというにある。なぜなら自由競争の制度の下においては、生産物の販売価格は生産的用役から成る生産費に等しくなるからである。ジェヴォンスは、彼の著書の第二版の序文の終りのはなはだ興味深い十頁(Pp. XLIII-LVII)において、イギリス派の方式または少くともリカルド・ミル派の方式を全く変えて、生産的用役の価格により生産物の価格を決定する代りに、生産物の価格により生産的用役の価格を決定せねばならぬと明言している。この大きな発展の可能である指示はイギリスでは直ちに追随はされなかった。かえってジェヴォンスの思想に対する反動が起って、リカルドの生産費理論が有力となった。しかるに自ら限界利用の概念を把握したオーストリアの経済学もまた、この結果を論理的に生産理論のうちに押しつめて、生産物の価値と生産手段の価値との間に、私が生産物の価値と原料及び生産的用役の価値との間に導き入れた関係と全く同じ関係を導き入れたのである。
けれども我々の一致は、資本化の理論に関してはそれほど完全ではない。この問題についてメンガー氏は Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik, tome XVII 中に彼の研究「資本理論について」(Zur Theorie des Kapitals)を公にし、またインスブルック(Innsbruck)の教授ベェーム=バウェルク氏はその著書「資本と利子」(Kapital und Kapitalzins)(一八八四年、一八八九年)を完成した。ベェーム=バウェルク氏はこの書物の中で、資本利子の事実を現在財の価値と将来財の価値との差から引き出した(九)。私は、ここではベェーム=バウェルク氏と意見を同じゅうしないことを言明せねばならぬし、かつ何故に私が氏の理論に賛成し得ないかを、簡単に説明せねばならぬ。だがこれは、この理論または少くともこの理論が含む所の利子率決定の理論を数学的に築き上げた上でなくては、なされ得ない(一〇)。
「n年の後にしか引渡されないでAなる価値をもつべき物を想像し、この物が今直ちに引渡されるとすると、利子の年率がiであるとき、それは現在
だけの価値しかもたない。このことは商業算術書を開けば直ちに解る。しかしこの方式の上に利子率決定の経済理論を立てるには、まずいかにしてA’が決定するかを明らかにせねばならぬし、次に右に与えられた方程式に従ってiがAから導き出される所の市場を示さねばならぬ。私はこの市場を求めても、見出すことが出来ない。これ、私が(償却費と保険料とを捨象して)iを方程式
から導き出すことを主張するゆえんである。ここで pk, pk', pk'' は新資本(K)、(K')、(K'')の用役の価格であり、交換及び生産理論によって決定せられる。Dk, Dk', Dk'' ……は製造せられた新資本の量であって、その販売価格と生産費との均等を条件として決定せられる。語を換えていえばそれらは収入率の均一を条件として決定せられる。そしてこの条件はまた新資本の量の最大の利用の条件でもある。また
は貯蓄の額であって、各貯蓄者が、用役及び生産物の市場価格において直ちに消費すべき1と毎年消費すべきiとのそれぞれの利用についてなした比較によって決定される。方程式の第一項は価値尺度財で表わした新資本の供給を示し、明かにiの減少函数である。第二項は価値尺度財で表わした新資本の需要を構成し、iの初め増加次に減少の函数である。そしてこの需要はあるいは貯蓄者自らにより、または貨幣資本の形をとったこれらの貯蓄を借り入れる企業者によってなされる。故に需要が供給より大であるかまたは供給が需要より大であるかに従って、人々は、iをあるいは下落せしめあるいは高騰せしめて、新資本の価格をあるいは騰貴せしめあるいは下落せしめ、方程式の両辺を相等しからしめるのである。注意深い読者は、証券となって現われる新資本が、騰貴下落の機構により、その収入に比例した価格で貯蓄と交換せられるときに、取引所の市場において現われる現象は、まさしく右に説いてきたようなものであることを認めるであろう。また注意深い読者は、繰り返していうが交換及び生産に関し先に述べた理論を基礎とする私の資本化の理論は、この種の理論があらねばならぬ所のものすなわち現実の現象の抽象的表現であり、合理的説明であることを認めるであろう。そしてこの点に関し、もし許されるならば、新資本の最大利用に関する私の理論が私の純粋経済学の全体系の妥当性をいかによく証明しているかを、読者は注意していただきたいのである。もちろん低い利子しか生まない用途から資本を引き上げて、これを、高い利子を生む用途にもっていくのが、社会に対し利用を増加するゆえんであることを認めたのは、大なる発見ではない。だがかくももっともらしい、否かくも明白な真理を数学的に証明し得たことは、この証明の基礎となった所の定義と分析とが有力であったことを証明しているように、私には見える。」
数学者はそれを判断するであろう。しかし既に今から私の立場を示しておいてもよいものがある。ジェヴォンスの理論と私の理論とは、現われるとまもなくヒューウェル(Whewell)及びクールノーの古い試みと共にイタリア語に訳出された。またドイツでは、初め忘れられながらもゴッセンの著作が、既に知られていたチューネンやマンゴルトらの著作に加えられた。その後またドイツ、オーストリア、イギリス、イタリア、アメリカにおいて、数理経済学の多数の文献が現われた(一一)。このようにして形成せられる学派は、すべてのシステムのうちで、真に科学を構成すべきシステムとして異彩を放つであろう。数学を知らず、数学がいかなるものであるかをさえ正確に知らないで、数学は経済学の原理の解明に役立たぬときめ込んでいる経済学者に至っては、「人間の自由は方程式に表わすことが出来ない」とか、「数学はすべての精神科学に存する摩擦を捨象する」とか、またはこれらと同様の力しか無い他愛もないことを繰り返して去っていくがよかろう。彼らは、自由競争における価格決定の理論が数学的理論にならぬようにと努めている。だから彼らは数学を避けて、純粋経済学の基礎なくして応用経済学を構成していくか、それとも必要な根底もなく純粋経済学を構成して、はなはだ悪い純粋経済学またははなはだ悪い数学を構成するか、これらのいずれか一つを選ばねばならぬ。私は第四十章で私の理論のように数学的理論である所の理論の標本をあげた。これらの理論と私の理論との相異は、私が私の問題における未知数だけの方程式を得ようと努めたのに反し、これらの人々は二つの方程式によって一つの未知数を決定しようとしたり、二つ、三つまたは四個の未知数を決定するのに一つの方程式を用いる点にある。私は、人々が、これらの人々のこのような方法を、純粋経済学を精密科学として構成する方法に全く相反するものとして、疑われることを望む者である。
精密科学としての経済学が遠からず樹立せられるであろうか、または遠い将来においてしか樹立せられるに至らないであろうか。それらは私の問題ではなく、ここに論ずるを要しない。今日ではたしかに経済学は天文学の如く、力学の如く、経験的であり同時に合理的な科学である。我々は経済学の経験的性質でこの合理的性質を蔽いかくしていたことが久しいが、何人もこれを批難し得ないであろう。ケプレルの天文学、ガリレーの力学がニュートンの天文学となり、ダランベールとラグランジの力学となるには、百年ないし百五十年二百年を要したのである。しかるにアダム・スミスの著書の出現とクールノー、ゴッセン、ジェヴォンスと私の試みとの間には、一世紀を経過していない。故に我々は、その持場にあって我々の職務を果したのである。純粋経済学の発祥地である十九世紀のフランスがこれに全く無関心であるとしたら、それはブルジョアの狭隘な見解、十九世紀のフランスを、哲学、倫理学、歴史、経済学の知識のない計算者を作り出す領域と、少しの数学的知識もない文学者を出す領域の二つに分けた智的教養、に基いた見解によるのである。来るべき二十世紀においてはフランスもまた、社会科学を、一般的教養があって、帰納と演繹、推理と経験とを共に操るのに馴れた人の手に委ねる必要を感ずるであろう。そのとき数理経済学は、数理天文学、数理力学と並んでその地位を占めるであろう。そして我々がなしたことの正しさはそのときにこそ認められるであろう。
ローザンヌ、一九〇〇年六月
レオン・ワルラス
註一 この書の印刷用の紙型が出来上ってから、第三七六頁と第四一四頁とにわずかの修正を加え、かつ一九〇二年日付の二つの註を添えた。(一九〇二年記す)
註二 これら第二、第三部に代えて、Études d'économie sociale(1896)と Études d'économie appliquée(1898)との二巻を公にした。これで私の仕事はほぼ完成したわけである。
註三 Compte-rendu des séances et travaux de l'Académie des sciences morales et politiques, janvier 1874. または Journal des économistes, avril et juin 1874. 参照。
註四 純粋経済学要論の第一版の第一分冊は、Principe d'une théorie mathématique de l'échange 及び Equation de l'échange と題せられる二箇の論文に要約せられ、一は一八七三年パリの Académie des sciences morales et politiques に、他は一八七五年十二月ローザンヌの Société vaudoise des sciences naturelles に報告せられた。第二分冊は Equation de la production 及び Equation de la capitalisation et du crédit と題する二論文に要約せられ、出版前に、一は一八七六年一月と二月、他は七月 Société vaudoise に報告せられた。これら四箇の論文は Teoria matematica della richezza sociale(Biblioteca dell'economista. 1878.)という書名の下にイタリー語に訳され、また Mathematische Theorie der Preisbestimmung der wirtschaftlichen Güter(Stuttgart. Verlag von Ferdinand Enke. 1881)という書名の下にドイツ語に訳出された。(邦訳、早川三代治訳レオン・ワルラアス純粋経済学入門。)
註五 この論文は Études d'économie sociale 中に収められている。
註六 私は maxima(複数)といって、maximum(単数)といわない。Théorie de la monnaie の初めの二編を、La Revue scientifique の一八八六年四月号に公にしたとき、この雑誌の校正係であるパリ人は、ラテン語の形容詞 maximum を名詞に一致せしめるべきものと考え、これを訂正した。私はこの校正係の処置は普通の用法に一致するものと考え、それを採用することにした。
註七 これらの研究のうち、Notes sur le 15 1/2 légal; Théorie mathématique du bimétallisme; De la fixité de valeur de l'étalon monétaire(Journal des économistes. 一八七六年十二月、一八八一年五月、一八八二年十月所載); Équations de la circulation(Bulletin de la Société vaudoise des sciences naturelles. 一八九九年所載)は純理論の研究であって、これらは本書中に収められている。D'une méthode de régularisation de la variation de valeur de la monnaie(一八八五年); Théorie de la monnaie(一八八六年); Le probléme monétaire(一八八七年―一八九五年)は応用論の研究であって、これらは Études d'économie politique appliquée 中に収められている。
(訳者註) "encaisse désirée" はケインズの交換方程式におけるkと等しい意味をもっている。
註八 ここで自由競争の制度というのは、用役をせり下げつつ売る者及び生産物をせり上げつつ買う者の自由競争の制度を意味する。企業者の自由競争の場合には、一八八節に説明するように、これのみが価値を生産費の高さに一致せしめる唯一の方法ではない。また応用経済学は、この制度が常に最良の制度であるか否かを問わねばならない。
註九 メンガーの論文とベェーム=バウェルク氏の著書とは、Revue d'économie politique(一八八八年十一、十二月、一八八九年、三、四月)によく分析されている。
註一〇 次の一節は本書第二版(一八八九年五月)の序文の一節そのままである。たとい私が、私の著書のうちでは、貯蓄の函数を経験的に導き出していても、既にこの序文のうちで、あるいは純収入率の増加函数としてあるいはその減少函数として、演繹的にこれを導き出す方法を示しているのを、読者は知られるであろう。
註一一 これら数理経済学の文献は、古い数理経済学文献と共に、M. T. N. Bacon が英訳したクールノーの訳書の巻末に I. Fisher が載せた数理経済学文献中に詳かである。この訳書は Economic Classics 中の一冊として一八九七年に公にされた。
第一編 経済学及び社会経済学の目的と分け方
第一章 スミスの定義とセイの定義
要目 一 定義の必要。二 フィジオクラシー。三 スミスによって経済学に課せられた二つの目的。(一)人民に収入すなわち豊富な生活を得せしめること。(二)国家に充分な収入を与えること。四 第一の観察。二つの目的は等しく重要であるが、いずれも本来の科学の目的ではない。経済学については別の見解がある。五 第二の観察。二つの活動は等しく重要であるが、異る性質をもっている。前者は利益、後者は公正。六 セイが考察した経済学は富が形成せられ、分配せられ、消費せられる方法の単なる記述である。七 自然主義者の見解は社会主義の排撃を容易ならしめるが部分的に不正確である。富の生産または分配については人は最も有用なまたは最も公正な組合せを選ばねばならぬ。八 経験的な分け方。九 ブランキ及びガルニエの不完全な訂正。
一 経済学の講義または概論の当初にまず、経済学それ自身、その目的、その分け方、その性格、その限界を限定せねばならない。私はこの義務を回避しようとは思わない。だが断っておかねばならぬが、この義務は、人々がおそらく想像するであろう以上に、果すに困難であり、簡単ではない。経済学の正しい定義は未だにないのである。既に経済学に与えられたすべての定義のうちで、科学上に獲得された真理の象徴である所の一般的で決定的な承認を得ているものは、一つとして無い。私はそれらのうち比較的に最も興味あるものを引用し批評し、しかる後私の定義を示すに努めたいと思う。そしてこれらのことをなす間に、我々が知っておかねばならぬ若干の著者名や著作名や時日等を挙げる機会を作るであろう。
二 最初の重要な経済学者の集団はケネーとその弟子達である。彼らは共通の学説をもち、一つの学派を作った。彼らは自らこの学説をフィジオクラシー(社会の自然的統治を意味する)と呼んだ。今日彼らをフィジオクラットと呼ぶのは、この理由に基くのである。フィジオクラットの主な者は「経済表」の著者ケネーのほか、「自然的秩序と政治的社会の本質」(L'Ordre nature et essentiel des sociétés politiques, 1767)の著者メルシエ・ド・ラ・リヴィエール(Mercier de la Rivière)、「フィジオクラシーまたは人類に最も有利な統治の自然的構成」(Physiocratie ou constitution naturelle du gouvernement le plus avantageux au genre humain, 1767, 1768)、著者デュポン・デュ・ヌムール(Dupont du Nemours)、ボードー僧正(L'Abbé Baudeau)、ル・トローヌ(Le Trosne)である。チュルゴーはこの派の人ではない。フィジオクラットは、彼らの著作の書名で解るように、経済学の領域を制限せずむしろ拡張した。社会の自然的統治の理論は、経済学よりはむしろ社会科学に属する。故にフィジオクラシーという語をもって経済学を表わすのは、広汎に過ぎる定義であろう。
三 アダム・スミスは、一七七六年に公にした国富論において、初めて経済学の材料を結合して統一体となすのに成功した。ところでスミスが経済学の定義を与えようとしているのは、「経済学の体系について」と題する第四編の序説の当初においてである。そこで彼が下している定義は次の如くである。「経済学、立法者または政治家の知識の一分枝として考えられる経済学は二つの異った目的をもっている。その一つは人民に豊富な収入すなわち豊富な生活を得せしめること、より適切な言葉でいえば、人民をして自ら豊富な収入すなわち豊富な生活を得ることの出来る地位に置くことにある。他の一つは国家または公共団体に公務に必要な収入を得せしめることにある。一言にいえば、経済学は人民と主権者とを富ますことを目的とする。」この定義は経済学の父と呼ばれる人によって下されたものではあり、かつまた彼の著作の当初に掲げられたものではなくて、自ら問題の内容を充分に知り得た後に、その中央部に取扱われたものであるから、我々の充分な研究に値する。それには考慮せられるべき二つの点が含まれていると思う。
四 人民に豊富な収入を得せしめ、国家に充分な収入を得せしめること、それらはたしかにはなはだ重要な二つの目的である。そして経済学がこれらの目的を達せしめるとすれば、経済学は著しく我々の役に立つわけである。けれども私はいわゆる科学の目的がそこにあるとは思わない。実際本来の科学の特質は有益なまたは有害な結果に無関心に、純粋の真理を追求していく所にある。だから幾何学が二等辺三角形は二等角三角形であるとの命題を立言するとき、また天文学が遊星は太陽が中心をなしている楕円の軌道をめぐるとの命題を立言するとき、これら幾何学や天文学は本来の科学である。これら二つの真理の第一が他の幾何学上の真理と同じく建築の骨組に、石材の切り方に、家屋の建設に、貴い結果を齎らすことも可能である。またこれら二つの真理の第二が天文学上のすべての真理と共に、航海に大いに役立つことも可能である。しかし大工も石工も建築家も航海者も、また大工の理論家、石切の理論家、建築、航海の理論家さえも、学者ではなく、真の意味の科学者として科学を研究しているのでは無い。ところでスミスがいった二つの操作は、幾何学者天文学者がなすそれに類するものではなく、建築家航海家のそれに似ている。故にもし経済学がスミスのいった通りのもので、その他のものでないとすれば、それはたしかにはなはだ興味ある研究ではあるが、しかし本来の科学ではないであろう。我々は経済学はスミスがいったものとは別なものであると云わねばならない。人民に豊富な収入を得せしめようと思う前に、また国家に充分な収入を得せしめようと思う前に、経済学者は純粋に科学的な真理を追求し、把握するのである。物の価値は、需要せられる量が増加し、供給せられる量が減少するときに増大するといい、反対の二つの場合にはこの価値は減少するといい、利子率は進歩的社会においては低下するといい、地代に課せられる租税はすべて地主の負担に帰し、土地の生産物の価格を変化せしめないというとき、経済学は純粋の科学的研究をなしているのである。スミス自身もこのような純粋の科学的研究をしている。彼の弟子マルサスは「人口論」(一七九八年)において、リカルドは「経済学及び課税の原理」(一八一七年)において、より多く純粋科学的研究をなしている。故にスミスの定義は、本来の科学として考えられた経済学の目的を指示しなかったという意味において不完全である。まことに経済学が人民に豊富な収入を得せしめ、国家に充分な収入を得せしめることを目的とするというのは、幾何学が堅牢な家屋を建築することを目的とするといい、あるいは天文学は海上を安全に航海することを目的とするというに等しい。一言にいえばそれは科学を応用の方面から定義しようとするものである。
五 スミスの定義についての右の考察は、科学の目的に関するものである。私はその性質についても同様に重大な考察をしておかねばならぬ。
人民に豊富な収入を得せしめかつ国家に充分な収入を得せしめることは、共に重要にして微妙な活動ではあるが、しかし全く異る性質の活動である。前者は農業工業商業を一定の状態に置こうとすることから成立つ。これらの状態が有利なものであるかまたは不利であるかに従い、農業・商業・工業の生産はあるいは豊富となり、あるいは減少する。だから既に知られているように、職人組合、同業組合、親方の制度、厳重な干渉制限の制度、公定価格制度等の下においては、産業は悩み続け、空しく時を過した。今日では労働の自由と交換の自由の制度の下に産業は繁栄している。条件は前の場合には有利であり、後の場合には不利である。だが二つの場合ともに不利となりまたは有利となったものは、個人の利益のみである。冒されたものまたは尊重せられたものは正義ではない。国家に充分な収入を得せしめようとする場合は、これと異る。そこには国家の収入を構成するに必要なものを、個人の収入から徴収する活動がある。これは、よい条件で行われることもあれば、悪い条件でなされることもある。そしてこれらの条件がよいかまたは悪いかによって、国家の収入が充分となりまたは不充分となるのみでなく、また個人が公正に取扱われるかまたは不公正に取扱われるかの結果が生じてくる。すなわち各人の負担が公正になされるか、または不公正のためにある者が犠牲に供せられ、他の者が特権を得ているかの結果が起る。このようにして、社会のある階級が租税の負担を免れ、それがある他の階級にのみ課せられたことがあった。それが明白な不正義であることは、今日認められている所である。要するに人民に豊富な収入を得せしめることは有益な仕事をなすことであり、国家に充分な収入を供給することは公正の仕事をなすことである。利用と公正、利益と正義とははなはだしく異る種類の観点である。従ってスミスは例えば経済学の目的はまず第一に社会的収入を豊富ならしめる生産条件を示すにあり、次に作られた生産物を個人と国家との間に分配する条件を示すにあるといって、この区別を明らかにしたらよかったと思う。この定義の方がよりよいであろう。だがこれをもってしてもなお、経済学の真に科学的な部分は依然として明らかにせられていない。
六 歴史的順序からはスミスの後に来るジ・ベ・セイ(Jean-Baptiste Say)は経済学上最も有名な名の一つであるが、彼はスミスの定義について次の如くいう。「経済学は、富が形成せられ、分配せられ、消費せられる道行を知らしめるものだ、と私は言いたい。」彼の著書は一八〇三年に第一版を出し、第二版は執政政府の検閲に基き発売を禁止せられ、第一帝国の転落後にしか公にせられなかったが、それは「経済学概論、または富が形成せられ、分配せられ、消費せられる方法の簡単な解説」(Traité d'économie politique, ou simple exposition de la manière dont se forment, se distribuent et se consomment les richesses)と題せられている。この定義とこの書物が採った分け方とは、経済学者が一般に承認し、追随しているものである。それはたしかに、人々がクラシックと考えようとしている定義であり、分け方である。だが私は、これに従い得ないと主張するのを許してもらわねばならぬ。そしてその理由は、この定義と分け方とを成功せしめたその点にまさしくあるのである。
七 一見して明らかであるように、セイの定義はスミスのそれと異るのみでなく、ある意味においてはそれと正反対である。スミスを信ずる限り全経済学は科学であるよりはむしろ技術であり(第四節)、セイに従えばそれは自然科学である。セイによれば、富は全く自然的ではないにしても、少くとも人間の意志とは独立の態様で形成せられ、分配せられ、消費せられるのであり、全経済学はこの態様の単純なる解説であるようである。
セイがこの定義のうちで経済学に与えた自然科学的色彩は、経済学者を魅きつけた。実際に経済学者は、社会主義者との闘争において、この考え方の助けを借りたことが大である。経済学者は労働組織改造のすべてのプラン、所有権制度の改造のすべてのプランを先験的に排斥した。換言すれば何らの議論をなすことなく、すなわち経済的利益に反するものとしてでもなく、また社会的正義に反するものとしてでもなく、ただ人為的結合を自然的結合に代えるものとして排斥した。セイはこの自然主義的な見方をフィジオクラットに借り、かつフィジオクラットが工業及び商業生産に関し自らの学説を要約した方式「自由放任」(Laissez faire, laissez passer)によって動かされた。プルードンは自由主義派の経済学者に宿命論者という形容詞を冠せたが、これはセイのためであった。この派の学者がいかなる程度までこの見方を押しつめていったかは、我々の想像も及ばないほどである。それを知るには経済学辞典(Dictionnaire d'économie politique, 2 vol., 1851-3)中の記事、例えばシャール・コックラン(Charles Coquelin)が執筆した競争、経済学、産業、コッシュー(Cochut)が執筆した道徳等を読まねばならぬ。そこには最も意味深い諸句が見出される。
不幸にしてこの見方ははなはだ便利ではあるが、はなはだしく誤でもある。もし人間が高等な動物に過ぎず、例えば本能的に働き本能的に風習を作っている蜜蜂の如くであるとしたら、社会現象一般特に富の生産、分配、消費の解説と説明とは、たしかに自然科学に過ぎず、博物学の一分科、蜜蜂の博物学の続編をなす人間の博物学に過ぎないであろう。だが事実はこれと全く異る。人間は理性と自由とを有し、独創力を有し、進歩をなし得るのである。富の生産と分配に関しては、一般に社会組織のすべての事柄においてと同じく、人間は善と悪との選択をなし得て、悪から次第に善へ向いつつあるのである。だから人々は組合制度、統制の制度、公定価格の制度から、商工業自由のシステム、レッセ・フェール、レッセ・パッセのシステムに、奴隷制度から賃銀制度に移ってきた。最近の制度は古い制度に優っているが、こうなったのは、これらが古い制度よりもより自然的であるが故ではなく(これらは共に人為的であり、前者は後者より人為的である。けだし新しい制度は古い制度の後にしか現われないから)、利益と正義とにより多く合致しているからである。自由放任が必要とされるのは、この合致の証明をなした後においてのみである。社会主義的制度が排斥せられねばならぬとしたら、それは利益と正義とに相反する制度でなければならぬ。
八 スミスの定義は不完全であるに過ぎないが、セイの定義はこれに劣り、不正確である。またこの定義から出てくる分け方も全く経験的であると、私は附言しておく。所有権の理論、租税の理論は実はまず孤立して考えられた社会人の間の、次に国家として集団的に考えられた人の間の富の分配の唯一の理論の各半面に過ぎないもので、かつ二つは共に道徳の原理に密接に依存しているのであるが、それらは分たれて一方所有権の理論は生産理論に、他方租税の理論は消費理論に投げ込まれ、共に全く経済的な観点からその理論が立てられている。反対に明らかに自然現象の研究としての性質を具えている交換理論は分配理論の一部をなしている。もっとも彼の弟子らはこれらの勝手な分類を自由に解釈して、ある者は交換価値の理論を生産理論の中に、ある者は所有権の理論を分配の理論の中に、任意に組み入れている。このようにして今日の経済学は形成せられ教授せられている。しかしこれでは枠が破れていて、ただ表面的に維持されているに過ぎないのではないか。そしてかかる状態においては、経済学者の権利と義務とは、まず入念に科学の哲学を研究することにあるのではあるまいか。
九 セイの弟子らのある者は、セイの定義の欠点を知っていたが、あえて修正しなかった。アドルフ・ブランキ(Adolphe Blanqui)はいっている。「ドイツ並びにフランスでは、今日経済学は、一般に考えられている領域を脱出している。ある経済学者は経済学を普遍的科学となそうとし、他の人は狭いかつ通俗的に考えられている範囲に限ろうとする。フランスにおいてこれら両極端の意見の間に存する争は、経済学はある所のものの説明であるかまたはあるべき所のもののプログラムを立てるべきものであるか。他の言葉でいえば、それは自然科学であるか規範科学であるかということに関する。私は、経済学がそれらの二つの性質を具えたものであると思う。」ブランキはかかる動機からセイの定義を支持したがこの動機はかえってこれを弱からしめるであろう。
ブランキに次いで、ジョセフ・ガルニエ(Joseph Garnier)はいっている。「経済学は自然科学であり、同時に規範科学である。これらの二つの観点から、経済学は、ある所のものと、物の自然的流れに従い正義の観念に一致してあるべき所のものとを証明する。」そこでガルニエはセイの定義に少しく附け加えて、それを修正しようとした。曰く、「経済学は富の科学である」すなわちいかにして富が、個人及び社会の利益となるように、最も合理的に(もちろん正義に合するように)生産せられ、分配せられ、消費せられるか、またはせられるべきかを決定することを目的とする科学である」と。ここでガルニエは彼の学派の軌道から離れようとして、真剣でかつ賞讃すべき努力をなしている。しかし二つの定義を接ぎ合して作った合金が、いかに奇妙で支離滅裂であるかを不思議にも彼は認めなかった。これは、経済学者に哲学がないことの好例であって、明快と正確とを主な特質とするフランス経済学者の精神の美点を打ち消してしまう。経済学はいかにして自然科学であり、同時に規範科学であり得るか。いかにしてかかる科学を考え得るか。一方においていかにして富が最も公正に分配せられねばならぬかを研究の目的とする科学が、他方においていかにして富が最も自然的に生産せられるかを研究の目的とする自然科学となり得るか。またこの自然科学は富を豊富に生産すべき技術にもならねばなるまい。要するにセイの定義もスミスのそれに帰するのであって、経済学の真の自然科学的性質は依然として明らかにせられていない。
私はこれを明らかにしようと思う。必要ならば経済学を自然科学、規範科学、政策に分けよう。そしてそれがため、我々はまずあらかじめ、科学と政策と道徳との区別を明らかにせねばならない。
第二章 科学と政策と道徳との区別
要目 一〇 政策は忠告し、命令し、指導する。科学は観察し、記述し、説明する。一一 科学と政策の区別と理論と実際の区別とは全く別である。一二 科学は政策に光を与える。政策は科学を利用する。一三 一つの科学によって与えられる理論は多くの政策に光を与え得る。一つの政策は多くの科学によって与えられる理論を利用することが出来る。一四、一五 区別は優れているが不充分である。一六 科学は事実の研究である。一七 第一の区別。自然力の働きをその起源とする自然的事実。人間の意志の作用にその起源をもつ人間的事実。自然的及び人間的事実は純粋科学(狭義の科学と歴史)の対象である。一八 第二の区別。産業上の人間的事実、すなわち人格と物との関係。道徳上の人間的事実、すなわち人格と人格との関係。一九 産業的事実は応用科学すなわち政策の対象である。道徳的事実は精神科学すなわち道徳学の対象である。二〇 真。利用。善はそれぞれ科学、政策、道徳の規準である。
一〇 既に幾年かを経過していることであるが、好著「信用及び銀行概論」(Traité du crédit et des banques)の著者でまた「経済学辞典」(Dictionnaire d'économie politique)の執筆者中最も活動的なかつ尊敬すべき人の一人であったシャール・コックラン(Charles Coquelin)は、この辞典のうち経済学(Économie politique)と題する項において、経済学の定義は未だに完成していないといった。この主張を助けるために彼は、私が既に述べたスミス、セイの定義やシスモンジ、ストルク(Storch)、ロッシ(Rossi)らの定義を示し、それらのいずれも他を排して採らねばならぬほど際立って優れていないと断言し、かつまたこれらの人は自分の著書において自分の定義に従っていないといっている。次に彼は、経済学を定義しようとする者はまずそれが科学であるか、または政策であるか、あるいはそれらの両者であるかを問うべきであり、ことに政策と科学との区別を明らかにすべきであると注意している。これはまことに明敏な注意である。この点について彼が述べている考察は目立って正しく、かつ問題は常に同じ点にあるのであるから、我々はそれを繰り返すほかはない。彼はいう、「政策は従われるべき命令または規則から成り立っている。科学は、ある現象または観察せられたまたは明らかにせられた関係の知識から成立する。政策は忠告を与え、命令し、指導する。科学は観察し記述し、説明する。天文学者が天体の運行を観察し記述するときには、科学を研究している。しかし一度この観察が終了すれば、天文学者は、航海に応用せられる規則を導き出すであろうが、この場合には政策を研究している……かように現実の現象を観察し記述する所に科学がある。命令を下し、規則を規定する所に政策がある。」
一一 著者はなお註として一つの注意を与えているが、これは科学と政策との区別を完成したもので、ここに引用する価値がある。彼はいう、「我々が科学と政策との間に立てる真の区別は、人々が理論と実践との間になす区別とは何ら共通なものはない。政策の理論もあれば科学の理論もある。そして実践と矛盾することがあり得るであろうといい得るのは、政策の理論についてだけである。政策は規則を命令するが、しかしこれらの規則は一般的である。従ってこれらの命令は、たとい正しいものであっても、ある特別な場合に実践と調和し得ないと考えても不合理ではない。だが何ものをも命ぜず、何ものをもすすめず、ただ観察し説明するに止まる科学にあっては、そうではない。科学はいかなる意味においても実践と衝突することが出来ない。」
一二 コックランは政策と科学とをかく区別した後、それら各々の職分と重要さとを指摘している。彼はいう、「科学的真理が一度よく認識せられ、導き出されたとき、人間の事業の経営に適用せられるべき規則を、これらから導き出そうとするのに対して、私共は不平でもなければ、またこの企を奇妙だとも思わない。科学的真理が何らの役にも立たぬのは、よいことではない。これらを利用する唯一の方法は、これらから政策を演繹することにある。既にいったように、科学と政策との間には密接な親族関係がある。科学は政策に光明を与え、政策の方法を正しからしめ、その行手を照し指示する。科学の援助が無ければ、政策は一歩ごとに躓きながら跚き歩むことしか出来ない。他方、科学が発見した真理を価値あらしめるものも政策であって、この政策が無ければ、科学の真理も無益である。また科学的研究の主な動機はほとんど常に政策である。人が、知るための興味のみで科学的研究をなすことは稀である。一般に人は、役立つという目的を研究に求めている。そしてこの目的を充し得るのは、政策によってのみである。」
一三 しかし彼は科学と政策との間に置くべき区別を同様に強く主張し、かつこの区別を明らかにするために最後の注意を与えているが、これもまた引用の価値がある。彼はいう、「科学と政策とはしばしば多数の接触点をもっているとしても、政策と科学の範囲と輪廓とが同一であるのには、よほど多くの接触点が無ければならぬと考えられるのであって、それほどに右に述べてきた区別が強調せられる。科学が提供する理論は種々の政策によって利用せられることがあり得る。広がりの関係の学問である幾何学は、測量師・技師・砲術家・航海家・建築家の仕事を照し指導する。化学は薬剤師・染物屋・多数の工業に援助を与えている。物理学が提供してくれた一般的理論を、種々の政策がいかに利用しつつあるかを誰が正確にいい得るであろうか。反対に政策は、多くの科学によって提供せられるべき理論から光明を得ることが出来る。ただ一つの例だけを引けば医学すなわち治療の技術は解剖学・生理学・化学・物理学・植物学の理論と結果を利用している。」
一四 最後にコックランは、科学と政策との区別がいかに経済学の定義とその内容の分け方に応用せられるのに適しかつ有益であるかを、人々に感知せしめようと努力し、次いで附言していう、「科学と政策との間に今から更に純粋な区別を設け、これらの各々に異る名称を与えるように努めるべきであるか、否。私には、この区別を明らかにするだけで足るのであり、それ以上のことは、この問題をよりよく知悉した者によって、いつかなされるであろう。」
この遠慮は意外である。極めて正当な思想をもっているこの著者が、この思想を実行に移せば与えられるであろう所の愉快と名誉とを、かくも故らに捨てたのは、奇異である。だがそれにも増して奇妙なのは、著者が、何といおうと実際において、経済政策と経済学の区別をなし、経済学の真の目的を決定しようとしながら、それに成功しないで、政策の要素と科学の要素とを混同し、かつ私がセイについて批評しておいたそして彼の弟子らも脱け切れなかった自然主義的重農主義的見方(第七節)を経済社会についてもっていて、そのためにこの見方を消散せしめるどころか、かえって自ら指摘し非難した混同に陥っていることである。彼が「経済科学の目的をなすものは、富かそれとも富の根源である産業か」と問い、また、「経済学の研究の目的として、人々が人間の産業よりはむしろ富をとったのはいかなる理由から来ているか」を考え、また「この誤謬の結果」はいかなるものであるかを考え、更にまた経済科学は、結局、人間の自然史の一分科であるといっているとき、彼はまさしくこの混同をしているのである。最も綿密な注意を払いながらこのような迷路に入るのは不可能であるはずである。
一五 この結果は、科学と政策とを区別する思想さえも、一見見えるようには現在の事情に適するものでないことを信ぜしめる性質を真に帯びている。しかしながら実はこの区別は経済学には完全に適用せられる。そして科学である所の富の理論すなわち交換価値及び価値の理論のあること及び政策である所の富の生産論すなわち農業・工業・商業の理論のあることを信ずるには、学派に囚われることなくわずかに反省するところがあれば足りるのである。ただここで直ちにいっておかねばならぬが、この区別に基礎があるとしても、同時にこの区別は富の分配を度外する故に、不充分である。
直ちにこの確信を得るため、経済学はある所のものの説明であると同時にあるべき所のもののプログラムであると考え得られるといったブランキの所説を想い起してみる。ところであるべき所のものは、あるいは利用または利益の観点から、あるいは公正のまたは正義の観点からのそれなのである。利益の観点からあるべき所のものは応用科学または政策の対象であり、正義の観点からあるべき所のものは道徳学または道徳の対象である。ブランキやガルニエが取扱っているのは、正義の観点から見てあるべき所のものなのである。なぜなら彼らは、経済学は道徳学であるといい、法や正義の概念を論じ、富を最も公平に分配すべき方法を論じているからである(第九節)。反対にコックランはこの見方を明らかにとっていないのであるが、ただ氏は政策と科学の区別を指摘しながら、政策と道徳との区別を指摘することを忘れている。我々はいかなるものをも見逃してはならない。我々は合理的に完全に決定的に区別をなさねばならぬ。
一六 我々は科学と政策と道徳とを相互に区別しなければならぬ。他の言葉でいえば、特に経済学、社会経済学の哲学を明らかにするために、科学一般の哲学の概要を論じなければならぬ。
科学は本体を研究するのでなくして、本体を場面として現われる事実を研究するものであることは、既にプラトーンの哲学によって明らかにせられている。本体は去り、事実は永く残っている。事実とその関係とその法則とがすべての科学的研究の目的である。そして科学は、それが研究する目的すなわち事実の差異によってのみ分かれるのである。だから科学を分けようとすれば、事実が分けられねばならない。
一七 ところでまず世界に発生する事実は二種あると考えられ得る。その一は盲目的で如何ともなし難い自然力の働きをその起源とするし、他は人間の聡明で自由な意志にその根源をもつ。第一種の事実の場面は自然である。これらの事実を我々が自然的事実と呼ぶのはこの理由による。第二種の事実の場面は人間社会である。我々がこれらの事実を社会的事実(faits humanitaires)と呼ぶのは、この理由による。宇宙には盲目的でどうすることも出来ない力と並んで、自ら知り自ら抑制する力がある。これは人間の意志である。おそらくはこの力は、自ら信じているほどには、自らを知り、自らを抑制してはいないであろう。このことは、この力の研究だけが理解せしめてくれよう。しかしそれは当面の問題ではない。今重要なのは、この力は自らを知りまたまた少くともある限度の中では抑制し得ることである。そしてこの事実が、この力の効果と他の力の効果との間に深い差異を生ぜしめるのである。自然力の効果については、我々はこれを認識し、識別し、説明することよりほかに為し得ないのは明らかであり、また人間の意志の効果については、まずこれを認識し識別し、説明し、更にこれを支配せねばならぬのは明らかである。これらのことが明らかであるというゆえんは、自然力は行動の意識をもたず、従ってなお更に必然的に動くよりほかに働きようがないからであり、反対に人の意志は行動の意識をもち、かつ種々な態様に働き得るからである。故に自然力の効果は、純粋自然科学または狭義の科学と呼ばれる研究の対象となる。人間の意志の効果はまず純粋精神科学または歴史と称せられる研究の対象となり、次に他の名称例えば政策、道徳等の名を冠せられる所の既に我々が述べてきたような研究の対象となる。だからコックランが科学と政策との間になした区別(第十節)は正当であることになる。「政策は忠告を与え、命令し、指揮する。」なぜかというに、それは人間の意志の働きを根源とする事実を対象とするからであり、また人間の意志は少くともある点までは聡明で自由な力であって、人の意志に忠告を与え、ある行動を命じこれを指導することが出来るからである。科学は「観察し、解明し、説明する。」なぜなら、科学は自然の力の働きを原因とする事実を対象とするからであり、自然の力は盲目で如何ともなし難いから、これに対してはこれらの効果を観察し、解明し説明するほか何事をもなし得ないからである。
一八 かようにして私は、コックランのように経験的にではなく、人間の意志の聡明と自由との考察から、科学と政策との区別を理論的に見出した。今は政策と道徳との区別を見出すことが問題である。だが人間の意志の聡明と自由とを考察しまたは少くともこの事実の一つの結果を考察すれば、社会的事実を二つの範疇に分つ原理を得ることが出来よう。
人間の意志が聡明であり自由である事実によって、宇宙のすべての存在は、人格と物との二大種類に分れる。自らを識らないもの、自らを抑制しないすべてのものは物である。自らを識り自らを抑制する者は人格である。人間のみが人格であり、鉱物、植物、動物は物である。
物の目的は人格の目的に合理的に従属している。自覚を有せず自らを抑制しない物は、その目的の追求に対し、またその使命の実現に対し責任をもたない。また物は悪事も善事もなし得ないのであって、常に全く罪が無い。それは純粋の機械装置と同一視される。この点では動物も鉱物、植物と異らない。動物の衝動はすべての自然力の如く盲目的で如何ともし難い力に過ぎない。これに反し人格は自覚を有し自らを抑制するという事実のみによって自らその目的を追求せねばならぬという負担を負わされ、その使命の実現の責任を負うのである。もしこの使命を実現すれば、人格は価値があるのであり、もしこの使命を実現しなければ人格は無価値なのである。だから人格は物の目的を自己の目的に従属せしめる能力と自由とをもっている。この能力と自由とは特別な性質をもっている。すなわちそれは道徳的力であり、権利である。これが物に対する人格の権利の基礎である。
しかしすべての物の目的はすべての人格の目的に従属しているのではあるが、ある人格の目的は、他のいかなる人格の目的にも従属していない。もし地上にただ一人の人間しかいないとしたら、彼はすべての物を支配し得るであろう。けれども人は地上に一人ではない。地上にあるすべての人間は互に相等しく人格であるから、同じ様に自らの目的を追求する責任を有し、自らの使命を実現する責任をもっている。これらすべての目的、これらすべての使命は互にそれぞれその処を得なければならぬ。そこに人格相互の間の権利と義務の相互関係の根源があるのである。
一九 これによって見ると、社会事実のうちに深い区別がなされなければならぬことが解る。一方自然力に対して働きかけた人間の意志と活動から来る所のもの、すなわち人格と物との関係を区別せねばならぬ。他方他人の意志または活動に対して働く人の意志または活動から来る所のもの、すなわち人格と人格との関係を区別せねばならぬ。これら二つの範疇の事実の法則は本質的に異る。自然力に対して働く人間の意志の目的、人格と物との関係の目的は、物の目的を人格の目的に従属せしめるにある。他人の意志の領域に影響を及ぼす人間の意志の目的、人格と人格との目的は、人の使命の相互の調整にある。
故に、おそらく便利であろうと思われるが、私はこの区別を定義によって定め、第一の範疇の事実の全体を産業(industrie)と呼び、第二の範疇の事実の総体を道徳現象(moeurs)と呼ぶ。産業の理論は応用科学または政策と呼ばれ、道徳現象の理論は精神科学または道徳学と呼ばれる。
従って一つの事実が産業の範疇に属するには、またこの事実の理論が何らかの政策を構成するには、この事実が人間の意志の働きにその起源を有し、かつ物の目的を人格の目的に従属せしめるという観点から人格と物との関係を構成していなければならぬし、またこれだけで足るのである。読者は私が先に引用した政策の例を再び採ってみるなら、それらのいずれにもこの性質があることが解るであろう。例えば既に述べた建築は家の建築要素として木材及び石材を、造船は船舶建造の要素として木材及び鉄を、航海は綱具の製造、帆の据え附けまたは操縦の材料として大麻を用いる。海洋は船舶を支え、風は帆を膨脹せしめ、空と星とは航海者に航路を指示する。
一つの事実が道徳現象の範疇に属するには、そしてこの事実の理論が道徳学の一部門であるためには、この事実が常に人間の意志の働きにその起源を発し、人格の使命の相互の調整という点から見ての人格と人格との関係を成していなければならぬし、またそれだけで足りる。例えば結婚または家族等に関し、夫と妻、親と子の職分と地位を定めるものは道徳である。
二〇 科学、政策、道徳とはこのようなものである。それらのそれぞれの規準は真、利用または利益、善または正義である。さて社会的富及びそれに関係のある事実の完全な研究のうちに、この種の知的研究の一つまたは二つが材料となるものがあろうか、あるいはそれらの三つとも含まれるであろうか。これは、私が富の概念を分析しつつ次章において明らかにしようとする問題である。
第三章 社会的富について。稀少性から生ずる三つの結果。
交換価値の事実と純粋経済学について
要目 二一 社会的富は稀少な物、すなわち(一)利用があり、量において限りがある物の総体である。二二 稀少性は科学的用語である。二三、二四、二五 稀少な物のみが、またすべての稀少な物は(一)占有せられ(二)価値を有し交換し得られ(三)産業により生産し得られ増加し得られる。二六 経済学、交換価値の理論、産業の理論、所有権の理論。二七 交換価値の事実。市場において生ずる。二八「小麦は一ヘクトリットル二四フランの価値がある。」これは自然的事実である。二九 これは数学的事実でもある。 5vb=600va 三〇 交換価値は評価され得る大きさである。交換価値と交換の理論すなわち社会的富の理論は物理数学的科学である。合理的方法。代数的用語。
二一 物質的なまたは非物質的な物(物が物質であるか非物質であるかは何ら関する所ではない)であって稀少なもの、すなわち我々にとって利用があるものであると同時に量に限りがあって我々が自由勝手に獲得出来ないすべての物を社会的富(richesse sociale)と呼ぶ。
この定義は重要である。私はそれに含まれた言葉を明確にしておく。
物は何らかの使用に役立ち得るときから、すなわち何らかの欲望に適いこれを満足し得るときから利用があるという。だから、通常の会話では必要と贅沢との間に快適と列べて有用を分類するのであるが、ここではこれらの語のニュアンスを問題としない。必要・有用・快適・贅沢これらすべては我々にとっては程度を異にする利用を意味するに過ぎない。またここでは、利用のある物が対応し、これが満足することの出来る欲望が、道徳的であるかまたは不道徳的であるかを問わない。ある物が病人の治療の目的のために医師によって求められるか、または人を殺害しようとして殺人者によって求められるかは、私共の観点からは全く興味のない問題であるが、他の観点からは重要な問題である。この物はこれら二つの場合に共に利用があるのみでなく、後の場合に利用がより多いこともあり得る。
我々の各々がある物に対してもっている欲望を欲するままに満足し得るほど多くのこの物の量が存在しないとき、この物は我々の処分に対し限られた量しかないという。世には、全く無い場合を除けば、常に無限量が我々の処分に委せられているような若干の利用がある。例えば大気、太陽が上っているときの太陽の光線と熱、湖水の岸辺の水、河川の岸の水等は、何人にも不足の無い程度に存在し、何人も欲するままの量を採ることが出来る。これらの物は利用を有するが一般に稀少ではなく、社会的富を成さない。例外的にこれらの物も稀少となることがあるが、そのときにはこれらの物も社会的富の一部を成すことが出来る。
二二 これによって、稀少(rare)と稀少性(rareté)という語がここでいかなる意味のものであるかが解るであろう。この意味は、力学における速度、物理学における熱という語の意味の如く科学的である。数学者や物理学者にとっては速度は緩徐に対立するものではなく、熱は寒さに対立するものではない。緩徐は数学者にとってはより少い速度に過ぎないし、寒さは物理学者にとってより少い熱に過ぎない。科学上の用語では、物体は動き始めれば速度をもち、何らかの温度をもち始めれば熱をもつ。それと同じように、稀少性と豊富とは互に矛盾しない。いかに豊富に存在する物であっても、その物に利用があり、量において限られているなら、経済学上では稀少である。このことは、ある物体がある時間中にある空間を通過すれば、この物は力学上では速度をもつといわれるのと全く異る所がない。しからばあたかも、通過せられた空間のこれを通過するに要した時間に対する比、または一単位時間にのうちに通過せられた空間が速度といわれるように、稀少性とは、利用の量に対する比、または一単位の量のうちに含まれる利用をいうのであろうか。しばらく私はこの点に対する断定を下すのを差控え、後に再びこの論究に立ち帰るであろう。ところで利用のある物はその量の制限せられている事実によって稀少となるのであるが、この結果として三つの事情が生れる。
二三 (1)量において限られかつ利用のある物は、専有せられる。無用の物は、専有せられない。何らの用途にも役立たない物は、何人もこれを専有しようと思わない。また利用のある物であっても無限の量のあるものは専有せられない。まずこのような物は、無理に押し付けることも出来ねばまた差押えることも出来ない。人々はこれらの物を共有の状態から取り去ってしまうとしたところで、無限の量があるから、出来るものではない。大部分を各自の処分の下に置き得るのならとにかく、わずか一部分を所有し貯えておいて、何になるか。何かにこれを利用しようとするのか。だが、何人も常にこれを獲得出来るのに、誰がこれを需要するのか。それとも自らこれを使用するためなのであるか。だが常にいつでもこれを獲得出来ることが確実であるとしたら、これを貯蔵して何の役に立つか。空気は誰にも与えることが出来ないもので、また自ら呼吸する必要を感ずる場合には、口を開けばこれを得られるのであるから空気の貯蔵をしておく必要はない(通常の場合をいうのである)。これに反し限られた量しか存在しない利用のある物は、専有せられ得る物であり、専有せられる。まずそれらは、強制的に押しつけることも出来れば、差押えされることも出来る。ある数の個人のみが、この物の存在する量を集めて、共有の領域にこれを残しておかないようにすることが、たしかに可能である。そしてこの操作を行えば、これらの人々には二重の利益がある。第一に彼らはこれらの物の貯蔵を確保し、これらを利用して自らの欲望を充すに役立たせる可能性を準備しておく。第二にもし彼らがその貯蔵の一部しか消費しようと欲しないかまたは消費し得ないとしても、この過剰量と交換に、その代りとして消費すべきかつ量において限られた他の利用を獲得する能力を保留しておく。しかしこれはまた私共が別に取扱わねばならぬ所の異る事実となってくる。今ここでは専有(従って合法的なまたは正義に一致せる専有である所有権もまた)は社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富に存在すると認めておくに止める。
二四 (2)利用があって量において限られた物は、先に一言触れたように、価値がありかつ交換せられ得る。稀少な物が一度専有せられると(そして稀少なもののみが専有せられ、また専有せられる物はすべて稀少である)これらすべての物の間に一つの関係が成立する。この関係とは、これら稀少な物の各々は、それに固有な直接的利用とは独立に、特別な性質として、一定の比例で他の各々と交換せられる能力をもっているということである。もし人がこれら稀少な物の一つしかもっていないとすると、これを譲渡してこれと交換に、自らもっていない他の稀少な物を得ることが出来る。そして人がこの稀少な物をもっていないとすれば、自ら所有している稀少な他の物を与えることを条件としてしか、これと交換にこの稀少な物を得ることが出来ない。もしこの物をも所有せず、またこれと交換に与えるべき何ものも有たないとすれば、このままで済ますほかはない。交換価値の事実とはこのようなものであり、所有権の事実と同じく、社会的富にしか存在せず、またすべての社会的富の上に存在する。
二五 (3)利用があって量において限られた物は産業により生産せられ得る物であり、または増加し得られるものである。だから規則的組織的努力によってこれらを生産し、その数を出来るだけ多く増加するのが利益である。世の中には雑草や何らの役にも立たない動物のような利用の無い物(有害な物までもいわぬとしても)がある。人々はこれらの物のうちに、これらの物を無用の範疇から有用の範疇に移さしめ得る性質がないかと、注意深く探索する。また利用はあるが量において限り無く存在する物もある。人々はこれを利用しようとはするが、その量を増加しようとはしない。最後に利用があって量において限られた物すなわち稀少な物がある。この最後のもののみが、現在の限られた量をより多くする目的をもつ研究または行動の対象となることが出来るのは明らかである。またこの最後の物は例外無くかかる研究または行動の対象となることが出来るのも明らかである。故にもし既に呼んだように、稀少な物の総体を社会的富と呼べば、産業的生産(production industrielle)または産業(industrie)は、社会的富だけにそしてすべての社会的富に行われる。
二六 交換価値、産業、所有権、これらは物の量の制限すなわち稀少性によって生ずる三つの一般的事実であり、三つの系列または種類の特種的事実である。そしてこれら三種の事実が動く場面はすべての社会的富であり、また社会的富のみである。そこで今は、例えばロッシのように、経済学は社会的富を研究するものであるというのがたとえ不正確でないとしてもいかに不明瞭で粗雑で非哲学的であるかが解るであろう。実際、経済学はいかなる観点から社会的富を研究するのであるか。その交換価値の観点、すなわち社会的富に行われる売買の現象の観点からか。または産業的生産の観点すなわち社会的富を増加することが有利であるか不利であるかの条件の観点からであるか。最後に社会的富を目的とする所の所有権すなわち専有を合法的または非合法的ならしめる条件の観点からであるか。我々はそれをいわねばならぬ。だが特に注意せねばならぬのは、これら三つまたは二つの観点から同時に研究するのではないことである。なぜなら、容易に解るように、これらの観点は各々全く異っているから。
二七 稀少な物が一度専有せられるとき、いかにして交換価値を得るかを、私共は先験的に認めた(第二四節)。一般的事実のうちに交換の事実を経験的に認めようと思えば、我々はただ眼を開きさえすればよい。
我々は皆日々、特種な一系列の行為として、交換すなわち売と買とをなしている。我々のある者は土地または土地の使用または土地の果実を売る。ある者は家または家の使用を売る。ある者は大量に獲得した工業生産物または商品を細分して売る。ある者は診療・弁護・芸術作品・ある日数または時間の労働を売る。これらを売ってこれらの人々は、貨幣を受ける。かくして得た貨幣で人々は、あるときはパン・肉・葡萄酒を購い、あるときは衣服を購い、あるときは住居を購い、あるときは家具・宝石・馬車を購い、あるときは原料または労働を購い、あるときは商品・家屋・土地を購い、あるときは種々の企業の株式または債券を購う。
交換は市場において行われる。ある特種な交換が行われる場所を、我々は特種な市場と考える。例えばヨーロッパ市場・フランス市場・パリ市場、などという。ル・アーヴル(Le Havre)は棉花市場であり、ボルドーは葡萄酒の市場であり、食品市場(les halles)といえば果実・野菜・小麦・その他の穀物の市場であり、証券取引所(la bourse)は商業証券の市場である。
小麦の市場をとれば、そこで与えられた時において五ヘクトリットルの小麦が一二〇フランすなわち九〇パーセントの銀六百グラムと交換せられたとすれば、「小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある」という。これが交換価値の事実である。
二八 小麦の一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。まずこの事実は自然的事実の性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦のこの価値すなわち小麦のこの価格は、売手の意志から生ずるのでもなく、買手の意志から生ずるのでもなく、またこれらの二つの意志の合致から生ずるのでもない。売手はより高く売ろうとするけれども、それをなし得ない。なぜなら小麦はこれ以上の価値が無いからであり、また売手がこの価格で売らなければ、買手は、この価格で売ろうとしている他のある数の売手を見出し得るからである。また買手はより安く買おうとするがそれをなし得ない。なぜなら小麦の価値はこれ以下ではないからであり、また買手がこの価格で買おうとしなければ、売手はこの価格で買おうとするある数の買手を見出し得るからである。
故に交換価値の事実は、一度成立すれば、自然的事実の性質をもってくる。それはその起源においても自然であり、その現われにおいても自然であり、その存在の様式においても自然である。小麦や銀が価値をもっているのは、これらの物が稀少であるからであり、換言すれば利用があり、かつ量において制限せられているからであるが、これら二つの事情は共に自然的である。そして小麦と銀とが互に比較せられて、しかじかの価値を有つのは、それらがそれぞれ稀少の程度を異にするからである。他の言葉でいえば、利用の程度及び量において制限せられる程度を異にするからであるが、これら二つの事情は右に述べたそれらと同じく自然現象である。
しかしこれは、我々が価格に対し何らの働きをも加え得ない、という意味ではない。重さが自然法則に従う自然的事実だとしても、これを袖手傍観していなければならぬということにはならない。我々の便利になるようにこれに抵抗したり、これを自由に働かせたりする。しかしこの性質も法則も変化することは出来ない。我々はいわばこれに従ってしか、これを支配することが出来ない。価値の場合も同様である。例えば小麦についていえば、小麦の在荷貯蔵量の一部を破棄してその価格を騰貴せしめることが出来る。また小麦に代えて、米、馬鈴薯、またはその他の物を食して、この価格を下落せしめることも出来る。また小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランではなく、二〇フランであるべしと法律で定めることさえも出来る。前の場合には我々が価値の原因に働きを加えたのであって、自然的価値を、他の自然的価値に置き換えたに過ぎない。第二の場合には我々は事実そのものに働きを加えたのであって、自然的価値に人為的価値を加えたのである。最後に厳密にいえば、交換を廃止して、価値を廃止することも出来る。しかしもし交換を行うものとして、在庫貯蔵量と消費量とのある状態、一言にいって稀少性の状態が与えられたとすれば、それからある価値が生じまたは生じようとする傾向を我々は妨げ得ないであろう。
二九 小麦一ヘクトリットルは二四フランの価値がある。だがこの場合にこの事実は数学的性質をもっていることを注意すべきである。銀で表わした小麦の価値すなわち小麦の価格は、昨日、二二または二三フランであった。先刻は二三・五〇フランまたは二三・七五フランであった。しばらくの後には二四・二五フランまたは二四・五〇フランとなり、明日は、二五または二六フランとなるであろう。しかし今日の現在では二四フランであって、それ以上でも無ければ、それ以下でも無い。この事実は明白に数学的事実の性質をもっているのであって、従って直ちにこれを方程式で表わすことが出来、またこの表わし方によってのみ、その真の表現をなすことが出来るのである。
ヘクトリットルは小麦の量の尺度の単位として許容せられ、グラムは銀の量の尺度の単位として許容せられたとして、もし小麦五ヘクトリットルが銀六百グラムと交換せられるとすると、正確には「小麦五ヘクトリットルは銀六百グラムに等しい価値を有する」ということも出来れば、「小麦一ヘクトリットルの交換価値の五倍は、銀一グラムの交換価値の六百倍に等しい」ということも出来る。
そこで、vb を小麦一ヘクトリットルの交換価値であるとし、 va を九〇パーセントの銀一グラムの交換価値であるとする。しからば数学の普通の記号法によって、方程式
[1] 5vb=600va
が得られ、また両辺を5で除せば、
vb=120va
が得られる。
もしまた、既に述べた例の中で仮定したように、一グラムの銀の交換価値の代りに、九〇パーセントの銀五グラムの交換価値を価値の尺度として採用し、かつこの銀五グラムの交換価値をフランと呼べば、換言すれば、
5va=1 フラン
であるとすれば、
[2] vb=24 フラン
となる。
しかし[1]の形式をとろうが、[2]の形式をとろうが、これらの方程式は、「小麦一ヘクトリットルの価値は二四フランである」という句の正確な飜訳――私はあえてこの事実の科学的表現であるといいたい――である。
三〇 故に交換価値は一つの大きさであり、評価せられ得る大きさであることを、私共は今から知ることが出来る。そして一般に数学がこの種の大きさの研究を目的とするとしたら、たしかにここに、今まで数学者が忘れていて充分に研究されていなかった数学の一分科、交換価値の理論があるわけである。
私は、この科学が経済学の全部であるとはいわない。これは既に人々が熟知している所である。力、速度は評価し得る力であるが、力と速度の数学的理論が力学の全部ではない。しかしこの純粋力学が応用力学に先行せねばならぬことも確かである。同様に応用経済学に先行する純粋経済学があり、この純粋経済学は物理数学的科学に全く相類する科学である。この主張は全く斬新であり、奇異に見えるかもしれない。しかし私は既にこの主張を証明した。私はこれを更によく証明するであろう。
純粋経済学すなわち交換価値と交換の理論、更に換言すれば抽象的に考えられた社会的富の理論が、力学・水力学の如く、物理数学的科学であるとしたら、それに数学的方法と用語とを用いるのに、何らの躊躇をする必要はない。
数学的方法は経験的方法ではなく、合理的方法である。狭義の自然科学は、自然を純粋に単純に記述するに止まり、経験の領域外に出ないものであるか。私は、この問題に答える労を自然科学者に委せておく。だがたしかなのは、物理数学的科学は狭義の数学の如くその内容のタイプを経験に借りるけれども、これらを借りたそのときから経験の領域を離れていくことである。これらの科学は現実のタイプから理念的タイプを定義し、引出してくる。そしてこれらの定義の基礎の上に、先験的に定理と証明の足場を作る。そして後その結論を応用しようとして経験に帰るのである。その結論を確証しようとして経験のうちに入っていくのではない。幾何学を多少でも学んだ者は何人も熟知するように、円の半径は互に相等しく、三角形の内角の和は二直角に等しい。だがこれは抽象的理念的円または三角形においてのみ真理である。実在は、これらの定義や証明を近似的にしか確証しない。しかもこれらの定義と証明とは充分に実在に応用され得るのである。この方法に従い、純粋経済学は、交換、需要、供給、市場、資本、収入、生産的用役、生産物等のタイプを経験に借りねばならぬ。純粋経済学は、これらの現実的形態から、定義によって理念的形態を抽象し、これら理念的形態の上に推論を行い、科学が成立してから応用を目的として再び現実に帰らなければならない。かようにして理念的市場において、理念的需要供給と厳密な関係をもつ所の理念的価格が得られる。他もすべて同様である。これらの純粋な真理はしばしば応用せられるものであろうか。厳密にいえば、科学のために科学を研究するのは、科学者の権利である。ある奇怪な図形の奇怪な性質が不思議ならば、幾何学者はこれを研究する権利をもっている(また日々この権利を行使している)。けれども純粋経済学のこれらの真理も、応用経済学及び社会経済学の上の最も重要で最も論争があったかつ最も不分明な問題に解決を与えるであろうことは、後に明らかにする如くである。
用語に関しては、数学上の用語を用いれば少数の語で最も正確に最も明快に表現出来ることをば、リカルドがしばしばなしたように、またミルが経済原論の到る所になしたように、通常の用語を用いてすこぶる不正確にすこぶる困難に説明することに人々が執著しているのは、なぜであろうか。
第四章 産業の事実と応用経済学とについて。
所有権の事実と社会経済学とについて
要目 三一 産業の事実。直接的利用、間接的利用。利用の増加。間接的利用の直接的利用への変形。三二 産業の二系列の活動。(一)技術的活動 (二)分業の結果生ずる経済的活動。三三 二重の問題。三四 産業的経済的生産の事実は社会的事実で自然的事実ではなく、産業的事実で道徳的事実ではない。社会的富の生産の理論は応用科学である。三五 専有の事実は社会的事実であって、自然的事実ではない。自然は占有せられ得る状態を作り、人間が専有をなす。三六、三七 道徳的事実であって、産業的事実ではない。所有権は合法的な専有である。三八 共産主義と個人主義。社会的富の分配の理論は道徳科学である。三九 道徳と経済学の関係の問題。
三一 量において限られて利用がある物のみが産業により生産せられ得るのであり、またそれらはすべて産業によって生産せられる(第二五節)。そして事実において確かに、産業は稀少な物しか生産しようと努力しないし、またそれらは稀少なすべての物を生産しようと努力する。
私は、この産業的生産の事実を、今から、多少の正確さをもって明白にしておかねばならぬ。量において限られて利用がある物は、この限られているという不便のほか(これは一つの不便である)、往々にしてなお他の不便すなわち直接的利用を有しないでただ間接的利用をもっているという不便を有している。羊の毛は無論利用がある物である。しかしこれを欲望の充足例えば衣服のための欲望充足に用いるに先立って、我々はこれに、羊毛を布とする操作と、布を衣服とする操作との二つの予備的な産業上の操作を加えなければならぬ。ところで利用があるがそれが間接であり量において限られた物の数はすこぶる多いのであるが、このことはわずかに一瞬間の熟考によっても知られる。そこで産業的生産は、量において限られてしか存在しない利用がある物の量を増加する目的と、間接的利用を直接的利用に変化する目的との、二つの目的を追うものであるという結果が出てくる。
先に産業は、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする、人格と物との関係の総体であると、極めて一般的に定義しておいたが、産業の目的はかくして、正確になってくる。人間がすべての物と関係をもってくるのは、たしかに、これらの物を利用するがためである。しかしこれらの関係の不変の目的が、社会的富の増加及び変形にあることもまたたしかである。
三二 この二重の目的は、全く異る二系列の活動を通じて、人間によって追求された。
一、産業活動の二系列の一つは、狭義の産業活動すなわち技術的操作から成る。例えば農業は、食物、衣服に役立つ動植物の量を増加し、鉱業は、道具や機械を作る鉱物の量を増加する。製造工業は、繊維を絹布、毛織物、綿布に変じ、鉱物をあらゆる種類の機械に変化する。土木建築業は工場、鉄道を建設する。たしかにそれらは、物の目的を人格の目的に従属せしめようとする人と物との関係の性質を明らかにもつ活動であり、また社会的富の増加と変形を目的とするより限られたかつより確定せる性質をもっている活動である。故にそれらは応用科学または政策の対象の第一系列を構成する産業事実の第一系列すなわち技術である。
二、産業活動の第二は、狭義の産業の経済的組織に関する操作から成る。
上に述べた第一系列の活動は、第二系列の活動に見るような事実すなわち人の生理が分業に適する事実がないものとしても、産業全体を構成し技術全体の対象を構成し得よう。もしすべての人の運命が互に独立してその欲望を充足するものだとしたら、我々は各々孤立して各自の目的を追求し、無限に存在しないで利用のある物を、自ら必要と認める程度に増加し、また自ら適当と考える所に従い、間接的利用を直接的利用に変じなければならぬ。各人はあるいは百姓となり、あるいは製糸職工となり、パン屋ともなり、洋服屋ともならねばならぬ。我々の状態は動物のそれに近づいてくる。けだし狭義の産業すなわち工業は、分業に負う発展がないとしたら、些細なものに過ぎないから。しかし厳密に考えれば、この場合にも第一系列に属する産業は存在することが出来る。ただ経済的産業生産が存在し得ないのである。
実際においては、今私共が想像した如くではない。人はただに生理的に分業に適するのみならず、また後に見る如く、この適性は人間の生存と生計とに必要な条件である。すべての人の運命は、欲望の充足の観点から見ると、独立ではなくして密接な関係をもっている。今ここでは分業の事実を、その性質または起源については研究しない。先に、人の道徳的自由と人格の事実を認めただけで、それ以上の研究に入らなかった如く、ここでも今はしばらく右の事実の存在を認めておくに止める。この事実は存在するのである。各人が稀少な物を自ら増加することなく、または自己にために間接利用を直接利用に変化することなく、この仕事を各々特種の職業によって分割して行わしめるときに、この事実は成立する。ある者は特に百姓であって百姓以外のものではないし、ある者は特に製糸職工であってそれ以外の者ではないし、他の者もこれと同様である。分業の事実とはこのことである。これは、我々が社会に一瞥を投ずれば、直ちに明らかに存在を認められる事実である。ところでこの事実のみが経済的産業生産の事実を生ぜしめるのである。
三三 そこでこのことから二つの問題が生じてくる。
まず分業の無い場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会的富の産業的生産は単に豊富でなければならぬのみでなく、またよく釣合を保っていなければならぬ。稀少なある物が過剰に増加せられていながら、他の物の量が不充分に増加せられていてはならぬ。ある間接的利用が大規模に直接的利用に変化されていながら、他の間接的利用が不充分な程度にしか直接的利用に変形せられていないようであってはならぬ。もし我々の各々が自ら百姓の仕事も、大工の仕事も、技師の仕事もするとすれば、これらそれぞれの仕事を自ら必要と信ずるだけするであろう。同様に職業が分化している場合にも、製造工業家が多過ぎて、他方百姓が少な過ぎるようなことがあってはならない。
次に、分業が行われない場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会における人々の間に行われる社会的富の分配が、公平でなければならぬ。経済的秩序が乱れていてはならぬように、道徳的秩序が乱れていてはならない。もし我々の各々が、自ら消費する一切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないとすれば、生産が消費の必要を目的として規制せられるのみならず、消費もまたその生産の大きさによって決定せられるであろう。ところで職業の分化があったからとて、ある者が僅少な生産をなしながら、多量の消費をなし、ある他の者が多くの多くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし得ないようであってはならない。
かくてこれら二つの問題の重要さも了解せられ、またこれらの問題に与えられた種々なる解答の意味も了解せられ得よう。同業組合、職工組合、親方の制度は、特に生産の釣合の条件を充すことを目的としているのは明らかである。商工業自由の制度すなわち普通にレッセ・フェール、レッセ・パッセの制度と呼ばれるものは、釣合の条件と、富を豊富ならしめる条件とをよく調和しようとする主張をもっている。この制度に先行した奴隷制度、農奴の制度は、社会のある階級をある他の階級の利益のために労働せしめたという不便を明らかにもっていた。現在見る如き所有権及び租税の制度は、人間による人間の搾取を完全に廃止したといわれる。私共は後にそれを検しよう。
三四 今はただ二つの問題の存在を認め、次にそれらの目的を確定した後、それらの性質を精確にするという一つの事をなすに止める。さてコックランとその派の経済学者がいかにいおうと、社会的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科学の問題の性質を与えることはまずもって不可能である。人の意志は、社会的な生産の事実に対しても、分配の事実に対しても、自由に働く。ただ分配の場合には、人の意志は正義を考慮して働き、生産の場合には利益を考慮して働く。実際技術的産業の事実と私が右に定義したような経済的生産の事実との間には、性質の相異はない。二つの事実は相互に関係をもっていて、一方は他方を補完する。二つは共に人間的事実であって自然的事実ではない。かつ二つは共に産業的事実であって道徳的事実ではない。けだし二つは共に、物の目的を人格の目的に従属せしめることを目的とする人格と物との関係から成立しているから。
故に社会的富の経済的生産の理論すなわち分業を基礎とする産業組織の理論は応用科学である。我々がそれを名附けて応用経済学(économie politique appliquée)というゆえんはここにある。
三五 既に明らかにしたように、量において限られて利用がある物のみが専有せられ、またこのような物はすべて専有せられる(第二三節)。そしてこのような物のみが専有せられ、またこのような物がすべて専有されていることは、ただ我々の周囲を眺めれば、直ちに認められる。利用の無い物は見捨てられ、利用があっても量において無限な物は、共有の領域に見捨てられる。これに反し稀少な物は引込められていて、最初に来る人といえどももはやこれを自由にすることが出来ない。
稀少な物すなわち社会的富の専有は人間的事実であって、自然的事実ではない。その起源は人間の意志と行動にあって、自然力の活動にあるのではない。
利用があって量において無限な物が専有せられることがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。また利用があって量において限られた物が専有せられないことがあっても、もちろんそれは我々によるのではない。しかし専有の自然的条件が一度充されれば、この専有はある仕方で行われ、他の仕方では行われないというのは、我々によるのである。もちろんそれは個々の人によるのではなく、我々の全体によるのである。それは、各人の個人的意志にその起源を有する人間的事実である。実に人の創意は、専有の事実を欲するままに修正するように、この事実に対し過去において働いたのであり、現在働きつつあり、また働くであろう。社会の成立の当初においては分業を行った人々の間の物の専有すなわち社会的富の分配は、合理的条件を全く離れて行われたのではないにせよ、おおむね力に制せられ、策略に制せられ、偶然に制せられて行われた。最も大胆な者、最も強い者、最も巧妙な者、最も好運な者が最もよい分け前を得、他の者はその残部を、すなわち僅少な物を得たか、またはほとんど全く何ものも得ていなかったのである。しかし政治と同じように所有権もまた、当初の無秩序な事実から、秩序ある最後の原理へと、徐々に進んできた。要するに自然は専有せられ得る状態を作ったのに止り、専有の状態を作ったのは人間である。
三六 かつまた、人間による物の専有すなわち社会の人々の間における社会的富の分配は、道徳的事実であって、産業的事実ではない。人格と人格との関係である。
もちろん我々は、稀少な物を専有しようとする目的をもって、これらの物との関係に入るのである。そして長い継続的努力の後にしか、この専有の目的を達し得ない場合も少くない。しかしこの観点、既に述べた所のこの観点をここでは採らない。今はただ予備的事情や自然的条件に関係なく、社会における人間の間の社会的富の分配の事実を考えよう。
私は、野蛮人の一族と森林中にいる一匹の鹿とを想像する。この鹿は量において限られて利用がある物であり、従って専有せられる。私はこの点を疑の無いものと考えて論じない。しかしいわゆる専有をなすに先立って、この鹿を追い殺さねばならぬ。私は問題の第二面であるこの点も論じない。これは狩猟の問題であって、この鹿を切断し煮焼するのが料理の問題であるのに等しい。だが鹿とのこれらの関係を捨象しても、なお一つの問題がある。それは、森林中に鹿がいたとき、または死んだとき、誰がこれを専有するかの問題である。問題となるのは、このように見られた専有の事実である。また人と人との関係を構成するものは、このように見られた専有の事実である。そしてこの問題に一歩を踏み入れれば、我々は直ちに次の事実を信ぜざるを得ない。――「一族中の若年の機敏な一人がいう。鹿は、これを殺した者が専有すべきである。諸君が呑気であったため、またはよく見当を付けなかったために鹿を殺すことが出来なかったとしたら、諸君が悪いのだと。老いた無力な一人はいう、鹿は我々のすべてによって平等に分配せられねばならぬ。森林中に一匹の鹿しかいないとして、君が第一番にそれを発見した所で、その事は我々がこれを食わないでいなければならぬという理由にはならないと。」――直ちに解るようにこれは本質上道徳的事実であり、正義の問題であり、人々の使命の相互関係の問題である。
三七 かようにして専有の形態は我々の決断に依存するのであり、採られた決断がよいか悪いかに従って、専有の形態はあるいはよいものとなり、あるいは悪いものとなる。よい形態であれば、人々の使命をこれらの人々の間によく調和せしめ、正義の要求を満足せしめるであろう。悪い形態であれば、ある人の使命をある他の人々のそれに従属せしめ、不正義を生ぜしめるであろう。いかなる形態が良いものであってかつ正当なのであるか。いかなる形態の専有が、道徳的人格の要求に合うものとして理性によって推薦せられるものであるか。ここに所有権の問題がある。所有権は公正で合理的な専有であり、合法的な専有である。専有は純粋にして単純な事実である。所有権は合法的事実であり、権利である。事実と権利との間には、道徳論の余地がある。ここに本質的な点があるのであって、これを誤解してはならない。専有の自然的状態を明らかにし、あらゆる所と時において社会の人々の間に社会的富の分配が行われている種々な形態を枚挙してみたところで、それは何ものでもない。これらの形態を、道徳的人格の事実から出てくる正義の観点から、また平等と不平等の観点から批評し、それらがいかなる点に常に欠陥があったかを指摘し、唯一の良い形態を示すこそ、すべてである。
三八 社会的富と、社会を作っている人とが現れて以来、社会の人々の間における社会的富の分配の問題は論議されてきた。それは常に正しい、そしてその上に分配を維持しなければならない基礎を問題としてきた。考え出されたすべてのシステムのうちで最も有名なのは、古代の最大の哲学者プラトーンとアリストートをチャンピオンとする共産主義と個人主義である。だが共産主義といい、個人主義といい、それらは何を意味するか。共産主義者はいう、「財は共同に専有せられねばならぬ。自然は財をすべての人に与えた。単に現に生存している人にのみならず、将来生存するであろう人々にも与えたのである。これを個々の人々の間に分つのは、現存の社会と後世の社会の財産を分割することである。それは、この分割後に生れる人々をして、神が準備してくれた資源を利用出来ないようにすることである。これらの人々の目的の追求とその使命の実現を妨げることである。」これに対し個人主義者は答える。「財は個人によって専有せられねばならぬ。自然は人々を、各々の徳につき、技倆につき、不平等に作った。勤勉な者、巧妙な者、倹約な者の労働の成果、貯蓄の成果を共同の所有としようと強いるのは、これらの人々の手からこれらを奪って、懶惰な者、巧妙でない者、浪費者のために与えるものであり、すべての人々から、各自の目的の追求が適当であったか否かの責任を奪うものであり、各自の使命の遂行が道徳的であったか否かの責任を奪うものである。」――私はこれだけの記述しかしない。共産主義が正しいか。個人主義が正しいか。それとも共に誤であるのか。または共に理由があるものなのか。我々は未だにこの論争を尽していない。私は今これらの学説に評価を下さないし、より詳細な解説も加えない。ただ、所有権問題の目的を広汎で完全な立場から見たならば、それが正確にはいかなるものであろうかを理解せしめようとしたに過ぎない。ところでこの目的は、本質的には、社会的富の専有に関して人格と人格との関係を定めるのに、理性と正義とに合致するように諸人格の使命を調和することにある。故に専有の事実は、本質的には道徳的事実であり、従って所有権の理論は、本質的には道徳科学に属する。Jus est suum cuinque tribuere. 正義とは、各人に属する物を、各人に得せしめるにある。だから各人に属する物を各人に得せしめることを目的とし、正義を原理とすれば、その科学は社会的富の分配の科学であり、私が呼ぶ所の社会経済学(économie sociale)である。
三九 だがここに一つの困難がある。私はそれを指摘しておきたいと思う。
所有権の理論は、道徳的人格としての人間と人間との間に存在する社会的富に関する関係、すなわち社会における人々の間の社会的富の公正な分配の条件を決定する。産業の理論は、特種な職業に従事して労働者と考えられる人と物との関係を、社会的富の増加と変形の観点から決定する、すなわち社会の人々の間に社会的富を豊富ならしめる条件を決定する。前者の条件は、正義の観点から導き出されるべき道徳的条件である。後者の条件は、利益の観点から導き出されるべき経済的条件である。しかしこれらは同じく社会的条件であり、社会の組織を目的とする手引きである。ところでこれら二つの種類の考察は互に矛盾するのであるか、または反対に相互に支持し合うのであるか。例えば所有権の理論と産業の理論とが共に奴隷制度または共産主義を拒否したとしても、もちろんよい。しかしこれらの理論の一つが、正義の名によって奴隷制度を拒否し、または共産主義を吹聴し、他の一つは、利益の名をもって、奴隷制度を賞讃し、または共産主義を拒否したと想像すれば、道徳科学と応用科学との間に矛盾があることになる。この矛盾は可能であるか。この矛盾が現れたとしたら、いかになすべきであろうか。
我々はこの問題に遭遇するのであるが、私はこの問題に、それがもつべき地位を与えたいと思う。これは特にプルードンとバスチアとの間に、一八四八年の頃、道徳と経済学の関係について行われた論争の問題であった。プルードンは「経済的矛盾」において、正義と利益との間に矛盾があると主張し、バスチアは「経済的調和」において反対の説を主張した。私は二人が共にその証明を完全に果したとは考えない。そして私はバスチアの説を採るが、しかしバスチアとは異る方法によってこれを弁じたいと思う。とにかく、問題が存在するとしたら、これを解決せねばならない。全く異る道徳科学である所有権の理論と、応用科学である産業の理論とを混同して、この問題を隠蔽してはならない。
第二編 二商品間に行われる交換の理論
第五章 市場と競争とについて。二商品間に行われる交換の問題
要目 四〇 社会的富は価値がありかつ交換し得られる物のすべてである。四一 交換価値は互にある割合の分量で受けまたは与えられる物がもつ性質である。市場は交換が行われる場所である。競争の機構の分析。四二、四三 証券市場。有効な需要と供給。供給と需要の均等、静止的な流通価格。需要が供給に超過すれば騰貴する。供給が需要に超過すれば下落する。四四 商品A及びB。方程式 mva=nvb. 価格 pa 及び pb. 四五 有効な需要と供給、Da, Oa, Db, Ob. 定理 Ob=Dapa, Oa=Dbpb. 需要が主要な事実であり、供給は附随的な事実である。四六 定理 . 四七 供給と需要の均等すなわち均衡の仮説。四八 供給と需要の不均等の仮説。価格の騰貴または下落は需要を減少、または増加せしめる。供給については如何。
四〇 第二一節になした基礎的一般的考察の中で、私は、社会的富を、稀少な物すなわち利用があると同時に量において限られた有形または無形の物の総体であると定義し、かつ稀少な物はすべて、そしてこれらのみが価値があり、交換せられ得ることを証明した。それとは別にここでは、社会的富を価値があって交換せられ得る有形無形の物の総体であると定義し、かつ価値があって交換せられるすべての物が、そしてそれらのみが利用があると同時に量において限られている物であることを証明しよう。先の定義では、私は原因から結果に赴いているわけであり、今与えた定義では、結果から原因に遡っているわけである。だが稀少性と交換価値との二つの事実の関係を明らかにすることが出来るならば、これらのいずれの行き方をしようと、自由であるのはいうまでもない。ただ私は、交換価値のような一般的事実の組織的研究にあっては、性質の研究が起源の研究に先立たねばならぬと考えるのみである。
四一 交換価値はある物がもつ性質であり、無償で獲得せられることも無償で譲渡されることもなくして売り買いせられる性質、すなわち他の物を与えまたは受けるのにある割合の分量で受けまたは与えられる性質である。一つの物の売手は、それと交換に受ける物の買手である。一つの物の買手は、それと交換に与える物の売手である。他の言葉でいえば、二つの物の相互の交換はすべて二つの売りと買いとから成り立つ。
価値があって交換せられる物は、また商品(marchandises)と呼ばれる。市場は商品が交換せられる場所である。故に交換価値という現象は市場に生れるのであって、交換価値の研究は市場においてなされねばならぬ。
自由に放任せられる限り、交換価値は自由競争の支配を受けている市場において自然に発生する。交換をなす者は、買手としては互により高く需要しようとし、売手としては互により安く供給しようとする。これらの競り合いから、あるいは上向の、あるいは下向の、あるいは静止する商品の交換価値が生れる。この競争が充分に働くか否かによって、交換価値は、あるいは正確に、あるいは不正確に現われる。競争の点から見て最もよく組織化された市場は、売買が例えば仲買人・才取等のような売買を集中する仲介者によって行われる市場である。従ってこのような市場では、いかなる交換も、その条件が公にせられることなくしては行われず、売手が互により安く売ろうとし、買手が互により高く買おうとすることなくしては、行われない。株式取引所・商品取引所・穀類取引所・魚市場等は、実にこのような働き方をする市場である。しかしこれらの市場のほかに、多少は制限せられていても競争がともかくも相応にかつ満足な程度に行われる市場がある。蔬菜市場、家禽市場などがこれである。小売商店・パン屋・肉屋・乾物屋・服屋・靴屋等の並列した街は、競争の点から見ると充分に組織化されていない市場ではあるが、それにしても、そこではかなりの程度まで競争が行われる。医師・弁護士の仕事の価値、音楽家の興行の価値の決定を支配するものもまた競争であることは争い得ない。更にまた全世界は、社会的富の売買が行われる一つの広大な一般的市場で、それを個々の特種な市場が形成しているのである。これらの市場においてこれらの売買はいかにして自ら成立していくか。その法則を知ることが我々の問題である。この目的をもって常に私は、競争の点から見て完全な組織をもっている市場を仮定する。これは、純粋力学において摩擦のない機械を仮定するのと同様である。
四二 ところでよく組織せられた市場において競争がいかに働くかを見ようと思うのであるが、その目的のために、パリまたはロンドンのような資本の大市場における証券取引所に入ってみよう。これらの場所で人々が売買している物は、社会の富のうちで、証券によって表わされている重要な富の一部分である。例えば国家その他の公共団体に対する債権の一部分・鉄道・運河・重工業工場等の一部分である。我々がこの市場に入るとき、聞き得るものは、取りとめのない喧騒のみであり、見得るものは、無秩序の運動のみである。しかし一度私共がその内容に通暁するに至るならば、この喧騒とこの活動との意味が極めて明瞭になってくる。
今例えばパリの取引所において行われる三分利付フランス国債の取引を、他の取引から引離して観察してみる。
三分利付公債は六〇フランであるという。これを六〇フランまたはそれ以下に売ってよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付の公債のある量すなわちフランス国家に対する三分の利子の要求証券のある量を六〇フランの価格で供給する。かくの如く一定の価格である量の商品が供給せられたとき、この供給を有効供給(offre effective)と呼ぶ。反対に六〇フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人は、三分利付公債のある量を六〇フランの価格で需要しているのである。ある価格である量の商品が需要せられるとき、この需要を有効需要(demande effective)と名づける。
さてこの需要が供給に等しいか、これより多いかまたは少いかに従って、我々は三箇の仮定を設ける。
仮定一。六〇フランで需要せられる量が、この価格で供給せられる量に等しい場合。これは売手または買手である仲買人がいわばその相手方を他の買手または売手である仲買人に正確に見出す場合である。この場合には交換が行われ、相場は六〇フランを維持し、市場の静止状態すなわち市場の均衡(équilibre)が現われる。
仮定二。買手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。この場合には六〇フランの価格で需要せられる三分利付公債の量は、この価格で供給せられる量を超過している。理論上交換は中止せられる。六〇・〇五フランまたはそれ以上で買ってもよいとの指図を受けた仲買人がこの価格で需要する。彼らはせり上げる。このせりは二つの結果を生ぜしめる。(一)六〇・〇五フランでの買手となり得ない所の六〇フランの買い手は退く。(二)六〇フランでの売手となり得ない所の六〇・〇五フランにおいての売手が加わってくる。もし彼らが既に指図を与えていないとすれば、彼らは新に指図を与える。かく二つの動因によって、有効需要と有効供給との間に存する隔りは減少する。両者の均等が再び出現すれば、価格の騰貴はそこで停止する。そうでない場合には六〇・〇五フランから六〇・一〇フランに、六〇・一〇フランから六〇・一五フランにと、供給と需要との均等が成立するまで、価格は騰貴する。そして高い相場で、新しい静止状態が現われる。
仮定三。売手である仲買人がその相手方を見出し得ない場合。この場合には六〇フランの価格で供給せられる三分利付公債の量は、同じ価格で需要せられる量より大である。この場合にも交換は停止する。五九・九五フランまたはそれ以下で売ってもよいとの指図を受けた仲買人は、この価格で供給する。彼らは互にせり下げる。
これから二つの結果が生ずる。(一)五九・九五フランにおいて売手となり得ない所の六〇フランにおいての売手は退く。(二)六〇フランにおいて買手となり得ない所の五九・九五フランにおいての買手が現われる。そこで供給と需要との隔りが減少する。そして供給と需要との均等が再び現われるまで、価格は五九・九五フランから五九・九〇フランへ、五九・九〇フランから五九・八五フランへと下落する。
この三分利付フランス国債に行われたと同じ作用が、すべての公債例えばイギリス、イタリア、スペイン、トルコ、エジプト等の公債にも、また鉄道・港湾・運河・鉱山・瓦斯事業・銀行その他の信用機関等の株式及び社債にも行われ、その変化は証券の如何により〇・〇五フラン、〇・二五フラン、一・二五フラン、五フラン、二五フラン等であると想像し、また現物取引のほかに定期取引が行われ、その定期取引中にも単純定期取引、歩金取引等が行われると想像せよ。かくて取引所の喧騒はあたかも各人がそれぞれの楽器を受持っている演奏会のようなものである。
四三 私共は、これからかかる競争状態において生ずる交換価値を研究しようとする。一般に経済学者は、例外的な事情の下に現われるような交換のみを研究しようとする。彼らはダイヤモンドや、ラファエルの絵画、流行の音楽会のみを研究する。ジョン・スチュアート・ミルの引用によれば、ド・クィンシー(De Quincey)氏は、汽船に乗ってスーペリオール湖(Lac Supérieur)を旅行する二人を想像する。一人は楽器を所有し、他の一人は「文明から八百哩も遠ざかっている無人の地への移住の途中であり」、ロンドンを出発するに際し楽器を購うのを忘れたのであった。この人にとって楽器は心の不安を和げる神秘な力をもっている。下船しようとするとき、この人は他の一人が所有する楽器を六〇ギニーの価格で購ったという。もちろん理論はかかる特殊な場合をも考えねばならない。市場に行われる一般的法則は、ダイヤモンドの市場にも、ラファエルの絵画の市場にも、楽器の市場にも適用せられねばならない。それはまたクィンシーが考えたような一人の売手と一人の買手と一箇の物と一瞬間とから成る市場にも適用せられねばならない。しかし論理的には一般の場合から特殊の場合に進むのがよいのであり、特殊の場合から一般の場合に進むべきではない。天文学者が天体を観測するのに、雲の無い夜を利用しないで、雲の多い時を選ぶべきではあるまい。
四四 交換の現象と競争の機構の基本概念を与えるため、私は、株式市場において金銀貨幣と交換せられる証券の売買を例にとった。けれどもこれらの証券は全く特殊な種類の商品であり、交換に貨幣が介在するのもまた交換の特殊の場合である。私は後に貨幣が介在する交換の研究をするが、当初にはこれを交換価値の一般的事実の研究と混同せぬがよいように思う。そこで私共の本道に立ち帰り、かつ私共の観察に科学的性質を与えるため、任意の二商品のみをとることとする。今これらの二商品を、燕麦と小麦であると仮定してもよければ、または抽象的に(A)、(B)と仮定してもよい。私はA、Bを(A)、(B)のように括弧に収め、量を表わす文字との混同を避けたい。量を表わす文字は方程式に組み込まれる唯一のものであり、(A)、(B)で表わすものは量ではなくして、種類であり、哲学上の言葉を用いれば、本質である。
そこで今、一市場を想像し、そこに(A)を携えながらその一部分を与えて(B)を得ようとする人々が一方から到着し、(B)を所有しその一部分を与えて(A)を得ようとしている人々が他方から到着したとする。この場合にせりの基礎となるものが必要であるから、今は例えば、ある仲買人が、前回の取引の相場通り、(A)のm単位に対し(B)のn単位を与えると想像する。この交換は次の方程式で表わされる。
mva=nvb
ここで(A)の一単位の交換価値を va と呼び、(B)の一単位の交換価値を vb と呼んでおく(第二九節)。
交換価値の比すなわち相対的交換価値を価格(prix)と一般的に呼び、(A)で表わした(B)の価格、(B)で表わした(A)の価格を、それぞれ pb, pa で一般的に表わし、比及びの値を特にそれぞれμ及びで表わせば、この第一の方程式から
を得べく、かつまたこれらの二つの方程式から
が得られる。よって、
価格すなわち交換価値の比は、交換せられた商品の量の反比に等しい。
各商品の価格は互に逆数である。
もし(A)が燕麦であって、(B)が小麦であるとし、仲買人が五ヘクトリットルの小麦を一〇ヘクトリットルの燕麦と交換しようと申込んだとすれば、燕麦で表わした小麦の申込価格は2であって、小麦で表わした燕麦の申込価格はである。先にいったように、一つの交換には常に二つの売と二つの買とがあるが、それと同じく二つの価格がある。常に存在するこの相互の逆数関係は、交換の事実において注意すべき最も重大な事項であり、代数記号の使用はこれを極めて明瞭ならしめるから、はなはだ便利である。その上代数記号の使用は、一般的命題を簡潔明瞭な式で表わし得る利益をもっている。私がそれを用いる理由もここにある。
四五 価格における(A)及び(B)の有効需要及び有効供給を、それぞれ Da, Oa, Db, Ob とすれば、これらの需要量と供給量と価格との間には、ここに指摘しておかねばならぬ重要な関係がある。
先にいったように、有効需要及び有効供給は一定の価格における一定商品量の需要及び供給である。故に pa の価格において、(A)の Da 量の需要があるといえば、それは、Dapa に等しい Ob 量の(B)が供給せられているということである。だから例えば小麦で表わした価格で二〇〇ヘクトリットルの燕麦が需要せられるといえば、それは小麦の一〇〇ヘクトリットルの供給があるということでもある。故に一般に、Da, pa 及び Ob の間には、方程式
Ob=Dapa
が成立する。
同様に pa の価格で Oa 量の(A)の供給があるといえば、それは、Oapa に等しい Db 量の(B)が需要せられるということでもある。だから例えば小麦で表わした価格で一五〇ヘクトリットルの燕麦の供給があるといえば、それは、小麦の七五ヘクトリットルの需要があるということでもある。故に一般に Oa, pa, Dbの間には、次の方程式が成り立つ。
Db=Oapa
同様に Db, Ob, pb, Oa, Da の間に、次の方程式が成立するのを証明し得るであろう。
Oa=Dbpb
Da=Obpb
これら二つの式は、先の二つの方程式と方程式 papb=1 とからも導き出されるが、それに関係なく証明せられ得る。
よって、ある商品を反対給付とする一商品の有効需要または供給は、このある商品の有効供給または有効需要と、この一商品で表わされたこのある商品の価格との積に等しい。
ここで、これら四つの量 Da, Oa, Db, Ob のうち、二つは他の二つから決定せられることを、知ることが出来る。私共は、後に新しい説明を加えるまで、供給量 Ob 及び Oa は、需要量 Da 及び Db から生ずるものであると考え、需要量が供給量から生ずるものとは考えないでおく。実際二つの商品の相互の物々交換の現象においては、需要は根本的な事実であると考えられねばならぬし、供給は附随的な事実であると考えられねばならぬ。人は供給のために、供給するのではない。供給をすることなくしては、需要をすることが出来ない故に、供給をするのである。供給は需要の結果に過ぎない。故にまず我々は、供給と価格との間に間接的関係を認めるだけで満足し、需要と価格との間にのみ直接の関係を求めようと思う。これ故、pa, pb の価格において、Da, Db の需要があるとすれば、供給は
Oa=Dbpb, Ob=Dapa
となる。
四六 ところで、
Da=αOa
であるとすれば、α=1 であるか、α>1 であるか、α<1 であるかの三つの仮定を設けることが出来る。だがまず最後の定理を述べておく。
上記の方程式に、
Da=Obpb
Oa=Dbpb
によって与えられた Da, Oa の値を代入すれば、
Ob=αDb
となる。
よって、二つの商品を与えられたとすれば、一つの商品の有効需要のその有効供給に対する比は、他方の商品の有効供給の有効需要に対する比に等しい。
この定理は次のように証明せられることも出来る。
Da=Obpb
Db=Oapa
DaDb=OaOb
または、
Oa=Dbpb
Ob=Dapa
OaOb=DaDb
結局、いずれの考え方によるも
となる。
故に(A)の有効需要と供給とが等しければ、(B)の有効供給と需要ともまた等しいことが解る。もし(A)の有効需要がその有効供給より大であれば、(B)の有効供給は同じ比例で有効需要より大であることが解る。最後にもし(A)の有効供給が有効需要より大であれば、(B)の有効需要は同じ比例でその有効供給より大であることが解る。これが右の定理の意味である。
四七 さて α=1, Da=Oa, Ob=Db であると仮定すれば、二商品(A)、(B)がそれぞれの価格で需要せられる量、供給せられる量は相等しい。各々の買手及び売手は売手または買手にちょうどその相手方を見出す。従って市場の均衡が現われる。均衡価格及び μ において、(A)の量 Da=Oa は(B)の量 Ob=Db に交換せられる。市場は終結し、二商品の所持者は相去るのである。
四八 しかしであるとする。しからばこれら二商品の各々の供給と需要との均等はいかにして生ずるか。一見すると、先に例示した取引所における公債についてなした推論を、そのままここで繰り返し得るように思われる。けれどもそれは大なる誤である。取引所では公債の買手と売手とがあるが、この証券の価値は、それらの特定の収入の金額と資本に対する収入率とに依存する。後に述べるであろうように、もちろん公債の価格の騰貴は需要を減じ、供給を増加せざるを得ないし、その下落は需要を増加し、供給を減ぜざるを得ない。しかし今ここでは、交換者が交換する物は直接に利用を存する商品と仮定せられている(A)と(B)とであり、(A)と(B)の交換者のみが市場で相対しているのである。そしてこの事情がすべてを修正する。
もちろん、Da が Oa より大であれば、pa は騰貴せねばならぬ。(すなわち pb は下落せねばならぬ。)また反対にもし、Db が Ob より大であるとすれば、pb は高騰せねばならぬ。(pa は下落せねばならぬ。)需要についても同様の推論をなし得る。すなわち価格が騰貴すれば、需要は増加することが出来ない、減少せざるを得ない。実際例えば一〇ヘクトリットルの燕麦に対し、五ヘクトリットルの小麦を供給する交換者、すなわち小麦で表わした価格 0.50 で一〇ヘクトリットルの燕麦を需要する交換者が、一二ヘクトリットルの小麦の所有者であるとする。小麦で表わした燕麦の価格 0.50 では、この交換者は二四ヘクトリットルの燕麦を買い得る。しかし彼は、小麦に対する欲望の事情で、一〇ヘクトリットルしか買わないとする。価格が 0.60 だとすると、二〇ヘクトリットルの燕麦しか買い得ない。この場合には、彼は、小麦に対する欲望の事情で、たかだか一〇ヘクトリットル――彼が更に富んだときにはこの量に達し得ようが――またはそれ以下にこれを限るであろうと、考えられねばならぬ。かくの如く、pa の高騰すなわち pb の下落は、Da を減じ、Db を増加せしめることしか出来ない。反対に pb の騰貴すなわち pa の下落は、Db を減じ、Da を増加することしか出来ない。しかし Oa と Ob とはいかに変化するか。この問に答えるのは不可能である。Oa は Db と pb との積に等しい。ところでこれら二つの因子の一方の pb が減じまたは増大すれば、他方の因子の Db は、このことだけで増加しまたは減少する。同様に Ob は Da と pa との積に等しい。ところで pa が増加するか減少するかに従って、Da は、このことだけで、減少しまたは増加する。従って、交換者が均衡を実現するか否かを、いかにして知るべきかが問題となる。
第六章 有効需要曲線と有効供給曲線。需要と供給との均等の成立
要目 四九 価格の増加に応じて有効需要が減少するという事実。五〇、五一、五二 価格の函数としての部分的需要の曲線または方程式。五三 需要曲線は同時に供給曲線である。五四 存在量の双曲線。五五 座標軸と存在量の双曲線との間における需要曲線の中間的位置。五六 二商品相互間の交換の問題の解。五七 需要曲線の中に底辺が互に逆数であり、高さがそれぞれの面積に反比例する矩形を挿入することによる幾何学的解。五八 代数的解。五九 価格の関数としての供給曲線を構成することによる二つの解の結合。六〇、六一 有効需要供給の法則すなわち均衡価格成立の法則。
四九 ここでは、価格と有効供給との間には間接の関係しかなく、価格と有効需要との間にのみ直接の関係があると考えるのであるから、我々が研究せねばならぬのは後者である。
この研究のために、ここに小麦の所持者があるとする。この人は小麦を所有するが、燕麦を所有しない。そこで自分の消費のために、若干量の小麦を保留し、他の若干量の小麦を提供して、自家の馬を養うための燕麦と交換しようとしている。ところで彼が保留しようとする量及び提供しようとする量は、それぞれ燕麦の価格と、この価格で彼が需要しようとする燕麦の量に依存するであろう。いかに依存するか。私はそれを見ようと思う。価格零のとき(燕麦の一ヘクトリットルを得るために、小麦のゼロヘクトリットルを与えることを要するとき、すなわち燕麦が無償であるとき)、この人は欲するだけの燕麦を需要するであろう。換言すれば、自分が所有する一切の馬、否飼料が無償で得られるときに養われるべき一切の馬を飼養するに充分な量を需要するであろう。いうまでもなく彼は、これと交換に小麦を与えるのではない。次に価格が順次にだとすると(燕麦一ヘクトリットルを得るために、小麦を与えねばならぬとすると)、彼は次第にその需要を減ずるであろう。価格が 1, 2, 5, 10(燕麦一ヘクトリットルを得るために小麦 1, 2, 5, 10 を与えねばならぬとすれば)となれば、彼は更にその需要を減ずるであろう。そしてもちろんこれらと交換に彼が供給する小麦の量は、彼が需要する燕麦の量とこの燕麦の価格の積に常に等しい。更にまた価格が 100 というような高いものとなれば(一ヘクトリットルの燕麦を得るため 100 ヘクトリットルの小麦を与えることを要するとすれば)彼は少しの燕麦をも需要しないようになる。なぜならこの価格においては二頭の馬をも飼養し得ないであろうし、また飼養するを欲せぬであろうから。このときには、彼は、交換に何らの小麦をも供給しないであろうことは、いうまでもない。故に燕麦の有効需要は、価格が増加するに従って減少する。それは価格零においてのある数字に始まり、ある価格において零に終る。これに相応ずる小麦の有効供給は零から出発し、次第に増加し、最大に達し、再び零に帰る。
五〇 小麦のすべての所有者はもちろん、また一方のこれら小麦のすべての所有者のみならず、他方の燕麦のすべての所有者もまた、同一の性質とはいい得ないとしても、同様の傾向をもっている。一般に商品を所有してこれを他の商品と交換しようとして市場に現われる者は、せり上げの傾向をもっている。この傾向は可能的(virtuelle)であることもあり、有効(effective)であることもあるが、精密に決定せられ得べきものである。
(B)の qb 量の所有者(1)が――以下代数記号で呼ぶ――市場に現われ、そのうちのある量 ob を供給して、自分が需要する(A)の da 量と交換するとすれば、方程式
dava=obvb
により、彼は(A)の da 量と(B)のを所持して帰っていくであろう。そしていかなる場合にも、量 qb, すなわち pa, da 及び y の間には、常に次の関係がある。
qb=y+dapa
qb の所有者が qb を知っているのは、いうまでもない。しかし市場に到着してみなければ、すなわち pa がいかなるものであるかを知ることが出来ない。けれどもそこに到着すれば、これを知り得るであろうことも確実であり、また pa の値が一度知られるならば、彼は直ちに da の値を定めることが出来、右の方程式により、y の値が直ちに決定することも確実である。
qb の所有者が自ら市場に現われる場合には、せり上げの傾向を有効ならしめないで、可能的ならしめることが出来る。他の言葉でいえば、価格 pa が決定した後に至って初めて、需要 da を決定することが出来る。しかしその場合にもせり上げの傾向はもちろん働く。またもし例えば彼が自ら市場に現われることが出来ず、ある理由により、ある友人または仲買人に指図を与えるとすれば、彼は pa の可能な値を零から無限大まで予想し、それらに相応する da のすべての値を決定し、これを何らかの方法で表現しておかねばならぬ。ところで、計算に少しく馴れた人々は右の事実の数学的表現をなすのに二つの方法があるのを知っているであろう。
五一 第一図において、横軸 Op を価格を示す軸とし、縦軸 Od を需要を示す軸とする。原点Oから横軸上にとられた長さ Opa', Opa'' ……は、(B)で表わした(A)の価格、例えば小麦で表わした燕麦の可能な種々の価格を示すものとする。同じ原点Oから縦軸にとった長さ Oad,1 は、価格が0のとき、小麦または(B)の所有者が需要する燕麦または(A)の量を示すものとする。点 p'a, p''a ……を通って需要軸に平行線を引いて、これらの平行線の上にこれらの点 p'a, p''a ……からとった長さ p'aa'1, p''aa''1 は、それぞれ p'a, p''a の価格で需要せられる燕麦または(A)の量を示す。長さ Oap,1 は小麦または(B)の所有者が燕麦または(A)をもはや需要しないであろう価格を示す。
そうとすれば、(B)の所有者(1)のせり上げる傾向は、幾何学的には、点 ad,1, a'1, a''1 … ap,1 によって作られる曲線 ad,1 ap,1 により、代数的には、この曲線の方程式
da=fa,1(pa)
によって表わされる。曲線 ad,1ap,1 と方程式 da=fa,1(pa) とは経験によって得られる。同様にして、(B)のすべての所有者(2)、(3)……のせり上げの傾向を、幾何学的には曲線 ad,2ap,2, ad,3ap,3 ……により、代数的には、
da=fa,2(pa),da=fa,3(pa) ……
によって表わすことが出来る。
五二 さて、同じ横坐標の上にあるすべての縦坐標を加えて、いわばこれらの部分的曲線(courbes partielles)ad,1ap,1, ad,2ap,2, ad,3ap,3 …を合計すれば、すなわち同一の横坐標におけるすべての縦坐標を加えれば、(B)のすべての所有者のせり上げの傾向を幾何学的に示す全部曲線 AdAp(第二図)が得られる。同様にすべての部分的方程式を加えれば、同じせり上げの傾向を代数的に示す全部方程式
Da=fa,1(pa)+fa,2(pa)+fa,3(pa)+ … =Fa(pa)
が得られる。これらは、(B)で表わした(A)の価格の函数としての(A)の((B)を反対給付とする)需要曲線(courbe de demande)または需要方程式(équation de demande)である。同様にして、(A)で表わした(B)の価格の函数としての(B)の((A)を反対給付とする)需要曲線または需要方程式が得られる。
ここで、部分的曲線 ad,1ap,1 または部分的方程式
da=fa,1(pa)
を初めとし、他の部分的曲線及び方程式が連続であること、すなわち pa の無限小の増加が da の無限小の減少を生ぜしめることを、何ものも示していない。否反対に、これらの函数はしばしば不連続である。例えば燕麦についていえば、小麦の所有者の第一人は価格が騰貴するに従って、燕麦の需要を減ずるのではなく、たしかに、彼が畜舎に飼養する馬を減じようとするときに、断続的にその需要を減ずるのである。故に彼の部分的需要曲線は、実際においては、a 点を通る階段形の曲線の形(第一図)をとるのである。他のすべての人の曲線もいずれも同様である。しかし全部曲線 AdAp(第二図)は、いわゆる大数の法則によって、ほぼ連続であると考え得られる。まことに、価格の極めて小さい騰貴が起るときには、多数の人々のうちおそらく一人くらいは、今まで飼養していた馬のうち一頭を手放すような極限に立っていて、需要を減ずるであろうが、この減少は全需要中の極めて小なる部分の減少に過ぎないであろう。
五三 このようにして、曲線 AdAp は、(A)の価格の函数としての(A)の有効に需要せられる量を示す。例えば Am 点の横坐標 Opa,m によって表わされる価格 pa,m における有効需要は、同じ点 Am の縦坐標 ODa,m によって表わされる Da,m である。そして(B)をもってする(A)の有効需要が、価格 pa,m であるとき、Da,m であれば、(A)と交換に提供せられる(B)の有効供給は、このことだけで、
Ob,m=Da,mpa,m(第四五節)
となる。これは縦坐標 ODa,m と横坐標 Opa,m によって作られる矩形 ODa,mAmpa,m によって表わされる。だから曲線 AdAp は(B)で表わした(A)の価格の函数としての(A)の需要と(B)の供給とを同時に示している。同様に曲線 BdBp は(A)で表わした(B)の価格の函数としての(B)の需要と(A)の供給とを同時に示すのである。
五四 (B)を所有する多数者の手中にあって市場に現われた総量を Qb とし、点 Qb を通る曲線を、xy=Qb を方程式とする直角双曲線であるとする。直線 pa,mAm を、この双曲線との交点 Qb まで延長し、x軸すなわち価格の軸に平行線 βQb を引け。しからば矩形 OβQbpa,m の面積 Qb は、市場に齎らされた(B)の総量を表わし、矩形 ODa,mAmpa,m の面積 Da,m pa,m は、価格 pa,m において(A)と交換に提供せられる部分を表わす。従って矩形 Da,mβQbAm の面積Yすなわち
Qb-Da,mpa,m
は、同じ価格 pa,m において市場から持ちかえって所有者が保留するであろう部分を示す。一般に、Qb, pa, Da 及びYの間には、次の関係がある。
Qb=Y+Dapa
そして xy=Qb すなわち Qb 点を通る曲線は、(B)の存在量を表わす双曲線であるから、AdAp は、(B)で表わした(A)の価格の如何によって、この(B)の量を、(A)と交換に与えるべき部分と保留しておくべき部分とに分ける曲線である。曲線 BdBp と、
xy=Qa
を方程式とする(A)の存在量の双曲線との間にも、同様の関係があるのはもちろんである。
五五 故に需要曲線は、量の双曲線のうちに包まれている。またこれらの需要曲線は一般に坐標軸を切り、これらの軸と漸近線をなさないということが出来る。
一般に需要曲線は、需要の軸を切る。なぜなら価格零においてある個人によって需要せられるある商品の量は、一般に有限であるから。例えば燕麦が無償で与えられるとしたら、ある人は十頭、ある人は百頭の馬を飼養するかもしれぬ。しかし彼らは無限数の馬を飼養せぬであろうし、従って無限量の燕麦を需要せぬであろう。ところで価格零における需要の総計は有限量の合計であるから、それ自身も有限量である。
需要曲線は一般に価格の軸を切る。実際価格が無限大に達しなくても充分に高ければ、ある商品がその無限小量をも何人によっても需要せられないようになるであろうと、我々は想像し得る。しかしこの点については絶対的にはいい得ない。(B)がいかなる価格ででも全部供給せられ得て、従って需要曲線 AdAp が Qb を通る双曲線と合致する場合があり得るし、また(B)の一部がいかなる価格ででも供給せられ得て、従って需要曲線 AdAp が Qb を通る双曲線の内側の双曲線と合致する場合があり得る。だから架空の臆説をしないように、需要曲線が坐標軸と存在量の双曲線との間のすべての地位をとり得ると考えておく。
五六 かくて我々は、一つの商品の有効需要と他の商品で表わしたその価格との間の直接的関係を知り、またこの関係の数学的表現を知り得たわけである。
例えば(A)商品についていえば、この関係は幾何学的には、曲線 AdAp により、また代数的には、この曲線の方程式
Da=Fa(pa)
によって表わされる(第五二節)。
(B)商品についていえば、この関係は、幾何学的には曲線 BdBp により、代数的には、この曲線の方程式
Db=Fb(pb)
によって表わされる。
その上、我々は、ある他の商品と交換に提供せられる一つの商品の有効供給と、後者で表わした前者の価格との間に存する間接的関係の性質を知り得たわけであり、またこの関係の数学的表現を知り得たわけである。
例えば(A)についていえば、この関係は、幾何学的には曲線 BdBp で包まれた一連の矩形により、また代数的には、この曲線の方程式
Oa=Dbpb=Fb(pb)pb
によって表わされる(第五三節)。
(B)については、それは幾何学的には、曲線 AdAp に包まれた一連の矩形により、代数的には、方程式
Ob=Dapa=Fa(pa)pa
によって表わされる。
ところで、これらの方程式から、各商品の有効供給と他の商品で表わしたこの商品の価格との関係を表わす方程式を導き出すことは容易である。すなわちこれら二つの方程式において、価格 pb をにより、価格 pa をにより置き換えればよい。なぜなら papb=1 であるから。
よって
となる。
これらの要素をもって私共は、二商品の交換の一般的問題――二商品(A)、(B)を与えられ、またこれら二商品相互の需要曲線またはこれら曲線の方程式を与えられれば、それぞれの均衡価格はいかに定まるかの問題――を、数学的に解くことが出来る。
五七 幾何学的には、問題は、二つの曲線 AdAp, BdBp の間に、それぞれの底辺(これらは互に逆数である)上に矩形 OdaApa, ODbBpb を作り、これら一方の高さ ODa が他方の面積 ODb × Opb に等しくなるように、また反対にこの他方の矩形の高さ ODa が一方の矩形の面積 ODa × Opa に等しくなるようにすることにある。これら二つの矩形の底辺 Opa, Opb は均衡価格を示す。けだしこれらの価格のそれぞれにおいて、高さ ODa によって表わされる(A)の需要は、面積 ODa×Opa によって表わされる(B)の供給に等しいからである(第四七節)。
ここに用いた「各一方の矩形の高さが他方の矩形の面積に等しくなるように」という表現は、等質を表現したものではない。しかしこの場合にはこの等質を必ずしも必要としない。なぜなら底辺が互に逆数を表わしていることが、これら二曲線の構成に役立った共通な単位 O1 の存在を予想しているから。だがもしこの単位を顕わさしめようとすれば、各矩形の高さは、他方の矩形の面積を構成している単位数と同数の単位数を含んでいると考えるか、または各矩形の面積は、他方の矩形の高さと底辺の単位によって作られる矩形の面積に等しいと考えねばならぬ。ところでこの問題の与件においては、当然、各矩形の底辺は高さの反比に等しく、また面積の比に等しいわけである。
五八 代数的には、問題は、二つの方程式
Fa(pa)=Fb(pb)pb, papb=1
における二つの根 pa, pb を求め、または二つの方程式
Fa(pa)pa=Fb(pb), papb=1
における二つの根 pa, pb を求めることにある。更にいい換えれば、問題は、
Da=Oa
を表わす方程式
及び
Ob=Db
を表わす方程式
の二つの根 pa, pb を求めることにある。
五九 なおまた、これらの解法を一つに結合することも出来る。我々は既に曲線
Da=Fa(pa), Db=Fb(pb)
を知っているが、これらはそれぞれ曲線 AdAp, BdBp である。今曲線
を作れば、それらはそれぞれ曲線 KLM, NPQ であって、これらの曲線と AdAp, BdBp との交点A及びBは、先に述べた矩形をちょうど与える。
これらの曲線 KLM, NPQ はいかなるものであるか、図に点線で表わされたこれらの曲線の構造の形状を知ることは容易である。
まず曲線 KLM は(A)の供給曲線であって、(B)の需要曲線と混同してはならない。なぜなら(B)の需要曲線の坐標によって作られる矩形の面積は、価格 pb の函数としての(A)の供給を示しているのに反し、(A)の供給曲線の縦坐標の長さは、価格 pa の函数としての(A)の供給を示しているから。
この曲線は、(B)で表わした(A)の価格が無限大であるときすなわち(A)で表わした(B)の価格が無限小であるとき、零の値から出発し、従って価格の軸に漸近線をなす。そしてそれは、原点に近づくに従い、すなわち(B)で表わした(A)の価格が減少するに従い、すなわち(A)で表わした(B)の価格が増加するに従って、上向し、ついに最高点Lに達する。この点の横坐標は、曲線 BdBp に包まれる矩形の面積を最大ならしめる Bm 点の横坐標 Opb,m によって表わされる pb,m すなわち(A)で表わした(B)の価格の逆数、すなわち(B)で表わした(A)の価格を示している。次にこの曲線は、原点に近づくに従い高さを減じ、ついに零となる。これが零となるのは、曲線 BdBp が価格の軸を切る Bp 点の横坐標 OBp によって表わされる(A)で表わした(B)の価格の逆数においてである、すなわち OK で示される(B)で表わした(A)の価格においてである。
同様に曲線 NPQ は(B)の供給曲線であって、(A)の需要曲線と混同してはならない。(A)の需要曲線の坐標によって作られる矩形の面積は、価格 pa の函数としての(B)の供給を示しているのに反し、(B)の供給曲線の縦坐標の長さは、価格 pb の函数としての(B)の供給を示している。
この曲線は、(A)で表わした(B)の価格が無限大であるときすなわち(B)で表わした(A)の価格が無限小であるとき、零の値から出発し、従って価格の軸に漸近線をなす。そしてそれは、原点に近づくに従い、すなわち(A)で表わした(B)の価格が減少するに従い、すなわち(B)で表わした(A)の価格が増大するに従い、上向し、ついに最高点Pに達する。この点の横坐標は、曲線 AdAp に包まれた矩形の面積を最大ならしめる Am 点の横坐標 Opa,m によって表わされる pa,m の逆数すなわち(B)で表わした(A)の価格を示す。次にこの曲線は、原点に近づくに従い、高さを減じ、ついに零となる。これが零となる点は、曲線 AdAp が価格の軸を切る Ap 点の横坐標 OAp によって表わされる(B)で表わした(A)の価格の逆数においてである。すなわち ON によって示される(A)で表わした(B)の価格においてである。
いうまでもなく、曲線 KLM, NPQ の形状は全く曲線 BdBp, AdAp の形状如何による。BdBp, AdAp が図に示されたものとは異っているとすれば、KLM, NPQ もまた全く異ったものとなるであろう。それはとにかく、今私共に与えられた条件においては、曲線 BdBp は最大矩形点 Bm を過ぎた後、下向して、点線 NPQ に交わるのであるが、この交点は、NPQ が零から最高点Pに向って上向しつつある所にある。従って、曲線 AdAp もまた、下向するとき、最大矩形点 Am を通る以前に点線 KLM に交わるのであるが、この交点は、この曲線がその最高点Lから零に下向する所にある。
六〇 だから、もしA点において二曲線 AdAp, KLM が交わるとしたら、この点の右においては曲線 AdAp は曲線 KLM より小であり、左においてはより大であることも明らかである。またB点において二曲線 BdBp, NPQ が交わるとすれば、この点の右においては、曲線 BdBp は曲線 NPQ より小であり、左においてはより大であることも明らかである。
ところで、価格は、仮定によって、Da=Oa, Db=Ob ならしめる価格であるから、pa より大なるすべての(B)で表わした(A)の価格においては、すなわち pb より小なるすべての(A)で表わした(B)の価格においては、Oa>Da であり、Db>Ob である。反対に pa より小なるすべての(B)で表わした(A)の価格においては、すなわち pb より大なる(A)で表わした(B)の価格にあっては、Da>Oa であり、同時に Ob>Db である。前の場合には pb の高騰すなわち pa の下降によってしか、均衡価格が現われ得ないし、後の場合には pa の高騰すなわち pb の下落によってしか、均衡価格は現われ得ない。
そこで、二商品相互の間の交換における有効需要供給の法則(loi de l'offre et de la demande effectives)すなわち均衡価格成立の法則(loi d'éstablissement d'équilibre)を、次のように表現することが出来る。――二商品が与えられ、それらについて市場の均衡すなわちそれぞれ一方の商品で表わした他方の価格の静止状態があり得るためには、二商品の各々の有効需要がその有効供給に等しいことを必要とし、またこれだけの条件が充されるだけで充分である。この均等が存在しないとすると、均衡価格に達するためには、有効需要が有効供給より大なる商品の価格が高騰せねばならぬし、有効供給が有効需要より大なる商品が下落せねばならぬ。
この法則は、先に取引所の市場の研究のすぐ後で表明しようと試みたものであるが(第四二節)、しかしその厳密な証明が必要であった(第四八節)。
六一 我々は今や、市場における競争の機構がいかなるものであるかを、よく理解し了えた。実際においても交換の問題は、価格の高騰及び下落によって解かれている。私がここに示したのは、この問題の数学的、純理論的解法である。私の目的が、実際の解き方に、私の解法を置き換えようとするにあるのではないのは、いうまでもない。実際の解き方は、理想通りに、迅速であり、正確である。例えば大市場では、仲買人やせり売人がなくても、その時々の均衡価格は数分の間に決定し、三四十分の間に巨額の商品が取引せられる。これに反し、理論的解法は、ほとんどすべての場合に、行われ難いものである。それ故に、交換の曲線を画きまたはその方程式を作ることは困難であるというのは、根拠のない批難を私共に加えようとする者である。ある商品の需要または供給曲線の全部または一部を作って、ある場合に利益が得られるか否か、これらの曲線をを作ることが可能であるか否か、それらはここに問おうとすることではない。今はただ交換の一般的問題を研究するのであって、我々にとっては、交換曲線の純粋な抽象的な概念が得られれば充分なのであり、同時にその把握が欠くべからざるものなのである。
第七章 二商品相互の間に行われる交換の問題の解法の吟味
要目 六二、六三 供給曲線が唯一の極大において連続である場合に論議を局限する。六四 供給曲線は需要曲線と交わらないこともあり得る。この場合価格は成立しない。六五 供給曲線は需要曲線と三点において交わることもあり得る。この場合三つの価格があり得る。六六、六七、六八 この内二つの均衡価格は安定であり、一つの均衡価格は不安定である。六九 二つの需要曲線の内一つが存在量の双曲線と一致する場合。七〇 二つ共一致する場合。
六二 以上述べてきた所を要約すれば、二商品(A)、(B)が与えられ、その有効需要と価格との関係が、方程式
Da=Fa(pa), Db=Fb(pb)
によって表わされるとすると、均衡価格は方程式
Dava=Dbvb
によって得られる。そして Da, Db にその値を代入すれば、均衡価格は方程式
Fa(pa)va=Fb(pb)vb
によって得られる。だがしかし、pa を求めようとするならば、更に右の方程式を次の[1]の形とすることも出来、また pb を求めようとするならば、それを[2]の形とすることも出来る。
前者は Da=Oa を表わし、後者は Ob=Db を表わす。
私は、これら二つの形の方程式を、曲線
の交点により、または曲線
の交点によって解いた(第五九節)。今この解法を吟味しようと思う。
六三 けれども今は、可能なあらゆる場合についてこの解法を吟味するのではない。あらゆる場合についてこの解法を吟味するのは、多大の時を要し、またここはその機会ではない。ただ示した図に関するような極めて簡単な一般的場合のみを吟味する。第二図においては、私は、曲線 AdAp, BdBp が連続であると考え、かつまた
Da=OAd, pa=0 なる点と
pa=OAp, Da=0 なる点との間に、及び
Db=OBd, pb=0 なる点と
pb=OBp, Db=0 なる点との間に、これら曲線上のそれぞれの坐標によって作られる矩形 Dapa, Dbpb がもち得る極大はそれぞれただ一つであると考えておいた。のみならず第二図については、正の坐標が作る角のうちに含まれる曲線の部分、しかもこの角のうちでも、点 Ad と Ap との間に含まれた曲線の部分と、点 Bd と Bp との間に含まれた曲線の部分とを考察すればよいのであった。もちろんこのことは交換という事実の性質上当然に出てくる。この仮定においては、曲線 KLM, NPQ は連続曲線であり、それらのそれぞれの坐標によって作られる矩形の面積は、ただ一つの極大を示すに過ぎない。だがかく限定せられた場合においても吟味せられるべき興味ある問題がある。
六四 私の推論中では、一方 AdAp 及び KLM、他方 BdBp 及び NPQ は、それぞれ唯一点A及びBにおいてしか交わらないと考えられた。けれどもまずこれらの曲線はどこでも交わらない場合もあり得ることを注意すべきである。まことに、もし曲線 BdBp がN点の手前に位する点において価格の軸に達するとすれば、それは曲線 NPQ とは交わらない。かつこの場合には曲線 KLM は Ap 点よりも遠い点において価格の軸を去り、曲線 AdAp には交わらない。従って問題はこの場合には解けない。
このことは驚くに足らない。この場合は、(B)のいずれの所有者も(A)の1に対して(B)の Ap を、すなわち(A)のに対し(B)の1を、与えることを欲しない場合であり、他面からいえば、(A)のいずれの所有者も(B)の1に対し、(A)のを、すなわち(B)の Ap に対し(A)の1を、与えようと欲しない場合である。この場合のせり上げが、市場に対し何らの影響を生ぜしめ得ないのは明らかである。(B)で表わした(A)の価格として Ap 以下の価格すなわち(A)で表わした(B)の価格として以上の価格を成立せしめれば、(A)の需要者すなわち(B)の供給者はあるであろうが、(B)の需要者すなわち(A)の供給者はないであろう。そしてまたもし(A)で表わした(B)の価格として以下の価格を作れば、すなわち(B)で表わした(A)の価格として Ap より以上の価格を成立せしめれば、(B)の需要者すなわち(A)の供給者はあるであろうが、(A)の需要者すなわち(B)の供給者はないであろう。
六五 次に、曲線の形状を注意して観察すれば、二曲線の間に多数の交点がある場合があり得ることが解る。まことにもし二商品(A)、(B)について、(B)をもってする(A)の需要が曲線 AdAp を示し、(A)をもってする(B)の需要が曲線 Bd'Bp' を示すとすれば、この曲線 Bd'Bp' は曲線 NPQ と三つの点 B, B', B'' において交わるであろう。この場合には、(B)と交換せられる(A)の供給曲線 KLM は、曲線 K'L'M' となるのであって、これは三つの点 A, A', A'' において曲線 AdAp に交わるであろう。A, A', A'' はそれぞれ B, B', B'' 点に対応する。この場合には二商品(A)、(B)の相互の交換の問題に三つの解があり得る。なぜなら曲線 AdAp, Bd'B'p に包まれて互に逆数である底辺をもちかつ高さが互に他方の面積に等しい二つの矩形の三組があり得るからである。だがこれら三つの解は、いずれも同一の価値をもつものであろうか。
六六 三つの組のうち、まず、点 A' と B' の組、及び点 A'' と点 B'' の組を検討すれば、それらは、ただ一つの解しかあり得ない場合における点A及びBの組と同様の状態にあることが解る(第六〇節)。曲線 AdAp は A' 点すなわち二曲線 AdAp,K'L'M' の交点の右方であるかまたは左方であるかにより、曲線 K'L'M' より小であるかまたは大である。同様に曲線 B'dB'p は、B' 点すなわち二曲線 B'dB'p と NPQ とが交わる点の右方であるかまたは左方であるかにより、曲線 NPQ より小であるかまたは大である。また曲線 AdAp は、 A'' 点の右方であるかまたは左方であるかにより曲線 K'L'M' より小であるかまたは大である。同様にまた曲線 B'dB'p は、B'' 点の右方であるかまたは左方であるかにより、曲線 NPQ より小であるかまたは大である。
これら二つの場合にあっては、均衡点の彼方において、商品の供給はその需要を超え、価格の下落すなわち均衡点への復帰を生ずる。また均衡点の此方において、商品の需要はその供給を超え、価格の騰貴すなわち均衡点への前進が生ずる。だからこの均衡を、私共は、垂直線上にある重心の上方に懸吊点を有する物体が、垂線上から離れるとき、重力によって自ら均衡点に落ち付く所の均衡に、比べることが出来る。この均衡は安定均衡(équilibre stable)である。
六七 点 A, B は同様ではない。A点の右においては曲線 AdAp は曲線 K'L'M' より大であり、左においては小である。同様にB点の右においては、曲線 B'dB'p は曲線 NPQ より大であり、左においてはより小である。だからこの場合には、均衡点の彼方において、商品の需要はその供給より大であって、これは価格の騰貴を生ぜしめる。換言すれば、均衡点を離れしめる。そしてこの場合にもまた均衡点の此方においては、商品の供給はその需要より大であり、これは価格の下落を生ぜしめる。すなわち均衡点を離れしめる。故にこの均衡は、支点が縦線上の重心より下にある物体の均衡に比すべきもので、もし重心が縦線を離れるとすると、ますますこれを遠ざかり、これを支点の下に置くのでなければ、自ら重力によっては復帰をしない。これは不安定均衡(équilibre instable)である。
六八 故に実のところ、A', B' の組と A'', B'' の組とがこの問題の二つの解法を成すものであり、A, B の組は、これら二つの解法の各々のそれぞれの領域の分岐点と極限とを示すに過ぎない。pb=μの彼方では、(A)で表わした(B)の価格は、均衡価格 p''b すなわち B'' 点の横坐標に近づいていく。その此方では、価格 p'b すなわち B' 点の横坐標に近づいていく。これと相関的に、の此方においては、(B)で表わした(A)の価格は、均衡価格 p''a すなわち A'' の横坐標に近づいていく。この彼方においては、それは、価格 p'a すなわち A' 点の横坐標に近づいていく。
容易に認め得るように、この事実は、商品の性質により、(B)で表わした(A)の価格が小さいとき需要せられる大なる量の(A)が、(A)で表わした(B)の価格が大なるとき需要せられる小なる量の(B)に等価であり得ると同時に、また(B)で表わした(A)の価格が大なるとき需要せられる小なる量の(A)が、(A)で表わした(B)の価格が小なるとき需要せられる大なる量の(B)に等価となり得る場合に現われる。そこでせりが、(B)で表わした(A)の価格の小なるものと、(A)で表わした(B)の価格の大なるものとをもって始まるか、または(A)で表わした(B)の価格の小なるものと、(B)で表わした(A)の価格の大なるものとをもって始まるかに従い、これら二つの均衡の第一に終るかまたは第二に終ることとなるのである。多数の商品が価値尺度財または貨幣の仲介により互に交換せられる場合にも、なおこの事実が可能であるか否か。私は後にこれを考察しよう。
六九 以上の研究にあっては、需要曲線 AdAp, BdBp, B'dBp' は二つの坐標軸を切ると仮定せられている。けれども需要曲線が存在量の双曲線と一致し、これらの坐標軸に漸近線をなす極端な場合をも研究せねばならぬ。
例えば AdAp が双曲線 Dapa=Qb と一致し、(B)はあらゆる価格においてすべて供給せられるとすると、方程式〔1〕は、
となる。これは点 Qb を通る曲線と曲線 KLM とが交点 πa において交わることを示す。ただし
すなわち pa=∞
なる場合の解を考慮外に置く。
そして、方程式〔2〕は、
Qb=Fb(pb)
となる。これは、曲線 BdBp と、ON'=Qb の距離を保って価格の軸に平行に引いた直線 N'P'Q' との交点が πb にあることを示す。
七〇 最後に、もし二商品がすべての価格で供給せられるとすれば、同時に
となるべく、これらは pa,pb を次のような値とならしめるであろう。
だから、この最後の場合には、二商品は純粋に単純に存在量に反比例して交換せられる。すなわち次の方程式に従って交換せられる。
Qava=Qbvb
そして容易に認め得られるように、存在量と交換量とが相等しいのは、二商品の有効需要と有効供給とが相等しいことを表わしている。
第八章 利用曲線または欲望曲線。商品の利用の最大の法則
要目 七一 部分的需要曲線の出発点を決定する事情。外延利用。七二 傾斜と到達点を決定する事情。強度利用。七三 所有量の影響。七四 利用または欲望の測定単位の仮説。利用曲線または欲望曲線の構成。七五 それらは有効利用及び稀少性を所有量の函数として表示した曲線である。七六 交換は欲望の最大満足の見地から行われる。七七 Bの量 Ob とAの量 da との交換は、交換後においてAの稀少性とBの稀少性との比が価格 pa に等しいときに有利である。七八、七九 この交換は Ob 及び da より小なるかまたは大なる他のすべての二商品の交換よりも有利である。八〇 それ故稀少性の比が価格に等しいときに、欲望の最大満足が生ずる。八一 最大満足の条件から導き出された需要曲線の方程式。八二 無限小による解法。八三、八四 欲望曲線が不連続の場合。
七一 ここまでは、交換の事実の性質について研究をしてきたが、この研究により、またこの事実の原因の研究も可能となる。実際もし価格が需要の曲線から数学的に出てくるとすれば、需要曲線の成立及び変化の第一原因と条件とは、また価格の成立及び変化の第一原因と条件であるべきである。
故に今、部分的需要曲線例えば(B)の所有者(1)の(A)の対するせり上げの傾向を幾何学的に示す所の ad,1ap,1(第一図)(第五一節)に立返り、まずこの曲線が需要の軸を離れてゆく点 ad,1 の位置を決定する事情を考察してみる。長さ Oad,1 は(B)の所有者(1)が(A)を、この価格が零であるときに、有効に需要する量すなわちこの商品が無償で与えられるときにこの人によって消費せられる量を示す。この量は一般に何によって決定せられるか。それは、商品の利用の一種であって私がここで外延利用(utilité d'extension または utilité extensive)と呼ぶ所のものによって決定せられる。私がここで外延利用という名辞を用いたのは、この利用を有する種類の冨によって充足せられる欲望の普遍性と数量とが、この欲望を感ずる人々の多少及び感ずる強度の大小によって決定せられるからである。一言でいえば、獲得のために何らの犠牲を提供する必要が無いとすれば、その場合にこの商品が多量に消費せられるかまたは少量だけしか消費せられないかが、外延利用である。ところで(A)の外延利用は(A)の需要曲線にしか影響を与えないという意味で、また同様に(B)の外延利用は(B)の需要曲線にしか影響を与えないという意味で、この第一の事情は簡単であり、絶対的である。かつ外延利用は価格零において需要せられる量であるから計量出来る大いさであるという意味において、この第一の事情は計量し得られるものである。
七二 だが外延利用は利用のすべてではない。それはこの一因子に過ぎない。このほかに、今曲線 ad,1ap,1 の傾斜を決定する事情と、この曲線が価格の軸に達する点 ap,1 の位置を決定する事情とを研究すれば、直ちに明らかになってくる他の利用がある。ところで曲線の傾斜は二つの量すなわち価格の増大とこの増大によって惹き起される需要の減少との比に他ならない。この比は一般に何に依存するか。それは私が強度利用(utilité d'intensité または utilité intensive)と名附ける利用の一種に依存するのである。この利用を強度利用と名附ける理由は、この利用を有する富によって満足される欲望が、価格が高いのにもかかわらず、多くの人々の間に存するかまたは少数の人々の間に存するか、また各人においては強く存在するかまたは弱く存在するかによって、この利用が強いものであるかまたは弱いものであるかが明らかになるからである。一言でいえば、この商品を獲得するために払う犠牲の程度が、商品の消費量の大小に影響するのは、強度利用の結果である。この事情は、外延利用と異り、(A)の需要曲線の傾斜が、(B)の需要曲線と同じく、(A)の強度利用及び(B)の強度利用の双方によって決定せられるという意味において複雑であり、相対的である。だから需要曲線の傾斜を、需要の減少の価格の増大に対する比の極限〔訳者註、需要を価格につき微分した微分係数〕――これは数学的に決定することの出来る事情であるが――と定義すれば、それは二商品の利用の強度の複雑な関係に他ならないということになる。
七三 なお(A)の需要曲線 ad,1ap,1 の傾斜に影響を有する他の事情がある。それは(B)商品の所有者(1)の手中に存在する(B)の量 qb である。一般に部分的需要の曲線が部分的存在量の双曲線より小さいのは、総需要の曲線が全部量の双曲線より小さい如くである。故に部分量の双曲線が原点に近づきつつ、または原点を離れつつ変化するかに従って、部分的需要の曲線もそれと同様に変化し、あたかも強度利用の変化の結果として現われるように見える。これら二つの場合におけるこの必然的関係を、図は忠実に示している。
七四 この分析は不完全でありながら、一見これ以上にこの分析を一層深く押し進めることは不可能のように見える。なぜなら絶対的強度利用は、外延利用及び所有量と異り、時間にもまた空間にも、直接のかつ計量し得る関係を有しないため、測定し得られないという事実があるからである。けれどもこの困難は越え得ないものではない。今私は、右のような関係が存在すると仮定し、外延利用、強度利用、及び所有量がそれぞれ価格に及ぼす影響を正確に数学的に説明しようと思う。
故に私は、欲望の強度すなわち強度利用を計量し得る所の、かつ同種類の富のすべての単位にのみならずあらゆる種類の富のすべての単位に共通な尺度の存在を仮定する。今縦軸 Oq 横軸 Or を二つの坐標軸であるとする(第三図)。縦軸 Oq 上に、原点 O から順次に長さ Oq', q'q'', q''q''', ……をとり、これらをもって、(B)の所有者(1)が自ら現にこれらを所有するとすれば、ある時間のうちに順次に消費していくであろう所の単位数を表わさしめる。かつ外延利用及び強度利用は、この時間中、各交換者に対し一定であると仮定する。これによって、利用という表現のうちに、私は時間を暗黙のうちにだけ示しておくに止めることが出来る。もし反対に、利用が時間の函数として変化するものであると仮定すると、問題の中に時間が明示的に現われてこなければならぬ。この場合には経済静態を離れて、動態(dynamique)に入ることになる。
ところでこれら順次の単位は、所有者(1)に対し、充足要求の最も強い欲望を充すべき第一の単位から、消費すれば飽満を感ぜしめるような最終の単位まで、次第に強さを減じていく強度利用をもつものであって、私共はこの減少を数学で表現しなければならぬ。もし商品(B)が、例えば家具、衣服のように、自然に単位ずつ消費せられるとすれば、横軸 Or の上、及び点 q', q'' ……等を通って横軸に平行な線の上に、原点及びこれらの q', q'' から長さ Oβr,1, q'r'', q''r''' をとり、これらでそれぞれ、これらが表わす単位の強度利用を表わさしめる。また矩形 Oq'R'βr,1, q'q''R''r'', q''q'''R'''r''' を作る。かようにして、曲線 βr,1R'r''R''r'''R''' を得る。この曲線は連続ではない。反対にもし(B)が、例えば食料品のように、微分小量ずつ消費し得られるとすると、利用の強度は、一単位から次の単位へと、減少するのみでなく、各単位の第一部分から最後の部分まで順次に減少し、不連続曲線 βr,1R'r''R''r'''R''' は連続曲線 βr,1r''r''' … βq,1 に変化する。同様にして、(A)について曲線 αr,1αq,1 を得ることが出来る。かつ曲線が不連続な場合と同じく、連続な場合にも、利用の強度は第一単位またはこの単位の第一部分の強度から、消費せられる最後の単位またはこの単位の最後の部分の強度まで、逓減する事実が認められる。
長さ Oβq,1, Oαq,1 は、所有者(1)に対し商品(B)及び(A)がもつ外延利用すなわち所有者(1)が商品(B)及び(A)についてもつ欲望の外延を示す。面積 Oβq,1βr,1,Oαq,1αr,1 は、商品(B)及び(A)が同じ所有者(1)に対してもつ可能的利用(utilités virtuelles)すなわち所有者(1)が商品(B)及び(A)についてもつ欲望の外延及び強度の合計を示す。故に曲線 αr,1αq,1,βr,1βq,1 は、所有者(1)につき、(B)及び(A)の利用曲線(courbes d'utilités)または欲望曲線(courbes de besoins)を示す。だがそれだけではない。これらの曲線はまた二面の性質をもっている。
七五 ある商品の消費せられた量により、外延においてまた強度において、充足せられた欲望の合計を有効利用(utilité effective)と呼べば、曲線 βr,1βq,1 は、(B)の消費量の函数としてのこの人に対する有効利用の曲線を示す。例えば長さ Oqb によって表わされる消費量 qb のこの人に対する有効利用は面積 Oqbρβr,1 によって表わされる。そして商品の消費せられた量によって充される最後の欲望の強度を稀少性(rareté)と呼べば、曲線 βr,1βq,1 は(B)の消費量の函数としてのこの所有者に対する稀少性の曲線(courbe de rareté)となるであろう。だから長さ Oqb によって表わされる消費量 qb の稀少性は、長さ
qbρ=Oρb
によって表わされる ρb である。同様に曲線 ar,1aq,1 は(A)の消費量の函数としての有効利用の曲線または稀少性曲線。それ故に横軸及び縦軸を、それぞれ稀少性の軸(axe des raretés)、量の軸(axe des quantités)と呼ぶことが出来るわけである。繰り返していうが、稀少性は所有量が減少するときに増加するものであり、その逆もまた真であることを、我々は認めねばならぬ。
代数的には、有効利用は、消費量の函数として、方程式
u=Φa,1(q),u=Φb,1(q)
によって与えられ、稀少性はその微分係数 Φ'a,1(q), Φ'b,1(q) によって与えられる。もしまた稀少性を、消費量の函数として、方程式
r=φa,1(q),r=φb,1(q)
によって表わせば、有効利用は 0 より q までの定積分
によって与えられる。故に u と r のそれぞれの表現には、次の関係がある。
七六 かようにして、(B)の所有者(1)に対する(A)の外延利用及び強度利用は、幾何学的には、連続曲線 αr,1αq,1 により、代数的には、この曲線の方程式
r=φa,1(q)
によって表わされ、この同じ所有者に対する(B)の外延利用及び強度利用は、幾何学的には、連続曲線 βr,1βq,1 により、代数的には、この曲線の方程式
r=φb,1(q)
によって表わされる。そして長さ Oqb によって表わされる量 qb は、この所有者が所有する(B)の量であるが、ある価格が現われたとき、この所有者が(A)に対してもつ需要はいかなるものであるか。それを正確にし得るか否かを見ようと思う。
欲望曲線を作った方法並びにこれらの曲線を作るとき認められたこれらの曲線の性質から明らかであるように、この人が(B)の qb 量を所有し、そのすべてを消費するとすれば、面積 Oqbρβr,1 によって表わされる欲望の合計量が満足せられる。だがこの人は、一般に、このすべてを消費しないであろう。なぜなら一般に、この人は自分が所有するこの商品のただ一部分のみを消費し、他の部分を、市場の価格で、(A)のある量と交換して、より多い合計量の欲望を満足し得るからである。例えば(B)で表わした(A)の価格が pa であるとき、Oy で表わされる y 単位数の(B)のみを残し、yqb によって表わされる部分すなわち
ob=qb-y
を、Oda によって表わされる da 単位数の(A)と交換すれば、この個人は、二つの面積 Oyββr,1 及び Odaααr,1 によって表わされる欲望の合計を満足することが出来、この量は先の合計量より大となることがあり得る。交換を行うに当ってこの個人は出来得る限り多くの欲望の合計量を満足しようとすると仮定してみると、pa が与えられているのであるから、da は、二つの面積 Oyββr,1,Odaααr,1 の合計が最大となるような条件によって決定せられることは明らかである。ところでこの条件は、量 da 及び y によって満足せられる欲望の最後のもののそれぞれの強さ ra,1 と rb,1 との比すなわち交換後におけるそれぞれの稀少性の比が pa に等しいということである。
七七 いまこの条件が充されたと仮定し、
ob=qb-y=dapa
ra,1=parb,1
であるとすると、この式から pa を消去し、
dara,1=obrb,1
を得べく、da, ob, ra,1, rb,1 を、これらを表わす長さ Oda, qby, daα, yβ で置き替えれば
Oda×daα=qby×yβ
それ故に二つの矩形 Odaαra,1, yqbRβ の面積は相等しい。しかるに曲線 αr,1αq,1, βr,1βq,1 の性質によって、一方において
面積 Odaααr,1>Oda×daα
であり、他方
qby×yβ> 面積 yqbρβ
である。故に
面積 Odaααr,1> 面積 yqbρβ
このようにして、(B)の ob 量と(A)の da 量との交換は我が(B)の所有者にとって有利である。なぜならこれによって得られる満足を表わす面積は、この交換を斥けるときに得られる満足を表わす面積より大であるから。だがこれだけの説明では足りない。ob より小なる(B)と da より小なる(A)とを交換しても、または ob より大なる(B)と da より大なる(A)を交換しても、いかなる他の交換を行っても、右に述べた交換より有利でないことを証明せねばならぬ。
七八 この証明をなすため、(B)の ob 量と(A)の da 量との交換の全過程が、相等しくてかつ順次に系列をなすs個の部分的交換から成立していると仮定する。しからば交換方程式
により、(B)の所有者は、(B)のをs回だけ順次に売渡し、(A)のをs囘だけ順次に購入しつつ、(A)の稀少性を減少し、(B)の稀少性を増加する。初め価格 pa より大であった稀少性の比は、かくして、この価格に相等しくなる。従って第一の部分的交換より最後のs番目の部分的交換へと、次第に有利の度は減じていくけれども、部分的交換はいずれも有利である。
Od'a を、Oの点より上方に向って、Oda から切りとった長さとし、qby' を、qb より下方に向って qby から切りとった長さとし、かつこれらの長さを、それぞれ第一の部分的交換において交換される(A)の量及び(B)の量を表わすものとする。この第一次の部分的交換を行った後には、稀少性の比は減少するけれども、なお仮定によって価格より大である。これらの稀少性を ra, rb と名づければ、
ra>parb
である。故に前の方程式により、
である。, , ra, rb を、それぞれ長さ Od'a, qby', d'aα', y'β' で置き換えれば、
Od'a×d'aα'>qby'×y'β'
となる。だが欲望曲線の性質によって、一方においては、
面積 Od'aα'αr,1>Od'a×d'aα'
であり、他方、
qby'×y'β'> 面積 y'qbρβ'
である。故に
面積 Od'aα'αr,1> 面積 y'qbρβ'
である。だから(B)のと(A)のとの第一交換は(B)の所有者にとり有利である。同様に、順次に行われていく第二部分以下の交換は、稀少性の比を減少するけれども、なおこの比は仮定によって価格より大であるから、有利であることを証明し得る。この利益が、稀少性の比の減少に伴い、減少していくことは明らかである。
更に、dad''a を、da 点から下方に向って daO から切りとった長さとし、yy'' をy点から上方に向い yqb から切りとった長さとし、これらの長さは、それぞれ最後の部分的交換において交換せられた(A)の量及び(B)のを表わすものとする。この最後の交換が行われると、稀少性の比は減少し、ついに、仮定により、価格に相等しくなる。よって、
ra,1=parb,1
であり、交換方程式により
である。, , ra,1, rb,1 を、それぞれ長さ dad''a, yy'', daα, yβ で置き換えれば、
dad''a×daα=yy''×yβ
しかるに欲望曲線の性質により、一方において
面積 d''adaαα''>dad''a×daα
であり、他方
yy''×yβ> 面積 yy''β''β
このようにして、(B)のと(A)のとの最後の交換もなお有利である。ところでsはいかほどにも大きく仮定し得るのであるから、すべての部分的交換は、例外なく、従って想像し得られる限り小さい最後の部分的交換も、有利である。ただ最初の部分的交換はより有利であり、s番目の部分的交換まで、有利の程度が次第に減少する。だから(B)の所有者(1)は ob より小なる(B)の量を供給せぬであろうし、また da より小なる(A)の量を需要もせぬであろう。
七九 同様にして、ob より大なる(B)の量を供給しないであろうことも、また da より大なる(A)の量を需要しないであろうことも、証明することが出来よう。なぜならこの限度を超える部分的交換は、いかに小なる部分的交換であっても、たとい想像し得る限り小さい最初の部分的交換であっても、いずれも不利益であり、また各部分的交換はますます不利益となるからである。そしてこの証明は先の証明と全く同様である。まことに交換の限度すなわち(A)の稀少性と(B)の稀少性との比が価格 pa に相等しくなった点を越えて更に、(A)のある量と(B)のある量とを交換し、(A)の稀少性を減少し続け、(B)の稀少性を増加し続ければ、ra<parb となる。すなわち rb>pbra となる。だから先に行った証明によって、極限
rb,1=pbra,1
すなわち ra,1=parb,1
に達するまで、(A)のある量と(B)のある量とを交換すれば、満足の最大に近づくことは、確かである。
八〇 故に(B)によって表わした(A)の価格 pa において、(B)の所有者(1)が供給するであろう(B)の量と、需要するであろう(A)の量とが、
ra,1=parb,1
の関係をもっているとすれば、これらそれぞれの量 ob と da とは、この価格において供給せられるべき量に等しく、これらより少くもなければ、多くもない。
一般に、市場において二商品が与えられているとすると、欲望満足の最大すなわち有効利用の最大は、各所有者にとり、充足せられた最後の各満足の強度の比すなわち稀少性の比が、価格に等しくなったときに現われる。この均等が達せられない限り、交換者は、稀少性が自らの価格と他方の商品の稀少性との積より小さい商品を売り、稀少性が、自らの価格と右の商品の稀少性との積より大なる商品を買うのが、有利である。
だから、交換者は、二商品のうち、自分が所有する一商品の全量を供給するのが、利益であることもあり得べく、また相手の商品を全く需要せぬのが利益であることもあり得るであろう。この点については、後に説明しよう。
八一 方程式
ra,1=parb,1
の中の ra,1 及び rb,1 に、それらの値を置き換えれば、この方程式は
φa,1(da)=paφb,1(y)=paφb,1(qb-ob)
=paφb,1(qb-dapa)
となる。この方程式は、pa の函数としての da を与える。何となれば、この方程式がこれら二つの変数の第二〔訳者註、da〕に関して解かれているとすれば、この方程式は
da=fa,1(pa)
という形をとるからである。これは、所有者(1)が(B)で(A)を需要する場合の需要曲線 ad,1ap,1 の方程式を、まさしく表わしている。故に、方程式
r=φa,1(q) 及び r=φb,1(q)
が数学的に確定し得られれば、前の方程式もまた数学的に確定する。ただ右に記した方程式が数学的には確定していないために、方程式
da=fa,1(pa)
は経験的に過ぎないものとなっている。
かくて、問題――二商品(A)、(B)と各交換者に対するこれら二商品の利用曲線すなわち欲望曲線、またはこれら曲線の方程式、及びこれら商品の交換者の各々によって所有せられる量を与えて、需要曲線を決定する問題――は解けるのである。
八二 以上の解法の方式を、既に用いた微分法の記号によって表わすことは、無意義ではあるまい。
(B)で表わした(A)の価格が pa であるとき、需要せられるべき(A)の量を da とし、供給せられるべき(B)の量を ob=dapa であるとし、従って保留せられるべき(B)の量は qb-ob であるとする。そして qb は、所有者(1)が所有する(B)の量であるから、
[1] dapa+(qb-ob)=qb
また u=Φa,1(q), u=Φb,1(q) をそれぞれ(A)及び(B)が消費量の函数としてこの人に対してもつ有効利用を表わす式であるとし、従って
Φa,1(da)+Φb,1(qb-ob)
は、最大ならしめるべき有効利用の合計であるとする。函数Φの微分係数は本質的に逓減するから、我が交換者の求める最大利用は、二商品の各消費量によって生ずる利用の微分増加量の代数和が零であるときに得られる。なぜならこれらの微分増加量が互に相等しくなく、かつ互に正負相反しているとすれば、微分増加量のより強い商品をより多く需要して、微分増加量のより弱い商品をより少く需要し、または微分増加量のより弱い商品をより多く供給し、微分増加量のより強いものをより少く供給するのが利益であるからである。故に欲望の最大満足を与える条件は、次の方程式によって表わされる。
Φ'a,1(da)dda+Φ'b,1(qb-ob)d(qb-ob)=0
ところで一方において消費量の函数としての有効利用の函数の導函数は、稀少性に他ならないし、他方において方程式[1]から生ずる方程式
padda+d(qb-ob)=0
により、二商品のそれぞれの消費量の微分と二商品のそれぞれの他方で表わしたそれぞれの価格との積の代数和は零である。
故に
φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa)
私は微分法に通暁しない読者のためにこれを説明した。しかしその他の読者は次のようにして直ちに理解せられるであろう。次の二式の一方または他方を da について微分せよ。
Φa,1(da)+Φb,1(qb-dapa)
そしてその導函数を0と置けば、
φa,1(da)-paφb,1(qb-dapa)=0
すなわち
φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa)
となる。そしてこの方程式の根は極大を示し、極小を示さない。けだし、函数 Φ'a,1(q) すなわち φa,1(q), Φ'b,1(q) すなわち φb,1(q) は本質的に減少函数であるから、第二次導函数
φ'a,1(da)+p2aφ'b,1(qb-dapa)
は必然的に負であるからである。
八三 右に与えた私の証明は、欲望曲線の連続を前提とする。だが我々は、欲望曲線が不連続である場合をも研究せねばならぬ。厳密にいえば、これらの場合には、(一)連続曲線をもつ商品と不連続曲線をもつ商品との交換、(二)不連続曲線をもつ商品と連続曲線をもつ商品との交換、(三)不連続曲線をもつ商品と、同じく不連続曲線をもつ商品との交換の三箇の場合があり得よう。けれども、後に明らかにするように、我々はすべての商品の価値をその価値と関係せしめそしてすべての商品を購い得る商品、従って連続的な欲望曲線をもち得るしもたねばならぬ所の一つの商品を選ぶのであるから、第一の場合だけを研究すればよい。
常例により、(B)の所有者(1)に対する(B)の利用曲線を βr,1βq,1(第三図)とし、この人が所有する(B)の量を qb とする。そして点 a 及び a''' を通る階段形の曲線を、この交換者に対する(A)の利用曲線であるとする。(A)は単位ずつによってしか買い得られないのであるから、そして pa は(B)で表わした(A)の価格であるから、(B)は pa に等しい量によってしか売られない。もし長さ dad''a 及び dad'''a がそれぞれ(A)の買われた最後の単位と買われない最初の単位とを表わし、また長さ yy'' 及び yy''' がそれぞれ(B)の売られた最後の量と売られない最初の量とを表わすものとすれば、交換者が最大満足を得るときには、次の二つの不等式が成り立つ。
面積 yy''β''β<daa
面積 yy'''β'''β>d'''aa'''
今 m'' と m''' とで、それぞれ yβ と y''β'' との中間の長さ及び yβ と y'''β''' との中間の長さを表わすこととすれば、これらは、それぞれ(B)の売られた最後の量の利用の平均強度及び売られない最初の量の利用の平均強度を示す。これらに
yy''=yy'''=pa
を乗ずれば、それぞれ yy''β''β 及び yy'''β'''β に等しい二つの面積が得られる。そこで相合して(A)の需要すなわち da を決定する二つの不等式を次の形に立てることが出来る。
daa=pam''+ε''
d'''aa'''=pam'''-ε'''
これら二つの方程式から、容易に次の結果を導き出すことが出来る。
ところで、m''+m''' は 2yβ に極めて近い量であり、かつははなはだ小さい量である。故に容易に
が得られる。
よって、連続的欲望曲線をもつ商品と不連続的欲望曲線をもつ商品との交換の場合において、最大満足が現われるときには、買われた商品の充された最後の欲望の強度と充されない最初の欲望の強度との平均の、売られたる商品の充された最後の欲望の強度に対する比は、価格にほぼ等しい。
私はほぼ等しいとあえていう。なぜなら(B)で表わした(A)の価格と、(B)の充された最後の欲望の強度との積 pa×yβ は、(A)の充された最後の欲望の強さと充されない最初の欲望の強さの平均に等しくないことがあり得るのみでなく、また、これら二つの量各々より大であることも、小であることもあり得るからである。実際、必然的に
面積 yy''β''β<pa×yβ
であり、
daa> 面積 yy''β''β
であるけれども、必然的には
daa>pa×yβ
ではない。そしてもし反対に
daa<pa×yβ
であるとすると、daa 及びこの daa より小さい d'''aa''' は、いずれも pa×yβ より小である。同様に、必然的に、
面積 yy'''β'''β>pa×yβ
であり、
d'''aa'''< 面積 yy'''β'''β
である。しかし必然的には、
d'''aa'''<pa×yβ
ではない。そしてもし
d'''aa'''>pa×yβ
であるとすると、d'''aa''' 及びこの d'''aa''' より大なる daa は、いずれも pa×yβ より大である。
八四 再び二つの不等式
面積 yy''β''β<daa
面積 yy'''β'''β>d'''aa'''
を見よう。pa が減少すると、これら二つの不等式の最初の項は共に減少する。これによって、第一式の不等関係には変化は生じない。しかし第二式の不等関係が反対となり、da が少くとも一単位だけ増加する時が来る。pa が増加すると、二つの方程式の初項は増加する。これによって、第二式の不等関係は変化しない。しかし第一式の不等関係が反対となり、da が少くとも一単位だけ減少する時が来る。故に(A)の需要曲線は逓減しかつ不連続である。
解析的には、(B)で表わした(A)の任意の価格 pa が叫ばれるとき、(B)の所有者は、欲望強度 r1, r2 ……を充す所の(A)の一、二単位を需要し、この同じ r1, r2 ……量で計量せられた(A)の有効利用を得れば、保留せられる(B)の量は、qb-pa, qb-2pa ……となり、定積分
で計られる(B)の有効利用が捨てられる。そして最大満足を与える需要 da は次の二つの不等式によって決定せられる。
このようにして、pa のすべての値に対応する da が数学的に決定せられるであろうし、(B)をもってする(A)の需要――価格の函数としての――の逓減的な不連続曲線が構成せられるであろう。
第九章 需要曲線論。二商品間における交換の問題の数学的解法の一般的方式
要目 八五 価格零における需要。それは外延利用に等しい。八六 (A)の需要が零の場合の価格。八七 (B)の供給が所有量に等しい場合の価格。八八 供給が所有量に等しい条件、所有量の双曲線と需要曲線とが交わること。八九 双曲線は交点の間では需要曲線となる。九〇 所有量の減少。九一 増加。九二 一般の場合は二商品の所有者の場合である。部分的有効需要の二つの方程式または曲線。九三、九四、九五 各商品の需要方程式、または曲線は同じ商品の供給を価格の函数として表わす式または曲線でもある。九六 二商品間の交換の場合におけるせり上げの傾向を表わす方程式の一般体系。九七、九八 方程式の解法。
八五 部分的需要の方程式
da=fa,1(pa)
は、
φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa)
を da に関して解いたと仮定した方程式に他ならないから、我々は、部分的需要の方程式を、この後の形において論究することが出来る。
まず、pa=0 とすれば、この方程式は
φa,1(da)=0
となり、その根は da=αq,1=Oad,1 となる。
よって、二商品が市場に与えられ、それらの一方の価格(他方で表わした)がゼロであるときは、他方の商品の各所有者によって需要せられるこの商品の量は、これらの人々が欲するままに自分の全欲望を充足するに必要な量すなわち外延利用に等しい。
これがそうでなければならぬことは、第七一節の説明によってもまた明らかである。曲線 ad,1ap,1 は点 αq,1 から出発するからである。
八六 次に、需要の方程式において、da=0 であるとすれば、需要の方程式は
φa,1(0)=paφb,1(qb)
となり、その根は
となる。
よって、二商品の一方の所有者によって需要せられる他商品の量は、この他商品の価格が、この他商品に対する欲望の最大なものの強度と供給すべき商品の保留せられるべき量によって充され得る最後の欲望強度との比に等しければ、またはこの比より大であれば、ゼロである。
これは、もちろん、そうでなければならぬ。なぜなら、この場合には、(B)の所有者(1)によって消費せられる(B)の最後の部分例えばによって、この所有者はの満足を得られるのに反し、この最後の部分を価格 pa で(A)の量と交換すれば、前の場合に等しいかまたはより小なる満足
しか得られないからである。
八七 (B)の所有者(1)が(A)を需要しないために必要な価格の条件を知った私共は、更に(B)を保留しないために必要な価格の条件を研究しよう。それには、方程式
[1] φa,1(da)=paφb,1(qb-dapa)
において、
[2] dapa=qb
とおかねばならぬ。しかるときは、
[3] φa,1(da)=paφb,1(0)
となり、その根は
である。
よって、二商品のうち一商品の所有者によって供給せられるその商品の量は、需要せられるべき商品の価格が、この後の商品により充されるべき最後の欲望の強度と供給すべき商品の欲望の最大強度との比に等しいかまたはこれより小なるとき、所有せられる量に等しい。
これも、また、そうでなければならぬ。けだし、この場合には(B)の所有者(1)によって消費せられる(B)の最初の部分例えばにより、この所有者はだけの満足しか得られないが、これを価格 pa で(A)のと交換すれば、同じによって、前の場合と等しいまたはより大なる満足
が得られるからである。
八八 方程式[2]、[3]の各辺を互に相乗じ、pa を消去するため、それを pa で除せば、
daφa,1(da)=qbφb,1(0)
となる。qb と φb,1(0)=βr,1 とを、これらを表わす長さ Oqb,Oβr,1 で置き換えれば、
daφa,1(da)=Oqb×Oβr,1
となる。
この方程式は、次の言葉でいい表わし得る条件をもっている方程式である。――二商品のうちの一商品の供給がこの商品の所有量に等しいためには、需要せられる商品の欲望曲線のうちに、供給すべき商品の所有量を高さとし、この商品の満足の最大強度を底辺として作られた矩形の面積に等しい矩形を作り得なければならぬ。
ところで、この条件は常に必ずしも満足せられるものではない。私の例にあっては、特にそうである。右の条件は、また、この条件すなわち(B)の所有量の双曲線 dapa=qb と(A)の部分的需要曲線 da=fa,1(pa) とは相交わることを要するとの条件によって表わし得る。けだし、方程式[1]と[2]との二つを満足するには、右の二曲線が交わらねばならないからである。だがこれらの曲線は常に必ずしも交わらない。特に、私の例における所有者の場合には、交わらない。
八九 この観察はまた他の重要な結果を齎らす。今、条件の方程式が充されたとし、かつ需要曲線が所有量の双曲線と点 q'b 及び q''b(第一図)において交わると想像してみる。(B)の供給は、点 q'b 及び q''b の横坐標によって示される価格において、所有量 qb に等しい。このことは、これらの価格の中間の価格においても、同様である。のみならず、方程式の組合せまたは曲線の組合せによると、中間の価格においては、(B)の供給は所有量 qb より大であるべきであるように見える。しかし所有者は自ら所有する以上の量を供給することが不可能であるから、qb-dapa は負の量であり得ないという制限を、導き入れねばならぬのはもちろんである。この条件は次のように表わされる。――二商品中の一商品の供給が所有量と等しくあり得るためには、この所有量の双曲線と他方の商品の需要曲線とが交わらねばならぬ。量の双曲線は、右の交点の間にあっては、需要曲線となる。
九〇 もし、曲線 αr,1αq,1 及び βr,1βq,1(第三図)が変化しないで、qb が減少すれば、ρb は増加し、従っては減少する。qb=0 となるときは、ρb=βr,1 であって、比はに一致する。そのときには、需要曲線 ad,1ap,1 は、坐標軸の一部 ad,1Oπ となる。
よって、二商品の利用がその一方の商品の所有者にとって変化せず、かつこの所有量が減少したとすれば、他方の商品の需要曲線と価格の軸との交点は坐標の原点に近づく。この所有量がゼロとなるときは、需要曲線は、需要の軸にとられた需要せらるる商品の外延利用と、価格の軸にとられた二商品の欲望の最大の強度の比に等しい長さとによって作られる坐標軸の部分に一致する。
九一 反対にもし、qb が増加すると、ρb は減少し、従っては増加する。qb=βq,1 であるときは、ρb=0 となり、比は無限大となる。そのときには、点 ap,1はO点より無限に隔ってくる。
よって、二商品の利用がその一方の商品の所有者にとって変化せず、かつこの所有量が増加すれば、他方の商品の需要曲線と価格の軸との交点は、坐標の原点から遠ざかる。この所有量が外延利用に等しくなれば、需要曲線は価格の軸に漸近線をなす。
そうならなければならぬことは、完全に説明せられ得る。また全部需要の曲線の形状について早計に何らの断定を下さなかった(第五五節)のが、充分の理由があったことも解るであろう。今は、右の曲線は常に需要の軸を切ると断定することが出来る。いかなる商品も、無限な全部外延利用をもつものでないからである。けれども右の曲線が価格の軸に漸近線をなすことは、普通でかつ頻繁な事実と考えねばならぬ。なぜなら、このことは、一商品の所有者の中に自由勝手に全欲望を充すに充分な量のこの商品をもつ人が、一人でもあれば、生ずるからである。ここで全供給の曲線は原点から出発することが、しばしばあり得る(一)。
九二 ここまで、私は、すべての交換者が一商品のみのすなわち(A)または(B)のみの所有者であることを仮定してきた。しかし同一の人が二商品(A)及び(B)の所有者である特別の場合を考え、この人のせり上げの傾向を数学的に表わさねばならぬ。すべてを取扱うという意味において、この場合を取扱わねばならぬのはもちろん、この場合こそが一般的場合であって、第一の場合は、二商品の所有量の一方がゼロであると想像せられた場合に過ぎない。推論が複雑となるのを恐れて、私は、最初には右の場合を、二商品の交換の問題の中に入れなかった。だが今は、最大満足の定理によって、この場合を簡単に容易に取扱うことが出来る。
故に、(B)の所有者(1)が、欲望曲線 αr,1αq,1 及び βr,1βq,1 の二つの方程式 r=φa,1(q),r=φb,1(q) によって表わされる(A)及び(B)に対する欲望を持って、市場に現われるとき、(A)のゼロ量と、Oqb(第三図)によって表わされる(B)の qb 量を持ってくる代りに、Oqa,1(第四図)によって表わされる(A)の qa,1 量と、Oqb,1 によって表わされる(B)の qb,1 を持ってくると仮定し、価格 pb の函数としての(B)の需要と、価格 pa の函数としての(A)の需要とを表わしてみよう。
もし、(A)で表わした(B)の価格 pb を長さ qb,1pb で表わし、この価格においてこの人が、長さ qb,1db によって表わされる(B)の db 量を需要するとすれば、長さ qa,1oa によって表わされる(A)の oa 量で同時に pb, db, oa の間に方程式
oa=dbpb
を成立せしめるであろう所の量を供給せねばならない。
そしてこのときには、(B)の充された最後の欲望の強度は長さ dbβ によって表わされる rb であり、(A)の充された最後の欲望の強度は長さ oaα によって表わされる ra であるから、最大満足の定理により(第八〇節)、
rb=pbra
である。rb と ra とにその値を代入すれば
[4] φb,1(qb,1+db)=pbφa,1(qa,1-oa)=pbφa,1(qa,1-dbpb)
となる。これは、(A)で表わした(B)の価格の函数としての(B)の需要を、軸 qb,1q, qb,1p の上に表わした需要曲線 bd,1bp,1 の方程式である。
同様にもし、(B)で表わした(A)の価格 pa において、この個人が(A)の da 量を需要すれば、pa, da, ob の間に方程式
ob=dapa
を成立せしめるような(B)の量 ob を供給せねばならぬ。そしてそのときには、(A)の充された最後の欲望の強度は ra であり、(B)の充された最後の欲望の強度は rb であるから
ra=parb
であり、
[5] φa,1(qa,1+da)=paφb,1(qb,1-ob)=paφb,1(qb,1-dapa)
である。これは、(B)で表わした(A)の価格の函数としての(A)の需要を、軸 qa,1q, qa,1p の上に表わした需要曲線の方程式である。
九三 価格がゼロであるときの需要の場合、需要がゼロであるときの価格の場合、所有量に等しい供給がなされる場合、所有量が減少した場合、これが増加した場合等について、[4]、[5]の二つの方程式を吟味すれば、先になした論述と全く相似たものとなるであろう。だから私はそれをしない。ただ確定しておかねばならぬ重要な特別な点についてのみ論じておく。
もし、方程式[4]において、db=0 であれば、その方程式は
φb,1(qb,1)=pbφa,1(qa,1)
となる。そして常に papb=1 であるから、この方程式は
φa,1(qa,1)=paφb,1(qb,1)
の形とせられ得る。方程式[5]において、da=0 であるとして、得られるのもまたこれである。
よって、二商品のうちの一商品の需要が、ある価格においてゼロであるとすれば、他の一方の商品の需要は、同じ価格に相応するその価格においてまたゼロである。
九四 しかしこの命題はより一般的な定理の系に過ぎない。
(A)で表わした(B)の価格の函数としての(B)の需要の方程式[4]を、(B)で表わした(A)の価格の函数としての(A)の供給の方程式に変化するためには、db を oapa によって、pb をによって置き換えればよい。よってそれは
φa,1(qa,1-oa)=paφb,1(qb,1+oapa)
となる。これは方程式[5]に外ならないのであって、ただ da が -oa に置き換えられただけである。よって(A)の需要方程式[5]は、da が負の値をとるときの(A)の供給方程式である。同様にして、(B)の需要方程式[4]は、db が負であるときの(B)の供給方程式であることを証明し得る。ところで価格は本質上正であるから、db が正であれば、oa=dbpb は正であり、従って da=-oa は負である。db が負であるときは、oa=dbpb は負であり、従って da=-oa は正である。同様にして、da が正であるときは、db は負であり、da が負であるときは、db は正であることも証明出来よう。
よって、二商品の一方の商品の需要がある価格において正であれば、同じ価格に相応する他方の商品の価格におけるこの他方の商品の需要は負である、すなわちその供給は正である。
そして二商品の所有者は、一方の商品を供給することによってしか、他方の商品を需要することが出来ないのであり、またその逆も正しい。だからもし、一方の商品を需要もせず供給もせぬとすれば、他方の商品を供給もせねば需要もしないこととなる。容易に認め得るように、これは、二商品の稀少性の比が、他方の商品で表わした一商品の価格にまさしく等しくて、交換をしないで有効利用の最大が生ずる場合である。
九五 故に曲線は、ad,1 から ap,1 までは、また bd,1 から bp,1 までは、需要曲線である。けだし点 ap,1 と bp,1 とは互に逆であるからである。また曲線は、ap,1 から ao,1 まで、bp,1 から bo,1 まで、すなわち図に軸 qa,1p, qb,1p 以下に点線で示した部分において、供給曲線である。それらを合して、軸 Or 上にとれば、曲線の各々は、二商品の各々の保留せられ獲得せられる合計量を価格の函数として示す曲線である。それには最小量が存在するが、これは他方の商品と交換に提供せられる供給量最大の場合に相当する。
九六 要するに、交換者(1)が、自ら所有する(A)及び(B)の量 qa,1, qb,1 に対し、価格の如何によって附加するであろう所のこれら商品のそれぞれの量を、正負を問わず、簡単に x, y で表わせば、この人のせり上げの傾向は、交換方程式と最大満足の方程式の二つ
x1va+y1vb=0
から生ずる。これらのうちで、pa の函数として x1 を表わすために y1 を消去することも出来、また pb の函数として y1 を表わすために x1 を消去することも出来る。そしてこれらを消去して得られる方程式
φa,1(qa,1+x1)=paφb,1(qb,1-x1pa)
φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1-y1pb)
は一般的方式であって、従って、後に多数の商品の間の交換における同じ人のせり上げの傾向を表わす場合にも、私はこれらの方式を適当に展開するに過ぎぬであろう。
なお注意を要する重要なことであるが、右の方程式の第一は pa の値が負の x1 を qa,1 より大ならしめるものであるときは、方程式
x1=-qa,1
によって置き換えられねばならぬ。このときには、y1 は方程式
y1pb=qa,1
によって与えられる。同様に第二方程式は、負の y1 を qb,1 より大ならしめる所の pb の値においては、方程式
y1=-qb,1
によって置き換えられねばならない。この場合には、x1 は方程式
x1pa=qb,1
によって与えられる。
九七 これらの方程式を、x1 及び y1 について解き、先の条件を満足するように適当に処理すれば、次の形をとる。
x1=fa,1(pa), y1=fb,1(pb)
同様に、交換者(2)、(3)のせり上げの傾向を表わすものとして、
x2=fa,2(pa), y2=fb,2(pb)
x3=fa,3(pa), y3=fb,3(pb)
…………… ……………
を得る。そして二商品(A)及び(B)の各々の有効需要と有効供給との均等は、次の二方程式の一方または他方によって表わされる。
X=fa,1(pa)+fa,2(pa)+fa,3(pa)+ …… =Fa(pa)=0
Y=fb,1(pb)+fb,2(pb)+fb,3(pb)+ …… =Fb(pb)=0
ところで例えば pa をこの方程式の第一から導き出し、pb を方程式
papb=1
から導き出せば、この pb の値は、必ず、第二方程式を満足する。けだし、明らかに
Xva+Yvb=0
であるから。そこで、もし pa がある値をとったとき、Fa(pa)=0 となれば、この価格に対応する pb の値において、Fb(pb)=0 となる。
この解法は解析的解法である。私共は、これに幾何学的形式を与えることが出来る。正のxの合計は(A)の需要曲線を与え、正のyの合計は(B)の需要曲線を与える。これらの二つの需要曲線から、二商品の供給の二曲線が得られる。これらは、負のx及びyを正にとり、それぞれを合計したものに他ならない。市場価格は、これらの曲線の交点によって決定せられる。
九八 以上が数学的解法である。市場における解法は次の如くになされる。
ある二つの互に逆数の価格 pa, pb が叫ばれると、計算こそしないがしかし最大満足の条件に一致するように x1, x2, x3 …… y1, y2, y3 ……が決定せられる。それによってまた、XとYも決定せられる。もし X=0 ならば、Y=0 となり、価格は均衡価格となる。しかし一般にはであり、従ってである。正のxの合計を Da と呼び、負のxの合計を符号を変えて Oa と呼べば、右の第一の不等式はとなる。そして Da と Oa とを等しからしめることが問題である。
Da についていえば、この量は、pa=0 であるとき、正であり、pa が増加すれば、無限に減少していく。そしてそれは、pa が 0 と無限の中間のある値をとるとき、ゼロである。Oa についていえば、この量は、pa=0 となるとき、ゼロであり、pa が正のある値をとってもなお、ゼロである。しかしなお pa が増加すれば、この量も増加するけれども、無限には増加しない。それは、少くともある最大の値に達し、pa がなお増加すれば、減少する。pa=∞ となれば、それはゼロとなる。だから、Oa がゼロであることを止める以前に、Da がゼロとなって、解法不能となるのでなければ、Oa と Da とを相等しからしめる pa のある値が存在する。この値を見出すには、もし Da>Oa ならば pa を増加せねばならぬし、もしまた Da<Oa ならば、pa を減少せねばならぬ。私共はここにも有効供給及び有効需要の法則を認める。
註一 需要曲線及び供給曲線のこの吟味を、利用曲線の逓減から演繹せられた二つの事実の説明によって補充するのが便利であろう。これらの二つの事実の一つは、一種の仮説として採られたもので(第四八節)、需要の曲線は常に逓減するということである。その二は、第一から演繹せられたもので、供給曲線は、価格の増加するに伴い、初めゼロから逓増し、次に逓減してゼロ(無限遠点において)に帰るということである(第四九節)。私は、これら二つの証明を、一般化して、任意数の商品の所有者間の任意数の交換の場合について行って、附録第一、価格決定の幾何学的理論、第一節、多数の商品間の交換について、のうちに述べておいた。
第十章 稀少性すなわち交換価値の原因について
要目 九九 二商品間の交換の解析的な定義。一〇〇 交換価値と稀少性との比例性。欲望曲線が不連続な場合に関する留保。一〇一 交換価値の原因としての稀少性。交換価値は相対的事実であり、稀少性は絶対的事実である。個人的稀少性しか存在しない。平均的稀少性。一〇二 二商品の相対的価格の変動。変動の四原因。これらの原因を証明する可能性。一〇三 均衡価格の変動の法則。
九九 かくの如く、分析をおし詰めれば、利用曲線と所有量とが市場価格の成立すなわち均衡価格の成立に必要にしてかつ充分なる要素である。これらの要素から、まず部分的並びに全部需要曲線が数学的に出てくるが、その理由は、各人に自己の欲望の最大満足を得ようと努める事実があるからである。次に部分的及び全部需要曲線から、市場価格すなわち均衡価格が数学的に出てくるのであるが、その理由は、市場には唯一の価格すなわち全部有効需要と全部有効供給とを相等しからしめる価格しかあり得ない事実があるからである。換言すれば、各人は自ら与える所の物に比例して受けねばならないしまた受ける所の物に比例して与えねばならないという事実があるからである。
よって、自由競争の行われる市場において二商品の間に行われる交換は、二商品のいずれか一方のすべての所有者なりまたは双方のすべての所有者なりが、共通にして同一の比率で、売る所の商品を与え買う所の商品を受ける条件の下において、各人の欲望の最大満足を得ることの出来る行動である。
社会的富の理論の主な目的は、この命題を一般化し、これがまた、二商品間の交換と同様に、多数の商品間の交換にも相通ずるものであり、また交換におけると同じく、生産の自由競争の場合にも相通ずるものであることを明らかにするにある。社会的富の生産の理論の主な目的は、この命題から帰結を導き出し、農業工業及び商業の組織の法則がこの命題からいかにして出てくるかを示すにある。だから、この命題は純粋経済学、応用経済学のすべてを貫くものであると、いい得よう。
一〇〇 va, vb は商品(A)及び(B)の交換価値であり、その比は均衡市場価格を示し、ra,1, rb,1, ra,2, rb,2, ra,3, rb,3 ……は交換者(1)、(2)、(3)……における交換後の稀少性すなわち充足せられた最終の欲望の強度であるから、最大満足の定理により、交換者(1)にとっては、
であり、交換者(2)にとっては、
であり、交換者(3)にとっては、
である。……故に
である。これをまた次のように表わすことも出来る。
va:vb
::ra,1:rb,1
::ra,2:rb,2
::ra,3:rb,3
:: …… ……
なお注意せねばならぬが、もし商品がある一定の単位で消費せられ、従って欲望曲線が不連続であれば、稀少性の表の中に既に知ったように(第八三節)、充された最後の欲望の強度と充されない最初の欲望の平均にほぼ近い比例項を特に目立つように記入せねばならぬ。
また、稀少性の比のうち一つまたは多くにおいて、比の二項中の一方が欠けることも可能である。例えば所有者(2)は、価格が pa であるときは、(A)の需要者でないことがあり得よう。この場合にはこの人にとって(A)の稀少性はあり得ない。なぜなら ra,2 の項は、この所有者が感ずる(A)の最初の欲望の強度 αr,2 より大なる項 parb,2 によって置き換えられねばならぬからである(第八六節)。また例えば所有者(3)が、pa の価格においてはすべてを投じて(A)を需要する人である場合があり得る。すなわち(B)の所有量または存在の全量の供給者である場合があり得る。この場合には、この人にとっては、(B)の稀少性はない、充された欲望がないからである。項 rb,3 はこの所有者が感ずる(B)の最初の欲望の強度 βr,3 より大なる項 pbra,3 によって置き換えられねばならぬ(第八七節)。もっとも parb,2, pbra,3 の項を括弧に入れて、上の表の中に記すことも出来よう。そのときは稀少性は充されたまたは充されねばならぬ最後の欲望の強さと定義されねばならぬ。
これら二つの留保をすれば、私共は次の命題を立てることが出来る。
市場価格または均衡価格は稀少性の比に等しい。他の言葉でいえば、
交換価値は稀少性に比例する。
一〇一 二商品の間に行われる交換に関し、交換の数学的理論の研究の当初に、私は一つの目的を定めた(第四〇節)。それは、経済学及び社会経済学の目的と分け方を取扱った第一編でなしたように、稀少性から出発して交換価値に到らないで、交換価値から出発して稀少性に到ろうとすることであった。今私はここにこの目的を達した。実際、ここに見るような稀少性すなわち充された最後の欲望の強度は、先に私が利用と限られた量との二条件をもって定義した稀少性(第二一節)に全く相一致する。もしある物に欲望が無く、外延利用も強度利用もなく、換言すれば、この物が利用のない無益のものであるとしたら、充された最後の欲望というものはあり得ない。また物が利用曲線をもっていても、外延利用より大なる量において存在し、すなわち量において無限であるならば、充された最後の欲望の強度はあり得ない。だから、ここでいう稀少性は、先にいった稀少性に他ならない。そして、このことは、稀少性が評価し得られる大さと考えられ、また交換価値がそれに伴うのみでなく必然的にそれに比例することがあたかも重量が質量と比例する如くである場合にのみ、あり得るのである。ところで稀少性と交換価値とが、同時に存在し比例を保つ二つの現象であることがたしかだとしたら、たしかに稀少性は交換価値の原因である。
交換価値は重量のように相対的事実であり、稀少性は質量のように絶対的事実である。二商品(A)、(B)があり、その一方が無利用となり、または利用があっても量において無限となれば、それはもはや稀少ではなく、交換価値をもたない。この場合には、他方の商品も交換価値をもたなくなる。しかしこの商品は稀少でなくなりはしない。所有者である人々の各々において種々の程度に稀少であり、それぞれ一定の稀少性をもつのである。
私はここに所有者である人々の各々においてといった。まことに、(A)商品または(B)商品の稀少性というような一般的なものはあり得ない。従って(A)の稀少性の(B)の稀少性に対する一般的比、または(B)の稀少性の(A)の稀少性に対する一般的比なるものも、もちろんあり得ない。(A)または(B)の所有者(1)、(2)、(3)……に対するこれら商品の多数の稀少性があり、これら所有者に対する(A)の稀少性の(B)の稀少性に対する多数の比があるのみである。稀少性は個人的であり、主観的である。交換価値は現実的であり、客観的である。だから、稀少性、有効需要、所有量を速力、通過した空間、通過に要した時間に対比し、また速力をある空間を通過するに用いられた時間に対する通過距離の導函数と定義するように、稀少性をも、所有量に対する有効利用の導函数と定義し得るのは、それぞれの個々の人についてである。
もし(A)商品の稀少性一般または(B)商品の稀少性一般のようなものを考えようとすれば、交換後の各人におけるこれら商品の各々の稀少性の算術平均である平均稀少性をとるより他はない。この概念はあたかも与えられた国における平均身長、平均寿命というようなもので、少しも異常なものではなく、ある場合にははなはだ有益なことさえある。これらの平均稀少性もまた交換価値に比例する。
一〇二 経済学の理論家が、均衡価格の成立の法則を立てるに必要な時間の間、価格の要素を不変であると仮定するのは、理論家としての権利である。けれどもひとたびこの仕事が終れば、価格の要素は本質的にはなはだしく変化するものであることを想い起し、従って均衡価格の変化の法則を立てねばならぬことは、理論家の義務である。これはここになさねばならぬ残された問題である。かつ先の第一の仕事は直ちにこの第二の仕事に導く。けだし価格成立の要素はまた価格変動の要素でもあるからである。価格成立の要素は商品の利用と、これら商品の所有量とである。それ故にこれらはまた価格変動の第一原因であり、条件である。
同一の市場で、(A)と(B)との交換が、まず、上述の市場価格すなわち(B)で表わした(A)の価格、(A)で表わした(B)の価格 μ で行われ、次に、別な価格すなわち(B)で表わした(A)の価格、(A)で表わした(B)の価格 μ' で行われたと想像すれば、この価格の変化は、次の四つの原因の一つまたは数箇、または全体から来ているといい得よう。
一、(A)商品の利用の変化。
二、(A)商品の所有者の一人または多数が所有するこの商品の量の変化。
三、(B)商品の利用の変化。
四、(B)商品の所有者の一人または多数が所有するこの商品の量の変化。
これらの事情は絶対的であって、正確に決定し得られる。もちろん実際においてはこの決定は多少困難であるが、理論的には、これを不可能であるという理由はない。すべての交換者につき、その部分的需要曲線の要素の観点から調査を行えば、問題は直ちに解ける。そして価格変動の主原因のみが、観察者の注意を引く場合もある。例えば(B)商品のある著しい性質が発見せられると同時に、価格が μ から μ' に騰貴すると想像し、またはこの商品の存在量の一部がある偶然的事故によって破壊せられると同時に、価格が μ から μ' に変化すると想像すれば、私共はこれら二つの出来事の各々を突発的に来た価格騰貴の原因となさざるを得ないであろう。人々が欲しないで何事かをなすことはあり得ることであり、価格変動の主原因と条件の決定においてもしばしばかような場合がある。
一〇三 均衡が成立し、各交換者は(B)で表わした(A)の市場価格、(A)で表わした(B)の市場価格 μ において、最大満足を与える所のそれぞれの量の(A)及び(B)を所有しているとする。この状態は稀少性の比と価格とが相等しいことによって存在するのであって、これらが相等しくないようになれば、存在しない。だから最大満足の状態がいかにして利用と所有量の変化によって妨げられるか、またこの妨害はいかなる結果を齎らすかを見よう。
利用の変化は種々な有様で行われ得る。強度利用が増加し、外延利用が減少することもあり得れば、またその反対もあり得る。…この点について一般的命題を立てるには、多少の注意を要する。だから私共は、利用の増加または減少という表現を、交換後における充された最後の欲望の強度すなわち稀少性の増減の結果を生ぜしめる欲望曲線の移動を意味せしめるためにのみ用いたいと思う。これだけを了知して、ある交換者達に対する(B)の利用の増加すなわち(B)の稀少性の増加を生ぜしめる(B)の欲望曲線の移動があったと想像する。このときには、もはやこれらの交換者にとり最大満足ではない。そしてこれらの人にとっては、互に逆な市場価格及び μ において、(A)を供給し、(B)を需要するのが利益である。先には価格及び μ において二商品の需要と供給とが等しかったのであるから、今はこれらの価格においては、(B)の需要は供給より大であり、(A)の供給は需要より大である。そこで pb は騰貴し、pa は下落する。だがこのときから、他の交換者にとっても最大満足ではあり得ない。これらの人々にとっては、(A)で表わした(B)の価格が μ より大であり、(B)で表わした(A)の価格がより小であるならば、(B)を供給して、(A)を需要するのが有利である。均衡が成立するのは、μ より大なる(B)の価格において、またより小なる(A)の価格において、二商品の需要と供給とが相等しいときである。よって先のある人々に対する(B)の利用の増加はその結果として(B)の価格を騰貴せしめる。
(B)の利用の減少がその結果として(B)の価格を下落せしめるであろうことは明らかである。
所有量の増加または減少がその結果として稀少性を減少しまたは増加するのを見るには、欲望曲線を見ればよい。そして稀少性が減少しまたは増加すれば、価格は下落しまたは騰貴することは既に述べた如くである。だから所有量の変化の影響は、利用の変化の影響に純粋にかつ単純に反対である。故に私共は、求める法則を次の言葉でいい表わすことが出来る。
市場において二商品が均衡状態におかれ、かつ他のすべての事情が同一に止まりながら、これら二商品の一方の商品の利用が所有者の一人または多数に対し増加しまたは減少すれば、他方の商品の価値とこの商品の価値との比すなわちこの商品の価格は高騰しまたは下落する。
もしまたすべての事情が同一で、二商品の中の一商品の量が所有者の一人または多数において増加しまたは減少すれば、この商品の価格は下落しまたは高騰する。
なお、他の問題に移るに先立って注意すべきことは、価格の変化はこれら価格の要素の変化を必然的に示しているけれども、これと反対に、価格に変化がないのは価格の要素に変化がないことを必然的に示すものではないということである。実際我々は、別に証明をすることなく、次の二つの命題を立てることが出来る。
二商品が与えられ、もしこれら二商品の中の一方の交換または所有者の一人または多数に対する利用及び量が変化しても、稀少性が変化せぬとすれば、他の商品の価値とこの商品の価値との比すなわちこの商品の価格は変化しない。
またもし、これら二商品の交換者または所有者の一人または多数に対するこれら二商品の利用と量とが変化しても、稀少性の比が変化しなければ、二商品の価格は変化しない。
第三編 多数の商品の間に行われる交換の理論
第十一章 多数の商品の間に行われる交換の問題。
一般均衡の定理
要目 一〇四 二商品間の交換の場合に関する記号の一般化。一〇五 三商品間の交換。一〇六 部分的需要の方程式と総需要の方程式。一〇七 交換の方程式。一〇八 m商品間の交換。需要方程式。一〇九 交換の方程式。一一〇 多数商品間の交換の問題は代数学的に提示されるが、幾何学的には提示されない。一一一 一般均衡の条件。一一二、一一三、一一四 及び α>1 の仮定。裁定(B、A、C)、(A、C、B)、(C、B、A)。pa,b の下落。pb,a の下落。pc,a の騰貴。一一五 α>1、逆の操作と結果。一般均衡方程式。一一六 他のすべての商品を反対給付とする各商品の需要と供給の均等の方程式を、他の商品の各々を反対給付とする各商品の需要と供給の均等の方程式に置き換えること。
一〇四 今、(A)、(B)二商品の間の交換の研究から、(A)、(B)、(C)、(D)……等の多数の商品の間の交換の研究に移ろう。この研究のためには、まず、交換者が一商品の所有者に過ぎない場合を考え、次にこの場合の方程式を適当に一般化すればよい。
今後、(B)をもってする(A)の有効需要を Da,b と呼び、(A)をもってする(B)の有効需要を Db,a と呼び、(B)で表わした(A)の価格を pa,b と呼び、また(A)で表わした(B)の価格を pb,a と呼ぶこととする。しからば四個の未知数 Da,b, Db,a, pa,b, pb,a の間に、有効需要の二個の方程式
Da,b=Fa,b(pa,b)
Db,a=Fb,a(pb,a)
と、有効需要と有効供給の均等を示す二つの方程式
Db,a=Da,bpa,b
Da,b=Db,apb,a
とがあり得るわけである。そして前の二式は、幾何学的には、二つの曲線によって示され、後の二式は、これら二つの曲線のうちに二つの矩形を画き、その底辺を高さの比の逆比に等しからしめ、または面積の比に等しからしめるようにすることによって示される(第五七節)。
一〇五 さてこれら二商品(A)、(B)の場合から、まず(A)、(B)、(C)三商品の場合に転じよう。このために私は、一方から商品(A)を携え、その一部を譲渡して(B)商品を得ようとし、また他の一部を譲渡して(C)商品を得ようとする人々が到着し、他方から(B)商品を所有し、その一部を譲渡して(A)を得ようとし、また他の一部を譲渡して(C)商品を得ようとしている人々が来り、更に他の一方から(C)商品を所有し、その一部を譲渡して(A)商品を得ようとし、また他の一部を譲渡して(B)商品を得ようとしている人々が来る所の一つの市場を考えてみる。
これだけを前提として、多くの人々のうち例えば(B)の一所有者をとり、先になした推論(第五〇節)を展開すると、ここでもまた、この個人のせり上げの傾向が厳密に確定せられ得るといい得よう。
実際、(B)の qb 量を所有し、このうちのある量 ob,a を(A)のある量 da,b と方程式
da,bva=ob,avb
に従って交換しようとし、また他のある量 ob,c を(C)のある量 dc,b と方程式
dc,bvc=ob,cvb
に従って交換しようとして市場に現われる人は、(A)の da,b 量と(C)の dc,b 量とを得ると共に、(B)のy量すなわち
を残して帰っていくであろう。そして量 qb, または pa,b, da,b, または pc,b, dc,b と y との間には、常に、
qb=y+da,bpa,b+dc,bpc,b
の関係がある。
この(B)の所有者は、市場に到着する以前には、すなわち pa,b 及びすなわち pc,b がいかなるものであるかを知らない。だが市場に到着すると同時にこれを知るようになることは確かであり、一度 pa,b 及び pc,b の値が知られたとすれば、da,b, dc,b の値が決定せられ、そこで先に示した方程式によって、yの値もまた決定することは確かである。もちろん、pa,b のみでなく pc,b を知らなければ da,b を決定し得ないし、また pc,b のみでなく pa,b をも知らなければ dc,b を決定し得ない。私共はこれを認めねばならぬ。しかしまた、pa,b と pc,b とが知られれば、これによって、da,b と dc,b とが決定せられることも認めざるを得ない。
一〇六 ところで、ここでもまた、da,b 及び dc,b とこれら商品の価格との直接関係、すなわち(B)をもってする(A)の有効需要及び(C)の有効需要と pa,b, pc,b との直接関係を、数学で表わすことは容易である。この関係は、この人のせり上げの傾向に相応するものであるが、それは二つの方程式
da,b=fa,b(pa,b, pc,b)
dc,b=fc,b(pa,b, pc,b)
によって厳密に表わされる。同様にして、(B)の他の所有者の(A)及び(C)に対するせり上げの傾向を表わす方程式を得ることが出来る。そして最後に、部分的需要のこれらの方程式を単純に合計することによって、(B)のすべての所有者のせり上げの傾向を示す総需要の二つの方程式
Da,b=Fa,b(pa,b, pc,b)
Dc,b=Fc,b(pa,b, pc,b)
が得られる。
同様にして(C)の所有者の全部のせり上げの傾向を表わす総需要の二つの方程式
Da,c=Fa,c(pa,c, pb,c)
Db,c=Fb,c(pa,c, pb,c)
が得られる。
同様にして、最後に(A)の所有者の全部のせり上げの傾向を表わす総需要の二つの方程式
Db,a=Fb,a(pb,a, pc,a)
Dc,a=Fc,a(pb,a, pc,a)
が得られる。
一〇七 その外に、(B)と(A)または(C)との交換の二つの交換方程式
Db,a=Da,bpa,b
Db,c=Dc,bpc,b
が得られる。
また、(C)と(A)または(B)の交換の二つの交換方程式
Dc,a=Da,cpa,c
Dc,b=Db,cpb,c
が得られる。
最後に、(A)と(B)または(C)との交換の二つの交換方程式
Da,b=Db,apb,a
Da,c=Dc,apc,a
が得られる。
結局、三商品のそれぞれで表わした価格六個と、相互に交換せられる三商品のそれぞれの交換合計量六個と合せて、十二個の未知数の間に、十二の方程式が成り立つ。
一〇八 いまある市場に、(A)、(B)、(C)、(D)……等m種の商品があるとする。この場合にも、二商品及び三商品の場合になしたと同じ推論――これを繰り返し述べるのは無用であろう――によって、まず(A)をもってする(B)、(C)、(D)……の有効需要の方程式 m-1 個
Db,a=Fb,a(pb,a, pc,a, pd,a ……)
Dc,a=Fc,a(pb,a, pc,a, pd,a ……)
Dd,a=Fd,a(pb,a, pc,a, pd,a ……)
……………………………………
を得ることが出来る。また(B)をもってする(A)、(C)、(D)……の有効需要の方程式 m-1 個
Da,b=Fa,b(pa,b, pc,b, pd,b ……)
Dc,b=Fc,b(pa,b, pc,b, pd,b ……)
Dd,b=Fd,b(pa,b, pc,b, pd,b ……)
……………………………………
を得る。更にまた(C)をもってする(A)、(B)、(D)……の有効需要の方程式 m-1 個
Da,c=Fa,c(pa,c, pb,c, pd,c ……)
Db,c=Fb,c(pa,c, pb,c, pd,c ……)
Dd,c=Fd,c(pa,c, pb,c, pd,c ……)
……………………………………
を得ることが出来る。更にまた(D)をもってする(A)、(B)、(C)……の有効需要の方程式 m-1 個
Da,d=Fa,d(pa,d, pb,d, pc,d ……)
Db,d=Fb,d(pa,d, pb,d, pc,d ……)
Dc,d=Fc,d(pa,d, pb,d, pc,d ……)
……………………………………
が得られる。このようにして、総数 m(m-1) 個の方程式が得られる。
一〇九 他方、新しい説明を加えることなく、(A)と(B)、(C)、(D)……との交換の交換方程式 m-1 個
Da,b=Db,apb,a
Da,c=Dc,apc,a
Da,d=Dd,apd,a
…………………
を立てることが出来る。また(B)と(A)、(C)、(D)……との交換方程式 m-1 個
Db,a=Da,bpa,b
Db,c=Dc,bpc,b
Db,d=Dd,bpd,b
…………………
を立てることが出来る。更にまた(C)と(A)、(B)、(D)……の交換の方程式 m-1 個
Dc,a=Da,cpa,c
Dc,b=Db,cpb,c
Dc,d=Dd,cpd,c
…………………
を立てることが出来る。更にまた(D)と(A)、(B)、(C)……の交換の方程式 m-1 個
Dd,a=Da,dpa,d
Dd,b=Db,dpb,d
Dd,c=Dc,dpc,d
…………………
が得られる。すなわち総数 m(m-1) 個の交換方程式を立てることが出来る。
これら m(m-1) 個の交換方程式と m(m-1) 個の有効需要の方程式とを合せ、2m(m-1) 個の方程式が得られる。ところで未知数もまた 2m(m-1) 個である。けだし二つずつ互に交換せられるm種の商品に対しては、m(m-1) 個の価格と m(m-1) 個の交換合計量とがあるからである。
一一〇 交換の特殊の場合である二商品間の交換の場合及び三商品相互間の交換の場合には、問題は、幾何学的にも、代数的にも、解かれ得る。なぜならこれら二つの場合には、需要の函数が幾何学的に表現せられ得るからである。二商品の交換の場合には、需要函数は一変数の函数であって、二つの曲線によって表わされ得る。三商品の交換の場合には、需要函数は二つの変数の函数であって、六個の面積によって表わされ得る。前の場合の幾何学的解法は、曲線のうちに単に矩形を画くことにあるし、後の場合のそれは曲面と平面とを交わらしめて得る曲線のうちに矩形を画くことにある。
しかるに一般的な場合には、需要の函数は m-1 個の変数の函数であって、空間のうちには表わし得られない。この場合の問題が、幾何学的にではなく、代数的に提出し、解かれなければならない理由はここにある(一)。しかしここでも忘れてはならないが、問題を提出し、これを解くことは、与えられるいかなる場合にも、問題を実際に解くのではなくして、市場に経験的に与えられかつ解かれている問題の性質を科学的に解釈するというだけのことである。この観点から見ると、代数的解法は幾何学的解法と同等の価値があるという以上に、解析的解法を採用すれば、傑れた一般的で科学的な解法を採用したということが出来よう。
一一一 このようにして多数の商品の間の交換の問題は解けたように見える。しかし実は半ばしか解けていない。上に限定した条件の下では、市場に二つずつの商品の価格のある均衡があるわけである。だがそれは不完全均衡に過ぎない。市場の完全均衡(équilibre parfait)または一般的均衡(équilibre général)は、任意の二つずつの商品の一方で表わした価格が、任意の第三の商品で表わしたそれらそれぞれの商品の価格の比に等しくなければ、実現し得ない。これを証明せねばならないが、そのために例えば多くの商品の中の(A)、(B)、(C)の三つを採り、価格 pc,b は、価格 pc,a と pb,a との比より大であるかまたはより小であると想像し、それからいかなる結果が生ずるかを見よう。
推論の正確を期するため、すべての商品(A)、(B)、(C)、(D)……等の交換が行われる市場として役立つ場所が、二商品ずつ交換せられる部分的市場に分れると想像する。他の表現をもってすれば、市場が、交換せられる商品の名称及び上に記した方程式のシステムによって数学的に決定せられる価格を指示する標識をもって区別せられる個の特別の市場に分たれると、想像する。しからば“互に逆数の価格 pa,b, pb,a で行われる(A)と(B)、(B)と(A)との交換”、“互に逆数の価格 pa,c, pc,a で行われる(A)と(C)、(C)と(A)との交換”、“互に逆数の価格 pb,c, pc,b で行われる(B)と(C)、(C)と(B)との交換”、があるわけである。これだけを前提とし、もし、(B)及び(C)を欲する(A)の各所有者が右の第一及び第二の特別市場で、この(A)を(B)及び(C)と交換するに止まるとすれば、またもし、(A)及び(C)を欲する(B)の各所有者が右の第一及び第三の特別市場で、この(B)を(A)及び(C)と交換するに止まるとすれば、またもし(A)及び(B)を欲する(C)の各所有者が第二及び第三の特別市場で、この(C)を(A)及び(B)と交換するに止まるとすれば、均衡はこれらの状態の下において保たれる。だが容易に了解し得るように、(A)の所有者も、(B)の所有者も、(C)の所有者も、この交換の方法を採用しないであろう。彼らはいずれも、自分に最も有利であろう所の方法で交換を行うであろう。
一一二 そこで、まず α>1 であるとし、
すなわち
であると仮定する。
この方程式から、(B)で表わした(C)の真の価格は、pc,b ではなくして、であるという結果が出てくる。なぜなら、商品(A、B)の市場において、(B)で表わした(A)の価格がであるときには、(B)ので、(A)のが得られるからであり、商品(A、C)の市場において、(A)で表わした(C)の価格がであるときは、(A)ので、(C)のが得られるからである。
また(A)で表わした(B)の真の価格も pb,a ではなくして、であるという結果が出てくる。なぜなら、商品(A、C)の市場において、(A)で表わした(C)の価格がであるときには、(A)ので、(C)のが得られ、商品(B、C)の市場において、(C)で表わした(B)の価格がであるときには、(C)ので、(B)のが得られるからである。
最後にはまた、(C)で表わした(A)の価格も pa,c ではなく、である。なぜなら、商品(B、C)の市場において、(C)で表わした(B)の価格がであるとき、(C)ので、(B)のが得られ、商品(A、B)の市場において、(B)で表わした(A)の価格がであるとき、(B)ので、(A)のが得られるからである。
一一三 この点を具体的数字によって明らかにするため、pc,b=4, pc,a=6, pb,a=2 であると仮定すれば、α=1.33 となる。しからば式
から、(B)で表わした(C)の真の価格は4ではなく、であるという結果が出てくる。なぜなら、商品(A、B)の市場において(B)で表わした(A)の価格がであるときは、(B)の3で、(A)の 3×2=6 が得られ、また商品(A、C)の市場において、(A)で表わした(C)の価格が6であるときには、(A)の6で、(C)のが得られるからである。
なおまた、(A)で表わした(B)の真の価格は2ではなく、であるという結果が出てくる。なぜなら、商品(A、C)の市場で、(A)で表わした(C)の価格が6であるときは、(A)の 1.50 で、(C)のが得られ、商品(B、C)の市場において、(C)で表わした(B)の価格がであるときは、(C)ので、(B)のが得られるからである。
最後にまた(C)で表わした(A)の真の価格はではなくして、であるという結果が出てくる。なぜなら、商品(B、C)の市場において、(C)で表わした(B)の価格がであるときは、(C)ので、(B)のが得られ、商品(A、B)の市場においては、(B)で表わした(A)の価格がであるときは、(B)ので、(A)のが得られるからである。
一一四 そこで、(A)、(B)、(C)の各所有者のある者は、(A)と(B)との直接的交換を、躊躇なく、(A)と(C)及び、(C)と(B)との間接的交換に代え、またある他の者は、(B)と(C)との直接的交換を、躊躇なく、(B)と(A)及び(A)と(C)との間接的交換に変化せしめ、また他のある者は、(C)と(A)との直接的交換を、躊躇なく、(C)と(B)及び(B)と(A)との間接的交換に変化せしめる。この間接的交換は裁定(arbitrage)と呼ばれる。そして彼らは、かくして得らるる節約を、思うままに種々の欲望に配分し、出来るだけ最大量の満足が得られるように、ある商品を補足増加する。私共は、この最大満足の条件を示すことが出来る。それは、充された最後の欲望の強度の比が、裁定から生じた真の価格に等しいということである。しかしこの考察に入ることなく、この補充的需要は主たる需要のようになされるものであることを注意するので足るであろう。すなわちこの補充的需要の場合にも、(A)の所有者は、(A)と(C)、(C)と(B)とを交換し、(A)と(B)とを交換しない。(B)の所有者は、(B)と(A)、(A)と(C)とを交換し、(B)と(C)とを交換しない。(C)の所有者は、(C)と(B)、(B)と(A)とを交換し、(C)と(A)とを交換しない。このようにして、(A、B)の市場では、常に(A)の需要と(B)の供給とがあるが、(B)の需要と(A)の供給とはない。そこで pb,a は下落する。(A、C)の市場では、常に(C)の需要と(A)の供給があるが、(A)の需要(C)の供給はない。そこで pc,a は騰貴する。(B、C)の市場では、常に(B)の需要と(C)の供給とがあるが、(C)の需要と(B)の供給とがない。そこで pc,b は下落する。
一一五 それで解るように、である場合には、市場の均衡は決定的すなわち一般的ではない。だから裁定が行われ、その結果 pc,b は下落し、pc,a は騰貴し、pb,a は下落する。また同時に解るように、である場合には、市場において裁定が行われ、その結果 pc,b は騰貴し、pc,a は下落し、pb,a は騰貴する。実際この場合には α<1 とすれば、
すなわち
αpb,cpa,bpc,a=1
である。そこで次の結果が生ずる。(C)で表わした(B)の真の価格は、(C)と(A)とを交換し、(A)と(B)とを交換することを条件として、αpb,c であり、(B)で表わした(A)の真の価格は、(B)と(C)とを交換し、(C)と(A)とを交換することを条件として、αpa,b であり、(A)で表わした(C)の真の価格は、(A)と(B)とを交換し、(B)と(C)とを交換することを条件として、αpc,a である。そして(A)、(B)、(C)の価格について述べたことは、任意の三商品の価格についてもいい得ることは明らかである。故にもし、裁定が起らないことを欲し、市場における二つずつの商品の均衡が一般的均衡となることを欲すれば、任意の二つずつの商品の価格は、任意の第三の商品で表わしたそれぞれの価格の比に等しいという条件を入れてこなければならぬ。換言すれば、次の方程式を立てることが出来なければならぬ。
このようにして、合計 (m-1)(m-1) 個の一般均衡の方程式がある。それには、逆数の価格の方程式個が陰伏的に含まれている。このようにすべての価格を表わす所の商品は価値尺度財(numéraire)である。
一一六 条件の方程式 (m-1)(m-1) 個を導き入れれば、先に述べた需要方程式と交換方程式の体系から、導入方程式に等しい数の方程式を減ぜねばならぬのは、もちろんである。これは、特殊の個々の市場に一般的市場を換えた場合に、各々の商品の間の個々の相互の需要と供給との均等を示す交換方程式に、他のすべての商品を反対給付とする各商品の需要または供給を示す次のような方程式を換えることによって、まさしく現われることである。
Da,b+Da,c+Da,d+ …… =Db,apb,a+Dc,apc,a+Dd,apd,a+ ……
Db,a+Db,c+Db,d+ …… =Da,bpa,b+Dc,bpc,b+Dd,bpd,b+ ……
Dc,a+Dc,b+Dc,d+ …… =Da,cpa,c+Db,cpb,c+Dd,cpd,c+ ……
Dd,a+Dd,b+Dd,c+ …… =Da,dpa,d+Db,dpb,d+Dc,dpc,d+ ……
…………………………………………………………………………
すなわち代って現われる方程式はm個である。しかしこれらm個の方程式は、縮減すれば、m-1 個となる。すなわち、一般均衡から引出した価格の値をそこに導き入れ、かつ簡単に、(A)で表わした(B)、(C)、(D)……の価格を pb, pc, pd ……で示せば、右のm個の方程式は
となる。そしてこれらの方程式の終りに位する m-1 個の方程式の中の第一の両辺に pb を乗じ、その第二の両辺に pc を、その第三に pd ……を乗じた後、これら m-1 個の方程式を加算し、両辺から同一の項を省略すれば、右のシステムの中の最初の式と同じ方程式が得られる。だからこの最初の式は切り捨てられ得るのであり、従って右の方程式の体系は m-1 個の方程式の体系となる。これらの方程式は m-1 個の交換方程式として存在し、これらと、m(m-1) 個の需要方程式と (m-1)(m-1) 個の一般均衡の方程式とが加わって、合計 2m(m-1) 個の方程式となる。その根は、m種の商品相互で表わした価格 m(m-1) 個と、相互に交換せられるm種の商品の交換合計量 m(m-1) 個である。需要方程式が与えられたとき、価格が数学的にいかに生じてくるかは、これによって明らかになった。証明が未だ残っているのは、このような理論的解法を与えられた交換問題は、実際においてもまた市場において自由競争の機構によって同様に解決せられるということである。この点ははなはだ重要である。だがこの証明をするに先立ち、交換者が多数の商品の所有者である場合を考察してみよう。この場合もまた、最大満足の定理で簡単に容易に取扱い得る一般的場合である。
註一 しかしこの幾何学的解法を私は附録1、価格決定の幾何学的理論に示しておいた。
第十二章 多数の商品の間の交換の問題の数学的解法の一般的方式。商品の価格の成立の法則
要目 一一七 多数の商品の所有者の一般の場合。一一八 交換量の均等の方程式、極大満足の方程式、部分的需要または供給の方程式。一一九、一二〇、一二一、一二二 供給が所有量に等しい条件、その結果。一二三 全部需要及び供給の均等方程式。一二四 市場における多数商品の交換。一二五 叫ぶ価格、価値尺度財による価格は一般均衡を含む。最大満足の条件に適合する部分的需要または供給の計算によらない決定。一二六、一二七 全部需要または供給の不均等。一二八 価格が零から無限大まで変化するときの全部需要または供給の変化。一二九、一三〇 需要が供給を超過するとき価格を引上げ、供給が需要を超過するとき価格を引下げねばならぬ。
一一七 二商品相互間の交換の場合と同じく、いかなる数の商品間の交換の場合においても、部分的需要の方程式は、欲望の最大満足の条件によって、数学的に決定せられる。ところでこの条件はいかなるものであるか。それは、常に、任意の二商品の稀少性の比が、これら二商品の一方で表わした他方の商品の価格に等しいということである。もしこれが相等しくないとしたら、この両者を交換すれば利益が得られる(第八〇節)。だが各交換者がただ一つの商品のみを所有し、かつ裁定をさせる目的で、人々が m 個の商品の二つずつの m(m-1) 個の価格を叫んだとし、もしこれらが一般均衡の条件に適ったものでないならば、それらの価格においては、各交換者に最大の満足は生じない。各交換者に最大の満足が生ずるのは、各交換者が需要する商品の稀少性の自分が所有する商品の稀少性に対する比が、裁定によって得られる真の価格に等しいときである。しかしもし、交換者が多数の商品の所有者であり、裁定が発生しないことを欲し、価値尺度財として採択せられた第m番目の商品で表わした m-1 個の商品の価格 m-1 個を叫ぶとすれば、任意の二商品の中の一方で表わした他方の価格は、価値尺度財で表わした二商品のそれぞれの価格の比に等しくなければならないから、各交換者に対し最大満足が生ずるのは、価値尺度財以外の商品の各々の稀少性と、この価値尺度財の稀少性との比が、叫ばれたそれぞれの価格に等しいときであることは明らかである。
一一八 そこで、交換者(1)は、(A)の qa,1 量、(B)の qb,1 量、(C)の qc,1 量、(D)の qd,1 量……の所有者であるとする。またこの交換者に対する、ある期間における商品(A)、(B)、(C)、(D)……の利用曲線すなわち欲望曲線は、それぞれ r=φa,1(q), r=φb,1(q), r=φc,1(q), r=φd,1(q) ……であるとする。(A)で表わした(B)、(C)、(D)……の価格は、それぞれ pb, pc, pd ……であるとする。そして価格が pb, pc, pd ……であるとき、この交換者(1)が自分で所有していた量 qa,1, qb,1, qc,1, qd,1 …に加える所の(A)、(B)、(C)、(D)……のそれぞれの量を、x1, y1, z1, w1 ……とする。この加えられた量は正である場合がある。そのときには、それらは需要量を示す。またそれらは負であり得るが、その場合には、供給量を示す。そしてこの交換者がある商品を需要するには、等価量の他の商品を供給せねばならないから、x1, y1, z1, w1 ……等の量のうちで、あるものが+であれば、他は-であること、またこれらの間に一般的に方程式
x1+y1pb+z1pc+w1pd+ …=0
が成立することは、明らかである。
また最大満足の状態が仮定せられているから、これらの量の間には、次の一組の方程式が明らかに存在する。
φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1+x1)
φc,1(qc,1+z1)=pcφa,1(qa,1+x1)
φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1)
……………………………………
すなわち m-1 個の方程式があり、これらは、前式と合せて、m個の方程式の一組となる。これらの方程式の中で、未知数 x1, y1, z1, w1 ……の m-1 個を順次に消去し、第m番目の未知数を諸価格の函数として示す方程式だけを残すことが出来る。ところで、交換者(1)による(A)の需要または供給は、方程式
x1=-(y1pb+z1pc+w1pd ……)
によって与えられ、また、右のようにして、この交換者によってなされる(B)、(C)、(D)……の需要または供給の次の如き方程式が得られる。
y1=fb,1(pb, pc, pd ……)
z1=fc,1(pb, pc, pd ……)
w1=fd,1(pb, pc, pd ……)
…………………………
同様に交換者(2)、(3)……によってなされる(A)の需要または供給は、方程式
x2=-(y2pb+z2pc+w2pd ……)
x3=-(y3pb+z3pc+w3pd ……)
…………………………………
によって与えられ、また、これらの交換者によってなされる(B)、(C)、(D)……の需要または供給の次の方程式が得られる。
y2=fb,2(pb, pc, pd ……)
z2=fc,2(pb, pc, pd ……)
w2=fd,2(pb, pc, pd ……)
…………………………
y3=fb,3(pb, pc, pd ……)
z3=fc,3(pb, pc, pd ……)
w3=fd,3(pb, pc, pd ……)
…………………………
このようにして、すべての交換者のせり上げへの傾向は、諸商品のこれらの人々の各々に対する利用と、これらの人々によって所有せられるこれら商品の量とから導き出される。それはとにかく、私共の研究を進行せしめるに先立って、ここにはなはだ重要な解説をしておかねばならぬことがある。
一一九 価格 pb, pc, pd ……がある値をとるとき、y1 が負であることがあり得る。これは、交換者(1)が商品(B)を需要しないで、供給する場合である。また y1 が -qb,1 に等しいことさえもあり得る。これは、この交換者が商品(B)を残しておかない場合である。y1 のこの値を、最大満足の m-1 個の方程式の体系に入れると、これらの方程式は、
φb,1(0)=pbφa,1(qa,1+x1)
φc,1(qc,1+z1)=pcφa,1(qa,1+x1)
φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1)
……………………………………
となる。そしてこれらの方程式及び方程式
x1+y1pb+z1pc+w1pd+ …… =qb,1pb
から、pb, pc, pd …を消去すれば、方程式
x1φa,1(qa,1+x1)+z1φc,1(qc,1+z1)+w1φd,1(qd,1+w1)+ …… =qb,1φb,1(0)
が得られる。
この方程式は、次の言葉に飜訳し得べき条件方程式である。――多数の商品の中の一商品の供給がこの商品の所有量に等しいためには、需要せられる諸商品の欲望曲線の包む面積の部分で、既に所有せられる量によって充された欲望を表わす部分より上方にある部分のうちに、矩形を画き、これら矩形の面積の合計が、供給せられる商品の所有量を高さとし、この商品の最大の欲望の強度を底辺として作られた矩形の面積に等しくなければならぬ。
この条件は、充されることもあれば、充されないこともある。もしそうであるとすれば、交換者(1)による(B)の供給は、ある場合には、自分が所有する量 qb,1 に等しいことが可能である。だが、この供給は決してこの量より大ではあり得ない。故に、(B)の需要または供給の方程式において、pb, pc, pd ……が、負の y1 を qb,1 より大ならしめるようないかなる値をとるときも、この方程式は、方程式
y1=-qb,1
によって置き換えられねばならぬことを注意すべきである。
一二〇 だがこれのみではない。まず、pb, pc, pd ……が負の z1, w1 ……を qc,1, qd,1 ……より大ならしめる値をとる場合の、(C)、(D)……の需要または供給の方程式にも、同じことがいわれ得る。次に、これらの方程式が、方程式
z1=-qc,1, w1=-qd,1
によって置き換えられねばならぬ場合にもまさしく、(B)の需要または供給の方程式は、右の結果として修正せられねばならぬ。
よって、例えば z1=-qc,1 である場合には、交換者(1)による(B)の需要または供給の方程式の体系は次の如くである。
x1+y1pb+w1pd+ …… =qc,1pc
φb,1(qb,1+y1)=pbφa,1(qa,1+x1)
φd,1(qd,1+w1)=pdφa,1(qa,1+x1)
……………………………………
すなわち全部で、m-1 個の方程式がある。これらの方程式の中で、x1, w1 ……等の m-2 個の未知数を順次に消去し、y1 を pb, pc, pd ……の函数として示す方程式しか残らないようにすることが出来る。w1=-qd,1 の場合も、同様である。最後にまた、商品(C)、(D)……等の中の一商品のみでなく、二個、三個、四個……等、一般に任意の多数の諸商品の供給が所有量に等しい場合にも同様であることは、この上の解説を俟たないで理解し得られよう。
一二一 私は、価値尺度財である商品(A)の需要及び供給の方程式については、何もいわなかった。これは特殊な形をとる。だがまず明らかなことは、この方程式もまた、pb, pc, pd ……の値が負の x1 を qa,1 より大ならしめるものであるときは、方程式 x1=-qa,1 によって置き換えられねばならず、かつこの場合には、交換者(1)による(B)の需要または供給を示す方程式の体系は次のようなものとなることである。
y1pb+z1pc+w1pd …… =qa,1
pbφc,1(qc,1+z1)=pcφb,1(qb,1+y1)
pbφd,1(qd,1+w1)=pdφb,1(qb,1+y1)
………………………………………
すなわち m-1 個の方程式があることに変りはない。これらの中で、z1, w1 ……等の m-2 個の未知数を順次に消去し、pb, pc, pd ……の函数としての y1 を与える方程式しか残らないようにすることが出来る。
一二二 需要または供給方程式がこれらの制限を満足するように、これらの方程式を組み立てることが多少困難であることはもちろんである。けれども(A)で表わした(B)、(C)、(D)……のある価格 p'b, p'c, p'd ……が叫ばれたとき、すべての商品の需要量と供給量とは、供給量と所有量とが等しいとの事実の下に、完全に一定していることも明らかである。このことははなはだ重要である。私はこの点を明らかにしようと思う。
q=ψa,1(r), q=ψb,1(r), q=ψc,1(r), q=ψd,1(r) ……を交換者(1)に対する(A)、(B)、(C)、(D)……の利用方程式であって、量に関して解かれ、稀少性に関して解かれていないものであるとする。しからば、交換の後には、次の式が得られる。
qa,1+x'1=ψa,1(r'a,1)
qb,1+y'1=ψb,1(r'b,1)
qc,1+z'1=ψc,1(r'c,1)
qd,1+w'1=ψd,1(r'd,1)
………………………
その他交換せられる量の等価値の条件及び最大満足の条件(第一一八節)の結果として、方程式
qa,1+p'bqb,1+p'cqc,1+p'dqd,1+ ……
=ψa,1(r'a,1)+p'bψb,1(p'bψb,1(p'br'a,1)+p'cψc,1(p'cr'a,1)+p'dψd,1(p'dr'a,1)+ ……
が得られる。この最後の方程式は r'a,1 を与える。r'a,1を用いて、r'b,1, r'c,1, r'd,1 ……が得られ、従って x'1, y'1, z'1, w'1 ……が得られる。保留せられまたは獲得せられる商品は、充されるべき最初の欲望の強度が、価格と r'a,1 との積より大なるものである。
もし r'a,1 が(A)の最初の欲望の強度より大であれば、交換者(1)は価値尺度財である商品を需要もせねば、保留もしない。
一二三 交換者(1)、(2)、(3)……による(A)、(B)、(C)、(D)……の需要または供給の方程式は仮定によって右の制限を満足するために適当に組み立てられているから、x1+x2+x3+ ……の合計、y1+y2+y3+ ……の合計、z1+z2+z3 ……の合計、w1+w2+w3+ ……の合計を、それぞれ X, Y, Z, W ……で表わし、函数 fb,1, fb,2, fb,3 ……の合計、函数 fc,1, fc,2, fc,3 ……の合計、函数 fd,1, fd,2, fd,3 ……の合計を、それぞれ Fb, Fc, Fd, ……で表わそう。商品(A)、(B)、(C)、(D)……の需要と供給との均等条件は、私共が問題としている一般の場合には、方程式 X=0, Y=0, Z=0, W=0 ……によって表わされているから、均衡価格の決定に対して、次の方程式
Fb(pb, pc, pd ……)=0
Fc(pb, pc, pd ……)=0
Fd(pb, pc, pd ……)=0
…………………………
すなわち m-1 個の方程式がある。ところで、pb, pc, pd ……は本質上正であるから、もしこれらの方程式が満足せられると、すなわち Y=0, Z=0, W=0 であると、明らかに
X=-(Ypb+Zpc+Wpd+ ……)=0
である。
一二四 このようにして、m商品の中の第m番目の価値尺度財として採用せられた商品で表わした m-1 個の商品の m-1 個の価格は、次の三つの条件によって数学的に決定せられる。(一)各交換者は、彼のすべての稀少性の比が価格に等しくて、欲望の最大満足を得ること、(二)価値尺度財で表わした各商品の価格で、有効全需要を有効全供給に等しからしめるものは、ただ一つしかないのであるから、各交換者は与えるものに比例して受けとらねばならぬし、受けとるものに比例して与えねばならぬこと、(三)二商品の互に他方で表わした均衡価格は、ある第三の商品で表わしたそれぞれの均衡価格の比に等しいから、裁定が起る余地がないこと。そこで今は、既に科学的解法を見出した多数の商品間の交換のこの問題が、また市場においては競争の機構によって経験的に解かれているが、それがいかようにしてであるかを見ようと思う。
一二五 まず、価値尺度財を採用すれば、市場において、m個の商品の相互間の価格 m(m-1) 個は、減じて、m番目の商品で表わした m-1 個の商品の価格 m-1 個となる。このm番目の商品は価値尺度財である。そして他の商品相互の間の価格 (m-1)(m-1) 個は、それぞれ、一般均衡の条件によって価値尺度財で表わしたこれら商品の価格の比に等しいと考えられるべきである。p'b, p'c, p'd ……が(A)で表わした(B)、(C)、(D)……の価格 m-1 個であって、かつ偶然に叫ばれたものであるとすると、かく叫ばれたこれらの価格において各交換者は、(A)、(B)、(C)、(D)……の供給または需要を決定する。このことは、各交換者が別に計算することなく、ただ反省をなすことによって行われるのであるが、それでありながら、需要量と供給量とが相等しいことを示す方程式及び最大満足の方程式の体系により、また先にいったような制限によって補充せられた体系により計算したのと、全く同じように行われる。いま、正または負の x'1, x'2, x'3, … y'1, y'2, y'3, … z'1, z'2, z'3 … , w'1, w'2, w'3 …を価格が、p'b, p'c, p'd ……であるときの部分的需要または供給であるとする。もし各商品の総需要と総供給とが相等しければ、すなわち直ちに明かであるように Y'=0, Z'=0, W'=0 となり、従って X'=0 となれば、交換はこれらの価格において行われ、問題は解かれるであろう。だが一般に各商品の総需要と総供給とは相等しくなく、であり、従ってであろう。かような場合には、人々は市場においていかに行動するか。需要が供給より大であれば、価値尺度財で表わしたこの商品の価格を騰貴せしめるであろうし、供給が需要より大であれば、価格を下落せしめるであろう。しからば理論的解法と市場の解法が同一であることを証明するにはいかなる証明を要するか。その答は簡単である。すなわち市場における価格の騰落が、需要と供給の均等方程式の体系を、摸索によって解く方法であることを証明すればよい。
一二六 ここで思い起さねばならぬのは、方程式
X'+Y'p'b+Z'p'c+W'p'd+ …… =0
の存在である。ところで価格 p'b, p'c, p'd ……に対応する正の x, y, z, w ……のそれぞれの合計を D'a, D'b, D'c, D'd ……と呼び、負のそれぞれの合計の符号を変えたものを O'a, O'b, O'c, O'd ……と呼べば、右の方程式は次の形とすることが出来る。
D'a-O'a+(D'b-O'b)p'b+(D'c-O'c)p'c+(D'd-O'd)p'd+ …… =0
そして p'b, p'c, p'd ……は本質上正であるから、量 X'=D'a-O'a, Y'=D'b-O'b, Z'=D'c-O'c, W'=D'd-O'd ……のあるものが正であれば、あるものは負であり、その逆も真である。換言すれば、価格が p'b, p'c, p'd ……であるとき、ある商品の総需要が総供給より大であれば、他の商品の総供給は総需要より大であり、その逆もまた真である。
一二七 今、不等式
をとり、これを次の形とする。
ここで函数 Δb は正の y の合計すなわち Db を表わし、函数 Ωb は負の y の合計の符号を変えたものすなわち Ob を表わすものとする。pc, pd ……を捨象して、これらを一定とし、pb のみを決定すべき価格であるとして、(B)の需要と供給とが相等しくなるには、pb をゼロと無限大との間にいかに変化せしめることを要するかを求めてみよう。私共は函数 Fb も、函数 Δb も函数 Ωb も知らない。しかし、これらの函数に関して、今の問題とする操作において、いかにして pb が Fb をしてゼロを通らしめ、または函数 Δb と Ωb とを等しからしめる値――もしありとすれば――をとるに至るかを示すに充分な指示を、私共は、既に研究した交換の事実の性質から引出すことが出来る。
一二八 まず函数 Δb について見るに、(A)、(C)、(D)……をもってする(B)の需要の函数は、pb=0 であるときすなわち(A)、(C)、(D)……で表わした(B)の価格がゼロであるとき正である。実際に、これらの価格がゼロであるときには、(B)の有効総需要は、総外延利用が所有総量に超過する量に等しい。この超過する量は、(B)商品が稀少であって社会的富の一部を成しているものならば、常に正である。pb が増大し、それと共に(A)、(C)、(D)……で表わした(B)のすべての価格もそれに比例して増大すれば、函数 Δb は減少する。けだしこれは減少函数の合計であるからである。この場合には、(B)商品は、商品(A)、(C)、(D)……と比較的にはますます高騰するわけである。実際にこの仮定において、他のすべての事情を同一であるとすれば、この需要が増加するであろうことは、許し難い。この需要は減少せざるを得ないのである。そしてこの需要がゼロとなるには、pb はかなり大であるが、場合によっては無限大でもあると想像し得られる。換言すれば、(A)、(C)、(D)……で表わした(B)の価格がかなり高いときにしか、Δb はゼロとはならぬであろうと想像せられる。
次に函数 Ωb すなわち(A)、(C)、(D)……と交換せられる(B)の供給の函数は、pb=0 であるときはもちろん、pb が正のある値をとるときでも、換言すれば(A)、(C)、(D)……で表わした(B)の価格がゼロであるときはもちろん、正のある大きさをとるときでも、ゼロである。実際、(B)商品の需要がゼロであるためには、(A)、(C)、(D)……で表わした(B)の価格がかなり高いと常に想像し得たと同じく、(A)、(C)、(D)……に対する需要がゼロとなり従って(B)の供給もゼロとなるには、(B)で表わした(A)、(C)、(D)……の価格がかなり高いと想像することが出来る。pb が増大し、これと比例して(A)、(C)、(D)……で表わした(B)のすべての価格が高くなるときには、函数 Ωb は、初めに増大し、次に減少する。けだしこの函数は初め増大し、次に減少する函数の合計であるからである。この場合には、商品(A)、(C)、(D)……は商品(B)と比較的には次第に安くなるわけであり、そしてこれらの商品の需要は、これらの需要に伴う(B)の供給と同時に順次に現われてくるのである。だがこの供給は無限には増加しない。少くともそれは所有全量より大なることの出来ない一つの最大を通過し、次に減少し、pb が無限となればすなわち(A)、(C)、(D)……が無償となれば、ついにゼロに帰る。
一二九 これらの条件のうちに、そして Ob がゼロであることを已める以前に Db がゼロとなって、解法不能となるのでなければ、――この場合は交換者の間に多数の商品を所有する者がある場合には現われ得ないのであるが―― Ob と Db とを相等しからしめる pb のある値が存在する。この値を見出すには、もし価格が p'b であるとき、Y'>0 ならば、すなわち D'b>O'b ならば、p'b を増大せねばならぬし、もしまた価格が p'b であるとき Y'<0 ならばすなわち O'b>D'b ならば、p'b を減ぜねばならぬ。かようにして次の方程式が得られる。
Fb(p''b, p'c, p'd ……)=0
この操作が行われると不等式
は、
となる。しかし価格が p'c であるとき、Z'>0 であれば、すなわち D'c>O'c であれば、p'c を増大し、また価格が p'c であるとき、Z'<0 であれば、すなわち O'c>D'c であれば、p'c を減少して、方程式
Fc(p''b, p''c, p'd ……)=0
を得ることが出来る。
同様にして、方程式
Fd(p''b, p''c, p''d ……)=0
が得られ、以下同様である。
一三〇 これらのすべての操作を行えば、
が得られる。ここでこの不等式が、当初の不等式
より等式に近いことを証明せねばならぬ。ところで、p'b から、右の最後の不等式を等式たらしめる p''b への変化は直接的影響を生じ、少くとも(B)の需要についてはすべて同一方向の直接的影響を生ずることを思い、また反対に p'c, p'd から、先の不等式を等式より遠からしめる p''c, p''d への変化は間接的影響を生じ、少くとも(B)の需要については、互に反対の方向をとりつつある点まで相殺する影響をもつものであることを想えば、右の不等式が当初の不等式より均等により近いことは、確かであろう。この理由によって、新しい価格 p''b, p''c, p''d ……の体系は旧価格 p'b, p'c, p'd ……の体系より均衡に近いのであり、同じ方法を連続すれば、いよいよこれに近づくのである。
よって、価値尺度財を仲介として多数の商品の間に行われる交換の場合における均衡価格の成立の法則を、次の如く表現することが出来る。――多数の商品が与えられ、それらの交換は価値尺度財の仲介によって行われるとして、これらの商品に関し、市場の均衡があるべきためには、換言すれば価値尺度財で表わしたこれらすべての商品の静止的価格が存在するためには、これらの価格において、各商品の有効需要とその有効供給とが等しくなければならず、また等しければ足るのである。この均等が存在しない場合に、均衡価格に達するためには、有効需要が有効供給より大なる商品に価格の騰貴がなければならぬし、有効供給が有効需要より大なる商品に価格の下落がなければならぬ。
第十三章 商品の価格の変動の法則
要目 一三一 多数商品間の交換の解析的定義。一三二 一般均衡状態における任意の二商品の稀少性の比率がすべての交換者について等しいこと。一三三、一三四 交換価値と稀少性の比例性、欲望曲線の不連続性の場合に関する留保、需要がゼロの場合、または供給が所有量に等しい場合に関する留保。一三五 平均稀少性。一三六 交換価値が不定かつ恣意的な条件。一三七 利用の変化及び量の変化による価格の変化、利用及び量の同時的変化による価格の固着性。一三八 供給と需要の法則について。
一三一 以上に述べてきた所によって明らかなように、多数の商品があるときも、二商品しか存在しないときと同じく、市場価格または均衡価格の成立の必要にしてかつ充分な要素は、所有者が所有する商品の量と、交換者に対するこれらの商品の利用方程式または欲望の方程式とであって、これらの方程式は常に曲線に表わされ得る。そしてこれらの構成要素から、(一)部分的及び総需要または供給の方程式、(二)市場価格すなわち均衡価格が出てくる。ただ、一方最大満足の条件と、他方任意の二商品間の価格がただ一つであってかつ総需要と総供給とが相等しくなければならぬという条件との二条件に、価格の一般均衡の条件を附け加えねばならぬ。
だから――自由競争によって支配される市場における多数の商品相互の間の交換は、これら商品の一種または多種またはすべての種類の所有者のすべてが欲望の最大満足を得ることの出来る行動である。ただしこの欲望の最大満足とは、任意の二商品が共通で同一なる比率で互に交換せられるのみでなく、またこれら二商品が他の任意の第三の商品と交換せられて、これらの交換比率の比が最初の二商品間の交換比率に等しくなければならぬという条件の下における欲望の最大満足である。
一三二 もし価格を価値尺度財で表わして叫ぶとすると、一般均衡の条件はこの事実によって充される。換言すればこの一般均衡の条件が裁定の方法によって充されるわけである。今これらの行動の正確な結果を説明するのが便利であろう。
交換者(1)を(A)の所有者とし、交換者(2)を(B)の所有者とし、交換者(3)を(C)の所有者とし、ra,1, rb,1, rc,1, rd,1 …… ra,2, rb,2, rc,2, rd,2, …… ra,3, rb,3, rc,3, rd,3, ……をこれら三交換者に対する商品(A)、(B)、(C)、(D)、……の稀少性とし、かつしばらくこれらの稀少性は価格の変化に応じて変化する稀少性であるとする。裁定が起り得ないとの仮定の下においては、最大満足の条件は次の如く表わされる。
次に裁定が可能であると仮定し、ただ三つの商品(A)、(B)、(C)と三人の交換者(1)、(2)、(3)のみを考えてみる。価格は互に逆数であるから、裁定前には次のような関係がある。
裁定後、一般均衡状態においては次のような関係が現われる。
だから、三商品(A)、(B)、(C)及び三交換者(1)、(2)、(3)についての推論が、すべての商品とすべての交換者にも拡張し得ることを知れば、次のことがわかる。市場が一般均衡状態にあるときは、任意の二商品の稀少性の比は、一方の商品で表わした他方の価格に等しいが、この比はこれら二商品のすべての所有者においても同一である。
一三三 va, vb, vc, vd ……を商品(A)、(B)、(C)、(D)……の交換価値とし、ra,1, rb,1, rc,1, rd,1 …… ra,2, rb,2, rc,2, rd,2 …… ra,3, rb,3, rc,3, rd,3 ……を交換者(1)、(2)、(3)に対する交換後におけるこれら商品の稀少性であるとすれば、交換後には、
である。これをまた次のように表わすことも出来る。
va:vb:vc:vd: ……
::ra,1:rb,1:rc,1:rd,1: ……
::ra,2:rb,2:rc,2:rd,2: ……
::ra,3:rb,3:rc,3:rd,3: ……
:: ……………………………
ここまでは、交換方程式を作り、かつ解くに当って、無限小の量ずつ消費することの出来る商品、すなわち連続的な利用曲線または欲望曲線をもつ所の商品しか考えなかった。けれども、性質上ある単位ずつしか消費され得ない商品、すなわち不連続な利用曲線または欲望曲線をもつ商品の場合も考えねばならない。かかる場合はすこぶる多い。例えば家具、衣服の場合などである。第一のベッド、第一の衣服、第一足の靴等の利用と、同じ性質の第二の物の利用との間、またはこれら第二の物の利用と第三の物の利用との間には、常にかなりの強度の差がある。この差は時には著しく大である。跛者にとっての第一対の松葉杖、近視眼者にとっての第一対の眼鏡、職業音楽家に対する第一のヴァイオリンはいわば欠くことの出来ないものである。第二対の松葉杖、第二対の眼鏡、第二のヴァイオリンは、いわば、余分のものである。これらのすべての場合にあっては、二商品しか無かったときと同じく、多数の商品についても、稀少性の表の中に、充された最後の欲望の強度と充されない最初の欲望の強度との平均にほぼ等しい比例項を、特に注意線を引いて、記入せねばならぬ。
その上に、ここでもまた、一個または多数の項が、与えられた交換者の諸稀少性のうちに欠けていることがあり得る。これは、この交換者がある商品を所有していないのではあるが、市場価格ではこれを需要しない場合に、またはこれを所有しているが、所有する量の全部を供給する場合に、常に起ることである。富める者は、充された最後の欲望は多数であって、かつこれらの強度は大ではない。反対に貧しい者は、充された最後の欲望は少数であり、かつそれらの強度は大である。そしてここでもまた、二商品の場合と同じく、多数の商品の場合にも、右の表中に、括弧の中に入れて、消費せられた他の商品で表わした消費せられない商品の価格に前者の稀少性を乗ずることによって得られる項を記入することが出来るはずである。
これらの二つの留保をすれば、次の命題を立てることが出来る。――交換価値は稀少性に比例する。
一三四 一方において、(A)、(B)、(D)を無限小量ずつ消費せられ得る商品であるとし、従って、αr,1αq,1, αr,2αq,2, αr,3αq,3, βr,1βq,1, βr,2βq,2, βr,3βq,3, δr,1δq,1, δr,2δq,2, δr,3δq,3(第五図)を交換者(1)、(2)、(3)に対するこれらの商品の連続な利用曲線または欲望曲線であるとする。他方において、(C)は性質上一単位ずつしか消費し得られない商品であるとし、従って、γr,1γq,1, γr,2γq,2, γr,3γq,3 は交換者(1)、(2)、(3)に対するこの商品の不連続な利用曲線または欲望曲線であるとする。2, 2.5, 0.5 を(A)商品で表わした(B)、(C)、(D)の価格であるとする。
私の図の例においては、交換者(1)は富める人であり、(A)、(B)、(C)、(D)商品をそれぞれ 7, 8, 7, 6 量消費し、その結果それらの稀少性は弱いものとなり、それぞれ 2, 4, 6, 1 であるとし、かつ面積 Oqa,1ra,1αr,1, Oqb,1rb,1βr,1, Oqc,1rc,1γr,1, Oqd,1rd,1δr,1 によって表わされる相当に大きい有効利用の合計量を得ているとする。商品(A)、(B)、(D)の稀少性 2, 4, 1 は価格 1, 2, 0.5 に正確に比例する。(C)の稀少性 6 は、(C)の充された最後の欲望の強さ 6 と充されない最初の欲望の強さ 4 との中間の数、(次の表で下線を引いておいた)5=2×2.5 によって置き換えられねばならぬ。交換者(2)は貧しい人であって、(A)と(D)とをそれぞれ 3 と 2 の量を消費し、それらの稀少性は強くて 6 と 3 とであり、面積 Oqa,2ra,2αr,2, Oqd,2rd,2δr,2 によって表わされる多くない有効利用の合計量を得ている。しかしこの貧しい人は(B)も(C)も得ることが出来ぬ。なぜならこの人の稀少性の系列に現われるべき数 12=6×2, 15=6×2.5 はこれらの商品の充されるべき最初の欲望の強さ 8 と 11 を超えるからである。そして交換者(3)は中産者であって(A)、(B)、(D)をそれぞれ 5, 4, 3 量消費し、平均稀少性は 4, 8, 2 であり、面積 Oqa,3ra,3αr,3, Oqb,3rb,3βr,3, Oqd,3rd,3δr,3 によって表わされる有効利用のかなりの合計量を得ている。しかしこの人は(C)をもっていない。なぜなら稀少性の系列中に現われるべき数字 10=4×2.5 はこの商品の充されるべき最初の欲望の強度 8 を超えるからである。有効稀少性でない可能的稀少性(raretés virtuelles)に相当する数を括弧の中に入れれば、次の表が得られる。
1:2:2.5:0.5
::2:4:5:1
::6:(12):(15):3
::4:8:(10):2
一三五 平均稀少性の比は、既に知ったように、個人的稀少性の比と同一である。ただ平均を作るには、下線を引いた比例数と括弧内の比例数をも考慮中に置かねばならぬ。これだけの条件を付して、(A)、(B)、(C)、(D)……の平均稀少性を Ra, Rb, Rc, Rd, ……と呼べば、方程式
に、方程式
を置き換えることが出来る。これらの方程式は主要な経済問題の解決に全く決定的な役割を演ずる。
一三六 交換価値の性質はかくも複雑な事実であり、ことに多数の商品がある場合にそうであるが、交換価値の性格はここに初めて明らかになってきた。va, vb, vc, vd ……はいかなるものであるかといえば、それ自身は、不定であり任意のものであるが、これらの項の比例は、均衡状態において、すべての交換者におけるすべての商品の稀少性の共通にして同一な比を示すものである。従って、これらの項の二つずつの比は、任意の交換者における稀少性の二つずつの比に等しく、数学的表現を与えることが出来る。だから交換価値は本質的に相対的な事実であり、その原因は、常にひとり絶対的事実である所の稀少性にある(一)。ところで、各交換者に対しては、いかなる場合にも、商品m個のm個の稀少性しかあり得ないと同じく、均衡状態にある市場には、いかなる場合にも、これらm個の商品の交換価値m個の不定項しかあり得ない。そしてこれらの項の二つずつ組合わされて、これら商品相互間の m(m-1) 個の価格が成立する。この事情があるにより、ある場合には、計算上に項の比を記す代りに、任意項それ自体を記すことが出来る。あるいは更に一歩を進めて、均衡状態においては、各商品は、市場における他の一切の商品との関係において、ただ一つの交換価値しかもたないといいたい人もあろう。だがかかる表現は、価値を絶対的のものと考える見方に偏している。だから、ここに問題とせられた事実を表わすには、一般均衡の定理の中の用語(第一一一節)または交換の解析的定義の中の用語(第一三一節)を用いるに如くはない。
一三七 利用と所有量とは常に価格の成立の第一原因であって、また条件でもある。
いま均衡が成立し、商品(A)で表わした商品(B)、(C)、(D)の価格は pb, pc, pd ……であって、各交換者は(A)、(B)、(C)、(D)……等のそれぞれの量を所有、これらが各交換者に最大満足を与えると想像する。かつ利用の増減という表現を、常に欲望曲線の移動の意味にのみ用いることとする。この移動は、その結果として、交換後における充された最後の欲望の強度すなわち稀少性を増減する。これだけを前提として、(B)の利用増加すなわち(B)の欲望曲線の移動が生じ、その結果ある交換者に対する(B)の稀少性の増加が生じたとする。しからばこれらの人々にとってはもはや最大満足ではあり得ない。これらの人々は、価格 pb, pc, pd ……で(B)を需要し、(A)、(C)、(D)……を供給するのが有利である。ところで、価格 pb, pc, pd ……ですべての商品(A)、(B)、(C)、(D)……の需要と供給とが均等していたとすれば、今やこれらの価値では、(B)の需要はその供給を超え、(A)、(C)、(D)……の供給は需要を超える。そこで pb は騰貴する。このときから、他の交換者にとっても、最大満足ではないであろう。そして、(A)で表わした(B)の価格が pb より大であれば、これらの人々は(B)を供給し、(A)、(C)、(D)……を需要するのが有利である。すべての商品(A)、(B)、(C)、(D)……の需要と供給とが相等しくなるとき、均衡は成立する。だから、右に仮定した人々に対する(B)の利用の増大は、その結果として、(B)の価格を騰貴せしめる。それはまた、その結果として、(C)、(D)……の価格を変化せしめ得る。だがまず、もし(B)以外の商品が市場に多数存在し、従って(B)と交換せられるそれらの各々の量が極めて小であるとすると、(C)、(D)……等の価格の変化は、(B)の価格の変化より著しくない。かつ、(C)、(D)……の価格のこれらの変化が騰貴となって現われるかまたは下落となって現われるかは、何ものも示してくれない。否、騰貴または下落が起るであろうことさえも、何ものも示してくれない。このことは、補充的交換が行われて新しい均衡が成立したときの稀少性の地位を研究すれば了解することが出来る。補充的な交換によって、(B)の稀少性の(A)の稀少性に対する比は、すべての交換者において必然的に増加する。すなわち各交換者におけるこの比の増加は、(B)利用が変化せず、(B)を再び売って、(A)、(C)、(D)……を買い戻す人にあっては、(B)の稀少性の増加と(A)の稀少性の減少によって生ずる。またこの比の増加は、(B)の利用が増加し、従って(B)を買戻し、(A)、(C)、(D)……を再び売る人においては、(A)の稀少性の増加と(B)の稀少性のより強い増加によって生ずる。また各交換者における(C)、(D)……の稀少性の(A)の稀少性に対する比について見るに、これらの比のうちのあるものは増加し、他のある比は減少し、またある比は変化しない。従って、(C)、(D)……の価格のうち、あるものは騰貴し、あるものは下落し、またあるものは変化しない。要するに、(B)の稀少性はすべての交換者において増加し、その平均稀少性は増加するけれども、(A)、(C)、(D)……の稀少性は、ある交換者においては増加し、ある者においては減少して、その平均稀少性は変化しないことを注意すべきである。我々は、もし欲するならば、各型の交換者につき、右に述べた減少をグラフで表わすことが出来る。例えば第五図において、(B)の利用は交換者(1)において増加したから、この交換者は(B)を買戻し、(A)、(D)を売る。交換者(2)は何事もしない。交換者(3)は(B)を再び売って、(A)、(D)を買戻す。これらが(B)の利用の増加の結果である。この利用の減少はこれと反対の結果、すなわち(B)の価格の下落と(C)、(D)……の価格の僅少な変化を生ぜしめることは明らかである。
所有量の増加がその結果として稀少性を減少せしめ、またこの所有量の減少がその結果として稀少性を増加せしめることを知るには、欲望曲線を見るに如くはない。かつ稀少性が減少しまたは増加すれば、価格は下落しまたは高騰することは、右に見てきた如くである。故に所有量の変化の結果は、利用の変化の結果と単純にかつ全く反対であって、従って、私共は、求める法則を次の言葉でいい表わすことが出来る。
交換が価値尺度財の仲介で行われる市場において、多数の商品が均衡状態において与えられたとして、もし他のすべての事情が同一であって、これらの商品の中の一商品の利用が交換者の一人または多数に対し増加しまたは減少すれば、価値尺度財で表わしたこの商品の価格は増大しまたは減少する。
またもし他のすべての事情が同一であり、これらの商品の中の一商品の量が所有者の一人または多数において増加しまたは減少すれば、この商品の価格は減少しまたは増加する。
ここで注意せねばならぬが、価格の変化は必然的にこれらの価格の原因に変化があったことを示すにしても、価格に変化が無いのは必ずしもこれらの価格の要因に変化がないことを示すものではない。けだし、私共は、何らの他の証明をしないでも、直ちに次の二命題を立言することが出来るからである。
多数の商品が与えられ、これらの商品の中の一商品の量が交換者または所有者の一人または多数において変化しても、稀少性が変化しないとすれば、この商品の価格は変化しない。
すべての商品の利用と量とが交換者または所有者の一人または多数において変化しても、稀少性の比に変化が無いとすれば、これらの商品の価格は変化しない。
一三八 これが均衡価格の変動の法則である。これを均衡価格成立の法則(第一三〇節)と結合すれば、経済学上需要供給の法則と称せられる法則の科学的形式が得られる。この法則は最も根本的な法則でありながら、今日まで、無意味なまたは誤った表現しか与えられていなかった。ある人は「物の価格は需要供給の比によって決定せられる」といって、特に価格の成立のみを見ている。またある人は「物の価格は需要に正比例して変化し、供給に反比例して変化する」といって、むしろ価格の変動を見ている。だが、実は一つのものに過ぎない所のこれらの二つの表現に、何らかの意味を与えようとすれば、まず需要と供給との定義を与えねばならない。ところで供給を定義して有効供給の意味としても、また所有量または存在量としても、また需要を定義して有効需要の意味としても、または外延利用としても強度利用としても、あるいはまた外延と強度の双方を含む利用としても、あるいは可能的利用としても、比という語を商(quotient)という数学的意味に解すれば、価格が需要の供給に対する比でもなければ、また供給の需要に対する比でもないことは明らかであり、また価格が需要に正比例し供給に反比例して変化もせねば、供給に正比例し需要に反比例して変化もしないことは明らかである。故に経済学の根本法則は、今日まで、単に証明せられなかったのみでなく、また正しく認識せられず、方式化せられなかったと、いっても過言ではない。なお附言しておきたいが、ここに問題となった法則またはこれを構成する二つの法則を証明するには、有効需要と有効供給とを定義し、有効需要と有効供給とが価格に対してもつ関係を研究し、稀少性の定義を下し、稀少性と価格との関係をも研究することが必要である。そしてこれらのことは、数学的用語と方法と原理に頼ることなくしては、為し得られるものではない。そこで結局、数学的形式は純粋経済学に対して単に可能な形式に止まるのではない、必要にして欠くべからざる形式である。なお、このことについては、ここまで私に追随してきた読者は少しの疑をも挟まないであろうと、私は思う。
註一 相対的で客観的な交換価値と絶対的で主観的な稀少性との区別は、交換価値と使用価値との区別をそのまま正確に表わしている。
第十四章 等価値配分の定理。価値測定の手段と交換の仲介物とについて
要目 一三九 交換者間の商品の分配の変化。所有量の等価値の条件。総存在量の同一の条件。一四〇 極大満足の条件に合致する部分的需要または供給。一四一 各交換者の需要量と供給量は常に等価値である。一四二 全ての商品の総需要と総供給は常に等しい。一四三 この場合所有量の等価値と総量の等量という二つの条件により市場価格は変化しない。一四四 二つの条件の必要。一四五 価値尺度財、単位、単位の変化。一四六 価格の合理的な表現、通俗の表現、通俗の表現の二重の誤謬。(1)単位の価値は固定かつ不変の価値ではない。(2)単位の価値なるものは存在しない。一四七 単位は一定量の尺度財の価値ではなく、この量そのものである。一四八 貨幣。一四九、一五〇 貨幣を媒介とする富の交換。
一三九 商品(A)、(B)、(C)、(D)……が(1)、(2)、(3)……の交換者によってそれぞれ qa,1, qb,1, qc,1, qd,1 …… qa,2, qb,2, qc,2, qd,2 …… qa,3, qb,3, qc,3, qd,3 ……ずつ所有せられているとすれば、これらの商品のそれぞれの合計は次の如くである。
Qa=qa,1+qa,2+qa,3+ ……
Qb=qb,1+qb,2+qb,3+ ……
Qc=qc,1+qc,2+qc,3+ ……
Qd=qd,1+qd,2+qd,3+ ……
………………………………
そして所有量のこれらの条件と、利用方程式または欲望方程式によって決定せられた可能的利用の条件との下に、これらの商品は、一般均衡価格 pb, pc, pd ……で互に交換せられる。
今これらの同じ商品(A)、(B)、(C)、(D)……が、同じ交換者(1)、(2)、(3)……の間に、以前とは異る有様に配分せられると想像する。しかし同時に、これらの交換者の各々が所有する新しい量 q'a,1, q'b,1, q'c,1, q'd,1 …… q'a,2, q'b,2, q'c,2, q'd,2 …… q'a,3, q'b,3, q'c,3, q'd,3 ……の価値の合計は、元の所有量の価値は合計に等しいとする。すなわち次の如くであるとする。
qa,1+qb,1pb+qc,1pc+qd,1pd+ ……
=q'a,1+q'b,1pb+q'c,1pc+q'd,1pd+ ……
[1] qa,2+qb,2pb+qc,2pc+qd,2pd+ ……
=q'a,2+q'b,2pb+q'c,2pc+q'd,2pd+ ……
qa,3+qb,3pb+qc,3pc+qd,3pd+ ……
=q'a,3+q'b,3pb+q'c,3pc+q'd,3pd+ ……
…………………………………………
かつ、商品の存在合計量は変化しないと仮定する。すなわち(A)、(B)、(C)、(D)……の合計量は次の如くであると仮定する。
Qa=q'a,1+q'a,2+q'a,3+ ……
Qb=q'b,1+q'b,2+q'b,3+ ……
[2] Qc=q'c,1+q'c,2+q'c,3+ ……
Qd=q'd,1+q'd,2+q'd,3+ ……
………………………………
所有量のこれらの新条件と可能的利用の元の条件との中においては、均衡価格は、理論的にも実際においても、依然として、pb, pc, pd ……であろうと、私は主張する。
一四〇 すべての交換者の中から、その一人(1)を捕え、この人は、これらの価格で、(A)、(B)、(C)、(D)……をそれぞれ x'1, y'1, z'1, w'1 ……量だけ獲得し、総計して次の量を所有するに至ったと仮定する。
q'a,1+x'1=qa,1+x1
q'b,1+y'1=qb,1+y1
[3] q'c,1+z'1=qc,1+z1
q'd,1+w'1=qd,1+w1
…………………………
これによって、この交換者は欲望の最大満足を得るのである。なぜなら、彼は次の方程式の体系によって欲望の満足を得るからである。
φb,1(q'b,1+y'1)=pbφa,1(q'a,1+x'1)
φc,1(q'c,1+z'1)=pcφa,1(q'a,1+x'1)
φd,1(q'd,1+w'1)=pdφa,1(q'a,1+x'1)
…………………………………………
交換者(2)、(3)……もまた、右の価格で、商品(A)、(B)、(C)、(D)……のそれぞれ x'2, y'2, z'2, w'2 …… x'3, y'3, z'3, w'3 ……を獲得し、次の合計量を得れば、彼らの欲望の最大満足を得ることが出来る。
q'a,2+x'2=qa,2+x2
q'b,2+y'2=qb,2+y2
q'c,2+z'2=qc,2+z2
q'd,2+w'2=qd,2+w2
[3] …………………………
q'a,3+x'3=qa,3+x3
q'b,3+y'3=qb,3+y3
q'c,3+z'3=qc,3+z3
q'd,3+w'3=qd,3+w3
…………………………
ここでなお証明が残っているのは、(一)右に定められた条件において、これらの交換者はかくの如き量を需要しまたは供給し得ること、(二)これらの同じ条件において、各商品の有効総需要はその有効総供給に等しいことである。
一四一 ところでまず、方程式の体系[1]によって、方程式
qa,1-q'a,1+(qb,1-q'b,1)pb+(qc,1-q'c,1)pc+(qd,1-q'd,1)pd+ …… =0
が得られる。この方程式は、体系[3]によって、次の形に置き換えられる。
x'1-x1+(y'1-y1)pb+(z'1-z1)pc+(w'1-w1)pd+ …… =0
そして既に
x1+y1pb+z1pc+w1pd+ …… =0
であるから、また
x'1+y'1pb+z'1pc+w'1pd+ …… =0
である。同じ理由によって
x'2+y'2pb+z'2pc+w'2pd+ …… =0
x'3+y'3pb+z'3pc+w'3pd+ …… =0
…………………………………………
である。従って。交換者(1)、(2)、(3)……によって需要せられる商品(A)、(B)、(C)、(D)……の量の合計の価値は、これらの人々によって供給せられるこれらの商品の量の合計の価値に等しい。
一四二 他方、体系[3]の方程式を適当に互に加算すれば、
x'1+x'2+x'3+ …… =qa,1+qa,2+qa,3+ ……
-(q'a,1+q'a,2+q'a,3+ ……)+x1+x2+x3+ ……
が得られる。そして既に、
X=x1+x2+x3+ …… =0
が得られ、かつ
q'a,1+q'a,2+q'a,3+ …… =qa,1+qa,2+qa,3+ ……
であるから、
X'=x'1+x'2+x'3+ …… =0
が得られる。のみならず、同様にして
Y'=y'1+y'2+y'3+ …… =0
Z'=z'1+z'2+z'3+ …… =0
W'=w'1+w'2+w'3+ …… =0
であり、従って、各商品の全部有効需要と全部有効供給とは相等しい。
一四三 故に価格 pb, pc, pd ……は、配分の変化の前と同じく、変化の後においても、また均衡価格である。そして市場における競争の機構は、要するに、計算を行って価格を実際的に決定することに他ならないのであるから、次の結果が生ずる。――多数の商品が均衡状態において市場に与えられたとし、もし、これらそれぞれの量の商品をいかように配分しても、これらの交換者の各々によって所有せられる量の合計の価値が常に相等しければ、これらの商品の市場価格は変化しない。
一四四 この証明の全過程中、私は Qa, Qb, Qc, Qd ……が変化しないと仮定した。従って所有者例えば(1)によって所有せられる商品(A)、(B)、(C)、(D)……の量が、等価値条件の範囲内において、増加しまたは減少したとすれば、商品の全合計量が一定であるとの条件を充すには、他の所有者の一人または多数例えば(2)または(3)によって所有せられるこれらの商品の量は、同じ条件の範囲内において、減少しまたは増加せねばならないのは、明らかである。けれども、もし商品が市場に著しく多量に存在し、かつ交換者が多数であれば、あるただ一人の所有者によって所有せられる商品の量の変化は、等価値の条件の範囲のうちに現われる変化である限り、他の所有者の何人の所有量にもそれに相応した変化が無いならば、価格に対し目立つほどの影響をもたないものであり、この所有者の特殊な地位もまた市場の一般的地位も何ものも変化しないと考え得られることは、明らかである。これは、ある場合によく利用せられる大数法則の一応用である。しかしながらここでは、私は数学的厳密性の領域のうちに止っていたいと思う。だから価格が絶対に変化しないと立言し得るためには、所有量の価値が等しいとの条件と存在の合計量が一定であるとの条件の二つが充されていると、仮定せねばならない。
一四五 市場の一般均衡の定理は、次の言葉で表現し得られる。
――市場の均衡状態においては、二商品ずつ行われるm個の商品の交換を支配する m(m-1) 個の価格は、これらm商品の中の任意の m-1 個の商品と第m番目の商品との交換を支配する m-1 個の価格によって間接的に決定せられている。
よって一般的均衡状態においては、すべての商品の価値を、これらの商品の中の一商品の価値に関係せしめて、市場の地位を完全に確定することが出来る。この一商品は価値尺度財と呼ばれ、その量の単位は測定単位(étalon)と呼ばれる。今(A)、(B)、(C)、(D)……の価値を(A)の価値に関係せしめたと仮定すれば、次の一系列の価格が得られる。
pa,a=1, pb,a=μ, pc,a=π, pd,a=ρ ……
もしこれらの商品の価値を(A)に関係せしめないで、(B)の価値に関係せしめたとすれば、次の一系列の価格が得られる。
よって――ある価値尺度財で表わした価格を、他の価値尺度財で表わした価格に変更するには、これらの二財中の前者によって表わした価格を、この元の尺度財で表わした新価値尺度財の単位の価格で除せばよい。
一四六 この体系において、(A)が銀であり、九〇%銀半デカグラム(五グラム)が銀の量の単位であり、(B)が小麦であってヘクトリットルがこの小麦の量の単位であるとする。市場において、一般的均衡状態の下に、小麦の一ヘクトリットルが一般に九〇%銀二四半デカグラム(一二〇グラム)と交換せられる事実は、方程式
pb,a=24
によって表わされる。これは次のようにいい表わされ得る。――「銀で表わした小麦の価格は二四である。」――もし量の単位を明らかにすれば、――「小麦一ヘクトリットルの価格は九〇%銀の二四半デカグラムである。」――または、「小麦は一ヘクトリットルで九〇%銀の二四半デカグラムの価値がある。」といい得る。この表わし方と、私が一般的考察をなしたとき(第二九節)実際の慣習から借りた表わし方――「小麦は一ヘクトリットルで二四フランの価値がある。」――との間には、九〇%銀の半デカグラムという語をフランという語で置き換えてあると無いとの差異がある。この差異は充分な注意を払って論究せられねばならぬ。
フランという語は、大多数の人々の考では、メートル、グラム、リットルという語と類似したものである。ところでメートルは二つの事柄を表わしている。まず第一は子午線のある分数の長さを表わし、第二に長さの一定不変の単位を表わしている。同様にグラムという語もまた二つの事柄を表わしている。まず最大密度の蒸溜水のある量の重量を表わし、第二に重量の一定不変の単位を表わす。リットルも容量に関し、同様に二つの事柄を表わしている。通常の人々にはフランもまたこれと同じように見えるのである。すなわちフランという語は、第一にある品位の銀のある量の価値を表わし、第二に価値の一定不変な単位を表わしているように見える。
この考え方のうちには区別すべき二つの点が含まれている。(一)フランという語は九〇%銀の半デカグラムの価格を示すこと、(二)単位として採られたこの価格は一定不変であること。この第二の点は重大な誤謬であって、いかなる経済学者もこの誤謬に陥ってはいない。経済学をいかにわずかにせよ研究した人は、メートルとフランの間に本質的な差異があって、メートルは長さの一定不変な単位であり、フランは一定でも不変でもなく、人々により多少の意見の差こそあれ認められる事情により、時と処によって変化するものであることを、認める。だからこの点を論駁して、時を空費する必要もなかろう。
だがこの第二の点を別としても、なお第一の点が残っている。すなわちメートルが子午線の四分の一の百万分の一の長さであるように、フランも九〇%銀の半デカグラムの価値であるという点が残っている。この見方をとっている経済学者は、フランは変化するメートルであるが、しかしとにかくメートルであるという。だがもしすべての長さが絶えず、物体の膨脹収縮により、変化運動をなしているとすれば、私共はこれらの長さをこの限界の内においてしか測定することが出来ないが、この限界内ではこれを測定し得る。ところがすべての価値は、既に知ったように、変化の運動を絶えず続けている。だから時と処とを問わず、価値を相互に比較することは出来ない。だが与えられた処と与えられた時においては、これらの価値を相互に比較し得ないのではない。私共はかかる条件の下において価値を計るのである。
この体系において、(A)は銀であり、九〇%銀の半デカグラムは銀の量の単位であり、(B)は小麦であり、ヘクトリットルは小麦の量の単位であるから、次の方程式を立てることが出来ると、人々は信じている。
va=1 フラン
そして市場において、小麦の一ヘクトリットルが一般に九〇%銀の二四半デカグラムに交換される事実は、方程式
vb=24 フラン
によって表わされる。この方程式は次の如くいい表わされる。――「小麦は一ヘクトリットルで二四フランの価値がある。」
しかしながら問題となるこの第二点は、第一点と同じく、誤である。この関係においても、第一点の関係においてと同じく、価値と長さ、重量、容積との間には何らの類似もない。与えられた長さ例えば家の間口の長さを測るときには、三つの事柄がある。この間口の長さ、子午線の四分の一の百万分の一、及び第一の長さの第二の長さすなわち尺度に対する比が、それである。価値がこれに類似し、与えられた位置と時とにおいて与えられた価値例えば一ヘクトリットルの小麦の価値を同様に測り得るためには、価値にも三つの事柄がなければならぬ。小麦の一ヘクトリットルの価値、九〇%銀半デカグラムの価値、第一の価値が第二の価値すなわち尺度に対する比。ところでこれら三つの事柄のうち、第一と第二は存在しない。第三のみが存在する。私の分析はこのことを完全に証明した。価値は本質的に相対的なものである。もちろん相対的価値の背後には絶対的なあるもの、すなわち充された最後の欲望の強度、すなわち稀少性がある。けれども絶対的であって相対的でないこれらの稀少性は、主観的であり、個人的であって、現実的でもなく、客観的でもない。それらは私共のうちにあって、事物のうちにあるのではない。故にこれらを交換価値に置き換えることは出来ない。そこで、稀少性なるものも存在せねば、九〇%銀の半デカグラムの価値なるものも実在せず、フランという語は実在しないものの名称であるということになる。科学が認めなければならぬこの真理をセイは完全に認めたのであった。
一四七 だがそうだからといって、価値と富とを測定し得ないということにはならない。ただ私共の尺度の単位はある商品のある量でなければならず、商品のこの量の価値であってはならぬという結果が出てくるのみである。
例の如く(A)を価値尺度財とし、(A)の量の単位を測定単位とする。価値は自ら測定せられる。なぜなら価値の比は交換せられた商品の量に反比例して直接に現われるから。かくて、(B)、(C)、(D)……の価値の(A)の価値に対する比は、(B)の一、(C)の一、(D)の一に交換せられた(A)の単位数、すなわち(A)で表わした(B)、(C)、(D)……の価格に現われる。
これらの条件の下で、(A)で表わした(B)、(C)、(D)……の価格を簡単に pb, pc, pd ……で表わし、Qa,1 を
Qa,1=qa,1+qb,1pb+qc,1pc+qd,1pd+ ……
となるように、交換者(1)によって所有せられる(A)、(B)、(C)、(D)……の量の価値の合計に等しい(A)の量とする。私共は、等価値配分の原理により、qa,1, qb,1, qc,1, qd,1 ……を変化せしめることが出来る。もし配分せられた新しい量が、右の方程式を(同時に商品の合計量が等しいとの条件をも)満足すれば、これは交換者(1)に、市場において pb, pc, pd ……の価格で、この価格においての最大満足を得せしめる所の(A)、(B)、(C)、(D)……の量を獲得せしめる。故に商品のこの種々なる量の総量と最大満足を与える量とを表わす所の Qa,1 は、交換者(1)が所有する富の量でもある。
同一の条件の下において、
Qa,2=qa,2+qb,2pb+qc,2pc+qd,2pd+ ……
Qa,3=qa,3+qb,3pb+qc,3pc+qd,3pd+ ……
であるとする。Qa,2, Qa,3 ……は交換者(2)、(3)……によって所有せられる富の量である。これらの量は同じ種類の単位から成立しているから、Qa,1 とも、また Qa,2, Qa,3 ……相互の間でも比較せられ得る。
最後に Qa, Qb, Qc, Qd ……を市場に存在する(A)、(B)、(C)、(D)……の総量であるとし、かつ
Qa=Qa,1+Qa,2+Qa,3+ ……
=Qa+Qbpb+Qcpc+Qdpd+ ……
であるとする。Qa は市場に存在する富の総量である。そしてこの量は、Qa,1, Qa,2, Qa,3 ……に比較することも出来、また Qa, Qbpb, Qcpc, Qdpd ……に比較せられることも出来る。
一四八 以上に述べたことが価値及び富の測定の手段の真の役割である。だが一般に価値尺度財として役立つ商品はまた貨幣(monnaie)としても役立つものであって、交換の媒介たる職分をつくす。その場合には価値尺度財の単位は貨幣の単位となる。価値尺度財たる職能と交換の媒介たる職能とは異る二つの職能であって、兼ねられていても、明らかに区別せられなければならない。私は価値尺度財たる職分を説明した後を承けて、交換の媒介物たる職能の概念を明らかにせねばならない。
(A)を交換の媒介物として役立たしめるために指定せられた商品であるとする。また例の如く、pb=μ, pc=π, pd=ρ ……であるとする。最大満足の条件により、これら一般均衡価格においては、商品(A)、(B)、(C)、(D)……の有効に供給せられた量に等しい有効に需要せられる量 M, P, R …… N, F, H …… Q, G, K …… S, J, L ……がある。そして直接交換の仮定においては、この交換は次の方程式に従って行われる。
Nvb=Mva, Qvc=Pva, Svd=Rva ……
Gvc=Fvb, Jvd=Hvb, Lvd=Kvc ……
一四九 しかし実際に近いように貨幣を介在せしめる仮定においては、これと異る。(A)を貨幣とし、(B)を小麦とし、(C)をコーヒーとする。実際においては、小麦の生産者は、小麦を貨幣と交換に売り、コーヒーの生産者も同様である。かようにして得られる貨幣でコーヒーを購い、小麦を購う。これがここで私が仮定しようとすることである。(A)の所有者は、商品である貨幣を所持する事実によって、仲介者となる。(B)の所有者は、売ろうとする(B)のすべてを、価格 μ で(A)の所有者に売り、買おうとするすべての(C)、(D)、……等を価格 π,ρ ……で買う。これらの操作は方程式
(N+F+H+ ……)vb=(M+Fμ+Hμ+ ……)va
(Fμ=Gπ)va=Gvc, (Hμ=Jρ)va=Jvd ……
によって表わされる。
(C)、(D)……の所有者も同様の行動をなすであろう。それらは方程式
(Q+G+K+ ……)vc=(P+Gπ+Kπ+ ……)va
(Gπ=Fμ)va=Fvb, (Kπ=Lρ)va=Lvd ……
(S+J+L+ ……)vd=(R+Jρ+Lρ+ ……)va
(Jρ=Hμ)va=Hvb, (Lρ=Kπ)va=Kvc ……
によって表わされる。
一五〇 私はここで、媒介者としての(A)の買とまた売とは、この商品それ自体の価格には何らの影響を与えることなしに行われると仮定した。実際においては、事情はこれと全く異る。各交換者は交換の目的で自分のために貨幣の貯蔵をもち、従ってこれらの条件の下において、商品を貨幣として用いるときは、この価値は影響を受ける。このことについては後に研究するであろう。しかしこの研究を留保しても、貨幣の介在と通貨の介在との間に完全な類似があることが解るであろう。実際二つの方程式
から
を引出し得ると同様に、また二つの方程式
(Fμ=Gπ)va=Gvc, (Gπ=Fμ)va=Fvb
から、
Gvc=Fvb
を引出すことが出来る。よって、欲するならば、価値尺度財を捨象して、間接的価格から直接的価格に達し得ると同様に、貨幣を捨象して、間接的交換から直接的交換に到ることが出来る。
第十五章 商品の購買曲線と販売曲線。価格曲線
要目 一五一 多数商品の場合は二商品の場合に帰着する。(A)、(B)、(C)、(D)……間の一般均衡。(B)の出現。(B)による(A)、(C)、(D)……の部分的需要曲線。(A)、(C)、(D)……による(B)の部分的需要曲線。(A)、(C)、(D)……の所有者及び(B)の所有者の場合。購買曲線と販売曲線。一五二 比例的減少の条件。一五三 (B)の供給が総存在量に等しい場合。一五四 価格の曲線。一五五 購買曲線と販売曲線は交換方程式から導き出すことが出来る。一五六 一般に唯一の市場価格が存在する。
一五一 私が交換方程式に与えた解(第一二七――三〇節)から既に、一商品を価値尺度財として採用すれば、その結果として、多数の商品の交換の場合をある点まで二商品相互の間の交換の場合に帰せしめることが出来、一般均衡の市場価格の決定を簡単にすることが出来るということが出てくる。ここでもまた私は、この単純化が、純粋理論の見地からも、応用理論の見地からも、実践の見地からも、はなはだ重要なことを力説せねばならない。けだし価値尺度財を用いるこの仮定に立てば、我々はますます実際に近づいてくるからである。
(A)を価値尺度財とする。一方において、商品(A)、(C)、(D)……の有効に需要せられた量をそれらの有効に供給せられた量に等しく、P', Q', R', S', K', L' ……であるとし、(A)で表わした(C)、(D)の一般均衡価格 pc=π, pd=ρ で交換せられ、または交換せられようとしているとする。他方、市場に(B)商品が現われて、商品(A)、(C)、(D)……と交換せられるとする。
これだけを前提として、多数の者のうちから(B)の一所有者を採って考える。もし、(A)で表わした(B)の価格 pb すなわち(B)で表わした(A)の価格において、この所有者が(B)の ob 量を供給するとすれば、彼はこれと交換に、(A)の da=obpb 量を受けるであろう。そして(A)で表わした(C)、(D)……の価格を知っているから、彼はこの(A)の量を、(A)と(C)と(D)……との間にいかに配分すべきかを、よく理由を知って、決定することが出来る。他の言葉でいえば、決定した価格 π, ρ ……を使っている故に、彼が知らねばならぬのは、決定すべき価格 pb だけである。だが彼はこの価格について可能なあらゆる仮定を作ることが出来、かつこれらの仮定の各々に対して、せり上げの傾向をあるいは pb の函数としての(B)の供給曲線により、あるいはの函数としての(A)需要曲線 adap(第七図)によって表わすことが出来る。
実際においても事は全くこのように行われる。市場に新しい商品が現われると、この商品の所有者らはその量のどれだけを犠牲にし、他の商品の量のどれだけを得べきかを決定し、自分の商品の供給をその価格を基礎として調整する。
他方、多数の者のうち、(A)、(C)、(D)……のすべてを所有する者を採って考えてみる。もし、この所有者が(A)で表わした(B)の価格 pb で、(B)の db 量を需要すれば、この人はこれと交換に oa=dbpb に等価値な(A)、(C)、(D)…の量を与えねばならぬ。そして(A)で表わした(C)、(D)の価格をよく知っているのであるから、この人は、よく理由を知って、この(A)の量を(A)、(C)、(D)をもっていかに構成すべきかを決定し得るであろう。他の言葉でいえば、決定した価格 π, ρ ……を知っているのであるから、彼が知らないのは、決定すべき pb だけである。しかし彼は、この価格については可能なすべての仮定をなすことが出来、これらの仮定の各々に対し、せり上げの傾向を pb の函数としての(B)の需要曲線 bdbp によって表わすことが出来る。
ここでもまた、実際においても事は全くこのように行われる。市場に新しい商品が現われると、他の商品の所有者らは、この新しい商品のどれだけの量を得、他の商品のどれだけの量を犠牲にすべきかを決定しながら、この商品の需要をその価格を基礎として調整する。
私は、交換者が(B)の所有者であると同時に(A)、(C)、(D)……の所有者である場合についていわなかった。しかしこの場合もまた二商品相互の間の交換の理論によってあらかじめ知られている。かかる交換者は二つの曲線、すなわちある価格に対する(A)の需要曲線または(B)の供給曲線と、それらの価格の逆数の価格に対する(B)の需要曲線または(A)の供給曲線を作らねばならぬ(第九四節)。そしてこれらの二曲線が先の曲線に加えられる。
部分的需要曲線が加えられて、総需要の曲線 AdAp, BdBp(第八図)となる。(A)の需要曲線 AdAp からは、(B)の供給曲線 NP が導き出される。この供給曲線はまたこの同じ商品の部分的供給曲線の合計により、直接にも得られる。価値尺度財でなされる(B)の需要の曲線である所の逓減曲線 BdBp は購買曲線(courbe d'achat)と呼ばれ、価値尺度財と交換になされる(B)の供給の曲線である NP は初めゼロから逓増し、次に逓減してゼロに(無限遠点において)終り、販売曲線(courbe de vente)と呼ぶことが出来る。これら二曲線の交点(B)は、価格 pb=μ を決定する。
一五二 だがこの最初の決定は決定的であろうか。ここに二商品相互の間の交換に存在しない問題が現われてくる。市場に(B)が現われる以前に存在した一般均衡においては、価格 π, ρ と、この価格において交換せられるべき量 P', Q', R', S', K', L' ……との間には次の関係があった。
P'=Q'π, R'=S'ρ, K'π=L'ρ ……
(B)の出現の後にもこの均衡が存在するためには、価格 μ, π, ρ と量 M, N, P, Q, R, S, F, G, H, J, K, L ……(第一四八節)との間に、μの決定方法によって有効に得られる関係
M=Nμ, Fμ=Gπ, Hμ=Jρ ……
がなければならないのみでなく、また次の関係が成立せねばならぬ。
P=Qπ, R=Sρ, Kπ=Lρ ……
ところでこれらの後の方程式を最初の方程式と比較して、容易に
が得られる。
よって、――一般均衡状態における市場に新しい一商品が現われるとすると、この商品の価格は価値尺度財でなされるこの需要と価値尺度財と交換になされるその供給との均等によって決定するのであるから、市場の一般均衡が妨げられず、定まった価格が決定的であるためには、市場に新商品の出現する以前及び後において、元の商品の相互の需要または供給が同じ比例を保っていなければならぬ。
この条件は、新商品が現われる場合にも、または元の商品の一つが価格騰貴をなす場合にも、絶対的に充されることはほとんどない。従って価格μで(B)の需要と供給とは等しく、価格 π, ρ における(A)、(C)、(D)……の需要と供給とは不均等となるであろう。従って一般的な場合であっては、需要が供給より大となった商品の価格を騰貴せしめねばならぬし、供給が需要より大となった商品の価格を下落せしめねばならぬ(第一三〇節)。かくて(B)の価格がμとは少しく異る一般均衡状態に達するのである。
今問題となる条件は絶対的にはほとんど全く充されないのみでなく、また商品(B)が他のある商品(C)または(D)の職能を果しこれらに代用され得て、後者の価格を著しく下落せしめる場合を想像することが出来る。これは日々私共が見る所である。だがこの特別な場合を除き、(B)が独特の商品であるとすれば、または先に市場にあった商品のうちで、商品(B)により何ら特別な競争を受けないような商品だけしか考えないとすれば、かつこれらの商品が多数であってまた量においても多量であるとすれば、先にいったようにして作られた(B)の販売曲線及び購買曲線から生ずる価格μは、ほぼ決定的な価格であろうことを、容易に認めることが出来よう。実際この場合には、(B)と交換せられる(A)、(C)、(D)……の供給となるために向けられるこれらの商品の部分は、これら多数の商品中の各々から借りられるのではあるが、しかしこれらは極めて小さい部分であり、ことにこれら商品の各々の量に比較してはいよいよ小さい部分である。だからこれらの部分は、(B)と他のすべての商品との交換の当初の割合を著しく変化せぬであろう。
一五三 当面の問題である特殊な場合で、極めて簡単ではあるが、特に考える価値のある場合がある。それは、市場に現われた新商品のすべての所有者が、この商品のみの所有者であってもまたは同時に他の古い商品の所有者であっても、とにかく新商品のすべての量、存在するすべての量を、いかなる価格においても供給する場合である。この場合に起るせり上げの特殊な形態は、この商品の全量が一度に供給せられると仮定すれば、競売のそれである。この場合には、市場価格は、数学的には、距離 OQb を(B)の存在量に等しからしめるような点 Qb を通って引かれ、価格の軸に平行な直線 Qbπb と購買曲線 BdBp との交点πによって決定せられる。この場合に販売曲線となるものはこの平行線である。かく簡単な場合は実際においては極めてしばしばである。なぜなら商品の大部分は生産物であり、かつ一般には、生産者はその生産物の全量を売るかまたは自分のためには極めて僅少の量をしか保留しないからである。これらの条件の下においては購買曲線は極めて著しい性質をもつ。それは存在する全量の函数としての価格曲線となる。けだしこの曲線の横坐標は縦坐標によって表わされる存在の全量の函数としてのこの商品の価格を与えるからである。
一五四 (B)を介在せしめ、pb を決定するために、(A)、(C)、(D)……の間に当初の均衡が成立したと仮定する代りに、(C)を介在せしめ、pc を決定するために、当初の均衡が(A)、(B)、(D)……の間に成立したと仮定し、または(D)を介在せしめ、pd を決定するために、当初の均衡が(A)、(B)、(C)……の間に成立したと仮定することも出来よう。従って、各商品はそれぞれの購買曲線をもつものと考え得られ、かつこの曲線は、もし供給を存在の全量に等しいと想像し、かつ大数法則に基いて、前後の需要または供給が比例せねばならぬという条件をも捨象すれば、価格の曲線となる。購買曲線と考えらるべきこの曲線の一般的方程式は D=F(p) となる。価格の曲線と考えられるこの同じ曲線の一般的方程式は Q=F(p) である。もしこれを価格について解かれていると仮定すれば、
p=F(Q)
となる。この方程式こそは、まさしく、「富の理論の数学的原理の研究」(一八三八年刊)の中にクールノーが先駆的に立てて、需要の方程式または販売の方程式(équation de la demande ou du débit)と呼んだものである。それが利用せられ得る範囲ははなはだ広い。
一五五 また販売曲線と購買曲線とを、次のようにして交換方程式に結び付けることが出来る。
(A)を価値尺度財とする。そして一方に商品(A)、(C)、(D)……があって、(A)で表わした(C)、(D)……の決定した一般均衡価格 pc=π, pd=ρ ……で互に交換せられまたは交換せられようとしていると仮定する。他方に(B)が市場に現われ、商品(A)、(C)、(D)……と交換せられようとしていると仮定する。
(B)が現われると、理論的には、新しい未知数 pb と一つの方程式
Fb(pb, pc, pd ……)=0
を新に導き入れた交換方程式の体系を新に作らねばならぬ(第一二三節)。ところで先にしたように(第一二七、一二八節)、正のyの合計すなわち Db を函数 Δb で示し、負のyの合計を正に変化したものすなわち Ob を函数 Ωb で表わせば、右の方程式を、次の形とすることが出来る。
Δb(pb, pc, pd ……)=Ωb(pb, pc, pd ……)
だがもし既に決定した価格の変動及び有効需要供給の変動を抽象して、それらを常数と考えれば、この方程式の左辺は
Δb(pb, π, ρ ……)
となり、一変数 pb の減少函数である。これは、幾何学には、購買曲線 BdBp(第八図)によって表わされる。右辺は
Ωb(pb, π, ρ ……)
となり、同じ変数 pb の函数であって、初めゼロから増大し次に減少してゼロ(無限遠点において)となる函数である。これは、幾何学的には販売曲線 NP によって表わされる。二つの曲線 BdBp と NP との交点は価格 pb=μ を、少くとも近似的に決定する。
私は後に、同様な方法で、価格曲線を生産方程式に結び付けるであろう。
一五六 なおこの章を了えるに当って、先に論及した一点について、興味ある註釈を加えておかねばならぬ。すなわち市場に商品が大量に存在する場合には、これら商品の各々の販売曲線は、全部または一部、存在の全量の並行線と一致しないとしても、最も低い価格と最も高い価格の中間の価格の大部分では、それに近づくことは明らかである。従って一般に、多数の商品の相互の交換の場合には、二商品相互の交換の場合に見るように(第六八節)、可能な多数の均衡価格はあり得ない。
第十六章 交換価値の原因についてのスミス及びセイの学説の解説と駁論
要目 一五七 価値の源泉の問題の主要な三つの解答。一五八 スミスの学説すなわち労働価値説。この学説は労働のみが価値を有することを表明するに止り、何故に労働が価値を有するかを説明せず、従ってまた、一般に事物の価値がどこから生ずるかを説明しない。一五九、一六〇 セイの学説、すなわち利用価値説、利用は価値の必要条件であるが充分条件ではない。一六一 稀少性の学説。一六二 ゴッセンの極大満足の条件、それが指示する極大利用は自由競争における極大利用ではない。一六三 ジェヴォンスの交換方程式。それは二人の交換者の場合にしか適用されない。一六四 限界効用。
一五七 経済学のうちには、価値の原因の問題について、主な三つの解答がある。その一はスミス、リカルド、マカロックのそれであり、イギリス的解答であり、価値の原因を労働に求めるものである。この解答は余りに狭隘であって、真に価値をもっているものにも、価値の存在を拒否している。その二はコンジャック、セイのそれであり、価値の原因を利用に置く。いずれかといえば、これはフランス的解答である。この解答は余りに広汎に過ぎ、実際に価値をもたない物にも、価値を認めている。最後にその三は適切なものであり、ブルラマキ(Burlamaqui)及び私の父オーギュスト・ワルラス(Auguste Walras)の解答であって、価値の原因を稀少性に置く。
一五八 スミスはその学説を国富論の第一編第五章に、次の言葉でいい表わしている。
「すべての物の真の価格、すべての物がこれを獲ようとする人に真実に費さしめる所のものは、彼がこれを獲るために費さなければならぬ労働と苦痛とである。すべての物が、これを獲得した人またはこれを処分しようとする人またはこれをある他の物と交換しようとする人に対し値する所は、この物の所有が彼をして省くことを得させる苦痛と面倒、または他の人に課することを得させる苦痛と面倒である。人が貨幣または商品で購う物は、私共が私共の額に汗して得る所の物と同じく、労働によって得られる。この貨幣と商品とは実にこの苦痛を省くものである。それらは労働のある一定量の価値を含む。これを私共は、等しい量の労働の価値を含むと考えられる物と交換する。労働は最初の貨幣であり、すべての物の購買に支払われる貨幣である。世界のいかなる富も、原本的には労働をもってしか購い得ない。これらを所有する者またはこれらを新しい生産物と交換しようとする人に対してのこれらの価値は、これらが購買し、支配せしめるであろう所の労働量とまさしく相等しいのである。」
この理論に対しては、多数の論駁があったが、これらは一般に適切ではなかった。スミスの理論は、その本質において、価値があり交換せられるすべての物は、労働が種々な形式をとったものであり、労働のみが社会的富のすべてを構成すると主張するものである。そこで人々は、価値があって交換せられる物でありながら、労働によって成立していない物を示し、あるいはまた、労働以外に社会的富を構成する物があることを示して、スミスのこの理論を拒否しようとする。だがこの論駁も合理的ではない。労働のみが社会的富を構成するかまたは労働は社会的富の一種を構成するに過ぎないかは、私共には余り関係のない問題である。それらのいずれの場合にも、何故に労働には価値があり、また何故に労働は交換せられるのであるか。ここに私共の関する問題があるのであるが、スミスはこの問題を提出もしなければ、解決もしなかった。ところで労働が価値あり、交換せられるものであるとしたら、それは、労働が利用をもちかつ量において限られているからである、すなわち労働が稀少であるからである(第一〇一節)。故に価値は稀少性から来るものであり、稀少なすべての物は労働を含むと否とにかかわらず、労働のように価値をもち、交換せられる。だから価値の原因を労働であるとする理論は、余りに狭隘であるというよりは、全く内容の無い理論であり、不正確な断定であるというよりは、むしろ根拠のない断定である。
一五九 次に第二の解答について見るに、セイは彼の著作の「経済学問答」(Catéchisme d'économie politique)の第二章において、次のように書いている。
「何故に一つの物の利用はこの物に価値を生ぜしめるかといえば、物がもっている利用は、この物を望ましい物とならしめ、かつこの物の獲得のために人々をして犠牲を払わしめるからである。何らの役にも立たぬ物を獲得するために、何らかの物を与えようとする人はない。これに反し、自分が欲望を感ずる物を獲得するためには、人々は、自分が所有する物のある量(例えば貨幣の一定量)を与える。価値を生ぜしめるものはこれである。」
これは、確かに価値の原因の証明の一つの試みである。だがこの試みは成功していないといわねばならぬ。「物の利用はこの物を望ましいものとならしめる」ことはもちろんである。かつ「この利用は、人々をして、この物を所有するためにある犠牲を払わしめる。」しかしこれは一様にはいわれ得ない。利用は、人々がこの利用を得るために犠牲を費さねばならないときにのみ、人々をしてこれを払わしめるに止まる。「人は、何らの役にも立たないものを得るためには何ものも与えようとはしない。」これはもちろんである。「反対に、人は、欲望を感ずる物を得るためには、自分が所有する物のある量を与える。」だがこれは、この物を得るに何物かを交換に与えねばならない場合に、いわれ得ることである。だから利用は価値を創造するには足りない。価値の創造には、更に、利用のある物が無限量に存在せず、稀少であることを必要とする。この理論は事実によっても証明せられている。呼吸せられる空気、帆船の帆を膨脹せしめる風、風車を廻転せしめる風、作物果実を成長せしめ光沢を与えてくれる太陽の光線、水、熱せられた水が提供してくれる蒸気、その他多くの自然力は、利用があり、また必要でもある。けれどもこれらの物は価値をもっていない。なぜなら、それらが充分に存在さえすれば、何ものも与えることなく、また交換に何らの犠牲を払うことなく、欲するままに得られるからである。
コンジャックとセイとは共にこの批難に遭遇した。そして二人は各々異る形でこれらに答えた。コンジャックは空気、光、水を非常に利用のあるものと見、これらの物は実際において何らかの費用を要するものであると主張しようと企てている。ところでこの費用とは何か。これを得るに必要な努力であるという。コンジャックによれば、呼吸の行動、物を見るために眼を開く行動、川で水を汲むために屈身する行動等は、これらの財に対して支払う犠牲である。この幼稚な議論は、我々の想像以上にはなはだしばしば主張せられている。けれども、もしこれらの行動を経済的犠牲と呼ぶとしたら、本来の意味の価値という語に対しては他の言葉を見出さねばならぬことは明らかである。私が肉を肉屋に求めるとき、衣服を洋服屋に求めるとき、私はこれらの目的物を得る努力と犠牲とを提供する。しかしこのほかに、私は、これとは全く異る犠牲を払っている。すなわち貨幣の一定量を私のポケットから引出して、商人の利益となるようにしている。
セイは別な形で答えている。空気、太陽の光線、河川の水は利用がある、だからそれらは価値をもっているのである。それらは無限の価値をもつほど利用があり、必要であり、欠くべからざるものである。我々が何ものをも与えないで、それらの物を得られるのは、まさにこの理由に基く。私共がこれらの物に対して何物をも支払わないのは、これらの物に対しその価格を支払うことが出来ないからである。この説明は巧妙ではあるが、不幸にして、空気、光線、水が代償を支払われる場合がある。それは、これらの物が例外的に稀少な場合である。
一六〇 私共は、スミスとセイのうちに、さほどの苦心をすることなく、二つの特徴的な節を見出すことが出来た。けれども事実において、これらの著者は、価値の起源にわずかに触れたに過ぎないで、共に、私共が指摘したような不充分な理論のうちに閉じこもっていたといわねばならぬ。先に引用した句の後の方では、セイは利用学説に労働価値説を混えた。だがセイは稀少性学説に左袒しているようである。スミスは、むしろ幸なことには、土地を労働と同じく富のうちに加えて、矛盾を犯している。ひとりバスチアのみは、イギリス派の理論を組織化しようとして、実際的事実に反するような結論をも自ら承認し、また他の人々をして承認せしめようとした。
一六一 最後に、ブルラマキが「自然法原論」(Eléments du droit naturel)の第三編第十一章に述べた稀少性理論があるが、これははなはだ優れたものである。
「物の固有の内在的価格(prix propre et intrinsèque)の基礎は、第一に、この物が生活上の必要、便利、享楽に役立つ適性、一言でいえばこの物の利用と稀少性とである。
「第一に、物の利用というとき、私は、それによって、現実の利用に限らず、宝石の利用のように勝手気ままな利用、好奇心を充す利用に過ぎない利用をも意味せしめているのである。だから、何らの用途のない物は何らの価格を有しないと一般にいわれ得る。
「ところで利用がいかに現実に存在しても、利用のみでは物の価格を生ぜしめるに足りない。その物の稀少性もなければならぬ。すなわちこの物の獲得の困難、人々が欲するだけの量を容易に得ることが出来ない困難さをも考えねばならない。
「なぜなら、人々が一つの物についてもつ欲望はその価格を決定するどころか、人間生活に最も必要な物が、水のように最も廉価であることは、普通に見る所であるから。
「だがまた稀少性のみでも、物に価格を生ぜしめるには不充分である。物に価格があるには、この物にまず何らかの用途がなければならぬ。
「これらが物の価値の真の基礎であるから、価格を増加しまたは減少するものもまた、種々に結合せられたこれらの同じ事情である。
「もしある物の流行が去り、または人々がこの物を重んぜぬようになれば、この物は、以前いかに高価であっても、廉価となる。反対に、費用がほとんどかかっていないありふれた物も、稀少となれば、直ちに価格をもち始め、時にはすこぶる高い価格となることは、例えば乾燥した土地における水、包囲下のまたは航海中のある場合における水に見る如くである。
「一言でいえば、物の価格を高からしめるすべての特殊事情は、この物の稀少性に関係がある。例えば製作の困難なこと、製品の精緻なこと、製作者が名匠であることの如きがこれである。
「自分が所有するある物に対し、ある特殊な理由により、例えばこの物がある人の大きな危険を避けるとか、またはそれがある顕著な事実の記念物であるとか、あるいはまた名誉の象徴であるとかの理由により、この人が、普通に人々が与える以上の評価をなすとき、この価格は好尚の価格または愛著の価格(prix d'inclination ou prix d'affection)と呼ばれるのであるが、この価格もまた右の理由と同じ理由に帰せられ得る。」
これが稀少性学説である。ジェノベエジ僧正(Abbé Genovesi)は前世紀の中頃この学説をナポリにおいて教え、シニオル(N. W. Senior)は一八三〇年頃これをオックスフォードにおいて教えた。しかしこれを真に経済学に導き入れた者は私の父である。父は「富の性質と価値の原因について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. 1831.)と題した著書の中に、必要なすべての展開を加えながら、これを特別な方法で説明している(一)。通常の論理では、父がこの書物でなした以上のことを何人もなし得ぬであろう。そしてより深い研究をなすには、私が用いたように、父も数学的分析の方法を用いざるを得なかったであろう。
一六二 だが同じ目的のために、この数学的分析の方法を用いたのは私のみではない。ある著者は私より先にこの方法に拠っている。まずドイツ人ヘルマン・ハインリッヒ・ゴッセンは、一八五四年に公にした著書「人間交通の法則の展開並びにこれにより生ずる人間行為の準則」(Entwickelung der Gesetze des menschlichen Verkehrs und der daraus fliessenden Regeln für menschliches Handeln)において、次にイギリス人ジェヴォンスは、一八七一年に第一版を、一八七九年に第二版を公にした「経済学の理論」(Theory of Political Economy)において、この方法に拠っている。ゴッセンとジェヴォンスとは共に、かつ後者は前者の著作を知ることなくして、利用または欲望の逓減曲線を作った。またゴッセンは最大利用の条件を、ジェヴォンスは交換方程式を、数学的に導き出した。
ゴッセンは次の言葉で最大利用の条件を表明している。――二つの商品は、交換後において各交換者が受けた最後の分子が交換者の一方及び双方に対し同じ価値をもつように、二人の交換者に分配せられなければならぬ(前掲書八五頁)。今この表現を私共の方式に飜訳するため、二商品を(A)、(B)と呼び、二交換者を(1)、(2)と呼ぶ。r=φa,1(q), r=φb,1(q) をそれぞれ交換者(1)に対する(A)、(B)の利用曲線の方程式とし、r=φa,2(q), r=φb,2(q) をそれぞれ交換者(2)に対する(A)、(B)の利用曲線であるとする。qa を交換者(1)によって所有せられる(A)の量とし、qb を交換者(2)によって所有せられる(B)の量とし da, db をそれぞれ交換せられる(A)、(B)の量とする。この条件において、ゴッセンの表現は二つの方程式
φa,1(qa-da)=φa,2(da)
φa,2(db)=φb,2(qb-db)
によって飜訳せられ、これらが交換者(1)、(2)に対する da, db を決定する。だがかくして得られる利用の最大は、自由競争を条件とする最大でないことは明らかである。すなわちそれは、すべての交換者が共通で同一の比例で自由に二商品を互に与えまたは受ける条件と相容れる所の最大ではないことはいうまでもない。それは、市場において価格は常に一つであるとの条件、及びこの価格において有効需要と有効供給との均衡があるとの条件を考量しない絶対的最大であり、従って所有権の存在を考えない絶対的最大である(二)。
一六三 ジェヴォンスは次のように交換方程式を立てている。――二商品の交換比率は、交換後において消費せられるこれら商品の量の最終利用の反比に等しい(前掲書第二版一〇三頁参照)。そして二商品を(A)、(B)とし、二人の交換者を(1)、(2)とし、φ1, ψ1 でそれぞれ交換者(1)に対する(A)及び(B)の利用函数を示し、φ2, ψ2 でそれぞれ交換者(2)に対する(A)及び(B)の利用函数を表わし、a を交換者(1)が所有する(A)の量とし、b を交換者(2)が所有する(B)の量とし、x, y それぞれ交換せられる(A)、(B)の量とすれば、ジェヴォンスは自ら右の命題を飜訳して次の二つの方程式としている。
これを私の記号で表せば、
となり、これにより da と db とを決定し得る。この式は私の式と二つの点において異る。第一に、価格は商品の交換せられた量の反比であるが、この概念の代りにジェヴォンスは、交換量の正比でありかつ常に da, db の二項によって与えられる交換比(raison d'échange)という概念を用いている。第二に、ジェヴォンスは二人の交換者の場合をもってすべて問題は解けると考えている。氏は、これらの交換者の各々(取引主体)を、個々人の集団、例えば大陸の全住民、与えられた国における同じ種類の産業に従事する者の集団と考える権利を保留している(九五頁参照)。しかし氏は、このような仮定は現実を離れて、仮設的な平均を考えたものであることを、自ら認めている(九七頁)。私は現実に即しようとするが故に、ジェヴォンスの方式は、ただ二人の人のみが現われる限られた場合に妥当であるとしか、考えない。この場合には、ジェヴォンスの方式は、交換量を価格という概念に代えれば、私の方式と等しくなる。だから、任意数の人がいて、まず互に二商品を、次に任意数の商品を交換しようとする一般的な場合を導き入れるべき仕事が未だ残されていた。これは、ジェヴォンスが価格を問題の未知数としないで、交換せられる量を未知数とするような不適切な思想をもっていたことによるのである。
一六四 ジェヴォンスが初めて「経済学の理論」を公にした頃(一八七一――一八七二年)、ウィン大学教授カール・メンガーは「国民経済学原理」(Grundsätze der Volkswirtshaftslehre)を公にした。これは、交換の新理論の基礎が、他と独立にかつ独創的な形で説かれた第三の著作であって、私の著作に先行している。メンガーも、私共のように、交換理論を引き出す目的をもって、消費量の増加と共に欲望は逓減するとの法則を立てて、利用理論を説いている。氏は演繹的方法を用いたが、数学的方法を用いることに反対している。しかし、氏は、利用や需要を表わすのに、函数や曲線を用いてはいないが、少くとも算術的表を用いている。この事情により、ゴッセンとジェヴォンスを数行のうちに批評したように、メンガーの理論をも簡単に批評し尽すことは出来ない。私はただ、氏とウィーザーやベェーム=バウェルクのように氏に追従した著作者達とが、ただ本質上数学的な問題に数学的方法と用語を率直に用いることを拒否したのは、貴重にしてかつ欠くべからざる手段を抛棄したものであるといいたい。しかしここで附言しておくが、これらの著者達は、不完全な方法と用語とを用いたとはいえ、交換問題の深い研究を遂げた。少くとも確かに、稀少性の理論すなわち彼らのいわゆる限界利用の理論に経済学者の注意を強く促すのに成功している。今やこの理論は経済学の中に現われて、最も光輝ある未来を予想せられている。私は、この理論から、価値尺度財で表わした商品の価格決定の抽象的理論を導き出した。私は、(一)生産物の価格と土地収入、人的収入、動産収入の同時的決定の理論、(二)純収入率の決定の理論、土地資本、人的資本、動産資本の価格決定の理論、(三)貨幣で表わした価格決定の理論を導き出そうと思う。これらの理論はいずれも抽象的ではあるが、互に関連しているから、組織的な綜合をすれば、現実の説明となり得るであろう(三)。
註一 特に第三章四一頁、第十六章二三四頁、第十八章二七九頁参照。
註二 Etudes d'économie sociale. Théorie de la propriété, §4 参照。
註三 すべての誤解を避けるため、私は繰り返していっておかねばならぬが、この章の最後の三節は、この書物の第二版において附け加えられたのである。一八七四年の第一版で、この書物より先に著わされた右に挙げた三著作を引用しなかったのは、私がこれらの存在を全然知らなかったからである。
第四編 生産の理論
第十七章 資本と収入について。三つの生産的用役について
要目 一六五 生産物としての商品。既に供給と需要の法則を得たが、次に生産費または原価の法則を求める。一六六 土地。労働及び資本。不完全な表現。一六七 資本。一回より多く使用せられる社会的富の種類。収入。一回しか使用せられない社会的富の種類。性質によるまたは用途による資本及び収入。一六八 物質的または非物質的な資本及び収入。一六九 資本の継続的な用役は収入である。消費的用役。生産的用役。一七〇 土地と地用、すなわち土地資本と土地用役。一七一 人と労働、すなわち人的資本と人的用役。一七二 狭義の資本と利殖、すなわち動産資本と動産用役。一七三 収入。一七四 土地。ほとんど一定量に存在する資本。一七五 人、消費と産業的生産の外において消滅したり、再現したりする資本。一七六 狭義の資本、生産せられる資本。一七七 既に生産物の価格を得ておるので、生産用役の価格を求める。
一六五 現象がいかに複雑であろうとも簡単から複雑に進むべしという準則を守るならば、それを科学的に研究する方法が常に存在する。私は先に、二商品相互の間に行われる交換、価値尺度財を用いないで多数の商品の間に行われる交換、価値尺度財を仲介として多数の商品の間に行われる交換を順次に研究し、交換の数学的理論を明らかにした。それをするに当り、私は、商品が土地、人、資本等の生産要素の結合から生ずる生産物であるという事情を看過しておいた。今はこの事情を加え、生産物の価格の数学的決定の問題の後を承けて、生産財の価格の数学的決定の問題を提出すべき時となった。交換の問題を解いて、私共は、需要供給の法則の科学的方式を得たのである。生産の問題を解いて、生産費の法則(loi des frais de production または loi du prix de revient)の科学的方式を得るであろう。かくして私共は、経済学の二大法則を発見したこととなる。ただこれらの二つの法則を価格決定の点から互に競合せしめ矛盾せしめることなく、生産物の価格決定を第一の法則を基礎として説明し、また生産財の価格の決定を第二の法則を基礎として説明することにより、私は、これら二つの法則にそれぞれの地位を与えようと思う。多くの経済学者が信じたように、また今でも人々が信ずることを躊躇しないであろうように、また私自身も完全にはこの考えから脱却していないように、正常的理想的状態においては、商品の価格は、その生産費に等しい。この状態すなわち交換と生産の均衡状態において、五フランに売られる一本の葡萄酒は、この生産のために、二フランの地代、二フランの賃銀、一フランの利子を要する。問題は、二フランの地代、二フランの賃銀、一フランの利子を支払ったから、葡萄酒一本が五フランに売られるものであるか、または葡萄酒一本が五フランに売られるから、二フランの地代、二フランの賃銀、一フランの利子を支払うのであるかということにある。一言でいえば、問題は一般にいわれるように、生産物の価格を定めるものは、生産財の価格であるか、または生産費の法則によって生産財の価格を決定するものは、既に述べたような需要供給の法則によって決定せられる生産物の価格ではないかということにある。今、研究しようとする問題は、この問題である。
一六六 生産の要素の数は三つである。これらを列挙するとき、学者はこれらのそれぞれを、土地、労働、資本と呼ぶのが最も普通である。だがこれらの表現は充分に厳密なものではなく、合理的演繹の基礎とすることが出来ない。労働(travail)は人の能力の用役すなわち人的用役である。故に労働と並べて土地、資本を置くべきではなくして、地用(rente)すなわち土地の用役と、利殖(profit)すなわち資本の用役とを置かねばならぬ。私はこれらの語を厳密な意味に用いようと欲するから、これらを注意して定義せねばならぬ。この目的から、私はまず、資本及び収入について、普通に与えられるよりは遥かに狭い定義を与え、以下それを用いたいと思う。
一六七 私の父が「富の理論」(Théorie de la richesse. 1849)においてなしたように、すべての耐久財、すべての種類の消費し尽されることの無い社会的富または長い間にしか消費し尽されない社会的富、人が第一回の使用をなしてもなお残存する所のすべての量において限られた利用、換言すれば一回以上役立つすべての量において限られた、例えば家屋、家具のようなものを、私は、固定資本(capital fixe)または資本一般(capital en général)と呼ぶ。そしてすべての消耗財すなわち直ちに消費せられるすべての社会的富、一度用役を尽せば消滅する稀少なすべての物、換言すれば一回しか役立たない財、例えばパン・肉のようなものを、流動資本(capital circulant)または収入(revenu)と呼ぶ。これらの収入の中に含まれるものは、私的消費財のほか、農業及び工業によって用いられる原料品、例えば種子、織物原料等である。ここでいう富の持続とは、物理的持続ではなくして、経済的持続すなわち利用の持続である。織物の原料にあたる繊維は、物理的には織物のうちに持続している。しかしそれらは原料としては消滅して、再び同じ用途に用いられない。反対に建物、機械のようなものは資本であって、収入ではない。なお附け加えておくが、ある種の社会的富は当然資本であり、他の社会的富は収入であるとしても、またその用途により、または人々がそれに要求する用役の種類により、あるいは資本となり、あるいは収入となる多数の富がある。例えば果樹などがそれであって、果実が採取せられるとき、それらは資本であり、薪を作るためまたは加工するために伐採せられれば、収入である。また家畜などが、それであって、使役せられるときまたは卵、牛乳を採取せられるとき、資本であり、食用に供するため屠殺せられるとき、収入となる。ところですべての種類の社会的富は、その性質により、その用途により、一回以上用いられるか、またはただ一回しか用いられないかであり、従って資本であるか、あるいは収入であるかである。
人々が資本を消費するという場合には、これらの人々がまずその資本を収入と交換し、しかる後この収入を消費することを意味する。同様に収入を資本化するには、これらを資本と交換せねばならない。
資本は貯蔵(approvisionnement)と混同してはならない。貯蔵は消費の目的にあらかじめ用意せられた収入の合計に過ぎない。穴倉に貯えられた葡萄酒、倉庫に貯えられた薪炭、織物の原料の如きは貯蔵である。鉱山・石山の鉱物・石材もまた収入の合計であって、資本ではない。
一六八 私は、稀少である、すなわち利用があってかつ量において限られた有形または無形の物の総体を社会的富と名づけたのであるから(第二十一節)、この社会的富を二つに分類した資本と収入も、あるいは有形であり、あるいは無形のものである。物の有形無形は、資本と収入の場合にも、重要性をもたない。後に資本が何故に収入を生ずるかを述べるであろうが、そのときまた、有形の資本も無形の収入を生むことが出来、また無形の資本が有形の収入を生むことが出来るのを見るであろう。今からこの事実を述べておくのは、資本と収入との区別を明らかにしようと思うからである。
一六九 資本の本質は収入を生ぜしめることにある。収入の本質は、資本から直接または間接に発生することにある。なぜなら資本は、定義により、人々が第一回の使用をなしてもなお残存するものであって、従って引続いて使用せられ得るものであるが、これらの使用の継続は明らかに収入の連続であるからである。土地は年々収穫を発生せしめる。家屋は春夏秋冬不順な気候を防いでくれる。土地のこの豊度、家屋のこの掩護は、これら土地及び家屋の年々の収入を形成する。労働者は日々工場に労働し、弁護士・医師は日々その診療に従事する。この労働、この診療は、これら労働者の日々の収入である。同様に、機械・道具・家具・衣服の収入もある。多くの学者は、資本と収入とをかく区別して考え得なかったために、不明瞭と混同に陥っている。
資本と収入との区別を明らかにするため、資本の使用によって成立する収入に、用役(services)の名を与えよう。この用役のうちには、公私の消費によって消費せられるものがある。家屋がなしてくれる掩護、弁護士の相談、医師の診察、家具衣服の使用などがそれである。これらを消費的用役(services consommable)と呼ぶ。このほかに農業・工業・商業によって、収入または資本すなわち生産物に変化せられる用役がある。例えば土地の沃度、労働者の労働、機械道具等の使用などがこれである。それらは生産的用役(services producteurs)と呼ばれる。後に私は流通の理論において、収入の貯蔵は独特の使用的用役(service d'usage)を与えるのであるが、同時にまた、消費的または生産的な貯蔵の用役(service d'approvisionnement)を与え得ることを証明するであろう。消費的用役と生産的用役とのこの区別は、多くの学者が不生産的消費と生産的消費との間になす区別に等しい。ここで研究しようとするのは、特に、生産的用役の生産物への変形である。
一七〇 資本と収入との右の定義に拠りながら、私共は、社会的富の全体を四つの主な範疇――その中の三つは資本であり、他の一つは収入である――に分つことが出来る。第一の範疇には土地を属せしめる。公私の庭園・公園とせられた土地、人畜の食料となる果実・蔬菜・穀物・牧草等を成長せしめ、木材を成長せしめるすべての土地、住宅・公共の建築物・鉱山の建設物・工場・店舗等が建設せられる土地、道路・街路・運河・鉄路として用いられる土地などは、この範疇に属する。冬季中休止状態にある庭園も、公園も、夏にはまた緑色となって、再び花が開く。今年生産物を出す土地は、また翌年生産物を出す。今年家屋や工場を支えている土地は、翌年もまたこれを支えているであろう。昨年歩んだ道路、街路を、私共は明年も歩むであろう。第一回の使用をしても存続し、その使用の連続は収入を構成する。散策眺望から受ける愉快は、公園、庭園から得られる収入である。生産力は生産用の土地の収入である。建築物に与えられた位置は建築用地の収入である。交通の便益は街路道路の収入である。故に第一範疇に属する資本として土地資本(capitaux fonciers)または土地(terres)がある。その収入は土地収入(revenus fonciers)または土地用役(services fonciers)と呼ばれ、また地用(rentes)とも呼ばれる。
一七一 第二の範疇には人を属せしめる。旅行や享楽のほか何ものもしない人、他の人々のために用役をなす人、馭者、料理人、下男下女、国家の用役をなす官吏、例えば行政官・裁判官・軍人など、農業・工業・商業に従事する労働者、弁護士、医師、芸術家、自由職業に従事する者などは、皆この範疇に属し、資本である。今日遊楽に耽る閑人は、明日も遊楽に耽るであろう。一日の業をおえた鍛冶屋は、なお幾日もその仕事を続けるであろう。弁護をおえた弁護士は幾度か弁護を繰り返すであろう。かようにして人々は、最初の用役をなした後もなお持続するものであり、彼らがなす一連の用役は彼らの収入を構成する。閑人がなした享楽、職人がなした仕事、弁護士がなした弁護は、これらの人々の収入である。故に第二種類の資本として、人的資本(capitaux personnels)または人(personnes)がある。この人的資本が生ずる収入は、人的収入(revenus personnels)または人的用役(services personnels)と呼ばれ、また労働(travaux)とも呼ばれる。
一七二 第三の範疇には、土地または人でなくして資本である他のすべての富を属せしめる。都鄙到る所の住宅、公共の建築物、生産設備、工場、倉庫、あらゆる種類の建設物(いうまでもなく、それを支える土地を含ませない)、あらゆる種類の樹木草本、家畜、家具、衣服、書画、彫刻、諸車、宝石、機械、道具等がこれである。これらの物は収入ではなくして、収入を生ずる資本である。私共を居住せしむる家屋はなお永く私共を居住せしめるであろう。私の書画、宝石は常に私の手中にある。今日近隣の都市から旅客貨物を運送した機関車、客車、貨車は、明日もまた同じ線路上に旅客と貨物とを運送するであろう。ところで家屋が提供する居住、書画宝石から得られる装飾、列車によってなされる運送は、これら資本の収入である。故に第三種の資本として動産資本(capitaux mobiliers)または狭義の資本があり、それらの資本が与える収入は動産収入(revenus mobiliers)または動産用役(services mobiliers)と称せられ、また利殖(profits)とも呼ばれる。
一七三 一切の資本はこれら三つの範疇によって尽されているから、社会的富の第四の範疇に属するものとしては、収入しかない。小麦、麦粉、パン、肉類、葡萄酒、ビール、野菜、果実、消費者の用に供する加熱用・灯用の燃料等の消費目的物、再び肥料、種子、原料となる金属、木材、加工せられる繊維、布、生産の用に供せられる加熱用・灯用の燃料、その他生産物となって現われるために原料としては消失すべきすべての物すなわち原料品がこれである。
一七四 かくて明らかなように、土地、人、狭義の資本は資本である。土地の用役すなわち地用、人の用役すなわち労働、狭義の資本の用役すなわち利殖は収入である。故に正確で精密であるためには、生産要素として、三種の資本と三種の用役、すなわち土地資本、人的資本、動産資本と、土地用役、人的用役、動産用役、更に換言すれば土地と地用、人と労働、資本と利殖を認めなければならぬ。かように修正すれば、通常の用語は、事物の性質に基礎を有するものとして、許容することが出来る。
土地は自然的資本であって、人為的資本でもなく、また生産せられた資本でもない。また土地は消費し尽されない資本であって、使用により事変により消滅しないものである。だが岩石の上に土を運び、または排水灌漑等により人為的に生産せられた土地資本がある。また地震により河水の氾濫により滅失する土地資本もある。しかしこれらは少数であって、従って少数の例外を除けば、土地資本は消費し尽すことも出来ねば、生産することも出来ない資本であると考えてよい。これら二つの事情は各々その重要性をもつものではあるが、しかしこれらの二つの事情の同時的な存在が、土地資本にその特有な性質を与えるのである。すなわちこれによって、土地の量は厳密に一定不変ではないにしても、少くとも変化の少いものとなり、従って土地のこの量は原始的社会においては、すこぶる豊富であり、進歩した社会においては、人及び狭義の資本の量に比較してはなはだ限られたものとなる。その結果、事実において見るように、土地は、原始社会においては、稀少性も価値もゼロであり、進歩した社会においては、高い稀少性と価値とをもつものである。
一七五 人もまた自然的資本である。しかし消費され得る資本すなわち使用により破壊せられ、事故により消滅せられ得る資本である。そして人は消滅するが、また生殖によって再び現われてくる。その量もまた一定不変ではなくして、ある条件の下に際限なく増加し得るものである。これについて、一つの解説を加えておかねばならぬ。すなわち、人が自然的資本であり、生殖によって再び現われるといっても、一般に認められつつある社会道徳上の原理すなわち人は物として売買せられるべきものではなく、また家畜のように、農場において増殖し得られるものでもないという原理を斟酌せねばならぬ。この理由によって人々は、これを価格の決定理論の中に入れることは無益であると考えるであろう。けれども、まず、人的資本が交換せられるものでないにしても、人的用役すなわち労働は、日々市場において需要し供給せられるし、次に人的資本それ自身も評価せられることがしばしばある。その上、純粋経済学は、正義の観点も利害の観点も全く捨象し、人的資本をも土地資本・動産資本と同様に、もっぱら交換価値の観点から考察するのである。故に、私は、奴隷制度の是非の問題とは無関係に、労働の価格といい、人の価格とさえいうであろう。
一七六 狭義の資本は人為的資本すなわち生産せられた資本であって、かつ消滅する資本である。おそらく、土地及び人のほかにも、自然的富で同時に資本であるものも、多少はあるであろう。ある種の樹木、ある種の家畜などがそれである。だが土地のほかには、消滅しない資本はほとんど無い。だから狭義の資本は、人のように、破壊せられ、消滅する。しかもそれらは、人のように自然的再生産によってではないが、経済的生産の結果として現われてくる。その量は人の量と同じく、一定の条件において無限に増加せられる。この資本についても、私は一つの解説を加えておかねばならぬ。すなわち資本は常に産業特に農業において、土地と結合しているということが、それである。しかし私共が土地という場合には、住居、または生産用の建造物、囲障、灌漑排水の設備、一言にいえば、狭義の資本から切り離していうのであることを忘れてはならない。また肥料、種子、収穫前の作物等、土地に伴うすべての収入から切り離しているのはいうまでもない。そして、私共が地用と呼ぶのは、かく考えられた土地の用役をいうのであり、利殖という名を与えられるのは、土地が結合した狭義の資本の用役のみである。
以上述べてきたような諸性質は、土地、人、狭義の資本の区別を説明し、かつこの区別の正当なことを証明する所の重要なものである。しかしこの重要性は、社会経済学において、特に著しく現われるのであって、純粋経済学においては、次編に説明する資本化及び経済的発展に関し、現れるのみである。生産編において予想するのは、土地資本、人的資本、動産資本が資本であり、収入ではないということだけである。
一七七 これだけを前提として、交換におけると同時に、生産においても、自由競争の制度の経済社会において、何故にかついかにして土地の用役すなわち地用に対し、人的能力の用役すなわち労働に対し、また狭義の資本の用役すなわち利殖に対し、数学的量である所の市場価格が成立するかを研究する。他の適当な言葉でいえば、地代、賃銀、利子を根とする連立方程式を求めねばならぬのである。
第十八章 生産の要素と生産の機構
要目 一七八 (1)(2)(3) 消費的用役に対する土地資本、人的資本及び動産資本。(4)(5)(6) 生産的用役に対する土地資本、人的資本及び動産資本。(7) 新動産資本。(8) 消費目的物。(9) 原料。(10) 新収入。(11)(12)(13) 流通貨幣及び貯蔵貨幣。一七九 消費目的物。原料及び貨幣について新動産資本、新収入、貯蔵の捨象。一八〇、一八一、一八二 生産資本による収入及び動産資本の生産。一八三 資本のみが実物による貸与が可能である。資本の貸与は用役の販売である。一八四 地主、労働者、資本家、企業者。一八五 用役市場、地代、賃銀、利子。一八六 生産物市場。一八七 この相異なる二つの市場は互いに連絡している。一八八 生産の均衡はこの二市場における交換の均衡と、生産物の売価と原価の均等を想定し、企業者は利益も損失も生じない。
一七八 生産物の価格の数学的決定の問題を研究したとき、交換における自由競争の機構を正確に定義しなければならなかったが、それと同じく、生産用役の価格の数学的決定の問題を研究するに当っても、生産における自由競争の機構の正確な概念を得るために、事実と経験とに問わねばならない。ところでもし、この分析のために、与えられた国において、経済的生産の機能が一時停止したと想像すれば、既に列挙した消費的用役と生産的用役との区別(第一六九節)と、資本と収入(第一七〇――一七三節)とを結合して、この機能の要素を次の十三項目に分類することが出来る。
資本としては、
1、2、3 消費的用役すなわち資本の所有者自らにより直接に消費せられる収入、またはこれら収入の所得者により、または個々の人々により、あるいはまた公共団体・国家によって直接に消費せられる収入を生産する土地資本、人的資本、動産資本。例えば土地資本は、公園、庭園、住居・公共の建築物を支える土地、街路、道路、広場等。人的資本は、例えば閑人、僕婢、官吏など。動産資本としては、住居、公共の建築物、娯楽用の樹木草本、動物、家具衣服、芸術品等。
4、5、6 生産的用役すなわち農業工業商業によって生産物に変化せられるべき収入を生産する土地資本、人的資本、動産資本。土地資本として、例えば耕作地、及び生産用の建設物や工場や細工場や倉庫等を支える地面など。人的資本として、賃銀労働者、自由職業に従事する者等。動産資本として、生産用の建設物、工場、倉庫、収入を生ずる樹木、作業用の動物、機械、道具等。
7 一時の間収入を生ぜず、生産物として生産者によって売られる新動産資本。例えば、新に建設せられて売られるべき家屋その他の建築物、店舗に陳列せられる動物植物、家具衣服、芸術品、機械、道具等。
収入としては、
8 消費者の手中にある消費目的物から成る収入の貯蔵。例えば、パン、肉、葡萄酒、野菜、油、薪炭等。
9 生産者の手中にある原料品から成る収入の貯蔵。例えば、肥料、種子、金属、加工用の材木、加工用の繊維、布、工業用の燃料等。
10 生産物となって、生産者の手によって売られる消費目的物及び原料から成る新収入。例えば、パン屋・肉屋にあるパン・肉、店舗に陳列せられる金属、加工用木材、繊維、布等。
最後に貨幣として、
11、12、13 消費者の手中にある流通貨幣、生産者の手中にある流通貨幣、及び貯蔵せられる貨幣。
容易に知られるように、最初の六項目は、三種の資本に、消費的用役を生産する資本と、生産的用役を生産する資本との区別を導き入れることによって得られ、第七項目は、収入を生産しない狭義の資本を独立せしめることによって得られる。ここに資本と収入のほかに貨幣を独立せしめるのは、貨幣が、生産において、混合した職能を尽すからである。社会的観点から見ると、貨幣は一回以上支払いに役立つ故に、資本である。個人の観点からは、貨幣は収入である。なぜなら、それは、人が支払のために用いれば失われて、ただ一回しか役立たないから。
一七九 右に、私は、経済的生産の機能が一時停止していると仮定した。今この機能が働き始めたと考えてみる。
最初の六項目に分類せられたものの中で、土地は破壊し消滅せられることがない。人は、農業・工業・商業の生産とは独立に――ただしこの経済的生産と何らの関係が無いわけではないが(この理由は後に述べるであろう)――人口の運動によって、死滅し発生するであろう。また使用により破壊せられ、事故により消滅する狭義の資本は、消耗し消失するが、第七項目の下に分類せられた新資本によって補充せられる。かくて狭義の資本の量は、この事実によって減少するが、生産によって回復せられる。問題を簡単にするため、今はしばらく、新動産資本は生産せられると同時に第三及び第六項目に入るものと仮定して、第七項目を捨象することが出来よう。
第八、九項目の下に分類せられた消費の目的物及び原料は、直ちに消費せられるべき収入であって消費せられるけれども、第十項目の下に分類せられる収入によって代えられるものである。かくてこれらの量は、この事実によって減少するけれども、生産によって回復せられる。ここでもまた、新収入は、生産せられると同時に、第八、九項目の下に入るものと仮定して、第十項目を捨象することが出来よう。更に消費目的物及び原料は、生産せられると同時に直ちに消費せられる(貯蔵をしないとすれば)ものと仮定して、第八及び第九項目を捨象することが出来よう。
貨幣は交換に参加するものである。流通貨幣の一部が、貯蓄となって吸収せられるとき、この貯蔵貨幣の一部は、信用によって、流通界に出てくる。もし貯蓄という事実を捨象すれば、貯蓄の貨幣を捨象することが出来る。なおまた流通貨幣をも捨象し得るであろうことは、後に述べる。
一八〇 要するに消費的用役は、第一、二、三項目の下に分類せられる土地資本、人的資本、動産資本によって再生産せられると直ちに消費せられ、消費的収入は、第四、五、六項目の下に分類せられる土地資本、人的資本、動産資本によって再生産せられると、直ちに消費せられる。収入は、定義により、その最初の用役を尽せばもはや存在しない。人々が収入に対してこの用役を要求すれば、収入は消滅する。専門語でいえば、それらは消費(consommer)せられる。パン、肉は食われ、葡萄酒は飲まれ、油、薪炭は燃焼せられ、肥料、種子は土地に投下せられ、金属、木材、繊維、布は加工せられ、燃料は使用せられる。しかしこれらの収入は、資本の作用の結果として再生産せられるのであって、全く消滅するのではない。資本は、定義により、人々が第一回の使用をしてもなお存在を続けるものである。人々がこれらの継続的使用をすれば、それに役立つことを続ける。専門語でいえば、資本は生産(produire)する。耕作地は耕作せられ、ある土地は生産設備を支え、労働者はこの設備の中に労働し、機械道具等を使用する。要するに、土地資本、人的資本、動産資本は、それぞれ地用、労働、利殖を提供し、農業・工業・商業はこれらの地用、労働、利殖を結合せしめて、消費せられた収入に代替すべき、新しい収入を得るのである。
一八一 だがこれだけでは足りない。直ちに消費せられる消費目的物及び原料のほかに、長い間に消費せられる狭義の資本がある。家屋その他の建築物は毀損し、衣服、芸術品は消耗する。これらの資本は、使用により、あるいは速かにあるいは徐々に破壊せられる。また事故により偶然に消滅こともあり得る。故に土地資本、人的資本、動産資本は新しい収入を生産するだけでは足りない。消耗せられる動産資本及び事故により消失する動産資本の代りに、新動産資本を生産せねばならない。出来得れば、現在の動産資本より多い新動産資本を生産せねばならぬ。そしてこの観点から、私共は、経済的進歩の特色を今既に指摘しておくことが出来る。実際、ある時間の終りに、先になしたと同じく、再び経済的生産の働きを停止したと考え、かつこのとき、動産資本が以前より大であるならば、それは経済的発展の象徴である。かくて経済的発展の特色の一つは、動産資本の量の増加にある。次編ではもっぱら新資本の生産の研究をなすであろうから、私はこれを後の研究に譲り、今は新収入すなわち消費の目的物及び原料の生産の問題の研究をなすであろう。
一八二 生産資本によっての消費的収入及び動産資本の生産は、互に結合して生産の働きをなす資本の作用によって行われる。土地資本が主に働く農業においても、生産物は単に地用を反映するのみならず、労働及び利殖をも反映している。また反対に、資本の働きが支配的な工業においても、労働及び利殖と共に、地用が生産物の構成の中に入ってくるのである。おそらくはいかなる例外もなく、生産のためには、労働者を支えるべき土地と、人的能力と、資本である道具がなければならぬ。故に土地と人と資本との結合協力は経済的生産の本質である。先に生産要素の分類に役立った資本と収入との区別が(第一七八節)、また生産の機構を示すに役立つであろう。
一八三 収入は、第一回の用役を尽した後には存在しないという性質があることによって、売買せられるかまたは贈与せられることしか出来ない。それらは賃貸せられ得るものではない。少くとも自然の形においては、いかにしてパンや肉を賃貸することが出来よう。しかるに資本は一回の使用をなしてもなお残存するという性質があることによって、有償または無償で、賃貸することが出来る。人々は例えば家屋什器を賃貸することが出来る。そしてこの行為の存在の意義は何であろうか。それは、賃借人に用役の享受を得せしめることである。資本の賃貸とは資本の用役を譲渡することである。この定義は全く資本と収入との区別に基く基本的な定義であって、これなくしては生産理論と信用理論とは成立しない。資本の有償的賃貸は用役の売買であり、その無償的賃貸は用役の贈与である。この有償的賃貸によって第四、五、六項目の下に分類せられた土地資本・人的資本・動産資本は生産のために結合せられる。
一八四 土地の所有者を地主(propriétaire foncier)と呼び、人的能力の所有者を労働者(travailleur)と呼び、狭義の資本の所有者を資本家(capitaliste)と呼ぶ。そして今、右の所有者とは全く異り、地主から土地を、労働者から人的能力を、資本家から資本を借入れ、これら三つの生産的用役を農業・工業または商業によって結合することを職分とする第四の人を企業者(entrepreneur)と呼ぶ。もちろん実際においては、同じ人が右に定義した二つまたは三つの職能を兼ねることが出来る。否四つ全部さえも兼ねることが出来る。そしてこの結合が異るに従って、種々の企業の形態が生ずるのである。だがそれらの場合にも、彼は異る二つ、三つまたは四つの職能を果すのであることは明らかである。科学的観点からは、我々は、これらの職能を区別し、それによって企業者と資本家とを同一視したイギリスの経済学者の誤や、企業者を企業の指揮の労働をなす者と考えたフランスの学者らの誤を避けねばならない。
一八五 企業者の職分がこのように考えられた結果として、二つの異る市場を考えねばならない。その一は用役の市場である。そこでは、地主、労働者、及び資本家が売手として、企業者が生産的用役すなわち地用・労働・利殖の買手として相会する。しかしまた、用役の市場には、生産的用役として地用・労働・利殖を買入れる企業者のほかに、消費的用役として地用・労働及び利殖を買入れる地主、労働者、資本家がある。これらの人々を、私は、時と処に応じて導き入れてくるであろうが、今しばらく企業者のみが生産的用役を購う場合を研究せねばならない。これらの生産的用役は、価値尺度財を仲介とする自由競争の機構によって交換せられる(第四二節)。人々は各用役に対し、価値尺度財で表わした価格を叫ぶ。もしこの叫ばれた価格において、有効需要が有効供給より大であれば、企業者はせり上げ、価格は騰貴する。もし有効供給が有効需要より大であれば、地主、労働者、資本家はせり下げ、価格は下落する。各用役の市場価格は、有効需要と有効供給とを相等しからしめる価格である。
このように掛引によって定まる地用の価値尺度財で表わした市場価格は地代(fermage)と呼ばれる。
価値尺度財で表わした労働の市場価格は賃銀(salaire)と呼ばれる。
価値尺度財で表わした利殖の市場価格は利子(intérêt)と呼ばれる。
生産的用役とそれらの市場と、この市場における有効需要と有効供給と、そしてこの需要と供給との結果としていかにして市場価格が現われるかの機構とは、資本と収入と企業者の定義とによって明らかになった。後に、イギリス・フランスの経済学者が地代、賃銀、利子すなわち生産的用役の価格を決定しようと努力しながら、これらの用役の市場を考えなかったために、不成功に終ったことを述べるであろう。
一八六 市場の他の一つは生産物の市場である。ここでは、企業者が生産物の売手として、地主・労働者・資本家は生産物の買手として現われる。これらの生産物もまた価値尺度財を仲介として、自由競争の機構に従って交換せられる。人々はこれらの生産物の各々に対し、価値尺度財で表わされた価格を叫ぶ。この叫ばれた価格において、有効需要が有効供給より大であるならば、地主・労働者・資本家はせり上げ、価格は騰貴する。もし有効供給が有効需要より大であるならば、企業者はせり下げて、価格は下落する。各生産物の市場価格は、有効需要と有効供給とが相等しくなるような価格である。
かくて、他の一方に、生産物の市場と、需要と、供給と市場価格とがいかにして成立するかが明らかになった。
一八七 これらの概念は、容易に認め得られるであろうように、事実と観察と経験とに、正確に一致する。実に貨幣の仲介によって行われる用役の売買市場と生産物の売買市場とは、経済学上においてと同じく、事実においてもまた、全く異るものである。それらの市場の各々において、売買はせり上げとせり下げの機構によって行われる。靴を買おうとして靴屋に入れば、生産物を与えて貨幣を受領する者は、企業者である。この活動は生産物の市場において行われる。生産物の需要が供給より多ければ、他の消費者は価格をせり上げる。供給が需要より多ければ、他の生産者がせり下げる。また一人の労働者は、一足の靴の手間賃の価格を定める。企業者は生産的用役を受け、貨幣を与える。この活動は用役の市場においてなされる。もし労働の需要が供給より大であれば、他の企業者は靴屋の賃銀をせり上げる。この供給が需要より大であれば、他の労働者はせり下げる。しかしこのように二つの市場は、全く異っているとしても、互に相連絡していないわけではない。なぜなら消費者である地主・労働者・資本家が、生産物の市場において生産物を買い入れるのは、用役の市場において彼らの生産的用役を売って得た貨幣をもってであるからであり、企業者が用役の市場において生産的用役を買い入れるのは、生産物を売って得た貨幣をもってであるからである。
一八八 交換の均衡状態を陰伏的に含む所の生産の均衡状態は、今は、容易に定義し得られる。それはまず生産用役の有効需要と供給とが等しい状態であり、これらの用役の市場において静止的な市場価格が存在する状態である。またそれは生産物の有効需要と供給とが相等しい状態であり、生産物の市場において静止的市場価格が存在する状態である。更にまたそれは生産物の売価が生産的用役より成る生産費に等しい状態である。そしてこれらの状態のうち、最初の二つは交換の均衡に関するものであり、第三は生産の均衡に関するものである。
生産の均衡のこの状態は、交換の均衡の状態のように、理念的状態であって、現実の状態ではない。生産物の売価が生産用役から成る生産費に絶対的に等しいことはないであろう。それは生産用役または生産物の有効需要供給が絶対的に等しい事がないのと同様である。しかしその均衡は、交換に対してと同じように、生産に対して適用せられた自由競争の制度の下において、自ら落付くであろう所の状態であるという意味において、正常の状態である。自由競争の制度の下において、もしある企業のうちに生産物の売価が生産用役から成る生産費より大であれば、利益が生じ、企業者の出現を促し、または企業者はその生産を拡張し、その結果生産物の量は増加し、価格は下り、差益は減少する。そしてもしある企業において、生産用役から成る生産物の生産費が生産物の価格より小であれば、損失が生じ、企業者は減じ、または企業者はその生産を減少し、その結果生産物の量は減少し、価格は騰り、差損は減少する。しかし企業者が多数であることが生産の均衡を齎らすとしても、理論的にはこれのみがこの目的を達する唯一の方法ではなくして、生産用役をせり上げつつ需要し、生産物をせり下げつつ供給し、損失があれば常に生産を制限し、利益があれば常に生産を拡張する所のただ一人の企業者も同じ結果を与えることを、注意すべきである。また企業者によってなされる生産用役の需要と生産物の供給とを決定する理由が、損失を避け、利益をあげようとする欲望にあることを注意すべきである。それは先に述べたように、地主・労働者・資本家によってなされる生産用役の供給と生産物の需要とを決定する理由が欲望の最大満足を得ようとする欲望にあるのと同様である。また更に交換と生産との均衡状態においては、既に述べたように(第一七九節)、貨幣(価値尺度財を捨象出来ぬとしても、少くとも貨幣)を抽象することが出来、地主・労働者・資本家及び企業者は、地用・労働・利殖の名をもつ生産用役のある量と交換に、地代・賃銀・利子という名称の下に、生産物のある量受けまたは与える者であると、考え得ることを注意すべきである。この状態においては、企業者の介在をも捨象し、単に生産用役が生産物と交換せられ、生産物が生産用役と交換せられると考え得るのみでなく、また結局においては、生産用役と生産用役とが交換せられると考えることが出来る。かつてバスチアもまた分析をおしつめれば、人は用役と用役とを交換するものであるといったが、しかし彼はこれを人的用役についていっただけである。私は、土地の用役・人的用役・動産用役についても、かくいうのである。
だから生産の均衡状態においては、企業者は利益も得なければ損失も受けない。この場合には、企業者は企業者として存在するのではなくして、自己のまたは他人の企業のうちに、地主・労働者または資本家として存在するのである。故に私は思うに、合理的な会計をなそうとすれば、自ら耕作する土地の地主である企業者、自らの企業の経営に任ずる企業者、事業に投下した動産資本を所有する企業者は、一般的経費として、地代・賃銀・利子を借方に記入し、またこれらを企業者勘定の貸方に記入せねばならぬ。この方法をとれば、正確には、企業者として利益も損失も得られない。実際、もし企業者が、自分の企業において、自分の生産用役から、他の企業において得られるより高い価格を得られるとすれば、この企業者はその差だけの利益または損失を受けることとなるのは、明らかではないか。
第十九章 企業者について。企業の会計と損益計算
要目 一八九、一九〇 消費者と生産者の間における社会的富の分配。狭義の資本は実物でなく、貨幣で貸付けられる。信用。固定資本、流動資本。一九一、一九二 現金勘定、借方、貸方、残高。一九三、一九四 金庫内の現金の源泉と行方。資本主またはマルタン勘定。固定資本または固定設備費勘定。流動資本勘定(商品及び営業費)。複式簿記の原理。借方、貸方、元帳、日記帳。一九五 出資者勘定貸方。固定設備費勘定借方。商品勘定借方。営業費勘定借方。商品勘定貸方。一九六 営業費勘定の残高を商品勘定借方へ。商品勘定残高を損益勘定の貸方または借方へ。一九七 貸借対照表。一九八、一九九 複雑化。(1) 記帳の詳細。(2) 得意先勘定借方。(3) 受取手形。(4) 銀行勘定。(5) 仕入先勘定貸方。(6) 支払手形。(7) 棚卸商品。
一八九 以上の如くであるから、企業者は、原料を他の企業者から購い、地代を支払って土地所有主から土地を賃借し、労銀を支払って労働者の人的能力を賃借し、利子を支払って資本家の資本を賃借し、最後に生産用役を原料に適用し、得られる生産物を自分の計算で販売する所の人(個人または会社)である。農業の企業者は種子・肥料・痩せた家畜を購い、土地・経営上の設備・耕作の機具を借り入れ、耕作労働者・刈入人夫・召使を雇い、農産品・肥った家畜を売る。工業企業家は繊維・地金を買入れ、工場・仕事場・機械・道具を借り入れ、製紙工・鉄工・機械工を募集し、製品である綿布・鉄製品を売る。商業企業者は商品を大口に買入れ、倉庫・店舗を賃借し、店員・外交員を雇傭し、商品を小口に売る。そしてこれらの企業者がその生産物または商品を、原料・地代・賃銀・利子等に要した費用より高く売るときには、彼らは利益を受け、反対の場合には、損失を蒙る。これらが企業者の職分を特色付けるそれぞれの現象である。
一九〇 先に述べた生産要素の表(第一七八節)と併せて考えてみると、この定義は、先の表を説明し、その表が正しかったことを証明するものであることが解ると思う。
第一・二・三項目の下に分類せられた資本すなわち消費用役を生産する資本は消費者である土地所有者・労働者・資本家の手中にあるものである。第四・五・六項目の下に分類せられた資本すなわち生産用役を生産する資本は、企業者の手中にあるものである。だから、ある用役が消費用役であるかまたは生産用役であるかは、常に容易に認定し得られる。例えば公園の地用・官吏の労働・公共建築物の利殖は、生産的用役ではなく、消費用役である。けだし、国家はその生産物を少くとも生産費に等しい売価で売ろうとする企業者ではなくして、租税によって、土地所有者・労働者・資本家としての地位を得ている消費者であり、用役と生産物とを、これらの人々と同じ地位に立って買入れる消費者であるからである。
同様に、収入のうち第八項目の下に分類せられたものは消費者の手中にあり、第九項目の下に分類せられたものは企業者の手中にある。だがここに重要な解説をしておかねばならぬ。
土地資本と人的資本とは、現物のまま賃借せられる。地主はその土地を、労働者はその労働を、あるいは一箇年、あるいは一箇月、あるいは一日の間、企業者に賃借し、期限の満了と共に、これらを取戻す。動産資本は、建物とある少数の家具・道具を除き、現物のまま賃貸せられないで、貨幣の形で賃貸せられる。資本家は継続的な貯蓄によってその資本を形成し、その貨幣をある期間に亙り、企業者に貸付ける。企業者はこの貨幣を狭義の資本に変形し、期間の満了と共に、貨幣を資本家に返還する。この操作は信用(crédit)を構成する。そこで第九項目の下に分類せられた原料から成る収入及び第六項目の下に分類せられた動産資本は、企業者が借入れる資本の一部をなすことが出来る。人々は動産資本に固定資本(capital fixe または fonds de premier établissement)の名を与える。これは、生産において一回以上役立つすべての物の総体である。また人は、第七項目の下に分類せられた新動産資本及び第十項目の下に分類せられた新収入をも併せて、原料に流動資本(capital circulant または fonds de roulement)の名を与える。これは、生産において一回しか役立たないすべての物の総体である。
第十一項目の下に分類せられる流通貨幣は消費者の手中にある。第十二項目の下に分類せられる流通貨幣は企業者の流動資本の一部を成す。第十三項目の下に分類せられる貯蓄貨幣は、消費者の手中にあって、収入の消費に対する過剰を正確に表わす。
一九一 企業者が利益を得ている状態にあるかまたは損失を受けた状態にあるかは、常に、この人の帳簿及び倉庫中にある原料及び生産物の状態によって定められる。故に今は企業の会計と損益計算の方法を説明すべきときである。この損益計算の方法は通常の実践から導き出され、上に述べた概念と全く一致し、私の生産理論が事物の性質をよく基礎に置いていることを証明している。私はまず簡単に複式簿記の原理を説明する。
一九二 企業者として、私はまず金庫を所持し、貨幣を受け入れたときはこの中に収容し、支払のために必要なときは、これから引出す。かようにして、この金庫のそとから中に、中から外にと、貨幣の二重の流れがある。換言すれば到着する貨幣の流れと、出ていく貨幣の流れとがある。ところで与えられたときにおいて私の金庫にある貨幣の量は、入ってきた貨幣量と、出ていった貨幣量との差に常に等しくあるべきことは、明らかである。この場合に、もし私が帳簿の白紙の一頁をとり、見出しに現金と書き、頁の両側の一方例えば左側に金庫中に順次に入ってきた金額を上方から下方へ記入し、頁の他の一側すなわち右方に順次に支払った金額を記入すれば、左側の合計と右側の合計との差は、金庫中にある現金の合計を常に示している。これら二つの合計が互に相等しく、両者の差がゼロとなることもあり得る。このときには、金庫は空である。けれども右側の合計は決して左側の合計より大であることが出来ない。この二つの欄全体は現金勘定と呼ばれる。左欄の全体は現金勘定の借方(doit または débit)と呼ばれ、右欄のそれは貸方(avoir または crédit)と呼ばれる。借方と貸方の差は現金勘定の残高(solde)と呼ばれ、正またはゼロであり得るが、しかし負ではあり得ない。
一九三 ここまでは、複式簿記に似た所は一つもない。次に複式簿記がいかにして現われるかを説明しよう。
私の金庫の中に入る貨幣は、これを私に貸した資本家または私から生産物を購った消費者から来り、出ていく貨幣は固定資本または流動資本に変形していく。ところで、私は、金庫内に入ってくる金額を現金勘定の借方に記入し、この金額がどこから来るかを示そうと欲し、また同様に金庫から出る金額を現金勘定の貸方に記入して、この金額がどこに行くかを示そうと欲していると想像する。この欲する目的を遂げるために、私は何をなすか。例えば私が最初に金庫中に入れる貨幣は私の友人マルタンが私に貸与した金額であるとする。私はマルタンに対し、二年または三年の内に一部分の返済を約したとする。この場合に、この金額がマルタンから来たことをいかにして示すか。その方法は極めて簡単である。現金勘定の借方に金額を記入した後、私は“資本主”または“マルタン”と記す。だが事を充分に尽すには、それで止ってはならぬ。私は、帳簿の他の頁を採り、見出に資本主またはマルタンと記し、現金勘定の借方にすなわちこの勘定の頁の左方に金額を記入すると同時に、直ちに同一の金額を資本主またはマルタン勘定の貸方にすなわちこの勘定の頁の右側に記入する。そしてこの金額を資本主またはマルタン勘定の貸方に記入するに当り“現金”と記す。これで記入が終ったのである。なお他の一つの事があるのが予想せられるが、それは右と反対に、私が、資本家であるマルタンに借入金の一部を返還するため、金庫から貨幣を取出した場合である。このときには、この金額を、“資本主”または“マルタン”と記して、現金勘定の貸方に記入し、資本主またはマルタン勘定の借方に“現金”と記入する。その結果、現金勘定の借方残高は、私が金庫に有する貨幣の有高を常に示すように、資本主またはマルタン勘定の貸方残高は、忘れてはならない他の重要な点、すなわち我が資本家マルタンに負う所の貨幣額を常に教えるのである。
私が金庫に入れまたは金庫から取り出す他の金額も同様にして記入せられる。例えば私の工場に機械を据え付けるために貨幣を取り出すときは、この機械は固定資本――その重要さについては私は既に簡単に述べておいた――と呼んだものの一部を成すのであるが、この時私は、固定資本勘定を設け、現金勘定の貸方に金額を記入し、かつ“固定資本”と附記し、固定資本勘定の借方に“現金”と附記して金額を記入する。流動資本についても同様である。もし私が原料を購いまたは商品を仕入れ、家賃を支払い、賃銀を支払う等、一般に地代・賃銀・利子を支払って、貨幣を金庫から引出すときは、現金勘定の貸方と、流動資本勘定の借方にこれを記入する。また私の生産物の販売から生ずる貨幣を私の金庫に入れれば、私は現金勘定の借方と流動資本勘定の貸方に、その金額を記入する。現在の会計の慣習では、流動資本勘定の代りに、他の二つの勘定科目を用いる。その一は原料及び仕入商品を借方に記入する商品勘定、他は地代・賃銀及び利子を借方に記入する営業費勘定である。もし必要があれば、この細別を更に詳細な分類とすることが出来る。だが右に見てきたように、一般的流動資本勘定を置き換えたこれらすべての特種勘定は損益計算に当って、結合せられねばならぬ。
複式簿記はこのようなものである。その原理は、ある勘定の借方または貸方に金額を記入したときは、必ず他の勘定の貸方または借方にこれを記入することである。この原理から、借方残高の合計すなわち資産は貸方残高の合計すなわち負債に常に等しいという結果が出てくる。第一次的には勘定科目の順序に従い、第二次的には日附に従って記入せられる帳簿は元帳(grand-livre)と称せられる。それに附属し、同じ記帳を日附の順序に従い、第二次的に勘定の順序に従って記入せられる帳簿は、日記帳(journal)と呼ばれる。
一九四 現金勘定は、あるときは借方に、あるときは貸方に記入せられる。資本主勘定は、貨幣の貸主である資本家の数に細分せられ得る。固定資本勘定は一般に借方に記入せられる。流動資本勘定はあるときは借方にあるときは貸方に記入せられる。以上がすべての企業の主要な四つの勘定である。固定資本勘定の借方は固定資本の額を示す。流動資本勘定の借方は、未だ生産物に具体化しない流動資本の額を示す。右に説明した複式簿記が、商工業、銀行業においてと同じく、農業においても用い得られるか否か。人々は現に盛にこれを論じている。これは要するに、農業は地用・労働・利殖を原料に適用して生産物を作り出す産業であるか否かを問うことに等しい。もし農業がかかる産業であるとすれば、複式簿記法が、商、工、金融企業においてと同じく、農業においても用い得られないはずはなく、今日この使用をなすに成功していないとしても、これは合理的に諸勘定を設けることを知らないためである。私共はここに理論と実際とが互に相援け合う有様の著しい例を見るわけである。けだし、たしかに、簿記によって表わされる産業の実際は生産理論の確立に大いに役立ち得るからである。そしてまた確かに、この理論が確立せられれば、農業の実際を簿記会計によって表わすのに大いに役立ち得るからである。
一九五 次に、企業の損益計算の方法を説明し、企業者の利益または損失の状態がいかにして成立するかを説明せねばならぬ。この説明のために、実際の簿記の慣習と称呼とに従って、例を作るのが適当であろう。
私が指物建具屋であるとする。私は、貯蓄した三、〇〇〇フランと、私に関心を有し私を信用する親族友人から借り入れた七、〇〇〇フランで仕事を始めたとする。これらの人々と私とは契約を結び、これにより彼らは十年間七、〇〇〇フランを貸与する義務を負い、私は彼らに年利五分を支払う義務を負う。そこで彼らは出資社員となる。私は、私自身に対する出資社員であって、三、〇〇〇フランに対する五分の利子を私自身に支払わねばならぬ。私は一〇、〇〇〇フランを私の金庫に収納し、これを現金勘定の借方に記入し、また出資社員勘定の貸方に記入する。もし出資社員が直ちに払込をなさず、または一時に全部の人が払込をしないときは、これら出資者A、B、C等の別々の勘定を設けなければならぬ。
これをなしおえた上で、私は、年五〇〇フランで土地を賃借し、その上に工場を建設し、機械、仕事台、旋盤等を据え付ける。それらのすべてで五、〇〇〇フランを要し、それを貨幣で支払ったとする。私の金庫からこれらの五、〇〇〇フランを引出したとき、現金勘定の貸方に五、〇〇〇フランを記入し、固定資本勘定の借方に五、〇〇〇フランを記入する。
次に、材木その他の材料を二、〇〇〇フラン購入すれば、現金勘定の貸方に二、〇〇〇フランを記入し、商品勘定の借方に二、〇〇〇フランを記入する。
また次に、出資者に対し利子として五〇〇フランを支払い、賃借した土地の地代として五〇〇フランを、賃銀として二、〇〇〇フランを支払ったとすれば、現金勘定の貸方に三、〇〇〇フランを記入し、同時にこれを営業費勘定の借方に記入する。
ところでこれらの出資をなしおえれば、私は注文を受けた家具・什器を製作し、これを売渡す。六、〇〇〇フラン現金で売渡したとすれば、六〇〇〇フランを現金勘定の借方に記入し、またそれを商品勘定の貸方に記入する。
一九六 このときに、損益計算を行ってみる。出来るだけ簡単にするため、商品・原料・生産物等の残余が存在しないと仮定する。従って私は商品をもっていないわけであるが、商品勘定に残高がある。商品勘定は、現金勘定に対して二、〇〇〇フランを負い、またこれに対し六、〇〇〇フランを貸している。差額は四〇〇〇フランである。これは、どこから来ているのか。事ははなはだ簡単である。買った金額より高く売ったからである。実際、私がなさねばならなかったのは、このように高く売ることであった。私は、材木、その他の材料を購い、製品である家具什器を売った。ところで製品の価格のうちに、単に原料品の価格のみでなく、労働の賃銀を初めとし、他の一般的費用及びある額の利益が含まれていなければならぬ。四、〇〇〇フランの残高は三、〇〇〇フランの営業費を償い、一、〇〇〇フランの利益を残す。それが、私がまず第一に営業費を商品勘定の借方に移し、第二に商品勘定の残高を損益勘定の借方に移そうとする理由である。倉庫には商品が残存していないから、この商品勘定は締切らねばならぬ。この場合損益勘定では一、〇〇〇フランの貸方となって現われる。もし損失が現われれば、損益勘定の借方に数字が現われる。
一九七 以上の一切が終ったとき、私の勘定は次のようにして決算せられる。
現金勘定は一六、〇〇〇フランを受け、一〇、〇〇〇フランを支出している。よって六、〇〇〇フランの借方残高がある。
資本主勘定は、一〇、〇〇〇フランの払込みがあったのであるから、一〇、〇〇〇フランの貸方残高がある。
固定資本勘定は五、〇〇〇フランを受け入れている。よって五、〇〇〇フランの借方残高がある。
商品勘定は六、〇〇〇フランを受け、六、〇〇〇フランを支出している。故に差引残高がない。
営業費勘定は三、〇〇〇フランを受け、三、〇〇〇フランを支出している。故にここにも差引残高がない。
損益勘定は一、〇〇〇フランを支出している。よって一、〇〇〇フランの貸方残高がある。
要するに私の貸借対照表は次の如くである。
資産(借方勘定の一切から成る)
現金勘定 6,000
固定資本勘定 5,000
計 11,000
負債(貸方勘定の一切から成る)
資本主勘定 10,000
損益勘定 1,000
計 11,000
私は一、〇〇〇フランの利益を得た。そして私は、第二期の営業を開始するのに、一〇、〇〇〇フランの代りに、一一、〇〇〇フランをもってする。その内の五、〇〇〇フランは固定資本であって、六、〇〇〇フランは流動資本である。
一九八 私は出来るだけ簡単な例を示した。だが実際においては、ここに指摘しておかねばならぬ所の正常的で例外でない幾らかの複雑さがある。
一、記帳は総括的になされるのではなくして、常に詳細に行われる。またそれは一回に行われるのではなくして、幾回にも亙ってなされる。すなわち固定資本として五、〇〇〇フランを支払い、原料の買入れに二、〇〇〇フランを支払い、営業費として三、〇〇〇フランを支払ったそのたびに、また商品を六、〇〇〇フランに売ったたびごとに、記帳をする。
二、私は一般に現金で販売しないで、掛で販売する。掛で得意先L、M、Nに販売したときは、商品勘定の貸方と現金の借方に記入しないで、商品勘定の貸方とL、M、N勘定の借方に記入し、彼らが支払いをなすときは、L、M、N勘定の貸方と現金勘定の借方に記入をする。故に正常の状態においては、ある数の得意先勘定借方が現われる。
三、そればかりではない。得意先L、M、Nは一定期間の信用を受けた後、現金でこれを決済しないで、私に宛てた約束手形、または彼らに宛て彼らが引受けた為替手形によって決済せられる。そして私がこれらの手形を受取ったときは、これをL、M、Nの貸方に記入しかつ現金勘定の借方に記入する代りに、L、M、Nの貸方に記入し、受取手形勘定の借方に記入をする。故に正常の状態においては、受取手形勘定の借方があるものである。この勘定は現金勘定に類し、借方と貸方との差は、私の金庫にある約束手形及び為替手形の合計に常に正確に一致する。
四、なおそれだけではない。一般に私は、私の商業手形を収受するのみでなく、これを銀行に譲渡して、期限前の割引を求める。かようにしてこれらの手形を流通するときは、受取手形勘定の貸方に記入しかつ現金勘定の借方に記入する代りに、私は受取手形勘定の貸方に記入しかつ銀行勘定の借方に記入する。銀行が現金で支払をなしたときは、銀行勘定の借方に記入する代りに、現金勘定の借方に記入する。利子に相当する割引料は、もちろん、営業費勘定の借方に記入される。
五、私は、また一般に、現金で買入れをしないで、掛で買入れをする。そして、X、Y、Z等から掛で買入れるときは、商品勘定の借方に記入し、現金勘定の貸方に記入する代りに、商品勘定の借方に記入し、かつX、Y、Z勘定の貸方に記入をする。故に正常状態においては、私はある数の仕入先勘定貸方をもつ。
六、ここでもまた、私は一般に、X、Y、Zに対し現金で支払をしないで一定期間の信用を受けた後、私が振出す約束手形または彼らが振出し私が引受ける為替手形で支払をする。そしてこれらの手形を与えれば、私はX、Y、Z勘定の借方と現金勘定の貸方に記入をしないで、X、Y、Z勘定の借方と支払手形勘定の貸方に記入をする。これらの手形を支払ったときは、支払手形勘定の借方と現金勘定の貸方に記入をする。故に正常状態においては、私は支払手形勘定の貸方をももつ。
七、最後に、貸借対照表を作成するとき、倉庫に商品・原料・生産物が残存していないことはほとんどあり得ない。もしそれがあり得るとしたら、それは、各営業期間の終りにおいてすべての活動が中絶したことを意味する。この中絶は憂うべきことであり、不必要なことである。ところでこれと反対に実際には、私は家具を販売すれば、それに引続いて材木その他の原料を購うのである。棚卸をするのは、これらの商品についてである。私は常に営業費を商品勘定の借方に移す。しかし商品勘定の差引残高を求める代りに、棚卸された商品の正確な額だけが借方に残るように損益勘定によってバランスするのである。その理由は次の如くである。Md, Mc はそれぞれ商品勘定の借方と貸方であり、Fは営業費の借方残高であり、Iは棚卸の額であるとすれば、利益がある場合には、商品勘定の借方 Md+F にPを加えて、
(Md+F+P)-Mc=I
とならねばならぬ。商品勘定は借方にIを残し、損益勘定はPを貸方に残す。損失の場合には、商品勘定の貸方 Mc に金額Pを加えて、
(Md+F)-(Mc+P)=I
とならねばならぬ。商品勘定は、この場合にも、借方にIを残し、損益勘定はPを借方に残す。ところで右の二つのPの額は、ただ一つの方程式、
Md+F-I±P=Mc
によって与えられる。この方程式は、次のような考察から直接に導き出すことも出来る。すなわち、買入れた原料の金額に、支払われた営業費を加え、これから使用せられなかった原料と在庫商品とを控除し、利益があればその額を加え、損失があればその額を控除すれば、差引残高は販売金額に等しい。
以上のようにして、資産を構成するものとして、現金及び固定資本または建設費の項目に、得意先勘定、受取手形、銀行勘定、棚卸商品が加わり、負債を構成するものとしては、資本主、損益の項目に仕入先勘定、支払手形等が加わる。これらを附け加えて、工業企業の普通の貸借対照表が得られる。農業・商業・金融業の貸借対照表もこれに類似したものである。
一九九 企業者が、いかにして貸借対照表によって、いつでも損益の状態を、原理上知り得るかは、右の説明によって明らかになった。以上で、私の定義は理論的にも実際的にも確立せられたのであるが、今は企業者が利益も得ず、損失も蒙らないものと想像し、また既にいったように(第一七九節)、原料・新資本・新収入・金庫にある流通貨幣の形態をとった企業者の流動資金及び収入の貯蔵・流通貨幣並びに貯蓄貨幣の形態をとった消費者の流動資金を捨象し、生産物と生産用役の市場価格が、均衡状態において、いかにして数学的に決定せられるかを示そうと思う。
第二十章 生産方程式
要目 二〇〇 商品と用役の利用、所有量。二〇一 用役の供給量と生産物の需要量との等価の方程式。極大満足の方程式。用役の部分的供給と生産物の部分的需要の方程式。二〇二 (1) 用役の総供給の方程式。(2) 生産物の総需要の方程式。二〇三 製造係数。(3) 用役の供給と需要の均等の方程式。(4) 生産物の売価と原価の均等の方程式。二〇四 製造係数の固定性。二〇五 原料。二〇六 2m+2n-1 個の未知数に対する同数の方程式。二〇七 実際上の解法。
二〇〇 捨象し得るものを捨象した後、問題の本質的な与件として残った最初の六項の用役(第一七八節)に立ち帰り、(T)、(T')、(T'') ……及び (P)、(P')、(P'') ……並びに (K)、(K')、(K'') ……をそれぞれ一定の期間中に得られる土地用役・労働及び利殖とする。そしてこれらの用役の量は、(一)自然的または人為的単位例えば土地のヘクタール・人の一人・資本の一単位など、(二)時間的単位例えば一日など、の二つの単位によって秤量せられるものと仮定する。故にそれぞれの土地の一ヘクタールの地用のある日数の量、それぞれの人の労働のある日数の量、それぞれの資本の利殖のある日数の量があるわけである。これらの用役の種類の数をnとする。
右に定義せられた用役によって、我々は、同じ期間中に消費せられる(A)、(B)、(C)、(D)……の生産物を製造することが出来る。この製造はあるいは直接になされ、あるいは原料と称せられて既に存在する生産物を仲介として行われる。換言すれば、この製造は、あるいは地用・労働・利殖の結合により、あるいは地用・労働・利殖を原料に適用することによって行われる。だがこの第二の場合が第一の場合に還元せしめられることは後に述べる如くである。かくして製造せられた生産物の種類の数をmとする。
二〇一 生産物は、各個人に対し私が既に r=φ(q) の形をとる利用方程式または欲望方程式で表わした利用をもつ(第七五節)。けれども用役それ自身もまた、各個人に対し、直接的利用をもつ。そして我々は随意に土地・人的能力・資本の用役の全部または一部を賃貸することも出来れば、自分のために保留しておくことも出来るのみでなく、また、地用・労働・利殖を、生産物に変形する企業者の資格においてではなく、直接に消費する消費者の資格において獲得することも出来る。換言すれば、地用・労働・利殖を、生産用役としてではなく、消費用役として得ることが出来る。私は先に第四・五・六項目の下に分類せられた用役を並べて、第一・二・三項目の下に分類せられた用役を一つの範疇に入れて、これを認めた(第一七八節)。故に用役もまた商品であって、各個人に対するその利用は r=φ(q) の形態をとる利用曲線または欲望曲線によって表わされ得る。
これだけを前提として、ある人が(T)の qt を、(P)の qp を、(K)の qk を処分するとする。r=φt(q), r=φp(q), r=φk(q) ……をそれぞれ用役(T)、(P)、(K)……がこの個人に対して一定時間中にもつ利用または欲望曲線であるとし、r=φa(q), r=φb(q), r=φc(q), r=φd(q) ……をそれぞれ生産物(A)、(B)、(C)、(D)……がこの同じ人に対して一定時間中にもつ利用または欲望曲線であるとする。また pt, pp, pk ……を(A)で表わした用役の市場価格であるとし、pb, pc, pd ……を生産物の市場価格とする。ot, op, ok ……をこれらの価格において有効に供給せられた用役の量とする。これらの量は正であり得、この場合にはこれらの量は供給せられた量を示す。またそれらは負であり得、その場合には需要せられる量を示す。最後に da, db, dc, dd ……を均衡価格において有効に需要せられる生産物の量とする。現に存在する狭義の資本の償却及び保険と新しい狭義の資本の創造を目的とする貯蓄とは、これを次の編に述べることとして捨象すれば、これらの諸量とそれらの価格との間に、方程式
otpt+oppp+okpk+ …… =da+dbpb+dcpc+ddpd ……
が得られる。いうまでも無く、最大満足の条件が、用役の正または負の供給と生産物の需要とを決定するのであるが(第八〇節)、この条件によって、これらの同じ量と同じ価格との間には、方程式
φt(qt-ot)=ptφa(da)
φp(qp-op)=ppφa(da)
φk(qk-ok)=pka(da)
………………………
φb(db)=pbφa(da)
φc(qc)=pcφa(da)
φd(qd)=pdφa(da)
…………………
が得られる。すなわち n+m-1 個の方程式が得られ、前の方程式と合せて n+m 個の方程式の体系を成す。それらのうちで、未知数 ot, op, ok …… da, db, dc, dd ……中の n+m-1 個を順次に消去して、価格 pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……の函数としての n+m 番目の未知数を与える方程式しか残らないように仮定することが出来る。かようにして、(T)、(P)、(K)……の次の需要または供給方程式が得られる。
ot=ft(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
op=fp(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
ok=fk(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
また(B)、(C)、(D)……の次の需要方程式が得られる。
db=fb(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
dc=fc(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
dd=fd(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
………………………………………
(A)の需要方程式は
da=otpt+oppp+okpk+ …… -(dbpb+dcpc+ddpd+ ……)
によって与えられる。
二〇二 同様にして、用役の他のすべての所有者による用役の部分的需要または供給の方程式及び生産物の部分的需要の方程式が得られる。今 Ot, Op, Ok ……を用役の総供給すなわち負の ot, op, ok ……に正の ot, op, ok ……が超過する量を示すこととし、Da, Db, Dc, Dd ……で生産物の総需要を表わし、Ft, Fp, Fk …… Fb, Fc, Fd ……で函数 ft, fp, fk …… fb, fc, fd ……の合計を表わせば、求める量の決定を目的とする次のような用役の総供給n個の方程式を含む体系が得られる。ただし供給が所有量に等しい場合に関する制限を満足するために函数に与えられるべき性質についての留保をなさねばならぬことは、交換の理論においてと同様である(第一一九――二一節)。
Ot=Ft(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
[1] Op=Fp(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
Ok=Fk(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
また次のような生産物の総需要のm個の方程式の体系が得られる。
Db=Fb(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
[2] Dc=Fc(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
Dd=Fd(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
…………………………………………
Da=Otpt+Oppp+Okpk+ …… -(Dbpb+Dcpc+Ddpd+ ……)
すなわち全体で、n+m 個の方程式が得られる。
二〇三 かつまた、at, ap, ak …… bt, bp, bk …… ct, cp, ck …… dt, dp, dk ……を製造係数(coefficients de fabrication)すなわち生産物(A)、(B)、(C)、(D)……の各単位の製造に入り込む生産的用役(T)、(P)、(K)……の各々の量とすれば、求める量を決定するために、次の二組の方程式が得られる。
atDa+btDb+ctDc+dtDd+ …… =Ot
[3] apDa+bpDb+cpDc+dpDd+ …… =Op
akDa+bkDb+ckDc+dkDd+ …… =Ok
……………………………………………
これらは、用いられた生産用役の量が有効に供給せられた量に等しいことを示す方程式であって、n個ある。
atpt+appp+akpk+ …… =1
btpt+bppp+bkpk+ …… =pb
[4] ctpt+cppp+ckpk+ …… =pc
dtpt+dppp+dkpk+ …… =pd
…………………………………
これらは、生産物の販売価格が生産用役から成る生産費に等しいことを示す方程式であって、m個ある。
二〇四 一見して明らかなように、私は、製造係数 at, ap, ak …… bt, bp, bk …… ct, cp, ck …… dt, dp, dk …… が先験的に決定せられると仮定した。だが実際においてはそうではない。ある生産物の製造に当っては、ある生産用役例えば地用をより多くあるいはより少く用い、他の生産用役例えば利殖または労働をあるいはより少くあるいはより多く用いることが出来る。このようにして、生産物の各一単位の製造に入り込む生産用役の各々の量は、生産物の生産費は最小でなければならぬとの条件によって、生産用役の価格と同時に決定される。後に私は、決定せられるべき製造係数の数だけの方程式の体系によって、この条件を表わすであろう。今は、簡単を期するため、それを捨象し、右の係数は与件に属して、問題の未知数に属しないと仮定する。
この仮定をおくと共に、更に私は、他の一つの事情すなわち企業における不変費用と可変費用との区別を無視する。企業者は利益も損失も受けないと仮定せられているから、彼らはまた等しい量の生産物を製造していると仮定せられ得る。そしてこの場合には、あらゆる性質のあらゆる費用は商品の量に比例すると考えることが出来る。
二〇五 既に述べておいたように、生産用役を原料に適用する場合を、私は、生産用役の相互の結合の場合に分解し還元する。私共はそうしなければならない。なぜなら、原料はそれ自身あるいは生産用役相互の結合によりあるいは生産用役を他の原料に適用することによって得られ、しかもこの原料にも同じことがいい得られるからである。
例えば(B)の一単位が、(T)の βt 量、(P)の βp 量、(K)の βk 量……を原料(M)の βm に適用することによって得られるとすると、(B)の生産費 pb は方程式
pb=βtpt+βppp+βkpk+ …… +βmpm
によって与えられる。ここで pm は(M)の生産費であるとする。しかし原料(M)はそれ自身生産物であって、その一単位は(T)の mt、(P)の mp、(K)の mk ……の結合によって得られるから、(M)の生産費 pm は方程式
pm=mtpt+mppp+mkpk+ ……
によって与えられる。pm の値を先の方程式に代入すれば、
pb=(βt+βmmt)pt+(βp+βmmp)pp+(βk+βmmk)pk+ ……
が得られる。この方程式は、
βt+βmmt=bt, βp+βmmp=bp, βk+βmmk=bk ……
と置いてみると、[4]組の第二方程式に他ならない。
原料(M)が生産用役相互の結合によってではなく、生産用役をある他の原料に適用して得られるときに、いかにすべきかも、またこれによって直ちに理解出来るであろう。
二〇六 かくして総計 2m+2n 個の方程式が得られる。だが、これら 2m+2n 個の方程式は 2m+2n-1 個に還元せられる。実際[3]組のn個の方程式の両辺にそれぞれ Pt, Pp, Pk ……を乗じ、かつ[4]組のm個の方程式の両辺にそれぞれ Da, Db, Dc, Dd ……を乗じ、各組の方程式を別々に加えれば、結局二個の方程式が得られる。ところでこれらの二方程式においては、左辺は同一であって、従って右辺の間に方程式
Otpt+Oppp+Okpk+ …… =Da+Dbpb+Dcpc+Ddpd+ ……
が成立する。これは、[2]組のうち第m番目の方程式に他ならない。故に[4]組の第一方程式を省いて、[2]組の第m番目の方程式を残すことも出来、またはその反対をすることも出来る。いずれにしても、2m+2n-1 個の未知数すなわち一般均衡状態における(一)用役の供給合計量n個、(二)用役の価格n個、(三)生産物の需要合計量m個、(四)生産物中の第m番目の物で表わした m-1 個の生産物の価格 m-1 個、を決定するのに、2m+2n-1 個の方程式が残る。ただ証明を要することで残っているのは、交換の均衡に関してと同じく、生産の均衡に関してもまた、私が既に理論的解決を与えた問題が、市場において自由競争の機構によって実際的にも解かれる問題であるということだけである。
二〇七 これは、既に私共が交換の均衡を成立せしめたと同じようにして、生産の均衡を最初から出発して成立せしめることを問題とする。すなわち問題のある与件をある期間変化しないと仮定し、次にこれらの与件の変化の影響を研究するため、これらの与件を変化するものと考えるのである。しかし生産の摸索は、交換の摸索に存在しない複雑さを呈する。
交換においては商品の変化はない。ある価格が叫ばれ、この価格に相応ずる需要と供給とが相等しくないとすると、人々は、他の需要と供給とが相応ずる所の他の価格を叫ぶ。しかるに生産においては、生産用役の生産物への変化がある。用役のある価格が叫ばれ、生産物のある量が製造せられても、これらの価格とこれらの量とが均衡価格と均衡の量ではないとすると、単に他の価格を叫ばねばならぬのみでなく、諸生産物の他の量を製造せねばならない。交換の問題においてと同じく、生産の問題においても、厳密な摸索を実現するには、この事情を考量の中に加え、初め生産物の売価が偶然に定まり、次にそれがその生産費に等しくなるまで、この売価が生産費に超過すれば増加せられ、売価が生産費より小ならば減少せられる生産物の種々なる量を、企業家が取引証書で表わしていると仮定すればよい。また地主・労働者・資本家は、同様に、まず叫ばれた価格においての用役の量、次にこの用役の需要と供給とが均等となるまで、この需要が供給に超過しまたは不足することにより昂騰しまたは下落する価格においての用役の量を、取引証書で表わしていると仮定すればよい。
しかるになお第二の複雑が生ずる。交換の場合には、ひとたび均衡が原理上成立すれば、交換は直ちに行われる。しかるに生産はある期間を必要とする。私はこの期間を純粋に単純に捨象して、この第二の困難を解決しよう。私は、第六編において、流動資本と貨幣とを導き入れよう。この流動資本と貨幣とによって、生産用役は直ちに生産物に変形することが出来る。ただし消費者はこの変形に必要な資本に対する利子を支払わねばならない。
このようにして、生産の均衡はまず原理上成立する。次にこの均衡は、考察中の期間に問題の与件に変化がなければ、この期間中に製造せられるべき生産物と収穫せられるべき用役の相互の引渡によって、有効に成立する。
第二十一章 生産方程式の解法。生産物の価格及び用役の価格の成立の法則
要目 二〇八 企業者が生産用役を等価値の分量だけ使用しようとするという仮定。偶然に叫ばれた生産用役の価格。二〇九 生産物の原価。偶然に製造せられた生産物の数量。二一〇 生産物の売価。企業者の損益。二一一、二一二 生産物の売価と原価の均等のための摸索。二一三 価値尺度財の需要。生産の均衡のために価値尺度財の原価が1に等しいことの必要。二一四 企業者が生産用役を等量ならしめようとするという仮定。二一五 用役の有効需要及び供給。企業者による需要量、消費者による需要量。価格がゼロと無限大の間を変化するに従う需要と供給の変化。二一六、二一七 用役の供給と需要の均等のための摸索。二一八 価値尺度財の需要。二一九 価値尺度財の原価が1に等しいための摸索。二二〇 生産物と用役の均衡価格の成立の法則。
二〇八 そこで我々は市場に行って、そこで人々が偶然に用役の価格 p't, p'p, p'k ……のn個、製造すべき生産物の量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd ……(取引証書によって表わされていると仮定する)のm個を決定したと仮定する。これに続いていかなる活動が起るかをよく捕捉するために、私はまず、企業者が生産物(A)、(B)、(C)、(D)……のある量を売り、消費者はこれを購い、また前者は生産用役(T)、(P)、(K)……を購い、後者はこれらを売り、この買われる生産用役の量と売られるそれとは等価値ではあるが等量ではないと仮定し、この仮定の下に、企業者が利益も得なければ損失も受けないような Ωa, Ωb, Ωc, Ωd ……を決定しよう。次に、企業者が購う用役と消費者が売る用役とは等価値であると同時に等量であると仮定し、この仮定の下に用役の有効需要と供給とが均等となるような p't, p'p, p'k ……を決定しよう。この場合に一見して明らかであるように、この研究方法は価値尺度財までも捨象していないにしても、少くとも貨幣を捨象している。
ここで、私共の与件と条件となっているもののうちでは、狭義の資本が現物のまま貸し付けられると仮定せられていることを注意するのは、無意義ではあるまい。しかし既に説明したように(第一九〇節)、資本家はその資本を貯蓄によって形成するから、実際においては、資本は貨幣で賃貸せられる。しかし資本の創造と貨幣の形態をとる資本の賃貸とを同時に考えることは、後にしようと思う。
二〇九 (T)、(P)、(K)……の価格 p't, p'p, p'k ……は、右に述べたように、偶然に決定せられているのであるから、その結果として、企業者に対しては、一定の生産費 p'a, p'b, p'c, p'd ……が、次の方程式から決定せられる。
p'a=atp't+app'p+akp'k+ ……
p'b=btp't+bpp'p+bkp'k+ ……
p'c=ctp't+cpp'p+ckp'k+ ……
p'd=dtp't+dpp'p+dkp'k+ ……
……………………………………
読者も認められるであろうように、p'a=1 となるように、p't, p'p, p'k ……を決定することも自由である。私は、時と処に応じて、この自由を利用しよう。ただし後に至って、価値尺度財である商品の生産費は、自由競争の制度の下においては、自ら1に等しくなろうとするものであることを示す機会があろう。今は(A)の生産費がその販売価格より大であることも、小であることも、またはそれらが等しいことも出来るかのように推論をしよう。
また、(A)、(B)、(C)、(D)……の同様に偶然に決定せられた量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd ……は、次の方程式によって、(T)、(P)、(K)……の量 Δt, Δp, Δk ……を必要とする。
Δt=atΩa+btΩb+ctΩc+dtΩd+ ……
Δp=apΩa+bpΩb+cpΩc+dpΩd+ ……
Δk=akΩa+bkΩb+ckΩc+dkΩd+ ……
……………………………………………
これらの量 Ωa, Ωb, Ωc, Ωd ……は自由競争の機構に従って、企業者によって販売せられる。私はまず生産物(B)、(C)、(D)……の販売の条件を研究する。次に価値尺度財として用いられる生産物(A)の販売の条件を研究する。
二一〇 (B)、(C)、(D)……の量 Ωb, Ωc, Ωd ……は、次の方程式に従って、販売価格 πb, πc, πd ……で売られる。
Ωb=Fb(p't, p'p, p'k …… πb, πc, πd ……)
Ωc=Fc(p't, p'p, p'k …… πb, πc, πd ……)
Ωd=Fd(p't, p'p, p'k …… πb, πc, πd ……)
……………………………………………
実際に、市場は自由競争によって支配せられる故に、生産物は、(一)欲望の最大満足、(二)用役の価格も生産物の価格も常に単一であること、(三)一般均衡の三つの条件に従って販売せられる(第一二四節)。ところで右の体系は、m-1 個の未知数と m-1 個の方程式を含み、かつこれら三つの条件をちょうど充すものである。
さて、販売価格 πb, πc, πd ……は一般に生産費 p'b, p'c, p'd ……と異るから、(B)、(C)、(D)……を生産する企業者は、これらの差
Ωb(πb-p'b), Ωc(πc-p'c), Ωd(πd-p'd)
によって表わされる利益または損失を受ける。
しかし直ちに解るように、Ωb, Ωc, Ωd ……が πb, πc, πd ……の函数であるとしたら、この事自体によって、これらの後の量は前者の量の函数であり、従って、(B)、(C)、(D)……の製造量を適当に変化すれば、これらの生産物の販売価格をその生産費に一致せしめることが出来る。
二一一 函数 Fb, Fc, Fd ……がいかなる函数であるかを、私共は知らない。しかし交換という事実の性質から、これらの函数の内第一は pb の値が減少するかまたは増加するかにより、第二は pc の値が減少するかまたは増加するかにより、第三は pd の値が減少するか増加するかによって(以下も同様)、増加するかまたは減少するという結果が出てくる。だから例えば πb>p'b であると仮定すれば、Ωb を増加して、πb を減少することが出来る。反対に πb<p'b であると仮定すれば、Ωb を減少して、πb を増大することが出来る。同様に、であるとすれば、Ωc, Ωd ……を増加しまたは減少して、πc, πd ……を減少しまたは増加することが出来る。
(B)、(C)、(D)の製造量を Ω'b, Ω'c, Ω'd ……とすれば、それを決定する方程式は次の如くである。
Ω'b=Fb(p't, p'p, p'k …… p'b, πc, πd ……)
Ω'c=Fc(p't, p'p, p'k …… πb, p'c, πd ……)
Ω'd=Fd(p't, p'p, p'k …… πb, πc, p'd ……)
……………………………………………
これらの量は摸索によって、Ωb, Ωc, Ωd ……に代わるのであるが、それらは自由競争の機構に従い、次の方程式によって、価格 π'b, π'c, π'd ……で売られる。
Ω'b=Fb(p't, p'p, p'k …… π'b, π'c, π'd ……)
Ω'c=Fc(p't, p'p, p'k …… π'b, π'c, π'd ……)
Ω'd=Fd(p't, p'p, p'k …… π'b, π'c, π'd ……)
………………………………………………
そして説明を要するのは、π'b, π'c, π'd ……が、πb, πc, πd ……よりも、p'b, p'c, p'd ……に近似しているということである。
二一二 この時に行われる摸索の条件においては、用役の価格は一定であって、変化しない。故に各交換者は、価値尺度財で表わされた常に同一の収入
r=qtp't+qpp'p+qkp'k+ ……
を得、かつ、方程式
(qt-ot)p't+(qp-op)p'p+(qk-ok)p'k+ …… +da+dbpb+dcpc+ddpd+ …… =r
に従って、この収入を用役の消費と生産物の消費との間に配分せねばならない。
(B)、(C)、(D)……のある価格が、これらの商品のある量が製造せられた結果として決定せられているとき、製造せられた量の一つ例えば(B)が増加しまたは減少すれば、新しい均衡を成立せしめるためになすべき第一の事は、すべての交換者の(B)に対する需要を増大せしめまたは減少せしめて、それにより共通で同一の割合に稀少性を減少せしめまたは増大せしめ、同時に同じ割合で(B)の価格を低下せしめまたは高騰せしめることである。これは、(B)の価格に関する第一次の最も重要な結果と称し得べきものである。これだけのことがなされ、各交換者において(B)の消費に費されるべき金額 dbpb が変化しなければ、均衡は回復しよう。しかしこの金額は、疑も無くすべての場合にすなわち(B)の製造量の増加の場合にもまた減少の場合にも、ある交換者においては増加し、ある交換者においては減少するから、前者はすべての商品を売らねばならず、従ってこれらすべての商品の価格は下落するに至るであろうし、後者はすべての商品を買わねばならず、従ってこれらすべての商品の価格を騰貴せしめるに至るであろう。これは、(B)、(C)、(D)……の価格に関する、第二次の、中位的な重要さをもつ結果である。それには三つの理由がある。(一)(B)の消費に投ぜられるべき金額 dbpb の変化は、二つの要因 db と pb とが反対の方向に変化するという事実によって、限定せられていること、(二)すべての商品の売と買とを生ぜしめるこの変化は、この事実自身の性質によって、これらの商品の微少な量の売または買しか生ぜしめないこと、(三)売の影響と買の影響とが互に相殺し合うこと。
右に(B)の製造量の変化の影響についていったことは、また、(C)、(D)……の製造量の変化の影響についてもいわれ得る。故にたしかに、各生産物の製造量における変化はこの生産物の販売価格に直接のかつすべて同一方向をとる影響を及ぼし、反対に他の生産物の製造量における変化は、すべて同一の方向に行われたと想像しても、右の生産物の販売価格には間接的な互に相反する方向のそしてある程度まで互に相殺し合う影響しかもたない。だから、新しい製造量と新しい販売価格の体系はもとの体系よりは均衡に近いものであって、そしてこれにますます近からしめるには、摸索を続ければよい。
このようにして、方程式
D't=atΩa+btD'b+ctD'c+dtD'd+ ……
D'p=apΩa+bpD'b+cpD'c+dpD'd+ ……
D'k=akΩa+bkD'b+ckD'c+dkD'd+ ……
………………………………………………
によって、(T)、(P)、(K)……のそれぞれの量 D't, D'p, D'k……を必要とする所の、かつ方程式
D'b=Fb(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
D'c=Fc(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
D'd=Fd(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
………………………………………………
によって、販売価格 p'b, p'c, p'd ……で売られる所の、また(B)、(C)、(D)……の企業者が利益も得なければ損失も受けないような販売価格で売られる所の(B)、(C)、(D)……の量 D'b, D'c, D'd ……を決定し得る。
ところで、生産物の市場において、企業者が利益を受けるかまたは損失を受けるかによって、その生産を拡張しまたは制限するとき、この摸索は自由競争の制度の下にまさしく現実に行われるものである(第一八八節)。
二一三 一国の市場において、生産費に等しい販売価格 p'b, p'c, p'd ……で、(B)、(C)、(D)……の有効に需要せられる量 D'b, D'c, D'd ……に対し、用役の総供給量の方程式
O't=Ft(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
O'p=Fp(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
O'k=Fk(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
………………………………………………
に従って取引証書の形の下に有効に供給せられる(T)、(P)、(K)……の量 O't, O'p, O'k ……が相対応している。そしてこの用役の総供給量の方程式は、生産物の総需要の方程式と合して、最大満足、価格の単一及び一般均衡の三条件を充す交換方程式の体系を形成する。
またこのとき、人々は方程式
D'a=O'tp't+O'pp'p+O'kp'k+ …… -(D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+ ……)
によって決定せられた(A)の D'a 量を有効に需要する。
のみならず、生産物の生産費を生産用役の価格の函数として与える方程式の体系の中に含まれているm個の方程式(第二〇九節)にそれぞれ Ωa, D'b, D'c, D'd ……を乗じ、また生産用役の需要量を製造量の函数として与える方程式の体系(第二一二節)に含まれるn個の方程式にそれぞれ p't, p'p, p'k ……を乗じ、かくて得たものを各体系ごとに加えれば、各々の合計の右辺は互に相等しいから、右の方程式の二つの体系から、次の式が得られる。
Ωap'a=D'tp't+D'pp'p+D'kp'k+ ……
-(D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+ ……)
よってまた次の式が得られる。
D'a-Ωap'a=(O't-D't)p't+(O'p-D'p)p'p+(O'k-D'k)p'k+ ……
価値尺度財である商品(A)の生産量はなお未だ偶然にしか決定せられない。しかし企業者が何らの利益を得ず損失も受けないように、この量をも決定するのが便利である。ところで、かく決定するためには、価値尺度財の生産費がその販売価格に等しいことを要するのは明らかである。これらは、もし私共が最初に
p'a=atp't+app'p+akp'k+ …… =1
と置くだけの注意をすれば、成立することである。
この方程式以外には、均衡はあり得ない。この方程式が満足されたと仮定すれば、D'b, D'c, D'd ……が既にいったように決定せられたとき、均衡が現われる。実際企業者が借入れた生産用役の量と、この企業者がその生産物と交換に受ける量とは等価値である。なぜなら p'a は1に等しく、(A)の企業者は、(B)、(C)、(D)……の企業者と同じく、利益も得なければ損失も受けないからである。故に、
(O't-D't)p't+(O'p-D'p)p'p+(O'k-D'k)p'k+ …… =0
であり、従って
D'a=Ωap'a=Ωa
である。
かくて実際には、価値尺度財である生産物の生産費が1に等しいように用役の価格が決定せられたとき、私共が求める部分均衡を得るには、既にいったように、(B)、(C)、(D)……の企業者が利益も得なければ、損失も受けないように、D'b, D'c, D'd ……を決定すれば足るであろう。(A)の需要量 D'a はもちろん偶然に製造せられた量 Ωa である。ところで生産者は生産物の D'a+D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd ……だけを取引証書で売り、用役の D'tp't+D'pp'p+D'kp'k+ ……だけを購い、消費者は用役の O'tp't+O'pp'p+O'kp'k+ ……だけを取引証書で売り、生産物の D'a+D'bp'b+D'cp'c+D'dp'd+ ……だけを購い、生産用役の用いられた量とその供給量との均等を示す生産方程式の[3]組を除き、生産方程式のすべてが満足される。
二一四 だがこれらの他の方程式を満足せしめたと同じく、除かれたこの方程式の体系をも満足せしめねばならない。購われた生産用役の量と販売せられた生産用役の量とは単に等価値であることを要するのみでなく、等量でなければならぬ。なぜならこの量がまた生産物の製造に入り込む所の量であるから。かようにして、今や、用役の供給と需要の均等を生ぜしめて、生産の問題を完了すべきときとなった。
この均等は、もし D't=O't, D'p=O'p, D'k=O'k ……ならば、成立し得るであろう。そのときには、市場の仲買人は、生産者に対して用役の取引証書を引渡し、生産物の取引証書を受け、消費者に対しては生産物の取引証書を引渡し、用役の取引証書を受け、かくて用役と生産物との交換、用役と用役との交換が有効に行われる。けれども一般に、である。だから、合理的に修正せられた用役の価格を基礎として、摸索を繰り返さねばならぬ。この場合に p't, p'p, p'k ……は本質上正であるから、p'a=1, Ωa=D'a が成立つときには、もし、量 O't-D't, O'p-D'p, O'k-D'k ……のうち、あるものが正であるとすれば、他は負であり、またその逆も成り立つことを注意すべきである。
二一五 函数Uで正の ot の合計すなわち用役(T)の有効に供給せられた量を表わし、函数uで負の ot の合計すなわち(A)、(B)、(C)、(D)……の生産のために企業者が有効に需要する用役の量ではなく、消費者が商品として有効に需要する用役の量、他の言葉でいえば、生産用役としてではなく消費用役として有効に需要せられるこの用役の合計を表わせば、函数 O't は U-u の形とすることが出来よう。よって、不等式は、
の形とすることが出来る。
D'a は変化しないと仮定する。すなわち pt, pp, pk ……のいかなる変化にもかかわらず、従って生産費 pa の変化がいかなるものであるにもかかわらず、(A)の企業者が常に同一量を生産すると仮定する。しからば左辺には、可変項 btD'b, ctD'c, dtD'd ……が残り、これらは価格 pb, pc, pd ……の減少函数である。従って、それらは価格 pt の減少函数でもある。けだしこの pt の生産費はまたそれ自身価格 pb, pc, pd ……の増加函数でもあるからである。また可変項uが残る。uもまた価格 pt の減少函数である。よって、pt がゼロから無限へと増大し、p'p, p'k ……が一定であるとすると、D't+u はある一定の値からゼロにまで減少する。
不等式の右辺の唯一の項Uは、pt の値がゼロであるときにゼロであるのはもちろん、この pt が正のある値をとってもなおゼロである。これは、用役(T)の値に比し諸々の生産物の価格が著しく大であって、それがため、これらの生産物に対するこの用役の所有者の需要がゼロである場合である。価格 pt が増大すれば、函数Uはまず増加する。そのときには、生産物は、用役(T)に比し、比較的により安くなり、これらの生産物の需要が、これに伴う用役の供給と同時に現われる。だがこの用役の供給は無限には増加しない。それは少くとも最大を通る。この最大は所有せられる合計量 Qt より大ではあり得ない。次にそれは減少し、(T)の価格が無限となればすなわち(A)、(B)、(C)、(D)……が無料となれば、ゼロとなる。よって、pt はゼロから無限まで増大するとき、Uはゼロから出発し、増大し、後減少し、ゼロに帰る。
二一六 これらの条件の下で、Uがゼロであることを止める前に、D't+u がゼロとなる場合――この場合には問題は解けない――を除けば、(T)の有効需要と有効供給を等しからしめる pt のある値がある。この pt は、であるに従って、である。p''t を(T)の有効需要と有効供給を等しからしめる pt の値とし、π''b, π''c, π''d……を先に述べたようにして得られた(B)、(C)、(D)……の生産費に等しい販売価格とし、Ω''t を需要に等しい(T)の供給とすれば、
Ω''t=Ft(p''t, p'p, p'k …… π''b, π''c, π''d ……)
が得られる。
この操作が行われたときは、函数
O'p=Fp(p't, p'p, p'k …… p'b, p'c, p'd ……)
は
Ω''p=Fp(p''t, p'p, p'k …… π''b, π''c, π''d ……)
となる。そして用役(P)のこの供給はその需要より大となるかまたは小となる。しかし(P)の有効供給と有効需要とを等しからしめる pp のある値があり、これを、私共は p''t を見出すに用いたと同一の方法によって、見出すことが出来る。p''p をこの値とし、π'''b, π'''c, π'''d ……を既に述べたようにして(第二一一、二一二節)得られた(B)、(C)、(D)……の生産費に等しい販売価格とし、Ω'''p を需要に等しい(P)の供給とすれば、
Ω'''p=Fp(p''t, p''p, p'k …… π'''b, π'''c, π'''d ……)
が得られる。
同様にして、
ΩIVk=Fk(p''t, p''p, p''k …… πIVb, πIVc, πIVd ……)
が得られ、以下同様である。
二一七 これらすべての行動を終えれば、
O''t=Ft(p''t, p''p, p''k …… p''b, p''c, p''d ……)
が得られる。そして証明せねばならぬことは、供給 O't が需要 D't に近似しているよりも、より多くこの供給 O''t が需要 D''t に近似していることである。ところで、これはほぼたしからしく見える。けだし、供給を需要に等しからしめる所の p't から p''t への変化は直接にその影響を生じ、少くとも(T)の需要に対しては影響の全部を同一方向に生ぜしめるのに反し、この供給と需要とを均等から遠ざける所の p'p, p'k ……から p''p, p''k への変化は間接にしか影響を生ぜず、少くとも(T)の需要に対しては、反対の方向のかつある程度までは互に相殺し合う影響を生ずるからである。故に新しい価格 p''t, p''p, p''k ……の体系は、旧価格 p't, p'p, p'k ……の体系より均衡に近いのであって、この均衡にますます接近するには、同じ方法に従って変化を継続すればよい。
ところでこの摸索は、用役の市場において自由競争の制度の下に自然的に行われるものである。けだし、この制度の下に需要が供給より大ならば、人々は用役の価格を騰貴せしめ、供給が需要より大ならば、この価格を下落せしめるからである。
二一八 均衡が実現されたと仮定すれば、生産物の価格は、
p''a=atp''t+app''p+akp''k+ ……
p''b=btp''t+bpp''p+bkp''k+ ……
p''c=ctp''t+cpp''p+ckp''k+ ……
p''d=dtp''t+dpp''p+dkp''k+ ……
………………………………………
であり、他方、生産的用役の需要量は、
D''t=atD'a+btD''b+ctD''c+dtD''d+ ……
D''p=apD'a+bpD''b+cpD''c+dpD''d+ ……
D''k=akD'a+bkD''b+ckD''c+dkD''d+ ……
……………………………………………………
である。かつ量 D''b, D''c, D''d ……は生産物(B)、(C)、(D)……の需要方程式を満足するものであり、量 D''t=O''t, D''p=O''p, D''k=O''k ……は用役(T)、(P)、(K)……の供給方程式を満足するものである。(これらの方程式において、p''t, p''p, p''k …… p''b, p''c, p''d ……は独立変数である。)右の二組の方程式から、次の方程式が引き出される。
D'ap''a=D''tp''t+D''pp''p+D''kp''k+ ……
-(D''bp''b+D''cp''c+D''dp''d+ ……)
この場合には、次の方程式によって、(A)の D''a 量が需要せられる。
D''a=o''tp''t+O''pp''p+O''kp''k+ ……
-(D''bp''b+D''cp''c+D''dp''d+ ……)
そして D''t=O''t, D''p=O''p, D''k=O''k ……であるから、
D''a=D'ap''a
である。
これで解るように、問題の方程式のすべては、ただ一つの例外を除き、満足された。この例外は、価値尺度財である商品の需要と供給との均等を生ぜしめるこの商品の生産費の方程式、またはこの商品の販売価格を生産費すなわち1に等しからしめるこの商品の需要方程式である。だからもし偶然に、p''a=1 であったとすれば、D'a=D''a であろうし、またはもし偶然に D'a=D''a であったとすれば、p''a=1 であろう。そして問題は全く解けるのである。しかし一般に、p't, p'p, p'k ……が既に述べたようにして、p''t, p''p, p''k に変化した後には
となり、従って
となる。
二一九 だから生産方程式の体系の解法を完結するには、なお、方程式
atp'''t+app'''p+akp'''k+ …… =p'''a=1
に従い、p'''t, p'''p, p'''k を決定しながら、換言すればのいずれかであるに従って、ならしめながら、すべての摸索を繰り返さねばならぬ。
この新しい点から出発して、私共は、まず第一過程として、生産物の市場において、方程式
D'''a=O'''tp'''t+O'''pp'''p+O'''kp'''k+ ……
-(D'''bp'''b+D'''cp'''c+D'''dp'''d+ ……)
によって D'''a を決定し、次に第二過程として、用役の市場において、方程式
DIVa=D'''apIVa
によって、DIVa を決定する。ここで証明すべきことは、pIVa が p''a よりも1に近いということである。ところで、このことがほぼたしかであることは、例えば p''a>1 である場合には、p'''b<p''b, p'''c<p''c, p'''d<p''d ……であり、従って、D'''b>D''b, D'''c>D''c, D'''d>D''d ……であり、従ってまた D'''a<D''a であることを考えてみれば、容易に解る。かくて、p'''a=1 ならば、p'''a は pIVa となるために、(B)、(C)、(D)……の需要の増加によって増大し、(A)の需要の減少によって減少する。p''a<1 である場合には、p'''a は、pIVa となるために、(B)、(C)、(D)……の需要の減少によって減少し、(A)の需要の増加によって大となる。それらいずれの場合にも、これらの傾向は反対の方向をとっているから、これらの影響によって、pa は、pt, pp, pk ……の減少または増大の影響によって1に近づくよりも、より多く1に接近する。そして同じ方法を継続すれば、ますます1に近づく。ついにこれに達し、pIVa=1 となったと仮定すれば、D'''a=DIVa が得られ、問題は完全に解かれる。
ところで、今まで私が記述してきた摸索は自由競争の制度の下に自然に行われるのである。実際
D''a=D'ap''a
であるときには、(A)の生産者の負債は D'ap''a である。このとき彼らは、(A)の需要量 D''a を価格1で提供すれば、利益として D'a-D''a=D'a(1-p''a) を得る。この差は、もし p''a<1 であって D'a>D''a であるならば、本来の意味の利益(bénéfice)である。しかしこの場合には、彼らは生産を拡張し、p''t, p''p, p''k ……を増大せしめ、従って p''a を増大せしめ、p''a は1に近づく。右の差は、もし p''a>1 であって、D'a<D''a であるならば、損失である。生産者はこの損失を負担せねばならぬ。このときには、彼らは生産を制限し、p''t, p''p, p''k ……を減少せしめ、従って p''a を減ぜしめ、この p''a は1に近づく。ここで注意すべきことは、(A)の企業者は、価値尺度財である商品の生産費が販売価格すなわち1より大であって、確かに彼らに損失を生ぜしめるような場合には、これを生産せず、ただ生産費が1より小なるかまたはこれに等しい場合にのみこれを生産し、損失を伴う地位を避け得る自由をもっていることである。いずれにせよ、結局(A)の企業者は、(B)、(C)、(D)……の企業者のように、販売価格が生産費より大なる場合にはその生産を拡張し、生産費が販売価格より大なる場合にはこれを制限するよりほかはない。前の場合には、彼らは、用役の市場において、用役の価格を騰貴せしめ、後の場合には、これを下落せしめる。これら二つのいずれの場合にも、彼らは均衡を生ぜしめるに至るのである。
二二〇 この証明の全ての部分を結合して、市場価格成立の法則すなわち生産の均衡価格成立の法則を次のように定立することが出来る。
――諸生産物の製造に用いられかつ価値尺度財の仲介によりこれらの諸生産物と交換せられる諸生産用役が与えられて、市場の均衡が現われるには、換言すれば価値尺度財で表わされたこれらすべての用役の価格とすべての生産物の価格が静止状態にあるには、(一)これらの価格において、各用役及び各生産物の有効需要が有効供給に等しく、(二)生産物の販売価格が用役から成るその生産費に等しくなければならぬし、またこれだけの条件が充されれば足るのである。これら二つの均等が存在しないとき、第一の均等を実現するには、有効需要が有効供給より大なる用役または生産物の価格を騰貴せしめねばならないし、また有効供給が有効需要より大なる用役または生産物の価格を下落せしめねばならない。そして第二の均等を実現するには、販売価格が生産費より大なる生産物の量を増加せねばならぬし、生産費が販売価格より大なる生産物の量を減少せねばならぬ。
以上が生産の均衡価格の成立の法則である。この法則を、次に私が為そうとしているように、適当に一般化された均衡価格変動の法則と結合すれば、二重の法則である需要供給及び生産費の法則の科学的方式が得られよう。
第二十二章 自由競争の原理について。生産物の価格と用役の価格との変動の法則。用役の購買曲線及び販売曲線。生産物の価格曲線。
要目 二二一 生産の領域における自由競争の解析的定義。二二二 自由競争の純粋かつ単純な事実または概念は原理となる。二二三 「自由放任」の証明は与えられていない。認識されない例外、公共事業、自然的必然的独占、社会的富の分配。二二四、二二五、二二六 用役の交換価値と稀少性の比例性。二二七 生産物と用役の均衡価格の変動の法則。二二八、二二九 用役の購買曲線と販売曲線。二三〇 生産物の価格の曲線。
二二一 第二十一章になした証明によって、生産の領域における自由競争こそ、第二十章の方程式の実際的解法であることが明らかになった。換言すれば一方、企業者が、利益があるとき生産を拡張し、損失を受けるときこれを縮少し得る自由と、他方、地主・労働者・資本家が用役をせり下げつつ売り、生産物をせり上げつつ購い得る自由、企業者が用役をせり上げつつ購い、生産物をせり下げつつ売り得る自由こそが、第二十章の方程式の実際的解法である。飜って、これらの方程式及びこれらの方程式がよって立つ所の条件を回想すれば、記憶に甦ってくるものは次の如くである。
――自由競争によって支配せられる市場における生産は、用役が、欲望の可能的最大満足を生ぜしめるに適当な性質と量との生産物に変形せられるために結合せられる操作である。ただしこの結合は、各生産物及び各用役が市場においてはそれぞれの需要と供給とを等しからしめる所の唯一の価格しかもたないという条件と、生産物の販売価格は用役から成る生産費に等しいという条件のうちに、なされるものでなければならぬ。
二二二 最後におそらく人々は、科学的に丹念に仕上げられた純粋経済学の重要さを知ろうと欲するであろう。私は、純粋科学の観点に立って、今まで自由競争を一つの事実として採らなければならなかったし、また採ってきたのである。否、これを一つの仮説としてさえ採ってきたのである。これを私共が現実に見るか否かは、さまで重要ではない。厳密にいえば、これを思想のうちに考え得るのみで足りる。私は、これらの与件の下で、自由競争の性質・原因・結果を研究した。今や、これらの結果を要約すれば、ある限界の中で利用の最大を生ぜしめることであることが明らかになった。これによってこの自由競争の事実は利益の原理または利益の準則となる。これを農・工・商業に細密に適用することが残されているだけである。かくて純粋経済学の結論によって、私共は応用科学の入口にまで運ばれてくる。ここで読者は、私共の方法に対するある反対論が自らいかにその力を失うかを、見られるであろう。ある者はまずいった、「自由競争における価格の決定の要因の一つは人間の意志であって、その決断を計算することは不可能である」と。だが私は、人間の自由による決断を計算しようと試みたことはない。ただその結果を数学的に表わそうと試みただけである。私の理論にあっては、各交換者は自分の理解に基づいて、各自の利用欲望曲線を形成すると仮定せられている。ひとたびこれらの曲線が形成せられれば、いかにして曲線または価格が絶対的自由競争の仮設的の制度の下に現われるかを、示すことが出来る。しかるにある人はいう、「だが絶対的自由競争はまさしく一つの仮説に過ぎない。現実においては自由競争は、妨害をなす無数の原因によって妨げられている。故に、いかなる方式を用いても表わし得ない妨害要因を取除かれた自由競争それ自体のみを研究するのは、好奇心を満足する以外に何らの利益もあり得ない」と。この反対論の内容の空虚なことは明らかである。今後いかに科学が進歩しても、妨害原因を、交換方程式及び生産方程式に導き入れて表わし得ないと仮定してみても、――これを主張するのはおそらく軽率であり、たしかに無益である――私が立てた方程式は生産の自由という一般的にして優れた準則にだけは導き得るのである。自由は、ある限界のうちで、最大利用を生ぜしめる。故にこれを妨げる原因は、最大利用の実現を妨げる。そしてこれらの原因がいかなるものであろうとも、私共は出来得るだけそれらを除去せねばならぬ。
二二三 経済学者が既に自由放任(laisser faire, laisser passer)を鼓吹しながら述べてきたことは要するにこれであった。不幸にして今日までの経済学者は彼らのレッセ・フェール、レッセ・パッセを証明することをせず、ただ国家の干渉をこれまた証明することなく主張した新旧の社会主義者に対抗して、これを主張するだけであった。かくいえば、感激しやすい人は直ちにこれに反対してくるであろう。しかし問うことを私に許されたい、経済学者が自由競争の結果がいかなるものであるかを知らないとしたら、彼らはいかにして、これらの結果がよいとか有利であるとかいい得るかと。また、定義を下さず、またそのことに関係があり、そのことを証明する法則を定立せずして、自由競争が有利なことをいかにして知り得るかと。これこそレッセ・フェール、レッセ・パッセが経済学者によって証明されなかったと、私がいう先験的理由である。なお次に述べるような経験的な理由がある。ある原理が科学的に定立せられたとき、なし得る第一のことは、これが適用される場合と、適用されない場合とを弁別することである。これを反対から考えてみると、経済学者が自由競争を拡張してしばしばその限界を超えているのは、この自由競争の原理が充分に証明されていないよい証拠である。これらを今例を挙げて説明してみる。自由競争についての私の証明は、第一の基礎として、用役及び生産物に対する消費者の利用の評価に依存する。故にそれは、消費者が評価し得る個人的欲望すなわち私的利用(utilité privé)と、これとは全く異る方法で評価せられる社会的欲望すなわち公的利用(utilité publique)との間の根本的区別を予想している。故に私的利益に関する物の生産に適用せられる自由競争の原理は、公共利益の物の生産に適用せられるべきではない。しかるに、公共用務を私的企業に委ねて自由競争に従わしめようとする謬想に陥った経済学者もある。なお他の例を挙げる。私の証明は、第二の基礎として、生産物の販売価格と生産費との均等化に依存する。故にそれは、企業者が利益のある企業に集り、損失のある企業を去り得る可能性を予想する。だから自由競争の原理は、自然的必然的独占の対象である物の生産には、必然的に適用せられない。しかるに独占的産業についても、自由競争を絶えず主張する所の経済学者がある。最後に自由競争についての考察をおえるために、最後ではあるが最も重要な解説をしておく。すなわち利用の問題を明らかにしながら自由競争についてなした私の証明は、正義の問題を全く考慮外に置く。私の証明は、用役のある配分から生産物のいかなる分配が生ずるかの点に限られている。それは、用役の分配の問題には少しも触れていない。しかるに産業の問題について、レッセ・フェール、レッセ・パッセを高調することで満足せず、これを所有権の問題にまで故なく妄りに適用しようとしている経済学者がある。これこそ、科学を文学的に取扱うことの危険である理由である。真と偽とを同時に主張する人があり、従って偽と真とを共に否定しようとする人がある。そして、互に理由もあれば誤ってもいる所の反対者によって、反対の方向に引張られながら、人々の意見が決定せられる。
二二四 vt, vp, vk ……は用役(T)、(P)、(K)……の交換価値であり、これらと生産物(A)の交換価値 va との比がこれらの用役の価格を成すものであり、rt,1, rp,1, rk,1 …… rt,2, rp,2, rk,2 …… rt,3, rp,3, rk,3 ……はこれらの用役を直接に消費するために保留しまたは獲得した人(1)、(2)、(3)……における交換後のこれらの用役の稀少性すなわち充された最後の欲望の強度であるとすると、私共は一般均衡の表(第一三三節)を次の如く補足せねばならぬ。
va :vb :vc :vd :……:vt :vp :vk :……
::ra,1:rb,1:rc,1:rd,1:……:rt,1:rp,1:rk,1:……
::ra,2:rb,2:rc,2:rd,2:……:rt,2:rp,2:rk,2:……
::ra,3:rb,3:rc,3:rd,3:……:rt,3:rp,3:rk,3:……
::………………………………………………………
直接に消費せられる地用・労働・利殖は、あるいは時間で計量せられる無限小量ずつ、あるいは土地・人・資本の計量単位に相応する量ずつ、消費せられることが出来る。故に表中にこれらに関する部分に、充された最後の欲望の強度と充されない最初の欲望の強度とのおよそ中間に、下線を施した稀少性の項を記入することが出来る。かつまた用役についても、生産物についても、充されるべき最初の欲望の強度より大きい稀少性の比例項を括弧のうちに記入することが出来る。これらの二つの留保をすれば、生産物についての次の命題は、用役へと拡張せられることが出来る。――交換価値は稀少性に比例する。
二二五 (T)、(P)、(K)は無限小量ずつ消費せられ得る土地用役・人的用役・動産用役であり、τr,1τq,1, τr,2τq,2, τr,3τq,3, πr,1πq,1, πr,2πq,2, πr,3πq,3, χr,1χq,1, χr,2χq,2, χr,3χq,3(第六図)は交換者(1)、(2)、(3)に対するこれらの用役の利用または欲望の連続な曲線であるとする。0.75, 2.16, 1.50 を、(A)で表わした(T)、(P)、(K)の価格であるとする。この仮定せられた場合において、交換者(1)と交換者(3)とは三つの用役を消費する。この仮定せられた場合において、交換者(1)は用役のそれぞれの量7、8、5を消費し、それぞれの稀少性は 1.50, 4.33, 3 となったとし、交換者(3)はそれぞれの量3、1、2を消費し、それぞれの稀少性は 3, 8.66, 6 となったとする。交換者(2)は地用(T)の量1を消費し、その稀少性は 4.50 であるとする。しかるに彼において、労働(P)、利殖(K)のそれぞれの稀少性系列に記入せられるべき数字 13, 9 は、これら用役の充すべき最初の欲望の強度 9, 6 より大であるため、これら二つの用役が欠けている。故に次の均衡の表が得られる。
0.75:2.16:1.50
::1.50:4.33:3
::4.50:(13):(9)
::3 :8.66:6
二二六 (T)、(P)、(K)のそれぞれの平均稀少性を Rt, Rp, Rk と呼び、これらの平均を算出するのに、下線を附した数字及び括弧内の数字を計算中に入れることを条件とすれば、次の方程式を立てることが出来る。
二二七 価格変動の法則はまたこれを一般化して(第一三七節)、次のような言葉でいい表わすべきである。
――交換が価値尺度財の仲介によって行われる市場において、諸々の生産物または用役が均衡状態において与えられ、かつ他の事情が同一であって、もしこれらの生産物または用役の一つの利用が交換者の一人または多数に対し増加しまたは減少すれば、価値尺度財で表わしたこの生産物または用役の価格は騰貴しまたは下落する。
他の事情が同一であって、もしこれらの生産物または用役の一つの量がこれらの物の所有者の一人または多数について増加しまたは減少すれば、この生産物の価格は下落しまたは騰貴する。
諸々の生産物または用役の価格が与えられ、これらの生産物または用役の一つの利用または量が交換者または所有者の一人または多数において変化しても、それらの稀少性が変化しなければ、この生産物または用役の価格は変化しない。
もしすべての生産物または用役の利用及び量が交換者または所有者の一人または多数について変化しても、それらの稀少性の比が変化しないならば、これらの生産物または用役の価格は変化しない。
なおこれらに二つの他の命題を附け加えることが出来る。
――すべての事情が同一であって、一人または多数の人の所有するある用役の量が増加または減少し、従って価格が下落しまたは騰貴すれば、この用役を入れて製造せられる生産物の価格は下落しまたは騰貴する。
他の事情が同一であって、消費者の一人または多数に対するある生産物の利用が増加しまたは減少し、有効需要が増加しまたは減少し、従って価格が騰貴しまたは減少すれば、この生産物に入り込む用役の価格は騰貴しまたは下落する。
二二八 第十五章において、私は購買曲線及び販売曲線を形成した(第一五一節)。他の言葉でいえば、一般均衡状態において交換市場に最後に達せられる需要曲線すなわち価値尺度財でなされる商品の需要曲線及び価値尺度財を受けてなされる商品の供給曲線を形成した。次に私は、供給を所有量と相等しいと仮定し、購買曲線を価格の曲線に変化した(第一五三節)。私はここで再びこの概念に帰って、これを用役及び生産物に関して補充しなければならぬ。
二二九 (A)を価値尺度財とする。かつ一方用役(P)、(K)……と生産物(A)、(B)、(C)、(D)……とが一定の一般均衡価格 p'p, p'k, …… p'b, p'c, p'd ……で互に交換せられ、または交換せられようとしているとし、他方用役(T)がその存在を認められ、またその所有せられている量を認められて、市場に現われ、交換及び生産の機構のうちに姿を出現したとする。
理論的には(T)が出現すれば、二つの新未知数 pt, Ot と二つの補足的な方程式を導き入れられた生産方程式の四個の体系の成立を必要とする(第二〇二、二〇三節)。これらの二つの補足的方程式の一つは(T)の需要方程式
atDa+btDb+ctDc+dtDd+ …… =Ot
であり、他は(T)の供給方程式
Ot=Ft(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
である。先になしたように(第二一五節)、正の ot 及び負の ot をそれぞれU及びuで表わせば、これら二つの方程式は、ただ一つの方程式
atDa+btDb+ctDc+dtDd……+u=U
となる。しかし、他の価格の変化と他の有効需要及び供給の変化を捨象し、これらを常数と考えれば、この方程式の左辺は、ただ一つの函数 pt の減少函数であって、幾何学的には購買曲線 TdTp(第九図)によって表わされ得る。右辺は同じ変数 pt の函数であって、初め増加函数であって、次いで減少函数となる。その値はゼロから出発してゼロ(無限遠点において)に帰るのである。この右辺は幾何学的には販売曲線 MN によって表わされ得る。二曲線の交点Tが価格 pt を決定する。
二三〇 (A)を常に価値尺度財とする。かつ一方用役(T)、(P)、(K)……と生産物(A)、(C)、(D)……とが一定の一般均衡価格 p't, p'p, p'k …… p'c, p'd ……で互に交換せられまたは交換せられようとし、他方生産物(B)の製造方法が発見せられ、(B)が公衆の領域に入ってき、市場に現われて、交換及び生産の機構のうちに姿を現わしたとする。
理論的には、(B)の出現は、二つの未知数と二つの補足的方程式を導き入れられた新しい生産方程式の四つの体系を必要とする。これら二つの補充的方程式の一つは(B)の需要方程式
Db=Fb(pt, pp, pk …… pb, pc, pd ……)
であり、他は(B)の生産費方程式
btpt+bppp+bkpk+ …… =pb
である。
だがもし他の価格の変化、他の有効需要及び供給の変化を捨象し、これらを常数と考えれば、Db は唯一の変数 pb の減少函数であって、幾何学的には価格曲線 BdBp(第十図)によって表わされ得る。横坐標 pb をもつ点Bの縦坐標は需要 Db を表わす。かくて私共は、既に示した幾何学的表現に立ち帰るわけである。 | 底本:「純粹經濟學要論 上卷」岩波文庫、岩波書店
1953(昭和28)年11月25日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「敢えて→あえて 恰も・恰かも→あたかも 予め→あらかじめ 或る→ある 或いは→あるいは 雖も→いえども 如何→いか 如何様→いかよう 幾つ→いくつ 何れ→いずれ 一々→いちいち 何時→いつ 愈々→いよいよ 所謂→いわゆる 於いて→おいて 了え→おえ 概ね→おおむね 於ける→おける 恐らく→おそらく 凡そ→およそ 却って→かえって 拘らず→かかわらず 且つ→かつ 可成り→かなり かも知れ→かもしれ 位→くらい 蓋し→けだし 此処→ここ 毎→ごと 殊に→ことに 然し→しかし 然ら→しから 然る→しかる 屡々→しばしば 暫らく→しばらく (し)易→(し)やす 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 宛→ずつ 即ち→すなわち 総て→すべて 其→その 高々→たかだか 唯→ただ 但し→ただし 度→たび 丁度→ちょうど 就いて→ついて 終に・遂に→ついに (て)行→(て)い (て)置→(て)お (て)来→(て)き・く (て)見→(て)み (て)貰→(て)もら 何処→どこ 所で→ところで 兎に角→とにかく 兎も角→ともかく 乃至→ないし 尚→なお 乍ら→ながら 何故→なぜ 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆んど→ほとんど 先ず→まず 益々→ますます 又→また 間もなく・間も無く→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 専ら→もっぱら 最早→もはや 稍々→やや 所以→ゆえん 依って・由って・因って→よって 余程→よほど 依・由・因→よ 等→ら 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2006年10月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045210",
"作品名": "純粋経済学要論",
"作品名読み": "じゅんすいけいざいがくようろん",
"ソート用読み": "しゆんすいけいさいかくようろん",
"副題": "01 上巻",
"副題読み": "01 じょうかん",
"原題": "ELEMENTS D'ECONOMIE POLITIQUE PURE OU THEORIE DE LA RICHESSE SOCIALE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 331",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-12-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001185/card45210.html",
"人物ID": "001185",
"姓": "ワルラス",
"名": "マリー・エスプリ・レオン",
"姓読み": "ワルラス",
"名読み": "マリー・エスプリ・レオン",
"姓読みソート用": "わるらす",
"名読みソート用": "まりいえすふりれおん",
"姓ローマ字": "Walras",
"名ローマ字": "Marie Esprit Leon",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1834-12-16",
"没年月日": "1910-01-05",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "純粹經濟學要論 上卷",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1953(昭和28)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1953(昭和28)年11月25日第1刷",
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"入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班",
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