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寝台の上で、何を思いわずろうてみてもしようがないが、このたびの改革案が発表されたときは、やはり強くなぐられたような気がした。自分一個の不安もさることながら、それよりもまず、失業群としての、大勢の映画人の姿が、黒い集団となつてぐんと胸にきた。痛く、そしてせつない感情であつた。しかし寝ていてはどうしようもない。もつとも起きていても、たいしてしようはないかもしれぬが、一人でも犠牲者を少なくしてもらうよう、方々へ頼んでまわるくらいのことならできる。ただし、私が頼んでまわつたとてあまり効果はないかもしれないが、それでも寝たまま考えているよりはいくらかましであろう。
最初改革の基本案が発表せられてから、もう二週間以上にもなるかと思うが、いまだに成案の眼鼻がつかず、それ以来やすみつきりの撮影所もある。何も好んで休んでいるわけではないが、提出するどのシナリオも許可されないため、仕事のしようがないのだそうである。この許可されないシナリオの中に、どうやら私の書いたものもまじつているらしいので、これは何とも申しわけない話だと思つている。
実行案の成立が、いつまでも実現しない理由は、各社の代表が、互に自社の利益を擁護する立場を脱しきれないためと、いま一つには当局の態度がいささか傍観的にすぎるためらしい。
各社代表が、利益から離れられないのは、むしろ当然すぎることであつて、少しもこれを怪しむ理由はない。彼らは一人々々切り離して観察すれば、おそらくいずれも国民常識ゆたかな紳士なることを疑わないが、一度、会社の代表たる位置に立たんか、たちまち利益打算の権化となるであろうことは決して想像に難くない。彼らの背には、多くの重役、株主、会社員がおり、しかも、彼らの代表する会社はもともと利益を唯一の目的として成立したものであつてみれば、彼らが利益を度外視して、真に虚心坦懐に事をはかるというようなことは、実際問題として期待し得べきことかどうか、はなはだ疑なきを得ない。
しかしすでに事がここまできた以上、これ以上荏苒日を虚しうすることはできないから、このうえは官庁側においてもいま一歩積極的に出て、業者とともに悩み、ともにはかり、具体的な解決策を見出すだけの努力と親切とを示してもらいたい。あるいはすでに実行案があるならば、一刻も早く、それを提示して指導の実をあげてもらいたい。
事変以来、官庁側の民間に対する指導方式の中には、「禁止しないが、自発的に取りやめろ」とか、「方法はそちらで考えろ」とかいう持つて廻つた表現がとみに多くなつた。これはおそらくあたうかぎり民間との摩擦を少なくするための心づかいだろうとは察せられるが、しかし、民間の側からいえば、このような表現の中にかえつて何か怜悧すぎる、親しみにくいものを感じ取つているのではないかと思う。
もつと専制的でもいい、もつと独裁的でもいいから、だれかがはつきり責任をもつて、指導、あるいは命令してくれること、そして、その人の責任において示された方針や、保証された自由は、わずかな日数の間にひつくりかえつたりは決してしないところの、安心してもたれかかつて行けるような制度が、いま最も要望されているのではないだろうか。
なお、今度のような重大な問題の討議にあたつて、一度も、そして一人も従業員代表が加えられていないことをだれも怪しみもせず不当とも感じていないらしいのは、はなはだ不可解であるが、私はそれを憤るよりもまえに、むしろ、反対に従業員側の反省をうながしたい気持ちである。すなわち、かかる大事の場合に従業員というものの存在が、このように無視され、しかもだれもそれを不思議とも思わないほど無関心な空気をはびこらせてしまつた責任をだれかが負わなければならないとしたら、それは結局従業員自身よりほかにはないということを、よく認識してもらいたいのである。
いつたい今までだれが映画を作つてきたのだ。だれが映画を愛し、映画を育ててきたのだ。実質的な意味では、それはことごとく従業員のやつたことではないか。ことに事変以来、いかにすれば政府に満足を与え、同時に自分たちも国民としてあるいは芸術家として満足するような作品ができるかという点に関し、真に良心的に悩んできたものは、従業員のほかには決してありはしないのだ。しかも、自分たちの、そのような純粋な意欲が、多くの場合、板ばさみの苦境によつてゆがめられ、殺されてしまう悩みについて、あるいは、映画界の内部において、正しい理念からの改革の必要を予見し、政府の意図をただちに実践に移す熱意と理解を持つものは従業員のほかにはないということについて、一度でも官庁側の了解を求めたことがあつたであろうか。
断つておくが、私はいつまでも小児病的に、資本家だの従業員だのとものを対立的にしか見ないほど偏執的な人間ではない。しかし、今度の場合は、区々たる利害関係においてでなく、「国民としての良心の把持において」資本家と従業員の間には超ゆべからざるみぞのあることを、我々ははつきり知らされたのである。すなわち、今度の会議などにおいて、一度も従業員側が召集されなかつたということは、決して利害関係からでなく、理念のうえから、つまり良心層が無視せられたという点において、深甚なる遺憾の意を表せざるを得ないのである。
次に映画の質に関して、まことにわかりきつたことでありながら、ともすれば人々に忘れられていることがある。それはほかでもないが、映画の質の大半を規定するものは、その映画を産み出した社会の一般文化の質だということである。たとえば、今の社会の一般文化、なかんずく娯楽的性格を持つた芸術、ないし演芸のたぐいを見渡して、どこに映画がとつてもつて範とするに足るものがあるかということである。
私は、今度の改革案の発表された日、もはや今後は、貴重なる弾丸の効果に匹敵するだけの、有用にして秀抜なる映画でなければ作らせないのだという意味のことを政府側の意図として伝え聞き、実に厳粛かつ沈痛なる思いに沈んでいたところが、たまたま耳に流れてくるラジオの歌曲の相も変らぬ低劣浮薄な享楽調に思わず耳をおおいたくなつた。
これらのラジオは同じ政府の指導のもとに、同じ社会の一文化現象として、現に我らの身辺に存在しているのである。このような歌曲が行われ、あのような浪花節が喜ばれ、また人の知るような愚劣な歌舞伎、新派、漫才などが横行している、この一般文化の質の低さをこのままにしておいて、映画だけを特別に引き上げるということははたして望み得ることであろうか。
映画を今の純文学のように、あるいはまた能楽のようにして民衆との縁を断ち切つていいなら、どんな高い仕事でもできる。しかし、それでは映画でなくなつてしまう。あのようなラジオを聞き、あのような演芸を喜ぶ人々が、同時に映画の客なのだ。映画も浪花節も同じ一つの社会に咲く花なのである。つまり映画の質を規定するものは、半分はそれを作る人であるが、他の半分はそれを作らせる社会である。したがつて映画を引き上げることの本当の意味は、映画と同時に、その映画をささえている観客一般の文化の質を引き上げることでなければならぬ。
少なくとも、私の見解はそうであるし、一面、今までの映画の歴史はそれを証明してあまりがあると思う。ここにこの問題の大きさと、はかり知れぬ重量があり、選ばれた何人かの人々の相談のみをもつてしては容易に片づけにくい理由があると思う。これからさき、この問題はいつたいどうなるのであろう。簡単な問題ではない。
次に量の問題であるが、日本国内で、劇映画、年四十八本製作という数字は決して過少ではないと思う。このうち、例年のとおりベスト・テンを選ぶとすれば、なお三十八本の平凡作が残る。少なくとも四十八本全部見逃せない作品ばかりだというようなことは残念ながらちよつと考えにくい。つまり質本位に考えるならば四十八本大いに結構といわなければならぬ。
しかし、今まで一本かりに五万円平均の撮影費だつたのが、本数が四分の一になつたから、今後は二十万円かけられるという計算は、ちよつと楽天的すぎるようだ。我々の知つているかぎりでは、五万円でできる写真に、わざわざ二十万円かけるというようなむだな算術は、映画事業家の間には存在しなかつたように思う。
一率に、どの作品もプリント五十本という案は、本当かうそか知らぬが、もし実現すれば、早晩行きづまるような気がする。プリント数には相当の弾力性を持たせておくのが常識だろう。
ここらで映画の前途に見きわめをつけて、そろそろ手を引く事業家が出てくるかもしれぬが、もしそんなことがあつても、このような多難な時期に映画を見捨てる人に対して、五十万円だの百万円だのという退職手当は出さないでもらいたい。そんな金があるなら、ぜひ犠牲者のほうへまわしてもらいたい。
こうなると、さなきだに不自由なN・Gが、いよいよ切り詰められて、手も足も出なくなることと思う。ここまでくれば、各監督はもう今までの個人主義的なやり方をすつかり改めなくてはいけない。今まではN・Gの問題はほとんど対会社の問題であつたが、今では、明らかに対同僚の問題となつてきている。このような時期になつても、なお一尺でもがんばつて、自分だけいい作品をあげようとするような態度は唾棄すべきだと思う。そんなけちな芸術良心は日本人なら捨てるがいい。
作品の不足から街には早くも再上映の氾濫らしい。写真はいまだにかせいでいるのに、それを作つた人は路頭に迷つていたというような皮肉なことが起らなければいいが――。写真が何べん上映されても、作つた人にはいつさい関係がないというのは合点の行かない話だが、これも結局はこちら側の不行きとどきで、いまさらあわててみたところで始まらない。
「好むと好まざるとにかかわらず」という言葉があるが、今度の改革は実にその言葉のとおりだ。官庁自体がそうなのである。なぜならば、根本の問題が映画の質に発したのではなく、フィルムの量から出ているらしいからである。もちろん質の問題も重要ではあるが、今度の場合はむしろ結果であつて原因ではないようだ。問題は深刻である。中小商工業者の問題など、知識として概念的には心得ていたが、いま自分自身が波の中に置かれた実感にくらべると、今まで何も感じていなかつたとしかいえない。このように多くの人間が、時代の波に流される激しさからみれば、偶然的な空襲の災禍などたいしたものではないという気がする。(九月五日)
(『映画評論』昭和十六年十月号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画評論」
1941(昭和16)年10月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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人間が死ぬる前、与えられた寿命が終りに近づいたときは、その人間の分相応に完全な相貌に到達するのであろうと思う。
完全な相貌といつただけでは何のことかわからぬが、その意味は、要するにその人の顔に与えられた材料をもつてしては、これ以上立派な形は造れないという限界のことをいうのである。
私は時たま自分の顔を鏡に見て、そのあまりにまとまりのないことに愛想が尽きることがある。私の顔をまずがまんのできる程度に整えるためには私は歯を喰いしばり、眉間に皺を寄せて、顔中の筋肉を緊張させてあたかも喧嘩腰にならねばならぬ。しかし二六時中そんな顔ばかりをして暮せるものではない。
おそらくひとりでぼんやりしているときは、どうにもだらしのない顔をしているのであろう。
その時の自分の顔を想像するとちよつと憂鬱になる。
気どつたり、すましたりしていないときでも、いつ、どこからでも十分観賞に堪え得る顔になれたら自由で安心でいい心持ちだろうとは思うが、他人から見て立派な顔と思われる人でも、本人の身になれば、案外不安なものかもしれない。
私が今まで接した日本人で一番感心した顔は死んだ岸田劉生氏であるが、そのあまりにも神経質な言行は、せつかく大陸的に出来上つた容貌の価値を損ずるようでいかにも惜しく思われた。近ごろは西洋かぶれの流行から一般の美意識は二重まぶたを好むようであるが、あまりはつきりした二重まぶたは精神的な陰翳が感じられなく甘いばかりで無味乾燥なものである。東洋的な深みや味は一重まぶたもしくははつきりしない二重まぶたにあり、長く眺めて飽きないのはやはりこの種の顔である。
近ごろばかな人間が手術をして一重まぶたから二重まぶたに転向する例があるが、もつたいない話である。それも本当に美しくなれるならまだしもであるが、手術後の結果を見るとたいがい徹宵泣きあかしたあとのような眼になつてしかも本人は得意でいるから驚く。
いつたい医者という商売はどういう商売であるか。
自分の商売の本質をよく考えてみたらこんな畠ちがいの方面にまで手を出せるわけのものではあるまい。
人生の美に関する問題はすべて美術家の領分である。その美術家といえども神の造つた肉体に手を加えるなどという僭越は許されない。
仕事の本質がいささかも、美に関係なく、したがつて美が何だか知りもしない医者が愚かなる若者をだまして醜い顔をこしらえあげ、しかも金を取つているのである。
生れたままの顔というものはどんなに醜くても醜いなりの調和がある。
医者の手にかかつた顔というものは、無惨や、これはもうこの世のものではない。
もし世の中に美容術というものがあるとすれば、それは精神的教養以外にはないであろう。
顔面に宿る教養の美くらい不可思議なものはない。
精神的教養は形のないものである。したがつて目に見える道理がない。しかしそれが顔に宿つた瞬間にそれは一つの造形的な美として吾人の心に触れてくるのである。
また精神的教養は人間の声音をさえ変える。
我々は隣室で話す未知の人の声を聞いてほぼどの程度の教養の人かを察することができる。
もつとも時たま例外がある。
たとえば私の知つている某氏の場合である。
その顔は有島武郎級のインテリの顔であるがその声はインテリの声ではない。
私はあの顔からあの声が出るのを聞くと思わず身の毛がよだつ思いがする。
思うにこの人の過去はよほど根づよい不幸に蝕まれているのであろう。
私は必ずしも自分の顔が美しくありたいとはねがわないが、しかしそのあまりにもいかのごとき扁平さには厭気がさしている。
せめて自分の子は今少し立派な顔であれと願つたが、せつかくながら私の子は私の悪いところをことごとく模倣しているようである。だから私は子に対していささかすまぬような気持ちを抱いている。
しかし私の顔も私の死ぬる前になれば、これはこれなりにもう少ししつくりと落ちつき、今よりはずつと安定感を得てくるに相違ない。
だから私は鏡を見て自分の顔の未完成さを悟るごとに、自分の死期はまだまだ遠いと思つて安心するのである。 | 底本:「日本の名随筆40 顔」作品社
1986(昭和61)年2月25日第1刷発行
1989(平成元)年10月31日第7刷発行
底本の親本:「新装版 伊丹万作全集 第二巻」筑摩書房
1973(昭和48)年5月
※拗促音を小書きしない底本の表記は、そのままにしました。
入力:渡邉 つよし
校正:門田裕志
2002年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001195",
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コノヨウナ題目ヲ掲ゲルト国語学者トマチガエラレルオソレガアルカラ一応断ツテオクガ、私ハ映画ノホウノ人間デ、数年臥床ヲ余儀ナクサレテイル病人デアル。ソノヨウナモノガナゼカタカナニツイテ論ジタリスルノカトイウ不審ガアルカモシレナイガ、コウイウフウニ自分ノ専門以外ノコトニ口出シヲシテ人ニ迷惑ヲカケルコトハ当今ノ流行デアツテ何モ私ノ創意ニヨルコトデハナイ。タトエバ我々ノ映画事業ニシテモ、何カ会ダノ組織ダノガデキルタビニ、ズラリト重要ナ椅子ヲ占メラレルノハ、必ズ、全部ガ全部映画ニハ何ノ関係モナイ人バカリデアル。コトニヨルト、我国ニハ「シロウトハクロウトヲ支配ス」トイウ法則ガアルノデハナイカト思ウガマダ調ベテモミナイ。
サテ、コウイウ国ガラデアツテミレバ、タマタマ私ガ少シクライ畠チガイノコトニ口出シヲシタトコロデメツタニ苦情ヲイワレル筋合イハナイハズデアル。シカモカタカナノ問題ハ現在ノ私ノ生活ニスコブル密接ナ関係ヲ持ツ。現ニ私ハ近ゴロ原稿ヲ書クニモ手紙ヲシタタメルニモヒラガナトイウモノヲ使ツタコトガナイ、ソレハナゼカトイウニ、我々仰臥シタママデモノヲ書クモノニトツテハ些細ナ力ノ消費モ大キナ問題トナル。シカルニカタカナトヒラガナトデハ、力ノ消費ガ非常ニ違ウノデアル。コノコトハ子規ノ書イタモノニカタカナ文ガ多イコトヤ、宮沢賢治ノ病中作デアル「雨ニモ負ケズ」ノ詩ガカタカナデアルコトナドデ間接ニ証明サレルガ、ナオソレニツイテイササカインチキナガラ力学的ニ考察シタ文章ヲ他ノ場所ニ発表シタカラココニハ書カナイ。
私ガココニ書イテオキタイコトハ、日本ノ活字カラヒラガナヲナクシタホウガヨイトイウ私見デアル。タイヘン突拍子モナイコトヲ言イ出シタヨウニ思ワレルカモシレナイガ、少シ落着イテ考エテミルナラ、別ニ奇抜ナコトデモ何デモナイコトガワカル。キワメテアタリマエノコトナノデアル。
サテ、コレカラソノ論証ヲシナケレバナラヌガ、アマリ十分ナ紙幅ガナイカラ箇条書ニシゴク簡単ニ書ク。
一、ヒラガナノ活字ハソレ自身ガ美シクナイ。文字トシテモ現今ノヒラガナヨリハ変態ガナノホウガ美シク、変態ガナヨリハ上代ガナノホウガ美シイ。コレハ少シ手習イシタモノナラダレデモ感ジルコトダ。現在ノ活字ハ、ソノ美シクナイヒラガナヲソノママ活字ニ移シタモノデ、活字ニ必要ナ様式化サエ行ワレテイナイ。ヒラガナノ活字ガイカニ醜イカトイウコトハ初号クライノ活字ヲ見タラダレニモワカルダロウ。
二、ヒラガナトイウモノハ、元来毛筆ナラビニ和紙トイウモノトトモニ育ツテキタモノデ、ソレラヲ離レテハホトンド生命ノナイモノト思ウ。ヒラガナトカタカナハ相前後シテ生レタラシイガ、前者ハ毛筆ト和紙ニ対シ適合性ヲ持ツテイタタメ今日マデ愛用サレタニ反シ後者ハ適合性ヲ持タナカツタタメ、一千年ノ間カエリミラレルコトガナカツタ。毛筆ニ乏シク、和紙ガ皆無ニチカイ今日ノ我々ノ実生活(趣味生活ハ問題外)ノドコヲ探シテモモハヤヒラガナニ未練ヲノコス理由ヲ発見スルコトガデキナイ。ヨロシク一千年ノ間シンボウ強ク今日ノ日ヲ待ツテイタカタカナヲ登用スベキ時期デアロウ。(コノ項ハ活字以外ノ領分ニ脱線シタ。)
三、ヒラガナトイウモノハソノ素性ヲ探ルト、イズレモ漢字ヲ極端ニ崩シタモノニスギナイ。スナワチ形カライエバ草書ト少シモカワリハナイノデアル。シカルニ草書ト楷書ハ、コレヲ混ゼコジヤニ布置シタ場合ケツシテ調和スルモノデハナイ。シタガツテ楷書トヒラガナモマタ同様ニ調和シナイ。ユエニ楷書ノ活字トヒラガナノ活字モマタ調和シナイノデアル。コレヲ調和シテイルト考エル人ガアレバ、ソレハ習慣ニヨツテ感覚ガ麻痺シテイルニスギナイ。
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六、カタカナハヒラガナヲ書ク場合ニ比シテ、オソラク半分ノ労力デスム。コノコトハチヨツト最初ニモ述ベタガ、要スルニ直線運動ト曲線運動トノ比較ニナル。クワシイコトハ物理学者ニ聞カナイトワカラナイガ、多分直線ノホウガヨリ少ナイエネルギーデヨリ多クノ距離ヲ行ケルノダロウト思ウ。コノ問題ハ活字ト関係ガナサソウデアルガ、原稿ヲ書ク場合ニ関係ガ生ジテクルノデアル。
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八、日本語ノ学修、普及ガ現在ヨリ容易ニナル。外国ノ人タチナドモカナヲ一種類オボエレバイイコトニナレバ非常ニ助カルダロウ。ソノ他日本文化ノ普及ニ役立ツコトハ非常ナモノデアロウ。
九、印刷文化ノウエニズイブン大キナ徳ガアル。鮮明度、速力ナドニ関シテハモチロン、資材ノウエカラ労力ノウエカラ大変ナ経済ダト思ウガコノ種ノコトハ私ニハヨクワカラナイ。
十、世ノ中ニハ、ソノ気ニナルノハワケハナイガ実行ガ面倒ダトイウ問題ト、実行ハ簡単ダガナカナカソノ気ニナレナイ問題トガアル。コノ問題ハオソラクソノアトノ場合デアロウ。永イ習慣ノ力トイウモノハバカバカシク強イモノデアル。シカシマズ最初ニ新聞ダケデモカタカナニナツテシマエバアトハ割合ラクデアロウ。少ナクトモカナヅカイノ問題ヨリハハルカニ単純デアル。
以上デ私ノ言イ分ハホボ尽キタワケデアルガ、シカシコノヨウナコトヲ書イタカラトイツテ私ガカタカナ運動デモ開始シタヨウニ思ワレテハ迷惑デアル。私ハ何々運動トイウヨウナコトハイツサイ虫ガ好カヌ。コレハアクマデ意見デアツテ実際運動デハナイ。(『日本評論』昭和十八年十一月号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「日本評論」
1943(昭和18)年11月号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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ある人が私の作品のあるカメラ・ポジションを批評して、必然性がないから正しくないといつた。
私の考えではカメラ・ポジションに必然性がないということはあたりまえのことで、もしも必然性などというものを認めなければならぬとしたら非常に不都合なことになるのである。
なぜならば一つのカットの撮り方は無数にあるわけで、その多くの可能性の中から一つを選ぶことが芸術家に与えられた自由なのである。したがつて必然性を認めるということは芸術家の自由を認めないというのと同じことで、それならば映画製作に芸術家などは要らないことになつてしまう。
カメラ・ポジション選定の過程においてもしも必然性を認めるとしたら、それは芸術家がその主観において、「よし」と判断する悟性以外にはあり得ない。そしてその意味においてならば私は自分の作品のカメラ・ポジションには残らず必然性があると主張することもできるし(実際においては必ずしもそうは行かないが)、何人も外部からそれを否定する材料を持たないはずである。
これを要するに、カメラ・ポジションを決定する客観的必然性などというものは存在しないし、主観的必然性というものはあつても、それは第三者によつては存在が規定されない性質のものであるとすれば、結局カメラ・ポジションの必然性というものは決して批評の対象とはなり得ないものだということがわかる。
カメラ・ポジションの選択はだれの仕事だろう。私は多くの場合、それを監督の仕事にすることが一等便宜だと考えるものである。
もしもカメラマンがあらゆるカットの目的と存在を正しく理解し、常に必要にしてかつ十分なら画面の切り方と、内容の規定する条件の範囲において最も美しい画面構成をやつてくれることが絶対に確実であるならば、私は好んで椅子から立ち上りはしない。
どんなに優秀なカメラマンでも人間である以上、絶対に誤解がないとは保し難い。これは決して不思議なことではない。一般に一つのカットの含むあらゆる意味を監督以上に理解している人はない。
長年の私の経験が、カメラ・ポジションの誤謬を最少限度にとどめる方法は、結局監督自身がルーペをのぞくこと以外にはないということを私に教えた。
ただし、右は主として内容に即したカメラ・ポジションについてであつて、必ずしも美的要求からくる画面の切り方にまでは言及していない。
内容の目的に沿うにはすでに十分であるが、同時に美的要求を満すためには、さらにポジションの修正を要する場合がある。
あるいはカットの性質上、内容とポジションがあまり密接な関係を持たない場合がある。
たとえば描写的なカットなどにおいては往々にして美的要求だけがポジションを決定する場合がある。このような部分、あるいは場合に関しては監督は一応手を引くべきであろう。
なぜならば、それらは純粋にカメラ的な仕事だから。
カメラ・ポジションの選択を監督に任せると、カメラマンの仕事がなくなりはしないかと心配する人がある。
ところが実際において、決してそんな心配は要らないのである。試みにいま私が思いつくままに並べてみてもカメラマンの仕事は、まだこのほかに、配光の指定(これだけでも大変な仕事だ。)、ロケーションの場合は自然光線に関する場所および時間の考慮、絞りと露出の判断、レンズおよびフィルターの選択、ピントに関する考慮と測定、それに付随するあらゆる細心の注意、画面の調子に関するくふう、セット・小道具・衣裳・俳優の肉体などあらゆる色調ならびに線の調和などに対する関心、およびそれらの質・量あるいは運動による画面的効果の計算、カメラの運動に関する一切の操作、およびそれらを円滑ならしめるためのあらゆる注意、撮影機械に関する保存上および能率上の諸注意、現像場との諸交渉・打合せ、および特殊技術に関する協同作業、トーキー部との機械的連繋、および右の諸項を通じて監督との頭脳的協力、とちよつと数えてみてもこんなにある。しかも右のうち、どの一項をとつて考えてみても作品の効果に重大な関係を持たないものはないのだからなかなか大変な仕事だと思わなければならない。
しかも右にあげたのは撮影現場における仕事だけであるが、カメラマンの仕事は撮影現場を離れると同時に解消するという性質のものではない。
平素から芸術的理解力においては常に普通社会人の水準から一歩踏み出しているだけの修養が必要なことはもちろん、専門知識においてはまた常に世界の最前線から一歩も遅れない用意が肝腎である。しかも絶えず撮影に関するあらゆる機械的改善を、念頭から離さないだけの熱意を持つことが望ましい。
これだけの仕事の幅と深さを謙虚な気持で正視している人ならば、おそらく無反省に自分の仕事の分野の拡大を喜ぶということはあり得ないはずである。
万一、カメラのかたわらから監督を駆逐していたずらに快哉を叫ぶようなカメラマンがいるとしたら、その人はおそらくまだ一度も自分の仕事についてまじめに考えた経験を持たない人であろう。(昭和十二年五月二十四日) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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この一文は私の友人の著書の広告であるから、広告のきらいな方はなにとぞ読まないでいただきたい。
このたび私の中学時代からの友人中村草田男の句集が出た。署名を『長子』という。
一部を贈られたから早速通読して自分の最も好む一句を捨つた。すなわち、
冬の水一枝の影も欺かず
草田男に会つたときこの一句を挙げて賞したところ、彼もまた己が意を得たような微笑をもらしたからおそらく自分でも気に入つているのであろう。
彼は早くから文芸方面の素質を示し、いかなる場合にも真摯な研究態度と柔軟にして強靭なる生活意欲(芸術家としての)を失わなかつたから、いつか大成するだろうと楽しみにしていたのであるが、この著書を手にして私は自分の期待の満される日があまりにも間近に迫つて来ていることを知つて驚きもし、歓びもした。
私は中村の著書の中に、子規以来始めて「俳句」を見た。
もつと遠慮なくいえば芭蕉以後、芭蕉に肉迫せんとする気魄を見た。
私には詩はわからない。なぜなら私は散文的な人間であるから。
しかし私のいだいている概念からいえば、詩というものはひたすら写実の奥底にもぐり込んで、その奥の奥をきわめた時、あたかも蚕が蛾になるように、無意識のうちに写実のまゆを突き破つて象徴の世界に飛び出すものでなければならぬ。そしてそれはいかなる場合においてもリズムの文学でなければならぬ、少なくとも決してリズムを忘れ得ない文学でなければならぬと考えている。
そして、私のこの概念にあてはまるものは残念ながら現代にはきわめて乏しい。
そこへ中村の『長子』が出た。
私は驚喜せずにはいられない。
これこそ私の考えている詩である。彼こそは私の描いた詩人である。
しかも、それが自分に最も近い友人の中から出ようとは。しかも、現代においては危く忘れられかけている「俳句」という、この素朴な、古めかしい、単純な形式の中に詩の精神がかくまでも燦然たる光を放つて蘇生しようとは。
最初、中村から「俳句」をやるという決心を聞かされたとき、私はこのセチがらい時勢に生産の報酬を大衆層に要求し得ないような、そんな暇仕事を選ぶことについて漠然たる不満と同時に不安を感じた。
しかし、いま彼の句を見て、その到達している高さを感じ、彼の全生活、全霊が十七字の中にいかに生き切つているかを知つて、私は自分の考えをいくぶん訂正する必要を感じる。しかし、その残りのいくぶんは依然として訂正の必要がないということは遣憾の極みである。
彼ほどの句をものしてもなおかつ俳句では食えないのである。したがつて彼はいま学校の教師を職業としている。
そしてこのりつぱな本も売れゆきはあまりよくないということを彼から聞かされた。
私は私の雑文に興味を持つて下さるほどの人々にお願いする。なにとぞ彼の本を買つてください。
彼の本はおそらく私のこの雑文集に何十倍するだけの心の糧を諸君に提供するに違いない。
彼の本は沙羅書店から出ている。
おわりに『長子』の中から私によくわかる句を、もう少し捨い出して紹介しておく。
土手の木の根元に遠き春の雲
松風や日々濃くなる松の影
あらましを閉せしのみの夕牡丹
夏草や野島ヶ崎は波ばかり
眼の前を江の奥へ行く秋の波
降る雪や明治は遠くなりにけり (昭和十二年四月二十六日) | 底本:「日本の名随筆 別巻23 広告」作品社
1993(平成5)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「伊丹万作全集 第二巻」筑摩書房
1961(昭和36)年8月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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"底本の親本名1": "伊丹万作全集 第二巻",
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映画のことなら何でもよいから見計いで書けという命令であるが、私は天性頭脳朦朧、言語不明瞭、文章曖昧、挙動不審の人物であるからたちまちはたとばかりに当惑してしまう。
しかも命令の主は官営雑誌のごとき威厳を備えた『中央公論』である。断りでもしようものならたちまち懲役何カ月かをくいそうだし、引き受けたら最後八さん熊さんがホテルの大食堂に引き出されたような奇観を呈するに決まつているのである。
もつともひつぱり出すほうではもつぱら奇景の探勝を目的としているのであろうから、八さん熊さんがタキシードを着こなして手さばきも鮮かに料理を食うことよりもむしろその反対の光景を期待しているかもしれない。私は奇観をそこねないために法被で出かけることにする。
さて「日本にはろくなものは一つもない」というのは、いまどきの青年紳士諸君が一日三回、ないし二日に一回の割合をもつて好んで使用される警句の一つであるが、多くの警句がそうであるようにこの警句もまたほぼ五十パーセントの真理を含有している。なお、そのうえに「能と古美術と文楽と潜航艇のほかには」というような上の句を添加して用いた場合には事は一層迫真性を帯びてくるし、かたわら、使用者の価値判断の標準がいかに高いかということを暗示する点からいつてもはなはだ効果的である。
いずれにしてもごく少数の例外を除くところの日本の森羅万象がアツという間もなく、忽然としてろくでなしの範疇の中へ沈没してしまう壮観はちよつと比類のないものである。
しかもこの警句の内容の指定するところに従えば、警句の使用者自身も当然この挙国一致の大沈没から免れるわけには行かないのであるからいよいよ愉快である。
かくのごとく沈没が流行する時勢にあたつて、栄養不良の和製トーキーのみがひとり泰然自若としてろくであり得るわけはどう考えてもない。「日本にはろくなものが一つもない」ということを、かりに事実とするならば、その責任はいつたい何人が負うべきであろうか。だれかがそのうち、ろくなものをこしらえてくれるだろうとのんきに構えて、皆が皆、自分だけは日本人でないような顔をして「一つもない」をくり返していたのでは永久にろくなもののできつこはない。
「和製のトーキーはなぜつまらないのか」という質問はいたるところで投げかけられて実にうんざりするのであるが、しかし私は「和製のトーキーはつまらない」という事実を認めない。
もしもつまらない事実を認めるとすれば、まず日本の映画がつまらないという事実を認めるべきであり、さらにさかのぼつて「日本にろくなものはない」という事実をも認めなければならない。
ところが厳密にいえば日本のトーキーはまだ始まつていないのである。したがつて今から日本のトーキーがつまらないといつて騒ぐのはあたかも徳本峠を越さない先から上高地の風景をとやかくいうようなものである。
しかしともかくも現在の状態ではつまらないというなら、それは一応の事実として受け取れる。この一応の事実がよつてくるところを少々考えてみよう。
「めつたに感心するな」ということは、現代の紳士がその体面を保つうえにおいて忘れてはならない緊要なる身だしなみの一つである。これは何もいまさら私が指摘するまでもなく、いやしくも現代の紳士階級の一般心理に関心を持つほどのものならだれしもがとつくの昔に気づいている現象である。
「感心をしない」ということは、昔は「感心をする」という積極的な心理作用の反対の状態を示すための、極めて消極的な影の薄い言葉にすぎなかつたはずであるが、現在では「感心をしない」ということ自身が独立した一つの能動的心理作用にまで昇格してしまつた観がある。
現代の紳士たちは感心しないことを周囲からも奨励されると同時に自分自身からも強要されているわけである。
かくてある場合には「感心しない」という目的のもとにわざわざ劇場に足を運ぶというような理解し難い現象をさえ生ぜしめるにいたつたのである。
しかしこれらは我々が最も苦手とする連中に比較するときはまだ幾分愛すべき部類に属する。
我々が目して最も苦手とする連中は、かの「見ない先からすでに感心しない」紳士たちである。この手合いに対しては残念ながら我々は全く策の施しようがないのである。
もしもこの手合いに対して残された唯一の手段があるとすれば、それはいささかも彼らの意志を顧慮することなく直接行動に訴えて強制的にこれを館へ連行することであるが、この方法は法律的にも経済的にも心理学的にも障害が多くて実行が困難であり、あまつさえもしもこちらより向こうのほうが強い場合には物理学的困難にまで逢着しなければならぬ不便があるため、残念ながら我々はこの方法を放擲せざるを得ないのである。
ところが事実において今日相当の年配と教養とを一身に兼ね備えた紳士階級、すなわち我々にとつては理想的の獲物であるところの諸氏はほとんど例外なしに『中央公論』の愛読者であると同時に、我々の作る映画はこれを「見ない先にすでに感心しない」ところの嗅覚の異常に発達した連中である。
我々は見ない人たちを目標にして、映画を作る自由を持たない。我々の作る映画は要するに始終見てくれる人々に見せるためのものでしかない。
見ない人たちがある日極めて例外的に我々の映画を覗いてみて、何だくだらんじやないかと憤慨しても、それは我々のあえて意に介しないところである。文中おもしろいとかつまらないとかいう語が随所に出てくるはずであるがそれらの語の標準を奈辺においているかは右によつておのずから明らかであろう。
さてどうせ日本のトーキーがおもしろくないことを問題にするからには、ついでのことに、日本の大衆文芸がおもしろくないことも少し問題にしてみたらどんなものかといいたい。
なぜならば日本の映画はそのストーリーの供給の大部分をいわゆる大衆文芸に仰いでいるからである。出る写真も出る写真もほとんど限られた二、三氏の、原作以外に出ないというような退屈な現象は大衆文壇のためたいして名誉にはならない。
いつたい大衆文壇というものにはほとんど批評の存在がないようであるが、これに反して日本の映画界くらい批評の繁昌している国は昔からまたとあるまい。繁昌するばかりでなく、これがおよそ峻烈苛酷をきわめる。ある批評家がある監督を批評していわくに、この監督のただ一つのとりえは女優某を女房に持つている点だけであるとやつているのを見たことがあるが、批評家が作品をそつちのけにして女房の選択にまで口を出す国は古今東西歴史にあるまい。
女房の選択などはまだ事が小さい。もつと大きな例をあげる。日活という会社は批評家の意見によつてとうとう現代劇部を東京へ移転させてしまつた。
京都などに撮影所があるからいい現代劇ができない。早々東京へ引越すべしというのが批評家の意見なのである。会社の移転の指図までするやつもするやつだが、またそれをまに受けて引越すやつのまぬけさかげんときては話にも何にもならない。いつたい現代劇の撮影所が首府の近くになければならぬという理論がどうすれば成り立つのかそれが第一私などにはわからない。外国の例で見てもニューヨークとハリウッドではほとんどアメリカ大陸の胴の幅だけ離れているはずであるが、アメリカの現代劇はいつこうに悪くない。そんなことはどうでもよいが、とにかく批評家が撮影所を移転せしめた記録はだれが何といつても日本が持つているのだからまことに御同慶のいたりである。
かくのごとく僄悍無類の批評家の軍勢が一作いずるとみるやたちまち空をおおうて群りくるありさまはものすごいばかりである。それが思い思いにあるいは目の玉をえぐり、あるいは耳をちぎりあるいはへそを引き裂いて、もはや完膚なしと見るといつせいに引き揚げてさらに他の作に群つて行く状は凄愴とも何とも形容を絶した偉観である。
したがつて読物のほうは十や二十駄作の連発をやつてもたちまち生命に別条をきたすようなおそれはないが、映画のほうは三本続いて不評をこうむつたら気の毒ながら、もはや脈はないものと相場が決まつている。
次に純粋の映画脚本作家の不遇による、オリジナル・ストーリーの欠乏ということも一応問題にしなければなるまい。
北村小松、如月敏、山上伊太郎というような人たちはいずれも過去においては代表的な映画脚本作家であつたが、現在においては申し合わせたように転職あるいはそれに近いことをやつている。映画脚本作家は商売にならないからである。我々の体験からいつても映画脚本を一本書くのは監督を数本試みる労力に匹敵する。しかもむくいられる点は、監督にはるかにおよばないのだからとうていソロバンに合わない。しかもまだかけ出しのどしどし書ける時分にはほとんどただのような安い原稿料でかせがされる。
資本家が認めて相当の値で買つてくれる時分には作家は精力を消耗してかすみたいになつてしまつている。
私のごときものが現に相当の報酬を受けているのは、とつくの昔かすになつてしまつていることを彼らが知らないからである。こういうしくみでは才能ある作家をつかまえることも困難だし、育てることは一層不可能である。映画企業家のせつに一考を要する点であろう。
そもそも映画のおもしろさを決定するものは内容であり、内容を決定するものは原作である。したがつて原作をいいかげんに考えておきながら、いたずらにおもしろくないとか何とかいつて騒ぐのはあたかも空の池に魚を放つておいて魚が泳がないといつて騒ぐようなものである。今の日本の映画界の通弊は何でも監督監督と騒ぎまわることである。監督は一本の映画に関するかぎり、ありとあらゆる責任と義務を背負わされる。そしてそのかわりにほんのわずかな権限を。
監督の実際は、会社の方針、検閲制度、経済的制御、機械的不備、スターの精神異常、こういつた種類のこわい鬼どもの昼寝のすきをねらつてささやかなる切紙細工をして遊んでいる子供にも似たはかない存在である。
しかるに不幸にしていつたん作品ができあがつて世に現われるやいなや、この切紙細工のぼつちやんは突然防弾衣のごとく雨と降りくる攻撃の矢面に立たされる。そしてたちまちのうちにあわれはかなくのびてしまう。たとえば俳優の演技にしてもそれ自身独立した評価をくだされるというようなことは近ごろはほとんどないことである。うまいもまずいも監督の指揮いかんにあるというふうにみるのが通なるものの批評の仕方であるが、監督は神様ではない。へたな俳優はだれが監督してもへた以外には出ないのである。精々まずい芝居の部分を鋏で切り取るくらいの芸当しか監督にはできない。しかしそんなことはだれにでもできることである。要するにへたな俳優を使つてうまい芝居をさせるというのは人間にはできない相談である。うそだと思つたらまずい俳優を外国へ輸送してルビッチにでもスターンバーグにでも使わせてみるがいい。要するに監督ばかりを攻めたところで映画はおもしろくはならないのである。
次にもつとどしどし新人が現われなければ映画はおもしろくならない。我々もこの世界にはいつてきたときはしろうとであつたがためにごくわずかながら清新の気を注入するだけの役割は果したかとうぬぼれているが、現在ではもうくろうとになりすぎてしまつた。くろうとになるととかく視野が狭くなつて頭をひねる範囲が限られてくるものである。穂高のどの岩はどう取りついたらいいかというようなことは登山家の間では問題になり得るであろうが、門外漢にとつてはいつこうに興味をひかない問題である。それよりもむしろ信州側から登つたとか飛騨側から登つたとかいう大まかな問題のほうがおもしろい。
我々はたとえてみれば一つの岩の取りつき方を研究している連中のようなものである。視野がその岩に限られているからふもとのことは考えられない。ふもとのほうから新しいコースを発見して登つてみようという野心と熱意に欠けているのである。それをなし得るのは新人のほかにはない。
実際において映画をおもしろくする効果からいえば一人の天才的なる新人の出現は十人の撮影所長の存在よりも意義深きものである。
ここ数年来、日本映画界の前線を受け持つ顔触れにたいした変化がないということは如上の見地からあまりめでたい話とはいえないのである。
次に現在の日本トーキーのおもしろくない重大原因の一つに資本家側の準備不足がある。
この準備不足が実際的には機械的不備、その他経済的無力となつて日夜仕事の遂行を妨害しているのである。
彼らは損してもうけることを知らない。損をしないでもうけようと欲の深いことを考えているから結局たいしたもうけもできないのである。早い話が日本にトーキー化が始まつてから数年。まだ完全に近い設備をもつてトーキーの仕事をしている撮影所がない。
一番最初に完全に近いトーキー設備を完了したものが一番もうけるにきまつているのであるが、だれもそれをしない。だからごらんのとおりいつまでたつてもどんぐりのせいくらべである。
我々の仕事は設備のあとに始まるものと心得ていたらこれが大変なまちがいであつた。
「まず製作せよ。しからばそのもうけによつて設備すべし」これが、日本の映画資本家のトーキーに対する態度である。どうしても設備よりも製作が先なのである。したがつて日本の監督たちは設備ができあがるまでトーキーの仕事を保留する自由を有しない。もしそんな料簡でいたならば彼らは永久にトーキーを作る機会を逸してしまうかもしれないのである。
なおトーキーの機械的不備の問題は撮影所だけにとどまらない。これを上映する館の再生機という難物が控えている。再生機にもピンからキリまであつて、田舎のほうではそのうちもつぱらキリのほうを使用しているから田舎におけるトーキーはときに沈黙の美徳を発揮する。
私の関係して作つたトーキーが郷里の地方へ廻つていつたが何をいつているのかまつたくわからなかつたという報告がきている。トーキーはものをいう機械であるから、トオゴオさんの向こうを張つて沈黙を守つたところで人がほめてはくれない。見物から金を取つてトーキーを上映するからには原音どおり再生できる機械を備えるのが館として当然の義務である。もし何らかの事情でそれをやる能力がない場合には経営を断念すべきである。やめもしないかわりに音も聞かせないというのはもはや実業の域を脱している。それはむしろ招魂祭の見せ物に近きものである。
ロシヤには俳優の出ない映画などもできているが、日本の興行価値を主とする映画で俳擾の出ない写真というのは目下のところではまずない。作者なり監督なりが直接見物に話しかけるということはないので、すべて俳優の演技を介してものをいうのであるから、俳優の演技というものはずいぶん重要な役割を受け持つているわけである。しかるに日本にはトーキー俳優というものはまだいない。ほとんど無声映画時代の俳優をそのまま使つているのである。その中にはトーキーに適している人もあるだろうが、同時に全然落第の組もある。その淘汰はまつたく行われていない。
口をきくということはおしでないかぎりだれにもできることであるが、商売として口をきくことになると案外難しいものである。早い話が不愉快な音声は困る。発音不明瞭は困る。小唄の一つも歌つて調子はずれは困る。というふうにいつてくると、もうそれだけで落第者続出の盛況である。
舞台のほうでは普通に口がきけるようになるには五年以上かかるものとされている。普通にというがこの普通が大変で、三階の客にも聞えることを意味しているのだからなかなか普通の普通ではない。経験のないものは大きな声さえ出せば聞えるだろうと考えるがそんなものではない。声が大きいということと、言葉が明瞭に聞き取れるということは必ずしも両立しない。死んだ松助などは家にいるときもあのとおりであろうと想像されるような発声のしかたであつたが劇場の隅々までよくとおつた。何十年の習練の結果が、彼に発声法の真髄を会得せしめたのであろう。
トーキーの発声の場合は舞台と違つて距離に打ちかつ努力を必要としないからそれだけ容易なわけである。どんな低いささやきも機械が適宜に拡大して観客の耳にまで持つて行つてくれるのだから世話はない。そのかわり機械は機械でいくら完全に近くなつても決して肉声そのものではない。ことに現在の日本の機械の能力では俳優が機械から受ける制限にはかなり不自由なものがある。
なおたとえ将来においてこの種の制限がはるかに減少するときがきたとしても、トーキー俳優にとつて発声法の習練が何より大切であることにかわりはない。なぜならば観客は語のわかりにくい発声を努力して聞き分けながら映画を楽しむだけの雅量を持つていないだろうし、同じくわかりやすい発声のうちでも特に耳に快く響く流麗なものにひかれるであろうから。
現在の映画俳優は発声に関するかぎり未熟というよりもまつたく無教養であるといつていい。しかも著名な俳優の大部分は無声映画時代の好運にあまやかされて泰平の夢をむさぼるになれているから、いまさら年期を入れ直して勉強を始めるような殊勝さは持ち合していないように見受ける。
そこでまず当分の間は、すなわちトーキー俳優として立派な成績を示す人々が出そろうまでは日本のトーキーはある程度以上におもしろくならないということになる。
次にトーキーになつてから録音に関する部署を受け持つ人たちが新たに加わつたわけであるが現在のところではこの人たちに対する選択がまつたく行われていない。我々の見解ではこの部署を受け持つにはかなり高度の才能を要求したいのであるが、現在のところでは才能もへちまもない。要するに機械をいじることのできる人でさえあれば大威張りでこの部署に着いて収まつているわけである。画面がクローズ・アップの場合は声を大きく録音し、ロングの場合は小さく録音しさえすればいいと心得ているような人たちに音をまかせて仕事をしなければならないのではなかなかおもしろい映画はできにくいのである。いまさら監督学の初めからおさらえをする手はないが、クローズ・アップとは何もだれかが側へ寄つてつくづく顔を打ち眺めましたということではないのである。
次に音楽といつてわるければ音響の整理でもいい。そういうものがいかに重大であるかということを各会社ともにいつせいに認めていない。
その証拠にまだ日本には耳の監督がいない。西洋のことは知らない。そういうものがあるかないか私は知らないが、トーキーを作るうえにおいてこれは絶対に必要なものである。もしもそんなものはいらないという監督がいたら試みに半音程調子の狂つた楽器を混えたオーケストラを、その人の前で演奏させてみればよい。その人がただちにその半音の狂いを訂正する人ならあるいは音楽監督を必要としないかもしれない。しかし訂正する人はめつたにいないはずである。自分では健全なつもりでいるが我々の耳は専門家からみればつんぼも同然のものである。
ところで現状の実際からみれば音響監督のことなど夢のような話で、ほとんど各社とも一つの作品に付随する音楽の全部を一晩か二晩で入れているありさまである。いいもわるいもない。選曲のはちの頭のといつているひまもない。何かしらん音が出ればそれで満足してうれしがつているのが現在の映画会社である。
さて今までは他人のことばかりいつてきたが今度はいよいよ監督の番である。大体において日本にはトーキー監督としてたいしたやつはいないという定評になつているようである。事私自身に関するかぎり、この定評には黙つて頭を下げても差支えないが、他の人々、たとえば伊藤大輔氏にしろ衣笠貞之助氏にしろ、また蒲田の島津保次郎氏にしろトーキー監督としてすぐれた人でないといえないと思う。
ともかく現在の機械的不備のなかであれだけの仕事をしたというだけでも私にとつてはまさしく驚異である。ことに伊藤氏の「丹下左膳」第二篇のごときは撮影上の設備その他あらゆる意味において世界最悪のコンディションのもとに作られたという点からいつても、ともかくあれだけおもしろいものが作られたということは私にとつては人間業とは思えないものがある。
したがつてこの人たちを理想的なコンディションのもとに置いて仕事をさせた場合を考えると日本のトーキーがつまらないなどとは容易にいえない気がするのである。
日本の監督たちはまだ一度も普通に仕事し得るコンディションのもとに置かれたことがないといつても決して失当ではないのである。一度も普通のコンディションのもとに置いてみないでいきなり評価を定めるのはいささか短慮に失するキライがありはしないか。
さて現在の日本のトーキーの製作状態は大体において私が以上もうし述べたようなぐあいであつて、この状態の中からおもしろいトーキーができあがつたらむしろ不思議と称してなんらはばかるところはないわけである。そしてこの状態はまだ当分続く見込みであるから、日本のトーキーもまだ当分おもしろくならないものと思つていただいて結構である。
かくて日本のトーキーがつまらないということは現在のところでは残念ながら一般的事実としてこれを認めなければなるまい。しかし、日本のトーキーがいかにつまらないといつても、つまらない点からいえば無声映画のほうがなおいつそうつまらないであろう。
(『中央公論』昭和九年九月号。原題「トオキイ監督の苦悶――雑文的雑文――」) | 底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「中央公論」
1934(昭和9)年9月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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私は生れてからこのかた、まだ一度も国民として選挙権を行使したことがない。
私はそれを自慢するのではない。むしろ一つの怠慢だと思つている。しかし、ここに私が怠慢というのは、私が国民としての義務を怠つたという理由からではなく、たんに芸術家として、与えられた観察の機会をむだにしたという理由からである。すなわち、いまだかつて投票場に近寄つたこともない私は、投票場というものがどんな様子のものかまつたく知らない。したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。そして、それは明らかに私の怠慢からきている。このような意味においては私は自己を責める義務があるが、その他の意味においては少しも自己を責める義務を感じたことがないし、今でも感じていない。
「選挙は国民の義務である」ということは、従来の独裁政治、脅迫政治のもとにおいてさえ口癖のようにいわれてきたが、そのような政治のもとにそのような言葉が臆面もなく述べられていたということほど、国民を侮辱した話はない。
選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。
なるほど国民の一部には選挙権が与えられ、有権者は衆議院議員を選挙することができた。しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。
政治をしない議員を選出するための選挙が国民の義務であり得るはずはない。いわんや、このようなむだな投票を棄権したからといつて、私は毫もおのれの良心に恥ずるところはない。むしろ、日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。
こうして、私は投票は例外なく棄権することに決めていたから、投票日がいつの間に過ぎたかも知らず、議会の経過を報道する新聞記事にも眼を通すことなく、要するに私にとつて、我国の政治というものは世の中で最も愚劣で、低級で、虚偽と悪徳に満ちたものとして、いかなる意味でも興味の対象となり得なかつたのである。
しかし、今は事情がすつかり違つてきた。国民の選んだ人たち、すなわち国民の代表が実際に政治を行うという夢のような事態が急にやつてきたのである。
こうなると、選挙というものの意味は従来とはまつたく違つてくるし、したがつて私も選挙、ひいては国の政治ということに至大の関心を持たずにはいられなくなつてくる。
いつたい、今まで私のように政治に対してまつたく興味を持たない国民が何人かいたということは、決して興味を持たない側の責任ではなく、興味を奪い去るようなことばかりをあえてした政治の罪なのである。国民として、国法の支配を受け、国民の義務を履行し、国民としての権利を享受して生活する以上、普通の思考力のある人間なら、政治に興味を持たないで暮せるわけはない。にもかかわらず、我々が今まで政治に何の興味も感じなかつたのは、政治自身が我々国民に何の興味も持つていなかつたからである。
そもそも「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ずる。
なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。このことは、従来国民として、いかなる行為が最も道徳的なりとして奨励せられてきたか、いかなる人々が最も迫害をこうむつたかを実例について具体的に検討してみれば、だれにも容易に納得の行く事実である。
すなわち、今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。
もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。
この根本を、しつかり把握しさえすれば、現在我々が直面しているもろもろの事態に対処して行くうえに、おおむね誤りなきを期することができるはずである。たとえば、今回の選挙に際しても、多くの候補者のうちから、きわめて乏しいほんものをえり分けることは決してむずかしいことではない。
現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。
現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。
現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。
しかし、それだけではまだ十分ではない。粗悪な候補者どもの退場にダブツて、真に民主的な文化国家にふさわしい、優秀なる人材、良心的な候補者を多数登場させなくてはならぬ。それには少なくとも現在の立候補に関する法令、手続などを根底から改めなくてはならぬ。
私一個の意見としては、立候補を成立せしめる基礎を候補者自身の意志に置く現行の法規を改め、これを候補者以外の多数の推薦者の意志に置くことに改め、候補者自身は選挙費用として一銭の支出も許さぬことにしなくては理想的な選挙はとうてい望み得ないと信ずる。また、かくすることによつてのみ、真に優秀な、そして私欲のない代議士を得ることができると信ずる。
右のような私案は、現在の過程においてはおそらく一片の理想論として、何人からも顧られることがないであろう。しかし、由来理想と現実とを区別する客観的な規準などというものはどこにもありはしないのである。たとえば、アメリカ人にとつてきわめて現実的な課題であつた原子爆弾の製造は、日本人にとつては一つの幻想にすぎなかつたではないか。しかし、この問題についてこれ以上執拗にうんぬんすることはここでは差し控えたい。
いずれにしても、日本の政治をよくするために、そして真にそれを民衆のものとするために、何よりも緊急なこと、そして何よりも有効な処置は、まず何を措いても民衆に対する政治教育を盛んにすることである。
それには種々雑多な方法があるであろうが、しかし、肝腎なことは、それを何人の手にもまかさず、我々自身の手でやるということである。ここに、勤労大衆の一人として映画の仕事にたずさわる我々の深く考えなければならぬ問題がある。
もちろん、我々は芸術を政治に奉仕せしめる愚を犯してはならない。また、娯楽と宣伝とを混同してはならない。しかし、同時に我々は映画の間口の広さを忘れることはできないし、その能力の多様性、浸透性を無視することもできない。
我々は、我々の芸術良心に従い、かつ十分それを満足させながら、現実の政治に役立つような映画を作ることも決して不可能ではないのである。このような場合に、その種の作品の中で、我々が政治というものをいかに扱うべきか、それに対する私の答はすでに今まで述べてきた中に十分明らかとなつているはずである。(四月九日)(『キネマ旬報』再建第三号・昭和二十一年六月一日) | 底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「キネマ旬報 再建第三号」
1946(昭和21)年6月1日
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。
少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月) | 底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画春秋 創刊号」
1946(昭和21)年8月
入力:鈴木厚司
校正:田中敬三
ファイル作成:
2006年5月5日作成
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現在の日本は政治、軍事、生産ともに行き当りばったりであり、万事が無為無策の一語に尽きる。
我々国民は、政府が勝利に対する強力なる意志と、周到なる計画性とその実行力とを示してくれるならばいかなる困苦にも堪え得るものであるが、現実においてあらゆる事態がその無計画無能力を暴露しているにもかかわらずただ口頭のみにおいて空疎な強がりを宣伝し、不敗を呼号して国民を盲目的に引きずって行こうとする現状にはもはや愛想が尽きている。
政府は二言目には国民の戦意をうんぬんするが、いままでのごとく敗けつづけ、しかもさらに将来に何の希望をも繋ぎ得ない戦局を見せつけられ、加うるに低劣無慙なる茶番政治を見せつけられ、なおそのうえに腐敗の極ほとんど崩壊の前夜ともいうべき官庁行政を見せつけられ、なおかつ戦意を失わないものがあればそれは馬鹿か気違いである。我々はもはや日本の能力の底まで知ることができた。もうたくさんである。こんな見込みの立たない愚劣な戦争は一日も早くやめてもらいたい。我々の忠勇の血をこれ以上無意味に浪費することをやめてもらいたい。我々の血は皇国の繁栄のためにのみ流さるべきである。現在のままでは国民の血が流れれば流れるほど国は滅亡に近づいて行くではないか。そしてもはや流すべき一滴の血もなくなったとき、光栄ある日本は地球上から消えてなくなるだろう。
何のためか。すべての国民を失い、日本を滅して何を得んとするのか。名誉? 国が滅びてのち、名誉という語に何の意味があるか。彼らは必ず勝つという。しかしどこにその根拠がある。冷静に客観的に事態を注視せよ。我らには勝利に縁のある材料は何一つありはしない。理由もなく勝利を呼号するは単なるうぬぼれにすぎない。あるいは魯鈍に過ぎない。
すべてを犠牲にして日本本土の存続をはかる時期は今をおいてはない。日は一日と状態を悪化せしめる。今ならばまだ外交工作の余地がある。明日になればそれももうどうなるかわからない。今ならば我方に多少の好条件を確保する可能性がある。外交の手腕によってはボルネオくらいは残し得るかもしれない。しかし今年の後半期においてはそのようなことはすでに夢となっているだろうし第一もはや工作の余地そのものが皆無となっているに違いない。
おそらく四月には敵は本土上陸を断行するだろう。しかも我はやすやすとそれを許すだろう。上陸されたら最後我には抵抗力はないものと断じてまちがいはない。これは過去のあらゆる戦績がこれを証明して余りあるところである。戦国時代のごとき斬込み戦法で三十や五十殺したところで近代兵器の殺戮力はそれを数十倍数百倍にして返すだろう。現代の戦争において近代兵器を持たない出血戦術などいうものが成り立つものかどうかは考えるまでもないことである。
現在のままで戦争をつづけるかぎりすべては絶望である。唯一の道はいかなる条件にもせよ一旦戦争を終結させて、科学に基礎を置いた国力の充実を計り、三十年五十年後の機会を覗うこと以外にはあるまいと思う。科学を軽視した報いがいかなるものか。物力を軽蔑した結果がいかなるものか。民力、民富の発展を抑制した罰がいかなるものか。それらの教訓こそはこの戦争が日本に与えたあまりにも痛切な皮肉な贈物というべきであろう。 | 底本:「現代日本思想大系 14 芸術の思想」筑摩書房
1964(昭和39)年8月15日発行
入力:土屋隆
校正:染川隆俊
2008年1月25日作成
2011年4月15日修正
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社会の各層に民主化の動きが活溌になつてくると同時に、映画界もようやく長夜の眠りから覚めて――というとまだ体裁がよいが、実はいやおうなしにたたき起された形で、まだ眠そうな眼をぼんやりと見開きながらあくびばかりくりかえしている状態である。
しかし、いつまでもそんなことではしようがない。早く顔でも洗つてはつきり眼を覚ましてもらいたいものだ。
さて、眼が覚めたら諸君の周囲にうずたかく積まれたままになつている無数の問題を手当り次第に一つ一つ片づけて行つてもらわねばならぬ。中でも早速取り上げてもらわねばならぬ重要な問題の一つに著作権に関する懸案がある。ここでは、この問題に対する私見を述べてみたいと思う。
従来の日本の法律がはなはだ非民主的であつたことは、我々の国体が支配階級の利益のみを唯一の目的として形成し、維持されてきたことの当然の結果であるが、その中でも、社会救済政策、および文化保護政策の貧困なることは、これを欧米の三、四流国に比較してもなおかつ全然けたちがいでお話しにならない程度である。
法律によつて著作権を保護し、文化人の生活を擁護することは文化政策の重要なる根幹をなすものであるが、我国の著作権法は極めて不完全なものであり、しかもその不完全なる保証さえ、実際においてはしばしば蹂躙されてきた。しかし、既成芸術の場合は不完全ながらも一応著作権法というものを持つているからまだしもであるが、映画芸術に関するかぎり日本には著作権法もなければ、したがつて著作権もないのである。もつとも役人や法律家にいわせれば、映画の場合も既存の著作権法に準じて判定すればいいというかもしれないが、それは映画というものの本質や形態を無視した空論にすぎない。なぜならば現存の著作権法は新しい文化部門としての映画が登場する以前に制定されたものであり、したがつて、立法者はその当時においてかかる新様式の芸術の出現を予想する能力もなく、したがつて、いかなる意味でも、この芸術の新品種は勘定にはいつていなかつたのである。
次に、既存の著作権法は主としてもつぱら在来の印刷、出版の機能を対象として立案されたことは明白であるが、このような基礎に立つ法令が、はたして映画のごとき異種の文化にまで適用ができるものかどうか、それは一々こまかい例をあげて説明するまでもなく、ただ漠然と出版事業と映画事業との差異を考えてみただけでもおよその見当はつくはずである。そればかりではない。映画が芸術らしい結構をそなえて以来今日に至るまで、我々映画芸術家の保有すべき当然の権利は毎日々々絶え間なく侵犯されつづけてきたし、現にきのうもきようも、(そしておそらくはあすもあさつても)、我々の享受すべき利益が奪われつづけているのは、我々の権利を認め、かつこれを保護してくれる法律もなく、また暫定的に適用すべき条文すらもないからにほかならないのである。
したがつて、我々映画芸術の創造にあずかるものが、真に自分たちの正当なる権利を擁護せんとするならば、何をおいてもまず映画関係の著作権法を一日もすみやかに制定しなければならぬ。しかして、映画芸術家の正当なる権利を擁護して、その生活を保護し、その生活内容を豊富にすることは映画芸術そのものを向上せしめるための、最も手近な、最も有効な方法であることを忘れてはならぬ。
さて、次にその実現方法であるが、これには二つの条件が必要である。すなわち、まず先決問題としては立法の基礎となるべき草案をあらかじめ我々の手によつて練り上げておくことであり、第二の段階としては、従業員組合の組織をつうじて、あらゆる機会に政府あるいは政党に働きかけて草案の立法化促進運動を果敢に展開することである。
右のうち、草案の内容については、私一個人としては相当具体的な腹案を持つているが、しかし、それを発表することは本稿の目的でもなく、また、それには別に適当な機会があると思うから、ここではくわしいことは一切省略しておく。
ただ、参考のため、私の意見の根底となつている、最も重要な原則だけをかいつまんで申し述べるならば、私は自分の不動の信念として、人間の文化活動のうち、特に創作、創造、発明、発見の仕事に最高の栄誉と価値を認めるものである。(未完) | 底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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平安神宮の広場は暑かつた。紙の旗を一本ずつ持つた我々は脱帽してそこに整列していた。日光は照りつけ汗がワイシャツの下からにきにきと湧いた。前面の小高い拝殿の上には楽隊がいて、必要に応じて奏楽をした。注意して見ると、楽隊のメンバーにはアフレコ・ダビングでかねてなじみの顔ばかりである。
それから神官の行事があつた。つづいて君が代の斉唱、バンザイの三唱など型どおり行われたが、その間、出征軍人山中貞雄は不動の姿勢で颯爽――という字を張りこみたいところだが、そういう無理をするとこの一文がうそになる。どうみてもあれは颯爽というがらではない。鐘であつたら正に寂滅為楽と響きそうなかつこうで立つていた。
それからトラックやら自動車やらに分乗して「歓呼の声に送られて」と、○○の連隊の近所まで送つて行つたのはついきのうのことのような気がする。
入営から何日か経つて面会を許された日があつたので、女房のこしらえた千人針を持つて行つてみた。いろんな人が入りかわり立ちかわり面会に来るので、その下士官室は大変混雑していた。山中自身もすくなからず応接に忙殺されている形であつたので、長くはいずに帰つたが、この日の山中は元気がよかつた。
しばらくの間に兵営生活が身につき、彼自身も本当の一兵士に還元した安心と落ち着きとがあり、したがつてのびのびした自由さが感じられた。
この日以来私は山中を見ない。しかしいつかは(それもあまり遠からぬ将来において)必ず再会できるという確信のようなものを私はひそかにいだいていた。それにもかかわらず、あつけなく山中は死んでしまつた。
ある朝浅間山の噴火の記事を探していて、山中陣没の記事にぶちあたつた、腹立たしいほどのあつけなさ。浅間山なんぞはまだいくらでも噴火するだろう。しかし我々はもはやふたたび山中の笑顔を見ることができないということは、実感として何か非常に不思議なできごとのように思われてならない。それは我々を悲しませるよりもさきに人間の生命の可能性の限界を、身に突きさして示すようである。
私が初めて山中に会つたのは、たしか『都新聞』の小林氏の主催にかかる茶話会の席上であつた。時期はちようど山中がその出世作と目されている一連の作品を出していたころだろうと思う。迂濶にもそのときの私はまだ山中の名声を知らず、したがつてその作品を知らぬことはもちろんであつた。ただ彼と小林氏との間にかわされる談話によつて、この人が寛プロの山中という人だということを知つたにすぎない。特に紹介もされなかつたのでその日は直接口はきかなかつた。
それからまもなく山中貞雄の名まえがしげしげと耳にはいるようになり、どんな写真を作る人か一つ見ておこうというので初めて見たのは「小笠原壱岐守」であつた。作品としては特に感心したところはなかつたが、とにかく十何巻かの長尺物を退屈させずに見せたのは相当の腕達者だという印象を受けた。それからのちも山中の作品はなるべく見るように心がけてはいたが、結局三分の一あるいはもつと見のがしているかもしれない。その乏しい経験の範囲でいうならば、私は概して山中の作品を人が騒ぐほどには買えなかつた。
彼の作品が実にスムーズに美しく流れていることは定評のとおりである。しかしそれは私の志す道とは必ずしも方向が一致しなかつたのでさほど心をひかれなかつた。彼の作品が才気に満ちていることもまた定評のごとくである。しかし私はできればそういうところから早く抜け出したいと思つていたし、また彼の才気といえども決して天啓のごとく人の心を照すような深いものではなかつた。
ことわつておくが私は決して山中の作品をけなすために病中をしのんでまで筆を起したのではない。のち、直接山中の人間と相識るにおよんでその人間とその作品とを比較検討するに、どうも作品のほうが大分人間に敗けているように思われてならない。したがつてその人間に対する比例からいつても彼の作品をこの程度にけなすことはこの場合絶対に必要なのだ。
私が初めて山中と口をきいたのはいつのことか、いくら考えてみても思い出せないのであるが、いずれにしてもそれは監督協会創立当時、そのほうの必要からいつとはなしに心安くなつたものに相違ない。したがつて我々の交際はいつも集会の席上にかぎられていて、さらに進んで互の居宅を訪問するとか、あるいは酒席をともにするとかいうところまではついに進展しないでしまつた。
だから私は彼の私生活の片鱗をも知らない。また長鯨の百川を吸うがごとき彼の飲みつぷりにも接したことがない。にもかかわらずほんの二度か三度会ううちに私はすつかり山中が好きになつてしまつた。
「好漢愛すべし」この言葉は私の山中に対する感情を言い得て妙である。
監督協会の成立とともに日本の監督の九十パーセントを私は新しい知己として得たし、この中には随分偉い人も好きな人もあるがまだ山中ほど愛すべきはいず、山中ほどの好漢もいない。私の見た山中の人間のよさや味はその作品とは何の関係もない。私はあの春風駘蕩たる彼の貴重な顔を眺めながら神経質な彼の作品を思い出したことは一度もない。
だいたい彼の顔はあまり評判のいいほうではない。私も最初は彼の顔などてんで問題にもしていなかつたのであるが、何度も会ううちあの平凡きわまる顔が実は無限の魅力を蔵していることに気がつきはじめた。またしても引合いに出すが、監督協会の他の人々の中にも随分いい顔や好きな顔がないではないが、山中の顔のごとく長期の鑑賞に堪えうるものは極めて少ない。ことによるとあの顔は山中の人よりも作品よりも上を行くものかもしれない。近ごろ見飽きのしない顔ではあつた。
思うに山中の本当の仕事はことごとく将来に残されていたといつても過言ではなかろう。自分の知る範囲においてその人がらや性質から彼の仕事の本質を推定するとき、過去における彼の仕事のごときは決して彼の本領だとは思われない。もしもいささかでも作品に人間が現われるものならば、彼の作品はもう少し重厚でなければならない。稚拙でなければならない。素朴でなければならない。もう少し肉太でなければならない。もう少し大味でなければならない。また彼の京都弁のごとく、大市のすつぽん料理のごとく、彼自身の顎のごとく、こつてりとした味がなくてはならない。そして彼が出し切れなかつたこれらすべてのものは、もしも天が彼に借すに相当の歳月をもつてしたならば彼は必ず作品のうえにこれをみごとに盛り上げてみせたに違いない。
しかしそれならば過去において彼が描いてみせたようなあまりにも才気に満ちた傾向の作品というものはいつたい彼のどこから出てきたのか、いうまでもなくそれは彼の胎内から生れ出たものには違いない。一見たんなるお人よしのようにも見える彼の一面に非常に鋭いものが蔵されていたり、そのまま仏性を具現しているような彼の顔に、どうかした拍子に煮ても焼いても食えないようなずぶとい表情が現われたり、あるいはまたチラとこす辛い色が彼の眼を横切つたりすることがあつたのと同じような現象だと解釈すれば、あえて異とするにはあたらない。
ただ、なぜ特にそんな傾向の作品ばかりが現われたかという疑問に対しては、たぶん彼の環境がそうさせたのだろうと答えるほかはない。
山中はあまりに若くして監督になつた。周囲は彼に対してまずおもしろい写真を、しかしてかかる写真のみを彼に要求したにちがいない。
若い彼が一プロダクションの監督として、出発に間もないころを生きのびるためには、何としてもおもしろい写真を作るほかはなかつたろう。ところが幸か不幸か彼にはそうした才能があつた。かくて彼の才能は迎えられた。実際はかかる才能は彼の天分のほんの一部分にしかすぎなかつたのだが、周囲は(おそらくは彼自身も)それに気づかなかつた。彼の才能のある部分だけが拡大され酷使された。
そして彼は死んだ。
私の山中に関する感想はほぼ以上で尽きる。要するに彼のごときは(みな、他人ごとだと思つてはいけない。)才能ある人間が過渡期に生れたため、その才能を畸型的に発達させられた一例であつて悲劇的といえば悲劇的であるが、ちようどそういう時に出くわしたればこそ我々同時代のものは才気煥発する彼の一連の作品によつて楽しまされたとも考えられる。
さもあらばあれ、すべては終つてしまつた。
「恥ずかしい、もう娑婆のことはいわんといてえな」と、どつかの雲の上で山中が顎を撫でてつらがつている声が聞こえるからもうこれくらいでよす。私の粗野な文章はあるいは死者に対する礼を欠くところがあつたかもしれない。しかしかかる駄筆を弄したのも一にそれによつて山中を偲ぶよすがともなろうかと思つたからである。(十月十八日)(『シナリオ』昭和十三年十一月臨時増刊・山中貞雄追悼号。原題「人間山中」) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「シナリオ 昭和十三年十一月臨時増刊・山中貞雄追悼号」
1938(昭和13)年11月
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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君の手紙と東京から帰った会社の人の報告で東京の惨状はほぼ想像がつく。要するに「空襲恐るるに足らず」といった粗大な指導方針が事をここに至らしめたのだろう。敵が頭の上に来たら日本の場合防空はあり得ない、防空とは敵を洋上に迎え撃つこと以外にはないとぼくは以前から信じていたがまちがっていなかった。しかるにいまだ空襲の被害を過少評価しようとする傾向があるのは嘆かわしいことだ。この認識が是正せられないかぎり日本は危しといわねばならぬ。幾百万の精兵を擁していても戦力源が焼かれ破壊されてしまったら兵力が兵力にならぬ。空襲でほろびた国はないというのは前大戦時代の古い戦争学だと思う。ことに日本のような木造家屋の場合この定理は通用せぬ。
敵は近来白昼ゆうゆうと南方洋上に集結し編隊を組み、一時間も経過して侵入してくるが、ずいぶんみくびったやり方だと思う。どうせ都市上空で迎え撃つものなら、なぜ事前に一機でも墜してくれないのだろう。たとえ一トンの爆弾でも無効になるではないか。都市を守る飛行機が一機でもあるなら、なぜそれを侵入径路へふり向けないのだろう。どうもわからぬことが歯がゆい。
ぼくは近ごろ世界の動きというものが少しわかってきたような気がする。
日本がこの戦争で勝っても負けても世界の動きはほとんど変らないと思う。それはおそかれ早かれ共産国と民主国との戦争になるからだ。そのとき日本がもし健在ならば、いやでもおうでもどちらかにつかねばならぬようにされるだろう。自分はどちらでもないということは許されない。もしそんなことをいっていたら両方から攻められて分断されなければならない。それを避けようと思えば国論をいずれか一方に統一して態度をきめなければならぬ。そのためにはあるいは国内戦争がもちあがるかもわからぬ。要するにこの戦争で飛行機の性能と破壊力が頂点に達したため、地球の距離が百分の一に短縮され、短日月に大作戦が可能になった。それで地球上の統一ということがずっと容易になったのだ。そのかわり、現在の日本くらいの程度の生産力では真の意味の独立が困難になってきたのだ。
現在すでに真の独立国は英・米・ソ三国にすぎなくなっている。他の独立国は実は名のみで三つのうちいずれかの国にすがらないかぎり生きて行けなくなっている。
これは大資本の会社がどしどし小資本の会社を吸収するようなもので、現在の戦争はよほどの大生産力がなければやって行けない。したがって小資本の国は独力で戦争ができなくなり、自然大資本国に吸収されるわけだ。
さて民主国と共産国といずれが勝つかはなかなかわからないが、ぼくの想像では結局いつかは共産国が勝つのではないかと思う。そのわけは同じ戦力とすれば一方は思想戦で勝ち味があるだけ強いわけだ。
こうして一つの勢力に統一されればそれでとにかく一応戦争のない世界が実現するわけだ。しかし永久にというのではない。別の大勢力が生れてふたたびこれをひっくりかえすときにはまた戦争がある。しかし次にひっくりかえすやつはさらに新しい思想を持っていなければならぬから、それまでには非常に長い経過が必要になるわけだ。現在までのところ共産主義に対抗するだけの力を持った思想は生れていないし、これから生れるとしてもそれが成長し熟するまでにはすくなくとも百年くらいかかるだろうから、一度統一された世界ではそうちょいちょい戦争は起らないものと考えてよい。
まあこの夢物語りはここでおしまいだがこれが何十年先で当るか、案外近く実現するか、おなぐさみというところだ。
昭和二十年三月十六日 | 底本:「現代日本思想大系 14 芸術の思想」筑摩書房
1964(昭和39)年8月15日発行
入力:土屋隆
校正:染川隆俊
2008年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "001194",
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私は今日までファンについてあまり考えたことがない。なぜならば第一私はファンという言葉が好きになれないのだ。
ファンという言葉が私の頭の中に刻みつけている印象は、私にとつてあまり幸福なものではない。
私は本当のファンがどういうものかを知らない。ただ私が自分の目で見てきたファンというものは不幸にも喧騒にして教養なき群衆にすぎなかつた。
私は残念ながらその人たちを尊敬する気になれなかつた。
これらの人たちを対象として仕事ができるかときかれたら私は返答に窮する。
しかし、それならば自分はいつたい何ものに見せるつもりで写真を作つているのかと反問してみる。
そこで私は努めて自分の仕事の目標を心に描こうと試みる。
しかし、どうしてもそれははつきりと浮び上つて来ないのである。
要するに、それはいわゆるファンというような具体的な存在ではないようである。
もともと私は自分のファンというものをほとんど持つていない。ファンと文通するというようなことも稀有な例に属する。
しかし、だからといつて私は自分の孤独を感じたことはない。
何千人の、あるいは何万人のファンを持つていますと人に数字を挙げて説明のできることははたして幸福だろうか。
零から何万にまで増えてきた数字は、都合によつてまた元の零に減るときがないとはいえないのである。
私は時によつて増えたり減つたりする定めなきものを相手として仕事をする気にはなれないのである。
つまりそこに一人、ここに一人と指して数えられるものは私の目標ではない。
すなわち私の目標は個体としての人間ではなく、全体としての人間性である。
だから私は直接に限られた数のファンとの交渉を持たないかわりに、間接的に無限のファンを持つているのと同じ安心を得ている。
私の持つているこの象徴的なファンは手紙などはくれないが、そのかわり増えたり減つたりは決してしない。
おせじをいつたり、暑中見舞をさしあげたりする必要はなおさらない。
一万、二万と明らかな数字をもつて現わすことは不可能であるがその大きさは無限である。
私が特定のファンを持たず、特定のファンを目標とせず、特定のファンについて何らの思考を費すことなく、しかも何不自由なくその日を送つている理由は右のとおりである。
さてここで問題を別の観点に引きおろして、あらためて見物の質としてのファンを論ずるならば、私は中途半端な、いわゆるファンはあまり感心しない。
私の経験では、軽症映画中毒患者の写真の見方よりも、平素まつたく映画に縁遠い連中の見方の方が純粋でかつ素直である。
そして、こういう連中の批評が実に端的に核心を射抜いていて驚かされることがしばしばである。あるいはまた映画を見て見て見尽した大通の見方もよい。
しかし、我々が最も啓発されるのは、いずれの方面に限らず、およそ一流を極めた人の見方や批評で、これらの人の言の全部が必ずしも肯綮に当るとはいわないがある程度までは必ず傾聴すべき滋味がある。
私の経験からいえば、その反対の場合、すなわち自分の専門外のことを批評した場合、あまりにめちやくちやなことをいう人は決してほんものではない。
少なくとも一つの道の一流は容易に他の道の一流を理解するというのが私の持論である。
さて中途半端な困りものはいわゆるファンである。もしそれ、スターのプロマイドに熱狂し、鼻紙の類に随喜する徒輩にいたつてはただ単に俳優のファンたるにすぎず、これはもはや映画のファンと称することさえ分に過ぎる。事すでに論外に属するのである。(『ムウビイ』昭和十一年一月十四日号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「ムウビイ」
1936(昭和11)年1年14日号
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "043635",
"作品名": "「ファン」について",
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"初出": "「ムウビイ」1936(昭和11)年1月14日号",
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"生年月日": "1900-01-02",
"没年月日": "1946-09-21",
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"底本名1": "新装版 伊丹万作全集2",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
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"校正に使用した版1": "1961(昭和36)年8月20日",
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近ごろの世相は私に精神的呼吸困難を感じさせることが多い。しかし、日本人がもしも本来の大和心というものを正しく身につけているならば、世の中が今のようにコチコチになつてしまうはずはないのである。
たとえば直情径行は大和心の美しい特質の一つであるが、近ごろの世の中のどこを見てもそのようなものはない。
直情径行といえばすぐに私は宇治川の先陣あらそいでおなじみの梶原源太景季を想い出す。
「平家物語」に出てくる人間の数はおびただしいものであるが、それらの全体をつうじてこの源太ほど私の好きな人間はいない。
だれでも知つているとおり、源太は頼朝が秘蔵の名馬生食を懇望したがていよく断られた。そしてそのかわりに生食には少し劣るが、やはり稀代の逸物である磨墨という名馬を与えられた。源太はいつたんは失望したが、しかし生食が出てこぬかぎり、味方の軍勢の中に磨墨以上の名馬はいないので、その点では彼は得意であつた。
源太はある日駿河浮島原で小高い所にのぼり、目の前を行き過ぎるおびただしい馬の流れを見ていた。
どの馬を見ても磨墨ほどの逸物はいないので彼はすつかり気をよくして上機嫌になつていた。するとどうしたことか、いよいよおしまいごろになつてまさしく生食にまぎれもない馬が出て来たのだ。
「馬をも人をもあたりを払つて食ひければ」と書いてあるくらいだから、何しろ手のつけられない悍馬であつたことは想像に難くない。首を反つくりかえらして口には雪のような泡を噛み、怒つた蟷螂のように前肢を挙げ、必死になつて轡にぶら下る雑兵四、五人を引きずるようにして出て来た。
源太は思わず目をこすつた。いくら目をこすつてもこれだけの馬が生食のほかにあるわけがない。
「こらこら、奴! それはだれの馬だ」
「佐々木殿の馬でございます」
「佐々木は三郎か、四郎か」
「四郎高綱殿」
これを聞くと源太は思わずうなつて、
「うーむ、ねつたい!」と言つた。このねつたいがたまらなくいい。正に直情径行の見本のごとき観がある。このねつたいを衆人環視の中ではばからずに言える源太、緋縅か紫裾濃かは知らぬが、ともかくも一方の大将として美々しい鎧兜に威儀を正しながら、地位だの格式だのとけちけちした不純物にいささかもわずらわされることなく平気で天真を流露させることのできる源太。このような源太に対する讃嘆の情を私はどう説明していいかを知らない。
するとそこへ当の佐々木が出て来た。
今まではただねたましいだけであつたが、佐々木の顔を見たとたんに源太は無性に腹が立つてきた。あれほど懇望したのに御大将は自分にはくれなかつた。そして、だれにもやることはできないと言つたその馬を現に四郎がやすやすと手に入れているのはいつたいどうしたことだ。主君に対する恨みと四郎に対する怒りとがごつちやになつて燃え上つた。次第によつては四郎と刺しちがえて死んでやろう。あつぱれものの用にもたつべき侍二人一ぺんに失わせて「鎌倉殿の損とらせまゐらせん」とまで思つた。
「四郎待て!」
「おう、源太か、かけ違つてしばらく逢わなかつたが相変わらず元気そうだな」
「あいさつはあとまわしだ。おぬし生食をいつたいどうして手に入れた」
「ふ、ふむ。これは少々いわくがある」
「いわくとは何だ」
「実はこうだ。我らもかねてから生食はのどから手が出るほど欲しかつたのだ。ところが、一足さきにおぬしがおねだりをして断られたという話を聞いた。お気にいりの源太にさえお許しがなかつたとすれば、我らごときがいかほどお願い申してみたところで所詮むだなことは知れている。といつてこのたびの合戦にしかるべき馬も召し連れず、おめおめ人に手がらを奪われるのは口惜しい。ええままよ! 御勘気をこうむらばこうむれ。手がらの一つも立ててのちにお詫びの申しようもあろうと腹を決め、出陣の夜のどさくさにまぎれて――」
「盗んでのけたか?」
「うむ、盗んでのけた!」
「はははは、なあんだ。そんなことなら我らが一足さきに盗めばよかつた。ははははは――」
もちろんこれは四郎のうそで、彼はちやんと頼朝からもらつてきているのだが、源太のただならぬ顔色を見ると同時にさつそく気転をきかして脚色をしてしまつた。しかし、源太はあくまでも源太だから悪く気をまわしてそれを疑つたりはしない。四郎の一言で今までの低気圧がたちまち雲散霧消して、光風霽月、かんらかんらと朗らかにうち笑つて別れてしまう。まことに男ぼれのする風格である。これほどの源太を、いよいよ先陣あらそいとなると、またもや「馬の腹帯ゆるみて見ゆるぞ」などと一度ならず二度までもだまして平気でいられるとしたら四郎という人間はよほど度しがたい。しかも宇治川の先陣といえば佐々木一人がいい子になつてしまつているが、源太は磨墨のような第二級の馬を宛てがわれながら、実力において優に佐々木を引き離していたのだ。四郎は謀略によつてかろうじて源太に勝つたのであるが、味方に対する謀略などはあまり賞められたものではない。源太にしてもまさか味方の謀略などは予期しなかつただろうから「御親切にありがとう」と感謝しながら腹帯を締めなおしたまでで、これをもつて源太をうすばかのように考えるならば考えるほうがよつぽどどうかしている。
四郎のような抜けめのない利巧な人間は世の中にはありあまつて困るくらいだ。しかし、源太はいない。鉦や太鼓で探しても源太は寥々として虚しい。
いつてみれば源太は万葉調で四郎は新古今調だ。
四郎型が二枚目にしたてられて主人公となる世界においては源太型は常に赤面にしたてられて敵役となるのがきまりだ。中世以降、なかんずく徳川期におよんでその傾向は最も著しい。
このような社会にあつてはすべてにおいて持つてまわつた謎のような表現がとうとばれ、形式だけの儀礼の形骸が重視される。したがつて直情径行は嘲笑と侮蔑の対象でしかなくなる。
こうして一度倒錯した価値観は封建時代からずつと現代にまで根を引いているのであるが、それが本来の大和心からどんなに遠いものかは今さら言うまでもないことである。
次に、近ごろ人の心に余裕を見出すことができなくなつたのが私には何よりも悲しい。それはどんな物質的欠乏よりも惨めだ。心の余裕は物質の窮迫を克服する力を持つている。逆境のどん底に楽天地を発見する力を持つている。砲弾の炸裂する中で空の美しさにうつとりとしたり、こおろぎの声に耳を澄ましたりする余裕のある人は必ず強い人に違いないと思う。逆境のドン底にあつてもしやれや冗談の言えるようになりたい。そして笑つて死にたいと思う。
私は眉間に皺を寄せる競技には参加したくない。必要な時に十分なる緊張を持ち得るものでなくては、そして内面における真の緊張を持ち得るものでなくては本当の余裕は生じ難い。
多分に人に見せるために、絶えず緊張をよそおう人は、内側は案外からつぽであるかもしれない。そしてこのような人に限つて余裕ある心を理解する力がなく、したがつて余裕ある人を見るとその外見だけから判断してただちに不真面目だとか緊張が足りないとかいつて攻撃する。
攻撃される側ではつい世間なみに外面緊張形式を踏襲してあえて逆らわないように心がけるため、余裕の精神はますます視野から亡び去つて行く。こうしてコチコチの息の詰まりそうな精神状態が一世に彌漫してしまうのである。
こういえばある人たちはおそらく眉を逆立てて、今はそんなのんきなことを言つている時期ではないというかもしれない。そして余裕のことなどを論ずるのはもつと別の機会においてこれをなすべし、現在はもはやその余裕の存在を許さないと叫ぶかもしれない。
しかし、私のいうところの余裕はあくまでも豊かな心からのみ生れる余裕のことであつて、客観的情勢によつて現われたり消えたりする安ものの余裕とは話が違うのである。死の瞬間において最も尊厳なる光芒を発揮するていのものである。
そもそも我々の父祖伝来の大和心というものは私が右に述べたような意味における余裕の精神に充ち満ちたものではなかつたか。「風流」といい「みやび」といい「物のあはれ」といい、いずれも余裕の精神のさまざまな現われにほかならぬが、我々の父祖はそれらを決して単なる観念として机上に遊ばせておいたのではなかつた。生活の中に、行動の中に、血液の中にそれらを溶かしこんでいたのだ。それだからこそ政事の中に、風流が出てきたり、合戦の最中にもののあわれが出てきたりしても少しもおかしくないのだ。
多くの軍記合戦の類を通じて我々の父祖たちがいかに堂々と討ちつ討たれつしたか、いかに悠揚と死んで行つたかを知るとき、私は余裕の精神が彼らの死の瞬間までいかにみごとに生き切つていたかを思わずにはいられない。
思うに芸術の修行も要するに自己を鍛錬して、いかなる場合にもぐらつくことのない立派な余裕を築き上げることに尽きるようである。そして芸術の役割とは要するに人々の心に余裕の世界観を植えつけること以外にはなさそうである。(四月二十九日)(『新映画』昭和十九年六月号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「新映画」
1944(昭和19)年6月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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前書
ルネ・クレールに関する一文を求められたのであるが、由来クレールに関してはほとんどもう語り尽された観がある。しかし考えてみると私には別な見方がないでもない。それを書いて見ようというのであるが自分の仕事のことなどを考えると気恥ずかしくてクレール論などは書けないのがほんとうである。今日はひとつ批評家になつて書いてみようと思う。
ルネ・クレールと喜劇
ルネ・クレールについてまつたく何も知らない人から「ルネ・クレールとはどんな人だ」ときかれたならば、私は「非常に喜劇のうまい人だ」と答えるにちがいない。
少しいい方を変えるならば、ルネ・クレールは私に喜劇を見せてくれるただ一人の映画芸術家だともいえる。
正直な話、私のクレール観は以上でおしまいなのであるが、これでやめてしまつたのでは『キネマ旬報』の印刷所がひまで困るだろうから、もう少しルネ・クレールをもてあそんでみるが、それにつけても残念千万なのはルネ・クレールが日本の雑誌を読まないことである。
ルネ・クレールとチャップリン
ルネ・クレールとチャップリンとの比較はいろんな意味で興味がある。
ルネ・クレールの喜劇の最も重大な意味は俳優の手から監督の手へ奪い取つたことにあるのだと私は考えている。
「ル・ミリオン」を見た時に私はそれを痛感した。こういう人に出てこられてはチャップリンももうおしまいだと。
最後の喜劇俳優、チャップリン。最初の喜劇監督、ルネ・クレール。
悲劇的要素で持つている喜劇俳優、チャップリン。喜劇だけで最高の椅子をかち得たクレール。
ゲテ物、チャップリン。本場物、クレール。
世界で一番頑迷なトーキー反対論者、(彼が明治維新に遭遇したら明治三十年ごろまでちよんまげをつけていたにちがいない)チャップリン。世界中で一番はやくトーキーを飼いならした人間、ルネ・クレール。
感傷派代表、チャップリン。理知派代表、クレール。
これでは勝負にならない。
しかし、と諸君はいうだろう。チャップリンはいまだに世界で一番高価な映画を作つているではないか、と。だからしにせほどありがたいものはないというのだ。
ルネ・クレールと諷刺
ルネ・クレールの作品にはパリ下町ものの系列と諷刺ものの系列との二種あることは万人のひとしく認めるところである。
そしてそれらの表現形式は下町ものの場合は比較的リアリズムの色彩を帯び、諷刺ものの場合は比較的象徴主義ないし様式主義的傾向を示すものと大体きまつているようである。
しかして二つの系列のうちでは、諷刺もののほうをクレール自身も得意とするらしく、世間もまた、より高位に取り扱い、より問題視しているようである。事実、彼の仕事がパリ下町ものの系列以外に出なかつたならば、彼は一種の郷土詩人に終つたかもしれない。すなわち公平なところ、彼が一流の地位を獲得したのは一にその諷刺ものの系列によつてであると見てさしつかえなかろう。つまり喜劇によつてである。
元来クレールの喜劇は諷刺あるがゆえに尊しとされているのである。
しかし、少し物事を考えてみたら、いまさらこういうことをいうのははなはだ腑に落ちぬ話である。なぜならば、いまの世の中で諷刺のない喜劇などというものを人が喜んで見てくれるものかどうかを考えてみるがいい。
つまり喜劇に諷刺があるのは、あるべきものがあるべきところにあるというだけの話で別にありがたがるにはおよばんではないかというのである。人を笑わせるだけのことならからだのどこかをくすぐつてもできるのである。芸術だの何だのという大仰な言葉を使つて人さわがせをするにはあたらないのである。問題は諷刺の有無ではない。問題は諷刺の質にある。諷刺の質を決定するものは何かといえば、それは思想にきまつている。ではクレールの思想は?
クレールと思想
最も面にしてかつ倒なる問題に逢着してしまつた。白状すると私にはクレールの思想はわからない。少なくともいままで私の見た彼の作品(日本にきたものは全部見たが。)をつうじては彼の思想はつかめない。彼は何ごともいわないのかあるいは彼にははつきりした思想がないのか、どちらかである。彼は世間のできごとを観察する。そして判断する。こういうことは愚劣だ。あるいはこつけいである。たとえばそれはこういうふうなこつけいに似ている。見たまえ。これが彼らの姿だ。そういつて彼は私たちにこつけいな画面を示す。そこで我々はそれを見て笑う。
クレールのすることはそれだけである。
これも思想だといえば思想なのであろう。なぜならば思想なしには判断もできないから。
しかし、クレールの示したものよりもさらに愚劣なもの、さらにこつけいなものはいくらでもある。
しかしクレールはあえてそれらを指摘しようとはしない。また、彼の指摘するところの愚劣やこつけいは何に原因しているのか、そしてそれらを取り除くにはどうすればいいのか、等々の問題については彼はいつこうに関心を示そうとしない。
もしも思想というものが現われるものなら、それは彼の関心を示さない、これらの部分にこそその姿を現わすはずのものである。したがつて私は彼の思想をどう解釈していいかほとんど手がかりを発見することができないのである。
私がいつかある場所において、クレールの作に現われているのは思想ではなくて趣味だといつたのはこのゆえである。
あれだけ多量の諷刺を通じてなおかつその思想の一端に触れることができないような、そんな諷刺に人々はなぜあれほど大さわぎをするのであろうか。
クレールの本質
私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。
クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。
彼が最もすぐれた喜劇作者であるゆえんは一にこの技巧と機知にかかつている。
彼が持つ精鋭なる武器、斬新なる技巧と鋭角的な機知をさげて立ち現われると我々はそれだけでまず圧倒されてしまう。
技巧と機知を縦横に馳駆する絢爛たる知的遊戯、私はこれをルネ・クレールの本質と考える。
クレールの個々の作品
以上の本質論からいつて彼の技巧と機知が目も綾な喜劇を織り上げた場合に彼の作品は最も完璧な相貌を帯びてくる。
たとえば「ル・ミリオン」である。「幽霊西へ行く」である。
「自由を我等に」「最後の億万長者」のほうを上位に置く人々は、彼の本質を知らぬ人であり、その諷刺を買いかぶつている人であろう。
「自由を我等に」は作の意図と形式との間に重大なる破綻があり、「最後の億万長者」の場合は思想のない諷刺のために息切れがしているのである。ことにあのラストのあたりはつまらぬ落語の下げのようで私の最も好まぬ作品である。作全体の手ざわりもガサツで、絶えずかんなくずの散らばつているオープン・セットを見ている感じが去らないで不愉快であつた。
そこへ行くと「ル・ミリオン」「幽霊西へ行く」の二作は、彼が彼の本領に即して融通無碍に仕事をしているし、形式と内容がぴつたりと合致して寸分のすきもない。完璧なる作品という語に近い。
なお彼の作品に現われた様式美についても論ずる価値があるが、これは別の機会に譲ろう。
(『キネマ旬報』昭和十一年六月二十一日号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「キネマ旬報」
1936(昭和11)年6月21日号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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素姓
中学時代の同窓にNという頭のいい男がいた。海軍少尉のとき、肺を病つて夭折したが、このNの妹のK子が私の妻となつた。
妻の父はトルストイにそつくりの老人で税務署長、村長などを勤め、晩年は晴耕雨読の境涯に入り、漢籍の素養が深かつた。
私の生れは四国のM市で、妻の生れは同じ市の郊外である。そして彼女の生家のある村は、同時に私の亡き母の実家のある村である。だから、私が始めて私の妻を見たのはずいぶんふるいことで、多分彼女が小学校の五年生くらいのときではなかつたかと思う。
健康その他
結婚以来、これという病気はしないが、娘時代肺門淋巴腺を冒されたことがあるので少し過労にわたると、よく「背中が熱くなる」ことを訴える。戦争中は激しい勤労奉仕が多く、ことに私の家では亭主が病んでいるため隣組のおつき合いは残らず妻が一手に引受けねばならず、見ていてはらはらするようなことが多かつた。家の中でどんなむりをしても外へのお義理を欠くまいとする妻は激しい勤労のあとでは決つて二、三日寝込んだ。こんなふうでは今にまいつてしまうぞと思つているうち、妻より先に日本のほうがまいつてしまつた。
身長は五尺二寸ばかり。女としては大がらなほうである。
きりようは――これは褒めても、くさしても私の利益にならない。といつて黙つているのも無責任である。だが――考えてみると妻もすでに四十四歳である。彼女の鬢に霜をおく日もあまり遠い先ではなさそうである。してみれば、私が次のようにいつても、もうだれもわらう人はあるまい。すなわち、「若いころの彼女は、今よりずつとずつと美しかつた」と。
主婦として
まず経済。家計のことはいつさい任してあるが決してじようずなほうではない。といつてむだ費いもしない。ときに亭主に黙つて好きな陶器や家具を買うくらいが関の山である。家計簿はつけたことがない。私がどんなにやかましくいつても頑として受け付けない。そういうことはできない性分らしい。近ごろではこちらが根負けして好きにさせてある。結婚当時の私の定収入は月百円、シナリオを年に二、三本書いて、それが一本二百円くらいの相場だつたから、どうやらやつては行けたが、彼女の衣類が質屋に行つたことも一、二度あつた。昭和八、九年ごろから十三年ごろまでは一番楽な時代で、この間はずつと八百円くらいの月収があつたから、保険をかけ、貯金をし、家具を備え、衣類を買うことができた。
昭和十三年に私が発病してからは彼女の御難時代で、ことに現在では当時の半分しか収入がないうえに、物価が百倍にもなつたため貯金を費い果し、保険を解約して掛金を取りもどしたりしたが、それもほとんどなくなつた。昨年の秋からは、妻にも明らかに栄養失調の徴候が現われ始めた。要するに、現在は妻にとつて結婚以来もつとも苦難の激しい時である。
育児。確かに熱心ではある。しかし、女性の通有性として偏執的な傾向が強く、困ることも多い。勉強などではとかく子供をいじめすぎる。もつともこれはどこの母親も同じらしい。去年の春、子供が潁才教育の試験を受けたときなどは心痛のあまり病人のようになつてしまつたのには驚いた。どうも母親の愛情は父親の愛とは本質的に違うようだ。食糧事情が窮迫してからは、ほかからどんなに説教しても自分が食わないで子供に食わせる。そして結局からだを壊してしまう。理窟ではどうにもならない。
裁縫。きらいである。そのかわり編物は好きらしい。それにミシンがあるので子供のものだけは家で片づいてゆくが、大人のものはよそへ出す。それでいて裁縫がへたではない。一度妻の縫つたものを着ると、他で縫わせたものはとても着られないくらいだ。ただあまり丁寧な仕事をするため、時間がおびただしくかかり肩がこるらしい。
掃除と整理。これはもう極端に偏執的である。たとえば自分の好きな所はピカピカ光るほど磨き上げるが、興味のない所は何年もほこりが積み放しになつている。家の中のある部分は神経病的に整然と物が並び、だれかが彼女のるすにホンの一ミリほど品物を動かしてもすぐに気づいてしまう。そのかわり、いつも手のつけようもないほどむちやくちやにものが突つ込んである所が家の中に一、二カ所は必ずある。
妻のもののしまい方は普通の世間並とは大分違う。普通の人なら大概たんすにしまう品が食器棚にはいつていたり、流しの棚にあるはずのものが冷蔵庫にしまつてあつたりする。だから彼女の不在中にものを探しあてることはほとんど絶望である。探す以上は一応我々の常識と因襲を全部脱ぎ棄てて、白紙にかえつて探さねばならぬが、そんなことは容易にできることではない。次に、彼女の物の置き方、並べ方はことごとく彼女の抱いている美の法則によつて支配されているので、実用上の便宜というものは一切無視される。どんな不便を忍んでも彼女は自分の美を守り通そうとする。ときに私が抗議を申し込んでみてもとうていむだである。
料理。結婚当初の半年くらいは、晩飯の食卓に料理が十品くらい並んでいた。ほかに何もすることがないので、私の働いている間中、晩飯のこしらえばかりやつていたのである。しかし、いつのまにか、だんだん品数が減つて、子供の世話に追われるころには「今日は沢庵だけよ」などということになつてしまつた。その子供も今は手が抜けて、妻はふたたび豪華な食卓を飾りたくてたまらないのであろうが、いかにせん、何も材料がなく、あつても買えなくなつてしまつた。
妻の料理の中で最もうまいのは、何といつても郷土風のちらし寿司である。季節は春に止めを刺すので、材料はたい、にんじん、たけのこ、ふき、さやえんどう、しいたけ、玉子焼、紅しようが、木の芽などである。
洋風のものではフランス料理を二つ三つ聞きかじつて知つている。ただし、おでんと天ぷらだけは亭主のほうが造詣が深い。
趣味
まず衣服であるが、全部和装ばかりで数もごくわずかしかない。洋装は何か妻の空気と合わないような気がする。当人も「私が洋服を着たらモルガンお雪みたいになるでしよう」と言つている。このモルガンお雪というのはたしかに感じが出ている。着物はほとんど全部私が見立てて買つたものばかりだ。もちろんどれも十年も前に買つたものばかりであるが、いま取り出してもまだ渋いようなものが多い。帯は二本か三本しかない。そのうちの一本は私が描いてやつたものである。絵は梅の絵で、右肩に『唐詩選』の句が賛にはいつている。それがちようどお太鼓の所一ぱいに出る。地は黒じゆすで顔料は油絵具のホワイトを少しクリーム色に殺して使い、筆は細い日本筆を用いた。
妻はよほどこの帯が気にいつたとみえて、十年ほど、どこへ行くにもこれ一本で押し通したため、しまいには絵具が剥げて法隆寺の壁画のようになつてきた。それで五、六年前に新しく描き直してやつた。だから今のは二代目である。いつたい、妻は着物はねだらないほうである。着物はかまわないから家具を買つてくれという。好きな家具や調度を磨いたり眺めたりするのが唯一の道楽のようである。
今までに彼女をもつともひきつけたのは宮沢賢治で、今も宮沢賢治一点ばりである。別に芸術価値がどうというのではなく「こんな心の綺麗な人はいない」といつて崇拝しているのである。
その他で一番おもしろがつたのは『シートン動物記』で、これは六冊息もつがずに読んでしまつた。
映画。映画はあまり好きではない。たまに亭主の作品でも出ると見に行くこともあるが、行かないこともある。その他はほとんど見ないようだ。いつか原節子が見舞いに寄つたとき、玄関に出て「どなたですか」ときいたくらいだから、その映画遠いこと推して知るべしである。
行儀
行儀、ことにお作法はむちやである。ねている亭主のところに来て、立つたまま話をする。枕の覆いを洗濯するとき、黙つていきなり私の頭の下から枕を引き抜く。私の頭は不意に三寸ばかり落下する。朝掃除に部屋へはいつて来ると、まずそこらの畳の上にほうきをバタンと投げ出して、いきなりパタパタとはたきをかけ始める。これで娘時代相当にお茶をやつたというのだから、あきれる。そして、彼女の言葉はまたそのお作法に負けないくらいにものすごい。彼女の語彙の中には敬語というものがいたつて乏しい。しかし、来客に対しては何とかごまかして行くが、私と差し向かいになつたら全然もういけない。
私は何とかしてこれを直そうと思い、数年間執念に戦つてみたが、遂に何の効もなく、これも結局こちらが根負けしてしまつた。考えてみると、何とかして妻を自分の思うように変えてみたいという気持ちが私にある間、私の家ではあらそいの絶え間がなかつた。しかし、そのようなことは所詮人間の力でできることではないと悟つてからはむだな努力を抛棄したから、今ではほとんどけんかがなくなつてしまつた。
つまり、亭主というものは、妻をもらうことはできるが、妻を作ることはできないものらしい。
(『りべらる』昭和二十一年四月号) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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明治三十九年の秋だつたと思う。
当時七歳の私は父に連れられて神戸港新開地の掛小屋で活動写真に見いつていた。
天幕のすきまからはいつてくる風にあおられて波のようにうねる映写幕には日露戦争の実況(?)が写つていた。
我々は観客席(といつてもそこは材木と布でしきられた何坪かのじめじめした地面にすぎないのであるが)に立つて押しあいながら見ていた。もちろん私のような子供は一番前まで出て行かぬことには画面を見ることができなかつた。地面は暗いのでよくわからないまでも、足を動かせばみかんの皮やラムネのびんに触れたり、歩こうとすれば大きな雑草の株につまずいたり、およそわびしいかぎりの光景であつたようだ。
幹の細長い木立の中に陣地を構えた野砲兵が敵にむかつて盛んに砲撃をやつている。
一発うつたびに白い煙がぱつと立つ、いきおいで砲車があとずさりをする。砲兵たちは身をかわしてぱつと散る。すぐに集つてきて次の行動に移る。実にチヨコチヨコと小まめによく働いた。とても実際にはああは行くまいと思われるほど、動作の敏捷さが人間ばなれをしているのである。しかし悲しいことにはこのチヨコチヨコとよく働く砲兵たちも、一人二人と次第に斃されて行つて、おしまいにはとうとう一人になつてしまつた。しかしこの最後の一人の働きぶりこそはまさに金鵄勲章的であつた。いま弾丸を運ぶかとみると次の瞬間にはそれを装填していた。そうかと思うと間髪を入れずして射撃手の席に座を占めている。白い煙。砲車の逆行。薬莢の抛擲。弾薬の運搬。ああ。見ていて眼が痛くなるほどの早さである。もうそれは人間業ではない。鬼神が乗り移つて日本のために超スピードの砲撃をやつているのであろう。しかしついにこの鬼神の働きもおわるときがきた。敵の弾丸が砲車のすぐ近くで炸烈し、画面が煙だらけになつたと思つたら、この最後の砲手もその煙の中で棒を倒すように倒れてしまつた。画面には青白き雨の筋が無数に上から下へ走つている。
私の記憶に存する範囲では、私の活動写真傍観史はこの時に始まるようである。
湊川神社の近くに八千代座というのがあつた。(大黒座というのもあつたように思うがどうもはつきりしない。)
やはり同じころ、親戚のものに連れられてそこへ活動写真を見に行つた記憶がある。それは全部西洋の写真ばかりで、そのうちの一つは子供の出る短い物語りであつた。家の入口が高いところにあり、入口から地面まで幅の広い階段が設けられている。階段の一方には丈夫そうな、装飾つきの欄干があつて、女の人や、子供がその欄干に沿うて階段を上下した。その写真について覚えているのはそれだけである。欄干つきの階段がうらやましかつたためかもしれない。
ほかに実写が二つ三つあつた。一つはサンフランシスコかどこかの万国博覧会であろう。大きな人工的な池がある。天よりも高いところから池の水面に達する幅の狭い斜面がこしらえてあり、人の乗つた舟がおそろしい勢いで斜面を滑つてきて池に飛びこむのである。舟が水面に達した瞬間水煙がまつ白く立つて舟と人の運命はどうなつたか判定がつかなくなる。しかしすぐ次の瞬間には水煙の間をつき抜けて舟のへさきが白鳥の首に似た曲線を現わす。やがて何ごともなかつたように舟の男女は笑い興じながら漕いで行く。そしてその時はもう次の舟が水煙を上げているのであつた。この光景は活動写真とは思えないほど生き生きした印象を残している。
次に天女の舞のようなダンスがあつた。これは感じからいうとどうもイタリヤ色が濃厚だつたように思う。美女が身に纏うた大風呂敷のようなものをうち振りうち振り、あたかも自分の肉体の一部であるかのように自由自在にそれを操つて、曲線や曲面を交錯させた不思議な美しさをえがきながら踊るのであるが、その大風呂敷は絶えず次から次へと変化する美しくも妖しき色に染められ、ことにそれが毒々しいばかりの真紅になつたときは、あたかもめらめらと揺れ上るほのおの中で立ち舞つているような奇観を呈した。
一番しまいにはやはり美しくいろどられた目も綾なる花火の実写があつた。
その変幻きわまりない不思議な美しさは私を茫然とさせてしまつた。そしてひたすらこの美しい魔法が永久に終らないことを希望するのであつた。今にも終りはしないかという心配で私の胸は締めつけられるようであつた。そして遂に終りの時がくると絶望的な深い寂しさを感じた。
神戸で見た活動写真の記憶は以上で尽きる。
八歳のとき私は郷里の松山へ帰つた。そしてそこで十八の春まですごした。
松山に常設館というものができたのは私が十三の年であつた。
常設館ができるまでは巡業隊の持つてくる写真を芝居小屋か招魂祭の掛小屋で見ていた。
招魂祭の掛小屋で乃木大将の一代記というのを見た覚えがある。その写真は乃木大将の少年時代からのことが仕組まれてあつて、まだ前髪をつけた乃木大将が淋しい田舎道を歩いていると、大入道や傘の一本足のばけものやその他いろいろのばけものが趣好をこらして入りかわり立ちかわり現われた。乃木大将は新しいばけものが現われるたびにカラカラとうち笑つて「それしきのことに驚く無人(大将の幼名)ではないぞ」という同じせりふを何べんとなくくり返した。もちろんそれは弁士のつたない声色であるが、この年になつてもいまだにその節まわしが耳に残つているところをみると人間の記憶力の気まぐれな選択作用に驚かされる。
そのころ松山には四つの芝居小屋があつた。四つのうち二つは目抜きの場所にあり、そのうち新栄座というのが一流で寿座というのが二流どころであつた。
あとの二つは場末にあつてともに三流であるが、この三流のうちの片方はまつたくはいつたことがないので私は知らない。
知つているのは伊予鉄道の松山駅のすぐ傍にあつた末広座という小屋である。
末広座というのは比較的新しい名前であるらしく、私の祖母などは常に旧名を用いて大西座と呼んでいた。
この小屋は今はなくなつてしまつたが、実に不思議な小屋で、それは駅の傍というよりもむしろまつたく駅の構内にあつた。
舞台と観客席は建物の二階と三階が使用されていて、この小屋には一階がなかつた。
一階にあたるところは駅の引込線がはいつていて、ちようど扉のない倉庫のような体裁を備えており、しかもだれでも通りぬけ自由であつた。そのかわり夜などはまつ暗で線路につまずかないように注意して歩かねばならず、ときによるとまつ暗な中にまつ黒な貨車が引きこんであるのに鼻をぶつけそうになつたり、またある時は壁に沿うて塩だわらが山と積まれ、通るところがなくなつていてめんくらつたりした。
もともとあまり大きくもない駅の構内にあるわけだから、駅の中心からいくらも離れていない。したがつて汽笛の音、蒸気の音、車輪の音、発車のベルの音その他、すべて鉄道事業の経営に付随する各種の音響は遠慮なく劇場の中へ飛びこんできて見物の注意を奪つたから、不幸なこの小屋の見物たちは忠臣蔵の芝居を見ているときでも、自分のからだがプラットフォームの近所にいることをどうしても忘れることができなかつた。
今になつて考えるとこの小屋は、その敷地の位置からおしてあるいは伊予鉄道会社が経営していたのかとも思われるが、万一そうだとするとこの二つの事業の関係はかなり奇妙なものである。
およそ考え得る劇場の位置として、停車場の構内よりも不適当なところはあまり多くあるまいと思われる。最も鋭く、最も現実的な音響を聞かせて、絶えず見物の幻想を破壊しながら芝居や活動を見せようという仕組みになつているのだから、見物の身にしてみればやりきれたわけのものではない。何のことはない、遊興してよい気持になりかけると入りかわり立ちかわり借金取りが現われるようなものである。
はたしてこの劇場はまもなく取り壊されてしまつたが、この小屋で見た写真で記憶に残つているのを拾つてみると「碁盤忠信」、「滝の白糸」、「祐天吉松」などというのが思い出される。
俳優などはまつたくわからない。
たしかにアメリカの写真だと考えられるものもこの小屋ではじめて見た。
白人とアメリカ・インディアンとの間に争闘が行われ、騎馬の追つかけがあり、鉄砲の撃ち合いがあり、まつたく躍りあがるほどおもしろかつた。これが活劇というものを見た最初かもしれない。
この小屋の近所に御堂という変つた苗字の靴屋があつた。私たちは夕方になるとその家へ遊びに行つて八時すぎまで待機の姿勢をとる。八時すぎになるとみなでぞろぞろと小屋の前へやつて行つて下足番のおやじにむかつて運動を開始する。もちろん臨時無料入場認定促進運動である。
ところが妙なことにこの運動はいつも効を奏したので、私はこの小屋だけは金をはらつてはいる必要がなかつた。
いつたいに寂しい小屋でときどき思い出したように蓋を開けるが、一年のうちの大部分は戸が締まつていた。
興行の種類は人形芝居、壮士芝居、活動写真などで、そのほかにしろうと浄瑠璃大会、学術参考的見せ物などをやつているのを見たことがある。
あるとき人形芝居がかかると私の知つている近所の子供が舞台を手伝いに行き始めた。
聞いてみるとその子の父親が実は人形使いなので、ふだんは職人か何か堅気の職業に従事しているのであつた。それにしても、その子供がいつたい何を手伝いに行くのかと思つたら、赤垣源蔵の人形が徳利を置くと、その徳利をじつと持つている役目だという。
なるほど人形芝居は塀のようなものの上で芝居をするのだから、徳利などはいちいちだれかが支えていなければ塀の下に落ちてこわれてしまう勘定である。
私たちはこの話を聞くとたちまち例の運動を起して華々しく徳利の総見をおこなつた。
赤垣源蔵が徳利を置くと黒い布をかぶつた小さいやつが出てきて、徳利を両手に支えた。
顔がわからないのが残念であるが、この黒ん坊があの子供に相違ないのである。
こちらからは見えないがむこうからはよく見えるらしく、注意していると黒ん坊はどうやら布の中で我々を見て笑つているらしいのである。そのためか徳利がしきりに動くので私はたいへん気になつた。
大勢の客が徳利の動くのを見て笑い出したら一大事だと思つたが、だれももはや徳利のことなどは忘れてしまつているとみえて一人も笑うものはなかつた。
二流どころの寿座という小屋では「ジゴマ」の写真を見た。小学校の五年か六年のときである。
駒田好洋という人がこの写真を持つてきて、自分で説明をした。「すこぶる非常に」という言葉をいやになるほどたくさん使用したのを覚えているが、子供心にもこれはわるい趣味だと思つた。
それからのちに「ジゴマ」の本を読み、ポーリン探偵は我らの英雄になつた。
ポーリン探偵はその四角なひたいの上半を覆いかくすような髪のわけ方をしており、得意なときにも困つた時にも人さし指をとがつたあごに持つて行つて、いかにも思慮ぶかそうに上眼を使つて考えた。
ポーリン探偵の助手はニック・カーターである。この人はポーリン探偵より背が高く、やや柔和そうにみえた。我々はポーリン探偵の笑い顔を想像することは困難であつたが、ニック・カーターはすぐに笑つたりじようだんをいつたりしそうであつた。
新馬鹿大将というのと薄馬鹿大将というのと二様の名まえもこの小屋で覚えたが、この両名が別人であつたか、それとも同じ人であつたかいまだに疑問である。
のちに中学校へはいつたとき、運動会の楽隊の稽古をしていた上級生から新馬鹿マーチという名まえを教わつた。なるほど耳になじみのあるその曲を聞くと、私の頭の中で条件反射が行われ、新馬鹿大将の行動があざやかに見えるような気がした。
そのころの弁士の口調を思い出して見ると、ただ新馬鹿大将とはいわないで、新馬鹿大将アンドリューとつづけて呼んでいたようである。
やはり小屋で見た写真で、非常に美しい天然色映画を一本思い出す。
深い深い海の底へ主人公が泳いで行つて、竜宮のような別世界へ到達するのであるが、到達してからのちのできごとについては一つも覚えていない。
ただ深い色をした水の底へ、身をさかさまにした主人公がゆつくりゆつくり泳ぎくだつて行くところだけが不思議に鮮明な画像となつて残つている。
日本の新派の写真も二種類ばかり思い出すことができるが、題名も筋もわからないから人に伝えることはできない。
ただそのうちの一本の写真がラストに近づいたとき、弁士がカメラの位置変更についてあらかじめ観客の注意をうながし、急に視野の範囲が変るが、場面は同一場面で、動作は連続したものであるから誤解のないようにしてもらいたいとくどくどと断つたことを覚えている。
はたして弁士の言葉どおりカットが変るといままで岡の一部を背景にした全身の芝居であつたのが、今度は大ロングになつて岡の全景が現われ、芝居は岡の上下をふくむ範囲において行われるようになつた。
弁士がくどくどと断つたことからおして考えると、その当時はまだこんなふうに芝居の途中でカットの変ることは珍しかつたものとしなければならぬ。
次に市の一流劇場新栄座において見たものをあげると、一番印象の深かつたものは「ユニバース」とかいう変なもので、山崎街道は夕立の光景と弁士がどなると雲が恐ろしい勢いで動き出すのであるがこれは実演と実写と本水を同時に使用したようなものであつたらしいが、どうもよくわからない。
もの言う活動大写真というのも来た。西洋の写真と一緒に怪物のうなり声のようなものがどこかで聞えたように思つたらそれでおしまいであつた。
旧劇では「柳生の二蓋笠」というのをここで見た。ここで見た西洋の写真についてはいつこうに憶えていないが、赤い鶏のマークだけはどうもこの小屋と離して考えられないのが不思議である。常設館ができてのちにも、松之助の「忠臣蔵」と「曽我兄弟」だけはこの小屋で見た。特別興行という意味合のものか、そこらはよくわからない。
これものちの話であるが中学五年のとき実川延一郎が実演でこの小屋にきたので見に行つた。出しものは「肥後の駒下駄」と、「お染久松」、「土蜘蛛」、「輝虎配膳」などで、延一郎は駒平、お染とでつちの早変り、これは人形振り、「輝虎配膳」は他の役者の出しもので延一郎は出なかつた。
この時分の延一郎は眼のよく光る綺麗な男であつたが、自分が使うようになつた延一郎はしわくちやのじいさんで、眼もしよぼしよぼしていた。
そして会うたびに懐しそうに手を握つたり、こちらの肩へ手をかけたりしては「また使うておくれやすや」と言う男であつた。トーキーになつてからはわずかな語数のせりふでもまちがえて何べんとなくやりなおさねばならなかつた。そしてやつとすむと、すぐにやつて来てこちらの膝へもたれ込むようにして「何でどすやろ、何でどすやろ」とまちがえたことをさも心外そうにそう言うのであつた。そんなときにうつかり「齢のせいだよ」などと言うことはどんなに残酷なことになるかわからないので、私はこの善良な老人を慰める言葉に窮してしまい、黙つてさびしく笑うよりしかたがなかつた。
話を元へもどす。
常設館は世界館というのが中学一年のときに始めてでき、つづいてその翌年あたり松山館というのもできた。
世界館の開館のときの写真は松之助の「宮本武蔵」であつた。松之助、関根達発、立花貞二郎などという名まえをこの館で覚えた。松山館では山崎長之輔、木下録三郎、沢村四郎五郎、井上正夫、木下八百子などを覚えた。
西洋物では「名馬天馬」などという写真が松山館に現われた。
松山館の弁士はよく「空はオリーブ色に晴れ渡り絶好の飛行びより」と謡うように言つた。オリーブ色の空というのはいまだによくわからない。
井上の写真はわずかであつたが、翻案物の「地獄谷」というのを憶えている。
自分のすまいの関係から中学三年ごろは松山館のほうを多く見、四年五年ごろは世界館のほうを多く見た。五年のころには松之助の似顔絵が上手になり、友だちなどに見せて得意になつていた。
似顔をよく似せるために私は松之助の写真について顔の各部を細かく分析して研究したが、彼の眼が普通の人々よりも大きいとは認められなかつた。彼の顔の中で普通の人よりも大きいのは口だけであつた。ことに下唇の下に鼓の胴を横にしたような形の筋肉の隆起があつたが、これは松之助を他の人と区別する最も著しい特徴であつた。
こんなつまらぬことを研究していたために、当時の私は知能の発育がよほど遅れたようであつた。中学を終えると、すぐに私は家庭の事情で樺太へ行かねばならなくなつた。
その途次東京に寄つたとき、浅草の電気館で「赤輪」という写真を見た。
その時私は活動写真はこんなに明るいものかと思つて驚いた。いなかの館とは映写の光力が違うし、それに写真が新しいから傷んでいない。おまけに田舎は一、二年は遅れて来るから、それだけの日数に相当する発達過程を飛ばして見せられたことにもなる。ことにあの写真はロケーションが多く、それも快晴ばかりで、実に写真全体がアリゾナあたりの太陽に飽和していた感じがある。いま考えてみてもあんな明るい写真はたくさんなかつたような気がするくらいである。
それから函館か小樽かのいずれかで「獣魂」という写真を見た。そしてもみあげ長きフランシス・フォードという役者を覚えた。
樺太に半年ほどいて東京に来た。ちようどそのころブルー・バード映画の全盛時代がきた。
エラ・フォール、メー・マレー、ロン・チャニー、モンロー・サルスベリー、エディー・ポローとかたかなの名まえを覚えるのがいそがしくなつた。
私は絵描きが志望であつたから東京最初の一年は鉄道省につとめたが、やがてそこをよして少年雑誌の揷絵などをかきながら絵を勉強することにした。
しかし活動はつづいて見ていた。
この時分はピナ・メニケリというイタリヤ女優のファンであつた。芸よりも顔の美しさに圧倒されたのであつた。あんな典型的な美しさと大きさを持つた女優はその後見ない。美しさもあれくらいまで行けば芝居などどうでもよくなつてくる。ただいろいろに動いて、いろいろな角度の美しさを見せてくれればこちらは彫刻を見ているような気持ちで結構たのしめるのである。
私が十九か二十歳のときに松竹が映画事業をはじめ研究生を募集した。ちようどそのころ伊藤という友だちが呉の海軍書記生をやつており、かたわらしろうと芝居に熱中していた。
ゴーリキーの「どん底」を演してナターシャの役か何かをやつたことなどを報告してきて、しきりに演劇のほうへ進みたい意向をもらしていたやさきなので、私は同じことならこれからは映画のほうが有望だと考え、松竹の試験に応募してみたらどうだとすすめてやつた。伊藤はすぐに上京して私の間借りしていた三畳の部屋へやつてきた。
根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。
主人は五十を越した男で、だいぶ頭も薄くなつていたし、体躯も小がらのほうであつたが、それでいて変に悪党悪党した強そうなところのあるおやじであつた。
このおやじは家にいないほうが多く、たまに帰つてくると何もしないでたばこをすつたりひるねをしたりして日を送つた。
いつも猿股と腹巻をしてその上に何か尻までくらいある薄いものを引つかけていた。
話ぶりなどは何かひどく粗野で、そのために一種の滑稽感がありそれがときどき人を笑わせたが本人は決して笑顔を見せなかつた。
それが「何しろ家のかかあのやつときたら――」というような調子で本人を目の前において、その肉体の秘密を私たちにずばずばとしやべつてのけたりするものだから、彼の若い細君はもちろん、聞いているほうでも照れたりあつけに取られたりした。
しかもそんな話を当人は顔の筋一つ動かさずに冷酷な気むずかしい表情とすきまのない呼吸でやるものだから、その場には猥雑な感じなどの介在する余地は全然なくなつて、ただもう部屋中に妖気が立ちこめているような気持ちになつてくるのであつた。
あるとき私は近所の七つくらいの女の子を二時間ばかり借りてきて写生したことがあつたが、その子が帰つてから、どうも少し齢のわりに小ましやくれているという批評が出たとき、このおやじはすぐそれにつづいてあの子供は性的対象として十分可能であると断定した。
「そんなばかなことを」と細君が笑つてうち消そうとすると、おやじは顔色を変えんばかりの勢いで細君をしかりつけ、さらに激しく自分の所信のまちがつていないことを主張した。
およそ、そういうふうに性の問題に関するかぎりこのおやじの態度や考え方にはどこか一般社会の風習や秩序と相いれぬものがあり、しかもその気魄には実際彼が口でいうとおり実行しかねまじき、あるいはすでに実行してきたような切実感があつて聞くものをすさまじく圧倒した。
私はこのおやじに会うまでは性に関する話をかくのごとく露骨にしかもむきになつていささかの臆面もなく話す人を見たことがなかつたし、また、こうまで徹底的に非道徳な態度をとつて安心しきつている人も見たことがなかつたのですつかり驚いてしまつた。
私はこの家にかれこれ半歳以上もいたように思うが、結局しまいまでこのおやじの職業を知ることができなかつたし、また何のために入口にプロペラの破片を飾つておかなければならないのか、その理由を知ることもできなかつた。
さて、伊藤がやつてきた当時の私の部屋には別にもう一人居候がいたので、合計三人を負担して、三畳の部屋はまさにその収容力の極限に達した。
これにはさすがのプロペラおやじも驚いたとみえ、ある日突然二階に上つてきて我々に即時撤退を要求した。そのうち伊藤も試験にパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり、一定の給費を受けて通学するようになつたので、我々は谷中真島町の下宿に移つて別々の部屋におさまつた。
この時分から伊藤は映画脚本の試作を始め、できあがるとまず私たちに読んで聞かせ、それから小山内先生に見てもらつた。
小山内さんの批評はかんばしくないのが常で伊藤はたいがい意気銷沈して帰つてきたようである。しかし伊藤の努力はわりに早くむくいられて、松竹キネマ創立期の写真には彼の脚本が多く用いられた。
松竹キネマ作品の最初の公開が明治座かどこかで行われたときにもむろん、彼の脚色になる写真があつたので私は伊藤といつしよにそれを見に行つた。
私は伊藤との交友二十年の間に、その夜の彼ほど嬉しそうな彼をかつて見たことがない。
かくて我々数人の所有にすぎなかつた伊藤大輔という名まえはその夜から世間の有に帰した。
二十一歳の五月に私は入営をした。(この時分から伊藤は蒲田に移り住んでいたようである。)広島の野砲隊、三カ月の補充兵役である。
入営の前夜、広島の盛り場で見送りにきた父と二人で活動写真を見た。その写真は井上と水谷の「寒椿」である。
入営中も伊藤は筆まめに手紙をくれたが、封筒の中にはいつも、その時々の彼の脚色した写真のポジが何コマか入れてあつた。その当時のポジはみな染色されてあつたので、封筒を逆さまにすると色とりどりのポジがヒラヒラと寝台の毛布の上に舞い落ちるのは私の殺風景な兵営生活にただ一つの色彩であつた。
その翌年にも演習召集で三週間服役したが、それを終つて東京へ出るときはあらかじめ伊藤に依頼していつしよに棲む部屋を借りておいてもらつた。青山学院の近所、少し渋谷の方へ寄つたほうで八畳か十畳の二階であつた。
その時分には研究所はすでに解散して伊藤は松竹キネマ脚本部員となつていたが、当時伊藤の月給は九十円で、しかも仕事は無制限にやらされていた。急ぐものは二、三日で書かされ、「お初地蔵」などはほとんど一晩で書いてしまつた。それで月給以外には一文ももらつていなかつた。
いつぽう私は揷絵のほうで月百円内外の収入はあつたから、二人の生活はさして苦しいはずはなかつたのであるが、使い方がへたなためか、二人ともいつもピイピイいつていた。
この時分に二人で見に行つた館は赤坂帝国館、葵館などがおもで、チャールス・レイあたりのものが記憶に残つている。それから当時の俳優では二人ともフランク・キーナンが好きで、この人の出ている写真はたいがい欠かさず見た。
研究生の中で伊藤が一番親しく交際していた人に淵君というトウ・ダンスのうまい青年がいたが、この人は研究所解散後もよく遊びにきた。その後ずつと音信不通になつているらしいが、今でも伊藤と会うとときどきこの人のうわさが出る。何となく切れあじのよさそうな感じのする人であつた。
それより以前に松竹が研究生たちを歌舞伎の仕出しに使つたことがあつた。伊藤や淵君ももちろん使われた仲間であるが、ある時歌舞伎座で「川中島合戦」をやつたとき雑兵に使われたことがあつた。
そのときの伊藤の話によると、雑兵をやつていて中車の山本勘助に追いこまれるのであるが、中車にカツとにらまれると本当にこわくなつて思わず身がすくむような気がしたそうである。
こんな話は青山の二階へ淵君などが遊びにきたときあたりに聞かされたのではないかと思う。青山の共同生活は半年あまりで解消になつた。伊藤は蒲田へ移り住むことになり私は新宿のほうの親戚へ寄寓することになつたのである。新宿へ移つてから従姉のおともなどをして武蔵野館へよく行つた。
ターザンやキックインをここで見たことを憶えている。当時この館では写真の合間にオーケストラが歌劇の抜萃曲などを必ず一曲演奏することになつていたので、そのころやつと音楽に興味を感じはじめていた私にはそれがたのしみであつた。ここの指揮者は毛谷平吉という人であつた。最近「気まぐれ冠者」という写真を作つてその音楽の吹込みをしたとき大阪から来た楽士の中に混つて毛谷平吉氏がバイオリンを弾いている姿を見かけて、私はむかし懐しい想いをしたことであつたが、同氏の風貌は十数年以前と少しも変つていなかつた。
そうしている間に私は、もつと必死に絵の勉強をする必要を感じてきたのと、死なれては困る友人が郷里で肺病になつて寝ついてしまつたので見舞がてら一まず郷里へ帰る決心をした。
そしてただちにそれを実行した。二十三の年の秋である。それから私は本気に勉強を始めた。勉強に身を打ち込んで始めて私は人生の意味がわかつてきたと同時に、いろいろなものの見方に形がついてきた。それと同時に自分の意見というものが少しずつできて行つた。
そのころから活動写真に対する興味が次第に薄れてきた。自分の生活から活動写真の観賞を全然除外してもさらに苦痛を感じなくなつた。
活動写真にかぎらず、そのほかのもろもろの楽しみを除外することに苦痛を感じなくなつてきた。
ただ、文学から受ける楽しみを除外することだけは最後までできなかつた。
ある夜、私は急に、武者小路氏の「幸福者」という小説を読みたい衝動に駆られた。私は一応この衝動と闘つてみたが遂に勝てなかつた。
せめて一日のばしたいと思つてみたが、それすらもかなわなかつた。
夜ふけの街を古本屋のある町のほうへ急ぎながら私の心の中はくやしさに煮えかえるようであつた。このとき私の心は全く二つに分裂してしまつていた。
「おまえは絵かきではないか。文学が何だ。武者小路が何だ。絵だけで安心ができないのか。何を求めてそんなにがつがつとやせ犬のように、夜までうろつかなければならないのだ」と一つの心は泣きながら叫びつづけた。
それにもかかわらず、一つの心は容赦なく私の身体を動かして古本屋のほうへ追いやつた。
その夜の苦しみは私の一生の悲劇を暗示しているようにみえる。
かくて私は活動写真にはまつたくごぶさたしたままで翌年を迎えた。その年もずつと郷里で絵をかいていたが、五月には肺病の友人が死に、秋になると関東の大震災に驚かされた。
震災の歳の暮れに上京すると、私は初山滋君の住んでいる長崎村が気にいつたので、すぐさま、同君の近所の小さい家を借りて自炊を始めた。
それから三年間、二十七歳の秋まで私はそこで暮したが、この三年間は物質の窮乏に苦しみとおしたので活動写真もほとんど見ていないが、それでも、「罪と罰」、「白痴」、「鉄路の白ばら」をこの間に見た。中でも「罪と罰」をやつたヴィクトル・クマラとかいう人の演技はいまだに強い印象を残している。やはりそのころ池袋の平和館へ何かむしかえしの外国物(「ジゴマ」の再上映?)を見に行つたことがあるが、その折阪妻の「影法師」という写真を見せられた。
この前後数年間に私の見た日本映画はほとんどこの写真一本にすぎない。
こうしているうちに私の生活は一日一日と苦しくなつてきた。二十七の秋にはいよいよ食つて行けなくなつた。絵かきとしての自分を殺すか、人間の自分を殺すか、方法は二つしかなかつた。ちようどそのときやはり同郷の人で絵をやつていた男が、いつしよに松山でおでん屋をやらないかという相談を持ちかけてきた。
金は何とか都合がつくという。死ぬるよりははるかにいい話なので私は喜んで賛成した。
かくて松山の土地に最初のおでん屋が出現した。
このおでん屋は最初は毎日平均二、三十円の売り上げがあつて、うまく行つたが次第にわるくなつてだんだんやつて行けなくなつた。
そのうちいつしよにやつていた友だちが次々と二人ともやめてしまつたので、私は借金といつしよに一番あとに残された。
翌年の夏には困つておでん屋を処分したが、あとにまだ借金が残つた。
かくて私はついにマイナスつきの無一物になつた。そして夏から秋まで、友だちの厄介になつたりしながらぶらぶらしていた。
本来無一物という声がそのころはいつも耳の側で聞えていた。本一冊、銭一銭、もはや自分の所有物というものをこの世の中に見出すことができなかつた。それはさびしいけれどもまことに身も心も軽々としたいい心持ちのものであつた。
いつさいの付属品と装飾を取り去られたのちの正味掛け値なしの自分の姿を冷静に評価する機会を持ち得たことはともかくもありがたいことであつた。
私はけし粒ほどの存在をじつと見つめた。それがいつわりのない自分自身の姿なのであつた。
まことに情ない事実ではあるが、しかしこの発見はやがて私にのんびりとした安心をもたらした。それは、もはやいかなる場合においても自分はこれより小さくはならないし、これより貧しくもならないということがわかつたからであろう。
この付属品なしの自分の姿は、それからのちの私の世界観を正す一つの基準として非常に役立つことになつたのであるが、これらの事実は本稿と直接の関係を持たないからいつさい省略して、さてその年の秋私は伊藤に手紙を出して就職の世話をたのんだ。伊藤とは震災の前年から音信を断つていたので住所もわからない始末である。「京都下加茂日活内」として出したのだから郵便屋さんもあきれたかもしれんが、しかしその手紙は届いたとみえ、伊藤から折返しあたたかい返事がきた。そうしてその十月京都の伊藤の家へ転がりこんだのであるが、その間、つまりおでん屋を開くために松山へ帰つてから、ふたたび松山を去るまでの一年間に私の見た写真が数本ある。
伊藤の「流転」、「忠次旅日記甲州篇」、現代劇で「彼を繞る五人の女」、阪妻の「大義」、右太衛門の「紫頭巾」、片岡千恵蔵の「万華地獄」などである。そうしてそれらの写真によつて、はじめて大河内、岡田時彦、右太衛門、千恵蔵などの諸君の顔を憶えた。
当時大将軍にいた伊藤は私を加えて三人の食客を養つていた。いま千恵プロにいる香川良介、「下郎」の作者中川藤吉の両者と私、それと猫が三匹もいた。
私の志望はこのときはつきりしていなかつた。要するに何とかして自分の力で食えるようになりさえすればよいというのでそれ以外に欲望はなかつた。すると伊藤が脚本を書けといい出した。
脚本など書けといわれたところで、おいそれと書けるものとは思えなかつたが、伊藤がむりに書けというのでしかたなく「花火」というのを書き、またしばらくして「伊達主水」というのを書いた。これはのちに「放浪三昧」と改題した。
伊藤はそれらを見ても別にいいとも悪いともはつきりいわなかつたが大河内君などが遊びにきたとき、私の書いた脚本の筋を話して、「そういう脚本を書く男です」などといつて話していたから、多少は何とか思つているのかなと考えたりした。
そのうち、谷崎十郎という人を主として奈良にプロダクションができたので、伊藤家食客全員はここへ大量輸出をされたから、私も十一月から奈良で自炊生活を始めた。
この伊藤家食客時代にも数種の映画を見ているが、そのおもなるものは伊藤の「下郎」、キング・ヴィダーの「ビッグ・パレード」などであつた。奈良のプロダクションはどうもうまく行かなかつたらしい。私は一カ月ばかり捕手ばかりになつて働いていたが、自動車に乗せられて仕事に行つたことは一度も無かつた。いつも歩かされた。しかし奈良の公園あたりをちよんまげをつけて悠々と歩く気持ちはちよつととぼけていておつなものである。内容はともかくとして形式だけは確かに現代を超越しているのだ。
さすがの樗牛もこの手があることだけは気がつかなかつたにちがいない。
奈良の一カ月間に暇をみて「草鞋」というシナリオを書いた。
のち、監督をやるようになつたとき、第一回に用いたのはこのシナリオである。
奈良のプロダクションは容易に給料をはらつてくれなかつたのでしまいにはみな仕事をやめて、働いた分の給料を待つだけの目的で毎日撮影所へ詰めかけていた。
この間に我々の仲間の若い連中は、何かうまい食物はないかと考えたあげく、鹿を一頭眠らせようという企画を立てた。
さすがの私もこの非合法な案には賛成しかねたので行動隊には加わらなかつたが、いよいよ鹿の肉をあぶる香が聞えてくるという段取りになれば、それから先の行動はどうなつたか、いま考えてもあまり責任は持てない気がする。
若い連中は日本刀の斬れるやつを携えて、何でも二晩か三晩つづけて辻斬りに出かけて行つたが、何度も失敗して遂にあきらめてしまつた。
それでも最後のやつは相当深傷を負わせたらしく、翌朝行つてみたらそこらはたいへんな血であつたそうだ。
十二月の末になるといつしよに自炊していた香川君が台湾ヘ巡業の口ができ、私にもいつしよに行つてみないかという。プロダクションのほうは、もうまつたく見込みがなさそうだし、どう考えても行かないでいる理由が一つもないので私は行くことにした。
台湾巡業は翌年の四月までつづき、その間私は斬られるさむらいや、通行人ばかりになつて舞台の上に身をさらしていたが、演技に関する私の理論はこの間の経験が重要な示唆となつているようである。
台湾巡業中に見た映画は片岡千恵蔵「三日大名」、月形龍之介「道中秘記」、嵐寛寿郎「鬼あざみ」、それから伊藤の「忠次信州血笑篇」など。月形君の写真を見たのはおそらくこのときが最初であろう。格別うまいとは思わなかつたが内輪な芝居で演技にも人がらにも好感が持てた。
台湾から帰途船が瀬戸内海にはいると松の緑など目が覚めるようで、日本はこんなに美しい国だつたのかと驚いた。
伊藤の家へ帰つてみると、もう奈良のプロダクションは消えて跡もなく、そのかわりに日本映画連盟というものが京都双ガ丘に生れ、その中の片岡千恵蔵プロダクションのシナリオ・ライター兼助監督として私がはいることに話が決つていた。
帰るや否や、独立第一回作品のシナリオを一週間くらいで書けという足もとから鳥が立つような話なので私はすくなからずめんくらつたが、それでもとにかく注文の日限に「天下太平記」というものをこねあげて渡したら、大枚百円なりを即金でもらつた。
何しろ台湾巡業中は御難つづきでこづかいもろくにもらえず、文字どおりたばこ一本を奪いあうような生活をつづけてきたので、そのときの百円は実に豪華版であつた。
私はその夜南座へ芝居を見に行き、そこの事務所で百円札を細かくしてもらいながら、その使い道を楽しく胸に描いた。
私の活動写真傍観史はひとまずこれで終る。
これから先はもはや自分の商売だから、なかなかもつて傍観などをしている段ではなくなつてくるのである。
しかし遅かれ早かれ将来においてはふたたび傍観する時がくるはずである。そのときいかなる立場からいかに傍観すべきかということは私にとつてかなり切実な問題たるをうしなわぬ。(昭和十一年十二月八日) | 底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
※拗音、促音の大書きになっている部分は底本通りです。
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2010年11月13日作成
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先生の講義
私は明治二十二年九月に美術学校に入りまして、年は十八歳でした。その時分は入学の月がいまとちがいまして、九月でした。卒業は二十七年になります。
入学したときは、岡倉先生はまだ校長ではなく、大学総長の浜尾新先生が兼ねておりまして、岡倉先生は幹事でした。しかし、学校の実権は岡倉先生がふりまわしておりました。若かったですよ。先生より年上の生徒が幾人かおりました。こどもが二人いるなんてね。
私の時分は、岡倉先生のいちばん若いおもしろいときでしたから、のんびりしたものでした。
横山大観君は、第一期に入学しましたが、ふつう五年で卒業するのを、四年半で卒業しているんです。第一期に入りました生徒は、大学にいるのをやめてきたり、そういう連中がいるものですから、不揃いで教えにくくて、それで試験して横山君ら十人ばかりが半年とばして卒業しました。それが第一期の卒業でした。その次に残された下村観山君だの溝口禎次郎君などが第二期になります。私どもは二年目に入ったけれども第三期になるわけです。
岡倉先生が校長になったのは二十九歳のときでした。講義は日本美術史と西洋美術史をもっておりました。先生原稿を持たないものですから、ときどきでたらめに脱線しちゃう。ところが、その脱線がおもしろくてよかったですね。むしろ先生の講義の美術史なんぞよりよかったですね。
生徒に向って、君らは文化・文政あたりの画家のいろいろ名前を知っているかとか、その時分の画家は本にいっぱい載っているが、大きい字で書かれているのは谷文晁ひとりだ。このたくさんの生徒のなかでだれが文晁になれるか。小さい字になっちゃっても仕方がないから、でかい文晁飛び出しなさい、ということを、美術史の講義のなかで脱線して始終やるんです。
先生が常に言っておったのは、美術というものは模倣はいかんということです。じぶんの創意でやったものでなければ、ほんとうのじぶんが出ていなければ、芸術じゃない、というんです。独創がなければいかん、ということを始終いいました。
私などの組はそのとき先生を非常に尊敬していたものですから、すっかりその気持になりまして、卒業生はじぶんで修めたもので世を渡ったものはあんまりありません。私がこんなで、白浜徴は図画教育を、その他印刷局に入ってお金の型を彫るとか、それから天賞堂へ入って時計の後に彫刻するとか、学校で修めたものをやらないで、じぶんのそういう苦心して工夫したものをやっていました。なかにはこどもの雑誌をやって成功したひともあります。みんなじぶんの持ち分を発揮したわけです。やはり先生が模倣はいかん、といったことが原因になっていると思うんです。
それからシナの旅行の話を美術史の時間にするんです。いたるところ名所へいって、その話をするのですが、どうしても唐や宋あたりの詩を読むような感じになっちゃう。碑文など覚えてきて話のなかへまぜるのが、函谷関を通るときの話だの、揚子江を通った話だの、そういう話です。美術史のなかでおもしろい話をずいぶんしました。
卒業制作のとき
絵のひとにたいへんよかったと思うのは、遂初会という会のあったことです。それは先生がポケットマネーを出して景品を買って、生徒に題を出すんです。その題が、たとえば「明月」という題でも、月を描いてはいけないわけです。そこにあるものを、感じを出さないといかん。そういうような式の会でした。「笛声」という題を出して、ある若い公家さんが広い野原で笛を吹いていたんじゃいけないんです。そんなものをやらんで、笛を吹いていないで笛の感じを出せ、と。……それはずいぶんみんな一所懸命やりまして、下村観山なんぞうまかったですよ。いつもいい賞に入っていました。
それから学校で方々の図案の依頼を受けるんです。それを生徒の課題にして、どんな科でもかまわない。図案科ばかりでなくて、各科にやらせる。学校へ規定を貼り出しまして、賞が出るんです。私もなん度か賞をとったことがあります。それが私ども工芸家になるのに、たいへん役に立っております。石川県へいったり、高等工業で図案の時間を受持って話をすることができたのは、それが働きました。そうしてその答案についてあとで先生が批評するんです。それは非常にためになりました。そんなことを学校でやらせました。
図案のときは、先生も評を聞いていましたが、図案科の主任だった今泉先生がおもに批評しました。
卒業制作についてほかのひとはちょっとやらんことでよかったと思うのは、卒業制作でどういうものを作るかということを岡倉先生のところへ申出て、それについて先生が教えたり批評したりしたことです。私が元禄美人を作るというと、なんでお前はそれを作るのか。私の答えが、元禄時代は江戸の方へ中心の政治勢力が移って、庶民が発達してきた、江戸の文化がおこってきたとか、そういうことに非常に興味をもったからだというと、よかろう、それについてはどんな本を読んだかという。文庫にいって西鶴ものや風俗などに関係あるものを読みました、とかいうでしょう。そうすると、まだこういうものを読め、こういうものを読めと、たとえば「雅遊漫録」を読め、とか教えてくれるんです。それを読みますと非常に役に立ちました。
日本武尊を作る生徒は、東夷征伐のこととか、日本武尊のものに関したことを調べて作るとか、新納が達磨を作るときはいろいろ調べて作ったとか、そういうふうに生徒に対して制作するものと、それについての意図をいろいろ先生が聞き、それについて私どもの気づかんところを指導していく。非常にいいやり方でした。絵の方もみんなそのようでした。
学校の一面
おもしろかったのは、悪い生徒をやっつける、私なんかもきかんもんだからやりましたが――それには理由がある。ある生徒が卒業前に、岡倉先生は能が好きだから、謡を稽古して置こう、と二人で相談している。それを聞いていて、あいつ等は卑劣の徒だからのしちゃおうと、美術協会になにか会のあった晩でした。清水堂の下でめちゃくちゃに殴りつけて、やつ学校へ出られない。それでおじさんが学校の先生なんで、校長のところへ訴えたんですが、たくさんの生徒にぶたれるやつは、なんか悪いことをしているんだろう、ほっておけ、というわけで、そういうおもしろいところがあるんです。
学校では祭日にはかならずお酒を飲ませた。先生と生徒といっしょになってやるんです。祭日にかならずやるんだから。ことに正月には一抱えもある大盃で、それをみんなが飲むんです。年長者から飲みはじめましてずっと廻る。盃に何年何月飲みはじめ誰と書いて、加納さんが最年長者で飲みはじめました。何升か入るんでしょう。一人で持てんから給仕が介添えして飲む。先生は一口ぐらいずつ飲みまして、口をふいて次の先生に譲っていく。生徒は豪傑が総代で出て、頂戴しますといって最初に白井雨山が飲んで、天岡均一が飲んで、天草神来が飲み――あれはうまくなる男でしたが早く死んじゃった。しまいにはやけになって酒を飲んだようで、身体をこわして惜しいことをしました。熊本の男で、快活なおもしろい男だったんですが、生きていたらうまかったでしょう。菱田春草と仲がよかった。それから西郷孤月なんかうまかったですよ。
先生は馬に乗って学校へ来たんです。その馬なるものが後三年絵巻の武者が乗ったあの馬みたいに、漢方の医者の家にあったものをもらってきたといっていましたが、尻尾と胸のところに紫の房が下がっていて、鞍は日本の鞍です。鐙は、日本の鐙がいいけれども、大きくて邪魔でやりにくいと、弟の由三郎さんが朝鮮にいたものだから、朝鮮鐙の半分のやつを取寄せてつけているんです。なにしろふしぎないでたちで、聖徳太子のような制服を着て、夏は大きな麦稈帽子をかぶり、暑くないようにまわりにきれを下げて馬に乗ってくる。口の悪い生徒は、どうも下手な絵描きの描いた馬上の鍾馗だといっていました。太ってね……
先生は背もそうとう高かったです。太っていましたから、二十何貫といっていました。それは立派でしたよ。鳳眼といいますか、目のずっと切れた……。先生は唐服が好きで時々着用したようで、また非常に似合いまして、唐宋時代の文人墨客を髣髴させます。下村観山筆の肖像のとおりです。
先生があるとき、顔全体漆にかぶれてきた。その理由がおもしろいんです。先生、乗馬の鞭を持っているが、凝り屋だからふつうの鞭じゃおもしろくない。それで後三年合戦絵巻にあるような鞭をつくって、学校で漆をぬって、それがかわかないうちに鞭を持ったからかぶれたというんですが、そうじゃないんですよ。その当時は、いまのように厳格に組がなっていませんで、どの科へでも自由にいって遊べたんです。それでいやなやつが参観に来たとふれがまわると、すぐにいっていたずらしたもんです。ところがそのとき、某外国人でなにか非常に傲漫なやつが来て、岡倉先生通訳しながらくるんですが、先生を踏みつけたような態度で生意気だというので、生徒の猛者が教室で漆を焼いたんです。あれを焼くとすぐかぶれちゃいますから、西洋人はかぶれたかどうか知らないけれども、先生がかぶれちゃって、それで鞭のせいだといって、みんなそうでしょうといっていたんですけれども、大笑いだったです。
岡倉先生の乗っていた馬は、楠公の像のモデルにした馬です。その時分後藤貞行が元騎兵の曹長かなんかで、馬に精しいので馬を南部に探しにいったんです。ところがほとんど西洋種になっていて、あの馬がわずかに日本の種が残っているらしいというので、それを買ってきたんです。楠公の像を作りあげてモデルがあいたものだから、おれがもらうというのでもらってきた。
その前は馬に乗っていなかったのですが、はじめは下手でしたよ。危なそうに乗ってくる。しかしだんだんうまくなってきた。それであるとき、私らの若い時分、吉原へ遊びにいった帰りに、明日は日曜日だから、すぐに帰るのはやぼだから、向島の朝桜をみていこうじゃないかというので、千住の方をずっと廻って荒川を下ってきた。そうすると向うから馬に乗ってへんなのがくる。校長だ校長だというんです。どうしよう、うしろへ帰るのも卑怯だし、先生おはようございますといおうじゃないかと、「おはようございます。どちらへいらっしゃいますか」といったら、「うん、花をみるついでに鳥を射ようと思ってきた」と、半弓を持っているんです。馬に乗って射ようというんです。「先生に射たれる鳥がいますか」といったら「あははは」と笑っていっちゃいました。そんなこともありました。なにしろ変っている。馬に乗って鳥を射るというんだから。
慰労会や遠足
学校では、なにか騒ぎがあっていろいろ忙しいようなあと、慰労会があるんです。たとえば学校の記念日なんかのあと、慰労会をかならずやった。その慰労会は、先生の趣向でなかなかこっていました。慰労会の尤なるものは向島の八洲園の大きな庭で園遊会をやった。舞台ができていて、みんなそこで踊ったり騒いだりしたんです。
その趣向が凝っているんです。橋本雅邦の「狂女」、文庫にいまでもあるでしょう。こどもを抱いて石段をあがるところ、岡部覚弥の役で、そいつが狂女になって着物を着て、絵のすがたのとおり、はじめはネンネコヤネンネコヤとやっていて、終りに気狂いになるところをやる。私の「元禄美人」が踊りだして、三味線をつれてきて蔭で弾かせる。それが元禄の頭を結って春雨を踊る。新納の「達磨」それがアホダラ経をやりました。毛布をかぶって達磨さんになってやる。そういうふうな趣向をやるんです。それから学校の腰掛、四角になっている椅子を逆さまにして、行灯にして、四本の脚の回りへ紙を貼って絵を描くんです。その絵がふるっていました。神楽の絵なんです。それを大きな幕で隠してお神楽隠そう(岡倉覚三)。橋本先生は、足もとに烏がいて、先生の似顔が描いてある。福地復一先生は、顔が曲がって股が一の字になってあぐらをかいているんです。(ふぐちまたいち)。川崎千虎なんか、虎が朱で描いてある。牙が竹の葉で(歯は竹朱虎)。みんな生徒が描いたもんですが、下村なんかよく描いたはずです。
それから岡倉先生らしいのは、友だちをいろいろ呼んで、本田種竹だの其他の文墨関係の人がたくさん来ましたし、曲水の宴をやった。食べた弁当のから箱におちょこをのせて、なにか書いて庭の小川に流す。川のふちに寄せて、歌を書くひとも、俳句を書くひともありました。しゃれたことをやりました。
遠足なんかにいっても、なにか趣向をしなければおもしろくないくせがあるんです。猫実の遠足なんかおもしろかった。猫実は行徳の先、隅田川をいけば行徳のならびです。四、五里ありましょう。隅田川の川ふちをずっと伝わって、鵜縄を曳いてボラの小さい時分のイナをとったんです。両方の舟で縄をひいて水の上をひっぱっていくと、鵜がきたと思って魚が逃げるんです。浅いところに網をはっておくと、魚がにげていっていきどころがないんで、飛上って上にはってある網のなかへ入っちゃう。とれるとれる。其夜は土地のお寺に泊り獲物の魚を焼いてたべる。
行くときがよかったですよ。ちょうど朝四時ですから、周囲にまだ朝もやがあって、あんまり趣向がいいのでびっくりしました。舟が五十隻で、二十五隻づつ分けたんです。片方は赤い旗をたてて、片方は白い旗。長い源平の旗みたいなので、両方掛声をかけて舟歌を歌って分乗して朝もやのなかをいくと、そのうちに旭がさしてひらめいている旗しかみえない。源平合戦のような感じがしました。先生そんな趣向をやるんです。
先生が頭をぶたれた話があります。卒業生などが集って校友会という会があって、いろいろの催しをやりました。校友会の名義で学校でお茶だのお花だのの稽古ができたんです。それに撃剣が入っていました。先生ふつうの一刀流じゃ満足しないんです。信州の飯田の撃剣の指南番をしていたひとをつれてきてやったんです。その先生の撃剣がおもしろい。みんなで間抜流といったんですが、受け太刀の人は短い扇をさしたり、小さな木剣を持ったりしているんです。打つ方は長い木剣で、それで頭を打ちにいく。そうすると、ひょいと扇を出す。それでひどいやつは後ろに倒れますよ。いわゆる気合みたいなものでしょう。
それを先生稽古するんです。その指南番は校長に説明して、棒の撃剣じゃない、心の撃剣、心胆を練る撃剣だと。しかし生徒はあきちゃっておもしろくもなんともない。中心を打ちにくると、短いのを目と目の間へひょっとつき出す。向うは倒れちゃう。倒れなくても、木剣をふりあげたままどうにもならない。胸を突けば死んじゃうでしょうね。何流とかいっていましたよ。息子が学校の小使なんです。そのお父さんが来て、腰がまがって、もう七十くらいのおじいさんでしたよ。それで岡倉先生うまくなったというんで、打ってみろというと、体操の先生が、わざわざやったわけでもないけれども、正面を木剣でぶって、岡倉先生泣いちゃった。そんなことがありましたよ。
先生根岸に住んでいまして、根岸会というのがありました。饗庭篁村だの、高橋健三だの、みんなおもしろいひとが入っていまして、幹事が廻り持ちで趣向しまして、そのときお酒をやたらに飲んだらしいんです。友人ですすめたのでしょう、それで禁酒をするという、そのときの手紙を私持っていたんですが、戦災で焼いたのか、どうしたかわからなくなってしまいました。その便䇳がしゃれていましたよ。すみの方に師宣の美人画が、二人ばかり座っているのが印刷してありました。
先生が旅行するときはしじゅう寺内銀治郎がついていた。みんな銀、銀といっているうちに、どんどんうまくなって、たいへんなものになったけれども、それが滑稽なやつで、先生のとりまきで京都へいったんです。それで京都のどこかの風呂へ入ったんでしょう。熱いものだから東京流に羽目を叩いたんです。京都は羽目をはたかんです。はたいちゃいかん、とおこっている。先生も銀も裸で、銀が江戸っ子のどうとかいって風呂のふたを振りあげたもんだから、びっくりして逃げちゃった。銀は後ろを向いて先生此勢はどうですと再三繰返して大笑いだったという。そんな話がありました。しかし銀はそういう江戸前のおもしろい男でしたが、一流の経師屋の親方になって、橋本さんにお世話になったといって、橋本さんの等身大の木像を作って美術院に寄贈した。米原雲海が作ったと思います。よくできておりました。
先生が谷中の初音町にいったのは、学校をやめて美術院のなかに家をもったからです。塩田力蔵君に聞いた話だったか、書斎の前の撞木へふくろうをとまらせて、それを雀がいじめにくるのをにやにや笑ってみていたが、それはじぶんの境遇にひきくらべていたんじゃないか、といっていました。
あるとき先生が塩田氏を夜訪問したことがあるそうです。岡倉先生じゃなければしないな、といっていましたけれども、それは月の晩だったそうです。塩田さんがいなかったものだから、落ちた柿の葉へ、――先生はいつも矢立をもっていましたが――それで「訪君不遇」と書いて、門のところにはさんで帰ったそうです。それで塩田氏は次の日に「反明月為至憾」と書いておいてきた、といっていました。
学校の制服
私が美術学校の制服をはじめてみたのは、美術学校へ第一期に入った連中が、宮城の前で錦の旗を立てて行列したときです。ほんとうの錦です。織紋がついて、縫いとりで東京美術学校と書いてある。長い竿で、宮さん宮さんのあの旗です。あれをたてていったもんだから、神主の学校だとみんないっていた。私もはじめそう思っていたんです。皇典研究所、いまの国学院大学、あれだと思っていた。服はよくみなかったんですけれども、変なものだと思っていた。
私なんか入ったとき、制服をこしらえるからみんな食堂に集って寸法をとれ、というもんですから、どんな制服ができるだろうとみんな楽しんでいった。ところが、外神田の大時計の隣にある大きな葬儀屋の番頭がきて寸法を取っていった。出来てきて着てみてみんながびっくりし、あまり異様なのでおこっちゃった。それを学校の生徒係などがいろいろとなだめ説明するんです。これは例の聖徳太子像、あれによって黒川博士が考案した結構なものだという。なかにはおこって学校を退学する、というものもあった。
あの服を着ていると、目立っておかしくって、そば屋ひとつ入れませんよ。私なんぞ本郷三丁目から通っていたんですが、本郷本富士町の警察の前に大きな牛飯食堂がありました。ちょうど四時ごろ学校の帰りに腹がへっているので入ろうと思うのだけれども、あれを着ているからとびこむこともできない。どうかして食ってやろうじゃないかと、友人と二人で制服をぬぎ、懐へかくして、それで食べたことがありました。みんな大道易者だとか、いろんなことをいった。私なんかが卒業してからあとで、紐にふさのついているようなものを、右から左へかけたのです。七宝焼で丸に美の字の徽章を袵元へ付けました。稲結びの紐は、生徒が縹色で、先生は黒でした。それはちょうど岡倉先生が学校をやめる少し前だったでしょう。
制服の色も、生徒は縹色で、先生は黒でした。岡倉先生なんか、夏は紗の黒の透し紋のある制服を着て、海豹の天平靴をはいて、それで先生は時計に細い金鎖をつけて、首からかけていました。 | 底本:「板谷波山傳」茨城県
1967(昭和42)年3月26日発行
初出:「國華 第八三五號」國華社
1961(昭和36)年10月発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
入力:きりんの手紙
校正:木下聡
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059854",
"作品名": "美術学校時代の岡倉先生",
"作品名読み": "びじゅつがっこうじだいのおかくらせんせい",
"ソート用読み": "ひしゆつかつこうしたいのおかくらせんせい",
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"初出": "「國華 第八三五號」國華社、1961(昭和36)年10月",
"分類番号": "NDC 751",
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"生年月日": "1872-04-10",
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古語に居は気を移すとあるが、居所に依つて気分の異なるは事実である。読書も境に依つて其味が異なるのは主として気分が違ふからで、白昼多忙の際に読むのと、深夜人定まる後に読むのとに相違があり、黄塵万丈の間に読むのと、林泉幽邃の地に読むのとではおのづから異なる味がある。忙中に読んで何等感興を覚えないものを間中に読んで感興を覚えることがあり、得意の時に読んで快とするものを失意の時読んで不快に感ずることもある。人の気分は其の境遇で異なるのみならず、四季朝夕其候其時を異にすれば亦同じきを得ない。随つて読書の味も亦異ならざるを得ないのである。今境に依り書味の異なるものを案じ、八目を選び、之を読書八境といふ。
一 羈旅
二 酔後
三 喪中
四 幽囚
五 陣営
六 病蓐
七 僧院
八 林泉
(一)羈旅は舟車客館其総べてを包羅するのであるが、多くの侶伴のある場合や極めて近距離の旅は別として、大体旅中は沈黙の続く時である。無聊遣る瀬のない時である。シンミリ書物に親しみ得るは此時であらねばならぬ。云ふまでもなく旅中には多くの書籍を携へ得ない。行李に収むるものは僅かに二三に過ぎぬ。書斎などでは多くの書冊が取巻いてゐるから、移り気がして一書に専らなることを得ないが、旅中侶伴となる書物は一二に過ぎないから精読が出来る。亦翫味も出来る。幾十時間に渉る汽車中、幾十日にわたる船中、滞留幾週間にわたる旅舎に於て、煢々孤独で唯友とするは書巻の外に無いから、通常躁急に卒読して何も感じないものを、此場合に於て大いに得る所がある、終生忘れ難い深い印象も此時に得るのである。
(二)酔後は精神が興奮してゐるから、沈着の人でも粗豪となる。勿論細心に書物を熟読するの時ではない。併し会心の書を読んで感興を覚えるのは此時である。支那の酔人は「離騒」を読んで興ずると云ふが、「離騒」にあらずとも詩篇は概ね酔後の好侶伴である。読史古今の治乱を辿るも亦一興であらう。閨房の書も恐らく酔臥の時に適するものであらう。酔後は精神活動し百思湧く時であるから、書を読んで己れの思想を助けるヒントを得ることもある。詩人が酒後に考案を得るのも此故である。亦常よりも著者に同感を寄することもあるが、著者に反感を抱くも亦此時である。
(三)喪中は憂愁悲哀の時で、精神が沈んでゐる。排悶の為めに精神を引立てる書を選んで読むものが多い。亦好んで同じ境地の人の書いたものを読むものもある。概して宗教の書が此場合に適する。謹慎中であるから難解の書物も手に取る気もおこる。併し尤も同情を惹くものは悲哀の書である。通常看過することも此場合には看過することは無い。平生無感覚で読過することも此場合痛切を感ずる。故人の遺稿などを取り出して翫味する機会も此時であらう。故人を偲ぶにはこれ以上の好機は無い。
(四)幽囚は囹圄配所の生活を云ふのである。勿論常事犯で獄に繋がれた場合は例外とする。獄中生活、謫居生活は或る点に於て羈旅と其趣を同じうする。それは眷属と離れて孤独である点にある。羈旅に無くして此れにあるのは憂憤の情の激越であることだ。此の激越の情を和げるのも読書であり、之を一層高めるのも亦読書である。何といふても書物の外には友はない、無聊を慰するものとてはこれより外にはない。古人の書を読んで益を得るのは此時にある。憤慨の余り書物を悪用する例もあるけれども、善用すれば修養を積み人格を養ふ糧となる。古来謫居中に立派な学者になつた人が少なくない。修養を積んで人格を高めた人も少なくない。又憂憤の余りに書いた文章や詩篇で不朽の名誉を博した例も沢山ある。要するに幽囚中の読書ほど身に資するものが無いと言ひ得よう。
(五)陣中の読書は死活の境に立つての読書である。勿論弾丸雨射の間に立つては読書の余地はない。或は長期にわたる籠城、辺塞の衛戍、皆此の範囲に属し、危険はあるにしても読書の余地が無い訳ではない。多くの場合、兵書を講じ軍機軍略の書を読む。実境に臨んで此種の書を読み且つ研究するほど痛切に得失を感ずることは無い。併し必らずしも兵書軍籍には限らない。報国忠君の思想を鼓舞作興するものには歴史あり、人豪伝あり、靖献遺言的の文篇もある。此等の図書は陣中に読んで最も感興を覚えるもので、武人的修養は多く陣中の読書から来るといふも敢て誣言であるまい。
(六)病蓐も亦読書の一境である。苦痛ある疾患若しくは熱に困しむ病は例外だが、否らざる病人で長く臥蓐に余儀なくさるゝ場合に於て、其の慰安となり其の消悶の具となるものは唯読書あるのみだ。平素繁劇の人は斯る場合で無ければ書物に親しむ機会が無い。さるが故に此種の人は病中を楽天地として喜ぶものもある。病中は接客の煩もなく、何等清閑を妨げるものもないから、羈旅以上に読書に耽けることが出来る。多くの場合精神が沈静して自然サブゼクテーヴになつてゐるから、静思熟考も出来、随つて読書に依つて受け入れることも多いので、読書人はたまさか微恙に罹りたいと思ふことすらある。
(七)僧院は一種清寂の境である。仏像を拝し、弁香を嗅ぎ、梵鐘を聞く処におのづから超脱の趣がある。堂宇が高く広く、樹木は欝翠、市塵に遠かり、俗音を絶つてゐるから、読書には尤も此境が適する。古来多くの賢哲が僧院より輩出してゐるのは偶然でない。是の如き処に聖典を読み禅学を修め哲理を講ずるは最もふさはしいとされるが、必らずしも哲学研究の擅場とするにも及ぶまい。飛び離れた世俗の書を何くれとなく読むにも此境地が適してゐる。
(八)林泉も亦読書の一境である。人里遠き山や林に市塵を避け、侘びた草庵を結んだり、或は贅沢を極めた風景地の別荘など皆此の境地に属する。寛いだ気分で読書を為すはかゝる処であらねばならぬ。日夕接客に忙殺され、交際に日も亦足らぬ繁劇の人が静かに読書に親しみ得るは此境が最も適してゐる。或は温泉場を読書の処に選ぶのも、山海の旅館を仮りの住居として夏時暑を避けつゝ読書三昧に入るのも亦同日の談である。連続的に書物を読む必要がある時、著述の為めに書を読む時には、何人も林泉の境を喜ぶ。清閑である外に精神を養ふ自然美の環境が備つてゐるからである。僧院生活に似て、類は乃ち異なつてゐる。
以上八境の外にまだいろ〳〵の境地がある。月明りで書を読んだり、蛍や雪の光りで書を読んだりすることもあれば、隣りの燈光を壁を穿つて拝借しての読書もある。或は厠で書物を読む慣習の人もある。一種の病に罹つて厠に長い時間居ることを余儀なくさるゝ人々などは、特に書物を載せる見台を構へる例もある。西洋ではバス・ブックといふ一種の本も出来てゐて、浴槽に体を浸しつゝ読書する慣習もある。或は釣を垂れつゝの読書、昔は茶臼を碾きながらの読書もあつた。或は人の僕となり主人に随伴し、供待の間に読書をしたり、或は駱駝や牛馬に跨りながらの読書もあつて、数へ来ればいろ〳〵ある。そして其境が異なれば読書の味もおのづから異なつてゐる。取り分け寸陰を惜む上から来る読書は勉強家の為す所で、斯る苦学を蛍雪の二字を形容してゐるが、案外窮苦の読書は暖飽の人の知らない収穫の多いものである。随つて斯る境地の読書は決して閑却すべきでないが、併し較々異例であるから、これらは八境の外に置くことにした。
閣筆に臨んで支那人の読書を頌する詩一篇を掲げる。
富家不用買良田。書中自在千鍾粟。安居不用架高堂。書中自在黄金屋。出門莫恨無人随。書中車馬多如簇。娶妻莫恨無良媒。書中有女顔如玉。(下略)
此詩の如くなれば、読書に拠つて得られないものとては無い。妻子珍宝富貴利達、皆書中に在り、即ち読書は万能である。此の詩意を以て心とすれば、読書ほど楽しいものは無いとも謂へる。 | 底本:「日本の名随筆36 読」作品社
1985(昭和60)年10月25日第1刷発行
1991(平成3)年9月1日第10刷発行
底本の親本:「春城筆語」早稲田大学出版部
1928(昭和3)年8月初版発行
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月12日公開
2004年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003607",
"作品名": "読書八境",
"作品名読み": "どくしょはっきょう",
"ソート用読み": "とくしよはつきよう",
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"姓読みソート用": "いちしま",
"名読みソート用": "しゆんしよう",
"姓ローマ字": "Ichijima",
"名ローマ字": "Syunjo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-03-09",
"没年月日": "1944-04-21",
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"底本名1": "日本の名随筆36 読",
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一
うす穢い兵隊服にズダ袋一つ背負つた恰好の佐太郎が、そこの丘の鼻を廻れば、もう生家が見えるという一本松の田圃路まで来たとき、フト足をとめた。
いち早くただ一人、そこの田圃で代掻をしてる男が、どうも幼な友達の秀治らしかつたからである。
頭の上に来かかつているお日様のもと、馬鍬を中にして馬と人が、泥田のなかをわき目もふらずどう〳〵めぐりしているのを見ていると、佐太郎はふと、ニユーギニヤに渡る前、中支は蕪湖のほとりで舐めた雨季の膝を没する泥路の行軍の苦労を思い出した。
過労で眼を赤くした馬の腹から胸は、自分がビシヤ〳〵はね飛ばす泥が白く乾いていた。ガバ〳〵と音立てて進む馬鍬のあとに、両側から流れ寄つて来る饀みたいな泥の海に掻き残された大きな土塊の島が浮ぶ。馬が近ずくと一旦パツと飛び立つた桜鳥が、直ぐまたその土塊の島に降りて、虫をあさる。
また馬が廻つて来て、桜鳥は飛び立つ。そのあとを、馬鍬にとりついて行く男の上半身シヤツ一枚の蟷螂みたいな痩せぎすな恰好はたしかに秀治にちがいなかつた。
「おー、よく稼ぐな」
内地にたどりついて最初の身近な人間の姿であつた。思わず胸が迫つて来て呼びかけた声を、振りむきもせず一廻りして来た秀治は、顔を上げると同時に唸つた。
「おや、佐太郎――今戻つたか、遅かつたなあ」
しかし、そのまま馬のあとを追つて背中で、
「どこに居た、今まで」
「ニユーギニヤだよ、お前はどこで負けたことを聞いた」
「北海道の帯広だよ、近いからな、直ぐ帰つて来た」
「ほー、そりや、得したなあ」
酔つたように突ツ立つている恰好はモツサリとして顔は真黒にすすけていたが、やつぱり上背のある眼鼻立のキリツとした佐太郎にちがいなかつた。
「田植済んだら、ゆつくり、一杯やろうな、同窓生集つて――」
また後でというように言いすてて、もう背中を向けて行くので、佐太郎は田圃路を歩き出したが、直ぐ次の言葉が追いかけて来た。
「初世ちや、待つているよ」
「う――なんだつて」
出しぬけで何のことかわからなかつたので、立ちどまつて聞き返した。しかし、相手はきこえぬ風に振り向きもせず作業をつづけている。で、佐太郎は再び重い編上靴を運びはじめた。
初世が待つているなんて、そんなことはあるはずがない。それは秀治の思いちがいに相違ないが、すると初世がまだ嫁に行かないでいることは事実なのだ。たしか、今年はもう二十四になるはずなのに。
これと言つて別に思い出す女ももたない佐太郎であつた。時たま胸に浮んで来るのは、初世ぐらいのものであつたが、その初世にしてからが、敗戦の年も暮れに近ずいたある日、ふと指折りかぞえて、初世ももうじき二十三になるのだと気ずいてから後は、もう子供の一人や二人ある他人の妻としてしか考えていなかつた。
それがまだ嫁がずにいると聞いては、全く意外の感に打たれずにはいられなかつた。佐太郎の胸は、永い冬の間かたくとざされていた池の氷が春の陽に解け出したように、フトときめきをおぼえた。
二
父親の源治が神経痛であまり働けないために、佐太郎は農業学校を卒業すると同時に、田圃に下りて働いたが、教壇からもドン〳〵戦地にもつて行かれて教員の不足になやみはじめた学校が、多少でも教育のある者の援助を求めるようになり、佐太郎も村では数少い中等学校の卒業者というので、望まれて隣村の高等小学校に、毎日二、三時間の授業をうけもつようになつた。
その女子の高等二年の教室で、初世はもつとも佐太郎の眼をひきつける頬の紅いボツと眼のうるんだ娘であつた。が、翌る年の三月末の卒業式と同時に、初世は佐太郎の眼の前から姿を消した。それ以来幾月というもの、自転車での学校の行き帰りの路でも、ついぞその姿を見かけることがなく、初世はやがて佐太郎の念頭からきれいに消え去りかけていた。
ところが、その秋の稲刈前の村の神明社の祭に、佐太郎は久しぶりにヒヨツコリ初世の姿を見かけた。初世は同じ年頃の娘たち四、五人連れであつた。佐太郎の方もまた、村の仲間の秀治と友一との三人連れだつた。子供のオモチヤや、小娘たちの喜ぶ千代紙やブローチや手提などを、まばゆくきらびやかに照らし出す夜店のアセチレン灯の光が、わずか半年ほど見なかつただけの初世の姿を、人ちがいかと思わせるほど美しく大人ツぽく見せた。
夜店の人混みの前で、行きちがつたこの男女の二組は、間もなくまた出会つた。行きちがつて、今度はもう会わないだろうと思つていると、またもや出会つた。お神楽の前の人混みで手品や漫才の櫓の下の人群のなかで、また夜店の前で、この二組は不思議に何度も行き会つた。その度に、娘たちが殊更に狼狽の様子を見せたり、誘いかけるように振り返つたりすることで、佐太郎はその娘たちのなかでいちばん姉さん株で引卒者という立場の初世が、わざと出会うように仕組んでいるのではないかと疑いはじめた。実際はその逆で、多少不良性のある秀治が、その一流の小狡さで誰にも気ずかれないようにたくみにみんなを引ツぱり廻しているのだつたが、佐太郎はそのときには気がつかずにいた。
夜店の前で四度目に出会つたとき、秀治たちは露骨に娘たちをからかいはじめた。娘たちはキヤツ〳〵と嬌声を上げながら、暗闇の方に逃げ出したが、その癖遠くへは行かず、いよ〳〵秀治たちを強くそつちに引きつけた。秀治と友一の二人は、間もなく娘たちを大銀杏のかげの暗がりの方に追いかけて行つた。お神楽の笛が、人混みのざわめきの向うで鳴つていた。夜店のアセチレン燈の光が、かすかにとどく銀杏の根もとに、初世は一人仲間からはぐれて、空ろな顔で突ツ立つていた。
「おい、帰ろう――あいつらはもう、どこに行つたかわからないから」
娘たちともつれ合つているだろう仲間に、しびれるようなねたましさを感じていた佐太郎は、思いがけない初世の姿を見出すと同時に、曾てそういうことで揮い起したことのない勇気をふるつて一気にそれだけ言い切つた。声がふるえていた。
何故ツて、それは随分思い切つた申出であつた。三日月の光があるとは言つても、殆ど闇夜に近い暗い遠い夜路を、二人だけで帰ろうというのだつたからである。ほかに連れがあるこのときに、二人だけはぐれて帰るということは、内密な何事かを意味するものでなければならなかつた。
初世はしかし、うなずきはしなかつた。星のように光る眼で、ただまじ〳〵と相手を見た。佐太郎はこんなに強く光る初世の眼を初めて見た気がした。遠くからのアセチレン燈の微光が、初世のオリーブ色の金紗の着物を朝草のように青々と浮き立たせていた。
と言つて、初世は拒みもしなかつた。そのことが、佐太郎を勇気ずけた。
「さあ、行こう」
佐太郎はそうやや上ずつた声で勢いこんで言うと同時に、初世の左の手首をつかんで引ツぱつた。すると、初世は別にさからう風もなく、崩れるように歩きはじめた。佐太郎は手をつかんだまま歩き出した。
思つたよりもボタリと重い女の手だつた。しかし、その重みはシツトリとして何か貴重な値打を感じさせる気持のいい重みであつた。
自分の行動に対して、女が何の抵抗をも示さないと思うと、佐太郎は急におさえがたい興奮を感じた。
「一寸そこで休んで行こう、話したいことがあるんだよ」
神明社の少し先の、左側に林檎畑のあるところに来かかつたとき、佐太郎はグイとその畑の方に女の手をひいた。
「いやだ」
初めて初世は立ちどまつて、上半身を反らせた。しかし、それは抵抗というほどのしぐさではなかつた。
「いいよ、何でもないよ、一寸話したいんだ」
そのまま手を引くと、それ以上さからおうとせず尾いて来た。
もう佐太郎は夢中であつた。興奮でボーツと眼先がかすんで、林檎の梢に鋭鎌のような三日月がかかつているのさえ、ろくに眼に入らなかつた。
枝もたわわな林檎はたいてい袋をかぶつていたが、そうでないのは夜露にぬれてつや〳〵と光つていた。
どこか近くで夜鳥がギヤツと一声鳴いた。
「学校でいちばん好きな生徒であつたよ」
そう言いながら、佐太郎は女の手をひいて一本の林檎の木の根がたに棄ててある林檎箱に腰かけさせた。
つづいて自分も腰をおろしたとき、箱がメリ〳〵とつぶれて、佐太郎はうしろにひつくり返りそうになつた。転ぶのを踏みこたえようとしたとき、やはり同様によろめいていた女に、思わず抱きついていた。
直きに佐太郎は女に最後のあるものを求めていた。
だが、あんなにそれまで従順だつた初世が、ハツキリとそれを拒んだ。そうなると、このごろ田圃に下りてなか〳〵の働き者という評判の初世は、相当に手強くて、佐太郎がよほど乱暴をはたらかないかぎりは、どうにもなりそうでなかつた。
手強くこばまれると、もと〳〵ここまで女をひつぱつて来た自分の大胆さをむしろ不思議に思つていた佐太郎は、急に気弱くなつてしまつた。自分の行為が空恐ろしくなるとともに、女に対する興奮が急に冷却してしまつた。
いつたい初世はどういう気持なのだろうか。翌る日になつても、佐太郎には何が何だかサツパリわからなかつた。これまでのあらゆる場合をそつくり思いかえしてみても、初世が自分をきらつている証拠らしいものは、一つとして思い出せない。それなのに、頑強に最後のものを拒んだ、ほんとに好きなら、あんなに拒むはずがない。と言つても、きらいだという顔をしたこともない。
佐太郎は結局わからなくなつてしまつて、秀治に相談を持ちかけた。
「はツはツは――決つてるじやないか、それは――きらわれたんだよ」
秀治は東京の工作機製作工場に出ていたのを、兄が出征したために、この夏の田植から家に戻つて来て働いていた。その工場の友だちに与太者がかつたものがいたせいか、村に帰つても不良じみたものを時々のぞきこませ、女のことでも問題を起していた。
都会にいた印みたいに、変に陰気な隈どりのある顔をゆがめて、秀治は笑いとばした。
「どうしてだよ、いやな顔一つしたことがないんだよ」
背丈こそ秀治が仰向いて見るほど高くても、キリツとした眉の下の瞳に、まだ子供ツぽい光があふれている佐太郎は、謎でも解くようにその眼をパチ〳〵とまたたいた。
「そりや、女ツてやつはな、いやな奴だからつて、必ずしもいやな顔は見せないさ、自分を誰にでも好かれる女だと思いこみたいのが、女の本性だからな」
「そうかな」
参つたというように、佐太郎は小首をかしげてうなずいた。
なるほどそう言えば、いやなのを無理におさえて素振りに出さないという硬い顔つきをしていた初世の、この間の晩の幾度かの場合を思い出すことができた。
「それほど好かれていない男だつて、そんなことになつたときには大概大丈夫なもんだよ、それが飽くまでも肱鉄砲と来たんだから間違いなくきらわれている証拠だよ、はツはツは」
これと見こんだら、どんな女でもものにしてみせると、つね〴〵豪語している秀治は、そういうつまらない自惚から、女というものをそんな風にかんたんに考えているのだつた。
「はツはツは――あんな者、あつさりあきらめろよ、娘なんて、いくらでもごろ〳〵してるじやないか」
女にかけてはまるでウブな佐太郎は、したたか者といわれる秀治にそんな風にあしらわれると、なるほど女というものはそんなものかと信じこんでしまつた。あきらめるというほど深入りしていたわけではなかつたし、相手が自分をきらつていると思うと、やがて初世という存在は、佐太郎にとつて何等の重大な意味をもたなくなつた。
翌る年の夏、地元の部隊に入隊してやがて出征するときには、もう初世のことなど佐太郎は思い出してもみなかつた。いや、それは正確ではない。思い出しはしても、自分の将来の運命に何等の関係があるものとしては考えなかつたと、言つた方がいい。それはただ、以前に自分の教え子の一人であつた隣村の赤の他人の娘に過ぎなかつた。
三
黄色い煙がたなびいたように青空いつぱいに若葉をひろげた欅の木かげの家は、ヒツソリとして人気がなかつた。
ちようどまもなく田植がはじまるという猫の手も借りたいいそがしいときで、どこの家でも、家族一同田圃に出払つていた。わけても佐太郎の家は、佐太郎の弟妹がみんな小学校に行つているので留守番もないはずだつた。
昨夜雨があつたのか、シツトリと湿つている家の前庭を、三毛猫が音もなく横切つて行つた。
復員兵の多くは佐世保近くの上陸地から自家に電報を打つたが、佐太郎は神経痛で足の不自由な老父をわずらわせる気にならず、何の前触れもしなかつた。だから迎えられないのは当然ではあつたが、しかし途中はいいとして、家に着いても家族の顔がないのには、流石にいい気持ではなかつた。
小学校の同級生である喜一が多分自分より一足先に戦地から帰つているはずの西隣に、佐太郎はズダ袋を背負つたままで行つてみた。だが、そこもまるで人影がなかつた。戸口の土間に入つて行つてみると、暗い厩の閂棒の下から、山羊が一頭、怪訝な顔をのぞかせているだけだつた。
途中はなるべく知つた人の顔を避けるようにして来たのであつたが、こういうことになつてみると、急に誰か家族か身近の者の顔が一刻も早く見たくなつて、佐太郎は家族の者が多分出ているはずの田圃の見える家裏の小高い丘に、駈け上つて行つた。
熊笹を折り敷いて、そこにドツカと腰をおろして、胡桃の枝の間から、下の田圃を眺めやつた。
なるほど、部落の誰彼の姿はそこいらに見えた。が、そこに五、六枚かたまつている佐太郎の家の田圃は、二番掘のまま水もひかない姿でひろがつているだけで、人影は見えなかつた。
と、そのとき、佐太郎は一人の若い女が長い手綱をとつて、馬のあとから作場路をこつちにやつて来るのに気ずいた。馬は間違いなく、佐太郎の家のもう十歳以上になつたはずの前二白の栗毛であつた。馬耕から代掻えと四十日にわたる作業で疲れた馬は、ダラ〳〵と首を垂れた恰好で、作場路から佐太郎の家の屋敷畑の方に入つて来た。
その栗毛の手綱をとつている若い女の姿を、もう一度たしかめるように見やつた佐太郎は、次の瞬間、
――あツ。
と、声に出さずに叫んでいた。それは初世にちがいなかつたからである。
だが、また直ぐに、佐太郎は自分の眼を疑つた。自分の家とは身でも皮でもない赤の他人の隣村の娘である初世が、自分の家の仕事の手伝いに来るはずがない。と言つて、佐太郎の家よりも大きい百姓である初世の家で、初世を日雇稼ぎに出すはずもない。それが、佐太郎の家の栗毛の馬を曳いて、佐太郎の家の方にやつて来たのである。これはいつたい、どうしたことだろう。
佐太郎は焼きつく眼で見守つた。
初世はもうスツカリ大人びている。菅笠のかげの頬は、烈しい作業のせいで火のように紅く炎えている。その黒くうるんだ眼にも変りがない。ただ、その躰つきだけは見ちがえるようにガツシリとしている。途中の小川で洗つて来たらしい栗毛は、背中や腹はきれいになつているが、胸や尻には、代掻えで跳ね上つた泥が白く乾いている。初世の胸許や前垂も泥でよごれていた。
馬をひいた初世の姿は、やがて佐太郎の家のなかに消えた。ヒツソリとしていた家の厩のあたりから、馬草を刻む音がきこえはじめた。
これはいつたいどうしたことだろう。どうも不思議だつた。恐らく初世は、近所の誰かの家に嫁いで来ているか、または仕事の手伝いに来ているかして、近くの田圃に出ている源治から栗毛をひいて行つてくれるように頼まれたというようなことだろう。そうだ、それにちがいない。馬草をやつて直きに家から出て行くにちがいない。
そう考えて、佐太郎は待つた。
ザツ〳〵と馬草を切る音は止んだ。それでも女の姿は家から出て来ない。
三分、四分、五分――ついに佐太郎はしびれをきらして、折り敷いた熊笹から腰を上げた。丘を降りた重い軍靴の音が、家の戸口から薄暗い土間に消えて行つた。
源治たちより一足先に田圃から上つて来た初世は、水屋で昼飯の仕度にかかつていたが、折からの重い靴音を聞いて、戸口の方を振り返つた。
と、初世は狂つたような叫び声を上げた。
「おや――佐太郎さん」
烈しい驚きに圧倒されたその顔は、明らかに佐太郎が考えていたような赤の他人のそれではなかつた。
「やあ、初世ちや――」
佐太郎が言うと同時に、初世は猫にねらわれた鼠みたいに、真ツ直に佐太郎のわきをすりぬけて、表てに駈け出して行つた。
どこに行つたんだろうと、佐太郎は呆気にとられてポカンと突ツ立つていた。急に背中のズダ袋の重みが身にこたえて来た。
上りがまちに荷をおろそうと、そつちに歩み出したときだつた。
「佐太郎、戻つて来たツてか」
狂つたような声が、佐太郎の耳の穴をこじ開けるように響いて来た。それは、まさしく母のタミの声であつた。
タミの後から跛足をひきながらやつて来るのは父親の源治であつた。
源治のあとには、初世の紅い顔がのぞいていた。
「今来たよ」
はじけるようにふくらむ胸をおさえて、思わず知らず唸つた佐太郎の眼に、父母の顔に重つて、初世の紅い顔が焼きついて来た。
四
長男ではあるし他に働き手はないのだから滅多なことには召集は来ないだろうと、高をくくつていた佐太郎を、戦地にもつて行かれた源治は、それからまた一年足らずのうちに、佐太郎が出征したあとに頼んだ若勢(作男)の武三に暇を出さなければならないことになつて、ハタと当惑した。
佐太郎の弟妹はまだ学校で、それが助けになるのは、まだ三年もあとのことであつた。一町五段歩の田圃を、神経痛で半人前も働けない自分一人でやり了せる見込は、源治にはどうしても立たなかつた。タミは病身で苦い頃から田圃には殆ど下りたことがなかつた。
若勢を頼みたくても、男という男がみんな田圃からひツこぬかれて行つてしまつているこのごろ、金の草鞋でさがし廻つてもみつからなかつた。それで、武三をこれまで通りに置いて呉れるよう、父親の竹松に再三再四拝まんばかりに頼んだが、竹松はどうしても首をタテに振らなかつた。
竹松は近く渡満する開拓団に加つて、武三を連れて行くというのであつた。開拓が目的なのではなかつた。そつちに行つている伜に会いたい一心からであつた。
その部隊が内地を発つて以来、しばらく消息を断つていた長男の松太が、牡丹江にいるということが、やはり兵隊で満洲に行つている部落の常次郎の手紙でこのごろ知れた。すると竹松は矢も楯もたまらず、是が非でも伜のいる満洲に渡らなければならないと言いはじめた。その松太のいるところと開拓団の入植するところとは、相当に離れていた。ちよつとやそつとでは行き来の出来るところではないと、竹松の親戚の者も源治もみんな口をそろえて言つたが、竹松はそんなことはテンデ問題にしなかつた。会えなければ会えないでもかまわない。松太のいる同じ満洲に行くことさえできれば満足だ、同じ満洲に松太がいることさえわかれば、それで気が済む、死んでも心残りはないと、頑としてきかなかつた。それだけのことで、あんな遠方に行つてどうすると、竹松の兄弟たちがいくら渡満を思いとまらせようとかかつても、まるで歯が立たなかつた。それで一人では心細いから、武三を連れて行くというのであつた。どうせ大勢の団員のなかに挾まつて行くのだから、武三は置いて行つてもよかろうと言つたが、今度は武三自身が渡満の夢で夢中になつていて、源治の言うことなど全然相手にしなかつた。
源治は途方に暮れた。竹松を罵り、武三をうらんだ。いつたい何でこんな大戦争をしなければならないのか、勝手にただ一人の働き手の佐太郎を、田圃からひツこぬいて掠つて行つた戦争を呪つた。毎日朝から晩まで、来春から田圃をどうするかと歎き暮した。
春野も近づいて、源治はヒヨツコリと耳寄りな話を聞きこんだ。一里ばかり離れた部落の倉治という家で、十六になる幸助という三番目の息子を、若勢に出すと言つているというのであつた。源治は雀躍りした。十六と言えば武三よりも一つ年が若いが、使つているうちに直きに一人前働けるようになる。そんな子供ならば、他にそんなに頼み手もあるまい。これは一つ、是が非でもものにしなければと、源治は早速ビツコ足をひきずるようにして頼みに出かけた。
「幸助のことですか、幸助ならば、先に本家から頼まれています」
「本家ツて――どこの」
「あなたの家の――」
ほかならぬ兄の源太郎が、もう先手を打つていると聞いて、源治は顔をかげらせた。源太郎の家では、長男が早くから樺太に渡つて向うで世帯を持ち、次男は出征、三男の源三郎が田圃を仕付けていたが、つい最近これも召集されて、源太郎はスツカリ戸まどいしていた。
「本家は、何俵出すと言つたかな」
よし、それならば米を余計奮発して、幸助をこつちに取ろうと、源治は身がまえた。
「十俵出すという話でしたよ」
「えツ――十俵」
眼をまわしたが、直ぐに気をとり直した。
「十俵とは大したもんだなあ、が、時世時節で仕様がない、俺はもう一俵つけて、十一俵呉れるから、是非とも俺の方に頼む――なあに、本家ではまた他に頼む口があるべからなあ」
そのあとから源太郎が来て、その上もう一俵出すと言つた。源治も負けずに、最後の踏んばりで、更にその上一俵出すと言つた。だが本家はまたその上に出た。源治はビツコ足をひいて五度も六度も一里余の遠路を通いつづけたが、ついにそのせり合いに敗れ去つた。本家は十六才の子供に、住みこみで年に十四俵の米に作業着一切をもつという前代未聞の高賃銀を約束することで、別家の源治を沈黙させてしまつた。
田圃がスツカリ乾いて、馬耕が差し迫つて来ているというのに、若勢の争奪戦に敗れた源治は、乾大根の尻尾みたいにしなびた顔を、さらに青くして寝こんでしまつた。
その枕もとに、隣村の顔見知りの千代助がヒヨツコリやつて来て、ずんぐりとした膝を折つた。
「なんとだ、いい嫁があるが、貰わないか」
そうだ、働き者の嫁をもらえば、春野は切りぬけられる――源治は思わず枕から首を浮かしたが、直ぐまた落した。嫁をもらう当人の佐太郎がいないのだ。
「貰うにしたつて、戦地に行つてるもの、どうにもならないよ」
「行つてるままでいいツていうのだよ」
枕もとに木の根ツこみたいに坐つた千代助は落着き払つてのんびりと話をすすめた。
「どこの家だ、それは」
「杉淵の清五郎の姉娘だ」
「えツ――清五郎」
隣村の杉淵の清五郎と言えば、一寸した旧家で源治などよりも余計に田をつくつている裕福な家であつた。しかもその姉娘の初世というのは、器量はよいし、よく働くしで評判の娘であつた。それが、もう二十四にもなるというのに、あちこちから持ちかけられる縁談を振り向きもしないということを源治も耳にしていたので、無論佐太郎の嫁にということなど考えてみたことがなかつた。
家の格から言つても源治には望めそうもない相手である上に、当人の佐太郎が家にいもしないのに、初世を嫁に呉れるというのだ。あんな働き者の嫁がもらえたら、もう田圃は心配がいらない。だが、あんまり棚からボタ餅のうまい話に、なんだか狐につままれたような変な気がして、なんと返事していいかまごついた。
「呉れるというなら、貰いもするが、ほんとかよ、ほんとに呉れるツてか」
「誰がわざ〳〵冗談を言いに来るかよ、ほかの家には行かないが、佐太郎さんになら行くとこういう話だ、はツは」
かね〴〵初世の婚期が過ぎるのを心配していた叔父の千代助が、初世に直接あたつて根掘り葉掘りきいてみると、佐太郎の家が働き手がなくて困つているらしいという話だが、あんな家なら嫁に行つて田圃を仕付けてやりたいという、意外な返事であつた。
「本当の話なら、拝んで貰うよ」
源治はムツクリと寝床から起き上つた。それなり、もう再び寝込まなかつた。
善は急げで、話はトン〳〵拍子に運んで、やがて角かくしも重々しい初世は、佐太郎の軍服姿の写真の前で、三々九度の盃を重ねて、直きに源治の家の人となつた。そして三日目からは、もう初世の若々しい姿が、源治の田圃に見出された。真新しい菅笠の真紅なくけ紐をふくらんだ顎にクツキリと食いこませたその姿が、終日家裏の苗代で動いていた。
「源治は仕合せ者だよ、あんないい嫁をもつてな」
村の人々はそういう風に評判した。いくら手不足でも、この村ではまだ女で馬をつかうのは見かけなかつたが、やがて初世は馬耕をやりはじめたからであつた。そうして春野を殆ど一手でこなしてしまつたのだつた。
つづいて田植、除草と、天気のいい日に、手甲手蔽の甲斐々々しさで菅笠のかげに紅い頬をホンノリ匂わせた初世の姿を見かけないことはなかつた。足のわるい源治の姿が、ヒヨツコリ〳〵奴凧みたいに、そういう初世にいつもつきまとつて動いていた。
家では佐太郎の陰膳を据えることを、初世は毎日朝晩欠かしたことがなかつた。
五
明後日から田植にかかるつもりの眼のまわる忙しい日だつたが、作業は休みということになつて、母親のタミと初世の二人は、御馳走ごしらえにいそがしかつた。
自分の陰膳の据えられた仏壇を拝んでから爐ばたの足高膳の前に坐つた佐太郎は、五年ぶりのドブロクの盃を三つ四つ、重ねるうちに、もういい加減酔つてしまつた。
思いがけなく突然生きて戻つて来た長男と、差し向いで盃を重ねていた源治は、やがてゴロリと膳のわきに寝ころがつた佐太郎に向つて、水屋の方にいる初世をチヨイ〳〵と振りかえりながら、言い出した。
「なあ、お前の写真の前で盃事したどもなあ、田植出来したら改めて祝儀するべやなあ、なんぼ金かかつたつて、これだけは一生に一度のことだからなあ」
そう言う源治の圧しの利きすぎた沢庵みたいに皺寄つた眼尻はうつすらと濡れていた。
恋に狂つた蛙の声が一際やかましい夜が来た。昼の間は互いに顔をそむけて素知らぬ風をしていたが、寝床に入ると佐太郎はソツと初世の手をひいた。
「俺の家に来るつもりなら、戦地に出かける前にそう言えばよかつたろう」
「まさか」
「口で言わなくてもさ」
「しましたよ」
荒れてはいるが熱い手が、佐太郎のそれを握り返して来た。
「嘘言え」
「本当ですよ」
「いつ――どこで」
「わからないつて――この人は――そら、草刈に行つたとき百合の花をやつたでしよう」
なるほど、そう言えばそんなことがあつたのを、佐太郎は記憶の底から引ツぱり出した。あの神明社のお祭の少しあと、稲刈にかかる前の山の草刈で、馬の背に刈草をつけての戻り路、佐太郎は途中で自分の家の馬におくれて歩いている初世を追い越した。
初世の手には、何本かの真赤な山百合の花が握られていた。
「きれいだな」
と、思わず振り返つた途端、初世はバタ〳〵と追いかけて来て、黙つて百合の花を差し出した。
「呉れるツてか」
何気なく受けとつて、佐太郎はドン〳〵馬を曳いて行つた。
今になつて考えてみると、なるほど初世はそのとき、何か思つている顔つきであつた。
「そうか〳〵、百合の花なあ」
佐太郎は語尾を長くひつぱつて、深くうなずいた。 | 底本:「賣春婦」村山書店
1956(昭和31)年11月10日発行
入力:大野晋
校正:仙酔ゑびす
2009年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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一月十一日、この日曜日に天気であればきっと浅草へ連れて行くべく、四ッたりの児供等と約束がしてあるので、朝六時の時計が鳴ったと思うと、半窓の障子に薄ら白く縦に筋が見えてきた、窓の下で母人の南手に寝て居った、次の児がひょっと頭をあげ、おとッさん夜があけたよ、そとがあかるくなってきました、今日は浅草へゆくのネイ、そうだ今日はつれてゆくよ、今まで半ねぶりで母の乳房をくちゃくちゃしゃぶって居た末のやつが、ちょっと乳房を放して、おとッちゃん、あたいもいくんだ、あたいも連れていってよ、そうそうおまえもつれてゆくみんなつれてゆく、アタイおもちゃ買って、雪がふったら観音様にとまるよ、幼きもののこの一言は内中の眼をさました。
台所の婆やまでが笑いだし、隣の六畳に祖母と寝て居った、長女と仲なとが一度におっかさん天気はえイの、おッかさんてば、あイ天気はえイよ。
あアうれしいうれしいなア明かるくなった、もう起きよう、おばアさん起きよよう、こんなに明るくなったじゃないか。
祖母は寒いからもう少し寝ていよという、姉も次なも仲なも乳房にとッついているのも、起きるだという、起ようという起してという、大騒ぎになッてきた、婆や、早く着物をあぶってという、まだ火が起りませんから、と少しまってという、早く早くと四人の児供らはかわりがわり呼立てる。
もうこうなっては寝ていようとて寝ていらるるものでない、母なるものが起きる、予も起きる、着物もあぶれたというので、上なが起る次なが起る、仲なのも起る、足袋がないとさわぐ、前掛がないと泣きだす、ウンコーというオシッコーという、さわがしいのせわしいの、それは名状すべからずと云う有様。
手水つかうというが一騒、御膳たべるというが一混難、ようやく八時過ぐる頃に全く朝の事が済んだのである。同勢六人が繰出そうというには支度が容易の事ではない、しかも女の児四人というのであるからなおさら大へんだ、午前中に支度をととのえ、早昼で出かけようというのである。
まず第一に長女の髪をゆう、何がよかろうという事、髪はできぬという、祖母に相談する、何とかいう事に極って出来あがった、それから次なはお下げにゆう、仲なは何、末なは何にて各注文がある、これもまた一騒ぎである、予は奥に新聞を視ている、仲なと末なが、かわるがわる、ひききりなしにやってくる。
おとっさん歩いてゆくの、車で、長崎橋まであるいてそれから車にのるの、浅草には何があるの、観音様の御堂は赤いの、水族館、肴が沢山いる、花やしきちゅうは、象はこわくないの、熊もこわくないの、早くゆきたいなア、おとっさん、おっかさんはまだ髪をゆってくれないよ、いま髪いさんがきておっかさんの髪をゆっているよ、おとっちゃんおとっちゃんおかさんまだアタイに髪ゆってくれないよ、アタイ浅草へいっておもちゃ買って、お汁粉たべる、アタイおっかさんと車にのっていくよ、雪がふれば観音様へとまるよ、イヤおっかさんとねるの、おとっちゃんとねない、アタイおっかさんとねる。
おとっさん早くしないかア、早く着物おきかえよ、お妙ちゃんもめいちゃんも髪ゆうてよ、早くゆこうよう、新聞なんかおよしよ。
髪ができればお白ろいをつけ、着物を着換えるという順序であるが、四人の支度を一人でやる次第じゃで大抵の事ではない、予は着物を着換えたついでに年頭に廻残した一、二軒を済すべく出掛けた、空は曇りなく晴て風もなし誠に長閑な日である、まずよい塩梅だ、同じゆくにも、こういう日にゆけば児供等にも一層面白い事であろうなど考えながら、急ぎ足でかけ廻った、近い所であるから一時間半許で帰ってきた。
定めて児供等が大騒をやって、待かねているだろうと思って、家にはいると意外静かである、日のさし込でる窓の下に祖母が仲なを抱いていた、三人の児等はあんかによってしょげた風をしている、予が帰ったのを見て三人口を揃て、たアちゃんおなかが痛いて。
祖母は浅草へゆくは見合せろという、いま熊胆を飲ませたけれどまア今日はよした方がよかろうという、民児は泣顔あげていまになおるからゆくんだという、流しにいた母もあがってきた、どうしようかという、さすがに三人の児供等も今は強いてゆきたいともいわない、格別の事でもない様だから今によくなるかも知れぬ、まア少し様子を見ようということにした。
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やがて昼飯も済んだが、予は俄にひまがあいてむしろ手持ぶさだという様な塩梅である、奥へ引込で炉の傍らに机を据ボンヤリ坐を占めて見たが、何にやら物を見る気にもならぬ、妻は火を採てきて炉にいれ、釜にも水を張ってきてくれた。
予は庭に置いた梅の盆栽を炉辺に運んで、位置の見計らいなど倔托しながらながめているうち、いつか釜も煮えだしシーチーという音が立ってきた、通口の一枚唐紙を細くあけておとっちゃんと呼んだのは民児であった、オーたア児、もうなおったか、予がこういうと彼はうなずいてホックリをした、蜜柑を一つやろうか、イヤ、ビスケットをやろか、イヤ、そうかそれじゃも少し寝ておいでまた悪くなるといけないから。
少さく愛らしき笑顔は引込んでしまった、まア安心じゃと思うと表手の方で羽根うつ音が頻にきこえる。
(明治三六年・一九〇三) | 底本:「土地の記憶 浅草」岩波現代文庫、岩波書店
2000(平成12)年1月14日第1刷発行
底本の親本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
初出:「心の花 第六卷第二號」大日本歌學會
1903(明治36)年2月5日発行
※「おかさん」と「おっかさん」と「おッかさん」、「おとっさん」と「おとッさん」、「おとっちゃん」と「おとッちゃん」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「左千夫」です。
※初出時の表題は「淺草詣で」です。
※初出誌の誌名は第六卷第一號から第七號は「コゝロノハナ」ですが底本通り「心の花」としました。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2019年3月29日作成
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停車場で釣錢と往復切符と一所に市川桃林案内と云ふ紙を貰つて汽車へのツタ、ポカ〳〵暖い日であつたから三等車はこみ合つて暑かつたが二等車では謠本を廣げて首をふつて居る髯を見うけた。市川で下りて人の跡へ付いて三丁程歩くと直ぐ其處が桃林だ、不規則な道はついて居るが人を入れまいとしつらへた垣根は嚴重で着物の裾に二つ三つかぎざきをせねば桃下の人となるわけには行かぬのである。徑が曲りくねつて居るから見た所が窮屈でごちや〳〵して居るので一向に興が薄ひ樣な心持がする、再び本道へ出ると桃の枝に中山こんにやくをぶらさげ自轉車へ乘つて來る人に逢つた
明治36年4月7日『日本』
署名 クモ生投 | 底本:「左千夫全集 第五卷」岩波書店
1977(昭和52)年4月11日発行
底本の親本:「日本」日本新聞社
1903(明治36)年4月7日
初出:「日本」日本新聞社
1903(明治36)年4月7日
※初出時の署名は「クモ生投」です。
入力:H.YAM
校正:高瀬竜一
2013年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051304",
"作品名": "市川の桃花",
"作品名読み": "いちかわのとうか",
"ソート用読み": "いちかわのとうか",
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"初出": "「日本」日本新聞社、1903(明治36)年4月7日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2013-09-12T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
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"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年4月11日",
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吾郷里九十九里辺では、明治六年に始めて小学校が出来た。其前年は予が九つの年で其時までも予は未だ学文ということに関係しない。毎日々々年配の朋輩と根がらを打ったり、独楽を打ったり、いたずらという板面を仕抜いていた。素裸で村の川や溝へ這入っては、鮒鰌をすくったり、蛙を呑んでいる蛇などを見つけては、尻尾を手づかみにして叩き殺す位なことは、平凡ないたずらの方であった。又たまにはやさしい遊びに楽しかったこともある。少し大きい女の子などにつれられて餅草を摘みにゆく。たんぽぽの花を取ったり、茅花を抜いたり、又桑を摘みに山へつれられて行ってはシドミの花を分けて根についてある実を探したり、夢の様に面白かったことは、何十年という月日を過ぎても記憶に存している。其いたずら童子に失敗的逸事が一つあって、井戸に関した事であるから書いて見よう。
其九つの年の秋も末であった。そろ〳〵寒くなってきたので、野雀などを捕る頃になった。少しずつ貰った小使銭位では、毎日いたずら半分にかける「ハガ」の黐を買うのに足らない。そこで誰に教わるとなしに覚えた黐の製造をやる。其製造というは、小刀で黐の木の皮を脱がし、それを自分の口でかみ摧いては水に洗うのである。腰の弱い黐で、実際役には立たぬのであるが、よくやったものである。小刀、なた、鎌、などは能く持出しては失うので、それらの物が無くなりさえすれば、いたずら童子のわざと極って居った。それで小刀を持出す所を見つかると、忽ち叱られて取返されるが常である。此日は幸に親父が居ないので、早速小刀を持出して黐製造に取掛った。モウ十分かめたので水を釣って洗う順序である。小刀を井戸の桁の上に置いて水を釣ったが釣瓶を漸くの事引摺り上げると、其拍子に小刀はポカンと音して井戸の中へ落て了った。サア大変だ。又貴様小刀を持出して無くしてしまいやがったなどうした何をした。どこへ持っていったと畳懸けて呶鳴りつけられる。運が悪いと頭を一つ位ポカと喰らせられる。そこで児供ながら智を搾って井戸へ落した小刀を採り上げる工夫にかかった。九才の童子が井戸の底へ沈んだ小刀を引上げることは、仁川沖の沈没軍艦を引上げるよりは少し六つかしい位だ。
此井戸というが余り深くない三間とはない深さだ。それから其小刀は素人作の桐の柄がすえてある。しかも比較的太い柄であるから井戸の底で小刀が逆立に立っているだろうと気がついた。それから遂に二間半程ある竹の棹の先に三四尺の糸を結びつけ、其糸の端に古釘の大きいやつをくゝりつけた。此発明竹棹を井戸へ入れて、四五遍廻して引き上げると、大きな鮒か何かを釣った時の様な調子に、小刀の柄の間に糸がからまって上ってきた。自分の考えた通りに苦もなく引き上げられたので児供ながらも其時の嬉しさというものはなかった。小躍りして悦んだことが今に忘れられない。斯の如き奇抜な働きをやっても当時窃にしたことで、人に話してほこりもせず、独無邪気ないたずら童子の頭に記臆された許りであった。
「アシビ」明37・5 | 底本:「作家の自伝102 伊藤左千夫」日本図書センター
2000(平成12)年11月25日初版第1刷発行
底本の親本:「左千夫全集第三卷」春陽堂
1921(大正10)年1月1日発行
初出:「馬醉木 第十一號」根岸短歌会
1904(明治37)年5月5日
※初出時の表題は「井戸に關する記事」です。
※初出時の署名は「樂叟」です。
※「餅」の4画目の「縦棒」が、9画目の「横棒」と交わるところで縦に突き抜けないのは「デザイン差」と見て「餅」で入力しました。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057444",
"作品名": "井戸",
"作品名読み": "いど",
"ソート用読み": "いと",
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"初出": "「馬醉木 第十一號」根岸短歌会、1904(明治37)年5月5日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2017-05-30T00:00:00",
"最終更新日": "2017-03-11T00:00:00",
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"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "作家の自伝102 伊藤左千夫",
"底本出版社名1": "日本図書センター",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年11月25日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年11月25日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年11月25日初版第1刷",
"底本の親本名1": "左千夫全集第三卷",
"底本の親本出版社名1": "春陽堂",
"底本の親本初版発行年1": "1921(大正10)年1月1日",
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潤いのある歌と、味いのある歌と、そこにどういう差があるかと考えて見た。単に詞の上で見るならば、潤いのあるということは、客観的な云い方で味いのあるということは、主観的な云い方であるとも云える。しかし細微に両者の意味を推考して見ると、両者に幾分の相違があるようにも思われる。
味いのある歌であるが、つまらぬ歌であるというような歌があるであろうか。またそれに反して、味いは少しも無いが、歌は面白いというような歌があるであろうか。そういうことが歌の上に疑問として成立つものかどうか。こうも考えて見た。
それで味いはあるがつまらぬ歌だというような歌は有り得ない事であろうと思うことに多くの疑いは起らぬけれど、味いというような感じはないが、何処か面白いというような歌はあるいはあるだろうと思われる。然らばどんな歌が、味いは無くても面白い歌という例歌があるかと云われると、その例歌を上げることは余程六つかしい。その味いのあると云うこと即歌の味いなるものが、具体的には説明の出来ない事柄であるから、甲は味いを感じて味いがあると云っても、乙は味いを感じないから味いが無いと云うことも出来る。こうなると、甲は味いがあるから佳作だと云い、乙は味いは無いが面白いから佳作だと云える訳である。それをまた一面から云うと、甲の味いを感ずるのは何等かの錯覚に基きやしないかと疑うことも出来る。乙の味を感じ得ないのは、あるいは感覚の鈍い為めにその味いを感ずることが出来ないのであろうとも云える。
これが飲食物であるならば、味いがなくてうまいというものは絶対に無いと云えるが、食味の鑑賞と芸術の鑑賞とを全然同感覚に訴える事は出来ないようにも考えられるから、歌の上には味いは無いが面白いことは面白いというような歌があるであろうとも考えられる。芸術が人に与うる興味は、飲食物のそれよりも、更に数層複雑なものであること勿論である以上、味いは無くても面白い歌という歌は有得べく思われる。
こう押詰めて来て見ると、その面白いということ(味いが無くても面白いという面白さ)は正しき芸術的感能に訴えた面白さであるか否か、と云うことだけが疑問として残る訳である。がそれは到底説明し能うべき問題でないような気がするから、結局面白く感ずるのは、その人が何等かの味いに触れるからという、概念的結論に帰着する外無いかも知れない。
極めて漠然とした概念から差別して考えて見ると、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳歌との差別は考えられる。ここに云う味いは、芸術組成上の諸種の要素の、調合融合上から起る味いを云い、要素とは芸術組成上に必要なる、思想材料言語句法の各要素を云うのである。勿論その要素それ自身に、各その味いがあるのであるから以上の如き差別は、仮定の上に概括して云うことであるけれども、大別して云うならば、味いをもって勝ってる佳作と、要素をもって勝ってる佳作と、概括した差別は云うことが出来る訳である。
これを食物に譬えて云えば、諸種の材料を混和した調味と、刺身の如き焼肉の如き、材料その物の味いとの如きものである。人為の勝った味い、自然の勝った味いとの差である。
でこれを云い換えて見ると、情調的の歌は味いをもって勝り、思想的材料的の歌は要素をもって勝ると云えるのである。結局味いという詞の解釈上に起れる仮定の差別に過ぎないので、味いは無くても面白い歌という事は、味いということを、ある意味に極限した上から出た批評に過ぎないのであろう。
こう考えてくると味いのあるという事と潤いのあるという事とは、その意味の内容に殆ど相違は無いように思われる。一寸考えると、潤いのあるという事は味があるというよりは稍狭義に思考せられるが、潤いがあっても味いは無いという事は、想像が出来ない。そうして味いのある歌に潤いが無いということも考えられない。ただ味いの無い佳作という事は容易に想定が出来ないに反し潤いの感じは無くても、佳作はあり得ると無雑作に考えられる。味いと潤いとはこれだけの相違はあるように考えられる。
けれども如何なる塲合に於ても、歌に潤いが無いということをもって、創作上の進歩と認め得るような事は断じて有得ないと考えられる。そうして予は最も潤いのある歌を好むのである。潤いのある歌が何となく嘻しくなづかしい。味いを感じない歌に至っては最う嫌いである。少しその意を進めて云うならば、情調的味いの無い歌には殆ど興味を感ずることが出来ない。ここで断っておくがこの情調という語は、勿論人情の意味ではない。しかし予も自ら潤いの乏しい歌と思うような歌を詠んだ経験は少くない。前号『曼珠沙華』などはそれである。鬱情を散ずるに急なる、情調を湛うるの余裕がなくて出来た歌である。自分の慰安の心よりは、余義ない気持の勝った歌である。そういう心的状態で歌の出来ることは、何人にもあることであろうと思う。されば自分の歌としてその存在を欲して居ても、自分の好きな歌ではない。ある意味に於て、予の最も強く主張する叫びの意味の多い歌であるが、予の好みはその叫びの声が今少し潤いを帯びてありたいのである。
表現の具象が余りに鮮明な歌には、必ず潤いを欠くの弊が伴うのを常とする。自分の好まない歌をなぜ作るかと云う者があるかも知れないが、自分の感想は自分の好きなように許り有得ないから、これは余義ないのである。
刺身と焼肉、それを予は決して嫌ではない。けれども刺身と焼肉が何より美味いという人には、到底真の料理を語ることは出来ない如く、芸術の潤いを感取し得ないような人に詩趣を語ることは出来ないと思ってる。
それに就ても、近頃の『アラヽギ』で予の最も嘻しいのは石原純君の歌である。一月号の『思ひ出』の作も極めて平淡な抒情の内に深い味いのある歌であったが、二月号の『独都より』の作はまた一層面白い歌である。
そういうては失敬であるが、今度の歌は従来の石原君の歌とは頗る趣を異にして居る。従来石原君の歌の多くは、意味の複雑な具象の鮮明な歌であった。従て潤いがあるというような歌は少なかった。
それが今度の歌は、全く面目を異にして居るのである。予の最も好きな淡雅な味いと情調の潤いとが、無雑作な自然な語句の上に現われて居るのである。『思ひ出』の十首は殊に単純で平淡である。何等の巧みもなく、少しも六つかしい意味もなく、ただすらすらと旅情の追懐を歌って居る。こういう歌を大抵の人は、平凡である、稀薄である、素湯を飲むようであると云うのであるが、その淡然たる声調の上に何処ともなく、情緒のにじみが潤い出て居る。少しもこねかえしがないから一読純粋な清浄な感情が味われる。
あらっぽい刺撃の強い趣味の歌とは全くその味いを異にしてるのであるから、読者の方でもこういう歌を味おうとするには、気を静め心を平かにして、最も微細な感能の働きに待たねばならない。
十首の内取立ててどの歌が良いとも云えない。十首の連作を通しての上に、物になずむ親しみの情の淡い気持が、油然として湛うてる。思うに作者も想の動くままに詠み去って、その表現にそういう自覚があった訳ではなかろう。そこが最も尊い処で、その味いも潤いも極めて自然な所以である。
しかしこういう歌は、こういうのが面白いから作って見ようと云って作り得らるる歌ではない。歌の生死の境が真に一分一厘の処にあるのであるから、ほんの一厘の差で乾燥無味に陥って終うのである。
すもゝ実るみなみ独逸のたかき国の中にありといふミユンヘンの町
その語句に於て着想に於て、その題目に於て、何等の巧みも新しみもあるのではない。唯能く統一した一首の声調に、物に親しみなつかしむ気持が現われて居るのである。
人もあらぬ実験室の夜の更けにしづかにひびく装置を聞きぬ
この歌は題目が殊に新しく、着想も面白いが、その題目や着想が淡い情調に融合されて、少しも目立たないで能く単純化が行われて居る。それから『独都より』の「リンデン」の作は、作者も云うてる如く、前の歌の淋しい内にも嬉しい親しみのある情調とは異なり、旅情の淋しさと自然のさびれた淋しみとを独りしみじみと味わってる情調が、一句一句の端にも湛うてる。
リンデンの嫩芽の萌えを見て過ぎしこゝに又来ぬ枯葉落つる日
静かな声、物うげな調子、それを味うて見るべきである。例の如く題目も思想も取立てていう程の事ではなくていて、しかも無限の味いを持ってるのは、一首の声調に作者の淋しい内的情態が、さながらに表現されて居るからである。結句の『枯葉落つる日』この一句これを取離して見れば、ただそれだけのことで、何等作者の独創があるのでなく、唯一句の記号に過ぎない詞であるが、この歌の結句にこの一句を置いて見ると、この平凡な一句が一首全体の上に、非常に淋しい影響と共鳴とを起すのである。この平凡な一句がここに置かれて生きて来るのみでなく、一首全体に統一を促し生命を起すの働きが出て来たのである。作歌に従うものは、この不可説なる、融合統一力の依て起る神意を考うべきである。こういう歌を見て「なんだただそれだけの事じゃないか」などと軽く読過して終うような人には、到底共に詩の生命を語ることは出来ない。
葉の落ちて只黒き幹のぬくぬくとあまた立ちならぶ様のさびしも
初句『葉の落ちて』の極めて自然な詞つきに、はや淋しい声を感ぜられる。第四句第五句なども「あまた立ちたり見るにさびしも」と明晰に云って終えば口調は強くなるけれども、淋しい沈んだ気持は現われない。僅かの相違であるが『あまた立ちならぶ様のさびしも』と詞に淀みのある云い方が自然に作者の心持を現わして居る。是等の歌から受ける興味の程量は読者の嗜好に依て相違のあるべきは勿論であるが、兎に角生命の脈々たる歌であるのだ。
リンデンの枯葉の落つる秋もまたけおもき空は曇りてあるなり
これは前の歌のような感じを得られない歌である。結句『曇りてあるなり』の口調はこの塲合聊か軽快に過ぎると思う。
そぼぬれてせまき歩道のしきいしを一つ一つに踏みて行きけり
以下一連の歌は悉く金玉である。平淡な叙述の内に一道の寂しい情調が漲って居る。
夜眼さめて指針の光れる時計をば枕辺に見る二時にしありき
結句「二時にしありけり」と云わないで『ありき』と留めた処に深い感じがある。この一連の歌は、題目も新しく感じ方も新しい。そうして言外に寂しい情調が、しみ出て居る。そうして作者の心理状態が寂しい内にも漸く落ちついた処に僅かな余裕も窺れる。その自然の動きの現われてるのが、溜らなく嘻しい。
以上四連の歌を通読して見ると、作者の心理状態が時処に従って動揺し変化した自然の跡が歴々として読者の胸に響いてくる。一首一首を詠んでそれぞれ生きた感情に触れ、更に全体を読去って、また全体から受ける共鳴の響きが、暫くの間読者の胸に揺らぐを禁じ得ないのである。
予は是等の歌を、潤いのある歌、味いをもって勝った歌として推奨したい。そうしてまた理想的に成功した連作の歌として称揚したい。
十年以前より連作論を唱えた予は、近日更に連作に就て一論を試みたく思うて居る際に、以上の四連作を得たことは、予に取って非常に嬉しいのである。
大正2年3月『アララギ』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第七卷」岩波書店
1977(昭和52)年6月13日発行
底本の親本:「アララギ 第六卷第三號」アララギ発行所
1913(大正2)年3月1日発行
初出:「アララギ 第六卷第三號」アララギ発行所
1913(大正2)年3月1日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「其」は「その」に、「只」は「ただ」に、「併し」は「しかし」に、「以て」を「もって」に、「茲」を「ここ」に、「此」を「この」に、「之」を「これ」に、「又」を「また」に、「或は」を「あるいは」に、「或」を「ある」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には「指針《はり》」以外の振り仮名は付されていません。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058009",
"作品名": "歌の潤い",
"作品名読み": "うたのうるおい",
"ソート用読み": "うたのうるおい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「アララギ 第六卷第三號」アララギ発行所、1913(大正2)年3月1日",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-07-30T00:00:00",
"最終更新日": "2019-06-28T00:00:00",
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"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
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"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "左千夫全集 第七卷",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年6月13日",
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"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年6月13日",
"底本の親本名1": "アララギ 第六卷第三號",
"底本の親本出版社名1": "アララギ発行所",
"底本の親本初版発行年1": "1913(大正2)年3月1日",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高瀬竜一",
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水田のかぎりなく広い、耕地の奥に、ちょぼちょぼと青い小さなひと村。二十五六戸の農家が、雑木の森の中にほどよく安配されて、いかにもつつましげな静かな小村である。
こう遠くからながめた、わが求名の村は、森のかっこうや家並のようすに多少変わったところもあるように思われるが、子供の時から深く深く刻まれた記憶のだいたいは、目に近くなるにつれて、一々なつかしい悲しいわが生い立った村である。
十年以前まだ両親のあったころは、年に二度や三度は必ず帰省もしたが、なんとなしわが家という気持ちが勝っておったゆえか、来て見たところで格別なつかしい感じもなかった。こうつくづく自分の生まれたこの村を遠くから眺めて、深い感慨にふけるようなこともなかった。
いったい今度来たのも、わざわざではなかった。千葉まで来たついでを利用した思い立ちであったのだ。もっともぜひ墓参りをして帰ろうという気で、こっちへ向かってからは、かねがね聞いた村の変化や兄夫婦のようす、新しくけばけばしかった両親の石塔などについて、きれぎれに連絡も何もない感想が、ただわけもなく頭の中ににぶい回転をはじめたのだ。
汽車をおりて七八町宿形ちをした村をぬけると、広い水田を見わたすたんぼ道へ出て、もう十四五町の前にいつも同じように目にはいるわが村であるが、ちょぼちょぼとしたその小村の森を見いだした時、自分は今までに覚えない心の痛みを感ずるのであった。現実が頼りなくなって来たような、形容のできない寂しさが、ひしひしと身にせまって来た。
何のかんのといってて十年過ぐしてしまった。母が三月になくなり、翌年一月父がなくなった。まだ二三年前のような気がする。そうしてもう十年になるのだ。両親の墓へその当時植えた松や杉は、もう大きくなって人の背丈どころではなかろう。兄はもちろん六十を越してる。兄嫁は五十六だ。自分は兄嫁より十しか若くはない。
こんな事を自分は少しも考える気はなかった。自分は今自分の心が不意に暗いところへ落ち込んで行くのに気づいたけれども、どうすることもできなく、なにかしら非常な強い圧迫のためにさらに暗いところへ押し落とされて行くような気持ちになった。
追われ追われて来た、半生の都会生活。自分は、よほどそれに疲れて来ているのだ。両親はもう十年前にこの村の人ではない。兄夫婦ももう当代の人達ではないのだ。
自分は今もうとうこの村へ帰りたいなどいう考えはないが、自然にも不自然にも変わり果てた、この小村に今さら自分などをいるる余地のないのを寂しく感じずにはおられないのであろう。自分は今そういう明らかな意識をたどって寂しくなったのではない。ただ無性に弱くなった気持ちが、ふと空虚になった胸に押し重なって、疲れと空腹とを一度に迎えたような状態なのだ。
「こりゃおかしい、なぜこんなにいやな気持ちになったんだろう。」こう考えて自分は立ちどまってしまった。そうして胸の鼓動を静めようと考えたわけでもないが、ステッキを両手に突き立て胸を張って深い呼吸をいくたびかついた。
十年前父は八十五でなくなられた。その永眠の時には法華経を読んでいて、声の止んだのを居睡りかと家人にあやまられたと聞いて、ただありがたいことと思ったのみ、これでふたりとも親が亡くなったのだなとは考えながら、かくべつ寂しいとも思わなかった。
自分は親のない寂しさも、きょうこの村へはいりかけて、はじめて深刻に感じたのだ。
「いやこりゃ自分が年をとったせいだな。」こうも考えた。そのうち自分は何か重い重いある物を胸にかかえているような心持がして、そのまま足を運ぶことはできなくなって、自分はなお深い呼吸をいくたびか続けてから、道端にかた寄って水田を見つめつつ畔にしゃがんで見た。
「ひとりでも親があったら、ここらでこんな気持ちになりもしまい。」そんなことを考えた。
「そうだ、まったく親のないせいだろう。」
親のない故郷の寂しさということを自分は今現実に気づいたのだ。しゃがんだ自分はしばらく目をつぶって考えのおもむくままに心をまかせた。
考えてみればなつかしい記憶はたくさんにある。けれどもそれはみななつかしい記憶であって、今のなつかしさではない。そんなことを今考えるのはいやであった。
停車場へ行くらしいふたりの男が来る。後から馬を引いた者も来る。自分は見知った人ででもあるとおかしいと思ったが、立たなかった。
それでも自分はそれに気が変わってたもとから巻きたばこを探った。二三本吸ううちに来た男どもは村の者ではないらしかった。「十二時には少し間があるだろう。」こう思った自分はまだ立つ気にならなかった。
千葉を出る時に寒い風だなと思ったが、気がついて見ると今は少しも風はない。鮮明な玲瑯な、みがきにみがいたような太陽の光、しかもそれが自分ひとりに向かって放射されているように、自分の周囲がまぼしく明るい。
野菊やあざみはまだ青みを持って、黄いろく霜枯れた草の中に生きている。野菊はなお咲こうとしたつぼみがはげしい霜に打たれて腐ったらしく、小さい玉を結んでる。こうして霜にたえて枯れずにおっても、いつまで枯れずにはおれないだろう。霜に痛められるのを待たないで、なぜ早くみずから枯れてしまわないのだろう。そんな事を思ってると、あたりの霜枯れにいく匹もイナゴがしがみついてまだ死なずにいる。自分は一匹のイナゴを手にとって見た。まだ生の力を失わないイナゴは、後足をはってしきりにのがれようとする。しかし放してやっても再びみずから草にとりつく力はないらしかった。「逃げようとしたのは、助かろうとしたのではなく、死を待つさまたげをこばんだのだ。」そう思うと同時に、自由を求めて自己を保とうとするのは、すべての生物の本能的要求かしら、という考えが浮かんだ。自分の過去を考えて見れば。自分の現在も将来もわかるわけだ。寂しい心持ちの起こった時にはじゅうぶん寂しがるべきだ。寂しさを寂しがるところに生の命があじわわれる。草の霜枯れるように死を待つイナゴは寂しいものである。けれども彼は死を待つさまたげをこばむことを知っていた。
自分はもう一つほかのイナゴをとって見た。それも前のと同じように自分の手からのがれようと、ずいぶん強く力を感ずるほど後足をけった。放してやって見ると、やっぱり土に飛びついたまま再び動けるようすもない。しばらく見ていても、さらに動かなかった。自分はもう一度そのイナゴを手にとって見た。格別弱ったようすもなく以前のようにまた後足をけった。自分は今度はそのイナゴを草へとりつかせてやった。すると彼はまさしく再び草にとりついて落ちないだけの生の働きがあった。
自分の欲するままにして死のうとするイナゴを、自分はつくづく尊いと思った。そうして自分は夢の覚めたように立ちあがった。背中の着物がぽかぽか暖かくなっていた。
立ちあがって七八町の先に、再びわが生まれ故郷を眺めなおした時には、もう以前のような心の痛みはなかった。かすかながら気分のどこかにゆるみとうるおいとを感じて、心の底からまだまったく消えうせてしまわなかった、生まれた村のなつかしさと親しさが、自分をすかし慰めるのであった。
自分は疲れたように、空虚になった身を村に向かった。もう耕地には稲を刈り残してある田は一枚も見えなかった。組稲の立ってる畔から、各家に稲をかつぐ人達が、おちこちに四五人も見える。いつも村の入り口から見える、新兵衛のにお場や源三のにお場は、藁におが立ち並んで白く目立って見えた。
だんだん近づくにしたがって村の変わったようすが目にはいって来た。気がついて見ると、新兵衛の大きな茅ぶきの母屋がまる出しになっていた。椎や楠やのごもごもとした森がことごとく切られて、家がはだかになってるのであった。この土地の風習はどんな小さな家でも、一軒の家となれば、かならず多少の森が家のまわりになければならないのだ。で一軒の家が野天に風の吹きさらしになってるのは、非常にみにくいとなってる。「新兵衛の奴もういけなくなったんだな。」と思いながらやって来ると、村の中央にある産土の社もけそけそと寂しくなっている。
自分のなつかしい記憶は、産土には青空を摩してるような古い松が三本あって、自分ら子供のころには「あれがおらほうの産土の社だ。」と隣村の遠くからながめて、子供ながら誇らしく、強い印象に残ってるのだ。それが情けなく、見すぼらしく、雑木がちょぼちょぼと繁っているばかりで、高くもない社殿の棟が雑木の上に露出しているのだ。自分はまた気がおかしくなった。やるせない寂しさが胸にこみあげてきた。
その次に目に立ったのは道路であった。以前は荷馬車などは通わない里道であった道が、蕪雑に落ちつきの悪い県道となっていた。もとの記憶には産土のわきを円曲に曲がって、両端には青い草がきれいにあざみやたんぽぽの花など咲いていた。小さなこの村にふさわしいのであった。
それがどうである、産土の境地の一端をけずって無作法にまっすぐに、しかも広く高く砂利まで敷いてある。むろん良いほうの変化でどうどうたる県道であるといいたいが、昔のその昔からこの村の人々の心のこもってる、美しい詩のような産土が、その新道のために汚され、おびやかされて見る影もなくなっているではないか。したがってなつかしく忘れられないこの小さな村の安静も、この県道のために破壊されてしまっていやしないか。そう思って見ると、県道の左右についてる、おのおのの家に通う小路の見すぼらしさ。藁くずなど、踏み散らしじくじく湿っていて、年じゅうぬかるみの絶えないような低湿な小路である。自分らの子供のころに、たこを飛ばし根がらを打って走りまわった時には、もっときれいにかわいておった。確かにきれいであった。
自分は悵然として産土の前に立ちどまった。そうして思いにたえられなくなって社の中へはいった。中でしばらくたばこでも吸って休んで行こうと思ったのである。
物心覚えてから十八までの間、休日といえばたいていは多くの友達とここへ遊びに来たのだ。その中には今は忘れられない女の友達も二三人はあった。もっと樹木が多くて夏は涼しく、むろんもっときれいであった。
じつに意外である。鳥居のまわりから、草ぼうぼうと生えてる。宮の前にはさすがに草は生えていないが、落葉で埋まるばかりになってる。「今の村の子供達は、もうこの社などで遊ばないのかしら。」自分はこうも思った。
松は三本とも大きい切り株ばかり残ってるが、かねて覚えのある太い根に腰をおろして、二三本しきしまを吸うた。いささか心も落ちついて見まわしてみれば、やはりなつかしい思い出が多い。上覆は破れて柱ばかりになってるけれど、御宝前と前に刻んだ手水石の文字は、昔のままである。房州石の安物のとうろうではあるが、一対こわれもせずにあった。お宮の扉の上にある象鼻や獅子頭の彫刻、それから宮の中の透かし彫りの鳩やにわとりなども、昔手をふれたままなのがたまらなくなつかしい。
自分はようやく追懐の念にとらわれて、お宮の中を回りあるいた。したみの板や柱にさまざまな落書きがしてあるのを一々見て行く内に、自分の感覚は非常に緊張して細いのも墨の色のうすいのも一つも見のがすまいと、鋭敏に細心に見あるいた。それは三十年以前の記憶を明瞭に思い出して、確かに覚えのある落書きが二つも三つも発見されたからである。
いちじるしい時代の変化は村の児童の遊戯する場所も変わったと見え、境内の荒れてるもどうり、この宮の中などで遊ぶ子供も近年少ないらしく、新しい落書きはほとんどなかった。そうしてつくづくこの多くの古い落書きを見ていると、自分はたまらなく昔なつかしの思いがわきかえるのであった。
ありあり覚えのある落書きがさらに多く見いだされてくる。自分はなお三十年の間かつて思い出したことのなかった、一つのなつかしい詩のようなことがらの実跡を見いだした。さすがに若い血潮のいまだに胸に残ってるような気持ちで、その墨の色のうすい小さな文字の、かすかな落書きにひたいをつけるばかりに注視した。
お宮の扉の裏の人の気づかなそうなところで、筋をつけた上に墨でこまかく書いてあった。東京に永住の身となってからも、両親のある間はずいぶん帰省したけれども、ついにこのことあるを思い出さなかった、昔のそれを今発見したのである。それはただ自分の名と女の名とが小さく一寸五分ばかりの大きさに並べて書いてあるまでであるけれど、その女は自分が男になってはじめて異性と情をかわした女であるのだ。自分はそれを見ると等しく当時の事がありありと思い出される。自分はわれを忘れてしばらくそれを見つめておったが、考えて見ると当時女から「消してください、後生だから消してください。」といわれて自分がそれを消したように覚えてる。まったく夢のようで夢ではない。見れば見るほど記憶が明瞭になって来て、これを書いた当時の精神状態も墨も筆も思い出される。
「こんな若い時のいたずらごと誰でもある事だ。いまさら年にもはじないでなんだばかばかしい。」と急にわれと自分をしいて嘲罵してみたけれども、そのあまい追懐の夢のような気持ちをなかなか放すことはできない。そうして今の自分の、まじめに固まりくさった動きのとれない寂しさを考えずにもおられなかった。
「こんな物を見ているところをもしも人にでも見られたら。」と気がつくと急にはじかれるような気持ちになって近くを見まわした。無性に気がとがめて、人目が気になった。あたりに人の見えないのに安心して、しきしまに火をつけながらまた松の根に腰をおろした。ないようにしても、どうかすると風が梢にさわって、ばらばらと木の葉が落ちる。
自分はたばこを吸うても、何本吸うたか覚えのないほど追懐にとらわれてしまった。
自分はその時十七であった。お菊は十五であった。背は並より高いほう、目の大きい眉のこい三角形の顔であった。白いうなじが透きとおるようにきれいで、それが自分にはただかわいかった。正月五ヵ日の間毎日のようにお菊の家の隣の新兵衛の家に遊びに行った。お菊はよく新兵衛の家に遊びに来た。女の影をちらと見たばかりでも、血がわきかえるほど気がはずんだ。声を聞いたばかりでもいきいきした思いに満たされた。たまにはうまく出合ってことばをかわすことができれば、あまい気持ちに酔うのであった。女も自分がとかく接近するのを避けもせず、自分が毎日隣に来るのをそれと気づいてるらしいが、それをいやに思うようなふうでなかった。
正月十五日の日待ちの日であった。小雨の降るのに自分はまた新兵衛の家に遊びに行った。いつも来てる近所の者もいず、子供達もいなくて、ただ新兵衛夫婦ばかり、つくねんと炉端にすわっていた。女房は自分が上がりはなに立ったのを目で迎えて、意味ありげに笑った。自分はそれをすぐに自分の思う意味に解して笑いこたえた。
「鉄っさんたまにゃ菓子くれい買って来てもよかねいかい。」
女房はさらにくすぐるように笑ってそういった。
「そうだっけねい、そっだら買って来べい。」
「鉄っさんじょうだんだよ。」といった女房の声をあとにして自分はすぐに菓子を一袋買って来た。
「じょうだんをいえばすぐほんとにして、鉄っさんはほんとに正直者だねい。」
女房が新兵衛と顔を見合わせて笑うようすは、直覚的に自分の満足をそそるのであった。鉄瓶の口から湯気の吹くのを見て女房は「今つれて来てあげるからね。」と笑いながらたった。自分は非常にうれしくまた非常にきまりが悪く「あにつれてくっのかい。」自分はわかりきっていながら、われしらずそういった。
「あんだいせっかく湯がわいたのに茶も入れずに行っちまいやがって。」
新兵衛はそういって自分から茶を入れる用意をした。自分は新兵衛が何となくこそっぱゆかった。新兵衛は用意ができても、しばらく女房の帰るのを待つ風であったが、容易に女房が帰って来ないので、「さあ鉄っさんごちそうになるべ。」といって茶を入れた。自分は隣の人声にばかり気をとられて、茶も菓子も手にはつかない。「お菊がいないのじゃないかしら、しかしいなけりゃなお帰ってくるはずだ。」などと独りで考えていた。耳をすまして聞くと女房の声はよく聞こえる。どうやらお菊の声もするように思われる。
「鉄っさん茶飲まねいかよ髪でも結ってっだっぺい今ん来るよ。」
新兵衛はやや嘲笑の気味で投げるように笑った。自分はそれに反抗する気力はなかった。ただもう胸がわくわくしてひとすじに隣のようすに気がとられた。
話し声が近く聞こえると思うと、お菊の声も確かに聞きとれて、ふたりが背戸からはいってくるようすがわかった。まもなくまっ黒な洗い髪を振りかぶった若い顔が女房の後について来た。お菊は自分を見るとすぐ横を向いて、自分の視線をさけるようすであった。それでもあえて躊躇するふうもなく、女房について炉端へあがって来た。
「おめいばかにひまとれるから始めっちゃった。」
新兵衛はこういいながら、女房にもお菊にもお茶をついで出した。
「さあお菊さん菓子とらねいか鉄っさんのおごりだからえんりょはいらねいよ。」
それをお菊はわざと耳にもとめないふうに、
「ねいここんおかあ銀杏返しには根かけなんかねいほうがよかねかろかい。」てれかくしにお菊がそういうとわかりきっているけれど女房は、
「この節はほんとうにさっぱりした作りが流行るんだかっねい。」と、そのてれかくしをかばうふうであった。
女は一方ならぬ胸騒ぎが、つつみきれないようすで、顔は耳まであかくなってるのが、自分にはいじらしくしてたまらなかった。自分もらちもなく興奮して、じょうだん口一つきけない。ただ女が自分と顔を向き合わせないために自分はかえって女から目を離せなかった。そうして自分が買って来たと知れてる菓子を、女が見向きもせぬのが気にかかった。
「ふたりともまだ若いやねい。」といいたそうな顔をして、ふたりを上目で見てるらしい女房は「お菊さん菓子たべねいかよ。」といいながら、一握りの菓子をとって、しいて女の手に持たした。女はそれをあえて否みもせず、やがて一つ二つ口に入れた。自分はそれが非常に嬉しく、胸のつかえがとれたようにため息をついた。そうして女はもうほとんど自分のもののような気がした。
新兵衛はいつのまにか横になって、いびきをかいていた。女房はそれと見るとすぐ納戸から、どてらと枕を持ってきて、無造作なとりなしにいかにも妻らしいところが見えた。お菊にもそう見えたらしく自分には思われて、この場合それがひどく感じがよかった。
女房はそれから、お菊の髪を結いはじめた。女も今は少し気が落ちついたらしく、おだやかな調子で女房と話したり笑ったりした。自分はしばらく局外にいて、女のすべてのようすを、心ゆくばかり見つめることができた。この時くらい美しい気高い心よさをじゅうぶんに味わった事はなかった。
自分はここまでひと息に考えて来て、われ知らずああと嘆声をもらした。同時にかさかさと落ち葉をふんで人の来たのに気づいた。自分は秘密を人に見られたでもしたようにびっくらした。見ると隣家の金蔵であった。白髪頭がしかもはげあがって、見ちがえるほどじじになっていた。向こうでも自分の老いたのに驚いたようである。
「これはこれはまことにはや。」
「ずいぶん久しぶりだったねい。」
自分はわれ知らず立って、心の狼狽を見せまいとした。が、どぎまぎした自分の挙動が、われながらおかしかった。やや酒気をおびた金蔵じいは、みょうな笑いようをして自分を見つめながら、
「ここにこんな人がいようとは思わねいもんだからははははは。」
「産土様があんまり変わってしまったから……」
「きょう来ましたか、どうしてまた今じぶん急にはあ。」
彼はそういってなお自分を見つめるのであった。彼は自分が村におった時のすべてを知ってる男なのだ。
「いや十年ぶりで来て見ると、村のようすもだいぶ変わったようだね。この産土の松は何年ごろ切ってしまったのだい、いやもうどうも。」
彼は自分の問いに答えようともせず、「まあごめんなさい。」というなり行ってしまった。自分はあとでなにか狐にでもつままれたような気持ちで、しばらくただぼうっとしていた。そうしてわれにかえった時に、せっかく興にいった夢をさまされたような、いまいましさを感じた。
自分は社を出て家に向かった。道すがらまた、新兵衛の女房の介錯で、お菊を隣村の夜祭りへ連れ出したことや、雉子が鳴いたり、山鳥が飛んだりする、春の野へお菊をまぜた三四人の女達とわらびをとりに行った時のたのしさなど思い出さずにはおられなかった。
自分は老いた兄夫婦が、四五人の男女と、藁におで四方を取りかこったにお場でさかんに稲こきをしてるところを驚かした。酒浸しになってる赤ぶくれの兄の顔は、十年以前と、さしたる変わりはなかったが、姉はもうしわくちゃな、よいばあさんになっていた。甥はがんじょうな男ざかりになって、稲をかついでいた。甥の嫁にもはじめて会った。
翌日日暮れに停車場へ急ぐとちゅうで、自分は落ち稲を拾ってる、そぼろなひとりの老婆を見かけた。見るとどうも新兵衛の女房らしい。紺のももひきに藁ぞうりをはいて、縞めもわからないようなはんてんを着ていた。自分はいくどか声をかけようとしたけれど、向こうは気がつかないようすであるのに、あまり見苦しいふうもしているから、とうとう見すごしてしまった。
汽車を待つ間にも、そのまま帰ってしまうのが、何となし残りおしかった。新兵衛の婆にあって、昔の話もし、そうして今お菊はどんなふうでいるかも聞いてみたい心持ちがしてならなかった。 | 底本:「野菊の墓」アイドル・ブックス、ポプラ社
1971(昭和46)年4月5日初版
1977(昭和52)年3月30日11版
初出:「文章世界 第八卷第六號」
1913(大正2)年5月1日
※表題は底本では、「落穂《おちぼ》」となっています。
※底本の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2015年5月24日作成
2015年7月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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一
近頃は、家庭問題と云うことが、至る所に盛んなようだ。どういう訳で、かく家庭問題が八釜敷なって来たのであろうか。其の原因に就いて考えて見たらば、又種々な理由があって、随分と面白くない原因などを発見するであろうと思われる。乍併、此の家庭問題を、色々と討究して、八釜しくいうて居る現象は、決して悪い事でない、寧ろ悦ぶべき状態に相違ないのであろう。只其の家庭問題を、彼是云うて居る夫子其の人の家庭が、果して能く整うて居るのであろうか、平生円満な家庭にある人などは、却って家庭問題の何物たるかをも知らぬと云うような事実がありはせまいか、是れは少しく考うべき事であると思う。予は現に、人の妻と姦通して、遂に其の妻を奪った人が、家庭の読物を、発刊しようかなどと云って居るのを、聞いたことがある。猶予自身の如きは、幸に家庭の不快など経験したことがないので、家庭の問題などは、主人の心持一つで、無造作に解決せらるるものと信じて居った。殊更に家庭の円満とか家庭の趣味とか、八釜しく云うことが、却っておかしく思われて居った。
それは、今日世上に、家庭問題を論究しつつある人々の内にも、必しも不円満な家庭中の人許りは居るまい、人の模範となるべき家庭を保って居る人も、多いであろうけれども、実行の伴わない論者も、決して少くはあるまいと思う。円満な家庭中の人が、却って不円満な家庭の人から講釈いわるるような、奇態の事実がありはせまいか。云うまでもなく、家庭問題は、学術上の問題ではない事実の問題であるから、実験に基づかぬ話は、何程才学ある人の云うことでも、容易に価値を認めることの出来ないが普通である。世の学者教育家などの、無造作に家庭問題を云々するは、少しく片腹痛き感がある。世に家庭の事を云々する人には、如何なる程度の家庭を標準として説くのであろうか、予は常に疑うのである。家庭という問題に就いて、一つの標準を立て得るであろうか、其の標準が立たないとした時には、何を目安に家庭問題を説くか、頗る取り留めなき事と云わねばならぬ。元来、家庭と云うものは、其の人次第の家庭が成立つものであって、他から模型を示して、家庭というものは、是々にすべきものなどと、教え得べきものでないと思う。
人々に依り、家々に依り、年齢に依り、階級に依り、土地により、悉く家庭の趣味は変って居る。今少しく精細に云って見るならば、役人の家庭、職人の家庭、芸人の家庭、学者の家庭、新聞記者、政治家、農家、商家、其の外に貧富の差がある、智識の差がある、夫婦諸稼の家庭もある、旦那様奥様の家庭もある、女の多い家、男の多い家、斯く数えて来たらば際限がない。一個人に就いても決して一定して居ない、妻のない時、妻のある時、親というものになっての家庭、子に妻なり婿なりの出来てからの家庭、此の如き調子に家庭の趣というものは、千差万別、少しも一定して居るものでない、標準などいうものの立ち様のないのが、家庭本来の性質である。されば世の家庭談とか云うものは、実は其の人々の思々を云うたものに過ぎない訳で、それを以て、他を律することも出来ず他を導くことも出来ない筈のものである。家庭教育、家庭小説、家庭料理、家庭何々、種々な名目もあって、家庭に対する事業も沢山あるようだが、実際家庭を益するような作物があるか否かは疑問である。飛んだ間違った方向へ応用されると、却て家庭を害するような結果がないとは云えぬ。何れ商売上手の手合の仕事とすれば、害のない位をモッケの幸とせねばならぬが、真面目に家庭談を為すものや、本気に家庭作物を読む人々は、先ず此の家庭の意義を、十分に解して居って貰い度いものである。
予の考は、家庭の意義を根本的に云うならば、其の人の性格智識道徳等から、自然に湧くべき産物である。高くも低くも、其の人だけの家庭を作るより外に、道はないのであろう。甲の家庭を乙が模し、丙の家庭を丁が模すると云うような事は、迚ても出来ないことじゃと信ずる。其の人を解かずして其の家庭を解くは、火を見ないで湯を論ずるようなものである。湯の湧く湧かぬは、釜の下の火次第である、火のない釜に、湯の湧きようはない。家庭の趣味如何を問う前に、主人其の人の趣味如何を見よ、趣味なき人に趣味ある家庭を説くは、火のない釜に、湯の沸くを待つようなものだ、こう云うて了えば、家庭問題と云うものは、全く無意義に帰して終う訳だ。然り教導的に家庭を説くは、全く無意義なもので、家庭を益することは少く、害する方が多いに極って居る。
乍併、家庭は尊いものだ、趣味の多いものだ、楽しみ極りないものだ。人間の性命は、殆ど家庭に依って居ると云ってもよい位だ。されば、人各家庭の事実を説くは、甚だ趣味ある事で、勿論他の参考にもなることである。只自身家庭趣味の経験に乏しく、或は陋劣なる家庭にありながら、徒らに口の先、筆の先にて空想的家庭を説くは、射利の用に供せらるる以外には、何等の意義なしと云ってよかろう。
家庭趣味の事実を談ずることは、談者自ら興味多く、聴く人にも多くの趣味を感じ、且つ参考になることが多い。故に家庭の事は、人々盛に談ずべしだ、面白い事も、悲しいことも、人に談ずれば面白いことは更に面白さを加え、悲しいことは依って悲しみを減ずる。家庭の円満を得ない人は勿論、家庭円満の趣味に浴しつつある人でも、能く談ずれば其の興味を解することが益深くなってくる。今迄はうかと経過した些事にも、強烈な趣味を感ずる様になってくる。何事によらず面白味を知らずに其の中にあるより、面白味を知って其の中にあれば、楽しみが一層深いものである。山中の人山中の趣になれて、却て其の趣味を解せざるが如く、家庭趣味に浴しつつある人も、其の趣味を談ぜざれば、折角身幸福の中にありながら、其の幸福を、十分に自覚しないで過ぎ去る訳である。
他が為に家庭趣味を説くは陋しい、人の各自に其の家庭趣味を談じて、大いに其の趣味を味うというは、人世の最大なる楽事であるまいか。
吾が新仏教の同人諸君、願わくは大いに諸君の家庭を語れ、予先ず諸君に先じて、吾がボロ家庭を語って見よう。
「新仏教」明38・1
二
今一くさり理窟を云って置かねばならぬ。予は先に、今の家庭説は、家庭を害する方が多いと云った、何故に家庭を害するか、それを少しく云うて置かねばならぬ。
世人多くは、家庭問題は、今日に始まったものの如く思って居るらしいが、決してそうではない。吾々が幼時教育を受けた儒教などは、第一に家庭を説いたものである。彼灑掃応対進退の節と説き、寡妻に法り、兄弟に及ぶと云い、国を治むるのもとは、家を治むるにありと云い、家整うて国則整うと云い、其の家庭の問題を如何に重大視したか、詩経などの詩を見ても、家庭を謳うたものが多いのである。則ち家庭問題は、実に人世至高の問題として居ったことが判る。只古のは、根本的精神的であって、今のは物質的の末節を云うが多いのである。人格問題、修養問題を抜きにした、手芸的話説が多いのである。根を説かずしてまず末を説く、予が家庭を害すること多いと云うは、此の顛倒の弊害を指したのに過ぎぬのである。
能く家を整えて、一家をして、より多くの和楽幸福を得しむると云うことは、人間の事業中に在って、最も至聖なるものである。大きく云えば国家の基礎、社会の根柢を為すのである。至大至高の問題と云わねばならぬ。何等の修養なき、何等の経験なき青年文士や、偏学究などに依って説かるる家庭問題、予は有害無益なるを云うに憚らぬ。家庭の主人公なるが如く心得、家庭の事は、男子の片手間の事業かの如く考えて居るのが、今日家庭を説くものの理想らしいが、これが大間違の考と云わねばならぬ。
大なり小なり、一定の所信確立して、人格相当の家庭を作れる場合に至って、物質的家庭趣味の選択に取りかかるべきが順序である。己一身の所信覚悟も定まって居らず、如何にして家族を指導し、一家を整え得べき。精神的に一家が整わぬ所へ、やれ家庭小説じゃ、家庭料理じゃ、家庭科学じゃ、家庭の娯楽じゃと、騒ぎ立てることが、如何に覚束なきものなるか、予は危険を感ぜざるを得ないのである。
既に、今日の教育と云うものが、学問的に偏し、技芸的に偏し、人格的精神的の教育が欠如して居るかと思ふ。是等の教育に依って、産出する所の今日の多くの青年を見よ、如何に軽佻浮華にして、人格的に精神的に価値なきかを。如此青年が順次家を成し、所謂家庭を作るに当って、今日の如き家庭説、半驕奢趣味の家庭談を注入したる結果が、如何なる家庭を現じ来るべきか。
座して衣食に究せず、其の日其の日を愉快に経過するを以て、能事とせる家庭ならば、或は今日の家庭説を以て多くの支障を見ぬのであろう。然れども、如此種族の家庭が、社会に幾許かあるべき。多くは一定の職業を有して、日々其の業務と家事とに時間を刻みつつあるのである。家庭料理などと、洒落れて居られる家は少いのじゃ。既に処世上、何等確信なき社会の多くが、流行に駆られて今の世にあっては、斯くせねばならぬかの如くに誤解し、日常の要務をば次にして、やれ家庭の趣味じゃ、家庭の娯楽じゃと騒ぎ散らす様であったならば、今の家庭説は徒らに社会に驕奢を勧めたるの結果に陥るのである。
今日の事は、何事によらず、根本が抜けて居って、うわべ許りで騒いでいる様じゃ。宗教界などを見ても、自己の修養をば丸で後廻しとして、社会を救うの、人を教うるのと、頗る熱心にやって居る輩もあるようなれど、自分に人格がなく修養がなくて、どうして社会を教うることが出来るであろうか、己が社会の厄介者でありながら、社会を指導するもないものだ。見渡した所、社会の厄介にならぬ宗教家ならば、まず結構じゃと云いたい位だ。文学者とか云う側を見てもそうである、文芸を売物に生活して居るものは、「ホーカイ」「チョボクレ」と別つ所がないのは云うまでもないが、偉らそうにも、詩は神聖じゃ、恋は神聖じゃなどと騒ぎ居るのである。匹夫野人も屑しとしないような醜行陋体を、世間憚らず実現しつつ、詩は神聖恋は神聖を歌って居るところの汚醜劣等の卑人が、趣味がどうの、美がどうのと云うてるのに、社会の一部が耳をかしてるとは、情ないじゃないか。
今の家庭を云々するものも、どうか厄介宗教家や、汚醜詩人のそれの如くならで、まず何より先に、自己の家庭を整えて貰いたい。今の家庭問題に注意する人々に告ぐ、自分は自分だけの家庭を作れ、決して家庭読物などの談に心を奪わるる勿れ。今の家庭説とて、皆悪いことばかりを書いてあると云うのではない、本末を顛倒し、選択を誤るの害を恐れるのである。真の宗教、真の詩、真の家庭、却て天真なる諸君の精神に存するということを忘れてはならぬ。
「新仏教」明38・2
三
調子に乗って大きな事を云い散らしてしまった。心づいて自らかえり見ると俄にきまりが悪くなった。埒もなき家庭談を試みようとの考であったのに、如何にも仰山な前提を書き飛ばした。既に書いてしまったものを今更悔いても仕方がないが、一度慚愧の念に襲われては、何事にも無頓着なる予と雖も、さすがに躊躇するのである。
乍併茲で止めて了うては余りに無責任のようにも思われる。諸君も語れ予先ず語らんなど云える前言に対しても何分此の儘止められぬ、ままよ書過しは書過しとして兎に角今少し後を続けて見ようと決心した。遠き慮りなき時は、近き憂ありとは、能くも云うたものじゃと我から自分を嘲ったのである。
予の家庭は寧ろ平和の坦道を通過して来たのであるが、予は自らの家庭を毫も幸福なりしとは信じない、悲惨と云う程の事もなかった代り、尋常以上の快楽もなかった。云わば極めて平凡下劣の家庭に安じたのである、或一種の考から其の下劣平凡の家庭を却て得意とした時代もあった。
予は十八歳の春、豊かならぬ父母に僅少の学資を哀求し、始めて東京に来って法律学などを修めた。政界の人たらんとの希望からである。予が今に理窟を云うの癖があるは此の時代の遺習かと、独りで窃におかしく思っとる。学問の上に最も不幸なりし予は、遂に六箇月を出でざるに早く廃学せねばならぬ境遇に陥った。何時の間にか、眼が悪くなって府下の有名な眼科医三四人に診察を乞うて見ると、云うことが皆同じである、曰く進行近視眼、曰く眼底充血、最後に当時最も雷名ありし、井上達也氏に見て貰うと、卒直なる同氏はいう、君の眼は瀬戸物にひびが入った様なものじゃ。大事に使えば生涯使えぬこともないが、ぞんざいに使えば直ぐにこわれる、治療したって駄目じゃ只眼を大事して居ればよい。そうさ学問などは迚ても駄目だなあ。こんな調子で無造作に不具者の宣告を与えられてしまった。
最早予は人間として正則の進行を計る資格が無くなった。人間もここに至って処世上変則の方法を採らねばならぬは自然である。国へ帰って百姓になるより外に道はないかなと考えた時の悲しさ、今猶昨日の如き感じがする。学資に不自由なく身体の健全な学生程、世の中に羨しいものはなかった、本郷の第一高等学校の脇を通ると多くの生徒が盛に打毬をやって居る、其の愉快げな風がつくづく羨しくて暫く立って眺めた時の心持、何とも形容の詞がない。世の中と云うものは実に不公平なものである、人間ほど幸不幸の甚しきものはあるまい、相当の時機に学問する事の出来なくなった人間は、未だ世の中に出でない前に、運を争うの資格を奪われたのである、思う存分に働いて失敗したのは運が悪いとして諦めもしようが、働く資格を与えぬとは随分非度い不公平である、いまいましい。それでも運好く成功した人間共は、其の幸福と云うことは一向顧みないで、始めから自分達が優者である如く威張り散らすのである。予は茲で一寸天下の学生諸君に告げて置きたい。学資に不自由なく身体健全なる学生諸君、諸君の資格は実に尊い資格である、諸君は決して其の尊い資格を疎かにしてはならぬ。
何程愚痴を云うても返ることではない、予は国へ帰った。両親は左程には思われぬ、眼を病めば盲人になる人もある、近眼位なら結構じゃ、百姓の子が百姓するに不思議はない、大望を抱いて居ても運がたすけねば成就はせぬもの、よしよしもう思い返して百姓するさ。一農民の資格に安じて居る両親は頗る平気なものである。結句これからは落着いて手許に居るだろう、よい塩梅だ位に思っているらしい風が見える、何もかも慈愛の泉から湧いた情と思えば不平も云えない。
父は六十三母は五十九余は其の末子である。慈愛深ければこそ、白髪をかかえて吾児を旅に手離して寂しさを守って居るのである。今修学の望が絶えて帰国したとすればこれから手許に居れという老父母の希望に寸毫の無理はないのだ。勿論其の当時にあっては予も総べての希望を諦め老親の膝下に稼穡を事とする外なしと思ったが、末子たる予は手許に居るというても、近くに分家でもすれば兎に角、さもなければ他家に養子にゆくのであるから、老親の希望を遺憾なく満足させるは、少しく覚束ない事情がある。
学問を止めたかとて百姓にならねばならぬと云うことはない、学問がなくとも出来ることが幾らもある、近眼の為に兵役免除となったを幸に、予は再び上京した。勿論老父母の得心でない、暫く父母に背くの余儀なきを信じて出走したのである。併し再度出京の目的は自己の私心を満足させんとの希望ではない、衣食を求むるため生活の道を得んがため、老親の短き生先を自分の手にて奉養せんとの希望のためであった。予が半生の家庭が常に変則の軌道を歩したと云うも、一は眼病で廃学した故と生先短き親を持った故とである、殊に予の母は後妻として父の家に嫁がれ予の外に兄一人あるのみで、然かも最もおそき子であるから吾等兄弟が物覚のついた時分には老母の髪は半分白かった。如此事情のもとに生長した予は子供の時より母の生先を安ずるというのが一身の目的の如くに思って居ったのである。眼病を得て処世上正則の進行を妨げらるるに及びては、愈私心的自己の希望を絶対に捨てねばならぬ事になった。
老母の寿命がよし八十迄あるとするも、此の先二十年しかない。況や予が生活を得るまでには猶少くも三四年は間があって、母の命八十を必し難しとすれば、予は自分の功名心や、遠い先の幸福などに望を掛けて、大きな考を起す暇がないのである、年少気鋭の時代は何人にもある、予と雖も又其の内の一人であれば、外国へ飛び出さんとの念を起せるも一二度ではなかった。只予の性質として人の子とあるものが只自己一身の功業にのみ腐心するは不都合である、両親を見送っての後ならば、如何なることを為すとも自己の一身は自己の随意に任せてよいが、父母猶存する間は父母と自分との関係を忘れてはならぬ。よし遂に大業を遂げたりとするも、其の業の成れる時既に父母は世に存せざるならば、父母に幸福を与えずして自己の幸福を貯えた事になる。人の子として私心的態度と云わねばならぬ。世の功名家なるものに人情に背けるの行為多きは、其の私心熾なるが故に外ならぬ。
常に以上の如き考を抱いて居った予は、遠大な望などは少しもない。極めて凡人極めて愚人たるに甘ぜんとしていた。予は一切の私心的希望を捨てて、老母の生先十数年の奉養を尽さんが為に、凡人となり愚人となるに甘ぜんと心を定めた時に不思議と歓喜愉快の念が内心に湧いたのである。他人の為に自己の或る点を犠牲にして一種の愉快を得るは人間の天性であるらしいが、予が老いたる父母の生先の為に自己の欲望を捨てたのであるから、何となく愉快の念が強い。之に依って見ると人間の幸不幸という事は、人々精神の置きどころ一つにあるのであるまいかと思った。令名を当世に挙げ富貴の生活を為すは人世の最も愉快なるものに相違ないが、予の如き凡人的愉快も又云うべからざる趣味がある。神は必しも富貴なる人にのみ愉快を与えぬのである、予一人の愉快のみでない、老いたる父母が予の決心を知って又深く愉快を感じたは疑を要せぬ。
僅に二円金を携えて出京した予は、一日も猶予して居られぬ、直に労働者となった。所謂奉公人仲間の群に投じた。或は東京に或は横浜に流浪三年半二十七歳と云う春、漸く現住所に独立生活の端緒を開き得た。固より資本と称する程の貯あるにあらず、人の好意と精神と勉強との三者をたよりの事業である。予は殆ど毎日十八時間労働した、されば予は忽ち同業者間第一の勤勉家と云う評を得た。勤勉家と云えば立派であるが当時の状況はそれほど働かねば業が成立せぬのだ。此の時に予の深く感じて忘れられぬは人の好意である。世人は一般に都人の情薄きを云えど、予は決してそうは思わぬ。殆ど空手業を始めた困苦は一通りでない。取引先々の好意がなくて到底やりとおせられるものでない。予に金を貸した一人の如きは、君がそれほど勉強して失敗したら、縦令君に損を掛けられても恨はないとまで云うた。東京の商人というもの表面より一見すると、如何にも解らずや許りの様なれど、一歩進めた交際をして見ると、田舎の人などよりは遥かに頼もしい人が多い。堅実な精神的商人が却て都会の中央に多いは争われぬ事実じゃ(少しく方角違いなれば別に云うべし)。
「新仏教」明38・4 | 底本:「作家の自伝102 伊藤左千夫」日本図書センター
2000(平成12)年11月25日初版第1刷発行
底本の親本:「左千夫歌論集 卷三」岩波書店
1931(昭和6)年4月1日
初出:一「新佛教 第六卷第一號」新佛教徒同志會
1905(明治38)年1月1日
二「新佛教 第六卷第二號」新佛教徒同志會
1905(明治38)年2月1日
三「新佛教 第六卷第四號」新佛教徒同志會
1905(明治38)年4月1日
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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石川啄木君は、齢三十に至らずして死なれた。『一握の砂』と『悲しき玩具』との二詩集を明治の詞壇に寄与した許りで死なれた。
石川君とは鴎外博士宅に毎月歌会のあつた頃、幾度も幾度も逢つた筈である。処が八度の近視眼鏡を二つ掛ける吾輩は、とう〳〵其顔を能く見覚える事も出来なくて終つた。
さうして今此遺著を読んで見ると、改めて石川君に逢着したやうな気がする。かすかな記憶から消えて居つた、石川君の顔が思ひ浮ぶやうな心持がした。
それは吾輩が今此詩集を味読して、石川君の歌の特色を明に印象し得たからであらう。
此詩集に収められた歌と、歌に対する石川君の信念と要求とに関する感想文とを繰返して読んで見ると、吾輩などの、歌に対する考や要求とは少なからず違つて居るから、其感想文には直に同感は出来ない。従て其作歌にも飽足らぬ点が多い。
だが読んで見れば、感想文も面白く、作歌も相当に面白く、歌と云ふものを、石川君のやうに考へ、歌と云ふものに、さういふ風に這入つて行かねばならない道もあるだらうと首肯される点も充分認められるのである。
吾輩は只石川君の所謂(忙しい生活の間に心に浮んでは消えて行く刹那々々の感じを愛惜する云々)といふやうな意味で作られたものが最善の歌とは思へないだけである。記述して置かなければ、消えて忘れて終ふ刹那の感じを歌の形に留めて置くと云ふだけでは、生命の附与された、創作と認めるには、顕著な物足らなさを、吾輩は思はない訳に行かないのである。
歌はこれ〳〵でなければならないなどゝは吾輩も云ひたくはない。又そんな理窟の無いことも勿論である。だから吾輩は只此集のやうな歌に満足が出来ないと云つて置くのみだ。
石川君はまだ年が若かつた、吾輩はそれでかう云ひたい。石川君は此のやうな歌を作り作りして行つて最う少し年を取つて来たら、屹度かう云ふ風な歌許りでは満足の出来ない時が来る。それが内容の如何と云ふことでなく、技巧の上手下手と云ふことでもなくて、既成創作が含める生命の分量如何に就て、必ず著しい物足らなさを気づいて来るに違ひ無いと思ふのである。
茲は歌の議論を為すべきでないから、多くは云はないが、石川君のやうな、歌に対する信念と要求とから出発したものならば三十一字と云ふやうな事を始めから念頭に置かない方が良いのぢやなからうか。よしそれを字余りなり若くは、三十六字四十字を平気で作るにせよ、大抵三十一文字といふ概則的観念の支配下に作歌する意味が甚だ不明瞭で無かないか。吾輩は要するに詩といふものに、形式といふ事をさう軽く見たくはないのである。詩の生命と形式との関係には、石川君などの云ふよりは、もつともつと深い意味が無ければならぬと吾輩は信じて居るからである。
乍併此詩集を読んで、吾輩の敬服に堪へない一事がある。それは石川君の歌は、君が歌に対する其信念と要求とが能く一致して居るのだ。云ひ換へると石川君は、自分の考へた通りに、其要求の通りに作物が遺憾なく目的を達して居るのである。
最う少し精しく云ふて見れば、今の詞壇には、新しい歌を読む人が随分少くはない、併し其諸名家の作物を読んで見ると、其人達は歌に対する、どういふ信念と要求とから、こんな風な歌を作るのかと怪まれるものが比々皆然りで、作者の精神が何処にあるのか、殆ど忖度し難いものが多い。少し悪口云ふと、歌海の航行に碇も持たず羅針盤も持たないで、行きあたりぱつたりに、航行してゐるやうに見えるのだ。
それが石川君の歌を見ると、航行の目的と要求とが明瞭して居つて、それに対する、碇も羅針盤も確実に所有し、自分の行きたい所へ行き、自分の留りたい所へ留つてるのである。
世評許り気にして居る、狡黠な作者が能く云ふ、試作などいふ曖昧な歌が、石川君の歌には一首も無いのである。
で若し石川君が茲に居つて。
『君はさういふけれど、人には好不好と云ふものがある、僕はかういふのが好きなのだから仕方が無いぢやないか』
と云ふならば、吾輩も一議なく石川君に同情して其歌を一種の創作と認むるに躊躇しないのである。
かう云ふて来て見ると、吾輩は読者に対して、歌に対する自分の要求を、一言いふて置くべき義務があるであらう。吾輩は生活上心に浮んだ刹那の感じに、作歌の動機を認めるにしても、心に浮んだ刹那の感じを、直ぐ其儘歌にして終ひたくないのである。
心に浮んだ感じを、更に深く心に受入れて、其感じから動いた心の揺らぎを、詞調の上に表現してほしいのである。
散文は意味を伝へれば目的は達してるが、韻文は意味を伝へたゞけでは満足が出来ないのである。吾輩の要求する歌には、心に浮んだ刹那の感じを伝へたゞけでは足らない。云はゞ最う少し深いものを要求するのだ。
刹那の感じから受けた心の影響を伝へてほしいのだ。それでなければ、作者の個性発揮も充分でない、情調化も充分でない。かう吾輩は固く信じて居る。
さういふ意味に於て、吾輩は石川君の歌に不満足な感が多いのである。
石川君は、驚きたくないと云つてる。吾輩は敢て驚きたいとも思はないが、強て驚きたくないと猶更勉めたくはない。驚くまいとしたり、泣くまいとしたり、喜ぶまいとしたり、さう勉めて見た処でそれはさううまく行くものではあるまい、さういふのは極めて不自然であるのだ。
石川君は『歌は私の悲しい玩具である』と云つてる。さうである、石川君の歌は石川君の玩具であらう。であるから、石川君の歌を見ると、石川君其人が如何にも能く現はれて居る。
薄命なりし明治の詩人啄木は、此の詩集の如き意味に於て作られた歌に依て、明かに後世に解せられるであらう。さういふ意味から見れば、此詩集は又大に面白くもあり価値もある。
乍併さういふ意味に於て歌の価値を認めるのは、吾輩の考へでは、歌といふものを余りに侮蔑した見方であると思ふのである。歌は作者に依て作られること云ふまでも無いが、作者の為めに作者を伝へんが為に作らるべきものでは無い。其作歌に依つて作者の伝はるのは妨げないが、歌はどこまでも、作者を離れて別に生命を有して居らねばならぬ。
吾輩は我が生んだ子を、親の為に許りの考で育てたくないやうに、我が作つた歌を、我が玩具として終ひたくない、我を伝ふる犠牲として終ひたくない。作者たる自分は、どんな人間か判らなくなつて終つても、我作歌は永く人間界に存してあつてほしい。それもさういふ目的で作歌するといふのではない。
歌を尊重したいと云ふことは、歌を作ることを偉い事と思つて云ふのではない。かうは云つても石川君は前途を持つてた人であつた、思つた事をやり始めた許りで死んだ人であつた。吾輩は僅かに遺された著書だけで、石川君はかういふ考へを持つて、これ〳〵の人であると云つて終ひたくない気がしてならぬ。
最う一つ言ひ残した。此詩集の歌で見ると、石川君は酔はない人らしい、といふよりは酔へない人らしい。で他人の酔つたり狂つたりして、常規を失するやうな言動が皆虚偽のやうに見えたらしい。石川君は驚きたくないと云つたが、驚かない寧ろ驚けない人であつたらしい。かう思つて見ると石川君の歌に情調化の乏しいのは、それが当然であるのだと見ねばならぬ。
石川君は自分で自分をあまり好いて居ない、従て自分の歌を自分で好いて居なかつたであらう。さうして居て猶歌を作らねばならなかつたとせば、石川君は矢張此集のやうな歌を作るより外なかつたのであらう。
石川君に猶春秋を与へたなら、或は遂に自分の好きな歌を作つたかも知れないが、それにしても此集の歌は矢つぱり誰の歌でもない石川君の歌である。吾輩は固より此集の歌を好まないけれど、此集の如き歌が明治の詞壇に存在する事を苟にも拒みやしない。
併し集中にも左の如き歌は吾輩も嫌ではない。否非常に面白い歌である。かういふ歌を好きだの面白いのと云ふのは聊か穏かでなく思はれるが、只佳作だなど云ふのは猶をかしいからさう云つて置く。
いつしかに夏となれりけり。
やみあがりの目にこゝろよき
雨の明るさ!
まくら辺に子を坐らせて、
まじまじとその顔を見れば、
逃げてゆきしかな。
おとなしき家畜のごとき
心となる、
熱やゝ高き日のたよりなさ。
とけがたき
不和のあひだに身を処して、
ひとり悲しく今日も怒れり。
猫を飼はゞ、
その猫がまた争ひの種となるらん、
かなしきわが家。
茶まで断ちて、
わが平復を祈りたまふ
母の今日また何か怒れる。
買ひおきし
薬つきたる朝に来し
友のなさけの為替のかなしさ
これだけ抜いたのは、面白いと思ふ歌がこれだけしか無いといふのではない。吾輩も以上のやうな歌は非常に面白く佳作であると思ふのであると云ふまでゞある。外にもまだとりどり面白い歌は沢山にある。
吾輩は茲で、アラヽギ諸同人に忠告を試みたい、我諸同人の歌は、概して形式を重じ過ぎた粉飾の過ぎた弊が多いやうであるから、石川君の歌などの、とんと形式に拘泥しない、粉飾の少しもないやうな歌風を見て、自己省察の料に供すべきである。 | 底本:「群像 日本の作家 7 石川啄木」小学館
1991(平成3)年9月10日初版第1刷発行
底本の親本:「左千夫全集 第七卷」岩波書店
1977(昭和52)年6月13日発行
初出:「アララギ 第五卷第八號」
1912(大正元)年8月1日発行
※初出時の署名は「左千夫」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:きりんの手紙
校正:高瀬竜一
2021年1月27日作成
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段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客というもののなかったような宿のさびしさ。
娘は茶をついで予にすすめる。年は二十ばかりと見えた。紅蓮の花びらをとかして彩色したように顔が美しい。わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式美人を見る、おおいにゆかいであった。
娘は、お中食のしたくいたしましょうかといったきり、あまり口数をきかない、予は食事してからちょっと鵜島へゆくから、舟をたのんでくれと命じた。
富士のすそ野を見るものはだれもおなじであろう、かならずみょうに隔世的夢幻の感にうたれる。この朝予は吉田の駅をでて、とちゅう畑のあいだ森のかげに絹織の梭の音を聞きつつ、やがて大噴火当時そのままの石の原にかかった。千年の風雨も化力をくわうることができず、むろん人間の手もいらず、一木一草もおいたたぬ、ゴツゴツたる石の原を半里あまりあるいた。富士はほとんど雲におおわれて傾斜遠長きすそばかり見わたされる。目のさきからじきに山すそに連続した、三、四里もある草木あるいは石の原などをひと目に見わたすと、すべての光景がどうしてもまぼろしのごとく感ずる。
予はふかくこの夢幻の感じに酔うて、河口湖畔の舟津へいでた。舟津の家なみや人のゆききや、馬のゆくのも子どもの遊ぶのも、また湖水の深沈としずかなありさまやが、ことごとく夢中の光景としか思えない。
家なみから北のすみがすこしく湖水へはりだした木立ちのなかに、古い寺と古い神社とが地つづきに立っている。木立ちはいまさかんに黄葉しているが、落ち葉も庭をうずめている。右手な神社のまた右手の一角にまっ黒い大石が乱立して湖水へつきいで、そのうえにちょっとした宿屋がある。まえはわずかに人の通うばかりにせまい。そこに着物などほしかけて女がひとり洗濯をやっていた。これが予のいまおる宿である。そして予はいま上代的紅顔の美女に中食をすすめられつついる。予はさきに宿の娘といったが、このことばをふつうにいう宿屋の娘の軽薄な意味にとられてはこまる。
予の口がおもいせいか、娘はますますかたい。予はことばをおしだすようにして、夏になればずいぶん東京あたりから人がきますか、夏は涼しいでしょう。鵜島には紅葉がありますか。鵜島まではなん里くらいありますなど話しかけてみたが、娘はただ、ハイハイというばかり、声を聞きながら形は見えないような心持ちだ。段ばしごの下から、
「舟がきてるからお客さまに申しあげておくれ」
というのは、主人らしい人の声である。飯がすむ。娘はさがる。
鵜島は、湖水の沖のちょうどまんなかごろにある離れ小島との話で、なんだかひじょうに遠いところででもあるように思われる。いまからでかけてきょうじゅうに帰ってこられるかしらなどと考える。外のようすは霧がおりてぼんやりとしてきた。娘はふたたびあがってきて、舟子が待っておりますでございますと例のとおりていねいに両手をついていう。
「どうでしょう、雨になりはしますまいか、遠くへのりだしてから降られちゃ、たいへんですからな」
といえば、
「ハイ……雨になるようなことはなかろうと申しておりますが」
という。予は一種の力に引きおこされるような思いに二階をおりる。
宿をでる。五、六歩で左へおりる。でこぼこした石をつたって二丈ばかりつき立っている、暗黒な大石の下をくぐるとすぐ舟があった。舟子は、縞もめんのカルサンをはいて、大黒ずきんをかぶったかわいい老爺である。
ちょっとずきんをはずし、にこにこ笑って予におじぎをした。四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりのあるような黒ずんだ水面に舟足をえがいて、舟は広みへでた。キィーキィーと櫓の音がする。
ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつにおもしろい。黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな赤松が四、五本森をなして、黄葉した櫟がほどよくそれにまじわっている。東側は神社と寺との木立ちにつづいて冬のはじめとはいえ、色づいた木の葉が散らずにあるので、いっそう景色がひきたって見える。
「じいさん、ここから見ると舟津はじつにえい景色だね!」
「ヘイ、お富士山はあれ、あっこに秦皮の森があります。ちょうどあっこらにめいます。ヘイ。こっから東の方角でございます。ヘイ。あの村木立ちでございます。ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華のお寺でございます。あっこはもう勝山でござります、ヘイ」
「じいさん、どうだろう雨にはなるまいか」
「ヘイ晴れるとえいけしきでござります、残念じゃなあ、お富士山がちょっとでもめいるとえいが」
「じいさん、雨はだいじょぶだろうか」
「ヘイヘイ、耳がすこし遠いのでござります。ヘイあの西山の上がすこし明るうござりますで、たいていだいじょうぶでござりましょう。ヘイ、わしこの辺のことよう心得てますが、耳が遠うござりますので、じゅうぶんご案内ができないが残念でござります、ヘイ」
「鵜島へは何里あるかい」
「ヘイ、この海がはば一里、長さ三里でござります。そのちょうどまんなかに島があります。舟津から一里あまりでござります」
人里を離れてキィーキィーの櫓声がひときわ耳にたつ。舟津の森もぼうっと霧につつまれてしまった。忠実な老爺は予の身ぶりに注意しているとみえ、予が口を動かすと、すぐに推測をたくましくして案内をいうのである。おかしくもあるがすこぶる可憐に思われた。予がうしろをさすと、
「ヘイあの奥が河口でございます。つまらないところで、ヘイ。晴れてればよう見えますがヘイ」
舟のゆくはるかのさき湖水の北側に二、三軒の家が見えてきた。霧がほとんど山のすそまでおりてきて、わずかにつつみのこした渚に、ほのかに人里があるのである。やがて霧がおおいかくしそうなようすだ。予は高い声で、
「あそこはなんという所かい」
「ヘイ、あっこはお石でござります。あれでもよっぽどな一村でござります。鵜島はあのまえになります、ヘイ。あれ、いま鳥がひとつ低う飛んでましょう。そんさきにぽうっとした、あれが鵜でござります。まだ小一里でござりましょう」
いよいよ霧がふかくなってきた。舟津も木立ちも消えそうになってきた。キィーキィーの櫓声となめらかな水面に尾を引く舟足と、立ってる老爺と座しておる予とが、わずかに消しのこされている。
湖水の水は手にすくってみると玉のごとく透明であるが、打見た色は黒い。浅いか深いかわからぬが深いには相違ない。平生見つけた水の色ではない、予はいよいよ現世を遠ざかりつつゆくような心持ちになった。
「じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか」
「ヘイ、この海は澄んでも底がめいませんでござります。ヘイ、鯉も鮒もおります」
老爺はこの湖水についての案内がおおかたつきたので、しばらく無言にキィーキィーをやっとる。予もただ舟足の尾をかえりみ、水の色を注意して、頭を空に感興にふけっている。老爺は突然先生とよんだ。かれはいかに予を観察して先生というのか、予は思わず微笑した。かれは、なおかわいらしき笑いを顔にたたえて話をはじめたのである。
「先生さまなどにゃおかしゅうござりましょうが、いま先生が水が黒いとおっしゃりますから、わし子どものときから聞いてることを、お笑いぐさに申しあげます」
かれはなおにこにこ笑ってる。
「そりゃ聞きたい、早く聞かしてくれ」
「へい、そりゃ大むかしのことだったそうでござります。なんでもなん千年というむかし、甲斐と駿河の境さ、大山荒れがはじまったが、ごんごんごうごう暗やみの奥で鳴りだしたそうでござります。そうすると、そこら一面石の嵐でござりまして、大石小石の雨がやめどなく降ったそうでござります。五十日のあいだというもの夜とも昼ともあなたわかんねいくらいで、もうこの世が泥海になるのだって、みんな死ぬ覚悟でいましたところ、五十日めごろから出鳴りがしずかになると、夜のあけたように空が晴れたら、このお富士山ができていたというこっでござります」
爺さんはにこにこ笑いながら、予がなんというかと思ってか、予のほうを見ている。
「おもしろい、おもしろい、もっとさきを話して聞かせろ。爺さん、ほんとにおもしろいよ」
「そいからあなた、十里四方もあった甲斐の海が原になっていました。それで富士川もできました。それから富士山のまわりところどころへ湖水がのこりました。お富士さまのあれで出口がふさがったもんだから、むかしの甲斐の海の水がのこったのでござります。ここの湖水はみんな、はいる水はあってもでる口はないのでござります。だからこの水は大むかしからの水で甲斐の海のままに変わらない水でござります。先生さまにこんなうそっこばなしを申しあげてすみませんが……」
「どうして、ほんとにおもしろかったよ。それがほんとの話だよ」
老爺はまじめにかえって、
「もう鵜島がめえてきました。松が青くめいましょう。ごろうじろ、弁天さまのお屋根がすこしめいます。どうも霧が深うなってめいりました」
高さ四、五丈も、周囲二町もあろうと見える瓠なりな小島の北岸へ舟をつけた。瓠の頭は東にむいている。そのでっぱなに巨大な松が七、八本、あるいは立ち、あるいは這うている。もちろん千年の色を誇っているのである。ほかはことごとく雑木でいっせいに黄葉しているが、上のほう高いところに楓樹があるらしい。木ずえの部分だけまっかに赤く見える。黄色い雲の一端に紅をそそいだようである。
松はとうていこの世のものではない。万葉集に玉松という形容語があるが、真に玉松である。幹の赤い色は、てらてら光るのである。ひとかかえもある珊瑚を見るようだ。珊瑚の幹をならべ、珊瑚の枝をかわしている上に、緑青をべたべた塗りつけたようにぼってりとした青葉をいただいている。老爺は予のために、楓樹にはいのぼって上端にある色よい枝を折ってくれた。手にとれば手を染めそうな色である。
湖も山もしっとりとしずかに日が暮れて、うす青い夕炊きの煙が横雲のようにただようている。舟津の磯の黒い大石の下へ予の舟は帰りついた。老爺も紅葉の枝を持って予とともにあがってくる。意中の美人はねんごろに予を戸口にむかえて予の手のものを受けとる。見かけによらず如才ない老爺は紅葉を娘の前へだし、これごろうじろ、この紅葉の美しさ、お客さまがぜひお嬢さんへのおみやげにって、大首おって折ったのぞなどいう。まだ一度も笑顔を見せなかった美人も、いまは花のごときえみをたたえて紅葉をよろこんだ。晩食には湖水でとれた鯉の洗いを馳走してくれ、美人の唇もむろん昼ほどは固くなく、予は愉快な夢を見たあとのような思いで陶然として寝についた。 | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一月十日 午前運動の為め亀井戸までゆき。やや十二時すぐる頃帰て来ると。妻はあわてて予を迎え。今少し前に巡査がきまして牛舎を見廻りました。虎毛が少し涎をたらしていました故鵞口瘡かも知れぬと申して。男共に鼻をとらして口中をよおく見ました。どうも判然はわからぬけれど念のため獣医を呼んで一応見せるがよかろうと申して。今帰ったばかりです どうしましょうと云う。予はすぐ其の足で牛舎へはいって虎毛を見た。異状は少しもない。老牛で歯が稍鈍くなっているから。はみかえしをやる度自然涎を出すのである。此牛はきょうにかぎらずいつでもはみかえしをやる度に涎を出すのはきまって居るのだ。それと角へかけて結びつけたなわの節が。ちょうど右の眼にさわるようになっていたので涙を流していた。巡査先生之を見て怪んだのである。獣医を呼ぶまでもなしと予が云うたので。家内安心した
十一日 午後二時頃深谷きたる。当区内の鵞口瘡は此六日を以て悉皆主治したとの話をした
十二日 午前警視庁の巡回獣医来る 健康診断のためである。例の如く消毒衣に服を着かえて。くつを下駄にはきかえて牛舎を見廻った。予は獣医に府下鵞口瘡の模様を問うた。本月二日以来新患の届出でがないから。もう心配なことはなかろうとの獣医の答であった
十三日 午前二時朝乳を搾るべき時間であるから。妻は男共をおこしに往った。牛舎で常と変った叫ごえがする。どれか子をうみやがったなと思うていると。果して妻は糟毛がお産をしました。親の乳も余りはりません 犢も小さい。月が少し早いようですと報告した。予も起きて往て見ると母牛のうしろ一間許はなれて。ばり板の上に犢はすわっていて耳をふっていた。背のあたりに白斑二つ三つある赤毛のめす子である。母牛はしきりにふりかえって犢の方を見ては鳴ている。八ヶ月位であろう どうか育ちそうでもあるから。急に男共に手当をさして。まず例に依って暖かい味噌湯を母牛に飲ませ。寝わらを充分に敷せ犢を母牛の前へ持来らしめた。とりあえず母牛の乳を搾りとって。フラソコ瓶で犢に乳を飲せようとしたけれど。どうしても犢は乳を飲まない。よくよく見ると余程衰弱して居る。月たらずであるのに生れて二三時間手当なしであった故。寒気のためによわったのであろうと思われた。それから一時間半ばかりたって遂に絶命した。予は猶母牛の注意を男共に示して置て寝てしまった
夜明けて後男共は今暁の死犢を食料にせんことを請求してきた。全く或る故障より起った早産で母牛も壮健であるのだから食うても少しも差支はない。空しく埋めてしまうのは惜しいと云う理由であった。女達はしきりに気もちわるがってよせよせと云う。予は勿論有毒なものではあるまいから喰いたいならそちらへ持て往て喰えと命じた。やがて男共は料理して盛にやったらしかった。なかなかうまいです少々如何ですかと云って。一椀を予の所へ持て来たけれども。予は遂に一口を試むるの勇気もなかった
十四日 暖かであるから出産牛のあと消毒を行わせた。きょうは午后から鵞口瘡疫の事に就て。組合本部の役員会がある筈なれど差支える事があって往をやめた
十五日 朝根室分娩牡犢である。例に依て母牛に視せずして犢を遠く移した 母牛は壮健である。杉山発情午後交尾さした。アンヤ陰部より出血 十三日頃発情したのであるを見損じたのである。次回のさかりの時をあやまるなと男共及び妻に注意した
十六日 前夜より寺島の犢がしきりに鳴く。午后の乳搾る頃になりてますます鳴く。どうしたのじゃ飼の足らぬのじゃないかと云えば。飼は充分やってあるのです 又よく喰うのです。なんでもあいつは。十五日朝はなれて母牛の乳を一廻残らず飲みましてそれから鳴のです。ですからあれは母牛の乳をまだ飲たがって鳴のでしょうと男等は云った。日くれになってもまだ鳴いている。気になるから徃って見たが。どうでもない 矢張男等が云う通りにちがいないようであった
明治34年2月『ほとゝぎす』
署名 本所 さちを | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「ほとゝぎす 第四卷第五號」ほとゝぎす発行所
1901(明治34)年2月28日発行
初出:「ほとゝぎす 第四卷第五號」ほとゝぎす発行所
1901(明治34)年2月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「許」と「ばかり」、「為め」と「ため」、「飲ませ」と「飲せ」、「鳴ている」と「鳴いている」、「往」と「徃」、「依って」「依て」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「本所さちを」です。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2018年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059060",
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一
君は僕を誤解している。たしかに君は僕の大部分を解していてくれない。こんどのお手紙も、その友情は身にしみてありがたく拝読した。君が僕に対する切実な友情を露ほども疑わないにもかかわらず、君が僕を解しておらぬのは事実だ。こういうからとて、僕は君に対しまたこんどのお手紙に対し、けっして不平などあっていうのではないのだ。君をわかりの悪い人と思うていうのでもないのだ。
僕は考えた。
君と僕とは、境遇の差があまりにはなはだしいから、とうてい互いにあい解するということはできぬものらしい。君のごとき境遇にある人の目から見て、僕のごとき者の内面は観察も想像およぶはずのものであるまい。いかな明敏な人でも、君と僕だけ境遇が違っては、互いに心裏をくまなくあい解するなどいうことはついに不可能事であろうと思うのである。
むろん僕の心をもってしては、君の心裏がまたどうしてもわからぬのだ。君はいつかの手紙で、「わかるもわからぬもない。僕の心は明々白々で隠れたところはない」などというておったが、僕のわからぬというのは、そういうことではない。余事はともかく、第一に君は二年も三年も妻子に離れておって平気なことである。そういえば君は、「何が平気なもんか、万里異境にある旅情のさびしさは君にはわからぬ」などいうだろうけれど、僕から見ればよくよくやむを得ぬという事情があるでもなく、二年も三年も妻子を郷国に置いて海外に悠遊し、旅情のさびしみなどはむしろ一種の興味としてもてあそんでいるのだ。それは何の苦もなくいわば余分の収入として得たるものとはいえ、万という金を惜しげもなく散じて、僕らでいうと妻子と十日の間もあい離れているのはひじょうな苦痛である独居のさびしみを、何の苦もないありさまに振舞うている。そういう君の心理が僕のこころでどうしても考え得られないのだ。しからば君は天性冷淡な人かとみれば、またけっしてそうでないことを僕は知っている。君は先年長男子を失うたときには、ほとんど狂せんばかりに悲嘆したことを僕は知っている。それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある熱心があるとはみえない。
こういうと君はまたきっと、「いやしくも男子たるものがそう妻子に恋々としていられるか」というだろう。そこだ、僕のわからぬというのは。境遇の差があまりにはなはだしいというのもそこだ。
僕の今を率直にいえば、妻子が生命の大部分だ。野心も功名もむしろ心外いっさいの欲望も生命がどうかこうかあってのうえという固定的感念に支配されているのだ。僕の生命からしばらくなりとも妻や子を剥ぎ取っておくならば、僕はもう物の役に立たないものになるに違いないと思われるのだ。そりゃあまり平凡じゃと君はいうかもしれねど、実際そうなのだからしかたがない。年なお若い君が妻などに頓着なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互いに解しがたいことであるらしい。
貧乏人の子だくさんというようなことも、僕の今の心理状態と似よった理由で解釈されるのかもしれない。そうかといって、結婚二十年の古夫婦が、いまさら恋愛でもないじゃないか。人間の自然性だの性欲の満足だのとあまり流行臭い思想で浅薄に解し去ってはいけない。
世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を育てるのに苦労してるが……と考えた時、世の中があまりありがたくなく思われだした。いままで知らなかったさびしさを深く脳裏に彫りつけた。夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起こってくるときどきのできごととその事実は、君のような大船に安乗して、どこを風が吹くかというふうでいらるる人のけっして想像し得ることではないのだ。
こころ満ちたる者は親しみがたしといえば、少し悪い意味にとらるる恐れがあるけれど、そういう毒をふくんだ意味でなく公明な批判的の意味でみて、人生上ある程度以上に満足している人には、深く人に親しみ、しんから人を懐しがるということが、どうしてもわれわれよりは少ないように思われる。夫婦親子の関係も同じ理由で、そこに争われない差別があるであろう。とくに夫婦の関係などは最も顕著な相違がありはすまいか。夫婦の者が深くあいたよって互いに懐しく思う精神のほとんど無意識の間にも、いつも生き生きとして動いているということは、処世上つねに不安に襲われつつある階級の人に多く見るべきことではあるまいか。
そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うのが当然じゃと、無造作に解決しておけばそれまでであるけれど、僕らはそれをいま少し深く考えてみたいのだ。いちじるしき境遇の相違は、とうていくまなくあい解することはできないにしても、なるべくは解し得るだけ多くあい解して、親友の関係を保っていきたい。
いつかのお手紙にもあった、「君は近ごろ得意に小説を書いてるな、もう歌には飽きがきたのか」というような意味のことが書いてあった。何ごともこのとおりだ、ちょっとしたことにもすぐ君と僕との相違は出てくる。
君が歌を作り文を作るのは、君自身でもいうとおり、作らねばならない必要があって作るのではなく、いわば一種のもの好き一時の慰みであるのだ。君はもとより君の境遇からそれで結構である。いやしくも文芸にたずさわる以上、だれでもぜひ一所懸命になってこれに全精神を傾倒せねばだめであるとはいわない。人生上から文芸を軽くみて、心の向きしだいに興を呼んで、一時の娯楽のため、製作をこころみるという、君のようなやり方をあえて非難するのではない。ただ自分がそうであるからとて、人もそうであると臆断するのがよくないと思う。
僕が歌を作り小説を書くのは、まったく動機が君と違うのだ。僕はけっして道楽する考えで、歌や小説をやるのではない。自己の生存上、どうでも歌と小説を作らねばならなく思うてやっているのだ。政治家にもなれず、事業家にもなれず、学者にもなれないとすれば、やや自分の天性に適した文芸にでも生きてゆく道を求めるのほかないではないか。それは娯楽も慰藉もそれに伴うてることはもちろんであるけれど、その娯楽といい慰藉というのも、君などが満足の上に満足を得て娯楽とし慰藉とするものとは、すこぶる趣を異にしているであろう。人からはどうみえるか知らないが、今の僕には、何によらず道楽するほど精神に余裕がないのだ。
数えくれば際限がない。境遇の差というものは実に恐ろしいものである。何から何までことごとくその心持ちが違っている。それであるから、とうてい互いにじゅうぶんあい解することはできないのである。それにもかかわらずなお君に訴えようとするのは、とにかく僕の訴えをまじめに聞いてくれる者は、やはり君をおいてほかにありそうもないからだ。
二
去年は不景気の声が、ずいぶん騒がしかった。君などの耳には聞こえたかどうか、よし響いたにしたところで、松原越しに遠浦の波の音を聞くくらいに聞いたであろう。府下の同業者なども、これまで幾度かあった不景気騒ぎには、さいわいにその荒波に触るるの厄をまぬがれてきたのだが、去年という大厄年の猛烈な不景気には、もはやその荒い波を浴びない者はなかった。
売れがわるければ品物は残る。どの家にも物品が残ってるから価がさがる。こういうときに保存して置くことのできない品物、すなわち牛乳などはことに困難をする。何ほど安くても捨てるにはましだ。そこでだれもだれも安くても売ろうとする。乳価はいよいよさがらねばならない。いっぽうには品物を残し(棄たるの意)、いっぽうには価がさがっている。収入は驚くほど減じてくる。動物を飼うてる営業であるから、収入は減じても、経費は減じない。その月の収入でその月の支払いがいつでも足りない。その足りない分はどうして補給するか。多少の貯蓄でもあればよいが、平生がすでにあぶなく舟をこいでいる僕らであると、どうしても資本を食うよりほかはないことになる。これを俗に食い込みというのだが、君たちにはわからない言葉であろう。
君もおおよそは知ってるとおり、僕は営業の割合に家族が多い。畜牛の頭数に合わして人間の頭数が多い。人間にしても働く人間よりは遊食が多い。いわば舟が小さくて荷物が容積の分量を越えているのだ。事のあったときのために平生余裕をつくる暇がないのだ。つねの時がすでに不安の状態にあるのだから、少し波風が荒いとなっては、その先どうなるのかほとんど見込みのつかないほど極度の不安を感ずるのだ。
それが君、年のまだ若い夫婦ふたりの時代であるならば、よし家を覆滅させたところで、再興のくふうに窮するようなこともないから、不安の感じもそれほど深刻ではないが、夫婦ふたりの四ツの手に八人の子どもをかかえているという境遇であってみると、その深刻な感じがさらにどれだけ深刻であるか。君たちにもたいていは想像がつくだろう。
七ツ八ツくらいまでは子どももほんの子どもだ。まだ親の苦労などはわからなく、毎日曇りのない元気な顔に嬉々と遊戯にふけっているが、それらの姉どもはもう親の不安を心得きっている。親の心ではなるたけ子どもらには苦労もさせたくないから、できる限り知らさないようにしてはいるものの、不意にくる掛取りのいいわけを隠してすることもできないから、実は隠そうとしても隠しきれない。親の顔色を見て、口にそうとは言わなくともさえない顔色して自然元気がない。子どもながら両親の顔色や話しぶりに、目を泣き耳を立てるというふうであるのだ。
こうなると君、人間というやつはばかに臆病になるものだよ、何ごとにもおじ気がついて、埓もなくびくびくするのだ。
こんなことじゃいかん、あまりひとすじに思い込むのは愚だ。不景気も要するに一時の現象だから一年も二年も続く気づかいはない。ともかく一月一月でもどうにかやって行ければ、そのうち息をつくときもあるだろう。
だれでも考えそうな、たわいもない理屈を思い出して、一時の気安めになるのも、実は払わねばならぬものは払い、言い延べのできるものは言い延べてしまった、月と月との間ぎわ少しのあいだのことだ。収入はまた先月よりも減じた。支払いは引き残りがあるからむろん先月よりも多い。一時のつけ元気で苦しさをまぎらかしたのも、姑息の安を偸んでわずかに頭を休めたのも月末という事実問題でひとたまりもなく打ちこわされてしまう。
臆病心がいよいよこうじてくると、世の中のすべての物がことごとく自分を迫害するもののように思われる。強風が吹いて屋根の隅でも損ずれば、風が意地わるく自分を迫害するように感ずる。大雨が降る傘を買わねばならぬ。高げたを買わねばならぬといえば、もう雨が恐ろしいもののように思われる。同業者はもちろん仇敵だ。すべての商人はみな不親切に思われる。汽車の響き、電車の音、それも何となく自分をおびやかすように聞こえるのだ。平生懇意に交際しているあいだがらでも、向こうに迷惑をかけない限りの懇意で少しでも損をかけ、もしくは迷惑をさせたらば、その日から懇意な関係は絶えてしまう。けっきょく自分を離れないものは、世の中に妻と子とばかりである。
君はかならずいうだろう、「そりゃあまりに極端な考えだ、誇張がありすぎる」と。そういっても実際の感じだから誇張でも何でもない。不自由をしたことのない人には不自由な味はわからぬ。獄にはいった人でなければ獄中の心持ちはわからない。
言い延べも限りがある。とどこおった払いはいつかは払わねばならぬ。何のくふうもなく食い込んでおれば家をこわして炊くようなものだ。たちまち風雨のしのぎがつかなくなることは知れきっている。
くふうといって別に変わったくふうのありようもないから、友人から金を借りようと決心したのだ。金に困って友人から金を借りたというだけならば、もとより問題にはならない。しかし食い込んでゆく補給に借りた金が容易に返せるはずのものでない。それは僕も知っておった。容易に返せないと知っておっても、借らねばならぬことになった。
そこであらたな苦しみをみずから求めることになった。何ほど親しい友人にでも、容易に返せないが金を貸せとはいえない。そういえば友人もおそらくは貸さない。つまるところはいつごろまでには返すからと友人をあざむくことになるのだ。友人をあざむく……道徳上の大罪を承知で犯すように余儀なくされた。友人の好意で一面の苦しみはやや軽くなったけれど精神上に受けた深い疵傷は長く自分を苦しめることになった。罪を知っているだけ苦痛は層一層苦痛だ。この苦痛からまぬがれたいばかりでも、借りた金はいっときも早く返したい。寝る目のねざめにも、ああ返したいと心が叫んでいるのだ。
恐るべきものではないか、一度金を借りたとなると、友人はもはや今までの友人でなくなる。友人の関係と債主との関係と妙に混交して、以前のようなへだてなく無造作な親しみはいつのまにか消えてゆく。こういう場合の苦痛はだれに話して聞かせようもない。
自分はどこまでも友人の好意に対し善意と礼儀とを失なわないようにつとめる。考えてみると自分の良心をあざむいてまで、いわゆるつとめるということを実行する。けれども友人のほうはあんがい平気だ。自分からは三度も訪問しても友人は一度も来ないようなことが多い。こうなると友人という情義があるのかないのかわからなくなってしまう。腹の底の奥深い所に、怨嗟の情が動いておっても口にいうべき力のないはかない怨みだ。交際上の隠れた一種の悲劇である。友人のほうでは決して友人に金を貸すものではないと後悔しているのじゃないかと思うてはいよいよたまらない。友人には掻きちぎるほどそむきたくないが、友人はしだいに自分を離れる。罪がことごとく自分にあるのだから、懊悩のやるせがないのだ。
あぶない道を行く者は、じゅうぶんに足をふんばり背たけを伸ばして歩けないのが常だ。心をまげ精神を傷つけ一時を弥縫した窮策は、ついに道徳上の罪悪を犯すにいたった。偽りをもって始まったことは、偽りをもって続く。どこまでも公明に帰ることはできない。どう考えても自分はりっぱな道徳上の罪人だ。人なかで高言のできない罪人だ。
君の目から見たらば、さだめて気の毒にも見えよう、おかしくも見えよう。しかし君人間は肉体上に容易に死なれないごとく、精神上にもまた容易に死なれないものだ。
僕は今は甘んじて道徳上の罪人となったけれど、まだ精神上の悪人だとは自覚ができない。君、悪人が多く罪を犯すか、善人が多く罪を犯すか、悪人もとより罪を犯すに相違ないが善人もまた多く罪を犯すものだ。君は哲学者であるから、こういう問題は考えているだろう。
ある場合においては善人かえって多く罪を犯すことがあるまいか。
善人の罪を犯さないのは、その善人なるがゆえでなく、決行の勇気を欠くためにしかるのではあるまいか。少しく我田引水に近いが僕の去年の境遇では、僕がどこまでも精神上の清潔を保持するならば、僕の一家は離散するのほかはなかったし罪悪と知って罪悪を犯した苦しさ悲しさは、いまさら繰り返す必要もない。一家十人の離散が救われたと思えば、僕は罪人たるに甘んじねばならぬ。君もこの罪はゆるしてくれるだろう。僕の友人としての関係はよし旧のごとくならずとするも僕の罪だけはゆるしてくれるだろう。
君、僕の懊悩はまだそればかりではない。僕の生活は内面的にも外面的にも、矛盾と矛盾で持ち切っているのだ。趣味の上からは高潔純正をよろこび、高い理想の文芸を味おうてる身で、生活上からは凡人も卑しとする陋劣な行動もせねばならぬ。八人の女の子はいつかは相当に婚嫁させねばならぬ。それぞれ一人前の女らしく婚嫁させることの容易ならぬはいうまでもない。この重い重い責任を思うと五体もすくむような心持ちがする。しかるにもかかわらず、持って生まれた趣味性の嗜好は、君も知るごとく僕にはどうしても無趣味な居住はできないのだ。恋する人は、理の許す許さぬにかかわらず、物のあるなしにかかわらず恋をする。理が許さぬから物がないからとて忍ぶことのできる恋ならば、それは真の恋ではなかろう。恋の悲しみもそこにある。恋の真味もそこにある。僕の嗜好もそれと同じであるから苦しいのだ。嗜好に熱があるだけ苦しみも深い。
友人の借銭もじゅうぶんに消却し得ず、八人の子のしまつも安心されない間で、なおときどき無要なもの好きをするのがそれだ。
この徹頭徹尾矛盾した僕の行為が、常に僕を不断の悔恨と懊悩とに苦しめるのだ。もっとも僕の今の境遇はちょうど不治の病いにわずらっている人のごとくで、平生苦悩の絶ゆるときがないから、何か他にそれをまぎらわすべき興味的刺激がなければ生存にたえないという自然の要求もあるだろう。
矛盾混乱なにひとつ思うようにならず、つねに無限の懊悩に苦しみながらも、どうにか精神的の死滅をまぬかれて、なお奮闘の勇を食い得るのは、強烈な嗜好が、他より何物にも犯されない心苑を闢いて、いささかながら自己の天地がそこにあるからであるとみておいてもらいたい。
自分で自分のする悲劇を観察し批判し、われとわが人生の崎嶇を味わいみるのも、また一種の慰藉にならぬでもない。
それだけ負け惜しみが強ければ、まァ当分死ぬ気づかいもないと思っておってくれたまえ。元来人間は生きたい生きたいの悶躁でばかり動いている。そうしてどうかこうか生を寄するの地をつくっているものだ。ただ形骸なお存しているのに、精神早く死滅しているというようなことにはなりたくない。愚痴はこれくらいでやめるが、僕の去年は、ただ貧乏に苦しめられたばかりではなかった。
三
矛盾した二つのことが、平気で並行されるということは、よほど理屈にはずれた話だけれど、僕のところなどではそれがしじゅう事実として行なわれている。
ある朝であった。妻は少し先に起きた。三つになるのがふとんの外へのし出て眠っているのを、引きもどして小枕を直しやりながら、
「ねいあなた、まだ起きないですか」
「ウム起きる、どうしたんだ」
見れば床にすわりこんで、浮かぬ顔をしていた妻は、子どもの寝顔に目をとめ、かすかに笑いながら、
「まァかわいい顔して寝てる、こうしているのを見ればちっとも憎くないけど……」
ちっとも憎くないけどの一語は僕の耳には烈しい目ざましになった。妻はふたたび浮かぬ顔に帰ってうつぶせになにものかを見ている僕は夜具をはねのけた。
「ねいあなた、わたしの体はまたへんですよ」
僕は、ウムと答える元気もなかった。妻もそれきり一語もなかった。ふたりとも起って夜具はずんずん片づけられる。あらたなるできごとをさとって、烈しく胸に響いた。話しするのもいやな震動は、互いに話さなくとも互いにわかっている。心理状態も互いに顔色でもうわかってる。妻は八人目を懐胎したのだ。
「ほんとに困ったものねい」
と、いうような言葉は、五人目ぐらいの時から番ごと繰り返されぬいた言葉なのだ。それでもこの寝ているやつのときまでは、
「もうかい……」
「はァ……」
くらいな言葉と同時に、さびしいようなぬるいような笑いを夫婦が交換したものだ。
「えいわ、人間が子どももできないようになれば、おしまいじゃないか」
こんなつけ元気でもとかくさびしさをまぎらわし得たものだ。
けさのふたりは愚痴をいう元気がないのだ。その事件に話を触れるのが苦痛なのだ。人が聞いたらばかばかしいきわみな話だろうが、現にある事実なのだ。しかも前夜僕は、来客との話の調子で大いに子ども自慢をしておったのだから滑稽じゃないか。
子を育てないやつは社会のやっかい者だ。社会の恩知らずだ。僕らのようにたくさんの子を育てる者に対して、国家が知らぬふうをしているという法はない。子どもを育てないやつが横着の仕得をしてるという法もない。これはどうしても国家が育児に関する何らかの制度を設けて、この不公平を矯めるのが当然だ。第二の社会に自分の後継者を残すのは現社会の人の責任だ。だから子を育てないやつからは、少くもひとりについてひとりずつ、夫婦ふたりでふたりの後継者を作るべき責務として、国家は子のない者から、税金を取るべきだ。そうして余分に子を育てる人を保護するのが当然だ。僕らは実に第二の社会に対しては大恩人だ。妻の両親も健康で長命だ。僕の両親も健康で長命だった。夫婦ともに不潔病などは親の代からおぼえがない。健全無垢な社会の後継者を八人も育てつつある僕らに対して、社会が何らの敬意も払わぬとは不都合だ。しかしまた、たとえ社会が僕らに対して何らの敬意を払わないにしても、事実において多くの社会後継者を養いつつあるのだから、ずいぶんいばってもよいだろう……。
そんな調子に前夜は空気炎をはいておおいに来客をへこませ、すこぶる元気よく寝についた僕も、けさは思いがけない「またへんですよ」の一言に血液のあたたかみもにわかに消えたような心地になってしまった。例のごとく楊枝を使って頭を洗うたのも夢心地であった。
門前に立ってみると、北東風がうす寒く、すぐにも降ってきそうな空際だ。日清紡績の大煙突からは、いまさらのごとくみなぎり出した黒煙が、深川の空をおおうて一文字にたなびく。壮観にはちがいないが不愉快な感じもする。
多く社会の後継者をつくるということは、最も高い理想には相違なきも、子多くして親のやせるのも生物の真理だ。僕はこんなことを考えながら、台所へもどった。
親子九人でとりかこむ食卓は、ただ雑然として列も順序もない。だれの碗だれの箸という差別もない。大きい子は小さい子の世話をする。鍋に近い櫃に近い者が、汁を盛り飯を盛る。自然で自由だともいえる。妻は左右のだれかれの世話をやきながらも、先刻動揺した胸の波がいまだ静まらない顔つきである。いつもほど食卓のにぎわわないのは、親たちがにぎやかさないからだ。
琴のおさらいが来月二日にある。師匠の師匠なる大家が七年目に一度するという大会であるから、家からも三人のうち二人だけはぜひ出てくれという師匠からの話があったから、どうしようかと梅子がいい出した。梅子は両親の心もたいていはわかってるから、師匠がそういうたとばかり、ぜひ行きたいとはいわないのだ。しばらくはだれも何とも言わない。僕も妻もまた一種の思いを抱かずにはいられなかった。
父は羽織だけはどうにかくふうしてふたり行ったらよかろうという。父は子どもたちの前にもいくぶんのみえ心がある。そればかりでなく、いつとてこれという満足を与えたこともないのだから、この場合とてもそんなことがと心いながらも頭からいけないというのは、どうしてもいえないでそういったのだ。
母なるものには、もとより心にないことはいえない。そうかといって、てんからいけないとはかわいそうで言えないから、口出しができないでいる。
「そんならわたいの羽織を着て行けばえいわ」と、長女がいいだした。梅子は、
「人の着物借りてまでも行きたかない。わたい」
「そんなら着物を持ってる蒼生子がひとり行くことにしておくか」
両親の胸を痛めたほど、子どもたちには不平がないらしく話は段落がついた。あとはひとしきり有名な琴曲家の噂話になった。僕は朝からの胸の不安をまぎらわしたいままに、つとめて子どもたちの話に興をつけて話した。けれども僕の気分も妻の顔色も晴れるまでにいたらなかった。
若衆は牛舎の仕事を終わって朝飯にはいってくる。来る来る当歳の牝牛が一頭ねたきり、どうしても起きないから見て下さいというのであった。僕はまた胸を針で刺されるような思いがした。
二度あることは三度ある。どうも不思議だ、こればかりは不思議だ。僕はひとり言ながらさっそく牛舎に行ってみた。熱もあるようだ。臀部に戦慄を感じ、毛色がはなはだしく衰え、目が闇涙を帯んでる。僕は一見して見込みがないと思った。
とにかくさっそく獣医に見せたけれど、獣医の診断も曖昧であった。三日目にはいけなかった。間の悪いことはかならず一度ではすまない。翌月牝子牛を一頭落とし、翌々月また牝牛を一頭落とした。不景気で相当に苦しめられてるところへこの打撃は、病身のからだに負傷したようなものであった。
三頭目の斃牛を化製所の人夫に渡してしまってから、妻は不安にたえない面持ちで、
「こう間の悪いことばかり続くというのはどういうもんでしょう。そういうとあなたはすぐ笑ってしまいますけど、家の方角でも悪いのじゃないでしょうか」
「そんなことがあるもんか、間のよい時と間の悪い時はどこの家にもあることだ」
こういって僕はさすがに方角を見てもらう気も起こらなかったが、こういう不運な年にはまたどんな良くないことがこようもしれぬという恐怖心はひそかに禁じ得なかった。
四
五月の末にだれひとり待つ者もないのにやすやすと赤子は生まれた。
「どうせ女でしょうよ」
妻はやけにそういえば、産婆は声静かに笑いながら、
「えィお嬢さまでいらっしゃいますよ」
生まれる運をもって生まれて来たのだ。七女であろうが八女であろうが、私にどうすることもできない。産婆はていちょうに産婆のなすべきことをして帰った。赤子はひとしきり遠慮会釈もなく泣いてから、仏のような顔して眠っている。姉々にすぐれて顔立ちが良い。
「大事にされる所へ生まれて来やがればよいのに」
妻はそういう下から、手を伸べて顔へかかった赤子の着物をなおしてやる。このやっかい者めがという父の言葉には、もう親のいとしみをこめた情がひびいた。口々に邪慳に言われても、手ですることには何の疎略はなかった。
「今に見ろ、このやっかい者に親も姉妹も使い回されるのだ」
「それだから、なおやっかい者でさあね」
毎日洗われるたびに、きれいな子だきれいな子だといわれてる。やっかいに思われるのも日一日と消えて行く。
電光石火……そういう間にも魔の神にのろわれておったものか、八女の出産届をした日に三ツになる七女は池へ落ちて死んだ。このことは当時お知らせしたことで、僕も書くにたえないから書かない。僕ら夫妻は自分らの命を忘れて、かりそめにもわが子をやっかいに思うたことを深く悔い泣いた。
多いが上にまた子どもができるといっては、吐息を突いて嘆息したものが、今は子どもに死なれて、生命もそこなうばかりに泣いた。
矛盾撞着……信仰のない生活は、いかりを持たない船にひとしく、永遠に安住のないことを深刻に恥じた。
五
七月となり、八月となり、牛乳の時期に向かって、不景気の荒波もようやく勢いを減じたが、幼女を失うた一家の痛みは、容易に癒ゆる時はこない。夫妻は精神疲労して物に驚きやすく、夜寝てもしばしば眼をさますのである。
おりから短夜の暁いまだ薄暗いのに、表の戸を急がしく打ちたたく者がある。近所にいる兄の妻が産後の急変で危篤であるから、すぐに某博士を頼んでくれとのことを語るのであった。
驚いている間もない。妻を使いの者とともに駆け着けさせ、自分はただちに博士を依頼すべく飛び出して家を出でて二、三丁、もう町は明け渡っている。往来の人も少なくはない。どうしても俥が得られなく、自分は重い体を汗みじくに急いだ。電車道まで来てもまだ電車もない。往来の人はいずれも足早に右往左往している。
人が自分を見たらば何と見るか、まだ戸を明けずにいる人もあるのに、いま時分急いで歩く人は、それぞれ人生の要件に走っているのであろう。自分が人を見るように、人も自分を見て、何の要事で急ぐのかと思うのだろう。自分がいま人間ひとりの生死を気づかいつつ道を急ぐように、人もおのおの自己の重要な事件で走っているのであろう。
あるいは自分などより層一層痛切な思いを抱いて、足も地につかない人もあろう。あるいは意外の幸運に心も躍って道の遠いのも知らずにゆく人もあろう。事の余儀なきにしぶしぶ出てきて足の重い人もあろう。
自分は考えるともなしこんなことを考えながら、心のすきすきに嫂の頼み少ない感じが動いてならなかった、博士は駿河台の某病院長である。自分は博士の快諾を得てすぐ引っ返したけれど、人力もなく電車もないのに気ばかりせわしくて五体は重い。眉毛もぬれるほどに汗をかいて急いでも、容易に道ははかどらない。
細りゆく命をささえて、病人がさぞかし待ち遠であろうと思うと、眼もくらむばかりに苦しくなる。病人の門を望見したときに、博士は二人引きの腕車で後からきた。自分はともに走って兄の家に飛び込んだ。けれども門にはいってあまりに家のひっそりしているを気づかった。果たして間に合わなかった。三十分ばかり前に息を引きとったとのことであった。博士は産後の出血は最も危険なこと、手当てに一刻の猶予もできないことなどを語って帰った。寄った人の限りはあい見て嘆息するほかはなかった。
嫂は四十二であった。きのうの日暮れまでも立ち働いておったそうである。夜の一時ごろにしかも軽く分娩して、赤子は普通より達者である。
自分は変わった人のさまを見るに忍びなかったけれど、あまり運命の痛ましに、会わずにいるにもたえられない。惨として死のにおいが満ちた室にはいって、すでに幽明隔たりある人に会うた。胸部のあたりには、生の名残りの温気がまだ消えないらしい。
平生赤みかかった艶のよい人であったが、全血液を失うてしもうたものか、蒼黄色に変じた顔は、ほとんどその人のようでなかった。嫂はもうとてもむつかしいと見えたとき、
「わたしもこれで死んでしまってはつまらない……」
と、いったそうである。若くして死ぬ人の心は多くその一語に帰すのであろう。平凡な言葉にかえって無限の恨みがこもっている。きのうの日暮れまで働いていた人が、その夜の明け明けにもはや命が消える。多くの子どもや長年添うた夫を明るい世にのこし、両親が会いにくるにも間に合わないで永久の暗に沈まんとする、最後を嘆く暇もない。
「これで死んでしまってはつまらない」
もがく力も乏しい最後の哀音、聞いたほどの人の耳には生涯消えまじくしみとおった。自分は妻とともにひとまず家に帰って、ただわけもわからずため息をはくのであった。思わず妻の顔子どもたちの顔を見まわした。まさか不意にだれかが死ぬというようなことがありゃせまいなと思われたのである。
その赤子がまもなくいけなかった。ついで甥の娘が死んだ、友人の某が死に某が死んだ。ついに去年下半年の間に七度葬式に列した僕はつくづく人生問題は死の問題だと考えた。生活の問題も死の問題だ。営業も不景気も死の問題だ。文芸もまた死の問題だ。そんなことを明け暮れ考えておった。そうして去年は暮れた。
不幸ということがそう際限もなく続くものでもあるまい。年の暮れとともに段落になってくれればよいがと思っていると、息はく間もなく、かねて病んでおった田舎の姉が、新年そうそうに上京した。それでこれもまもなく某病院で死んだ。姉は六十三、むつかしい病気であったから、とうから覚悟はしておった。
「欲にはいま三年ばかり生きられれば、都合がえいと思ってたが、あに今死んだっておれは残り惜しいことはない……」
こう自分ではいったけれど、知覚精神を失った最後の数時間までも、薬餌をしたしんだ。匙であてがう薬液を、よく唇に受けてじゅうぶんに引くのであった。人間は息のとまるまでは、生きようとする欲求は消えないものらしい。
六
いささか長いに閉口するだろうが、いま一節を君に告げたい。この春東京へは突如として牛疫が起こった。いきおい猛烈にわが同業者を蹂躙しまわった。二カ月の間に千二百頭を撲殺したのである。僕の周囲にはさいわいに近くにないから心配も少ないが、毎日二、三枚ずつはかならずはがきの報告がくる。昨夜某の二十頭、けさ某の四十頭を撲殺云々と通じてくるのである。某の七十頭、某の九十頭など、その惨状は目に見えるようである。府内はいっさい双蹄獣の出入往来を厳禁し、家々においてもできる限り世間との交通を遮断している。動物界に戒厳令が行なわれているといってよい。僕はさいわいに危険な位置をいささか離れているけれど、大敵に包囲されている心地である。もっとも他人の火事を見物するような心持ちではいられないのはもちろんだ。
同業者間にはかねての契約がなり立っている。同業中不幸にし牛疫にかかった者のあった場合には何人もその撲殺評価人たる依頼を拒まれぬということである。それで僕はついに評価人にならねばならぬ不幸が起こった。
深川警察署からの通知で、僕は千駄木町の知人某氏の牛疫撲殺に評価人として出張することとなった。僕ははじめて牛疫を見るという無経験者であるから、すこぶる気持ちは良くないがやむを得ないのだ。それに僕が評価人たることは、知人某氏のためにも利益になるのであるから、勇を鼓して出かけて行った。
日の暮れ暮れに某氏の門前に臨んでみると、警察官が門におって人の出入を誰何している。門前には四十台ばかりの荷車に、それに相当する人夫がわやわや騒いでおった。刺を通じて家にはいると、三人警部と茶を飲んでおった主人は、目ざとく自分を認めた。僕がいうくやみの言葉などは耳にもはいらず。
「やァとんだご迷惑で……とうとうやっちゃったよアハハハハハ」
と事もなげに笑うのであったが、茶碗を持った手は震えておった。女子どもはどうしたか見えない。巡査十四、五人、屠殺人、消毒の人夫、かれこれ四十人ばかりの人たちが、すこぶるものなれた調子に、撲殺の準備中であった。牛の運動場には、石灰をおびただしくまいて、ほとんど雪夜のさまだ。
僕は主人の案内でひととおり牛の下見をする。むろん巡査がひとりついてくる。牛疫の牛というのは黒毛の牝牛赤白斑の乳牛である。見ると少しく沈欝したようすはしているが、これが恐るべき牛疫とは素人目には教えられなければわからぬくらいである。その余の三十余頭、少しも平生に変わらず、おのおの争うて餌をすすっている。
「こうしているのをいま少しすぎにみな撲殺してしまうのかと思うと、損得に関係なく涙が出る」
主人はいまさら胸のつかえたように打ち語るのであった。けさ分娩したのだという白牛は、白黒斑のきれいなわが子を、頭から背から口のあたりまで、しきりにねぶりまわしているなどは、いかにも哀れに思われた。牡牛のうめき声、子牛の鳴き声等あい混じてにぎやかである。いずれもいずれも最後の飼葉としていま当てがわれた飼桶をざらざらさも忙しそうに音をさせてねぶっている。主人は雇人に、
「これきりの飼葉だ、ねぶらせておけよ。桶も焼いてしまうのだ。かじってえい……」
主人の声はのどにつまるように聞こえた。僕は慰めようもなく、ただおおいに放胆なことをいうて主人を励ました。
警視庁の獣医も来て評価人も規定どおり三人そろうたから、さっそくということで評価にかかった。一時四十分ばかりで評価がすむとまったく夜になった。警官連はひとりに一張ずつことごとく提灯を持って立った。消毒の人夫は、飼料の残品から、その他牛舎にある器物のいっさいを運び出し、三カ所に分かって火をかけた。盛んに石油をそそいでかき立てる。一面にはその明りで屠殺にかかろうというのである。
牧夫は酒を飲んだ勢いでなければ、とても手伝っていられないという。主人はやむを得ず酒はもちろん幾分の骨折りもやるということで、ようやく牧夫を得心さした。警官は夜がふけるから早く始めろとどなる。屠手は屠獣所から雇うてきたのである。撲殺には何の用意もいらない。屠手が小さな斧に似た鉄鎚をかまえて立っているところへ、牧夫が牛を引いて行くのである。
最初に引き出したのは赤毛の肥った牝牛であった。相当の位置までくると、シャツにチョッキ姿の屠手は、きわめて熟練したもので、どすと音がしたかと思うと、牝牛は荒れるようすもなく、わずかに頭を振るかとみるまに両膝を折って体をかがめるとひとしく横にころがってしまう。消毒の係りはただちに疵口をふさぎ、そのほか口鼻肛門等いっさい体液の漏泄を防ぐ手数をとる。三人の牧夫はつぎつぎ引き出して適当の位置にすえる。三十分をいでずして十五、六頭をたおしてしまった。同胞姉妹が屍を並べてたおされているのも知らずに、牛はのそのそ引き出されてくる。子持ちの牛はその子を振り返り見てしきりに鳴くのである。屠手はうるさいともいわず、その牛を先にやってしまった。鳴きかけた声を半分にして母牛はおれてしまう。最も手こずったのは大きな牡牛であった。牧夫ふたりがようやく引き出してきても、いくらかあたりの光景に気が立ったとみえ、どうかすると荒れ出そうとして牧夫を引きずりまわすのであった。屠手は進んで自分から相当の位置を作りつつ、すばやく一撃を加えた。今まで荒れそうにしていた大きい牡牛も、土手を倒したようにころがってしまった。警官や人夫やしばしば実行して来た人たちと見えて、牛を殺すなどは何とも思わぬらしい。あえて見るふうもなくむだ話をしている。
僕はむしろ惨状見るにたえないから、とうに出てしまおうとしたのだけれど、主人の顔に対して暇を告げるのが気の毒でたまらず、躊躇しながら全部の撲殺を見てしまった。評価には一時四十分間かかったが、屠殺は一時二十分間で終わってしまった。無愛想な屠手は手数料を受け取るや、話一つせずさっさと帰って行った。警官らはこれからが仕事だといって騒いでいる。牛はことごとく完全に消毒的手配をして火葬場へ運ぶのである。牛舎はむろん大々的消毒をせねばならぬ。
いままで雑然騒然、動物の温気に満ちていた牛舎が、たちまちしんとして寂莫たるように変じたのを見て、僕は自分もそれに引き入れられるような気分がして、もはや一時もここにいるにたえられなくなった。
僕は用意してきたあらたな衣服を着がえ、牛舎にはいった時着た衣服は、区役所の消毒係りの人にたくしてここを出た。むろんすぐに家へは帰られないから、一週間ばかり体を清めるためその夜のうちに国府津まで行った。宿についても飲むも食うも気が進まず、新聞を見また用意の本など出してみても、異様に神経が興奮していて、気を移すことはできなかった。見てきた牛の形が種々に頭に映じてきてどうにもしかたがない。無理に酒を一口飲んだまま寝ることにした。
七日と思うてもとても七日はいられず三日で家に帰った。人の家のできごとが、ほとんどよそごとでないように心を刺激する。僕はよほど精神が疲れてるらしい。
静かに過ぎてきたことを考えると、君もいうようにもとの農業に返りたい気がしてならぬ。君が朝鮮へ行って農業をやりたいというのは、どういう意味かよくわからないが、僕はただしばらくでも精神の安静が得たく、帰農の念がときどき起こるのである。しかし帰農したらば安静を得られようと思うのが、あるいは一時の懊悩から起こるでき心かもしれない。
とにかく去年から今年へかけての、種々の遭遇によって、僕はおおいに自分の修業未熟ということを心づかせられた。これによって君が僕をいままでわからずにおった幾部分かを解してくれれば満足である。 | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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○九月十日 表具屋を呼びて是真筆朝顔の掛軸の表装仕直を命ず。
○十一日 萩見に行く。猶早し。法恩寺は二分、萩寺は三分。
○十二日 小雨、稍寒し。台子を出し風炉に火を入る。花買いに四目の花屋に行く。紫菀と女郎花とを択びて携え帰る。茶を飲みながら兼題の歌、橋十首を作る。
○十三日 岡来る。共に香取を訪う。狭き庭の中垣ともいわず手水鉢ともいわず朝顔を這いつかせたり。蔓茘枝の花もまじり咲く。
○十四日 檜扇の花を植う。
○十五日 向島の百花園に行く。萩盛りなり。草花の数八百余種ありとぞ。
○十六日 根岸庵の万葉輪講会に行く。途に金杉の絵師某をおとずれて蓮の絵を見る。
明治33年10月『ほとゝぎす』
署名 本所 幸男 | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「ほとゝぎす 第四卷第一號」ほとゝぎす発行所
1900(明治33)年10月30日発行
初出:「ほとゝぎす 第四卷第一號」ほとゝぎす発行所
1900(明治33)年10月30日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。
※初出時の署名は「本所幸男」です。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2018年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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成東の停車場をおりて、町形をした家並みを出ると、なつかしい故郷の村が目の前に見える。十町ばかり一目に見渡す青田のたんぼの中を、まっすぐに通った県道、その取付きの一構え、わが生家の森の木間から変わりなき家倉の屋根が見えて心も落ちついた。
秋近き空の色、照りつける三時過ぎの強き日光、すこぶるあついけれども、空気はおのずから澄み渡って、さわやかな風のそよぎがはなはだ心持ちがよい。一台の車にわが子ふたりを乗せ予は後からついてゆく。妹が大きいから後から見ると、どちらが姉か妹かわからぬ。ふたりはしきりに頭を動かして話をする。姉のは黄色く妹のは紅色のりぼんがまた同じようにひらひらと風になびく。予は後から二児の姿を見つつ、父という感念がいまさらのように、しみじみと身にこたえる。
「お父さんあれ家だろう。あたいおぼえてるよ」
「あたいだって知ってら、うれしいなァ」
父の笑顔を見て満足した姉妹はやがてふたたび振り返りつつ、
「お父さん、あら稲の穂が出てるよ。お父さん早い稲だねィ」
「うん早稲だからだよ」
「わせってなにお父さん」
「早稲というのは早く穂の出る稲のことです」
「あァちゃんおりてみようか」
「いけないよ、家へ行ってからでも見にこられるからあとにしなさい」
「ふたりで見にきようねィ、あァちゃん」
姉妹はもとのとおりに二つの頭をそろえて向き直った。もう家へは二、三丁だ。背の高い珊瑚樹の生垣の外は、桑畑が繁りきって、背戸の木戸口も見えないほどである。西手な畑には、とうもろこしの穂が立ち並びつつ、実がかさなり合ってついている、南瓜の蔓が畑の外まではい出し、とうもろこしにもはいついて花がさかんに咲いてる。三角形に畝をなした、十六角豆の手も高く、長い長いさやが千筋に垂れさがっている。家におった昔、何かにつけて遊んだ千菜畑は、雑然として昔ながらの夏のさまで、何ともいいようなくなつかしい。
堀形をした細長い田に、打ち渡した丸木橋を、車夫が子どもひとりずつ抱きかかえて渡してくれる。姉妹を先にして予は桑畑の中を通って珊瑚樹垣の下をくぐった。
家のまわりは秋ならなくに、落葉が散乱していて、見るからにさびしい。生垣の根にはひとむらの茗荷の力なくのびてる中に、茗荷茸の花が血の気少ない女の笑いに似て咲いてるのもいっそうさびしさをそえる。子どもらふたりの心に何のさびしさがあろう。かれらは父をさしおき先を争うて庭へまわった。なくなられたその日までも庭の掃除はしたという老父がいなくなってまだ十月にもならないのに、もうこのとおり家のまわりが汚なくなったかしらなどと、考えながら、予も庭へまわる。
「まあ出しぬけに、どこかへでも来たのかい。まあどうしようか、すまないけど少し待って下さいよ。この桑をやってしまうから」
「いや別にどこへ来たというのでもないです。お祖父さんの墓参をかねて、九十九里へいってみようと思って……」
「ああそうかい、なるほどそういえばだれかからそんな噂を聞いたっけ」
手拭を頭に巻きつけ筒袖姿の、顔はしわだらけに手もやせ細ってる姉は、無い力を出して、ざくりざくり桑を大切りに切ってる。薄暗い蚕棚の側で、なつかしい人なだけあわれはわけても深い。表半分雨戸をしめ家の中は乱雑、座を占める席もないほどである。
「秋蚕ですか、たくさん飼ったんですか」
「あァに少しばかりさ。こんなに年をとっててよせばよかったに、隣でも向こうでもやるというもんだから、つい欲が出てね。あたってみたところがいくらにもなりゃしないが、それでもいくらか楽しみになるから……」
「なァにできるならやるがえいさ。じっとしていたんじゃ、だいいち体のためにもよくないから」
「そんなつもりでやるにやっても、あんまり骨が折れるとばかばかしくてねィ。せっかく来てくれてもこのさまではねィ、妾ゃまた盆にくるだろうと思ってました」
「百姓家だものこのさまでけっこうですよ。何も心配することはありゃしないさ」
「そりゃそうだけれどねィ」
姉妹はいつの間に庭へ降りたか、千日草浦島草のまわりで蝶や蜻蛉を追いまわしているようすだ。予は自分で奥の雨戸を繰りやって、あたりをかたづけた。姉もようやく一きまりをつけて奥へくる。例のとおり改まってばかていねいに挨拶をする。そして茶をわかすからといって立った。
蚊帳の釣り手は三隅だけはずして、一隅はそのままむちゃくちゃに片寄せてある。夜具も着物も襖の隅へ積み重ねたままである。朝起きたなりに、座敷の掃除もせぬらしい。昔からかかってる晴耕雨読の額も怪しく蜘蛛の巣が見える。床の間にはたたんだ六枚折りの屏風が立てかけてあって、ほかに何やかやごてごてと置いてある。みえも飾りもないありさまである。
若夫婦は四、五年東京に出ているところへ、三年前に老母がなくなり、この一月また八十五歳の父が永眠した。姉夫婦はたしか六十に近いだろう、家のさびしくなったも無理はない。予はけっしていやな心持ちはせぬけれど、両親もずいぶん達者なほうだったし、姉夫婦は働き盛りで予らの家におったころには、この大きな家もどよむばかりであったのだ。それにくらべると今のわが家は雪にとじこもった冬の心持ちがする。兄は依然として大酒を飲み、のっそりぽんとした顔をして、いつも変わらずそれほどに年寄りじみないが、姉のおとろえようは驚くばかり、まるでしわくちゃな老婆になってしまってる。
予はしばらく背を柱に寄せて考えるともなく、種々に思いが動く。姉の老衰を見るにつけ、自然みずからをかえりみると、心細さがひしひしと身に迫りくる。
「わたしが十六の年にこの家へ来たその秋にお前が生まれた。それで赤ん坊のときから手にかけたせいか、兄弟の中でも、お前がいちばんなつかしい」
姉はいつでもそういって予に物語った。その姉がもはやあのとおり年寄りになったのに、この一月までも達者でおられた父さえ今は永劫にいなくなられた。こう思いくると予はにわかに取り残されものになったかのごとく、いやにわが身のさびしみをおぼえる。ついきのうまでも、まだまだとのみ先を頼むの念は強かったに、今はわが生の余喘も先の見えるような気がしてならない。
予はもう泣きたくなった。思いきり声を立てて泣いてみようかと思う。予の眼はとうに曇っていたのである。
子どもたちは何を見つけたかしきりにおもしろがって笑い興じている。その笑い声は真にはればれしくいきいきとして、何ともいいようなく愉快そうな声である。そうしてその声はたしかに人を闇黒より呼び返す声である。予は実に子どもたちの歓呼の叫びに蘇生して、わずかに心の落ちつきを得たとき、姉は茶をこしらえて出てきた。茶受けは予の先に持参した菓子と、胡瓜の味噌漬け雷干の砂糖漬けであった。予が好きだということを知っての姉の用意らしい。
「よくよく何もなくてただほんの喉しめしだよ。子どもらはどうしたろ。とうもろこしをとってみたらまだ早くてね」
姉はいそいそとして縁から子どもたちを呼び迎える。ふたりは草花を一束ずつ持って上がってくる。
「そんなに花をたくさんとっちゃいかんじゃないか」
「えいやね、東京では花だってかってにゃとれないだろう。いくらとってもえいよ、とればあとからいくらでも生えるから。たァちゃんにあァちゃんだったっけね。ううん九つに十……はァそんなになるかい」
「お前たちその花の名を知ってるかい」
「知らない……お父さん。なんというお花」
「うんまるい赤いのが千日草。そっちのが浦島草」
子どもたちは花がうれしくて物もたべたがらない。ふたりは互いに花を見せ合って楽しんでいる。
「菓子もいらない。そんなにこの花がえいのかい。田舎の子どもと違って、東京の子どもは別だわな」
「なにおんなじさ。ずいぶん家ではあばれるのさ」
やがて子どもらはまた出てしまう。年はとっても精神はそれほどには変わらない。姉はただもうなつかしさが目にあふれてみえる。平生はずいぶん出来不出来のある人で、気むつかしい人だが、こうなると何もかもない。
「くるならくると一言いうてよこせば何とかしようもあったに。ほんとにしようがないなこれでは。養蚕さえやられねば、まさかこんなでもないだが。まァこのざまを見てくっだいま」
「何のしようがいるもんですか。多分忙しいんだろうから、実は今夜も泊まらずに、すぐ片貝へと思ったけれど、それもあんまりかと思ってね……」
「そうともまた、いくら忙しいたって、一晩も話さないでどうするかい。……きょうはまたなんというえい日だろうか。子どもたちがあァして庭に騒いで遊んでると、ようよう人間の家らしい気分がする。お前はほんとに楽しみだろうね。あんなかわいいのをふたりもつれて遊びあるいてさ」
「いや姉さんふたりきりならえいがね、六人も七人もときては、楽しみも楽しみだが、厄介も厄介ですぜ」
姉はそんな言には耳もかさず、つくづくと子どもたちの駆けまわるのに見入って、
「子どもってまァほんとにかわいいものね、子どものうれしがって遊ぶのを見てるときばかり、所帯の苦労もわが身の老いぼけたのも、まったく忘れてしまうから、なんでも子どものあるのがいちばんからだの薬になると思うよ。けっして厄介だなどと思うもんでない」
「まったく姉さんのいうことがほんとうです、そりゃそうと孫はどうしました」
「あァ秋蚕が終えると帰ってくるつもり。こりゃまァ話ばかりしててもどもなんね。お前まァ着物でも脱いだいよ。お……婆やも帰った、家でも帰ったようだ」
いずれ話はしみじみとしてさすがに、親身の情である。蚕棚の側から、どしんどしん足音さしつつ、兄も出てきた。臍も見えるばかりに前も合わない着物で、布袋然たる無恰好な人が改まってていねいな挨拶ははなはだ滑稽でおかしい。あい変わらず洒はやってるようだ。
「ぼんにくるだろうといってたんだ。あァそうか片貝へ……このごろはだいぶ東京から海水浴にくるそうだ」
「片貝の河村から、ぜひ一度海水浴に来てくれなどといってきたから、ついその気になってやって来たんです」
「それゃよかった。何しろこんな体たらくで、うちではしょうがねいけど、婆が欲張って秋蚕なんか始めやがってよわっちまァ」
「えいさ、それもやっぱり楽しみの一つだから」
「うんそうだ亀公のとこん鯰があったようだった、どれちょっとおれ見てきべい」
兄はすぐ立って外へ出る。姉もいま一度桑をやるからとこれも立つ。竈屋のほうでは、かまだきを燃す音や味噌する音が始まった。予も子どもをつれて裏の田んぼへ出た。
朱に輝く夕雲のすき間から、今入りかけの太陽が、細く強い光を投げて、稲田の原を照り返しうるおいのある空気に一種の色ある明るみが立った。この一種の明るみが田園村落をいっそう詩化している。大きく畝をなして西より東へ走った、成東の岡の繁りにはうす蒼く水気がかかっている。町の家の峯をかけ、岡の中腹を横に白布をのしたように炊ぎの煙が、わざとらしくたなびいている。岡の東端ひときわ木立の深いあたりに、朱塗りの不動堂がほんのりその木立の上に浮きだしている。子どもたちはいつのまか遠く予を置いて、蝗を追ってるらしく、畔豆の間に紅黄のりぼんをひらつかせつつ走ってる。予は実にこの光景に酔った。
むかし家におったころに毎日出あるいた田んぼ道、朝に晩にながめたこの景色、おもむきは昔の記憶に少しも変わらないが、あまたの子持ちとなった今のわが目には特別な意味を感ぜぬわけにゆかぬ。昔日のことが夢でなくて、今の現在がかえって夢のように思われてならない。老いさらぼいた姉、ぽうんとした兄、暗寂たる家のようす。それから稲の葉ずえに露の玉を見る、静かに美しい入り日のさまは、どうしても、今の現在が夢としか思われない。
ものさびしいうちに一種の興味を感じつつもその愉快な感じのうちには、何となしはかなく悲しく、わが生の煙にひとしき何もかも夢という思念が、潮と漲ぎりくるを感ずるのである。
ぼんやり立ちつくした予は足もとの暗くなったのもおぼえなかった。
「お父さん、もう帰ろうよお父さん」
とふたりの子に呼び立てられ、はじめてわれに帰った。裏口より竈屋のほうへまわると兄は鯰を料理していた。予はよほど神経疲労したものか、兄が鯰を切ってそのうす赤い血を洗ってる光景までがどうしても現実とは思えない。ふたたび子どもにうながされてようやく座敷へ上がる。姉はばさばさ掃き立てている。洋燈が煌々として昼のうす暗かった反対に気持ちがよい。
この夜も姉は予と枕をならべて寝る。姉は予がくるたびにいつでもそうであるのだ。田畑のできばえのことから近隣村内のできごとや、親類のいざこざまで、おもしろかったこと、つまらなかったこと、いまいましくて残念であったことなどのいっさいを予に話して聞かせる。予がそれ相当な考えをいうて相手になるものから、姉はそれがひじょうに楽しみらしい。姉はおもしろかったことも予に話せばいっそうおもしろく、残念な口惜しいことなどは、予に話せばそれでおおいに気分がよくなるのだ。極端にのん気な酒飲みな夫をもった姉は、つねにしんみりした話に飢えている。予はずいぶんそのらちもなき話に閉口するときがあるけれど、生まれるとから手にかけた予をなつかしがっていると思うてはいつでもその気で相手になる。姉も年をとったなと思うと気の毒な思いが先で、予は自分をむなしくして姉に満足を与える気になる。とうとう一時過ぎまでふたりは話をした。兄がひと寝入りして目を覚まし、お前たちまだ話しているのかと驚いたほどである。多くの話のうちに明日行くべきお光さんに関しての話はこうであった。
「お前はどういう気でにわかにお光が所へ行く気になったえ」
「どういう気もないです。お光さんから東京からもきてくれんければ、こちらからも東京へいって寄れないからなぞというてきたからです」
「そんならえいけれどね。お前にあれをもらってくれまいかって話のあったとき、少しのことで話はまとまらなかったものの、お前もあれをほしかったことは、向こうでもよく知っているから、東京の噂はよく出たそうだよ。それにあれもいまだに子どもがないから、今でもときどき気もみしてるそうだ。身上はなかなかえいそうだけれど、あれもやっぱりかわいそうさ。お前にそうして子どもをつれてゆかれたら、どんな気がするか」
「そんなこと考えると少しおかしいけれど、それはひとむかし前のことだから、ただ親類のつもりで交際すればえいさ」
予は姉には無造作に答えたものの、奥の底にはなつかしい心持ちがないではない。お光さんは予には従姉に当たる人の娘である。
翌日は姉夫婦と予らと五人つれ立って父の墓参をした。母の石塔の左側に父の墓はまだ新しい。母の初七日のおり境内へ記念に植えた松の木杉の木が、はや三尺あまりにのびた、父の三年忌には人の丈以上になるのであろう。畑の中に百姓屋めいた萱屋の寺はあわれにさびしい、せめて母の記念の松杉が堂の棟を隠すだけにのびたらばと思う。
姉がまず水をそそいで、皆がつぎつぎとそそぐ。線香と花とを五つに分けて母の石塔にまで捧げた。姉夫婦も無言である、予も無言である。
「お父さんわたいお祖父さん知ってるよ、腰のまがった人ねい」
「一昨年お祖父さんが家へきたときに、大きい銀貨一つずつもらったのをおぼえてるわ」
「お父さん、お祖父さんどうして死んだの」
「年をとったからだよ」
「年をとるとお父さんだれでも死ぬのかい」
「お父さん、お祖母さんもここにいるの」
「そうだ」
予は思わずそう邪険にいって帰途につく。兄夫婦も予もなお無言でおれば、子どもらはわけもわからずながら人々の前をかねるのか、ふたりは話しながらもひそひそと語り合ってる。
去年母の三年忌で、石塔を立て、父の名も朱字に彫りつけた、それも父の希望であって、どうせ立てるならばおれの生きてるうちにとのことであったが、いよいよでき上がって供養をしたときに、杖を力に腰をのばして石塔に向かった父はいかにも元気がなく影がうすかった。ああよくできたこれでおれはいつ死んでもえいと、父は口によろこばしき言をいったものの、しおしおとした父の姿にはもはや死の影を宿し、人生の終焉老いの悲惨ということをつつみ得なかった。そうと心づいた予は実に父の生前石塔をつくったというについて深刻に後悔した。なぜこんなばかなことをやったのであろうか、われながら考えのないことをしたものかなと、幾度悔いても間に合わなかった。それより四カ月とたたぬうちに父は果たして石塔の主人となられた。一村二十余戸八十歳以上の老齢者五人の中の年長者であるということを、せめてもの気休めとして、予の一族は永久に父に別れた。
姉も老いた、兄も老いた、予も四十五ではないか。老なる問題は他人の問題ではない、老は人生の終焉である。何人もまぬかるることのできない、不可抗的の終焉である。人間はいかにしてその終焉を全うすべきか、人間は必ず泣いて終焉を告げねばならぬものならば、人間は知識のあるだけそれだけ動物におとるわけである。
老病死の解決を叫んで王者の尊を弊履のごとくに捨てられた大聖釈尊は、そのとき年三十と聞いたけれど、今の世は老者なお青年を夢みて、老なる問題はどこのすみにも問題になっていない。根底より虚偽な人生、上面ばかりな人世、終焉常暗な人生……
予はもの狂わしきまでにこんなことを考えつつ家に帰りついた。犬は戯れて躍ってる、鶏は雌雄あい呼んで餌をあさってる。朗快な太陽の光は、まともに庭の草花を照らし、花の紅紫も枝葉の緑も物の煩いということをいっさい知らぬさまで世界はけっして地獄でないことを現実に証明している。予はしばらく子どもらをそっちのけにしていたことに気づいた。
「お父さんすぐ九十九里へいこうよう」
「さあお父さんてば早くいこうよう」
予も早く浜に行きたいは子どもらと同じである、姉夫婦もさあさあとしたくをしてくれる。車屋が来たという。二十年他郷に住んだ予には、今は村のだれかれ知った顔も少ない。かくて紅黄の美しいりぼんは村中を横ぎった。
お光さんの夫なる人は聞いたよりも好人物で、予ら親子の浜ずまいは真に愉快である。海気をふくんで何となし肌当たりのよい風がおのずと気分をのびのびさせる。毎夕の対酌に河村君は予に語った。妻に子がなければ妻のやつは心細がって気もみをする、親類のやつらは妾でも置いてみたらという。子のないということはずいぶん厄介ですぜ、しかし私はあきらめている、で罪のない妻に心配させるようなことはけっしてしませんなどいう。予もまた子のあるなしは運命でしかたがない、子のある人は子のあるのを幸福とし、子のない人は子のないを幸福とするのほかないと説いた。お光さんの気もみしてるということは、かげながら心配していたが、それを聞いておおいに安心した由を告げた。しかしお光さんはやはり気もみをしているのであった。
このごろの朝の潮干は八時過ぎからで日暮れの出汐には赤貝の船が帰ってくる。予らは毎朝毎夕浜へ出かける。朝の潮干には蛤をとり夕浜には貝を拾う。月待草に朝露しとど湿った、浜の芝原を無邪気な子どもを相手に遊んでおれば、人生のことも思う機会がない。
あってみない前の思いほどでなく、お光さんもただ懇切な身内の人で予も平気なればお光さんも平気であったに、ただ一日お光さんは夫の許しを得て、予らと磯に遊んだ。朝の天気はまんまるな天際の四方に白雲を静めて、洞のごとき蒼空はあたかも予ら四人を中心としてこの磯辺をおおうている。単純な景色といわば、九十九里の浜くらい単純な景色はなかろう。山も見えず川も見えずもちろん磯には石ころもない。ただただ大地を両断して、海と陸とに分かち、白波と漁船とが景色を彩なし、円大な空が上をおおうてるばかりである。磯辺に立って四方を見まわせば、いつでも自分は天地の中心になるのである。予ら四人はいま雲の八重垣の真洞の中に蛤をとっている。時の移るも知らずに興じつつ波に追われたり波を追ったりして、各小袋に蛤は満ちた。よろこび勇んで四人はとある漁船のかげに一休みしたのであるが、思わぬ空の変わりようにてにわかに雨となった。四人は蝙蝠傘二本をよすがに船底に小さくなってしばらく雨やどりをする。
ふたりの子どもを間にして予とお光さんはどうしても他人とはみえぬまで接近した。さすがにお光さんは平気でいられない風情である。予はことさらに空を眺めて困った雨ですなアなど平気をよそおう。
「あなたはほんとにおしあわせです」
お光さんはまず口を切った。
「なにしあわせなことがあるもんですか、五人も六人も子どもがあってみなさい、どうにもこうにも動きのとれるもんじゃないです。私はあなたは子がなくてしあわせだと思ってます」
予は打ち消そうとこういってみたけれど、お光さんの境遇に同情せぬことはできない。お光さんはじっとふたりの子どもを見つめるようすであったが、
「私は子どもさえあれば何がなくてもよいと思います。それゃ男の方は子がないとて平気でいられましょうけれど、女はそうはゆきませんよ」
「あなたはそんなことでいまだに気もみをしているのですか。河村さんはあんな結構人ですもの、心配することはないじゃありませんか」
「あなたのご承知のとおりで、里へ帰ってもだれとて相談相手になる人はなし、母に話したところで、ただ年寄りに心配させるばかりだし、あなたがおいでになったからこのごろ少し家にいますが、つねは一晩でも早くやすむようなことはないのですよ。親類の人は妾でも置いたらなどいうくらいでしょう。一日とて安心して日を暮らす日はありませんもの。こんなに不安心にやせるような思いでいるならば、いっそひとりになったほうがと思いますの。東京では女ひとりの所帯はたいへん気安いとかいいますから……」
予は突然打ち消して、
「とんでもないことです。そりゃ東京では針仕事のできる人なら身一つを過ごすくらいはまことに気安いには相違ないですが、あなたは身分ということを考えねばなりますまい。それにそんな考えを起こすのは、いよいよいけないという最後のときの覚悟です。今おうちではああしてご無事で、そうして河村さんもちゃんとしているのに、女としてあなたから先にそんな料簡を起こすのはもってのほかのことですぞ」
予はなお懇切に浅はかなことをくり返してさとした。しかし予は衷心不憫にたえないのであった。ふたりの子どもはこくりこくり居眠りをしてる。お光さんもさすがに心を取り直して、
「まァかわいらしいこと、やっぱりこんなかわいい子の親はしあわせですわ」
「よいあんばに小雨になった、さァ出掛けましょう」
雨は海上はるかに去って、霧のような煙のような水蒸気が弱い日の光に、ぼっと白波をかすませてるのがおもしろい。白波は永久に白波であれど、人世は永久に悲しいことが多い。
予はお光さんと接近していることにすこぶる不安を感じその翌々日の朝このなつかしい浜を去った。子どもらは九十九里七日の楽しさを忘れかねてしばしば再遊をせがんでやまない。お光さんからその後消息は絶えた。 | 底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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一
かこひ内の、砂地の桑畑は、其畝々に溜つてる桑の落葉が未だ落ちた許りに黄に潤うて居るのである。俄に寒さを増した初冬の趣は、一層物思ひある人の眼をひく。
南から東へ「カネ」の手に結ひ廻した垣根は、一風變つた南天の生垣だ。赤い實の房が十房も二十房も、いづれも同じ樣に垂れかゝつて居る。霜が來てから新たに色を加へた、鮮かな色は、傾きかけた日の光を受けて、赤い色が愈赤い。
門と云ふ程の構では無い。かど口の兩側に榛の古木が一本づゝ、門柱形に立つてる許りだ。とうに落葉し盡した榛の枝には、殻になつた煤色の實が點々として其された枝々について居る。朽ちほうけた七五三飾の繩ばかりなのが、其對立してる二本の榛に引きはへてある。それが兎に角に此の家の門構になつて居る。
はたと風は凪いで、青々と澄んでる空にそよとの動きも無い。家雞の一族も今は塒に入らん心構へ、萱の軒近くへ寄りたかつて居る。家の人々は未だ野らから歸らぬと見えて、稻屋母屋雪隱の三棟から成立つた、小さな家が殊に寂然として靜かだ。
表の戸も明いて居り庭の半面には、猶、籾が干されてあるに、留守居の人も居ないのかと見れば、やがてうら若い一人の娘子が、眞白き腕をあらはに、鬱金の襷を背に振り掛けながら、土間の入口へ現はれた。麻の袷に青衿つけた、極めて質素な、掻垂れ髮を項じのほとりに束ね、裾短かに素足を蹈んで立つた、帶と襷とに聊か飾りの色を見る許りな、田舍少女ではあれど、殆ど竝みの女を超絶して居る此人には飾りもつくりもいらぬらしい。
手古奈の風姿は、胸から頬から、顏かたち總ての點が、只光るとでも云ふの外に、形容し得る詞は無いのである。豐かに鮮かな皮膚の色ざし、其眼もとに口もとに、何となく尊とい靈氣を湛へて居る、手古奈の美しさは、意味の乏しい、含蓄の少ない淺薄な美麗では無い。どうしても尊い美しさと云ふの外に、適當らしい詞は無いのだ。春花の笑み咲くとか、紅玉の丹づらふ色とか云うても、手古奈を歌ふには餘りに平凡である。
夕日が背戸山の梢を漏れて、庭の一部分に濃厚の光を走らせ、爲にあたりが又一際明くなつた。手古奈は美しい姿を風能く動かして籾の始末に忙しい。籾の始末と留守居を兼て、今日は手古奈が獨り家に殘つたのであらう。今は日の傾くまゝにおり立つて籾の始末にかゝつたのである。
寂寞たる初冬の淋しさ、あたりには人聲も無く、塒に集つた雞さへ、其運動が靜かである。手古奈も周圍から受ける自然の刺撃で、淡々しい少女の心にも、近頃覺えた考事を又しても考へない訣にゆかなかつた。そんな事がと我と我が考へを打消しながら、後から又考の自のづと湧いて來るを止め得ないのだ。
自分は勿論の事、兩親も兄弟も誰一人さうと氣づいた者も無いけれど、手古奈は物考へする樣になつてから、其美しさは一層増して來た。女は大人になつて好くなる人と惡くなる人とがある。手古奈は大人になつて愈光りが出て來たのである。
二
此夏の末頃から、何用あるとも無く、三日とあげずに、眞間のあたり駒を乘り廻し、雨風の日にさへ其立派な風彩で練歩く一人の若殿があつた。殊に榛の木の門口や、南天垣の外には蹄の跡の消える間も無いといふ程であつた。それで誰れ云ふと無く、それと噂に立つた。里の誰彼れ年頃の男達の内には、若殿の足繁く來るのを胸惡く思ふ者が多かつた。果ては、どうかして遣らねばならぬと息卷いてる者もあつた。物蔭から惡態ついてやつたといふ者もあつた。それかあらぬか、此一箇月許りの間、南天垣の外に蹄の跡が絶えて居つたのが、今日は日の暮近くに突然又目馴れた葦毛の駒が垣根の外に現はれた。
馬上の人は一度乘廻した駒を再び乘返して來たと思ふ間に、躊躇なく馬を降りた。若殿は目敏く手古奈が家には、今手古奈の外に人無きを認めたらしく、つと馬を屋敷の内へ引入れて終つた。木立の蔭を見計らひ、そこなる橘に馬を繋いだ。手古奈は此體に氣づいて、さすがに驚き周章てた。激した胸騷ぎに手足の運動も止まる許りであつた。一蓆の籾をさゝへた儘急いで土間へ走り込むのであつた。
若殿は悠揚と手古奈の後を追うて家の内に入つた。手古奈も今は其人柄に對して姿勢を正しく迎へぬ譯にゆかないのだ。若殿は最も懇ろな最も丁寧な詞つきで、
暫くの休息を許してくれ、水一碗をふるまうてくれ、と乞ふのであつた。
手古奈も、自分に一方ならず思ひを寄せて、我家の前に幾度となく姿を見する人を、隣國の縣主私部小室と知り得た時には、既に幾許か心を動かさぬ訣にゆかなかつた。それからは其人が見えたと聞く度毎には、又窃かに其人を盜み見せずには居られなかつた。白銀造りの太刀をば、紫のさげ緒の紐に掻結び、毛竝美しき葦毛の駒に練行く後姿前姿、さすがに縣主の品位も高く雄々しくもある、壯士振り、手古奈もそれを憎からず思はない訣にゆかなかつた。著しき位置の懸隔は、感情の醇正を妨げるものゝ、其人の眞情を嬉しく思うては、手古奈も取とめない物思に、寢そこねた夜も一夜二夜では無かつた。
されば今日の會見は、頗る突然の樣で其實少しも突然でない訣なのだが、實際はなか〳〵突然以上であつた。
手古奈は命令されたかの如く、手の物を置いた。襷をはづし肘を垂れ、我足の爪先を見つめる樣な伏目の姿勢を取つて、私部小室の前に立つた。手も足も痲痺したかの如く、舌も心も凝固したかのやうに、云ふべき何の詞も出ないのである。小室はつとめて色を和らげた面持にて、靜かに爐邊の上り框に腰を卸した。丈夫と思ふ英氣は全身に滿ち、天地に少し至らぬ鋭心を負ひ持てりと信じつゝある私部小室ではあれど、平生自負の雄心も此際に何の力も無いのである。戀の前に立つては只戀人の心に逆らふまいとする自然の命令より外に一切の働きは無いのである。かくて兩人相對した暫時の光景は、互に鼓動する心臟音が男の音と女の音と兩音の響きを、靜中に感じ得る許りである。活きた繪である、活きた繪これが一番此場合を形容するに適當な詞であらう。
小室は漸く水を貰ふのであつたと思ひ出した。幸に湯の冷めないのがあつて、手古奈は金碗に湯を汲んで小室に捧げた。湯を求める、湯を汲みささげる、湯を飮む、此の三つの動作の爲に、兩人ともやう〳〵少しく此間のぶまを免れて、談話の端緒を開き得た。
小室は千日の思を語るべき機會に、如何に云ふべきかは、隨分能く復習して居つたのであるが、愈々差向つて見ると、今更に言ひ出づべき詞の順序が立たないのである。女性たる手古奈は猶更何を思慮する落ちつきも得られない。
手古奈は湯を汲みさゝげる動作の爲に、小室は其一碗の湯を啜る仕草の爲に、僅に胸のさわぎを落ちつけ得たものゝ、それでも言ひ出づべき詞の工夫に全身の力を絞つて、小室は男ながら顏のほてりを包みきれない。
「里人等の眼にも留るまで、こなたの近くを迷ひ歩き、定めて心苦しく思うてゞあらう、切なき思ひの詮なさに、男子の耻をも忘れて、禮なき振舞ひに及んだ、乍併何もかも只君に戀ひての故の迷ぞな、禮なき事は幾重にも赦してよ」
と詞は少ないが其云ふ心には無量の深さを湛へて居る。賢にして勇との譽れ高い、縣主の殿ともある人の、何といふ謙遜な詞であらう。是れ以上に謙遜な云ひ樣は無からう。彼の女を思ふの心深いだけそれだけ、多く自分をへり下るものか。
手古奈の美は殆ど神に近いが、人はどこまでも人である。眞情に動く心は、寧ろ竝みの人に勝つて居た。小室が語る其詞は、眞情さながら聲と響く。風に對する黒髮か流に靡く玉藻のそれ、手古奈は覺えず涙ぐんだ。
「賤しき身には餘りに勿體なき仰せ……」
手古奈はこれだけの挨拶が精一ぱいである。小室はさすがに、始めての會見にさう深くは切り込めない。只此上はそなたが兩親の許しを得て、訪問を重ねたいとの希望を述べた。そして自分は私部小室であると名告つた。此近郷に誰知らぬ者も無き私部小室、改めて名を告ぐるは言を眞と明す習ひである。
身分もあり、威儀もある人より、情の籠つた心からとは云へ、改つての名のりは、手古奈の耳に今更の如く嚴かに響いた。手古奈は今は情に耻ると云よりは、義理に動く感激が強かつた。同時に手古奈は敏くも顧みて、自分のはしたなき行動は、自分を思うてくれる人にも耻を與へることになると氣づいた。手古奈の此賢なる反省は、其瞬間に手古奈の顏容を層一層尊からしめた。
手古奈は飽くまでも從順な面持を以て、小室の好意に應へながら、其二言三言の挨拶の内には肅然として女性の神聖を保つた。
熟々と戀人の心裏を讀み得た小室も非常に滿足した。そして自分の希望も又大方は達し得らるべく豫想されるから、其面持も見るから活氣を有して來た。命を掛けた希望の前途に嬉しき光明を認めて、沸き激つ血汐に新なるどよめきを起すは、かゝる時には誰しも覺えある事である。たとへば五月雨の雲薄らぎつゝ、おぼろげに太陽を認めた時、將に來らんとする快晴を豫期し得た心地である。兩人の應答は斯く簡短に終を告げた。詞少ないだけ餘韻無量の感が殘る。
小室はどよめく思ひを動作に紛らはし、立つて別れを告げた。
「君に逢ひし日の贈物と、夜晝置かず携へ持てる物、今日の紀念のしるしとも見よ」
手早く爐邊に置いたものは綾も珍らしき倭文幡帶、手古奈は周章てた。餘りに突然な爲に、とみには兎角の分別がつかぬ。これを受けて終つては最早許したも同じではあるまいか。篤と父母に計つてと思ひしものを……如何にせんかとの迷ひはおそかつた。太刀の鐺が地を突いた音に氣づく時、小室は早馬上の人であつた。
帶には二首の歌が添へてあつた。
相見るは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高峰の鳴澤のごと
かつしかの眞間の入江に朝宵に來る潮ならば押して來ましを
三
小室が去つて蹄の音も聞えなくなつた時、手古奈が家はもとの寂然たる靜かに返つた。けれども手古奈が胸の動氣はなか〳〵靜まるどころでない。天地の一切悉く靜まつて居るに只自分の胸許りが騷ぐやうに手古奈は感じた。
手古奈は殆ど失心した人の如く、小室の後影を見送つて、何といふ意識もなく、ぼんやりもとの土間へ歸つた。土間へ這入つても只無意識に立つてゐる。嬉しい樣な不安心な樣な、氣味の惡いやうな、又總身ふるへ立つほどなつかしい樣な、何だか少しも取りとめのない心持で足も土についてゐない如く、全く吾肉身は浮いてゐる如く思はれた。どうしようか知らといふ樣な思案の端緒すら起つてゐないのである。
勿論小室の上に就ては夢の如き思ひの考が手古奈の胸裏に往來したことは幾度あつたか知れないが、雷か何かの樣にこんなに不意な打ちつけな事があらうとは固より豫期せぬことであるから、少女心のすべなさには只わく〳〵してしまつて、思慮して分別ある詞などは一言も言へなかつた。差向つてゐた時は、迚も思慮など思ひもよらぬことであつたが、今一人殘つて漸く心が靜まつて見ると、彼時には餘りに言ひ足らなかつた爲め、物足らない、何となし殘惜しい樣な心持が動いてきた。やがて父母にも兄にも今日の事を計らねばならぬといふ意識が働きかけると、自分の顏のひどくほてつて居るにも心づき、何とも言ひ難き愉快な感がむら〳〵と胸に湧き起つた。手古奈の目と口とには聊かな笑みの漣が動いた樣である。
手古奈は自分ながら驚くほど俄にばたりと音をさして縁へ腰を掛ける。さうして帶を手に取つて見る。倭文幡の美しい帶につく〴〵眺め入つた。又其歌をいく度も讀み返した。帶を見、歌を見歌を見帶を見て、しようのない、いとしい心の内にも、身の運命に痛切な問題が差し迫まつてゐることを感じた。どうしようか……勿論親同胞に計らねばならない……どうなるだらうか、身分の事など思ひ浮んだ手古奈は、多少の迷と不安とを感ぜざるにあらねど、新たに光明に接した心持で手足の動きも輕いのであつた。
手古奈は籾の片づけに掛つたが今見た夢の興味をたどる思で、只心は小室が上に馳せて居る。其引締つた聲や面もちや、身の取こなし總てがはき〳〵してゐる事や、太刀作りの如何にもさわやかな若駒のひり〳〵してゐるさまが、皆能く小室の人柄に似せてゐる事や、對話の際には何もかも覺えがない樣に思うたが、かう一人で考へて見ると、小室其人の俤が、耳朶の下邊に黒子のあつた事まで委しく目に留つてゐるのである。それから從兄の丹濃や森下の太都夫などが、いろ〳〵手を盡して深切を運んだ事を思ひ出した。丹濃は無口な温和な男だけに、打つけに、口には云はないが、手古奈の家に「ボヤ」のあつた時には、丸で命を投げ出しての働きをした。手古奈が全くおぬしがお蔭で家が助かつたと禮を云うた時、手古奈が爲めなら何の命が……と云うた丹濃が面ざしはさすがに手古奈が胸に刻まれてゐる。太都夫とて決して憎い人ではない。馬に乘つた姿勢の立派な事は實に無類で行逢つたら振り返つて見ないものはない位である。それで手古奈に對する仕向けとて兎の毛の先ほども厭らしい風はない。おぬしに一度路で逢うても百日嬉しい程だが、おぬしの樣な人を吾物に仕樣などいふ出過ぎた心はない……など云はれた事も矢張り強く手古奈が記臆に殘つてゐる。
手古奈は今殆ど小室に心を傾けたに就けても、丹濃太都夫の二人を思ひ出さずには居られなかつたのだ。世の中に何が嬉しいとて人から眞情こめて思はれる程嬉しい事があるものでない。まして社會に立つて受身の位置にある女性として男子に思はれるといふことの不快なるべき筈がない。手古奈は吾身の縁は神の捌きによつて定まるものと固く信じて居るから、自分の好き勝手に男えりをする樣な心は露程もない。されば丹濃や太都夫の深切に對しても十分に同情は寄せて居る。若し二人の内何れかに從ふべき縁があつて、神の捌きと信ずる時機があらば手古奈はそれに從ふことを厭ふのではない。體が分けられるものならば、手古奈は必ず太都夫にも丹濃にも分けてやりたいは山々である。それ故今小室のことを思ふにつけても、彼兩人のことも思ひ出でゝ、新しきを得て舊きを疎むに至るを耻ぢたのである。氣の毒といふ心持がどうしても消すことの出來ないのであつた。
身分のない二人身分のある小室、かういふ比較は手古奈の戀には關係はない。手古奈は顏の美しい如く心も美しい。そんな卑しい心は手古奈には毛程もないのである。より多く手古奈が小室に動いたは、より多く手古奈を滿足さすべき條件が小室に具備して居るからである。さらば手古奈は一も二もなく小室に從ふつもりで居るかといふに、それは決してさうでない。縁の事は神の捌きに依るもの、小室と自分との關係も是から幾多の經過を歴て……どうなるだらうか。手古奈は只かう思つてゐるまゝである。
手古奈は千々の思ひを繰返しながらも馴れた仕事には何の手落もなく籾を片づけた。竹箒を手に採つて庭を掃き始めた頃は東の空にお定りの暮色が立つて榛の木の上に初冬五日の月が見えてきた。父も兄も鍬を荷ひ駒を引いて歸つてきた例の兄の愛馬が鼻放る聲も聞える。身内へ用にゆかれた母も歸つたらしい、生垣近くで人々の話聲である。手古奈は今更夕飯の仕度の遲くなつたに氣がついて、門先の話聲には出でゝもゆかずにいそ〳〵と竈屋の仕事にかゝる。父も兄も等しく、馬蹄に踏崩した門先の樣子に首肯きつゝ、母なる人は更に蹄の跡が圍の内深く這入つてあるまで注意する。三人はそれとは氣づいても誰もそれと口には云はない。天氣はえいなア……寒くなつたど……などゝ高調子に話をしながら、土間へ這入る。どしんと音させて鍬を下した。「手古奈や手古奈や」灯もともさずに暗いでないかといふは母の聲である。それ〳〵向き〳〵に日暮の用をする。小さな家が俄に賑かになつた。兄は馬を裏の馬小屋へ入れて飼葉を拵らへる。母と兄と父と手古奈と、それは睦しい、心地よげな話が各暗いうちに交換され、餘所眼にも此家の前途に幸福の宿るべきを思はせる。
四
夜の食事が濟んでから、親子四人は爐を片邊に短檠を圍んだ。「日和が續けば秋も樂なもんさ、今年の秋程日和都合のえエは珍らしいな、こんな秋なら苦なしぢやはなア」と兄が云へば「秋の仕事も荒方片就き麥蒔も今日で終へたに、女達は明日からはもう機にかゝつてえエよ」と父がいふ。「おう機と云へばなイ手古奈、綿ちもんは立派なもんだど、明日にも一寸畑へ往つて見てきさい、なイ手古奈や雪のやうな白い實がなつたど」……いつになく兄が話をする。兄と父とは日ぐれに一寸と手古奈が上に就いて思うた事などは忘れてゐるらしい。いつも口輕な母も何か思案のありさうに二人の話に身が入らない。手古奈も勿論今日の出來事に許り思ひは走つて居る。それに話の潮を計つて今日の事を話すつもりでゐるから父や兄の話の興に乘らない。わく〳〵する心の亂れ落着かねてゐるのである。
兄は父に似て稍づんくりな、平生詞少ない物靜であわてるといふことのない、何時でもゆつたりとした少年である。手古奈は容姿から音聲からはつきりとした、優しい内にも物事明晰な質で神經質なところが、能く母に似てゐる、手古奈はつまり玉成的に其母が進化したのだ。それに手古奈の樣な美人が此家に生れたに就ては偶然でない所以がある。手古奈の母方の曾祖父物部於由といふ人は葛飾に名のかむばしき大丈夫にて、一とせ館の騎射に召され、拔群の譽れを立てた、恩賞には、殿の言添に依て相思の美人と結婚を遂げ一國の羨望を雙身に集めたといふことである。手古奈の母なる人は其名譽なる家の孫であつた。手古奈の母が其名譽な家から今の足人(手古奈の父)に嫁いで小さな家に居るのは只相戀の二字之を説明して餘りある訣だが、さういふ處から固より勝氣な手古奈の母は、二人の兒供をどうかして名譽の者にしたいといふ強烈な希望がある。毎朝神棚に向つて祈念することは實に十年一日の如しであつた。それかあらぬか、兄の少歳(手古奈の兄)は一寸見は物靜かお人よしの樣だが、武藝に掛けては容易に人に讓らぬ、如何な場合にも愛馬を手離すと云ふことはない。一朝館の召があらば、火にも水にも躍り入るべきは、其落著いた眞底の覺悟で鋼の樣に固い。
手古奈の母は今日ゆくりなく人の噂に、手古奈が立身の端緒たるべき話を聞いて、嬉しさにいそ〳〵と歸つて見ると、例の小室の殿が見えたらしい日暮の樣子に、考はいろ〳〵と込み入つて平生思慮深い性にも、聊か分別に苦しんだのであつた。兎も角も手古奈の胸を聞いてからなど、四人が揃ふのを待つてゐたのに、足人や少歳が相も變らぬ無邪氣な話を始めたので、もどかしくてならないのである。併し母も妹も一向相手にならないので、少歳は直ぐ話が盡きて了つた。
母の樣子に氣がついた手古奈は、やをら彼の帶と歌とを親同胞の前へ差置いて、今日の出來事を落なく語る。帶は何の思慮も及ばぬ間に置いて往かれたので自分が心得て受けたものでないといふことも告げた。吾から吾戀を語る耻かしさ手古奈は顏を火の樣にしてゐる。竝の人ならぬ私部小室がことで見れば、自分一人の胸に收めて置かれない訣である。いづれとも親同胞の計らひに依るとの意であれど、手古奈の心底を察すれば單に許諾を求めたとも見られるのである。慥かに手古奈の心はどうでもよいと言ふが如き冷かなものではないのだ。太都夫や丹濃の事を思ふに就けても、徒らに人に物を思はせるのは本意でない。程よき處で身を定めるの分別がなければならないとは、思慮ある女性の當然な考であらう。手古奈はまさかさうまで言ひはしないが、それが自然に落來たるべき道筋である。
父と兄とは口を揃へて……「幸福者の手古奈へ、身分と言ひ人柄と言ひ其眞心と言ひ、何處へ不足が言へるだい、考へる處があるもんか、早速挨拶するがえエよ……」少歳は又歌を讀んで見て愈〻感じ入つてゐる。父は猶口を極めて小室の人柄を褒め、思遣り深い殿樣、下々の思ひつきのよいことまで言うて、かういふことになるのも全く神々の御計らひ眞に有難いことやと涙を拭いて悦んだも無理ならぬことである。
母は人々の話を聞いて愈々思案にくれたらしく猶一言も言ひ出さない。足人も少歳も手古奈も等しく目を集めて母の言ひ出す詞をまつてゐるといふ、座になつたので、漸く母も口を切つた。其あらましを言ふと、
母は里方の兄なる人から、今日意外なことを聞いた。當國の領主日置の若殿忍男の君が、何かの折に幾度か手古奈を垣間見て、常々愼ましき性に似ず身柄忘れての戀衣、千重に八千重に思ひつみ今は忍びかねての、思ひを近く仕ふる媼に打明けた。そこへ此頃私部小室が噂さへ聞かれて、愈歎き給ふと聞くからは遠からぬ内に、館より何かの使があらうとの話であつた。
母は一も二もなく若殿忍男の君が、さういふことに相違なくば、これに上越す幸福はない。吾家一家の出世は勿論、只一人の壯士としても忍男の殿は小室の殿に勝つて居るといふことを繰返した。それは兄とて父とて、吾領主の若殿から所望とあれば、之れに不同意のあらう筈がない。明日にも館より使があらばとは三人が異口同音に言うた詞であつた。それでは今は何れとも決著の仕樣もない訣故、館より使が如何な申込をするか、それを慥かめないうちは、私部の方へは挨拶も出來ないといふ事で、一先づ話の段落がついた。
跡は三人が言ひ合せた如く、等しく手古奈を打眺めて、何といふ冥加な兒であらうと、眞に話のやうな事實の不思議を嘆息する。少歳は單純な生れつきより、平生若殿を神の如くに思うてゐたのであるが、今現在の吾妹が其若殿の戀人と聞て、これは只事ではないといふのである。足人はさすがに、小室の殿とて手古奈の聟には冥加に餘る譯だが、吾殿忍男の君に比ぶれば、小室の殿はどうしても一段の下で、忍男が年若ながら何事にも鷹揚な處は生れながらの殿樣であるといふ。母が忍男を稱揚するは精細を極めて居る。只鷹揚な若殿といふ許ではない。馬に乘つても弓矢を採つても、學問と言ひ、人柄と言ひ、勇武で愛情もある、風彩の上にも小室の殿に勝れて居るといふ。
手古奈は三人の話に口の出し樣もなく、伏目になつて默してゐる。手古奈とて忍男其人に毛程の厭がないは、勿論で、寧ろ領主の若殿に思はれるといふ有難さは、云ひやうなく嬉しい。あの立派な人が若殿樣が自分をそんなに思うてくれるのかと思うて、其情けの心が嬉しくない筈があらう。乍併只それより前に一度小室に動いた感情が、跡から現れた忍男がよしや小室に十倍勝つてゐたにせよ、小室といふ感念が容易に手古奈の胸中より消え去るべきものでない。まして同情の權化と見ゆる手古奈の性質では猶更のことである。
手古奈は先に小室に思ひそめて後丹濃や太都夫に對して、感情の苦痛を覺えたよりは、更に一層の苦痛を小室の爲に感ずるのである。愈〻忍男の殿に召さるゝとせば、自分は冥加に餘る仕合せであれど、あれほどにいはれた小室の殿の失望怨恨はどんなであらう……。あの時自分も憎からず思うた事口にこそ出さゞれ心は正しく彼の人に通じて居る。さればあアして勇んで歸られたものを、それが一場の夢幻と消え去つた時、彼人の悔恨はどれほどであるか。さりとて未だ許さぬ彼人に操を立てゝ、恩あり情けある若殿の志にどうして背かれよう。……是れが生地から心も美しい手古奈の今眼の前の苦悶である。
父や母や兄やが無造作に悦んで居るに引替へ、手古奈は愈考込んでしまつた。手古奈は今は全く自分を忘れてゐる。一賤女が領主の若殿に思はれるといふ幸福な位置をも忘れ果てゝ考へてゐる。手古奈は餘りに人に思はるゝに依て自分の仕合せは消えつゝあることを思ひそめた。少くも精神の上に氣安くて高尚な愉快に居るといふ望みが無くなるやうな心持がしてきた。丹濃や太都夫は致方ないにしても、彼の小室の殿まで失望の嘆きに沈ませ、自分一人圓かな良縁に樂しむといふ事が出來ようかと思はれてならない。
思ふ人が多くて思はれる人は一人である。一つの物を以て多くの望みを滿足させることの出來ないは、此世開けてより以來定まつて居ることである。手古奈の苦悶は損か得かの迷ではない。善か惡かの迷ではない。甲にせんか乙にせんかの迷でもない。義理を得ざるに苦しむのではない。感情の滿足が得難きに迷ふのである。手古奈は今は自分で吾身が情なく思はれてきた。小室なり忍男なり只一人に思はれる身であつたら……嗚呼どんなに嬉しからんにと悔むのである。
事は吾家一家の大事である。親同胞はかういふ知識上の考に制せられて居る。感情の上には全く傍觀者の態度にある三人には、到底手古奈が内心の苦痛を察することは出來ない。果して母は手古奈が浮かない顏を見て不審の眼を据ゑた。
「手古奈やおぬしは小室の殿と何かの約束をしたのか」……さらば吾領主の若殿に思はれるがなぜに嬉しくないと詰る。如何にも親相當な心配である。況や野心盛な手古奈の母は、此場合手古奈に躊躇の色あるを見て非常に驚いた。母は猶足人や少歳にまで聲を掛けて、これは大事のことであれば考違ひをしてはならぬと戒める……。
手古奈は、
主と他人との差はあれど眞實に劣り優りはなきものを、何れに背かんも心苦るし、今は只一人にてありたしなど嘆く。母は怒ておぞや此兒と叱る。父は穩かにそはおぬしが私の心ぞ、父母の望みを思へ。領主の恩と若殿との眞情を思へといふ。少歳は頗る妹の苦痛を察して頻りに嘆息しつゝなる樣になるべければ何事も神の捌きに任かせよ、父母にあらがふ手古奈にはあらず、兎も角も館の使を待ちてこそといふ。母も氣遣ふ面持全くは晴れねど、かつて詐りなき手古奈が小室に何の約する處あらずといふを疑はねば、それさへなくば如何樣にも計らふ道ありと思ひ定め、やう〳〵茲に其談話の終りを告げた。
少歳は愛馬の夜飼をあてがうて、歸りに貯の栗柿など採出でゝ、俄に變る一家の歡樂場は四隣の人を羨せる笑ひどよめきを漏らした。
五
今朝も霜ははげしい。深く澄んだ紺青の空は清々しい朝げしきを一層神聖にしてゐる。見るうちに背戸なる森の梢に朝日がさして來た。其反射は狹い井戸端を明くする。井戸から一間許り西手の小藪に蒿雀がツン〳〵鳴く。流しもとの小棚に米浙笊、米浙桶、洗桶などが綺麗に洗はれて伏せてある。胡蘿蔔や大根やが葉つきのまゝ載せてあるのも美しい。あたり總てが如何にも清潔で、たしなみのよい手古奈の平生が能く茲に現はれて居る。北側の木立に交つて柿の紅葉や蘿の紅葉が猶一團の色を殘して初冬の畫幅に點精を畫いた。いつの間に來たか流しの揚土に鶺鴒が一つ尾を動かして居る。幽寂更に幽寂を感ずるのである。
竈屋の方に小鈴を振るやうな小歌の聲が聞える。間もなく手古奈は手に二三の器具を持つて井戸端に出て來た。洗桶を卸し持つた土器を入れて井戸側の釣瓶繩に手を掛けたと見れば、手古奈はおオ紅葉がと言つて井戸を覗く。井戸は水が近い。大きな柿の紅葉が二三枚浮いてゐるのである。手古奈は紅葉に見とれて居るが、若しそこに人が居つたら人は却つて水に映つた手古奈の顏に見とれるのであらう。鬟の毛筋前髮の出工合、つくろはなくも形が何とも云へず好ましい。今朝の鮮かな晴々とした手古奈の面持には、餘り胸に思案のある風でもない。昨日の出來事から宵に相談した事など殆んど忘れて居るかの如くである。最早一切を神の捌きに任せて安心して居るのか、それとも手古奈位の年頃の女性にかういふ事は有得る事であるのか。陸から見た海は只恐ろしいけれど、海に身を浸して終へば、案外平氣で居られる樣に、手古奈も最早其身が事件の中へ出て終つた爲に、覺悟もついたものか、手古奈は端なく井戸の紅葉に見入りつゝ、小歌を唄ふのである。
稻つきてかゞる吾手を
今宵もか
殿の若子がとりて嘆かむ
見れば手古奈はそれほど紅葉に見とれて居るのでなく、又水を汲まうともせず、繰返し〳〵同じ歌を唄うて居る。其聲は決して氣樂な聲ではない。手古奈は矢張心の奧に苦悶して居るものか、美人は如何なる場合にも調和する。手古奈は茅屋の主人としても井戸端の主人としても能く調和する。手古奈を主人とすれば、茅屋にも井戸端にも光りがある。そして殿中に主人となれば殿中に光を生じ、宮中に主人となれば宮中に光を生ずるは手古奈であらう。
「何がそんなに面白いかえ」……かう消魂しく叫んで手古奈に走り寄つたは、太都夫の妹眞奈であつた。二人は一寸笑顏を見合せたまゝ互に井戸を覗く。おオ綺麗な紅葉よと眞奈も云つた。手古奈は眞珠で眞奈は瑪瑙か。玉のやうな二つの顏が水に映つたであらう。瑪瑙と云つても安い玉ではない。眞珠に比ぶればこそ劣りもすれ。何の用があつて來たとも云はず、又何できたとも問はない若い同志の境涯ほど世に羨ましいものはない。やがて眞奈が水を汲でやる。手古奈が洗物をする。其間に眞奈は此月中には館で大競馬をやるといふ噂を聞いたこと、兄の太都夫は今朝から馬の手入を始めたといふことゝ、今少歳にもさういうて來たなどゝ話をする。洗物が濟むと二人は又背揃ひして竈屋へ這入つた。
此秋から眞奈が何のかのというて能く手古奈の家に來る。今では手古奈と眞奈は二なき友達であるが、それにはをかしい二重の理由がある。始めは兄の太都夫が、どうかして手古奈の家に出入せんとの工夫から、妹を橋に使つたのであれど、却つて眞奈が度々此家にくるにつけ、いつしか少歳に下戀するやうになつた。兄が戀する手古奈の人柄は眞奈にも女ながら非常に慕はしいのだ。眞奈が遂に手古奈の兄なる人を思ひそめしは其動機が極めて自然である。
眞奈が兄に對する役目は十分に果たされたには相違ないが、兄の目的は殆んど失望に終つた。眞奈は窃に兄の失望に同情を寄せては居れど、それが爲に吾思ひを絶つまでには至らぬ。今では眞奈が此家にくるには兄の前さへ拵へて來るのである。
眞奈は口實さへあれば少歳の仕事に手傳ひをする。少歳が手古奈に仕事を言ひつけると眞奈が屹度一所にやる。少歳が無器用な男で何事をするにも廻りくどい、眞奈は見かねてさうせばよいかうせばよいなどゝいうては時々少歳に叱りつけられる。なんだこのあまつ兒めがなどゝ隨分興さましな小言をいふことがある。さうかと思へば殆んど手古奈と見界もなく無遠慮に眞奈を使ふこともある。
兄の太都夫に似て、眞奈も極めて勝氣だが、少歳にはどんな無體を言はれてもそれが一々嬉しいらしい。尤も少歳がすることは何でも惡氣がないのだが、眞奈には一層憎からず思はれるのであらう。手古奈は勿論兩親まで、眞奈の素振に氣がついてとほにそれと承知して居るけれど、おほまはしの御本人が一向に氣がつかぬ。少歳がいさくさのない口をきく度に三人が蔭笑をするのである。併し太都夫の戀は最早成功の道はないけれど、眞奈の望みは殆んど成功して居る。手古奈の兩親も眞奈の氣性を好いて居る。殊に兩親は少歳に氣があつてくるといふことを却つて嬉しく思つて居る樣子が十分に見える。それに少歳は又兩親がよいとさへ言へば決して自分の好みなどいふ風でない。されば手古奈の身に目出度事でもあれば、次は續いて眞奈の極りがつくは判り切つて居る。
眞奈は手古奈より一つ年下で、未だ十七の若さだけれど、例の氣邁で何をさせても友達などに負けてはゐない。それで男子に對する感情は又妙に其氣性と反對だ。自分に對し生やさしい上手を言ふたり、女を悦ばせようとする樣な調子に物を言ふ男子などが大の嫌ひであるのだ。男の癖に厭らしいといふが、いつも眞奈の口癖で、そんな風の男を一概にニヤケ男と言つて排斥するのである。
あれが判らないのかと親や妹に笑はれながら、とんと氣もつかぬ位な少歳は、實に厭味といふもの少しもなく淡泊な男である。眞奈はかう思つてゐる。些細な事に愚痴つかない少歳には、目立つた親切などは出來ないが、らちもなく情を張つて、相手を泣かせるやうな、意知の惡いやうな處も決してない人だ。ねち〳〵した野郎などとは物言ふのも厭だけれど少歳にならば、擲られても見たい……。
眞奈はどうしても人に思はれるといふより人を戀する質らしい。
六
眞奈が此朝手古奈の家にきたのは、殿の館に馬くらべのあることを一刻も早く少歳に知らせたさと、若殿忍男の君が手古奈に執心深い噂とを、手古奈の母に知らせようとしてゞあつた。話をして見れば昨夜既に其相談であつたとのこと、眞奈は茲で若兄の境遇に思ひ及んだけれど、手古奈の身がさうした事になつた以上は今は如何とも致方のないことゝ思うた。兄は可哀相であれど、手古奈一家の悦びは、やがて吾身の悦びなので覺えず胸も躍るのである。少歳が又馬くらべの事を聞いて其悦びやうと言つたらなかつたので、眞奈は愈々嬉しい。眞奈はいつでも少歳が悦ぶのを見れば、其十倍づゝ内心に悦ぶのであるから、今日は眞奈も足が地につかない訣である。併し手古奈の今日の素振は餘りに眞奈の眼に意外であつた。
其身の一大事は一家無上の幸福を意味してゐる。萬人の羨む身の幸福が今眼の前に迫りつゝあるのに手古奈其の人の平氣さ。眞奈は怪しまずに居られない。片戀の苦勞に身をやつして居る眞奈の眼には、今日の手古奈の平氣な樣子が面憎くゝなつた。
竈屋の上り鼻に腰を竝べて掛けた二人は、やがて眞奈が……人に思はれる身に一刻なりとなつて見たや、片思に瘠せてゐる人の思ひやりもなく、人といふ人もある中に、館の殿に思はれて、今日にも内使のあらうも知れぬおぬしが、其の平氣さの面憎くさよ……と、眞奈は手古奈の答へを待顏である。
手古奈の落著いた笑顏は胸に動氣もせぬさまだ。思ひやれといふ人に思ひやりはない。人に思はれる人と、人を思ふ人と、互に其身になつて見ねば、何れが仕合とも早計には判じ難い。思ふ人は吾から一人と定まれども、吾を思ふ人を、吾から一人と定められぬ。何れを憎しと思はざるに身一つは多くの人に從ひ難い。思ふ人は一人の外なくて其人一人に眞意を盡す人が羨しい……。
手古奈は吾思ひの一切を括つて、成行きに從ふの外なき身の境遇より、眞奈が戀の却て無邪氣に心安きを羨むらしい。
眞奈は榮華といふことを目安に置かない手古奈が戀語りに驚いた。暫くは只手古奈の顏を打守る外なかつた。殿さまといふ人二人までに思はれる程の手古奈はさすがに氣位の高きものと俄かに心から敬ひの念を起して、いつまでも友達よと思ふの誤りを氣づいた。
手古奈は決して冷かなる生れつきにあらねど、甲に思はれて、未だ甲に從ふの機に遇はず、而して又乙に思はれた。甲にも乙にも從ふべく定まらぬ内に、丙に思はれ丁に思はれた。未だ前者に從はねばならぬほどの感情も義理も生ぜぬ如く後者にも必ず從はねばならぬ感情も義理もない。要するに手古奈は自己の希望の未だ決定せざる間に多くの人に思はれて、自分は自己の希望通りに身を定むるの境遇を失ひ、只他が希望に身を任かすの外なき身の上となつた。手古奈が身の運命を一切神の捌きに任せ、超然として執着を離れたのは自然の成行であつた。殊更に平氣を裝ふのではない。どうなるともなるやうになるのであらう、これが目下の手古奈が心中であるから平氣な訣である。
私部小室に對する手古奈の戀は、未だ動かすべからざるほど強固ではないのに、忍男は領主の若殿と云ひ親同胞の熱望と云ひ其人品と云ひ、手古奈に厭な感情の起るべき事實は少しもないとせば、手古奈が忍男に從ふに至るべきは、又自然の命令で所謂神の捌である。
乍併、手古奈が忍男に從ふは感情に靡くのではなく道理の力に屈する部分が多い。されば戀を遂げるのではなく他の戀に從ふのである。手古奈の感情よりせば即ち餘儀ないのである。小室を捨つる苦痛の感情容易に消えなく、新に忍男に從ふのが餘儀ないとの感じありとせば、手古奈は戀の成功者ではない。
諺に云ふ美人と薄命といふこと、少しく其意味を異にすれども、美人にして多くの人に思はるゝことが、正しき意味に於て薄命の因を爲すのである。手古奈は戀の形式に成功して精神には薄命を感ずるの境遇に近づきつゝあるのである。若しも手古奈が利害得失の念に敏く、一般の所謂榮譽幸福に執着する心があらば、此際小室に換るに忍男を以てするを悦ぶべきは當然な訣であれど、美しき感情にのみ滿足を求むる手古奈の天性は、忍男との關係の未だ全く智識的なるに冷淡であつて、多く感情的なりし小室との關係の破壞に苦痛を感ずるのである。手古奈が吾知らず却つて眞奈の片戀を羨むやうなことを言へるも、穴勝無理ならぬことであらう。
單純な境涯にある眞奈が心には、平氣なやうな苦悶があるやうな、手古奈の詞が十分に呑込めないから、そんなこといつたつてと一言云うたぎり、手古奈を慰むるすべも知らないのである。話はそれぎりになつてやがて、二人は坐敷へ上つた。
奧の小座敷では親子三人が今も手古奈の身の上に就て凝義中である。母は早くも手古奈を見て招く。内心には他人とは思はれない眞奈にも此相談に乘つてと云ふ。五人一座の中に母は手古奈の樣子振に就て氣掛りの次第を述べた。今日にも館よりの内使が見えるかも知れないに手古奈の心があやふやでは困る。誠に一家浮沈、親子四人の運命が手古奈の心一つで定まるのであるから、萬一にも心得違があつてはならないとの意を繰返された。
感情の上にこそ不安なれ、理性の上に何等の迷ひもない手古奈は、一座手に汗を握つて心配するなかに一人相變らず平氣である。手古奈の考は、とほに定まつて居る。領主の若殿たる人の切望をも拒まねばならぬ程に、何人にも關係があるのでないから、無論兩親の希望に逆らふ訣もなくそれで今日の相談は六つかしい樣で更に六つかしくなかつた。
父や兄やはそれほどではないが、母は一所懸命總身に力を入れての相談であるに、手古奈はさも無造作に落着き切つて、親同胞に心配させる樣なことは少しもないやうに言ふので、母は寧ろ呆氣にとられた態であるが、兎に角一同重荷を卸した如く安心の色を包まぬのであつた。母は猶幾許か不審の眼を手古奈に寄せてる樣子が見えたが、これも暫くの事平生子自慢の母は、若殿の懇望と聞いても平氣に落着いてゐるのは、全く手古奈の見識かと思ひ替へて、今更に吾兒の氣位に驚いたらしかつた。
手古奈が内心の情態は、遂に誰にも解らない。恐らく手古奈自心にも、ほん當には解るまい。此場合手古奈は決して平氣ならんとして平氣でゐるのではない。何となし自然に平氣になつたので、勿論見識でもなく氣位でもない。
手古奈は只清く美しい許り、極めて純粹な女性で、氣取とか野心とか策略とか身分不相應な慾望など起す質ではない。さういふ内心の美質が容貌に顯はれて居るから、一種形容の出來ない力を以て人を動かすのである。只容貌許りでなく、手古奈の一擧一動は悉く趣味である。一度手古奈を見るものは、何人と雖も手古奈が何等をも希望せざるに、一切の手古奈が希望に應じたき念が起らぬものはない。まして手古奈に何等かを希望せられた時、之を拒み得る者恐らく天上地下にあるまじく思はれる。手古奈の前ではどんな鬼でも小兒になると言つたものがある。如何にも此の間の消息を漏らして遺憾がない。
名花の開く所に香と光とが空氣にたゞよふ如く、手古奈の居る所には愉悦が離れないのである。手古奈は自分で何故とも解らずに、現世の榮華に執着が少ない。手古奈は小室に思はれ、忍男に思はれ決して嬉しくないことはない。併しこれが、餘人の思ふ如く理性の悦びではなく全く感情の上のみの悦である。茲が親にも兄弟にも解らぬ處で、小室と手古奈との關係は感情の部分が多いに、忍男と手古奈との關係は未だ理性の問題と離れない。手古奈が此際に頗る平氣な理由も稍解るやうに思はれて來た。
七
此の日果して日置家の老女が、榛の木の門を這入つた。老女は庭に立つたまゝ、先づ供の女をして若殿忍男の君の内使として、まゐでたる意を言はせる。足人夫妻は轉げる許りに走り出で敬まひ謹みて内使を迎へた。老女も懇ろに遜り、殆んど君命を帶びた使のやうではない。老女の樣子を一見しても、忍男が如何に手古奈に戀ひつゝあるかゞ知らるゝ程である。
老女は徐に自分が大殿よりの表の使でなく、若殿よりの内使であることを陳じ、漸く來意を語る。詞の順序にも念を入れて、忍男が思ひの限りを漏れなく傳へんとの苦心も見えるまで、足人夫妻に申し聞える。夫妻は只々勿體なき仰せ冥加に餘る思召と感泣する許りである。
思ひ初めたは、郭公鳴く青葉の頃、産土の祭禮の日よ、それより後は胸に一つの塊りを得て、一日も苦悶の絶えた日は無い。思ひかねた露の曉月の宵、忍びの狩にまぎらはし、垣根の外の立迷にも十度に一度も戀人の俤を見ず、なまじひに領主と云ふ絆の爲め、神に念ずるしるしもなく、只好き折あれと祈る許りを、測らず私部小室が噂を開き今は猛夫の心も消えて、地震に崩るゝ崖の土の如何に堰くべきすべやある。事後れて手古奈を人妻と聞くこともあらば、吾命も今日を限りと思へ。しかすがに忍男は武士の子ぞ、心なき毛ものゝ類なる權威の力を以て決して人の心を奪はんとするものでは無い。若しも手古奈が我に先ちて小室に許したるならば、我は神かけてそを妨げん心はなし。戀の嘆きに命盡くるとも手古奈が爲には福を祈るまことを知れ。家柄身柄をのけての眞情を思はゞ、包みなき心の底を打明けて給はれ……。
老女は聲ふるはして語り終つた。時服一かさねに例の歌の消息がある。手古奈が眞の返りことをと言ひ添へる。
足人は思ひ餘りてか詞も整はない。天地の神に誓ひを立て手古奈に異心なき由をいふ。若殿の眞情を思へば兎の毛の先の塵ほども包むべきにあらねばとて、妻をして、小室手古奈の關係を詳かに語らせた。そこに手古奈も出でゝ、父母の詞を事實に明した。
老女の悦びは假令ば、水を失へる青草の雨に逢ひたらん如く、見る〳〵眼も晴れ聲もさわやかになつたも理である。
老女は猶かにかくと申合せる。第一に私部小室が方には、事巧みに斷わるべく、後の恨み殘さぬ計らひを旨とせよなど注意する。こなたには又忍男の殿が、來む馬競べに第一位の勝を占めなば恩賞願ひの儘ぞと、大殿の仰せを幸に必ず其日の勝を得て、手古奈が事の許しを得むと勇み給ふ。さすがに名門の生れは何事にも際立ち見映ある振舞にものし給ふなど語れば、次に聞居たる少歳は堪へかねた面持にいざり出でゝ、手古奈のいろせ少歳も、此度の馬競には必ず恩賞の列に入るべく勵みある由若殿へ聞え給へといふ。一家の悦びは包まむとして包みきれぬさまである。老女も事の次第を片時も早く若殿に告げ、若殿が悦びのさま見んと辭し去つた。
事かくと定つては手古奈の母は云ふ迄も無く、足人も少歳も一齊に元氣づき自づから浮立つ調子に、賑やかさは小さな家に溢れるのである。
親子三人は未だうか〳〵しつゝある内にも手古奈は早一人胸を痛めてゐる。一度は憎からず思ひし小室の君、自づと思も通へばや、悦び勇みて別れた彼の君に何と答を言ふべきぞ。よしや餘儀なき理は存するとも、理りに思ひのなぐべくは吾とて物を思はぬものを、何というて帶を返すべきか、何というて歌を返すべきか。
手古奈は小室が失望を思ひやる苦痛に、吾身の幸福を嬉しと思ふ餘裕が無い。どのやうに考へても言はねば濟まぬ事は言はねばならぬ。愈々小室に理り言はねばならぬ日は迫つてゐる。手古奈は何もかも忘れて思ひ亂れる。
手古奈は忍男の眞を嬉しと思ふ心が弱いのでは無い。只小室の失望に同情するの念を胸中に絶つことが出來ないのである。乍併茲が手古奈のゆかしい處で、新を迎へ舊を忘れ、石に水を注ぐやうな手古奈であらば堂々たる男子が泣きはせぬ。
手古奈が片寄つて一人呻吟しつゝある間に、奧では親子三人が私部家に對する相談を始めた。母は急に手古奈を呼び、小室の君へ申しやる詞はおぬしがよき樣に言へといふ。使の役は父がゆくより外に人はない。手古奈は此夜一夜眠られぬまゝに、父に持たせやるべき歌を作つた。
眞間の江や先づ引く汐に背き得ず
靡く玉藻はすべなし吾君
いたづらに言うるはしみ何せんと
君が思はむ思ひ若しも
手古奈は詞には判然と言うて居れど、何分顏には進まぬ色がある。一家のものは非常な悦びの間にもこれ一つが晴れ殘りの村雲だ。それは云ふまでも無く小室手古奈の關係が片づかぬ爲といふも知れてゐる。今は何より先きに其極りをつけねばならぬ。翌日は取敢ず父が私部の館へ行くことになつた。手古奈は一層物思はしげな面持にて、昨夜の歌を父の前に置き、
深きみ心を難有嬉しく思ふは昨日も今日も露變らねど、事の定らぬ内に領主の館より仰せありて、餘儀なき成行き、主ある身親ある身は吾身も吾に任せぬ習ひ、何事も力も及ばぬ神の計らひとおぼしたべ、如何に手古奈を憎しみおぼすとも、手古奈が心から君に背きしならねば、只甲斐なき手弱女を憐れとおぼして……かくし申してよ其他は父が計らひにこそといふ。
實儀一偏に平生無口な足人には、實にゆゝしき役目である。免れ難い今日の場合と思ふものから、家の爲め吾兒の爲め一所懸命の覺悟で出掛ける。私部小室が腹立の餘りに如何樣の難題を言ふかも知れぬ。そこを巧みに理わりて恨みを殘さず無事に役目を果すは大抵な事では出來ぬ。足人の心配は一通りでないのである。足人は只心に神を念じて、何事も包まず隱さず、事の始末と手古奈の詞とを傳へ、如何樣になるとも成行きの儘と決心した。
さすがに手古奈は勿論母も少歳も、父の役目を氣遣ふので、此日は何事も手につかぬ。外の業にも出ないで父の歸りを待つた。
暮近くに父が元氣よく歸つて來たのを見て一家の悦びはいふまでもない。足人は家人の顏を見ると、いきなり、小室の殿はえらいものだ。いやもう見上げたもの、おれどもの考へたのとは丸で違つてゐて、實に……それや言ふまでも無くよい首尾であつたがな。と話に假の結びをつけて家に這入つた。
足人は心には聊か敵意もあつて、私部家に往つたものゝ、非常に鄭重な待遇を受け又意外な小室の挨拶をも聞いて、すつかり小室に參つてしまつた。小室の殿も成程若殿にひけをとりはせぬ。今は是非に及ばないが、これが同じく他人であつたらば、一日でも話の早かつた小室の殿に許すべきだ。手古奈の何となし躊躇するも無理がないとまで思うたのである、
さすがに手古奈の前でさういふことはならぬなどゝ考へては來たが。極人がよく、奧底の無い足人には、どうしてもよい加減にはものが言へない。眞底から小室に同情した足人は、遂に思つた通りに小室を譽めてしまつた。足人の話によると。
小室の意氣は實に美しい。態度は如何にも男らしい、そして眞に情の深い挨拶振りで足人も涙を拭はぬ譯にゆかなかつた。
小室は、足人から始終の事情を逐一聞きとつて後手古奈の歌を見る。暫くは默念として歌より眼を離さぬ。いつしか顏の色さへ變じて、八尺十尺の溜息をついた。漸く吾に歸つてか、顫へる唇より、自分の運命が拙なかつた、と一語を漏らした。
死ぬ人もある死なるゝ人もある世と思うて、絶念め得るであらうか。よし絶念め得たりとも絶念めての後には徒らに躯の小室がうごめく許りとおもへ。只に歡樂の盡きしといふのみならば、人は猶永らへ得べし。見るもの聞くものに哀怨の嘆き絶えざらば何をよすがに生を保たむ。手古奈なき小室は潤ひなき草木の花、色も香りも今日を限りと知れ……。
木にも石にもあらぬ足人が、泣かずとすとも泣かずにゐらるべき。小室は辭を次ぐ。
手古奈は餘儀なき成行きといふを、吾心に變りのあらむ樣なし。固より絶念めんと思はねば、絶念めん樣もない。手古奈が吾に來らぬは、手古奈が心からにあらずといふか、手古奈が吾に來らざるは、世に障りありての故ならば、吾は命の盡きぬ限り手古奈が來らむ日を待つぞ。
忍男の君をも露憎しと思はぬを、又誰れに恨みの殘るべき。手古奈が眞、人々の心やり、總じて嬉しく悦ばしく、行末永き手古奈が幸福を祈らむ。此上は吾茲にありて、吾が思ひのまゝに手古奈に戀ひするを許せ。絶念めんとて絶念め得る戀ならば、始めより太刀佩く大丈夫の言には出でず。帶も歌も改めて手古奈の母に參らせむ。せめては手古奈が身近くに留め給はゞ玉の緒長き慰みにこそ。
詞は鐵石をも斷つさまであるが、さすがに打萎れた面持は包みおほせなかつた。
小室の戀には誰れも同情せぬ譯にゆかぬ。野心家の母までが暫くは沈默して同情の色を動かした。手古奈の心中更に層一層の苦悶を加へたは言ふまでもない。やがて三人が言ひ合せたやうに、氣の毒は眞に氣の毒だけど、如何とも餘儀ない事ぢや。かう言ひつゝ僅かに陰鬱の氣を散じたのである。別けても母は俄に氣づいた如く手古奈の心を引立てようと、いろ〳〵快活な話を始めた。さうして快活な仕事を手古奈にいひつけた。自分も勿論一所にやるのである。
八
神無月十五日の日の早曉である。殘月は猶夜の光を殘し、淡たる其影は武藏野の野廣い遠方に傾きつゝある。六つ七つは未だ星の光も數へられる。滿潮の入江は銀波の動きが漸く薄らぎかけた。煙のやうな水蒸氣は、一郷全體の木立を立ちこめつゝ自然の光景は如何にも靜かに、飛ぶ鳥もなく木の葉も動かずといふ有樣であるが、此の靜かな天地に包まれた人里は、どことなく賑かな鳴り音を潛めて居る。里を押渡してどや〳〵と物音のどよみを漲らして居る。近くには馬の鼻息を吹く聲、人の物を打つ音、人の走る音など、總てが纏まつた一つの音響となつてどや〳〵と聞える。將に發せんとする人間の活動が、暫くの間、曉の光の底に働きかけて居るのである。
眞間の岡、木立の繁り深き、縣主日置殿の館から、今しも第一番の太鼓が、白露の空をどよもして鳴り渡つた。大森林の木魂を驚した響きはやがて入江の波上に鳴り渡り、曉天數里の郡内に傳はつた。それと同時に馬蹄の響きが一齊に郡内に起つた。何れも日置の館をさして驅け登る。
殘月全く光を失うて繼橋渡る人の俤が分明に見えるほど夜の明け渡つた頃は、二百餘騎の騎武者が門前長く二列に整列して第二の太鼓を待つて居る。東雲遙かに太陽の光を認めた時第二の太鼓は鳴つた。騎射場一切の準備は整うて、騎士は悉く指定の地に就く。
若殿忍男が白袍赤馬自ら出て騎土に號令を傳へる。第一より第二十に至るまで恩賞の次第を告げて大いに騎土を勵まし、且つ自らも騎手の一人として優劣を爭ふの決意を述べた。誰一人おろかはあらねど、目のあたりに若殿自らの奬勵を聞いては各意氣百倍、心のたけりは巖石をも押通さん許りである。館より朝食の配りがあつて第三の太鼓が鳴れば騎射が始まる順序である。
縣主日置の館は、大木古樹に富めるを以て名高き舊家である。眞間の繼橋より正面に岡へ登れば一里四面もある大森林は、松、杉、檜、楠などの幾百年を經たかも判らぬ巨木が空をおほうてゐる。杉檜許も十餘萬株を算すといふので、鬱として神代の趣きを見る。其中央を割つて日置の館は作られてある。門前十餘町門内又十餘町、蒼龍空に舞ふが如き老松の間にさつぱりとして却て云ふにいはれぬ品格ある舍殿幾棟よりなれるが、日置蟲麿が館である。
門を出でゝ右一町餘りにして大騎射場に達する。東より西へ十餘町楕圓形の芝生がそれである。大森林を後に眞間の入江を前に、前面一帶は開けて遠く武藏の海に、鶴や鴎の群れ飛ぶも見える。空澄める日には富士の烟の靡くさへ見える。大殿蟲麿が關東隨一の騎射場と誇つて居るところ、之れに東葛飾一郡にして、名馬を養ふ武夫二百人を越ゆると云ふが、特に得意禁じ難き點である。
東側の松林中に騎手の控場は軒を竝べて列つて居る。五十騎を一組として四組に別れ、赤黄青緑の服色を別つ。各絹袍を許され烏帽子を着、株槌の劒を佩き、胸間には隨意に玉をうなげたるなど見るめ尊とく、萬人羨みの眼を注ぐのである。
森を背にした北側の高棧敷には、大殿を始め一門のもの數を盡して座を列らね、大殿自ら評決を與ふるといふので、騎手の勇み樣も格別である。老女の計らひによつて手古奈も母と共に高棧敷の一隅に顯はれた。手古奈の姿が此棧敷に顯はれた時二百の騎士は勿論、見物一切の視線はそこに集注された。手古奈の姿が美しいからといふ許りではない。此馬競べが濟めば手古奈は若殿忍男の戀妻として館に迎へらるゝといふことが隱れなく知れ渡つて居るからである。手古奈に寸分得意らしき風の無かつた事と、忍男が手古奈の居るをば殆んど知らざるものゝ如き風ありし事が大いに騎士中に評判がよかつた。太都夫の赤袍、丹濃の黄袍、少歳の緑袍、皆それ〴〵に人柄にかなつて、衆目を引いた。太都夫も丹濃も今は手古奈を及ばぬ戀と諦らめ別に言ひ交はした人さへ出來た位だが、晴の場所に手古奈が見て居る前での勝負には、容易ならぬ勵みを持つて、心底に必勝を誓つて居る。太都夫の如きは命に替へてもと神に念じつゝある決心の色はおのづから人の目にもつくほど故、以心傅心に騎士全體の氣を引き立て其氣組の旺なことは實に空前のことゝいふ有樣であつた。
高棧敷の正面馬場の中央に一より四迄四箇の的が立てられた。馬場の中心より各三十間を隔てゝ一が藁人形竝の人だけありて、胸の中心を射たるを甲とし以下四つの階級を附す。二は尋常の楯にて是れも中央の墨點を射たるを甲として四つの等級を附す。三は雁形の鳥的を絲にて釣れるもの 是には等級なく四は鐵楯である 是は矢を立てたるを成功者となす 點數等しければ姿勢のよろしきを上となすの定めである。一組四人宛一週一回の放矢なれば馬場四週して一組の勝負を終る。
白袍白馬の老縣主が靜々と評決場に顯はれて第三の太鼓は鳴つた。待ちに待つた定めの騎士は赤袍を先とし黄青緑と順を逐うて左方より疾騙して場に出づれば、評決場より直に相圖の旗を擧ぐる。同時に騎士は矢を番へて弓を張る。馬は飛躍つて走馳して來る。第一回の勝負は四箇の的に三箇を命中したるもの一人二箇に命中したるもの一人、他は僅に一箇を射得たるのみ。評決所は一に一々矢を調べて優劣を録するのである。かくて水車の廻る如くに十回二十回と繰返し、其日夕刻迄に遂に五十回を決行し得たは實に盛なものであつた。
忍男はさすがに若殿の資格を以て、服裝も一際目立つた綾織の白袍に駒は紅もて染めたらん如き駿馬である。黄金作りの太刀打佩き白檀弓豐かに單騎の射撃を試みる。一回化粧乘をして二回目に矢をつがへた。三回四回と見事に矢を立て五回目に例の最も至難なる鐵楯に、鳴を響かして矢の立つた時は、萬衆一時に歡賞の聲を揚げた。
手古奈は忍男の望みを諾しては居るものゝ、どうしても餘儀ないからといふ風は見える。小室に對する口實許りでなく、眞に餘儀ないからと思うて居るらしい。それと知つての母の心配は一通りではない。今日も母は手古奈の樣子に少しも目を離さぬのであつた。忍男の矢が最後の鐵楯に立つて歡呼の聲の湧き立つた時には、さすがに手古奈も眞から嬉しさうな笑を漏らし、さうしてすぐに其悦びの羞を氣づいたか、半顏を袂に隱した。此手古奈の素振は母を悉く安心させた。
賤しきものゝ女を若殿の物好にも困る位に考へて居た老女も、今日萬人の中にあつて愈光あるさまの手古奈を見て悦びの心躍りが包みきれぬのであつた。
最後の騎射が濟むと間もなく、恩賞の評決が直に發表される。日置忍男第一物部太都夫第二物部丹濃第三物部少歳第四といふ順であるべきを、老女はかねて心得あるものから、恩賞望みのまゝとの口約に依り若殿には別に望みの存する旨を申し立てた。老縣主は悦びに堪へざる面持にて、よしよしさらば物部太都夫第一物部丹濃第二と順を逐ふべしと決定して今日の馬競べも大滿足を以て終りを告げた。太都夫丹濃の二人は從令其戀は協はずとも其戀人の前にて、是程の晴業を遂げたは人には知られぬ愉快であつた。
即夜大殿より許しがあつて、忍男手古奈の婚儀は月を經ず行ふ事となつた。
九
手古奈がどこやら忍男に冷淡な趣きのあつたのも別に深き意味があつての事ではなかつた。私部小室には兎も角一度會見して親しく詞を交へただけ直接に感情が交換された訣であれど、忍男の方は總てが未だ間接で、其望に應じねばならぬといふも、皆智識上の判斷から定まつた事であるので、感情の上になつかしいいとしいといふ思念が濃かになつて居らぬ。それに同情心の強い手古奈は兎角小室の失望を氣の毒がる念が止まないから、忍男に對する新しい感情が湧かぬ筈である。考へて見れば冥加至極とも何とも云ひやうなき難有き若殿の思召とは思ふけれど、妙な心持の具合で何れ忍男に心移りがしない。手古奈も愈々事が極つて見ると、これではならない、どうしてこんなだらう。どうして忍男の殿の思召が嬉しくなれないであらう。母に苦勞を掛けるまでもない事なのにと、獨りつく〴〵考へることもある。さういふ次第で手古奈自身も、自分の心持の工合を苦にして居つた程であれば、結婚後は少しも圓滿を缺くやうな事はなかつた。心の底の底にも何等の淀みもなく、毫の先程の不安もなく、身を倚せ懸けて眞をつくすことが出來た。
勿論忍男が温き心と深い誠とは、吾世も吾身も手古奈に依て生命を存する如くに、胸の扉も心の鍵も明放しての愛情を、今親しく身に受けた手古奈は、最早毛程も自己といふものを胸底に殘し置くことは出來ない。これでは妹脊和合せまいと思うても和合せぬ訣にゆかぬ。斯くて日置の館には歡樂湧返る間に新しき春を迎へた。
こつちには眞奈の願事見事に成就して、暮の内に少歳に嫁いだ。新春の祝賀には新しい女夫が打揃うて殿の館に參殿しようといふ次第だ。それでは少し世間の手前惡からんと心配する母の小言も耳にはいらぬ。少歳は何もかも眞奈が云ふ通りになる。さりとて兩親にほんとうに腹を立たせるやうな無間をやる眞奈ではない。眞奈の得意は正に手古奈の上ぢやと太都夫は笑つて居る。
正月も過ぎて二月の春がくる。七十五日過ぎない内に手古奈の噂も下火になる。相變らず盛なは馬の自慢話、そこの馬がどうのかしこの馬がかうのと、仔馬の仕立て方や乘仕込みの巧拙など專ら話の種になる。夕刻には各々近くの廣場へ乘出し習練に餘念がない。それも漸く暖くなつた此頃では、種物の相談や鍬鎌の用意等の外には、誰れ彼れの失敗話などに、笑の花も咲かせて、各々無邪氣な生活に安じて居る。實に日置の領下は今平穩和樂の春である。
然るに此十日の夕刻に意外な出來事があつて郡内を驚した。眞間の漁師三人が、漁の出先で聊かの事より私部領内の者と爭を起し内の一人は殆ど足腰の起たなくなるほど打たれた。こつちは三人で向うは十餘人であつた故散々に敗辱を蒙つて逃げて來た。これが例の根もない出合がしらの喧嘩ならば、それほどの騷ぎにもならないのであるが段々樣子を聞いて見ると、日置忍男が郡の馬競べに第一の勝を得續いて花々しく手古奈を其家に迎へたといふ事が、痛く私部領内の血氣盛な壯士連の感情を害して居つた。日置の家を憎むの情はやがて領内に及ぼし、日置領内の者と云へば誰彼れなしに憎むといふ結果が、今回の出來事を産んだ。さういふ原因に依つての出來事となると、今後も何時同樣の衝突が起るかも知れない。
此事が一度郡内に傳はると、非常に郡内の激昂を引起した。氣早の手合は即夜仕返しを仕樣とまでいきまいた。思慮ある二三士の慰撫に依て漸く無事に治るは治つたが、俄に和樂愉悦の夢を破られ、容易ならぬ敵を近くに發見せる心持で、人の氣合が屹と引きつめられた。
十
ねぢけ心といふものゝ少しもない、私部小室は手古奈に對する戀の失敗に就いて、其落膽と失望とは言語に絶えて憐れなさまであつたが心には聊かの嗔恚もない。從て手古奈には勿論忍男に對しても恨の念を秋毫も挾まぬのである。只一切を自分の不幸に歸して、手古奈を失へる自分は、天地の有らゆる物に歡樂を得難くなれるを嘆く許りである。
去年の暮手古奈の父を門に送つてよりこの方、只一室に起臥して庭にも立たぬ。一日も乘らぬといふことなかつた愛馬をすら見んともせない。一人の弟なる千文や近く仕ふる人々がこもごも且つ慰め且つ諫めて打嘆くにも、只人々の諫めに從はんと思ふの心切なれども、吾心は吾諫めをすら背くすべなさと答ふるのみである。
されば一家の寂しさは云ふに及ばず、領内聞き傳へて殆ど喪中の有樣で、聲高に笑ふさへ人聞きを厭ふ程である。平生賢明の譽れ高く領内の悦服尋常でなかつたゞけ、誰一人吾領主に同情を寄せぬものはない。かゝる所へ日置一家の花々しき噂さが日毎に傳はるものから、領内の人は一般に云ふに云ひ難き苦痛を感ずる。中にも血氣の若者等は、領主の爲に無念の涙を呑みつゝあるのである。
深く悦服して居る領主の心を計りかね、輕々しき行動は控へて居るものゝ、若しも小室が何等か恨を晴らさうとするならば、火も水も物かはと躍り出るもの五人や十人ではない。
どうせ何等かなくて濟まずとは、誰云ふとなく一般に信ずる處である。此頃はもう何の事もなく三人寄れば其話で、若しも領主の心を安め得るならば、如何樣な事なりとも、假令へば、入江の潮を堰止める程の事なりとも、遂げでは止まずと齒を噛むのである。少しく思慮ある族は涙を呑んで控へて居るが、分別なき少壯の手合は、日置の領内の者と云へば、犬猫なりとも打殺し度き心で居る。まさかに無態に亂入も出來なく、僅に無事を保ちつゝある。
二月十日の夕刻の出來事は、突然の衝突だけに大事に至らずに濟んだ。日置の領内の内にも多少の思慮のある手合は、之を騷ぐと大事になると氣付て、二度とあつたら我々も承知せぬ。今度は我慢をせとなだめた爲め、打たれた男も外の二人も泣き寢入になつたのであるが、遺恨は胸の底に熱して居る。處が私部領内の者の身になると、それ位の事でなか〳〵腹がいせない。そんな三人許りの奴らをいぢめたつて仕方があるものか。丸切殺して見ても三人ぢやないか。やる時が來たらうんとやれ。理が非でも何とか鬱憤を漏らさなければ、何を食つてもうまくない。
かういふ氣合で居る。少しく氣取つた連中は事領主の上に關することで、殿樣の心持も判らぬ此際無分別な事をやつては、どんな迷惑を殿樣に掛けるか知れない。つまらぬ事はせぬがよいと頻りに血氣の徒を慰めて居るが、なか〳〵承知しさうもない。
今日は共同種井の水替といふので、四五の少壯輩が酒を汲んで例の痛憤談をやつて居る。
殿樣は殿樣だけに、見苦しい事も出來ず、憤恨をこらへて籠られて居るのだ。それを配下の吾々が知つて知らぬ振りをして居るといふことがあるか。人の戀人を横取しやがつて、馬競べなどにて仰山に騷ぎ立て是れ見よがしの日置の仕打は、餘りに憎々しいやりやうぢやないか。誰れだつてさういふ時には病氣にもなる。身分のあるだけにこらへて居る。こらへて居るだけに苦しみが強い。それを平生愛撫されてゐる我々が餘所目に見て居るといふことはない。
一人が醉泣きしてさういつてゐる。外の連中とて一人も不同意はない。
なんだ物知り顏に自分許り解つた風に、無分別な事をやつては殿樣に迷惑を掛けるなどと、吾々は人の世話にはならぬ。吾々が命さへ差出せばよいのだ。人に迷惑を掛けるものか。殿樣に關係はない。吾々は吾々の仕たい事をやる許りだ。出來る事ならば日置忍男をふんづかまへて、思ふまゝ耻辱を與へてやりたい。それが出來なくともあいつが配下の奴等を四五人打殺してやらねば腹がいせぬ。あゝ口惜しい無念ぢや。殿樣の無念はどれほどであらう。あゝ無念………。
かういつては又一人が泣く。今一人の奴は腕をまくつて立ちかける。サア泣面したつてどうなるか今夜にもやらう。私部小室の配下のものがこれだけ恨み憤つてゐるといふことを、向うの奴らに知らせるだけでも、いくらか胸が透く。殿樣はこらへても吾々はこらへられない。
一人の奴はいふ。今夜にもやらうて、どうやるつもりか。今立ちあがつても仕樣がない。先づ相談をしろ。もう漁の時だによつて、今夜も屹度向うの奴ら五人や六人漁に出て居る。吾々は十五六人語らうて、舟を出して見よう。五六人打殺してやつて、これ〳〵のいはれで恨みを晴らすのだといつて一人生かして還してやれば、屹度日置に傳はる。日置は自分の爲め手古奈の爲めに死人が出來たと聞けば、必ず氣をもみ出す。怒つて騷ぎを起すかも知れぬ。さうすればこつちの目的にはまるのだ。向うが面白がつて居られなくなれば、殿樣もいくらか腹がいせる譯だ。吾々は命を差出す、こちらが五六人向うも五六人、これだけの人間が手古奈の事件に死んだとなれば、彼れ等もさう面白がつては居られまい。日置の奴は萬願成就で樂んで居るに、吾等が領主の殿は泣きの涙で生甲斐なくして居らるゝ。それを冷かに見てゐるといふ法はない。是非今夜は往つてやらう。よいの惡いのと、そんな理屈をおいらは知らない。命を棄てゝする仕事に善も惡もいらない。さアやらう。今夜は逃がさぬ屹度殺してやるサア往かう………。
相談一決して、窃かに同志を語らつて見ると忽ち十四五人出來る。科はおいらが背負ふから何でもこいといふ勢で、十五人入江の岸に集つた。不意打に武器を用うるは卑怯だといふものがあつて各手頃の棒を用意する。一舟に五人宛舟三艘に乘つて入江に乘出し、日置の領内近くへと漕いだ。
十一
薄曇りに曇つて居ながらも、十三夜の月である江面はほの白く明るい。味方の里にも敵の里にも一つ二つづゝ見え隱れする灯が見える。
彼等の舟が眞間の近くへ來た頃には、空は急に時雨模樣に變じた。物に驚いた樣な風が、どうつと江面を騷がして吹き起つた。兩岸の枯葦原に物凄い音を立てゝ風は鳴りはためいた。見る間に月も薄い姿を隱して空は全く闇となつた。黒い冷たい波が、パタリ〳〵と舟の横腹を打つて、舟は烈しく搖れ出した。
一行の若者どもゝ、暗くなつてはと、聊か困じた體ながら、固より無法な若者どもだ。
今更あとへ引けるか、やる所までやれ、と一層掛聲勇しく、必死と舟を漕ぐのであつた。漸く東岸へ漕ぎつけて、葦原の繁り高い洲の間に這入つた。
無法極まる血氣の若者どもが、酒氣に乘じて企てた仕事は、始めから目當が甚だ不慥であつたのだ。日置の領内の者に、果して出逢ふか否かは固より知れるもので無いのに、空は暗くなる風は起る波は烈しい。目指す敵は何所に居るか、一向に見當がつかぬといふ有樣である。さすがの若者どもも、氣拔けせざるを得なかつた。
ところへ幸か不幸か、一時雨過ぎ去つた後は、空は鏡の如くに晴れ渡つた。寒い月の光は物凄い浪畝の上に、金を浮べ銀を浮べ名殘りの風が時々葦原を騷がす、云ひ難き爽快な夜になつた。
すると今迄風を避け居たものらしい、三艘の小舟が、突然葦間の小流れから現れた。無論眞間の者である。鰻釣の流しを終つて歸るのであらう。各舟流し釣の笊を、三つ四つ宛舟に乘せあるは夜目にもそれと知れるのである。一つの舟に二人づつ、彼等は何の氣なしに漕いで、我が舟の前面を行き過ぎんとするのである。待ちまうけた、こなたは猶豫なく大喝して待てと敵を呼び留めた。
漁をすれば漁師なれど彼等は尋常の漁師ではない。耕漁の餘暇には、馬に乘り、弓を習ふの武夫である。呼びとめられた彼等は、凜々しき聲を絞つて、そこもと等が先づ何者なるかを云へと詰つた。
吾々は勿論私部小室が配下のものである。吾領主に凌辱の限りを盡した、日置忍男に對する憤恨を晴す道なく、罪なき、公等と知るも、公等を討つて憤を漏らすの餘儀なき今宵である。公等を討てる吾等は固より死の覺悟がある。吾等に出逢ひたるが公等の不運と思ひ、領主が受くる恨みの的と、覺悟を定めて一戰に及べと呶鳴りつけた。
聲はふるへて居る。足も手もふるへて居る。夜眼ながら容易ならぬ彼等の血相にも、日置の配下の武士はさすがに狼狽の色なく、決然立ちあがつた。
領主が受くる恨の的……如何にも恨の的に立たう。恨を受くる覺えなくとも、恨と迫る生死の際人々覺悟と叫ぶや、直ちに血戰は開かれた。
舟は同數なれども、人多き舟は舟をあやつるに專らなる餘裕がある。常に舟を形勝の地に置くことが出來る。加ふるに多勢に無勢、瞬くひまもなく包圍亂打の下、六人は死骸を各自の舟に横へてしまつた。
誰だもうよさぬか、刃向はぬ敵を打つは武士の道ではない。生くるも死ぬるも運命であるぞ。かくて生き返るものがあるとも、そを殺す所以はない。と叫ぶ一人もある。
餘りやり過ぎたか、一人位息あるやつはないか。
かう云ひつゝ舟中の死骸を見廻した一人が一人の蘇生者を見出した。水をくれて、五人の死骸を守り返れと命じたのであつた。
風絶えて夜は寂しく、青白き月の光に見れば物凄さは一層である。惡人ならぬ彼等はさすがに平氣で居られない。
天晴れの武士よ、理屈の是非を云はざりし覺悟のよさ。吾死を覺悟してこそ罪なきものも殺し得たれ。天地の神も照覽あれ。主を思ふ心一つ善きも惡きも辨まへず、吾等も明日は死する身をと、一聲に呌んだ。
死骸の舟を眞間近くへ送り就け、殺せと叫ぶ蘇生の一人に、事の始末を領内に告げ猶罪ある者は罪に服して恨みも消ゆれ、罪なくして恨みあるものゝ恨みは消ゆる時あらずと領主に告げよ。
かく云ひて生ける人の舟は入江の沖に去つた。
十二
四人の死骸と二人の腰拔けとが、各々家族と友達との手に渡つた時、彼等が悲憤の泣聲は、世を常闇の底に引入るゝ叫びに等しかつた。隣から隣り誰一人これを餘所に聞くものがあらう。片時と經ぬ内に一郡騷動を極むる事となつた。十日の日の出來事に、既に堪へられぬ恨を堪へた血氣の者ども血を吐いて憤りつゝ狂氣して馳け廻る。どうしても今夜の内に復仇をせねばならぬ。誰彼とは云はない。十人にても二十人にても寄つた人數で突入する。友達の死骸の熱がさめない内に仇の血を見ねば承知せぬ。此無念を抱いて一時たりとも落着いて居れるかといふ。をんな小供までも髮の毛が逆立ちに立つた。同情の泣聲は遠く野外にまで聞えた。
三十人五十人七十人八十人と集つてくる。もう出掛けようといきまくものも多い。太都夫も丹濃も遠に來て居つた。近く三軒の庭に燎火をたいて集まつた人々はてんでに用意を調へて、重立つ人々の指圖を待つて居る。これだけ人數あれば十分ではないか。どうかどうかと騷ぎ立てる。
太都夫は小高き所に登つて衆に相談を掛ける。一度ならず二度までも、罪も何もない人を四人まで殺した。それも皆人數を頼み不意討の卑怯を働いた。噛殺しても間に合はない位憎い賊徒である。直ちに押かけて仕返してやりたいは誰も同じだが、此事體の起りの眞相は十分判らぬにせよ、日置の家と私部の家との關係に基いて居ると思ふと、ちつと考へんければならない。私部小室もそれほどに日置の家を恨み居るかどうか、領内の重もな人々もそれほど無法な恨を持つて居るかどうか、末輩の者の淺墓な考から起つた事でゝもあると、餘り大業な仕返しをやつては、取返しのつかぬ不利に陷るかも判らぬ……。
激昂を極めた多數は一齊に騷ぎ出した。もう太都夫の話を聞くものはない。いつもそんななまぬるい事をいつたつていかぬ。そんな尤も臭いこたあ、今夜の樣な時に云ふこつちやねあ。理窟を云うて居られる場合か。跡の事は跡の人に頼む、どのやうな事があらうと、此儘にして止まれるか………。口々に罵るので、太都夫も默してしまつた。
今度は丹濃が立つた、才子質の太都夫よりは篤實無口な丹濃の方が若手の受けはよい。丹濃は言ふ。相談に手間ひまとつて居れない。表立つた事でないから私にやるのだが、仕返して往つて敗辱を取つてはならないから、やるには幾分手筈を極めねばなるまい。
不意討は卑怯である使者を私部が許に差立る事
館の許しなきに弓矢刀劒を用ゐるは穩かでないから一切竹槍の事
途中の亂行をしてはならぬ、直に私部の家に迫つて五人に對する身替りを強請すること
途中迎撃に逢はゞ勿論決戰をなすこと
私部が家には自分が自ら使者となるに就き、一刻の後に押掛ける事
太都夫には日置の館に此始末を注進することを託すること
躊躇は許さぬ用意にかゝれと叫んだ。唯一人否やがあらう。舟の用意竹槍の用意、心得の女どもは油を煑て竹槍の穗に塗る。
丹濃は道を急ぐといふところから家に去り戻つて馬の用意する。丹濃は萬一にも生きて還られぬ覺悟だ。月始に丹濃に戀して嫁いだ新しき妻は、丹濃が袖に取りついて、君が死する時は吾死する時、片時たりとも君に後れて生くべくもあらずと泣く。丈夫の中にも丈夫らしきさすがの丹濃も、馬を差置いていとしの妻を抱きよせた。數回吾頬を女の頬に摺つけた。死ぬも生くるも一所ぢやとは訣別の詞である。
妻は猶竊かに馬の跡を慕うて舟の出場に逐ひすがる。丹濃は吾を卑怯にするなと叱つて、馬諸共舟に乘り移る。自ら梶を押しつゝ江心遠く漕ぎ行く跡には、泣聲を夫に聞かせずと物蔭に泣く女の姿が月の光に人の膓を斷つ。
夜はいよ〳〵更けて、決死の壯夫百餘人顏色青ざめて詞はない。用意は悉く調うて入江の岸に集合つた。誰一人から騷ぎするものもない。強き決心は凝りては、鐵の塊を水におろすやう、重く沈んだ氣合が一團となつて落下せんとするのである。跡に殘れる婦女老幼は誰が誘ふともなく悉く鎭守の杜に集つて祈を上げる。一所懸命な祈の聲は夜陰に冱えて物凄い。鬼も泣く神も泣く。
十三
丹濃は深夜馬蹄を鳴し、單騎私部の門を叩く。それより前に、私部小室は十五人のものゝ自首に逢うて、事の六つかしかるべきを憂ひつゝ、一門のものをつどへて凝議中のところであつた。
小室は從者に命じて、直に丹濃を庭内に引かせ自から出でゝ、應接した。小室は一人の侍者を從へ長やかな服裝に太刀を杖いて立つて居る。勿論縁の兩側には三四人の武士が警衞して居る。夜陰に燭を立てゝ敵使を見るといふ莊嚴な光景である。
丹濃は凛々しき武士の服裝に、好みの太刀を横たへ、色淺黒く肉太に、如何にも落著いた風采を磬折して立つた。左の手に太刀を握り右の手は右の太股のあたりに据ゑて來意を述べる。聲は高く詞は簡單であつた。
貴領の壯年等が、今宵行うた眞間の狼藉は、出逢頭の爭鬪ではない。深き意旨を含んでの殺害と聞いた。吾一郡の怒りは火を吐く有樣である。死者五人の靈に貴領の壯年五十人の領血を絞つて注がねばならぬ。今一刻の後に憤怒の一團は入江を渡る。武士の名を重じ、不意討の卑怯を避けての使者である。猶領主の許しを得ねば一切武器は用ひざるべきを告ぐ。
斯く言ひ終つて後丹濃は猶詞をつぎ、片時の猶豫をゆるさぬ。貴領に於ても速に用意あれ。且つ役目を果せる以上吾身は如何にも處置せよといふ。
小室は如斯場合にも猶丹濃の態度に目を留めてか天晴れな壯年よと感嘆した。小室は早く心に決する處ありしが如く、少しも騷ぎたる風なく、よし吾自ら貴領の人々を入江の岸に迎へよう。其許は暫く待て吾を案内せよと云うて内に入つた。間もなく小室は無造作に馬に跨り、二人の騎士を從へ、いざと丹濃を促すのである。丹濃は事の意外なるに何等の思慮も浮ばず、唯々と小室が命に從ふの外なかつた。
四人の騎武者が黒門を出た時に、入江の上に強く烈しき一むらの叫びが起つた。ワアーワアーワアーと寒空に冱ゆる響は、人間の聲と思はれぬ程物凄い。枯葦原に火を放つた。今迄は風の子もなかつたが、火が起れば風も起る。入江の渚幾里の枯葦、枯れに枯れた葦原に火を放つたのである。見る間に入江は火の海である。猛火の津波が空を浸す。天一ぱいの黒雲は俄に眞赤になる。火の鳴り人の叫び、ワアーワアーワアーと渦くやうな聲のどよみは卷き返し卷き返し近寄る。
こなたの領内の驚きも、形容の出來ぬ有樣である。人々の馳せ違ふさま家々相呼應して狼狽惑ふさま、事情を知らぬものが多いので、只々騷ぐ許りである。小室はそれらの用意もかねて家人に命じ置いたから、此時使は八方に走り廻つた。
丹濃は一歩驅け拔けて、味方の上陸すべき岸邊に馳せる。火は雲を焦し火の雲は又入江を燒く。燒け爛れた潮路を蹴つて、幾十の小舟は矢の如くに、こなたの岸に走りよる。先着の上陸者二十餘人は、はや列伍正しく控へて居る。今丹濃が走り來る跡に三騎の從ふを見て、衆は一齊に眼を見張つたさまである。丹濃はかくと心づくや大聲に自分を名乘つた。
丹濃は馬を下るや、手短に私部小室が單身出で來れる由を告げて協議にかゝる。衆は續々と上陸する。此時太都夫は總指揮者の格で上つて來た。太都夫は先に衆の容るゝところとならなかつたものゝ、斯る場合指揮者となるもの、又太都夫の外にない。それは衆も太都夫も知つて居るので、日置の館には別に人を立てゝ、自ら指揮の位置に立つた。丹濃は太都夫を見て非常に喜んだ。小室の出樣が如何にも意外であるから、單純な正直一偏の壯年のみには、どうしてよいか考が就かぬ。いつでも少しく込入つた話となると太都夫の分別を待つのであるから、丹濃は此際太都夫を迎へて非常に安心したのだ。
丹濃が事の荒増を告ぐると、太都夫は竊に先見の誤らぬを悦び、事の容易に落着すべきを悟つたらしき微笑を漏らした。乍併此場合に區々たる口頭の辭禮位で衆の憤怒をなだめやうのないことは太都夫も承知して居る。私部小室が輕裝吾等を迎へて如何な手段に出づるかは、さすがの太都夫にも判斷がつかなかつた。
其内に私部主從は渚より二十間許り離れた木立の蔭に馬を降りる。太都夫が率ゐた同勢も殆ど上陸しつくして茲に三度鯨波を擧げた。枯葦原の火は遠く燃え去つた。二十餘の松火が薄暗がりに竹槍を照らして一種物凄しい光を放つのである。
太都夫は右左に號令した隊伍を整へ、衆に對つて丹濃が使命のあらましを告げ、今私部主從三人は彼の木立の蔭に來り居る。吾等は只吾等が得んとするものを得ねば止まぬ許りだ。彼如何なる方法に依て吾等に滿足を與ふるの考か。諸子は暫く激つ心を抑へて待つ所あれと告げた。
丹濃は太都夫を伴うて小室に介し、三人暫時の談話あつて、やがて太都夫が歸つて衆に告げたはかうである。
私部は先に十五人のものゝ自首に依つて、早く事の始終を知る。是に對する自分の考も既に定つて居る。罪は何人の上にもあらず其責固より吾一身にあることゝ思ふ。私部が家の面目に掛けて諸子に滿足を與ふべければ、吾爲に須臾くかゝりあひなき吾領民との爭鬪を待たれよ、吾自ら茲に諸子を迎へたるは途上無益の爭鬪なからんと願ふに外ならぬ。さらば諸子は吾に從て吾家に來れ必ず諸子の望みを滿足させんことを誓ふとの意である。依て改めて太都夫は衆に云ふ。吾等こそ固より無益の爭鬪を好めるにあらじ、吾等は只吾等の憤恨に對する滿足の報いを求むる許りだ。併し彼が單身茲に來れるを見れば彼にたゝかふの心なきは明かである。されば、吾々は暫く彼が言に從ひ彼が爲す所を見るべきである。いはれなき狼藉は武士の最も耻づるところ、諸子は必ず途中無益の業をなすな。
斯くと聞いて、はやりにはやる壯年ども頗る張合拔けた體であつたが、内に聲を勵して喝するものがある。口先の話ばかりに心ゆるめてなるか。衆一齊に之に同意し思はず鯨波を擧げる。
小室は一人の從者に命じ、馬を太都夫に讓らせ、小室を中に太都夫丹濃左右に轡を竝べて、歸途に就く。衆は十間程引下つて、竹槍の列を立て松火を振つて靜々と進みゆくのである。
小室は馬上二人を顧みて、二三の談話を試みたが、身のこなしも聲つきも少しも迫れるさまなく如何にも豐かに鮮かに、何等の屈託もありさうに見えない。太都夫丹濃の二人は相談することも出來ないが、思は同じで、此結着が如何につくべきか、彼小室の落著やう彼に如何なる覺悟のあるにや、必ず諸子の望みを滿足させると誓つた彼は、どういふ處置をとる考であるか。少しも見込みがつかぬ。今更十五人のものゝ生首を吾々の前に突出したところで、之れにて事が結著すべきでない。いや彼は決してそんな淺薄な處置に出づる氣遣はない。考へれば考へるほど愈〻譯が判らない。丹濃は稍〻小室の英雄ぶりに呑まれた氣味で、太都夫は只小室が如何な處置に出づるかを知らんとあせりても、更に思ひあたりがつかぬのに屈託して、これもいつしか畏敬の念を禁じ得ない。
私部の館は近づく、太都夫は衆を指圖して門前を一丁許り離れた平地に控へさした。
十四
衆は太都夫丹濃の、二人のみが館内に入るといふのを、大いに心もとなく思ふところから、重立つた四五人の者を二人に從はせることにした。小室はこれ等の人々を庭内に誘ひ入れ、最も懇切な態度で、暫時の休息を求め、自分達は奧へ上つて終つた。
太都夫は、小室が云ふまゝに餘儀なく庭内に控へたものゝ、事件の發展がどうなることか、更に見當がつかない。一寸先は闇の心地で、殆んど夢路たどる思ひである。萬一の時の覺悟はして居るものゝ、事のあまりに意外の爲め、多少の不安を免れない。
夜は次第に更けてゆく、流れ雲の動く隙間から月影がちらと光を放つと見れば、目に視る間もなく、直ぐ暗闇に返る。
最も不思議なのは、主人小室が歸つた時にはいくらか人聲のどよみが館内に聞えたが、それが靜まると後は、深夜沈々寂然として物の音もせぬ。今引き入れた馬が時々足踏みする音の外には、鼠も鳴かず犬も吠えず。よく〳〵耳を澄ませば、遙かな奧の間の邊から、幽かな人聲が聞え來ることもあるけれど、多くは女らしい聲である。こなたは只徒らに息を殺して、樣子如何にと氣を配る許りである。
到底何事か無くては明けられない禍の夜である。靜寂を極めた此深夜に、まがつみの神は今如何なる、悲慘の幕を開かんとするか。
心臟の鼓動が一つ一つと、時刻は事變に迫りつゝあるのだ。門外の衆は、「ウハーウハーウハー」と夜陰を破る鯨波を擧げるのであつた。身の毛もよだつ物凄い叫びである。今は衆は如何に成行くべきかの不安に堪へないので解決を促す叫びを發したのである。丹濃は思はず太都夫を顧みて、
「どうした事であらうか……」
太都夫は只管深き思案にくれつゝある如く、丹濃が云へる詞も耳に入らぬか、何とも答へない。
其瞬間に、奧の間深くから、ヒーといふ女の泣破する聲が起つた。
ドタヽヽヽバタ〳〵ヽヽヽアー。
と、男女の泣き叫ぶ聲と共に、大混亂の物音が手に取るやうに聞え出した。人の駈け走る音、灯の走るさま、果はワン〳〵多くの人聲わめく聲が一まとまりになつて聞えるのである。
こなたは七八人等しく屹と身構して起ち上つたけれど、やがて騷動は、我に向つて動く樣子の無い事が判つた、折柄どこともなく、
「とのさまのおかくれ殿樣のおかくれ……」
と、いふのが耳に入つた。太都夫等は始めて、始終の事が判つた。
私部小室は遂に自分の生命を犧牲として、今度の事件を解決しようとしたぢやなと心づいては、たけりにたけつて居た、さすがの壯夫等も、今更に等しく感激して一語も發し得ない。
急にこなたに向つて走り來る者があると思ふ間もなく、先に小室に從つて太都夫等を迎へた、二人の從者が駈け寄りざま、主君生害のさまを告げ且つは今はの際にまのあたり一言申し傳へ度き旨の主命を告け、早く〳〵と二人をせき立てた。
太都夫丹濃の兩人は、まろぶが如く馳せて其一室に導かれた。
私部小室は顏色青ざめ、唇をふるはせつゝも物に倚りながら身を起し居つた。机上の一封を目もて示しそれを御兩にと從者に命じ、猶兩人に對しては、かすかながら力ある聲にて、
「責を我一身に負うて斯くなれる上は、卿等に於ても只穩かに引取りくれ………」
云ひ終るまもなく打伏して終つた。傍には一族の男女が伏しまろびつゝ泣いてる。太都夫も丹濃も只拜伏する外はなかつた。さすがに太都夫は俄かに心づいて、
「只今の仰せは兩人正しく承りたれ御心安く」と云つたが、小室は最早何の受答も得しなかつた。
かしづく人々も殆んど爲すべき道を知らぬ。太都夫丹濃の兩人も一時動作を失つたけれど、長く留るべき場合にあらずと悟つて、今迎へられた二人に懇ろに弔慰の詞を述べ、やがて退出した。其の二人の者は兩人を送り出でながら更に一の慘話を傳へた。先に自首し出でゝ猶館内に留れる十五人のものらが、おのれら故に主君の生害と聞き身を躍らして悲しんだ。其悲泣の叫びは、天地のあらゆる光も消え果つる思ひであつた。
心にもなき惡逆も主君の爲と思へる愚かさ、と口々に悔い悲しむ彼等は、今は片時もためらふべき、いざ主君の跡にすがれと叫ぶやひとしく頭を揃へて劒に伏した。
送る二人と送らるゝ二人、其に涙に咽せて終つた。傾く月に雲薄らぎ、門前ほのかに明るみを傳へ、相別るゝ四人の俤は幽界の人を眼のあたりに見る心地である。
太都夫丹濃は門を出でゝ漸く我に歸り、馳せて同志の前に來た。手短かに事の始終を告げ、授けられた一封の書状を讀上げる。極めて簡潔な文字である。
此度の事能々考ふれば、罪吾にありと思ふの外なし、吾今多くを言はず、吾死は一には吾病のため、一には諸子が望みなる五十人の身替りのためなり、諸子願くは歸つて主君に告げよ、吾死や固より手古奈に關すと雖も、吾は只吾不幸を悲しむの外に何等の遺恨を止めず、日置夫妻は毫末も吾死を念とすることなく、永く幸福を樂しまれむことを望む、吾家又吾に勝る弟あり、諸子吾生害の情を汲まば、日置私部の兩家の交をして舊に復せしめよ。
私部小室手書
理も否も問はぬ血氣一偏の壯夫等は、岩が根も押別けて通らむ勢であるが、今事の始終を聞き、又此の遺書を讀み聞かせられて、中には感極まり聲を立てゝ泣くものもあつた。
太都夫は聊か自分の考を云ふ。私部小室が尊く潔き心根を思うては、誰とて泣かざるを得べき、事は領下のものゝ聊かなる心得違に起れるも、其の根本は自分の行に基く。されば幾數百人の被るべき禍を身一つに負はんとの覺悟を定めた。我同志の中にも今夜思ふ如く爭鬪せば幾人の死者が出來るか判らぬ。斯く云ふ吾も小室ぬしに救はれたのかも知れない。諸子は小室ぬしの死に就ては十分に其精神を汲まねばならぬ。
衆一語を發するものなく、各自の行動の聊か輕卒なりしを悔ゆるかの如くであつた。
全く衆を散じて、太都夫丹濃の兩人が日置の館の門前に馬を立てた時は、夜は全く明け離れて、妙にあはれな聲の鳥が二三羽奧の木立に鳴いて居た。始終を聞いた日置夫妻の驚き、事の餘りに意外なるに呆れて暫く詞も出なかつた。殊に手古奈は宵の内より事の起りが吾身にあるを聞き、失神する許りに悶えて居た。今聞く處によれば、一には自分に對する失望と一には衆人の災害に替らんとの小室の心事、然も不幸を悲しめども遺恨を殘さずといふ。飽くまで潔き人のこゝろざし、恨を殘さずとは斯くても吾を憎み給はぬ情けと知らる。
手古奈は夫の前を繕ふ力も盡きてか、絶息せん許りに泣き崩れた。
水は能く人を養うて又人を殺す。火は能く人を養うて人を殺す。小室が死して三日目に、日置の家も火の消えた如くに寂しくなつた。昨日までは萬人の羨みを一身に集めた忍男が、生殘された悲痛に堪へないで、なか〳〵潔く死に就いた人が羨しいと嘆いて居る。
手古奈は一夜館を脱して行衞を失うたのである。有らん限りの手を盡して探したけれど、遂に遺物の切端だも見就からない。入江に身を沈めたであらうとは誰も思ふ所だが、素性も判らぬ小舟が一つ入江の岸に漂うて居た外には、入江に投じたらうと思ふ何等の印も出ない。
手古奈の心を悲しみ涙の雨に入江の水嵩を高めた眞間の里人は、どうしても死と云ふ事を手古奈の爲に云ひ度くない。手古奈は必ず歸てくる。いつか一度は歸つて來ると云うて居る。入江の陽炎に手古奈の姿が立つたと噂されても、未だに手古奈の歸りを待つて居る。手古奈の祠が入江の岸に立てられたは手古奈を待つて待ち老いた人の子の代であつた。 | 底本:「左千夫全集 第三卷」岩波書店
1977(昭和52)年2月10日発行
底本の親本:「左千夫全集 第三卷」春陽堂
1921(大正10)年1月1日発行
初出:「臺灣愛國婦人 第二十三~二十九卷」
1910(明治43)年10月15日~1911(明治44)年4月1日
※「凛々しき」と「凜々しき」の混在は、底本通りです。
入力:H.YAM
校正:高瀬竜一
2014年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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正岡君については、僕などあまりに親しかッたものですから、かえって簡単にちょっと批評するということ難かしいのです、そりゃ彼の人の偉いところやまた欠点も認めて居ないこともないのですが、どうも第三者の位置にあるよう、冷静な評論は出来ませんよ。
僕も初めから正岡君とは手を握って居た訳ではないのです、むしろ反対の側にあったもので時には歌論などもやったものです、それが漸々とその議論を聴き、技倆を認め、ついに崇敬することとなりこちらから降服したという姿です、それであるから始めから友人交際であった人達よりはその偉らさを感じたことが強かったようです、従て崇敬の度が普通以上でしたろう、であるから僕の子規論などは往々人の意表に出でて、世間からは故人に佞しもしくは故人を舁いだものかのように受取られたことが多いのです。しかしながら棺を蓋うて名すなわち定まるで、いわゆる明治文壇における子規子の価値は、吾々の云々をまって知るを要せぬことになりました。
今日新派といわるる人々と正岡君の和歌との関係ですか、僕の考えでは与謝野一派、竹柏園の一流、その他尾上、金子などの一流とすなわち今日のいわゆる新派とはほとんど関係がないと思います、第一趣味の根底が違ってますからね。
どう違う? それは趣味上の問題ですから一言にして尽しがたいが、今日の新派の人々のなすところを見ると、歌を作くるの前にその作り出づべき題に対してまず注文を建てて居るように見えます、たとえば歌その物の価値ということを主なる目的とせないで、新しくなければいかんとか珍らしくなければつまらんとか、従来の物と是非変っていねばいかんとか、また新思想ことに西洋思想などを加味せねばならぬかのように初から考を立てておいて作って居らるるようです、むしろ詩というものの価値を、ただちにその新しい珍らしい従来に変った詩材もしくは新思想のそれに存するかのごとく考えて居らるるように見えます、かの人々の作物その物について観察するとたしかにそう見えます。
ここがはなはだ六つかしい誤解しやすいところですから、よく注意を願います、吾々とてその新しい珍らしい変化とか新思想を毫末も嫌うのではない、ただ詩その物の価値は思想や材料やのそれに存するのではなく、ある種の思想材料に作者の技能が加った作物の成功それに存するものと信じて居るのです、いかに珍らしき新しき詩的材料を捕え得ても、その成功のいかんは必ず作者その人の霊能に待たねばならないのです。
ただ新しく珍らしく変ってさえ居ればただちに詩として面白いもののごとく思うは、詩というものの価値を根本に誤解して居るところから起る誤りでしょう、新を好む人はただ新しければよいものと思い、古いを好む人は古ければすぐによく感ずる、これらは両方とも間違って居ます、新しいにもよいのも悪いのもあるごとく古いにもよいのも悪いのもあるでしょう、要するに詩作の価値は、新旧のいかん思想材料のいかん以外に多くの部分があるのである、着想がいくらよくとも図とりが何ほどよくともただそれだけにてはただちに良画とはいえないと同じである。
今のいわゆる新派の人達と吾々とは以上の意味において根本的に相違して居るのです、今申上げたことはただちに正岡の言ではありませんが、僕の頭にある正岡はたしかにそう考えていたと信ずるのです。でこういうことをなおよく具体的に説明するとなると容易でないですから次にうつりますが、そういう風で正岡君のやり方は、何でもかまわないただ出来た歌が面白ければよい、いくら理屈は進歩的でも新思想でも変化して居っても面白くない歌は仕方がないさ、そんなものは文学でも詩でもないさ、というような調子で、有振れたことであってもなくても西洋趣味など加味しようとせまいと一向頓着せられなかった、『古事記』などの詞が非常に面白いという間にも「ガラス」も「ランプ」も「ブリキ」も平気に歌に詠んで居られた。
話が外れますが、この頃ろ『万葉集』が大変持て囃されますね、『万葉』は佐々木君も面白いという、鉄幹君も面白いという、しかし両君の面白いというのと吾々の面白いとするのとは、ほとんどその趣きを異にして居ると思うのです、どんなに違うか、さアこれもちょっと説明が六つかしい、『万葉』が好いとして取る点は、詞は蒼古だとか、思想が自然だとか調子が雄渾だとか、中にはただ何となく上代の国ぶりを悦ぶ類であるが、恁なことでは真に『万葉』の趣味を解して居るものとは元とより言われない、吾人の『万葉』の豪いとするところは要するにその歌が生き生きして居る点にあるが、第一に作者の詩的感懐が高い、材料の観取が非常に広い、言語の駆使が自在である、使用の言語が非常に饒多である、今日の歌人の作物など感興の幼稚なる言語材料の狭隘なるとても比較になるものではない、これらの諸点に一々実例を挙げていえば面白いがそれはここには出来ません、『万葉』の歌は死物でなくして活物だ、活物であればこそ今日我々が見ても陳腐と感じない訳ではないでしょうか、この点から見て僕は今日の新派諸子の作歌をはなはだハガユク思う一人です、どうもその歌が真でない、拵えものの感じがしてならぬ、人工的であッて、天然流露の趣がない。
尾上、金子、佐々木等の諸君の作物には今日のところ接近の見込みがありません、与謝野君ですか……与謝野君の玉と珍重する材料を僕はつまらぬ土塊をひねくって居るように見えてならないです、要するに新詩社一派は根本の一個所に誤解があるように僕には見えるです、晶子君なども少ッと考えればすぐ解りそうな間違を平気で、遣ッて居られるようだ、もしこの根本の誤解を反省せらるるの機会あらば、この派の人々とは吾々もある点まで歩調を一にする日があろうと思われます、これは例の鴎外宅歌会の折直接に与謝野君ほか出席の前で直言したことがあるです。
これからまた正岡君に返ります、世間では歌における正岡君は未だ成功しないようにいうようですが、実際そうもいえるでしょう、何にしろ正岡君の歌を遣り出したのは、明治三十二年で、もっともその以前にもちょいちょい手を出したこともありますが、竹の里人と名乗を揚げ正式に歌壇の城門に馬を進めたのは三十二年の春であります、三十五年にはもう故人となったのですから、その研究も自から足れりと許すの域に入ってなかったのは明らかです。しかしながら歌の正岡君を未だ成功せぬと見る眼をもって他の歌人を見たらどうでしょう、『万葉集』以後恐らく一人の成功した歌人はないでしょう。
その頃ろ正岡君が歌に関する議論の変化は劇いもので走馬灯のようでした、昨と今とは全然違うという調子で、議論主張は変るのが当然である、終始一貫などと詰らぬことだというて居られた。「歌よみに与ふる書」を発表した時代には俳句も短歌も要するに形式上の差であって内容に到たっては同一のものと論じて居る、それでその頃の歌には、俳句趣味を和歌にも宿そうとした、否な宿したのもあるようです、それがすぐ形式の差は内容の差を伴うべきものだと呼び俳調俳歌厭うべしと罵倒して仕舞われたのです、吾々もそう思うですなあ、同じく詩であっても、俳句は概括的に遣って退ける、和歌は局部局部を唄おうとする、それで俳句では一句で足るのが和歌では五首も費さなければならぬこともある、だが五首を一句に尽すから俳句が豪いでもなければ、一句を五首にしたから和歌が劣ってるのでもない、詩の価値なるものは全然かかる数学的関係を絶して居るのは元よりです。
こんな風に正岡君は常に批評的立脚地を離れないで、どの方面に向っても必ず議論と終始して、その態度はいつも研究的に周到な用意をもって歩一歩と進んだ人 歌を遣るにも、始めはなるらん、けるらん、とかの領分から発足して、次第に一家の風調を成したようです、俳句方面にもこういう話があります、正岡君が虚子君や碧梧桐君に向って、
「お前方は月並月並というて大変恐怖がって居るが己れなどは月並からやって来たのだから、もう月並になろうとしてもなれんので恐怖くも何んともない、月並を恐れるのは要するに月並がほんとうに解らんからだ」と一喝を与えたという話も聴いて居ります。
正岡君などは全く天降だりした神の子のような詩人ではなく、立派に地上から生れた詩人です。もちろん世には天才というものがあって生れながらにして知るというのもありましょうが、それはそれとして正岡君のごときは孔子のいわゆる下聞を恥じず下学して上達す的の人でごく低い程度から始めて、徐々に高処に攀じ、ついにその絶頂に達し、眸を四顧に放ち、一旦豁然として万象の帰趣を悟るというごとき、真に力ある大天才でなければ出来ぬ仕事と自分は信じて居ます、あアそうですか、まアようございましょう、これでは未だ僕の子規子評は序幕ですよ、……じゃはなはだ要領を得ませんがこれで。〔『中央公論』「正岡子規論」明治四十年九月一日〕 | 底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社
2002(平成14)年11月5日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第二十二卷第九號」
1907(明治40)年9月1日発行
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2018年9月30日作成
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茅野停車場の十時五十分発上りに間に合うようにと、巌の温泉を出たのは朝の七時であった。海抜約四千尺以上の山中はほとんど初冬の光景である。岩角に隠れた河岸の紅葉も残り少なく、千樫と予とふたりは霜深き岨路を急いだ。顧みると温泉の外湯の煙は濛々と軒を包んでたち騰ってる。暗黒な大巌石がいくつとなく聳立せるような、八ヶ岳の一隅から太陽が一間半ばかり登ってる。予らふたりは霜柱の山路を、話しながらも急いで下るのである。木蘇の御嶽山が、その角々しき峰に白雪を戴いて、青ぎった空に美しい。近くは釜無山それに連なる甲斐の駒ヶ岳等いかにも深黒な威厳ある山容である。
予らふたりはようやく一団の草原を過ぎて、麓を見渡した時、初めて意外な光景を展望した。
諏訪一郡の低地は白雲密塞して、あたかも白波澎沛たる大湖水であった。急ぎに急ぐ予らもしばらくは諦視せざるを得ない。路傍の石によろよろと咲く小白花はすなわち霜に痛める山菊である。京で見る白菊は貴人の感じなれど、山路の白菊は素朴にしてかえって気韻が高い。白雲の大湖水を瞰下してこの山菊を折る。ふたりは山を出るのが厭になった。 | 底本:「長野県文学全集 〔第※[#ローマ数字2、1-13-22]期/随筆・紀行・日記編〕 第2巻 明治編〈※[#ローマ数字2、1-13-22]〉」郷土出版社
1989(平成元)年11月18日発行
底本の親本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
初出:「國民新聞」國民新聞社
1908(明治41)年11月3日
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2020年6月27日作成
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貴墨拝見仕候、新に師を失いたる吾々が今日に処するの心得いかんとの御尋、御念入の御問同憾の至に候、それにつき野生も深く考慮を費したる際なれば、腹臓なく愚存陳じ申べく候
正岡先生の御逝去が吾々のために悲哀の極みなることは申までもなく候えども、その実先生の御命が明治三十五年の九月まで長延び候はほとんど天の賜とも申すべきほどにて、一年か一年半は全く人の予想よりも御長生ありしことと存じ候、しかるを先生御生存中に充分研究すべきことも、多くは怠慢に付し去り、先生の御命もはや長いことはないと口にいいつつ、なおうかうかと千載逢いがたき光陰をいたずらに空過しながら、先生の御逝去を今更のごとく御驚きとは、はなはだ酷なる申条ながらあまり感服致しがたく候、
もちろん先生が十年御長生あり候とて偉人ならざる吾々は、もうこれで先生に捨てられても大丈夫安心じゃと申すようなことは有間敷と存候、いつになっても先生に逝かれた時は必ず狼狽して驚くことは知れて居ることに候、されば今日俄に心細がって狼狽したまう君を咎むるは少々無理かとも存候、驚もせず狼狽もせず平気で、そして先生が晩年いかなる標準をもって『日本』週報の歌を御選みありしかを、あえて考究して居るような風もなく漫然歌を詠みつつあるというごとき、人があるならば吾々のもっとも軽侮すべきことと存じ候、貴兄のごときは大に先生御生前中の怠慢を悔い、今にして覚然眼ざめ御奮励との仰せ同感至極に存じ候、野生等とて先生御生前中決して勉強したとは申難く顧て追考すれば赤面のことのみ多く候、しかしそれは今更後悔致し候とて何の詮も無之候えば、貴兄と同様今後いかに処すべきかを定め、それによって奮励するのほかなく候、
何と申ても先生御存生中は、真先に松明を振りつつ御進みありて、御同様を警戒し指導し、少しく遠ざかりたる時は高所にありて差招きくれ候ことゆえ、自然に先生に依頼するの念のみ強く、知らず知らず安心して暢気に不勉強致し候次第今更後悔先に立たざる恨有之候、松明の光常えに消えて寸前暗黒の感に打たれ停立黙考手探りして道をたずぬるというようなる趣に候、うかと致し候わば元来た道へ戻るようなことなしとも極らずまことに何とも不安心の至りに候、
永遠のことは分り申さず候えども、差当り思就たるは左の二ヶ条に候、これによって将来の針路を定め、自働的松明を得度と存じ候、他の指導に依頼して暢気な行路をたどりし吾々、にわかに自動的に道を求めねばならぬ境涯、なまけては居られ申さず候、自動的と自由行動とは違申候
(一) 先生が数年に渡れる製作及び選評の跡に見て、前後を比較し進歩変化の様を充分に考量し、就中晩年変化の跡は最も細心に研究して、先生が微細とする所をも探求せざるべからず、
(二) 美術文学に関する書籍はもちろん哲学宗教に渡り、大に古今の書籍を読究せざるべからず、自ら松明を作る、必ずこの方法に拠らざるべからず、
一人にして製作と批評とをかねたる大偉人を師とせる吾々がいかに幸福なりしか、この偉人を失いたる吾々がただ悲嘆して止むべきか、落胆失望して止むべきか、大偉人の門下たる名を汚すようのことあらば何の面目あって世に立たるべきか、僕不敏といえども貴兄の奮励に従い吾生のあらん限り事に従わんことを神かけて誓約可致候、末文に今一語申添たきは、以上の二ヶ条より辛じて松明を得て針路を探り候ともいかにして吾々の満足する批評者を得申すべき、このことについては失望の嘆声を発するのほか何らの考も浮び申さず、嗚呼、吾々は常えに批評者を得ることあたわざるか、貴兄の意願くは聞くことを得ん、妄言多罪
明治三十五年十月二十二日〔『心の花』明治三十五年十一月一日〕 | 底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社
2002(平成14)年11月5日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 別卷二 回想の子規一」講談社
1975(昭和50)年9月18日第1刷発行
初出:「心の花 第五卷第十一號」大日本歌學會
1902(明治35)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057417",
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からからに乾いて巻き縮れた、欅の落葉や榎の落葉や杉の枯葉も交った、ごみくたの類が、家のめぐり庭の隅々の、ここにもかしこにも一団ずつ屯をなしている。
まともに風の吹払った庭の右手には、砂目の紋様が面白く、塵一つなくきれいだ。つい今しがたまで背戸山の森は木枯に鳴っていたのである。はげしく吹廻した風の跡が、物の形にありありと残っているだけ、今の静かなさまがいっそう静かに思いなされる。
膚を切るように風が寒く、それに埃の立ちようもひどかったから、どこの家でもみな雨戸を細目にして籠っていた。籠りに馴れた人達は、風のやんだにも心づかないものか、まだ夕日は庭の片隅にさしてるのに、戸もあけずにいる。
軒に立掛けた、丸太や小枯竹が倒れてる。干葉の縄が切れて干葉が散らばってる。蓆切れが飛び散っている。そんな光景の中に、萱葺屋根には、ところどころに何か立枯れの草が立ってる。細目な雨戸の間から、反古張の障子がわずかに見えてる。真黒に煤けた軒から、薄い薄いささやかな煙が、見えるか見えないかに流れ出ている。
鉄砲口の袷半纏に唐縮緬のおこそ頭巾を冠った少女が、庭の塵っ葉を下駄に蹴分けて這入って来た。それはこの家の娘お小夜であった。
「おばあさん、あんのこったかい、風も凪げてこのえい日になったのんを戸をあけないで」
こう云ってお小夜は、庭場の雨戸を二三枚がらがらとあける。そこへまた顔にも手にも、墨くろぐろの国吉も走り込んできた。
「姉さん田雀々々、二匹々々」
国吉は手に握った二つの田雀を姉の眼先へ出して見せる。
「誰れかに貰ってきたのかい」
「あんがそうだもんでん、ぶっちめて捕ったんだい」
「ほんとうに」
「ほんとうさまだ」
「ううんお前に捕られる田雀もいるのかねい」
「姉さんこりで五つになった。机の引出しさ三つ取ってあらあ、こりで五つだ姉さん、お母さんに拵えてやるとえいや」
どれと姉が手にとるが否や、国吉は再び背戸の方へ飛び出してしまった。
「おばあさん、蒲団から煙が出てるよ」
お小夜は頭巾を脱ぎながら座敷へ上った。お祖母さんは、炬燵の蒲団を跳ねて、けぶりかかった炭を一つ摘まみ出す。
「お前早かったない、寒かったっぺい、炬燵で一あたりあたれま」
「ああにお祖母さん、帰りにゃね風が凪げたかっね、寒いどこでなかったえ」
「ほんに風が凪げたない。お母も寝入ってるよ。あれではあ、えいだっぺいよ」
「そらあ、えかった。そりじゃお祖母さん薬は、後にしようかねい」
お小夜はちょっと納戸に母を窺ったが、その睡ってるに安心したふうでしばらく炬燵に倚りかかった。頭巾を脱ぐ拍子に巻髪が崩れた。ゆらぐばかりの髪の毛が両肩にかかってる。少し汗ばんでほてりを持ったお小夜の顔には、この煤けた家に不似合なような、活き活きとした光をつつんでいる。祖母もつくづくと孫の横顔を見て、この娘は、きっと仕合せがえいだろうと考えた。
炬燵に掛けた蒲団には、ずいぶん垢もついてる。継も幾箇所となくかかってる。畳は十年前に裏返しをしたというままのものである。天井は形ばかりに張ってはあるが、継目の判らぬくらい煤が黒い。仏壇とて何一つ装飾はない。燈盍、香炉、花入いずれも間に合うばかりの物である。そこらに脱いである衣服の類にも、唐縮緬以上の物は一つもない。台所はと見ると、たて切った雨戸の隙から、強い夕日の光が漏れ込んでただガランとしている。苦労に苦労を重ねて、疲れ切ったような祖母の顔、垢づいた白髪頭に穴のあいた手拭を巻きつけている。この微塵骨灰の中に珊瑚の玉かなんかが落ちてるように、お小夜は光ってる。去年の秋小学高等科を優等で卒業してから、村中の者が、その娘を叱る詞には、必ず上みの家のお小夜さんを見ろというように評判がよいのである。
お小夜の母は十年以来多病で耕作の役には立たない。父なる人の腕一つで家族は養われて来た。今日も父は馬を曳いて浜へ日に二度目の荷上げに行った。どうせ夜でなけりゃ帰らない。
病人が眼を覚したら、この薬を飲ませてくれと、お小夜は懐にあった薬を祖母に渡して立った。そこに落ちてた金巾の切れを拾って、お小夜は手にあまる黒髪を頸のあたりに結わえた。そうして半纏を脱ぎ襷を掛けながら土間へ降りた。祖母はお小夜の、かいがいしく頼もしい、なりふりを見て、わが身にもこの家にも、望みが立ちかけたような思いがした。
今までかじけにかじけて、炬燵にしがみついていた祖母もにわかに起って、庭のあたりを見廻り、落ちた物を拾ったり、落葉など掻き寄せたりする。国吉もいつのまにか帰って来た。
「お祖母さんおれもやってやる」と叫んで掻き散らしてる。
お小夜は飯汁の外に麦をえます、その跡で馬の物を煮る、馬の裾湯を沸かす。小さな家にも馬が一つあれば日暮の仕事はすこぶる忙しいのだが、お小夜はその駈け廻るように忙しい中でも、隣家園部の家の物音にしばしば耳を立てるのである。
今日は客でもあったものと見え、時ならず倉の戸の開閉が強い。重い大戸のあけたては、冴えた夜空に鳴り響く。車井戸の鎖の音や物を投出す音が、ぐゎんぐゎんと空気に響くのである。物々しき大家の鳴音が、ひしひしとお小夜の胸には応える。
「あんなことをいったってちょっとした出来心だか何んだか知れやしない」こう考えてお汁の実に里芋をこしらえてる。とんとんと芋を切ってはまた考える。
「大学校を卒業したって、そんな立派な人が、どうして私なんかにあんなことをいうんだろう」
お小夜は手もとが暗くなったのに、洋燈をつける気もなく手さぐりで芋を切ってる。
「姉さん田雀をどうしたかえ」
国吉が洋燈を持ってきてそういった。
「あれ、忘れただよ、国、にしがには毛をむしれねえかい」
「あ、毛をむしるだけならおれにもできら」
お小夜はお汁鍋を囲炉裡へかけ、火を移した。祖母と国吉は、火のはたで田雀の毛をむしっている。お小夜は明日の朝の米を研ぎに井戸端へ出た。井戸端へ立てば園部の家の奉公人などが騒ぐ声も聞える。お小夜は釣瓶棹を手に持ったまま、また、三郎のことを考える。澄み切った空から十三夜の月が霜のような光を井戸端へ落している。木立の隙から園部の家の屋根瓦がちらちら光って見える。
「三郎さんは厭な人どころではないけれど、あんな立派な家の人だから、旦那様やお母さんはあんなむずかしそうな人だから、何だか気味が悪い」お小夜は胸の動悸をはずませて考え込む、米を研ぐ手も上の空に動かしてる。
「私といっしょに耕作するって、ほんとに三郎さんはそんな気かしら、三郎さんがほんとにそんな気ならばいくら嬉しいか知れぬけれど……大学校を卒業した、園部の三男様が、私といっしょに耕作するって、あんだかほんとにできねい。どうしたもんかなあ……」お小夜は研ぎ終った米に、いま一釣瓶の水を注いで、それなり立って考えてる。考えは先から先へ果しがないのである。
「姉さん……姉さん、田雀を拵えてくっだい、姉さんてば」
お小夜は国吉に呼立てられ、はっとして病母のことに思いかえった。それから手早に雀を拵え、小皿に盛るほどもない小鳥を煮て、すべての夕食を調えた。病母も火の端へ連れ出して四人が心持よく食事をした。
祖母も病母も小鳥がうまいうまいと悦んだので、国吉はおれがおれがと得意にぶっちめの話をする。こうしたところを見れば、誰の顔にも不満足な色はない。「この分ならば明日は起きていられるだろう」という、病母の話声にも力があった。
お小夜は父が今にも帰るだろうと思うから、炬燵の側へ祖母と国吉の寝床を敷いてやり、病母には猫火鉢へ火を入れて、いつでも寝られるようにしてやる。痒いところへ手の届くようなお小夜の働きぶりを病母も心から嬉しいのだ。
お小夜の母も、つい去年までは病躯を支えて二人の子供を介錯した。夫が駄賃に行って晩く帰ってくる。二人の子供を寝せ伏せ年寄をいたわりながら、夫の馬始末まで手伝ってやる、その永年の苦労は容易でなかった。
それが今では見る通りのありさまで、国吉ももはや手はかからず、お小夜は家の事何もかも身に掻取って病母に少しも苦労などさせない。お小夜が起ってかかれば、何でも見てる間に片付いてしまうように思われる。この頃は病母もその病身を一向苦にせぬようになった。
腕白盛りの国吉が、雀を捕り溜めてみんなに食わせたということも病身の親の身には埒もなく嬉しかった。お小夜が台所を片付けてしまう間、祖母と病母とは、話に力を入れて、
「まことに神様というは、有難いものですねい。いつまでも人を困らせて置かないから……」
こういって二人は、つくづく心の中で神様に感謝するらしく涙を拭いた。
どっどっと馬の足音がすると思うと、ふッふッと強い馬の鼻息が聞え、やがて舌金を噛む音が聞えて、馬は庭まで這入ったけはい。お小夜はすぐ庭へ出て父の荷卸しに手伝ってやる。月が冴えて昼間のように明るい。
「こんなに晩くなってお父さん寒かったべい」
「ああに寒かあなかった。鰯網が出たからね。それを待っててこんなにおそくなった。そらその菰に三升ばかり背黒鰯があらあ。みんなは、はあ飯くっちゃっぺいなあ」
「ああ、たべっちゃった。お父さんにだけ少し拵えてあげますべい」
話す間もお小夜は油断なく手早に事を運ぶ。馬盥を庭の隅へ出して湯を汲めば父は締糟を庭場へ入れ、荷鞍を片づけ、薄着になって馬の裾湯にかかった。
いかにも寒々とした月夜の庭に、馬は静かに立っている。人は両肌脱いでしいしい口拍子を取って馬を洗う。湯気は馬の背以上にも立って、人も馬も湯気にぼかされてほとんどそのまま昼のようだ。園部の家では夜番の拍子木が二度目を廻っている。
お小夜は食事あたたかく父に満足させて後、病母の臥床をも見舞い、それから再び庭場におりて米を搗き始めた。父は驚いて、
「もうずいぶん晩いだろう……今から搗かないだってどうにかなんねいかい。明日の朝の分だけあるなら明日のことにしたらどうだい」
「あァにぞうさねいよお父さん、今夜一臼搗いて置かねけりゃ、明日の仕事の都合が大へん悪いからね。お父さんはくたぶれたでしょう、かまわないで寝て下さい」
お小夜は父にかまわず、とうんとうんと杵の音寂しく搗いてる。「そっだらおまえ黒くともえいから、えい加減に搗いて寝ろや。おら先に寝るから」といって疲れた父は納戸へ這入るが否やすぐ鼾を漏らすのであった。
園部の家でなおときどき戸を開閉する音がするばかり、世間一体は非常に静かになった。静かというよりは空気が重く沈んで、すべての物を閉塞してしまったように深更の感じが強い。お小夜はまた例の三郎のことに屈托してか、とぎれとぎれにとうん……とうんと杵を卸してる。力の弱い音に夜更の米搗、寂しさに馴れてる耳にも哀れに悲しい。お小夜はわれとわが杵の音に悲しく涙を拭いた。
病母の咳く声がする、父の鼾がつまりそうにしてまた大きく鳴る、国吉が寝言をいう、鼠が畳の上を駈け廻る。お小夜はそんな物音が一々耳にとまる。お小夜は三郎のことが少しも胸を離れないけれど、考えはどうしてもまとまらない。無理にも米を搗いてしまおうと思っても杵数は上らない。
「これではいつまで搗いたって搗けやしない」と自分でそう思ってむしゃくしゃする。
「駄賃取りの娘、大学校を卒業した人、三郎さんは大家の可愛がり子息、自分は小作人の娘」お小夜はただ簡単にそんな事を口の内で繰り返す。そうして埒もなく悲しくなって涙が出る。
お小夜は米も搗けそうもないので、止めて寝ようかとも思うが、またこうして一人で米を搗いてれば、三郎が来やしないかとも思われて止めたくもないのだ。お小夜はついに今夜も三郎がきっと来るように思われて来て、少し元気づいて米を搗きだした。
* * *
万葉集十四東歌
伊禰都気波 可加流安我手乎 許余比毛加
等能乃和久胡我 等里氐奈気可武 | 底本:「伊藤左千夫集」房総文芸選集、あさひふれんど千葉
1990(平成2)年8月10日初版第1刷発行
初出:「文章世界 第四卷第二號」
1909(明治42)年2月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年4月26日作成
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一
臆病者というのは、勇気の無い奴に限るものと思っておったのは誤りであった。人間は無事をこいねがうの念の強ければ、その強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事をこいねがうの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持った者、殊に手足まといの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願うの念が強いのである。
一朝禍を蹈むの場合にあたって、係累の多い者ほど、惨害はその惨の甚しいものがあるからであろう。
天災地変の禍害というも、これが単に財産居住を失うに止まるか、もしくはその身一身を処決して済むものであるならば、その悲惨は必ずしも惨の極なるものではない。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自ら振作するの勇気は、もって笑いつつ天災地変に臨むことができると思うものの、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考えても事に対する処決は単純を許さない。思慮分別の意識からそうなるのではなく、自然的な極めて力強い余儀ないような感情に壓せられて勇気の振いおこる余地が無いのである。
宵から降り出した大雨は、夜一夜を降り通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、そうしてあらゆる方面に落ち激つ水の音、ひたすら事なかれと祈る人の心を、有る限りの音声をもって脅すかのごとく、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかったごとく思われたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音声におびえていたのだから、もとより夢か現かの差別は判らないのである。外は明るくなって夜は明けて来たけれど、雨は夜の明けたに何の関係も無いごとく降り続いている。夜を降り通した雨は、又昼を降り通すべき気勢である。
さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅される。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てて、雨は篠を突いているのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらいの水だ。いま五、六寸で床に達する高さである。
もう畳を上げた方がよいでしょう、と妻や大きい子供らは騒ぐ。牛舎へも水が入りましたと若い衆も訴えて来た。
最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、実際は恐怖心が揺いだのであった。雨はますます降る。一時間に四分五分ぐらいずつ水は高まって来る。
強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が静かになればと思う心から、雨声の高低に注意を払うことを、秒時もゆるがせにしてはいない。
不安――恐怖――その堪えがたい懊悩の苦しみを、この際幾分か紛らかそうには、体躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要を考えたよりは、彼らに手仕事を授けて、いたずらに懊悩することを軽めようと思った方が多かった。
干潮の刻限である為か、河の水はまだ意外に低かった。水口からは水が随分盛んに落ちている。ここで雨さえやむなら、心配は無いがなアと、思わず嘆息せざるを得なかった。
水の溜ってる面積は五、六町内に跨がってるほど広いのに、排水の落口というのは僅かに三か所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがりと迂曲している。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降った水の半分も落ちきらぬ内に、上げ潮の刻限になってしまう。上げ潮で河水が多少水口から突上るところへ更に雨が強ければ、立ちしか間にこの一区劃内に湛えてしまう。自分は水の心配をするたびに、ここの工事をやった人の、馬鹿馬鹿しきまで実務に不忠実な事を呆れるのである。
大洪水は別として、排水の装置が実際に適しておるならば、一日や二日の雨の為に、この町中へ水を湛うるような事は無いのである。人事僅かに至らぬところあるが為に、幾百千の人が、一通りならぬ苦しみをすることを思うと、かくのごとき実務的の仕事に、ただ形ばかりの仕事をして、平気な人の不親切を嘆息せぬ訳にゆかないのである。
自分は三か所の水口を検して家に帰った。水は三か所へ落ちているにかかわらず、わが庭の水層は少し増しておった。河の水はどうですかと、家の者から口々に問わるるにつけても、ここで雨さえ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思わず又嘆息を繰返すのであった。
一時間に五分ぐらいずつ増してるから、これで見ると床へつくにはまだ十時間ある訳だ。いつでも畳を上げられる用意さえして置けば、住居の方は差当り心配はないとしても、もう捨てて置けないのは牛舎だ。尿板の後方へは水がついてるから、牛は一頭も残らず起ってる。そうしてその後足には皆一寸ばかりずつ水がついてる。豪雨は牛舎の屋根に鳴音烈しく、ちょっとした会話が聞取れない。いよいよ平和の希望は絶えそうになった。
人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、たいていは自殺そのものの悲劇をのみ強く感ずるのであろう。しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか。
豪雨の声は、自分に自殺を強いてる声であるのだ。自分はなお自殺の覚悟をきめ得ないので、もがきにもがいているのである。
死ぬときまった病人でも、死ぬまでになお幾日かの間があるとすれば、その間に処する道を考えねばならぬ。いわんや一縷の望みを掛けているものならば、なおさらその覚悟の中に用意が無ければならぬ。
何ほど恐怖絶望の念に懊悩しても、最後の覚悟は必ず相当の時機を待たねばならぬ。
豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻によって恐水者の運命は決するのである。いずれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には覚悟のしようもなく策の立てようも無い。厭でも中有につられて不安状態におらねばならぬ。
しかしながら牛の後足に水がついてる眼前の事実は、もはや何を考えてる余地を与えない。自分はそれに促されて、明日の事は明日になってからとして、ともかくも今夜一夜を凌ぐ画策を定めた。
自分は猛雨を冒して材木屋に走った。同業者の幾人が同じ目的をもって多くの材料を求め走ったと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。
五寸角の土台数十丁一寸厚みの松板数十枚は時を移さず、牛舎に運ばれた。もちろん大工を呼ぶ暇は無い。三人の男共を指揮して、数時間豪雨の音も忘れるまで活動した結果、牛舎には床上更に五寸の仮床を造り得た。かくて二十頭の牛は水上五寸の架床上に争うて安臥するのであった。燃材の始末、飼料品の片づけ、為すべき仕事は無際限にあった。
人間に対する用意は、まず畳を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準によって、処理し終った。並の席より尺余床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寝に就く事になった。幼ないもの共は茶室へ寝るのを非常に悦んだ。そうして間もなく無心に眠ってしまった。二人の姉共と彼らの母とは、この気味の悪い雨の夜に別れ別れに寝るのは心細いというて、雨を冒し水を渡って茶室へやって来た。
それでも、これだけの事で済んでくれればありがたいが、明日はどうなる事か……取片づけに掛ってから幾たびも幾たびもいい合うた事を又も繰返すのであった。あとに残った子供たちに呼び立てられて、母娘は寂しい影を夜の雨に没して去った。
遂にその夜も豪雨は降りとおした。実に二夜と一日、三十六時間の豪雨はいかなる結果を来すべきか。翌日は晃々と日が照った。水は少しずつ増しているけれど、牛の足へもまだ水はつかなかった。避難の二席にもまだ五、六寸の余裕はあった。新聞紙は諸方面の水害と今後の警戒すべきを特報したけれど、天気になったという事が、非常にわれらを気強く思わせる。よし河の水が増して来たところで、どうにか凌ぎのつかぬ事は無かろうなどと考えつつ、懊悩の頭も大いに軽くなった。
平和に渇した頭は、とうてい安んずべからざるところにも、強いて安居せんとするものである。
二
大雨が晴れてから二日目の午後五時頃であった。世間は恐怖の色調をおびた騒ぎをもって満たされた。平生聞ゆるところの都会的音響はほとんど耳に入らないで、うかとしていれば聞き取ることのできない、物の底深くに、力強い騒ぎを聞くような、人を不安に引き入れねばやまないような、深酷な騒ぎがそこら一帯の空気を振蕩して起った。
天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出したのである。平和は根柢から破れて、戦闘は開始したのだ。もはや恐怖も遅疑も無い。進むべきところに進む外、何を顧みる余地も無くなった。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかかった。かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどではない。
自分はまず黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあると見え、残る牛も出る牛もいっせいに声を限りと叫び出した。その騒々しさは又自から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思うのか、右往左往と狂い廻る。もとより溝も道路も判らぬのである。たちまち一頭は溝に落ちてますます狂い出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手綱を採って、ほとんど制馭の道を失った。そうして自分も乳牛に引かるる勢いに駆られて溝へはまった。水を全身に浴みてしまった。若い者共も二頭三頭と次々引出して来る。
人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に達し猛然たる勇気は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を両腕の下に引据え、奔流を蹴破って目的地に進んだ。かくのごとく二回三回数時間の後全く乳牛の避難を終え、翌日一日分の飼料をも用意し得た。
水層はいよいよ高く、四ツ目より太平町に至る十五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟をもって渡るも困難を感ずるくらいである。高架線の上に立って、逃げ捨てたわが家を見れば、水上に屋根ばかりを見得るのであった。
水を恐れて雨に懊悩した時は、未だ直接に水に触れなかったのだ。それで水が恐ろしかったのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身もその濁水に没入してはもはや水との争闘である。奮闘は目的を遂げて、牛は思うままに避難し得た。第一戦に勝利を得た心地である。
洪水の襲撃を受けて、失うところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破った奮闘の勇気に快味を覚ゆる時期である。化膿せる腫物を切開した後の痛快は、やや自分の今に近い。打撃はもとより深酷であるが、きびきびと問題を解決して、総ての懊悩を一掃した快味である。わが家の水上僅かに屋根ばかり現われおる状を見て、いささかも痛恨の念の湧かないのは、その快味がしばらくわれを支配しているからであるまいか。
日は暮れんとして空は又雨模様である。四方に聞ゆる水の音は、今の自分にはもはや壮快に聞えて来た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鉄橋を渡ったのである。
うず高に水を盛り上げてる天神川は、盛んに濁水を両岸に奔溢さしている。薄暗く曇った夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのようにぼんやり見渡される。恐ろしいような、面白いような、いうにいわれない一種の強い刺戟に打たれた。
遠く亀戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖のごとくである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に没している。なるほど洪水じゃなと嗟嘆せざるを得なかった。
亀戸には同業者が多い。まだ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び声がしている。暗い水の上を伝わって、長く尻声を引く。聞く耳のせいか溜らなく厭な声だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火がほとんど水にひッついて、水平線の上に浮いてるかのごとく、寂しい光を漏らしている。
何か人声が遠くに聞えるよと耳を立てて聞くと、助け舟は無いかア……助け舟は無いかア……と叫ぶのである。それも三回ばかりで声は止んだ。水量が盛んで人間の騒ぎも壓せられてるものか、割合に世間は静かだ。まだ宵の口と思うのに、水の音と牛の鳴く声の外には、あまり人の騒ぎも聞えない。寥々として寒そうな水が漲っている。助け舟を呼んだ人は助けられたかいなかも判らぬ。鉄橋を引返してくると、牛の声は幽かになった。壮快な水の音がほとんど夜を支配して鳴ってる。自分は眼前の問題にとらわれてわれ知らず時間を費やした。来て見れば乳牛の近くに若者たちもいず、わが乳牛は多くは安臥して食み返しをやっておった。
何事をするも明日の事、今夜はこれでと思いながら、主なき家の有様も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少しく低いわが家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ気味にして台所の軒へ進み寄った。
幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、ランプが点して釣り下げてあった。天井高く釣下げたランプの尻にほとんど水がついておった。床の上に昇って水は乳まであった。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雑多な木屑等有ると有るものが浮いている。どろりとした汚い悪水が、身動きもせず、ひしひしと家一ぱいに這入っている。自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまった。後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それでも自分は手探り足探りに奥まで進み入った。浮いてる物は胸にあたる、顔にさわる。畳が浮いてる、箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それぞれの用意も想像以外の水でことごとく無駄に帰したのである。
自分はこの全滅的荒廃の跡を見て何ら悔恨の念も無く不思議と平然たるものであった。自分の家という感じがなく自分の物という感じも無い。むしろ自然の暴力が、いかにもきびきびと残酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れるように、その荒廃の跡を見捨てて去った。水を恐れて連夜眠れなかった自分と、今の平気な自分と、何の為にしかるかを考えもしなかった。
家族の逃げて行った二階は七畳ばかりの一室であった。その家の人々の外に他よりも四、五人逃げて来ておった。七畳の室に二十余人、その間に幼いもの三人ばかりを寝せてしまえば、他の人々はただ膝と膝を突合せて坐しおるのである。
罪に触れた者が捕縛を恐れて逃げ隠れしてる内は、一刻も精神の休まる時が無く、夜も安くは眠られないが、いよいよ捕えられて獄中の人となってしまえば、気も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるが、将来の事はまだ考える余裕も無い、煩悶苦悩決せんとして決し得なかった問題が解決してしまった自分は、この数日来に無い、心安い熟睡を遂げた。頭を曲げ手足を縮め海老のごとき状態に困臥しながら、なお気安く心地爽かに眠り得た。数日来の苦悩は跡形も無く消え去った。ために体内新たな活動力を得たごとくに思われたのである。
実際の状況はと見れば、僅かに人畜の生命を保ち得たのに過ぎないのであるが、敵の襲撃があくまで深酷を極めているから、自分の反抗心も極度に興奮せぬ訳にゆかないのであろう。どこまでも奮闘せねばならぬ決心が自然的に強固となって、大災害を哀嘆してる暇がない為であろう。人間も無事だ、牛も無事だ、よしといったような、爽快な気分で朝まで熟睡した。
家の雞が鳴く、家の雞が鳴く、という子供の声が耳に入って眼を覚した。起って窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛えた、わが家の周囲の一廓に、ほのぼのと夜は明けておった。忘れられて取残された雞は、主なき水漬屋に、常に変らぬのどかな声を長く引いて時を告ぐるのであった。
三
一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りがようやくの事であった。自分は知人某氏を両国に訪うて第二の避難を謀った。侠気と同情に富める某氏は全力を尽して奔走してくれた。家族はことごとく自分の二階へ引取ってくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なくこの日また雨となった。舟で高架鉄道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を両国に出ようというのである。われに等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸続として、約二十町の間を引ききりなしに渡り行くのである。十八を頭に赤子の守子を合して九人の子供を引連れた一族もその内の一群であった。大人はもちろん大きい子供らはそれぞれ持物がある。五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、わがままもいわず、泣きもせず、おぼつかない素足を運びつつ泣くような雨の中をともかくも長い長い高架の橋を渡ったあわれさ、両親の目には忘れる事のできない印象を残した。
もう家族に心配はいらない。これから牛という事でその手配にかかった。人数が少くて数回にひくことは容易でない。二十頭の乳牛を二回に牽くとすれば、十人の人を要するのである。雨の降るのにしかも大水の中を牽くのであるから、無造作には人を得られない。某氏の尽力によりようやく午後の三時頃に至って人を頼み得た。
なるべく水の浅い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から高架線の上を本所停車場に出て、横川に添うて竪川の河岸通を西へ両国に至るべく順序を定めて出発した。雨も止んで来た。この間の日の暮れない内に牽いてしまわねばならない。人々は勢い込んで乳牛の所在地へ集った。
用意はできた。この上は鉄道員の許諾を得、少しの間線路を通行させて貰わねばならぬ。自分は駅員の集合してる所に到って、かねて避難している乳牛を引上げるについてここより本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞うた。駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。
いかがでしょうか、物の十分間もかかるまいと思いますから、是非お許しを願いたいですが、それにこのすぐ下は水が深くてとうてい牛を牽く事ができませんから、と自分は詞を尽して哀願した。
そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。
それですからこれから牽くのですが。
それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。
無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である。精神興奮してる自分は、癪に障って堪らなくなった。
君たちいったいどこの国の役人か、この洪水が目に入らないのか。多くの同胞が大水害に泣いてるのを何と見てるか。
ほとんど口の先まで出たけれど、僅かにこらえて更に哀願した。結局避難者を乗せる為に列車が来るから、帰ってからでなくてはいけないということであった。それならそうと早くいってくれればよいのだ。そうして何時頃来るかといえば、それは判らぬという。そのじつ判っているのである。配下の一員は親切に一時間と経ない内に来るからと注意してくれた。
かれこれ空しく時間を送った為に、日の暮れない内に二回牽くつもりであったのが、一回牽き出さない内に暮れかかってしまった。
なれない人たちには、荒れないような牛を見計らって引かせることにして、自分は先頭に大きい赤白斑の牝牛を引出した。十人の人が引続いて後から来るというような事にはゆかない。自分は続く人の無いにかかわらず、まっすぐに停車場へ降りる。全く日は暮れて僅かに水面の白いのが見えるばかりである。鉄橋の下は意外に深く、ほとんど胸につく深さで、奔流しぶきを飛ばし、少しの間流れに遡って進めば、牛はあわて狂うて先に出ようとする。自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽せて顔を正面に向けて進むことはできない。ようやく埒外に出れば、それからは流れに従って行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、その石や土俵が道中に散乱してあるから、水中に牛も躓く人も躓く。
わが財産が牛であっても、この困難は容易なものでないにと思うと、臨時に頼まれてしかも馴れない人たちの事が気にかかるのである。自分はしばらく牛を控えて後から来る人たちの様子を窺うた。それでも同情を持って来てくれた人たちであるから、案じたほどでなく、続いて来る様子に自分も安心して先頭を務めた。半数十頭を回向院の庭へ揃えた時はあたかも九時であった。負傷した人もできた。一回に恐れて逃げた人もできた。今一回は実に難事となった。某氏の激励至らざるなく、それでようやく欠員の補充もできた。二回目には自分は最後に廻った。ことごとく人々を先に出しやって一渡り後を見廻すと、八升入の牛乳鑵が二つバケツが三箇残ってある。これは明日に入用の品である。若い者の取落したのか、下の帯一筋あったを幸に、それにて牛乳鑵を背負い、三箇のバケツを左手にかかえ右手に牛の鼻綱を取って殿した。自分より一歩先に行く男は始めて牛を牽くという男であったから、幾度か牛を手離してしまう。そのたびに自分は、その牛を捕えやりつつ擁護の任を兼ね、土を洗い去られて、石川といった、竪川の河岸を練り歩いて来た。もうこれで終了すると思えば心にも余裕ができる。
道々考えるともなく、自分の今日の奮闘はわれながら意想外であったと思うにつけ、深夜十二時あえて見る人もないが、わがこの容態はどうだ。腐った下の帯に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いている。臍も脛も出ずるがままに隠しもせず、奮闘といえば名は美しいけれど、この醜態は何のざまぞ。
自分は何の為にこんな事をするのか、こんな事までせねば生きていられないのか、果なき人生に露のごとき命を貪って、こんな醜態をも厭わない情なさ、何という卑しき心であろう。
前の牛もわが引く牛も今は落ちついて静かに歩む。二つ目より西には水も無いのである。手に足に気くばりが無くなって、考えは先から先へ進む。
超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身が、この醜態は情ない。たとい人に見らるるの憂いがないにせよ、余儀なき事の勢いに迫ったにせよ、あまりに蛮性の露出である。こんな事が奮闘であるならば、奮闘の価は卑しいといわねばならぬ。しかし心を卑しくするのと、体を卑しくするのと、いずれが卑しいかといえば、心を卑しくするの最も卑しむべきはいうまでも無いことである。そう思うて見ればわが今夜の醜態は、ただ体を卑しくしたのみで、心を卑しくしたとはいえないのであろうか。しかし、心を卑しくしないにせよ、体を卑しくしたその事の恥ずべきは少しも減ずる訳ではないのだ。
先着の伴牛はしきりに友を呼んで鳴いている。わが引いている牛もそれに応じて一声高く鳴いた。自分は夢から覚めた心地になって、覚えず手に持った鼻綱を引詰めた。
四
水は一日に一寸か二寸しか減じない。五、六日経っても七寸とは減じていない。水に漬った一切の物いまだに手の着けようがない。その後も幾度か雨が降った。乳牛は露天に立って雨たたきにされている。同業者の消息もようやく判って来た。亀戸の某は十六頭殺した。太平町の某は十四頭を、大島町の某は犢十頭を殺した。わが一家の事に就いても種々の方面から考えて惨害の感じは深くなるばかりである。
疲労の度が過ぐればかえって熟睡を得られない。夜中幾度も目を覚す。僅かな睡眠の中にも必ず夢を見る。夢はことごとく雨の音水の騒ぎである。最も懊悩に堪えないのは、実際雨が降って音の聞ゆる夜である。わが財産の主脳であるところの乳牛が、雨に濡れて露天に立っているのは考えるに堪えない苦しみである。何ともたとえようのない情なさである。自分が雨中を奔走するのはあえて苦痛とは思わないが、牛が雨を浴みつつ泥中に立っているのを見ては、言語にいえない切なさを感ずるのである。
若い衆は代り代り病気をする。水中の物もいつまで捨てては置けず、自分の為すべき事は無際限である。自分は日々朝草鞋をはいて立ち、夜まで脱ぐ遑がない。避難五日目にようやく牛の為に雨掩いができた。
眼前の迫害が無くなって、前途を考うることが多くなった。二十頭が分泌した乳量は半減した上に更に減ぜんとしている。一度減じた量は決して元に恢復せぬのが常である。乳量が恢復せないで、妊孕の期を失えば、乳牛も乳牛の価格を保てないのである。損害の程度がやや考量されて来ると、天災に反抗し奮闘したのも極めて意義の少ない行動であったと嘆ぜざるを得なくなる。
生活の革命……八人の児女を両肩に負うてる自分の生活の革命を考うる事となっては、胸中まず悲惨の気に閉塞されてしまう。
残余の財を取纏めて、一家の生命を筆硯に托そうかと考えて見た。汝は安心してその決行ができるかと問うて見る。自分の心は即時に安心ができぬと答えた。いよいよ余儀ない場合に迫って、そうするより外に道が無かったならばどうするかと念を押して見た。自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外に何らの答を為し得ない。
一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶起して乳搾りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほど忙しい。
家浮沈の問題たる前途の考えも、措き難い目前の仕事に逐われてはそのままになる。見舞の手紙見舞の人、一々応答するのも一仕事である。水の家にも一日に数回見廻ることもある。夜は疲労して座に堪えなくなる。朝起きては、身の内の各部に疼痛倦怠を覚え、その業に堪え難き思いがするものの、常よりも快美に進む食事を取りつつひとたび草鞋を踏みしめて起つならば、自分の四肢は凛として振動するのである。
肉体に勇気が満ちてくれば、前途を考える悲観の観念もいつしか屏息して、愉快に奮闘ができるのは妙である。八人の児女があるという痛切な観念が、常に肉体を興奮せしめ、その苦痛を忘れしめるのか。
あるいは鎌倉武士以来の関東武士の蛮性が、今なお自分の骨髄に遺伝してしかるものか。
破壊後の生活は、総ての事が混乱している。思慮も考察も混乱している。精神の一張一緩ももとより混乱を免れない。
自分は一日大道を闊歩しつつ、突然として思い浮んだ。自分の反抗的奮闘の精力が、これだけ強堅であるならば、一切迷うことはいらない。三人の若い者を一人減じ自分が二人だけの労働をすれば、何の苦労も心配もいらぬ事だ。今まで文芸などに遊んでおった身で、これが果してできるかと自問した。自分の心は無造作にできると明答した。文芸を三、四年間放擲してしまうのは、いささかの狐疑も要せぬ。
肉体を安んじて精神をくるしめるのがよいか。肉体をくるしめて精神を安んずるのがよいか。こう考えて来て自分は愉快でたまらなくなった。われ知らず問題は解決したと独語した。
五
水が減ずるに従って、後の始末もついて行く。運び残した財物も少くないから、夜を守る考えも起った。物置の天井に一坪に足らぬ場所を発見してここに蒲団を展べ、自分はそこに横たわって見た。これならば夜をここに寝られぬ事もないと思ったが、ここへ眠ってしまえば少しも夜の守りにはならないと気づいたから、夜は泊らぬことにしたけれど、水中の働きに疲れた体を横たえて休息するには都合がよかった。
人は境遇に支配されるものであるということだが、自分は僅かに一身を入るるに足る狭い所へ横臥して、ふと夢のような事を考えた。
その昔相許した二人が、一夜殊に情の高ぶるのを覚えてほとんど眠られなかった時、彼は嘆じていう。こういう風に互に心持よく円満に楽しいという事は、今後ひとたびといってもできないかも知れない、いっそ二人が今夜眠ったまま死んでしまったら、これに上越す幸福はないであろう。
真にそれに相違ない。このまま苦もなく死ぬことができれば満足であるけれど、神様がわれわれにそういう幸福を許してくれないかも知れない、と自分もしんから嘆息したのであった。
当時はただ一場の癡話として夢のごとき記憶に残ったのであるけれど、二十年後の今日それを極めて真面目に思い出したのはいかなる訳か。
考えて見ると果してその夜のごとき感情を繰返した事は無かった。年一年と苦労が多く、子供は続々とできてくる。年中あくせくとして歳月の廻るに支配されている外に何らの能事も無い。次々と来る小災害のふせぎ、人を弔い己れを悲しむ消極的営みは年として絶ゆることは無い。水害又水害。そうして遂に今度の大水害にこうして苦闘している。
二人が相擁して死を語った以後二十年、実に何の意義も無いではないか。苦しむのが人生であるとは、どんな哲学宗教にもいうてはなかろう。しかも実際の人生は苦しんでるのが常であるとはいかなる訳か。
五十に近い身で、少年少女一夕の癡談を真面目に回顧している今の境遇で、これをどう考えたらば、ここに幸福の光を発見することができるであろうか。この自分の境遇にはどこにも幸福の光が無いとすれば、一少女の癡談は大哲学であるといわねばならぬ。人間は苦しむだけ苦しまねば死ぬ事もできないのかと思うのは考えて見るのも厭だ。
手伝いの人々がいつのまにか来て下に働いておった。屋根裏から顔を出して先生と呼ぶのは、水害以来毎日手伝いに来てくれる友人であった。
(明治四十三年十一月) | 底本:「野菊の墓」角川文庫、角川書店
1966(昭和41)年3月20日初版発行
1981(昭和56)年6月10日改版26刷発行
※「中《ちゅう》有」とあった底本のルビは、語句の成り立ちに照らして不適当であり、記号の付け間違いとの疑念も生じさせやすいと考え、「中有《ちゅうう》」とあらためました。
入力:大野晋
校正:松永正敏
2000年10月23日公開
2005年11月25日修正
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一
臆病者といふのは、勇氣の無い奴に限るものと思つて居つたのは誤りであつた。人間は無事を希ふの念の強よければ、其の強いだけそれだけ臆病になるものである。人間は誰とて無事を希ふの念の無いものは無い筈であるが、身に多くの係累者を持つた者、殊に手足まとひの幼少者などある身には、更に痛切に無事を願ふの念が強いのである。
一朝禍を蹈むの塲合にあたつて、係累の多い者程、慘害は其慘の甚しいものがあるからであらう。
天災地變の禍害と云ふも、之れが單に財産居住を失ふに止まるか、若くは其身一身を處決して濟むものであるならば、其悲慘は必ずしも慘の極なるものでは無い。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覺悟したとき、自から振作するの勇氣は、以て笑ひつゝ天災地變に臨むことが出來ると思ふものゝ、絶つに絶たれない係累が多くて見ると、どう考へても事に對する處決は單純を許さない。思慮分別の意識からさうなるのでは無く、自然的な極めて力強い餘儀ないやうな感情に壓せられて勇氣の振ひ作る餘地が無いのである。
宵から降出した大雨は、夜一夜を降通した。豪雨だ……そのすさまじき豪雨の音、さうして有所方面に落ち激つ水の音、只管事なかれと祈る人の心を、有る限りの音聲を以て脅すかの如く、豪雨は夜を徹して鳴り通した。
少しも眠れなかつた如く思はれたけれど、一睡の夢の間にも、豪雨の音聲におびえて居たのだから、固より夢か現かの差別は判らないのである。外は明るくなつて夜は明けて來たけれど、雨は夜の明けたに何の關係も無い如く降り續いて居る。夜を降り通した雨は、又晝を降通すべき氣勢である。
さんざん耳から脅された人は、夜が明けてからは更に目からも脅さる。庭一面に漲り込んだ水上に水煙を立てゝ、雨は篠を突いてるのである。庭の飛石は一箇も見えてるのが無いくらゐの水だ。いま五六寸で床に達する高さである。
もう疊を上げた方がよいでせう、と妻や大きい子供等は騷ぐ。牛舍へも水が入りましたと若衆も訴へて來た。
最も臆病に、最も内心に恐れて居つた自分も、側から騷がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何程増して來た處で溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてゝ騷ぐに及ばないと一喝した。さうして其一喝した自分の聲にさへ、實際は恐怖心が搖いだのであつた。雨は益〻降る。一時間に四分五分位づゝ水は高まつて來る。
強烈な平和の希望者は、それでも、今にも雨が靜かになればと思ふ心から、雨聲の高低に注意を拂ふことを、秒時もゆるがせにしては居ない。
不安――恐怖――其の堪へ難い懊惱の苦みを、此の際幾分か紛らかさうには、體躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て來ようと我知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供達にも、いざと云ふ時の準備を命じた。それも準備の必要を考へたよりは、彼等に手仕事を授けて、徒らに懊惱することを輕めようと思つた方が多かつた。
干潮の刻限である爲か、河の水は未だ意外に低かつた。水口からは水が隨分盛に落ちて居る。茲で雨さへ歇むなら、心配は無いがなアと、思はず嘆息せざるを得なかつた。
水の溜つてる面積は五六町内に跨つてる程廣いのに、排水の落口といふのは僅に三ヶ所、それが又、皆落口が小さくて、溝は七まがり八まがりと迂曲して居る。水の落ちるのは、干潮の間僅かの時間であるから、雨の強い時には、降つた水の半分も落ちきらぬ内に、上げ汐の刻限になつて終ふ。上げ潮で河水が多少水口から突上る處へ更に雨が強ければ、立ちしか間に此一區劃内に湛へて終ふ。自分は水の心配をする度に、此處の工事をやつた人の、馬鹿々々しきまで實務に不忠實な事を呆れるのである。
大洪水は別として、排水の裝置が實際に適して居るならば、一日や二日の雨の爲に、此町中へ水を湛ふる樣な事は無いのである。人事僅に至らぬ處あるが爲に、幾百千の人が、一通ならぬ苦みをすることを思ふと、斯の如き實務的の仕事に、只形許りの仕事をして平氣な人の不信切を嘆息せぬ譯にゆかないのである。
自分は三ヶ所の水口を檢して家に歸つた。水は三ヶ所へ落ちて居るに係らず、吾庭の水層は少し増して居つた。河の水はどうですかと、家の者から口々に問はるゝにつけても、茲で雨さへ小降りになるなら心配は無いのだがなアと、思はず又嘆息を繰返すのであつた。
一時間に五分位づゝ増してるから、これで見ると床へつくにはまだ十時間ある譯だ。何時でも疊を上げられる用意さへして置けば、住居の方は差當り心配はないとしても、もう捨てゝ置けないのは牛舍だ。尿板の後方へは水がついてるから、牛は一頭も殘らず起つてる。さうして其後足には皆一寸許りづゝ水がついてる。豪雨は牛舍の屋根に鳴音烈しく、一寸した會話が聞取れない。愈〻平和の希望は絶えさうになつた。
人が、自殺した人の苦痛を想像して見るにしても、大抵は自殺其のものゝ悲劇をのみ強く感ずるのであろう。併し自殺者其人の身になつたならば、我と我を殺す其實劇よりは、自殺を覺悟するに至る以前の懊惱が、遙かに自殺其のものよりも苦いので無からうか。自殺の凶器が、目前に横たはつた時は、最早身を殺す恐怖のふるへも靜まつて居るので無からうか。
豪雨の聲は、自分に自殺を強ひてる聲であるのだ。自分は猶自殺の覺悟も定め得ないので、藻掻きに藻掻いて居るのである。
死ぬと極つた病人でも、死ぬまでに猶幾日かの間があるとすれば、其間に處する道を考へねばならぬ。況や一縷の望を掛けて居るものならば、猶更其覺悟の中に用意が無ければならぬ。
何程恐怖絶望の念に懊惱しても、最後の覺悟は必ず相當の時機を待たねばならぬ。
豪雨は今日一日と降りとほして更に今夜も降りとほすものか、或は此の日暮頃にでも歇むものか、若くは今にも歇むものか、一切判らないが、其降止む時刻に依て恐水者の運命は決するのである。いづれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には覺悟のしやうもなく策の立て樣も無い。厭でも宙につられて不安状態に居らねばならぬ。
乍併牛の後足に水がついてる。眼前の事實は、最早何を考へてる餘地を與へない。自分はそれに促されて、明日の事は明日になつてからとして、兎も角も今夜一夜を凌ぐ畫策を定めた。
自分は猛雨を冒して材木屋に走つた。同業者の幾人が同じ目的を以て多くの材料を求め走つたと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。
五寸角の土臺數十丁一寸厚の松板幾十枚は時を移さず、牛舍に運ばれた。勿論大工を呼ぶ暇は無い。三人の男共を指揮して、數時間豪雨の音も忘れるまで活動した結果、牛舍には床上更に五寸の假床を造り得た。かくて二十頭の牛は水上五寸の架床上に爭うて安臥するのであつた。燃材の始末、飼料品の片づけ、爲すべき仕事は無際限にあつた。
人間に對する用意は、まづ疊を上げて、襖障子諸財一切の始末を、先年大水の標準に依て、處理し終つた。並の席よりは尺餘床を高くして置いた一室と離屋の茶室の一間とに、家族十人の者は二分して寢に就く事になつた。幼ないもの共は茶室へ寢るのを非常に悦んだ。さうして間もなく無心に眠つて終つた。二人の姉共と彼等の母とは、此の氣味惡い雨の夜に別れ〳〵に寢るのは心細いと云うて、雨を冒し水を渡つて、茶室へやつて來た。
それでも、是れだけの事で濟んでくれゝば有難いが、明日はどうなる事か……取片づけに掛つてから幾度も幾度も云ひ合うた事を又も繰返すのであつた。跡に殘つた子供達に呼び立てられて、母娘は淋しい影を夜の雨に沒して去つた。
遂に其夜も豪雨は降りとほした。實に二夜と一日、三十六時間の豪雨は如何なる結果を來すべきか。翌日は晃々と日が照つた。水は少しづゝ増して居るけれど、牛の足へも未だ水はつかなかつた。避難の二席にも未だ五六寸の餘裕はあつた。新聞紙は諸方面の水害と今後の警戒すべきを特報したけれど、天氣になつたといふ事が、非常に我等を氣強く思はせる。よし河の水が増して來た處で、どうにか凌ぎのつかぬ事は無からうなどゝ考へつゝ、懊惱の頭も大いに輕くなつた。
平和に渇した頭は、到底安ずべからざる處にも、強ひて安居せんとするものである。
二
大雨が晴れてから二日目の午後五時頃であつた。世間は恐怖の色調をおびた騷ぎを以て滿たされた。平生聞ゆるところの都會的音響は殆ど耳に入らないで、浮かとして居れば聞取ることの出來ない、物の底深くに、力強い騷ぎを聞く樣な、人を不安に引入れねば止まない樣な、深酷な騷ぎがそこら一帶の空氣を振蕩して起つた。
天神川も溢れ、竪川も溢れ、横川も溢れ出したのである。平和は根柢から破れて、戰鬪は開始したのだ。最早恐怖も遲疑も無い。進むべき所に進む外、何を顧みる餘地も無くなつた。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかゝつた。豫て此所と見定めて置いた、高架鐵道の線路に添うた高地に向つて牛を引き出す手筈である。水深は猶ほ腰に達しない位であるから、敢て困難といふほどではない。
自分は先づ黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼等無心の毛族も何等か感ずる處あると見え、殘る牛も出る牛も一齊に聲を限りと叫び出した。其の騷々しさは又自から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思ふのか、右往左往と狂ひ廻る。固より溝も道路も判らぬのである。忽ち一頭は溝に落ちて益〻狂ひ出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手繩を採つて、殆ど制馭の道を失つた。さうして自分も乳牛に引かるゝ勢に驅られて溝へはまつた。水を全身に浴みて終つた。若い者共も二頭三頭と次々引出して來る。
人畜を擧げて避難する場合に臨んでも、猶濡るゝを恐れて居つた卑怯者も、一度溝にはまつて全身水に漬つては戰士が傷ついて血を見たにも等しいものか、茲に始めて精神の興奮絶頂に達し、猛然たる勇氣は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を兩腕の下に引据ゑ、奔流を蹴破つて目的地に進んだ。斯の如く二回三回數時間の後全く乳牛の避難を終へ、翌日一日分の飼料をも用意し得た。
水層は愈高く、四ツ目より太平町に至る拾五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟を以て渡るも困難を感ずる位である。高架線の上に立つて、逃げ捨てた我が家を見れば、水上に屋根許りを見得るのであつた。
水を恐れて雨に懊惱した時は、未だ直接に水に觸れなかつたのだ。それで水が恐ろしかつたのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身も其濁水に沒入しては最早水との爭鬪である。奮鬪は目的を遂げて、牛は思ふまゝに避難し得た。第一戰に勝利を得た心地である。
洪水の襲撃を受けて、失ふところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破つた奮鬪の勇氣に快味を覺ゆる時期である。化膿せる腫物を切解した後の痛快は、稍自分の今に近い。打撃は固より深酷であるが、きび〳〵と問題を解決して、總ての懊惱を一掃した快味である。我家の水上僅に屋根許り現はれ居る状を見て、聊も痛恨の念の湧かないのは、其快味が暫く我れを支配して居るからであるまいか。
日は暮れんとして空は又雨模樣である。四方に聞ゆる水の音は、今の自分には最早壯快に聞えて來た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鐵橋を渡つたのである。
うづ高に水を盛り上げてる天神川は、盛に濁水を兩岸に奔溢さして居る。薄暗く曇つた夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのやうにぼんやり見渡される。恐ろしいやうな、面白いやうな、云ふに云はれない一種の強い刺撃に打たれた。
遠く龜戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖の如くである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に沒して居る。成程洪水ぢやなと嗟嘆せざるを得なかつた。
龜戸には同業者が多い。未だ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び聲がして居る。暗い水の上を傳つて、長く尻聲を引く。聞く耳のせゐか溜らなく厭な聲だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火が、殆ど水にひツついて、水平線の上に浮いてるかの如く、淋い光を漏して居る。
何か人聲が遠くに聞えるよと耳を立てゝ聞くと、助け舟は無いかア………助け舟は無いかア………と叫ぶのである。それも三回許りで聲は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも壓せられてるものか、割合に世間は靜かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く聲の外には、餘り人の騷ぎも聞こえない。寥々として寒さうな水が漲つて居る。助け舟を呼んだ人は助けられたか否かも判らぬ。鐵橋を引返してくると、牛の聲は幽になつた。壯快な水の音が殆ど夜を支配して鳴つてる。自分は眼前の問題にとらはれて我知らず時間を費した。來て見れば乳牛の近くに若者達も居ず、我が乳牛は多くは安臥して食み返しをやつて居つた。
何事をするも明日の事、今夜は是でと思ひながら、主なき家の有樣も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少く低い我家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ氣味にして臺所の軒へ進み寄つた。
幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、洋燈が點して釣り下げてあつた。天井高く釣下げた洋燈の尻に殆ど水がついて居つた。床の上に昇つて水は乳まであつた。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雜多な木屑等有ると有るものが浮いて居る。どろりとした汚ない惡水が、身動きもせず、ひし〳〵と家一ぱいに這入つて居る。自分は猶一渡り奧の方まで一見しようと、洋燈に手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えて終つた。跡は闇々黒々、身を動せば雜多な浮流物が體に觸れる許りである。それでも自分は手探ぐり足探ぐりに奧まで進み入つた。浮いてる物は胸にあたる顏にさはる。疊が浮いてる箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それ〳〵の用意も想像以外の水で悉く無駄に歸したのである。
自分は此全滅的荒廢の跡を見て何等悔恨の念も無く不思議と平然たるものであつた。自分の家といふ感じがなく自分の物といふ感じも無い。寧ろ自然の暴力が、如何にもきび〳〵と殘酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れる樣に、其荒廢の跡を見捨てゝ去つた。水を恐れて連夜眠れなかつた自分と、今の平氣な自分と、何の爲に然るかを考へもしなかつた。
家族の逃げて行つた二階は七疊許の一室であつた。其家の人々の外に他よりも四五人逃げて來て居つた。七疊の室に二十餘人、其間に幼いもの三人許りを寢せて終へば、他の人々は只膝と膝を突合せて坐し居るのである。
罪に觸れた者が捕縛を恐れて逃げ隱れしてる内は、一刻も精神の休まる時が無く、夜も安くは眠られないが、愈〻捕へられて獄中の人となつて終へば、氣も安く心も暢びて、愉快に熟睡されると聞くが、自分の今夜の状態はそれに等しいのであるか、將來の事は未だ考へる餘裕も無い、煩悶苦惱決せんとして決し得なかつた問題が解決して終つた自分は、此數日來に無い、心安い熟睡を遂げた。頭を曲げ手足を縮め海老の如き状態に困臥しながら、猶氣安く心地爽かに眠り得た。數日來の苦惱は跡形も無く消え去つた。爲に體内新たな活動力を得た如くに思はれたのである。
實際の状況はと見れば、僅に人畜の生命を保ち得たのに過ぎないのであるが、敵の襲撃が飽くまで深酷を極めて居るから、自分の反抗心も極度に奮興せぬ譯にゆかないのであらう、何處までも奮鬪せねばならぬ決心が自然的に強固となつて、大災害を哀嘆してる暇がない爲であらう、人間も無事だ牛も無事だよしと云つた樣な、爽快な氣分で朝まで熟睡した。
家の雞が鳴く、家の雞が鳴く、といふ子供の聲が耳に入つて眼を覺した。起つて窓外を見れば、濁水を一ぱいに湛へた、我家の周圍の一廓に、ほの〴〵と夜は明けて居つた。忘れられて取殘された雞は、主なき水漬屋に、常に變らぬ長閑な聲を長く引いて時を告ぐるのであつた。
三
一時の急を免れた避難は、人も家畜も一夜の宿りが漸くの事であつた。自分は知人某氏を兩國に訪うて第二の避難を謀つた。侠氣と同情に富める某氏は全力を盡して奔走して呉れた。家族は悉く自分の二階へ引取つてくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なく此の日又雨となつた。舟で高架鐵道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を兩國に出ようといふのである。我に等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸續として、約二十町の間を引きゝりなしに渡り行くのである。十八を頭に赤子の守兒を合して九人の子供を引連れた一族も其内の一群であつた。大人は勿論大きい子供等はそれ〳〵持物がある。五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、我儘も云はず、泣きもせず、覺束ない素足を運びつゝ泣くやうな雨の中を兎も角も長い〳〵高架の橋を渡つたあはれさ、兩親の目には忘れる事の出來ない印象を殘した。
もう家族に心配はいらない、これから牛と云ふ事で其の手配にかゝつた。人數が少くて數回に牽くことは容易でない。二十頭の乳牛を二回に牽くとすれば、十人の人を要するのである。雨の降るのに然かも大水の中を牽くのであるから、無造作には人を得られない。某氏の盡力に依り漸く午後の三時頃に至つて人を頼み得た。
成るべく水の淺い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から、高架線の上を本所停車場に出て、横川に添ふて竪川の河岸通を西へ兩國に至るべく順序を定めて出發した。雨も止んで來た。此間の日の暮れない内に牽いて終はねばならない。人々は勢込んで乳牛の所在地へ集つた。
用意は出來た。此上は鐵道員の許諾を得、少しの間線路を通行さして貰はねばならぬ。自分は驛員の集合してる所に至つて、かねて避難して居る乳牛を引上げるに就いて茲より本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞ふた。驛員等は何か話合ふて居たらしく、自分の切願に一顧をくれるものも無く、挨拶もせぬ。
如何でせうか、物の十分間もかゝるまいと思ひますから是非お許しを願いたいですが、それに此直ぐ下は水が深くて到底牛を牽く事が出來ませんから、と自分は詞を盡して哀願した。
そんな事は出來ない、一體あんな所へ牛を置いちやいかんぢやないか。
それですから、是れから牽くのですが。
それですからつて、あんな所へ牛を置いて屆けても來ないのは不都合ぢやないか。
無情冷酷………然かも横柄な驛員の態度である。精神奮興してる自分は癪に障つて堪らなくなつた。
君達は一體何所の國の役人か、此の洪水が目に入らないのか。多くの同胞が大水害に泣いてるのを何と見てるか。
殆ど口の先まで出たけれど、僅にこらへて更に哀願した。結局避難者を乘せる爲に列車が來るから、それが歸つてからでなくてはいけないと云ふことであつた。それならさうと早く云つてくれゝばよいのだ。さうして何時頃來るかと云へば、それは判らぬといふ。其實判つて居るのである。配下の一員は親切に一時間と經ない内に來るからと注意してくれた。
彼是空しく時間を送つた爲に、日の暮れない内に二回牽く積であつたのが、一回牽出さない内に暮れかゝつて終つた。
馴れない人達には、荒れないやうな牛を見計らつて引かせることにして、自分は先頭に大きい赤白斑の牝牛を引出した。十人の人が引續いて後から來るといふ樣な事にはゆかない。自分は續く人の無いに係らず、眞直ぐに停車場へ降りる。全く日は暮れて僅に水面の白いのが見える許りである。鐵橋の下は意外に深く、殆ど胸につく深さで、奔流しぶきを飛ばし、少の間流に溯つて進めば、牛はあはて狂ふて先に出やうとする、自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつゝ水に咽せて顏を正面に向けて進むことは出來ない。漸く埒外に出れば、それからは流に從つて行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、其石や土俵が道中に散亂してあるから、水中に牛も躓く人も躓く。
我が財産が牛であつても、此困難は容易なものでないにと思ふと、臨時に頼まれて然かも馴れない人達の事が氣にかゝるのである。自分は暫く牛を控へて後から來る人達の樣子を窺ふた。それで同情を持つて來てくれた人達であるから、案じた程でなく、續いて來る樣子に自分も安心して先頭を務めた。半數十頭を回向院の庭へ揃えた時は恰も九時であつた。負傷した人も出來た。一回に恐れて逃げた人も出來た。今一回は實に難事となつた。某氏の激勵至らざるなく、それで漸く缺員の補充も出來た。二回目には自分は最後に廻つた。悉く人々を先に出しやつて一渡り後を見廻すと、八升入の牛乳鑵が二つバケツが三箇殘つてある。これは明日に入用の品である。若い者の取落したのか、下の帶一筋あつたを幸に、それにて牛乳鑵を背負ひ、三箇のバケツを左手にかゝへ右手に牛の鼻綱を取つて殿した。自分より一歩先に行く男は始めて牛を牽くといふ男であつたから、幾度か牛を手離して終ふ。其度に自分は、其牛を捕へやりつゝ擁護の任を兼ね、土を洗ひ去られて、石川と云つた竪川の河岸を練り歩いて來た。もう是で終了すると思へば心にも餘裕が出來る。
道々考へるともなく、自分の今日の奮鬪は我ながら意想外であつたと思ふにつけ、深夜十二時敢て見る人も無いが、我が此の容態はどうだ。腐つた下の帶に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いてる、臍も脛も出づるがまゝに隱しもせず、奮鬪と云へば名は美しいけれど、此醜態は何のざまぞ。
自分は何の爲にこんな事をするのか、こんな事までせねば生きて居られないのか、果なき人世に露の如き命を貪つて、こんな醜態をも厭はない情なさ、何といふ卑き心であらう。
前の牛も我が引く牛も今は落ちついて靜に歩む。二つ目より西には水も無いのである。手に足に氣くばりが無くなつて、考は先から先へ進む。
超世的詩人を以て深く自ら任じ、常に萬葉集を講じて、日本民族の思想感情に於ける、正しき傳統を解得し繼承し、依て以て現時の文明に聊か貢献する處あらんと期する身が、此醜態は情ない。假令人に見らるゝの憂がないにせよ、餘儀なき事の勢に迫つたにせよ、餘りに蠻性の露出である。こんな事が奮鬪であるならば、奮鬪の價は卑いと云はねばならぬ。併し心を卑くするのと、體を卑くするのと、いづれが卑いかと云はば、心を卑くするの最も卑むべきは云ふまでも無いことである。さう思ふて見れば我が今夜の醜態は、只體を卑くしたのみで、心を卑くしたとは云へないのであらうか。併し、
心を卑くしないにせよ、體を卑くした其事の恥づべきは少しも減ずる譯ではないのだ。
先着の伴牛は頻りに友を呼んで鳴いて居る。我が引いてゐる牛もそれに應じて一聲高く鳴いた。自分は夢から覺めた心地になつて、覺えず手に持つた鼻綱を引詰めた。
四
水は一日に一寸か二寸しか減じない。五六日經つても七寸とは減じて居ない。水に漬つた一切の物未だに手の著け樣がない。其後も幾度か雨が降つた。乳牛は露天に立つて雨たゝきにされて居る。同業者の消息も漸く判つて來た。龜戸の某は十六頭殺した。太平町の某は十四頭を、大島町の某は犢十頭を殺した、我一家の事に就いても種々の方面から考へて慘害の感じは深くなる許りである。
疲勞の度が過ぐれば却て熟睡を得られない。夜中幾度も目を覺す。僅な睡眠の中にも必ず夢を見る。夢は悉く雨の音水の騷である。最も懊惱に堪へないのは、實際雨が降つて音の聞ゆる夜である。我が財産の主腦である處の乳牛が、雨に濡れて露天に立つて居るのは考へるに堪へない苦みである。何とも譬へ樣のない情なさである。自分が雨中を奔走するのは敢て苦痛とも思はないが、牛が雨を浴みつゝ泥中に立つて居るのを見ては、言語に云へない切なさを感ずるのである。
若い衆は代り〳〵病氣をする。水中の物も何時まで捨てゝは置けず、自分の爲すべき事は無際限である。自分は日々朝鞋をはいて立ち夜まで脱ぐ遑がない。避難五日目に漸く牛の爲に雨掩が出來た。
眼前の迫害が無くなつて、前途を考ふることが多くなつた。貳拾頭が分泌した乳量は半減した上に更に減ぜんとして居る。一度減じた量は決して元に恢復せぬのが常である。乳量が恢復せないで姙孕の期を失へば、乳牛も乳牛の價格を保てないのである。損害の程度が稍〻考量されて來ると、天災に反抗し奮鬪したのも極めて意義の少ない行動であつたと嘆ぜざるを得なくなる。
生活の革命………八人の兒女を兩肩に負ふてる自分が生活の革命を考ふる事となつては、胸中先づ悲慘の氣に閉塞されて終ふ。
殘餘の財を取纏めて、一家の生命を筆硯に托さうかと考へて見た。汝は安心して其の決行が出來るかと問ふて見る。自分の心は即時に安心が出來ぬと答へた。愈〻餘儀ない場合に迫つて、さうするより外に道が無かつたならばどうするかと念を押して見た。自分の前途の慘憺たる有樣を想見するより外に何等の答を爲し得ない。
一人の若い衆は起きられないと云ふ。一人は遊びに出て歸つて來ないと云ふ。自分は蹶起して乳搾に手をかさねばならぬ。天氣がよければ家内等は、運び來つた濡れものゝ仕末に眼の廻る程忙しい。
一家浮沈の問題たる前途の考も措き難い目前の仕事に逐はれては其儘になる。見舞の手紙見舞の人、一々應答するのも一仕事である。水の家にも一日に數回見廻ることもある。夜は疲勞して坐に堪へなくなる。朝起きては、身の内の各部に疼痛倦怠を覺え、其の業に堪へ難き思ひがするものゝ、常よりも快美に進む食事を取りつゝ一度鞋を蹈みしめて起つならば、自分の四肢は凜として振動するのである。
肉體に勇氣が滿ちてくれば、前途を考へる悲觀の感念も何時しか屏息して、愉快に奮鬪が出來るのは妙である。八人の兒女があるといふ痛切な感念が、常に肉體を奮興せしめ、其苦痛を忘れしめるのか。
或は鎌倉武士以來の關東武士の蠻性が、今猶自分の骨髓に遺傳して然るものか。
破壞後の生活は、總ての事が混亂して居る。思慮も考察も混亂して居る。精神の一張一緩も固より混亂を免れない。
自分は一日大道を濶歩しつゝ、突然として思ひ浮んだ。自分の反抗的奮鬪の精力が、これだけ強堅であるならば、一切迷ふことはいらない。三人の若い者を一人減じ自分が二人だけの勞働をすれば、何の苦勞も心配もいらぬ事だ。今まで文藝などに遊んで居つた身で、これが果して出來るかと自問した。自分の心は無造作に出來ると明答した。文藝を三四年間放擲して終ふのは、聊かの狐疑も要せぬ。
肉體を安んじて精神を困めるのがよいか、肉體を困めて精神を安ずるのがよいか。かう考へて來て自分は愉快で溜らなくなつた。我知らず問題は解決したと獨語した。
五
水が減ずるに從つて、跡の始末もついて行く。運び殘した財物も少くないから、夜を守る考も起つた。物置の天井に一坪に足らぬ場所を發見して茲に蒲團を展べ、自分はそこに横たはつて見た。これならば夜を茲に寢られぬ事もないと思つたが、茲へ眠つて終へば少しも夜の守りにはならないと氣づいたから、夜は泊らぬことにしたけれど、水中の働きに疲れた體を横たへて休息するには都合がよかつた。
人は境遇に支配されるものであると云ふことだが、自分は僅に一身を入るゝに足る狹い所へ横臥して、不圖夢の樣な事を考へた。
其昔相許した二人が、一夜殊に情の高ぶるを覺えて殆ど眠られなかつた時、彼は嘆じて云ふ。かういふ風に互に心持よく圓滿に樂しいといふ事は、今後今一度と云つても出來ないかも知れない、いつそ二人が今夜眠つたまゝ死んで終つたら、是に上越す幸福はないであらう。
眞にそれに相違ない。此のまゝ苦もなく死ぬことが出來れば滿足であるけれど、神樣が我々にさう云ふ幸福を許してくれないかも知れない、と自分もしんから嘆息したのであつた。
當時は只一場の痴話として夢の如き記憶に殘つたのであるけれど、二十年後の今日それを極めて眞面目に思ひ出したのは如何なる譯か。
考へて見ると果して其夜の如き感情を繰返した事は無かつた。年一年と苦勞が多く、子供は續々と出來てくる。年中齷齪として歳月の廻るに支配されて居る外に何等の能事も無い。次々と來る小災害のふせぎ、人を弔ひ己を悲む消極的營みは年として絶ゆることは無い。水害又水害。さうして遂に今度の大水害にかうして苦鬪して居る。
二人が相擁して死を語つた以後二十年、實に何の意義も無いではないか。苦しむのが人生であるとは、どんな哲學宗教にも云ふては無からう。然かも實際の人生は苦んでるのが常であるとは如何なる譯か。
五十に近い身で、少年少女一夕の痴談を眞面目に回顧して居る今の境遇で、是をどう考へたらば、茲に幸福の光を發見することが出來るであらうか。此の自分の境遇には何所にも幸福の光が無いとすれば、一少女の痴談は大哲學であると云はねばならぬ。人間は苦むだけ苦まねば死ぬ事も出來ないのかと思ふのは考へて見るのも厭だ。
手傳の人々がいつのまにか來て下に働いて居つた。屋根裏から顏を出して先生と呼ぶのは、水害以來毎日手傳に來てくれる友人であつた。
明治43年11月『ホトヽギス』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第三巻」岩波書店
1977(昭和52)年2月10日発行
初出:「ホトヽギス 第十四巻第二号」
1910(明治43)年11月1日発行
※「塲」と「場」の混用は、底本どおりです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:米田進
校正:松永正敏
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2002年4月1日公開
2011年1月9日修正
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子規子の世を去るなり、天下の操觚者ほとんど筆を揃てその偉人たることを称す、子規子はいかなる理由によって偉人と称せられたるか、世人が子規子を偉人とするところの理由いかんと見れば、人おのおのその言うところを異にし、毫も帰一するところあるなく、しこうしてただその子規子は偉人なりという点においてのみ、一致せるの事実を見たるは最も味うべき点なりとす。
しかり世人は相当の理由を有して、子規子の偉人たるを断定せるものにあらず、ただ無意識の間にその偉人たることを感じたるなり、子規子は真に偉人なりし、偉人なるがゆえに、世人がその偉人たるを感じたるは、これすなわち理屈にあらずして事実なり、決定の自然これに過ぎたるはなし、何となれば、太陽なるがゆえに太陽たるを感じ、明月なるがゆえに明月たるを感ずると等しければなり、これに理由を云々するがごときは要するに人間の小理屈のみ。
されば単に子規子を偉人なりというに対しては、何らの説明を要せず、しかれども世に子規子を仰ぎ子規子を信ずる人々にありては、単にその偉人たるを知覚せるのみにては、もとより満足しがたきものあるべし、ことに親しく左右に侍してその感化を蒙れる吾々においては、その偉人の実質を考定してこれを吾人に告ぐるの義務あるを感ぜざるを得ず。
世上の多くは、子規子の事業を云々し、子規子の議論を云々し、子規子の製作を云々す、しかれども予をもって見れば、これらの事実をもって子規子を偉人なりというは当らず、何となれば、俳句は元禄に興り天明に進歩し、明治に中興せり、子規子の事業と言わばその俳句中興の主動者たるにあり、その成功も決して小ならずといえども、それをもって子規子を偉人なりといわば偉人なるものはあまりに小なり、その議論においてももちろん偉とするに足るものあることなし、その製作は俳句を主とし写生文、歌、雑筆等なりといえども、主なる俳句についていうも、芭蕉もしくは蕪村に対して、容易にその優劣を定めがたきものあるべし、もちろん芭蕉、蕪村に有せざるものも子規子に多からんが、子規子に有せざるものの芭蕉、蕪村に多きもまた明なり、写生文、歌、雑筆等においては、これを偉人の事業としては、むしろ論ずるに足らずというを適当なりとせん。
しからば子規子は、何をもって偉人なるか、予の考うるところをもってせば、一、天稟之脳力、二、絶対的態度すなわちこれなり。
子規子の脳力
子規子一度文壇に現われて、その発程の途に上るや、精透なる研究猛烈なる活動、一刻の停滞なく寸時の休止なし、日をもって覚醒し月をもって進歩し、議論と製作と年をもって変化す、昨年の標準は決して今年の標準にあらず、今年の標準もとより明年の標準なるあたわず、議論に実行し製作に経験し、覚醒となり進歩となり、年を経るに従っていよいよ勢力を加えつつ、最終に至るまでいささかの滞溜を見ざりしは、実に子規子の生涯なりし。
見よ子規子の議論はしばしば矛盾を来し、標準しばしば動揺を招けり、始め大に蓼太をあげ後たちまち蓼太を痛罵し、前年は、歌は俳句の長きもの、俳句は歌の短きものとして毫も差支なしと論じ、翌年には、ただちに俳調俳語厭うべしとの歌評をなせるごときすなわちその一例なり、研究的態度をもって活動せば、それ以上のごとき変化を見ること、もとより当然なるべしといえども、子規子の子規子たる所以は全くここに存せることを知らざるべからず。
製作者と学者とはその性格を異にするもちろんなりといえども、かの近世国学界の大家なりと称せらるる、本居宣長のごときは、三十四、五歳時代の著述なる「石上私淑言」の議論は彼が一生の議論にして、彼が論理は六十を越て、毫も変化を見ざりしがごとく、脳力の固定思想の膠着、いかに活動性に乏しきかを見るべし、これを子規子の流動少しも静止なきに比せば、天稟の脳力に非常なる相違あるを知らん。
予輩らがしばしば子規子の門を叩て教を乞えるや、月に幾回なるを知らずといえども、会談の日ごとに必ず新問題を聞かざることなかりき、旧を改め新を悟り追求いよいよ高く、しかも先生の進むは早くして吾が追歩のはなはだ寛なりし恨みを感ぜざりしは稀なり、思うに先生の門に入りしもの、何人も如叙の感を抱けるや必せり、ゆえにしばらく先生と談話の機を失したる時に、いつしか趣味の離隔を発見する珍しからず、先生が最も晩年において、有力なる俳人諸氏と、趣味標準の相違を発見し云々と「病牀六尺」に述べられたるごとき、明かに這般の消息を認む、日に「モルヒネ」を服してわずかに痛苦を忘れんとしつつある際においても、なおかくのごとく趣味標準の進昇に停溜の趣きなきを見る、いずくんぞ脳力の偉と言わざるを得んや。
思うに偉人は自覚的成功なし、活動に起り活動に終るは偉人の常なるがごとく、古今東西の偉人多くはしかるを見る、豊公の如き奈翁の如き、彼らは活動を知って満足を知らざるに似たり、偉人の成功は活動にして偉人の満足又活動に存するか。
子規子の俳壇における事業は天下の讚するところなりといえども、子規子は毫もその成功を自覚せざりしもののごとく、世を去る数月前において、『獺祭書屋俳句帖抄』に叙して、「わが俳句はわが思いしよりも下等なりし」といえるにあらずや、その本領たる俳句においてなおしかり、いわんやその他においてをや、子規子が自個の事業と製作とに満足せざりしは争うべからず、察するに子規子幸に天寿を得たりとするも、ついに自個の満足を得るあたわざるに終わりたるべし、何となれば子規子は偉人なればなり、偉人はただ活動に満足す、子規子一代の事業、一言をもってこれを讃せば、曰く、
偉的脳力の活動。
絶対的態度
天質において偉人たりし子規子は人格においても偉人なり、そは子規子生涯を通じて一貫せる態度の絶対的なりしにあり。
子規子の態度は絶対的傍観の見地に立てり、歴史を傍観し、階級を傍観し、天子を傍観し乞食を傍観し、大宗教家、大美術家いかなる種類といえどもことごとく傍観す、かつて仰視したることなく、かつて俯視したることなし、思うにこれ真詩人の態度正しき感覚を得んと欲す、必ず正しき観取に待たざるべからず、正しき観取は必ず正しき傍観においてせざるべからず。
詩人は一切社会の外に立って、社会の一点たる自個をも傍観す、詩人は社会を離れずしてただ社会を観る、詩人は社会を楽んで毫も社会に混ぜず、詩人は神に近きを尊び己に近きを佳なりとす、一切社会の批判者にして一切社会の讃美者なり、絶対的傍観の見地に立ちて始めて、真詩人の職を完うし得べし、しからばすなわち子規子の態度は真詩人の態度なり。
西欧の詩人吾これを詳にせず、東洋の古今ただ詩作家の少なからざるを見るのみ、真詩人の態度を得たるものあるを知らず、屈原、陶潜、杜甫、李白、皆社会外に立てる人にあらずして要するに詩作家たるのみ、人丸、赤人、憶良、家持また人格の察すべきなく、今日においてはただその詩作家たるを感ずるのみ、以上の諸大家、詩作家としてはもとよりその大を感ずといえども、人格としては予未だその人を思うことあたわず、要するに真詩人たる態度において欠くるところあるによれり。
子規子の詩作は、もとよりその大を称するに足らざるものあらん、しかもその態度と人格とは、これを大宗教家、大政事家に比するに値す、もしそれ文字上言語上の製作のみをもって、詩なりと言わばもとより昧者の言のみ、趣味的に他が感覚を動すべき人格と態度とを有するものあらば、その態度すなわち詩、人格すなわち詩と称すべきなり、されば偉人はそのすべてがすなわち詩なりというを得べし、何となれば偉人はすべてが趣味をもって満され居ればなり、子規子はいかなる点において、絶対的傍観の見地に立てりというか、これ当然に来るべき疑問なれども、そを具体的に解釈せんこと容易ならず、何となればこれ理論にあらずして、趣味的実際問題なればなり、予はただ子規子が、常に一切の事物を自個の標準によって判断し、自個以外に偉人を認めざりし態度を持したるをもって、絶対的傍観の見地に立てりと断ぜんと欲す。
唯我独尊を称したる釈迦如来は、絶対に自らを尊べり、絶対他力を唱えたる親鸞は絶対に他を尊で自個を空せり、孔子と耶蘇とは他を尊んでまた自個を尊べり、ついに釈迦と親鸞に対していささか譲るところあるがごとくの感あるは、その態度の絶対的ならざるに存す、子規子の態度は、別に諸聖人の外に立ち、心を一切社会の外界に置けり、一切他を尊まず一切他を卑まず、もちろん自個を尊まず自個を卑まず、自個の精神は、なお自個の一切をもよそにせり、すなわち絶対的傍観の態度これなり。
ゆえに社会的自個の行動は、毫も戒飭するところなく検束する趣なく、極めて随意に、心の動くままに振舞いたり、親鸞のいわゆる自然法爾なるものと、すこぶる相似たるの跡ありといえども、しかも子規子の態度は、釈迦如来の知らざるところ、親鸞上人の知らざるところなり、嗚呼あに偉ならずや、予はなお終に臨で一言せん。
子規子を知らんと欲せば、子規子の議論と子規子の製作とを、突き抜けてじかに子規子その人を見よ、子規子の議論と子規子の製作とは、決して子規子の満足したるものにあらざるなりと。明治三十八年十二月六日夜十二時記〔『馬酔木』明治三十九年一月一日〕 | 底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社
2002(平成14)年11月5日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 別卷二 回想の子規 一」講談社
1975(昭和50)年9月18日第1刷発行
初出:「馬醉木 第三卷第一號」馬醉木発行所
1906(明治39)年1月1日
※「讚」と「讃」の混在は、底本通りです。
入力:高瀬竜一
校正:hitsuji
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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此頃は実に不快な天候が続く。重苦しく蒸熱くいやに湿り気をおんだ、強い南風だ。そうして又、俄の出来事に無数の悪魔が駈出して来た様な、にくにくしい土色した雲が、空低く散らかり飛び駈けって、引切りなしに北の方へ走り行く。時々空が暗くなって雲が濃くなると一頻りずつ必ず雨を降らせる。
こんな天気が今日で三日目だ。意地悪く息の長い風だ。人間は嘆息する、呼吸が為に息苦しいこと夥しい。此夜明けには止むだろう、此日の入りには止むだろうも皆空だのみであった。予は今朝になって、著しく神経の疲労を覚えた。深刻に出水の苦痛を恐れて居る予は、八月という月の此天候に恐怖を感ぜずには居られなかったのである。
早く新聞を手にした児供達はいずれも天気予報を気にして見たらしく、十四と十二と七つとの三人が揃って新聞を持って来た。三人は予の左右に屈み加減に両手を突いて等しく父の前に顔を出すのであった。予も新聞を取るや否、自然に気象台員の談話という項目に眼は走った。直ちに眼に入るのは、低気圧、颶風等の文字である。予は寧ろこれを読むのが厭わしかった。児供等は父がそれを読んで、何とか云うのを待つものらしく三人共未だ何とも云わずに居る。予は殊に児供等の前で其気象台員の談話を読むのが何となく苦痛でならない。それで予は眼を転じて別項を読み始めた。十四の児はもどかしくなってか、
「お父さん『あらし』になるの……」
いうと等しく、
「あらしになりゃしないねいお父さん」
と、十二のが口出した。
「お父さん水が出るかい……」
こういうのは七つの児であった。
「大丈夫ねえお父さん」
十二のが二人の詞を打消す様にそういった。
「うん大丈夫だよ、新聞にあることは当てになりゃしないよ」
父はこう云わない訳に行かなかった。
「ほんとに大丈夫お父さん……」
十四のは不安そうに父の顔を見上げる。
「うん雨は少し降るだろうけれどね大風は吹きゃしないだろうよ。そっだから大丈夫だよ」
「新聞にそう書いてあるの……」
「うん」
「そらえいこった」
七つのはさすがに安心してこう叫んだ。
「わたい大水が出れば大島へ逃げていくだ……」
初めから大丈夫だねい大丈夫だねと云ってた、十二のが、矢張安心し切れないと見え、そう云うのであった。予はしょうことなしに、新聞の記事をよい加減に読み聞かして、これだからそんなに心配しなくともえい、と賺した。併し予の不安は児供等を安心させるのに寧ろ苦痛を感ずるのである。
「水が出るにしたって、直ぐではないねいお父さん」
十四のは、どうしても安心し切れないで、そういうのであった。予は少しく叱る様に押えつけて、
「今夜にも此風さえ止めば大丈夫だから、そんなに心配することはないよ」
予はこう云って、児供等には次へ出て遊べと命じた。児供に安心させようとする許りではない、自分も内心には、気象台の報告とて必ずしも信ずるに足らない、よし大雨が一日一夜降ったにせよ、逃出さねばならぬ様な事は有るまいと、強いて自分の不安をなだめる、自然的心理の働きが動いたのである。乍併自分が心から安心の出来ないのにどうして児供等を安心させることが出来よう。次へ起った三児の後影は如何にも寂しかった。予は坐して居られない程胸に苦痛を覚えた。予は起って庭から空模様を眺めた。風は昨日に増すとも静まる様子は更に無い。土色雲の悪魔は益数を加えて飛び駈って居る。どう見ても一荒れ荒れねば天気は直りそうもなく思われる。予は又其空模様を永く見て居るに堪えないで家に入った。妻も入って来た。三人の児の姉等二人も入って来た。又々互に不安心な事を云い合って、我れと我が不安の思いを増す様な話を暫く喃々した。果ては予はどういう事があろうと仕方がない、益の無いくよくよ話はよせと一喝した。
風の音許り外に騒々しくて、家の内には元気よく騒ぐものもない。
平生は鉄工所でどんがんする鎚の音、紡績会社の器械のうなり、汽笛の響、有らゆる諸工場の雑多な物鳴り等、大都会の騒々しさも、今日は一切に耳に入らない。只ごうっと吹く風の音、ばらばらっと板屋を打つ雨の音に許り神経は昂進るのである。新聞も読掛けてよした。雑誌も読掛けた儘投げてやった。
予はつくづくと、こんな土地に住まねばならぬ我が運命を悲しまない訳にゆかなかった。同時に我れながらさもしい卑屈な感想の湧き起るのを禁じ得なかった。
平生財を作るにも最も拙な癖に、財力の威徳を尊敬することを知らなかった報いだ。貧はこれほど苦しくないにせよ、災害から受くる損傷は苦痛でなければならぬ。現に苦しみつつある我が愚を憐まない訳に行かない。我に千四五百円の余財があらば、こんな所に一日も居やしないが、千四五百の金は予の今日では望外の事である。予は財なきが故に、時々云うに云われない苦悶をせねばならぬ、厭うべき此土地に囚れて居ねばならないのである。
今少し貨殖の道に心掛ければよかった。思えば自分はどう考えても迂愚であった。
予はこんな風に、今更考えても何の役にも立たない愚な事を考えずに居られなかった。
つまらない。実につまらない。何だ馬鹿馬鹿しい。実にくだらないなァ。
俄に気づいてうんと自分を嘲り叱って見ても、不安は依然として不安で、今の苦悶の中から、心を不安境外へ抜け出ることはどうしても出来ない。
今茲へ来て何を考えたって役には立たない。未だ雨も降らないのに、出水を心配するなどは猶更無駄な話だ。こう思いつつ何も考えない事にして、仰向に踏んぞりかえった。そうして両足を伸し腹部も十分に張って見たけれど、心のくもって居る様な胸の苦みは少しも減じなかった。予はほとほと自分の体と自分の心との取扱に窮して終った。そういう内に、何と云っても児供は児供でどんな面白い事があったか、苦の無い笑声を立てて騒ぎ出した。予も亦不思議と其声に揺られて、心の凝りが聊か柔かになった。
大雨は其夕から降出した。雨の音はさながら悪魔の叫喚だ。目に見た悪魔が今は我家の周囲に肉迫し来って、耳に近く其の叫喚の声を聞く心持がした。 | 底本:「日本掌編小説秀作選 上 雪・月篇」光文社文庫、光文社
1987(昭和62)年12月20日初版1刷発行
初出:「ホトヽギス 第十四卷第一號」
1910(明治43)年10月1日
※表題は底本では、「大雨《たいう》の前日」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:noriko saito
2016年7月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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七月十五日は根岸庵の会日なり。十七日にいでたたんと長塚に約す。十六日夕より雨ふりいでて廿日に至りて猶やまず。
長雨のふらくやまねば二荒の瀧見の旅を行きがてにすも
根岸庵よりされ歌来る。
藁ずきの紙にもあるか君が身は瀧見に行かず雨づゝみする
かえし
雨雲のおほひかくさば二荒山行きて見るとも多岐見えめやも
此夕長塚来りて、雨ふるとも明日は行かん、という。古袴など取り出でて十年昔の書生にいでたたんと支度ととのえなどす。廿一日朝まだきに起き出でて見るに有明の月東の空に残りて雨はなごりなく晴れたり。心地よき事いわん方なし。七時上野停車塲に行けば長塚既にありて吾を待つ。汽車の窓に青田のながめ心ゆくさまなり。利根の鉄橋を越えて行くに夏蕎麦をつくる畑干瓢をつくる畑などあれば
埼玉や古河のあたりの夏蕎麥のなつみこめやもおほに思はゞ
麥わらをしける廣畑瓜の畑葉かげに瓜のこゝたく見ゆる
など口ずさむ。十二時日光に著く。町を過ぎて含満の淵に行き石仏を見る。大日堂の裏手より裏見の滝へとこころざす。道のほとりに咲く草花、あからむ覆盆子などさすがになつかしくて根岸庵のあるじがり端書をやる。
少女等がかざしの玉の赤玉に似たるいちごを採りつゝありく
奧山の道のへに咲く草花をうらめづらしみ見せまくもとな
おぼつかなき歌なり。裏見の滝に著く。茶店に人無し。外国の婦人のまだうら若きと見ゆるが靴の上に草鞋をはき、一人は橋の上に立ち、一人は岩に腰うちかけて絵など写すめり。斯る深山に入りてみやびたるわざに心をこらす少女の心のうちを思うにいとなつかしく今迄は只いとわしき者にのみ思いし外国人の中にかかるやさしきもありけるよと心にくき事限りなし。屏風巌をめぐりて般若方等二つの滝の見ゆる処に出ず。谷を隔てて稍遠く見たるなかなかに趣深く覚ゆ。ここより五十ばかりの人道づれとなりて行く。草履をはき下駄を手に提げたり。広島の人という。三人声かけあいて登るに道けわしければ汗は滝なして降る。薄暗きに華厳の滝をのぞきつ七時過中禅寺湖畔の旅籠屋に入る。
翌朝つとめて起き出ず。快晴。山深き暁のながめ、しんしんとして物一つ動かぬ静かさは膚にしみわたりて単衣に寒さを覚えたり。日、湖の面を照す頃舟を雇うて出ず。二荒の裾山樹々の梢に鶯の今をさかりと鳴く声いとめずらし。風はそよとも吹かず、日熱からず、四方のけしきのどかに見わたさるるに
時じくに鶯鳴くも二荒のおくなる里は常春にして
舟、菖蒲が浜に着く。湯本道なり。舟を上れば竜頭の滝あり。しばらく遊びて後戦塲が原に出ず。いろいろの草花うつくしくおのがしし色に誇るが中に菖蒲の花なん殊に多かりける。
二荒の山の裾野にあかねさす紫匂ふ花あやめかも
櫻草の花によく似る紫の花めでつゝも名を知らずけり
花あやめしみ咲きにほふ紫の花野を來れば物思もなし
紫の雲ゐる野べに朝遊び夕遊びます二荒の神
湯の滝を見、湯本に遊びて帰る。中禅寺の湖をながめて
天雲のいはひもとほる湖の上に眞白片帆の舟歸る見ゆ
歌袋歌滿ちあふるなめ革のかはり袋のありこせぬかも
歌袋の歌は文して格堂にからかいやりしなり。此夜も山田屋に宿る。明日は華厳の滝壺に下りんとて長塚も我もいさみきおう。先ず歌幸を祈らばやとて詠む。
二荒の山にまします女神だち歌のわく子にさちあらせたまへ
翌日朝早く案内者一人召し具し二人きおいにきおいて滝壺に下る。岩崩れ足辷る。手に草をつかみてうしろ向きになりて少しずつ下り行く。危き橋をようように這いわたりて終に下り着くに滝のしぶき一面に雨の如く足もとより逆に吹きあぐるさますさまじく恐ろしく暫くも彳みかねつ。僅にかえり見れば小き円きうつくしき虹の我身をめぐりて目の下に低く輝けるあり。我動くところに虹も亦従いて動く。我は神となりたらん心地にてくすしくとうとくも覚ゆれど余りのすさまじさに得も留まらで復もと来し岩を攀じて登り来る。衣は雨に濡れたらんが如し。茶店にて裸なりて乾す。ここに得たる長歌短歌若干別にあり。
昼過日光町へ下り霧降の滝見に行く。途中
あかねさす西日は照れどひぐらしの鳴き蟲山に雨かゝる見ゆ
ゆくゆく一人の少女のいと艶なるに逢う。長塚しきりに恋いかなしむ。我長塚に代りて
眞玉手にしぬ杖つきて霧降の山こえなづむ少女こひしも
滝を見て日光町の旅舎に帰る。宿の女又のうねもごろにもてなすに我も心なきにしもあらず。
汗衣かわかしたゝむ君しあればかりねの宿とわがおもはなくに
廿三日小山の停車塲にて長塚と袂を分つ。長塚は郷里岡田へ帰るなり。
二荒の神のたはりし歌玉の五百玉わけて君と別れん
上野停車塲に着く。直に根岸庵を訪いて華厳の滝壺にて採りたる葉広草、戦塲が原の菖蒲の花など贈る。夜深けて家に帰る。
明治33年10月『日本』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「日本」日本新聞社
1900(明治33)年10月26日、27日
初出:「日本」日本新聞社
1900(明治33)年10月26日、27日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。
※初出時の表題は「瀧見の旅(上)(下)」です。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2018年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "057991",
"作品名": "滝見の旅",
"作品名読み": "たきみのたび",
"ソート用読み": "たきみのたひ",
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"初出": "「日本」日本新聞社、1900(明治33)年10月26日、27日",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
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"底本名1": "左千夫全集 第二卷",
"底本出版社名1": "岩波書店",
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先生が理性に勝れて居ったことは何人も承知しているところだが、また一方には非度く涙もろくて情的な気の弱いところのあった人である、それは長らく煩って寝ていたせいでもあろうけれど、些細なことにも非常に腹立って、涙をこぼす果ては声を立てて泣くようなことが珍らしくない、その替わりタワイもないことにも悦ぶこともある。
一昨年の秋加藤恒忠氏が、ベルギー公使に赴任する前にちょっと来られた時なども、オイオイと泣かれた加藤氏から貴様にも似合わんじゃないかと叱られたような訳で少し烈しく感情を激すると、モウたまらなくて泣く人であった。内輪の人に対して腹立たり叱ったり泣たりするのも、皆一時の激情に過ぎないので、理屈もなにもなかったのである。
自分が少しのことにも感情を激するくらいであるから、人に対してはそれは随分周密に注意せられていたようであった、どこまでも理は正していられたけれど他の感情を害するようなことはまた決してなし得なかった、そういう訳であるから、理屈の上では非常に厳重で冷酷なことをいうても、その涙もろい情的の方面になるとすぐ以前と反対なことをやるようなことがしばしばあった。
同人諸君の内でも、虚子君、鼠骨君、秀真君、義郎君等は、いわゆる上口の方で酒をやらるる諸君のところ、先生はしきりに酒を飲んではいけぬといわれた、種々理由もあったようであるが、古来酒を飲んだ人にえらいことをやった人がないなどといわれていた、従て前数氏の人々などには随分冷酷な注告をせられたこともあったらしい、鼠骨君などからは、この断酒注告につきての不平を聞かせられたこともある、義郎君などは最も非度く痛罵せられた方である。
しかしこれが皆前にいう通り、理屈の上のことばかりで、先生の所で何かにつけ飯が出る、また飲食会がある、それに必ず欠かさず酒を出すのだ、一方では冷酷に意見をしながら、すぐその跡から酒を出すからいかにも矛盾している、ちょっとおかしく思われるが、ここが先生の涙もろいところだ。
一所に飯をくいながらも、好きな酒を飲せぬというはいかにも残酷なようで、とても堪られんというのである、一度先生と交際した人は皆何となく離れられない風があるのも、こんなところからであろう。
吾輩などは馬鹿に抹茶が好きであるから、先生の所へ往っても、どうかすると抹茶的議論などがでる、もっとも先生は絶対に抹茶を排した訳ではなかったが、世間普通の茶人という奴が、実に馬鹿らしく形式だった厭味なものであるので、吾輩の抹茶についても時折嘲笑的痛罵を頂戴したことがあったのである、だがそれもやはり酒のような筆法で、吾輩が非常に茶を好むというところから、抹茶の器具が一通り備られてあった、吾輩が数年の間に幾百回と通った内に、ただの一回でもこの抹茶の設備と抹茶的菓子の用意とが欠けたことがないのである、
明治三十三年の夏、長塚君と日光まで滝見の旅行をやった時に、帰りは例の通り田端でおりて根岸へ寄った、いろいろ話し込でいる内に、やがて母堂には抹茶の小鑵を盆へ載せて出された、先生は笑いながら君が非常に茶に渇していると思って、大いそぎに神田まで人をやって買わしたのだマア一ぷくやりたまえとあった、予はそれは先生恐れ入ましたなア、実は私は一日の旅でも茶を持って出るのですから、二晩とまり三日の旅ですもの、チャンと用意して参りました、まだ少し残っていますどうも恐れ入りましたなアというと、さすがに茶人だ僕はまた君が三日も茶を飲まないではすこぶる茶に渇してることと思ってから買わしたがそうであったかと大に笑った。
先生の情的方面のことは多くこんな調子であった、こういうことを思いつづけると今でも胸の塞るような心持になる。
これは少し事柄が違うけれど、先生は仔細なことにもよく注意が届いて居って、すべて物事おろそかにするということのなかった人である、病室のいつでも取りととのえられて、少しも乱雑不潔などいうことのなかったは、誰れも知っているが、ごく些細なたとえは手紙一本出すにつけても、いかに親しい友達の処でも、屹度町名番地を記明して出される、名前ばかり記してやるようなことは決してない、これにつきある時のお話に、世間には手紙をやっても返事もこないなどと不平をいう人が随分あるが自分の手紙に宿所を明記しない人は非常に多い、中には姓ばかり書したり、雅号ばかり書したりして手紙を出す人が少くない、これらは人に対して敬意を失うばかりでなく、相手方では返事をしようとしても宿所が判らないで、困ることがあるなどといわれた、それであるから、一ヶ年百回近く通っている人の所へよこす手紙にもちゃんと町名番地が明記してある、何十通の手紙の中にも、この法則に欠けてるのはただの一つもない、それから『日本』新聞社へやる原稿も俳句一枚のでも必ず三銭切手をはって封書にして出していられた、開封でやるということはついに見たことがなかった、これは意味があってかなくてかそれは知らないが、先生の平生が、こんな細事にも察せられるかと思うままに記して世人に示すのである。〔『馬酔木』明治三十六年十一月十三日〕
明治三十五年七月初旬の頃である、看護当番として午後二時少し過たと思う時分に予は根岸庵に参った、今日はどんな様子か知らんと思う念が胸に満ているから、まず母堂や律様の挨拶振りでも、その日の先生の様子が良かったか悪かったかということがすぐに知れる。
今日は良くないなということが座敷へ通らぬ内に解った、予は例の通り病室と八畳の座敷の間の唐紙に添うて呉椽に寄った障子の内へ座した、しかもソウッと無言で座したのである、むろん先生いかがですかなどと挨拶する訳ではない、モウこの頃はお極りの挨拶などは無造作に出来なかった、お話の相手にゆくのであるけれど、先生の様子を見てからでなければ、漫りに挨拶することははなはだ危険を感じたのである、予は黙然と座して先生の様子を窺っている、先生は南向に寝ていて顔は東の方戸棚の襖の方へ向けていられる、予は先生の後を見ている体度であった、やがて母堂が茶を持ってこられ、次にお定りの抹茶の器具を出される、予はかかる際にどうかこんなことはおよしなされてといえど、物固い母堂はこの頃までも決してこの設備を欠たことはなかった、まことに忘れんとして忘れられないことである。
昨日は秉(河東)さんの番でありまして、少し悪く御座いました、昨晩はサッパリと寝ませんで、今日も良くありませんゆえ、また朝から秉さんにきてお貰いしたでしたが、少し眠りましたから十二時頃に帰られましたなどと、母堂からお話しがあった。
この間がまだ一時間ともたたない内に、先生は右の手でくくし枕を直しながら顔だけちょっと予の方へ向けて目礼された、よほど苦しそうな様子で口もきかないですぐ元の通り顔を背けてしまったが、しばらくたってから今度は体を少し直して半仰向けになられ、わずかにこちらへ顔を向ける姿勢をとった、
きょうはねイ、
一語しばらく眼をつぶっていられ、息を休めるようにしてから、
きょうはお昼前碧梧桐が独逸の小説を読んで聞かせてくれた。もちろん翻訳ではあるが、僕は小説というものは、吾々の感じを満足させるようなものはとても出来ないものとキメてしまった、
今までは小説についていくらか迷っていたが、とても吾々を満足させる小説は出来得ないものとキメてしまった。
出抜に先生はこういって再度眼を閉てしまった、これだけのことをいうにもよほどタイギそうに次の語を発しない、予は思わず膝を進めて。
それは先生文学上の大問題ですなア。
予は先生に次なる語を促すような語気でもってそういうたのであるが、先生ははなはだ息苦いかのごとく、容易にその次を語らない、この時予はむしろ次なる先生の説を聞たいというよりは、話を続けて先生を慰めようという方に多くの意味を持って、再び次のごとくいうたのである、
ただ今の先生のお話はちょっと考えましたところでも、実に文学上の大問題ではありませんか、西洋なぞの話では文学といえば何より先に小説であって、小説は文学というより文学は小説という有様で、いうまでもなく小説は文学の最高位にあるものだそうじゃありませんか、そういう小説が今先生の申さるるごとく、文学趣味の上から満足な感を得られないということは、実に一大議論のように考えられます、かりそめのお話でなくて、真に思い定めた確信かのように伺いますが、私も先生の今のお話には非常に心が動いた訳であります、それほどの先生の確信、たとい少しなりとも何かへお書きになって公表されてはいかがですか、私は是非そう願度思いますが。
予は思わず熱心こめてこういうたのである、先生は、じっと予の方に眼を向けられ。
それはそうだが、このざまではとてもそんなことは出来んじゃないか。
予は強い近視であるからよくは知れなかったが、この時の先生の眼にはたしかに涙があったと思われた、それきり先生は黙してしまい、予も胸塞がる心持で、語を続けることは出来なかった。いかにも先生のいわるる通で、この時分の先生の容体は、人々各番に毎日看護に来るという有様であるから、以上のごとき複雑な問題に意見を述べるなどいうこと出来るはずがないのである。
お互にしばらく黙している内にも、予は我に返って考えるとなく考えた、この問題については最少し聞いておかねばならぬ、こう思ついたので様子を測って、
ただ今のお話について最少し伺っておきたいと思いますが、話をしても宜しゅうございますか。
といって先生の許しをえてから、
私もと申しては少しおこがましい訳ですが、演劇も小説も熱心に見たというではありませんけれど、ともに面白く思って居りまして、小説なぞは読みかけると夜の明けるも知ずに読んだこともありますが、実を申すとごく浅薄な趣味で面白いので、いわばただ筋書許りを面白く感じますのです、つまりお伽的に面白みを感ずるのでありました、それで少し文学的とか詩的とか真面目な意味から視ると、いつでも不自然殊更作りものというような感がすぐ起ってくるのです、今の大家という人々の小説でも文章は甘いが、趣味という点にはどうしても、不自然な殊更な感じを起さぬことはありません、演劇は見たほど見ませんが、古いことですが明治座で左団次の曾我を見た時などは実に馬鹿らしくて堪りませんでした、団十郎は未だ見ないくらいですから演劇の話などは無理でありますけれど、左団次の五郎といっては名高いのだそうでありますのに、その曾我五郎の左団次が捕縛されるところなどは、まるで人形の転がるようでとても真面目な趣味感が起るものでありゃしません、人を斬るとか自殺するとか、捕縛されるとか、人間の激情無上なるきわどいところなどが、どうして不自然な殊更なママ事らしき感の起らぬように演ずることが出来ましょう、小説でも演劇でも平凡な事実をやればつまらぬ価値のないものになってしまう、少し際立った奇なことをやれば、とても自然を得ることが出来ぬとすれば、到底詩的趣味の感懐を満足させることは六つかしい、普通一般的浅薄な娯楽としてはもちろんこの上なきものであろうが、文学の素養深き人の詩的興快を動すことはなはだ覚束ないものではあるまいか、それは天才的大手腕家が出てきて技倆を振われたら知らぬこと、今日の演劇や(能楽の演技は別)小説では要するに普通人の娯楽程度であってママごとやお伽話の進歩した物としか思われない。
私はこんな風な考えを持っていたこともあったのでありますが、何しろ小説熱の盛な時代、そんなこというたとて誰あって相手にするものありません、そういう私でありますから今先生のお話を伺って私は非常に心が動いた訳ですが、ただ今の先生のお話は今私が申上たような意味で解釈して宜しいのでありましょうか、私は大手腕家が出てきたらと申しましたが、先生のはそれが一歩進んで手腕に係らず、小説というものは素養ある詩人の感懐を満足させることは到底出来ぬものとお極めになったというように承知致しましたが、そう心得てよいのでありますか。
予はかく長々しく自分の考の有丈ケを述べて先生に判断を乞うたのである、先生はその間一語も挿まれず、瞑目して聞かれた様子で、予が話をきるとすぐに大体そんな訳であるといわれた、なお話を進められて。
自分の親しく経歴したことを綴ったら、人によったらあるいは一生涯に一つ二つ、吾々の想うようなものが出来るかも知れぬけれど、そういうことは小説というよりかむしろその人の伝記というのが適当であろう、また自分が一年か二年前に実験した事実を種として作るというようなことがあっても、それは駄目であろう、どうしても想像や推測が出てきて新に考えたものと大差がなくなる。
かく話を添えられた、先生はよほど労れていらるる様子であるのに、こんな複雑な問題について長話をするのよくないことは知れきっているのであるから、予はここでこの問題についての話は止めてしまった、跡は母堂を相手に世間話を始めたような次第でその夜は常のごとく十時まで居って帰宅したのである。
以上の問題は考えれば考えるほど大問題であるという感がましてくる、とても吾々ごとき凡骨の頭で容易くよいの悪いのといわれる問題ではない、しかし予はどうしても、先生の一語しかも心籠めて繰返された一語は、心の底まで染み込んだのである、その後先生歿後、これを碧梧桐に話したら、碧梧桐は首肯しない、それはそんな訳のものでないという、虚子に話せば虚子も首肯しない、鼠骨ももちろん首肯しないのである、四方太には未だ話さない、従て四方太の考は知らぬのである、予の如きもの未だかくのごとき問題について論議するの資格なきことを自任しているが、予が正しく先生より聞取った談話は、前記のごとくで、先生の話より予の話が多いが、当時の談話事況は記述の通りである、これを世間に紹介しておくは予の責任であると思う、
世の中の進歩趨勢はその停止する所を知らずという有様で、従ってすべての思想界にも、頻々新主義を産出してくる今日であるのに、ことに文学美術の上に写実主義の大潮流は、蕩々として洋の東西に湧き返って居る今世のことなれば、あるいは欧米の文士間などより、前記先生の所説のごとき議論が、何時湧出してくるかも知れぬ、こんなこと思うと予はますます予の聞いただけのことを公表しておくの義務あることを信ぜざるを得ぬのである、
日本帝国の偉文士正岡氏は、その現世を去りし二個月以前において、
小説というものはとても吾々の感じを満足させるように出来ぬものときめてしまった、
この一語は正しく正岡先生の口より出でて左千夫の耳に入りしもの、すなわち明治三十七年一月発刊の『馬酔木』巻頭に掲げ広く世界の識者に問うのである。〔『馬酔木』明治三十七年二月二日〕
大詩人の言行としては、さもあるべきはずではあるが、何事につけても、人並よりは多くの興味を感じつつ居たらしかった、多くの人の何でもなく思っていることやごくツマラぬことで一向顧みもしないようなことでも、先生はしきりと面白がって一人興懐に耽けるというようなことが常に珍らしくなかった、従てたわいもないことにも児供らしく興に乗って浮かれるようなことがあった、それは趣味の広い人であるから、面白味を感ずる区域が、人よりも広いは当前ではあれど、随分意外に思うことも多かった。
鍬形蕙斎や上田公長の略画の版本など吾々は児供の玩弄品と思っていたくらいであるに、ここの趣向が面白い、ここがうまいなどとしきりと面白がっていた、ある時などは、一枚五厘ずつのオモチャ絵紙の、唐紅かなにかでひた赤く染たやつを二、三枚、唐紙の鴨居に張つけて眺めていられ、しきりと面白い理由を説明して聞かせられた、先生はオモチャがすきだなどと人々みやげに買うてゆくようになったのも、何でも面白がったところから起ったのである、オモチャがことにすきであった訳ではない。
絵画についての嗜好は次第に強烈になって、絵であればどんなものでも面白がって見るようで、ある時陸翁の娘の六ツばかりになる児が、書いた絵をこんなに面白いがどうだと見せられたこともあった、晩年自分で絵を画くようになってからは、一層嗜好の熱度を高めた、渡辺南岳草花の巻物に狂気じみたことをやったに見てもその熱度が判る、もう長くは生きていぬと承知しながら、是非その草花の絵をわが物にしたいという執念、何という強烈な嗜好であろう、趣味の興快に乗じては自個の命を忘れるのである、自分の字がいやになったから、少し仮名文字を習ってみたいが、善い手本はあるまいかと問われたのも、逝去二月ばかり前のことであった、
おかしく気取って死際を飾ろうとするような手合とはまるで違っているかと思われる。
趣味を貪っては飽くことを知らぬという調子であったから、日夕の飲食にも始終趣向趣向といって居った、まして二、三人の会食でもやるとなれば、趣向問題が湧返ったものである、振ったの振わぬのと翌日の談話にまで興を残したくらいであった、予は随分度数多く参勤した方であるが、文章や歌俳についてこれは得意だなどという話はついに聞かなかったけれど、根岸へ西洋料理屋が出来て、客に西洋料理を御馳走することが出来また一品でも取寄せて食うことが出来るといっては、そんなことをしきりと得意がって居られたり、また骨抜鰌は根岸のが甘いなといえば、これは近頃得意さなどと悦ばれたり、こんな調子で些細なことにもすぐ興に乗って面白がられる、何事によらず三、四の人が集って興に入る時といったら、真に愉快な風に見えるので、集った人も深く愉快を感ずるのが常であった、ある時などよほど可笑かったことがある。
たしか明治三十五年の春であったと思う、追々と病体衰てくるので、人々種々と慰藉の道を苦心して居る時であった、予も夕刻かけて訪問すると、河東、寒川の両君が居られて、きょうは高浜が、女義太夫を連れてくるから聞いてゆけとのことであった、先生もやや興に乗ってきているので、おひるからはすこぶる工合がよいとのことで、しきりと談笑していられた。
やがて高浜君が来る、妻君も児供をつれてくる、河東の妻君もくる、陸翁の令嬢達が六人ずらりと這入ってきて並ぶ、いつのまにか日も暮れて明しがついた、三、四台の車が門前へ留った、小声の話声がする、提灯がちらつく、家の人達は皆立っている、門の扉がカタンカタンしてどうっと人が這入ってくる、根岸庵空前の賑いである、予が先生、僕の方であるとほとんど婚礼という感じですナアというと、先生は、
松山辺でいえば葬式の感じさ、といって松山の葬式の話などしている内に、太夫連は上り鼻の隣座敷で用意をやっていたらしく、床の正面に蒔絵の見台の紫半染の重々しい房を両端に飾ってあるやつが運出された、跡から師匠の老婆次に鳩羽色か何かの肩衣つけた美人の太夫が出てきて席に就いた、この時予は先生の頭の後方に座して居ったので、先生が思わず拍手しているのが見えた、それがよほど滑稽で今でも思い出すたびに独笑するのであるが、寐返りもよく出来ぬという時であるもの、拍手したとて、どうして音がするものか、かさりとも音がしないじゃないか、予は可笑くてたまらなかったが、先生はなかなか本気でいるので放笑する訳にもゆかず、ようやく口を掩うてこらえたのであった。
先生が物に興ずること、いつでもこんな調子である、二人の太夫の内一人はすこぶる美児であったといえば、先生はランプの影に遮られて見えなく、それは残念であったなどと大に笑った、とてもこれが半死の病人と思えようか、烈しく興味を感じてはほとんど病を忘れて了うのである、
かくのごとく些細なことの内に、先生の大詩人たる性格が躍如として顕われている、われ自ら深く興に入って製作これに従うという順序になっている、先生の文章歌俳が一見平凡なるごとくであってかえって常に人を動すの力があるというも全く以上のような理由に基づくのであろう、事実の上に興味を感じた訳でなく、筆の先に文字の巧を弄だところで、到底読者の感興を促し得るものでない。
正岡を宗とする人は、どうかその名を宗とせずにその実を宗として貰いたいものだ、歌俳以外文章以外のことは、よしそれが文学と密接の関係あることでも、大抵は冷淡に他人視しているものが多い、そういう人は少しくらい歌が出来俳句が出来ても、それは決して正岡宗の人ではない、前にもいうた通りで正岡の絵画に対する嗜好の強烈なことついに自分で書くまでになった一事でも知れる、正岡を宗とせる歌人俳人中にも、絵画に対し時間と銭とを惜まぬだけの嗜好を持って居る人が幾人あろうか、先生の趣味嗜好が多くの歌人俳人と何ほどその厚薄を異にして居ったか、はなはだしいのは歌人俳句に冷淡に俳人歌に冷淡な人さえあると聞くは情ないといわねばならぬ。そんな人は断じて正岡宗の人ではない。
人には誰にも数寄不数奇がある、正岡は一体画が最もすきであったのだ、正岡が好んだからとて人にも好めと強いるは無理だというかも知れぬ、しかし文学と美術との関係が少しでも解っていれば、歌や俳句は面白いが絵はあまり面白くないなどいうことのあるべきはずがない、絵画の嗜好を欠いているとすれば、歌や俳句も未だ解っていないことを自白すると同じである。先生の詩人たる所以を知り先生の作物の価値を知らんとするならば、まず先生の趣味嗜好を研究してみるが、最も根本的で、そして近道であろう。〔『馬酔木』明治三十七年五月五日〕
「病牀六尺」六月二日
余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。
この文については先生もやや得意であったらしかった、平生先生は自分に対し世間から称誉的の批評などがあっても、ついぞ悦ばれたようなことはなかった、ただこの文について当時真宗派の雑誌、『精神界』というのが大に先生の言に注意した賛同的の批評をされた時に、折柄訪問した予にその『精神界』のことを話され、半解の人間に盲目的の賛詞をいわるるくらいいやなことはないが、また『精神界』などのように充分にこちらの精神意義を解して居ての賛評は、知己を得たような心地で嘻しい云々、
これを話頭としてこの日は、その悟りということにつきすこぶる愉快な話をした、その時のこと今日充分には記憶して居ないが、大要こうであった。
予はまず、私は彼の先生の文について非常な興味を感じました、悟りということとは少し見当が違うかも知れませんが、自分にも多少の実験がありますので一層愉快に拝見しました、私は彼の文を読んで先生は実に大剛の士であると思ったのです、大槻磐渓の『近古史談』というのに、美濃の戦に敵大敗して、織田氏の士池田勝三郎、敵の一将を追うことはなはだ急なりしが竟に及ばずして還る、信長勝三にいう、曰く、今の逃将は必ず神子田長門である、およそ追兵のはなはだ急なる時に方っては、怯懦の士必ず反撃して死す、死せずして遠く遁る、大剛者にあらざればあたわず、既にしてはたして神子田であったと、あります、
平気で生きて居ると平気で逃るとは趣がやや同じであって、平気で生きている方が、よほど難事であるように思われます、敵に追われたとてその敵がもし自分より弱い奴でもあれば、更に遁るることが出来るまた充分に逃げおおせる見込があるとすれば、恐怖心に襲われないで、平気で逃げることも出来る訳であるが、死という奴に追って来られたばかりは、遁るる見込みが立たないから、どうしても恐れずに居られない訳である、その死という奴が一歩の背後にまでやって来ている際にも、一向その死ということを苦にせず、なお平気で吾したいことをなして生くるまで生きていることは、単に勇気ばかりでは出来ない、勇気以上の悟りがなければ出来ないのであろう、単に悟ったというばかりでもどうかしら、死ということを一向苦にせないだけの覚悟と精神修養とがなければ出来ないことかと思います、してみると神子田長門の剛勇は未だ悟りには遠い訳でありますが、信長も面白い観察をやるじゃありませんか予も一笑したのであるが。
先生もすこぶる話興に入って、そんなことがあったか、そりゃ面白い話だ、信長もうまいことをいうているなアちょっと悟ったところがある、さすがに英雄だ話せるなどいって笑われ、それから君の実験談というのはとあった、
さよう私の実験というは、犬に対する悟りで、私は児供の時分に、犬くらい恐しいものはなかったです、はは先生もそうでありましたか、外村へ使などにゆく犬の奴が意地悪く森の蔭などからいつでも出てくるもうそれが恐しくてたまらなかった、十五、六歳の頃までも犬を恐れました、それでいつの間にかこの犬に対する悟を開いたのです、犬が吠る彼れ始めは熱心でなく吠ている、その機先を掣して、こちらから突然襲撃するのです、何空手でもかまわないです、彼の咽喉部に向って突貫をやるです、この手断をやればどんな犬でも驚鳴敗走再び近寄っては来ません、この手断を覚てから犬に対する恐怖心全くなくなりました、さあこうなってくると時に犬を撃打して興味を弄ぶようになりました、
犬が吠る見ぬふりをして居て、成丈け犬の己れに近づくを待って突然反撃、杖で撃つか下駄で蹴るのです、たとい殺さぬまででも吠られた腹いせがすぐ出来てすこぶる愉快なものであります、それが今一歩進できては、犬の吠えるなどを気にすることが馬鹿らしくなってきたのです、犬が何ほど吠ても人に噛みつくものでない、よし噛みついたところで何でもないということになって、その後はいくら犬が吠えてきても平気で跡も見ないで歩くようになりました、犬が飛びつくかと思うように跡から吠えてきても、一向平気でそれを苦にもせずに歩き得る人はちょっと少くないでしょう私はこれも一つの悟りかと思います、先生が死に追われて平気で生きているのと、私が犬に吠えられながら平気で歩いてるのと、いささか不倫な比較でありますが、趣きがちょっと似ているじゃありますまいか、
予の言の終るを待って先生は、
ナポレオンの兵法は、敵国が未だ兵力を集中せない即戦闘準備の整ない虚に乗じて、急馳電撃これを潰乱せしめるのである、ネルソンの兵法はそうでない、敵をなるたけ手近に引寄せておいて掩撃殺闘敵を粉韲するにあるのだ、君の犬に対する手段は、始めはナポレオンの兵法で後にネルソンの兵法に進んだのだ、どちらかといえば、ナポレオンは未だ敵を恐れているが、ネルソンはまるで敵を呑んでいる、君の犬に対する悟非常に面白い、孫子の兵法は戦わずして敵を屈するを最上の策としてある、君の悟りは大勢を観取して敵を相手にせぬところまで進んだのだ面白い、ナポレオン、ネルソン以上だアハハハハハ、戦争は知の至らざる結果である、藤原の保昌が袴垂に追われて笛を吹いていたのも、君が犬に吠られて平気で歩いていたのも全く同意義である、禅宗の悟りというのは少しそれとは違うのであろう、神子田や保昌などの行為は共に知勇の範囲を脱しないのだ、真の悟りというは知勇以上でなければならぬ、事の大小はとにかく、何事も悟るところがあってなすことは興味があって面白い、先から先と話のつくる期を知らずという有様で実に愉快であった。
〔『馬酔木』明治三十七年七月十五日〕
『竹の里人選歌』に対して、『ほととぎす』や『帝国文学』の批評中に、子規子の標準も年とともに進歩したのであろうに前年の選歌をそのまま輯て本にされては、かえって子規子も迷惑じゃあるまいか、とか、そんなことをしては子規子に叱かられはせまいか、などというような詞が見えるが、予が生前に子規子から聞いた話などに比べて考えてみると、そんなことをいうは、あまり穿ち過ぎた考え過しでいわば余計な心配というものじゃあるまいかと思う、全体『竹の里人選歌』というは、題詞にも断ってある通り、歌壇においての子規子の事業の半面を世に伝うるが同書発刊の目的である、そうでない、新聞によって伝ってはいるけれど、新聞では散逸するから版本にして後に遺そうというのが目的である、
なるほど半以上の辺には随分拙ない作品も雑っている、しかしながら佳作もまた決して少くはない、世の中にいかなる事業でも、第一期の成績を二期もしくは三期の程度から顧みてみれば、意に充たないところの出てくるは、普通のことで当前の理屈である、どんな偉人の事業でも決して免るることの出来ないものであろう、独り子規子の事業に、それがあることを怪むに及ばぬことじゃないか、世間普通のことをありのままに後世に伝えたとて何にも子規子が迷惑に思う訳はない、吾々の考ではなまじ手をつけて余計なことをするよりは、ありのままを伝て世人の判断を自由にするがかえって子規子に忠なる所以、文壇に忠なる所以であると信ずるのである。いわんや、第三回の募集の時にすら先生は既に左のごとくに云うているのである、
前略、古来小区域に跼蹐して陳套を脱するあたわざりし桜花がいかに新鮮の空気に触れて絢爛の美を現したるかは連日掲載の短歌を見し人の熟知するところなるべし。かつその語法句法の工夫は一段の巧を加え文字の斡旋はよくいいがたき新意匠を最も容易に言い得るに至れり。特にその中の傑作と称すべきもの幾首は優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る。以下略
『帝国文学』の記者はしばらく置く、わが虚子君はなおこれらの文章をも子規子のために抹却するをよしと思わるるであろうか、「優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る」と子規子がいうても新聞の散逸に任しておいたならば、どうして不朽に垂るることが出来ようか、虚子君が子規子の精神を推測する資格がありとすれば、予といえども幾分その資格があるはずだ、予は一夜夢に先生に見えてこのことを問うた、先生はいう、虚子が何をいう、余計な手入などせぬがかえって嘻しいのだ。
予は自ら慰めてこんなことをいうものの、子規子没後は虚子、碧梧桐と歌われているその虚子君の口から、子規子が迷惑なるべくやに思わるといわるることを予ははなはだ口惜しく思うのである、親友に敬意を欠くの恐れがあるからあまり理屈はいうまい、ただ生前先生から聞いた二、三の話を紹介して、世人の判断に任せておく。ある日話のついでに、
先生私は二、三年前に作った歌は皆反古にしてしまおうかと思います、実に自分ながらいやになって遺しておくのが気になりますからというと、
いやそうでないやはり遺しておく方がよい、僕などはことごとく記して取ってある、どんな人でも始めから上手ということはない、段々と進歩してくるのが当前だ、古いのを出して見ると自分にも非常に変ってきたことが判って面白い、また人に見せるようなことがあっても決してこれが恥になるものでない、初期のものであるもの拙なさを怪しむことはない、それはまた自選などして公にする場合はもちろん別であるけれど、自然に自分の初期の作物が後世に伝ったとて少しも苦にすることはない、芭蕉の句などには見れば駄句が多い、佳句といったら二百句はあるまい、しかし芭蕉の重みがその駄句のために減ずる訳でない、かえって多方面に大きいところが見える、『金槐集』などでもそうである、佳作といったらば二十首か三十首恐くは三十首を越えまい、それでも右大臣は勝れた歌人というに妨げないのだ、初めの内の作物が後に伝わるを恥辱を遺すように思うは狭い考である、
それからまた別の時であるがこんな話も聞いた。
杜子美と云えば云うまでもなく、盛唐一、二の大詩人であるから、その詩集は金玉の佳什で埋っているかのように思う人もあろうが、その実駄作も随分あるというは苦労人間の定説であるとの話だ、それで杜子美ともあるものが、どうしてそんな駄作を書いておいたかとの疑いもあるけれど、杜子美先生一向平気で出来たまま書いておいたのが、伝った訳で、一方より見るとそれがかえって杜子美の大きいところであるとのことだ、駄作の混じているために、杜子美の詩集の価値が少しも減じないのみか、かえってそれがために杜子美の杜子美たる所以が顕われて居るというは妙でないか、宋詩人(名を忘れた)に非常な杜子美崇拝家があって、杜子美の長所を極力学んだ、その詩集を見るとほとんど杜子美に迫っている、それで子美の好いところばかりを学んだのであるから、かえって杜子美集のごとき駄作が一首もない、さあそんならこの人の詩集は子美詩集に勝っているかというに、とてもそんな訳にはゆかぬ、よいところばかりを学んだのだから、疵もないかわりに極めて狭い、子美集のごとく変化がなく、多方面でなく奥がなく従て重みがないという話だ、それであるから歌の選などをするにはなるたけは趣味多方面に渡らねばならぬ。
これらの談話を一々至言と感じた予は四、五年を経過した今日になってもなお明に記臆しているのである、『竹の里人選歌』なども、先生存生中に自ら選び直さるるならばとにかく、先生歿後において吾々が漫に取捨をなすごときはもってのほかであると信じ、またこれが万々先生に背くのでないと固く信じているのである。
もう一つ言い添ておきたいのは、当時の先生の病体についてである、明治三十三年の夏から歌の会、俳句の会も出来なくなった、三十四年の春になっては寝返りも出来なく顔を自分で拭くことも出来なかった、体を少しでも動すたびにウンイウンイと呻めきの声を漏らされた、この時分にどんな風にして歌を選ばれたか、
先生は頭を枕にぴったりと就けて横になっていられる、母堂や令妹が枕許に坐していて、投稿の紙を一枚一枚先生の顔の前へ出す、先生はねながら見て居って筆を右の手に持ち抜きの歌に点をつけるのである、もちろん抜いた歌は令妹が写すのだ、一枚見ては呻き二枚見ては呻き、筆を措て中途に止めてしまうことも幾度あるか知れぬ、読者諸君、『竹の里人選歌』の三分の一というものは以上のごとき状況によって選ばれたものである、先生なお長らえておられたらば、言うまでもなく標準は進歩したであろう、しかしながらかの選歌は先生の手の動くまでやった事業であるから致方がないのである。〔『馬酔木』明治三十七年八月二十五日〕 | 底本:「子規選集 第十二巻 子規の思い出」増進会出版社
2002(平成14)年11月5日初版第1刷発行
底本の親本:「子規全集 別卷二 回想の子規一」講談社
1975(昭和50)年9月18日
初出:竹乃里人「馬醉木 第六號」根岸短歌会
1903(明治36)年11月13日
竹乃里人「馬醉木 第八號」根岸短歌会
1904(明治37)年2月2日
竹の里人「馬醉木 第十一號」根岸短歌会
1904(明治37)年5月5日
竹乃里人「馬醉木 第十二號」根岸短歌会
1904(明治37)年7月15日
竹の里人「馬醉木 第十三號」根岸短歌会
1904(明治37)年8月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「漫《みだ》り」と「漫《みだり》」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「同しで」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
※初出時の署名は「左千夫」です。
※初出時の表題は「竹乃里人」と「竹の里人」が混在しています。
入力:高瀬竜一
校正:hitsuji
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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同人が各自、種々なる方面より見たる故先生をあらはさむことにつとむ
考へて見ると實に昔が戀しい、明治三十三年の一月然かも二日の日から往き始めた予は、其以前の事は勿論知らぬのであるが、予が往き始めた頃はまだ頗る元氣があつたもので、食物は菓物を尤も好まれたは人も知つてゐるが、甘い物なら何でも好きといふ調子で、壯健の人をも驚かす位喰ふた、御馳走の事といつたら話をしても悦んだ程で、腰は立なくとも左の片肘を突いて體をそばだてゝゐながら、物を書く話をする、余所目にも左程苦痛がある樣には見えなかつた。
物はいくらでもくふ話はいくらでもする、予の如き暢氣な輩は夜の十二時一時頃まで話をすることは敢て珍しくはなかつた、或夜などは門の扉が何か音がするなと思つたら翌日の新聞を配達して來たといふ譚で家へ歸つたら三時であつた、こんな鹽梅であるから實に愉快でたまらなかつた、予の如きは往く時から既に先生は千古の偉人だと信仰して往つたのであるから、其愉快といふものは實に話に出來ぬ位、其人に接し其話を聞き、御互に歌を作つては、しまひに批評して呉れるので、一回毎に自分は高みへ引揚げられる樣な心持であつた。
固より趣味の程度が違つてゐるから、自分のいふ所多くは先生の考と一致しない、先生のいふ所又一寸分らぬことが少くない、それで質問される、質問する自分の非なることが直ぐ分る時と分らぬ時がある、分らぬ時は自ら衝突する、自分にも負惜みがあるから、右へ逃げ左に逃げ種々にもがきながらも、隨分烈しき抗辨をする、こうなると先生の頭はいよ〳〵さえてくる、益々鋭利になる、相手を屈服させなければ止まぬといふ勢で、鐵でも石でも悉く斷ち割るべきケンマク、そこまでくると降伏し樣にも降伏もさせない、骨にシミル樣な痛罵を交じへられる、こんな時には畏しく悲しくなることがある、先生は一面に慥に冷酷な天性を持つてゐらるゝなどゝ感ずるのは如斯塲合にあるのであツた。
情的談話の時の先生はそれは又暖かいもので、些末の事にまで氣をつかひつゝ、内の人達にも悉く注意を欠かない、一語一語彼の緩かな長めな顏に笑を交ぜ、好で滑稽を弄するなど、風ふき花ちるの趣きがある、それで又決して談話に飽かない、それがサア議論となると前いふ通り、情實なく謙遜なく主客なく長幼なく尊卑なく先輩もなければ後輩もない、老人をつかまへても遠慮なく攻めつける、書生をつかまへても顏赤くして論ずるのである、只々理想あるのみ自信あるのみ、少しも氣取りげなく毫末も先輩を以て居るといふ風はない、これが狹隘にも見える所で又高い所であるらしい、それであるから多少氣取けのあるやつや、いくらか優遇しなければ面白がらぬ樣なやつは、一旦來ても直ぐ放れてしまつたといふ譚である。
うぬぼれといふ奴がなければ、酷でも何でもないのであるが、自分がよいと思つた歌や、これ位なら取つてくれるだらうなどゝ思つた歌などを、少しも取つてくれぬと、どうもそれが先生が酷な樣に感ずる、何所迄もうぬぼれのぬけぬ人間といふやつしようのないもので、吾自らがそれであつたのである、所が先生の方ではなか〳〵酷どころではない、誰のも出した彼のも出した、今度は某のを是非出してやりたいが、偖其歌はどうも好くない困つたナア、一層思切て出してやらうかしら、しかし是れではしようがないが、嗚呼困つたなと人に話すことも屡々あつたのである、
毎月一回ヅヽ先生の宅で歌會のある外に、何とか、かとか會もある一人々々でもゆく、歌もつくる評論もきく、といふ風に觸接すればするほど、先生はえらいといふことを感じ、趣味標準は常に吾々よりも高く、且つ始終進歩しつゝある樣に感ずるもので、吾も人も自と歌會に往くのが非常に張合があつて愉快である、大に排斥せられて不平であつたものも、非常に攻撃せられて心底に不快を抱いた樣な事も、二十日と三十日たつ中に、いつしか自分の非なる點が悟られてくる、先生はえらいといふ感念が益深くなる、
此の如くなつてくると、先生の選先生の批評が非常なる勢力を以て、吾々の喜憂を支配するのである、毎月の歌會で先生が批評してくれる、或は先生の選にあたる、どんなにそれが嬉しかつたか、先生は容易にこれは面白いなどゝはいはぬ、故に適に先生より是れは面白いの一語が出ると、それが馬鹿に嬉しかつたものである、
「日本」新聞で屡歌を募集する、其時の吾々の意氣組みと云つたら、それは盛なものであつた、その募集の歌を詠まむ爲に幾度か旅行を企てた、愈及第して新聞へ出ると一晩位は寢られない位嬉しかつた、骨も折れたが張合もあり樂みあり實に愉快な年であつたは三十三年である、吾派同人は新進の氣運を開いて一大進歩を遂げたのも實に此年の夏より秋へかけてゞあると思ふ、(左千夫)
明治36年7月『馬醉木』 | 底本:「左千夫全集 第五卷」岩波書店
1977(昭和52)年4月11日発行
底本の親本:「馬醉木 第二號」根岸短歌会
1903(明治36)年7月5日
初出:「馬醉木 第二號」根岸短歌会
1903(明治36)年7月5日
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:H.YAM
校正:高瀬竜一
2013年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051305",
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"初出": "「馬醉木 第二號」根岸短歌会、1903(明治36)年7月5日",
"分類番号": "NDC 911 914",
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一
茶の湯の趣味を、真に共に楽むべき友人が、只の一人でもよいからほしい、絵を楽む人歌を楽む人俳句を楽む人、其他種々なことを楽む人、世間にいくらでもあるが、真に茶を楽む人は実に少ない。絵や歌や俳句やで友を得るは何でもないが、茶の同趣味者に至っては遂に一人を得るに六つかしい。
勿論世間に茶の湯の宗匠というものはいくらもある。女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯というものは、貴族的のもので到底一般社会の遊事にはならぬというのと、一は茶事などというものは、頗る変哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的のものであるとなせる等である、固より茶の湯の真趣味を寸分だも知らざる社会の臆断である、そうかと思えば世界大博覧会などのある時には、日本の古代美術品と云えば真先に茶器が持出される、巴理博覧会シカゴ博覧会にも皆茶室まで出品されて居る、其外内地で何か美術に関する展覧会などがあれば、某公某伯の蔵品必ず茶器が其一部を占めている位で、東洋の美術国という日本の古美術品も其実三分の一は茶器である、
然るにも係らず、徒に茶器を骨董的に弄ぶものはあっても、真に茶を楽む人の少ないは実に残念でならぬ、上流社会腐敗の声は、何時になったらば消えるであろうか、金銭を弄び下等の淫楽に耽るの外、被服頭髪の流行等極めて浅薄なる娯楽に目も又足らざるの観あるは、誠に嘆しき次第である、それに換うるにこれを以てせば、いかばかり家庭の品位を高め趣味的の娯楽が深からんに、躁狂卑俗蕩々として風を為せる、徒に華族と称し大臣と称す、彼等の趣味程度を見よ、焉ぞ華族たり大臣たる品位あらむだ。
従令文学などの嗜みなしとするも、茶の湯の如きは深くも浅くも楽むことが出来るのである、最も生活と近接して居って最も家族的であって、然も清閑高雅、所有方面の精神的修養に資せられるべきは言うを待たない、西洋などから頻りと新らしき家庭遊技などを輸入するものは、国民品性の特色を備えた、在来の此茶の湯の遊技を閑却して居るは如何なる訳であろうか、余りに複雑で余りに理想が高過ぎるにも依るであろうけれど、今日上流社会の最も通弊とする所は、才智の欠乏にあらず学問の欠乏にあらず、人にも家にも品位というものが乏しく、金の力を以て何人にも買い得らるる最も浅薄に最も下品なる娯楽に満足しつつあるにあるのであろう、
今は種々な問題に対して、口の先筆の先の研究は盛に行われつつあるが、実行如何と顧ると殆ど空である、今日の上流社会に茶の湯の真趣味を教ゆるが如きは、彼等の腐敗を防除するには最もよき方便であろうと思うに、例の実行そっちのけの研究者は更にお気がつかぬらしい。
彼の徳川時代の初期に於て、戦乱漸く跡を絶ち、武人一斉に太平に酔えるの時に当り、彼等が割合に内部の腐敗を伝えなかったのは、思うに将軍家を始めとして大名小名は勿論苟も相当の身分あるもの挙げて、茶事に遊ぶの風を奨励されたのが、大なる原因をなしたに相違ない、勿論それに伴う弊害もあったろうけれど、所謂侍なるものが品位を平時に保つを得た、有力な方便たりしは疑を要せぬ、
今の社会問題攻究者等が、外国人に誇るべき日本の美術品と云えば、直ぐ茶器を持出すの事実あるを知りながら、茶の湯なるものが、如何に社会の風教問題に関係深きかを考えても見ないは甚だ解し難き次第じゃないか、乍併多くは無趣味の家庭に生長せる彼等は、大抵真個の茶趣味の如何などは固より知らないのであろう、従て社会問題の研究材料として茶の湯を見ることが出来なかったに違いない。
多くは一向其趣味を解せぬ所から、能くも考えずに頭から茶の湯などいうことは、堂々たる男子のすることでないかの如くに考えているらしい、歴史上の話や、茶器の類などを見せられても、今日の社会問題と関係なきものの如くに思って居る、欧米あたりから持ってきたものであれば、頗る下等な理窟臭い事でも、直ぐにどうのこうのと騒ぐのである、修養を待ず直ぐ出来るような事は何によらず浅薄なものに極って居る、吾邦唯一の美習として世界に誇るべき(恐くは世界中何れの国民にも吾邦の茶の湯の如き立派な遊技は有まい)立派な遊技社交的にも家庭的にも随意に応用の出来る此茶の湯というものが、世の識者間に閑却されて居るというは抑も如何なる訳か、
今世の有識社会は、学問智識に乏しからず、何でも能く解って居るので、口巧者に趣味とか詩とか、或は理想といい美術的といい、美術生活などと、それは見事に物を言うけれど、其平生の趣味好尚如何と見ると、実に浅薄下劣寧ろ気の毒な位である、純詩的な純趣味的な、茶の湯が今日行われないは、穴勝無理でない、当世人士の趣味と、茶の湯の趣味とは、其程度の相違が余りに甚しいからである。
今日の上流社会の邸宅を見よ、何処にも茶室の一つ位は拵らえてある、茶の湯は今日に行われて居ると人は云うであろう、それが大きな間違である、それが茶の湯というものが、世に閑却される所以であろう、いくら茶室があろうが、茶器があろうが、抹茶を立てようが、そんなことで茶趣味の一分たりとも解るものでない、精神的に茶の湯の趣味というものを解していない族に、茶の端くれなりと出来るものじゃない、客観的にも主観的にも、一に曰く清潔二に曰く整理三に曰く調和四に曰く趣味此四つを経とし食事を緯とせる詩的動作、即茶の湯である、一家の斉整家庭の調和など殆ど眼中になく、さアと云えば待合曰く何館何ホテル曰く妾宅別荘、さもなければ徒に名利の念に耽って居る輩金さえあれば誰にも出来る下劣な娯楽、これを事とする連中に茶の湯の一分たりと解るべき筈がない、茶の湯などの面白味が少しでも解る位ならば、そんな下等な馬鹿らしい遊びが出来るものでない、
故福沢翁は金銭本能主義の人であったそうだが、福翁百話の中には、人間は何か一つ位道楽がなくてはいけない、碁でも将棋でもよい、なんにも芸も道楽もない人間位始末におえないものはないというような事を云うて居る、さすがは福沢翁である、一面の観察は徹底して居る、堕落的下劣な淫楽を事とするは、趣味のない奴に極って居るのだ。
社会問題攻究論者などは、口を開けば官吏の腐敗、上流の腐敗、紳士紳商の下劣、男女学生の堕落を痛罵するも、是が救済策に就ては未だ嘗って要領を得た提案がない、彼等一般が腐敗しつつあるは事実である、併しそれらを救済せんとならば、彼等がどうして相率て堕落に赴くかということを考えねばならぬ、
人間は如何な程度のものと雖も、娯楽を要求するのである、乳房にすがる赤児から死に瀕せる老人に至るまで、それぞれ相当の娯楽を要求する、殆ど肉体が養分を要求するのと同じである、只資格ある社会の人は其娯楽に理想を持って居らねばならぬ、乍併其理想的娯楽即品位ある娯楽は、修養を持って始めて得るべきものであって、単に金銭の力のみでは到底得ることは出来ぬ、
予を以て見れば、現時上流社会堕落の原因は、
幸福娯楽、人間総ての要求は、力殊に金銭の力を以て満足せらるるものと、浅薄な誤信普及の結果である。澄むの難く濁るの易き、水の如き人間の思潮は、忽ちの内に、濁流の支配する処となった、所謂現時の上流社会なるものが、精神的趣味の修養を欠ける結果、品位ある娯楽を解するの頭脳がないのである、彼等が蕩々相率ひて、浅薄下劣な娯楽に耽るに至れるは勢の自然である、堕落するが当然であると云わねばならぬ、憐むべし彼等と雖も、生れながらの下劣性あるにあらず、彼等の誤信と怠慢とは、今日の不幸を招いだので時に自ら恥ずる感あるべきも、始め神の恵みを疎にして、下劣界に迷入せる彼等は、品性ある趣味に対すれば、却て苦痛を感ずる迄に堕落し、今に於て悔ゆるも如何とも致し難き感あるに相違ない、さりとて娯楽なしには生存し難き人間である以上、それを知りつつもお手の物なる金銭の力により、下劣浅薄な情欲を満たして居るのであろう、仏者の所謂地獄に落ちたとは彼等の如き境涯を指すものであろう、真に憐むべし、彼等は趣味的形式品格的形式を具備しながら其娯楽を味うの資格がないのである、されば今彼等を救済せようとならば、趣味の光明と修養の価値とを教ゆるのが唯一の方便である、品位ある娯楽を茶の湯に限ると云うのではない、音楽美術勿論よい、盆栽園芸大によい、歌俳文章大によい、碁でも将棋でもよい、修養を持って始めて味い得べき芸術ならば何でもよい、只其名目を弄んで精神を味ねば駄目と云う迄である、予が殊に茶の湯を挙たのは、茶の湯が善美な歴史を持って居るのと、生活に直接で家庭的で、人間に尤も普遍的な食事を基礎として居る点が、最も社会と調和し易いからである、他の品位ある多くの芸術は天才的個人的に偏して、衆と共にするということが頗る困難であるから何人にも楽むということが出来ない処がある、茶の湯は奥に高遠の理想を持って居れど、初期に常識的の部分が多く、一の統率者あれば何人も其娯楽を共にすることが出来るからである。
二
欧洲人の風俗習慣に就て、段々話を聞いて見ると、必ずしも敬服に価すべき良風許りでもない様なるが、さすがに優等民族じゃと羨しく思わるる点も多い、中にも吾々の殊に感嘆に堪えないのは、彼等が多大の興味を以て日常の食事を楽む点である、それが単に個人の嗜好と云うでなく、殆ど社会一般の風習であって、其習慣が又実に偉大なる勢力を以て、殆ど神の命令かの如くに行われつつある点である。予は未だ欧洲人に知人もなく、従て彼等の食卓に列した経験もないので其真相を知り居らぬが、種々な方面より知り得たる処では、吾国の茶の湯と其精神酷だ相似たるを発見するのである、それはさもあるべき事であろう、何ぜなれば同じ食事のことであるから其興味的研究の進歩が、遂に或方向に類似の成績を見るに至るは当然の理であるからである、日本の茶の湯はどこまでも賓主的であるが、欧州人のは賓主的にも家庭的にも行はれて甚だ自然である、日本の茶の湯は特別的であるが欧洲人のは日常の風習である、吾々の特に敬服感嘆に堪えないのは其日常の点と家庭的な点にあるのである、
人間の嗜好多端限りなき中にも、食事の趣味程普遍的なものはない、大人も小児も賢者も智者も苟も病気ならざる限り如何なる人と雖も、其興味を頒つことが出来る、此最も普遍的な食事を経とし、それに附加せる各趣味を緯とし、依て以て家庭を統一し社会に和合の道を計るは、真に神の命令と云ってもよいのであろう。殊に欧風の晩食を重ずることは深き意味を有するらしい、日中は男女老幼各其為すべき事を為し、一日の終結として用意ある晩食が行われる、それぞれ身分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め、神に感謝の礼を捧げて食事に就くは、如何に趣味深き事であろう、礼儀と興味と相和して乱れないとせば、聖人の教と雖も是には過ぎない、それが一般の風習と聞いては予は其美風に感嘆せざるを得ない、始めて此の如き美風を起せる人は如何なる大聖なりしか、勿論民族の良質に基くもの多からんも、又必ずや先覚の人あって此美風の養成普及に勉めたに相違あるまい、
栽培宜しきを得れば必ず菓園に美菓を得る如く、以上の如き美風に依て養われたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないように思われる、欧洲の今日あるはと云わば、人は必ず政体を云々し宗教を云々し学問を云々す、然れども思うに是根本問題にはあらず、家庭的美風は、人というものの肉体上精神上、実に根本問題を解決するの力がある、其美風を有せる歌人にあっては、此研究や自覚は遠き昔に於て結了せられたであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面倒なる風習事々しき形式と考え、是を軽視するの趣あれど、そは思わざるも甚しと云わねばならぬ、斯く式広を確立したればこそ、力ある美風も成立って、家庭を統一し進んで社会を支配することも出来たのである、娯楽本能主義で礼儀の精神がなければ必ず散漫に流れて日常の作法とはならぬ、是に反し礼儀を本能とした娯楽の趣味が少ければ、必ず人を飽かしめて永続せぬ、礼儀と娯楽と調和宜しきを得る処に美風の性命が存するのである、此精神が茶の湯と殆ど一致して居るのであるが、彼欧人等がそれを日常事として居るは何とも羨しい次第である、彼等が自ら優等民族と称するも決して誇言ではない、
兎角精神偏重の風ある東洋人は、古来食事の問題などは甚だ軽視して居った、食事と家庭問題食事と社会問題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは、士君子の恥ずる処であった、(勿論茶の湯の事は別であれど)恐らくは今日でも大問題になって居るまい、世人は食事の問題と云えば衛生上の事にあらざれば、美食の娯楽を満足せしむる目的に過ぎないように思うて居る、近頃は食事の問題も頗る旺であって、家庭料理と云い食道楽と云い、随分流行を極めているらしいが、予は決してそれを悪いとは云わねど、此の如き事に熱心なる人々に、今一歩考を進められたき希望に堪えないのである、
単に美食の娯楽を満足せしむることに傾いては、家庭問題社会問題との交渉がない訳になる、勿論弦斎などの食道楽というふうには衛生問題もあり経済問題もあるらしいが、予の希望は、今少しく高き精神を以て研究せられたく思うのである、美食は美食其物に趣味も利益もあるは勿議であれど、食事の問題が只美食の娯楽を本能とするならば、到底浅薄な問題で士君子の議すべき問題ではない。
予の屡繰返す如く、欧人の晩食の風習や日本の茶の湯は美食が唯一の目的ではないは誰れも承知して居よう、人間動作の趣味や案内の装飾器物の配列や、応対話談の興味や、薫香の趣味声音の趣味相俟って、品格ある娯楽の間自然的に偉大な感化を得るのであろう加うるに信仰の力と習慣の力と之を助けて居るから、益々人を養成するの機関となるのである、
欧風の晩食と日本の茶の湯と、全然同じでないは云うまでもないが、頗る類似の点が多いと聞いて、仮りに対照して云うたまでなれど、彼の特美は家庭的日常時な点にある、茶の湯の特長は純詩的な点にある、趣味の点より見れば茶の湯は実に高いものである、家庭問題社会問題より見れば欧人の晩食人事は実に美風である、今日の茶の湯というもの固より其弊に堪えないは勿論なれど何事にも必ず弊はあるもの、暫く其弊を言わずして可。一面には純詩的な茶の湯も勿論可なれど、又一面には欧風晩食の如く、日常の人事に茶の湯の精神を加味し、如何なる階級の人にも如何なる程度の人にも其興味と感化とを頒ちたいものである、
古への茶の湯は今日の如く、人事の特別なものではない、世人の思う如く苦度々々しきものではない、変手古なものではない、又軽薄極まる形式を主としたものではない、形の通りの道具がなければ出来ないというものでもない、利休は法あるも茶にあらず法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雑作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、台所以外食堂というも仰山なれど、特に会食の為に作れる食堂だけは、どうしても各戸に設ける風習を起したい、それさえ出来れば跡は訳もないことである、其装飾や設備やは各分に応じて作れば却て面白いのであろう、それは四畳半の真似などをしてはいかぬ、只何時他人を迎えても礼儀と趣味とを保ち得るだけでよい、此の如き風習一度立たば、些末の形式などは自然に出来てくる一貫せる理想に依て家庭を整へ家庭を楽むは所有人事の根柢であるというに何人も異存はあるまい、食事という天則的な人事を利用してそれに礼儀と興味との調和を得せしむるという事が家庭を整へ家庭を楽むに最も適切なる良法であることは是又何人も異存はあるまい、人或はそんなことをせなくとも、家庭を整え家庭を楽むことが出来ると云はば、予はそれに反対せぬ別に良法があればそれもよろしいからである、併し予は決して他に良法のあるべきを信じない。
三
予はこう思ったことがある、茶人は愚人だ、其証拠には素人にロクな著述がない、茶人の作った書物に殆ど見るべきものがない、殊に名のある茶人には著書というもの一冊もない、であるから茶人というものは愚人である、茶は面白いが茶人は駄目である、利休や宗旦は別であるが、外の茶人に物の解った人はない様じゃ、こう一筋に考えたものであったが、今思うとそれは予の考違であった、茶の湯は趣味の綜合から成立つ、活た詩的技芸であるから、其人を待って始めて、現わるるもので、記述も議論も出来ないのが当前である、茶の湯に用ゆる建築露路木石器具態度等総てそれ自身の総てが趣味である、配合調和変化等悉く趣味の活動である、趣味というものの解釈説明が出来ない様に茶の湯は決して説明の出来ぬものである、香をたくというても香のかおりが文字の上に顕われない様な訳である、若し記述して面白い様な茶であったら、それはつまらぬこじつけ理窟か、駄洒落に極って居る、天候の変化や朝夕の人の心にふさわしき器物の取なしや配合調和の間に新意をまじえ、古書を賞し古墨跡を味い、主客の対話起座の態度等一に快適を旨とするのである、目に偏せず、口に偏せず、耳に偏せず、濃淡宜しきを計り、集散度に適す、極めて複雑の趣味を綜合して、極めて淡泊な雅会に遊ぶが茶の湯の精神である、茶の湯は人に見せるの人に聴せるのという技芸ではなく、主人それ自身客それ自身が趣味の一部分となるのである、
何から何まで悉く趣味の感じで満たされて居るから、塵一つにも眼がとまる、一つ落着が悪くとも気になる、庭の石に土がついたまで捨てて置けないという、心の状態になるのである、趣味を感ずる神経が非常に過敏になる、従て一動一作にも趣味を感じ、庭の掃除は勿論、手鉢の水を汲み替うるにも強烈に清新を感ずるのである、客を迎えては談話の興を思い客去っては幽寂を新にする、秋の夜などになると興味に刺激せられて容易に寐ることが出来ない、故に茶趣味あるものに体屈ということはない、極めて細微の事柄にも趣味の刺激を受くるのであるから、内心当に活動して居る、漫然昼寝するなどということは、茶趣味の人に断じてないのである、茶の湯を単に静閑なる趣味と思うなどは、殆ど茶趣味に盲目なる人のことである、されば茶人には閑という事がなく、理窟を考えたり書物を見たり、空想に耽ったりする様な事は殆どない、それであるから著述などの出来る訳がない、物知りなどには到底なれないのが、茶人の本来である、されば著書などあるものであったらそれは必ず商買茶人俗茶人の素人おどしと見て差支ない、原来趣味多き人には著述などないが当前であるかも知れぬ、芭蕉蕪村などあれだけの人でも殆ど著述がない、書物など書いた人は、如何にも物の解った様に、うまいことをいうて居るが、其実趣味に疎いが常である、学者に物の解った人のないのも同じ訳である、太宰春台などの馬鹿加減は殆どお話にならんでないか。 | 底本:「日本の名随筆24 茶」作品社
1984(昭和59)年10月25日第1刷発行
1986(昭和61)年2月20日第3刷発行
底本の親本:「左千夫全集 第六巻」岩波書店
1977(昭和52)年5月
初出:「茶の湯の手帳」
1906(明治39)年
※「欧州」と「欧洲」の混在は底本通りです。
入力:よしだひとみ
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046341",
"作品名": "茶の湯の手帳",
"作品名読み": "ちゃのゆのてちょう",
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"初出": "「馬醉木」1906(明治39)年1月、3月、10月",
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雨が落ちたり日影がもれたり、降るとも降らぬとも定めのつかぬ、晩秋の空もようである。いつのまにか風は、ばったりなげて、人も気づかぬさまに、小雨は足のろく降りだした。
もうかれこれ四時過ぎ五時にもなるか、しずかにおだやかな忌森忌森のおちこち、遠くの人声、ものの音、世をへだてたるものの響きにもにて、かすかにもやの底に聞こえる。近くあからさまな男女の話し声や子どもの泣き騒ぐ声、のこぎりの音まき割る音など、すべてがいかにもまた、まのろくおぼろかな色をおんで聞こえる。
ゆったりとおちついたうちにも、村内戸々のけはいは、おのがじしものせわしきありさまに見える。あす二十二日がこの村の鎮守祭礼の日で、今夕はその宵祭りであるからであろう。
源四郎の家では、屋敷の掃除もあらかたかたづいたらしい。長屋門のまえにある、せんだんの木に二、三羽のシギが実を食いこぼしつつ、しきりにキイキイと鳴く。その声はもの考えする人の神経をなやましそうな声であった。ほうきめのついてる根元の砂地に、やや黄ばんだせんだんの実が散り乱してある。どういうものかこの光景は見る人にあわれな思いをおこさせた。
源四郎はなお屋敷のすみずみの木立ちのなか垣根のもとから、朽ち葉やほこりのたぐいをはきだしては、物置きのまえなる栗の木のもとでそれを燃やしている。雨になったのでいっそうせいてやってるようすである。もとより湿けのある朽ち葉に、小雨ながら降ってるのだから、火足はすこしも立たない。ただプツプツとけむるばかり、煙は茅屋のまわりにただようている。源四郎はそれにもかかわらず、どしどしといやがうえにごみをのせかける。火はときどき思いだしたように、パチパチと燃えてはすぐ消えてしまう。朽ち葉のくさみを持った煙はいよいよ立ち迷うのである。源四郎は二十二、三の色黒い丸顔な男だ。豆しぼりの手ぬぐいをほおかむりにして、歌もうたわずただ黙もく掃除している。
源四郎のしゅうとごは六十以上と見える。背高く顔の長いやさしそうな老人だ。いま奥の間の、一枚開いた障子のこかげに、机の上にそろばんをおいて、帳面を見ながら、パチパチと玉をはじいてる。お台屋のかたでは、源四郎の細君お政とまま母と若いやとい女との三人が、なにかまじめに話をしながら、まま母ははすの皮をはぎ、お政と女はつと豆腐をこしらえてる。むろんあしたのごちそうを作ってるのである。
シギもいつしかせんだんを去って、庭先の栗の木、柿の木に音のするほど雨も降りだした。にわかにうす暗くなって、日も暮れそうである。めがねをはずして机を立った老人は、
「源四郎……源四郎……雨がひどくなったじゃねいか、もうやめにしたらどうだい」
「ハッ」
「源四郎や」
「ハッ」
源四郎は、ただハッハッと返事をしながら、なおせっせと掃除をやってる。老人は表座敷のいろりばたに正座して、たばこをくゆらしながら門のほうを見てる。おもざし父ににて、赤味がちなお政は、かいがいしきたすきすがたにでてきて、いろりに火を移す。鉄びんを自在にかける。
「どうもほん降りになりましたね、おとっさん」
「うむ、せっかくの祭りも雨だない。えいやい休みだから」
お政はそこをおりていったが、裏のほうからすぐ長女の七つになるのを連れてきた。
「おじいさん、どうぞ柿をむいてやってください。もう暗くなったからね、おじいさんのそばにいるのだよ」
「おおまあや、この降るのにおまえどこに遊んでおった。さあおじいさんとこへきな。あしたあ祭りだからな、みんなのじゃまになっちゃいけねい。いまに甘酒もできるぞ。うむ、柿のほうがえいか、よしよし」
松女はおじいの膝にのって柿を食ってる。源四郎もようやく掃除をやめたらしい。くまでやほうきやくわなどを長屋のすみへかたづけている。そとは雨の降るのも見えぬほど暮れてきた。そのほの暗い長屋門をくぐって、見知らぬ男がふたりいそいそとはいってくる。羽織はもめんらしいが縞地か無地かもわからぬ。ももひきぞうりばきのいでたち、ふたりは二十五、六ぐらい、によったふうである。軒に近づくとふたりはひとしくかぶりものをとる。
「ごめんください」
「ごめんください」
「ハイ」
老人は松女を膝からおろしてちょっとむきなおる。はいったふたりはおなじように老人に会釈した。老人はたって敷き物をふたりにすすめる。ふたりのものは腰もかけないで、おまえが口上を申してくれ、いやおまえがと、小声に押し合ってる。老人はもとより気軽な人だから、
「おまえさんがたはどちらからでございますか」
「ハイ」
「ハイ」
ようやくのこと、すこし年上らしいほうの男が、顔のようすをつくろうて、あらたまった口調に口上をのべる。
「わたくしどもは、その大富村からでましてございますが、ご親類の善右衛門さんのおばさんが、けさそのなくなりましたものでございますから、告げ人にでましたしだいでございます。ハイ一統からよろしくとのことで……」
「あ、さようでございましたか。それはそれは遠方のところをご苦労さまで……それはあのなくなったは気違いのことでしょうな」
「さようでございます。善右衛門さんからよろしくと申しましてございます」
「まことにはやご苦労さまに存じます。あの気違いも長ながとご迷惑をかけましたが、それでわたしも安心いたしました。まずどうぞおかけくださいまし」
この老人は応対のうまいというのが評判の人であったから、ふたりの使いがこの人にむかっての告げ人の口上はすこぶる大役であった。ふたりは道すがら話もせずに、腹のうちでねりにねってきたのである。どうやら見苦しくもなくあいさつがすんだので、ふたりは重荷をおろしたようである。気色のはりもゆるみ、腰のはりもゆるんで、たばこ入れに手がでる。ようやく腰をかけて時候の話もでる。
平生多弁の老人はかえって顔に不安沈鬱のくもりを宿し、あいさつもものういさまである。その気違いというはこの老人の前妻なのだ。長女お政が十二のときにまったくの精神病となったのである。いろいろ療養をつくしたが、いかんともしようがなく、いささかの理由をもって親里へ帰した。元来は帰すべきでないものを帰したのであるから、もと悪人ならぬ老人は長く良心の苦痛にせめられた。それのみならず気違いはその後、里に帰っても里にいず、こじきとなって近村をふれ歩いた。たちがたき因縁につながる老人は、それがためまたあきらめてもあきらめられぬ羞恥の苦痛をおいつつあったのである。このごろ老人もようやく忘れんとしつつありしをきょうは耳新しく、その狂婦もなくなったと告げられ、苦痛の記憶をことごとく胸先に呼びおこして、口にいうことのできないいやな心持ちに胸がとざされたのである。
その凶報はおだやかなりし老人の胸を攪乱したばかりでなく、宵祭りを祝うべき平和な家庭をもかきにごした。
大富からの告げ人と聞いたお政は手のものを投げだしてきた。懇切に使いの人の労を感謝したうえに、こまごまと死者のうえについての話を聞こうとする。老人はお政がでたをさいわいに奥へはいったままでてこない。まま母もそれを聞いてちょっとあいさつにでたぎり寄りつかない。源四郎は馬小屋にわらなどいれている。
ひとりお政はたとえ気違いでもこじきでも、正しき生みの母である。あたたかき乳房に取りすがって十二のときまで保育を受けた母である。心がけのよいかしこい女といわれているお政は、
「わたしはもうみえも外聞も考えませぬ。たとえあの気違いがどのようなふうをしていようと、気違いですものしかたがありません。どんなになっていても、わたしはただこの世に一日も長く生かしておきたいと思うばかりであります。あの気違いの子がと人さまに笑われても、気違いの子にちがいないのですから、よんどころありません」
とお政が、ことにふれての母に対する述懐はいつでもきまってるが、どうかすると、はじめは平気に笑いながら、気違いのうわさをいうてても、いつのまにか過敏に人のことばなどを気にかけ、涙を目に一ぱいにしたかとみるまに、抱いてたわが子を邪険にかきのけて、おいおい声を立てて泣きだすようなことがあるのである。思いやりのないだれかれは、お政もすこしへんちきだ、子どものふたりもある女が大声たてて泣くのはあたりまえではないなどという。心あるしんせつな人らは気違いになった母よりも、お政のほうがかえってかわいそうだと、とも涙にくれて同情を寄せてる。
お政は、きょう不意にその母がなくなったと聞かせられたのである。あしたは祭礼の日というので朝から家じゅう総がかりで内外の取りかたづけやらふるまいの用意にたてきってる際に、告げ人を受けたのである。お政はほとんど胸中が転倒している。まずなにごとよりもさきに、お政が胸に浮かぶのは、気違いの母がどんなふうにしてなくなったかという点である。
もしや野原か往来などで、行き倒れにでもなりやせまいか、人の知らぬまに死んでいたのではないかしら、それともすこしは早くようすがわかって家のものの世話を受けてなくなったのか、いろいろな想像が一時に胸にわきかえる。ひさしいあいだの気違いであるから、家の人たちとてきっと満足には世話もしてくれなかったろう。
とかくにこうひがんだ考えばかり思いだされ、顔はほてり、手足はふるえ、お政はややとりのぼせの気味で、使いのものに始終のことを問いつめるのである。告げ人というものにたいしてのあしらいかたには、通例の習慣がある。お政はそれらのことにも気がつかずに、たすきを手にして立ったまま話を聞いてる。使いのふたりがかわりがわりに話すところをまとめると、こうである。
「べつに病気というほどにも見えなかったけれど、この月はじまりのころから、たいへんおとなしくなって、家のもののいうことをよく聞きわけ、ほとんど外へでなかった。家のひとたちのあてがうものをこころよく食い飲みして、なんのこともなく昨夜まで過ごしてきたところ、けさは何時になっても起きないから、はじめて不審をおこし、いろいろたずねてみるとようすがわるい、きゅうに医者にも見せたがまにあわなく、そのうちまもなく息を引き取った。あなたにお知らせするまもなかったは残念ながら、まことにいい終わりでありました」
こう聞かせられて、お政はひととおりならずよろこんだ。見る見る顔色がおだやかになった。いつ何時どんなところで無残ななくなりようをすることやらと、つねづねそればかりを苦に病んでたのだから、まことにいい終わりようでありましたと告げられて非常によろこんだ。お政のそぶりはよく使いのふたりを動かした。
「それはほんとうのことでしょうね。それはほんとうでしょうね。わたしもそれを聞いて安心しました」
「人ひとりなくなったのを、けっこうというはずはないが、まあ、ああして終わりますれば、ハイ定命はいたしかたないとして、まずけっこうでござります、ハイ」
「まあ暗くなったこと。かってなことばかり申して、あかりもださずに、なんという無調法でしょう」
お政はきゅうにやとい女を呼んで灯明を命じ、自分は茶の用意にかかった。しとしとと雨は降る、雨落ちの音が、ぽちゃりぽちゃりと落ちはじめた。使いの人らは、二里の夜道を雨に降られては、と気づかうさまで、しきりに外をながめて、ささやいている。
老人はせきばらいする声が奥に聞こえるが、寝てしまったらしく、ついにでてこなかった。源四郎はへっついのまえに腰をおろして馬のものをにているらしい。祖父につき離された松女は祖母にまつわって祖母にしかられ、しくしくべそをかいて母の腰にまつわるのである。祖母はなにか気に入らぬことでもあるか、平生の手まめ口まめににず、夜道を遠く帰るべき告げ人にいっこうとんちゃくせぬのである。やとい女もさしずがなければ手出しのしようもない。ただうろついている。源四郎はもとより悪気のある男ではない。祖母の態度に不平があるでもなく、お政の心中を思いやる働きもない。
お政はただひとりで気をもんでるが、子どもには泣きつかれる、どうしてよいかわからぬ。やっと茶をだしたけれど、ひととおり酒食をさせねばならない告げ人を、まま母なる人がみょうによそよそしているのでどうすることもできない。使いの人も食事だけはやって帰りたいと思うても、このありさまにごうをにやし、雨が降るのに夜おそくなってはといいだして、いとまを告げるのである。
「一口さしあげないで、どうしてお帰し申すことができましょう。ご遠方のお帰りをまことに申しわけが……」
とお政は早や声をくもらして、四苦八苦に気もみする。夫にすこし客の相手をしていてくれと頼めば源四郎は「ウンウン」と返事はしても、立ちそうにもせぬ。お政は泣く子をかげでしかりつけ、背におうて膳立てをするのである。おちついてやるならばなんでもないことながら、心中惑乱しているお政の手には、ことがすこしも運ばない。
老人はなぜ寝てしまったか、源四郎はどう思ってるのか。使いの人らは帰るにも帰れず、ぼんやりたばこを吸うている。老人のせきする声と源四郎がときどきへっついに燃やす火の音のほか、声立てる人もない。かくていまこの一家は陰悪な空気にとざされているのである。
お政は長いあいだ苦に思っていた狂母が、きょう人なみに終わったと聞いて、一どは胸なでおろして安心したものの、さすがに忘れがたき母の死を感じては、心さびしくもあり悲しくもある。二十年あまりのあいだじゃまにされ、やっかいにされ、あらゆる醜状を世間にさらした生きがいなき不幸な母と思いつめると、ありし世の狂母の惨状やわが身の過去の悲痛やが、いちいち記憶から呼び起こされるのである。
手に用をせねばならぬお政は、わきたぎつ涙をぬぐうてもいられぬ。ひややかなまま母、思いやりのない夫、家の人びとのあまりにすげなきしぶりを気づいては、お政は心中惑乱してほとんど昏倒せんばかりに悲しい。ただ雨の夜道を遠く帰らねばならない使いの人らに、気を配るはりあいで、お政はわずかに自分を失わずにいるのである。
お政は夢の心地に心ばかりの酒食をととのえてふたりを饗した。つねはけっして人をそらさぬ人ながら、ただ「どうぞ」といったままほとんど座にたえないさまである。家人のようすにいくばくか不快を抱いた使いの人らも、お政の苦衷には同情したものか、こころよく飲食して早そうに立ち去った。
源四郎が、のろいからだとにぶい顔をだしたときには、使いの人らは庭まででてしまった。
お政はずいぶん神経過敏に感情的な女であるけれど、またそうとうに意志の力を持っている。たいていのことは胸のうちに処理して外に圭角をあらわさない美質を持っている。今夜はじつにこみいった感情が、せまい女の胸ににえくり返ったけれど、ともかくもじっと堪忍して、狂母の死を告げにきてくれた人たちに、それほどに礼儀を失わなかった。
しかしながら、波瀾を表面に見せないだけ、お政が内心の苦痛は容易なわけのものでなかった。告げ人を帰したお政は、いささか気もおちついたものの、おちついた思慮が働くと、さらに別種の波瀾が胸にわく。叫哭したくてたまらなかったときに叫哭しえないで、叫哭すべき時期を経過したいまは、かなしい思いよりは、なさけなく腹立たしさにのぼせてしまった。
「あんまりだ」
こう一言叫んだお政は、客の飲み残した徳利を右手にとって、ちゃわんを左手に、二はい飲み三ばい飲み、なお四はいをついだ。お政の顔は皮膚がひきつって目がすわった。かたわらにいた松女は、子どもながら母のただならぬようすを見て、火がついたように泣きだした。
「おじいさんとこへいくんだ。おじいさんとこへいくんだ」
お政はわが子の泣くのも知らぬさまに、四はいを飲みつくし、なお五はいをつごうとする。源四郎も老人も松女のさけび泣きにおどろいてでてきた。源四郎はお政の手から酒をうばって、
「こら、なにをするんだ」
「なにもしやしません。お酒をいただいてるんです」
「酒を飲むんだって、そんな乱暴に飲んでどうする」
「あんまりです、あんまりです」
お政は泣き声にこうさけんでうつふしてしまった。松女は祖父にすがりついて、
「おかあさんをだましておくれよ、おかあさんをだましておくれよ」
老人は松女をすかして引き寄せながら、
「政やおまえの胸をおれはよく知っている。おまえの腹立ちにすこしも無理はないのだから、おまえの胸はおれがよく知ってるから、となりの家へでもいってな、となりのおかあさんにおまえの胸をよく聞いてもらえよ。そうすりゃ気もおちついてくるだろう。なにもかもすんでしまったことじゃないか。おまえがこれまで、ようく堪忍していてくれたことはおれがちゃんと知ってるのだから、なあ政……えいかわかったろう。源四郎、おまえ、となりへつれていって頼んでくれ」
老人は、なにごとものみこんでいるから、お政の心中を察し、涙を浮かべてむすめをさとすのである。
源四郎はわが妻ながら、お政の悲嘆をどうすることもできなかった。
「おとうさんもああいうのだから、黙ってくれ。おまえの心はおれだって知ってるよ。さあ、おとうさんがいうのだから、となりの家へすこしいっておれよ。おれがいっしょにいくから、えい、お政……」
お政は源四郎のことばには答えもせず、わずかに頭を起こし、
「おとうさん、もう心配しないでください。となりへいかんでもようございます。わたし、しばらく休ませてもらえばようございます」
「そうか、そんならおまえのすきにしてくれや。それじゃ松や、おかあさんはね、すこし休むちから、さあ甘甘にしようよ」
老人はそのままお台屋へはいる。源四郎は妻をうながして納戸へ送りやった。
まま母ははじめから口もださず手もださず、きわめて冷然たるものであった。老人は老妻の冷淡なるそぶりにつき、二言三言なじるような小言をいうたに対し、
「わたしゃなにもかまいやしません。お政がひとりで腹をたってるのは、わたしにもしようがありませんもの」
まま母のものいいは、歯にもののはさまってるような心持ちに聞こえるけれど、やさしい老人はそのうえ追及もしなかった。源四郎はもちろん妻のしぶりに同情しているが、さりとてまま母の冷淡に憤慨するでもない。黙って酒を飲み、ものを食っている。雨はいよいよ降りが強くなってきたらしい。
翌日は意外な好天気で、シギが朝早くから例のせんだんの木に鳴いている。
二十年まえに離別した人でこの家の人ではないけれど、現在お政の母である以上は、祭りは遠慮したほうがよかろうと老人のさしずで、忌中の札を門にはった。ものざといお政は早くも昨夜のことは自分の胸ひとつにおさめてしまえばなにごともなくすむことと悟って、朝起きる早そう色をやわらげて、両親にあいさつし昨夜の無調法をわび、そのまま母の喪におもむいた。そうして思うさまにその狂母を泣いた。泣いて泣きぬいた。
親戚のものは、みな気違いが死んでくれてやれよかったといってるなかで、お政がひとり泣いておった。お政が心底をしんに解した人は、お政の父ひとりくらいであったろうけれど、それでもだれいうとなく、お政さんはかしこい女だという評判が立った。 | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「ホトヽギス 第十二卷第三號」
1908(明治41)年12月1日
※表題は底本では、「告《つ》げ人《びと》」となっています。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年7月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056539",
"作品名": "告げ人",
"作品名読み": "つげびと",
"ソート用読み": "つけひと",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「ホトヽギス 第十二卷第三號」1908(明治41)年12月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-08-18T00:00:00",
"最終更新日": "2016-07-11T00:00:00",
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"人物ID": "000058",
"姓": "伊藤",
"名": "左千夫",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "さちお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "さちお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Sachio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864-09-18",
"没年月日": "1913-07-30",
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"底本名1": "野菊の墓",
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一
「満蔵満蔵、省作省作、そとはまっぴかりだよ。さあさあ起きるだ起きるだ。向こうや隣でや、もう一仕事したころだわ。こん天気のえいのん朝寝していてどうするだい。省作省作、さあさあ」
表座敷の雨戸をがらがらあけながら、例のむずかしやの姉がどなるのである。省作は眠そうな目をむしゃくしゃさせながら、ひょこと頭を上げたがまたぐたり枕へつけてしまった。目はさめていると姉に思わせるために、頭を枕につけていながらも、口のうちでぐどぐどいうている。
下部屋の戸ががらり勢いよくあく音がして、まもなく庭場の雨戸ががらがら二、三枚ずつ一度に押しあける音がする。正直な満蔵は姉にどなられて、いつものように帯締めるまもなく半裸で雨戸を繰るのであろう。
「おっかさんお早うございます。思いのほかな天気になりました」
満蔵の声だ。
「満蔵、今日は朝のうちに籾を干すんだからな、すぐ庭を掃いてくれろ」
姉はもう仕事を言いつけている。満蔵はまだ顔も洗わず着物も着まいに、あれだから人からよく言われないだなどと省作は考えている。この場合に臨んではもう五分間と起きるを延ばすわけにゆかぬ。省作もそろそろ起きねばならんでなお夜具の中でもさくさしている。すぐ起きる了簡ではあるが、なかなかすぐとは起きられない。肩が痛む腰が痛む、手の節足の節共にきやきやして痛い。どうもえらいくたぶれようだ。なあに起きりゃなおると、省作は自分で自分をしかるようにひとり言いって、大いに奮発して起きようとするが起きられない。またしばらく額を枕へ当てたまま打つ伏せになってもがいている。
全く省作は非常にくたぶれているのだ。昨日の稲刈りでは、女たちにまでいじめられて、さんざん苦しんだためからだのきかなくなるほどくたぶれてしまった。
「百姓はやアだなあ……。ああばかばかしい、腰が痛くて起きられやしない。あアあア」
省作はなお起きかねて家の者らの気はいに耳を澄ましている。
満蔵は庭を掃いてる様子、姉は棕梠箒で座敷を隅から隅まで、サッサッ音をさせて掃いている。姉は実に働きものだ。姉は何をしたってせかせかだ。座敷を歩くたって品ぶってなど歩いてはいない。どしどし足踏みして歩く。起こされないたって寝ていられるもんでない。姉は二度起こしても省作がまだ起きないから、少しぷんとしてなお荒っぽく座敷を掃く。竈屋の方では、下女が火を焚き始めた。豆殻をたくのでパチパチパチ盛んに音がする。鶏もいつのまか降りて羽ばたきする。コウコウ牝鶏が鳴く。省作もいよいよ起きねばならんかなと、思ってると、
「なんだこら省作……省作……戸をあけられてしまってもまだ寝ているか。なんだくたぶれた、若いものが仕事にくたぶれたって朝寝をしてるもんがあるかい」
姉なんぞへの手前があるから、母はなお声はげしく言うのだ。
「そんなにお母さんはげしく起こさねたってすぐ起きますよ」
「すぐ起きますもねいもんだ。今時分までねてるもんがどこにある。困ったもんだな。そんなことでどこさ婿にいったって勤まりゃしねいや」
「また始まった。婿にいけば、婿にいった気にならあね」
「よけいな返答をこくわ」
つけつけと小言を言わるれば口答えをするものの、省作も母の苦心を知らないほど愚かではない。省作が気ままをすれば、それだけ母は家のものたちの手前をかねて心配するのである。慈愛のこもった母の小言には、省作もずるをきめていられない。
「仕事のやり始めはだれでも一度はそういうものだよ。何が病気なもんか。仕事着になって、からだが締まれば痛みはなくなるもんだ」
母はそういっても、どこか悪いところがあるかしらんと思ったらしく、省作の背へ回って見上げ見おろしたが、なるほど両手の肘と手くびが少し腫れてるようだけど、やっぱりくたぶれたに違いないという。
「そうかしら、なんだか知らないけど、ばかに腰が痛いや。ばかばかしいな百姓は」
「百姓がばかばかしいて、百姓の子が百姓しねいでどうするつもりかい。あの藤吉や五郎助を見なさい。百姓なんどつまらないって飛び出したはよいけど、あのざまを見なさい」
省作がそりゃあんまりだ、藤吉の野郎や五郎助といっしょにするのはひどい、というのを耳にもとめずに台所の方へいってしまった。
冷ややかな空気に触れ、つめたい井戸水に顔を洗って、省作もようやく生気づいた。いくらかからだがしっかりしてきはきたが、まだ痛いことは痛い。起きないうちはわからなかったが、起きて歩いて見ると股根が非常に痛む。とても直立しては歩けない。省作はようやくのことよちよち腰をまげつつ歩いて井戸ばたへ出たくらいだ。下女のおはまがそっと横目に見てくすっと笑ってる。
「このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……」
「稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ」
「ばかア手前に用はねい……」
省作はこれで今日は稲が刈れるかしらと思うほど、五体がみしみしするけれど、下女にまで笑われるくらいだから、母にこそ口説いたものの、ほかのものには決して痛いなどと言わない。
省作は今年十九だ。年の割合には気は若いけれど、からだはもう人並み以上である。弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。
省作も今は、なあにという気になった。今日の稲刈りで、よし田ん中へ這ったって、苦しいのなんのというもんかと力んで見る。省作はしばらく井戸ばたにたたずんで気を養うている。井戸から東へ二間ほどの外は竹藪で、形ばかりの四つ目垣がめぐらしてある。藪には今藪鶯がささやかな声に鳴いてる。垣根のもとには竜の髭が透き間なく茂って、青い玉のなんともいえぬ美しい実が黒い茂り葉の間につづられてある。竜の髭の実は実に色が麗しい。たとえて言いようもない。あざやかに潤いがあるとでも言ったらよいか。藪から乗り出した冬青の木には赤い実が沢山なってる。渋味のある朱色でいや味のない古雅な色がなつかしい。省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。
「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」
省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手に採った。手のひらに載せてみて、しみじみとその美しさに見とれている。
「おとよさんは実に親切な人だ」
また一言いって玉を見ている。
省作はからだは大きいけれど、この春中学を終えて今年からの百姓だから、何をしても手回しがのろい。昨日の稲刈りなどは随分みじめなものであった。だれにもかなわない。十四のおはまにも危うく負けるところであった。実は負けたのだ。
「省さん、刈りくらだよ」
というような掛け声で十四のおはまに揉み立てられた。
「くそ……手前なんかに負けるものか」
省作も一生懸命になって昼間はどうにか人並みに刈ったけれど、午後も二時三時ごろになってはどうにも手がきかない。おはまはにこにこしながら、省作の手もとを見やって、
「省さんはわたしに負けたらわたしに何をくれます……」
「おまえにおれが負けたら、お前のすきなもの何でもやる」
「きっとですよ」
「大丈夫だよ、負ける気づかいがないから」
こんな調子に、戯言やら本気やらで省作はへとへとになってしまった。おはまがよそ見をしてる間に、おとよさんが手早く省作のスガイ藁を三十本だけ自分のへ入れて助けてくれたので、ようやく表面おはまに負けずに済んだけれど、そういうわけだから実はおはまに三十本だけ負けたのだ。
省作はここにまごまごしていると、すぐ呼びたてられるから、今しばらく家のものの視線を避けようとしていると、おはまが水くみにきた。
「省さん、今日はきっと負かしてやります」
「ばかいえ、手前なんかに片手だって負けっこなしだ」
「そっだらかけっこにせよう」
「うん、やろ」
おはまはハハハッと笑って水をくむ。
「はま……だれかおれを呼んだら、便所にいるってそういえよ」
「いや裏の畑に立ってるってそういってやらア」
「このあまめ」
省作は例の手段で便所策を弄し、背戸の桑畑へ出てしばらく召集を避けてる。はたして兄がしきりと呼んだけれど、はま公がうまくやってくれたからなお二十分間ほど骨を休めることができた。
朝露しとしとと滴るる桑畑の茂り、次ぎな菜畑、大根畑、新たに青み加わるさやさやしさ、一列に黄ばんだ稲の広やかな田畝や、少し色づいた遠山の秋の色、麓の村里には朝煙薄青く、遠くまでたなびき渡して、空は瑠璃色深く澄みつつ、すべてのものが皆いきいきとして、各その本能を発揮しながら、またよく自然の統一に参合している。省作はわれ自らもまた自然中の一物に加わり、その大いなる力に同化せられ、その力の一端がわが肉体にもわが精神にも通いきて、新たなる生命にいきかえったような思いである。おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち興じて今日も稲刈りかということが、何となしうれしく楽しくなってきた。
太陽はまだ地平線にあらわれないが、隣村のだれかれ馬をひいてくるものもある。荷車をひいてくるものもある。天秤の先へ風呂敷ようのものをくくしつけ肩へ掛けてくるもの、軽身に懐手してくるもの、声高に元気な話をして通るもの、いずれも大回転の波動かと思われ、いよいよ自分の胸の中にも何かがわきかえる思いがするのである。
省作は足腰の疲れも、すっかり忘れてしまい、活気を全身にたたえて、皆の働いてる表へ出て来た。
二
「省作お前は鎌をとぐんだ。朝前のうちに四挺だけといでしまっておかねじゃなんねい。さっきあんなに呼ばったに、どこにいたんだい。なんだ腹の工合がわるい、……みっちりして仕事に掛かれば、大抵のことはなおってしまう。この忙しいところで朝っぱらからぶらぶらしていてどうなるか」
「省作の便所は時によると長くて困るよ。仕事の習い始めは、随分つらいもんだけど、それやだれでもだから仕方がないさ。来年はだれにも負けなくなるさ」
兄夫婦は口小言を言いつつ、手足は少しも休めない。仕事の習い始めは随分つらいもんだという察しがあるならば、少しは思いやってくれてもよさそうなものと思っても、兄や姉には口答えもできない、母に口答えするように兄や姉に口答えしたらたいへんが起こる。どこの家でもそうとはきまっていないが、親子と兄弟とは非常に感じの違うものである。兄には妻がありかつ年をとっている兄であるといよいよむずかしい。ことに省作の家は昔から家族のむずかしい習慣がある。
省作はだまって鎌をとぐ用意にかかる。兄はきまった癖で口小言を言いつつ、大きな箕で倉からずんずん籾を庭に運ぶ。あとから姉がその籾を広げて回る。満蔵は庭の隅から隅まで、藁シブを敷いてその上に蓆を並べる。これに籾を干すのである。六十枚ほど敷かれる庭ももはや六分通り籾を広げてしまった。
省作は手水鉢へ水を持ってきて、軒口の敷居に腰を掛けつつ片肌脱ぎで、ごしごしごしごし鎌をとぐのである。省作は百姓の子でも、妙な趣味を持ってる男だ。
森の木陰から朝日がさし込んできた。始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。物の影もその形がはっきりとしない。しかしその間の色が最も美しい。ほとんど黄金を透明にしたような色だ。強みがあって輝きがあってそうして色がある。その色が目に見えるほど活きた色で少しも固定しておらぬ。一度は強く輝いてだんだんに薄くなる。木の葉の形も小鳥の形もはっきり映るようになると、きわめて落ちついた静かな趣になる。
省作はそのおもしろい光景にわれを忘れて見とれている。鎌をとぐ手はただ器械的に動いてるらしい。おはまは真に苦も荷もない声で小唄をうたいつつ台所に働いている。兄夫婦や満蔵はほとんど、活きた器械のごとく、秩序正しく動いている。省作の目には、太陽の光が寸一寸と歩を進めて動く意味と、ほとんど同じようにその調子に合わせて、家の人たちが働いてるように見える。省作はもうただただ愉快である。
東京の物の本など書く人たちは、田園生活とかなんとかいうて、田舎はただのんきで人々すこぶる悠長に生活しているようにばかり思っているらしいが、実際は都人士の想像しているようなものではない。なまけ者ならば知らぬ事、まじめな本気な百姓などの秋といったら、それは随分と忙しいはげしいものである。
のらくらしていては女にまで軽蔑される。恋も金も働きものでなくては得られない。一家にしても、その家に一人の不精ものがあれば、そのためにほとんど家庭の平和を破るのである。そのかわりに、一家手ぞろいで働くという時などには随分はげしき労働も見るほどに苦しいものではない。朝夕忙しく、水門が白むと共に起き、三つ星の西に傾くまで働けばもちろん骨も折れるけれど、そのうちにまた言われない楽しみも多いのである。
各好き好きな話はもちろん、唄もうたえばしゃれもいう。うわさの恋や真の恋や、家の内ではさすがに多少の遠慮もあるが、外で働いてる時には遠慮も憚りもいらない。時には三丁と四丁の隔たりはあっても同じ田畝に、思いあっている人の姿を互いに遠くに見ながら働いている時など、よそ目にはわからぬ愉快に日を暮らし、骨の折れる仕事も苦しくは覚えぬのである。まして憎からぬ人と肩肘並べて働けば少しも仕事に苦しみはない。よし色恋の感情は別としても、家じゅう気をそろえて働けば互いに心持ちよく、いわゆる一家の和合からわき起こる一種の愉快もまたはなはだ趣味の深いものである。
省作が片肌脱いで勢いよく鎌をとぎ始めれば、兄夫婦の顔にもはやむずかしいところは少しもなくなって、快活な話が出てくる。母までが端近に出て来てみんなの話にばつを合わせる。省作がよく働きさえすれば母は家のものに肩身が広くいつでも愉快なのだ。慈愛の親に孝をするはわけのないものである。
「今日明日とみっちり刈れば明後日は早じまいの刈り上げになる。刈り上げの祝いは何がよかろ、省作お前は無論餅だなア」
そういうのは兄だ。省作はにこり笑ったまま何とも言わぬうち、
「餅よりは鮓にするさ。こないだ餅を一度やったもの、今度は鮓でなけりゃ。なア省作お前も鮓仲間になってよ」
「わたしはどっちでも……」
「省作お前そんなこと言っちゃいけない。兄さんと満蔵はいつでも餅ときまってるから、お前は鮓になってもらわんけりゃ困る。わたしとおはまが鮓で餅の方も二人だから、省作が鮓となればこっちが三人で多勢だから鮓ときまるから……」
省作は相変わらず笑って、右とも左とも言わない。満蔵はお祖母さんが餅に賛成だという。姉はお祖母さんは稲を刈らない人だから、裁決の数にゃ入れられないという。各受け持ちの仕事は少しも手をゆるめないで働きながらの話に笑い興じて、にぎやかなうちに仕事は着々進行してゆく。省作が四挺の鎌をとぎ上げたころに籾干しも段落がついた。おはまは御ぜんができたというてきた。
昨日はこちから三人いって隣の家の稲を刈った。今日は隣の人たちが三人来てこちの稲を刈るのである。若い人たちは多勢でにぎやかに仕事をすることを好むので、懇な間にはよく行なわれる事である。
隣から三人、家のものが五人、都合八人だが、兄は稲を揚げる方へ回るから刈り手は七人、一人で五百把ずつ刈れば三千五百刈れるはずだけれど、省作とおはまはまだ一人前は刈れない。二人は四百把ずつ刈れと言い渡される。省作は六尺大の男がおはまと組むは情けないという。それじゃ五百でも六百でも刈ってくれと姉が冷笑する。おはまはまた省さんが五百刈ればわたしだって五百刈るという。おはまはなんでもかでも今日は省さんを負かして何か買ってもらうんだという。
「おれがおはまに負けたら何でも買ってやるけれど、お前がおれに負けたらどうする」
「わたしも負けたら何かきっとあげるから、省さんの方からきめておいてください」
「そうさなア、おれが負けたら、皹の膏薬をおまえにやろう」
「あらア人をばかにして、……そんならわたしが負けたら一文膏薬を省さんにあげべい。ハハハハ」
仕事着といっても若いものたちには、それぞれ見えがある。省作は無頓着で白メレンスの兵児帯が少し新しいくらいだが、おはまは上着は中古でも半襟と帯とは、仕立ておろしと思うようなメレンス友禅の品の悪くないのに卵色の襷を掛けてる。背丈すらっとして色も白い方でちょっとした娘だ。白地の手ぬぐいをかぶった後ろ姿、一村の問題に登るだけがものはある。満蔵なんか眼中にないところなどはすこぶる頼もしい。省作にからかわれるのがどうやらうれしいようにも見えるけれど、さあ仕事となれば一生懸命に省作を負かそうとするなどははなはだ無邪気でよい。
清さんと清さんのお袋といっしょにおとよさんは少しあとになってくる。おとよさんは決して清さんといっしょになって歩くようなことはないのだ。お早うございますが各自に交換され、昨日のこと天気のよいことなど喃々と交換されて、気の引き立つほどにぎやかになった。おとよさんは、今つい庭さきまで浮かぬ顔色できたのだけれど、みんなと三言四言ことばを交えて、たちまち元のさえざえした血色に返った。
おとよさんは、みなりも心のとおりで、すべてがしっかりときりっとして見るもすがすがしいほどである。おはまはおとよさんを一も二もなく崇拝して、何から何までおとよさんをまねる。おはまはおとよさんの来たのを見るや、庭まで出ておとよさんを迎え、おとよさんの風の上から下まで見つめて、やがておとよさんの物をこれは何これはどうしてと、一々聞いて見る。おとよさんは十九だというけれど、勝気な女だからどう見たって二十前の女とは見えない。女としてはからだがたくまし過ぎるけれど、さりとて決して角々しいわけではない。白い女の持ち前で顔は紅に色どってあるようだ。口びるはいつでも「べに」をすすったかとおもわれる。沢山な黒髪をゆたかに銀杏返しにして帯も半襟も昨日とは変わってはなやかだ。どう見てもおとよさんは隣の清さんが嫁には過ぎてる。おとよさんの浮かない顔するのもそれゆえと思えばかわいそうになってくる。
「省作、いくら仕事になれないからとて、そのからだで女に刈り負けるということないど。どうでもえいと思ってやれば、いつまでたったって仕事は強くならない」
母は気づかって省作を励ますのである。省作は例のごとくただにこりの笑いで答える。やがて八人用意整えて目的地に出かける。おとよさんとおはまの風はたしかに人目にとまるのである。まアきれいな稲刈りだこととほめるものもあれば、いやにつくってるなアとあざけるものもある。おはまのやつが省作さんに気があるからおかしいやというようなのも聞こえる。おはまはじろり悪口いう方を見たがだれだかわからなかった。おとよさんは、どういう心持ちかただだまってうつむいたままわき目も振らずに歩いてる。姉は突然、
「おとよさん、家ではおかげで明後日刈り上げになります。隣ではいつ……」
「わたしとこでもあさって……」
「家ではね、餅だというのを、ようよう鮓にすることになりました。おとよさんとこは何」
「わたしとこでは餅だそうです。わたし餅はきらい」
「それじゃおとよさん、明後日は家へおいでなさいよ」
「それだら省さんがお隣へ餅をたべにいっておとよさんが家へ鮓をたべにくるとえいや」
こういうのはおはまだ。
「朝っぱらから食うことばかりいってやがらア」
そういって兄は背負うたスガイ藁を右の肩から左の肩へ移した。隣のお袋と満蔵とはどんなおもしろい話をしてかしきりに高笑いをする。清さんはチンチンと手鼻をかんでちょこちょこ歩きをする。おとよさんは不興な顔をして横目に見るのである。
今年の稲の出来は三、四年以来の作だ。三十俵つけ一まちにまとまった田に一草の晩稲を作ってある。一株一握りにならないほど大株に肥えてる。穂の重みで一つらに中伏に伏している。兄夫婦はいかにも心持ちよさそうに畔に立ってながめる。西の風で稲は東へ向いてるから、西手の方から刈り始める。
おはまは省作と並んで刈りたかったは山々であったけれど、思いやりのない満蔵に妨げられ、仏頂面をして姉と満蔵との間へはいった。おとよさんは絶対に自分の夫と並ぶをきらって、省作と並ぶ。なんといってもこの場では省作が花役者だ。何事にも穏やかな省作も、こう並んで刈り始めて見ると負けるは残念な気になって、一生懸命に顔を火のようにして刈っている。満蔵はもうひとりで唄を歌ってる。おとよさんは百姓の仕事は何でも上手で強い。にこにこしながら手も汚さず汗も出さず、綽々として刈ってるが、四把と五把との割合をもってより多く刈る。省作は歯ぎしりをかんで競うて見ても、おとよさんにかけてはほとんど子供だ。おとよさんは微笑で意を通じ、省作のスガイを十本二十本ずつ刈りすけてやる。おはまはなんといっても十四の小娘だ。おとよさんのそのしぐさに少しも気がつかない。満蔵はひとりでうたい飽きて、
「おはまさアうたえよ。おとよさアなで今日はうたわねいか」
だれもうたわない。サッサッと鎌の切れる音ばかり耳に立ってあまり話するものもない。清さんはお袋と小声でぺちゃくちゃ話している。満蔵はあくびをしながら、
「みんな色気があるからだめだ。省作さんがいれば、おとよさんもはま公も唄もうたわねいだもの」
満蔵は臆面もなくそんなことを言って濁笑いをやってる。実際満蔵の言うとおりで、おとよさんは省作のいるとこでは、話も思い切ってはしない。省作はもとから話下手ときてるから、半日並んで仕事をしていてもろくに口もきかないという調子で、今日の稲刈りはたいへんにぎやかであろうと思った反対にすこぶる振るわないのだ。しかし表面にぎやかではないが、おとよさんとおはまの心では、時間の過ぐるも覚えないくらいにぎやかな思いでいるのである。
省作はもちろんおとよさんが自分を思ってるとはまだ気がつかないが、少しそういう所に経験のある目から見れば、平生あまり人に臆せぬおとよさんがとかく省作に近寄りたがるふうがありながら、心を抑えて話もせぬ様子ぶりに目を留めないわけにゆかない。何か心に思ってる事がなくて、そんなによそよそしくせんでもよい人に、つとめてよそよそしくするのはおかしいにきまっている。稲を刈って助けるのは、心あっての事ともそうでないとも見られるが、そのそぶりはなんでもないもののする事とは見られない。
午後もやや同じような調子で過ぎた。兄夫婦は稲の出来ばえにほくほくして、若い手合いのいさくさなどに目は及ばない。暮れがたになってはさしもに大きな一まちの田も、きれいに刈り上げられて、稲は畔の限りに長く長城のごとくに組み立てられた。省作もおとよさんのおかげで這い回るほど疲れもせず、負恥もかかず済んだ。おはまがもしおとよさんのしぐさを知ったら大騒ぎであったろうけれど、とうとうおはまはそれを知らなかった。おはまばかりでない、だれも知らなかったらしい。
「今日ぐらい刈れば省作も一人前だなア」
これが姉のほめことばで見ても知られる。のっそり子の省作も、おとよさんの親切には動かされて真底からえい人だと思った。おとよさんが人の妻でなかったらその親切を恋の意味に受けたかもしれないけれど、生娘にも恋したことのない省作は、まだおとよさんの微妙なそぶりに気づくほど経験はない。
元来はこの秋二軒が稲刈りをお互いにしたというも既におとよさんの省作いとしからわいた画策なのだ。おとよさんは年に合わして、気前のすぐれたやり手な女で、腹のこたえた人だから、自然だいそれたまねをやりかねまじき女ともいえる。
こう考えて見るとただおとよさんが目的を達したばかりで、今日の稲刈りには何の統一もなかった。稲刈りは稲さえ思うだけ刈り上げさえすればよいわけだが、仕事の興味という点からいうと、二軒いっしょになって刈るというところに仕事以外の興味がなければならないのに、今度の稲刈りはどうもそれが欠けておった。清さんはさもつまらなそうに人について仕事をしてるばかり、満蔵もおはまも清さんのお袋もなんだかおもしろくなかった。身上の事ばかり考えて、少しでもよけいに仕事をみんなにさせようとばかり腐心している兄夫婦は全く感情が別だ。みんながおもしろく仕事をしたかどうかなどと考えはしない。だからこんな事はつまらんとも思わない。ただ若いものらが多勢でやりたがるからこれに故障を言わないまでのことだ。ほかの人たちはそうでない。多勢でしたらおもしろかろうと思って二軒いっしょにお互いこの稲刈りをしたのだが、なんだかみんなの心がてんでん向き向きのようで、格別おもしろくなかった。だから今日のしまいごろには清さんも満蔵もおはまも、言い合わさないでつまらなかったとこぼした。
それはそのはずなのだ。おとよさん一人のために皆が騒がせられたようなもので、いわばみんながおとよさんにばかにされたのだ。だれとておとよさんにばかにされていたと気づきはしないけれど、事実がそれであるから興味がなかったのである。おとよさんももちろん人をばかにするなどの悪気があってした事ではないけれど、つまりおとよさんがみんなの気合いにかまわず、自分一人の秘密にばかり屈託していたから、みんなとの統一を得られなかったのだ。いつでも非常なよい声で唄をうたって、随所の一団に中心となるおとよさんが今日はどうしたか、ろくろく唄もうたわなかったからして、みんなの統一を欠いたわけだ。清さんや清さんのお袋は、またどうしたかごきげんが悪いや、珍しくもない、というくらいな心で気にかけない。この稲刈りにはおとよさんがいなかったらかえってほかの者らには統一ができたのだ。そういうおとよさんははなはだ身勝手な女のように聞こえるけれど、人を統一する力あるものはまたその統一を破るようなことを必ずするものだ。
おとよさんの秘密に少しも気づかない省作は、今日は自分で自分がわからず、ただ自分は木偶の坊のように、おとよさんに引き回されて日が暮れたような心持ちがした。
三
今日は刈り上げになる日であったのだが、朝から非常な雨だ。野の仕事は無論できない。丹精一心の兄夫婦も、今朝はいくらかゆっくりしたらしく、雨戸のあけかたが常のようには荒くない。省作も母が来て起こすまでは寝かせて置かれた。省作が目をさました時は、満蔵であろう、土間で米を搗く響きがずーんずーと調子よく響いていた。雨で家にいるとせば、繩でもなうくらいだから、省作は腹の中ではよいあんばいだわいと思いながら元気よく起きた。
省作は今日休ませてもらいたいのだけれど、この取り入れ最中に休んでどうすると来るが恐ろしいのと、省作がよく働いてくれれば、わたしは家にいて御飯がうまいとの母の気づかいを思うと休みたくもなくなる。
「兄さん今日は何をしますか」
「うん仕方がない、繩でもなえ」
「兄さんは何をしますか、繩をなうならいっしょに藁を湿しましょう」
「うんおれは俵を編む、はま公にも繩をなわせろ」
省作は自分の分とはま公の分と、十把ばかり藁を湿して朝飯前にそれを打つ。おはまは例の苦のない声で小唄をうたいながら台所の洗い物をしている。姉はこんな日でなくては家の掃除も充分にできないといって、がたひち音をさせ、家のすみずみをぐるぐる雑巾がけをする。丹精な人は掃除にまで力を入れるのだ。
朝飯が済む。満蔵は米搗き、兄は俵あみ、省作とおはまは繩ない、姉は母を相手にぼろ繕いらしい。稲刈りから見れば休んでるようなものだ。向こうの政公も藁をかついでやって来た。
「どうか一人仲間入りさしてください。おや、おはまさんも繩ない……こりゃありがたい。わたしはまたせめておはまさんの姿の見えるところで繩ないがしたくてきたのに……」
「あア政さん、ここへはいんなさい。さアはま公、おまえがよくて来たつんだから……」
「あらアいやな」
おはまはつッと立って省作の右手へうつる。政さんはにこにこしながら省作の左手へ座をとる。
「昨日の稲刈りはにぎやかでしたねい。わたしはおはまさんに惚れっちゃった。ハハハハハ」
政さんは話上手でよく場合に応じての話がすこぶるうまいもんだ。戯言とまじめと工合よく取り交ぜて人を話に引き入れる。政さんはおはまの顔を時々見てはおとよさんをほめる。
「女の前でよその女をほめるのは、ちっと失敬なわけだけど、えいやねい、おはまさん、おはまさんはおとよさんびいきだからねい」
おはまはわきを見て相手にならない。政さんはだれへも渡りをつけて話をする。外は秋雨しとしとと降って、この悲しげな雨の寂しさに堪えないで歩いてる人もあろう、こもってる人もあろう。一家和楽の庭には秋のあわれなどいうことは問題にならない。兄の生まじめな話が一くさり済むと、満蔵が腑抜けな話をして一笑い笑わせる。話はまたおとよさんの事になる。政さんは真顔になって、
「おとよさんは本当にかわいそうだよ。一体おとよさんがあの清六の所にいるのが不思議でならないよ。あんまり悪口いうようだけど、清六はちとのろ過ぎるさ。親父だってお袋だってざま見さい。あれで清六が博打も打つからさ。おとよさんもかわいそうだ。身上もおとよさんの里から見ると半分しかないそうだし。なにおとよさんはとても隣にいやしまい」
「お前そんなことをいったって、どこがよくているのかしれるもんじゃない。あの働きもののおとよさんが、いてくれさえすれば困るような事はないから」
兄はつやけのないことを言ってる。
「もっとも家じゅう一生懸命にとりもって、おとよさんを置こうとしているらしい。それでもこの節はおとよさんのきげんがとり切れないちゅう話だ。いてもらおうと思う方がよっぽど無理だ」
おはまは喉のつまったような声をして突然、
「おとよさんがいなくなったらわたしゃどうしよう」
「おとよさんはいなくなりゃしないよ。なにがいなくなるもんか。ただ話だわ」
「そうかしら」
兄のおとよさんをほめようはおもしろい。
「おらアおとよさん大好きさ。あの人は村の若い女のよい手本だ。おとよさんは仕事姿がえいからそれがえいのだ。おらアもう長着で羽織など引っ掛けてぶらぶらするのは大きらいだ。染めぬいた紺の絣に友禅の帯などを惜しげもなくしめてきりっと締まった、あの姿で手のさえるような仕事ぶり、ほんとに見ていても気が晴々する。なんでも人は仕事が大事なのだから、若いものは仕事に見えするのはえいこった。休日などにべたくさ造りちらかすのはおらア大きらい。はま公もおとよさん好きだっけなア。まねろまねろ。仕事もおとよさんのように達者でなけゃだめだなア」
「や、これや旦那はえいことをいわっしゃった。おはまさんは何でも旦那に帯でも着物でもどしどし買ってもらうんだよ」
省作はただ笑う仲間にばかりなって一向に話はできない。満蔵はもう一俵の米を搗き上げてしまった。兄は四俵の俵をあみ上げる。省作の繩ないはやはりおはまの仲間で、二人とも二把の藁がない切れない。兄はもう家じゅう手ぞろいで仕事をすればきげんはよい。
「はま公、そんなににわかに稼ぎださなくともえいよ。天気のえい時にはみっちら働いて、こんな日にゃ骨休めだ。これがえいのだ。なまけて遊んだっておもしれいもんでねい。はまア薩摩芋でも煮ろい」
おはまは竈屋へゆく。省作は考えた。兄は一に身上二に丹精で小むずかしい事ばかりいうてわからない人とのみ思っていたに、今日の話はなかなかわかってる。なるほどこれがえいのだ。これでおもしろいのだ。みんなしてこうしておもしろく働くがえいのだろう。田園生活などいうても、百姓の辛労を見物ものにして、百姓の作ったものをぶらぶら遊んで見ていたって、そりゃ本当の田園趣味でない。なるほどおれも百姓になろう。百姓は骨が折れるからとばかり思って、とかく本気に百姓しようと思わなかったけれど、考えると兄のいうことがほんとうだ。百姓になろう百姓になろう。そう考えてみると、なるほどおとよさんは立派な女だ。年は同じだけどわれわれお坊さんとはわけが違う。それでおとよさんは真から親切だ。省作はひとり思いにふけって昨日のおとよさんの様子を思い出した。政さんのいうことも本当だ。おとよさんは隣に嫁になってるとはかわいそうだ。なるほど政さんのいうとおり隣にゃいないかもしれない。そう思うとまた妙におとよさんがなつかしくなって別れたくないような気がするのである。
「省作さん、ちっとお話しなさいよ。何か考えてるね。ハハハハ」
省作は、はっとしたけれど例のごとく穏やかな笑いをして政さんの方へ向く。政さんは快活に笑って三つの繩をなってしまった。省作が二つ終えないうちに政さんはちょろり三つなってしまった。満蔵は二俵目の米を倉から出してきて臼へ入れてる。おはまは芋を鍋いっぱいに入れてきて囲炉裏にかけた。あとはお祖母さんに頼んでまた繩ないにかかる。
満蔵はほどよく米を臼に入れて俵は元の倉へ戻し、臼へ腰を掛けつつしばらく人の話を聞いているうち、調子はずれな声を出して、
「きょうは省作さアにおごってもらうんだっけ。おらアたしかな証拠を見たんだ」
意外な満蔵の話に人々興がり一斉に笑いをもって満蔵の話を迎える。
「省作さんにおごらねけりゃなんねい事があるたアこりゃおもしれい。満蔵君早く話したまえ。省作さんもおごるならまたそのように用意が入るから」
政さんに促されて満蔵は重い口を切った。
「おとよさアが省作さアに惚れてる」
「さアいよいよおもしれい。どういう証拠を見た、満蔵さん。省作さんもこうなっちゃおごんなけりゃなんねいな」
口軽な政さんはさもおもしろそうに相言をとる。
「満蔵何をぬかすだい」
省作はそうは言ったものの不思議と顔がほてり出した。満蔵はとんだことを言い出して困ったと思うような顔つきで、
「昨日の稲刈りでおとよさアは、ないしょで省作さアのスガイ一把すけた。おれちゃんと見たもの。おとよさアは省作さアのわき離れねいだもの。惚れてるに違いねい」
おはまは目をぎろっとして満蔵を見た。省作はもう顔赤くして、
「うそだうそだ。そらおとよさんはおれがあんまり稲刈りが弱いから、ないしょで助けてくれたには相違ないけど、そりゃおとよさんの親切だよ。何も惚れたのどうのってい事はありゃしない。ばか満め何をいうんだえ」
省作も一生懸命弁解はしたものの何となしきまりが悪い。のみならずあるいはおとよさんにそんな心があるのかとも思われるから、いよいよ顔がほてって胸が鳴ってきた。満蔵はそれ以上を言う働きはないから急いで米を搗きだす。政さんはいよいよ興がって、
「こりゃわかんねい。そこまで満蔵さんに見られちゃア、とにかく省作さんはおごるが至当だっぺい。うん人の女房だって何だって、女に惚れられっちは安くない、省作さん……」
兄はまさかそんな話の仲間にもなれないだろう、むずかしい顔をしている。政さんは兄の顔に気がついて、言いだした話を引っ込ませかける。突然囲炉裏ばたの障子があいて母が顔を出した。
「満蔵」
「はあ」
「お前、今おとよさんの事を言ったねい」
「はあ」
満蔵はもうたいへんな事になったと思ってか、色青くして目がはや潤んでる。
「お前どんなことを見たかしんねいが、おとよさんはお前隣の嫁だろ。家の省作だってこれから売る体じゃないか。戯言に事欠いて、人の体さ疵のつくような事いうもんじゃない。わしが頼むからこれからそんな事はいわないでくろ」
「はア」
満蔵はもう恐れ入ってしまって、申しわけも出ない。正直な満蔵は真から飛んだ事を言ってしまったとの後悔が、隠れなく顔にあらわれる。満蔵が正直あふれた無言の謝罪には、母もその上しかりようないが、なお母は政さんにもそれと響くよう満蔵に強く念を押す。
「ねい満蔵、ちょっとでもそんなうわさを立てられると、おとよさんのため、また省作のため、本当に困ったことになるからね。忘れてもそんなことを言うてくれるな。えいか」
「はア」
事はまじめになって話は火の消えたようになった。するとうわさを言えば影とやらで、どうやらおとよさんの声がする。竈屋の裏口から、
「背戸口から御免くださいまし」
例の晴ればれした、りんの音のような声がすると、まもなくおとよさんは庭場へ顔を出した。にっこり笑って、
「まあにぎやかなこと。……うっとしいお天気でございます。お祖母さんなんですか。あそうですか、どうもごちそうさま」
今まで唯一の問題になっていた本人が、突然はいってきたのだから、みんな相顧みて茫然自失というありさまだ。さすがの政さんも今までお前さんのうわさをしていたのさとは言いかねて、一心に繩をなうふうにしている。おとよさんはみんなにお愛想をいうて姉のいる方へ上がった。何か機の器具を借りに来たらしい。
やがて芋が煮えたというので、姉もおとよさんといっしょに降りてくる。おおぜい輪を作って芋をたべる。少しく立ちまさった女というものは、不思議な光を持ってるものか、おとよさんがちょっとここへくればそのちょっとの間おとよさんがこの場の中心になる。知らず知らずだれの目もおとよさんにあつまる。
顎のあたりゆたかに艶よきおとよさんの顔は、どことなく重みがあった。随分おしゃべりな政さんなぞも、陰でこそかれこれ茶かしたようなことを言っても、面と向かってはすっかりてれてしまって戯言一つ言えない。おはまは先におとよさんが省作に気があるというのを聞いて、自分がおとよさんと一層近しくなったような心持ちで、おとよさんの膝にすり寄っておとよさんの顔を見上げている。省作はわざと輪からはずれて立って芋をたべてる。政さんはしきりにおとよさんの方をぬすみ見て、おとよさんが省作に対する動作に何物かを発見せんとつとめているけれど、政さんなんかに気取られるようなそんな浅々しいおとよさんではない。おとよさんは省作へはちらと目をくばる様子もない。やがておとよさんは、今夜は早く風呂ができるから入りに来てくれるようにと、お祖母さんはじめみんなへ言うて帰った。
昼過ぎても雨はやまない。満蔵は六斗の米を搗き上げてしまって遊びに出た。あとは昼前の通りへ清さんも藁を持ってやってきた。清さんがきて見れば、もうおとよさんのうわさもできない。おはまを相手に政さんがらちもなき事をしゃべってにぎやかしてる。省作は考えまいとしても、どうしても考えられてならない。考えてると人にそう思われてはいよいよ困るから、ことさらにらちもない話に口を出して、腹は沈んで口では浮いてるように振る舞ってるけれど、そういうことは省作の柄でないから、はたで見てるとよほどおかしい。
おとよさんがおれを思ってる、本当かしら、夫のあるおとよさんが、そんなことはありゃしまい。おとよさんは何もかもきちんとした人だ。おいらなどよりもよほど大人だもの。おれを思ってるなんてうそだ。うそだ、うそに違いない。第一本当であったらおとよさんは見掛けによらず不埒な女郎だ。いやそんなことがあるもんか。うそだ。うそだうそだと心で言うほど、思いあたる事が出てくる。おとよさんがおれに親切なは今度の稲刈りの時ばかりでない。成東の祭りの時にも考えればおかしかった。この間の日暮れなどもそうっと無花果を袂へ入れてくれた。そうそうこの前の稲刈りの時にもおれが鎌で手を切ったら、おとよさんは自分のかぶっていた手ぬぐいを惜しげもなく裂いて結わいてくれた。どうも思ってるのかもしれない。
考え出すと果てがない。省作は胸がおどって少し逆上せた。人に怪しまれやしまいかと思うと落ち着いていられなくなった。省作は出たくもない便所へゆく。便所へいってもやはり考えられる。
それではおとよさんは、どうもおれを思ってるのかもしれない。そうするとおとよさんはよくない女だ。夫のある身分で不埒な女だ。不埒だなア。省作はたしかに一方にはそう思うけれど、それはどうしても義理一通りの考えで、腹の隅の方で小さな弱々しい声で鳴る声だ。恐ろしいような気味の悪いような心持ちが、よぼよぼした見すぼらしいさまで、おとよ不埒をやせ我慢に偽善的にいうのだ。省作はいくら目をつぶっても、眉の濃い髪の黒いつやつやしたおとよの顔がありありと見える。何もかも行きとどいた女と兄もほめた若い女の手本。いくら憎く思って見てもいわゆる糠に釘で何らの手ごたえもない。あらゆる偽善の虚栄心をくつがえして、心の底からおとよさんうれしの思いがむくむく頭を上げる。どう腹の中でこねかえしても、つまりおとよさんは憎くない。いよいよおとよさんがおれを思ってるに違いなけりゃ、どうせばよいか。まさかぬしある女を……おとよさんもどういう了簡かしら。いやだいやだ、おとよさんがいくらえい女でも、ぬしある女、人の妻、いやだいやだ。省作はようやくのこと、いやだいやだと口の底で言いつつ便所を出たけれど、もしも省作がおとよさんにあって、おとよさんのあの力ある面つきで何とか言い出されたら、省作がいま口の底でいう、いやだいやだなんぞは、手のひらの塵を吹くより軽く飛んでしまいそうだ。省作は知らず知らずため息が出る。
省作が自分の座へ帰ってくると、おはまはじいっと省作の顔を見て何か言いたそうにする。省作はあわてて、
「はま公、芋の残りはないか。芋がたべたい」
「ありますよ」
「それじゃとってくろ」
それから省作はろくろく繩もなわず、芋を食ったり猫をおい回したり、用もないに家のまわりを回って見たりして、わずかに心のもしゃくしゃを紛らかした。
四
夕飯が終えるとお祖母さんは風気だとかで寝てしもた。背戸山の竹に雨の音がする。しずくの音がしとしとと聞こえる。その竹山ごしに隣のお袋の声だ。
「となりの旦那あ、湯があきましたよ」
「はあえ――」
おはまが竈屋から答える。兄夫婦は湯に呼ばれていった。省作は小座敷へはいって今日の新聞を見る。小説と雑報とはどうかこうか読めた。それから源氏物語を読んだが読めればこそ、一行も意義を解しては読めない。省作は本を持ったまま仰向きにふんぞり返って天井板を見る。天井板は見えなくておとよさんが見える。
今夜は湯に行かない方がええかしら。そうだゆくまい。行かないとしよう。なに行ったってえいさ。いやいや行かない
方がえい。ゆくまいというは道徳心の省作で、行きたい行きたいとするのは性欲の省作とでもいおうか。一方は行かない方がえいとはいうけれど、一方では行きたい行きたいの念がむらむらと抑え切れない。
もしおとよさんが、こっそり湯端へきて何とか言ったらどうしよう。こう思うと気味が悪くて恐ろしくて、腹がわくわくする。省作はまた耳がほかほかしてきた。行かない方がえいなア。あアゆくまいゆくまい。こう口の底でいうて見る。ゆきたい心はかえって口底にも出てこず、行きたいなどとは決していわないが、その力は磐石糊のように腹の底にひっついていて、どんなことしたって離れそうもしない。果てはつかれてぼんやりした気分になってると、
「省作省作、えい湯だど。ちょっともらっておいで。隣でも待ってるよ」
姉が呼ぶのに省作は無意識に立ってしまった。もうなんにも考えずに、背戸の竹山の雨の暗がりを走って隣へいってしまった。
湯は竈屋の庇の下で背戸の出口に据えてある。あたりまっ暗ではあれど、勝手知ってる家だから、足さぐりに行っても子細はない。風呂の前の方へきたら釜の火がとろとろと燃えていてようやく背戸の入り口もわかった。戸が細目にあいてるから、省作は御免下さいと言いながら内へはいった。表座敷の方では年寄りたちが三、四人高笑いに話してる。今省作がはいったのを知らない。省作は庭場の上がり口へ回ってみると煤けて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が、
「今晩は、お湯をもらいに出ました」
「まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今大話があるとこです」
というのは清さんのお袋だ。喜兵衛どんの婆さんもいる。五郎兵衛どんの婆さんもいる。七兵衛の爺さんもいた。みんな湯に入ってしまって話しこんでいるらしい。だれか障子をあけて皆が省作に挨拶する。清さんは囲炉裏のはたにごろねをしていた。おとよさんだけが影も見えず声もしない。よいあんばいだなと思う心と、失望みたような心が同時にわく。湯は明いてますからとお袋がいうままに省作は風呂場へゆく。風呂はとろとろ火ながら、ちいちいと音がしてる。蓆蓋を除けて見ると垢臭い。随分多勢はいったと見える。省作は取りあえずはいる。はいって見れば臭味もそれほどでなく、ちょうど頃合の温かさで、しばらくつかっているとうっとりして頭が空になる。おとよさんの事もちょっと忘れる。雨が少し強くなってきたのか、椎の葉に雨の音が聞こえてしずくの落つるが闇に響いて寂しい。座敷の方の話し声がよく聞こえてきた。省作は頭の後ろを桶の縁へつけ目をつぶって温まりながら、座敷の話に耳をそばだてる。やっぱりそのごやごやした話し声の中からおとよさんの声を聞き出そうとするような心も、頭のどこかに働いている。声はたしかに五郎兵衛婆さんだ。
「そら金公の嬶がさ、昨日大狂言をやったちでねいか」
「どこで、金公と夫婦げんかか、珍しくもねいや」
「ところが昨日のはよっぽどおもしろかったてよ」
「あの津辺の定公ち親分の寺でね。落合の藪の中でさ、大博打ができたんだよ。よせばえいのん金公も仲間になったのさ。それをだれが教えたか嬶に教えたから、嬶がそれ火のようになってあばれこんだとさ」
「うん博打場へかえ」
「そうよ、嬶のおこるのも無理はねいだよ、婆さん。今年は豊作というにさ。作得米を上げたら扶持とも小遣いともで二俵しかねいというに、酒を飲んだり博打まで仲間んなるだもの、嬶に無理はないだよ」
「そらまアえいけど、それからどうしたのさ」
「嬶がね。眼真暗で飛び込んでさ。こん生畜生め、暮れの飯米もねいのに、博打ぶちたあ何事たって、どなったまではよかったけど、そら眼真暗だから親父と思ってしがみついたのがその親分の定公であったとさ。そのうちに親父は外へ逃げてしまった。みんなして、おっかまア静かにしろって押えられて、見ると他人だから、嬶もそれ大まごつきさ。それでも婆さん、親分と名のつくものは感心だよ。いやおっかアに無理はねい。金公が悪い。金公金公、金公どうしたっていうもんだから、金公もきまり悪く元の所へ戻ってくると、その始末で、いやはよっぽどの見もんであったとよ」
「そりゃおかしかったなア」
皆一斉に笑う。
「それからまだおかしい事があるさ。金公もそのままのめのめと嬶と二人で帰られめい。金公が定親分にちょっとあやまってね、それから嬶の頭を二つくらしたら、嬶の方は何が飛んだかなというような面をしていて、かえって親分が、何だ金公、おれの前で嬶を打つち法はあんめいってどなられて、二人がすごすご出てきたとこが変なもんであったちよ」
「うんそうか。それでも昨日の日暮れおれが寄ったら、刈り上げで餅をついたから食っていかねいかって、二人がうんやなやでやってたよ」
「うん、あん嬶いつもそうさ。やっぱり似たもの夫婦だよ。アハハハハハ」
それから何か次の話が出そうですこぶるにぎやかだ。省作も思わず釣りこまれてひとり笑いしていると、細目にあいてる戸の間から白い女の顔がすっと出た。省作ははっとする間もなくおとよさんは、風呂の前へきて小声で「今晩は」という。省作はちょっと息つまって返辞ができないうちに、声かすかに、
「お湯がぬるくありませんか」
「ええ」
「少し燃しましょう」
おとよさんは風呂の前へしゃがんで火を起こす。火がぱっと燃えると、おとよさんの結い立ての銀杏返しが、てらてらするように美しい。省作はもうふるえが出て物など言えやしない。
「おとよさんはもうお湯が済んで」
と口のうちで言っても声には出ない。おとよさんはやがて立った。
「おオ寒い、手がつめたい」
と言って二本のまっ白い手を湯の中へ入れる。省作はおとよさんの手にさわってはたいへんとも何とも思わないけれど、何となく恐ろしくからだを後ろへ引いた。
「省作さん、流しましょうか」
「ええ」
「省作さんちょっと手ぬぐいを貸してくださいな」
おとよさんは忍び声でいうので、省作はいよいよ恐ろしくなってくる。恐ろしいというてもほかの意味ではない。こういう時は経験のある人のだれでも知ってる恐ろしさだ。省作は手ぬぐいをおとよさんに貸してからだを湯に沈めている。おとよさんは少し屈み加減になって両手を風呂へ入れているから、省作の顔とおとよさんの顔とは一尺四、五寸しか離れない。おとよさんは少し化粧をしたと見え、えもいわれないよい香りがする。平生白い顔が夜目に見るせいか、匂いのかたまりかと思われるほど美しい。かすかにおとよさんの呼吸の音の聞き取れた時、省作はなんだかにわかに腹のどこかへ焼金を刺されたようにじりじりっと胸に響いた。
はたして省作の胸に先刻起こった、不埒な女だとかはなはだよくない人だとか思った事が、どこの隅へ消えたか、影も形も見せないのだ。省作も今はうっとりしておとよさんに見とれるほかなかった。人の話し声も雨の音もなんにも聞こえないで、夢のような、酔ったような、たわいもない心持ちになって、心のすべて、むしろからだのすべてをおとよさんに奪われてしまった。省作は今おとよさんにどうされたって、おとよさんの意のままになるよりほか少しでも逆らうべき力がないようになってしまった。なるほど女というものは恐ろしいものだ。
おとよさんは「ありがとうございました」と小声でいうて手ぬぐいを手渡しながら、一層かすかな声で「省作さん」というた。その声はさすがにふるえている。省作は、「はア」と答える声すら出ないで、ただおとよさんの顔をじっと見上げているうちに、座敷の方で、
「おとよおとよ」
と呼ぶのはお袋の声だ。おとよさんは無言のまますっと身をかわして戸の内へはいる。はいってから、
「はアい」
とあざやかな返辞をする。
「湯がぬるかないか。釜の下を見て上げてくれ」
「はい」
おとよさんは再び出てきて、今度はさえざえした声で、
「省作さんおぬるいでしょう。ゆっくりはいっててください。今燃しますから……」
人をはばからない声だ。薪を二、三本釜に入れて火を燃しつけた。省作はそれにはかまわず、湯を出て着物を着掛けている。
「省さんもう上がったんですか。ぬるかったでしょう」
省作はいくじなく挨拶のことばも出ないが、帯を締めるにもことさらに手間どってもじもじしている。おとよさんはつと立ってきて髪の香りの鼻をうつまでより添う。そして声を潜めて、
「この間里から蜂屋柿を送ってくれたから省さんに二つ三つあげますよ」
おとよさんは冷たい髪の毛を省作の湯ぼてりの顔へふれる。省作も今は少し気が落ちついている。女の髪の毛が顔へふれた時むらむらとおとよさんがいじらしくなった。おとよさんは柿を省作の袂へ入れ、その手で省作の手をとった。こんな場合を初めて経験する省作はそのおとよさんの手をとり返しもせず、とられたままにおどおどしていた。とられた手に一層力がはいったと思うと、おとよさんはそのまま手を引き、燕のように身をひるがえして戸の内へ消えてしまった。省作はしばらくただ夢心地であったが、はっと心づいて見ると、一時もここにいるのが恐ろしく感じて早々家に帰った。省作はこの夜どうしても眠れない。いろいろさまざまの妄想が、狭い胸の中で、もやくやもやくや煮えくり返る。暖かい夢を柔らかなふわふわした白絹につつんだように何ともいえない心地がするかと思うと、すぐあとから罪深い恐ろしい、いやでたまらない苦悶が起こってくる。どう考えたっておとよさんは人の妻だ、ぬしある人だ、人の妻を思うとは何事だ、ばかめ破廉恥め、そんな事ができるか、ああいやだ、けれどおとよさんはどこまでも悪い人ではない、憎い女ではない、憎いどころではない、おとよさんのような女でそうしてあんなに親切な人はどこにもない、一体どういうわけであのしっかりとしたおとよさんが、隣の家のようなくずぞろいの所にいるのか、聞けば全く媒妁の人に欺かれたのだというのに、わからねいなア、そのくせ清さんと仲がえいかというに決してそうでないようだに、おとよさんはえい人でかわいそうな人だ、どうしたらえいだろう。
ただお互いに思い合ってるばかりで、どうもしなければさしつかえもあるまいが、それでお互いに満足ができようか、それがまたできたところでつまりはつまらない事になってしまう。いくら考えても結局を思えば、おれとおとよさんが何ほど思い合ってもどうする事もできやしない。徒らなる感情の上にむなしき思いを通わせても罪の深いことは同じだ。世間にうわさでも立てられた日には二人がこうむる禍いも同じだ。ああつまらないばかばかしい。そうだおとよさんによく言い聞かして、つまらぬ考えはやめさせよう、それに限る。それでもおとよさんがおれの言うことを聞くかしら、一体おとよさんはどういう了簡かしら。何もかもわかってるおとよさんが、人の妻でいながらあんなことをするのは、困ったなア。いくら考えなおしてもおとよさんはえい人だ、いとしい人だ。おとよさんのためならおら罪人になってもえい。極道人になってもえい。それでおとよさんさええいと思っててくれるなら。ああ困った。
省作はとうとう鶏の鳴くまで眠れなかった。幾百回考えても、つながれてる犬がその棒をめぐるように、めぐっては元へ返り、返っては元へ戻り、愚にもつかぬ事をぐるぐる考えめぐっていたのだ。泳ぎを知らない人が水の深みへはいったように、省作は今はどうにもこうにも動きがとれない。つまりおとよさんの恋の手に囚われてしまっているのだから、省作が一人であがいた分には、いくらあがいたってなんにもならないのだ。この事件は省作の心だけではどうすることもできないのだ。
五
それから後のおとよさんは片思いの人ではなかった。隣同士だからなんといっても顔見合わせる機会が多い。お互いにそぶりに心を通わし微笑に意中を語って、夢路をたどる思いに日を過ごした。後には省作が一筋に思い詰めて危険をも犯しかねない熱しような時もあったけれど、そこはおとよさんのしっかりしたところ、懇に省作をすかして不義の罪を犯すような事はせない。
おとよさんの行為は女子に最も卑しむべき多情の汚行といわれても立派な弁解は無論できない。しかしよくその心事に立ち入って見れば、憐むべき同情すべきもの多きを見るのである。
おとよさんが隣に嫁入ったについては例の媒妁の虚偽に誤られた。おとよさんの里は中農以上の家であるに隣はほとんど小作人同様である。それに清六があまり怜悧でなく丹精でもない。おとよさんも来て間もなくすべての様子を知っていったん里へかえったのだが、おとよさんの父なる人は腕一本から丹精して相当な財産を作った人だけに、財産のないのをそれほどに苦にしない。働けば財産はできるものだ、いったん縁あって嫁いったものを、ただ財産がないという一か条だけで離縁はできない、そういう不人情な了簡ではならぬといわれて、おとよさんはいやいや帰ってきた。父の言うとおり財産のないだけで、清六が今少し男子らしければ、おとよさんも気をもむのではない。そういう境遇のところへ、隣のことであるから、自然省作の家と往復して、省作の人柄が、温和なうちにちゃんとしたところがあり、学問とて清六などの比ではない、そのほかおとよさんとどこか気のあったところのあるので、おとよさんはついに思いをよせる事になったのだ。陰ながらも省作を見、省作の声を聞けば、おとよさんはいつでも胸の曇りが晴れるのだ。それがため到底だめと思ってる隣の家にうかうか半年を過ごしたのである。その年もようやく暮れて、十二月半ばごろに突如として省作の縁談が起こった。隣村某家へ婿養子になることにほぼ定まったのである。省作はおはまの手引きによって、一日おとよさんと某所に会し今までの関係を解決した。
お互いに心の底を話して見れば、いよいよ互いに敬愛の念がみなぎり返るのであるが、ままならぬ世のならいにそむき得ず、どうしても遠い他人にならねばならない。男同士ならばますます親密の交わりができるのに男女となるとそうはゆかない。実につまらない世の中だ。わが身心をわが思いに任せられないとは、人間というものは考えて見るとばかげきったものだ。結婚せねばならぬという理屈でよくは性根もわからぬ人と人為的に引き寄せられて、そうして自ら機械のごときものになっていねばならぬのが道徳というものならば、道徳は人間を絞め殺す道具だ。二人は互いに手をとって涙の糸をより合わせ、これからさき神の恵みに救われるような事があったらば、互いに持った涙の繩を結び合わせようと約束した。
この事あった翌々日、おとよさんは里へ帰ってしもうた。そうしてついに隣へ帰って来なかった。省作もいったん養家へいったけれど、おとよさんとのうわさが立ったためかついに破縁になった。
(明治四十一年一月) | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1977(昭和52)年9月20日第1刷発行
1981(昭和56)年7月30日第6刷発行
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年2月号
入力:網迫、大野晋
校正:林 幸雄、富田倫生
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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その日の朝であった、自分は少し常より寝過ごして目を覚ますと、子供たちの寝床は皆からになっていた。自分が嗽に立って台所へ出た時、奈々子は姉なるものの大人下駄をはいて、外へ出ようとするところであった。焜炉の火に煙草をすっていて、自分と等しく奈々子の後ろ姿を見送った妻は、
「奈々ちゃんはね、あなた、きのうから覚えてわたい、わたいっていいますよ」
「そうか、うむ」
答えた自分も妻も同じように、愛の笑いがおのずから顔に動いた。
出口の腰障子につかまって、敷居を足越そうとした奈々子も、ふり返りさまに両親を見てにっこり笑った。自分はそのまま外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今鶏箱から雛を出して追い込みに入れている。雪子もお児もいかにもおもしろそうに笑いながら雛を見ている。
奈々子もそれを見に降りてきたのだ。
井戸ばたの流し場に手水をすました自分も、鶏に興がる子どもたちの声に引かされて、覚えず彼らの後ろに立った。先に父を見つけたお児は、
「おんちゃんにおんぼしんだ、おんちゃんにおんぼしんだ」
と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、
「わたえもおんも、わたえもおんも」
と同じく父に取りつくのであった。自分はいつものごとくに、おんぼという姉とおんもという妹とをいっしょに背負うて、しばらく彼らを笑わせた。梅子が餌を持ち出してきて鶏にやるので再び四人の子どもは追い込みの前に立った。お児が、
「おんちゃんおやとり、おんちゃんおやとり」
というから、お児ちゃん、おやとりがどうしたかと聞くと、お児ちゃんはおやとりっち言葉をこのごろ覚えたからそういうのだと梅子が答える。奈々子は大きい下駄に疲れたらしく、
「お児ちゃんのかんこ、お児ちゃんのかんこ」
といい出した。お児の下駄を借りたいというのである。父は幼き姉をすかしてその下駄を貸さした。お児は一つ上の姉でも姉は姉らしいところがある。小さな姉妹は下駄を取り替える。奈々子は満足の色を笑いにたたわして、雪子とお児の間にはさまりつつ雛を見る。つぶつぶ絣の単物に桃色のへこ帯を後ろにたれ、小さな膝を折ってその両膝に罪のない手を乗せてしゃがんでいる。雪子もお児もながら、いちばん小さい奈々子のふうがことに親の目を引くのである。虱がわいたとかで、つむりをくりくりとバリカンで刈ってしもうた頭つきが、いたずらそうに見えていっそう親の目にかわゆい。妻も台所から顔を出して、
「三人がよくならんでしゃがんでること、奈々ちゃんや、鶏がおもしろいかい、奈々ちゃんや」
三児はいちように振り返って母と笑いあうのである。自分は胸に動悸するまで、この光景に深く感を引いた。
この日は自分は一日家におった。三児は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。
三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。
「おんちゃん、おんちゃん、かちあるかい、かち、奈子ちゃんがかちだって」
続いて奈々子が走り込む。
「おっちゃんあっこ、おっちゃんあっこ、はんぶんはんぶん」
といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫んで父の膝に乗るのである。一つではあまり大きいというので、半分ずつだよといい聞かせられるために、自分からはんぶんはんぶんというのである。四歳のお児はがっこといい、三歳の奈々子はあっこという。年の違いもあれど、いくらか性質の差もわかるのである。六歳の雪子はふたりのあとからはいってきて、ただしれしれと笑っている。菓子が三人に分配される、とすぐに去ってしまう、風の凪いだようにあとは静かになる。静かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思う。そう思って庭を見ると、いつの間にか三人は庭の空地に来ておった。くりくり頭に桃色のへこ帯がひとり、角子頭に卵色のへこ帯がふたり、何がおもしろいか笑いもせず声も立てず、何かを摘んでるようすだ。自分はただかぶりの動くのとへこ帯のふらふらするのをしばらく見つめておった。自分も声を掛けなかった、三人も菓子とも思わなかったか、やがてばたばた足音がするから顔を出してみると、奈々子があとになって三人が手を振ってかける後ろ姿が目にとまった。
ご飯ができたからおんちゃんを呼んでおいでと彼らの母がいうらしかった。奈々ちゃんお先においでよ奈々ちゃんと雪子が叫ぶ。幼きふたりの伝令使は見る間に飛び込んできた。ふたりは同体に父の背に取りつく。
「おんちゃんごはんおあがんなさいって」
「おはんなさいははははは」
父は両手を回し、大きな背にまたふたりをおんぶして立った。出口がせまいので少しからだを横にようやく通る窮屈さをいっそう興がって、ふたりは笑い叫ぶ。父の背を降りないうちから、ふたりでおんちゃんを呼んできたと母にいう騒ぎ、母はなお立ち働いてる。父と三児は向かい合わせに食卓についた。お児は四つでも箸持つことは、まだほんとうでない。少し見ないと左手に箸を持つ。またお箸の手が違ったよといえば、すぐ右に直すけれど、少しするとまた左に持つ。しばしば注意して右に持たせるくらいであるから、飯も盛んにこぼす。奈々子は一年十か月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物をよごすことも少ないのである。姉たちがすわるにせまいといえば、身を片寄せてゆずる、彼の母は彼を熟視して、奈々ちゃんは顔構えからしっかりしていますねいという。
末子であるから埒もなくかわいいというわけではないのだ。この子はと思うのは彼の母ばかりではなく、父の目にもそう見えた。
午後は奈々子が一昼寝してからであった、雪子もお児もぶらんこに飽き、寝覚めた奈々子を連れて、表のほうにいるようすであったが、格子戸をからりあけてかけ上がりざまに三児はわれ勝ちと父に何か告げんとするのである。
「お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が」
「おんちゃん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちゃん」
「へんだ、おっちゃんへんだ」
奈々子は父の手を取ってしきりに来て見よとの意を示すのである。父はただ気が弱い。口で求めず手で引き立てる奈々子の要求に少しもさからうことはできない。父は引かるるままに三児のあとから表にある水鉢の金魚を見にいった。五、六匹死んだ金魚は外に取り捨てられ、残った金魚はなまこの水鉢の中にくるくる輪をかいてまわっていた。水は青黒く濁ってる。自分はさっそく新しい水をバケツに二はいくみ入れてやった。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
「きんご、おっちゃんきんご、おっちゃんきんご」
「もう金魚へにゃしないねい。ねいおんちゃん、へにゃしないねい」
三児は一時金魚の死んだのに驚いたらしかった。父はさらに金魚を買い足してやることを約束して座に返った。三人はなおしきりに金魚をながめて年相当な会話をやってるらしい。
あとから考えたこの時の状態を何といったらよいか。無邪気な可憐な、ほとんど神に等しき幼きものの上に悲惨なる運命はすでに近く迫りつつありしことを、どうして知り得られよう。
くりくりと毛を刈ったつむり、つやつやと肥ったその手や足や、なでてさすって、はてはねぶりまわしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れてしまった。おんもといい、あっこといい、おっちゃんといったその悲しい声は永遠に父の耳を離れてしまった。
この日の薄暮ごろに奈々子の身には不測の禍があった。そうして父は奈々子がこの世を去る数時間以前奈々子に別れてしまった。しかも奈々子も父も家におって……。いつもならば、家におればわずかの間見えなくとも、必ず子どもはどうしたと尋ねるのが常であるのに、その日の午後は、どういうものか数時間の間子どもをたずねなかった。あとから思うと闇の夜に顔も見得ず別れてしまったような気がしてならない。
一つの乳牛に消化不良なのがあって、今井獣医の来たのは井戸ばたに夕日の影の薄いころであった。自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことにした。自分が牛舎の流しを出て台所へあがり奥へ通ったうちに梅子とお手伝いは夕食のしたくにせわしく、雪子もお児もうろうろ遊んでいた、民子も秋子もぶらんこに遊んでいた。ただ奈々子の姿が見えなかった。それでも自分はあえて怪しみもせず、今井とともに門を出た。今井の宅は十二、三分間でゆかれる所である。
今井の宅には洋燈もついてほかに知人もひとりおった。上がってからおよそ十五、六分も過ぎたと思う時分に、あわただしき迎えのものは、長女とお手伝いであった。
「お父さん大へんです、奈々ちゃんが池へ落ちて……」
それやっと口から出たか出ないかも覚えがなく、人を押しのけて飛び出した。飛び出る間際にも、
「奈々子は泣いたかッ」
と問うたら、長女の声でまだ泣かないと聞こえた。自分はその不安な一語を耳にはさんで、走りに走った。走れば十分とはかからぬ間なれど肥った自分には息切れがしてほとんどのめりそうである。ようやく家近く来ると梅子が走ってきた。自分はまた、
「奈々子は泣いたか」
「まだ泣かない、お父さんまだ医者も来ない」
自分はあわてながらもむつかしいなと腹に思いつつなお一息と走った。
わやわやと騒がしい家の中は薄暗い。妻は台所の土間に藁火を焚いて、裸体の死児をあたためようとしている。入口には二、三人近所の人もいたようなれどだれだかわからぬ。民子、秋子、雪子らの泣き声は耳にはいった。妻は自分を見るや泣き声を絞って、何だってもう浮いていたんですものどうしてえいやらわからないけれど、隣の人が藁火であたためなければっていうもんですから、これで生き返るでしょうか……。自分はすぐに奈々子を引き取った。引き取りながらも、医者は何といった。坂部はいたかといえば、坂部は家にいてすぐくるといいましたと返事したのはだれだかわからなかった。
水にぬれた紙のごとく、とんと手ごたえがなく、頸も手も腰にも足にも、いささかだも力というものはない。父は冷えたわが子を素肌に押し当て、聞き覚えのおぼつかなき人工呼吸を必死と試みた。少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみた。素人ながらも、何ら生ある音を聞き得ない。水を吐いたかと聞けば、吐かないという。しかし腹に水のあるようすもない。どうする詮も知らずに着物をあたためてはあてがい、あたためてはあてがってるのみ、家じゅう皆立って手にすることがなくうろうろしてる。妻は叫ぶ、坂部さんがいなければ木下さんへゆけってこかねい。坂部さんはどうしたんだろうねい。坂部さんへまた見にゆきましたというものがあった。妻は上げた時すぐに奈あちゃんやって呼んだら、どうも返事をしたようであったがねい。返事ではなかったのかしら……。なんだって浮いていたのを見つけたんだもの、よもや池とは思わないから、いちばんあとで池を見たら浮いていたんですもの、という。
それでも息を吹き返すこともやと思いながら、浮いておったということは、落ちてから時間のあることを意味するから、妻はしばしばそれを気にする。
「坂部さんが、坂部さんが」
という声は、家じゅうに息を殺させた。それで医者ならば生き返らせることができるかとの一縷の望みをかけて、いっせいに医者に思いをあつめた。自分はその時までも、肌に抱き締めあたためていた子どもを、始めて蒲団の上へはなした。冷然たる医者は一、二語簡単な挨拶をしながら診察にかかった。しかし診察は無造作であった。聴診器を三、四か所胸にあてがってみた後、瞳を見、眼瞼を見、それから形ばかりに人工呼吸を試み注射をした。肛門を見て、死後三十分くらいを経過しているという。この一語は診察の終わりであった。多くの姉妹らはいまさらのごとく声を立てて泣く、母は顔を死児に押し当ててうつぶしてしまった。池があぶないあぶないと思っていながら、何という不注意なことをしたんだろう。自分もいまさらのごとくわが不注意であったことが悔いられる。医師はそのうち帰ってしまわれた。
近所の人々が来てくれる。親類の者も寄ってくる。来る人ごとに同じように顛末を問われる。妻は人のたずねに答えないのも苦しく、答えるのはなおさら苦しい。もちろん問う人も義理で問うのであるから深くは問いもせぬけれど、妻はたまらなくなって、
「今夜わたしはあなたとふたりきりでこの子の番をしたい」
といいだす。自分はそうもいくまいがとにかくここへは置けない。奥へ床を移さねばならぬといって、奥の床の前へ席を替えさした。枕上に経机を据え、線香を立てた。奈々子は死に顔美しく真に眠ってるようである。線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらという親戚の助言は聞かなかった。まだこの世の人でないとはどうしても思われないから、燈明を上げるだけは今夜の十二時過ぎからにしてといった。
親戚の妻女だれかれも通夜に来てくれた。平生愛想笑いをする癖が、悔やみ言葉の間に出るのをしいてかみ殺すのが苦しそうであった。近所の者のこの際の無駄話は実にいやであった。寄ってくれた人たちは当然のこととして、診断書のこと、死亡届のこと、埋葬証のこと、寺のことなど忠実に話してくれる。自分はしようことなしに、よろしく頼むといってはいるものの、ただ見る眠ってるように、花のごとく美しく寝ているこの子の前で、葬式の話をするのは情けなくてたまらなかった。投げ出してるわが子の足に自分の手を添えその足をわが顔へひしと押し当てて横顔に伏している妻は、埋葬の話を聞いてるか聞いていないか、ただ悲しげに力なげに、身をわが子の床に横たえている。手にすることがなくなって、父も母も心の思いはいよいよ乱れるのである。
わが子の寝顔につくづく見いっていると、自分はどうしてもこの子が呼吸してるように思われてならない。胸に覆うてある単物のある点がいくらか動いておって、それが呼吸のために動くように思われてならぬ。親戚の妻女が二つになる子どもをつれてきて、そこに寝せてあればその子の呼吸の音がどうかするとわが子のそれのように聞こえる。自分は、たえられなくなって、覆いの着物をのけ、再びわが子の胸に耳をひっつけて心臓音を聞いてみた。
何ほど念を入れて聞いても、絶対の静かさは、とうてい永久の眠りである。再び動くということなき永久の静かさは、実に冷酷のきわみである。
永久なる眠りも冷酷なる静かさも、なおこのままわが目にとどめ置くことができるならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はあるわけなれど、残酷にして浅薄な人間は、それらの希望に何の工夫を費さない。
どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臓音の停止を聞くや、なお幾時間もたたないうちから、埋葬の協議にかかる。自分より遠ざけて、自分の目より離さんと工夫するのが人間の心である。哲学がそれを謳歌し、宗教がそれを賛美し、人間のことはそれで遺憾のないように説いている。
自分は今つくづくとわが子の死に顔を眺め、そうして三日の後この子がどうなるかと思うて、真にわが心の薄弱が情けなくなった。わが生活の虚偽残酷にあきれてしまった。近隣親族の徒が、この美しい寝顔の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに従うのほかないのであってみれば、自分もやはり世間一流の人間に相違ないのだ。自分はこう考えて、浮かぶことのできない、とうてい出ずることのできない、深い悲しみの淵に沈んだような気がした。今の自分はただただ自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦しめるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲学や宗教やはことごとく余裕のある人どもの慰み物としか思えない。自分もいままではどうかすると、哲学とか宗教とかいって、自分を欺き人を欺いたことが、しみじみ恥ずかしくてならなくなった。
真に愛するものを持たぬ人や、真に愛するものを死なしたことのない人に、どうして今の自分の悲痛がわかるものか、哲学も宗教も今の自分に何の慰藉をも与え得ないのは、とうていそれが第三者の言であるからであるまいか。
自分はもう泣くよりほかはない。自分の不注意を悔いて、自分の力なきをなげいて泣くよりほかはない。美しい死に顔も明日までは頼まれない。わが子を見守って泣くよりほかに術はない。
妻もただ泣いたばかりで飽き足らなくなったか、部屋に帰って亡き人の姉々らと過ぎし記憶をたどって、悔しき当時の顛末を語り合ってる。自分も思わず出てきてその仲間になった。
自分が今井とともに家を出てから間もないことであった。妻は気分が悪く休みおったが、子どもたちの姿がしばらく目を離れたので、台所に働きおる姉たちに、子どもたちはどうしていると問うた。姉はよどみなく、三人がいっしょにおもしろそうに遊んでいますとの答えに、妻は安心して休みおった。それから少し過ぎてお児がひとり上がってきて、母ちゃん乳いというのに、また奈々子はと姉らに問えば、そこらに遊んでいるでしょう、秋ちゃんが遊びにつれていったんでしょうなどいうをとがめて、それではならない、たしかに見とどけなくてはなりませんと、妻は今は起き出でて、そこかここかとたずねさした。
隣へ見にやる、菓子屋へ見にやる、下水溝の橋の下まで見たが、まさかに池とは思わないので、最後に池を見たらば……。
浮いておった。池に仰向けになって浮いていた。垣根の竹につかまって、池へはいらずに上げることができた。時間を考えると、初めいるかと問うた時たしかにいたものならば、その後の間はまことにわずかの間に相違ないが、まさか池にと思って早く池を見なかった。騒ぎだした時、すぐに池を見たら間に合ったかもしれなかった。そういう生まれ合わせだと皆はいうけれど、そうばかりは思われない。あぶないといっていながら、なぜ早く池を埋めてしまわなかったか。考えると何もかも届かないことばかりで、それが残念でならない。
妻の繰り言は果てしがない。自分もなぜ早く池を埋めなかったか、取り返しのつかぬあやまちであった。その悔恨はひしひし胸にこたえて、深いため息をするほかはない。
「ねいあなた、わたしがいちばん後に見た時にはだれかの大人下駄をはいていた。あの子は容易に素足にならなかったから下駄をはいて池へはいったかどうか、池のどのへんからはいったか、下駄などが池に浮いてでもいるか、あなたちょっと池を見て下さい」
妻のいうままに自分は提灯を照らして池を見た。池には竹垣をめぐらしてある。東の方の入口に木戸を作ってあるのが、いつかこわれてあけ放しになってる。ここからはいったものに違いない。せめてこの木戸でもあったらと切ない思いが胸にこみあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行している。ただ静かに滑らかで、人ひとり殺した恐ろしい水とも見えない。幼い彼は命取らるる水とも知らず、地平と等しい水ゆえ深いとも知らずに、はいる瞬間までも笑ましき顔、愛くるしい眼に、疑いも恐れもなかったろう。自分はありありと亡き人の俤が目に浮かぶ。
梅子も出てきた、民子も出てきた。二坪にも足らない小池のまわり、七度も八度も提灯を照らし回って、くまなく見回したけれども、下駄も浮いていず、そのほか亡き人の物らしいもの何一つ見当たらない。ここに浮いていたというあたりは、水草の藻が少しく乱れているばかり、ただ一つ動かぬ静かな濁水を提灯の明りに見れば、ただ曇って鈍い水の光り、何の罪を犯した色とも思えない。ここからと思われたあたりに、足跡でもあるかと見たが下駄の跡も素足の跡も見当たらない。下駄のないところを見ると素足で来たに違いない。どうして素足でここへ来たか、平生用心深い子で、縁側から一度も落ちたことも無かったのだから、池の水が少し下がって低かったら、落ち込むようなことも無かったろうにと悔やまれる。梅子も民子もただ見回してはすすり泣きする。沈黙した三人はしばらく恨めしき池を見やって立ってた。空は曇って風も無い。奥の間でお通夜してくれる人たちの話し声が細々と漏れる。
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といって先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下にある物を認めた。自分はすぐそれと気づいて見ると、果たして亡き人の着ていた着物であった。ぐっしゃり一まとめに土塊のように置いてあった。
「これが奈々ちゃんの着物だね」
「あァ」
ふたりは力ない声で答えた。絣の単物に、メリンスの赤縞の西洋前掛けである。自分はこれを見て、また強く亡き人の俤を思い出さずにいられなかった。
くりくりとしたつむり、赤い縞の西洋前掛けを掛け、仰向いて池に浮いていたか。それを見つけた彼の母の、その驚き、そのうろたえ、悲しい声を絞って人を呼びながら引き上げたありさま、多くの姉妹らが泣き叫んで走り回ったさまが、まざまざと目に見るように思い出される。
三人が上がってきて、また一しきり、親子姉妹がいってかいないはかな言を繰り返した。
十二時が過ぎたというので、経机に燈明を上げた。線香も盛んにともされる。自分はまだどうしてこの世の人でないとは思われない。幾度見ても寝顔は穏やかに静かで、死という色ざしは少しもない。妻は相変わらず亡き人の足のあたりへ顔を添えてうつぶしている。そうしてまたしばしば起きてはわが子の顔を見まもるのであった。お通夜の人々は自分の仕振りに困じ果ててか、慰めの言葉もいわず、いささか離れた話を話し合うてる。夜は二時となり、三時となり、静かな空気はすべてを支配した。自分はその間にひとり抜け出でては、二度も三度も池のまわりを見に行った。池の端に立っては、亡き人の今朝からの俤を繰り返し繰り返し思い浮かべて泣いた。
おっちゃんにあっこ、おっちゃんにおんも、おっちゃんがえい、お児ちゃんのかんこ、お児ちゃんのかんこがえいと声がするかと思うほどに耳にある彼の子の言葉を、口にいいさえすればすぐ涙は流れる。何べんも何べんもそれを繰り返しては涙を絞った。
夜が明けそうと気づいて、驚いてまた枕辺にかえった。妻もうとうとしてるようであった。ほかの七、八人ひとりも起きてるものは無かった。ただ燈明の火と、線香の煙とが、深い眠りの中の動きであった。自分はこの静けさに少し気持ちがよかった。自分の好きなことをするに気がねがいらなくなったように思われたらしい。それで別にどういうことをするという考えがあるのでもなかった。
夜が明けたらこの子はどうなるかと、恐る恐る考えた。それと等しく自分の心持ちもどうなるかと考えられる。そしてそういうことを考えるのを、非常に気味わるく恐ろしく感じた。自分は思わず口のうちで念仏を始めた。そうして数十ペん唱えた。しかしいくら念仏を唱えても、今の自分の心の痛みが少しも軽くなると思えなかった。ただ自分は非常に疲れを覚えた。気の張りが全く衰えてどうなってもしかたがないというような心持ちになってしまった。
(明治四十二年九月) | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1977(昭和52)年9月20日第1刷発行
1981(昭和56)年6月15日第4刷発行
入力:大野晋
校正:大西敦子
2000年6月2日公開
2005年11月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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其日の朝であつた、自分は少し常より寢過して目を覺すと、子供達の寢床は皆殼になつてゐた。自分が嗽に立つて臺所へ出た時、奈々子は姉なるものゝ大人下駄を穿いて、外とへ出ようとする處であつた。凉爐の火に煙草を喫つてゐて、自分と等しく奈々子の後姿を見送つた妻は、
『奈々ちやんはねあなた、昨日から覺えてわたい、わたいつて云ひますよ。
『さうか、うむ。
答へた自分も妻も同じやうに、愛の笑が自から顏に動いた。
出口の腰障子につかまつて、敷居を足越さうとした奈々子も、振返りさまに兩親を見てにつこり笑つた。自分は其儘外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今雞箱から雛を出して追込に入れてゐる。雪子もお兒も如何にも面白さうに笑ひながら雞を見て居る。
奈々子もそれを見に降りて來たのだ。
井戸端の流し場に手水を濟した自分も、雞に興がる子供達の聲に引かされて、覺えず彼等の後ろに立つた。先に父を見つけたお兒は、
『おんちやんにおんぼしんだ、おんちやんにおんぼしんだ。
と叫んで父の膝に取りついた。奈々子もあとから、
『わたえもおんも、わたえもおんも。
と同じく父に取りつくのであつた。自分はいつもの如くに、おんぼといふ姉とおんもといふ妹とを一所に背負うて、暫く彼等を笑はせた。梅子が餌を持出してきて雛にやるので再び四人の子供は追込みの前に立つた。お兒が、
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『三人が能く並んで蹲踞んでること、奈々ちやんや雞が面白いかい奈々ちやんや。
三兒は一樣に振返つて母と笑ひあふのである。自分は胸に動悸するまで、此光景に深く感を引いた。
此日は自分は一日家に居つた。三兒は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。
三人が菓子を貰ひに來る、お兒が一番無遠慮にやつてくる。
『おんちやん、おんちやん、かちあるかいかち、奈子ちやんがかちだつて。
續いて奈々子が走り込む。
『おつちやんあつこ、おつちやんあつこ、はんぶんはんぶん。
と云ひつゝいきなり父に取りつく 奈々子が菓子ほしいといふ時に、父は必ずだつこしろ、だつこすれば菓子やるといふ爲に、菓子のほしい時彼はあつこ〳〵と叫んで父の膝に乘るのである。一つでは餘り大きいといふので、半分づゝだよと云ひ聞せられる爲に、自分からはんぶんはんぶんといふのである。四才のお兒はがつこといひ、三才の奈々子はあつこと云ふ。年の違ひもあれど、いくらか性質の差も判るのである。六才の雪子は二人の跡から這入つてきて、只しれ〳〵と笑つて居る。菓子が三人に分配されると、直ぐに去つて終ふ。風の凪いだやうに跡は靜かになる。靜かさが少しく長くなると、どうして遊んでるかなと思ふ。さう思つて庭を見ると、いつの間にか三人は庭の明地に來て居つた。くり〳〵頭に桃色の彦帶が一人、角子頭に卵色の兵兒帶が二人、何が面白いか笑もせず聲も立てず、何かを摘んでる樣子だ。自分は只頭りの動くのと彦帶のふら〳〵するのを暫く見詰めて居つた。自分も聲を挂けなかつた、三人も菓子とも思はなかつたか、やがてはた〳〵足音がするから顏を出して見ると、奈々子が後になつて三人が手を振つて駈ける後姿が目にとまつた。
御飯が出來たからおんちやんを呼んでお出と彼等の母が云ふらしかつた。奈々ちやんお先にお出よ奈々ちやんと雪子が叫ぶ。幼き二人の傳令使は見る間に飛込んで來た。二人は同體に父の背に取りつく。
『おんちやん御はんおあがんなさいつて。
『おはんなさい、ハヽヽヽヽ
父は兩手を廻し、大きな背に又二人を負んぶして立つた。出口が狹いので少し體を横に漸く通る窮屈さを一層興がつて、二人は笑ひ叫ぶ。父の背を降りない内から、二人でおんちやんを呼んできたと母に云ふ騷ぎ、母は猶立働いてる。父と三兒は向合に食卓についた。お兒は四つでも、箸持つことは、まだ本當でない、少し見ないと左手に箸を持つ、又お箸の手が違つたよと云へば、直ぐ右に直すけれど、少しすると又左に持つ、屡注意して右に持たせる位であるから、飯も盛にこぼす。奈々子は一年十ヶ月なれど、箸持つ手は始めから正しい。食べ物に着物を汚すことも少ないのである。姉等が坐るに狹いと云へば、身を片寄せて席をゆづる、彼れの母は彼れを熟視して、奈々ちやんは顏構からしてしつかりして居ますねいといふ。
末子であるから埒もなく可愛といふ譯ではないのだ。此の子はと思ふのは彼れの母許りではなく、父の目にもさう見えた。
午後は奈々子が一晝寢してからであつた、雪子もお兒も鞦韆に飽き、寢覺めた奈々子を連れて、表の方に居る樣子であつたが、格子戸をからり明けて駈け上りざまに三兒は吾勝ちと父に何か告げんとするのである。
『お父さん金魚が死んだよ、水鉢の金魚が。
『おんちやん金魚がへんだ。金魚がへんだよおんちやん。
『へんだ、おつちやんへんだ。
奈々子は父の手を取つて頻りに來て見よとの意を示すのである。父は只氣が弱い、口で求めず手で引立てる奈々子の要求に少しも逆ふことは出來ない。父は引かるゝまゝに三兒の後から表にある水鉢の金魚を見に往つた。五六匹死んだ金魚は外に取捨てられ、殘つた金魚はなまこの水鉢の中にくる〳〵輪をかいて廻つて居た、水は青黒く濁つてる。自分は早速新しい水をバケツに二はい汲み入れてやつた。奈々子は水鉢の縁に小さな手を掛け、
『きんごおつちやんきんご、おつちやんきんご。
『もう金魚へにやしないねいねいおんちやん、へにやしないねい。
三兒は一時金魚の死んだのに驚いたらしかつた。父は更に金魚を買ひ足してやることを約束して座に返つた。三人は猶頻りに金魚をながめて年相當な會話をやつてるらしい。
後から考へた此時の状態を何と云つたらよいか。無邪氣な可憐な、殆ど神に等しき幼きものゝ上に、悲慘なる運命は已に近く迫りつゝありしことを、どうして知り得られよう。
くり〳〵と毛を刈つたつむり、つや〳〵と肥つた其手や足や、撫でゝさすつて、はては舐りまはしても飽きたらぬ悲しい奈々子の姿は、それきり父の目を離れて終つた。おんもと云ひ、あつこと云ひ、おつちやんと云つた其悲しい聲は永遠に父の耳を離れて終つた。
此日の薄暮頃に奈々子の身には不測の禍があつた。さうして父は奈々子が此世を去る數時間以前奈々子に別れて終つた、然かも奈々子も父も家に居つて………。いつもならば、家に居れば僅かの間見えなくとも、必ず子供はどうしたと尋ねるのが常であるのに、其日の午後は、どいふものか數時間の間子供をたづねなかつた。跡から思ふと、闇の夜に顏も見得ず別れて終つたやうな氣がしてならない。
一つの乳牛に消化不良なのがあつて、今井獸醫の來たのは、井戸端に夕日の影の薄い頃であつた。自分は今井と共に牛を見て、牧夫に投藥の方法など示した後、今井獸醫が、何か見せたい物があるからと云はるゝまゝに、今井の宅に打連れて往くことにした。自分が牛舍の流しを出て臺所へあがり、奧へ通つた内に梅子と女中は夕食の仕度に忙しく、雪子もお兒もうろ〳〵遊んでゐた、民子も秋子も鞦韆に遊んでゐた。只奈々の姿が見えなかつた。それでも自分は敢て怪みもせず、今井と共に門を出た、今井の宅は十二三分間で往かれる所である。
今井の宅には洋燈もついて外に知人も一人居つた。上がつてから凡そ十五六分も過ぎたと思ふ時分に、あわたゞしき迎へのものは、長女と女中であつた。
『お父さん大へんです、奈々ちやんが池へ落ちて………。
それやつと口から出たか出ないかも覺えがなく、人を押しのけて飛出した。飛び出でる間際にも、
『奈々子は泣いたかツ
と問うたら、長女の聲で未だ泣かないと聞えた。自分は其不安な一語を耳に挾さんで、走りに走つた。走れば十分とはかゝらぬ間なれど肥つた自分には息切れがして殆どのめりさうである。漸く家近く來ると梅子が走つてきた。自分は又
『奈々子は泣いたか。
『まだ泣かない、お父さん未だ醫者も來ない。
自分は周章てながらも六つかしいなと腹に思ひつゝ猶一息と走つた。
わや〳〵と騷がしい家の中は薄暗い。妻は臺所の土間に藁火を焚いて、裸體の死兒を温ためようとしてゐる。入口には二三人近所の人もゐたやうなれど誰だか別らぬ。民子、秋子、雪子等の泣聲は耳に入つた。妻は自分を見るや泣聲を絞つて、何だつてもう浮いてゐたんですもの、どうしてえいやら判らないけれど、隣の人が藁火で暖めなければつて云ふもんですから、これで生き返へるでせうか………………。自分は直に奈々子を引取つた。引取ながらも醫者は何と云つた、坂部は居たかと云へば、坂部は家に居つて直ぐくると云ひましたと返辭したのは誰だか判らなかつた。
水に濡れた紙の如く、とんと手ごたへがなく、頸も手も腰にも足にも、いさゝかだも力といふものはない。父は冷えた吾が子を素肌に押し當て、聞き覺えの覺束なき人工呼吸を必死と試みた。少しも驗はない。見込のあるものやら無いものやら、只わく〳〵するのみである。かういふ内醫者はどうして來ないかと叫ぶ。仰向けに寢かして心臟音を聞いても見た。素人ながらも、何等生ある音を聞き得ない。水は吐いたかと聞けば、吐かないといふ、併し腹に水のある樣子もない。どうする詮も知らずに着物を暖めてはあてがひ、暖めてはあてがつてるのみ、家中皆立つて手にする事がなくうろ〳〵してる。妻は叫ぶ、坂部さんが居なければ木下さんへ往けつてこかねい、坂部さんはどうしたんだらうねい。坂部さんへ又見にゆきましたといふものがあつた。妻は上げた時直ぐに奈アちやんやつて呼んだら、どうも返辭をしたやうであつたがねい、返辭ではなかつたのか知ら………。なんだつて浮いてゐたのを見つけたんだもの、よもや池とは思はないから、一番あとで池を見たら浮いてゐたんですもの、と云ふ。
それでも息を吹返すこともやと思ひながら、浮いて居つたといふ事は、落ちてから時間のあることを意味するから、妻は屡それを氣にする。
『坂部さんが、坂部さんが、
といふ聲は、家中に息を殺させた。それで醫者ならば生返らせる事が出來るかとの一縷の望をかけて、一齊に醫者に思ひをあつめた。自分は其時までも、肌に抱締め暖めてゐた子供を、始めて蒲團の上へ放した。冷然たる醫師は、一二語簡單な挨拶をしながら診察にかゝつた。併し診察は無造作であつた、聽診器を三四ヶ所胸にあてがつて見た後、瞳を見、眼瞼を見、それから形許りに人工呼吸を試み、注射をした、肛門を見て、死後三十分位を經過して居ると云ふ。この一語は診察の終りであつた。多くの姉妹等は今更の如く聲を立てゝ泣く、母は顏を死兒に押當てゝ打伏して終つた。池があぶないあぶないと思つて居ながら、何といふ不注意な事をしたんだらう。自分も今更の如く我が不注意であつた事が悔いられる。醫師は其内歸つて終はれた。
近所の人々が來てくれる、親類の者も寄つてくる。來る人毎に同じやうに顛末を問はれる。妻は人のたづねに答へないのも苦しく、答へるのは猶更苦しい。勿論問ふ人も義理で問ふのであるから、深くは問ひもせぬけれど、妻は堪らなくなつて、
『今夜わたしはあなたと二人きりで此兒の番をしたい。
と云ひだす。自分はさうもいくまいが、兎に角此所へは置けない、奧へ床を移さねばならぬと云つて、奧の床の前へ席を替さした。枕上に經机を据ゑ、線香を立てた。奈々子は死顏美しく眞に眠つてるやうである。線香を立てゝ死人扱ひをするのが可哀相でならないけれど、線香を立てないのも無情のやうに思はれて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらといふ親戚の助言は聞かなかつた。未だ此の世の人でないとはどうしても思はれないから、燈明を上げるだけは今夜の十二時過からにしてと云つた。
親戚の妻女誰彼も通夜に來てくれた。平生愛想笑ひをする癖が、弔み詞の間に出るのを強ひて噛殺すのが苦しさうであつた。近所の者の此際の無駄話は實に厭であつた。寄つてくれた人達は當然の事として、診斷書の事、死亡屆の事、埋葬證の事、寺の事など忠實に話してくれる。自分はしやう事なしに、宜しく頼むと云ては居るものゝ、只管眠つてるやうに、花の如く美しく寢て居る此兒の前で、葬式の話をするのは情なくて堪らなかつた。投出してる我が兒の足に自分の手を添へ、其足を我が顏へひしと押當てゝ横顏に伏してゐる妻は、埋葬の話を聞いてるか聞いてゐないか、只悲しげに力なげに、身を我兒の床に横へて居る。手にする事がなくなつて、父も母も心の思ひは愈〻亂れるのである。
我が子の寢顏につく〴〵見入つて居ると、自分はどうしても此兒が呼吸してるやうに思はれてならない。胸に覆うてある單物の或點がいくらか動いて居つて、それが呼吸の爲めに動くやうに思はれてならぬ。親戚の妻女が二つになる子供をつれてきて、そこに寢せてあれば、其兒の呼吸の音が、どうかすると我が兒のそれのやうに聞える。自分は堪へられなくなつて、覆ひの着物を除け、再び我兒の胸に耳をひつつけて心臟音を聞いて見た。
何程念を入れて聞いても、絶對の靜かさは、到底永久の眠りである。再び動くといふことなき永久の靜かさは、實に冷刻の極みである。
永久なる眠も冷刻なる靜かさも、猶此儘我が目に留め置くことが出來るならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はある譯なれど、殘酷にして淺薄な人間は、それ等の希望に何の工風を費さない。
どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臟音の停止を聞くや、猶幾時間も立たない内から、埋葬の協議にかゝる。自分より遠けて、自分の目より離さんと工風するのが人間の心である。哲學がそれを謳歌し、宗教がそれを讚美し、人間の事はそれで遺憾のないやうに説いてゐる。
自分は今つく〴〵と我が子の死顏を眺め、さうして三日の後此の子がどうなるかと思うて、眞に我心の薄弱が情なくなつた。我生活の虚僞殘酷に呆れて終つた。近隣親族の徒が、此美しい寢顏の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに從ふの外ないのであつて見れば、自分も矢張り世間一流の人間に相違ないのだ。自分はかう考へて、浮ぶことの出來ない、到底出づることの出來ない、深い悲みの淵に沈んだやうな氣がした。今の自分は只々自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦めるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲學や宗教やは悉く餘裕のある人共の慰み物としか思へない。自分も今まではどうかすると、哲學とか宗教とか云つて、自分を欺き人を欺いたことが、しみ〴〵耻かしくてならなくなつた。
眞に愛するものを持たぬ人や、眞に愛するものを死なした事のない人に、どうして今の自分の悲痛が解るものか、哲學も宗教も今の自分に何の慰藉をも與へ得ないのは、到底それが第三者の言であるからであるまいか。
自分はもう泣くより外はない。自分の不注意を悔いて、自分の力なきを嘆いて泣くより外はない。美しい死顏も明日までは頼まれない、我が子を見守つて泣くより外に術はない。
妻も只泣いた許りで飽足らなくなつたか、部屋に歸つて亡き人の姉々等と過ぎし記憶をたどつて、悔しき當時の顛末を語り合つてる、自分も思はず出て來て其仲間になつた。
自分が今井と共に家を出てから間もないことであつた。妻は氣分が惡く休み居つたが子供達の姿が暫く目を離れたので、臺所に働き居る姉達に、子供達はどうしてゐると問うた。姉は淀みなく三人が一所に面白さうに遊んでゐますとの答に、妻は安心して休み居つた。それから少し過ぎてお兒が一人上つてきて、母ちやん乳いと云ふのに、又奈々子はと姉等に問へば、そこらに遊んでゐるでせう、秋ちやんが遊びにつれていつたんでせうなどいふを咎めて、それではならない、慥かに見とゞけなくてはなりませんと、妻は今は起き出でゝ、そこかこゝかとたづねさした。隣へ見にやる、菓子屋へ見にやる、下水溝の橋の下まで見たが、まさかに池とは思はないので、最後に池を見たらば………。
浮いて居つた池に、仰向になつて浮いてゐた。垣根の竹につかまつて、池へ這入らずに上げることが出來た。時間を考へると、初め居るかと問うた時慥かに居たものならば、其後の間は誠に僅かの間に相違ないが、まさか池にと思つて早く池を見なかつた。騷ぎだした時、直ぐに池を見たら間に合つたかも知れなかつた。さういふ生れ合せだと皆は云ふけれど、さう許りは思はれない。あぶないと云つて居ながら、なぜ早く池を埋めて終はなかつたか。考へると何もかも屆かない事許りで。それが殘念でならない。
妻の繰言は果てしがない。自分もなぜ早く池を埋めなかつたか、取返しのつかぬ過ちであつた。其悔恨はひしひし胸に應へて、深い溜息をする外はない。
『ねいあなた、わたしが一番後に見た時には誰れかの大人下駄を穿いてゐた。あの兒は容易に素足にならなかつたから、下駄を穿いて池へ這入つたかどうか、池のどのへんから這入つたか、下駄などが池に浮いてでもゐるか、あなた一寸池を見て下さい。
妻のいふまゝに自分は提灯を照らして池を見た。池には竹垣を周らしてある。東の方の入口に木戸を作つてあるのが、いつか毀はれて明放しになつてる、茲から這入つたものに違ひない。せめて此木戸でもあつたらと切ない思が胸に込みあげる。連日の雨で薄濁りの水は地平線に平行して居る。只靜かに滑かで、人一人殺した恐しい水とも見えない。幼ない彼は命取らるゝ水とも知らず、地平と等しい水故深いとも知らずに、這入る瞬間までも笑ましき顏、愛くるしい眼に、疑ひも恐れもなかつたらう。自分はあり〳〵と亡き人の俤が目に浮ぶ。
梅子も出てきた、民子も出てきた。二坪には足らない小池の周り、七度も八度も提灯を照らし廻つて、隈なく見廻したけれども、下駄も浮いてゐず、其外亡き人の物らしいもの何一つ見當らない。茲に浮いて居たと云ふあたりは、水草の藻が少しく亂れて居る許り、只一つ動かぬ靜かな濁水を提灯の明りに見れば、只曇つて鈍い水の光り、何の罪を犯した色とも思へない。茲からと思はれたあたりに、足跡でもあるかと見たが、下駄の跡も素足の跡も見當らない。下駄のない處を見ると素足で來たに違ひない。どうして素足で茲へ來たか、平生用心深い兒で、縁側から一度落ちたことも無かつたのだから、池の水が少し下つて低かつたら、落込むやうな事も無かつたらうにと悔まれる。梅子も民子も只見廻しては綴泣きする。沈默した三人は暫く恨めしき池を見やつて立つてた。空は曇つて風も無い。奧の間でお通夜してくれる人達の話聲が細々と漏れる。
『いつまで見て居ても同じだから、もう上がらうよ。
と云つて先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下に或物を認めた。自分は直ぐそれと氣づいて見ると、果して亡き人の着てゐた着物であつた。ぐつしやり一まとめに土塊のやうに置いてあつた。
『これが奈々ちやんの着物だね。
『あア。
二人は力ない聲で答へた。絣の單物に、メレンスの赤縞の西洋前掛である。自分はこれを見て、又強く亡き人の俤を思ひ出さずに居られなかつた。
くり〳〵としたつむり、赤い縞の西洋前掛を掛け、仰向いて池に浮いてゐたか、それを目つけた彼れの母の、其驚き、其周章、悲しい聲を絞つて人を呼びながら引上げた有樣、多くの姉妹等が泣き叫んで走り廻つたさまが、まざ〳〵と目に見るやうに思ひ出される。
三人が上つてきて、又一しきり親子姉妹が云つて甲斐ないはかな言を繰返した。
十二時が過ぎたと云ふので、經机に燈明を上げた。線香も盛にともされる。自分はまだどうしても此の世の人でないとは思はれない。幾度見ても寢顏は穩かに靜かで、死といふ色ざしは少しもない。妻は相變らず亡き人の足のあたりへ顏を添へて打伏してゐる。さうしてまた屡〻起きては我が兒の顏を見守るのであつた。お通夜の人々は自分の仕振りに困じ果てゝか、慰めの詞も云はず、聊か離れた話を話し合うてる。夜は二時となり、三時となり、靜かな空氣は總てを支配した。自分は其間に一人拔け出でゝは、二度も三度も池の周りを見に行つた。池の端に立つては、亡き人の今朝からの俤を繰返し繰返し思ひ浮べて泣いた。
おつちやんにあつこ、おつちやんにおんも、おつちやんがえい、お兒ちやんのかんこ、お兒ちやんのかんこがえいと聲がするかと思ふほどに耳にある彼兒の詞を、口に云ひさへすれば直ぐ涙は流れる。何遍も何遍もそれを繰返しては涙を絞つた。
夜が明けさうと氣づいて、驚いて又枕邊に還つた。妻もうと〳〵してるやうであつた。外の七八人一人も起きてるものは無かつた。只燈明の火と、線香の煙とが、深い眠の中の動きであつた。自分は此靜けさに少し氣持がよかつた。自分の好きな事をするに氣兼が入らなくなつたやうに思はれたらしい。それで別にどういふ事をすると云ふ考があるのでもなかつた。
夜が明けたら此兒はどうなるかと、恐る〳〵考へた。それと等しく自分の心持もどうなるかと考へられる。そしてさういふことを考へるのを、非常に氣味わるく恐ろしく感じた。自分は思はず口の内で念佛を始めた、さうして數十遍唱へた。併しいくら念佛を唱へても、今の自分の心の痛みが少しも輕くなると思へなかつた。只自分は非常に疲れを覺えた。氣の張りが全く衰へて、どうなつても仕方がないと云ふ樣な心持になつて終つた。
明治42年9月『ホトヽギス』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第三卷」岩波書店
1977(昭和52)年2月10日発行
底本の親本:「ホトヽギス 第十二卷第十二號」
1909(明治42)年9月1日発行
初出:「ホトヽギス 第十二卷第十二號」
1909(明治42)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:米田進
校正:松永正敏
2002年4月1日公開
2014年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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近来不良勝なる先生の病情片時も心にかからぬ事はない。日本新聞に墨汁一滴が出る様になってから猶一層である。或は喜び或は悲み日毎に心を労している いくらか文章に勢が見えて元気なことなどの出た日には。これ位ならばなどと心細い中にも少しく胸が休まるような感じがするものの実際は先生の病情少しも文章の上では推測が出来ないのが普通であるのだ。
歌の会俳句の会すべてを止めて余り人にこられては困ると云うようになってよりは。たずねてよいやら悪いやら殆どわからないけれども。愈ゆくまいと云う気にはどうしてもなられない。つまり余りゆくもわるい余りゆかぬも悪るいだろうと思うた。時々の先生の話振からでもたまには行く方がよいように感じたから。人は兎に角自分は時々は是非訪問することと極めたのである。余りま近くゆくこと余り長居することだけは固く謹もうと思うた
今月はきょう迄に三回たずねた 月始りは三日の日に一度たずね。それから七日の日にはわざわざでない上野辺に聊か用事があったので。きょうはと思い午後の四時じぶんに先生の門前迄往ったが。ふと考えてみるとまだ三日しか間がない 余りま近く重なるはよくあるまいかしらんと気がついたので。門前に躊躇しながら内をのぞいてみると。女の下駄が三足あるけれどちゃんと内へ向いて並んでいる よその人のらしくない 客もないなとは思うたがまずまず今日はよるまいと決心した。
決心はしたもののさればと云って未だなかなか帰ると云う方に足はむかない。暫くたたずんで内の様子を見ると云うでもなく考えて居ると云うでもなく只ぼんやりしていたのである。おっかさんの声もしない 妹さんの声もしない 先生のせきの声もきこえない。帰ろうと云う決心極めて薄弱であるので未だ吾からだを動して帰路に向わしむる程の力がないのだ。何とはなしに陸さんの門前の方へ廻り何とか云う人の門につきあたり左の方を注視したけれども先生の庭の方へ出でる道はない 仕方はないから又もとへ戻って先生の前へ来た。ふたたび内をのぞいた 下駄もさきに見た通りでかわらない 愈ほんとうの決心がでて門前を東へ過ぎて吾躰を運転した。例の通りつき当って右へまがり又右へまがりいつも先生の庭の方へゆく門の所までくると又ふらふらと気が動いて此門へはいった。直ちに例の杉屏の前までやった 裏からはいろうと云う心でもなくまあ……のぞき込みにきたのだ。枝折戸をあけるわけにもゆかないでしきりにそこ此所からのぞいたけれども屏の内はよくも見えない 無論どなたの声もきこえない。漸くあきらめがついて帰ってしまった 先生の許へ往くようになってからこんな事はきょうが始めてである
十三日の午後から急に訪問を思い立って出掛けた。二三日前に百花園からつるの手をつけてある目籠に長命菊つくし石竹の苗其他数種の青草を植込にしたやつを買って来て置いたのを持って往ったのである
きょうは暖炉の掃除をやったとの事で先生は八畳の座敷に石油暖炉をたき東向になってねていられた。何か雑誌を見ていられ手の下には原稿紙に少し何か書掛けてある。
別にかわったことはないがだんだん躰が疲れてゆく 腰の痛背のいたみ少しでもさわるとたまらなく痛む。それだから此頃は殆ど寝がえりと云うことができぬ。従て夜もおちついてはねむれない 眠てもすぐさめる 疲れるから眠ることはねむるが一時間もたつともう目がさめる。などと話さるるうちにも枕に頭をつけて居り又は僅に右りの片ひじで躰をささげつつ一つ啖をださるるにもうめぎの声をもらすなど苦痛の様子は見るに忍びない。如斯ことはきょう始めてと云うではないが見る度に胸がふさがるべくおぼえ何と云うて慰さめんようもなく身も世もあらぬ思である。
八日に香取がきて十日に岡がきた。長塚へ梅の歌を詠めと云うてやったら三月上旬に出京して実際を見てから作ると云うてきた。岡田には梅がなかろうか……此草花は面白い 殊につくしがふるっている なかなか趣向もある 日本画家などにはこれほどの趣向あるものもないなどと笑われた。それから先生の次々話されたあらますはこうである。
君との交際は僕が最後の交際だ。此頃のようではよしあたらしい交際ができても交際らしい交際をすることができぬ。もう飲食会すら気がすすまぬ 勿論今でも飲食が一番のたのしみではあるけれども以前の様ではない。君が去年来はじめた時ぶんはまだ小用の時は唐紙の外へ出てしたのだが。まもなくそれができなくなって寝ているままで便器へやったけれど猶まさかに客の方へ向いていてはやらなかった。夫を此頃では寝返りができぬ故客の方へ向てでもなんでもやるより仕方がなくなった。
湯にはいらないことがちょうど五年になる 足を洗わぬのが半年顔を洗わぬのが二月になる。もう今日ではどうしても顔を洗うことができぬ 顔を洗うだけは迚ても手が動かせないのだ。手だけは毎日石鹸で洗っている こう云う調子に衰えてきた 此割合で推してゆけば結局の事もちゃんとわかる。(呼嗚如斯談話を聞ける吾苦さは迚ても云いあらわすことができぬ)
平賀元義の事を是から毎日かく。是れも実は堂々と書きたかったのだけれどそんなこと云うている間にかけなくなってしまうからできるだけかけるだけかこうと思う。元義のことは世間の歌よみなどが何とも云うていないから是非少しでも書いて置きたい。
猶いろいろの話があったけれどもしるして置くほどでもない。始のほどは只々苦しそうにのみ見えたが談稍興に入りては時々元気な笑ももらされた。承知しながらもとうとう長居になって夕飯をもてなされ七時頃にいとまもうした
附記是は赤木格堂が為に先生の病情を見のまま記して送れるなり明治参拾四年二月十五日
明治34年3月『俳星』
署名 伊藤左千夫 | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「俳星 第二卷第一號」俳星発行所
1901(明治34)年3月12日発行
初出:「俳星 第二卷第一號」俳星発行所
1901(明治34)年3月12日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※「うめぎ」は「うめき」の、「あらます」は「あらまし」の訛音です。
※作中の「先生」は正岡子規、「根岸庵」は正岡子規の居宅です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
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後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪って居る事が多い。そんな訣から一寸物に書いて置こうかという気になったのである。
僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。
僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく煩って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥となって居た。その次の十畳の間の南隅に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮って北を掩うている。
母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、十五と少しにしかならない。痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、誠に光沢の好い児であった。いつでも活々として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
母からいつでも叱られる。
「また民やは政の所へ這入ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
などと頻りに小言を云うけれど、その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前として嫁にゆかれません」
この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達した帰りには、きっと僕の所へ這入ってくる。僕も民子がのぞかない日は何となく淋しく物足らず思われた。今日は民さんは何をしているかナと思い出すと、ふらふらッと書室を出る。民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様なことがしばしばあったのである。
村の或家さ瞽女がとまったから聴きにゆかないか、祭文がきたから聴きに行こうのと近所の女共が誘うても、民子は何とか断りを云うて決して家を出ない。隣村の祭で花火や飾物があるからとの事で、例の向うのお浜や隣のお仙等が大騒ぎして見にゆくというに、内のものらまで民さんも一所に行って見てきたらと云うても、民子は母の病気を言い前にして行かない。僕も余りそんな所へ出るは嫌であったから家に居る。民子は狐鼠狐鼠と僕の所へ這入ってきて、小声で、私は内に居るのが一番面白いわと云ってニッコリ笑う。僕も何となし民子をばそんな所へやりたくなかった。
僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩くなる。民子は三度も四度も裏坂の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、いつでも家中のものに冷かされる。民子は真面目になって、お母さんが心配して、見てお出で見てお出でというからだと云い訣をする。家の者は皆ひそひそ笑っているとの話であった。
そういう次第だから、作おんなのお増などは、無上と民子を小面憎がって、何かというと、
「民子さんは政夫さんとこへ許り行きたがる、隙さえあれば政夫さんにこびりついている」
などと頻りに云いはやしたらしく、隣のお仙や向うのお浜等までかれこれ噂をする。これを聞いてか嫂が母に注意したらしく、或日母は常になくむずかしい顔をして、二人を枕もとへ呼びつけ意味有り気な小言を云うた。
「男も女も十五六になればもはや児供ではない。お前等二人が余り仲が好過ぎるとて人がかれこれ云うそうじゃ。気をつけなくてはいけない。民子が年かさの癖によくない。これからはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。吾子を許すではないが政は未だ児供だ。民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体に疵がつく。政夫だって気をつけろ……。来月から千葉の中学へ行くんじゃないか」
民子は年が多いし且は意味あって僕の所へゆくであろうと思われたと気がついたか、非常に愧じ入った様子に、顔真赤にして俯向いている。常は母に少し位小言云われても随分だだをいうのだけれど、この日はただ両手をついて俯向いたきり一言もいわない。何の疚しい所のない僕は頗る不平で、
「お母さん、そりゃ余り御無理です。人が何と云ったって、私等は何の訣もないのに、何か大変悪いことでもした様なお小言じゃありませんか。お母さんだっていつもそう云ってたじゃありませんか。民子とお前とは兄弟も同じだ、お母さんの眼からはお前も民子も少しも隔てはない、仲よくしろよといつでも云ったじゃありませんか」
母の心配も道理のあることだが、僕等もそんないやらしいことを云われようとは少しも思って居なかったから、僕の不平もいくらかの理はある。母は俄にやさしくなって、
「お前達に何の訣もないことはお母さんも知ってるがネ、人の口がうるさいから、ただこれから少し気をつけてと云うのです」
色青ざめた母の顔にもいつしか僕等を真から可愛がる笑みが湛えて居る。やがて、
「民やはあのまた薬を持ってきて、それから縫掛けの袷を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立った次手に花を剪って仏壇へ捧げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑でも切ってくれよ」
本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でいられない様にしてしまう。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たって民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方では、それからというものは様子がからっと変ってしもうた。
民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気合になった。
それでも或日の四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊を手に持って、僕の後にきていた。
「政夫さん……」
出し抜けに呼んで笑っている。
「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝ったろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ。明日麹漬をつけるからって、お母さんがそう云うから、私飛んできました」
民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、
「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」
と云うと民子は、
「知らなくてサ」
にこにこしながら茄子を採り始める。
茄子畑というは、椎森の下から一重の藪を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。
「マア何という好い景色でしょう」
民子もしばらく手をやめて立った。
僕はここで白状するが、この時の僕は慥に十日以前の僕ではなかった。二人は決してこの時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中にも小さな恋の卵が幾個か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽ありし何よりの証拠じゃ。
民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、今日はしみじみとその美しさが身にしみた。しなやかに光沢のある鬢の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎のくくしめの愛らしさ、頸のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟や花染の襷や、それらが悉く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言は云えなくなる、羞かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞が継がない。おかしく喉がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、
「政夫さん、なに……」
「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
民子はさすがに女性で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」
民子はせきこんで、
「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視ている。僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。なお三言四言話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が溢れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸く二升ばかり宛を採り得た。
「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。
二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、
「お増がまた何とか云いますよ」
「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしないさ」
一事件を経る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層を増してくる。機に触れて交換する双方の意志は、直に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気なもので、人前を繕うと云う様な心持は極めて少なかった。僕と民子との関係も、この位でお終いになったならば、十年忘れられないというほどにはならなかっただろうに。
親というものはどこの親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うている。僕の母などもその一人に漏れない。民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著しき変化を遂げている。僕の変化は最も甚しい。三日前には、お母さんが叱れば私が科を背負うから遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日はとてもそんな訣のものでない。民子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。
「民さん、またお出よ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」
民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙にすねだす。
「あレあなたは先日何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云いはしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」
困った事になった。二人の関係が密接するほど、人目を恐れてくる。人目を恐れる様になっては、もはや罪悪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。母は口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理窟の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、その後民子が僕の室へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。この間の小言も実は嫂が言うから出たまでで、ほんとうに腹から出た小言ではない。母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛に蔭言をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを嫁にする気かしらんなどと専いうているとの話。それやこれやのことが薄々二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。
人間の心持というものは不思議なもの。二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然としているのである。それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるのである。とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。
陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り極りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることになった。それで甘露的恩命が僕等両人に下ったのである。兄夫婦とお増と外に男一人とは中稲の刈残りを是非刈って終わねばならぬ。民子は僕を手伝いとして山畑の棉を採ってくることになった。これはもとより母の指図で誰にも異議は云えない。
「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものよッぽどお目出たいものだ」
奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。僕等二人はもとより心の底では嬉しいに相違ないけれど、この場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。僕は朝飯前は書室を出ない。民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、
「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵えてやってくれ。お菜はこれこれの物で……」
まことに親のこころだ。民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜などはロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのである。僕はズボン下に足袋裸足麦藁帽という出で立ち、民子は手指を佩いて股引も佩いてゆけと母が云うと、手指ばかり佩いて股引佩くのにぐずぐずしている。民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云ってくれと云う。僕は民さんがそう云いなさいと云う。押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、
「民やは町場者だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私はまたお前が柔かい手足へ、茨や薄で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」
それで民子は、例の襷に前掛姿で麻裏草履という支度。二人が一斗笊一個宛を持ち、僕が別に番ニョ片籠と天秤とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠を被って出ると、母が笑声で呼びかける。
「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」
稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃお母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。
村のものらもかれこれいうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲に露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々しく、胸のすくような眺めである。民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉銀杏の葉の落ちるのを拾っている。
「民さん、もうきたかい。この天気のよいことどうです。ほんとに心持のよい朝だねイ」
「ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺麗なこと。さア出掛けましょう」
民子の美しい手で持ってると銀杏の葉も殊に綺麗に見える。二人は坂を降りてようやく窮屈な場所から広場へ出た気になった。今日は大いそぎで棉を採り片付け、さんざん面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩く。道の真中は乾いているが、両側の田についている所は、露にしとしとに濡れて、いろいろの草が花を開いてる。タウコギは末枯れて、水蕎麦蓼など一番多く繁っている。都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
民子はこれからはあなたが先になってと云いながら、自らは後になった。今の偶然に起った簡単な問答は、お互の胸に強く有意味に感じた。民子もそう思った事はその素振りで解る。ここまで話が迫ると、もうその先を言い出すことは出来ない。話は一寸途切れてしまった。
何と言っても幼い両人は、今罪の神に翻弄せられつつあるのであれど、野菊の様な人だと云った詞についで、その野菊を僕はだい好きだと云った時すら、僕は既に胸に動悸を起した位で、直ぐにそれ以上を言い出すほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。民子も同じこと、物に突きあたった様な心持で強くお互に感じた時に声はつまってしまったのだ。二人はしばらく無言で歩く。
真に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しくてそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。
しばらくは黙っていたけれど、いつまで話もしないでいるはなおおかしい様に思って、無理と話を考え出す。
「民さんはさっき何を考えてあんなに脇見もしないで歩いていたの」
「わたし何も考えていやしません」
「民さんはそりゃ嘘だよ。何か考えごとでもしなくてあんな風をする訣はないさ。どんなことを考えていたのか知らないけれど、隠さないだってよいじゃないか」
「政夫さん、済まない。私さっきほんとに考事していました。私つくづく考えて情なくなったの。わたしはどうして政夫さんよか年が多いんでしょう。私は十七だと言うんだもの、ほんとに情なくなるわ……」
「民さんは何のこと言うんだろう。先に生れたから年が多い、十七年育ったから十七になったのじゃないか。十七だから何で情ないのですか。僕だって、さ来年になれば十七歳さ。民さんはほんとに妙なことを云う人だ」
僕も今民子が言ったことの心を解せぬほど児供でもない。解ってはいるけど、わざと戯れの様に聞きなして、振りかえって見ると、民子は真に考え込んでいる様であったが、僕と顔合せて極りわるげににわかに側を向いた。
こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしまう。二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅かにでも押が強ければ、こんなに話がゆきつまるのではない。お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放してしまうことが出来るのである。しかしながら真底からおぼこな二人は、その吉野紙を破るほどの押がないのである。またここで話の皮を切ってしまわねばならぬと云う様な、はっきりした意識も勿論ないのだ。言わば未だ取止めのない卵的の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのである。
お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道を歩いた。詞数こそ少なけれ、その詞の奥には二人共に無量の思いを包んで、極りがわるい感情の中には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。それでいわゆる足も空に、いつしか田圃も通りこし、山路へ這入った。今度は民子が心を取り直したらしく鮮かな声で、
「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵へは一里に遠いッて云いましたねイ」
「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」
「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄の葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」
親指の中ほどで疵は少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂いて結わえてやる。民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。こんな山の中で休むより、畑へ往ってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。
十年許り前に親父が未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほどここにあるのである。この辺一体に高台は皆山林でその間の柵が畑になって居る。越石を持っていると云えば、世間体はよいけど、手間ばかり掛って割に合わないといつも母が言ってる畑だ。
三方林で囲まれ、南が開いて余所の畑とつづいている。北が高く南が低い傾斜になっている。母の推察通り、棉は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど棉はえんでいる。点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。
「まアよくえんでること。今日採りにきてよい事しました」
民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。畑の真中ほどに桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌ぐには十分だ。ここへあたりの黍殻を寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐へ入れ足を展して休む。青ぎった空に翠の松林、百舌もどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。
「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」
顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。
「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」
「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」
面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪をつけた馬を引いて頬冠の男が出て来た。よく見ると意外にも村の常吉である。この奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻りに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思うていると、
「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落れてますね。アハハハハハ」
「オウ常さん、今日は駄賃かな。大変早く御精が出ますね」
「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適に一盃やるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余り罪ですぜ。アハハハハハ」
この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉をやり過ごした。
「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」
「ほんとに済みません。泣面などして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」
民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、
「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産に採って来ます」
「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」
「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」
「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」
「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」
弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、にこにこしている。端から見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれど、本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるのである。高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀ずる。しばしば民子の手を採って曳いてやる。
近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人は、嘗て一度も有意味に手などを採ったことはなかった。しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺の一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。
「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」
「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄があった」
僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭の大きいのを見つけた。
「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」
「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰しゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸の薬に致します。ハハハハ」
「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」
山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を汲み来り母の心を籠めた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚な次第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。
民子は笑いながら、
「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」
僕は真面目に、
「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。この間も湯に這入る時にお増が火を焚きにきて非常に皸を痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向のない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」
「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣さ」
「この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……」
「実はお増も不憫な女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」
「そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さんの様に情深くされると……」
民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。
「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」
花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。
「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討という訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦んでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」
二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。
半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木の間から影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦の花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。
「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この景色のよい所で少し休んで行きましょう」
「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」
「今更心配しても追つかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよいことは滅多にありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」
月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際立って白い。
「何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くてかえって話は少ない。何となく覚束ない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。それは外でもない、何となく家に這入りづらいと言う心持である。這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇する暇もない、忽門前近く来てしまった。
「政夫さん……あなた先になって下さい。私極りわるくてしょうがないわ」
「よしとそれじゃ僕が先になろう」
僕は頗る勇気を鼓し殊に平気な風を装うて門を這入った。家の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口までさし込んでいる。僕が咳払を一ツやって庭場へ這入ると、台所の話はにわかに止んでしまった。民子は指の先で僕の肩を撞いた。僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何に盛んであったか。
宵祭ではあり十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃うた時、母も奥から起きてきた。母は一通り二人の余り遅かったことを咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。何か思っているらしく、少しも打解けない。これまでは口には小言を言うても、心中に疑わなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に疑いを起したに違いない。民子はいよいよ小さくなって座敷中へは出ない。僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄やを沢山座敷中へ並べ立てて、暗に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。誰一人それをそうと見るものはない。今夜は何の話にも僕等二人は除けものにされる始末で、もはや二人は全く罪あるものと黙決されてしまったのである。
「お母さんがあんまり甘過ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにもほどがある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」
これが台所会議の決定であったらしい。母の方でもいつまで児供と思っていたが誤りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。今更二人を叱って見ても仕方がない。なに政夫を学校へ遣ってしまいさえせば仔細はないと母の心はちゃんときまって居るらしく、
「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。十七日にゆくとしろ……えいか、そのつもりで小支度して置け」
学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、この場合しかも今夜言渡があって見ると、二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから、民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、頭からそうときめられては、聊か妙な心持がする。さりとて弁解の出来ることでもなし、また強いことを言える資格も実は無いのである。これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであるけど、科を着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……などと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘を言えるほど無邪気ではない。全くの処、恋に陥ってしまっている。
あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、何となく隔てを作って心のありたけを言い得ぬまでになっている。おのずから人前を憚り、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言、
「はア……」
と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。
「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」
不図そう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後に、民子はうつむいて膝の上に襷をこねくりつつ沈黙している。如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。民子の風を見て僕も俄に悲しくなって泣きたくなった。涙は瞼を伝って眼が曇った。なぜ悲しくなったか理由は判然しない。ただ民子が可哀相でならなくなったのである。民子と僕との楽しい関係もこの日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせてしまった。嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことについては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇の幕に這入ってしまったのである。
十四日は祭の初日でただ物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。
十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠りとおしていた。ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、また二人の関係をどうしようかという様なことすらも考えてはいない。ただ民子のことが頭に充ちているばかりで、極めて単純に民子を思うている外に考えは働いて居らぬ。この二日の間に民子と三四回は逢ったけれど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみであった。二人の心持が今少しませて居ったならば、この二日の間にも将来の事など随分話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛ほどもなかった二人には、その場合になかなかそんな事は出来なかった。それでも僕は十六日の午後になって、何とはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸来た民子に僕が居なくなってから見てくれと云って渡した。
朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ繰返し繰返し民さんの事ばかり思って居る。民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。明日は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。
十月十六日
政夫
民子様
学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲笑かの様に聞かれる。いっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。決心が定まれば元気も恢復してくる。この夜は頭も少しくさえて夕飯も心持よくたべた。学校のこと何くれとなく母と話をする。やがて寝に就いてからも、
「何だ馬鹿馬鹿しい、十五かそこらの小僧の癖に、女のことなどばかりくよくよ考えて……そうだそうだ、明朝は早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう考えまい、考えたって仕方がない、学校学校……」
独口ききつつ眠りに入った様な訣であった。
船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫でたり襟を撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返しに薄く化粧をしている。煤色と紺の細かい弁慶縞で、羽織も長着も同じい米沢紬に、品のよい友禅縮緬の帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。
僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一日一日とやつれてきて、この日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。
尤も民子の思いは僕より深かったに相違ない。僕は中学校を卒業するまでにも、四五年間のある体であるのに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末のことをいろいろ考えて見ると心配の多い訣である。当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染みた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮んでいるのである。
余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物も言い得ないで、しょんぼりと悄れていた不憫な民さんの俤、どうして忘れることが出来よう。民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志の思慮には何らの工夫も無かったのである。八百屋お七は家を焼いたらば、再度思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧も出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖じ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。
僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をして居た。そういう始末でようやく年もくれ冬期休業になった。
僕が十二月二十五日の午前に帰って見ると、庭一面に籾を干してあって、母は前の縁側に蒲団を敷いて日向ぼっこをしていた。近頃はよほど体の工合もよい。今日は兄夫婦と男とお増とは山へ落葉をはきに行ったとの話である。僕は民さんはと口の先まで出たけれど遂に言い切らなかった。母も意地悪く何とも言わない。僕は帰り早々民子のことを問うのが如何にも極り悪く、そのまま例の書室を片づけてここに落着いた。しかし日暮までには民子も帰ってくることと思いながら、おろおろして待って居る。皆が帰っていよいよ夕飯ということになっても民子の姿は見えない、誰もまた民子のことを一言も言うものもない。僕はもう民子は市川へ帰ったものと察して、人に問うのもいまいましいから、外の話もせず、飯がすむとそれなり書室へ這入ってしまった。
今日は必ず民子に逢われることと一方ならず楽しみにして帰って来たのに、この始末で何とも言えず力が落ちて淋しかった。さりとて誰にこの苦悶を話しようもなく、民子の写真などを取出して見て居ったけれど、ちっとも気が晴れない。またあの奴民子が居ないから考え込んで居やがると思われるも口惜しく、ようやく心を取直し、母の枕元へいって夜遅くまで学校の話をして聞かせた。
翌くる日は九時頃にようやく起きた。母は未だ寝ている。台所へ出て見ると外の者は皆また山へ往ったとかで、お増が一人台所片づけに残っている。僕は顔を洗ったなり飯も食わずに、背戸の畑へ出てしまった。この秋、民子と二人で茄子をとった畑が今は青々と菜がほきている。僕はしばらく立って何所を眺めるともなく、民子の俤を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。
「政夫さん、何をそんなに考えているの」
お増が出し抜けに後からそいって、近くへ寄ってきた。僕がよい加減なことを一言二言いうと、お増はいきなり僕の手をとって、も少しこっちへきてここへ腰を掛けなさいまアと言いつつ、藁を積んである所へ自分も腰をかけて僕にも掛けさせた。
「政夫さん……お民さんはほんとに可哀相でしたよ。うちの姉さんたらほんとに意地曲りですからネ。何という根性の悪い人だか、私もはアここのうちに居るのは厭になってしまった。昨日政夫さんが来るのは解りきって居るのに、姉さんがいろんなことを云って、一昨日お民さんを市川へ帰したんですよ。待つ人があるだっぺとか逢いたい人が待ちどおかっぺとか、当こすりを云ってお民さんを泣かせたりしてネ、お母さんにも何でもいろいろなこと言ったらしい、とうとう一昨日お昼前に帰してしまったのでさ。政夫さんが一昨日きたら逢われたんですよ。政夫さん、私はお民さんが可哀相で可哀相でならないだよ。何だってあなたが居なくなってからはまるで泣きの涙で日を暮らして居るんだもの、政夫さんに手紙をやりたいけれど、それがよく自分には出来ないから口惜しいと云ってネ。私の部屋へ三晩も硯と紙を持ってきては泣いて居ました。お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後には隠して居られなくなったのさ。私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」
見ればお増はもうぽろぽろ涙をこぼしている。一体お増はごく人のよい親切な女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると、嫉妬心を起すけれど、もとより執念深い性でないから、民子が一人になれば民子と仲が好く、僕が一人になれば僕を大騒ぎするのである。
それからなおお増は、僕が居ない跡で民子が非常に母に叱られたことなどを話した。それは概略こうである。意地悪の嫂が何を言うても、母が民子を愛することは少しも変らないけれど、二つも年の多い民子を僕の嫁にすることはどうしてもいけぬと云うことになったらしく、それには嫂もいろいろ言うて、嫁にしないとすれば、二人の仲はなるたけ裂く様な工夫をせねばならぬ。母も嫂もそういう心持になって居るから、民子に対する仕向けは、政夫のことを思うて居ても到底駄目であると遠廻しに諷示して居た。そこへきて民子が明けてもくれてもくよくよして、人の眼にもとまるほどであるから、時々は物忘れをしたり、呼んでも返辞が遅かったりして、母の疳癪にさわったことも度々あった。僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛してそれから庭に広げてある蓆を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。民子は雑巾がけをしてからうっかり忘れてしまって、蓆を入れずに野へ出た処、間がわるくその日雨が降ったから、その蓆十枚ばかりを濡らしてしまった。民子は雨が降ってから気がついたけれど、もう間に合わない。うちへ帰って早速母に詫びたけれど母は平日の事が胸にあるから、
「何も十枚ばかりの蓆が惜しいではないけれど、一体私の言いつけを疎かに聞いているから起ったことだ。もとの民子はそうでなかった。得手勝手な考えごとなどしているから、人の言うことも耳へ這入らないのだ……」
という様な随分痛い小言を云った。民子は母の枕元近くへいって、どうか私が悪かったのですから堪忍して……と両手をついてあやまった。そうすると母はまたそう何も他人らしく改まってあやまらなくともだと叱ったそうで、民子はたまらなくなってワッと泣き伏した。そのまま民子が泣きやんでしまえば何のこともなく済んだであろうが、民子はとうとう一晩中泣きとおしたので翌朝は眼を赤くして居た。母も夜時々眼をさましてみると、民子はいつでも、すくすく泣いている声がしていたというので、今度は母が非常に立腹して、お増と民子と二人呼んで母が顫声になって云うには、
「相対では私がどんな我儘なことを云うかも知れないからお増は聞人になってくれ。民子はゆうべ一晩中泣きとおした。定めし私に云われたことが無念でたまらなかったからでしょう」
民子はここで私はそうでありませんと泣声でいうたけれど、母は耳にもかけずに、
「なるほど私の小言も少し云い過ぎかも知れないが、民子だって何もそれほど口惜しがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。私はほんとに考えると情なくなってしまった。かわいがったのを恩に着せるではないが、もとを云えば他人だけれど、乳呑児の時から、民子はしょっちゅう家へきて居て今の政夫と二つの乳房を一つ宛含ませて居た位、お増がきてからもあの通りで、二つのものは一つ宛四つのものは二つ宛、着物を拵えてもあれに一枚これに一枚と少しも分け隔てをせないできた。民子も真の親の様に思ってくれ私も吾子と思って余所の人は誰だって二人を兄弟と思わないものはなかったほどであるのに、あとにも先にも一度の小言をあんなに悔しがって夜中泣いて呉れなくともよさそうなもの。市川の人達に聞かれたらば、斎藤の婆がどんな非度いことを云ったかと思うだろう。十何年という間我子の様に思ってきたこともただ一度の小言で忘れられてしまったかと思うと私は口惜しい。人間というものはそうしたものかしら。お増、よく聞いてくれ、私が無理か民子が無理か。なアお増」
母は眼に涙を一ぱいに溜めてそういった。民子は身も世もあらぬさまでいきなりにお増の膝へすがりついて泣き泣き、
「お増や、お母さんに申訣をしておくれ。私はそんなだいそれた了簡ではない。ゆんべあんなに泣いたは全く私が悪かったから、全く私がとどかなかったのだから、お増や、お前がよく申訣をそういっておくれ……」
それからお増が、
「お母さんの御立腹も御尤もですけれど、私が思うにャお母さんも少し勘違いをして御いでなさいます。お母さんは永年お民さんをかわいがって御いでですから、お民さんの気質は解って居りましょう。私もこうして一年御厄介になって居てみれば、お民さんはほんと優しい温和しい人です。お母さんに少し許り叱られたって、それを悔しがって泣いたりなんぞする様な人ではありますまい。私がこんなことを申してはおかしいですが、政夫さんとお民さんとは、あアして仲好くして居たのを、何かの御都合で急にお別れなさったもんですから、それからというもの、お民さんは可哀相なほど元気がないのです。木の葉のそよぐにも溜息をつき烏の鳴くにも涙ぐんで、さわれば泣きそうな風でいたところへ、お母さんから少しきつく叱られたから留度なく泣いたのでしょう。お母さん、私は全くそう思いますわ。お民さんは決してあなたに叱られたとて悔しがるような人ではありません。お民さんの様な温和しい人を、お母さんの様にあアいって叱っては、あんまり可哀相ですわ」
お増が共泣きをして言訣をいうたので、もとより民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、
「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。よくお増そういうてくれた。私はもうすっかり心持がなおった。民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。民やも可哀相であった。なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵えてくれ」
その日は三人がいく度もよりあって、いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。民子はこの日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間がな隙がな種々なことを言うので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。
なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。心細さの遣瀬がなく、泣くより外に詮がなかったのだろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲り出してとめどがない。僕はしばらくの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。その日はとうとう朝飯もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。
そうなると俄に家に居るのが厭でたまらない。出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。
今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。また僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれどついに寄らなかった。
思えば実に人の境遇は変化するものである。その一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。いつでも、
「お祖母さん、民さんは」
そら「民さんは」が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。僕は民さん一寸御出でと無理に背戸へ引張って行って、二間梯子を二人で荷い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個許りとる。民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。さすがにこの時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人はただにこにこ笑って居て、決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥かしくなったのである。
この年の暑中休みには家に帰らなかった。暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日の夜帰ってきた。お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。
民子は嫁に往った。この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。これには何か相当の理由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。しかしその頃から今までにない考えも出て来た。民子はただただ少しも元気がなく、痩衰えて鬱いで許り居るだろうとのみ思われてならない。可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。そういう訣であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳せて楽しんで居った。茄子畑の事や棉畑の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。民子の事を思って居ればかえって学課の成績も悪くないのである。これらも不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際そうであった。
いつしか月も経って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦んで考えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端へ置いて去った。例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇の家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。行燈の灯も薄暗く、母はひったり枕に就いて臥せって居る。
「お母さん、どうかしましたか」
「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ」
僕は何のことか頻りに気になるけれど、母がそういうままに早々に飯をすまして再び母の所へくる。母は帯を結うて蒲団の上に起きていた。僕が前に坐ってもただ無言でいる。見ると母は雨の様な涙を落して俯向いている。
「お母さん、まアどうしたんでしょう」
僕の詞に励まされて母はようやく涙を拭き、
「政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……」
「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」
僕が夢中になって問返すと、母は嗚咽び返って顔を抑えて居る。
「始終をきいたら、定めし非度い親だと思うだろうが、こらえてくれ、政夫……お前に一言の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになってしまった……たとい女の方が年上であろうとも本人同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、この母が年甲斐もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをしてしまった。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」
母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。民子の死ということだけは判ったけれど、何が何やら更に判らぬ。僕とて民子の死と聞いて、失神するほどの思いであれど、今目の前で母の嘆きの一通りならぬを見ては、泣くにも泣かれず、僕がおろおろしている所へ兄夫婦が出てきた。
「お母さん、まアそう泣いたって仕方がない」
と云えば母は、かまわずに泣かしておくれ泣かしておくれと云うのである、どうしようもない。
その間で嫂が僅に話す所を聞けば、市川の某という家で先の男の気性も知れているに財産も戸村の家に倍以上であり、それで向うから民子を強っての所望、媒妁人というのも戸村が世話になる人である、是非やりたい是非往ってくれということになった。民子はどうでもいやだと云う。民子のいやだという精神はよく判っているけれど、政夫さんの方は年も違い先の永いことだから、どうでも某の家へやりたいとは、戸村の人達は勿論親類までの希望であった。それでいよいよ斎藤のおッ母さんに意見をして貰うということに相談が極り、それで家のお母さんが民子に幾度意見をしても泣いてばかり承知しないから、とどのつまり、お前がそう剛情はるのも政夫の処へきたい考えからだろうけれど、それはこの母が不承知でならないよ、お前はそれでも今度の縁談が不承知か。こんな風に言われたから、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知をした。それからは何もかも他の言うなりになって、霜月半に祝儀をしたけれど、民子の心持がほんとうの承知でないから、向うでもいくらかいや気になり、民子は身持になったが、六月でおりてしまった。跡の肥立ちが非常に悪くついに六月十九日に息を引き取った。病中僕に知らせようとの話もあったが、今更政夫に知らせる顔もないという訣から知らせなかった。家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきたのだ。話さえすれば泣く、泣けば私が悪かった悪かったと云って居る。誰にも仕様がないから、政夫さんの所へ電報を打った。民子も可哀相だしお母さんも可哀相だし、飛んだことになってしまった。政夫さん、どうしたらよいでしょう。
嫂の話で大方は判ったけれど、僕もどうしてよいやら殆ど途方にくれた。母はもう半気違いだ。何しろここでは母の心を静めるのが第一とは思ったけれど、慰めようがない。僕だっていっそ気違いになってしまったらと思った位だから、母を慰めるほどの気力はない。そうこうしている内にようやく母も少し落着いてきて、また話し出した。
「政夫や、聞いてくれ。私はもう自分の悪党にあきれてしまった。何だってあんな非度いことを民子に言ったっけかしら。今更なんぼ悔いても仕方がないけど、私は政夫……民子にこう云ったんだ。政夫と夫婦にすることはこの母が不承知だからおまえは外へ嫁に往け。なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦める外はない訣だ。どうしてあんな酷たらしいことを云ったのだろう。ああ可哀相な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参ってくれ。それでお母さんの悪かったことをよく詫びてくれ。ねイ政夫」
僕もようやく泣くことが出来た。たといどういう都合があったにせよ、いよいよ見込がなくなった時には逢わせてくれてもよかったろうに、死んでから知らせるとは随分非度い訣だ。民さんだって僕には逢いたかったろう。嫁に往ってしまっては申訣がなく思ったろうけれど、それでもいよいよの真際になっては僕に逢いたかったに違いない。実に情ない事だ。考えて見れば僕もあんまり児供であった。その後市川を三回も通りながらたずねなかったは、今更残念でならぬ。僕は民子が嫁にゆこうがゆくまいが、ただ民子に逢いさえせばよいのだ。今一目逢いたかった……次から次と果てしなく思いは溢れてくる。しかし母にそういうことを言えば、今度は僕が母を殺す様なことになるかも知れない。僕は屹と心を取り直した。
「お母さん、真に民子は可哀相でありました。しかし取って返らぬことをいくら悔んでも仕方がないですから、跡の事を懇にしてやる外はない。お母さんはただただ御自分の悪い様にばかりとっているけれど、お母さんとて精神はただ民子のため政夫のためと一筋に思ってくれた事ですから、よしそれが思う様にならなかったとて、民子や私等が何とてお母さんを恨みましょう。お母さんの精神はどこまでも情心でしたものを、民子も決して恨んではいやしまい。何もかもこうなる運命であったのでしょう。私はもう諦めました。どうぞこの上お母さんも諦めて下さい。明日の朝は夜があけたら直ぐ市川へ参ります」
母はなお詞を次いで、
「なるほど何もかもこうなる運命かも知らねど今度という今度私はよくよく後悔しました。俗に親馬鹿という事があるが、その親馬鹿が飛んでもない悪いことをした。親がいつまでも物の解ったつもりで居るが、大へんな間違いであった。自分は阿弥陀様におすがり申して救うて頂く外に助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしてくれ。思えば民子はなが年の間にもついぞ私にさからったことはなかった、おとなしい児であっただけ、自分のした事が悔いられてならない、どうしても可哀相でたまらない。民子が今はの時の事もお前に話して聞かせたいけれど私にはとてもそれが出来ない」
などとまた声をくもらしてきた。もう話せば話すほど悲しくなるからとて強いて一同寝ることにした。
母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえてようやくこらえていた僕は、自分の蚊帳へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭を噛んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止まず涙が出た。着たままで寝ていた僕はそのまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現われた時分に戸村の家の門前まで来た。この家の竃のある所は庭から正面に見透して見える。朝炊きに麦藁を焚いてパチパチ音がする。僕が前の縁先に立つと奥に居たお祖母さんが、目敏く見つけて出てくる。
「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれました。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしょう。さア……かねや……」
民子のお父さんとお母さん、民子の姉さんも来た。
「まアよく来てくれました。あなたの来るのを待ってました。とにかくに上って御飯をたべて……」
僕は上りもせず腰もかけず、しばらく無言で立っていた。ようやくと、
「民さんのお墓に参りにきました」
切なる様は目に余ったと見え、四人とも口がきけなくなってしまった。……やがてお父さんが、
「それでもまア一寸御飯を済して往ったら……あアそうですか。それでは皆して参ってくるがよかろう……いや着物など着替えんでよいじゃないか」
女達は、もう鼻啜りをしながら、それじゃアとて立ちあがる。水を持ち、線香を持ち、庭の花を沢山に採る。小田巻草千日草天竺牡丹と各々手にとり別けて出かける。柿の木の下から背戸へ抜け槇屏の裏門を出ると松林である。桃畑梨畑の間をゆくと僅の田がある。その先の松林の片隅に雑木の森があって数多の墓が見える。戸村家の墓地は冬青四五本を中心として六坪許りを区別けしてある。そのほどよい所の新墓が民子が永久の住家であった。葬りをしてから雨にも逢わないので、ほんの新らしいままで、力紙なども今結んだ様である。お祖母さんが先に出でて、
「さア政夫さん、何もかもあなたの手でやって下さい。民子のためには真に千僧の供養にまさるあなたの香花、どうぞ政夫さん、よオくお参りをして下さい……今日は民子も定めて草葉の蔭で嬉しかろう……なあ此人にせめて一度でも、目をねむらない民子に……まアせめて一度でも逢わせてやりたかった……」
三人は眼をこすっている様子。僕は香を上げ花を上げ水を注いでから、前に蹲って心のゆくまで拝んだ。真に情ない訣だ。寿命で死ぬは致方ないにしても、長く煩って居る間に、あア見舞ってやりたかった、一目逢いたかった。僕も民さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。無理無理に強いられたとは云え、嫁に往っては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。思えばそれが愍然でならない。あんな温和しい民さんだもの、両親から親類中かかって強いられ、どうしてそれが拒まれよう。民さんが気の強い人ならきっと自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。民さんは嫁に往っても僕の心に変りはないと、せめて僕の口から一言いって死なせたかった。世の中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両膝と両手を地べたへ突いてしまった。
僕の様子を見て、後に居た人がどんなに泣いたか。僕も吾一人でないに気がついてようやく立ちあがった。三人の中の誰がいうのか、
「なんだって民子は、政夫さんということをば一言も言わなかったのだろう……」
「それほどに思い合ってる仲と知ったらあんなに勧めはせぬものを」
「うすうすは知れて居たのだに、この人の胸も聞いて見ず、民子もあれほどいやがったものを……いくら若いからとてあんまりであった……可哀相に……」
三人も香花を手向け水を注いだ。お祖母さんがまた、
「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
僕は懐にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。この時ふっと気がついた。民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いや直ぐ掘ってきて植えよう。こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が繁ってる。弔いの人に踏まれたらしいがなお茎立って青々として居る。民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落着いて人々と共に墓場を辞した。
僕は何にもほしくありません。御飯は勿論茶もほしくないです、このままお暇願います、明日はまた早く上りますからといって帰ろうとすると、家中で引留める。民子のお母さんはもうたまらなそうな風で、
「政夫さん、あなたにそうして帰られては私等は居ても起ってもいられません。あなたが面白くないお心持は重々察しています。考えてみれば私どもの届かなかったために、民子にも不憫な死にようをさせ、政夫さんにも申訣のないことをしたのです。私共は如何様にもあなたにお詫びを致します。民子可哀相と思召したら、どうぞ民子が今はの話も聞いて行って下さいな。あなたがお出でになったら、お話し申すつもりで、今日はお出でか明日はお出でかと、実は家中がお待ち申したのですからどうぞ……」
そう言われては僕も帰る訣にゆかず、母もそう言ったのに気がついて座敷へ上った。茶や御飯やと出されたけれども真似ばかりで済ます。その内に人々皆奥へ集りお祖母さんが話し出した。
「政夫さん、民子の事については、私共一同誠に申訣がなく、あなたに合せる顔はないのです。あなたに色々御無念な処もありましょうけれど、どうぞ政夫さん、過ぎ去った事と諦めて、御勘弁を願います。あなたにお詫びをするのが何より民子の供養になるのです」
僕はただもう胸一ぱいで何も言うことが出来ない。お祖母さんは話を続ける。
「実はと申すと、あなたのお母さん始め、私また民子の両親とも、あなたと民子がそれほど深い間であったとは知らなかったもんですから」
僕はここで一言いいだす。
「民さんと私と深い間とおっしゃっても、民さんと私とはどうもしやしません」
「いイえ、あなたと民子がどうしたと申すではないのです。もとからあなたと民子は非常な仲好しでしたから、それが判らなかったんです。それに民子はあの通りの内気な児でしたから、あなたの事は一言も口に出さない。それはまるきり知らなかったとは申されません。それですからお詫びを申す様な訣……」
僕は皆さんにそんなにお詫びを云われる訣はないという。民子のお父さんはお詫びを言わしてくれという。
「そりゃ政夫さんのいうのは御もっともです、私共が勝手なことをして、勝手なことをお前さんに言うというものですが、政夫さん聞いて下さい、理窟の上のことではないです。男親の口からこんなことをいうも如何ですが、民子は命に替えられない思いを捨てて両親の希望に従ったのです。親のいいつけで背かれないと思うても、道理で感情を抑えるは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見ると、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん等二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和しかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であった様で……。政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖されて居るのです。愚かなことでしょうがこの場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何よりの慰藉に思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」
お祖母さんがまた話を続ける。結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。
「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるならば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢ずあなたのお母さんに告げると十八日の朝飛んできました。その日は民子は顔色がよく、はっきりと話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはならないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれよ、民や……民子はにっこり笑顔さえ見せて、矢切のお母さん、いろいろ有難う御座います。長長可愛がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子はしばらくたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてからなお口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、その夜の明方に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訣です……夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹の切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集って、それをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」
お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた。やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。
「そのお手紙をお富が読みましたから、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思うほど、口説いて泣く。お前達二人がこれほどの語らいとは知らずに、無理無体に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった。民や、堪忍して、私は悪かったから堪忍してくれ。俄の騒ぎですから、近隣の人達が、どうしましたと云って尋ねにきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まないです。体に障ってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。身を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁にやった事が後悔され、たまらないですよ。考えれば考えるほどあの児が可哀相で可哀相で居ても起っても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを十分あなたにお詫びをし、またあれの墓にも香花をあなたの手から手向けて頂いたら、少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日のことをなんぼう待ちましたろ。政夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どうぞ不憫と思うてやって下さい……」
一語一句皆涙で、僕も一時泣きふしてしまった。民子は死ぬのが本望だと云ったか、そういったか……家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、その筈であった。僕は、
「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の春、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛ほども疑わなかったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」
話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕は母のことも気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然なことはいくら思うても思いきれない。いくら泣いても泣ききれない。しかしながらまた目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然さを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増すばかりと気がついた。それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないより外はない。
毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。
* * *
民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。 | 底本:「日本文学全集別巻1 現代名作集」河出書房
1969(昭和44)年
初出:「ホトトギス」
1906(明治39)年1月
入力:kaku
校正:伊藤時也
1999年1月6日公開
2013年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一
朝霧がうすらいでくる。庭の槐からかすかに日光がもれる。主人は巻きたばこをくゆらしながら、障子をあけ放して庭をながめている。槐の下の大きな水鉢には、すいれんが水面にすきまもないくらい、丸い葉を浮けて花が一輪咲いてる。うす紅というよりは、そのうす紅色が、いっそう細かに溶解して、ただうすら赤いにおいといったような淡あわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。
庭の木戸をおして細君が顔をだした。細君は年三十五、六、色の浅黒い、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。
「ねいあなた、大島の若衆が乳しぼりをつれてきてくれましたがね」
こういって、細君は庭にはいってくる。主人はゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。
「そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無作法なやつじゃなあ、こら、いかんというに……」
主人のどなりと細君の足とはほとんど並行したので、主人は舌うちして細君をながめたが、細君は、主人の小言に顔の色も動かさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁先へきてしまった。
げたのあとは、ずいぶん目だって庭に傷つけたけれど、主人はふたたび小言はいわなかった。主人は、平生自分の神経過敏から、らちもないことに腹をたてることを、自分の損だと考えてる人である。いま細君にたいする小言のしりを結ばずにしまったことを、ふとおのれに勝ちえたように思いついて、すいれんのことも忘れ、庭を損じたことも忘れて、笑顔を細君にむけた。
細君は下女をよんで、自分のひよりげたを駒げたにとりかえさして、縁端へ腰をかけた。そうしてげたのあとを消してくれ、と下女に命じた。
細君は、主人からある場合になにほどどなられても、たいていのことでは腹をたてたり、反抗したりせぬ。それはあながち主人の小言になれたからというのでもなく、主人を恐れないからというのでもない。細君は主人の小言を根のある小言か根のない小言かを、よく直覚的に判断して、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。
主人は細君をそれほど重んじてはいないが、ただ以上の点をおおいに敬している。
「おまえは、とくな性だ」
とほめてる。細君も笑って、
「とくな性ではありませんよ、はじめから損をあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう」という。
世間には、ちょっとしたはずみで夫から打たれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫と仲よく話をする女がいくらもあるから、これは女性の特有性かもしれぬ。妻などはそれをすこしうまく発達したものであろうと、主人は考えている。
そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるのは、いささかきまりがわるくなる。それで近来主人は、ある場合にどなることはどなっても、きょうのようにしりを結ばぬことがおおいのだ。
乳しぼりというのは、五十ばかりの赤ら顔な、がんじょうな、人に会ってもただ頭をたてにすこし動かすだけで、めったに口をきかない。それでどうかすると大きな茶目を見はって人を見る。たいていの女であったら、気味わるがって顔をそむけそうな、すこぶる人好きのわるい男だ。
つれてきた若衆の話によると、乳しぼりは非常にじょうずで朝おきるにも、とけいさえまかしておけば、一年にも二年にも一朝時間をたがえるようなことはない。ただすこし頭の調子が人なみでないから、どうもこれまで一か所に長くいられなかったが、ご主人のほうで、すこしその気質をのみこんでいて使ってくだされば、それはそれはりっぱな乳しぼりだ、こちらのだんなならきっとうまく使ってくださるにちがいない、本人もそういってあがったというのであった。
細君は、こうひととおり話しおわってから、
「わたしはどうも、あまり好ましくないけれど、乳しぼりもなくてはじつにこまるから、おいてみましょうねえ」
とつけくわえた。主人も聞いてみると、すこしはうわさに聞いたことのある、花前という男だ。変人で手におえないとも、じつはかわいそうな人間だともいわれて、府下の牛乳屋をわたっていた乳しぼりである。主人はしばらく考えたのち、
「それはうわさに聞いたことのある変人の乳しぼりだ。朝おきるのがたしかで乳しぼりがじょうずなら、使ってみようじゃねいか。うまくいかぬことがあったら、それはそのときのこととして、とにかくおいてみるさ」
細君も不安なりに同意して、その乳しぼりをおいてやることになった。牛舎のほうでは親牛と子牛とを引き分けて運動場にだしたから、親牛も子牛もともによびあって鳴いてる。二、三日ぶり外へだされた乳牛は、よろこんでしきりに運動場をとびまわる。
洗濯物に気をとられてる細君の目には、雨あがりのうるおった庭のおもむきも、すいれんのうるわしい花もいっこう問題にはならない。
「それじゃそう」
との一言をのこして、また木戸から細君はでていった。
二
昼乳をしぼる刻限になった。女が若衆をおこす。細君は花前にひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりの若いものは運動場の乳牛を入れにかかる。はり板をふみたてる牛の足音がバタバタ混合して聞こえる。主人も牛舎へでた。乳牛はそれぞれ馬塞にはいって、ひとりは掃除にかかる、ひとりは飼い葉にかかる。主人はここではじめて花前に会った。
五十になってもしりのおちつかない、落ちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、髪をみじかく刈り、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのを着てる。白いシャツをひじまでまくり、天竺もめんのまっ白い前掛けして、かいがいしい身ごしらえだ。
主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人に対しても、ただ例のごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。
「花前、おまえのうわさはちょいちょい聞いていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶん頼むぞ」
花前は、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習慣とだいたいの順序とをつげて、これだけの仕事はおまえにまかせるからと命じた。
花前は、耳で合点したともいうべきふうをして仕事にかかる。片手にしぼりバケツと腰掛けとを持ち、片手に乳房を洗うべき湯をくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、
「どれとどれをしぼるのですか」
と主人に聞いた。
主人はこれとこれとと、つぎつぎ数えてつごう十余頭が乳のでるのだ。それからこの西側から三つめの黒白まだらが足をあげるから、飼い葉をやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿勢ははなはだ気にいった。
左の足を乳牛の胸あたりまでさし入れ、かぎの手に折った右足のひざにバケツを持たせて、肩を乳牛のわき腹につけ、手も動かずからだも動かず、乳汁は滝のようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四升あまりの乳をしぼった。しぼった乳は、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕前だと嘆称した。
乳を受け取って濾しにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、
「なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ」
と主人のところへ顔をだしてほめる。
花前は色も動きはしない。もとより一言ものをいうのでない。主人や細君とはなんらの交渉もないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼吉をよんで、いましぼるからこの牛に飼い葉をやれと命じた。花前はしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳牛の肩のへんをなでて、バアバアとやさしく二、三度声をかける。
乳牛はすこしがたがた四肢を動かしたが、飼い葉をえて一心に食いはじめる。花前は、いささか戒心の態度をとってしぼりはじめた。じゅうぶん心得ている花前は、なんの苦もなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安心すると同時に、つくづく花前の容貌風采を注視して、一種の感じを禁じえなかった。
その毅然として、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、その技においてもじつに神に達している。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこに大なる矛盾を思わぬわけにいかない。
見るところ、花前は、ほとんど口をきく必要のないまで、自分の思うとおりを直行するほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平生は、ただ方便を主とすることばかりおおくて、かえってこの花前に気恥ずかしいような感じもする。
花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世人を眼中におかなく、心中に自分らをまで侮蔑しつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になる身を人にたくして、とんと人と交渉しえない、世にもあわれな人間とも思われる。
主人が妄想に落ちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二頭三頭とちゃくちゃくしぼり進む。かれは毅然たる態度でそのなすべきことをなしつつある。花前は一面あわれむべき人間には相違ないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確信なきわが生活の、精神上にその日暮らしである恥ずかしさをうち消すことができなかった。
「だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください」
そういう兼吉は、もはや飼い葉をすませて、おぼれ板の掃除にかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞尿相混じた汚物を下へ下へとはきおろしてきたのである。
「湯が煮たったから、ふすまをかいておくれ、兼吉」
流し場から細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一時に騒然として草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行為の緊張をゆるめない。やがて主人は奥に客があるというので牛舎をでた。
三
その夜の晩餐のときに、細君はそろそろこぼしはじめた。
「ねいあなた、人なみでないっち話ではあったけれど、よほど人なみでないようですねい、主人からものをいわれても、なるべくは返事もしたくないというふうですからねえ、あれでどうでしょうかねえ」
「うむ、変人だと承知でおいてみるのだから、いまからこぼすのはまだ早い、とにかく十日か二十日も使ってみんことにはわかりゃせんじゃないか」
「そりゃそうですけれど」
「えいさ、変人のなりがわかりさえすりゃ、その変人なりに使ってやる道があるだろう」
話もそれでおわりになったが、主人はこの花前のことについて考えることに興味を持ってきた。その夜もいろいろと考えた。
かれははじめから変人ではなかったろう。かれがあんなになるについては、かならず容易ならぬ経歴があったにちがいない。それがわかれば、いっそうかれが今日の状態に興味がふかいだろうけれど、わからぬものはしかたがないとして、きょう見ただけでもかれは興味ある変人だ。かれが顔色とかれが風采とに見るもかれがはじめから狂愚でないことはわかる。
かれが行動の確信あるがごとくにして、その確信の底がぬけているところ、かれが変人たるゆえんではあるが、しかしながらかれは確信という自覚があるかどうか、確信の自覚がないのに底ぬけを気づくべきはずのないのはあたりまえだ。おそらくかれには確信という意識はないにちがいない。確信も意識もないにしても、かれの実行動は緊張した精神をもって毅然直行している。その脈絡のていどや統一の範囲は、もうすこしたってみねばわからぬが、とにかく一部の脈絡と統一とはじゅうぶんみとめることができる。みょうな変人があったものだ。
なにひとつ人にすぐれたことのない人間からみると、ああいう人間のほうがたしかにおもしろい。あまりよく他と調和する人間にろくなやつはないけれど、そのろくでもないやつのほうが、この世の中ではたいてい幸福であるのがおかしい。
自分と花前とをくらべて考えるとおもしろい対照ができる。われわれは問題の大小を識別して、いつでも小問題をごまかしているが、花前は問題の大小などいう考えがはじめからなくて、なにごともごまかすことが絶対にできない。であるからわれわれは、近い左右前後はいつでもあいまいであるけれど、遠い前後と広い周囲には、やや脈絡と統一がある。花前になると、それが反対になって、近い左右前後はいつでも明瞭であって、遠い前後や広い周囲はまるで暗やみである。
まずちょっとこんなふうに差別されるようだが、近い周囲をあいまいにして世に処するということが、けっしてほこるべきことではなかろう。結局主人は、花前に学ぶところがおおいなと考えた。
そのよく朝であった。細君はたばこ盆に長いきせるを持ちそえて、主人の居間にはいってきた。
「花前は保証人があるでしょうか、なんでも大島の若衆の話では、親類も身内もないひとりものだということですから、保証人はないかもしれませんよ」
「うむ」
「金銭に関係しないから、そのほうはなんですけれど、病気にでもかかったらこまりゃしませんかねえ」
「そうさな、保証人のあるにましたことはないが……じゃちょっと花前をよんでみろ」
細君は下女に命じて花前をよばせる。まもなくかれはズボンチョッキのこざっぱりしたふうで唐紙の外へすわった。例のごとく軽く黙礼しただけで、もとよりものをいわずよそ見をしている。花前の顔色には不安もなければ安心もない。主人は無意職に色をやわらげてことば軽く、
「花前、おまえ保証人はあるかね」
「ありません」
花前は、よどみなく決然と答えて平気でいる。話のしりを結ばないことになれてる主人も、ただありませんと聞いたばかりではこまった。なみのものであれば、すぐにそれでおまえどうする気かと問いかえすにきまってるけれど、変人をみとめている花前にそういってもしかたがないから、
「うん、そうか」
といったまま、しばらく黙している。細君はじれ気味に、
「おまえずいぶん長いあいだ東京にいるというに、懇意の人もないのかね」
花前はちょっと目を細君にむけたが、くちびるは動かない。これは細君の問いがおかしいのだ。変人でとおった人間に懇意な人があるかでもあるまい。主人はしかたがなく、
「まあえいや、そんなことあとの話にしよう、えいや花前」
「保証人がなくていけなければ帰ります」
「いや、帰られてはこまる、えいから花前やってくれや、じゃこうしよう、おれが保証人になることにしよう、だからやってくれや」
細君は、目をぱちつかせて主人の顔を見る。
主人は目で細君を制す。勝手で子どもが泣きたったので細君は去った。花前もつづいて立ちかけたのをふたたび座になおって、
「この国で生まれた人間ですから、つまりはこの国のやっかいになってもしかたありません」
主人はきっと花前を見おろした。果然、花前にはなにか信念があるなと思った。それでさらにおだやかに、
「そうだとも、それでおまえの精神はわかった、それで、おれがおまえの保証人になるから、おまえ安心してやってくれ、まだ昼乳までにはすこし休むまがあるから休んでくれ」
こういわれて花前は、それに答うることばなく立った。花前は保証人になる人がないのではないらしい。自分のようなものは、いよいよ働けなくなれば、個人が世話するよりは国家が世話すべきだと思ってるらしい。それならば考えのすじはたっていると主人は思った。主人はうしろ姿を見送って、この変人いよいよおもしろいなと思った。
四
それから五、六日たった。花前の働きぶりはほとんど水車の回転とちがわない。時間の順序といい、仕事の進行といい、いかにも機械的である。余分なことはすこしもしないかわりに、なすべきことはちょっとのゆるみもない。細君はやや安心して、結局よい乳しぼりだと思った。
ところが花前の評判は、若衆のほうからも台所のほうからもさかんにおこった。花前は、いままでに一度もふたりの朋輩と口をきかない。自分は一分もちがわず時間どおりにおきるが、けっして朋輩をおこさない。それでいまだに一度も笑ったこともない。したがって人がどんなことしようと、それにいっこう頓着もせぬ。自分は自分だけのことをして、さっさとあがってしまう。
そうかといって、花前さんちょっとこれこれしてくれといえば、それにさからいもしない。自分のからだにだけは非常に潔癖であって、シャツとか前掛けとかいうものは毎日洗っている。
主人は笑って、それだけのことならばしごくけっこうじゃないかという。
台所のうわさはまたおもしろい。下女はだいいちに花前さんはえい人だという。変人だといってばかにするのはかわいそうだという。ご飯だといわなければ、けっして食いにこない。
一日二日まえ、下女がうっかりしてよぶのを忘れたら、ついに飯を食いにこなかった。若衆はすましたことと思ってさそわなかったとか。下女が夜おそくふと気づいて、聞きにいったら、まだ食わなかったそうで、それから食いにきた。
下女はとんだことをしたと悔やんでいた。花前が食事も水車的でいつもおなじような順序をとる。自分のときめた飯椀と汁椀とは、かならず番ごと自分で洗って飯を食べる。白いふきんと象牙のはしとをだいじに持っておって、それは人に手をつけさせない。この象牙のはしにはだれもおどろいてる。ややたいらめな質のもっとも優等な象牙で、金蒔絵がしてある。細君などは見たこともないものだといっている。下女の話によると、下女が花前さんのおはしはじつにりっぱなものですねえ、なにかいわくのありそうなはしじゃありませんかというと、しろりと笑うそうだ。
下女は花前さんを笑わせるにゃ、はしをほめるにかぎるといって笑っている。
しかし細君や子どもたちは、変人とはいえ、花前がいかにもきちんとした顔をしているので、いたずら半分にはしのことを問うてみるようなことは得しない。細君はどういうものか、いまだに花前を気味わるくばかり思って、かわいそうという心持ちになれぬらしい。
主人は以上の話を総合してみて、残酷な悲惨な印象を自分の脳裏に禁じえない。精神病者に相違ないけれど、花前が人間ちゅうの廃物でないことは、畜牛いっさいのことを弁じて、ほとんどさしつかえなきのみならず、ある点には、なみの人のおよばぬことをしている。いつかのように、この国で生まれた人間ですからというような調子に、人世上のことになんらか考えてやしまいか。人世問題になんらかの考えがあって、いまの境遇にありとせば、いよいよ悲惨な運命である。
こう考える主人は、ときどきそれとなく奥へ招いで茶菓などをあたえ、種々会話をこころみるけれど、かれが心面になんらのひびきを見いだしえない。なにを問うても、かれは、はあというきりで、なんらの語もつづらない。主人は百方意をつくして、この国で生まれた人間ですからというような糸口を引きだそうとこころみたが、いつでも失敗におわった。かれは主人に対したときにも、ときをきらわず立ってしまう。
あるときはその象牙のはしから話しかけてみると、なるほど下女のいうごとく、かれががんじょうな顔にしろりと笑いを動かした。しかしこれも笑うたきりで、それ以上には、なんの話もせぬ。依然たる前後の暗黒であった。
そのように花前は、絶対にほかに交渉しえないけれど、周囲はしだいにその変人をのみこみ、変人になれて、石塊を綿につつんだごとく、無交渉なりに交渉ができている。かくて数月をぶじにすごした。
五
人との交渉には、感情絶無な花前も、ふしぎと牛はだいじにする。愛してだいじにするのか、運動の習慣でだいじにするのか、いささか分明を欠くのだが、とにかく牛をだいじにすることはひととおりでない。それに規則的にしかも仕事は熟練してるから、花前がきてから二か月にして、牛舎は一変した観がある、主人はもはやじゅうぶんに花前の変人なりをのみこんでるから、すべてつごうよくはこぶのであった。
水車の運動はことなき平生には、きわめて円滑にゆくけれど、なにかすこしでも輪の回転にふれるものがあると、いささかの故障が全部の働きをやぶるのである。
主人は読書にあいて庭に運動した。秋草もまったく朽ちつくして、わずかにけいとうと野菊の花がのこっているばかりである。主人は熱した頭を冷気にさらしてしばらくたたずんでおった。露霜に痛められて、さびにさびたのこりの草花に、いいがたきあわれを感じて、主人はなんとなし悲しくなった。
こういうときには、みょうにものに驚きやすい、主人は耳をそばだてて、牛舎に荒あらしきののしりの声を聞きつけた。やがて細君も木戸へ顔をだして、きてくれという。いってみると、兼吉と五郎がふたりして、花前を引きたてて牛舎からでるところであった。
花前は、ややもすればふたりをはらいのけようとする。ふたりは、ひっしと花前の両手を片手ずつとらえて離さない。ふたりはとうとう花前を主人のまえに引きすえて訴える。兼吉は、
「わし、この気ちがいに打たれました、なぐり返そうと思っても、ひとりではとてもこの野郎にかないません、五郎さんがおさえてくれなきゃ……わし、こんな気ちがいといっしょにいるのはいやですから、ひまをいただきます」
「この若いものが、牛をたたいたから打ちました」
「わし、牛を打ったのではありません……」
主人は、まあまあとことばしずかにふたりを制した。秋のゆくというさびしいこのごろ、無分別な若ものと気ちがいとのあらそいである。主人はおぼえず身ぶるいをした。花前は平然たるもので、
「牛をたたくという法はない」
こう語勢強くいったきり、ふたたび口を開かぬ。ふたりはしきりに気ちがいなどに打たれたりなんかされて、とてもいられないとわめく。
話をまとめてみると、兼吉が尿板のうしろを通ろうとすると、一頭の牛がうしろへさがって立ってるので通れないから、ただ平手で軽く牛のしりを打ったまでなのを、牛をだいじにする花前は、兼吉がらんぼうに牛をたたいたとおこったらしい。それで例の無言で、不意にうしろから兼吉にげんこをくれた。
兼吉は、腕力では花前によりつけないから、五郎に加勢を頼んだのだ。事実は兼吉が牛をたたいたのかもしれないが、ふたりのいい状はそうであった。ふたりに同時に去られてもこまるから、主人はふたりを庭へつれこんだ。
「そうだ……気ちがいだから、おれに免じておまえたちもがまんしてくれ、おれがあやまり賃はだすから、花前も気ちがいながら、牛をだいじにしてからの思いちがいであってみるとかわいそうなところがある、だからおれがあやまる、これからおまえたちはふたりで仲間になっていて、花前は相手にせぬようにしていたらえいじゃないか、これで一ぱいやってがまんしてくれるさ、えいか」
兼吉も五郎も主人に、おれがあやまるからといわれては口はあけない。酒代一枚でかれらはむぞうさにきげんを直した。水車の回転も止めずにすんだ。生業ということにかかわっていれば、らちもないことにも怖じ驚くばかばかしさを主人はふかく感じた。細君もでてきて、
「わたしほんとにおどろきました、あのけたたましい声ったらないですもの、気ちがいがどんなことをしたかと思って……ああそうでしたか、まあよかった、それにしても花前はなんだかわたし、気味がわるくて……」
主人は細君のことばを打ち消して、
「花前の気ちがいぶりもわかってるのだから、すこしも気味のわるいことはないよ、こんどのことはどっちがどうだかわかりゃしない、乳しぼりが牛をだいじにするというのだから、たとえまちがっても憎くはないじゃないか」
細君は、
「そりゃそうですがねい」
とまだふにおちかねたが、主人は、
「あんなにいかいかしいふうをしておっても、しりのぬけてるのが、かわいそうに見えないか、ふびんをかけてやれ」
というのであった。細君の去ったあとで、主人は、おもしろいということのない花前がおこったというのはおかしいなと考えたけれど、その理由は解釈がつかなかった。
はじめて花前に笑わせた下女は、おせっかいにも花前にぜひ象牙のはしの話をさせるといって、いろいろしんせつに世語をしたり、話をしかけたりしたけれど、しろりと笑わせるのが精一ぱいで、それ以上にはなにごとをもえられなかった。もう根がつきたと下女は笑ってる。
かくて水車はますますぶじに回転しいくうち、意外な滑稽劇が一家を笑わせ、石塊のごとき花前も漸次にこの家になずんでくる。
ある日、主人のるすの日であった。警視庁の技師が、ふいに牛舎の検分にきた。いきなり牛舎のまえに車にのりこんできて、すこぶる権柄に主人はいるかとどなった。
兼吉と五郎は洗いものをしている。花前が例の毅然たる態度で技師先生のまえにでた。技師はむろん主人と見たので、いささかていねいに用むきを談ずる。
花前はときどき頭を動かすだけで一言もものをいわない。技師先生心中非常に激高、なお二言三言、いっそう権柄に命令したけれど、花前のことだから冷然として相手にならない。技師は激しているから花前の花前たるところにいっこう気がつかない。技師はたまりかねたか、ここでは話ができないといって玄関へまわった。あらたまってその無礼を詰責するつもりであったらしい。
玄関では細君がでて、ねんごろに主人の不在なことをいうて、たばこ盆などをだした。技師もここで花前の花前たることを聞き、おおいにきまりわるくなって、むつかしい顔のしまつに究したまま逃げ去った。夜、主人が帰ってから一家くずるるばかり大笑いをやった。兼吉と五郎は、かわりがわり技師と花前との身ぶりをやって人を笑わせた。細君が花前を気味わるがるのも、まったくそのころから消えた。
六
年が暮れて春がき、夏がきてまた秋がきた。花前もここに早一年おってしまった。この間、花前の一身上には、なんらの変化もみとめえなかった。ただ考え性な主人の頭には、花前のように、きのうときょうとの連絡もなく、もちろんきょうとあすとの連絡もない。まして一年とかひと月とかいう時間の意味のありようもなく、かれは生きるために働くのでなく、生きているから働くというような生活、きょうというほかに時間の考えはなく、自分というほかに人生の考えはない。いやきょうということも自分ということも意識していやしない。
してみると、かれに義務責任などいう考えのありようもなければ、きゅうくつも心配も不安もないわけだ。明るいところに魔の住まないごとく、花前のような生活には虚偽罪悪などいうものの宿りようがない。大悟徹底というのがそれか。絶対的安心というのがそれか。むかしは、宰相を辞して人のために園にそそいだという話があるが、花前はそれに比すべき感がある。
主人はまたこう考えた。かえりみて自分の生活をみると、じつになさけないとらわれの身である。わずかに手を動かすにも足を動かすにも、あとさきを考えねばならぬ。かりそめにものをいうにも、人の顔色を見ねばならぬ。前後左右に係累者はまといついてる。なにをひとつするにも、自分のみを標準として動くことはできぬ。とうてい社会組織上の一分子であるから、いかなる場合にも絶対単独の行動はゆるされない。
それでつまりよいかげんなことばかりをやって、まにあわせのことばかりいっておらねばならぬ。それというのも、義務とか責任とかいうことを、まじめに正直に考えておったらば、実際人間の立つ瀬はない。手足を縛して水中におかれたとなんの変わるところもない。
このせつない覊絆を脱して、すこしでもかってなことをやるとなったらば、人間の仲間入りもできない罪悪者とならねばならぬ。考えれば考えるほどばかげているけれども、それをどうすることもできないのがわれわれの生活状態である。
こう思うと自分がどれだけ花前に勝っているか、いよいよわからなくなる。むしろどうか一度でもよいから花前のような生活がしてみたくなってくる。
要するに、自分を強く意識するのがわるいのだ。自分を強く意識するから、世の中がきゅうくつになる。主人はこんな結論をこしらえてみたけれど、すぐあとからあやふやになってしまった。自分と花前との差別はどう考えても、意識があるのとないのとのほかない。自分に意識がなければ自分はこのままでもすぐ花前になることができるとすれば、花前はけっしてうらやむべきでないのだ。
大悟徹底と花前とは有と無との差である。花前は大悟徹底の形であって心ではなかった。主人はようやく結論をえたのであった。主人はこの結論をえたにかかわらず、さらば自分の生活にどれだけの価値があるかと思うてみて、やはりわけがわからなくなった。花前と大悟徹底とは、裏表であるが、自分と大悟徹底とは千葉と東京との差であるように思われた。
ここ一、二年水害をまぬがれた庭は、去年より秋草がさかんである。花のさかりには、まだしばらくまがありそうだ。主人はけさも朝涼に庭を散歩する。すいれんの花を見て、去年花前がきたのも秋であったことを思いだす。この日、主人は細君より花前の上について意外な消息を聞いた。
花前は、けさ民子をだいてしばらくあるいておった。細君はもちろん、若衆をはじめ下女までいっせいにふしぎがったとの話である。それは実際ふしぎに相違ない。これまでの花前にして、子どもをだいてみるなぞは、どうしても破天荒なできごとといわねばならぬ。
下女の話によると、タアちゃんはこれまでもときどき、花前、花前といって花前のところへいき、花前もタアちゃんの持っていったお菓子を食べたようすであったという。主人はこの話を非常な興味をもって聞いた。今後花前の上になんらかの変化をきたすこともやと思わないわけにはいかなかった。
その後自分も注意し家のものの話にも注意してみると、花前はかならず一度ぐらいずつ民子をだいてみる。民子もますます花前、花前といってへやへ遊びにゆく。花前は、ついに自分で菓子など買うてきて、民子にやるようになった。ときにはさびしい笑いようをして、タアちゃんと一言くらいよぶのであった。そう思って見ると、花前の毅然とした顔つきが、このごろは、いくらかやわらいできたようにも見える。若衆の話では、花前は近ごろ元気がおとろえたようだという。それでもその水車的運動にはまだすこしも変わるところはなかった。
それからひと月ばかり花前の新傾向はさしたる発展もなく秋もようやく涼しくなった。
七
花前の友人という人が、とつぜんたずねてきて、花前の身分がようやく明らかになった。
友人というのは、某会社の理事安藤某という名刺をだして、年ごろ四十五、六、洋服の風采堂どうとしたる紳士であった。主人は懇切に奥に招じて、花前の一身につき、問いもし語りもした。
安藤は話の口があくと、まず自分が一年まえに会ったときと、きょう会った花前はよほど変わっている。自分は十代から花前と懇意であって、花前にはひとかたならず世話にもなったが、自分も花前のためにはそうとう以上につくした。いまのような境遇になって、だれひとりおとのうてなぐさめるものもないうちに、自分だけはたえず見舞うておった。
その自分に対して、去年会うたときには、某牛舎に寝ておって、うん安藤かといったきり、おきもしなかった。それがきょうは、意外に自分を見るとうれしそうに立ちあがって、よくきてくれたといった。じつは自分は花前はもうだめとあきらめていたところ、きょうのようすでは精神の状態が、たしかにすこしよくなってる。この家へきたときからこのくらいか、あるいはいつごろから調子がよくなったかと問うのであった。安藤は真の花前の友である。
主人は花前が近来の変化のありのままを語ったのち、今後あるいは意外の回復をみるかもしれぬと注意した。安藤はもちろん見込みがありさえすれば、すぐにも自分が引き取って治療をこころみんとの決心を語り、つづいて花前の不幸なりし十年まえの経歴を語った。
花前は麻布某所に中等の牛乳屋をしておった。畜産熱心家で見職も高く、同業間にも推重されておった。母がひとり子ども三人、夫婦をあわせて六人の家族、妻君というのは、同業者のむすめで花前の恋女房であった。地所などもすこしは所有しておって、六人の家族は豊かにたのしく生活しておった。
それ以前から、安藤は某学校の学費まで補助してもらい、無二の親友として交際しておったのだが、安藤がいまの会社へはいって二年めの春、母なる人がなくなり、つづいて花前の家にはたえまなき不幸をかさねた。
その秋の赤痢流行のさい、親子五人ひとりものこらず赤痢をやった。とうとう妻と子ども三人とはひと月ばかりのあいだに死亡し、花前は病院にあってそれを知らないくらいであった。
そんな状況であるから、営業どころの騒ぎでない。自分が熱心奔走してようやく営業は人にゆずりわたした。花前は二か月あまりも病院におっていつまで話さずにおくわけにゆかないから、すべてのことを話すと、
「破壊しおわった断片の一個をのこしてどうするものか、のこったおれだってこまる、のこされた社会もこまるだろう、この一個の断片をどうにかしてくれ、おれはどうしてもこの病院をでない」と絶叫して泣いたけれど命数があれば死にも死なれないで、花前は追われるように病院をでた。病院をでてもいく家はない。待ってる人もない。安藤が自分の家へつれて帰ったものの、慰藉のあたえようもない。花前はときどき相手かまわず、
「どうせばえいんだ」
とどなる。
安藤は手のつけようがないから、ともかくもと湯河原へつれだした。そうして自分もいっしょにひと月もおってなぐさめた。どうかして宗教にはいらしめようとこころみたが、多少理屈の頭があったから、どうしても信仰にはいることができない。破壊以前が人なみよりもあたたかい歓楽に富んでおっただけ、破壊後の悲惨が深刻であった。
自分もそうそういっしょにはおられないので帰京すると、花前はそのまま一年半もその家におった。あっただけの財をことごとく消費して、ただ帰京の汽車賃で安藤の家に帰ってきた。そのときにはたしかに精神に異状を呈しておった。なにを話してみようもなく、花前は口をきかなかった。
その後無断で安藤の家をでて、以前交際した家に乳しぼりをしておった。ようやく見つけてたずねていくと、いつのまにかいなくなる。また見つけだしてたずねると、またいなくなる。ゆくさきざきの乳屋で虐待されて、ますます本物になったらしい。じつにきのどくというて、このくらい悲惨なことはすくなかろうと、安藤は長ながと話しおわって嘆息した。
主人もことばのかぎりをつくして同情した。しんせつな安藤はともかくも治療の見込みがすこしでもあるならば、一日も見てはいられぬといって辞し去った。
安藤は去ってから三日めに、車を用意して自身むかえにきた。花前は安藤のいうことをこばまなかった。いよいよ家をでるときには主人にも、ややひととおりのあいさつをして、厚意を謝した。台所へでて、無言にタアちゃんをだいたときには、家のものみなが目をうるおした。花前が去ったあと、あのはしの話を聞きたかったけれど、なんだかきのどくで聞かれなかったと下女も涙をふいた。
十日ほどたって、主人は花前を青山の脳病院におとのうてみた。花前は非常によろこんだ。話しするところによると精神のほうはますますよいようであるが、それと反比例にからだのほうはたいへん疲れてるように見えた。それから二十日ばかりして、花前は死んだと安藤から知らせてきた。 | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「ホトヽギス 第十三卷第一號」
1909(明治42)年10月1日
※表題は底本では、「箸《はし》」となっています。
※「兼吉」に対するルビの「かねきち」と「けんきち」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年9月2日作成
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汽車がとまる。瓦斯燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。
日和下駄カラカラと予の先きに三人の女客が歩き出した。男らしい客が四五人又後から出た。一寸時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践み出しかねた。
今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終った。軒燈の光り鈍く薄暗い停車場に一人残った予は、暫く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。
「旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書を出すためである。
キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳せ走った。
予は此の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は深く憐れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転た旅情の心細さを彼が為に増すを覚えた。
予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。
「此の辺が四ッ谷町でござりますが」
「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」
暫くして漸く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞に力を入れて繰返した。
もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際咄嗟に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固よりない。予の手足と予の体躯は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。
一間の燈りが動く。上り端の障子が赤くなる。同時に其障子が開いて、洋燈を片手にして岡村の顔があらわれた。
「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた」
「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」
「まアあがり給え」
そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据りが頗る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。
「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君があまりに遅いから……」
「ウン僕はやってきた。汽車弁当で夕飯は済してきた」
「そうか、それじゃ君一寸風呂に這入り給え。後でゆっくり茶でも入れよう、オイ其粽を出しておくれ」
岡村は自分で何かと茶の用意をする。予は急いで一風呂這入ってくる。岡村は四角な茶ぶだいを火鉢の側に据え、そうして茶を入れて待って居た。東京ならば牛鍋屋か鰻屋ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢気だから、未だ気が若いから、遠来の客の感情を傷うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻りに解釈して居るものの、心の底のどこかに抑え切れない不平の虫が荒れて居る。
予は座について一通り久𤄃の挨拶をするつもりで居たのだけれど、岡村は遂に其機会を与えない。予も少しくぼんやりして居ると、
「君茶がさめるからやってくれ給え。オイ早く持ってこないか」
家中静かで返辞の声もない。岡村は便所へでもゆくのか、立って奥へ這入って行った。挨拶などは固よりお流れである。考えて見ると成程一昨年来た時も、其前に来た時も改まった挨拶などはしなかった様に覚えてるが、しかしながら今は岡村も慥か三十以上だ。予は四十に近い。然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考える。百里遠来同好の友を訪ねて、早く退屈を感じたる予は、余りの手持無沙汰に、袂を探って好きもせぬ巻煙草に火をつけた。菓子か何か持って出てきた岡村は、
「近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」
「ウンやるんじゃない板面なのさ。そりゃそうと君も次が又出来たそうね、然も男子じゃ目出たいじゃないか」
「や有難う。あの時は又念入りの御手紙ありがとう」
「人間の変化は早いものなア。人の生涯も或階段へ踏みかけると、躊躇なく進行するから驚くよ。しかし其時々の現状を楽しんで進んで行くんだな。順当な進行を遂げる人は幸福だ」
「進行を遂げるならよいけれど、児が殖えたばかりでは進行とも云えんからつまらんさ。しかし子供は慥に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ」
「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」
「オイ未だか」
岡村が吐鳴る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿の粽を及び腰に手を延べて茶ぶ台の上に出した。予は細君と合点してるが、初めてであるから岡村の引合せを待ってるけれど、岡村は暢気に済してる。細君は腰を半ば上りはなに掛けたなり、予に対して鄭嚀に挨拶を始めた、詞は判らないが改まった挨拶ぶりに、予もあわてて初対面の挨拶お定まりにやる。子供二人ある奥さんとはどうしても見えない。
「矢代君やり給え。余り美味くはないけれど、長岡特製の粽だと云って貰ったのだ」
「拵えようが違うのか、僕はこういうもの大好きだ。大いに頂戴しよう」
「余所のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩と云ったようだよ」
「ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ」
「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ」
「そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか」
「田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らしない。何にしろ君そんなによくば沢山やってくれ給え」
「野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪らなくなるな」
岡村は笑って、
「君の様にそう頭から嬉しがって終えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の趣味など嬉しがるのは、要するに時代おくれじゃないか」
「ハハハハこりゃ少し恐れ入るな。意外な所で、然も意外な小言を聞いたもんだ。岡村君、時代におくれるとか先んずるとか云って騒いでるのは、自覚も定見もない青臭い手合の云うことだよ」
「青臭いか知らんが、新しい本少しなり読んでると、粽の趣味なんか解らないぜ」
「そうだ、智識じゃ趣味は解らんのだから、新しい本を読んだとて粽の趣味が解らんのは当り前さ」
岡村は厭な冷かな笑いをして予を正面に見たが、鈍い彼が目は再び茶ぶだいの上に落ちてる。
「いや御馳走になって悪口いうなどは、ちと乱暴過ぎるかな。アハハハ」
「折角でもないが、君に取って置いたんだから、褒めて食ってくれれば満足だ。沢山あるからそうよろしけば、盛にやってくれ給え」
少し力を入れて話をすると、今の岡村は在京当時の岡村ではない。話に熱がなく力がない。予も思わず岡村の顔を見て、其気張りのないのに同情した。岡村は又出し抜けに、
「君達の様に文芸に遊ぶの人が、時代おくれな考えを持っていてはいけないじゃないか」
鸚鵡が人のいうことを真似るように、こんな事をいうようでは、岡村も愈駄目だなと、予は腹の中で考えながら、
「こりゃむずかしくなってきた。君そういう事を云うのは一寸解ったようでいて、実は一向に解って居らん人の云うことだよ。失敬だが君は西洋の真似、即西洋文芸の受売するような事を、今の時代精神と思ってるのじゃないか。それじゃあ君それは日本人の時代でもなければ精神でもないよ。吾々が時代の人間になるのではない、吾々即時代なのだ。吾々以外に時代など云うものがあってたまるものか。吾々の精神、吾々の趣味、それが即時代の精神、時代の趣味だよ。
いや決してえらい事を云うんじゃない。傲慢で云うんじゃない。当り前の頭があって、相当に動いて居りさえすれば、君時代に後れるなどいうことがあるもんじゃないさ。露骨に云って終えば、時代におくれやしないかなどいう考えは、時代の中心から離れて居る人の考えに過ぎないのだろうよ」
腹の奥底に燃えて居った不平が、吾れ知らず気燄に風を添えるから、意外に云い過した。余りに無遠慮な予の詞に、岡村は呆気にとられたらしい。黙って予の顔を見て居る。予も聊かきまりが悪くなったから、御馳走して貰って悪口いうちゃ済まんなあ。失敬々々。こう云ってお茶を濁す。穏かな岡村も顔に冷かな苦笑を湛えて、相変らず元気で結構さ。僕の様に田舎に居っちゃ、君の所謂時代の中心から離れて居るからな、何も解らんよ。とにかくここでは余り失敬だ。君こっちにしてくれ給え。こういって岡村は片手に洋燈を持って先きに立った。あアそうかと云いつつ、予も跡について起つ。敢て岡村を軽蔑して云った訳でもないが、岡村にそう聞取られるかと気づいて大いに気の毒になった。それで予は俄におとなしくなって跡からついてゆく。
内廊下を突抜け、外の縁側を右へ曲り、行止りから左へ三尺許りの渡板を渡って、庭の片隅な離れの座敷へくる。深夜では何も判らんけれど、昨年一昨年と二度ともここへ置かれたのだから、来て見ると何となくなつかしい。平生は戸も明けずに置くのか、空気の蒸せた黴臭い例のにおいが室に満ちてる。
「下女が居ないからね、此の通り掃除もとどかないよ。実は君が来ることを杉野や渋川にも知らせたかったが、下女がいないからね」岡村は言い分けのように独で物を云いつつ、洋燈を床側に置いて、細君にやらせたらと思う様な事までやる。隣の間から箒を持出しばさばさと座敷の真中だけを掃いて座蒲団を出してくれた。そうして其のまま去って終った。
予は新潟からここへくる二日前に、此の柏崎在なる渋川の所へ手紙を出して置いた。云ってやった通りに渋川が来るならば、明日の十時頃にはここへ来られる都合だが、こんな訳ならば、云うてやらねばよかったにと腹に思いながら、とにかく座蒲団へ胡坐をかいて見た。気のせいかいやに湿りぽく腰の落つきが悪い。予の神経はとかく一種の方面に過敏に働く。厄介に思われてるんじゃないかしら、何だか去年や其前年来た時のようではない。どうしたって来たから仕方なしという待遇としか思われない。来ねばよかったな、こりゃ飛だ目に遭ったもんだ。予は思わず歎息が出た。
岡村もおかしいじゃないか、訪問するからと云うてやった時彼は懇に返事をよこして、楽しんで待ってる。君の好きな古器物でも席に飾って待つべしとまで云うてよこしながら、親父さんだって去年はあんなに親切らしく云いながら、百里遠来の友じゃないか。厄介というても一夜か二夜の宿泊に過ぎんのだ。どうも解らんな。それにしても家の人達はどうしたんだろう。親父さん、お母さん、それからお繁さん、もう寝たのかしら。お繁さんはきっと家に居ないに違いない。お繁さんが居れば、まさかこんなにおれに厭な思いはさせまい。そうだきっとお繁さんが居ないに違いない。
予は洋燈を相手に、八畳の座敷に一人つくねんとしてまとまった考えがあるでもなく、淋しいような、気苦しいような、又口惜しいような心持に気が沈む。馬鹿々々しく頭が腐抜けになったように、吾れ知らず「こんな所へくることよせばよかったなア」と又独言ちた。そんな事で、却て岡村はどうしたろうとも思わないでいる所へ、蚊帳の釣手の鐶をちゃりちゃり音をさせ、岡村は細君を先きにして夜の物を運んで来た。予は身を起して之を戸口に迎え、
「夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃないか。東京から見るとここは余程涼しいなア」
「ウン今夜は少し涼しい。これでも蚊帳なしという訳にはいかんよ。戸を締めると出るからな」
細君は帰って終う。岡村が蚊帳を釣ってくれる。予は自ら蒲団を延べた。二人は蚊帳の外で、暫く東京なる旧友の噂をする、それも一通りの消息を語るに過ぎなかった。「君疲れたろう、寝んでくれ給え」岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に去って終った。
予は彼が後姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いのだ。旧友の名は覚えて居っても、旧友としての感情は恐らく彼には消えて居よう。手っとり早く云えば、彼は全く書生気質が抜け尽して居るのだ。普通な人間の親父になって居たのだ。
やれやれそうであった、旧友として訪問したのも間違っていた。厄介に思われて腹を立てたも考えがなかった。予はこう思うて胸のとどこおりが一切解けて終った。同時に旧友なる彼が野心なき幸福を悦んだ。
欲を云えば際限がない。誰にも彼にも非常人的精進行為を続けて行けと望むは無理である。子を作り、財を貯え、安逸なる一町民となるも、また人生の理想であると見られぬことはない。普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽かさを感じ、又暫く戸口に立った。
風は和いだ。曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、朧気に庭の様子が判る。狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。
北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧く。母屋の方では咳一つするものもない。世間一体も寂然と眠に入った。予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足らぬ心の弱りに落ちつくことが出来ぬのである。
元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた岡村の仕振りが、一々胸に呼び返される。
お繁さんはどうしたかしら、どうも今居ないらしい。岡村は妹の事に就て未だ何事もおれには語らない。お繁さんは無事でしょうなと、聞きたくてならないのを遂に聞かずに居った予は、一人考えに耽って愈其物足らぬ思いに堪えない。
新潟を出る時、僅かな事で二時間汽車の乗後れをしてから、柏崎へ降りても只淋しい思いにのみ襲われ、そうして此家に著いてからも、一として心の満足を得たことはない。其多くの不満足の中に、最も大なる不満足は、此家にお繁さんの声を聞かなかった事である。あアそうだ外の事は一切不満足でも、只同情ある殊に予を解してくれたお繁さんに逢えたら、こんな気苦しい厭な思いに悶々しやしないに極ってる。いやたとえ一晩でも宿めて貰って、腹の中とは云え悪くいうは気が咎める、もうつまらん事は考えぬ事と戸を締めた。
洋燈を片寄せようとして、不図床を見ると紙本半切の水墨山水、高久靄厓で無論真筆紛れない。夜目ながら墨色深潤大いに気に入った。此気分のよいところで早速枕に就くこととする。
強いて頭を空虚に、眼を閉じてもなかなか眠れない、地に響くような波の音が、物を考えまいとするだけ猶強く聞える。音から聯想して白い波、蒼い波を思い浮べると、もう番神堂が目に浮んでくる。去年は今少し後であった。秋の初め、そうだ八月の下旬、浜菊の咲いてる時であった。
お繁さんは東京の某女学校を卒業して、帰った間もなくで、東京なつかしの燃えてる時であったから、自然東京の客たる予に親しみ易い。一日岡村とお繁さんと予と三人番神堂に遊んだ。お繁さんは十人並以上の美人ではないけれど、顔も姿もきりりとした関東式の女で、心意気も顔、姿の通りに快濶な爽かな人であった。こう考えてくるとお繁さんの活々とした風采が明かに眼に浮ぶ。
土地の名物白絣の上布に、お母さんのお古だという藍鼠の緞子の帯は大へん似合っていた。西日をよけた番神堂の裏に丁度腰掛茶屋に外の人も居ず、三人は緩り腰を掛けて海を眺めた。風が変ってか海が晴れてくる。佐渡が島が鮮かに見えてきた。佐渡が見えると海全面の景色が皆活きてくる。白帆が三つ東に向って行く。動かない漁舟、漕ぐ手も見ゆる帰り舟、それらが皆活気を帯びてきた。山の眺めはとにかく、海の景色は晴れんけりゃ駄目ですなアなどと話合う。話はいつか東京話になる。お繁の奴は東京の話というと元気が別だ。僕等もう東京などちっとも恋しくない。兄がそういえばお繁さんは、兄さんはそれだからいけないわ。今の若さで東京が恋しくないのは、男の癖に因循な証拠ですよ。生意気いうようだけど、柏崎に居ったって東京を忘れられては困るわね矢代さん。そうですとも僕は令妹の御考えに大賛成だ。
こんな調子で余は岡村に、君の資格を以てして今から退隠的態度をとるは、余りに勇気に乏しく、資格ある人士の義務から考えても、自家将来の幸福を求むる点から考えても、決して其道でないと説いた。岡村は冷かに笑って、君の云うことは尤もだけれど、僕は別に考えがあるという。兄さんの考えというのは怪しいとお繁さんが笑う。妹さんの云う通りだ、東京がいやというは活動を恐れるのだ。活動を恐れるのは向上心求欲心の欠乏に外ならぬ。おれはえらい者にならんでもよいと云うのが間違っている。えらい者になる気が少しもなくても、人間には向上心求欲心が必要なのだ。人生の幸福という点よりそれが必要なのだ。向上心の弱い人は、生命を何物よりも重んずることになる。生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。宗教の問題も解決はそこに帰するのであろう、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりとは、よく其精神を説明して居るではないか。
岡村は欠びを噛みしめて、いや有がとう、よく解った。お繁さんは兄の冷然たる顔色に落胆した風で、兄さんは結婚してからもう駄目よと叫んだ。岡村は何に生意気なことをと目に角立てる。予は突然大笑して其いざこざを消した。そうして話を他へ転じた。お繁さんは本意なさそうにもう帰りましょうと云い出して帰る。予はお繁さんと岡村とあべこべなら面白いがな、惜しい事じゃと考えたのであった。
予は寝られないままに、当時の記憶を一々頭から呼び起して考える。其を思うとお繁さんの居ない今日、岡村に薄遇されたのに少しも無理はない。予も腹のどん底を白状すると、お繁さんから今年一月の年賀状の次手に、今年の夏も是非柏崎へお越しを願いたい。今一度お目に掛って信仰上のお話など伺いたく云々とあったに動かされてきたと云ってもよい位だ。其に来て見れば、お繁さんが居ないのだから……。お繁さんは結婚したのだろう、どんな人と結婚したか。お繁さんに不足のない様な人は無造作にはあるまい。岡村に一つ聞いて見ようか、いや聞くまい、明日は早々お暇としよう……。
いつしか疲れを覚えてとろとろとしたと思うと、さすがに田舎だ、町ながら暁を告る鶏の声がそちこちに聞える。あ鶏が鳴くわいと思ったと思うと、其のままぐっすり寝入って、眼の覚めた時は、九時を過ぎている。朝日が母屋の上からさしていて、雨戸を開けたらかっと眼のくらむ程明かった。
これから後のことを書くのは、予は不快に堪えない。しかし書かねば此文章のまとまりがつかぬ、いやでも書かねばならない。予は自分で雨戸をくり、自分で寝具を片づけ、ぼんやり障子の蔭に坐して庭を眺めていた。岡村は母屋の縁先に手を挙げたり足を動かしたりして運動をやって居る。小女が手水を持ってきてくれた。岡村は運動も止めて家の者と話をして居るが、予の方へ出てくる様子もない。勿論茶も出さない。お繁さんの居ない事はもはや疑うべき余地はないのであった。
昨夜からの様子で冷遇は覚悟していても、さすが手持無沙汰な事夥しい、予も此年をしてこんな経験は初めてであるから、まごつかざるを得ない訳だ。漸く細君が朝飯を運んでくれたが、お鉢という物の上に、平べったいしおぜのお膳、其に一切を乗せ来って、どうか御飯をという。細君は総てをそこに置いたまま去って終う、一口に云えば食客の待遇である。予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。
予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ましくした様な風はして居らぬ。予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気な顔をして居れば、予は猶更平気な風をしていねばならぬ。こんな馬鹿げた事があるものか。
「君此靄厓は一寸えいなア」
「ウン親父が五六日前に買ったのだ、何でも得意がっていたよ」
「未だ拝見しないものがあったら、君二三点見せ給えな」
「ウンあんまり振るったのもないけれど二つ三つ見せよか」
岡村は立つ。予は一刻も早く此に居る苦痛を脱したく思うのだが、今日昼前に渋川がくるかも知れないと思うままに、今暫くと思いながら、心にもない事を云ってる。こんな時に画幅など見たって何の興味があろう。岡村が持って来た清朝人の画を三幅程見たがつまらぬものばかりであった、頭から悪口も云えないで見ると、これも苦痛の一つで、見せろなど云わねばよかったと後悔する。何もかも口と心と違った行動をとらねばならぬ苦しさ、予は僅かに虚偽の淵から脱ける一策を思いつき、直江津なる杉野の所へ今日行くという電報を打つ為に外出した。帰ってくると渋川が来て居るという。予は内廊下を縁に出ると、驚いた。挨拶にも見えないから、風でもひいてるのかと思うていた岡村の親父は、其所の小座敷で人と碁を打って居る。予はまさかに碁を打ってる人に挨拶も出来ない。しかしどうしても其の前を通らねばならない。止むを得ず黙って通ったが、生れて覚えのない苦痛を感じた。軽侮するつもりではないかも知れねど、深い不快の念は禁じ得なかった。
予は渋川に逢うや否や、直ぐに直江津に同行せよと勧め、渋川が呆れてるのを無理に同意さした。茶を持ってきた岡村に西行汽車の柏崎発は何時かと云えば、十一時二十分と十二時二十分だという。それでは其十一時二十分にしようときめる。岡村はそれでは直ぐ出掛けねばいかんと云う。
岡村は義理にも、そんなに急がんでもえいだろう位は云わねばならぬ所だが、それを云わなかったところを見ると、岡村家の人達は予を余程厄介視したものであろう。予は岡村の家を出ずる時、誰とも別れの挨拶をしなかった。おしろいをこってり化粧した細君が土間に立ちながら、二つ三つお辞儀をしたのみであった。
岡村は吾々より先きに門に出て居った。それでも岡村は何と思うてか、停車場では入場券まで買うて見送ってくれた。
予は柏崎停車場を離れて、殆ど獄屋を免れ出た感じがした。岡村が予に対した仕向けは、解ってるようで又頗る解らぬ所もある。恋は盲目だという諺もあるが、お繁さんに於ける予に恋の意味はない筈なれども、幾分盲目的のところがあったものか、とにかく学生時代の友人をいつまで旧友と信じて、漫に訪問するなどは警戒すべきであろう。聞けば渋川も一寸の事ではあるが大いに不快であったとのことである。
(明治四十一年九月) | 底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
1993(平成5)年6月5日第97刷
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年9月
入力:大野晋
校正:大西敦子
2000年6月19日公開
2011年1月9日修正
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一
隣の家から嫁の荷物が運び返されて三日目だ。省作は養子にいった家を出てのっそり戻ってきた。婚礼をしてまだ三月と十日ばかりにしかならない。省作も何となし気が咎めてか、浮かない顔をして、わが家の門をくぐったのである。
家の人たちは山林の下刈りにいったとかで、母が一人大きな家に留守居していた。日あたりのよい奥のえん側に、居睡りもしないで一心にほぐしものをやっていられる。省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。
「おッ母さん、追い出されてきました」
省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越しに省作の顔を視つめながら、
「そらまあ……」
驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に逢ったら元気づいた。これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶をしたらしい。
「おッ母さん、着物はどこです、わたしの着物は」
省作は立ったまま座敷の中をうろうろ歩いてる。
「おれが今見てあげるけど、お前なにか着替も持って来なかったかい」
「そうさ、また男が風呂敷包みなんか持って歩けますかい」
「困ったなあ」
省作は出してもらった着物を引っ掛け、兵児帯のぐるぐる巻きで、そこへそのまま寝転ぶ。母は省作の脱いだやつを衣紋竹にかける。
「おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった」
「お前、茶どころではないよ」
と言いながら母は省作の近くに坐る。
「お前まあよく話して聞かせろま、どうやって出てきたのさ。お前にこにこ笑いなどして、ほんとに笑いごっちゃねいじゃねいか」
母に叱られて省作もねころんではいられない。
「おッ母さんに心配かけてすまねいけど、おッ母さん、とてもしようがねんですよ。あんだっていやにあてこすりばかり言って、つまらん事にも目口を立てて小言を言うんです。近頃はあいつまでが時々いやなそぶりをするんです。わたしもう癪に障っちゃったから」
「困ったなあ、だれが一番悪くあたるかい。おつねも何とか言うのかい」
「女親です、女親がそりゃひどいことを言うんです。つねのやつは何とも口には言わないけれど、この頃失敬なふうをすることがあるんです。おッ母さん、わたしもう何がなんでもいやだ」
「おッ母さんもね、内々心配していただよ。ひどいことを言うって、どんなこと言うのかい。それで男親は悪い顔もしないかい」
「どんなことって、ばかばかしいこってす。おとっさんの方は別に悪くもしないです」
「ウムそれではひどいこっちはおとよさんの事かい、ウム」
「はあ」
「ほんとに困った人だよ。実はお前がよくないんだ。それでは全く知れっちまたんだな。おッ母さんはそればかり心配でなんなかっただ。どうせいつか知れずにはいないけど、少しなずんでから知れてくれればどうにか治まりがつくべいと思ってたに、今知れてみると向うで厭気がさすのも無理はない」
母はこういってしばらく口を閉じ、深く考えつつ溜息をつく。暢気そうに、笑い顔している省作をつくづくと視つめて、老いの眼に心痛の色が溢れるのである。やがてまた思いに堪えないふうに、
「お前はそんな暢気な顔をしていて、この年寄の心配を知らないのか」
そういわれて省作は俄かに居ずまいを直した。そうして、
「おッ母さん、わたしだってそんなに暢気でいやしませんよ。年寄にそう心配さしちゃすまないですが、実はおッ母さん、あの家はむこうで置いてくれてもわたしの方でいやなんです。なんのかんの言ったって、わたしがいる気で少し気をつければ、わけはないですけど、なんだか知らんが、わたしの方で厭になっちまったんでさ。それだからおッ母さん心配しないでください」
これは省作の今の心の事実であるが、省作の考えでは、こういったら母の心配をいくらかなだめられると思うたのである。ところがそう聞いて母の顔はいよいよむずかしくなった。老いの眼はもう涙に潤ってる。母はずっと省作にすり寄って、
「省作、そりゃおまえほんとかい。それではお前、あんまり我儘というもんだど。おッ母さんはただあの事が深田へ知れては、お前も居づらいはずだと思うたに、今の話ではお前の方から厭になったというのだね。それではおまえどこが厭で深田にいられない、深田の家のどいうところが気に入らないかえ。おつねさんだって初めからお互いに知り合ってる間柄だし、おつねさんが厭なわけはあるまい。その年をしてただわけもなく厭になったなどというのは、それは全く我儘というものだ。少しは考えてもみろ」
省作はだまってうつむいている。省作は全く何がなし厭になったが事実で、ここがこうと明瞭に意識した点はない。深田の家に別に気に入らないというところがあるのではない。つまるところ省作の頭には、おとよの事が深く深く染みこんでいるから、わけもなく深田に気乗りがしない。それにこの頃おとよと隣との関係も話のきまりが着いて、いよいよおとよも他に関係のない人となってみると、省作はなにもかにもばからしくなって、俄かに思いついたごとく深田にいるのが厭になってしまった。しかしそれをそうと打っつけに母にも言えないから、母に問い詰められてうまく返答ができない。口下手な省作にはもちろん間に合わせことばは出ないから、黙ってしまった。母も省作のおちつかぬはおとよゆえと承知はしているが、わざとその点を避けて遠攻めをやってる。省作がおつねになずみさえすれば、おとよの事は自然忘れるであろうと思いこんで、母はただ省作を深田の方へやって置きたいのだ。
「お前も知ってのとおり深田はおら家などよりか身上もずっとよいし、それで旧家ではあるし、おつねさんだって、あのとおり十人並み以上な娘じゃないか。女親が少しむずかしやだという評判だけど、そのむずかしいという人がたいへんお前を気に入ってたっての懇望でできた縁談だもの、いられるもいられないもないはずだ。人はみんな省作さんは仕合せだ仕合せだと言ってる、何が不足で厭になったというのかい。我儘いうもほどがある、親の苦労も知らないで……。お前は深田にいさえすれば仕合せなのだ。おッ母さんまで安心ができるのだに。どういう気かいお前は、いつまでこの年寄に苦労をかける気か」
母は自分で思いをつめて鼻をつまらせた。省作は子供の時から、随分母に苦労をかけたのである。省作が永く眼を煩った時などには、母は不動尊に塩物断ちの心願までして心配したのだ。ことに父なきあとの一人の母、それだから省作はもう母にかけてはばかに気が弱い。のみならず省作は天性あまり強く我を張る質でない。今母にこう言いつめられると、それでは自分が少し無理かしらと思うような男であるのだ。
「おッ母さんに苦労ばかりさせて済まないです。なるほどわたしの我儘に違いないでしょう、けれどもおッ母さん、わたしの仕合せ不仕合せは、深田にいるいないに関係はないでしょう。あの家にいても、面白くなくいては、やっぱり不仕合せですからねイ。またよしあそこを出たにしろ、別に面白く暮す工夫がつけば、仕合せは同じでありませんか。それでもあの家にいさえすればわたしの仕合せ、おッ母さんもそれで安心だと思うなら考えなおしてみてもえいけれど、もうこうなっちゃっては仕方がなかありませんか」
母は少し省作を睨むように見て、
「別に面白く暮す工夫て、お前どんな工夫があるかえ。お前心得違いをしてはならないよ。深田にいさえすればどうもこうも心配はいらないじゃないか。厭と思うのも心のとりよう一つじゃねいか。それでお前は今日どういって出てきました」
「別にむずかしいこと言やしません。家へいってちょっと持ってくるものがあるからって、あやつにそう言って来たまでです」
「そうか、そんなら仔細はないじゃないか。おらまたお前が追い出されて来ましたというから、物言いでもしてきた事と思ったのだ。そんなら仔細はない、今夜にも帰ってくろ。お前の心さえとりなおせば向うではきっと仔細はないのだよ。なあ省作、今お前に戻ってこられるとそっちこちに面倒が多い事は、お前も重々承知してるじゃねいか」
省作はまただまってる。母もしばらく口をあかない。省作はようやく口重く、
「おッ母さんがそれほど言うなら、とにかく明日は帰ってみようけれど、なんだかわたしの気が変になって、厭な心持ちでいたんだから、それで向うでも少し気まずくなったわけだとすると、わたしは心をとりなおしたにしろ、向うで心をなおしてくんねば、しようがないでしょう」
「そりゃおまえ、そんな事はないよ。もともと懇望されていったお前だもの、お前がその気になりさえすりゃ、わけなしだわ」
話は随分長かったが、要するに覚束ない結局に陥ったのである。これからどうしてもおとよの話に移る順序であれど、日影はいつしかえん側をかぎって、表の障子をがたぴちさせいっさんに奥へ二人の子供が飛びこんできた。
「おばあさんただいま」
「おばあさんただいま」
顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵松三郎が重なりあってお辞儀をする。二人は起ちさまに同じように帽子をほうりつけて、
「おばあさん、一銭おくれ」
「おばあさん、おれにも」
二人は肩をおばあさんにこすりつけてせがむのである。
「さあ、おじさんが今日はお菓子を買ってやるから、二人で買ってきてくれ、お前らに半分やる」
二童は銭を握って表へ飛び出る。省作は茶でも入れべいと起った。
二
翌朝、省作はともかくも深田に帰った。帰ったけれども駄目であった。五日ばかりしてまた省作は戻ってきた。今度はこれきりというつもりで、朝早く人顔の見えないうちに、深田の家を出たのである。
母は折角言うていったんは帰したものの、初めから危ぶんでいたのだから、再び出てきたのを見ては、もうあきらめて深く小言も言わない。兄はただ、
「しようがないやつだなあ」
こう一言言ったきり、相変らず夜は縄をない昼は山刈りと土肥作りとに側目も振らない。弟を深田へ縁づけたということをたいへん見栄に思ってた嫂は、省作の無分別をひたすら口惜しがっている。
「省作、お前あの家にいないということがあるもんか」
何べん繰り返したかしれない。頃は旧暦の二月、田舎では年中最も手すきな時だ。問題に趣味のあるだけ省作の離縁話はいたるところに盛んである。某々がたいへんよい所へ片づいて非常に仕合せがよいというような噂は長くは続かぬ。しかしそれが破縁して気の毒だという場合には、多くの人がさも心持ちよさそうに面白く興がって噂するのである。あんまり仕合せがよいというので、小面憎く思った輩はいかにも面白い話ができたように話している。村の酒屋へ瞽女を留めた夜の話だ。瞽女の唄が済んでからは省作の噂で持ち切った。
「省作がいったいよくない。一方の女を思い切らないで、人の婿になるちは大の不徳義だ、不都合きわまった話だ。婿をとる側になってみたまえ、こんなことされて堪るもんか」
こう言うのは深田贔屓の連中だ。
「そうでないさ、省作だって婿になると決心した時には、おとよの事はあきらめていたにきまってるさ。第一省作が婿になる時にゃ、おとよはまだ清六の所にいたじゃないか。深田も懇望してもらった以上は、そんな過ぎ去った噂なんぞに心動かさないで大事にしてやれば、省作は決して深田の家を去るのではない。だからありゃ深田の方が悪いのだ。何も省作に不徳義なこたない」
これは小手贔屓の言うところだ。
「えいも悪いもない、やっぱり縁のないのだよ。省作だって、身上はよし、おつねさんは憎くなかったのだから、いたくないこともなかったろうし、向うでも懇望したくらいだからもとより置きたいにきまってる、それが置けなくなりいられなくなったのだから、縁がないのさ」
こんなこというは婆と呼ばれる酒屋の内儀だ。
「みんな省さんが悪いんさ、ほんとに省さんは憎いわ。省さんはあんなえい人だからおとよさんがどうしてもあきらめられない、おとよさんがあきらめねけりゃ、省さんは深田にいられやしない。深田のおッ母さんはたいへんおとよさんを恨んでるっさ。おつねさんもね、実は省さんを置きたかったんだって、それだから、省さんが出たあとで三日寝ていたっち話だ。わたしゃほんとにおつねさんがかわいそうだわ、省さんはほんとに憎いや」
これは女側から出た声だ。
「なんだいべらぼう、ほめるんやらくさすんやら、お気の毒さま、手がとどかないや。省さんほんとに憎いや、もねいもんだ」
「そんなに言うない。おはまさんなんかかわいそうな所があるんだアな、同病相憐むというんじゃねいか、ハヽヽヽヽヽ」
「あん畜生、ほんとにぶちのめしてやりたいな」
「だれを」
「あの野郎をさ」
「あの野郎じゃわからねいや」
「ばかに下等になってきたあな、よせよせ」
おはまがいるから、悪口もこのくらいで済んだ。おはまでもいなかったら、なかなかこのくらいの悪口では済まない。省作の悪口を言うとおはまに憎がられる、おはまには悪くおもわれたくないてあいばかりだから、話は下火になった。政公の気焔が最後に振っている。
「おらも婿だが、昔から譬にいう通り、婿ちもんはいやなもんよ。それに省作君などはおとよさんという人があるんだもの、清公に聞かれちゃ悪いが、百俵付けがなんだい、深田に田地が百俵付けあったってそれがなんだ。婿一人の小遣い銭にできやしまいし、おつねさんに百俵付けを括りつけたって、体一つのおとよさんと比べて、とても天秤にはならないや。一万円がほしいか、おとよさんがほしいかといや、おいら一秒間も考えないで……」
「おとよさんほしいというか、嬶にいいつけてやるど、やあいやあい」
で話はおしまいになる。おはまが帰って一々省作に話して聞かせる。そんな次第だから省作は奥へ引っ込んでて、夜でなけりゃ外へ出ない。隣の人たちにもどうも工合が悪い。おはまばかり以前にも増して一生懸命に同情しているけれど、向うが身上がえいというので、仕度にも婚礼にも少なからぬ費用を投じたにかかわらず、四月といられないで出て来た。それも身から出た錆というような始末だから一層兄夫婦に対して肩身が狭い。自分ばかりでなく母までが肩身狭がっている。平生ごく人のよい省作のことゆえ、兄夫婦もそれほどつらく当たるわけではないが、省作自ら気が引けて小さくなっている。のっそり坊も、もうのっそりしていられない。省作もようやく人生の苦労ということを知りそめた。
深田の方でも娘が意外の未練に引かされて、今一度親類の者を迎えにやろうかとの評議があったけれど、女親なる人がとても駄目だからと言い切って、話はいよいよ離別と決定してしまった。
上総は春が早い。人の見る所にも見ない所にも梅は盛りである。菜の花も咲きかけ、麦の青みも繁りかけてきた、この頃の天気続き、毎日長閑な日和である。森をもって分つ村々、色をもって分つ田園、何もかもほんのり立ち渡る霞につつまれて、ことごとく春という一つの感じに統一されてる。
遥かに聞ゆる九十九里の波の音、夜から昼から間断なく、どうどうどうどうと穏やかな響きを霞の底に伝えている。九十九里の波はいつでも鳴ってる、ただ春の響きが人を動かす。九十九里付近一帯の村落に生い立ったものは、この波の音を直ちに春の音と感じている。秋の声ということばがあるが、九十九里一帯の地には秋の声はなくてただ春の音がある。
人の心を穏やかに穏やかにと間断なく打ちなだめているかと思われるは、この九十九里の春の音である。幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総下総の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。
省作はその温良な青年である。どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧不安の境涯にあってもなお悠々迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨の曇りであって雪気の時雨ではない。
いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分がよくないから深田を追い出されたように噂をする。いつのまか自分でも妙に失態をやったような気になった。臆病に慚愧心が起こって、世間へ出るのが厭で堪らぬ。省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然とはわからないが、もう働いたらよかろうともえ言わないで好きにさしておく。
この間におはまは小さな胸に苦労をしながら、おとよ方に往復して二人の消息を取り次いだ。省作は長い長い二回の手紙を読み、切実でそうして明快なおとよが心線に触れたのである。
萎れた草花が水を吸い上げて生気を得たごとく、省作は新たなる血潮が全身にみなぎるを覚えて、命が確実になった心持ちがするのである。
「失態も糸瓜もない。世間の奴らが何と言ったって……二人の幸福は二人で作る、二人の幸福は二人で作る、他人の世話にはならない」
こう独言を言いつつ省作は感に堪えなくなって、起って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹の中の一切のとどこおりがとれてしまって、胸はちゃんと定まった。胸が定まれば元気はおのずから動く。
翌朝省作は起こされずに早く起きた。
「おッ母さん仕事着は」
とどなる。
「ウム省作起きたか」
「あ、おッ母さん、もう働くよ」
「ウムどうぞま、そうしてくろや。お前に浮かぬ顔して引っ込んでいられると、おらな寿命が縮まるようだったわ」
中しきりの鏡戸に、ずんずん足音響かせてはや仕事着の兄がやってきた。
「ウン起きたか省作、えい加減にして土竜の芸当はやめろい。今日はな、種井を浚うから手伝え。くよくよするない、男らしくもねい」
兄のことばの終わらぬうちに省作は素足で庭へ飛び降りた。
彼岸がくれば籾種を種井の池に浸す。種浸す前に必ず種井の水を汲みほして掃除をせねばならぬ。これはほとんどこの地の習慣で、一つの年中行事になってる。二月に入ればよい日を見て種井浚いをやる。その夜は茶飯ぐらいこしらえて酒の一升も買うときまってる。
今日は珍しくおはま満蔵と兄と四人手揃いで働いたから、家じゅう愉快に働いた。この晩兄はいつもより酒を過ごしてる。
「省作、今夜はお前も一杯やれい。おらこれでもお前に同情してるど、ウム人間はな、どんな事があっても元気をおとしちゃいけない、なんでも人間の事は元気一つのもんだよ」
「兄さん、これでわたしだって元気があります」
「アハヽヽヽヽヽそうか、よし一杯つげ」
省作も今日は例の穏やかな顔に活気がみちてるのだ。二つ三つ兄と杯を交換して、曇りのない笑いを湛えている。兄は省作の顔を見つめていたが、突然、
「省作、お前はな、おとよさんと一緒になると決心してしまえ」
省作も兄の口からこの意外な言を聞いて、ちょっと返答に窮した。兄は語を進めて、
「こう言い出すからにゃおれも骨を折るつもりだど、ウン世間がやかましい……そんな事かまうもんか。おッ母さんもおきつも大反対だがな、隣の前が悪いとか、深田に対してはずかしいとかいうが、おれが思うにゃそれは足もとの遠慮というものだ。な、お前がこれから深田よりさらに財産のある所へ養子にいったところで、それだけでお前の仕合せを保証することはできないだろう。よせよせ、婿にゆくなんどいうばかな考えはよせ。はま公、今一本持ってこ」
おはまは笑いながら、徳利を持って出た帰りしなに、そっと省作の肩をつねった。
「まあよく考えてみろ、おとよさんは少しぐらいの財産に替えられる女ではないど。そうだ、無論おとよさんの料簡を聞いてみてからの事だ。今夜はこれで止めておく。とくと考えておけ」
兄は見かけによらず解った人であった。まだ若年な省作が、世間的に失敗した今の境遇を、兄は深く憐んだのである。省作の精神を大抵推知しながら先を越して弟に元気をつけたのである。省作は腹の中で、しみじみ兄の好意を謝した。省作は今が今まで、これほど解ってる人で、きっぱりとした決断力のある人とは思わなかった。省作はもう嬉しくて堪らない。だれが何と言ってもと心のうちで覚悟を定めていた所へ、兄からわが思いのとおりの事を言われたのだから嬉しいのがあたりまえだ。省作はあらん限りの力を出して平気を装うていたけれど、それでもおはまには妙な笑いをくれられた。省作は昨日の手紙によって今夜九時にはおとよの家の裏までゆく約束があるのである。
三
女の念力などいうこと、昔よりいってる事であるが、そういうことも全くないものとはいわれんようである。
おとよは省作と自分と二人の境遇を、つくづくと考えた上に所詮余儀ないものと諦め、省作を手離して深田へ養子にやり、いよいよ別れという時には、省作の手に涙をふりそそいで、
「こうして諦めて別れた以上は、わたしのことは思い棄て、どうぞおつねさんと夫婦仲よく末長く添い遂げてください。わたしは清六の家を去ってから、どういう分別になるか、それはその時に申し上げましょう。ああそうでない、それを申し上げる必要はないでしょう、別れてしまった以上は」
ことばには立派に言って別れたものの、それは神ならぬ人間の本音ではない。余儀ない事情に迫られ、無理に言わせられた表面の口の端に過ぎないのだ。
おとよは独身になって、省作は妻ができた。諦めるとことばには言うても、ことばのとおりに心はならない。ならないのがあたりまえである。浮気の恋ならば知らぬこと、真底から思いあった間柄が理屈で諦められるはずがない。たやすく諦めるくらいならば恋ではない。
おとよは意志の強い人だ。強い意志でわが思いを抑えている。いくら抑えてもただ抑えているというだけで、決して思いは消えない。むしろ抑えているだけ思いはかえって深くなる。一念深く省作を思うの情は増すことはあるとも減ることはない。話し合いで別れて、得心して妻を持たせながら、なおその男を思っているのは理屈に合わない。いくら理屈に合わなくとも、そういかないのが人間のあたりまえである。おとよ自身も、もう思うまいもう思うまいと、心にもがいているのだけれど、いくらもがいてもだめなのである。
「わたしはまあ、しようがないなあ、どうしたらえんだろ、ほんとにしようがないな」
人さえいなければそういって溜息をつくのは夜ごと日ごとのことである。さりとてよそ目に見たおとよは、元気よく内外の人と世間話もする。人が笑えば共に笑いもする。胸に屈託のあるそぶりはほとんど見えない。近所隣へいった時、たまに省作の噂など出たとておとよは色も動かしやしない。かえっておとよさんは薄情だねいなど蔭言を聞くくらいであった。それゆえおとよが家に帰って二月たたないうちに、省作に対するおとよの噂はいつ消えるとなしに消えた。
胸にやるせなき思いを包みながら、それだけにたしなんだおとよは、えらいものであるが、見る人の目から見れば決して解らぬのではない。
燃えるような紅顔であったものが、ようやくあかみが薄らいでいる。白い部分は光沢を失ってやや青みを帯んでいる。引き締まった顔がいよいよ引き締まって、眼は何となし曇っている。これを心に悩みあるものと解らないようでは恋の話はできない。
それのみならず、おとよは愛想のよい人でだれと話してもよく笑う。よく笑うけれどそれは真からの笑いではない。ただおはまが来た時にばかり、真に嬉しそうな笑いを見せる。それはどういうわけかと聞かなくても解ろう。それでおはまが帰る時には、どうかすると涙を落すことがある。
それならばおはまを捕えて、省作の話ばかりするかと見るに決してそうでもない。省作の話はむしろあまりしたがらない。いつでも少し立ち入った話になると、もうおよしと言ってしまう。直接には決して自分の心持ちを言わない。また省作の心を聞こうともせぬ。その癖、省作の事については僅かな事にまで想像以外に神経過敏である。深田の家は財産家であるとか、省作は深田の家の者に気に入られているとか、省作は元気よく深田の家に働いているとか、省作はあまり自分の家へ帰ってこないとか、こんな噂を聞こうものなら、何べん同じ噂を聞いても、人の前にいられなくなって、なんとか言って寝てしまうのが常である。そりゃおとよの事ゆえ、もちろん人の目に止まるようなことはせぬ。でそういう所に意志を労するだけおとよの苦痛は一層深いことも察せられる。もとより勝ち気な女の持ち前として、おとよがかれこれ言うたから省作は深田にいないと世間から言われてはならぬと、極端に力を入れてそれを気にしていた。それであるから、姉妹もただならぬほど睦まじいおはまがありながら、別後一度も、相思の意を交換した事はない。
表面すこぶる穏やかに見えるおとよも、その心中には一分間の間も、省作の事に苦労の絶ゆることはない。これほどに底深く力強い思いの念力、それがどうして省作に伝わらずにいよう。
省作は何事も敏活にはやらぬ男だ。自分の意志を口に現わすにも行動に現わすにも手間のとれる男だ。思う事があったって、すぐにそれを人に言うような男ではない。それゆえおとよの事については随分考えておっても、それをおはまにすら話さなかった。ことに以前の単純の時代と反対に、自分にはとにかく妻というものができ、一方には元の恋中の女が独身でいて、しかもどうやら自分の様子に注意しているらしく思われる境涯、年若な省作にはあまりに複雑すぎた位置である。感覚の働きが鈍ったわけではないけれど、感覚の働きがまごついているような状態にある。省作はまるで自分の体が宙に釣られてる思いがしている。こういう時には必ず他の強い勢力を感じやすい。おとよの念力が極々細微な径路を伝わって省作を動かすに至った事は理屈に合っている。
「おとよさんは、わたしがいくとそりゃ嬉しがるの、いくたびにそうなの、人がいないとわたしを抱いてしまうの、それでわたしが帰る時にはどうかすると涙をこぼすの」
おはまからこれだけの言を聞いたばかりで、省作はもう全身の神経に動揺を感じた。この時もはや省作は深田の婿でなくなって、例の省作の事であるから、それを俄かに行為の上に現わしては来ないが、わが身の進転を自ら抑える事のできない傾斜の滑道にはいってしまった。
こんな事になるならば、おとよはより早く、省作と一緒になる目的をもって清六の家を去ればよかった。そうすれば省作も人の養子などにいく必要もなく、無垢な少女おつねを泣かせずにも済んだのだ。この解り切った事を、そうさせないのが今の社会である。社会というものは意外ばかなことをやっている。自分がその拘束に苦しみ切っていながら、依然として他を拘束しつつある。
四
土屋の家では、省作に対するおとよの噂も、いつのまにか消えたので大いに安心していたところ、今度省作が深田から離縁されて、それも元はおとよとの関係からであると評判され、二人の噂は再び近村界隈の話し草になったので、家じゅう顔合せて弱ってる。おとよの父は評判のむずかしい人であるから、この頃は朝から苦虫を食いつぶしたような顔をしている。おとよの母に対しては、これからは、あのはまのあまなんぞ寄せつけてはならんぞとどなった。
おとよはそれらの事を見ぬふり聞かぬふりで平気を装うているけれど、内心の動揺は一通りでない。省作がいよいよ深田を出てしまったと、初めて聞いた夜はほとんど眠らなかった。
思慮に富めるおとよは早くも分別してしまった。自分にはとても省さんを諦められない。諦められないことは知れていながら、余儀ないはめになって諦めようとしたものの駄目であったのだから、もうどうしたって諦められはしない。今が思案の定め時だ。ここで覚悟をきめてしまわねば、またどんな事になろうも知れない。省さんの心も大抵知れてる、深田にいないところで省さんの心も大抵知れてる。おとよはひとりでにっこり笑って、きっぱり自分だけの料簡を定めて省作に手紙を送ったのである。
省作はもとより異存のありようがない、返事は簡単であった。
深田にいられないのもおとよさんゆえだ。家に帰って活き返ったのもおとよさんゆえだ。もう毛のさきほども自分に迷いはない。命の総てをおとよさんに任せる。
こういう場合に意志の交換だけで、日を送っていられるくらいならば、交換したことばは偽りに相違ない。抑えられた火が再び燃えたった時は、勢い前に倍するのが常だ。
そのきさらぎの望月の頃に死にたいとだれかの歌がある。これは十一日の晩の、しかも月の幽かな夜ふけである。おとよはわが家の裏庭の倉の庇に洗濯をやっている。
こんな夜ふけになぜ洗濯をするかというに、風呂の流し水は何かのわけで、洗い物がよく落ちる、それに新たに湯を沸かす手数と、薪の倹約とができるので、田舎のたまかな家ではよくやる事だ。この夜おとよは下心あって自分から風呂もたててしまいの湯の洗濯にかこつけ、省作を待つのである。
おとよが家の大体をいうと、北を表に県道を前にした屋敷構えである。南の裏庭広く、物置きや板倉が縦に母屋に続いて、短冊形に長めな地なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見える。九時過ぎにはもう起きてるものも少なく、まことに静かに穏やかな夜だ、月は隣家の低い森の上に傾いて、倉も物置も庇から上にばかり月の光がさしている。倉の軒に迫って繁れる梅の樹も、上半の梢にばかり月の光を受けている。
おとよは今その倉の庇、梅の根もとに洗濯をしている。うっすら明るい梅の下に真白い顔の女が二つの白い手を動かしつつ、ぽちゃぽちゃ水の音をさせて洗い物をしているのである。盛りを過ぎた梅の花も、かおりは今が盛りらしい。白い手の動くにつれて梅のかおりも漂いを打つかと思われる、よそ目に見るとも胸おどりしそうなこの風情を、わが恋人のそれと目に留った時、どんな思いするかは、他人の想像しうる限りでない。
おとよはもう待つ人のくる刻限と思うので、しばしば洗濯の手を止めては枝折戸の外へ気を配る。洗濯の音は必ず外まで聞えるはずであるから、省作がそこまでくれば躊躇するわけはない。忍びよる人の足音をも聞かんと耳を澄ませば、夜はようやく更けていよいよ静かだ。
表通りで夜番の拍子木が聞える。隣村らしい犬の遠ぼえも聞える。おとよはもはやほとんど洗濯の手を止め、一応母屋の様子にも心を配った。母屋の方では家その物まで眠っているごとく全くの寝静まりとなった。おとよはもう洗い物には手が着かない。起ってうろうろする。月の様子を見て梅のかおりに気づいたか、
「おおえいかおり」
そっと一こと言って、枝折戸の外を窺う。外には草を踏む音もせぬ。おとよはわが胸の動悸をまで聞きとめた。九十九里の波の遠音は、こういう静かな夜にも、どうーどうーどうーどうーと多くの人の睡りをゆすりつつ鳴るのである。さすがにおとよは落ちつきかね、われ知らず溜息をつく。
「おとよさん」
一こえきわめて幽かながら紛るべくもあらぬその人である。同時に枝折戸は押された。省作は俄かに寒けだってわなわなする。おとよも同じように身顫いが出る。這般の消息は解し得る人の推諒に任せる。
「寒いことねい」
「待ったでしょう」
おとよはそっと枝折戸に鍵をさし、物の陰を縫うてその恋人を用意の位置に誘うた。
おとよは省作に別れてちょうど三月になる。三月の間は長いとも短いともいえる、悲しく苦しく不安の思いで過ごさば、わずか百日に足らぬ月日も随分長かった思いがしよう。二人にとってのこの三月は、変化多き世の中にもちょっと例の少ない並ならぬ三月であった。
身も心も一つと思いあった二人が、全くの他人となり、しかも互いに諦められずにいながら、長く他人にならんと思いつつ暮した三月である。
わが命はわが心一つで殺そうと思えば、たしかに殺すことができる。わが恋はわが心一つで決して殺すことはできない。わが心で殺し得られない恋を強いて殺そうとかかって遂に殺し得られなかった三月である。
しかしながら三月の間は長く感じたところで数は知れている。人の夫とわが夫との相違は数をもっていえない隔たりである。相思の恋人を余儀なく人の夫にして近くに見ておったという悲惨な経過をとった人が、ようやく春の恵みに逢うて、新しき生命を授けられ、梅花月光の契りを再びする事になったのはおとよの今宵だ。感きわまって泣くくらいのことではない。
おとよはただもう泣くばかりである。恋人の膝にしがみついたまま泣いて泣いて泣くのである。おとよは省作の膝に、省作はおとよの肩に互いに頭をつけ合って一時間のその余も泣き合っていた。
もとより灯のある場合ではない。頭はあげても顔見合すこともできず、ただ手をとり合うているばかりである。
「省さん、わたしは嬉しい」
ようよう一こと言ったが、おとよはまた泣き伏すのである。
「省さん、あとから手紙で申し上げますから、今夜は思うさま泣かしてください」
しどろもどろにおとよは声を呑むのである。省作はとうとう一語も言い得ない。
悲しくつらく玉の緒も断えんばかりに危かりし悲惨を免れて僅かに安全の地に、なつかしい人に出逢うた心持ちであろう。限りなき嬉しさの胸に溢れると等しく、過去の悲惨と烈しき対照を起こし、悲喜の感情相混交して激越をきわむれば、だれでも泣くよりほかはなかろう。
相思の情を遂げたとか恋の満足を得たとかいう意味の恋はそもそも恋の浅薄なるものである。恋の悲しみを知らぬ人には恋の味は話せない。
泣いて泣いて泣きつくして別れた二人には、またとても言い表すことのできない嬉しさを分ち得たのである。
五
翌晩省作からおとよの許に手紙がとどいた。
「前略お互いに知れきった思いを今さら話し合う必要もないはずですが、何だかわたしはただおとよさんの手紙を早く見たくてならない、わたしの方からも一刻も早く申し上げたいと存じて筆を持っても、何から書いてよいか順序が立たないのです。
昨夜は実に意外でした、どうせしみじみと話のできる場合ではないですけれど、少しは話もしたかったし、それにわたしはおとよさんを悦ばせる話も持っていたのです、溜りに溜った思いが一時に溢れたゆえか、ただおどおどして咽せて胸のうちはむちゃくちゃになって、何の話もできなく、せっかくおとよさんを悦ばせようと思ってた話さえ、思いださずにしまったは、自分ながら実に意外でした、しかしながら胸いっぱいにつかえて苦しくて堪らなかった思いを、二人で泣いて一度に泣き流したのですからあとの愉快さは筆にはつくせません、これはおとよさんも同じことでしょう。昨夜おとよさんに別れて帰るさの愉快は、まるで体が宙を舞って流れるような思いでした。今でもまだ体がふわふわ浮いてるような思いでおります。わたしのような仕合せなものはないと思うと嬉しくて嬉しくて堪りません。
これから先どういうふうにして二人が一緒になるかの相談はいずれまた逢っての上にしましょう。あなたを悦ばせようと申した事は、母や姉は随分不承知なようですが、肝心な兄は、「お前はおとよさんと一緒になると決心しろ」と言うてくれたのです。兄は元からおとよさんがたいへん気に入りなのです。もう私の体はたいした故障もなくおとよさんのものです。ですから私の方は、今あせって心配しなくともよいです。それに二人について今世間が少しやかましいようですから、ここしばらく落ちついて時を待ちましょう。それにしてもおとよさんにはまたおとよさんの考えがありましょう。おうちの都合はどんなふうですかそれも聞きたいし、わたしはおとよさんの手紙を早く見たい」
省作の手紙はどこまでも省作らしく暢気なところがある。そのまた翌日おとよから省作に手紙をだした。
「わたしから先にと思いましたに、まずあなた様よりのお手紙で、わたしは酔わされてしまいました。出しては読み出しては読み、差し上げる手紙を書く料簡もなく、昨夜一ばん埒もなく過ごしました。先夜はほんとに失礼いたしました。ただ悲しくて泣いた事を夢のように覚えてるばかり、ほかの事は何も覚えていません。あとであんまり失礼であったと思いました。それもこれも悲しさ嬉しさ一度に胸にこみ合い止め度なくなったゆえとおゆるし下されたく、省さま、わたしはこの頃無しょうと気が弱くなりました。あなたさまの事を思えばすぐ涙が出ますの。それにつけてもありがたいお兄様のおことば、あなたさまの方はそれで安心ができます。
わたしの考えには深田の手前秋葉(清六の家)の手前あなたのお家にしてもわたしの家にしても、私ども二人が見すぼらしい暮しを近所にしておったでは、何分世間が悪いでしょう、して見れば二人はどうしても故郷を出退くほかないと思います。精しくはお目にかかっての事ですが、東京へ出るがよいかと思います。
それにつけてもわたしの家ですが、御承知のとおり親父はまことに片意地の人ですから、とてもわたしの言うことなどは聞いてくれそうもありませぬ。それに昨今どうやらわたしの縁談ばなしがある様子に見えます。また間違いの起こらぬうちに早くというような事をちらと聞きました、なんという情けない事でしょう。省さんが一人の時分にはわたしに相手があり、わたしが一人になれば省さんに相手がある、今度ようやく二人がこうと思えば、すぐにわたしの縁談、わたしは身も世もあらぬ思い、生きた心はありません。
けれども省様、この上どのような事があろうとわたしの覚悟は動きませぬ。体はよし手と足と一つ一つにちぎりとらるるともわたしの心はあなたを離れませぬ。
こうは覚悟していますものの、いよいよ二人一緒になるまでには、どんな艱難を見ることか判りませぬ。何とぞわたしの胸の中を察してくださいませ。常にも似ず愚痴ばかり申し上げ失礼いたし候。こんな事申し上ぐるにも心は慰み申し候。それでも省さまという人のあるわたし、決して不仕合せとは思いませぬ」
種まきの仕度で世間は忙しい。枝垂柳もほんのり青みが見えるようになった。彼岸桜の咲くとか咲かぬという事が話の問題になる頃は、都でも田舎でも、人の心の最も浮き立つ季節である。
某の家では親が婿を追い出したら、娘は婿について家を出てしまった、人が仲裁して親はかえすというに今度は婿の方で帰らぬというとか、某の娘は他国から稼ぎに来てる男と馴れ合って逃げ出す所を村界で兄に抑えられたとか、小さな村に話の種が二つもできたので、もとより浮気ならぬ省作おとよの恋話も、新しい話に入りかわってしまった。
六
珊瑚樹垣の根には蕗の薹が無邪気に伸びて花を咲きかけている。外の小川にはところどころ隈取りを作って芹生が水の流れを狭めている。燕の夫婦が一つがい何か頻りと語らいつつ苗代の上を飛び廻っている。かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲りには花びらの小紋が浮いている。行儀よく作られた苗坪ははや一寸ばかりの厚みに緑を盛り上げている。燕の夫婦はいつしか二つがいになった、時々緑の短冊に腹を擦って飛ぶは何のためか。心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。
男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑さに蚕籠を洗うべく、かつて省作を迎えた枝折戸の外に出ているのである。抑え難き憂愁を包む身の、洗う蚕籠には念も入らず、幾度も立っては田圃の遠くを眺めるのである。ここから南の方へ十町ばかり、広い田圃の中に小島のような森がある、そこが省作の村である。木立の隙間から倉の白壁がちらちら見える、それが省作の家である。
おとよは今さらのごとく省作が恋しく、紅涙頬に伝わるのを覚えない。
「省さんはどうしているかしら、手紙のやりとりばかりで心細くてしようがない。こうしてお家も見えているのに、兄さんは、二人一緒になると決心しろって、今でもそう思ってて下さるのかしら」
おとよは口の底でこういって省作の家を見てるのである。縁談の事もいよいよ事実になって来たらしいので、おとよは俄かに省作に逢いたくなった。逢って今さら相談する必要はないけれど、苦しい胸を話したいのだ。十時も過ぎたと思うに蚕籠はまだいくつも洗わない。おとよは思い出したように洗い始める。格好のよい肩に何かしらぬ海老色の襷をかけ、白地の手拭を日よけにかぶった、顋のあたりの美しさ。美しい人の憂えてる顔はかわいそうでたまらないものである。
「おとよさんおとよさん」
呼ぶのは嫂お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない、できないのだ。何の用で呼ぶかという事は解ってるからである。
「おとよさん、おとッつさんが呼んでいますよ」
枝折戸の近くまで来てお千代は呼ぶ。
「ハイ」
おとよは押し出したような声でようやくのこと返辞をした。十日ばかり以前から今日あることは判っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。
「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」
お千代は枝折戸の外まできて、
「まあえい天気なこと」
お千代は気楽に田圃を眺めて、ただならぬおとよの顔には気がつかない。おとよは余儀なく襷をはずし手拭を採って二人一緒に座敷へ上がる。待ちかねていた父は、ひとりで元気よくにこにこしながら、
「おとよここへきてくれ、おとよ」
「ハア」
おとよは平生でも両親に叮嚀な人だ、ことに今日は話が話と思うものから一層改まって、畳二畳半ばかり隔てて父の前に座した。紫檀の盆に九谷の茶器根来の菓子器、念入りの客なことは聞かなくとも解る。母も座におって茶を入れ直している。おとよは少し俯向きになって膝の上の手を見詰めている。平生顔の色など変える人ではないけれど、今日はさすがに包みかねて、顔に血の気が失せほとんど白蝋のごとき色になった。
自分ひとりで勝手な考えばかりしてる父はおとよの顔色などに気はつかぬ、さすがに母は見咎めた。
「おとよ、お前どうかしたのかい、たいへん顔色が悪い」
「ええどうもしやしません」
「そうかい、そんならえいけど」
母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗についで配り、座についてその話を聞こうとしている。
「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤よ、あの人にはお前も一度ぐらい逢った事があろう、お互いに何もかも知れきってる間だから、誠に苦なしだ。この月初めから話があっての、向うで言うにゃの、おとよさんの事はよく知ってる、ただおとよさんが得心して来てくれさえすれば、来た日からでも身上の賄いもしてもらいたいっての、それは執心な懇望よ、向うは三度目だけれどお前も二度目だからそりゃ仕方がない。三度目でも子供がないから初縁も同じだ。一度あんな所へやってお前にも気の毒であったから、今度は判ってるが念のために一応調べた。負債などは少しもない、地所はうちの倍ある。一度は村長までした人だし、まあお前の婿にして申し分のないつもりじゃ。お前はあそこへゆけばこの上ない仕合せとおれは思うのだ。それでもう家じゅう異存はなし、今はお前の挨拶一つできまるのだ。はずれの旦那はもうちゃんときまったようなつもりで帰られた。おとよ、よもやお前に異存はあるまいの」
おとよは人形のようになってだまってる。
「おとよ、異存はねいだの。なに結構至極な所だからきめてしまってもよいと思ったけど、お前はむずかしやだからな、こうして念を押すのだ。異存はないだろう」
まだおとよは黙ってる。父もようやく娘の顔色に気づいて、むっとした調子に声を強め、
「異存がなけらきめてしまうど。今日じゅうに挨拶と思うたが、それも何かと思うて明日じゅうに返辞をするはずにした。お前も異存のあるはずがないじゃねいか、向うは判りきってる人だもの」
おとよはようやく体を動かした。ふるえる両手を膝の前に突いて、
「おとッつさん、わたしの身の一大事の事ですから、どうぞ挨拶を三日間待ってください……」
おとよはややふるえ声でこう答えた。さすがに初めからきっぱりとは言いかねたのである。おとよの父は若い時から一酷もので、自分が言いだしたらあとへは引かぬということを自慢にしてきた人だ。年をとってもなかなかその性はやまない。おれは言いだしたら引くのはいやだから、なるべく人の事に口出しせまいと思ってると言いつつ、あまり世間へ顔出しもせず、家の事でも、そういうつもりか若夫婦のやる事に容易に口出しもせぬ。そういう人であるから、自分の言ったことが、聞かれないと執念深く立腹する。今おとよの挨拶ぶりが、不承知らしいので内心もう非常に激昂した。ことに省作の事があるから一層怒ったらしく顔色を変えて、おとよをねめつけていたが、しばらくしてから、
「ウム、それではきさま三日たてば承知するのか」
おとよは黙っている。
「とよ黙っててはわかんね。三日たてば承知するかと言うんだ。なアおとよ、わが娘ながらお前はよく物の解る女だ。こうして、おれたちが心配するのも、皆お前のためを思うての事だど」
「おとッつさんの思し召しはありがたく思いますが、一度わたしは懲りていますから、今度こそわが身の一大事と思います。どうぞ三日の間考えさしてください。承知するともしないともこの三日の間にわたしの料簡を定めますから」
父は今にも怒号せんばかりの顔色であるけれど、問題が問題だけにさすがに怒りを忍んでいる。
「こちから明日じゅうに確答すると言った口上に対しまた二日間挨拶を待ってくれということが言えるか。明日じゅうに判らぬことが、二日延べたとて判る道理があんめい。そんな人をばかにしたような言を人様にいえるか、いやとも応とも明日じゅうには確答してしまわねばならん。
おとよ、なんとかもう少し考えようはないか。両親兄弟が同意でなんでお前に不為を勧めるか。先度は親の不注意もあったと思えばこそ、ぜひ斎藤へはやりたいのだ。どこから見たって不足を言う点がないではないか、生若いものであると料簡の見留めもつきにくいが斎藤ならばもう安心なものだ。どうしても承知ができないか」
父は沸える腹をこらえ手を握って諭すのである。おとよは瞬きもせず膝の手を見つめたまま黙っている。父はもう堪りかねた。
「いよいよ不承知なのだな。きさまの料簡は知れてるわ、すぐにきっぱりと言えないから、三日の間などとぬかすんだ。目の前で両親をたばかってやがる。それでなんだな、きさまは今でもあの省作の野郎と関係していやがるんだな。ウヌ生ふざけて……親不孝ものめが、この上にも親の面に泥を塗るつもりか、ウヌよくも……」
おとよは泣き伏す。父はこらえかねた憤怒の眼を光らしいきなり立ち上がった。母もあわてて立ってそれにすがりつく。
「お千代やお千代や……早くきてくれ」
お千代も次の間から飛んできて父を抑える。お千代はようやく父をなだめ、母はおとよを引き立てて別間へ連れこむ。この場の騒ぎはひとまず済んだが、話はこのまま済むべきではない。
七
おとよの父は平生ことにおとよを愛し、おとよが一番よく自分の性質を受け継いだ子で、女ながら自分の話相手になるものはおとよのほかにないと信じ、兄の佐介よりはかえっておとよを頼もしく思っていたのである。おとよも父とはよく話が合い、これまでほとんど父の意に逆らった事はなかった。おとよに省作との噂が立った時など母は大いに心配したに係らず、父はおとよを信じ、とよに限って決して親に心配を掛けるような事はないと、人の噂にも頓着しなかった。はたして省作は深田の養子になり、おとよも何の事なく帰ってきたから、やっぱり人の悪口が多いのだと思うていたところ、この上もない良縁と思う今度の縁談につき、意外にもおとよが強固に剛情な態度を示し、それも省作との関係によると見てとった父は、自分の希望と自分の仕合せとが、根柢より破壊せられたごとく、落胆と憤懣と慚愧と一時に胸に湧き返った。
さりとて怒ってばかりもおられず、憎んでばかりもおられず、いまいましく片意地に疳張った中にも娘を愛する念も交って、賢いようでも年が若いから一筋に思いこんで迷ってるものと思えば不愍でもあるから、それを思い返させるのが親の役目との考えもないではない。
夕飯過ぎた奥座敷には、両親と佐介と三人火鉢を擁していても話にはずみがない。
「困ったあまっ子ができてしまった」
天井を見て嘆息するのは父だ。
「おとよはおとッつさんの気に入りっ子だから、おとッつさんの言うことなら聞きそうなものだがな」
「お前こんな話の中でそんなこと言うもんじゃねいよ」
「とよは一体おれの言うことに逆らったことはないのに、それにこの上ないえい嫁の口だと思うのに、あんなふうだから、そりゃ省作の関係からきてるに違いない。お前女親でいながら、少しも気がつかんということがあるもんか」
「だってお前さん、省作が深田を出たといってからまだ一月ぐらいにしかならないでしょう。それですからまさかその間にそんな事があろうとは思いませんから」
「おッ母さん、人の噂では省作が深田を出たのはおとよのためだと言いますよ」
「ほんとにそうかしら」
「実にいまいましいやつだ。婿にももらえず嫁にもやれずという男なんどに情を立ててどうするつもりでいやがるんだろ、そんなばかではなかったに。惜しい縁談だがな、断わっちまう、明日早速断わる。それにしてもあんなやつ、外聞悪くて家にゃ置けない、早速どっかへやっちまえ、いまいましい」
「だってお前さん、まだはっきりいやだと言ったんじゃなし、明日じゅうに挨拶すればえいですから、なおよくあれが胸も聞いてみましょう。それに省作との関係もです、嫁にやるやらぬは別としても糺さずにおかれません」
「なあにだめだだめだ、あの様子では……人間もばかになればなるものだ、つくづく呆れっちまった。どういうもんかな、世間の手前もよし、あれの仕合せにもなるし、向うでは懇望なのだから、残念だなあ」
父はよくよく嘆息する。
「だから今一応も二応も言い聞かせてみてくださいな」
「おとよの仕合せだと言っても、おとよがそれを仕合せだと思わないで、たって厭だと言うなら、そりゃしようがないでしょう」
「だれの目にも仕合せだと思うに、それをいわれもなく、両親の意に背くような、そんな我儘はさせられないよ」
「させられないたって、おッ母さんしようがないよ」
「佐介、ばかいいをするな、おまえなどまでもそんな事いうようだから、こんな事にもなるのだ」
「わが身の一大事だから少し考えさせてくださいと言うのを、なんでもかでもすぐ承知しろと言うのはちっとひどいでしょう」
「それでは佐介、きさまもとよを斎藤へやるのは不同意か」
「不同意ではありませんけれど、そんなに厭だと言うならと思うんです。おとよの肩を持って言うんじゃありません。おとッつさんのは言い出すとすぐ片意地になるから困る」
「なに……なにが片意地なもんか。とよのやつの厭だと言うにゃいわくがあるからだ、厭だとは言わせられないんだ」
「佐介、もうおよしよ、これでは相談にはなりゃしない。ねいおまえさん、お千代がよくあれの胸を聞くはずですから、この話は明日にしてください。湯がさめてしまった、佐介、茶にしろよ」
父はますますむずかしい顔をしている。なるほど平生おれに片意地なところはある、あるけれども今度の事は自分に無理はない、されば家じゅう悦んで、滞りなく纏まる事と思いのほか、本人の不承知、佐介も乗り気にならぬという次第で父は劫が煮えて仕方がない、知らず知らず片意地になりかけている。呆れっちまった、どうしてあんなにばかになったか、もう駄目だ、断わってしまう、こう口には言っても、自分の思い立った事を、どんな場合にもすぐ諦めてよすような人ではない。いろいろ理屈をひねくって根気よく初志を捨てないのがこの人の癖である、おとよはこれからつらくなる。
お千代はそれほど力になる話相手ではないが悪気のない親切な女であるから、嫁小姑の仲でも二人は仲よくしている。それでお千代は親切に真におとよに同情して、こうなって隠したではよくないから、包まず胸を明かせとおとよに言う。おとよもそうは思っていたのであるから、省作との関係も一切明かしたうえ、
「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよく厭な思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで……なんのために夫を持ちます、わたしは省作という人がないにしても、心の判らない人などの所へ二度とゆく気はありません。この上わたしが料簡を換えて外へ縁づくなら、わたしのした事はみんな淫奔になります。わたしのためわたしのためと心配してくださる両親の意に背いては、誠に済まない事と思いますけれど、こればかりは神様の計らいに任せて戴きたい、姉さんどうぞ堪忍してください、わたしの我儘には相違ないでしょうが、わたしはとうから覚悟をきめています。今さらどのような事があろうと脇目を振る気はないんですから」
お千代はわけもなくおとよのために泣いて、真からおとよに同情してしまった。その夜のうちにお千代は母に話し母は夫に話す。燃えるようなおとよのことばも、お千代の口から母に話す時は、大半熱はさめてる、さらに母の口から父に話す時は、全く冷静な説明になってる。
「なんだって……ここで嫁に出れば淫奔になるって……。ばかばかしい、てめいのしてる事が大の淫奔じゃねいか、親不孝者めが、そのままにしちゃおけねい」
とにかく明日の事という事でこの夜はおしまいになった。
八
朝飯になるというにおとよはまだ部屋を出ない。お千代が一人で働いて、家じゅうに御ぜんをたべさせた。学校へゆく二人の兄妹に着物を着せる、座敷を一通り掃除する、そのうちに佐介は鍬を肩にして田へ出てしまう。お千代はそっとおとよの部屋へはいって、
「おとよさん今日はゆっくり休んでおいでなさい、蚕籠は私がこれから洗いますから」
そういわれても、おとよはさすがに寝てもいられず部屋を出た。一晩のうちにも痩せが目につくようである。父は奥座敷でぽんぽん煙草を吸って母と話をしている。おとよは気が引けるわけもないけれども、今日はまた何といわれるのかと思うと胸がどきまぎして朝飯につく気にもならない、手水をつかい着物を着替えて、そのままお千代が蚕籠を洗ってる所へ行こうとすると、
「おとよ」
と呼ぶのは母であった。おとよは昨日とやや同じ位置に座につく。
「おはようございます」
とかすかに言って、両親のことばをまつ。わが親ながら顔見るのも怖ろしく、俯向いているのである。罪人が取り調べを受ける時でも、これだけの苦痛はなかろうと思われる。おとよは胸で呼吸をしている。
「おとよ……お前の胸はお千代から聞いて、すっかり解った。親の許さぬ男と固い約束のあることも判った。お前の料簡は充分に判ったけれど、よく聞けおとよ……ここにこうして並んでる二人は、お前を産んでお前を今日まで育てた親だぞ。お前の料簡にすると両親は子を育ててもその子の夫定めには口出しができないと言うことになるが、そんな事は西洋にも天竺にもあんめい。そりゃ親だもの、かわい子の望みとあればできることなら望みを遂げさしてやりたい。こうしてお前を泣かせるのも決して親自身のためでなくみんなお前の行く末思うての事だ。えいか、親の考えだから必ずえいとは限らんが、親は年をとっていろいろ経験がある、お前は賢くても若い。それでわが子の思うようにばかりさせないのは、これも親として一つの義務だ。省作だって悪い男ではあんめい、悪い男ではあんめいけど、向うも出る人おまえも出る人、事が始めから無理だ。許すに許されない二人のないしょ事だ。いわば親の許さぬ淫奔というものでないか、えいか」
おとよはこの時はらはらと涙を膝の上に落とした。涙の顔を拭おうともせず、唇を固く結んで頭を下げている。母もかわいそうになって眼は潤んでいる。
「省作の家にしろ家にしろ、深田への手前秋葉への手前、お前たちの淫奔を許しては第一家の面目が立たない。今度の斎藤に対しても実に面目もない事でないか。お前たち二人は好いた同士でそれでえいにしても、親兄弟の迷惑をどうする気か、おとよ、お前は二人さえよければ親兄弟などはどうでもえいと思うのか。できた事は仕方ないとしても、どうしてそれが改めてくれられない。省作への義理があろうけれど、それは人をもって話のしようはいくらもある。これまでは親兄弟に対してよく筋道の立ってたお前、このくらいの道理の聞き判らないお前ではなかったに、どうもおれには不思議でなんねい。おれはよんべちっとも寝なかった」
こう言って父も思い迫ったごとく眼に涙を浮かべた。母はとうから涙を拭うている。おとよはもとより苦痛に身をささえかねている。
「それもこれもお前が心一つを取り直しさえすれば、おまえの運はもちろん、家の面目も潰さずに済むというものだ。省作とてお前がなければまたえい所へも養子に行けよう。万方都合よくなるではないか。ここをな、おとよとくと聞き別けてくれ、理の解らぬお前でないのだから」
父のことばがやさしくなって、おとよのつらさはいよいよせまる。おとよも言いたいことが胸先につかえている。自分と省作との関係を一口に淫奔といわれるは実に口惜しい。さりとて両親の前に恋を語るような蓮葉はおとよには死ぬともできない。
「おとッつさんのおっしゃるのは一々ごもっともで、重々わたしが悪うございますが、おとッつさんどうぞお情けに親不孝な子を一人捨ててください」
おとよはもう意地も我慢も尽きてしまい、声を立てて泣き倒れた。気の弱い母は、
「そんならお前のすきにするがえいや」
「ウム立派に剛情を張りとおせ。そりゃつらいところもあろう、けれども両親が理を分けての親切、少しは考えようもありそうなもんだ、理も非もなくどこまでも、我儘をとおそうという料簡か、よしそんなら親の方にもまた料簡がある」
こういい放って父は足音荒く起って出てしまう。無論縁談は止めになった。
省作というものがなくて、おとよがただ斎藤の縁談を避けたのみならば、片意地な父もそうまで片意地を言うまいが、人の目から見れば、どうしてもおとよが、好きな我儘をとおした事になるから、後の治まりがむずかしい。父はその後も幾度か義理づめ理屈づめでおとよを泣かせる。殺してしまうと騒いだのも一度や二度でなかった。たださえ剛情に片意地な人であるに、この事ばかりは自分の言う所が理義明白いささかも無理がないと思うのに、これが少しも通らぬのだから、一筋に無念でならぬのだ。これほど明白に判り切った事をおとよが勝手我儘な私心一つで飽くまでも親の意に逆らうと思いつめてるからどうしても勘弁ができない。ただ何といってもわが子であるから仕方がなく結末がつかないばかりである。
おとよは心はどこまでも強固であれど、父に対する態度はまたどこまでも柔和だ。ただ、
「わたしが悪いのですからどうぞ見捨てて……」
とばかり言ってる。悪いと知ったら、なぜ親のことばを用いぬといえば泣き伏してしまう。
「斎藤の縁談を断わったのはお前の意を通したのだから、今度は相当の縁があったら父の意に従えと言うのだ」
それをおとよはどうしても、ようございますといわないから、父の言い状が少しも立たない。それが無念で堪らぬのだ。片意地ではない、家のためだとはいうけれど、疳がつのってきては何もかもない、我意を通したい一路に落ちてしまう。怒って呆れて諦めてしまえばよいが、片意地な人はいくら怒っても諦めて初志を捨てない。元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。
おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というもの、晴れ晴れした声も花やかな笑いもほとんどおとよに見られなくなった。兄夫婦も母も見ていられなくなった。兄は大抵の事は気にせぬ男だけれどそれでもある時、
「おとッつさんのように、そう執念深くおとよを憎むのは一体解らない。死んでもえいと思うくらいなら、おとよの料簡に任してもえいでしょう」
こういうと父は、
「うむ、そんな事いってさんざん淫奔をさせろ」
すぐそういうのだからどうしようもない。ことにお千代は極端に同情し母にも口説き自分の夫にも口説きしてひそかに慰藉の法を講じた。自ら進んで省作との間に文通も取り次ぎ、時には二人を逢わせる工夫もしてやった。
おとよはどんな悲しい事があっても、つらい事があっても、省作の便りを見、まれにも省作に逢うこともあれば、悲しいもつらいも、心の底から消え去るのだから、よそ目に見るほど泣いてばかりはいない。例の仕事上手で何をしても人の二人前働いている。
父は依然として朝飯夕飯のたびに、あんなやつを家へ置いては、世間へ外聞が悪い、早くどこかへ奉公にでもやってしまえという。母は気の弱い人だから、心におとよをかわいそうと思いながら、夫のいうことばに表立って逆らうことはできない。
「おとよを奉公にやれといったって、おとよの替わりなら並みの女二人頼まねじゃ間に合わない」
いさくさなしの兄はただそういったなり、そりゃいけないとも、そうしようともいわない。飯が済めばさっさと田圃へ出てしまう。
九
世は青葉になった。豌豆も蚕豆も元なりは莢がふとりつつ花が高くなった。麦畑はようやく黄ばみかけてきた。鰌とりのかんてらが、裏の田圃に毎夜八つ九つ出歩くこの頃、蚕は二眠が起きる、農事は日を追うて忙しくなる。
お千代が心ある計らいによって、おとよは一日つぶさに省作に逢うて、将来の方向につき相談を遂ぐる事になった。それはもちろんお千代の夫も承知の上の事である。
爾来ことにおとよに同情を寄せたお千代は、実は相談などいうことは第二で、あまり農事の忙しくならないうちに、玉の緒かけての恋中に、長閑な一夜の睦言を遂げさせたい親切にほかならぬ。
お千代が一緒というので無造作に両親の許しが出る。
かねて信心する養安寺村の蛇王権現にお詣りをして、帰りに北の幸谷なるお千代の里へ廻り、晩くなれば里に一宿してくるというに、お千代の計らいがあるのである。
その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おとよといっしょというのでお千代も娘作りになる。同じ銀杏返し同じ袷小袖に帯もやや似寄った友禅縮緬、黒の絹張りの傘もそろいの色であった。緋の蹴出しに裾端折って二人が庭に降りた時には、きらつく天気に映って俄かにそこら明るくなった。
久しぶりでおとよも曇りのない笑いを見せながら、なお何となし控え目に内輪なるは、いささか気が咎むるゆえであろう。
籠を出た鳥の二人は道々何を見ても面白そうだ。道ばたの家に天竺牡丹がある、立ち留って見る。霧島が咲いてる、立ち留って見る。西洋草花がある、また立ち留って見る。お千代は苦も荷もなく暢気だ。
「おとよさん、これ見たえま、おとよさんてば、このきれいな花見たえま」
お千代は花さえ見れば、そこに立ち留って面白がる。そうしてはおとよさん見たえまを繰り返す。元が暢気な生れで、まだ苦労ということを味わわないお千代は、おとよをせっかくここまで連れて来ながら、おとよの胸の中は、なかなか道ばたの花などを立ち留って見てるような暢気でないことまでは思い遣れない。お千代は年は一つ上だけれど、恋を語るにはまだまだ子供だ。
おとよはしょうことなしにお千代のあとについて無意識に、まあ綺麗なことまあ綺麗なことといいつつ、撥を合せている。蝙蝠傘を斜に肩にして二人は遊んでるのか歩いてるのか判らぬように歩いてる。おとよはもうもどかしくてならないのだ。
おとよは家を出るまでは出るのが嬉しく、家を出てしばらくは出たのが嬉しかったが、今は省作を思うよりほかに何のことも頭にない。お千代の暢気につれて、心にもない事をいい、面白く感ぜぬ事にも作り笑いして、うわの空に歩いている。おとよの心にはただ省作が見えるばかりだ、天竺牡丹も霧島も西洋草花も何もかもありゃしない。
「省さんは先へいったのかしら、それともまだであとから来るのかしら」
こう思うのも心のうちだけで、うかりとしているお千代には言うてみようもなく、時々目をそらしてあとを見るけれど、それらしい人も見えない。ぶらぶら歩けばかえって体はだるい。
「おとよさん、もうわたし少しくたぶれたわ。そこらで一休みしましょうか」
お千代の暢気は果てしがない。おとよの心は一足も早く妙泉寺へいってみたいのだ。
「でもお千代さんここは姫島のはずれですから、家の子はすぐですよ。妙泉寺で待ち合わせるはずでしたねい」
こういわれてようやくの事いくらか気がついてか、
「それじゃ少し急いでゆきましょう」
家の子村の妙泉寺はこの界隈に名高き寺ながら、今は仁王門と本堂のみに、昔のおもかげを残して境内は塵を払う人もない。ことに本堂は屋根の中ほど脱落して屋根地の竹が見えてる。二人が門へはいった時、省作はまだ二人の来たのも気づかず、しきりに本堂の周囲を見廻し堂の様子を眺めておった。省作はもとより建築の事などに、それほどの知識があるのではないけれど、一種の趣味を持っている男だけに、一見してこの本堂の建築様式が、他に異なっているに心づき、思わず念がはいって見ておったのである。
「こんな立派な建築を雨晒しにして置くはひどいなあ、近郷に人のない証拠だ、この郡の恥辱だ、随分思い切ったもんだ、県庁あたりでもどうにかしそうなもんだ、つまり千葉県人の恥辱だ、ひどいなあ」
省作はこんなことをひとりで言って、待ち合せる恋人がそこまで来たのも知らずにおった。お千代が、ポンポンと手を叩く、省作は振り返って出てくる。
「省さん、暢気なふうをして何をそんなに見てるのさ」
「何さ立派なお堂があんまり荒れてるから」
「まあ暢気な人ねい、二人がさっきからここへきてるのに、ぼんやりして寺なんか見ていて、二人の事なんか忘れっちゃっていたんだよ」
お千代は自分の暢気は分らなくとも省作の暢気は分るらしい。省作は緩かに笑いながら二人の所へきた。
思うこと多い時はかえって物はいえぬらしく、省作はおとよに物もいわない、おとよも顔にうるわしく笑ったきり省作に対して口はきかぬ。ただおとよが手に持つ傘を右に左にわけもなく持ち替えてるが目にとまった。なつかしいという形のない心は、お互いのことばによって疎通せらるる場合が多いが、それは尋常の場合に属することであろう。
今省作とおとよとは逢っても口をきかない。お千代が前にいるからというわけでもなく、お互いにすねてるわけでもない。物を言わなくとも満足ができたのである。なつかしいという形のない心が、ことばの便りをからないで満足に抱合ができたからである。
お千代と省作との間に待ったとか待たないとかいう罪のない押し問答がしばらく繰り返される。身を傾けるほどの思いはかえって口にも出さず、そんな埒もなき事をいうて時間を送る、恋はどこまでももどかしく心に任せぬものである。三人はここで握り飯の弁当を開いた。
十
「のろい足だなあ」と二、三度省作から小言が出て、午後の二時ごろ三人はようやく御蛇が池へついた。飽き飽きするほど日のながいこの頃、物考えなどしてどうかすると午前か午後かを忘れる事がある。まだ熱さに苦しむというほどに至らぬ若葉の頃は、物参りには最も愉快な時である。三人一緒になってから、おとよも省作も心の片方に落ちつきを得て、見るものが皆面白くなってきた。おのずから浮き浮きしてきた。目下の満足が楽しく、遠い先の考えなどは無意識に腹の隅へ片寄せて置かれる事になった。
これが省作おとよの二人ばかりであったらば、こうはゆかなかったかもしれない。そこにお千代という、はさまりものがあって、一方には邪魔なようなところもあるが、一面にはそれがためにうまく調子がとれて、極端に陥らなかったため、思ったよりも今日の遊びが愉快になった。初めはお千代の暢気が目についたに、今は三人やや同じ程度に暢気になった。しかしながら省作おとよの二人には別に説明のできない愉快のあるはもちろんである。物の隅々に溜っていた塵屑を綺麗に掃き出して掃除したように、手も足も頭もつかえて常に屈まってたものが、一切の障りがとれてのびのびとしたような感じに、今日ほど気の晴れた事はなかった。
御蛇が池にはまだ鴨がいる。高部や小鴨や大鴨も見える。冬から春までは幾千か判らぬほどいるそうだが、今日も何百というほど遊んでいる。池は五、六万坪あるだろう、ちょっと見渡したところかなり大きい湖水である。水も清く周囲の岡も若草の緑につつまれて美しい、渚には真菰や葦が若々しき長き輪郭を池に作っている。平坦な北上総にはとにかく遊ぶに足るの勝地である。鴨は真中ほどから南の方、人のゆかれぬ岡の陰に集まって何か聞きわけのつかぬ声で鳴きつつある。御蛇が池といえば名は怖ろしいが、むしろ女小児の遊ぶにもよろしき小湖に過ぎぬ。
湖畔の平地に三、四の草屋がある。中に水に臨んだ一小廬を湖月亭という。求むる人には席を貸すのだ。三人は東金より買い来たれる菓子果物など取り広げて湖面をながめつつ裏なく語らうのである。
七十ばかりな主の翁は若き男女のために、自分がこの地を銃猟禁制地に許可を得し事柄や、池の歴史、さては鴨猟の事など話し聞かせた。その中には面白き話もあった。
「水鳥のたぐいにも操というものがあると見えまして、雌なり雄なりが一つとられますと、あとに残ったやもめ鳥でしょう、ほかの雌雄が組をなして楽しげに遊んでる中に、一つ淋しく片寄って哀れに鳴いてるのを見ることがあります。そういうことがおりおりありまして、あああれはつれあいをとられたのだなどいうことがすぐ分ります。感心なものでございます」
この話を聞いておとよも省作も涙の出でんばかりに感じたが、主が席を去るとおとよは堪りかね、省作と自分とのこの先に苦労の多かるべきをいい出でて嘆息する。お千代も省作に向って、
「省さんも御承知ではありましょうが、斎藤の一条から父はたいへんおとよさんを憎んで、いまだに充分お心が解けないもんですから、それはそれはおとよさんの苦労心配は一通りの事ではなかったのです。今だって父の機嫌がなおってはいないです。おとよさんもこんなに痩せっちゃったんですから、かわいそうで見ていられないから、うちと相談してね、今日の事をたくらんだんです。随分あぶない話ですが、あんまりおとよさんがかわいそうですから、それですから省さん今夜は二人でよく相談してね、こうということをきめてください。おまえさんら二人の相談がこうときまれば、うちでも父へなんとか話のしようがあるというんですから、ねい省さん」
省作も話下手な口でこういった。
「お千代さん、いろいろ御親切に心配してくださって、いくらありがたく思ってるかしれやしません。私は晴れておとよさんの顔を見るのは四か月ぶりです。痩せた痩せたというけど、こんなに痩せたとは思わなかったです、さっき初めて妙泉寺で逢って私は実際驚いた。私はもう五、六日のうちに東京へいくと決心したんです、お千代さんもおとよさんも安心してください、うちの兄はこういうんですから。
省作、おとよさんはどういう気でいる、お前の決心はどうだ。おれの覚悟はいつかも話したように、ちゃんときまってるど。お前の決心一つでおれはいつでもえい。この間おッ母さんにも話しておいた。
それから私がこれこれだと話すと、うんそりゃよかろう、若いものがうんと骨折るにゃ都会がえい、おれは面目だのなんぼくだのということは言わんがな、そりゃ東京の方が働きがいがあるさ。それじゃそうと決心して、なるたけ早く実行することにしろ。それからお前にいうておくことがある、おれにもたいした事はできんけれど、おれも村の奴らに欲が深い深いといわれたが、そのお蔭で五、六年丹精の結果が千五百円ばかりできてる。これをお前にやる分にゃ先祖の財産へ手を付けんのだから、おれの勝手だ。お前もそんつもりでな、東京で何か仕事を覚えろ……おとよさんのおとッつさんが、むずかしい事をいうのも、つまりわが子可愛さからの事に違いあんめいから、そりゃそのうちどうにかなるよ、心配せんで着々実行にかかるさ。
兄はこう言うんですから、私の方は心配ないです。佐介さんにお千代さんから、よくそう申してください、おとッつさんの方も何分頼みます」
お千代は平生妹ながら何事も自分より上手と敬しておったおとよに対し、今日ばかりは真の姉らしくあったのが、無上に嬉しい。
「それではもうおとよさん安心だわ。これからはおとッつさん一人だけですから、うちでどうにか話するでしょう。今日はほんとに愉快であったわねい」
「ほんとにお千代さん、おとッつさんをいつまでああして怒らしておくのは、わたしは何ほどつらいかしれないわ。おとッつさんの言う事にちっとも御無理はないんだから、どうにかしておとッつさんの機嫌を直したい、わたしは……」
「そりゃ私だっておとよさんの苦心は充分察してるのさ」
省作はお千代とおとよの顔を見比べて、
「お千代さん、おとよさんは少し元のおとよさんと違ってきたね」
「どう違うの」
「元はもっと、きっぱりとしていて、今のように苦労性でなかったよ。近頃はばかに気が弱くなった、おとよさんは」
おとよは、長くはっきりした目に笑みを湛えてわきを見ている。
「それも省さんがあんまりおとよさんに苦労さしたからさ」
「そんな事はねい、私はいつでもおとよさんの言いなりだもの」
「まあ憎らしい、あんなこといって」
「そんなら省さん、なで深田へ養子にいった」
お千代はこう言ってハヽヽヽヽと笑う。
「それもおとよさんが行けって言ったからさ」
「もうやめだやめだ、こんなこといってると、鴨に笑われる。おとよさん省さん、さあさあ蛇王様へ詣ってきましょう」
三人はばたばた外へ出る。池の北側の小路を渚について七、八町廻れば養安寺村である。追いつ追われつ、草花を採ったり小石を拾って投げたり、蛇がいたと言っては三人がしがみ合ったりして、池の岸を廻ってゆく。
「省さん、蛇王様はなで皹の神様でしょうか」
「なでだか神様のこたあ私にゃわかんねい」
「それじゃ蛇王様は皹の事ばかり拝む神様かしら」
「そりゃ神様だもの、拝めば何でも御利益があるさ」
「なんでも手足がなおれば、足袋なり手袋なりこしらえて上げるんだそうよ、ねい省さん」
「さっきの爺さんはたいへん御利益があるっていったねい」
三人は罪のない話をしながらいつか蛇王権現の前へくる。それでも三人はすこぶる真面目に祈願をこめて再び池の囲りを駆け廻りつつ愉快に愉快にとうとう日も横日になった。
十一
東金町の中ほどから北後ろの岡へ、少しく経上がった所に一区をなせる勝地がある。三方岡を囲らし、厚硝子の大鏡をほうり出したような三角形の小湖水を中にして、寺あり学校あり、農家も多く旅舎もある。夕照りうららかな四囲の若葉をその水面に写し、湖心寂然として人世以外に別天地の意味を湛えている。
この小湖には俗な名がついている、俗な名を言えば清地を汚すの感がある。湖水を挟んで相対している二つの古刹は、東岡なるを済福寺とかいう。神々しい松杉の古樹、森高く立ちこめて、堂塔を掩うて尊い。
桑を摘んでか茶を摘んでか、笊を抱えた男女三、四人、一隅の森から現われて済福寺の前へ降りてくる。
お千代は北の幸谷なる里方へ帰り、省作とおとよは湖畔の一旅亭に投宿したのである。
首を振ることもできないように、身にさし迫った苦しき問題に悩みつつあった二人が、その悩みを忘れてここに一夕の緩和を得た。嵐を免れて港に入りし船のごとく、激つ早瀬の水が、僅かなる岩間の淀みに、余裕を示すがごとく、二人はここに一夕の余裕を得た。
余裕をもって満たされたる人は、想うにかえって余裕の趣味を解せぬのであろう。余裕なき境遇にある人が、僅かに余裕を発見した時に、初めて余裕の趣味を適切に感ずることができる。
一風呂の浴みに二人は今日の疲れをいやし、二階の表に立って、別天地の幽邃に対した、温良な青年清秀な佳人、今は決してあわれなかわいそうな二人ではない。
人は身に余裕を覚ゆる時、考えは必ずわれを離れる。
「おとよさんちょっとえい景色ねい、おりて見ましょうか、向うの方からこっちを見たら、またきっと面白いよ」
「そうですねい、わたしもそう思うわ、早くおりて見ましょう、日のくれないうちに」
おとよは金めっきの足に紅玉の玉をつけた釵をさし替え、帯締め直して手早く身繕いをする。ここへ二十七、八の太った女中が、茶具を持って上がってきた。茶代の礼をいうて叮嚀にお辞儀をする。
「出花を入れ替えてまいりました、さあどうぞ……」
「あ、今おりて湖水のまわりを廻ってくる」
「お二人でいらっしゃいますの……そりゃまあ」
女中は茶を注ぎながら、横目を働かして、おとよの容姿をみる。おとよは女中には目もくれず、甲斐絹裏の、しゃらしゃらする羽織をとって省作に着せる。省作が下手に羽織の紐を結べば、おとよは物も言わないで、その紐を結び直してやる。おとよは身のこなし、しとやかで品位がある。女中は感に堪えてか、お愛想か、
「お羨ましいことねい」
「アハヽヽヽヽ今日はそれでも、羨ましいなどといわれる身になったかな」
おとよは改めて自分から茶を省作に進め、自分も一つを啜って二人はすぐに湖畔へおりた。
「どっちからいこうか」
「どっちからでもおんなしでしょうが、日に向いては省さんいけないでしょう」
「そうそう、それじゃ西手からにしよう」
箱のようなきわめて小さな舟を岸から四、五間乗り出して、釣りを垂れていた三人の人がいつのまにかいなくなっていた。湖水は瀲も動かない。
二人がどうして一緒になろうかという問題を、しばらくあとに廻し、今二人は恋を命とせる途中で、恋を忘れた余裕に遊ぶ人となった。これを真の余裕というのかもしれぬ。二人はひょっと人間を脱け出でて自然の中にはいった形である。
夕靄の奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉も総てがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞として夜を待つさまである。
「おとよさん面白かったねい、こんなふうな心持ちで遊んだのは、ほんとに久しぶりだ」
「ほんとに省さんわたしもそうだわ、今夜はなんだか、世間が広くなったような気がするのねい」
「そうさ、今まではお互いに自分で自分をもてあつかっていたんだもの、それを今は自分の事は考えないで、何が面白いの、かにが面白いのって、世間の物を面白がってるんだもの。あ、宿であかしが点いた、おとよさん急ごう」
恋は到底痴なもの、少しささえられると、すぐ死にたき思いになる、少し満足すればすぐ総てを忘れる。思慮のある見識のある人でも一度恋に陥れば、痴態を免れ得ない。この夜二人はただ嬉しくて面白くて、将来の話などしないで寝てしまった。翌朝お千代が来た時までに、とにかく省作がまず一人で東京へ出ることとこの月半に出立するという事だけきめた。おとよは省作を一人でやるか、自分も一緒に行くかということについて、早くから考えていたが、つまり二人で一緒に出ることは穏やかでないと思いさだめたのである。
十二
はずれの旦那という人は、おとよの母の従弟であって薊という人だ。世話好きで話のうまいところから、よく人の仲裁などをやる。背の低い顔の丸い中太りの快活で物の解った人といわれてる。それで斎藤の一条以来、土屋の家では、例の親父が怒って怒って始末におえぬということを聞いて、どうにか話をしてやりたく思ってるものの、おとよの一身に関することは、世間晴れての話でないから、親類とてめったな話もできずにおったところ、省作の家の人たちの心持ちがすっかり知れてみると、いつまでそうしては置けまいと、お千代がやきもきして佐介を薊の方へ頼みにやった。薊は早速その晩やって来た。もとより親類ではあるし、親しい間柄だからまず酒という事になる。主人の親父とは頃合いの飲み相手だ、薊は二つめにさされた杯を抑え、
「時に今日上がったのは、少し願いがあって来たわけじゃから、あんまり酔わねいうちに話してしまうべい。おッ母さん、おッ母さん、あなたにもここさ来て聞いててもらべい、お千代さん、ちょっとおッ母さんを呼んでください」
おとよの母はいろいろ御心配くだすってと辞儀をしてそこにすわる。
「御両人の子についての話だから、御両人の揃った所でなけりゃ話はできない」
薊の話には工夫がある。男親一人にがんばらせないという底意を諷してかかる。
「時に土屋さん、今朝佐介さんからあらまし聞いたんだが、一体おとよさんをどうする気かね」
「どうもしやしない、親不孝な子を持って世間へ顔出しもできなくなったから、少し小言が長引いたまでだ。いや薊さん、どうもあなたに面目次第もない」
「土屋さんあなたは、よく理屈を言う人だから、薊も今夜は少し理屈を言おう。私は全体理屈は嫌いだが、相手が、理屈屋だから仕方がねい。おッ母さんどうぞお酌を……私は今夜は話がつかねば喧嘩しても帰らねいつもりだからまあゆっくり話すべい」
片意地な土屋老人との話はせいてはだめだと薊は考えてるのだ。
「土屋さん、あなたが私に対して面目次第もないというのが、どうも私には解んねい。斎藤との縁談を断わったのが、なぜ面目ないのか、私は斎藤から頼まれて媒妁人となったのだから、この縁談は実はまとめたかった。それでも当の本人が厭だというなら、もうそれまでの話だ。断わるに不思議はない、そこに不面目もへちまもない」
「いや薊、ただ斎藤へ断わっただけなら、決して面目ないとは思わない。ないしょ事の淫奔がとおって、立派な親の考えがとおせんから面目がない。あなたも知ってのとおり、あいつは親不孝な子ではなかったのだがの」
「少し待ってください。あなたは無造作に浮奔だの親不孝だと言うが、そこがおれにゃ、やっぱり解んねい。おとよさんがなで親不孝だ、おとよさんは今でも親孝行な人だ、私がそういうばかりではない、世間でもそういってる。私の思うにゃあなたがかえって子に不孝だ」
「どこまでも我儘をとおして親のいうことに逆らうやつが親不孝でないだろか」
「親のいうことすなわち自分のいうことを、間違いないものと目安をきめてかかるのがそもそも大間違いのもとだ。親のいうことにゃ、どこまでも逆らってならぬとは、孔子さまでもいっていないようだ。いくら親だからとて、その子の体まで親の料簡次第にしようというは無理じゃねいか、まして男女間の事は親の威光でも強いられないものと、神代の昔から、百里隔てて立ち話のできる今日でも変らぬ自然の掟だ」
「なによ、それが淫奔事でなけりゃ、それでもえいさ。淫奔をしておって我儘をとおすのだから不埒なのだ」
「まだあんな事を言ってる、理屈をいう人に似合わず解らない老人だ。それだからあなたは子に不孝な人だというのだ。生きとし生けるもの子をかばわぬものはない、あなたにはわが子をかばうという料簡がないだなあ」
「そんな事はない」
「ないったって、現にやってるじゃねいか。わが子をよく見ようとはしないで、悪く悪くと見てる、いわば自分の片意地な料簡から、おとよさんを強いて淫奔ものにしてしまおうとしてる、何という意地の悪い人だろう」
この一言には老人も少しまいった。たしかに腹ではまいっても、なるほどそうかとは、口が腐ってもいえない人だ。よほど困ったと見え、独りで酒を注いで飲む手が少し顫えてる。まあ一つといって盃を薊にさす。
「そりゃ土屋さん、男女の関係ちは見ようによれば、みんな淫奔だよ、淫奔であるもないもただ精神の一つにあるだよ。表面の事なんかどうでもえいや、つまらん事から無造作に料簡を動かして、出たり引っこんだりするのか淫奔の親方だよ。それから見るとおとよさんなんかは、こうと思い定めた人のために、どこまでも情を立てて、親に棄てられてもとまで覚悟してるんだから、実際妻にも話して感心していますよ」
「飛んでもない間違いだ」
老人は鼻汗いっぱいにかいた顔に苦しい笑いをもらした。おとよの母もここでちょっと口をあく。
「薊さん、ほんとに家のおとよは今ではかわいそうですよ。どうかおとッつさんの機嫌を直したいとばかりいってます」
「ねいおッ母さん、小手の家では必ず省作に身上を持たせるといってるそうだから、ここは早く綺麗に向うへくれるのさ。おッ母さんには御異存はないですな」
「はア、うちで承知さえすれば……」
「土屋さん、もう理屈は考えないで、私に任せてください。若夫婦はもちろんおッ母さんも御異存はない、すると老人一人で故障をいうことになる、そりゃよくない、さあ綺麗に任してください」
老人はまた一人で酒を注いで飲む、そうして薊に盃をさす。
「どうです土屋さん……省作に気に入らん所でもありますか。なかには悪口いうものもあるが、公平な目で見ればこの町村千何百戸のうちで省作ぐらい出来のえい若いものはねい。そりゃ才のあるのも学のあるのもあろうけれど、出来のえい気に入った若いものといえば、あの男なんぞは申し分がない。深田でもたいへん惜しがって、省作が出たあとで大分揉めたそうだ、親父はなんでもかでも面倒を見ておけというのであったそうな。それもこれもつまりおとよさんのために、省作も深田にいなかったのだから、おとよさんが親に棄てられてもと覚悟したのは決して浮気な沙汰ではない。現に斎藤でさえ、わたしがこの間、逢ったら、
いや腹立つどころではない、僕も一人には死なれ一人には去られ、こうと思いこんで来てくれる女がほしいと思っていたところでしたから、かえっておとよさんの精神には真から敬服しています。
どうです、それを面目ないの淫奔だのって、現在の親がわが子の悪口をいうたあ、随分無慈悲な親もあればあったもんだ。いや土屋、悪くはとるな」
薊はことばを尽くし終わって老人の顔を見ている。煙草を一服吸う。老人は一言も答えぬ。
「どうです、まだ任せられませんか、もう理屈は尽きてるから、理屈は抜きにして、それでも親の掟に協わない子だから捨てるというなら、この薊に拾わしてください。さあ土屋さん、何とかいうてください」
「いや薊さん、それほどいうなら任せよう。たしかに任せるから、親の顔に対して少し筋道を立ててもらいたい」
「困ったなあ、どんな筋道か知らねいが、真の親子の間で、そんなむずかしい事をいわないで、どうぞ土屋さん、何にもなしに綺麗に任せてください。おとよさんにあやまらせろというなら、どのようにもあやまらしょう」
「どうか旦那、もう堪忍してやってください」
「てめいが何を知る、黙ってろ」
薊も長い間の押し問答の、石に釘打つような不快にさっきからよほど劫が沸いてきてる。もどかしくて堪らず、酔った酒も醒めてしまってる。
「どうでも土屋さん、もうえい加減にうんといってください。一体筋道とはどういう事です」
「筋道は筋道さ、親の顔が立ちさえすればえい。親の理屈を丸つぶしにして、子の我儘をとおすことは……」
薊の顔は見る見る変ってきた。灰吹きを叩く音も際立って高い。しばらく身をそらして老人を見おろしていたが、
「ウム自分の顔の事ばかりいってる。おれの顔はどうする、この薊の顔はどうするつもりだ。勝手にしろ、おッ母さん、とんだお邪魔をしました」
薊は身を飜して降り口へ出る、母はあとからすがりつく、お千代も泣きつく。おとよは隣座敷にすすり泣きしている。薊はちょっと中戻りしたが、
「帰りがけに今一言いっておく。親類も糞もあるもんか、懇意も糸瓜もねいや、えい加減に勝手をいえ、今日限りだ、もうこんな家なんぞへ来るもんか」
薊は手荒く抑える人を押し退けて降りかける。
「薊さんそれでは困る、どうかまあ怒らないでください。とよが事はとにかく、どうぞ心持ちを直して帰ってください」
お千代はただしがみついて離さない。薊はようやく再び座に返った、老人は薊を見上げて、
「ばかに怒ったな」
「おらも喧嘩に来たんじゃねいから、帰られるようにして帰せ」
薊の狂言はすこぶるうまかった、とうとう話はきまった。おとよは省作のために二年の間待ってる、二年たって省作が家を持てなければ、その時はおとよはもう父の心のままになる、決して我意をいわない、と父の書いた書付へ、おとよは爪印を押して、再び酒の飲み直しとなった。俄かに家内の様子が変る、祭りと正月が一度に来たようであった。
十三
薊が一切を呑み込んで話は無造作にまとまる。二人を結婚さしておいて、省作を東京へやってもよいが、どうせ一緒にいないのだから、清六の前も遠慮して、家を持ってから東京で祝儀をやるがよかろうということになる。佐介も一夜省作の家を訪うて、そのいさくさなしの気質を丸出しにして、省作の兄と二人で二升の酒を尽くし、おはまを相手に踊りまでおどった。兄は佐介の元気を愛して大いに話し口が合う。
「あなたのおとッつさんが、いくらやかましくいっても、二人を分けることはできないさ。いよいよ聞かなけりゃ、おとよさんを盗んじまうまでだ。大きな人間ばかりは騙り取っても盗み取っても罪にならないからなあ」
「や、親父もちょっと片意地の弦がはずれちまえばあとはやっぱりいさくさなしさ。なんでもこんごろはおかしいほどおとよと話がもてるちこったハヽヽヽヽ」
佐介がハヽヽヽヽと笑う声は、耳の底に響くように聞える。省作は夜の十二時頃酔った佐介を成東へ送りとどけた。
省作は出立前十日ばかり大抵土屋の家に泊まった。おとよの父も一度省作に逢ってからは、大の省作好きになる。無論おとよも可愛ゆくてならなくなった。あんまり変りようが烈しいので家のものに笑われてるくらいだ。
* *
* *
省作は田植え前蚕の盛りという故郷の夏をあとにして成東から汽車に乗る。土屋の方からは、おとよの父とおとよとが来る。小手の方からは省作の母が孫二人をつれ、おはまも風呂敷包みを持って送ってきた。おとよはもちろん千葉まで同行して送るつもりであったが、汽車が動き出すと、おはまはかねて切符を買っていたとみえしゃにむに乗り込んでしまった。
汽車が日向駅を過ぎて、八街に着かんとする頃から、おはまは泣き出し、自分でも自分が抑えられないさまに、あたり憚らず泣くのである。これには省作もおとよもほとんど手に余してしまった。なぜそんなに泣くかといってみても、もとより答えられる次第のものではない。もっともおはまは、出立という前の夜に、省作の居間にはいってきて、一心こめた面持ちに、
「省さんが東京へ行くならぜひわたしも一緒に東京へ連れていってください」
というのであった、省作は無造作に、
「ウムおれが身上持つまで待て、身上持てばきっと連れていってやる」
おはまはそのまま引き下がったけれど、どうもその時も泣いたようであった。おはまのそぶりについて省作もいくらか、気づいておったのだけれど、どうもしようのない事であるから、おとよにも話さず、そのままにしていたのだが、いよいよという今日になってこの悲劇を演じてしまった。
「あんまり人さまの前が悪いから、おはまさんどうぞ少し静かにしてください」
強くおとよにいわれて、おはまは両手の袖を口に当てて強いて声を出すまいとする。抑えても抑え切れぬ悲痛の泣き音は、かすかなだけかえって悲しみが深い。省作はその不束を咎むる思いより、不愍に思う心の方が強い。おとよの心には多少の疑念があるだけ、直ちにおはまに同情はしないものの、真に悲しいおはまの泣き音に動かされずにはいられない。仕方がないから、佐倉へ降りる。
奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫びる。
「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識らずこんな不束なまねをして、まことに申しわけがありません。おとよさんどうぞ気を悪くしないでください」
というのである、おはまは十三の春から省作の家にいて、足掛け四年間のなじみ、朝夕隔てなく無邪気に暮して来たのである。おはまは及ばぬ事と思いつつも、いつとなし自分でも判らぬまに、省作を思うようになった。しかしながら自分の姉ともかしずくおとよという人のある省作に対し、決してとりとめた考えがあったわけではない。ただ急に別れるが悲しさに、われ識らずこの不束を演じたのだ。
もとから気の優しい省作は、おはまの心根を察してやれば不愍で不愍で堪らない。さりとておとよにあられもない疑いをかけられるも苦しいから、
「おとよさん決して疑ってくれな、おはまには神かけて罪はないです。こんなつまらん事をしてくれたものの、なんだか私はかわいそうでならない。私のいないあとでも決して気を悪くせず、おはまにはこれまでのとおり目をかけてやってください」
おとよはもうおはまを抱いて泣いてる。わが玉の緒の断えんばかり悲しい時に命の杖とすがった事のあるおはまである。ほかの事ならばわが身の一部をさいても慰めてやらねばならないおはまだ。
おはまの悲しみのゆえんを知ったおとよの悲しみは小説書くものの筆にも書いてみようがない。
三人は再び汽車に乗る、省作は何かおはまにやりたいと思いついた。
「おとよさん、私は何かはまにやりたいが、何がよかろう」
「そうですねい……そうそう時計をおやんなさい」
「なるほど私は東京へゆけば時計はいらない、これは小形だから女の持つにもえい」
駅夫が千葉千葉と呼ぶ。二人は今さらにうろたえる。省作はきっとなって、
「二人はここで降りるんだ」 | 底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年6月25日第1刷
2007(平成19)年3月25日第4刷
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年4月号
入力:林 幸雄
校正:川山隆
ファイル作成:
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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子規画「左千夫像」
(明治33年頃)
吾が正岡先生は、俳壇の偉人であって、そしてまた歌壇の偉人である。万葉集以降千有余年間に、ただ一人あるところの偉人であるのだ。
しかるに先生が俳壇の偉人であると云うことは、天下知らざるものなき程でありながら、歌壇の偉人であると云うことを知っているものは、天下幾人も無いと云うに至っては実に遺憾と云わねばならぬ。
先生の訃音が一度伝われば、東都の新紙は異口同音に哀悼の意を表し、一斉に先生が俳壇における偉業を讃した。これはもとより当然の事であえて間然すべきではないが、ただ一人として先生の歌壇における功績に片言も序し及ばなかったのはいかにも物足らぬ感に堪ぬのである。
先生の俳句における成功は、始め近親数人に及ぼし遂に天下に広充したので、北は北海道の果てより、南は九州の隅に至るまで、いやしくも文学に志す者で日本派の俳句、子規派の俳句を知らぬ者はないくらいであるから、俳句を知らぬ人でもその実績の上から、先生が俳壇の偉人であると云う事は知れる訳であるが、歌の方であると根岸派の歌と云うても、区域が極めて狭いので、真に歌を解せぬ素人の眼から、その偉大なることの分らぬのも、あながち無理ではない、しかしまた一歩進んで考えてみると、世人が、日本文学の精粋と歌わるる歌に対して解釈力の欠乏せるに驚かざるを得ないのである。たとい自ら作ると云うことは出来なくとも、その議論をみてその製作をみたならば、是非の判断くらいはつきそうなものじゃあるまいか。世上多くの文士が先生の俳人たる価値をのみ解して、歌人たるの価値を少しも解せぬと云うに至っては、吾々は多大なる不平が包みきれぬのである。
先生の俳句における成功と歌における成功と先生一個身の上よりせば、成功の価値に少しの相違もないのである。一は成功の余沢を広く他に及ぼし、一は未だ広く余沢を及ぼさぬと云うに過ぎぬ、俳句はその流れを酌む人が多いから偉大で歌はその流れを酌む人が少いから注意に価せぬとはあまりに浅薄なる批評眼と云わねばならぬ。
しからば、正岡が歌壇の偉人であるというはどう云うわけかと云う問が起るであろう。これに対する答は、俳壇の偉人を説明する様に簡単でない。実績に乏しき歌壇の偉人を説明しようには勢い歌そのものに依って判断せねばならぬ。すなわちその作歌及び歌論について価値を定めねばならぬ。しかしながらかくのごときことをなすは今その場合でないと思う。
先生が歌の研究を始めたのは、たしか明治二十九年の夏からである。年を経る僅かに七年一室に病臥して、自宅十歩の庭でさえ充分には見ることのできぬ身を以て、俳壇を支配するの余力を以て、今日の成功を見たる実に偉と云わねばならぬ。親しく教えを受けて研究に預れるは僅かに七八人に過ぎぬ。しかもこの七八人の根岸派同志が今日の歌壇にいかに重きをなすか、成功の確然たるものがなくて、どうしてしかることを得べきか。
国家とその起源を同じくしているところの歌は、また皇家とその隆替を同じくしている。皇威衰えて歌もまた衰えた、万葉以降歌の奮わぬと云うのも、考えてみると不思議と思う程である。思うに世道人心と深く関係するところに相違ないのであろう、帝皇の稜威が、全く上代に復して、歌壇に偉人の顕れたと云うも、偶然のようで決して偶然ではないのである。
先生には一人の愛子があった。当年二十四歳の男で歌詠みである。こういうとあまり出し抜けで人の驚くのも無理はない。十年病に臥して妻というものはもちろん妻らしいものも無かった先生に子のあろう筈がない。が、それも真面目すぎた話で我輩の子というのはそんな血統的の話ではない。その関係というものが、その交わりの親密さというのがどうしても親子としか思われない点から、予は理想的に先生の愛子じゃと云うた訳である。
それはだれだ、下総結城の人長塚節である。節はまた最も予とも親しいので、先生と節との関係は予が最もよく知っている様で、それはとにかくそんなことを書いて何が面白いかと思う人もあろうからちょっと前がきがいる。
どっちかと云うと、先生は理性的の人であった。いやそうでない、情的方面は尋常で理性の方面は非常であるから、誰の眼にもその理性の強い方面ばかりすぐ分るので、非常に理性の勝った人で全く智的の人の様に受け取られた様だ。明敏精察でそして沈着冷静という態度で、常に人に接するから逢う人は必ず畏敬の念を起すと同時に容易に近づく事の出来ぬという趣があった。かくいう吾輩も、この人は師として交わるべき人で友として交わることは容易に出来ぬ人であるなどと思うたことは幾度かあった。先生自らもその性質をちゃんと承知しておられ、或る時女郎買い話が出て大いに笑ったことがある。先生いう、僕も書生時分には月に一回位は往かねばならぬ様に往ったことがあるが、同じ奴の所へ二度往ったことは無かった。どうしてそうかと云うと僕はゆきなりその奴を観察してしまうので、すぐに愛情がつきてもう二度ゆく気になれぬ云々。
先生が理性の強かったことはこの一言で分る。そんな訳であるから、遠くに先生を敬慕した人はもちろん非常に多かったに相違ないが、近づいて親密にした人は割合にすくない。それには病気や何かでいろいろな事情もあったろうが、非常に理性に勝れたせいではあるまいか。しかし前にも云うた通り情的方面も尋常ではあったのである。決して無情酷薄な人ではなかった。もっとも人物評や作物評には、精察で峻励という常筆法でやられたゆえ、往々酷に過ぎるなきやと思われた事もないではなかったが、無情は有情の極ということもあるから、こういうことは酷と思う方が無理であろう。
世間の普通からいうと理性の著しくまさった人は情に薄いのが当り前であるのに、一人先生は普通以上であるという証拠として、長塚節が出てきた次第じゃ。赤の他人であって親の様に思われ子の様に愛するということは、無情な人の夢にも知ったことではない、先生と長塚との間柄は親子としてはあまりに理想的で、師弟としてはあまりに情的である、ゆえに予はこれを理想的愛子と名附けた。
節が始めて先生に逢うたのは明治三十二年の初夏、根岸庵の杉屏の若芽がふいた頃である。節はその以前から「日本」の愛読者で先生に対しては見ぬ恋にこがれておったとのことで、夢に見た先生と逢って見た先生とが同じであったというて当時節はしきりにそれを不思議にしていた。
長塚が始めて先生に逢った時、長塚は先生の俳句及び歌の、自分が面白く感じた数十首をことごとく記臆していてこれを暗誦したのには、先生も一驚を喫したそうで、一体長塚は記臆のよい男であるが、先生を慕うこと深くなければ、決してそんなことが出来るものでない。第一回の会見既に尋常でない。長塚が渾身情的無邪気に児供らしきに対しては、さすがの先生も理性をなげうち精察を捨てざるを得なかったらしい。長塚はしばらく滞京して毎日の様に先生の所へ往っている。吾輩の所へもやってきたので相携えてまた根岸庵へ往った。先生と長塚とはもう一朝一夕の交わりの様でない、先生に逢うてだれでも起るところの、その憚るべき畏るべき感じと云うものが、長塚には毫末もない様であった。
こんなことは先生には異例である様だが、無邪気な長塚に対したからと云うばかりでなく、やはり先生が決して冷性な人でないと云うところから出た結果であろう。
爾来長塚は東京に在ってはもちろん、郷里にある時でも一日も先生ということは脳中を離れぬ様であった。その郷里は汽車場までは七八里もあるという辺鄙でありながら、絶えず何かを贈っている。旅に出ればまた必ず旅先から土産を贈ってくる。であるから根岸庵では節の噂はたえぬのである。節が出京すると云うてくる先生はいかにもそれを待ち楽しんだ様であった。或る時など予が訪問すると、一昨日長塚がきて今日は君がくる日だからまた参ると云うて帰った、今に来るだろうというて、何か妹さんなど呼んで用意を命じた様であったが、どうしたか長塚がこの日ついにきなかった。この時の先生の長塚を待ったなどそれは非常であった。長塚がこないを十何遍繰返したろう。
先生が節に教ゆるは歌の上ばかりではない。人間と云うものの総ての上について噛んで含める様に教えた様であった。随分叱り飛ばすこともある。長塚が先生に物を乞うことがある書画など、こんな物を何すると叱る、しばらくして先生貰ってもえでしょうという、馬鹿と叱る、またしばらくすると先生貰ってもえでしょうという、その無邪気なるには先生も敵しかねてついに持ってゆけとやってしまうと云う塩梅である。もっともおかしかったのは、つい逝去以前三十日ばかりのこと、長塚からツク芋を贈ってきた、それに大和芋とさも珍しそうに書いてあったので、先生は驚いた様子で長塚もこれほど児供では仕方がない、ツク芋も知らない様ではというので大いに心配した。半枚の原稿も人にかかせる時に、自ら原稿紙三枚ほど書いて、叱ったり教えたりしたそうである。
しからば長塚は真の児供かと云うに決してそうでない。歌も同人間に一頭地を抜いている。処世の道においても、親父なる人の少しく失敗し家産の整理に任じて処理を誤らぬ様である。してみれば先生が長塚を愛したのも唯情一辺でないことも分る。去年の秋であった、長塚と予と折よく会合した時に先生から長塚にやった歌は、よく両者の情合を尽くしている。
喜節見訪竹の里人
下総のたかし来たれりこれの子は蜂屋大柿吾にくれし子
下ふさのたかしはよき子これの子は虫喰栗をあれにくれし子
春ことにたらの木の芽をおくりくる結城のたかし吾は忘れず
多くの場合に人に畏敬せられた先生にして、こんなことの有ったのは世人も少しく意外に感ずるのであろう。
(歌人・作家)
(『日本』明治35・10・3、4/『子規全集・別巻2』講談社、75・9) | 底本:「正岡子規」KAWADE道の手帖、河出書房新社
2010(平成22)年10月30日初版発行
底本の親本:「子規全集 別卷二 回想の子規一」講談社
1975(昭和50)年9月18日第1刷発行
初出:「日本」日本新聞社
1902(明治35)年9月27日、10月3日、10月4日
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※本文末の初出情報には9/27が抜け落ちておりましたが、初出情報は底本の親本の表記にそって、記載しました。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年9月27日作成
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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表口の柱へズウンズシリと力強く物のさわった音がする。
この出水をよい事にして近所の若者どもが、毎日いたずら半分に往来で筏を漕ぐ。人の迷惑を顧みない無遠慮なやつどもが、また筏を店の柱へ突き当てたのじゃなと、こう思いながら窓の格子内に立った。もとより相手になる手合いではないが、少ししかりつけてやろうと考えたのである。
格子から予がのぞくとたんに、板塀に取り付けてある郵便受け箱にカサリという音がした。予は早くも郵便を配達して来たのじゃなと気づく。
この二十六日以来三日間というもの、すべての交通一切杜絶で、郵便はもちろん新聞さえ見られなかった際じゃから、郵便配達と気づいて予はすこぶるうれしい。この水の深いのに感心なことと思いつつ、予は猶予なくその郵便をとりに降りる。郵便箱へ手を入れながら何の気なしに外を見る。前に表の柱へ響きをさしたのは、郵便配達の舟が触れた音でありしことがわかった。
郵便の小舟は今わが家を去って、予にその後背を見せつつ東に向かって漕いでいる。屈折した直線の赤筋をかいた小旗を舷に插んで、船頭らしい男と配達夫と二人、漁船やら田舟やらちょっとわからぬ古ぶねを漕いでいる。水はどろりとして薄黒く、浮き苔のヤリが流れる方向もなく点々と青みが散らばってちょうどたまり水のような濁り水の上を、元気なくゆらりゆらりと漕いでゆくのである。
いやに熱苦しい、南風がなお天候の不穏を示し、生赤い夕焼け雲の色もなんとなく物すごい。予は多くの郵便物を手にしながらしばらくこの気味わるい景色に心を奪われた。
高架鉄道の堤とそちこちの人家ばかりとが水の中に取り残され、そのすき間というすき間には蟻の穴ほどな余地もなくどっしりと濁り水が押し詰まっている。道路とはいえ心当てにそう思うばかり、立てば臍を没する水の深さに、日も暮れかかっては、人の子一人通るものもない。活動ののろい郵便小舟がなおゆらゆら漕ぎつつ突き当たりのところを右へまがった。薄黒い雲にささえられて光に力のない太陽が、この水につかって動きのとれない一群の人家をむなしく遠目にみておられる。一切の草木は病みしおれて衰滅の色を包まずいたずらに太陽を仰いでいても、今は太陽の光もこれを救うの力がない。予は身にしみて寂しみを感じた。
静かというは活動力の休息である。静かな景色には動くものがなくても感じはいきいきとしている。今日の景色には静かという趣は少しもない。活動力の凋衰から起こる寂しい心細いというような趣を絵に書いて見たらこんなであろうなどと考える。
毒々しい濁り水のために、人事のすべてを閉塞され、何一つすることもできずむなしく日を送っているは、手足も動かぬ病人がただ息の通うばかりという状態である。
家の中でも深さは股にとどくのである。それを得避くる事もできないで、巣を破られた蜂が、その巣跡にむなしくたむろしているごとくに、このあばら屋に水籠りしている予を他目に見たらば、どんなに寂しく見えるだろう。
しかしながらわれとわれを客観して見ればまた一種得難い興味もある。人間のからだでいえば病気じゃ、火難が家の死であらば水難は家の病気じゃなどと空想にふけりながら予は仮床へ帰った。仮床というは台所の隣間で、南へ面した一間の片端へ、桶やら箱やら相当に高さのあるものを並べ立てて、古柱や梯子の類をよろしく渡した上に戸板を載せ、それに畳を敷いたものである。畳もようやく四畳しか置けない。それに夫婦のものと児女三人下女一人、都合六人が住んでいる。手も足も動かせない生活じゃ。立てば頭が天井へつかえる。夜になれば蚊がいる。この四畳のお座敷へ蚊帳二つりという次第ではないか。動けないだけに仕事もない。着たままでねる、寝たままで起きている。食物は兄の家からすべてを届けてくれる。子供を水へ落とさないように注意するのが最も重要な事件くらいのものじゃ。赤ん坊は心配はないが木綿子のおぼつかなく立って歩くのが秒時も目を離せない。今日は木綿子がよく寝たから天井板をきれいに掃除したとは細君のことばである。今日は腰巻きを五へん換えましたとは下女の愚痴である。それもそのはずじゃ。湯を沸かして茶を一つ飲もうというには、火をこしらえる材料拾集のために担当者が腰巻き一つはどうしてもぬらさねばならない。それが三度はきまりでほかに一度や二度は水へ降りねばならぬ。で天気がよければよいが天気が悪ければ、とても茶を飲むなどいう奢りは許されない。今日くらいの天気ならばラクだとは異口同音のよろこびじゃ。追ッつけ夕飯を届けてくる時刻とて鉄瓶の湯が快活に沸き立っている。予は同人諸君からの見舞状を次ぎ次ぎと見る。かれこれして家の中は薄暗くなった。
「おとっさん水が少し引いたよ」
「ウンそうか」
「あの垣根の竹が今朝はまだ出なかったの……それが今はあんなに出てしまって五分ばかり下が透いたから、なんでも一寸五分くらいは引いたよ」
「なるほどそうだ、よいあんばいだ。天気にはなるし、少しずつでも水が引けば寝ても寝心がいい」
「さっきおとっさんおもしろかったよ。ネイおっかさん、ほんとにおかしかったわ、大きな鰻、惜しい事しちゃったの、ネイおっかさん……」
「お妙さん、鰻がどうした」
「鰻ネ、大きい鰻がね、おとっさん、あの垣根の杭のわきへ口を出してパクパク水を飲んでいるのさ。それからどうして捕ろうかって、みんなが相談してもしようがないの。それからおふじが米ざるを持ち出して出かけたら、おふじが降りるとすぐ鰻はひっこんでしまったの。ネイおふじ、網ならどうかして捕れたんだよ」
「そうか、そりゃ惜しいことをしたなア、蒲焼にしたら定めて五人でたべ切れない大きいものであったろう。おとっさんに早くそう言えばよかったハヽヽヽ」
「おとっさんうそでないよ、ネイおふじ、ほんとネイ、おっかさんも見ていたんだよ」
おふじは腰巻きのぬらし損をしてしまったけれど、そのついでに火を起こしたから、鉄瓶の湯が早く煮立った。それでは鰻が火を起こしたわけじゃないかと、予が笑えば、木綿子までが人まねに高笑いをする。住宅の病気も今日はやや良好という日じゃ。いやに熱苦しい南風が一日吹き通して、あまり心持ちのよい日ではなかったけれど、数日来雨は降る水は増すという、たまらぬ不快な籠居をやってきたのだから、今日はただもうぬれた着物を脱いだような気分であった。それに日の入りと共にいやな南風も西へ回って空の色がよくなった。明日も快晴であろうと思われる空の気色にいよいよ落ちついて熱のさめたあとのような心持ちでからだが軽くなったような気がする。金魚が軒下へ行列して来る。鰌が時々プクプク浮いて泡を吹く。鰻まで出て芝居をやって見せたというありさまだったから、まずまずこれまでにはない愉快な日であった。極端に自由を奪われた境涯にいて見ると、らちもない事にも深き興味を感ずるものである。
人間の家も飯を炊かぬものであると、朝にも晩にもすこぶる気楽にゆっくりしたものだ。
「もうランプをつけましょうか」
「まだよかろう」
「それでもよほど暗くなってきましたから」
「どうせ何ができるでなし、そんなに早く明かしをつける必要もないじゃないか」
こんならちもない押し問答をして時間を送っている。
表のガラス戸にがちゃんと突き当たったものがある。何かと思う間もなくしずしずとガラス戸を押しあけて人がはいる、バシャンバシャン水音をさして半四郎君が台所へ顔を出した。
「コリャ思ったより深い、随分ひどいなア」
「半四郎さん、どうも御苦労さま、とんだ御厄介でございます。そこらあぶのうございますからお気をつけなすって……」
「やア今日は君が来てくれたか、どうです随分深いでしょう。上げ縁は浮いてしまったし、ゆか板もところどころ抜けてるから、君うっかり歩くと落ちるよ、なかなかあぶないぜ」
「コリャ剣呑だ、なにもう大丈夫、表のガラス一枚破りましたよ、車へ載せて来ましたからつい梶棒をガラス戸へ突き当ててしまったんです」
「なアにようございますよ、ガラスの一枚ばかりあなた……」
「随分御困難ですなア」
「いやありがとう、まアこんな始末さ。それでもおかげさまで飢えと寒さとの憂いがないだけ、まず結構な方です。君、人間もこれだけ装飾をはがれるとよほど奇怪なものですぞ。この上に寒さに迫られ飢えに追われたら全く動物以下じゃな」
「そうですなア向島が一番ひどいそうです。綾瀬川の土手がきれたというんですからたまりませんや。今夜はまた少し増して来ましょう。明朝の引き潮にゃいよいよ水もほんとに引き始めるでしょう」
半四郎は飯櫃と重箱とほかに水道の水を大きな牛乳鑵二本に入れたのを次ぎ次ぎと運んでくれる。今夕の分と明朝の分と二回だけの兵糧を運んでくれたのである。まア話してゆきたまえというても腰をかける場所もない。半四郎君はあまり暗くならぬうちにというて帰ってゆく。ランプをつける。半四郎君の出てゆく水の音が闇に響いてカパンカパンと妙に寂しい音がする。濁り水の動く浪畔にランプの影がキラキラする。全くの夜となった。そして夜は目に映るものの少ないためか、目に見た日暮れの趣にくらべて今は寂しいというより静かな感じが強い。その静かさの強みに、五、六人の人の動きもその話し声もランプの光り鉄瓶の煮え音までが、静かに静かにと上から圧えつけられているようである。かえって少しの光や音や動きやは、その静かさの強みを一層強く思わせる。湿り気を含んだランプの光の下に浮藻的生活のわれわれは食事にかかる。佃煮と煮豆と漬菜という常式である。四畳の座敷に六人がいる格で一膳のお膳に七つ八つの椀茶碗が混雑をきわめて据えられた。他目とは雲泥の差ある愉快なる晩餐が始まる。一切の過去を忘れてただその現在を常と観ずれば、いかなる境地にも楽しみは漂うている。予はビールを抜かせる。
木綿子の挙動には畳四畳の念はない。行きたいようにゆき、動きたいように動いてる。父の顔を見母の顔を見姉の顔を見、煮豆佃煮のごちそうに満悦して、腹の底を傾けての笑い、ありたけの声を出しての叫び、この人のためにだれもかれも、すべての憂き事を忘れさせられる。天地の寂寞も水難の悲惨も木綿子の心をば一厘たりとも冒すことはできない。わが身の存在すら知らない絶対無我の幼児は、真に不思議な力がある。天を活かし地を活かし人をも活かすの力を持っている。他目に解せられない愉快な晩餐というも全く木綿子の力である。
あぶないてば木綿ちゃん、という呼び声はこの会食中にばかりも十度も繰り返された。あぶないとは何の事か木綿ちゃんの知った事ではない。木綿ちゃんの行動は天馬空を行くがごとくで、四畳であろうが、百畳であろうが、木綿ちゃんにそんな差別はない。人を活かす力を持てる木綿ちゃんは、また人を殺す力も持ってる。木綿ちゃんが寝ないうちはだれも寝られないのである。もしも木綿ちゃんがわれわれの不注意のために、この水に落ちて死ぬような事でもあったら、少なくも予一人は精神的に死するにきまっている。木綿子はその幼い手足を投げ出して、今は眠りについた。窓先で枝蛙が鳴く。壁の透き間でこおろぎが鳴く。彼らは何を感じて寂しい声を鳴くのか。空は晴れて膚寒く夜はようやくふけ渡ったようである。 | 底本:「野菊の墓 他四篇」岩波文庫、岩波書店
1951(昭和26)年10月5日第1刷発行
1970(昭和45)年1月16日第24刷改版発行
2007(平成19)年5月23日第49刷発行
初出:「ホトヽギス 第十一卷第二號」
1907(明治40)年11月1日発行
※表題は底本では、「水籠《みずごもり》」となっています。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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麦搗も荒ましになったし、一番草も今日でお終いだから、おとッつぁん、熱いのに御苦労だけっと、鎌を二三丁買ってきてくるっだいな、此熱い盛りに山の夏刈もやりたいし、畔草も刈っねばなんねい……山刈りを一丁に草刈りを二丁許り、何処の鍛冶屋でもえいからって。
おやじがこういうもんだから、一と朝起きぬきに松尾へ往った、松尾の兼鍛冶が頼みつけで、懇意だから、出来合があったら取ってくる積りで、日が高くなると熱くてたまんねから、朝飯前に帰ってくる積りで出掛けた、おらア元から朝起きが好きだ、夏でも冬でも天気のえい時、朝っぱらの心持ったらそらアえいもんだからなア、年をとってからは冬の朝は寒くて億劫になったけど、其外ん時には朝早く起きるのが、未だにおれは楽しみさ。
それで其朝は何んだか知らねいが、別けて心持のえい朝であった、土用半ばに秋風が立って、もう三回目で土用も明けると云う頃だから、空は鏡のように澄んでる、田のものにも畑のものにも夜露がどっぶりと降りてる、其涼しい気持ったら話になんなっかった。
腰まで裾を端しょってな、素っ膚足に朝露のかかるのはえいもんさ、日中焼けるように熱いのも随分つれいがな、其熱い時でなけりゃ又朝っぱらのえい気持ということもねい訳だから、世間のことは何でもみんな心の持ちよう一つのもんだ。
それから家の門を出る時にゃ、まだ薄暗かったが、夏は夜明けの明るくなるのが早いから、村のはずれへ出たらもう畑一枚先の人顔が分るようになった、いつでも話すこったが、そん時おれが、つくづく感心したのは、そら今ではあんなに仕合せをしてる、佐兵エどんの家内よ、あの人がたしか十四五の頃だな、おれは只遠い村々の眺めや空合の景色に気をとられて、人の居るにも心づかず来ると、道端に草を刈ってた若い女が、手に持った鎌を措いて、
「お早ようございます」
と挨拶したのを見るとあの人さ、そんころ善吉はまるっきり小作つくりであったから、あの女も若い時から苦労が多かった。
村の内でも起きて居た家は半分しか無かった、そんなに早いのに、十四五の小娘が朝草刈りをしているのだもの、おれはもう胸が一ぱいになった位だ。
「おう誰かと思ったら、おちかどんかい、お前朝草刈をするのかい、感心なこったねい」
おれがこう云って立ち止まると、
「馴れないからよく刈れましね、荒場のおじいさんもたいそうお早くどこへいきますかい」
そう云って莞爾笑うのさ、器量がえいというではないけど、色が白くて顔がふっくりしてるのが朝明りにほんのりしてると、ほんとに可愛い娘であった。
お前とこのとッつぁんも、何か少し加減が悪いような話だがもうえいのかいて、聞くと、おやじが永らくぶらぶらしてますから困っていますと云う、それだからこうして朝草も刈るのかと思ったら、おれは可哀そうでならなかった、それでおれは今鎌を買いに松尾へ往くのだが、日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三俵をまけてやった、心懸けがよかったからあの女も今はあんなに仕合せをしてる。
これでは話が横道へ這入った、それからおれが松尾へ往きついてもまだ日が出なかった、松尾は県道筋について町めいてる処へ樹木に富んだ岡を背負ってるから、屋敷構から人の気心も純粋の百姓村とは少し違ってる、涼しそうな背戸山では頻りに蜩が鳴いてる、おれは又あの蜩の鳴くのが好きさ、どこの家でも前の往来を綺麗に掃いて、掃木目の新しい庭へ縁台を出し、隣同志話しながら煙草など吹かしてる、おいらのような百姓と変らない手足をしている男等までが、詞つかいなんかが、どことなし品がえい、おれはそれを真似ようとは思わないけど、横芝や松尾やあんな町がかった所へいくと、住居の様子や男女の風俗などに気をつけて見るのが好きだ。
兼鍛冶のとこへ往ったら、此節は忙しいものと見えて、兼公はもう鞴場に這入って、こうこうと鞴の音をさして居た、見ると兼公の家も気持がよかった、軒の下は今掃いた許りに塵一つ見えない、家は柱も敷居も怪しくかしげては居るけれど、表手も裏も障子を明放して、畳の上を風が滑ってるように涼しい、表手の往来から、裏庭の茄子や南瓜の花も見え、鶏頭鳳仙花天竺牡丹の花などが背高く咲いてるのが見える、それで兼公は平生花を作ることを自慢するでもなく、花が好きだなどと人に話し為たこともない、よくこんなにいつも花を絶やさずに作ってますねと云うと、あアに家さ作って置かねいと時折仏様さ上げるのん困るからと云ってる、あとから直ぐこういう鎌が出来ましたが一つ見ておくんせいと腕自慢の話だ、そんな風だからおれは元から兼公が好きで、何でも農具はみんな兼公に頼むことにしていた。
其朝なんか、よっぽど可笑しかった、兼公おれの顔を見て何と思ったか、喫驚した眼をきょろきょろさせ物も云わないで軒口ヘ飛んで出た、おれが兼さんお早ようと詞を掛ける、それと同んなじ位に、
「旦那何んです」
とあの青白い尖口の其のたまげた顔をおれの鼻っさきへ持ってきていうのさ、兼さん何でもないよ鎌を買いに来たんだよ、日中は熱いから朝っぱらにやって来たのさ、こういうと、
「そらアよかった、まア旦那お早ようございます」と直ぐにけろりとした風で二つ三つ腰をまげた、ハハハアと笑ったかと思うと直ぐ跡から、旦那鎌なら豪せいなのが出来てます、いう内に女房が出て来て上がり鼻へ花蓙を敷いた、兼公はおれに許り其蓙へ腰をかけさせ、自分は一段低い縁に腰をかけた、兼公は職人だけれど感心に人に無作法なことはしなかった。
「旦那聞いてください、わし忌ま忌ましくなんねいことがあっですよ、あの八田の吉兵エですがね、先月中あなた、山刈と草刈と三丁宛、吟味して打ってくれちもんですから、こっちゃあなた充分に骨を折って仕上げた処、旦那まア聞いて下さい其の吉兵エが一昨日来やがって、村の鍛冶に打たせりゃ、一丁二十銭ずつだに、お前の鎌二十二銭は高いとぬかすんです、それから癪に障っちゃったんですから、お前さんの銭ゃお前さんの財布へしまっておけ、おれの鎌はおれの戸棚へ終って措くといって、いきなり鎌を戸棚へ終っちゃったんです、旦那えい処へ来て下さった」そういうて兼公は六丁の鎌をおれの前へ置いた、女房は、それではよくあんめい、吉兵エさんも帰りしなには、兼さんの一酷にも困る、あとで金を持たしてよこすから、おっかアおめいが鎌を取っといてくっだいよって、腹も立たないでそういっていったんだから、今荒場の旦那へ上げて終ってはと云った、兼公はあアにお前がそういうなら、八田の分はおれが今日にも打って措くべい、旦那どうぞ持っていって下さい、外の人と違う旦那がいるってんだから、こういうから四丁と思って往ったのだが、其六丁を持ってきた、家を出る時心持よく出ると其日はきっと何かの用が都合よくいくものだ。
思いの外に早く用が足りたし、日も昇りかけたが、蜩はまだ思い出したように鳴いてる、つくつくほうしなどがそろそろ鳴き出してくる、まだ熱くなるまでには、余程の間があると思って、急に思いついて姪子の処へ往った。
お町が家は、松尾の東はずれでな、往来から岡の方へ余程経上って、小高い所にあるから一寸見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭へ繋いで、十になる惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子がさも楽しそうに黒白斑の方のやつを洗ってやってる、小牛は背中を洗って貰って平気に草を食ってる、惣領が長い柄の柄杓で水を牛の背にかける、母親が縄たわしで頻りに小摺ってやる、白い手拭を間深かに冠って、おれのいったのも気がつかずにやってる、表手の庭の方には、白らげ麦や金時大角豆などが庭一面に拡げて隙間もなく干してある、一目見てお町が家も此頃は都合がえいなと思うと、おれもおのずと気も引立って、ちっと手伝おうかと声をかけた。
あらア荒場の伯父さんだよって、母子が一所にそういって、小牛洗いはそこそこにさすが親身の挨拶は無造作なところに、云われないなつかしさが嬉しい、まア伯父さんこんな形では御挨拶も出来ない、どうぞまア足を洗って下さい、そういうより早く水を汲んでくれる、おれはそこまで来たから一寸寄ったのだ上ってる積りではねいと云っても、伯父さん一寸寄っていくってそら何のこったかい、そんなこと云ったって駄目だ、もうおれには口は聞かせない。
上って見ると鏡のように拭いた摺縁は歩りくと足の下がぎしぎし鳴る位だ、お町はやがて自分も着物を着替て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持ったらなかった、伯父さん鎌を六丁買ってきて、家でばっかそんなにいるかいちもんだから、おれがこれこれだと話すと、そんなら一丁家へもおくんなさいなという、改まって挨拶するかと思うと、あとから直ぐ甘えたことをいう、そうされると又妙に憎くないものだよ。
あの気転だから、話をしながら茶を拵える、用をやりながらも遠くから話しかける。
「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」
「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何がいるかい」
そういう所へ利助もきて挨拶した、よくまア伯父さん寄てくれました、今年は雨都合もよくて大分作物もえいようでなど簡単な挨拶にも実意が見える、人間は本気になると、親身の者をなつかしがるものだ、此の調子なら利助もえい男だと思っておれも嬉しかった、お町は何か思いついたように夫に相談する、利助は黙々うなずいて、其のまま背戸山へ出て往った様だった、お町はにこにこしながら、伯父さん腹がすいたでしょうが、少し待って下さい、一寸思いついた御馳走をするからって、何か手早に竈に火を入れる、おれの近くへ石臼を持出し話しながら、白粉を挽き始める、手軽気軽で、億劫な風など毛程も見せない、おれも訳なしに話に釣り込まれた。
「利助どんも大分に評判がえいからおれもすっかり安心してるよ、もう狂れ出すような事あんめいね」
「そうですよ伯父さん、わたしも一頃は余程迷ったから、伯父さんに心配させましたが、去年の春頃から大へん真面目になりましてね、今年などは身上もちっとは残りそうですよ、金で残らなくてもあの、小牛二つ育てあげればって、此節は伯父さん、一朝に二かつぎ位草を刈りますよ、今の了簡でいってくれればえいと思いますがね」
「実の処おれは、それを聞きたさに今日も寄ったのだ、そういう話を聞くのがおれには何よりの御馳走だ、うんお前も仕合せになった」
こんな訳で話はそれからそれと続く、利助の馬鹿を尽した事から、二人が殺すの活すのと幾度も大喧嘩をやった話もあった、それでも終いには利助から、おれがあやまるから仲直りをしてくろて云い出し誰れの世話にもならず、二人で仲直りした話は可笑しかった。
おれも始めから利助の奴は、女房にやさしい処があるから見込みがあると思っていた、博打をぶっても酒を飲んでもだ、女房の可愛い事を知ってる奴なら、いつか納まりがつくものだ、世の中に女房のいらねい人間許りは駄目なもんさ、白粉は三升許りも挽けた、利助もいつの間にか帰ってる、お町は白粉を利助に渡して自分は手軽に酒の用意をした、見ると大きな巾着茄子を二つ三つ丸ごと焼いて、うまく皮を剥いたのへ、花鰹を振って醤油をかけたのさ、それが又なかなかうまいのだ、いつの間にそんな事をやったか其の小手廻しのえいことと云ったら、お町は一苦労しただけあって、話の筋も通って人のあしらいもそりゃ感心なもんよ。
すとんすとん音がすると思ってる内に、伯父さん百合餅ですが、一つ上って見て下さいと云うて持って来た。
何に話がうまいって、どうして話どころでなかった、積っても見ろ、姪子甥子の心意気を汲んでみろ、其餅のまずかろう筈があるめい、山百合は花のある時が一番味がえいのだそうだ、利助は、次手があるからって、百合餅の重箱と鎌とを持っておれを広福寺の裏まで送ってくれた。
おれは今六十五になるが、鯛平目の料理で御馳走になった事もあるけれど、松尾の百合餅程にうまいと思った事はない。
お町は云うまでもなく、お近でも兼公でも、未だにおれを大騒ぎしてくれる、人間はなんでも意気で以て思合った交りをする位楽しみなことはない、そういうとお前達は直ぐとやれ旧道徳だの現代的でないのと云うが、今の世にえらいと云われてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡より外ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合許り考えてる人間は、学問があっても才智があっても財産があっても、あんまり尊いものではない。
(明治四十二年九月) | 底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
1985(昭和60)年6月10日85刷改版
1993(平成5)年6月5日97刷
入力:大野晋
校正:高橋真也
1999年2月13日公開
2005年11月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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秀麗世にならひなき二荒の山に紅葉かりせはやと思ひたち木の芽の箱をは旅路の友と頼みつゝ丙申の秋神無月廿日の午の後二時半と云ふに上野の山のふもとより滊車にこそうち乘りけれ
いかはかり紅葉の色や深からん山また山のおくをわけなは
赤羽さわらひ浦和大宮なと夢の間に打過て上野の國宇都宮にそ日は暮にける
はる〳〵ときしやに訪へはや紅葉しゝ紅葉のかけの猶もまたるゝ
しはしやすろふ暇もなく烏羽玉の夜路をは馳りつゝ滊車は直に日光山にこそ向ひにけれ はや近しなと乘合の人々のゝしりけれは
時の間に關の東の大原を渡りてきしやのあな心地よや
日光山脚下の小西てふ旅やかたに夜の八時過と云ふ頃旅の行李はおろしにけり
たつねきてふもとに宿る宵の間もなほ待れぬる峯の紅葉
來てみれはあなかしましや山里は峯の嵐に谷川のおと
廿一日の朝しらせさりける都の友かりにかくなんいひやりたる
都をはきのふいてつるあくかれし心みやまに紅葉たつねて
あなひ一人ひき具しつゝつとめて山にわけいれはふもとのあたりは紅葉なほあさし
おのかしゝ霜やおきけん山〳〵の紅葉の色はうすくこくして
わけゆくまゝに秋の色はいとゝ深くなりまさりつゝ
炭かまの煙あはれに立てるかな紅葉色こき峯のかひより
よとめるは藍のこと躍れるは雪をちらす大谷の流巖にくたけ石に轟きつゝ溪谷を奔下するさま筆には及ひかたし
もみち葉の八重かさなれる谷そこにさやかにみゆるたきつ白浪
溪流にかけわたしたる橋のあなたに茶をあきのふ庵ありけるほとりより横道にわけいりて木の根岩かとはらはひつゝ深くたとりゆけは
瀧のみや巖にかゝるもみち葉の錦のうらもなかめられつゝ
また右なる方にいとさゝやかなを白糸の瀧となん云と聞て
もみち葉の錦おりたる山にしもたかぬひそへし白糸のたき
元なる道に歸りてしはしゆくほとに馬かへしと云ふ所につきぬ 昔は此山に詣てつる人はかならす茲より馬をはかへしたりとなん 開けゆく御代の惠に此深山路も今は馬の通はぬ岨路もなくなりにけり 此の夏はあやにかしこき日つきの皇子も行啓遊はされこゝなる旅舘つた屋となんいへるに御やとりましませしとかや うへに家居もいとすか〳〵し おのれもしはし茲に腰うちかけて例の木の芽に都の手ふり忍ひつゝ旅のつかれも忘れにけり 賤か草屋のさまさへいとゝあはれに目とめらるゝものから
宿ことに錦のまかきゆひつゝも山里いかに秋はうれしき
おもしろや秋の山里來てみれは家峯の宿木そも紅葉して
仲〳〵に住まほしくも見ゆるかな紅葉にかこふ山賤か庵
山はやう〳〵深くなりにけり
わけ入れは紅葉いよ〳〵色深しおくに立田の媛やますらむ
あるは峯の端あるは谷間にくたりいつくよりなかめてもあたりの山〳〵をはうち拔きつゝいともたかきは二荒の山
毛の國や黒かみ山の峯ふりてたへす棚ひく天津白雲
やゝ昇る程に其名さへいと高き屏風巖のふもとにこそ出たりけれ なへての世のならひ實の名に通るは少きを此屏風巖はかり諺の外なるこそあやしけれ 眞すくに砌りたてる幾万尺の巨巖頂き高く天漢を摩しうちみたるふりこそ屏風にも似たるらめ そか偉大豪宕なるにしきまもなく紅葉のにしきおりかけたるけしきなか〳〵に物のたとふへきなし 加之大谷の流そのふもとを掠め霧を吹き雪をけりつゝ雷の鳴り渡るさまのひゝきして奔る勢筆にも言葉にも及ふへきにあらす 見る者誰かは氣あかり神おとりておほへす掌をうたさるへき
屏風巖おのか名におふものならは谷間の紅葉風にちらしな
次に劒か峯と云ふ所にいてぬ こゝに茶をあきのふ賤かやあり 谷をへたてゝ乾の方に瀧二つみゆ 右なるを方等左なるを盤若と云ふ 屏風巖東をふさき北はあからけ山西は黒髮山雲井遙にうちそひへたるゑもいはれぬけしきなり
唐錦もみちの山の木のまより千ひろにかゝるたきの白糸
山ます〳〵高くして紅葉いよ〳〵ふかし
紅葉せぬ山こそなけれ玉くしけ二荒の山につゝく山〳〵
七八丁も昇りしと思ふ程に又賣茶の宿ありて其庭の眞中の大なる石を磁針石となん云ふとそ あなひかことわけなとさへつりたれとくた〳〵しけれはかゝす 右なる方を望めは谷のあなたに阿巖となんいへるいとさゝやかなる瀧のかすかに木のまにみゆるけしきまたなか〳〵なり
あふく峯見おろす谷も幾千ひろ梢殘らす紅葉しにけり
なほも岨路をゆくほとにやう〳〵平にひろやかなる楢の林にいてにけり 中宮祠も遠からす音にもきゝし例の華巖の瀧もほと近しなとあなひかうちかたるにいさまれつゝ二三丁走りゆけはあなたの山きわに轟々として遠つ雷のことく響のきこゆるはそれなんめりと今はたえかねて小走にはしりつきやう〳〵みゆるあたりに近けはいとも大なる谷を隔てゝ打渡したるけしき兼て繪巧か畫けるも見且は人の物語にも聞て心におもひやりつゝ居たる類にあらで其勢のさかんにしていさましき有樣なか〳〵見ぬ人なとの想像に及ふへきにあらす
小野湖山大人のものせられたる唐哥の石ふみ程近に建られたり 夫かうたへるやう日光山の勝れたる氣色は天か下にならひなし華巖のさかんなるは日光山にたくひなしと實にあたれるの言葉といふへからん 高さ七十五丈幅十丈に余るとたゝへらる 立つ水煙は不斷の霧をなしとゝろきの音は百雷のやまさるに似たり くしゝくも巨なる巖に例の紅葉の鮮なる色とりしたる偉麗森巖のけしきをみれは人皆魂おとり神舞ふ
紅葉のまひて散るみゆ瀧つせの水の煙にうつまかれつゝ
山をふるひたきひゝくなり秋ことに紅葉はちるかしつ心なく
あかぬなかめに時を過しけるを心なきあなひか日は短し歸路は長しなとゝ催すものから顧みかちにて茲をは立いてたり
唐錦おりかさねたる紅葉山ひらくるまゝにみゆるみつうみ
やかて湖畔の和泉舍と云ふに晝けたふへぬ こゝにて木の芽の箱はひらかれけり
湖に緑ゆつりて山の美は秋しりかほに紅葉しにけり
もみち葉や三里の海にみちぬらん夫た羅の山に嵐ふく日は
此湖は日光の街より三里余のおく山にありて御國第一の大河利根の水源とかや 縱三里横一里水の清きけしきの妙なるは世の人のしる所なり 十六七年の前まては魚と云ふもの少したも住まさりしを開けゆく御代の如くにさま〳〵のことして今は鱒岩魚鯉ふなゝと漁夫か獲物も多しとかや 中宮祠の㕝湖畔の名ある濱みさきなとの㕝はくさ〳〵の摺物にみゆれは詳らにはかゝす 秋の日のやう〳〵かたふくまゝに梓弓ひきかへしつゝ山をは降りにけり 一里はかりは夜にいりぬ 道すからよめる
紅葉をかさしにしつゝ降りくれは細谷の峯に月さし昇る
紅葉てる色にしはしは夕月も光ゆつりてみゆる山の端
てりまさる紅葉の山も夕されは月そかへさのたよりなりける
廿二日つとめて霧降の瀧訪はやとあなひ引具しつゝ東照宮の東うら手より谿を渉り岡を越へつゝゆくほとにいとおもしろき山にさしかゝりぬ 峯の上のなかめいとめつらしきよしあなひかいひぬ 此春より御用地となりてたゝ人の昇覽をは止められたりとなん 東おもては山ひらけて大原を見渡ししろふ遙にみゆる絹川の流雲煙の間にかすかなる常陸の山〳〵うしろにあからけ二荒太郎山南の鳴虫の山脈遠く天涯に馳せうちなかめたるけしきいひしらすおかし
峯の端の東屋には梨堂相國か詠歌をかゝけありとなんあなひか語をきけは
こゝもまた秋やよからん故郷の小倉の山の名をうつしつゝ
さはいへ紅葉はこゝに少したもみえす春夏のころにやよみたまひけむ しはしわけいる程にいと忍ひたる音に鶯の鳴きけれはおのれあやしみて
此あたり春のけしきやいかならん秋さへ山に鶯のなく
春はさらなり夏より秋にかけて鶯いとゝ多しとそあなひは云ひき とある岡の上に昇れは五丁許谷を隔てゝ北なる山際の紅葉色濃きほとりに二段にかゝれる大瀧のうちみゆるを是なん霧降なりと鼻うこめかしつゝあなひはさゐつりけり 上なるは百十五尺下なるは百五尺幅拾五間ありとかや こと山なる瀧の多くはあたりのせまれるに似て地曠く天ひらけ景色すくれてうるはし 岡の上に十七文字の石ふみあり
くたけては三千丈や瀧の月 蓼太
霧ふりも今はかすみの瀧さくら 某
なとはいとおもしろし
秋きりの名におふ山を立田媛なとそめ殘すたきの白いと
きりふりの山とは云へと瀧つせの浪の花には秋なかりけり
日光より霧降まて一里半許なれと岨路なれはいたくつかれにけり 例の木の芽はあなひにもめくみぬ 午前のうちに宿には歸りけり 此日東照宮に詣せんとの心かまへなりしを思へは今宵は月の暦の長月十六夜なり 空に雲なけれは月やよからん紅葉も今一度なとゝ思ひて俄にいそきつゝ此度はあなひか具せし唯ひとり山路にこそ向ひにけれ きのふは日暮てよふみさりし含滿かふちと云ふ所にて
山川の岩うつ浪の花をたに薄紅ひにそむる秋かな
此哥はこゝのさましる人にみせはや 是よりはおふかたきのふの道なれは哥はかりをなんしるしぬ
今宵また秋の深山にやとりせん紅葉のにしきうち重ねつゝ
紅葉てる山に煙をたてよとは炭やく賤にたかをしへけむ
山かけに紅葉のにしき片しきて賤か乙女やたれをまつらん
山深くきのふもけふもわけいりぬあかぬ紅葉のなこりをしさに
唐錦紅葉の枝を折りくれはしらぬ人さへこひしかりけり
もみち葉を手ことに折りてくるさへをこひしとおもふにたをやめにして
みんと思ふ心ふかくもわけいりて紅葉の山にけふもくれぬる
きのふひるけしたる湖畔にやかたにやとかりぬ やかてあるしを呼出てけふしもかさねておとつれたるは此うみの上に今宵の月みんとてなり 我ためにをふねのあなひしてよと云ひしを主かいと安くうけひきたるうれしさに
玉くしけ夫た羅の山の大御神今宵はかりは雲なおこしそ
いつしか湖上はるかに漕きいてぬ 風寒くして水あくまて澄めり 星きらつきていやか上にも空冱えたり さなきたに物さひしきは深山のならひなるをかゝる堺にたゝひとりうちいてゝ誰かは物を思はさるへき 朝つゆにひとしてふはかなき命をたもつ身のかやうの遊再せんはいとおほつかなき業になん おもひめくらせは樂と悲との中空に心も澄みまさりつゝ
又とてはいつの世か見ん紅葉ちる歌か濱への秋の夜の月
紅葉のあやをる浪をこきわけて歌か濱へに月をまつかな
まつほともなく二荒と細谷の山のかひよりさしのほりたる十六夜の月みるまに湖のおもて鏡とこそなりにけれ 浪のまに〳〵紅葉の流れもさやかに見えわたりつゝ四方の山〳〵あるはたちあるは匍匐ひたる皆おのか姿をあらはしぬるけしき千早振神世もきかすと歌ひけん遠つ世の美やひ男か遊も吾今宵にはよも過きしと思ふるもいとゝかなしき わか言葉の道に拙きにみるまゝを恨みなふうつす㕝のかたきになん
みきもなく友もなけれとおもしろや紅葉たゝよふ湖の月
紅葉てる秋の深山にやとりしてまたおもしろき月もみるかな
千代ふとも忘れはてめや紅葉ちる深山のうみに月をみし夜は
風いたくつよふなりて浪やう〳〵高けれはふねの輕きこと木の葉にこそにたりけれ
夫た良山おろす嵐のつよけれはいよ〳〵寒し波の上の月
楫取風におちて歸らんことを求むれとも未々といひつゝ
こゝろさしあはれともみは立田媛歌か濱へにわれをみちひけ
樂を歌はむまへに極めんはまた早しとの媛神の御心にや風いよ〳〵烈しけれはなく〳〵楫取か心に舟をは任にけり 此夜宿に歸りて寐心持よきは云はん方なし 身にそはさりし魂はなほも眞夜中にひとりあくかれ出にけん 白雲のうち棚ひき紅葉も照まさりつゝいとも神さひたる天地の界にて白妙なる光につゝまれ給ひ尊もうるはしふまします立田の媛の御神にまみえたてまつり敷島の道しるへつはらにものせられたる神の教てふ一卷たまはりあなかしこあなうれしとおしいたゝけは曉の夢ははかなくさめにけり 起いてゝ窓の戸おしあくれは月はとく西山にかたふきて湖面氷をしきたらむことし
月のいる深山のおくをなかむれは紅葉しろし霜やおきけん
廿三日は朝またきよりあなひ雇ひて晝けのわりこなと負せつゝ玉くしけ二荒山のさしてそたちいてたる ゆく〳〵
めつらしき紅葉の枝をおることに都の人そおもひいてぬる
二荒山峯の紅葉の木の間よりさやかに見ゆる冨士の白雪
ふたらの山の 峯たかみ
ふもとのうみを みおろせは
小島に匂ふ もみち葉の
梢にふねそ かよふなる
此山は中程より上常盤木のみ生ひしけりて一つ色なる深緑實に黒髮の名にたかはさりけり 三里の嶮路昇りはてゝ
陸奧や越のやま〳〵雪しろし二荒の山に吾のほりみれは
峯をこゑて北の方四里はかりくたれはいて湯に名ある湯元の里にいてにけり こゝよりあなひはかへして山田屋と云ふにやとりぬ
大かたは峯の紅葉もうつろひてさひしさまさる深山への里
紅葉もちりてさひしき深山へをおとつれかほに時雨ふるなり
此里の前にそひへたるは白根山と云へりけり峯にははや雪ましろにふりつもれり
秋を惜む人のこゝろもしら根山紅葉は殘らさりけり
白根のあたり夜な〳〵男鹿の鳴く聲いとあはれなりと宿の人々云ひけり
人傳にきくたもあわれ棹鹿の深山のおくの月に鳴聲
此夜鹿の鳴を聞かんとて一夜まちあかしけれともいかゝなりけんかひなかりけり
廿四日なほも深山にわけいりて
朝またき山路にいれは紅葉のちりしく上に霜そさえぬる
みちもせにちりしく紅葉あせぬれと盛の色の忍はるかな
なほ殘る紅葉もありけれは
吾いなはまたとふ人もなかるらんあはれ深山に殘るもみち葉
やかて山田屋に歸りてひるのけたふへていよ〳〵歸さに向にけり 湯の湖の流の末は湯の瀧となり高四十五丈幅拾丈はかりありとなん 華巖のつきなるは是なんめり 總して瀧のあたりは何所も紅葉のさはなりけるを茲にもあるはあたりにちりしきあるは木の間岩かけに色の殘れる瀧のけしきにうちそへていと〳〵おかし
ちりてまたほともへねはや紅葉のにしきの色はかはらさりけり
散るけしきいかゝなりけん紅葉の白浪むすふ瀧つせの上に
戰塲か原と云ふをうち過きて中宮祠を去るまた一里はかりの濱へに出てぬ いつくを見ても此うみのけしきの妙なるは實に神世なからのものにこそあれ 浦つたひうちなかむれは紅葉にてりそふ夕日のかけなきさにうちよする白浪のおと山の遠きは走るかことく巖の近きはおとるに似たり 鮮なる湖の上に種々なるけしきをあつめたるはそもいかなる神の仕業そや
夕日さす深山のおくの湖にさらすけしきは紅葉なりけり
たとへんに物こそなけれ白浪に紅葉のにしきさらすけしきは
道すからよしと思ふ紅葉心のまゝに手折つゝ
うれしさは秋の深山の旅枕紅葉のにしき着にまかせて
名殘をしきにはてしはなけれとも廿五日は朝きりふみわけていつしか緑の色こき湖のみなれしかけもかくろひけり 路に雨に逢ひて
一むらの雨すきぬれは紅葉山ぬれてにしきの色まさるなり
日光近くおりくれは大谷をへたてたる鳴虫山に雲かゝりぬ
炭かまの煙もきえてなき虫の山に時雨の雲かゝるなり
午后より東照宮にまふてゝ四時半と云ふに都ゆきてふ滊車にかへる吾身をうちのせたり 家つとには色こき紅葉七十ひらこそ携へけれ
明治29年10月
署名 なし | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
※底本のテキストは、著者自筆草稿によります。
※誤植を疑った箇所を、著者自筆草稿(複製)で確認しました。底本通りでしたのでママ注記をつけております。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2019年8月30日作成
2019年9月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059134",
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実際は自分が何歳の時の事であったか、自分でそれを覚えて居たのではなかった。自分が四つの年の暮であったということは、後に母や姉から聞いての記憶であるらしい。
煤掃きも済み餅搗きも終えて、家の中も庭のまわりも広々と綺麗になったのが、気も浮立つ程嬉しかった。
「もう三つ寝ると正月だよ、正月が来ると坊やは五つになるのよ、えいこったろう……木っぱのような餅たべて……油のような酒飲んで……」
姉は自分を喜ばせようとするような調子にそれを唄って、少しかがみ腰に笑顔で自分の顔を見るのであった。自分は訳もなく嬉しかった。姉は其頃何んでも二十二三であった。まだ児供がなく自分を大へんに可愛がってくれたのだ。自分が姉を見上げた時に姉は白地の手拭を姉さん冠りにして筒袖の袢天を着ていた。紫の半襟の間から白い胸が少し見えた。姉は色が大へん白かった。自分が姉を見上げた時に、姉の後に襷を掛けた守りのお松が、草箒とごみとりとを両手に持ったまま、立ってて姉の肩先から自分を見下して居た。自分は姉の可愛がってくれるのも嬉しかったけれど、守りのお松もなつかしかった。で姉の顔を見上げた目で直ぐお松の顔も見た。お松は艶のよくない曇ったような白い顔で、少し面長な、やさしい女であった。いつもかすかに笑う其目つきが忘れられなくなつかしかった。お松もとると十六になるのだと姉が云って聞かせた。お松は其時只かすかに笑って自分のどこかを見てるようで口は聞かなかった。
朝飯をたべて自分が近所へ遊びに出ようとすると、お松はあわてて後から付いてきて、下駄を出してくれ、足袋の紐を結び直してくれ、緩んだへこ帯を締直してくれ、そうして自分がめんどうがって出ようとするのを、猶抑えて居って鼻をかんでくれた。
お松は其時もあまり口はきかなかった。自分はお松の手を離れて、庭先へ駈け出してから、一寸振りかえって見たら、お松は軒口に立って自分を見送ってたらしかった。其時自分は訳もなく寂しい気持のしたことを覚えて居る。
お昼に帰って来た時にはお松は居なかった。自分はお松は使にでも行ったことと思って気にもしなかった。日暮になってもお松は居なかった。毎晩のように竈の前に藁把を敷いて自分を暖まらしてくれた、お松が居ないので、自分は始めてお松はどうしたのだろうかと思った。姉がせわしなく台所の用をしながら、遠くから声を掛けてあやしてくれたけれど、いつものように嬉しくなかった。
夕飯の時に母から「お前はもう大きくなったからお松は今年きりで今日家へ帰ったのだよ、正月には年頭に早く来るからね」と云われて自分は平気な風に汁掛飯を音立てて掻込んでいたそうである。
正月の何日頃であったか、表の呉縁に朝日が暖くさしてる所で、自分が一人遊んで居ると、姉が雑巾がけに来て「坊やはねえやが居なくても姉さんが可愛がってあげるからね」と云ったら「ねえやなんか居なくたってえいや」と云ってたけれど、目には涙を溜めてたそうである。
正月の十六日に朝早くお松が年頭に来た時に、自分の喜んだ様子ったら無かったそうである。それは後に母や姉から幾度も聞かせられた。
「ねえやは、ようツたアなア、ようツたアなア。ねえやはいままでどいってた……」
と繰返し云って、袖にすがられた時に、無口なお松は自分を抱きしめて、暫くは顔を上げ得なかったそうである。それからお松は五ツにもなった自分を一日おぶって歩いて、何から何まで出来るだけの世話をすると、其頃もう随分ないたずら盛りな自分が、じいっとしてお松におぶされ、お松のするままになっていたそうである。
お松も家を出て来る時には、一晩泊るつもりで来たものの、来て見ての様子で見ると、此の上一晩泊ったら、愈別れにくくなると気づいて、おそくも帰ろうとしたのだが、自分が少しもお松を離れないので、帰るしおが無かった。お松にはとても顔見合って別れることは出来ないところから、自分の気づかない間に逃げようとしたのだが、其機会を得られずに泊って終った。自分は夕飯をお松の膝に寄ってたべるのが嬉しかった事を覚えて居る。其夜は無論お松と一緒に寝た、お松が何か話をして聞かせた事を、其話は覚えて居ないが、面白かった心持だけは未だに忘れない。お松は翌朝自分の眠ってる内に帰ったらしかった。
其後自分は両親の寝話に「児供の余り大きくなるまで守りを置くのは良くない事だ」などと話してるのを聞いたように覚えてる。姉は頻りに自分にお松を忘れさせるようにいろいろ機嫌をとったらしかった。母はそれから幾度か、ねえやの処へ一度つれてゆくつれてゆくと云った。
自分が母につれられてお松が家の庭へ這入った時には、梅の花が黒い湿った土に散っていた。往来から苅葺のかぶった屋根の低い家が裏まで見透かされるような家であった。三時頃の薄い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗の薹が丈高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかった。物置も何もなく、母家一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認めると直ぐ「あれまア坊さんが」と云って駈け降りて来た。お松の母も降りて来た。「良くまア坊さんきてくれたねえ」と云って母子して自分達を迎えた。自分は少しきまりが悪かった。母の袖の下へ隠れるようにしてお松の顔を見た。お松は襷をはずして母に改った挨拶をしてから、なつかしい目でにっこり笑いながら「坊さんきまりがわるいの」と云って自分を抱いてくれた。自分はお松はなつかしいけれど、まだ知らなかったお松の母が居るから直ぐにお松にあまえられなかった。母はお松の母と話をしてる。お松の母は母を囲炉裏端へ連れて行った。其内にお松は自分をおぶって外へ出た。菓子屋で菓子を買ってくれた。赤い色や青い色のついてる飴の棒を両手に五本ずつ買ってくれた。お松は幾度も顔を振向けて背に居る自分に話をした。其度に自分の頬がお松の鬢の毛や頬へさわるのであった。お松はわざと我頬を自分の頬へ摺りつけようとするらしかった。
お松が自分をおぶって、囲炉裏端へ上った時に母とお松の母は、生薑の赤漬と白砂糖で茶を飲んで居った。お松は「今夜坊さんはねえやの処へ泊ってください」と頻りに云ってる。自分は点頭して得心の意を示した。母は自分の顔を見て危む風で「おまえ泊れるかい夜半時分に泣出しちゃ困るよ」と笑ってる。お松は自分が何と云うかと思うらしく自分の顔色を見てる。
「泊れるでしょう」
お松はこう云って熱心に自分に摺寄った。お松の母も頻りに「こんな汚ない家だけれど決して寒い思いはさせないから」と母に言ってる。母は自分の顔をのぞいて「泊れるかい」と云う。
「ねえやのとこへ泊れる」
自分がそういうと「さア極った」と云ってお松は喜んだ。そうしてお松は自分の膝の上へ抱上げて終った。
「おまえ泊れるかい」
母は猶念を押して「おまえが泊ると極ればお母さんは出かける、えいだっペねい」と云った。
「お母さんは行ってもえい」
自分がそういうと、母はいろいろ頼むと云う様な事を云って立ちかける。する処へ赤い顔の背の高い五十許りの爺が庭から、さげた手を振りつつ這入って来た。何かよく解らなかったけれど、今夜是非お松を頼みたいと云うような事を、勝手にしゃべって出て行った。お松が家の本家のあるじだという事であった。
「困ったなア困ったなア」
お松はくりかえしくりかえし云って溜息をついた。結局よんどころないと云う事で、自分は母と一緒に出掛けることになった。お松は「仕様がないねえ坊さん」と云って涙ぐんだ。「又寄ってください」と云うのもはっきりとは云えなかった。そうして自分を村境までおぶって送ってくれた。自分も其時悲しかったことと、お松が寂しい顔をうなだれて、泣き泣き自分を村境まで送ってきた事が忘れられなかった。
「さアここでえいからお松おまえ帰ってくれ」
と母が云っても、お松はなかなか自分を背から降ろさないで、どこまでもおぶって来る。もうどうしてもここでとおもう処で、自分をおろしたお松は、もうこらえかねて「坊さんわたしがきっと逢いにゆくからね」と自分の肩へ顔をあてて泣いた。自分もお松へ取りついて泣いた。母は懐から何か出してお松にやった。お松は頻りに辞退したのを、母は無理にお松にやって、自分をおぶった。お松はそれでも暫くそこに立っていたようであった。
それきり妙に行違って、自分はお松に逢わなかった。それでも色のさえない元気のない面長なお松の顔は深く自分の頭に刻まれた。
七八年過ぎてから人の話に聞けば、お松は浜の船方の妻になったが、夫が酒呑で乱暴で、お松はその為に憂鬱性の狂いになって間もなく死んだという事であった。
(明治四十五年二月) | 底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
1985(昭和60)年6月10日85刷改版
1993(平成5)年6月5日97刷
入力:大野晋
校正:高橋真也
1999年2月13日公開
2005年11月27日修正
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一
「や、矢野君だな、君、きょう来たのか、あそうか僕の手紙とどいて。」
主人はなつかしげに無造作にこういって玄関の上がりはなに立った。近眼の、すこぶる度の強そうな眼鏡で格子の外をのぞくように、君、はいらんかという。
矢野は細面手の色黒い顔に、こしゃこしゃした笑いようをしながら、くたびれたような安心したようなふうで、大儀そうに片手に毛布と鞄との一括を持ち、片手にはいいかげん大きいふろしき包みを二つ提げてる。ふろしき包みを持ったほうの手で格子戸を開けようとするがうまく開からない。主人はそれを見て土間に片足を落として格子戸を開けた。
「えらい風になった、君ほこりがひどかったろう。」
「えいたいへんな風でした。」
矢野はおっくうそうに物をいいながら、はかまの腰なる手ぬぐいをぬき、足袋のほこりをはたいて上へあがった。玄関の間のすみへ荷物をかた寄せ、鹿児島高等学校の記章ある帽子を投げるようにぬぎやって、狭い額の汗をふきながら、主人のあとについて次の間へはいる。
主人大木蓊は体格のよい四十以上の男で、年輩からいうと、矢野とは叔父甥くらいの差である。文学上の交際から、矢野は大木を先輩として尊敬するほかに、さらに親しい交わりをしている。矢野は元来才気質の男でないから、少しの事にも大木に相談せねば気が済まないというふうであった。ことに今度は東京にいるのだから、一散にやって来たのである。大木のほうでも矢野が頭脳のよいばかりでなく、性質が清くて情に富んでるのを愛している。
大木は待ち受けた人を迎えて、座につかぬうちから立ちながら話しかける。
「よく早く来られた、僕はどうかと思ってな。」
「少し迷ったんですが、お手紙を見て急に元気づいて出てきました。」
ふたりは賓主普通の礼儀などはそっちのけで、もうてんから打ちとけて対座した。
「君、ほこりを浴びたろう。ちょっと洗い場で汗を流しちゃどうか、ちょうど湯がわいてるよ。」
「えい風があんまり吹きますから。」
「そうか、そんな事はせんがいいかな。」
大木は心づいて見ると、この熱いのに矢野は、単衣の下に厚木綿のシャツを着ていた。大木はこころひそかに非常な寂しみを感じて、思わず矢野のようすを注視した。しかし大木はそんなふうを色にも見せやせぬ。すぐに快活な談話に移ってしまった。
「きょうは君にごちそうがあるぞ、この間台湾の友人からザボンを送ってくれてな。」
こういいながら大木は立って、そこの戸棚から大きなザボンを二つかかえ出した。
「どうだこんなに大きい。内紫というそうだ。昨日一つやってみたところ、なるほど皮の下は紫で美しい。味も夏蜜柑の比でないよ。」
矢野はにやにや笑いながら、
「僕はときどき鹿児島でくったんです。」
「ハハそれじゃ遼東の豕であったか、やっぱりこんなに大きくて。」
「えいこんなにゃ大きかない、こりゃでかいもんだ。」
矢野はザボンの一つを手にとって、こねまわして見る。大木は鉄瓶を呼んで、自分手ずから茶を入れる、障子に日がかぎって、風も少し静かになった。大木はなおひそかに矢野のようすに注意している。矢野は格子の前に立った時から見るとよほど血色がよくなった。ふたりでザボンを切ってしばらく笑い興ずる。
矢野は鹿児島高等学校を卒業して、帰郷して暑中休暇の間は意外元気であった。これでは肺の悪いのもそれほどではないのだろうと思われ、二里位のところへ平気で行って来られた。友人のところを遊びまわり四五日の旅行もしたが、何の事もなく愉快であった、親父も診察して心配するほどの事もないといった。それで始めはここ一か年休学して養生せねばと思っていたのを、この分ならば差しつかえもあるまいという気になり、取りあえず手紙で大木に相談すると、君がやって見ようという気になったのならば、むろんやるべしじゃ、あまり消極的に考えて、自分から病人ときめ込むのは、大いにおもしろくない。出て来い出て来い、遊ぶつもりで大学にいるのもしゃれてるだろうというような、大木の返事にいよいよ元気が出てやって来たのである。
矢野は親父が医師で、家計上どうしても医師にならねばならなく、やむを得ず医学をやるけれど、矢野は生来医師を好んでいないのだから、そこにすでに気の毒なところがあるのに、去年春ごろからとかく呼吸器が悪い。大木は矢野の境遇に同情して、内心非常に矢野の病気を悲しんでいる。矢野自身よりも、矢野の親族の人達よりも、かえって深く矢野の病気を悲しんでいる。矢野に対する大木の一言一行、それははがきに書く文字のはしにまで、矢野を思う心がこもっている。それで矢野もまた大木の手紙を見、大木の話を聞けば自ら元気づくのである。
矢野は家を出るときはすこぶる威勢よく出たけれど、汽車ちゅう退屈してよけいな事を考えたり、汽笛の声が妙に悲しく聞こえたり、いやにはかない人の話を聞いたり、あれもきっと肺病だなと思われるあおい顔の人などを見たりして、そぞろに心寂しく、家を出た時の元気は手を返すように消え失せた。一年休めばよかった、出て来ねばよかった。我にもあらず、そんな考えばかり浮かんでしかたがない。
自分で気を引き立てようと思いついて見てもだめだ。歌集を出して見る、一向におもしろくない。小説を出して見る、やはり興味がない。はては腹が立ってきて、妙に気があせって、
「なんだばかばかしい。」
こう口のうちで我を叱りながら、荒々しく、ガラス窓をおして外を眺めて見たが、薄黒く曇った空の下にどれもどれも同じように雑木の繁った山ばかり、これもなんとなく悲しく見えてしまった。
飯田町へ着いたらすぐ大木のところへ行って見ようと、矢野はただ船に疲れた人が陸を恋しがるような思いで大木が恋しくなった。飯田町へ降りては電車に乗るのもいやで、一時も早くというような心持ちに人車を命じて、大木の家まで走りついた。
今先輩大木の家に落ちついて、ゆったりとした大木の風彩に接し、情のこもった大木の話を聞けば、矢野は何時の間か、時雨の空が晴れたような心地にまったく苦悶がなくなる。きょうも、大いに大木にうったえて相談するつもりでやって来たのだが、話してるうちにうったえる必要もなくなり、相談しようと思ったのもなんであったかを忘れてしまった。
矢野はからだを横に、身を片ひじにささえながら、ザボンを片手にもてあそびつつ、大木の談論を聞いてる。にこにこ笑う顔に病人らしいところは少しもない。矢野は手紙ではよく自分の考えやときどきの精神状態や、周囲のでき事までほそぼそと書くのがつねであるが、会ってはあまり話のない男である。大木も矢野のようすが意外によろしいのに安心して、大いに文学論などをやった。
「医学は君の職業だ。文学は君の生命だ。しかし君人間に職業のだいじなことはいうまでもないことであるから、健康の許すかぎりやらねばならん。そうだろう君。」
矢野はからだを起こし居直って、
「なるほどそうだ、それに違いない。それで僕は腹がきまった、僕はやる……」
矢野は興奮した口調にいうのであった。わかりきったことでも、まじめに大木の口から聞かせられると、矢野はいつでも感奮するのである。
蚊遣りが出る。月がさしこんでくる。明りがつく。端近にいると空も見える。風はまったく凪げて静かな夜となった。熱くもあり蚊もいるが、夜はさすがにあらそわれない秋の色だ。なんとかいう虫も、人の気を静めるように鳴く。
「君なんの事でも、急いちゃいかんよ。学問はなおさらの事だ。蚕が桑を食うのを見たまえ、食うだけ食ってしまえば上がらなけりゃならんじゃないか。社会の人間を働かせようとするはよいが、人間も働くだけ働けば蚕のように上がらなければなるまい。だから人間はゆっくり働くくふうが肝要だよ。」
「けれども学問は働く準備ですからな、僕等は準備中に終えるのかも知れないですもの。」
「いや準備も働きのうちだ。だから働きを楽しむとともに準備を楽しむの心得がなくてはいかん。考えようでかえって準備のほうがおもしろい。花見を見たまえ、本幕の花見よりも出かけるまでの準備がおもしろいくらいのものだ。ここが君大事なところだ。準備を楽しむという考えがあると、準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい失望がない。だから学問は楽しみつつやるべきものだ。また楽しいものにきまってる。人間は手足を動かしても一種の興味を感じ得らるるものだ、いわんや心を動かして興味のないということがあるものか、昔は修業に出ることを遊学というたよ。学問を楽しむの意味が現われてるでないか、だから君、楽しみつつゆっくり学問するんだよ。準備ばかりでおしまいになってもはなはだしい後悔のないように準備を楽しむのさ。」
「僕は非常に愉快だ、嗚呼愉快だ。僕はきっと、愉快にやります。僕はとかくに、人がうらやましく見えてしかたがなかった。人をうらやむ心が起こると自分が悲しくなるのです。もう僕は人をうらやまない、きっと楽しく学問をやる。」
こんな話が、ごったまぜにくり返され、矢野は愉快に、ここにとまった。
二
矢野は本郷台町に友人のいる下宿をたずねて、幸いに友人もおって取りあえず下宿の相談をすると、この家でどうにか都合ができるだろう、まあ話せという。友人は法科の学生で矢野より一年早く鹿児島高等を出た中島という男だ。どどいつが大好きだという元気のいい男だ。矢野はあまり中島を好かぬのだけれど、あてどもなく下宿をさがすもいやだから、ともかくもと思ってたずねたのだ。
茶が出る。宿の女房も出て来た。あき間が二間あるから見てくれという。矢野はなるべく中島の座敷と離れるを希望しておったが、仕合わせとここからもっとも離れた西端の隅座敷をえらぶことができた。日当たりもよく室もややきれいだ。さっそく荷物を運び入れて落ちついた。中島は学校へ出る。矢野は国もとやら、友人やらへ、当分ここにいるおもむきの信書を書いた。
矢野は女を呼んで下宿料の前払いを渡し、
「自分はからだが弱いから、時にわがままなことをいうかも知れない。なにぶん頼むよ。」
と愛想をいって、宿へも女にも幾分か心づけをする。書生としては珍しい客だから宿の受けはもちろんよい、火鉢に茶具、比較的下等でないのを取りそろえて貸してくれた。
矢野は思い出したように冷えた茶をすすって、まあよかったとひとりごとをいいつつ、座敷の周囲を見まわしたが、これといっていやなものも目にとまらない。
額は取りのけてもらって、自分の好きな人の写真をかけよう。床の掛け物もこれはよしてもらって、大木さんから子規先生の物を貸りてきてかけよう。こうすべてにきまりがつくとたいへん気分がいい。矢野は日の暮れないうちに机とランプだけは買って来ねばならぬと思っているけれど、出かける気にもならない。大木のいったことを思い出す。君はからだの弱いせいか、ささいな事に拘泥するふうが見える。
「君はなんでも不快を感じそうな物事に接近することを避けるようにせんといかん。」
なるほどそうだやっぱし病気のせいだろう。かまうことはない、なんでもこれから、のろくのろく平気に平気にやってみよう。愉快だ、大木さんはえらいな、僕は人と競争なんかしない。僕は遊んでるんだ、矢野は腹で考えるつもりなのが、つい口に出てしまった。廊下に人の足音がする。やがて、
「ランプの用意をいたしましょうか。」
と女の声がする。
「なに僕が買ってくる。」
と矢野は声とともにたって下に降りた、そうしてまっすぐにちゅうちょなく本郷の表通りへくる。
「まず下宿屋の生活を楽しまねばいかない。」突然こんなことを考えついて、矢野は得意にそれを口の底にくり返して表通りへ出た。矢野はいきなり家具屋へはいってテーブル机、椅子、本箱、相当にりっぱなものを買い取り、さっそく自分の下宿へ届けるように命じた。矢野はそこを出てなおしきりに、「まず下宿屋の生活を楽しまなくてはいけない。」をくり返してる。ランプも二円以上の優等を買った。「僕は病人だろうか。」矢野の頭にまたこんな考えがわいた。「こんな病人があるものか。」矢野の頭には主人がふたりできたようだ。
矢野はそのごちゃごちゃした頭をいただいて肉屋の前に立った。豚を買うたのである。藤村で菓子も買った。「またばかなことを考える。」病人がこうして歩けるものか。矢野はつとめて意志を強くわれを叱って、下駄に力を入れていそいだ。台町の横丁へまわろうとするところで中島に会った。
帰ってみるとテーブル机の類が皆届いておった。中島もはいって来て、「や盛んだな。」とかっさいする。中島が手伝って器具の配置を整える。女が来てランプをつける。ランプがりっぱだから、いっそう室内がいきいきとして来た。中島はまた紳士の生活とかっさいする。矢野は準備を楽しむという大木のことばを思い出して愉快になった。
豚を女に渡し、ビール二三本そえて持ってくる様に命じた。そうして中島にもぜひ来てくれといった。中島は今夜ちょっと出るつもりでいたのだけれど、それじゃそのほうはやめにして来ようという。中島も女も室を出て、矢野はいまさらのように、わが下宿生活のりっぱなのに驚いた。これで子規先生の書か何かを床に掛ければ、ますます理想的だと考える。ひとり椅子に腰をおろししばらく茫然としている。
下宿屋のにぎやかさが始めて耳にとまる。周囲の町のどことなくごやごやする物音が聞こえる。大都会の生活という感じが、強く胸にひびく。社会の種々の人間が、押し合いへし合い狭いところにいがみ合ってるように聞こえる。そうして自分もその中へ引き入れられそうな気がする。
「またつまらなく考える。」やっぱし僕に病気があるのかなと思いながら便所へ降りた。朝顔の前に立ってとつじょ国もとの事を思い出す。きょうの自分のやり方は、わが身分には少し過ぎたと考えて、非常にいやな気持ちになった。なに一度の事だからと打ち消して見ても、いやな心地は容易に消えない。こんな事で、下宿の生活を楽しむなど思いもよらないと、大いにわれを叱って、無理々々に不快を打ち消した。
帰りに中島の室へ寄ると、中島の隣室にいる、哲学館大学の、木島という学生がいて話してる。矢野はふたりを誘うて自分の室にもどった。元来こういうことをやるは矢野の柄でないのだ。矢野にしては今夜はよほど調子はずれである。矢野も自分でそれと心づいて、何かに酔ったような気がしている。
中島も木島もよくビールを飲む。矢野が小さなコップで一杯やったあとは、ふたりで三本のビールを手もなくやってしまった。そうしてふたりはしきりに今の学生間の消息と学生の気風とを語った。教師と学生との間にもすこぶるいとうべきふうあることを語った。矢野は、ただにやりにやり笑って聞いている。
中島はちょっと見るとそうぞうしい男だが、弁護士より裁判官がいい、新聞記者よりは学校の教員のほうが安全だというぐらいだから、その気風も知れてる。したがって議論も奇抜ではない。木島は容貌からして凡夫でない。顔が大きく背が低く色は黒い。二十一だというに誰でも三十以下に見る者はない。哲学者じみた考えを持っていて、非常な勝気な男だ、真剣にえらいかどうか知れないが、とにかくいうことは奇抜で沈痛だ。
今の学生に一番いけないのは、小利口な点にある、物いうことから先に覚えて、議論ばかり巧者だ。口がりっぱで腹がきたない。やれ理想、やれ人格、信仰だの高尚だのと、看板さわぎばかり仰山で、そのじつをはげむの誠心がない。卑俗な腹でいて議論に高尚がる。それで人を推し人を敬するの量がなく、自分ばかりえらくなりたがる。高尚なる俗論、こんな軽はくな類のものを、どうにかして消滅するくふうをせねば、日本も末はどうなるか知れぬという。
高尚がる俗人というのが木島の十八番だそうな、矢野も木島のいうことはおもしろいと思った。しかし矢野は自分がどうなるかという、もっと身に直接な問題に迷っているのだから、なるほど木島のいうところがもっともだろうと思ったまでで、あまり熱をもって聞かれなかった。木島は矢野を評して、
「よく人の説を聞いて軽々しく自説をはかないところが凡でない。」という。とにかく友人として交わってくれという。
矢野ももちろん僕の方でも希望するという。中島はまじめな顔をして、おれはいい名づけの女が待ってるから、木島君のごとき大志は持たれぬという。それだよそれだよと木島は大笑して、話はやめになった。ふたりが去ったあとで矢野は隣室へ謝した。隣室の法学生もおもしろい男で、
「や、盛んでしたな、大いにおもしろうございました。お互いですから、かまいません。」
とはなはだ愛想がよい。矢野は法科の学生は皆愛想がいいと聞いたが、なるほどと思った。
矢野は寝てから容易に寝つかれない。東京学生のようすもたいていわかってやや安心した。学生の理想として明け暮れ仰望した大学生というものに、いよいよなって登校するのは愉快な気がする。大学生ということになれてしまったらどうか知らないが、自分にはまだ大学生ということを、から屁のようには、どうしても思えない。木島のいうように、今の大学生にこうばしい者が少ないにしろ、自分の大学生たることをあなどる必要はない。それでも制帽制服でようようと登校するだけは、なんだかきまりの悪い心持ちがする。
そうだそうだ、大木さんがいった、医学は君の職業だ、文学は君の生命だと。職業を学ぶに得意がる理屈はない、どうしても僕はまだ幼稚だな、ついに病気のために卒業が出来ないとすると、いよいよ文学よりほかに僕の生命はない、どうしても文学はやらねばならぬ。文学といっても僕には歌だ、子規先生も大学を中途にやめて文学をやった。おれもいよいよ肺病ときまれば詩人生活だ、それよりほかにみちはない。詩人生活にはいることができれば、肺病になったってかまわない。三十で死ぬも六十で死ぬも、死んだあとからみれば同じだ。
子供の泣き声が耳にはいって目がさめると、障子をはたくはたきの音がする。世間はまだ静かだ。矢野はまた眠った。
三
下宿生活の準備と登校準備で三四日経過した。出るときはあれもこれもと思って出ても、放浪的に歩いて何一つ買わないで帰る日もある。スパルテホルツの解剖図とラウベルの解剖学とを買う考えで、本屋の前まで来ると、学生が五六人もいてあまりにぎやかだから、そこにはいるのがいやでしばらくあたりをうろついてる間に、了見が変わり上野に行って、博物館を見たり、動物園を見たり、理屈もなく遊んでしまった日もある。それでも宿へ帰る時は、何か必要な用事があって歩いて来たというふうに、袴羽織に物の包みをかかえてさっさと帰って来る。宿の亭主や女房にていねいにあいさつされると少しおかしいけれど、いよいよまじめなふうをして通ってしまう。
こんなふうにやるのがかえっていいかも知れぬと思う。医書を買うのは、何かまじめな事務に取りかかるような気がしておっくうでならない。矢野はこういう調子に日を送るのが、自分には出来ないことなのを二三日自然にやり得たから、それが得意にも思われるけれど、なんとなし物足らなくも思われる。でも、しかたがないからできるようにやるさと、ひとりでおぼつかなく考えをまとめて寝てしまう。
中島も木島も時々来る。矢野もときどきふたりのところへゆく。ふたりはずいぶん乱暴にさわぎもするけれど、よく勉強もする。中島と木島とはもとより話の合うべき性質ではないが、矢野の目から見るふたりは、やろうと思う事を力かぎりやって、疲れては投げだしたように休む。する事がきびきびとしていて、苦労なんかは少しもないようだ。矢野には何をしたって、そうきびきびとはやれない。ふたりの話を聞けば、苦しくもあり心配もあるというけれど、矢野の目に映ずる彼等の苦しみとか心配とかいう事は、心の底からいうことではなく思われる。
鋭利なきりで物をとおす、もちろん相当な力を要するけれども、とおらぬ懸念はない。矢野がふたりを見る目はそうであるが、自分を考えると、先のとまったきりで物をとおそうとするような思いがしてならぬ。大木のいましめたのもここだ、なんでも君は心を心外に移せ、そうして心外の物事に興味を発見しろ、できるだけ自分を考えないようにせよ、といわれた。
先のとまったきりで無理にとおそうとするより、先の鋭がるようにせよとの心だ、わかってはいるがどうもそうばかり行かない、批評的にそばからみれば、わけのない事でも、自分の事となると、考えた通りにわが心がなってくれない。
中島や木島にはどうしても矢野の苦痛とするところはわからない。したがって三人が合っても、退屈しのぎのらちもない話ならば、ともに笑うこともできるけれど、真に思いやった話はできない。木島などはすこぶるおもしろい男だが、とうてい矢野の友ではない。足の弱い奴なんぞ相手にしていられるもんかと、自分の健脚に任せてさっさと友を置き去りにして行ってしまいそうに思われる。
それは木島ばかりではない。中島だってそうだ。いや世間の人はみんなそうだ。健康な人、位置のある人、学問のある人、金のある人、それぞれ自分の力に任せて、自分のやりたい事をやりつつ、人がどんなに困っていようとて、そんな事は見向きもしない。社会活動の渦からはねとばされ、もしくははねとばされんとしつつ、なにもかも思うようにできないで、失意に嘆いてる人などに、ひとりだって同情するものはない。同情するような口振りもし態度もするけれど、心の底から同情するものはひとりもないのだ。思うようにゆかないのが人世だなどと、社会の悲劇を慰みものにしてさわいでる人間が多い。
弱く生まれたのが自分の不幸には相違ないが、人間というものは実際いやなものだ。考えれば考えるほど生きているのがばかばかしくてならない。それだから世間には自殺する奴も多いのだ。さらばといって自殺したとて世間の奴らは屁とも思って見やしない。だから死ぬのもばかばかしい。なんだかいまいましくてたまらないような気がする。
矢野は手をふところにして机により掛かりながら、一筋にこう考えつめて来て、ハッと気づいた。また自分の事に考えが落ちてきた。おれはこれだからいけない、まったく病気のせいだろう。自分のなすべき事は、ただおっくうで気が向かなく、とかくこんなふうにばかり考え込む、こりゃいけない。
矢野はこうなると、いつでもすぐ大木のところへ出かける。矢野は大木に会えば、会ったばかりで胸のこりが半分とけてしまう。だから会っても深酷な話はひとつもない。例のごとく、こしゃこしゃした笑顔で、不順序に思う事をいう。矢野が少し話をすれば大木はすぐのみこんで同情する。抱いて暖めるような態度で、大木に慰められるとたわいもなく心が落ちつく。
「東京で君毎日何人ぐらいづつ人が死ぬと思う。おれは不仕合わせだ、おれにはなにもできないらしいと、一筋に思うその心が君を不仕合わせにするのだ。飢えて飢えてたまらない時ににぎりめし一つは君非常にうれしいだろう。人間は自分を零にしてかかれば、一日でも世に生きているということがありがたくなる。自分を不仕合わせにするような考えはやるもんでない。」
矢野も大学生だからこのくらいのことはわかってる。わかっておったとて、人間がそう無造作に自分を零にされるものではない。矢野は苦しくなれば大木の話を聞くよりほかに慰藉の道はないと思ってる上に、大木のいうことはさからうことのできない、適切な実証についての話だから、矢野もそれで心を決定せねばならぬように押しつけられる。
矢野はいよいよとなればすべての希望をなげうつことができるように思うけれど、ただ一つ悲しいことがある。容易に自分を零にできないことがある。それがためにわが運命の解決にまようほどの事なのだ。これはまだ大木に白状しない胸中の秘密で、いうまでもなくそれは恋だ。
矢野は手紙でしばしば大木にあかそうとしたけれど、あかす機会もなかった。今夜は口の先まで出かけたけれど、話のできない矢野はついに話す機会を失ってしまった。またこの事だけは大木に話しても、自分勝手に求めた苦悶でみだりに先輩たる人に語るべき事でないような気もする。これを軽々しく話すは自分の人格を傷つけるような気もする。病人のくせに恋もないもんだと思われるような恥ずかしい気もする。
自分からじゅうぶん胸を開いてしまわないのだから、今日ばかりは大木の慰藉によって、ことごとく胸の曇りをなくしたというわけにはゆかない。けれどそれでも帰りにはいつものごとく、心じょうぶに愉快になって、それほど失望するにも及ばないような心地で帰られた。
矢野は上京以来とにかく心にひまがなかった。今は登校の準備もととのい、しばらくぶりで、大木の話も聞き、幾分心にくつろぎができたところから、にわかにみ篶子の事を思うようになったのである。帰る道々み篶子の事ばかり思いつつ帰って来た。み篶子は矢野が父の友人の娘で今年まだ十六にしかならない。矢野が大学を卒業すれば、み篶子が矢野に嫁するということは、誰が話すともなくきまっている。み篶子は心が若くてまだとりとめた恋心もないらしいが、矢野は深くみ篶子を愛している。ふたりが直接に話し合ったことはないにしてもうたがいのある間がらではない。
元来矢野は意志の力が強く天品詩人的な男だから、浮薄な名誉心などに動かされる質ではないけれど、み篶子ゆえには世俗的の名誉も求めねばならないような気がしているのも事実である。み篶子という人がなかったらば、矢野は平気で一年休学したかも知れなかった。しかし矢野が幾多の不安をいだいて上京するに至ったのは深き家庭の事情に原因していることもちろんだ。
四
矢野は東京の空気のなんとなく荒けていて、病身な自分には、すこぶる気味悪く思われてならなく、十日二十日といるうちには、必ずからだに異状を起こすだろうと恐れておったところ、もう一カ月の余たっても、少しも身に変化を感じない。それにようやく下宿にもなずみ、学校にもなれて、すべてのうえに安静を得て来た。捕えようと望んでいる物がどうにか、捕え得らるるような気分になった。
東京の学生生活にも、いちじるしく趣味を感じてきた。下宿屋の状態から、諸商人のようす表通りの商店の風などにも、目がとまり、自分の周囲がすべて明るくなって、ようやく身外の事物に目をそそぐ余裕ができてきた。ここへ始めて来た時の、三日おっても毎日来る下女の顔を知らなかったのに比べると、人が違ったごとく思われる。このごろ矢野は自然に元気が出て、よく中島や木島が室へ話にゆく。隣室の法学生ともいく度か話をした。とにかく人の話をおもしろく聞かれるようになった。給仕の下女に愛想の一言もいうようになった。同級生に知り合いができて訪ねてくる。国から手紙がくる、友人から手紙がくる。母と妹とからくる手紙はいつでも長い。み篶子も絵はがきを送ってきた。心の匂いは少しも現われてはいないけれど、らちもなく嬉しい。み篶子がただういういしく少しもあだめいたふうがなく、無心に咲いてる花のようなおもむきが、矢野には嬉しくてならないのである。それで、自分からも毛の先ほども、いやらしい事はいうてやらない。みなぎるような心の思いを、じっとこらえていわないところに矢野はひとり深き興味を感じている。それでもみ篶子に送る絵はがきの選択には銭も時間も惜しくなかった。
こういう調子でこのごろ矢野の下宿生活は寂しいものではない。大木から軸物など借りてきて、秋草の花を瓶にさし、静かにひとりを楽しむ事もあった。
ようやく本業の学問にも興味を持ち、金井博士の教授振りが大いに気にいって学校へ出るのもおもしろくなった。その間には歌もたくさんできて、某々雑誌へ掲げたうちには恋の歌が多い。
まがつみの世にあることも知らぬげに匂える君を思いつつぞ寝る
天つ日のめぐみに動き含みたる君が面わしいめに見えつも
いかにも可憐な歌で非常におもしろい。矢野の清らかな人品がよく現われている。ただなんとなくひ弱くはかなげなるは、どうしても病を持てる人のものと思われて哀れが深い。大木はこの歌を読んでこれは空想の歌ではない、矢野は恋人があるなと気づいて、独り目をうるおした。矢野が病の外に恋を持っているとなれば、悲しむべき運命に会うた時に、いっそうその悲惨を深くすべきを思うたからである。
九月十月の二た月は矢野もすこぶる元気よく経過し、体力のやや回復したにつれて、内心の不安もいつとなし薄らぎ、血色などもよほどよくなった。このぶんで今年の冬を無事に経過し得ればたしかなものだと、人もそう思い自分もそう思うた。けれどもこれは空頼みであった。
十一月天長節日曜と続いたを幸いに矢野は、中島木島らと、日光の紅葉狩りに行った。つぎの日曜に矢野は歌をたくさん作って大木を訪ねる。歌は恋の歌より振わなかった。大木は「日光へ行くなどと少し無法じゃないか。」と小言をいう。矢野は元気よく「なにだいじょうぶです。」と答えたものの、じつは帰った翌日あたりから、寝汗をかくようになった。二日ばかり休んで歌など作ってるうちに、よくなったからこの日さっそく大木を訪問したのである。大木は時候の変化する際であるから、じゅうぶんに気をつけないといけないと注意した。
それから、五六日過ぎて矢野は、自分のほうの講義がすんでから、二三の同級生がさそうままに、解剖室を見に行った。矢野は医学生ながら解剖というものを始めて見るので、なんとなく気味が悪い。あれが解剖室かと思うと、遠くから形容のできないたまらなくいやな臭気がする。
教師は教授がすんだのか、今解剖室を出かけるところだ。解剖の教師は恐ろしい顔でもしているかと思って見ると、温厚な君子然とした人であった。矢野は気味悪く一番あとになって室へはいった。
消毒衣を着た学生四五人ずつ、二組に別れておのおの今解剖したあとを注視して話をしている。ひとりの学生はなお剖いて見る気か、しきりに刀を研いでる。死体は二つであった。
一つは三十ぐらいの男で、「頭に手をつくべからず。」と札が下げてあった。頭ばかり手をつけずに、全部分解がすんだあとであった。一つは女で今頭を分解したところで、頭をメチャメチャに切り剖けられては男も女もない。矢野にはまだなにがなにやら一向わからぬ。臭いの汚ないのというところは通り越している。すべての光景が文学的頭の矢野には、その刺激にたえられない思いがする、寒気がする。
なれてくると、刀で間に合わなく指で臭肉を引き裂いたり、そうしてその手をちこちこ洗って、そこで平気で弁当もやるそうだが、しかしいくら医者でも始まりはずいぶんいやなものだそうだ。矢野は人一倍閉口したのである。
矢野はつくづくそう思った。人間の生命をあずかるという天職から、こういうことをするならば、医師はじつに尊い職業であるが、自己の生活的職業のためにこんな事をするのは考え物だと思った。ずいぶんいやしい職業のようにも思われる。しかし人が平気でやることを自分にばかりできないわけはない。いやだと思うのは自分の幼稚なのだ。どうしたって自分は医者にならねばならぬのだ。
矢野はこんな事を考えつつ帰って来た。いつにもなく疲れて飯がうまく食えなかった。
机の上にみ篶子からの絵はがきと妹からの封書がきてる。「紅葉の絵はがき有難く候一月休みのお帰り待上候。」とあるはみ篶子の消息だ。物足らないようでかえってゆかしい。恋しさが胸にしみ入るように悲しい。妹のは例によって長い。「日光よりのお便りは家中驚きそれほどじょうぶになったかと父も母も一通りならぬ喜び、自分も神様へ礼参りを致し候。」とある。矢野はすぐに気が沈んできた。物悲しく寂しくてたまらなくなった、二三日寝汗をかいたことを思い出し、人々の希望にそむくようになりゃしないかという懸念が、むらむらと胸先へ激りきて涙がぼろぼろと落ちた。「こうおれも気が弱くてはしかたがない。」と強く思い返して見ても、なんの踏みこたえもなく悲しくなってしまった。矢野はたえられない思いで、立って窓の外を眺める。窓の先は隣家のやねで町は少しも見えない。青く深く澄んだ空に星の光りがいかにも遠く遙けく見える。都会のどよみはただ一つの音にどやどやと鳴っている。矢野は自分はこの青空とも関係なく、この都会のどよみにも関係なく、ただ独りでここにいるような気がする。あすにも学校をやめて帰りたいような気もする。どうもおかしいと気がついてみれば、たしかに少し発熱している。矢野は立ってる力もなくなって、夜具を投げ出し着の身きのままに寝てしまった。
五
寝ているとの手紙を受け取って、大木はさっそく矢野を見舞った。寝ている事と思って来てみれば、出たあとで留守である。室へはいって待ってる。あまり取り散らしてもいない。大木も少し安心して待つうちに、矢野はそれほどやつれたふうもなく笑いながらはいって来た。
「君どうした、僕は寝てる事と思って来たよ。出歩かれるくらいならまずよかった。」
「え、熱が出まして二日寝ていたんです。今医者へ行ったんです。」
「医者はなんといいます。」
「なにたいした事はない、熱がなけりゃ学校へ行ってもいい。少しは肺尖が悪いばかりだ、力を落とすことはないといいます。」
「………そりゃよかった。まあ無理をせんことだ。」
なつかしい大木がきてくれたのと、医者からも力を落とすことはないといわれ、矢野も大いに気が引き立った。牛肉を取りにやってふたりは話しながら快く昼食をやった。
矢野はいっしょに上野あたりまで散歩しようというを、今二三日こもっておれ、風を引かんようにせねばいけないなと、ねんごろに注意して大木は帰った。
その後矢野はときどき寝汗をかく。学校へ出られないほど悪くはないけれど、どこかからだのうちに暢びないところのあるような気分がして物がおっくうに思われてならない。矢野は煩悶し出した。このまま学校へ出ていて卒業ができるかも知れないが、同時にからだもおしまいになる。矢野はこう考えて迷い出した。両親へ手紙をやり、友人に手紙をやり、むろん大木にも手紙をやって相談をした。それに対して大木はねんごろに数百言をついやしてさとした。
人間が重いか学問が重いか、いわずと知れた事である。生をそこのうて学問する必要がどこにある。ことに職業的にする学問は、人生の上から見てきわめて小なる問題だ。君が医科を卒業したとて人格の上に別段に光を増さぬごとくに、卒業しないとてさらに人格に損するところはない。だから、君の一身に取って医科に学ぶということはきわめて小なる問題だ。
したがって、それをやるかやめるかの問題も小なる問題だ。小なる問題だから、どうでもよいのだ。解決を急ぐ必要はない。のん気に気楽にやれ。やれたらやる、いやであったらいつでもやめるとしておけ。小なる希望のために、貴重な精神を労するはおろかではないか、まず学問をばかにしてかかれ、学問のために苦しめられるということははなはだ幼稚な事だ。学問をばかにしておればのん気に学問がやられる。今にわかにやめる必要もなければ、しいてやらねばならぬと思う必要もあるまい。要するに結論を急ぐなかれ、死ぬとも生きるとも早くどうにかきめてもらいたいというのは凡夫のいう事に候う。いつかは消える燈火にしても、あおいで消す必要はなかるべく候う。ただ如来のはからいに任せて自然の解決を待つと、心を長くするの覚悟が何よりたいせつと存じ候う。
矢野の答えはこうである。
お手紙拝読、心を開かれたるように感じ候う。もっとも世俗的な浅薄な考えにのみ焦慮致し、一歩立ちいって根本的に考えるという事ほとんど無之、はずかしき次第に候う。僕は信ずるところ、別してある才能とて無之候えば、ただただ学校へ出て年と流れて、卒業して世の中へ出るよりほかなく、平凡な人間はこれが悲しく候。僕等の学問というは、仰せのごとく悲しき事に候えども、職業のための学問に違いなく学校へ出なければ職業が得られぬように思われ候うところがはずかしく切なく候う。人格を養うため精神的生活にはいるためならば、学校は必要のものには無之、職業のためむしろ欲のためとなると、学問といわんよりは、学校というものを卒業する事が必要に相成るべく、いずれにしても平凡人のせつなさに候う。
僕は長男にして家には財産と申すは少しばかりより無之身に候う。親は僕に待っていること少なからざるべく候う。昨日父より帰国しろという手紙を受取り候う時は、とっさにはぼんやり致し居り候いしかど、ようやくにして悲しさ申しわけなさに泣き申し候う。実際僕一身の希望から申せば、拘束なき自由に生活を喜び候えども、一家の事情を考え合わすれば、これもあまりわがまま過ぎる望みのように被存候う。その上今日は今までとは違い、他の医者に診てもらい候うところ、肋膜はうまくなおった、盲腸もなんともない、ただ肺尖が少し悪い、養生しろと申され候う。一思いに退学しようと思ってもこんな事をいわれれば未練が残り候う。家ではいかに思い候うや一日も早く帰れと申しきたり候う。
退学ということが両親兄弟を極端に失望せしめ、一家将来の生活上に困難を来たし、一方には自分の栄誉それにともなう希望などが、根底より破壊せらるるように考え来たり候えば、胸の痛みたえがたき思い致し候う。それも平凡人の悲しさに候う。先生のお手紙を見ると先生は僕の意味するところからいっそう高い事について話し被下候うゆえついに僕の心も開かれてしまい候う。仰せにしたがい成るべく決定を延ばし可申候う。
矢野は手紙をよこしておいて翌夕大木を訪ねた。矢野は自分の考えを大木につげ、大木の考えを手紙に聞いただけでは満足ができない。大木の声に接し大木の口ずからの話しでなければ、真に腹にしみないのだ。けれどもきょうは別に何を聞こうとも、何を話そうとも思わないできたのである。大木は維摩経を見ておった。
話は維摩経から始まる。
「ある和尚に君の事を話したらば、維摩経を見ろといわれ、借りてきて見てるがわからんよ。」
「病気の事が書いてあるんですか。」
「そうです、なんなら君、持ってって見たまえ。」
「えい。」
「そりゃそうと君どうです。」
「え、別に悪くもありませんが、よくもありません。僕はもうからだを病気に任せました。学問をやるもやらぬも病気次第です。で、あんまり考えない事にしました。」
「こりゃおもしろそうで、やっぱりいけない。考えない事にしたといっても、病気に支配されては考えないわけにゆくまい。」
「なぜですか。」
「なぜって君の精神と君の病気と交渉のある間は、考えまいとて考えないわけにゆく者じゃない。」
「実際僕にはなにもかもわからなくなってしまいました。今まで考えていた事はみな表面ばかりの浅薄な考えばかりでした。病気のために学問をやめるも、病気のために自分のいっさいの希望が空になっても自分ひとりならば、そんなに悲しくも思わないですが、親兄弟の関係を考えると情けなくなってきます。」
「君はやはりいつわりをいってるからいけない。君はやっぱり命が惜しいのだ。浅薄な希望に執着があるのだ。命の惜しいのをはじるような考えからいつわりが出るのだ。人間命の惜しいのは当たり前だ。ただ命は惜しんでもしかたがないから考えねばならない。親兄弟の関係といっても、自分が安心しないで親兄弟に安心させられるはずがない。親兄弟の関係を思うならば、まず第一に自分が安心するくふうを考えろ。」
こう烈しくいわれて、矢野はすこぶる興奮してきた。胸が躍り手先がふるえる。目を視張ってきた。
「僕ももとより安心したいですが、どうせば安心ができます。」
大木はようやく矢野の顔を注視した。
「もとより安心したいですが、そんな生やさしい事で安心が得られると思うか。安心するかしないかは生きるか死ぬかの問題だ。自己の存在を忘れるほどに精神の活動があって始めて安心ができるのだ。眠った安心は役に立たない。人間がいかにはかないものかということを強く強く考えて見たまえ。悠久なる天地の間にいかに自己が小なものかということを強く強く考えて見たまえ。卑俗な欲望にあせって自我に執着するのが馬鹿らしくなってくるよ。君は批評的な話と思うかも知れないが、僕にはそれ以上にわからぬ。あとは君の考えに任せる。
やあたいへんな説教をやったね。茶が冷えてしまう菓子でもやりたまえ。」
矢野は沈思しばらくして、
「病気を忘れればえいですな。」
「そうです。人間は自己を忘れたところに真生命があるのだ。君にしてはその病を忘れたところに君の生命があるのだ。いわんや君は文学という君の天地を持ってるではないか。」
「わかりました。」
十二月押しつまってから矢野の手紙が大木の机に載っていた、いつも長い手紙ときまってるにその手紙はすこぶる簡単であった。
粛啓 いつでも人間をやめ得る覚悟を考えており候えども、覚悟の腰がふらついて困り候う。しかしお陰でからだのほうは大いによろしく候う。不宣
大木は手紙を前において、よほどのん気になってきたなと微笑した。 | 底本:「野菊の墓」アイドル・ブックス、ポプラ社
1971(昭和46)年4月5日初版
1977(昭和52)年3月30日11版
初出:「新小説 第十四卷第一號」
1909(明治42)年1月1日発行
※表題は底本では、「廃《や》める」となっています。
※初出時の署名は「左千夫」です。
※誤植を疑った箇所を、初出誌を底本にした「左千夫全集 第二卷」岩波書店、1976(昭和51)年11月25日発行の表記にそって、あらためました。
※本文末の編者による(注)は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:芝裕久
2020年8月28日作成
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市川の宿も通り越し、これから八幡といふ所、天竺木綿の大きな國旗二つを往來の上に交扠して、其中央に祝凱旋と大書した更紗の額が掛つてゐる、それをくゞると右側の屑屋の家では、最早あかりがついて障子がぼんやり赤い、其隣りでは表の障子一枚あけてあるので座敷に釣つてあるランプがキラリと光を放つてゐる、ほのくらい往來には、旅の人でなく、土地のものらしい男や婆さんやがのつそりのつそりあるいてゐる、赤兒をおぶつた兒供やおぶはないのや、うよ〳〵槇屏の蔭に遊んでゐる、荒物店の前では、荷馬車一臺荷車一臺と人が二三人居つて何か荷物を薄暗い家の中へ運でゐる、空にも星が一つ見えだした、八幡の森にも火が點じたすべて寛やかな落着いた光景、間もなく鳥居の前へくる。
鳥居が薄白く見える、能く見ると少し光つてゐる、トタンで包んだ鳥居は西燒けのあかりを受けて、かすかに光るのであつた、左へ鳥居を這入ると、鳥居についた左手に、屑屋の小さな飮食店がある、前に葦簾が立てゝあつて中の半分は見えない、今カンテラに火をつけて軒口に吊つた所で、油煙がぽつぽと立つ低い茅の軒へ火がつきやしないかと思はれる、卵や煮肴やいろ〳〵の食物が、各大小相當の皿に盛られて雜然並べてある、それでも中央の前の柱のカンテラの下には、掛花生に菊の花がさしてある、婆さんらしいのが表へ尻を向けて仕事をしてゐる。家の中ではランプが今一張ついた、これが八幡神社の入口である。
二人は社に向つてゆく、空は未だ全く暗くなつてはしまはぬ、右手の農家の前では筒袖をきて手拭を冠つた男が藁しべなどを掃いてゐる、左手の何か大きい四角の石で女らしいのが頻りに藁を打つて居る、夜なべに繩をなうか、草履でもつくるのであらふ。
それから先は兩側の松林が幹を差替はす許に遠くつゞいて石疊の路を掩ふてゐる、奧にはほんのり暗くて何のあるのも判らない、只敷石の道が白く長く帶を延した樣に奧深く通じて居るのが見える許りである、予等二人が十五六間も進んで這入つてゆくと漸く前面にぼんやり萱葺の門が見えだした。
先年桃林の花を見に來た時此門前に一人の婆さんが茶を賣つて居つたことを思ひ出す、近いて見れば無論婆さんは居ない、茶店のあつたらしい所には石が三つ四つ並んで居る、見たところ今でもあの婆さんが出るのかどうかは知らないが、兎に角日中は茶店がある樣子だ、左右の矢大臣もそれと許りほのかに俤が見える、門を這入る、木の葉が石の上にひたに散つてあるのが下駄にさはる、がさ〳〵する音が耳立つて聞える二人は無言で進む靜なことはこほろぎも鳴かぬ。
正面に社殿が黒くぼつと見えて來た、前に張られた七五三飾が、繩は見えないで、御幣の紙だけ白く並んで下つて居るのが見える、社殿の後は木立が低いので空があらはれた、左右の松木立の隙間にあらはれた空の色が面白い、薄い茶色に少しく紫を含んだ、極めて感じのよい色である、油繪にもかういふ色は未だ見ない、西洋の寫眞にこういふ色を見ることがある、西燒のあかりが未だ空全體に映つてゐるのであらふ、松林にまじつてゐる冬木が幾分の落葉を殘してゐてほんのりとした梢の趣が其空の色と調和がよい油繪が出來たらなアと思う、空の色がよいなと思つた眼を稍下へ見下げると、社殿の右手の木立が西あかりを受けてかあたりが一體にあかるい、其あかるいのに何となし光がある樣に思はれる、不折君の所謂繪具の光といふことなど思ひだす、あたり一面に色ある落葉が散つてゐる、がさ〳〵落葉を蹈みちらして進む、拜殿の柱に張つた七五三と思つたは、社殿二間ほど前に兩側にある松に張つてあるのであつた、松の根にある唐獅子は只黒ずんで見える許り目も鼻も判らぬ、臺石に點々色がある、落葉かと思つて眼を寄せて見れば黒ボクの石の隅々をついだシツクイであつた、二人社前に正立し帽を脱て默拜した後右手へ廻る。
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二人は歸る方向になつて西を向くと、西燒けの殘光が未だ消え切らないで、木々の隙間から地平線に明るい、今まで暗いと思つた松林の根もとがはつきりと見えた、神樂堂の上には背の高くくねつた松が空に自分の影を摸樣の如くに押して居るのが一寸面白い、直ぐに出て了ふのは如何にも惜しいやうな氣がして、屡々銀杏を振返り、あたりの趣を眺めつゝ、偶然の思ひつきで、趣味深い時刻に來た仕合を語り合ひつゝ出る。
不知八幡森も予は幾度か見て居るが、つれの人は始めてゞあるから、一寸立寄つたけれど、もう暗くなつて石牌の文字も判らない、森といふは名許で今は全く竹藪に變つてゐる、竹藪の中は闇々として暗いばかり空は青ぎるばかりに澄んで、そよとも動かぬ大竹藪の上には二三十の星が冷に光つて居た。
明治39年1月『馬醉木』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「馬醉木 第三卷第一號」根岸短歌会
1906(明治39)年1月1日
初出:「馬醉木 第三卷第一號」根岸短歌会
1906(明治39)年1月1日
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:H.YAM
校正:高瀬竜一
2013年8月20日作成
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市川の宿も通り越し、これから八幡という所、天竺木綿の大きな国旗二つを往来の上に交扠して、その中央に祝凱旋と大書した更紗の額が掛っている、それをくぐると右側の屑屋の家では、最早あかりがついて障子がぼんやり赤い、その隣りでは表の障子一枚あけてあるので座敷に釣ってあるランプがキラリと光を放っている、ほのくらい往来には、旅の人でなく、土地のものらしい男や婆さんやがのっそりのっそりあるいている、赤児をおぶった児供やおぶわないのや、うようよ槙屏の蔭に遊んでいる、荒物店の前では、荷馬車一台荷車一台と人が二三人居って何か荷物を薄暗い家の中へ運でいる、空にも星が一つ見えだした、八幡の森にも火が点じた すべて寛やかな落着いた光景、間もなく鳥居の前へくる。
鳥居が薄白く見える、能く見ると少し光っている、トタンで包んだ鳥居は西焼けのあかりを受けて、かすかに光るのであった、左へ鳥居を這入ると、鳥居についた左手に、屑屋の小さな飲食店がある、前に葦簾が立ててあって中の半分は見えない、今カンテラに火をつけて軒口に吊った所で、油煙がぽっぽと立つ 低い茅の軒へ火がつきやしないかと思われる、卵や煮肴やいろいろの食物が、各大小相当の皿に盛られて雑然並べてある、それでも中央の前の柱のカンテラの下には、掛花生に菊の花がさしてある、婆さんらしいのが表へ尻を向けて仕事をしている。家の中ではランプが今一張ついた、これが八幡神社の入口である。
二人は社に向ってゆく、空は未だ全く暗くなってはしまわぬ、右手の農家の前では筒袖をきて手拭を冠った男が藁しべなどを掃いている、左手の何か大きい四角の石で女らしいのが頻りに藁を打って居る、夜なべに縄をなうか、草履でもつくるのであろう。
それから先は両側の松林が幹を差替わす許に遠くつづいて石畳の路を掩うている、奥にはほんのり暗くて何のあるのも判らない、ただ敷石の道が白く長く帯を延した様に奥深く通じて居るのが見える許りである、予等二人が十五六間も進んで這入ってゆくと漸く前面にぼんやり萱葺の門が見えだした。
先年桃林の花を見に来た時此門前に一人の婆さんが茶を売って居ったことを思い出す、近いて見れば無論婆さんは居ない、茶店のあったらしい所には石が三つ四つ並んで居る、見たところ今でもあの婆さんが出るのかどうかは知らないが、兎に角日中は茶店がある様子だ、左右の矢大臣もそれと許りほのかに俤が見える、門を這入る、木の葉が石の上にひたに散ってあるのが下駄にさわる、がさがさする音が耳立って聞える 二人は無言で進む 静なことはこおろぎも鳴かぬ。
正面に社殿が黒くぼっと見えて来た、前に張られた七五三飾が、縄は見えないで、御幣の紙だけ白く並んで下って居るのが見える、社殿の後は木立が低いので空があらわれた、左右の松木立の隙間にあらわれた空の色が面白い、薄い茶色に少しく紫を含んだ、極めて感じのよい色である、油絵にもこういう色は未だ見ない、西洋の写真にこういう色を見ることがある、西焼のあかりが未だ空全体に映っているのであろう、松林にまじっている冬木が幾分の落葉を残していてほんのりとした梢の趣がその空の色と調和がよい 油絵が出来たらなアと思う、空の色がよいなと思った眼を稍下へ見下げると、社殿の右手の木立が西あかりを受けてかあたりが一体にあかるい、そのあかるいのに何となし光がある様に思われる、不折君の所謂絵具の光ということなど思いだす、あたり一面に色ある落葉が散っている、がさがさ落葉を蹈みちらして進む、拝殿の柱に張った七五三と思ったは、社殿二間ほど前に両側にある松に張ってあるのであった、松の根にある唐獅子はただ黒ずんで見える許り目も鼻も判らぬ、台石に点々色がある、落葉かと思って眼を寄せて見れば黒ボクの石の隅々をついだシックイであった、二人社前に正立し帽を脱て黙拝した後右手へ廻る。
先に西あかりを受けた木立の色と思ったは、非常に大きい銀杏である、丈はそれ程でないが、幾百本とも判らぬ幹が総立に一纏りになっているから、全周囲は二三丈もあるであろう、思えば先年参詣の時門前の婆さんが千本銀杏と申しますと云われたのであった、落葉は未だ三分の一にも達しない、光る許の黄葉を薄暗い空気でつつんだ趣き、あかるいようでも物の判らぬ夢のようの感じだ、いやどうしても適当の形容語が出来ない、その銀杏の蔭に立って居ると、黄色い空気の中に這入って居る感じで、そうして、それが薄暗い夜の感じで何とも云えないよい感じである、ステッキで枝を打つとばらばら葉が落ちる、非常に静であるから帽子に落つる音が聞える、その音が夢で聞くような感じのする音である、暫く遊んでいて見たかったが、時刻が時刻故そうもいかないで裏を一週して、西手の白壁がある板倉の脇へ出る、社に板倉は不調和の感じがした。
二人は帰る方向になって西を向くと、西焼けの残光が未だ消え切らないで、木々の隙間から地平線に明るい、今まで暗いと思った松林の根もとがはっきりと見えた、神楽堂の上には背の高くくねった松が空に自分の影を摸様の如くに押して居るのが一寸面白い、直ぐに出て了うのは如何にも惜しいような気がして、屡々銀杏を振返り、あたりの趣を眺めつつ、偶然の思いつきで、趣味深い時刻に来た仕合を語り合いつつ出る。
不知八幡森も予は幾度か見て居るが、つれの人は始めてであるから、一寸立寄ったけれど、もう暗くなって石牌の文字も判らない、森というは名許で今は全く竹藪に変っている、竹藪の中は闇々として暗いばかり空は青ぎるばかりに澄んで、そよとも動かぬ大竹藪の上には二三十の星が冷に光って居た。
明治39年1月『馬醉木』
署名 左千夫 | 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
底本の親本:「馬醉木 第三卷第一號」根岸短歌会
1906(明治39)年1月1日
初出:「馬醉木 第三卷第一號」根岸短歌会
1906(明治39)年1月1日
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
「其」は「その」に、「只」は「ただ」に、置き換えました。
※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。
※「許」と「許り」と「ばかり」の混在は、底本通りです。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2019年3月29日作成
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一
糟谷獣医は、去年の暮れ押しつまってから、この外手町へ越してきた。入り口は黒板べいの一部を切りあけ、形ばかりという門がまえだ。引きちがいに立てた格子戸二枚は、新しいけれど、いかにも、できの安物らしく立てつけがはなはだ悪い。むかって右手の門柱に看板がかけてある。板も手ごしらえであろう、字ももちろん自分で書いたものらしい、しろうとくさい幼稚な字だ。
「家畜診察所」
とある大字のわきに小さく「病畜入院の求めに応じ候」と書いてある。板の新しいだけ、なおさら安っぽく、尾羽打ち枯らした、糟谷の心のすさみがありありと読まれる。
あがり口の浅い土間にあるげた箱が、門外の往来から見えてる。家はずいぶん古いけれど、根継ぎをしたばかりであるから、ともかくも敷居鴨居の狂いはなさそうだ。
入り口の障子をあけると、二坪ほどな板の間がある。そこが病畜診察所兼薬局らしい。さらに入院家畜の病室でもあろう、犬の箱ねこの箱などが三つ四つ、すみにかさねあげてある。
ほかに六畳の間が二間と台所つき二畳が一間ある。これで家賃が十円とは、おどろくほど家賃も高くなったものだ。それでも他区にくらべると、まだたいへん安いといって、糟谷はよろこんで越してきたのである。
糟谷は次男芳輔三女礼の親子四人の家族であるが、その四人の生活が、いまの糟谷の働きでは、なかなかほねがおれるのであった。
平顔の目の小さいくちびるの厚い、見たとおりの好人物、人と話をするにかならず、にこにこと笑っている人だ。なにほど心配なことがあっても、心配ということを知っていそうなふうのない人である。
細君はそれと正反対に、色の青白い、細面なさびしい顔で、用談のほかはあまり口はきかぬ。声をたてて笑うようなことはめったにない。そうかといって、つんとすましているというでもない。
それは、前途におおくの希望を持った、若い時代には、ずいぶんいやにすました人だといわれたこともあった。実際気位高くふるまっていたこともあった。しかしながらいまのこの人には、そんな内心にいくぶん自負しているというような、気力は影もとどめてはいない。きどって黙っていた、むかしのおもかげがただその形ばかりに残ってるのだ。
天性陰気なこの人は、人の目にたつほど、愚痴も悔やみもいわなかったものの、内心にはじつに長いあいだの、苦悶と悔恨とをつづけてきたのである。いまは苦悶の力もつきはてて、目に気張りの色も消えてしまった。
生まれが生まれだけにどことなし、人柄なところがあって、さびしい面ざしがいっそうあわれに見える。もうもう我が世はだめだとふかくあきらめて、なるままに身をも心をもまかせてしまったというふうである。それでもさすがに、ここへ移ってきた夜は、だれにいうとはなく、
「引っ越すたびに家が小さくなる」
とひとりごとをくりかえしておった。
糟谷はあければ五十七才になる。細君はそれより十一の年下とかいった。糟谷は本所へ越してきて、生活の道が確立したかというに、まだそうはいかぬらしい。
糟谷が上京以来たえず同情を寄せて、ねんごろまじわってきた、当区の畜産家西田という人が、糟谷の現状を見るにしのびないで、ついに自分の手近に越さしたのであるが、糟谷が十年住んでおった、新小川町のとにかく中流の住宅をいでて、家賃十円といういまの家へ移ってきたについては、一場の悲劇があった結果である。
二
糟谷は明治十五年ごろから、足掛け十二年のあいだ、下総種畜場の技師であった。そのころ種畜場は農商務省の所管であった。糟谷は三十になったばかり、若手の高等官として、周囲から多大の希望を寄せられていた。
新しい学問をした獣医はまだすくない時代であるから、糟谷は獣医としても当時の秀才であった。快活で情愛があって、すこしも官吏ふうをせぬところから、場中の気受けも近郷の評判もすこぶるよろしかった。近郷の農民はひいきの欲目から、糟谷は遠からずきっと場長になると信じておった。
糟谷は西洋葉巻きを口から離さないのと、へたの横好きに碁を打つくらいが道楽であるから、老人側にも若い人の側にもほめられる。時間のゆるすかぎり、糟谷は近郷の人の依頼に応じて家蓄の疾病を見てやっていた。職務に忠実な考えからばかりではないのだ。無邪気な農民から、糟谷さん糟谷さんともてはやされるのが、単調子の人よしの糟谷にはうれしかったからである。
梅の花、菜の花ののどかな村むらを、粟毛に額白の馬をのりまわした糟谷は、当時若い男女の注視の焦点であった。糟谷は種畜場におって、公務をとるよりは、村落へでて農民を相手に働くのが、いつも愉快に思われてきた。そうしてこういうことが、自己の天職からみてもかえってとうといのじゃないかなど考えながら、ますます乗り気になって農民に親しむことをつとめた。
糟谷はでるたびにいく先ざきで、村の青年らを集め、農耕改良はかならず畜産の発達にともなうべき理由などを説き、文明の農業は耕牧兼行でなければならぬということなどをしきりに説き聞かせ、養鶏をやれ、養豚をやれ、牛はかならず洋牛を飼えとすすめた。人望のあった糟谷の話であるから、近郷の農民はきそうて家畜を飼うた。
糟谷はこのあいだに、三里塚の一富農の長女と結婚した。いまの細君がそれである。細君の里方では、糟谷をえらい人と思いこみ、なお出世する人と信じて、この結婚を名誉と感じてむすめをとつがし、糟谷のほうでもただ良家の女ということがありがたくて、むぞうさにこの結婚は成立した。それで男も女も恋愛に関する趣味にはなんらの自覚もなかった。
精神上からみると、まことに無意味な浅薄な結婚であったけれど、世間の目から羨望の中心となり、一時近郷の話題の花であった。そして糟谷夫婦もたわいもない夢に酔うておった。
三
過渡期の時代はあまり長くはなかった。糟谷が眼前咫尺の光景にうつつをぬかしているまに、背後の時代はようしゃなく推移しておった。
札幌農学校や駒場農学校あたりから、ぞくぞくとして農学上獣医学上の新秀才がでてくる。勝島獣医学博士が駒場農学校のまさに卒業せんとする数十名の生徒をひきいて種畜場参観にこられたときは、教師はもちろん生徒にいたるまで糟谷のごときほとんど眼中になかった。
糟谷が自分の周囲の寂寥に心づいたときはもはやおそかった。糟谷ははるかに時代の推移から取り残されておった。場長の位置を望むなどじつに思いもよらぬことと思われてきた。いまの現在の位置すらも、そろそろゆれだしたような気がする。ものに屈託するなどいうことはとんと知らなかった糟谷も、にわかに悔恨の念禁じがたく、しばしば寝られない夜もあった。糟谷はある夜また例のごとく、心細い思案にせめられて寝られない。
なるほど自分はうかつであった。国家のためということを考えて働いた。畜産界のためということも考えて働いた。人民のためということも考えて働いた。けれどもただ自分のためということは、ほとんど胸中になく働いておった。なんといううかつであったろう。もうまにあわない、なにもかもまにあわない。
糟谷はこう考えながら、自分には子どもがふたりあるということを強く感じて、心持ちよく眠っている妻子をかえりみた。長男義一はふとってつやつやしい赤い顔を、ふとんから落としてすやすや眠っている。妻は三つになる次男を、さもかわいらしそうに胸に抱きよせ子どものもじゃもじゃした髪の毛に、白くふっくらした髪をひつけてなんの苦もない面持ちに眠っている。糟谷はいよいよさびしくてたまらなくなった。
自分になんらの悪気はなかったものの、妻が自分にとつぐについては自分に多大な望みを属してきたことは承知していたのだ。そうことばの穂にでたときにも、自分は調子にのって気休めをいうたこともあったのだ。
結婚当時からのことをいろいろ回想してみると、妻に対しての気のどくな心持ち、しゅうとしゅうとめに対して面目ない心持ち、いちいち自分をくるしめるのである。かれらが失望落胆すべき必然の時期はもはや目のまえに迫っていると思うと、はらわたが煮えかえってちぎれる心持ちがする。自分はなんらおかした罪はないと考えても、それがために苦痛の事実が軽くなるとは思えないのだ。
糟谷はまた自分の結婚するについてもその当時あまりに思慮のなかったことをいまさらのごとく悔いた。家とか位置とかいうことを、たがいに目安にせず、いわば人と人との結婚であったならば、自分の位置に失望的な変遷があったにしろ、ともにあいあわれんで、夫婦というものの情合いによって、失望の苦も慰むところがあるにちがいないだろうが、それがいまの自分にはほとんど望みがないばかりでなく、かえって夫婦間におこるべきいやな、いうにいわれない苦痛のために、時代に捨てらるるさびしさがいっそう苦しいのである。それもこれも考えればみな自分のうかつから求めたことでまぬがれようのない、いわゆるみずから作れるわざわいだ……。
恋愛などということただただばかげてるとばかり思っていたが、恋愛のとぼしい結婚はじつにばかげておった。ばかげているというよりも、いまはそのあさはかな結婚のために、たまらないいやなくるしみをせねばならぬことになった。
こう思って糟谷はまた妻や子の寝姿を見やった。なにか重いものでしっかりおさえていられるように妻や子どもは寝入っている。
いよいよ自分も非職となり、出世の道がたえたときまったら、妻はどうするか、かれの両親はどういう態度をするか、こういうときに夫婦の関係はどうなるものかしら。いっそのこと別れてしまえばかえって気は安いが、やはり男の子ふたりのかすがいが不本意に夫婦をつないでおくのだろう。
「しようがないから」「どうすることもできないから」「よんどころないからあきらめている」というような心持ちで、いかにもつまらない冷やかな家庭を作っていねばならないのか、ああ考えるのもいやだ……。
うっかりして過渡期の時代におったというのが、つまり思慮がたらなかったのだ……。ここをやめたからとて、妻子をやしなってゆくくらいにこまりもせまいが、しかたがない、どうなるものか益のない考えはよそう。
考えにつかれた糟谷は、われしらずああ、ああと嘆声をもらした。下女がおきるなと思ってから、糟谷はわずかに眠った。
四
翌朝はようやく出勤時間にまにあうばかりにおきた。よほど顔色がわるかったか、
「どうかなさいましたか」
と細君がとがめる。糟谷はうんにゃといったまま井戸端へでた。食事もいそいで出勤のしたくにかかると、ふたりの子どもは右から左から父にまつわる。
「おとうさん、おとうさん」
「とんちゃん、とんちゃん」
糟谷はきょうにかぎって、それがうるさくてたまらないけれど、子煩悩な自分が、毎朝かならず出勤のまえに、こうして子どもを寵愛してきたのであるから、無心な子どもは例のごとく父にかわいがられようとするのを、どうもしかりとばすこともできない。
「きょうは遅いからいそぐだ」
とすこしむずかしい顔をしても子どもは聞き入れそうもしない。糟谷はますますむしゃくしゃして、手をだす気にもならない。
「ねいあなたちょっと抱いてやってくださいな、ほんのすこし、ねいあなたちょっと」
細君から手移しに押しつけられて、糟谷はしょうことなしに笑って、しょうことなしに芳輔を抱いた。それですぐまた細君に返した。糟谷はこのあいだにも細君の目をそらして、これら無心の母子をぬすみ見たのである。そうしてさびしいはかない苦痛が、胸にこみあげてくるのである。心臓の動悸が息のつまるほどはげしく、自分で自分の身がささえていられないようになった。糟谷は、
「もう遅いっ」
とおちつかないそぶりをことばにまぎらかして外へでた。外へでるがいなや糟谷は涙をほろほろと落とした。いますこしのところで妻に涙を見られるところであったと、糟谷は心で思った。
糟谷は事務所の入り口で小使を見た。小使はいつもていねいにあいさつするのだが、けさはすぐわきをとおりながらあいさつもせずにいってしまった。糟谷はいやな気持ちがした。事務所へはいってみると、場長はじめ同僚までに一種の目で自分は見られるような気がする。いつもは、
「糟谷さんこうしてください」とか、
「これはこれしておきましょうかね」
とか、うちとけてむぞうさにいうところも、みょうにあらたまって命令的に事務の話をするのである。糟谷はもうおちついて事務がとれない。
あるいは非職の辞令が場長の手許まできてでもいやせぬかとも考える。まさかにそんなに早くやめられるようなこともあるまいと思いなおしてみる。糟谷はへいきで仕事をしてるようなふうをよそおうて、机にむかっているときにはわかりきってることをわざわざ立っていって同僚に聞いたりしている。
場長が同僚と話をしているのに、声が低くてよく聞きとれないと、胸騒ぎがする。そのかんにも昨夜考えたことをきれぎれに思いださずにはいられない。人びとがおのおの黙して仕事をしてるのを見ると、自分はのけものにされてるのじゃないかという考えを禁ずることができない。
場長がなにか声高に近くの人に話すのを聞くと、来月にはいるとそうそうに、駒場農学校の卒業生のひとり技手として当場へくるとの話であった。糟谷はおぼえずひやりとする。それから千葉県の某も埼玉県の某も非職になったという話をしている。それはみな糟谷と同出身の獣医で糟谷の知人であった。糟谷はいまの場長の話は遠まわしに自分に諷するのじゃないかと思った。
糟谷はつくづくと、自分が過渡期の中間に入用な材となって、仮小屋的任務にあたったことを悔やんだ。涙がいつのまにかまぶたをうるおしていた。
糟谷がぼんやりしていると、場長はじめおおくの事務員は、みんな書類をかたづけて退場の用意をする。そのわけがわからなかったから、糟谷はうろたえてきょろきょろしている。ようやくのこと人びとの口気できょうの土曜日というに気づいた。糟谷はいまがいままできょうの土曜日ということを忘れておったのだ。
糟谷は土曜と知って目がさめたようにたちあがった。なるほどそうであったな、すっかり忘れていた、とにかく都合がえい、それではきょうさっそく上京して、あの人に相談してみよう、時重先生が心配してくれ、きっとどうにかなる、東京にいることになれば位置が低くても勉強ができる、なるべく非職などいう辞令を受け取らずに、転任したいものだ、飯くってすぐとでかけよう。
糟谷はこう考えがきまると、よろめく足をふみこたえたように、からだのすわりがついた。ふみだす足にも力がはいって、おおいに元気づいて家に帰ってきた。
「とんちゃんとんちゃん」
という声も、いつものごとくにかわいかった。
糟谷が芳輔を抱いて奥へあがるとざる碁仲間の老人がすわりこんでいる。
「きょうは先生、ぜひとも先日の復讐をするつもりでやってきました。こうすこしぽかぽか暖かくなってきますと、どうも家にばかりおられませんから」
老人は糟谷の浮かない顔などにはいっこう気もつかず、かってに自分のいいたいことをいっている。糟谷は役所着のままで東京へいくつもりであるから、洋服をぬごうともせず、子どもを抱いたまま老人と対座した。
「これはせっかくのご出陣ですが、じつはそのちょっと東京へいってくるつもりで……はなはだ残念だが……」
「いやそりゃ残念ですな、日帰りですか」
「今夜は帰れません」
「それじゃきょうじゅうに東京へいけばえい。二、三席勝負してからでかけても遅くはない。うまくいって逃げようたってそうはいかない」
農家の楽隠居に、糟谷がいまの腹のわかるはずがない。糟谷はくるしく思うけれど、平生心おきなくまじわった老人であるから、そうきびしくことわれない、かつまたあまりにわかに変わった態度をして、いまの自分の不安心をけどられやせまいかというような、あさはかなみえもあった。
とうとう二、三盤打つことにした。人間も糟谷のような境遇に落つるとどっちへむいても苦痛にばかり出会うのである。
糟谷はその夕刻上京して、先輩時重博士をたずねて希望を依頼した。
「うむ、いますこし勉強するにはそりゃもちろん東京へくるほうが得策だ、位置を望まないというならば、どうとかなるだろう、しかしきみたちのように、まにあわせの学問をした人はみなこまってるらしい、いますこし勉強するのはもっとも必要だね」
糟谷はがらにないおじょうずをいったり、自分ながらひや汗のでるような、軽薄なものいいをしたりして、なにぶん頼むを数十ぺんくり返して辞した。
「これでも高等官かい」
糟谷は自分で自分をあなどって、時重博士の門をかえりみた。なに時重さんくらいと思ったときもあったに、いまは時重と自分とのあいだに、よほどな距離があることを思わないわけにいかなかった。妻子を振り捨てて、奮然学問のしなおしをやってみようかしら、そんならばたしかに人をおどろかすにたるな。やってみようか、おもしろいな奮然やってみようか。ふたりの子どもを妻のやつが連れて三里塚へいってくれると都合がえいが、承知しないかな。独身になっていま一度学問がやってみたいなあ。子どもはひとりだけだなあ。ひとりのほうは妻がつれていくにきまってる。いちばん奮然としてやってみようかな。
糟谷はくるしまぎれに、そんな考えをおこしてみたものの、それも長くはつづかず、すぐまたぐったりとなって、時重博士がいってくれた「どうとかなるだろう」を頼りにわずかに安心するほかはなかった。
よくよく糟谷は苦悶につかれた。遠いさきのことはとにかく、なにかすこしのなぐさめを得て、わずかのあいだなりとも、このつかれのくるしみを忘れる娯楽を取らねば、とてもたえられなくなった。酒好きならばこんなときにはすぐ酒に走るところだが、糟谷は酒はすこしもいけない。
糟谷はとうとう神楽坂に親しい友人をたずねた。そうしてつとめて、自分が苦労してる問題に離れた話に興を求め、ことさらにたわいもないことを騒いで、一晩ざる碁をたのしんだ。翌日もざる碁をたのしんだ。
糟谷はその後日曜たびにかならず上京しておった。かくべつ用がなくても上京しておった。種畜場近郷の農家から、牛がすこしわるいからきてくれの、碁会をやるからきてくれのとしきりにいうてきたけれど、いっさい村落へでなかった。土曜日日曜日をうかがって、遊びにくるものがあってもたいていは避けて会わないようにした。
胸中に深刻な痛みをおぼえてから、気楽な悠長な農民を相手にして遊ぶにたえられなくなったのである。
糟谷はついに東京に位置を得られないうちに、四月上旬非職の辞令を受け取った。
五
農商務省にもでた、警視庁へもでた。いずれもあまりに位置が低いので二年とはいられずやめてしまった。そのうち府下の牛乳搾取業者の一部が主となって、畜産衛生会というものができた。ちょうど糟谷が遊んでおったをさいわいに、その主任獣医となった。糟谷は以来栄達の望みをたち、碌ろくたる生活に安んじてしまった。愛想よくいつもにこにこして、葉巻きのたばこを横にくわえ、ざる碁をうって不平もぐちもなかった。
ただ一度細君に対しては、もはや自分は大きい望みのないことをさらけだし、いまの自分に不足があるならばどうなりともおまえの気ままにしてくれというた。その後は細君から不満をうったえられても相手にならず、ひややかな気まずいそぶりをされても、へいきに見流しておった。そうして新小川町に十余年おった。
糟谷はいよいよ平凡な一獣医と估券が定まってみると、どうしても胸がおさまりかねたは細君であった。どうしてもこんなはずではなかった。三里塚界隈での富豪の長女が、なんだってただの一獣医の妻となったか、たとい種畜場はやめても東京へでたらば高等官のはしくれぐらいにはなっておれることと思っておった。ただの町獣医の妻では親類に会わせる顔もないと思うから、どう考えてもあきらめられない。それであけても暮れても欝うつたのしまない。
なにかといっては月のうちに一度も二度も里方へ相談にいく。なんぼ相談をくりかえしても、三人の子持ちとなった女はもはや動きはとれない。いつもいつも父母兄弟から相も変わらぬ気休めをいわれて帰ってくる。
運がわるいのだ、まがわるいのだ。若くて死ぬ人もいくらもある世の中だ。あきらめねばなるまい。あきらめるよりほかに道はない。こう百度も千度もくりかえして、われと自分をいさめてみても、なかなかその日がおもしろいという気になれないのだ。
糟谷は細君がどういうことをしようといやな顔もしないから、さすがに細君もときには自分のわがままを気づいて、
「わたしがなにぶん性分がわるいものですから、わたしも自分の性分がわるいことは心得ていますけれども、どうもその今日をおもしろく暮らすという気になれませんで、始終あなたに失礼ばかりしておりますけれども」
などと遠まわしにわび言をいうことさえあるのである。
種畜場以来この人を知ってる人の話を聞くと、糟谷の奥さんは、種畜場にいた時分とはほとんど別人のようにおもざしが変わってしまった、以前はあんなさびしい人ではなかったというている。
こればかりは親の力にもおよばないとはいうものの、むすめが苦悶のためにおもざしまで変わったのを見ては、実の親として心配せぬわけにはゆかない。結局両親は自分たちの隠居金を全部むすめにあたえて、
「ふたりの男の子をせい一ぱい教育しなさい、そうしてわが世をあきらめて、ふたりの子の出世をたのしめ」
とさとしたのである。糟谷の妻もやっと前途に一道の光をみとめて、わずかに胸のおさまりがついた。長らくのくもりもようやくうすらいで、糟谷の家庭にわずかな光とぬくまりとができた。家畜衛生会のほうもそうとうに収入がある。ただ近隣から、
「糟谷の奥さんは陰気な人ねい」
といわれるくらいのことで六、七年間はうすあたたかい平穏な月日を経過した。
長男義一は十六才になって、いよいよ学問はだめだときまりがついた。北海道に走って牧夫をしている。三里塚の両親も相ついで世を去った。跡取りの弟は糟谷をばかにして、東京へきても用でもなければ寄らぬということもわかった。細君の顔はよりはなはだしく青くなった。
六
十一月も末であった。こがらしがしずかになったと思うと、ねずみ色をした雲が低く空をとじて雪でも降るのかしらと思われる不快な午後であった。
糟谷は机にむかったなり目を空にしてぼうぜん考えている。細君はななめに夫に対し、両手をそでに入れたままそれを胸に合わせ、口をかたくとじて、ほとんど人形のようにすわっている。この人をモデルにして不満足という題の絵なり彫刻なり作ったならばと思われる。ふたりはしばらくのあいだ口もきかなかった。
三女の礼子が帰ってきて、
「おとうさんただいま、おかあさんただいま」
とにこにこしておじぎをしても、父も母もはいともいわない。礼子は両親の顔をちらと見たままつぎの間へでてしまった。つづいて芳輔が帰ってきた。両親のところへはこないで、台所へはいって、なにかくどくど下女にからかってる。
「芳輔のやつ帰ったな、芳輔……芳輔」
「きょうはほんとに、なまやさしいことではあなたいけませんよ」
「こら芳輔」
父の声はいつになく荒かった、芳輔は上目使いに両親の顔をぬすみ見しながら、からだをもじりもじり座敷のすみへすわった。すわったかとするともうよそ見をしてる。母なる人は無言にたって、芳輔の手を捕えて父の近くへ引き寄せた。
「芳輔……おまえはいま家へきしなに小川さんに会ったろ」
「知りません」
「そうか、小川さんはおまえの保証人だぞ、学校からおまえのことについて、二度も三度も話があったというて、きょうはおまえのことについていろいろの話をしていかれた。いま帰ったばかりだがきさまといき会うはずだが、いやそりゃどうでもよいが、きさまはいくつになる」
芳輔はこういわれてすこし父をあなどるような冷笑を目に浮かべる。
「自分の子の年を人に聞かねたって……」
「こら芳輔、そりゃなんのことです。おとうさんに対して失礼な」
「だっておとうさんはつまらないことを聞くから……」
「だまれこの野郎……」
両親はもう手もふるえ、くちびるもふるえてすぐにはつぎのことばがでない。母はまたたきもせずわが子の顔を見つめている。
「芳輔、きさまはなにもかもおぼえがあるだろう。きょう小川さんの話を聞くと、小川さんはおまえのために三度も学校へよばれたそうだぞ。きのうは校長まででてきて、いま一度芳輔の両親にも話し、本人にもさとしてくれ。こんど不都合があればすぐ退校を命ずるからという話であったそうな。どんな不都合を働いた。儀一はあのとおりものにならない。あとはきさまひとりをたよりに思ってれば、この始末だ、警察からまで、きさまのためには注意を受けてる。夜遊びといえばなにほどいってもやめない。朝は五へんも六ぺんもおこされる。学校の成績がわるいのもあたりまえのことだ。十五になったら十六になったらと思ってみてれば、年をとるほどわるくなる。おかあさんを見ろ、きさまのことを心配してあのとおりやせてるわ。もうそのくらいの年になったらば、両親の苦心もすこしはわかりそうなものだ」
「おかあさんはもとからやせてら……」
母はこのぞんざいな芳輔のことばを聞くやいなやひいと声をたてて泣きふした。父も顔青ざめて言句がでない。
「おとうさん、わたしすこし用がありますから錦町までいってきます」
そういって芳輔は立ちかける。なにごとにも思いきったことのできない糟谷も、あまりに無神経な芳輔のものいいにかっとのぼせてしまった。
「この野郎ふざけた野郎だ……」
猛然立ちあがった糟谷はわが子を足もとへ引き倒し、ところきらわずげんこつを打ちおろした。芳輔はほとんど他人とけんかするごとき語気と態度で反抗した。手足をわなわなさして見ておったかれの母は、力のこもった決心のある声をひそめて、あなた殺してしまいなさい。殺してしまいなさい。罪はわたしがしょいます。殺してしまってください。もう生きがいのないわたし、あなたが殺されなけりゃわたしが殺す……。こうさけんで母は奥座敷へとび去った。……礼子と下女は泣き声あげて外へでた。糟谷も殺すの一言を耳にして思わず手をゆるめる。芳輔は殺せ殺せとさけんで転倒しながらも、真に殺さんと覚悟した母の血相を見ては、たちまち色を変えて逃げだしてしまった。
礼子は外から飛び込みさまに母に泣きすがった。いっしょけんめいに泣きすがって離れない。糟谷も座につきながら励声に妻を制した。隣家の夫婦も飛び込んできてようやく座はおさまる。
糟谷はまだ手をぶるぶるさしてる。礼子はただがたがたふるえて母を見守っている。母はほとんど正気を失ってものすさまじく、ただハアハア、ハアハアと息をはずませてる。はっきりと口をきくものもない。
ようやくのこと糟谷は、
「増山さん(となりの主人)いやはやまことに面目もないしだいで、なんとも申しあげようもありません」
「いやお察し申しあげます、いかにもそりゃ……まことにお気のどくな、しかし糟谷さんあまり無分別なことをやってしまっては取りかえしがつきませんよ、奥さんはよほど興奮していらっしゃるから、しばらくお寝かしもうしたがよろしいでしょう」
「どうも面目ありません」
ほとんど人のみさかいもないように見えた細君も、礼子や下女や増山の家内から、いろいろなぐさめられていうがままに床についた。やがて増山夫婦も帰った。あとへ深川の牛乳屋某がくる、子宮脱ができたからというので車で迎えにきたのである。家のありさまには気がつかず、さあさあといそぎたてるのである。糟谷はとつおいつ、あいさつのしようにも窮して、いたりたったりしていた。
子宮脱はかれこれ六時間以上になるという。いちばん高い牛だから、気が気でないという。糟谷はいかれないともいえず、危険な意味ある妻を下女と子どもとにまかせてでるのはいかにも不安だし、糟谷はとほうに暮れてしまった。おりよくもそこへ西田がひょっこりはいってきた。深川の乳屋も知ってる人と見え、やあとあいさつして遠慮もなくあがってきた。
「うちでしたな、えいあんばいであった。じつはころあいのうちが見つかったもんですからな」
西田の声がして家のなかの空気は見るまに変わってしまった。陰欝な空気が見るまにうすらぐような気がした。糟谷は手短にきょうのできごとから目の前の窮状を西田に語った。
「うん、きみもかわいそうな人だな、なるほど奥さんも無理はない。ああ奥さんもかわいそうだ」
涙もろい西田は、もう目をうるおした。礼子もでてきて黙ってお辞儀をする。西田はたちながら、
「子宮脱ならなるたけ早いほうがえいでしょう。糟谷くん職務はだいじだ。ぼくが留守をしてあげるから、すぐと深川へでかけたまえ」
西田はこういい捨てて、細君の寝間へはいった。細君も同情深い西田の声を聞いてから、夢からさめたように正気づいた。そうしてはいってきた西田におきて礼儀をした。
「いま糟谷くんからかいつまんで聞きましたが、もうひとすじに思いつめんがようございますよ」
細君は、
「ありがとうございます」
と細い声でいってさんさんと泣くのである。
「それじゃ西田さんちょっといってくるから頼む」
と糟谷は唐紙の外から声をかけてでてしまった。
西田は細君に対し、外手町に家のあったこと、本所へ越してからの業務の方法、そのほかここの家賃のとどこおりまで弁済してあげるということまで話して、細君をなぐさめた。
子どもをりっぱにして自分がしあわせをしようと思うても、それはあてにならないから、なんでも人間のしあわせということは、自分にできることの上に求めねばならぬ。とかく無理な希望を持ってると、自分のすることにも無理ができるから、無理とくるしみを求めるようになるなどと話されて、細君もひたすら西田の好意に感じて胸が開いた。
あかしのつくころに糟谷は帰ってきた。西田は帰ってしまうにしのびないで、泊まって話しすることにする。夜になって礼子や下女の笑い声ももれた。細君もおきて酒肴の用意に手伝った。
糟谷は飲めない口で西田の相手をしながら、いまいってきた某氏の家の惨状を語った。
ひとりむすこに嫁をとって、孫がひとりできたら嫁は死んだ。まもなくむすこも病気になった。ちょうどきょう某博士というのがきた。病気は胃癌だといわれて、家じゅう泣きの涙でいた。牛のほうはぞうさないけれど、むすこは助かる見込みがない。おふくろが前掛けで涙をふきながら茶をだしたが、どこにもよいことばかりはないと、しみじみ糟谷は嘆息した。
西田はあいさつのしようがなく、
「ぼくのような友人があるのをしあわせと思ってるさ」
と投げだすようにいう。
「ほんとにそうでございます」
と細君はいかにもことばに力を入れていった。芳輔は、十時ごろに台所からあがってこっそり自分のへやへはいった。パチリパチリと碁の音は十二時すぎまで聞こえた。 | 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社
1964(昭和39)年10月1刷
1984(昭和59)年10月44刷
初出:「中央公論」反省社
1909(明治42)年3月1日
※表題は底本では、「老獣医《ろうじゅうい》」となっています。
※三女に対する「礼」と「礼子」、長男に対する「義一」と「儀一」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:高瀬竜一
校正:岡村和彦
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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目次
燕
砂の花
夢からさめて
蜻蛉
夕の海
いかなれば
決心
朝顔
八月の石にすがりて
水中花
自然に、充分自然に
夜の葦
燈台の光を見つつ
野分に寄す
若死
沫雪
笑む稚児よ……
早春
孔雀の悲しみ
夏の嘆き
疾駆
おほかたの親しき友は、「時」と「さだめ」の
酒つくり搾り出だしし一の酒。見よその彼等
酌み交す円居の杯のひとめぐり、将たふためぐり、
さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。
友ら去りにしこの部屋に、今夏花の
新よそほひや、楽しみてさざめく我等、
われらとて地の臥所の下びにしづみ
おのが身を臥所とすらめ、誰がために。
森亮氏訳「ルバイヤツト」より
燕
門の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
燕ぞ鳴く
単調にして するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる
彼方の空より 来りしもの
翼さだまらず 小足ふるひ
汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と
羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
そはただ 単調に するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
砂の花 富士正晴に
松脂は つよくにほつて
砂のご門 砂のお家
いちんち 坊やは砂場にゐる
黄色い つはの花 挿して
それが お砂の花ばたけ
… … … … … … … … … … … … …
地から二尺と よう飛ばぬ
季節おくれの もんもん蝶
よろめき縋る 砂の花
坊やはねらふ もんもん蝶
… … … … … … … … … … … … …
その一撃に
花にうつ俯す 蝶のいろ
あゝ おもしろ
花にしづまる 造りもの
「死んでる? 生きてる?」
… … … … … … … … … … … … …
松脂は つよくにほつて
いちんち 坊やは砂場にゐる
夢からさめて
この夜更に、わたしの眠をさましたものは何の気配か。
硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵の丘の斜面で
火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が
何故とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故とも知らず?
さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里の吾古家のことを。
ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽に面した座敷に坐り
独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
それは現の日でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、透明さ。
そして庭には白い木の花が、夕陽の中に咲いてゐた
わが幼時の思ひ出の取縋る術もないほどに端然と……。
あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの怪しく獣めく
御陵の夜鳥の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ
わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。
かしこに母は坐したまふ
紺碧の空の下
春のキラめく雪渓に
枯枝を張りし一本の
木高き梢
あゝその上にぞ
わが母の坐し給ふ見ゆ
蜻蛉
無邪気なる道づれなりし犬の姿
何処に消えしと気付ける時
われは荒野の尻に立てり。
其の野のうへに
時明してさ迷ひあるき
日の光の求むるは何の花ぞ。
この問ひに誰か答へむ。弓弦断たれし空よ見よ。
陽差のなかに立ち来つつ
振舞ひ著し蜻蛉のむれ。
今ははや悲しきほどに典雅なる
荒野をわれは横ぎりぬ。
夕の海
徐かで確実な夕闇と、絶え間なく揺れ動く
白い波頭とが、灰色の海面から迫つて来る。
燈台の頂には、気付かれず緑の光が点される。
それは長い時間がかゝる。目あてのない、
無益な予感に似たその光が
闇によつて次第に輝かされてゆくまでには――。
が、やがて、あまりに規則正しく回転し、倦むことなく
明滅する燈台の緑の光に、どんなに退屈して
海は一晩中横はらねばならないだらう。
いかなれば
いかなれば今歳の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。
夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。
いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。
曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。
決心 「白の侵入」の著者、中村武三郎氏に
重々しい鉄輪の車を解放されて、
ゆふぐれの中庭に、疲れた一匹の馬が彳む。
そして、轅は凝とその先端を地に著けてゐる。
けれど真の休息は、その要のないものの上にだけ降りる。
そしてあの哀れな馬の
見るがよい、ふかく何かに囚はれてゐる姿を。
空腹で敏感になつたあいつの鼻面が
むなしく秣槽の上で、いつまでも左右に揺れる。
あゝ慥に、何かがかれに拒ませてゐるのだ。
それは、疲れといふものだらうか?
わたしの魂よ、躊躇はずに答へるがよい、お前の決心。
朝顔 辻野久憲氏に
去年の夏、その頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて来ないわが家の庭に、一茎の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。その時の歌、
そこと知られぬ吹上の
終夜せはしき声ありて
この明け方に見出でしは
つひに覚めゐしわが夢の
朝顔の花咲けるさま
さあれみ空に真昼過ぎ
人の耳には消えにしを
かのふきあげの魅惑に
己が時逝きて朝顔の
なほ頼みゐる花のゆめ
八月の石にすがりて
八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。
運命? さなり、
あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!
白き外部世界なり。
見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木蔭をつくれ。
われも亦、
雪原に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。
水中花
水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい〳〵削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。
今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣しのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
自然に、充分自然に
草むらに子供は踠く小鳥を見つけた。
子供はのがしはしなかつた。
けれども何か瀕死に傷いた小鳥の方でも
はげしくその手の指に噛みついた。
子供はハツトその愛撫を裏切られて
小鳥を力まかせに投げつけた。
小鳥は奇妙につよく空を蹴り
翻り 自然にかたへの枝をえらんだ。
自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
礫のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらく〳〵と仰けにね転んだ。
夜の葦
いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう
とほい湿地のはうから 闇のなかをとほつて 葦の葉ずれの音がきこえてくる
そして いまわたしが仰見るのは揺れさだまつた星の宿りだ
最初の星がかがやき出す刹那を 見守つてゐたひとは
いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の余りの深さに 驚いて
あたりを透かし 見まはしたことだらう
そして あの真暗な湿地の葦は その時 きつとその人の耳へと
とほく鳴りはじめたのだ
燈台の光を見つつ
くらい海の上に 燈台の緑のひかりの
何といふやさしさ
明滅しつつ 廻転しつつ
おれの夜を
ひと夜 彷徨ふ
さうしておまへは
おれの夜に
いろんな いろんな 意味をあたへる
嘆きや ねがひや の
いひ知れぬ――
あゝ 嘆きや ねがひや 何といふやさしさ
なにもないのに
おれの夜を
ひと夜
燈台の緑のひかりが 彷徨ふ
野分に寄す
野分の夜半こそ愉しけれ。そは懐しく寂しきゆふぐれの
つかれごころに早く寝入りしひとの眠を、
空しく明くるみづ色の朝につづかせぬため
木々の歓声とすべての窓の性急なる叩もてよび覚ます。
真に独りなるひとは自然の大いなる聯関のうちに
恒に覚めゐむ事を希ふ。窓を透し眸は大海の彼方を待望まねど、
わが屋を揺するこの疾風ぞ雲ふき散りし星空の下、
まつ暗き海の面に怒れる浪を上げて来し。
柳は狂ひし女のごとく逆まにわが毛髪を振りみだし、
摘まざるままに腐りたる葡萄の実はわが眠目覚むるまへに
ことごとく地に叩きつけられけむ。
篠懸の葉は翼撃たれし鳥に似て次々に黒く縺れて浚はれゆく。
いま如何ならんかの暗き庭隅の菊や薔薇や。されどわれ
汝らを憐まんとはせじ。
物皆の凋落の季節をえらびて咲き出でし
あはれ汝らが矜高かる心には暴風もなどか今さらに悲しからむ。
こころ賑はしきかな。ふとうち見たる室内の
燈にひかる鏡の面にいきいきとわが双の眼燃ゆ。
野分よさらば駆けゆけ。目とむれば草紅葉すとひとは言へど、
野はいま一色に物悲しくも蒼褪めし彼方ぞ。
若死 N君に
大川の面にするどい皺がよつてゐる。
昨夜の氷は解けはじめた。
アロイヂオといふ名と終油とを授かつて、
かれは天国へ行つたのださうだ。
大川は張つてゐた氷が解けはじめた。
鉄橋のうへを汽車が通る。
さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、
寝転んでおれは舞踏といふことを考へてゐた時。
しん底冷え切つた朱色の小匣の、
真珠の花の螺鈿。
若死をするほどの者は、
自分のことだけしか考へないのだ。
おれはこの小匣を何処に蔵つたものか。
気疎いアロイヂオになつてしまつて……。
鉄橋の方を見てゐると、
のろのろとまた汽車がやつて来た。
沫雪 立原道造氏に
冬は過ぎぬ 冬は過ぎぬ。匂ひやかなる沫雪の
今朝わが庭にふりつみぬ。籬枯生はた菜園のうへに
そは早き春の花よりもあたたかし。
さなり やがてまた野いばらは野に咲き満たむ。
さまざまなる木草の花は咲きつがむ ああ その
まつたきひかりの日にわが往きてうたはむは何処の野べ。
…… いな いな …… 耳傾けよ。
はや庭をめぐりて競ひおつる樹々のしづくの
雪解けのせはしき歌はいま汝をぞうたふ。
笑む稚児よ……
笑む稚児よわが膝に縋れ
水脈をつたつて潮は奔り去れ
わたしがねがふのは日の出ではない
自若として鶏鳴をきく心だ
わたしは岩の間を逍遙ひ
彼らが千の日の白昼を招くのを見た
また夕べ獣は水の畔に忍ぶだらう
道は遙に村から村へ通じ
平然とわたしはその上を往く
早春
野は褐色と淡い紫、
田圃の上の空気はかすかに微温い。
何処から春の鳥は戻る?
つよい目と
単純な魂と いつわたしに来る?
未だ小川は唄ひ出さぬ、
が 流れはときどきチカチカ光る。
それは魚鱗?
なんだかわたしは浮ぶ気がする、
けれど、さて何を享ける?
孔雀の悲しみ 動物園にて
蝶はわが睡眠の周囲を舞ふ
くるはしく旋回の輪はちぢまり音もなく
はや清涼剤をわれはねがはず
深く約せしこと有れば
かくて衣光りわれは睡りつつ歩む
散らばれる反射をくぐり……
玻璃なる空はみづから堪へずして
聴け! われを呼ぶ
夏の嘆き
われは叢に投げぬ、熱き身とたゆき手足を。
されど草いきれは
わが体温よりも自足し、
わが脈搏は小川の歌を乱しぬ。
夕暮よさあれ中つ空に
はや風のすずしき流れをなしてありしかば、
鵲の飛翔の道は
ゆるやかにその方角をさだめられたり。
あゝ今朝わが師は
かの山上に葡萄を食しつつのたまひしか、
われ縦令王者にえらばるるとも
格別不思議に思はざるべし、と。
疾駆
われ見てありぬ
四月の晨
とある農家の
厩口より
曳出さるる
三歳駒を
馬のにほひは
咽喉をくすぐり
愛撫求むる
繁き足蹈
くうを打つ尾の
みだれ美し
若者は早
鞍置かぬ背に
それよ玉揺
わが目の前を
脾腹光りて
つと駆去りぬ
遠嘶の
ふた声みこゑ
まだ伸びきらぬ
穂麦の末に
われ見送りぬ
四月の晨 | 底本:「詩集 わがひとに与ふる哀歌」日本図書センター
2000(平成12)年2月25日初版第1刷発行
底本の親本:「詩集夏花」子文書房
1940(昭和15)年3月15日発行
※底本の「凡例」に以下の記載がありました。
「漢字は原則として新字体に改めた。ただし、一部に見られる正字と略字(俗字)が併用されている漢字は正字(旧字体)を生かしたものもある。」
※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が1字下げになっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2005年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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目次
晴れた日に
曠野の歌
私は強ひられる――
氷れる谷間
新世界のキィノー
田舎道にて
真昼の休息
帰郷者
同反歌
冷めたい場所で
海水浴
わがひとに与ふる哀歌
静かなクセニエ
咏唱
四月の風
即興
秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る
咏唱
有明海の思ひ出
(読人不知)
かの微笑のひとを呼ばむ
病院の患者の歌
行つて お前のその憂愁の深さのほどに
河辺の歌
漂泊
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
鶯
(読人不知)
古き師と少なき友に献ず
晴れた日に
とき偶に晴れ渡つた日に
老いた私の母が
強ひられて故郷に帰つて行つたと
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
遠いお前の書簡は
しばらくお前は千曲川の上流に
行きついて
四月の終るとき
取り巻いた山々やその村里の道にさヘ
一米の雪が
なほ日光の中に残り
五月を待つて
桜は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!
と言つて寄越した
愛されるためには
お前はしかし命ぜられてある
われわれは共に幼くて居た故郷で
四月にははや縁広の帽を被つた
又キラキラとする太陽と
跣足では歩きにくい土で
到底まつ青な果実しかのぞまれぬ
変種の林檎樹を植ゑたこと!
私は言ひあてることが出来る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其処で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを
曠野の歌
わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時の木の実熟るる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
私は強ひられる――
私は強ひられる この目が見る野や
雲や林間に
昔の私の恋人を歩ますることを
そして死んだ父よ 空中の何処で
噴き上げられる泉の水は
区別された一滴になるのか
私と一緒に眺めよ
孤高な思索を私に伝へた人!
草食動物がするかの楽しさうな食事を
氷れる谷間
おのれ身悶え手を揚げて
遠い海波の威すこと!
樹上の鳥は撃ちころされ
神秘めく
きりない歌をなほも紡ぐ
憂愁に気位高く 氷り易く
一瞬に氷る谷間
脆い夏は響き去り……
にほひを途方にまごつかす
紅の花花は
(かくも気儘に!)
幽暗の底の縞目よ
わが 小児の趾に
この歩行は心地よし
逃げ後れつつ逆しまに
氷りし魚のうす青い
きんきんとした刺は
痛し! 寧ろうつくし!
新世界のキィノー
朝鮮へ東京から転勤の途中
旧友が私の町に下車りた
私をこめて同窓が三人この町にゐる
私が彼の電話をうけとつたのは
私のまはし者どもが新世界でやつてゐる
キィノーでであつた
私は養家に入籍る前の名刺を 事務机から
さがし出すと それに送宴の手筈を書き
他の二人に通知した
私ら四人が集ることになつたホテルに
其の日私は一ばん先に行つた
テラスは扇風機は止つてゐたが涼しかつた
噴水の所に 外から忍びこんだ子供らが
ゴム製の魚を
私の腹案の水面に浮べた
「体のいゝ左遷さ」と 吐き出すやうに
旧友が言ひ出したのを まるきり耳に入らないふりで
異常に私はせき込んで彼と朝鮮の話を始めた
私は 私も交へて四人が
だん〳〵愉快になつてゆくのを見た
(新世界で キィノーを一つも信じずに入場つて
きた人達でさへ 私の命じておいた暗さに
どんなにいらいらと 慣れようとして
目をこすることだらう!)
高等学校の時のやうに歌つたり笑つたりした
そして しまひにはボーイの面前で
高々とプロジツト! をやつた
独りホテルに残つた旧友は 彼の方が
友情のきつかけにいつもなくてはならぬ
あの朝鮮の役目をしたことを 激しく後悔した
二人の同窓は めい〳〵の家の方へ
わざとしばらくは徒歩でゆきながら
旧友を憐むことで久しぶりに元気になるのを感じた
田舎道にて
日光はいやに透明に
おれの行く田舎道のうへにふる
そして 自然がぐるりに
おれにてんで見覚えの無いのはなぜだらう
死んだ女はあつちで
ずつとおれより賑やかなのだ
でないと おれの胸がこんなに
真鍮の籠のやうなのはなぜだらう
其れで遊んだことのない
おれの玩具の単調な音がする
そして おれの冒険ののち
名前ない体験のなり止まぬのはなぜだらう
真昼の休息
木柵の蔭に眠れる
牧人は深き休息……
太陽の追ふにまかせて
群畜らかの速き泉に就きぬ
われもまたかくて坐れり
二番花乏しく咲ける窓辺に
土の呼吸に徐々に後れつ
牧人はねむり覚まし
己が太陽とけものに出会ふ
約束の道へ去りぬ……
二番花乏しく咲ける窓辺に
われはなほかくて坐れり
帰郷者
自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつた後に
波がちり散りに泡沫になつて退きながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある
絶えず此処で私が見た帰郷者たちは
正にその通りであつた
その不思議に一様な独言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく!いまは故郷に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故郷は
それが彼らの実に空しい宿題であることを
無数な古来の詩の讚美が証明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそ処で一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである
同反歌
田舎を逃げた私が 都会よ
どうしてお前に敢て安んじよう
詩作を覚えた私が 行為よ
どうしてお前に憧れないことがあらう
冷めたい場所で
私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
真白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ
海水浴
この夏は殊に暑い 町中が海岸に集つてゐる
町立の無料脱衣所のへんはいつも一ぱいだ
そして悪戯ずきな青年団員が
掏摸を釣つて海岸をほっつきまはる
町にはしかし海水浴をしない部類がある
その連中の間には 私をゆるすまいとする
成心のある噂がおこなはれる
(有力な詩人はみなこの町を見捨てた)と
わがひとに与ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
静かなクセニエ(わが友の独白)
私の切り離された行動に、書かうと思へば誰
でもクセニエを書くことが出来る。又その慾
望を持つものだ。私が真面目であればある程
に。
と言つて、たれかれの私に寄するクセニエ
に、一向私は恐れない。私も同様、その気な
ら(一層辛辣に)それを彼らに寄することが
出来るから。
しかし安穏を私は愛するので、その片よつ
た力で衆愚を唆すクセニエから、私は自分を
衛らねばならぬ。
そこでたつた一つ方法が私に残る。それは
自分で自分にクセニエを寄することである。
私はそのクセニエの中で、いかにも悠々と
振舞ふ。たれかれの私に寄するクセニエに、
寛大にうなづき、愛嬌いい挨拶をかはし、さ
うすることで、彼らの風上に立つのである。
悪口を言つた人間に慇懃にすることは、一の
美徳で、この美徳に会つてくづほれぬ人間は
少ない。私は彼らの思ひついた語句を、いか
にも勿体らしく受領し、苦笑をかくして冠の
様にかぶり、彼らの目の前で、彼らの慧眼を
讚めたたへるのである。私は、幼児から投げ
られる父親を、力弱いと思ひこむものは一人
も居らぬことを、完全にのみこんでゐてかう
する。
しかし、私は私なりのものを尊ぶので、決
して粗野な彼らの言葉を、その儘には受領し
ない。いかにも私の丈に合ふやうに、却つて、
それで瀟洒に見える様、それを裁ち直すのだ。
あゝ! かうして私は静かなクセニエを書
かねばならぬ!
咏唱
この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだらう
そして蒼空は
明日も明けるだらう
四月の風
私は窓のところに坐つて
外に四月の風の吹いてゐるのを見る
私は思ひ出す いろんな地方の町々で
私が識つた多くの孤児の中学生のことを
真実彼らは孤児ではないのだつたが
孤児!と自身に故意と信じこんで
この上なく自由にされた気になつて
おもひ切り巫山戯け 悪徳をし
ひねくれた誹謗と歓び!
また急に悲しくなり
おもひつきの善行でうつとりした
四月の風は吹いてゐる ちやうどそれ等の
昔の中学生の調子で
それは大きな恵で気づかずに
自分の途中に安心し
到る処の道の上で悪戯をしてゐる
帯ほどな輝く瀬になつて
逆に後に残して来た冬の方に
一散に走る部分は
老いすぎた私をからかふ
曾て私を締めつけた
多くの家族の絆はどこに行つたか
又ある部分は
見せかけだと私にはひがまれる
甘いサ行の音で
そんなに誘ひをかけ
あるものには未だ若かすぎる
私をこんなに意地張らすがよい
それで も一つの絆を
そのうち私に探し出させて呉れるのならば
即興
……真実いふと 私は詩句など要らぬのです
また書くこともないのです
不思議に海は躊躇うて
新月は空にゐます
日日は静かに流れ去り 静かすぎます
後悔も憧憬もいまは私におかまひなしに
奇妙に明い野のへんに
独り歩きをしてゐるのです
秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る
秧鶏のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要らない
レース雲もいらない
霧がためらつてゐるので
厨房のやうに温くいことが知れた
栗の矮林を宿にした夜は
反落葉にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒にして呑んでしまふ
波のとほい 白つぽい湖辺で
そ処がいかにもアツト・ホームな雁と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語は
ちぐはぐな相槌できくのは骨折れるので
まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そして この伝記作者を残して
来るときのやうに去るだらう
咏唱
秋のほの明い一隅に私はすぎなく
なつた
充溢であつた日のやうに
私の中に 私の憩ひに
鮮しい陰影になつて
朝顔は咲くことは出来なく
なつた
有明海の思ひ出
馬車は遠く光のなかを駆け去り
私はひとり岸辺に残る
わたしは既におそく
天の彼方に
海波は最後の一滴まで沸り墜ち了り
沈黙な合唱をかし処にしてゐる
月光の窓の恋人
叢にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は
無限な泥海の輝き返るなかを
縫ひながら
私の岸に辿りつくよすがはない
それらの気配にならぬ歌の
うち顫ひちらちらとする
緑の島のあたりに
遥かにわたしは目を放つ
夢みつつ誘はれつつ
如何にしばしば少年等は
各自の小さい滑板にのり
彼の島を目指して滑り行つただらう
あゝ わが祖父の物語!
泥海ふかく溺れた児らは
透明に 透明に
無数なしやつぱに化身をしたと
註 有明海沿の少年らは、小さい板にのり、八月の限りない干潟を蹴つて遠く滑る。しやつぱは、泥海の底に孔をうがち棲む透明な一種の蝦。
(読人不知)
深い山林に退いて
多くの旧い秋らに交つてゐる
今年の秋を
見分けるのに骨が折れる
かの微笑のひとを呼ばむ
………………………………………
………………………………………
われ 烈しき森に切に憔れて
日の了る明るき断崖のうへに出でぬ
静寂はそのよき時を念じ
海原に絶ゆるなき波濤の花を咲かせたり
あゝ 黙想の後の歌はあらじ
われこの魍魅の白き穂波蹈み
夕月におほ海の面渉ると
かの味気なき微笑のひとを呼ばむ
病院の患者の歌
あの大へん見はらしのきいた 山腹にある
友人の離室などで
自分の肺病を癒さうとしたのは私の不明だつた
友人といふものは あれは 私の生きてゐる亡父だ
あそこには計画だけがあつて
訓練が欠けてゐた
今度の 私のは入つた町なかの病院に
来て見給へ
深遠な書物の如なあそこでのやうに
景色を自分で截り取る苦労が
だいいち 私にはまぬかれる
そして きまつた散歩時間がある
狭い中庭に コースが一目でわかる様
稲妻やいろいろな平仮名やの形になつてゐる
思ひがけず接近する彎曲路で
他の患者と微笑を交はすのは遜つた楽しみだ
その散歩時間の始めと終りを
病院は患者に知らせる仕掛として――振鈴などの代りに
俳優のやうにうまくしつけた犬を鳴かせる
そして私達は小気味よく知つてゐる
(僕らはあの犬のために散歩に出てやる)と
あんなに執念く私の睡眠の邪魔をした
時計は この病院にはないのかつて?
あるよ あるにはあるが 使用法がまるで違ふ
私は独木舟にのり猟銃をさげて
その十二個のどの島にでも
随時ずゐ意に上陸出来るやうになつてゐる
行つて お前のその憂愁の深さのほどに
大いなる鶴夜のみ空を翔り
あるひはわが微睡む家の暗き屋根を
月光のなかに踏みとどろかすなり
わが去らしめしひとはさり……
四月のまつ青き麦は
はや後悔の糧にと収穫れられぬ
魔王死に絶えし森の辺
遥かなる合歓花を咲かす庭に
群るる童子らはうち囃して
わがひとのかなしき声をまねぶ……
(行つて お前のその憂愁の深さのほどに
明るくかし処を彩れ)と
河辺の歌
私は河辺に横はる
(ふたたび私は帰つて来た)
曾ていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草よ
昔馴染の 意味深長な
と嗤ふなら
多分お前はま違つてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び帰つて来た
ちよつとも傷けられも
また豊富にもされないで
悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に残つた時間の本性!
孤独の正確さ
その精密な計算で
熾な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
野朝顔の一輪を
私はみつける
かうして此処にね転ぶと
雲の去来の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
それぞれに天体の名前を有つて
山々の相も変らぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼を疾つくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ
漂泊
底深き海藻のなほ 日光に震ひ
その葉とくるごとく
おのづと目あき
見知られぬ入海にわれ浮くとさとりぬ
あゝ 幾歳を経たりけむ 水門の彼方
高まり 沈む波の揺籃
懼れと倨傲とぞ永く
その歌もてわれを眠らしめし
われは見ず
この御空の青に堪へたる鳥を
魚族追ふ雲母岩の光……
め覚めたるわれを遶りて
躊躇はぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
――いま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に真清水を噴く――
と告げたる
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
鶯(一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学枚に入るために
市に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた
(読人不知)
水の上の影を食べ
花の匂ひにうつりながら
コンサートにきりがない | 底本:「詩集 わがひとに与ふる哀歌」日本図書センター
2000(平成12)年2月25日初版第1刷発行
底本の親本:「わがひとに与ふる哀歌」発行・杉田屋印刷所、発売・コギト発行所
1935(昭和10)年10月5日発行
※底本の「凡例」に以下の記載がありました。
「漢字は原則として新字体に改めた。ただし、一部に見られる正字と略字(俗字)が併用されている漢字は正字(旧字体)を生かしたものもある。」
※「海岸をほっつきまはる」の小書き「っ」は底本通りにしました。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2005年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045280",
"作品名": "わがひとに与ふる哀歌",
"作品名読み": "わがひとにあたうるあいか",
"ソート用読み": "わかひとにあたうるあいか",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「わがひとに与ふる哀歌」1935(昭和10)年10月5日",
"分類番号": "NDC 911",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001197/card45280.html",
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"姓": "伊東",
"名": "静雄",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "しずお",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "しすお",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Shizuo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-12-10",
"没年月日": "1953-03-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "詩集 わがひとに与ふる哀歌",
"底本出版社名1": "日本図書センター",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年2月25日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年2月25日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年2月25日初版第1刷",
"底本の親本名1": "わがひとに与ふる哀歌",
"底本の親本出版社名1": "発行・杉田屋印刷所、発売・コギト発行所",
"底本の親本初版発行年1": "1935(昭和10)年10月5日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "宮元淳一",
"校正者": "小林繁雄",
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お前が工場の帰りに買ってきてくれた
この櫛は
もう あっちこっち 歯がこぼれた
梳いたヌケ毛の一本一本は
お前がオッカサンとよばってくれる
その日がまためぐってくる年月のながさを
ヒトツキ フタツキ と
かぞえさせる
お前からの夏のタヨリを
帯にはさんでいる――
六十二にもなったわたしのふしぶしは
ズキン ズキン ズキン
凍れにたたかれて
ヒビがひろがってゆく
お前がアバシリの
刑務所におくられてから二年と四ヵ月
くる年々の冬のはじまりから
ほほッぺたのまるっこいお前の写真を
霜焼けに疼く指先にささえて
炉ばたの隅で
あッためてやってるたんびに
わたしの
薄くなったマツ毛は濡れて
ああ どんなにか
本当のお前に会いたいことか
正直なわたしのセガレ
ウソやゴマカシでは
ゴハンをたべれなかったお前
豆腐汁の好きだったお前の
お椀の上でのほほえみが
今もわたしに
――ふるえる ふるえる
コブシをにぎらせる
(『プロレタリア文学』一九三二年一月創刊号に発表) | 底本:「日本プロレタリア文学集・39 プロレタリア詩集(二)」新日本出版社
1987(昭和62)年6月30日初版
初出:「プロレタリア文學 第一卷第一號」日本プロレタリア作家同盟
1932(昭和7)年1月1日発行
入力:坂本真一
校正:フクポー
2018年7月27日作成
2018年9月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "054099",
"作品名": "冬のしぶき",
"作品名読み": "ふゆのしぶき",
"ソート用読み": "ふゆのしふき",
"副題": "――母親から獄中の息子に――",
"副題読み": "――ははおやからごくちゅうのむすこに――",
"原題": "",
"初出": "「プロレタリア文學 第一卷第一號」日本プロレタリア作家同盟、1932(昭和7)年1月",
"分類番号": "NDC 911",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "伊藤",
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一 姓名の由來と順位
わが輩はかつて『國語尊重』と題して、わが國固有の言語殊に固有名の尊重せらるべきゆゑんをのべた。今またこれに關聯して、わが國民の姓名の書き方について一言したいと思ふ。
わが國の姓名の發生發達の歴史はこゝに述べないが、要するに今日吾人の姓と稱するものは實は苗字といふべきもので、苗字と姓と氏とはその出處を異にするものである。
姓は元來身分の分類で、例へば臣、連、宿禰、朝臣などの類であり、氏は家系の分類で、例へば藤原、源、平、菅原、紀などの類である。
苗字は個人の家の名で、多くは土地の名を取つたものである。例へば那須の與一、熊谷の直實、秩父の重忠、鎌倉の權五郎、三浦の大介、佐野の源左衛門といふの類である。
昔は苗字は武士階級以上に限られたが、維新以來百姓町人總て苗字を許されたので、種々雜多な苗字が出現し、苗字を氏とも姓とも呼ぶ事になつて今日にいたつたのである。
わが國固有の風俗として家名を尊重する關係上、當然苗字を先にし名を後にし、苗字と名とを連合して一つの固有名を形づくり、これを以て個人の名稱としたので、苗字を先にするといふことに、歴史的意味の深長なるものがあることを考へねばならぬ。
東洋民族は概して苗字を先にし名を後にするの風習である。支那人はその適例である。
ヨーロツパでもハンガリーなどでは即ちマギアール族で東洋民族であるから、苗字を先にし、名を後にする。
西洋では家よりも個人を尊重するの風習から出たのか否かよく知らぬが、概して姓を後にし名を先にする。
ジヨージ・ワシントン。ジヨン・ラスキン。ジエームス・ワツト。ペーテル・ペーレンス。バウル・ゴーガンなどの類で、前名は即ち個人のキリスト教名後名は即ち家族名である。
印度は地理上東洋に屬するが、民族がアールヤ系であるから、矢張り名を先にし姓を後にする。ラビンドラナート・タゴールといへば、前名は即ち個人名で、後名のタゴールは家名である。
二 歐風模倣の惡例
現今日本では、歐文で通信や著作や、その他各種の文を書く場合に、その署名に歐米風にローマ字で名を先に姓を後に書くことにしてゐるが、これは由々しい誤謬である。小さい問題のやうで實は重大なる問題である。
わが輩の名は伊東忠太であつて、忠太伊東ではない。苗字と名とを連接した伊東忠太といふ一つの固有名を二つに切斷して、これを逆列するといふ無法なことはない筈である。
個人の固有名は神聖なもので、それ〴〵深い因縁を有する。みだりにこれをいぢくり廻すべきものでない。
然るに今日一般にこの轉倒逆列を用ゐて怪しまぬのは、畢竟歐米文明渡來の際、何事も歐米の風習に模倣することを理想とした時代に、何人かゞ斯かる惡例を作つたのが遂に一つの慣例となつたのであらう。
今更これを改めて苗字を先にし名を後にするにも及ばない。餘計な事であるといふ人もあるが、わが輩はさうは思はない。過ちて改むるに憚るなかれとは先哲の名訓である。
况んや若しも歐米流に姓名を轉倒するときは、こゝに覿面に起る難問がある。それは過去の歴史的人物を呼ぶ時に如何にするかといふ事である。
徳川家康と書かずして家康徳川といい、楠正成と書かずして正成楠といひ、紀貫之と書かずして貫之紀といふべきか。これは餘程變なものであらう。
過去の人は姓名を順位にならべ、現在の人は逆轉してならべるといふが如きは勿論不合理であるばかりでなく、實際においてその取扱ひ方に窮することになる。
この點において支那はさすがに徹底してゐる。如何なる場合にも姓名を轉倒するやうな愚を演じない。
張作霖は如何なる場合にも作霖張とは名乘るまい。李鴻章は世界の何國の人にも鴻章李と呼ばれ、または書かれたことがない。
世界の何國の人も支那では姓を先にし、名を後にすることを知つてをり、支那の風習に從つてゐる。世界の何國の人も日本では姓を先にし、名を後にすることを知つてゐる筈であるが、日本人が率先して自ら姓名を轉倒するから、外人もこれに從ふのである。
三 彼我互に慣習を尊重せよ
或人は、日本人が自ら姓名を轉倒して書く事は國際的に有意義であり、歐米人のために便宜多きのみならず、吾人日本人に取つても都合がよいといふが、自分はさう思はぬ。
結局無識の歐米人をして、日本でも姓を後に名を前に呼ぶ風習であると誤解せしめ、有識の歐米人をして、日本人が固有の風習を捨てゝ外國の慣習にならうは如何にも外國に對して柔順過ぎるといふ怪訝の感を起さしむるに過ぎぬと思ふ。
それよりも、吾人は必ず常に姓前名後を徹底的に勵行し、世界に日本の國風を了解させたならば各國の人も日本の慣例を尊重してこれに從ふに相違ない。
餘談に亘るが總じて歐米の慣習と日本の慣習とが全く正反對である實例が甚だ多い。
例へば年紀を記すのに、日本では年、月、日と大より小に入り、歐米では、日、月、年と逆に小より大に入る。
所在を記すのに、日本では、國、府縣、市、町、番地と大より小に入るに、歐米では、番地、町、市、府縣、國と、逆に小より大に入る。
日本人が歐文を書く場合、この慣例を尊重して、小より大に入るのは差支ないが、その内の固有名は斷然いぢくられてはならぬ。
例へば地名の中にも姓名を具ふるらしいのがあるが、この場合姓名を轉倒するのは絶對に不可である。
東京市の「櫻田本郷町」を「本郷町、櫻田」としてはいけない。鐵道の驛名の「羽前向町」を「向町、羽前」としてはいけない。同じ理由で「伊東忠太」を「忠太伊東」としてはいけないのである。
日本人が歐文を飜譯するとき、年紀や所在地の書き方は、これを日本流に大より小への筆法に直すが、固有名は矢張り尊重して彼の筆法に從ふのである。
例へばジヨージ・ワシントンと名を先に姓を後にして、日本流にワシントン・ジヨージとは書かない。
然らば歐米人も日本の固有名は日本流に書くのが當然であり、日本人自らは、なほ更徹底的に日本固有の慣習に從ふのが、當然過ぎる程當然ではないか。
四 斷じて姓名を逆列するな
わが輩のこの所見に對して、或人はこれを學究の過敏なる迂論であると評し、齒牙にかくるに足らぬ些細な問題だといつたが、自分にはさう考へられぬ。
これは曾つてわが輩が「國語尊重」の題下でわが國の國號は日本であるのに、外人の訛傳に追從して自らジヤパンと名乘るのは國辱であると論じたのと同じ筆法で、姓名轉倒は矢張り一つの國辱であると思ふのである。
或人は又いつた、汝の所論は一理窟あるが實際的でない。汝は歐文に年紀を記すとき西暦を用ゐて神武紀元を用ゐないのは何故か、いはゆる自家撞着ではないかと。
わが輩はこれについて一言辯じて置きたい。年紀は時間を測る基準の問題である。これは國號、姓名などの固有名の問題とは全然意味が違ふ。
歐文で日本歴史を書くとき、便宜上日本年紀と共に西歴を註して彼我對照の便に資するは最適當な方法であり、歐文で歐洲歴史を書くとき、西歴に從ふは勿論である。
要するに世間は未だ固有名なるものゝ意味を了解してをらぬのであらう。固有名を普通名と同一程度に見てゐるのであらう。
普通名は至る所で稱呼を異にするが、固有名は絶對性のものであり、一あつて二なきものである。
即ち日本人の姓名は唯一不二である。姓と名と連續して一つの固有名を形づくる。
外人がこれを如何に取扱はうとも、それは外人の勝手である。たゞ吾人は斷じて外人の取扱ひに模倣し、姓と名とを切り離しこれを逆列してはならぬ。
それは丁度日本の國號を外人が何と呼び何と書かうとも、吾人は必ず常に日本と呼び日本と書かねばならぬのと同じ理窟である。(完)
(大正十五年二月「東京日日新聞」) | 底本:「木片集」萬里閣書房
1928(昭和3)年5月28日発行
1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「東京日日新聞」
1926(大正15)年2月
入力:鈴木厚司
校正:しだひろし
2007年11月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "046333",
"作品名": "誤まれる姓名の逆列",
"作品名読み": "あやまれるせいめいのぎゃくれつ",
"ソート用読み": "あやまれるせいめいのきやくれつ",
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"初出": "「東京日日新聞」1926(大正15)年2月",
"分類番号": "NDC 288 914",
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近頃時々我輩に建築の本義は何であるかなどゝ云ふ六ヶ敷い質問を提出して我輩を困らせる人がある。これは近時建築に對する世人の態度が極めて眞面目になり、徹底的に建築の根本義を解決し、夫れから出發して建築を起さうと云ふ考へから出たことで、この點に向つては我輩は衷心歡喜を禁じ得ぬのである。
去りながらこの問題は實は哲學の領分に屬するもので、容易に解決されぬ性質のものである。古來幾多の建築家や、思想家や、學者や、藝術家や、各方面の人がこの問題に就て考へた樣であるが、未だ曾て具體的徹底的な定説が確立されたことを聞かぬ。恐らくは今後も、永久に、定論が成立し得ぬと思ふ。若しも、建築の根本義が解決されなければ、眞正の建築が出來ないならば、世間の殆んど總ての建築は悉く眞正の建築でないことになるが、實際に於ては必しも爾く苛酷なるものではない。勿論この問題は專門家に由て飽迄も研究されねばならぬのであるが。我輩は、茲には深い哲學的議論には立ち入らないで、極めて通俗的に之に關する感想の一端を述べて見よう。
我輩は先づ建築の最も重要なる一例即ち住家を取て之を考へて見るに「住は猶食の如し」と云ふ感がある。食の本義に就て、生理衞生の學理を講釋した處で、夫れ丈けでは決して要領は得られない、何となれば、食の使命は人身の營養にあることは勿論であるが、誰でも實際に當つて一々營養の如何を吟味して食ふ者はない、第一に先づ味の美を目的として食ふのである。併し味の美なるものは多くは又同時に營養にも宜しいので、人は不知不識營養を得る處に天の配劑の妙機がある。然らば如何なる種類の食物が適當であるかと云ふ具體的の實際問題になると、その解決は甚だ面倒になる。熱國と寒國では食の適否が違ふ。同じ風土でも、人の年齡によつて適否が違ふ、同じ年齡でも體質職業等に從て選擇が違ふ。その上個人には特殊の性癖があつて、所謂好き嫌ひがあり、甲の好む處は乙が嫌ふ處であり、所謂蓼喰ふ蟲も好き好きである。その上個人の經濟状態に由て是非なく粗惡な食で我慢せねばならぬ人もあり、是非なく過量の美味を食はねばならぬ人もある。畢竟十人十色で、決して一律には行かぬもので食の本義とか理想とかを説いて見た處で實際問題としては餘り役に立たぬ。夫れよりは「精々うまい物を適度に食へ」と云ふのが最も簡單で要領を得た標語である。建築殊に住家でも、正にこの通りで、「精々善美なる建築を造れ」と云ふのが最後の結論である。然らば善美とは何であるかと反問するであらう。夫は食に關して述べた所と同工異曲で、建築に當てはめて云へば、善とは科學的條件の具足で美とは藝術的條件の具足である。さて、夫れが實際問題になると、土地の状態風土の關係、住者の身分、境遇、趣味、性癖、資産、家族、職業その他種々雜多の素因が混亂して互に相交渉するので、到底單純な理屈一遍で律することが出來ない。善と知りつゝも夫を行ふことが出來ない、美を欲しても夫を現はすことが出來ない、已を得ず缺點だらけの家を造つて、その中に不愉快を忍んで生活して居るのが大多數であらうと思ふ。
建築の本義は「善美」にあると云ふのは、我輩の現今の考へである。併し或る人は建築の本義は「安價で丈夫」にあると云ふかも知れぬ、又他の人は建築の本義は「美」であると云ふかも知れぬ。又他の人は建築の本義は「實」であると云ふかも知れぬ。孰れが正で孰れが邪であるかは容易に分らない。人の心理状態は個々に異なる、その心理は境遇に從て移動すべき性質を有て居る。自分の一時の心理を標準とし、之を正しいものと獨斷して、他の一時の心理を否認することは兎角誤妄に陷るの虞れがある。これは大に考慮しなければならぬ事である。
莫遮現今建築の本義とか理想とかに就て種々なる異論のあることは洵に結構なことである。建築界には絶へず何等かの學術的風波がなければならぬ、然らざれば沈滯の結果腐敗するのである。偶には激浪怒濤もあつて欲しい、惡風暴雨もあつて欲しい、と云つて我輩は決して亂を好むのではない、只だ空氣が五日の風に由て掃除され、十日の雨に由て淨められんことを希ふのである。世の建築家は勿論、一般人士が絶へず建築界に問題を提出して論議を鬪はすことは極めて必要なことである。假令その論議が多少常軌を逸しても夫は問題でない。これと同時にその論議を具體化した建築物の實現が更に望ましいことである。假令その成績に多少の缺點が認められても夫は問題でない。問題は各自その懷抱する所を遠慮なく披瀝した處のものが、所謂建築の根本義の解決に對して如何なる暗示を與へるか、如何なる貢献を致すかである。
建築の本義、夫は永久の懸案である。我輩は今俄かに之が解決を望まない、ただいつまでも研究をつゞけて行き度い、世に建築てふ物の存在する限り、いつまでも論議をつゞけて行き度い。今日建築の根本義が決定されなくとも深く憂ふるに及ばない。安んじて汝の好む所を食へ、然らば汝は養はれん。安んじて汝の好む家に住へ、然らば汝は幸福ならん。(了)
(大正十二年九月「建築世界」) | 底本:「木片集」萬里閣書房
1928(昭和3)年5月28日発行
1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「建築世界」
1923(大正12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:しだひろし
2007年11月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046334",
"作品名": "建築の本義",
"作品名読み": "けんちくのほんぎ",
"ソート用読み": "けんちくのほんき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「建築世界」1923(大正12)年9月",
"分類番号": "NDC 520",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-12-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001232",
"姓": "伊東",
"名": "忠太",
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"名読み": "ちゅうた",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "ちゆうた",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Chyuta",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1867-11-21",
"没年月日": "1954-04-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "木片集",
"底本出版社名1": "萬里閣書房",
"底本初版発行年1": "1928(昭和3)年5月28日",
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一 國語は國民の神聖なる徽章
元來わが日本語は甚だ複雜なる歴史を有する。
大體に於てその大部分は太古より傳來せる日本固有の言語及び漢語をそのまゝ取り入れたもの、またはこれを日本化したもので、一部は西洋各國例へば英、佛、和、獨、西、葡等の諸國の語から轉訛したもの、及び梵語系その他のものも多少ある。
近來世界の文運が急激に進展したのと、國際的交渉が忙しくなつたのとで、わが國においても舊來の言語だけでは間に合はなくなつた。
殊に新しい專門的術語はおほくは日本化することが困難でもあり、また不可能なのもあるので便宜上外語をそのまゝ日本語として使用してゐるのが澤山あるが、勿論これは當然のことで、少しも差支はないのである。
併しながら、永くわが國に慣用された歴史のある我國語は、充分にこれを尊重せねばならぬ。
國語は國民思想の交換、聯絡、結合の機關で、國民の神聖なる徽章でもあり、至寶でもある。
不足な點は適當に外語を以て補充するのは差し支へないが、ゆゑなく舊來の成語を捨てゝ外國語を濫用するのは、即ち自らおのれを侮辱するもので、以ての外の妄擧である。なかんづく一國民の有する固有名は最も神聖なもので、妄りに他から侵されてはならぬ。
曾て寺内内閣の議會で、藏原代議士が總理大臣から「ゾーバラ君」と呼ばれて承知せず、「これ猶ほ寺内をジナイと呼ぶが如し」と抗辯して一場の紛議を釀したことがあつた。
これは一時の笑話に過ぎぬが、こゝに看過し難きは、わが日本の稱呼である。
わが國名は「ニホン」または「ニツポン」である。外人は思ひ〳〵に勝手な稱呼を用ゐてゐるが、それは外人の自由である。
併しわが日本人が外人等に追從して自ら自國の名を二三にするのは奇怪千萬である。英米人の前には「ジヤパン」と稱し、佛人に逢へば「ジヤポン」と唱へ、獨人に對しては「ヤパン」といふは何たる陋態ぞや。
吾人は日常英國を、「イギリス」、獨國を「ドイツ」と呼ぶが、英獨人は吾人に對して自ら爾く呼ばないではないか。
日本人中には今日でもなほ外人に對して臺灣を「フオルモサ」、樺太を「サガレン」、朝鮮を「コレア」旅順を「ボート・アーサー」、京城を「シウル」新高山を「マウント・モリソン」などといふ者があるのは不都合である。
露國でさへ、曾てその首府のペテルスブルグは外國語であるとて、これを自國語のペテログラードに改名したではないか。
二 母語の輕侮は國民的自殺
日本固有の地名を外國になぞらへて呼ぶことも國辱である。
例へば、曾て日本を「東洋の英國」などとほこり顏にとなへたことがある。飛騨と信濃の境を走る峻嶺を「日本アルプス」などと得意顏に唱へ、甚だしきは木曾川を「日本ライン」といひ、更に甚だしきは、その或地點を「日本ローレライ」などといつたものがある。
この筆法で行けば、富士山を「日本チンボラソ」と呼び、隅田川を「日本テムズ」とでもいはねばなるまい。
日本古來の地名を、郡町村等の改廢と共に變更することは、或場合にはやむを得ないが、古の地名に古の音便によつて當て篏められた漢字を妄りに今の音に改讀せしめ、その結果地名の改稱となるが如きは甚だ不用意なことである。
例へば山城の「サガラ」は最もこれに近い音を有する相(サング)樂(ラー)の二字によつてあらはされたのが、今は「ソーラク」と讀ませてをり、能登の「ワゲシ」は最もこれに近い音を有する鳳(フング)至(シ)の二字によつて示されたのが、今は「ホーシ」と讀む者がある。
その他伊賀のアベ(阿拜)は「アハイ」となり信濃のツカマ(筑摩)は「チクマ」となつたやうな例はなほ若干ある。
この筆法で行けば、武藏は「ブゾー」、相模は「ソーボ」と改稱されねばならぬ筈である。
尤も、古の和名に漢字を充當したのが、漢音の讀み方の變化に伴なうて、和名が改變せられた例は、古代から澤山ある。
例へば、平安京の大内裡の十二門の名の如きで、その二三を擧ぐればミブ門、ヤマ門、タケ門は、美福門、陽明門、待賢門と書かれて、つひにビフク門、ヨーメイ門、タイケン門となつたやうなものである。
和名に漢字の和訓を充當したものが、理由なく誤訓された惡例も可なりある。
例へば、羽前の「オイダミ」に置賜の文字を充當したのが、今は「オキタマ」と誤訓されてゐる。
この外、古の地名を、理由なく改廢した惡例も澤山ある。
例へば、淡路と和泉の間の海は、古來茅渟の海と稱し來たつたのを、今日はこの名稱を呼ばないで和泉洋または大阪灣と稱してゐる。
尤も「チヌノウミ」は元來和泉の南部のチヌといふ所の沖を稱したのではあるが‥‥。
また有名なる九州の有明灣を理由なしに改竄して島原灣などとゝなへてゐるものもある。
三 外語濫用からパパ樣ママ樣
以上日本の固有名、殊に地名について、その理由なく改惡されることの非なるを述べたが、ここに更に寒心すべきは、吾人の日用語が、適當の理由なくして漫然歐米化されつゝあるの事實である。
これは吾人が日々の會話や新聞などにも無數に發見するが、例へば、近ごろ何々日といふ代はりに何々デーといふ惡習が一部に行はれてゐる。
わざ〳〵デーといはずとも、日といふ美しい簡單な古來の和語があるのである。
また例へば、父母はとと樣、はは樣と呼んで少しも差し支へなきのみならず、却て恩愛の情が籠るのに、何を苦んでかパパ樣、ママ樣と、歐米に模倣させてゐるものが往々ある。
外國語を譯して日本語とするのは勿論結構であるが、その譯が適當でなかつたり、拙劣であつたり不都合なものが隨分多い、新たに日本語を作るのであるから、これは充分に考究してもらひたいものである。
劣惡なる新日本語の一例に活動寫眞といふのがある。
これはキネマトグラフの譯であらうが、何といふ惡譯であらう。支那はさすがに文字の國で、これを影戯と譯してゐるが、實に輕妙である。
文章の章句においても往々生硬な惡譯があつて、甚だしきは何の事やら分からぬのがある。
「注意を拂ふ」だの「近き將來」などは、おかしいけれどもまだ意味が分かるが、妙に持つてまはつて、意味が通じないのは、まことに困まる。
これ等は日本語を蹂躙するものといふべきである。
ひるがへつて歐米を見れば、さすがに母語は飽くまでもこれを尊重し、英米の如きは至るところに母語を振りまはしてゐるのである。
ドイツでも曾てラテン系の言葉を節制してなるべく、自國語を使用することを奬勵した。
どれだけ勵行されたかは知らぬが、その意氣は壯とすべきである。
四 漫然たる外語崇拜の結果
我輩が曾てトルコに遊んだ時、その宮廷の常用語が自國語でなくして佛語であつたのを見ておどろいた。
宮中の官吏が互に佛語で話してゐるのを見てトルコの滅亡遠からずと直感したのである。
インドにおいては、地理歴史の關係から、北部と南部とでは根本から言語がちがふので、インド人同士で英語を以て會話を試みてゐるのを見てインドが到底獨立し得ざるゆゑんを悟つた。
昔支那において塞外の鮮卑族の一種なる拓拔氏は中國に侵入し、黄河流域の全部を占領して國を魏と稱したが、魏は漢民族の文化に溺惑して、自ら自國の風俗慣習をあらため、胡語を禁じ、胡服を禁じ、姓名を漢式にした。
果然彼れは幾ばくもなくして漢族のために亡ぼされた。獨り拓拔氏のみならず支那塞外の蠻族は概ねその轍を履んでゐる。
わが日本民族は靈智靈能を有つてゐる。炳乎たる獨特の文化を有してゐる。素より拓拔氏や印度人やトルコ人の比ではない。
宜しく自國の言語を尊重して飽くまでこれを徹底せしむるの覺悟がなければならぬ。
然るに今日の状態は如何であるか、外語研究の旺盛はまことに結構であるが、一轉して漫然たる外語崇拜となり、母語の輕侮となり、理由なくして母語を捨て、妄りに外語を濫用して得意とするの風が、一日は一日より甚だしきに至つては、その結果は如何であらう。これ一種の國民的自殺である。
切に希ふ所は、わが七千餘萬の同胞は、亘に相警めて、飽くまでわが國語を尊重することである。
若し英米霸を稱すれば、靡然として英米に走り、獨國勢力を獲れば翕然として獨國に就き、佛國優位を占むれば、倉皇として佛に從ふならば、わが獨立の體面は何處にありや。
人或ひはわが輩のこの意見を以て、つまらぬ些事に拘泥するものとし或ひは時勢に通ぜざる固陋の僻見とするものあらば、わが輩は甘んじてその譏を受けたい。そして謹んでその教へを受けたい。
(完)
(大正十四年一月「東京日々新聞」) | 底本:「木片集」萬里閣書房
1928(昭和3)年5月28日発行
1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「東京日日新聞」
1925(大正14)年1月
入力:鈴木厚司
校正:しだひろし
2007年11月22日作成
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一 太古の家と地震
昔、歐米の旅客が日本へ來て、地震のおほいのにおどろくと同時に、日本の家屋が、こと〴〵く軟弱なる木造であつて、しかも高層建築のないのを見て、これ畢竟地震に對する災害を輕減するがためであると解してくれた。
何事も外國人の説を妄信する日本人は、これを聞いて大いに感服したもので、識見高邁と稱せられた故岡倉覺三氏の如きも、この説を敷衍して日本美術史の劈頭にこれを高唱したものであるが今日においても、なほこの説を信ずる人が少くないかと思ふ。
少くとも日本建築は古來地震を考慮の中へ加へ、材料構造に工風を凝らし、遂に特殊の耐震的樣式手法を大成したと推測する人は少くないやうである。
予はこれに對して全く反對の意見をもつてゐる。今試みにこれを述べて世の批評を乞ひたいと思ふ
* * * * *
外人の地震説は一見甚だ適切であるが如くであるが、要するにそは、今日の世態をもつて、いにしへの世態を律せんとするもので、いはゆる自家の力を以て自家を強壓するものであると思ふ。
換言すれば、一種の自家中毒であると思ふ。
そも〳〵日本には天地開闢以來、殆ど連續的に地震が起こつてゐたに相違ない。その程度も安政、大正の大震と同等若しくはそれ以上のものも少くなかつたらう。
しかし太古における日本の世態は決してこれが爲に大なる慘害を被らなかつたことは明瞭である。
太古の日本家屋は、匠家のいはゆる天地根元宮造と稱するもので無造作に手ごろの木を合掌に縛つたのを地上に立てならべ棟木を以てその頂に架け渡し、草を以て測面を蔽うたものであつた。
つまり木造草葺の三角形の屋根ばかりのバラツクであつた。
いつしかこれが發達して、柱を建てゝその上に三角のバラツクを載せたのが今日の普通民家の原型である。
斯くの如き材料構造の矮小軟弱なる家屋は殆ど如何なる激震もこれを潰倒することが出來ない。
たとひ潰倒しても人の生命に危害を與ることは先ないといつてもよい。
即ち太古の國民は、頻々たる地震に對して、案外平氣であつたらうと思ふ。
二 何故太古に地震の傳説がないか
頻々たる地震に對しても、古代の國民は案外平氣であつた。いはんや太古にあつては都市といふものがない。
こゝかしこに三々五々のバラツクが散在してゐたに過ぎない。巨大なる建築物もない。
たとひ或一二の家が潰倒しても、引つゞいて火災を起こしても、それは殆ど問題でない。
罹災者は直にまた自ら自然林から樹を伐つて來て咄嗟の間にバラツクを造るので、毫も生活上に苦痛を感じない。
いはんやまた家を潰すほどの大震は、一生に一度あるかなしである。太古の民が何で地震を恐れることがあらう。また何で家を耐震的にするなどといふ考へが起こり得やう。
それよりは少しでも美しい立派な、快適な家を作りたいといふ考へが先立つて來たらねばならぬ。
若しも太古において國民が、地震をそれほどに恐れたとすれば、當然地震に關する傳説が太古から發生してゐる筈であるが、それは頓と見當たらぬ。
第一日本の神話に地震に關する件がないやうである。
有史時代に入つてはじめて地震の傳説の見えるのは、孝靈天皇の五年に近江國が裂けて琵琶湖が出來、同時に富士山が噴出して駿、甲、豆、相の地がおびたゞしく震動したといふのであるが、その無稽であることはいふまでもない。
つぎに允恭天皇の五年丙辰七月廿四日地震、宮殿舍屋を破るとある。
次ぎに推古天皇の七年乙未四月廿七日に大地震があつた。
日本書紀に七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破、則令四方俾祭地震神とあるが、地震神といふ特殊の神は知られてゐない。
要するに、このごろに至つて地震の恐ろしさが漸く分かつたので、神を祭つてその怒りを解かんとしたのであらう。
爾來地震の記事は、かなり詳細に文献に現れてをり、その慘害の状も想像されるが、これを建築發達史から見て、地震のために如何なる程度において、構造上に考慮が加へられたかは疑問である。
三 なぜ古來木造の家ばかり建てたか
論者は曰く、『日本太古の原始的家屋はともかくも、既に三韓支那と交通して、彼の土の建築が輸入されるに當つて、日本人は何ゆゑに彼の土において賞用せられた石や甎の構造を避けて、飽くまで木造一點張りで進んだか、これは畢竟地震を考慮したゝめではなからうか』と。
なるほど、一應理屈はあるやうであるが、予の見る所は全然これに異なる。
問題は決してしかく單純なものではなくして、別に深い精神的理由があると思ふ。
* * * * *
日本の建築が古來木造を以て一貫して來た原因は、第一に、わが國に木材が豊富であつたからである。
今日ですら日本全土の七十パーセントは樹木を以て蔽はれてをり、約四十五パーセントは森林と名づくべきものである。
いはんや太古にありては、恐らく九十パーセントは樹林であつたらうと思はれる。
この樹林は、檜、杉、松等の優良なる建築材であるから、國民は必然これを伐つて家をつくつたのである。
そしてそれが朽敗または燒失すれば、また直にこれを再造した。が、伐れども盡きぬ自然の富は、終に國民をし、木材以外の材料を用ふるの機會を得ざらしめた。
かくて國民は一時的のバラツクに住まひ慣れて、一時的主義の思想が養成された。
家屋は一代かぎりのもので、子孫繼承して住まふものでないといふ思想が深い根柢をなした。
否、一代のうちでも、家に死者が出來れば、その家は汚れたものと考へ、屍を放棄して、別に新しい家を作つたのである。
奧津棄戸といふ語は即ちこれである。
しかし國民は生活の一時的なるを知ると同時に、死の恒久的なるを知つてゐた。
ゆゑにその屍をいるゝ所の棺槨には恒久的材料なる石材を用ひた。もつとも棺槨も最初は木材で作つたが、發達して石材となつたのである。
即ち太古の國民は必ずしも石を工作して家屋をつくることを知らなかつたのではない。たゞその心理から、これを必要としなかつたまでゞある。
若しも太古の民が地震を恐れて、石造の家屋を作らなかつたと解釋するならば、その前に、何ゆゑにかれ等は火災を恐れて石造の家を作らなかつたかを説明せねばならぬ。
火災は震災よりも、より頻繁に起こり、より悲慘なる結果を生ずるではないか。
四 耐震的考慮の動機
一屋一代主義の慣習を最も雄辯に説明するものゝ一は即ち歴代遷都の史實である。
誰でも、國史を繙く人は、必ず歴代の天皇がその都を遷したまへることを見るであらう。それは神武天皇即位から、持統天皇八年まで四十二代、千三百五十三年間繼續した。
この遷都は、しかし、今日吾人の考へるやうな手重なものでなく、一屋一代の慣習によつて、轉轉近所へお引越になつたのである。
この目的のためには、賢實なる石造または甎造の恒久的宮殿を造營する事は都合が惡いのである。
次ぎに持統、文武兩帝は藤原宮に都したまひ、元明天皇から光仁天皇まで七代は奈良に都したまひ、桓武天皇以來孝明天皇まで七十一代は京都に都したまひたるにて、漸次に帝都が恒久的となり、これに從つて都市が漸次に整備し來たつたのである。
一般民家もまたこれに應じて一代主義から漸次に永代主義に進んだ。
しかしその材料構造は依然として舊來のまゝで、耐震的工風を加ふるが如き事實はなかつたので、たゞ漸次に工作の技術が精巧に進んだまでである。
それは例へば堂塔伽藍を造る場合に、巨大なる重い屋根を支へる必要上、軸部を充分に頑丈に組み堅めるとか、宮殿を造る場合に、その格式を保ち、品位を備へるために、優良なる材料を用ひ、入念の仕事を施すので、特に地震を考慮して特殊の工夫を加へたのではない。
しかし本來耐震性に富む木造建築に、特別に周到精巧なる工作を施したのであるから、自然耐震的能率を増すのは當然である。
* * * * *
建築に耐震的考慮を加ふるとは、地震の現象を考究して、材料構造に特殊の改善を加ふることで、これは餘程人智が發達し、社會が進歩してからのことである。今その動機について試みに三要件を擧げて見よう。
第一は、國民が眞劍に生命財産を尊重するに至ることである。生命を毫毛よりも輕んじ、財産を塵芥よりも汚らはしとする時代においては、地震などは問題でない。
日本で國民が眞に生命の貴きを知り、財産の重んずべきを知つたのは、ツイ近ごろのことである。
從つて眞に耐震家屋について考慮し出したのは、あまり古いことでない。
五 耐震的建築の大成
建築に耐震的考慮を加ふるやうになつた第一の動機は都市の建設である。
人家密集の都市の中に、巨大なる建築が聳ゆるに至つて、はじめて震災の恐るべきことが覿面に感ぜられる。
いはゆる文化的都市が發達すればするほど、災害が慘憺となる。從つて震災に對しても防備の考へが起こる。が、これも比較的新らしい時代に屬する。
第三の動機は、科學の進歩である。地震が如何なる有樣に於て家屋を震盪し、潰倒するかを觀察し破壞した家屋についてその禍根を闡明するの科學的知識がなければ、これに對する防備的考察は浮かばない。
古の國民は地震に遭つても、科學的素養が缺けてゐるから、たゞ不可抗力の現象としてあきらめるだけで、これに對抗する方法を案出し得ない。
日本でも徳川柳營において、いつのころからか『地震の間』と稱して、極はめて頑丈な一室をつくり、地震の際に逃げこむことを考へ、安政大震の後、江戸の町醫者小田東叡(安政二年十二月出版、防火策圖解)なるものか壁に筋かひを入れることを唱道した位のことでそれ以前に別に耐震的工夫の提案されたことは聞かぬのである。
以上略述した如く、日本家屋が木造を以て出發し、木造を以て發達したのは、國土に特産する豊富なる木材のためであつて、地震の爲ではない。
三韓支那の建築は木材と甎と石との混用であるが、これも彼の土における木材が比較的貧少であるのと、石材及び甎に適する材料が豊富であるがためである。
その建築が日本に輸入せられて、しかも純木造に改竄されたのは、やはり材料と國民性とのためで地震を考慮したためではない。
爾來日本建築は漸次に進歩して堅牢精巧なものを生ずるに至つたが、これは高級建築の必然的條件として現れたので、地震を考慮したためではない。
日本に往時高層建築はおほくなかつた。たゞ塔には十三重まであり、城堡には七重の天守閣まであり、宮室には三層閣の例があるが、一般には單層を標準とする。
これは多層建築の必要を見なかつたためで、地震を考慮したためではない。
地震を考慮するやうになつたのは、各個人が眞劍に生命財産を尊重するやうになり、都市が發達し科學思想が普及してからのことで、近く三百年來のことと思はれる。
今や社會は一回轉した。各個人は極端に生命を重んじ財産を尊ぶ、都市は十分に發達して、魁偉なる建築が公衆を威嚇する。科學は日に月に進歩する。
國民はこゝにおいてか眞劍に耐震的建築の大成を絶叫しつゝあるのである。(完)
(大正十三年四月「東京日日新聞」) | 底本:「木片集」萬里閣書房
1928(昭和3)年5月28日発行
1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「東京日日新聞」
1924(大正13)年4月
入力:鈴木厚司
校正:しだひろし
2007年11月22日作成
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一 ばけものの起源
妖怪の研究と云つても、別に專門に調べた譯でもなく、又さういふ專門があるや否やをも知らぬ。兎に角私はばけものといふものは非常に面白いものだと思つて居るので、之に關するほんの漠然たる感想を、聊か茲に述ぶるに過ぎない。
私のばけものに關する考へは、世間の所謂化物とは餘程範圍を異にしてゐる。先づばけものとはどういふものであるかといふに、元來宗教的信念又は迷信から作り出されたものであつて、理想的又は空想的に或る形象を假想し、之を極端に誇張する結果勢ひ異形の相を呈するので、之が私のばけものゝ定義である。即ち私の言ふばけものは、餘程範圍の廣い解釋であつて、世間の所謂化物は一の分科に過ぎない事となるのである。世間で一口に化物といふと、何か妖怪變化の魔物などを意味するやうで極めて淺薄らしく思はれるが、私の考へて居るばけものは、餘程深い意味の有るものである。特に藝術的に觀察する時は非常に面白い。
ばけものゝ一面は極めて雄大で全宇宙を抱括する、而も他の一面は極めて微妙で、殆ど微に入り細に渉る。即ち最も高遠なるは神話となり、最も卑近なるはお伽噺となり、一般の學術特に歴史上に於ても、又一般生活上に於ても、實に微妙なる關係を有して居るのである。若し歴史上又は社會生活の上からばけものといふものを取去つたならば、極めて乾燥無味のものとなるであらう。隨つて吾々が知らず識らずばけものから與へられる趣味の如何に豊富なるかは、想像に餘りある事であつて、確にばけものは社會生活の上に、最も缺くべからざる要素の一つである。
世界の歴史風俗を調べて見るに、何國、何時代に於ても、化物思想の無い處は決して無いのである。然らば化物の考へはどうして出て來たか、之を研究するのは心理學の領分であつて、吾々は門外漢であるが、私の考へでは「自然界に對する人間の觀察」これが此根本であると思ふ。
自然界の現象を見ると、或るものは非常に美しく、或るものは非常に恐ろしい。或は神祕的なものがあり、或は怪異なものがある。之には何か其奧に偉大な力が潜んで居るに相違ない。此偉大な現象を起させるものは人間以上の者で人間以上の形をしたものだらう。此想像が宗教の基となり、化物を創造するのである。且又人間には由來好奇心が有る。此好奇心に刺戟せられて、空想に空想を重ね、遂に珍無類の形を創造する。故に化物は各時代、各民族に必ず無くてならない事になる。隨つて世界の各國は其民族の差異に應じて化物が異つて居る。
二 各國のばけもの
ばけものが國によりそれ〴〵異なるのは、各國民族の先天性にもよるが、又土地の地理的關係によること非常に大である。例へば日本は小島國であつて、氣候温和、山水も概して平凡で別段高嶽峻嶺深山幽澤といふものもない。凡てのものが小規模である。その我邦に雄大な化物のあらう筈はない。
古來我邦の化物思想は甚だ幼稚で、或は殆ど無かつたと言つて可い位だ。日本の神話は化物の傳説が甚だ少い。日本の神々は日本の祖先なる人間であると考へられて、化物などとは思はれて居ない。それで神々の内で別段異樣な相をしたものはない。猿田彦命が鼻が高いとか、天鈿目命が顏がをかしかつたといふ位のものである。又化物思想を具體的に現はした繪も餘り多くはない。記録に現はれたものも殆ど無く、弘仁年間に藥師寺の僧景戒が著した「日本靈異記」が最も古いものであらう。今昔物語にも往々化物談が出て居る。
日本の化物は後世になる程面白くなつて居るが、是は初め日本の地理的關係で化物を想像する餘地がなかつた爲である。其後支那から、道教の妖怪思想が入り、佛教と共に印度思想も入つて來て、日本の化物は此爲に餘程豊富になつたのである。例へば、印度の三眼の明王は變じて通俗の三眼入道となり、鳥嘴の迦樓羅王は變じてお伽噺の烏天狗となつた。又日本の小説によく現はれる魔法遣ひが、不思議な藝を演ずるのは多くは、一半は佛教から一半は道教の仙術から出たものと思はれる。
日本が化物の貧弱なのに對して、支那に入ると全く異る、支那はあの通り尨大な國であつて、西には崑崙雪山の諸峰が際涯なく連り、あの深い山岳の奧には屹度何か怖しいものが潛んでゐるに相違ないと考へた。北にはゴビの大沙漠があつて、これにも何か怪物が居るだらうと考へた。彼等はゴビの沙漠から來る風は惡魔の吐息だと考へたのであらう。斯くて支那には昔から化物思想が非常に發達し中には極めて雄大なものがある。尤も儒教の方では孔子も怪力亂神を語らず、鬼神妖怪を説かないが道教の方では盛に之を唱道するのである。
形に現はされたもので、最も古いと思はれるものは山東省の武氏祠の浮彫や毛彫のやうな繪で、是は後漢時代のものであるが、其化物は何れも奇々怪々を極めたものである。山海經を見ても極めて荒唐無稽なものが多い。小説では西遊記などにも、到る處痛烈なる化物思想が横溢して居る。歴史で見ても最初から出て來る伏羲氏が蛇身人首であつて、神農氏が人身牛首である。恁ういふ風に支那人は太古から化物を想像する力が非常に強かつた。是皆國土の關係による事と思はれる。
更に印度に行くと、印度は殆ど化物の本場である。印度の地形も支那と同じく極めて廣漠たるもので、其千里の藪があるといふ如き、必ずしも無稽の言ではない。天地開闢以來未だ斧鉞の入らざる大森林、到る處に蓊鬱として居る。印度河、恒河の濁流は澎洋として果も知らず、此偉大なる大自然の内には、何か非常に恐るべきものが潛んで居ると考へさせる。實際又熱帶國には不思議な動物も居れば、不思議な植物もある。之を少し形を變へると直ぐ化物になる。印度は實に化物の本場であつて、神聖なる史詩ラーマーヤナ等には化物が澤山出て來る。印度教に出て來るものは、何れも不思議千萬なものばかり、三面六臂とか顏や手足の無數なものとか、半人半獸、半人半鳥などの類が澤山ある。佛教の五大明王等も印度教から來て居る。
印度から西へ行くと、ペルシヤが非常に盛である。ペルシヤには例の有名なルステムの化物退治の神話があり、アラビヤには例の有名なアラビヤンナイトがある。埃及もさうである。洋々たるナイル河、荒漠たるサハラの沙漠、是等は大に化物思想の發達を促した。埃及の神樣には化物が澤山ある。併し之が希臘へ行くと餘程異り、却つて日本と似て來る。これ山川風土氣候等、地理的關係の然らしむる所であつて、凡てのものは小じんまりとして居り、隨つて化物も皆小規模である。希臘の神は皆人間で僅にお化はあるが、怖くないお化である。夫は深刻な印度の化物とは比べものにならぬ。例へば、ケンタウルといふ惡神は下半身は馬で、上半身は人間である。又ギカントスは兩脚が蛇で上半身は人間、サチルスは兩脚は羊で上半が人間である。凡そ眞の化物といふものは、何處の部分を切り離しても、一種異樣な形相で、全體としては渾然一種の纏まつた形を成したものでなければならない。然るに希臘の化物の多くは斯の如く繼合せ物である。故に眞の化物と言ふことは出來ないのである。然らば北歐羅巴の方面はどうかと見遣るに、此方面に就ては私は餘り多く知らぬが、要するに幼稚極まるものであつて、規模が極めて小さいやうである。つまり歐羅巴の化物は、多くは東洋思想の感化を受けたものであるかと思ふ。
以上述べた所を總括して、化物思想はどういふ所に最も多く發達したかと考へて見るに、化物の本場は是非熱帶でなければならぬ事が分る。熱帶地方の自然界は極めて雄大であるから、思想も自然に深刻になるものである。そして熱帶で多神教を信ずる國に於て、最も深刻な化物思想が發達したといふ事が言へる。縱令熱帶でなくとも、多神教國には化物が發達した。例へば西藏の如き、其喇嘛教は非常に妖怪的な宗教である。斯樣にして印度、亞刺比亞、波斯から、東は日本まで、西は歐羅巴までの化物を總括して見ると、化物の策源地は亞細亞の南方であることが分るのである。
尚化物に一の必要條件は、文化の程度と非常に密接の關係を有する事である。化物を想像する事は理にあらずして情である。理に走ると化物は發達しない。縱令化物が出ても、其は理性的な乾燥無味なものであつて、情的な餘韻を含んで居ない。隨つて少しも面白味が無い。故に文運が發達して來ると、自然化物は無くなつて來る。文化が發達して來れば、自然何處か漠然として稚氣を帶びて居るやうな面白い化物思想などを容れる餘地が無くなつて來るのである。
三 化物の分類
以上で大體化物の概論を述べたのであるが、之を分類して見るとどうなるか。之は甚だ六ヶしい問題であつて、見方により各異る譯である。先づ差當り種類の上からの分類を述べると、
(一)神佛(正體、權化)
(二)幽靈(生靈、死靈)
(三)化物(惡戲の爲、復仇の爲) (四)精靈 (五)怪動物
の五となる。
(一)の神佛はまともの物もあるが、異形のものも多い。そして神佛は往々種々に變相するから之を分つて正體、權化の二とすることが出來る。化物的神佛の實例は、印度、支那、埃及方面に極めて多い。釋迦が既にお化けである。卅二相を其儘現はしたら恐ろしい化物が出來るに違ひない。印度教のシヴアも隨分恐しい神である。之が權化して千種萬樣の變化を試みる。ガネーシヤ即ち聖天樣は人身象頭で、惡神の魔羅は隨分思ひ切つた不可思議な相貌の者ばかりである。埃及のスフインクスは獅身人頭である。埃及には頭が鳥だの獸だの色々の化物があるが皆此内である。此(一)に屬するものは概して神祕的で尊い。
化物の分類の中、第二の幽靈は、主として人間の靈魂であつて之を生靈死靈の二つに分ける。生きながら魂が形を現はすのが生靈で、源氏物語葵の卷の六條御息所の生靈の如きは即ち夫である。日高川の清姫などは、生きながら蛇になつたといふから、之も此部類に入れても宜い。死靈は、死後に魂が異形の姿を現はすもので、例が非常に多い。其現はれ方は皆目的に依つて異なる。其目的は凡そ三つに分つことが出來る。一は怨を報ずる爲で一番怖い。二は恩愛の爲で寧ろいぢらしい。三は述懷的である。一の例は數ふるに遑がない。二では謠の「善知鳥」など、三では「阿漕」、「鵜飼」など其適例である。幽靈は概して全體の性質が陰氣で、凄いものである。相貌なども人間と大差はない。
第三の化物は本體が動物で、其目的によつて惡戯の爲と、復仇の爲とに分つ、惡戯の方は如何にも無邪氣で、狐、狸の惡戯は何時でも人の笑ひの種となり、如何にも陽氣で滑稽的である。大入道、一つ目小僧などはそれである。併し復仇の方は鍋島の猫騷動のやうに隨分しつこい。
第四の精靈は、本體が自然物である。此精靈の最も神聖なるものは、第一の神佛の部に入る。例へば日本國土の魂は大國魂命となつて神になつてゐる如きである。物に魂があるとの想像は昔からあるので、大は山岳河海より、小は一本の草、一朶の花にも皆魂ありと想像した。即ち「墨染櫻」の櫻「三十三間堂」の柳、など其例で、此等は少しも怖くなく、極めて優美なものである。
第五の怪動物は、人間の想像で捏造したもので、日本の鵺、希臘のキミーラ及グリフイン等之に屬する。龍麒麟等も此中に入るものと思ふ。天狗は印度では鳥としてあるから、矢張此中に入る。此第五に屬するものは概して面白いものと言ふことが出來る。
以上を概括して其特質を擧げると、神佛は尊いもの、幽靈は凄いもの、化物は可笑しなもの、精靈は寧ろ美しいもの、怪動物は面白いものと言ひ得る。
四 化物の表現
此等樣々の化物思想を具體化するのにどういふ方法を以てして居るかといふに、時により、國によつて各々異なつてゐて、一概に斷定する事は出來ない。例へば天狗にしても、印度、支那、日本皆其現はし方が異なつて居る。龍なども、西洋のドラゴンと、印度のナーガーと、支那の龍とは非常に現し方が違ふ。併し凡てに共通した手法の方針は、由來化物の形態には何等か不自然な箇所がある。それを藝術の方で自然に化さうとするのが大體の方針らしい。例へば六臂の觀音は元々大化物である、併し其澤山の手の出し方の工夫によつて、其手の工合が可笑しくなく、却つて尊く見える。決して滑稽に見えるやうな下手なことはしない。此處に藝術の偉大な力がある。
此偉大な力を分解して見ると。一方には非常な誇張と、一方には非常な省略がある。で、これより各論に入つて化物の表現即ち形式を論ずる順序であるか、今は其暇がない。若し化物學といふ學問がありとすれば、今まで述べた事は、其序論と見るべきものであつて、茲には只序論だけを述べた事になるのである。
要するに、化物の形式は西洋は一體に幼稚である。希臘や埃及は多く人間と動物の繼合せをやつて居る事は前に述べたが、それでは形は巧に出來ても所謂完全な化物とは云へない。ローマネスク、ゴシツク時代になると、餘程進歩して一の纏まつたものが出來て來た。例へば巴里のノートルダムの寺塔の有名な怪物は繼合物ではなくて立派に纏まつた創作になつて居る。ルネツサンス以後は論ずるに足らない。然るに東洋方面、特に印度などは凡てが渾然たる立派な創作である。日本では餘り發達して居なかつたが、今後發達させようと思へば餘地は充分ある。日本は今藝術上の革命期に際して、思想界が非常に興奮して居る。古今東西の思想を綜合して何物か新しい物を作らうとして居る。此機會に際して化物の研究を起し、化物學といふ一科の學問を作り出したならば、定めし面白からうと思ふのである。昔の傳説、樣式を離れた新化物の研究を試みる餘地は屹度あるに相違ない。(完)
(大正六年「日本美術」) | 底本:「木片集」萬里閣書房
1928(昭和3)年5月28日発行
1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「日本美術」
1917(大正6)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:しだひろし
2007年11月22日作成
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青山菊栄様
あなたの公開状は本当に、私には有りがたいものでした。私は幾度も〳〵読み返しました。勿論、不服な事もありますがそれはおい〳〵申上げる事にして、先づ公娼廃止についてのあなたの考へ方は正当です。私はそう云ふ方面に全く無智なのです。私はまださういふ詳しい事を調べるまでに手が届かなかつたのです。その点では私はあゝ云ふ事を云ふ資格は全くなかつたのかも知れません。あれは私は或田舎の新聞に頼まれて書いたものなのです。別に深い自信のあるものでもなんでもありませんでした。けれども全く、私はあなたのお書きになつたものを拝見して始めてさう云ふことを気づいたのです。勿論、私はさういふ娼妓の生活状態に就いて無智な者ではないのです。私は可なりあの人たちの生活についてはもつと子供の時分から知つてゐましたのです。さうしてさういふ処に気のつかなかつたのは私の自重のない態度がさうさしたのです。私はあなたにその事を気をつけて下すつた事を感謝いたします、そして、あなたのやうな考へ方から見れば公娼廃止と云ふことも尤もな事です。もうその事については何にも云はない方が立派な態度かもしれません。こんな事を云ふのは卑怯な負惜しみと見えるかも知れませんが、私があれを書いた時に主として土台にしたのは矯風会の人たちの云ひ分でした。私はそれ以外に深く考へることをしなかつたのは私の落ち度ですが彼の人たちからはさう云ふ深い事は聞きませんでした。若しもあの人たちが本当にさう云ふ、あなたのやうな意見を以て向ふのなら、私だとてあんな事を書きはしません、私は矯風会の人たちからはまだそんな立派な事は聞きませんでした。それで、根本の公娼廃止と云ふ問題はあなたの仰つしやるやうな正当な理由から肯定の出来る事ですが、私は矯風会の人達の云ひ分に対しては矢張り軽蔑します。あの人達の云ふ事はあなたのゝ程徹底しては居ないと私は思ひます。
さて此度は、私とあなたの思想の差異になつて参りますが、私はすべての議論が何時でも何の人達のでもお仕舞ひにはつまらない言葉のあげあしとりになつて、水掛論になるので議論と云ふ事は本当に嫌やなのです。さういふいやな事をしまいと思へば一々その言葉の内容からしてさがして行かなければならないと云ふ面倒な事になつて来ます。さうしますと、だん〳〵に本来の問題よりも枝葉の事に渡つて来ると云ふ順序になります。私は今私の考へを述べる前に、どうかこの事がさうしたなりゆきにならないやうに出来る丈けお互ひに丁寧に、あつかひたいと思ひます。
先づ、何よりも先きにあなたに申あげなければならない事は、私が公娼廃止に反対だと云ふ風にあなたが誤解してお出になるらしい事に就いて、私は左様ではありませんと云ふ事です。私は勿論肉の売買など決して、いゝ事だとは思ひません。悲惨な事実だと思つてゐます。さういふ事をしないでも済むのならそれに越した事はありません。細かしい事はおい〳〵云つてゆきますが先づ大ざつぱに、私の見たあなたの、私の云つた事についての御批評は、あまりに表面的で独合点でゐらつしやいます。それは、あなたが私の書いたものにこれ迄あまり注意して頂く事が出来なかつた故かも知れませんが。
あなたは私が売淫と云ふ事が社会に認められてゐるのは男子の要求と長い歴史がその根を固いものにしてゐるので、それは必ず存在する丈けの理由をもつてゐるから彼女たちが六年をちかつたつて十年をちかつたつてどうして全廃する事が出来やうと云つたのを、私が絶対に全廃することが出来ないとでも云つてゐるかのやうにむきになつてゐらつしやるやうですが、成程私の言葉の足りなかつた処もありますけれども私は、それを絶対の意味で云つたのではなかつたのでした。私はいろ〳〵な深い根本の事を考へてゐますと、すべての「存在」と云ふ事について深い不審をもつてゐますが、さう云ふ「存在」と云ふ事実がある以上、局部的にはその理由を一つ〳〵認めることが出来ます。あなたの態度から云ひますと立派なものでなくては存在の理由がないやうな風になりますが、どんなつまらない事でも「存在」する以上相当の理由と価値とは必ずあります。たゞ価値と理由が、その存在を長くしたり短かくしたりする丈けだと思ひます。根、と云ふものはそんなに絶対のものではありませんよ、浅かつたりゆるかつたりすれば忽ち引つこぬかれます。どんなに深く這入つたものでも固いものでも生命がなくなれば駄目ですし、相当の労力と時間を費せば掘り出すことも出来ます。長い歴史が根を固くしてゐると云ふことは正しい存在の理由を構成しないとあなたは仰云つてます。さうですとも正しい存在でないものには正しい理由のある筈がありません。勿論惰性と同義だと云ふ事はあまりに分りすぎてゐます。それがおわかりになつて何故私が公娼廃止が絶対に行はれないやうに考へてゐるなどゝ誤解なさるのでせう。此処ではあなたの方が却つてその存在にもつと正しい理由がある事のやうに是認してお出になるやうに見えますよ。で、私が全然その事を不可能だなどゝ云ふ馬鹿な考へを持つてゐない事をおわかり下さいましたか?
さて、此度は要求と云ふ事の側になりますが、あなたはそれを男子の身勝手と云ふ簡単な言葉で片づけてお出になりますが、私は男子の本然の要求が多く伴つてゐると云ふ主張は退ける事が出来ません。もと〳〵売淫制度が不自然である以上、不自然な制度に応じて出来たものであることは云ふ迄もありません。其処で、あなたのお調べになつた事がます〳〵その売淫制度と云ふものが男子の本然の要求を満たすために存在するものだと云ふことを完全に証拠だてます「女子の拘束の度に比例して売淫が盛んになる」と云ふ事実が。
私にあなたはその事実を承認するかと詰問なさる。「私はこれは惨ましい事実だと思ひます。」と云ふ以上に立ち入つた言葉でお答へしたくはありません。さう云ふ事を簡単に承認するとかしないとかそんな事で片づけやうとなさるあなたは人間の本当の生活と云ふものがそんなに論理的に正しく行はれるものだと思つてゐらつしやいますかと私は反問したい。あなたはあんまり理想主義者でゐらつしやいます。「如何に男子の本然の要求であらうとも女子にとつて不都合な制度なら私は絶対に反対いたします」と云ふあなたの言葉はあまりに片意地に聞こえすぎます。あんまり物事を極端に云ひすぎます。もう少し冷静に考へて頂きたいと思ひます。
あなたは前に、女子の拘束が売淫制度を盛んにすると仰云ひましたでせう? その不自然な拘束が男子の自然な要求を不自然に押へなければならない様にするに相違はないのですけれどもさうした要求が長く忍んでゐなければならない事でせうか、また出来る事でせうか、そんな不自然な抑制は体をいためたり素直な性質をまげたりする他何にもいゝ事はありません、そんなにまでして忍ばなければならないと云ふ理由が何処にありませう。私は私自身としては可なりコンヴエンシヨナルな考へとして非難は受けましたが誇りとか何とか云ふことよりも何よりも私自身の一種の潔癖からヴアージニテイを大切にすると云ふ事を主張しました通りに矢張り同様に男子にもそれを要求したいのです。そしてそれを苦痛を忍んでも抑制すると云ふ気持に美しい一種の感激をもちます。けれどもそれは私一個の考へであり望みなのです。普通の場合としては前に云つた通りそれは先づ不可抗性を帯びた要求ですからそれを是非押へなければならないと云ふことはあんまり同情のない考へ方だと思ひます。まして男女の人口が不均衡になり、ます〳〵結婚が困難になつて来るやうな不自然な社会にあつてはどうしても売淫を避ける事は出来ないと思ひます、その不自然な社会制度を改造する迄は。「男子の本然の要求だからと云つて同性の蒙る侮辱を冷然看過した」とあなたはお責めになるけれども、看過せない、と云つてどうします。私は本当にその女たちを気の毒にも可愛さうにも思ひます。けれども強制的にさうした処に堕ち込んだ憐れむべき女でさへも食べる為、生きる為と云ふ動かすことの出来ない重大な自分のために恬然としてゐます。彼女等をその侮辱から救はうとするには他に彼女等を喰べさせるやうな途を見付けてからでなくては無智な、何にも知らぬ女たちにとつてはその御親切は却つて迷惑なものではないでせうか? 公娼廃止と云ふ事は成程あなたの仰有るやうな理由で出来るかもしれませんが売淫と云ふ侮辱から多くの婦人を救ふことは先づこの変則な社会制度が破壊される迄は不可能な事ではないかと思ひます。それ丈けは私たちがいくらもがいても時が来なくては駄目だとおもひます。あなたは看過することの出来ないと仰有る程又それを看過するとはあるまじき事だと私をお責めになる位熱心にその事にたづさはつてゐらつしやるらしいやうですからそんな手ぬるい考へではあきたらないとお思ひになるでせうがそれは各自の考へ方の相異、歩き方の相異です。あなたは何をおいてもその為めにお働きになる事に一番意義があるとお思ひになるのも尤もですし、私はまだ何をおいてもさう云ふ運動をして大いに婦人の為めに尽さうと思ふ程その仕事に生き甲斐を見出し得ませんから先づ自分のまはりから先きに片づけて行きたいと思ふのです。あなたにとつては私のこの態度はあんまり自分の事ばかり考へすぎてゐる手前勝手者のやうにお思ひになるでせうがそれが私とあなたとの違つてゐる処ですから仕方はありません。序でに、公娼が廃止になれば私娼も少くなると云ふ事実は少し私には首肯が出来かねます。吉原が衰微に傾いた今日市内の私娼の増加は驚くに足ると云ふ事実を何で証明して下さいますか? 公娼が公然挑発、誘惑の設備を許されてゐるから青年の情欲を刺戟して堕落させるが私娼は公然挑発しないと仰有るのは少し変だと思ひます。私は浅草の十二階下辺の私娼がさま〴〵に変粧して迄男子を誘惑すると云ふ話を可なり沢山聞きましたし、彼処の客と云ふ者が学生が多数を占めてゐると云ふたしかな事実も聞きました。要するに公娼も私娼も大した違ひはないと思ひます。売淫と云ふ点はどちらも同じなのだと思ひます。今の日本の私娼と云ふものも同じく他人に抱へられて借金をして稼いでゐる点では公娼と大したちがひはないやうに思はれます。外面的にはずつと私娼が勝れてゐるやうに見えても案外情実のからみついた彼れ等の社会は矢張りさうたやすくぬけられるものでもないやうに思はれます。
あなたが廃止運動が大切だと躍起におなりになるのにも、私が知りながら呑気らしい顔をしてゐるやうに見えるのにも相当の理由があるのです。あなたはあなた、私は私なのですから、お互ひに他人の態度を気にするよりも、まあ自分の事をした方が結局お互同士の為めです。あなたは万事にあんまりむきに、大げさに考へすぎて、私には何だか滑稽になつて来ます。外国人への見栄を、私は決して悪い事だとは云ひません、たゞそれ丈けの理由ではあまりに浅薄だと云つた迄です。あなたのそれについての比喩はあんまり真面目すぎて、「他人を馬鹿にしてゐる」と怒りたくなるやうな馬鹿々々しい理屈です。頭がどうかしてるんぢやありませんか?
それから私がすべての事象は表面に現はれる迄には必ず確たる根をもち、立派なプロセスをもつてゐるものであり、自然力の力強い支配のもとにある不可抗力で、それは僅かな人間の意力や手段では誤魔化せないと云つたのに対して疑ひをおかけになりました。さうしてすべての歴史を通じての革新や制度が人間の手に作られたり随時にこはされたりするものであるからこそ女に不都合な世の中を改革しやうとしてゐらつしやるぢやありませんかとの仰せ、もつともですと申上げたいのですが、どうもあなたの頭は余程をかしいと思はずにはゐられません。人間が造つたりこはしたりすると云つた処で、偶然に作らうと思つて造つたりこはさうと思つてこはしたり単純に出放題なことは決してやれるものではありません。子供が粘土細工をするやうな訳にはゆきません。必ず其処迄ゆくには行く丈けの理由とプロセスがあつて人間の意力を其処まで導いてゆく他の力があるに相異ないと私は信じます。破壊にも建設にも必ず相応な理由があります。それを運んでゆくプロセスがあります。それをさう導く力は何でせう。時はすべての問題を支配します。その時を駆使する力は何でせう。偉大なる自然力の前に人間の意力はどんなに小さいものかお考へになつた事はありませんか。人間の意力で百般の事を左右し得なければ私たちの戦は徒労だと仰有る。御心配下さいますな。私たちは何時でもその自然力の味方である真理に後を向けませんから大丈夫です。私はその不可抗力を知つてゐます。ですから決して無謀な反抗に生甲斐を見出し得ませんから、静かに先づ自分丈けの事からやつてゆきます。自分の意力の届く範囲だけで出来る丈け立派な道を歩いてゆきます。私の小さな意力は他人に迄も強制的に及ぼす事の出来ない事を私は知つてゐます。あなたの私に対する反問は皆上走つてゐて少しも核に触れてはゐません。「人間の造つた社会は人間が支配する。」と云ふお言葉は尤もに聞えますがその人間を支配するものがありますね、その人間を支配する者が矢張り社会も支配しはしないでせうか。社会は人間が造つたのでせうけれど人間は誰が造つたのでせう? 果して人間は何から何まで自分で自分の仕末の出来る賢い動物でせうか? まあ一寸考へて見ても人間は時と云ふものに駆使されてゐます。気の毒な程、処が利口な人間は時を利用することは知つてゐますが自由に駆使することは出来ないでせう? それ丈けでもまだ人間はそんなに威張る資格はありませんよ、権力者の造つた制度が不可抗力だなどゝ云つた覚えは更に私にはありません。権力者たちの造つた制度のなか〳〵こはれないのはせい〴〵時の問題位なものです。時が許しさへすれば何時でも破せます。そら、其処でも矢張りいくら人間がもがいたつて時が許さなければ駄目でせう。それ丈けの制度の根を固める為めには権力者たちも相当な犠牲を払ひ骨折をしてゐるのですからいくら不自然だつて何の償もなしにその株に手をかける事は許されない道理でせう?
私は公娼問題の事はもうおしまひになつたのかと思へば又ですか? 本当に頭がどうかしてゐはしませんか? 其処でお答へする丈けは充分しておかないと又二度繰り返すやうではいやですから。
さて公娼廃止は私も先づ可能と信じます。それで今度は「誰でもが云ふやうに」売淫制度の存在を是認したと云ふことのお責めにあづかる訳ですね、先づさうですね、誰でもの云つてゐる事が真実だと思へば私はいくら「誰でもが」云つてゐても真実だとしますよ、私は衆人が口をそろへて云つてゐるからあれはうそだなど云ふ理屈はないと思ひます。「誰でも」は決してまがつた事ばかり云つて正しい事を云はないとかぎつてゐないことは百も承知でせう? いくらあなただつて! あなたは本当につまらないあげあしをとつてゐますね、煩さいぢやありませんか、傲慢だとか傲慢でないとかそれが私の態度なら面倒臭いからどちらでもあなたの下さる方を頂戴しておきますよ、どつちだつて私に変はありやしないから。もうあとの事に一々お返事するのは面倒だから止めます。仰有る通りに折りがあつてお目に懸つたらまたお話しませう、私はあなたのお書きになつたものは翻訳を除いては初めてですからどうかしたら感ちがひをした処があるかもしれませんからそんな処がありましたら御注意下さいまし。但し大抵これで私の考へ方はお分り下さる筈と思ひますからもうこれ以上この問題について云々することは御免蒙りたいと思ひます。失礼な事ばかり申上げました。おゆるし下さいまし。
[『青鞜』第六巻第一号、一九一六年一月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第六巻第一号」
1916(大正5)年1月号
初出:「青鞜 第六巻第一号」
1916(大正5)年1月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056961",
"作品名": "青山菊栄様へ",
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"ソート用読み": "あおやまきくえさまへ",
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"初出": "「青鞜 第六巻第一号」1916(大正5)年1月号",
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"生年月日": "1895-01-21",
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新らしい女は今迄の女の歩み古した足跡を何時までもさがして歩いては行かない。新らしい女には新らしい女の道がある。新らしい女は多くの人々の行止まつた処より更に進んで新らしい道を先導者として行く。
新らしい道は古き道を辿る人々若しくは古き道を行き詰めた人々に未だ知られざる道である。又辿らうとする先導者にも初めての道である。
新らしい道は何処から何処に到る道なのか分らない。従つて未知に伴ふ危険と恐怖がある。
未だ知られざる道の先導者は自己の歩むべき道としてはびこる刺ある茨を切り払つて進まねばならぬ。大いなる巖を切り崩して歩み深山に迷ひ入つて彷徨はねばならぬ。毒虫に刺され、飢え渇し峠を越え断崖を攀ぢ谷を渡り草の根にすがらねばならない。斯くて絶叫祈祷あらゆる苦痛に苦き涙を絞らねばならぬ。
知られざる未開の道はなを永遠に黙して永く永く無限に続く。然も先導者は到底永遠に生き得べきものでない。彼は苦痛と戦ひ苦痛と倒れて、此処より先へ進む事は出来ない。かくて追従者は先導者の力を認めて新らしき足跡を辿つて来る。そして初めて先導者を讃美する。
然し先導者に新らしかりし道、或は先導者の残せし足跡は開拓しつゝ歩み来し先導者にのみ新らしい道である。追従者には既に何等の意義もない古き道である。
かくて倒れたる先導者に代る先導者は更にまた悲痛に生きつゝ自己の新らしき道を開拓しつゝ歩いて行く。
新らしきてふ意義は独り少数の先導者にのみ専有せらるべき言葉である。悲痛に生き悲痛に死する真に己を知り己を信じ自己の道を開拓して進む人にのみ専有さるべき言葉である。何等の意義なき呑気なる追従者の間には絶対に許さるべき言葉でない。
先導者は先づ確固たる自信である。次に力である。次に勇気である。而して自身の生命に対する自身の責任である。先導者は如何なる場合にも自分の仕事に他人の容喙を許さない。また追従者を相手にしない。追従者はまた先導者の一切に対する批判者の資格を有しない。権利がない。追従者は唯だ先導者に感謝しつゝその足跡をたどるより他はない。彼等は自から進む事を知らない。彼等は先導者の前進にならつてやうやくその足跡を辿つて進む事が出来るのみだ。
先導者は先づ何よりも自身の内部の充実を要する。斯くて後徐ろにその充実せる力と勇気と、しかして動かざる自信と自身に対する責任をもつて立つべきである。
先導者は開拓しつゝ進む間には世俗的の所謂慰安などは些もない。終始独りである。そして徹頭徹尾苦しみである。悶えである。不安である。時としては深い絶望も襲ふ。唯口をついて出るものは自己に対する熱烈な祈祷の絶叫のみである。故に幸福、慰安、同情を求むる人は先導者たる事は出来ない。先導者たるべき人は確たる自己に活くる強き人でなくてはならぬ。
先導者としての新らしき女の道は畢竟苦しき努力の連続に他ならないのではあるまいか。
[『青鞜』第三巻第一号附録、一九一三年一月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第三巻第一号附録」
1913(大正2)年1月1日
初出:「青鞜 第三巻第一号附録」
1913(大正2)年1月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
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"作品ID": "056232",
"作品名": "新らしき女の道",
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"初出": "「青鞜 第三巻第一号附録」1913(大正2)年1月1日",
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"最終更新日": "2014-11-14T00:00:00",
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"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "のえ",
"姓ローマ字": "Ito",
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"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年5月31日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"底本の親本名1": "青鞜 第三巻第一号附録",
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世間には可成に女を知りぬいたつもりで、かれこれと女を批評する男が尠くないやうですが、それが大抵九分九厘迄は当つてゐないので、こちらの耳へは寧ろ滑稽に聞える位なものです。男は独りよがりを楽むものと思はれます。
男は寛大で、万事が大まかです。随つて綜合的な点に於て女は男に及ばないでせうが、部分的な細かい洞察は、とても女に勝てますまいと思はれます。
女は綜合的で無いかわりに部分的に深刻です。男は綜合的ではあるが、如何にも粗笨で浅薄です。何を為るにも独り合点で、片端から独断でやつてのけます。男の為ることは馬鹿々々しい程無邪気に女には見えます。
浅薄な、手妻師のやうな男が其処等中に転がつてゐますが、左様云ふ男が女に対する場合、能きる丈けの猫を被つてゐます。けれども其の猫の皮は何んでも無く観破れるのです。直とお底が知れるのです。
処が、実を云ふと、猫を被ぶるのは女の方がもつと〳〵ひどいのです。ひどいのですが細心な注意を払つて男に対する城塞を固めてかゝるので、男には容易にそれと悟れません。夫れだけ女は罪が深いのでせう。それだけ男は無邪気なのでせう。
男は穴だらけ隙だらけです。女は男のその弱点を如何様にも利用することは容易です。然しそれは最も卑劣な行為と言はねばなりません。弱点は無論女にもあるのですから、弱点と弱点とは互に調和して行かなければならないことで、弱点を包み隠し合ふ必要が無いと同時に、弱点を利用すると云ふことは罪悪でせう。
水商売の女は巧に男の弱点を利用してゐます。水商売の女で無くても、世間には斯んな種類の女が沢山あります。
男を怖いもの、厳めしいものゝ様に思ふのは、世間知らずの娘時代に多いことで、人の妻となり母と成つた女の眼には、男は怖いものでも厳めしいものでも無く、親しみ易い与し易い無邪気なおめでたいものとしか映らないのです。其の証拠には、愈々突きつめた場合になって、男は意気地が無い程早く折れますが、女は然う云ふ場合に徹頭徹尾自分の強さを示す事の能きるものです。いざと云ふ場合此方に強く出られて、高飛車に強勢を執る男はめつたに有るものでありません。大抵はコロリと参つちまひます。
女が男に服従しなきやならないと云ふ理由は成り立ちません。たゞ永い日本の習慣が女の独立を妨げたが為めに、女は自分の生活の保障をして呉れる男に対して一歩を譲つて相当の敬意を払ふと云ふ丈けのものです。そこへ男が付け込んで奴隷扱ひにし、女が盲従的に甘んじてその屈辱を受けると云ふのは訳の解らないことです。
軈て女の独立の道が確立されたら、この弊は除れて了ふでせうが、其処に到る迄の女の自覚は今の処仲々容易なことではありますまい。
婦人問題は担ぎ上げられても、世間一般の婦人はウンともスンとも言ひません。夫れもその筈、担ぎ挙げる人達が男も女も、真個に覚醒して見えるのが無いからです。この青鞜社にだつて、書物で醒めた自覚者はあつても、切実に実際問題に触れて衷心から自覚の声を放つ人は殆ど無いと申しても宜しいのです。
併し世間の男の方にだつて真に自覚した人と云ふのは余り有りさうにも見えません。男の方の方が女よりももつと尠いかも知れません。何は兎もあれ男のかたに覚醒の実をあげて貰はねばなりますまい。男の方に先き立つて貰はねば、現在の社会の制度では婦人の自覚などは謂ふ丈けが野暮に終るかも知れません。
現今世界各地に於ける婦人覚醒のムーヴメントは、今後何う発展し実現して行きますことか。――話が横道に外れますからこれ位にして置きます。
[『新婦人』第四年一月之巻、一九一四年一月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「新婦人 第四年一月之巻」
1914(大正3)年1月
初出:「新婦人 第四年一月之巻」
1914(大正3)年1月
入力:酒井裕二
校正:Butami
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056962",
"作品名": "新らしき婦人の男性観",
"作品名読み": "あたらしきふじんのだんせいかん",
"ソート用読み": "あたらしきふしんのたんせいかん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新婦人 第四年一月之巻」1914(大正3)年1月",
"分類番号": "NDC 367 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-09-16T00:00:00",
"最終更新日": "2019-08-30T00:00:00",
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"人物ID": "000416",
"姓": "伊藤",
"名": "野枝",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "のえ",
"姓読みソート用": "いとう",
"名読みソート用": "のえ",
"姓ローマ字": "Ito",
"名ローマ字": "Noe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年5月31日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"底本の親本名1": "新婦人 第四年一月之巻",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1914(大正3)年1月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "酒井裕二",
"校正者": "Butami",
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一
私がYを初めて見たのは、たしか米騒動のあとでか、まだその騒ぎの済まないうちか、よくは覚えていませんが、なにしろその時分に仲間の家で開かれていた集会の席ででした。その時の印象は、ただ、何となく、今まで集まってきた人達の話しぶりとは一種の違った無遠慮さで、自分が見た騒動の話をしていましたのと、その立ち上がって帰る時に見た、お尻の処にダラリと不恰好にいかにも間のぬけたようにブラ下げた、田舎々々した白縮緬の兵児帯とが私の頭に残っていました。彼はまだその時までは、新宿辺で鍛冶屋の職人をしていたのです。
彼が、しげしげと私の家に来るようになったのは、私共が、田端で火事に焼け出されて、滝野川の高台の家に越してからでした。
それ程深い交渉がなく、そして彼が幾分か遠慮している間は、私もこの珍らしい、無学な、そしてそのわりにはなかなか物解りもよさそうな労働者を、興味深く眺めておりました。同志の間にも、彼の評判は非常によいのでした。が、やがて、彼がだんだんに無遠慮のハメをはずすようになってきた頃から、私は何となく、Yのすべての行為のどこかに、少しずつの誇張が伴い出してきたのを見のがすことができませんでした。
無遠慮は、むしろ私共が、私共の家に来る人々には望むのでしたが、Yの無遠慮には、何となく私の眉をひそめさす、いやな誇張がありました。
はじめのうち、私はYの行為に眉をひそめずにはいられない自分の心持ちを振り返って、「これは、私の方が無理なのだろうか」と思ってみました。けれども、私はどうしてもYの行為を心から許す気にはなれませんでした。
「Yの無遠慮もいいけれど、この頃のようだと本当に閉口しますわ。」
私はよくOに向ってこぼしました。
「どうして?」
「どうしてって、火鉢の中にペッペッと唾を吐いたり、ワザと泥足で縁側を歩いたり、そういう意固地な真似ばかりするんですもの。くだらないことだから気にしずにいようと思うのですけれど、あの人のやり方はどこか不自然な処があっていやですもの。無邪気でやるのなら、私そんなに気になりはしないと思いますわ。」
「うん、まあそんな処もあるね。だが、他の先生とちがって、Yは僕等のこんな生活でも時々はやはり癪に障るんだよ。やっぱり階級的反感さ。まあできるだけそんなことは気にしないことだね。」
「ええ、気にしたって仕様はありませんけれどね。でも、時々は本当に腹が立ちますよ。癪に障るっていっても、あの人だって、ここに来てずいぶんいい気持そうな顔をしているんじゃありませんか。」
私は折々Yが、明るい湯殿の中で大きな声で流行歌などを歌いながらはいって、湯から上がると二階の縁側の籐椅子の上に寝ころんで、とろけそうな顔をして日向ぼっこをしている姿などを思い出しながらいいました。
「無邪気な、いい男なんだよ。だがあなたの気にするようなデリカシイはあの男には持ち合わせがないんだ。あなたのような人は、あんな男は、小説の中の人間でも見るようなつもりで、もっと距離をおいて見ているんだよ。そうすれば、あの男のいやな処だって、だんだんに許せるようになるよ。あの男は本当の野蛮人だからね。あいつが、山羊や茶ア公とフザケている時をごらん。一番面白そうだよ。すっかり仲間になり切っているからね。」
本当にそれは一番の愉快そうな時でした。彼は私の家の庭つづきの広い南向きの斜面の原っぱで、私共の大きな飼犬と山羊を相手にころがりまわりました。彼のがっしりした、私には寧ろ恐ろしい程な動物的な感じのする体が、真白な山羊の体と一緒に犬に追われながら、まるで子供の体のようにころがりまわるのです。そうしては青い草の中にいっぱい陽をあびて、ゴロリと横になっては犬をからかっていました。
二
Oは私にYを小説の中の人物の気で見ていろといいました。私もややそれに似た気持ちで見てはいましたけれど、そしてまた、彼の無知からくる子供らしい率直さを、充分に知ることはできましたけれど、それにもかかわらず、彼の中に深く根ざされている、傍若無人に振舞っている間にも、必ず他人の心の底を覗こうとする一種の狡猾さと、他の好意につけ込む図々しさと執拗さとにはどうしても眼をつぶる訳にはゆきませんでした。
けれども、その時分、彼は非常な熱心さで運動をしていました。彼は同志の人の手を借りて小さなビラ代りの雑誌をつくりました。そして自分の家に南千住あたりの自由労働者を大勢ひっぱってきて、集合をしたり、演説会をしたりして、官憲の圧迫に反抗しながら勇敢に宣伝を続けておりました。
彼の頭はメキメキ進みました。自分の姓名さえも満足に書くことのできないYが、いつの間にか、むずかしい理屈を、複雑な言葉で自由に話すようになったのには、誰も彼も感心しました。私共も、彼の執拗な質問にはなやまされましたが、それでも、一度腹に入った理屈は立派に自分のものにコナしてしまう頭を彼は持っていたのです。彼はどんなちょっとした他人の言葉尻でも、決して空には聞き流しませんでした。同志の人達は、彼とは係りなしに話しているのに、彼が横合からその言葉尻を捕えて腑に落ちるまで問い訊さねばおかないので、大事な話を台なしにされることがよくありました。けれども彼はその執拗な質問で自分の耳学問を進めていったのです。そして彼はその聞き噛った理屈を自分の過去の生活にあてはめて見ることを忘れませんでした。彼の耳学問はそういう風にしてだんだんと物になってきたのです。折々は、聞きかじりの間違った言葉や理屈でよく若い同志達に笑われたりしましたが、それでも彼はそんなことでは決してへこみはしませんでした。
当時私共の間にはかなり大勢の労働者達が集まっていましたけれど、大抵は印刷工でそうひどい筋肉労働をする人達でもないし、その知的開発もかなり進んだ処まで受けていた人達が多かったので、私共にはYのような、またYが集めるような労働者は、非常に珍らしかったのです。その人々の疑いは非常に単純で無知でしたけれど、その後私共が多く見てきた労働者達とおなじように、私共の話すことは驚く程よく解るのでした。私共の力では到底及ばないそれ等の人々への宣伝に、Yの力が与っていたのはいうまでもありません。そのために彼は、Oはじめ多くの同志達に充分認められていました。みんなはかなりYを大事にしました。
それを見て取った時分から、Yの調子が少しずつ、変ってきたのが私には見えはじめました。彼の無遠慮にますます嫌な誇張が多くなってきました。彼はその頃にはもうわざとあかとあぶらで真黒な着物を着ては、ゴロゴロと畳の上に寝ころぶような真似をし出しました。「虱なんかを嫌がって、労働運動面もあるものか」と傲語しながら、ワザとかゆくもない体をボクボクかくというような誇張をはじめたのです。そして、その真面目な運動の話の方面にさえ大分誇張がまじってきました。
新しい興味の多い労働者への宣伝に夢中になっている人達には、もちろんそんなことはどうでもよく、気もつかないようでした。しかし、「小説の中の人物のように」彼を見ようとして、始終彼に気持の上の圧迫を受け続けていた私には、だんだんと、彼が、労働者の同志として、みんなに大事がられるその位置に、いい気になりだしてきたのが分りました。
三
Yを慢心させ、その後彼をもっと悪い堕落に陥し入れたもう一つの大きな原因になっているのは「警察が恐くない」という実に単純な一つの事実です。
それは、私共が、滝野川の家に越してから間もなくでした。Oは、何かの用事でYの家に行く事になりました。Oは以前一度その家へ行って見て、ぜひ私をその家に連れてゆこうといい出しました。当時Yは、浅草の田中町の小さな裏長屋に、始終彼の啓発者であったMさんといっしょに住んでいました。私は半ば好奇心からある晩子供をおぶって出かけてゆきました。
それは、四畳半一間の家でした。しかもその四畳半の半だけは板の間で、そこがまず台所という形で、つきあたりの押入れは半分が押入れで、あとの半分が便所という住居でした。露路をはいると、何ともいいようのない一種の臭気に閉口しながら、Yの家にはいった私は、そこでもその臭気に悩まされ続けました。
話がはずんで、少し遅くなって帰ろうとすると、Yは泊ってゆけとしきりにとめるのです。私はその無茶な申出に驚いていました。さすがにMさんは、
「こんな処に泊めちゃ迷惑じゃないか。」
とYをとめていましたけれど、Yはそんなことにはいっこうおかまいなしです。「くっつき合って寝れば八人は寝られる」と彼はムキになって主張するのです。
「後学のためだ、一つ我慢して泊って見るか。」
とOは私を振りむいていいました。
「とんだ後学だなあ。」
Mさんも私の顔を見ながら気の毒そうに苦笑しました。
「この辺の様子が、夜でちっとも分らなかったろう? 明日の朝もっとよく見て行くことにして泊ろうか。大分おそくもあるようだ。」
「ええ。」
私も仕方なしに、泊ることにしました。
その夜私は一晩中、うすい蒲団の中でゴロ寝の窮屈さと、子供を寒くないように窮屈でないように眠らすために、寝返りをすることもできず、体が半分痺れたような痛さを我慢して、どうして一人ででも帰らなかったろう、と後悔していました。
Mさんは早く仕事に出て行ってしまいました。Oも眠れなかったと見えて子供が少し動くとすぐ振り返りました。Y一人は気持よさそうに眠っていました。
Yが起きると私達も帯をしめ直して、顔を洗いに外に出ました。ずらりとならんだ長屋の門なみに、人が立っていて私共を不思議そうに見ていました。私は大急ぎで顔を洗うと、逃げるように家の中にはいりました。
Yが近所の人から聞いた話だと、昨晩から、三人も刑事が露路の中にはいってきているので、長屋中で驚いているというのです。間もなく私共は三人で外に出ました。
通りへ出て少し歩いていますと、私共の尾行が、すぐ後ろに三人くっついてきます。
「尾くのは構わないがね、もう少し後へさがって尾いて来て貰いたいね。」
私はあんまりうるさいので、一人の男にそういいました。彼はぶっと面をふくらせて私を睨みつけました。私は構わず、少し後れていたので、急いでYとOにおいつきました。
が、気がつくと彼等はやはりすぐ後ろから来ます。
「今いったことがお前さん達には分らないのかい?」
私は先刻の男を睨みながらいいました。
「余計な指図は受けない。」
彼は悪々しく私にいい返しました。
「余計な指図? お前さん達は、現に尾行をしながら尾行の原則を知らないのかい。尾行の方法を知らないのかい?」
「余計はことをいわなくてもいい。」
彼が恐ろしい顔付きをしていい終わったか終わらないうちに、Oはそこまで引き返して来ていました。
「何っ! もう一ぺんいって見ろ! 何が余計なことだ。貴様等は他人の迷惑になるように尾行しろといいつけられたか。」
「迷惑だろうが迷惑であるまいが、此方は職務でやっているんだ。」
彼は蒼くなって肩を聳かしました。
「よし、貴様のような奴は相手にはしない。来いっ! 署長に談判してやる!」
Oはいきなりその男の喉首をつかみました。
「何を乱暴な!」
と叫んだが、彼はもう抵抗し得ませんでした。あとの二人の奴は腑甲斐なく道の両側に人目を避けるように別れて、オドオドした様子をしてついてきました。
往来の人達は、この奇妙な光景をボンヤリして見ていました。大抵の人達は、今首をしめられて、引きずられてゆく巡査の顔を見知っているのです。
Yは真青な顔をしていました。Oに日本堤の警察に案内するようにといわれて、妙に臆したような表情をチラと見せて、ろくに口もきかずに歩きました。それでも途中で一二度知った人に訊かれると、
「なにね、彼奴が馬鹿だからね、これから警察へしょぴいて行ってとっちめるのさ。」
とちょっと得意らしく説明していました。日本堤署では、早いので署長は出ていませんでした。居合わせた警部は、引きずられてきた尾行の顔を見るとのぼせ上がってしまって、OやYのいうことには耳も貸さずに、のっけから検束するなどとわめき立てました。私はその間にそっと出て、近所で署長の家を訪ねた。すぐ分ったので、行くと署長はもう出かけようとしているところでした。私は簡単にわけを話してすぐ署の方に出かけるように促しました、そこにOとYが来ました。署長は案外話が分りました。私共は尾行をとりかえて貰って帰ってきました。
四
Yには、この小さなできごとが余程深い感銘を与えたのか、それから少しの間は、絶えずこのことを吹聴して、警察は少しも恐れるに足らないことを主張しました。みんなには、これは苦笑の種でしたが、Yはそれから警察に対して急に強くなりました。そして一つ警察をへこましてゆくたびに彼は持ち前の増長をそこに持ってゆきました。彼の住んでいるあたりの人達は、世間一般の人達よりはいっそう警察を恐れる人達でした。その真ん中で、Yは存分に、同志の力を借りては、集会や演説会のたびに群ってくる警官の群を翻弄して見せて得意になっておりました。みんなは、その稚気を、かなり大まかな心持ちで、笑話の種にしていました。
が、彼は大真面目でした。彼は「警察が何でもない」ということがどれほど我々への注意を引くか、ということを熱心に話しました。彼の話はもっともな点がかなりありました。彼のいう所によりますと、一般の労働者階級が警察というものにいじめられているのは、お話の外だ、というのです。それで、彼等は極度に恐れていると同時に、極度にまた憎んでいるのだ。だから、俺達が警察を相手に喧嘩することは、彼等の興味をひきつける最上の手段だ、というのです。彼はそう信ずると同時に、かなり無茶に暴れました。けれども、彼がその住んでいた周囲のその驚異と興味の眼をどれほど得意でいたかは、容易に想像のできることです。
警察はこの無茶な男に手こずり出しました。そして、さっそくにその追払いの手段を講じかけました。同時にまた、尾行の巡査達はこの男のためにしくじりを少くするために、いろいろとずるいやり方をはじめました。元来が非常に自惚れの強いこのお人好のYは、すぐ他の尾行のおだてに乗りはじめました。彼は馬鹿にされされ、自分だけはえらくなった気で威張っていました。それと同時に、彼の持っているもう一面の狡猾さで、図々しさが抜目なく働き出してきました。彼は尾行をおどかしおどかし電車賃を立替えさせたり、食べ物屋に案内させたりすることを、一人前の仲間になったつもりで誇り出しました。それと同時に、引き札がわりに撒くような雑誌をつくるようになって、彼は鍛冶屋を止めました。そしてその印刷費の幾分を広告によろうとしました。此の広告集めは、彼の持っている一面の危険性を知っているOには一つの憂慮の種でした。
「いい男だが、あの悪い方面が多く出てくるようになると、運動からはずれてしまう。」
Oはよくそういっていました。けれどもその当時私共は、到底Yがそれをしないでもすむ程の助力をすることができなかったのです。果して、Yはだんだんに、その悪辣な世間師的な図々しさを発揮してきました。それは、ことに、警察を彼がなめ切ってからは、ずんずん輪をかけてゆきました。
彼が増長し出してから、折々苦いことをいうのは、始終彼の傍で彼を教育し、彼を助けてきたMさんとOだけでした。さすがの彼も、年下でも、自分よりはずっと、思慮分別も知識も勝れたMさんには、一目も二目もおいていました。
けれども、やがてそのMさんも、半分さじを投げたような無関心の時が来ました。誰も彼も、彼の図々しさにおそれをなして、彼を避けて通るようになりました。が、彼はこれを、自分のえらくなったせいにしはじめたのです。その頃に、彼はもういいかげん、同志の中の、持てあまされたタイラントでした。もう少し前のように、誰も彼を大事にするものはありませんでした。
五
ちょうどその頃、Yはその借家のゴタゴタから問題を起こして拘引されました。それは大正八年の夏のことで、労働運動の盛んに起こってきた年の夏で、警視庁は躍起となって、この機運に乗じて運動を起こそうとする社会主義者の検挙に腐心したのです。そしてYと同時に、Oも次から次へ、様々な罪名で取調べを受けている時でした。Yは、すぐに起訴されて収監されました。彼のやや外れかかった生活状態に、多少の憂慮を抱いていた同志は、みんないい機会が来たことをよろこびました。
収監される前に、私が警視庁で会った時、Yは非常な元気でした。しかし、私は収監されてからの彼のことを考えると可愛そうでした。彼は自分の名前をろくに書けないのです。彼はその以前に、私に、自分が姓名もろくに書けないので馬鹿にされる、ということを話して、原籍と姓名だけを書けるようになりたいから、チャンとそのお手本を書いてくれ、と頼んだことがあります。けれども、彼のそのしおらしい頼みで書いた私の手本が、恐らくはその日一日も彼の懐には落ちつかなかったろうということを、私はよく知っています。彼は理屈を覚えるのには熱心で、というよりはむしろ執拗でしたけれど、自分で本を読めるようになろうというような努力はまるでしませんでした。そんな手数のかかることは面倒でしかたがなかったのです。
そんな彼でしたから、彼は同志に宛てたハガキ一枚書くこともできなければ、また、せっかく貰った手紙も読むことができないのです。そして、少しもだまっていることのできない彼が、そのじっとしているに堪え切れないその健康すぎるほど活力に満ちた体を抱いて、小さな檻房の中に押し込まれているのです。そのことを思いやると、本当に可哀そうでした。
よく同志の世話の行き届くGは、彼のためにその弱い体を運んで面会をしては彼の面倒を見ました。Yには、印刷した仮名がやっと読めることがわかりました。で、Gは一生懸命に振り仮名をした恰好な書物を入れてやったりしました。しかし、Yはもうその時にかなり耳学問で頭が進んでいました。それで、彼によさそうな書物は、どんな初歩のやさしいものでも振仮名をした本というのはなかなかないのでした。あまりやさしいものだと、彼は何の考えもなく怒りました。
振仮名を拾って大骨を折ってする彼の読書の辛さを思いやって、Gはある時、肩のこらぬ面白そうなものを、というので、講談に近い、「西郷隆盛」か何かを差し入れたことがありました。彼はそれを喜んで読むかと思いの外、彼は非常に怒りました。「講談本なんぞを入れて貰うと看守共が馬鹿にする」というのです。彼のこの子供らしい単純な見栄にはみんなただ笑うより仕方がありませんでした。そんなくらいなので彼の読み物をさがすのは、Gには大きな一つの重荷でした。獄中の同志に書物を差入れるということは、何でもない簡単なことのように見えて、実はこれほど厄介な骨の折れることはないのです。どうでもいい、ただ読むものを入れてやる、というのならばまだしもです。少しでもみになるように無駄をしないように、囚人としての心の環境から考えの中に入れてするのは本当に一仕事です。その骨の折れる差入れの仕事でも、Gは「これほど骨の折れることはない」とよくこぼしていました。
が、Yはいっこう無頓着で、いいたいだけのわがままを遠慮なく、というよりはむしろ彼の持ちまえのあまりな図々しさで押しつけました。彼は日頃から公言していたように、牢にはいれば、同志はどんなにしてでも彼の世話をしてもいいはずだという考えしか持っていなかったのです。彼は未決監にいる間、できるだけのわがままをしつづけました。
その間にOは捕えられたり放たれたりして、とうとう最後のコヂつけで未決にいましたが、一審が終わると同時に保釈で出ました。が、Yは一審の判決がすむとすぐ既決に下って中野の監獄に送られました。
彼はそこで六ヶ月の刑期を送りました。既決に降ってからは刑期中は仲間への消息は絶えました。彼は振りがなの本を読むことも許されず、手紙も書けませんでしたから。
六
彼が刑期を終えて出て来たのは、その次ぎの年の一月でした。私共はその前年Oが保釈で出ている間にはじめて第一次の「労働運動」を出していました。Oは十二月の末に入獄して留守でしたが、家には三四人の同志の人がいて雑誌を継続していたのです。出獄した彼は、他にゆく処もないので、しばらく置くことにしました。
さすがのYも青白い牢上りらしい顔色をして、大分痩せて帰ってきました。でもやはり元気よく珍らしかった牢屋の生活をしきりにみんなに聞かせるのでした。その前に私はすでに三人ばかりの出獄者を迎えましたが、獄中での生活は、一つ基準のもとにある規則的な生活であるのにもかかわらず、みんなの話がめいめいに、その人らしい特色を強く現わしていて面白いのでした。ことに単純なYの、孤独というものをまるで知らないYの、遮断された生活の感想は、特別面白いのでした。
彼は獄中では、ほとんど暴れとおしたということでした。その刑期の最後の日まで彼は「減食」の罰を受けていたのだそうです。しかもその罰は彼がもう三日いなければ、おしまいにはならぬのだと彼はいっていました。
獄中での唯一の彼のおしゃべりの時間は教誨師の訪問を受ける時でした。教誨師は彼をしきりに説き伏せようとしました。が、博学な教誨師がいつも無学なYの理屈にまかされたのです。
「だけんど、俺がたった一つ困ったことがあったんだ。」
彼はそういって私に話しました。
「俺のような無学な者にまけるもんだから、奴よっぽど癪にさわったんだね。ある時来ていうには、『お前は、誰も彼も平等で、他人の命令なんかで人間が動いちゃいけないといったな、命令をする奴なんぞがあるのは間違いだといったなあ。だがねえ、たとえば人間の体というものは、頭だの体だの、手だの足だの、また体の中にはいろいろな機関がはいっている。そのいろんな部分がどうして働いてゆくかといえば、脳の中に中枢というものがあって、その命令で動いているんだ。この世の中だって、やっばりそれと同じだよ。命令中枢がなくちゃ、動かないんだ』とこういいやがるんだ。成程なあ、俺あそんな体のことなんか知らねえから返事に詰まっちゃったんだ。すると坊主の奴、『どうだ、それに違いないだろう』ってぬかしやがる。俺あ口惜しいけれど、黙ってたんだ。すると『よく考えて見ろ、お前のいうことは確かに間違ってる』って行っちまいやがった。」
「さあ口惜しくてならねえ。こうなりゃ仕事もくそもあるもんか。俺はそれから半日、夜まで考えてやっと考えついたんだ。それから今度坊主が来た時に俺はいってやった。『俺のいうことは間違ってやしねえ。俺は無学で人間の体がどういう風に働くか知らねえが、うんと歩いてくたびれ切った時にゃ、いくら歩こうと思ったって、足が前に出やしねえ。手が痛い時にゃ動かそうと思ったって動かねえや。またいくら食おうと思って食ったって、口までは食ったって胃袋が戻しちまうぜ。それでも何でもかんでも頭のいう通りになるのかね。それからまたよしんば、方々で頭のいうこと聞いて働くにした処でだね、その命令を聞く奴がいなきゃどうするんだい? 足があっての、手があっての、なあ、働くものあっての中枢とかいうもんじゃないか。中枢とかいう奴のおのれ一人の力じゃないじゃねえか。なら、どこもここも五分々々じゃねえか。俺は間違っちゃいねえと思う』っていってやったんだ。するとね、今度は坊主の奴が黙ってしまいやがって、それから何んにもいわなかった。」
彼はいつも夢中になって話すときには、誰に向ってもそうであるように、ぞんざいな言葉でそう話しました。
「感心ね。よく、でも、そんな理屈が考え出せてねえ。」
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう。」
七
彼は未決にいるうちにGさんが差し入れてくれた「平民科学」の感銘が深かったことをしきりに話していました。そういう学問の不思議と面白さを初めて知ったのです。同時に学者のえらさをしきりにほめ上げました。
ちょうどその頃もう一人私の家には牢屋の中でうんと本を読んでえらくなってきていた若いNという同志がいました。Nは巣鴨の少年監でうんとやはり科学の本を読んだのです。そして少年の驚くべき記憶力でもって、大部分読んだことを記憶に残していました。YはこのNの博識を感心して聞いていました。
Yが家にいるようになったら――と思ってかなり心配した私も、すっかり落ちついたYを見て少なからず驚きました。彼は朝晩代りばんこにみんなでやることになっている炊事を、毎朝自分で引き受けました。そして牢屋で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけました。そしてひまがあると、何か読書をしていました。そして時々、いい本があったら読んでくれ、と私に頼むのでした。
けれども、Yに本を読んでやることは、誰にも辛抱ができませんでした。なぜなら、彼はその聞いてゆくうちに疑問が生じてそれを質すまではいいのですが、途中で何か感じたことがあると、もう書物のことは忘れたように、三十分でも一時間でもひとりで、とんでもない感想をしゃべりまくります。もしそれが年若いNででもあろうものなら、いつの間にか大変な大激論となってしまいます。そうでなくとも、到底、そのおしゃべりの終わりを待って、後を読みつづけてやるという辛抱はできないのです。
しかし、私の感心は僅かの間に消えてしまいました。Yは健康がよくなると同時に、狭い家の中いっぱいに広がりはじめました。ことに最初から私共に対して持っているひがみを現わしはじめました。その頃すっかり健康を悪くして寝たり起きたりの状態でいた私が台所に出られない時には、彼は露骨に私を嫌がらすような、そして誰をも喜ばさないご馳走を傲然と押しつけるのでした。それから彼はまた、食べ残したむし返しの御飯や、食べ残しものを、近所の安宿の泊客を連れてきてはほどこしをしてやるのです。彼は狭い台所に胡坐をかいて、汚い乞食のような人達に、私共は恥ずかしくて犬にしか出してやれないようなものを食べさせながら、彼は貧乏人の味方の主義を「説いて」聞かすのです。他の同志や私などが、あまりひどい御馳走を施してその上ありがた迷惑なお説教を聞かしたりすることを批難しましても、彼は決してへこみはしませんでした。そしてその近所の二三軒ある安宿を訪問して、みんなにお世辞をつかわれてすっかりおさまっているのでした。その安宿にいる人達というのは、血気盛んな若い男なんぞは、薬にしたくもいないで、みんなもうよぼよぼの、たよるところのない老人達ばかりでした。
当時私共の家には四五人の同志がいて仕事をしていましたけれど、私共の経済は非常に苦しかったのでした。雑誌も出るには出ましたが、それで大勢の人が食べてゆくことなどは到底できないのでした。広告料や、Oの二三の本の印税や、あちこちから受ける補助やで、やっとどうにかOの留守中を凌いでいったのでした。その経済状態はみんなによくわかっていました。茶の間の茶だんすのひき出しに、いつも、ありがねが入れてありました。みんな、誰でも必要な小づかいはそこから勝手にとることになっていました。が、私共の仲間では、誰も、一銭も無駄な金をそこから持ち出す人はありませんでした。
私は、子供をひかえておりますし、余計な金も使いますので、小づかいはまったく別にして自分で持っていました。それも時々ひまをさいて書く原稿料や、印税の一部分や、知人達の補足でようよう足りてゆくような状態でした。
Yは、この経済状態の上に、最も露骨に私への反感を示して、自分の煙草代から小遣いのすべてを、一銭もその共同の会計からは取らずに、乏しい私の財布のみを常にねらうのでした。私はその頃はもう、彼のその反感を充分に知っていましたので、いつも黙って出しました。彼にいわせれば、私共の処にはいる原稿料や印税は、何の労力も払わない金なのでした。で、彼は平気で強奪してもかまわないのだといっていました。私共がどれほど骨を折って物を書いているかなどという事は、彼の考慮の中にはいらないのでした。
八
私に対する反感が露骨になってきた頃から、彼はまた同志に対しても、以前の無遠慮をとり返してきました。彼と若いNの激論が毎日のように始まりました。そしてとうとう彼は私の家を去りました。
Yはその時すでに、生活の方法を失っていました。彼は再び鍛冶屋になって働く気をもう少しも持っていませんでした。止むを得ぬ事情の下におかれて、彼は同志の家で、食客の出来る家を転々し始めました。三月の末に、Oが三月の刑期を終えて出獄する頃には、私にはもうYの将来に対する望みはまったくなくなっていました。が、それでもまだ、それ程ひどく、彼は自分の道を踏みはずしているようにも見えませんでした。
が、彼は明白にOに対する反感を現わし始めたのは、私共が曙町を引き払うのに前後した時分からでした。私はそんないやしい動機が直接の因をなしたとはいいませんが、少なくともその時に受けた不快な気持が、前々からの私共の生活に対する反感と一緒になって、それ以後の私共の生活に対する批難になったのではないかという疑問を一つ持っています。
それはOが出獄してから幾日もたたないうちです。牢から出てくると、彼は今まで極端に押えられた食物に対する欲望を満すことで夢中でした。で、彼は、できるだけうまいものを食べる機会をねらっていました。彼がさっそくに思いついたのは、留守の間を働いてくれた人達の慰労会をすることでした。彼は私の手料理を望みましたので、その日取りの前日に、私はOと一緒にその材料の買い出しに出かけました。食物に飢えたOの眼には、走りものの野菜がことに眼をひきました。私達は、筍や、さやえんどうや、茄子や、胡瓜や、そんなものをかなり買い込んで帰ってきました。Oは、私が料理をするときにはいつもするように、野菜物の下ごしらえの手つだいをしていました。そこにMさんがYを連れて見えました。
その日招待した客は、内にいる四五人と、他に雑誌の上に直接の援助を与えてくれた、二三の人達だけでした。それだけでも、私共の狭い家と乏しい器物では多すぎるのでしたが、さらに二人のお客がふえたことは大変な番狂わせになります。私はいろいろ思案をしながら、そして、今日のせっかくの慰労会に無遠慮なYに割り込まれるのは困ったことだとおもいながら、働いていました。
すると間もなく二人のお客様は帰ってゆきました。
「帰りましたの?」
私は台所に、またはいってきたOを見上げながら訊ねました。
「ああ帰った。Yの奴、Mが帰ろうというと、『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ御馳走になって帰るんだ』といっていたから、今日は君は招待された客じゃないのだ、御馳走することはできないから帰れって帰してやった。」
「困った人ね。」
私はただそういうよりほかはありませんでした。それと同時に、図々しいYに対しては、私は助かった、という気がしただけでしたけれども、Mさんには何となく済まない気がしました。
間もなく私共は一時雑誌を中止して鎌倉へ引越しました。その冬、第二次の「労働運動」を初める頃までに、二三度遊びに来ましたが、彼はもう何となく、私共に反感を持つと同時に煙たがっていました。そして帰りにはきっと乏しいOの財布をはたかせたり、最後にはその上に着物までも質草に持っていくような真似をしました。
その後、彼はもう猛烈にOの悪口を云っていることを私共は知っていました。彼は同志をとおしては、雑誌をはじめるということを口実に金を要求してきました。が、Oは他人を通じてのその無心にはいっさい耳を傾けませんでした。
Oが第二次の「労働運動」をはじめてからは、明らかに敵意を示しはじめました。同時に自分でも雑誌をはじめましたが、それは、遂にOの予言どおりに、彼を真面目な運動からそらして、一個のゴロツキとする直接の原因になりました。私共には、地方のあちこちの仲間の間まで歩きまわって、彼が金を集めているという話が聞こえました。やがてその次には、彼がOや仲間を売ったといういろんな風評を聞くようになりました。
彼がロシアへ立つ前に仲間の人々に対して働いた言語同断なあらゆる振舞いは、もう人間としてのいっさいの信用を堕すに充分でした。それ以後も、彼はただ、今はもうそうせずには生きてゆくことができない欺瞞で、自他ともに欺きながら生きているのです。彼はもう、今はおそらく仲間や、少くとも仲間の人達が近い交渉を持っている人々の処では、何の信用もつなぐことのできない境遇に追い落されています。
しかし、彼の持ち前の図々しさと自惚れは、まだ彼をその堕落の淵に目ざめすことができないのです。私は彼の目ざましかった初期の運動に対する熱心さや、彼の持っている、そして今は全く隠されているその熱情を想うたびに、彼のために惜しまずにはいられません。が、邪道にそれた彼の恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごすことはできないのです。――一九二三・一―― | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
初出:「女性改造 第二巻第十一号」
1923(大正12)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:ペガサス
2002年11月8日作成
2012年1月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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一
ああ! 漸く、ほんとにやうやく、今日もまた今のびのびと体を投げ出すことの出来る時が来ました。けれど、もう十一時半なんです。此の辺では真夜中なんです。そして、今日の裁判所での半日は、それでなくても疲れ切つてゐる私を、もうすつかりへとへとに疲らして仕舞ひました。
出来るなら私は其処から真直ぐに家へ帰つて何も彼も投げ出して、寝床にころげ込みたいと思ひました。でも、南品川の叔父さんと叔母さんにお守りをされながら坊やが私を待つてゐるのです。私は虎の門で皆なと別れると真直ぐに新橋へ行つて坊やを迎へに急ぎました。
大崎で電車を降りてから石ころの多い坂路を挽きにくさうにしてのぼつて行く俥夫のまるで走らないのを焦り〳〵しながらついて見ますと、坊やは大よろこびで私に飛びついて来ました。そして大元気でした。叔父さんも叔母さんもおとなしかつたと云つて喜んでゐました。可愛想に坊やも、私が毎日出歩いてゐるものですから、昼間はこの十日ばかりと云ふものちつとも私と一緒にゐられないのです。九時過ぎに、叔父さんに抱つこされて大崎まで送られて帰つて来ました。電車の中でいゝ工合に眠つて駒込で降りる時にもよく眠つてゐましたが俥の上で涼しいのでか眼をさまして、家まで来て蚊帳の中で一しきり遊んで今やつとまた眠つたところです。
これから私も眠るのですけれど、体は非常に疲れてグタ〳〵になつてゐながら反対に頭は馬鹿にはつきり冴えてゐて何んだか急に眠れさうもないので、また、これからあなたに退屈しのぎに読んで頂く手紙を書かうと思ひ立つたのです。そしていゝ加減に頭をつかれさせたらいゝ気持に明日の朝までは何んにも知らずに眠れさうですから。
けれど、頭を疲れさす為めに、と云つた処で、私は決して出鱈目を書くんぢやないんですよ。今日私の頭が何んの為めにこんなに冴え切つて、私を寝かさないかと云ふ事を書くのです。それは、今日私があの裁判所で傍聴した裁判に就いてです。そしてその被告人は女でした。けれども、私は特別にそれが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。
あなたには、勿論こんな事はちつとも今更らしく私の話を聞くまでもなく充分承知してゐらつしやるでせう。だからこそ、始終区裁判所の傍聴をすゝめてゐらしたのです。その事はよくわかつてゐます。私をよく知つてゐて下さるあなたは、私が斯うして興味を持つに違ひないと云ふ事を、とうから御存知なんです。けれど、私がそれをどう云ふ風に観、どう云ふ風に聴きそしてどう云ふ点に多く興味を見出したかと云ふ事を知りたいとお思ひにならないでせうか? 私は勿論二人が一緒にゐるのなら、直ぐに、私の観た丈けのこと、聴いた丈けのこと、そして感じた丈けのことを皆んなあなたに話すでせう。けれど今、私とあなたは厳重に引きはなされてゐる。私が何を感じようと考へようとそれを私の口からあなたの耳へ聞かすことは出来ない。またあなたの思ふこと感じたこと、それをそのまゝ私の耳へ移すことも出来ないのです。あの十分か五分の間の面会所での話! 何が話せませう? 私達は顔を見合はすだけぢやありませんか、そして僅かな用事以外にどれだけの話が出来ます? 二日目か、三日目に会ふ数分間の時を私達は何んと云ふプロゼイツクな消し方をしなければならないんでせう? 恐らく、二ヶ月に一回、一年に一回と云ふやうな場合にでも、やつぱりあれ以上の事は出来ないのでせうね。そして、その私達に残された唯一の話し合ふ方法と云つたら手紙にたよる外はないのです。その手紙すらも、どうかすれば間で押へられる。丁度私達が、偶々遇ふあの面会の時の話を、立ち会ひの看守達にともすれば干渉されるやうに――。
私は今此処に、どうしてもあなたに聞いて欲しい事を残らず書かうとしてゐます。あなたが、どんな気持ちでこれをよんで下さるか、それを想ふと私の胸は震へる。けれど、それがもしかすればあなたのお手にははひらずに、間で、誰か役人の机の中に投りこまれてしまふかもしれない、と思ふとまた私の胸は暗くなります。
けれど、それでもいゝ! それでもなほ私は此の手紙を書き終せます。私はそんな事を考へてはならない。此の手紙がよしどうならうと、此の手紙はあなたへお話しする為めに私が書くのです。他の人に関係した事ぢやない! お役人などに解る事柄ぢやない! あなたに、あなた丈けが理解して下さる筈の事柄なのですもの、私はちつとも躊躇せずに書きませう。他の誰が見るのでもない聴くのでもない、あなたが待つてゐて下さるから書くのです。二人だけの話! えゝ、離れてさへゐなければ私は口で云ひ、あなたは耳で聞く、離れてゐるから私は口の代りに手、あなたは耳の代りに眼で読むだけのことなのです。
ねえ、でも私が斯うして今あなたに話しかけてゐる事も知らないで、あなたは今頃昼間の疲れに眠つてゐるのでせうね。それでもまだ寝もやらずに読書でもしてゐらつしやるか? 一番いやな想像で、南京虫や蚤の襲来を一生懸命に見張つてゐらつしやるのでせうか?
二
私が今日後ればせに裁判所に駈けつけた時には、もう多勢の同志の方の顔が彼方此方に見えました。そして皆んなから、あなたの公判は一号法廷で開かれるのだと云ふ事を聞きました。
其の時、一号法廷ではもう他の公判が開かれてゐるらしく少しばかり開かれた扉の処に巡査の姿が見えてゐて、その扉には傍聴者満員と云ふ札が掲げられてゐました。私はそれを見ました時に、今までの例によつて、また法廷はスパイで一杯になつてゐるのではないかと云ふ不安に襲はれました。けれど、あたりを見ますと、見覚えのあるないに拘はらず、一目見てスパイと断定する事の出来る、あの特殊な態度表情をもつた人間達が彼方にも此方にもうよ〳〵してゐました。私達は一号法廷の前を中心にして日蔭に休みながら暫く様子を見てゐました。
私が行つてから三十分許りすると、その一号法廷の被告人の一団がその扉口から出て来ました。そしてその後から二十人近くの傍聴者がゾロ〳〵出たのです。公判廷は此度は他の被告人の取調べに移つたらしい様子です。そして、私達はその傍聴人の空席を取りはづしてはなりませんでした。私達は大急ぎで傍聴席にはいりました。
私達がはいりました時、法廷の高い法官席には型のとほりに中央に、あなたの掛りの裁判長だつたあの若い判事が、あの品のいゝ顔を少し曇らせて前にある記録を見てゐました。恐らく私達がはいつて行つた為めに起つた法廷内の一寸の間の混雑が静まるのを待つ為めになのでせう。裁判長の右手に座を占めてゐる検事は、醜く膏肥りのした四十近いやうな人でした。肥つたでこぼこの多い顔を一層ふくらませながら傍聴席の方を見下ろしてゐる顔は一時ふき出したいやうでした。それにあの官帽が一層ふくれた顔を滑稽にするばかりなのですもの。書記はあなたの時と同じあの貧相な人でした。法官席の下の巖丈な柵の前の被告席には、こはれかゝつた銀杏返しに結つた女があらい紺がすりの洗ひさらした単衣を着てうつむきながら立つてゐてその後ろの弁護士席には二人の弁護士が控へてゐました。
傍聴席が静かになると裁判長は顔を上げて被告の上に眼を落しました。よく見ると被告席に立つてゐる其の女は、生れてからまだ間もないやうな赤ん坊を抱いてゐるのです。
『何をしたのだらう?』
私は再びまた裁判長の顔を見ました。あの裁判長の顔は本当にいゝ顔ですね。其の時には、あなたの公判廷に見た強い緊張した表情はありませんでしたけれど、私が普通裁判官と称する人達に対して持つ、いゝ意味をも悪い意味をも含ませる或る概念からは非常に縁の遠い優しさと上品さを充分に表はしてゐました。それにあの濃い眉根を少しひそめて静かに物を問ひ糺さうとする態度には、他人の罪を糺すとか裁くとか云ふ人達の一番の徳とされてゐる寛大と云ふのとはまるで違つた、弱いものゝ犯した罪の動機に対していたみやすい、真に道徳的感情の純なものゝあるのを感じさせると云ふ処がありました。私は自分の此の裁判長に対する第一印象が、どの辺まで信じていゝものかと云ふ事をきはめようとする熱心で、ぢつとその裁判に注意し初めました。
訊問は私達がはひる前から始められてゐたと見えて斯う云ふ処から聞きました。
『お前は、その林谷蔵と云ふものから、何か品物を預かつた事があるかね。』
裁判長は丁度子供に物を尋ねるやうな物穏やかな調子で始めました。
『私は断つたんですけれど、無理に投り込んで行つたんです』
女は下を向いたまゝ、つぶやくやうな低い声で答へました。
『断つたけれど投り込んで行つた? ぢあ、とにかく預かるには預かつたんだねえ』
『無理に置いて行つたんです。』
女はなかなか預つたと云はないんです。
『ぢやあね、向ふで無理に置いて行つてもお前の方ではどうして無理に断らなかつたのかね? あくまで断ればいゝぢやないか。』
『私は其の時に、病気で寝てゐる処に林が来て、これを預かつてくれつて云ひましたけれど、困るからつて断りましたのに無理に置いて出て行つてしまつたんです。』
女は途方に暮れたやうにさうして一つことばかりを繰り返して云ふのでした。
『お前が林谷蔵から品物を預つたのは一ぺんきりではないやうだね。』
女は微かにうなづきました。
『何度位だね。』
『三四度です。』
『その度びに品物を持つて来たんだね。』
『左様で御座います。』
『ぢやお前が病気で寝てゐるときに来て無理に投り込んで行つたと云ふのは何時の事だね?』
女は黙つてゐます。
『お前が病気で寝たと云ふのは、何時の事だね? 今年になつてからかね? 去年かね?』
『去年です。』
『去年、去年は何月頃?』
『十一月頃です。』
『此の記録で見るとね、林谷蔵がお前の処に来始めたのが去年の十一月頃でそれからずつと今年の六月頃までに数回に品物を持つて行つて預けたやうになつてゐるがね、さうかね?』
『左様で御座います。』
『ぢやお前が断つたと云ふのは一番初めに来た時の事だね。』
『左様です。』
『ぢやそれから後はどうしたんだね』
『矢張り断つたんです。』
『その度にかね?』
『えゝ』
『それにどうして置いて行くのかね?』
『矢張り無理に置いて行くんです。』
『無理に置かうとしてもたつて断つてしまへばいゝぢやないか、何故断れないのだね、断つて、預かつたものも返したらいいぢやないか。たつて断るのに無理に預けやしないだらう?』
女は黙つてしまひました。
『林谷蔵は、初めはお前に断わられたけれど、それから後は黙つて預かつてくれたやうに云つてゐるよ。それが本当なのぢやないかね? え?』
女はうつむいたまゝ唖のやうに黙つてしまひました。
『どうしたね? 返事をしないのは困るねえ? 返事をしたらどうだね、出来ない事はないのだらう? 考へなくつてもいいんだよ、ありのまゝに答へさへすれば――』
でも女の口を開かすことは出来ませんでした。女は全く不貞たやうに口をつぐみました。
『何故、裁判所の尋ねに対して返事をしないのだね? 裁判所では、お前が黙つて返事をしないでゐても、そのまゝどつちかにきめてしまふ事も出来るんだよ、だから本当の事を云つた方が得なんだよ、どうだね返事は? 矢張り黙つてゐるのかね?』
女は静かに低い声で、すゝりなきをしはじめました。裁判長はもてあましたやうに黙つて被告の頭を見つめてゐました。
『裁判長、被告はまだ体が本当でありませんし大分疲れてゐるやうですから、腰掛けを許して頂きたう御座います。』
其の時まで黙つて控へてゐた弁護士の一人が立ち上つて裁判長に頼みました。
『あゝよう御座います。ぢや其処に腰をおかけ、その瓶は傍において、子供をしつかり抱いてゐないとあぶないよ。さうしておちついてよく考へてから返事をするんだよ。』
裁判長は子供にでも云ふやうな調子で腰掛けさせると、また直ぐと訊問にとりかゝりました。
三
『何うしてお前は、林谷蔵から品物を預れないのだね』
『それは先に一度預つて迷惑をした事が御座いますから。』
『そんなら猶の事ぢやないか、何故断つてしまはないのだね』
『ですから断りましたけれど無理において行つたのです。』
『谷蔵とはお前は何時頃から知り合ひになつたのだね?』
『十年前に氷屋をして居りました時に知りました。』
『そしてお前と谷蔵は何か関係をしたのだね?』
『はい』
『で其の時から谷蔵が、あんな事をする男だと知つてゐたのかね』
『いゝえ、知りませんでした。』
『ぢや、それと分つたのは後になつてからの事だね』
『左様です』
『でそれからも行き来をしてゐたかね。』
『いゝえ』
『それでは去年の十一月頃に突然に訪ねて来たのだね』
『左様です。』
此処で暫く裁判長の訊問はとぎれました。そして彼方此方、記録をめくつてゐました。検事の退屈さうな様子は最初から気の毒な程でした。まるで自分とは関係のない問答がはじまつてゐるのだと云ふやうな様子で、あるときは傍聴者の顔を一つ一つ眺めまはしてゐるかと思ひますと、外の方をさもポカンとした顔をして眺めてゐます。
『どうだね、さつき聞いた事は。お前は預つたのではないと云つても、谷蔵の方では預かつたのだと云つてるし、実際に品物もお前の処にあつたのだらう? さうすればどうしたつて預つた事になるぢやないかね』
女はまた黙つてしまひました。
『あの裁判長はどうしてあゝ執つこくあの事を聞くのだらう?』
私はぢつと裁判長の顔を見ながら考へました。
女は数回に品物を預かつたには違ひないのでせう。けれど彼女が其の都度断つたと云ふ事も矢張り事実にちがひないのです。私が考へますのには、裁判長は何よりもその『預つた』と云ふ事実を被告に認めさせようとしてゐるし、女の方は『預かつた』と云ふ事をハツキリ認める事は、即ち自分が罪に堕されるのだと云ふ解釈をして、それも先づ、自分の意志が決して預るつもりではなかつたのだと云ふ事を極力主張したいのだと思ひます。けれども、悲しい事に無智な彼女は、その自分の意志に反して起つた事実を承認する為めに必要なその説明を裁判長にハツキリとする力がないのです。若しかしたら彼女は、その説明したいと云ふ気持すらも自分ではハツキリしてゐなかつたのかもしれないと私は思ふのです。彼女はきつと、たゞ無条件で『預つた』と云ふ事実を認めさしてしまはふとする所謂『事情を汲みわける事の出来ない裁判官』に反感若しくは不満を感じて口をつぐんだのです。裁判官の問ひ方に対して不満を感じたとしても、若しもその問ひに対してハツキリと批難を加へる事の出来ないものは口を噤むより他はないかもしれません。
ところで、あの聡明な裁判長、あの同情ある態度を見せてゐる裁判長がどうして此の被告の心理に対して無関心でゐるのでせう? とにかく、此の被告に対する判事のすべての態度は、厳正な裁判官としてよりも、もつと人情味の深い親切な態度だと云ふに憚らないのです。しかしながら此の訊問の一点に於いては裁判長は甚だしく執拗でした。いろいろに問ひ落して、どうしても其の事実を認めさせようとする風がありました。実際には裁判官の方から云へば、事実を認める事と、それについての弁明とは別のものだと云ふかも知れませんが、それは物の道理も自らよく解り理屈を云ふ事も出来る人間に対してのみ云へる事ではなからうかと私は思ひます。しかも裁判長の態度には、その教養あるものに対するのとは全るでちがつた同情があるのですから、その点でも当然もう少しの理解はあつてもいゝものだと私は考へたのです。もしも、どうしてもその事実を認めさせなければ裁判の進行が出来ないと云ふのであつたら、どうしてあんな意地の悪い問ひ方をしないで、もつと他の方法で尋ねられないのでせうか。彼女は間違ひなく預かつたと云ふ事は承認してゐるのですもの、たゞ彼女は単純に『預りました。』と云ふのを恐がつてゐるのです。預かつたのがどんなに止むを得ない事情の外にあるかと云ふ事を先づ裁判官に認めて貰つた後に、確かに預つたと承認したいのだと云ふ事は傍聴者の誰にも分る事なのを、当の裁判長が気づかれないと云ふ筈はないのです。だから唯だ一言
『お前が断つたと云ふこと、預るつもりはなかつたのは分るが無理におかれたにしろ何にしろ兎に角結局預つた事にはなつたのだらう?』
と云つたやうな調子に出られたら女は多分素直に返事したらうと私には思はれるのです。
どうでせう? 私の此の観方はあんまり世間観ずでせうか。もつともこんな問ひはずゐぶん滑稽に聞こえるかもしれませんね。だつて本当に世間のことに馴れ通じた人間はそんな一寸した裁判なんかを問題にしたりなんぞしませんでせうからね。でも、私はあの裁判長の特別に人情深い態度と、その執拗な意地悪な訊問に何んだか一種の皮肉な矛盾を見つけ出したやうな気がしてその点に非常に興味を引かれたのです。
その矛盾を、私は斯う云ふ風に観たんです。あの人情深い親切な態度はあのO判事の本当の人格のあらはれで、あの意地の悪い訊問振りは、無意識の間に染みこんだ職業的な一種の慣れがあゝ云ふ半面を形造つたのだと――。
そして私は直ぐにまた、あゝ云ふ態度を採る事の出来る裁判官がどんなに少いかと云ふ事、そして寧ろ殆んど大方の裁判官が厳正な裁判官でありたいと願つて、たゞもうその職業的な慣れをもつた裁判官と云ふ型の中に出来るだけ完全にはひらうとしてゐる事を考へますと、私は本当に心が暗くなつて来るのでした。
刑の量定――あの世界の人達は平気でそんな事を話し合つてゐるのです。私は他人の犯した罪の審判をすると云ふ事が、こんなに大任であり六ヶしい事であるかと云ふ事などは一ぺんも考へて見た事のないやうな、寧ろさう云ふ地位を天賦のものか何かのやうに考へてたゞ無自覚に、職業的な慣れで多くの根深い因果をもつた犯罪者とかたづけて行く人の事を考へますと何んとも云へない気がするのです。
もつとも、私はまた直ぐあとから、こんな事を一々気にしてゐてどうして安閑と今の世の中に生きて行けようと思つてそんな事は考へない事にしましたけれど、その時に私がさう云ふ事を真面目に考へましたのは事実なのです。
いくら退屈でも、もうこんな手紙はいやになりましたか? 少し長くなりすぎましたかねえ。でも聞いて下さい。私の手紙はまだこれでほんのはじめの方がすんだばかしなのです。私が此の裁判に対して或る腹立たしさを感じたのは、もつと他の事なんです。大分長くはなりましたけれど、私はまだちつとも疲れないんです。もつと〳〵書きたいんです。あなただつて、『監獄へくれる手紙ならどんな下だらない事を書いてもいゝ。どんなに長い手紙でも長すぎると云ふ事はない。』と仰言つた事の手前だけでも我慢して読んで下さらなければなりませんわ。
四
私が此の裁判で一番腹立たしく思ひ、軽蔑もしたのは、被告人の唯一の庇護者であるべき弁護士の態度に就いてなのです。
前にも書きましたやうに弁護士席には二人の弁護士が控へてゐました。あ、さうさう、まだ、裁判長のあの訊問の後を書きませんでしたね。兎に角被告の女は執拗な裁判長の訊問に、とうとう負けてしまひました。
『私が悪うございました。心得ちがひを致しました。』
彼女はすゝり泣きながら小さな声で、再三返事を促された末にやつと斯う云つたのです。彼女はどうしても自分が主張したいに違ひない『自分の意志でなかつた。』と云ふ事は結局裁判官には認めて貰へないのだとあきらめて、全く服罪をする態度で裁判長の前に頭を下げたのです。それでも彼女が最後までどうしても『預つた』と云ふ事を云はないのを興味深く観てゐました。
『心得ちがひをしました、と云ふのは何んの事かね。何か悪い事でもしたのかね。』
裁判長はその持ち続けて来た優しい態度と声をちつとも変へずにこんな意地の悪い反問をするのでした。私は少しづゝ裁判長に反感を持ちはじめて来たのでした。
『え? 何んだつて? 盗んで来た品物を預かつたから悪い? しかし始めから預るつもりでなく断つてゐたのなら何にも心得ちがひな事はないではないか。ぢやとにかく林谷蔵から数回に品物を預つたに相違ないね。』
斯う云ふ風にして女はとう〳〵屈服させられてしまひました。そして後の一寸した訊問は直きに終りました。証人の申請と云つても重要な証人も何んにもありません。たゞ一人の弁護士がその女の良人が在廷してゐるから呼び出していろいろ家庭の事情などを調べて欲しいと云ふ申請がありましたが勿論この申請は却下されました。そして私はその却下を当然だと思ひました。大した必要もないのに、被告の良人として多勢の傍聴者の前にさらすと云ふ事は、どう考へても馬鹿気切つてゐます。私はそのつまらない申請をした弁護士の顔をのぞき込んだ位でした。全くお話にもなりはしません。で、其の証人申請の件が片づくと型のやうに検事の論告です。
何んにも彼も興味なくてたゞ退屈なだけだと云ふやうな顔をしながら其の時まで無関心極まる態度をしてゐた検事は、何だか、一生懸命に聞いてゐた私の記憶にすら残らないやうな何んの表情もない言葉でほんのお役目に被告の行為を非難して『四ヶ月の懲役、五十円の罰金』と云ふ求刑を気のない調子でしてドカリと腰を下ろして、もう一と辛抱だと云ふやうにまたヂロヂロ傍聴者の顔をながめはじめました。
被告は、其の時にはもう泣くのを止めて、うつむき加減にぢつと立つてゐました。若しも此の法廷での此の女の申立てが事実ならば何んと云ふ無慈悲な求刑でせう。前にも此の女は矢張り同一人の盗んだものをかくして刑に処せられた事があるのにも拘らず、又もや同じ事をしたと検事は非難してゐました。果してさうだとしても、自分で預る意志のないものを無理に置いて行かれる、それでもとにかく預つたと云ふ事になつて四ヶ月の求刑に五十円と云ふ罰金を払はなければならないのです。若しも女がその林谷蔵と云ふ男に対して充分抵抗が出来るものならば彼女は断然そんな品物を置かないでせう。もしまた少し分別があれば、怪しいと思へば、その品物を届け出て自分を犯罪行為から救ふ事も出来るでせう。けれどもそれ丈けの抵抗力がなく、思慮がなく、その上またそれをしてあとで、法に対しては自分の潔白を証拠立てる事が出来ても、法律の制裁よりは、もつと恐ろしい危険が直ぐにも迫まつて来ると云ふ予想をしない訳にはゆかないと云ふ事も有り得る事ではないでせうか。さう云ふ犯罪行為にまで彼女を逐うて行つたいろんな事情が、彼女に切ないものであればある程、彼女がどんな気持ちでこの求刑を受けてゐるであらうかと云ふ事を、私は考へずにはゐられませんでした。
私がぢつと彼女の後姿を見てそんな事を考へてゐるうちに、彼女の後ろに控へてゐた右手の方にゐた弁護士がまづ立ち上りました。
『腰掛けてゐてよろしい。』
裁判長は直ぐ彼女にさう云つて腰掛けさせました。此の弁護士の弁論は至極簡単明瞭なものでした。即ち彼女は第一の刑の執行を受けた時に充分後悔をしてゐる。それ故、此度の事には彼女は最初から一生懸命に断らうとした。彼女には再び斯う云ふ犯罪を犯す気は毛頭なかつたのだ。それにも拘はらず再び斯うして法廷に立たねばならなくなつたのは全く彼女が弱くて、きつぱりと断りきれなかつたが為である。そして又、どうして彼に向つて強く出られなかつたか、と云ふ事になれば、彼女は、十年前に其の男の為めに、良人に対する貞操を破つてゐる。それが林と云ふ男に対しても、また良人に対しても唯一の弱点になつてゐる。男は彼女の此の弱点をもつて威圧的に品物を置いて行つたものに違ひないので、彼女に此の犯罪をなす意志のなかつたのは明かである。と云つたやうな論鋒でした。さうして其の弁護士は斯う結びました。
『裁判長、被告がどんな事情のもとに此の罪を犯したかと云ふ事は私の下手な弁護にまたずとも、直接被告をお調べになつた裁判長が先刻御了解の事と思ひます。全く被告の犯罪行為は其処に何等の自発的な意志を伴つてはゐないのであります。否被告の意志はあくまでこれを拒む事にあつたのであります。
然し、被告がその意志をあくまで通すことが出来なかつたが為めに、其処に犯罪が構成されたと云ふ事になりましても、その動機は唯だ憐れむべきものでこそあれ、決して悪くむべきものではないと私は考へるのであります。検事の求刑は、犯罪そのものゝみに対しては至極尤もな事に存じますが、此の刑の量定に関して、私は是非裁判長の御考慮を煩はして、大いに情状の酌量を願ひたいと思ふ事があるので御座います。
それは、被告の家庭の事情で御座います。既に、各方面からのお調べで、裁判長も御承知になつてゐることゝ存じますが、被告は非常に貧しい暮しをしてゐる屑屋の家内で御座います。此の諸物価の高い時にあつて、彼等が一日がゝりで真黒になつて働きました処で、自分達だけの口を養つて行くだけでもともすれば六ヶしい位で御座いますのに、此の被告には、只今抱いて居ります子供の他にまだ五人の子供がゐるので御座います。で今被告が刑を受けると云ふ事になりました時に、此の家庭がどんな悲惨な事になるかと云ふ事は、誰にも充分に考へ得られる事であります。大勢の子供を抱へて被告の良人は、どうするでありませうか。商売に出掛ける事も出来ない。と云つて出なければ直ぐに其の日からの親子の糊口に困ると云ふ、誠に目もあてられないやうな有様になるのです。さうしてこんな状態が、被告や、その良人、または子供達にどのやうな影響を与へる事になりませうか、私はその遠い結果を考へますと、寒心せずにはゐられないのであります。
裁判長、法の犯すべからざるものであることはもとより私も存じて居ります。しかし、斯うした小さな犯罪の為めに後日どのやうな結果があらうと私は考へます。何卒裁判長にも充分此の点に就いて御考慮の上、もつとも当を得た御裁決を願ひたいと存じます。即ち被告の為めに私の希望を述べさして頂くならば、執行猶予が最も当を得たものであらうと思はれます。』
まあ、これならば普通の要領を得た弁論なのでせうね。実際にまた事件は極めて簡単なのですし、これ以上に云ふ事も一寸ないのでせうからねえ。で、私は、もう一人の弁護士は一体何を云ふのだらうかと思つてその横顔を見てゐました。そして何を云ふのだらうと云ふ期待のうちには、此の弁論が殆んど重要な云ふべき事を云つたのに対して、他の人に同一の事に就いて云ふべきやうな余地が残されてあるか、と云ふ事と、もう一つ最も私が前の弁論に対して抱いた不満が彼の弁護士にあつてはどうであらうか、と云ふ事でした。
その私の不満、といふのは、その弁論に対してぢやないんです。其の態度に就いてなんです。最初思ひかけぬ人情深い、云ひかへれば人間の弱点に対しての或る憐愍と同情とを表した判事の自然な態度を見る事の出来た私は、此の弁護士が被告の為めに、同情すべきその生活状態や周囲の事情を説きながら、そしてそれを持つて裁判長の道徳的感情に訴へようと試みながら、却て自身は何んの熱情も伴はない冷淡な態度を、何かしら物足りない気持ちで聞いてゐました。そして、更に被告を仲に相対した裁判官と弁護士と云ふ職業的な位置の対峙や、此の二つの職業に就いての世間の多くの人のもつ普遍的な概念などに思ひ及んでゆきますと、私は此の判事と弁護士の二人の、職業的の位置とその人格にある皮肉な対照を見出して嫌やな気持がし出すのでした。で、私はいろんな意味で、あともう一人の弁護士の弁論を待つたのです。
五
然し、私の待つたもう一人の弁護士――彼は肥つた五十がらみの男で、その声、その体つき、すべてがどちらかと云へば普通の意味での紳士らしい品位からは遠い男のやうに見受けられました。実はもう彼が起立した時に私は彼に失望したのかもしれません。――は、彼がこれから続ける長い弁論のその最初の一センテンスをさへ話し終らない前に、その勿体ぶつた、そのくせに芝居がゝりな態度が野卑な調子を帯びた声と一しよに、私に彼がどんな低級な頭の持主であるかと云ふ事を思はせました。
『――で、私の意見も前弁護人の云はれたと同じでして、別にその点については云ふ事は御座いませんが、たゞ一つ、その、此の被告がですな、犯罪の意志がなかつたにも拘はらず、何故結局は犯罪行為をしなければならなくなつたかと云ふ点について、大いに裁判長にお考へを願はねばならぬと思ふので御座います。
裁判長、よくお考へ下さい、被告は弱い女です。警察の調べなんかで見ますと、随分図々しい女のやうにも書いてありますけれど、被告は決してそんなに図々しい強情つぱりではないやうに思ひます。もしどうかとお思ひになりますなら、此処に、此の私の後ろに此の女の亭主が来てゐます。此の者をお呼び出しになつて、日頃の被告の行状なり性質なりお尋ねになれば直ぐ分る事です――』
彼はわざ〳〵その大きな体をねぢ向けて、明かに一人のうつむいた男を指して云ひました。裁判長はチラとその男を見ましたがしかし直ぐに被告の上に視線をおきました。そして更に明かに不快な表情を示して弁護士の方を向きました。多勢の傍聴者もまた一せいにその弁護士の指した男の方を見ました。後の方にゐた人達の多くはのび上るやうにして前を見てゐました。
『かりに、――』
弁護士は直ぐに続けました。
『かりに少々図々しい女と致しましても矢張り女は女です。一方の男は、泥棒をしたりその他悪い事を悪いと思はず平気でやる奴です、仕様のない奴なのですから、女の方は叶ふ筈はありません。私達はハツキリ想像する事が出来ます。此の女の家――此の女の家と云ふのは、入谷の汚い露路の中にある屑屋の家なんです。その汚い家に、此の女がつはりで寝てゐます。其処に此の林谷蔵なる奴が何年ぶりかでやつて来ます。「おい久しぶりだつたな――」と云ふやうな事を云つてはひつて来ます。ああ、悪い奴がはひつて来た、と此の女が思ひましても、「お前さんの為めには迷惑した、とつとゝ出て行つておくれ」とは此の女には云へやしません。普通のものなら、十年前に亭主のある女を弄んでおいて、その上に四ヶ月も懲役にぶち込むやうな迷惑をかけておいて、それで久しぶりだ、でノコ〳〵はいつてこられるもんぢやありません。それを何んとも思はずに、亭主の留守にズウ〳〵しくはひつて来るやうな奴です、気に入らん事を云へば何を仕出かすか、しれたもんぢやありません。そいつが品物を出して、「預つてくれ」と云ふ、「もう先に一度お前さんのものを預つて迷惑した事があるからお断りする」と云つても、たつて置かれゝば、此の女にはそれを押し返していやだと云ふ事は出来ません。そのうちに男は帰つてしまひます、後どうしていゝか分りやしません。何しろ、泥棒を商売にしてゐる奴ですから自分の住居なんか云やしませんから送り返す事も出来ない。と云つて亭主と相談して交番へ届けるなり何んなりする事も出来ません。何故かと云ひますと、十年前にその男と通じてゐる事が既に此の前の事件の時に亭主にわかつてゐます。しかしまあその後無関係になつて今日まで来たのに、またその男が来て斯う〳〵と云ふ事は女の口から亭主に向つては云へないのが本当でありませう。
どうしようかと思ひ迷つてゐる、其処にまた二度三度とやつて来ては物を置いて行く。一ぺん預かつて後、預からないと云ふ訳にはゆかないと云ふやうな順序で、とう〳〵林がつかまつて分るまでそのまゝになつてゐたと云ふ事になるんです。此の事はもう、誰が考へて見ても同じ事だらうと思ふのです。』
彼は反身になつていやに勿体ぶつた態度をしながらも、その態度とはまるで違つた斯う云つた、うすつぺらな調子でベラベラとまくしたてるのでした。
[『解放』第二巻第二号・一九二〇年二月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「解放 第二巻第二号」
1920(大正9)年2月1日
初出:「解放 第二巻第二号」
1920(大正9)年2月1日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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もう二ヶ月待てばあなたは帰つて来る。もう会えるのだと思つても私はその二ヶ月をどうしても待てない。私の力で及ぶ事ならばすぐにも呼びよせたい。行つて会ひたい。けれども、もう廿二年の間、私は何一つとして私の思つた通りになつたことは一つもない。私の短かい二十三年の生涯に一度として期待が満足に果たされたことはない。それは本当にふしぎな程です。私は何時だつてだから諦めてばかりゐます。またあきらめなければなりませんのです。あなたに会ふことも出来ません。私は本当に弱いのです。私は反抗と云ふことを全で知りません。私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめます。私がどんなに苦しんでゐるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持です。ですけど不思議にも私はます〳〵をとなしく成らざるを得ません。やさしくならずにはゐられません。私は自分のぐずな事を悲しみながらます〳〵ぐずになつて行きます。私は悲しいそして無駄な努力ばかしを続けて来ました。私は敵に生命をくれと云はれてもすなほにさし出すやうな人間に生れてゐるのです。私はまだ廿三年の間にたゞの一度だつて不平をこぼしたことはありません。まだ人に荒い言葉を返した事はありません。私は教へてゐる子供たちを叱らうとすると自分の方が先きに泣き出します。私は小さい妹や弟たちからでさへも馬鹿にされて叱られます。それでも私はその弟たちにたゞ一言の口答へさへ出来ません。皆他人は私をほめてくれます。親しさを見せてくれます。けれども私は何時でも自分のふがひない矛盾を悲しむことで一ぱいになつてしみ〴〵人と親しくなることが出来ません。私は怒ると云ふことが出来ません。現在私がかうして今死なうとしてゐてさへ誰も憎らしい人はないのです。私は生きてゐることに堪へ得られない自分に対してさへその意気地なしに対してさへ腹を立てることが出来ません。私はたゞめそ〳〵悲しむだけです。私は自分自身を制御する丈の力さへ与へられてゐません。私は長く生存すべき体ぢやないのです。当然与へられねばならない人間としての自由の何一つとして私は持つてはゐません。たつた一つ、それはたゞ神様がこの弱い私にたつた一つの自由を与へて下さいました。私はそのたつた一つの自由を生れてはじめてのまた最後の自由として、それを握ります。けれどその自由さへ実は今まで時期を許して下さいませんでした。私の長い間願つた時期は近づいたやうです。それにつけてもたゞあなたに申あげたいのはあなたはそんなことは決してないことは知つてゐますが自分に負けないで下さいと云ふことです。私は前にも申あげる通りに、自分が何時でも負けてはその度びに一皮づゝ自分の上に被せて行きました。此度こそはこの被ひを一思ひにと思ひますがその度びに反対にかぶつて行きました。今はもうまつたく私の周囲は身うごきをする程の余地も残つてはゐません。何時かあなたは、私に、「死んだつもりでならどんなことも出来る。何故もつと積極的な決心にお出にならないのです」と云ひましたね。ですけれど繰り返して申ます。私は弱いんです。私はその殻をつきやぶつて出た後がこはくてたまらないのです。私に――この弱い私に与へられた自由は一つしかありません。私はもう私のすべてを被つてゐる虚偽から離れて醜い自分を見出すことは私にとつては死ぬより辛いのです。私は今迄他の人のやうに自由がなかつたことを思つて下さい。私には一日だつて、今日こそ自分の日だと思つて、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶつてゐる殻をいやだ〳〵と思ひながらそれにかぢりついて、それにいぢめられながら死ぬのです。私には何時までもその殻がつきまとひます。それに身うごきが出来ないのです。私の声の――真実な叫びの聞こえる処にゐる人は誰もないのです。私はもう「よりよく生くる望み」などは到底もてません。私はこの世に存在する理由を何処にも認めません。私は「自分」と云ふものを把持してゐることの出来ない弱者です。私一人の存在が何にもかゝはりのないことを思ひますと私はもう一日もはやく処決しないではゐられません。人のことは誰にも分りません。私は毎日教壇の上で教へてゐる時、又職員室で無駄口をきいてゐる時、私が今日死なう明日は死なうと思つてゐる心を見破る人は誰もない。恐らくは私の死骸が発見されるまでは誰も私の死なうとしてゐる事は知るまい、と思ひますと、何とも云へない気持になります。「それが私のたつた一つの自由だ!」と心で叫びます。本当に私のこの場合ひにたつた一つたしかめ得たことは、人間が絶対無限の孤独であると云ふことです。私の死骸が発見された処で人々はその当座こそは何とかかとか云ふでせう。けれども時は刻一刻と歩みを進めます。二年の後、三年の後或は十年の後には誰一人口にする者はなくなるでせう。曾て私と云ふものが存在してゐたと云ふことはやがて分らなくなつてしまふのです。よりよく生きた処でわづかにタイムの長短の問題ぢやありませんか。人間の事業や言行など云ふものが何時まで伝はるでせう。大宇宙! 運命! 私の今の面前に押しよせて来てゐるものはこの二つです。私はもうすべての情実や何かを細かく考へる煩はしさに堪えられません。私は曾て少しは、自身の慰さめにもと思つて基督教と云ふものを信じて見ました。私は牧師や伝道師たちからのほめられ者でした。立派な篤信者だ。美しい人格だと讃められましたけれども自分には矢張り苦しくてたまりませんでした。矢張り虚偽の教へと云ふことを感じました。私は遠ざかりました。それがこの頃になつて漸くその教への真髄をつかみ得たやうな気がします。運命なのです。それがその力が神と云ふ変化されたものになつたのです。私は運命を信じます。その不可抗な力を信じます。今私の上に一ぱいにその力がかぶさつてゐます。恐らく誰の上にもさうなのでせう。私はいくらもがいた処でその力にかなはないことを知つてゐます。不思議なこの大宇宙を支配する偉大なる力にも私は従順にしたいと思ひます。私はかうやつて書いてゐて、ふと、矢つ張り、私の今迄の生活は虚偽でなかつたのかもしれないと云ふことを考へます。私は矢張り、その運命の支配するまゝに動いて来たのです。ですからうそではないやうにも思へます。私ばかりでなくすべてのものが――たゞ人間が運命と云ふものを考へないでてんでん勝手にいろんな事を考へてはあたれば本当、あたらなければうそだと云つてゐるやうにも思へます。思へば考へれば深く考へる程分りません。善とか悪とか云ふのもみんな人間の勝手につけた名称でせう。あゝ、私はもう止めます。まつくらになりました。何だかすべての事のケヂメがわからなくなります。私は今私の考へてゐることが一番正しく本当であることを信じてその通りを行ひます。私はよわいけれどぐちはこぼしません。あなたもそれを肯定して下さい。私の最後の処決こそ私自身の一番はじめの、また最後の本当の行動であることをよろこんで下さい。私のその処決がはじめて私の生きてゐたことの本当の意義をたしかにするのです。私は私の身をまた生命をしばつてゐる縄をきると同時に私はすべての方面から一時に今迄とり上げられてゐた自由をとり返すのです。どうぞ私の為めに一切の愚痴は云はないで下さい。
あゝ、私は今迄何を書いたのでせう。もう止しませう。たゞ私は最後の願ひとして、私は本当に最後まで終に弱者として終りました。あなたは何にも拘束されない強者として活きて下さい。それ丈けがお願ひです。屈従と云ふことは、本当に自覚ある者のやることぢやありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。忘れないで下さい。他人に讃められると云ふことは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさへゐれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生き甲斐のあることでないと云ふことを忘れないで下さい。何人でも執着を持つてはいけません。たゞ自身に対して丈けは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私の云ふことはそれ丈けです。私は、もう何にも考へません。私は今はじめて生れてはじめて自分の内心から出た要求を自分の手で満たし得られるのです。私の残した醜い死体を発見した時にどんなに人々はさわぐでせう。どんな憶測をすることでせう。私はもうすべての始末をつけてしまひました。誰も知りません、誰もしらないのです。知つてゐるのは私だけ。この手紙が三日たつてあなたの手に這入るまでには大方全部、私の望みが果されるでせう。私ははじめて私自身の要求を自身の手に満たすのです。はじめてゞそして最後です。愚痴を云はないで下さい。お願ひします。私はもう、自分の処決をするよろこびに一杯になつてゐます。けれどもあなたに丈けは矢張り執着があるのです。それがこれ丈の手紙を書かせました。よく今迄私を慰さめてくれましたね、本当に心からあなたにはお礼を申ます。随分苦しい思ひもさせました。すべて御許し下さい。もう一切の執着を絶つて下さい。あなたと私とは今はなれてゐます。たゞね二三ヶ月たつてあはれる筈のが都合でもつと長くあへない丈けだとおもへばそれ丈けですよ。ね、随分長く書きました。不統一なことばかりですけれど許して下さい。混乱に混乱を重ねた私の頭です。不統一な位は許して下さい。ではもう止します。最後です。もう筆をとるのもこれつきりです。左様なら。左様なら。何時迄もこの筆を措きたくないのですけれど御免なさいもう本当にこれで左様なら。
[『青鞜』第四巻第九号・一九一四年一〇月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第九号」
1914(大正3)年10月1日
初出:「青鞜 第四巻第九号」
1914(大正3)年10月1日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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今、私の頭の中で二つのものが縺れ合つて私をいろいろに迷はして居ります。
私は今まで斯うして幾度きみちやんに手紙を書きかけたか知れないのです。けれども私の書いたものが果して正当に何の誤もなくきみちやんに理解されるかどうかとそれを考へては、若しきみちやんに理解が出来なかつたときにはきみちやんの為めにもまた私の為にも大変不幸だと思はれますので止めました。けれども、どうしても書きたくてたまらないので。二つのものと云ふのは、その書きたいのと、書いて、もし悪い結果になるといけないと云ふ心配とを云つたのです。
きみちやんにはね、姉さんがどう見えますか? 恐らくきみちやんには、私をいゝ人かわるい人かと聞かれたら、一寸答へに困るでせう? もしかしたらきみちやんは、姉さんはいけない人だと思つてゐるかもしれませんね、それにしてもなほ、いろ〳〵な疑問が沢山に私についてあるだらうと思ひます。その疑問は決して私自身ばかりでなくきみちやんにとつてもきつと大事なものかもしれません。屹度私がこれから書くことを読んで行くうちには思ひあたることがあるだらうと思ひます。
私のやつたことに就いてきみちやんは皆はしらないのでせう? 叔母さんなんかの考へでは、私は本当に仕様のない堕落した我儘娘だとでも思つてお出でせう。私の今迄の行為を極く普通な、世間的に観れば誰にでもさうとしか思へないことは私自身にも分ります。けれども私にはまた私の理屈があるのです。そして私は、それを一番本当だと信じて居ります。何事によらずすべて人の考へと云ふものはその人自身より他の人には何にも分らないものだと思ひます。さうでせう? きみちやんが何か考へてゐるでせう、それをいくら他の人が考へて見た処できみちやんの考へてゐる本当のことは分らないものです。きみちやん一人ばかりが本当で後の人の考へは、当推量だとか臆測とか云ふものでそれは間違つてゐるのです。私の場合にそれをあてはめて見ますと私の父さんや母さんそれから、叔母さんたちやその他の人たちでもみんなその当推量をしててんでに怒つたり恨んだりしてゐるのです。で、きみちやんは矢張りその叔母さんの当推量で怒つたり悪口云つたりしてゐるのばかり聞いてゐるのでせう――併しそれにもかゝはらずきみちやんは矢張り私の事について冷淡ではないと私は思つてゐます。――或は私の独りきめできみちやんが読んだらふきだすかもしれないけれど――。だからいま私が私の本当の気持ちをきみちやんに聞いてもらふのです。そして、母さんたちの当推量と、私の本当の考へがどれだけ違つてゐるかをくらべるといふことは決して無駄ぢやないと私は信じてこれを書きます。
先づ私が何時でも皆から浴びせられる言葉はわがまゝだと云ふこと、不孝者と云ふこの二つの言葉です。本当にさうだと私自身も思ひます。さうしてさう云ふ両親やその他の人たちの気持も私にはよく分ります。皆は私のことを人を苦しめておいて何とも思はないなんて云ひます。何とも思はないどころか苦しくてたまらないのです。くるしくてたまらないのを我慢して自分の道に進んで行かなければならない、私の本当の心の奥底の苦痛は、誰一人何とも思つてはくれないのです。理智と感情は決して一緒には働かないものです。父さんや母さんのなさる事に就いてあれは正当だこれは誤だと云ふやうな批判は、独りで何でも考へられるやうになれば――つまり一人前になれば誰でもすることです。けれども今直ぐ、お父さんはあんないけないことをした、お父さんを嫌いにならう、お父さんとは他人同様にしやうと思つたつてさう単純に行くものではないのです。殊に親子とか兄妹だとかその他肉親の関係は実に複雑な絶対的のものなのです。誰が親や兄妹を泣かして気持よがるものがありませう? 皆には、この理屈はよく分つてゐるのです。けれどもその考へを押し進めてこちらの気持ちを考へることなんかなしに直ぐ自身の方に引き戻して愚痴にしてしまふのです。物の考へ方がまるでもう根本から違つてゐるのです。
私が嫌がるのを無理に自分達の都合の為めに結婚さした。もし私がをとなしい、何にも考へることの出来ない魂のない娘だつたらハイとをとなしく自分では少々嫌やな男だと思つても無理にでも辛抱したかもしれない。さうすると、親たちはじめ皆は喜ぶでせう。そして本当に孝行な娘だとほめるでせう。けれど自分はどうでせう。どんな馬鹿な娘だつて、いくら仕方がないとあきらめてゐたつて人がわい〳〵云つてくれるほど幸福だとは思はないでせう。
私はそんな嘘は自分と云ふものに対して本当に恥かしいことだと思ひます。きみちやんはさう思ひませんか、まるで他人の為めに生きてゐるやうではありませんか。自分のものときまつた、何人も犯すことの出来ない体や精神をもつてゐながらそれで他人の都合や他人のためにその体や精神をむざ〳〵と委してしまふのは意久地がないと云ふよりは寧ろ生れた、甲斐がない生甲斐がないと云ふより他仕方がありません。
人間は誰でも自分より可愛いゝものはないと云ふけれどそれは本当だと思ひます。自分を犠牲にしてとか、汝の敵を愛せよとか、身命をなげうつて国家につくすとか云つてもその実、さう云ふ人たちは、矢張り自分の死んだ後で幾千代の後までも、名を残すことの出来ると云ふその人にとつてはこの上もない或る期待をもつてその大きな名誉心に馳られてゐるので結局は矢張り自分の為めなのです。汝の敵を愛せよと云ふ教へも結局は『尾を振る犬には手をあてられぬ』とか何とか云ふたとへをうまく利用したものと思へば間違ひがないやうに思ひます。それは本当に自分を愛し、又尊敬する人から見れば一番自分をふみつけたそして一番無理な、不自然な考へ方です。だから、油断をすると直ぐに、逆戻りをするのです。人間が死んでからはどうなるのかは分らないぢやありませんか、それなのに立派な体や精神を折角自分のものとして与へられてゐながら他人の都合の為めばかりにすりへらすと云ふことが本当に、肉体や精神を賦与された真の目的に添ふものであるかどうかと考へて御覧なさい。直ぐに分るでせう。けれどもね、きみちやん自身に考へてもいゝしそれから周囲についてもいゝ、よく考へて御覧なさい。どんな些細なことでも自分がこれがいゝと思つてやらうとするでせう、そのときにすら〳〵と思ふやうに出来たことがありますか。あつてもそれは、極くわづかしかないでせう、また、つまらない、思ふとほりに出来なくても大して困らないことなのでせう。自分が是非かうしたい出来なければ大変困ると云ふやうな自分にとつては重大なことはなか〳〵思ふやうにならないでせう? そしてそれは、そう云ふことを思ふ通りにされると困る人が屹度自分の近くにゐてその人の邪魔で出来ないものです。
私の場合もそうなのです。私は自分の意志に依つてした結婚ではないのだから是非破壊せねばならないし私の両親や叔父さんたちはそんな無鉄砲なことをされては困るので止めさせやうと邪魔するのです。勿論私は他の人が困るからと云つたところで自分が苦しいから無理にも破壊しました。自分の考へてゐるとほりにどし〳〵やつてしまひました。それで一番困つたのは矢張り誰でもなく私を無理強ひした人達です。そしてその人たちの困るのは本当から云へば当然なのです。けれども嘘で固めた所謂世間の道徳と云ふものは決してそれが当然だとは皆に思はせないのです。何にも頭におかずに考へて御覧なさい。長上――目上のしかもたゞ自分より年が上だとか親だとか云ふことを楯にして自分の都合のためばかりに僅かばかりの経験とか何とかを無理な理屈にこぢつけて理不尽に服従させてもいゝと云ふやうな理屈があるでせうか。皆は私のことをわがまゝだとか手前勝手だとか云つてゐますけれども本当に考へて見ると私よりも、周囲の人たちの方がよほどわがまゝです。私は自分がわがまゝだと云はれる位に自分の思ふことをずん〳〵やる代りに人のわがまゝの邪魔はしません。私のわがまゝと他人のわがまゝが衝突した時は別として、でなければ他の人のわがまゝを軽蔑したり邪魔したりはしません。自分のわがまゝを尊敬するやうに他人のわがまゝも認めます。けれども世間にはさう云ふことを考へてゐる人はそんなにありません。皆誰も彼も自分は仕たい放題なことをして他人にはなるべく思ふとほりなことはさせまいとします。自分は自分丈けのことを考へて行ふし、他人は他人の勝手にまかして置くと云ふのが本当なのですけれど自分と他人との区別をはつきりたてることの出来ないのが大抵の人の悪い欠点です。それはその人たちが悪いのではなくて日本の所謂道徳がいけないのです。今の日本の多くの人たちを支配してゐる道徳は一つも本当のものはなくて皆無理な虚偽で固めたものなのです。だから窮屈なのです。話が一寸外れました。余計なことは云はないことにします。今私の云つた自他の区別が出来ない人達だから、本当の意味の正しい個人主義だとか自己本位とか云ふことゝ自分を甘やかすわがまゝとか傲慢な専横との区別がちつとも分らないのです。そしてまた、共同と云ふやうなことをもち出しては各自がわがまゝをすると共同が成り立たないから、相互に我慢しなければならないとよく云ひます。これもまるで根本から考へ方が違つてゐるからです。皆が皆他人にかゝはらずに自分は自分丈けのことをやつて行きさへすれば自然な最も自然な共同が出来ます。何のとりつくろひもないし自分を圧へると云ふやうな不快な感情なんかは少しもまじらないから厭なくだらない争闘なんかは決して起らずに済みます。けれども共同とか何とかわい〳〵云つてゐる人達はそんなことを云ひながら内々はみんな自分のいゝやうにしたくてたまらないのです。そして自分のいゝことをする為めに他人に迷惑をかけることはさほどに思はないで他人のしてゐることが自分にかゝはり出すと、直ぐに邪魔をし出すのです。それも卒直にやればいゝけれど妙に道徳とか習俗とか云ふものに囚はれてまはりくどい嫌味な愚劣な争ひをしてゐるのです。何だか変な理屈になつて来ましたね、解りますか。
私は自分の自信を貫徹させるにあたつて一番に其処につきあたりました。誰でも皆さうなのです。併し私は他の多くの人たちのやうな、悧巧なずるいことは出来なかつたのです。私は何はさておいても服しなければならないと云ふやうな信念を少しも所謂道徳に対して抱くことが出来ないのです。そしてまた、その軽蔑してゐるものに対して膝を折り曲げるにはあまりに自分に対する気位が高かすぎるのです。他人が自分の行為に対してどんなおもはくをもつかと云ふやうなことまで考へる程の余裕が私にはもてないのです。そして私はそのことを決して悪いとは思ひません。私はとうとう凡てを排して自身を通しました。そして皆の一番尊敬してゐる、そしてまた私を縛するに最もたしかなものだと信じてゐた道徳や習俗を見事ふみにじりました。話が大変に抽象的になりました。解りにくいでせう。私はもつと具体的にわかりやすく書く筈でしたのにこんな変なものになりました。もつと沢山書くつもりでした。今の気持と、これを書きはじめるときとの気持がすつかりはぐれてしまつたのです。書きたいことを思ふやうに書けないむしやくしやが先にたつてどうしても書けないから止めます。今度もすこし落ちついて書くつもりです。きみちやんには屹度解らないだらうとおもひます。自分ながら何を書いたのかまるで筋道がたつてゐないのが分るのですもの。もしきみちやんがこれを読んで不服なことや解りにくい処があつたらかまはず突き込んで聞いて下さい。そうすればこんなしどろもどろな言ひ方でなくもう少しきちんとした答が出来るつもりですから。気持が落ちつきしだいに書き代へて送ります。でもきみちやんに私がどういふつもりでこんな手紙を書き出したかと云ふその私の心持だけでも分つてくれゝば大変うれしいと思ひます。 (三、二、二三)
[『青鞜』第四巻第三号、一九一四年三月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第三号」
1914(大正3)年3月号
初出:「青鞜 第四巻第三号」
1914(大正3)年3月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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脚本を読んで見て私は殆んど手の出しやうのないのに驚いてしまつた。とても自分の貧弱な頭ではそれ〴〵に立派な解釈をつけて批評して行くことは六ヶしい、と云つてやらないわけにも行かないし困つた〳〵と云ひ暮しても其日数もなくなつてしまつた。
「あんまり六ヶしく考へすぎるんだよ」といふ様な注意を傍らで聞くとなほイラ〳〵して来てどうしても纏めることが出来ない。もう〆切の日は少しの余裕もなく迫つてゐる。とても正式の批評などは出来さうもない。私は自分で考へついたことだけを書いてこの責任をのがれようと思ふ。大変いけないことかもしれないけれども今の場合仕方がないとしておきたい。
一番主として考へなければならないのはヴイ※(濁点付き井)イが母の職業に対する理解だと思ふ。
ヴイ※(濁点付き井)イは悧巧な冷静な理解力をもつた自信の強い女である。だが情熱とか優しみとか云ふ方には欠けてゐる。凡て、何を考へるにもやるにも感情を交へないと云ふ処が普通の女と甚だしく懸け離れてゐる点である。彼女は美もローマンスも不必要だと云つてゐる。彼女はその母親に対しても本当の親しみやなつかしみを持ち得ない。フランクに対する感情も恋とは云ひにくい。若い女の男に対してもつ情熱的な恋とはよほど違つたものである。
これは彼女が幼い時から母の傍を離れて寄宿生活をして来た結果だ。彼女は幼い時から当然受くべき両親のやさしい愛をうけることが出来なかつた。彼女は第一に親の愛を知る時期がなかつた。第二に彼女は寄宿生活に万事少しの和か味もない定規で造り上げられた四角四面な規則で生活した。理屈ばかりの生活をしたことが原因してゐる。つまり彼女は当然受くべき情的教育を受ける機会なしに智的方面にまた意的方面にばかりのびていつたのだ。あやまつた教育が彼女のやうな人間を造り上げたのだ。
其処で彼女は母に対して、母の職業に対して或理解をもつ事は出来た。同時に幾分の同情することも出来た。然し最後まで行つたとき彼女は母に対して、あまりに苛酷な態度をとつた。もし普通に母親に対する愛情をもつ女ならあゝいふ酷な態度のとれやう筈はない。もう少し角だてずにやさしく和かに解決がつくべき筈だ。彼女の生活と母親の生活が合ふ筈のないことは誰にも解ることである。然しヴヰ※(濁点付き井)イの考へ方によつては母親にあゝまでみぢめな態度をしなくつても済むことだ。妥協と云ふ意味でなく自分さへ確かならそして母親の職業や境遇に同情と理解があるならばまた何も母が彼女の生活に積極的に障げをしやうとするのでないならばあゝまできつぱりと結果をつけないまでも、もう少し優しい扱ひ方が出来たに違ひないと思ふ。彼女の情的教育の欠点は二幕目の終り近く母親の情熱的な昂奮と感激におされて著しく目立つて来る。
ウォーレン夫人はそれにくらべるとずつと世間並の女でまたありふれた普通一般の母親とすこしも変りはない。唯だ幾分気丈とでも云ふやうな点のある、ヴヰ※(濁点付き井)イよりも気持ちのいゝ女だ。同情すべき女だ。彼女は娘を自分で教育することが出来なかつた。一つは彼女が無智だと云ふことを自覚してゐる処からと、それから職業の都合からも来たことであらう。彼女は娘に充分の教育を与へた。それは世間の親たちが娘を教育するのと些しも違つた考へからではない。もう少しでも違つた処があればそれは自分の無智をも序に償ふつもりもあつたかもしれない。彼女は極く通俗的に、手軽に、そして単純な考へから娘を他人に預けて他人に教育して貰つた。愚かな母親は娘の為めに莫大な費用をかけて娘を立派に教育した。然し結果は母親ののぞんだものとは全く反対の形になつて現はれて来た。彼女は他人と自分の区別をしらなかつた。教育と云ふことに注意してゐるやうで不注意だつた。なまじ他人になど教育をして貰つた為めに娘はまるで自分の望んだものとは違つた人間になつてしまつた。併し其処に気がつくやうな母親なら自身で立派に教育する。彼女は職業から来る不自由さと、無智から来る低級な頭で解釈した教育とで自分をあやまり娘をあやまつた。彼女の運命は自身でまねいた運命なのだ。併し本当に同情すべき可哀想な女だ。世間にはかうした例はいくらもあるだらう。
次に来る問題はこの脚本の主題となつたウォーレン夫人の職業だ。私達も現在考へさゝれてゐることであり、また早晩ぶつかる問題である。教育のない無智な何の芸能をも有しない婦人の職業――それが一番真面目にはやく考へなければならない問題だと思ふ。私は出来ることならこれを眼目にして大いに書きたい気もするけれど時日もないしそれにまづしい私の社会的な智識では到底大したことも云へなささうだ。併し私達はどうしてもこれから先きの研究はそこまで進めて行かなくてはならないのだからその時にまた機会があるかもしれない。
ウォーレン夫人のやつてゐるやうな仕事がいゝか悪いかの問題は今は預つて置く。そう云ふ職業が存在し得るは止むを得ない。無暗と賤しいとか悪いから止めろと云ふやうな事を日本でも盛んに云つてゐる。併しさう云ふ女の就くべき正当な所謂立派な利益を得ることの出来る割のいゝ仕事が他にあるかどうか。夫人の長い告白の中には到る処にその社会の弱点をおしてゐる。労働に対する相当の報酬をしない。不当な労働をしてその上に生活にも困らなければならないと云ふやうな割の合はない仕事が所謂正当な立派な職業とされてゐる間はとても割のいゝ職業にはいくら賤劣であらうとも職業として存在してゐる間は生きて行かなければならないと云ふ要求の上からは少しも就くのには躊躇されないだらう。恐ろしい白粉製造所や他人に甘い汁をしぼられる酒場奉公より自分の利益の多い体の楽な職業に就く筈である。賤劣だとかやれ何とか云ふのは他に割のいゝ楽な仕事を持つた所謂教育のある婦人や無自覚な妻君達の云ふことだ。殊に世間普通の何の考へもない妻君達はそれ等の賤劣な職業をもつ女とは五十歩百歩である。彼女等も矢張りその体の楽な割のいゝ仕事仲間なのだもの。何処に大した相違があらう? 私は寧ろ蔑視される賤業婦達の自覚しながらも喰べる為めに生きたいばかりに嫌やな者共の機嫌きづまをとらねばならぬ悲痛な気持に同感する。そして何の意味もない馬鹿な顔して一人よがつてゐる女達よりもかうした女の方がまだ強い処があるやうに思ふ。私はさう云ふ女の気持を考へてゐるとぞつとするやうな凄い感じに打たれる。
ヴヰ※(濁点付き井)イ ねえお母さん正直に云ひますけれどそんな風にまでしてお金をこしらへるのをいやしむと云ふ見識もあなたの云ふ女の性根つ玉ぢやありませんか?
夫人 勿論さ。誰だつて心にもない勤めをして金を拵へるのを好んでるものはないさ。ほんとに折々は可愛さうだと思つたよ。疲れきつてふさいでゐる女が藁しべ程も思つてゐない男の機嫌をとらうとしてゐるのを見るたびにね、――どんな金高にも易へられない程の嫌やな思ひをさせてさんざつぱら女を苦しめておきながら見事面白がられてる了簡でゐる生粋の間抜共を見るたびにね。だが商売となればどんな厭やなこともがまんしなきやならず荒くあたられてもやはらかに受けなきやならない、丁度看護婦か何ぞのやうにね、無論だれだつてすきこのんでする事ぢやない。お宗旨屋の法なんぞを聞いてお前は安楽な仕事のやうに思ふかもしれないけれど。
ヴヰ※(濁点付き井)イ でもあなたは仕甲斐のある仕事だと思つてゐらつしやるのでせう。お銭になるから。
夫人 仕甲斐がありますともね、貧乏人にとつては。その娘がおだてにのらない奇麗な身だしなみの悪くない悧巧な娘でさへあればね。他の何商売よりはましだからね。無論よくないことさヴヰ※(濁点付き井)イ、それにました職業が女にないといふのは。私はあくまでそれは悪いことだと思ひます。けれどもよかれあしかれさうなつて見ればそれを利用するより他に為やうがないのさ。立派な人たちのすることぢやないよ。お前なんぞしやうとすれば馬鹿だ。けれども私がやらなかつたらそれはまた馬鹿だ。
ヴヰ※(濁点付き井)イ (ます〳〵深く感動して)お母さん、かりに私たちが昔のあなたのやうに貧乏であつたとしたら屹度あなたはすゝめないでせうか私にワーテルローの酒場へ出ろとか労働者へ嫁入りしろとか又は製造所へさへも入れとすゝめないでせうか。
夫人 (憤然として)すゝめるものかね。私を如何んな母親だと思つてるんです。そんな食ふや食はずでゐてお前見識が保てますか。女と生れて生甲斐があるかい? 見識が保てないで――同じ境涯にゐる他の女達は泥の中にゐるのにどうして私だけは自力で生活を立てゝ娘に一等の教育まで受けさせたか? いつも私は自分を尊敬し自分を制へて行くことを知つてゐたからさ。どうしてリツヅが寺院町で人に尊敬されてゐるか? 同じ理由さ。今頃若しあの僧さんの馬鹿気た訓戒を守つてゐたなら私等は何処にゐるだらう? 一日七十五銭で床板の拭掃除にこき使はれてさとゞのつまりは養育院厄介だらうぢやないか?――
私は此処まで書いて来て考へて見るとこの脚本の作者バアナアド、シヨオは社会の色々な欠陥をもつて来てその欠陥が生んだ種々の人々を捉へて来て一人々々の欠点をうまく表はして、大きな社会問題にふれさせる処にその皮肉な見解を見せてゐるのだ。
さう思つて見れば皆さうだ。一々細かに評すれば際限がないし大きな社会問題を持ち出さなくつてはすまない。シヨオのこの脚本に対する根本の意の潜んでゐる処が解れば云ふことはないやうだし批評するのも無駄な事をやつてゐるやうな気がする。併しなか〳〵面白い問題だと思ふ。機会があつたらなほ細かにフランク、クロフツ等についても書いて見たいと思ふ。
[『青鞜』第四巻第一号附録、一九一四年一月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第一号附録」
1914(大正3)年1月号
初出:「青鞜 第四巻第一号附録」
1914(大正3)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年6月27日作成
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『女はしとやかでなくてはいけない、をとなしくなくてはいけない』と云ふ訓しへは甚だ結構な事です。一時『新らしい女』と云ふものが盛んにはやつた時には、大変なお転婆がいろんな奇抜な真似をして人目をおどろかしました。しかし、どんな勝手な真似をしても気持の上に、或るデリカシイを持つてゐなければならないと云ふ事は、其の当時そのお転婆の一人であつた私すら痛切に感じた程でした。私達は『新らしい女』の本家本元のやうに云はれてゐましたけれど、其の頃世間に輩出した所謂新らしい女の思ひ切つた行為には驚異の眼を見はつたものです。それは本当に馬鹿々々しい、苦々しい事を沢山見せられたり聞かせられたりしました。そして、さう云ふ人達の行為が皆んな私達のした事として、見当違ひな非難攻撃を皆んな受けなければならなかつたと云ふやうな苦い経験は、いよ〳〵私達に、エセ新らしがり屋を浅間しがらせたのです。
あの当時問題になつた吉原行きとか五色の酒とか云ふ事を、まるで私達のすべてゞあるかのやうに云ひなした世間の馬鹿共よりは、それをまた麗々と真似をする連中に至つてはお話にもなんにもなりません。何の考へもないたゞの模倣と云ふことが、それ程馬鹿らしく見えた事はありません。
処がまた私は、本場の女性のデリカシイと云ふ事が其の意味を取りちがへられて、無暗と恥かしがりの模倣をする事が、旧い考へで奨励されてゐるのをも同様に馬鹿々々しいと思はずにはゐられません。
よく見もし、聞きもしますが、活動写真の中とか電車の中などで、をとなしくとりすまして、はづかしがつてゐる女の弱味につけ込んで、飛んでもない不都合を働く男があります。少し確つかりしてゐるものなら、たとへ口へ出して詰責しないまでも、態度で詰れば大抵逃げて行くものなのです。しかし、黙つてたゞ迷惑さうに、恥かしさうに体をねぢつたりしざつたりする位では、さういふいたづらでもして見る位の図々しい男は益々図に乗る位のものです。私などは、さう云ふ不都合な図々しい奴は大勢の中で赤恥をかゝして以後そんな真似をさせない位のつもりで、詰責する事位は当然だと思ひますが、普通の女らしいしほらしさを捨てかねる人達には、さうも思ひ切つてやれないのが当然でせう。けれども、兎に角確かりした態度をとる事は是非必要な事と思ひます。
私はよくこみ合ふ電車の中などで、こみ合ふのをいゝ幸にして、わざと身体をすりよせて来たりする不都合者に時々出遇ひます。そんな場合には、どうも表立つてとがめる訳にゆきませんから、何時もその男の顔を見ながらわざ〳〵足を踏んでやるとか、出来る丈け強硬にひじをつつ張つて押し返してやるとか、黙つて、出来るだけしかへしをしてやります。それからよく人の顔をヂロ〳〵無遠慮に何時までも見てゐる者があります。これは男に限らず女でもです。私は大抵長い間睨み返してやりますが、幾度も〳〵あんまり長い事見られると癪にさはりますからその人に云つてやります。
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何事も、内輪に、控目にと云ふ事は一面に必要な事ですが、目のあたり馬鹿らしい侮辱を受けたり、迷惑を感じたりした場合にまでもぢつとそれを我慢してゐると云ふ必要は少しもないと思ひます。寧ろさう云ふ場合には少しも我慢をしない事が必要だと思ひます。
或時、私は電車の中で、品のいゝ二十ばかりのおとなしさうな娘さんと一緒に乗り合した事があります。その時には電車の中の半分は空席でした。すると或停留場から一人の酔つぱらいが乗りました。それ程ひどくよつてゐたのか、それとも酔つたふりをしたのかは知りませんが、その酔つぱらひはよろけながらぴつたりとその娘さんの傍に腰を下ろして、電車がゆれる度びにその大きな体をかぼそい娘さんの方にもたれかけて行きます。娘さんは、迷惑さうに眉をよせて少し体をずらしましたが、酔つぱらひは直ぐにまたその間をつめて矢張りぴつたりよりそつてしまひます。二三度さう云ふ事をしてゐました。私はそれを見てゐて、よくその娘さんが思ひ切つて他の場所にうつゝてしまへばいゝのに、と思ひましたが別にそんな事もなしに、その酔つぱらひの傍に小さくなつて何時までも腰かけてゐます。私はそれを見てゐて、酔つぱらいの無作法よりも、その娘さんの理由ない我慢強さの方がよほど腹が立つた位でした。
或る人々は、お転婆な娘だけが誘惑に堕り易い危険性をもつてゐて、おとなしく内輪な始終恥かしがつてひつこんでばかりゐるやうな娘にはさう云ふ危険性はないものゝやうに考へてゐます。しかしそれは大変な間違ひです。かう云ふ話があります。
それは或る地方での事ですが、その市では中流以上の暮らしをしてゐる家に二人の娘がありました。年は二つ程違つてゐましたが、姉は女学校の四年、妹は同じ学校の三年だつたのです。姉は快活な明るい性質をもつてゐました。妹はおとなしい両親にもろくに口もきけないやうな子でした。
或る日、姉は友達の家に遊びに行つて夜になつてから帰つて来ました。そして、母親に挨拶をすますと直ぐ、真紅にほてつた頬をなでながらさも愉快でたまらないやうな声で笑ひながら母親に話かけた。
『母さん、それやおかしい事があつたんですよ』
娘のかへりが遅くなつたので少々ふきげんになつてゐた母親は、いく分か眉をしかめながら
『何んですそんな頓狂な声を出して。さう無暗とげら〳〵笑ふもんぢやありませんよ。話をするんならもう少し尋常になさい』
と云つてたしなめました。
『だつておかしいんですもの、母さんつたら直ぐに、私が何にか云ふとお小言ね、だけど今日は本当に私いゝ事をしたんですよ面白くつて仕方がない、ねえ美佐ちやんそれやおかしいのよ』
姉は母親の渋い顔には頓着なしに此度は其処に居合はせた妹をとらへて話し出しました。
『何あに?』
妹はニツと笑つて静かに聞き返しました。
『ね、私今交番に男を一人引き渡して来たのよ、おまはりさんにほめられちやつたの』
『えつ』
母親も妹も呆気にとられて姉の顔をながめてゐました。姉は得意さうに笑ひながら説明しました。
友達の家を出て、もう暗くなつた道を歩いて県立病院の塀にそふて歩いて来ると、後から突然男が歩みよつた。
『御散歩ですか?』
顔を見ると知らない男なので、だまつて歩いてゐると、なほ追ひすがつて来ていろ〳〵な事を云ふ。
『そしてね、私の事を何んでも知つてゐるのよ、お兄さんの事も美佐ちやんの事も知つてゐるの、私気味が悪いから大急ぎで歩いてるとね、終ひにグツと私の袂をつかんでね、』
『えゝつ、袂をつかんだね?』
母親は眼をまるくして娘を見ました。
『えゝさうなの、そしてね、もう先から私にちかづきになり度いと思つて様子を見てゐたんだつて、』
『まあ飛んでもない!』
母親は聞く毎に呆れるのみです。
『でね、今日は本当に思ひ切つてお願ひするんだがどうか私と交際をしてくれつて云ふんですの、私何んだか恐くつて体がブル〳〵ふるへちやつたわ、逃げ出さうにも袂をしつかりつかまれてゐるし、うつかりすると何をされるか知れないし、本当にどうしやうかと思つたわ、』
『でどうしたの?』
『誰か通つたら助けて貰はうと思ふのに誰も通らないんでせう。やうやく通つたかと思ふと頼みにならないやうな子供だのお婆さんなんですもの、仕方がないからもつと人通りのどつさりある賑やかな処で逃げやうと思つて、「私遅くなつて急いでるんですからまた今度にして下さい考へときますから」つてやつとの事で云つたの、そしたら「そんな事云つて逃げるつもりなんでせう、けれど、逃げられるものだかどうだか、まあ今日の処はかんべんして上げませう」つて云つてニヤ〳〵笑つてるの。私だん〳〵恐くなつて来たから急いで歩き出さうとすると「お待ちなさい、あなたのお家まで送つて上げます」つて云つて此度は私の手を握つちやつたんです。そして道々もいろんな事云つて私をおどかしてるの、私どうして逃げやうかと思つてゐるうちに橋の処まで来て、ひよつとあすこの交番に気がついたもんだから、あのおまはりさんにたのんで逃げやうときめちやつたの。そして今度は私の方がしつかりその男の手を握つて交番の直ぐ前におまはりさんが立つてゐたのでいきなり「何卒此の人を捉へてゐて下さい」つて云つてやつたもんだからおまはりさんがびつくりしたんだか何んだか「何だつ」つてそりや大きな声で云つたの』
『その男はどうしたんだい?』
『ね、知らん顔して大急ぎで行つちやひさうにしたのをおまはりさんが呼びとめたもんだから仕方なしに引き返して来て、私の顔をそりや恐い眼してにらんだわ。おまはりさんが、どうしたんだつて云ふからすつかり云はうと思つたんだけれど直ぐと人が五六人たつたから、きまりが悪いでせう、それでお父さんのお名前を云つてね、今うちから電話でお話しますからつて断つて逃げて来たの、』
『さうかい、ぢやあまだ其の人は交番にとめられてゐるんだね』
『え、さうでせう?』
『どんな様子の人間です?』
『廿五六の書生よ自分ぢや医学校の生徒だつて云つてたわ』
『まあ、飛んだ心得ちがいをしたものだねだけど、お前も悪いんですよ、暗くなつて外を出歩いたりするからそんな目に遇ふんです。もうこれからは決して無暗と外を出歩いてはいけません。それにしても、そんな交番になんか連れ込んだのは困つたねえ、どうしたらいゝだらう?』
『どうして困るんです? いゝぢやありませんか、おまはりさん待つてるでせうきつと、私電話でよく話しますわ』
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『またお小言なの――厭やだわ、母さんは何んでもあたしの事つて云ふと直ぐお小言なんだもの』
やがて、父親からの電話での話で、男は説諭を受けて帰され、姉娘は其後学校と家庭の特別な注意のせいか、何事もなく卒業をしました。
此の事件以来卒業するまでの、姉娘に対する母親の心配と云つたら大変なものでしたが、無口でおとなしい妹娘に対しては母親は全く楽観してゐました。
『あの子に限つては間違はない。』
母親は固くさう信じてゐましたので、すべての点で姉娘よりずつと寛大に取扱はれてゐました。しかし、此の母親の楽観が恐ろしい結果を齎らしたのです。
姉娘が卒業して、毎朝妹一人で通学するやうになつて二ヶ月ばかりたつと、毎日学校の往復共、後をつけて来る若い男のある事に妹娘は直ぐ気がつきました。恐い、とは思ひましたが、口重な彼女は、それを誰にも話ませんでした。実際は話をしてまた母親がやつと姉が卒業して安心した処に、また気をもませるでもないと云ふ遠慮と、たゞ自分の後をつけるだけで何んでもないのを何にかのやうに云ひ立てるのが後めたくもあるし、男につかれる等と云ふ事が恥かしい事のやうに思はれるので誰にも黙つてゐました。しかし、もう夏休みも間近くになつた頃には妹娘はすつかりその男の術中に堕つてゐたのです。男はその市での不良少年仲間では有数な一人だつたのです。
彼は妹娘のおとなしい、内気な性質をよく知りぬいてゐました。で、出来るだけその気の弱い点につけ込んで脅迫したのです。彼女の不断のおちつきは何の用もなし得ませんでした。姉娘程の気持もなく腹もなく、たゞ気の弱い彼女は、相手の男の思ふ存分翻弄されたのです。彼女はさうならぬ先きに母親に話さなかつた事を悔ひました。けれども一たん男のまゝになつた以上は、それを思ひ切つて、何んにも知らぬ家人に打ち明ける勇気は更にありませんでした。彼女はたゞひそかに自らを果敢なみながら、男の指図のまゝになつてゐるより他はありませんでした。そして彼女は何時か、姉や母を偽はつて幾何かづゝの金をねだる事さへしなければなりませんでした。
母親はすつかり娘を信じてゐました。姉娘にはきびしい監督の眼を見はつてゐましたけれど、妹娘にはまるで何の注意もしませんでした。
秋になつて、誰れからともなく校内でやかましく、其の事に就いて噂されるやうになりました。彼女の受持教師が聞きかねて、彼女にその真偽をたしかめやうとしました。しかし、其の時にも彼女は素直に事実を述べる勇気を持ちませんでした。受持教師はたゞ或る訓戒の言葉を与へた丈けで其の時はすみました。
しかし、教師に知れたと云ふ事は、彼女にとつては両親に知れたよりはもつと恐ろしい事でした。彼女はどうかして今後彼の悪魔の手からのがれようと企てました。彼女は漸くの事で、近頃自分につきまとふ者のある事を告げて、学校の寄宿舎に、卒業まで入れて欲しいと頼みました。
『えつ? お前にも? まあ、どうしたらいゝだらうねえ、ぢやよくお父様と相談して上げるよ、心配おしでない。』
母親は真蒼になりながらも娘を慰めて、父親や学校と相談の上で寄宿舎に入れました。しかし、どうしてはいつて来るのか、二日おき、三日おきに、教室の机の中に恐ろしい脅迫の言葉をつらねた手紙が屹度はいつてゐました。
『何日何処に何時までに来い。来なければ今までの事を学校に告げるのは勿論、お前もお前の父親の面目をも維持の出来ないやうな方法をとるから。』
と云ふやうな手紙に脅かされては、彼女は泣く〳〵外出しました。彼女の決心は何んの役にも立たなかつたのです。
一方、男の方では、彼女が避やうとしてゐる事を知るとます〳〵惨酷に彼女を扱ひ出しました。出来る丈け無理な要求を持ち出しては彼女を困らして喜んでゐると云ふやうな有様でした。しかし、遂々最後に流石の彼女も死を期して、悪魔たちの要求を退けました。彼は彼女に盗みをすることを命じたのです。たとへ親のものとは云へ何一物も無断で持ち出すと云ふ事は正直な彼女の忍び得ない事でした。今まで散々に彼等のまゝになつてゐたのも、唯だ、暫くでも母の心を案んじ、父の体面を重んじてたゞ在校中に問題を起すまいとの心持からだつたのです。しかもそれすら日夜良心に責め苛まれてゐるのにこの上盗みをする程なら死んだがましだ。彼女はさう決心すると其の要求をはじめて退ける気になりました。しかしその最後まで、彼女は矢張り気弱でした。彼には承知したむねを答へて、自宅に帰つたのです。そして其の夜は気分が悪いと云つて寄宿舎には帰らず造花用の染料を多量に服んで苦悶してゐる処を発見されて、命だけは取りとめましたが、可愛想な彼女はとう〳〵気が触れてしまつたのです。
寄宿舎にはいつて以来は、安心しきつてゐた母親には凡ての事がたゞ夢としか思へませんでした。娘の遺書には最初からのすべての事が書かれてありました。母親は気のふれたその可愛いゝ娘を抱いて、今も油断のならない世間の悪者を呪つてゐる事でせう。
理屈の上では、現在女学校などでも、たゞ一づにおとなしい、淑やかだと云ふだけでは済まない、非常時に際して充分適当な態度をとれるやう確つかりした女にならなくてはいけないと云ふやうな事も教へます。しかし実際には、みんなおとなしいすなほな一方の女にしようとします。さうした風な女を尊敬するやうに仕向けます。抽象的に云ふ場合には、さう云ふ風に進歩的な口調をまねても実際には家庭本位の教育をしてゐるのですから成るべく、総ての点で自分の考へなどはどうでもいゝやうな、決断のにぶい、従属的な傾向を帯びた女の方が歓ばれます。そして出来る丈けさう云ふ風に仕込まれます。その結果は、何時までたつても、女の生活は向上しませんし、男の生活までも堕落させるだけです。さう云ふ風な女は、どんな境遇へでも導かれゝば導かれるまゝにゆきます。どんな危険な暗示にもすぐにかゝります。どんな誘惑にも直ぐ乗ります。かう云ふ種類の女子が一番多くの危険性を具へてゐるものと私は思ひます。
世間の人達は、よくお転婆だおきやんだと攻撃しますが、私はそれよりも、おとなしい淑やかだとほめられる女の方が、どの位多く攻撃される価値があるか知れないと思ひます。そして、私はさう云ふ人を意久地なしと云ひます。
[『改造』第七巻第八号、一九二五年八月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第三巻 評論・随筆・書簡2――『文明批評』以後」學藝書林
2000(平成12)年9月30日初版発行
底本の親本:「改造 第七巻第八号」
1925(大正14)年8月1日
初出:「改造 第七巻第八号」
1925(大正14)年8月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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余程以前から先生に何か書いて見たい気はありましたけれども私の書いたものなんか御覧になるときつとまた、あの、「フン」と鼻の先で笑はれることだらうと思ひますと嫌気がさして書く気にはなれませんでした。けれども今度こそは書いて見ます。読んで頂かなくてもかまひません、私一人で書いて見ます。
私に対する先生のお心持ちが今どんな状態に在るか私には全然見当はつきませんけれども多分相変らず軽蔑してお出になることはたしかだとおもひます。私も実を云ふと先生を軽蔑してゐるのです。それで学校にも先生の処にも行きません、でも悪くんではゐません。私は先生は矢張り好きなのです。嫌ひにはなれません。私が学校にゐた時分の何にも知らないでゐた頃の先生は好きでした。然し稍や私が物を解しはじめた頃の先生は、――先生の態度は――私には不快でした。何故なら先生は私に対して、あまりに傲慢でそして不徹底でゐらしたからです。先生は、徹頭徹尾私を子供扱ひになすつた。それもまあ我慢しますけれどもそれは決して本当の先輩だと云ふ、自覚のある態度ではありませんでした。私はそれをよく知つてゐました。私はあの私の事件のときに先生が骨を折つて下すつたことを知つてゐます。そして感謝してゐます、けれども私は矢張り不平です。先生は、私の方にもそれからまた、私の国許にゐる両親たちにも双方に先生の親切を見せつけるやうな態度をなさいました。仮令先生はさう云ふおつもりでなかつたにしても、先生は、どちらにもよく思はれたいと云ふ気持はたしかにおありになつたとおもひます。でなければ一段高い処にゐて、其所から私達の間を自由に近寄せやうとなさいました。一体何時でも私には二つの全く相反した性質のものが先生の内にゐて、争つてゐるやうに思はれます。先生御自身ではお気がおつきにならないかもしれませんけれども――或はまた先生はうまくそれに調和がとれてゐるつもりでお出になるのかもしれませんけれども――それが別々に孤立してゐるやうに思はれます。それは私は学校で先生から倫理のお講義を伺つてゐる時分から気がついてゐました。それがあの時以来著しくはつきりといたしました。先生は何時も私達にお話して下さる時に油がのつておいでになりますと気持ちのいゝ程興奮して社会の腐敗した風教や何かのことについて罵倒なさいました。それでそれまではまだ半眠状態でゐた私の社会の習俗に対する反抗心が漸く目醒めて来ました。そして、そのボンヤリした私の魂はだん〳〵に僅かづゝながら成長して来たのでした。そして、私が当然通るべき第一の関門にまで到着したときに、私は先生に教はつた通りにありつたけの力をもつて其処にぶつかりました。勿論それにはTとN先生とが後にゐて下すつた事も私の力を強くしたのではありますけれども。
そしてその時第一に私に反抗を教へて下すつた先生はどうだつたでせう。私はかう考へて来ると悲しくなります。先生は矢張り到底社会に対抗して活きて行ける方ではなかつたのです。然し無意識にしろ屹度先生には妥協して生きて行かなければならないことが苦しいのでせう、それで、その苦しみを先生は何にも知らない私達の前にぶちまけてゐらしたのです。私たちは子供でしたそんな事は少しも知りませんでした。思ひ切つた俗物にもなれず、といつて、人しれぬ苦しい思ひをしながらも社会と云ふものを、何をするにも相手にしなければ生きて行けないといふ先生の気持は、今の私には充分におさつしが出来ます。私は、その気持には充分に同感の出来るものがあります。併し先生はそれを自覚なすつてゐらつしやらないのです。自覚がおありになれば私はもう先生には何にも申あげることはないのです。けれども先生は、その苦痛を自然の苦痛として、その苦痛に就いて考へて見やうとなさらずにたゞ何でもなく看過してお出になるのです。すつかり満足してお出になるのです。それが先生を災してゐるのだとおもひます。賢明な先生が何故あんな態度でゐらつしやるのでせう。私はあの当時Tにあてゝ下すつた手紙ですつかりが解つたやうな気がします。
先生は、Tに宛てた手紙の中に
――私はどうも感情的でいけない、早い話が手紙を頂く前と後ではあなたに対する感情が違ふ、斯く感情の移りやすい私は時々過度に激昂したり、また俄かに気の毒の感の為めにくだらない妥協をする幼稚な癖があるのです。――
また斯うもお書きになりました。
――人を見て稍もすれば大掴みに値ぶみをしたり早呑込みの侮蔑をしたりすることが多い、これは人を尊重せぬ悪癖と深く悔ひます
けれども先生はいくら悔ひてゐらしても矢張り傲慢でゐらつしやいます。他人に対して傲慢だと云ふことは自分に対して傲慢だと云ふことに当るとおもひます。人を尊重せぬ悪癖と云ふのは自分を尊重せぬ悪癖と云ふことです。「困つたものだと思ひます」と仰云つても御自身はその実あまり困つてはゐらつしやらないのです。病気あつかひにしてお出になる処が可笑しいとおもひます。而も先生はさう云ふ悪癖をもてあつかつてゐて困ると云ひながらTやN先生の態度について、自分を一段高くにおいて批判するやうなことを書いてお出になるやうです。それも先生に本当の意味での自覚がないからだとぞんじます。自覚と云ふのがいけなければ先生の内外生活がともに徹底してゐないからだとも云へませう。
先生は、言論の上では、――私共に講義して下すつたとき――社会とか道徳とか習俗などを極力排斥なすつたやうに思ひます、併し実際問題にかゝはつたときに、先生は、矢張りあゝまでそれに固執してゐらつしやいます。
先生は何でも型にはまる事はおきらひのやうに私は存じました。先生は何時もそれを非難なすつてらつしやいました。けれども矢張り先生も御自身が型にはまつた生活をしてお出になつたのだとおもひます。先生がかつぎ上げてゐらつしやる道徳の悪い癖は、何人を看るにも人その人を見ないで何時も、どんな人を見るにも、道徳と云ふ標準をもつて理性とか感情とかを別々にしてそれで人間の価値を定めるやうなことをなさいます。現に先生がおなじ手紙の中に例におあげになりました事だつてさうです。
――けれど感情的であることは免れません。面白いが人生々活の標準とはなれますまい、と思ひます。之を貫いては困ることが随分あることを反省して頂きたいと思ひます。幡随院がお尋ね人の平井権八をかくまふのも此の感です、芝居としては面白いが道徳の標準にはならぬ、従つて悪い場合も生じます。即ち道理理屈にも社会の秩序にも触れることがあります。――
けれど先生は、そんなに人間は所謂道徳にばかり気がねしなければ生きて行けないものでせうか。誰も彼も神様でない以上さう〳〵小さくなつてもゐられないと思ひます、早い話が先生だつても道徳を侮辱したことはないとは云へないでせうと思ひます。道徳は必ずしも真理ばかりではないと思ひます、神様は決してあんな道徳などゝ云ふ窮屈なものは造りはなさらなかつたのだと思ひます。都合次第に出来たものなら都合次第に破壊してもさしつかへのないものだと思ひます。人間の本性を殺すやうな若くは無視するやうな道徳はどし〳〵壊してもいゝと思ひます。破壊する力を与へられない者は仕方がないとしてもさう云ふ確信をもつたものはどん〳〵さうして進んだ方がいゝのだと思ひます、都合次第に出来たものゝ為めに、さうして自分の上に何の権威もないものゝ為めに、一歩もゆづる必要はないと思ひます。それが出来得ない人は道徳それ自身を恐れるのではなくてそれをとりまいてゐるもの達を恐れてゐるのだと思ひます、先生だつて現今の社会の道徳に偉大なる権威を認めてお出になるのでもなければ満足してお出になるのでもないと思ひます。唯だ先生はその道徳を奉じてゐる社会の群集の勢力が先生の生活の上に及ぼす不利な結果を恐れてゐらつしやるのだと思ひます。
先生は「僕は自分の自由を重んづるからすべての人の自由を重んじたい」と云ふTの言葉を美言と仰云ひましたね、けれども先生はそれが本当に解つてお出にならないのだと思ひます。凡ての人がその心持でゐたら、どんなに、各自勝手なことをした処でお互ひ同志の秩序を乱すことはない筈だと思ひます。ただ皆、自分の手前勝手と私たちの云ふ自由を一緒にしてゐるのです。そして余計な心配をしてゐるのだと思ひます。それは絶対の自由はなか〳〵得られませんがそれに近い自由は得られます。先生は何とか彼とか可なり私達の上を非難なすつてゐらしたことを私は知つてゐます。然し私達は今貧乏はしてゐますけれども過ぐる頃先生に夢想だの何のと云はれた、私共の考へてゐたことに近い生活をしてゐます。そして何の矛盾も苦悶も持ちません、――但し世間の人達の持つてゐるやうな一般的の苦痛です――私達は今、何に向つても可なり自然な心持で向ふことが出来ます。何の束縛も感じません。そして私共は可なりお互ひに勝手なまねをして居ります。私達に向つて先生が断言なすつた三年も直ぐですけれども、私達の愛はなか〳〵醒めさうもありません。私はあれほど大切な道徳に反抗しましたけれども生きることはさまたげられはしませんでした。私はずん〳〵成長してゐます。これからもずん〳〵育ちたいと思つて居ります。
私は別に新らしがる訳ではないのですけれども先生のやうな賢明な方があゝやつてだん〳〵時代に取り残されてゐらつしやることを考へると情なくなります。それは屹度先生のゐらつしやる位置が悪いのだと思ひます。先生は自分の生活を可なり恐れてゐらつしやるやうに私には思はれます。
私がこんな事を申上げると先生はどんなにお笑ひになるでせう、また、どんなにお怒りになるでせう、然し私の考へ方は間違つてはゐないと思ひます。学校にゐるときには先生のお話を一生懸命に伺つてゐました。解らないでも解つたかほをして聞いてゐました。今考へると本当に滑稽です。その実何にも解つてはゐませんでした。今になつてチヨイチヨイ先生のお書きになつたものなどを拝見しても私には解らない事が多うございます。お書きになりましたものを読んでいくら考へて見ても「なかみ」がちつともないやうな言葉ばかりが並べてあるやうに思はれます。先生の仰云ることはちつとも生命がないやうに思はれます。所謂現実味が欠けてゐるとでも申すのでせう。何となく私のやうな生々しい人間の気持にしつくりと力強く来るものがないのです。先生の仰云る言葉は一つ一つ皆空想から生れたものゝやうに思はれます。先生には世間の思想なる物の醜さははつきり解つてゐらつしやるやうです。然しそれ以上の事はもうお解りにならないで、そしてそこから先は空想にしてゐらつしやるやうに私には思はれます。私達がまだ学校にゐた時、子供でしたからまるで盲目でした。先生はその社会の表面に現はれた事実をつかまへて盛んに熱情的な口吻で私共に話して下さいました。何にも知らない私共はすつかりその事に感心してしまつてゐたのです。
私はあの事件で子供から一足とびに大人になりました。少し考へ深く注意ふかく私が世間に対したとき、其処にいろんな事象がいろんな意味で私を教へてくれました。私は学校で先生方に伺つたお講義が何の役にも立たないことを確め得ました。理想といふのはすべて空想の所産であることを知りました。そして空虚な理想に服することは出来ませんでした。私はあの時の事を考へますと身ぶるいが出るやうです。
眼には覆を除られたすべての醜い事象が横はつてゐます。それを踏み越えなければならないと解つてはゐますけれどもどう行つていいのか解りませんでした。そして私も矢張りその醜い事象の一つでした。もう美しい理想だの道徳だのさういふ高遠なことを考へることは出来なかつたのです。だのに先生はその時私が何んな情態に瀕してゐるかも考へないで私も矢張りその中の事象の一つであるといふことを根拠として、周囲といふ私にいくらかの影響を与へるものをつきつけて、私の心の中に渦巻いてゐる大きな矛盾を肯定させやうとなさいました。その時私は先生が日頃私たちに云つてお出になつたことゝはまるで違つた態度で社会といふものをお説きになるのが焦れつたいやうに思はれました。併も先生は俗悪な社会の道徳や習俗に対して何の苦痛の感も抱かずに接しながら一方にまた高遠な理想を説いてお出になつて、その理想と愚劣な現実とを止むを得ないと云ふ、アツサリとした言葉で結びつけて平然と済ましてお出になります。私にはとても我慢がならないのです。そして先生は遂に古き理想主義としても徹底することが出来ずに、また思ひ切つた俗な生活にも満足し得ずに、何と云ふ事もなしに一生ボヤツとして過してゐらつしやるのかと思ふと本当に淋しい気がします。
随分無遠慮にいろ〳〵な事を書きました。また先生に、子弟の礼をわきまへぬなどゝしかられるかも知れませんが何となく書いて見たいので書きました。ひどいことも書きましたが、私は矢張り先生が好きです。先生が妙な道徳家ぶりさへなさらなければ私は本当にすきなのです。情熱と空想の世界にゐらつしやる時が一番先生の生地に近い時だと思ひます。あの「悧巧」が顔を出すといやです。「理想」のお話をなさる時に、それを先生の美しい空想として聞くと本当におもしろい気持のいゝお話ですけれど、その話が現実に結びつくといやです。
私は何と云ふつもりでこんな余計な悪まれ口を書く気になつたのでせう、読み返して見て驚きます、可なり先生の腑に落ちない見当違ひがあるかもしれません、実はもう少し書くつもりでゐましたけれどもう書くのが面白くなくなりましたからこれで止めます。何だか一向不徹底な、何を云つてるんだか解らないやうなものが出来上りました。ですが私はたとへ先生が御覧になつて、間違つてゐてゞも何でも、私が先生にこんな理屈が云へるやうになつたその事だけでも認めて頂けばいゝのです。そして、先生が先生の所謂「新思想」もあんな傲慢な態度でなく研究して頂きたいと思ひます、実は何時か先生が温旧会通信にお書きになつたことや読売新聞の婦人附録にお書きになつた――たしかに先生だと私は承知いたしてゐます――ことについて重に書くつもりでしたが温旧会通信も新聞も何処かに仕舞ひ忘れましたので一寸具体的に書けなくなりましたし、面倒くさくなりましたから止めました。先生のあの態度は傲慢と云ふ言葉に当ると思ひます。それは先生御自身で仰云る「――大掴みに値ぶみしたり、早呑込の侮蔑――」をしてゐらつしやるのです。もう少し先生が新思想に対して親切な敬虔な態度をもつて御覧になることは先生御自身の為めばかりではなく先生がお導きになる多くの先生を信頼してゐる生徒たちの為めにどんなに幸福なことか分らないと思ひます。何卒先生、学校から社会へといきなり突き出されたときに多くの若い人達があまりに現実との間にひどい矛盾を感じて惑ふやうな事にならないやうにして下さい。それは先生のやうな方にしかお願ひの出来ないことだと思ひます。私は本当に他の愚劣な教育家と云ふやうな人達とおなじに先生を看てゐましたら生意気にこんなことは申ません。その事がお願ひしたいばかりにいろ〳〵な生意気なことを並べたのです。何卒馬鹿にしないで読んで下さることをお願ひします。私としては真面目に書いたのですから。まだ雨が降つてゐます。学校時代の無責任な楽しさは思ひ出しても気持のいいものです。先生のお宅にゐました頃――それももう二度とは返つて来ない楽しい月日です。
かうして筆を運ばしながら追想しますと又いろんな思ひ出が生き返つて筆を擱きたくなくなります。何だかあの先生のお宅で林檎をかぢりながらいろんなお話を伺つたときのやうな子供々々した、なつかしい親しみをもつて先生に甘へたいやうな気持になります。かうなつて来ると、あんなにくまれ口をきいた大人になつた自分が悪らしくなつて来ます。もういゝ加減に止めませう。そのうちに、こんな理屈を云つたことは全く忘れたやうな顔をして、先生のお書斎に子供になつて甘へに行きます。そのとき何卒悪くらしい大人の私をしからないで下さいますやうに今からお願ひして置きます。 (三、五、一五)
[『青鞜』第四巻第六号、一九一四年六月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第六号」
1914(大正3)年6月号
初出:「青鞜 第四巻第六号」
1914(大正3)年6月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056966",
"作品名": "S先生に",
"作品名読み": "エスせんせいに",
"ソート用読み": "えすせんせいに",
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"初出": "「青鞜 第四巻第六号」1914(大正3)年6月号",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"最終更新日": "2020-09-28T00:00:00",
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"没年月日": "1923-09-16",
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"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
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利欲一点張りの父と思想上の衝突からと云ふ註をつけて女子美術学校を中途でやめた松尾松子と云ふ婦人が将来画家としてたつゝもりで自宅で退学後も研究中の処父は彼女を歯科医として教育することにし度々意見の衝突をしたあげく不本意ながら父の意に従ふことになり近々専門校に入学して研究する筈になつてゐたが矢張り画を描くことを思ひ切ることが出来ずに煩悶し近き頃は家人ともろく〳〵口もきかず一室にとぢこもつて絵をのみかき哲学の書なども耽読してゐたが何時か自殺を決心して十八日午前二時画用の黄と青の毒絵の具を多量に服したと云ふことが十九日の紙上に見えた。
果して自殺の真の原因が新聞紙の伝へるやうに目的をはゞまれたと云ふことゝすれば松子と云ふ女は小心な意久地のない女だと云はなければならない。
希望をもつことの出来ない歯科医などになることをしぶしぶながら承知する位の勇気があれば何も死なゝくともよさゝうなものだと先づ私達ならば思はれる。本当に死ぬほどつきつめた心持になる程画に執着があればたとへ今逐ひ出されるといつてもその愛をまげることが出来ないのが通常であるのに、矢張り一時の苦しさの為めにの妥協がのがれやうとした苦痛を一層大きくしてしまつたのだ。其処までゆくともうすつかりまゐつて仕舞つたのだ。もう一と勇気出してふみこたへればそれがきつと彼女をもつと明るい処に導いたにちがひない。
到底自分の望みが容れられない場合に二つの方法がある。それはどんなにしても自分一人の生活の道をたてて親の手許からはなれ去ること、それでなければこれは少し性は悪いかもしれないけれどもそれも一の手段として自分に許すことが出来れば、親の要求通りの道をえらんでその傍ら絵をかくことを続けてゆきどうしても他の事をさせたのでは駄目だと親の方で覚るやうに仕向けてゆくかの二つだ。本当に生きる為めの仕事に対する愛着からならばその位のことは何でもないことだと私は云ひ得る。
私の考へによれば彼女にはこの位のことは見当はついてゐたのだとも思はれる。併し彼女は彼女自身の臆病からそれを断行することが出来なかつたのであらう。けれども後者は割り合ひに容易に出来ることだと思ふ。たゞそれにばかりついてやることは出来ないかもしれない。けれども彼女が片手間の研究で満足が出来なければどうも仕方がないとも云へるけれどそれにしても場合によつては描くことを懸命にやつて医学の研究を片手間でもかまはないではないか。小心なものゝ常としてさうした方に向けば向いたで矢張りそれにも全力を傾けて他人にひけをとりたくない劣等者になりたくないと云ふやうな欲ばつた考へになつて矢張り人並の勉強もしなければならず、それには時間はかゝるし疲れはするしとても絵などは書けないと云ふ考へが先きにたつことになるとつい失望もしなければならない。兎に角自分の事に丈け懸命になつてゐさへすれば何でもなく処置の出来ることなのだ。この自分の真の仕事についての長上との意見の相違は今はじまつたことでなく随分ながい歴史をもつてゐるのだ。あまりに周囲ばかりを見つめてゐる、周囲によつて生きてゐる人間には内心の要求が強い程かの矛盾に苦しむのであるが併しその要求が昂じてそれで一人の人間全体がはり切れさうになりさへすれば周囲のことなどはおもつてはゐられなくなつて仕舞ふに相違ない。さうしてさういふ人でなければ決して成就はむづかしいのだ。処がおかしいことには多くの教育者は精神一到何事か成らざらんなどゝ教へてゐながらさて其処にぶつかればきつと何とか彼とか圧迫しやうとする。ことに女にとつてはこの圧迫は一番苦しいものゝ一つだ。女は始終その圧迫の前におづ〳〵暮して来た。そうしてそれは殆んど女の先天的素質に近いまで喰ひ込んで来た。彼女は父に対して不平をもち不満を抱きながらも矢張り一種の因習の圧力、父の圧力にまけたのだ。彼女にはそのすきを見つけ出すこともはねかへす力もなかつた。さうして彼女は日夜かなしんで遂々死を決心した。彼女は一命をとりとめたから此度は自分のすきな道に向つて歩むことを許されるかもしれないけれども彼女はどうしても一度はまけたのにちがひない。彼女の生命が全くその為めに失はれたのならば彼女は父の持つた因習の圧力にまけて死んだのだ。そして彼女は何にも得ることは出来なかつたであらう。
[『新公論』第三〇巻第八号、一九一五年八月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「新公論 第三〇巻第八号」
1915(大正4)年8月号
初出:「新公論 第三〇巻第八号」
1915(大正4)年8月号
入力:酒井裕二
校正:きゅうり
2018年8月28日作成
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"作品ID": "056967",
"作品名": "女絵師毒絵具を仰ぐ",
"作品名読み": "おんなえしどくえのぐをあおぐ",
"ソート用読み": "おんなえしとくえのくをあおく",
"副題": "(三面記事評論)",
"副題読み": "(さんめんきじひょうろん)",
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"初出": "「新公論 第三〇巻第八号」1915(大正4)年8月号",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-09-16T00:00:00",
"最終更新日": "2018-08-28T00:00:00",
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"名": "野枝",
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"姓ローマ字": "Ito",
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"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
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"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
"底本出版社名1": "學藝書林",
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一 静かな読書生活
受附の看守が指した直ぐ向側の『面会人控所』の扉は重く閉されてゐた。龍子は新しい足駄の歯がたゝきにきしむのを気にしながら静かに歩み寄つて其の扉に手をかけた。重い戸が半ば開くと、直ぐ正面に同志のMの蒼白い顔が見えた。
此の控所は、東京監獄の大玄関の取りつきの右側で、三間ばかりの奥行をもつたそのたゝきの土間にそふてゐる細長い室であつた。這入つて左へ突き当つた廊下へ上る扉口と入口を除いた外は、此の九尺に三間の細長い室の三方の壁には面会人の腰をかける為めの幅の狭い木の腰掛けが、恰度、棚のやうな工合に取りつけてあつた。廊下へ上る扉口と向き合つた南側の、前庭に面した壁の上の方に大きな窓が一つ開いてゐた。
Mは其の入口の正面に腰をかけてゐた。室の内には、傘や、下駄や、スリツパが、二三足おいてあつたが、面会人はMを除いた他には、三つか四つ位の子供を縞目もわからないやうな汚いねんねこで背負つた女房が一人隅つこにうづくまつてゐる外には誰もゐなかつた。
『もう済んで?』
思ひの外に人もゐず、ひつそりした室の内にMを見出した龍子は直ぐMの傍に腰を下しながらきいた。
『いや、まだです。僕は午後から――今S爺がY君に会つてゐる処』
『Sさんが? さう、ぢやあなたはWさんに会ふのね』
『えゝ、僕がY君のつもりでしたけれどSさんが先きに来てさう云ふ手続きをしてゐたもんだから――』
Mは昨日みんなで極めたのとは少し手順が違つて来た事を龍子に説明した。それから二人は、昨日、此処の未決にゐる四人が裁判所へ出た事を知つて、何うかして遇へないまでも皆んなでゐるのを知らせたいと思つて半日其処の仮檻の前に立ちつくしてゐた事や、思ひがけない四人の収檻についてのいろんな事を話し合つた。
『Mさん、あれも囚人のゐる処?』
開放された廊下への上り口から見える中庭の向ふの低い屋根を圧して高く聳え立つた家の側面が、フト龍子の注意を引いた。それは一と目見て、封建時代の古い牢獄を思はせるやうな頑丈な木造の建物だつた。黒つぽい褐色のぬり色が風雨に曝されて如何にも古めかしい色をしたのも、丸太を横に積み重ねたやうなその外壁の上の棟近くにある僅かに光りを採るばかりの、まるで動物の檻のような感じの四角な横木をはめた小な天井裏の窓も、Eが不断から云ひ馴らしてゐる『牢屋』と云ふ感を其のまゝ現はしてゐるとしか見えなかつた。で、龍子は、嘗つて此処の未決檻に多勢の同志と一緒にゐた事のあるMに聞いた。
『いゝえ、あれは違います。あれは屹度看守やなんかのゐる処でせう? 囚人のゐる処はあのもつと向ふにあるんです。僕等の同志の行く処は大抵四檻と八檻と云つて一番左側の棟になるんです。』
Mは其処からは見えない檻房の位置や構造などに就いて委しい説明をしながら、自然にいろんな事を思ひ出すと見えて、呑気な檻房生活の話をして聞かした。それは龍子も屡々Eからも聞いてゐた。龍子はMの話を聞きながら、Eから聞き知つた此の中でのいろんな挿話を思ひ出すと、今此処の独房の何の一つかに胡座をかいて読書をしてゐるEの姿をまざ〳〵と見るやうな気がするのだつた。
『半年や一年なら………………。』
牢屋の話が出るときまつてEはさう云つた。
『遮断生活も偶にはいゝもんだよ。ああ、暫く本を読まないな………………………。』
いろんな、下らない雑事におはれ通しで、疲れた時などは、彼は本当に静かな、何んの煩ひもなく読書三昧に暮らせる檻房生活を、染々としさうな調子で、よくさう云つた。
『Eは此の間N警察で会つた時に、二三ヶ月読書が出来さうだなんて呑気な事を云つて笑つてゐたけれど、他の三人は何うしてるでせう。Nでは皆んな一緒だつたから元気がよかつたけれど、別々になつてからはきつと心細くなつて悄気てるかも知れないわね』
龍子は、廿代の半ば以上を獄中にゐて、其処の生活には馴れ切つてゐると云ふよりは親しみをさへ持つてゐるEの事を考へると同時に、此度初めて、さう云ふ経験をする他の三人の人達の事も心配になつた。
『何あに大丈夫皆んな平気ですよ。それに未決だもの、着物はうんと着てゐるし、毛布もはいつてるし、弁当なんかいゝのが入れてあるし。U君は先刻H君が会つて差入れの事を云つたら、万国史と辞書がはいつたのならそれでもう申分なしだと云つてゐたさうですよ。W君だつてさうだ、悄気てるとすればY君だが――何あに、そんなに心配したもんでもありませんよ』
『其のYさんよ、彼の人ぢや昨日もTさんに散々当てこすられたり嫌味を云はれたりしたんですよ。Tさんでさへあゝだから他の人達は何んと云つてるか知れないわ。何うしてまた、うちの三人と、方角ちがひに帰る筈のYさんが一緒になつたのか知らないけれど、飛んだ人が仲間になつたわね。TさんなんかまるでEが無理にでも引つぱつて行つたやうな事を云つてゐるけれど、EとYは初めてあの晩、あの集会で会つた位のものぢやありませんか。それをわざ〳〵引つぱつて帰らうとするなんて事はなささうに思へるけれど。』
Yは、現在日本でのソシアリストの首領とされてゐるT氏とK氏を便つて最近に地方から出て来た青年だつた。そしてT氏の経営してゐるB社で働いてゐた。EとT氏とはいろんな点で従来は深いつながりを持つてゐたが此の五六年Eのアナーキストとしての旗幟が鮮明になると同時に思想的にも、感情的にも二人は折れ会ふ事が出来なくなつてゐた。自然、古くからの情実にからまれた同志が何方にもよらずさわらずにゐる外は、二人の周囲に集る顔ぶれも違つて来てゐた。で、Yの名前はかねて聞き知つてはゐたが、YがEに会つたのは、数日前の同志の集会の席で会つたのが初めてなのだつた。そして、其の夜遅く其処から帰る途中浅草のN警察に止められたのだつた。EとUWの三人は同じ亀戸の一つ家にゐるのだから一緒なのは不思議はないが、日比谷へ帰るべきYが一緒だつたと云ふ事は、他のものはどうしてもわからなかつた。しかし、それをEやWがわざわざ引つぱつて行つたものとは考へられなかつた。しかし二日前に龍子がT氏に会つたときT氏は、わざわざEが其処へ引つぱつて行つたかのやうな口吻で、Eの無謀を非難がましく龍子に当てつけた、少くとも、Yと云ふ連れのある際に無謀な事をしたものだと云ふ腹は明らかに龍子に見せつけられた。『Eの無茶』は、もう大分永い事、T氏達の間では、Eに対する唯一の批難だつた。しかしEにはまた、其の無茶にはちやんとした理由があるのであつた。龍子はT氏のその腹を見せられても軽蔑をこそ感ずれ、別に腹立たしいとは思はなかつた。しかし、もう一段、くだらない感情の為めに晦まされたT氏を見せつけられた時には、彼女はいろんな複雑した憎悪と憤りを感じずにはゐられなかつた。
二 意味の解らぬ収檻
E達が何んの為めに収檻されたのか、その本当の理由を知つてゐるものは、其の収檻された人達以外には誰れも知らなかつた。勿論新聞紙の無責任な報道が全然あてにならないと云ふ事は、少し物わかりのいゝ人なら誰でも知つてゐる。
『何にをしたんです? 一体――』
彼女はN警察で会つたとき、食後の煙草を呑気らしく吸ひながら、何彼と差入れや其他の事を彼女に注意してくれるEの言葉のとぎれるのを待つて聞いて見た。
『何んでもない事さ――』
彼は笑つて彼女の問ひには取り合はなかつた。他の三人も、それに就いては、たゞ黙つて笑ふばかりで何んにも云はなかつた。そして、龍子も、それで重ねては何んにも聞かなかつた。
普通の人の生活では、それは決して『何んでもない事』としては通らない事だ。けれど、Eや龍子の生活にはむしろ有りがちな、と云ふよりは、始終折さへあれば、何にかの名で降つて来るにきまつた、小さな災難だつた。否災難として受取るには余りに必然的な事としてさへ考へられる程のものだつた。で、彼女は、それに就いての大げさな心配や昂奮は一切しない事にかねてから心をきめてゐた。そしてたゞ、そう云ふ際にすべき事は、出来るだけのカムレエドシップをつくして、不自由な処に拘束されてゐる人達の為めに尽すと云ふ事のみだつた。
T氏は、さうした事に対しては一番理解のある人でなくてはならなかつた、また、実際ある人だとも聞いてゐた。然し、龍子の前のT氏はさう云ふ温かさを持つた、首領らしい寛大さなどは少しも見る事は出来なかつた。Yのみよりの人から、此度の為めに持ち込まれた苦情を受ける迷惑と不快さを愚痴つぽくまた皮肉に彼女の前に並べるのだつた。そして、此の数年前の××事件も矢張りEの先立ちになつたさわぎで、皆んなは高々五六ヶ月か二三ヶ月と高をくゝつてゐたのに二年、二年半などゝ云ふやうな長い刑期を受けねばならなかつた、と云ふやうな事を、何の為めに云ふのかと怪しまれるやうな調子で、龍子に話すのだつた。取り方によつては、龍子が、さうした最初の経験に、案外平気でゐるのを小面憎くゝ思つて脅すのかとも思へるし、『Eの無茶』の結果が、此度もまた、どの位他人にたゝるか知れないのだぞ、と云ふ腹とも思はれるのだつた。龍子は、さう云ふ言葉を聞くと一層忌々しさがこみ上げて来るのだつた。例へ何んにも知らないYが巻き添へを喰つたからと云つて、それは、さう云ふ危険な人達や場所に近よつたY自身の不用意からで、何もT氏の知つた事ではない筈だ。それで迷惑を感ずるなら、その迷惑を拒絶すればいゝ。その迷惑を何にも未練らしく龍子の前に並べる事はないではないか。龍子は、眼前に腰をかけて皮肉らしい態度で話してゐるT氏に対する反感が湧き上つて来るのだつた。
それのみではない。T氏は、斯う云ふ場合に初めて出遇つた龍子が、何一つ、何にも彼もさう云ふ事に就いては知りつくしてゐるT氏に教へを受けようとせず、何処までも一人で、凡てを為やうとするのが寧ろ憎い感じを起させたらしい。差入れや、其他の細々した事に就いて、一々彼女に聞き糺した。
『飯なんか、どうするつもりか知らないが三度々々入れる必要はありませんよ、彼の中では。そんなに食べるもんぢやないし一度位は彼処のも食ふ方がいゝんだ。それに、金だつてどうせ続きはすまい、あんまり最初よくしてそれが続かないと、最初の親切が何んにもならんから――』
『えゝ――』
それはもつともな事には違ひなかつた。彼女だつて、その位の事は最初から考へてもゐたし、Eにも注意されてゐた。で、食事の差入れは朝夕二度、朝は軽いパンと牛乳、夕飯には少しいゝ弁当ときめてゐた。金――それも続くまい、と見くびられゝば猶の事、どんな事をしても、皆んなが未決にゐる間は続けなければならないと云ふ決心が固くなるのだつた。一つ一つさうしてT氏と龍子の話は龍子の反感を高めて行つた。ほんの一寸した事でも、さうした種類の侮辱を耐へる事の出来ない龍子は、自分の胸が煮えかへるやうなおもひを、此の老爺の面前に叩きつけてやらうかと思つた。しかし、はしたない真似はしまいとおもふ他の気持が、Eとの古い複雑な関係を思ひ出させて、やつとその激した心持を取しづめた。丁度、其処に、他の同志が一人顔を出して、彼女と一緒に、監獄の前まで行かうと云つてくれた。
外に出て、同志のやさしい慰さめの言葉を聞くと、龍子は今まで、耐へ〳〵てゐたいろいろなおもひが、一時に湧き上つて来て、熱い涙が、とめどもなく頬を伝ふのだつた。彼女は道を歩きながら、幾度もハンケチで顔を覆つた。そして、一しきり溢れ出て来た涙が皆んなが留守になつてから四五日間感じた事のない、物がなしい、たよりなさが、今はじめて、染々と感じられるのだつた。T氏に対する反感は、それ以来此の二三日の間、物にふれ事にふれて龍子の気持を熱くするのであつた。
今も、龍子は、それをおもひ出してゐた。
『どうせ、何んとか彼んとか云ひますよ。何あに、云ふ奴には勝手に云はしとくさ、Y君だつてさう悄気てもすまい。出来ちやつた事何に云つたつて仕方がない。』
Mは煙草に火をつけながら静かな調子で云つた。
『Tさんもそんなにわからない事を云ふ人ぢやないんだけどなあ、E君の事と云ふと妙に変るんだなあ。』
龍子は黙つてうつむいた。そして、せめて未決にゐる間だけは、皆んなの世話を、どうかして自分の手で続けたいと切に思ふのだつた。殊に、Yの世話は、一切T氏達の手を退けるようにしたいと云ふ気持が、次第に募る反感と一緒に強くなるのだつた。
三 地獄の扉の音
『ガタ――ン!』
控所の直ぐ近くの室の入口の重い扉が、力一杯に手荒くブツケるやうにしめる音がした。龍子は思はず眉をよせた。
『まあ何んていやな音だらう? まるで体がすくむやうな音ね』
本当に脅かすやうな音だ。あれがきつと囚人をしめ込む音なんだ、と龍子は思つた。きつと彼の音が誰れの宣告よりも確実に囚人の魂を脅かしたり冷笑したりするんだと思つた。
『…………………、あの音を聞くと実に、…………………………暫くあの音を聞かなかつたなあ。』
Mは微笑しながら、龍子の言葉をうけてさう云つた。
『しかし、彼れぢやまだ駄目だなあ、檻房の扉は、とてもこんな扉とはくらべものにはならない位あつく頑丈に出来てゐますからねえ、もつとずつと重い重い音がするんです、そして鍵の音がガチャ〳〵しないぢや、本当の気持は出ませんね。』
Mは遠のいた自分の獄中生活を染々今、その音で思ひ出したやうな調子で話し出した。
『狭い独房にポツンと一日中座つてゐるんですからねえ、一寸でも外に出るのはそれは楽しみなもんですよ、面会所まで出て来る途中なんか、随分遠い処がありますからねえ、ブラブラ彼方此方眺めながら歩いて来るのはそれやせいせいしていゝ気持なものですよ。』
二人が話をしてゐる処に面会を終つて帰つて来たS翁の大きな体が廊下の入口をふさいだ。
『やあー』
S爺と同志の間に呼ばれてゐる老人は、その肥つた血色のいい顔にいつものやうな穏やかな笑を見せながら石階を降りて龍子の方に近づいて来た。龍子が腰をかゞめて挨拶するのを受けて爺は叮嚀に見舞を云つた。
『何うです? Y君は。元気でゐますか?』
挨拶のすむのを待つてMが直ぐに傍から口を出した。
『え、えゝ大変に元気です。皆さんによろしく申ましたよ、それから書物を入れて欲しいと云ふ事でした。えゝと――』
『あ、それは今日持つてまゐりました。Yさんが御自身で云つてらしたモウパサンの短篇集とゴルキイのカムレエドと辞書を入れました。長くなるやうでしたらまた何か入れるつもりです。』
龍子がさう云ふとS爺は大きく肯きながら
『あゝさうですか、ではそれでいゝでせう何しろ、あゝやつて一日座つてゐるのぢやあ何うも読むものが第一ですからな』
『左様です。で、寒くはないでせうか?』
『え、えゝ着るものも充分着てゐるし、毛布もはいつてゐるんで楽だと云つてました。しかし、何しろ火がはいらないんですからな。新聞に出ましたかなんて聞いてゐましたよ、出ましたよつて云ひましたら、そいつあいゝななんて云つてましたつけ。』
『出ちやあ困るんでせうがねえ。』
Mは煙草の灰をおとしながら笑つた。
『しかし、Y君もこれが機会になつて本当の決心が出来るかもしれませんね。それから、SさんはこれからB社の方へお出ですか?』
Mは少し改まつて云つた。
『えゝ。さうしようと思つてゐます。』
『では、B社へお出になつたら、僕はY君に会ふ筈で来たんだけれど、あなたが先きに会ふ事になつてゐたんで、僕はW君に会ふ事になつたんだと云ふ事をよくさう云つておいて下さいませんか。でないとまた神経の鈍つた人達が多いから、自分達に近い者ばかり大さわぎして、此方の近い者はうつちやつておくなんて云ひかねませんからねえ』
『承知しました。よく云つときませう。何うもその、皆んな吾々の仲間の人は、普通の人よりは矢張り神経質ですからな、えゝ、承知しました、よくさう云つときませう。』
爺は幾度かうなづきながら云つた。
『何卒お願ひします。』
『えゝ確かにそ云つときます。ぢや、私はこれで失礼しますから、何卒Eさんにお会ひになりましたらよろしく仰云つて下さい。何しろ、斯う云ふ事になつて来ると、またあなたが一番お骨折りですよ。まあ何卒何分よろしくお願ひしておきます。』
爺は龍子にさう云ふと、立ち上つて出て行つた。
『アーアツ』
爺の姿が見えなくなるとMは不精らしく懐手をしたまゝで体をのばしながら大きな欠伸をした。
『雨があがつたやうだな』
たつた一つの高い窓にその時うつすらとたよりない日影が射してゐた。室の中には始めから、その窓の下の腰掛に究屈らしく座つてゐる子供を背負つた女がゐるだけでひっそりしてゐた。ぢつと腰をかけてゐる裾の方から冷えて来るのが龍子にはつきり分つてゐた。Eは風邪を引いてゐた。去年の秋の初頃からその風邪はしつこくこぢれて、ぬけないでゐた。それだのに火の気のない檻房に座つてゐてはどんなに冷えるかしれない。何よりも寒さに対しては意久地のないEはどんな格好をして座つてゐるだらう。龍子は頻りに、此度はEの体が心配になり出した。
『ねMさん、毛布は下に敷いて座つてゝもいゝの?』
『えゝ、いゝんですよ。皆んな一枚づゝはいつてるんでせう?』
『えゝ、でも、この寒さに火の気なしはたまらないわね、冷えるでせうねえ。Eはそれに去年からの風邪がまだぬけないんですからねえ。』
『大丈夫ですよ、彼処にゐる間は。とにかく気持が違ふから風邪なんか抜けてしまひますよ、それに何んと云つてももう三月ですからね。もう一と月早いと、こんなもんぢやありませんよ。丁度いゝ時だ。これから二三ヶ月や五六ヶ月なら一番いゝ時ですよ。』
Mは立ち上つて龍子の前をソロ〳〵往つたり来たりしながら云つた。
四 ハハア…内妻ですな?
『もう何時頃でござんせう?』
ふと、隅つこに座つてゐた女が向き直つて聞いた。龍子はコオトのポケツトをさぐつて時計を出して見た。
『一時に二十分前ですよ』
『あ、左様ですか、何うもありがたう御座います。』
女は座つてゐた足を痛さうにのばしながら汚い下駄の上に乗せた。背中の子は大きな坊主頭を母親の背におつつけてよく眠つてゐた。その母親の櫛の歯のあとなど見えない油つ気のぬけた、そゝけ放題な頭の毛や汚いねんねこで、龍子の眼には、何うしても、その日暮らしの人足か立ん坊の内儀としか見えなかつた。
『随分待ちますねえ』
Mはもちまへの優しい調子でそのかみさんに話かけた。
『えゝ、朝からですから、随分長いことまちます。まだおひるつからのは、なか〳〵で御座いませうか?』
『いや、もう直きでせう。一時になつたら会はすでせう。』
『あ、左様で御座いますか、何うもありがたう御座います。』
かみさんはそれで口をつぐんだ。丁度其の時に受附の窓口に洋服を着た一人の男が立つた。受附の男は何か頻りに聞き糺しながら面会の手続をしてやつてゐるらしかつた。龍子は直ぐに立つて行つた。その男が番号を書いた札を受取つて退くと直ぐ龍子は代つた。
『誰に会ふ?』
受附の年老つた役人はさも横風に龍子の顔を睨みつけた。広い室の中に縦横に置かれた大きな机の前の彼方此方の顔が物珍らしさうに龍子の顔を老人の肩越しに覗いてゐた。龍子は爺さんの横風な問にムツとして睨み返しながら、素つ気なくE――の名を云つた。
『ア、Eさん――さうですか、あなたは?』
爺さんは急に態度も言葉使ひも改めながら、云つた。龍子はだまつて自分の名刺をさし出した。
『何う云ふお続柄で――』
『内妻――』
さう云つて龍子はふつとくすぐつたい笑ひを洩らさうとした。
『何あに、いくら女房ぢやないの何だのつて威張つたつて、裁判所に引つぱり出されたり、監獄に面会に来たりして御覧、内縁の妻にされつちもふよ。』
Eはよく二人の関係について冗談を云ふ度びに友達の前や何かでそんな事を云つた。
『アラいやだ。』
『あらいやだなもんか本当だよ』
『嫌やだわ内縁の妻だなんて。』
『嫌やだつたつてそれが事実ぢやないか』
『違ふわ』
『ぢや何んだ』
『何んでもないわ、いろだわたゞ――』
『ぢやあ若し裁判所で内縁の妻だなんて云つたら抗議を申込むか』
『えゝ、内縁の妻だなんてそんなもんぢやない。いろだつてさう云ふわ』
『さうか、そりやあえらいな』
さう云ふ事は幾度も〳〵云つてゐた。そして二三日前、警視庁に、或友人と一緒に差入れに行つたときに矢張り其処の係りの巡査から同じ事を尋ねられた。
『あなたはEさんの何んです?』
巡査はぢつと龍子の顔をみつめながら云つた。何も彼も知つてるくせに――と思ひながら龍子は
『一緒にゐるものです。』
と曖昧な答へをした。
『ハヽア、すると内妻ですな』
巡査は至極真面目くさつて書きつけた。龍子は巡査のその言葉を聞くと何かくすぐつたいやうな気持と一緒に、何も彼も解り切つた事までも根掘り葉掘り聞かなければ承知の出来ない巡査が、その曖昧な答を馬鹿にのみ込みよく問ひ返しもせずに『内妻』としたのを妙な気持で眺めてゐたが、ふつとEの何時もの言葉を思ひ出して、危くふき出さうとした。そして同時にその内縁の妻と云ふ文字が新聞の三面記事より他の場所では先づ見た事がないんだ等と思ふと、何んだかその言葉が無暗と感の悪い言葉に思えて仕方がなかつた。その晩帰つてからも、その次の日も、龍子はそれを思ひ出すと変な気がした。しかし終ひにはだん〳〵と其の気持を誇張してゐるうちに擬悪的な興味が少しづゝ顔をのぞかし初めて来た。そして何時の間にか平気で自分の口から『内妻』と云ひ得るやうになつたのだ。しかし平気でさう云つた後から直ぐにボツと顔が紅らむやうな気がした。
龍子が『七十二番』と云ふ番号札を受取つて控所に戻つた時には、外の控所から這入つて来た面会人が十人近くもゐた。そして後から後から三四人づゝゾロ〳〵這入つて来て、何時の間にか、ヒツソリしてゐた控所の中は一杯になり腰掛には空きがなくなつた。龍子は席にかへると直ぐ時計を出して見た。一時はとうに過ぎてゐた。廊下には書記や看守が往つたり来たりし初めた。
『ガターン!』遠く近く、扉の音が幾度も幾度も龍子の眉をひそめさせた。
五 地獄と思へぬ無邪気な顔
控所の中の人間の半数は女だつた、かなり年増の如才ない如何にも目はしの敏く利きさうなキリツとした内儀さんや、勝気らしい顔をした三十二三の細君や、柔かいムジリのはんてんに前垂がけの小料理屋の女中らしいのや、子供を負つた裏店のかみさんらしいのや、田舎の料理屋の酌婦と云ふやうなひからびた頬骨の出た顔に、まつしろに白粉を塗つたのや、あらい米琉の二枚小袖を上品に着た若い中流の家の細君らしいのや、その他十二三人の女が或ものは呑気さうに連れと話したり、ひとりで黙つて心配相に蒼ざめたり、オド〳〵不安相にあたりを見まはしたり、済まして人のみなりや頭の恰好に目を留めたりしてゐた。
男は割り合に皆呑気な話をし合つて笑つてゐた。廊下に上る石階の直ぐ左手に腰掛けてゐた四十四五の色の黒い眉尻の下つた一見区役所の雇と云つた風な顔付に稍々滑稽味のある顔をした男が、頻りに其石階にぬぎ捨てた足駄を気にしてゐる。
『どうしたんだらうな本当に、もう出て来さうなもんだ。他人のスリツパをはいて行つて何時までも来ないなんて、困つてしまふな。もう直き時間が来るのに』
其の男は誰にともなく四辺に聞えるように唸いてゐる。
『何うしたんです』
直ぐその傍にゐる、どう見ても間違のない処は肴屋の親方と云ふやうな恰好をした大きな男が口を出した。
『何あに、私が此処にスリツパをおいて置きましたら、先刻此の足駄の主が来て、それをはいて行つたきりに帰つて来ないんでさあ、私はまた直きに来る事だと思つて黙つてましたけれどもう三十分ばかりも出て来ないんです。』
其の男は少し口を尖らしながら、しかし、その話の中味の事よりは、話の緒が出来たのを喜ぶやうな調子で云つた。
『さうですか、何あに、ぢや直き来るでせう。』
親方は何んだつまらない、と云ふやうな顔をして云つた。そして直ぐ一緒にゐる若い鳥打帽をかぶつた男と話し出した。初めの男は親方の態度にガツカリしたやうに一たん浮かしかけた腰を下ろした。そして自分の連れらしい六十位の田舎者らしい親爺を相手に話し出した。
『本当に大きな建物だなあ、あの塀が何町四方つて囲つてゐるんだからな。まあこん中に何の位の人間がゐるか知らないけれど、大したものだらう? それをたゞ、賄つたり着せたりするんだが大変なもんだなあ』
男は頓狂な眉を一層頓狂にしながら高声に云つた。
『さうさなあ、矢張りお上にも無駄な費と云ふものはいるものだなあ。何んだなあ一日分だけでも、こちとらにすれやあ大したものだなあ。』
『さうさ、無駄と云へば無駄だが、これがなかつた日にや大変だ。しかし此の大きな構への中にあの自動車でもつてプツプーツなんて来る気持は一寸いゝもんだらうなあ。俺達やとても一生懸りでも自動車で煉瓦塀の中に乗り込むなんて事は出来ないらしいな。』
『冗談ぢやありませんぜ』
親方がまた口を出した。
『自動車だつて色々ありまさあ、あの自動車は人間を乗せるんぢやありませんよ、ありやあなた――』
親方は得意になつて男の方へのり出しながら云つた。
『ありやあ、人間を積むんでさあ、まあ一つ降りる処でも乗る処でもいゝから見て御覧なさい。手錠をはめられた連中がギシ〳〵詰め込まれまさあ。外の自動車は知らねえが、此処に来る自動車だけは人間と云ふ荷物を積む自動車でさあ。自動車でのり込むと云やあ大層外聞はいゝけれど私なんかまあ真平ですね。』
親方の真面目くさつた反対には皆んながふき出した。Mと龍子も顔見合はせて笑ひ出した。親方もさも何の屈托もなささうな高笑ひをして皆んなの顔を見まはした。丁度其の時廊下を通りかゝつた貧相な看守が一寸立ち止まつて『何事だ?』と云ふやうにギロリと白い眼を光らせて通りすぎた。龍子はその黄色い痩せた噛みつきさうな邪険な顔を見ると忽ち不快な感じに襲はれた。そして、皆んなの顔をまた一わたり見まはした。然し誰も別に気に止めてゐるらしい様子はなかつた。隅つこの男と親方は頻りに無駄口を叩いて皆んなを笑はしてゐる。親方のまはりの人々は、邪気のない親方の軽口で不快な監獄の面会所だ等と云ふことは忘れたやうにニコ〳〵してゐた。しかし、入口に近く固つた女連は、流石に皆んな心配らしい顔付きを隠すことは出来なかつた。親方の軽口よりは、早く時間が来て面会所に呼び込まれるのを一心に待つてゐるやうな様子だつた。
『もう彼是二時だよ。早くしてくんないかなあ。すつかり腹が減つちやつた。』
親方の傍にゐた若い男はさも待ち疲れたと云ふ顔をして大きな欠伸をしながら云つた。
『ぐず〳〵云ひなさんな。今に時が来れやあちやんと会はして下さらあ、お役人様方あ今お昼のおまんまが済んだばかしだ。おめえの腹なんかいくら減つたつてそんな事をお取り上げになるもんか。腹は夕方にならなくつちや減りやしないよ。』
親方は直ぐおどけた口のきゝ方をして若い男をねめつけた。
『親方あ減らないだらうけど――』
『おい〳〵おれの腹が減らないつて何時云つたい。俺はもう大ぺこ〳〵だ。減らないと云つたのはお役人様の腹さ。お前も余つ程人間がドヂに出来てるなあ』
『フフン』
若い男は仕方のなささうな顔をして外套のポケツトに手を入れて天井を見上げた。
『併しどうも長いですねえ、私なども、朝七時からゐるんですよ。どうも一寸の面会に一日掛りでは全くよはつてしまひますね。仕事を休んで一日掛りで来なきやならないとなつちや、なかなかおつくうになつて一寸と云ふ工合には行きませんね。』
一番初めの男がまた口を出した。
『さうお手軽には行きませんよ。お上は何んでも几帳面だから――』
『几帳面ならもう始めさうなもんだな、一時まで待てばいゝ筈だつたんだ。』
龍子と同じ側に座つてゐた五十位の黒い前垂をしたあばたの爺さんが初めて其処で口を出した。
『本当だ。まご〳〵してゐるうちに日が暮れて仕舞はあ。早くしてくれないかなあ。』
若い男はさも不平らしく口を尖らして云つた。
『これで散々待たされた挙句に、漸々面会して五分と話が出来ないんだから嫌んなちやふよ。碌に話も何んにも出来やしねえ。五分や十分会はしたつて罰も当らねえだらうがなあ。』
此度は親方も一緒になつて不平を云ひ出した。
『私は此の前来た時に、どうも充分話が出来なくて用が半分しか足りなかつたから此度は二人連れで来ましたよ、二人がゝりで代りばんこに思ひ出しながら話をしたら後であゝさう〳〵なんて事がなくて済みやしないかしらんと思ひましてね、規則通りの短かい時間でいろんな用を相談しやうとするんですからどうして――』
男は頻りに首を振つた。
『面会時間のお許しの出てゐる正味の処はどの位でせうな。』
あばたの爺さんが誰にともなく聞いた。
『さあ』
皆んなが顔見合はせたが誰も知らなかつた。
『自動電話は五分だなあ、あれよりやあどんな事をしても短かいね』
親方はまた皆を笑はしておいて、
『時に何時だい、もうそろ〳〵初まりさうなもんだなあ』
よく〳〵辛抱はして見たがと云ふやうな表情をして入口の方を見返つた。此度は誰も口へ出しては何んにも云はなかつたが、急にさう云はれて何かを待ち受けるやうな緊張した顔に戻つた。
六 スリツパ泥棒の恐縮
龍子は先刻から下半身の冷えがだん〳〵に体力にひろがつて行くのが分つてゐた。Mは皆んなの話を聞きながら笑ひ笑ひ立つたり歩いたりしてゐた。
『面会所つてものは本当に面白いものね』
龍子はMが傍に腰かけた時に小声で云つた。
『えゝ、一寸他ぢやこんな気分は出ませんね』
Mもさう云つて頷いた。
『Eがね始終、裁判の傍聴と監獄の面会には是非行つて見ろつて云つてゐたのが、昨日の裁判所と今日の此処ですつかり解つたわ』龍子はさう云つてあたりを見まはした。
此処にゐる人は、兎に角此の未決なり既決に囚人としてゐる人と何かの関係のある人に違いない。親子であり、夫婦であり或は親族であり、友人であり、知人であらう。そしてそれ等の囚人の或者は詐偽、或者は窃盗、或者は強盗であり殺人犯であり、また或者は放火でもあらう。そして、それ等の囚人が世間からどんな眼で見られてゐ、その関係者がどの位、所謂世間を狭め、辱かしめられ、憎悪され、軽蔑をされてゐるかしれない。それを考へて此処にゐる人達を見まはすと面白い。龍子は黙つてそんな事を考へてゐた。龍子は初め此処に這入らない前に、この室に這入つてゐる、或は這入つて来る囚人の関係者が、どんなに身体をすくませ、恥らつてゐる事だらうと思つてゐた。彼女自身は恥づべき何物も持つてゐなかつた。何故なら彼女の仲間の誰でもが、少し心のまゝに、無遠慮に行動するならば、監獄に投り込まれると云ふ事は殆んど当然の事としか考へられてゐなかつた。彼等が政府の意志に反した行動をする。その行動を政府が抑圧すると云ふのは分り切つた事なのだ。それ故、彼等の同志の一人として其処に行く事を不名誉な事だとか恥づべき事だとは考へてゐなかつた。寧ろ皆んなは、入獄した経験を他人に話して聞かす事を一つの誇りのやうにしてゐた。そして又、自づと獄内での待遇が違ふように、世間の見る眼も普通の破廉恥罪と政治犯とは大分違つてゐた。それ等のいろんな事が自然に龍子の心の中にあつた。だから彼女は平気で監獄の門をくぐつた。しかし、多くの人々はどんな気持でこの門を潜りどんな気持で控所の中で、各自の顔を見合つてゐるだらうと思つてゐた。
しかし、何んでもなかつた。幾分か堅くなつて遠慮はしてゐても、皆んなお互ひ同志に恥かしい思ひをし合つてゐるやうな風には誰も見えない。誰も肩身を狭ばめて隅にかゞんではゐない。と云つて皆んながお互ひに自棄な気持で相対してゐるのでもなければ、勿論同情し合つてゐるのでもない。本当に自然な心持でお互ひがどんな境遇にあるかなどは考へずにゐるらしい。龍子は其の控所の中で、知らない者同志が多人数落ち合つて待合はせをする何の待合所よりも安易を感ずるのを不思議に思つた。勿論楽天家らしいおしやべりな親方が大部分其処の空気を和らげてゐると云ふ事もあるが、しかし、黙つて知らない顔を見合はせてゐる隅の方の女連のどの顔にも、不思議と知らない女同志の、殊にみなりやものごしの違つた同志で表はす、侮蔑や、傲慢や、その他あらゆる敵意が、殆んど見えないと云つてもいゝ位なのが龍子には本当に珍らしく思はれた。そしてもつと龍子を涙ぐましい気持にしたのは、最初から此の室にゐた汚いみぢめな子供を負つた内儀さんに対する皆の気持だつた。それは勿論同じ境遇におかれてゐるせいでもあるが皆んなの眼はこの室の中で一番貧しいその内儀さんにぢつとそゝがれてゐた。しかしその貧しさ惨めさに対して高ぶつてゐるものゝ一人もゐないと云ふ事は皆んなの態度で龍子にはハツキリ感じられた。両隣に座つてゐる婦人は頻りにその背中で眼をさました子供をからかつたり、そのかみさんの汚い顔に近づいて、優しい口をききあつてゐた。
初め、此処の室に這入つて来た時には、皆が皆不安さうな顔や心配らしい顔付をして、それ〴〵になじまない様子を見せてゐた。しかし三十分たち一時間たちするうちに、皆んなの気持は何時か、すつかりほぐれて仕舞はないまでも、悪くなりすました処はなくなつて来た。黙つて寒さうに身をすくめてゐる連れのない人達も、何時か他の人と話し出したり、またその親しさが現はせないまでも親方の軽口を皆んなで声をたてゝ笑ふ事の出来る程安易な心持になつてゐるらしかつた。
話に紛れて忘れてゐたのをまた思ひ出したと云ふやうな様子で最初に口をきいた男は又頻りにはいて行かれたスリツパを気にし出した。今にも自分が呼ばれたら困つて仕舞ふと云つてわざと皆んなを笑はすやうな滑稽な口吻でこぼし出した。しかし其の男がまだ口をつぐまない先きに、そのスリツパをはいて行つた男がその扉口へ出て来た。
『あゝ有りがたい〳〵、やつとこれで安心した。』
男は皆の方を向いて頓狂な声でさう云つた。皆も思はず笑ひながらその男の足元を見てゐた。何にも知らぬその男はスリツパを自分の足駄とはきかへながら、けゞんさうに皆んなの顔を『何事です?』と云つたやうな表情で見まはした。
『あなたが、黙つてそのスリツパをはいて行つたものだから此の人が大分心配しましたよ。』
親方が直ぐあごで『此の人』を指しながら説明した。
『いやそりやあどうも――』
その男はひどく恐縮しながら親方に一つお辞儀をして、直ぐあはてゝまたそのスリツパの主の方に向いて
『どうもすみませんでした。誠にどうも――』
真赤になりながら顔をさげた。
『どういたしまして。何にね、向ふへ上つて行くのに間に合ひさへすれやいゝんですよ。何あに。』
男は詫びられると自分も意久地なく赤くなつてお辞儀を返した。
『何あにあなた。失くなつたつてもと〳〵此の人のぢやないんです。差し入屋のでさあ。間に合はなくたつて面会が出来ない訳ぢやなし。あやまるに当りませんよ。』
親方のその冗談にまた皆が笑つた時には、気まりを悪がつた人はもう入口を出かけてゐた。
丁度其の時、そのスリツパをぬぎ揃へられた廊下の扉口に背の低い小柄な、頭の白くなつた如何にも看守らしい倨傲な顔付をした老看守が立つた。皆んなはそれを見ると急に笑ひを止めて『さあ来た!』と云ふやうな緊張した顔をして老看守の顔を見上げた。
七 父親を慕ふ可憐の小児
『四十八番!』『四十九番!』
恐ろしく底力を持つたよく響く濁つた憎々しい声が龍子を驚かした。
『あゝ、あれが囚人を呼ぶ声だな』
龍子は直ぐにさう感じた。あの不快な圧力を持つた声があの小さな体の何処に蔵されてゐるのか? 長い年月の間鍛練されたその特殊な威圧的な呼声に耳を覆ひたいやうな嫌悪を感じながら龍子はその看守の顔をぢつと見た。
看守は五六人の人を廊下に呼び上げると、その小さな鼻の上に乗せた眼鏡ごしに、ヂロリと不快な一瞥を残された者の上に投げてその儘皆んなの後をおふて奥の方に這入つて行つた。
『随分待たせたわね、もう二時半よ、四時になればもう暮れかかるのにね』
『何あに、初めれば直ぐですよ、どうせ一人五分とはかゝらないんですから。』
Mはいつも変らぬ呑気さをもつてすましてゐた。
『しかしどうも何んですな。吾々かうして半日待つてゐてさへ随分怠屈なおもひをしますが、中にはいつて、口もきけず膝もくずせず、話も出来ず、煙草も吸へずと来た日にやあ何うもやり切れませんなあ』
あばたの爺さんは、呼び込まれた人達のぬいで行つた石階の下駄をぼんやり見て取り残されたやうに立つてゐる男に話かけた。朝早くから待つてゐると云ふ男は、無論午後からの面会には自分が第一番に呼び込まれるものと信じてゐるらしかつた。それで一生懸命にスリツパをも気にしてゐた。看守の姿が見えると第一番に腰を浮かして待つてゐた。しかし、どうした事か遂々看守は彼の番号を呼ばずに引つこんでしまつた。彼はぼんやりと立つてゐた。しかし爺さんに話かけられると彼は、あはてたやうに、そのぼんやりしたおどけた顔をふり向けて、直ぐそれを受けた。
『実際やり切れませんね。まあ一生こんな処には、はいらないやうに心懸ける事ですねハヽヽヽ』
『しかし、何時どんな事でぶち込まれるかも知れねえな。災難つて奴があるからね。だが、何つて云つても彼といつても半年や一年なら我慢もしようが、五年十年となつちや事だね、こん中にもそんなのがゐるだらうけれど、そんなのは一体どんなつもりでゐるんだらう? 耐らねえなこんな窮屈な中にゐちやあ』
親方は直ぐ横槍を入れる。
『さうさねえ、まあこの中で生れた気にでもならなくつちやとても辛抱は出来まいね。』
『こん中で生れた気か――違えねえ、其処まであきらめりやあ大丈夫だな』
『あゝ、何んでもこれであきらめが肝心ですよ、人間これがなかつた日にや、この苦しみのしやばに生きてくることは出来やしませんや』
爺さんは短かい煙管を指の先でグル〳〵まはしながら親方の方に首をつき出してさも覚りすましたやうな事を云つた。
廊下を折々看守が通つて行く。そして誰一人無関心で其の扉口を通りすぎては行かない。冷たい、底意地の悪い眼で何かをさがすやうにヂロリと控所の中をねめまはして行く。龍子はその度びに癪に障つてたまらなかつた。
『嫌やな眼をして見てゆくわね、どうしてあんな眼をしなければならないんだらう。彼んな奴等の眼には、此処の門を這入ると、誰でももう囚人に見えるんだわね、面会人まで囚人扱ひしなくつてもよささうなものだわね。』
龍子は、その反感を自分ひとりでは持ち切れずにMに云つた。彼女は再びさつきの老看守の声の不快な圧力を思ひ出した。天井の高い細長い室、土と石の冷たい室、其処に火だね一つおかずに此の寒中数時間或は終日でも平気で待たして置く役人根性が、龍子には憎くて耐らなかつた。しかしまた彼等が一歩此の城廓から出たら――何と云ふ惨めさ、小ささだらう? それを思ふと龍子は皮肉な笑ひを催さずにはゐられなかつた。せめてもの事に、威張れる処で威張れるだけ威張りたい彼等、たつた一つの彼等の誇り――あのみすぼらしい服や帽子や剣――の馬鹿々々しさ。
遠くの方で子供の泣き声がする。と思ふうちに火のつくやうな激しい泣き声がだん〳〵に近づいて来る。皆んなが一斉にはつとしたやうな顔をして廊下の方を向いてゐた。と其の扉口に眼には一杯涙をためて、半泣きになつた惨めなかみさんの姿が出て来た。その背中では汚いねんねこは下の方にふみぬいて上半身を反らせた子供が、真赤になつて手足をもがいて泣き狂ふてゐた。
『やだあ! やだあ! 父ちやん!』
子供はありつたけの声をふりしぼつて泣き叫んだ。龍子の胸は思はず何かにブツかつたやうにズシンとした。知らず知らず涙が浮んで来た。
『お父ちやんはね、門の処で待つてるんだよ。ね、お止し、お止し、さあ泣くんぢやないよ。叱られるよね、ね。』
母親は汚い下駄の上に足をのせながら頻りになだめやうとした。しかし到底その声が子供の耳に這入らうと思へなかつた。控所の中は子供の泣き狂ふ声で一杯になつた。入口に近くゐた二三人の女連は耐へかねたやうに顔をおほつた。流石呑気な親方も暗然とした顔をして子供の顔と母親のオド〳〵した顔を見くらべてゐるばかりだつた。
『まあまあ可愛想に! お父さんの顔が見えたんですか?』
入口に近く立つてゐた内儀らしい年増の女がふみぬいたねんねこに手をかけながら云つた。
『えゝ、一寸見えましたもんですから。それに此の子が不断から親爺つ子なものですから。』
母親はとう〳〵耐へ〳〵た涙をポロ〳〵こぼしながら云つた。背中の子は猶も父親を呼びながら反りかへつて暴れるのでとても工合よくねんねこを直して着せるわけにはゆかなかつた。子供は泣き続けながら遂々門の傍まで出て行つた。門に近づくに従つて激しくあばれ出して母親の足をよろけさせるばかりだつた。
『あゝ泣かれちやお母さんがたまらないわねえ。可愛想に』
『お母さんもたまらないだらうけど、それよりは、中にゐる親爺がどんなだか知れない。あの泣き声が耳についちややり切れやしない。』
Mはその親爺の顔でもさがすように奥の方を覗きながら云つた。
『一体此処に子供を連れて来るつて法はありませんよ』
あばたの爺さんがさも苦々しい事だと云ふやうな顔をして云つた。
『本当にねえ、なまじつか顔を見せちや、父親にも子供にも、どつちにも罪ですわ、私はもう決してこんな処に子供を連れて来るものぢやないと思ひますよ』
勝気らしい眼に一杯涙をためて立つてゐた内儀さんが相槌を打つた。
『何あに、もう一時間も早けや彼の子供はようく眠つてたんでさあ。時間が後れたばかりで生憎とこんな事になつたんですよ。』
今まで黙つて一と口もきかなかつた隅にゐた木綿の紋付羽織に前掛けをしめた五十二三の男が突然口を出した。
『いやもう、此の中にはいつてる奴は本当に親不孝子不孝女房泣かせでさあ』
直ぐに爺さんは声をおとしてさう云つたまま黙つてしまつた。その中にも奥から一人二人づゝ帰つて来た。やがてまた、先刻の老看守が代りの人々を呼び込んで行つた。
『おや、今五十四番の人が行きましたな、私は五十三番だけれど、どうしたんだらう? 順番通りと違ふんですか。』
Mの側にゐた男はあはてゝ立ち上りながら誰にともなく云つた。
『順番通りぢやありませんよ。随分後先きになりますよ。私は朝からでまだ呼ばれませんもの』
二度目にも呼ばれなかつた男は不平さうに云つた。
『へえ、それはまた長すぎますね、どう云ふものだらう?』
『どうもすつかり待ちくたびれましたよ、何あに、かうひまが入るのなら、また出直して来てもいゝんですけれど、今迄待つて帰るのも馬鹿々々しいしねえ。』
八 窃盗犯人の若い女房
だん〳〵に控所にゐる人数が減つて行くにつれて万遍なく皆んなが口をきゝ出した。やがてMも呼ばれて這入つて行つた。
Mが行つて少したつと四十五六の男性的な粗野なものごしをした赤ら顔の、一見筋の悪い口入屋の嬶と云つた風の女が妙な苦笑を浮べながら石階を降りて小さな自分の包を取りに隅の方の腰掛の傍に行つた。
『お会ひになりましたか?』
その包の番をしてゐた赤ん坊を抱いた細君が少しくゝみ声の物和らかな調子で聞いた。
『えゝ、面会所で喧嘩なんです、馬鹿々々しいつたらあれやしない。もう何んにも構ふもんか!』
吐き出すやうな乱暴な口調でさう云ふと日和下駄の歯をタヽキにきしませながら後もふり向かずに荒々しく出て行つた。
『ねえ、思つたよりやつれてゐないでせう、前より却つて肥つた位ですよあれなら。』
『本当にね、私しやもつと弱つてるだらうと思つたけれど、あれなら半年や一年位の処なら心配するがものあないわ。』
『えゝ、私ももう其処いらであきらめとかうと思ふの、自分でももう心配するなつて云つてるし。でも弁護士だけは私しつかりした人を頼みたいわ、本当に弁護士がいゝと気強いんですものね。』
一と連れの女連はさう云つて話しながら、もとの処に腰をおろした。
『気強いつてば、あのおかみさんはえらいのね、よくあれだけ思ひ切つて云へたわね、私驚いちやつた。』
『お内儀さんつてあの赤ら顔のですか?』
紋附の男が口を出した。
『えゝ左様ですの、随分長い事云ひ合つてましたね、よく看守さんもまたあんなに長くそのまゝにしといたものね全くおどろいたわね。』
『どうしたんです?』
『あの御亭主さんが窃盗で何んでも七年の宣告を受けたんですつて。それが控訴したらあのおかみさんが何か証人によばれて云つた事が悪かつたんで十三年になつたんですつて。だもんだから亭主が怒つて、わざとさう云ふ風に誰かと腹を合せてしたんだらうつて云つてるんですよ。』
『へえ、窃盗で十三年、そんな長いのがあるんですかなあ』
『何んでも前科が五犯とか六犯とかなんですつて、であのおかみさんと一緒になつてまだ一年半とかしか経たないんですつて、それぢや気心を疑ふのも無理もありませんわね』
『とかく、黙つて座つてゐれや、さうでない事もいろ〳〵気がまはりますからなあ』
『左様ですよ。それを何んとかうまく優しく云へばいゝものをねえ、そおれや、あのおかみさんの方が火がつく程怒つてどなり散らしてゐるんですもの。あゝ云ふえらい真似はとても尋常一様な者にや出来ないわねえ』
『全く驚いたわ』
二人の女は猶しきりにそのおかみさんの気強い良人に対する乱暴な言葉などを取り上げて噂してゐた。
『あ、いけなかつたんだわ、彼の方はついぞ泣いたりなんかした事ないのに。』
年上の方の女は先刻まで一とかたまりになつてゐた仲間の三十位の丸髷の細君の姿が扉口に見えると直ぐ小声でさう云つて眉をよせながら立ち上つた。細君は真赤に泣きはらした眼を伏せて、手巾で鼻と口を覆ひながら降りて来た。
『如何でした? よくなかつたんですか』
直ぐに前の二人は歩みよつた。
『えゝありがたう御座います。実は控訴するのは見合はしたつて云ふんで御座いますの、弁護士もいゝ方を二三人頼む事になつてゐるし、何うか控訴するやうにつて云ひましても聞きませんの。』
『まあ、どうしてでせうねえ、あんなに、あなたが心配してゐらつしやるのを御存知ない事もないんでせうに。それで、ぢや控訴なさらないともう直き既決におさがりになるんですね』
『えゝ、まだ一週間ばかり間はあるさうですけれど――』
『ぢやあなたもう一遍弁護士の方だの他の方からすゝめて御覧になつちや何う?』
『ありがたう御座んす。でももう自分で決心してゐるやうですから駄目でせうと思ひます。私もあきらめちやゐますけれど二年や三年の事ならどうでもしますけれど十年もの間子供を抱へてどうして行つたらいゝかと思ふと本当に何もかも分らなくなつてしまひますわ』
細君はさう云つてしまふと顔をおさへてまた激しくすゝり泣きを初めた。二人も慰さめかねて呆然と震へる細君の頭から肩のあたりを見てゐた。
『十年と云や長いやうですけれど、何あにあなた、私共のやうな老いぼれのこれから先きの十年なら心細いけれど、ねえ奥さんあなたのやうな若い方の十年は直ぐですよ。お子供衆があつたりしちやあ中々大変でせうが、中にはいつて苦役する方もなか〳〵お大抵の事ぢやない。まあ其処を一つお考へなすつて、気長にお暮らしなさいまし。気短かに考へ詰めちやいけませんよ。どうせ長い人間の一生ですからいろ〳〵な事がありますよ。』
暫くして何時の間にか向側に席をかへた爺さんが、体を前に乗り出しながら静かな調子で云つた。
『ありがたう御座います。もうさうきまつて仕舞へば、私もその覚悟で子供のお守りをするつもりで居ります。本当にお恥かしいところをお目に懸けました。もう先達中から覚悟はして居りましたけれどやつぱりまだ女々しい考へがぬけませんで――』
細君はつゝましやかに顔を拭いて爺さんに挨拶した。そして前の二人連れの女と一緒に出て行つた。
『気の毒なものですな、十年と云や、ずゐぶん長いものだが、屹度控訴すればまだ長くなりさうな事があるんですね、一体何をしたんでせう?』
絞附の男は爺さんの顔を見ながら云つた。
『さあ』
爺さんはさう云つて首を振つたなりで黙つてしまつた。賑やかな親方がゐなくなつて、スリツパを気にした男も何時まで待つても呼ばれないので悄気てしまつた。控所の中は一時にヒツソリしてしまつた。
やがてMも帰つて来た。
『どうでしたWさんは?』
『えゝ、元気でニコ〳〵してましたよ。これからゆつくり勉強するんだなんて云つてました。』
少し話すと、Mは今夜また会ふ事を約束して先きに帰つた。龍子のポケツトの時計はもう四時近くを指してゐた。
『ねえ君、此の地所や建物も大変だが、此処の一日の経費だけだつて大したものだらうなあ、それが皆んな吾々の税金にかゝつて来るんだぜ。泥棒や放火を養つといてやるなんて実際馬鹿げてらね。こんなのが全国に幾つあるかしれないが皆んな合はすと大変な額だぜ』
『仕方がないやね、安寧秩序を保つて貰ふ為めに払ふ税金だあね、これがなきあ吾々安心して生きて行けないんだもの。併し本当に何んだねえ、世の中に悪い奴がゐなくつて、こんなものもなくなればいろんな方面の負担も大分違つて来るね』
『違ふともさ。ところが悪い奴つてものはだん〳〵ふえて来るんで困るね。此処に這入る奴と来た日にやあ、此処に這入つてる間はかうして国家の経済に影響を与へるしさ、出ればまた物騒な事をして人を苦しめるし――実際人間のカスだね。改心するなんて奴はめつたにないやうだな。』
三十分ばかり前から入口を出たりはいつたりしてゐた二人の揃いも揃つて薄い髯のボヤ〳〵生えた眼の細い、見るからに成り上りの小商人らしい狡猾な顔をした反つ歯と四角な口を持つた三十前後の男が、Mと入れちがひに龍子の傍に腰を下ろすや否や、傍若無人な態度で話し出した。其の横風な人を小馬鹿にしたやうな態度と、場所をわきまへぬか、或は侮視した、不謹慎な話しが忽ちに龍子を激怒させた。龍子は危く其の男達の面皮をはいでやらうと思つて向き直らうとした。しかし丁度その斜向ふに腰をかけてゐた爺さんの顔を見た時に、爺さんは如何にも皮肉な眼をして、ぢつとその不謹慎なおしやべりをしてゐる男の顔を見据えて居た。そして其の口が何か云ひたげにモグ〳〵してゐた。龍子はそれを見ると黙つた。あの細いのみとり眼。あの鼻に口、あの卑し気な輪廓、そしてあの尊大ぶつた容姿、あれが何んで不正を知らぬものと思はれやう? 龍子は猶もとがめるやうな憎しみの眼をぢつと彼等の上に据えた。彼女と爺さんの強い意地張つた眼に出遇ふと二人とも心持あはてゝ顔を見合つた。そして急に、チグハグな気持をブツつけ合ふやうな間のぬけた他の話を初めた。
九 小窓から出たEの顔
龍子は定められた順番よりはずつと後れて五時近くになつて呼ばれた。例の老看守は龍子が廊下に上るのを待つて云つた。
『これから共犯者申し合はせて面会に来る事はならんぞ』
何んな場合にでもまだ龍子は、そんな乱暴な言葉で扱はれた事はなかつた。それともう一つ、『共犯者』と云ふ耳ざわりな言葉が龍子を怒らせた。看守は尋常な答へを龍子に待ち受けてゐた。しかし彼女は黙つて何んにも答へずに済まして看守より先きに歩き出した。
『分つたか、共犯者一緒に来ると、会はせないぞ、会はせても遅くなつたりするからそつちの損だ。』
しかし龍子はなほすまして歩いて行つた。廊下を直ぐ折りまがつて突き当つた処に、三尺位の引手のついた戸がズラリとならんで、一二三と番号が書いてあつた。
『七十二番は一号の前――』と云ふ指図通りにその扉の前に立つた。彼女はポケツトから小さな手帳を引き出した。それは今、Eと会つて、話し洩らしてはならない用件を書いておいたものだつた。彼女が静かにその手帳を操つてゐるうちに、二号では年老つた母親がその息子に会つてゐた。話し声は筒ぬけに龍子の耳に聞こえた。息子は頻りに母親に詫びて、留守中のことをいろ〳〵指図してゐた。やがてその話が終るか終らないうちに、隔ての戸のしめられる音がした。しかし息子はなを云ひ残した事を大声に母親に通じさせようとして云ふ。母親も二言三言返事を与へてゐる。と荒々しい看守の声がその話をさへぎつた。耳の遠い老母はしほ〳〵しながらその戸を押して出て来た。
入れ違ひに龍子が呼び込まれた。其処は三尺四方のうすぐらい箱だつた。その正面のしきりの向ふに網を張つた郵便局の窓口のやうなものがあつて戸が閉めてあつた。その窓口と龍子のはいつてゐる箱の間の狭い通路に部長が一人立つてゐた。
『何番?』
『七十二番』
『名前は? あ、何んだE? へえEさんが、珍らしいな何時から来てる?』
部長は意外だと云ふ顔をしながら心持親しみを見せながら聞いた。
『一昨日からでせう? 多分』
『何んで来たんです?』
『よく知りません。公務執行妨害とか云ふ話ですけれど。』
『え、一人? 他には誰? U、W、知らないな、へえEさんが来てるとは知らなかつた。』
部長はしきりに首をかしげてゐた。
『まだ来ないな、一寸出て下さい、今直ぐですから』
龍子はまた外へ出た。しかし直ぐ向ふの方に足音がしてEの咳をする声がした。
『よろしい』
と云ふ許しが出て再び這入つて行くと部長は直ぐその窓口をあけた。Eの眼がギロリと暗い中で光つたと思ふと笑ひ顔がぬつと前に突き出された。
『寒くはありませんか?』
龍子は何から話していゝか分らずにつかぬ口のきゝ方をした。
『いや寒くはない。どうしたい、うちには誰かゐるかい?』
『えゝ』
『早く用事を話さないと時間がありませんよ』
部長はペンを握りしめながら催促した。龍子は二三日間の事をすつかり、それから相談すべき事をすつかり、何も彼も果さうとして急いで手帳の覚書を見ながら話した。Eは腕組みをして黙つて頷きながら聞いてゐた。用事を話して了ふと、龍子は急にこれから何を話さうかと云ふやうなポカンとした気持になつた。いろ〳〵話したい事がある。けれど何う云ふ事を話したらいゝか? 時間がないんぢやないか? さう思ふと忽ちヂリ〳〵して来るのだつた。
やがて、一寸どうでもいゝ話が続いたのを見てとると部長は直ぐ、窓の傍のハンドルに手をかけた。
『もう別に話す事はありませんか、なければもうしめますよ』
『ぢやまたね』
『あゝ』
Eの笑顔は直ぐかくされた。
『未決のうちは毎日会へますよ、また明日ゐらつしやい』
部長は役目をすますと一層くつろいだ調子で龍子に云つた。しかし龍子はその言葉を後ろに戸の外に出た。あの冷たい寒い室に半日待つての面会としてはあんまり馬鹿々々しかつた。それに、何処へ行つても誰の前ででも、思ふまゝに寧ろ傲慢すぎると見える程に自分を振舞ふEが、窮屈らしく拘束されてゐるのを見ては、龍子は何んとなく情ないやうな憤ろしいやうな気持がしてならなかつた。しかし、看守にどなられて無理に引きはなされて悄々と出て行つた老母を思ひ出すと、まだ手加減をして扱つて貰つた丈けいゝとしなければならなかつた。控所まで来ると龍子は急いで石階を降りた。室の中にはまだ五六人の人々が寒さうに肩をすぼめて話してゐた。外は小暗くなつてゐた。龍子は同志の男達の手にお守りをされながら待つてゐる乳呑の子供の事が焼きつくやうに思ひ出されるのだつた。
『ああ、遅くなつた――』
門を出て小走りに歩き出した龍子の頭の中には子供の姿と一緒に宅までの長い長い道順が焦れつたく繰りひろげられるのだつた。それと同時に、待たされた半日の時間が忌々しく惜まれるのであつた。
[『改造』第一巻第六号・一九一九年九月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
2000(平成12)年3月15日初版発行
初出:「改造 第一巻第六号」
1919(大正8)年9月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※表題は底本では、「[#割り注]監獄挿話[#割り注終わり]面会人控所」となっています。
※「究屈」と「窮屈」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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私は、いつも同じ事をばかり云つてゐると思ふ人があるかもしれない。けれども、私は何時までも、自分の考へてゐる最も重要なことについては、駄々つ子が物ねだりをするよりも、まだうるさいと思はれる位に、云ひたいと思つてゐる。私自身が既でにさうだが私たちの周囲のどの人もあんまりいそがし過ぎると私は思ふ。そして他人の云ふ事はおろか、自分の云つた事でさへ僅かな時間のたつた間に忘れて既でに次の自分の云つてゐる事に熱中してゐる。他人の云ふことを一々頭の中で翫味したりしてゐる人なんかはまあないといつてもいゝ位だと私は思ふ。それ故、私は是非とも受け入れて欲しいと思ふ程重要なことについては何時までも〳〵煩さいと怒鳴られる程続けたいと思つてゐる。
当然通るべき道として私自身の通つて来た道をふりかへつて見るとき私は取りかへしの出来ない失策を沢山に持つてゐる。まだあぶなつかしい随分と通りにくい処も通つて来た。併し私がいまかうしていろ〳〵な事件のあつた過去をふり返るとき一番自分を導いて教へたものは私自身の内心の争闘である。一番自分にとつて苦痛であつたのもそれである。
私が可なり楽な学校生活を終へて先づぶつかつたものは不法な周囲の圧迫に対する反抗であつた。それは誰にも、大抵同じ形式をもつて来る結婚であつた。私はそれをはね返した。併しそれは可なり煩さい情実がひし〳〵とからみついた面倒な結果をもたらした。私は数かぎりもない種々な詰責や束縛や嘲罵を受けた。併しあらゆるものに敵意を含んで見える中にゐる私は、それに対する反抗で一杯になつてゐた。偶に、肉親の者たちの感傷的な態度に反抗の機先を折られさうなこともあつた。けれどもより多くの真意をもつて自分を抱く愛人があつた。さうして切りぬけた時、私は立派な一つの仕事をなし遂げた気でゐた。私は他人の知らぬ多くの苦痛を自分一人で味はつた気でゐた。私は本当にえらい仕事をした気でゐた。併し今の私にはそれは何でもない事であつた。私はより多くのより深い苦痛を知らなければならなかつた。
私が初めて、他人ばかりの中に交渉しはじめた時、私はやうやく自分と云ふものゝみぢめなのを見た。私は本当にひとりだ、と思つた時、私の心はひとりでに捨てゝ来た故郷の友達の上に吸ひよせられて行つた。私がいくら習俗を軽蔑して反抗で一杯になつたつて私の臆病な心はその反抗を他人に、かつて私が肉親の人たちに向つてしたやうに容易くは、向けることを肯んじなかつた。私の体中を人々に対する憎悪と反抗と侮蔑が渦を巻いて出口を見つけやうとあせつてゐる時でも私はその渦の出処を探さうとは容易にしなかつた。
私は自分のそのふしぎな矛盾をぢつと見つめてゐた。そうして、その渦をしづめるよりも出すのが当然のことだといふことがはつきり私にわかつてゐた。私はその度びにいつも此度こそはと云ふ決心をした。けれどもそれが何時でも直ぐに行為に出ては来なかつた。遂に私の内心では決心を断行する勇気が出ないかと云ふ自身の弱い意志への憤怒に燃えた。併し私の血球の中に細胞の一つの中に迄くひ入つた習俗の前には私の憤怒は何の抵抗力もなくくづをれた。私は自分に絶望しさうになつた。
けれども私は、そのことについて可なり考えた。私はその卑怯な態度が他人に悪い感じを持たれたくないと云ふ虚栄から来てゐることをよく知つてゐた。それにもかゝはらず私はそれを打ち破ることをしなかつた。併し直きに私は自分がいくらさうしてよく思はれやうとつとめてもそれに何の効果もないことを知る事が出来た。私は私の本当の値以外にいくらかよく見て貰はうとしても駄目なことを確実に見せられた。私の下だらない遠慮や気づかひはずん〳〵消えて行つた。けれども矢張り主要な交渉になるとそれが出たがつて困つてゐる。私は本当につまらないことながら肉親と他人と云ふやうな関係の区別があまりに深く自分に染み込んでゐることに驚かずにはゐられない。
冷静に批判をする上には肉親も他人もおなじである。私の頭の中では両親であらうが或は他人であらうが、一切かまはずに無遠慮に解剖し批判する。けれどそれが一度実生活の上に関して来ると不思議な愛は肉親に対する軽侮の心を片よせ他人の上にはそのまゝな批判が依然と支配する。これも私をどの位苦しめたか知れない。殊に私は愛する良人の肉親に対しては他人であつた。無理に交渉しなければならなかつた。私は前に私が肉親にそむいた時の苦痛よりも更に幾倍も〳〵の苦しみをその交渉のうちにしなければならなかつた。私は初めそれを馬鹿々々しいと思つた。何故私はこんなに苦しまなければならない理由があるのだらう。こんな苦しみに囚はれてゐる位ならば私は私一人で別にこんな人達と交渉しなくてもすむやうにしたいとも思つた。けれども、私がそれ等の人々に対して不快な感を持つ程自分の肉親の愛を力強く思ひ出すことを私はぢつと眺めてすます訳にはゆかなかつた。良人は私が彼を愛してゐるやうに私を愛してくれる。さうして私が肉親を愛するやうに彼も肉親を愛するに違ひない。
昔からどれ丈けの婦人がこの事について苦しんで来たかと思つたときに私はこの苦しみが決して馬鹿々々しいものでも何でもないことを知つた。私はこの苦しみをどう片附けるかと云ふことに自分自身に対する興味をおぼへた。皆んなこの苦しみをあきらめて通して来た。そして私自身も人並みにこの道へふみ込んで来た。私は決して馬鹿々々しいことだとおもつてはならない。私は何かしてこの道をごまかさずに通りぬけたいと願つた。
けれども私がさう考へたときにはその苦痛はさまで強いものではなかつた。私はだん〳〵に自分と他人の区別をたてる事が出来て来た。他人のしたり、云つたりすることが気にならなくなつて来た。自分のしたいことをする。云ひたいことをする。他人にも勝手にさせる云はせると云ふことが平気で出来るやうになつた。自分の価値がよく云はれたり悪く云はれたりすることに依つて動くものでないと云ふ自覚がはつきりして来た。
私は何の為めにくだらない経験ばなしを持ち出したか? それはすべての若い婦人達の前に展かれた道がいま同じであると云ふことが私にわかつてゐる。それはしば〳〵未知の人々から若い婦人たちから自分の境遇を訴へて来る多数の手紙に依つても知れ、その他私達のせまい見聞のうちの多数をそういふ問題が占めて居るけれども彼女等は大方は、頑強には反抗が出来ないらしいし、出来たにしてもさきに私が書いたやうに、もうその反抗が立派な一つの自分の力を証明した事実として安神してゐる人の方が多い。しかし私の考へる処ではそれはほんの関門を出たにすぎないので、それから先き自分一人を他人の中につきだして交渉しはじめるときに本当の仕事がまつてゐるのだと思ふ。他人との交渉には傲慢と虚偽はどうしても許されない。或ひは傲慢でないかも知れない。肉親に対すると同じ「わがまゝ」と反抗をそのまゝ他人に向けやうとする。そして多くの人が失敗する。さうして自分のした事に権威がなくなる。曾つては私もその道をたどつたのだ。さうして誤解されて怒つたけれども、その誤解は当然であつた。通るべき道は避くることは出来ない。私はこゝに述べた私の内心の経験がこれからさうした道を歩かねばならない人にとつて些細な助けにでもなればと云ふ年よりじみた考へで書いて見た。併しすべての人に一様に私が考へてゐる程重大な事であるかどうかは私にもわからない。たゞこれは私一個の過をふり返つて見て思ひついた事に過ぎない。
[『第三帝国』第三九号、一九一五年五月五日] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「第三帝国 第三九号」
1915(大正4)年5月5日
初出:「第三帝国 第三九号」
1915(大正4)年5月5日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年4月28日作成
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月刊『相対』本郷区駒込林町二三〇相対社発行。
今度かう云ふ雑誌を紹介致します。小さい雑誌ですが極めて真面目なものでかう云ふ種類の雑誌は他にないさうです。本誌は小倉清三郎氏が単独でおやりになつて居ります。材料も非常に沢山集めてあるさうです。私共はかう云ふ真面目な小雑誌の一つ生れる方が下だらない文芸雑誌の十も生れるよりはたのもしく思ひます。
内容
主たる問題 性的経験と対人信仰
春的経験 春的気分 春的性感
馬慮に伴ふ腥覚時の遺精の一例
人にも祈る
幸運不運
若きニユートンの幸運
山の上の出来事。(想像)
内容を少しばかり此処に写して見やうと思ひます。
主たる問題
私が此の研究録に於て取り扱ひ度いと思つてゐる主たる問題が二つある。第一は性的経験である。第二は対人信仰である。
経験 性的経験
私が此処に経験と云ふのは、内省に依つて観察せられ得る一切の事柄を指して云ふのである。例へば感覚、気分、快、不快、情欲、亢奮などは何れも私の云ふ経験である。経験の中に就て直接間接に異性に関聯した経験を特に性的経験と呼ぶのである。
信仰 対神信仰と対人信仰
私は以前神に対してのみ経験してゐた特殊の心持を後には人に対しても亦た明かに経験するやうになつて来た。私は此の特殊の心持を信仰と呼むでゐる。而して神に対する信仰をば対神信仰と呼び人に対する信仰をば対人信仰と呼むでゐる。
対神信仰は神に就いて若干の思想に伴つて経験せられたのであつた。対人信仰もまた人に就いて若干の思想に伴つて経験せられ始めたのである。故に信仰を研究するには其れに関聯した若干の思想をも併せて研究せねばならぬ。然し信仰其れ自身は思想でない。(以下略)
[『青鞜』第三巻第二号、一九一三年二月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第三巻第二号」
1913(大正2)年2月1日
初出:「青鞜 第三巻第二号」
1913(大正2)年2月1日
入力:酒井裕二
校正:Juki
2017年12月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056969",
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痴人の懺悔 (ストリンドベルヒ著 木村荘太訳) (定価一円六十銭 洛陽堂発行)
ストリンドベルヒの自伝の一部で氏の最初の結婚生活を書いたもので御座います。この小説は是非誰にも一読して欲しいものと思ひます。殊に多くの婦人達に――私は本書の内容についてはあまり多く申しません、訳も極めて叮嚀な隅々まで理解のとゞいた立派なものだと思ひます。並々ならぬ苦心のあとも見えます。訳者も巻末に「この小説は今自分に取つて殆んど理想的な小説である。自分はこの訳本を重訳ではあるがその理想的さ加減を略遺憾なく伝へてゐると公言する」と云つてゐられます。
美と女と 青柳有美著 (定価 壱円弐拾銭 実業之世界社発行)
先生の序文を拝見しますとこの本には「美術と美学とに関する古今独歩の識見が披瀝せられてある。文芸に関する突飛卓抜の意見が開陳せられてある。女と性欲とに関する問題が研究せられてある。」さうです。そして「健全で、面白くつて、有益で、安い書籍」ださうです。これは本屋の広告ではなく、先生御自身の御証明ですから、間違がないことゝ存じます。巻頭には例によつて先生の御肖像があります。身体を七分三分にヒネツタ頗ぶる「卓抜非凡」の御容子です。内容はその「新吉原改良論」より巻末の「脚本白拍子祇王」に至るまで、一々「独創の識見」に満ちた御作です。先の「女の話」と並せて読めば更に沢山な御利益があることゝ存じます。
[『青鞜』第五巻第六号、一九一五年六月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第六号」
1915(大正4)年6月号
初出:「青鞜 第五巻第六号」
1915(大正4)年6月号
入力:酒井裕二
校正:Butami
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056970",
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"作品名読み": "きぞうしょせき",
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「妹に送る手紙」水野葉舟氏著(定価五拾銭)実業之日本社発行
読み終つた時にこの手紙を受とるといふ単純な美しい処女のお澪さんを想つた。真面目に、そして鋭敏な処女の感情の動揺に周到な注意を払つて書いてある点など殊にうれしく読まれた。書いてある事なども自分には同感の点が多かつた。何うかした女学校の倫理教科書よりもずつと面白くて得る処も多い。かう云ふ手紙を貰つて教育されて行くお澪さんは幸福な人だ。若い人達には勿論教育者の位置に立つてゐる人々にも是非一読して欲しいものだと思つた。
[『青鞜』第三巻第一号、一九一三年一月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第三巻第一号」
1913(大正2)年1月1日
初出:「青鞜 第三巻第一号」
1913(大正2)年1月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056234",
"作品名": "寄贈書籍紹介",
"作品名読み": "きぞうしょせきしょうかい",
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"初出": "「青鞜 第三巻第一号」1913(大正2)年1月1日",
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"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
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生田さん、私たちは今回三百里ばかり都会からはなれて生活して居ります。
私達のゐます処は九州の北西の海岸です。博多湾の中の一つの小さな入江になつてゐます。村はさびしい小さな村です。私たちは本当にいま東京から大変遠くはなれてゐるやうな気がしたり、それからまた、でもかうして原稿用紙に向つてペンを運んでゐますと矢張り東京にゐるのだと云ふやうな気もします。けれども矢張り遠いのです。お友だちのことなんか考へてゐますと夜分にも会へるやうな気もしますが一寸はどうしても会へないのです、あの窮屈な汽車の中に二昼夜も辛抱しなければならないのだと思ひますと、何だかあんまり遠すぎるのでがつかりします。一寸かへつて見ると云ふやうな自由がきかないのです。
此処は私の生れ故郷なのです。けれども矢張り私たちにはこんな処にどうしても満足して呑気に住んではゐられません、かうやつて家にゐますと全で外からは何の刺戟も来ないのですもの。単調な青い空と海と松と山と、と云つたやうな風でせう。此処で生れた私でさへさうですから、良人などは都会に生れて何処にも住んだことのないと云つてもいゝ程の人ですからもう屹度つまらなくて仕方がないだらうと思つてゐます。それもこの附近はかなり景色がいゝのですしいろ〳〵な立派な偉大な自然に接触することが出来るのですからそんな処も歩いて見ると少しはまぎらされるのでせうがいろ〳〵な事でまだそれ程の余裕を種々な点で持ち得ませんので本当に気の毒です。私もこちらへ来ましてから半月にもなりますが、まだ本当におちついて物を考へることは勿論書くこともよむことも出来ないしまつです。あなたはどうしてお出になりますか、お忙しう御座いますか。
私は東京にゐる間からかけづり歩いた疲れも旅のつかれも休めると云ふやうなゆつくりした折は少しもないのです。体はいくらか楽ですけれども種々な東京に残した仕事についての煩はしい心配や気苦労で少しも休むひまがなく心が忙しいのです。
大分青鞜が廃刊になるとか云ふうはさも広がつたやうですが私はどんなことをしても廃刊になど決してしないつもりです。読者の間には随分心配なすつた方があるでせうけれど引きつぎの当時にお約束したやうに、どんな困難にあつても、たとひ三頁にならうと四頁にならうと青鞜だけは続けてゆくつもりです。兎角事あれかしと待ちかまへてゐる閑人の多い中ですから一々うはさをとり上げてゐては大変ですけれどあんまり馬鹿々々しく吹聴されるといやになつて仕舞ひます。
今の処実際雑誌はもとよりも貧弱になつたのは申すまでもなく私もよく承知して居ります。けれども私はまた私の考へで正直な処を云はして貰へるなら、私はむしろいま世間でチヤホヤされてゐる立派な人々の原稿を頂いて読者の御機嫌をとつて雑誌を多く売ると云ふことよりも寧ろこれからのびやうとする苗を培ふことにつとめたい、勿論私自身もその苗の一つなのですもの、さうしてお互ひにもつとずつと近しくなつてゆきたいと思ひますの、売れなくなつては苦しいには違ひありません、私も出来る丈けは売りたいと思ひますの、ですけれど私はすべてをすてゝ手段に走らうとはどうしても思ひません。いくら目的の為めの手段とは云へ、そんなことを考へますといやになります。そうして手段と云ふやうな事に向つて事をやり始めますと、私の負けぎらひな向不見な性質がどう走るかしれないと思ひますとぞつとします。折角これまで、一歩一歩にどうにか質素な内輪な歩き方をしてゆかうとしかけてゐる私がどうなるかしれないと思ひますと、嫌やになります。女の世界の速記を御覧になりましたか。可なりぬきさしもあつたやうですが、あんなに馬鹿気た、いやな私が頭をもたげるのです。私自身にもあれを見ましたときには本当に恥しくなりました。私の心持ではあの時に嘘を云ふつもりで嘘を云つたのは一つもありません、けれども卑怯な態度をとつたことは恥かしいと思つてゐます。つまり、いろんな不純な気持から、こんなことを云へばまた面倒な質問をされると思つたり、煩さいからと云ふやうな横着な気持からホンの二つ三つのうそをついたことが、その時は当然だと思つてゐました。けれども今では可なり恥かしく思つてゐます。
それもあの場合、向ふの人が真面目にさうした問をかけてゐると思はれたら私は躊躇なく本当のことを云つたでせう。けれども私はあの野依と云ふ人を厭な人だとは勿論思ひません。どちらかと云へば気持のいゝ好きな人の方ですが――あの人の態度とか思想とかについては私とは何のつながりもないことを知りすぎてゐました。其処で私の不純な悧巧が頭をもたげたのです。おまけに向ふの問ひ方が少からず不真面目でしたから私もその気になつてお相手になつて居りました。けれどもそれは私の卑劣な云ひ訳けに過ぎませんでした。私はまだ本当に厳粛に自己を保ち得る力がないのをつく〴〵情なく思ひました。私は何故あの場合あくまで私の信実をもつて、真面目をもつてあの人に当らなかつたらう。と思つたときにかなしくなりました。矢張り小さい時からの悪いくせは何処までも纏りついてゆくものだと思ひました。それは本当に私の悪いくせです、小さな卑怯者とは私のことです。私は幼い時から失策をしたときに、その失策をありのまゝに他人の前に持ち出す信実を少しも持ちませんでした。私はその失策に気がつくや否や、先づそれをそのまゝに持ち出すよりも前に何とかそれが尤もらしく他人に思はれるやうな理由を附けるか、或ひはそれを全くかくして仕舞ふやうな方法を講ずることを知つてゐました。しかしその為めに、私はどの位自分でも苦しんだかしれません。苦しみながら私は矢張りそれを続けました。もしも私がそのことを平気でする程になつてゐましたら決して生涯私はすくはれることはなかつたらうと自分でも思ひます。けれども私は幸ひに、平気でそれを過して続けることは出来ませんでした。けれども何時と云つてそれを改めることは出来ませんでした。何故なら、私の周囲の人たちは皆私のその悪いくせを知つてゐました。そして私のすべてがそれによつて価値づけられました。勿論他人に、私のその悪いくせがそれ程私自身を苦しめてゐることがどうして解りませう。私はもがき〳〵だん〳〵ふかみへはいつてゆきました。けれどもふとしたはづみで私はすつかりその嘘の皮をぬぎました。私は大変楽になつたのです。本当にそれは何とも云へない軽い気持になりました。私は本当に、すつかりそれで嘘がきらひになりました。私は思ひます、それは〳〵沢山なうそを私は云ひました。またこしらへました。けれども私はその為めに自分ひとりでどんなに苦しんだでせう。その苦しみが私にはあんまりよく解りすぎますのでもうそんな苦しみは決して負ふまいと思ひます。
けれども本当に油断は出来ません。私は一寸、ほんの一寸油断をした為めにまた自分に対して不忠実なことをしました。小さな、微かな、ツマラナイ、本当につまらないヴアニテイを私が起したからです。自分でもどうしてそんなつまらない心持を起したかわかりません。「馬鹿にされまい」と云ふやうな野心を起したのです。只それ丈けです。そして私は私の生真面目があゝ云ふ人にはたゞ馬鹿気て、子供らしくしか見えないと云ふことを知つて居りました。それは、明日に迫まつた金の為めに困りぬいてあすこに行つたと云ふことが一番の私の弱味でした。つまり一寸したすきに私が乗せられたのです。私はかうして考へて来ますと、本当に情なくなります。かうした、一寸した機会にすらも乗せられる自分をかなしまずにはゐられません。まだ〳〵私にはどんな処に出てもどつちを向いても一歩も半歩も自分の信実は譲らないと云ふ程確実に何時でも自分を頼んでゐると云ふ自信がありません――かなしいことですけれど。向ふが大手をひろげて一杯に正面から向つて来ればそれに向ふことも出来ますがすこしすきを見せて横手から出らるれば直ぐにゆだんをしさうになります。これでは本当に危つかしくて仕方がないと思ひます。もう少ししつかりしなくてはとても雑誌を一とつ背負つてたつと云ふことは出来ないとつく〴〵考へます。
をとなしい、すなほな調子で出られると単純な私は直ぐその調子に引き込まれさうになります。小さな煩さい感情を失くしたいと思ひますがなか〳〵さうならないものですね。もう少し物事を真直ぐに、克明に照らす理智を欲しいと思ひます。
自分の愚痴ばかりをなが〳〵と喋舌りたててすみません。私はたつまへにあなたの御本について何か書くことをお約束しました。けれども読むはよみましたけれどもいま落ちついてあの御本について一々何か申上げると云ふやうなことはとても出来さうにもありませんからあの御本をよみましたときあなたについて感じたいろ〳〵なことをちぎれ〳〵にかいてそれで許して頂かうと思ひます。けれども私の感じたことが直ちに本当のことであるかどうかは私にもわかりません、私の感じたことゝ書くことの間にちがひは勿論ありませんがあなたのお書きになつた心持ちと私の感じ方の間にちがひがあるかもしれないと云ふことなのです。
私はあなたと向き合つてゐますと何時でもろくにお話が出来ないのです。私はどうしてか、此度お目に懸つたらと思つてゐますけれども会つて見ますと、どうしてもよくお話が出来ないのです。私は随分まへからそのことに気がついてゐて、考へてゐました。そしてそれがどうやら、あんまりあなたが丁寧すぎるので私が困ることに依るのだと云ふ風に思はれます。
あなたはあんまり丁寧すぎるのですもの夫はあなたがこれまで訪問なんかを仕事にしてゐらしたその習慣があるのかもしれませんが面倒な礼儀などにうとい、粗野な私たちにはあんまりあなたが卑下なさりすぎるので、なるべくうちとけてお話したいと思つて無雑作にはなしてゐる自分が何だか傲慢らしく見えて来て直ぐいやになつて仕舞ひますので何時でも黙つて仕舞ふのです。私は何時でもあなたが下ばかりむいてゐらつしやるのが気になつて仕様がないのです。何故ちやんと向き合つてもつと親しくもつと大きな声で遠慮なく話して下さらないのだらうと思ひます。私はあなたの或る点では非常に引きつけられながら一方では焦れつたくて仕方のないやうなことがあります。私は時々あなたの手をグン〳〵引つぱつてドン〳〵馳け出したくなることがあります。何を見ても、何だかオド〳〵してゐらつしやるやうな処があるやうな気がして仕方がありません。
私はあなたのあの御本を拝見しながら何処をよんでもさう思ひました。本当にあなたは正直すぎ単純すぎ、あきらめすぎると。あなた自身は本当に美しい心をもつてゐらつしやるのですけれどあなたの周囲は何時でもあんまりあなたに邪慳すぎたのですね。本当にあなたのやうなまじりつ気のない感情をもつてゐる方もめつたにないと思ひます。その点ではあなたは何人に向つても大威張りだと私は思ひます。
あなたは何時でも、自分の満足よりも他人の満足するのを見て喜んでゐる方だと思ひます。これはあなたのどんな場合にも必ず覗はれることで誰にもわかる事ですが。そしてまた私は思ひます。それがあなたにとつての満足なのだからあなたには立派なことなのですわ、でも、あなたがもし他人の喜ぶかほを見て喜こんでゐる間にでもあなたの足場がひつくりかへるやうなことのないやうに注意してゐらつしやることが出来れば申分はないと思ひます。けれどもあなたは大抵の場合あんまり正直すぎて背負なげを喰はされてばかりゐらつしやるやうに私には見えますのよ、負けぎらひの私には殊さら見えるのかもしれませんけれど。
さうして、私にはあなたのやうに純な正直な処を沢山にもつてゐる方のねうちを認めずに乗じやすい点を利用して誘惑しやうとしたりひどい目に合はせる奴を憎まずにはゐられません。あなたが最初からそんな奴になんか会はずにずつともつと自由な道を歩いてゐらしたら屹度本当に立派な快活な人なつゝこいいゝ方におなりになつたらうと思ひます。あなたの歩いてゐらした道を私たちは本当には覗いたこともありませんから、どんなに困難であつたかもしかとは分りません。たゞあなたにもう少しエゴイステイツクな点がありそしてもうホンの少し許り人の悪い処があればあなたは無事にあの道を通れたのかもしれません、けれどもこれは私の想像ですからあてにはなりません。歩いて来て仕舞つた処にはもうたゞ足跡だけです。私たちには歩いてゐるその刹那々々に一番たしかな私たちの存在の意義を見出すことが出来ると信じてゐます。あなたの御本はあなたの過去をお書きになつたものとして、さういふ過去をお持ちになる現在のあなたがどういふ方であるか過去が何処まであなたに及ぼしたかと云ふことを考へるときにはじめてすべてに価値が出て来るのだと思ひます。
私はあなたの通つてお出になつた過去のことについては本当に一言半句も言葉をさへもさしはさむ資格を欠いて居ります。たゞさうした過去があなたに及ぼしたのであらうと思はれる点をあなたに無遠慮に申上げやうとしたのですけれど考へて見ますと、私は何にも云へなくなつて仕舞ひます。何だか半分云つてあと半分ひつこめるやうですけれどかうやつてかいてゐるうちにも自分のことに思ひ至りますと決して他人様に対して口幅つたいことは云へなくなりますからお許し下さい。それでも随分無遠慮に年長者のあなたに向つて甚だ僭越なことも書きましたが何卒あしからずおゆるし下さいまし。
お互ひに自分のことは矢張り自分で考へながら進んでゆくより他に仕方はありません。生きる力のびる力をもつてゐる限りのものは自分で勝手に、すきなものを吸収することの出来るやうに自然はいろ〳〵なものを豊富すぎる程与へてゐますものね、私たちはいくつ取つても〳〵たりないほど沢山のものに恵まれることが出来るのです。どんな醜いやうなものがどんな偉大な肥料になるかもしれませんし、どんなにか美しく見えるものがどんなに害になるかもしれません、他人には本当にわかりませんわ、深く考へ及ぶ程、自然と云ふことを考へる程微弱な自分の力をおもはずにはゐられません、深く内に向つて進む程徒らに手も足も動かせません、今私は物を考へる毎にさう云ふ風に考へ流されてゆきます、これがどう流れてゆくかは自分でもまだわかりません。私は不自然なことはあくまでもしたくないと思ひます、私の真実が本当の真実である間は。
つまらないことをなが〳〵書きましたねいろ〳〵まだ外に書くつもりだつたのですけれども何時まで書いたつてつまらないことばかしですからこれで止めます。 では 左様なら。
[『青鞜』第五巻第八号、一九一五年九月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第八号」
1915(大正4)年9月号
初出:「青鞜 第五巻第八号」
1915(大正4)年9月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Butami
2019年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056971",
"作品名": "九州より",
"作品名読み": "きゅうしゅうより",
"ソート用読み": "きゆうしゆうより",
"副題": "――生田花世氏に",
"副題読み": "――いくたはなよしに",
"原題": "",
"初出": "「青鞜 第五巻第八号」1915(大正4)年9月号",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-12-08T00:00:00",
"最終更新日": "2019-11-25T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/card56971.html",
"人物ID": "000416",
"姓": "伊藤",
"名": "野枝",
"姓読み": "いとう",
"名読み": "のえ",
"姓読みソート用": "いとう",
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"生年月日": "1895-01-21",
"没年月日": "1923-09-16",
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"底本名1": "定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代",
"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年5月31日",
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嘘言を吐くと云ふことは悪いことだと私達はずつと小さい時から教へられて来ました。これは恐らく一番いけないことに違ひはありません。けれど私たちが今迄過ごして来たいろ〳〵なことについてふり返つて考へて見ますとき、私は何れの場合に於ても私の真実は恐らく――それが複雑であればある程、また心理的に傾く程、――一つも受け入れては貰へなかつたにもかゝはらず、私の虚偽は深ければ深い程都合よく受けられました。それは本当に偽りのない、真実な心として。
私の単純な幼い心は、たゞ一途に年長者たちに受け入れられると云ふことですべては打ち消されて何の不安も罪悪も感じませんでした。けれども刻々に変化してゆく私の心はだん〳〵にそれ等のことに向つて目をみはつて来ました。私がぢつと自分の嘘を用ゐることについて見てゐて一番に見つけ出したことは、具体的な事柄について嘘を吐いたときにはそして、それが悪気のない一時のごまかしであればある程最も多くの叱責をうけました。しかしそれにしても、だん〳〵にずるくなつて来て嘘に技巧を用ゐるやうになれば大方はそれが現はれないですんで仕舞ひます。まして気持の上の偽はりとか何とかになりますと殆んど何の問題にもならず他人の目にもふれずにすんでしまひます。もしそれを強ひて正直に人に説明しやうとでもするが最後それは全く飛んでもない誤解をうけて思ひがけない結果をもたらします。
「正直でなくてはならない。」と口癖に云つてゐる人々が不思議に正直でばかりはゐませんでした。私が大人と云ふものゝつまらない叱責や何かを受けたくない為めに嘘をこしらへて云ふのには自分ながら本当にわるいと云ふことを自覚してゐました。しかし、大人の嘘を見出す為め「手段の為め」の嘘は許さるべきものだと段々深く思ひ込むやうになりました。けれども他の嘘はめつたに吐いたことはありませんでした。大人の嘘をわるいともきたないとも思つたことはありませんでした。けれどもそれは私がたしか、十四の時だと思ひます。私にとつては恐らく一生涯忘れることの出来ない事がありました。大人の汚い心をまざ〳〵と見せつけられました。私の小さい心は怒りと驚きにふるへました。私はそのとき大人の醜い偽りと疑ひを知りました。私は十四になる迄にはかなり他の人たちの少女時代よりも複雑な境遇を経て来ました。けれども私は随分単純でした。私たちの尊敬する学校の先生たちが勿論私たちにいろんなことをおさとしになる程何処も彼処もとゝのつた人だとは信じはしませんけれどもまさかに、そんなにも度はづれな疑ひやあとかたもないうそをついて生徒をいぢめるなどとは全く思ひもよらないことでした。
私が故郷の高等小学校の四年のときでした。私は、四年の十一月に長崎の学校から転じて来ましたので其処の田舎の学校の質素な所謂校風にはまだまるきりなれてゐませんでした。それにそれ迄ゐた長崎の学校の受持教師のYと云ふ教師は非常に生徒を自由にさしてゐられたのです。少しも干渉らしいことをしたり云つたりされないのでした。それで私たちはずいぶん腕白でした。田舎にかへつて来てからも私は矢張り同じやうに無邪気に飛んだりはねたりしてゐました。校長室や職員室に恐れ気もなくづか〳〵はいつてゆけるのも私位のものでした。私のさういつた態度は始終、もう四年を最高級として、もう一人前の女として取り扱はうとしてゐる女の先生からは、つゝしみのないおてんばな娘として悪くまれてゐました。けれど私がさうした事を気づく筈がありません。大部分の先生達は、私の快活を可愛がつて下さいました。私はそれによってます〳〵増長したと云つた調子でした。
受持の先生は、Tと云ふやさしい女の先生でした。ほんとに、「やさしい」と云ふことばで完全にその人のすべてを云ひつくせる人でした。その人は私を本当の妹のやうに可愛がつて下さいました。寂しいその先生はいつも私のおしやべりや歌やそれからお転婆な動作を見ては含み笑ひをしてゐました。私ばかりではなく私たちの級の人たちは皆この気の弱い先生をなつかしがつて大切にしてゐました。
私が長崎にゆく前丁度筑後からかへつて来て、少しの間矢張りこの学校にゐましたときこの学校にゐたHと云ふ先生が私が長崎からかへつたときには波多江と云ふ処の小学校の校長になつて私の通つてゐる学校から半里ばかり先きの川縁の学校にゐました。その学校は私が尋常の一年に一寸教はつたことのある方で私の家の直ぐ傍のKと云ふ女の先生も矢張り出てゐました。H先生もK先生も非常に私を可愛がつてくれました。私は始終学校の帰りを其処により道をしては遊びくらしてK先生と一緒にかへつて来ました。其処ではよくテニスをして遊びました。私の行つてゐる学校ではテニスの道具はありましたけれどそれは先生方の道具で先生丈けしかそれではあそぶことが出来ませんでした。私は波多江に行つてテニスが出来たりオルガンを弾ひたりすることが出来るのがうれしいので一週に一度や二度は屹度あそびにゆきました。
或る日、矢張り私は、前から約束しておきましたので其処へ出かけてゆきました。しばらくあそんでゐるうちに急に天気がわるくなつて大変なあらしになつて仕舞ひました。私は困つて仕舞ひました。外は、二三間先きも見えない程ひどい雨が降つて、おまけに風がピユー〳〵うなつて来るのです。止むか〳〵と思つて待つてゐるうちに夜になつて仕舞ひました。私は途方に暮れてゐましたがとても今日はこれではこれから二里以上の道を歩いてはかへれないからとK先生が明日私の家にはよく訳けをはなして詫びることになつて一緒にとまる事になりました。そして私たちはK先生もH先生も知つてゐるYと云ふ学校の直ぐそばの家に泊りました。H先生も学校の宿直室に泊ることになつたのです。
その翌日は幸ひにも雨はあがつてゐました。私は朝はやくおきて一たん家へかへつてそれから学校にゆかうと思つたのですが私の寝坊は学校の前を通りこして家へかへつてまた出直す程の時間の余裕をもてる程はやくは起きませんでしたので仕方なしにそのまゝ学校にゆきました。
私の一つ困つた事はその日図画があるのにその用意をしてゐなかつたことです。殊にその図画の先生は私を一番悪がつてゐたSと云ふ先生だつたのです。それに、その先生はこの学校の規則と云ふことを非常にやかましくいふ人だつたのです。「遺亡」と云ふ言葉も非常に主張してゐたのです。それはわすれものをした人につける名で監督日記の或る処にちやんとそう云ふ欄がもうけてあつて、針一本の忘れ物でも厳重に其処につけられて罰せられるのでした。私は其処に幾度かつけられました。私はありとあらゆるものに向つて一時に注意を向けることの出来ない性質でした。今でもさうですが一つの事を考へてゐれば屹度他のことは忘れて仕舞ひました。それでおとし物や物忘れは私にとつては珍らしいことではありませんでした。それで一度や二度罰せられた位では何の効もないのでした。S先生はそれを私の横着として見てゐました。私はS先生の目からは仕方のない横着者なのでした。私はさうしてS先生から睨まれてゐながらやつぱりぼんやりしてはS先生の気にさはるやうな事ばかり意地わるく仕出かしてゐました。後になつて、あれはS先生の御機嫌をわるくする事だつたと気づきますけれどもやつてゐるときには一向そんなことには気がつきませんから平気なのです。そんな風で私はS先生からは一方ならぬ奴だとされてゐたのでした。私は図画の用意をしてゐないことが一寸いやな気がしましたけれども学校に行つて先生の顔を見るなり直ぐに断はりました。
「先生、昨夜他へとまりましたので図画の用意をして来ることが出来ませんでした」
先生は意地の悪いかほをして笑ひながら
「そんなことを云つて誤魔化さうとするのでせう? 本当は忘れて来たのでせう」
「いゝえ、本当に泊つたのです」
「そんなら何故昨日その用意をしておかなかつたのです」
「でも先生、昨日は泊るつもりではなかったのです」
「一体何処に泊つたのです」
「波多江に」
「波多江? 波多江の何処です」
「私はよく知りませんがYとか云ふ家です」
「Y? フフン、H先生の処へ行つたんですね」
「えゝ」
「H先生と一緒に泊つたのですか」
「いゝえ、H先生は学校に、K先生と私丈けがYに」
先生は意地悪く私の顔を見ながらそのまゝ黙つて向ふの方へ行かれました。私は子供ながらも無礼なS先生の問ひ方や態度に激しい憤りを覚えながらもS先生に断つたと云ふ安神でその時間が来る迄は図画のことなどはけろりと忘れてゐました。
時間前になつて皆が机の上に筆洗や絵の具皿などを並べて用意にかゝつたときに私は、すつかり悄気て仕舞ひました。S先生ははいつて来るなり、私の方に冷たい視線を投げて知らぬ顔をしたなりに、外の方達の絵の具の混ぜ方や何かに注意を与へてゐました。私は何をしていゝかわからなくて呆然としてゐました。S先生が直ぐ傍を通りかゝつたときに私は何をしたらいゝか聞いて見ました。すると、
「何でも御勝手に、」とツンとしてあちらへ行つておしまひになりました。
私は仕方なしに、鉛筆をもつていろ〳〵な物の輪廓をとつて見たりなんかしてゐましたけれどもそれにもちつとも興味が続きませんのでボンヤリ隣席の人の彩色するのなんか眺めてゐました。そうしてやつと一時間が済んでほつとしました。S先生にはずゐぶん腹がたちましたけれどつまらない一つことにながく怒つてゐられない私は何時の間にか次の時間には忘れるともなく忘れて一生懸命に理科の説明をきいてゐました。
五時間の授業がすみまして私が帰りかけたときにT先生が少し用があるから残つてゐらつしやいと他の級の生徒にことづけてよこされました。私は何の用なのかと思つてお当番の加勢をしたりして何時迄まつても何の沙汰もないので私はもしか先生が忘れてお出になるのかもしれないと思つて聞きにゆかうとする頃やうやく先生はむかうからお出になつてこちらへゐらつしやいと、廊下の角に私をまたせて一たん職員室にはいつて御自分の傍の火鉢をかゝえて出て来て、一緒に二階の講堂にゆきました。講堂はがらんとした広い〳〵室でした。おちつき処もないやうなその冷たい室にはいるなり私は泣き出したくなりました。何故今迄もまたしておいて先生はこんな処に私をお連れ込みになるのだらうと思ひますとT先生に、腹がたつて来るのでした。先生は其処に沢山ならんでゐる、小さな木の腰掛の上に抱へて来た火鉢をおいて黙つて立つてゐる私に手まねきをなさいました。私はだまつてその傍にゆきました。暫らく両方でだまつてゐました。
「あなたは、昨夜何処かへ泊つたんですつてね」
すこしたつてT先生は尋ねました。
「えゝ、波多江のYと云ふ家に泊りました」
「其処はお料理家ださうですね」
「さうですか、私は何にも知りませんけれど夜になつてK先生と一緒に泊りにゆきました、そんなことはすこしも知りません」
「さうでせうね、ですけれどS先生は大変いけないつて云つてゐらつしやいますよ。それはお家のお許しもなかつたのでせう?」
「えゝ、だつてK先生と一緒にかへる筈でしたけれどあのあらしでかへれませんでしたから仕方なしに泊りました。今日うちにはK先生がよくわけを話して下さることになつてゐます」
「さうですか、けれどもS先生はおうちのおゆるしもないのにそんな家に泊つたと云ふことは大変いけないと云つてらつしやいます。それにあすこが料理屋だと云ふことを知らない筈はないからきつと知らないなどゝうそをつくだらうと云つてゐらつしやいますよ」
「先生、私はあの近所は学校以外に何処も知りません。そしてYと云ふ家は生徒の家ださうです。私はうそは云ひません。もしうそだとお思ひになりますならばK先生にお聞き下さればおわかりになります。昨日のあらしに、どうして私一人で暗くなつてから帰れませう。本当に仕方なしに泊つたのです」。私は、それ丈け云ひますと涙がこみ上げて来て唇がふるえて口がきけなくなりました。私はたゞH先生とK先生との処へあそびに行つた。そしてかへる時間にひどいあらしになつて夜になつてもやまない。乗物も何にもないのにあんなさびしい道を二里以上も私がかへれないと云ふことを誰が不思議に思はう、止むを得ずすゝめられるまゝに不安ながらどうすることも出来ないで泊つた。其れがどうしていけないことなのか私にはどうしてもこうしてさむい処に日暮近くまで待たされて叱かられる理由を見出しかねました。私は理由もなしに虐待されるのだと思つたときにS先生の悪々しい朝からの容子を思ひ出さずにはゐられませんでした。それにまたT先生までがこの理由もないことに一緒になつてお叱りになると思つたとき私は悲しさと腹立たしさが一ぱいになつたのです。膝の上においた私の手の甲に涙がボタボタ落ちました。私はだまつて泣いてゐました。暫くして涙を拭いて火鉢の赤火を見るともなく見てゐますとその灰の中に先生の涙がポトリポトリ続けさまに落ちてゐます。ハツとして先生の顔を見ますとT先生は泣いてお出になりました。先生が何か云はうとなすつたとき階段に足音がしてたれかゞ来るけはいがしました。直ぐ入口に校長の姿が見えました。私はだまつて校長の顔を見ました。先生は丁寧に頭をお下げになりました。私も一緒に頭を下げました。校長はだまつてそこの高いプラトフオームにたちました。そして其処の大きな卓子の前の椅子に腰をかけました。瞬間に私は校長からも叱かられるのだと思ひました。此度は私はもう泣きませんでした。私の小さな体は激昂に炎えてゐました。私はぢつと校長の顔を睨みました。校長も白い目をして私を見つめました。何時までも私は校長をにらんで校長も私をにらみながらだまつてゐました。
「校長先生のお前にゐらつしやい」
消え入るやうな声でT先生が仰云ひました。
私は体中を反抗の血で一杯にしてわく〳〵させながら校長の前に立ちました。たつて私がまつすぐ目をやりますと校長の膝のあたりにしか私の頭はとゞきませんでした。私は校長の顔を見やうとすればイヤと云ふ程仰向かねばなりませんでした。校長はしばらくして咳ばらひをしながら、丁度今一寸前にT先生が私に尋ねたと同じ順序で同じ事を尋ねました。私は同じことを答へました。最後に校長は云ひました。
「あなたの云ふのはうそではないかもしれないけれども父母の許もうけずに他へ泊るなどといふことは大変わるいことです。お父さんやお母さんがどんなに御心配なさるかもしれません。第一さういふ遠い処に学校のかへりにあそびにゆくと云ふのがまちがひです」
「でも先生、何時でも行くんです。そしてK先生と一所に何時でもかへりますから家ではよく承知してゐるのです。昨日もあすこに行つたことは家でも知つてゐますから、あんなあらしになつてとてもかへれなかつたと云ふことは家の人にもわかつてゐますし、K先生もおかへりになつてはゐませんから。――」
「まあお待ちなさい。あなたは一体つゝしみをしらない。私がまだ話して了はないうちに何を云ふのです、私はあなたの先生ですぞ」
校長先生はまつ青になつて怒りました。
「女はもう少し女らしくするものです。第一もうあなた位の年になれば遊ぶことよりも少しでも家の手伝ひでもすることを考へなくてはならない。昨日のことは仕方がなかつたとしてももしもあなたがもつと女らしい、心がけのいゝ人ならあんな処に遊びに出かけることもないだらうしそうすればあんな間違ひはおこらない。第一不意にさうして心配をかけることもないし学科にさしさはりの出来るやうなこともないし、常々うちの手伝ひでもしてゐれば家の為めにもどの位なるかしれない。それにあなたは何だつてHさんの学校へなどあそびにゆくのです。あなたはあすこの学校へ何の関係があります。関係もない処に遊びに行つて泊るなどゝ実にけしからん事です。あなたはどんなに悪い事をしたのか分つてゐますか?」
「私は何にも悪いことは一つもしません、悪いことなんか一つもしません」
私はせき込んで漸くそれ丈け出来るかぎりの力をこめて叫びました。実際私は何にも悪いことはしませんでした。悪いことをしたといふ意識は何処を叩いてもありませんでした。そうして私は何一つかくさずにありのまゝを云ひました。私の小さな頭をしぼりつくしていくら悪い理由をこしらへやうとしても出来ませんでした。私はわるいことなんか一つもした覚えはない! もう一度自分の心の中でさう叫びながら私は真青になりました。立つてゐる足が体をさゝえきれない程に震へるのでした。
「それ、そんな傲慢なことをまた云ふ。これがどうして悪いことでないと云へます。あなたは少しも物の道理をしらない、長上を尊敬することをしらない。いくら、学科が出来やうと何しようと慎しみのない女は人の上にたつ資格はありません。以後再びこんなことがあれば決して、許しておけませんからそのつもりで――」
おしまへに力を入れてそれ丈け云ふともう小暗くなつた広い室の中をおちつきもなく睨みまはしてそゝくさと降りてお出になりました。実際はまだ随分いろ〳〵と頑迷な理屈をならべたのですけれどももう五六年も前のことで一々ハツキリとは覚えて居ません。校長が出てゆくと私の頭の中は一時に真暗になつてガン〳〵鳴り出しました。私はT先生の其処にゐることなどは忘れてしまつて見むきもしないで下にかけおりるなり真暗な教室に荷物をとりにはいりました。私はしばらくそこに腰をかけて机の上につつ伏してゐました。涙はあとから〳〵と湧き出て来るのです。二十分位もさうやつてゐてふと日が暮れたことに気がつきますと私は、いそいで、包みをひろげて包み残りのものをすつかり机の中から出して机の中はきれいな反古紙で拭いて何にも残さないやうに包みました。私はこの不条理な叱責を公平な父につげて明日からは学校にゆかない決心をしたのでした。外に出ると日はもうすつかり暮れてしまつて寒さは強いし、道はこねかへしたやうに悪くて、ひくい下駄では満足には歩けませんでした。そんな暗い悪い、人通りもない道を一里以上も泣きながらかへつてゆきました。
K先生は約束のとほりに家にわけを話して下さいました。勿論家のものもあのあらしではと少しも気にかけてはゐませんでした。そして却つて私の今日のかへりのおそいことに気をもんでゐました、私はかへるなり袴もとらずに明るいランプの下で近所の人と世間話をしてゐた父の前に座つて今日の不法な先生の態度や叱責を委しくはなして明日からはもうあの学校には行かないと結びました。父は一ことも返事らしいことも何にも云ひませんで黙つてゐました。
翌日もその翌日も友達が誘ひに来ても断はつて学校へはゆかずに終日古い本箱のふたをあけたり、犬をいぢつたりして祖母のそばで暮しました。二日目の夕方私が夕御飯前に犬をからかひながら松原へあそびに出たるすにT先生がうちに来られて父としばらく話をしてそれから私をたづねて松原へ出てお出になりました。そして、出会ふといきなり先生は私の手をしつかり握つてどもり〳〵私におわびを仰云るのでした。それは自分がよはいために職員室で大勢の方たちの前で私のわるいことをいろ〳〵ならべたてゝあんな子供を訓戒も何にもあたへずに放つておくといふ法はないと云ふことをしきりにT先生にS先生があてこすつたのを、見かねたやうな顔をしてMと云ふ先生があなたが云ひにくければ校長にたのんで訓して貰つた方がいゝではないか、校長には自分がたのんでやると仰云つたのでつい心よはさからM先生がS先生と同じ腹の人だと云ふことをしりながらいやだとも云へないで「自分がゆき届かないのだからいゝやうになすつて下さい」と云ふよりしかたがなかつた。自分は何と云ふふがひないものだらう。とT先生は私に涙と一緒に其処にしやがんで話されるのでした。さうして何卒自分を許して明日から学校に出てくれ、たのむと先生は手をつかないばかりに仰言ひますので私も出る気になりましたけれどもう学校は決して楽しい処ではなくなりました。私は二度と再び職員室になんかはいるものかと思ひました。
其の次に私がH先生に会ひましたときに先生は意外にも、
「此の間の日曜にSさんに会つたら、Tさんが波多江のYに野枝さんがあなたと一緒にとまつたと云ふことについて大変怒つて、本当に、野枝さんが可愛さうなやうでした。おまけに、校長に迄訓戒をさせるんですもの何にも別にわるいことはないぢやありませんか、野枝さんは、K先生と泊つたと云つてゐるのにH先生と泊つたのでうそをついてゐるのだとさういつてらつしやるのですよと云ふので、私はそれはちがひます、僕はあの晩はC君と一緒に学校にとまりました。Kさんと野枝さんがYにとまつたのです。と云つたら、さうでせうね私は屹度さうなんだと云ひますのにね、きかないんですものMさんと相談して校長の処にそんなつまらないことを持ち込んでゆくのですもの本当に可愛さうぢやありませんか、それに丁度とまつた翌日は私の図画があることになつてゐましたのにね野枝さんは用意してゐなかつたので私に大変すまないから放つておいてくれなんてTさんは云ふのですよ、あんな優しさうな顔してゐながら本当にえらい事を仰云ひます。可愛さうに野枝さんは二日ばかり学校に来なかつたんですよ、あんまりTさんは下らないことに迄干渉しすぎますなんてしきりにT先生の悪口を云つてゐたよ、私は別に何とも云はなかつたけれど先生ひとりで怒つてゐた。何つて云つて叱かられたの」
「嘘! 嘘つきね、S先生は!」
私は驚ろいてにはかには云ふことも失つてしまふ程でした。私のあたまがどんなに子供の頭でもそれが立派なこしらへた嘘だといふことは分りますのに、先生がまあそんな醜いうそをついて迄自分を保たうとしてその為めに善良なT先生迄も貶すと云ふことがどれ程私にとつて驚くべきことであつたか分りませんでした。私の頭はひつくりかへるやうなさはぎでした。もう一二年もたつてからの私ならばその位のうそに驚きはしませんけれど、私の考てゐた大人の嘘とはあんまりにちがつてゐました。自分の悪いことをそのまゝ他人になすりつけて自分丈けがいゝ子になると云ふことがどの位わるいたくらみに見えたかしれません。その日は全く私はろくに口もきかずにかへりました。そして私はT先生に一晩中かゝつて永い手紙を書きました。今日H先生にきいたことは一句もらさず書きました。そうしてS先生は何といふ恐ろしい方でせうと書きました。やがてT先生から御返事が来ました。それにはS先生としてはあの位のことが何でもないことであることやもつと大人と云ふものは穢い心を沢山もつてゐることや自分でも心の中にはずつとそれよりも汚い悪いことを考へてゐるかもしれないと云ふこと等がならべてありました。そうして自分のそんな事を考へてゐると先生などはとても出来る資格のないことを思ふ。と云ふやうなことがながく〳〵分りやすい言葉で書いてありました。
私が此処に何の為めにこんな叙事を長くつゞけたかおわかりにならない方があるかもしれません。私は「嘘」と云ふ言葉を思ひ出すと何時もこのことを考へ出さずにはゐられない程強くこの事は私の頭の中に印象を残したのです。こんなことはざらに其処らに転がつてゐます。けれどそれはまだほんの子供の小さな頭でうそと云ふものは本当のことを云つて叱られると云ふやうな場合にたゞその叱責をのがれる為めに吐くといふ――しかもそれは子供にとつてはしかられるやうな事を仕出かしてもその仕出かした動機は自分でも正しいと得心が出来る事なのでそれを叱られないやうに嘘をつくと云ふことが別に悪いことではないと無意識に思ひ込んてしまふのだ。(その罪は実際は大人にある)――位な考へしか持つてゐないのにいきなりそんな醜いうそを見せられたのです。本当におどろかずにはゐられません。
けれども私が学校を卒業してだん〳〵時がたつにつれてその嘘は何でもなくなりましたけれどそのかはり此度は私が校長に何の為に叱られたかゞ分らなくなりました。私は或る時ふつと思ひついてS先生も校長もH先生もT先生もよく知つてゐる人にそのことを話ました。するとその人は突然皮肉な声で哄笑しながら
「あゝSですか、なに、あの女の例のやきもちからさ、あなたはまだ小さくてわからなかつたらうがいゝ迷惑さね、あなたがあの女には大人並に見えた迄さハヽヽヽハヽいゝ目に会ひましたね」
嘲けるやうな目付きをその人はしました。それを聞いてから私の不快な印象は更に深みをましました。そうしてS先生の嘘がまたよみ返つて来て多くの意味を持つて考へられるやうになりました。
私にとつてはこの印象は一日も今迄わすれられないものゝ一つです。これ程すべてに淡泊すぎる程忘れることのはげしい怠けもの(?)の頭に深くきざみつけられてゐるのです。一生とり返すことの出来ない屈辱が時々あたまをもたげます。けれども私のこの苦い印象は私に、いろ〳〵なことを教へてくれました。嘘といへば直ぐこのことを思ひ出すことが出来る程の印象を私がもつてゐることは私自身の嘘を警戒するばかりでなく私は私の子供の為めにも一つの幸ひであることを思ひますと、私は本当に尊いものを一つ持つてゐることを感じます。私は私のこの追想がこれを読んで下さる方に何かの影をおとす丈けでも満足に思ひます。
[『青鞜』第五巻第五号、一九一五年五月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第五号」
1915(大正4)年5月1日
初出:「青鞜 第五巻第五号」
1915(大正4)年5月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年11月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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らいてうさま、
ほんとうに私は嬉しう御ざいます。私はあなたの第二の感想集が出版されるのだと思ひますとまるで自分のものでも出すやうな心持ちがいたします。最近の私達の生活を知つてゐるものは私達自身きりですわね、私たちは私たちの周囲の極く少数の人をのぞく他の誰からも理解や同情など云ふものを得ることは出来ませんでしたね、まるで私だちの周囲は真暗でしたもの。疑惑と中傷と誤解と威圧とそして侮蔑と嘲笑と揶揄とが代る〴〵に私達を一番親しく見舞つてくれましたわね、けれどもその中からこのあなたの論文集が生れたのですわね、それに依つて如何にあなたがそれ等にお接しなすつたかと云ふ事がこの書に依つて明瞭になることが私にとつて一番うれしいのです。私はこの書が出来る丈け広く読まれる事をのぞんでゐます。私はこの書があなたの最上の著述だとは信じませんけれども少くともあなたの多少変化のあつた最近の生活の努力によつて生れた尊い思想の断片として私は私の能ふるかぎりの尊敬をこの書に捧げます。
(三、一一、八)
小石川にて
野枝
らいてうさま
[平塚明『現代と婦人の生活』日月社、一九一四年一一月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「現代と婦人の生活」反響叢書第二編、日月社
1914(大正3)年11月27日
初出:「現代と婦人の生活」反響叢書第二編、日月社
1914(大正3)年11月27日
※「私達」と「私たち」と「私だち」の混在は、底本通りです。
※底本における表題「序に代へて」に、初出誌名を補い、作品名を「「現代と婦人の生活」序に代へて」としました。
入力:酒井裕二
校正:かな とよみ
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057054",
"作品名": "「現代と婦人の生活」序に代へて",
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一
深い悩みが、其の夜も、とし子を強く捉へてゐた。予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を逐ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。払い退けやうと努める程いろ〳〵不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷つてゆくにすぎなかつた。
レツスンが済むと、何時ものやうに熱いお茶が机の上に運ばれた。子供はとし子の膝の上に他愛なく眠つてゐた。快活なY氏夫妻の笑顔も其の夜のとし子には、何の明るさも感じさせなかつた。小さなストーヴにチラ〳〵燃えてゐる石炭の焔をみつめながら、かたばかりの微笑を続けてゐる彼女は、其のとき惨めな自分に対する深い憐憫の心が、熱い涙となつて、今にも溢れ出さうなのをぢつと押へてゐたのだつた。
外は何時か雪になつてゐた。通りの家々はもう何処も戸を閉めて何処からも家の中の燈は洩れて来なかつた。街燈だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光りを投げてゐた。無理々々に停留所まで送つてくれたY氏と、言葉少なに話しながら電車を待つてゐる間も、とし子の眼には涙が一杯たまつてゐた。矢張りあの家に帰つてゆかなければならないと思ふと情なかつた。もう此のまゝに帰るまいかとさへ思つて来た家に、どうしてもトボ〳〵この夜更けに帰つてゆかなければならない。
『こんな時に、親の家でも近かつたら――』親の家――それもとし子には思ひ出せば苦しい事ばつかりだつた。三百里も西の方にゐる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過して来た。それも彼女自らが叛いて、離れて来たのであつた。真つ直ぐに、自分を立て通したいばかりに、親達の困惑も怒りも歎きも、悉てを知りつくしてゐながら、強情にそれを押し退けて再度の家出をして後は、お互ひに一片の書信も交はさなかつた。そして全くの他人の中での生活に、とし子は迫害され艱難に取りまかれた。けれど、すべては最初から覚悟してゐた事であつた。彼女は本当に血が滲むほど唇を噛みしめても、その艱難には耐へなければならないと思つた。その苦しい生活がもう二年続いた。そして、此の頃とし子は自分の生活を省みる度びに、其処に余りに多くの不覚な違算を発見しなければならなかつた。その上に猶思ひがけない他人の、何の容赦もない利己心の餌である事を忍ばねばならぬ奇怪な、種々な他人との『関係』が、此の頃よく肉親と云ふ無遠慮な『関係』の人々を思ひ起さすのであつた。けれども、そうした境界におしつけられて思ひ出すことも、とし子には辛らい事の一つであつた。それでも、今かうして、本当に嫌やでたまらない彼の他人の冷たい家の中に、頑な心冷たい気持で帰つて行かねばならぬ情なさに迫まらるれば、矢張り深夜であらうと何であらうと遠慮なく叩き起せる家の一軒位は欲しかつた。
漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。電車の内は隙いてゐた。皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。とし子は安心してまた向き直つた。そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附に近く来てゐた。
四ツ谷見附で乗りかへると、とし子は再び不快な考へから遠ざからうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。けれど水道橋まで来て、其処で一層はげしくなつた吹雪の中に立つてゐる間に、また取りとめもなく拡がつてゆく考への中に引きづり込まれてゐた。刺すやうな風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。足元には、音もなく、後から後からと見る間に降り積んで行く。
『何処かへこのまゝ行つてしまひたい!』
白い柔かな地面に射すうつすらとした光りをぢつと見つめながら、焦れてゐるのか、落ちついてゐるのか、自分ながら解らない気持で考へてゐるのだつた。
『何処へでも、何処でもいゝ。』
此処にかうして夜中たつてゐても、今夜出がけに苦しめられたやうな家には、帰つて行きたくない。腹の底からとし子はさう思ふのだつた。けれど、背中に何も知らずに眠つてゐる子供を思ひ出すと、とし子の眼にはひとりでに、熱い涙が滲んで来た。
『自分だけなら、他人の軒の下に震へたつていゝ。けれど――』
何にも知らない子供には、たゞ温かい寝床がなくてはならない。窮屈な背中からおろして、早くのびのびと温かな床にねかしてやりたい。そして可愛想な母親が子供に与へるたつた一つの寝床は、矢張りあの家の中にしかない。とし子の眼からは熱い涙が溢れ出した。
漸くに待つてゐた電車が来た。ふりしきる雪の中を、傘を畳んで悄々と足駄の雪をおとして電車の中にはいつた。涙ぐんだ面をふせて、はいつて来た唯だ一人の、子を背負つたとし子の姿に皆の眼が一時にそゝがれた。けれど座席は半ば以上すいてゐて、矢張り深夜の電車らしくひつそりしてゐた。
春日町でまた吹雪の中に取り残された。長い砲兵工廠の塀の一角にそふておよそ二十分も立つてゐる間には、体のしんそこから冷えてしまつた。
二
因習的な家庭の主婦たるべく強ひられる多くの試練に対する辛らい忍耐、一人の子供に強奪される終日の勤労、それはとし子にとつては全く思ひがけない違算であつた。
たゞひたすらに、忠実な自己捧持者でのみあるべき彼女は何時の間にか、不用意のうちに、他人の家に深く閉ぢ込められてしまつてゐた。その家のあらゆる習慣と、情実を、肯定しなければならなかつた。そうしてまたその上に不用意な愛によつて子供と云ふ重荷を負はねばならなかつた。若い、無智な、これから延びてゆかなければならない、とし子にとつて、この二つの重荷は、彼女の持つ、凡ての個性の芽を、圧しつぶして仕舞ふ性質のものであつた。彼女自身もそれは可なりはつきり意識してゐた。けれど、もし彼女が本当に強くその意識を何時も把持し、それに悩まされてゐれば、彼女はどうしても、その重荷から逃れなければならなかつた。しかし、彼女はその意識と共に、また、その重荷から逃がれる事は出来ないものだと云ふ、あきらめをも持つてゐた。その重荷から逃げる事は、卑怯な一つの罪悪だとさへ思つてゐた。『あきらめ』と云ふ事は忠実な自己捧持者にとつては一つの罪悪だと不断主張してゐるとし子も、自分の実生活の上に来た矛盾の前には『あきらめ』で片附けるより他はなかつた。悉てを、『運命』と云ふ最高意志にまかせるより他はなかつた。
併し、とし子は自分のその『あきらめ』を決して『あきらめ』だとは思つてゐなかつた。それには、彼女自身では、それ相応な理屈をつけてゐた。彼女は、どんな難儀な重荷を負はされようとも、その為めに決して自己を粗末に扱ふと云ふやうな事はしないと云ふ自信、それから、その重荷も決して、他から強ひられた重荷ではなく、どうしても自分の意志から云つても背負はなければならないものであると云ふことがその理由であつた。殊に、子供に対する重荷は殆んど重荷とは感じない程だつた。
唯だわづかに呼吸をし、食物を要求する事等の生きてゐると云ふのみの状態から、人間らしい智能がだん〳〵に目覚めてくるのや、一日一日とめざましく育つてゆく体を注意してゐると、何とも云へない無限な愛が湧き上つて来るのであつた。この小さい者の為めには何物も惜しまないと云ふ感激が不断に繰り返されるのであつた。彼女の子供に対して与へるものは無制限に拡げられて行つた。
しかし、それでも猶、彼女は決して彼女自身の生活を忘れはしなかつた。彼女はどんな重荷を背負はされても、自己を忘却したり、見棄てたりするやうな事はしなかつた。それはまた、彼女自身を省みる都度、その云ひ訳けに役立つ所の、唯一のプライドでもあつた。
他人に強ひられる重荷を背負つて他人の満足を買ひ、そして忠実な自己捧持者たらうとする欲ばつた考へが、もし他人の事であつたら、とし子は真つ先に立つてゞも、嘲笑しかねなかつた。しかし、今は彼女自身がその欲ばつた考へに夢中だつた。
彼女の第一の重荷は、男の家族への奉仕であつた。その母親、弟妹、その連れ合ひ、さう云ふ人との毎日の交渉に、身も心も細つて行つた。それに彼女は普通の場合より更にその人達に対して引け目を感ずるいろいろな事情を持つてゐた。
とし子は、家族の人達の考へによれば、かれ等の生活の支持者である男を失職せしめた。さうして彼等から生活の安定を奪つた。かれ等は、口に出して責めるやうな事は、為なかつたけれど、それ丈けにとし子は、もつと意地の悪い、いやみのあてこすりでいぢめられた。
実際に、男の失職は、とし子の事がもとになつてゐないではなかつた。しかし、そんな事よりも彼はもうとうから、その仕事に倦きてゐたのだつた。彼は機会を見て、教職などは退いて、他の仕事に転じたかつたのであつた。それは家族のものたちも知つてゐた。しかし、思つた程、仕事は直ぐに見附からなかつた。そして必然に窮迫が襲ふた。とし子にとつては辛らい事の数々が日々にせまつて来た。
若い時から家族の為めに働きつゞけて来た男は、体の自由だけでも、どんなにか呑気だつた。少々の窮迫位は何んでもなかつた。彼は一切の事を、何とかしなくては済まぬ位置におかれたとし子にまかして、いゝ加減に怠惰な日を送つてゐた。家族の者にとつては、それは大変な損失だつたことは云ふまでもない。彼等はしきりに彼に就職を迫つた。とし子はさうした場合何時でも辛らい板ばさみになつた。彼女は男をかばふ代りに、家族のものに対しては、彼の代りになつて重荷を負はねばならなかつた。
一つの遠慮が、とし子の悉ての考へを内輪に内輪にと押へた。家の中の情実や習慣を何処までも通さうとする母親、気の強い妹、それ等の人達と、出来るだけ不快ないさかひをせずにすまさうとするとし子の努力は、大抵なものではなかつた。母親は、年老つた人としては、まだ物わかりのいゝ穏やかな人であつた。しかしそれでも家の中の情実に対しては多くの無駄を固持してゐた。窮迫がはげしくなるといろ〳〵な愚痴がとし子の前に、一つ一つならべられた。妹は本当に勝気な無遠慮な女であつた。彼女に会つてはとし子は、とても勝身はなかつた。理屈などはまるで通らなかつた。どうかすると、母親さへも彼女には極めつけられて困ることがあつた。とし子はそれ等の人々の機嫌を気にしながら、どんな侮辱をも無理な皮肉をも黙つて忍ぶやうに、何時の間にか馴らされかけて来た。
しかし、彼女は決して自身から他へ目をそらすやうな事はなかつた。彼女はその自身の忍従に対して染々とひとりで涙ぐみながら、その気持をいとほしんでゐることもあり、また或る時は、自分のその意久地なしに焦れてゐることもあつた。しかし、大抵の場合は、反抗心にみち〳〵た、我意の強い自分が、さうした家族人達の中にあつて、よく忍んでゐる事に対して、淡い誇りを持つてゐた。それにはまた彼女が家の外の仕事としてやつてゐる雑誌の同人を中心として集まる女達に対する世間の批難が其頃随分激しかつた。そして、その批難の大部分は下らない、外部に現れた行為による事が多かつた。しかもその批難の的となる、多くの突飛な行為は、大抵彼女等の与り知らぬ事のみであつた。とし子は、それ等の種々な批難を聞くたびに、傍の人達に笑はれる程、むきになつて憤慨した。そしてさう云ふ世間に対する憤慨が、此処にも及ぼして、彼女は強ひられた忍従を、自ら進んで努めるのだと考へて、それに誇りをもつてゐた。
けれど、それを折にふれては馬鹿らしく、くだらない事に考へる事が、度々あつた。殊に、一歩後へ引けばその一歩がすぐに、対手のつけ目になつて、ずん〳〵無遠慮にふみ込んで来られるのには、どうにも我慢のならない事があつた。さう云ふ時に、彼女の苦痛を知らないではない男の、何とか一言の口出しで、どうにか喰ひとめる事が出来るものを、彼はあくまでさう云ふ事には素知らぬ顔をしつゞけた。とし子には、彼の気持はわかつてゐた。どつちに口添へをしても煩い、黙つてなるまゝにまかすがいゝと云ふ風に、彼は何時でも考へてゐるらしかつた。けれど、それにしても、これから、たゞ一生懸命に勉強して、自分の持つてゐるものゝ芽をのばさうと心がけてゐるとし子に理解を持つてゐる彼なら、とし子の悉てをうち砕いても仕舞ひさうな、重荷の上に、更に多くの譲歩を強ひられる場合、もう少し位は、かばつてもくれさうなものと云ふ不平は、よくとし子の心に起つた。でも彼女はすぐとその気持を引つこめた。彼女はたつた一度だけ、その不平を彼の前に出した事があつた。そのとき、彼は一言のもとにはねつけた。『自分の事は自分で何とでも始末するがいゝ。』そして、とし子には、それで充分だつた。さうだ、どんな事があつても、他人をたよりにするものぢやない。自分で困る事は自分で始末するより他はない。とし子は、反射的にさう思ひ、またそれが何処までも真実な事だと信じた。それでも、一方ではまた、さう云ふ理屈を楯に、矢張り煩さい事から成るべく遠ざからうとする、男の利己的な心が何かしら不快な影を、とし子の心に投げるのであつた。とし子にはその影が何であるかは、ハツキリとは解らなかつた。しかし、彼女は他人を頼つてはならぬといふ男の言葉が本当だと思ひ乍ら、真に快よくそれを受け容れる事は出来なかつた。何処かにそれをそのまゝ受け容れることを渋る気持があつた。そしてその気持を納得させる努力が、彼女に何となく、淡いたよりない悲しみを抱かせた。そしてその気持の下から二度と再び彼にそんな事は云ふまいと云ふ反抗心が起つた。
三
『こんな生活を何時までもしてゐるのは馬鹿々々しい。』
彼女はだん〳〵さう思ふ日が多くなつた。重り合つて迫つて来るいろんな家庭内の迫害を、甘受してゐる事の恐ろしい不利益を考へては、何うかして立ち直つて、自分を救ひ出したいと思つて努力した。けれど、それが、どうしても、少々の努力では追い付くことが出来ないと気がついてからは、彼女はもうその家庭から逃げ出すより他はないと思つた。
けれど、そんな気持が根ざしかけた頃には、彼女は母親になつた。一人の子供の出生によつて其処に小康が保たれた。子供は母親の限りない愛の対象となつた。そしてまた、とし子の愛の対象でもあつた。暗い家の中はその小さいものゝ出現によつて、急に賑やかに、明るくなつた。皆んなが、その一人の子供にのみ注意と興味を持つて行つた。不快な雲が一と先づ晴れた。
みんなは歓びのうちに日を暮らした。殊にとし子は、この小さな者によつて家の中が明るくなつた事に、どの位感謝をしたかしれなかつた。けれど、それはとし子を更らに大きな苦悶に導く前提だとは彼女自身すら、まるで気がつかなかつた。子供は、とし子と男との関係を束縛した上に、他の家族の人達との間を一層面倒にした。
日を経るまゝに子供は育つて行つた。そして子供に就いてまるで無経験なとし子は、凡てを母親の指図どほりにするより他はなかつた。たまに、いくらか彼女が、多少育児に関して知つてゐることを持ち出しても、『経験』を楯てに、一々おし退けられてしまつた。多くの無駄や不自由を少しでも除かうとして、母親の流義とは違つたことをしやうものなら、母親はむきになつて怒つた。母親は、とし子が、子供の為めにかける手数や時間の無駄を、少しでも除かうとするのを、子供に対する不親切な面倒くさがりだと解釈した。さうして、反抗的に、子供を大切にかけてかばひたてた。その結果は、みんな容易ならぬとし子の骨折りになるのだつた。子供は終日、大人達の手から手、膝から膝と渡された。家中の者が子供にかゝり切りになつてゐなければならなかつた。殊にとし子は、一時間も子供を離れてゐる訳にはゆかなかつた。
更にまた、その上のとし子の苦しみは、子供が育つに連れて、その一枚のきものにも、出来る丈けの派手を見せたい母親の止みがたい見栄から、一層経済上の窮迫に対する不平が昂じて来た事であつた。しかも男はもう此の頃は、自ら職業に就かうとする意志は、まるでないのだとしか、とし子には思へなかつた。
『何んとか、せめて自分だけでも積極的に働く方法を講じなければならない。』
とし子はさう思つては、あれか、これかと働けさうな仕事を物色した。けれど、母親は子供を抱へたものが、外で仕事をする事には一切不賛成であつた。とし子がさうした覚悟を見せる程母親は息子を責めたてた。そして子供の世話については、八ヶましく指図するだけで、手を貸すのはほんの、お守りの役に過ぎなかつた。とし子が止むを得ない用事ででも、外へ出たときの半日の留守は、母親にとつては大変な重荷であつた。
だん〳〵に、とし子は、子供の為めに、自分を束縛されて来たのに気がついて来た。子供は可愛くて堪らなかつた。けれど、一日中、また一晩中、子供にばかり煩はされて、時間の余裕と云ふものが少しもないのには、苦痛を感じない訳にゆかなかつた。どうかして、せめて読書の時間だけでも出したいと焦つた。このまゝにゆけば、やがて子供を一人育てる為めに、自分と云ふものを、殺しつくして仕舞はなければならないやうなはめになるかもしれない。そんな事があつては大変だ。すべての苦しみが、みんな自分を活かしたい為めなのだもの、それを殺してどうならう。さう思つては彼女は、しきりに始めから志した読書や、語学の素養を心がけた。けれど彼女が子供を寝かしつける間や、授乳の間を見ては、また折々は台所で煮物の片手間にまで、書物を開いてゐるのを見ると、母親はきまつて、彼女が何か道楽なまねでもしてゐるやうに苦い顔をした。
『私なんか子供を育てる時分には、御飯をたべる間だつて落ちついてゐたことはない。』
などゝ口ぐせのやうに云つた。母親は、彼女がたゞ間断なく、子供の為に働き、家の事で働いて、疲れゝば機嫌がよかつた。実際また、読書をするひまに、他の仕事をする気があれば、する事は、母親の云ふとほりに山ほどあつた。
けれど、とし子には家の中の事を調へて子供の世話でもしてゐれば、それで女の役目は済むと云ふ母親達とは、違つた外の世界を持つてゐた。その役目を果すことを決して厭やだとは思はなかつたけれど、そしてまたそれにも相応の興味をもつて果すことは出来たけれど、そればかりでお仕舞ひにしてしまふ事は出来なかつた。
一歩家の外に踏み出すと、彼女は、自分のみすぼらしさ、意久地なさを心から痛感した。うかうかしてはゐられないと云ふ気が頻りにするのであつた。友達のHもNもSもそれからYも、皆んなが熱心に勉強してゐる。そして、一番若い、一番無智無能な自分が何にも出来ずに家の中でぐず〳〵してゐるのだ、と思ふと、何とも云へない情なさ腑甲斐なさを感ずるのであつた。何の煩ひもなく自由に勉強してゐる人の上が羨ましかつた。束縛の多い自分の生活が呪はしかつた。と云つて、今更逃れる事も出来ないのを何うすればいゝか? 彼女は本当に、それを考へると、たまらなかつた。
けれど、兎に角彼女は、家族の人達からは批難されやうと、少々位な厭や味を聞かされやうと、自分の勉強だけは止めまいと決心した。たとへ、まとまつた勉強らしい勉強は出来なくとも、せめて、普通の文章位いは読みこなせる丈けの語学の力だけでも養つておきたいと思つた。
四
その頃とし子は、友達のHから雑誌の仕事を全部ひきついでゐた。彼女がその雑誌を引きつぐ事になつたのも、Hからその仕事を持つてゐては勉強が出来ないから止めると云ふ決心を話されて、折角持ち続けて来たものを止めると云ふ事が惜しいのと、他の一方にはこの仕事を利用して、自分の勉強の時間を、仕事の時間から出さうと云ふ魂胆もひそんでゐた。そして、その雑誌の同人の一人であるY夫人の処を訪ねたとき、其処でY氏が夫人の為めに、いま大きな社会学の書物を読む計画があるから勉強する気ならと誘はれて、毎週二回くらいづゝ其処に通ふ事になつたのであつた。Y氏は、その書物を手に入れる事がむづかしい為めに、毎週読む筈の幾ページかの部分をわざ〳〵タイプライタアで写さして送つて寄こした。とし子は、その親切を、本当に、心から感謝しながら、少しでも、さうした勉強の機会を外づさないやうに心懸けてゐた。
けれど、とし子が家の外に仕事を持つことになつたのは、家族の人には、大変な迷惑でも振りかゝつたやうに感ぜられた。この頃になつて、子供は前より手がかゝる位であつたけれど、それには、W夫婦と云ふ人達が親切に大抵毎日来ては面倒を見てくれた。汚れたものゝ洗濯、掃除、さう云ふことにまで働いてくれた。妹などには別に何一つ重い負担がふえる訳でもなかつた。それでも此度は、さう云ふ人達に、よけいな手伝ひをさせて、毎日のやうに出入させる事に対して、いろ〳〵な批難が矢はり、とし子の仕事の上に降りかゝつて来た。ことに書物をよみに他所まで出かけてゆくなどゝ、家持ち子持ちのする事ではないと云ふ激しい反感が切りに起された。とし子はもう、そんな事に対しては一切無関心な態度でゐるより他に仕方はないと思つた。
其の夜のとし子の悩みは、矢張りそれに関連したことだつた。母親は例のとほりに、子供を持つた女が、始終出歩くことの不可をしきりに云つた。そしてだん〳〵に、家の中のきまりのつかないことをならべたてゝゐるうちに、とうとう総てが男の怠惰が原因だと云ふ処まで押して行つた。母親に、露骨に云はせれば、彼が遊んでゐる為めに、主人としての男の権威が踏みつけにされるのだと云ふのであつた。そして、男が踏みつけられてゐる為めに、自分までが、とし子自身がさうした我まゝをしたい為めに、総ての家の外の事までを自分で背負つてゐるのだと云ふ事にもなつた。ふたりは其の夜さん〴〵に母親の為めに愚痴を云はれ、口ぎたなく罵られた。そして母親の云ふ処は、せんじつめれば、彼女を家庭の内にとぢ込めて、彼女の仕事をうちの中だけの事にして、自分の手ごろに合ふやうな嫁にするやうに、それは早く何かの職業につくやうにと云ふ息子への注文であつた。けれども、ふだん思つてゐること、不平に耐えないことを、何も彼も、順序なしに、一度に出して仕舞はうとするので、滅茶々々なものになつてしまつた。
とし子はそれを黙つて聞いてゐた。彼女は母親の気持には理解も同情も出来た。如何に口汚く罵られても、いやみを云はれても、別に腹立たしい気は起らなかつた。しかし、どうしてもこの家族の人達と一緒に生活することは我慢がならないと云ふ事だけは不断よりも一層強く感じられた。例へ男に何かの収入の道がついたとしても、彼女は決して母親の希ふやうな、嫁になりおほせる事が出来ない事を思ふ程、さうして、母親が必然に自分の思ふ通りになるものと極めてゐる気持を考へれば考へる程、これから先きの長い双方の暗闘が、とし子の心を暗くするのであつた。
とし子は坐つてゐればゐるで、何時までも、一つ事を繰り返されるのがいやなのと、丁度Y氏の処にゆく晩なので、子供のことを頼むのも面倒と思つて、子供を背負ふて家を出たのであつた。途に母親の言葉を思ひ出すと今度はその無反省な、虫のいゝ、または悪感にみちた母親の云ひ分に対して、先刻その前でしたやうな冷静な気持での同情などは出来なかつた。不断忍んでゐる多くの不快が、一時に雲のやうに簇々と頭をもたげ出して、その一つが、彼女のそれに対する憎悪をそゝるやうに、明瞭に思ひ出させるのであつた。そして、自制を失つた感情は一斉にその記憶によびさまされて躍り上つて来るのであつた。さうなると、とし子はもう家族の人々に対して、何とも云へない憎悪を感ずるのであつた。どうしていゝか分らないやうな、ふだん抑へてゐるすべての感情の為めに、一時に苛まれた。
しかし、やがて、その感情が引いてしまふと、後はどうする事も出来ない事実に対する深い悩みと、それに対する底しれぬ哀しみが残るだけであつた。
男と別れさへすれば、それ等との関係は片づいて仕舞ふ。本当に、何の雑作もなく片附いてしまふ。それは分り切つてゐる。けれど今、あの男と別れる事が出来やうか? あの男に対しては愛もある、尊敬も持つてゐる。そして、今あの家を自分が出れば困るのは男ばかりだ。自分が、少々不実な女と見られる位は仕方がない。けれど、あの男を、自分のやうなものにだまされる、馬鹿な、ウスノロな男だとあの母親の口から罵らせる事は辛らい。けれど、それもまんざら忍べない事はない。前にはさう決心した事もあつた。けれど今は子供がゐる。子供がゐる。これをどうすればいゝのだらう? あゝ、矢張り、子供の為に出来る丈けの事は忍ばなければならないのだらうか? 前には、意久地のない事だと思ひもし、云ひもした、その子供の為めと云ふ口実を、自分も口にせねばならないのだらうか? 仕方がない、仕方がない。とし子は一生懸命に目を瞑らうとした。その下から直ぐ、深い悔恨が湧き上る。不用意に、かうした家庭生活に引きづり込まれた自分の不覚が恨まれる。思ふまいとしても、自分の若さが惜しまれる。自由な自分ひとりの意志で自分を活かしたいばかりに、何時も争ひを続けながら、直ぐまた次のものに囚はれる自分の腑甲斐なさがはがゆい。どうすればいゝ自分なのだらう? あゝ! 本当に、何物も顧慮せずに活きたい。たゞそれ丈けの望みが何故に果せないのだらう?
多くの気まづさと、冷たい反目が待つてゐる家! もう帰るまいか、逃げて仕舞はうかと思つた家! 其処に向つてかへりながら、とし子は、ぢつと思ひふけつてゐたのであつた。
五
頭の上には、真青な木の葉が茂り合つて、真夏の焼けるやうな太陽の光りを遮ぎつてゐた。三四間前の草原には、丈の低い樫の若木や栗の木が生えてゐるばかりで、日蔭げをつくる程の木さへなく、他よりずつと高くのびた草の、深々とした真青な茂みの上を遠慮なく熱い陽が照つて、草の葉がそよぐ度びによく光る。とし子は、森の奥から吹いて来る冷たい風を後ろに受けながら、坐つて、草の葉の照りをうつむいた額ぎわに受けながら、ぢつと書物の上に目を伏せてゐた。それは、
『伝道は、或る人の想像するやうに、「商売」ではない。何故なら、何人でも奴隷の勤勉を以て働らき、乞食の名誉を以て死ぬかも知れないやうな「商売」には従事しないだらう。かくの如き職業に従事する人々の動機は、ありふれた商売とは違つてゐなければならない。誇示よりは深く――利害よりは強く――。』
と云ふ言葉を冒頭においた、エンマ・ゴルドマンの伝記であつた。とし子は、その筆者の調子のいゝ然し熱情のこもつた文章にひかれて熱心によみ進んでゆく。それは主に、一女工として移住して来た若いエンマ・ゴルドマンが、知名な無政府主義者としてアメリカの公生活中に異彩を放つやうになつた今日までの、多くの障礙と困難に戦つた目ざましい彼女の半生が描いてあつた。
其処には、悉ゆる権力の不正な圧迫が如何に彼女を殺さうとしたかゞ、また、理解を遮ぎられた彼女の仲間でさへもが如何に彼女の霊魂をかきむしつたかゞ明白に描かれてあつた。そして、彼女はそれ等の凡てに打ち克ち、知名の伝道者として、何処までもその不屈の精神と絶倫の精力と多くの人の持つことの出来ない勇気をもつて、絶えず困難な彼女の仕事を続けてゐるのだ。とし子は、その彼女の如何なる困難に出遇つても屈する事を知らぬ強い精神に、その困難に出遇ふ程燃えさかる真実に対する愛の情熱に心を引かれるのであつた。同時にまた、彼女を迫害する諸権力の陋劣な手段も悪まずにはゐられなかつた。更に、深い理解と友情の必要な場合程、俗衆と同じ見地にまで成り下る暗愚な仲間に対する侮蔑を禁ずる事が出来なかつた。
『革命思想の代表者は二つの火の間に立つ。一方に於いて社会状態から生ずる悉ゆる行動に対して彼に責を負はす現在権力の迫害。他方に於ては、狭い見地から屡々彼のあらゆる活動を判断する、彼自身のもとにある同主義者の理解の欠乏。斯くして主動者は、屡々彼を囲繞する群集の中に、まつたく孤立する。彼の最も親しい友人すら、如何に彼が孤独寂寞を感じてゐるかを理解するものは稀れだ。それが公衆の眼に顕著な人の悲劇である。』
筆者も彼女の、半生の苦悩を描く前にまづさう書いてゐる。とし子は、さうした一句々々にも強い同感を強ひられるのであつた。
彼女は一八六九年にロシアのコブノ地方で生れ、七歳までカランドのある土地で育つた。両親とも猶太人で、父は其処で官吏をつとめてゐた。七歳から十三歳までは東プロシアのケニヒスベルグの祖母の許で育つた。その当時の小さなエンマはまつたくドイツの雰囲気になづんでゐた。彼女の好んで読んだものはマルリツトのセンテイメンタルロオマンスであつた。又彼のルイ女王の非常な称讃者であつた。しかしやがて、彼女の重要な最初の一転機が来た。一八八二年に、彼女の両親は彼女を伴ふて、セント・ペテルスブルグに移つた。其処でエンマは全く違つた世界を発見した。
当時のロシアは、国中に大きなあらしが吹きまくつてゐた。専制政治と智識階級の間の死物狂ひの闘争が国中に漲つてゐた。一八八一年にはアレキサンダア二世が斃された。さうして、彼女がペテルスブルグに到着した八二年には、その暴君の死刑を執行したソフイア・ペロヴスカヤ、ゼリアボフ、グリネヴイツキイ、リサコフ、ミカイロフ、その他の勇敢な人々は既に不死のワルハラに、はいつてゐた。世界はかつてまだこのやうな、自由の為めの戦ひを見たことはなかつた。虚無党殉教者の名が万人の唇に上つた。そして、幾千の若い追随者がその戦ひの中に飛び込んで行つた。革命的感情が、全露西亜の悉ゆる階級に滲透した。露西亜語の研究につれて、若いエンマもまた革命思想の伝道者とその新思想に接近した。マルリツトの位置は忽ちにネクラソフやチエルニシエフスキイによつて奪はれた。そして彼女は自由の為めの戦ひに一生を捧げやうと決心する程の、炎ゆるやうな熱心家になつた。
然し保守的な両親には、この新思想は理解する事が出来なかつた。魂をかきむしるやうな家庭内の争ひが続けられた。そして彼女はとう〳〵彼女自身で生活の途を立てやうと決心した。そうして他の多くの人々が、『人民の中に』這入つた例にならつて、彼女も或るコルセツト製造の工場の女工として這入つた。若しも彼女が、そのまゝさうしてロシアに止まつてゐたら、他の人々と同じく早晩、シベリアの雪中にうづめられて仕舞ふのであつたかもしれない。然し彼女の為めに、更に、新しい局面が展かれた。彼女が十七歳になつたとき、姉のヘレンと共に、大きな、自由の国、新らしい光明の世界の、アメリカを慕つてロシアを後ろにした。
しかし、アメリカに対する理想的概念は、直ぐに破られた。ザアもゐずコサツクもゐず、チノヴニクもゐない、共和国、自由平等の国では、一人のザアの代りにその数人を発見した。コサツクは重い棍棒を持つた巡査に代り、チノヴニクの代りにもつと苛酷な工場奴隷使役者がゐた。さうして、彼女はロシアのそれよりもずつと、組織立つた、不自由な、些の慰藉もない苛酷な工場に仕事を見つけた。彼女はまるで、牢獄に等しいその工場生活に、その暗い冷たい雰囲気に窒息しさうになつた。しかし、彼女の為めに更に重要な場面が、それからそれへと展けてゆく。
若いエンマの前に展かれる、彼女を一層正しい処に導いてゆく多くの社会的事実が、更に深くとし子の心を捉へた。一八八〇年代のロシア、その頃の革命運動については一エピソオドでも、のがさずに知りたいとおもふ程、とし子はそれ等の話にふれると興味をそゝられるのであつた。エンマは、その運動を目撃し、そして直接にその洗礼を受けた。その上に、更に彼女を自覚した伝道者につくり上げる多くの都合のいゝ局面が彼女の前に展開されるのだ。とし子はその若いゴルドマンと、彼女をとりまく周囲に、その周囲の生きた事実に導かれるゴルドマンが、心から羨ましいやうな気持で、読み進んで行つた。悉ての事実が、それを読む丈けのとし子を興奮さす程にも、ゴルドマンにとつては、都合のいゝ、試錬であつた。
六
エンマ・ゴルドマンが、セント・ペテルスブルグで洗礼を受けた一八八〇年代の革命運動に従事した人々は、その当時、西欧羅巴やアメリカに起りつゝあつた社会的観念に対する知識は、殆んどなかつた。その人達の最終目的は、専制政治の破壊で、その手段は人民の教育であつた。その人達には社会主義や無政府主義の名さへも知られてはゐなかつた。
ゴルドマンがアメリカについた時には、丁度、彼女がペテルスブルグに着いた時とおなじような社会的政治擾乱の時代であつた。労働者はその労働状態に反抗した。同盟罷業者と巡査の間の闘争の轟きが国中に反響した。そして、その闘争の極点が、シカゴのハアヴスタア会社に対する大同盟罷業となり、罷業者の虐殺となり、労働者の首領等の死刑執行となつた。しかし、何人も此等の事件の真相を知らうとはしなかつた。
『アメリカの大抵の労働者のやうに、エンマ・ゴルドマンも非常な興奮と心配をもつてシカゴ事件を注目した。彼女もまた、平民の首領等が殺されようとは信ずる事が出来なかつた。一八八七年十一月十一日は彼女に全く違つた事を教へた。彼女は、権力階級からは何等の慈悲をも期待する事が出来ず、ロシアのザリズムとアメリカの資本家政治との間には名義以外に何等の差異もない事を是認した。彼女の全身はその罪悪に激昂した。そして彼女は、彼身に厳粛な誓をたてゝ、革命的平民階級に結びつき、賃銀奴隷状態から彼れ等を解放する為めに、全身全霊を捧げようと決心した。』
彼女は非常な熱心をもつて、社会主義無政府主義の文学に親しみはじめ、同じ主義の傾向をもつた労働者と懇意になつた。そしてやがて、ジヨン・モストの『自由』によつて、無政府主義者としての自覚を得、更にアメリカの最上知力者によつて、無政府主義の思想を学びはじめた。
それから、彼女が無政府主義者の集会の演壇に立つようになり、演説者としての伎倆を認められるやうになつたのは直ぐであつた。病気で一たん、ロチエスタアの姉の処に帰つたエンマがニユウヨオクに出たのは、彼女が二十歳の時であつた。そして左程の困難なしに、ジヨン・モストと親しくなつた。更に彼女にとつて一層重要な役割をもつたアレキサンダア・ベルクマンとの親交も此の時に初まつた。さうして、それ等の人々と一緒に彼女はその火のような熱誠と雄弁をもつて、一方に絶えず労働しながら煽動者として活躍した。また一方にはロシア革命の亡命家等と親しくなり、その人々が彼女に与へた霊感も小さいものではなかつた。ロバアト・ライツエルに会つたのも此の時分で、彼によつてエンマは近代文学の第一流の著者に親しんだ。
彼女の全身全霊を挙げての火のやうな主義に対する熱誠は、休息といふ事を知らなかつた。幾許もなく、知名な無政府主義者として目ざましい活動を始めた彼女の上には、いろ〳〵な迫害が来た。彼女は勇敢に大胆に戦つた。彼女の熱心と勇気と精力とは何物をも恐れなかつた。しかし、やがて恐るべき試練の時が来た。
一八九二年に、大同盟罷業がピツパアグに勃発した。ホームステツドの闘争、ピンカアトンの敗北、そして国民軍の出動によつて散々に蹂み躙られた労働者の様子に心の底まで動かされたアレキサンダア・ベルクマンは彼れの生命を賭して、実行的無政府主義者が労働者と如何に密接な行動をとつてゐるかと云ふ実物教示を、アメリカの賃銀奴隷に見せようと決心した。彼はピツパアグの労働者の敵たるフリツクを斃さうとした。が、それは失敗に終つて、二十二歳の彼れは二十二年の処刑を申渡された。
エンマ・ゴルドマンが此の事件によつて受けた迫害は非常なものであつた。九年後にレオン・ツオルゴオズが大統領マツキンレイを暗殺した時に受けた迫害と共に、それは彼女の霊魂を引つかきむしつた。資本家の新聞雑誌の陋劣な讒誣虚報や、警察官等の法外な迫害は左程彼女を傷めはしなかつた。しかし、自分達の仲間からの攻撃は彼女にとつて堪えがたいものであつた。誰れも、殆んどベルクマンの行為に理解を持たなかつた。その理解を妨げる程同主義者に対する迫害が、ひどかつたのだ。そして同志の、公私の集会でひどい責罪と攻撃が続いた。彼女はベルクマンと彼の行為を弁護し、革命的の行動をとつたと云ふので悉ゆる方面から迫害された。彼女は寝る場所さへも失くして公園で夜をあかすことをさへ忍ばねばならなかつた。彼女やベルクマンと一緒にゐた青年は、此の状態に堪え得ず自殺を企てた程であつた。
マツキンレイ暗殺事件から受けた迫害も同一のものであつた。それはベルクマン事件よりは更に苛酷なものであつた。その事件に対する彼女の説明は一層迫害の度を増さしめたのみであつた。彼女は実際野獣のように到る処で逐はれた。さうした社会の迫害と同志の無理解は彼女の伝道を妨げた程であつた。
しかしそれ等の迫害に打ち克つて、彼女は間断なく運動を続けて来た。どんな迫害も彼女の進む道を防ぎ止める事は出来なかつた。むしろ困難に出遇ふ程、彼女の情熱は炎え上る。よしベルクマン事件ツオルゴオズ事件の後のように一時隠退を余儀なくされるような場合があつても、彼女は決してそれ等の時間を無為には過さない。それ等の時は彼女の貴い知的修養の時間であり、再び闘場に帰るべき準備の時である。
かうして彼女は廿数年以上も主義の為めに戦ひ続けてゐる。今では彼女はアメリカの社会的、政治的生活の強力な要素となつてゐる。そして悉ゆる不法な迫害を受けた彼女の真実が知識階級から一般人へと、だん〳〵に認められて来た。
七
多くの人間の利己的な心から、全く見棄てられた大事な『ジヤステイス』を拾ひ上げる事が現在の社会制度に対してどれ程の反逆を意味するかと云ふ事はとし子も前から、いくらか理解はしてゐた。けれど、さう云ふ社会的事実に対しては殊にうといとし子には、一人の煽動者に対して、大共和国の政府がとつたあらゆる無恥な卑劣な迫害手段は不思議な程であつた。始めて知り得たそれ等の事実に対して、とし子は彼の数多の人々をシベリアの雪に埋めた旧ロシアの専制政治に対してよりも、もつと違つた、心からの憎悪を感じないではゐられなかつた。
しかし、それよりも更に一層強くとし子の心を引きつけたものは、何よりもゴルドマン其人の勇気であつた。燃ゆる情熱であつた。何物にも顧慮せずに自己の所信に向つて進む彼女の自由な態度であつた。読み進んでゆく一頁毎に、彼女の立派な態度は、敵の陋劣な手段と対して、どんなに、とし子の眼には輝やかしく映つたらう? とし子は静かに自分達の周囲をふり返つて見た。
此処でも、凡ての『ジヤステイス』は見返りもされなくなつてゐた。悉ての者は数百年も、もつと前からもの伝習と迷信に泥んだ虚偽の生活の中に深く眠つてゐた。偶々少数の社会主義者達が運動に従事しようとしても、芽ばえに等しい勢力ではどうする事も出来ない。束縛のむすび目の僅かなゆるみをねらつて婦人の自覚を主張し出した自分達にしても、何一つ満足な事は出来ない。そして必ず現はれなければならない新旧思想の衝突が本当に著しい社会的事実となつて現はれる事すら、まだよほどの時をおかなくてはならないのではあるまいか、とさへ考へさゝれるのであつた。
とし子はそんな事を考へながらも、すばらしいゴルドマンの生活に対して、自分達の生活の見すぼらしさをおもはずにはゐられなかつた。
『生き甲斐のある生き方』は、とし子が自分の『生』に対する一番大事な願望だつた。何物にも煩はされず、偉きく、強く生きたいと云ふ事は、常に彼女の頭を去らぬ唯一の願ひであつた。その理想の生活が、ゴルドマンによつてどんなに強くはつきりと示された事であらう?
本当に、それ程の『生き甲斐』を得る為めになら、『乞食の名誉』もどんなに尊いものだか知れない。その『名誉』の為めなら、奴隷の勤勉も何んで惜しまう?
だが一体、何時になつたら日本にもさう云ふ時が見舞つてくれるのだらう? さう考へると、とし子は急につまらない気がした。さうして染々と、人間の個々の生活の間に横はる懸隔を思はずにはゐられなかつた。
とし子達が、その機関誌『S』を中心としてつくつてゐる一つのサアクルは、在来の日本婦人の美しい伝習を破るものとして、世間からは批難攻撃の的になつてゐた。みんなはムキになつてその批難と争つた。けれどそれがどれ程のものであつたらう? たゞみんなその『S』誌上に僅かな主張を部分的に発表するのが仕事の全部であつた。集つて話すことも、自分達の小さな生活の小さな出来事に限られてゐた。そして、みんなが与へられたものを着、与へられた物を食べ、与へられた室に住んで、小さな自己完成を計つてゐた。実際に社会的生活にふれてゐるものは殆んどなかつた。『S』誌に向つての攻撃の一つは、物好きなお嬢様の道楽だと云ふのであつた。実際さう見られても仕方のない程、みんなの生活は小さかつた。皆んなが自分達の生活の弱点に気がねをしながら婦人の自覚を説いた。けれどそれは決して道楽ではなかつた。皆んな一生懸命だつた。けれど、まだ自分達の力をあやぶんでゐる皆は、本当に向ふ見ずに種々な社会的事実にブツかるのが恐いのだつた。然し彼女等の極力排している因習のどの一つでも、現在の社会制度を無視して残りなく根こそぎにする事が出来るであらうかと云ふ事になれば、どうしても『否』と答へるより他はなかつた。けれど、その点には出来るだけ触れたくもないし、触れずにゐればそれで済ましてもゐられるのが、皆んなの実際であつた。
けれど、とし子だけは、そのサアクルの中でも、ちがつた境遇にゐた。彼女は一たんは自分から進んで因習的な束縛を破つて出たけれど、何時か再び自ら他人の家庭にはいつて、因習の中に生活しなければならぬようになつてゐた。彼女は其の最初の束縛から逃がれた時の苦痛を思ひ出す程、其の苦痛を忍んでもまだ自分の生活の隅々までも自分のものにする事の出来ないのが情なかつた。彼女はたゞそれを、自身の中に深くひそんでゐる同じ伝習の力のせいだとおもつてゐた。さうして彼女はそれを理知的な修養の力によつて除くより他はないとおもつてゐた。しかし、彼女の生活は、他の友達よりは、他人との交渉がずつと複雑にされなければならなかつた。そして其の他人の意志や感情の陰には、到底、彼女の小さな自覚のみでは立ち向ふことの出来ない、社会と云ふ大きな背景が厳然と控えてゐた。彼女は、それを思ふと、どうする事も出来ないやうな絶望に襲はれるのであつた。自分ひとりが少々反抗して見たところで、あの大きな社会と云ふものがどうならう? と思つた。けれど、と云つて、自分の握つてゐる『ジヤステイス』を捨てる訳にはゆかない。『要するに、皆んなが自覚しなければ駄目なのだ』さう思ひながら熱心に、矢張り自己完成を念じてゐた。けれど、いつかは一度は立ち直つて、その大きな力にぶつかる時があるにちがひないとは其の度びにひそかに考へてゐた。
けれども今、とし子に示されたゴルドマンの態度はまるで違つてゐた。彼女は社会の組織的罪悪を、その虚偽を、見のがす事が出来なかつた。彼女はその人間の心をたわめ、冷くする社会組織に対して激昂した。そしてその虚偽や罪悪に対する憎しみの心を、其のまゝそれにぶつかつて行つた。本当に何物も顧慮する隙を持たなかつた。たゞ、正しい自己の心を活かす為めに、多くの虐げられたものゝ為めに、全身全霊を挙げて其の虚偽に、罪悪に、ぶつかつて行つた。其処に彼女の全生命が火となつて、何物をも焼きつくさねばおかぬ熱をもつて炎え上つてゐるのだ。とし子の頭はそれを思ふとクラ〳〵した。今にも何か自分もさうした緊張した生活の中に悉てを投げ棄てゝ飛び込んで行きたいような気持に逐はれて、ぢつとしてはゐられないような気がするのだつた。
彼女が、そんな回顧に耽りながら、沈み切つた顔をうつむけて家に帰りついた時には、雪はもう真白にすべてのものを包んでしまつてゐた。
子供を床の中に入れると、そのまゝ自分も枕についたが、眼は、どうしても慰さめ切れぬ心の悩みと共に、何時までも悲しく見開いてゐた。電燈の灯のひそやかな色を見つめながら果てしもなく、一年前にゴルドマンの伝を読んで受けた時の感激を、まざ〳〵と思ひ浮べて考へつゞけてゐた。
それは、最近に彼女の心の悩みが濃くなつてからは、殊に屡々頭をもたげて彼女を憂欝にするのであつた。そして、一年前よりは一層複雑になつた現在の境遇に省みて、諦めようと努める程、だんだんに其の感激に対する憧憬が深くなつてゆくのが、自分にもハツキリと意識されるのであつた。
[『乞食の名誉』聚英閣、一九二〇年五月二八日] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第一巻 創作」學藝書林
2000(平成12)年3月15日初版発行
底本の親本:「乞食の名誉」聚英閣
1920(大正9)年5月28日
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:Juki
2013年5月11日作成
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細々した日々の感想を洩れなく書きつけて見たらばと思ふが、まだなか〳〵さうは行かないものである。
最近の私の感じた事と云へば、「エゴ」の中の「家出の前後」と題する千家元麿氏の脚本である。私は前からあのグループの人達の書くものには可なりな興味をもつて注意してゐた。そして彼の人たちに対する他の人たちの態度をぢつと見てゐた。併し何時迄たつても一人として彼の人たちに目を向けやうとする人はなかつた。今も矢張りない。そして私も黙つてゐた。私はけれどこの上黙つてゐやうとは思はない、私は世間に沢山ころがつてゐる具眼者とか批評家が何の為めに、存在するか分らなくなつてしまつた。私は寧ろ腹立たしい。併しそれ等の批評家が芸術的気分がどうだとか或は技巧だとか云つてゐるのを聞くと情なくなる。何がわかるものかと思ふ。私はそれらの技巧や気分など云ふものが真実とか力強い情熱の前に如何に小さく価値のないものに見えるかと云ふことを一層この脚本に依つてたしかめ得た。
私はその内容だとかそれから人物だとか云ふそんな批評は此処に試みたくはない。それよりも私は先づそれを読んで下さい、と皆にたのみたい。恐らくは、そんな雑誌の存在をさへ知らない人が多いだらうと思ふ。是非よんで頂きたい、屹度々々それを読んだ人たちはあの物ぐるほしい程に充実しきつた真実、力強い熱と呼吸の渦巻の中に巻き込まれないではゐないだらう。
○
九月号には婦人参政権運動について何か一寸かいて見たいと思つてゐる。それについてこの間「婦人評論」に掲げられた黒岩氏の「英国選挙婦人に同情す」と云ふ論文を読んで見た。一応の理屈は私たちも同感である。併しまだ〳〵黒岩氏は本当に衷心から婦人に理解や同情を持つてゐられるとは私にはどうしても信じられない。あの論文をとほしてさへ陋劣な態度がすかし眺められる。黒岩氏の婦人に対する態度はまだ本当のものではない。まだ腰のすはり処がちがつてゐる。私は今此処に生憎その雑誌がないので具体的な例を挙げて云ふことは一寸出来ないが黒岩氏はまだ頑として男尊女卑の信条にかぢりついてゐられるのがはつきりわかつてゐる。もしあの問題が外国といふ対岸の出来ごとでなく自国のことゝなつたら恐らく黒岩氏は私刑を絶叫されるであらうと思はれる。局外者だから根拠は単純でも貧弱でも兎に角婦人側に同情が出来たのだ。若しその渦中に投じたら屹度あの根本にひそんでゐるものが頭を出すにきまつてゐる。若しも同氏が腹のどん底から婦人側に対して充分な尊敬と同情とを寄せ得らるゝならば何故また私たち日本婦人としての一番手近かな痛切な問題に対して考へてゐる者に向つて理解を有せられないのだらう。私たちはまだそれを他人にまで強ひてやしない。たゞ自分の問題として考へつゝあるのだ。何等運動の形に於ても現はれてはゐない。それに対してさへも世間一般の有象無象の何の根拠もない「うわさばなし」に乗せられて妙な見当ちがいなことばかり云つてゐる人たちに何で本当の理解が出来やう。それは丁度意地の悪い姑が他家の姑の嫁いびりの話を聞いて其嫁に同情するものと何の違ひもない。私たちには寧ろ滑稽にしか見えない。英国婦人連はそんな人達に同情されるのを本当によろこぶかどうか。猶なほ同氏のその論文についてはもつと具体的に書いて見たいと思つてゐる。
[『青鞜』第四巻第八号、一九一四年八月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第四巻第八号」
1914(大正3)年8月号
初出:「青鞜 第四巻第八号」
1914(大正3)年8月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:きゅうり
2019年3月29日作成
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"作品ID": "056989",
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"初出": "「青鞜 第四巻第八号」1914(大正3)年8月号",
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どんな性格の男に敬愛を捧げるかと云ふ問に対して理想を云へば、何れ鐘太鼓でさがしても、見つからぬやうなせひぜひ虫のいゝ事を並べても見られませうが、先づ手つ取り早く彼のやうな男がと云ふやうなのを云へば、これも実在の男ではありませんが、アルツバシエエフによつて描かれた、サニンが好きです。何物にも脅やかされず、どんな場合にも、大手を拡げて思ひのまゝに振舞ふ。一寸誰にも真似の出来ない超越した態度が好きです。しかもどんな好き勝手なまねをしても、少しの無駄も、誤魔化しもなく楽々と勝手を通して行く処に、本当に力強い魅力を感じます。殊に彼が、サルウヂンと云ふ士官に決闘を申込まれて平気でそれを拒絶し、猶それによつて侮辱の言葉に耳も貸さないで済まして居たり、それから公園の散歩道で、サルウヂンのムチが持ち出されるよりも早く、彼を只だ一撃になぐり倒す油断のない機敏さや、猶その場での、他の人達の顛倒とは全るで反対に、何にもなかつたやうな平静と、その事件によつて起つた二つの自殺――しかも、一は彼の冷酷に近い答へがその致命傷となつた事が明白に知れて居り、他もまた彼の一撃がその決心に導いた事が解つて居ながら、何の揺ぎをも見せない無関心な態度、若い理想主義者の死に対して、何の躊躇もなしに、その葬式に際して『世間から馬鹿が一人減つたのだ』と平気で云つて退ける彼が、私には少しのわざとらしさも嫌味もなく受け入れられるのです。サニンのやうな男なら、一つの命を二つ投げ出しても尊敬を捧げて見たいとおもひます。
体は出来る丈け男らしい肩と胸を持つた人が好きです。しかし、会つた最初にさうした肉体的な印象や圧迫を先きに、与へるやうなのは嫌です。
顔には随分好き嫌ひがありますが、先づ最初に、顔について、私の嫌ひな条件を云へば、あんまりテカ〳〵と血色のいゝのは何となく俗物らしい感がして嫌です。中年以上の男では猶一層のことで、殊にデコボコの多い膏ぎつてブヨブヨした感じのするのなどは見るのもいやです。それから髯のないのも嫌ひです。顔の半分が髯と云つたやうなのも考へものですけれど、ちつともないのなんか本当にいやです。それから変にのつぺりした綺麗な所謂美男子は嫌ひです。男のくせに――女だつてさうですが――自分の顔に自信をもつてゐるのなんか到底我慢の出来ないものです。しかし、顔は、造作で大ざつぱに好き嫌ひは云へないもので大抵、表情で極まるものだとおもひます。私はひげのない顔は嫌やだとたつた今書きましたけれど、好きな顔があります。音楽家の澤田柳吉氏の顔がさうです。彼の人のあの蒼白い顔色とこめかみのあたりから頬にかけての神経的な線は、他の誰にも見出せないやうな特別な魅力をもつてゐます。それから寄席芸人の猫八、あの男のたゞの時はそれ程何も感心する顔ではありませんが、彼が真剣に虫の鳴声や鳥の声をまねてゐる時は、本当にしつかりしたすきのない、いゝ顔を見せます。髯のない嫌な顔では先づ与謝野鉄幹氏。あれでも詩人なのかと思ふやうな顔だと私は思ひます。関西の方の商家の店に座つてゐる男によくあのタイプを見ます。それから役者の吉右衛門の顔。素顔よりも舞台に出ると細い少しつり上つた眼尻から、高いコツコツの頬骨のあたり、何時もかたく結んだ唇のあたり、何を演つてゐても如何にも小心な他人の気持ばかりを覗つてゐるやうな佞奸邪智と云つた感じを強く与へます。顔のすき嫌ひに就いては、もつと、本物を捕へて書いて見たいのですが、紙数が足りませんし、いろいろまた、さし障りが出来ても困りますからこの位にしておきます。
最後に男性の嫌ひな欠点を云へとの事ですが、これはもう云つてゐれば際限がありません。阿呆、ぐず、のろま、意久地なしは云ふに及ばず、気取り屋、おしやべり、臆病、卑怯、未練、ケチンボ、コセツキ屋、悧巧者、ひとりよがり、逆上家、やきもち屋、愚痴こぼし、お世辞屋、偽善者、偽悪者、影弁慶。大分ゴタついて来ましたからもう此処らで止めませう。何しろ悪口ならいくらでも云へさうですが、後が恐いものですから。
[『中外』第一巻第一号、一九一七年一〇月創刊号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「中外 第一巻第一号」
1917(大正6)年10月創刊号
初出:「中外 第一巻第一号」
1917(大正6)年10月創刊号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:きゅうり
2018年12月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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八重子様
本当に暫く手紙を書きませんでした。この間の御親切なお手紙にも私はまだ御返事を上げないでゐました。御病気はいかゞです。私は矢張り落ち付かない日を送つてゐます。もうすつかり新緑になりましたね、此頃は毎日染井が思ひ出されます。本当に彼処の晩春から初夏にかけての殊に夕方のよさつたらありませんね、私たちもまた、彼処へかへつてゆきたくなりました。去年の今頃は毎日のやうにあすこの垣根から声をかけてはよく立話をしましたつけね、読んだものゝ話、それから書いたものゝ話ね、興味につられて何時迄も何時迄もはなしてゐましたね、丁度あの頃あなたはあの窓の下でソニヤを一生懸命にやつてゐらしたんですわね。そして、私にいろいろな興味深い話を聞かして下さいましたのね、私たちはあの垣根越しに、他の人たちがお座敷で三年もなじんだ人よりももつと親しく気安くあんな興味のある、そして、普通の垣根ごしに話される話とはずつとちがつたはなしを随分しましたわね。
それにくらべると私のこの頃の周囲のさびしさつたらありませんのよ、不精でちつとも出かけませんので無論来て下さる方もないしそれにお友達をそんなに沢山もちませんので時々聞いて頂きたいやうな話があるときはさびしくなります。私のお友達つたら、まあ、あなた、平塚さん、哥津ちやん、位なものでせう、話したいと思つたときに聞いて貰へる人があれば本当にいゝと思ひますわ、Tが大抵の話は聞いてくれますし、解つてもくれますからそれでどんなに助かるかしれませんけれども或る特異な事になると一向男の興味が向かないことがよくあります。私はかなりおもしろいと思つて熱心に考へてゐても話してゐる人に興味が乗らない位おもしろくないことはありません、そんな時には、家の中に座つてゐてよんでも聞こえる位だつたあのあなたに近かつた家を思ひ出します。私の不精はだん〳〵昂じて来てこの頃でははがき一本かく事でさへおつくうなのです、ですから無論誰ともはなしもしませんし、聞きもしません、たゞ話たいこと丈けが矢鱈にあります。けれど自分のはなしたい事を話すまへにお答へしなければならないことがありましたつけね。
私はあのお手紙を拝見してどうしてそんな噂があなたのお耳に這入つたのかと思ひましたわ、そりや噂ですもの、飛でもない処にでも聞こえるのがあたりまへですけれどもね、でも私はさう考へると直ぐあとからどうしてそんなうはさが出来たかふしぎになりましたの、だつて私たちは別に何でもないのですもの、もとのまゝの二人ですもの、ちつともかはつてやしませんのよ、ですから誰がそんな途方もない事を云ひ出したのだらうと思ひましたの、でも、それも直ぐと分りましたの、あなたは噂の内容をくはしく云つて下さらないから分りませんけれど多分Nと云ふ、今は旬刊雑誌の『D』にゐる男に関係したことなのでせう。それだとわかります、本当に何時も〳〵云ふことですけれどどうしてかうありもしないことを事実にして云ひ立てるのが皆うまいのでせうね、しかもそれが一かどえらさうな顔をしてゐる人達ですからね。
私はあのNと云ふ人は大嫌ひなのです。それ丈け申あげれば私の性質を御存じのあなたはあなたのお耳に這入つた下らないうはさを立派に否定して下さると信じます。実際私はあの人の批評をよんでゐて、頭の明晰なことや観察の緻密なことには感心します。けれどもどうも何となく虫の好かない人なのです。それに、あの人は以前どんな人の作品だつて決してほめませんでしたね何かしら、けなしつけてゐたでせう、それに私に会つてから急に私を賞め出しました。続け様に賞めました。でも私は、それよりも『D』に書けとすゝめられるまゝに書く約束をして仕舞ひますと、何かにかこつけてその人が度々来るのがいやでたまらなかつた位です。全く理由もなしにいやなのです。私はその人が来さうだと思つた丈けでも気が重くなる程でした。好きだとか嫌ひだとか云ふことは実際自分ながらどうすることも出来ませんわ、向ふの人にさういふそぶりを見せることをしないやうにしやうとすればます〳〵自分が不快になるばかりですから、私はとう〳〵その人に云つてやりましたのよ、どうしてもあなたが嫌ひですつてね、するとその人はそれは自分も知つてゐるし自分のうまれつきにもよるからたゞ理解して頂きさへすればよいと云つて来ましたの、でも矢張り近かづかう近かづかうとしてゐるのが私には感じられるので随分いやでしたの、そのうちにだん〳〵不遠慮なことを書いては手紙をくれましたのよ、そして、初めとはちがつてあなたの理性によるよりも心から親しみをもつて貰ひたいなんて云ひ出して来ましたの、それから何かにつけて自分丈けしか男には理解のないやうな顔をするのでせうそれも私にはいやでしたの、そして私の家が無理解な人ばかりだから交渉のない人たちばかりだから嫌ひだとか、かなり私の家庭生活を侮辱するやうな事も書いてありました。そしてTのことなんかよくも知らないで無理解な一人にしてゐるんでせう、私は随分はらが立ちましたから思ひきつて書いたひどい手紙をやりましたの、そしたらおどろくでせうその弁解の手紙はね、まるで前の手紙とは矛盾してゐるのですもの、で私はそれつきり手紙をかきません、随分催促が来ましたけれど。何しろあの人は私の一番嫌ひな性質の人らしいのです。これ丈けは私の理解性をいくら働かしても好きにはなれさうにもありません、そんなわけですから、勿論その為めにTと私がどうとかかうとか云ふことはちつともありません。世間の人は、ちつともそんな事は考へないでたゞ賞められゝば直ぐに好意をもつたり親しくなるものと簡単にきめてゐるのですね、ですから何卒その事は御安神下さい。
それから此度は、私のおしやべりになりますが、私はこの号に出てゐる原田皐月さんのお作をよんで毎日あの中に取り扱つてある問題について考へてゐます。これは本当に真面目に考へる価値の充分にある問題だと私は思つてゐます。子供のことについては二人でずいぶんいろいろおはなしをしましたのね。
私は皐月さんの仰云るやうに親になる資格のないものが子供を生むと云ふことは、これは本当に考へものだと思ひます。併し私は資格と云ふことについては矢張り別に考へなければなるまいと思ひます。本当に深く考へれば考へる程私は未成熟のものでないかぎりまた或る欠陥を持つてゐる者とか無能力者、白痴、狂者など、或る種の疾病をもつもの以外に即ち普通の生活に堪へ得るものであつて生理的にも充分発育を遂げたものならば資格は先づあるものにちがひはないと思ひます、あなたはさうお思ひにならなくつて? 併しどうしても子供の出来ると云ふことが苦痛であつたり、恐ろしいと思ふ念を払ひ退けることが出来ない時には、その場合避妊をするもいゝでせうけれど一旦妊娠してからの堕胎と云ふことになつて来ればさうはいかないと思ひます。私はそれは非常に不自然なことだと云ふことが第一に感ぜられます。兎に角、それがどう育つてゆくか枯れるかは未知の問題ですわね。併し、生命が芽ぐまれたことは事実でせう、その一つの生命がどんな運命のもとに芽ぐまれたかどうかは本当は誰にもわかりはしませんわ、それをいろいろ自分たちの都合の為めにその『いのち』を殺すと云ふことは如何に多くの口実があらうともあまりに、自然を侮辱したものではないでせうか、『生命』と云ふものを軽視した行為ではないでせうか。
皐月さんが仰云るやうに一と月のうちにでもどの位無数の卵細胞が無駄になつてゐるかしれないうちから、その一つが生命を与へられたと云ふこと丈けでも私たちの目に見えない微妙な何物も持つてゐる与へられたこの命にまつはる運命と云ふものを思ひます。その運命がどう開けてゆくかはまへにも云ひましたやうに誰にもわからないのですものね。それを、その生命を不自然な方法で殺すと云ふことは私ならば良心のいたみを感じます、あなたはどうお思ひになつて? 皐月さんは自分の腕一本切つたのと同じだと仰云つてゐます。腕は別に、独立した生命をもちません、人間の体についてゐてはじめて価値のあるものですものね、それを切りはなしたと云つて法律の制裁をうけるやうなことはすこしもないのです。また必要もありませんわ、自分で困るのですもの、そんな馬鹿なことをする人があるでせうか、それは自分自身で仕出かしたことではありませんか、ところが腕を一本他人のを切つて御覧なさい、それこそ大変ですわ、直ぐ刑事問題になるでせう。それと同じですわ、たとへ、お腹を借りてゐたつて、別に生命をもつてゐるのですもの、未来をもつた一人の人の生命をとるのと少しもちがはないと私は思つてゐます。皐月さんはお腹の中にあるうちは自分の体の一部だと思つてゐらつしやるらしいんですけれど私は自分の身内にあるうちにでも子供はちやんと自分の『いのち』を把持して、かすかながらも不完全ながらも自分の生活をもつてゐると思ひます。其処に皐月さんの考へと私の考への相異があるのですわね。
それから、自分達の生活の窮迫と云ふこともあの問題にかゝはらしてありますわね、それは私自身にも経験のあることである丈けに非常に尤ものことに思ひました。私もあの子供が私の身内に息をしてゐるのを感ずる度びにそのことは非常な苦痛でした。あなたも御存じのやうに私たちはその時窮乏のどん底にゐました。私は子供の為めにたゞそれのみ苦にやんでゐました。けれどもTは、私が苦しがる度びに云ひました。
『こんな生活に堪へられないやうな抵抗力のない子供ならば生れて来る筈はない』と。
本当にさうだ。と私は思ひました。まだそれに満足に生れるかどうかさへ分りはしない。私たちの明日の生活さへ分らないのだもの。子供は矢張り子供自身の運命をもつて生れて来るのだ。貧乏だと云ふことが決して不幸な事ではない、こんな処へ生れて来るのも子供の運命がさうなんだ、もし子供が富有な運命をもつてゐれば生れるまでには自分たちの生活もいくらか窮乏からまぬかれるかもしれない、もしまたさう云ふ生活に堪えられないなら自然に生命が消滅するより他に道はない。すべては未知の問題なのだとさう思ひましたのよ、さうして私は平静に子供を産むことが出来ました。それから自分に子供の教育をする能力をもたないと云ふことも苦痛の一つでした。けれども私はこの頃子供の発育やそれから智慧のつき方をぢつと見てゐますと其処にも私たちの力のおよばない偉大な力を見出します。人間が人間を教育すると云ふことの到底不可能なことを染々思ひます。あなたが何時か私にお話なすつたわね、子供が食べ物でなんか育つのではないと思ふつてねえ、本当に、私は始終あのことを思ひ出してゐますわ、教育なんていくら云つてさはいだところで自然の導きを私達がどう阻みませう、綿密な注意も観察もたゞ子供自身で行ふ教養を手伝ひする位ですわ、自分の理想をえがいては、その通りにそだてやうなどゝ思ふのはもつての外のまちがひだと思ひます。人間の智慧と云ふものも私にはあまり有がたくはなくなりました。何だか話がすこし横道へはいりましたわね、兎に角、私は、皐月さんの堕胎の説には賛成することが出来ません、勿論私はこれは皐月さんの思想か或は想像の上の創作であるかは知りませんけれども兎に角あの作に現はれた思想に対してはさうです。あなたはどうお思ひになりますか、これも矢張り子供をもつたものの、子供の為めの思想だと其処らで笑はれるかもしれませんけれども私は本当に長い未来をもつ「いのち」には心から或る尊敬の念をもちます。「芽」と云つても矢張り私は同一の意味で大切にしたいと思ひます。
私は子供の事を深く考へれば考へる程どうかしたはづみに知らず〳〵子供の上にのしかかつてゆく自分が情なくなります。私は被教育者としての位置にゐたときから教育に対する沢山の不平をもつてゐました。今はまた子供の育つのをぢつと見てゐて更に深いおそろしい教育の欠陥をまざ〳〵と見せつけられます。
静かなあなたのやうな方にはそんなことがないかもしれませんけれど私のやうに感情の動揺のはげしい者には殊にかなしい情ない子供に対して申わけのない絶望の時がちよい〳〵見舞ひます。殊に、ひどくヒステリツクになつてゐる時などに、執念くまつはりついたり何事かねだつたりする時私の理性はもうすこしも動きません、狂暴なあらしのやうに、まつはりつく子供をつき倒してもあきたりないやうな事があります、けれども直ぐ私は、自分でどうすることも出来ないその、狂暴な感情のあらしがすぎると理性にさいなまれるのです。そのかなしい感情をどうすることも出来ないと云ふことが私には情なくも腹立たしくもあり絶望させられるのです。そして子供が可愛さうでたまらなくなります。子供がそれをどういふ風に感受するかと思ひますと、私は身ぶるいが出ます。けれどすぐ私はそんな時に思ひます。あゝ、私はまた間違つた教育者を衒はふとしてゐると。私のこの突発的な感情を今によく理解させさへすればいゝのだ。そのうち子供の方で理解するやうになる、と思ひ返します。自分の醜い処を覆はふとするやうな卑劣なまねは子供に見せたくないと思ひます。たゞ醜い自分の欠点に対して自覚を持つてゐないと子供に卑しまれると思ひます。何だかとりとめもないやうなことを随分書きましたがまだ〳〵書きたいことはあとから〳〵湧き出て来るやうです。
この間、ストリンドベルヒの「痴人の懺悔」を読みましたの、あんなにも私は女に対して憎悪のこみ上げて来たことはありません。前に私はストリンドベルヒのものは三つ四つ読みましたけれど私はあとで何時までも〳〵気持がわるくてたまりませんので先づきらひと云ふ観念が先きにたつて読まうとしませんでしたの、それに何時かあなたにもお話しましたわね、土曜劇場で「父親」を見てからと云ふものは一層あの人の作物がいやになりましたの、あの人のものでたつた一つ私のよんだ三四のうちで今迄さう憎悪の念をもたずによめたのは「女学生」丈けでした。処が此度「痴人の懺悔」をよみましたら、私のストリンドベルヒに対する考へ方は一変しました。私はあの人があんな女性観をもつやうになつたのに何の無理も見出せなくなりました。私は無自覚な無知な女の醜さを染々と見せつけられました。そうして、私自身の中にもさうした、無自覚な、女の習性が沢山うごめいてゐるのを否定する勇気はどうしてもありませんでした。一人の女の生活が一瞬にすぎた考へまでが真面目な最も率直な筆で隅からすみまで描き出されてゐます。さうして私はそれが決して少数に属する特異の女でなく多数を占めた普通の女でしかないと思つたときに、本当に、しみ〴〵嫌やな気持になりました。さう云ふ女が一ぱいうよ〳〵世界に充満してゐると思つて御覧なさい、本当に、たまりませんわ、けれども普通の男達には矢張りそれが左程の苦痛にはならないのでせうね、とてもあんなに辛抱づよく寛い心で女をがまんしてゐる程深い、強い愛を注ぎ得る人は一寸ありませんわね、それに少しでもいやな処が見えればすぐ左様ならにしてしまふんですものね、だから大抵の男には本当に女のねうちがわからないし、女にもわからないのですわ、男のねうちが――みんないゝかげんの処でおしまひになつてしまふんてすね、本当に、私ストリントベルヒと云ふ人を、えらいと思ひましたわ、「痴人の懺悔」は確かに誰でも一度はよんで見てもいゝ小説ですね、何と云つても真実なものには叶ひませんのね、だら〳〵しまりのないことばかり書きました、もう止めませうね、とりとめのないことばかり書きまして。
此度の編輯がすみましたらきつとお伺ひします、そのときまたいろ〳〵おはなしいたしませうね、染井の田圃でも歩きながら。(五、二五)
[『青鞜』第五巻第六号、一九一五年六月号] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「青鞜 第五巻第六号」
1915(大正4)年6月号
初出:「青鞜 第五巻第六号」
1915(大正4)年6月号
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056993",
"作品名": "私信",
"作品名読み": "ししん",
"ソート用読み": "ししん",
"副題": "――野上彌生様へ",
"副題読み": "――のがみやえさまへ",
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"初出": "「青鞜 第五巻第六号」1915(大正4)年6月号",
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まずい朝飯をすますと登志子は室に帰っていった。縁側の日あたりに美しく咲きほこっていた石楠花ももういつか見る影もなくなった。
この友達の所へ来てちょうどもう一週間は経ってしまった。いつまでもここにいる訳には行かないのだにどうしたらいいのだろう。なぜあの時すぐに博多から上りに乗ってしまわなかったろう、わずかな途中の不自由とつまらない心配のために、こんな所に来てしまって進退はきわまってしまった。打ち明けねばならないことなのだけれども、友達にもまだ話はしない。話したらまさか「そう」とすましてもいまいけれども、話すのがつらい。やさしい気持ちをもった人だけに余計話しにくい。登志子は呆然とそこの塀近く咲いている桃を眺めて、さしせまった自分の身のおき所について考えようとしていた。
「いい天気ね、今日帰ってきたら一緒にそこらを歩いて見ましょうね」
いつの間にか志保子――友達――は、質素な木綿の筒袖に袴をはきながら晴れやかな微笑を浮かべて、物思っている登志子の横顔をのぞいて、慰さめるようなものやさしい調子でこういった。彼女は四五年越し会わなかった友達の不意の訪問におどろきながらも、一通りならずよろこびながら、
「本当にうれしいわ。いつまでもいて頂戴ね、いいんでしょういくら遊んでいても、ね? いいでしょう、私ほんとにつまらないつまらないと思っていたところなんだから、どんなにうれしいか、本当にいて頂戴」
心から懐しそうな調子だった。登志子は今し方あの寒い冷たい雨の中を、方面も分らない知らぬ田舎道を人力車にゆられて、長い長い道をここまで来る間の心細さとこれから先の自分の身の上についてのさまざまな事のもつれを思って、震える悲しみをじっと噛みしめてもし友達のいない時にはどうしたらいいか、そんなことはないとは信じながらも、もしかして志保子の調子が冷淡で自分がわざわざ尋ねて行く目的を果すことができなかったらどうしたらいいかというような、すぐ目前に迫った事柄について考え考えわくわくしながらこの家をたずねあてるまでの気を想い出して、それらの一つに凍った悲しい気分が友達のその暖かい言葉やもてなしに会ってはじめて溶けて行くように思えた。そして彼女は涙をいっぱいに湛えた目で志保子の顔を見あげながら、わずかにうなずいたきりだった。
「私ねずいぶん見すぼらしいなりしているでしょう。ふだんのまんま家を逃げ出して来たのよ、すぐにね東京へ引き返して行こうと思ったんですけれど少し考えることがあってあなたの所へ来たの。長いことはないのだから置かして頂戴な」
ようやくこれだけいい出したのは冷たい床の中に二人してはいってから、よほどいろんなことを話して後だった。
「まあそう、だけどどうして黙ってなんか出てきたの、どんな事情で。さしつかえがないのなら話してね、私の所へなんかいつまでいてもいいことよ、いつまでもいらっしゃい、あなたがあきるまで――でも本当にどうして出てきたの」
「いずれ話してよ、でも今夜は御免なさいね、ずいぶん長い話なんですもの」
「そう、それじゃ今にゆっくり聞きましょう、あなたのいたいだけいらっしゃい。ほんとに心配しなくてもいいわ」
「ありがとう。安心したわ、ほんとにうれしい」
こうした会話をかわしたきりに登志子は、一週間たつ今日までそのことについては何にも話さなかった。何にもかまわずぶちまけてしまうような性質な登志子が、話しにくそうな風なのでもって志保子はよほど大事なことだろうと思って強いてそれを聞くのを急ぎもしなかった。「今に時が来たら話すだろう」と思い思い過ごした。
志保子はすぐ家の門を出ると見える所にある小学校に勤めていた。登志子は毎朝志保子を送って門まで出ては、黄色な菜の花の中を歩いていく友達の姿を見送った。そして室に帰ると手持無沙汰で考え込んではいつか昼になったことを知らされるのであった。
「今日はどうしてもすっかり話してしまおう」と思っては毎日話の順序をたてようとした。けれども苦しいその努力はいつも無駄に終ってただ、今まで自分の歩いてきた長い道程に沿って起こったさまざまな出来事や、そのうちにも今度自分がついにすべてを棄てて頑迷な周囲から逃がれるようになった動機やこの間の苦悶に思いを運ぶと、とてももう静かに頭の中で話の筋道をたてて見るなどいうことは出来なくなってしまうのであった。そして思いはただいたずらに自分が無断で出た後の家の混雑、父の当惑の様子、叔父や叔母達の散々に自分のことをいいののしる様子や、母の憂慮、そういった方にばかり走っていった。そんな時には、自分の道を自分の手で切り開いていく最初の試みをしたというような、どこか快い気持等はまるで失くなってただ暗い気持ちになって、また父の傍に泣いて帰って行こうかというような気になったり、また、いっそう深く考えを進めると、もう死を願うより他仕方がないとさえ思う日もあった。
志保子は注意ぶかく登志子の様子を観ていた。彼女は登志子が夕方など沈んだ目付をして縁側にボンヤリ立っていた夜は、きっと近所の子供を集めて騒がしたりして登志子の気持ちをまぎらすようにつとめた。しかしそういう時にかぎって彼女は、さらに、深い、いうにいえない寂しさ遣瀬なさに悩むのであった。そうしては志保子の美しい澄んだ目にはっきり浮かぶ、優しい暖かい友情にしみじみ泣いた。
どうかして志保子の帰りの遅い時には、登志子は二度も三度も門を出てはすぐそこに見える学校の屋根ばかり眺めていた。黄色な菜の花の間に長々とうねった白い道を見ていると、遠いその果もわからない道がいろいろなことを思わせて、つい涙ぐまれるのであった。前を通る人達は見なれぬ登志子の悄然と立った姿をふしぎそうにふり返って見て行く。そんな時登志子は、もう本当に遠い遠い知らない所にたった一人でつきはなされたような気がして拭いても拭いても涙が湧いてきて、立っていられなくなってくる。燈をつけても燈の色までが恐ろしく情ない色に見えた。読む書物をもって出なかったことがしきりに悔いられた。うすらかなしい燈の色を見つめながら、彼女はいつも目をぬらして友達を待った。それでもなお悲しい心細い考えが進もうとする時は、彼女はのがれる時に持って出た光郎の手紙を開いて読んでは紛らした。そうして心弱い自分の気持ちをいくらかずつ引きたてるのだった。
今朝も志保子が出て行った後で登志子は考えることより他に何にもすることがなかった。本当に、いつまでも志保子の世話になってここにいる訳にはいかない、ということが第一に毎日登志子の頭に上ってくるのだ。が今どうするにしても金の問題だ。登志子は初め帰ったとき予め自分の考えをもしかして実行する時の用意に、十円近くの金を懐にしていた。しかしその金は七十日近くブラブラしているうちに、なにかと半分以上も使ってしまった。しかもそういう予期を持ちながらいよいよ出てくるときは不用意に、フラフラと出てしまった。着更えの着物を持たず金を用意するひまもなくついと出てしまった。福岡まで出てきて、叔母の家へも友達の家へも足りない金の算段をするつもりで訪ねた。しかしとうとういい出し得ずに止めてしまった。金が出来ないといって夜になって再び家へフラリと帰りたくはない。帰って帰れないことはないが、もう一度出たものを帰る気はどうしてもない。仕方なしに三池の叔母の家まで行った。そこでもついに話し得ずに、そして家出したことが知れそうになって思案にあまってこの友達の家まで来た。手紙を出して頼んだら応じてくれる当てのある人が二三人はある。その人に相談する間も、見つけ出されて連れかえられそうな所はいやだと思って志保子をたよった。しかし一週間になるけれどもどこからも返事は来ない。たのんだ金が出来ないとしてもそのままではいられない。どうしたらいいのだろう。そう考えてくると登志子はもう今日までただイライラして、もう、どうなってもいい、なるようにしかならないのだ、いっそ堕ちられるだけどん底まで堕ちていって、この目覚めかかった自我を激しい眩惑になげ込んで生きられるだけ烈しい強い、悲痛な生き方をしてみたい。あの生命がけでその日その日を生きていく炭坑の坑夫のようなつきつめた、あの痛烈な、むき出しな、あんな生き方が自分にもできるのなら、こんなめそめそした上品ぶった狭いケチな生き方よりどのくらい気が利いているかしれない。いっそもう、親も兄妹も皆捨てた体だ、堕ちる体ならあの程度まで思いきってどん底まで堕ちてみたいというような、ピンと張った恐ろしく鳴りの高い調子な時もあるし、またもう自分の行く道は皆阻まれてしまったのだ、これから先苦しんで働いて見たところでやはり何にも大したこともできないし、自分でどうしても開かなければならないと信じてすべてのものに反抗して切開いた道の先は、まっくらで何にもない。自分を自由に扱うことのできるよろこびの快い気持に浸ったのは、このまま逃れようと決心した瞬間だけであった。今日まで一日だって明るい気持ちになったことはない。いつも忌々しいと思いながら、肉身というふしぎなきずなに締めつけられて暗い重くるしい気持ちがはなれない。自分ではいくらか上京したら光郎をたよるつもりでも、光郎の気持だってどちらを向くか分らない。考えると不安なことばかりだ。ああいやだどこか人の知らない所に行って静かな死にでものがれたい。どこへ向いて行っても行き止りは死だ。早かれ遅かれ死だもの。どうにでもなれというような気にもなった。もう毎日のことにずいぶん考えも考えたが疲れてしまった。もう何にも考えまいと思い思いやはりそれからそれへと考えは飛んで行った。
「郵便! 藤井登志という人いますか」
「ハイ」
出て見ると三通の封書を渡された。一通はN先生、一通は光郎、あとのはねずみ色の封筒に入った郵便局からのだ、あけて見ると電報為替だ。N先生から送ってくだすったもの、先生からこうしてお金を送って頂こうとは思わなかった。と思うと登志子はもう涙をいっぱい目に溜めていた。一昨日も先生の電報を見た時に、先生はこんなにまで気をつけてくださるのかと登志子はやはり涙溜めて志保子に先生のことを話した。
登志子はすぐ先生の手紙を読んだ。
「御地からの手紙を見て電報を打った。意味が通じたかどうかと思って今も案じている。金に困るのならどこからでも打電してください、少々の事は間に合わせますから。弱い心は敵である。しっかりしていらっしゃい。事情はなお恭しく聞かねばわからないがとにかく自分の真の満足を得んがために自信を貫徹することが即ち当人の生命である。生命を失ってはそれこそ人形である。信じて進むところにその人の世界が開ける。
いかなる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず
心強かれ 取り急いでこれだけ。
今家へあて出した私の手紙の最後の一通が、あなたの家出のあとに届いたであろうと思われる。たれか開封して検閲に及んだかもしれない。熱した情を吐露した文章であったから、もしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。」
先生はこんなにまで私の上に心を注いでくださるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。私は決して自棄なんかしない。勉強する、勉強する、そして私はずんずん進んでいく。こんなにぐずぐずしてはいられないと登志子はしっかり思い定めて光郎の手紙を最後にあけた。軽いあるうれしさにかすかに胸がおどる。
「オイ、どうした。俺は今やっと『S』を卒業したところだ。もうかれこれ十二時頃だと思う。明日から仕事が始まるのだから『早くねなさい』と相変らずお母さんがおっしゃってくださるのだが、こっちは相変らずの親不孝なのだから『え』とか何とかなま返事をしてまだグズグズ起きている。でこれから何かまた少しものをいって見ようと思う。
明日あたりまた手紙が来ることだろうと思うが――俺がこないだ書いた手紙はかなり向う見ずなものだったなあ、まあ、しかし俺はあんなことが平気で書けることを自分では頼もしいと思っている。俺は口に出して実はいってみたいといつでも思っているのだがなかなか口はいうことをきかなくて。三日の手紙はかなり痛快な気持ちを抱いて読み終わった。大分孤独をふりまわしたな、人間は孤独なものよ――深く突込んで思案したら、何人でも救われることのできない孤独の淋しさにおそわれるだろう。しかし世の中にはいろいろなものがあってそれを暫くでもごまかしてくれる。宗教、芸術、酒、女(女からいえば男)などがそれだ。無論各自の程度によって求むる種類と分量というようなものは異っていくだろうが、とにかくそんなものなしには一日も生きていくことはできないのだ。
血肉の親子兄弟――それがなんだ。夫婦朋友それがなんだ、たいていはみな恐ろしく離れた世界に住んでいるじゃないか、皆恐ろしい孤独に生きているじゃないか。しかしたまたまやや同じような色合の世界に住んでいる人達が会って、そうしてできるだけお互いの住んでいる世界を理解しようと務めてかなり親しい間柄を結んでいくことがある。それは実に僥倖といってもいいくらいだ。もっとも理解という意味にはいろいろある。二人が全然相互に理解するというようなことはまあまあないことだと思う。またできもしないだろう。ただ比較的の意にすぎない。
俺は筆をとるとすぐこんな理屈っぽいことをしゃべってしまうがこれも性分だから仕方ない許してもらおう。俺は汝を買い被っているかもしれないがかなり信用している。汝はあるいは俺にとって恐ろしい敵であるかもしれない。だが俺は汝のごとき敵を持つことを少しも悔いない。俺は汝を憎むほどに愛したいと思っている。甘ったるい関係などは全然造りたくないと思っている。俺は汝と痛切な相愛の生活を送ってみたいと思っている。もちろんあらゆる習俗から切り離された――否習俗をふみにじった上に建てられた生活を送ってみたいと思っている。汝にそこまでの覚悟があるかどうか。そうしてお互いの『自己』を発揮するために思い切って努力してみたい。もし不幸にして俺が弱く汝の発展を妨げるようならお前はいつでも俺を棄ててどこへでも行くがいい。
(八日)
おとといの晩は酒を飲んでいる上にかなり疲れていたものだから二三枚書くともうたまらなくなってきて倒れてしまった。昨夜も書こうと思ったのだが汝の手紙がきてからと思ってやめた。二日ばかりおくれてもやっぱり気になるのだ。今日帰ると汝の手紙が三本一緒にきていたのでやっと安心した。今夜ももう例によって十二時近いのだが俺はどうも夜おそくならないと油がのって来ないのでなにか書く時には必ず明方近くまで起きてしまう。それに近頃は日が長くなったので晩飯を食うとすぐ七時半頃になってしまう。俺は飯を食うとしばらく休んで、たいてい毎晩のように三味線を弄ぶか歌沢をうたう。あるいは尺八を吹く。それから読む。そうするとたちまち十時頃になってしまう。なにか書くのはそれからだ。今夜はこれを書き初める前に三通手紙を書かされた。俺はあえて書かされたという。Nヘ、Wへ、それからFヘ、なんぼ俺だってこの忙しいのに、そうそうあっちこっちのお相手はできない。それに無意味な言葉や甘ったるい文句なぞを並べていると、いくら俺だって馬鹿馬鹿しくって涙がこぼれて来らあ。人間という奴は勝手なものだなあ。だがそれが自然なのだ。同じ羽色の鳥は一緒に集まるのだ、それより他仕方がないのだ。だが俺等の羽の色が黒いからといって、全くの他の鳥の羽の色を黒くしなければならないという理屈はない。
(十三日)
学校へ「トシニゲタ、ホゴタノム」という電報がきたのは十日だと思う。俺はとうとうやったなと思った。しかし同時に不安の念の起きるのをどうすることもできなかった。俺は落ち付いた調子で多分東京へやってくるつもりなのでしょうといった。校長は即座に『東京へ来たらいっさいかまわないことに手筈をきめようじゃあありませんか』といかにも校長らしい口吻を洩らした。S先生は『知らん顔をしていようじゃありませんか』と俺にはよく意味の分らないことをいった。N先生は『とにかく出たら保護はしてやらねばなりますまい』といった。俺は『僕は自由行動をとります。もし藤井が僕の家へでもたよって来たとすれば僕は自分一個の判断で措置をするつもりです』とキッパリ断言した。みんなにはそれがどんなふうに聞えたか俺は解らない。女の先生達はただ呆れたというような調子でしきりに驚いていた。俺はこうまで人間の思想は違うものかとむしろ滑稽に感じたくらいだった。S先生はさすがに汝をやや解しているので同情は十分持っている。だが汝の行動に対しては全然非を鳴らしているのだ。俺はいろいろ苦しい思いを抱いて黙っていた。その日帰ると汝の手紙が来ていた。俺は遠くから客観しているのだからまだいいとして当人の身になったらさぞ辛いことだろう、苦しいことだろう、悲しいことだろうと思うと、俺はいつの間にか重い鉛に圧迫されたような気分になってきた。だが俺は痛烈な感に打たれて心はもちろん昂っていた。それにしても首尾よく逃げおうせればいいがと、また不安の念を抱かないではいられなかった。俺は翌日(即ち十二日)手紙を持って学校へ行った。もちろん知れてしまったのだから秘す必要もない。そうして手紙を見せて俺の態度を学校に明らかにするつもりだったのだ。で、俺は汝に対してはすこしすまないような気はしたが、S先生に対しても俺は心よくないことがあるのだから。
(十四日)
昨夜少し書くつもりだったのだがまた疲れが出てしまいのほうは何を書いているのだか解らなくなった。俺は意気地のないのに自分で呆れてしまった。
俺は今帰ってきた。五時頃だ。汝の手紙を読むと俺はすぐ興奮してしまった。俺はこんな手紙なぞ書くのがめんどくさくってたまらないのだ。だが別に仕方もないのだから無理に激している感情を抑えつけて書くことにしよう。話を簡単にはこぶ。
十二日、即ち汝が手紙を出した日に永田という人から極めて露骨なハガキがまいこんだ。『私妻藤井登志子』という書き出しだ。そうして多分上京したろうからもし宿所が分ったらさっそく知らしてくれ、父と警官同道の上で引きとりに行くという文句だ。さらに付加えて自分の妻は姦通した形跡があるとか同志と固く約束したらしいということが書いてあった。妻に逃げられたのだからそんなふうに考えるのは無理もない話だ。俺は汝が去年の夏結婚したという話は薄々聞いていた。しかしそれがどんな事情のもとになされたものかは俺には無論解らない。そうしてもちろん汝自身から聞いたのでないから半信半疑でいたのだ。だが俺はいろいろとできるだけ想像は廻らしていた。しかし永田という人はとにかく『私妻』とかいてきたのだから俺は形式の結婚はとにかくやったものと認めない訳にはゆかない。しかし俺は無論そんなことは眼中にはないのだ。俺はただ汝が帰国する前になぜもっと俺に向って全てを打ち明けてくれなかったのだとそれを残念に思っている。少なくとも先生へなりと話しておけば、俺等はまさか『そうか』とその話を聞きはなしにしておくような男じゃあない。それは女としてそういうことは打ち明けにくかろう。しかしそれは一時だ、汝が全てを打ち明けないのだからどうすることもできないじゃあないか。しかし問題はとにかく汝がはやく上京することだ。どうかして一時金を都合して上京した上でなくってはどうすることもできない。俺は少なくとも男だ。汝一人くらいをどうにもすることができないような意気地なしではないと思っている。そうしてもし汝の父なり警官なりもしくは夫と称する人が上京したら、逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。俺は物を秘かにすることを好まない。九日付の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠して事をするのが嫌だからだ。姦通などという馬鹿馬鹿しい誤解をまねくのが嫌だからだ。イザとなれば俺は自分の立場を放棄してもさしつかえない。俺はあくまで汝の味方になって習俗打破の仕事を続けようと思う、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。とにかく上京したらさっそく俺の所にやってこい。かまわないから、俺の家では幸にも習俗に囚われている人間は一人もいないのだから。母でも妹でもずいぶんわけはわかっている。そうして俺を深く信じているのだ。もちろん汝に対して深い同情を有している。遠慮をせずにやってくるがいい。だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱ができないと思ったら、いつでもわきに行くがいい。俺は全ての人の自由を重んずる。御勝手次第たるべしだ。それにN君も心配しているのだから、それにS先生だって汝の理解出来ないような人ではなし、なんでも永田という人のところに「あの女はとても駄目だから、あきらめたほうがいい」というような手紙を送ったそうだ。とにかく東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあそこが汝の尊いところなのだ。今に落ち付いたら詳しく出奔の情調でも味わうがいい。俺は近頃汝のために思いがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮らしている。ずいぶん単調平几な生活だからなあ。
上京したらあらいざらい真実のことを告白しろ、その上で俺は汝に対する態度をいっそう明白にするつもりだ。俺は遊んでいる心持ちをもちたくないと思っている。
なにしろ離れていたのじゃ通じないからな、出て来るにもよほど用心しないと途中でつかまるぞ、もっと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。
(十五日夜)
いろいろなすべての光景が一度になって過ぎていく。今までまるでわからなかった国の方のさわぎもいくらか分るような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんでくる。
ここから上京するまでの間に見つかるなどいうことも今まで少しも考えなかったのに、急に不安に胸を波立たせたりしながら、読み終わって登志子はしばらく呆然としていた。
「結婚した」といわれるのが登志子には涙の出るほど口惜しかった。しかしやはりしたといわれても仕方がなかった。登志子自身の気持ちではどうしても結婚したということは考えられないのだけれど――彼女はその時から今日を予想してそれが一番自分に非道な強い方をした者に対する復讐だと思った。しかし今自分の気持のどこをさがしてもしかえしをしてやっているのだというような快さはさらになくて、かえって自分が苦しんでいるように思われる。登志子は手紙を読んでしまうと、いろいろな感情が一時にかきまわされてときの声をあげて体中を荒れ狂うように思われた。だんだんそれが静まるにつれて考えは多く光郎と自分の上にうつっていった。そうして目はいつか姦通、という忌わしい字の上に落ちていった。
「本当にそうなのかしら」
考えると登志子は身ぶるいした。あの当時登志子の胸は悲憤に炎えていた。何を思うひまも行なう間もなかった。「惨酷なその強制に報いるためには?」という問題ばかりが彼女の頭の中にたった一つはっきりした、一番はっきりしたそしてその場合におけるたった一つの問題として与えられたのだ。もちろんこうした男の愛をそんなにもはやく受けようとは思いもよらなかったのだ。強制された不満な結婚の約を破ることは登志子にとってはいともやさしいことに思えた。そしてなお彼女は修学中であった。共棲するまでには半年の猶予があったので、その間にどうにもなると思っていた。
帰校後の登志子はほとんど自棄に等しい生活をしはじめた。彼女と一緒にいた従姉はただ驚いていた。登志子は幾度かその苦悶をN先生に許えようとした。しかし考えることの腹立たしさに順序をおうて話のすじ道をたてることができなかった。そうしてなるべく考えないことにつとめた。その頃は、もちろん光郎にはそんなことをむきつけに話せるほどの間ではなかった。煩悶に煩悶を重ね焦り焦りして頭が動かなくなるほど毎日そればかり考えていても、登志子の考えはきまらなかった。日数は遠慮なくたって、とうとうN先生にも打ち明ける機会は失くなってしまった。最後に大混雑の中にようやく仕方なしに漠然と極めたことは、嫌な嫌なあの知らない男や八カましい周囲から逃れることが第一であった。見たばかりでも自分よりずっと低級らしい、そして何の能もないらしい間のぬけた顔をしたあの男と、どうして一時間でもいられるものではないと登志子はそればっかり思っていた。考えてみると登志子は姦通呼ばわりする男が憎らしくなってくるよりも滑稽になってきた。あの男にそういうことをいえるだけの確信が本当にあるのかとおかしくなってきた。「私妻」等と書かれたことの腹立たしさよりも、れいれいしく書いた男が滑稽に思えてきた。むしろ登志子は光郎に対して何か罪でも犯したような気がした。別れてからまだ半月とはたたない。もうしかし一年も間をおいたように思われるのだ。何でもいい早く上京したい。行ってみんな話してやる、本当のことをみんな話そう、N先生にしろ、光郎にしろ、自分の話はきっと解ってくれるに違いない。東京に行きさえすれば――そうだ、行きさえすればきっと…………
登志子は目を据えてついたときのことをいろいろに想像してみた。ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、光郎との恋のためばかりに家出した、と思われることだった。彼女は何となしにそれについて自分にまで弁解がましいことを考えていた。けれどもそれも一つの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなって今日にも行くようにしたいのだった。
登志子はからっぽになったところに、はやく行きたいという矢も楯もたまらない気持がたった一ついっぱいに拡がった、いつにないたのしい気持ちで為替の面をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪にさしたピンを一本一本ぬいていった。 | 底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
※「結婚した」は底本では、改行1字下げとなっています。
入力:林 幸雄
校正:UMEKI Yoshimi
2002年11月9日作成
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こちらへまゐりましてからまだしみじみおちついた気持になれないうちに東京からは後から〳〵いろ〳〵な面倒なことを言つて来たり何かして本当によはりきつて居ます 其為めにまだ何所へも手紙らしい手紙もかけずに原稿もかけず何にも手につきません。却つて遠くでいろ〳〵心配ばかりしてゐますので頭が変になつて仕舞ひます 原稿も是非かゝねば申訳がないと思ひながらそんなこんなで何にもかけません。九月号が出来ねばどうにもおちつくことが出来ないやうな気がいたします。海を見ても山を見てもなか〳〵呑気な気持になれません。毎日々々どうしていゝかわからないやうな日ばかりです 暫く第三帝国も拝見しませんが如何ですか。此度はこちらあてに送つて頂くことは出来ませんでせうか、さうして頂ければ大変に都合がいゝと思ひます 今月になつて雑誌を一つ二つのぞきましたきりで何にもよみません 何か面白いものがございますか 久保田氏の小説は大変いゝと思ひました。なか〳〵達者にかけて居ます。今迄何か投書でもしてゐらしたのですか、此度かへりましたら是非お眼にかゝりたいと思ひます。何卒おついでの節よろしく、また何かいゝものが有りましたら頂かして下さいますよう仰言つて下さいまし、こちらもまだなか〳〵あつうございます 東京もおあついでせうね。――
八月十八日―孤月様―野枝
[『第三帝国』第五〇号、一九一五年九月一日] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「第三帝国 第五〇号」
1915(大正4)年9月1日
初出:「第三帝国 第五〇号」
1915(大正4)年9月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時に表題はありません。
入力:酒井裕二
校正:きゅうり
2019年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館
今日あなたからお手紙を頂けようとは思へませんでしたのに、本当にうれしうございました。
今頃はあなたは何をしてゐらつしやるのでせう。お午の御飯をすまして、また書物にかぢりついてゐました処に、あなたのお手紙が来たのです。また少し会ひたいと云ふ気持が起つて来ました。女中たちが、旦那様はお出でにならないのですかつて頻りに聞きますの。今にゐらつしやるよつて云ひましたら、何時です〳〵つてうるさいんです。皆なが見たがつてゐるんですよ。私も見たいから、早くゐらして下さい。
中央公論の方、駄目では困りますね。もつと他の書店に、いつぞやあなたが云つてゐらした処に『雑音』をお聞き下さいな。孤月氏は来ませんか。若し見えたら、文章世界に書く約束で西村(渚山)氏に聞いて頂けないかつて、お聞きになつて御覧なさいな。駄目でせうか。
大阪朝日に出たのですつて。叔父や叔母たちが定めてびつくりしてゐる事でせう。他で何か書きましたかしら。此処には東京朝日しか来ません。何にも書きませんのね。
保子さんが私の事を狐ですつて、有がたい名を頂いたのね。はじめてです、そんな名を貰つたのは。私は保子さんには好意を持たない代りに悪意も持つてはゐませんから、何を云はれても何ともありませんわ。ただ、私のあなたと、保子さんのあなたは違ふと云ふことだけを思つてゐます。そして保子さんに対するあなたは認めて尊敬しますけれども、私は保子さんがあなたに対する自分をもう少し確かにしてあなたを理解して下されば、私は心から保子さんを尊敬する事が出来るだらうと思ひます。けれども、それが保子さんに出来ないからと云つて、私は保子さんを馬鹿にしたり軽蔑したりする程、あなたを無理解ではゐない事を申してをきます。
何卒保子さんに出来るだけよくして上げて下さいと云ふ私の言葉を、真直ぐに受け入れて下さい。これは、何の感情をもまじえない、私の本当の言葉である事を、あなたは認めて下さるでせう。そして、私が自身でさへも驚くほどの処までも進み得たと云ふ事を、私と一緒に屹度よろこんで下さると信じます。この気持は、しかし多分私とあなた以外の誰れにも本当には理解の出来ない気持ではないでせうか。
本当に私は、あなたに、この強情な盲目な私をこんな処にまで引つぱつて来て頂いた事を何んと感謝(いやな言葉ですけれども)していいか分りません。何んだか、私のこれからの道が明るく、はつきり開けて来たやうに思へます。私の今のたつた一つの望み――あなたに会ひたいと云ふ――それさへ叶へて下されば、私は直ぐおちついて気持よく仕事が出来さうに思はれます。そして、これから書く、私の本当の意味での処女作を、あなたにデヂケエトしようと思つてゐます。もう少し書きたいのですけれど、今婆やが出かけますから、序でに出して貰ふので、これで止めます。本当に早くゐらして下さいね。お願ひですから。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
1926(大正15)年9月8日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館
昨日のあらしがひどかつたので、別荘の掃除が大変だと云つて、おひるから婆やがひまを貰ひたいと云ひだしましたので、今日は午後からお守りをして暮しました。それでも午前に十枚ばかり書きました。夕方、子供を寝かしてからぼんやりしてゐますと、急に淋しさがこみ上げて来てゐても立つてもゐられないやうになりました。
今日の夕方は、此処へ来てからはじめての静かな夕方でした。風がちつともなくて、ひつそりしてゐましたので、妙に憂鬱になつて仕方がありませんので、夜になると支店のおかみさんを呼んで、女中たちと一緒にお酒を飲んで騒いで見ましたけれど、少しも酔はないで、だん〳〵気がめいつて、自分ながらどうする事も出来ないのです。今もう一時近くですが、頭が妙にさえて眠れないので、少し書かうと思ひましたけれど、あなたの事ばかりが思はれて仕方がないのです。今頃はいい気持に眠つてゐらつしやるでせうね。私がかうやつてあなたの事を思つてゐるのも知らないで。憎くらしい人!
今朝の手紙、いやな事ばかり書いてすみませんでしたのね。気を悪くなさりはしませんか。余計な、書かなくてもいい事を書いて仕舞つて、何んとも申訳けがございません。何卒おゆるし下さいまし。(八日夜)
今日は一緒に勝浦へ行つた日を懐はせるやうないいお天気です。昨夜あんまりさえたせいか、今朝はぼんやりした頭で何にも出来さうにありません。これから少し山の方へでも歩きに行かうかと思つてゐます。
私達のことが福岡日日新聞へも九州日報へも出たさうですよ。板場の話しでは都にも出たさうです。大ぶ騒がれますね。何んだか、何を聞いてももう痛くも痒くもありませんね。隅から隅まで知れた方がよござんすね、面白くつて。
昨日も書きながらさう思ひましたの。辻と二人の間こそ少しは自由でもあり、可なり意識的に考へる事も出来ましたけれど、其他の私のこの五年間の生活は、そして可なりその苦痛に堪え得ると云ふ事に誇を持つてゐたのですから、本当にいやになつて仕舞ひます。自覚どころの騒ぎではなかつたんです。まあ本当にどうしてあれでいい気になつてゐたかと思ふのです。あなたは私のさうした暗愚を見せつけられながら、どうして嫌やにおなりにならなかつたのでせう。私はそれが不思議で仕方がありません。本当に私はあなたによつて救ひ出されたのです。そして、まだこれからだつて一枚々々皮をはいで頂かなくてはなりません。これからは真直ぐに歩けさうな気がします。
少し頭がよくなつて来ました。また続きを書きます。あなたもお仕事はお出来になりますか。今日のやうだと本当にいい気持です。土曜日には会へるのですね。それを楽しみにして仕事をします。さよなら。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
1926(大正15)年9月8日
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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宛先 東京市麹町区三番町六四 第一福四萬館
発信地 千葉県夷隅郡御宿 上野屋旅館
今、安成(二郎)さんがお帰りになつたところです。私は何もお話も書きもしないつもりでしたけれど、折角あなたの紹介でこんな処までゐらしつたのですから、書くだけは御約束いたしました。けれども、まだ何を書かうと云ふあてもつきませんのです。でも、大変静かに気持よくお話いたしました。
あなたのけんかの話を伺ひました。どうしてそんな乱暴な事をなさつたの。堺さんまでひどい目にお合はせになつたのですつてね。虫の居所でも悪かつたのですか。野依さんは何を云つたのですか。何んだか気になりますわ。私の名も出たんですつてね。何んだかお目にかかつてお聞きしたいやうな事が沢山ありますわ。
安成さんがお帰りになる時に一緒に行きたいやうでしたわ。
それから保子さんのこと昨日の手紙に書きましたが、あれは取消しませう。今日、安成さんから少しばかりお話を伺ひました。私の想像してゐる方とは大ぶ違ふやうですから。もしさうでしたら、会ふだけ無駄だと思ひますから。もしあなたの保子さんに対するお考へが本当に委しく伺へれば本当にいいと思ひますけれど、それも無理には伺ひたくありません。
今朝から私はいろ〳〵に考へてゐましたの。私の神近さんと保子さんに対する本当の心持を知りたいと思ひましてね。ですけれど、私は矢張りどちらの関係もあなたの生活の一部として是認するだけで、あなたと保子さん、それからあなたと神近さん、あなたと私、と云ふ風に切り離しては考へられないのです。要するに私が、神近さんと、或は保子さんとあなたとの間の事に就いて、お互ひに理解し合つたり認め合つたりすると云ふ事の方を、現在の一番大事な事のやうに考へてゐたのは、まだ本当に自分であなたと私との関係がのみ込めなかつたからだと云ふ風に考へられて来ました。
本当に平凡な理屈ですけれど、神近さんと云ひ保子さんと云ひ私と云ひ、ただあなたを通じての交渉ですから、あなたに向つての各自の要求がお互ひにぶつかりさへしなければ(何んだか他に云ひ方があるやうな気がしますが)皆なインデイフアレントでゐられる筈だと思ひます。さうすれば、猶一層よくあなたを理解し合はうとする皆んなの努力があれば、其処で初めて完全に手を握る事が出来るのだと思ひます。
さうして今、私と神近さんとは――と云ふよりも、私の神近さんに対する気持は第一段にゐるのだと思ひます。保子さんに対する私の気持は第二段に進みかけてゐるのですが、保子さんはまだ恐らく第一段までも来てはゐらつしやらないやうに思はれます。そこで私の保子さんに持つ心持は、保子さんには無理すぎる事になつて来ます。で、今暫くはインデイフアレントでゐます。或はそれ以上に進まないかとも思はれます。私としては、神近さんとも保子さんとも、本当に手を握りたいのが望みです。神近さんには会つてよくお話しすればそこまで進めるかと思ひます。是非さうあらねばならぬと思ひます。さうして始めて私達の関係は自由なのですね。さうしてお互ひに進んでゆきたいと思ひます。
ひとりゐて、私はさう云ふ事を考へては、自分の気持が進んでゆくのがはつきり見えるのが、嬉しくてたまりません。此間あなたにお別れしてから、本当に淋しかつたり、会ひたくなつたりして、堪えずあなたの事が忘れられませんけれど、こんな事ばかり考へてゐますと頭がハツキリして来て、気が晴れ〴〵していい気持になれます。
けれども、私はまだ恐れてゐます。今、私があなたの愛を一番多く持つてゐると云ふ事に、自分の安心があるのではないかと云ふ事を。絶えずさう思つて注意してゐますけれど、今のところでは、別にそんな感情は少しも混つてゐないやうですけれど、その反省だけは怠らずに続けてゐます。
今日は朝からまだ一枚も書きません。あなたにお手紙を書いてから、浜でカジメやなんかが一昨日のあらしで波に打ち上げられて来るのを、皆んなでとつてゐるのが面白いからと云ふので見に行きました。皆な裸で海の中に飛び込んであげてゐるのですよ。女も男も夢中になつて。それから帰つて、あんまりいいお天気ですから、ひとりで夕影の松の所に行つて見ました。そして、帰りに下のお寺に金盞花が綺麗に咲いてゐましたので、それを買つて来てさしてゐましたら、安成さんがゐらしたのです。三時の汽車でお帰りになりました。そして此の手紙を書き始めましたの。あの松の木の下ではもつと〳〵種々な事を沢山考へてゐたのですけれど、思ひ出せなくなりました。また思ひ出した時に書きませう。
さびしいからお手紙だけは書いて下さいね、毎日。お願ひします。では左様なら。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
1926(大正15)年9月8日
入力:酒井裕二
校正:雪森
2016年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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今朝も、あなたからのおたよりを待つてゐましたのに来ないで、長い〳〵お八重さんからの手紙が来ました。そして、私の今度の事に就いて可なりはつきりと意見を述べてくれました。しかし私は、もう到底理解を望む事は出来ないと断念しかかつてゐます。ひよつとしたら、私の説明が丁寧に詳しかつたら、或は解るかも知れません。けれども、彼の人には、恋愛と云ふ事が何んであるか解つてゐないのです。あの人の恋愛観は、皆な書物の上のそれです。外のいろ〳〵の理屈は分るとしても、その心持が本当に解らない人には説明のしようはないと思ひます。しかし、私は出来るだけ説明してみるつもりではありますけれど。
私の一番親しい友達が、私をどのやうに見てゐたかを、少しお知らせしませうか。
『あなたの心霊がこの二三年、無意識にも有意識にもあこがれを感じ、渇きを覚えてゐる強い力――殊に異性の雄々しい圧力――これを提げてあなたに迫るものがあつたとしたら、それは必ず大杉氏であつた事を要しない。誰れでもよかつたのではありませんか。これは、あなたの無定見な恋――盲目的な憧憬を意味するのぢやありません。寧ろ、それほど必然的な危機があなたの周囲に生じてゐたと云ふ事を示すのです。それほど重大なワナがあなたに投げかけられてゐたのです。ですから、その強い魅力のある圧力の具体化として大杉氏が現はれたとき、どこまでも慎重にならなければならなかつたのです。これは逆説のやうですけれど、決してさうぢやありませんよ。それが本統に自分の要する力か、自分に適した力か、純粋のものかをぢつと〳〵凝視する時間を、多く長く持つ程がいいのだつたと思ひます。』
本当に、私はあなたでなくてもよかつたでせうか。私はさうは思ひません。私が、どんなに長くあなたを拒まうとして苦しんだかを、お八重さんは知らないのです。私は慎重でなかつたのでせうか。慎重ではなかつたかも知れませんね。けれども、私達は始めからそのやうな処を超えてゐたのではないでせうか。慎重と云ふやうな言葉の必要を感ずるよりも、もつとずつと近い所にゐたのだと云ふ気がします。ですから、お八重さんが『かう苦しまねばならない』と想像してゐるのと、私が苦しんだ事との間には、可なりの距離があるやうに思ひます。
そして又お八重さんは、私が第二の恋愛にはいつたのは、第一の牢から第二の牢にはいるのと同じだと云ひます。私が今日までの謂はゆる第一の牢で何にを苦しんだのでせう。同じ苦しみをした同じ処にはいつて行くほどの、私は馬鹿ではないと信じます。第二の牢と第一の牢とが同じものならば、第二とか第一とか呼ぶ必要はない。同じ処に帰つてゆくのだと云へばよろしい。私は同じ処に二度はいつて、違つた処にはいつてゐると云ふ程の盲ではないつもり。
同じ処に何時までもちぢこまつて、出たりはいつたりするものを嘲笑つてゐる不精者や利口者よりは、もう少し実際にはいろんなものを持つ事が出来るのではないでせうか。私は、出来るだけ躊躇なく出たり入つたりしたい。いろ〳〵な処でいろ〳〵な事を知りたい。どうせ現在の私達の生活は牢獄の生活ではないでせうか。何処に本当の自由な天地があるのでせう。
お八重さんは、自分を本当に自由な処にゐるのだと思つてゐるのでせうか。又、私が辻と別居してあなたとの恋愛に走つた事はミネルヴアの殿堂に行くつもりで又もとのヴイナスの像の前にひざまづくものだと云ひます。かうなると、私はもう何にを云ふのも厭やになります。ミエネルヴアとヴイナスと一緒に信仰する事は出来ないと云ふ事があるのでせうか。私達の恋愛がどのやうなものであるかと云ふ事が、少しも分らないのでせうね。勿論わかる筈もないのですけれど。矢張り、私はだまつて私達の道を歩いて行きさへすればいいのですね。他人が分らうと分るまいとそんな事にはもうこだはつてゐる気になりません。女の世界のを読んでお八重さんがサゼストされた事は、前途が決して明るくないと云ふ事ださうです。不安な不快な曇りが想覚されたのださうです。そして最後にお八重さんは云ひます。
『あなたはまだお若いから困りますね。もつと聡明に恋をして下さい。でないと、あなたのしようとしてゐる事が、何にも出来ないで駄目になりますよ。今までの苦心も水の泡になりますよ。しつかりなさい。モルモン宗に改宗したり、恋の勝利者なんて浮れてる時ぢやありませんよ。』
お分りになりました? ねえ、私のお友達は本当に聡明ですね。私の本当の事を知つてゐて下さるのは、あなただけね。どうせ、私はもうあのサアクル(青鞜社)におさまつてはゐられないのですもの。私は血のめぐりの悪い、殿堂におさまつた冷いミネルヴアはいやです。
私が、これからどのやうな道を歩かうとしてゐるか、それもあの人には分つてゐないのです。私は本当に勉強します。今どんなに説明しても分りはしないでせう。五年先きか十年先きになれば、屹度半分位は分るかも知れませんね。私が恋に眩惑されてゐるのかさうでないかが。眩惑されてゐるとしても、その恋がどんなものであるかが。
何んだか、私はまるであなたに怒りつけてゐるやうね。御免なさい。でも、なんだかあなたに話をして見たかつたんですもの。
[『大杉栄全集』第四巻、大杉栄全集刊行会、一九二六年九月] | 底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「大杉栄全集 第四巻」大杉栄全集刊行会
1926(大正15)年9月8日
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入力:酒井裕二
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2016年1月4日作成
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"底本出版社名1": "學藝書林",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年5月31日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年5月31日初版",
"底本の親本名1": "大杉栄全集 第四巻",
"底本の親本出版社名1": "大杉栄全集刊行会",
"底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年9月8日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "酒井裕二",
"校正者": "雪森",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/files/57001_ruby_58025.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-01-04T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000416/files/57001_58056.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-01-04T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
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